山の人生 / 柳田国男

山の人生 / 山に埋もれた人生住家を持たざること凡人遁世のこと山より還る者女人の山に入る山の神に嫁入不思議な迷子神に隠さるる神隠しに遭う幽界を知る仙人出現の理由廻国せし狸神隠しの奇異な約束若き女の隠されしこと生きているかと思う深山の婚姻鬼の子の里不思議を解釈しえざる山の神は女性深山に小児を見る山姥は妖怪でない山女人を懐かしむ山男人に近づく骨折り仕事に山男傭う米の飯を欲しがる山男が町に来る山人の通路三尺の大草履巨人の足跡を崇敬文化史の未解決問題・・・山人考・・・
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雑学の世界・補考

山の人生 / 柳田国男

自序
山の人生と題する短い研究を、昨年『朝日グラフ』に連載した時には、一番親切だと思った友人の批評が、面白そうだがよく解らぬというのであった。ああして胡麻ごまかすのだろうという類の酷評も、少しはあったように感じられた。もちろん甚だむつかしくして、明晰めいせきに書いてみようもないのではあったが、もしまだ出さなかった材料を出し、簡略に失した説明を少し詳しくしてみたら、あれほどにはあるまいというのが、この書の刊行にあせった真実の動機であった。ところが書いているうちに、自分にも一層解釈しにくくなった点が現れたと同時に、二十年も前から考えていた問題なるにもかかわらず、今になって突然として心づくようなことも大分あった。従ってこの一書の、自分の書斎生活の記念としての価値は少し加わったが、いよいよ以もって前に作った荒筋の間々へ、切れ切れの追加をする方法の、不適当であることが顕著になった。しかしこれを書き改めるがために費すべき時間は、もうここにはないのである。そのうえに資料の新供給を外部の同情者に仰ぐためにも、一応はこの形をもって世に問う必要があるのである。なるほどこの本には賛否の意見を学者に求めるだけの、纏まとまった結論というものはないかも知れぬが、それでも自分たち一派の主張として、新しい知識を求めることばかりが学問であることと、これを求める手段には、これまで一向に人に顧みられなかった方面が多々であって、それに今われわれが手を着けているのだということと、天然の現象の最も大切なる一部分、すなわち同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。学問をもって文雅の士の修養とし、ないしは職業捜索の方便と解して怪まなかった人々は、このいわゆる小題大做たいさに対して果していかなる態度を取るであろうか。それも問題でありまた現象である故に、最も精細に観測してみようと思う。
(大正十五年十月)  
一 山に埋もれたる人生あること

 

今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。
この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底で蝕むしばみ朽ちつつあるであろう。
また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活いきていた。ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還かえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲あざける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹きの隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復かえった時には、夫おっとも死ねなかったものとみえて、濡ぬれた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊つって自ら縊くびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上の梢こずえに引懸ひっかかって死んでいたという話である。
こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅すみに、まだ抜ぬけ殻がらのような存在を続けていることであろう。
我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。
二 人間必ずしも住家を持たざること

 

黙って山へ入って還って来なかった人間の数も、なかなか少ないものではないようである。十二三年前に、尾張瀬戸町にある感化院に、不思議な身元の少年が二人まで入っていた。その一人は例のサンカの児こで、相州の足柄あしがらで親に棄すてられ、甲州から木曾きその山を通って、名古屋まできて警察の保護を受けることになった。
今一人の少年はまる三年の間、父とただ二人で深山の中に住んでいた。どうして出てきたのかは、この話をした二宮徳君も知らなかったが、とにかくに三年の間は、火というものを用いなかったと語ったそうである。食物はことごとく生なまで食べた。小さな弓を造って鳥や魚を射て捕えることを、父から教えられた。
春が来ると、いろいろの樹の芽を摘んでそのまま食べ、冬は草の根を掘って食べたが、その中には至って味の佳よいものもあり、年中食物にはいささかの不自由もしなかった。衣服は寒くなると小さな獣の皮に、木の葉などを綴つづって着たという。
ただ一つ難儀であったのは、冬の雨雪の時であった。岩の窪くぼみや大木のうつろの中に隠れていても、火がないために非常に辛つらかった。そこでこういう場合のために、川の岸にあるカワヤナギの類の、髯根ひげねのきわめて多い樹木を抜いてきて、その根をよく水で洗い、それを寄せ集めて蒲団ふとんのかわりにしたそうである。
話が又聞またぎきで、これ以上の事は何も分らない。この事を聴いた時には、すぐにも瀬戸へ出かけて、も少し前後の様子を尋ねたいと思ったが、何分なにぶんにも暇がなかった。かの感化院には記録でも残ってはいないであろうか。この少年がいろいろの身の上話をしたということだが、何かよくよくの理由があって、彼の父も中年から、山に入ってこんな生活をしたものと思われる。
サンカと称する者の生活については、永い間にいろいろな話を聴いている。我々平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにしておらぬ点、次には定まった場処に家のないという点であるかと思う。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたようであるが、その多くは話としても我々には伝わっておらぬ。
冬になると暖かい海辺の砂浜などに出てくるのから察すると、彼らの夏の住居は山の中らしい。伊豆へは奥州から、遠州へは信濃しなのから、伊勢の海岸へは飛騨ひだの奥から、寒い季節にばかり出てくるということも聴いたが、サンカの社会には特別の交通路があって、渓たにの中腹や林の片端かたはし、堤つつみの外などの人に逢あわぬところを縫うている故に、移動の跡が明らかでないのである。
磐城いわきの相馬そうま地方などでは、彼らをテンバと呼んでいる。山の中腹の南に面した処に、いくつかの岩屋がある。秋もやや末になって、里の人たちが朝起きて山の方を見ると、この岩屋から細々ほそぼそと煙が揚がっている。ああもうテンバがきているなどという中に、子を負うた女がささらや竹籠たけかごを売りにくる。箕みなどの損じたのを引き受けて、山の岩屋に持って帰って修繕してくる。
土地の人とはまるまる疎遠そえんでもなかった。若狭わかさ・越前などでは河原に風呂敷ふろしき油紙の小屋を掛かけてしばらく住み、断ことわりをいってその辺の竹や藤葛ふじかずらを伐きってわずかの工作をした。河川改修が河原を整理してしまってからは、金を払って材料の竹を買う者さえあった。しかも土着する者は至って稀まれで、多くは程ほどなくいずれへか去ってしまう。路の辻つじなどに樹の枝または竹をさし、しるしを残して行く者は彼らであった。小枝に由よって先へ行った者の数や方角を、後から来る者に知らしめる符号があるらしい。
仲間から出て常人に交わる者、ことに素性と内情とを談かたることを甚はなはだしく悪にくむが、外から紛れてきてサンカの群に投ずる常人は次第に多いようである。そうでなくとも人に問われると、遠い国郡を名乗るのが普通で、その身の上話から真の身元を知ることはむつかしい。大体においおい世間なみの衣食を愛好する風を生じ、中には町に入って混同してしまおうとする者も多くなった。それが正業を得にくい故に、おりおりは悪いこともするのだが、彼らの悪事は法外に荒いために、かえって容易にサンカの所業なることが知れるという。
しかも世の中とこれだけの妥協すらも敢てせぬ者が、まだ少しは残っているかと思われた。大正四年の京都の御大典ごたいてんの時は、諸国から出てきた拝観人で、街道も宿屋も一杯になった。十一月七日の車駕しゃが御到着の日などは、雲もない青空に日がよく照って、御苑ぎょえんも大通りも早天から、人をもって埋うずめてしまったのに、なお遠く若王子にゃくおうじの山の松林の中腹を望むと、一筋ひとすじ二筋の白い煙が細々と立っていた。ははあサンカが話をしているなと思うようであった。もちろん彼らはわざとそうするのではなかった。  
三 凡人遁世のこと

 

かつて羽前の尾花沢おばなざわ附近において、一人の土木の工夫が、道を迷うて山の奥に入り人の住みそうにもない谷底に、はからず親子三人の一家族を見たことがある。これは粗末ながら小屋を建てて住んではいたが、三人ともに丸裸まるはだかであったという。
女房がひどく人を懐なつかしがって、いろいろと工夫に向かって里の話を尋ねた。なんでもその亭主ていしゅという者は、世の中に対してよほど大きな憤懣ふんまんがあったらしく、再び平地へは下らぬという決心をして、こんな山の中へ入ってきたのだといった。
工夫は一旦その処ところを立ち去ったのち、再び引き返して同じ小屋に行ってみると、女房が彼と話をしたのを責めるといって、縛り上げて折檻せっかんをしているところであったので、もう詳しい話も聞きえずに、早々に帰ってきて、その後の事は一切不明になっている。
この話は山方石之助やまがたいしのすけ君から十数年前に聴いた。山に住む者の無口になり、一見無愛想ぶあいそうになってしまうことは、多くの人が知っている。必ずしも世を憤って去った者でなくとも、木曾の山奥で岩魚いわなを釣っている親爺おやじでも、たまたま里の人に出くわしても何の好奇心もなく見向きもせずに路みちを横ぎって行くことがある。文字に現わせない寂寞せきばくの威圧が、久しうして人の心理を変化せしめることは想像することができる。
そうしてこんな人にわずかな思索力、ないしはわずかな信心があれば、すなわち行者ぎょうじゃであり、或いは仙人せんにんであり得るかと思われる。また天狗てんぐと称する山の霊が眼の色怖おそろしくやや気むつかしくかつ意地悪いものと考えられているのも、一部分はこの種山中の人に逢った経験が、根をなしているのかも知れぬ。
近世の武人などは、主君長上に対して不満のある場合に、無謀に生命を軽かろんじ死を急ぎ、さらば討死うちじにをして殿様に御損を掛け申すべしと、いったような話が多かった。戦乱の打ち続いた時世としては、それも自然なる決意でありえたが、人間の死ぬ機会はそう常にあったわけでもない。死なずに世の中に背くという方法は必ずしも時節を待つという趣意でなくとも、やはり山寺にでも入って法師とともに生活するのほかはなかった。のちにはそれを出離の因縁とし、菩提ぼだいの種と名づけて悦喜えっきした者もあるが、古来の遁世者とんせいしゃの全部をもって、仏道勝利の跡と見るのは当をえないと思う。
その上に山に入り旅に出れば、必ずそこに頃合ころあいの御寺があるというわけでもなかった。旅僧の生活をしようと思えば、少しは学問なり智慧ちえなりがなければならなかった。なんの頼むところもない弱い人間の、ただいかにしても以前の群とともにおられぬ者には、死ぬか今一つは山に入るという方法しかなかった。従って生活の全く単調であった前代の田舎いなかには、存外に跡の少しも残らぬ遁世とんせいが多かったはずで、後世の我々にこそこれは珍しいが、じつは昔は普通の生存の一様式であったと思う。
それだけならよいが、人にはなおこれという理由がなくてふらふらと山に入って行く癖のようなものがあった。少なくとも今日の学問と推理だけでは説明することのできぬ人間の消滅、ことにはこの世の執着しゅうじゃくの多そうな若い人たちが、突如として山野に紛れこんでしまって、何をしているかも知れなくなることがあった。自分がこの小さな書物で説いて見たいと思うのは主としてこうした方面の出来事である。これが遠い近いいろいろの民族の中にもおりおりは経験せられる現象であるのか。はたまた日本人にばかり特に、かつ頻繁ひんぱんに繰り返されねばならぬ事情があったのか。それすらも現在はなお明瞭めいりょうでないのである。しかも我々の間には言わず語らず、時代時代に行われていた解釈があった。それがある程度まで人の平常の行為と考え方とを、左右していたことは立証することができる。我々の親たちの信仰生活にも、これと交渉する部分が若干はあった。しかも結局は今なお不可思議である以上、将来いずれかの学問がこの問題を管轄すべきことは確かである。棄てて顧みられなかったのはむしろ不当であると思う。 
四 稀に再び山より還る者あること

 

これは以前新渡戸にとべ博士から聴いたことで、やはり少しも作り事らしくない話である。陸中二戸にのへ郡の深山で、猟人が猟に入って野宿をしていると、不意に奥から出てきた人があった。
よく見ると数年前に、行方不明になっていた村の小学教員であった。ふとした事から山へ入りたくなって家を飛び出し、まるきり平地の人とちがった生活をして、ほとんと仙人になりかけていたのだが、或る時この辺でマタギの者の昼弁当を見つけて喰くったところが急に穀物の味が恋しくなって、次第に山の中に住むことがいやになり、人が懐かしくてとうとう出てきたといったそうである。それから里に戻って如何したか。その後の様子は今ではもう何ぴとにも問うことができぬ。
マタギは東北人およびアイヌの語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。例えば十和田とわだの湖水から南祖坊なんそぼうに逐おわれてきて、秋田の八郎潟はちろうがたの主ぬしになっているという八郎おとこなども、大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住民であった。
マタギは冬分は山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕とればその肉を食い、皮と熊胆くまぎもを附近の里へ持って出て、穀物に交易してまた山の小屋へ還かえる。時には峰づたいに上州・信州の辺まで、下おりてくることがあるという。
こんな連中でも用が済すめばわが村へ戻り、また山の中でも火を焚たき米を煮て食うのに、教員までもしたという人が、友もなくして何年かの間、このような忍苦の生活をなしえたのは、少なくとも精神の異状であった。しかもそれが単なる偶発の事件でなく、遠く離れた国中の山村に、往々にして聞くところの不思議であったのである。
マタギの根原に関しては、現在まだ何ぴとも説明を下しえた者はないが、岩手・秋田・青森の諸県において、平地に住む農民たちが、ややこれを異種族視していたことは確かである。津軽の人が百二三十年前に書いた『奥民図彙おうみんずい』には、一二彼らが奇習を記し、菅江真澄すがえますみの『遊覧記』の中にも、北秋田の山村のマタギの言葉には、犬をセタ、水をワッカ、大きいをポロというの類、アイヌの単語のたくさんに用いられていることを説いてある。
もちろんこれに由って彼らをアイヌの血筋と見ることは早計である。彼らの平地人との交通には、言語風習その他になんの障碍しょうがいもなかったのみならず、少なくとも近世においては、彼らも村にいる限りは附近の地を耕し、一方にはまた農民も山家に住む者は、傍かたわら狩猟に因って生計を補うた故に、名称以外には明白に二者を差別すべきものはないのである。
ただ関東以西には猟を主業とする者が、一部落をなすほどに多く集まっておらぬに反して奥羽の果はてに行くとマタギの村という者がおりおりある。熊野・高野を始めとして霊山開基の口碑こうひには猟師が案内をしたといい、または地を献上したという例少なからず、それを目して異人仙人と称していて、通例の農夫はかつてこの物語に参与しておらぬのを見ると、彼ら山民の土着が一期だけ早かったか、または土着の条件が後世普通の耕作者とは、別であったかということだけは察せられる。
しかも猟に関する彼らの儀式、また信仰には特殊なるものが多い。万次万三郎の兄弟が、山の神を助けて神敵を退治し、褒美ほうびに狩猟の作法を授けられたなどという古伝もその一例である。東北ではシナの木のことをマダといい、山民は多くその樹皮を利用する。マタギ村でも盛んにこれを採取しまた周囲にこれを栽培するが、そのマダとは関係がないといっている。或いは二股ふたまたの木の枝を杖つえにして、山中を行くような宗教上の習慣でもあって、こんな名称を生じたのではないかとも思うが、彼ら自身は何と自ら呼ぶかを知らぬから、いまだこれを断定することができぬのである。
八郎という類の人が山中に入り、奇魚を食って身を蛇体に変じたという話は、広く分布しているいわゆる低級神話の類であるが、津軽・秋田で彼をマタギであったと伝えたのには、何か考うべき理由があったろうと思う。 
五 女人の山に入る者多きこと

 

天野信景のぶかげ翁の『塩尻しおじり』には、尾州小木こき村の百姓の妻の、産後に発狂して山に入り、十八年を経てのち一たび戻ってきた者があったことを伝えている。裸形にしてただ腰のまわりに、草の葉を纏まとうていたとある。山姥やまうばの話の通りであるが、しかも当時の事実譚じじつだんであった。
この女も或る猟人に逢って、身の上話をしたという。飢うえを感ずるままに始めは虫を捕って喰っていたが、それでは事足ことたらぬように覚えて、のちには狐きつねや狸たぬき、見るに随したがい引裂いて食とし、次第に力づいて、寒いとも物ほしいとも思わぬようになったと語る。一旦は昔の家に還ってみたが、身内の者までが元もとの自分であることを知らず、怖おそれて騒ぐのでせん方かたもなく、再び山中の生活に復かえってしまったというのは哀れである。
明治の末頃にも、作州那岐山なぎのせんの麓ふもと、日本原にっぽこうげの広戸の滝を中心として、処々に山姫が出没するという評判が高かった。裸にして腰のまわりだけに襤褸ぼろを引き纏い、髪の毛は赤く眼は青くして光っていた。或る時も人里近くに現われ、木こりの小屋を覗のぞいているところを見つかり、ついにそこの人夫どもに打ち殺された。しかるにそれをよく調べてみると、附近の村の女であって、ずっと以前に発狂して、家出をしてしまった者であることが分った。
女にはもちろん不平や厭世えんせいのために、山に隠れるということがない。気が狂った結果であることは、その挙動を見れば誰にでも分った。羽後と津軽の境の田代岳たしろだけの麓ふもとの村でも、若い女が山へ遁にげて入ろうとするのを、近隣の者が多勢追いかけて、連れて戻ろうと引き留めているうちに、えらい力を出して振り切って、走り込んでしまったという話を狩野亨吉かのうこうきち先生から承うけたまわったことがある。
山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは、事によると非常に大切な問題の端緒たんちょかも知れぬ。古来の日本の神社に従属した女性には、大神の指命を受けて神の御子を産み奉たてまつりし物語が多い。すなわち巫女みこは若宮の御母なるが故に、ことに霊ある者として崇敬せられたことは、すこぶるキリスト教などの童貞受胎の信仰に似通うたものがあった。婦人の神経生理にもしかような変調を呈する傾向があったとすれば、それは同時にまた種々の民族に一貫した宗教発生の一因子とも考えることを得る。しかしもちろん物のついでなどをもって、軽々に取扱うべき問題ではないから、今は単に一二の類例を挙げて置くに止めるが、その一つは三百余年前に、因幡いなば国にあった話で、少し長たらしいが原文のままを抄出する。『雪窓夜話せっそうやわ』の上巻に書いてある話である。
「寛永年中のこと也なり。安成久太夫やすなりきゅうだゆうといふ武士あり。備前因幡国換くにがへの時節にて、未いまだ居おる屋敷も定まらず、鹿野かの(今の気高けたか郡鹿野町)の在ざいに仮に住みけり。或夜山に入りけるに、月の光も薄く、木立も奥暗き岨陰より、何とも知らぬ者駆け出で、久太夫が連れたる犬を追掛け、遙かの谷に追落して、傍なる巌窟がんくつにかけ入りたり。久太夫不思議に思ひ、犬を呼返して其穴に追入れんとするに、犬怖おそれて入らざれば若党に命じてかの者を探り求めしむ。人のたけばかりなる猿さるの如ごときものなり。若党引出さんとするに、力強く爪つめ尖とがりて、若党の手を掻破かきやぶりけるを、漸ようやくに引出したり。久太夫葛かずらを用ゐて之これを縛り、村里へ引出し、燈をとぼして之を見るに髪長く膝に垂たれ、面相全く女に似て、その荒れたること絵にかける夜叉やしゃの如し。何を尋ねても物言ふこと無く、只ただにこ/\と打笑ふのみ也、食を与ふれども食はず水を与ふれば飲みたり。遍あまねく里人に尋ぬれども、仔細しさいを知る者無し。一村集まりて之を見物す。其その中に七十余の老農ありて言ふには、昔此この村に産婦あり。俄にわかに狂気して駆け出でけるが、鷲峰山しうぶせんに入りたり。親族尋ね求むと雖いえども、終ついに遇あふこと無しと言ひ伝へたり。其年暦を計るに凡およそ百年に余れり。もしは此者このものにてもあらんかと也。久太夫速すみやかに命を助け山に追ひ返しけるに、その走ること甚だ早し。其後又之を見る者無しといへり。」
佐々木喜善君の報告に、今から三年ばかり前、陸中上閉伊郡かみへいぐん附馬牛つくもうし村の山中で三十歳前後の一人の女が、ほとんと裸体に近い服装に樹の皮などを纏いつけて、うろついていたのを村の男が見つけた。どこかの炭焼小屋からでも持ってきたものかこの辺でワッパビツと名づける山弁当の大きな曲まげ物ものを携え、その中にいろいろの虫類を入れていて、あるきながらむしゃむしゃと食べていたという。遠野の警察署へ連れてきたが、やはり平気で蛙などを食っているので係員も閉口した。その内に女が朧気おぼろげな記憶から、ふと汽車の事を口にし、それからだんだんに生まれた家の模様、親たちの顔から名前を思い出し、ついには村の名までいうようになったが、聴いて見ると和賀わが郡小山田こやまだ村の者で七年前に家出をして山に入ったということがわかった。やはり産後であって、不意に山に入ったというのであった。親を警察へ呼び出して連れて行かせたが、一時はこの町で非常な評判であった。なお同じ佐々木君の話の中にこの附近の村の女の二十四五歳の者が、夫おっととともに山小屋に入っていて、終日夫が遠くに出て働いている間、一人で小屋にいて発狂したことがあった。のちに落着いてから様子を尋ねて見ると、或る時背の高い男が遣やってきて、それから急に山奥へ行きたくなって、堪えられなかったといったそうである。 
六 山の神に嫁入すということ

 

羽後の田代岳に駆け込んだという北秋田の村の娘は、その前から口癖のように、山の神様の処ところへお嫁入りするのだと、いっていたそうである。古来多くの新米しんまいの山姥やまうば、すなわちこれから自分の述べたいと思う山中の狂女の中には、何か今なお不明なる原因から、こういう錯覚を起こして、欣然きんぜんとして自ら進んで、こんな生活に入った者が多かったらしいのである。
そうすると我々が三輪式みわしき神話の残影と見ている竜婚・蛇婚の国々の話の中にも、存外に起原の近世なるものがないとは言われぬ。例えば上州の榛名湖はるなこにおいては、美しい奥方は強しいて供の者を帰して、しずしずと水の底に入って往いったと伝え、美濃の夜叉やしゃヶ池の夜叉御前ごぜんは、父母の泣いて留めるのも聴かず、あたら十六の花嫁姿で、独ひとり深山の水の神にとついだといっている。古い昔の信仰の影響か、または神話が本来かくのごとくにして、発生すべきものであったのか、とにかくにわが民族のこれが一つの不思議なる癖であった。
近ごろ世に出た『まぼろしの島より』という一英人の書翰集しょかんしゅうに、南太平洋のニウヘブライズ島の或る農場において、一夜群衆のわめき声とともに、頻しきりに鉄砲の音がするので、驚いて飛び出して見ると、若い一人の土人が魔神に攫つかまれて、森の中へ牽ひいて行かれるところであった。魔神の姿はもとより何ぴとにも見えないが、その青年が右の手を前へ出して踏止ふみとどまろうと身をもがく形は、確かに捕われた者の様子であった。他の土人たちは声で嚇おどし、かつ鉄砲をその前後の空間に打ち掛けて、悪魔を追い攘はらおうとしたがついに効を奏せず、捕われた者は茂みに隠れてしまった。
翌朝その青年は正気に復して、戻って常のごとく働こうとしたけれども、仲間の者は彼が魔神と何か契約をしてきたものと疑い、畏おそれ憎んで近づかず、その晩のうちに毒殺してしまったと記している。わが邦くにで狐や狸に憑つかれたという者が、その獣らしい挙動をして、傍の者を信ぜしめるのと、最もよく似た精神病の兆候である。
猿の婿入むこいりという昔話がある。どこの田舎に行ってもあまり有名であるために、かえって子供までが顧みようとせぬようになったが、じつは日本にばかり特別によく成育した話で、しかも最初いかなる事情から、こんな珍しい話の種が芽をくむに至ったかは、説明しえた人がないのである。三人ある娘の三番目がことに発明で、一旦は猿に連れられて山中に入って行くが、のちに才智をもって相手を自滅させ、安全に親の家に戻ってくることになっているのは、もとは明らかに魔界征服譚せいふくだんの一つであった。今でも落語家の持っている王子の狐、或いは天狗の羽団扇はうちわを欺あざむき奪う話などと同様に、だんだんに敵の愚かさが誇張せられて、聴く人の高笑いを催さずには置かなかったのは、武勇勝利の物語に、負けて遁にげた者の弱腰を説くのと、目的は一つであって、つまりは猿の婿も怖おそるるに足らずという教育の、かつて必要であったことを意味している。餅を搗ついて臼うすながら猿に負わせたり、臼を卸おろさずに藤の花を折らせたり、いろいろと無理な策略をもって相手を危地に陥おとしいれた話であるが、地方によっては瓢箪ひょうたんと針千本とを、親から貰もらい受けて出て行ったことになっているのは、すなわち蛇神退治の古くからの様式で、猿の方にはむしろ不用なことであった。変化か混同かいずれにしても、竜蛇の婿入の数多い諸国の例がこれと系統の近かったことだけは察せられるので、ただ山城蟹旛寺かにはでらの縁起えんぎなどにおいては、外部の救援が必要であったに反して、こちらはかよわい小娘の智謀一つで、よく自ら葛藤かっとうを脱しえた点を、異なれりとするのみである。
大和の三輪みわの緒環おだまきの糸、それから遠く運ばれたらしい豊後の大神おおみわ氏の花の本の少女の話は、土地とわずかな固有名詞とをかえて、今でも全国の隅々すみずみまで行われているが終始一貫した発見の糸口は、衣裳いしょうの端に刺した一本の針であった。ところが後世になるにつれて、勝利は次第に人間の方に帰し蛇の婿は刺された針の鉄気に制せられ、苦しんで死んだことになっている例が多い。糸筋いとすじを手繰たぐって窃ひそかに洞穴の口に近づいて立聴たちぎきすると。親子らしい大蛇がひそひそと話をしている。だから留めるのに人間などに思いを掛けるから命を失うことになったのだと一方がいうと、それでも種だけは残してきたから本望だと死なんとする者が答える。いや人間は賢いものだ、もし蓬よもぎと菖蒲しょうぶの二種の草を煎せんじてそれで行水ぎょうずいを使ったらどうすると、大切な秘密を洩もらしてしまったことにもなっている。たった一つの小さな昔話でも、だんだんに源みなもとを尋ねて行くと信仰の変化が窺うかがわれる。もとは単純に指令に服従して、怖しい神の妻たることに甘あまんじたものが、のちにはこれを避けまたは遁のがれようとしたことが明らかに見えるのである。しかも或いは婚姻慣習の沿革と伴うものかも知らぬが、猿の婿入の話には後代の蛇婿入譚とともに、娘の父親の約諾ということが、一つの要件をなしている。そうでなくとも堂々と押しかけてきて一門を承知させたことになっていて、大昔の神々のごとく夜陰やいん密ひそかに通かよってきて後に露顕したものではなかった。そうして天下晴れて連れて還かえったことに話はできている。すなわち山と人界との縁組は稀有けうというのみで、想像しえられぬほどの事件ではなかったが、おいおいにこれを忌み憎むの念が普通の社会には強くなり、百方手段を講じてその弊害を防ぎつつ、なお十分なる効果を挙げえないうちに、国は次第に近世の黎明れいめいになったのである。
狒々ひひという大猿が日本にも住むということはもう信ずることがむつかしくなった。出逢であった見たという話は記事にも画にも残っているものが多いが、注意してみると、まるまる幻覚の産物でなければ、必ずただの老猿を誤ってそう呼んだまでである。従って岩見重太郎、もしくは『今昔物語こんじゃくものがたり』のちゅうさんこうやのごとき例は、すこしでも動物学の知識を損益するところはないわけである。しかも昔話にまでなって、このように弘く伝わっているのを見ると、猿の婿入は恐らくある遠い時代の現実の畏怖いふであった。少なくとも女性失踪しっそうの不思議に対する、世間普通の解釈であった。どうしてそんな愚かしい事が、信じえられたかと思うようであるが、他に真相の説明がつかなかった時代だから仕方がない。一種の精神病というがごとき漠然ばくぜんたる理由では、今日でもまだ承知する者は少ないのである。正月と霜月しもつきとの月初めの或る日を、山の神の樹かぞえなどと称して、戒めて山に入らぬ風習は現に行われている。もしこの禁を犯せばいかなる制裁があるかと問えば、算かぞえ込まれて樹になってしまうというもあれば、山の神に連れて行かれるなどともいっているところがある。その山の神様はもとより神官の説くがごとき、大山祇命おおやまつみのみことではなかったのである。狼おおかみを山神の姿と見た言い伝えも多いが、猿はその一段の人間らしさから、かつては信仰の対象となっていた証拠もいろいろある。中世なんらか特別の理由があって、その地位は動揺したものらしい。その歴史を今少し考えて見ない以上、多くの昔話の意味がはっきりとせぬのも、やむをえざる次第である。 
七 町にも不思議なる迷子ありしこと

 

北国筋すじの或る大都会などは、ことに迷子まいごというものが多かった。二十年ほど前までは、冬になると一晩ひとばんとしていわゆる鉦かね太鼓たいこの音を聞かぬ晩はないくらいであったという。山が近くて天狗てんぐの多い土地だから、と説明せられていたようである。
東京でも以前はよく子供がいなくなった。この場合には町内の衆が、各一個の提灯ちょうちんを携えて集まり来たり、夜どおし大声で喚よんで歩くのが、義理でもありまた慣例でもあった。関東では一般に、まい子のまい子の何松なにまつやいと繰り返すのが普通であったが、上方辺かみがたへんでは「かやせ、もどせ」と、ややゆるりとした悲しい声で唱となえてあるいた。子供にもせよ紛失したものを尋ねるのに、鉦太鼓でさがすというはじつは変なことだが、それは本来捜索ではなくして、奪還であったから仕方がない。
もし迷子がただの迷子であるならば、こんな事をしても無益なかわりに、たいていはその日その夜のうちに消息が判明する。二日も三日も捜しあるいて、いかにしても見つからぬというのが神隠かみかくしで、これに対しては右のごとき別種の手段が、始めて必要であったのだが、前代の人たちは久しい間の経験によって、子供がいなくなれば最初からこれを神隠しと推定して、それに相応する処置を執ったものである。
神隠しをする神はいかなる悪い神であったか。近世人の思想においては、必ずしもごく精確に知られてはなかった。通例は天狗・狗賓ぐひんというのが最も有力なる嫌疑者けんぎしゃであったが、それはこのように無造作なる示威運動に脅かされて、取った児こをまた返すような気の弱い魔物ともじつは考えられていなかった。
狐もまた往々にして子供を取って隠す者と、考えられている地方があった。そういう地方では狐のわざと想像しつつも、やはり盛んに鉦太鼓を叩たたいたのであるが、今では単に狐はしばらくの間、人を騙だまし迷わすだけとして、これを神隠しの中にはもう算かぞえない田舎がだんだんに多くなって行くかと思う。近年の狐の悪戯いたずらはたいていは高が知れていた。誰かが行き合わせて大声を出し、または背中を一つ打ったら正気がついたという風ふうで、若い衆やよい年輩の親爺までが、夜どおし近所の人々に心配をかけ、朝になって見ると土手の陰や粟畠あわばたけのまん中に、きょとんとして立っていたなどということも、またすでに昔話の部類に編入せられようとしているのである。
しかし寂しい在所ざいしょの村はずれ、川端かわばた、森や古塚の近くなどには、今でも「良くない処ところだ」というところがおりおりあって、その中には悪い狐がいるという噂うわさをするものも少なくはない。神隠しの被害は普通に人一代ひといちだいの記憶のうちに、三回か五回かは必ず聴くところで、前後の状況は常にほぼ一様であった。従って捜索隊の手配路順にも、ほぼ旧来のきまりがあり、事件の顛末てんまつも人の名だけが、時々新しくなるばかりで、各地各場合において、大した変化を見なかったようである。
しかも経験の乏しい少年少女に取っては、これほど気味の悪い話はなかった。私たちの村の小学校では、冬は子供が集まると、いつもこんな話ばかりをしていた。それでいて奇妙なことには、実際は狐につままれた者に、子供は至って少なく、子供の迷子は多くは神隠しの方であった。
子供のいなくなる不思議には、おおよそ定きまった季節があった。自分たちの幽かすかな記憶では秋の末から冬のかかりにも、この話があったように思うが、或いは誤っているかも知れぬ。多くの地方では旧暦四月、蚕かいこの上簇じょうぞくや麦苅入むぎかりいれの支度したくに、農夫が気を取られている時分が、一番あぶないように考えられていた。これを簡明に高麦のころと名づけているところもある。つまりは麦が成長して容易に小児の姿を隠し、また山の獣などの畦あぜづたいに、里に近よるものも実際に多かったのである。高麦のころに隠れん坊をすると、狸に騙だまされると豊後ぶんごの奥ではいうそうだ。全くこの遊戯は不安心な遊戯で、大きな建物などの中ですらも、稀まれにはジェネヴィエバのごとき悲惨事があった。まして郊野こうやの間には物陰が多過ぎた。それがまたこの戯れの永ながく行われた面白味おもしろみであったろうが、幼い人たちが模倣を始めたより更に以前を想像してみると、忍術にんじゅつなどと起原の共通なる一種の信仰が潜んでいて、のち次第に面白い村の祭の式作法になったものかと思う。
東京のような繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにしている。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。または隠かくし婆ばあさんに連れて行かれるといって、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいていて夏の夕方などに、児こを喚よぶ女の金切声かなきりごえをよく聴くのは、夕飯以外に一つにはこの畏怖いふもあったのだ。だから小学校で試みに尋ねてみても分わかるが、薄暮に外におりまたは隠れんぼをすることが何故に好よくないか、小児はまだその理由を知っている。福知山ふくちやま附近では晩に暗くなってからかくれんぼをすると、隠し神さんに隠されるというそうだが、それを他の多くの地方では狸狐といい、または隠し婆さんなどともいうのである。隠かくし婆ばばあは古くは子取尼ことりあまなどともいって、実際京都の町にもあったことが、『園太暦えんたいりゃく』の文和二年三月二十六日の条に出ている。取上とりあげ婆ばばあの子取りとはちがって、これは小児を盗んで殺すのを職業にしていたのである。なんの為にということは記してないが、近世に入ってからは血取ちとりとも油取あぶらとりとも名づけて、罪なき童児の血や油を、何かの用途に供するかのごとく想像し、近くは南京皿なんきんざらの染附そめつけに使うというがごとき、いわゆる纐纈城こうけちじょう式の風説が繰り返された。そうしてまだ全然の無根というところまで、突き留められてはいないのである。
しかし少なくともこの世評の大部分が、一種の伝統的不安であり、従って話であることは時過ぎて始めてわかった。例えば迷子が黙って青い顔をして戻ってくると、生血を取られたからだと解して悲んだ者もあったが、そんな方法のありえないことがもう分って、だんだんにそうはいわなくなった。秩父ちちぶ地方では子供が行方不明になるのを、隠かくれ座頭ざとうに連れて行かれたといい、またはヤドウカイに捕られたというそうだが、これなどは単純な誤解であった。隠れ座頭は弘ひろく奥羽・関東にわたって、巌窟の奥に住む妖怪ようかいと信ぜられ、相州の津久井つくいなどでは踏唐臼ふみからうすの下に隠れているようにもいっていた。すなわち普通の人の眼に見えぬ社会の住民ではあったのだが、これを座頭としたのは右のごとき地底の国を、隠かくれ里さとと名づけたのが元もとである。隠れ里本来は昔話の鼠ねずみの浄土じょうどなどのように、富貴具足ふうきぐそくの仙界せんかいであって、祷いのれば家具を貸し金銭を授与したなどと、説くのが昔の世の通例であったのを、人の信仰が変化したから、こんな恐ろしい怪物とさえ解せられた。多分は座頭の職業に若干の神秘分子が、伴うていた結果であろう。
それからヤドウカイはまたヤドウケと呼ぶ人もあった。文字には夜道怪と書いて子取ことりの名人のごとく伝えられるが、じつはただの人間の少し下品な者で、中世高野聖こうやひじりの名をもって諸国を修行した法師すなわち是これである。武州小川の大塚梧堂ごどう君の話では、夜道怪は見た者はないけれども、蓬髪ほうはつ弊衣へいいの垢あかじみた人が、大きな荷物を背負うてあるくのを、まるで夜道怪のようだと土地ではいうから、大方おおかたそんな風態の者だろうとのことである。実際高野聖は行商か片商売かたしょうばいで、いつも強力ごうりき同様に何もかも背負うてあるいた。そうして夕方には村の辻に立って、ヤドウカと大きな声でわめき、誰も宿を貸しましょと言わぬ場合には、また次の村に向って去った。旅に摺すれて掛引かけひきが多く、その上おりおりは法力を笠かさに着て、善人たちを脅おびやかした故に、「高野聖に宿やどかすな、娘取られて恥かくな」などという、諺ことわざまでもできたのである。だんだんこんな者が村に来なくなってから、単に子供を嚇おどかす想像上の害敵となって永く残りその子供がまた成人して行くうちに、次第に新しい妖怪の一種にこれを算えるに至ったのは注意すべき現象だと思う。我々日本人の精神生活の進化には、こういう村里の隠し神のようなものまでが、取り残されていることはできなかったのである。 
八 今も少年の往々にして神に隠さるること

 

先頃さきごろも六つとかになる女の児が、神奈川県の横須賀から汽車に乗ってきて、東京駅の附近をうろついており、警察の手に保護せられた。大都のまん中では、もとより小児の親にはぐれる場合も多かったろうけれども、幼小な子供が何ぴとにも怪まれずに、こんなに遠くまできていたというは珍しい。故に昔の人もこれらの実例の中で、特に前後の事情の不可思議なるものを迷子と名づけ、冒涜ぼうとくを忌まざる者は、これを神隠しとも呼んでいたのである。
村々の隣に遠く野山の多い地方では、取分とりわけてこの類の神隠しが頻繁ひんぱんで、哀れなることには隠された者の半数は、永遠に還かえって来なかった。私は以前盛んに旅行をしていたころ、力つとめて近代の地方の迷子の実例を、聞いて置こうとしたことがあった。伊豆の松崎で十何年前にあったのは、三日ほどしてから東の山の中腹に、一人で立っているのを見つけだした。そこはもう何度となく、捜す者が通行したはずだのにと、のちのちまで土地の人が不思議にした。なおそれよりも前に、上総の東金とうがね附近の村では、これも二三日してから山の中の薄すすきの叢くさむらの中に、しゃがんでいたのをさがしだしたが、それから久しい間、抜ぬけ殻がらのような少年であったという。
珍しい例ほど永く記憶せられるのか、古い話には奇抜なるものが一層多い。親族が一心に祈祷きとうをしていると、夜分雨戸にどんと当あたる物がある。明けて見るとその児が軒下にきて立っていた。或いはまた板葺いたぶき屋根の上に、どしんと物の落ちた響がして、驚いて出てみたら、気を失ってその児が横たわっていた、という話もある。もっとえらいのになると、二十年もしてから阿呆あほうになってひょっこりと出てきた。元もとの四よつ身みの着物を着たままで、縫目ぬいめが弾はじけて綻ほころびていたなどと言い伝えた。もちろん精確なる記録は少なく、概して誇張した噂のみのようであった。学問としての研究のためには、更に今後の観察を要するはもちろんである。
愛知県北設楽きたしだら郡段嶺だみね村大字豊邦字笠井島の某という十歳ばかりの少年が、明治四十年ごろの旧九月三十日、すなわち神送かみおくりの日の夕方に、家の者が白餅しろもちを造るのに忙しい最中、今まで土間どまにいたと思ったのが、わずかの間に見えなくなった。最初は気にもしなかったが、神祭を済ましてもまだ姿が見えず、あちこちと見てあるいたが行方が知れぬので、とうとう近所隣までの大騒ぎとなった。方々捜しあぐんで一旦いったん家の者も内に入っていると、不意におも屋の天井てんじょうの上に、どしんと何ものか落ちたような音がした。驚いて梯子はしごを掛けて昇ってみると、少年はそこに倒れている。抱いて下へ連れてきてよく見ると、口のまわりも真白まっしろに白餅だらけになっていた。(白餅というのは神に供える粢しとぎのことで、生なまの粉を水でかためただけのものである。)気の抜けたようになっているのを介抱して、いろいろとして尋ねてみると少年はその夕方に、いつのまにか御宮おみやの杉の樹きの下に往いって立っていた。するとそこへ誰とも知らぬ者が遣やってきて彼を連れて行った。多勢おおぜいの人にまじって木の梢こずえを渡りあるきながら、処々方々の家をまわって、行く先々で白餅や汁粉しるこなどをたくさん御馳走ごちそうになっていた。最後にはどこか知らぬ狭いところへ、突き込まれるようにして投げ込まれたと思ったが、それがわが家の天井であったという。それからややしばらくの間その少年は、気が疎うとくなっていたようだったと、同じ村の今三十五六の婦人が話をしたという(早川孝太郎君報)。
石川県金沢市の浅野町で明治十年ごろに起こった出来事である。徳田秋声君の家の隣家の二十歳ばかりの青年が、ちょうど徳田家の高窓たかまどの外にあった地境じざかいの大きな柿の樹の下に、下駄げたを脱ぎ棄すてたままで行方不明になった。これも捜しあぐんでいると、不意に天井裏にどしんと物の堕おちた音がした。徳田君の令兄が頼まれて上って見ると、その青年が横たわっているので、背負うて降してやったそうである。木の葉を噛かんでいたと見えて、口の端を真青まっさおにしていた。半分正気づいてから仔細しさいを問うに、大きな親爺おやじに連れられて、諸処方々をあるいて御馳走を食べてきた、また行かねばならぬといって、駆けだそうとしたそうである。尤もっとも常から少し遅鈍な質たちの青年であった。その後どうなったかは知らぬという(徳田秋声君談)。
紀州西牟婁むろ郡上三栖みすの米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還かえってきたが、その間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻へめぐっていたと語った。食物はどうしたかと問うと、握にぎり飯めしや餅菓子もちがしなどたべた。まだ袂たもとに残っているというので、出させて見るにみな柴しばの葉であった。今から九十年ほど前の事である。また同じ郡岩田の万蔵という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝ているのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて摂津の西ノ宮に行き、盆ぼんの十三日の晩、多勢の集まって酒を飲む席にまじって飲んだといった。これは六十何年前のことで、ともに宇井可道翁の『璞屋随筆ぼくおくずいひつ』の中に載せられてあるという(雑賀さいが貞次郎君報)。
大正十五年二月の『国民新聞』に出ていたのは、遠州相良さがら在ざいの農家の十六の少年、夜中の一時ごろに便所に出たまま戻らず、しばらくすると悲鳴の声が聞えるので、両親が飛び起きて便所を見たがいない。だんだんに声を辿たどって行くと、戸じまりをした隣家の納屋なやの中に、兵児帯へこおびと褌ふんどしをもって両手足を縛られ、梁はりから兎うさぎつるしに吊つるされていた。早速引卸ひきおろして模様を尋ねても、便所の前に行ったまでは覚えているが、それから先のことは少しも知らぬ。ただふと気がついたから救いを求めたといっていた。奇妙なことには納屋には錠じょうがかかって、親たちは捻ねじ切って入った。周囲は土壁で何者も近よった様子がなかったという。警察で尋ねてみたら、今少し前後の状況が知れるかも知れぬと思う。
不意に窮屈な天井裏などに入って倒れたということは、とうてい我々には解釈しえない不思議であるが、地方には意外にその例が多い。また沖繩の島にもこれとやや似た神隠しがあって、それを物迷いまたは物に持たるるというそうである。比嘉春潮ひがしゅんちょう君の話によれば、かの島でモノに攫さらわれた人は、木の梢や水面また断崖絶壁のごとき、普通に人のあるかぬところを歩くことができ、また下水げすいの中や洞窟どうくつ床下ゆかした等をも平気で通過する。人が捜している声も姿もはっきりとわかるが、こちらからは物を言うことができぬ。洞窟の奥や水の中で発見せられた実例も少なくない。こういう狭い場処や危険な所も、モノに導かれると通行ができるのだが、ただその人が屁へをひるときはモノが手を放すので、たちまち絶壁から落ちることがある。水に溺おぼれる人にはこれが多いように信じられているそうである。備中賀陽かやの良藤という者が、狐の女と婚姻して年久しくわが家の床下に住み、多くの児女を育てていたという話なども、昔の人には今よりも比較的信じやすかったものらしい。 
九 神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと

 

変態心理の中村古峡こきょう君なども、かつて奥州七戸しちのへ辺の実例について調査をせられたことがあった。神に隠されるような子供には、何かその前から他の児童と、ややちがった気質があるか否か。これが将来の興味ある問題であるが、私はあると思っている。そうして私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える。ただし幸いにしてもう無事に年を取ってしまってそういう心配は完全になくなった。
私の村は県道に沿うた町並まちなみで、山も近くにあるのはほんの丘陵であったが、西に川筋かわすじが通って奥在所おくざいしょは深く、やはりグヒンサンの話の多い地方であった。私は耳が早くて怖こわい噂をたくさんに記憶している児童であった。七つの歳としであったが、筋向すじむかいの家に湯に招かれて、秋の夜の八時過ぎ、母より一足さきにその家の戸口を出ると、不意に頬冠ほおかむりをした屈強な男が、横合よこあいから出てきて私を引抱ひっかかえ、とっとっと走る。怖おそろしさの行止まりで、声を立てるだけの力もなかった。それが私の門までくると、くぐり戸の脇わきに私をおろして、すぐに見えなくなったのである。もちろん近所の青年の悪戯いたずらで、のちにはおおよそ心当りもついたが、その男は私の母が怒るのを恐れてか、断じて知らぬとどこまでも主張して、結局その事件は不可思議に終った。宅ではとにかく大問題であった。多分私の眼の色がこの刺戟しげきのために、すっかり変っていたからであろうと想像する。
それからまた三四年の後、母と弟二人と茸狩きのこがりに行ったことがある。遠くから常に見ている小山であったが、山の向うの谷に暗い淋さびしい池があって、しばらくその岸へ下おりて休んだ。夕日になってから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元もと登った方の山の口へきたと思ったら、どんな風にあるいたものか、またまた同じ淋しい池の岸へ戻ってきてしまったのである。その時も茫ぼうとしたような気がしたが、えらい声で母親がどなるのでたちまち普通の心持こころもちになった。この時の私がもし一人であったら、恐らくはまた一つの神隠しの例を残したことと思っている。
これも自分の遭遇ではあるが、あまり小さい時の事だから他人の話のような感じがする。四歳の春に弟が生まれて、自然に母の愛情注意も元ほどでなく、その上にいわゆる虫気むしけがあって機嫌きげんの悪い子供であったらしい。その年の秋のかかりではなかったかと思う。小さな絵本をもらって寝ながら看みていたが、頻しきりに母に向かって神戸には叔母おばさんがあるかと尋ねたそうである。じつはないのだけれども他の事に気を取られて、母はいい加減な返事をしていたものと見える。その内に昼寝をしてしまったから安心をして目を放すと、しばらくして往いってみたらもういなかった。ただし心配をしたのは三時間か四時間で、いまだ鉦かね太鼓たいこの騒ぎには及ばぬうちに、幸いに近所の農夫が連れて戻ってくれた。県道を南に向いて一人で行くのを見て、どこの児だろうかといった人も二三人はあったそうだが、正式に迷子として発見せられたのは、家から二十何町離れた松林の道傍みちばたであった。折よくこの辺の新開畠しんかいばたにきて働いていた者の中に、隣の親爺がいたために、すぐに私だということが知れた。どこへ行くつもりかと尋ねたら、神戸の叔母さんのところへと答えたそうだが、自分の今幽かすかに記憶しているのは、抱かれて戻ってくる途みちの一つ二つの光景だけで、その他はことごとく後日に母や隣人から聴いた話である。前の横須賀から東京駅まできた女の児の話を聴いても、自分はおおよそ事情を想像し得る。よもやこんな子が一人でいることはあるまいと思って、駅夫も乗客もかえってこれを怪まなかったのだろうが、外部の者にも諒解しえず、自身ものちには記憶せぬ衝動があって、こんな幼い者に意外な事をさせたので、調べて見たら必ず一時性の脳の疾患であり、また体質か遺伝かに、これを誘発する原因が潜んでいたことと思う。昔は七歳の少童が庭に飛降って神怪驚くべき言を発したという記録が多く、古い信仰では朝野ちょうやともに、これを託宣と認めて疑わなかった。それのみならず特にそのような傾向ある小児を捜し出して、至って重要なる任務を託していた。因童よりわらわというものがすなわちこれである。一通りの方法で所要の状態に陥らない場合には、一人を取囲んで多勢で唱となえ言ごとをしたり、または単調な楽器の音で四方からこれを責めたりした。警察などがやかましくなってのちは、力つとめて内々にその方法を講じたようだが、以前はずいぶん頻繁にかつ公然と行われたものとみえて、今もまま事と同様にこれを模倣した小児の遊戯が残っている。「中なかの中の小坊主こぼうず」とか「かアごめかごめ」と称する遊びは、正まさしくその名残である。大きくなって世の中へ出てしまうと、もう我々のごとく常識の人間になってしまうが、成長の或る時期にその傾向が時あって顕あらわれるのは、恐らくは説明可能なる生理学の現象であろう。神に隠されたという少年青年には、注意してみれば何か共通の特徴がありそうだ。さかしいとか賢いとかいう古い時代の日本語には、普通の児のように無邪気でなく、なんらかやや宗教的ともいうべき傾向をもっていることを、包含していたのではないかとも考える。物狂いという語なども、時代によってその意味はこれとほぼ同じでなかったかと思う。 
一〇 小児の言によって幽界を知らんとせしこと

 

運強くして神隠しから戻ってきた児童は、しばらくは気抜けの体ていで、たいていはまずぐっすりと寝てしまう。それから起きて食い物を求める。何を問うても返事が鈍く知らぬ覚えないと答える者が多い。それをまた意味ありげに解釈して、たわいもない切れ切れの語から、神秘世界の消息をえようとするのが、久しい間のわが民族の慣習であった。しかも物々しい評判のみが永く伝わって、本人はと見ると平凡以下のつまらぬ男となって活いきているのが多く、天狗てんぐのカゲマなどといって人がこれを馬鹿にした。
この連中の見聞談は、若干の古書の中に散見している。鋭い眼をした大きな人が来いといったからついて往った。どこだか知らぬ高い山の上から、海が見えた里が見えたの類の、漠然ばくぜんたる話ばかり多い。ところがこれとは正反対にごくわずかな例外として、むやみに詳しく見てきた世界を語る者がある。江戸で有名な近世の記録は、『神童寅吉とらきち物語』、神界にあって高山嘉津間たかやまかつまと呼ばれた少年の話である。これ以外にも平田派の神道家が、最も敬虔けいけんなる態度をもって筆記した神隠しの談がいくつかあるが記録の精確なるために、いよいよ談話の不精確なことがよく分る。各地各時代の神隠しの少年が、見てきたと説くところには、何一つとして一致した点がない。つまりはただその少年の知識経験と、貧しい想像力との範囲より、少しでも外へは出ていなかったのである。
故に神道があまり幽冥道ゆうめいどうを説かぬ時代には、見てきた世界は仏法の浄土や地獄であった。『続鉱石集ぞくこうせきしゅう』の下の巻に出ている「阿波国不朽ふきゅう物語」などはその例で、その他にも越中の立山、外南部そとなんぶの宇曾利山うそりざんで、地獄を見たという類の物語も、正直な人が見たと主張するものは、すべてみなこの系統の話である。
『黒甜瑣語こくてんさご』第一編の巻三に曰いわく、「世の物語に天狗のカゲマと云いふことありて、爰ここかしこに勾引こういんさるゝあり。或は妙義山に将もて行かれて奴やっことなり、或は讃岐さぬきの杉本坊の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元禄の頃仙北稲沢いなさわ村の盲人が伝へし『不思議物語』にも多く見え、下賤げせんの者には別して拘引さるゝ者多し。近くは石井某が下男は、四五度もさそはれけり。始はじめは出奔しゅっぽんせしと思ひしに、其者そのものの諸器褞袍おんぽうも残りあれば、それとも言はれずと沙汰さたせしが、一月ひとつきばかりありて立帰れり。津軽つがるを残らず一見して、委くわしきこと言ふばかり無し。其後一年ほど過ぎて此男このおとこの部屋へや何か騒がしく、宥ゆるして下されと叫ぶ。人々出て見しに早くも影無し。此度このたびも半月ほど過ぎて越後えちごより帰りしが、山の上にてかの国の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辞を左右に托たくして言はず。若もし委曲いきょくを告ぐれば身の上にも係かかわるべしとの戒いましめを聞きしと也なり。四五年を経て或人に従ひ江戸に登りしに、又道中にて行方ゆくえ無くなれり。此度は半年ほどして、大阪より下くだれり」と云う。
右の話の始めにある『不思議物語』という本は、この他にもたくさんの珍しい記事を載せてあるらしい。二百数十年前の盲人の談話ときいて、ことに一度見たいと思っている。江戸の人の神に隠された話は、また新井白石も説いている。『白石先生手簡』、年月不明、小瀬復菴おぜふくあんに宛あてた一通には、次のごとく記してある。
「正月七日の夜、某旧識きゅうしきの人の奴僕ぬぼく一人、忽たちまちに所在を失ひ候そうろう。二月二日には、御直参ごじきさんの人にて文筆共とも当時の英材、某多年の旧識、是これも所在を失し、二十八日に帰られ候。其事の始末は、鬼の為に誘はれ、近く候山々経歴し見候みそうろう。此外このほか二三人失せし者をも承うけたまわり候へ共ども、それらは某見候者にも無く候。たしかに目撃候間あいだ、如此かくのごときの事また候へば云々うんぬん」(末の方は誤写があるらしい)。
『神童寅吉物語』は舞台が江戸であっただけに、出た当時からすでに大評判となり、少なからず近世のいわゆる幽界研究を刺戟しげきした。今でも別様の意味において貴重なる記録である。知っている人も多いと思うが、大正十四年の四月に、周防宮市すおうみやいちの天行居てんこうきょから刊行した『幽冥界ゆうめいかい研究資料』と題する一書は、この類の珍本のいくつかを合わせて覆刻ふっこくしている。『嘉津間答問かつまとうもん』四巻附録一巻は、すなわち前にいう寅吉の談話筆記で、平田翁の手を経て世に公おおやけにせられたものであるが別にそれ以外に『幸安仙界物語こうあんせんかいものがたり』三巻、紀州和歌山の或る浄土寺じょうどでらの小僧が、白髪の老翁に導かれてしばしば名山に往来したという話であり、『仙界真語せんかいしんご』一巻は、尾州の藩医柳田泰治の門人沢井才一郎という者が、遠州秋葉山に入って神になったという一条で、いずれも十七歳の青年の異常なる実験を、最も誠実に記述したものである。高山嘉津間の方は、七歳の時から上野うえのの山下で薬を売る老人につれられ、時々常陸ひたちの或る山に往来していたと語っているが実際にいなくなったのは十四の歳としの五月からで、十月とつきほどして還ってきていとも饒舌じょうぜつに霊界の事情を語っていた。遍あまねく諸州を飛行したそうだが、本居ほんきょは常陸の岩間山の頂上にあった。紛れもなく天狗山人の社会で方式にも教理にも修験道しゅげんどうの香気が強かったが、あの時代の学者たちは一種の習合をもって自派の神道の闡明せんめいにこれを利用した。それでも不用意なる少年の語の中には、あまりなる口から出まかせがあって、指摘し得べき前後の矛盾さえ多かったのだが、それは記憶の誤りだろう隠すのだろう、或いは何か凡慮に及ばぬ仔細しさいがあるのだろうと、ことごとく善意に解しようとした跡がある。非常なる骨折ほねおりであった。これに比べると紀州の幸安の神隠しは、三十年余も後の事であるが、この期間の日本の学問の進歩は、早はや著しくその話の内容に反映している。幸安はまず和歌山近くの花山というに登り、それから九州某地の赤山というところに往ったと語ったが、赤山の住侶じゅうりょはいずれも仙人せんにんで、おのおの『雲笈七籖うんきゅうしちせん』にでもあるような高尚な漢名を持っていた。天狗などは身分の低いものだと大いにこれを軽蔑けいべつしている。また支那にも飛べば北亜細亜アジアの山にも往ったとあって、その叙説の不精確さは正まさに幕末ごろの外国地理の知識であった。よくもこんな話が信じられたと、今の人ならば驚くのが当然だが、道教の神秘も日本の固有信仰がこれを支配し得るかのごとく、曲解し得るだけ曲解するのが、言わばあの時代の学風であったので、すなわちたくさんの夢語ゆめがたりも、やはり平田翁一派の研究以外へは一足だって踏出してはいないのである。
名古屋の秋葉大権現あきばだいごんげんの神異に至っては、話が更に一段と単純になっている。これは前にいう紀州の事件よりも、また十五年も後のことであるが、これに参加した人たちが学問に深入ふかいりしなかった故に、古風な民間の信仰の清らさを留とどめている。すなわち神隠しの青年は口が喋々ちょうちょうと奇瑞きずいを説かなかったかわりに、我々の説明しえないいろいろの不思議が現われ、それを見たほどの者は一人として疑い怪しむことができなかった。そうして多くの信徒の興奮と感激との間に、当の本人は霊魂のみを大神おおかみに召されて、若い骸むくろを留めて去ったのである。およそ近代の宗教現象の記録として、これほど至純なる資料はじつは多くない。身み親したしくこの出来事を見聞した者の感を深め信心を新たにしたことも、誠に当然の結果のように思われる。ただ我々の意外とすることは、こういう珍しいいろいろの実験をならべてみて、一方が真実なら他方は誤りでなければならぬほどの不一致には心づかず、幽界の玄妙なる、なんのあらざる事あらんやと、一切の矛盾を人智不測の外に置こうとした、後世の学徒の態度であった。もし盲信でなければ、これは恐らく同種の偽物にせものに対する寛容であって、やがては今日のごとき鬼術横行の原因をなしたものとも言いえられる。
江戸の高山嘉津間、和歌山の島田幸安等の行末ゆくすえはどうであったか。今なら尋ねて見たらまだ消息が知れるかもしれぬ。もし彼らの行者生活が長く続いていたとすれば、これらの覚書おぼえがき類は時の進むとともに、幾たびかその価値を変化しているはずである。少なくとも口で我々にあんなことを説いて聞かせても、もう今日では耳を傾ける者はあるまい。故に書物になって残っているというだけで、特段にこれを尊重すべき理由はない道理である。 
一一 仙人出現の理由を研究すべきこと

 

「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像するごとくはっきりしたものでない。自分が考えてもなおあやふやな話でも、なんどとなくこれを人に語り、かつ聴く者が毎つねに少しもこれを疑わなかったなら、ついには実験と同じだけの強い印象になって、のちにはかえって話し手自身を動かすまでの力を生ずるものだったらしい。昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、じつは本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧れいりにしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。すなわちたくさんの神隠しの不可思議を、説かぬ前から信じようとしていたのである。
室町時代の中ごろには、若狭わかさの国から年齢八百歳という尼が京都へ出てきた。また江戸期の終りに近くなってからも、筑前の海岸に生まれた女で長命して二十幾人の亭主を取替えたという者が津軽方面に出現した。その長命に証人はなかったが、両人ながら古い事を知ってよく語ったので、聴く人はこれを疑うことができなかった。ただしその話は申合もうしあわせたように源平げんぺいの合戦かっせん、義経よしつね・弁慶べんけいの行動などの外には出なかった。それからまた常陸坊海尊ひたちぼうかいそんの仙人になったのだという人が、東北の各地には住んでいた。もちろん義経の事蹟じせき、ことに屋島やしま・壇だんの浦うら・高館たかだて等、『義経記』や『盛衰記』に書いてあることを、あの書をそらで読む程度に知っていたので、まったくそのために当時彼が真の常陸坊なることを一人として信用せざる者はなかったのである。
今日の眼から見れば、これを信ずるのは軽率のようであり、欺あざむく本人も憎いようだが、恐らくは本人自身も、常陸坊であり、ないしは八百比丘尼びくになることを、何かわけがあって固く信じていたものと思われる。それも決してありえざることではない。参河みかわの長篠ながしの地方でおとらという狐に憑つかれた者は、きっと信玄や山本勘助の話をする。この狐もまた長生で、かつて武田合戦を見物していて怪我けがをしたという説などが行われていたために、その後憑かれた者が、みなその合戦を知っているような気持にならずにはおられなかったのである。
若狭の八百比丘尼は本国小浜おばまの或る神社の中に、玉椿たまつばきの花を手に持った木像を安置しているのみではない。北国は申すに及ばず、東は関東の各地から、西は中国四国の方々の田舎いなかに、この尼が巡遊したと伝うる故跡こせきは数多く、たいていは樹を栽うえ神を祭り時としては塚つかを築き石を建てている。それが単なる偶合ぐうごうでなかったと思うことは、どうしてそのように長命をしたかの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈絡がある。つまりは霊怪なる宗教婦人が、かつて巡国をしてきたことはあったので、その特色は驚くべき高齢を称しつつ、しかも顔色の若々しかった点にあったのである。人はずいぶんと白髪の皺しわだらけの顔をしていても、八百といえば嘘だと思わぬ者はないであろうに、とにかくにこれを信ぜしめるだけの、術だか力だかは持っていたのである。それが一人かはた幾人もあったのかは別として、京都の地へも文安から宝徳のころに、長寿の尼が若狭から遣やってきて、毎日多くの市民に拝まれたことは、『臥雲日件録がうんにっけんろく』にも書いてあれば、また『康富記やすとみき』などにもちゃんと日記として載せてあるから、それを疑うことはできないのである。尤もっともこの時代は七百歳の車僧のように、長生を評判にする風は流行であった。然しからば何か我々の想像しえない方法が、これを証明していたのかも知れぬが、いずれにしても『平家物語』や『義経記』の非常な普及が、始めて普通人に年代の知識と、回顧趣味とを鼓吹したのはこの時代だから、比丘尼の昔語りは諸国巡歴のために、大なる武器であったことと思う。ただ自分たちの想像では、単なる作り事ではこれまでに人は欺きえない。或いは尼自身も特殊の心理から、自分がそのような古い嫗おうなであることを信じ、まのあたり義経・弁慶一行の北国通過を、見ていたようにも感じていた故に、その言うことが強い印象となったのではなかろうか。越中立山の口碑では、結界けっかいを破って霊峰に登ろうとした女性の名を、若狭の登宇呂とうろの姥うばと呼んでいる。もしこの類の山で修業した巫女みこが自身にそういう長命を信じている習ならいであったら、のちに説こうとする日向小菅岳ひゅうがこすげだけの山女が、山に入って数百年を経たと人に語ったというのも、必ずしも作り話ではないことになるのである。やたらに人の不誠実を疑うにも及ばぬのである。
常陸坊海尊の長命ということは、今でもまだ陸前の青麻権現あおそごんげんの信徒の中には、信じている人が大分だいぶあって、これを疑っては失礼に当るか知れぬが、じつはこの信仰には明らかに前後の二期があって、その後期においては海尊さまはもう人間ではなかったのである。これに反して足利時代の終りに近く、諸国にこの人が生きていたという話の多いのは、正しく八百比丘尼と同系統の現象であった。事のついでに少しくあのころの世間の噂を比較してみると、例えば会津あいづの実相寺じっそうじの二十三世、桃林契悟禅師とうりんけいごぜんじ号は残夢、別に自ら秋風道士とも称した老僧はその一人であった。和尚おしょうは奇行多くまた好んで源平の合戦その他の旧事を談ずるに、あたかも自身その場にいて見た者のごとくであった。無々という老翁の石城いしき郡に住する者、かつて残夢を訪ねてきて、二人で頻しきりに曾我そがの夜討ようちの事を話していたこともあった。しかも曾我とか源平合戦とかがもうちゃんと書物になっていることを知らず、あまり詳しいので喫驚びっくりするような人が、まだこの地方には多かったらしいのである。年を尋ねると百五六十と答え、強しいて問いつめるとかえって忘れたといって教えなかった。然らば常陸坊海尊だろうと噂したというのは、恐らくはこのころすでにかの仙人がまだ生きてどこかにいるように評判する者があったからであろう。また別の伝えには福仙という鏡研かがみとぎがきた。残夢これを見て彼は義経公の旗持ちだったというと、福仙もまた人に向って、残夢は常陸坊だと告げたともいうが、そんな事をすれば露あらわれるにきまっている。しかも和尚は天正四年の三月に、たくましい一篇の偈げを留とどめて円寂えんじゃくし、墓もその寺にあるにかかわらず、その後なお引続いて、常陸坊が生きているという説は行われた。『本朝故事因縁集ほんちょうこじいんねんしゅう』には、「海尊遁にげ去りて富士山に入る、食物無し、石の上に飴あめの如き物多し、之を取りて食してより又飢うること無く、三百年の久しき木の葉を衣として住む。近代信濃の深山に岩窟がんくつあり、之に遊びて年未だ老いず」とある。山におりきりの仙人ならば、こんな歴史も伝わらぬ道理で、やはり時々は若狭の尼のように人間の中に入ってきていたのである。能登の狼煙のろし村の山伏山やまぶしやまでは、常陸坊はこの地まできて義経と別れ、仙人になってこの山に住んだ、おりおりは山伏姿で出てきたと『能登国名跡志のとのくにめいせきし』に書いてあるが、それでは高館たかだて・衣川ころもがわの昔話をするのに、甚だ勝手が悪かったわけである。加賀には残月という六十ばかりの僧、かつて犀川さいかわと浅野川の西東に流れていた時を知ってるといった。越後の田中という地にきて、小松原宗雪なる者と同宿し、穀を絶ち松脂まつやにを服して暮していたが、誰言うともなく残月は常陸坊、小松原は亀井六郎だと評判せられた。人が『義経記』を呼んで聴かせると覚えず釣込まれてそのころの話をしたと『提醒紀談ていせいきだん』巻一にあるが、亀井と馬が合うたとすれば能登で別れてしまったのではなさそうだ。『広益俗説弁こうえきぞくせつべん』巻十三には、海尊かいそん高館の落城に先だって山に遁のがれ、仙人となって富士・浅間・湯殿山ゆどのさんなどに時々出現するとあるが、羽前最上もがみ郡古口ふるくち村の外川とかわ神社の近くにも、海尊仙人が住んでいたという口碑あり、また陸前気仙けせん郡の唐丹とうにの観音堂の下にも、昔常陸坊が松前まつまえから帰りがけにこの地を通って、これは亀井の墓だと別当山伏の成就院じょうじゅいんに、指さし教えたと伝うる墓があった。永い年月には何処へでも往ったろうが、それにしてもあまりに口が多く、また話が少しずつ喰違っているのは、やはりたくさんの同名異人があったためではなかったか。ことに寛永の初年に陸中平泉ひらいずみの古戦場に近い山中で、仙台の藩士小野太左衛門が行逢ゆきあうたというのは、よほど怪しい常陸坊であった。源平時代の見聞を語ること、親しくこれを歴へた者の通りであった故に、小野はただちに海尊なることを看破し、就ついて兵法を学び、また恭うやうやしく延年益寿の術を訊たずねた。異人答えて曰く、もと修するの法なし、かつて九郎判官ほうがんに随従して高館にいるとき、六月衣川ころもがわに釣つりして達谷たっこくに入る。一老人あり招きて食を供きょうす。肉ありその色は朱しゅのごとく味美なり、仁羮じんこうと名づく。従者怪みて食わず、これを携えて帰る。その女子これを食いまた不死であったが、天正十年までいていずれへか往いってしまったと語った。この話は若狭・越中その他の地方において、八百比丘尼の長生の理由として、語り伝うるものと全然同じで、仁羮はすなわち人魚の肉であった。日本の仙人が支那のように技術の力でなく、とうてい習得しがたい身の運のようなものを具えていたことを、説明しようとする昔話に過ぎぬのだが、これをさえ受売うけうりするからには仙翁でもなかったのである。しかるにもかかわらず、小野太左衛門はその説に感歎して、これを主人の伊達政宗だてまさむねに言上ごんじょうし、後日に清悦せいえつ御目見おめみえの沙汰さたがあった。清悦とはこの自称長寿者ののちの名で、現今行われている『清悦物語せいえつものがたり』の一書は、彼が『義経記』を一読してこれは違っているといい、自ら口授したところの源平合戦記であった。『吾妻鏡あずまかがみ』や『鎌倉実記』と比較して、一致せぬ点が多いというのは当り前以上である。しかし出来事の評判は非常であったと見えて、寛永以後なお久しい間、清悦の名は農民の頭から消えなかった。岩切の青麻権現の岩窟に出現したのは、それからおよそ五十年の後、ちょうど『清悦物語』が世に出てから、十五年目の天和二年であったという。鈴木所兵衛という、信心深い盲人が、彼に教えられて天に祷いのり、目が開いたという奇跡もあった。その時は気高い老人の姿で現れて、われは常陸坊海尊、今の名は清悦である。久しく四方を巡って近ごろ下野の大日窟にいたが、これからはここへきて住もう。この窟には何神を祭ってあるかと尋ねるので、大日・不動・虚空蔵こくうぞうの三尊だと答えると、それは幸いのことだ、自分の念ずるのも日月星、今より三光穴と名づくべしといって、すなわち岩窟に入って鉄鏁てっさをもって上下した。これが人魚を食べた常陸坊のまた新たなる変化であった。ただしこの縁起えんぎはそれから更に八十余年を経て、再びこの社が繁昌はんじょうしたのちのもので、以前の形のままか否かは疑わしい。近年になっては一般に、常陸坊は天狗だと信じられていた。常陸国の阿波あばの大杉大明神だいみょうじんも、この人を祭るという説があり、特別の場合のほかは姿を見ることができなかった。しかも一方には因縁がなお繋つながって、おりおりは昔の常陸坊かも知れぬという老人が、依然として人間にまじって遊んでいた。
話が長過ぎたがやはり附添つけそえておく必要がある。青麻権現の奇跡と同じころに、同じ仙台領の角田かくだから白石しろいしの辺にかけて、村々の旧家に寄寓きぐうしてあるいた白石しろいし翁という異人があった。身のたけ六尺眼光は流電のごとく、またなかなかの学者で神儒しんじゅ二道の要義に通じていた。この翁の特徴は紙さえ見れば字をかくことと、それからまた源平の合戦を談ずることとであった。年齢は言わぬが誰を見てもセガレと呼び、角田の長泉寺の天鑑てんがん和尚などは百七つまで長命したのに、やはりセガレをもって交まじわっていた。或る時象棋しょうぎをさしていて、ふと曲淵まがりふち正左衛門の事を言いだしたが、この人は二百年前にいた人であった。身元が知れぬのでいろいろの風説が生じ、或いは甲州の山県昌景かといい、信玄の次男の瞽聖こせい堂の子かともいい、或いはまた清悦であろうともいった。元禄六年の二月十八日に、白石在の某家でたしかに病没したのだが、それから十何年ののち、或る商人が京都に旅行して、途中で白石翁を見たという話も伝わっていたから、かりに海尊であったとしても理窟だけは合うのである(以上『東藩野乗とうはんやじょう』下巻および『封内風土記』四)。
さてこれらの話を集めてみて、結局目に立つのは、常に源平の合戦を知っていることが長命の証拠になったという点である。東北地方の旧家のことに熊野神社と関係あるものは、最も弁慶や鈴木・亀井の武勇談を愛好し、なるたけ多く聴きたいという希望が、ついに『義経記』のごとき地方の文学を成長せしめたのだ。これに新材料を供与する人ならば、異常の尊敬を受けたのは当然である。それも作り事と名乗っては、人が承知せぬのが普通であった。すなわち座頭の坊の物語が夙はやくから、当時実際に参与した勇士どもの霊の、託言または啓示なることを要した所以ゆえんである。常陸坊は高館落城の当時から、行方不明と伝えられていた故に、後日生霊いきりょうとなって人に憑つくにさしつかえはなく、また比較的重要でない法師であって、観みていた様子を語るには都合がよかった。だから、一時的には吾われは海尊と名乗って、実歴風に処々の合戦や旅行を説くことは、いずれの盲法師めくらほうしも昔は通例であったかと思うが。それがあまりに巧妙で傍かたわらの者が本人と思ったか、はたまた本人までが常陸坊になりきって、いわゆる見てきたような嘘うそをついたかは、今日となってはもう断定ができぬ。それから第二の点は支那の寒山拾得かんざんじっとくの話のごとく、残夢は無々と語り福仙と相指あいゆびざし、残月は小松原宗雪と同宿し、清悦は小野某を伴ない、また白石翁が天鑑和尚を倅せがれと呼んだこと、これも多分は古くからの方式であったろうと思う。陸中江刺えさし郡黒石くろいしの正法寺しょうぼうじで、石地蔵が和尚に告げ口をしたために常陸かいどうの身の上が露あらわれた。帰りにその前を通ると地蔵がきな臭いような顔をしたので、さてはこやつが喋しゃべったかと、鼻をねじたといって鼻曲はなまがり地蔵がある。これは紛れもなく海神わたつみの宮の口女くちめであり、また猿の肝きもの昔話の竜宮りゅうぐうの海月くらげであって、こういう者が出てこないと、やはり話にはなりにくかったのである。だから眼前のただ一つの例を執とって、不思議を説明しようとするのは誤った方法である。近くは天明の初年に、上州伊香保いかほの木樵きこり、海尊に伝授を受けたと称して、下駄灸げたきゅうという療治を行ったことが、『翁草おきなぐさ』の巻百三十五にも見えている。彼も福仙と同じく義経の旗持ちであったのが、この山に入って自分もまた地仙となったという。下駄だの灸だのという近代生活にまで、なお昔の奥浄瑠璃おくじょうるりの年久しい影響が、痕あとを留とどめているのはなつかしいと思う。 
一二 大和尚に化けて廻国せし狸のこと

 

話が山から出てきたついでに、おかしな先例を今少し列挙して見たい。関東各府県の村の旧家には、狐や狸の書いた書画というものがおりおり伝わり、これに伴うて必ず不思議な話が残っている。たいていは旅の僧侶そうりょに化けて、その土地にしばらく止とどまっていたというのである。どうしてその僧の狸であることを知ったかといえば、後日少しくかけ離れた里で、狗いぬに噛殺かみころされたという話だからというものと、その僧が滞在をしている間、食事と入浴に人のいるのをひどく厭いやがる。そっと覗のぞいてみたら食物を膳ぜんの上にあけて、口をつけて食べていたからというのがあり、また湯殿ゆどのの湯気ゆげの中から、だらりと長い尻尾しっぽが見えたからというのもある。書や画は多くは乱暴な、しかも活溌かっぱつな走り書きであった。
この化の皮の露れた原因として、狗に殺されたはいかにも実際らしくない。もし噛まれて死んでいたものの正体が狸であれば、果してあの和尚か否かがわからず、和尚の姿で死んでおれば、狸とはなおさらいわれない。要するに山芋やまいもと鰻うなぎ、雀すずめと蛤はまぐりとの関係も同じで、立会たちあいのうえで甲から乙へ変化するところを見届けぬかぎりは、真の調書は作成しえなかった道理である。おそらくはじつは和尚の挙動、或いはその内々の白状が、この説の基礎をなしたものであったろうと思う。
いわゆる狸和尚の話は、鈴木重光君の『相州内郷うちごう村話』の数ページが、最も新しくかつ注意深い報告である。同君の居村附近、すなわち小仏峠こぼとけとうげを中心とした武相甲の多くの村には、天明年間に貉むじなが鎌倉建長寺の御使僧ごしそうに化けたという話とともに、描いて残した書画が多く分布している。鈴木君が自身で見たものは、東京府南多摩みなみたま郡加住かすみ村大字宮下にある白沢はくたくの図、神奈川県津久井つくい郡千木良ちぎら村に伝わる布袋ほてい川渡りの図であったが、後者は布袋らしく福々しいところは少しもなく、なんとなく貉むじなに似た顔にできていた。書は千木良の隣の小原町の本陣、清水氏にも一枚あった。形は字らしいが何という字か判わからなかった。それよりも更に奇怪きっかいなことは、この僧が狗に噛み殺されて、貉の正体を顕あらわしたと伝うる場処が、或いは書画の数よりも多いかと思うくらい方々の村にあることである。また建長寺の方でもこの事件は否定せぬそうだ。ただし貉が勧化かんげの使僧を咬かみ殺して、代ってこれに化けたというかちかち山式風説は認めず、中途で遷化せんげした和尚の姿を借りて、山門再建の遺志を果したという他の一説の方を執とっており、現に寺にもその貉の書いたものが、二枚も蔵しまってあるというのは、すこぶる次に述べる文福茶釜ぶんぶくちゃがまの話と似ている。
右と同様の話はなおたくさんあるが、今記憶する二つ三つを挙げて見ると、『静岡県安倍あべ郡誌』には、この郡大里村大字下島の長田氏には、これも建長寺の和尚に化けて、京に上ると称して堂々と行列を立て、乗り込んできたという貉の話あり、その書が今に残っている。横物の一軸いちじくに「悝」というような変な字が一字書いてある。ムジナすなわち狸だという幽かすかな暗示とも解せられる。隣区西脇の庄屋萩原氏にも宿泊し、かの家にも一枚あったがそれは紛失した。そうしてやはりのちに安倍川の川原で、犬に喰殺されたと伝えられる。信州下伊那しもいな郡泰阜やすおか村の温田ぬくたというところにも、狸のえがくという絵像のあることが、『伝説の下伊那』という書に報ぜられてある。人の顔に獣の体を取りつけたような不思議な画姿えすがたであったという。ただしこれは和尚ではなくて、由よしある京都の公家くげという触込ふれこみで、遠州路から山坂を越えて、この村に遣ってきて泊った。出入ともに駕籠かごの戸を開かず、家の者も見ることをえなかったが、翌朝出発の時に礼だと称して、こんな物を置いて去ったという。この狸はそれから柿野という部落に入って同じことをくりかえし、だんだんと天竜筋てんりゅうすじを上って行くうちに、上穂うわぼの光善寺の飼犬に正体を見現わされ、咬み殺されてしまったというが、その光善寺の犬は例のヘイボウ太郎で、遠州見附みつけの人身御供ひとみごくう問題を解決した物語の主人公だから、どこまでが昔話か結局は不明に帰するのである。
『蕉斎筆記しょうさいひっき』にはまた次のような話が出ている。三州亀浜かめはまの鳴田又兵衛という富人の家へ、安永の初年ころに、京の大徳寺の和尚だというのがただ一人でふらりと遊びにきて、物の三十日ほども滞在し、頼まれて額がくだの一行物だのを、いくらともなく書いて還かえった。あとから挨拶あいさつの状を京に上のぼせると、大徳寺の方では和尚一向にそんな覚えがないとある。ただしもとこの寺に一匹の狸がいて、夜分縁先えんさきにきて法談を聴聞ちょうもんしていたが、のちに和尚の机の上から石印を盗んでいずれへか往ってしまった。其奴そやつではなかろうかといっていると、果して後日の噂には江州大津の宿で、駕籠を乗替えようとして犬に喰殺された狸だか和尚だかが、その石印を所持していたそうである。三州の方には屏風びょうぶが一つ残っていた。見事な筆蹟であったという。しかしこれだけの材料を綜合して、狸が書家であったと断定することは容易でない。やはり最初から、旅僧の中には稀まれには狸ありという風説が、下染したぞめをなしている必要はあったのである。狐の書という話も例は多いが、『塩尻しおじり』(帝国書院本)の巻六十八および七十五にも、これと半分ほど似た記事がある。美濃安八あはち郡春近はるちかの井上氏に、伝えた書というのがそれであって、その模写を見ると鳥啼花落ちょうていからくと立派に書いて、下に梅菴ばいあんと署名してある、本名は板益亥正、年久しく井上家の後園に住む老狐であって、しばしば人間の形をもって来訪した。筆法以外医道の心得こころえもあり、また能よく禅を談じたが、一旦中絶して行方が知れず、どうした事かと思っていると、或る時村の者が京に上る途みちで、これも大津の町で偶然にこの梅菴に行逢ゆきあうた。もう年を取って死ぬ日が近くなった。日ごろ親しくした井上氏と、再会の期もないのは悲しいと落涙し一筆認したためてこれを托し、なお井上が子供にもよく孝行をして学問を怠らぬようにと、伝言を頼んで別れたそうである。梅菴は野狐にして僧、長斎一食なりとあって、何だか支那の小説にでもありそうな話だが、現に鳥啼花落が遺のこっているのだからしかたがない。しかし『宮川舎漫筆みやがわのやまんぴつ』巻三には、早同じ話に若干の相違を伝え、公表せられた狐の書というものにも、野干坊元正やかんぼうげんせいと麗々れいれいと署名がしてあった。
実際この類の狐になると、果して人に化けたのやら、もしくは人の形になりきっているのやら、その境目さかいめがもうはっきりしてはいなかった。それ故にかえって本人の方から、たとえ露骨には名乗らぬまでも、やや自分の狐であることを、暗示する必要があったと見える。空菴くうあんという狐が自ら狐の一字を書したことは『一話一言いちわいちげん』にあり、また駿州安倍郡の貉は狸という字に紛わしい書を遺した。しかも他の一方においては、人が狐に化けたという話も近世は存外に多かった。物馴ものなれた旅人が狐の尻尾を腰さげにして、わざとちらちらと合羽かっぱの下から見せ、駕籠屋かごや・馬方うまかた・宿屋の亭主に、尊敬心を起こさせたという噂は興味をもって迎えられ、甚だしきはあべこべに、狐を騙だましたという昔話さえできている。だから私は村々の狸和尚が、いずれも狸の贋物にせものであったとはもちろん言わぬが、少なくともいかにしてこれを発見したかは、考えてみる必要があると思うのである。
狐狸の大多数が諸国を旅行する際に、武士にも商人にもあまり化けたがらず、たいてい和尚や御使僧になってきたのも曰いわくがあろう。上州茂林寺もりんじの文福茶釜を始めとしてかつて異僧が住してそれがじつは狸であり、いろいろと寺のために働いて、のちにいなくなったというのみならず、何か末世の手証てあかしとなるものを、遺して往ったという例はたくさんにある。禅宗の和尚たちはこれを怪奇として斥しりぞけず、むしろ意味ありげに語り伝えるのが普通であった。会津の或る寺でも守鶴西堂しゅかくせいどうの天目てんもくを什宝じゅうほうとし、稀有けうの長寿を説くこと常陸坊海尊同様であったが、その守鶴もやはり何かのついでに微々として笑って、すこぶる自己のじつは狸なることを、否定しなかったらしい形がある。東京の近くでは府中の安養寺あんようじに、かつて三世の住職に随逐ずいちくした筑紫三位という狸があって、それが書いたという寺起立の由来記を存し、横浜在の関村の東樹院とうじゅいんには、狸が描くと称する渡唐天神の像もあった(『新篇風土記稿』二十四および二十八)。建長寺ばかりではないのである。
それからまた有用無害の狐狸がいたという話は、今では多く寺々の管轄の下に帰し、かつは仏徳の如是畜生にょぜちくしょうに及んだことを証しているようだが、最初はその全部が僧たちの親切に基づいた因縁話でもなかったらしい。今日の思想から判はんずれば、狐はこれ人民の敵で、人は汲々乎きゅうきゅうことしてその害を避くるに専もっぱらであるけれども、祭った時代にはいろいろの好意を示し、また必ずしも仏法の軌範の内に跼蹐きょくせきしていなかった。例えば越後の或る山村では、正月十五日の宵よいに山から大きな声を出して、年の吉凶を予言し、または住民の行為を批判した。『東備郡村誌』によれば、岡山市外の円城村に老狸あり、人に化けて民間に往来し、能よく人の言語を学んでしばしば附近の古城の話をした。その物語を聴きかんと欲する者、食を与えてこれを請こう時んば、一室を鎖とざしてその内に入り、諄々じゅんじゅんとして人のごとくに談じた。しこうして人を害することなし、尤もっとも怪獣なりとある。三河みかわの長篠ながしののおとら狐に至っては、近世その暴虐ことに甚だしく住民はことごとく切歯扼腕せっしやくわんしているのだが、人に憑つくときは必ず鳶巣城とびのすじょうの故事を談じ、なお進んでは山本勘助の智謀、川中島の合戦のごとき、今日の歴史家が或いは小幡勘兵衛の駄法螺だぼらだろうと考えている物語までを、事も細かに叙述するを常とした。単に人を悩ます者がおとらであり、おとらは歳とし久しき狐なることを証明するためならば、それほど力を入れずともよいのであった。おそらくはこれも昔はその話を聴くために、狐を招いてきてもらった名残であって、同時にまた諸国の狸和尚、ないしは常陸坊・八百比丘尼の徒が、或いは自分もまた多くの聴衆と同じく、憑いた生霊、憑いた神と同化してしまって、荘子そうじの夢の吾われか蝴蝶こちょうかを、差別しえない境遇にあった結果ではないかを考えしめる。
近ごろでも新聞に毎々出てくるごとく、医者の少しく首を捻ひねるような病人は、家族や親類がすぐに狐憑きにしてしまう風が、地方によってはまだ盛んであるが、なんぼ愚夫愚婦でも理由もなしに、そんな重大なる断定をするはずがない。たいていの場合には今までも似たような先例があるから、もしか例のではないかと、以心伝心に内々一同が警戒していると、果せるかな今日は昨日よりも、一層病人の挙動が疑わしくなり、まず食物の好みの小豆飯あずきめし・油揚あぶらあげから、次には手つき眼つきや横着なそぶりとなり、此方でも「こんちきしょう」などというまでに激昂げっこうするころは、本人もまた堂々と何山の稲荷いなりだと、名を名乗るほどに進んでくるので、要するに双方の相持あいもちで、もしこれを精神病の一つとするならば、患者は決して病人一人ではないのだ。狸の旅僧のごときも多勢で寄ってたかって、化けたと自ら信ぜずにはおられぬように逆にただの坊主を誘導したものかも知れぬ。
佐渡では新羅しらぎ王書と署名した奇異なる草体の書が、多くの家に蔵せられ、私もそのいくつかをみた。古い物ではあるが、もちろん新羅という国が滅びてのち、すでに四五百年以上もしてからの作に相異ない。天文年間に漂着したともいい、或いはもっと後のことともいっている。とにかくかつて他処からきた実在の異人であった。のちには土地の語を話し、土地の人になってしまった。書ばかり書いている変な人だったというが、現にその子孫という家もあって、とにかくに詐欺師さぎしではなかった。自分でも新羅王だと思っており、それをまた周囲の人が少しも疑わなかったために、このようなありうべからざる歴史が成り立ったものである。
神隠しの少年の後日譚、彼らの宗教的行動が、近世の神道説に若干の影響を与えたのは怪しむに足らぬ。上古以来の民間の信仰においては、神隠しはまた一つの肝要なる霊界との交通方法であって、我々の無窮に対する考えかたは、終始この手続を通して進化してきたものであった。書物からの学問がようやく盛んなるにつれて、この方面は不当に馬鹿にせられた。そうして何が故に今なお我々の村の生活に、こんな風習が遺っていたのかを、説明することすらもできなくなろうとしている。それが自分のこの書物を書いて見たくなった理由である。 
一三 神隠しに奇異なる約束ありしこと

 

神隠しからのちに戻ってきたという者の話は、さらに悲しむべき他の半分の、不可測なる運命と終末とを考える材料として、なお忍耐して多くこれを蒐集しゅうしゅうする必要がある。社会心理学という学問は、日本ではまだ翻訳ばかりで、国民のための研究者はいつになったら出てくるものか、今はまだすこしの心当こころあてもない。それを待つ間の退屈を紛らすために、かねて集めてあった二三の実例を栞しおりとして、自分はほんの少しばかり、なお奥の方へ入りこんで見ようと思う。最初に注意せずにおられぬことは、我々の平凡生活にとって神隠しほど異常なるかつ予期しにくい出来事は他にないにもかかわらず、単に存外に頻繁ひんぱんでありまたどれここれもよく似ているのみでなく、別になお人が設けたのでない法則のごときものが、一貫して存するらしいことである。例えば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物はきものが正しく揃そろえてあって、一見して普通の狼藉ろうぜき、または自身で身を投げたりした者と、判別することができるといっている。そんなことは信じえないと評してもよいが、問題は何故に人がそのようなことを言い始めるに至ったかにある。
或いはまた二日とか三日とか、一定の期間捜さがしてみて見えぬ場合に、始めてこれを神隠しと推断し、それからはまた特別の方法を講ずる地方もある。七日を過ぎてなお発見しえぬ場合にもはや還らぬ者としてその方法を中止する風もある。或いはまた山の頂上に登って高声に児の名を呼び、これに答うる者あるときは、その児いずれかに生存すと信じて、辛かろうじて自ら慰める者がある。八王子の近くにも呼ばわり山という山があって、時々迷子まいごの親などが登って呼び叫ぶ声を聴くという話もあった。町内の附合つきあいまたは組合の義理と称して、各戸総出そうでをもって行列を作り、一定の路筋みちすじを廻歴した慣習のごときも、これを個々の事変に際する協力といわんよりは、すこぶる葬礼祭礼などの方式に近く、しかも捜査の目的に向かっては、必ずしも適切なる手段とも思われなかった。この仕来しきたりには恐らくは忘却せられた今一つ根本の意味があったのである。それを考え出さぬ限りは、神隠しの特に日本に多かった理由も解わからぬのである。
全体にこの実例はおいおいと少なくなって、今では話ばかりがなお鮮明に残っている。神隠しという語を用いぬ地方もすでにあるが、狐に騙だまされて連れて行かれるといいまたは天狗にさらわれるといっても、これを捜索する方法はほぼ同じであった。単に迷子と名づけた場合でも、やはり鉦かね太鼓たいこの叩たたき方は、コンコンチキチコンチキチの囃子はやしで、芝居で「釣狐つりぎつね」などというものの外には出でなかった。しかもそれ以外になお叩く物があって、各府県の風習は互いによく似ていたのである。例をもって説明するならば、北大和やまとの低地部では狐にだまされて姿を隠した者を捜索するには、多人数で鉦と太鼓を叩きながら、太郎かやせ子かやせ、または次郎太郎かやせと合唱した。この太郎次郎は子供の実名とは関係なく、いつもこういって喚よんだものらしい。そうして一行中の最近親の者、例えば父とか兄とかは、一番後に下さがってついて行き、一升桝いっしょうますを手に持って、その底を叩きながらあるくことに定きまっており、そうすると子供は必ずまずその者の目につくといっていた(『なら』一八号)。紀州田辺地方でも、鉦太鼓を叩くとともに、櫛くしの歯をもって桝の尻を掻かいて、変な音を立てる風があった(雑賀君報)。播磨はりまの印南いんなん郡では迷子を捜すのに、村中松明たいまつをともし金盥かなだらいなどを叩き、オラバオオラバオと呼ばわってあるくが、別に一人だけわざと一町ばかり引き下って桝を持って木片などで叩いて行く。そうすると狐は隠している子供を、桝を持つ男のそばへ[#「そばへ」は底本では「そぱへ」]ほうり出すといっていた。同国東部の美嚢みの郡などでは、迷子は狐でなく狗賓ぐひんさんに隠されたというが、やはり捜しにあるく者の中一人が、その子供の常に使っていた茶碗ちゃわんを手に持って、それを木片をもって叩いてあるいた。越中魚津でも三十年余の前までは、迷子を探すのに太鼓と一升桝とを叩いてあるいた。桝の底を叩くと天狗さんの耳が破れそうになるので、捕えている子供を樹の上から、放して下すものだと信じていたそうである(以上『土の鈴』九および十六)。
右のごとき類例を見て行くと、誰でも考えずにおられぬことは、今も多くの農家で茶碗を叩き、また飯櫃めしびつや桝の類を叩くことを忌む風習が、ずいぶん広い区域にわたって行われていることである。何故にこれを忌むかという説明は一様でない。叩くと貧乏する、貧乏神がくるというもののほかに、この音を聴いて狐がくる、オサキ狐が集まってくるという地方も関東には多い。多分はずっと大昔から、食器を叩くことは食物を与えんとする信号であって、転じてはこの類の小さな神を招き降おろす方式となっていたものであろう。従って一方ではやたらにその真似まねをすることを戒め、他の一方ではまたこの方法をもって児を隠す神を喚よんだものと思う。俵藤太たわらとうだが持ってきた竜宮の宝物に、取れども尽きぬ米の俵があって、のちに子孫の者がその俵の尻を叩くと白い小蛇こへびが飛びだして米が尽きたと称するのも、もし別系統でなければ同じ慣習の変化だとみてよろしい。いずれにしても迷子の鉦太鼓が、その子に聴かせる目的でなかったことだけは、かやせ戻せという唱となえ言ごとからでも、推定することが難くないのである。
加賀の能美のみ郡なども、天狗の人を隠した話の多かったことは、近年刊行した『能美郡誌のみぐんし』を見るとよくわかる。同じ郡の遊泉寺村では、今から二十年ほど前に伊右衛門という老人が神隠しに遭あった。村中が手分けをして探しまわった結果、隣部落と地境じざかいの小山の中腹、土地で神様松という傘かさの形をした松の樹の下に、青い顔をして坐すわっているのを見つけたという。しかるに村の人たちがこの老人を探しあるいた時には、鯖さば食った伊右衛門やいと、口々に唱えたという話だが、これはいつでもそういう習わしで、神様ことに天狗は最も鯖が嫌いだから、こういえば必ず隠した者を出すものと信じていたのである(立山徳治君談)。琉球で物迷ものまよいと名づけて物に隠された人を探すのにも、部落中の青年は手分けをして、森や洞窟などの中を棒を持ち銅鑼どらを叩き、どこそこの誰々やい、赤豆飯あかまめまいを食えよと大きな声で呼びまわるという。よく似た話だがこれも神霊がこれを悪にくむのか否かは分らぬ。内地の小豆飯はむしろこの類の神の好むところと考えられている。鯖という魚の信仰上の地位は、詳つまびらかに調べてみる必要があるのだが、今までは誰も手をつけていなかった。
不思議な事情からいなくなってしまう者は、決して少年小児ばかりではなかった。数が少なかったろうが成長した男女もまた隠され、そうして戻ってくる者も甚だわずかであった。ただし壮年の男などはよくよくの場合でないと、人はこれを駆落ちまたは出奔しゅっぽんと認めて、神隠しとはいわなかった。神隠しの特徴としては永遠にいなくなる以前、必ず一度だけは親族か知音の者にちらりとその姿を見せるのが法則であるように、ほとんといずれの地方でも信じられている。盆とか祭の宵とかの人込みの中で、ふと行きちがって言葉などを掛けて別れ、おや今の男はこのごろいないといって家で騒いでいたはずだがと心づき、すぐに取って返して跡を追うて見たが、もうどこへ行っても影も見えなかった、という類の例ならば方々に伝えられている。これらは察するところ、樹下にきちんと脱ぎそろえた履物などと一様に、いかに若い者が気紛きまぐれな家出をする世の中になっても、なおその中には正しく神に召された者がありうることを我々の親たちが信じていようとした、努力の痕跡こんせきとも解しえられぬことはない。
『西播怪談実記せいばんかいだんじっき』という本に、揖保いぼ郡新宮しんぐう村の民七兵衛、山に薪まき採りに行きて還らず、親兄弟歎き悲みしが、二年を経たる或る夜、村のうしろの山にきて七兵衛が戻ったぞと大声に呼ばわる。人々悦よろこび近所一同山へ走り行くに、麓ふもとに行きつくころまではその声がしたが、登ってみると早はや何処どこにもいなかった。天狗の下男にでもなったものかと、村の内では話し合っていたが、その後この村から出て久しく江戸にいた者が東海道を帰ってくる途みちで、興津の宿とかで七兵衛に出逢った。これも互いに言葉を掛けて別れたが家に帰って聞くとこの話であった。それからはついに風のたよりもなかったということである。すなわちたった一度でも村の山へきて呼ばわらぬと、人はやはり駆落ちと解する習いであった故に、自然にこのような特徴が出てきたのである。
『九桂草堂随筆きゅうけいそうどうずいひつ』巻八には、また次のような話がある。広瀬旭荘ひろせきょくそう先生の実験である。「我郷わがさと(豊後日田ひた郡)に伏木という山村あり。民家の子五六歳にて、夜啼なきて止やまず。戸外に追出す。其傍そのかたわらに山あり。声稍※(二の字点、1-2-22)やや遠く山に登るやうに聞えければ驚きて尋ねしに終ついに行方知れず。後のち十余年にして、我同郷の人小一と云ふ者、日向の梓越あずさごえと云ふ峯を過ぐるに、麓ふもとより怪しき長たけ七八尺ばかり、満身に毛生じたる物上のぼり来る。大いに怖れ走らんとすれども、体痺しびれて動かず。其物近づきて人語を為し、汝なんじいづくの者なりやと問ふ。答へて日田といふ。其物、然らば我郷なり。汝伏木の児こ失せたることを聞きたりやと謂いふ。其事は聞けりと答ふ。其物、我即ち其児なり。其時我今仕つかふる所の者より収められて使役し、今は我も数山の事を領せりと謂ひて、懐ふところより橡実とちのみにて製したる餅様もちようの物を出し、我父母存命ならば、是これを届けてたまはれと謂ふ。何いずれの地に行きたまふかと問ふに、此これより椎葉山しいばやまに向ふなりと言ひて別れ、それより路みち無き断崖に登るを見るに、その捷はやきこと鳥の如しといふ。話は余よ少年の時小一より聞けり。是れ即ち野人なるべし。」 
一四 ことに若き女のしばしば隠されしこと

 

女の神隠しにはことに不思議が多かった。これは岩手県の盛岡でかつて按摩あんまから聴いた話であるが今からもう三十年も前の出来事であった。この市に住んで醤油の行商をしていた男、留守の家には女房が一人で、或る日の火ともしごろに表おもての戸をあけてこの女が外に出て立っている。ああ悪い時刻に出ているなと、近所の人たちは思ったそうだが、果してその晩からいなくなった。亭主は気ちがいのようになって商売も打棄うちすてて置いてそちこちと捜しまわった。もしやと思って岩手山の中腹の網張あみはり温泉に出かけてその辺を尋ねていると、とうとう一度だけ姿を見せたそうである。やはり時刻はもう暮近くに、なにげなしに外を見たところが、宿からわずか隔たった山の根笹ねざさの中に、腰より上を出して立っていた。すぐに飛びだして近づき捕えようとしたが、見えていながらだんだんに遠くなり、笹原づたいに峯の方へ影を没してしまったという。
またこれも同じ山の麓の雫石しずくいしという村にはこんな話もあった。相応な農家で娘を嫁に遣やる日、飾り馬の上に花嫁を乗せて置いて、ほんのすこしの時間手間取てまどっていたら、もう馬ばかりで娘はいなかった。方々探しぬいていかにしても見当らぬとなってからまた数箇月ものちの冬の晩に、近くの在所の辻つじの商あきない屋やに、五六人の者が寄合って夜話よばなしをしている最中、からりとくぐり戸を開けて酒を買いにきた女が、よく見るとあの娘であった。村の人たちは甚だしく動顛どうてんしたときは、まず口を切る勇気を失うもので、ぐずぐずとしているうちに酒を量らせて勘定をすまし、さっさと出て行ってしまった。それというので寸刻も間を置かず、すぐに跡から飛びだして左右をみたが、もうどこにも姿は見えなかった。多分は軒の上に誰かがいて、女が外へ出るや否や、ただちに空の方へ引張り上げたものだろうと、解釈せられていたということである。
単なる偶然からこの地方の話を、自分はまだいくつとなく聴いて記憶している。それが特に他の府県に比べて、例が多いということを意味せぬのはもちろんである。同県上閉伊郡の鱒沢ますざわという村で、これも近世の事らしいからもっと詳しく知っている人があろうが、或る農家の娘物に隠されて永く求むれども見えず、今は死んだ者とあきらめていると、ふと或る日田の掛稲かけいねの陰に、この女のきて立っているのをみた人があった。その時はしかしもうよほど気が荒くなっていて、普通の少女のようではなかった。そうしてまたたちまち走り去って、ついに再び還ってこなかったといっている。『遠野物語』の中にも書いてある話は、同郡松崎村の寒戸さむとというところの民家で、若い娘が梨なしの樹の下に草履を脱いで置いたまま、行方知れずになったことがあった。三十何年を過ぎて或る時親類知音の者が其処に集まっているところへ、きわめて老いさらぼうてその女が戻ってきた。どうして帰ってきたのかと尋ねると、あまりみんなに逢いたかったから一寸ちょっときた。それではまた行くといって、たちまちいずれへか走り去ってしまった。その日はひどい風の吹く日であったということで、遠野一郷の人々は、今でも風の騒がしい秋の日になると、きょうは寒戸の婆ばばの還ってきそうな日だといったとある。
これと全然似た言い伝えは、また三戸さんのへ郡の櫛引くしびき村にもあった。以前は大風の吹く日には、きょうは伝三郎どうの娘がくるべと、人がことわざのようにしていっていたそうだから、たとえば史実であってももう年数が経過し、昔話の部類に入ろうとしているのである。風吹かぜふきということが一つの様式を備えているうえに、家に一族の集まっていたというのは、祭か法事の場合であったろうが、それへ来合きあわせたとあるからには、すでに幾分の霊の力を認めていたのである。釜石地方の名家板沢氏などでは、これに近い旧伝があって毎年日を定め、昔行き隠れた女性が、何ぴとの眼にも触れることなしに、還ってくるように信じていた。盥たらいに水を入れて表おもての口に出し、新しい草履を揃えて置くと、いつのまにかその草履も板縁いたべりも、濡れているなどと噂せられた。この家のは娘でなくて、近く迎えた嫁女であった。精密な記憶が家に伝わっており、いつのころよりか不滅院量外保寿大姉という戒名かいみょうをつけて祀まつっていた。家門を中心とした前代の信仰生活を、細かに比較研究したうえでなければ断定も下されぬが、恐らくはこれが神隠しに対する、一つ昔の我々の態度であって、かりにただ一人の愛娘まなむすめなどを失うた淋しさは忍びがたくとも、同時にこれによって家の貴とうとさ、血の清さを証明しえたのみならず、さらにまた眷属けんぞく郷党きょうとうの信仰を、統一することができたものではないかと思う。
伊豆では今の田方たがた郡田中村大字宗光寺の百姓惣兵衛そうべえが娘はつ十七歳、今から二百十余年前の宝永ごろに、突然家出をして行方不明であった。はつの母親が没して三十三回忌の日、還ってきて家の前に立っていた。近所の者が見つけて声をかけると、答えもせずして走りだしまたいずれかへ往ってしまった。その後も天城山に薪まきを樵きこり、又は宮木を曳ひきなどに入った者がおりおりこの女を見かけることがあった。いつも十七八の顔形で、身には木の葉などを綴つづり合わせた珍しい衣服を纏まとうていた。言葉をかけると答えもなく、ただちに遁にげ去るを常としたと『槃遊余録はんゆうよろく』の第三編、寛政四年の紀行のうちに見えている。甲州では逸見へんみ筋浅尾村の孫左衛門を始めとし、金御岳かねのみたけに入って仙人となったという者少なからず、東河内領の三沢村にも、薬を常磐山に採って還かえらなかった医者がある。今も時としてその姿を幽谷の間に見る者があって、土人は一様にこれを山男と名づけているが、その出身の村なり家なりでは、永ながくその前後の事情を語り伝えて、むしろ因縁の空むなしからざることを感じていたようでもあった。  
一五 生きているかと思う場合多かりしこと

 

少なくとも血を分けた親兄弟の情としては、これが本人ただ一人の心の迷まよいから出たものと解してしまうことが昔はできなかった。一人ではとうてい深い山の奥などへ、入って行くはずのない童子や女房たちが、現に入って行き、また多くは戻って来ぬのだから、誰か誘うた者があったことを、想像するに至ったのも自然である。実際また山の生活に関する記録の不完全、多くの平野人の法外な無識を反省してみても、かつてそういう奪略者が絶対になかったとは断言することをえない。問題はただかくのごとき想像の中で、果してどこまでは一応根拠のある推測であり、またどの点からさきが単に畏怖いふに基づいたる迷信、ないしは誤解であったろうかということである。
しかも自分たちの見るところをもってすれば、右の問題の分堺線ぶんかいせんとても、時代の移るにつれて始終一定していたわけでもないようである。例えば天狗さまがさらって行くということは、ことに児童少年については近世に入ってから、甚だ頻繁ひんぱんに風説せられるようになったけれども、中世以前には東大寺の良弁ろうべん僧正のように、鷲わしに取られたという話の方が遙かに多く、その中にもまた稀まれには命を助かって慈悲の手に育てられ、ついには親の家へ戻ってきた者さえあるように、『今昔物語』などには語り伝えている。それから引続いてまた世上一般に、鬼が人間の子女を盗んで行くものと、思っていた時代もあったのである。
鎌倉期の初頭あたりを一つの堺さかいとして、その鬼がまた天狗にその地位を委譲したのは、東国武士の実力増加、都鄙とひ盛衰の事情を考え合わせても、そこでなんらかの時勢の変化を暗示するものがあるように思う。その天狗の属性とてもゆくゆく著しく変遷して、もとより今をもって古いにしえを推すことはできぬが、鬼の方にもやはり地方的に、または時代に相応した特色ともいうべきものがあったらしいのである。例えば在原業平ありわらのなりひらの悠遊ゆうゆうしていたころには、鬼おに一口ひとくちに喰くいてんけりといったが、大江山の酒顛童子しゅてんどうじに至っては、都に出でて多くの美女を捕え来り酌しゃくをさせて酒を飲むような習癖があったもののごとく、想像せしめた場合もないではなかった。天狗ばかりは僧形であっただけに、感心に女には手を掛けないようだと話がきまると人は別にまた山賊さんぞくの頭領という類の兇漢きょうかんを描き出して、とにかくにこの頻々ひんぴんたる人間失踪しっそうの不思議を、説明せずにはおられないようであった。しかも実際は小説・御伽草子おとぎぞうし・絵巻物えまきもの以上に的確に真相を突留つきとめることは、求めたからとてできることではなかった。
別離を悲しむ人々の情からいえば、いかなる場合にもまだどこかの谷陰たにかげに、活いきて時節を待っているものと、想像してみずにはいられなかったでもあろうが、単にそのような慾目よくめからでなくとも、現実に久しい歳月を過ぎてのち、ひょっこりと還ってきた先例もあれば、またたしかに出逢であったという人の話を、聞きだした場合も多かったのである。単に深山に女の姿を見たというだけの噂ならば、その他にもまだいろいろと語り伝えられていた。たとえそれがわが里でいなくなった者とは何の関係もなく全然見ず知らずの別の土地の事件であっても、とにかくに人居を遠く離れた寂寞せきばくたる別世界にも、なお何か人間の活きて行く道があるらしいという推測は、どのくらい神隠しの子の親たちの心を、慰めていたかわからぬので、それがまた転じてはこの不思議の永く行われ、気の狂うた者の自然に山に向う原因ともなったのは、是非もない次第であった。
かつては天狗に関する古来の文献を、集めて比較しようとした人がおりおりあったがこれは失望せねばならぬ労作であった。資料を古く弘ひろく求めてみればみるほど輪廓りんかくは次第に茫漠ぼうばくとなるのは、最初から名称以外にたくさんの一致がなかった結果である。例えば天狗とは一体どんなものかと聞いてみるとき、今日誰しも答えるのは鼻のむやみに高いことであるが、これとても狩野古方眼かのうこほうげんが始めて夢想したという説もあって、中古には緋ひの衣ころもに羽団扇はうちわなどを持った鼻高様はなたかさまは想像することができなかったのである。そのうえに何々坊の輩下はいかという天狗だけは、口が嘴くちばしになり鼻は穴だけがその左右についている。同じ一類で一方は人のごとく、他方は翼があって鳥に手足を加えたもののごとくなることは、ほとんとありえざる話であるが、人は単に変形自在をもってこれを説明して、しからば本来の面目めんもく如何いかんという点を、考えずに済ましていたのである。それなら実際の行動の上に、何か古今を一貫した特色でもあるかというと、中世の天狗はふらりときて人に憑つくこと野狐のごとく、或いは左道の家に祭られて人を害するは、近世の犬神オサキのごとくであったが、今は絶えてその類の非難を伝えない。或いは智弁学問ある法師の増上慢ぞうじょうまんが、しばしば生きながら天狗道に身を落さしめたという話もある。平田先生などは特にこの点ばかり、仏者の言を承認しようとしているが、これさえ近世の天狗はもう忘れたもののごとく、むしろしばしば人間の慢心を懲こらし戒めたという実例さえあって、自慢を天狗という昔からの諺ことわざも、もはや根拠のないものになろうとしている。それというのが時代により地方によって、名は同じでも物が知らぬまに変っていたからである。書物はこういう場合にはたいていはむしろ混乱の種であった。学者ばかりがひとりで土地の人々の知らぬことを、考えていた例は多かった。なるほど天狗という名だけは最初仏者などから教わったろうが奇怪きっかいはずっと以前から引続いてあったわけで、学者に言わせるとそんなはずはないという不思議が、どしどしと現れる。日本で物を買うような理窟りくつには行かなかったのである。天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人おおひと・山人ともいって、山男と同一視するところもある。そうして必ずしも兜巾ときん篠懸すずかけの山伏姿やまぶしすがたでなく特に護法と称して名ある山寺などに従属するものでも、その仏教に対する信心は寺侍てらざむらい・寺百姓以上ではなかった。いわんや自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵みじんもなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨みだりに俗衆の近づくを憎み、ことに隠形自在にして恩讎おんしゅうともに常人の意表に出でた故に、畏おそれ崇あがめられていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった。名称のどこまでも借り物であって、我々の精神生活のこれに左右せられた部分の存外に小さかったことは、これからだけでも推論してよいのである。山中にサトリという怪物がいる話はよく方々の田舎で聴くことである。人の腹で思うことをすぐ覚さとって、遁にげようと思っているななどといいあてるので、怖おそろしくてどうにもこうにもならぬ。それが桶屋おけやとか杉の皮を剥さく者とかと対談している際に、不意に手がすべって杉の皮なり竹の輪の端が強く相手を打つと、人間という者は思わぬことをするから油断がならぬといって、逃げ去ったというのが昔話である。それを四国などでは山爺の話として伝え、木葉の衣を着て出てきたともいえば、中部日本では天狗様が遣やってきて、桶屋の竹に高い鼻を弾はじかれたなどと語っている。その土地次第でこういっても通用したのである。オニなども今では角つのあって虎とらの皮をたふさぎとし、必ず地獄に住んで亡者もうじゃをさいなむ者のごとく、解するのが普通になったらしいが、その古来の表現は誠に千変万化でまた若干はこれに充あてたる漢語の鬼の字によって、世上の解説を混乱せしめている。しかも諸国の山中に保存せられた彼らの遺跡、ないしは多くの伝説によって考えると、少なくとも或る時代には、近世天狗と名づけた魔物の所業の大部分を、管轄していたこともあるのである。いずれにしても我々の畏怖には現実の基礎があった。単に輸入の名称によって、空に想像し始めたものではなかったのである。
不在者の生死ということは非常に大きな問題であった。どうせいないのは同じだと、言ってすませるわけには行かなかった。生者と死者とでは、これに対する血縁の人々の仕向しむけが、正反対に異ならねばならなかったからである。生きている者の救済も必要ではあるがこれは徐おもむろに時節を待っていることもできる。これに反して死者は魂が自由になって、もう家の近くに戻ってきているかも知れぬ。処理せられぬ亡魂ほど危険なものはなかった。或いは淋しさのあまりに親族故旧を誘うこともあり、または人知れぬ腹立ちのために、あばれまわることもしばしばあった。その予防の手段は仏教以前から、いろいろ綿密に講究せられていたのである。しこうしてその手段は通例甚だ煩わずらわしい。かつ誤まって生者のためにこれを行うときは、その害もまた小さくなかった。故に単なる愛惜の情からでなくとも、一日も早くなんらかの兆候を求めて隠れてもなお生存していることを確めておく必要があったのである。アンデルセンが「月の物語」の初章に、深夜に谷川に降くだって燈ともしびを水に流し、思う男の安否を卜ぼくせんとしたインドの少女が「活いきている」と悦よろこんで叫んだ光景が叙のべてある。普通は生死を軽く考える東洋人が、この際ばかり特に執着の切せつなる情を表わす理由は、全く死に伴うた厳重の方式があったためで、旅の別れの哀れな歌にも、かつはこの心元こころもとなさがまじっていたのである。夢というものの疎おろそかにせられなかった原因もここにある。互いに見よう見えようという約束が、言わず語らずに結ばれていたのである。それが頼みにしにくくなってのち、書置かきおきという風習が次第に行われた。神隠しだけはこういう一切の予定を裏切って、突如として茫漠ぼうばくの中に入ってしまうのだが、しかも前後の事情と代々の経験とによって、一応はやや幸福の方の推測を下すことが、存外にむつかしくなかったらしいのである。  
一六 深山の婚姻のこと

 

昔話の中にもおりおり同じ例を伝えているために、かえって信じうる人が少なかろうかと思うがこれはすでに十七八年も以前に筆記しておいた陸中南部の出来事であってこの小さな研究と深い因縁がある故に、今一度じっと考えて見ようと思うのである。或る村の農家の娘、栗を拾いに山に入ったまま還かえって来ず、親はもう死んだ者とあきらめて、枕まくらを形代かたしろに葬送をすませてしまって、また二三年も過ぎてからの事であった。村の猟人かりうどの某という者が、五葉山ごようざんの中腹の大きな岩の陰において、この女に行逢ゆきあって互いに喫驚びっくりしたという話である。
あの日に山で怖ろしい人にさらわれ、今はこんなところにきて一緒に住んでいる。遁にげて還ろうにも少しも隙すきがない。そういううちにもここへくるかも知れぬ。どんなことをするか分らぬというので碌ろくに話も聞かずに早々に立退たちのいてしまったということである。その男というのは全体どんな人かと猟人が尋ねると、自分の眼には世の常の人間のように見えるが、人はどう思うやらわからぬ。ただ眼の色が恐ろしくて、せいがずんと高い。時々は同じような人が四五人も寄り集まって、何事か話をしてまたいずれへか出て行く。食べ物なども外から持って還るのをみると、町へも買物に行くのかも知れぬ。また子どもはもうなんべんか産んだけれども、似ていないから俺おれの児ではないといって、殺すのか棄すてるのか、みないずれへか持って行ってしまったと、その女が語ったそうである。
山が同じく五葉山であるから、一つの話ではないかとも思うが或いはまた次のように話す者もあった。女は猟人に向かって、お前とこうして話しているところを、もしか見られると大変だから、早く還ってくれといったが、出逢であってみた以上は連れて還らねばすまぬと、強しいて手を取って山を下り、ようやく人里ひとざとに近くなったと思うころに、いきなり後から怖ろしい背の高い男が飛んできて、女を奪い返して山の中へ走り込んだともいっている。維新前後の出来事であったらしく、まだその娘の男親だけは、生存しているといって、家の名まで語ったそうである(佐々木君報)。これだけ込入こみいったかつ筋の通った事件は、一人の猟人の作為に出たと思われぬはもちろん、よもや突然の幻覚ではなかろうと思うが、それを確認させるだけの証拠も、残念ながらもう存在せぬのである。ただ少なくとも陸中五葉山の麓ふもとの村里には、今でもこれを聴いて寸毫すんごうも疑い能あたわざる人々が、住んでいることだけは事実である。そうして彼らがほぼ前の話を忘れようとするころになると、また新たに少し似たような話が、どこからともなく伝わってくることに、これまではほとんときまっていたのである。
右の珍しい実例の中でことに自分たちが大切な点と考えるのは、不思議なる深山の婿の談話の一部分が女房にも意味がわかっていたということと、その奇怪な家庭における男の嫉妬しっとが、極端に強烈なものであって、わが子をさえ信じえなかったほどの不安を与えていたこととである。すなわち彼らはもし真の人間であったとしたらあまりにも我々と遠く、もしまた神か魔物かだったというならば、あまりにも人間に近かったのであるが、しかも山の谷に住んだ日本の農民たちが、これを聴いてありうべからずとすることができなかったとすれば、そは必ずしも漠然ばくぜんたる空夢ではなかったろう。誤ったにもせよなんらかの実験、なんらかの推理のあらかじめ素地そじをなしたものが、必ずあったはずと思う。現代人の物を信ぜざる権利は、決してこれによって根強い全民衆の迷信を、無視しうるまでの力あるものではないのである。
かつて三河の宝飯ほい郡の某村で、狸たぬきが一人の若者に憑ついたことがあった。狐などよりは口軽く、むやみにいろいろのことをしゃべるのが、この獣の特性とせられているが、この時も問わず語りにおれはこの村の誰という女を、山へ連れて往って女房にしているといった。でたらめかとは思ったが、実際ちょうどその女がいなくなって、しきりに捜している際であった故に、根ほり葉ほりして隠しておくという場処を問いただし、もしやというので山の中を捜して見ると果して岩穴の奥とかにその娘がいたということである。還ってきてから本人が、どういう風に顛末てんまつを語ったか。この話をしてくれた人も聞いてはおらず、また強いて詳しくその点を究めるまでもないか知らぬが、風説にもせよ世を避けて山に入って行く若い女を一種の婚姻のごとく解する習わしは弘く行なわれていうので、それが不条理であればあるだけに、底に隠れた最初の原因が、ことに学問として尋ねて見る価値を生ずるのである。猿の婿入むこいりの昔話は、前にすでに大要を叙のべておいたが、これにも欺き終おせて無事に還ってきたという童話式のもののほかに、とうとう娘を取られたという因縁話も伝わっている。竜蛇の婚姻に至っては末遂すえとげて再び還らなかったという例がことに多い。黒髪長くまみ清らかなる者は何ぴともこれを愛好する。齢よわい盛さかりにして忽然こつぜんと身を隠したとすれば、人に非あらずんば何か他の物が、これを求めたと推断するが自然である。特に山男の場合に限って、目もくするに現実の遭遇をもってする理由はないのかも知れぬ。ましてや世界の諸民族に共通なる、いわゆるビートス・エンド・ビウティーの物語の、これが根原の動機をなすかのごとく、説かんとすることは速断に失するであろう。また今日までの資料では、強いてその見解を立てるだけの勇気は、自分たちにもまだないのだが、ただ注意してもよいことは日本という国には、近世に入ってからもこの類の話が特に数多く、またしばしば新たなる実例をもって、古伝を保障しようとしていたことである。普通の場合には俗に「みいられた」とも称し、女が何かの機会に選定を受けたことになっており、伊豆の三宅島みやけじまなどには山に住む馬の神がみいったという話もあって、過度に素朴なる口碑は諸国に多く、そうでなければ不思議な因縁がその女の生まれた時から附纏つきまとい、または新たなる親の約束などがあって、自然にその運命に向わねばならなかったように、語り伝えているに反して、別に我々が聴きえたる近年の例は、全く偶然の不幸から掠奪せられて山に入っている。そうしていかにも人間らしい強い執着をもって、愛せられかつ守られていたというのである。それを単なる昔話の列に押並おしならべて、空想豊かなる好事家こうずかが、勝手な尾鰭おひれを附添つきそえたかのごとく解することは、少なくとも私が集めてみたいくつかの旁証ぼうしょうが、断じてこれを許さないのである。 
一七 鬼の子の里にも産まれしこと

 

母は往々にして不当に疑われた。似ておらぬからわが子でないという単純に失した推断は必ずしも独ひとり五葉山中の山人のみの専売でもなかったのである。至って平和なる里中にも親に似ぬ子は鬼子という俚諺りげんは、今もって行われていて、時々はまたこれを裏書うらがきするような事件が、発生したとさえ伝えられるのである。
「日本はおろかなる風俗ありて、歯の生はえたる子を生みて、鬼の子と謂いひて殺しぬ」と、『徒然慰草つれづれなぐさみぐさ』の巻三には記してある。江戸時代初め頃の人の著述である。なおそれよりも遙かに古く、『東山往来』という書物の消息文の中にも、家の女中が歯の生えた児を生んだ。これ鬼なり山野に埋うずむるにしかずと近隣の者が勧すすめるが、いかがしたものだろうかという相談に答えて、坊主にするのが一番よろしかろうといっている。すなわち以前は相応に頻々ひんぴんと、処々にこのような異様の出来事があったかと思われるのである。
けだし人はとうてい凡庸を愛せずにはおられなかった者であろうか。前代の英雄や偉人の生い立ちに関しては、いかなる奇瑞きずいでも承認しておりながら、事こと一ひとたび各自の家の生活に交渉するときは、寸毫すんごうも異常を容赦することができなかった。近世に入ってからも、稀まれには歯が生えて産れるほどの異相の子を儲もうけると、たいていは動顛どうてんして即座にこれを殺し、これによって酒顛童子しゅてんどうじ・茨木童子いばらきどうじの如き悪業の根を絶った代りには、一方にはまた道場法師や武蔵坊弁慶の如き、絶倫の勇武強力を発揮する機会をも与えなかった。これ恐らくは天下太平の世の一弱点であったろう。
しかも胎内変化の生理学には、今日なお説き明かしえない神秘の法則でもあるのか。このような奇怪な現象にも、やはり時代と地方とによって、一種の流行のごときものがあった。詳しく言うならば、鬼を怖れた社会には鬼が多く出てあばれ、天狗を警戒していると天狗が子供を奪うのと同様に、牙きばありまた角つのある赤ん坊の最も数多く生まれたのは、いわゆる魔物の威力を十二分に承認して、農村家庭の平和と幸福までが、時あって彼らによって左右せられるかのごとく、気遣きづかっていた人々の部落の中であった。
鬼子の最も怖ろしい例としては、明応七年の昔、京の東山の獅子ししが谷たにという村の話が、『奇異雑談集きいぞうだんしゅう』の中に詳しく報ぜられている。『玄同放言げんどうほうげん』三巻下には全文を引用しているが、記事にはあやふやな部分がちっともなく、少なくとも至って精確なる噂の聞書ききがきである。その大要のみを挙げると、この家の女房三度まで異物を分娩ぶんべんし四番目に産んだのがこの鬼子であった。生まれ落ちたとき大きさ三歳子のごとく、やがてそこらを走りあるく故に、父追いかけて取りすくめ膝ひざの下に押しつけてみれば、色赤きこと朱しゅのごとく、両眼の他に額ひたいになお一つの目あり、口広く耳に及び、上に歯二つ下に歯二つ生えていた。父嫡子ちゃくしをよびて横槌よこづちを持ってこいというと、鬼子これを聞いて父が手に咬かみつくのを、その槌をもって頻しきりに打って殺してしまった。人集まりてこれを見ること限りなしとある。その死骸しがいは西の大路真如堂おおじしんにょどうの南、山際の崖がけの下に深く埋めた。ところがその翌日田舎の者が三人、梯子はしごをかたげてこの下を通り、崖の土の少しうごもてるを見て、土竜鼠むぐらもちがいるといって朸おうこのさきで突いて見ると、ひょっくりとその鬼子が出た。三人大いに驚いてこれは聞き及んだ獅子が谷の鬼子だ。ただ早く殺すがよいと、朸を揮ふるうて頻に打ち、ついにこれを叩き殺した。それを惨酷ざんこくな話だが、繩をつけて京の町まで曳ひいてくると途中多くの石に当ったけれども、皮膚強くして少しも破れずとまで書いてある。この事常楽時の栖安軒琳公せいあんけんりんこう幼少喝食かつしきの時、崖の下にて打ち殺すをまのあたり見たりといえりとあって、事件の当時から約九十年後の記述である。
何故に親が大急ぎで、牙の生えた赤子を殺戮さつりくせねばならなかったかは、じつは必ずしも明瞭ではない。家の外聞とか恥とかいうのも条理に合わなかった。殺してこれを清める望みはなかったのみならず、匿かくし終おせた場合さえ少なかった。しからば活いかして置いて何が悪いかと尋ねてみると、これまた格別のことはなかったのである。兇暴きょうぼう無類の評ある大江山の酒顛童子、その子分か義兄弟のごとく考えられた茨木童子なども、単に今まで見ず知らずの他人に対して残忍であったというのみで、翻ひるがえってその家庭生活を検すれば、思いのほかなるものがあった。『越後名寄えちごなよせ』巻三十三その他の所伝によれば、酒顛童子はこの国西蒲原郡砂子塚いさこづか、または西川桜林村の出身と称しておのおのその旧宅の址あとがあった。附近の和納わのうという村にも後に引越してきたといって今なお榎の老木ある童子屋敷、下名さげなを童子田どうじたと呼ぶ水田もあった。童子幼名を外道丸と名づけられ美童であった。父の名は否瀬善次兵衛俊兼、戸隠山九頭竜権現くずりゅうごんげんの申し児であって、母の胎内に十六箇月いたというだけが、親に迷惑をかけたといえばかけたのである。和納の楞厳寺りょうごんじで文字を習い、国上くがみの寺に上って侍童となるまでは不良少年でも何でもなかった。茨木童子の故郷も摂津にある方が正しいのかも知れぬが、これまた越後にも一箇処あって、今の古志こし郡荷頃にごろ村大字軽井沢、茨木善次右衛門はその生家と称し、連綿として若干の記憶を伝えていた。例えば家の背後に童子が栖すんだという岩屋、それは崩れてその跡に清き泉湧わき、流の末には十坪ばかりの空地あって、童子出生の地と称して永く耕作をさせなかった。悪人に対する記念ではなかったのである。
摂州川辺かわべ郡東富松の部落においては、すでに茨木童子の家筋いえすじは絶えたかわりに、更に一段と心を動かすべき物語が残っていた。『摂陽群談せつようぐんだん』巻十に曰う。童子生まれながらにして牙生い髪長く、眼に光あって強盛なること成人に超えし故に、一族畏怖いふしてこれを茨木の辺に棄すてたところ、丹波千丈岳せんじょうがだけの強盗酒顛童子拾い還りて養育して賊徒となす云々。しかも両親がのちに病に罹かかって同じ枕に寝ているのを、術をもって遙かにこれを知り、心配をして見舞に還ってきたというのは、やはり松崎の寒戸さむとの婆などの例であろう。ただいまは京都に留まって、東寺の辺に安住している。人に怖ろしい姿を見せぬように、急いで還ろうと飛んで往ったという田圃路たんぼみちに、安東寺の字名あざななどが残っており、その時親が悦よろこんで団子だんごを食わせた記念として、毎年同じ日に村では団子祭をするといっている。
戦いがなくなり国中が統一してしまうまでは、こういう義理固い無茶者は、求めても養って置く必要が時としてはあった。いわば百姓の家に生まれたのが損だったのである。肥後の川上彦斎かわかみげんさいの伝を見てもそう思うが、江戸幕府の初頭に刑せられたあぶれ者、大鳥一兵衛などについてはことにその感が深い。ほんのもう四十年か五十年早く生まれていたら、彼は大名になったかも知れぬのである。一兵衛自身の身の上話というのは、『慶長見聞集けいちょうけんもんしゅう』巻六に出ている。「武州大鳥といふ在所に利生りしょうあらたかなる十王まします。母にて候そうろふ者子無きことを悲み、此十王堂に一七日籠こもり、満ずる暁あかつきに霊夢の告つげあり、懐胎して十八月にしてそれがし誕生せしに、骨柄こつがらたくましく面の色赤く、向ふ歯あつて髪はかぶろなり。立つて三足歩みたり。皆人是これを見て悪鬼の生れけるかと驚き、既に害せんとせし処に、母之これを見て謂ひけるやうは、なう暫く待ちたまへ思ふ仔細しさいあり、是は十王への申し児なれば、其そのしるし有りて面の色赤し云々と申されければ、我を助け置き幼名を十王丸と謂へり」とある。祈る仏も多くあった中に、特に閻魔えんまに児を申したというのは、別に近代の母親の相続せざる、一種戦国時代相応の理想があったためかと思う。そうではないまでも大王が事を好み、余計な迷惑を信徒に与えんとしたのでないことだけは、一般にこれを認めていたように見えるが、しかもそれは京都とその附近で、盛んに牙ある赤子を撲殺ぼくさつした時代よりも、またずっと後年の田舎の事であった。
内田邦彦くにひこ君の『南総之俚俗なんそうのりぞく』の中に、東上総ひがしかずさの本納ほんのう辺の慣習として、鬼子が生まれると歳神様としがみさまへ上げた棒で叩たたくとある。これとよく似たことで今日弘く行われているのは赤ん坊があまり早く例えば一年以内にあるき始めると、大きな餅もちを搗ついてこれを脊負わせ、それでもなおあるくと突き倒したりする親がある。鬼子というのは多分歯が生えて産れる子のことであろうが単に殺すことを許されぬ故にこんな方法をのちに代用したものとみても、なお歳神の棒ということには、考え出さねばならぬ深い意味がある。或いは本来はこのうえもない立派な児であるけれども凡人の家にとっては善過よすぎるために、その統御を神に委ねるの意味ではなかったか。いずれにもせよ後世の民家で、怖れて殺したほどの異常なる特徴は、同時にまた上古の英傑勇士名僧等の奇瑞として、尊敬して永く語り伝えたものと一致し、さらに常理をもって判断しても、それがことごとく昔の個人生活の長処ばかりであったことを考えると、野蛮な風習だから大昔からあったろうと、手軽に推断することもできぬようである。人間の畸形きけいにも不具と出来過ぎとが確かにある。大男も片輪かたわのうちに算かぞえるのは、いわゆる鎖国時代の平民の哀れな遠慮であろう。蝦夷のシャグシャインやツキノイ、南の小島では赤蜂本瓦あかぶさほんがわらや与那国よなくにの鬼虎おにとらのごとき、容貌魁偉かいいなる者は多くは終りを全まっとうしなかった。それを案じて家にこのような者の生まれるを忌んだのはおそらくは新国家主義の犠牲であった。部曲が対立して争闘してやまなかった時代には、いわゆる鬼の子はすなわち神の子で、それ故にこそ今も諸国の古塚を発あばくと、往々にして無名の八掬脛やつかはぎや長髄彦ながすねひこの骨が現れ、もしくは現れたと語り伝えて尊信しているのである。
沖繩の『遺老説伝いろうせつでん』には次のような話がある。「昔宮古島川満かわまの邑むらに、天仁屋大司あめにやおおつかさといふ天の神女、邑むらの東隅なる宮森に来り寓ぐうし、遂ついに目利真按司めりまあんじに嫁して三女一男を生む。夫死して妻のみ孤児を養ふに、第三女真嘉那志さかなし十三歳、忽たちまち懐胎して十三月にして一男を坐下ざかす。頭には双角そうかくを生じ眼は環たまきを懸かくるが如く、手足は鷹たかの足に似たり。容貌ようぼう人の形に非あらず。故に之を名づけて目利真角嘉和良めりまつのかわらと謂ふ。年十四歳の時、祖母天仁屋及び母真嘉那志に相随あいしたがひて、倶ともに白雲に乗りて天に升のぼる。後年屡※(二の字点、1-2-22)しばしば目利真山に出現して、霊験を示す。邑人むらびと尊信して神岳と為なす」と。ツカサは巫女を意味しまた多くは神の名であった。カワラは沖繩の按司あんじと同じく、また頭目とうもくのことである。先島の神人には角を名につくものが他にもある。すなわち神の子であり、のちまた神に隠されたる公けの記録が、かの島だけにはこれほど儼然げんぜんとして伝わっているのである。殺すということは少なくとも、古代一般の風習ではなかった。 
一八 学問はいまだこの不思議を解釈しえざること

 

嘘かとは思うが何郡何村の何某方と固有名詞が完全に伝わっている。今から三十年ほど以前に、愛媛県北部の或る山村で、若い嫁が難産をしたことがあった。その時腹の中から声を発する者があって、おれは鬼の子だが殺さぬなら出て遣やる。もし殺すならば出て遣らぬがどうだと言う。活かして置くのは家の名折れとは思ったが、いつまでも産れないでは困る故に、皆で騙だまして決して殺さぬという約束をした。そうして待構えていて茣蓙ござで押えて殺してしまった。角の長さが二寸ばかり、秘密にしていたのを遠縁の親類の女が知って、ついにこの話の話し手にしゃべったのが私にも聴えた。ただしどうしてまたそのような怖ろしい物を孕はらんだかは、今に至るまで不明であるが、この近傍には鬼子の例少なからず、或る村の一家のごときは鬼の子の生まれる少し以前に、山中に入って山姥やまうばのオツクネという物を拾い、それから物持ものもちになったかわりに、またこういう出来事があったという。オツクネとは方言で麻糸の球のこと、山姥の作ったのは人間の引いたのとは違って、使っても使ってもなくならぬ。すなわちいわゆる尽きぬ宝であった。
また大隅海上の屋久島やくのしまは、九州第一の高峯を擁して、山の力の今なお最も強烈な土地であるが、島の婦人は往々にして鬼の子を生むことありと、『三国名勝図会さんごくめいしょうずえ』には記している。「山中に入りたる時頻しきりに睡眠を催し、異人を夢みることあれば必ず娠はらむ。産は常の如くにしてたゞ終りて後のち神気快からずと雖いえども死ぬやうなことは決して無い。生れた児は必ず歯を生じ且つ善よく走る。仍よって鬼子とは謂いふ也」とある。かくのごとき場合には、柳の枝をその児の口にくわえさせて、これを樹の枝に引懸ひっかけて置くと、一夜を過ぐれば必ず失せてなくなるといっていた。普通の赤ん坊ならば無論活きているはずはないのだが、島の人々は或いは父方に引き取って、養育しているもののごとく考えていたものらしい。前後の状況は甚だしく相違するが、とにかくにこれも一種の神隠しではあった。
日向南部の米良山めらやまの中にも、入って働いている女の不時に睡ねむくなるというところがあった。そういう際にはよく姙娠することがあって、これを蛇の所業のごとく信ずる者もあったという。現に近年も某氏の夫人、春の頃に蕨わらびを採りに往ってその事があったので、もしや蛇の子ではないかと思って、産をしてしまうまで一通りならぬ心痛をしたそうである。古い書物に巨人の跡を踏み、或いは玄鳥の卵を呑のんで感じて身ごもることありと記したのも、多分はこういう事情を意味したものであろう。気高い若人が夜深く訪ねてきたという類の話にも、最初に渓川たにがわの流に物を洗いに降りて、美しい丹塗にぬりの箭やが川上から泛うかんできたのを、拾うて還って床の側かたわらに立てて置いたという例があるのを見ると、また異常なる感動をもって、母となる予告のごとく解していた、昔の人の心持が察せられる。ただ村民の信仰がおいおいに荒すさんできてこういう奇瑞の示された場合にも、怖畏ふいの情ばかり独ひとり盛んで、とかくに生まれる子を粗末にした。大和の三輪みわの神話と豊後の尾形氏の古伝とは、或いはその系統を一にするかとの説あるにもかかわらず、後者においては神は誠に遠慮勝ちで、岩窟がんくつの底に潜んで永く再び出でなかった。その他の地方の多くの類例に至っては、銕かねの針に傷きずつけられて命終るといい、普通には穴の口に近よって人が立聴きするとも知らず蓬よもぎと菖蒲しょうぶの葉の秘密を漏した話などになっており、嫗岳うばたけの大太童だいだわらわのごとく子孫が大いに栄えたという場合は、今ではこれを見出すことがやや難くなっているのである。『作陽志さくようし』には美作みまさか苫田とまだ郡越畑こしはたの大平山に牛鬼と名づくる怪あり。寛永中に村民の娘年二十ばかりなる者、恍惚こうこつとして一夜男子に逢う。自ら銕山の役人と称していた。のちに孕はらんで産むところの子、両牙長く生おい尾角ともに備わり、儼げんとして牛鬼のごとくであったので父母怒ってこれを殺し、銕の串くしに刺して路傍に暴さらした。これ村野の人後患を厭えんするの法なり云々とあって、昔はさしも大切に事つかえた地方の神が、次第に軽ぜられのちついに絶縁して、いつとなく妖怪変化ようかいへんげの類に混じた経路を語っている。そうしていずれの場合にも、銕という金属が常に強大な破壊力であった。屋久島などでもことに鍛冶かじの家が尊敬せられ、不思議な懐胎には必ず銕滓かなくそを貰もらってきて、柳の葉とともに合せ煎せんじて飲むことになっていたそうである。
山に入って山姥のオツクネなるものを拾った故に、物持にもなったかわり鬼子も生まれたという話には更に一段と豊富なる暗示を含んでいるらしい。山姥はなるほど多くの神童の母であり、同時にまた珍しい福分ふくわけの主ぬしでもあったことは、次々にもなお述べるように、諸国の昔からの話の種であったが、特に常人の女性に角ある児を産ましめるために、彼女が干渉すべき必要はなかったはずである。察するところ本来この不可思議の財宝は、むしろ不可思議な童子に伴うて神授せらるべきものであったのを、人が忘却してこれを顧みぬようになってから、山中の母ばかりが管理をすることとなったのであろう。この想像を幾分か有力にするのは、ウブメ(産女)と称する道の傍かたわらの怪物の話である。支那で姑獲こかくと呼ぶ一種の鳥類をこれに当てて、産で死んだ婦人の怨魂えんこんが化成するところだの、小児に害を与えるのを本業にしているのと、古い人たちは断定してしまったようだが、それでは説明のできない著しい特徴には、少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授けようとしていた点である。すなわちウブメ鳥と名づくる一種の怪禽かいきんの話を別にして考えると、ウブメは必ず深夜に道の畔あぜに出現し赤子あかごを抱いてくれといって通行人を呼び留める。喫驚びっくりして逃げてくるようでは話にならぬが、幸いに勇士等が承諾してこれを抱き取ると、だんだんと重くなってしまいには腕が抜けそうになる。その昔話はこれから先が二つの様式に分かれ、よく見ると石地蔵であった石であったというのと、抱き手が名僧でありウブメは幽霊であって、念仏または題目の力で苦艱くかんを済すくってやったというのとあるが、いずれにしても満足に依託いたくを果した場合には、非常に礼を言って十分な報謝をしたことになっている。仏道の縁起に利用せられない方では、ウブメの礼物は黄金の袋であり、または取れども尽きぬ宝であった。時としてその代りに五十人百人力の力量を授けられたという例も多かったことが、佐々木君の『東奥異聞とうおういぶん』などには見えている。『今昔物語』以来の多くの実例では、ウブメに限らず道の神は女性で喜怒恩怨が一般に気紛きまぐれであった。或る者はこれに逢うて命を危くし、或る者はその因縁から幸運を捉とらえたことになっている。後世の宗教観から見るときは甚だ不安であるためにだんだんと畏怖の情を加えたのだが、神に選択があり人の運に前定があったと信じた時代には、これもまた祷いのるに足りた貴き霊であったに相違ない。つまりは児を授けられるというのは優れた児を得るを意味し、申し児というのは子のない親ばかりの願いではなかったのである。そうして山姥のごとき境遇に入ってでも、なお金太郎のごとき子を欲しがった社会が、かつて古い時代には確かにあったことを、今はすでに人が忘れているのである。 
一九 山の神を女性とする例多きこと

 

人の女房を山の神という理由としては、いろはの中ではヤマの上かみがオクだからなどと馬鹿げた説明はすでに多い。或いは里神楽さとかぐらの山の神の舞に、杓子しゃくしを手に持って出て舞うからというなどは、もっともらしいがやや循環論法じゅんかんろんぽうの嫌きらいがある。何の故に山の神たる者がかくのごとく、人間の家刀自いえとじの必ず持つべきものを、手草たぐさにとって舞うことにはなったのか。それがまず決すべき問題だといわねばならぬ。杓子はなるほど山中の産物であって、最も敬虔けいけんに山神に奉仕する者が、これを製して平野に持ち下る習いではあったが、ただそれのみでは神自らこれを重んじ、また多くの社においてこれを信徒に頒与するまでの理由にはならぬ。岐阜県の或る地方では以前は山の神の産衣うぶぎぬと称して長さの六七尺もある一ひとつ身みの着物を献上する風があったというが、今はいかがであろうか。これに対しては子育ての守まもりとして、巨大なる山杓子を授けた社もあったという。越前湯尾ゆのお峠の孫杓子を始めとし、今でも杓子には小児安全の祈祷きとうを含むものが多い。山と女性または山と産育というがごとき、一見して縁の遠そうな信仰が、かつてその間に介在しなかったならば、とうてい我々の家内の者に、そのようないかめしい綽名あだなを付与するの機会は生じなかったはずである。
山の神は通例諸国の山林において、清き木清き石について、臨時にこれを祀まつり、禰宜ねぎ・神主かんぬしの沙汰さたはない場合が多いが、これを無格社以上の社殿の中に斎いつくとすれば、すなわち神の名を大山祇命おおやまつみのみこと、もしくは木花開耶姫尊このはなさくやひめのみことといい、稀まれにはその御姉の岩長姫命とも称となえて、何とかして「神代巻」に合致させようとするのが、近世神道の習わしである。しかもこれは単に山神が或る地では男神であり、また他の地方では姫神であったことを語る以外に、いささかも信仰の元の形を、跡づけた名称ではないのである。公認せられない山神の久しい物語には、今はおおよそ忘れたからよいようなものの、なかなかに尊き大山祇の御名を累すべきものが多かった。木樵きこり・草苅くさかり・狩人かりうどの群が、解しかつ信じていた空想は粗野であった。それを片端かたはしから説き立てることは心苦しいが、わずかに山の神に産衣を奉納したという点だけを考えてみても、自分たちはこれを岩長姫の御姉妹に托することの、由よしなき物好ものごのみであったことを感ずるのである。十八九年前に自分は日向の市房山に近い椎葉しいばの大河内という部落に一泊して、宿主の家に伝えた秘伝の「狩之巻かりのまき」なるものを見せてもらったことがある。その一節の山神祭文猟直りょなおしの法というのは、大よそ次のごとき素朴なる神話であった。不明の文字があるから、むしろ全文を書留めて置く方がよいと思う。
一、そも/\山の御神、数を申せば千二百神、本地薬師如来ほんちやくしにょらいにておはします。観世音菩薩かんぜおんぼさつの御弟子阿修羅王あしゅらおう、緊那羅王きんならおう、摩※羅王まこうらおう[#「月+侯」、U+26788、188-1]と申す仏は、日本の将軍に七代なりたまふ。天あまの浮橋うきはしの上にて、山の神千二百生れたまふ也。此この山の御神の母御名を一神いちがみの君きみと申す。此神産をして、三日までうぶ腹を温あたためず。此浮橋の上に立ちたまふ時、大摩の猟師毎日山に入り狩をして通る時に、山の神の母一神の君に行逢ゆきあひたまふとき、われ産をして今日三日になるまでうぶ腹を温めず、汝なんじが持ちしわり子を少し得さすべしと仰せける。大摩申しけるは、事やう/\勿体もったいなき御事おんこと也。此割子わりこと申すは、七日のあひだ行を成し、十歳未満の女子にせさせ、てんから犬にもくれじとて天じやうに上げ、ひみちこみちの袖そでの振合ふりあいにも、不浄の日をきらひ申す。全く以もって参らすまじとて過ぎにけり。其あとにて小摩の猟師に又行逢ひ、汝高をいふもの也。我こそ山神の母なり、産をして今日三日になるまで、産腹うぶはらを温めず。山の割子を得さすべしと乞こひたまふ。時に小摩申しけるは、さてさて人間の凡夫ぼんぷにては、産をしては早くうぶ腹をあたゝめ申すこと也。ましてや三日まで物をきこしめさずおはす事のいとをしや。今日山に入らず、明日山に入らずとも、幸ひ持ちし割子を、一神の君に参らせん。かしきのうごく、白き粢しとぎの物をきこしめせとてさゝげ奉る。其時一神の君大に悦び、いかに小摩、汝がりう早く聞(開?)かせん。是より丑寅うしとらの方にあたつて、とふ坂山といへるあり。七つの谷の落合おちあいに、りう三つを得さすべし。猶なほ行末々ゆくすえずえたがふまじと誓ひて過ぎたまふ。急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう。敬白けいはく。
右の話が天つ神の新嘗にいなめの物忌ものいみの日に、富士と筑波と二処の神を訪れて、一方は宿を拒み他方はこれを許したという物語、巨旦将来こたんしょうらい・蘇民そみん将来の二人の兄弟が、款待かんたいの厚薄によって武塔むとう天神に賞罰せられた話、世降くだっては弘法大師が来って水を求めた時、悪い姥うばはこれを否いなんで罰せられ、善き姥は遠く汲んでその労を報いられたという口碑などと同じ系統の古い形であることは、誰人たれひともこれを認め得る。かりに山の神の母に托した物語が日向ばかりの発明であったとしてもその意味は深いと思った。しかるについ近ごろになって、佐々木君の『東奥異聞』には遠く離れた陸中の上閉伊郡と、羽後の北秋田郡のマタギの村とに、同じ話が口伝くでんとなって残っていたことを報告している。羽後の方では八人組十人組という二組のマタギ、一方は忌いみを怖おそれてすげなく断ったに反して、他の一方では小屋の頭かしらがただの女性でないと見て快く泊め、小屋で産をさせて介抱をした。陸中の山村では猟人の名を万治磐司ばんじばんじといい、磐司がひとり血の穢けがれを厭いとわず親切に世話をすると、十二人の子を生んだと伝えている。いずれも山神がその好意をめでて、のちのち山の幸を保障したことは同じであった。
猟師は船方ふなかたなどとは違い、各自独立した故郷があって、互いに交通し混同する機会は決して多くない。それが奥州と九州の南端と、いつのころからかは知らぬがこれだけ類似した物語を伝えているのは必ず隠れた原因がなければならぬ。その原因を尋ね求めることは、今からではもうむつかしいであろうか否か。自分の知る限りにおいては、同じ古伝の破片かと思うものが、中部日本では上古以来の北国街道、近江から越前へ越える荒乳あらち山にもあった。『義経記』巻七に義経の一行が、この峠を越えなずんで路の傍に休んだ時、アラチという山の名の由来を、弁慶が説明したことになっている。今の人が聴けば興の覚さめるような話だが、加賀の白山しらやまの山の神女体こうのりゅうぐうの宮、志賀の辛崎からさき明神と御かたらいあって、懐姙すでにその月に近く、同じくはわが国に還って産をなされんとして、明神に扶たすけられてこの嶺を越えたもう折に、にわかに御催おんもよおしあって、山中において神子誕生なされた。荒血をこぼしたもうによって荒血山とはいうとある。『義経記』全篇の筋とは直接の交渉なき插話そうわだから、作者の新案とは考えられぬ。多分はこの書が成長をした足利時代中期に、まだ若干の物知りの間に、記憶せられていた口碑かと思う。しかも猟人かりうどの神を援助した話は、ここではこれと結びついていた痕跡こんせきがない。二国に分れ住む陰陽の神が、境の山の嶺に行き逢いたもうということは、大和と伊勢との間でも、信濃と越後の境でも、今なお土地の民はこれを語り伝えている。それと各地の道祖乢さえのたわの驚くべく粗野なる由来記とは、もちろんいずれが本もと、何れが末とはきめにくいが、脈絡は確かにあったので、従って深山の誕生というがごとき荒唐なる言い伝えも、成立ちうる余地は十分にあった。ただ記録以前にあっては話し手の空想がわずかずつ働いて、始終輪廓りんかくが固定しなかったというのみである。
例えば浄瑠璃じょうるりの「十二段草子そうし」は、ほとんと『義経記』と同じころに今の形が整うたものかと思うのに同じ話がもう別様べつように語り伝えられ、志賀の辛崎からさき明神を志賀寺の上人すなわち八十三歳で貴女に恋慕したという珍しい老僧の後日譚ごじつだんにしてしまった。その時京極の御息所みやすどころは年十七、上人三たびその御手をとってわが胸に押し当てたので、すなわち懐胎なされたというのは、同じ近江国手孕村の古伝の混淆こんこうであるが、やはりまた荒乳の山中にして産の紐ひもを解きたもうといい、取上げたる若子わかごは面は六つ御手は十二ある異相の産児にして、ただちに都率天とそつてんに昇り住したまい、のちに越前敦賀つるがに降ってけいたい菩薩ぼさつと顕あらわれ、北陸道を守護したもうなどと、大変なでたらめをいっている。もちろんこの通りの話が一度でも土地に行われていたわけではなく、単に愛発あらちの関が上古以来、北国往還の衝しょうにあったために、他の辺土に比べてはこの口碑が一層弘く、かつ一層不精確に流布るふしたことを、推定せしめるに過ぎぬのである。山姥が坂田公時さかたのきんときの母であり、これを山中に養育したという話が、特に相州足柄あしがらの山に属することになったのも、また全然同じ事情からであろうと思う。江戸時代中期の読み本として、『前太平記ぜんたいへいき』という書物が世に現れるまでは、山姥の本場は必ずしも、明るい東海のほとりの山でなかった。信州木曾の金時山きんときやまなどでは、現に金時母子の棲すんだという巌窟がんくつ、金時が産湯うぶゆをつかったという池の跡のほかに、麓の村々の石の上にはこの怪力童子の足跡なるものがいくらもあって(『小谷口碑集』)、むしろ山姥が自由自在に山また山を山巡やまめぐりするという、古い評判とも一致するのであるが、これを頼光四天王の一人に托するに至って、足柄ばかりが有名になったのみならず、前後ただ一度の奇瑞のごとく解せられて、かえって俗説の遠い由来を、尋ねる途みちが絶えようとするのである。
『臥雲日件録がうんにっけんろく』などを読んでみると、山姥が子を生むという話は少なくとも室町時代の、京都にもすでに行なわれていた。しかもおかしい事には一腹に三人の四人も、怖ろしい子を生むというのである。従ってそれが山神の産養いという類の猟人等が言い伝えと、元もとは果して一つであるか否かも、容易に決断することはできぬのだが、山姥の信仰が今ほど雑駁ざっぱくになった上はいたしかたのないことである。近世の山姥は一方には極端に怖ろしく、鬼女とも名づくべき暴威を振いながら、他の一方ではおりおり里に現れて祭を受けまた幸福を授け、数々の平和な思い出をその土地に留とどめている。多くの山村では雪少なく冬の異常に暖かな場合に、ことしは山姥が産をするそうでといっていた。阿波の半田の中島山の山姥石は、山姥が子供をつれて時々はこの岩の上にきて、焚火たきびをしてあたらせるのを見たと称してこの名がある。遠州奥山郷の久良幾くらき山には、子生嵶こうみたわと名づくる岩石の地が明光寺の後の峯にあって、天徳年間に山姥ここに住し三児を長養したと伝説せられる。竜頭峯りゅうずほうの山の主ぬし竜筑房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祀られるのみか、しばしば深山の雪の上に足痕あしあとを留め、永く住民の畏敬を繋つないでいた。『遠江国風土記伝とおとうみのくにふどきでん』には平賀・矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐にきたと誌しるしてはあるが、のちに和談成って彼らの後裔こうえいもまた同じ神に仕えたことは、秋葉山住やまずみの近世の歴史から、これを窺うかがうことができるのである。
山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるにいつのころよりか二処の信仰は分立して、三尺坊大権現だいごんげんの管轄は、ついに広大なる奥山には及ばなかったのである。海道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、なんと本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬おいぬを迎えてきて、魔障盗賊ましょうとうぞくを退ける目的の外に出なかった。今こそ狼おおかみは山の神の使令として、神威を宣布する機関に過ぎぬだろうか、もし人類の宗教にも世に伴う進化がありとすれば、かつては狼をただちに神と信じて、畏敬祈願した時代があって、その痕跡は数々の民間行事、ないしは覚束おぼつかない口碑の中などに、たどればこれを尋ね出すことができるわけである。山に繁殖する獣は数多いのに、ひとり狼の一族だけに対しては、産見舞さんみまいという慣習が近頃まであった。遠江・三河には限ったことではないが、諸国の山村には御犬岩などと名づけて、御犬が子を育てる一定の場処があった。いよいよ産があったという風説が伝わると、里ではいろいろの食物を重箱に詰めて、わざわざ持参したという話は珍しくない。ただし果して狼の産婦が実際もらって食べたか否かは確かでない。津久井つくいの内郷うちごうなどでは赤飯の重箱を穴の口に置いてくると、兎うさぎや雉子きじの類を返礼に入れて返したなどともうそろそろ昔話に化し去らんとしているが、秩父ちちぶの三峯山みつみねさんでは今もって厳重の作法があって、これを御産立おこだての神事というそうである。『三峯山誌』の記するところによれば、御眷属ごけんぞく子を産まんとする時は、必ず凄然せいぜんたる声を放って鳴く。心直すぐなる者のみこれを聴くことを得べし。これを聴く者社務所に報じ来れば、神職は潔斎けっさい衣冠いかんして、御炊上おたきあげと称して小豆飯あずきめし三升を炊き酒一升を添え、その者を案内として山に入り求むるに、必ず十坪ばかりの地の一本の枯草もなく掃き清めたかと思う場所がある。その地に注連しめを繞めぐらし飯酒を供えて、祈祷して還るというので、これまた産の様子を見たのではないが、この神事のあった年に限って、必ず新たに一万人の信徒が増加するとさえ信じていた。
しかもこの話が単に山神信仰の一様式に過ぎなかったことは、いわゆる御産立の神事が年を隔てて稀に行われていたのを見ても察せられる。狼は色欲の至って薄い獣だという説もあり或いはこの獣の交るを見た者は、災があるという説があったのも、つまりは山中天然の現象の観察が、かくのごとき信仰を誘うたものではなく、かねて山神の子を産むという信仰があったために、かかる偶然の出来事に対しても、なお神秘の感を抱かざるをえなかったことを意味するかと思う。狼が化けて老女となりもしくは老女が狼の姿をかりて、旅人を劫おびやかしたという話は西洋にも弘く分布しているらしいが、日本での特色の一つは、これもまた分娩ということとの関係であった。ことに阿波・土佐・伊予あたりの山村においては、身持の女房がにわかに産を催し、夫おっとが水を汲みに谷に降っている間に、狼の群に襲われたという話を伝え、または山小屋に産婦を残して里に出た間に、咬かみ殺されたという類の物語があって、或いはこの獣が荒血の香を好むというがごとき、怪しい博物学の資料にもなっているようだが実事としてはあまりに似通うた例のみ多く、しかもその故跡には大木や厳いわおがあって、しばしば祟たたりを説き亡霊を伝えているのを見ると、これも本来同一系統の信仰が、次第に形態を変じて奇談小説に近づこうとしているものなることを、推測することができるのである。
ただし実際この問題はむつかしくて、もうこれ以上に深入するだけの力もないが、とにかくに自分が考えて見ようとしたのは、何故に多くの山の神が女性であったかということであった。山中誕生の奇怪なる昔語りが、かくいろいろの形をもって弘くかつ久しく行われているのは、或いはこの疑問の解決のために、大切なる鍵かぎではなかったかということである。日向の椎葉山しいばやまの「猟人伝書かりうどでんしょ」に、山神の御母の名を一神の君と記しまたは安芸と石見を境する亀尾山の峠において、御子を生みたもうと伝うる神が、市杵島姫命いちきしまひめのみことであったというのも、自分にとっては一種の暗示である。イチは現代に至るまで、神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女みこなどとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母と子とともにあるときは、その子の名を小市こいちともまた市太郎とも伝えていた。代を重ねて神を代表する任務を掌つかさどっているうちに、次第にわが始祖をも神と仰いで、時々は主神と混同する場合さえあったのは、言わば日本の固有宗教の一つの癖であった。故に公の制度としては斎女の風は夙つとに衰えたけれども、なお民間にあっては清くかつ慧かしこしい少女が、或いは神に召されて優れたる御子を産み奉るべしという伝統的の空想を、全然脱却することをえなかったのかと思う。信仰圏外の批判をもってすれば、これを精神疾患の遺伝ともいうことができるが、平和古風の山村生活にあってはまったく由緒ある宗教現象の一つであった。ことにまた深山の深い緑、白々とした雲霧の奥には、しばしばその印象と記憶を新たにするだけの、天然の力が永くのちのちまで潜んでいたのである。 
二〇 深山に小児を見るということ

 

日向の猟人の山神祭文にも、山の神千二百生まれたもうということがあるが、山を越えて肥後の球磨くま郡に入ると、近山太郎、中山太郎、奥山太郎おのおの三千三百三十三体と唱えて、一万に一つ足らぬ山の神の数を説くのである。算かぞえた数字でないことはもとよりの話だが、この点はすこぶる足柄山の金太郎などと、思想変化の方向を異にしているように思われる。いわゆる大山祇命おおやまつみのみことの附会が企てられた以前、山神の信仰には既に若干の混乱があった。木樵きこり・猟人かりうどがおのおのその道によって拝んだほかに、野を耕す村人等は、春は山の神里に下って田の神となり、秋過ぎて再び山に還りたもうと信じて、農作の前後に二度の祭を営むようになった。伊賀地方の鉤曳かぎひきの神事を始めとし、神を誘い下す珍しい慣習は多いのであるが、九州一帯ではこれに対して山ワロ・河ワロの俗伝が行われている。中国以東の川童が淵池ごとに孤居するに反して、九州でミズシンまたはガアラッパと称する者は、常に群をなして住んでいた。そうして冬に近づく時それがことごとく水の畔を去って、山に還って山童やまわろとなると考えられ、夏はまた低地に降りくること、山の神田の神の出入と同じであった。紀州熊野の山中においてカシャンボと称する霊物も、ほぼこれに類する習性を認められている。寂寥せきりょうたる樹林の底に働く人々が、わが心と描き出す幻の影にも、やはり父祖以来の約束があり、土地に根をさした歴史があって、万人おのずから相似たる遭遇をする故に、かりに境を出るとたちまち笑われるほどのはかない実験でもなお信仰を支持するの力があった。ましていわんやその間には今も一貫して、日本共通の古くからの法則が、まだいくらも残っていたのである。
『西遊記さいゆうき』その他の書物に九州の山童として記述してあるのは、他の府県でいう山男のことであって、その挙動なり外貌がいぼうなりは、とうてい川童の冬の間ばかり化してなる者とは思われぬのであるが、別にこれ以外に谷の奥に潜んで小さな怪物のいるという言い伝えはあったので、山童はもと恐らくはこの方に属した名であった。壱岐の島では一人の旅人が、夜通しがやがやと宿の前を海に下って行く足音を聴いた。夜明けて訊たずねるとそれは山童の山から出てくる晩であった。或いはまた山の麓の池川の堤つつみに、子供のかと思う小さな足痕あしあとの、無数に残っているのをみて、川童が山へ入ったという地方もある。秋の末近く寒い雨の降る夜などに、細い声を立てて渡り鳥の群が空を行くのを、あれがガアラッパだと耳を峙そばだてて聴く者もあった。阿蘇あその那羅延坊ならえんぼうなどという山伏やまぶしは、山家に住みながら川童予防の護符を発行した。すなわち夏日水辺に遊ぶ者の彼らの害を懼おそるるごとく、山に入ってはまた山童を忌み憚はばかっていた結果かと思われるが、近世に入ってからその実例がようやく減少した。大体にこの小さき神は、人間の中の小さい者も同じように、気軽な悪戯いたずらが多くて驚かすより以上の害は企てえなかった。注意をすればこれを防ぐことができたために、のち次第に人がその威力を無視するに至ったのである。『観恵交話かんけいこうわ』という二百年ほど前の書物には、豊後の国かと思う或る山奥に、せこ子こと称する怪物がいる話を載せている。形は三尺から四尺、顔の真中まんなかに眼がただ一つであるほか、全く人間の通りで、身には毛もなくまた何も着ず、二三十ずつ連れだってあるく。人これに逢えども害を作なさず、大工の持つ墨壺すみつぼを事の外ほかほしがれでも、遣れば悪しとて与えずと杣そまたちは語る。言葉は聞えず、声はひゅうひゅうと高く響く由なりといっている。
眼が一つということは突然に聞けば仰天するが、土佐でも越後でも、また朝鮮でも、或いは遠く離れてヨーロッパの多くの国の田舎でも、こんな境遇の非類の物には、おりおり附いて廻る噂である。どうしてそういう風に目に見えたかは、残念ながらまだ明白に判わからぬというまででまずは怪物の証拠とでもいうべきものであった。大和・吉野の山中においては、また木の子と名づくるおよそ三四歳の小児ほどの者がいた。身には木の葉を着ているとある。これは『扶桑ふそう怪談実記』の誌すところであって、その姿ありともなしとも定まらずなどと至って漠然たる話ながら、山働きの者おりおり油断をすると木の子に弁当を盗まれることがあるので、木の子見ゆるや否や棒をもってこれを追い散らすを常とすともあれば、少なくとも多数の者が知っていたのである。このほかにも秋田の早口沢はやくちざわの奥に鬼童という者の住むことは、『黒甜瑣語こくてんさご』三編の四に見え、土佐の大忍おおさい郷の山中に、笑い男という十四五歳の少年が出て笑うことが、『土州淵岳志どしゅうえんがくし』に書留めてある。それが誇張でありもしくは誤解なることは、細かに読んで見ずとも断定してよいのであるが、こういう偶然の一致がある以上は、誤解にもなお尋ぬべき原因があるわけである。
その上にまた時としては、誤解とも誇張とも考えられぬ場合もある。これは南方熊楠みなかたくまぐす氏の文通によって知ったのだが、前年東部熊野の何とか峠を越えようとした旅人、不意に路傍の笹原の中から、がさがさと幼児が一人這はい出してきたのを見てびっくりして急いで山を走り降った。それから幾日かを経て同じ山道を戻ってくると、今度はその子供が首を斬きられて同じあたりに死んでいたのを見たという。頭も尻尾もなく話はただこれだけだが、その簡単さがむしろこの噂の人の作った物語でないことを感ぜしめる。南方氏の書状はこれにつけ加えて、インドは地方によって狼の穴から生きた人間の赤児を拾ってきた事件が今でも新聞その他におりおり報ぜられる。この国は狼の害甚だ多く、小児の食われる実例が毎年なかなかの数に達し、狼に食われた子供の首飾くびかざり・腕飾の落ちたのを、山をあるいては拾い集める職業さえある。最近のロミュルスはすなわちこの連中によって発見せられるので、狼が飽満して偶然に食い残した子供が、無邪気に食を求めて狼の乳を吸い、自然に猛獣の愛情を喚起して狼の仔とともに育てられるのだ。或る孤児院へ連れてきた童子などは、四よつ這ばいをして生肉のほかは食わず、うなる以外に言語を知らず、挙動が全然狼の通りであったと報告せられていると示された。ただしこの種の出来事は必ず昔からであろうが、これに基づいて狼を霊物とした信仰はまだ聞かぬに反して、日本の狼は山の神であっても子供を取ったという話ばかり多く伝わり、助け育てたという実例はないようである。故に性急にこの方面から山の赤子の説明を引出そうとしてはならぬのである。 
二一 山姥を妖怪なりとも考えがたきこと

 

山姥・山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬をもって付与したる美称であって、或いはそう呼ばれてもよい不思議なる女性が、かつて諸処の深山にいたことだけは、ほぼ疑いを容いれざる日本の現実であった。ただしこれに関する近世の記録と口承とは、甚だしく不精確であった故に最も細心の注意をもって、その誤解誇張を弁別する必要があるのはもちろんである。自分が前に列記したいくつかの見聞談のごとく、女が中年から親の家を去って、彼らの仲間に加わったという例のほかに、別に最初から山で生まれたかと思われる山女も往々にして人の目に触れた。これも熊野の山中において、白い姿をした女が野猪やちょの群を追いかけて、出てくることがあると、『秉穂録へいすいろく』という本に見えている。土佐では槙山まきのやま郷の字筒越つつごしで、与茂次郎という猟師夜明よあけに一頭の大鹿の通るのを打留うちとめたが、たちまちそのあとから背丈せたけ一丈じょうにも余るかと思う老女の、髪赤く両眼鏡のごとくなる者が、その鹿を追うてきたのを見て動顛どうてんしたと、寺石氏の『土佐風俗と伝説』には誌してある。
猪を追う女の白い姿というは、或いは裸形のことを意味するのではなかったか。薩摩の深山でも往々にして婦人の姿をした者が、嶺を過ぐるを見ることがある。必ず髪を振り乱して泣きながら走って行くと、この国の人上原白羽という者が、『今斉諧きんせいかい』の著者に語っている。それがもし実験者の言に基づくものならば、泣きながらとは多分奇声を発していたことをいうのだろう。『遠野物語』に書留められた山中深夜の女なども、待てちゃアと大きな声で叫んだといっている。他の地方にも似たる例は多く、たいていは背丈がむやみに高かったことを説いているが、怖しくて遁にげて来た者の観察だから、寸法などは大ざっぱなものであろうと思う。それよりも土地を異にし場合を異にして、おおよそ形容の共通なるもの、例えば声とか髪の毛の長く垂れていたとかいう点の同じかったのは注意に値する。山で大きな女の屍体したいを見たという話は、これもいくつかの類例が保存せられてあるが、なかんずく有名なのは夙はやく橘南谿の『西遊記』に載せられた日向南部における出来事である。
「日向国飫肥おび領の山中にて、近き年菟道弓うじゆみにて怪しきものを取りたり。惣身そうしん女の形にして色ことの外ほか白く黒髪長くして赤裸なり。人に似て人に非あらず。猟人も之を見て大いに驚き怪み人に尋ねけるに、山の神なりと謂いふにぞ。後の祟たたりも恐ろしく取棄とりすてもせず、其そのまゝにして捨置きぬ。見る人も無くて腐りしが、後の祟りも無かりしとぞ。又人のいひけるは、是は山女と謂ふものにて、深山にはまゝあるものと云いへり」云々。この菟道弓のウジというのは、野獣が踏みあけた山中の通路である。同じ処を往来する習性があるのを知って、かかればひとりでに発するようにウジ弓を仕掛けておくのである。それにきて斃たおれたというのはいくら神でなくとも驚くべき不注意であって、珍しい事件であったに相違ないが、都に住む橘氏ならばとにかく、土地の猟人が始めて名を知ったというのは、やや信じにくい話である。ことにこの方面は今でも山人の出現が他に比べては著しく頻繁ひんぱんであり、現にこの記事以後にも、いろいろの珍聞が伝えられているのである。八田知紀はったとものり翁の『霧島山幽界真語きりしまやまゆうかいしんご』の終りに、次のような一話が載せてある。
「おとゞし(文政十二年)の秋、日向の高岡たかおか郷(東諸県ひがしもろかた郡)にものしける時、籾木村なる郷士、籾木新右衛門と云へる人の物がたりに、高鍋たかなべ領の小菅岳こすげがたけといふ山に、高岡郷より猟に行通ふ者のありけるが、一日罠わなを張り置けるに、怪しき物なんかゝりたりける。さるは大方おおかたは人の形にて、髪いと長く、手足みな毛おひみちたり。さてそれが謂ひけるは、私はもと人の娘なり。今は数百年の昔、世の乱れたりし時、家を遁のがれ出てこの山に兄弟共に隠れたりけるが、それよりふつに人間の道を絶ちて、朝夕の食ひ物とては、鳥獣木の実やうのものにて有り経しかば、おのづから斯こう形も怪しくは成りにけり。今日しも妹の在る処に通はんとて、夜中に立ちて物しけるに、思はんやかゝる目に遭はんとは。いかで/\我命をば助けよかしと涙おとして詫わびけれど(その言語今の世の詞ことばならで、定さだかには聴取りかねしとぞ)、いといぶかしくや思ひけん、其儘そのまま里へ馳はせ還りて、友あまたかたらひ来て其女を殺してけり。さて其男は幾程いくほども無く病み煩わずらふことありて死にけりとか。こは近頃の事なりとて、男の名も聞きしかど忘れにけり。」
小山勝清かつきよ君の外祖母の話であった。明治の初年、肥後球磨郡の四浦ようら村と深田村との境、高山の官山の林の中に、猟師の掛けて置いた猪罠ししわなに罹かかって、是も一人の若い女が死んでいた。丸裸であったそうだ。これを附近の地に埋めたが、のちに祟りがあったという話である。我々の注意するのは、以上三つの話が少しずつ時を異にし、またわずかばかり場処をちがえていずれも霧島市房きりしまいちふさ連山の中の、出来事であったという点である。ただし猪罠の構造を詳しく知らねばならぬが、かかった女が身の上を語ったという小菅岳の一条には、甚だしく信じにくいものがある。姉と妹とが別れ別れに住んでいて、時あって相訪あいとうということは話の様式の一つであり、乱を避けて山に入ったというのも、この地方の人望ある昔談むかしがたりにほかならぬ。言葉が古風で聴取りにくかったという説明とともに、必ず仲継者の潤飾が加わっているかと思う。それよりも大切な点はわずかな歳月、わずかな距離を隔てて似たような三つの事件が起りしかもそれぞれ状況を異にして、真似た痕跡のないことである。自分は必ず今にまた新しい報告の、更に附加せらるべきことを予期している。
他の地方の類例はまた熊野の方に一つある。長たけ八尺ばかりな女の屍骸しがいを、山中において見た者がある。髪は長くして足に至り、口は耳のあたりまで裂け、目も普通よりは大なりと記している。それから『越後野志えちごやし』巻十八には、山男の屍骸の例が一つある。天明の頃、この国頸城くびき郡姫川ひめかわの流れに、山男が山奥から流れてきた。裸形にして腰に藤蔓ふじづるを纏まとう。身のたけ二丈余とある。ただし人恐れてあえて近づかず。ついに海上に漂い去るといって、寸尺は測って見たのではなかった。しかも二丈余というのはかねてこの地方で言うことと見えて、同じ書物の他の条にもそう書いてある。
ただし山男の身長の遙かに尋常を超えていたことは、他の多くの地方でも言うことで或いは事実ではないかと思う。このついでにほんの二つか三つ実例を挙げてみるならば、『有斐斎剳記ゆうひさいさつき』に対馬つしま某という物産学者、薬草を採りに比叡山ひえいざんの奥に入って、たまたま谷を隔てて下の方に、一人の小児の岩から飛び降りてはまた攀よじ登って遊んでいるのを見た。村の子供がきて遊ぶものと思っていたが、後日そこを通ってみるに、岩は高さ数仞すうじんの大岩であった。それから推して見ると小児と思ったのは、身の丈たけ一丈もあったわけで、始めて怪物ということに気がついた。石黒忠篤いしぐろただあつ君がかつて誰からか聴いて話されたのは、幕末の名士川路左衛門尉かわじさえもんのじょう、或る年公命を帯びて木曾に入り、山小屋にとまっていると、月明らかなる夜更にその小屋の外にきて高声に喚よぶ者がある。刀を執って戸を開いて見るに、そこには早はや影も見えず、小屋の前の山をきわめて丈の高い男の下って行く後姿が、遠く月の光で見えたそうだ。山男であろうとその折従者に向かっていわれたが、他日ついに再びこれを口にせず、先生の日記にも伝にも、その事を記したものはなかったという。山中笑やまなかえみ翁が前年駿州田代川たしろがわの奥へ行かれた時、奥仙俣おくせんまたの杉山忠蔵という人が、その父から聴いたといって語った話の中に、若い時から猟がすきで、毎度鹿を追うて山奥に入ったが、真に怖ろしくまた不思議だと思った事は、生涯に二度しかない。その一度は山中の草原が丸太でも曳ひいて通ったように、一筋ひとすじ倒れ伏しているのを怪しんで見ているうちに、前の山の樹木がまた一筋に左右に分かれて、次第に頂上に押し登って行ったこと、今一度は人の足跡が土の上にあって、その大きさが非常なものであった。かねてこんな場合の万一の用意に、持っている鉄の弾丸を銃にこめて、なお奥深く入って行くと、ちょうど暮方くれがたのことであったが、不意に行く手の大岩に足を踏みかけて、山の蔭かげへ入って行く大男の後姿を見た。その身の丈が見上げても目の届かぬほどに高かった。あまり怖ろしいので鉄砲を打ち放す勇気もなく還ってきたと語ったそうである。昨今は既に製紙や枕木のために散々に伐きり荒されたから事情も一変したが、以前はこの辺から大井の川上にかけては、山人に取っての日高の沙留さるともいうべく、最も豊富なる我々の資料を蔵していた。安倍郡大川村大字日向ひなたの奥の藤代山などでも、かつて西河内にしこうちの某という猟師が、大きな人の形で毛を被かぶった物を、鉄砲で打ち留めたことがあった。『駿河国新風土記するがのくにしんふどき』巻二十には、なんでも寛政初年の事であったらしく記している。打ち留めたものの余りの怖ろしさに、そのままにして家に帰り、それが病の元もとになって猟師は死んだ。その遺言ゆいごんに一年も過ぎたなら、こうこうした処だから往って見よとあったので、その通りに時経てのち出かけて捜して見ると、偉大なる脛すねの骨などが落ち散り、傍にはまた四五尺あるかと思う白い毛が、おびただしくあったと伝えられる。そのように長いならば髪の毛だろうと思うが、何分多くは何段かの又聞きであったため、満身に毛を被るという記事がいつも精確でなく、ことにこの地方では猿さるの劫こう経たものとか、狒々ひひとかいう話が今でも盛んに行われて、一層人の風説を混乱せしめる。新聞などを注意していると、四五年に一度ぐらいはそういう噂が必ず起こり、その実じつ打ち取ったのはやや大形の猿であり、ただその話と寸法とのみが以前の山男の方に近くなっている。つまりはうそであり誇張ながらも、由って来たるところだけはあるのである。なお最後に今一つ、どうでも猿ではなかった具体的の例を出して置く。これは『駿河志料』巻十三、『駿河国巡村記』志太しだ郡巻四に共に録し、前の二つの話よりは少しく西の方の山の、やはり百余年前の出来事であった。
「大井川の奥なる深山には山丈やまじょうといふ怪獣あり。島田の里人に市助といふ者、材木を業として此山に入ること度々なり。或時谷畠たにはたの里を未明に立ち、智者山ちしゃやまの険岨けんそを越え、八草やくさの里に至る途中、夜既に明けんとするの頃ころ深林を過ぐるに、前路に数十歩を隔てゝ大木の根元に、たけ一丈余の怪物よりかゝるさまにて、立ちて左右を顧みるを見たり。案内の者潜ひそかに告げて言ふ。かしこに立つは深山に住む所の山丈と云ふもの也。彼に行逢へば命は測り難し。前へ近づくべからず又声を揚あぐべからず、此林の茂みに影を匿かくせと謂ふ。市助は怖れおびえて、もとの路に馳せ返らんと言へど、案内の者制し止め、暫時の間に去るべければ日の昇るを待てと言ふまゝに、せんすべ無く只ただ声を呑みてかたへに隠る。其間にかの怪物、樹下を去りて峯の方へ疾走す。潜かに之を窺うかがふに、形は人の如く髪は黒く、身は毛に蔽はれたれど面は人のやうにて、眼きらめき長き唇くちびるそりかへり、髪の毛は一丈余にてかもじを垂れるが如し。市助は之を見て身の毛立ち足の踏みどを知らず。されど峯の方へ走り行くを見て始めて安堵あんどの思ひを為なし、案内と共にかの処に来りて其跡を閲けみするに、怪獣の糞ふん樹下にうづたかく、その多きこと一箕いっきばかりあり、あたりの木は一丈ほど上にて皮を剥むきさぐりたる痕あり。導者曰ふ。これ怪物があま皮を食ひたる也。怪物は又篠竹しのたけを好みて食ふといへり。糞の中には一寸ばかりに噛かみ砕ける篠竹あり。獣の毛もまじりたりしとかや、按あんずるに是は狒々と称するものにて、山丈とは異なるなるべし」(以上)。この話はいかにも聴いた通りの精確な筆記のようだが、やはりよく見ると、文人の想像が少しはまじっていること、あたかも噛み砕いた篠竹のごとくである。例えば長き唇反そり返るとあるのは、支那の書物に古くからあることで、じつはどんな風に長いのか、日本人には考えもつかぬ。とうてい夜の引明けなどに眼につくような特徴ではなかったのである。山丈のジョウは高砂の尉と姥などのジョウで、今の俗語のダンナなどに当るだろう。すなわち山人の男子のやや年輩の者を、幾分尊んで用いた称呼にして、正しく山姥と対立すべき中世語であった。 
二二 山女多くは人を懐かしがること

 

全体に深山の女たちは、妙に人に近づこうとする傾向があるように見える。或いは婦人に普通なる心弱さ、ないしは好奇心からではないかと、思うくらいに馴々なれなれしかったこともあるが、それにしては彼らの姿形の、大きくまた気疎けうとかったのが笑止である。
山で働く者の小屋の入口は、大抵たいていは垂蓆たれむしろを下げたばかりであるが、山女夜深く来たってその蓆をかかげ内を覗のぞいたという話は、諸国においてしばしばこれを聞くのである。そういう場合にも髪は長くして乱れ、眼の光がきらきらとしているために喰いにでも来たかの如く、人々が怖れ騒いだのである。或いはまた日が暮れて後のち、突然として山小屋に入り来たり、囲炉裏いろりの向うに坐って、一言も物を言わず、久しく火にあたっていたという話も多い。豪胆な木挽こびきなどが退屈のあまりに、これに戯れたなどという噂のあるのは自然である。羽後の山奥ではこんな女をわざわざ招き寄せるために、ニシコリという木を炉に燃す者さえあると『黒甜瑣語こくてんさご』などには記しているが、それは果してどういう作用をするものか、その木の性質と共になお尋ねて見たいと思っている。
今から三十年あまり以前、肥後の東南隅の湯前ゆのまえ村の奥、日向の米良めらとの境の仁原山に、アンチモニイの鉱山があった。その事務所に住んでいた原田瑞穂という人が夜分少し離れた下の小屋に往って、人足たちと一緒になって夜話をしていると、時々ぱらぱらとその小屋の屋根に小石を打ちつける音がする。少し気味が悪くなってもう還ろうと思い、その小屋を出てうしろの小路をわずかくると、だしぬけに背の高い女が三人横の方から出て、その一人が自分の手を強く捉えた。三人ながらほとんと裸体であった。何か頻しきりに物を言うけれども怖ろしいので何を言うか解らなかった。その内に大声に人を喚んだ声を聞いて、小屋から多勢の者がどやどやと出てきたので、女は手を離して足早あしばやに嶺の方へ上ってしまった。これも小山勝清君の話で、経験をした原田氏は、そのころまだ若かった同君の叔父である。
自分はこの鉱山のあった仁原山が、前に挙げた獣のわなに山女の死んでいた三つの場処の、ほぼまん中である故に、ことにこの話に注意をする。もし山人にも土地によって、気風に相異があるものとすれば、南九州の山中に住む者などは、とりわけ人情が惇樸じゅんぼくでかつ無智であったように思われるからである。
この類の実例はゆくゆくなお追加しうる見込みがある。前にいう仁原山は市房山と白髪岳との中間にある山だが、その白髪岳の山小屋でも近年山の事業のためにしばらく入っていた某氏が、夜になると山女がきて足を持って引張るので、なにぶんにも怖ろしくて我慢ができぬといって還ってきたこともあった。球磨郡四浦ようら[#ルビの「ようら」は底本では「ようち」]村の吉という木挽が、かつて五箇庄ごかのしょうの山で働いていた時に、小屋へ黙って入ってきた髪の毛の長い女などは、にこにことしてしきりに自分の乳房をいじっていた。驚いて飛びだして銕砲てっぽうなどを持って、多勢で還ってきてみるともうその辺にはいなかったそうである。単に遠くから姿を見たというだけの話なら、まだこの附近にも近頃の例がいくつかある。東北地方では会津の磐梯山ばんだいさんの入山などにも、山女らしい話がおりおり伝えられる。『竜章東国雑記りゅうしょうとうごくざっき』の第六集に、「文化の初め頃、山麓某村の農民二人、川芎せんきゅうといふ薬草を採りに、此山西北の谿たにに入って還ることなり難く、流ながれに傍そうた大木の虚洞うつろに夜を過すとて、穴の外に火を焚たいて置くと、たけ六尺ほどで髪の長さは踵かかとを隠すばかりなる女が沢蟹さわがにを捕へて此火に炙あぶつて食ひ、又両人を見て笑った」と記している。「これ俗に山ワロと謂ひ野猨やえんの年とし経たるもの也。奥羽の深山にはまゝ居る由にて、よく人の心中を知れども人に害を為すことなし」などとあって、土地でも詳しいことは知らぬのである。また『老媼茶話ろうおうちゃわ』には猪苗代いなわしろ白木城の百姓庄右衛門、同じく磐梯山の奥に入って、山姥のかもじと称するものを見つけたことを載せている。「長さ七八尺にして白きこと雪の如く、松の大木の梢にかゝつて居た」とあって其末に、「世に謂ふ山姥は南蛮国なんばんこくの獣なり。其形老女の如し。腰に皮ありて前後に垂れ下りたふさぎの如し。たま/\人を捕へては我住む岩窟がんくつに連れゆき、強ひて夫婦のかたらひを求む。我心に従はざるときは其人を殺せり。力強くして丈夫に敵す。好みて人の小児を盗む。盗まれし人之を知り、多勢集まり居て山姥が我子を盗みしことを大音に罵ののしり恥しむるときは、窃ひそかに小児を連れ来り、其家の傍に捨て置き帰るといへり」などといっている。実際の遭遇がようやく稀まれになって雑説はいよいよ附け加わるので、これなども支那の書物の知識が、もう半分ばかりもまじっているようである。
或いは単に人間の炉の火を恋しがって出てくるものとも想像しうる場合がある。冬の日に旅をした人ならこの心持は解るが、たとえ見ず知らずの人が焚火たきびをする処でも、妙に近づいて見たくなるものである。夜分に人の家の火が笑語の声とともに、戸の隙間すきまから洩もれるのを見ると、嫉ねたましくさえなるものだ。無邪気な山の人々もこの光に引きつけられてくるのかも知らぬ。『秉穂録へいすいろく』にはまた熊野の山中で炭焼く者の小屋へ、七尺余りの大山伏おおやまぶしの遣ってくることを録している。ただし「魚鳥の肉を火に投ずるときは、その臭気を厭いとうて去る」というのは、少しく前の沢蟹の話とは一致せぬが、火に対する趣味などにも地方的に異同があるのだろう。前に引用した『雪窓夜話せっそうやわ』の上巻には、また次のような一件も記してある。すなわち因州での話である。
「西村某と云ふ鷹匠たかじょうあり。鷂たかを捕らんとて知頭ちず郡蘆沢山あしさわやまの奥に入り、小屋を掛けて一人住みけり。夜寒の頃なれば、庭に火を焚たきてあたり居けるに、何者とも知れず、其たけ六尺あまりにて、老いたる人の如くなる者来りて、黙然とかの火によりて、鼻をあぶりてつくばひたり。頭の髪赤くちゞみて、面貌めんぼう人に非ず猿にも非ず、手足は人の如くにして、全身に毛を生じたり。西村は天性剛なる男なれば、更に驚くこと無く、汝なんじは何処に住む者ぞと問ひけれども、敢て答へず。暫くありて立帰る。西村も其後に沿ひて出でけれども、夜甚だ暗くして、其行方を知らずなりぬ。其後又来りて、小屋の内を覗のぞくことありしに、西村、又来たか、今宵こよいは火は無きぞと言ひければ、其まゝ帰りけると也。里人に其事を語りければ、山父と云ふもの也。人に害を為す者に非ず。之を犯すことあれば、山荒るゝと謂ひけると也。」
スキーで近頃有名になった信越の境の山にも、半分ほど共通の話があって、『北越雑記ほくえつざっき』巻十九に出ている。断って置くがこれら二つの書物は共に写本であって流布も少なく、一方の筆者は他の一方の著述の存在をすらも知らなかったのである。それを自分たちが始めて引き比べて見る処に、学問上の価値が存するのである。「妙高山・焼山・黒姫山くろひめやま皆高嶺にて、信州の飯綱いづな・戸隠とがくし、越中の立山まで、万山重なりて其境幽凄ゆうせいなり。高田の藩中数十軒の薪まきは、皆この山中より伐出す。凡およそ奉行ぶぎょうより木挽こびき・杣そまの輩やからに至るまで、相誓ひて山小屋に居る間、如何いかなる怪事ありても人に語ること無し。一年升山某、役に当りて数日山小屋に在ありしが、夜は人々打寄りて絶えず炉に火を焚きてあたる。然るに山男と云ふもの、折ふし来ては火にあたり一時ばかりにして去る。其形人に異なること無く、赤髪裸身灰黒色にして、長たけは六尺あまり、腰に草木の葉を纏まとふ。更に物言ふこと無けれども、声を出すに牛のいばふ如く聞ゆ。人の言語はよく聞分くる也。相馴あいなれて知人の如し。一夕升山氏之に向ひて、汝木葉を着るは恥ることを知るなり。火にあたるは寒さを畏おそるゝなり。然らば何ぞ獣の皮を取りて身に纏はざるやと言ひしに、つく/″\と之を聞きて去れり。翌夜は忽ち羚羊かもしか二疋ひきを両の手に下げて来り、升山の前に置く。其意を解し、短刀もて皮を剥はぎて与ふれば、山男は頻しきりに口を開き打笑ひ、悦よろこびて帰りぬ。すでにして又来たるを見れば、さきの皮一枚は、藤を以て繋つなぎ合せて背に負ひ、他の一枚は腰に巻き付けたり。されど生皮なまかわを其のまゝ着たる故、乾くにつれて縮みより硬こわばりたり。皆々打笑ひ、熊の皮を取り、十文字にさす竹入れ、小屋の軒に下げて見せ、且つ山刀一梃いっちょうを与へて帰らしむ。其後数日来ずと謂へり」(以上)。これなどは秘密を誓約した人々の抜け荷だから、若干の懸値かけねがあっても吟味をすることが困難である。 
二三 山男にも人に近づかんとする者あること

 

山人も南九州の山に住む者が、特に無害でありまた人なつこかったように思われる。山中をさまようて危害の身に及ぶに心づかず、しばしば里の人の仮小屋かりごやを訪問して、それほどまでに怖れ嫌われていることを知らなかったという例は、主として霧島連峯中の山人の特質であった。なお同じ方面の出来事として、水野葉舟君からまた次のような話も教えられた。
日向南那珂ひゅうがみなみなか郡の人身上千蔵君曰く、同君の祖父某、四十年ばかり以前に、山に入って不思議な老人に行逢うたことがある。白髪にして腰から上は裸、腰には帆布ほぬののような物を巻きつけていた。にこにこと笑いながら此方を向いて歩んでくる様子が、いかにも普通の人間とは思われぬ故に、かねて用心のために背に負う手裏剣しゅりけん用の小さい刀の柄つかに手を掛け、近く来ると打つぞと大きな声でどなったが、老翁は一向に無頓着むとんちゃくで、なお笑いながら傍へ寄ってくるので、だんだん怖ろしくなって引返して遁にげてきた。ところがそれから一月ばかり過ぎてまた同じ山で、村の若者が再び同じ老人に逢った。一羽の雉子きじを見つけて鉄砲の狙ねらいを定め、まさに打ち放そうとするときに、不意に横合よこあいから近よってこの男の右腕を柔かに叩く者があった。振向いて見ればその白髪の老人で、やはりにこにこと笑って立っている。白髪の端はしには木の葉などがついていたという。これを見ると怖ろしさのあまり気が遠くなり、鉄砲を揚あげたままで立ちすくんでいたのを、しばらくしてから村の人に見つけられ、正気になってのちにこの話をしたそうだ。眼の迷いとかまぼろしとか、言ってしまうことのできない話で、しかも作り話としては何の曲もなく、かつ二度の実見が一致していた。何かは知らずとにかくにそんな人が、この辺の山には正しくいたのである。
山人が我々を目送したという話もおりおり聞く。そうして甚だ気味の悪いことに、これを解説するのが普通であった。気味の悪くないこともあるまいが、彼らは元来が真の有閑階級だから、じつははっきりとした趣意もなく、ただ眺めていた場合もあったかも知れぬ。ただし少年や女には、これを怖れる理由は十分にあった。前年前田雄三君から聴いた話は、越前丹生にう郡三方みかた村大字杉谷の、勝木袖五郎という近ごろまで達者でいた老人、今から五十余年前に十二三歳で、秋の末に枯木を取りに村の山へ往った。友だちの中に意地の悪い者があって、うそをついて皆は他の林へ往ってしまい、自分一人だけ村の白山神社の片脇の、堂ヶ谷というところで木を拾っているとき、ふと見れば目の前のカナギ(くぬぎ)の樹にもたれて、大男の毛ずねがぬくと見えた。見上げると目の届かぬほどに背が高い。怖ろしいからすぐに引返して、それからほど近い自分の家に戻り、背戸口に立って再び振り返って見ると、その大男はなおもとの場所に立ち、凄すごい眼をしてじっと此方を見ていたので、その時になって正気を失ってしまったそうである。この堂ヶ谷は宮からも人家からも、至って近い低い山であった。こんなところまで格別の用もないのに、稀まれには山人が出向いてきて人を見ていたのである。神隠しの風説などの起りやすかったゆえんである。
それから少なくとも我々に対して、常に敵意は持ってはいなかったという証拠もある。小田内通敏おたうちみちとし氏の示された次の一文は、何かの抄録らしいが元もとの書物は同氏も知らぬという。津軽での話である。
「中村・沢目・蘆谷あしのや村と云ふは、岩木山の※ふもと[#「山+卑」、U+5D25、217-8]にして田畑も多からねば、炭を焼き薪を樵きこりて、活計の一助となす。此里に九助といふ者あり。常の如く斧おのを携へて山奥に入り、柴立しばだちを踏分け渓水たにみずを越え、二里ばかりも躋のぼりしが、寥廓りょうかくたる平地に出でたり。年頃としごろ此山中を経過すれども、未だ見たること無き処なれば、始めて道に迷ひたることを悟り、且かつは山の広大なることを思ひ、歎息してたゝずみしが、偶※(二の字点、1-2-22)たまたまあたりの谷蔭に人語の聴えしまゝ、其声を知るべに谷を下りて打見やりたるに、身の長たけ七八尺ばかりの大男二人、岩根の苔こけを摘み取る様子なり。背と腰には木葉を綴つづりたるものを纏まとひたり。横の方を振向ふりむきたる面構つらがまへは、色黒く眼円く鼻ひしげ蓬頭ほうとうにして鬚ひげ延びたり。其状貌じょうぼうの醜怪しゅうかいなるに九助大いに怖れを為し、是や兼かねて赤倉に住むと聞きしオホヒトならんと思ひ急ぎ遁げんとせしが、過ちて石に蹶つまずき転び落ちて、却かえりて大人の傍に倒れたり。仰天し慴慄しゅうりつして口は物言ふこと能あたはず、脚あしは立つこと能はず、唯ただ手を合せて拝むばかり也。かの者等は何事か語り合ひしが、やがて九助を小脇こわきにかゝへ、嶮岨けんそ巌窟がんくつの嫌ひなく平地の如くに馳せ下り、一里余りも来たりと思ふ頃、其まゝ地上に引下して、忽たちまち形を隠し姿を見失ひぬ。九助は次第に心地元に復し、始めて幻夢の覚さめたる如く、首を挙げて四辺を見廻みめぐらすに、時は既に申さるの下りとおぼしく、太陽巒際らんさいに臨み返照へんしょう長く横たはれり。其時同じ業の者、手に/\薪を負ひて樵路しょうろを下り来るに逢ひ、顛末を語り介抱せられて家に帰り着きたりしが、心中鬱屈うっくつし顔色憔悴しょうすいして食事も進まず、妻子等色々と保養を加へ、五十余日して漸く回復したりと也。」 
二四 骨折り仕事に山男を傭いしこと

 

ただし山中においては、人は必ずしも山人を畏れてはいなかった。時としてはその援助を期待する者さえあったのである。例の橘氏の『西遊記』にもよく似た記事があるが、別に『周遊奇談しゅうゆうきだん』という書物に、山男を頼んで木材を山の口へ運ばせたという話を載せている。どのくらいまでの誇張があるかは確かめがたいが、まるまる根のない噂とは考えられぬのである。
豊前中津なかつ領などの山奥では、材木の運搬を山男に委託することが多かった。もっとも彼ら往来の場処には限かぎりがあるらしく、里までは決して出てこない。いかなる険阻も牛のごとくのそりのそりと歩み、川が深ければ首まで水に入っても、水底を平地のようにあるいてくる。たけは六尺以上の者もあって、力が至って強い。男は色が青黒く、たいていは肥えている。全身裸であって下帯したおびすらもないが、毛が深いので男女のしるしは見えぬ。ただし女は時に姿を見せるのみで出て働こうとはしない。そうして何か木の葉木の皮ようの物を綴って着ている。歯は真白まっしろだが口の香が甚だ臭いとまでいっている。労賃は握にぎり飯めしだとある。材木一本に一個二本に二個。持って見て二本一度に担かつげると思えば、一緒にして脇わきへ寄せる。約に背いて例えば二本に握り飯一つしか与えなかったりすると、非常に怒って永くその怨うらみを忘れない。愚直なる者だと述べている。
『西遊記』にいうところの薩摩方面の山わろなども、やはり握り飯を貰もらって欣然きんぜんとして運送の労に服したが、もし仕事の前に少しでも与えると、これを食ってから逃げてしまう。また人の先に立って歩むことを非常に嫌う。つまりは米の飯が欲しいばかりに出て働くらしいので、時としては、山奥の寺などに入ってきて、食物を盗み食うことがある。ただし塩気しおけのある物を好まぬといっている。以上二種の記録は少しずつの異同があり、材料の出処の別々なることを示している。これ恐らくは信用すべき一致であろうと思う。
同じ『周遊奇談』の巻三には、また秋田県下の山男の話を記して、九州の例と比較がしてある。ただし著者自分で見たという点が安心ならぬ故に、特に原文のまま抄出して置く。
「出羽国仙北より、水無銀山阿仁みずなしぎんざんあにと云ふ処へ越ゆる近道、常陸内ひだちないと云ふ山にて、路を踏み迷ひ炭焼小屋に泊りし夜、山男を見たり。形は豊前のに同じけれども力量は知れず。木も炭も石も何にでも負ひもせず。唯折々おりおり其小屋へ食事などの時分を考へ来るとなり。飯なども握りて遣つかはせば悦びて持ち退く。人の見る処にては食せず。如何いかにも力は有りさう也。物は言はず。たゞのさ/\立廻りあるくばかり也。尤もつとも悪きことはせず。至つて正直なる由よしなり。此処ここにては山女は見ず。又其沙汰さたも無し」。
山男はまた酒がすきで酒のために働くという話が、『桃山人夜話とうさんじんやわ』の巻三に出ている。「遠州秋葉の山奥などには、山男と云ふものありて折節おりふし出づることあり。杣そま・山賤やまがつの為に重荷を負ひ、助けて里近くまで来りては山中に戻る。家も無く従類眷属けんぞくとても無く、常に住む処更に知る者無し。賃銭を与ふれども取らず、只ただ酒を好みて与ふれば悦びつゝ飲めり。物ごし更に分らざれば、唖おしを教ふる如くするに、その覚り得ること至つて早し、始も知らず終も知らず、丈の高さ六尺より低きは無し。山気の化して人の形と成りたるなりと謂ふ説あり。昔同国の白倉しらくら村に、又蔵と云ふ者あり。家に病人ありて、医者を喚よびに行くとて、谷に踏みはづして落ち入りけるが樹の根にて足を痛め歩むこと能はず、谷の底に居たりしを、山男何処よりとも無く出で来りて又蔵を負ひ、屏風びょうぶを立てたるが如き処を安々やすやすと登りて、医師の門口かどぐちまで来りて掻き消すが如くに失せたり。又蔵は嬉しさの余りに之に謝せんとて竹筒ささえに酒を入れてかの谷に至るに、山男二人まで出でて其酒を飲み、大いに悦びて去りしとぞ。此事このこと古老の言ひ伝へて、今に彼地にては知る人多し」(以上)。又蔵が医者の家を訪れることを知って、その門口まで送ってくれたという点だけが、特に信用しにくいように思うけれども、酒を礼にしたら悦んだということはありそうな話であった。 
二五 米の飯をむやみに欲しがること

 

山人が飯を欲しがるという話ならば、他の諸国においてもしばしば耳にするところである。土屋小介君の前年知らせて下さった話は、東三河の豊川上流の山で、明治の初めごろに官林を払い下げて林の中に小屋を掛けて伐木していた人が、ある日外の仕事を終って小屋に戻ってみると、背の高い髭ひげの長い一人の男が、内に入って自分の飯を食っている。自分の顔を見ても一言の言葉も交えず、したたか食ってからついと出て往ってしまった。それから後も時折りはきて食った。物は言わず、またその他には何の害もしなかったという。盗んだというよりも人の物だから食うべからずと考えていなかった様子であった。
次に鈴木牧之ぼくしの『北越雪譜ほくえつせっぷ』にある話は、南魚沼うおぬま郡の池谷村の娘ただ一人で家に機はたを織っていると、猿のごとくにして顔赤からず頭の毛の長く垂れた大男が、のそりと遣って来て家の内を覗いた。春の初めのまだ寒いころで、腰に物を巻きつけて機にかかっていたために、怖ろしいけれども急に遁げることができず、まごまごとするうちに怪物は勝手元かってもとへまわり、竈かまどの傍に往って、しきりに飯櫃めしびつを指さして欲しそうな顔をした。かねて聞いていることもあるので、早速に飯を握って二つ三つ与えると、嬉しい顔をしてそれを持って去った。それから後も一人でいる時はおりおりきた。山中でもこれに出逢ったという人がそのころは時々あったが、一人でも同行者があると決して来なかったそうである。
また同国中魚沼郡十日町とおかまちの竹助という人夫は、堀之内へ越える山中七里の峠で、夏の或る日の午後にこの物に行逢うたことがある。白縮しろちぢみの荷物を路ばたに卸おろして、石に腰かけて弁当をつかっていると、やはり遣ってきたのが髪の長い眼の光る大男で、その髪の毛はなかば白かったという。石の上に置いた焼飯をしきりに指さすので、一つ投げてくれると悦んで食った。そうして頼みはせぬのにその荷物を背負って、池谷村の見えるあたりまで、送ってきてくれたという話である。
そこで改めて考えて見るべきは、山丈やまじょう・山姥やまうばが山路に現われて、木樵きこり・山賤やまがつの負搬ふばんの労を助けたとか、時としては里にも出てきて、少しずつの用をしてくれたという古くからの言い伝えである。これには本来は報酬の予想があり恐らくはそれが山人たちの経験であった。『想山著聞奇集しょうざんちょもんきしゅう』などに詳しく説いた美濃・信濃の山々の狗賓餅ぐひんもち、或いは御幣餅ごへいもち・五兵衛餅とも称する串くしに刺した焼飯のごときも、今では山の神を祭る一方式のように考えているが、始めてこの食物を供えた人の心持は、やはりまたもっと現実的な、山男との妥協方法であったかも知れぬ。中仙道は美濃の鵜沼うぬま駅から北へ三里、武儀むぎ郡志津野しづのという町で、村続きの林を伐ったときに、これは山というほどのところでもなく、ことに老木などの覆おおい繁しげったものもない小松林の平山だから狗賓餅にも及ぶまいと思って、何の祭まつりもせずに寄合って伐り始めると、誰も彼もの斧の頭がいつのまにかなくなり、道具もことごとく紛失していた。これはいけないとその日は仕事を中止し、改めて狗賓餅をして山の神に御詫びをしたら失せた道具がぼつぼつと出てきた。また同じ国苗木なえぎ領の二つ森山では、文政七八年のころ木を伐出す必要があって、十月七日に山入して御幣餅を拵こしらえたのはよいが、山の神に上げるのを忘れて、自分たちでみな食ってしまった。そうすると早速さっそく山が荒れ出して、その夜は例の天狗倒てんぐだおしといって、大木を伐倒す音が盛んにした。この時も心づいて再び餅を拵えて詫びたので、ようやく無事に済んだといっている。この地方では狗賓餅をするには、定きまった慣習があった。まず村中に沙汰さたをして老若男女山中に集まり、飯を普通よりはこわく炊かしぎ、それを握って串に刺し、よく焼いてから味噌をつける。その初穂はつほを五六本、木の葉に載せて清い処に供えて置き、それから一同が心のままに食うのである。甚はなはだうまい物だがこの餅をこしらえると、天狗が集まってくると称して村内の家では一切焼かぬようにしていた。故に一名を山小屋餅、江戸近くの山方やまかたでは、古風のままに粢餅しとぎもちと呼んでいた。今日我々が宗教行為というものの中には、まだ動機の分明せぬ例が多い。ことに山奥で天狗の悪戯などと怖れた災厄には、こういう人間味の豊かな解除手段もあったことを考えると、存外単純な理由がかえって忘却せられ、実験のようやく稀になるにつれて、無用の雑説が解説を重苦しくした場合を、推測せざるをえないのである。
少なくとも焼飯の香気には、引寄せられる者が山にはいた。食物を供えて悦ぶ者のあることを、里人の方でもよく知っていた。そうして双方が正直で信を守ることは、昔は別段の努力でもなんでもなかった。従ってまず与えると働かずに遁げてしまうというのを、あたかも当世の喰遁げ同様に非難しようとしたならば誤っている。以前は山人はなんの邪魔もしなければ御幣餅をもらうことができ、またそれをくれぬ時にはあばれてもよかった。特に出てなんらかの援助を試みたのは、いわば好意でありまた米の味に心酔した者の、やや積極的な行動でもあった。もし私たちの推測を許すならば、それは或いは山人の帰化運動の進一歩であったのかも知れぬ。次の章に述べようとする飛騨のオオヒトの場合のごとく、人は単に偶然に世話になった場合にも、謝礼に握り飯を贈れば相手の喜ぶことを知り、相手はまた狸兎の類を捕ってきて、これを答礼にして適当なりと考えたのも、やがては異種諸民族間の貿易の起原と同じかった。こうしてだんだんに高地の住民が、次第に大日本の貫籍かんじゃくに編入せられて行ったことは、自他のために大なる幸福であった。
越後南魚沼の山男が、猿に似て顔赤からずと伝えられるのは、一言の註脚を必要とする。これは単に猿ほどには赤くなかったというまでであったらしく、普通はこれと反対に顔の色が赤かったという例が少なくない。顔ばかりか肌膚全体が赤かったという噂さえ残っている。近世の蝦夷地えぞちに、いわゆるフレシャム(赤人)の警いましめを伝えた時、多くの東北人にはそれが意外とも響かなかったのは、古来の悪路王あくろおうや大竹丸おおたけまるの同類に、赤頭太郎などと称して赤い大人おおひとが、たくさんにきたという話を信じていたからである。それがひとり奥羽に限られなかった証拠は、例えば弘仁七年の六月に弘法大師が、始めて高野の霊地を発見した時にも、嚮導きょうどうをしたという山中の異人は、面赤くして長八尺ばかり、青き色の小袖こそでを着たりと、『今昔物語』には記している。眼の迷いとしても現代になるまで、大人は普通は赤い者のように、世間では考えていた。もっとも豊前中津領の山ワロのように、男は色青黒しという異例も伝えるが、此方には比較すべき傍証が多くない。また赤頭というのは髪の毛の色で、それが特に目についた場合もあろうが、顔の色の赤いというのもそれ以上に多かったのである。或いは平地人との遭遇の際に、興奮して赤くなったのかということも一考せねばならぬが、事実は肌膚の色に別段の光があって、身長の異常とともに、それが一つの畏怖いふの種たねらしかった。地下の枯骨ばかりから古代人を想定しようとする人々に、ぜひとも知らせておきたい山人の特質である。 
二六 山男が町に出で来たりしこと

 

これを要するに山にこういう人たちのいるということは、我々の祖先にとっては問題でもまた意外でもなかった。ただ豊前・薩摩の材木業者以上に、意識して彼らと規則立った交通をする折が乏しかったために、例えば禁止時代の切支丹伴天連きりしたんばてれんに対するごとく、甚だ精確ならざる風評と誇張とが、ついて廻ったのを遺憾とするばかりである。いわゆるヤマワロ(山童)の非常に力強かったこと、これは全く事実であったろうと認める。そうして怒ると何をするかわからぬというのも、また根拠ある推測であった。なおまた彼らが驚くべく足が達者だといったのも、通例平地の人々と接することを好まぬ以上は、急いで林木の茂みの中に、避け隠れたとすれば不思議はない。野獣を捕って食物としておれば、そのためには女でも足が速くなければならない。不思議はむしろ何かという場合に、かえって我々に近づこうとする態度の、明瞭に現れていたことである。しかもしばしば不幸なる誤解があって、人がその真意を酌くむことをえない場合がいかにも多かった。
『東武談叢とうぶだんそう』その他の聞書ききがきに見えているのは、慶長十四年の四月四日、駿府城内の御殿の庭に、弊衣へいいを着し乱髪にして青蛙あおがえるを食う男、何方いずかたよりともなく現れ来る。住所を問うに答なく、ただ手をもって天を指ざしたのは、天からきたとでもいうことかと謂った。家康は左右の者がこれを殺さんとするのを制止し、城外に放たしめたるに、たちまちその行方を知らずとある。この怪人は四肢ししに指がなかったともあるが、天を指さしたというからは甚だ信じがたい事であった。それからまた三十年余り、寛永十九年の春であった。土佐では豊永とよなが郷の山奥から、山みこと称する者を高知の城内へつれてきた。年六十ばかりに見える肉づきの逞たくましい大男で一言も物いわず、食を与うれば何でも食った。二三日の間留めておいてのちに元の山地へ放ち返したと、当時のいくつかの記録に載せてある。いずれも多くの人がともに見たのだから、まぼろしとは認めがたい話である。ことに「山みこ」という語が、すでにあの時代の土佐にあったとすれば、必ずしも稀有けうの例ではなかった。ミコはどう考えても神に仕える人のことで、天狗と同じく彼らを山神の使者、もしくは代表者のごとく見る考えが、吉野川上流の村にはあったことを想像せしめる。
この前後は土着開発に急なる平和時代で、その結果は山と平地との間に、人知らぬ攪乱こうらんがあったかと思われ、山人出現の事例がたくさんに報ぜられている。尾州名古屋というような繁昌はんじょうの土地にも、なおいずこからか異人が遣ってきて捕えられたといっている。太い綱で縛っておいたにもかかわらず、夜の間に逃げてしまい、しかもなんらの報復をもしては行かなかった。仙人などと違って存外に智慮もなく、里近くをうろうろしていたのをみると、やはり食物か配偶者か、何か切せつに求むるものがあったためで、半なかばはその無意識の衝動から、浮世の風に当ることにはなったのである。ことにその或る者が日向や越後の例のごとく、白髪であったと聴くに至っては、悠々ゆうゆうたるかも人生の苦、彼らはたこれを免れえなかったのである。
名古屋で異人を捕えたという話は、『視聴実記しちょうじっき』巻六に出ている。年代は知れぬが江戸の初期であろう。本文のままを次に抄録する。
「飯沼林右衛門は広井に住す。夜話の帰りに僕しもべの云ふには、南の路より御帰りなさるべし。それは道遠し。何故にさは云ふかと叱しつすれば、御迎おむかえに来るとき、東光寺の壁の下に、小坊主の一人立ちて在るを見しが、一目見て甚だ戦慄せんりつせし故に、かく申す也と答ふ。林右衛門笑ひながら、さあらばいよ/\行きて見るべしとて行くに、果して十二三ばかりの小僧あり。物を尋ぬれども答へず。之を捉とらへ引立てんとするに、甚だ力強し。されど林右衛門も強力なれば、漸ようやくに之を引立て、程ほど近ければ我家に連れ帰り、打擲ちようちやくをすれども曾かつて物を言はず、且つ杖つえの下痛める体も無く、何とも仕方無ければ、夜明けて再び糾明きゆうめいすべしとて、厩うまやに強く縛り附け置きしに、朝になりて見れば、何処へ行きけん其影も見えざりき。或は云ふ打擲の間に只ただ一声、あいつと云ひし故、其頃世間にては之を『あいつ小僧』と謂ひたりとなん。」
山男が市に通うということは、前の五葉山の猟人の話にもあったが、これまた諸処に風説するところである。津村正恭の『譚海たんかい』巻十一に、
「相州箱根に山男と云ふものあり。裸体にて木葉樹皮を衣とし、深山の中に住みて魚を捕ることを業とす。市の立つ日を知りて、之を里に持来りて米に換ふる也。人馴なれて怪しむこと無し。交易の外ほか多言せず。用事終れば去る。其跡あとを追ひて行く方を知らんとせし人ありけれども、絶壁の路も無き処を、鳥の飛ぶ如くに去る故、終ついに住所を知ること能はずと謂へり。小田原の城主よりも、人に害を作なす者に非ざれば、必ず鉄砲などにて打つことなかれと制せらるゝ故に、敢て驚かさずと云ふ。」
こうあるけれどももちろん噂話で、必ずしも小田原の御城下まで、この連中がうろうろしていたことを意味するのではあるまい。第一に川魚はこの海辺では交易にもならず、木の葉を着ていたら、なんぼでも人馴れて怪まずとは行くまい。ただこの人中にも一人や二人はいるかも知れぬという程度に、輿論よろんが彼らを尋常視していたことは窺うかがわれる。岩手県海岸の大槌おおつちの町などでも、市の日に言葉の訛なまりの近在の者でない男が、毎度出てきて米を買って行った。背は高く眼は円くして黒く光っていた。町の人が山男だろうといったそうである。しかしこれから奥地の山々には、今でもずいぶんと遠国から、炭竈すみがまに入って永く稼かせいでいる者が多い。言語風采の普通でないばかりに、一括してこれを山人に算入するのは人類学でない。ただ市という者の本来の成立なりたちが、名を知らぬ人々と物を言う点において、農民に取っては珍しい刺戟しげきであった故に、例えばエビスというがごとき神をさえ祭り、ここに信仰の新しい様式を成長せしめたのである。信州南安曇あずみでは新田しんでんの市、北安曇では千国ちくにの市などに、暮の市日いちびに限って山姥が買物に出るという話があった。山姥が出ると人が散り市が終りになるともいったが、一方には山姥が支払に用いた銭には、特別の福分があるようにも信じられた。ようやく利欲というものを実習した市人が、いかに注意深くただの在所の婆様ばばさまたちを物色していたかは、想像してみても面白い。その為でもあろうか今も昔話の一つに、山姥が三合ほどの徳利とっくりを携えて、五升の酒を買いにきたというのがある。笑った物は罰せられ、素直すなおにいう通りに量って遣ると、果して際限もなく入ったといい、またはこれにあやかって金持になったともいう。つまりは俵藤太たわらとうだの取れども尽きぬ宝などと、系統を同じくした歴史的空想である。
筑前甘木あまぎの町の乙子おとこ市、すなわち十二月最終の市日にも、山姥が出るという話が古くからあった。正徳四年に成る『山姥帷子記やまうばかたびらき』という文に、天正のころ下見村の富人大納言だいなごんなる者の下僕木棉綿もめんわたを袋に入れてこの日の市に売りに出で、途中に仮睡して市の間に合わなかった。眼が覚めてみると袋の綿はすでになく、そのかわりに一枚の帷子が入っていた。地じ麁あらくして青黄黒白の段染だんぞめであった。これも山姥の物と認められて、宝物として二百年を伝えたという話を書留めている。
それからこのついででないともう他にいう折はないが、絵かきたちだけの今でも遊んでいる空想境に、天狗の酒買い狸の酒買いなどという出来事がある。白鳥の徳利や樽たるに通かよい帳ちょうを添えて、下げて飛んでいる場面は後世風だが、由ってくるところは甚だ久しいようである。自分は別に今日の酒樽の原型として、瓢ひさごの盛んに用いられた時代を推測し、許由以来の支那の隠君子等が駒こまを出したり自分を吸込ませたり終始この単純なる器具を伴侶はんりょとしているには、何か民俗上の理由があるらしいことを、考えて見ようとしているのであるが、それは広大なる未解の課題だとしても、少なくとも山の人の生活に、この類の僅かな用具が非常なる便益であり、従って身を離さずに大切にしているのをみて、我々の祖先までがこれを重んじ、何か神怪の力でも具そなうるかのごとく、惚ほれこみ欲しがり、貰えば宝物にしようとしたことだけは、説かずにはおられぬような感じがする。『落穂余談おちぼよだん』という書の巻二に、「駿河の山に大なる男あり。折々おりおりは見る者もあり。鹿しか猿さるなどを食する由なり。久世太郎右衛門殿物語くぜたろうえもんどのものがたりに、前方此男出でけるに、腰に何やらん附けて居る故、或者あるもの近く寄りてそれを取り、還りて見れば高麗こうらいの茶碗ちゃわんなり。今に其子の方に持伝へて居おりける由。丙寅へいいん八月、宇右衛門殿物語り。甚兵衛殿も聞及ぶの由、同坐どうざにて語る」とある。これなどは山姥から、褒美ほうびにもらったというのと反して、手もなく山男から掠奪りゃくだつしたのであるが、最初どうしてこのような品を、彼らが拾い取りまたこれを大事にしていたかを考えると、小説家でない我々にも、いろいろな珍しい光景が空想せられる。例えば盗賊が始末に困って、山中に隠して置いたとか、大百姓の家が退転して、荒屋敷あれやしきになっているところへ、のそのそと来かかった山男が、光るから手に取上げて嗅かいだり嘗なめたりしていたとしたら、彼らの排外的なる社会にまでも、浸しみ入らずにはおかなかった異種文明の勢力の大きさの、想像に絶したものがあることが考えられる。
かつて旧知の鈴木鼓村君から、またこんな話を聴いたこともある。鈴木君は磐城亘理わたり郡小鼓こつづみ村の旧家の出で、それで号を鼓村こそんといっているが、今から百二十年ほど前の鈴木君の家へ、おりおりもらいにくる老人があった。人と物をいわず、物を遣ると口の中で唱となえ言ごとをするが、何をいうのか少しも聴取れない。飯は両手に受けて副そえ物ものもなしに、髯ひげだらけの顔をよごして食う。酒は大好きで、常に一斗二三升も入るかと思う大瓢箪おおひょうたんを携え来り、それに入れて遣るとすぐに持って帰る。衣類は着けているが、地合じあいも縞目しまめも見えぬほど汚れていた。生なまの貝をもらって、石の上で砕いて食ったといって、人は戯れにこれをアサリ仙人せんにんと呼んでいた。何処に住む者とも知れず、七日も十日も連日くるかと思えば、二月も三月も絶えてこぬこともあった。帰る際にその跡をつけた者があったが、山に入ると急に足早になり、たちまちにその影を見失った。小鼓こつづみは阿武隈あぶくまの川口であって、山は低いけれども峯は遠く連っている。このアサリ仙人は或る日の朝、鈴木氏の玄関の柱にその大瓢箪をくくりつけて置いて、それっきり永久に遣ってこなくなった。この話には誤伝がないともいえぬが、瓢箪だけは最近に至るまで、この家の宝物の一つであった。口は黄金ですこぶる名瓢であったという。
仙人を見縊みくびるのは本意でないが、これくらいの仙人ならば、まだ山男にも勤まると思う。ただ鈴木氏の永年の恩誼おんぎは厚かったにしても、最後に人知れずその瓢をくくりつけて去ったという一点だけが、彼らのとうてい企てえまいと思うロマンチックであった。この地方の山人が里に親しみ、山で木小屋の労働者を驚かすに止らず、往々村人の家を訪ねて酒食を求め、村人もまたこれを尊敬していたことは、次のオオヒトの条下に確からしい一例を掲げる。そうするとこれもまた同化帰順の一段階であって、瓢箪のごときもじつはあまりに大きいので、何か手ごろの容器とただそっと取り替えて往ったのかとも考えられる。 
二七 山人の通路のこと

 

今日のいわゆるアルプス連れんなどは、どういう風にしているか知らぬが、猟師・木挽らのごとくたびたび山奥に野宿せねばならぬ人々は、久しい経験から地形に由って、不思議の多かりそうな場処を知って力めてこれを避けていた。おりおりこれは聴く話であるが、深山の谷で奥の行止まりになっているところは無事であるが、嶺みねが開けて背面の方へ通じている沢は、夜中に必ず怪事がある。素人しろうとは魔所などといえば、往来不可能の谷底のように考えるけれども、事実はかえって正反対であるという。或いはまた山の高みの草茅くさかやの茂みの中に、幽かすかに路らしいものの痕跡こんせきを見ることがあると、老功な山稼人やまかせぎにんは避けて小屋を掛けなかった。即ち山男・山女の通路の衝しょうなることを知るからである。国道・県道という類の立派な往還でも、それより他に越える路のないところでは、夜更けて別種の旅人の、どやどやと過行く足音を聴いた。峠の一つ屋などに住む者は、往々にしてそんな話をする。もちろん或る場合には耳の迷いということもありうるが、山人とても他に妨げさえなくば、向うの見通される広路を行く方を、便利としたに相異ないのである。
百五十年ほど前に三州豊橋の町で、深夜に素裸すっぱだかではだしの大男が、東海道を東に向って走るのを見た者がある。非常な速歩はやあしで朝日の揚あがるころには、もう浜名湖の向うまで往っていた。水中に飛込んで魚を捕え、生のままで食っているのを見て始めて怪物なることを知ったと、『中古著聞集ちゅうこちょもんじゅう』という豊橋人の著書には書いてある。彼らに出逢ったという多くの記事には、偶然であった場合に限って、彼らの顔にもやはり驚駭きょうがいの色を認めたといっている。畏怖も嫌忌も恐らくは我々以上であって、従って必要のない時にはたいてい繁しげみ隠れなどから注意深く平地人の行動を、窺っていたのであろうと想像する。
菅江真澄すがえますみの『遊覧記』三十二巻の下、北秋田郡の黒滝の山中で路に迷った条に、「やゝ山頂とおぼしき処に、横たはる路のかたばかり見えたるに、こは路ありあな嬉しと言へば、案内の者笑ひて、いづこの嶺にも山鬼さんきの路とて、嶺の通路はありけるもの也。此道を行かば又何処とも無く踏迷ひなんとて、尚なお峯に登る云々」とあった。故伊能嘉矩氏の言には、陸中遠野地方でも山の頂の草原の間に、路らしいものの痕迹こんせきあるところは、山男の往来に当っていると称して、露宿の人がこれを避けるのが普通だったとの話である。阪本天山翁、宝暦六年の『木曾きそ駒こまヶ岳たけ後一覧記のちのいちらんき』に、前岳まえだけの五六分目、はい松の中に一夜を明す。ここに止宿のことは村役人・人足までも不承知にて、かれこれと申すにつきその趣旨を尋ねて見ると、すべてかようの山尾根先おねさきは天狗の通路であって、樵夫きこりの輩やから一切夜分やぶんは居らぬことにしていると述べた。しからば村方むらかたの者どもは、山の平に廻って止宿せよと申聞け、自分だけ其場に止宿したと記している。紀州熊野でも山中に小屋を掛ける人たち、谷の奥が行抜けになって向う側へ越えうる場所はこれを避け、奥の切立って行詰まりになった地形を選定するのを常とした。その理由は行抜けのできる谷合たにあいは、通り物の路みちに当っているからだと、南方熊楠氏に告げた者があるそうだ。
そうかと思うと一方には、人が開いた新道を、どしどし彼らが利用している場合もあるらしい。秋田から仙北郡の刈和野かりわのへ越える何とか峠には、頂上に一軒家の茶店があった。秋田の丹生氏がかつてこの家に休んだ時、わたしらももう何処かへ引越したいと、茶屋の主がいうので、どういうわけかと訊ねてみると、じつは夜分になると、毎度のように山男が家の前を通る。太平山たいへいざんから目々木めめきの方へ越えて行くらしく、大きな声で話をしてどやどやと通ることがある。この峠は疑なく山鬼の路らしいから、永くはおられませぬと答えたそうである。遠野でも町から北へ一里ばかり入って、柏崎の松山の下を曲がる辺に、路が丁字に会してその辻に大きな山神石塔を立ててある。近い年或る人が通行していると、山から下りてくる足音がするのを、何の気なしに出逢うて見たところが、赤い背の高い眼の怖ろしい、真裸の山の神であった。はっと思うなり飛退とびのいてしまって、自身はそこに気絶して倒れた。石塔はすなわちその記念の為であった。『遠野物語』にもその話は筆録しておいたがかなり鋭敏な鼻と耳との感覚を持ち、また巧みに人を避けるらしい山人にも、なお人間らしき不注意と不意打とはあったのである。第一昼間人間の作っておく路などを、降りてきたのは気楽過ぎていた。
山鬼さんきという話は安芸の厳島いつくしまなどでは、久しく天狗護法てんぐごほうの別名のごとく考えられている。或いは三鬼とも書いてその数が三人と解する者もあったらしい。御山みせんの神聖を守護して不浄の凡俗のこれに近づくを戒め、しばしば奇異を示して不信者の所業を前もって慎つつしましめようとしていた。最も普通の不思議は廻廊の板縁いたべりの上に、偉大なる足跡を印して衆人に見せることである。或いは雪の朝に思いがけぬ社の屋おくの上などにこれを見ることもあった。その次は他の地方で天狗笑いまたは天狗倒しともいうもので、山中茂林の中に異常の物音を発し、或いはまた意味不明なる人の声がすることもあった。これを聴いて畏れおののかぬ者のなかったは尤もである。秋田方面の山鬼ももとは山中の異人の汎称はんしょうであったらしいのが、のちには大平山上に常住する者のみをそういうことになり、ついには三吉大権現だいごんげんとも書いて、儼然げんぜんとして今はすでに神である。しかも佐竹家が率先して夙つとにこれを崇敬すうけいした動機は、すぐれて神通力という中にも、特に早道はやみち早飛脚はやびきゃくで、しばしば江戸と領地との間に吉凶を報じた奇瑞きずいからであった。従って沿道の各地でも今なお三吉様が道中姿で、その辺を通っていることがあるように考え、ことにその点を畏敬いけいしたのであった。神を拝む者はぜひともその神の御名みなを知らなければならぬというのは、ずいぶん古くからの多くの民族の習性であった。天狗がいよいよ超世間のものと決定してから、太郎坊・三尺坊等の名が始めて現れたことは、従来人の注意せざるところであった。どういう原因でそんな名前が始まったかを考えてみたら、また多くの新たなる答が出てくることであろう。 
二八 三尺ばかりの大草履のこと

 

また山男の草履ぞうりを見たという話がある。夏冬を打通して碌ろくな衣裳いしょうも引掛けていなかった者に、履物はきものの沙汰さたもちとおかしいとは思うが、妙にその噂が東部日本の方には拡がっている。信州木曾辺はことにこれを説く者が多い。出羽の荘内の山中でも杣人そまびとがこれを拾ってきて、小屋の入口の柱に吊つるして置くと、夜のうちに持って還ったか、見えなくなったなどといっている。上州の妙義みょうぎ・榛名はるなでも猟師・木樵の徒、山中でこの物を見るときは畏れてこれを避けたと、『越人関弓録えつじんかんきゅうろく』という書には説いてある。
その草履の大きさは三四尺、これを山丈の鞋わらじと称すとある。『四隣譚叢しりんだんそう』などによれば、信州は千隈川ちくまがわの水源川上村附近の山地においても、山姥の沓くつの話を信じている。藤蔓ふじづるを曲げ樹の皮をもって織ってあるなどと、なかなか手のこんだもののように言い伝えているのである。大きいと言えばすぐに長さ三尺の四尺のと書かなければ承知せぬが、かりにこれに相応するような大足の持主があるにしても、そんな物を履はいて山の中があるけたものでない。我々風情ふぜいの草履ですらも、野山を盛んに飛廻っていた時代には、アシナカ(足半)と称するものを用い、または単に繩なわで足の一部分を縛しばって、たいていは足一杯の草履は履かなかった。すなわち足趾そくしのつけ根の一番力の入る部分を、保護するだけをもって満足したのであった。
ただしこの類の話などは、誇張妄誕こちょうもうたんといわんよりも、むしろ幻覚であったかと思う。見たかと思ったらすぐになくなっていたというようなもので、確かな出来事ではなかったかと思う。いろいろ製法や材料配合の話はあっても、なおどこかで採集してきて博物館にでも陳列せられぬ限り、自分たちはこれをもって一種の昔話としておきたいのである。もちろん話にしたところで根原がなければならぬ。作って偽を説く者はあっても、そうみなが信ずるはずはないからである。ただ話ならば少しずつ成長して行くことはあるかも知れぬ。陸中二戸にのへ郡の浄法寺じょうほうじ村などで、深山に木を伐る者の発見したというのは、例のマダの樹の皮で作った大草履で、その原料のマダの皮が、およそ馬七頭につけて戻るくらいの分量であったと話している。面白いといって聴くのはよいが、全体に今ではもう話になりすぎている。それというのが風説のみ次第に高く、実際に見た出逢ったという人の例が、だんだん少なくなって行く結果である。
山丈・山姥の鞋という話は、我々の持っていた沓掛くつかけの習俗、すなわち浅草仁王門の格子こうしの木にむやみな大わらんじの片足をぶらさげた行為などと比較して考えて見るべきものかと思う。現在各地の街道筋に、沓掛という地名のあるところには、通例は道の神の森または老樹があって、通行の人馬の古沓ふるぐつなどが引掛けてある。或いは下から高く投げ上げて占うらないをしたという地方もあり、または支那でいう鮑魚神ほうぎょしん同然にその草鞋の喬木きょうぼくの梢にあるを異として、神に祀った話もある。霊山の麓などでは山の土を遠く持ちだすことを山神悪にくみたもうという信仰もあって、必ず登山の鞋を脱いで行く場処もあるのだが、別に神々に新たなるものを製して献上する例も弘く行われていた。山の神は一本足だと称して、大きな片足だけを供える。竈かまどの神は馬でありもしくは馬に乗ってくるというので、新しい馬の沓を上げていた根原は、おそらく絵馬えまなども同様に、これを召しておわしませ、これを召して立たせたまえと、神昇降の時刻を暗示する趣旨かと思うが、もちろん信仰はだんだんに変化している。ことに路の傍や辻境つじざかいなどに偉大な履物を作って置いた動機には、明白に魔よけの意味が籠こもっていた。いつの世から始まったことか知らぬが、こんな大きな草履を用いる者が、この村にはいるから馬鹿にしてはいけないということを、勝手を知らぬ外来者、すなわち鬼や疫病神やくびょうがみに知らしめるために、一種の示威運動としてこうするように、解釈している者も少なくはないのである。敵に対しては詐術さじゅつも正道と、つい近ごろまで我々も信じていた。そうかと思うと海南の小島においては、潮に漂うて海の外から、そんな大草履が流れてきたといって、畏れ慎んでいた話もあった。この方が多分一つ前の俗信で、つまりは己おのれの心に欲せざるところを、人に向かって逆用しようとしたものであるらしいのだ。
だから第二の仮定説としては、山人の大草履も自分のためには必要でないが、世人を畏嚇いかくする目的でわざわざこれを作り、なるべく見られやすいところにおいたものとも考えられぬことはない。しかしそのような気の利いた才覚は、ついぞ彼らの挙動から見出したことがないから、今ではまだそれまで買いかぶることができないのである。もっとも深山の奥に僅少の平和を楽む者が、いや猟人かりうどだの岩魚釣いわなつりだの、材木屋だの鉱山師だの、また用もない山登りだのと、毎々きて邪魔をすることは鬱陶うっとうしいには相違ない。やめて欲しいと思っていることは、此方からでも想像することができた。そこに単独の約束が起こり法則が生じて、のちようやく宗教の形になって行くことは、いずれの民族でも変りはなかった。しかも冷淡なる第三者の目をもって判ずればそは単に一方だけの自問自答であって、果して此方の譲歩が先方の満足と相当ったか否かは、確かめたわけではないのである。深山の中でも特に不思議の多い部分を我々は魔所または霊地と名づけてあえて侵さなかった。それが自然に原住土人にとっての一種のレザーヴとなったことは、原因ともどちらとでも解せられる。いわゆる入いらず山に強しいて入った者の、主観的なる制裁は多様であった。最も惨酷なるものは空へ引きあげて、二つに割さいて投げおろすといった。或いは何とも知れぬ原因で躓つまずいたり落ちたりして傷きずつきまたは死んだ。永遠に隠されてしまって親兄弟を歎かしめることもある。およそ尋常邑里ゆうりの生存において予知すべからざる危難は、ことごとく自ら責め深く慎むべき理由としてこれを認めたのが山民の信仰であった。
それ以外にも予告警戒のごときものはいくらもあった。天狗の礫つぶてと称して人のおらぬ方面からぱらぱらと大小の石の飛んできて、夜は山小屋の屋根や壁を打つことがあった。こんな場合には山人が我々の来住を好まぬものと解して、早速に引きあげてくるものが多かった。こればかりは猿さえもするから、或いは山人の真の意趣に出たものと考えてもよいが、それがいつでも合図に近くして、かつてこれによって傷いたという者を知らず、石打の奇怪事は都邑の中にも往々にして起こり、別に或る種の隠れた原因があるらしいから、まだなんとも断定はできない。それから足音や笑い声の類は、偶然にこれを聴いた者がおじ恐れたというだけで、もとよりそのような計画のあったことを、立証することは容易でない。ことに最も有名なる天狗倒しの音響に至っては、果して作者が彼らであったかということさえ、なお疑わなければならぬのであった。或いは狸の悪戯などという地方もあるが、本来跡方あとかたもない耳の迷いだから、誰の所業と尋ねてみようもない。深夜人定まってから前の山などで、大きな岩を突き落す地響がしたり、またはカキンカキンと斧の音が続いて、やがてワリワリワリワリバサアンと、さも大木を伐きり倒すような音がする。夜が明けてからその附近を改めて見ると、一枚の草の葉すら乱れてはいなかった、などというのが最も普通の話で、こういう出来事があまり毎度繰り返されると、山が荒れると称して人が不安を感じ始め、ついにはその谷を「よくないところ」の一つに算かぞえて、避けて入らぬようにもなるのである。しかし多勢が一度に聴いても幻覚はやはり幻覚である。或いは同じ物音をともに聴いたと思っても、甲の暗示が乙を誘い、また丙の感じを確かにしたのかも知れぬ。東京あたりの町中でも深夜の太鼓馬鹿囃子たいこばかばやし、或いは広島などでいうバタバタの怪、始めて鉄道の通じた土地で、汽笛汽鑵車きかんしゃの響を狐狸こりが真似するというの類、およそ異常に強烈な印象を与えたものが、時過ぎて再びまぼろしに浮ぶ例は、じつは他にも数限りがないので、たまたま山の生活と交渉のある場合ばかりこれを目に見えぬ山の人の神通に托するがごときは、むしろ我々の想像の力の致すところであったかも知れぬ。
ただしこれをも我々の実験の中に算えて、見た出逢ったというのと同じ程度の、信用を博している物語は多いのである。少なくともその二三の例は、のちの研究者のために残しておく必要があると思う。
『白河風土記しらかわふどき』巻四に、「鶴生つりう(福島県西白河郡西郷村大字)の奥なる高助たかすけと云ふ所の山にては炭竈すみがまに宿する者、時としては鬼魅きみの怪を聴くことあり。其怪を伐木坊きりきぼう又は小豆磨あずきとぎと謂ふ。伐木坊は夜半に斧伐ふばつの声ありて顛木てんぼくの響を為す。明くる日其処を見るに何の痕あとも無し。小豆磨は炭小屋に近づきて、中夜に小豆を磨する音を為す。其声サク/\と云ふ。出でて見るに物無し、よりて名づくといへり。」
『笈埃随筆きゅうあいずいひつ』巻一に、「途中にて石を撃たるゝこと、土民は天狗の道筋に行きかゝりたるなりと謂ふ。何いずれの山にても山神の森とて、大木二三本四五本も茂り覆ひたる如くなる所は其道なりと知ると言へり。佐伯了仙と言ふ人、豊後杵築きづきの産なり今は京に住めり。此人の云ふ。国に在りし時、雉子きじを打ちに夜込よごみに出でたり。友二三人と共に鳥銃ちようじゆうを携へて山道にかゝりしに、左右より石を投げたり。既に当りぬべく覚えて大に驚きたる中に、よく心得たる者押静おししずめ、先づ下に坐ざせしめて言を交へずしてある程に、大石の頭上に飛びちがふばかりにて其響夥おびただしかりしが、暫くして止みければ、立上りて行きける。其友の謂ふやう、此は天狗礫てんぐつぶてと云ふものなり。曾かつて中あたるものには非ず。若もし中れば必ず病むなり。又此事に遭へる時は必ず猟無し。今夜は帰るには道遠ければ是非なく行くなりと曰ふ。果して其朝は一ひとつも獲物なくして帰りたりといへり。」
『今斉諧きんせいかい』巻二に、「加賀金沢の士篠原庄兵衛、或時深山に入り、人跡絶たえたる谷川の岸を行きしに、水辺には蘆あしすき間も無く茂りたるが、其あなたに水を隔てゝ、人のあまた対坐して談笑する声聞ゆ。篠原之これを怪しみ、自ら行きて見んとすれど水に遮さえぎられて渡ることを得ず。連れたる犬にけしかけたれど亦また行かず。因つて其犬の四足を捉とらへ、力を極めて之を蘆原の彼方かなたへ投げたるに、向ふよりも直ちに之を投げ返す。之を見て畏おそれを抱いだき家に帰る。犬には薬など飲ませたれど、終に死したり。」
『北越奇談ほくえつきだん』に、「神田村に鬼新左衛門と云ふ者あり。殺生せつしようを好む。村の十余町奥なる山神社の下の渓流に水鳥多し。里人は相戒めて之を捕りに行くことなかりしを此男一人雪の中を行き、もち繩なわを流して鳥を取ること甚だ多し。一夜又行きしも少しも獲物無きことあり。暁あかつきに及び、何者とも知れず氷りたる雪の上を歩む音あり。新左衛門小屋の中より之を窺うかがふに、長たけ一丈余りの男髪は垂れて眼を蔽へり。新左衛門のすくみ居たるを、小屋の外より箕みの如き手を出して攫つかみ上げ、遙かに投げ飛ばしたりと思へば気絶す。翌朝女房より村長に訴へて谷々を捜せしに、谷二つ隔てゝ北の方に新左の雪中に倒れたるを見付けたり。其後生き返り殺生は止めたれど、三年ばかりにして死したりと云ふ。深山の奇測り難し。」
次も同じく越後の事であるが、これは会津八一あいづやいち氏の話を聴いたのである。妙高山の谷には硫黄いおうの多く産する処があるが、天狗の所有なりとして近頃までも採りに行く者は無かった。ところが先年中頸城なかくびき郡板倉いたくら村大字横町の何右衛門とかいう者、これに眼を着けて十数名の人夫を引率し、この山に入って谷間に小屋を掛け日中は硫黄を採取し夜はこの小屋に集まって寝た。或る夜深更に容易ならぬ物音がして小屋も倒れんばかりに震動したので、何右衛門を始め人夫一同も眼をさまし先ず寒いから火を焚たこうとしていると、戸口の方から顔は赤く白い衣物で背の高い人が入って来た。皆の者は怖しさに片隅かたすみに押しかたまり、蒲団ふとんを被かぶって様子を伺っていると、かの者はずかずかと板の間まに上って来たようであったがその後の事はわからず。夜の明けるのを待って見れば、かの何右衛門だけは首を後向うしろむきに捻ねじ切られてつめたくなっていたと謂う。今でもこの谷に入って若し硫黄の一片でも拾おうとする者があれば、必ず峰の上から大声で、そこ取んなアとどなる者があると謂い、また首を捻じられるからと少しでも侵す者は無いそうだ。またこの辺の村に往って天狗などはこの世に無いものだとでも言おうものなら、必ずこの何右衛門の話を聞かされる。この時の人夫の一人に、近い頃まで生きていたのであって、その老人から直接にこの話を聴いた者は幾人もあったのである。 
二九 巨人の足跡を崇敬せしこと

 

山人の丈たけの高いということは、古くからの話であったと見えて、オオヒトという別名も久しく行われていた。これもオオヒトというからには、ちっとやそっとでは承知ができず、見上げるような高い樹の幹に、皮を剥はいだ痕があったとか、五六尺もある萱原かやはらに、腰から下だけが隠れていたとか、または山小屋を跨またいでゆさぶったとか、いろいろな珍しい話を伝えているかと思うと、一方には我々とたいてい同じくらいの、やや頑丈がんじょうなる体格であったといい、六尺より低いのは見たことがないという類の、穏健なる記録もまたいくらもあったので、きのこか何かででもない以上は、そのような大小不揃ふぞろいの物があるわけはないから、すなわちこれも又聞またぎきの場合の掛値かけねであったことを、想像しえられるのである。
或いは雨後の泥の上や雪中に印した足跡を見て、その偉大なのに驚いたとも伝えられる。なかにはあんまりえらい大股おおまたであるくのを、やはり大昔から人が想像している通り、一本足で飛びまわるのが真まことらしいと考えていた人さえあった。それらの観察の精確を欠いていることは、論のない話であるが、もともと大きいが故にこれを山男の足跡だろうといった人があるとすれば、すなわち迷信の原因は別にすでにあったものと認めなければならぬ。
しかも日本は古くから、足跡崇敬の国であった。神明仏菩薩ぼさつ勇士高僧の多くが岩石などの上に不朽の跡を遺して、永く追慕を受けている国であった。いわば山人思想の宗教化ということには、正しく先蹤せんしょうがあったのである。我々平民の祖先は、国土平定というごとき記念すべき大事業を、太古の巨神の功績に帰していたのみならず、諸国の地方神に随従して神徳を宣伝したという眷属けんぞくの小神にも、また大人の名を附与してその遺跡と口碑とを保存し、さらにオオヒトが山にいる異種人の別名なることを知った場合でも、なお単なる畏怖の念以上のものをもって、その強力の跡を拝もうとしていたのである。
東部日本の諸県において、オオヒトといったのは山人のことであった。もちろん大きいからの大人であろうが、その大きさが驚くべく一様でなかった。見た人が次第に少なく、語る人ますます多かりし証拠である。今に至っては実状を確かめることはむつかしいが、区々の異説は及ぶ限りこれを保存しておかねばならぬ。
一 陸奥と出羽との境なる吾妻山の奥に、大人と云ふものあり。蓋けだし山気の生ずる所なり。其長たけ一丈五六尺、木の葉を綴りて身を蔽ふ。物言はず笑はず。時々村の人家に入来る。村人之を敬すること神の如く、其為に酒食を設く。大人は之を食はず、悉ことごとく包みて持帰る也。村の子供時として之に戯るゝことあれども、之を怒りて害を作なせしことを聞かず。神保甲作の話なり(『今斉諧』巻四)。
二 上野黒竜山不動寺は、山深く嶮岨けんそにして、堂宇どうう其間に在り。魔所と言ひ伝へて怪異甚だ多し。山の主ぬしとて山大人と云ふものあり。一年に二三度は寺の者之を見る。其坐ざするとき膝ひざの高さ三尺ばかりあり。偶※(二の字点、1-2-22)たまたま足跡を見るに五六尺もありて、一歩に十余間を隔つと云へり(『日東本草図彙』)。
三 高田の大工だいく又兵衛と云ふ者、西山本に雇はれありしが、一夜急用ありて一人山道を還りしに、岨路そばみちの引廻りたる処にて図らずも大人に行逢ゆきあひたり。其形そのかたち裸身にして、長は八尺ばかり、髪肩に垂れ。眼の光星の如く、手に兎うさぎ一つ提さげて静かに歩み来る。大工驚きて立止れば、かの大人もまた驚けるさまにて立止りしが、遂に物も言はず、路を横ぎりて山に登り走りしとぞ(『北越雑記』巻十九)。
四 飛騨の山中にオホヒトと云ふものあり。長は九尺ばかりもあるべし。木の葉を綴りて衣とす。物をも言ふにや之を聞きたる人無し。或猟師山深く分け入りて獣多き処を尋ねけるが思はず此物に逢ひたり。走り来ること飛ぶが如し。遁るべきやうなければせん方かた無くせめては斯かくもせば助からんかと、飢うえの用意に持ちたる団飯にぎりめしを取出とりいで、手に載せて差出せしに、取食ひて此上無く悦べる様なり。誠に深山に自ら生れ出でたる者なれば、かの洪荒こうこうと云ふ世の例も思ひ出でられてかゝる物食ひたるは始めての事なるべしと思はる。暫くありて此者狐きつね貉むじな夥おびただしく殺しもて来り与へぬ。団飯の恩に報いる也けり。猟師労無くして獲物多きことを悦び、それよりは日毎ひごとに団飯を包み行きて獣に換へ帰りたり。然るを隣なる猟師之を怪み、窃ひそかに窺うかがひ置きて、深夜に彼に先だち行きて待つに、思はず例の者に行逢ひたり。鬼とや思ひけん弾たまこめて打ちたり。打たれて遁げければ猟師も帰りぬ。前の猟師此事を聞きて、あな不便の事やとて、猶なお山深く尋ね入り峰より下を見たるに、此者谷底に倒れ伏し居たるを、同じ様なる者の傍に添ひたるは介抱するなるべし。若し近づきなば他に打たれし仇あだを、我に怨みやせんと怖しくなりて止やみぬ。斯かくて後には死にたるなるべしと、後に此事を人に語りしを、人の伝へたりし也。深き山にはかゝる者も有りけるよとて、細井知慎ほそいともちか語れり(『視聴草みききぐさ』第四集巻六所録「荻生徂徠手記」)。
巨人の足跡を見て感動した例は、決して支那の昔話だけでない。小田内通敏君が聴いてきて教えてくれた話には、秋田市楢山に住む丹生某氏、狩が好きで方々をあるき、或る年仙北郡神宮寺山の麓の村で、人の家に一泊したところ、一つの紙袋に少しの砂を入れたのが、神棚に載せてあった。主人にそのわけを尋ねると、つい近いころに、山の下を流れる雄物川の岸で草を苅っていると、不意に大きな物音がして、山から飛降りた者がある。よく見たら山男であった。怖ろしいから茅かやの蔭に隠れていて、のちにその場所に行って見れば、川原に甚だ大きな足跡があった。あまり珍しいこと故、村の人たちを呼んできて見せると、一同は崇敬のあまり、その足跡の砂を取分けて各自の家に持還もちかえり、こうして神棚に上げておくのだと答えたそうである。
雪の上に大きな足跡を見たという話はまだ沢山ある。その二三をあげてみると、
一 遠州奥山おくやま郷白鞍山しらくらやまは、浦川の水源なり。大峰を通り凡おおよそ四里、山中人跡稀まれなり。神人住めり。俗に山男と云ふ。雪中に其跡を見て盛大なることを知る。其形を見る者は早く死す(『遠江国風土記伝』)。
二 駿河安倍あべ郡腰越こしごえ村の山中にて、雪の日足跡を見る。大きさ三尺許ばかり、其間九尺ほどづゝ三里ばかり、小路に入りて続けり。又此村の手前に小川あり。此川を一跨ひとまたぎに渡りしと覚えしは、其川向かわむこう二三間げんにも足跡ありしと。之を山男と謂ひ、稀には其糞ふんを見当ることあるに鈴竹すずたけといふ竹葉を食する故糞中に竹葉ありといふ。右の村々は大井川の川上なり。府中江川町三階屋仁右衛門話したり(『甲子夜話かつしやわ』)。
三 小虫倉山、虫倉明神、公時きんときの母の霊を祭る。因つて阿姥おうば明神社とも云ふ。山姥の住めりしといふ大洞二つあり。近年下の古洞に、山居の僧住せしより、山女之を厭いとひ去ると謂ふ。其以前は雪の中に、大なる足跡を見たり(『信濃奇勝録』巻二)。
四 文政中、高岡たかおか郡大野見おおのみ郷島の川の山中にて、官より香蕈こうじんを作らせたまふとき雪の中に大なる足跡を見る、其跡左のみにて一二間を隔て、又右足跡ばかりの跡ありこれは一つ足と称し、常にあるものなり。香美かみ郡にもあり(『土佐海』続編)。
土佐では山人を一般に山爺やまじいと呼んでいる。一本足でおまけに眼も一つだと信じ、これにあったという人さえあった。紀州熊野の深山でも、一たたら、または一本踏鞴たたらなどと伝え、かつて勇士に退治せられた話がある。その他の府県でも、山に一本足の怪物がいるという説は多いが、単に雪の上の足跡から、推測しうべきことではもちろんなかった。すなわち実験以前から、そういう言い伝えがすでにあったので、誤信ながらもそれにはまた、別途の説明があったのである。
また雪の上ではなくとも、足跡の不思議は久しい以前から、我々の祖先を驚かしていた。信州戸隠でも大雨ののち、畑などの土に二三尺の足跡のあるのをたびたび見たといい、越後の苗場山なえばやまでも雨後に山上に登れば、長さ尺余の足跡を見ることがあると、『越後野志えちごやし』巻六に書いている。播州揖保いぼ郡黒崎の荒神山に、萩原孫三郎の墓と伝うる古塚があって、石の祠ほこらが安置してあった。嘉永の初年とかに、或る人この辺を拓ひらいて畑としたところが、一夜の中に踏荒ふみあらして大きな人の足跡があった。そうしてその家は全家発狂してしまったと、『西讃府志せいさんふし』巻五十一に書いている。
『仙梅日記せんばいにっき』には駿州梅うめヶ島しま・仙せんヶ俣またの旅行において、一人の案内者が山中さんに話した。雪の後に山男の足跡を見ることがある。二尺ほどの大足である。門野かどのというところの向う山には、山男が石に歩みかけた足跡がある。岩が凹へこんで足の形を印している。いかほどの強い力だろうかといったそうである。
こういう人々の心持では、巌石の上に不朽の痕跡こんせきを止めることも、大人ならば不可能でないと思ったのであろうが、親しく実際についてみると、ほとんとその全部が山男たちの関与するところではなかった。大人足跡という口碑は、すでに奈良朝期の『常陸風土記ひたちふどき』大櫛岡おおくしおかの条にもある。丘壟おかの上に腰かけて大海の蜃おおうむぎを採って食ったといい、足跡の長さ四十余歩、広さは二十余歩とある。『播磨風土記はりまふどき』の多可郡の条にも巨人が南海から北海に歩んだと伝えて、その踰こゆる迹処あとどころ数々あまた沼を成すと記してある。そこで問題は我々の前代の信仰に別に大人と名づけた巨大の霊物があって、誤ってその名を山人に付与したのではないかということになるが、もしそうならばこれとともに足跡に関する畏敬いけいの情までも、移して彼に与えたことになるのである。すなわち羽後の農民などが足跡の砂を大切にしたのはむしろ山人史末期の一徴候で、事蹟が不明になったためにかえって一層これを神秘化したものでないかとも思われるのである。
現在の大人足跡は中国に最も多く、四国・紀州等はこれに次ぎ、いずれも地名となって各国数十百を算する。しかし他の地方とても決して絶無ではなく、ことに偉大な足跡は到るところに散在しているが、その或るものは単純にこれを鬼の足跡ともいい、或いはまた大太法師とも唱えている。関東の各地でダイラボッチ、もしくはデエラ坊の話というのもこれで、多くはいわゆる足跡に伴なう伝説である。東京の近郊などにも現にいくつかあるが、全国を通じて大体にこれを二様に区別することができる。その一つは前の駿州仙ヶ俣の場合のごとく、岩石の上に跡を印したもので、不思議は主として石のごとく堅いものを踏み窪くぼめたという点にあり、従って独り山人のみにあらず古来の偉人勇士例えば弁慶・曾我五郎という類の人々までが作者である故に、その形はさして大きくない。そうしてその石はたいてい崇拝せられている。これに反して第二の種類にはいくらでも大きなものがあって、従って鬼物巨霊にのみ托せられる。東京近くでは、京王電車の代田だいだという停留所の辺には、昔大太法師が架けたという橋があり、それからわずか南東にある足跡は、足形こそしてはいるが、面積は約三町歩、内部は元もと杉林であったが、今では文化住宅でも建っているかも知れぬ。踵かかとにあたるところには地下水の露頭があり、その傍には小さな堂もあった。それからまた東南方には二ヶ処の足跡あり、駒沢村にあるものは更に偉大であった。いずれも泉の噴出に起因する窪地で、形状は足跡とも見られぬことはなかった。上総の鶴枝つるえ村で見たものは、小川を隔てて双方の岡の上にあった。その一つはすでに崩れているが、他の一つは約一畝歩せぶ、四周の樹林地の中にこれだけが土地台帳で別筆となって、その分を開いて麦か何かが播まいてあった。甲州信州辺のデエラボッチャも、たいていは孤立した湿地であったが、そうでない足跡もあるようである。何にしても附近と地形が違って、それがほぼ足形をしておれば、大人の跡といったのである。
大人は富士を脊負うて、いずれへか持って行こうとしたり、または一夜に大湖を埋めようとして簣きを以て土を運んだ。その簣の目をこぼれた一塊が、あの塚だこの山だという話はどこにでもある。つまりは古くからの大話の一形式であるが、注意すべきはことごとく水土の工事に関聯し、ところによっては山を蹴開けびらき湖水を流し、耕地を作ってくれたなどと伝え、すこぶる天地剖析ほうせきの神話の面影を忍ばしむるものがある。古い言い伝えには相違ないのである。大きい行止まりは加賀国の大人の足跡、東は越中境栗殻山くりからやまの打越に一つ、次には河北郡木越きごしの光林寺の址あとという田の中、次には能美郡波佐谷はさだにの山の斜面、すなわちこの国を三足であるいた形である。いずれも指の跡までが分明で、下に岩でもあるものか、田の中ながらそこだけは草も生えない。それから壱岐の島の国分の初丘にあるもの、爪先つまさき北に向かって南北に十二間、幅は六間で踵のところが二間、これを大の足跡と呼んでいる。大昔に大という人、九州から対馬へ渡ろうとして、この中間の島に足を踏立てた。その跡であるという。少し窪んで水が出ている。こんなところは附近に多いと『壱岐名勝図誌いきめいしょうずし』には記している。
大人は九州の南部では、大人弥五郎と称し、また大人隼人はやとなどともいっている。八幡神社の眷属けんぞくのようにもいえば、また昔この大神に治伐せられた兇賊のごとくにも伝えて一定せぬが、一方には山作りや足跡の話もあれば、他の一方には祭の時に、人形に作って曳ひきあるいている。そうして隼人はまたこの地方では、征服せられたる先住民の総称である。隼人が上代の被征服者であるために、これを大人隼人などと呼んでいるのならば、我々の伝えんと欲する山の人も、オオヒトという別名をえた理由が別になおあったかも知れぬ。しかし考えて行くほどかえってだんだんにむつかしくなるらしいから、もうこの辺で一旦いったんは話をやめておこう。 
三〇 これは日本文化史の未解決の問題なること

 

ここで打切ってはもちろんこの研究は不完全なものである。最初自分の企てていたことは、山近くに住む人々の宗教生活には、意外な現実の影響が強かったということを、論証してみるにあったのだが、残念ながらそれにはまだ資料が十分でない。後代の篤学者はなお多くの隠れたるものを発掘することであろう。しかしただ一つほぼ断定してもよいと思うことは、中世以後の天狗思想の進化に著しく山人に関する経験が働いていたことである。単に眼が光る色が赤い、背が高いなどの外形のみではない。仏法方面の人からは天魔の扱いを受けつつも、感情があり好意悪意があって、或いは我々に近づき或いはまた擯斥ひんせきし、機嫌きげんにも時々のむらがあって、気に向けば義侠的に世話をしてくれるなど、至って平凡なる人間味の若干をまじえていることは、それが純然たる空想の所産でないことを思わしめる。
彼らはまた時として我々から、ひどくやっつけられたという話もある。天狗の神通じんずうをもってして、不覚千万ふかくせんばんのようではあるが、かの杉の皮で鼻を弾はじかれて、人間という者は心にもないことをするから怖ろしいといった昔話などは、少なくともかつて人間と彼らとの間に、対等の交際があったという偶然の証拠である。欺くに方法をもってするならば、天狗必ずしも恐るるに足らずとする考えは、我々の世渡りには大切なる教訓でありまた激励であった。故に或いは自分だけは筍たけのこを喰い、相手には竹を切って煮て食わせて見たとか、また白い丸石を炉の火で焼いて、餅を食いにきた山人に食わせたら、大いに苦しんで遁げ去ったとかいうがごとき詐謀をもってこれを征服した物語が、諸国に数多く伝わっているので、しかもその古伝の骨子をなす点が、主として火の美感であり、穀物の味であり、いずれも山人と名づくるこの島国の原住民の、ほとんと永遠に奪い去られた幸福であったことを考えると、山の人生の古来の不安、すなわち時あって発現する彼らの憤怒ふんぬ、ないしは粗暴をきわめた侵掠しんりゃくと誘惑の畏れなども、幾分か自然に近く解釈しえられるかと思われ、これと相関聯する土地神の信仰に、顕著な特色の認められるのも、畢竟ひっきょうはこの民族の歴史が、これを促したということになるのである。
最後になお一つ話が残っている。数多ある村里の住民の中で、特別に山の人と懇意にしていたという者が処々にあった。その問題だけは述べておかねばならぬ。天狗の方にも名山霊刹れいさつの彼らを仏法の守護者と頼んだもの以外に、尋常民家の人であって、やはり時としてかの珍客の訪問を受けたという例は相応にあった。その中でもことに有名なのは、加賀の松任まつとうの餅屋もちやであったが、たしか越中の高岡にも半分以上似た話があり、その他あの地方には少なくとも世間の噂で、天狗の恩顧を説かるる家は多かったのである。今ではほとんと広告の用にも立たぬか知らぬが、当初は決してうかうかとした笑話でなかった。訪問のあるという日は前兆があり、またはあらかじめ定まっていて、一家戒慎かいしんして室を浄きよめ、叨みだりに人を近づけず、しかも出入坐臥ざが飲食ともに、音もなく目にも触れなかったことは、他の多くの尊い神々も同じであった。災害を予報し、作法方式を示し、時あって憂うれいや迷まよいを抱く者が、この主人を介して神教を求めんとしたことも、想像にかたくないのであった。すなわちただ一歩を進むれば、建久八年の橘兼仲のごとく、専門の行者となって一代を風靡ふうびし、もしくは近世の野州古峰原こぶがはらのように一派の信仰の中心となるべき境まできていたので、しかもその大切なる顕冥けんめい両界の連鎖をなしたものが、単に由緒久しき名物の餡餅あんもちであったことを知るに至っては、心窃こころひそかに在来の宗教起原論の研究者が、いたずらに天外の五里霧中に辛苦していたことを、感ぜざる者は少なくないであろう。
始めて人間が神を人のごとく想像しえた時代には、食物は今よりも遙かに大なる人生の部分を占めていた。餅ほどうまい物は世の中にはないと考えた凡俗は、これを清く製して献上することによって、神御満足の御面おんおもざしを、空に描くことをえたろうと思ううえに、更にその推測を確かめるにたるだけの実験が、時あって日常生活の上にも行われたのである。我々の畏敬してやまなかった山の人も、米を好みことに餅の香を愛したのであった。特別なる交際が餅をもって始まったという話は、もちろん話であろうが今に方々に伝わっている。これを下品だとして顧みないような学者は、いつまでも高天原たかまがはらだけを説いているがよい。自分たちは今ある下界の平民の信仰が、いかに発達してこうまで完成したかを考えてみようとするのである。前に話した馬に七駄のマダの皮で、草履を作っていたという陸中浄法寺の村で、或る農夫は山に行って山男に逢った。昼弁当の餅を珍しがるから分けてやると、非常に喜んでこれを食った。お前の家ではもう田を打ったか、いやまだ打たぬというとそんだら打ってやるから何月何日の晩に、三本鍬くわと一緒に餅を三升ほど搗ついて田の畔あぜに置けという。約のごとくにして翌日往って見ると、餅はなくなり田はよく打ってあったが、大小の田の境もなく一面に打ちのめしてあった。それからも友だちになって、山に行くたびに餅をはたられて困った。その山男がまた彼に向かって、おれは誠によい人間だが、かかアは悪いやつだから見られないように用心せよとたびたび言って聴かせたという話もあって、六七十年前の出来事のように考えられている(『郷土研究』一ノ九、佐々木君、次も同じ)。この地方の昔話の「山はは」は実際怖ろしい。鬼婆・天あまのじゃくのした仕事が、ここでは皆山ははの所業になっている。
また閉伊へい郡の六角牛ろっこうし山では、青笹村の某が山に入ってマダの樹の皮を剥いでいると、じっと立って見ていた七尺余りの男があった。おれもすけてやるべとさながら麻を剥ぐようにたちまちにしてもうたくさんになった。それから傍の火にあぶっておいた餅を指ざし、くれというから承知をすると、無遠慮にみな食ってしまった。来年の今ごろもまた来るかと聞く故に、後難を恐れてもう来ないと答えると、そんだら三升の餅をいついつの晩に、お前の家の庭へ出しておいてくれ、一年中のマダの皮を持って往ってやるからというので、これもその通りにして見ると翌年は約束の日の夜中に、庭でどしんと大荷物をおく音がした。およそ馬に二駄ほどのマダの皮であったという。それから以後は毎年同じ日に、この家の庭上でいわゆる無言貿易は行われたのだが、今の主人の若年のころから、どうしたものか餅は供えておいても、マダの皮は持って来ぬようになったといっている。
『津軽旧事談つがるくじだん』に『弘藩明治一統志こうはんめいじいっとうし』その他を引いて、岩木山の大人と親善だったと記しているのは、麓の鬼沢村の弥十郎という農夫であった。これはのちに自分もまた、大人となって行方を知らずとも伝えられる。彼は最初薪まきを採りに入って偶然と懇意になり、角力すもうなどを取って日を暮し、素手すでで帰ってくると必ず一夜の中に、二三日分ほどの薪が家の背戸せどに積んであった。或いはまた大人が弥十郎を助け、新たにこの土地を開発したのだともいい、また赤倉の谷から水を導いて村の耕地に灌漑かんがいしたのも、同じ大人の力であったと称して、その驚くべき難土木の跡について、逆さかさ水の伝説を語っている。村の名の鬼沢と産土うぶすなの社の名の鬼ノ宮とは果して今の口碑の結果であるか、はた原因であるかを決しかねるが後々までも村に怪力の人が輩出したといい、或いはまた大人が鎮守ちんじゅを約諾して、そのかわりには五月の節供せっくに菖蒲しょうぶを葺ふかず、節分に豆をまくなかれと言ったとあって、永く正直にこの二種の物を用いなかったのは少なくとも近代の雑説ではなかった証拠である。大人が弥十郎の妻に姿を見られたのを理由にして、再び来なくなったというのにも何か仔細しさいがありそうだ。その折記念に遺して去った蓑笠みのかさは鬼ノ宮に、鍬は藤田という家に伝わっているそうだが、藤田は多分弥十郎の末ですなわち草分くさわけの家であったろう。南部の方でも三戸さんのへ郡の荒沢不動に、山男の使った木臼きうすが伝わっていることを『糠部五郡小史ぬかのぶごぐんしょうし』には録している。これで橡実とちのみを搗ついて食っていたという話は疑わしくとも、昔かつて彼らと交際のあったことを信じていたことだけは推察せられる。
津軽の山人は角力を取ったというのみで餅をどうしたという話は残ってないが、秋田の方へ越えてみると、この二つの事件も結びついている。これも小田内通敏氏の談であるが、五城目ごじょうのめ近在の木樵でかねて田舎相撲の心得ある某、或る日山で働いて木を負うて立とうとすると不意に山男が出てきて相撲を取ろうと言うて留めた。そこで荷を再び下に卸して力を角かくし一番はまず彼を投げたら強いと褒ほめてくれた。二番目にはわざと勝を譲って還ろうとしたが、山男は少し待ってくれと言って、更に二三人の仲間を連れてきて取らせたので、いずれも一番は勝ち一番は負けて別れてきた。それが縁になってその後もおりおり出会ううちに、或る時いつ幾日にはその方の家へ遊びに行く。家の者を外へやり、餅を搗いて待っていよというのでその通りにして一斗ほどの餅を振舞うと、数人の山男が悦んで終日遊んで帰った。それはよかったがその後もおりおりやってきて、酒を飲ませろの何のと言うために、ついにはその煩しさに堪えず、これを気に病んで久しく寝ているようなことになった。村の人たちはこれを見て、山男などと附合つきあいをするのは、いずれ身のためには好よくないことだと話し合っていたそうであるが、もしこの樵夫にせめて松任の餅屋ほどの気働きばたらきがあったら、神経衰弱などにはならずにすみそうなものであった。しかも因縁ばかり永く続いて人に信心のやや薄れた場合に、尋常一様の手段では元もと奉仕した神と別れることが難むつかしかったということは、しばしば巫術ふじゅつの家について言い伝えられた話であった。餅が化して白い小石になったということと、石を火に焼いて怪物を攻めたということとは、ともに古くからある物語には相異ないが、山人の場合には二つの話が合体して、あまり毎晩餅ばかり食いにくるので、のちには閉口して白い丸石を囲炉裏いろりに焼き知らぬ顔をして食わせて見ると、火焔かえんを吹いて飛びだして去ったとか、またはその祟たたりで大水が出たのが年代記にあるところの白髭水しらひげみずだなどと、いずれも皆一旦の好意とその後の不本意な、絶縁とを伝説する地方が多いのは、或いは何かこの方面の信仰の次々の変化を暗示するものではないかと思う。
角力によって山男と近づきになったというのもまた偶然ではなかったようである。今日中央部以西の日本において、やたらに人と相撲を取りたがるのは、川童かっぱと話がきまっている。土佐ではシバテンといって芝天狗しばてんぐの略称かとも考えるが、挙動はほとんと川童と同じである。見たところ小児のごとくいかにも非力であるが、勝つと何遍でも今一番というので、うるさくてしかたがない。わざと負けてやるとキキと嬉しそうに鳴いて、また仲間をうんと喚よんでくる。何にしても厄介やっかいな相手で、彼らに挑まれた為に夜どおし角力を取り、後には気狂のようになったという話が九州などには多い。それでいて必ずしも狐狸こりのごとく騙だますつもりではないらしいのである。川童にせよ何にせよ、どうしてまたこんな趣意不明なる交渉が始まったというか。それには角力そのものの歴史を、今少しく遡さかのぼって考える必要があるようである。朝廷の相撲召合すもうめしあわせは七月を例とし、古い年中行事の一つではあったが、いわゆる唐制の模倣でもなければ、また皇室専属の儀式でもなかったらしい。おそらくは中央文化の或る段階において、民間の風習を採用して国技とせられたらしいことは、力士の諸国から貢進せられたのを見てもわかる。すなわちいわゆる田舎相撲の方が起原においては一つ前である。佐渡では今も村々を代表する選手があり名乗なのりを世襲し、会津の新宮権現でも、祭の日には村々の名を帯びた力士が出て、勝った村ではその年は仕合せ好よしと信ぜられたこと、歩射馬駆ぶしゃうまかけなども同じであった。すなわち祈願祈祷を専らとし怪力を神授と考え、部落互いに技を競うほかに、常に運勢の強弱とも言うべきものを認めていたのは、背後に大いに頼むところの氏神、里の神の御威光があったためで、しかも彼らは信心の未熟によってこれを傷けんことを畏おそれていたのである。時代がようやく進んで全民族の宗教はいよいよ統一し、小区域の敵愾心てきがいしんなどは意味もないものになったが、それでも古い名残は今だって少しは認められる。いわんや土地ごとに守り神を別にし、家門にはそれぞれの信仰があった際である。豊後の日田の鬼太夫の系図が、連綿として数百年に及ぶがごとく力の筋を神の筋に帰し、これをもって郷党の信望を繋ぎまたは集注せしめた者が、すなわち神人であったものかと思われる。山男に名ざされ、また川童に角力を挑いどまれるということは、言いかえればその者が不思議を感じやすく、神秘の前に無我になりやすい性質を具えていたことを意味し、一方には鞍馬くらまの奥僧正谷おくそうしょうたにの貴公子のように、試煉をへてその天分の怪力を発揮しうるのみならず、他の一方には目に見えぬ世界の紹介者として、また大いに神霊の道を社会に行うことをえたはずであったが、不幸にして国はすでに事大主義、宣伝万能の世となっていたために、割拠したる小盆地の神々は単なる妖怪をもって遇せられ、いまだ十分にその感化を実現せぬ前に有力なる外来の信仰に面してことごとくその光を失い、神が力を試みるというせっかくの旧方式も、結局無意味な擾乱じょうらんに過ぎぬことになったのである。
自分の見るところをもってすれば、日本現在の村々の信仰には、根原に新旧の二系統があった。朝家の法制にもかつて天神地祇ちぎを分たれたが、のちの宗像むなかた・賀茂かも・八幡・熊野・春日かすが・住吉すみよし・諏訪すわ・白山はくさん・鹿島かしま・香取かとりのごとく、有効なる組織をもって神人を諸国に派し、次々に新たなる若宮わかみや今宮を増設して行ったもののほかに、別に土着年久しく住民心をともにして固く旧来の信仰を保持しているものがあった。荘園の創立は以前の郷里生活を一変し、領主はおおむね都人士の血と趣味とを嗣ついでいたために、仏教の側援そくえんある中央の大社を勧請かんじょうする方に傾いていたらしく、次第に今まであるものを改造して、例えば式内しきないの古社がほとんとその名を喪失したように、力つとめてこの統一の勢力に迎合したらしいが、これと同時に農民の保守趣味から、新たな社の祭式信仰をも自分の兼かねて持つものに引きつけた場合が少なくはなかったらしい。また右の二つの系統が時としては二つの層をなし、必ずしも一郷の八幡宮、一村全体の熊野社の威望を傷けることなくして、屋敷や一つの垣内かいとだけで、なお古くからの土地の神に、精誠せいぜいをいたしていた場合も多かった。頭屋とうやの慣習と鍵取かぎとりの制度、社家相続の方法等の中を尋ねると今とてもこの差別の微妙なる影響を見出すこと困難ならず、ことに永年にわたって必ずしも官府の公認するところとならずとも、家から家へまたは母から娘へ、静かに流れていた信仰には、別に中断せられた証跡もない以上は、古いものが多く伝わると見てよろしい。それというのが信仰の基礎は生活の自然の要求にあって、強しいて日月星辰せいしんというがごとき荘麗にして物遠いところには心を寄せず四季朝夕の尋常の幸福を求め、最も平凡なる不安を避けようとしていた結果、夙つとに祭を申し謹み仕えたのは、主としては山の神荒野の神、または海川の神を出でなかったのである。導く人のやはり我わが仲間であったことは、或いは時代に相応せぬ鄙ひなぶりを匡ただしえない結果になったか知らぬが、そのかわりにはなつかしい我々の大昔が、たいして小賢こざかしい者の干渉を受けずに、ほぼうぶな形をもって今日までも続いてきた。例えば稚わかくして山に紛まぎれ入った姉弟が、そのころの紋様もんようある四よつ身みの衣を着て、ふと親の家に還ってきたようなものである。これを笑うがごとき心なき人々は、少なくとも自分たちの同志者の中にはいない。 
 

 

 
 

 

 
山人考 大正六年日本歴史地理学会大会講演手稿  

 


私が八九年以前から、内々山人の問題を考えているということを、喜田きだ博士が偶然に発見せられ、かかる晴れがましき会に出て、それを話しせよと仰おおせられる。一体これは物ずきに近い事業であって、もとより大正六年やそこいらに、成績を発表する所存をもって、取掛かったものではありませぬ故に、一時は甚だ当惑しかつ躊躇ちゅうちょをしました。しかし考えてみれば、これは同時に自分のごとき方法をもって進んで、果して結局の解決をうるに足るや否やを、諸先生から批評していただくのに、最も好よい機会でもあるので、なまじいに罷まかり出でたる次第でございます。

現在の我々日本国民が、数多の種族の混成だということは、じつはまだ完全には立証せられたわけでもないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説となったものとして、すなわちこれを発足点といたします。
わが大御門おおみかどの御祖先が、始めてこの島へ御到着なされた時には、国内にはすでに幾多の先住民がいたと伝えられます。古代の記録においては、これらを名づけて国くにつ神かみと申しておるのであります。その例は『日本書紀』の「神代巻」出雲の条に、「吾やつかれは是これ国つ神、号なは脚摩乳あしなずち、我妻号わがつまのなは手摩乳てなずち云々」。また「高皇産霊神たかみむすびのかみは大物主神おおものぬしのかみに向ひ、汝若いましもし国つ神を以もて妻とせば、吾われは猶なお汝疎うとき心有ありとおもはん」と仰せられた。「神武紀」にはまた「臣やつかれは是これ国つ神、名を珍彦うずひこと曰いふ」とあり、また同紀吉野の条には、「臣は是れ国つ神名を井光いひかと為なす」とあります。『古事記』の方では御迎いに出た猿田彦さるたひこをも、また国つ神と記しております。
令りょうの神祇令じんぎりょうには天神地祇という名を存し、地祇は『倭名鈔わみょうしょう』のころまで、クニツカミまたはクニツヤシロと訓よみますが、この二つは等しく神祇官において、常典によってこれを祭ることになっていまして、奈良朝になりますと、新旧二種族の精神生活は、もはや名残なく融合したものと認められます。『延喜式えんぎしき』の神名帳には、国魂郡魂くにたまこおりたまという類の、神名から明らかに国神に属すと知らるる神々を多く包容しておりながら、天神地祇の区別すらも、すでに存置してはいなかったのであります。
しかも同じ『延喜式』の、中臣なかとみの祓詞はらえことばを見ますると、なお天津罪あまつつみと国津罪との区別を認めているのです。国津罪とはしからば何を意味するか。『古語拾遺こごしゅうい』には国津罪は国中人民犯すところの罪とのみ申してあるが、それではこれに対する天津罪は、誰の犯すところなるかが不明となります。右二通りの犯罪を比較してみると、一方は串刺くしざし・重播しきまき・畔放あはなちというごとく、主として土地占有権の侵害であるに反して、他の一方は父と子犯すといい、獣犯すというような無茶なもので明白に犯罪の性質に文野の差あることが認められ、すなわち後者は原住民、国つ神の犯すところであることが解わかります。『日本紀』景行天皇四十年の詔みことのりに、「東夷ひがしのひなの中蝦夷うちえみし尤もっとも強こわし。男女交まじり居おり父子かぞこ別わかち無し云々」ともあります。いずれの時代にこの大祓の詞というものはできたか。とにかくにかかる後の世まで口伝えに残っていたのは、興味多き事実であります。
同じ祝詞のりとの中には、また次のような語も見えます。曰く、「国中に荒振神等あらぶるかみたちを、神かみ問とはしに問はしたまひ神かみ掃はらひに掃ひたまひて云々」。アラブルカミタチはまた暴神とも荒神とも書してあり、『古語拾遺』などには不順鬼神ともあります。これは多分右申す国つ神の中、ことに強硬に反抗せし部分を、古くからそういっていたものと自分は考えます。

前九年・後三年の時代に至って、ようやく完結を告げたところの東征西伐は、要するに国つ神同化の事業を意味していたと思う。東夷に比べると西国の先住民の方が、問題が小さかったように見えますが、豊後・肥前・日向等の『風土記ふどき』に、土蜘蛛つちぐも退治の記事の多いことは、常陸・陸奥等に譲りませず、更に『続日本紀しょくにほんぎ』の文武天皇二年の条には太宰府だざいふに勅ちょくして豊後の大野、肥後の鞠智きくち、肥前の基肄きいの三城を修繕せしめられた記事があります。これはもとより海※かいこう[#「寇」の「攴」に代えて「攵」、U+21A25、272-6]の御備えでないことは、地形を一見なされたらすぐにわかります。土蜘蛛にはまた近畿地方に住した者もありました。『摂津風土記せっつふどき』の残篇にも記事があり、大和にはもとより国樔くずがおりました。国樔と土蜘蛛とは同じもののように、『常陸風土記』には記してあります。
北東日本の開拓史をみますると、時代とともに次々に北に向って経営の歩を進め。しかも夷民の末と認むべき者が、今なお南部津軽の両半島の端の方だけに残っているために、通例世人の考えでは、すべての先住民は圧迫を受けて、北へ北へと引上げたように見ていますが、これは単純にそんな心持がするというのみで、学問上証明を遂とげたものではないのです。少なくとも京畿以西に居住した異人等は、今ではただ漠然と、絶滅したようにみなされているがこれももとよりなんらの根拠なき推測であります。
種族の絶滅ということは、血の混淆こんこうないしは口碑の忘却というような意味でならば、これを想像することができるが、実際に殺され尽しまた死に絶えたということは「景行天皇紀」にいわゆる撃てばすなわち草に隠れ追えばすなわち山に入るというごとき状態にある人民には、とうていこれを想像することができないのです。『播磨風土記』を見ると、神前かみさき郡大川内、同じく湯川の二処に、異俗人三十許口みそたりばかりありとあって、地名辞書にはこれも今日の寺前・長谷二村の辺に考定しています。すなわち汽車が姫路に近づこうとして渡るところの、今日市川と称する川の上流であって、じつはかく申す私などもその至って近くの村に生れました。和銅・養老の交まで、この通り風俗を異にする人民が、その辺にはいたのであります。
右にいう異俗人は、果していかなる種類に属するかは不明であるが、『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』巻の五、右京皇別佐伯直さへきのあたいの条を見ると、「此家の祖先とする御諸別命みもろわけのみこと、成務天皇の御宇ぎょうに播磨の此地方に於て、川上より菜の葉の流れ下るを見て民住むと知り、求め出し之を領して部民と為す云々」とあって、或いはその御世から引続いて、同じ者の末であったかも知れませぬ。
この佐伯部は、自ら蝦夷の俘ふの神宮に献ぜられ、のちに播磨・安芸・伊予・讃岐および阿波の五国に配置せられた者の子孫なりと称したということで、すなわち「景行天皇紀」五十一年の記事とは符合しますが、これと『姓氏録』と二つの記録は、ともに佐伯氏の録進に拠られたものと見えますから、この一致をもって強い証拠とするのは当りませぬ。おそらくは『釈日本紀しゃくにほんぎ』に引用する暦録れきろくの、佐祈毘(叫び)が佐伯と訛なまったという言い伝えとともに、一箇の古い説明伝説と見るべきものでありましょう。
サヘキの名称は、多分は障碍しょうがいという意味で、日本語だろうと思います。佐伯の住したのは、もちろん上に掲げた五箇国には止とどまりませぬが、果して彼らの言の通り、蝦夷と種を同じくするか否かは、これらの書物以外の材料を集めてのちに、平静に論証する必要があるのであります。
 

 


国郡の境を定めたもうということは、古くは成務天皇の条、また允恭天皇の御時おんときにもありました。これもまた『姓氏録』に阪合部朝臣さかあいべのあそん、仰おおせを受けて境を定めたともあります。阪合は境のことで、阪戸さかと・阪手さかて・阪梨さかなし(阪足)などとともに、中古以前からの郷の名・里の名にありますが、今日の境の村と村との堺さかいを劃かくするに反して、昔は山地と平野との境、すなわち国つ神の領土と、天あまつ神の領土との、境を定めることを意味したかと思います。高野山の弘法大師などが、猟人の手から霊山の地を乞こい受けたなどという昔話は、恐らくはこの事情を反映するものであろうと考えます。古い伽藍がらんの地主神じぬしがみが、猟人の形で案内をせられ、また留とどまって守護したもうという縁起えんぎは、高野だけでは決してないのであります。
「天武天皇紀」の吉野行幸の条に、獦者かりびと二十余人云々、または獦者之首などとあるのは、国樔くずのことでありましょう。国樔は「応神紀」に、其為人そのひととなり甚はなはだ淳朴也などともありまして、佐伯とは本来同じ種族でないように思われます。『北山抄ほくざんしょう』『江次第ごうしだい』の時代を経て、それよりもまた遙か後代まで名目を存していた、新春朝廷の国栖くずの奏は、最初には実際この者が山を出でて来り仕え、御贄みあえを献じたのに始まるのであります。『延喜式』の宮内式くないしきには、諸もろもろの節会せちえの時、国栖十二人笛工五人、合せて十七人を定としたとあります。古注には笛工の中の二人のみが、山城綴喜つづき郡にありとあります故に、他の十五人は年々現実に、もとは吉野の奥から召されたものでありましょう。『延喜式』のころまでは如何かと思いますが、現に神亀三年には、召出されたという記録が残っているのであります。
また平野神社の四座御祭、園神そのがみ三座などに、出でて仕えた山人という者も、元は同じく大和の国栖であったろうと思います。山人が庭火の役を勤めたことは、『江次第』にも見えている。祭の折に賢木さかきを執とって神人に渡す役を、元は山人が仕え申したということは、もっとも注意を要する点かと心得ます。
ワキモコガアナシノ山ノ山人ト人モ見ルカニ山カツラセヨ
これは後代の神楽歌かぐらうたで、衛士えじが昔の山人の役を勤めるようになってから、用いられたものと思います。ワキモコガはマキムクノの訛なまり、纏向穴師まきむくのあなしは三輪の東に峙そばだつ高山で、大和北部の平野に近く、多分は朝家の思召おぼしめしに基もとづいて、この山にも一時国樔人の住んでいたのは、御式典に出仕する便宜のためかと察しられます。
しからば何が故に右のごとき厳重の御祭に、山人ごときが出て仕えることであったか。これはむつかしい問題で、同時にまた山人史の研究の、重要なる鍵かぎでもあるように自分のみは感じている。山人の参列はただの朝廷の体裁装飾でなく、或いは山から神霊を御降し申すために、欠くべからざる方式ではなかったか。神楽歌の穴師の山は、もちろんのちに普通の人を代用してから、山かずらをさせて山人と見ようという点に、新たな興味を生じたものですが、『古今集』にはまた大歌所おおうたどころの執とり物ものの歌としてあって、山人の手に持つ榊さかきの枝に、何か信仰上の意味がありそうに見えるのであります。

山人という語は、この通り起原の年久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神くにつかみが末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓よませているのであります。
自分が近世いうところの山男山女・山童山姫・山丈山姥などを総括して、かりに山人と申しておるのは必ずしも無理な断定からではありませぬ。単に便宜上この古語を復活して使って見たまでであります。昔の山人の中で、威力に強いられ乃至ないしは下くだされ物を慕うて、遙に京へ出てきた者は、もちろん少数であったでしょう。しからばその残りの旧弊な多数は、ゆくゆくいかに成り行ゆいたであろうか。これからがじつは私一人の、考えて見ようとした問題でありました。
自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニは鬼の漢字を充あてたのはずいぶん古いことであります。その結果支那から入った陰陽道おんようどうの思想がこれと合体して、『今昔物語』の中の多くの鬼などは、人の形を具そなえたり具えなかったり、孤立独往して種々の奇怪きっかいを演じ、時としては板戸に化けたり、油壺あぶらつぼになったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、終始この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖がけの上に踞うずくまって、大きな笠を着て顋あごを手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰ふかんしていたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである。酒顛童子しゅてんどうじにせよ、鈴鹿山すずかやまの鬼にせよ、悪路王・大竹丸・赤頭にせよいずれも武力の討伐を必要としております。その他吉備津の塵輪じんりんも三穂さんぼ太郎も、鬼とはいいながらじつは人間の最も獰猛どうもうなるものに近く、護符や修験者しゅげんじゃの呪文じゅもんだけでは、煙のごとく消えてしまいそうにもない鬼でありました。
また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とするような兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。その一例は九州の日田附近にいた大蔵氏、系図を見ると代々鬼太夫などと名乗り、しばしば公おおやけの相撲の最手ほてに召されました。この家は帰化人の末と申しています。次には京都に近い八瀬の里の住民、俗にゲラなどと呼ばれた人々です。このことについては前に小さな論文を公表しておきました。二三の顕著なる異俗があって、誇りとして近年までこれを保持していました。黒川道祐などはこれを山鬼の末と書いています。山鬼は地方によって山爺のことをそうもいい眼一つ足一つだなどといった者もあります。一方ではまた山鬼護法と連称して、霊山の守護に任ずる活神いきがみのごとくにも信じました。安芸の宮島の山鬼は、おおよそ我々のよくいう天狗と、する事が似ていました。秋田太平山の三吉権現も、また奥山の半僧坊はんぞうぼうや秋葉山の三尺坊の類で、地方に多くの敬信者を持っているが、やはりまた山鬼という語の音から出た名だろうという説があります。
それよりも今一段と顕著なる実例は、大和吉野の大峯山下の五鬼ごきであります。洞川どろかわという谷底の村に、今では五鬼何という苗字みょうじの家が五軒あり、いわゆる山上参りの先達職せんだつしょくを世襲し聖護院しょうごいんの法親王御登山の案内役をもって、一代の眉目びもくとしておりました。吉野の下市の町近くには、善鬼垣内ぜんきかいとという地名もあって、この地に限らず五鬼の出張が方々にありました。諸国の山伏やまぶしの家の口碑には、五流併立を説くことがほとんと普通になっています。すなわち五鬼は五人の山伏の家であろうと思うにかかわらず、前鬼後鬼ぜんきごきとも書いて役えんの行者ぎょうじゃの二人の侍者じしゃの子孫といい、従ってまた御善鬼様などと称して、これを崇敬した地方もありました。
善鬼は五鬼の始祖のことで、五鬼のほかに別に団体があったわけではないらしく、古くは今の五鬼の家を前鬼というのが普通でありました。その前鬼が下界と交際を始めたのは、戦国のころからだと申します。その時代までは彼らにも通力があったのを、浮世の少女と縁組をしたばかりに、のちにはただの人間になったという者もありますが、実際にはごく近代になるまで、一夜の中に二十里三十里の山を往復したり、くれると言ったら一畠ひとはたの茄子なすをみな持って行ったり、なお普通人を威服するに十分なる、力を持つ者のごとく評判せられておりました。
とにかくに彼らが平地の村から、移住した者の末ではないことは、自他ともに認めているのです。これと大昔の山人との関係は不明ながら、山の信仰には深い根を持っています。そこでこの意味において、今一応考えてみる必要があると思うのは、相州箱根・三州鳳来寺、近江の伊吹山・上州の榛名山、出羽の羽黒・紀州の熊野、さては加賀の白山等に伝わる開山の仙人の事蹟であります。白山の泰澄大師たいちょうだいしなどは、奈良の仏法とは系統が別であるそうで、近ごろ前田慧雲師はこれを南洋系の仏教と申されましたが、自分はいまだその根拠のいずれにあるかを知らぬのであります。とにかくに今ある山伏道も、溯さかのぼって聖宝僧正以前になりますと、教義も作法もともに甚だしく不明になり、ことに始祖という役小角えんのおづのに至っては、これを仏教の教徒と認めることすら決して容易ではないのです。仙術すなわち山人の道と名づくるものが、別に存在していたという推測も、なお同様に成立つだけの余地があるのであります。 
 

 


土佐では寛永の十九年に、高知の城内に異人が出現したのを、これ山みこという者だといって、山中に送り還した話があります。ミコは神に仕える女性もしくは童子どうじの名で、山人をそう呼んだことの当否は別として、少なくとも当時なおこの地方には、彼らと山神とのなんらかの関係を、認めていた者のあったという証拠にはなります。山の神の信仰も維新以後の神祇官じんぎかん系統の学説に基づき、名目と解釈の上に大なる変化を受けたことは、あたかも陰陽道が入ってオニが漢土の鬼になったのと似ております。今日では山神社の祭神は、大山祇命おおやまつみのみことかその御娘の木花開耶姫このはなさくやひめと、報告せられておらぬものがないというありさまですが、これを各地の実際の信仰に照してみると、なんとしてもそれを古来の言い伝えとはみられぬのであります。
村に住む者が山神を祀まつり始めた動機は、近世には鉱山の繁栄を願うもの、或いはまた狩猟のためというのもありますが、大多数は採樵さいしょうと開墾の障碍なきを祷いのるもので、すなわち山の神に木を乞う祭、地を乞う祭を行うのが、これらの社の最初の目的でありました。そうしてその祭を怠った制裁は何かというと、怪我けがをしたり発狂したり死んだり、かなり怖ろしい神罰があります。東北地方には往々にして路の畔ほとりに、山神と刻んだ大きな石塔が立っている。建立の年月日人の名なども彫ってありますが、如何して立てたかと聴くと、必ずその場処に何か不思議があって、臨時の祭をした記念なること、あたかも馬が急死するとその場処において供養を営み、馬頭観音ばとうかんのんもしくは庚申塔こうしんとうなどを立てるのと同じく、しかも何の不思議かと問えば、たいていは山の神に不意に行逢うた、怖ろしいので気絶をしたという類で、その姿はまぼろしにもせよ、常に裸の背の高い、色の赭あかい眼の光の鋭い、ほぼ我々が想像する山人に近く、また一方ではこれを山男ともいっているのであります。
天狗てんぐを山人と称したことは、近世二三の書物に見えます。或は山人を天狗と思ったという方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く、手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも画道の約束みたようなもので、『太平記』以前のいろいろの物語には、ずいぶん盛んにこれを説いてありますが、さほど鼻のことを注意しませぬ。仏法の解説ではこれを魔障とし善悪二元の対立を認めた古宗教の面影を伝えているにもかかわらず、一方には天狗の容貌服装のみならず、その習性感情から行動の末までが、仏法の一派と認めている修験しゅげん・山伏やまぶしとよく類似し、後者もまたこれを承認して、時としてはその道の祖師であり守護神ででもあるかのごとく、崇敬しかつ依頼する風のあったことは、何か隠れたる仔細しさいのあることでなければなりませぬ。恐らくは近世全く変化してしまった山の神の信仰に、元は山人も山伏も、ともに或る程度までは参与していたのを、平地の宗教がだんだんにこれを無視しまたは忘却して行ったものと思っております。
今となってはわずかに残る民間下層のいわゆる迷信によって、切れ切れの事実の中から昔の実情を尋ねて見るのほかはないのであります。一つの例をあげてみますれば、山中には往々魔所と名づくる場処があります。京都近くにもいくつかありました。入って行くといろいろの奇怪があるように伝えられ、従って天狗の住家すみかか、集会所のごとく人が考えました。その奇怪というのは何かというと、第一には天狗礫てんぐつぶて、どこからともなく石が飛んでくる。ただし通例は中あたって人を傷きずつけることがない。第二には天狗倒し、非常な大木をゴッシンゴッシンと挽ひき斫きる音が聴え、ほどなくえらい響を立てて地に倒れる。しかも後にその方角に行って見ても、一本も新たに伐きった株などはなく、もちろん倒れた木などもない。第三には天狗笑い、人数ならば十人十五人が一度に大笑いをする声が、不意に閑寂の林の中から聴える。害意はなくとも人の胆きもを寒くする力は、かえって前二者よりも強かった。その他にやや遠くから実験したものには笛ふえ太鼓たいこの囃はやしの音があり、また喬木きょうぼくの梢こずえの燈の影などもあって、じつはその作者を天狗とする根拠は確実でないのですが、天狗でなければ誰がするかという年来の速断と、天狗ならばしかねないという遺伝的類推法をもって、別に有力なる反対者もなしに、のちにはこうして名称にさえなったのであります。
しかも必ずしも魔所といわず、また有名な老木などのない地にも、やはり同様の奇怪はおりおりあって、或る者は天狗以外の力としてこれを説明しようとしました。例えば不思議の石打ちは、久しく江戸の市中にさえこれを伝え、市外池袋の村民を雇入れると、氏神が惜んでこの変を示すなどともいいました。また伐木坊きりきぼうという怪物が山中に住み、毎々大木を伐倒す音をさせて、人を驚かすという地方もあり、狸たぬきが化けてこの悪戯をするという者もありました。深夜にいろいろの物音がきこえて、所在を尋ねると転々するというのは、広島で昔評判したバタバタの怪、または東京でも七不思議の一つに算かぞえた本所の馬鹿囃子ばかばやしの類です。単に一人が聴いたというのなら、おまえはどうかしていると笑うところですが、現に二人三人の者が一所にいて、あれ聴けといって顔を見合せる類のいわゆるアリュシナシオン・コレクチーブであるために、迷信もまた社会化したのであります。
私の住む牛込の高台にも、やはり頻々ひんぴんと深夜の囃子の音があると申しました。東京のはテケテンという太鼓だけですが、加賀の金沢では笛が入ると、泉鏡花君は申されました。遠州の秋葉街道で聴きましたのは、この天狗の御膝元おひざもとにいながらこれを狸の神楽と称し現に狸の演奏しているのを見たとさえいう人がありました。近世いい始めたことと思いますが狸は最も物真似に長ずと信じられ、ひとり古風な腹鼓はらづつみのみにあらず、汽車が開通すれば汽車の音、小学校のできた当座は学校の騒ぎ、酒屋が建てば杜氏とじの歌の声などを、真夜中に再現させて我々の耳を驚かしています。しかもそれを狸のわざとする論拠は、みながそう信ずるという事実より以上に、一つも有力なものはなかったのです。
これらの現象の心理学的説明はおそらくさして困難なものでありますまい。常は聴かれぬ非常に印象の深い音響の組合せが、時過ぎて一定の条件のもとに鮮明に再現するのを、その時また聴いたように感じたものかも知れず、社会が単純で人の素養に定まった型があり、外から攪乱こうらんする力の加わらぬ場合には、多数が一度に同じ感動を受けたとしても少しもさしつかえはないのでありますが、問題はただその幻覚の種類、これを実験し始めた時と場処、また名づけて天狗の何々と称するに至った事情であります。山に入ればしばしば脅かされ、そうでないまでもあらかじめ打合せをせずして、山の人の境を侵すときに、我と感ずる不安のごときものと、山にいる人の方が山の神に親しく、農民はいつまでも外客だという考えとが、永く真価以上に山人を買い被かぶっていた、結果ではないかと思います。

そこで最終に自分の意見を申しますと、山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋についてのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、その一は帰順朝貢に伴なう編貫へんかんであります。最も堂々たる同化であります。その二は討死うちじに、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆こんこうしたもの、数においてはこれが一番に多いかと思います。
こういう風に列記してみると、以上の五つのいずれにも入らない差引残さしひきざん、すなわち第六種の旧状保持者、というよりも次第に退化して、今なお山中を漂泊しつつあった者が、少なくとも或る時代までは、必ずいたわけだということが、推定せられるのであります。ところがこの第六種の状態にある山人の消息は、きわめて不確実であるとは申せ、つい最近になるまで各地独立して、ずいぶん数多く伝えられておりました。それは隠者か仙人かであろう。いや妖怪か狒々ひひかまたは駄法螺だぼらかであろうと、勝手な批評をしても済むかも知れぬが、事例は今少しく実着でかつ数多く、またそのようにまでして否認をする必要もなかったのであります。
山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。一旦その便益を解していた者が、これを抛棄ほうきしたということはありえぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実と若葉と根、または菌類きのこるいなどが多く、生なまで食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽こびき・炭焼すみやきの小屋に尋ねてきて、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹かわがにを持ってきて焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおられぬが、日本では山中に塩分を含む泉至いたって多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に遁げこんだ平地人が、山小屋に塩を乞いにきた。一握ひとつかみの塩を悦んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が、『覊旅漫録きりょまんろく』かに見えておりました。
それから衣服でありますが、これも獣皮でも樹の皮でも、用は足りたろうと思うにかかわらず多くの山人は裸であったといわれております。恐らくは裸体であるために人が注意することになったのでしょうが、わが国の温度には古今の変は少なかろうと思うのに、国民の衣服の近世甚だしく厚くるしくなったのを考えますと、馴ならせば無しにも起臥きがしえられてこの点はあまり顧慮しなかったものと見えます。不思議なことには山人の草鞋わらじと称して、非常に大形のものを山中で見かけるという話がありますが、それは実用よりも何か第二の目的、すなわち南日本の或る海岸の村で、今でも大草履おおぞうりを魔除まよけとするごとく、彼ら独特の畏嚇法いかくほうをもってなるべく平地人を廻避した手段であったかも知れませぬ。
交通の問題についても少々考えてみました。日本は山国で北は津軽の半島の果から南は長門の小串こくしの尖さきまで少しも平野に下り立たずして往来することができるのでありますが、彼らは必要以上に遠くへ走るような余裕も空想もなかったと見えて、居るという地方にのみいつでもおりました。全国の山地で山人の話の特に多いところが、近世では十数箇処あって、互いに隔絶してその間の聯絡れんらくは絶えていたかと思われ、気をつけてみると少しずつ、気風習性のごときものが違っていました。今日知れている限りの山人生息地は、北では陸羽の境の山であります。ことに日本海へ近よった山群であります。それから北上川左岸の連山、次には只見川ただみがわの上流から越後秋山へかけての一帯、東海岸は大井川の奥、次は例の吉野から熊野の山、中国では大山山彙さんいなどが列挙しえられます。飛騨は山国でありながら、不思議に今日はこの話が少なく、青年の愛好する北アルプスから立山方面、黒部川の入いりなども今はもう安全地帯のようであります。これに反して小さな離島はなれじまでも、屋久島はいまなお痕跡があり、四国にも九州にももちろん住むと伝えられます。四国では剣山の周囲ことに土佐の側には無数の話があり、九州は東岸にやや偏して、九重山くじゅうさん以南霧島山以北一帯に、最も無邪気なる山人が住むといわれております。海が彼らの交通を遮断しゃだんするのは当然ですが、なお少しは水を泳ぐこともできました。山中にはもとより東西の通路があって、老功なる木樵・猟師は容易にこれを認めて遭遇を避けました。夜分やぶんには彼らもずいぶん里近くを通りました。その方が路みちが楽であったことは、彼らとても変りはないはずです。鉄道の始めて通じた時はさぞ驚いたろうと思いますが、今では隧道トンネルなども利用しているかも知れませぬ。火と物音にさえ警戒しておれば、平地人の方から気がつく虞おそれはないからであります。
山男・山姥が町の市日いちびに、買物に出るという話が方々にありました。果してそんな事があったら、衣服風体なども目に立たぬように、済ましてただの田舎者の顔をするのだから、山人としては最も進んだ、すぐにも百姓に同化しうる部類で、いわば一種の土着見習生のごときものであります。それ以外には力つとめて人を避けるのがむしろ通例で、自分の方から来るというはよくよくの場合、すなわち単なる見物や食物のためではなかったらしいのです。しかも人類としては一番強い内からの衝動、すなわち配偶者の欲しいという情は、往々にして異常の勇敢を促したかと思う事実があります。
もっとも山人の中にも女はあって、族内の縁組も絶対に不可能ではなかったが、人が少なく年が違い、久しい孤独を忍ばねばならぬ際に、堪えかねて里に降って若い男女を誘うたことも、稀ではなかったように考えます。神隠しと称する日本の社会の奇現象は、あまりにも数が多く、その中には明白に自身の気の狂いから、何となく山に飛び込んだ者も少なくないのですが、原因の明瞭めいりょうになったものはかつてないので、しかも多くは還って来ず、一方には年を隔てて山中で行逢うたという話が、決して珍しくはないから、こういう推測が成立つのであります。世中よのなかが開けてからは、かりに著しくその場合が減じたにしても、物憑ものつき物狂ものぐるいがいつも引寄せられるように、山へ山へと入って行く暗示には、千年以前からの潜んだ威圧が、なお働いているものとみることができます。
それをまた他の方面から立証するものは、山人の言語であります。彼らが物を言ったという例は、ほとんとないといってよいのであるが、平地人のいわゆる日本語は、たいていの場合には山人に理解せられます。ずいぶんと込み入った事柄でも、呑込のみこんでその通りにしたというのは、すなわち片親の方からその知識が、だんだんに注入せられている結果かと思います。それでなければ米の飯をひどく欲しがりまた焚火たきびを悦び、しばしば常人に対して好意とまではなくとも、じっと目送したりするほどの、平和な態度をとったという話が解せられず、ことに頼まれて人を助け、市に出て物を交易するというだけの変化の原因が想像しえられませぬ。多分は前代にあっても最初は同じ事情から、耕作の趣味を学んで一地に土着し、わずかずつ下流の人里と交通を試みているうちに、自他ともに差別の観念を忘失して、すなわち武陵桃源ぶりょうとうげんの発見とはなったのであろうと思います。
これを要するに山人の絶滅とは、主としては在来の生活の特色のなくなることでありました。そうして山人の特色とは何であったかというと、一つには肌膚の色の赤いこと、二つには丈たけ高く、ことに手足の長いことなどが、昔話の中に今も伝説せられます。諸国に数多き大人おおひとの足跡の話は、話となって極端まで誇張せられ、加賀ではあの国を三足であるいたという大足跡もありますが、もとは長髄彦ながすねひこもしくは上州の八掬脛やつかはぎぐらいの、やや我々より大きいという話ではなかったかと思われます。北ヨーロッパでは昔話の小人というのが、先住異民族の記憶の断片と解せられていますが、日本はちょうどその反対で、現に東部の弘い地域にわたり、今もって山人のことを大人と呼んでいる例があるのです。
私は他日この問題がいますこし綿密に学界から注意せられて、単に人類学上の新資料を供与するに止らず、日本人の文明史において、まだいかにしても説明しえない多くの事蹟がこの方面から次第に分ってくることを切望いたします。ことに我々の血の中に、若干の荒い山人の血を混じているかも知れぬということは、我々にとってはじつに無限の興味であります。 
 

 

 
 

 

 
■緒話

 

 
山の人生 / 柳田国男の山人論

 

「山の人生」は「遠野物語」の続編のようなものである。「遠野物語」では岩手県の遠野地方に伝わっている説話や伝説、昔話などを収集していたものを、エリアを全国に広げて大きな規模で収集したものだ。ただし収集の対象となった話は、ほとんどが山とそこに住む人々とに関するものだ。山に住む人々には色々なタイプがあり、また人とは言えない生きもの、例えば天狗とか河童とかいうものも含まれるが、そうした者たちと平地の人々との関わり合いを主な対象としている。題名の「山の人生」には、そうした姿勢が反映されているわけである。
柳田は何故、山に生きる人々にこだわったか。柳田は晩年、日本人の起源が海の彼方からやって来た人々だと考えるようになり、その仮説を裏付けるために、南西諸島から東北地方にかけておびただしい量の一次資料を集めて歩いた。ところが若い頃には、「遠野物語」を始めとして、山の生活に深い関心を寄せていた。柳田は「遠野物語」では、山と人との関わり合いに注目していたに過ぎないが、この「山の人生」においては、山に住む者こそが日本の原住民ではないかとの思いを抱くようになったのではないか。
その思いは、「海上の道」に見えるように、まず問題意識があって、そこから仮説を立て、その仮説を実証するために資料にあたるという方法とは全く逆の道筋から現れ出たものだったようだ。柳田は「遠野物語」の方法を拡大適用して、日本全国から山に住む人々の情報を集めて、それらを比較分析するうちに、日本にもともと住んでいた原住民というべき人々が、平地の人々に圧迫されて山に逃れ、そこで暮らすようになったのではないか。全国に伝わる山人(山に住む人々)にかかわる話は、そうした日本の原住民と後から来た日本人との接触を物語っているのではないか。柳田は全国を歩いて山人にかかわる資料を集めるうちに、そう思うようになったようである。
柳田が山に住む人々の例として最初に持ちだすのは「サンカ」と呼ばれる人々だが、これは山中に小集団を作って採集生活をし、ときおり里に出てきて平地の人々と簡単な交流をすることがある。この人たちの起源はわからないが、どうも大昔からそのようにして暮らしていたらしい。また、特に東北地方に多いマタギという狩猟民も、平地の人々とは違う種族と考えられていたようだと言って、柳田は山に住むある種の人々が、平地に住む人々とはそもそも異なった種族の可能性があることをほのめかしている。
サンカやマタギは集団を作って住む人々だが、孤立して暮らしている人々は、これも山人と言って、ずっと多くのケースが報告されている。そのなかには、もともと平地の人とはかかわりなしに生きていた、いわば違う種族としての山人もいるし、またいわゆる神隠しなどによって、もともと平地に暮らしていた人が山で暮らすようになったケースもある。後者の人々のなかには、神がかりを伴なう者もいて、そういう者は平地の人々に宗教的な感情を起させる場合もある。
神隠しについていえば、柳田はかなりの紙数を割いてその例を取り上げている。中でも多いのは女の神隠しや、子どもの神隠しであるが、大部分に認められるのは、精神障害との関連だ。女の場合には、産後の発狂から山の中に入ってしまったとか、子どもの場合には一種の精神病から失踪してしまう例がある。柳田自身子ども時代に精神障害の傾向があって、それがもとでいわゆる神隠しに近い状態になったことがあると自白している。
人間臭い姿をした山人(山男や山ははなど)の他に、天狗や河童など明らかに人間とは違ったものが、山人と同じように語られる場合がある。その中で天狗は、超人間的な能力の持ち主として表象される場合が多い。天狗といえば山伏姿のイメージが重なるが、山伏は修験道と結びついており、したがって比較的新しいものだ。ところが柳田は、天狗の起源はそれよりもっとずっと古いと受け取っているようだ。天狗もやはり、日本の原住民だった山人たちがその起源だったのではないか。
天狗というものは、日本中の山の中に住んでいる。鼻が長いとか体が大きいとかいったイメージがあるが、その体の大きさだけを取り出すと、巨大な人間、つまり巨人のイメージになる。巨人にかかわる話は日本全国に流布していて、柳田はそれらを丁寧に収集しているが、それを読むと、日本には低地に住んでいる普通の日本人と、山の中に住んでいる巨人族と、二つの種族から成り立っていると思われるほどだ。
面白いことに、巨人としての山人は至極単純な人間だとされ、普通の人間に危害を与えるものとしては思われていないことだ。無論人間が騙したりすると怒ってひどいこともするが、基本的には穏やかで素直な性格を持つものとして受け取られている。また平地の人間の中には、山人の人のよさに便乗して、労役をさせるものもいる。こうなると山人は、単に好奇の目の対象にはとどまらず、異種族間の文化的接触の一例としての側面が目立ってくる。
ともあれこの著作から伝わってくるのは、日本の各地には、山人と称されるような、平地に住む普通の日本人とは異なった人々が山を生活の舞台として暮らしており、それらの人々と普通の日本人との間には、昔から一定の交流があったということだ。柳田は、そうした山人が、もともとこの国に住んでいた原住民であって、それが低地の人々に圧迫されて山の中へと移動していったのではないかと推測しているようである。ようである、というのは、その推測をことのついでにさらりと表現するばかりで(たとえば「山人と名づくるこの島国の原住民」というような表現)、正面から取り上げてはいないからである。 
 
山の人生

 

新聞だったかなにかで柳田国男の『山の人生』という本が、初版刊行から来年(2021年)で95年ということを知った。わたしの持っている岩波文庫版の『山の人生』で調べてみたら、初版は大正15年(1926年)とあった。この年は12月に大正天皇が没し、昭和の時代が到来する年でもある。
別に元号が変わる時代に、なにかがあるようなことを匂わせるわけではないのだが、『山の人生』の示唆することが、わたしにとって興味深いことに感じられるようになっている。それは柄谷行人さんの書くものによって与えられた人間認識であり、歴史認識と言ってもいい。
柄谷さんは『意味という病』(講談社文芸文庫)という本の「人間的なもの」というなかで、「柳田国男は『山の人生』の第一章に、『我々が空想で描いて見ている世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。又我々をして考へしめる』と書いて、次のような事件を記している」として、その事件、「一、山に埋もれたる人生あること」を紹介する。
「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいゐの小娘を貰って来て、山の炭焼き小屋で一緒に育てゝ居た。其の子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻って来て、飢ゑきつて居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたと謂う。二人の子供がその日当たりの処にしやがんで、頻(しきり)に何かして居るので、傍らへ行って見たら一生懸命に仕事に使ふ大きな斧(おの)を磨いていた。阿爺(おとう)、此でわたしたちを殺して呉れと謂ったさうである。さうして入り口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たさうである。それを見るとくらくらとして、前後の考も無く二人の首を打落してしまたつた。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕へられて牢(ろう)に入れられた」
柄谷さんは、役人だった柳田は彼を特赦にしたことで、柳田がこの事件から感じ取ったものが、同情とか憐憫(れんびん)といったものを越えた一種いいようのない衝撃だっただろうと書いている。
「心理学的にみれば、これは飢餓が生み出した心的異常であり、社会学的にみれば、要するに経済問題である。しかし、柳田の感受性は、飢えとか殺人行為の見せかけの悲惨さではなく、もっとその奥に流れている“人間的なもの”にとどいている。柳田はほとんど感動していたのだといってもよい。この事件を〈可哀想だ〉といったのは、殺してくれという子供たちとふらふら殺してしまう父親の行為の底に、いわば《魂》の問題、道徳とか法では律しえない〈人間の条件〉を感受しているからである」
柄谷さんが、この事件を柳田が「可哀想だ」というのは、「柳田における“人間的なもの”に関する一つの認識にもとづいている」とするとき、わたしはわたしなりに、この「人間的なもの」を追求していくべきと考えはじめた。そして、
「どんな意識的な行為でも不透過(ふとうか)な部分がある。ふらふらとやったのと大差ない要素がある。とにかく先ず人間は何事かをやってしまう。そして、やってしまってから考えるのである。われわれはすでにやってしまったことについてしか思考しえない。しかも、すでにやってしまったということへの異和感なしには思考しえない。これは極言すれば、われわれが誰でも気がついたらすでにこの世界に生きていたということと変りはない」
という部分に触れるとき、「どんな意識的な行為でも不透過な部分がある」ことから、「人間が生きることの意味」について、つまり「意味という病」へと思索の幅は広がり、深められていく。
柄谷さんが著した『世界史の実験』(岩波新書)では、第二部に「山人から見る世界史」が書かれている。そこには、柳田は長い間多くの仕事をしたが、一貫して抱いていた主題は「山人」であると言明する。
柄谷さんの『山の人生』の読みをテクストにしながら、「実験の史学」を巡るワールドへと誘われていくのも刺激的だ。
だいぶ夜も深くなってきた。「いつまでも起きてないで、早く寝なさい」という山の神の声が聞こえてきそうなので、とりあえず、ここら辺で筆を擱(お)こう。 
 
「山の人生」と「奥美濃よもやま話」

 

ご紹介したように、民俗学者の谷川健一は、『遠野物語』を「異なるもの同士の交渉」の視点で「精霊と人間」(オシラサマ、ザシキワラシなど)「山人と村人」(山男、山女の話など)「他界と村人」(ダンノハナ、デンデラ野の話など)「獣と村人」(猿の経立・狼の経立の話など)の四つをあげています。柳田がとくにこだわりを見せていたのが「山人」で、大正15年10月に『山の人生』なる一作を上梓しています。
「上古史上の国津神が末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、仙人と呼ばれたと見る」(「山人考」『遠野物語 山の人生』岩波文庫、p.276-277)なる推測のもとに、「神隠し」や「仙人」「鬼」「山姥」などについて論じたものです。柳田の問題意識はそれなりに評価すべきことでしょうが、冒頭「1 山に埋もれたる人生あること」を飾っている「西美濃の炭焼き一家」に起きた惨劇が、物議をかましており、それが柳田の作品のある種の「信憑性」に疑いを投げかけているのです。
お渡しした資料を参照願いたいのですが、この冒頭は次のように始まります。
「今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子どもを二人まで、鉞で斫り殺したことがあった」(p.93)。
妻はとっくに死んで、13になる男の子と同じ歳ぐらいのもらい娘の二人と生活していましたが、炭は売れず、一合の米も手に入らない。昼寝をして眼が覚めると「小屋の口いぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという」(p.93)。二人の子どもが仕事で使う斧を磨いて「阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれ」と入口の材木を枕にして仰向けに寝たのを見た炭焼きは「くらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった」というのです。炭焼きは死にきれず、牢に入って60近くになって特赦を受け世に出てきたそうで、「私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ちの底で蝕みつつあるであろう」(pp.93-94)
柳田はこのころ、内閣法制局の参事官として「特赦」に関する事務を取り扱っていました。「法制局で知った珍しい話」を朝日グラフに連載し、「一番印象の深かった人殺しの刑事事件」の一つが、この炭焼きの話なのです(「故郷七十年」『柳田國男集別巻3』、筑摩書房、p.341)。
柳田が「偉大なる人間苦の記録」と表現したこの事件について、哲学者・文芸評論家の柄谷公人は「彼は、夕日が照らしている小屋の外で山男がついふらふらと二人の子供をまさかりで斬り殺してしまうこの光景に、いいようもなく感動している。それは農政学者の眼ではなく、またたんに同情的な者の眼でもない。いわば物深いものを感受する眼がある。…柳田はこの事件に『物のあはれ』をみていたといってもよい。犯罪記録を独占的によみふけっていたいた彼は、それらの事件が表現しているもの、というよりただ犯罪という事(行為)としてしか表出されずその内に隠されてしまっている心と言(こと)を読んでいた」(柄谷公人「柳田国男の神」『柳田国男 民俗学の創始者』河出書房新社、p.97)と激賞しています。
小林秀雄もまた、「さて、炭焼きの話だが、柳田さんが深く心を動かされたのは、子供等の行為に違いあるまいが、この行為は、一体何を語っているのだろう。こんなにもひもじいなら、いっその事死んでしまえというような簡単な事ではあるまい。彼等は、父親の苦労を痛感していた筈である。自分たちが死ねば、阿爺もきっと楽になるだろう。それにしても、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、まったく平静で慎重に、斧を磨ぐという行為となって現れたのか。しかし、そういう事をいくら言ってみても仕方がないのである。何故かというと、ここには、仔細らしい心理的説明などを、一切拒絶している何かがあるからです」(小林秀雄『信ずることと知ること』彌生書房、p.201)と、書いています。
谷川健一は、この惨劇の「直話」が、岐阜県郡上郡明方村の郷土民俗研究家金子貞二がまとめた『奥美濃よもやま話』に載っていることを1980年ごろに知り、惨劇の動機が「貧しさ」からではなく、奉公に出ていた娘が盗みの疑いをかけられて「死にたい」ともらしたことからであることに気づきます(谷川健一責任編集『山の民俗誌』、三一書房、p.2)。
この疑問をさらに発展させ、当時の事件の警察調書などにもあたって、この事件の真相を調べていったのが現代社会論の内田隆三です(内田隆三『柳田国男と事件の記録』講談社選書、p.7)。内田は、「多くの人が柳田の記述に何かしら心を動かされた。…私もその中の一人」としながらも、柳田の表現と現実に起きた出来事の乖離を指摘し、柳田の表現に存在するある種の“虚偽”を抉り出していくのです。
谷川と内田の双方が、柳田の「山の人生」冒頭に綴られた話と同一の事件であるとするのが、『奥美濃よもやま話』の「新四郎さ」です。これは、まとめ役の金子貞二が叔父から聞いて書き留めたもので、叔父のところに作男として出入りしていた「新四郎」なる者の打ち明け話なのです。詳細は、お渡しした資料に譲りますが、要約すると
「炭焼きなどで生計を立てていた新四郎には、死に別れた妻との間に姉と弟の二人の子供がいました。奉公していた家で、若嫁の指輪を盗んだとの疑いをかけられた娘が「死ぬしかない」と訴えます。弟も「姉が死ぬなら自分も殺してくれ」と一緒に泣き出し、三人で一緒に死ぬのが一番だと、新四郎は斧を自ら磨ぎ、こどものアゴを丸太にかけさせ、一気に切り落とし、自分は立ち木に荒縄をかけて首をつります。朝から松蝉の鳴くなまだるい日でした。しかし、縄が切れて死ねず、三年の懲役。…」。
柳田が「偉大なる人間苦の記録」と表現した事件と、打ち明け話の「新四郎さ」には、谷川のあげた動機の違いだけでなく、斧を磨いだのが子供ではなく親であること、「夕日がいっぱいにさす秋の末の事」と表現されている季節が春から夏場にかけて鳴く松蝉(春ゼミ)の時期であること、もらい子とされている娘が実の子であること、さらには「西美濃」が「奥美濃」であること、など、いくつもの違いがあることにだれもが気づくでしょう。
「山の人生」の表現に柳田の作為的な文章の”装飾“を感じる内田は、二度にわたって、「文章はつくるもの」との柳田の文章論を紹介しています(p.86、p.210。 『文章世界』四巻一四号(1909)169頁の「言文の距離」からの引用)。
「無論文章の為に事実を曲ぐると云うことはよくないに違ひないが、然し実際上に於いて、事実を曲げなかったのと同等、若しくはそれ以上の効果があるとすれば、我々はそれ程極端にまで事実に依らなくても宜い訳である。況や事実とは言條、要するに言葉の端のことで、奥に座った本尊が動く訳でない。言わば文章の構造上のことで、簡易文体の文章など書いて見ると、特にその感を深くする。私はあの文体で、何かしっかりした本を書いてみたいと思って居る位である」
柳田が『遠野物語』を著したのが、この文章論を書いた直後の明治43年(1910年)6月(35歳)、『山の人生』は大正十五年・昭和元年(1926年)2月(51歳)のときです。柳田は、宗教民俗学者の堀一郎との対談で「まあ『遠野物語』はほとんど文学作品といってよいでしょうね」(岩本由輝『もう一つの遠野物語』刀水書房、p.103)と回想しています。
「山の人生」と「新四郎さ」との違いは、柳田の”作為“によるものなのか、それとも、単に柳田の記憶違いや警察調書と告白の違い、などによるに過ぎないのか、皆さんはどう考えますか。 
 
柳田國男に見る炭焼男の『山の人生』と福島原発

 

民俗学者の柳田國男の書いた中に『山の人生』という話があります。この序文に、「-山に埋もれたる人生あること-」として炭焼人の子殺しの話が出てきますが、これを書いた大正期から現在に至るまでもこの話についてはいろいろな物議(議論)を醸し出しています。
ちょっと長いですが、お読みください。
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「今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(きり)殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻(しきり)に何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。
この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持(ながもち)の底で蝕(むしばみ)朽ちつつあるであろう。
<中略>
我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。」
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この作品が出た時に、文学者の小林秀男はこの子供らを絶賛し、ある講演で、
『ちょうどその頃は、日本の文壇では、自然主義文学が盛んなときさ。どこかの女の子と恋愛して、逃げられて、女の子の残り香を布団に匂ったとか、そんな小説書いて、自然主義だと得意になっていた頃ですよ。いろんなつまらん恋愛、心理的な小説を幾つも幾つも書いて、「これが人生の真相だ」なんてえばっていた頃に、「なーにをしてるんだ諸君」。そう言いたかったんだな。僕はそう思うよ。
人生の真相だなんてえばっているものは、あんなものはみんな言葉じゃないか。よくあんなこせこせして小生意気なものを書いて人生の真相だなんて言っているが、どうして子供が死んだか。
悲惨な話ですけどねえ。だけどねえ、その子供ねえ、もっと違ったところから見るとねえ、こんな健全なことないですね。お父っつぁん可愛そうでたまんなかったんですよ、子供は。「俺たちが死ねばお父っつぁん少しは助かるだろう」と、そういう気持ちで一杯なんじゃないか。そういう精神の力で鉈(なた)研いだんでしょ? そういうものを見ますと、言葉というものにとらわれないよ。心理学というものにとらわれない、本当の人間の魂、そういう魂がどこかにいますよ。』(小林秀雄講演 第2巻―信ずることと考えること:新潮社)
小林秀男と言えば、日本の論壇の中でも一際すぐれた文学者ですが、現在の感覚からすれば「トンデモ」ということになる話ではあります。当然のことながら、この話は現在でも時折様々な議論を巻き起こしていますが、常識でみて「トンデモ」になる話であるハズなのに、表層的な評価を許さない“何か”があるような気がします。
福島原発を巡る不条理な状況を見る時に、この「山の人生」と小林秀男の評した言葉がダブって来ますが、我々日本人の中にこのような「犠牲精神」を尊いものとする思想がある限り、この国の不条理と不幸は無くならないのではないか。「山の人生」の子供或いは炭焼男がもしかしたら私かも知れないし、あなたかもしれません。
ただ、柳田國男はこの話は「実話」であると言っており、彼の書いた通りを信ずるならば、確かに子供は自らの意思で行った行為であり、それを彼は序文の最後で述べているのです。
・・・・・
なかなか結論を出せない話になりましたが、みなさんはどのように感じられるでしょうか。
 
柳田国男の『山の人生』 ・・・ 和田佐次郎のこと少し

 

柳田国男の『山の人生』の冒頭に挙げられている子殺しの話。柳田が法制局にいて、警察関係の書類からその件を知ったのであれば、ああいう話になるのは仕方がないところもある。ただあれだけ米にこだわったストーリーに仕上げたのは、柳田が山の生活を、山の人生をほとんど知らなかったということが大きく響いている。奥美濃の話を、西美濃の話に置き換えて語った配慮はわからないではないが、しかしかといって寒水の村では当時も焼畑による畑作が普通に行われていたことぐらいはちょっと調べればわかるはずのことだ。そいう村であれば、アワやキビやヒエやソバや豆や川魚やミズナラの実など、山での生活はそう不自由なくできただろうことは想像がつく。住処(「新四郎屋敷」)の近くに茗荷のちょっとした群生があるのは(それを川野和昭さんが発見した)、そこに普通に人が住んでいたことの証拠だ。
ともあれその「山の人生」の主人公、斧(ヨキ)で二人の子供を惨殺した男の名は和田佐次郎というらしい。谷川健一の『柳田国男の民俗学』*)の中にその名が出てくる。それもまたどうでもいい話だが。
問題は『奥美濃よもやま話』**)の「新四郎さ」の話を知っているはずの人たちの力不足だ(1)。読解力不足。つまり娘を村の有力者のところに女中に出すことのできる家がどういう家かということだ。ここに立ち止まって、少し考えるならば、「新四郎」の実家の家柄が相当によいものだったろうことは想像がつく。果たして数年前に、川野和昭さんと科研の調査のついでに行った寒水で、S氏から聞いた話しでは、新四郎(=佐次郎)の兄が庄屋であったということだった。さもありなんだ。ちなみにS氏は、寒水の村で、この新四郎の話を語ることが許されている二人のうちのお一人だ。そのS氏をわたしは、村の人とのそれまでの付き合いもあり、紹介してもらうことができた。
まずはこのことだけを紹介しておく。先日赤坂憲雄さんにこのことを話したら、ともあれそれを公にしておくことを勧められたからだ。なかなか一本の論文として記す時間がないので、まずはこの形で公にしておく。
*) 谷川健一、『柳田国男の民俗学』、2001年
**)金子貞二、『奥美濃よもやま話』三、昭和四十九年
内田隆三(『柳田国男と事件の記録』 )を信憑している方は、ぜひともまずは金子貞二の『奥美濃よもやま話』を十分に読み、 当時の山村生活一般についても理解を深め、当時の奥明方村の村の生活(人々のかかわり)がどのようにして成り立っていたか、誤った理解をもたないように十分に留意してほしい。
 
柳田国男の目覚め −『後狩詞記』と『遠野物語』−

 

遠野という土地は、柳田国男あるいは日本民俗学にとって約束された土地だったのではない。明治四十一年(一九〇八)の冬、佐々木喜善という若者を介して、ふと引きよせてしまった偶然の土地であった。しかも、この時期を措いて、遠野が他の山村から抜きんでて特権化される契機はなかったし、『遠野物語』が成立する機会もなかったはずだ。そして、遠野を引き寄せた理由はただ一つ、同じ年の夏、椎葉(那須)と呼ばれる日向の山村が柳田国男を牽引してしまったためである。
日本民俗学の創建という側から言えば、この、『後狩詞記』(明治42年3月)と『遠野物語』(同43年6月)に結実する体験が柳田国男を目覚めさせたことになる。しかしそれは、かつてロマンチスト松岡国男が、「いざ今いち度かへらばや、うつくしかりし夢の世に」(「夕ぐれに眠のさめし時」)とうたったような朦朧とした覚醒であり、しかもそれは、産業組合を普及させ二町歩の田を持つ独立自営の農家の実現を説き続けていた「近代合理主義的な発想」(岩本由輝『論争する柳田国男』)をもつ農政官僚=学者柳田国男が眠りに落ちてゆくのを代償とした目覚めでしかなかった。そして、この曖昧な覚醒から柳田が今いち度目覚めた時、「自立した、全体概念」として「特権的な座」をもつ<常民>(赤坂憲雄『山の精神史』)が姿をあらわすことになったのである。
つまり、『後狩詞記』『遠野物語』に始まり『山の人生』(大正15年11月)によって終息する初期柳田国男の山人論の営みは、<覚醒による入眠>というありえない状況の中でなされたのだ。ただ、この時たしかに柳田は目覚めたのであり、その証拠を、明治四十一年という年にさまざまに刻みつけている。ここでは、その痕跡を追いながら、柳田国男の軌跡の一端を辿っておきたい。
農政学から民俗学へ
明治三十三年(一九〇〇)に農商務省の役人となって以降の柳田国男の著述を眺めてゆくと、明治四十一年を境に、その前と後とでは大きな変化が見てとれる。前半のそれは農政学と産業組合関係の論文がほとんどで、柳田の意志は確固として中農養成に向いているのである。たとえば『定本柳田国男集』と藤井隆至編『柳田国男農政論集』に収録された明治四十年発表の論文と講演を列挙すると、「樺太雑談」「農業用水ニ就テ」「小作料米納の慣行」「農業組合論」「日本に於ける産業組合の思想」「地方の産業組合に関する見聞」「箱根の山中」「蚕業の一本山たる高山社」「保護論者が解決すべき一問題」「農業政策」といった題名が並ぶ。それに対して、翌四十一年には、「土地と産業組合」「肥後の民風」「地価高きに過ぐ」「天草の産業」「九州の水利事業」が、四十二年には、「町の経済的使命」「天狗の話」『後狩詞記』「九州南部地方の民風」「島々の物語」「農業経済と村是」「木曾より五箇山へ」「山民の生活」「潟に関する連想」が発表されている。
四十一年を境に農政関係の論文が少なくなり、「民風」「生活」などという表題からも窺えるように、後に確立される日本民俗学に繋がる論文が姿を見せ始めていることに気づく。そこにどのような契機があったかといえば、間違いなく、この年の五月二十四日から九十日間にも及ぶ九州・四国への視察講演旅行の途中に接した九州各地、とくに阿蘇山麓・天草・五木・椎葉の人々の生活であった。
この、五月二十七日に博多に到着し、長洲(宇佐市)を離れて広島に向かう七月二十六日までの二月間の九州一周の旅については不明な部分が多かったが、先年、その行程をびっしりと書き記した田山花袋宛の絵葉書(七月三十一日、松山の消印がある)が公開されたおかげで、詳細にその足取りを追うことができるようになった(館林市教育委員会文化振興課編『田山花袋宛柳田国男書簡集』)。それに、『柳田国男農政論集』に収録された諸論や『後狩詞記』序を重ねてみると、明治四十一年に生じた柳田国男の変貌とその理由はかなり鮮明になる。端的にいえば、柳田は九州で体験した「民風」に<戦慄>したのである。
最初の驚きが旅の始まりに訪れたらしいということは、柳田がまだ九州を旅行中の七月に雑誌発表された「肥後の民風」(『斯民』三編五号、『農政論集』所収)によって推察できる。この文章は五月三十日と六月三日の日付をもつ二通の書簡からなるが、「筑後八女郡の山間、黒木町より一書を呈し候」と書き出された前半が、博多から久留米を経て黒木(福岡県黒木町)までの、筑後川両岸の土地利用の進捗状況・耕地整理・流通・産業などを農政官僚の目を通して報告するのに対して、阿蘇山北麓の宮地(熊本県一の宮町)に二日間滞在した後に、南麓の戸下温泉(同、長陽町)に宿泊した六月三日付の書簡は興味深い内容を含んでいる(行程と宿泊地は花袋宛の絵葉書による)。
「 阿蘇山下より一書奉呈候、筑後川低地の民生を見たる後阿蘇の高原に入るときは、殆コントラストの耳目を驚かするもの有之候。(略)土地利用の進歩せさること此の如くに候へ共、小生が観る所之にも亦言ふべからざる妙味これあり、古日本の風気精神の猶此山間に存するあるは全く右主畜農業一毛作農業と相関聯するかと存候。(略)勿論此の如き粗暴耕作の永続すべからざるは明白に候へ共、願くは統一に過ぎたる行政方針を以て平地の標準を適用し急激なる経済組織の動機を引起さぬやう致度候。 」
ここには、農政官僚柳田国男の理想とする農業とはかけ離れた山間の生活への驚きが率直に述べられている。しかも、その後進性が「妙味」であり「古日本の風気精神」の残存かもしれないと考え、画一的な改革に危惧を表明するのである。「平地」を立脚点として農業政策を考えていた柳田にとって、この宮地での体験は、自らの農政学への疑問を抱き、山民の生活に目を向ける最初の契機を与えたという点できわめて重要だといえよう。そして、次いで訪れた天草地方(花袋宛絵葉書によれば、六月六日に熊本から本渡に入り下津深江・牛深・本渡と廻って十日に対岸の三角町に向かう)でも同様の体験をしたことが、「天草の産業」(41年10月、『斯民』三編八号、『農政論集』所収)という報告に記されている。
「人口は二十万人あつて、其内五万人は外国へ出稼をして居るから、外より入る金銭は中々多い。然し島民の生活程度は甚だ低くて、労働は中々烈しくやつて居る。其割合には富んで居らないが、幸福な島であります」という屈折した文章に続けて、見聞した島の産業や宗教・習俗にふれながら、次のような文章で締め括っている。
「 是等の習慣が、今日の如き極めて新しい文明社会の風俗と併存して居る状態は、到底単純なる法則の下に、社会の行動を律し様とする書生の想像には及ばない所かと思ふ。 」
宮地での体験を踏まえれば、ここに言う「書生の想像」のなかに、柳田自身の立場が篭められているのは疑いようがなかろう。熊本の阿蘇男爵家で下野の狩の絵を見て心を動かされたり、旅行中に親友国木田独歩の死を知って感傷的になったりしたのが、柳田の椎葉行の原因だと説明されているが(柳田国男研究会編『柳田国男伝』)、それらには、椎葉行と直接に繋がるような大きな意味があったとは考えられない。とり立てて用のない日向の秘境に柳田を向かわせたのは、阿蘇の宮地や天草での「書生の想像には及ばない」見聞によって、「平地」の民とはちがう人々の生活があることを知り、それに柳田が吸引されてしまったからである。そして、この旅は、貧しい農民を救うはずの農政学を問い直すものにもなった。
椎葉への旅
椎葉滞在中の柳田の足跡については、「私は椎葉の山村を旅行した時に。五夜中瀬君と同宿して猪と鹿との話を聴いた。大字大河内の椎葉徳蔵氏の家に泊つた夜は。近頃此家に買得した狩の伝書をも共に見た」という『後狩詞記』序の文章や、村長中瀬淳から聞き採ったという白足袋を履いて峠を登ってきた入村時の様子(宮本常一「柳田国男の旅」、牧田茂編『評伝柳田国男』所収)、後年の柳田自身の回想など断片的な資料に頼るしかないため、曖昧な部分が多く誤解も生じることになった。たとえば、ほとんどの伝記・年譜の類には椎葉村の嶽枝尾(現、竹枝尾)にあった中瀬淳宅に五泊して村内を廻ったと記述されており、同宅前には今、「民俗学発祥之地」という記念碑も建てられているが、花袋宛絵葉書によって、その誤りが明白になった。そもそも、中瀬宅に五泊したのなら、序の「中瀬君と同宿して」という表現は奇妙なものになるが、実際は、中瀬宅には一泊もしていなかったのである。
  十二日  神門 ?   〔現、宮崎県南郷村神門〕
  十三日  椎葉山中松尾村 松岡久次郎
  十四日  〃 桑弓野、黒木(郵便局)
  十五日  同大河内  椎葉徳蔵
  十六日  〃 不土野  那須源蔵
  十七日  〃 桑弓の  郵便局
  十八日  〃 椎原  那須鶴蔵
  十九日  馬見原  八田氏   〔現、熊本県蘇陽町馬見原〕
宮崎市から海岸沿いに北上した柳田は、日向市から南郷村をぬけて、七月十三日に椎葉村の東南の入口中山峠で村長以下村人たちの出迎えを受けて村に入り、村内各集落の民家を中瀬村長とともに泊まり歩き、十九日に、北の境界国見峠を越えて出ていったのである。宿泊先の地名を辿ると、広大な椎葉村の全域に足を運んでいるのがよくわかる六泊七日の椎葉滞在中、柳田は、村人たちに会ってオコゼの話など狩猟に関する習慣や焼畑に関する話、あるいは地名や土地の言葉を聞き歩き、序にも記されているように「狩之巻」という古文書を見たりするのである。その具体的な内容は、『後狩詞記』序や「九州南部地方の民風」と題された報告(明治42年4月、『斯民』四編一号、『農政論集』所収)によって確認することができる。
そこには、九州に入った直後の阿蘇高原で感じたと同様の驚きが語られ、初めて、「平地人」「山民」「異人種」という以後十数年にわたって展開される山人論の主要語彙がそろって登場する(山人論については、赤坂憲雄『山の精神史』参照)。そして、平地人とは違う土地所有の形態や焼畑を論じながら、その山村の生活を、「富の均分といふが如き社会主義の理想が実行」された「『ユートピヤ』の実現で、一の奇蹟」だと賞賛し、土地に対する山民の思想を語るのである(「九州南部地方の民風」)。このいささか大袈裟な物言いには、柳田が理想として掲げていた中農とはまったく別個の、山民の充足した生活への素直な驚きと戦慄が示されているとみなければならない。
また、この論文末尾の、平坦地のない椎葉で「傾斜地に所々水田を作つて」いることにふれながら、「経済学以外の理法でなくては、之を説明すること」ができないとか、「山地人民の思想性情を観察しなければ、国民性といふものを十分に知得すること」ができないという発言も、民俗学の創設へと向かう柳田国男の軌跡を考える場合に重要である。柳田の発想の根底に、国民=平地人(農民)という認識が確固として存したということが明白になるからである。続けられている赤坂憲雄の、「排除されたモノの側から常民を炙りだす試み」の有効性はいささかも揺らぐことはないが、後年の山人論からの撤退は、平地の民のための農政学から出発した柳田国男にとって必然的な道筋だったのではないか。それは、撤退というより農政学から民俗学へと回帰するための通過儀礼であった。そして、試練を経ることによって、農民は常民へと姿を変えたのである。
『後狩詞記』と『遠野物語』の成立
長い旅から帰った柳田は、機会ある毎にその見聞を人々に聞かせたらしいが、その一人に水野葉舟もいた。十月二十六日のことである。そして、葉舟が東北の山村遠野の語り手佐々木喜善を柳田に紹介することになり、初対面の十一月四日から聞き取りが始められ、翌年二月頃までの五、六回の対面で、『遠野物語』に収められた話のほとんどが聴取されたのである。しかも、うち三回は十一月に集中しており、この時期の柳田が喜善の語る話にいかに強い興味を抱いていたかがわかるのだが、この執心は、衝撃的な椎葉体験を抜きに説明することは不可能である。時期の重なりからみても、この二書はまさに双子として誕生した。
そもそも両書は、序・本文・古文書を並べるという全体の構成からして、大層似ているのである。本文は、『後狩詞記』が中瀬淳の手になる「土地の名目」「狩ことば」「狩の作法」「いろいろの口伝」と題された四章と柳田の付した注からなり、『遠野物語』は佐々木喜善の語った遠野地方の民譚百余話と柳田の注からなる。内容は大いに違うように見えるが、ともに山民の生活に根づいたものだという点で一致している。『遠野物語』が末尾に「獅子踊に古くから用ゐたる歌の曲」(明治四十二年八月に柳田が遠野を訪れた折に筆写した土地の文書)を掲載するのも、『後狩詞記』の附録「狩之巻」と体裁を合わせるためだったに違いないし、ともに序の後ろに自作の短歌一首を添えるのも、両書が一対であるということを暗示する。
すでに、『遠野物語』の成立については、水野葉舟の証言や遺された初稿本などによってさまざまな指摘がなされているのに、『後狩詞記』については、序や後の回想「予が出版事業」(昭和14年12月、定本23所収)を引いて断片的に論じられる程度であったが、牛島盛光の紹介した中瀬淳宛の柳田書簡により、本文と「狩之巻」の入手の過程が明確になった(「幻の『後狩詞記』−柳田国男の手紙は語る−」『ちくま』平成二年一月号)。柳田が帰京して二月後の十月二十五日付書簡によると、「山中の地名」や「猪狩の慣習」は貴重なものだからぜひ集めて置きたいので、「何とそ御ひまに御心掛御集め被下、可成ハ画又ハ文字にて詳しき御説明を御附被下度候」と懇請し、「椎葉徳蔵君宅にて見たる狩の儀式を記せる巻物を細読」しなかったのを残念がっている。そして、翌四十二年一月八日付の書簡には、「偖御面倒なる御依頼快く御承引被下候上、猶大河内椎葉氏所蔵の文書小生一見の砌ほしがり候事御記臆被下、併せて御写取御送給ハり候段御礼申上候」とあり、続いて、二月十三日付書簡では、「さて過日の御書き物ハあまり面白く候故、少部数を印刷して珍を友人と分つつもり目下活版所に托しをり候所、更ニ追加を得是亦大よろこひに候 雪解の頃ハ小冊子御送可申」と記している。
この三通の書簡から想像すると、柳田の要請に応じた中瀬淳は、『後狩詞記』の本文にあたる椎葉民俗誌を書き上げ、自ら筆写した「狩之巻」を添えて、四十一年末か正月早々に柳田の元に送ったのである。その中瀬の文章に注を加え、末尾に附録として「狩之巻」を添え(巻末に「……伝写本一本謹写訖」という奥書と明治四十二年二月二日の日付と柳田国男の署名がある)、十段からなる長い序(二月一日付)を書いて一冊の書物にまとめ上げたのである。おそらく、校正の際に追加原稿も加えられただろう。
『後狩詞記』も『遠野物語』も、純粋に柳田国男の文章だと言えるのは、本文に付された注と序だけである。そして、分量こそ違うが、その序もまた両者は双子のように接近した内容をもつ。自分の見聞した椎葉と遠野の風景や生活を描きながら出版の意義にふれた内容だが、柳田がもっとも強調したかったのは、次のような部分であろう。
「 茲に仮に「後狩詞記」といふ名を以て世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は。勿論第二期の狩に就ての話である。(略)然るに此書物の価値が其為に些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は。其中に列記する猪狩の慣習が正に現実に当代に行はれて居ることである。自動車無線電信の文明と併行して。日本国の一地角に規則正しく発生する社会現象であるからである。(略)私は此一篇の記事を最確実なるオーソリテイに拠つて立証することが出来る。何となれば記事の全部は悉く椎葉村の村長中瀬淳氏から口又は筆に依つて直接に伝へられたものである。 (『後狩詞記』序、定本27) 」
「 此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。(略) 思ふに此類の書物は少なくも現代の流行に非ず。(略) 況や我が九百年前の先輩今昔物語の如きは其当時に在りて既に今は昔の話なりしに反し此は是目前の出来事なり。(略)要するに此書は現在の事実なり。単に此のみを以てするも立派なる存在理由ありと信ず。(『遠野物語』序、定本4) 」
この『遠野物語』序の、「鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり」や「自分も亦一字一句をも加減せず」という文章が、グリム兄弟の『グリムの昔話』(童児及び家庭の説話)第二版に添えられた序文の趣意をとりこんだものだという岩本由輝の指摘は興味深い(『柳田民俗学と天皇制』)。そして、それと同様の方法は、「最確実なるオーソリテイ」「記事の全部は……村長中瀬淳氏から口又は筆に依つて直接に伝へられたもの」という表現で、『後狩詞記』序にも見出せるのである。これらは明らかに、本文の事実性・信憑性を強調するためのレトリックだと言えるだろう。中瀬や佐々木の人柄が実際にどうであったかということとは別に、語り手としての二人は、誠実で確実な人物でなければならなかったのである。
もうひとつ、両方の序に強調されているのは、現在性という点である。「現実に当代に行はれて居る」「規則正しく発生する社会現象」(以上、『後狩詞記』序)「目前の出来事なり」「現在の事実なり」(以上、『遠野物語』序)といったことばは、「それらがともに現在という時間のなかに生起する習俗であり、民譚であること」(赤坂憲雄『山の精神史』)を確認するために必要だったのである。別に言えば、柳田の視線は現在にしか向いていないということになる。つまり、農政学という現実の社会に向き合った地平に立ち続けていた柳田国男の方向性は、椎葉に出会っても遠野の民譚を聞いても変わることがなかったということを示している。少なくともこの時点では、『遠野物語』は文学などではありえなかったし、「山人」は今まさに実在する者でなければならなかったのである。

『遠野物語』序には、「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」という、よく知られた言挙げがある。そしておそらく柳田国男こそが最初に戦慄した平地人であった。またそれは、巻頭の献辞「此書を外国に在る人々に呈す」とも呼応している。柳田は、心を外つ国に向けた「書生」=平地人たちに、「文明」とは別のもう一つの<今>を呈すことによって、近代を撃とうとしたのである。
まちがいなく、柳田国男にとって宮地や天草や椎葉での体験は戦慄だった。遠野の民譚を聞いた柳田が、講演や視察とは関わりなく、自らの意志で遠野の地に足を運んだのも、『遠野物語』出版の準備作業というよりは、九州での衝撃を追体験するためだったはずである(この明治四十二年八月の遠野行については、遠野常民大学運営委員会編『柳田国男の遠野紀行』に詳しい)。ところが、柳田が目にした遠野は、山深い椎葉とはちがって、豊かに水田の広がる賑やかな町であった。たぶん、佐々木喜善の語った山人の世界とはいささか異質に見える盆地を、平地人柳田国男は複雑な感情をまじえながら眺めていたのではなかったか。  
日本近代史の中の日本民俗学 −柳田国男小論− 

 

(序) 問題としての柳田国男と日本民俗学
日本近現代史の中で逆立された人物と学問
戦後1970年ごろ、政治的には平和主義・小日本主義を後生大事に唱え高度経済成長を続ける列島国家は日本人論ブームに覆われた。この国は大日本主義の時代、自身を問いたくなる。戦前の大東亜共栄圏の夢が軍事政治的には潰え去ったけれど、経済的覇権として甦ったのだ。なぜ私たちは「大日本主義」の時代になると「日本」「日本人」を問いたくなるのだろうか。外部より内部に目を向けたがるのだろうか。これらの問いに筆者はいま簡単には答えられない。だが、この思考の原型を創ったのは柳田国男であるとだけは言える。この小論ではその柳田国男と彼が樹立した日本民俗学を、波乱の日本近現代史の中にしかと位置づけて考えてみたい。
あらかじめ見通しを述べておくと、日本民俗学の祖・柳田国男という人物像も、彼が見出した常民としての日本人像も、日本近現代史の中で逆立された、逆投影された像ではないかというのが筆者の仮説だ。その屈折点あるいは反射鏡として立つのが敗戦であり明治維新である。柳田国男の生涯と思索の大半、そして日本民俗学の誕生と成長も、近代国家日本が創始され軍事大国・日本帝国であった大日本主義の時代の中の出来事だ。にもかかわらず、戦後日本人はそんなものはなかったかのように柳田を最初から民間民俗学者と見なし、また日本民俗学が見出した「日本人」とその文化や伝統も明治以前(さらには太古)からあったものと信じて疑わない。
だが、事実は果たしてそうだろうか。柳田の半生は国家官吏であり自らも「民俗学者」であることを否定していたし、「国民」としての日本人は明治になって以降に形成されていったものに間違いない。さらに日本の「伝統」は失われたもの、あるいは失われつつあるものとして、柳田が組織した民俗学者たちによって断片的に採集されたが、あらかじめ失われたもの、忘れられたものとして「日本人」は近代に初めて作られたのかも知れないのだ。
沈黙する柳田国男の謎
日本民俗学をほぼ独力で打ち立てた偉大なる柳田国男(1875〜1962年)。しかしその真実の姿は彼の民俗学とともに、未だ謎のままである。日本民俗学の古典とされる『遠野物語』(明治43[1910]年)を著した柳田国男が国民に広く知られるようなったのは意外にも戦後のことだ。しかも柳田は不可思議にも自らの学問を「民俗学」と呼ぶことに大正15(1926)年の時点でもなお躊躇していた。事実、柳田は長らく民俗学者ではなかったのだ。
その柳田であるが、享年87歳の長寿である。民俗学的な著述はすでにいくつもあったが、柳田が自覚して民俗学に取り組み始めたのは国家官吏を辞め(44歳)て以降で、本格的には50歳前後のことと言えよう。そして日本民俗学を理論的にも組織的にも打ち立てていったのは還暦前後だ。終戦を70歳で迎え、有名な『海上の道』を上梓したのは死の前年の86歳のことであった。
柳田より若い弟子であった折口信夫が死を迎えたのが1953年、先輩の南方熊楠も1941年に没している。柳田の最期を看取ったのは年若い弟子ばかりなのである。柳田の伝記には謎が多い。しかし、そのせいもあろう、伝記の謎は一向に解明できていない。柳田は83歳になって『故郷七十年』という回顧録を自ら著したが、肝心な部分は沈黙あるいは韜晦で覆われている。未だに伝記はすべて本人が「申告」した材料からしか作成できていないのだ。
柳田は、ひたすら民俗学者以外何者でもない者として死ぬことを願いながら回顧録を綴っていたはずだ。柳田にとって戦後とは何だったのだろうか。そんな感懐を筆者は禁じ得ない。彼は自分が違う者になってしまったことを痛いほど自覚していたはずだ。だからこそ沈黙することを決めたのだ。彼の民俗学には「現代」がない。戦争や植民地がない。また、朝鮮や中国もない。本来あるべきものが見事に欠落している。
その事情は戦前と戦後では意味が異なる。戦前は自身の政治的な考えが政府とは違うために「現代」を語ることを自ら禁じたのだろう。しかし政治的な発言が自由になった戦後においても、柳田が自身の民俗学の秘密を明かすことはついになかった。それは彼の民俗学が実は民俗学ではなかったことを永遠に隠蔽するためだ。そして彼が作り出した日本と日本人を永遠に守るためだ。
柳田は明治・大正・昭和前期という近代日本にとって疾風怒濤の時代を生き、その中でいま賛否交叉するある日本独自の民俗学を樹立した。柳田が生きた時代と彼の学問は切っても切り離せない。柳田は東京帝大を卒業し、高級官僚となった当時最高のエリートである。そんなエリートの一人が近代日本のために打ち立てた理論と実践が彼の民俗学だったとは言える。以下、近代日本のメルクマールとなった戦争を節目に柳田の生涯と思想を追ってみたい。
(一) 1875〜1904年 出生から日露戦争まで(0〜29歳)
故郷関西から東京への離郷
「柳田」は元来の姓ではない。彼は松岡国男(國男)として、兵庫県神東郡田村村辻川(現神崎郡福崎町辻川)に八人兄弟の六男として生まれた(3人は早世)。そこは姫路市から北へ15キロほど入った農村である。父は国学の知識もある医者であったが、いつしか精神に支障を来たし家計は傾いた。国男は13歳の時、先に郷里を離れ茨城県で医師を開業した長兄の許に引き取られることになった(3年後には父母も上京)。この離郷体験は決して柳田だけのものではない。事情は様々だが、近代を生きる日本人一人ひとりの運命だった。
その後、東京御徒町で開業医となった次兄通泰(本名は康蔵。通泰は郷里の富家・井上家の養子となっていた。後ちに歌人としても知られる)の許に移る。次兄の帝大同窓に森鴎外がいてその感化を受け、作歌を学ぶため、桂園派の歌人・松浦辰男(萩坪)に入門。そこで長く親交を結ぶ小説家田山花袋らと知り合う。一高に入学するが、在学中は『文学界』に短歌などをしばしば寄稿する文学青年であった。
この頃、近代国家日本にとっての最初の対外戦争、日清戦争(1894〜5年)があった。これは「近代国家」対「前近代国家」の戦争でもあった(この勝利から「後進国」中国への蔑視が始まる)。新国家建設から27年目、憲法に基づき国会が開設されて4年後のことである。未だ国家の基礎は盤石とは言えなかった。表面的には「近代」が着々と建設されつつあったが、まだまだ農業国である日本人の生活はそのつど軋みを見せていた。農民層の分解や都市への流入が進行し、「国民」の内面は安心の拠り所を求め揺れ動いていたのだ。
戦争は「近代国家」日本の勝利で終わったが、列強の三国干渉に苦杯をなめた。だが、初の海外領土・台湾を手に入れる。これが柳田の「民俗学」形成にも大きな影響を与えることになった。帝大入学の前年、母、次いで父を病に失う。縁戚が残るとは言え、柳田はこれで精神的には故郷を喪失したのだ。後年、何度か郷里に戻るが、ついに異邦人であることを免れなかった。柳田の民俗学とは、農村や漁村や山村という「故郷」を喪失した近代日本人の物語でもある。
養子「柳田」国男の誕生
帝大では法科に進み、新しい学問・農政学を学んだ。しかし柳田はなぜ農政学を選んだかは明確に語らない。それでも彼の関心の在り処はわかる。農政学とは農学というより政治学だ。国家の農業政策に関する総合学、農業を中心にした国家政策学なのである。後ちに柳田と深い交わりを持つ、「先輩」新渡戸稲造も農政学を札幌農学校で学んでいた。
当時の明治国家は富国強兵を唱え、工業が主導する産業国家をめざしていた。それに対して柳田は、工業の重要性は十分認識した上で、農業を重視した国家づくりが日本には必要だと考えていたのだ(柳田の理想は戦後改革によってほぼ実現された)。その思考と実践は卒業後に官僚としていかんなく発揮されるが、これはそのまま彼の「民俗学」にも貫徹されていると言ってよいだろう。
卒業後、農商務省農務局に勤務し、農政エリートとして活躍を始めた。毎週、早稲田大学で農政学の講義も行っている。翌年、大審院(最高裁)判事、つまりトップエリート柳田直平の養子となる。26歳、1901年のことであった(3年後、直平の四女と結婚)。ここでも柳田はこの縁組みの動機を語らない。友人田山花袋が立身出世のためではないかと推測するのみである。確かに「立身出世」のためであっただろう。彼には生涯の任務があったのだ。この婿入りは実は日本民俗学にとっても重要な意味を持つことになる。
だが、農商務省では上司と折り合いが悪く、その翌年には内閣法制局参事官に「栄転」する。体の良い左遷であった。だが、柳田はその後も早い出世を続け、局長クラスまで登り詰める。これは次兄が大学の友人を通じて元勲山県有朋と親しく、柳田自身も山県派閥と見なされたことが大きいとされる。だが、果たしてそれだけか。柳田自身が「政治家」をめざしていたのだ。いや政治家と言うより、政策家と言った方が正しいだろう。
官庁を移っても柳田は農政官僚であった。農商務省時代から産業組合問題に深く関わり、各地への講演旅行をくり返している。その方面の権威として『最新産業組合通解』(1902年刊)という著作もある。「産業組合」とは農協などの前身だ。これをいかなるものとして組織するかが当時激しく論じられており、柳田は「産業としての農業」政策を主張していた。
官僚となってからも、柳田の文学趣味は続いていた。ただし、この「文学」を以前の抒情詩の延長で捉えてはならないだろう。明治文学は近代思想として活動し展開していた。その空気を呼吸することを柳田は続けていたのだ。田山花袋や島崎藤村と親しく付き合い、文学者との会合(土曜会)を自宅で毎週開いた。『武蔵野』で知られる国木田独歩も参加したこの会は自然主義文学派を育み、後ちに柳田宅を離れて竜土会と呼ばれた。日露戦争勃発の前年(1903年)、柳田は田山花袋と『近世奇談全集』なるものを刊行している。怪談集である。これは何なのだろうか。
撲滅される幽霊と近代人の心
近代は脱迷信の時代である。馬鹿馬鹿しいほどの合理主義の時代である。英国では1882年、心霊現象研究協会(The Societyfor Psychical Research)が設立された。幽霊などの心霊現象を「科学的」に研究しようというものだ。しかしこれは近代人の心の反面でしかない。実は非合理を求めていることの裏返しなのだ。事実その後、英国ではスピリチャアリズム(心霊主義)という文学潮流が起こる。夏目漱石は1901〜2年の英国留学中にこの洗礼を受けている。
当時随一の近代国家英国でさえこれである。にわか仕立ての近代国家、わが明治日本はどうであったろうか。浄土真宗出身の「近代主義者」井上円了が妖怪や幽霊についての蒙昧を盛んに批判した。確かに江戸時代からの遺習や迷信の類にすぎないものが人々を縛っていたことは事実だろう。が、定かならぬ由来の習慣や習俗、その奥に潜んでいる思考や意識。それこそが当時の明治「国民」が暮らしを送る生活価値であり、やがて柳田が出会う「民俗」であったのだ。
民俗学「以前」の柳田は、この微妙な社会価値の転換過程を肌で感じていたはずだ。「近代化の反動」だとして切り捨てきれない、日本人の生活価値があることを。故郷を喪失した柳田個人に即して穿った見方をすると、父母の死の衝撃があるように思う。父母の魂はどこへ行ったのか。直接にそれが『近世奇談全集』編纂の動機とも思われないが、すぐに訪れる怪談ブームに先行した柳田の感性には鋭いものがあったことは確かだ。近代人の心は怪談を欲していた。
(二) 1904〜1914年 日露戦争から第1次大戦まで(29〜39歳)
怪談ブームがやって来た!
日露戦争は明治の外交政治史にとって最大の事件であることは言うまでもないが、「国民」史にとっても同等以上の意味があった。15万人の死傷者が出た。自分の身近な誰かが死んだのだ。単なる官製神社であった靖国はこの時、本当に「靖国神社」となった。当時日本中に徘徊した死者の霊は『遠野物語拾遺』にも登場する。この戦争によって、日本人は「国民」となっていった。旧い藩の枠組みや村落共同体を超えて、日本「国家」という幻想を実感として感じ始めたのだ。経済構造上も一気に工業化が進み、農村が急速に解体していく。
文壇では怪談ブームとなり、あちこちで怪談研究会が作られる。たとえば、漱石の初期短編奇譚集「夢十夜」(1908年)、鴎外の「百物語」(1911年)はこの潮流の中でこそ初めて理解できる。柳田の前民俗学時代の代表作『遠野物語』も同様だ。「近代」が深まり身の回りに実感されていくことで、「近代」ではない領域がかえって露わになっていく。近代は近代と区別すべき境界を画定していく。しかしこれは画定ではなく、近代による創造ではないのか。
事実、近代は「古代」を再創造していた。近代天皇制こそ、その第一の産物に挙げねばならない。古代の再創造とは実は「伝統」の創造に他ならない。「日本」は近代に創出されたのだ。国家も民族も国民も近代の産物であることを忘れてはならない。そういう意味で、戦後日本人が憧憬する明治時代の「日本」とは、古い伝統的なものではなく新たなものであった。それ故、怪談も江戸時代のそれとは似て非なる、自分たちの身近な死者が登場する近代日本人のための怪談であった。霊の世界は身近にこそ在らねばならなかった。
この怪談ブームと併行して勃興したのが自然主義文学であったことにも注意が必要だ。彼らは同一の人々であった。怪談研究会にも属した文人たちが自然主義文学者であった。島崎藤村の『破戒』が1906年、田山花袋の『蒲団』が1907年に発表されている。近代社会に生きる人間をあるがままに描き出そうとする彼らは、近代人の背後にある霊の世界を捨象した世界を表現したと言えるのではないだろうか。
天狗の正体は古代の山神か異民族の末裔か
柳田は、新興国家日本の危機であった初の先進近代強国ロシアとの戦争下、何を考え何をしていたのか。これもわからないが、彼の内面に大きな変化がこの時生じ始めていたことは間違いないものと思われる。もとより柳田は明治国家の官僚として生きていた。だが、日露戦争は彼の精神に「帝国としての日本」を訓育する端緒となったのだ。それが彼を帝国主義者にしたということではないが、新たな、そして決定的な視点を柳田に与えたものと彼の「民俗学」から推断し得る。
柳田の最初の民俗学的な著述は明治38(1905)年、ある雑誌に発表した「幽冥談」という文章で、天狗について論じたものだった。彼はそこで、一見仏教的な趣を持つ「天狗」を信じる日本人の信仰の源を探っている。また、そういう神秘を信じる日本人の「宗教」を「幽冥教」と命名している。論はドイツ詩人ハイネの、古代ギリシャの神々がキリスト教に駆逐され、今では田舎の山川に隠れ棲んでいるという「神々の流竄説」を引用しながら進められ、日本の天狗は仏教普及以前の「幽冥教」の残存と結論づけている。天狗は没落した古代の山神だったのだ。
このようなお化け話に、いや日本人の「伝統」信仰にどこからなぜ柳田が関心を寄せていったのかは不明である。一つには自身の生い立ちや性癖、もう一つには怪談ブームが考えられるが、それだけでは足りないだろう。おそらく柳田は「日本」を考えていたのだ。彼は強く「日本」という国家と「日本人」という国民を意識し始めていた。「日本」の由来や成り立ち、その広がりを、精神において、また国土において。そして多様な文化、風土、風俗、そして信仰を持つ人々がなぜ同じ「日本人」なのかと。
天狗の話はまだ続く。明治42年になって文字通り「天狗の話」が発表される。ところが柳田はここでとんでもないことを言い出した。「深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民」が今もいると。「天狗」は列島の先住民の末裔、「異人種」だと主張するのだ。「山人」の発見である。この直接の背景には、同じ年に『後狩詞記』を自費出版するきっかけとなった、前年の九州・四国旅行での見聞があった。山深い宮崎県椎葉村で、平地ではとうに廃れた古代の狩猟文化が今もなお生き残っていることを驚愕しながら知ったのだった。
「天狗の話」には「奥羽六県は少なくも頼朝の時代までは立派な生蛮地であった。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。またこの方面の隘勇線より以内にも後世まで生蛮がおった」とある。アイヌを先住民、異人種と捉えている。「生蛮」とは帰順しない蛮族、「隘勇線」とは支配領域の境界線(フロンティア)を意味するが、これは当時植民地台湾で用いられた政治用語なのである。柳田「民俗学」の背景には帝国日本があった。
「山人」論への回路
近代国家日本の歴史は大日本主義の歴史である。小日本主義の時代となった今でも意識されることは少ないが、現在の国土も「日本」固有のものとは言い難い。未開の蝦夷地であった北海道は、ようやく江戸末期にロシアとの角逐の中で初めて幕府直轄の属領とされたものだ。言わば、最初の植民地(外部)だった(北海道は長らく中央政府の直接統治が続き、地方自治体となったのは1947年のことだ)。そこは異民族であり異言語を持つが「国家」を持たぬアイヌ「民族」の土地であったのだ(ちょうどインディアンのアメリカに相当する)。
それから、新井白石がそう命名した沖縄だ。中国王朝側からは琉球と呼ばれた南島弧の王国は、江戸初期に薩摩藩が実質征服したものである(奄美諸島はそのとき島津藩に組み込まれたので、版籍奉還後は直ちに鹿児島県となった)。そこは清朝領ではないが、明治に至るまで清を宗主国として仰いでいたことも事実だ(この両属を清との秘密貿易のため薩摩藩も認めていた)。
日本ではなく「外国」であったが故に、明治政府は明治5年にわざわざ琉球藩を置き(「返礼」として「藩王」宗泰を華族として迎えた)、明治12年に版籍奉還させて沖縄県としている(宗泰は退位)。しかし、この時点でも清朝はこれを認めなかった。その決着(琉球処分)は15年後の日清戦争まで着かなかったのだ。「新領土」沖縄が日本人に親しい地になるまでには日本民俗学が大いに寄与しなければならなかった(日本人の沖縄人への蔑みは少なくとも敗戦まで続いた)。
さて、日清戦争で台湾を植民地として獲得した日本は、実は相当長期にわたり抵抗に遭っている(その犠牲者数は何と日清戦争時を上回る)。大陸出身の中国人ゲリラ以上に、先住民の「山人」高砂族が難物であった。彼らこそ「生蛮」であり、その境界が「隘勇線」であったのだ。そういう台湾に柳田は繋がっていた。だからこそ、日本の「山人」を台湾で日本人が逢着していた先住民に喩える発想ができたのである。その回路の一つは柳田家であり、もう一つは農政学であった。
絢爛たる台湾人脈と農政学の展開あるいは転回
養父柳田直平は自身も柳田家に入った養子であった。その実弟に安東貞美がいる。義理の叔父に当たる安東は日清・日露戦争に出征、後ちに第4代朝鮮軍司令官、陸軍大将となり第6代台湾総督を務める(男爵)。また、柳田国男と結婚した娘の姉が嫁いだのが木越安綱である。義兄の木越は安東と1つ違いでほぼ同じ道を歩んだ。すなわち、日清・日露戦争に出征、後ちに陸軍中将となって陸軍大臣を二度務める(男爵)。この二人が同時期に新生植民地の台湾での任務に就いていた。
台湾は占領当初、住民の抵抗ばかりか産物も乏しく、不毛の植民地であった。フランスへの売却話さえあったほどだ。これを一変させたのが第4代台湾総督・児玉源太郎、民政局長・後藤新平の名コンビである。ともに偉人として名高い。児玉は総督在任中に陸相などを歴任、また日露戦争で満州軍総参謀長として指揮を執る(伯爵)。後藤は台湾後、満鉄初代総裁、内相、外相、東京市長などを歴任、関東大震災後の帝都復興にも尽力することになる(伯爵。思想家鶴見俊輔の祖父)。
児玉・後藤体制は明治31〜39(1898〜1906)年であったが、その就任の年に安東は守備旅団長、木越は参謀長(当初は補給廠長)として台湾に赴任している。さらに後藤に招かれ、3年後に農政学の先輩・新渡戸稲造が総督府に入る。殖産課長として新渡戸が提出した「台湾糖業改良意見書」に基づく植民地政策によって、台湾経済は初めて軌道に乗る。新渡戸はこの功により精糖局長に就くとともに、京都帝大で教授として植民政策を講ずることになったのだ。
新渡戸とは何者か。「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士が教鞭を執った札幌農学校(北海道大学の前身)に第2期生として学び、そこでキリスト教に入信している。実はこの札幌農学校とは、未開の旧蝦夷地を北海道として開拓するために、アメリカ農政学を移植しようと設置されたものだ。もっと厳密に言えば、前近代の植民地全般を開発・経営するための「開拓使」人材を養成するために置かれた学校であった。「農学校」であるのは、植民地とは未開の後進地であり、その経営とはまず農業政策に基礎を置くものと考えられたからである。
少なくとも新渡戸にとっては、農政学は国内の農業政策と同時に、植民地での国家政策を担う学問だった。付言しておくが、移民と植民は違う。移民は他国主権の地に自国民が移り住むこと、植民は自国の属領となった地(植民地)に本国の国民が移住することだ。植民の場合、現地住民の抵抗を懐柔し本国民と調和させ、経済的振興ならびに社会的安定を図るための政治政策が必要となる。これが植民政策であり、学問としては植民地政策学であった。
柳田が農政学を選択したとき、どこまで意識があったかはわからないが、日清・日露戦争ではっきりと帝国日本の射程で、つまり列島「内部」を越えた版図において展開せざるを得なくなった。これが「外部」との出逢いとなる。「日本」以外のものと出逢うことによって初めて「内部」すなわち「日本」が問うことができるのだ。異質なものとの出逢いが自らのアイデンティティーを反問することになる。「近代」とは異質との出逢いによって同質としての「民族」の独自性を問う時代でもある。
以上のような回路を通って柳田は「山人」と出逢っているものと思われる。
帝国日本の中から立ち上がった山人論「三部作」
山人論「三部作」の『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』を刊行した明治42年から翌年にかけての2年間(1909〜10年)は、柳田自身が植民政策に公務としても直接関わらねばならない時期であった。朝鮮併合である。内閣法制局参事官・柳田は併合の翌年(1911年)、その功によって勲五等瑞宝章を授与されている。叙勲の高級官僚92名中46番目のランクづけであった。専門の農政学の学識を活かした貢献であったかどうかは不詳である(植民政策に直接関与はなかったとの反証もあるが、柳田の「民俗学」自体が「関与」していることは免れ難い)。なお、その翌年にも韓国併合記念章を授けられている。
朝鮮を植民地化するに当たり、先例となったのが台湾であった。柳田の視野にも収められていたはずの日本帝国の植民地は、北海道(千島も含む)、沖縄、台湾、南樺太である。柳田は、明治36(1903)年の時点で台湾総督府の「旧慣調査報告」を閲読し、明治39(1906年)には東北・北海道、新領土・樺太を視察している。彼の「三部作」は、決して「民俗学」ではなく、こうした植民地政策構想のための調査活動の中で初めて生成したものと考えられる。
あまりにも有名な『遠野物語』そのものついてはここでは触れないが、この書には奇妙な献辞がある。「この書を外国に在る人々に呈す」だ。さらに序文には有名な「願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ」の言葉がある。特に謎めいて見えるのが献辞で、さすがに柳田も西洋居住の友人に送ったものだと後ちに釈明しているが、とても真実とは思えない。陳勝・呉広とは中国最初の統一帝国秦を崩壊させるきっかけとなった農民大乱を起こした首領二人の名だ。ここから、「外国に在る人々」を「山人」と捉え、日本の植民地帝国への反乱を呼びかける書とする考えもあるが、これも無理があろう。
この書は「山人」問題に直面する、つまり植民政策に奮闘する日本帝国の政治家や官僚「同志」への警告と助言の書だろう(序文に「目前の出来事」「現在の事実」とくり返される)。「この書のごときは陳勝呉広のみ」は、日本の統治に反抗する「山人」の気持ちを内側からつかんでいることへの自負の表明であり、旧慣の文化・民俗を重視した植民政策の採用を密かに提言するものと推察できる。そしてこの視線が日本政府の政治とも新渡戸の政治や学問とも異なる、柳田独自の学問「民俗学」を形作っていく。
(献辞の解釈について若干補足しておく。柳田を民俗学者とする主流の見方では、「心が外国に在る日本のインテリに呈す」だ。つまり西欧崇拝を止めてわが日本に目を注げ、という意味となる。典型的な後付けの解釈だ。それから、さもあらんかと思わせるのが、「外国に在る人々」を西欧の「民俗・民族」学者とする解釈だ。日本における「民俗・民族」学の研究を誇示するものという見方である。実際、柳田は常にインターナショナルな視点を持っていた。)
『後狩詞記』については若干述べたので後は『石神問答』だが、この「石神」とは東京の地名「石神井」(しゃくじい)の石神で、路傍の小神を指す。これを巡っての知人数人との往復書簡集をまとめた形式を取る著作が『石神問答』だ。そこで柳田は「シヤグジは道祖神なり」、それは「サヘ(塞)ノカミ」(境界鎮守の神)であり、アイヌ語で「界障」を「サク」と言うと論じている。柳田は正体不明の石神を、当時の「生蕃」と対峙していた古代日本の「隘勇線」の跡だと考えたのだ。
「三部作」以後、柳田がとる「比較」という方法論も、実は台湾植民政策に由来している(彼の農政学の展開が植民地政策学の予備学としての「民俗学」なのだから当然なのだが)。台湾総督府民政局長の後藤は元々医師であった。彼は内務省時代、地方衛生視察を通じて医事衛生向上のためには、まず地方ごとの「民俗」を把握することが重要であることを学んでいた。この経験を活かし、後藤は台湾でも「土地調査事業」とともに「旧慣調査事業」に執念を燃やした。その方法論が「比較」であり、その成果が柳田も読んだ「旧慣調査報告」だった。なお、新渡戸の「自由主義」的植民地政策学も後藤に学んだ所が大きかった。
もう1つ。「山人物語」の舞台として「遠野」が選ばれたのは、怪談ブームの中で作家水野葉舟から紹介された佐々木喜善(鏡石)との出会いが確かに機縁となっている。が、柳田と「遠野」とのつながりはそれだけではなかった。明治42(1909)年、柳田は遠野へ出かけている。そこに居たのは佐々木ではなく民族学者伊能嘉矩であった。伊能は台湾の後藤の下で旧慣調査に関わった調査官である。その伊能には台湾統治の参考のために書いたという、大和朝廷の東北における異民族蝦夷の征服・同化政策についての論文さえあったのだ。柳田は古代朝鮮語の教授も伊能に乞うている。
「滅びゆく」アイヌと「解放」された沖縄
柳田は当然アイヌへの関心も深かった。『遠野物語』の初版にはアイヌ語が満ちていると言ってもよい。ところが、彼が「民俗学」をようやく唱え始めた昭和11(1935)年の再版時には「アイヌ」が消去されるのである。柳田にとって後年の「民俗学」とは何であったかの一斑が垣間見えるが、それはひとまず置こう。「山人」の国内モデルであるアイヌはすでに絶滅の危機に瀕していた。明治32(1899)年の「北海道旧‘土民’保護法」制定は国家による「征服」終了の表明である(この法は何と1997年まで存続していた)。
その「滅びゆく」アイヌ文化を書き留めたのが金田一京助であるが、ここには近代「民族学」の倒錯があった。近代国家は国語によって成立している。国語の自覚は、日本では言文一致運動となった。口語・俗語の重視、口承文学への着目が起こったのだ。言葉が自我・個人の内面の外化・表明と信じられた(この口承文学への着目が『遠野物語』のスタイルの選択でもあったわけだ。その序文冒頭には「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」「感じたるままを書きたり」とある。ただし、言文一致体ではなく文語体が採られ、推敲を重ねた「作品」となっている)。
金田一はアイヌに語らせることだけが重要と考えた。そこで彼は高齢のアイヌ人長老たちを遠路東京に次々と呼びつけ自宅に「軟禁」して、語らせたのだ。なぜなら「滅びゆく」アイヌ文化を最も効率よく採集する最良の手段が、自宅での「フィールドワーク」だったからだ。彼らは例外なく、語り終えるとまもなく死亡した。こうしてまさに滅びゆくアイヌ文化を、金田一は見事保存することに成功したのだった。民族学は似たようなことを世界中で行っていた。
一方の沖縄を「日本」に引き入れた伊波普猷についても一言しておこう。伊波こそが現在に至る沖縄像を作り上げた「民俗学」者だ。また、沖縄古謡「おもろさうし」を研究し、琉球語と日本語、つまり琉球人と日本人の同根性を主張した言語学者でもある。彼は日本帝国における沖縄を最大限肯定し、沖縄県となった「琉球処分」を「解放」とさえ喧伝した(敗戦後、アメリカ占領軍を「解放軍」と讃えた輩を連想してしまう)。
彼の著作『古琉球』(明治44[1911]年刊)では、島津藩・清朝の二重支配を甘受した「近世琉球」を否定し、それ以前の「古琉球」こそが理想の時代であったと説く。だから近世琉球を打倒した近代日本支配を肯定するのだが、当然それは古琉球と同一ではない。ともあれ、伊波の「民俗学」は柳田や折口をやがて沖縄へと誘い、彼らは驚きをもってそこに「日本」の源郷を等しく見出したのである。現在に続く「楽園」イメージはここに発する。
明治43年、柳田農政学の敗北
自身も関係した韓国併合の明治43(1910)年は柳田にとって多産の年で、『石神問答』『遠野物語』の他、農政学論集『時代ト農政』も刊行している。足かけ7年に及ぶ文通を続けることになる南方熊楠を知ったのもこの年だ。新渡戸稲造を会長とする「郷土会」も発足している。新渡戸は明治39年に京都帝大から東京帝大に移り、一高校長も兼任していた(ちなみに元上司・後藤新平は同時期に満鉄初代総裁に就任)。明治42年、帝大に「植民政策講座」が設置され、この43年には植民学会が発足した。
郷土会は柳田の自宅での「郷土研究会」が発展したもので、会員はやはり柳田の弟子たちが中心であった。そこは新渡戸の「地方(じかた)学」(地域研究)を学ぶ場であった。これは北海道・台湾での研究と実践を踏まえた新渡戸流の農政学=植民地政策学を国内に適用しようとするものとも位置づけることができる。柳田にとっては、政府政策と異なる自身の「農政学」を別角度から考究し、転回させていく場だったと言える。
同じ年に「帝国農会」(全国農協の前身)が成立している。実はこれは農政学者としての柳田にとって政治的な敗北であった。それまで柳田は、農業の産業化を進めるため、中農層の育成、小作料の金納化、近代的な組合作りなどを提唱していた。しかし、柳田を農商務省から追い出した政府の農業政策は、中央集権での地方行政の展開と相まって、地方地主(不在化も進む)を温存し地方名望家を優遇する保守的なものだった。柳田はそんな農政イデオローグたちと激しく論争してきたのだった。
政府の地方支配は、明治憲法公布の明治22(1889)年に施行された市制・町村制に始まるが、日露戦後の同44(1911)年には「改正」され、地方行政組織を中央政府の出先機関としていっそう強化した。地方村落への圧迫は、国有林野法(明治32年)、部落有林野統一方針(同42年)などによる林野からの締め出し、また小さな氏神社や雑多な祠の合祀令(同39年)ともなって現われた。南方熊楠だけでなく、柳田もこの合祀令に反対している。
近代化の荒波の中での農村荒廃(都会への離郷、人口流出もその一つ)は、日露戦争による財政窮迫の地方への波及もあり、政府に「地方改良運動」という名で地方の自力更正を促進させしむることになった。そこで大きな役割を果たすのが二宮尊徳(金次郎)の流れを汲む報徳社や政府の別働隊・報徳会であった。農本主義を掲げるが、実政策的には現状の地主・小作関係を固定した上で、協調や努力ばかりを説く精神主義の「地方改良運動」だ。帝国農会の成立はこの路線の全国的な完成であった。
時代閉塞・明治終焉・大正改元
明治43(1910)年はまだ終わらない。帝国明治日本の最大懸案だった半島問題解決の露払いかの如く、明治天皇暗殺計画があったとして26名が大逆罪で起訴され、翌年、幸徳秋水ら12名が処刑された。大逆事件である。金田一京助の同郷の後輩・石川啄木は評論「時代閉塞の現状」を発表し、息苦しい「戦後」を批判する(1912年、大正改元を迎えず夭折)。人々の怪異ブームへの逃避は続いていた。映画『リング』主人公貞子の母「千里眼」御船千鶴子が公開実験で失敗し自殺したのは明治44年だった。その翌年、明治は終焉する。
1912年7月30日、時代は大正と改元される。「大いなる正しさ」と訓めるが、果たしてどうであったろうか。乃木希典元帥夫妻の殉死で始まったこの時代は、日本国家が周辺国に「近代大国」として大胆に振る舞う時期でもある。第1次世界大戦勃発までの2年間、柳田は山人系譜の探究を依然続け、また初の「民俗学」月刊誌『郷土研究』を創刊(1913〜17年。高木敏雄と共同編集、14年から単独編集)した。叔父の安東中将は第4代朝鮮軍司令官として現地に赴任し、義兄木越中将は大正後初成立の桂内閣で陸軍大臣となっていた。なお、中国では明治44(1911)年に辛亥革命が成功し、同45年、中華民国が成立した。日中両国が奇しくも同じ年に新時代を迎えたわけだ。
市制・町村制改正の3年後の大正3(1914)年刊行の『尋常小学校唱歌(六)』には、今も親しまれて歌われる「故郷」が収められている。農村分解と農民の離郷が一定段階に達したことを証するものと理解できる。長い章をこの歌で締め括ろう。
   故郷  高野辰之作詞 岡野貞一作曲
   兎(うさぎ)追いし かの山
   小鮒(こぶな)釣りし かの川
   夢は今も めぐりて、
   忘れがたき 故郷(ふるさと)
      如何(いか)に在(い)ます 父母
      恙(つつが)なしや 友がき
      雨に風に つけても
      思い出(い)ずる 故郷
   志(こころざし)を はたして
   いつの日にか 帰らん
   山は青き 故郷
   水は清き 故郷
(三) 1914〜1931年 第1次大戦から満州事変まで(39〜56歳)
第1次大戦による日本と柳田「農政学」の変容
日露戦争の戦勝国として近代列強の一国となった帝国日本は、遙かヨーロッパで始まった初の世界大戦に日英同盟を口実に一早くドイツに宣戦布告。中国に出兵して山東半島のドイツ軍を駆逐する。そしてそのまま居座り、翌大正4(1915)年、誕生間もない中華民国に対華21ヶ条要求を突きつけた。革命と近代化を支援してきた民間有志(例えば、宮崎滔天、北一輝)とは相反する、中国を非文明国=前近代国家として切り刻む、植民地主義とオリエンタリズムに満ちた政策であった。
柳田は大正3(1914)年、貴族院書記官長(局長クラスだが、ほとんど閑職)に就任する。翌4年には大正天皇即位式に供奉した。後ちに『山の人生』(1926年刊)で、京都での御大典の際に遠く山手に立ち上るサンカ(柳田が「山人」との関連を追究した山民)の煙について述べるのはこの時の出来事である。大正6年発表の妖怪考「一目小僧」でも、妖怪は零落した異民族の神と論じている。柳田にとり、まだ日本人は「単一民族」ではなく「常民」とも出逢っていない。
大正6(1917)年、柳田は職務をおろそかにしてまで、海外旅行に出かける。台湾、中国、そして朝鮮の視察であった(旅中、孫文と面会)。ちょうど朝鮮から移った安東大将が台湾第6代総督に就いていた。安東総督は就任早々、「生蕃」高砂族から手痛いテロを受けていた(西来庵事件)。そんな危険な台湾に柳田は行かねばならなかった。翌年にはドイツ保護領ミクロネシアに進駐し海軍大佐で退役した実弟・松岡静雄とともに「日蘭(=オランダ領インドネシア)通交調査会」なるものを設立している。柳田の「農政学」は明らかに変容していた。
植民地の反乱と柳田の官吏生活終焉
ヨーロッパでの戦渦は日本経済に未曾有の好景気をもたらした。大戦特需バブルである。これを背景に「大正デモクラシー」があり、白樺派文学(文芸誌『白樺』は1910〜23年刊)の流行があったのだ。大戦末期にロシア革命(1917年)が起こる。革命思想の南下阻止と満州・シベリアでの利権拡大をもくろむ日本帝国はシベリア出兵を決定する(時の外相は後藤新平)。ところが、これが米価の高騰を招き、日本全国で米騒動が勃発した(初の全国的な民衆運動)。この事態を承けて、大正7(1918)年に成立したのが、無爵位の「平民宰相」原敬内閣であった(原は大正10年、東京駅頭で刺殺される)。
同年、5年間に及んだ大戦がようやく終結すると、植民地では「民族」の反乱が勃発する。アメリカ大統領ウィルソンが唱えた「民族自決」の波に乗り、翌大正8(1919)年3月1日、朝鮮で独立を求めての反乱が、5月4日には中国で山東利権に抗議する反日運動が始まった。日本の帝国主義者および植民主義者には大きな衝撃であった。符牒を合わすかのように、この年の12月、柳田は貴族院書記官長を辞し、官吏生活にピリオドを打っている。俗説に言う貴族院議長徳川家達との確執だけではとても説明し難い。自身の「農政学」をさらに転回させる必要があったのだ。
第1次世界大戦によって「植民地獲得競争としての帝国主義時代は終わった(以後の領土拡大は禁物)」と欧米の戦勝国は認識していた。このことが柳田に植民地政策学としての農政学を放棄させたものと思われる。それが国家官吏からの離職の真因でもあろう。もちろん、朝鮮や中国での民衆「反乱」も自身の決意の妥当性を再確信させただろう。柳田は「政治」(=農政学)からのアプローチを諦めたのだ。ここから、農政学であって農政学ではない、「学問」としての「民俗学」が始まる。
ここで、植民地政策に対する政府や新渡戸との違いについて触れておこう。柳田の主張は「旧慣保存」であった。欧米流の画一的で急激な「同化政策」はかえって大きな抵抗を生じると考えていたと思われる。ただし帝国日本を否定するものではない。これに対して、札幌農学校でアメリカ流の植民学を学んだ新渡戸は「未開人」を近代人に同化していかなければならないと考えていた。これが彼の植民政策でもある。政府政策と大差はない。違いはそのやり方だけであった。
国際連盟委任統治委員会委員・柳田国男
翌大正9(1920)年、それを条件に朝日新聞社客員として入社した柳田は、東北・中部・東海・九州、そして沖縄へと旅立つ(意外にも沖縄旅行は生涯ただこの一度切りだ)。計画では足を伸ばし、インドネシアまで行こうと考えていた(日蘭通交調査会の設立は前年のこと)。ところが、同年成立した国際連盟(日本は常任理事国)の事務次長に就いた新渡戸の推挙で、委任統治委員会委員に急きょ指名され、本部のあるジュネーブに向かうことになったのだった。
滞欧中の様々な経験は以後の柳田の方向と方法を決定づけたと思われる。まず、彼が属した委員会の「委任統治」とは何かだが、ポスト帝国主義時代の新しい植民地支配方式だ。国際連盟の委任を受けて、各国が代行して統治する。敗戦国の植民地に適用され、戦勝国日本は旧ドイツ領だった太平洋諸島のうち赤道以北のミクロネシアを委任され、領有・統治することになった。委員会では、パレスチナ問題から植民地での現地住民統治の方法まで、委任統治をめぐる諸問題が論議された。
ここで柳田は「委任統治領における原住民の福祉と発展」と題した報告(この中に 'common people' の語句:訳せば「常民」)など、これまでの「山人民俗学」研究を活かした活動を行っている。一方、パレスチナ問題にも“中立的”な立場で大いに関心を示している。この国連事務局に、転向マルクス主義者にして日ユ同祖論者・藤沢親雄がいた。「日ユ同祖論」とは日本人とユダヤ人は同民族だとする奇説である。当時、日本人の起源について様々な仮説が飛び交っていた(今も続いているとも言えるが)。柳田はこの藤沢とも親しく付き合っていたのだ。
「失地回復」あるいは「特殊民族」としての「同祖論」
柳田の「山人民俗学」も日本人の起源を探るものと言える。「民族」の起源という問題は、「近代」という時代と帝国主義に複雑に結びついていた。「日ユ同祖論」の他に、「日本アイヌ同祖論」「日琉同祖論」「日韓同祖論」もある。これらは帝国日本の膨張の中で唱えられ、日本の「失地回復」言説として有効に機能し、実際それらが帝国の版図に組み込まれてきた。そしてそこでは近代統一国家の証である「国語」教育を含めた日本への同化が進められたのだ。
さて、日ユ同祖論は「日本人アーリア起源説」を越えるための言説と理解できる。日露戦勝の結果、ヨーロッパでは「黄禍論」が高まった。かつてのモンゴルやトルコのように、黄色人種によって白色人種は征服されるという妄想であり、かつ言いがかりだった。日本人は東洋人・アジア人でありながら、すでにそうでない「近代人」でもあった。その集合的無意識の発現が「日本人アーリア起源説」となった。日本人は実はヨーロッパ人と同じ民族なのだと日本人自身が捏造したのだ。
日ユ同祖論は、日本人の起源はアーリア民族ではなくユダヤ民族だと主張する。欧米文明文化の中で特殊・特別な位置づけを持つユダヤ民族に日本人をなぞらえようとする言説である。この「ユダヤ民族」と言った時点で「民族」の仮構性が明らかであるが、要するに日本人は自身の比類なき特殊性を主張し始めたのだ。1970年代の日本人論ブームのとき、『日本人とユダヤ人』という本があった。今も書店には数多く「ユダヤ本」が並んでいる。歴史を学ぶべきであろう。
もちろん、柳田が日ユ同祖論者であったわけではない。しかし柳田には、ついに語らなかった日本人に関する思索が累々とあったに違いない。日本人起源論に関しては、国内の「山人」しか語らなかったが、列島の周辺の全方位が視野に入っていた。アイヌ、朝鮮、中国、さらに琉球、台湾、インドネシア、太平洋までも。自覚していた方法「比較」の観点からも為さねばならぬ仕事であったはずだ。だが、わずかに「琉球=南島」の線が戦後考究されるに留まったのだ。
帝国主義と民族学との深い関係
帝国主義と民族学との深い関係も一瞥しておきたい。「民族学」(ethnology)はすでに死語で、今は「文化人類学」(culturalanthropology)なぞとご立派な学問名となってはいる。民族学は個々の民族の文化を研究するものだ(それに対して「文化人類学」は普遍的な人間文化を探るものとされる)。その学問は異人種、異文化との出逢いによって誕生した。例えば、アメリカ・インディアン、中南部アフリカ人、太平洋諸島人などである。すなわち、帝国主義が植民地を拡張する中で出逢った、「未開」で「野蛮」な、(=)「文字を持たない」非文明民族の研究を指していた。
ヨーロッパ中心主義のオリエンタリズムという色メガネをかけた民族学者たちは、帝国主義者・植民地主義者の操る軍艦に同乗して現地に向かい、軍隊とともに移動しながら、フィールドワークを続けたのだ。彼らは金田一と同じことを言った。いま記録しなければ、文化が永久に失われると。「文明人」たちがもたらした、戦争やキリスト教ばかりか病気や労働を含めた「文明文化」が“予言”通り現地住民を次々に死へと追い込み、民族の絶滅あるいは絶滅寸前にまでしていったことは周知の通りだ。
それにしても、帝国主義は免疫が十分できるまでは決して治らぬ「近代文明国」固有の病なのか。スペインやポルトガル、オランダ、イギリスとフランスなどに比べ、帝国主義形成に遅れたドイツやイタリア、さらに東洋唯一の後発「近代文明国」日本は「帝国」拡張に最期まで固執した。第1次世界大戦後のポスト帝国主義の時代に、ドイツやイタリアは周辺に領土を拡張しようとし、わが日本は満州国を属国化し大陸支配を広げようとしていった。
3つの「ミンゾク学」、そして「民族」とは何か
話を柳田に、民俗学に戻そう。足かけ3年に及ぶ滞欧米の中で、柳田は最新の民族・民俗学理論を学び、またドイツ民俗学を知るに至る。民族学は今も述べたように、植民地を開拓した近代諸国が自国以外の未開の異文化を研究した、言わば外向きの学問であった。また、民俗学(folklore)とは文明先進国イギリスで起こり、伝統的な生活文化・伝承文化を研究対象とし、文献以外の伝承を有力な手がかりとする学問だ。近代化により失われていく、国内に「残存」する「前近代」の文化を書き留めようとする、言わば内向きの学問だった(どちらも無文字文化の探究がミソ)。
これらに対し、近代化が遅く植民地も持たぬドイツでは、独自の「民族・民俗学」(Volkskunde:フォルクスクンデ:「民衆学」と訳せる)が起こる。それは、外側からの民族学、内側からの民俗学、両方の手法で自国伝統文化を見つめ、「ドイツとは何か」を自問自答する学問だ。民族学や民俗学が近代人から見ればしばしば迷信や愚習と映る事象を研究対象とするのに対して、美しき守るべき民族の伝統や文化がいま失われようとしているという危機感に支えられて展開された(先鞭をつけたグリム兄弟の「童話」はそういう考えでの民話蒐集から生まれたのだ)。これこそ、後ちの「日本民俗学」と同趣意の「民俗学」であった。
だが、ここにはトートロジー(同語反復)の陥穽がなかっただろうか。そもそも「民族」とは「近代」が生み出したものだ。そこで探究される「伝統」とはいったい何なのだろうか。たとえ継承される諸文化あるいは「伝統」の源泉として断片的不連続にはあり得たとしても、論理的には近代「民族」のアイデンティティーは過去にはなく、現在あるいは未来に求めざるを得ない。事実、やがて「フォルクスクンデ」と「日本民俗学」は空転を始めるだろう。
また、一つの民族は固有の国土(国境)と一つの国語を持つとされるがこれも事実ではない。近代において初めてそうなったことは、フランス言語や日本国土を見れば明白だろう。それから、「国家」となれなかったアイヌやアメリカ・インディアンとは「民族」ではなかったのか。さらに、帝国主義戦争によって画定された今に続く「国境」とは何なのだ。当時はともかくとしても、今や近代「民族」概念が破綻していることは明白だ。近代国家は決して「民族国家」ではなかったのだ。
関東大震災と虐殺された朝鮮人の物語
大正12(1923)年、ロンドンに居た柳田の眠りを醒ませたのは「帝都壊滅!」の一報であった。柳田は急ぎ帰国している。柳田が離日してから時代は急旋回していた。大戦後、バブルが弾け、一転して不景気の時代が訪れていた。また、列強となった日本はワシントン会議(1921〜22年)で軍縮路線を強いられる一方、共産党がついに日本にも秘密裏に結成(1922年)されていた。関東大震災で首都は壊滅、死者・行方不明14万余名。そして、皇民となったはずの朝鮮人が震災の混乱に乗じて6,433人も殺害された。
この後、世界恐慌を含めて長期デフレ不況に日本は突入する。バブル崩壊−大震災−長期不況と続けば、1990年以降の現在を連想せざるを得ない。そう、歴史は繰り返す。広島長崎原爆投下(1945年)や阪神淡路大震災(1995年)でもそうであったが、この関東大震災でもこれを「天罰」とする論が起こった。本気でそう信じる人には何とも言いようがないが、いずれも天罰ではなく、自然災害であり、政治であったろう。ともあれ、柳田はこれを契機に国連委員を辞め、過去ではなく現在の日本に向き合うようになる。
ところで、関東で大量に虐殺された朝鮮人はいつの間に日本に来ていたのだろうか。これが因縁のように、柳田がこだわったコメに関わっている。台湾で実施された「土地調査事業」というのは、先住民のアイヌやアメリカ・インディアンから土地を巻き上げたように、土地を日本本国の植民に用意するためのものだった。朝鮮でも同じ「事業」が行われた。植民した日本人が、国内の小作から、柳田が政策提言した中農になることができたのはこのお陰であった。
中農になれた日本人はよいが、そこで農耕を営んでいた台湾人や朝鮮人はどうなったのであろうか。朝鮮では、大正7(1918)年の米騒動を受けて日本国内での需要を満たすため、同10年より「産米増殖計画」というものも実施された。ここでさらに朝鮮人は土地を奪われることになった。流民化した朝鮮人は、満州へ日本へと流れたいったのである。それが関東にいた「コメ難民」としての朝鮮人だった。コメにこだわった柳田は、しかし何も語らない。
日本人起源論から「日本民俗学」へ
大正13(1924)年、柳田は朝日新聞の論説委員となり社説を書き始める。日本社会の「目前の出来事」「現在の事実」に目を向ける。時あたかも普通選挙を求める運動下にあった。社説でも普通選挙を多く採り上げている。「常民」ではなく「公民」がこの時期の柳田のテーマだ。政治的主体としての民衆の自覚を促す。普通選挙法成立後は、公民の義務と権利としての選挙を通しての、社会改善を訴えている。昭和6(1931)年に刊行された『明治大正史世相篇』はその集大成でもあった。
一方、柳田はこの時期、渡欧米前の国内旅行をまとめている。その果実が『海南小記』(1925年刊)であり、『雪国の春』(1928年刊)であった。南北日本の紀行文である。柳田は奇妙な民俗学者であった。方法としての「旅」を十分に自覚し、また弟子たちに旅を通じた採集を盛んに促していたが、自身の旅は民俗学として一向に深まらないのである。彼の民俗学は弟子たちが採集した調査報告、民俗誌を通じた思索にこそ真骨頂があった。彼自身の旅は類い希なる美しい紀行文しか生まなかった。
郷土会をベースにした民俗雑誌『郷土研究』は大正6(1917)年には休刊となっていた。今度は思いを新たに、民俗学と民族学の架橋をめざす雑誌『民族』(1925〜30年。民族学者岡正雄らが編集委員)を創刊する。「民俗学」への自覚は高まっていた。それが講演活動になって表れる。「南島研究の現状」(1925年)や「日本の民俗学」(1926年)など『青年と学問』(1928年刊)に収められた講演が行われている。山人論の総括であり訣別ともなる『山の人生』(1926年刊)もまとめられた。
柳田は山人論などの日本人起源論から「日本民俗学」へと向かっていた。この時、「民俗学」という言葉がようやく彼の口に上る。大正末年の講演「日本の民俗学」で柳田はこう切り出す。「自分としては今日まで、じつはまだこの名称を使ってはいなかった。(略)かりにこうでも言って置こうかと思案していたところであった」と。ここから「フオクロア」(民俗学)と「エスノロジー」(民族学)の釈義に入り、あたかも訳語の問題であるかのように話は進む。だが、問題は果たしてそうだったのだろうか。
「民俗学」の語に躊躇しなければならない意味
農政学=植民地政策学につながる「民俗」という語への躊躇があったに違いない。「民俗」とは本来、支配者が非支配民の性情を探る政治用語だった。明治初期には明らかにそういう意味で使われていた。山人論とは、かつての日本「帝国」が見事に「植民地」支配を成し遂げた「古代民生」論でもあったのだ。帝国主義国家の官僚であった柳田の立場は微妙である。『遠野物語』あるいはこの後ちの「常民」概念に見られるように、確かに彼の言葉は被征服民や被支配民への同情に満たされている。
だが、それは決して現実の行動と一致するものとは限らない。例えば、同じ大正15年の講演「眼前の異人種問題」でアイヌの現状を憂え日本人を批判するが、柳田はその時自分の前に報告演説させたアイヌ人を保護観察が必要な者のように扱って「余計な発言」を断じて許さなかった。彼は官僚を辞めて直接政治に関わることは止めたが、学問による「経世済民」を唱えるようになった「政治家」(支配する側の者)であった。「民俗学」は、柳田の化けの皮を剥ぎかねない危険な言葉だったのだ。
さて、大正デモクラシーは大正14(1925)年、柳田の念願でもあった普通選挙法成立という実を結ぶ。が、同時に治安維持法というあだ花も咲かせた。翌年12月、元号は大正から昭和に変わる。短い元年が明けた昭和2(1927)年、元帥乃木ではなく、文人芥川龍之介が自殺することで大正時代は終わったと言えよう。金融恐慌、さらにニューヨークを震源とする世界恐慌の津波が日本にも押し寄せる。経済の苦境は政治ばかりか学問も追い詰めていき、その中でわが「日本民俗学」は誕生する。
(四) 1931〜1945年 満州事変から敗戦まで(56〜70歳)
オバケの話をすることが憚れる時代
昭和6(1931)年、満州事変が勃発する。のべ15年をかけることになる日本の「最終戦争」が始まった。自己矛盾した戦争であった。敵として戦う欧米諸国こそが、明治立国以来、日本の軍事も経済も支えていたのだ。軍事大国であるためには、欧米との友好な経済関係が何より必要であった(この事情は現在もなおそうであろう)。だが、アジアで資源を得られれば「自立」できるかも知れないという保証のない夢想に、日本帝国はずるずると陥ってしまったと言う他ない。
柳田は昭和5(1930)年、「妖怪談義」を発表している。その中に、「私は生来オバケの話をすることが好きで、またいたって謙虚なる態度をもって、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっとその試みを断念してしまったわけは、一言で言うならば相手が悪くなったからである」という文章がある。この「オバケ=妖怪」とは、柳田にとっては「零落した異民族の神」に他ならない。つまり、日本国内の異民族について、引いては多民族国家としての日本を語ることが憚れる時代になったと述べているのだ。
事実、曲がりなりにも大正デモクラシーを担ってきた政党政治が壊滅する。大正13(1924)年から8年続いた政党内閣は、浜口首相狙撃(1930年。翌年死)、昭和7(1932)年の五・一五事件(軍人テロ)での犬養毅首相射殺で幕を閉じた。日本は急速に自らの道を狭め、隘路に入り込む。翌年、満州問題で国際連盟を脱退、同10年には美濃部達吉の天皇機関説問題から国体明徴声明(日本はアマテラス以来の神の国であり、天皇は絶対君主の旨)を発する。先鋭左翼マルクス主義ばかりか、大本教(非国家神道系)など宗教団体さえが弾圧されていく中で、柳田はようやく本気で日本民俗学に取り組むのである。
「母の日」誕生と母子心中の急増
昭和7(1932)年、柳田は朝日新聞社を退社し、肩書きのない一民間人として日本民俗学樹立に本格的に邁進する。57歳であった。『日本の伝説』(1932年刊)、『桃太郎の誕生』(1933年刊)、『日本の昔話』(1934年刊)などを相次いで出版している(いかにもフォークロアだ)。時あたかも、伝説ブームであった。伝統の復興、愛郷心や愛国心の高揚が民間でも起こっていたのだ。だが、暗い時代でもあった。世界恐慌下、昭和6年に東北・北海道で凶作、東北地方は同9年にも大凶作だった。救いのない貧困が農村を襲い、娘の身売りさえ横行した。政府は「農山村漁村経済更正運動」を推進する(何のことはない、互助主義的な自力更正だ。別働隊として柳田に近い石黒忠篤が活動していた)。
実は日本での「母の日」は昭和6年に始まる(もともとドイツの花屋のキャンペーン)。そしてこの頃、母子(親子)心中が急増している。興味深いのが対称的に捨て子が明治30年代以降急減し、この頃底を打っていることだ。日本は長らく捨て子社会だった。また、養子社会だった。坪内逍遙、夏目漱石、国木田独歩、斎藤茂吉、室生犀星、芥川龍之介などの文人たち、そして柳田も養子だ(いずれも明治31年以前の生まれ)。この転調には日本の家制度の変化が関係している。
「封建遺制」の権化とされる家父長的な家制度ができたのは、その封建時代でなく意外にも近代で、明治31(1998)年のことだった。その世代交代が完了したのがこの昭和初期だと言えよう。近代の家は個々に閉鎖的に、また「血」を重視するようになって、自由な捨て子や養子を阻むようになったのだ(近代は「純血」を好む)。そして家が経済的に打撃を蒙った時、「母子心中」という新流行が始まったということだ。近代において家の女は「女性」ではなく「母性」と位置づけられた。「母」も近代概念の一つなのである。柳田は「妹の力」などの論文で、あるいは婚姻史を繙きながら、女性の役割を大いに褒めそやすが、結局は「女性」ではなく「母性」を讃えている。柳田の女性論の射程は存外狭いのである。
「日本民俗学」の樹立と方法論
昭和9(1934)年、柳田は自宅にて民俗学の自主研究会である木曜会を始める。これを基盤に全国山村生活調査を開始。日本民俗学の理論書『民間伝承論』を刊行する。翌年には「日本民俗学講習会」を1週間にわたり開催(全国から126名が参加)して民俗学徒の裾野を広げ、「民間伝承の会」を発足させる。また、日本民俗学の方法論を『郷土生活の研究法』として刊行。さらに、機関誌『民間伝承』を発刊する。昭和11年、全国で昔話の採集を開始。その翌年、今度は全国海村生活調査を開始している。
山村調査については、柳田は大正7(1918)年、郷土会で実施したことが一度あった。神奈川県のある山村を実地調査したのだ。しかしこれは見事な失敗に終わっている。典型的な「日本の農村」(分かりやすく言えば、テレビの「水戸黄門」が描く世界か)ではなかったのだ。稲作中心ではなく、村民も排他的であった。柳田らの「日本民俗学」が何なのかがわかる。山村調査とは現実を調査し分析するものではなく、あらかじめ想定された事柄をただ確認したり、仮説を「実証」する「事実」を「発掘」することだったのだ。
今度もそうだったとは言わない。柳田の弟子たち、あるいは会員たちが実際には行ったのだから。しかし柳田は周到であった。何をどう質問し採集するかをこと細かく規定していた。自分の「意見」を交えず、「事実」だけを記録しろと(そのために「郷土生活研究採集手帳」というものが作成され、配付された)。柳田の民俗学は、この膨大な採集記録を前提に成り立っていた。
柳田の方法論は「重出立証法」と呼ばれるが、厳めしくそう自称しただけで、要は「比較」研究に尽きた。それが最も成功したのが『蝸牛考』(1930年刊)である。かたつむりの呼び名を全国で組織的に採集し、その言葉が文化の発信地・京都からいかに地方へ広がり変貌したか、また残存したかを実証的に解き明かした研究だ。しかしこんなにうまくいったのはこれだけとも言える。それに、「郷土研究」を唱える柳田が、文化の伝播を「都(中心)から鄙(周辺)へ」の一方通交だけで説いたのは薄情であったとも言えよう。
「常民」の「日本民俗学」の論理と運命
柳田の「民俗学」には、やはり何か別目的があったように思えてならない。それは「日本民俗学」と呼ぶより「日本民族学」がふさわしいように思う。“日本民族”がことさら言挙げされる時代に違和感を持ち、もう一つの“日本民族”学をめざしたに違いない。学問を越えて、柳田の「政治」感覚が見え隠れする。だが、その試みは成功したのだろうか。柳田は“日本民族”学と“日本民族”主義との間にいかなる差異を保つことができたであろうか。
若干、註を入れよう。柳田自身は、外に向かう「民族学」を今は措き、内に向かう「民俗学」を選択する意義を呼びかけている。だが、これはあくまで日本語の問題であって、「民俗学」がそのまま「フォークロア」ではない。筆者が前段で述べたかったことは、柳田がめざしたのは言葉遣いとは裏腹に「フォークロア=民間伝承の学」ではなく、むしろ日本人の「エスノロジー=民族の学」の探究ではなかったか、ということだ。
さて、『民間伝承論』や『郷土生活の研究法』で民間伝承の三分類が説かれている。外見から採集可能なもの、言葉から採集可能なもの、そして生活意識や心意など同郷人をして初めて採集可能なものである。信仰などに関わるその最後の領域は「同郷人」にしか分からない、「外人」には理解できないと述べている。ここで言う「外人」とは異郷人ではない。文字通り、外国人のことなのだ。つまり、各地方の日本人のことは同じ日本人にしか理解できないということを回りくどく言っているのだ。
ここから、世界民俗学(民族学)の前にまず「一国民俗学」をという発想もある。確かに当世流行りの無分別の「市民」や「人間」はいかにも安易だ。だが、ここで柳田が述べていることは、「日本人なら日本人のことが分かるはずだ」というトートロジーなのだ。これが果たして「日本人とは何か」という問いへの正しい答え方なのだろうか。
実際、日本民俗学は山村調査などを通して何を採集したのだろうか。「最終戦争」の最中、何を見ていたのだろうか。普通の農民=「常民」こそが植民地戦争の直接の担い手であったにもかかわらず、「戦争」も「植民地」も見ていなかったことは確かだ。すなわち現実は民俗学の対象ではなかった。先ほど郷土会の山村調査を皮肉ったが、やはり柳田たち民俗学者たちは「聖なる農村」「聖なる農民」しか見なかったのだ。理想に描いた「日本」「日本人」(これが戦後、宮本常一によって「忘れられた日本人」として語られる)というあらかじめ用意した答えだけしか見つけない学問、それが「日本民俗学」の核心だったと、ここでは言わざるを得ない。
柳田は自ら「民俗学」を狭隘な道に追い詰めたように思う。自己は他との関係の中にこそ見出される。山人民俗学というやや変則的な形を取ったが、以前の「植民地政策学」(内部と外部が入り組んだ世界)の観点からは「多様な日本」(例えばイモ文化も持つ日本)こそが日本のありのままの姿であったはずだ。それが時代に重ね合わされ、コメ文化を固守する「単一民族」としての日本人、つまり「常民」が日本人としてあらかじめ規定されるようになる。自制的に「植民地」(外部)について語らないできたことが、ここでかえって裏目となってしまったように思われる。
それでも柳田は時代に抵抗する。「伝統」ではなく「伝承」を研究しなければならないと講演し(1937年「伝統について」)、国民や日本ではなく、「常民」や「郷土」という言葉遣いに固執する。だが、彼は各「郷土」文化に「日本人」「日本民族」固有の共通要素を見出して、あるいはそれを見出すことが「日本民俗学」であることに満足するのである。そうして愛郷心は愛国心に転化、吸収されていく。空転していると言わざるを得ない。起源問題を語らなくなった柳田は、すでに着地点を見失っていたのだ。日本帝国と同じところに落ちていくしかなかった。
アトランティス大陸とムー大陸
ナチスの時代となったドイツの「フォルクスクンデ」(民族・民俗学)はどうなったであろうか。ナチスはドイツ=ゲルマン民族の起源を世界中に探索する。それが「フォルクスクンデ」の重要な使命でもあった。そして、ついにドイツ民族の原郷として見出された一つがアトランティス大陸だった。ノアの洪水に比すべき大陸水没の危機の後、生き残り混血せずに「純血」を守った唯一の人種がゲルマン人だと主張するものだ。ナチスドイツはオカルト帝国でもあった。「ドイツ民俗学」はこれを担うオカルト政策学として強力に機能する。
一方、日本帝国が支配するミクロネシアがある太平洋には、オカルティスト(ご都合神秘主義者)たちにより、日本民族の原郷としてムー大陸が見出されていた(ムー大陸のネタ本の翻訳には、ジュネーブのあの藤沢が関わっている)。これに直接賛同するものではないが、柳田の弟子たちも緩やかには帝国日本に協力していたと言ってよい(例えば、岡正雄は参謀本部嘱託、陸軍中野学校教官、大東亜共栄圏の民族調査のための「民族研究所」設立に関わるという履歴だ)。
少なくとも、満州など植民地への移民(麗しき「故郷」を求めての「分村」運動)は「日本民俗学」が促進したという側面は否定できない(郷土会系の石黒忠篤や早川孝太郎らが活躍した)。また、そこ(日本民俗学)は、生き残った左翼主義者や自由主義者たちの「内的亡命」地としても機能した。いや、問題は民俗学だけがということではないだろう。
日本帝国が幻想した「大東亜共栄圏」とは、戦争ばかりか、日本人の壮大なフィールドワークの場でもあった(柳田の講演「日本の民俗学」の結語を見よ)。日本民族の起源探究、日本文化研究の場としてそれはあった。そこには民族学者ばかりか歴史学者や社会科学者、転向左翼主義者、もちろん民俗学者も加わって、「フィールドワーク」を行っていた。戦後の日本考古学、日本古代史、日本人起源論はもちろん、社会科学さえも、ここでの「研究」の上に成り立っていたのである。
(五) 1945〜1962年 敗戦から死去まで(70〜87歳)
敗戦・占領を生き延びた日本民俗学
柳田は敗戦をいかに迎えたのか。興味あるところだが、不詳だ。日記には「八月十五日 水よう 晴。十二時大詔出づ、感激不止。午後感冒、八度二分」とだけある。柳田は、近所に住む貴族院議員の長岡隆一郎から聞き、15日の終戦を知っていたようだ。11日の日記には「時局の迫れる話をきかせられる。(略)いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」とある。
アメリカ占領軍が進駐したとき、柳田に果たして「不安」はなかったのだろうか。戦時中、「無害」あるいは協力的な学問として日本帝国に公認されていた日本民俗学をアメリカ占領軍はどう裁断するか、心配しなかったであろうか。柳田と帝国との近さは枢密院(天皇の最高諮問機関。1947年廃止)最後の顧問官への任官(1946年)にも表れている。だが、占領軍は日本民俗学・民族学を、天皇と同様に占領政策にむしろ活用することに決めた(GHQの民間情報文化局に、岡正雄、石田英一郎、関敬吾らが勤務した)。
老年の柳田(70歳)自身は「いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」の言葉通り、戦前と変わっていなかった。いやますます意気軒昂としていた。昭和21年、戦争中に書いていた『先祖の話』をそのまま上梓する。すでに「常民」としての日本人像は柳田の頭の中で揺るがぬ姿となっていた。氏神信仰研究を発展させて、その中核として取り出したのが、この著作のテーマである家単位の祖霊信仰だ。柳田は、例えば墓石を採り上げて、古くは家単位の「先祖代々之墓」しかなく、個人単位の墓石出現は明治になってからのことだと述べ、ここに日本人の長い伝統と信仰を読み取っている。
だが事実は、古いはずの「先祖代々之墓」は柳田の思い込みに過ぎず、それは早くても明治20年代以降に明治人が始めた新しい「伝統」だった。それまでは正反対に個人や夫婦単位の墓石が普通だったのだ。この小論でも先述したように、「家」制度も「母」も私たちが持っている観念は近代の所産である。古代や中世が近代に直結していることはまずない。天皇制の諸儀礼、初詣や成人式が近代の「伝統」であるように、柳田の「日本民俗学」も近代明治の所産であったと言えよう。
遺作『海上の道』の意味するもの
また、柳田は昭和21〜22年にかけて「新国学談」三部作を刊行している。日本民俗学は新しい国学だと主張するのだ。「国学」とは本居宣長らを復古することではない。国学と言う本旨は「漢意」以前、すなわち中国文化などが流入する以前の原日本を探究することにあった。近代以降の日本においては、同時に「欧米化」以前を追究することでもある(戦後占領の時点ではアメリカの占領政策への牽制を含む)。戦前から続く、柳田の国語への関心もここにある。柳田はやはりナショナリスト(民族主義者)であった。
ここで指摘しておかなければならない重要なことがある。固有の「日本」という発想だ。「民族」や「国家」概念は近代の所産だが、その祖型が古代に求められる。例えば「縄文人」や「弥生人」、また「邪馬台国」や「大和朝廷」はそういうものとしてある。固有の「日本人」というものがあってこそ初めて、その起源や原郷も探究可能となるのだ。柳田の遺作『海上の道』が意味するものは、単に稲とその信仰を持った日本人の南方からの渡来を説いたということではなく、「日本人は初めから日本人であった」というトートロジーの完成なのである(遡れば、明治時代に始まる邪馬台国論争もこれを共通の前提としていた)。
『海上の道』を遺して柳田が没し数えて10年目の昭和47(1972)年、敗戦以来アメリカによる占領・統治が続いてきた沖縄が日本政府に返還され(本土復帰)、再び沖縄県に戻る。何度目の「琉球処分」であろうか。語られることは少ないが、「内なる植民地」であるが故にそれがくり返されてきたのだ。柳田は『海上の道』に収められた論考を、昭和25(1950)年以来書き続けていた。その翌年は対日本講和・日米安保の二つの条約調印の年であった。そこには沖縄占領の継続が含まれていたのだ。
柳田は最後の「政治」を実行していた。沖縄を、固有の「日本」の一部分として国内外に主張していたのだ。柳田ら日本民俗学者は沖縄を「南島」と呼ぶ。これはどこから誰が見ての「南島」か。すでにこの言葉遣いの中に沖縄への視線が定められている。ともあれ、柳田は往年の例の「椰子の実」の逸話も引きながら、「日本人」の中国南部からの移住(移民)、すなわち「海上の道」を指し示す。くり返すが、柳田の「日本人」は南西諸島および日本列島に着いてから「日本人」になったわけではないのだ。
小日本主義としての日本「単一民族」説
戦前と断絶していないのは一人柳田だけではない。根本転換のかわりにただ「戦後」という万能語を冠するだけで、占領軍の軍国主義断罪とレッドパージの両方をくぐり抜け、民族主義思考に染まった「戦前」は復活する。例えば、右翼歴史学者・津田左右吉の学説を継承する左翼「戦後歴史学」がそうだ。皇国史観に異論を唱えたために帝国の指弾を受けたことを「免罪符」に、津田の本意に反する姿で取り出して「津田史学」と持ち上げた。
津田史学は紀記批判の必要性を説き、そのまま歴史叙述とすることは間違いとした。戦後歴史学はそれを受け継ぐことから出発したが、結局紀記の切り刻み直しを行なったに過ぎず、紀記に依拠する体質は不変だった。そして何よりも、固有の「日本人」が前提になっている。また、戦前に拡張された領土は固有の領土ではなかったから切り捨てられて当然という戦後的な思考は、裏を返せば「日本列島は固有の日本の領土としてある」という思考であった。
前にも触れたが、「大東亜共栄圏」は日本人が来た道を逆展開してたどる一大フィールドワークであった。北海道・樺太、満州・蒙古は北からのルート、朝鮮半島は日本人が列島へ至る回廊として、そして南西諸島、台湾、中国南部は南方ルート、中国奥地は東南アジアやインド西部からの経由ルートとして、さらに太平洋のミクロネシアは「ムー大陸」水没後の痕跡として見出されていた。
戦後的思考の代表とされ、その半島ルートを採り上げた江上波夫の「騎馬民族渡来説」(1949年発表)も、そんな戦前「民族学」が行なってきた研究成果の上にある。戦後、「日本民族学」改め「(日本)文化人類学」を立ち上げたのは、岡正雄、石田英一郎らだった。江上はその仲間だ。これはアメリカによる日本占領を古代に転位させると同時に、ほんの4年前までは日本帝国が「征服していた」半島の位置づけを逆転させ、固有の日本が半島から「征服された」国だったことへ認識置換させる、言わば戦後的トリックでもあった。
「騎馬民族渡来説」の翌年、柳田の『海上の道』収録の第一論考「宝貝のこと」が発表されている。これで南北両ルートからの日本人起源説が出揃った。固有の日本人は征服されたか、平和的に移民したのだ。どちらにも日本人からの戦争も侵略もない。そして列島こそ日本固有の領土だったのだ。そして、近年の「縄文文化論」こそ、究極の民族主義言説と言わざるを得ない。なぜなら列島は約1万年前から日本人のものだとするものなのだから(縄文人は日本人ではない)。これが、戦前から戦後、そして今も続く「永遠の日本人」という「近代の神話」だ。日本人はかくして、列島に住む「単一民族」として構築されてきたのである。
「帝国の遺産」と柳田の晩年
戦後左翼理論の金字塔として丸山真男の政治学と並び称される、大塚久雄の経済史学も、戦前の植民地政策学の上に成立している。その系譜は植民地経済学者・福田徳三および新渡戸稲造から矢内原忠雄へのラインでつながる。大塚の記念碑的著作『共同体の基礎理論』(1955年刊)には、植民地の後進経済状態を分析した福田の影響が色濃い。そこでは「アジア的共同体」を近代化に向かうに最も原始的な形態として叙述してある。「脱亜入欧」の日本近代化プロジェクトはここにも貫徹していたのだ。
それから、満州建国とその経営は「近代国家・社会はいかに創られるか」という壮大な実験であった。そこには戦後日本を領導した国家官僚(例えば、首相となった岸信介)、社会科学者や科学技術者たちが蝟集していた。戦後日本は彼らおよび彼らの遺産によって復興したのだった。戦後経済計画もそういったものの一つだ。NHKテレビの「プロジェクトX」は主に高度成長期のヒーローたちの物語に仕立てられているが、新幹線開発が零戦飛行機技術者の戦後の仕事であったように、戦後日本とは「帝国の遺産」によって成り立っていたのだ。
柳田は昭和22(1947)年、自宅の一部を提供して「民俗学研究所」を発足させる(翌年に法人化)。昭和24年には「民間伝承の会」を改称して「日本民俗学会」とした。ここで柳田はようやく名実ともに「民俗学」を名乗ることを自らに許したのだ。昭和26年、文化勲章を受章。77歳であった。翌27年、米軍による占領は終了する。だが、晩年は満足とは言えなかったようだ。昭和31年、その活動を不満として民俗学研究所を解散させている。『故郷七十年』を綴り、遺言として『海上の道』を刊行。『定本柳田国男集』が刊行される中、昭和37(1962)年8月、前半生を見事に消し去り、稀代の学者として柳田国男は満87歳の生涯を閉じた。
(エピローグ) 柳田国男とは誰か
その後のこと、それから語り残した想いを断片的になるが述べてみたい。
柳田国男、南島、そして日本人論ブーム
昭和35(1960)年、旅する民俗学者・宮本常一が『忘れられた日本人』を刊行する。ここに「常民=日本人」は完成されたと言える。それはすでに忘れられ、失われたのだ。こうして「アイヌ」が金田一京助らを介してしか出逢えないように、「日本人」は柳田国男ら日本民俗学者たちを通して発見されるものになっていく。そしてその「起源」は忘れられ、近代日本で創始された「伝統」が固有の日本の伝統として解釈し直されていくのだ。
戦後、新世代によるニッポン発見が起こる。文学者・島尾敏雄は昭和36(1961)年の「ヤポネシアの根っこ」から同45(1970)年の「ヤポネシアと琉球弧」まで、柳田らに刺激を受けながら南島論を展開する。独自の論考を繰り出し戦後思想界を震撼させた吉本隆明も、柳田論を綴りながら昭和45年に「南島論」を発表している。柳田国男は没後ほどなく、「南島」とともにブームとなっていたのだ。
「南島」の言葉遣いは、すでに指摘したように日本の「内なる外国」として見る視線だ。沖縄は原日本文化の残存地域とされる一方で、対ベトナム作戦で戦う現実の米軍の存在は「内なる外国」として日常的には遮蔽されていた。こうした柳田・南島ブームに続いて、1970年代の日本人論ブームが始まっていることは大変興味深い。そこでは日本人の特殊性が大いに論じられた。これはもう一つの「日本民俗学」ではなかったのか。
逆立する柳田像:何が語られ何が語られていないか
柳田国男はこうして逆立して語られるようになる。民俗学者として死んだ柳田は初めから民俗学者であった。彼の生涯はすべて日本民俗学のために最初からあった。そのために彼自身による自伝的記述『故郷七十年』その他が書かれていた。出生、幼年時代の想い出はすべて後年の民俗学に結びつけられる。そこには日露戦争を近親は軍人として自らは国家官僚として戦い、日韓併合で勲章を受章し、叔父が総督を務める台湾など植民地各地を怪しく経巡った柳田はいない。もとより、戦争協力した日本民俗学は語られることはない。
柳田自身は何を語り何を語っていないのか。「聖なる常民」や「聖なる農民」の言葉から分かるように、農民(日本人)の持つもう一つの側面、つまり独善主義や排外主義、偏狭さや愚かさが語られていないことは夙に指摘されてきた。また、性が排除されているとも。確かに、例えば『遠野物語』を、同じ佐々木喜善から取材した水野葉舟の「遠野物語」と比較すれば明らかだし、南方熊楠との論争でも性にまつわる記述の忌避は見て取れる。
だが、これらは真に重要なことなのだろうか。あるいはそれらの隠蔽とは結局何を意味するのだろうか。つまり柳田によって本当に隠されたこととは一体何なのだろうかと問うべきだろう。それは、戦争や植民地を含めた、時代を丸ごと生きた日本人の現実の生活だ。そこにこそ、醜い農民の姿も日常の性という営みもある。柳田そして彼の日本民俗学は「政治」を隠蔽、あるいは忌避したのだ(それが彼の「政治」だ)。現実を見ないから、理想的な日本を描くしかなかったとも言える。柳田の民俗学自体が孕み持つ理論的矛盾もそこに起因している。
帝国抵抗者の「帰順」先としての日本民俗学
明治以降の近代は日本人にとり初めての「政治」の時代であった。帝国が進める政治、その展開として幾多の戦争や植民地政策があり、これに抵抗する自由民権、社会主義、マルクス主義など行動的な左翼運動が起こっては弾圧されてきた。一方、もの言わぬ多くの国民は農耕などの労働、時には戦争に従軍し、貧しい暮らしの中、幽霊や妖怪、怪談や伝説、超能力やオカルトなどに逃避してきた。
柳田はもともと国内が分裂するような政治的対立を好まなかったように思われる。資質的なものもあるだろうが、やはり国家のトップエリートとして出発したことが大きいだろう。植民地での「旧慣保存」の主張、「山人」やアイヌや沖縄の擁護は、決して彼らの側に立つものではない。そうではなく、保護者、言わば「親権者」としての「救済」姿勢なのである。国内についても同じだ。
日本民俗学は、帝国への抵抗者が「帰順」する場所、「転向者」の受容先としてあったのだ。すべての「日本人」が共有できる場所としてそれはあった。だから、政治的対立なぞあり得ないのだ。事実、「日本民俗学」は1930年代、マルクス主義と同時代の「運動」として組織・構築された。そして、転向者や左翼主義者たちが「内的亡命」する場所として実際にそれは機能し、彼らも「帰順」して帝国の戦争に協力したのだった。
アジアに残された「民族」の課題
日本人単一民族説を分かりやすく批判しておこう。日本人の顔の多様さが何よりそれを証明している。その多様さは、よく言う「縄文系」「弥生系」だけではとても説明できない。朝鮮人、中国人、モンゴル人に似た顔立ちのほか、東南アジア系かと思う顔もある。これは多様な混淆を物語るものだろう。日本人には単一の原郷なぞなく、長い時間をかけていくつもの民族が列島で出逢い、徐々に「日本人」が形成されてきたのだろう。
また、「民族」の内容は同一を保持し得ず、変化し消長する。ユダヤ民族がその代表例だろう。ユダヤ教を信仰するということ以外、歴史的に彼らの同一性は何ら保証されていない。「アラブ民族」もイスラム教によって形成されたものだ。このことはアジアの中国人や朝鮮人にも言える。今も「中国民族」は存在しないし、その中核を成す「漢民族」も歴史的に見れば同一ではない。そして、「高句麗人」と今の朝鮮人は果たして同一だと言えるであろうか。
歴史的な国境もそうだ。近代欧米列強によって画定された中近東やアフリカ大陸、南北アメリカ、アジア内陸部の国境はもちろんのこと、さらに言えばヨーロッパ大陸内の国境すら、「民族」の居住領域とずれがある。筆者は、近代国家や民族を否定するものではない。ただ「永遠の民族」という概念が近代的な「神話」であり、それを振り回すことは危険なことだと述べているのだ。近現代においては、近現代の「民族」と「国境」しか存在しないのだ。
「純血」は近代的な嗜好であるが、自己矛盾的に表現される「在日韓国人・朝鮮人」「中国残留孤児」もその鬼子である。民族と、近代国家や国民は本来矛盾しない。「民族国家」であることが矛盾するのだ。現実には自民族の国家に住まない人々はごまんといる。国家を持たぬ民族も多くある。「日本人の子どもは日本人である」というトートロジーは、実は何も語っていない。日本の原郷探しと同様に、循環論法に過ぎないのだ。近代とは、自分の尾を呑み込もうとするウロボロス的世界だと言えよう。  
 
生きものへのまなざし ―南方熊楠と柳田國男―

 

『南方マンダラ』(中沢新一編、1991年、河出書房新社)は、≪南方熊楠コレクション≫全5巻の第1巻である。第2巻から第5巻はそれぞれ、『南方民俗学』『浄のセクソロジー』『動と不動のコスモロジー』『森の思想』である。いずれも読みやすいものではないが、南方の思想世界の全体像を見通すには最適のコレクションである。
南方熊楠(1867〜1941)は、和歌山県に生まれた。少年時代の熊楠は、知人の家で読んだ『和漢三才図会』に感動し、その内容を記憶し、家に帰って写した。後には借り出して筆写を続け、数年をかけて全105巻の筆写を完成させた。1884年に東京大学予備門に入学し、秋山真之、夏目漱石、山田美妙、正岡子規らと机を並べるが、2年後に退学して帰省する。その後、渡米し、1887年にミシガン州の州立農学校に入学するも、翌年には退学。1891年にフロリダ州に移り、菌類、地衣類、藻類を採集する。翌年にイギリスに渡り、大英博物館で東洋関係資料の整理を助ける。1893年に、『ネイチャー』に最初の論文「東洋の星座」が掲載される。この年に、真言宗の僧侶である土宜法竜(1834〜1921)と出会い、親交を深める。ふたりの間では、書簡を通じて激しい論戦が繰りひろげられた。1900年、和歌山に戻り、約3年間、粘菌の研究に没頭した。その後、国による神社合祀政策に反対する活動に精力的にとり組んだ。この運動に協力したひとりが柳田國男である。1911年、柳田國男との約6年にわたる文通が始まる。晩年は神島の保全に尽力した。
『南方マンダラ』は、「解題 南方マンダラ」「第一部 事の世界―ロンドン書簡」「第二部 マンダラの誕生―那智書簡」「ポストリュード―最後の書簡」からなる。詳細な解題は編者が執筆している。マンダラとは、サンスクリット語mandalaの音訳で、「本質(manda)を得る(la)」という意味だ。この巻では、南方が10年近くの歳月をかけて考えぬいたマンダラ観が、土宜法竜宛の書簡のなかで披瀝されている。その考えの核心に触れる箇所を、一箇所だけ引用してみよう。
不思議ということあり。事不思議あり、物不思議あり、心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり。予は、今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ、その順序だけざっと立てならべ得たることと思う。(中略)心不思議は、心理学というものあれど、これは脳とか感覚諸器とかを離れずに研究中ゆえ、物不思議をはなれず。したがって、心ばかりの不思議の学というもの今はなし、またはいまだなし。(295頁)
南方は、この世界がどのようにして成り立っているのかを見極めたいと願った。南方の観る世界は、物と心が相互にむすびついて事として生起する過程であった。それを支える根源的な働きとして大日如来が視野におさめられていた。こうした密教的な世界観は、土宜法竜から示唆を受けて練りあげられたものである。心と物が縁あって出会うとき、ことばでは言い表せない出来事が生じてくる。それこそが不思議の世界である。この世界を究めようとする南方の苦闘の痕跡は、いまだ十分には解明されていない。中沢新一は、解題のなかでこう述べている。「『南方曼陀羅』が生まれてから、すでに九十年近い歳月が流れた。それは、二十世紀末の人間による解読を待ちながら、いまも生まれたときと同じ、熊野の森のほの暗く、深い緑を呼吸しつづけている」(11頁)。
南方はまた、不思議の世界の生成的出来事を、因果論的に把握するだけでなく、「縁の論理」によって明らかにしようと試みた。南方は、「縁」を極めようとする自負をこう語る。「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)、縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり」(341頁)。欧米の科学に特徴的な因果論的思考を相対化し、アジアの縁起的思考に世界把握の活路を求めた南方の覚悟が語られている。
粘菌という、植物と動物という両義性をもった生きものに魅了された南方は、やがて、森羅万象の生成の神秘にもあくなき好奇心をいだき、探究を続けた。その巨大な足跡は、未踏の領野として残されている。
頼富本宏、鶴見和子『曼荼羅の思想』(藤原書店、2005年)は、密教学者と比較社会学者による対談の書である。「曼荼羅は静的か動的か―土宜法龍と南方熊楠」「『閉じられた曼荼羅』から『開かれた曼荼羅』へ」「曼荼羅の秘める創造性」「曼荼羅による新しい共生のモデル」の全四場からなる。
この対談では、曼荼羅のもつ意味や世界観について縦横無尽に語られている。インドや中国、チベット、日本の曼荼羅の違い、多様な曼荼羅についても知ることができる。代表的な金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅のほかに、心曼荼羅と身体曼荼羅、立体曼荼羅と流体曼荼羅などにも話がおよんでいる。立場の異なるものの排除をめざす一元的思考の対極に位置し、異なるもの同士の共存と融和を希求する曼荼羅の思想は、分裂と解体へと向かう時代に対抗する力を秘めている。
南方の生涯に興味をもつひとには、中瀬喜陽、長谷川興蔵編『南方熊楠アルバム<新装版>』(八坂書房、2004年)がおすすめである。南方という知的巨人の波乱万丈の生涯が500枚の写真資料で再現されている。少年熊楠による魚類、獣類写図帳の一部や、在米、在英時代のノートなどを見ることができる。家族、孫文との交友、粘菌、植物研究所などに関連する写真も豊富である。
柳田國男の『遠野物語・山の人生』(岩波文庫、2015年[第57刷])は、彼の代表作である。「遠野物語」は、柳田が、遠野人・佐々木喜善(雅号は鏡石)から聴いた説話を味わい深い日本語でまとめたものである。「山の人生」は、山で暮らすひとびとへの柳田の情愛があふれた記録である。
柳田国男(1875〜1962)は兵庫県に松岡操とたけの六男として生まれた。幼少期から読書の習慣をもち、青年期から壮年期にかけては好んで旅行にでかけた。1900年に東京帝国大学卒業後、農商務省に勤める。1901年に柳田直平の養子になった。1902年に法制局参事官になり、1913年には高木敏雄と協力して雑誌『郷土研究』を創刊した。『石神問答』(1910)の出版がきっかけとなって南方との文通が始まった。1914年には貴族院書記官長になったが、貴族院議長との確執から1919年末に辞任した。敗戦後は、1948年に民俗学研究所を発足させ、1953年には季刊『日本民族学』を発行するなど、民俗学の発展のために精力的に活動した。
「遠野物語」(1910)の冒頭の二文はこうである。「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり」(7頁)。里の神、家の神、山の神、山男、山女、魂の行方、雪女、河童、猿、熊、狐などの話は、この世界と異界との共存・交流を語るものが多く、ついつい引きこまれてしまう。ふたつの話を引用してみよう。
遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。(31頁)
白望の山続きに離森というところあり。その小字に長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。在る夜その小屋の垂孤をかかげて、内を窺う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。(32頁)
「山の人生」(1926)には、心に残る話が多い。最初の「山に埋もれたる人生あること」もそうだ。少し長くなるが、全文を引用してみよう。
今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。
この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕み朽ちつつあるであろう。
また同じ頃、美濃とは遥かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活きていた。ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹の隙間から、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復った時には、夫も死ねなかったものとみえて、濡れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊って自ら縊れており、赤ん坊は滝壺の上の梢に引懸って死んでいたという話である。
こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それも十二年までの宥恕があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう。
我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何びとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。(93〜95頁)
日々の暮らしに困りはてたひと、追いつめられたひとのやむにやまれぬふるまいが、この短い文章のなかに凝縮されている。現代でも、新聞の三面記事の片隅には、時々せっぱつまったひとびとの同じような話が載る。忙しくしていると、ごく普通の暮らしをしていたひとの「物深い」(95頁)現実の出来事の細部にまで想像力を働かせることはむずかしい。それがいつまでも記憶に残ることもまれだ。無名のひとびとの、こころに鋭く突き刺さり、こころがかきむしられるような現実は、警察署の記録のなかに埋もれて、忘れ去られていくのだ。
『青年と学問』(岩波文庫、2015年[第23刷])は、柳田が1924年から1927年にかけて各地で行った10篇の講演原稿からなっている。1928年に日本青年館から発行された。「旅行と歴史」(原題は「歴史は何の為に学ぶ」)は栃木中学校での講演記録である。柳田は、自分の学問的な志を受け継いでくれる若者がひとりでも現われてほしいと願って、熱く語りかけている。
主題のひとつは旅行である。ひとはなぜ旅をするのだろうか。柳田の答えは明快である。ひとへの好奇心がひとを旅に誘うというのである。旅行の意義については、こう語られる。「生まれた時から周囲の人ばかりと接していては何とも思わなかったものが、一旦その間から抜け出して振り返り、或いは前と後とを比較してみる時に、はじめて少しずつ自分と周囲との関係が分かってくる」(73頁)。自分が何者であり、自国がどのような国であるかは、自分を脱けだし、見知らぬ国をたずねることによってよく見えてくるということだ。自他の違いにとまどったり、驚いたりすることで、見逃していたことがはっきりと見えてくるのだ。
柳田は、旅行と学問を関連づけて言う。「学問の真の意味を解し、一定の方針を立てて読書する人だけが、これによって生涯を正しく導きうると同じように、この旅行というものの意味をよく知って、短い一日二日の旅でも心を留めて見てあるく人が、時すなわち人生を一番よく使った理想的の旅人ということになるのである」(74頁)。観光ガイドの指示に従ってスケジュールをこなすこと、名所旧跡をあわただしくカメラにおさめて先を急ぐことと、ひとや風景をじっくりとこころを落ちつけて見て歩くこと、こころ惹かれる出来事にじっと向き合う時間を生きることとは相容れない。旅の途上で、ひとや風景と対話しながら、立ちどまることで開かれてくる、中身の濃い時間を生きることこそが、旅行の醍醐味なのであろう。
柳田は自分の人生観を率直に語っている。「世の中には志の高い善人も多いが、物の分からぬ手前勝手な醜い人も少なくない。双方どちらでもない人も随分あって、場合によってはしばしば悪いこともすればいやな事もする。そうして善い事よりも悪い事の方が、目にも立ち気を取られやすい」(80頁)。柳田は、青年に対して、世の中にはなぜ善と悪が混在し、愛と尊敬の隣に憎悪と闘争が住んでいるのか、その理由を考えてほしいと願う。さらにまた、青年が学問に取り組むならば、「もしや人の生活は方法次第で味わわずとも済むべき苦いものすっぱいものを、わざわざたがいに味わっているのではないかどうか」(81頁)じっくり考察できるようになってほしいと希望を述べている。学ぶということは、考えることが起点になるが、自分で考えるだけでなく、その内実を確かめながら、考えの意味と方向をさぐっていくことだ。過去をかえりみず、先を読まず、手前勝手な思いこみにとらわれてしまうと、善からは遠ざかる。善に近づき、悪を避けることができるように慎重に考えられるようになるということが、柳田の言う学問の意味である。
この講演のおしまいでは、学問する者の三つの心構えについて語られる。「これだけ学べばもう十分という小さな満足をせぬこと」(89頁)、「本さえ読んでおれば、それで宜しいという考え方」(同頁)をしないこと、「歴史は読むものであって考えるものでないように思うこと」(92頁)を避けることの三つである。「もっと考えよ」(同頁)こそが、柳田の強いメッセージであった。
南方熊楠 (みなかたくまくす)
民俗学者、生物学者。日本民俗学の創始者の一人。和歌山出身。アメリカ・イギリスに渡り、大英博物館東洋調査部に勤務しながら動植物学・考古学・宗教学などを独学で研究。帰国後、和歌山県田辺で変形菌類などの採集・研究と民俗学の研究を行なった。著に「南方閑話」「十二支考」「南方随筆」など。慶応三〜昭和一六年(一八六七〜一九四一)
柳田国男
民俗学者。兵庫県出身。旧姓松岡。国文学者井上通泰の弟。東京帝国大学法科大学政治科卒。農商務省法制局、宮内省などの官吏を経て朝日新聞社客員となる。その間、森鴎外、田山花袋らと交わり抒情詩人として期待されたが、次第に民間伝承の研究に進み、民俗学研究所を創設するなど、斯界の第一人者となる。昭和二六年(一九五一)文化勲章受章。芸術院会員。学士院会員。著「遠野物語」「石神問答」「海上の道」ほか多数。明治八〜昭和三七年(一八七五〜一九六二)  
 
柳田国男と田山花袋

 

『蒲団』の衝撃
柳田国男の生涯を眺めわたして民俗学者として出発する前の農政学徒になる前後の若い日の柳田を照らしだすのに、いちばんたくさん使ったのは、田山花袋の文学作品でした。また逆に柳田国男の田山花袋や自然主義に対する感想や批評でした。それが今日、花袋の故郷でもあり、『田舎教師』の舞台でもある邑楽町で柳田と花袋についてお話しすることになった理由だと思います。
はじめに柳田国男が田山花袋についてどんな感想や批判を持っていたかというところから入っていきたいと思います。それにつなげられるように田山花袋の作品と柳田国男との関係でどう考えたらいいか触れられたらと思います。そして、しまいに田山花袋の作品と柳田国男の『遠野物語』をはじめとする民俗学的な仕事のあいだに類縁や同一性があれば言及してみたいと考えます。
柳田国男は『定本柳田国男集』みたいな流布された著書で田山花袋にいくつか触れています。読んだ限りで、いちばん本気になって田山花袋に言及しているのは花袋が亡くなった昭和五年頃に書かれた「花袋君の作と生き方」という文章です。『故郷七十年』の中にも「花袋の功罪」というような二、三の文章があります。そこで述べられていることも同じです。いつか島崎藤村に田山花袋の作品の中で何がいちばんいいと思うかと聞かれたとき、『重右衛門の最後』がよいと答えたということです。これはいくつかの文章でそう言っています。柳田は田山花袋に批判的になったのは、『蒲団』という、あらわれたとき自然主義の衝撃的な作品ということで騒がれた作品からだと述べています。あれは「きたならしい作品」だというのが柳田国男のおもな批判の根拠でした。二十歳前後の青春期から仲のよい文学仲間ですから、田山花袋に会うといつでも、身辺とか家庭とか近親とかに素材をとって作品を書いて、自然主義を無理やり主義としておし通してそうするとそれに縛られて、かえって自分自身を窮屈にしてしまう、自分の方法をもっと拡げることをやったらどうだと批判していたと柳田は言っています。またそれに関連して自分は田山花袋と自然主義の関わりについて考えるたびに、時代が人間を高速する力がとてもきついものだと感じたとも述べています。つまり花袋はじぶんで築いた城のなかに立てこもり、自然主義の山の上にのったまま、そこからなかなかおりてくることができなくなった。おりてこようにも自然主義といえば花袋が象徴だと思われていることで、その思潮から出にくくなってしまった。いかに人間というものは時代に拘束されるものか、田山の生き方をおもうたびにそんな感想をもったと、柳田は述べています。
柳田国男のうけとりようなのですが、自然主義は、どうして社会的不公平とか悲惨に対する抵抗を文学の主眼にしないのか、田山花袋にたびたび話したが、自然主義にとっては社会に役立つか役立たないかは、文学の本道ではないとかたくなに固執していて、いつでも花袋に拒まれたとも述べています。
どちらの言い分が妥当なのかは微妙ですが、このあたりから柳田国男と田山花袋との別れ道がみえてきます。ここの見解をおしすすめていきますと、一方で花袋に象徴される自然主義の本質的なところにぶつかってきますし、また他方で柳田国男の民俗学の方法みたいなところにつきあたっていきます。
とらわれないこと、旅人であること
一方で柳田は、自分は世間からかけ離れたこと、世間の常識どおりの尺度ではないこと、あるいは世間が現実に役に立つとおもわないことでも、かまわずに気がつくと記録をとったり、考えたりしてきた。これは田山花袋や自然主義から学んだことだといっています。つまり社会に役立つかどうか、面白いか、面白くないかよりも客観描写も主観描写も含め徹底的に描ききってしまわなければならないとする花袋ら自然主義から学んで、民俗的な記録とか文章とかメモを固執して書きつづけてきたというのです。
それからもうひとつ若いころ田山花袋から、いっしょに旅して、旅の仕方をおしえられたと述べている文章があります。柳田国男は旅について、いつも考えていた人です。旅人というのは柳田国男の方法になっているところがあります。ある村を通って、そこに関心をひくものがあると寄り道したり、二、三日でも一ヶ月でも滞在して、村人の生活や風俗習慣を見聞して、関心がみたされるとその村を出てゆきます。これが柳田のいう旅人なのです。旅人が関心をもちすぎたあまり村里の内側にはいって、そこに住みついてしまうと旅人ではなくなります。おおきく言えば、大和朝廷から、ちいさく言えば個人にいたるまで、そこに定住して村人といっしょに生活し、耕したり、宗教をひろめたり、知識をひろめたりしながら、そこに居着いてしまうと、柳田国男の考える旅人から外れてしまいます。外からの眼を使ったり、場合によっては内側から経験したり調べたりするのですが、体験しおわったらその場所を出ていく。定着したら旅人ではなくなってしまいます。柳田国男はいつも関心がおわれば、そこを出ていくというやり方をしていますが、それは若いときに田山花袋から学んだことだといっていいのです。田山花袋に誘われてよく旅をし、紀行文も書いています。その観察は風景だけでなく、土地の風俗や習慣や生活にわたっていますが、これは田山花袋から影響をうけたとても重要なところではないかと思われます。
自然主義文学への根本的な批判
柳田は、だんだん悪口にもはいってゆくわけですが、自然主義文学は深刻めかしてもたいしたことはないと『山の人生』に書いています。あるとき自分は犯罪者の記録を読みながら、そのなかのとても衝撃を感銘を受けたエピソードを田山に話してやった。そのエピソードは皆さんもたいへんよく知っている西美濃の炭焼きの話です。炭焼きが里に炭をもっていっても、不景気で売れない日がつづきます。お米を交換しようにもできないので、育てている男の子と女の子に飢えさせる日がやってきます。お米を交換できずに疲れて帰ってくる父親の姿を見かねて、ある夕方刃物を研いで、父親が帰ってきたときに、じぶんたちを殺してくれと父親にせがんで、小屋の敷居を枕に子供たちは横になります。炭焼きはついフラフラとなって子供たちを殺し、自分も死のうとするが死にきれないで自主してきます。柳田はそういう犯罪記録を役所で調べていて感銘をうけ、その話を田山花袋に語ってきかせるのです。柳田が書いているところでは、田山花袋はそれはとても特殊で、あまりに深刻すぎて文学にならないといって、小説にすることはできなかった。自然主義は客観描写、現実暴露の悲哀みたいなことをいうが、その描写も現実もたいしたものではない、そう柳田は書いています。
これは柳田国男の自然主義文学にたいする根本的な批判だとおもいます。そうはいいながら青年期に抒情詩人として柳田国男の仲間だった人たちが自然主義文学の主流をつくっていきました。田山花袋、国木田独歩、太田玉茗、島崎藤村といった人たちがそうです。柳田国男はそういう人たちの作品に素材を提供しています。誰だってこういう境遇だったらこういうふうにしちゃうのじゃないかとおもわれる犯罪記録などを、感銘をうけると素材にして語ってきかせるわけです。たとえば、田山花袋に『一兵卒の銃殺』という作品がありますが、それは自分が提供した素材で田山花袋が書いたといっています。柳田は青年期の仲間として一面では素材を提供しているのですが、一面ではあまり深刻な素材を自然主義がこなせなかったことに不満をもらしているわけです。
柳田国男にも反省はあります。自然主義文学のまえに現実を客観的におそれず描写することが重要だと最初に身をもって示したのは二葉亭四迷だと柳田国男は書いています。なるほどこういう描写の仕方があるものなのだと感心したけれど、好みからいうとどうしてもそれについていけなかったと述べています。小説というと、美男子と美女とが出てきて、恋愛を育んでゆくという才子佳人の活躍する物語という通念がどうしても自分の中にあって、現実暴露ということになると、ついていけなかったというのです。田山花袋たちの自然主義に対する柳田国男の反発もある意味ではとても根深いわけです。そこに柳田国男なりの「歌わかれ」があって、じぶんの農政論や民俗学の方向にいく道をつけていったと思います。一方、田山花袋は美男と美女のでてくる夢のような物語が文学じゃないという道をつきつめていったわけです。そして自然主義文学が同時代のおもな思潮になるところまで、田山花袋を象徴的な担い手として移っていきました。明治以降の近代文学が思想らしい思想、理念らしい理念をうけいれた時期は二カ所しかありません。その一カ所は明治末年近くの自然主義文学です。もう一カ所は昭和初年のプロレタリア文学つまりマルクス主義文学です。うまくその理念をこなせたかどうかは別ですが、そのひとつは田山花袋が主たる担い手であったといえるとおもいます。そして田山花袋と柳田国男は『蒲団』という作品を契機として、人間としてつきあっていくのですが、文学や物事の考え方からは別れてしまいます。
『蒲団』という作品
田山花袋の代表的な作品といわれれば、誰でも『蒲団』をあげます。世評も高かったのですが、花袋の作品のなかでとてもいい作品のひとつです。『蒲団』という作品には、主人公の竹中時雄という作家が花袋自身に擬せられた人物として出てきます。ファンである若い女性が弟子入りを希望してきて、じぶんの家に同居させるわけです。その女弟子には同志社の学生で京都にいる好きな男があり、その男が上京してきて、女弟子は文学の修行がそっちのけになって交際がはじまります。主人公は女弟子に嫉妬心を燃やすのですが、女弟子同棲してしまいます。主人公は監督上そうはさせないといいながら、女弟子にたいする嫉妬心と恋情を燃やし男との仲を裂こうとしたり、父親を呼んで郷里に帰してしまったりするわけです。いってみれば文学上の弟子として同居させながら、女が男に夢中になってゆくと嫉妬心を燃やし、監督に名をかりて恋情を通わせたりする、そんな経緯を描いた作品です。この作品は大胆な告白ということで世評が高くなりました。柳田国男の方では、この作品が世評に高くなるほどきたならしいと称して花袋に批判的になってゆきます。この作品以後批判と苦言ばかりいってきたと柳田は述べています。現在から公平にみまして『蒲団』という作品はどういう作品なのか申し上げてみましょう。柳田国男がきたならしくて、しょうがなくて、つまらないじゃないかといっている面をことさらとり出して、『蒲団』という作品の性格を申し上げてみましょう。主人公の竹中時雄は出版社に臨時に務めています。勤めの道すがら毎日のようにおなじ時間にぶつかるきれいな女教師がいます。主人公はその女教師について空想するところがあります。どんな描写になっているかといいますと、たとえばあの女教師をうまくかたらって神楽坂あたりの待合に連れ込んだりしたらどうだろうかとか、妻君に内証で二人でどこか近郊に遊びに行ったらどうだろうかといったことを空想します。その時主人公の妻君はちょうど妊娠しています。そして妻君が難産で死んじゃって、あの女と一緒になれたらどうだろうかといった背徳的な空想をするところも描かれています。そういうところが第一に柳田国男が気に入らなかったところだとおもいます。奥さんが難産で死に、その女教師と一緒になったらどうだろうという空想は、田山花袋にすれば誰でもすることがある空想だという確かな人間認識があります。誰もがただ隠しているだけで、誰でも空想することだ。それを描写することで現実の壁、風俗習慣社会の制約というものを切り開くことが自然主義文学にとって重要なことだというのが花袋の考え方です。妻君が死んじゃったら、あの女をひきいれてということを誰も空想したことがないというのは嘘なので、どんな人でも空想することがありうる。それは万人に共通なものだというのが自然主義の確信のひとつです。もしそうだとして妄想のなかでやっているのだとすれば、それを描写してあきらかにすることくらいができなければ文学とはいえないのじゃないかというのが花袋らのもうひとつの確信でした。この二つの確信が『蒲団』のなかに含まれています。真っ当だというこの二つの確信が、柳田国男にとってきたならしく人間の卑小さを示すだけで、何の意味もないことにおもえました。皆さんはどうおもわれるでしょうか。文学という立場からは田山花袋の感じ方を肯定せざるをえないとおもいます。またそれを描くことも自由だとおもいます。文学にはその種の制約は何もないのです。
自然主義文学の確信と理念
そういう個所は『蒲団』のなかにまだあります。主人公時雄がじぶんの薫陶をうけたいと、でてきている地方の文学志望の女の人にたいして空想するところがあります。そのなかで、どうぜ文学をやろうという女だから無器量な女に相違ないとおもった、けれどなるべくなら見られるくらいの女であってほしいとかんがえるところが描写されています。いまだったらとくにそうでしょうが、こんなことを書いたらフェミニズムの運動が怒りだすに違いありません。でもそういうことを全然かんがえてもみないかといったら、それはまた嘘になってしまうでしょう。だからそうかんがえたと書くことは、たぶん花袋にとって万人がおもう真実だから、真実なら描写をはばかるべきではないということがあったとおもいます。そういうことを花袋はためらわずに書いています。それは人間のもっている本性のなかで卑しい部分なのですが、卑しい部分がない人間はいないというのが人間性についての自然主義文学の確信です。かりにそんなことが人間のもつ卑しさ野真実だとしても、それを描くことにどんな意味があるのだ、というのが柳田国男の花袋批判の眼目だったとおもうのです。柳田国男は『蒲団』という作品を読んでから花袋の書くものを気にくわないといいだしました。こういう個所を『蒲団』のなかからもう少し挙げてみましょう。主人公時雄が妊娠している妻君のことをかんがえるところがあるのですが、旧式の丸髷姿で、アヒルのような歩き方をしていて、温順で貞節なことより他に何のとり柄もない妻君で、実に情けなかったというのです。道をゆくと、きれいで今様の妻君をつれて散歩している男に出会う。友達のところへゆくと夫と同席して平気で流暢に会話のなかにはいってくる妻君は骨を折って小説を読もうともしないし、夫に内面的な苦悩があっても、そんなことに関係なしに子供にばっかりかまけている、そんなことをかんがえるところが書いてあります。冗談じゃないといえば冗談じゃないわけです。誰でもこんなことばっかりかんがえているとすればとんでもない誤解になってしまうのですが、ある瞬間そんな考えがよぎらないことはないという意味でなら、万人に共通の真実であるかぎり描写されるべきだというのが花袋たちの考え方でした。それに対して、嘘ではないとしてもこんなことばかりかんがえている人間を読まされてはかなわないというのが柳田国男の批判だったとおもいます。
よく知られているように『蒲団』のいちばん最後は、主人公時雄が女弟子を郷里の父親のところにひきとらせることになって、まだ送りかえしていない女弟子の蒲団を敷いてそれにくるまって女弟子の体臭をかぎながら涙を流すことになっています。これも人間の卑少な面を語るふるまいなのですが、こういう感じ方がまったくない人間がいるかといえばそんなことはないでしょう。誰にでもありうることは確かな真実です。ただこれを描ききってしまえば、逆に人間はいつでもこんなことばっかりかんがえている存在だというイメージができますが、柳田国男はそれがあまり好きでなかったのだとおもいます。
ここで何が問題なのか、取り出してみます。『蒲団』に描かれているような自然主義の理念は、平凡な人間が感じたり、やったりすることを、平凡な人間の視点から大胆に描くことが基本にある考え方だといえます。つまり、人間の悲惨さ、もっとやわらかくいえば、人間の悲哀ですが、人間の悲哀を描くことは悲惨を描くとおなじように文学にとって重要なのだという戒律が、自然主義文学によって血肉化された一種の理念、思想だとおもいます。平凡な人間の卑少な行為もあまり崇高でない行為も全部真実であるかぎり大胆に描かなければならないという自然主義の理念、思想は、だんだんと私小説の身辺雑記みたいなところに凝縮していきます。でも日本の明治以後の文学が西欧近代に近づいてゆくためには一度はくぐるべき重要な理念、思想だったとおもわれます。
国男と花袋の別れ道
柳田国男の自然主義にたいする批判は、いい点ばかりだとはおもわれません。社会の悲惨や政治の悲惨や制度の悲惨をみている柳田国男の場所はかなり特別な(特権的な)高みの場所だからです。つまり悲惨の真只中にいて悲惨を問題にしているわけではありません。
さきの『山の人生』に描かれている悲惨な炭焼きの話もそうです。この犯罪を、柳田国男は敏感に反応して、悲惨が社会や政治の制度に原因があり、その場所にいれば誰でも犯罪を犯す可能性がある自然権的な善だとみているわけです。柳田国男がこの悲惨の外に、むしろ裁くものの場所にいるということが、逆に悲惨にたいして敏感にしているともいえます。田山花袋が『蒲団』で描いている女弟子にまつわるゴチャゴチャみたいなことは、悲惨でも何でもない瑣末な出来事で、しかも主人公が賢明ならば避けられることかもしれません。しかし花袋にとって目の前におこったもっとも切実な課題だということで『蒲団』という作品は書かれていることは確かです。花袋からすれば社会的事件でないから問題にならないとか社会的悲惨だから重要なのだという観点はないとかんがえられています。柳田国男の批判は一面では深刻な響きをもちますが、一面では外側の遠くにいて傍観しているからそういえるのだ、ともかんがえられましょう。もっといえば柳田国男はごく普通の人がどんな瑣末なことにあくせくかかずらわりながら生活しているのかほんとは知らないのだと花袋はいいたいのだとおもいます。ここが、柳田国男と田山花袋が別れるところだし、自然主義にたいして柳田国男の方法が別れる場所だったといえます。『蒲団』という作品が出てきて、世評が高まれば高まるほど柳田国男は反発して、もう『蒲団』の評判を聞くのもいやでしょうがないというふうになって、それから以後しばらく田山と行き来しなくなってしまった、しかしよくかんがえてみると、そのとき花袋は花袋なりに、自然主義文学は自然主義文学なりに成熟していった時期だとおもうと柳田国男は書いています。この『蒲団』は柳田国男の表かとはかかわりなく田山花袋にとってとてもいい作品のひとつだというのは間違いないところです。また日本の自然主義文学にとっても記念碑的作品だとおもいます。
文学の初源性にふれる『田舎教師』
田山花袋の代表作をもうひとつ挙げるとなると『田舎教師』ということになるとおもいます。『田舎教師』はこの邑楽町のあたりが舞台になって、弥勒野小学校に代用教員として勤めている文学好きの青年が、東京に上って文学に専念したいと願いながら、老いた親たちの面倒をみなければならず、志をとげられないうちに胸の病気になって、ちょうど日露戦争で遼陽への攻略が勝利をおさめて沸きたっているとき、死んでゆくという作品です。この作品はやはり田山花袋の代表作といえるいい作品だとおもいます。どこがいいかと申しますと、文学というのは、もとをただせばこういうものだったのだという原形みたいな懐かしさがこの作品に保存されていることです。芥川龍之介などは、田山花袋の悪口をいうときには、この『田舎教師』を例にして、こんな鈍重な作品がいいのかと盛んに批判しています。でも現在芥川の晩年の代表作である『玄鶴山房』と、この『田山花袋』を比べて、どちらがいいかということになりますと、ぼくは『玄鶴山房』の方がいいとは、いえないとおもいます。むしろ、『田舎教師』の方がいいかもしれないとぼくにはそうおもえます。文学というのは複雑になったり、方法的に高度になったからよいかというと、そんなことはありません。それを見極めるのはたいへん難しいのです。芥川は才気も教養もある作家で、よい作品を書いた人ですが、かたや芥川の代表作、かたや花袋の代表作ということで、偏見なくみてくださいといったら、どちらがいいかわからないのです。むしろ花袋の『田舎教師』の方が芥川の『玄鶴山房』よりいいかもしれないとおもっています。『田舎教師』はけっして才気のある作品とはいえませんが、文学とはもともとこういうものだといえるものがあります。それは素朴で単純な哀切ですが、文学にとってはとても重要なものです。
行動的な文体
ところで『田舎教師』の特徴はどこにあるのか、柳田国男との関連でいくつか挙げて触れてみたいとおもいます。
すこし注意して読みますと『田舎教師』の文体は行動的な文体です。たとえば清三という主人公の振舞いを描写した場合、作者または記述者が「清三はここのところをこう歩いてこんなふうにどこそこへいった」という客観的な描写で記述するのが一般的な描写の仕方ということになります。『田舎教師』の文体はそうではなく、「清三は何々をした」と描かれているのですが、その文章があたかも清三自身がじぶんはこう行動しているといっているような文体をもっているわけです。つまり主体が行動していることを主体が描いているという文体をもっています。これは『田舎教師』のひとつのおおきな特徴になっています。田山花袋の作品を優れたものにしている理由はそこにあるとおもいます。ちょっと二、三行読んでみましょうか。
羽生からは車に乗つた。母親が徹夜して縫つて呉れた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯、車夫は色の褪せた毛布を袴の上にかけて、梶棒を上げた。何となく胸が踊つた。
そうお感じになりませんか。つまりとても解説的に描けば「清三は羽生から車に乗った。清三の母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織にメリンスの兵児帯を着ていた。―」というふうに記述者あるいは作者がひとつの場所にいて、清三という主人公が羽生から車に乗ったところを描写しているという文体になるはずです。ところでいまのようにいきなり「羽生からは車に乗った。」といったら、清三という人がじぶんの動作をそういっているように皆さんに(読者に)おもえてくるわけでしょう。しかしここで清三という言葉を入れて「制動は羽生から車に乗った」と書けば作者が清三という登場人物の動作を描いているのだとおもえてくるでしょう。しかし清三という言葉をぬかしてもう一度読んでみましょう。「羽生から」の次に「は」という助詞をつけたのは主体上たいへんな意味があるのですが、「羽生からは車に乗った。」といったら、車に乗っている清三が車に乗っているじぶんを描いているふうにきこえるでしょう。つまり何をいいたいかといいますと、「清三」という主語を省いたことと、「羽生から車に乗った」あるいは「羽生からは車に乗った」というこの「は」をつけるかつけないかというその二つのことで、文体にふくみができるわけです。そのふくみがなぜできるかといいますと、客観描写のように清三が車に乗ったことを作者が描いているのだともうけとれますし、また「羽生からは車に乗った」というと清三が車に乗ることを清三自身が書いているようにもとれるわけです。その二つの受けとられ方の幅が読む人にふくみを与えるのです。このふくみが総体で集まりますと、作品の価値がそこから出てくることになります。客観描写をしたらふくみがなくなって、そこから作品の価値に寄与するものはでてきません。だから物語のよさや面白さでみせるほかないということになってしまうわけです。ところがこの『田舎教師』の場合はそうではありません。花袋の描写にはひとりでにやってしまっている部分と意図してやっている部分と両方あるわけですが、この場合は花袋は作家として円熟していますから、多分意識的にもこのふくみある文体がひとりでできていったとおもいます。そうしますと『田舎教師』という作品は物語の意味ないようからだけでなく、言葉のスタイルからも価値をうみ出していることになります。この文体の価値は何かといえば、読む人に二重のふくみをちゃんと与えているところからきています。
『遠野物語』の文体との類縁性
『田舎教師』という作品で柳田国男との関連で第一にいわなくてはならないことがあるとすればこの作品の行動的文体が、柳田国男の『遠野物語』の文体とよく似ているということです。四の所を二、三行読んでみましょうか。
四 山口村の吉兵衛と云ふ家の主人、根子立と云ふ山に入り、笹を苅りて束と為し担ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心付きて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児を負ひたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。
どうでしょうか。吉兵衛さんが山に入ったところまでは、柳田国男が吉兵衛さんを描写しているように書いていますが、すぐそのあと、吉兵衛さんが笹を苅って、束にして帰ろうとしていることを吉兵衛さん自身が書いているような文体になってしまっています。柳田国男の『遠野物語』のなかでこういった行動している主体を主体自身が描いているような特徴的な文体のものが三十篇ぐらいあります。その三十篇ぐらいの文体が『遠野物語』の特徴になっているのです。この種の文体で『遠野物語』を書いている場合、柳田国男はどんな主題を取り上げているかといいますと、たいていは里の人が山に行って、山人に出会って夢うつつのうちに奇怪な出来事に出会ったということになっています。この特徴がなければ『遠野物語』は昔話を誰それから聞いて、記録しただけということになります。そういう部分はもちろん七十くらい『遠野物語』にあり、それが大部分になっています。しかし特徴になっているのは三十何篇かのこの行動的な文体で描かれた挿話です。ここですぐに、柳田国男は『遠野物語』を書くときに花袋の『田舎教師』の影響をうけたといいたいわけではありません。またそれを確定することはとても難しいことです。
また逆にこの『田舎教師』の行動的な文体は『遠野物語』の文体から田山花袋がうけとったのだということもなかなか困難です。同時代だから、おなじような描き方がひとりでに身についてあらわれたということもあるかもしれません。はっきりいうためにはもっと突っ込んでみなければなりませんが、もしかすると柳田国男が田山花袋からずいぶん学んだといっていることのなかに、こういうことが無意識のうちに含まれているかもしれないのです。柳田国男でもわかりやすところは、花袋の影響を受けたといっていますが、ほんとうに影響を受けたところは、なかなか正直いってないとおもいます。そこは今後、皆さんが探究して決める以外にないとおもいます。
地名小説・花尽くしの小説
『田舎教師』という作品の特徴をもうひとつ挙げてみましょう。この作品は一種の「地名小説」だということです。それからもうひとつ、一種の「歴史地史を描いている小説」ということもできます。つまり、地名とか、野原の花の名とか、地勢地形のなかに一人の孤独な文学好きの埋もれていく青年教師をおいた物語といえるとおもいます。その青年教師がじぶんの教えた女生徒に憧れをもったり、両親を養うため給料を分け与えなければならず、東京へ行って勉強することができないと、だんだんあきらめたり、やけになって遊郭に通ったりするわけです。そういう青春を野の花のなか、地勢地形のなか、あるいは川のほとりとかたくさんの地名をちりばめたなかに、ポツッとおいた物語だと考えますと、一種の「地名地形小説」としての性格を『田舎教師』はとてもたくさんもっていることがわかります。注意して読まれると、アッと驚くほどその特徴があらわれているところがあります。花袋は紀行文を初期の頃たくさん書いています。その紀行文の延長線でひとりでに花袋の初期の特徴がこの『田舎教師』のなかに出てきているわけで、この描き方は柳田国男がどこそこの地誌を描くときの描き方とたいへんよく類似しております。それもまた、どちらがどちらに影響を与えたと確定することは難しいのですが、そこには時代の共通性か関心の共通か、それでなければ、いわないけれど相互の無意識の影響が必ず含まれているとおもわれます。これは追求するにあたいすることであり、また『田舎教師』という作品のとてもおおきな特徴に数えていいのではないでしょうか。
昔話のスタイル
田山花袋の作品のなかで『重右衛門の最後』や『一兵卒の銃殺』や『一兵卒』などの作品は昔話のスタイルを意図してとっているところがあります。たとえば柳田国男の『遠野物語』の一二に「土淵村山口に新田乙蔵と云ふ老人あり。村の人は乙爺といふ。」という昔話や山の伝説をよく知っている老人のことがでてきます。この記述のスタイルは、『重右衛門の最後』などに使われています。記述者が学校の同級生の郷里なので、重右衛門のいる村里へ訪ねていきます。その郷里のことを聞くところで「二人は言ふのである。自分の故郷は長野から五里、山又山の奥で其の景色の美しさは、とても都会の人の想像などでは」わからないものだ、というところがあります。こういうのと〈土淵村山口に新田乙蔵という老人がいる。村の人は乙爺といっている〉という記述スタイルはおなじで、いずれも昔話のスタイルだといえましょう。これは花袋が『重右衛門の最後』で意識して使っているのだとおもいます。ことにこの作品など柳田国男が素材を提供して使っていることがわかります。花袋は自然主義文学をひろめておおきな潮流をつくっていった先駆者ですが、そのために昔話のスタイルはとても重要な方法になっていたといえましょう。
『田舎教師』と同じように『一兵卒』という作品など主体がじぶんの行動を記述しているという行動的なスタイルの描写で大切なところを、つくしているといってよいくらいです。たとえば一兵卒が意識がもうろうとなったところで妄想したりするところがあります。「蟻だ、蟻だ、本当に蟻だ。まだ彼処に居やがる。汽車もああなつてはお了ひだ。ふと汽車―豊橋を発つて来た時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められて居る。万歳の声が長く長く続く。」これは倒れて死に瀕した一兵卒が妄想のなかで浮かべる光景を独白のように描いているところです。こういう主体の行為を主体が描いているという行動的文体は、花袋がじぶんの作品のなかでたくさん使っている方法です。花袋作品にはこういう立体感のある行動的な文体の作品がありますが、これは柳田国男の『遠野物語』などの特徴的な文体ととても類縁性が濃いものだとおもいます。
『忘れ水』の文体と無意識の影響
花袋と柳田国男は若い頃から和歌や新体詩の仲間として相互に影響しあっているのですが、『蒲団』で批判的になった両者がそれぞれの道へすすんでしまったあとを考えてみても、二人のあいだにたくさんの類縁性をたどることができます。そこで考えますと、花袋や自然主義の文学潮流と、柳田国男の民俗学の方法を支えたスタイルとは、それほど分離してしまったといえない気がします。田山花袋は柳田国男という桂園派の歌人の歌のお弟子さんで、仲よく行き来していました。その頃にほど遠くない頃に書いた花袋の作品で『わすれ水』というのがあります。それをこのあと書きました『野の花』という作品は、その主人公のモデルが柳田国男だという気がします。柳田国男の面影を頭に描いたうえで主人公を設定していると考えます。いずれも柳田国男の独身時代の面影らしくみえる恋愛事件を扱っているわけです。花袋の『わすれ水』の文体というのは文字通り『遠野物語』と同一の文体のようにおもわれます。ちょっと例を挙げてみましょう。『わすれ水』のなかの一節です。
おのれは(主人公のこと―注)常に此処を此上なく好みたる身の、そのままに川原に下り、奇麗なる大石に腰をかけ、暫くは茫然とあたりの風景に見惚れてありしが、霞の少しく薄らぎたる間より、ゆくりなく少女の紅なる裾のちらちらと風にりて動くを見とめぬ。
それとたとえば『遠野物語』の三に、
此翁若かりし頃猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪をりて居たり。顔の色極めて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。
女性の設定の仕方といい、それを見ている場所といい、山のなかと野原のなかという違いがあるくらいで、ほとんど同一だといっていいとおもうのです。花袋も柳田国男もまだ「歌のわかれ」をするまえの抒情詩時代で、この抒情詩時代に書いたのが、『わすれ水』という作品なのです。柳田国男はそういう抒情詩時代からじぶんは別れることができなくて、才子佳人が恋愛する物語が小説の主流なのだという考え方から逃れられず、どうしても自然主義についていけないのだといっているわけですが、自然主義にいたるまえの花袋の文体が『わすれ水』という作品のなかに典型的にあらわれています。その花袋の『わすれ水』や紀行文のなかにある文体から、たぶん柳田国男はたいへん影響をうけていると思えますし、また初期の抒情詩時代の二人は、おなじ文語体スタイルの圏内にあり、柳田はそれを延長して『遠野物語』へ、花袋はそこから脱出して自然主義へという経路も考えられます。このいずれかが『遠野物語』の文体と『わすれ水』を、ほとんどおなじものにしている理由ではないでしょうか。
もっともっと皆さんが探究していかれたら、存外思いがけないところで田山花袋が柳田国男の影響を受けていたり、逆に柳田国男が田山花袋の影響をうけていたりというようなことが見つかってくるのではないかとおもいます。そういうところまで入っていきますと、柳田国男自身がいっている田山花袋の影響や批判も、花袋がいっている柳田国男の影響や異論も、あまり深いところまではくぐっていなくて、表面的なところでいいあったり許しあって済ましたりということかもしれません。もっとおおきな追究の仕方ができるのではないかとおもうのです。二人が自分では語らなかった無意識の影響を含めて少し追究できますと、柳田国男自身に対してだけでなく、日本の自然主義文学に対する追究に入っていくことになるのではないでしょうか。田山花袋についても、柳田国男ほどではありませんが、たくさんの研究がなされ、たくさんの研究者がおります。しかし田山花袋と柳田国男の関わりの面で田山花袋を追究している人はそんなにたくさんはいないとおもいます。その面は皆さんの得意な場面でもありますし、とても重要な面でもありますから、これからたくさんやっていかれたらよろしいのではないでしょうか。今日お話ししたことが、そういう誘い水みたいなものになれたらたいへん嬉しいわけで、お役目が終わったようなものだとおもいます。 
 
柳田國男 山の人生 −炭焼きの噺の真相−

 

柳田國男の「山の人生」。その冒頭に 炭焼きの残酷話がある。明治時代のある炭焼きの家族のはなし…。
女房はとっくに死んで、あとには13になる男の子がいた。それがどうした事情であったか、同じ年くらいの小娘をもらってきて一緒に山の炭焼き小屋で育てていた。いつも炭が売れず、一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手でもどり、飢えきっている小さきものたちの顔を見るのが辛さに小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。目が覚めてみると、小屋の入り口いっぱいに夕日が差し込んでいた。秋の末のことであったという。ふたりの子供たちがその日当たりのとこにしゃがんで、しきりに何かをしている。そっと、そのそばにいってみると…一生懸命、仕事で使う斧を磨いていた。「おとう。これでわしらを殺してくれ」という。夕陽が差し込む逆光の中「くらくらして..」前後の見境もなく、斧で子供たちの頭を打ち落としてしまった‥。自分は死ぬこともできずに、やがて捕えられ牢に入れられた。この親爺は、60才になってから特赦を受けて出てきたのである。それから、この親爺がどうなったのか・。すぐにまた、わからなくなってしまった・。
この「山の人生」(炭焼きの噺)は、今の岐阜と長野の県境にある今でも山深い部落で、明治末期に実際に起こった実話事件である。それを柳田國男が閲覧した裁判記録を元に掲載したもので、実話を取材したというよりも民俗学に基づく民話へと発酵させようという意図を持った噺でもあった。この「山の人生」(炭焼きの噺)には、実に不可解な件(くだり)がある。この噺の背景となっている「飢え切っている子供たち・・」などをそのまま捉えると、よくある昔の極貧の生活の成れの果てと、惨めの極みの驚き。そんなショッキングな内容の方が勝ってしまい、ついつい読み流してしまうが、明らかに異様な点がある。極貧に喘いでいるのに、「なぜか13才くらいの小娘をもらってきて」とある。13才。昔は成人式を迎える歳であり、初潮時期でもある。なぜ、こんな女の子をもらってくるのか?人身売買が当たり前の時代だとしても、実に不可解。しかも、この炭焼きにも子供がいた。子供と表現があるが、これも13才くらいの男の子で、当時は立派に奉公できる歳である。「小さきものの顔を見るのがつらさに・・」と子供であることをやたら強調している。それをふたりとも子供として扱い、育てていたという。しかも極貧で?この噺は本当に実話だったのだろうか?柳田國男は、被差別と同性愛、そして近親相姦を極端に避ける傾向にあった。この噺は、裁判記録に記された事件だとしている。
炭焼きの男は、捕えられたあとに特赦を受け自由の身となっている。60過ぎてというから、おそらく10年ほど服役したようだ。そんなに甘いものだったのだろうか?処刑されずに至ったのは、極貧生活による情状酌量の余地からだろうか。それも不可解だ。しかし、この惨劇は男の主観で語られたもの。つまりこの惨劇噺はすべて、その炭焼きの男だけが供述したものである。殺害の事実は認めている以上、検察側はそれ以上追い込む理由がない。だがしかし、殺害した事実は認め服役もしているが、その動機が真実であったとは限らない。本当に子どもたち(13才)が、「殺してくれ」と懇願してきたのだろうか。当時の同情を買うための男の芝居と、一部の創作が合作したものではないだろうか。あるいは、柳田國男がどうしても避けたかった事実。炭焼きの男は、死刑を逃れるためというよりも、それ以上に発覚することを恐れたこと。殺害した事実は認めても、隠さねばならなかったこと。死ぬまで隠し通そうとした真実の動機。それがあったからではないか。では、いったい何を隠すためだったのか?13才の小娘。彼女の存在。彼女は、なにをさせられていたのか?ただ下女として扱使うほどの家でもなかったはずだ。20年ほど前のこと。浮浪者が出血多量で死亡する事件が多発した。共通していたことは、犬を飼っていたことだった。死亡原因は、性器をかみ切られていたこと。寂しさを紛らわすために犬を使っていたのだ。
13才の小娘は、なにをさせられていたのか...?
秋の日差しが差し込む逆光の中、ふたりがしきりに何かをしている。唯一の愉しみである慰み者が、自分の息子とまぐわっている姿をみて、逆上してふたりの首を打ち落としてしまった..。
柳田國男の生家は、狭く小さい家に八人男兄弟と医者の父と母で暮らしていた。それに起因する悲劇を体験してきたという。それはのちに、同性愛や被差別、近親相姦を極端に避けることとなる実体験でもあった..。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
山男(やまおとこ)

 

日本各地の山中に伝わる大男の妖怪。中世以降の怪談集、随筆、近代の民俗資料などに記述がある。山人(やまびと)、大人(おおひと)などの呼称もある。
外観は、多くは毛深い半裸の大男とされる。言葉は、土地によって話す、まったく話さないなど異説がある。人を襲ったり、これに出遭った人は病気になるなど人間に有害な伝承もあるが、基本的には友好的で、人間に対して煙草や食べ物など少量の報酬で、荷物を運んだり木の皮を剥いだりといった大仕事を手伝ってくれるという。柳田國男によれば、山男との遭遇談は、日本の概ね定まった10数ヶ所の山地のみに伝えられており、小さな島には居ないという。
各地の伝承​
静岡県​
江戸時代の奇談集『絵本百物語』によれば、遠州秋葉(現 静岡県浜松市)におり、身長は約2丈、木こりの荷物運びを助けて里近くまで同行し、手伝いを終えるとまた山へ帰って行くという。礼を与えようとしても金銭は受け取らず、酒なら喜んで受け取ったという。言葉は通じないが、身振り手振りで言葉を伝えることができ、それら身振りなどを憶えるのは非常に早いという。あるときに遠州の又蔵という者が、病人のために医者を呼びに行く途中、誤って谷に落ち、足を痛めて身動きがとれなくなった。そこへ山男が現れ、又蔵を背負って医者のところまで辿り着くと、かき消えるように姿を消した。後に又蔵が礼の酒を持って谷を訪れたところ、山男が2人現れ、喜んで酒を飲んで立ち去ったという。
柳田國男によれば、近世の史料における山男記事は駿府と土佐のものが最も古く、この2国はまた明治期に至るまで山人の足跡の甚だ多い地方であるという。柳田は後述の「東武談叢」と「土州淵岳志」における記録を、近世の山男記事として紹介している。
「東武談叢」によれば、慶長14年4月4日、駿府御殿の庭に、破れた着物を着て四肢に指がなく青蛙を食べる乱れ髪の男がどこからともなく現れた。居所を尋ねると、手で天を指すのみであった。徳川家康の側近はこの男を殺そうとしたが、家康が殺すなと命じたため城外に放たれ、その後の行方は分からなくなった。
高知県​
「土州淵岳志」によれば、寛永19年の春に豊永郷の深山から「山ミコ」という大きな男が高知へ連れて来られたという。身体の肉付きは逞しく、食物を与えると何でも食べ、年齢は60歳くらいに見えた。この男は2、3日後に元の場所へ返された。
新潟県​
北陸地方の奇談集『北越奇談』にも、人間と山男の交流の記述がある。越後国高田藩(現 新潟県上越市近辺)で山仕事をしている人々が夜に山小屋で火を焚いていると、山男が現れて一緒に暖をとることがよくあったという。身長は6尺(約180センチメートル)、赤い髪と灰色の肌のほかは人間と変わりない姿で、牛のような声を出すのみで言葉は喋らないものの、人間の言葉は理解できたという。裸身で腰に木の葉を纏っているのみだったので、ある者が獣の皮を纏うことを教えたところ、翌晩には鹿を捕えて現れたので、獣皮の作り方を教えてやったという。
「北越雪譜」第二編巻四によれば、天保年間より40〜50年前の頃、越後魚沼郡堀之内から十日町に通じる山道を通りがかった竹助という者が午後4時頃に道の側に腰かけて焼飯を食べていると、谷あいから猿に似たものが現れた。その背丈は普通の人より高くはなく、顔は猿のようには赤くなく、頭の毛が長く背に垂れていた。害をなす様子はなく、焼飯を求めるそぶりをするので竹助が与えると嬉しそうに食べた。この者は竹助の荷を肩に掛けて山道を先に立って歩き、1里半ほど行って池谷村に近くなったところで荷を下ろして素早く山へ駆け登った。その当時は山で仕事をする者が折々この「異獣」を見たという。柳田國男は「北越雪譜」のこの記事を、山人が米の飯に心を引かれた例であるとしている。
神奈川県​
津村淙庵による随筆『譚海』によれば、相洲箱根(現 神奈川県足柄下郡)にいる山男は、裸体に木の葉や樹皮の衣を纏い、山中で魚を獲り、里で市のある日には里人のもとへ持ち帰って米に替えたという。住処を確かめようと後を追っても、絶壁すらない山道を飛ぶように去ってゆくため、決して住処をしることはできないという。小田原の城主はこれに対し、人間に害をなすものではないので銃で撃つことなどないようにと制していたため、この山男に敢えて危害を加えようとする者はいなかったという。
青森県・秋田県​
青森県の赤倉岳では大人(おおひと)と呼ばれた。相撲の力士よりも背の高いもので、山から里に降りることもあり、これを目にすると病気になるという伝承がある一方、魚や酒を報酬として与えることで農業や山仕事などを手伝ってくれたという。弘前市の伝承によれば、かつて大人が弥十郎という男と仲良しになって彼の仕事を手伝い、さらに田畑に灌漑をするなどして村人に喜ばれたが、弥十郎の妻に姿を見られたために村に現れなくなり、大人を追って山に入った弥十郎も大人となったという。当時の村人たちはこの大人を鬼と考えており、岩木町鬼沢(現・弘前市)の地名はこれに由来する。現地にある鬼神社は、村人が彼らの仕事ぶりを喜んで建てたものといわれ、彼らが使ったという大きな鍬が神体として祀られている。三戸郡留崎村荒沢の不動という社には、山男がかつて使用したといわれる木臼と杵があり、これで木の実を搗いて山男の食料としたという。
秋田県北部でも山男を山人(やまびと)または大人といい、津軽との境に住むもので、煙草を与えると木の皮を集める仕事を手伝ってくれたといわれる。
宮崎県​
明治20年頃、日向国南部某村の身上という人が山に入って「異人」に会った。その者の姿は白髪の老人で、腰から上は裸体、腰に帆布のような物を纏っており、にこにこと笑いながら近寄ってきた。身上は狩猟用の刀の柄に手をかけて「来ると打つぞ」と怒鳴ったが、その者は頓着せず、なお笑いながら近寄ってくるので怖ろしくなり、山を逃げ下りた。それから1ヶ月ほど後、同じ村の若者がこの山に入ってキジを見つけ、鉄砲の狙いを定めて撃とうとすると、横から近寄ってこの人の右腕を柔らかく叩く者があった。それは白髪の「異人」であり、にこにこと笑いかけてきた。若者は怖ろしさで気が遠くなり、その場に立ち続けていたところを里人に発見された。柳田國男はこれを、山人が「我々」と親しくなろうとする態度を示した例であるとしている。
正体の諸説​
山男の正体については、前述の『絵本百物語』では山の気が人の形をとったものともあるが、妖怪研究家・多田克己は、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にある山わろ、玃、山精、魍魎などが混同された結果として生まれた妖怪像とのほか、ヒマラヤ山脈の雪男(イエティ)と同様、絶滅種類人猿のギガントピテクスの生き残りとの仮説も立てている。
柳田國男は1913年に、山人は日本に昔繁栄していた先住民の子孫であると信ずると述べ、1917年には「山人即ち日本の先住民」はもはや絶滅したという通説には同意してよいとしつつも、「次第に退化して、今尚山中を漂白しつゝあった者」が、ある時代までは必ず居たと推定されるとした。また、山人を鬼と関連付けて論じていた。南方熊楠は1916年の柳田宛書簡において、柳田の言う山人は、ただ特種の事情によってやむを得ず山に住み、時勢遅れの暮らしをして世間に遠ざかっている人間の男(または女)というほどのことだと述べている。南方は、自身の考える「真の山男」は「学術的に申さば、原始人類ともいうべきもの」であり、それは中国でいう山𤢖、木客の類であるとし、その存在説は日本以外にも多いけれども、その多くは大きな猴(サル)類を誤って伝えたものであるとした。
また妖怪研究家・村上健司によれば山姫(山女)と同様、普通の人間が精神に異常を来たして山男となった例も少なくなかったとされる。
柳田は山男(山人)に、里人にない特異な身体特徴が見られ、これを研究する事で「人類学や文明史に新たな事蹟」がもたらされることを望んでいたが、この柳田資料に残る山男(山人)の身体特徴の内、信頼性の高そうなものを拾ってゆくと、それが皆、白人(白色人種)の人種特徴と一致するという指摘がある。「鬼」「鬼の白人説」節も参照。
比喩​
山の中に居住している男性や、林業・猟師・山岳救助など主に山の中で行う仕事に従事する男性、男性登山家など頻繁に山に入る男性を「山男」と呼ぶことがある。  
 
山姫(やまひめ)・山女(やまおんな)

 

日本に伝わる妖怪。その名の通り、山奥に住む女の姿をした妖怪である。
東北地方、岡山県、四国、九州など、ほぼ全国各地に伝わっている。山女の名は民俗資料、中世以降の怪談集、随筆などに記述がある。各伝承により性質に差異はあるものの、多くは長い髪を持つ色白の美女とされる。服装は半裸の腰に草の葉の蓑を纏っているともいうが、樹皮を編んだ服を着ている、十二単を着た姿との説もある。
各地の伝承​
熊本県​
熊本県下益城郡でいう山女は、地面につくほど長い髪に節を持ち、人を見ると大声で笑いかけるという。あるときに山女に出遭った女性が笑いかけられ、女性が大声を出すと山女は逃げ去ったが、笑われた際に血を吸われたらしく、間もなく死んでしまったという。
鹿児島県​
鹿児島県肝属郡牛根村(現・垂水市)では山奥に押し入ってきた男を襲い、生き血を啜るという。信州(長野県)の九頭龍山の本性を確かめるために山中に入った男が、山姫に遭って毒気を浴びせられ、命を落としたという逸話もある。
屋久島では山姫をニイヨメジョとも呼び、伝承が数多く残る。十二単姿で緋の袴を穿いているとも、縦縞の着物を着ているとも、半裸でシダの葉で作った腰蓑を纏っているともいうが、いずれも踵に届くほど長い髪の若い女であることは共通している。山姫に笑いかけられ、思わず笑って返せば血を吸われて殺されるという。山姫をにらみつけるか、草鞋の鼻緒を切って唾を吐きかけたものを投げつけるか、サカキの枝を振れば難を逃れられる。しかし、山姫が笑う前に笑えば身を守れるとの伝承もある。
かつて屋久島吉田集落の者が、山に麦の初穂を供えるため、旧暦8月のある日に18人で連れ立って御岳に登った。途中で日が暮れたため、山小屋に泊まった。翌朝の早朝、飯炊きが皆より早く起きて朝食の準備をしていたところ、妙な女が現れ、眠る一同の上にまたがって何かしている。結局、物陰に隠れていた飯炊き以外の全員が血を吸われて死んでいたという。
宮崎県​
宮崎県西諸県郡真幸町(現・えびの市)の山姫は、洗い髪で山中で綺麗な声で歌を歌っているというが、やはり人間の血を吸って死に至らしめるともいう。同県東臼杵郡では、ある猟師が猿を撃とうとしたが不憫になってやめたところ、猿が猟師にナメクジを握らせ、後に猟師が山女に出遭ったところ、実は山女はナメクジが苦手なので襲われずにすんだという。
大分県​
大分県の黒岳でいう山姫は絶世の美女だという。ある旅人が山姫と知らずに声をかけたところ、山姫の舌が長く伸び、旅人は血を吸い尽くされて死んでしまったという。
高知県​
高知県幡多郡奥内村(現・大月町)では山女に出遭うと、血を吸われるどころか出遭っただけで熱病で死んでしまったといわれる。
岩手県​
岩手県上閉伊郡上郷村(現・遠野市)の山女は性欲に富み、人間の男を連れ去って厚遇するが、男が精力を切らすと殺して食べてしまうという。
人間説​
これらのように山姫、山女は妖しげな能力で人を死に至らしめる妖怪とされるが、その正体は人間だとする場合もある。例として、明治の末から大正初めにかけ、岡山に山姫が現れた事例がある。荒れた髪で、ギロギロと目を光らせ、服は腰のみぼろ布を纏い、生きたカエルやヘビを食べ、山のみならず民家にも姿を見せた。付近の住民たちによって殺されたが、その正体は近くの村の娘であり、正気を失ってこのような姿に変わり果てたのであった。妖怪探訪家・村上健司は、各地に伝承されている山姫や山女もまたこの事例と同様、人間の女性が正気を失った姿である場合が多いと推測している。
近現代の事例​
昭和に入ってからも山女の話はあり、1935年頃(昭和10年頃)、宮城県仙台市青葉区で山仕事に出た女性が3歳になる娘を草むらに寝かせて仕事をしていたところ、いつしか娘が姿を消していた。捜索の末、翌朝に隣り部落の山中で娘が発見され「母ちゃんと一緒に寝た」と答えていたことから、人々は山女か狐の仕業と語ったという。
また、屋久島では昭和初期になっても山姫やニイヨメジョの目撃例がある。「旧正月と9月16日には山姫がバケツをかついで潮汲みに来る」「小学生が筍取りに行ったところ、白装束で髪の長い女に笑いかけられた」「雨の夜、宮之浦集落の運転手が紫色の着物の女に出会った。車に乗るよう勧めたが、そのまま行ってしまった」など、現代的な要素を含んだ実話として伝承されている。
類似伝承​
橘南谿著の『西遊記(せいゆうき)』に、山姫に類似した伝承があるが、人間か獣か判別できぬ、女の形をしていると記しているにとどまる(文献中では「山の神」とも解釈されている)。
山女
やまおんな〔‐をんな〕
「山姥(やまうば)」に同じ。アケビの別名。やまめ[山女/女=魚]、サクラマスの陸封型。渓流にすみ、全長約30センチ。体色は淡褐色か灰褐色で、体側に小判形の暗色紋が並び、背部に小黒点が散在する。産卵期は秋から冬。釣りの対象。やまべ。《季 夏》「けざやかに口あく魚籃(びく)の―かな/蛇笏」。
ヤマヒメ/アケビ科の落葉つる性低木、薬用植物。ヤマベ/コイ科の淡水魚。 
 
山姥 (やまうば、やまんば)

 

山に漂うと考えられた死霊あるいは祖霊のうちでも、その荒ぶる霊としての恐ろしい姿が鬼としてイメージされた。その中でも、山姥は女の鬼として、通常の男の姿の鬼とは一風異なった雰囲気を醸し出している。安達が原に出没したとされる山姥は、通りがかる旅人をことごとく食らいつくす恐ろしい鬼であるが、その山姥の口が裂けたイメージは、あらゆるものを飲み込んで抱擁する母性のイメージをも感じさせる。 
たとえば「食わず女房」に出てくる山姥は、上の口からも下の口からも、食えるものを次々とかき入れて食い尽くす。下の口が性的なものをイメージしていることはいうまでもない。それはあらゆるものを飲み込み、生み出す母性のイメージであっただろう。 
山姥をテーマにした昔話には、さまざまなバリエーションがある。その一つに、牛方山姥という一群の物語がある。牛方が馬方になったり、鯖売りになったりと微細な差異はあるが、同じような構成の話が全国さまざまなところに伝わっている。大方次のような筋書きである。 
牛方が牛に荷を積んで峠にさしかかると、山姥が現れてそれをよこせという。よこさなければ牛もお前も食ってしまうぞというので、牛方は積んでいた食い物の一部を投げる。山姥がそれを食う間に牛方は逃げようとするが、山姥はすぐに追いついてくる。牛方はひとつづつ投げては逃げ続けるが、ついに投げるものがなくなり、牛を置いて一人で逃げると、山姥はその牛を食ってなおも追いかけてくる。 
この話のパターンを、宗教民俗学者の五来重はイザナキの冥界訪問神話と関連付けて解釈している。イザナキは黄泉国を訪ねた帰りにイザナミの遣わした黄泉醜女たちに追いかけられるが、黒鬘を投げつけるとそれが海老に変わり、醜女たちが食っている間に逃げ延びたという話である。 
イザナキはその後、さまざまに智恵を働かして、イザナミの死霊に食われることを免れるのであるが、牛方山姥の話においても、牛方はさまざまに智恵を働かせて逃げ延び、最後には山姥を欺いて殺してしまう。 
五来重はさらに、この話を峠の辺りにさまよう山の神に、供物を捧げて無事を祈ったという古来の風習を結びつけて解釈している。山姥の伝説とは別に鯖大師の伝説というものが流布しているが、それは峠を越えようとするものに、山の神が通行料として鯖を要求するという内容のものである。鯖は仏教の行事の中では、施餓鬼のために施されるものであった。なぜ鯖なのかはわからぬが、鯖を与えることによって、餓鬼の祟りを逃れようとする心理が働いていたのであろう。 
鯖大師とは、峠のあたりに大師の像を立て、それに鯖を供えることを内容としている。そうすることで、餓鬼ならぬ山の神の祟りを免れようとしたのであろう。 
このように、牛方山姥の話は、人を食う恐ろしい鬼と、鯖を供えてその祟りを逃れようとした考えがどこかで結びついて成立したのではないか、五来重はそう推測する。 
山姥をテーマにした昔話には、「山姥問答」という一群の説話もある。例えば次のような内容のものである。 
猟師が山の中で焚き火をしていると山姥が現れる。猟師が「山姥は恐ろしい」と心の中で思うと、山姥は「お前は山姥が恐ろしいと思っているな」と言い当てる。「山姥に食われるのではないか」と思うと、「お前は山姥に食われるのではないかと恐れているな」と言い当てる。「どうしたら逃げられるだろうか」と思うと、「お前はどうしたら逃げられるかと考えているな」と言い当てる。 
ここですっかり絶望した猟師がそのまま食われてしまうこともあるが、焚き火のそばにあったワッカをはじかせて火の粉を山姥に浴びせ、山姥が「人間というものは何を考えるかわからぬ」といって退散する話もある。 
この山姥が童子の形に転化すると、「さとりのわっぱ」の話になる。 
牛方山姥といい、山姥問答といい、山姥をテーマにしながら話の内容は次第に趣向を変えて、鯖大師に見られる施餓鬼の行事と結びついて交通安全の祈願を盛り込んだり、頓智話のような体裁にも発展している。その辺は、もともと民族の深層意識の中にあった祖霊への信仰が、昔話という形の中で、想像力という翼をともなって自由に飛翔していった証だととれないこともない。    
 

 

 
 

 

 
遠野物語 / 柳田国男

 

「遠野物語」は、柳田国男が明治43年(1910年)に発表した、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版され、「後狩詞記」(1909年)、「石神問答」(1910年)とならぶ柳田の初期三部作の一作。日本の民俗学の先駆けとも称される作品である。  
この書を外国に在る人々に呈す
この話はすべて遠野とおのの人佐々木鏡石君より聞きたり。昨さく明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪たずね来きたりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手はなしじょうずにはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減かげんせず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷ごうにはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広ちんしょうごこうのみ。
昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻はなまきより十余里の路上には町場まちば三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少きしょうなること北海道石狩いしかりの平野よりも甚はなはだし。或いは新道なるが故に民居の来たり就つける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独ひとり郊外の村々を巡めぐりたり。その馬は黔くろき海草をもって作りたる厚総あつぶさを掛かけたり。虻あぶ多きためなり。猿さるヶ石いしの渓谷は土肥こえてよく拓ひらけたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。高処より展望すれば早稲わせまさに熟し晩稲ばんとうは花盛はなざかりにて水はことごとく落ちて川にあり。稲の色合いろあいは種類によりてさまざまなり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきはすなわち一家に属する田にしていわゆる名処みょうしょの同じきなるべし。小字こあざよりさらに小さき区域の地名は持主にあらざればこれを知らず。古き売買譲与の証文には常に見ゆる所なり。附馬牛つくもうしの谷へ越ゆれば早池峯はやちねの山は淡く霞かすみ山の形は菅笠すげがさのごとくまた片仮名かたかなのへの字に似たり。この谷は稲熟することさらに遅く満目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛ひなを連つれて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鶏かと思いしが溝みぞの草に隠れて見えざればすなわち野鳥なることを知れり。天神の山には祭ありて獅子踊ししおどりあり。ここにのみは軽く塵ちりたち紅あかき物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿しかの舞まいなり。鹿の角つのをつけたる面を被かぶり童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側かたわらにあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋さびしく女は笑い児こは走れどもなお旅愁をいかんともする能あたわざりき。盂蘭盆うらぼんに新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚あげて魂たましいを招く風ふうあり。峠とうげの馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々ゆうゆうたる霊山とを黄昏たぞがれは徐おもむろに来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽ほうさいの徒多く岡の上に灯火見え伏鉦ふせがねの音聞えたり。道ちがえの叢くさむらの中には雨風祭あめかぜまつりの藁人形わらにんぎょうあり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥ぎょうがしてありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。
思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狭隘きょうあいなる趣味をもって他人に強しいんとするは無作法ぶさほうの仕業しわざなりという人あらん。されどあえて答う。かかる話を聞きかかる処ところを見てきてのちこれを人に語りたがらざる者果はたしてありや。そのような沈黙にしてかつ慎つつしみ深き人は少なくも自分の友人の中にはあることなし。いわんやわが九百年前の先輩せんぱい『今昔物語』のごときはその当時にありてすでに今は昔の話なりしに反しこれはこれ目前の出来事なり。たとえ敬虔けいけんの意と誠実の態度とにおいてはあえて彼を凌しのぐことを得うという能わざらんも人の耳を経ふること多からず人の口と筆とを倩やといたること甚だ僅わずかなりし点においては彼の淡泊無邪気なる大納言殿だいなごんどのかえって来たり聴くに値せり。近代の御伽百物語おとぎひゃくものがたりの徒に至りてはその志こころざしやすでに陋ろうかつ決してその談の妄誕もうたんにあらざることを誓いえず。窃ひそかにもってこれと隣を比するを恥とせり。要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず。ただ鏡石子は年わずかに二十四五自分もこれに十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも弁わきまえず、その力を用いるところ当とうを失えりという人あらば如何いかん。明神の山の木兎みみずくのごとくあまりにその耳を尖とがらしあまりにその眼を丸くし過ぎたりと責せむる人あらば如何。はて是非もなし。この責任のみは自分が負わねばならぬなり。
おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも
   柳田国男
題目(下の数字は話の番号なり、ページ数にはあらず)
   地勢 / 一、五、六七、一一一
   神の始 / 二、六九、七四
   里の神 / 九八
   カクラサマ / 七二―七四
   ゴンゲサマ / 一一〇
   家の神 / 一六
   オクナイサマ / 一四、一五、七〇
   オシラサマ / 六九
   ザシキワラシ / 一七、一八
   山の神 / 八九、九一、九三、一〇二、一〇七、一〇八
   神女 / 二七、五四
   天狗 / 二九、六二、九〇
   山男 / 五、六、七、九、二八、三〇、三一、九二
   山女 / 三、四、三四、三五、七五
   山の霊異 / 三二、三三、六一、九五
   仙人堂 / 四九
   蝦夷の跡 / 一一二
   塚と森と / 六六、一一一、一一三、一一四
   姥うば神 / 六五、七一
   館たての址 / 六七、六八、七六
   昔の人 / 八、一〇、一一、一二、二一、二六、八四
   家のさま / 八〇、八三
   家の盛衰 / 一三、一八、一九、二四、二五、三八、六三
   マヨイガ / 六三、六四
   前兆 / 二〇、五二、七八、九六
   魂の行方 / 二二、八六―八八、九五、九七、九九、一〇〇
   まぼろし / 二三、七七、七九、八一、八二
   雪女 / 一〇三
   川童 / 五五―五九
   猿の経立ふったち / 四五、四六
   猿 / 四七、四八
   狼おいぬ / 三六―四二
   熊 / 四三
   狐 / 六〇、九四、一〇一
   色々の鳥 / 五一―五三
   花 / 三三、五〇
   小正月の行事 / 一四、一〇二―一〇五
   雨風祭 / 一〇九
   昔々 / 一一五―一一八
   歌謡 / 一一九  
 

 

一 遠野郷とおのごうは今の陸中上閉伊かみへい郡の西の半分、山々にて取り囲かこまれたる平地なり。新町村しんちょうそんにては、遠野、土淵つちぶち、附馬牛つくもうし、松崎、青笹あおざさ、上郷かみごう、小友おとも、綾織あやおり、鱒沢ますざわ、宮守みやもり、達曾部たっそべの一町十ヶ村に分かつ。近代或いは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠野保とおのほとも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなわち一郷の町場まちばにして、南部家なんぶけ一万石の城下なり。城を横田城よこたじょうともいう。この地へ行くには花巻はなまきの停車場にて汽車を下おり、北上川きたかみがわを渡り、その川の支流猿さるヶ石川いしがわの渓たにを伝つたいて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝えいう、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落ゆうらくをなせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落合うもの甚はなはだ多く、俗に七内八崎ななないやさきありと称す。内ないは沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。
 ●遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖という語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。
二 遠野の町は南北の川の落合おちあいにあり。以前は七七十里しちしちじゅうりとて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買ばいばいの貨物を聚あつめ、その市いちの日は馬千匹、人千人の賑にぎわしさなりき。四方の山々の中に最も秀ひいでたるを早池峯はやちねという、北の方附馬牛つくもうしの奥にあり。東の方には六角牛ろっこうし山立てり。石神いしがみという山は附馬牛と達曾部たっそべとの間にありて、その高さ前の二つよりも劣おとれり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ともないてこの高原に来たり、今の来内らいない村の伊豆権現いずごんげんの社あるところに宿やどりし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華れいか降ふりて姉の姫ひめの胸の上に止りしを、末の姫眼覚めさめて窃ひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故ゆえに、遠野の女どもはその妬ねたみを畏おそれて今もこの山には遊ばずといえり。
 ●この一里は小道すなわち坂東道ばんどうみちなり、一里が五丁または六丁なり。
 ●タッソベもアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字おおあざあり。
 ●上郷村大字来内、ライナイもアイヌ語にてライは死のことナイは沢なり、水の静かなるよりの名か。
三 山々の奥には山人住めり。栃内とちない村和野わのの佐々木嘉兵衛かへえという人は今も七十余にて生存せり。この翁おきな若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥はるかなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳くしけずりていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直ただちに銃つつを差し向けて打ち放せしに弾たまに応じて倒れたり。そこに馳かけつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。のちの験しるしにせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを綰わがねて懐ふところに入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて耐たえがたく睡眠を催もよおしければ、しばらく物蔭ものかげに立寄りてまどろみたり。その間夢ゆめと現うつつとの境のようなる時に、これも丈たけの高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡ねむりは覚めたり。山男なるべしといえり。
 ●土淵村大字栃内。
四 山口村の吉兵衛という家の主人、根子立ねっこだちという山に入り、笹ささを苅かりて束たばとなし担かつぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心づきて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児おさなごを負おいたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。きわめてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結ゆいつけたる紐ひもは藤の蔓つるにて、着きたる衣類は世の常の縞物しまものなれど、裾すそのあたりぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉などを添えて綴つづりたり。足は地に着つくとも覚えず。事もなげに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方いずかたへか行き過ぎたり。この人はその折の怖おそろしさより煩わずらい始はじめて、久しく病やみてありしが、近きころ亡うせたり。
 ●土淵村大字山口、吉兵衛は代々の通称なればこの主人もまた吉兵衛ならん。
五 遠野郷より海岸の田たノ浜はま、吉利吉里きりきりなどへ越ゆるには、昔より笛吹峠ふえふきとうげという山路やまみちあり。山口村より六角牛ろっこうしの方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢であうより、誰もみな怖おそろしがりて次第に往来も稀まれになりしかば、ついに別の路を境木峠さかいげとうげという方に開き、和山わやまを馬次場うまつぎばとして今は此方ばかりを越ゆるようになれり。二里以上の迂路うろなり。
 ●山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり。
六 遠野郷にては豪農のことを今でも長者という。青笹村大字糠前ぬかのまえの長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某という猟師りょうし、或ある日山に入りて一人の女に遭あう。怖ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何おじではないか、ぶつなという。驚きてよく見れば彼かの長者がまな娘なり。何故なにゆえにこんな処ところにはおるぞと問えば、或る物に取られて今はその妻となれり。子もあまた生うみたれど、すべて夫おっとが食い尽つくして一人此のごとくあり。おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。人にも言うな。御身も危うければ疾とく帰れというままに、その在所をも問い明あきらめずして遁にげ還かえれりという。
 ●糠の前は糠の森の前にある村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森・糠塚多くあり。
七 上郷村の民家の娘、栗くりを拾いに山に入りたるまま帰り来きたらず。家の者は死したるならんと思い、女のしたる枕まくらを形代かたしろとして葬式を執行とりおこない、さて二三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五葉山ごようざんの腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽おおいかかりて岩窟のようになれるところにて、図はからずこの女に逢いたり。互いに打ち驚き、いかにしてかかる山にはおるかと問えば、女の曰いわく、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんなところに来たるなり。遁にげて帰らんと思えど些いささかの隙すきもなしとのことなり。その人はいかなる人かと問うに、自分には並なみの人間と見ゆれど、ただ丈たけきわめて高く眼の色少し凄すごしと思わる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子にはあらずといいて食くらうにや殺すにや、みないずれへか持ち去りてしまうなりという。まことに我々と同じ人間かと押し返して問えば、衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがえり。一市間ひといちあいに一度か二度、同じようなる人四五人集まりきて、何事か話をなし、やがて何方どちらへか出て行くなり。食物など外より持ち来たるを見れば町へも出ることならん。かく言ううちにも今にそこへ帰って来るかも知れずという故、猟師も怖ろしくなりて帰りたりといえり。二十年ばかりも以前のことかと思わる。
 ●一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間はすなわち五日のことなり。
八 黄昏たそがれに女や子供の家の外に出ている者はよく神隠かみかくしにあうことは他よその国々と同じ。松崎村の寒戸さむとというところの民家にて、若き娘梨なしの樹きの下に草履ぞうりを脱ぬぎ置きたるまま行方ゆくえを知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集あつまりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡あとを留とどめず行き失うせたり。その日は風の烈はげしく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆ばばが帰って来そうな日なりという。
九 菊池弥之助やのすけという老人は若きころ駄賃だちんを業とせり。笛の名人にて夜通よどおしに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜うすづきよに、あまたの仲間の者とともに浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取り出して吹きすさみつつ、大谷地おおやちというところの上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺しらかんばの林しげく、その下は葦あしなど生じ湿しめりたる沢なり。この時谷の底より何者か高き声にて面白いぞーと呼よばわる者あり。一同ことごとく色を失い遁げ走りたりといえり。
 ●ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり、内地に多くある地名なり。またヤツともヤトともヤともいう。
一〇 この男ある奥山に入り、茸きのこを採るとて小屋を掛かけ宿とまりてありしに、深夜に遠きところにてきゃーという女の叫び声聞え胸を轟とどろかしたることあり。里へ帰りて見れば、その同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子むすこのために殺されてありき。  
一 地勢
遠野郷は今の陸中上閉伊郡の西の半分、山々に取り囲まれた平地である 新町村は、遠野、土淵、附馬牛、松崎、青笹、上郷、小友、綾織、鱒沢、宮守、達曾部の一町十か村に分かれている 近代では、あるいは西閉伊郡とも称し、昔はまた遠野保とも呼ばれていた 現在郡役所のある遠野町は、当然一郷の街にして、南部家一万石の城下である 城を横田城ともいう この地へ行くには、花巻の駅で汽車を降り、北上川を渡り、その川の支流・猿ヶ石川の渓谷を伝って、東の方へ入ること十三里で、遠野の町に至る 山奥には珍しい繁華の地である こう言い伝えられている、 遠野郷の地は、大昔はすべて一円の湖水であったが、その水猿ヶ石川となって人間界に流れ出てから、自然にこのような村落となった と したがって、谷川にはこの猿ヶ石川に落ち合うものがとても多く、俗に 七内八崎あり と言われる 内は沢または谷のことで、奥州の地名には多くある
〇遠野郷のトーは、元はアイヌ語の湖という語から出たものであろう、ナイもアイヌ語である
二 神の始
遠野の町は南北の川の合流地点にある 以前は七七十里といって、七つの渓谷それぞれ七十里の奥から売買の貨物を集め、その市の日は馬千頭、人千人の賑わしさであった 四方の山々の中で最も秀でた山を早池峰という 北の方、附馬牛の奥にある 東の方には六角牛山が立っている 石神という山は附馬牛と達曾部との間にあって、その高さは前の二つよりも低い 大昔に女神がいて、三人の娘を連れてこの高原に来、今の来内三村の伊豆権現の社ある場所に宿った夜、 今夜よい夢を見た娘によい山を与えよう と母の神が語って寝たところ、夜深く天から霊華が降り、姉の姫の胸の上に止まったのを、末の姫が目覚めて、こっそりこれを取り、自分の胸の上に乗せたところ、ついに最も美しい早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得た 若い三人の女神はそれぞれ三つの山に住み、今もこれを支配しておられるので、遠野の女たちはその妬みを恐れて、今もこの山には入らないという
〇この一里は小道、すなわち板東道である。一里が五丁、または六丁である
〇タッソベもアイヌ語であろう、岩手郡玉山村にも同じ大字がある
〇上郷村大字来内、ライナイもアイヌ語で、ライは死のこと、ナイは沢、水が静かなことからの名か
三 山女
山々の奥には山人が住んでいる 栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は、七十余歳で今も生きている この老人が若かった頃、猟をして山奥に入っていると、遥かな岩の上に美しい女が一人いて、長い黒髪を櫛で解かしていた 顔の色は極めて白い 不敵な男なので、すかさず銃を差し向けて撃ち放つと、弾に中たって倒れた そこに駆けつけて見れば、背の高い女で、解いた黒髪はまたその背丈よりも長かった 後の証拠にしようと思って、その髪を少し切り取り、これを輪状に丸めて懐に入れ、そのまま家路に向かったが、道の途中でたまらなく眠気を催したので、しばらく物陰に立ち寄ってまどろんだ その間、夢と現との境のような時に、これも背の高い男が一人近寄って、懐中に手を差し入れ、その輪状に丸めた黒髪を取り返て立ち去った、と見ると、たちまち眠りは覚めた 山男だろうという
〇土淵村大字栃内
四 山女
山口村の吉兵衛という家の主人、根子立という山に入り、笹を刈って束にし、担いで立ち上がろうとするとき、笹原の上を風が吹き渡るのに気づいて見れば、奥の方の林の中から、幼子をおぶった若い女が笹原の上を歩いてこちらへやって来る なんとも艶やかな女で、これも長い黒髪を垂れていた 子を結った負い紐は藤の蔓で、着ている衣類はよくある縞物だが、裾のあたりのぼろぼろに破れたところへさまざまな木の葉などを当てて繕っていた 足は地に着いているようにも思えない 事もなげにこちらに近づき、男のすぐ前を通ってどこかへ去っていった この人は、そのときの怖ろしさから煩いはじめ、久しく病んでいたが、最近死んでしまった
〇土淵村大字山口、吉兵衛は代々の通称なので、この主人もまた吉兵衛という名であろう
五 地勢、山男
遠野郷から海岸の田ノ浜や吉利吉里などへ越えるのには、昔から笛吹峠という山道がある 山口村から六角牛の方へ入り、道のりも近かったが、近年この峠を越える者が山中で必ず山男・山女に出くわすことから、誰も皆怖ろしがって、しだいに往来もほとんどなくなったので、ついに別の道を境木峠という方に開き、和山を駅馬の乗換え地として、今はこちらばかりを越えるようになった 二里以上の遠回りである
〇山口は六角牛に登る山口なので、村の名となったという
六 山男
遠野郷では、豪農のことを今でも長者と呼ぶ 青笹村大字糠前の長者の娘がふと物に取り隠されて年久しくなった頃、同じ村の何某という猟師が、ある日山に入ったとき、ひとりの女に遇った 怖ろしくなってこれを撃とうとすると、 あれっ、叔父さんではないか、撃つな と言った 驚いてよく見れば、かの長者の愛娘であった どうしてこんな所にいるんだ と問えば、 ある物に攫われて、今はその妻となった 子もたくさん産んだけれど、みんな夫が食い尽くして、ひとりこうしている 私はこの地で一生涯を送ることになると思う 人にも言うな あなたの身も危ういから、すぐ帰れ との言葉のままに、その場所も問い明らかにせず逃げ帰ったという
〇糠の前は糠の森の前にある村である。糠の森は諸国の糠塚と同じく、遠野郷にも糠森・糠塚が多くある
七 山男
上郷村の民家の娘が栗を拾いに山に入ったまま帰ってこない 家の者は、死んだのだろうと思い、女の使っていた枕を身代わりにして葬式を執り行い、そうして二・三年が過ぎた ところが、その村の者が猟をして五葉山の中腹あたりに入ったとき、大きな岩が蔽いかかって岩窟のようになった所で、思いがけずこの女に遇った 互いに驚き、 どうしてこんな山にいるのか と問えば、女の言うことには、 山に入って恐ろしい人に攫われ、こんな所に来てしまった 逃げて帰ろうと思うけれども、まったく隙もない とのことであった その人はどんな人か と問うと、 自分には普通の人間に見えるが、ただ背がとても高く、眼の色少し凄いように思える 子供も何人か産んだけれど、 自分に似ていないから、我が子ではない と言って、喰うのやら殺すのやら、みんなどこかへ持ち去ってしまう と言う 本当に我々と同じ人間か と押し返して問えば、 衣類などもごく普通だけれど、ただ眼の色が少し違っている 一市間に一度か二度、同じような人が四・五人集ってきて、何事か話をして、やがてどこかへか出ていく 食物などを外から持ってくるところを見れば、町へも出るのだろう こんなふうに話している間にも、じきそこへ帰ってくるかもしれない と言うので、猟師も怖ろしくなって帰ったという 二十年ばかりも以前のことかと思われる
〇一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間である。月六度の市だから、一市間はつまり五日のことである
八 昔の人
黄昏に、女や子供で家の外に出ている者が、よく神隠しに遭うことはよその国々と同じ 松崎村の寒戸という所の民家で、若い娘が梨の樹の下に草履を脱ぎ置いたまま行方がわからなくなり、三十年ほど過ぎた頃、ある日親類・知己の人々がその家に集まっていたところへ、ひどく老いさらばえてその女が帰ってきた いかにして帰ってきたか と問えば みんなに逢いたかったので、帰ってきた それでは、また行く と、再び跡を留めず行き失せた その日は風の烈しく吹く日であった ゆえに遠野郷の人は、今でも風の騒がしい日には、 今日はサムトの婆が帰ってきそうな日だ と言う
九 山男
菊池弥之助という老人は若い頃、荷駄運びを仕事にしていた 笛の名人で、夜通し馬を追って行くときなどは、よく笛を吹きながら行った ある薄月夜に、大勢の仲間の者と共に浜へ越える境木峠を行くのに、また笛を取り出して吹きすさみつつ、大谷地という所の上を過ぎた 大谷地は深い谷で、白樺の林が繁り、その下は葦などの生える湿った沢である このとき、谷の底から何者か高い声で おもしろいぞー と叫ぶ者があった 一同ことごとく顔色を失い、逃げ走ったという
〇ヤチはアイヌ語で湿地の意味で、内地に多くある地名である。またヤツともヤトともヤともいう
一〇 昔の人
この男、ある奥山に入り、茸を採るのに、小屋を作り、泊まっていたときのこと、深夜に遠い所で きゃー という女の叫び声が聞こえ、胸をとどろかしたことがあった 里へ帰ってみれば、その同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹である女が、その息子によって殺されていた 
 

 

一一 この女というは母一人子一人の家なりしに、嫁よめと姑しゅうととの仲悪あしくなり、嫁はしばしば親里へ行きて帰り来ざることあり。その日は嫁は家にありて打ち臥ふしておりしに、昼のころになり突然と倅せがれのいうには、ガガはとても生いかしては置かれぬ、今日きょうはきっと殺すべしとて、大なる草苅鎌くさかりがまを取り出し、ごしごしと磨とぎ始めたり。そのありさまさらに戯言たわむれごととも見えざれば、母はさまざまに事を分わけて詫わびたれども少しも聴かず。嫁も起き出いでて泣きながら諫いさめたれど、露つゆ従したがう色もなく、やがて母が遁のがれ出でんとする様子ようすあるを見て、前後の戸口をことごとく鎖とざしたり。便用に行きたしといえば、おのれみずから外より便器を持ち来たりてこれへせよという。夕方にもなりしかば母もついにあきらめて、大なる囲炉裡いろりの側かたわらにうずくまりただ泣きていたり。倅せがれはよくよく磨とぎたる大鎌を手にして近より来たり、まず左の肩口を目がけて薙なぐようにすれば、鎌の刃先はさき炉ろの上うえの火棚ひだなに引ひっかかりてよく斬きれず。その時に母は深山の奥にて弥之助が聞きつけしようなる叫び声を立てたり。二度目には右の肩より切きり下さげたるが、これにてもなお死絶しにたえずしてあるところへ、里人さとびとら驚きて馳はせつけ倅を取とり抑おさえ直に警察官を呼よびて渡わたしたり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕とらえられ引き立てられて行くを見て、滝のように血の流るる中より、おのれは恨うらみも抱いだかずに死ぬるなれば、孫四郎は宥ゆるしたまわれという。これを聞きて心を動うごかさぬ者はなかりき。孫四郎は途中にてもその鎌を振り上げて巡査を追い廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里にあり。
 ●ガガは方言にて母ということなり。
一二 土淵村山口に新田乙蔵にったおとぞうという老人あり。村の人は乙爺おとじいという。今は九十に近く病やみてまさに死しなんとす。年頃としごろ遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖くちぐせのようにいえど、あまり臭くさければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々ところどころの館たての主ぬしの伝記、家々いえいえの盛衰、昔よりこの郷ごうに行おこなわれし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。
 ●惜おしむべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり。
一三 この老人は数十年の間山の中に独ひとりにて住みし人なり。よき家柄いえがらなれど、若きころ財産を傾け失いてより、世の中に思いを絶たち、峠の上に小屋こやを掛け、甘酒あまざけを往来おうらいの人に売りて活計とす。駄賃だちんの徒とはこの翁を父親ちちおやのように思いて、親したしみたり。少しく収入の余あまりあれば、町に下くだりきて酒を飲む。赤毛布あかゲットにて作りたる半纏はんてんを着て、赤き頭巾ずきんを被かぶり、酔えば、町の中を躍おどりて帰るに巡査もとがめず。いよいよ老衰して後、旧里きゅうりに帰りあわれなる暮くらしをなせり。子供はすべて北海道へ行き、翁ただ一人なり。
一四 部落ぶらくには必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマという神を祀まつる。その家をば大同だいどうという。この神の像ぞうは桑くわの木を削けずりて顔かおを描えがき、四角なる布ぬのの真中まんなかに穴を明あけ、これを上うえより通とおして衣裳いしょうとす。正月の十五日には小字中こあざじゅうの人々この家に集まり来きたりてこれを祭る。またオシラサマという神あり。この神の像もまた同じようにして造り設もうけ、これも正月の十五日に里人さとびと集まりてこれを祭る。その式には白粉おしろいを神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳たたみ一帖いちじょうの室しつあり。この部屋へやにて夜よる寝ねる者はいつも不思議に遭あう。枕まくらを反かえすなどは常のことなり。或いは誰かに抱だき起おこされ、または室より突つき出いださるることもあり。およそ静かに眠ることを許さぬなり。
 ●オシラサマは双神なり。アイヌの中にもこの神あること『蝦夷えぞ風俗彙聞いぶん』に見ゆ。
 ●羽後苅和野の町にて市の神の神体なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり。これと似たる例なり。
一五 オクナイサマを祭れば幸さいわい多し。土淵村大字柏崎かしわざきの長者阿部氏、村にては田圃たんぼの家うちという。この家にて或る年田植たうえの人手ひとで足たらず、明日あすは空そらも怪あやしきに、わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方いずちよりともなく丈たけ低ひくき小僧こぞう一人来たりて、おのれも手伝い申さんというに任まかせて働はたらかせて置きしに、午飯時ひるめしどきに飯めしを食わせんとて尋たずねたれど見えず。やがて再び帰りきて終日、代しろを掻かきよく働はたらきてくれしかば、その日に植えはてたり。どこの人かは知らぬが、晩にはきて物を食くいたまえと誘さそいしが、日暮れてまたその影かげ見えず。家に帰りて見れば、縁側えんがわに小さき泥どろの足跡あしあとあまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚かみだなのところに止とどまりてありしかば、さてはと思いてその扉とびらを開き見れば、神像の腰より下は田の泥どろにまみれていませし由よし。
一六 コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ささぐるなり。今はおいおいとその事少なくなれり。
一七 旧家きゅうかにはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊いいでの今淵いまぶち勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下ろうかにてはたとザシキワラシに行き逢あい大いに驚きしことあり。これは正まさしく男の児こなりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物ぬいものしておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋へやにて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。しばらくの間あいだ坐すわりて居ればやがてまた頻しきりに鼻を鳴ならす音あり。さては座敷ざしきワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰さたなりき。この神の宿やどりたもう家は富貴自在なりということなり。
 ●ザシキワラシは座敷童衆なり。この神のこと『石神いしがみ問答』中にも記事あり。
一八 ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場とめばの橋のほとりにて見馴みなれざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来きたる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸きのこの毒に中あたりて一日のうちに死に絶たえ、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近きころ病やみて失せたり。
一九 孫左衛門が家にては、或る日梨なしの木のめぐりに見馴みなれぬ茸きのこのあまた生はえたるを、食わんか食うまじきかと男どもの評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食わぬがよしと制したれども、下男の一人がいうには、いかなる茸にても水桶みずおけの中に入れて苧殻おがらをもってよくかき廻まわしてのち食えば決して中あたることなしとて、一同この言に従い家内ことごとくこれを食いたり。七歳の女の児こはその日外に出いでて遊びに気を取られ、昼飯を食いに帰ることを忘れしために助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或いは生前に貸かしありといい、或いは約束ありと称して、家の貨財は味噌みその類たぐいまでも取り去りしかば、この村草分くさわけの長者なりしかども、一朝にして跡方あとかたもなくなりたり。
二〇 この兇変の前にはいろいろの前兆ありき。男ども苅置かりおきたる秣まぐさを出すとて三ツ歯の鍬くわにて掻かきまわせしに、大なる蛇へびを見出みいだしたり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打ち殺したりしに、その跡より秣の下にいくらともなき蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分にことごとくこれを殺したり。さて取り捨つべきところもなければ、屋敷の外そとに穴を掘りてこれを埋うめ、蛇塚を作る。その蛇は簣あじかに何荷なんがともなくありたりといえり。  
一一 昔の人
この女というのは、母一人・子一人の家であったが、嫁と姑との仲が悪くなり、嫁はしばしば郷里へ行って帰ってこないことがあった その日は、嫁は家にいて寝込んでいたが、昼の頃になり、突然せがれが言うには、 ガガはとても生かしてはおかれぬ、今日はきっと殺してやる と、大きな草刈鎌を取り出し、ごしごしと研ぎはじめた その様子が少しも冗談に見えなかったので、母はさまざまに事を分けて詫びたが、少しも聞かない 嫁も起き出して泣きながら諫めたが、まったく従う気色もなく、やがて母が逃げ出そうとする様子があるのを見て、前後の戸口を全部閉ざしてしまった 便所に行きたい と言えば、せがれは自分で外から便器を持ってきて これにしろ と言う 夕方にもなると、母もついにあきらめて、大きな囲炉裏のそばにうずくまり、ただ泣いていた せがれは、よくよく研いだ大鎌を手にして近寄ってきて、まず左の肩口を目がけて薙ぎ払うように斬りかかれば、鎌の刃先が炉の上の火棚に引っかかってよく斬れなかった その時に、母は深山の奥で弥之助が聞きつけたような叫び声をあげた 二度目には、右の肩から斬り下げたが、これでもなお死に絶えずにいたところへ、里人らが驚いて駆けつけ、せがれを取り押さえて、すぐ警察官を呼んで引き渡した 警官がまだ棒を持っている時代のことである 母親は、男が捕らえられ引き立てられて行くのを見て、滝のように血の流れる中から、 私は恨みも抱かずに死ぬから、孫四郎は堪忍してやってください と言う これを聞いて心を動かさぬ者はなかった 孫四郎は途中でもその鎌を振り上げて巡査を追い回しなどしたが、狂人だということで放免されて家に帰り、今も生きて里にいる
〇ガガは方言で母という意味である
一二 昔の人
土淵村山口に新田乙蔵という老人がいる 村の人は乙爺と呼ぶ 今は九十に近く、病でまさに死にかけている 年頃、遠野郷の昔の話をよく知っていて、 誰かに話して聞かせておきたい と口癖のように言うが、あまりに臭いので、立ち寄って聞こうとする人はいない あちこちの館の主の伝記、家々の盛衰、昔からこの郷で歌われていた歌の数々をはじめとして、深山の伝説、またはその奥に住む人々の物語など、この老人が最もよく知っている
〇惜しいことに、乙爺は明治四十二年の夏のはじめに亡くなった
一三 家の盛衰
この老人は、数十年の間、山の中にひとりで住んでいた人である よい家柄であるが、若い頃財産を傾け失ってから、世間への思いを絶ち、峠の上に小屋を作り、甘酒を往来の人に売って暮らしを立てていた 荷駄を運ぶ連中はこの翁を父親のように思って親しんでいた 少し多く収入があると、町に下りてきて酒を飲む 赤い毛布で作った半纏を着て、赤き頭巾をかぶり、酔えば町の中を躍って帰るが、巡査もとがめない いよいよ老衰して後、故郷へ帰り、貧しい暮らしをした 子供はすべて北海道へ行き、翁ただひとりである
一四 家の神 - オクナイサマ、小正月の行事
集落には必ず一軒の旧家があって、オクナイサマという神を祀る その家を大同という この神の像は、桑の木を削って顔を描き、四角い布の真ん中に穴を開け、これを上から通して衣裳とする 正月の十五日には小字中の人々がこの家に集まってきて、これを祀る また、オシラサマという神がある この神の像もまた同じようにして造り設け、これも正月の十五日に里人が集って、これを祀る その儀式のときには、白粉を神像の顔に塗ることがある 大同の家には必ず畳一帖の部屋がある この部屋で夜寝る者はいつも不思議な目に遭う 枕を反すなどは常のことである あるいは誰かに抱き起こされ、または部屋から突き出されることもある およそ静かに眠ることを許さない
〇オシラサマは二柱の神である。アイヌの中にもこの神の存在が『蝦夷風俗彙聞』に見える
〇羽後国刈和野の町で、市の神の神体である陰陽の神に正月十五日、白粉を塗って祭ることがある。これと似た例である
一五 家の神 - オクナイサマ
オクナイサマを祀れば幸いが多い 土淵村大字柏崎の長者・阿部氏、村では田んぼの家と呼ぶ この家である年、田植の人手が足らず、明日は空模様も怪しく、 少しばかり田を植え残すことになりそうだ などとつぶやいているところへ、ふと、どこからともなく背の低い小僧がひとり現れて、 おらも手伝いしよう と言うので、任せて働かせておき、昼食時に飯を食わせようと探したところが見当たらない やがて再び戻ってきて、一日中代を掻き、よく働いてくれたので、その日のうちに植え終えることができた どこの人かは知らないが、晩には来て物を食べなされ と誘ったが、日が暮れると、またその姿がない 家に帰ってみれば、縁側に小さい泥の足跡がたくさんあって、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚の所で止まっていたので、さては、と思ってその扉を開いて見れば、神像の腰から下は田の泥にまみれて在したという
一六 家の神
コンセサマを祀る家も少なくない この神の神体はオコマサマとよく似ている オコマサマの社は里に多くある 石または木で男根を作って捧げるのである 今は次第にそうしたことが少なくなった
一七 家の神 - ザシキワラシ
旧家にはザシキワラシという神の住み給う家が少なくない この神は、多くは十二・三歳くらいの童子である ときどき人に姿を見せることがある 土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家では、近頃、高等女学校にいる娘が休暇で帰っていたが、ある日廊下でばったりザシキワラシに遇ってたいへん驚いたことがあった これはまさしく男の子であった 同じ村・山口の佐々木氏では、母親がひとり縫物をしていたところ、隣の間で、紙のがさがさという音がした この室は家の主人の部屋で、そのときは東京へ行って不在の折だったので、怪しいと思って板戸を開いて見たが、何の影もない しばらくの間座っていると、やがてまたしきりに鼻を鳴らす音がした さては座敷ワラシだな と思った この家にも座敷ワラシが住んでいるというのは、ずいぶん以前からのことである この神の宿り給う家は富貴自在ということである
〇ザシキワラシは座敷童衆である。この神のことは『石神問答』の中・一六八頁にも記事がある
一八 家の神 - ザシキワラシ、家の盛衰
ザシキワラシはまた女の子のことがある 同じ山口の旧家・山口孫左衛門という家には、童女の神が二人在すことが久しく言い伝えられていたが、ある年、同じ村の何某という男が町から帰るとき、梁のある橋のほとりで見慣れぬ二人のかわいい娘に会った なんとなく憂わしい様子でこちらへ来る お前たちはどこから来た と問えば、 おら山口の孫左衛門のところから来た と答える これからどこへ行くのか と聞けば、 どこそこ村の何某の家に と答える その何某は、やや離れた村にある今も立派な暮らしの豪農である さては孫左衛門の世も末だな と思ったが、それからあまり時を経ずして、この家の主従・二十数人、茸の毒に中たって一日のうちに死に絶え、七歳の女の子ひとりを残したが、その女もまた年老いて子がなく、近頃病で死んだ
一九 家の盛衰
孫左衛門の家では、ある日梨の木の周囲に見慣れぬ茸がたくさん生え、それを、 食おうか食うまいか と男たちが話し合っているのを聞いて、最後の代の孫左衛門、 食わないほうがいい と制したが、下男の一人が言うには、 どんな茸でも、水桶の中に入れて、麻の皮を剥いだ茎でもってよくかき回した後に食えば、決して中たることはない とのことだったので、一同この言葉に従い、家の者全員がこれを食った 七歳の女の子はその日外に出て遊びに気を取られ、昼飯を食いに帰ることを忘れたために助かった 不意の主人の死去で人々が動転している間に、遠い親類・近くの親類の人々が、あるいは 生前に貸しがあった と言い、あるいは 約束があった と言って、家の貨財は味噌の類まで持ち去ってしまうと、この村草分けの長者であったが、一朝にして跡形もなくなってしまった
二〇 前兆
この凶変の前にはいろいろな前兆があった 男たちが、刈り置いた馬草を出すのに、三つ歯の鍬でかき回していると、大きな蛇を見つけた これも 殺すな と主人が制したのも聞かずに打ち殺すと、その跡には馬草の下に無数の蛇がいて、うごめき出てきたので、男たちはおもしろ半分に残らずこれを殺してしまった そして、捨てる場所もないので、屋敷の外に穴を掘ってこれを埋め、蛇塚を作った その蛇は草を運ぶざるに何杯ともなくあったという  
 

 

二一 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み耽ふけりたり。少し変人という方なりき。狐きつねと親しくなりて家を富ます術を得んと思い立ち、まず庭の中に稲荷いなりの祠ほこらを建たて、自身京に上のぼりて正一位の神階を請うけて帰り、それよりは日々一枚の油揚あぶらげを欠かすことなく、手ずから社頭に供そなえて拝をなせしに、のちには狐馴なれて近づけども遁にげず。手を延ばしてその首を抑おさえなどしたりという。村にありし薬師の堂守どうもりは、わが仏様は何ものをも供そなえざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ごりやくありと、たびたび笑いごとにしたりとなり。
二二 佐々木氏の曾祖母そうそぼ年よりて死去せし時、棺かんに取り納おさめ親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪もの間は火の気けを絶たやすことを忌いむがところの風ふうなれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡いろりの両側りょうがわに坐すわり、母人ははびとは旁かたわらに炭籠すみかごを置き、おりおり炭を継つぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、亡なくなりし老女なり。平生へいぜい腰かがみて衣物きものの裾すその引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目しまめにも見覚みおぼえあり。あなやと思う間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取すみとりにさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。母人は気丈きじょうの人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち臥ふしたる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に睡ねむりを覚さましただ打ち驚くばかりなりしといえり。
 ●マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさしむ。
二三 同じ人の二七日の逮夜たいやに、知音の者集まりて、夜更ふくるまで念仏を唱となえ立ち帰らんとする時、門口かどぐちの石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろ付つき正しく亡なくなりし人の通りなりき。これは数多あまたの人見たる故ゆえに誰も疑わず。いかなる執着しゅうじゃくのありしにや、ついに知る人はなかりしなり。
二四 村々の旧家を大同だいどうというは、大同元年に甲斐国かいのくにより移り来たる家なればかくいうとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非あらざるか。
 ●大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門または族ということなり。『常陸国志ひたちのこくし』に例あり、ホラマエという語のちに見ゆ。
二五 大同の祖先たちが、始めてこの地方に到着せしは、あたかも歳としの暮くれにて、春のいそぎの門松かどまつを、まだ片方かたほうはえ立てぬうちに早はや元日になりたればとて、今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、標縄しめなわを引き渡すとのことなり。
二六 柏崎の田圃たんぼのうちと称する阿倍氏はことに聞えたる旧家なり。この家の先代に彫刻に巧たくみなる人ありて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作りたる者多し。
二七 早池峯はやちねより出でて東北の方宮古みやこの海に流れ入る川を閉伊川へいがわという。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池いけの端はたという家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原台はらだいの淵ふちというあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托たくす。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩たたけば宛名あてなの人いで来くべしとなり。この人請うけ合いはしたれども路々みちみち心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部ろくぶに行き逢あえり。この手紙を開きよみて曰いわく、これを持ち行かば汝なんじの身に大なる災わざわいあるべし。書き換かえて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さき石臼いしうすをくれたり。米を一粒入れて回まわせば下より黄金出いづ。この宝物たからものの力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さき窪くぼみの中に溜たまりてありし中へ滑すべり入りて見えずなりたり。その水溜りはのちに小さき池になりて、今も家の旁かたわらにあり。家の名を池の端というもその為ためなりという。
 ●この話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。
二八 始めて早池峯に山路やまみちをつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家入部にゅうぶの後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋かりごやを作りておりしころ、或ある日炉ろの上に餅もちをならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありて頻しきりに中を窺うかがうさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえ兼かねて手をさし延べて取りて食う。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、嬉うれしげになお食いたり。餅皆みなになりたれば帰りぬ。次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。餅尽つきてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。
 ●北上川の中古の大洪水に白髪水というがあり、白髪の姥うばを欺あざむき餅に似たる焼石を食わせし祟たたりなりという。この話によく似たり。
二九 鶏頭山けいとうざんは早池峯の前面に立てる峻峯しゅんぽうなり。麓ふもとの里にてはまた前薬師まえやくしともいう。天狗てんぐ住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山は掛かけず。山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きわめて無法者にて、鉞まさかりにて草を苅かり鎌かまにて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞ふるまいのみ多かりし人なり。或る時人と賭かけをして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、気色けしきばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。早池峯に登りたるが途みちに迷いて来たるなりと言えば、然しからば送りて遣やるべしとて先さきに立ち、麓ふもと近きところまで来たり、眼を塞ふさげと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は見えずなりたりという。
三〇 小国おぐに村の何某という男、或る日早池峯に竹を伐きりに行きしに、地竹じだけのおびただしく茂りたる中に、大なる男一人寝ていたるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履ぞうりを脱ぬぎてあり。仰あおに臥ふして大なる鼾いびきをかきてありき。
 ●下閉伊郡小国村大字小国。
 ●地竹は深山に生ずる低き竹なり。 
二一 昔の人
その孫左衛門は、村には珍しい知識人で、常に京都から和漢の書を取り寄せて読み耽っていた 少し変人と言える方であった 狐と親しくなって家を裕福にする術を得ようと思い立ち、まず庭の中に稲荷の祠を建て、自身は京に上って正一位の神階を請けて帰り、それからは、日々一枚の油揚げを欠かすことなく、自分の手で社頭に供えて拝むことを続けていると、後には狐が馴れて、近づいても逃げなくなった 手を伸ばしてその首を押さえるなどしたという 村にいた薬師の堂守は、 うちの仏様は何物も供えなくても、孫左衛門の神様よりは御利益がある と、たびたび笑い事にしたという
二二 魂の行方
佐々木氏の曾祖母が年老いて死去したとき、棺に納め、親族の者集まってきて、その夜は皆座敷で寝た 死者の娘で乱心のために離縁させられた婦人もまたその中にいた 喪の間は火の気を絶やすことを忌むが、その土地の風習で、祖母と母との二人だけは、大きな囲炉裏の両側に座り、母はそばに炭籠を置き、ときおり炭を継いでいたところ、ふと裏口の方から足音がして来る者があるのを見れば、亡くなった老女であった 普段腰が曲がって着物の裾を引きずるために、三角に持ち上げて前に縫い付けてあったが、まったくそのとおりで、縞模様にも見覚えがあった ああっと思う間もなく、二人の女の座っている炉のわきを通り過ぎるとき、裾で炭入れに触れると、丸い炭入れなので、くるくると回った 母は気丈な人なので、振り返って後を見送れば、親縁の人々の寝ている座敷の方へ近づいていくと思う程に、かの狂女がけたたましい声で、 おばあさんが来た と叫んだ 他の人々はこの声に目を覚まし、ただ驚くばかりであったという
〇マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさせる
二三 まぼろし
同じ人の二七日の逮夜に、親しい知人らが集って、夜の更けるまで念仏を唱え、さて帰ろうとするとき、門口の石に腰掛けてあちらを向いている老女がいた その後ろ姿はまさしく亡くなった人そのものであった これは大勢の人が見たので、誰も疑わない いかなる執着があったのか、ついに知る人はなかったという
二四 家の盛衰
村々の旧家を大同というが、大同元年に甲斐国から移り来た家なのでそう呼ぶとのことである 大同は征夷大将軍・坂上田村麻呂による奥州征討の時代である 甲斐は南部家の本国である 二つの伝説を混ぜたのではないか
〇大同は大洞かも知れず、洞とは東北で家門または族ということである。『常陸国志』に例があり、ホラマヘという語が後に見える
二五 家の盛衰
大同の祖先たちが初めてこの地方に到着したのはちょうど年の暮れで、春の急ぎの門松のまだ片方を立てないうちに元日になってしまったことから、今もこの家々では、吉例として門松の片方を地に伏せたままで注連縄を引き渡すとのことである
二六 昔の人
柏崎の田んぼのうちと称する阿倍氏は、特に名の知れた旧家である この家の先代に彫刻に巧みな人がいて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作ったものが多い
二七 神女
早池峰から出て東北の方・宮古の海に流れ込む川を閉伊川という その流域はすなわち下閉伊郡である 遠野の町の中で今は池の端という家の先代の主人が、宮古に行っての帰り、この川の原台の淵というあたりを通ったとき、若い女がいて、一封の手紙を托した 遠野の町の背後の物見山の中腹にある沼に行って、手を叩けば、宛名の人が出てくるだろう と言う この人、請け合いはしたものの、道すがら気にかかってあれこれ思い悩んでいると、ひとりの巡礼僧と行き合った この手紙を開き読んで言うことには、 これを持っていったらそなたの身に大きな災いがあるだろう 書き換えて渡したほうがいい と、さらに別の手紙を与えた これを持って沼に行き、教えられたとおりに手を叩くと、はたして若い女が現れて、手紙を受け取り、 その礼です と、極めて小さな石臼をくれた 米を一粒入れて回せば、下から黄金が出た この宝物の力でその家はやや裕福になったが、妻が欲深くて、一度に沢山の米をつかみ入れたところ、石臼はしきりに自ら回って、ついには毎朝主人がこの石臼に供えていた水の、小さな窪みに溜まっていた中へ滑り入り、見えなくなってしまった その水たまりは後に小さな池になって、今も家の傍らにある 家の名を池の端というのもそのためであるという
〇この話に似た物語が西洋にもある。偶然の一致だろうか
二八 山男
初めて早池峰に山道をつけたのは、附馬牛村の何某という猟師で、時は遠野の南部家入国後のことである その頃までは土地の者誰一人としてこの山に入った者はいなかったという この猟師が、半分ほど道を開き、山の中腹に仮小屋を作って住んでいた頃、ある日炉の上に餅を並べ焼きながら食っていると、小屋の外を通る者がいて、しきりに中を窺っているようであった よく見れば大きな坊主であった やがて小屋の中に入ってきて、さも珍らしげに餅の焼けるを見ていたが、ついに我慢しきれずに手を差し伸ばして取って食った 猟師も恐ろしいので、自分からもまた取って与えると、嬉しげになお食った 餅がなくなったので帰っていった 次の日もまた来るだろう と思い、餅によく似た白い石を二つ三つ、餅に交えて炉の上に載せて置くと、焼けて火のようになった 思ったとおり、その坊主が今日も来て、昨日同じように餅を取って食う 餅が尽きて後、その白石をも同じように口に入れたところ、大いに驚いて小屋を飛び出し、姿が見えなくなった 後に、谷底でこの坊主が死んでいるのを見たという
〇北上川の昔の大洪水に白髪水というのがある。白髪の姥を欺き、餅に似た焼石を食わせた祟りであるという。この話によく似ている
二九 天狗
鶏頭山は早池峰の前面に立つ峻峰である 麓の里ではまた前薬師ともいう 天狗が住んでいるといって、早池峰に登る者も決してこの山には道を作らない 山口のハネトという家の主人は佐々木氏の祖父と幼馴染みである ひどい無法者で、鉞で草を刈り、鎌で土を掘るなど、若いときは乱暴な振舞いばかり多かった人である あるとき、人と賭けをして、ひとりで前薬師に登った 帰ってから語ることには、 頂上に大きな岩があって、その岩の上に大男が三人いた 前にたくさんの金銀を広げていた 自分の近寄るのを見て、気色ばんで振り返る、その眼光はすごく恐ろかった 早池峰に登ったが、道に迷って来てしまった と言うと、 ならば送ってやろう と先に立ち、麓に近いところまで来て、 眼を塞げ と言うままに、しばらくそこに立っている間に、たちまち異人は見えなくなった と言った
三〇 山男
小国村の何某という男、ある日早池峰に竹を伐りに行ったところ、地竹がみっしり茂っている中に、大きな男が一人寝ているのを見た 地竹で編んだ三尺くらいの草履を脱いであった 仰向けに臥して、大きないびきをかいていた
〇下閉伊郡小国村大字小国
〇地竹は深山に生える低い竹である 
 

 

三一 遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。
三二 千晩せんばヶ岳だけは山中に沼ぬまあり。この谷は物すごく腥なまぐさき臭かのするところにて、この山に入り帰りたる者はまことに少すくなし。昔何の隼人はやとという猟師あり。その子孫今もあり。白き鹿を見てこれを追いこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。その白鹿撃たれて遁げ、次の山まで行きて片肢かたあし折れたり。その山を今片羽山かたはやまという。さてまた前なる山へきてついに死したり。その地を死助しすけという。死助権現しすけごんげんとて祀まつれるはこの白鹿なりという。
 ●宛然えんぜんとして古風土記をよむがごとし。
三三 白望しろみの山に行きて泊とまれば、深夜にあたりの薄明うすあかるくなることあり。秋のころ茸きのこを採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を伐きり倒す音、歌の声など聞きこゆることあり。この山の大さは測はかるべからず。五月に萱かやを苅りに行くとき、遠く望めば桐きりの花の咲き満みちたる山あり。あたかも紫むらさきの雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくこと能あたわず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋といと金の杓しゃくとを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、鎌かまにて片端かたはしを削けずり取らんとしたれどそれもかなわず。また来こんと思いて樹の皮を白くし栞しおりとしたりしが、次の日人々とともに行きてこれを求めたれど、ついにその木のありかをも見出しえずしてやみたり。
三四 白望の山続きに離森はなれもりというところあり。その小字こあざに長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。或る夜その小屋の垂菰たれごもをかかげて、内を窺うかがう者を見たり。髪を長く二つに分けて垂たれたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。
三五 佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿やどりし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るように思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼よばわりたるを聞けりとぞ。
三六 猿の経立ふったち、御犬おいぬの経立は恐ろしきものなり。御犬おいぬとは狼おおかみのことなり。山口の村に近き二ふたツ石山いしやまは岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々ところどころの岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を下したより押おしあぐるようにしてかわるがわる吠ほえたり。正面より見れば生うまれ立たての馬の子ほどに見ゆ。後うしろから見れば存外ぞんがい小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄ものすごく恐ろしきものはなし。
三七 境木峠さかいげとうげと和山峠わやまとうげとの間にて、昔は駄賃馬だちんばを追おう者、しばしば狼に逢いたりき。馬方うまかたらは夜行には、たいてい十人ばかりも群むれをなし、その一人が牽ひく馬は一端綱ひとはづなとてたいてい五六七匹ぴきまでなれば、常に四五十匹の馬の数なり。ある時二三百ばかりの狼追い来たり、その足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、そのめぐりに火を焼きてこれを防ぎたり。されどなおその火を躍り越えて入り来るにより、ついには馬の綱つなを解ときこれを張はり回めぐらせしに、穽おとしあななどなりとや思いけん、それよりのちは中に飛び入らず。遠くより取とり囲かこみて夜の明あけるまで吠えてありきとぞ。
三八 小友おとも村の旧家の主人にて今も生存せる某爺なにがしじいという人、町より帰りに頻しきりに御犬の吠ほゆるを聞きて、酒に酔いたればおのれもまたその声をまねたりしに、狼も吠えながら跡あとより来るようなり。恐ろしくなりて急ぎ家に帰り入り、門の戸を堅かたく鎖とざして打うち潜ひそみたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる声やまず。夜明よあけて見れば、馬屋の土台どだいの下を掘り穿うがちて中に入り、馬の七頭ありしをことごとく食い殺していたり。この家はそのころより産やや傾きたりとのことなり。
三九 佐々木君幼きころ、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間まもなきにや、そこよりはまだ湯気ゆげ立てり。祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見ておるに相違なければ、取ることができぬといえり。
四〇 草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといえり。草木そうもくの色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節きせつごとに変りて行くものなり。 
三一 山男
遠野郷の民家の子女で、異人に攫われて行く者は毎年多くいる 特に女に多いという
三二 山の霊異
千晩ヶ岳は山中に沼がある この谷はものすごく生ぐさい臭いのする所で、この山に入って帰ってきた者は実に少ない 昔、なんとかの隼人という猟師がいた その子孫は今もいる 白い鹿を見てこれを追い、この谷に千晩籠もったので山の名とした その白鹿は撃たれて逃げ、次の山まで行って片肢が折れた その山を今は片羽山という そしてまた、前の山へ来て、ついに死んだ その地を死助という 死助権現として祀られているのはこの白鹿であるという
〇さながら古風土記を読むようである
三三 山の霊異、花
白望の山に行って泊まれば、深夜にあたりが薄明るくなることがある 秋の頃、茸を採りに行き、山中に宿る者がよくこの現象に遇う また、谷の彼方で大木を伐り倒す音、歌の声など聞こえることがある この山の大きさは測りようがない 五月に萱を刈りに行くとき、遠く望むと、桐の花の咲き満ちている山がある まるで紫の雲のたなびくがごとくである しかし、どうしてもそのあたりに近づくことができない 以前、茸を採りに入った者があった 白望の山奥で金の樋と金の杓とを見た 持ち帰ろうとするが、たいへん重く、鎌で片端を削り取ろうとしたが、それもできない また来よう と思って樹の皮を白くし、目印にしておいたが、次の日、人々と共に行ってこれを探したものの、ついにその木の場所をも見つけられずに終わった
三四 山女
白望の山続きに離森という所がある その小字にある長者屋敷というのは、まったく無人の境界地である そこへ行って炭を焼く者があった ある夜、その小屋の入口の垂れ菰を掲げて中を覗う者を見た 髪を長く二つに分けて垂れた女であった このあたりでも深夜に女の叫び声を聞くことは珍しくない
三五 山女
佐々木氏の祖父の弟が白望に茸を採りに行って宿った夜、谷を隔てた彼方の大きな森林の前を横切って、女の走り行くのを見た 中空を走るように思われた 待てちゃァ と二声ばかり叫んだのを聞いたという
三六 狼
猿の経立、御犬の経立は恐ろしいものである 御犬とは狼のことである 山口の村に近い二ツ石山は岩山である ある雨の日、小学校から帰る子供がこの山を見ると、ところどころの岩の上に御犬がうずくまっていた やがて首を下から押し上げるようにして代わる代わる吠えた 正面から見れば、生まれたての馬の子ほどに見える 後から見れば、意外に小さいという 御犬の唸る声ほどものすごく恐ろしいものはない
三七 狼
境木峠と和山峠との間で、昔は荷駄の馬方がしばしば狼に遭った 馬方らは、夜行くときには、だいたい十人ほどの集団となり、その一人が曳く馬は一端綱といって、だいたい五・六・七頭までだから、いつも四・五十頭の馬の数である あるとき、二・三百頭ほどの狼が追ってきて、その足音は山もどよめくほどだったので、あまりの恐ろしさに、馬も人も一か所に集まり、その周囲に火を焚いてこれを防いだ それでもなお、その火を躍り越えて入ってくるので、ついには馬の綱を解き、これを張り巡らせると、罠などと思ったか、それより後は中へ飛び込んでこなくなった 遠くから取り囲んで、夜が明けるまで吠えていたという
三八 家の盛衰、狼
小友村の旧家の主人で今も生きている某爺という人、町からの帰りに、しきりに御犬が吠えるのを聞き、酒に酔っていたので、自分もまたその声を真似たところ、狼も吠えながら後から来る様子であった 恐ろしくなって急いで家に帰り入り、門の戸を固く閉ざして隠れたが、夜通し狼が家を周回して吠える声がやまない 夜が明けて見れば、厩の土台の下に穴を掘って中に入り、馬が七頭いたのを、残らず食い殺していた この家は、その頃から財産がやや傾いたとのことである
三九 狼
佐々木君が幼い頃、祖父と二人で山から帰る途中、村に近い谷川の岸の上に大きな鹿が倒れているのを見た 横腹は破れ、殺されて間もないのか、そこからはまだ湯気が立っていた 祖父の言うには、 これは狼が食ったのだ この革は欲しいが、御犬は必ずどこかこの近くに隠れて見ている違いないから、取ることができない とのことであった
四〇 狼
草の高さが三寸あれば、狼は身を隠すという 草木の色の移りゆくにつれて、狼の毛の色も季節ごとに変ってゆくものである 
 

 

四一 和野の佐々木嘉兵衛、或る年境木越さかいげごえの大谷地おおやちへ狩にゆきたり。死助しすけの方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあらわなり。向むこうの峯より何百とも知れぬ狼此方へ群むれて走りくるを見て恐ろしさに堪えず、樹の梢こずえに上のぼりてありしに、その樹の下を夥おびただしき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。そのころより遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。
四二 六角牛ろっこうし山の麓ふもとにオバヤ、板小屋などいうところあり。広き萱山かややまなり。村々より苅かりに行く。ある年の秋飯豊村いいでむらの者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯豊衆いいでしの馬を襲おそうことやまず。外ほかの村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩をなす。その中には相撲すもうを取り平生へいぜい力自慢ちからじまんの者あり。さて野に出いでて見るに、雄おすの狼は遠くにおりて来きたらず。雌めす狼一つ鉄という男に飛びかかりたるを、ワッポロを脱ぎて腕うでに巻き、やにわにその狼の口の中に突き込みしに、狼これを噛かむ。なお強く突き入れながら人を喚よぶに、誰も誰も怖おそれて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まで入はいり、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛かみ砕くだきたり。狼はその場にて死したれども、鉄も担かつがれて帰り程ほどなく死したり。
 ●ワッポロは上羽織のことなり。
四三 一昨年の『遠野新聞』にもこの記事を載せたり。上郷かみごう村の熊という男、友人とともに雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分てわけしてその跡を※(「不/見」、第3水準1-91-88)もとめ、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰かげより大なる熊此方を見る。矢頃やごろあまりに近かりしかば、銃をすてて熊に抱かかえつき雪の上を転ころびて、谷へ下る。連つれの男これを救わんと思えども力及ばず。やがて谷川に落ち入りて、人の熊下したになり水に沈みたりしかば、その隙ひまに獣の熊を打ち取りぬ。水にも溺おぼれず、爪つめの傷は数ヶ所受けたれども命に障さわることはなかりき。
四四 六角牛の峯続きにて、橋野はしのという村の上なる山に金坑きんこうあり。この鉱山のために炭を焼きて生計とする者、これも笛の上手じょうずにて、ある日昼ひるの間あいだ小屋こやにおり、仰向あおむきに寝転ねころびて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂菰たれごもをかかぐる者あり。驚きて見れば猿の経立ふったちなり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに彼方かなたへ走り行きぬ。
 ●上閉伊郡栗橋村大字橋野。
四五 猿の経立ふったちはよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂まつやにを毛に塗ぬり砂をその上につけておる故、毛皮けがわは鎧よろいのごとく鉄砲の弾たまも通とおらず。
四六 栃内村の林崎はやしざきに住む何某という男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、これを真まことの鹿なりと思いしか、地竹じだけを手にて分わけながら、大なる口をあけ嶺の方より下くだり来たれり。胆潰きもつぶれて笛を吹きやめたれば、やがて反それて谷の方へ走り行きたり。
 ●オキとは鹿笛のことなり。
四七 この地方にて子供をおどす言葉ことばに、六角牛の猿の経立が来るぞということ常の事なり。この山には猿多し。緒※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)おがせの滝たきを見に行けば、崖がけの樹の梢こずえにあまたおり、人を見れば遁にげながら木の実みなどを擲なげうちて行くなり。
四八 仙人峠せんにんとうげにもあまた猿おりて行人に戯たわむれ石を打ちつけなどす。
四九 仙人峠は登り十五里降くだり十五里あり。その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり。この堂の壁かべには旅人がこの山中にて遭いたる不思議の出来事を書き識しるすこと昔よりの習ならいなり。例えば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この山路やまみちにて若き女の髪を垂たれたるに逢えり。こちらを見てにこと笑いたりという類たぐいなり。またこの所にて猿に悪戯いたずらをせられたりとか、三人の盗賊に逢えりというようなる事をも記しるせり。
 ●この一里も小道なり。
五〇 死助しすけの山にカッコ花あり。遠野郷にても珍しという花なり。五月閑古鳥かんこどりの啼なくころ、女や子どもこれを採とりに山へ行く。酢すの中に漬つけて置けば紫色むらさきいろになる。酸漿ほおずきの実みのように吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。 
四一 狼
和野の佐々木嘉兵衛が、ある年境木越の大谷地へ狩りに出かけた 死助の方から続いている原である 秋の暮れのことなので、木の葉は散り尽くし、山もあらわであった 向こうの峰から何百とも知れぬ狼がこちらへ群れて走り来るのを見て、恐ろしさに我慢できず、樹の梢に上っていたところ、その樹の下をおびただしい足音がして走り過ぎ、北の方へ行った その頃から、遠野郷には狼がとても少なくなったとのことである
四二 狼
六角牛山の麓にオバヤ、板小屋などという場所がある 広い萱の山である 村々から刈りに行く ある年の秋、飯豊村の者たちが萱を刈っているときに、岩穴の中から狼の子三匹を見つけ、その内の二匹を殺し、一匹を持ち帰ったところ、その日から狼が飯豊衆の馬への襲撃が止まらなくなった 他の村々の人馬にはまったく害をなさない 飯豊衆は相談して、狼狩りをすることにした その中には、相撲を取り、普段から力自慢の者がいた さて、野に出て見るが、雄の狼は遠くにいて、来ない 雌狼が一頭、鉄という男に飛びかかったのを、ワッポロを脱いで腕に巻き、即座にその狼の口の中に突っ込むと、狼はこれを噛んだ なお強く突き入れながら人を呼ぶが、誰も誰も怖れて近寄らない その間に、鉄の腕は狼の腹まで入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛み砕いた 狼はその場で死んだが、鉄も担がれて帰り、ほどなく死んだ
〇ワッポロは上羽織のことである
四三 熊
一昨年の遠野新聞にもこの記事を載せた 上郷村の熊という男が友人と共に雪の日に六角牛に狩りに行き、谷深く入ったときのこと、熊の足跡を見つけたので、手分けしてその跡を追い、自分は峰の方を行ったところ、とある岩の陰から大きな熊がこちらを見ていた 矢を射るには近すぎたので、銃を捨てて熊に抱きつき、雪の上を転んで谷へ下った 連れの男は、これを救おうと思ったが、できなかった やがて谷川に落ち入り、人が熊の下になり、水に沈んだので、その隙に獣の熊を退治した 水にも溺れず、爪の傷は数か所受けたものの、命に支障はなかった
四四 猿の経立
六角牛の峰続きで、橋野という村の上にある山に金坑がある この鉱山のために炭を焼いて生計をたてる者、これも笛の上手で、ある日、昼の間小屋にいて、仰向けに寝転んで笛を吹いていると、小屋の入口の垂れ菰を掲げる者があった 驚いて見れば、猿の経立であった 恐ろしくて起き直ったところ、慌てることなく彼方へ走っていった
〇上閉伊郡栗橋村大字橋野
四五 猿の経立
猿の経立はよく人に似て、女色を好み、里の婦人を盗み去ることがよくある 松脂を毛に塗り、砂をその上に付けているため、毛皮は鎧のようで、鉄砲の弾も通らない
四六 猿の経立
栃内村の林崎に住む何某という男、今は五十に近い 十年ほど前のことである 六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹いていると、猿の経立がいて、これを本物の鹿だと思ったか、地竹を手でかき分けながら、大きな口を開け、峰の方から下りてきた 胆が潰れて笛を吹き止めると、やがて反れて谷の方へ走り去った
〇オキとは鹿笛のことである
四七 猿
この地方で子供を怖がらせる言葉で、 六角牛の猿の経立が来るぞ と言うのは、いつものことである この山には猿が多い 緒桛の滝を見に行けば、崖の樹の梢にたくさんいて、人を見ると、逃げながら木の実などを投げつけてゆくという
四八 猿
仙人峠にもたくさん猿がいて、行く人に戯れ、石を投げつけなどする
四九 仙人堂
仙人峠は、登り十五里、降り十五里ある その中程に仙人の像を祀った堂がある この堂の壁には、旅人がこの山中で遭った不思議な出来事を書き記すことが昔からの習慣である 例えば、 自分は越後の者だが、何月何日の夜、この山道で髪を垂れた若い女に遇った こちらを見てにこっと笑った といった類である また、ここで猿に悪さをされたりとか、三人の盗賊に遭ったというようなことも書かれている
〇この一里も小道である
五〇 花
死助の山にカッコ花がある 遠野郷でも珍しいという花である 五月、閑古鳥の鳴く頃、女や子供がこれを採りに山へ行く 酢の中に漬けておくと紫色になる ほおずきの実のように吹いて遊ぶのである この花を採ることは、若い者の最大の遊楽である 
 

 

五一 山にはさまざまの鳥住すめど、最も寂さびしき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中よなかに啼なく。浜の大槌おおづちより駄賃附だちんづけの者など峠を越え来たれば、遥はるかに谷底にてその声を聞くといえり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親したしみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探さがしあるきしが、これを見つくることをえずして、ついにこの鳥になりたりという。オットーン、オットーンというは夫おっとのことなり。末の方かすれてあわれなる鳴声なきごえなり。
五二 馬追鳥うまおいどりは時鳥ほととぎすに似て少すこし大きく、羽はねの色は赤に茶を帯おび、肩には馬の綱つなのようなる縞しまあり。胸のあたりにクツゴコ(口籠)のようなるかたあり。これも或ある長者が家の奉公人、山へ馬を放はなしに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがついにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野におる馬を追う声なり。年により馬追鳥里さとにきて啼くことあるは飢饉ききんの前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
 ●クツゴコは馬の口に嵌はめる網の袋なり。
五三 郭公かっこうと時鳥ほととぎすとは昔ありし姉妹あねいもとなり。郭公は姉なるがある時芋いもを掘りて焼き、そのまわりの堅かたきところを自ら食い、中の軟やわらかなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う分ぶんは一層旨うまかるべしと想いて、庖丁ほうちょうにてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡もりおか辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。
 ●この芋は馬鈴薯ばれいしょのことなり。
五四 閉伊川へいがわの流ながれには淵ふち多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近きところに、川井かわいという村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧おのを水中に取とり落おとしたり。主人の物なれば淵に入りてこれを探さぐりしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機はたを織りていたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまわらんという時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我がこの所ところにあることを人にいうな。その礼としてはその方身上しんしょう良よくなり、奉公をせずともすむようにして遣やらんといいたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴引どうびきなどいう博奕ばくちに不思議に勝ち続つづけて金溜かねたまり、ほどなく奉公をやめ家に引き込みて中ちゅうぐらいの農民になりたれど、この男は疾とくに物忘れして、この娘のいいしことも心づかずしてありしに、或る日同じ淵の辺ほとりを過すぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出し、伴ともなえる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂うわさは近郷に伝わりぬ。その頃より男は家産再び傾かたむき、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思いしにや、その淵に何荷なんがともなく熱湯を注そそぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。
 ●下閉伊郡川井村大字川井、川井はもちろん川合の義なるべし。
五五 川には川童かっぱ多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端かわばたの家うちにて、二代まで続けて川童の子を孕はらみたる者あり。生れし子は斬きり刻きざみて一升樽いっしょうだるに入れ、土中に埋うずめたり。その形かたちきわめて醜怪なるものなりき。女の婿むこの里は新張にいばり村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人ひとにその始終しじゅうを語れり。かの家の者一同ある日畠はたけに行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀みぎわに踞うずくまりてにこにこと笑いてあり。次の日は昼ひるの休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々よるよる通かようという噂うわさ立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附だちんづけに行きたる留守るすをのみ窺うかがいたりしが、のちには婿むこと寝ねたる夜よるさえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐かいもなく、婿の母も行きて娘の側かたわらに寝ねたりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、馬槽うまふねに水をたたえその中にて産うまば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻みずかきあり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法にょほうの豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。
五六 上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を産うみたることあり。確たしかなる証とてはなけれど、身内みうち真赤まっかにして口大きく、まことにいやな子なりき。忌いまわしければ棄すてんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという。
 ●道ちがえは道の二つに別かるるところすなわち追分おいわけなり。
五七 川の岸の砂すなの上には川童の足跡あしあとというものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指おやゆびは離れて人間の手の跡あとに似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。
五八 小烏瀬川こがらせがわの姥子淵おばこふちの辺に、新屋しんやの家うちという家いえあり。ある日淵ふちへ馬を冷ひやしに行き、馬曳うまひきの子は外ほかへ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩うまやの前に来たり、馬槽うまふねに覆おおわれてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか宥ゆるさんかと評議せしが、結局今後こんごは村中の馬に悪戯いたずらをせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢あいざわの滝の淵に住めりという。
 ●この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか。
五九 外ほかの地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は面つらの色いろ赭あかきなり。佐々木氏の曾祖母そうそぼ、穉おさなかりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃くるみの木の間より、真赤まっかなる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。
六〇 和野わの村の嘉兵衛爺かへえじい、雉子小屋きじごやに入りて雉子を待ちしに狐きつねしばしば出でて雉子を追う。あまり憎にくければこれを撃たんと思い狙ねらいたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してあり。さて引金ひきがねを引きたれども火移うつらず。胸騒むなさわぎして銃を検せしに、筒口つつぐちより手元てもとのところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。 
五一 色々の鳥
山にはさまざまな鳥が棲むが、最も寂しい声の鳥はオット鳥である 夏の夜中に鳴く 浜の大槌から荷駄運びの者などが峠を越えてくると、遥か谷底でその声を聞くという 昔、ある長者の娘がいた またある長者の男の子と親しみ、山に行って遊んでいると、男が見えなくなった 夕暮れになり、夜になるまで探し歩いたが、これを見つけることができず、しまいにこの鳥になったという オットーン、オットーン と言うのは、夫のことである 終わりの方がかすれて哀愁のある鳴き声である
五二 前兆、色々の鳥
馬追鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のような縞がある 胸のあたりにクツゴコのような模様がある これもある長者の家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰ろうとしたところ、一頭足りない 夜通しこれを求め歩いたが、ついにこの鳥になった アーホー、アーホー と鳴くのは、この地方で野にいる馬を追う声である 年により馬追鳥が里に来て鳴くことがあるが、それは飢饉の前兆である 深山には常に棲んでいて、鳴く声を聞く
〇クツゴコは馬の口に嵌める網の袋である
五三 色々の鳥
郭公と時鳥とは、昔いた姉妹である 郭公は姉で、あるとき芋を掘って焼き、そのまわりの固いところを自分で食い、中の軟らかいところを妹に与えたが、妹は 姉の食うところはもっと美味しいに違いない と思って、庖丁でその姉を殺すと、たちまち鳥になり、 ガンコ、ガンコ と鳴いて飛び去った ガンコは方言で固いところという意味である 妹は では、いいところだけ自分にくれていたのか と思い、後悔しきれず、やがてまたこれも鳥になって 庖丁かけた と鳴いたという 遠野では、時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ 盛岡あたりでは、時鳥は どちやへ飛んでた と鳴くという
〇この芋はじゃがいものことである
五四 神女
閉伊川の流には淵が多く、恐ろしい伝説が少なくない 小国川との合流地点に近い場所に川井という村がある その村の長者の奉公人が、ある淵の上の山で樹を伐っていたとき、斧を水中に落してしまった 主人の物なので、淵に入ってこれを探るのに水の底に入ると、物音が聞こえた それを求めて行くと、岩の陰に家がある 奥の方に美しい娘が機を織っていた その機脚に落とした斧が立てかけてあった これを返してください と言ったとき、振り返った女の顔を見ると、二・三年前に死んだ我が主人の娘であった 斧は返してあげるが、私がここにいることを人に言うな その礼として、そなたの暮らし向きが良くなり、奉公をしなくても済むようにしてあげよう と言った そのためかどうかはわからないが、その後、胴引などという博打に不思議に勝ち続けて、金が貯まり、ほどなく奉公をやめ、家にひきこもってそれなりの農民になったが、この男はすぐに物忘れして、この娘の言ったことも頭になかった頃、ある日同じ淵のほとりを過ぎて町へ行くとき、ふと前の出来事を思い出し、連れの者に、以前こんなことがあった、と語ったところ、やがてその噂は近くの郷々に伝わった その頃から、男は、家の財産が再び傾き、また昔の主人に奉公して年を経た 家の主人は何を思ったのか、その淵に何杯ともなく熱湯を注ぎ入れなどしたが、何の効き目もなかったということである
〇下閉伊郡川井村大字川井、川井はもちろん川合の意味であろう
五五 河童
川には河童が多く棲んでいる 猿ヶ石川は特に多い 松崎村の川端の家では、二代続けて河童の子を身ごもった者がいる 生まれた子は切り刻んで一升樽に入れ、土中に埋めた その姿は極めて醜怪なものであった 女の婿の里は新張村の何某といって、これも川端の家である その主人が人にその始終を語った その家の者一同が、ある日畑に行って夕方に帰ろうとすると、女川の水際にうずくまってにこにこと笑っている 次の日は、昼の休みにまた同じ出来事があった このようなことが何日も続くうちに、その女のところへ村の何某という者が夜な夜な通っているという噂が立った はじめは、婿が浜の方へ荷駄を運びに行った留守のときだけを窺っていたが、後には、婿と寝た夜にまで来るようになった 河童だろうという巷説がだんだん高くなったので、一族の者が集まってこれを守ったものの、なんの甲斐もなく、婿の母も行って娘のそばに寝たりもしたが、深夜にその娘の笑う声を聞いて、 さては来ているな と知りながら、身動きもできず、人々はどうにもしようがなかった そのお産は極めて難産であったが、ある者の言うには、 馬の餌桶に水をいっぱいにして、その中で産んだら楽に産まれるだろう とのことだったので、これを試みたところ、はたしてそのとおりであった その子は手に水掻きがあった この娘の母もまた、かつて河童の子を産んだことがあるという 二代や三代の因縁ではない と言う者もあった この家も篤実富豪の家柄で、何の某という士族である 村会議員をしたこともある
五六 河童
上郷村の何某の家でも河童らしき物の子を産んだことがある 確かな証としてはないが、全身が真っ赤で口が大きく、実にいやな子であった 忌まわしいので捨てようと、これを携えて道ちがえまで持ってゆき、そこに置いて一間ほども離れたが、ふと思い直し、 惜しいものだ、売って見せ物にすれば金になるだろうに と引き返したところが、もはや取り隠されて見当たらなかったという
〇道ちがえは道の二つに別れる所、すなわち追分のことである
五七 河童
川の岸の砂の上には河童の足跡というものを見ることが決して珍しくない 雨の日の翌日などは特にこの事がある 猿の足と同じく、親指は離れて人間の手の跡に似ている 長さは三寸に満たない 指紋は人間のもののようにはっきりとは見えないという
五八 河童
小烏瀬川の姥子淵のほとりに、新屋の家という家がある ある日、淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子が外へ遊びに行った間に河童が現れて、その馬を引き込もうとし、逆に馬に引きずられて厩の前へ来て、馬の餌桶に覆われていた 家の者が馬の餌桶が伏せてあるので、おかしいと思って少し開けてみたところ、河童の手が出てきた 村中の者が集って、殺そうか許そうかと話し合ったが、結局、今後は村中の馬に悪さをしないという固い約束をさせてこれを放した その河童、今は村を去って相沢の滝の淵に棲んでいるという
〇この話などは、類型が全国に数知れずある。実に、河童がいるという国には必ずこの話がある。どういうわけだろうか
五九 河童
他の地では、河童の顔は青いと言うようであるが、遠野の河童は顔の色は赤いものである 佐々木氏の曾祖母が幼かった頃、友だちと庭で遊んでいると、三本ほどある胡桃の木の間から真っ赤な顔をした男の子の顔が見えた これは河童であったという 今もその胡桃は大木になってある この家の屋敷の周囲はすべて胡桃の樹である
六〇 狐
和野村の嘉兵衛爺、雉小屋に入って雉を待っていると、狐がしばしば現れて雉を追う あまりに憎らしいのでこれを撃とうと思って狙ったところが、狐はこちらを向いてなんともなげな顔している さて、引き金を引いたが、火が移らない 胸騒ぎがして銃を調べてみると、筒口から手元のところまでいつの間にかみっちり土を詰められていた 
 

 

六一 同じ人六角牛に入りて白き鹿しかに逢あえり。白鹿はくろくは神かみなりという言いい伝つたえあれば、もし傷きずつけて殺すこと能あたわずば、必ず祟たたりあるべしと思案しあんせしが、名誉めいよの猟人かりうどなれば世間せけんの嘲あざけりをいとい、思い切りてこれを撃うつに、手応てごたえはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく胸騒むなさわぎして、平生へいぜい魔除まよけとして危急ききゅうの時のために用意したる黄金おうごんの丸たまを取り出し、これに蓬よもぎを巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮くらせる者が、石と鹿とを見誤みあやまるべくもあらず、全く魔障ましょうの仕業しわざなりけりと、この時ばかりは猟を止やめばやと思いたりきという。
六二 また同じ人、ある夜よ山中さんちゅうにて小屋こやを作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、魔除まよけのサンズ縄なわをおのれと木のめぐりに三囲みめぐり引きめぐらし、鉄砲を竪たてに抱かかえてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心づけば、大なる僧形そうぎょうの者赤き衣ころもを羽はねのように羽ばたきして、その木の梢に蔽おおいかかりたり。すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして中空なかぞらを飛びかえりたり。この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議に遭あい、そのたびごとに鉄砲を止やめんと心に誓い、氏神うじがみに願掛がんがけなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで猟人かりうどの業を棄すつること能あたわずとよく人に語りたり。
六三 小国おぐにの三浦某というは村一の金持かねもちなり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍ろどんなりき。この妻ある日門かどの前まえを流るる小さき川に沿いて蕗ふきを採とりに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門もんの家あり。訝いぶかしけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏にわとり多く遊べり。その庭を裏うらの方へ廻まわれば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎うまやありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関より上あがりたるに、その次の間には朱と黒との膳椀ぜんわんをあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ひばちありて鉄瓶てつびんの湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆かけ出だして家に帰りたり。この事を人に語れども実まことと思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば汚きたなしと人に叱しかられんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネを量はかる器うつわとなしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経たちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし由よしをば語りぬ。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議ふしぎなる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器じゅうき家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授さずけんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。
 ●このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲くみ物を洗うため家ごとに設けたるところなり。
 ●ケセネは米稗ひえその他の穀物こくもつをいう。キツはその穀物を容いるる箱なり。大小種々のキツあり。
六四 金沢村かねさわむらは白望しろみの麓ふもと、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なる某なにがしかかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。家のありさま、牛馬※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶てつびんの湯たぎりて、今まさに茶を煮にんとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。茫然ぼうぜんとして後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国おぐにの村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実まこととする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来きたり長者にならんとて、婿殿むこどのを先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく空むなしく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。
 ●上閉伊郡金沢村。
六五 早池峯はやちねは御影石みかげいしの山なり。この山の小国に向むきたる側かわに安倍ヶ城あべがじょうという岩あり。険けわしき崖がけの中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも安倍貞任あべのさだとうの母住めりと言い伝う。雨あめの降ふるべき夕方など、岩屋いわやの扉とびらを鎖とざす音聞ゆという。小国、附馬牛つくもうしの人々は、安倍ヶ城の錠じょうの音がする、明日あすは雨ならんなどいう。
六六 同じ山の附馬牛よりの登り口にもまた安倍屋敷あべやしきという巌窟あり。とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも八幡太郎はちまんたろうの家来けらいの討死うちじにしたるを埋めたりという塚三つばかりあり。
六七 安倍貞任に関する伝説はこのほかにも多し。土淵村と昔は橋野はしのといいし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く平たいらなる原あり。そのあたりの地名に貞任というところあり。沼ありて貞任が馬を冷ひやせしところなりという。貞任が陣屋じんやを構かまえし址あととも言い伝う。景色けしきよきところにて東海岸よく見ゆ。
六八 土淵村には安倍氏という家ありて貞任が末なりという。昔は栄えたる家なり。今も屋敷やしきの周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門よえもん、今も村にては二三等の物持ものもちにて、村会議員なり。安倍の子孫はこのほかにも多し。盛岡の安倍館あべだての附近にもあり。厨川くりやがわの柵しゃくに近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川こがらせがわの河隈かわくまに館たての址あり。八幡沢はちまんざの館たてという。八幡太郎が陣屋というものこれなり。これより遠野の町への路みちにはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かえる峯にもまた一つの館址たてあとあり。貞任が陣屋なりという。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦やいくさをしたりという言い伝えありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。この間に似田貝にたかいという部落あり。戦の当時このあたりは蘆あししげりて土固かたまらず、ユキユキと動揺せり。或る時八幡太郎ここを通りしに、敵味方てきみかたいずれの兵糧ひょうりょうにや、粥かゆを多く置きてあるを見て、これは煮にた粥かといいしより村の名となる。似田貝の村の外を流るる小川を鳴川なるかわという。これを隔てて足洗川村あしらがむらあり。鳴川にて義家よしいえが足を洗いしより村の名となるという。
 ●ニタカイはアイヌ語のニタトすなわち湿地より出しなるべし。地形よく合えり。西の国々にてはニタともヌタともいう皆これなり。下閉伊郡小川村にも二田貝という字あり。
六九 今の土淵村には大同だいどうという家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞おおほらまんのじょうという。この人の養母名はおひで、八十を超こえて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止とまれる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜よるになれば厩舎うまやに行きて寝いね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連つれ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋すがりて泣きいたりしを、父はこれを悪にくみて斧をもって後うしろより馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇のぼり去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本もとにて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎ざいけごんじゅうろうという人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方ゆくえを知らず。末すえにて作りし妹神の像は今いま附馬牛村にありといえり。
七〇 同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ないて在います神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。また家によりて神の像も同じからず。山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。山口の辷石はねいしたにえという人の家なるは掛軸かけじくなり。田圃たんぼのうちにいませるはまた木像なり。飯豊いいでの大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりという。  
六一 山の霊異
同じ人、六角牛に入って白い鹿に遇った 白鹿は神であるという言い伝えがある、もし傷つけて殺すことができなかったら、きっと祟りがあるだろう と考えたが、評判の猟人なので、世間の嘲りを厭い、思い切ってこれを撃ったが、手応えはあったものの、鹿は少しも動かない この時もひどく胸騒ぎがして、普段魔除けとして危急の時のために用意していた黄金の弾を取り出し、これに蓬を巻き付けて撃ち放ったが、鹿はそれでも動かない あまりに怪しいので、近寄って見ると、よく鹿の形に似た白い石であった 数十年の間山中に暮している者が石と鹿とを見誤るはずもなく、 まったく魔性の仕業だ と、 この時ばかりは猟をやめようと思った と言った
六二 天狗
また同じ人、ある夜、山中で小屋を作る暇がなく、とある大木の下に寄り、魔除けのサンヅ縄を自分と木のまわりに三周引きめぐらし、鉄砲を縦に抱えてまどろんでいたところ、夜深く、物音のするのに気づけば、大きな僧の姿をした者が赤い衣を羽根のように羽ばたかせて、その木の梢に覆いかかった それっ、と銃を撃ち放てば、やがてまた羽ばたきして中空を飛び去っていった このときの恐ろしさも尋常ではなかった 前後三度までこのような不思議に遭遇し、そのたびに鉄砲を止めようと心に誓い、氏神に願かけなどしたが、やがて再び思い返して、年老いるまで猟人の生業を捨てることはできなかったとよく人に語っていた
六三 家の盛衰、家の盛衰 - マヨヒガ
小国の三浦某というのは村一番の金持ちである 今より二・三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少々愚鈍であった この妻、ある日門の前を流れる小さい川に沿って蕗を採りに入ったところ、よい物が少ないので、次第に谷の奥深くへと登っていった そして、ふと見れば、立派なる黒い門の家があった 怪しいが、門の中に入って見ると、大きな庭で、紅白の花が一面に咲き、鶏がいっぱい遊んでいた その庭を裏の方へ回れば、牛小屋があって、牛が多くおり、厩があって、馬が多くいたが、さっぱり人がいない そうして玄関から上ったところ、その隣の部屋には朱と黒との膳椀をたくさん取り出してあった 奥の座敷には火鉢があって、鉄瓶の湯が沸き立っているのを見た しかし、ついに人影がなかったので、 もしかしたら山男の家ではないか と急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰った この出来事を人に語ったものの、本当と思う者もなかったが、またある日、我が家のカドに出て物を洗っていると、川上から赤い椀が一つ流れてきた あまりに美しいので拾い上げたが、 これを食器として使ったら 汚い と人に叱られまいか と思い、ケセネギツの中に置いて、ケセネを量る器にした ところが、この器で量りはじめてからというもの、いつまで経ってもケセネが尽きない 家の者もこれを怪しんで、女に尋ねたとき、初めて、川から拾い上げたことを語った この家は、それから幸運に向かい、そして今の三浦家となった 遠野では、山中の不思議な家をマヨイガと言う マヨイガに行き当たった者は、必ずその家の内の器具・家畜・何であっても持ち出してくるのがよいとされている その人に授けるために、こうした家を見せるのである 女が無欲で何も盗んでこなかったので、この椀が自ら流れてきたのだろうと言われている
〇このカドは、門ではなく川戸で、門の前を流れる川の岸で水を汲んで物を洗うために家ごとに設けられた場所である
〇ケセネは米稗その他の穀物をいう。キツはその穀物を容れる箱である。大小さまざまなキツがある
六四 家の盛衰 - マヨヒガ
金沢村は白望の麓、上閉伊郡の中でもとりわけ山奥で、往来する者も少ない 六・七年前、この村から栃内村の山崎の某婦の家に娘の婿を取った この婿、実家に行こうとして山道に迷い、またこのマヨイガに行き当たった 家の有様、牛・馬・鶏の多いこと、花の紅白に咲いていたことなど、すべて前の話の通りである 同じく玄関に入ってみると、膳・椀を取り出した部屋があった 座敷に鉄瓶の湯が沸き立ち、今まさに茶を煎れんとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立っているようにも思われた 茫然として、後にはだんだん恐ろしくなり、引き返して、そうして小国の村里に出た 小国では、この話を聞いて信じる者もなかったが、山崎の方では それはマヨイガだろう、行って膳椀の類を持ち帰って長者になろう と、婿殿を先に立てて、大勢でこれを探しに山の奥に入り、 ここに門があった と言う場所に来たものの、目にする物もなく、むなしく帰ってきた その婿も、ついに金持になったという話を聞かない
〇上閉伊郡金沢村
六五 姥神
早池峰は御影石の山である この山の小国に向いた側に安倍ヶ城という岩がある 険しい崖の中程にあって、人などがとても行けるような所ではない ここには今でも安倍貞任の母が住んでいると言い伝えられている 雨の降るような夕方など、岩屋の扉を閉ざす音が聞こえるという 小国、附馬牛の人々は、 安倍ヶ城の錠の音がする、明日は雨だろう などと言う
六六 塚と森と
同じ山の附馬牛からの登り口にもまた安倍屋敷という巌窟がある とにかく早池峰は安倍貞任に縁のある山である 小国から登る山口にも、八幡太郎・源義家の討死した家来を埋めたという塚が三つほどある
六七 地勢、館の址
安倍貞任に関する伝説はこの他にも多い 土淵村と、昔は橋野と言った栗橋村との境で、山口からは二・三里も登った山中に、広く平らな原がある そのあたりの地名に貞任という場所がある 沼があって、貞任が馬を冷やした所であるという 貞任が陣屋を構えた跡とも言い伝えられている 景色のいい場所で、東海岸がよく見える
六八 館の址
土淵村には阿倍氏という家があって、貞任の末裔であるという 昔は栄えた家である 今も屋敷の周囲には堀があって、水が流れている 刀剣・馬具がたくさんある 当主は阿倍与右衛門、今も村では二・三等の物持で、村会議員である 安倍の子孫はこの他にも多い 盛岡の安倍館の付近にもある 厨川の柵に近い家である 土淵村の阿倍家の四・五町北、小烏瀬川の折れ曲っている所に館の跡がある 八幡沢の館という 八幡太郎・源義家の陣屋というのがこれである ここから遠野の町への道にはまた八幡山という山があって、その山の八幡沢の館の方に向う峰にもまた一つの館跡がある 貞任の陣屋であるという 二つの館の間は二十余町離れている 矢による合戦をしたという言い伝えがあって、鏃を多く掘り出したことがある この間に似田貝という集落がある 合戦の当時、このあたりは葦が茂って地面が固まらず、ユキユキと動揺した あるとき八幡太郎・源義家がここを通り、敵味方どちらの兵糧なのか、粥を多く置いてあるのを見て、 これは煮た粥か と言ったことから、村の名となった 似田貝の村の外を流れる小川を鳴川という これを隔てて足洗川村がある 鳴川で義家が足を洗ったことから、村の名となったという
〇ニタカイは、アイヌ語のニタト、すなわち湿地より出たものであろう、地形がよく合致する。西の国々でニタともヌタともいうのは、すべてこれである。下閉伊郡小川村にも二田貝という字がある
六九 神の始、家の神 - オシラサマ
今の土淵村には大同という家が二軒ある 山口の大同は、当主を大洞万之丞という この人の養母の名はおひで、八十を超えて今も達者である 佐々木氏の祖母の姉である 魔法に長じている 呪詛で蛇を殺し、木に止まっている鳥を落としたりするのを佐々木君はよく見せてもらった 昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語ったことには、 昔あるところに貧しい百姓がいた 妻はなくて美しい娘がいた また、一頭の馬を飼っていた 娘がこの馬を愛して、夜になると厩に行って寝、ついに馬と夫婦になった ある夜、父はこのことを知って、その次の日に、娘には知らせず、馬を連れ出して、桑の木に吊り下げて殺した その夜、娘は馬がいないのを父に尋ねてこのことを知り、驚き悲しんで、桑の木の下に行き、死んだ馬の首にすがって泣いていたが、父はこれを憎み、斧でもって後ろから馬の首を切り落すと、たちまち娘はその首に乗ったまま天に昇り去った オシラサマというのはこのときから成った神である 馬を吊り下げた桑の枝でその神の像を作る その像は三つあった 最初に作ったのは、山口の大同にある これを姉神とする 次に作ったのは、山崎の在家権十郎という人の家にある 佐々木氏の伯母が嫁いだ家であるが、今は家が絶えて神の行方はわからない 最後に作った妹神の像は、いま附馬牛村にあるという
七〇 家の神 - オクナイサマ
同じ人の話として、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴って在す神である しかし、オシラサマはなくて、オクナイサマだけがある家もある また家によって神の像も同じではない 山口の大同にあるオクナイサマは木像である 山口の辷石たにえという人の家のものは掛け軸である 田圃のうちという家に在すのは、また木像である 飯豊の大同にもオシラサマはないが、オクナイサマだけは在すという 
 

 

七一 この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様さまかわり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝うることはあれども、互いに厳重なる秘密を守り、その作法さほうにつきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家ざいけの者のみの集あつまりなり。その人の数も多からず。辷石はねいしたにえという婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏あみだぶつの斎日さいにちには、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈祷きとうす。魔法まじないを善よくする故に、郷党に対して一種の権威あり。
七二 栃内とちない村の字琴畑ことばたは深山の沢にあり。家の数は五軒ばかり、小烏瀬こがらせ川の支流の水上みなかみなり。これより栃内の民居まで二里を隔へだつ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像ざぞうあり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今は雨あまざらしなり。これをカクラサマという。村の子供これを玩物もてあそびものにし、引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬようになれり。或あるいは子供を叱しかり戒めてこれを制止する者あれば、かえりて祟たたりを受け病むことありといえり。
 ●神体仏像子供と遊ぶを好みこれを制止するを怒りたもうことほかにも例多し。遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)、または信濃筑摩郡射手の弥陀堂みだどうの木仏(『信濃奇勝録』)などこれなり。
七三 カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多あまたあり。栃内の字西内にしないにもあり。山口分の大洞おおほらというところにもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人のこれを信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳頭いしょうかしらの飾かざりのありさまも不分明なり。
七四 栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。いずれのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削あらけずりの無恰好ぶかっこうなるものなり。されど人の顔なりということだけは分わかるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したもうべき場所の名なりしが、その地に常つねいます神をかく唱となうることとなれり。
七五 離森はなれもりの長者屋敷にはこの数年前まで燐寸マッチの軸木じくぎの工場こうばありたり。その小屋の戸口に夜よるになれば女の伺い寄りて人を見てげたげたと笑う者ありて、淋しさに堪えざる故、ついに工場を大字山口に移したり。その後また同じ山中に枕木まくらぎ伐出きりだしのために小屋をかけたる者ありしが、夕方になると人夫の者いずれへか迷い行き、帰りてのち茫然ぼうぜんとしてあることしばしばなり。かかる人夫四五人もありてその後も絶えず何方いずかたへか出でて行くことありき。この者どもが後に言うを聞けば、女がきて何処どこへか連れだすなり。帰りてのちは二日も三日も物を覚えずといえり。
七六 長者屋敷は昔時長者の住みたりし址あとなりとて、そのあたりにも糠森ぬかもりという山あり。長者の家の糠を捨てたるがなれるなりという。この山中には五いつつ葉ばのうつ木ぎありて、その下に黄金を埋めてありとて、今もそのうつぎの有処ありかを求めあるく者稀々まれまれにあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、このあたりには鉄を吹きたる滓かすあり。恩徳おんどくの金山きんざんもこれより山続きにて遠からず。
 ●諸国のヌカ塚スクモ塚には多くはこれと同じき長者伝説を伴なえり。また黄金埋蔵の伝説も諸国に限りなく多くあり。
七七 山口の田尻たじり長三郎というは土淵村一番の物持ものもちなり。当主なる老人の話に、この人四十あまりのころ、おひで老人の息子むすこ亡なくなりて葬式の夜、人々念仏を終りおのおの帰り行きし跡あとに、自分のみは話好はなしずきなれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落あまおちの石を枕にして仰臥ぎょうがしたる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。月のある夜なればその光にて見るに、膝ひざを立て口を開きてあり。この人大胆者にて足にて揺うごかして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨さまたげて外ほかにせん方かたもなければ、ついにこれを跨またぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその跡方あとかたもなく、また誰も外ほかにこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と在ありどころとは昨夜の見覚みおぼえの通りなり。この人の曰く、手をかけて見たらばよかりしに、半なかば恐ろしければただ足にて触ふれたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思いつかずと。
七八 同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。かつて夜遊びに出でて遅くかえり来たりしに、主人の家の門は大槌おおづち往還に向いて立てるが、この門の前にて浜の方よりくる人に逢えり。雪合羽ゆきがっぱを着たり。近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみてこれを見たるに、往還を隔てて向側なる畠地の方へすっと反それて行きたり。かしこには垣根かきねありしはずなるにと思いて、よく見れば垣根は正まさしくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、のちになりて聞けば、これと同じ時刻に新張村にいばりむらの何某という者、浜よりの帰り途みちに馬より落ちて死したりとのことなり。
七九 この長蔵の父をもまた長蔵という。代々田尻家の奉公人にて、その妻とともに仕えてありき。若きころ夜遊びに出で、まだ宵よいのうちに帰り来たり、門かどの口くちより入りしに、洞前ほらまえに立てる人影あり。懐手ふところでをして筒袖つつそでの袖口を垂れ、顔は茫ぼうとしてよく見えず。妻は名をおつねといえり。おつねのところへ来たるヨバヒトではないかと思い、つかつかと近よりしに、奥の方へは遁にげずして、かえって右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、なお進みたるに、懐手のまま後あとずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたるところより、すっと内に入はいりたり。されど長蔵はなお不思議とも思わず、その戸の隙すきに手を差し入れて中を探らんとせしに、中の障子しょうじは正まさしく閉とざしてあり。ここに始めて恐ろしくなり、少し引き下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲壁くもかべにひたとつきて我を見下すごとく、その首は低く垂たれてわが頭に触るるばかりにて、その眼の球は尺余も、抜け出でてあるように思われたりという。この時はただ恐ろしかりしのみにて何事の前兆にてもあらざりき。
 ●ヨバヒトは呼ばい人なるべし。女に思いを運ぶ人をかくいう。
 ●雲壁はなげしの外側の壁なり。
八〇 右の話をよく呑のみこむためには、田尻氏の家のさまを図にする必要あり。遠野一郷の家の建てかたはいずれもこれと大同小異なり。門はこの家のは北向きたむきなれど、通例は東向きなり。右の図にて厩舎うまやのあるあたりにあるなり。門のことを城前じょうまえという。屋敷やしきのめぐりは畠にて、囲墻いしょうを設けず。主人の寝室とウチとの間に小さく暗き室あり。これを座頭部屋ざとうべやという。昔は家に宴会あれば必ず座頭を喚よびたり。これを待たせ置く部屋なり。
 ●この地方を旅行して最も心とまるは家の形の何いずれもかぎの手なることなり。この家などそのよき例なり。  
七一 姥神
この話をした老女は熱心な念仏者であるが、世の常の念仏者とは違っていて、一種邪宗らしき信仰がある 信者に道を伝えることはあるが、互いに厳重に秘密を守り、その作法については親にも子にも一言たりとも教えない また、寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の者だけの集まりである その人の数も多くない 辷石たにえという婦人などは同じ仲間である 阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるのを待って会合し、隠れた部屋で祈祷を行う 魔法・まじないがうまいので、郷の者たちに対して一種の権威がある
七二 里の神 - カクラサマ
栃内村の字琴畑は深山の沢にあり、家の数は五軒ほど、小烏瀬川の支流の水上である ここから栃内の民家のあるところまで二里ある 琴畑の入口に塚がある 塚の上には木の座像がある 人くらいの大きさで、以前は堂の中にあったが、今は雨ざらしである これをカクラサマという 村の子供がこれをおもちゃにし、引き出して川へ投げ入れたり、路上を引きずったりなどするために、今は鼻も口も見えなくなってしまった 一方、子供を叱り戒めてこれを制止する者がいると、却って祟りを受け、病むことがあるという
〇神体・仏像が子供らと遊ぶのを好み、これを制止するのをお怒りになるというのは、他にも例が多い。遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)、または信濃筑摩郡射手の弥陀堂の木仏(『信濃奇勝録』)などがそうである
七三 里の神 - カクラサマ
カクラサマの木像は遠野郷の中にたくさんある 栃内の字西内にもある 山口分の大洞というところにもあったことを記憶する者がいる カクラサマに対し、信仰する者はない 粗末なる彫刻で、衣裳頭の飾りの有様もはっきりしない
七四 神の始、里の神 - カクラサマ
栃内のカクラサマは右の大小二つである 土淵一村では三つか四つある いずれのカクラサマも木の半身像で、鉈の荒削りの無格好なものである しかし、人の顔であるということだけはわかる カクラサマとは、以前は、神々が旅をして、休息なさった場所の名であったが、その地に常に在す神をこう呼ぶこととなった
七五 山女
離森の長者屋敷には、この数年前まで燐寸の軸木の工場があった その小屋の戸口に、夜になると女が窺い寄り、人を見てげたげたと笑う者があって、寂しさに堪えきれず、ついに工場を大字山口に移した その後、また同じ山中に、枕木伐り出しのために小屋を作った者がいたが、夕方になると人夫の者がどこかへ迷い行き、帰って後は茫然としていることがしばしばあった このような人夫が四・五人もいて、その後も絶えず、どこへか出て行くことがあった この者たちが後に言うのを聞けば、女が来てどこへか連れ出す 帰って後は、二日も三日もなにも覚えていないという
七六 館の址
長者屋敷は、昔長者の住んでいた跡であると言われ、そのあたりにも糠森という山がある 長者の家の捨てた糠によってできたという この山中には五つ葉の空木があって、その下に黄金を埋めてあると、今もその空木の在処を探し歩く者がごく稀にいる この長者は、昔の金山師であったのだろうか、このあたりには鉄を吹いた滓がある 恩徳の金山もここから山続きで遠くない
〇全国各地にあるヌカ塚・スクモ塚の多くは、これと同じ長者伝説を伴う。また黄金埋蔵の伝説も全国各地に限りなく多くある
七七 まぼろし
山口の田尻長三郎というのは土淵村一番の物持ちである 当主である老人の話、この人が四十くらいの頃、 おひで老人の息子が亡くなって葬式の夜、人々が念仏を終え、おのおの帰っていった後、自分だけは話好きだから、少し後れて席を立ったところ、軒の雨落の石を枕にして仰向けに寝ている男がいた よく見れば見も知らぬ人で、死んでいるようであった 月の出ている夜だったので、その光で見ると、膝を立て、口を開いていた この人は度胸のある者で、足で動かしてみたが、少しも身じろぎしない 道を妨げて、ほかにどうしようもないので、ついにこれを跨いで家に帰った 次の朝、行って見れば、もちろんその跡形もなく、また誰も他にこれを見たと言う人はなかったが、その枕にしていた石の形とあった位置は昨夜の見覚えのとおりであった この人が言うには、 手をかけてみればよかったのだが、半ば恐ろしくてただ足で触れただけだったから、まったく何物の仕業とも見当がつかなかった と
七八 前兆
同じ人の話で、家に奉公していた山口の長蔵という者、今も七十くらいの老翁となって生きている かつて、夜遊びに出かけて遅く帰ってきたときのこと、主人の家の門は大槌街道沿いに向かって立っているのだが、この門の前で浜の方から来る人に会った 雪合羽を着ていた 近づいて立ち止まるので、長蔵も怪んでこれを見ると、街道を隔てた向こう側の畑の方へすっとそれて行った あそこには垣根があったはずだが と思って、よく見れば、垣根はたしかにある 急に怖ろしくなって家の内に飛び込み、主人にこのことを語ったが、後になって聞けば、これと同じ時刻に新張村の何某という者が浜からの帰り道に馬から落ちて死んだということであった
七九 まぼろし
この長蔵の父もまた長蔵という 代々田尻家の奉公人で、その妻と共に仕えていた 若い頃、夜遊びに出かけ、まだ宵のうちに帰ってきて、門の口から入ったところ、洞前に立つ人影があった 懐に手を入れて筒袖の袖口を垂れ、顔はぼうっとしてよく見えない 妻は名をおつねという おつねのところへ来たヨバヒトではないか と思い、つかつかと近寄ってみると、奥の方へは逃げず、逆に右手の玄関の方へ寄るので、人を馬鹿にするなと腹立たしくなって、なお進めば、懐に手を入れたまま後ずさりして、玄関の戸の三寸ほど開いたところからすっと中に入ってきた しかし、長蔵はなお不思議とも思わず、その戸の隙に手を差し入れて中を探ろうとしたが、中の障子はたしかに閉まっていた ここで初めて恐ろしくなり、少し引き下がろうとして上を見れば、今の男が玄関の雲壁にぴたりとくっついて自分を見下ろすようにしており、その首は低く垂れ、自分の頭に触れるほどで、その眼の球は一尺あまりも抜け出ているように思われたという このときは、ひたすら恐ろしかっただけで、何事の前兆でもなかった
〇ヨバヒトは呼ばい人であろう。女に思いを運ぶ人をこう呼ぶ
〇雲壁は長押の外側の壁のことである
八〇 家のさま
右の話をよく理解するためには、田尻氏の家の様を図にする必要がある 遠野一郷の家の建て方はいずれもこれと大同小異である 門は、この家のは北向きであるが、通例は東向きである 右の図で厩のあるあたりにある 門のことを城前という 屋敷の周囲は畑で、垣根など隔てるものを設けない 主人の寝室とウチとの間に小さく暗い部屋がある これを座頭部屋という 昔は家に宴会あれば、必ず座頭を呼んだ これを待たせておく部屋である
〇この地方を旅行して最も印象的なのは、家の形がどれも鈎の手に曲がっていることである。この家などそのよい例である 
 

 

八一 栃内の字野崎のざきに前川万吉という人あり。二三年前に三十余にて亡くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でて帰りしに、門かどの口くちより廻まわり縁えんに沿いてその角かどまで来たるとき、六月の月夜のことなり、何心なにごころなく雲壁くもかべを見れば、ひたとこれにつきて寝たる男あり。色の蒼あおざめたる顔なりき。大いに驚きて病みたりしがこれも何の前兆にてもあらざりき。田尻氏の息子丸吉この人と懇親にてこれを聞きたり。
八二 これは田尻丸吉という人が自ら遭あいたることなり。少年の頃ある夜常居じょういより立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷ざしきとの境に人立てり。幽かすかに茫としてはあれど、衣類の縞しまも眼鼻もよく見え、髪をば垂たれたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当り、戸のさんにも触さわりたり。されどわが手は見えずして、その上に影のように重かさなりて人の形あり。その顔のところへ手を遣やればまた手の上に顔見ゆ。常居じょういに帰りて人々に話し、行灯あんどんを持ち行きて見たれば、すでに何ものもあらざりき。この人は近代的の人にて怜悧れいりなる人なり。また虚言をなす人にもあらず。
八三 山口の大同、大洞万之丞おおほらまんのじょうの家の建てざまは少しく外ほかの家とはかわれり。その図次のページに出す。玄関は巽たつみの方に向かえり。きわめて古き家なり。この家には出して見れば祟たたりありとて開かざる古文書の葛籠つづら一つあり。
八四 佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。この人の青年のころといえば、嘉永かえいの頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。釜石かまいしにも山田にも西洋館あり。船越ふなこしの半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇ヤソ教は密々に行われ、遠野郷にてもこれを奉じて磔はりつけになりたる者あり。浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合いては嘗なめ合う者なりなどいうことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には合あいの子こなかなか多かりしということなり。
八五 土淵村の柏崎かしわざきにては両親とも正まさしく日本人にして白子しらこ二人ある家あり。髪も肌も眼も西洋人の通りなり。今は二十六七ぐらいなるべし。家にて農業を営いとなむ。語音も土地の人とは同じからず、声細くして鋭するどし。
八六 土淵村の中央にて役場小学校などのあるところを字本宿もとじゅくという。此所に豆腐屋とうふやを業とする政という者、今三十六七なるべし。この人の父大病にて死なんとするころ、この村と小烏瀬こがらせ川を隔てたる字下栃内しもとちないに普請ふしんありて、地固めの堂突どうづきをなすところへ、夕方に政の父ひとり来たりて人々に挨拶あいさつし、おれも堂突をなすべしとて暫時仲間に入りて仕事をなし、やや暗くなりて皆とともに帰りたり。あとにて人々あの人は大病のはずなるにと少し不思議に思いしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、その時刻はあたかも病人が息を引き取らんとするころなりき。
八七 人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩おおわずらいして命の境に臨みしころ、ある日ふと菩提寺ぼだいじに訪い来たれり。和尚おしょう鄭重ていちょうにあしらい茶などすすめたり。世間話せけんばなしをしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣やりしに、門を出でて家の方に向い、町の角かどを廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して常つねの体ていなりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態ようだいにてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きしところを改めしに、畳たたみの敷合しきあわせへ皆こぼしてありたり。
八八 これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺じょうけんじは曹洞宗そうとうしゅうにて、遠野郷十二ヶ寺の触頭ふれがしらなり。或る日の夕方に村人何某という者、本宿もとじゅくより来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をして居る者なれば、いつのまによくなりしやと問うに、二三日気分も宜よろしければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりし故ゆえ出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外そとにて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失うせたり。
八九 山口より柏崎へ行くには愛宕山あたごやまの裾すそを廻まわるなり。田圃たんぼに続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木ぞうきの林となる。愛宕山の頂いただきには小さき祠ほこらありて、参詣さんけいの路は林の中にあり。登口のぼりくちに鳥居とりい立ち、二三十本の杉の古木あり。その旁かたわらにはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言い伝うるところなり。和野わのの何某という若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降くだり来る丈たけ高き人あり。誰ならんと思い林の樹木越しにその人の顔のところを目がけて歩み寄りしに、道の角かどにてはたと行き逢いぬ。先方は思い掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は耀かがやきてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後あとをも見ずに柏崎の村に走りつきたり。
 ●遠野郷には山神塔多く立てり、そのところはかつて山神に逢いまたは山神の祟を受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり。
九十 松崎村に天狗森てんぐもりという山あり。その麓なる桑畠くわばたけにて村の若者何某という者、働きていたりしに、頻しきりに睡ねむくなりたれば、しばらく畠の畔くろに腰掛けて居眠いねむりせんとせしに、きわめて大なる男の顔は真赤まっかなるが出で来たれり。若者は気軽にて平生へいぜ相撲すもうなどの好きなる男なれば、この見馴みなれぬ大男が立ちはだかりて上より見下すようなるを面悪つらにくく思い、思わず立ち上りてお前はどこから来たかと問うに、何の答えもせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思い、力自慢ちからじまんのまま飛びかかり手を掛けたりと思うや否や、かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。夕方に正気づきてみれば無論その大男はおらず。家に帰りてのち人にこの事を話したり。その秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を曳ひきて萩はぎを苅りに行き、さて帰らんとするころになりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。 
八一 まぼろし
栃内の字野崎に前川万吉という人がいた 二・三年前に三十余で亡くなった この人も死ぬ二・三年前に夜遊びに出かけて帰ったとき、門の口から回って縁に沿い、その角まで来たとき、六月の月夜のこと、なんの気なしに雲壁を見れば、ぴたりとこれにくっついて寝ている男がいた 色の蒼ざめた顔であった 大いに驚いて病んだりしたが、これも何の前兆でもなかった 田尻氏の息子・丸吉がこの人と仲が良くて、これを聞いた
八二 まぼろし
これは田尻丸吉という人が自ら遭遇したことである 少年の頃のある夜、居間から立って便所に行こうとして茶の間に入ると、座敷との境に人が立っている かすかにぼうっとしてはいるが、衣類の縞も目鼻もよく見え、髪を垂れていた 恐ろしかったが、そこへ手を伸ばして探ってみると、板戸にがたっと突き当たり、戸の桟にも触った しかし、自分の手は見えず、その上に影のように重なって人の形があった その顔の所へ手をやれば、また手の上に顔が見えた 居間へ帰って人々に話し、行灯を持っていって見たら、もう何者もいなかった この人は近代的な人で、聡明な人である また虚言を吐く人でもない
八三 家のさま
山口の大同、大洞万之丞の家の建て方は少しよその家と変わっている その図を次の頁に出す 玄関は南東の方角に向いている 極めて古い家である この家には、出して見れば祟りがあるといって開かない古文書の葛籠が一つある
八四 昔の人
佐々木氏の祖父は七十くらいで三・四年前に亡くなった人である この人の青年の頃といえば、嘉永の頃であろうか 海岸の地には西洋人がたくさん行き来していた 釜石にも山田にも西洋館がある 船越の半島の突端にも西洋人が住んだことがある 耶蘇教は秘密裏に行われ、遠野郷でもこれを信仰して磔になった者がいる 浜に行った人の話に、 異人はよく抱き合っては舐め合う者だ などということを今でも話題にする老人がいる 海岸地方には西洋人との子がわりと多かったということである
八五 昔の人
土淵村の柏崎では両親ともまさしく日本人ながら肌の白い子が二人いる家がある 髪も肌も眼も西洋人のとおりである 今は二十六・七くらいであろうか 家で農業を営む 語音も土地の人とは同じではなく、声は細く鋭い
八六 魂の行方
土淵村の中央で役場・小学校などのある所を字本宿という ここに住む豆腐屋を生業とする政という者は、いま三十六・七であろうか この人の父が大病で死にかけていた頃、この村と小烏瀬川を隔てた字下栃内に普請があって、地固めの堂突きをしているところへ、夕方に政の父がひとり来て、人々に挨拶し、 おれも堂突きをしよう と、しばしの間仲間に入って仕事をし、やや暗くなって、みんなと一緒に帰った 後で人々が、 あの人は大病のはずなのに と少し不思議に思ったが、後に聞けば、その日亡くなったとのことであった 人々が悔みに行き、今日の出来事を語ったところ、その時刻はちょうど病人が息を引き取ろうとする頃であった
八七 魂の行方
人の名は忘れたが、遠野の町の豪家で主人が大病をし、生死の境をさまよっていた頃、ある日ふと菩提寺を訪ねてきた 和尚が丁重ににあしらい、茶などを勧めた 世間話をして、やがて帰ろうとする様子に少々不審があったので、後から小僧を見に行かせると、門を出て家の方に向かい、町の角を曲がって見えなくなったという その道でこの人に会った人はまだ他にもいる 誰にもよく挨拶して普段と変わらぬ様子であったが、この晩に死去して、もちろんその時は外出などすべき様態ではなかったという 後に寺では、茶は飲んだのかどうかと茶椀を置いたところを改めてみたところ、畳の敷き合わせに全部こぼしてあった
八八 魂の行方
これも似た話である 土淵村大字土淵の常堅寺は曹洞宗で、遠野郷十二ヶ寺の触頭である ある日の夕方に、村人の何某という者が本宿から来る道で何某という老人に会った この老人はかねてより大病を煩っている者だったので、 いつの間によくなったのか と問うと、 二・三日気分もいいので、今日は寺へ話を聞きに行こうと と言い、寺の門前でまた言葉をかけ合って別れた 常堅寺でも、和尚はこの老人が訪ね来たので、出迎え、茶を勧め、しばらく話をして帰る これも小僧に見に行かせると、門の外で見えなくなったので、驚いて和尚に語れば、よく見るとまた茶は畳の間にこぼしてあって、老人はその日世を去った
八九 山の神
山口から柏崎へ行くには、愛宕山の裾を回る 田んぼに続く松林で、柏崎の人家が見えるあたりから雑木林になる 愛宕山の頂上には小さな祠があって、参道は林の中にある 登口に鳥居が立ち、二・三十本の杉の古木がある その傍らには、また一宇のがらんとした堂がある 堂の前には 山神 の字を刻んだ石塔が立っている 昔から山の神が出ると言い伝えられている所である 和野の何某という若者、柏崎に用事があって、夕方堂のあたりを通ったところ、愛宕山の上から降りてくる背の高い人があった 誰だろうと思い、林の樹木越しにその人の顔の部分を目がけて歩み寄ると、道の角ではたと行き合った 先方は思いがけなかったのか、大いに驚いて、こちらを見た顔は非常に赤く眼は輝き、そしていかにも驚いた顔であった 山の神だと知って後も見ずに柏崎の村に走り着いた
〇遠野郷には山神の塔が多く立っている。その場所は、かつて山神に遭い、または山神の祟りを受けた場所で、神をなだめるために建てたる石である
九〇 天狗
松崎村に天狗森という山がある その麓にある桑畑で村の若者の何某という者が働いていたが、ひどく眠くなったので、しばらく畑の畔に腰かけて居眠りしようとしていたところ、真っ赤な顔の極めて大きな男が出てきた 若者は物事をあまり深く考えない性質で、ふだんも相撲などの好きな男なので、この見慣れぬ大男が立ちはだかって上から見下ろす様子なのを憎たらしく思い、思わず立ち上がって お前はどこから来たんだ と訊いたが、何の返事もしないので、 ひとつ突き飛ばしてやろう と思い、力自慢にまかせて飛びかかり、手を掛けたと思うや否や、逆に自分の方が飛ばされて気を失ってしまった 夕方に正気づいてみれば、むろんその大男は居なかった 家に帰って後、人にこの事を話した その秋のことである 早池峰の腰へ村人大勢と共に馬を曳いて萩を刈りに行き、さて帰ろうとする頃になってこの男だけ姿が見えない 一同驚いて探してみると、深い谷の奥で手も足も一つ一つ抜き取られて死んでいたという 今から二・三十年前のことで、この時のことをよく知る老人が今も生きている 天狗森には天狗が多くいるということは昔から人の知るところである 
 

 

九一 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵だんしゃく家の鷹匠たかじょうなり。町の人綽名あだなして鳥御前とりごぜんという。早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と在処ありどころとを知れり。年取りてのち茸採きのことりにとて一人の連つれとともに出でたり。この連の男というは水練の名人にて、藁わらと槌つちとを持ちて水の中に入り、草鞋わらじを作りて出てくるという評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山むけえやまという山より、綾織あやおり村の続石つづきいしとて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の端はより四五間けんばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰かげに赭あかき顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢であいたり。彼らは鳥御前の近づくを見て、手を拡ひろげて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにも構かまわず行きたるに女は男の胸に縋すがるようにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なれば戯たわむれて遣やらんとて腰なる切刃きりはを抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足を挙あげて蹴けりたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず。連なる男はこれを探さがしまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にもいうなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、山臥やまぶしのケンコウ院というに相談せしに、その答えには、山の神たちの遊べるところを邪魔したる故、その祟たたりをうけて死したるなりといえり。この人は伊能先生なども知合しりあいなりき。今より十余年前の事なり。
九二 昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓ふもと近くなるころ、丈たけの高き男の下より急ぎ足に昇りくるに逢えり。色は黒く眼まなこはきらきらとして、肩には麻かと思わるる古き浅葱色あさぎいろの風呂敷ふろしきにて小さき包を負いたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より声を掛けたるに、小国おぐにさ行くと答う。この路は小国へ越ゆべき方角にはあらざれば、立ちとまり不審するほどに、行き過ぐると思うまもなく、はや見えずなりたり。山男よと口々に言いてみなみな遁げ帰りたりといえり。
九三 これは和野の人菊池菊蔵という者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、糸蔵という五六歳の男の児こ病気になりたれば、昼過ひるすぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負う六角牛の峯続きなれば山路は樹深く、ことに遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて両方は岨そばなり。日影はこの岨に隠れてあたりやや薄暗くなりたるころ、後の方より菊蔵と呼ぶ者あるに振り返りて見れば、崖がけの上より下を覗のぞくものあり。顔は赭く眼の光りかがやけること前の話のごとし。お前の子はもう死んで居るぞという。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはっと思いたりしが、はやその姿は見えず。急ぎ夜の中に妻を伴ともないて帰りたれば、果して子は死してありき。四五年前のことなり。
 ●ウドとは両側高く切込みたる路のことなり。東海道の諸国にてウタウ坂・謡坂などいうはすべてかくのごとき小さき切通しのことならん。
九四 この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞ふるまわれたる残りの餅もちを懐ふところに入れて、愛宕山の麓ふもとの林を過ぎしに、象坪ぞうつぼの藤七という大酒呑おおざけのみにて彼と仲善なかよしの友に行き逢えり。そこは林の中なれど少しく芝原しばはらあるところなり。藤七はにこにことしてその芝原を指ゆびさし、ここで相撲すもうを取らぬかという。菊蔵これを諾し、二人草原にてしばらく遊びしが、この藤七いかにも弱く軽く自由に抱かかえては投げらるる故ゆえ、面白きままに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなわず、さあ行くべしとて別れたり。四五間けんも行きてのち心づきたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれどなし。始めて狐ならんかと思いたれど、外聞を恥じて人にもいわざりしが、四五日ののち酒屋にて藤七に逢いその話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言いて、いよいよ狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵はなお他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休みに人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれもじつはとこの話を白状し、大いに笑われたり。
 ●象坪は地名にしてかつ藤七の名字なり。象坪という地名のこと『石神問答いしがみもんどう』の中にてこれを研究したり。
九五 松崎の菊池某という今年四十三四の男、庭作りの上手じょうずにて、山に入り草花を掘りてはわが庭に移し植え、形の面白き岩などは重きを厭いとわず家に担にない帰るを常とせり。或る日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までついに見たることなき美しき大岩を見つけたり。平生へいぜいの道楽なればこれを持ち帰らんと思い、持ち上げんとせしが非常に重し。あたかも人の立ちたる形して丈たけもやがて人ほどあり。されどほしさのあまりこれを負い、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなるくらい重ければ怪しみをなし、路みちの旁かたわらにこれを立て少しくもたれかかるようにしたるに、そのまま石とともにすっと空中に昇のぼり行く心地ここちしたり。雲より上になりたるように思いしがじつに明るく清きところにて、あたりにいろいろの花咲き、しかも何処いずこともなく大勢の人声聞えたり。されど石はなおますます昇のぼり行き、ついには昇り切りたるか、何事も覚えぬようになりたり。その後時過ぎて心づきたる時は、やはり以前のごとく不思議の石にもたれたるままにてありき。この石を家の内へ持ち込みてはいかなることあらんも測はかりがたしと、恐ろしくなりて遁げ帰りぬ。この石は今も同じところにあり。おりおりはこれを見て再びほしくなることありといえり。
九六 遠野の町に芳公馬鹿よしこうばかとて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ塵ちりなどを拾い、これを捻ひねりてつくづくと見つめまたはこれを嗅かぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ち留どまり、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を免まぬかれたる家は一軒もなしといえり。
九七 飯豊いいでの菊池松之丞まつのじょうという人傷寒しょうかんを病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺ぼだいじなるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下まえさがりに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず快こころよし。寺の門に近づくに人群集せり。何故なにゆえならんと訝いぶかりつつ門を入れば、紅くれないの芥子けしの花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡なくなりし父立てり。お前もきたのかという。これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。この時門の辺にて騒しくわが名を喚よぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り集つどい水など打ちそそぎて喚よび生いかしたるなり。
九八 路の傍に山の神、田の神、塞さえの神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峯山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。
九九 土淵村の助役北川清という人の家は字火石ひいしにあり。代々の山臥やまぶしにて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿むこに行きたるが、先年の大海嘯おおつなみに遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに元もとの屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪なみの打つ渚なぎさなり。霧の布しきたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正まさしく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遥々はるばると船越ふなこし村の方へ行く崎の洞ほこらあるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛かわいくはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元あしもとを見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退のきて、小浦おうらへ行く道の山陰やまかげを廻めぐり見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中みちなかに立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩わずらいたりといえり。
一〇〇 船越の漁夫何某。ある日仲間の者とともに吉利吉里きりきりより帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来くべき道理なければ、必定ひつじょう化物ばけものならんと思い定め、やにわに魚切庖丁うおきりぼうちょうを持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。しばらくの間は正体を現わさざれば流石さすがに心に懸り、後あとの事を連つれの者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅おびやかされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。さてはと合点がてんして再び以前の場所へ引き返してみれば、山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹の狐きつねとなりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身を傭やとうことありと見ゆ。 
九一 山の神
遠野の町に山々のことに明るい人がいる もとは南部男爵家の鷹匠である 町の人は仇名して鳥御前と呼ぶ 早池峰、六角牛の木や石や、すべてその形状と在処を知っている 年をとって後、茸採りにと一人の連れと一緒に出かけていった この連れの男というのは泳ぎの名人で、藁と槌とを持って水の中に入り、草鞋を作って出てくるという評判の人であった さて、遠野の町と猿ヶ石川を隔てる向山という山から、綾織村の続石という珍しい岩のある所の少し上の山に入り、二人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登ったが、ちょうど秋の空の太陽が西の山の端から四・五間ほどの時刻であった ふと大きな岩の陰に赤い顔の男と女とが立って何か話をしているところに出会った 彼らは鳥御前の近づくのを見て、手を広げて押し戻すような手つきをして制したが、それにもかまわず行くと、女は男の胸にすがるようにした その様子から、本当の人間ではないな、と思いながら、鳥御前はひょうきんな人なので からかってやろう と、腰の切り出しを抜き、打ちかかるようにしたところ、その顔の赤い男は足を挙げて蹴ったかと思うや否や、たちまちに前後不覚になった 連れの男は、彼を探し回って、谷底で気絶しているのを見つけ、介抱して家に帰ると、鳥御前は今日の一部始終を話し、 こんなことは今までに一度もないことだ 自分ははこのために死ぬかも知れない、ほかの者には誰にも言うな と語り、三日ほどの間病んで死んでしまった 家の者が、あまりにその死に方が不思議だからと、ケンコウ院という山伏に相談したところ、答えることには、 山の神たちが遊んでいたところを邪魔したため、その祟りを受けて死んだのだ と言った この人は伊能忠敬先生なども知り合いであった 今から十余年前のことである
九二 山男
昨年のことである 土淵村の里の子が十四・五人で早池峰に遊びに行き、気づくと夕方近くだったので、急いで山を下り、麓が近くなった頃、背の高い男が下から急ぎ足で登り来るのに出会った 色は黒く、眼はきらきらとして、肩には麻かと思われる古い浅葱色の風呂敷で小さな包みを背負っていた 恐ろしかったが、子供らの中の一人が、 どこへ行くの とこちらから声をかけると、 小国へ行く と答える この道は小国へ越える方角ではないので、立ち止まって不思議に思っていると、行き過ぎると思う間もなく見えなくなった 山男だ と口々に言ってみんな逃げ帰ったという
九三 山の神
これは和野の人・菊池菊蔵という者、妻は笛吹峠の向こうの橋野から来た者である この妻が実家へ行っている間に、糸蔵という五・六歳の男児が病気になったので、昼過ぎから笛吹峠を越えて、妻を連れに実家へ行った 名に負う六角牛の峰続きなので、山道は木々深く、特に遠野分から栗橋分へ下ろうとするあたりは、道はウドになって両側は切り立った斜面である 太陽がこの急斜面に隠れて、辺りのやや薄暗くなった頃、後ろの方から 菊蔵 と呼ぶ者がいるので、振り返って見れば、崖の上から下を覗く者があった 顔は赤く、眼の光り輝いているのは前話と同様である おまえの子はもう死んでいるぞ と言う この言葉を聞いて、恐ろしさよりも先に、はっと思ったが、もうその姿はなかった 急いで夜中に妻を連れて帰ってみると、はたして子は死んでいた 四・五年前のことである
〇ウドとは両側が高く切れ込んだ道のことである。東海道の各地でウタウ坂・謡坂などいうのは、すべてこれのような小さな切通しのことであろう
九四 狐
この菊蔵、柏崎の姉の家に用があって行き、振舞われた残りの餅を懐に入れて、愛宕山の麓の林を過ぎると、象坪の藤七という大酒呑みで彼と仲良しの友に行き合った そこは林の中であるが、少し芝原のある場所である 藤七はにこにことして、その芝原を指さし、 ここで相撲を取らんか と言う 菊蔵がこれを受け、二人草原でしばらく遊んでいたが、この藤七がなんとも弱く軽く、自由に抱えては投げられるので、おもしろいままに三番まで取った 藤七が、 今日はとても敵わん、 さあ行こう と言うので、別れた 四・五間も行きて後、気づいてみれば、懐の餅が見当たらない 相撲をしていた場所に戻って探したが、ない 初めて、 狐だろうか と思ったが、外聞を恥じて人にも言わなかったが、四・五日の後、酒屋で藤七に会ったのでその話をしたところ、 おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行っていたのに と言って、ついに狐と相撲を取ったことがばれてしまった それでも菊蔵はなお他の人々には隠していたが、昨年の正月の休みに、人々と酒を飲んで狐の話になったとき、 おれも実は とこの話を白状し、大いに笑われた
〇象坪は地名であり、また藤七の名字である。象坪という地名のことは『石神問答』の中でこれを研究してある
九五 山の霊異、魂の行方
松崎の菊池某という今年四十三・四の男、庭作りの上手で、山に入り草花を掘っては自分の庭に移し植え、形のおもしろい岩などは重いのを厭わず家に背負って帰るのを常としていた ある日、少し気分が重いので、家を出て、山に入っていたところ、今まで一度も見たことのない美しい大岩を見つけた 日頃から道楽なので、これを持って帰ろうと思い、持ち上げようとしたが、実に重たい ちょうど人の立った形をしていて、高さもだいたい人ほどある それでも、欲しさのあまりにこれを背負い、我慢して十間ばかり歩んだが、気が遠くなるほど重いので、怪しく思い、道の傍らにこれを立て、少しもたれかかるようにしていると、そのまま石と共にすっと空中に昇ってゆく心地がした 雲より上になったように思うと、とても明るく清らかな場所にいて、あたりにいろんな花が咲き、しかもどこからともなく大勢の人の声が聞えてきた それでも石はなおますます昇りゆき、ついには昇りきったのか、なんにもわからなくなった その後、時が過ぎて、気がついたときには、やはり以前のように不思議の石にもたれたままであった この石を家の中へ持ち込んではどんなこと起こるかわからない と、恐ろしくなって逃げ帰った この石は、今も同じ場所にある ときどきこれを見て、また欲しくなることがあるという
九六 前兆
遠野の町に芳公馬鹿という三十五・六の男がおり、白痴で、一昨年まで生きていた この男の癖は、路上で木の切れ端などを拾い、これをよじってつくづくと見つめ、またはこれを嗅ぐことである 人の家に行っては柱などを擦ってその手を嗅ぎ、どんな物でも眼の先きまで持ち上げ、にこにことして、そのときどきこれを嗅ぐのである この男、往来を歩きながら急に立ち止まり、石などを拾い上げて、これをあたりの人家に投げつけ、けたたましく 火事だ、火事だ と叫ぶことがあった そうすると、その晩か次の日か、物を投げつけられた家から出火のなかったためしがない 同じことが何度となくあるので、後にはどの家々も注意して予防しようとするが、ついに火事を免れた家は一軒もないという
九七 魂の行方
飯豊の菊池松之丞という人、急性熱病を患い、たびたび呼吸困難になったとき、 自分は田んぼに出て、菩提寺の喜清院へ急いで行こうとする 足に少し力を入れたが、不意に空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下りに行き、また少し力を入れると、始めのように昇った えも言われず心地よい 寺の門に近づくと人が大勢集まっている どうしたんだろう と怪しみつつ門を入れば、紅の芥子の花が見渡す限り咲き満ちている いよいよ心地よい この花の間に、亡くなった父が立っている お前も来たのか と言う これに何か返事をしながら、さらに行くと、以前亡くした男の子がいて、 トッチャお前も来たか と言う お前はここにいたのか と言いつつ近寄ろうとすれば、 今来てはいけない と言う このとき、門のあたりで騒がしく自分の名を呼ぶ者がいて、うるさいことこの上ないが、仕方がないので、心も重くいやいやながら引き返したと思ったら、正気づいた 親族の者が寄り集まって、水など注ぎ掛けて呼び戻したのである
九八 里の神
道の傍らに山の神・田の神・道祖神の名を彫った石を立てるのは常のことである また、早池峰山・六角牛山の名を刻んだ石は遠野郷にもあるが、それよりも浜に特に多い
九九 魂の行方
土淵村の助役・北川清という人の家は字火石にある 代々の山伏で、祖父は正福院といい、学者で著作も多く、村のために尽力した人である 清の弟で福二という人は、海岸の田の浜へ婿に行ったが、先年の大津波に遭って妻と子とを失い、生き残った二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を作って一年ほど住んでいた 夏の初めの月夜に、便所に起き出したが、遠く離れた所にあって、行く道も波打つ渚であった 霧の立ちこめる夜であったが、その霧の中から男女二人の者が近寄ってくるので、見れば、女はまさしく亡くなった我が妻であった 思わずその跡をつけて、はるばると船越村の方へ行く岬の洞のある場所まで追ってゆき、名を呼ぶと、振り返ってにこっと笑った 男は、と見れば、これも同じ里の者で、津波で遭難して死んだ者であった 自分が婿に入る以前に互いに深く心を通わせていたと聞いた男である 今はこの人と夫婦になっている と言うので、 子供は可愛くはないのか と言うと、女は少し顔色を変えて泣いた 死んだ人と会話をしているとは思われず、悲しく情なくなって、足元を見ている間に、男女は再び足早にそこを立ち去り、小浦へ行く道の山陰を回って見えなくなった 追いかけて見たが、ふと 死んだ者だった と思い出し、夜明けまで路上に立って考え、朝になって帰った その後、久しく煩っていたという
一〇〇 魂の行方
船越の漁夫・何某、ある日仲間の者と一緒に吉利吉里から帰る途中、夜深く四十八坂のあたりを通ると、小川のある所で一人の女に会った 見れば、我が妻である だが、こんな夜中にひとりこの辺りに来る道理もないので、化け物に違いないと確信し、やにわに魚切庖丁を持って背後から刺し通すと、悲しい声をあげて息絶えた しばらくの間は正体を現さなかったので、さすがに気になり、後のことを連れの者に頼み、自分は走って家に帰ったところ、妻は何事もなく家に待っていた 今恐ろしい夢を見た あんまり帰りが遅いから、夢の中で途中まで見に出かけたけれど、山道で何とも知れぬ者に脅かされて、命を取られると思ったところで目が覚めた と言う さては と合点して、再び以前の場所へ引き返してみれば、山で殺した女は、連れの者が見ている間に、ついに一匹の狐となったという 夢の野山を行くときに、この獣の身を纏うことがあるとみえる 
 

 

一〇一 旅人豊間根とよまね村を過ぎ、夜更ふけ疲れたれば、知音ちいんの者の家に灯火の見ゆるを幸さいわいに、入りて休息せんとせしに、よき時に来合きあわせたり、今夕死人あり、留守るすの者なくていかにせんかと思いしところなり、しばらくの間頼むといいて主人は人を喚よびに行きたり。迷惑千万めいわくせんばんなる話なれど是非もなく、囲炉裡いろりの側にて煙草タバコを吸いてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば床とこの上にむくむくと起き直る。胆潰きもつぶれたれど心を鎮しずめ静かにあたりを見廻みまわすに、流し元もとの水口の穴より狐のごとき物あり、面つらをさし入れて頻しきりに死人の方を見つめていたり。さてこそと身を潜ひそめ窃ひそかに家の外に出で、背戸せとの方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後足あとあしを爪立つまたてていたり。有合ありあわせたる棒をもてこれを打ち殺したり。
 ●下閉伊郡豊間根村大字豊間根。
一〇二 正月十五日の晩を小正月こしょうがつという。宵よいのほどは子供ら福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、明あけの方から福の神が舞い込んだと唱となえて餅を貰もらう習慣あり。宵を過ぐればこの晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと言いい伝えてあればなり。山口の字丸古立まるこだちにおまさという今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。いかなるわけにてか唯一人にて福の神に出で、ところどころをあるきて遅くなり、淋さびしき路を帰りしに、向うの方より丈たけの高き男来てすれちがいたり。顔はすてきに赤く眼はかがやけり。袋を捨てて遁げ帰り大いに煩いたりといえり。
一〇三 小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊そりっこあそびをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。
一〇四 小正月の晩には行事甚はなはだ多し。月見つきみというは六つの胡桃くるみの実みを十二に割り一時いっときに炉ろの火にくべて一時にこれを引き上げ、一列にして右より正月二月と数うるに、満月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には直すぐに黒くなり、風ある月にはフーフーと音をたてて火が振ふるうなり。何遍繰り返しても同じことなり。村中いずれの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日はこの事を語り合い、例えば八月の十五夜風とあらば、その歳としの稲の苅入かりいれを急ぐなり。
 ●五穀の占、月の占多少のヴァリエテをもって諸国に行なわる。陰陽道おんようどうに出でしものならん。
一〇五 また世中見よなかみというは、同じく小正月の晩に、いろいろの米にて餅をこしらえて鏡となし、同種の米を膳ぜんの上に平たいらに敷き、鏡餅かがみもちをその上に伏せ、鍋なべを被かぶせ置きて翌朝これを見るなり。餅につきたる米粒こめつぶの多きものその年は豊作なりとして、早中晩の種類を択び定むるなり。
一〇六 海岸の山田にては蜃気楼しんきろう年々見ゆ。常に外国の景色なりという。見馴みなれぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。
一〇七 上郷村に河ぷちのうちという家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈たけ高く面朱しゅのようなる人なり。娘はこの日より占うらないの術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといえり。
一〇八 山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。附馬牛つくもうし村にもあり。本業は木挽こびきなり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神よりその術を得たりしのちは、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占いの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、頼みにきたる人と世間話をなし、その中にふと立ちて常居じょういの中なかをあちこちとあるき出すと思うほどに、その人の顔は少しも見ずして心に浮びたることをいうなり。当らずということなし。例えばお前のウチの板敷いたじきを取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡または刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとかいうなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かかる例は指を屈するに勝たえず。
一〇九 盆のころには雨風祭とて藁わらにて人よりも大なる人形にんぎょうを作り、道の岐ちまたに送り行きて立つ。紙にて顔を描えがき瓜うりにて陰陽の形を作り添えなどす。虫祭の藁人形にはかかることはなくその形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて頭屋とうやを択えらび定め、里人さとびと集まりて酒を飲みてのち、一同笛太鼓ふえたいこにてこれを道の辻まで送り行くなり。笛の中には桐きりの木にて作りたるホラなどあり。これを高く吹く。さてその折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という。
 ●『東国輿地よち勝覧』によれば韓国にても※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)壇れいだんを必ず城の北方に作ること見ゆ。ともに玄武神の信仰より来たれるなるべし。
一一〇 ゴンゲサマというは、神楽舞かぐらまいの組ごとに一つずつ備われる木彫きぼりの像にして、獅子頭ししがしらとよく似て少しく異ことなれり。甚だ御利生ごりしょうのあるものなり。新張にいばりの八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村字五日市いつかいちの神楽組のゴンゲサマと、かつて途中にて争いをなせしことあり。新張のゴンゲサマ負けて片耳かたみみを失いたりとて今もなし。毎年村々を舞いてあるく故、これを見知らぬ者なし。ゴンゲサマの霊験れいげんはことに火伏ひぶせにあり。右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて日暮ひぐれ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて快こころよくこれを泊とめて、五升桝ますを伏せてその上にゴンゲサマを座すえ置き、人々は臥ふしたりしに、夜中にがつがつと物を噛かむ音のするに驚きて起きてみれば、軒端のきばたに火の燃えつきてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を喰くい消してありしなりと。子どもの頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛みてもらうことあり。 
一〇一 狐
旅人が豊間根村を過ぎ、夜が更けて、疲れたので、知り合いの者の家に灯火が見えるのを幸いに、入って休息しようとしたところ、 よい時に来合わせた、今晩死人がいる、留守の者がいなくてどうしようかと思っていたところだ、しばらくの間頼む と言って、主人は人を呼びに行ってしまった 迷惑千万な話だが仕方なく、囲炉裏のそばで煙草を吸っていたところ、死人は老女で、奥の方に寝かせてあったが、ふと見れば、床の上にむくむくと起き直る 胆が潰れたが、心を鎮め、静かにあたりを見回すと、流し元の水口の穴から、狐のような物が顔を差し入れ、しきりに死人の方を見つめていた やはり と身を潜め、ひそかに家の外に出て、裏口の方に回って見れば、まさしく狐で、首を流し元の穴に入れ、後足をつま立てていた あり合わせた棒を掴んで、これを打ち殺した
〇下閉伊郡豊間根村大字豊間根
一〇二 山の神、小正月の行事
正月十五日の晩を小正月という 宵の時分は子供らが福の神と称して四・五人群れを作り、袋を持って人の家に行き、 明けの方から福の神が舞い込んだ と唱えて餅をもらう習慣がある 宵を過ぎれば、この晩に限り、人々が決して家の外に出ることはない 小正月の夜半過ぎは山の神が出て遊ぶと言い伝えられているからである 山口の字丸古立のおまさという今三十五・六の女がまだ十二・三の年のことである どういうわけか、たったひとりで福の神に出て、あちこち歩いて遅くなり、寂しい道を帰ろうとすると、向こうから背の高い男が来てすれ違った 顔は見事に赤く、眼は輝いていた 袋を捨てて逃げ帰り、大いに煩ったという
一〇三 雪女、小正月の行事
小正月の夜、または小正月でなくても、冬の満月の夜は雪女が出て遊ぶともいう 童子を大勢引き連れて来るという 里の子供らは、冬は近辺の丘に行き、そり遊びをして、楽しさのあまり、夜になることがあった 十五日の夜に限り、 雪女が出るから早く帰れ と戒められるのはいつものことである しかし、雪女を見たという者は少ない
一〇四 小正月の行事
小正月の晩には行事がとても多い 月見というのは、六つの胡桃の実を十二に割り、一度に炉の火にくべて、一度にこれを引き上げ、一列にして、右から、正月、二月、と数えると、満月の夜、晴れている月のときにはいつまでも赤く、曇っている月のときにはすぐに黒くなり、風のある月のときには フーフー と音をたてて火が揺れるという 何度繰り返しても同じになる 村中どの家でも同じ結果を得るというのは妙である 翌日はこのことを語り合い、例えば、八月の十五夜、風であったらその年の稲の刈り入れを急ぐ
〇五穀の占い、月の占い、多少のバリエーションをもって全国各地で行われる。陰陽道に出ていたものであろう
一〇五 小正月の行事
また、世中見というのがあって、同じく小正月の晩に、いろんな米で餅を作って鏡とし、同種の米を膳の上に平らに敷き、鏡餅をその上に伏せ、鍋をかぶせ置いて、翌朝これを見る 米粒がたくさん餅に付くとその年は豊作であるとして、早・中・晩の種類を選び定めるという
一〇六 まぼろし
海岸の山田では、蜃気楼が毎年見える きまって外国の景色であるという 見慣れぬ都の様子で、路上の車馬多く、人の往来も目覚ましいばかりである 毎年、家の形など少しも違ったりしないという
一〇七 山の神
上郷村に河ぷちのうちという家がある 早瀬川の岸にある この家の若い娘が、ある日河原に出て石を拾っていると、見慣れぬ男が来て、木の葉やら何やらを娘にくれた 背が高く、顔は朱色のような人であった 娘はこの日から占いの術を身につけた 異人は山の神で、山の神の子になったのだという
一〇八 山の神
山の神が乗り移ったといって占いをする人はあちこちにいる 附馬牛村にもいる 本業は木挽である 柏崎の孫太郎もそうである 以前は発狂して心神喪失したが、ある日山に入って、山の神からその術を授かってからというもの、不思議に人の心中を読むようになったのは驚くばかりである その占いの法は世間の者とはまったく異なっている 何の書物も見ず、依頼に来た人と世間話をし、その中にふと立って居間の中をあちこちと歩き出したと思うや、その人の顔は少しも見ずに、心に浮かんだことを言うのである 当たらなかったためしがない 例えば お前の家の板敷を取り外し、土を掘ってみよ 古い鏡か刀の折れがあるはずだ それを取り出さないと近いうちに死人が出る とか、 家が焼ける とか言うのである 帰って掘ってみると、必ずある このような例は枚挙に暇がない
一〇九 雨風祭
盆の頃には雨風祭といって藁で人よりも大きな人形を作り、道の分岐まで送って行って、立てる 紙で顔を描き、瓜で陰陽の形を作って添えたりする 虫祭の藁人形にはそのようなことはなく、その形も小さい 雨風祭のときは、一集落の中で世話役を決め、里人が集まって酒を飲んだ後、全員が笛や太鼓でこれを道の辻まで送って行くのである 笛の中には桐の木で作ったホラなどがある これを高く吹く そして、そのときの歌は 二百十日の雨風祭るよ、どっちの方さ祭る、北の方さ祭る と言う
〇『東国輿地勝覧』によれば、韓国でも厄神塚を必ず城の北方に作っていたことがわかる。共に玄武神への信仰から来たものであろう
一一〇 里の神 - ゴンゲサマ
ゴンゲサマというのは、神楽舞の組ごとに一体ずつ備わる木彫の像で、獅子頭とよく似ているが、少々異なる たいへん御利益のあるものである 新張の八幡社の神楽組のゴンゲサマと土淵村字五日市の神楽組のゴンゲサマとは、かつて途中で争いをしたことがある 新張のゴンゲサマが負けて片耳を失ったということで、今も無い 毎年村々を舞い歩くため、これを見知らぬ者はない ゴンゲサマの霊験は、特に火除けにある その八幡の神楽組、かつて附馬牛村に行って、日が暮れ、宿を取りはぐれたときのこと、ある貧しい者の家で快くこれを泊め、五升枡を伏せたその上にゴンゲサマを据え置き、人々が眠っていたところ、夜中にがつがつと物を噛む音がするので、驚いて起きてみれば、軒端に火が燃え付いていたのを枡の上のゴンゲサマが飛び上り飛び上りして火を食い消していたのだという 子供で頭を病む者などは、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛んでもらうことがある 
 

 

一一一 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡ひわたり、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野れんだいのという地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習ならいありき。老人はいたずらに死んで了しまうこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊ぬらしたり。そのために今も山口土淵辺にては朝あしたに野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。
ダンノハナは壇の塙なるべし。すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中にいえり。
一一二 ダンノハナは昔館たてのありし時代に囚人を斬きりし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは大洞おおほらへ越ゆる丘の上にて館址たてあとよりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。此所には蝦夷屋敷えぞやしきという四角に凹へこみたるところ多くあり。その跡あときわめて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。他の一は小字こあざをホウリョウという。ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然殊ことなり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは模様もようなども巧たくみなり。埴輪はにわもここより出づ。また石斧石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭えぞせんとて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる渦紋うずもんなどの模様あり。字ホウリョウには丸玉・管玉くだたまも出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き一町歩いっちょうぶほどの場所なり。星谷は底の方かた今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありしなりという。このあたりに掘れば祟たたりありという場所二ヶ所ほどあり。
 ●外ほかの村々にても二所の地形および関係これに似たりという。
 ●星谷という地名も諸国にあり星を祭りしところなり。
 ●ホウリョウ権現は遠野をはじめ奥羽一円に祀らるる神なり。蛇の神なりという。名義を知らず。
一一三 和野にジョウヅカ森というところあり。象を埋めし場所なりといえり。此所だけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジョウヅカ森へ遁げよと昔より言い伝えたり。これは確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。これを掘れば祟たたりありという。
 ●ジョウズカは定塚、庄塚または塩塚などとかきて諸国にあまたあり。これも境の神を祀りしところにて地獄のショウツカの奪衣婆だつえばの話などと関係あること『石神問答』に詳つまびらかにせり。また象坪などの象頭神とも関係あれば象の伝説は由よしなきにあらず、塚を森ということも東国の風なり。
一一四 山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を栽うえめぐらしその口は東方に向かいて門口もんぐちめきたるところあり。その中ほどに大なる青石あり。かつて一たびその下を掘りたる者ありしが、何ものをも発見せず。のち再びこれを試みし者は大なる瓶かめあるを見たり。村の老人たち大いに叱しかりければ、またもとのままになし置きたり。館たての主の墓なるべしという。此所に近き館の名はボンシャサの館という。いくつかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り廻めぐらせり。寺屋敷・砥石森といしもりなどいう地名あり。井の跡とて石垣いしがき残れり。山口孫左衛門の祖先ここに住めりという。『遠野古事記とおのこじき』に詳つまびらかなり。
一一五 御伽話おとぎばなしのことを昔々むかしむかしという。ヤマハハの話最も多くあり。ヤマハハは山姥やまうばのことなるべし。その一つ二つを次に記すべし。
一一六 昔々あるところにトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰がきても戸を明けるなと戒しめ、鍵かぎを掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみていたりしに、真昼間まひるまに戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破けやぶるぞと嚇おどす故ゆえに、是非なく戸を明けたれば入りきたるはヤマハハなり。炉の横座よこざに蹈ふみはたかりて火にあたり、飯をたきて食わせよという。その言葉に従い膳ぜんを支度してヤマハハに食わせ、その間に家を遁げ出したるに、ヤマハハは飯を食い終りて娘を追い来たり、おいおいにその間あいだ近く今にも背せなに手の触ふるるばかりになりし時、山の蔭かげにて柴しばを苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠かくしてくれよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴の束たばをのけんとして柴を抱かかえたるまま山より滑すべり落ちたり。その隙ひまにここを遁のがれてまた萱かやを苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅り置きたる萱の中に隠れたり。ヤマハハはまた尋ね来たりて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱えたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここを遁れ出でて大きなる沼の岸に出でたり。これよりは行くべき方かたもなければ、沼の岸の大木の梢に昇のぼりいたり。ヤマハハはどけえ行ったとて遁のがすものかとて、沼の水に娘の影の映うつれるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。この間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋ささごやのあるを見つけ、中に入りて見れば若き女いたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃からうどのありし中へ隠してもらいたるところへ、ヤマハハまた飛び来たり娘のありかを問えども隠して知らずと答えたれば、いんね来ぬはずはない、人くさい香がするものという。それは今雀すずめを炙あぶって食った故ゆえなるべしと言えば、ヤマハハも納得なっとくしてそんなら少し寝ねん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言いて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女はこれに鍵かぎを下おろし、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハハに連れて来られたる者なればともどもにこれを殺して里へ帰らんとて、錐きりを紅あかく焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハハはかくとも知らず、ただ二十日鼠はつかねずみがきたと言えり。それより湯を煮立にたてて焼錐やききりの穴より注そそぎ込みて、ついにそのヤマハハを殺し二人ともに親々の家に帰りたり。昔々の話の終りはいずれもコレデドンドハレという語をもって結ぶなり。
一一七 昔々これもあるところにトトとガガと、娘の嫁に行く支度を買いに町へ出で行くとて戸を鎖とざし、誰がきても明けるなよ、はアと答えたれば出でたり。昼のころヤマハハ来たりて娘を取りて食い、娘の皮を被かぶり娘になりておる。夕方二人の親帰りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、いたます、早かったなしと答え、二親ふたおやは買い来たりしいろいろの支度の物を見せて娘の悦よろこぶ顔を見たり。次の日夜よの明けたる時、家の鶏羽はばたきして、糠屋ぬかやの隅すみッ子こ見ろじゃ、けけろと啼なく。はて常つねに変りたる鶏の啼きようかなと二親ふたおやは思いたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハハのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするときまた鶏啼く。その声は、おりこひめこを載せなえでヤマハハのせた、けけろと聞きこゆ。これを繰り返して歌いしかば、二親も始めて心づき、ヤマハハを馬より引き下おろして殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた有ありたり。
 ●糠屋は物おきなり。
一一八 紅皿欠皿べにざらかけざらの話も遠野郷に行おこなわる。ただ欠皿の方はその名をヌカボという。ヌカボは空穂うつぼのことなり。継母ままははに悪にくまれたれど神の恵めぐみありて、ついに長者の妻となるという話なり。エピソードにはいろいろの美しき絵様えようあり。折おりあらば詳しく書き記すべし。
一一九 遠野郷の獅子踊ししおどりに古くより用いたる歌の曲あり。村により人によりて少しずつの相異あれど、自分の聞きたるは次のごとし。百年あまり以前の筆写なり。
 ●獅子踊はさまでこの地方に古きものにあらず。中代これを輸入せしものなることを人よく知れり。 
一一一 地勢、塚と森と
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺、及び火渡、青笹の字中沢、並びに土淵村の字土淵に、共にダンノハナという地名がある その近隣にこれと相対して必ず蓮台野という地名がある 昔は、六十を過ぎた老人はすべてこの蓮台野へ追いやる風習があった 老人は無駄に死んでしまうこともできないから、日中は里へ下り、農作してなんとか生計を立てた そのため、今も山口・土淵あたりでは、朝に野良に出ることをハカダチといい、夕方野良から帰ることをハカアガリと言うという
〇ダンノハナは壇の塙と思われる。すなわち、丘の上で塚を築いた場所であろう。境の神を祭るための塚であると信じる。蓮台野もこの類であろうことが『石神問答』の九八頁の中に書かれている
一一二 蝦夷の跡
ダンノハナは、昔館のあった時代に囚人を斬った場所であろうと言われている 地形は、山口のも、土淵・飯豊のもほぼ同様で、村境の岡の上にある 仙台にもこの地名がある 山口のダンノハナは大洞へ越える丘の上で、館跡からの続きである 蓮台野はこれと山口の民家を隔てて相対している 蓮台野の四方はすべて沢である 東はすなわちダンノハナとの間の低地で、南の方を星谷という ここには蝦夷屋敷という四角に凹んだところが多くある その跡はとてもはっきりしている 多くの石器を出す 石器・土器の出る所は山口に二か所ある 他のひとつは小字をホウリョウという ここの土器と蓮台野の土器とは様式がまったく異なる 後者のものは、技巧が少しも無く、ホウリョウのは模様なども巧みである 埴輪もここから出る また石斧・石刀の類も出る 蓮台野には蝦夷銭といって、土で銭の形をした直径二寸ほどの物が多く出る これには単純な渦紋などの模様がある 字ホウリョウには丸玉・管玉も出る ここの石器は精巧で、石の質も一致しているが、蓮台野のものは原料がいろいろである ホウリョウの方は、何の跡でもなく、狭い一町歩ほどの場所である 星谷は、底の方が今は田になっている 蝦夷屋敷はこの両側に連なってあったという この辺りに、掘ると祟りがあるという場所が二か所ほどある
〇他の村々でも二か所の地形及び関係はこれに似ているという
〇星谷という地名も全国各地にある。星を祭った場所である
〇ホウリョウ権現は遠野をはじめ、奥羽一円に祀られる神である。蛇の神であるという。名の意味はわからない
一一三 塚と森と
和野にジョウヅカ森という所がある 象を埋めた場所であるという ここだけには地震がないとして、近辺では 地震のときはジョウヅカ森へ逃げよ と昔から言い伝えられている これは紛れもなく人を埋めた墓である 塚の周囲には堀がある 塚の上には石がある これを掘れば祟りがあるという
〇ジョウヅカは定塚、庄塚または塩塚などと書いて、全国各地にたくさんある。これも境の神を祀った所で、地獄のショウヅカの奪衣婆の話などと関係あることが『石神問答』に詳細に書かれている。また象坪などの象頭神とも関係があるので、象の伝説は無根拠なわけではなく、塚を森と呼ぶことも東国風である
一一四 塚と森と
山口のダンノハナは今は共同墓地になっている 岡の頂上に空木を植えめぐらし、透き間は東の方に向いて、門の出入口のようになっている所がある その中ほどに大きな青石がある かつて、一度その下を掘った者がいたが、何物も発見できなかった その後、再びこれを試みた者は大きな瓶があるのを見た 村の老人たちが大いに叱ったので、また元通りにして置いた 館の主の墓であろうという ここに近い館の名はボンシャサの館という いくつかの山を掘り割って水を引き、三重・四重に堀をめぐらせた 寺屋敷・砥石森などいう地名がある 井戸の跡らしく、石垣が残っている 山口孫左衛門の祖先がここに住んでいたという。『遠野古事記』に詳しく記されている
一一五 昔々
おとぎ話のことを昔々という ヤマハハの話が最も多くある ヤマハハは山姥のことであろう その一つ二つを次に記すことにする
一一六 昔々
昔々、ある所にトトとガガがいた 娘が一人いた 娘を置いて町へ行くことになったので、 誰が来ても戸を開けるな と戒め、鍵をかけて出かけた 娘は恐ろしいので、一人炉にあたり、すくんでいたが、真っ昼間に戸を叩いて ここを開け と呼ぶ者がいた 開けないと蹴破るぞ と脅すので、仕方なく戸を開けたところ、入ってきたのはヤマハハであった 炉の上座に踏みはだかって火にあたり、 飯を炊いて食わせろ と言う その言葉に従い、膳を支度してヤマハハに食わせ、その間に家を逃げ出したが、ヤマハハは飯を食い終わって娘を追ってきて、しだいにその距離が縮み、今にも背に手が触れるほどになったとき、山の陰で柴を刈る翁に会った わたしはヤマハハに追っかけられているの、隠してください と頼み、刈り置いた柴の中に隠れた ヤマハハが尋ね来て、 どこに隠れた と、柴の束をどけようとして、柴を抱えたまま山から滑り落ちた その隙にここを逃れて、また萱を刈る翁に会った わたしはヤマハハに追っかけられているの、隠してください と頼み、刈り置いた萱の中に隠れた ヤマハハはまた尋ね来て、 どこに隠れた と萱の束をどけようとして、萱を抱えたまま山から滑り落ちた その隙にまた逃げ出して、大きな沼の岸に出た ここからは行きようがないので、沼の岸の大木の梢に登っていた ヤマハハは どこへ行ったって逃がすものか と、沼の水に娘の影の映るのを見て、すぐに沼の中に飛び込んだ この間に再びそこを走り去り、一軒の笹小屋があるを見つけ、中に入って見れば、若い女がいた ここにも同じことを告げて、石の唐櫃のあった中へ隠してもらったところへヤマハハがまた飛び込んできて、娘の居場所を訊いたが、隠して 知らない と答えると、 いいや来てないはずはない、人臭いにおいがするからな と言う それは今、雀を炙って食ったからでしょ と言えば、ヤマハハも納得して ならば少し寝よう、石の唐櫃の中にしようか、木の唐櫃の中がいいか、石は冷たいから木の唐櫃の中に と言って、木の唐櫃の中に入って寝た 家の女はこれに鍵を下ろし、娘を石の唐櫃から連れ出し、 わたしもヤマハハに連れて来られた者だから、一緒にこれを殺して里へ帰ろう と、錐を赤く焼いて、木の唐櫃の中に差し通しすと、ヤマハハはそうとも知らず、ただ はつかねずみが来た と言った それから湯を煮立てて焼き錐の穴から注ぎ込んで、ついにそのヤマハハを殺し、二人共にそれぞれの親の家へ帰った 昔々の話の終わりはいずれも コレデドンドハレ という言葉で結んでいる
一一七 昔々
昔々これもあるところに、トトとガガが、娘の嫁に行く支度を買いに町へ出かけることになり、戸に鍵をし、 誰が来ても開けるなよ、 はい と答えたので、出かけた 昼の頃、ヤマハハが来て娘を取って食い、娘の皮をかぶり、娘になりすましていた 夕方、二人の親が帰って、 瓜子姫こ、いるか と門の口から呼べば、 あ、います、早かったねえ と答え、二親は買ってきたいろいろな支度の物を見せて、娘の悦ぶ顔を見ていた 次の日、夜の明けたとき、家の鶏が羽ばたきして、 糠屋の隅っこ見ろじゃ、けけろ と鳴く はて、いつもと違う鶏の鳴き方だな と両親は思った それから、花嫁を送り出すのに、ヤマハハの瓜子姫こを馬に乗せ、まさに引き出そうとするとき、また鶏が鳴く その声は、 瓜子姫こを乗せないで、ヤマハハ乗せた、けけろ と聞こえる これを繰り返して歌ったので、両親も初めて気がつき、ヤマハハを馬から引きずり下ろして殺した それから糠屋の隅を見に行くと、娘の骨がたくさんあった
〇糠屋は物置である
一一八 昔々
紅皿欠皿の話も遠野郷に残る ただ、欠皿の方は、その名をヌカボという ヌカボは靫のことである 継母に憎まれたが、神の恵みがあって、ついに長者の妻となるという話である エピソードにはいろいろな美しい絵図がある 機会があったら詳しく書き記すことにしよう
一一九 歌謡
遠野郷の獅子踊り一に古くから用いた歌の曲がある 村により人によって少しずつの相異はあるが、自分が聞きたのは次のようなものである 百年以上前の筆写である 
 

 

橋ほめ
一 まゐり来て此この橋を見申みもうせや、いかなもをざは蹈ふみそめたやら、わだるがくかいざるもの
一 此御馬場このおんばばを見申せや、杉原七里大門すぎはらななりおおもんまで
門かどほめ
一 まゐり来て此このもんを見申せや、ひの木さわらで門立かどたてゝ、是これぞ目出めでたい白かねの門
一 門もんの戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい
   ○
一 まゐり来てこの御本堂を見申せや、いかな大工だいくは建てたやら
一 建てた御人おひとは御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也なり
小島ぶし
一 小島ではひの木さわらで門立かどたてゝ、是ぞ目出たい白金しろかねの門
一 白金の門戸びらおすひらき見申せや、あらの御おせだい
一 八つ棟むねぢくりにひわだぶきの、上かみにおひたるから松
一 から松のみぎり左に涌わくいぢみ、汲めども呑のめどもつきひざるもの
一 あさ日さすよう日かゞやく大寺おおてら也、さくら色のちごは百人
一 天からおづるちよ硯水すずりみず、まつて立たれる
馬屋まやほめ
一 まゐり来てこの御台所みだいどころ見申せや、め釜がまを釜に釜は十六
一 十六の釜で御代ごよたく時は、四十八の馬で朝草苅かる
一 其その馬で朝草にききやう小萱こがやを苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり
一 かゞやく中のかげ駒こまは、せたいあがれを足あがきする
   ○
一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし
一 われ/\はきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり
一 しやうぢ申せや限かぎりなし、一礼申して立てや友だつ
桝形ほめ
一 まゐり来てこの桝ますを見申せや、四方四角桝形の庭也
一 まゐり来て此宿やどを見申せや、人のなさげの宿と申もうす
町ほめ
一 参まいり来て此お町を見申せや、竪町たてまち十五里横七里、△△出羽にまよおな友たつ
  ○出羽の字もじつは不明なり。
けんだんほめ
一 まゐり来てこのけんだん様さまを見申せや、御町間中おんまちまなかにはたを立前たてまえ
一 まいは立町油町たてまちあぶらまち
一 けんだん殿は二かい座敷に昼寝すて、銭ぜにを枕に金の手遊てあそび
一 参り来てこの御札ふだ見申せば、おすがいろぢきあるまじき札
一 高き処ところは城しろと申し、ひくき処は城下しょうかと申す也
橋ほめ
一 まゐり来てこの橋を見申せば、こ金がねの辻つじに白金のはし
上ほめ
一 まゐり来てこの御堂おどう見申せや、四方四面くさび一本
一 扇おうぎとりすゞ取り、上かみさ参らばりそうある物
  ○すゞは数珠じゅず、りそうは利生か。
家ほめ
一 こりばすらに小金こがねのたる木に、水のせ懸がくるぐしになみたち
  ○こりばすら文字不分明。
浪合なみあい
一 此庭に歌の上じょうずはありと聞く、歌へながらも心はづかし
一 おんげんべりこおらいべり、山と花ござ是この御庭へさらゝすかれ
  ○雲繝縁、高麗縁なり。
一 まぎゑの台に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く
一 十七はちやうすひやけ御手おてにもぢをすやく廻まわしや御庭かゝやく
一 この御酒ごしゅ一つ引受ひきうけたもるなら、命長くじめうさかよる
一 さかなには鯛たいもすゞきもござれ共ども、おどにきこいしからのかるうめ
一 正しようぢ申や限なし、一礼申て立や友たつ、京みやこ
柱懸り
一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない〻
一 すかの子は生れておりれや山めぐる、我等も廻まわる庭めぐる〻
  ○すかの子は鹿の子なり。遠野の獅子踊の面は鹿のようなり。
一 これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの〻
  ○ちのみがきは鹿の角磨つのみがきなるべし。
一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの〻
  ○ちたは蔦つた。
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんが無なけれやぶろりふぐれる〻
一 京で九貫のから絵のびよぼ、三よへにさらりたてまはす
  ○びよぼは屏風びょうぶなり。三よへは三四重か、この歌最もおもしろし。
めず〻ぐり
一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ〻
  ○めず〻ぐりは鹿の妻択つまえらびなるべし。
一 鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな〻
一 女鹿めじかたづねていかんとして白山はくさんの御山かすみかゝる〻
  ○して、字は〆しめてとあり。不明
一 うるすやな風はかすみを吹き払て、今こそ女鹿あけてたちねる〻
  ○うるすやなは嬉うれしやななり。
一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる〻
一 笹ささのこのはの女鹿子めじしは、何とかくてもおひき出さる
一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの〻
一 奥のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき候そろそろ〻
一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな〻
一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの〻
一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる〻
一 沖のと中ちゅうの浜す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物〻
なげくさ
一 なげくさを如何いかな御人おひとは御出おいであつた、出た御人は心ありがたい
一 この代よを如何いかな大工は御指さしあた、四つ角かどて宝遊ばし〻
一 この御酒を如何な御酒だと思おぼし召めす、おどに聞いしが〻菊の酒〻
一 此銭このぜにを如何な銭たと思し召す、伊勢お八まち銭熊野参くまのまいりの遣つかひあまりか〻
一 此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし
  ○播磨檀紙はりまだんしにや。
一 あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり〻、おりめにそたかさなる
  ○いぢくなりはいずこなるなり。三内の字不明。仮かりにかくよめり。  
橋ほめ
参り来て この橋を 見申せや、如何なもう者一は 踏み初めたやら、渡るか くかいざるもの二
この御馬場を 見申せや、杉原七里 大門まで
門ほめ
参り来て この門を 見申せや、檜椹で 門立てて、これぞめでたい 白金の門
門の扉 押し開き 見申せや、新の御世だい
   ○
参り来て この御本堂を 見申せや、如何な大工は 建てたやら
建てた御人は 御手と柄、昔 飛騨の匠の 建てた寺なり
小島ぶし
小島では 檜椹で 門立てて、これぞめでたい 白金の門
白金の門 扉押し開き 見申せや、新の御世だい
八つ棟造りに 檜皮葺の、上に生いたる唐松
唐松の みぎり左に 涌く泉、汲めども呑めども つきひざるもの
朝日差す 夕日輝く 大寺なり、桜色の 稚児は百人
天から落つる 千代硯水、まつて五立たれる
馬屋ほめ
参り来て この御台所 見申せや、雌釜雄釜に 釜は十六
十六の釜で 御台炊く時は、四十八の馬で 朝草刈る
その馬で 朝草に 桔梗小萱を 刈り混ぜて、花で輝く 厩なり
輝く中の 鹿毛駒は、世帯上がれと 足掻きする
   ○
この庭に 歌の上手は ありと聞く、遊びながらも 心恥ずかし
我々は 昨日習いし 今日遊ぶ、そつ事御免なり
頌詞申しゃ 限りなし、一礼申して 立てや友だち
枡形ほめ
参り来て この枡を 見申せや、四方四角 枡形の庭なり
参り来て この宿を見申せや、人の情けの 宿と申す
町ほめ
参り来て この御町を 見申せや、竪町十五里 横七里、△△出羽二に 迷うな友だち
けんだんほめ
参り来て この検断様を 見申せや、御町真ん中に 旗を立て前
まいは立町 油町
検断殿は 二階座敷に 昼寝して、銭を枕に 金の手遊び
参り来て この御札見申せば、御師が色づけ あるまじき札
高き所は 城と申し、低き所は 城下と申すなり
橋ほめ
参り来て この橋を 見申せば、黄金の辻に 白金の橋
上ほめ
参り来て この御堂 見申せや、四方四面 楔一本
扇取り すず三取り、上さ参らば りそう四ある物
家ほめ
こりばすら五七に 黄金の垂木に、水乗せ懸くる ぐしに波たち
浪合
この庭に 歌の上手は ありと聞く、歌えながらも 心恥ずかし
おんげんべり こおらいべり、山と花茣蓙 これの御庭へ さらさら敷かれ
蒔絵の台に 玉の盃 寄り据えて、これの御庭へ 直し置く
十七は 銚子 提子 御手に持ち お酌回しゃ 御庭輝く
この御酒 ひとつ引き受け 給るなら、命長く 寿命栄える
魚には 鯛も鱸も ござれども、音に聞こえし 唐の唐梅
頌詞申しゃ 限りなし、一礼申して 立てや友たつ、京
柱懸り
仲立ち入れよや 仲入れろ、仲立ちなけりゃ 庭は素気ない 庭は素気ない
すかの子は 生まれておりりゃ 山めぐる、我らもめぐる 庭めぐる 庭めぐる
これの御庭 匂い柱の 立つときは、ちのみがき 若くなるもの 若くなるもの
松島の 松を育てて 見んとすれば、松に絡まる ちたの似非物 蔦の似非物
松島の 松に絡まる 蔦の葉も、縁がなけりゃ ぶろり解れる ぶろり解れる
京で九貫の 唐絵のびよぼ、三四重にさらり 立て回す
めずすぐり
仲立ち入れろや 仲入れろ、仲立ちなけりゃ 庭素気ない 庭素気ない
鹿の子は 生まれおりりゃ 山めぐる、我らもめぐる 庭をめぐるよ 庭をめぐるよ
女鹿訪ねて 行かんとして 白山の御山 霞かかる 霞かかる
うるすやな 風は霞を 吹き払って、今こそ女鹿 分けて訪ねる 分けて訪ねる
なんと女鹿は 隠れても 一叢薄 分けて訪ねる 分けて訪ねる
笹の木の葉の 女鹿子は、なんと隠れても 誘き出ださる
女鹿大鹿 振りを見ろ、鹿の心 都なるもの 都なるもの
奥の深山の 大鹿は 今年初めて 踊りでき候 踊りでき候
女鹿取られて あうがれて 心じくす くおろ鹿かな くおろ鹿かな
松島の 松を育てて 見んとすれば 松に絡まる 蔦の似非物 蔦の似非物
松島の 松に絡まる 蔦の葉も、縁がなけりゃ ぞろり解れる ぞろり解れる
沖の途中の 浜千鳥、ゆらり漕がれる そろり発つもの そろり発つもの
なげくさ
なげくさを 如何な御人は 御出しあった、出した御人は 心ありがたい
この台を 如何な大工は 御指しあった、四つ角で 宝遊ばし 宝遊ばし
この御酒を 如何な御酒だと 思し召す、音に聞こえし 加賀菊の酒 加賀菊の酒
この銭を 如何な銭だと 思し召す、伊勢お初散銭 熊野参りの 使い余りか 使い余りか
この紙を 如何な紙と 思し召す、はりまだんぜか 鹿島紙か、折り目に沿うた ひ遊ばし
扇の御所 いぢくなり、扇の御所 三内の宮、内で締めるは 要なり 要なり、折り目に沿うて重なる
著者による注釈
一 獅子踊りはさほどこの地方に古くからあるものではない。中世これを輸入したものであることを人はよく知っている
二 出羽の字も実は不明である
三、四 すずは数珠、りそうは利生か
五 こりばすら、文字はっきりせず
六 雲繝縁、高麗縁である
七 すかの子は鹿の子である
八 ちのみがきは鹿の角磨きであろう。遠野の獅子踊りの面は鹿のようである
九 ちたは蔦
一〇 びよぼは屏風である。三よへは三・四重か、この歌が最もおもしろい
一一 めずすぐりは鹿の妻選びであろう
一二 して、字は〆てとあり、不明
一三 うるすやなは嬉しやなである
一四 播磨檀紙か
一五 いぢくなりは、いずこであろう。三内の字、不明。仮に、こう読める
本集による注釈
歌は不明な点が多いため、訳は解釈の補助程度に読んでください。
一 猛者、亡者、とも読める
二 苦界去る者、との説あり
三、四 世代、世帯、か
五 待って、舞って、参って、とも読める
六 前、か
七 匂い柱、という語を用いた歌あり。香り柱、の意か
八 不明
九 心落ちす、か。心尽くす、とも読める
一〇 狂い、との説あり
一一 そいひ、か  
 

 

 
 

 

 
日本の伝説 / 柳田國男

 

再び世に送る言葉
日本は伝説の驚くほど多い国であります。以前はそれをよく覚えていて、話して聴かせようとする人がどの土地にも、五人も十人も有りました。ただ近頃は他に色々の新に考えなければならぬことが始まって、よろこんで斯こういう話を聴く者が少なくなった為に、次第に思い出す折が無く、忘れたりまちがえたりして行くのであります。私はそれを惜むの余り、先ず読書のすきな若い人たちの為に、この本を書いて見ました。伝説は斯ういうもの、こんな風にして昔から、伝わって居たものということを、この本を読んで始めて知ったと、言って来てくれた人も幾人かあります。
日本に伝説の数が其その様に多いのなら、もっと後から後から別な話を、書いて行ったらどうかと勧めて下さる方もありますが、それが私には中々出来ないのです。同じような言い伝えを、ただ沢山に並べて見ただけでは、面白い読みものにはなりにくい上に、わけをきかれた場合にそれに答える用意が、私にはまだととのわぬからであります。一つの伝説が日本国中、そこにもここにも散らばって居て、皆自分のところでは本当にあった事のように思って居るというのは、全く不思議な又面白いことで、何か是これには隠れた理由があるのですが、それが実はまだ明かになって居らぬのです。私と同様に何とかして之これを知ろうとする人が、続いて何人も出て来て勉強しなければなりません。その学問上の好奇心を植えつける為には、よっぽどかわった珍らしい話題を、掲げて置く必要があるので、そういう話題がちょっと得にくいのであります。白米城はくまいじょうの話というのを、今私は整理しかかって居ります。十三塚の伝説も遠からずまとめて見たいと思って居ますが、斯ういうのが果して若い読者たちの、熱心な疑いを誘うことが出来るかどうか。とにかくにこの本の中に書いたような単純でしかも色彩の鮮かな話は、そう多くはないのであります。
最近に私は「伝説」という小さな本を又一つ書きました。これは主として理論の方面から、日本に伝説の栄え成長した路筋を考えて見ようとしたものですが、曽かつて若い頃にこの「日本の伝説」を読んで、半分でも三分の一でも記憶して居て下さる人であったら、興味は恐らくやや深められたことと思います。それにつけてもこの第一の本が、今少しく平易に又力強く、事実を読む人の心に残して行くことの出来る文章だったらよかろうにと、考えずには居られません。それ故に今度は友人たちと相談をして、又よほど話し方を変えて見ました。日本の文章は、一般にやや耳馴れないむつかしい言葉を今までは使い過ぎたようであります。伝説などの如く久しい間、口の言葉でばかり伝わって居たものにはどうしても別の書き現わし方が入用かと思いますが、その用意もまだ私には欠けて居たのであります。新にこの本を見る諸君に、その点も合せて注意していただかなければなりません。
昭和十五年十一月  
はしがき
伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物の如く、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行くのであります。雀や頬白ほおじろは皆同じ顔をしていますが、梅や椿は一本々々に枝振りが変っているので、見覚えがあります。可愛い昔話の小鳥は、多くは伝説の森、草叢くさむらの中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の種子や花粉を、遠くまで運んでいるのもかれ等であります。自然を愛する人たちは、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和とを面白がりますが、学問はこれを二つに分けて、考えて見ようとするのが始めであります。
諸君の村の広場や学校の庭が、今は空地になって、なんの伝説の花も咲いていないということを、悲しむことは不必要であります。もとはそこにも、さまざまのいい伝えが、茂り栄えていたことがありました。そうして同じ日本の一つの島の中であるからには、形は少しずつ違っても、やっぱりこれと同じ種類の植物しか、生えていなかったこともたしかであります。私はその標本のただ二つ三つを、集めて来て諸君に見せるのであります。
植物にはそれを養うて大きく強くする力が、隠れてこの国の土と水と、日の光との中にあるのであります。歴史はちょうどこれを利用して、栽培する農業のようなものです。歴史の耕地が整頓して行けば、伝説の野山の狭くなるのも当り前であります。しかも日本の家の数は千五百万、家々の昔は三千年もあって、まだその片端のほんの少しだけが、歴史にひらかれているのであります。それ故に春は野に行き、藪やぶにはいって、木の芽や草の花の名を問うような心持ちをもって、散らばっている伝説を比べて見るようにしなければなりません。
しかし、小さな人たちは、ただ面白いお話のところだけを読んでお置きになったらいいでしょう。これが伝説の一つの木の中で、ちょうど昔話の小鳥が来てとまる枝のようなものであります。私は地方の伝説をなるたけ有名にするために、詳しく土地の名を書いて置きました。そうして皆さんが後に今一度読んで見られるように、少しばかりの説明を加えて置きました。
昭和四年の春  
咳(せき)のおば様

 

昔は東京にも、たくさんの珍しい伝説がありました。その中で、皆さんに少しは関係のあるようなお話をしてみましょう。
本所ほんじょの原庭町はらにわまちの証顕寺しょうけんじという寺の横町には、二尺ばかりのお婆さんの石の像があって、小さな人たちが咳が出て困る時に、このお婆さんに頼むと直じきに治るといいました。大きな石の笠をかぶったまま、しゃがんで両方の手で顎あごをささえ、鬼見たようなこわい顔をしてにらんでいましたが、いつも桃色の胸当てをしていたのは、治ったお礼に人が進上したものと思われます。子供たちは、これを咳のおば様と呼んでおりました。
百年ほど前までは、江戸にはまだ方々に、この石のおば様があったそうであります。築地つきじ二丁目の稲葉対馬守いなばつしまのかみという大名の中屋敷にも、有名な咳の婆さんがあって、百日咳などで難儀をする児童の親は、そっと門番に頼んで、この御屋敷の内へその石を拝みにはいりました。もとは老女の形によく似た二尺余りの天然の石だったともいいますが、いつの頃よりか、ちゃんと彫刻した石の像になって、しかも爺さんの像と二つ揃そろっていました。婆さんの方は幾分か柔和で小さく、爺さんは大きくて恐ろしい顔をしていたそうですが、おかしいことには、両人は甚だ仲が悪く、一つ所に置くと、きっと爺さんの方が倒されていたといって、少し引き離して別々にしてありました。咳の願掛けに行く人は、必ず豆や霰餅あられもちの炒いり物を持参して、煎せんじ茶と共にこれを両方の石の像に供えました。そうして最もよくきく頼み方は、始めに婆様に咳を治して下さいと一通り頼んでおいて、次ぎに爺様のところへ行ってこういうのだそうです。おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んで来ましたが、どうも婆どのの手際では覚束おぼつかない。何分御前様にもよろしく願いますといって帰る。そうすると殊に早く全快するという評判でありました。(十方庵遊歴雑記五編)
この仲のよくない爺婆の石像は、明治時代になって、暫しばらくどこへ行ったか行く方不明になっていましたが、後に隅田すみだ川東の牛島うしじまの弘福寺こうふくじへ引っ越していることが分りました。この寺は稲葉家の菩提所ぼだいしょで、築地の屋敷がなくなったから、ここへ持って行ったのでしたが、もうその時には喧嘩けんかなどはしないようになって二人仲よく並んでいました。そればかりでなく咳の婆様という名前も人が忘れてしまって、誰がいい出したものか、腰から下しもの病気を治してくれるといって、頼みに来る者が多くなっていました。そうしてお礼には履き物を持って来て上げるとよいということで、像の前にはいろいろの草履などが納めてあったそうです。(土俗談語)
食べ物を進上して口の病を治して貰った婆様に、後には足の病気を頼み、お礼に履き物を贈るようになったのは、ずいぶん面白い間違いだと思いますが、広島市の空鞘八幡そらざやはちまんというお社の脇にある道祖神さえのかみのほこらには、子供の咳の病が治るように、願掛けに来る人が多く、そのお供え物は、いずれも馬の沓くつであったそうです(碌々ろくろく雑話)。道祖神は道の神また旅行の神で、その上に非常に子供のすきな神様でありました。昔は村中の子供は、皆この神の氏子でありました。馬に乗って方々のお産のある家を訪ねて来て、生れた子の運勢をきめるのは、この神様だという昔話もありました。すなわち子供を可愛がる為に、馬の沓の入り用であった神なのであります。路を通る人が馬の沓や草鞋わらじを上げて行く神はどこに行ってもありますが、今では名前がいろいろにかわり、また土地によって話も少しずつ違って居ます。咳のおば様なども、もしかするとこの道祖神の御親類ではないか。それをこれから皆さんと共に私は少し考えて見たいのであります。
咳のおば様の石は東京だけでなく、元は他の県にもそちこちにありました。例えば川越かわごえの広済寺こうさいじというお寺の中にも、しやぶぎばばの石塔があって、咳で難儀をするのでお参りに来る人がたくさんにあったそうですが、今ではその石がどれだか、もうわからなくなりました。しわぶきは古い言葉で、咳のことであります。(入間いるま郡誌。埼玉県川越市喜多町)
甲州八田はったという村にあるしわぶき婆は、二貫目ばかりの三角な石で、これには炒り胡麻ごまとお茶とを供えて、小児が風をひいた時に祈りました。もとは行き倒れの旅の老女を埋めた墓印の石で、やたらに動かすと祟たたりがあるといっておそれておりました。(日本風俗志中巻。山梨県中巨摩なかこま郡百田ひゃくた村上八田組)
上総かずさの俵田たわらだという村の姥神うばがみ様は、近頃では子守神社といって小さなお宮になっていますが、ここでもある尊い御方の乳母が京都から来て、咳の病で亡くなったのを葬ったところといっております。それだから咳の病に願掛けをすれば治してくれるということで、土地の人は甘酒を持って来て供えました。そうして頼むと必ずよくなったという話であります。(上総国誌稿。千葉県君津郡小櫃こひつ村俵田字姥神台)
姥神はまた子安こやす様ともいって、最初から子供のお好きな路傍の神様でありました。それがだんだんに変って来て、後には乳母を神に祀まつったものと思うようになり、自分が生きているうちに咳で苦しんだから、お察しがあって子供たちの百日咳も、頼むとすぐに救うてもらうことが出来るように、信ずる人が多くなったのであります。
下総しもうさの臼井うすいの町でも、城趾しろあとから少し東南に離れた田の中に、おたつ様という石の小さなほこらがあって、そこには村の人たちが麦こがしとお茶とを上げて、咳の出る病を祈っておりました。臼井の町の伝説では、おたつ様は昔臼井竹若丸うすいたけわかまるという幼い殿様の乳母でありました。志津胤氏しづのたねうじという者が臼井の城を攻め落した時に、おたつはかいがいしく若君を助けて遁のがれさせ、自分はこのあたりの沼の蘆原あしはらの中に隠れていました。追手の軍勢が少しも知らずに、沼の側を通り過ぎようとしたのに、あいにく咳が出たので見つかって、乳母のおたつは殺されてしまいました。それが恨みの種であるゆえに、死んで後までも咳をする子供を見ると、治してやらずにはおられぬのであろうと、土地の人たちも考えていたようであります。麦こがしは炒いり麦をはたいて作った粉であって、皆さんも御承知のとおり、食べるとよく咳が出るものであります。それを食べて今一度、咳の出る苦しさを思い出して下さいというつもりであったと見えて、近頃では焼き蕃椒とうがらしを供える人さえあるという話でありました。それからお茶を添えるのは、こがしにむせた時に茶を飲むと、それで咳が鎮まるからであろうと思います。(利根川図誌等。千葉県印旛いんば郡臼井町臼井)
しかし東京などの咳のおば様は、別にそういう来歴がなくても、やはり頼むと子供の百日咳を治してくれたといいますから、この伝説は後で出来たものかも知れません。築地の稲葉家の屋敷の咳の爺婆は、以前は小田原から箱根へ行く路の、風祭かざまつりというところの路傍にあったのを、江戸へ持って来たものだということであります。風外ふうがいという僧が、庵いおりを作ってそこに住み、後に出て行く時に残して置いたので、おおかた風外の父母の像であろうといいましたが(相中襍志ざっし)、親の像を残して去る者もないわけですから、やはりこれも道の神の二つ石であったろうかと思います。山の峠や橋の袂たもと、または風祭のように道路の両方から丘の迫ったところには、よく男女の石の神が祀ってありました。箱根から熱海あたみの方へ越える日金ひがねの頂上などにも、おそろしい顔をした石の像が二つあって、その一つを閻魔えんまさま、その一つを三途河そうずかの婆様だといいました。路を行く人が銭を紙に包んで、わんと開いた口の中へ、入れて行く者もあるそうです。しかしそこではまだ咳の病を、祈るということは聞いていません。
浅草には今から四十年ほど前まで、姥うばが淵ふちという池が小さくなって残っていて、一つ家石の枕の物凄ものすごい昔話が、語り伝えられておりました。浅草の観音様が美しい少年に化けて、鬼婆の家に来て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌つちで撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵という名もそれから起ったなどといいましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じていたそうであります。これは竹の筒に酒を入れて、岸の木の枝に掛けて供えると、まもなく全快したということですから、姥神も、もとはやはり子供をまもって下さる神であったのです。(江戸名所記)
何か必ずわけのあることと思いますが、姥神はたいてい水の畔ほとりに祀ってありました。それで臼井のおたつ様のように、水の中で死んだ女の霊が残っているというように、説明する話が多くなったのであります。静岡の市から少し東、東海道の松並木から四五十間北へはいったところにも、有名な一つの姥が池がありました。ここでは旅人が池の岸に来て「姥甲斐かいない」と大きな声で呼ぶと、忽たちまち池の水が湧わきあがるといっておりました。「甲斐ない」というのは、今日の言葉で、「だめだなあ」ということであります。それについていろいろの昔話が伝わっているようですが、やはりその中にも咳の病のことをいう者があります。駿国雑志すんこくざっしという書物に載せている話は、昔ある家の乳母が主人の子を抱いてこの池の傍そばに来た時に、その子供が咳をして大そう苦しがるので、水をくんで飲ませようと思って、下に置いてちょっと目を放すと、その間に子供は苦しみのあまり、転げて池に落ちて死んでしまった。乳母も親たちに申しわけがなくて、続いて身を投げて死んだ。それだから「姥甲斐ない」というとくやしがり、また願掛けをすると咳が治るのだというのであります。ところが、うばは金谷かなや長者という大家の乳人めのとで、若君の咳の病がなおるように、この家の傍の石の地蔵様に祈り、わが身を投げて主人の稚児の命に代った、それでその子の咳が治ったばかりか、後々いつまでもこの病にかかる者を、救うのであるといっているものもあります。伝説はもともとこういうふうに聴くたびに少しずつ話が変っているのが普通ですが、とにかくにこの池のそばには咳の姥神が祀ってあり、ある時代にはそれが石の地蔵様になっていたらしいのであります。そうして地蔵様も道の神で、また非常に子供のすきな御方でありました。(安倍郡誌。静岡県清水市入江町元追分)
姥神がもと子安様と同じ神で、常に子供の安全を守りたもう神であるならば、どうして後々は咳の病ばかりを、治して下さるということになったのであろうか、何かこれには思い違いがあったのではないかということを、考えて見ようとした人もありました。上総国の南の端に関という村があって、以前そこには高さ約五尺、周囲二十八尺ばかり、形は八角で上に穴のある石が二つありました。大昔この村に関所の門があって、これはその土台の石であるということで、土地の人は関のおば石と呼んでおりました。おば石は御場石と書くのがよいという者もありましたが、やはりほんとうは姥石であったようで、ちかごろ道普請のために二つある石の一方を取り除のけたところが、それから村内に悪いことばかりが続くので、また代りの石を見つけて南手の岡の上にすえて、これを姥神といって祀ることになりました。もとの地に残っている方の一つの石も、姥石だと思っている人が多いようであります。そうして他の地方にある神石と同様に、この百年ほどの間に重さが倍になったという説もありました。(上総町村誌。千葉県君津郡関村関)
咳のおば様は実は関の姥神であったのを、せきというところから人が咳の病ばかりに、祈るようになったのであろうという説を、行智法印ぎょうちほういんという江戸の学者が、もう百年余りも前に述べていますが(甲子夜話かつしやわ六十三)、この人は上総の関村に、おば石があることなどは知らなかったのであります。関の姥神はもちろん、上総と安房あわとの堺さかいばかりにあったのではありません。一番有名なものは京都から近江おうみへ越える逢阪おうさかの関に、百歳堂ももとせどうといってあったのも姥神らしいという話であります。後には関寺小町せきでらこまちといって、小野小町が年を取ってからここにいたという話があり、今の木像は短冊と筆とを手に持った老女の姿になっていますが、以前はこれももっとおそろしい顔をした石の像であり、その前はただの天然の石であったかも知れませぬ。せきはすなわち塞せき留める意味で、道祖神のさえも同じことだ、と行智法印などはいっております。いかにも関東地方の道祖神には、石に男と女の像を彫刻したものが多く、姥石の方にも実は爺石と二つ並んだものが、もとはたくさんにあったのでありますが、人が婆様ばかりを大切にするようになって、二つの石はだんだん仲が悪くなりました。
これには閻魔さまの信仰が盛んになるにつれて、三途河の婆様の木像を方々のお寺に祭るようになったことが、一つの原因であったかも知れません。お寺ではこのこわい顔をした婆のことを、奪衣婆だつえばといっております。地獄の途中の三途河という川の岸に関をすえて、この世から行く悪い亡者もうじゃの、衣類を剥はぎ取るというので有名になっております。仏説地蔵菩薩発心因縁十王経ぶっせつじぞうぼさつほっしんいんねんじゅうおうきょうという日本でつくった御経に、この事が詳しく書いてありまして、それを見ると奪衣婆も決して後家ではないのです。懸衣翁けんえおうというのがその爺の方の名でありました。
「婆鬼は盗業を警いましめて両手の指を折り、翁鬼は無義を悪にくんで頭足ずそくを一所に逼せばむ」ともあって、両人は夫婦のように見えるのでありますが、木像は大抵婆の方ばかりを造ってありました。これにも深いわけがあるのですが、皆さんにはそんな話はつまらないでしょう。
とにかくにこの奪衣婆を拝むようになってから、姥神は多くは一人になり、またその顔が次第におそろしくなりました。江戸で関のおば様に豆炒りを上げるようになった頃から、市内の寺にも数十箇所の木像の婆様が出来、今でもまだそちこちで盆にはお詣まいりをする者があります。それからはやり病などの盛んな時に、こわい顔をした婆のはいって来るのを見たというような話が、だんだんに多くなったようであります。甘酒婆といって、甘酒はないかといいながらはいって来る婆が、疫病神だなどというひょうばんもよく行われました。可愛い子供をもつ親たちは、こういう場合には急いでどこかの婆神様にお詣りしました。関のおばさまが江戸でこのように評判になったのも、私はきっと質たちの悪い感冒の、はやった年などが始めであったろうと思っています。
それにしてもせきのおば様というような、古い名前が残っていながら、どうしてこんな石の婆の像のところへ、子供の病気を相談に行くのかは、もうわからなくなっていたようであります。三途河の婆様の三途河という言葉なども、やっぱり関ということでありました。三途河はにせものの十王経には葬頭河そうずかとも書いてありますが、そんな地名が仏教の方に前からあったわけでなく、そうずかは日本語でただ界さかいということであったのを、後に誰かがこんなむつかしい字をあてはめたのであります。富士山その他の霊山の登り口または大きなお社に詣る路には、大抵はそういう場所があります。精進川しょうじがわと書くのが最も普通で、実際そこには水の流れがあり、参詣さんけいの人はその水で身を潔きよめたようですが、それが初めからの言葉の意味を、表したものであるかどうかはまだ確でありません。ただそこが神様の領分の堺さかいであるために、いよいよ厳重に身をつつしみ、また堺を守る神を拝んだようであります。昔の関の姥神は、おおかた連れ合の爺神と共に、ここで祀られた石の神であったろうと、私などは考えています。それを仏教の方に働いていた人たちが、持って行って地獄に行く路の、三瀬川みつせがわの鬼婆にしたのであります。それだからこの世にある諸国のそうずかには、多くは奪衣婆の像を祀ってあるのであります。
日本本土で一番北の端にあるのは、奥州外南部そとなんぶの正津川しょうづがわ村の姥堂で、私も一度お参りをしたことがあります。東海道では尾張おわりの熱田あつたの町にある姥堂は、古くから有名なものでありました。これは熱田神宮の精進川に架けた御姥子おんばこ橋、一名さんだが橋の袂たもとにある御堂で、もとは一丈六尺の奪衣婆の木像が置いてあった為に、熱田神宮は御本地ごほんじ閻魔王宮だなどとおそれ多いことをいう者さえありましたが(紹巴しょうは富士見道記)、これは姥神のもとのお姿を、忘れてしまった人のいうことであります。十王経はうその御経でしたが、これに基づいて地獄の絵解きをする者が全国を旅行しており、それがまた婦人でありました為に、わずかな間に方々の御姥子様が、見るもおそろしい奪衣婆になってしまいました。以前はこれよりずっとやさしい顔であったことと思います。そうでなければわざわざ地獄からやって来て、活きた人間の子供のために、こんなに親切に心配をしてくれるはずはないからであります。
今でも三途河の婆様はこわい顔をしながら、子供たちの友人であります。盆の十六日には藪入りの少年が遊びに来ます。そればかりでなく、もっと小さな子供の為にも、頼まれると乳の心配をしたなどというのは、まったくの商売ちがいのように見えますが、それがかえって昔からの、姥神の役目であったのです。羽後うごの金沢の専光寺せんこうじのばばさんは、寺では三途河の姥だといっていますが、乳の少い母親が願掛けをすると、必ずたくさんに出るようになるといいます。この像は昔専光寺の開山蓮開上人れんかいしょうにんの夢に一人の女が現れて、われは小野寺の別当林の洞穴ほらあなの中に、自分の像と大日如来の像とを彫刻して置いた。早く持って来て祭るがよいと教えてくれた。さっそく行って見るとその通りの二つの像があったので、迎えて来たといい伝えています。雄勝おかちの小野寺は芍薬しゃくやくの名所で、小野小町を祀ったという寺がありますから、そこから迎えて来た木像ならば、たとえ小町ほどに美しくはなくても、まさか鬼見たようではなかったろうと思います。(秋田県案内。秋田県仙北せんぼく郡金沢町荒町)
荘内しょうない大泉村の天王寺のしょうずかの姥も、乳不足の婦人が祈願すれば乳を増すといって、多くの信者がありました。これも至って古い作の木像だそうですから、後に名前だけが改まったものであろうと思います。(三郡雑記。山形県西田川郡大泉村下清水)
遠州見付みつけの大地蔵堂の内にある奪衣婆の像は、新しいものだろうと思いますが、ここでも子供の無事成長を祈る人が多く、そのお礼には子供の草履を上げました。新に願掛けをする者は、その草履一足を借りて行き、お礼参りの時にはそれを二足にして納めるので、いつも地蔵堂の中は、子供の草履で一杯であったといいます。(見付次第。静岡県磐田いわた郡見付町)
それから上州の高崎市には、大師石という一つの霊石があって、その附近には弘法こうぼう大師の作と称する石像の婆様があり、これをしょうずかの婆石といっておりました。これには咳をわずらう人が祈願をして、しるしがあればやはり麦こがしを持って来て供えたということであります。(高崎志。群馬県高崎市赤坂町)
越後では長岡の長福寺という寺に、古い十王堂があって閻魔様を祀っていましたが、ここでは米の炒り粉を供えて咳の病を祈ると、立ちどころに全快するということで、咳の十王といえば誰知らぬ者もなかったそうです。閻魔に米のこがしを上げるのは珍しい話ですが、ことによるともとは見付の地蔵堂の草履のように、同居をしていたもとの姥様のおつきあいであったかも知れません。閻魔と地蔵とは同じ一つの神の、両面であるといった人もあります。もしそうだったら地蔵は子供の世話役ですから、わざわざこわい顔をした婆さんに頼む必要はないのですが、以前はこれがわれわれの子安神であった上に、いつも御堂の端の方に出ていて、参詣人の目につき易いところから、子供やその母親の願いごとは、やはりその婆様の取り次ぎを頼む方が、便利であったものと思われます。実際また人間の方でも、地蔵や閻魔の祭りに加わった者は、つい近い頃まで総て皆婦人でありました。それが子安姥神の三途河の婆になって後も、永くもてはやされていた一つの原因であろうと思います。 
驚き清水(しみず)

 

乳母が大切な主人の子を水の中に落して、自分も申しわけのために身を投じて死んだという話は、駿河するがの姥うばが池の他にもまだ方々にあります。これだけならばほんとうにあったことかと思われますが、なおその外にもこれによく似た不思議話があるので、それが伝説であることが知れるのであります。
越後の蓮華寺れんげじ村の姨おばが井という古井戸などもその一つで、そこでも人が井戸の傍そばに近よって、大きな声でおばと呼ぶと、忽たちまち井戸の底からしきりに泡あわが浮んで来て、ちょうどその声に答えるようであるといいました。或あるいはこれを疑う者が、かりにあにと呼び、またはいもうとと呼んで見ても、まるで知らぬ顔をしてすこしも泡が立たなかったということであります。(温故之栞おんこのしおり十四。新潟県三島郡大津村蓮華寺字仏ノ入)
すなわち死んでもう久しくなった後まで、姨の霊が水の中に留とどまっていると考えさせられた人が多かったのであります。同じ国の曽地そじ峠というところには、またおまんが井というのがありました。これも傍に立っておまんおまんと呼ぶと、きっと水の面に小波さざなみが起ったといいます。おまんはこの近くに住んでいた某なにがしという武士さむらいの女房でありました。夫に憎まれて、殺されてこの井戸に投げ込まれたゆえに、いつまでもそのうらみが水の中に残っているのだということであります。(高木氏の日本伝説集。新潟県刈羽かりわ郡中通なかどおり村曽地)
これとよく似た伝説は、上州伊勢崎の近くの書上原かきあげはらというところにもありました。それは阿満あまが池という小さな池があって、その岸に立って人があまと呼ぶと、清水がすぐにその声に答えて下から湧わき上り、「しばしば呼べばしばしば出づ」といっております。(伊勢崎風土記。群馬県佐波さわ郡殖蓮うえはす村上植木)
あまもおまんもまた姨が井のおばも、その声がまことに近いのは、何か理由があることかも知れません。駿河の姥が池でも人がうばと呼べば湧き上り、姥甲斐なしといえばいよいよ高く泡を吹いて、水を動かしたという話であります。清水の湧き出る池や井戸では、永くじっとみていると泡が上り、また周りの柔かい土を踏むと、水が動くこともあるかと思いますが、ただ大きな声で呼ぶと呼ばぬとで、湧いたり止ったりすることがあるというのは奇妙です。しかしこれも早くから評判になっていて、人が特別に注意するために、こういうことがわかったのかも知れません。
同じような不思議は実はまだ方々にありました。それを少しばかりお話して見ましょう。
摂津せっつ有馬ありまの温泉には、人が近くへ寄って大声で悪口をいうと、忽ち湧き上るという小さな湯口があって、これを後妻湯うわなりのゆと呼んでおりました。うわなりという言葉は後妻のことですが、後に女の喧嘩けんかのことをいうようになってからは、別に悪口をする者はなくても、若い娘などが美しく化粧をして湯の傍に行くと、すぐに怒って湧き立つという評判になり、それを妬ねたみの湯という人もありました。これなどはよほど姥が池の話と似ております。(摂津名所図会。兵庫県有馬郡有馬町)
野州やしゅうの那須の温泉でも、もとは湯本から三町ばかり離れて、教伝きょうでん地獄というところがありました。人がそこへ行って、「教伝甲斐ない」と大きな声でどなると、たちまちぐらぐらと湯が湧いたといいます。昔教伝という男は山へ薪たきぎを採りに行く時に、朝飯が遅くなって友だちが先に行くのに腹を立てて、母親を踏み倒して出かけたので、其その罰でその魂がいつまでも、こんなところにいるのだという話もありました。(因果物語。栃木県那須郡那須村湯本)
伊豆の熱海にはまた平左衛門湯へいざえもんゆというのがあって、「平左衛門甲斐ない」とからかうと湯が湧くといい、旅の人がそれを面白がるので、村の子供たちが銭をもらって、呼ばって見せたということであります。それが多分今の間歇泉かんけつせんのことであろうと思いますが、前にはその東に清左衛門湯、一名法斎湯ほうさいゆというのもあって、そこでも大声に念仏を唱えて暫しばらく見ていると、高く湯が湧き上るといっておりました。法斎も人の名のように聞えますが、実は法斎念仏という踊りの念仏のことで、それだから法斎念仏川とも呼んでおりました。念仏でなくとも、高声に何か物をいえば湧くのだといった人もありますが、だまって見ていても自然に湧き上ったのかも知れません。(広益俗説弁遺篇其他。静岡県田方たがた郡熱海町)
温泉ではなくとも、念仏を唱えると水がわくという池は方々にありました。京都の西の友岡村では、百姓太右衛門という人の屋敷の後に、いつもは水がなくて、岸に立って念仏を申すと、忽ち湧き出すという池があって、それで念仏池といっておりました。近頃はどうなったか、私はまだ行って見たことがありません。(緘石録。京都府乙訓おとくに郡新神足村友岡)
美濃みのの谷汲たにぐみの念仏池は、三十三所の観音の霊場である為に、はやくから有名でありました。池には小さな橋が架かっていて、これを念仏橋といい、橋の下には石塔が一つあり、橋からその石塔に向って念仏を唱えると、水面に珠の如く沸々と泡が立つ。しずかに唱えればしずかに立ち、責め念仏といって急いで唱えると、泡もこれに応じてたくさんに浮んだという話であります。(諸国里人談。岐阜県揖斐いび郡谷汲村)
この県には今一つ、伊自良いしらの念仏池というのがありました。やはり同じ伝統があったのかと思います。少し甘味があるというくらい良い清水で、皮膚病の人などはこの水を汲んで塗ると、すぐに治るとまでいっておりました。(稿本美濃誌。岐阜県山県郡上伊自良村)
上総の八重原やえはらという村でも小学校の裏手に、念仏池というのが今でもあるそうです。これは泡ではなく池の畔ほとりに立って念仏を唱えて見ていると、水の底から忽ち清い砂を吹き出すというのは、やはり清水がわいているのであります。(伝説叢書上総の巻。千葉県君津郡八重原村)
これとちょうど正反対の例は、陸前の岩出山いわでやまの近く、うとう阪という阪の脇にありました。いつも湧き上って底から砂を吹いていますが、人がその側に近づいて南無阿弥陀仏なむあみだぶつを唱えて手を打てば、暫くの間は湧き上ることが止やむというのです。そのくせ泉の名を驚きの清水と呼んでおりました。(撫子日記。宮城県玉造たまつくり郡岩出山町)
驚きの清水というのは、普通の池や泉とちがって、人のような感覚をもった活きた水ということであったようです。豊後ぶんご風土記という千年あまりも前の書物にも、そんな話が書いてあります。たぶん今の別府べっぷの温泉の近くでありましょうが、玖倍利くべり湯の井という温泉は、いつも黒い泥が一ぱいになって湯は流れないが、人がこっそりと湯口の傍に近より、ふいに大きな声を出して何かいうと、驚き鳴って二丈あまりも湧きあがるといっているのであります。それが後になると念仏の話ばかり多くなったのは、つまり念仏が非常にはやったからであると思います。この国でも田野の千町牟田せんちょうむたには、朝日長者の屋敷跡というところがあって、そこには念仏水という小さな池がありました。人がその岸に立って南無阿弥陀仏を唱えると、水もこれに応じて泡を立て、ぶつぶつといったという話が残っています。(豊薩ほうさつ軍記。大分県玖珠くす郡飯田村田野)
それからこの県の東の沖にある姫島という島では、拍子水ひょうしみずと名づけて、手を叩けばその響きに応じて、迸ほとばしり流れるという泉があって、これを姫島の七不思議の一つに算かぞえておりました。この島の神様赤水あかみず明神は姫神でした。この水を掬くんで歯をお染めになろうとすると水の色が赤錆あかさび色であったので、また銕漿水おはぐろみずという名前もありました。お社はその泉の前の岩の上にあり、御神体は筆を手に持って、歯を染めようとする女の御姿みすがたでありました。不思議なことにはただ手拍子につれて水が湧くというばかりでなく、胃腸の悪い人はこの水を飲むと治り、また皮膚病にも塗れば治ったということは、美濃の伊自良の念仏池などと同じでありました。(日女島ひめじま考等。大分県東国東くにさき郡姫島村)
支那にもこれとよく似た泉が方々にあったそうで、土地によっていろいろの名をつけております。あるところでは咄泉とつせんといっておりました。どなると湧き出す清水ということであります。あるところでは笑泉しょうせん。人が笑い声を出すと水が急に湧いたというので、すなわち驚きの清水も同じ意味であります。喜客泉は、人が来ると喜んでわく清水、撫掌泉ぶしょうせんといったのは、手を打つとその声に応じて流れるという意味でありました。日本でもぜひ念仏を唱えなければ、湧き出さぬというわけでもなかったのであります。実地に行って見ないと確なことは知れませんが、大抵は周囲の土が柔かで、足踏みの力が水に響いたのではないかと思います。常陸ひたちの青柳あおやぎという村の近くには、泉の杜もりというお社があって、そこの清水も人馬の足音を聞けば、湧き返ること煮え湯のようであるといい、それで活き水と呼び、また出水川いずみがわ三日みかの原はここだともいう人がありました。(広益俗説弁遺篇。茨城県那珂なか郡柳河村青柳)
甲州佐久さく神社の七釜ななかまの御手洗みたらしという清水なども、人がその傍を通ると水がたちまち湧きあがり、細かな砂が浮き乱れて、珍しい見物であるという話であります。ただ近くに行っただけですぐに湧くくらいですから、南無阿弥陀仏といったり、姥甲斐ないとでもいおうものなら、もちろん盛んに湧き上ることと思いますが、ここでは誰もそんなことをして見ようとはしなかっただけであります。(明治神社誌料。山梨県東八代ひがしやつしろ郡富士見村河内)
昔の人たちは飲み水を見つけることが、今よりもずっと下手でありました。井戸を掘って地面の底の水を汲み上げることは、永い間知らなかったのであります。それだからわざわざ川や池に出かけたり、または筧かけひというものを架けて、遠くから水を引いて来たので、あまり離れたところには家を建てて住むことが出来ませんでした。たまに思いがけない土地に泉を見出すと、喜んでそこに神様を祀り。それからおいおいにその周囲に村を作り、また旅人もそこを通って行きました。水がないので一番困ったのは旅の人でありますが、その中には水を見つけることが普通の人よりも上手な者があって、土地の様子を見て地下に水のあることを察し、井戸を掘ることを教えたのも、彼等であったろうということであります。諸国の山や野を自由にあるいていた行脚あんぎゃの僧、ことに空也上人くうやしょうにんという人などが、多くの村々に良い泉を見立てて残して行ったということで、永く住民に感謝せられております。空也はわが国に念仏の教えを弘ひろめた元祖の上人でありました。後の世にその道を慕う人たちは、いつでも美しい清水を汲むたびに、必ずこの上人の名を想い出しました。阿弥陀の井という古い井戸が各地に多いのは、多分その水のほとりにおいて、しばしば念仏の行をしたためであろうと思います。空也派の念仏は多くの人が集って来て、踊り狂いつつ合唱する念仏でありました。念仏池の不思議が土地の人に注意せられるようになったのも、それにはそれだけの原因があったのであります。しかしそれだけの原因からでは、他のいろいろな驚き清水、おまんが井や阿満が池の伝説は出て来なかったろうと思います。念仏の僧たちが諸国を行脚してあるくよりもなお以前から、水の恵みを大切に感じて、そこに神様を祭ってそのお力を敬うていたことが、むしろ念仏の信仰を泉のへんに引きつけたのかも知れません。そうしてその神様が、後に姥神の名をもって知られた子安の神であったことは、まだこれからお話して見ようと思う多くの伝説によって、おいおいにわかって来るのであります。 
大師講の由来

 

伝説の上では、空也上人よりもなお弘く日本国中をあるき廻って、もっとたくさんの清い泉を、村々の住民のために見つけてやった御大師様という人がありました。大抵の土地ではその御大師様を、高野こうやの弘法大師のことだと思っていましたが、歴史の弘法大師は三十三の歳に、支那で仏法の修業をして帰って来てから、三十年の間に高野山を開き、むつかしい多くの書物を残し、また京都の人のために大切ないろいろの為事しごとをしていて、そう遠方まで旅行をすることの出来なかった人であります。こういうえらい方だから、亡くなったと見せてほんとうはいつまでも国々を巡って修業していられるのであろうと思っていた人も少くはなかったので、こんな伝説が弘く行われたのでもありましょう。高野の大師堂では、毎年四月二十一日の御衣おころも替えに、大師堂の御像の衣を替えて見ると、いつもその一年の間に衣の裾が切れ、泥に汚れていました。それが今でも人に知られずこっそりと、この大師がわれわれの村をあるいておられる証拠だなどという人もありました。
とにかくに伝説の弘法大師は、どんな田舎の村にでもよく出かけました。その記念として残っている不思議話は、どれもこれも皆似ていますが、中でも数の多いのは今まで水のなかった土地に、美しくまた豊なる清水を与えて行ったという話でありました。東日本の方は大抵は弘法井、または弘法池などといい、九州ではただ御大師様水と呼んでおります。もとは大師様とばかりいっていたのを、後に大師ならば弘法大師であろうと、思う者が多くなったのであります。あんまり同じような話がたくさんにあって、いくつも並べて見てもつまりませんから、私はただ飛び飛びに今知っている話だけを書いて置きます。皆さんも誰かに聞いて御覧なさい。きっと近くの村にこういういい伝えがあって、それにはいつでも女が出てきます。その女がほんとうは関の姥様おばさまであったのであります。
普通は飲み水の十分に得られないような土地に、こういう昔話が数多く伝わっています。人がいつまでも忘れられないよろこびの心を、起さずにはいられなかったからであろうと思います。石川県の能美のみ郡なども、村々に弘法清水があって、いずれも大師の来られなかった前の頃の、水の不自由を語っております。例えば粟津あわづ村井いの口くちの弘法の池は、村の北の端にある共同井戸でありますが、昔ここにはまだ一つの泉もなかった頃に、ある老婆が米を洗う水を遠くから汲くんで来たところへ、ちょうど大師様が来合せて、喉のどが乾いたからその水を飲ませよといわれました。大切な水を惜しげもなくこころよくさし上げますと、そんなに水が不自由なら一つ井戸を授けようといって、旅の杖つえを地面に突き立てると、忽たちまちそこからいい水が流れ出して、この池になったといっております。鳥越とりこし村の釜清水かましみずという部落なども、釜池という清水が村の名になるほど、今では有名なものになっていますが、もとはやはり水がすくなくて、わざわざ手取てとり川まで汲みに行っておりました。土地の旧家の次郎左衛門という人の先祖の婆さまが、親切にその水を大師に進めたお礼に、家の前にこの池をこしらえて下されたのであります。それだから今でも池の岸には大師堂を建て、水の恩を感謝しているということであります。花阪はなさかという村にももとは良い水がなくて、ある家の老女が遠方から汲んで来たのを、大師様に飲ませました。そうするとまた杖をさして、ここを掘って見よといって行かれました。それが今日の花坂の弘法池であります。ところがその近くの打越うちこしという村では、今でも井戸がなくて毎日河へ水汲みに出かけます。これはまた昔その村の老婆が、大師様が水をほしいといわれた時に、腰巻を洗う水を勧めたその罰だと申します。湊みなとという村にも以前は二つまで弘法大師の清水があって、今ではその一つは手取川の堤の下になってしまいましたが、これも大師が杖のさきで、突き出した泉であるといっておりました。ところがその隣りの吉原という村には、そういう結構な井戸がないばかりでなく、今でも吉原の赤脛あかすねといって、村の人が股引ももひきをはくと病気になるといい伝えて、冬も赤い脚を出しているのは、やはりある姥が股引を洗濯していて、せっかく水を一ぱいくれといわれた弘法大師に、その洗い水を打ち掛けたからだといっております。良い姥、悪い姥の話は、まるで花咲爺、または舌切り雀などと同じようではありませんか。(以上みな能美郡誌)
それから能登のとの方では羽阪はざかという海岸の村では、昔弘法大師がこのへんを通って水を求められた時に、情なくも惜しんで上げなかったため、大師は腹を立てて一村の水をしまい込んでおしまいになったといって、今でもどこを掘って見ても水に銕気かなけがあって使うことが出来ず、仕方なしに食べ物には川の水を汲んで来るという話でありました。(能登国名跡志。石川県鹿島郡鳥尾村羽阪)
また羽咋はくい郡の末吉すえよしという村でも、水を惜しんで大師に与えなかったために、今に良い清水を得ることが出来ぬといっていますが、その近くの志加浦上野しがうらうえのという部落では親切にしたので、大師はそのお礼にそばの岩を指さすと、忽ちその岩の中から水が湧いたといっています。そして名産の志賀晒布しがざらしまた能登縮のとちぢみをこの水で晒さらして、いつまでもそのめぐみをうけているということであります。(郷土研究三編。石川県羽咋郡志加浦村上野)
若狭わかさの関谷川原せきやがわらという所は、比治ひじ川の水筋がありながら、ふだんは水がなくして大雨の時にばかり、一ぱいになって渡ることの出来ない困った川でありました。これも昔この村の老女が一人、川に出て洗濯しているおりに、僧空海が行脚して来てのどがかわいたので、水でも貰いたいとこの老女にいわれたところが、この村には飲み水がありませんと、すげなく断りました。それを非常に立腹して唱えごとをしてから川の水をことごとく地の下を流れて行くことになって、村ではなんの役にも立たぬ川になってしまったのだそうです。(若狭郡県志。福井県大飯おおい郡青あおノ郷ごう村関屋)
近江の湖水の北にある今市いまいちという村でも、村には共同の井戸が一つあるだけで、それがまたすぐれて良い水でありました。これも弘法大師が諸国を歩きまわって、ちょうどこの村に来て一人の若い娘に出逢い、水が飲みたいといわれました。すると親切に遠いところへ汲みにいって、久しい間大師を待たせましたので、大師がそのわけを聴いて気の毒に思い、持っていた杖でそこいらの岩の間を突かれると、すなわち清水が湧き出たのがこの井戸であるといいます。(郷土研究二編。滋賀県伊香いか郡片岡村今市)
伊勢の仁田にた村では井戸世古いどせこの二つ井といって、一つは濁って洗濯にしか使われず、その隣りの井戸はまことによい水でありました。やはり老いたる女が洗濯をしているところへ、弘法大師が来て水を求めた時に、その水は悪いからといって、わざわざたいへん遠いところまで行って汲んで来てくれましたので、大師がそれは困るだろうといって、杖を濁り井のすぐ脇の地面に揷さすと、そこからこのような清い泉が湧き出たというのであります。(伊勢名勝誌。三重県多気たき郡佐奈さな村仁田)
紀州は弘法大師の永くおられた国だけに、幾つかの名水が大抵はこの大師のお蔭ということになっています。日高ひだか郡ばかりでも弘法井は南部みなべの東吉田ひがしよしだ、上南部の熊岡、東内原ひがしうちはらの原谷はらたににもあり、西内原の池田の大師堂の近くにもありました。船津ふなつの阪本の弘法井は、今でも路通る人が花を上げお賽銭さいせんを投げて行きます。高家たかいえの水飲谷みずのみだににあるのは、弘法大師が指先で穿ほったといって結構な水であります。南部の旧熊野街道の山路に、今一つある弘法井などは、親切な老婆が汲んで来た水が、千里の浜まで汲みにいったものだという話を聞いて、それはたいへんなことだといって、大師が錫杖しゃくじょうのさきで、穿って下さった井戸だといっております。(以上みな南紀土俗資料)
伊都いと郡の野村という所などは、弘法大師が杖で突いてから涌わき出したと伝わって、幅五尺ほどの泉が二十五間もある岸の上から落ちて、広い区域の田地を潤しています。話は残っているかどうか知りませぬが、それを今でも姥滝というのであります。杖つえが藪やぶという村にも大師が杖で穿ったという加持水かじすいの井戸があって、その杖を投げて置かれたら、それが成長して藪になったといい、村の名までがそれから出ているのであります。(紀伊続風土記。和歌山県伊都郡高野村杖ヶ藪)
こんな話は幾らでもありますから、もういいかげんにして置きましょう。四国などは大師の八十八箇所もあるくらいですから、この突きさした杖に根が生えて、だんだん成長したのだという大木の数だけでも、数え切れないほどたくさんにあり、悪い婆さんと善い婆さんとが、たった一杯の水を惜しんだか与えたかによって、片方はいつまでも井戸の水が赤くて飲まれず、他の片方はこんな良い水を大師様に貰ったという伝説が、もう昔話のようになって多くの村の子供に語り伝えられております。
杖の清水の話の中でも、殊に有名なものは、阿波あわでは下分上山しもぶんかみやまの柳水やなぎみず、この村にはもとは水がなかったのを、大師がその杖で岩を突き、そこから清水が流れ出るようになりました。杖は柳の木で、永くその泉の傍に青々と茂っていたそうであります。(阿州奇事雑話。徳島県名西みょうざい郡下分上山村)
伊予では高井たかいの西林寺せいりんじの杖の淵ふち。この村にも昔は水がなかったのですが、大師が来て杖を地に立ててから、淵になるまでの立派な泉が涌き出したのだそうです。しかしその杖は今ではもうないので、竹であったか柳であったかわからなくなってしまいました。(伊予温故録。愛媛県温泉郡久米村高井)
どうして旅の僧が行く先々に、杖を立ててあるくのかということを、私はいろいろに考えて見ましたが、池や泉と関係のないことははぶいて置きます。九州の南の方では性空上人しょうくうしょうにん、越後の七不思議の話では親鸞しんらん上人、甲州の御嶽みたけの社の近くには日蓮上人などが、竹の杖を立ててそれが成長したことになっていますが、水が湧き出した話には、どうも大師様が多いようであります。東京の附近では入間いるま郡の三つ井という所に、弘法大師が来られた時には、気立てのやさしい村の女が、機を織っていたそうであります。水がほしいといわれるので、機から下りて遠いところまで汲みに行きました。それは定めて不自由なことであろうと、さっそく杖をさして出るようにして下さったという清水が、今でも流れて土地の名前にまでなっております。(新篇武蔵むさし風土記稿。埼玉県入間郡所沢町上新井字三つ井)
女が機を織っていたという話も、何か特別のわけがあって、昔から語っていたことのようであります。大師の井戸の一番北の方にあるのは、今わかっているものでは山形県の吉川という所で、ここまで伝説の弘法大師は行っておられるのであります。その昔大師が湯殿山ゆどのさんを開きに来られた時に、喉のどが乾いてこの村のある百姓の家にはいって、水を飲ませてくれと申されますと、女房がひどい女で、米の磨とぎ汁を出しました。それを大師はだまって飲んで行かれたが、あとで女房の顔が馬になってしまった。それからまた二三町も過ぎたところのある家では女房は機を織っていました。ここでも水がほしいといわれますと、いやな顔もせずに機から下りて、遠いところまで汲みに行ってくれました。大師は喜んでこの村には良い水がないと見える。一つ掘ってやろうといって、例の杖をもって地面に穴をほりますと、こんこんとして清水が湧きました。それが今もある大師の井戸だというのであります。(郷土研究一編。山形県西村山郡川土居村吉川)
ここでまず最初に、われわれが考えて見なければならぬのは、それがほんとうに弘法大師の僧空海であったろうかということであります。広い日本国中をこの通りよく歩き廻り、どこでも同じような不思議を残して行くことは、とても人間わざでは出来ぬ話でありますが、それを神様だといわずに、なるべく誰か昔の偉い人のしたことのように、われわれは考えて見ようとしたのであります。それには弘法大師が最もその人だと、想像し易かっただけではないでしょうか。温泉の方にも杖で掘り出したという伝説が少しはあります。上州の奥にある川場かわばの温泉なども、昔弘法様が来てある民家に一泊したときに、足を洗う湯がないので困っていると、さっそく杖をその家の入り口にさして、出して下されたのがこの湯であるといい伝えております。それだからこの温泉は脚気かっけによくきくのだと土地の人はいい、またその湯坪の片脇に、今でも石の小さな大師様の像を立てて、拝んでいるのだということであります。(郷土研究一編。群馬県利根とね郡川場村川場湯原)
ところが摂津せっつの有馬ありまの湯の山では、豊臣秀吉がやはり杖をもって温泉を出したという話になっております。太閤たいこうが有馬に遊びに来た時に、清涼院せいりょういんというお寺の門の前を通ってじょうだん半分に杖をもって地面の上を叩き、ここからも湯が湧けばよい。そうすれば来てはいるのにといいますと、たちまちその足もとから、温泉が出たといいます。それでその温泉の名を上の湯、一名願いの湯とも呼んでおりましたが、後にはその名ばかり残って、温泉は出なくなってしまいました。(摂陽郡談八)
太閤様は思うことがなんでも叶かなった人だから、そういうこともあったか知れぬと、考えた者はずいぶんありました。ぜひとも弘法大師でなくてはならぬというわけでもなかったのであります。尾張おわりの生路いくじという村には、あるお寺の下に綺麗きれいな清水があって、これも大師の掘った井戸だと、土地の人たちはいっておりましたが、それが最初からのいい伝えでなかったことは明かになりました。四百年ばかり前に、ある学者がこの寺に頼まれて書いた文章には、大昔日本武尊やまとたけるのみことが、ここに来て狩りをなされ、渇きをお覚えなされたが水がないので、弓※ゆはず[#「弓+悄のつくり」、U+5F30、37-14]をもって岩をおさしになると清い泉が湧いた。それがこの井戸であると誌しております。近頃はもう水も出なくなりましたが、以前は村の者が非常に尊敬していた井戸で、穢けがれのあるものがもしこれを汲もうとすると、俄にわかに水の色が濁ってしまうとまで信じていたそうであります。(張州府志。愛知県知多郡東浦村生路)
これと同じような伝説は、他の地方に数多くありまして、ただ関係した人の名が違っているばかりであります。関東などで一番多くいうのは、八幡はちまん太郎義家よしいえであります。軍いくさの半なかばに水が得られないので、神に念じ、弓をもって岩に突き、また矢を土の上にさすと、それから泉が流れて士卒ことごとく渇を癒いやした。よってこれを神水として感謝のため神の御社を建てて永く祀まつったといって、その神も多くは八幡様であります。小高い所から泉の湧く場合には、大抵は土が早く流れて岩が現れて来ますので、一そう普通の人間の力では、見出すことが出来なかったように想像する者が多くなったことなのかと思います。すなわちこの石清水いわしみず八幡の伝説なども、後になるほどだんだんに数が多くなったわけでありますが、それがお社も何もない里の中や道の傍、または人家の間に挾はさまってしまうと、話はどうしても杖を持った行脚の旅僧という方へ、持って行かれやすかったようであります。
それからまた他のいろいろの天然の不思議を、あれもこれも同じ弘法大師の仕事のように、説明するふうが盛んになりました。その中でも最も人のよく知っている例に、石芋いしいもといって葉は全く里芋の如く、その根は硬くて食べることの出来ない植物、または食わず梨なしといって、味も何もない梨の実などであります。いずれもその昔一人の旅僧がそこを通って、一つくれぬかと所望したのを、物惜しみの主人が嘘をついて、これは硬くてだめですとか、または渋くて上げられませんとかいった。そうかといって旅僧は行ってしまったが、後で聞くとそれが大師様であった。その芋また梨はそれから以後硬くまた渋くなってしまって、食べることが出来なくなったなどというのであります。伝説の弘法大師は全体に少し怒り過ぎ、また喜び過ぎたようであります。そうして仏法の教化とは関係なく、いつもわれわれの常の生活について、善い事も悪い事も共に細かく世話を焼いています。杖立て清水をもって百姓の難儀を救うまではよいが、怒って井戸の水を赤錆あかさびにして行ったり、芋や果物を食べられぬようにしたというなどは、こういう人たちには似合わぬ仕業であります。ところが日本の古風な考え方では、人間の幸不幸は神様に対するわれわれの行いの、正しいか正しくないかによって定まるように思っていました。その考え方が、今でも新しい問題について、おりおりは現れて来るのであります。だから私などは、これを弘法大師の話にしたのは、何かの間違いではなかろうかと思うのであります。
そのことは今に皆さんが自分で考えて見るとして、もう少し珍しい伝説の例を挙げて置きましょう。石芋、食わず梨とちょうど反対の話に、煮栗焼き栗というのが方々の土地にあります。これも今では弘法大師の力で、一旦煮たり焼いたりした栗の実が、再び芽を吹いて木になったといって、盛んに実がなっているのであります。越後の上野原うえのはらなどにある焼き栗は、親鸞上人の逸話になっていますが、やはりある信心の老女がさし上げた焼き栗を、試みに土に埋めて、もし私の教えが後の世で繁昌をするならば、この焼き栗も芽を出すであろうといって行かれた。そうすると果してその言葉の通り、それが成長して大きな栗林となり、しかも三度栗といって一年に三度ずつ、実を結ぶようになったというのであります。どうしてこのような話が出来たかというと、この一種の柴栗が他のものよりはずっと色が黒くて、火に焦げたように見えるからでありますが、京都の南の方のある在所では、やはり同じ話があって、これは天武天皇の御事蹟だというのであります。天武天皇が一時芳野よしのの山にお入りになる時、この村でお休みなされると、煮た栗を献上したものがあった。もう一度帰って来るようであれば、この煮た栗も芽を吹くといって、お植えになった実が大木になって栄えたということで、その種が永く伝わっております。或あるいはまた春日かすがの明神が初めて大和にお移りになったときに、お付きの神主が煮栗の実を播まいたともいう者もあります。こういうように話はぜひとも弘法大師でなければならぬというわけでもなかったのであります。
それからまた片身の魚、片目の鮒ふななどという話もあります。焼いて食べようとしているところへ大師がやって来て、それを私にくれといって、乞い受けて小池へ放した。それから以後その池にいる鮒は、一方だけ黒く焼け焦げたようになっている。または片目がない、もしくは片側がそいだように薄くなっているというのです。動物学の方から見て、そんな魚類があるものとも思われませんが、とにかくに片目の魚が住むという池は非常に多く、それがことごとく神の社、または古い御堂の傍にある池であります。池と大師とは、またこういう方面においても関係があるのであります。
或はまた衣掛きぬかけ岩、羽衣はごろもの松という伝説もあります。これも水の辺ほとりで、珍しい形の岩や大木のある場合に、不思議な神の衣が掛かっていたことがあるというので、普通には気高い御姫様などの話になっているのですが、それがまたいつの間にか、弘法大師と入り代っているところもあるのです。備前の海岸の間口まぐちという湾の端には、船で通る人のよく知っている裳掛もかけ岩という大岩があります。これなども飛鳥井姫あすかいひめという美しい上揩カょうろうの着物が、遠くから飛んで来て引っ掛かったといういい伝えもあるのですが、土地の人たちは、またこんな風にもいっている。昔大師が間口の部落へ来て、法衣を乾かしたいから物干しの竿さおを貸してくれぬかといわれた。竿はありませんと村の者がすげなく断ったので、大師もしかたなしにこの岩の上に、ぬれた衣を掛けてお干しなされたというのであります。おおかたこれも一人の不親切な女の、後で罰が当った話であったろうと思います。(邑久おおく郡誌。岡山県邑久郡裳掛村福谷)
安房あわの青木という村には、弘法大師の芋井戸というのがあります。井戸の底に芋のような葉をした植物が、青々と茂っています。昔大師がこの村のある老婆の家に来て、芋をくれないかと所望したのを、老婆が物惜しみをしてこの芋は石芋ですと嘘をいった。そうすると忽ち家の芋が皆石のように堅くなり、食べることが出来ぬから戸の外に棄てると、そこから水が湧き出してこの井戸になったというのは、きっと二つの話の混合で、芋では罰を受けたが、井戸は土地一番の清水でありました。伝説はこういうふうに半分欠けたり、また継ぎ合せて一つになったりするものであります。(安房志。千葉県安房郡白浜村青木)
会津あいづの大塩おおしおという村では山の中の泉を汲んで、近い頃まではそれを釜で煮て塩を製していました。こういう奥山に塩の井が出るというのは、土地の人たちにも不思議なことでした。それでやはり弘法大師がやって来て、貴い術をもって潮を呼んで下されたといっていますが、これにはまたどういう女があって関係したものか、今ではもう忘れてしまった者が多いようであります。(半日閑話。福島県耶麻やま郡大塩村)
ところが安房の方では神余かなまりの畑中はたなかという部落に、川の流れから塩の井の湧くところがあって、今でもその由来を伝えています。その昔金丸かなまる氏の家臣杉浦吉之丞すぎうらきちのじょうの後家美和女みわじょ、施しを好み心掛けのやさしい婦人でありました。大同三年の十一月二十四日に、一人の旅僧が来て食を求めたので、ちょうどこしらえてあった小豆粥あずきがゆを与えると、その粥には塩気がないから、旅僧は不審に思いました。うちが貧乏で塩を買うことが出来ぬというのを聴いて、それはお気の毒だと川の岸に下りて、手に持つ錫杖を突きさして暫しばらく祈念し、やがてそれを抜くと、その穴から水が迸ほとばしって、女の顔のところまで飛び上りました。嘗なめて見るとそれが真塩ましおであり、その僧は弘法大師であったと、古い記録にも書いてあるそうです。(安房志。千葉県安房郡豊房村神余)
いくら記録には書いてあっても、これが歴史でないことは誰にでもわかります。弘法の旅行をしそうな大同三年頃には、まだ金丸家も杉浦氏もなかったのであります。それよりも皆さんにお話したいことは、十一月二十四日の前の晩は、今でも関東地方の村々でお大師講といって、小豆の粥を煮てお祭りをする日だということであります。天台宗のお寺などでは、この日がちょうど天台智者ちしゃ大師の忌日に当るために、そのつもりで大師講を営んでいますが、他の多くの田舎では、これも弘法大師だと思っているのであります。智者大師はその名を智ちぎといって、今から千三百四十年ほど前に亡くなった支那の高僧で、生きているうちには一度も日本へは来たことのなかった人であります。また弘法大師の方はこの十一月二十三日の晩と、少しも関係がなかった人でありますが、どこの村でもこの一夜に限って、大師様が必ず家から家を巡ってあるかれると信じて、このお祭りをしていたのであります。
旧暦では十一月末の頃は、もうかなり寒くなります。信州や越後ではそろそろ雪が降りますが、この二十三日の晩はたとえ少しでも必ず降るものだといって、それをでんぼ隠しの雪といいます。そうしてこれにもやはりお婆さんの話がついておりました。信州などの方言では、でんぼとは足の指なしのことであります。昔信心深くて貧乏な老女が、何かお大師様に差し上げたい一心から、人の畠にはいって芋や大根を盗んで来た。その婆さんがでんぼであって、足跡を残せば誰にでも見つかるので、あんまりかわいそうだといって、大師が雪を降らせて隠して下さった。その雪が今でも降るのだという者があります(南安曇みなみあずみ郡誌その他)。しかしこの話なども後になって、少しばかり間違ったのではないかと思う点があります。信州ではこの晩に食物を供えるお箸はしは、葦あしの茎をもって必ず一本は長く、一本は短く作ることになっています。これもでんぼ隠しの記念であって、その婆さんはでんぼで且かつ跛ちんばであったからという人もあるが、所によっては大師様自身が生れつき跛で、それでこの晩村々をまわってあるかれるのに、雪が降るとその足跡が隠れてちょうどよいと喜ばれるといい、「でえしでんぼの跡隠し」という諺ことわざもあるそうです(小谷口碑集)。越後の方でも古くから大師講の小豆粥には、栗の枝でこしらえた長し短しのお箸をつけて供えました。耳の遠い者がその箸を耳の穴に当てると、よく聴えるなどともいいました。それからこの晩雪が降ると跡隠しの雪といって、大師が里から里へあるかれる御足の跡を、人に見せぬように隠すのだといい伝えておりました。(越後風俗問状答)
そうするとだんだんに大師が、弘法大師でも智者大師でもなかったことがわかって来ます。今でも山の神様は片足神であるように、思っていた人は日本には多いのであります。それで大きな草履を片方だけ造って、山の神様に上げる風習などもありました。冬のま中に山から里へ、おりおりは下りて来られることもあるといって、雪は却かえってその足跡を見せたものでありました。後に仏教がはいってからこれを信ずる者が少くなり、ただ子供たちのおそろしがる神になった末に、だんだんにおちぶれてお化けの中に算えられるようになりましたが、もとはギリシャやスカンジナビヤの、古い尊い神々も同じように、われわれの山の神も足一つで、また眼一つであったのであります。それとこれとは関係はないかも知れませんが、とにかく十一月二十三日の晩に国中の村々を巡り、小豆の粥をもって祭られていたのは、だだの人間の偉い人ではなかったのであります。それをわれわれの口の言葉で、ただだいし様と呼んでいたのを、文字を知る人たちが弘法大師かと思っただけであります。
だいしはもし漢字を宛てるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音で呼ぶようになってからは、だんだんに神と尊い方のお子様の他には使わぬことになり、それも後にはたいしといって、殆ど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。そういう古い言葉がまだ田舎には残っていたために、いつとなく仏教の大師と紛れることになったのですが、もともと神様のお子ということですから、気をつけて見ると大師らしくない話ばかり多いのであります。信州でもずっと南の方の、竜丘たつおか村の琴が原というところには、浄元大姉じょうげんだいしといって足の悪い神様を祀っております。その御遺跡を花の御所、後醍醐ごだいご天皇の御妹であったなとどいう説さえありますが、これもまただいしと姥の神とを、拝んでいたのが始めのようであります。この大子も路で足を痛めて難儀をなされたので、永く土地の者の足の病を治してやろうと仰せられたといって、今でも信心にお詣まいりする人があり、そのお礼には草鞋わらじを片足だけ納めることになっています。そうしてこの地方にも、「ちんば山の神の片足草鞋」という諺があるそうであります。(伝説の下伊那しもいな。長野県下伊那郡竜丘村)
高く尊い天つ神の御子を、王子権現といい若宮児宮わかみやちごのみやなどといって、村々に祀っている例はたくさんあります。また大工とか木挽こびきとかいう山の木に関係のある職業の人が、今でも御太子様といって拝んでいるのも、仏法の方の人などは聖徳太子にきめてしまっておりますが、最初はやはりただ神様の御子であったのかも知れません。古い日本の大きなお社でも、こういう若々しくまた貴い神様を祀っているものが方々にありました。そうしていつでも御身内の婦人が、必ずそのお側そばに附いておられるのであります。それから考えて見ますと、十一月二十三日の晩のおだいし講の老女なども、後には貧乏な賤いやしい家の者のようにいい出しましたけれでも、以前にはこれも神の御母、または御叔母というような、とにかく普通の村の人よりは、ずっとそのだいしに親しみの深い方であったのではないかと思います。それぐらいな変化は伝説には珍しくないのみならず、多くのお社や堂には脇侍わきじともいって、姥の木像が置いてあり、また関の姥様の話にもあるように、児と姥との霊を一しょに、井の上、池の岸に祀っているという、伝説も少くないのであります。
私は児童の守り神として、姥の神を拝むようになった原因も、大子が実は児の神のことであったとすれば、それでよくわかると思っています。姥はもと神の御子を大切に育てた故に、人間の方からも深い信用を受けたのであろうと思います。それについてはまた二つ三つの少し新しい伝説もあります。紀州岩出いわでの疱瘡ほうそう神社というのは、以前は大西という旧家の支配で、守り札などもそこから出しておりました。その大西家で板にした縁起には、こういう話が書いてありました。ある年十一月の二十三日の晩に、白髪しらがの婆さまが一人訪ねて来て、一夜の宿を借りたいといった。うちは貧乏で何も上げるものがないというと、食事には用がない。ただ泊めて下さればよいといって、夜どおし囲炉裏の火の側に坐っていた。夜の明け方に清水を汲んで貰って、それを湯に沸かして静かに飲み、そうして出て行こうとして大西家の主人に向い、私はこの家の先祖と縁のある者だ。今またこうして親切に、宿をしてもらったのはありがたいと思うから、そのお礼にはこれからいつまでも、大西の子孫と名乗る者は疱瘡が軽く、長命をするように守ってやろうといって帰った。その跡を見送ると、ちょうど今のお社のあるところまで来て、愛染明王あいぜんみょうおうの姿を現じて行方知れずになったといってあります。種痘ということの始まるまでは、疱瘡はまことに子供たちの大敵でありました。それだから殊に疱瘡神をおそれ敬うていたのでありますが、この老女は実はそれであったらしいのです。愛染明王はもとは愛欲の神であったそうですが、愛という名からわが国では、特に小児の無事息災を祈っていました。それ故にお姿も若々しく、決して婆さまなどに化けて来られる神ではなかったのです。それを一つにしてこの大西家の先祖の人は、まぼろしに見たのであります。前から姥の神の後には児の神のあることを、知っていた為であろうと思います。(紀伊続風土記。和歌山県那賀郡岩出町備前)
伊勢の丹生にう村は古くから鉛の産地ですが、そこには名の聞えた鉱泉が一つあります。近頃ではいろいろの病気の者が入浴に来るようになりましたが、昔はただこの地方の女たちが、お産の前後に来て垢離こりを取り生れ子の安全をお祈りするところであった為に泉の名を子安の井といい、やはり弘法大師の加持水だという伝説をもっていました。戦国時代にはこの土地が荒れてしまって、井戸も半分は埋もれ、そういういい伝えを忘れた人が多くなり、近所の百姓たちがその水を普通の飲料に使う者もありましたが、そういう家ではどうも病人が多く、中には死に絶えてしまった家さえあったので、驚いて御鬮みくじを引いて明神様の神意を伺ったそうです。実際は水に鉛の気があって、それで飲む者を害したのかも知れませんが、昔の人はそうは思わなかったのであります。それで御鬮の表には、子安井は産前産後の女のために、子育てを助け守りたもうべき深い思おぼし召しのある井戸だから、早く浚さらえて清くせよと出たので、それからはいよいよこれを日用のために汲む者が、祟たたりを受けるようになったということであります。(丹洞夜話。三重県多気郡丹生村)
子安の池というのは、また東京の近くにもあって、これにも杖立て清水とよく似た伝説をもっておりました。板橋の町の西北の、下新倉しもにいくらの妙典寺みょうてんじという寺の脇にあったのがそれで、昔日蓮上人がこの地方を行脚していた頃、墨田五郎時光すみだのごろうときみつという大名の奥方が、難産で非常に苦しんでいました。日蓮がその為に安産の祈りをして、一本の楊枝ようじをもって加持をすると、忽ちここから優れたる清水が湧き出した。その水を掬くんで口そそぎ御符を戴かせたら、立派な男の児が生れたといって、その池の傍にある古木の柳の木は、日蓮上人の楊枝を地に揷したのが、芽を吹いて成長したものだとも語り伝えておりました。(新篇武蔵風土記稿。埼玉県北足立きたあだち郡白子町下新倉)
伝説は子安の池の、岸の柳の如く成長しました。東京は四百年この方に漸ようやく出来た都会ですが、ここへも弘法大師がいつの間にかやって来ています。上野公園の後の谷中やなか清水町には、清水稲荷いなりがあってもとは有名な清水がその傍にあったのです。この清水がまだ出なかった前に、やはり一人の老母が頭に桶おけを載せて、遠いところから水を運んでいたところへ、大師が来合せてその水を貰って飲みました。年を取ってから毎日こうして水を汲んで来るのは苦しいだろうといわれますと、そればかりではありません、私にはたった一人の子があって、永らく病気をしているので困りますと答えました。そうすると大師は暫く考えて、手に持つ独鈷とっこというもので、こつこつと地面を掘り、忽ちそこからこの清水が湧くようになりました。味わいは甘露の如く、夏は冷かに冬は温かにして、いかなる炎天にも涸かるることなしという名水でありました。姥の子供の病気は何病でありましたか、この水で洗ったら早速に治りました。それから多くの人が貰いに来るようになって、万よろずの病は皆この水を汲んで洗えば必ずよくなるといいました。稲荷のお社も、この時に弘法大師が祀って置かれたということで、おいおいに繁昌して今のように町屋が立ち続いて来たのであります。(江戸名所記。東京市下谷したや区清水町)
野州足利あしかが在の養源寺ようげんじの山の下の池などは、直径三尺ほどしかない小池ではありますが、これも弘法大師の加持水といい伝えて、信心深い人たちが汲んで行って飲むそうです。昔ある婦人が乳が足りなくて、赤ん坊を抱いて困り切っていたところへ、見馴れぬ旅僧が来てその話を聞き、しばらく祈念をしてから杖で地面を突きますと、そこから水が湧き出したのだそうです。これを自分で飲んでもよし、または乳のようにして小児に含ませても、必ず丈夫に育つであろうといって行きました。それが弘法大師であったということは、おおかた後に養源寺の人たちが、いい始めたことであろうと思います。(郷土研究二編。栃木県足利郡三和村板倉)
土地の古くからのいい伝えと、それを聴く人の考えとが食い違った時には、話はこういうふうにだんだんと面倒になります。だいしが世に名高い高僧のことだとなってしまうと、また一人別に姥の側へ、愛らしい若児を連れて来て置かねばならなかったのであります。あんまり気味の悪い話が多いから、詳しいことはいわぬつもりですが、日本でよくいう産女うぶめの霊の話なども、もとはただ道の傍に祀った母と子の神でありました。姿が弱々しい赤んぼの様でも、神様の子であった故に不思議な力がありました。道を通る人に向って抱いてくれ抱いてくれと母親がいうので、暫く抱いているとだんだんに重くなる。その重いのをじっと我慢をしていた人は、必ず宝を貰い、または大力だいりきを授けられたのであります。それが後には、またある大師に行き逢うて、却ってその法力をもって救われたという話に変って来て、産女は普通の人の幽霊のごとくなってしまいました。しかし幽霊が子供づれで来るのもおかしいことですし、福を与えるというのも、ますます似合いません。これには何か他の理由があったのであります。土地によって、夜啼なき松または夜啼き石などといって、真夜中に橋の袂たもとや阪の口で、赤子の啼く声がするという話もありますが、それをおそろしいことと考えずに、村にお産のある知らせだなどという土地もあります。或はまた一人の女があって、夜になると赤んぼが啼くのに困って、その松の木の下に行って立っていると、行脚の僧が通りかかって抱いてくれた。そうして松の小枝を火にともして、その光を子供に見せると啼き止やんだ。それから後この松の下に神を祀り、また夜啼きをする子の家では、その小枝を折って来て燈ともしの火にするという所もあります。九州の宇佐八幡うさはちまんの附近では、弘法大師といわずに、この僧を人聞菩薩にんもんぼさつと呼んでおります。人聞菩薩は八幡大菩薩が仮にこの様な姿をして、村々をお歩きなされるのだという人もありましたが、こんな奇妙な僧の名もあるまいと思いますから、私などはそれを人の母、すなわち人母にんぼという言葉が、この神の信仰について、古く行われていた名残であろうと思っています。子安という母と子との神は、今でも関東地方には方々に祀っています。気高い婦人が子を抱いた石の像であります。姥というのはただ女の人のことでありました。親の妹を叔母というのも、または後々叔母になるべき二番め以下の娘を、小娘のうちからおばと田舎でいっているのも、もとは一つの言葉でありました。それを老女のように考え出したために、しまいには三途河そうずかの婆様のような、おそろしい石の像になったのであります。仏教が日本にはいって来るより前から、子安の姥の神は清い泉のほとりに祀られていました。弘法大師が世を去ってから千年の後までも、なお新なる清水は常に発見せられ、いわゆる大師の井戸、御大師水の伝説は、すなわちこれに伴うて流れて行きます。生きて日本の田舎を今も巡っている者は、寧むしろわれわれの御姥子おんばこ様でありました。それだからこの神を路の傍、峠の上や広い野はずれ、旅人の喜び汲む泉のほとりにまつり、また関の姥神という名も起ったので、熱田の境川さかいがわのおんばこ堂なども、もとはこういう姥と子を祀っていたからの名であろうと思います。箱根の姥子も古い伝説は人が忘れていますが、きっとあの温泉の発見について、一つの物語があったのです。なお皆さんも気をつけて御覧なさい、古くからの日本の話には、まだまだ幾らでも美しいかしこい児童が、姥とつれ立って出て来るのであります。 
片目の魚(うお)

 

この次ぎには子供とは関係はありませんが、池の伝説の序ついでに片目の魚の話を少ししてみましょう。どうして魚類に一つしか眼のないのが出来たものか。まだ私たちにもほんとうのわけはよくわかりませんが、そういう魚のいるのは大抵はお寺の前の池、または神社の脇にある清水です。東京に一番近い所では上高井戸かみたかいどの医王寺いおうじ、ここの薬師様には眼の悪い人がよくお参りをしに来ますが、その折にはいつも一尾の川魚を持って来て、お堂の前にある小さな池に放すそうです。そうするといつの間にか、その魚は片目をなくしているといいます。夏の頃出水の際などに、池の下流の小さな川で、片目の魚をすくうことが折々ありますが、そんな時にはこれはお薬師様の魚だといって、必ず再びこの池に持って来て放したということです。(豊多摩とよたま郡誌。東京府豊多摩郡高井戸村上高井戸)
上州曽木そきの高垣明神たかがきみょうじんでは、社の左手に清い泉がありました。旱ひでりにも涸かれず、霖雨ながあめにも濁らず、一町ばかり流れて大川に落ちますが、その間に住む鰻うなぎだけは皆片目であった。それが川へはいると、また普通の眼二つになるといいましたが、それでもこの明神の氏子は、鰻だけは決して食べなかったそうです。(山吹日記。群馬県北甘楽きたかんら郡富岡町曽木)
甲府の市の北にある武田家城址じょうしの濠ほりの泥鰌どじょうは、山本勘助に似て皆片目であるといいました。泥鰌が片目であるばかりでなく、古府中こふちゅうの奥村という旧家は、その山本勘助の子孫である故に、代々片目であったという話もありましたが、実際はどうであったか知りません。(共古日録その他。山梨県西山梨郡相川村)
信州では戸隠雲上寺とがくしうんじょうじの七不思議の一つに、泉水に住む魚類、ことごとく片目なりといっていました。また赤阪の滝明神の池の魚も、片目が小さいか、または潰つぶれていました。神が祈願の人に霊験れいげんを示す為に、そうせられるのだといっております。(伝説叢書そうしょ。長野県小県ちいさがた郡殿城村)
越後にも同じ話が幾つもあります。長岡の神田町では人家の北裏手に、三盃池さんばいいけという池がもとはあって、その水に住む魚鼈ぎょべつは皆片目で、食べると毒があるといって捕る者がなかった。古志こし郡宮内の一王いちおう神社の東には、街道をへだてて田の中に十坪ほどの沼があり、そこの魚類も皆片目であったそうです。昔このお社の春秋の祭りに、魚のお供え物をしたお加持の池の跡だからといっておりました。四十年ほど前に田に開いてしまって、もうこの池も残っていません。それから北魚沼きたうおぬま郡の堀之内ほりのうちの町には、山の下に古奈和沢こなわざわの池という大池があって、その水を引いて町中の用水にしていますが、この池の魚もことごとく片目であるといいました。捕えてこれを殺せば祟りがあり、家に持って来て器の内に置いても、その晩の内に池に帰ってしまうという話もありましたが、実際は殺生禁制せっしょうきんせいで、誰もそんなことを試みた者はなかったのであります。(温故之栞おんこのしおり。新潟県北魚沼郡堀之内町)
青森県では南津軽の猿賀さるが神社のお池などにも、今でも片目の魚がいるということで、「皆みんなめっこだあ」という盆踊りの歌さえあるそうです。私の知っているのでは、これが一番日本の北の端でありますが、もちろん捜せばそれより北にもたくさんにある筈であります。(民族。青森県南津軽みなみつがる郡猿賀村)
それからこちらへ来ると話は多くなるばかりで、とても一つ一つ挙げていることは出来ませんから、私はただ魚が片目になった原因を、土地の人たちがなんといい伝えていたかということだけを、皆さんと一しょに考えて見ようと思います。その中で早くから知られていたのは、摂津の昆陽池こやのいけの片目鮒かためふなで、これは行基菩薩ぎょうきぼさつという奈良朝時代の名僧と関係があり、話は少しばかり弘法大師の杖立て清水に似ています。行基が行脚をしてこの池のほとりを通った時に死にかかっている汚い病人が路に寝ていて、魚を食べさせてくれといいました。かわいそうだと思って、長洲ながすの浜に出て魚を買い求め、僧ではあるが病人の為だから自分で料理をして勧めますと、先に食べて見せてくれというので、それを我慢をして少し食べて見せました。そうしているうちにその汚い乞食は薬師如来にょらいの姿を現し、私は上人の行いを試して見る為に、仮に病人になってここに寝ていたのだといって、有馬の山の方へ、金色こんじきの光を放って飛び去ったということであります。行基はその不思議にびっくりして、残りの魚の肉を昆陽池に放して見ると、その一切れずつが皆生きかえって、今の片目の鮒になった。それで後にはこの池の魚を神に祀って、行波ぎょうは明神と名づけて拝んでいるというのでありました。あんまり事実らしくない話ではありますが、土地の人たちは永くこれを信じて、網を下さず、また釣り糸を垂れず、この魚を食べる者はわるい病になるといっておそれていたそうであります。(諸国里人談その他。兵庫県川辺かわべ郡稲野村昆陽)
またある説では行基は三十七歳の年に、故郷の和泉国いずみのくにへ帰って来ますと、村の若い者は法師を試して見ようと思って、鮒のなますを作って置いて、むりにこれを行基にすすめた。行基はそれを食べてしまって、後に池の岸に行ってそれを吐き出すと、なますの肉は皆生きかえって水の上を泳ぎまわった。その魚が今でも住んでいる。家原寺いばらじの放生池ほうしょういけというのがその池で、それだから放生池の鮒は、皆片目だといいました。しかしなますになってから生きかえった魚ならば、それがどうして片目になるのかは、ほんとうはまだ誰にも説明することが出来ません。(和泉名所図会等。大阪府泉北せんぼく郡八田荘村家原寺)
これと全く同じ話は、また播州ばんしゅう加古川かこがわの教信寺の池にもありました。加古の教信という人は、信心深い念仏者でありましたが、やはりむりにすすめられたので、仕方なしに魚の肉を食べ、後で吐き出したのが生き返って、永くこの池の片目の魚になったといいました。寺ではその魚を上人魚しょうにんうおといったそうですが、それは精進魚じょうじんうおのあやまりかと思います。そうしてこの池を教信のほった池だという点は、行基の昆陽池の話よりも、いま一段とお大師水に近いのであります。(播磨鑑はりまかがみ。兵庫県加古郡加古川町)
しかし魚が片目になった理由には、まだこの他にも色々の話があります。
例えば下野しもつけ上三川かみのかわの城趾しろあとの濠の魚は、一尾ぴき残らず目が一つでありますが、これは慶長二年の五月にこの城が攻め落された時、城主今泉但馬守いまいずみたじまのかみの美しい姫が、懐剣で目を突いて外堀に身を投げて死んだ。その因縁によって今でもその水にいる魚が片目だというのであります。この「因縁」ということも、昔の人はよくいいましたけれども、どういうことを意味するのか、まだ確にはわれわれにわかりません。(郷土光華号。栃木県河内郡上三川町)
そこでなお多くの因縁の例を挙げて見ると、福島の市の近くの矢野目やのめ村の片目清水という池では、鎌倉権五郎景政かげまさが戦場で眼を傷つけ、この池に来て傷を洗った。その時血が流れて清水にまじったので、それで池に住む小魚はどれもこれも左の目が潰れている。片目清水の名はそれから出たといいます。(信達一統志。福島県信夫しのぶ郡余目あまるめ村南矢野目やのめ)
鎌倉権五郎は、八幡太郎義家の家来です。十六の年に奥州の軍いくさに出て、敵の征矢そやに片方の眼を射られながら、それを抜かぬ前に答とうの箭やを射返して、その敵を討ち取ったという勇猛な武士でありましたが、その眼の傷を洗ったという池があまりに多く、その池の魚がどこでも片目だといっているだけは不思議です。その一つは羽後の金沢という町のある流れ、そこでは権五郎の魂が、死んで片目の魚になったというそうです。ここは昔の後三年ごさんねんの役えきの、金沢の柵さくのあった所だといいますから、ありそうなことだと思う人もあったか知れませんが、鎌倉権五郎景政は長生をした人で、決してここへ魂を残して行く筈はないのでありました。(黒甜瑣語。秋田県仙北郡金沢町)
次ぎに山形県では最上もがみの山寺の麓ふもとに、一つの景政堂があってそこの鳥海とりのうみの柵の趾あとだといいました。権五郎が眼の傷を洗った池というのがあって、同じく片目の魚が住んでいました。どうしてこのお堂が出来たのかは分りませんが、附近の村では田に虫がついた時に、この堂から鉦かね太鼓を鳴らして虫追いをすると、忽たちまち害虫がいなくなるといっておりました。(行脚随筆。山形県東村山郡山寺村)
また荘内しょうないの平田の矢流川やだれがわという部落には、古い八幡の社があって、その前の川でも権五郎が来て目を洗ったといっています。そうしてその川のかじかという魚は、これによって皆片目であるという伝説もありました。(荘内可成談等。山形県飽海あくみ郡東平田村北沢)
こうして福島県の片目清水まで来る途中には、まだ方々に目を洗う川や池があったのですが、驚くべきことには権五郎景政は、遠く信州の南の方の村に来て、やはりその目を洗ったという話が、伝わっているのであります。信州飯田いいだから少しはなれた上郷かみさと村の雲彩寺うんさいじの庭に、杉の大木の下から涌わいている清水がそれで、その為にそこにいるいもりは左の眼が潰れているといいます。清水の名はうらみの池、どういううらみがあったかは分りませんが、権五郎は暫しばらくこの寺にいたことがあるというのであります。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡上郷村)
何かこれには思い違いがあったことと思われますが、またこういう話もあります。作州美野みのという村の白壁の池は、いかなる炎天にも乾ひたことのない物凄ものすごい古池で、池には片目の鰻がいるといいました。昔一人の馬方が馬に茶臼ちゃうすを附けて、池の堤を通っていて水に落ちて死んだ。その馬方がすがめの男であった故に、それが鰻になって、また片目であるという話であります。今でも雨の降る日などに、じっと聴いていると、池の底で茶臼をひく音がするなどといいました。(東作誌。岡山県勝田郡吉野村美野)
越後には青柳あおやぎ村の青柳池といって、伝説の上では、かなり有名な池があります。この池の水の神は大蛇で、折り折り美しい女の姿に化けて、市へ買い物に出たり、町のお寺の説教を聴きに来たりするといったのは、おおかた街道のすぐ脇にこの池があった為に、そこを往来する遠くの人までが評判にしていたから、こういう話が出来たのであろうと思います。昔安塚やすづかの城の殿様杢太もくたという人が、市に遊びに出て、この美しい池の主を見染めました。そうして連れられてとうとう青柳の池にはいって、戻らなかったということで、この杢太殿が、また目一つであったところから、今にこの池の魚類は一方の目に、曇りがあるといい伝えております。(越後国式内しきない神社案内。新潟県中頸城なかくびき郡櫛池くしいけ村青柳)
池の主の大蛇は、水の中にばかり住んでいて、へびともまるで違ったおそろしい生き物でありました。そういう物が実際にいたかどうか、今ではたしかなことはもうわからなくなってしまいました。絵などに描く人は、もちろん大蛇を見たことのない者ばかりで、仕方なしにこれを大きな蛇のように描くので、だんだんにそう思う人が多くなりましたが、この大蛇の方は水の底にいて、すべての魚類の主君の如く考えられておりました。片目の杢太殿が池の主に聟入むこいりをして、自分も大蛇になったといえば、魚類はその一門だからだんだんかぶれて、目が一つになろうとしているのだと、想像する人もあったわけであります。
静岡市の北の山間にある鯨の池の主は、長さ九尺の青竜であったといい、または片目の大きなまだら牛であったともいいますが、化けるのですからなんにでもなることが出来るわけです。昔水見色みずみいろ村の杉橋すぎばし長者の一人娘が、高山の池の主にだまされて、水の底へ連れて行かれようとしたので、長者は大いに怒って、何百人の下男人夫を指図して、その池の中へあまたの焼け石を投げ込ませると、池の主は一眼を傷ついて、逃げて鯨の池にひき移ってしまいました。それから以後、この鯨の池の魚は、ことごとく片目になったというのは、とんだめいわくなおつき合いであります。(安倍あべ郡誌。静岡県安倍郡賤機しずはた村)
又、池の主は領主の愛馬を引き込んだので、多くの鋳物師いものしをよんで来て、鉄をとかして池の中へ流したともいいますが、どちらにしてもそれがちょうど一方の眼を傷つけ、更に魚仲間一同の片目のもとになったというのは、珍しいと思います。ところがこういう話は、まだ他にも折り折りあります。同じ安倍郡の玉川村、長光寺という寺の前の池でも、池の主の大蛇が村の子供を取ったので、村民が怒って多くの石を投げ込むと、それが当って大蛇は片目を潰し、それからは池の魚も皆片目になっているといいました。
蛇が片目という伝説も、また方々に残っているようであります。例えば佐渡の金北山きんぽくさんの一つの谷では、昔順徳天皇がこの島にお出でになった頃、この山路で蛇を御覧なされて、こんな田舎でも蛇はやっぱり目が二つあるかと、独言に仰せられましたところが、そのお言葉に恐れ入って、以後この谷の蛇だけはことごとく片目になりました。それで今でも御蛇河内おへびこうちという地名になっているのだといいます。加賀の白山はくさんの麓の大杉谷の村でも、赤瀬という一部落だけは、小さな蛇までが皆片目であるといっています。岩屋の観音堂の前の川に、やすなが淵ふちという淵がもとはあって、その主は片目の大蛇であったからということであります。
昔赤瀬の村に住んでいたやす女なという者は、すがめのみにくい女であって男に見捨てられ、うらんでこの淵に身を投げて主になった。それが時折り川下の方へ降りて来ると、必ず天気が荒れ、大水が出るといって恐れました。やす女の家は、もと小松の町の、本蓮寺ほんれんじという寺の門徒であったので、この寺の報恩講には今でも人に気付かれずに、やす女が参詣さんけいして聴聞ちょうもんのむれの中にまじっている。それだから冬の大雪の中でも、毎年この頃には水が出るのだといい、また雨風の強い日があると、今日は赤瀬のやすなが来そうな日だともいったそうであります。(三州奇談等。石川県能美のみ郡大杉谷村赤瀬)
すがめのみにくい女といい、夫に見捨てられたうらみということは、昔話がもとであろうと思います。同じ話は余りに多く、また方々の土地に伝わっているのであります。京都の近くでも宇治の村のある寺に芋を売りに来た男が門をはいろうとすると、片目の潰れて一筋の蛇が来て、真直になって方丈の方へ行くのを見ました、なんだかおそろしくなって、荷を捨てて近所の家に行って休んでいましたが、ちょうどその時に、しばらく病気で寝ていた寺の和尚おしょうが死んだといって来ました。この僧も前に片目の尼を見捨てて、そっとここに来て隠れていたのが、とうとう見つかって、その霊に取り殺されたのだといいました。(閑田耕筆)。或はまた身寄りも何もない老僧が死んでから、いつも一疋ぴきの片目の蛇が、寺の後の松の木の下に来てわだかまっている。あまり不思議なので、その下を掘って見ると、たくさんの小判がかくして埋めてあった。それに思いがのこって蛇になって来ていたので、その老僧がやはり片目であったという類の話、こういうのは一つ話というもので、一つの話がもとはどこへでも通用しました。中にはわざわざ遠い所から、人が運んで来たものもありましたが、それがいかにもほんとうらしいと、後には伝説の中に加え、または今までの伝説と結び付けて、だんだんにわれわれの村の歴史を、賑にぎやかにしたのであります。人が死んでから蛇になった。または金沢の鎌倉権五郎のように、魂が魚になったということは信じられぬことですけれども、両方ともに左の眼がなかったというと、早それだけでも、もしやそうではないかと思う人が出来るのです。しかしそれならば別に眼と限ったことはない。またお社の前の池の鯉鮒鰻ばかりを片目だというわけはないのであります。何か最初から目の二つある者よりも、片方しかないものをおそろしく、また大切に思うわけがあったので、それで伝説の片目の魚、片目の蛇のいい伝えが始まり、それにいろいろの昔話が、後から来てくっついたものではないか。そういうことが、いま私たちの問題になっているのであります。
歴史の方でも伊達政宗だてまさむねのように、独眼竜といわれた偉人は少くありませんが、伝説では、ことに目一つの人が尊敬せられています。その中でも前にいった山本勘助などは、武田家一番の智者であったように伝えられていますが、これがすがめで、またちんばでありました。鎌倉権五郎景政の如きも、記録には若くて軍に出て眼を射られたというより他に、何事も残ってはいないのに、早くから鎌倉の御霊の社に祀られていました。九州ではまた方々の八幡のお社に、景政の霊が一しょにおまつりしてあるのです。
奥羽地方の多くの村の池で、権五郎が目の傷を洗ったという話があるのも、もとはやはり眼を射られたということを、尊敬していたためではないかと思います。そうすると片目の魚といって、他の普通の魚と差別していたのも、必ず何かそれと似たようなわけがあったので、女の一念だの、池の主のうらみだのというのは、ちょうど池の辺ほとりの子安神に、「姥母甲斐うばかいない」の話を持って来たと同じことで、後に幾つもの昔話を繋つなぎ合わせたものらしいのであります。
つまり以前のわれわれの神様は、目の一つある者がお好きであった。当り前に二つ目を持った者よりも、片目になった者の方が、一段と神に親しく、仕えることが出来たのではないかと思われます。片目の魚が神の魚であったというわけは、ごく簡単に想像して見ることが出来ます。神にお供え申す魚は、川や湖水から捕って来て、すぐに差し上げるのはおそれ多いから、当分の間、清い神社の池に放して置くとすると、これを普通のものと差別する為には、一方の眼を取って置くということが出来るからであります。実際近頃のお社の祭りに、そんな乱暴なことをしたかどうかは知りませんが、片目の魚を捕って食べぬこと、食べると悪いことがあるといったことは、そういう古い時からの習わしがあったからであろうと思われるのみならず、また話にはいろいろ残っております。例えば近江おうみの湖水の南の磯崎明神では、毎年四月八日の祭りの前の日に、網を下して二尾の鮒を捕え、一つは神前に供え、他の一つは片面の鱗うろこを取ってしまって、今一度湖に放してやると、翌年、四月七日に網にはいって来る二尾のうち、一つは必ずこの鮒であるといいました。そんなことが出来るかどうか疑わしいが、とにかくに目じるしをつけて一年放して置くという話だけはあったのです。
また天狗てんぐ様は魚の目が好きだという話もありました。遠州の海に近い平地部では、夏になると水田の上に、夜分多くの火が高く低く飛びまわるのを見ることがある。それを天狗の夜とぼしといって、山から天狗が泥鰌を捕りに来るのだといいました。そのことがあってからしばらくの間は、溝みぞや小川の泥鰌に眼のないのが幾らもいたそうで、それは天狗様が眼の玉だけを抜いて行かれるのだといっていました。これと同じ話は沖縄の島にも、また奄美大島あまみおおしまの村にもありました。沖縄ではきじむんというのが山の神であるが、人間と友だちになって海に魚釣りに行くことを好む、きじむんと同行して釣りをすると、特に多く獲物があり、しかもかれはただ魚の眼だけを取って、他は持って行かぬから、大そうつごうがよいという話もありました。
また宮城県の漁師の話だというのは、金華山きんかざんの沖でとれる鰹魚かつおは、必ず左の眼が小さいか、潰れている。これは鰹魚が南の方から金華山のお社の燈明の火を見かけて泳いで来るからで、漁師たちはこれを鰹の金華山詣まいりというそうであります。必ずといったところが、一々調べて見ることは出来るものではありません。人がそう思うようになった原因は、やはり神様は片目がお好きということを、知っていた者があった証拠だと思います。
それからまた、お社の祭りの日に、魚の目を突いて片目にしたという話も残っています。日向ひゅうがの都万つま神社のお池、花玉川はなたまがわの流れには片目の鮒がいる。大昔、木花開耶姫このはなさくやひめの神が、このお池の岸に遊んでおいでになった時、神様の玉の紐ひもが水に落ちて、池の鮒の目を貫き、それから以後片目の鮒がいるようになった。玉紐落と書いて、この社ではそれをふなと読み、鮒を神様の親類というようになったのは、そういう理由からであるといっております。(笠狭大略記。宮崎県児湯こゆ郡下穂北村妻)
加賀の横山の賀茂かも神社に於おいても、昔まだ以前の土地にこのお社があった時に、神様が鮒の姿になって御手洗みたらしの川で、面白く遊んでおいでになると、にわかに風が吹いて岸の桃の実が落ちて、その鮒の眼にあたった。それから不思議が起って夢のお告げがあり、社を今の所へ移して来ることになったといういい伝えがあります。神を鮒の姿というのは変な話ですが、お供え物の魚は後に神様のお体の一部になるのですから、上げない前から尊いものと、昔の人たちは考えていたのであります。それがまた片目の魚を、おそれて普通の食べ物にしなかったもとの理由であったろうと思います。(明治神社誌料。石川県河北かほく郡高松村横山)
昔の言葉では、こうして久しい間、神に供えた魚などを活かして置くことを、いけにえといっておりました。神様がますますあわれみ深く、また魚味をお好みにならぬようになって、いつ迄までも片目の魚がお社の池の中に、泳ぎ遊んでいることになったのでありますが、魚を片目にする儀式だけは、もっと後までも行われていたのではなかろうかと思います。俎岩まないたいわなどという名前の平石が、折り折りは神社に近い山川の岸に残っていて、そこでお供え物を調理したようにいっています。備後の魚が池という池では、水のほとりに大きな石が一つあって、それを魚が石と名づけてありました。この池の魚類にも片目のものがあるといい、村の人はひでりの年に、ここに来て雨乞いのお祭りをしたそうであります。(芸藩通志。広島県世羅せら郡神田村蔵宗)
阿波では福村の谷の大池の中に、周囲九十尺、水上の高さ十尺ばかりの大岩があって、この池でも鯉鮒を始めとし、小さな雑魚じゃこまでが、残らず一眼であるといっています。その岩の名を今では蛇の枕と呼び、月輪兵部殿つきのわひょうぶどのという武士が、昔この岩の上に遊んでいた大蛇を射て、左の眼を射貫き、一家ことごとくたたりを享うけて死に絶えた。その大蛇のうらみが永く留とどまって、池の魚がいつ迄も片目になったのだといいますが、これもまた二つの話を結び合せたものだろうと思います。(郷土研究一編。徳島県那賀なが郡富岡町福村)
大蛇といったのは、むろんこの池の主のことで、片目の鯉鮒は、その祭のためのいけにえでありました。それとある勇士が水の神と戦って、初めに勝ち、後に負けたという昔話と、混同して新しい伝説が出来たのかも知れません。しかしこういう池の主には限らず、神々にも眼の一箇しかない方があるということは、非常に古くからいい伝えていた物語であります。どうしてそんなことを考え出したかはわかりませんが、少くともそれがいけにえの眼を抜いて置いたということと、深い関係があることだけはたしかであります。それだから、また目の一方の小さい人、或あるいはすがめの人が、特別に神から愛せられるように思う者があったのであります。大蛇が眼をぬいて人に与えたという話は、弘ひろく国々の昔話になって行われております。その中でも肥前の温泉嶽うんぜんだけの附近にあるものは、ことに哀れでまた児童と関係がありますから、一つだけここに出して置きます。昔この山の麓のある村に、一人の狩人かりゅうどが住んでいましたが、その家へ若い美しい娘が嫁に来まして、それがほんとうは大蛇でありました。赤ん坊が生れる時に、のぞいてはいけないといったので、かえって不審に思ってのぞいて見ますと、おそろしい大蛇がとぐろを巻いて、生れ子を抱えていました。それがまた女になって出て来まして、姿を見られたからもう行かなければならなくなった。子供が泣く時にはこの玉を嘗なめさせてやって下さいといって、自分で右の眼を抜いて置いてお山の沼へ帰って行きました。それを宝物のように大切にしておりましたが、その評判が高くなって殿様に取り上げられてしまい、赤ん坊がお腹がすいて泣き立てても、なめさせてやることが出来ません。こまり切って親子の者が山へ登り、沼の岸に出て泣いていると、にわかに大浪がたって片目の大蛇が現れ、くわしい話を聴いて残った左の方の眼の玉を抜いてくれます。喜んでそれを貰って来て、子供を育てているうちに、その玉も殿様に取り上げられます。もう仕方がないから身を投げて死のうと思って、また同じ沼へやって来ますと、今度は盲の大蛇が出て来て、その話を聴いて非常に怒りました。そういうひどいことをするなら、しかえしをしなければならぬ。二人は早くにげて何々という所へおいでなさい。そこでは良い乳を貰うことが出来るからといって、親子の者をすぐに返しました。そうしてその後でおそろしい噴火があって、山が崩れ、田も海も埋まったのは、この盲の大蛇の仕返しであったというのです(筑紫野民譚つくしのみんたん集)。遠州の有玉ありたま郷では、天竜川の大蛇を母にして生れた子が、二つの玉を貰ってそれを持って出世をした話が、古くからあったようですが、眼を抜いたということは、そこではいわなかったと思います。(遠江国とおとうみのくに風土記伝)
何にもせよ、目が一つしかないということは、不思議なもの、またおそるべきもののしるしでありました。奥州の方では、一つまなぐ、東京では一つ目小僧などといって、顔の真中に眼の一つあるお化けを、想像するようになったのもそのためですが、最初日本では、片目の鮒のように、二つある目の片方が潰れたもの、ことにわざわざ二つの目を、一つ目にした力のもとを、おそれもし、また貴とうとみもしていたのであります。だから月輪兵部が、大蛇の眼を射貫いたという話なども、ことによると別に今一つ前の話があって、その後の勇士のしわざに、間違えてしまったのではないかと思います。
飛騨ひだの萩原はぎわらの町の諏訪すわ神社では、又こういう伝説もあります。今から三百年余り以前に、金森かなもり家の家臣佐藤六左衛門という強い武士さむらいがやって来て、主人の命令だから是非この社のある所に城を築くといって、御神体を隣りの村へ遷うつそうとした。そうすると、神輿みこしが重くなって少しも動かず、また一つの大きな青大将が、社の前にわだかまって、なんとしても退きません。六左衛門この体ていを見て大いにいきどおり、梅の折り枝を手に持って、蛇をうってその左の目を傷つけたら、蛇は隠れ去り、神輿は事故なく動いて、御遷宮をすませました。ところがその城の工事のまだ終らぬうちに、大阪に戦が起って、六左衛門は出て行って討ち死をしたので、村の人たちも喜んで城の工事を止め、再びお社をもとの土地へ迎えました。それから後は、折り折り社の附近で、片目の蛇を見るようになり、村民はこれを諏訪様のお使いといって尊敬したのみならず、今に至るまでこの社の境内に、梅の木は一本も育たぬと信じているそうであります。(益田ました郡誌。岐阜県益田郡萩原町)
この話なども佐藤六左衛門がやって来るまでは、蛇の目は二つで、梅の木は幾らでも成長していたのだということを、たしかめることは出来ないのであります。もっと前からこの通りであったのを忘れてしまって、この時から始まったように、考えたのかも知れません。わざわざ梅の枝など折って、しかもお使者の蛇の目だけを傷つけるということは、気の短い勇士の佐藤氏が、しそうなことでありません。そればかりでなく、神様が目を突いて、それからその植物を植えなくなったという伝説は、意外なほどたくさんあります。その五つ六つをここで挙げて見ますと、阿波の粟田あわた村の葛城かつらぎ大明神の社では、昔ある尊い御方が、この海岸に船がかりなされた折りに、社の池の鮒を釣りに、馬に乗っておでかけになったところが、お馬の脚が藤の蔓つるにからまって、馬がつまずいたので落馬なされ、男竹おだけでお目を突いてお痛みははげしかった。それ故に今にこの社の神には眼の病を祈り、氏子の四つの部落では、池には鮒が住まず、藪やぶには男竹が生えず、馬を置くと必ずたたりがあるといいました。(粟の落穂。徳島県板野郡北灘きたなだ村粟田)
美濃の太田では、氏神の加茂県主かもあがたぬし神社の神様がお嫌いになるといって、五月の節句にも、もとは粽ちまきを作りませんでした。大昔、加茂様が馬に乗って、戦いに行かれた時に、馬から落ちて薄すすきの葉で眼をお突きなされた。それ故に氏子はその葉を忌んで、用いないのだといっておりました。(郷土研究四編。岐阜県加茂郡太田町)
信州には、ことにこの話が多く伝えられています。小県郡当郷とうごう村の鎮守は、初めて京都からお入りの時に、胡瓜きゅうりの蔓に引っ掛ってころんで、胡麻ごまの茎で目をお突きなされたということで、全村今に胡麻を栽培しません。もしこの禁を犯す者があれば、必ず眼の病になるといっています。松本市の附近でも、宮淵の勢伊多賀せいたが神社の氏子は、屋敷に決して栗の木を植えず、植えてもしその木が栄えるようであったら、その家は反対に衰えて行く。それは氏神が昔この地にお降りの時、いがで目を突かれたからだというのです。また島立しまだて村の三の宮の氏子の中にも、神様が松の葉で目を突かれたからといって、正月に松を立てない家があります。橋場稲扱はしばいなこきあたりでも、正月は門松の代りに、柳の木を立てております。昔清明せいめい様という偉い易者が稲扱に来ていて、門松で目を突いて大きに難儀をした。これからもし松を門に立てるようであったら、その家は火事にあうぞといったので、こうして柳を立てることにしたのだそうです。(南安曇郡誌。長野県南安曇郡安曇村)
小谷四箇荘おたりしかそうにも、胡麻を作らぬという部落は多い。氏神が目をお突きになったといい、または強いて栽培する者は眼を病んで、突いたように痛むともいいました。中土なかつちの奉納という村では長芋を作らず、またぐみの木を植えません。それは村の草分けの家の先祖が、芋の蔓につまずいて、ぐみで眼をさしたことがあるからだといっております。(小谷口碑集。長野県北安曇郡中土村)
東上総ひがしかずさの小高おだか、東小高の両部落では、昔から決して大根を栽培せぬのみならず、たまたま路傍みちばたに自生するのを見付けても、驚いて御祈祷きとうをするくらいでありました。他の村々でも、小高の苗字の家だけは、一様に大根を作らなかったということです。これも小高明神が大根にけつまずいて、転んで茶の木で目を突かれたせいだといいますが、それにしては茶の木の方を、なんともいわなかったのが妙であります。(南総之俚俗なんそうのりぞく。千葉県夷隅いすみ郡千町村小高)
中国地方でも、伯耆ほうきの印賀いんが村などは、氏神様が竹で目を突いて、一眼をお潰しなされたからといって、今でも決して竹は植えません。竹の入り用があると山を越えて、出雲いずもの方から買って来るそうです。(郷土研究四編。鳥取県日野郡印賀村)
近江の笠縫かさぬいの天神様は、始めてこの村の麻畠あさばたけの中へお降りなされた時、麻で目を突いてひどくお痛みなされた。それ故に行く末わが氏子たらん者は、忘れても麻は作るなというお誡いましめで、今に一人としてこれにそむく者はないそうです。(北野誌。滋賀県栗太くりた郡笠縫村川原)
また蒲生がもう郡の川合かわいという村では、昔この地の領主河井右近太夫うこんだゆうという人が、伊勢の楠原くすはらという所で戦いくさをして、麻畠の中で討たれたからという理由で、もとは村中で麻だけは作らなかったということです。(蒲生郡誌。滋賀県蒲生郡桜川村川合)
関東地方に来ると、下野しもつけの小中こなかという村では、黍きびを栽培することをいましめておりますが、これも鎮守の人丸ひとまる大明神が、まだ人間であった時に、戦をして傷を負い、逃げて来てこの村の黍畠の中に隠れ、危難はのがれたが、黍のからで片目をつぶされた。それ故に神になって後も、この作物はお好みなされぬというのであります。(安蘇あそ史。栃木県安蘇郡旗川村小中)
この近くの村々には、戦に出て目を射られた勇士、その目の疵きずを洗った清水、それから山鳥の羽の箭やをきらう話などがことに多いのですが、あまり長くなるからもう止めて、この次ぎは村の住民が、神様のおつき合に片目になるという話を少しして見ます。福島県の土湯つちゆは、吾妻山あずまさんの麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があって、若き太子様の木像を祀っております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて沢の奥にはいって行くと、ふいに草むらの間から、負って行け負って行けという声がしましたので、たずねて見るとこのお像でありました。驚いてさっそく背に負うて帰って来ようとして、途中でささげの蔓にからまって倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻稈がらで突いたということで、今見ても木像の片目から、血が流れたようなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いという話がありましたが、この頃はどうなったか私はまだきいていません。(信達一統誌。福島県信夫郡土湯村)
眼の大きさが両方同じでない人は、思いの外多いものですが、大抵は誰もなんとも思っていないのです。村によっては昔鎮守さまが隣りの村と、石合戦をして目を怪我なされたからということを、子供ばかりが語り伝えている所もありますが、大抵はもう古い話を忘れています。それでも土湯のように、実際そういう御像が残っている場合だけは、間違いながらもまだ覚えていられたのであります。三河の横山という村では、産土神うぶすながみの白鳥しらとり六社さまの御神体が片目でありました。それ故にこの村には、どうも片目の人が多いようだということであります。(三州横山話。愛知県南設楽みなみしだら郡長篠ながしの村横川)
石城いわきの大森という村では、庭渡にわたり神社の御本尊は、もとは地蔵様で、非常に美しい姿の地蔵様でしたが、どういうわけか片目が小さく造られてありました。それだから大森の人は誰でも片目が小さいと、村の中でもそういっているそうです。(民族一編。福島県石城郡大浦村大森)
それからまた村全体でなくとも、特別に関係のある、ある一家の者だけが、代々片目であったという話は方々にあって、前にいった甲州の山本勘助の家などはその一つであります。丹波の独鈷抛山とっこなげやまの観音さまは片目でありました。昔この山の頂上の観音岩の上で、観音が白い鳩の姿になって遊んでござるのを、麓の柿花かきはな村の岡村という家の先祖が、そうとは知らずに弓で射たところが、その箭がちょうど鳩の眼に中あたりました。血の滴りの跡をついて行くと、それがこの御堂の奥に来て、止まっていたので驚きました。それからこの家では子孫代々の者が眼を病み、たまたま兄が弓を射れば、必ず弟の眼に中るといって、永く弓矢のわざをやめていたそうであります。(口丹波口碑集。京都府南桑田郡稗田野ひえだの村柿花)
羽後うごの男鹿おが半島では、北浦の山王さんのう様の神主竹内丹後の家に、先祖七代までの間、代々片目であったという伝説が残っています。この家の元祖竹内弥五郎は弓箭ゆみやの達人でありました。八郎潟の主八郎権現が、冬になると戸賀の一の目潟に来て住もうとするのを、一つ目潟の姫神に頼まれて、寒風山かんぷうざんの嶺みねに待ち伏せをして、射てその片眼を傷つけたということであります。そうすると八郎神は雲の中から、その箭を投げ返して弥五郎の眼にあたったともいい、またはその夜の夢に現れて、七代の間は眼を半分にすると告げたともいって、とにかくに弥五郎神主の子孫の家では、主人が必ずすがめであったそうです。(雄鹿名勝誌。秋田県南秋田郡北浦町)
この竹内神主の家には、神の眼を射たという箭の根を、宝物にして持ち伝えてありました。神に敵対をした罰として、片目を失ったということが間違いでなければ、こういう記念品を保存していたのが変であります。神が片目の魚をお喜びになったように、ほんとうは片目の神主が、お好きだったのではなかろうかと思われます。
野州やしゅう南高岡村の鹿島神社などでは、神主若田家の先祖が、池速別皇子いけはやわけおうじという方であったといっております。この皇子は関東を御旅行の間に、病のために一方の目を損じて、それが為に都にお帰りになることが許されなかった。それでこの村に留まって、神主の家をおたてになったというのであります。(下野神社沿革誌。栃木県芳賀はが郡山前村南高岡)
奥州の只野ただの村は、鎌倉権五郎景政が、後三年ごさんねんの役えきの手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊ごりょう神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。少しくすがめというのは、一方の目が小さいことです。昔平清盛の父の忠盛なども、「伊勢の平氏はすがめなり」といって、笑われたという話がありますが、勇士には片目のごく小さい人は幾らもありました。そうして時によってはそれを自慢にしていたらしいのであります。(相生集。福島県安積あさか郡多田野村) 
機織り御前

 

越後の山奥の大木六おおぎろくという村には、村長で神主をしていた細矢ほそやという非常な旧家があって、その主人がまた代々すがめでありました。昔この家の先祖の弥右衛門という人が、ある夏の日に国境の山へ狩りに行って路を踏み迷い、今の巻機まきはた山に登ってしまいました。この山は樹木深く茂り薬草が多く、近い頃までも神の山といって、おそれて人のはいらぬ山でありましたが、弥右衛門はこの深山の中で、世にも美しいお姫様の機を巻いているのを見かけたのであります。驚いて立って見ると、向うから言葉をかけて、ここは人間が来れば帰ることの出来ぬ所であるが、その方は仕合せ者で、縁あってわが姿を見た。それでこれから里に下って、永く一村の鎮守として祀まりられようと思う。急いでわれを負うて山を降りて行け、そうして必ず後を見返ってはならぬといわれました。仰せの通りにして帰って来る途中、約束に背いて思わずただ一度だけ、首を右へ曲げて背中の神様を見ようとしますと、忽たちまちすがめとなってしまって、それから以後この家へ生れる男子は、悉ことごとく一方の目が細いということでありました。今でもそういうことがあるかどうか、私は行って尋ねて見たいと思っています。(越後野志と温故之栞おんこのしおり。新潟県南魚沼みなみうおぬま郡中之島村大木六)
大木六ではこの姫神を巻機権現ととなえて、今も引き続いて村の鎮守として祭っているのでありますが、土地によっては神を里中へお迎え申すことをせず、もとからの場所にこちらからお参りをして、拝んでいる村がいくらもあります。そうすると参拝する時と人とが分れ分れになって、もとからあった伝説もだんだんに変って来るのであります。それで山の神様が女であった。小さな子を連れた姥神うばがみであったということなども、後には忘れてしまったところがずいぶんありますけれども、どうかすると話の大切な筋途すじみちから、いつまでもそれを覚えていなければならぬ場合もありました。例えば静かな谷川の淵ふちの中で、機を織る梭ひの音をきくといい、または人が行くことも出来ぬような峰の岩に、布をほしたのが遠く見えるというなどはそれで、こういう為事しごとは男がしませんから、その為に山姥山姫のいい伝えはなお永く残るのであります。
殊に山姥は見たところは恐ろしいけれども、里の人には至って親切であって、山路に迷っていると送ってくれる。またおりおりは村に降りて来て、機織り苧績おうみを手伝ってくれるという話もありました。また仕合せの好い人は、山奥にはいって、山姥の苧つくねという物を拾うことがたまにある。その糸はいくら使っても尽きることがないともいいました。また山姥が子を育てるという話も、決して足柄山あしがらやまの金太郎ばかりではありません。
以前はどこの国の山にも山姥がいたらしいのですが、今はわずかしか話が残っておらぬのであります。そうしてその山姥ももとは水の底に機を織る神と一つであったことは、知っている者が殆どなくなりました。備後の岡三淵おかみぶちは、恐ろしい淵があるから出来た村の名で、おかみとは大蛇のことであります。村の山の下には高さ二丈余もある大岩が立っていて、その名を山姥の布晒ぬのさらし岩といい、時々この岩のてっぺんには、白いものが掛かってひらめいていることがあるといいました。(芸藩通志。広島県双三ふたみ郡作木村岡三淵)
因幡国いなばのくにの山奥の村にも、非常に大袈裟おおげさな山姥の話がありました。栗谷くりたにの布晒し岩から、それと並んだ麻尼まにの立て岩、箭渓やだにの動ゆるぎ石の三つの大岩にかけて、昔は山姥が布を張って乾していたといいました。この間が二里ばかりもあります。また箭渓の村の西には、山姥の灰汁濾あくこしと云う小さな谷があって、岩の間にはいつも灰汁の色をした水がたまっています。この水でその山姥が布を晒していたというのであります。(因幡志。鳥取県岩美郡元塩見村栗谷)
こういう話を子供までが、大笑いをしてきくようになりますと、だんだんと伝説がうそらしくなって来て、山の崩れたところを山姥が踏ん張った足跡だといったり、小便をしたあとだなどという話も出来て来ます。土佐の韮生にろうの山の中などでは、岩に自然の溝みぞが出来ているのを、昔山姥が麦を作っていた畝うねの跡だといいました。(南路志。高知県香美かがみ郡上韮生村柳瀬やないせ)
春になると子供が紙鳶こをあげるのに、「山の神さん風おくれ」というところもあれば、また「山んぼ風おくれ」といっている土地もあります。今では山姥は少年の知り人のように、呼びかけられているのであります。或る夕方などに山の方を向いて、大きな声で何かわめくと、直にあちらでも口まねをするのを、普通にはこだまといいますが、これは山姥がからかうのだと思っていた子供がありました。こだまというのも山の神のことですから、もとはそれを女だと想像していたのであります。
山姥は少し意地悪だ。いつも子供のいやがる様な、にくらしい口答えをよくするといって、あまんじゃくという言葉が、素直でない子のあだなのようになったのも、ほんとうはこの反響が始めなのであります。前に姥が池の話でいったように、あまんもおまんも姥神さまのことであります。東京のような山から遠い土地でも、昔は夕焼け小焼のことを「おまんが紅べに」といっておりました。天が半分ほども真赤になるのを、どこかで山の大女が、紅を溶かしているのだといってたわむれたのであります。
この山姥が機を織ったという話が、またいろいろの形に変って伝わっております。遠州の秋葉の山奥では、山姥が三人の子を生んで、その三人の子がそれぞれ大きな山の主になっているといい、その山姥がまた里近くへ来て、水のほとりで機を織っていたといいました。秋葉山のお社から少し後の方に、深い井戸があります。この山にはもと良い清水がなかったのを、千年余り前に神主が神に祈って、始めて授かった井戸だということで、この泉の名を機織の井というのは、その後奥山に山姥が久良支くらき山から出て来て、このかたわらに住んで神様の衣きぬを織り、それを献納していったから、この名になったのだというそうです。そういういい伝えのある井戸は、まだこの近辺の村にも二つも三つもあります。(秋葉土産。静岡県周智しゅうち郡犬居村領家りょうけ)
秋葉の山の神は俗に三尺坊さまと称となえて、今でも火難を防ぐ神として拝んでいるのは、おおかたこの貴い泉を、支配する神であったからであろうと思います。山姥とこの三尺坊様とは、一通りならぬ深い関係があったので、そのお衣を山の姥が来て織ったというのも、それ相応な理由のあることでした。相州箱根の口の風祭かざまつりという村は、後に築地つきじへ持って来た咳せきの姥の石像のあったところですが、その近くにも大登山秋葉寺だいとうざんあきばじという寺があって、いつの頃からか三尺坊を迎えて祀っています。この寺にも一夜にわき出したという清水があり、水の底には二つの玉が納めてあるともいって、雨乞いの祭りをそこでしました。三百五十年ほど前に、ここへも一人の姥が来て布を織ったことがあるので、井戸の名を機織りの井と呼びました。その布に五百文の鏡を添えて寺におくり、姥はいずれへか行ってしまいました。その銭は永くこの寺の宝物となってのこり、布は和尚おしょうが死ぬときに着て行ったということであります。(相中襍志ざっし。神奈川県足柄下あしがらしも郡大窪おおくぼ村風祭)
今でも姥神は常に機を織っておられるが、それを人間の目には普通は見ることが出来ぬのだというところがあります。信州の松本附近では、人が病気になって神降かみおろしという者に考えてもらうと、水神のたたりだという場合が多いそうであります、水神様が水の上に五色の糸を綜へて、機を織って遊んでいられるのを、知らずに飛び込んでその糸を切ったり汚したりすると、腹を立ててたたりなさるのだと、想像している人があったのであります。それが為に時々は小さな流れの岸などに、御幣ごへいを立て五色の糸を張って祭ってあるのを、見かけることがあったという話です。(郷土研究二編)
戸隠の山の麓ふもとの裾花すそばな川の岸には、機織り石という大きな岩があって、その脇には梭石ひいし、筬石おさいし、榺石ちぎりいしなどと、いろいろ機道具に似た形の石がありました。雨が降ろうとする前の頃は、この石のあたりでからからという音がするのを、神様が機をお織りになるといったそうで、この音がきこえるとどんな晴れた日も曇り、二三日のうちには必ず降り出すといったのは、恐らくもとここで雨乞いをしていたからでありましょう。(信濃奇勝録。長野県上水内かみみのち郡鬼無里きなさ村岩下)
木曽の野婦池やぶのいけというのもひでりの年に、村の人が雨乞いに行く池でありました。この池では時おり山姥が水の上で、機を織っておるのを見た者があるといいました。この山姥はもと大原という村の百姓の女房であったのが、髪が逆立ち角が生えて、しまいに家を飛び出して山姥になったといいます。或あるいはまた突いていた柳の杖を池の岸にさして置いて、水の中へはいってしまったという話もあって、そのあたりに柳の木がたくさんに茂っているのを、山姥の杖が芽を出して大きくなったものだともいっていました。(木曽路名所図会。長野県西筑摩にしちくま郡日義村宮殿)
水の底から機を織る音がきこえて来るという伝説なども、土地によって少しずつは話し方が変っていますが、探して見るとそちこちの大きな川や沼に、同じようないい伝えがあります。羽後うごの湯の台の白糸沢では、水の神様が常に機を織っておられるので、夜分周囲が静かになれば、いつでも梭の音がこの淵の方からきこえるといいました。(雪之飽田根。秋田県北秋田郡阿仁合あにあい町)
飛騨ひだの門和佐かどわさ川の竜宮が淵というところでは、昔は竜宮の乙姫の機織る音が、たびたび水の底からきこえていたものであった。それがある時一人のいたずら者があって、馬の鞦しりがいをこの淵へほうり込んで以来、ばったりその音をきくことが出来なくなったといいます。神代の天の岩屋戸の物語にも、似通うた所のある話であります。(益田ました郡誌。岐阜県益田郡上原村門和佐)
昔は村々のお祭りでも、毎年新たに神様の衣服を造ってお供え申していたようであります。その為には最も穢けがれを忌んで、こういうやや人里を離れた清き泉のほとりに、機殿はたどのというものを建てて若い娘たちに、その大切な布を織らせていたかと思います。その風がだんだんにやんで、後には神のお附きの女神が、その役目をなさるように考えて来ました。そのわけももうわからなくなって、しまいには竜宮の乙姫様などということになりましたけれども、ここできこえる機の音は竜宮のものでなく、最初から土地の神様の御用でありました。ちょうど片目の魚が生いけ牲にえのうちからおそれ敬われたように、後々神の御身につく布である故に、その機の音のするところへは、ただの人の布を織る者は、はばかって近よらぬようにしていたのであります。旧五月一と月の間は、ただの女は機を織ってはならぬといういましめがあり、これを犯す者が厳しく罰せられる村は今でもあります。
安芸あきの厳島いつくしまなどは、島の神が姫神であった為か、昔は島の内で機を立てることが常に禁じられてありました(棚守房顕手記)。また機道具をもってある池の側を通った女が、落ちて死んだという話が他の村々に多いのも、その為かと思います。
若狭の国吉山くによしやまの麓の機織り池なども、今はすっかり水田になってしまいましたが、前には水の中から機織る音がきこえるといいました。まだこの池が大池であった頃、一人の女が機の道具を持って、池の氷の上を渡ろうとしたところが、氷が割れて水にはいって死んだ。機織姫神社というのは、その女の霊を祀ったのだといっていますが、それは多分思い違いで、この姫神の社もある程の池だから、こんな恐ろしい話が出来たのであろうと思います。(若狭郡県志。福井県三方みかた郡山東村阪尻)
それよりも更に物すごい話が、近江の比夜叉ひやしゃの池にあります。もとはこの池には水が少くて、どうすればよいかと占いを立てて見ると、一人の女を生きながら池の底に埋めて、水の神に祀るならば、きっと水が持つということでありました。その時に領主の佐々木秀茂ひでもちの乳母比夜叉御前が、自ら進んでこの人柱に立ち、持っていた機の道具とともに、水の下に埋められました。それからは果していつも水が池一杯あるので、今でも比夜叉女水神と称えて信仰せられています。そうして真夜中にこの池の脇を通る人は、いつも水の底から機を織る音をきいたということであります。(近江輿地志略おうみよちしりゃく。滋賀県阪田郡大原村池下)
乳母がわざわざ機道具を持って、池の底にはいって行ったという点は、今一つ前からの話の残りであろうと思います。比夜叉という池の名も、もとはおそろしい池の主がいた為らしいのですが、美濃みのの夜叉池の方でも、やはりそれを大蛇に嫁入りした長者の愛娘まなむすめの名であったようにいっています。即ちこういう伝説は昔話になり易いのです。昔話の最も面白い部分を、持って来て結びつけられ易いのであります。
上総かずさの雄蛇おんじゃの池などでも、若い嫁が姑しゅうとめににくまれ、機の織り方が気に入らぬといっていじめられた。それで困ってこの池に身を投げたという話になっていますが、雨の降る日には水の底から、今でも梭の音がするという部分は伝説であります。もとはこの話は必ずもう少し池の雄蛇と関係が深かったのだろうと思います。(南総乃俚俗。千葉県山武さんぶ郡大和村山口)
しかしその昔話の方でも、もし伝説というものがなかったら、こうは面白くは発展しなかったのであります。一つの例をいうと、土佐の地頭分じとうぶん川の下流、行川なめかわという村には深い淵があって、その岸には一つの大岩がありました。昔ある人がこの岩の下にはいって見ると、淵の底に穴があってその奥の方で、美しい女が綾あやを織っているのを見たという伝説があります。(土佐州郡志。高知県土佐郡十六村行川)
この伝説は殊に弘く全国に行き渡ってありますが、大抵はこれに伴って気味の悪い、または愉快な話が語り伝えられているのであります。
羽後の小安こやすの不動滝ふどうだきの滝壺では、昔あるきこりが山刀をこの淵に落し、水にはいってこれをさがしまわっていると、忽ち明るい美しい里に出た。御殿があって、その中には綺麗きれいな女の人がいました。山刀はここにあるといってこの男に渡し、二度と再びこんなところへは来るな。あの鼾いびきの声をききなさい。あれは私の夫の竜神の寝息だ。私は仙台の殿様の娘だが、竜神に取られてもう逃げ出すことが出来ぬといったという話。これには女が機を織っていたという点が、早すでに落ちております。(趣味の伝説。秋田県雄勝郡小安)
ところが私のきいた陸中りくちゅう原台の淵の話では、長者の娘は水の底に一人で機を織っており、鉈なたはちゃんとその機の台木に、もたせ掛けてあったということで、そうしてうちの親たちに心配をするなという伝言をしたというのです。(遠野とおの物語。岩手県下閉伊しもへい郡小国村)
更に岩代いわしろ二本松の町の近く塩沢村の機織御前の話などは、また少しばかり変っています。昔ある人が川の流れに出て鍬くわを洗っていて、あやまってそれを水中に取り落した。水底にはいってさがしまわっているうちに、とうとう竜宮まで来てしまいました。竜宮では美しいお姫様がただ一人、機を織っていたといいます。久しく待っていたところへようこそおいでといって、大そうなおとり持ちでありましたが、家のことが気になるので、三日めに暇乞いとまごいをして、腰元に路まで送ってもらって、もとの村に帰って来ました。そうすると三日と思ったのがもう二十五年であった。それから記念の為に、この機織御前のお社を建てたという話であります。ただしそれにもまた別のいい伝えはあるので、私はそのことを次ぎにお話して、もうおしまいにします。(相生集。福島県安達あだち郡塩沢村)
機織御前を織物業の元祖の神として、祀っている地方は多いのであります。その一つは能登の能登比唐フとひめ神社、この神様は始めて能登国に御兄の神と共にお下りなされ、神様の御衣服を作って後に、その機道具を海中にお投げになったのが、今は織具島おりぐじまという島になって、富木浦とぎのうらの沖にある。この地方の織物業者が、稗ひえの粥かゆを織糸にぬるのは、もと姫神様のお教えであったといって、今でも四月二十一日の祭礼に、稗粥を造ってお供えすることになっているそうです。(明治神社誌料。石川県鹿島かしま郡能登部村)
野州の那須では那須絹の元祖として、綾織池のかたわらに綾織神社を祭っております。大昔、館野だての長者という人が娘の綾姫の為に、綾織大明神を迎えに来たというのが、今の歴史でありますが、その前には驚くような一つの奇談がありました。この池は今から二百五十年前の山崩れに埋まって、小さなものになってしまったが、もとは有名な大池であった。その頃に池の主が美しい女に化けて、都に上ってある人の妻となり、綾を織って追い追いに家富み、後には立派な長者になった。ある時この女房が昼寝をしているのを、夫が来て見ると大きなる蜘蛛くもであった。それを騒いだので一首の歌を残して、蜘蛛の女房は逃げて帰った。そうしてこんな歌を残して行ったというのであります。
恋しくばたづねて来きたれ下野しもつけの那須のことやの綾織りのいけ
それで夫が、跡を追うて尋ねて来て、再びこの池のほとりで面会したという話もあります。歌はこの地方の臼うすひき歌になって永く伝わっていたといいますから、これもまた那須地方の伝説であったのです。(下野風土記。栃木県那須郡黒羽町北滝字御手谷ごてや)
この歌が安倍晴明あべのせいめいの母だという葛くずの葉の狐の話と、同じものだということは誰にも分りますが、那須の方は子供のことをいっておりません。ところが、歌の文句にある那須のことやというのが、もしこのお社のある御手谷ごてやのことであるならば、福島地方の絹の神様、小手姫御前はもとは一つであろうと思いますが、こちらには親子の話があるのであります。小手姫様は今の飯阪の温泉の近く、大清水の村に祀ってあるのが最も有名で、土地では機織御前の宮といっております。いろいろのいい伝えがあって、少しも一致しませんが、今でもよく知られているのは、羽黒山の神様蜂子はちこの王子の御母君であって、王子のあとを慕ってこの国へお下りなされ、年七十になるまで各地をあるいて、蚕を養い絹を織ることを人民に教え、後に、この大清水の池に身を投げて死なれたというのであります。それはとにかくに、社の前には左右の小池があって水至って清く、今も村々の人は絹を織れば、その織り留めをこの御宮に献納するということであります。(信達二郡村誌。福島県伊達だて郡飯阪町大清水)
この小手姫の小手という語には、何か婦人の技芸という意味が、あったのではないかと思いますが、今の小手川村の内には、また布川という部落もあって、小手姫がここの川原に出て、自ら織るところの布を晒したともいっています。すなわち布を織る姥の信仰の方が、却ってこの地方に絹織物の始まりよりは古かったようであります。そうすると小手姫を蜂子王子の御母といい始めた理由も、幾分か明かになります。すなわち王子の御衣服を調製する役として、早くから共々に祀っていたのが、後に絹工業が盛んになって、独立してその機織御前だけを、拝むようになったとも見えるのであります。前に申した二本松の機織御前なども、領主の畠山高国はたけやまたかくにという人が、この地に狩をした時、天から降った織姫に出あって、結婚して松若丸という子が生れた。その松若丸の七歳の時に、母の織姫は再び天に帰り、後にこの社を建てて、祀ることになったと、土地の人たちはいっていたそうで(相生集)、話はまた那須の綾織池の方とも、少しばかり近くなって来るのであります。こういう風に考えて来ると、機を織る姫神を清水のかたわらにおいて拝んだのも、もとは若い男神に、毎年新しい神衣を差し上げたい為であって、どこまで行っても御姥子様の信仰は、岸の柳のように一つの伝説の流れの筋を、われわれに示しているのであります。 
御箸(おはし)成長

 

御箸を地面にさして置いたら、だんだん大きくなって、大木になったという話が方々にあります。
東京では向島むこうじまの吾妻あずま神社の脇にある相生あいおいの楠もその一つで、根本から四尺ほどの所が二股ふたまたに分れていますが、始めは二本の木であったものと思われます。社のいい伝えでは、昔、日本武尊やまとたけるのみことがここで弟橘姫おとたちばなひめをお祭りになった時、お供え物についた楠のお箸を取って土の上に立て、末代天下泰平ならば、この箸二本とも茂り栄えよと仰せられました。そうすると果してその箸に根がついて、後にはこんな大きな木になったというのであります。この楠の枝を四角にけずったものを、今でも産をする人がいただいて行くそうです。それをお箸にして食事をしていれば、必ずお産が軽いと信じた人が多く、またこの木の葉を煎せんじて飲むと、疫病をのがれるともいっておりました。(江戸志以下。土俗談語等)
また浅草の観音堂の後にある大公孫樹おおいちょうは、源頼朝がさして行ったお箸から、芽を出して成長したものだといういい伝えもありました。(大日本老樹名木誌。東京市浅草公園)
頼朝のお箸の木は、これ以外にも、まだ関東地方には、そちこちに残っております。
武蔵むさしではまた土呂どろの神明様の社の脇の大杉が、源義経の御箸であったと申します。義経は蝦夷地えぞちへ渡って行く以前に、一度この村を通って、ここに来て休憩したことがあるのだそうです、そうして静かな見沼みぬまの風景を眺めながら昼の食事をしたというのであります。その時に箸を地にさして行ったのが、芽を生じて今の大杉になったといっております。(大日本老樹名木誌。埼玉県北足立きたあだち郡大砂土おおさと村)
武蔵の入間いるま郡には椿峯つばきみねという所が二箇所あります。その一つは、御国みくにの椿峯で、高さ四五尺の塚の上に、古い椿の木が二本あります。これは昔新田義貞が、この地に陣取って食事をした時に、お箸に使った椿の小枝をさして置いたのが、後にこの様に成育したといい伝えております。(入間郡誌。埼玉県入間郡山口村)
いま一つは山口の北隣りの北野という村の椿峯で、これは新田義興よしおきが、椿の枝を箸にして、ここで食事をしたようにいっておりますが、ちょうど村境の山の中に、双方がごく近くにあるのですから、もとは一つの話を二つにわけていい伝えたものであります。(同書。同郡小手指こてさし村北野)
それからいま一つ外秩父そとちちぶの吾野あがの村、子ねの権現山ごんげんやまの登り口に、飯森杉という二本の老木があります。これは子の聖ひじりという有名な上人しょうにんが、初めてこの山に登った時に、ここで休んで、昼餉ひるげに用いた杉箸を地にさして行ったと伝えております。こういうふうに人はいろいろに変っても、いつもお昼の食事をした場所ということになっているのは、何か理由のあることでなければなりません。(老樹名木誌。埼玉県秩父郡吾野村大字南)
甲州では、東山梨の小屋舗こやしきという村に、また一つ日本武尊の御箸杉という木がありました。それは松尾神社の境内で、熊野権現の祠ほこらの後にある大木でありました。日本武尊の御遺跡という所は、山梨県にはまだ方々にありますが、いずれも詳しいことは伝わっておりません。(甲斐かい国誌。山梨県東山梨郡松里村)
そこから余り遠くない等々力とどろき村の万福寺まんぷくじという寺にも、親鸞しんらん上人の御箸杉という大木が二本あって、それ故に、また杉の御坊とも呼んでおりましたが、二百年以上も前の火事に、その一本は焼け、残りの一本も後に枯れてしまいました。昔、親鸞がこの寺に来て滞在しいよいよ帰ろうという日に、出立でたちの膳の箸を取って、御堂の庭にさしました。阿弥陀如来あみだにょらいの大慈大悲には、枯れた木も花が咲く。われわれ凡夫もそのお救いに洩れぬ証拠は、この通りといってさして行きましたが、果たせるかな、幾日もたたぬうちに、その箸次第に根をさし芽を吹いて、いつしか大木と茂り秀ひいでたというのであります。(和漢三才図会以下。東山梨郡等々力村)
関東では東上総ひがしかずさの布施ふせという村の道の傍にも、幾抱えもある老木の杉が二本あって、その地を二本杉と呼んでおりました。これはまた、昔源頼朝が、ここを通って安房あわの方へ行こうとする際に、村の人たちが出て来て、将軍に昼の飯をすすめました。箸には杉の小枝を折って用いたのを、記念の為にその跡にさし、それが生えついて、この大木となったといって、そこも新田義貞の椿峯と同様に、小さい塚になっていたと申します。(房総志料。千葉県夷隅いすみ郡布施村)
なおこれから四里ばかり西に当って、市原郡の平蔵へいぞうという村の二本杉にも、同じく頼朝公が御箸をさして行かれたという伝説が残っておりました。いつも頼朝であり、また箸であることは、よほど珍しい話といわねばなりません。(房総志料続編。千葉県市原郡平三へいぞう村)
上総では、また頼朝公の御箸は、薄すすきの茎をもって作り、食事の後にそれをさして置いたらついたので、今でも六月二十七日の新箸にいばしという祭り日には、薄を折って箸にするといい伝えている村があります。(南総之俚俗。千葉県長生ちょうせい郡高根本郷村宮成)
越後などでは、七月二十七日を青箸の日と名づけて、必ず青萱あおかやの穂先を箸に切って、その日の朝の食事をする村が多かったそうです。そのいわれは、昔川中島合戦の時に、上杉謙信が諏訪明神すわみょうじんに祈って、武運思いの通りであった故に、その後永く諏訪の大祭りの七月二十七日の朝だけは、神のお喜びなされる萱の穂を、箸に用いることにしたのだといっておるのであります。(温故之栞巻二十)
或あるいはまた頼朝は葭よしを折って、箸に用いたとも伝えております。上総の畳が池は、八段歩に近い大池でありますが、一本も葭というものが生えません。それは昔頼朝公が、この池の岸で昼の弁当を使い、葭を折って箸にしたところが、あやまって唇を傷つけました。それで腹を立てて葭の箸を池に投げ込んだので、今でもこの池には葭が育たぬのだといっております。(上総国誌稿。千葉県君津郡清川村)
下総しもうさでは、印旛いんば郡新橋にっぱしの葦あしが作さくという所に、これは頼朝の御家人ごけにんであった千葉介常胤ちばのすけつねたねの箸が、成長したという葦原があります。やはりこの池を通行して昼の食事をするのに、葦を折って箸に使い、後でそれを地面にさして行くと、その箸に根を生じて、追々に茂ったといい、元が箸だから今でも必ず二本ずつ並んで生えるのだと伝えておりました。(印旛郡誌。千葉県印旛郡富里村新橋)
安房の洲崎すのさきの養老寺という寺の庭には、やはり頼朝公の昼飯の箸が成長したと称して、清水の傍に薄の株がありますが、これは前の話とは反対に、毎年ただ一本だけしか茎が立たぬので、一本薄の名をもって知られておりました。尾花は普通には何本も一しょに出ますから、何か特別の理由がなくてはならぬというふうに、考えられていたものと思われます。(安房志。千葉県安房郡西岬村)
葦と薄の箸の話は、もうこの他には聞いておりません。東北地方では、陸中横川目の笠松かさまつがあります。黒沢尻から横手に行く鉄道の近くで、汽車の中からよく見える松です。これは親鸞上人の御弟子の信秋のぶあきという人が、やはり甲州の万福寺の話と同じ様に、仏法のたっといことを土地の人たちに示すために、食事の箸に使った松の小枝を二本、地面にさして行ったのが大きくなったのだといわれております。(老樹名木誌。岩手県和賀郡横川目村)
それからまた、越後に来て、北蒲原きたかんばら郡分田ぶんた村の都婆つばの松が、これまた親鸞上人の昼飯の箸でありました。この松は女の姿になって京都に行き、松女と名乗って本願寺の普請の手伝いをしたというので、非常に有名になっている松であります。(郷土研究一編。新潟県北蒲原郡分田村)
能登の上戸うえどの高照寺こうしょうじという寺の前に、古くは能登の一本木ともいわれた大木の杉がありました。これは八百年も長命をしたという若狭の白比丘尼しろびくにの、昼餉の箸でありました。白比丘尼は、ある時眼の病にかかって、この寺の薬師如来にょらいに、百日の間願かけをしました。そうして信心のしるしに、杉の箸を地に立てたともいっております。この尼は箸ばかりでなく、諸国をめぐって杖つえや椿の小枝をさし、それが皆今は大木になっているのであります。(能登国名跡志以下。石川県珠洲すず郡上戸村寺社)
加賀では白山はくさんの麓ふもとの大道谷だいどうだにの峠の頂上に、また二本杉と呼ばるる大木があって、これは有名なる泰澄たいちょう大師が、昼飯に用いた箸を地にさしたといっております。ここはちょうど越前と加賀との国境で、峠の向うは越前の北谷、この辺にも色々と泰澄大師の故跡があります。(能美のみ郡誌。石川県能美郡白峰村)
越前では丹生にう郡の越知山おちさんというのが、泰澄大師の開いた名山の一つであります。泰澄はこの山に住んで、食べ物のなくなった時に、箸を地上にさしたのが成長したといって、大きな檜ひのきが今でも二本あります。くわしい話はわかりませぬが、これも信心の力で、やがて食べ物が得られたというのであろうと思います。(郷土研究一編)
近江国では、聖徳太子が百済寺くだらじをお建てなされた時に、この寺もし永代に繁昌すべくばこの箸成長して、春秋の彼岸に花咲けよと祝して、おさしなされたという供御くごの御箸が、木になって二本とも残っております。土地の名を南花沢、北花沢、その木を花の木といっております。楓かえでの一種ですが、花が美しく、また余りたくさんにはない木なので、この頃は非常に注意せられるようになりました。しかし美濃三河の山中などにも、たまに大木を見かけることがあって、大抵はあるとうとい旅人が、箸を立てたという伝説を伴うているそうであります。(近江国輿地誌略以下。滋賀県愛知えち郡東押立村)
この地方では今一つ、更に驚くべき御箸の杉が、犬上いぬがみ郡の杉阪という所にあります。大昔天照大神あまてらすおおみかみが、多賀たが神社の地に御降りなされた時に、杉の箸をもって昼飯を召し上り、それをお棄てなされたのが栄えたと伝えて、境の山に大木になって今でもあります。(老樹名木誌。滋賀県犬上郡脇ヶ畑村杉)
聖徳太子の御箸の木は、大阪にももとは一本ありました。玉造たまつくりの稲荷いなり神社の地を栗岡くりおか山、または栗山といってのは、その伝説があった為で、ここでは栗の木をけずったお箸であったといっております。太子が物部守屋もののべのもりやとお戦いなされた時に、このいくさ勝利を得べきならば、この栗の木、今夜のうちに枝葉出いずべしといって、おさしなされたお食事の箸が、果して翌朝は茂った木になっていたと伝えられます。もちろん普通にはあり得ないことばかりですが、それだから太子の御勝利は、人間の力でなかったというふうに、以前の人は解釈していたのであります。(芦分船あしわけぶね。明治神社誌料)
美作みまさか大井荘の二つ柳の伝説などは、至って近い頃の出来事のように信じられておりました。ある時出雲国いずものくにから一人の巡礼がやって来て、ここの観音堂に参詣をして、路のかたわらで食事をしました。この男は足を痛めていたので、これから先の永い旅行が無事に続けて行かれるかどうか、非常に心細く思いまして、箸に使った柳の小枝を地上にさして、道中安全を観音に祈りました。そうして旅をしているうちに、だんだんと足の病気もよくなり、諸所の巡拝を残る所もなくすませました。何年か後の春の暮れに、再びこの川のほとりを通って気をつけて見ると、以前さして置いた箸の小枝は、既に成長して青々たる二本の柳となっていました。そこで二つ柳という地名が始まったと伝えております。二百年前の大水にその柳は流れて、後に代りの木を植えついだというのが、それもまた大木になっていたということであります。(作陽誌。岡山県久米くめ郡大倭やまと村南方中)
四国で二つあるお箸杉の伝説だけは、もう今日では昼の食事ということをいっておりません。その一つは阿波の芝村の不動の神杉かみすぎというもの、二本の大木が地面から二丈ほどの所で、三間四方もある大きな巌石を支えております。昔弘法大師が、この地を通って、大きな岩の落ちかかっているのを見て、これはあぶないといって、二本の杉箸を立てて去った。それが芽をふき成長して、大丈夫な大きな樹になったのだと伝えております。(徳島県老樹名木誌。徳島県海部かいふ郡川西村芝)
伊予の飯岡村の王至森寺おうじもりじにあるものに至っては、なん人びとの箸であったかということも不明になりましたが、それでも杉の木の名は真名橋杉、まなばしとは御箸のことであります。八十年余り前に、この木を伐きってしまったところが、村に色々の悪いことが続きました。或は真名橋杉を伐ったためではなかろうかといって、新たに今ある木を植えて、古い名を相続させ、それを木の神として尊敬しております。(老樹名木誌。愛媛県新居にい郡飯岡村)
九州には、またこんな昔話のような伝説が残っております。昔肥前の松浦領と伊万里いまり領と、領分境をきめようとした時に、松浦の波多三河守はたみかわのかみは、伊万里兵部大夫ひょうぶだゆうと約束して、双方から夜明けの鶏の声をきいて馬を乗り出し、途中行き逢うた所を領分の堺に立てようということになりました。ところがその夜、岸嶽きしだけの鶏が宵鳴きをしたので、松浦の使者は早く出発し、隣りの領の白野しらのなた落おちという所に来て、始めて伊万里の使者に行き逢いました。これではあまりに片方へ寄り過ぎるというので、伊万里方から頼んで、十三塚という所まで引き下ってもらって、その野原で馬から下りて、酒盛り食事をしました。その時用いたのは栗の木の箸でしたが、それを記念のために、その場所に揷さして帰って来ますと、後に箸から芽を出して、そこに栗の木が茂りました。不思議なことには毎年花が咲くばかりで、実はならなかったといい伝えております。(松浦昔鑑)
これと同じ様な話は気をつけていると、まだいくらでも知っている人が出て来ます。以前はほんとうにそんなことがあったと思っていた者が多かったので、永い間皆が覚えていたのであります。里でも山の中でも村の境でも、神のお祭りをする大切な場所には、必ず何か変った木が伐り残してありました。それが近江の花の木の如く、種類の非常に珍しいものもあれば、また向島の相生の樟くすのように、枝振りや幹の形の目につくものもありましたが、最も普通には、同じ年齢の同じ木を二本だけ並べて残したのであります。そうして置けば、すぐに偶然のものでないことが後の人にもわかったのであります。
そうして一方にはお祭りの折りに限って、木の串くしまたは木の枝を土にさす習慣がありました。同時にまた新しい箸をけずって、祭りの食事を神と共にする習慣もありました。箸は決して成長して大木となることの出来るものではありませんが、大昔ならば、また神様の力ならば、そんなことがあっても不思議でないと思ったのです。それもただの人には、とうてい望まれぬことである故に、かつて最も優れた人の来た場合、もしくは非常の大事件に伴うて、そういう出来事があったように、想像する者が多くなりました。しかし実際はそれよりもなお以前から、やはりこれは大昔の話として、語り伝えていたものであったろうと思います。 
行逢阪(ゆきあいざか)

 

境は、最初神々が御定めになったように、考えていた人が多かったのであります。人はいつまでも境を争おうとしますが、神様には早く約束が出来ていて、そのしるしにはたいてい境の木、または大きな岩がありました。大和と伊勢の境にある高見山の周囲では、奈良の春日かすが様と伊勢の大神宮様とが、御相談の上で国境をおきめなされたといっております。春日様は余り大和の領分が狭いので、いま少し、いま少しとのぞまれて果てしがない。いっそのこと出逢い裁面さいめんとして、境をつけ直そうということになりました。裁面はさいめ、すなわち堺のことで、双方から進んで来て、出おうた所を境にしようというわけであります。そこで春日の神様は鹿に乗ってお立ちになる。伊勢は必ず御神馬ごしんめに乗って、かけて来られるに相違ないから、これはなんでもよほど早く出かけぬと負けるといって、夜の明けぬうちに出発なされました。そのために却って春日様の方が早く伊勢領にはいって、宮前みやのまえ村のめずらし峠の上で、伊勢の神様とお出あいになりました。おお春日はん珍しいと声をおかけになった故に、めずらし峠という名前が出来ました。ここを国境にしては余りに伊勢の分が狭くなるので、今度は大神宮様の方からお頼みがあり、笹舟を作って水に浮かべて、その舟のついた所を境にしようということになりました。
その頃はまだこの辺は一面の水で、その水が静かで、笹舟は少しも流れません。それで伊勢の神様は一つの石を取って、これは男石といって水の中に投げこまれますと、舟はただようて今の舟戸ふなど村にとまり、水は高見の嶺を過ぎて大和の方へ少し流れました。それを見て伊勢の大神が、舟は舟戸、水は過ぎたにと仰せられたので、伊勢の側には舟戸村があり、大和の方には杉谷の村があります。二村共に神様のお付けになった古い名だといっております。その男石は今もめずらし峠の山中にあって、新道を通っても遠くからよく見えます。村の家に子供の生れようとする者が、今でもこの石を目がけて小石を打ちつけて、生れる子が男か女かと占います。男が生れる時には、必ずその小石が男石に当るといっております。三十年ほど前までは、この男石の近くに、古い大きな榊さかきの木が、神に祀まつられてありました。伊勢の神様が神馬に乗り、榊の枝を鞭むちにしておいでになったのを、ちょっと地に揷さして置かれたものが、そのまま成長して大木になった。それ故に枝はことごとく下の方を向いて伸びているといいました。この木をさかきというのも、逆木の意味で、ここが始まりであったと土地の人はいっております。(郷土研究二編。三重県飯南はんなん郡宮前村)
大和と熊野との境においても、これと近い話が伝わっておるそうであります。春日様は、熊野の神様と約束をして、やはり肥前の松浦人と同じように、行き逢い裁面として領分境をきめようとせられました。熊野は烏に乗って一飛びに飛んで来られるから、おそくなっては負けると思って、まだ夜の明けぬうちに春日様は、鹿に乗って急いでおでかけになると、熊野の神様の方では油断をして、まだ家の内に休んでおられました。約束通りにすると、軒の下まで大和の領分にしなければならぬのですが、それでは困るので無理に春日様に頼んで、熊野の烏の一飛び分だけ、地面を返してお貰いになりました。それ故に、今でも奈良県は南の方へ広く、熊野は堺までがごく近いのだといいますのは、まるで兎と亀との昔話のようであります。
これとよく似たいい伝えが、また信州にもありました。信州では、諏訪大明神が国堺を御きめなされるために、安曇あずみ郡を通って越後の強清水こわしみずという所まで行かれますと、そこへ越後の弥彦やひこ権現がお出向きになって、ここまで信濃にはいられては、あまり越後が狭くなるから、いま少し上の方を堺にしようという御相談になり、白池しらいけという所までもどって堺を立てられました。それから西へ廻って越中の立山たてやま権現、加賀の白山はくさん権現ともお出あいなされて、つごう三箇所の境がきまり、それから後は七年に一度ずつ、諏訪から内鎌ないがまというものが来て、堺目にしるしを立てたということであります。(信府統記)
同じ話を、また次のように話している人もあります。昔国境を定める時に、諏訪様は牛に乗り、越後様は馬に乗って、途中ゆきおうた所を境にしようというお約束がきまって、越後様は馬の足は早いから、あまり行き過ぎても失礼だと思って、夜が明けて後にゆっくりとお出かけになる。諏訪様の方では、牛は鈍いからと、夜中にたって大急ぎでやって来られたので、先に越後分の塞さいの神という所まで来て、そこでやっと越後様の馬と出あわれた。これは来過ぎたわいと、少し引き返して出直して行かれたという所を、諏訪の平というのだそうであります。(小谷口碑集。新潟県西頸城にしくびき郡根知村)
昔はこういうふうに、国の境を遠くと近くと、二所にきめて置く習慣があったらしいのであります。そうすればなるほど喧嘩けんかをすることが、少くて済んだわけであります。豊後ぶんごと日向ひゅうがとの境の山路などでも、嶺から少し下って、双方に大きなしるしの杉の木がありました。そうして豊後領に寄った方を日向の木、これと反対に日向の側にある方の杉を、豊後の木といっておりました。百年ほど前にその豊後の木が枯れたので、伐って見ますと、太い幹からたくさんの錆さびた鏃やじりが出ました。これは矢立やたての杉ともいって、以前はその下を通る人々が、その木に向って箭やを射こむことを、境の神を祭る作法としていたのであります。箱根の関山にも甲州の笹子ささご峠にも、もとは大きな矢立杉の木があったのです。信州の諏訪の内鎌というのも、その箭の代りに鉄の鎌を、神木の幹に打ちこんだものと思われます。近頃になっても、境に近い大木の幹から、珍しい形をした古鎌が折り折り出ました。そうしてそれと同じ鎌が、諏訪では今もお祭りに用いられるので、薙鎌なぎがまと書く方が正しいようであります。何にせよ諏訪の明神が、境をお定めになったという伝説は、鎌を打ちこむ神木があるために、出来たものに相違ありませぬが、その話の方はおいおいに変って行くのであります。例えば越後の神様は、諏訪の神の母君で、御子の様子が聞きたくて、越後からわざわざお出でになる路で、ちょうど国境の所で、諏訪の神様とお出あいなされ、諏訪様が鹿島かしま、香取かとりの神に降参なされたことをきいて、失望してここから別れて、越後へお帰りになったなどというのは、後に歴史の本を読んだ人の考えたことで、安房あわや上総で、源頼朝の旅行のことを、附け加えたのと同じ様な想像であろうと思います。
飛騨ひだの山奥の黍生谷きびうだにという村などは、昔川下の阿多野郷あたのごうとの境が不明なので、争いがあって困っていた時に、双方の村の人が約束を立て、黍生谷では黍生殿、阿多野は大西殿という人を頼み、牛に乗って両方から歩み寄って、行き逢うた所を領分の境とすることにしました。尾瀬おせが洞ほらの橋場で、その二つの牛がちょうど出あい、それ以後はこれを村堺に定めたといっております。その黍生殿も大西殿も、共に木曽から落ちて来た隠居の武士さむらいであったといいますが、話はまったく春日と熊野、もしくは諏訪と弥彦の、出逢い裁面の伝説と同じものであります。(飛騨国中案内。岐阜県益田ました郡朝日村)
美濃の武儀むぎ郡の柿野かきのという村と、山県郡北山という村との境には、たにのしおという所があって、そこに柿野の氏神様と、北山の鎮守様とが、別れの盃さかずきをなされたといい伝えております。金の盃と黄金の鶏とを、その地へ埋めて行かれたので、今でも正月元日の朝は、その黄金の鶏が出て鳴くといっております。(稿本美濃志。岐阜県武儀郡乾いぬい村)
二つの土地の神様を、同じ日に同じ場所で、お祭り申す例は方々にありました。そうすれば隣り同士仲が良く、境の争いは出来なくなるにきまっています。地図も記録もなかった昔の世の人たちは、こうしでだんだんにむりなことをせずに、よその人と交際することが出来るようになりました。だからどこの村でも伝説を大事にしていたので、もし伝説が消えたり変ったりすれば、お祭りのもとの意味がわからなくなってしまうのであります。
行き逢い祭りをするお社は、別になんという神様に限るということはなかったのであります。信州では雨宮あめみやの山王さんのう様と、屋代やしろの山王様と同じ三月申さるの日の申の刻に、村の境の橋の上に二つの神輿みこしが集って、共同の神事がありました。その橋の名を浜名の橋といっております。東京の近くでは、北と南の品川の天王様の神輿が、二つの宿の境に架けた橋の上で出あい、橋の両方の袂たもとのお旅所でお祭りをしました。そうしてその橋を行き逢いの橋というのであります。東京湾内の所々の海岸には、まだ幾つでもこれと同じお祭りがありますが、もとは境を定めるのが目的であったことを、もう忘れている人が多いようであります。そうして一方が姫神である場合などは、これを神様の御婚礼かと思う者が多くなったのであります。 
袂石(たもといし)

 

昔備後びんごの下山守しもやまもり村に、太郎左衛門という信心深い百姓があって、毎年かかさず安芸あきの宮島さんへ参詣さんけいしておりました。ある年神前に拝みをいたして、私ももう年をとってしまいました。お参りもこれが終りでござりましょう、といって帰って来ますと、船の中で袂に小さな石が一つ、はいっているのに心付きました。誰か乗り合いの人がいたずらをしたものであろうと思って、その石を海へ捨てて寝てしまいました。翌朝目が覚めて見ると、同じ小石がまた袂の中にあります。あまり不思議に思って大切にして村へ持って帰り、近所の人にその話をしましたところが、それは必ず神様からたまわった石であろう。祀まつらなければなるまいといって、小さなほこらを建ててその石を内に納め、厳島大明神いつくしまだいみょうじんと称となえてあがめておりました。その石が後にだんだんと大きくなったということで、この話をした人の見た時には、高さが一尺八寸ばかり、周りが一尺二三寸程もあったと申します。それからどうしたかわかりませんが、もし今でもまだあるならば、またよほど大きくなっているわけであります。(芸藩志料。広島県蘆品あししな郡宜山むべやま村)
信州の小野川には、富士石という大きな岩があります。これは昔この村の農民が富士に登って、お山から拾って来た小石でありました。家の近くまで帰った時、袂の埃ごみを払おうとして、それにまぎれてここへ落したのが、いつの間にかこのように成長したものだといっております。(伝説の下伊那しもいな。長野県下伊那郡智里村)
また同じ地方の今田の村に近い水神の社には、生き石という大きな岩があります。これは昔ある女が、天竜川の川原で美しい小石を見つけ、拾って袂に入れてここまで来るうちに、袂が重くなったので気がついて見ると、その小石がもう大きくなっていました。そうして自分が爪の先で突いた小さな疵きずが石と共に大きくなっているので、びっくりしてこの水神様の前へ投げ出しました。それが更に成長して、しまいにはこのような巌いわおとなったのだといい伝えております。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡竜江村)
熊野の大井谷という村でも、谷川の中流にある大きな円形の岩、高さ二間半に周りが七間もあって、上にはいろいろの木や草の茂っているのを、大井の袂石といってほこらを建てて祀っておりました。それをまた福島石ともいっていましたが、そのわけはもう伝わっておりません。(紀伊国絵風土記。三重県南牟婁みなみむろ郡五郷村)
伊勢の山田の船江ふなえ町にも、白太夫しらだゆうの袂石という大石があります。高さは五尺ばかり、周りに垣をして大切にしてありますが、これは昔菅公かんこうが筑紫つくしに流された時、度会春彦わたらいのはるひこという人が送って行って、帰りに播州ばんしゅうの袖の浦という所で、拾って来たさざれ石でありました。それが年々大きくなって、終ついにこの通りの大石となったので、その傍に菅公の霊を祀ることになったといい伝えて、今でもそこには菅原社があります。(神都名勝誌。三重県宇治山田市船江町)
土佐の津大つだい村と伊予の目黒村との境の山に、おんじの袂石という高さ二間半、周り五間ほどの大きな石がありました。これは昔曽我の十郎五郎兄弟の母が、関東から落ちて来る時に、袂に入れて持って来たものといい伝えております。この地方の山の中の村には、曽我の五郎を祀るという社が方々にあり、またその家来の鬼王団三郎おにおうだんさぶろうの兄弟が住んでいたという故跡なども諸所にあります。曽我の母が落人おちゅうどになって来ていたということも、この辺ではよく聞く話なのであります。(大海集。高知県幡多はた郡津大村)
肥後の滑石なめいし村には、滑石という青黒い色の岩が、もとは入り海の水の底に見えておりましたが、埋め立ての田が出来てから、わからなくなってしまいました。この石は神功じんぐう皇后が三韓征伐のお帰りに、袂に入れてお持ちになった小石が、大きくなったのだといっておりました。(肥後国志。熊本県玉名郡滑石村)
九州の海岸には神功皇后の御上陸なされたといい伝えた場所が、またこの他にもいくつとなくあります。そうして記念の袂石を大切にしていたところも、方々にあったのではないかと思います。一番古くから有名になっていたのは、筑前深江ふかえの子負原こうのはらというところにあった二つの皇子みこ産み石であります。これはお袖の中に揷はさんでお帰りになったという小石ですが、万葉集や風土記の出来た頃には、もう一尺以上の重い石になっておりました。卵の形をした美しい石であったそうです。後にはどこへ移したのか、知っている人もなくなりました。土地の八幡はちまん神社の御神体になっているといった人もあれば、海岸の岡の上に今でもあって、もう三尺余りになっているという人もありました。(太宰だざい管内志。福岡県糸島郡深江村)
大きくなった石というのは、大抵は遠くから人が運んで来た小石で、始めからそこいらのただの石とは違っておりました。下総の印旛いんば沼の近く、太田村の宮間某という人の家では、屋敷に石神様のほこらを建てて、五尺余りの珍しい形の石を祀っていました。むかしこの家の前の主人が、紀州熊野へ参詣の路で、草鞋わらじの間に挾はさまった小石を取って見ますと実に奇抜な恰好をしていました。あまり珍しいので燧袋ひうちぶくろの中に入れて持って帰りますと、もう途中からそろそろ大きくなり始めたといっております。(奇談雑史。千葉県印旛郡根郷村)
また千葉郡上飯山満かみはざまの林という家でも、この成長する石を氏神に祀っていました。これはずっと以前に主人が伊勢参りをして、それから大和をめぐって途中で手に入れた小石で、巾着きんちゃくに入れて来た故に、その名を巾着石と呼んでいました。(同書。同県千葉郡二宮村)
土佐の黒岩村のお石は有名なものでありました。神に祀って大石神、また宝御伊勢神と称となえております。これもずっと昔ある人が、伊勢から巾着に入れて持って来てここに置いたのが、終にこの見上げるような大岩になったのだといっております。(南路志其他そのた。高知県高岡郡黒岩村)
筑後にも大石村の大石神社といって、村の名になった程の神の石があります。昔大石越前守という人が、伊勢国からこの石を懐に入れて参りまして、これを伊勢大神宮と崇あがめたともいえば、或あるいは一人の老いたる尼が、小石を袂に入れてこの地まで持って来たのが、次第に大きくなったともいっております。今から三百年前に、もう九尺三方ほどになっておりました。そうして別に今一つ三尺ほどの石があって、村の人はそれをも伊勢御前と称えて、社をたてて納めておりました。その社殿を何度も造り替えたのは、だんだん大きくなって、はいらなくなって来たからだといっております。(校訂筑後志。福岡県三瀦みずま郡鳥飼とりかい村)
この大石村のお社には、安産の願掛けをする人が多かったそうです。石のように堅く丈夫な子供、おまけに知らぬ間に大きくなるという子供を、親としては望んでいたからでありましょう。熊野から来たという石の中には、ただ成長するだけでなく、親とよく似た子石を産んだという伝説もありました。例えば九州の南の種子島たねがしまの熊野浦、熊野権現の神石などもそれでありました。このお社は昔この島の主、種子島左近将監さこんのしょうげんという人が熊野を信仰して、遠くかの地より小さな石を一つ、小箱に入れて迎えて来ましたところが、それが年々に大きくなって、後には高さ四尺七寸以上、周りは一丈三尺余、左右に子石を生じてその子石もまた少しずつ成長し、色も形も皆母石と同じであったと申します。(三国名勝図会。鹿児島県熊毛郡中種子村油久)
これとよく似た話がまた日本の北の田舎、羽前うぜんの中島村の熊野神社にもありました。今から四百年ほど前にこの村の人が、熊野へ七度詣りをした者が、記念の為に那智の浜から、小さな石を拾って帰りました。それが八十年ばかりの間にだんだんと大きくなって、後には一抱えに余るほどになりました。形が女に似ているので姥石うばいしという名をつけました。それが年々に二千余りの子孫を生んで、大小いずれも形は卵の如く、太郎石次郎石、孫石などと呼んでいたというのは、見ない者にはほんとうとも思われぬ程の話ですが、これをこの土地では今熊野といって、拝んでいたそうであります。(塩尻。山形県北村山郡宮沢村中島)
土佐では今一つ。香美かがみ郡山北やまきたの社に祀る神石も、昔この村の人が京の吉田神社に参詣して、神楽岡かぐらおかの石を戴いて帰って来たのが、おいおいに成長したのだといっております。(土佐海続編。高知県香美郡山北村)
伊勢では花岡村の善覚寺ぜんかくじという寺の、本堂の土台石が成長する石でした。これは隣りの庄という部落の人が、尾張熱田あつたの社から持って来て置いたもので、その人はもと熱田の禰宜ねぎであったのが、この部落の人と結婚したために、熱田にいられなくなってここへ来て住んだといって、そこには今でも越石こしいしだの熱田だのという苗字みょうじの家があります。(竹葉氏報告。三重県飯南はんなん郡射和いさわ村)
肥後の島崎の石神社いしがみやしろの石も、もとは宇佐八幡の神官到津いとうづ氏が、そのお社の神前から持って来て祀ったので、それから年々太るようになったといっております。(肥後国志。熊本県飽託ほうたく郡島崎村)
この通り、大きくなるのに驚いて人が拝むようになったというよりも、始めから尊い石として信心をしているうちに、だんだんと大きくなったという方が多いのであります。だからその石がどこから来たかということを、今少しお話しなければならぬのでありますが、安芸の中野という村では、高さの二丈もある田圃たんぼの中の大きな岩を、出雲石いずもいしといっておりました。これもまだ小石であったうちに、人が出雲国から持って来て、ここに置いたのが大きくなったといっております。(芸藩通志。広島県豊田郡高阪村)
その出雲国では飯石いいし神社の後にある大きな石が、やはり昔から続いて大きくなっておりました。石の形が飯を盛った様だからともいえば、或は飯盒はんごうの中にはいったままで、天から降って来た石だからともいっております。(出雲国式社考以下。島根県飯石郡飯石村)
どうしてその石の大きくなったのがわかるかといいますと、その周りの荒垣を作りかえる度毎に、少しずつ以前の寸法を、延べなけらば納まらぬからといっております。豊前ぶぜんの元松もとまつという村の丹波大明神なども、四度もお社を作り替えて、だんだんに神殿を大きくしなければならなかったといっておりました。昔丹波国から一人の尼が、小石を包んで持って来て、この村に来て亡くなりました。その小石が大きくなるのでこのほこらの中に祀り、丹波様と呼ぶようになったのだそうであります。(豊前志)
石見いわみの吉賀よしがの注連川しめがわという村では、その成長する大石を牛王石ごおういしといっております。これは昔四国を旅行した者が、ふところに入れて持って帰った石だと申しています。(吉賀記。島根県鹿足かのあし郡朝倉村)
富士石という石がまた一つ、遠江とおとうみの石神村にもありました。村の山の切り通しのところにあって、これも年々大きくなるので、石神大神として祀ってありました。多分富士山から持って来た小石であったと、土地の人たちは思っていたことでありましょう。(遠江国風土記伝。静岡県磐田いわた郡上阿多古村)
関東地方では秩父ちちぶの小鹿野おがのの宿に、信濃石という珍らしい形の石がありました。大きさは一丈四方ぐらい、まん中に一尺ほどの穴がありました。この穴に耳を当てていると、人の物をいう声が聴えるともいいました。これは昔この土地の馬方が信州に行った帰りに、馬の荷物の片一方が軽いので、それを平にするために、路で拾って挾んで来た小石が、こんな大きなものになったというのであります。(新編武蔵風土記稿。埼玉県秩父郡小鹿野町)
その信州の方にはまた鎌倉石というのがありました。佐久さくの安養寺あんようじという寺の庭にあって、始めて鎌倉から持って来た時には、ほんの一握りの小石であったものが、だんだん成長して四尺ばかりにもなったので、庭の古井戸の蓋にして置きますと、それにもかまわずに、後には一丈以上の大岩になってしまいました。だからすき間からのぞいて見ると、岩の下に今でも井の形が少し見えるといいました。(信濃奇勝録。長野県北佐久きたさく郡三井村)
こうしてわざわざ遠いところから、人が運んで来るほどの小石ならば、何かよくよくの因縁があり、また不思議の力があるものと、昔の人たちは考えていたらしいのでありますが、中にはまたもっと簡単な方法で、大きくなる石を得られるようにいっているところもあります。九州の阿蘇あそ地方などでは、どんな小石でも拾って帰って、縁の下かどこかに匿かくして置くと、きっと大きくなっているように信じていました。やたらに外から小石を持って来ることを嫌っている家は今でも方々にあります。川原から赤い石を持って来ると火にたたるといったり、白い筋のはいった小石を親しばり石といって、それを家に入れると親が病気になるなどといったのも、つまり子供などのそれを大切にすることも出来ない者が、祀ったり拝んだりする人の真似をすることを戒める為にそういったものかと思います。
だから人は滅多に石を家に持って来ようとしなかったのですが、何かわけがあって持って来るような石は、大抵は不思議が現れたといい伝えております。奥州外南部そとなんぶの松ヶ崎という海岸では、海鼠なまこを取る網の中に、小石が一つはいっていたので、それを石神と名づけて祀って置くと、だんだんと大きくなったといって、見上げるような高い石神の岩が村の近くにありました。(真澄遊覧記。青森県下北郡脇野沢村九艘泊くそうとまり)
隠岐島おきのしまの東郷という村では、昔この浜の人が釣りをしていると、魚は釣れずに握り拳ほどの石を一つ釣り上げました。あまり不思議なので、小さな宮を造って納めて置きますと、だんだん成長して七八年の後には、左右の板を押し破りました。それで今度は社を大きく建て直すと、またいつの間にかそれを押し破ったといって、後にはよほど立派なお宮になっていたそうです。(隠州視聴合記。島根県周吉すき郡東郷村)
阿波の伊島という島でも、網をひいていますと、鞠まりの形をした小石が網にはいって上りました。それを捨てるとまた翌日もはいります。そんなことが三日続いて、三日めは殊に大漁であったので、その石を蛭子えびす大明神として祀りました。それから一そう土地の漁業が栄え、小石もまたほこらの中で大きくなって、五六年のうちにはほこらが張りさけてしまうので、三度めにはよほど大きく建て直したそうです。(燈下録。徳島県那賀郡伊島)
こういう例はいつも海岸に多かったようであります。鹿児島湾の南の端、山川の港の近くでも、昔この辺の農夫がお祀りの日に潮水を汲くみに行きますと、その器の中に美しい小さな石がはいっておりました。三度も汲みかえましたが、三度とも同じ石がはいって来るので、不思議に感じて持って帰りましたところが、それが少しずつ大きくなりました。驚いてお宮を建てて祀ったといい伝えて、それを若宮八幡神社といっております。そうして御神体はもとはこの小石でありました。(薩隅日さつぐうにち地理纂考さんこう。鹿児島県揖宿いぶすき郡山川村成川)
沖縄県などで今も村々の旧家で大切にしている石は、多くは海から上った石であります。別にその形や色に変ったところがないのを見ますと、何かそれを拾い上げた時に、不思議なことがあったのであろうと思います。薩摩さつまには石神氏という士族の家が方々にありますが、いずれも山田という村の石神神社を、家の氏神として拝んでおりました。そのお社の御神体も、白い色をした大きな御影みかげ石の様な石でありました。昔先祖の石神重助という人が、始めてこの国へ来る時に道で拾ったともいえば、或は朝鮮征伐の時に道中で感得したともいい、これも下総の宮間氏の石の如く、草鞋の間に挾まって何度捨ててもまたはいっていたから、拾って来たという話がありました。しかし今日では運搬することも出来ない程の大石ですから、これもやはり永い間には成長したのであります。(三国名勝図会等。鹿児島県薩摩郡永利村山田)
石に神様のお力が現れると、昔の人は信じていたので、始めから石を神として祀ったのではないのですが、神の名を知ることが出来ぬときには、ただ石神様といって拝んでいたようであります。それだから土地によって、石のあるお社の名もいろいろになっております。備後びんごの塩原の石神社などは、村の人たちは猿田彦さるたひこ大神だと思っておりました。その石などもおいおいに成長するといって、後には縦横共に一丈以上にもなっていました。普通には石神は路のかたわらに多く、猿田彦もまた道路を守る神であった為に、自然にそう信ずるようになったのであります。(芸藩通志。広島県比婆ひば郡小奴可おぬか村塩原)
常陸ひたちの大和田村では、後には山の神として祀っておりました。これは地面の中から掘り出した石と伝えております。始めは袂の中に入れるほどの小石であったのが、少しずつ大きくなるので、清いところへ持って来て置くと、それがいよいよ成長しました。それで主石ぬしいし大明神と唱えていたといい伝えております。(新編常陸国志。茨城県鹿島郡巴ともえ村大和田)
石には元来名前などはないのが普通ですが、こういうことからだんだんに名が出来るようになりました。伊勢石、熊野石が伊勢の神、熊野権現のお社にあるように、出雲石、吉田石、富士石、宇佐石なども、もともとそれぞれの神を祀る人たちが、大切にしていた石でありました。鎌倉石も多分鎌倉の八幡様の、お力で成長したものと考えていたのだろうと思います。しかしどうして来たかがよく分らぬ石には、人がまた巾着石とか袂石というような、簡単な名を附けて置いたのであります。
羽後の仙北せんぼくの旭の滝の不動堂には、年々大きくなるという五尺ほどの岩があって、それをおがり石と呼んでおりました。おがるというのはあの地方で、大きくなるという意味の方言であります。(月之出羽路。秋田県仙北郡大川西根村)
備後の山奥の田舎にはまた赤子石というのがありました。それは昔は三尺ばかりであったのが、後には成長して一丈四尺にもなっていたからで、そんなに大きくなってもなお赤子石といって、もとを忘れなかったのであります。(芸藩通志。広島県比婆郡比和村古頃)
飛騨の瀬戸村には、ばい岩という大岩がありました。海螺ばいという貝に形が似ているからとも申しましたが、地図には倍岩と書いてあります。これもおおかたもとあった大きさより倍にもなったというので、倍岩といい始めたものだろうと思います。(斐太後風土記。岐阜県益田郡中原村瀬戸)
播州には寸倍石という名を持った石が所々にあります。たとえば加古かこ郡の野口の投げ石なども、土地の人はまた寸倍石と申しました。ちょうど郷境の林の中にぽつんと一つあって、長さが四尺、横が三尺、鞠の様な形であったそうですから、前には小さかったのが少しずつ伸びて大きくなったと、いい伝えていたものと思われます。投げ石という名前は方々にありますが、どれもこれも大きな岩で、とても人間の力では投げられそうもないものばかりであります。(播磨鑑はりまかがみ。兵庫県加古郡野口村阪元)
大抵の袂石は、人が注意をし始めた頃には、もう余程大きくなっていたようであります。そうして土地で評判が高くなってから後は、ほんとうはあまり大きくはなりませんでした。前にお話をした下総の熊野石なども、熊野から拾って来た時は燧袋の中で、もう大きくなっていたというくらいでありましたが、後にはだんだんと成長が目に立たなくなりました。二十年前に比べると、一寸は大きくなったという人もあれば、毎年米一粒ずつは大きくなっているのだという人もありましたが、それはただそう思って見たというだけで、二度も石の寸法を測って見ようという者は、実際はなかったのであります。或は出雲の飯石神社の神石のように、もとはお社の中に祀ってあったといい、または筑後の大石神社の如く、以前のお宮は今のよりも、ずっと小さかったという話は方々にありますが、それは遠い昔のことであって、石の大きくなって行くところを、見ているということは誰にも出来ません。筍たけのこのように早く成長するものでも、やはり人の知らぬうちに大きくなります。ましてや石は君が代の国歌にもある通り、さざれ石の巌いわおとなる迄までには、非常に永い年数のかかるものと考えられていたのであります。つまりは一つの土地に住む多くの人が、古くから共同して、石は成長するものだと思っていた為に、こういう話を聴いて信用した人が多かったというだけであります。 
山の背くらべ

 

石が出しぬけに大きくなろうとして、失敗したという話も残っております。例えば常陸ひたちの石那阪いしなざかの峠の石は、毎日々々伸びて天まで届こうとしていたのを、静しずの明神がお憎みになって、鉄の沓くつをはいてお蹴け飛ばしなされた。そうすると石の頭が二つに砕け、一つは飛んで今の河原子かわらごの村に、一つは石神の村に落ちて、いずれもその土地ではほこらに祀まつっていたという話があります。一説には、天の神様の御命令で、雷が来て蹴飛ばしたともいって、石那阪ではその残った石の根を、雷神石と呼んでおりました。高さは五丈ばかりしかありませんが、周りは山一杯に根を張って、なるほどもしこのままで成長したら、大変であったろうと思うような大岩でありました。(古謡集其他。茨城県久慈くじ郡阪本村石名阪)
陸中小山田こやまだ村のはたやという社の周囲にも、大きな石の柱の短く折れたようなものが、無数に転がっておりましたが、これも大昔の神代かみよに石が成長して、一夜の中に天を突き抜こうとしていたのを、神様に蹴飛ばされて、このように小さく折れたのだといっておりました。(和賀稗貫二郡志。岩手県和賀郡小山田村)
南会津みなみあいづの森戸村には、森戸の立岩という大きな岩山があります。昔この山が大きくなろうとしていた時に、やはりある神様が来て、その頭を蹴折られたといっております。そうしてそのかけらを持って来て、逆さに置いたのがこれだといって、隣りの岩下の部落には逆岩という高さ八丈、周り四十二丈ほどの大きな岩が今でもあります。(南会津郡案内誌。福島県南会津郡館岩たていわ村森戸)
山を木などのように順々に大きくなったものと、思っていた人がもとはあったのかも知れません。富士山なども大昔近江国おうみのくにから飛んで来たもので、その跡が琵琶びわ湖になったのだという話がありました。奥州の津軽では、岩木山のことを津軽富士といっております。昔この山が一夜のうちに大きくなろうとしている時に、ある家のお婆さんが夜中に外へ出てそれを見つけたので、もうそれっきり伸びることを止やめてしまった。誰も見ずにいたら、もっと高くなっている筈であったという話であります。磐城いわきの絹谷きぬや村の絹谷富士は、富士とはいっても二百メートルほどの山ですが、これもちょうど地から湧わき出した時に、ある婦人がそれを見て、山が高くなると大きな声でいったので、高くなることを止めてしまいました。もし女がそんなことをいわなかったら、天にとどいたかも知れぬと、土地の人たちはいっております。(郷土研究一編。福島県岩城いわき郡草野村絹谷)
駿河するがの足高山あしたかやまは、大昔諸越もろこしという国から、富士と背くらべをしに渡って来た山だという話があります。東海道を汽車で通る時に、ちょうど富士山の前に見える山で、長く根を引いて中々大きな山ですが山の頭がありません。それは足柄あしがら山の明神が生意気な山だといって、足を挙げて蹴くずされたので、それで足高は低くなったのだといっております。その山のかけらが海の中に散らばっていたのを、だんだん寄せ集めて海岸に、小高い一筋の陸地をこしらえました。それが浮き島が原で、そこを今鉄道が通って居ますが、以前の道路は十里木じゅうりぎという所を越えて、富士とこの足高山との間を通っておりました。そうして右と左に二つの山を見くらべて、昔の旅人はこんな話をしていたのであります。(日本鹿子。静岡県駿東すんとう郡須山村)
伯耆ほうきの大山だいせんの後には韓山からやまという離れ山があります。これも大山と背くらべをするために、わざわざ韓からから渡って来た山だから、それで韓山というのだといい伝えております。それが少しばかり大山よりも高かったので、大山は腹を立てて、木履ぼくりをはいたままで韓山の頭を蹴飛ばしたといいます。だから今でもこの山の頭は欠けており、また大山よりは大分低いのだということであります。(郷土研究二編。鳥取県西伯さいはく郡大山村)
九州では、阿蘇山の東南に、猫岳ねこだけという珍しい形の山があります。この山もいつも阿蘇と丈競たけくらべをしようとしていました。阿蘇山が怒ってばさら竹の杖をもって、始終猫岳の頭を打っていたので、頭がこわれて凸凹でこぼこになり、また今のように低くなったのだといいます。(筑紫野民譚みんたん集其他。熊本県阿蘇郡白水はくすい村)
山が背くらべをしたという伝説は、ずいぶん広く行われております。例えば台湾の奥地に住む人民の中でも、霧頭山むとうざんと大武山だいぶさんとの兄弟の山が競争して、弟の大武山が兄の霧頭山をだまして一人でするすると大きくなったという話があります。それだから大武山は、兄よりも高いのだといっております。(生蕃せいばん伝説集。パイワン族マシクジ社)
それからまた古い時代にも、同じ伝説があったのであります。近江国では、浅井の岡が胆吹山いぶきやまと高さくらべをした時に、浅井の岡は胆吹山の姪めいでありましたが、一夜の中に伸びて、叔父さんに勝とうとしました。胆吹山の多々美彦たたみひこは大いに怒って、剣を抜いて浅井姫の頸くびを切りますと、それが湖水の中へ飛んで行って島になった。今の竹生島ちくぶじまは、この時から出来たということを、もう千年も前の人がいい伝えておりました。(古風土記逸文考証。滋賀県東浅井郡竹生村)
大和では天香久山あまのかぐやまと耳成山みみなしやまとが、畝傍山うねびやまのために喧嘩けんかをした話が、古い奈良朝の頃の歌に残っております。それとよく似た伝説は、奥州の北上川の上流にもありまして、岩手山と早地峯山はやちねさんとは、今でも仲が好くないようにいっております。汽車で通って見ますと二つのお山の間に、姫神山という美しい孤山が見えます。争いはこの姫神山の取り合いであったともいえば、或はその反対に岩手山は姫神をにくんで、送り山という山にいいつけて、遠くへ送らせようとしたのに、送り山はその役目をはたさなかったので、怒って剣を抜いてその頸をきった。それが今でも岩手山の右の脇に載っている小山だともいいました。(高木氏の日本伝説集。岩手県岩手郡滝沢村)
日本人は永い年月の間に、だんだんと遠い国から移住して来た民族です。昔一度こういう話を聴いたことのある者の子や孫が、もう前のことは忘れかかった頃に、知らず識らず似たような想像をしたというだけで、わざとよその土地の伝説を真似ようとしたのではありますまいが、山が右左に高くそびえて、何か争いでもしているように思われる場合が、行く先々の村里の景色にはあるので、それをじっと眺めていて、幾度でもこんな昔話をし出したものと見えます。
青森の市の東にある東嶽あずまだけなども、昔八甲田山はっこうださんと喧嘩をして斬られて飛んだといって、胴ばかりのような山であります。その頸が遠く飛んで岩木山の上に落ち、岩木山の肩には瘤こぶみたいな小山が一つついているのが、その東嶽の頸であったという人があります。津軽平野の土地が肥えているのは、その時の血がこぼれているからだともいいます。そうして岩木山と八甲田山とは、今でも仲が好くないという話もあります。(高木氏の日本伝説集。青森県東津軽郡東嶽村)
出羽の鳥海山ちょうかいざんは、もと日本で一番高い山だと思っていました。ところが人が来て、富士山の方がなお高いといったので、口惜くやしくて腹を立てて、いても立ってもいられず、頭だけ遠く海の向うへ飛んで行った。それが今日の飛島とびしまであるといいます。飛島は海岸から二十マイルも離れた海の中にある島ですが、今でも鳥海山と同じ神様を祀っております。これには必ず深いわけのあることと思いますけれども、こういう変った昔話より他には、もう昔のことは何一つも伝わっておりません。(郷土研究三編。山形県飽海あくみ郡飛島村)
負けることの嫌いな者は、決して山ばかりではありませんでした。全体に日本では、軽々しく人の優劣を説くのは悪いこととしてありましたが、交通がだんだん開けて来ると、どうしてもそういう評判をしなければならぬ場合が多く、それをまた大へんに気にする古風な考えが、神にも人間にも少くなかったようであります。阿波の海部川かいふがわの水源には、轟とどろきの滝、一名を王余魚かれいの滝という大きな滝があって、山の中に王余魚明神という社がありました。この滝の近くに来て、紀州熊野の那智の滝の話をすることは禁物でありました。那智の滝とどちらが大きいだろうといったり、またはこの滝の高さを測って見ようとしたりすると、必ず神のたたりがあったというのは、多分この方が那智よりも少し小さかったためであろうと思います。(燈下録。徳島県海部郡川上村平井)
橋などは、殊に遠方の人が多く通行するので、毎度他の土地の橋の噂うわさを聴くことがあったろうと思いますが、それを非常に嫌うという話が多いのであります。橋の神は、至ってねたみ深い女の神様であるといっておりました。
甲府の近くにある国玉くにたまの大橋などは、橋の長さが、もとは百八十間もあって、甲斐国かいのくにでは、一番大きな、また古い橋でありましたが、この橋を渡る間に猿橋さるはしのうわさをすることと、野宮ののみやといううたいをうたうこととが禁物で、その戒めを破ると、必ずおそろしいことがあったといいました。今でも土地の人だけは、決してそういうことはせぬであろうと思います。猿橋は小さいけれども、日本にも珍しいという見事な橋でありますから、それと比べられることを、この大橋が好まなかったのであります。そうして野宮は、女のねたみを同情したうたいでありました。(山梨県町村誌。山梨県西山梨郡国里村国玉)
九州の南の端、薩摩の開聞岳かいもんだけの麓ふもとには、池田という美しい火山湖があります。ほんの僅な陸地によって海と隔てられ、小高い所に立てば、海と湖水とを一度に眺めることも出来るくらいですが、大洋と比べられることを、池田の神は非常にきらいました。そうして湖水の近くに来て、海の話や、舟の話をする者があると、すぐに大風、高浪がたって、物すごい景色になったということであります。(三国名所図会。鹿児島県揖宿いぶすき郡指宿村)
湖水や池沼の神は、多くは女性でありましたから、独ひとり隠れて世の中のねたみも知らずに、静かに年月を送ることも出来ました。山はこれとちがって、多くの人に常に遠くから見られていますために、どうしても争わなければならぬ場合が多かったようであります。
豊後の由布嶽ゆふだけは、九州でも高い山の一つで、山の姿が雄々しく美しかった故に、土地では豊後富士ともいっております。昔西行さいぎょう法師がやってきて、暫しばらく麓の天間あままという村にいた頃に、この山を眺めて一首の歌を詠みました。
豊国とよくにの由布の高根は富士に似て雲もかすみもわかぬなりけり
そうするとたちまちこの山が鳴動して、盛んに噴火をし始めたので、これはいい方が悪かったと心づいて、
駿河なる富士の高根は由布に似て雲も霞かすみもわかぬなりけり
と詠み直したところが、ほどなく山の焼けるのがしずまったという話であります。西行法師というのは間違いだろうと思いますが、とにかく古くからこういう話が伝わっておりました。(郷土研究一編。大分県速見はやみ郡南端村天間)
もとはほんとうにあったことのように思っていた人もあったのかも知れません。そうでなくとも、よその山の高いという噂をするということは、なるたけひかえるようにしていたらしいのであります。多くの昔話はそれから生れ、また時としてそれをまじないに利用する者もありました。例えば昔日向国ひゅうがのくにの人は、癰ようというできものの出来た時に、吐濃峯とののみねという山に向ってこういう言葉を唱えて拝んだそうであります。私は常にあなたを高いと思っていましたが、私のでき物が今ではななたよりも高くなりました。もしお腹が立つならば、早くこのできものを引っ込ませて下さいといって、毎朝一二度ずつ杵きねのさきをそのおできに当てると、三日めには必ず治るといっておりました。これも山の神が自分より高くなろうとする者をにくんで、急いでその杵をもってたたき伏せるように、こういう珍しい呪文じゅもんを唱えたものかと思います。(塵袋七。宮崎県児湯こゆ郡都農村)
山が背くらべをしたという古い言い伝えなども、後には児童ばかりが笑ってきく昔話になってしまいました。そうしてだんだんに話が面白くなりました。肥後の飯田山いいださんは熊本の市から、東へ三四里ほども離れている山ですが、市の西に近い金峯山きんぷざんという山と、高さの自慢から喧嘩をしたといっております。いつまで争って見ても勝負がつかぬので、両方の山の頂上に樋といをかけ渡して、水を流して見ようということになりました。そうすると水が飯田山の方へ流れて、この山の方が低いということが明かになりました。その時の水が溜たまったのだといって、山の上には今でも一つの池があるそうです。これには閉口をして、もう今からそんなことは「いい出さん」といった故に、山の名をいいださんというようになったとも申します。(高木氏の日本伝説集。熊本県上益城かみましき郡飯野村)
尾張小富士という山は、尾張国の北の境、入鹿いるかの池の近くにある小山ですが、山の姿が富士山とよく似ているので、土地の人たちに尊敬せられています。それがお隣りの本宮山ほんぐうざんという山と高さ比べをして、やはり樋を掛け水を通して見たという話が伝わっております。そうして見た結果が、小富士の方の負けになりました。毎年六月一日のお祭りの日に、麓の村の者が石をひいてこの山に登ることになったのは、少しでもお山の高くなることを、山の神様が喜ばれるからだという話であります。(日本風俗志。愛知県丹羽にわ郡池野村)
これと同じような伝説は、また加賀の白山はくさんにもありました。白山は富士の山と高さ競べをして、勝負をつけるため樋を渡して水を通しますと、白山が少し低いので、水は加賀の方へ流れようとしました。それを見ていた白山方の人が、急いで自分の草鞋わらじをぬいで、それを樋の端にあてがったところが、それでちょうど双方が平になった。それ故に今でも白山に登る者は必ず片方の草鞋を山の上に、ぬいで置いて帰らねばならぬのだそうです。(趣味の伝説。石川県能美郡白峰村)
樋を掛けたということはまだききませんが、越中の立山も白山と背競べをしたという話があります。ところが立山の方が、ちょうど草鞋の一足分だけ低かったので、非常にそれを残念がりました。それから後は、立山に参詣さんけいする人が、草鞋を持って登れば、特に大きな御利益ごりやくを授けることにしたといっております。(郷土研究一編。富山県上新川かみにいかわ郡)
それから越前の飯降山いぶりやま、これは東隣の荒島山あらしまやまと背くらべをして、馬の沓くつの半分だけ低いことがわかったそうであります。それ故にこの山でも、石を持って登る者には、一つだけは願いごとがかなうといって、毎年五月五日の山登りの日には、必ず石をもって行くことになっております。(同上。福井県大野郡大野町)。
三河の本宮山と、石巻山いしまきやまとは、豊川とよかわの流れを隔てて西東に、今でも大昔以来の丈くらべを続けていますが、この二つの峯は、寸分も高さの差がないということであります。それで両方ともに石を手に持って登れば少しも草臥くたぶれないが、これと反対に小石一つでも持って降ると、参詣はむだになり、神罰が必ずあるといいます。つまり低くなることを非常に嫌うのであります。(趣味の伝説。愛知県八名やな郡石巻村)
有名な多くの山々では、みんなが背くらべのためではなかったかも知れませんが、非常に土や石を大切にして、それを持って行くことをいやがりました。山に草鞋を残して来る習慣は、今でもまだ方々に行われております。白山や立山にはあんな昔話がありますが、世間にはもっと真面目に、その理由を考えていた者も多かったのであります。例えば奥州金華山きんかざんの権現は、山と土が草鞋について、島から外へ出ることを惜しまれるということで、参詣した者は、必ずそれをぬぎ捨ててから船に乗りました。(笈埃随筆。宮城県牡鹿おじか郡鮎川村)
富士山のような大きな山でも、やはり山の土を遠くへ持って行かれぬように、麓に砂振いという所があって、以前は、必ずそこで古い草鞋をぬぎかえました。そうして登山者が、踏み降した須走口すばしりぐちの砂は、その夜のうちに再び山の上へ帰って行くともいいました。
伯耆の大山でも、山の下の砂が、日が暮れると峯に上り、朝はまた麓に下るといっております。山をうやまい、山の力を信じていた人たちには、それくらいのことは当り前であったかも知れませんが、それでも出来るだけ皆で注意をして、少しでも山を低くせぬように努めていたのであります。富士の行者ぎょうじゃは山に登る時に特に歩みをつつしんで石などを踏み落さぬようにしていたそうですし、また近江国の土を持って来て、お山に納める者もあったそうであります。富士は皆様も御存じの通り、大昔近江の土が飛んで、一夜に出来た山だといい伝えていますので、それを今もとの国の土をもって、少し継ぎ足そうとしたのであります。 
神いくさ

 

日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。古いところでは、常陸の筑波山つくばさんが、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。大昔御祖神みおやがみが国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗にいなめの祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常に来きたり遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。(常陸国風土記。茨城県筑波郡)
富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。不思議なことには富士の山で祀まつる神を、以前から浅間大神と称となえておりました。富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間せんげん様が祀ってあります。それから伊豆半島の南の端、雲見くもみの御嶽山みたけやまにも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛このはなさくやひめ、この山の神はその御姉の磐長媛いわながひめで、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御嫉ねたみが深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。(伊豆志其他。静岡県賀茂郡岩科いわしな村雲見)
ところがこれから僅二里あまり離れて、下田しもだの町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのが厭いやで、間に天城山あまぎさんを屏風びょうぶのようにお立てになった。それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。(郷土研究一編。同県同郡下田町)
越中舟倉山ふねのくらやまの神は姉倉媛あねくらひめといって、もと能登の石動山せきどうさんの伊須流伎彦いするぎひこの奥方であったそうです。その伊須流伎彦が後に能登の杣木山そまきやまの神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬しっとの争いがあったと申します。布倉山ぬのくらやまの布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山かぶとやまの加夫刀彦かぶとひこは能登媛を援けて、大きな神戦かみいくさとなったのを、国中の神々が集って仲裁をなされたと伝えております。一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戦があり、舟倉の権現が礫つぶてを打ちたもう故に、この山の麓ふもとの野には小石がないのだともいっておりました。(肯構泉達録等。富山県上新川郡船崎村舟倉)
これと反対に、阿波の岩倉山は岩の多い山でありました。それは大昔この国の大滝山と、高越こうつ山との間に戦争があった時、双方から投げた石がここに落ちたからといっております。そうして今でもこの二つの山に石が少いのは、互にわが山の石を投げ尽したからだということであります。(美馬みま郡郷土誌。徳島県美馬郡岩倉村)
それよりも更に有名な一つの伝説は、野州やしゅうの日光山と上州の赤城山との神戦でありました。古い二荒ふたら神社の記録に、くわしくその合戦のあり様が書いてありますが、赤城山はむかでの形を現して雲に乗って攻めて来ると、日光の神は大蛇になって出でてたたかったということであります。そうして大蛇はむかでにはかなわぬので、日光の方が負けそうになっていた時に、猿丸太夫という弓の上手な青年があって、神に頼まれて加勢をして、しまいに赤城の神をおい退けた。その戦をした広野を戦場が原といい、血は流れて赤沼となったともいっております。誰が聞いても、ほんとうとは思われない話ですが、以前は日光の方ではこれを信じていたと見えて、後世になるまで、毎年正月の四日の日に、武射ぶしゃ祭りと称して神主が山に登り赤城山の方に向って矢を射放つ儀式がありました。その矢が赤城山に届いて明神の社の扉に立つと、氏子たちは矢抜きの餅というのを供えて、扉の矢を抜いてお祭りをするそうだなどといっておりましたが、果してそのようなことがあったものかどうか。赤城の方の話はまだわかりません。(二荒山神伝。日光山名跡志等)
しかし少くとも赤城山の周囲においても、この山が日光と仲が悪かったこと、それから大昔神戦があって、赤城山が負けて怪我をなされたことなどをいい伝えております。利根郡老神おいがみの温泉なども、今では老神という字を書いていますが、もとは赤城の神が合戦に負けて、逃げてここまで来られた故に、追神ということになったともいいました。(上野こうずけ志。群馬県利根郡東村老神)
それからまた赤城明神の氏子だけは、決して日光には詣まいらなかったそうであります。赤城の人が登って来ると必ず山が荒れると、日光ではいっておりました。東京でも牛込うしごめはもと上州の人の開いた土地で、そこには赤城山の神を祀った古くからの赤城神社がありました。この牛込には徳川氏の武士が多くその近くに住んで、赤城様の氏子になっていましたが、この人たちは日光に詣ることが出来なかったそうであります。もし何か役目があって、ぜひ行かなければならぬ時には、その前に氏神に理由を告げて、その間だけは氏子を離れ、築土つくどの八幡だの市谷いちがやの八幡だのの、仮の氏子になってから出かけたということであります。(十方庵遊歴雑記)
奥州津軽の岩木山の神様は、丹後国の人が非常にお嫌いだということで、知らずに来た場合でも必ず災がありました。昔は海が荒れたり悪い陽気の続く時には、もしや丹後の者が入り込んではいないかと、宿屋や港の船を片端からしらべたそうであります。これはこの山の神がまだ人間の美しいお姫様であった頃に、丹後の由良ゆらという所でひどいめにあったことがあったから、そのお怒が深いのだといっておりました。(東遊雑記その他)
信州松本の深志ふかしの天神様の氏子たちは、島内村の人と縁組みをすることを避けました。それは天神は菅原道真すがわらのみちざねであり、島内村の氏神武たけの宮は、その競争者の藤原時平ときひらを祀っているからだということで、嫁婿ばかりでなく、奉公に来た者でも、この村の者は永らくいることが出来なかったそうであります。(郷土研究二編。長野県東筑摩ひがしちくま郡島内村)
時平を神に祀ったというお社は、また下野しもつけの古江ふるえ村にもありました。これも隣りの黒袴くろばかまという村に、菅公かんこうを祀った鎮守の社があって、前からその村と仲が悪かったゆえに、こういう想像をしたのではないかと思います。この二つの村では、男女の縁を結ぶと、必ず末がよくないといっていたのみならず。古江の方では庭に梅の木を植えず、また襖ふすま屏風びょうぶの絵に梅を描かせず、衣服の紋様にも染めなかったということであります。(安蘇あそ史。栃木県安蘇郡犬伏いぬぶし町黒袴)
下総の酒々井しすい大和田というあたりでも、よほど広い区域にわたって、もとは一箇所も天満宮を祀っていませんでした。その理由は鎮守の社が藤原時平で、天神の敵であるからだといいましたが、どうして時平大臣を祀るようになったかは、まだ説明せられてはおりません。(津村氏譚海たんかい。千葉県印旛いんば郡酒々井町)
丹波の黒岡という村は、もと時平公の領分であって、そこには時平屋敷しへいやしきがあり、その子孫の者が住んでいたことがあるといっていました。それはたしかな話でもなかったようですが、この村でも天神を祀ることが出来ず、たまたま画像えぞうをもって来る者があると、必ず旋風つむじかぜが起ってその画像を空に巻き上げ、どこへか行ってしまうといい伝えておりました。(広益俗説弁遺篇。兵庫県多紀たき郡城北村)
何か昔から、天神様を祀ることの出来ないわけがあって、それがもう不明になっているのであります。それだから村に社があれば藤原時平のように、生前菅原道真と仲が悪かった人の、社であるように想像したものかと思います。鳥取市の近くにも天神を祀らぬ村がありましたが、そこには一つの古塚があって、それを時平公の墓だといっておりました。こんな所に墓があるはずはないから、やはり後になって誰かが考え出したのであります。(遠碧軒記。鳥取県岩美郡)
しかし天神と仲が善くないといった社は他にもありました。例えば京都では伏見ふしみの稲荷いなりは、北野の天神と仲が悪く、北野に参ったと同じ日に、稲荷の社に参詣してはならぬといっていたそうであります。その理由として説明せられていたのは、今聞くとおかしいような昔話でありました。昔は三十番神といって京の周囲の神々が、毎月日をきめて禁中の守護をしておられた。菅原道真の霊が雷らいになって、御所の近くに来てあばれた日は、ちょうど稲荷大明神が当番であって、雲に乗って現れてこれを防ぎ、十分にその威力を振わせなかった。それゆえに神に祀られて後まで、まだ北野の天神は稲荷社に対して、怒っていられるのだというのでありますが、これももちろん後の人がいい始めたことに相違ありません。(渓嵐拾葉集。載恩記等)
或あるいはまた天神様と御大師様とは、仲が悪いという話もありました。大師の縁日に雨が降れば、天神の祀りの日は天気がよい。二十一日がもし晴天ならば、二十五日は必ず雨天で、どちらかに勝ち負けがあるということを、京でも他の田舎でもよくいっております。東京では虎の門の金毘羅様こんぴらさまと、蠣殻町かきがらちょうの水天宮すいてんぐう様とが競争者で、一方の縁日がお天気なら他の一方は大抵雨が降るといいますが、たといそんなはずはなくても、なんだかそういう気がするのは、多分は隣り同士の二箇所の社が、互に相手にかまわずには、独ひとりで繁昌することが出来ぬように、考えられていた結果であろうと思います。
だから昔の人は氏神といって、殊に自分の土地の神様を大切にしておりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お参りをするようになっても、信心をする神仏は土地によって定まり、どこへ行って拝んでもよいというわけには行かなかったようであります。同じ一つの神様であっても、一方では栄え他の一方では衰えることがあったのは、つまりは拝む人たちの競争であります。京都では鞍馬くらまの毘沙門様びしゃもんさまへ参る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があって、もとはこれを福惜しみの毘沙門などといっておりました。せっかく鞍馬に詣って授かって来た福を、惜しんで奪い返されるといって、鞍馬参詣の人はこの堂を拝まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るようにしていたといいます。同じ福の神でも祀ってある場所がちがうと、もう両方へ詣ることは出来なかったのを見ると、仲の善くないのは神様ではなくて、やはり山と山との背競べのように、土地を愛する人たちの負け嫌いが元でありました。松尾のお社なども境内に熊野石があって、ここに熊野の神様がお降りなされたという話があり、以前はそのお祭りをしていたかと思うにも拘かかわらず、ここの氏子は紀州の熊野へ参ってはならぬということになっていました。それから熊野の人もけっして松尾へは参って来なかったそうで、このいましめを破ると必ずたたりがありました。これなども多分双方の信仰が似ていたために、かえって二心を憎まれることになったものであろうと思います。(都名所図会拾遺。日次ひなみ記事)
どうして神様に仲が悪いというような話があり、お参りすればたたりを受けるという者が出来たのか。それがだんだんわからなくなって、人は歴史をもってその理由を説明しようとするようになりました。例えば横山という苗字の人は、常陸の金砂山かなさやまに登ることが出来ない。それは昔佐竹氏の先祖がこの山に籠城ろうじょうしていた時に、武蔵の横山党の人たちが攻めて来て、城の主が没落することになったからだといっていますが、この時に鎌倉将軍の命をうけて、従軍した武士はたくさんありました。横山氏ばかりがいつまでもにくまれるわけはないから、これには何か他の原因があったのであります。(楓軒雑記。茨城県久慈くじ郡金砂村)
東京では神田かんだ明神のお祭りに、佐野氏の者が出て来ると必ずわざわいがあったといいました。神田明神では平将門たいらのまさかどの霊を祀り、佐野はその将門を攻めほろぼした俵藤太秀郷たわらとうたひでさとの後裔こうえいだからというのであります。下総成田しもうさなりたの不動様は、秀郷の守り仏であったという話でありますが、東京の近くの柏木かしわぎという村の者は、けっして成田には参詣しなかったそうであります。それは柏木の氏神鎧よろい大明神が、やはり平将門の鎧を御神体としているといういい伝えがあったからであります。(共古日録。東京府豊多摩とよたま郡淀橋町柏木)
信州では諏訪の附近に、守屋という苗字の家がたくさんにありますが、この家の者は善光寺にお詣りしてはいけないといっておりました。強いて参詣すると災難があるなどともいいました。それはこの家が物部守屋連もののべのもりやのむらじの子孫であって、善光寺の御本尊を難波なにわ堀江に流し捨てさせた発頭人ほっとうにんだからというのでありますが、これも恐らくは後になって想像したことで、守屋氏はもと諏訪の明神に仕えていた家であるゆえに、他の神仏を信心しなかったまでであろうと思います。(松屋筆記五十。長野県長野市)
天神のお社と競争した隣りの村の氏神を、藤原時平を祀るといったのは妙な間違いですが、これとよく似た例はまた山々の背くらべの話にもありました。富士と仲の悪い伊豆の雲見の山の神を、磐長媛であろうという人があると、一方富士の方ではその御妹の、木花開耶媛を祀るということになりました。どちらが早くいい始めたかはわかりませんが、とにかくにこの二人の姫神は姉妹で、一方は美しく一方はみにくく、嫉みからお争いがあったように、古い歴史には書いてあるので、こういう想像が起ったのであります。伊勢と大和の国境の高見山という高い山は、吉野川の川下の方から見ると、多武峰とうのみねという山と背くらべをしているように見えますが、その多武峰には昔から、藤原鎌足ふじわらのかまたりを祀っておりますゆえに、高見山の方には蘇我入鹿そがのいるかが祀ってあるというようになりました。入鹿をこのような山の中に、祀って置くはずはないのですが、この山に登る人たちは多武峰の話をすることが出来なかったばかりでなく、鎌足のことを思い出すからといって、鎌を持って登ることさえもいましめられておりました。そのいましめを破って鎌を持って行くと、必ず怪我をするといい、または山鳴りがするといっておりました。(即事考。奈良県吉野郡高見村)
この高見山の麓を通って、伊勢の方へ越えて行く峠路の脇に、二丈もあるかと思う大岩が一つありますが、土地の人の話では、昔この山が多武峰と喧嘩をして負けた時に、山の頭が飛んでここに落ちたのだといっております。そうして見ると蘇我入鹿を祀るよりも前から、もう山と山との争いはあったので、その争いに負けた方の山の頭が、飛んだという点も羽後うごの飛島とびしま、或は常陸の石那阪の山の岩などと、同様であったのであります。どうしてこんな伝説がそこにもここにもあるのか。そのわけはまだくわしく説明することが出来ませんが、ことによると負けるには負けたけれども、それは武蔵坊弁慶が牛若丸だけに降参したようなもので、負けた方も決して平凡な山ではなかったと、考えていた人が多かった為かも知れません。ともかくも山と山との背くらべは、いつでも至って際どい勝ち負けでありました。それだから人は二等になった山をも軽蔑けいべつしなかったのであります。日向ひゅうがの飯野郷というところでは、高さ五尋ひろほどの岩が野原の真中にあって、それを立石たていし権現と名づけて拝んでおりました。そこから遠くに見える狗留孫山くるそざんの絶頂に、卒都婆そとば石、観音石という二つの大岩が並んでいて、昔はその高さが二つ全く同じであったのが、後に観音石の頸が折れて、神力をもって飛んでこの野に来て立った。それ故に今では低くなりましたけれども、人はかえってこの観音石の頭を拝んでいるのであります。(三国名所図会。宮崎県西諸県もろかた郡飯野村原田)
肥後の山鹿やまがでは下宮の彦嶽ひこだけ権現の山と、蒲生がもうの不動岩とは兄弟であったといっております。権現は継子ままこで母が大豆ばかり食べさせ、不動は実子だから小豆を食べさせていました。後にこの兄弟の山が綱を首に掛けて首引きをした時に、権現山は大豆を食べていたので力が強く、小豆で養われた不動岩は負けてしまって、首をひき切られて久原くばらという村にその首が落ちたといって、今でもそこには首岩という岩が立っています。揺ゆるぎ嶽だけという岩はそのまん中に立っていて、首ひきの綱に引っ掛かってゆるいだから揺嶽、山に二筋のくぼんだところがあって、そこだけ草木の生えないのを、綱ですられた痕あとだといい、小豆ばかり食べていたという不動の首岩の近くでは、今でもそのために土の色が赤いのだというそうであります。(肥後国志等。熊本県鹿本かもと郡三玉村) 
伝説と児童

 

諸君の家のまわり、毎日あるいている道路のかたわらにも、もとはこれよりもっと面白い伝説が、いくらともなく残っていたのであります。学校に行く人たちがいそがしくなって、暫しばらくかまわずに置くうちに、もう覚えていて話してくれる人がいなくなりました。それから美しい沼が田になり、見事な大木が枯れて片付けられてしまうと、当分はそのうわさをすることがかえって多いけれども、後に生れた者には感じが薄いので、おいおいに忘れて行くようになるのであります。村などはこのために大分さびしくなりました。
伝説は、今までかなり久しい間、子供ばかりをきき手にして話されておりました。尤もっとも大人も脇にいてきいてはいるのですが、大抵はおさらいをするおりがないために、子供のように永く記憶して、ずっと後になってから、また他の人に話してやる程に、熱心にはならなかったのであります。子供のおさらいは、その木の下で遊び、またはみんなと連れだって、その岩の前や淵ふちの上、池の堤をただ通って行くことでありました。話は不得手だから誰もくわしくは話しませんが、その度毎に一同は前にきいたことを想い出して、暫くは同じような心持ちになって、互に眼を見合うのであります。人が年を取って話をすることが好きになり、また上手になって後に、昔のことだといってきかせる話は、大方は、こうした少年の頃に、覚えこんだ話だけでありました。だからどんな老人の教えてくれる伝説にも、必ずある時代の児童が関係しております。そうしてもし児童が関係をしなかったら、日本の伝説はもっと早くなくなるか、または面白くないものばかり多くなっていたに違いないのであります。
だから皆さんが若いうちに、きいて置く話が少くなり、またそれを覚えていることがだんだんにむつかしくなると、書物をその年寄りたちの代りに、頼むより外はないのであります。書物には大人にきかせるような話、大人が珍しがるような話が多いのでありますが、今ではこの中からでないと、昔の児童の心持ちを、知ることは出来ぬようになりました。国が全体にまだ年が若く、誰でも少年の如くいきいきとした感じをもって、天地万物を眺めていた時代が、かつて一度は諸君の間にばかり、続いていたこともありました。書物は廻り廻ってそれを今、再び諸君に語ろうとしているのであります。
もとは小さな人たちは絵入りの本を読むように、目にいろいろの物の姿を見ながら、古くからのいい伝えをきいたり思い出したりしていたのであります。垣根の木に来る多くの小鳥は、その啼なき声のいわれを説明せられている間、そこいらを飛びまわって話の興を添えました。路のほとりのさまざまの石仏なども、昔話を知っている子供等には、うなずくようにも又ほほえむようにも見えたのであります。其その中でも年をとってから後にその頃のことを考える者に、一番懐かしかったのは地蔵様でありました。大きさが大抵は十一二の子供くらいで、顔は仏さまというよりも、人間の誰かに似ているので見覚えがありました。そうしてまた多くの伝説の管理者だったのであります。
村毎に別の話、一つ一つの名前を持っていたのも、石地蔵に最も多かったようであります。こういう児童の永年の友だちが、いつの間にかいなくなりそうですから、ここには百年前の子供等に代って、書物に残っている三つ四つの話をしてみましょう。古くから有名であったのは、箭や負おい地蔵に身代り地蔵、信心をする者の身代りになって、後に見ると背中に敵の矢が立っていたなどという地蔵ですが、これはまだその人だけの不思議であります。土地に縁の深い地蔵様になると、特に頼まずとも村のために働いて下さるといって、むしろ意外な出来事があってから後に、拝みに来る者がかえって多くなるので、その中でも、ことに地蔵は、農業に対して同情が厚いということが、一同の感謝するところでありました。足洗わずの地蔵というのは、時々百姓の姿になって、いそがしい日に手伝いに来て下さる。水引き地蔵は田の水の足りない時に、そっと溝みぞを切ってこちらの田だけに水を引き、そのために隣りの村からうらまれるようなこともありましたが、それが地蔵の仕業だとわかると、怒る者はなくなって、ただ感心するばかりでありました。
鼻取はなとり地蔵というのもまた農民の同情者で、東日本では多くの村に祀まつっております。私の今いる家から一番近いのは、上作延かみさくのべの延命寺えんめいじの鼻取地蔵、荒れ馬をおとなしくさせるのが御誓願で、北は奥州南部の辺までも、音に聞えた地蔵でありました。昔この村の田植えの日に、名主の家の馬が荒れて困っていると、見馴れぬ小僧さんがただ一人来て、その口を取ってくれたらすぐに静かになった。次ぎの日、寺の和尚おしょうがお経を読もうとして行って見ると、御像の足に泥がついている。それで昨日の小僧が地蔵様であったことが知れて、大評判になったということです。(新編武蔵風土記稿。神奈川県橘樹たちばな郡向丘村上作延)
ところがまた八王子の極楽寺ごくらくじという寺でも、これは地蔵ではないが、本尊の阿弥陀様あみださまを、鼻取如来にょらいと呼んでおりました。昔この近所にあった寺の田を、百姓がなまけて耕してくれぬので困っておると、これも小僧が現れて、馬の鼻をとって助けたといっております。どういうわけでかこの阿弥陀如来は、唇が開き歯が見えて、ちょっと珍しい顔の仏様であるので、一名を歯ふき仏とも称となえたそうであります。(同上。東京府八王子市子安こやす)
駿河の宇都谷うつのや峠の下にある地蔵尊は、聖徳太子の御作だというのに、これも鼻取地蔵という異名がありました。かつて榛原はいばら郡の農家で牛の鼻とりをして手伝ってくれられたということで、願いごとのある者は、鎌を持って来て献納したというのは、農業がお好きだと思っていたからでありましょう。ある時はまた日光山のお寺の食責じきぜめの式へ出かけて、盛んに索麪そうめんを食べたといって、索麪地蔵という名前も持っておられたそうです。(駿国すんこく雑志。静岡県安倍あべ郡長田村宇都谷)
鼻取りというのは、六尺ばかりの棒であります。牛馬を使って田をうなう時に、この棒を口の所に結わえて引き廻るのです。今ではそれを用いる農家が、東北の方でも、だんだん少くなりましたが、田植えの前の非常に忙がしい時に、もとはこの鼻とりに別の人手がかかるので、仕方なしに多くは少年がその役に使われ、うまく出来ないのでよく叱られていました。地蔵が手伝いに来てわざわざそういう為事しごとをして下さるといったのは、まことに少年らしい夢であります。もとはこういうさすの棒もなしに、直接に牛や馬の鼻の綱をとりましたから、かれ等にはかなりつらい為事でありましたが、もともと牛馬を田に使うということが、東の方ではそう古くからではありません。だからこれなども新しく出来た伝説であります。石城いわきの長友ながともの長隆寺ちょうりゅうじの鼻取地蔵などは、ある農夫が代掻しろかきの時に、ひどく鼻とりの少年を叱っていると、どこからともなく別の子供がやって来て、その代りをしてくれて、それは農夫の気に入りました。後で礼をしようと思ってさがしてみたが見えない。寺の地蔵堂の床の板に、小さな泥足の跡がついております。さては地蔵が少年の叱られるのをかわいそうに思って、代って鼻とりをつとめて下さったのだと、後にわかってあり難がったという話であります。この地蔵は安阿弥あんなみとかの名作で、今では国宝になっている大切なお像であります。(郷土研究一編。福島県石城郡大浦村長友)
また福島の町の近くで、腰浜こしのはまの天満宮の隣りにある地蔵にも同じ話があって、お堂の名を鼻取庵といっておりました。これも子供に化けて田の水を引き、馬の鼻をとって引き廻して手伝いました。昼飯の時に連れて来て御馳走をするつもりで、田からあがって方々を尋ねたが見えない。尋ねまわってお堂の中にはいって見ると、地蔵の足に田の泥がついていたというのであります。(信達一統志。福島県福島市腰ノ浜)
登米とよまの新井田あらいだという部落では、昔隣りの郡から分家をして来た者が、七観音と地蔵とを内神として持って来て、屋敷に堂を建ててていねいに祀っておりました。村の人たちもお参りをして拝んでいましたが、農が忙しい頃には、時々見たことのない子供がやって来て、方々の家の鼻とりの加勢をしてくれることがあって、それがこの地蔵様だと皆思っていたそうで、代掻地蔵と称えて今でも拝んでいます。(登米郡史。宮城県登米郡宝江村新井田)
それから安積あさか郡の鍋山なべやまの地蔵様も、よく農業の手つだいをして下さるという話があって、わざわざこの村を開墾する際に、隣りの野田山から迎えて来たのだそうです。(相生集)
地蔵菩薩霊験記じぞうぼさつれいげんきという足利時代の書物にも、こういう話はいろいろと出ております。出雲の大社の農夫が信心していた地蔵様は、十七八の青年に化けて、その農夫が病気の時に、代りに出て来て、お社の田で働いたということです。あまりよく働くので奉行が感心して、食事の時に盃さかずきを一つやりました。喜んで酒を飲んで、その盃を頭の上にかぶり、後にどこへか帰って行きました。翌日になって、農夫がこのことをきき、もしやと思って厨子ずしの戸を開けて見ると、果して地蔵様が盃をかぶって、足は泥だらけになって立っておられたといいます。近江の西山村の佐吉という百姓は、病気で田の草もとることが出来ずにいると、日頃信心の木本きのもとの地蔵が、いつの間にか来て、すっかり草をとって下さった。朝のうち参詣さんけいの路で見た時には、あれほど生い茂ってどうしようかと思った田の草が、帰りに見るともう一つも残らずとってある。どうしたことかと思って近くにいた者に尋ねると、今のさき七十ばかりの老僧が、田の畔くろを一まわりあるいていられるのを見た他には、誰も来た人はないというので、それでは地蔵の御方便で助けて下さったものであろうと、引き返してお堂へ行って見ると、そこらあたりが一面に泥足の跡で、それがお厨子の中までも続いていたと書いてあります。
或あるいはまた、田植えの頃に水喧嘩みずげんかがあって、一人の農夫が怪我をして寝ていると、夜の間に小僧さんが来て、その男の田に水を入れている。それをにくむ者が後から箭やを射かけると、逃げてどこかへいってしまった。後にこの家の地蔵様を拝もうとして見ると、背中に箭が立って、田の泥が足についていた。こういう水引地蔵の話も古くからありました。また筑後国の田舎では、八講の米を作る田へ夜になると水を引く者がある。村の人が大勢出て見ると、若い法師が杖つえをもって田の水口に立ち、溝みぞの水をかきまわしているのが、月の光でよく見えました。杖を流れに入れて掻くようにすれば、細い溝川が波を打って、どうどうと上手へ流れ、水はことごとくその田にはいりました。これも箭を射られて後で見ると、地蔵の背中に立っていたといいますが、その箭が山鳥の羽をもってはいであったというのは、前に申した足利の片目清水と似ています。この不思議に恐れ入って、その田を寄進してお寺を建て、それを矢田寺やだでらと名づけたということであります。
こういう話は、地蔵様でなくても、或は上総かずさの庁南ちょうなんの草取仁王におうだの、駿河の無量寺むりょうじの早乙女さおとめの弥陀みだだの、秩父の野上のがみの泥足の弥陀だのというのが、そちこちの村にはあったのですが、その中でも一番に人間らしく、また子供らしいことをなされたのが地蔵でありました。仏教の方でも、地蔵尊は人を救うために、どこへも行き誰とでもお附き合いなさるといって、つまらぬ旅僧の姿で杖を持って、始終あるいていられるように考えていますが、日本の話はそれだけではないようであります。遠州の山の中のある村では、百姓が粟畑あわばたけの夜番をするのに困って、もしこの畑の番をして、鹿猿に食わさぬようにして下されば、後に粟の餅をこしらえて上げましょうと、石地蔵に向っていいました。そうして置いてすっかり忘れていると、地蔵が大そう腹を立てて、その男は病気になりました。気がついて驚いて粟の餅を持って行ったら、すぐに全快したという話もあります。尾張の宮地太郎という武士さむらいが花見をしていると、山の地蔵様が山伏に化けて来てのぞきました。そうしてよび込まれて歌をよみ、烏帽子えぼしをかぶり鼓を打って、お獅子ししを舞ったという話もあります。
またある所では、信心深い老人があって、毎日夜明け前に門口に出て、地蔵様の村を廻ってあるかれるお姿を見ようとしていました。なん年かそうしているうちに、とうとう地蔵様を拝んだということであります。その様子がまるで人間と少しもちがわなかったといっております。地蔵の夜遊びということは、多くの村できく話でありました。例えば埼玉県の野島のじまの浄山寺じょうざんじの片目地蔵などは、あまりよく出て行かれるので、住職が心配して、背中に釘くぎを打って鎖でつないで置くと、たちまち罰が当って悪い病にかかって死んだといいます。それからは自由に夜遊びをさせていたところが、ある時茶畠にはいって茶の木で目を突いたといって、今でもその木像は片目であります。またその目の傷を門前の池の水で洗ったといって、今でもその池に住む魚は、悉ことごとく片目であるそうです。(十方庵遊歴雑記。埼玉県南埼玉郡萩島村野島)
東京でも下谷金杉したやかなすぎの西念寺さいねんじに、眼洗めあらい地蔵というのがありました。それから鼻欠はなかけ地蔵だの塩嘗しおなめ地蔵だのと、面白い名前が幾らもありました。夜更地蔵、踊地蔵、物いい地蔵などというのもありますが、伝説はもう多くは残っておりません。また時々は路傍の地蔵で、いたずらをして旅人を困らせたという話もあります。相州そうしゅう大磯には化け地蔵、一名袈裟切けさぎり地蔵というのがもとはありました。伊豆の仁田にったの手無仏というのも石地蔵であって、毎晩鬼女に化けて通行の者をおどしているうちに、ある時強い若侍に出あって、手を斬られて林の中へ逃げ込みました。翌朝行って見ると、地蔵の手が田の畔に落ちていたというのもおかしな話であります。(伊豆志。静岡県田方たがた郡函南かんなみ村仁田)
しばられ地蔵というのにはいろいろあって、京都の壬生寺みぶでらの縄目地蔵などは、一つは身代り地蔵でありました。武蔵の住人香匂新左衛門かがわしんざえもん、この寺にかくれて追手を受け、既に危いところを本尊の地蔵が代って下されて、しばって来てからよく見ると、地蔵尊であったというのは、そそっかしい話であります。そうかと思うと品川の願行寺がんぎょうじのしばり地蔵などは、願いごとをする者が毎日来て、縄で上から上へとしばりました。それを一年に一度十夜の晩に、寺の住職がすっかりほどいて置くと、次ぎの日からまたしばり始めるのでありました。(願掛重宝記。東京府荏原えばら郡品川町南品川宿)
もとはこれなどは縄を結んだので、しばったのではないようであります。今でも神木とかお堂の戸の金網とかに、紙切れや糸紐いとひもを結びつけることがよくあって、こうして人と神様との間に、連絡をつけようとしたらしいのであります。前に鼻取地蔵の話をした上作延の村などにも、しばり松、一名聖松ひじりまつという大木がもとはあって、願掛けをする人は縄を持って来て、この松をしばりました。そうして願いごとがかなうと、お礼に参ってその縄を解いたのであります。しばるというために、何か悪いことでもしたように考えて、いろいろの話が始まりました。亀井戸の天神の境内には、頓宮神とんぐうじんという小宮があって、その中には爺と婆との木像が置いてありました。その後には青赤二つ鬼が縄を持って立っています。頓宮神というのはこの爺様のことで、昔菅公が筑紫に流された時に、婆は親切であったが、爺の方はまことにつらく当りました。それで今でもお参りをする人は。わざわざ鬼の持っている縄で爺の体を巻き付けて天神に願掛けをする。そうして七日目にその縄を解くのだといっております。(願掛重宝記。東京府南葛飾かつしか郡亀戸町)
雨乞いの祈祷きとうにも、よく石地蔵はしばられました。羽後の花館はなだての滝宮明神は水の神で、御神体は昔は石の地蔵でありました。これを土地の人は雨地蔵、または雨恋地蔵とも称えて、旱ひでりの歳には長い綱をしばりつけて、石像を洪福寺淵こうふくじぶちに沈めて置くと、必ずそれが雨乞いになって雨が降るといいました。(月之出羽路。秋田県仙北せんぼく郡花館村)
所によっては、ただ雨乞地蔵の開帳をしただけで、雨が降るものと信じていた村もありますが、なかなかそれだけでは降らぬので、おりおりはもっときついことをしたのであります。熊野の芳養村はやむらのどろ本の地蔵尊などは、御像を首の根まで川の水に浸して雨乞いをしました。(郷土研究一編。和歌山県西牟婁にしむろ郡中芳養村)
播州ばんしゅう船阪山の水掛地蔵は、堂の脇にある古井の水を汲くんで、その中で地蔵を行水させ、後でその水を信心の人が飲みました。今では雨乞いとは関係がないようですが、この井戸もいかなるひでりでも涸かれることがないといっております。(赤穂あこう郡誌。兵庫県赤穂郡船阪村高山)
肥前の田平たびら村の釜が淵などでは、ひでりの時には土地の人が集って来て、一しょう懸命になって淵の水を汲み出します。深さが半分ばかりにも減ると、水の中に石の頭が見えて来るのを、地蔵菩薩の御首みぐしといっていまして、それまで替えほして来ると、たいてい雨が降ったということです。(甲子夜話かつしやわ。長崎県北松浦郡田平村)
こういう雨乞いのし方は、ずっと昔から日本にはあったので、地蔵はただ外国からはいって来て、後にその役目を引き継いだばかりではないかと思います。
筑後の山川村の滝の淵という所では、昔平家方のある一人の姫君が、入水じゅすいしてこの淵の主となり、今でも住んでおられる。それは驚くような大鯰おおなまずだなどといっておりますが、岸には七霊社というほこらを建てて姫の木像が祀ってあります。ひでりの場合にはその像を取り出し、淵の水中に入れて置くのが、この土地の雨乞いの方法でありました。(耶馬台国やまたいこく探見記。福岡県山門やまと郡山川村)
大和の丹生谷にうだにの大仁保おおにほ神社は、俗に御丹生さんといって水の神で、また姫神であります。ここでも雨乞いには御神体を水の中に沈めて、少し待っていると必ず雨が降るということでありました。(高市たかいち郡志料。奈良県高市郡舟倉村丹生谷)
武蔵の比企ひきの飯田いいだの石船いわぶね権現というのは、以前は船の形をした一尺五寸ばかりの石が御神体でありました。社の前にある御手洗みたらしの池に、この石を浸して雨を祈れば、必ず験しるしがあると信じていましたが、どうしたものか後には御幣ばかりになって、もうその石は見えなくなったといいます。(新編武蔵風土記稿。埼玉県比企郡大河村飯田)
それから石地蔵に、いろいろの物を塗りつけること、これも仏法が持って来た教えではなかったようであります。雨乞いのためにする例は、羽後の男鹿おが半島に一つあります。鳩崎はとざきの海岸に近く寝地蔵といっていたのは、ただ梵字ぼんじを彫りつけた一つの石碑でありましたが、常には横にしてあって、雨乞いの時だけこれを立てて、石に田の泥を一面に塗ります。そうするときっと降るといっておりました。(真澄遊覧記。秋田県南秋田郡北浦町野村)
これは恐らく泥で汚すと、洗わなければならぬから雨が降るのだと、思っていたのでありましょうが、そうでなくても地蔵には泥を塗りました。大和の二階堂の泥掛地蔵などは毎月二十四日の御縁日に、今でも仏体に泥を掛けてお祭りをしています。(大和年中行事一覧。奈良県山辺やまべ郡二階堂村)
油掛地蔵といって、参詣の人が油を掛けて拝む地蔵もありました。大阪の近くの野中の観音堂の脇には、墨掛地蔵という真黒な地蔵さんがありました。願いごとのかのうた人が、必ず墨汁を持って来て掛けたのだそうです。(浪華なにわ百事談)
羽前狩川かりかわの冷岩寺れいがんじの前には、毛呂美もろみ地蔵というのもありました。以前普通の家でも酒を造ることが出来た頃に、この近所の者は、もろみといって酒になりかけの米の汁を、先ず一杯だけくんで来て、地蔵の頭から浴せる。それがだんだんと腐って路を通る者が鼻をつまむ程臭かったけれども、誰一人としてこれを洗い清める者がなかったそうです。昔ある農夫があまりきたない地蔵様だといって、それをすっかり洗って上げたところが、たちまち罰を被って一家内疫病にかかり、大きな難儀をしたという話もあり、おそれて手をつける者がなかったのであります。(郷土研究二編。山形県東田川郡狩川村)
それからまた、粉掛地蔵というのもたくさんあります。伊予の道後の温泉にあるものは、参詣の人が白粉おしろいを持って来てふりかけました。その名を粉附地蔵といい、ほんとうは子好き地蔵だろうという説もありましたが、たしかなことはどうせわかりません。(日本周遊奇談。愛媛県温泉郡道後湯之町)
駿河の鈴川の近くにも、小僧に化けたというので有名な石地蔵がありましたが、これもお祭りの時に白粉を塗って化粧をしました。(田子之古道。静岡県富士郡元吉原村)
相模さがみの弘西寺こうさいじ村の化粧地蔵、これも願掛けをする人が白粉や、胡粉ごふんを地蔵のお顔に塗って拝みました。(新編相模風土記。神奈川県足柄上あしがらかみ郡南足柄村弘西寺)
近江の湖水の北の大音おおと村の粉掛地蔵は、このへんの工場で糸とりをする娘たちが、手が荒れた時には、米か麦の粉を一つかみ持って来て、この地蔵に振り掛けると、さっそくよくなるといっております。(郷土研究四編。滋賀県伊香いか郡伊香具村大音)
安芸あきの福成寺ふくしょうじの虚空蔵こくうぞうの御像には、附近の農民が常に麦の粉や、米の粉を持って来て供えました。それはこの仏の御名を「粉喰うぞ」というのかと思って、それならば粉を上げたら喜ばれるだろうということになったとの話もありますが(碌々雑話)、これとてもはやくから粉を掛けていたために、一そうそんな説明が信じ易くなったのかも知れません。とにかくに虚空蔵は、地蔵に対する言葉で、もとは兄弟のような仲であったのですが、土に縁の深い地蔵尊だけが、特別に農村の人気を集めることになったので、それには諸君のごとき若い人たちが、いつでもひいきをしていたことが大いなる力でありました。
京都ではもう古い頃から、毎年七月の二十四日には六地蔵詣りといって、多くの人が近在の村を廻ってあるきました。村の方では休み所をつくってお茶を出し、子供は路の傍はたの石仏を一つ所に集めて来ました。そうしてその顔を白く塗ってすべてこれを地蔵と名づけ、花を立てて食べ物を供えて、町から来た人に拝ませました(山城やましろ四季物語)。私などの田舎でも、夏の夕方の地蔵祭りは、村の子の最も楽しい時で、三角に結んだ小豆飯の味は、年をとるまで誰でも皆よく覚えています。
土地によっては寒い冬のなかばに、地蔵の祭りをした所もあります。伯耆国ほうきのくにのある村では、それを大師講といって、十一月二十四日の夜の明けぬ前に、生の団子を持って路の辻に行き、それを六地蔵の石の像に塗りつけました。一番早く塗って来た者は、大きくなってから美しい嫁をもらい、好い男を婿に取るといっておりました。(霞かすみ村組合村是。鳥取県日野郡霞村)
大阪天王寺の地蔵祭りは、以前には旧の十一月の十六日でありました。この朝早く子供たちは、米の粉を持って来て地蔵のお顔に塗り、その夕方にはまた藁火わらびを焚たいて、真黒にいぶしました。そうして「明年の、明年の」とはやして、お別れの踊りを踊ったということであります。(浪華百事談)
人によっては、これを道碌神どうろくじんの祭りともいいました。道碌神は道祖神さえのかみのことでありますが、これも少年と非常に仲の好い辻の神で、もとは地蔵と一つの神であったのですから、そういっても決して間違いではありません。道祖神はたいていの所では、正月十五日にそのお祭りをしました。木で作った場合にでも、やはり子供等は白いものを塗りました。東京から西に見える山の中の村などでは、この日のどんど焼きの火の中へ、石の道祖神を入れて黒くいぶしました。信州川中島の村々では、二月の八日がお祭りの日でありますが、この朝は餅を搗ついて、これを藁製の馬に負わせ、道碌神の前までひいて行き、その餅を神様の石像に所嫌わず塗りつけるそうであります。
町の児童も近い頃まで、「影や道碌神」と唱えて、月の夜などには遊んでいました。東北の田舎では三十年ぐらい前まで、地蔵遊びという珍しい遊戯もありました。一人の子供に南天の木の枝を持たせ、親指を隠して手を握らせ。その子をとり巻いて他の多くの子供が、かあごめかあごめのようにぐるぐると廻って、「お乗りゃあれ地蔵様」と、なんべんも唱えていると、だんだんにその子が地蔵様になります。
物教えにござったか地蔵さま
遊びにござったか地蔵さま
といって、皆が面白く歌ったり踊ったりしましたが、もとは紛失物などのある時にも、この子供の地蔵のいうことをきこうとしました。またある村では、遊び地蔵といって、いつも地蔵さまの台石ばかりあって、地蔵はどこかへ出かけているという村もありました。そういうのは、若い衆が辻の広場へ持ち出して、力試しの力石にしているのです。嫁入り聟むこ入り祝言のある時にも、やはり石地蔵は若い衆にかつがれて、その家の門口へ遊びに来ました。地蔵講の地蔵には、廻り地蔵といって、次ぎから次ぎと仲間の家に、一月ずつ遊んで行くのもありました。
子供が亡くなると、悲しむ親たちは腹掛や頭巾、胸当などをこしらえて、辻の地蔵尊に上げました。それで地蔵もよく子供のような風をしています。そうして子供たちと遊ぶのが好きで、それを邪魔すると折り折り腹を立てました。縄で引っ張ったり、道の上に転がして馬乗りに乗っていたりするのを、そんなもったいないことをするなと叱って、きれいに洗ってもとの台座に戻して置くと、夢にその人のところへ来て、えらく地蔵が怒ったなどという話もあります。せっかく小さい者と面白く遊んでいたのに、なんでお前は知りもしないで、引き離して連れてもどったかと、散々に叱られたので、驚いてもとの通りに子供と遊ばせて置くという地蔵もありました。
なるほど親たちは何も知らなかったのですけれども、子供たちとても、またやはり知らないのであります。今頃新規にそんなことを始めたら、地蔵様は必ずまた腹を立てるでしょうが、いつの世からともなく代々の児童が、そうして共々に遊んでいるものには、何かそれだけの理由があったのであります。遠州国安くにやす村の石地蔵などは、村の小さな子が小石を持って来て、叩いて穴を掘りくぼめて遊ぶので、なん度新しく造っても、じきにこわれてしまいました。それを惜しいと思って小言こごとをいったところが、その人は却かえって地蔵のたたりを受けたということです。(横須賀郷里雑記。静岡県小笠おがさ郡中浜村国安)
このようなつまらぬ小さな遊び方でさえも、なお地蔵さまの像よりはずっと前からあったのであります。昔というものの中には、かぞえ切れないほど多くの不思議がこもっています。それをくわしく知るためには、大きくなって学問をしなければなりませんが、とにかくに大人のもう忘れようとしていることを、子供はわけを知らぬために、却って覚えていた場合が多かったのであります。木曽の須原すはらには、射手いでの弥陀堂というのがありました。もとは春の彼岸のお中日に、この宿の男の子が集って来て、やさいこといって小弓をもって、阿弥陀の木像を射て、大笑いをして帰るのがお祭りであったそうです。(木曽古道記。長野県西筑摩郡大桑村須原)
仏像を射るということは、大へんなことですが、これにも神様が目をお突きになったという類の、古い伝説があったのかも知れません。越後の親不知おやしらずの海岸に近い青木阪の不動様は、越後信州東京の方の人は、不動様といって拝み、越中から西の人は、乳母様と称えて信心していました。お寺では今から四百年ほど前に、野宮権九郎という人が海から拾い上げた仏様だといいますが、土地の人は、もとからこの沖の小さな島に、子産み殿といって祀ってあった神様だと思っていまして、字を知らぬ人のいった方がどうも正しいようであります。というわけは、このお堂へは、母になって乳の足りない女の人が、多くお参りをして来たのでありました。そうしてお礼には小さなつぐらといって、赤ん坊を入れて置く藁製の桶おけのような物を持って来て、堂の側かたわらの青木の枝にぶら下げますがその数はいつも何百とも知れぬほどあるといいます。この神様も地蔵と同じように、非常に子供がお好きであるということで、何かという時には、村々から多くの児童が集って来たということです。あんなこわい顔をした不動様でも、姥神うばがみと一しょに住めばつぐらの子の保護者でありました。お盆になると少年が閻魔堂えんまどうに詣るのも、やはりあの変な婆さんがいるからでした。(頸城くびき三郡史料。新潟県西頸城郡名立町)
日本は昔から、児童が神に愛せられる国でありました。道祖も地蔵もこの国に渡って来てから、おいおいに少年の友となったのは、まったくわれわれの国風にかぶれたのであります。子安姫神の美しく貴いもとのお力がなかったら、代々の児童が快活に成長して、集ってこの国を大きくすることも出来なかった如く、児童が楽しんで多くの伝説を覚えていてくれなかったら、人と国土との因縁は、今よりも遙はるかに薄かったかも知れません。その大きな功労に比べるときは、私のこの一冊の本はまだあまりに小さい。今に出て来る日本の伝説集はもっと面白く、またいつまでも忘れることの出来ぬような、もっと立派な学問の書でなければなりません。  
伝説分布表

 

この本に出ている伝説の中で、町村の名の知れている分を、表にしてならべてみました。この以外の県郡町村でも、ただ私が知らなかったというだけで、むろん尋ねてみたら幾らでも、同じような伝説があることと思います。下の数字はページ数です。自分の村の話が出ていましたら、まずそこのところから読んで御覧なさい。
東京府
東京市浅草区浅草公園……………………箸銀杏
同 下谷区谷中清水町……………………清水稲荷
荏原郡品川町南品川宿……………………縛り地蔵
豊多摩郡淀橋町柏木………………………鎧大明神
同 高井戸村上高井戸……………………薬師の魚
南葛飾郡亀戸町……………………………頓宮神
八王子市子安………………………………歯吹仏
京都府
乙訓郡新神足村友岡………………………念仏池
南桑田郡稗田野村柿花……………………片目観音
大阪府
泉北郡八田荘村家原寺……………………放生池
神奈川県
橘樹郡向丘村上作延………………………鼻取地蔵
足柄上郡南足柄村弘西寺…………………化粧地蔵
足柄下郡大窪村風祭………………………機織の井
兵庫県
川辺郡稲野村昆陽…………………………行波明神
有馬郡有馬町………………………………うわなり湯
加古郡加古川町……………………………上人魚
同 野口村阪元……………………………寸倍石
赤穂郡船阪村高山…………………………水掛地蔵
多紀郡城北村黒岡…………………………時平屋敷
長崎県
北松浦郡田平村……………………………釜が淵
新潟県
長岡市神田町………………………………三盃池
北蒲原郡分田村分田………………………都婆の松
三島郡大津村蓮華寺………………………姨が井
北魚沼郡堀之内町堀之内…………………古奈和沢池
南魚沼郡中之島村大木六…………………巻機権現
刈羽郡中通村曽地…………………………おまんが井
中頸城郡櫛池村青柳………………………片目の聟
西頸城郡名立町青木阪……………………乳母神とつぐら
同 根知村…………………………………諏訪の薙鎌
埼玉県
川越市喜多町………………………………しやぶぎ婆石塔
北足立郡白子町下新倉……………………子安池
同 大砂土村土呂…………………………神明の大杉
入間郡所沢町上新井………………………三つ井
同 小手指村北野…………………………椿峯
同 山口村御国……………………………椿峯
比企郡大河村飯田…………………………石船権現
秩父郡小鹿野町……………………………信濃石
同 吾野村大字南…………………………飯森杉
南埼玉郡萩島村野島………………………片目地蔵
群馬県
高崎市赤坂町………………………………婆石
北甘楽郡富岡町曽木………………………片目の鰻
利根郡東村老神……………………………神の戦
同 川場村川場湯原………………………大師の湯
佐波郡殖蓮村上植木………………………阿満が池
千葉県
千葉郡二宮村上飯山満……………………巾着石
市原郡平三村平蔵…………………………二本杉
印旛郡臼井町臼井…………………………おたつ様の祠
同 酒々井町………………………………仲の悪い神様
同 富里村新橋……………………………葦が作
同 根郷村太田……………………………石神様
長生郡高根本郷村宮成……………………新箸節供
山武郡大和村山口…………………………雄蛇の池
君津郡清川村………………………………畳が池
同 小櫃村俵田字姥神台…………………姥神様
君津郡八重原村……………………………念仏池
同 関村大字関……………………………関のおば石
夷隅郡千町村小高…………………………大根栽えず
同 布施村…………………………………二本杉
安房郡西岬村洲崎…………………………一本薄
同 豊房村神余……………………………大師の塩井
同 白浜村青木……………………………芋井戸
茨城県
那珂郡柳河村青柳…………………………泉の杜
久慈郡阪本村石名阪………………………雷神石
同 金砂村…………………………………横山ぎらい
鹿島郡巴村大和田…………………………主石大明神
筑波郡筑波町………………………………筑波山の由来
栃木県
河内郡上三川町……………………………片目の姫
芳賀郡山前村南高岡………………………片目の皇子
那須郡黒羽町北滝…………………………綾織池
同 那須村湯本……………………………教伝地獄
安蘇郡犬伏町黒袴…………………………天神の敵
同 旗川村小中……………………………人丸大明神
足利郡三和村板倉…………………………大師の加持水
奈良県
山辺郡二階堂村……………………………泥掛地蔵
高市郡舟倉村丹生谷………………………雨乞と地蔵
吉野郡高見村杉谷…………………………入鹿を祀る山
三重県
宇治山田市船江町…………………………白太夫の袂石
飯南郡宮前村………………………………めずらし峠
同 射和村…………………………………成長する石
多気郡佐奈村仁田…………………………二つ井
同 丹生村…………………………………子安の井
南牟婁郡五郷村大井谷……………………袂石
愛知県
丹羽郡池野村………………………………尾張小富士
知多郡東浦村生路…………………………弓の清水
南設楽郡長篠村横川………………………氏子片目
八名郡石巻村………………………………山の背くらべ
静岡県
清水市入江町元追分………………………姥甲斐ない
賀茂郡下田町………………………………下田富士
同 岩科村雲見……………………………富士の姉神
田方郡熱海町………………………………平左衛門湯
同 函南村仁田……………………………手無仏
駿東郡須山村………………………………山の背くらべ
富士郡元吉原村……………………………化け地蔵
安倍郡長田村宇都谷………………………鼻取地蔵(索麪地蔵)
同 賤機村…………………………………鯨の池
小笠郡中浜村国安…………………………子供と地蔵
周智郡犬居村領家…………………………機織の井
磐田郡見付町………………………………姥と草履
同 上阿多古村石神………………………富士石
山梨県
東山梨郡松里村小屋舗組…………………御箸杉
同 等々力村………………………………親鸞上人の箸
西山梨郡相川村……………………………片目の泥鰌
同 国里村国玉……………………………国玉の大橋
東八代郡富士見村河内組…………………七釜の御手洗
中巨摩郡百田村上八田組…………………しわぶき婆の石
滋賀県
蒲生郡桜川村川合…………………………麻蒔かず
栗太郡笠縫村川原…………………………麻作らず
愛知郡東押立村南花沢……………………花の木
犬上郡脇ヶ畑村大字杉……………………御箸の杉
阪田郡大原村池下…………………………比夜叉の池
東浅井郡竹生村……………………………竹生島の由来
伊香郡伊香具村大音………………………粉掛地蔵
同 片岡村今市……………………………大師水
岐阜県
揖斐郡谷汲村………………………………念仏橋
山県郡上伊自良村…………………………念仏池
武儀郡乾村柿野……………………………黄金の鶏
加茂郡太田町………………………………目を突いた神
益田郡萩原町………………………………蛇と梅の枝
同 上原村門和佐…………………………竜宮が淵
同 中原村瀬戸……………………………ばい岩
同 朝日村黍生谷…………………………橋場の牛
長野県
長野市………………………………………善光寺と諏訪
北佐久郡三井村……………………………鎌倉石
小県郡殿城村赤阪…………………………滝明神の魚
下伊那郡上郷村……………………………恨みの池
同 竜丘村…………………………………花の御所
同 竜江村今田……………………………竜宮巌の活石
同 智里村小野川…………………………富士石
東筑摩郡島内村……………………………仲の悪い神様
西筑摩郡日義村宮殿………………………野婦の池
同 大桑村須原……………………………矢さいこ行事
南安曇郡安曇村……………………………門松立てず
北安曇郡中土村……………………………芋作らず
上水内郡鬼無里村岩下……………………梭石榺石
宮城県
玉造郡岩出山町……………………………驚きの清水
登米郡宝江村新井田………………………代掻地蔵
牡鹿郡鮎川村………………………………金華山の土
福島県
福島市腰ノ浜………………………………鼻取庵
信夫郡余目村南矢野目……………………片目清水
同 土湯村…………………………………片目の太子
伊達郡飯阪町大清水………………………小手姫の社
安達郡塩沢村………………………………機織御前
安積郡多田野村……………………………氏子の片目
南会津郡館岩村森戸………………………立岩
耶麻郡大塩村………………………………大師の塩の井
石城郡草野村絹谷…………………………絹谷富士
同 大浦村大森……………………………すがめ地蔵
同 同 長友………………………………鼻取地蔵
岩手県
岩手郡滝沢村………………………………送り山
和賀郡小山田村……………………………はたやの神石
同 横川目村………………………………笠松の由来
下閉伊郡小国村……………………………原台の淵
青森県
東津軽郡東嶽村……………………………山の争い
南津軽郡猿賀村……………………………片目の魚
下北郡脇野沢村九艘泊……………………石神岩
山形県
東村山郡山寺村……………………………景政堂
西村山郡川土居村吉川……………………大師の井戸
北村山郡宮沢村中島………………………熊野の姥石
飽海郡東平田村北沢………………………矢流川の魚
同 飛島村…………………………………鳥海山の首
東田川郡狩川村……………………………毛呂美地蔵
西田川郡大泉村下清水……………………しょうずかの姥
秋田県
南秋田郡北浦町……………………………片目の神主
同 同野村…………………………………寝地蔵
雄勝郡小安…………………………………不動滝の女
北秋田郡阿仁合町湯の台…………………水底の機
仙北郡金沢町………………………………片目の魚
同 同荒町…………………………………三途河の姥
同 花館村…………………………………雨恋地蔵
同 大川西根村……………………………おがり石
福井県
大野郡大野町………………………………山の背くらべ
三方郡山東村阪尻…………………………機織池
大飯郡青ノ郷村関屋………………………水無川
石川県
能美郡白峰村………………………………白山と富士
同 同村……………………………………二本杉
同 大杉谷村赤瀬…………………………やす女が淵
河北郡高松村横山…………………………片目の魚
羽咋郡志加浦村上野………………………大師水
鹿島郡能登部村……………………………機織と稗の粥
同 鳥尾村羽阪……………………………水無村の由来
珠洲郡上戸村寺社…………………………能登の一本木
富山県
上新川郡……………………………………立山と白山
同 船崎村舟倉……………………………山のいくさ
鳥取県
岩美郡元塩見村栗谷………………………布晒岩
同郡…………………………………………時平公の墓
西伯郡大山村………………………………韓山の背くらべ
日野郡印賀村………………………………竹栽えず
同 霞村……………………………………大師講と地蔵
島根県
飯石郡飯石村………………………………成長する石
鹿足郡朝倉村注連川………………………牛王石
隠岐周吉郡東郷村…………………………釣上げた石
岡山県
邑久郡裳掛村福谷…………………………裳掛岩
勝田郡吉野村美野…………………………白壁の池
久米郡大倭村大字南方中…………………二つ柳
広島県
豊田郡高阪村中野…………………………出雲石
世羅郡神田村蔵宗…………………………魚が池
蘆品郡宜山村下山守………………………厳島の袂石
双三郡作木村岡三淵………………………布晒岩
比婆郡小奴可村塩原………………………石神社
同 比和村古頃……………………………赤子石
和歌山県
那賀郡岩出町備前…………………………疱瘡神社
伊都郡高野村杖ヶ藪………………………杖の藪
西牟婁郡中芳養村…………………………雨乞地蔵
徳島県
那賀郡富岡町福村…………………………蛇の枕
同 伊島……………………………………蛭子神の石
海部郡川西村芝……………………………不動の神杉
同 川上村平井……………………………轟きの滝
名西郡下分上山村…………………………柳水
板野郡北灘村粟田…………………………目を突く神
美馬郡岩倉村岩倉山………………………山の戦
愛媛県
温泉郡道後湯之町…………………………粉附地蔵
同 久米村高井……………………………杖の淵
新居郡飯岡村………………………………真名橋杉
高知県
土佐郡十六村行川…………………………綾を織る姫
香美郡山北村………………………………吉田の神石
同 上韮生村柳瀬…………………………山姥の麦作り
高岡郡黒岩村………………………………宝御伊勢神
幡多郡津大村………………………………おんじの袂石
福岡県
糸島郡深江村………………………………鎮懐石
三潴郡鳥飼村大石…………………………大石神社
山門郡山川村………………………………七霊社の姫神
大分県
東国東郡姫島村……………………………拍子水
速見郡南端村天間…………………………由布嶽
玖珠郡飯田村田野…………………………念仏水
佐賀県
西松浦郡大川村……………………………十三塚の栗林
熊本県
飽託郡島崎村………………………………石神の石
玉名郡滑石村………………………………滑石の由来
鹿本郡三玉村………………………………山の首引
阿蘇郡白水村………………………………猫岳
上益城郡飯野村……………………………飯田山
宮崎県
西諸県郡飯野村原田………………………観音石の頭
児湯郡下穂北村妻…………………………都万の神池
同都農村……………………………………山と腫物
鹿児島県
揖宿郡山川村成川…………………………若宮八幡の石
同 指宿村…………………………………池田の火山湖
薩摩郡永利村山田…………………………石神氏の神
熊毛郡中種子村油久………………………熊野石  
 
杖銀杏

 

■杖立銀杏
貴人が、持っていた杖(箸・楊枝)を地面にさす、または杖を逆さに地面にさす。貴人はこの地に教えが広まるならば、根を生ずるだろうと予言する。杖は根をおろして大木になる。杖は根をおろすが枝が下を向いている。

探せばどこにでもある伝説だと思います。私が奈良當麻石光寺で見た桜は役行者の挿したものですが、根を生ずるだろうと予言のモチーフを伴っています。桜の場合は単純に「杖が根付いて生長した」と語るよりも、はっきりとした開花があるという点で、見る人に鮮烈な印象を与えることが出来るという効果があるでしょう。あと竹もかなり多いです。ある寺の竹林について「かつてここに逗留した高僧が刺した一本の杖から繁殖したものだ」という伝説があったら、やはり信徒たちに対しては大きなアピールになったことでしょう。
和歌山県伊都郡富貴村「杖杉」
「高野の奥の院にある。応保二年明遍上人が御廟に詣でしとき、祈誓して携えて来た杖を挿したのが、芽を生じたもので、今のは二三代目のものであり、明遍杉といっている。野山名霊集巻三には、明遍菩提の大願成就を卜して加持を試みたところ、正しく繁茂した。御廟橋の袂にあって、後にはこの木が霊境の榜示となり、橋から内には透間もなく諸仏の集会なさる故に、足を容るべき処がないと、明遍自らも常にこの杉の本から遥拝して還ることにしたと誌している。」
岩手県和賀郡東和町「杖銀杏」
「弘法大師巡錫の折に携えてきた杖を挿したものが成長したという。樹齢一千年の老樹である。乳を求むる者はこの木に祈り、またこの木の落葉の遅速によって、来年の作物の豊凶を占う習いがあったという。」
※「杖銀杏」であり「乳銀杏」の効験あるものは、他に新潟県三島郡寺泊町西生寺弘智堂、東京都旧麻布雑色開山堂にもある。
千葉県印旛郡印旛村「松虫寺の杖銀杏」
「松虫の松虫寺に杖の銀杏がある。聖武天皇第三の御娘松虫姫悪病を煩い、東国に流落し給い、この寺の薬師仏を信じて平癒なされた、その御杖をここに立てられたものだという。この木は行基と因縁のあるものらしく、一方には行基が本願経を写し埋めたという塚の上に、貝多羅の奇木があって、枯葉から成長繁茂したという。」
島根県能義郡伯太村「陰陽竹」
「比婆山に陰陽竹というのがあるが、これはその昔、伊邪那美尊が出産のため比婆山に登られたとき、杖にせられた竹がそのまま根を降したものといい、この竹を杖にすれば安産をなすといって、今も持帰る婦人が多い。」
新潟県栃尾市「一夜梅」
「栃尾の常安寺にあった。永禄年間、この寺第一代門察和尚のとき、ある一人の老翁が来て血脈を乞い、和尚これを授けると大いに謝して境内を徘徊していたが、携うるところの杖を以て、庭前の山の足を穿つと、清水がたちまち流れ出た。塀の傍にその杖を挿して、
植え置きし梅の主を人問わば みづからいます神とこたえよ
と詠じて去った。みづからいます神は自在神、すなわち菅原天神である。和尚は翌朝見るに杖は青葉を生じていた。よって一夜梅と名づけ、寺の神木としたという。」
京都府「比叡山延暦寺西塔椿堂」
「比叡山延暦寺の西塔の椿堂の由来として伝えられ、伝教大師いまだこの山に住せぬ以前、聖徳太子が御登りなされて、御本尊救世観音を安置せんがために、この地を開き給うたとき、その側に立てておかれた椿の御杖が枝葉を繁茂したという。俗にこれを椿堂と称した。」
岐阜県武儀村「杖檜」
「日竜峰寺の山中にあった。枝葉が箒のごとく岐れた異木で、大昔両面四臂の一異人がこの山に入って毒竜を征服した。この木は彼が携えてきた杖であった。後に行基がここに伽藍を開いて千手観世音を安置した。両面四手足の宿儺という怪賊が飛騨を荒したことは、日本書紀仁徳天皇六十五年の条にも見えている。」杖を植えた人物としては、弘法大師や西行など廻国の僧侶たちが多いかもしれませんが、武士という事例もありますね。景行天皇という事例もありました。

今回の話型は「木が逆さに根付いて成長する」系統のものも含んでいますが、それらは普通「逆〇」という名称なので、『名彙』では当然別にまとめています。ただ「逆〇」は「逆さに生えている」形状が名称の由来なのであって、必ずしも杖が成長したものではありません。由来を語らない事例もありますし、杖でなく箸や杭や馬鞭だったりもします。しっかり数えていませんが、「武士が戦の前に勝利を祈って植えた」事例が多いかもしれません。
■下の城の銀杏(しものじょうのいちょう)
黄金色の大きな塊
小国町の中心、宮原(みやのはる)から大分県の日田(ひた)方面に国道212号を4キロメートルほど進むと、右手の谷・杖立川(つえたてがわ)の向こう側にひときわ大きなイチョウの巨樹がそびえています。これが「下の城の銀杏」で県内最大のイチョウの巨樹で、国の天然記念物に指定されています。
樹の周辺は道路から少し高くなっていて、戦国時代にこの地域を支配していた下城上総介経賢(しもじょうかずさのすけつねかた)の墓所です。周辺には下城遺跡があります。下城氏については不明な点がたくさんありますが、高く大きくそびえる樹は経賢の母妙栄(みょうえい)の墓標とされ、樹の下にある五輪塔はその墓と伝えられます。少し離れたところにさらに二基の五輪塔があり、その一つは息子の経賢の墓だとされています。
大きい樹幹の周囲をたくさんの「ひこばえ」が取り囲み、親株を守っているかのようです。そして、樹幹が太く成長につれて中側のひこばえから順に取り込まれ、親子が一体になっていった様子も見てとれます。この樹は高く伸びるよりも枝を大きく横に伸ばして道路や近くの民家までを覆うほどで、梢の枝が折れるように曲がっているのが特徴です。そのため、全体の樹形が大きな塊のようになり、遠くから見ても春夏は緑色の、秋には黄金色の大きな塊のように見えます。10月中旬から11月にかけての黄葉の時期になるとライトアップされ、幻想的な輝きが闇の中にくっきりと浮かび上がります。
地域の女性に大切にされてきたイチョウ
この樹には多数の気根が乳房のように垂れ下がっているので、地元では「ちこぶさん」の愛称で親しまれています。北小国村時代の古い天然記念物台帳には「名称 乳瘤」(ちちこぶ)と記録されています。「ちこぶさん」とは、乳の出が悪いお母さんが乳の出がよくなることをこの樹に祈り、垂れ下がった乳瘤を削って煎じて飲むと乳の出が良くなるという信仰に基づく名称です。粉ミルクが無かった時代に母乳の不足は大変なことで、願のかなった人はお礼に乳房の形を布で作り、この樹に下げるのが地域の習わしでした。
このイチョウの周囲は地元の老人クラブの皆さんが清掃しています。また、16年前から10月末の日曜日に、この樹の周りで「ちちこぶ祭」が行われます。そこでは地元の特産品などがふるまわれ、記念写真を撮ったり、来年のイベントの案内状が届けられたりと、観光で訪れる人たちと地元の人たちとの交流の場になっています。また、イチョウが黄葉する時季には、この樹の下で訪れる見物客を温かく歓迎する場がもうけられます。それを「心の駅」と地元の人たちは呼んでいます。そして、このイチョウは雌株ですからたくさんの実がなり、それを洗ってきれいに仕上げたぎんなんもこの場で食されます。
「鏡ケ池」の悲恋伝説とイチョウ
この樹には「鏡ケ池」についての伝説があります。昔々、都から九州は豊後の国(大分県)に流された清原正高(きよはらのまさたか)を慕って、醍醐天皇の孫姫である小松女院(こまつにょいん)が九州に下って来ました。しかし、正高の居所がわからず、あちこちをさまよい歩いて疲れ果てました。ふと見ると古い祠(ほこら)があり、きれいな水が湧いていて池になっていました。姫は、女性の宝である鏡を池に投じて正高との再会を祈りました。そのためこの池が鏡ケ池と呼ばれるようになったといわれています。鏡ケ池は小国町の中心、宮原にある両神社(りょうじんじゃ)の近くにあり、いまも清冽な水を湛えています。宮原を後にした小松女院の一行がたどり着いたのが、ここ下城(しもじょう)です。そこで、女院の乳母が亡くなり、そのとき女院によって植えられた記念樹がこのイチョウであると伝えられています。女院はそれから杖立(つえたて)を通り大分に出ますが、三日月滝のところですでに正高に奥方と子がいることを聞き、絶望のあまり滝に身を投げました。正高は後にこれを聞いて大変驚き、女院や侍女のなきがらを引きあげ葬ったということです。
なお、清原正高は、肥後の守として熊本に赴任してきた清原元輔の子で、「枕草子」の清少納言の兄にあたります。     
イチョウから車で5分の杖立(つえたて)温泉
「下の城の銀杏」から道路を挟んだ向こうの谷間、駐車場などから見下ろせるところに大きく落下する「下城滝」(しもじょうだき)があります。夏は涼しく、秋には周辺の雑木の紅葉に映え、また黄葉したイチョウの巨樹との対比が見事です。また、滝から約5キロメートル下ったところに、古くから知られた杖立温泉があります。この温泉は、平安時代の初期に弘法大師が訪れて、効験著しいのに感じて、持っていた竹の杖を地面に立ててみたところ節々から枝や葉が生えてきたといわれ、これが杖立という地名の由来だと伝えられています。また、杖をついて湯治に来た病人や老人が湯浴みをすれば、杖を立てたまま忘れて帰るくらい効能があるので、杖立と名づけられたともいいます。いずれにせよ、1700年もの歴史があるという杖立温泉がごく古い時代から交通の不便さを乗り越えて多くの人々に愛され続けてきた温泉であることがわかります。
また、今年11月4日に「阿蘇みんなの森」で行われた全国育樹祭では、このイチョウの種子から子どもたちが育てた苗木が、県内の緑の少年団の手で千葉県の少年団に贈呈されました。
近くには、国指定の天然記念物の「樹齢1300年の阿弥陀杉」、「樹齢1000年の竹の熊の大欅」、小国町指定の天然記念物の「樹齢1000年の鉾納宮(ほこのみや)の欅」、「樹齢1000年の北里大社の欅」、「樹齢1000年のけやき水源の欅」、また「樹齢700年以上の上田原の金木犀」があります。
■上沢寺のさかさ銀杏
今から約七百年前の鎌倉(かまくら)時代、河内(かわうち)南部の地頭(じとう)だった南部実長(なんぶ・さねなが)に招(まね)かれた日蓮(にちれん)上人(しょうにん)が、鎌倉から駿河(するが)を経(へ)て富士川沿(ぞ)いに身延に入ったが、西谷(にしだに)の御草庵(ごそうあん)が仕上がるまでの間、甲州(こうしゅう)各地を巡(めぐ)って布教(ふきょう)した。
今の増穂(ますほ)町(現富士川町)の小室山(こむろさん)は、当時真言宗(しんごんしゅう)の有名な道場であった。ここへ日蓮上人は布教に登り、道場の最高の地位にあった善智(ぜんち)法師(ほうし)と法論をたたかわした。
法論に敗れた法師は、表面は上人に帰依(きえ)することを約束したが、内心、上人の毒殺を謀(はか)り、女に毒饅頭(まんじゅう)を持たせて、道場を下る上人のあとを追わせた。上人が下山上沢(かみざわ)にある小室山所属(しょぞく)の小庵(しょうあん)に立ち寄って、休憩(きゅうけい)しているところへ追いついた女は、持参した毒饅頭を上人にさしあげた。
上人がその一つを口にしようとした時、そこへ一匹の白い犬が飛び込んで来て、しきりにその饅頭をねだる様子を見せた。上人が手にした饅頭をその犬に与えると、犬はたちまちその場に倒れて死んだ。
上人はわが命を救ってくれた犬を哀(あわ)れみ、犬を葬(ほうむ)って、その塚(つか)の上に小室山からついてきた生木(なまき)の銀杏(いちょう)の杖(つえ)をさし立てた。この杖が根づいて成長し、大木(たいぼく)となった。
今この銀杏は、根囲(まわ)り約8メートル、樹高(じゅこう)約23メートルもあり、全国屈指(くっし)の銀杏の巨樹(きょじゅ)で、国の天然記念物となっている。杖が根づいた木なので「さかさ銀杏」と呼ばれている。また葉の上に結実(けつじつ)する実が多いので(葉上結実)、「お葉付き銀杏(おはつきいちょう)」とも呼ばれている。
下山の本国寺(ほんごくじ)の大銀杏も、日蓮上人のお手植えと伝えられており、これも国の天然記念物である。
下山には、この二樹と同樹齢(じゅれい)と見られている銀杏が、ほかに二本ある。四本とも雌木(めぎ)である。昔から下山では、この四本の銀杏が芽吹き出すのを見て、村人は苗代(なわしろ)作りに取りかかった。また、この四樹が紅葉を始めるのを見て、麦まきを始めたのである。
富士川谷物語・山梨日日新聞社
■乳母銀杏
樹齢300年余の大銀杏は横浜市指定名木で、天狗がいるといわれています。昭和30年頃まで高さ30m以上ありましたが、落雷により上部が燃えてしまいました。
伝説によると、久志本左京亮夫妻は一子常勝を得たが、妻の乳は一滴も出なかった。赤子は日に日にやせ細り、骨と皮ばかりになり、もはや泣き声を出す力すらない。
半狂乱になった両親は神仏に祈る以外にない、と夫婦揃ってこの寺に詣で、「どうか乳を授けてください。このままではこの子は死んでしまいます」と一心不乱に祈願した。
祈り疲れ果てた夫婦が帰りしなに銀杏の大木の下にたたずんでいると、ポターリ、ポターリ、何か落ちる音がして、赤子の泣き声がピタリとやみ、舌つづみを打つ音さえする。
びっくりした夫婦は、胸に抱いた赤子を見た。すると、不思議!赤子は銀杏の大木から乳房のようにたれさがった先端からしたたり落ちる真っ白な乳を飲んでいる。
夫婦は大喜び。
妻は毎日、赤子を抱いてこの木の下に通った。振り仰げばたちまち乳が流れ出て、常勝は健やかに成長し、たくましい武士になった。
その後、お乳の出ない母親たちが、この乳母銀杏に詣で、乳の出ることを祈願したという。
神奈川民話・曹洞宗照光山常倫寺
■杖立温泉
杖立温泉の歴史は1800年の昔にさかのぼるといわれ、今でも町のあちこちに温泉(約98度、弱食塩水、飲泉可能)が自噴している。地面を数メートル掘る だけで、良質な温泉がたっぷり沸いて出てくるという地の利もあり、ポンプを使う必要もなく、さらに温度が低いために湯を沸かしなおしたり、噴出量がすくな いために水をたしたりする必要がないから、上質で純粋な温泉が楽しめる貴重なスポットであるといえる。ちなみに『杖立』という地名は、平安時代の初めの頃 に、旅の途中で訪れた弘法大使空海が温泉の効能にいたく感銘しうたった短歌「湯に入りて 病なおれば すがりてし 杖立ておいて 帰る諸人」から名付けられたものとさせれている。杖をついてやってきた病人が、湯治後には杖をおいて帰れるようになる……それほど泉質がよいということ だ。もちろん町の中には湯治客のための長期滞在型旅館もある。
中でも高温の湯煙りを利用した「むし湯」は古くから愛され、杖立のほとんどの旅館 の中に設置されており、「風邪をひいたらまずむし湯」と言われるほど、生活の中にもとけ込んでいるそう。 またストレス解消はもちろんのこと、美肌効果、新陳代謝の改善、鼻づまりの解消、痩身など」様々な効能があるという。
■杖銀杏
日蓮上人が身延入山の頃、穂積村の善智法師が上人と法論をして負け、それを恨んで弟子に明治上人を上沢寺に招き毒の萩餅を出した。日蓮は庭にいた白犬にその餅をひとつ投げ与えたところ、犬は悶死した。両僧は隠しきれず非を悔い日蓮宗に帰依した。日蓮は身代わりとなった白犬を哀れみ寺の境内に葬ってその上に銀杏の杖を立てた。その杖に根が生え成長したのが上沢寺の逆さ銀杏で、この木に触れただけでも体の毒が消えると言われる。実は安産のお守りとなるという。
■薬師堂の逆杖の公孫樹(イチョウ)
愛媛県指定天然記念物。根周り12m、高さ30mに達するイチョウの巨樹。弘法大師がこの地を訪れた時に、持っていた杖を地面に立てたところ、それが芽吹いてこのような大樹になったとの伝説があります。
むかし、むかし、一人のお坊さん(弘法大師)が、奥内の遊鶴羽(ゆずりは)にきました。
当時の遊鶴羽は。険しい山の中の集落であり、大変不便なところでした。 お坊さんは、百姓家に一夜の宿をかり、翌朝立ちましたが、山道が大変険しいので、遊鶴羽にあった大公孫樹(イチョウ)の枝を折り、これを杖にして山を降りました。
お坊さんは、山を下ると、奥内の薬師堂に参り、お堂の庭の隅にその杖をさしこみ、「この杖は生きている。来年は芽が出て、だんだん大きくなるだろう」と、いって去っていきました。
これが、県の天然記念物に指定されている「逆杖の公孫樹」の由来といわれ、またその元木が、遊鶴羽にあるともいわれています。
■逆さ いちょう
麻布山善福寺にある推定樹齢770年、高さ35m、幹周り15mの大イチョウ。親鸞上人が立てた杖が、そのまま地に生えてやがて大木となり、その形から逆さ銀杏とも、その成り立ちから御杖銀杏とも呼ばれた。東京都の天然記念物に指定されている。昭和20年5月25日の空襲で本堂と共に罹災し、銀杏は完全な焼亡は免れたが現在もその焼け跡が残る。戦災の前は現在の3倍位あったそうだ。
「江戸砂子」には乳の出が悪い母親が、この銀杏の皮で治療すると乳の出が良くなると噂され皮を剥ぐ者が後をたたなかったので、周囲に垣根を作って禁止したとある。また、江戸名所図鑑には親鸞上人が寺を去る際に持っていた杖を地上に刺し、「念仏の求法、凡夫の往生もかくの如ききか」と言うと杖が根付いたと言う。名の由来は、乳根(気根)が下のほうにさかさに伸びているように見えることからきているともいわれる。
「 イチョウ(銀杏・公孫樹)は、イチョウ科の落葉高木で、中国原産といわれている。雌雄異株で、神社や寺院の境内樹、公園樹、庭園樹、街路樹として広く植栽されている。4月に開花し、10月には種子(イチョウノ実)は成熟して独特の臭気を放ち、黄葉する。 この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは10.4mあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹齢は750年以上と推定される。 善福寺は、昭和20年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。 根がせり上がって、枝先が下に伸びているところから「逆さイチョウ」ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した杖から成長したとの伝説から「杖イチョウ」の別名もある。(東京都教育委員) 」
とある。また麻布山善福寺中興の祖といわれる了海上人誕生の地大井山 光福寺(品川区大井6-9-19)には了海上人手植えの逆さ銀杏の兄弟樹があり、昔から猟師の目印として活用されていた。幹周6.4m、樹高30m、樹齢は推定800年。この樹も品川区の天然記念物に指定されており樹種別幹周:都内9番目といわれる。
杖銀杏−続江戸砂子
麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。杖銀杏本堂の左の方にあり。親鸞上人の杖也。祖師当所に来り給ふ時、此法さかんになるへくは此杖に枝葉をむすふへしと、庭上さしおかれし所の木なり。今大木となりて、枝葉しけりたり。乳なき婦人、此木以治療すれば奇端ありとて、樹を裂事おひたゝしくして、枝葉いたむにより、垣をしてその事をいましむ。今は祖師の御供をいたゝくに、乳なきもの、そのしるしありとそ。右の方、開山堂の前にあり。親鸞上人杖を逆にさし置かれし所の木也。よって逆銀杏ともいふ。
杖いてう−江戸鹿子
あさぶに有。親鸞上人関東下向の時、誓ていわく、もし我宗旨広らば此杖枝葉あれと言て、杖をたてゝ皈りたまふ。其杖枝葉しけりて今に此地に有。婦人の乳の出ざる者、此木にて療すれは奇端ありと云。
■根岸の大銀杏 
青森県の東部、おいらせ町にある樹齢1100年以上の大いちょうです。このいちょうの木は青森県指定天然記念物になっています。平成元年の日本巨樹巨木調査(環境庁)で木の周囲1位になりましたが、平成7年に深浦町の「北金ケ沢のイチョウ」に1位の座を明け渡しました。現在、「根岸の大いちょう」は長寿1位だそうです。
画像左下にあるように、下に向かっている気根が垂れ下がっているのを乳房がたれていることに喩えて、「垂乳根」と呼ばれています。母乳がよく出て子どもがすくすく育つように、と伝えられるいちょうの木が国内にたくさんあります。このいちょうの近くでは、十和田市の法量のいちょうがあります。敷地内には、数本のいちょうの木がありますが、すべてこの木からのものではないでしょうか、と伺いました。この垂乳根が伸びていき、根をはって、新しい木となるそうです。
根岸の大いちょう伝説
その昔、慈覚大師というお坊さんが人々に仏の道を教えながら諸国を行脚して、下北半島の恐山へ向かうためこの地を通りかかりました。旅の疲れに、いつのまにか手にした、いちょうの杖によりかかったまま眠り込んでしまったところ、不思議な夢をみました。眼を覚ますと、いちょうの杖に根が生えて動かず、大師はそのいわれを書いた紙片と不動尊像を杖の根本に残して立ち去りました。
それから数百年の年月が流れ、若い母親が生まれたばかりの赤ん坊を背負ってこのいちょう木の下を通りかかりました。長引く飢饉のため、食べるものもなくお乳が出ません。泣く赤ん坊のために水を飲ませようと井戸を覗くと、いちょうの枝がお乳のような形で映っています。母親はいちょうの木に「私のお乳の代わりにこの子のお腹を満たしてください」と祈ると、いちょうの葉がばらばら落ち、赤ん坊は母親のお乳を美味しそうに吸っていたのです。
こうして、この大いちょうは、母乳不足の母親が乳がでるように祈れば、その願いが叶う霊樹として永く伝えられ、安産の守り神として大切にされてきました。 
■菩提寺のイチョウ
岡山県勝田郡奈義町高円の高貴山菩提寺に「菩提寺のイチョウ」がある。実をつけない雄株である。イチョウとして全国屈指の巨樹のようだ。気根も迫力がある。
菩提寺は法然上人ゆかりの寺院である。上人は長承二年(1133)に美作国久米南条郡稲岡庄(今の久米南町・誕生寺)に生まれた。永治元年(1141)に父の死をきっかけに仏道に志し、菩提寺へ入って上人の母の弟にあたる観覚(かんがく)上人のもとで修業した。久安三年(1147)までのことである。
法然上人とイチョウとのつながりについて、奈義町教育委員会設置の説明板に次のように記されている。
「 浄土宗の開祖、法然上人が学問成就を祈願してさした杖が芽吹いたといわれる。この天を覆う銀杏の巨樹は、国定公園那岐山の古刹、菩提寺の境内で歴史の重みをかさねながら静かに息をひそめつつ立っている。目通り周囲約12メートル、高さ約45メートル、樹齢推定900年といわれ県下一の巨木である。昭和3年、国の天然記念物に指定され、また全国名木百選にも選ばれている。 」
巨樹には杖や箸から芽吹いて生長したという伝説が多い。菩提寺のイチョウも上人の手にしていた杖から育ったとされている。その杖はどこのイチョウだったのか、出所が分かるというから面白い。
同じく奈義町小坂の「阿弥陀堂のイチョウ」の枝を杖にしたというのだ。こちらも実をつけないので雄株のようだ。
この伝説はさらに続く。上人は菩提寺での修行を終え比叡山に登る前に里帰りをした。その時、杖にしたのが菩提寺のイチョウの枝で、その杖から芽吹いたのが「誕生寺のイチョウ」だというわけだ。ただし、こちらはぎんなんの生る雌株である。
雄株だの雌株だというと白黒はっきりさせるようで面白くない。樹齢800年を超える3本のイチョウと法然上人が結びついていることが興味深い。平成23年(2011)に800年大遠忌を迎えた上人にふさわしい。さらに調べると、もう一つ見つかった。
上人は誕生寺から菩提寺に向かう途中で、出雲井の香炉寺(今の勝央町)に参詣して昼食をとった。その時使った箸を地面に立てたのが芽吹いて、「出雲井のイチョウ」となったという。このイチョウは樹齢が500年で、上人とは時代が合わないことには触れないでおこう。
■空海伝説
空海の歩いた足跡に伝説が付き纏う、此れほどまでに伝説・伝承の多い人物は稀である。全国津々浦々に空海伝説があり、その数約300編を越えるといわれている。伝説は真実ばかりでは無く、実際に起きた出来事のように脚色されたものもある。
塩の井・長野県
下伊那で貧しい村の民を哀れみ銀杏の杖で岩の根元を突き塩水を湧き出させた。
杖銀杏・岩手県
空海の刺した杖が大銀杏に成長。祈ると乳の出が良くなるという。
■お乳の出る大銀杏
菟足神社のお旅所の若宮社を、小坂井の人たちは「お輿」と呼んでいます。 ここに、樹齢約6、700年の大銀杏があり、秋になるとたくさんの実をつけます。 この銀杏の木には枝の下あたりに、人間の乳房のようなこぶがたくさんできています。
このためこの銀杏の木は、お乳(母乳)の授かる木として、このあたりの若い母親の信仰の対象でした。 赤ちゃんを生んでもお乳の出ない人は、布で乳房の形を作り、この銀杏の枝につり下げて、「どうかお乳を授けてください。」とおまいりをしました。 何度もおまいりをしてお乳が出るようになったら、さらにもう一つつるし、「神様のおかげでお乳が出るようになりました。 どうもありがとうございました。」 と言ってお礼まいりをしました。
小坂井のむかし話・小坂井町教育委員会
■乳房の銀杏
地蔵堂参道の右側の銀杏の大木が、乳房の銀杏と呼ばれている。乳の不足する母親が、この木の枝で作った箸を食事に用いると、乳の出がよくなると伝えられている。
赤城の伝説・珊瑚寺七不思議伝説
■権現の大イチョウ
秋田県山本郡藤里町藤琴田中にある銀杏の木。「田中の大イチョウ」とも。樹高25m、周囲8.5mに及ぶ大木で、この木を御神木とする田中神社も隣接している。弘法大師が同地を訪れた際、昼食に使った箸を地面に突き立てて去り、この箸が成長して銀杏になったという伝説が残る。県の天然記念物指定。
■弘法大師伝説
岩手県 「杖銀杏」
秋田県 「中俣堀切の銀杏」「お手植銀杏」「大師逆杖の銀杏」
埼玉県 「杖銀杏」
千葉県 「逆銀杏」
長野県 「逆さ銀杏」「乳銀杏」
愛知県 「杖銀杏」
■足代八幡の夫婦木
足代八幡の境内は、県下では珍しい梛(竹柏)の林になっている。樹の下に大国さんの石像がおかれている大きい空洞のある大木をはじめ、大小40本余りの梛の木が銀杏や楠の木と共にはえている。
「宮代に庵と風情の夫婦なぎ、一つに花咲き一つに実がなる」という岡本呑洋の梛の木をうたった歌を書いた板があったが今はない。梛の木にも雄雌があって花が咲いても実がなるのとならないのがある、お薬師さんの梛に花が咲き八幡さんの梛に実がなるということを歌っている。境内にはこの梛の夫婦木と、銀杏の夫婦木、松の夫婦木があった。松の夫婦木は片方が黒松で片方が赤松という珍しい木が、部落の上の高場の大西家の山にあったのを、60年位前に境内に移し植えられ一かかえ位になっていたが、松食い虫にやられ枯れてしまった。(吉田 明さん談)
三好町は東は三野町、西は池田町に接し、北は県境で香川県仲南町に接し、南は吉野川が流れ井川町に相対していて、四国のほぼ中央に位置する。
■大浪池に伝わる『お浪』の伝説
鹿児島県の霧島山にある大浪池には、白蛇の化身であった“お浪”の伝説が残されています。
『お浪とは子宝に恵まれない夫婦が水神に祈願して授かった娘でした。 年を経てお浪が年頃になると、両親が知らぬ間に家を抜け出してどこかへ出掛けるようになり、不審に思った父親が夜中に見張っていると、お浪がふらりと外へ出て白馬にまたがって消え去ってしまいました。 結局、事の真相を知られてしまったお浪は、自分の正体が大浪池の白蛇であることを告げて池の中に消えてしまいます。』 
この伝説は近隣各地に残されていますが、麟祥院もその中の一つです。 大浪池に消えてしまった娘のことが忘れきれない両親は二人して池にまでやって来て、大声で娘の名を呼びました。 すると池の中からお浪が姿を見せ、これが最後の別れですと告げました。 しかし両親がさらに名前を呼び続けたところ、再びお浪は姿を見せますが、目の前で大きな白蛇に姿を変えてしまいました。 その姿を見て、さすがの両親も泣く泣く池を離れていきました。
故郷に戻った両親は、池へ行くために杖代わりに使った銀杏の枝を寺に植えました。 すると、その枝はみるみる大きくなり、立派な銀杏の大木になったそうです。
この銀杏の木が、麟祥院の境内にある銀杏であると伝わっています。 現在、銀杏の木は幹周り約9m、高さ17mあまりの巨木となっており、麟祥院の別名である「銀杏の木寺」の由来ともなっています。 
銀杏の木の空洞に祀られた観音菩薩
さらにこの銀杏の木の根元あたりは大きな空洞となっており、観音菩薩(注)が祀られています。 その菩薩像をよく見ると、足元から腰にかけて一匹の蛇が絡みついているのがわかります。 かつてお浪の両親は銀杏の木の根元に娘の墓をこしらえたと伝わっており、この観音像もお浪のために祀られているようです。
(注)現在の観音菩薩は、ここの大銀杏の木から切り取られた銀杏の木を彫って造られています。 
 
片目

 

■片目の鯉 
これは現在の茨城県筑波市にあるお話しです。市役所の近く、台町小渡山に、照明院(しょうみょういん)というお寺があります。
そこの薬師堂は、今から千百九十年前頃になる大同年間に、正明院として、弘法大師作の薬師如来を安置して開かれたと言われています。時代が過ぎて、四百余年前の戦国時代の天正年間、由良信濃守(ゆらのしなののかみ)というお殿様が、牛久に住むようになりました。
その母の妙見尼(みょうけんに)という人が、天正の戦乱で死んだ兵士たちをとむらうために、領内に、七つの観音と八つの薬師堂を建てました。正明院もその一つと言われています。

むかし、正明院は、瑠璃のように美しい建物で、今でも、瑠璃光殿という名が残っています。境内は、四季の眺めがすばらしく、中庭の池には鯉がはねるように泳ぎ回っていました。だが、どういうわけか池の鯉はみな片目でした。
ここの薬師様は、目の病気に効き目があるので知られていました。目を治してくださいとお願いする者は、小さな魚を薬師様の池に放しました。すると、目はたちまち治ったそうです。しかし、祈願者に放たれた魚はその人に代わって失明したと言い伝えられています。いま、その池には、金魚や亀が元気に泳ぎ回っています。  
■片目のだるま 
毎年一月十日のだるま市で賑わいをみせる福来寺は、地元笠井町の発展の礎を築いた寺である。五穀豊穣、家内安全、商売繁盛がご利益で、お守りはだるま。だるまには目がなく、片方だけに目を入れ、ご利益を願う。理由は単純。片目のままだといつまでも不自由でしょ?お願いをかなえてくれたらもう片方の目もいれてあげるから、早く願いを聞いてちょうだいよ!というものだそうだ。庶民の祈りを身体を張って受け止める、ありがたいお守りである。福来寺のご本尊、聖観世音菩薩は別名笠かぶり観音と呼ばれる。大同元年(806年)、天竜川の川底で夜ごと光る物があり、村人が引き揚げるとそれは三尺くらいの木の仏像であった。村人は仏像を水で清め、切り株の上に安置し敬っていたところ近郷で有名になり、雨の日には誰かが笠をかぶせるようになった。この笠かぶり観音がのちに笠井観音となり、観音堂を中心に市が立つようになった。笠井の町の始まりといわれる伝説である。時代の流れとともにこの市も衰退し、現在ではだるま市と笠井海道の軒の低い格子のはまった古い家並みに当時の隆盛を慮ることができる。
観光山福來寺 静岡県浜松市東区笠井町 
■胡麻を作らない 
長野県内に伝承される「胡麻を作らない話」を拾ってびっくりした。その数のおびただしさにである。
お話のほとんどは、神さまが転んだ拍子に胡麻のさやで目を突き、片目になった。その神さまを思いやって、民衆が進んで胡麻を作らないというのである。
さて、胡麻とはなにを表しているのだろうか。韓国の中世語の「小さいもの」の意の「ゴマ」と胡麻は同源ではなかろうか、胡麻の実の実態は正に「小さいもの」そのものである。そして直感的に胡麻の実=砂鉄であろうと考える。また、なぜ神さまが片目になるのだろう。隻眼の神さま方は製鉄に関わりがあったのではないだろうか、「一つ目小僧」で知られる天目一箇神(あまのまひとつのかみ)は天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時、刀や斧作りで活躍された神さまで、日本金属工業の守護神にもなっている。この神さま、製鉄のたたら炉のホト穴から熔鉄の状態を見つめ、片目を失った鍛冶職を神格化した名であるそうな。実際のたたら場で10人のうち7〜8人は片目を失うということである。
天目一箇神を祭るのは、三重県桑名郡多度町の多度大社の一目連神社である。参道は長いがルート258から大っきな鳥居が目を引く、11月にはふいご祭りもある。
遠山郷の祭伝承館「天伯」に展示された神太夫のお面は隻眼であった。実にリアルに造られていて驚いた。里神楽のひょっとこと同じである。ひょっとこの片眼を小さく表現しているのは、前出の職業病ゆえのことであり、口をすぼめ突き出す表情はたたら作業に用いる羽口(土管状の筒)になぞらえたものである。ひょっとこは決して醜男でも賤視(せんし)されるものでもない。
各地に伝承される片目の神さまや片目のイモリ、片目の魚話は製鉄に関わりがあるとみている。
昔、飯山市大川の神さまが胡麻の穂で目を突きなさって片目を失ってしまわれたんですと。なんとまぁ、神さまの他に観音さままでもが胡麻の切り株で目を突かれやはり片目を無くされたんで、それ以来大川では胡麻を作らないんだそうだ。不思議なことに大川神社や観音堂の近くに住む蛇や蛙は片目だそうな。(北信濃)
高山村の牧の子安神社の神さまは木花開耶姫(このはなさくやひめ)というお名でな、なんでも夕焼けを見とれて歩きなさった時、十六(とおろく)ささぎのつるに足をとられて転んでしまわれたんですと。その上、運の悪りいことに胡麻の切り株で目を突き片目を潰されてしもうたんですと。神さまの大事な目を潰した胡麻は作らないことにしたんだそうだ。(北信濃)
青木村馬場(ばっぱ)に伝承されているお話。大昔、子檀嶺神社の山城の主、冠者智武命が、あし毛の馬に乗って領内を見回っていた時、馬が何かに驚いたんだろうかね。乗っていた冠者さまを振り落としたんだと。落ちた所が胡麻畑で、胡麻のさやで片目を突き、とうとう潰れてしまった。冠者さまがお布令を出したのかわからないけれど、子檀嶺岳の山頂が見える所じゃ、あし毛の馬は飼わない。胡麻も作らなかったそうな。(東信)
神代の昔、天照大神が隠れた天の岩戸をこじ開け、岩戸を持って逃げた手力男命(たぢからおのみこと)を天照大神は7人の神と8人の従者に追跡をお命じになったそうな。その内の1人の豊受大神は麻績まで手力男命を追って来たが見失ってしまった。大きな岩に腰を掛け思いあぐねていたところ、真向いに立派な森が見えた。「住みやすそうないい森だ。そうだ、手力男を追うのはやめてここで暮そう」そう決心なすったそうだ。これが宮本神明宮の起こりなのだが、この神さま犬に追われ、またぁ、運の悪りぃことに牛の糞で足を滑らし転びなさり、そばの胡麻の茎で目を突き、片目がつぶれてしまったそうな。で、宮本の集落では犬や牛を飼わず、胡麻も作らなかった時期があったそうな。(中信と南信)  
■陶ヶ岳の観音様 
山口市南部の陶、鋳銭司、名田島のさかいに、陶ヶ岳という山がある。この山には、切り立った岩場があって、今では山口県山岳会の岩登りの練習地として有名である。その大岩の東北の「がわに大きなほらあながあって、そこの観音様のお堂がある。
むかしむかし、ある村人が、この山からふしぎな光が出ているのを見つけ、村中が大さわぎになった。そこで、こわいもの知らずの若者がその光の出場所をさがしに山に登った。あるほらあなに入ってみると、そこに一体の観音様があり、その両眼が金でできていて、それから光が出ていた。村人たちは、そこのお堂を建て、観音様をだいじにおまつりした。
ある晩、ぬす人がほらあなに入り、観音様の片ほうの目をえぐり取ってにげようとした。すると、観音様が残った片目をしずかにあけて、 「そんなに貧乏してこまっているのなら、両眼をやるから取っていけ。」と言われた。さすがのぬす人も、おどろきあわてて、にげてしまったということである。
このなさけ深い観音様の話がつたわると、「陶ヶ岳の観音様」といって、村人たちはいっそうだいじにしたという。 
■片目の魚 
ついこの間まで、といっても四、五十年前、木戸の吉野神社の裏に、小さな池がありました。小さくなる前は、大きな池だったそうです。村人は、その池をたいしょう池とよんでいました。ところで、このたいしょう池でとれる魚は、不思議なことに、どれもこれも片目の魚ばっかりだったそうです。それには、こんな話が伝わっています。この大池ができる前、中村川の堤ぎわに、たいしょう寺というお寺がありました。そこの和尚(おしょう)さんときたらとても碁(ご)が好きで、ひまさえあれば、朝といわず昼といわず、愛用の碁盤(ごばん)と碁石を持ち出してきて、お手本をながめては、パチッ、パチッ、とひとり碁を打つほどでした。ある年のことでした。その夏は例年になく雨が長く降り続いていました。そのため、中村川の水かさも、ぐんぶん増してきました。長雨が続くとすぐ頭に浮かぶしんぱいは、堤が切れはせぬか、ということです。
村びとは、雨にぬれるのもいとわず、堤がしんぱいで水がもれてこないかと堤の見張りをしていました。ところが、そんな村びとのしんぱいをよそに、真黒に垂れ下がった雨雲からは、バケツの水をぶちまけたかのような雨が降り続いていました。また、堤はというと、まるでスポンジが水をふくんだようなありさまで、今にもくずれるばかりにうんでいました。
村びとが必死に堤防を守っているとき、和尚さんはやっぱり碁の好きな相手と、パチッ、パチッ、と碁を打っていたのでした。
堤の方が気がかりで仕方のないおくりさんは、おろおろしながらも、客を何とかもてなさなくてはと、うどんを打ちはじめました。とそのとき、裏の方から聞こえてくるざわめきを耳にしたのでした。それは、村びとがいちばんおそれていた堤が切れそうだという話声だったのです。
びっくりしたおくりさんは、「切れそうです。切れそうです。」と和尚さんに知らせました。ところが和尚さんときらた、何を勘違いしたのか、「切れそうでもかまわん。食べれば切れてしまうわ。さ、はよう持ってこい。」と、一向(いっこう)にとりあいません。そうして、あいかわらず碁を打っているのでした。
しばらくしたら、おそれていたことが起きてしまいました。ほんとうに堤が切れてしまったのです。あわてたおくりさんは、大声をはりあげて和尚さんに、「切れてしまいました。切れてしまいました。」とさけびながら、寺から飛び出したそうです。だが和尚さんときたら、うどんのことしか頭にないので、「切れたのでよい。はよ持ってこい。」といい返して、なおも碁を打っていたのです。
さあたいへん、堤を押し破った濁流は、波を起こして、田や畑はおろか、この寺やふたりまでものみ込んでしまいました。そして、その後に大きな池を残したのでした。
たいしょう池はこうしてできたのですが、それからあと、ここに住む魚はみな片目だったのです。
村びとは、これはきっと和尚さんが池に入って池のぬしになったからだとうわさをしました。
というのも、たいしょう寺の和尚さんは片目だったからです。そして、堤の切れたことをうどんが切れたものと見分けがつかぬほど、碁にむちゅうになっていた自分を、情けなく思って死んだにちがいありません。こうして、和尚さんの魂が魚にのり移って、片目の魚がすむようになったと考えるようになったのでしょう。それからは、村びとはきみわるがって、たいしょう池の魚を捕えなくなりました。
しかし、今では、その池も見られません。ただ、切れ所から土を運んで一段と高くなったさんまいの前の畑だけが、当時をしのばせるにすぎません。
輪之内町本戸  
■片目蛙 
「その昔、木之本のお地蔵さんの前で、一人の旅人が目を痛めてうずくまってしまった。 これを見たお地蔵さんは旅人をかわいそうに思い、何とか治してあげたいと思案したが自分では動く事が出来ない。そこでお地蔵さんは足下にいた蛙に「おまえの目を…」 木之本地蔵の片目蛙の言い伝えです。 
■片目の観音様 
観音様は、神社の1つとして残っているそうです。おばあちゃんの話で、ずっと前に観音様は、片目ぬすまれたそうです。だから今は、片目しかないそうです。観音様は、このお堂にはいっているそうです。
土佐谷地には、6人もの神様がいます。氏神様には、くらお様と天満宮があります。 
■平景清息女の墓 
源平の戦いで敗北した平景清を追って、切畑村を訪れた娘は、畑から飛び出した黒猫に驚き、ゴマ稈(ワラ)で片目を傷めてしまう。休養のために泊まった村人の宿で父景清の死を知った娘は父の渡した平家の旗を形見の短刀でちりぢりに引き裂き、自害した。村人はその娘を不憫に思い塚を作って手厚く葬り、それ以来この村では黒猫は一切飼わず、ゴマ稈も決して持ち込まないしきたりになったと伝えられています。
球磨郡あさぎり町岡原北 
■片目のドジョウ  
上三川城落城に伴い片目を失った姫君の悲話。
黒磯市上三川町の民話伝説  
■吉田が池と片目のコイ  
南河内町龍興寺の北東に残る小さな2つの池には龍神のお使いのコイ、池の雨乞いの池として伝説がある。
黒磯市南河内町の民話伝説  
■片目鮒 
片目鮒
伊予節に唄われる「…紫井戸や片目鮒」は、松山市山越在の者が鮒を焼いていたところ、弘法大師がごらんになり、不愍に思われて片側焼きかけの鮒を井戸に放させになる。すでに死んでいたはずの焼かれかけの鮒が元気に泳ぎだした…と伝えるし、丹原町久妙寺観音様近傍の池の鮒は左甚五郎が彫ったという本堂の龍神が抜け出して眼を抜いたといい、中山町出淵小池の片目鮒は村人数と常に同数で村人の生死と同数が生死するといい、大洲市田口底無池の魚も片目、三間町成家金山城跡古井戸の鯉も片目である。松山市高井の里の八ッ目鰻(砂やつめ)は、目無しであったのを弘法大師が八眼にしたといわれ所有権は長善寺にあって治病に妙効ありと伝える。津島町岩松の大鰻の伝承については「大鰻の小太郎」(川口一夫)がある。小田町のおこんという女、男に捨てられ水中に投じ、怨霊化して口髯八本、長さ二寸ばかり、赤褐色の小魚となる。触れると刺し毒す、オコンジョという。吉海町津倉の城主田房隼人正、秀吉軍の侵攻により落城討死、妻は幼子を背負い海中に没す、化して子背負いのアカエイとなると伝える。「西条誌」に…磯野祠の旧跡の辺より北は北御門、南は筧辺迄のうなぎ一眼のもの多し。其外の魚鱗にもたまたま然るものあり。今、磯野の神の使しめ也と言伝ふ。其然らん。豈其然らんや。是はもしくは此あたりの地気水性に偏にかたよりたる所ありて、其の間に生ずるもの其気に感じ、其性に染てかく異様に産れ出るものか。博物誌・述異記等に見へざる怪しき事に比ぶれば些細の奇事也。童子輩眼の魚をば捕得てもつかはしめ也と言ふに怯へて放ち棄つ。忌物を不ㇾ食はよろし…と、片目鰻が伊曽乃の神使たる伝承を記している。今治市波止浜竜神社の神使は鱶で、一・一五日には鱶が参拝するので建干網は不漁、水泳も禁止たることを伝える。
鯨塚
宮窪町の人たちは、鯛崎鼻の石地蔵の前を体半分ほどを水面に出して泳いでいく鯨たちを見かけると鯨のお礼詣りだとして地蔵さんに合掌する。次のような話しが伝わる。…桜が咲いているうららかなある日のこと、たくさんの子鯨を連れた親鯨が大きな岩の上で昼寝を始めた。子鯨たちが安心して遊びまわっている間に、汐が引いて親鯨は岩の上に取り残されてしまった。身をもがいてはみるもののどうにもならない。そこにおいでになったお地蔵さんがこれを見て可愛そうに思われて、衣をからげて磯に歩み寄り沖に向って印を結び、大きな息を吹き出された。すると蛸・鯛・鱸などが寄り集ってお地蔵さんのヨイショヨイショの掛け声に合わせて親鯨を海へ引き降してやった。お地蔵さんの前を何回も往ったり来たりしてお礼を述べた鯨の親子は、毎年桜の花どきになるとお礼にやってくるようになった…。鯨は、ことに南予の宇和海ではおやじ≠ニ呼ばれて親しみ尊ばれた。鰯の大群を追って潮を吹き上げながら岸に近く寄る鯨は、鰯大網大漁の吉兆であった。その死は丁重に葬られた。明浜町高山の鯨塚には院殿号を持つ戒名が刻まれ、寺の過去帳にも記載され、位牌もある。他に瀬戸町九町・宇和島市遊子・西海町内泊なども鯨塚がある。
ドンコが池
砥部町田ノ浦に底なし沼ドンコが池がある。ある日、岸に近く大きなドンコが背中を出して休んでいたのを男が捕え背負って峠の道を急いでいると人声がする。人のいる気配はない。にもかかわらず人声がして「ドンコさん、ドンコさん、どこい行くんぞな」と問う。「余戸割木(小麦藁)で背焙りに行くのよ」と背のドンコが答える。男は驚いてドンコを放りあげて逃げ帰った…という。小田町上田渡 堂の浦池の成のドンコは「わしは臼杵の畝々に背焙りに行くぞえ」といい、肱川町嘉城の魔の淵のドンコは「おらあ、中居谷へ背を焙ってもらいに行くぞ」と答える。問いかけ声がし、ドンコが答える場所は峠か橋である。村境いで問答が行われるが、不思議は人語を解し物言うドンコにある。捕え運ぶ男は仰天してドンコを放り投げて逃げ去る。のち、ドンコがどうなるかは語られていない。とにかくドンコが人間のことばを語ることが焦点となっている。
北が森のドンコ
むかし、北が森の山のふもとから百メートルくらいおりたところに、岩の中にくりこんだおそろしいような水たまりがあってな。雨ごいのさいに、その水たまりの水を。バケツに一ぱいでもくみだしたら、用がふるんじゃけどなあ。でもそれをくみたしからどれだけ雨がふるやらわからんので、おそろしゅうて、そこの水をくみに行く者もおらなんだそうな。
そこに三尺の赤ドンコと黒ドンコが二ひき住んでおった。
それをあるとき、三津が浜のエンコというものが、北が森のドンコをつかまえて、やいて食べてやろうと思うて、北が森の水たまりにやってきた。そして二ひきのドンコをつかまえ、それをおいこでかるうて三津が浜に帰りよった。
そして、砥部の通し谷の池の土手をとおりよったら、通し谷の大じゃが、頭をあげて、「ようい、北が森のドンコ、どこへいきゃ。」というたら、「おらのう、たいくつなきん、三津が浜へ背中あぶりにいこうとおもて、ここにいきよらい。」と、かるわれとるドンコがいうた。
ほしたところが、背負とったエンコは、「こらいかん、おれは捕っていんで焼いてくおうとおもとったのに、背中あぶりにいきよるんじゃがとぬかしやがる。ドンコはおれの考えていることを知っていやかって、こわいやつじゃ。」
エンコは、こおなって、またもとの北が森ヘドンコをもどしたそうな。
愛媛の伝説 
■男が女神の姿を見たために斜視になる 
男が夜の巻機山で迷い、一軒家に宿を請う。その家にいた山姫が、「私も里へ下りたいから」と言って道案内し、男は山姫を背負って山を下りる。山姫は「背負っている間は、私を見るな」と禁ずる。麓の村の灯りが見えた所で、男は横目でちらっと山姫を見てしまう。山姫は消え、男の片目は横にらみのまま、もとにもどらなくなる。以来、男の家には代々1人は斜視の子供が生まれるようになった。
巻機山の伝説 新潟県南魚沼郡塩沢町 
■片目地蔵 
金山出石寺の御本尊「千手観世音菩薩」をお大師さまが石で囲って秘仏にしたのちは50年に一度の御開帳時にしか拝観できないことになり、御開帳時以外に御本尊の御姿を見ると、そのあまりのありがたさに見た目が見えなくなってしまうという言い伝えがありました。
江戸時代の住職だった秀厳は、50年に一度では一生会えないと思い、御開帳ではないときに密かに御本尊を見ようと、ただし遠慮して片目で見たところ、御本尊を見た片目が見えなくなってしまったとのこと。
秀厳が亡くなったあと、供養のためにお地蔵さまがまつられ、「一眼地蔵」とよばれていましたが、のちの人々の間では、御本尊のおかげをいただいた目でひとつだけ願いをかなえてくれる「一願地蔵」と読みかえられ、願かけする人が絶えなくなり、「片目地蔵さん」「秀厳さん」と親しまれるようになったそうです。
愛媛県大洲市 
■片目地蔵 
利兵衛は庄屋の次男で、本家から分けてもらった田のへりに家を建て、そこに住み着いてからもう30年近くにもなっていた。
利兵衛の女房お幹は生来健康に恵まれず、それ故にか二人の間には子供もなかった。利兵衛の隣には締観(ていかん)という老僧が住んでいた。
二人は時折行き来しては、よもやま話をしたり、土産物も互いに分け合って食べたりして親しい間柄であった。 女房のお幹は体の調子か゛悪くなって 田畑で働くこともできなくなり、寝込んでしまってからは、利兵衛は手厚く看病しながら、家の内外のことから、田畑のことまで一人でしなければならなかった。それでも、やがてお幹が丈夫になってくれればと、その日を待つ心で日々懸命に働いてきた。しかし利兵衛の願いは叶わず、ついにお幹は帰らぬ人となった。
女房に先立たれた利兵衛は、あまりのことに意地も張りもなくなって、ただ人生の無常を嘆き悲しむばかりであった。お茶をわかす気力もなくなって、冷飯で済ますことも度々であった。そして仕事も手に着かず。締観に慰められて気を取り直すのであった。思いやりの言葉をかけてくれる締観に対し、利兵衛もできる限りの世話はしてやった。冬至を過ぎたある寒い日の夕方のこと、老僧は寒さに震えながらどこからか帰ってきた。杉苗を買ってきて、その日の内に、屋根周りの垣根になるようにといいながら、植え終わったときはもうすっかり日が暮れていた。汚れた手を洗って、庄屋の風呂をもらいにいった。締観はその晩寝たまま、翌日は風邪で起きあがれなかった。そのことを知った利兵衛は吹雪の中、老僧の家に布団を届けに行った。そして利兵衛は昼も夜も、老僧を介抱した。 利兵衛の用意した粥も老僧は喉も通さなかった。そして利兵衛の看病も空しく、老僧は息絶えてしまった。
老僧が何よりも大切にしていた地蔵尊は、そのかみ網屋某の寄進した物だとか、どっしりした厨子の内から慈愛の目を利兵衛の上から注いでくれているようであった。細やかに行き届いた介抱、物静かに消えていった老僧を、最後の瞬間まで見届けてくれた利兵衛をこの上なくいたわっておられるようであった。近所の人たちが集まってきて湯濯をし、棺に収められた老僧の躯は、寮の前の塔に並んで埋められた。利兵衛は朝に晩にお灯明をあげた、線香をたいて頭を低く垂らし、冥福を祈った。
老僧の植えた杉苗は年と共に大きく伸びていった。それと共に利兵衛も老い込んでいった。もはや野良仕事もできなくなったので、分けてもらっていた田圃も甥に返し、甥から年々わずかに米をもらって一人で粥をすする日々が続いていた。
・・・・そしてまた冬がやってきた。目を病み、老いていた利兵衛は、もう長くないと悟り逝くときがきたと自分に言い聞かせた。死を決意した利兵衛はある晩、帯でしっかり地蔵尊を背負い、そして近くの石橋から水面めがけて飛び込んだ。いったん彼は水の日子に沈んだか゛、川の流れに沿って陸に流され、近くを通りがかっていた漁師に急いで引き上げられた。利兵衛が目を開けたとき、それは一瞬幻にも見えたが、利兵衛の目には確かにお幹が見えた。そしてもう一度目を開けたとき、病んでいたはずの左目は見えるようになっていた。そして代わりに地蔵尊の左目は、ただれていたという。
山口県山口市 
■片目地蔵 
埼玉県の野島の浄山寺の片目地蔵などは、あまりよく出て行かれるので、住職が心配して、背中に釘を打って鎖でつないで置くと、たちまち罰が当って悪い病にかかって死んだといいます。  
■片目の蛙  
眼の仏さまとして知られる寺。境内に立つ6メートルの地蔵像は秘仏である本尊を模しており「木之本のお地蔵さん」が全国から訪れる参拝客を出迎えます。寺の歴史は古く、白鳳時代に遡ります。空海、木曽義仲、足利尊氏、足利義昭も参拝した記録があります。
庭園は書院の北側にあり、北方に芝生に覆われた築山を設け、右手に枯滝石組を、池中に亀島を作っています。正面にある出島は鶴島を意匠し、一種の蓬莱様式の庭となります。
木之本地蔵院は、眼の仏さまであり、片目をつむった身代わり蛙たちが住んでいます。お寺に住む蛙は、多くの人々が眼の病気で困っているのを見て、「すべての人々の大切な眼がお地蔵さまのご加護をいただけますように」と、自らが片方の目をつむることによって身代わりの願をかけたと言い伝えられています。
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「目の仏さま」として信仰を集めるお寺。白鳳3(675)年、祚蓮(それん)上人が大阪湾に流れついた仏像をこの地の柳の大木の根本にご本尊として祀ったのが始まりとされ、木之本の名前もこれに由来します。
境内にある約6mの巨大な地蔵は、本尊の秘仏・地蔵菩薩立像を模したもの。その昔、お地蔵さんが目を痛めた旅人にカエルの片目を与え、目を治してやった、という伝説から、目や無病息災の仏さまとして知られています。
今も地蔵院の庭には片目のカエルが住むといい伝えられており、地蔵の足元には、眼病の回復を願う人々による片目のカエルの置き物が奉納されていす。
木之本地蔵院 長浜市木之本町  
■片目地蔵 
曹洞宗 の寺院です。貞観2年(860)慈覚大師が創建、天正年間まで天台宗慈福寺でしたが、後に曹洞宗に改宗。鷹狩りに訪れたコ川家康が寺領300石の御朱印状を与えようとしましたが、住職が過分であると断ったので、鼻紙に「3石」と記した朱印状を与えられ、浄山寺に改称したといわれています。御本尊の地蔵菩薩像は「片目地蔵」と呼ばれています。
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浄山寺 禅宗曹洞派、足立郡里村法性寺末、野嶋山と號す、當寺は貞観二年慈覚大師の建立にて、本尊延命地蔵の立像四尺餘、則大師の作なりと傳へ云、天正年中迄天台宗にて慈福寺と號す、時の住僧を明山と云、此頃里村法性寺四世震龍當寺に勤学せしが、東照宮越ヶ谷邊御放鷹の時、本尊霊験を聞し召され、寺領三石の御朱印を賜はり、此地霊にして山鬱密として浄しと、上意ありて今の寺號を命ぜらるると云、又僧震龍御帰依あるをもて明日の後住となし、曹洞派に改め中興とす、今本尊を片目地蔵と唱ふ、信仰するもの多し。
といわれ、三石の朱印状は俗に鼻紙朱印状とよばれるもので、徳川家康の前で住職が「過分なり」として辞したので、家康は袖の中から鼻紙を出し献香料として三石を賜う由を書いて差し出した、と伝えられている。
本尊の地蔵菩薩は「片目地蔵」とも呼ばれ、伝説によるとこの地蔵は毎朝未明村内を鉄杖を持って起こして歩いたがある朝茶園で切り株につまづき片目を傷つけてしまった。戻って寺の門前の池で目を洗うと、池の魚はみな片目になってしまった。といわれ以後この村では茶の木は作らなくなったといわれている。古くから信仰のあつかった本尊地蔵菩薩は現在秘仏とされているため調査の際写真撮影や法量測定を中止し、燈明及び小さな懐中電灯で特に拝見させていただいた。
像は木造で像高1m程の一木造とも見えるがっしりとした体躯の像である。彩色は極めてよく残っているのは秘仏のためであろうか。時代は室町期を遡るとは考えにくいが詳細は機会を改めたい。但し、本像は古くから信仰が強く、江戸時代においてはかなり出開帳をしており、その割には彩色が良いのは塗り直しが行われている可能性もある。
浄山寺 埼玉県越谷市野島32  
■蛇に乗った黒姫様 
高柳の屋根、黒姫山の南西約3kmに「入山(いりやま)」というところがあります。山また山の石黒地区の平凡な山です。この山の八合目に付近に巨大な蛇の形をした岩石が浮彫のように眺望できます。この岩のことを「蛇岩(ジャイワ)」と呼んでいます。(※R353から見えます。)そしてこの蛇岩にはこんな話が伝えられています。 そのむかし、黒姫様は山頂から颯爽と白馬を駆って上石黒に向かわれました。地蔵峠を越えて入山にさしかかると、にわかに天候が変わり激しい風雨となりました。それに加えて、途中のゴマ畑を通った時、生い茂ったゴマで白馬が目をつき片目を失明という御難にあわれました。
黒姫の神様は、すぐさま蛇に乗り換えて入山までお着きになりました。そこからは神風にのって上石黒に降り、社を建てられたそうです。これを「黒姫神社」と呼ぶようになったそうです。 その際、乗りすてられた蛇がその場で蛇岩と化したといわれ、馬が難渋したあたりのゴマ畑は今もなお草木が育たず岩肌が露出しているそうです。これは、神の怒りとも馬の悲しみともいわれています。
なお、黒姫様がお通りになった道筋には、手箱岩、小槌岩など同質の岩石が点々と残っており、中でも地蔵峠の林の中の大岩は、冬季間の道しるべとなり、岩陰に身を寄せて命拾いをした人もあるといいます。
この蛇岩から、はるか谷底に位置する上石黒地区では、朝な夕なに蛇岩を仰ぎ見て、蛇の尾が上をむけば晴れ、下に垂れる時は雨といっているそうです。空中の水分含有量によって異なって見えるのかも知れません。また、蛇岩から上は山菜取りを禁じられており、この禁をおかした者には神の祟りがあるといわれています。
新潟県柏崎市高柳町 石黒地区伝説 
■片目の鰻 
谷田川が大月町で桂川に入るところに天神淵というところがある。この淵の鰻は片目で、これを取るものは必ず災難があったという。
山梨県大月市 
■抜鉾大明神 
群馬県高崎市菊地町には、「うなぎは神様。食べると何か恐ろしいたたりがある」という言い伝えがあります。町の鎮守様、抜鉾大明神にまつわる奇妙な伝説は、次のような話です。
昔、天然痘(ほうそう)が大流行したとき、この地に住む松本三右衛門という農夫の子ども二人がほうそうにかかり、重篤になりました。そんな夜、日頃から抜鉾神社を熱心に信心する農夫の枕元に、神の化身の翁が現れ、「そなたの平素の心掛けを思い、子どもの難痘を鰻に移して治してしんぜよう」といって消えました。数日後、子どものほうそうはすっかり治り、不思議に思った農夫が池の鰻を見ると、鰻の全身にほうそうの白い斑点ができていました。 その後、霊験あらたかな神社として噂が広まり、全国各地から参拝者が訪れ、村は大いに栄えました。以来、村人は決して鰻を食べず、「おうなぎ様」と呼び信仰しました。
さらにこんな話もあります。神社の神事の際、子どもが切り株で目を突き、神社の池で目を洗ったところ治ってまい、以来池の鰻は片目になりました。また、豊富な鰻を目当てに漁に来た商売人が、カゴいっぱいに獲ったはずなのに、気が付くと一匹もおらず、大木に生首が下がっていました。腰を抜かした商売人は、やっとのことで家に帰りましたが、それ以後、菊地に鰻を獲りに来る者はいなくなったとか。
菊地の住民は、戦後の食料難の時代にも鰻を食べることはなく、他の町へ嫁いだ女性も同様だったといいます。
群馬県高崎市菊地町 
■.女の神様を救った大鰻 
山梨県武川村山高の幸燈宮の祭神、稚日霊女尊(ワカヒルメノミコト)は、女神ながらも武勇並びなき軍神として、人々の尊崇を受けていました。
あるとき、沼の辺りで敵の大将と組み討ちをするうちにすべって沼へ落ちてしまいました。沼は思いのほか泥が深く、神様は岸へ上がることができず困っていました。そのとき、直径20センチメートルもある大鰻が現れて、神様を押し上げました。神様は無事に岸に上がり、戦いに勝利することができました。
鰻が神様を助けたので、山高の村人は、鰻を食べると神罰があたり、片目がつぶれるといい、食べる者はいなくなりました。もし、鰻が獲れても社前の池に放すといいます。
山梨県武川村 
■片目鰻  
曽木神社の池には、片目鰻がいるという伝説があります。
小さな池ですが、とても神秘的な感じがします。この池の鰻は、片目なのだそうですが、この池の鰻をほかに移しますと、両目になるとか・・・曽木神社は、長雨とか干ばつなどのとき、お願いをすると霊験あらたかといわれていますが、眼病をなおすお願いにも効果があるとのことで、そのお願い(お礼?)のとき、鰻を池に放したともいわれています。
「富岡甘楽平成神社明細誌」に曽木神社が掲載されています。それによりますと、創建年代は不詳とのことですが、上野国神名帳甘楽郡三十二社中の従一位宗伎明神が曽木神社とのことで、たいへん古く歴史ある神社といえるでしょう。
きれいな湧き水の池には、大きな鯉がたくさん泳いでいます。
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鏑川にオノレの滝があるが、昔はこの滝をうなぎがよく昇った。そして、曽木神社の池に泳ぎ込むので、池にはうなぎがたくさんいた。うなぎは皆片目で、池から川に入ると両目になるという。神社の池のうなぎが多いのは、これを捕ると目が潰れるといわれ誰も捕らなかったからだ。
もう一つには、曽木神社の神様は眼病を治してくれるといって、治るとうなぎを池に奉納した、ということもある。生きたうなぎを新聞紙にくるんで持ってきて放つので、昔は池の底によく新聞紙のかすが沈んでいた。曽木神社が眼病に効果があるのは、この池の主のようになっているうなぎの片眼がとび出していて、それが治してくれるのだと言われている。
富岡曽木の古社という曽木神社は、一方で尻尾の切れた蛇がゴケンゾクであり、養蚕の鼠除けなどに信仰されたが(「シッポの切れた青大将」)、このような星宮・虚空蔵信仰のような鰻の池もあるのだという。殊に興味深いところは、鰻はどうも池にいる間だけ片目なのだと思われていたというところだ。このように、その池に入ると変質してしまうのだ、という話はままある(「虚空蔵さんと八ツ目うなぎ」など)。また、意味がよくわからないが、目を治してくれる理由を、ヌシの鰻の片眼がとび出しているからだ、といっている。鰻が悪い目を身代わりに受けてくれて、目が治ると説明するところはままあるが、それとは違うようだ。
曽木神社 群馬県富岡市 
■片目の鰻 
「丸池」の鮒はみな片目であったので「目っこ池」と呼ばれていた。鎌倉権五郎が奥州清原氏と戦ったとき、敵の鳥海弥三郎に右目を射られた。矢を抜いた権五郎が茂呂の丸池で目を洗ったので、池の鮒はみな片目になってしまった。 
このときの矢を祀ったのが木崎・矢抜き神社、池が目っこ池となった。目を治すとき世話になった家の娘が、形見の大弓を抱いて広瀬川に身を投げた。その場所を大弓湾と呼び、祀ったお堂を大久庵と呼んだ。
目っこ池と大弓湾 伊勢崎茂呂羽黒原  
■うなぎを食べない片貝の住民  
鰻は虚空蔵尊の化身とされていたので片貝の住民は鰻を決して食べませんでした。片貝の水を三日間飲用したものは向こう三年間は鰻を食べなかったとの言い伝えもあった程です。
境内に鰻池がありますが、本尊の虚空蔵尊は特に眼病治療に霊験があるとされていて、信者は眼病治癒を祈願して治ると鰻をこの池に奉納・放流しました。そのためか、この池の鰻は信者の身代わりとなって眼を患い、片目の鰻となっていたと伝わります。
片貝神社・虚空蔵堂 群馬県前橋市東片貝町 
■釜井の大鰻 
昔、釜井に長兵衛という者がいて、近くの立霧の池で大ウナギを見つけた。あまりに大き過ぎるので、家から弓矢を持ってきて、ウナギの目にねらいを定めて矢を放った。矢は見事にウナギの片目に命中し、ぐったりと弱まった。長兵衛はこれをつかまえ、家に持ち帰って、いろりの火で焼いたが、脂肪が多く、七日七夜に及んでも皮すら焼けない。長兵衛は「これはただのウナギではない」と驚き、「たたりがあるかもわからない」と心配し、ウナギをもとの立霧の池に放すことにした。水中に放すと、今まで死んだようになっていたウナギは生き返り、元気よく水中に泳いでいった。長兵衛はたたりを恐れ、池の近くにウナギの宮を建ててまつった。これ以後、この池にすむウナギはすべて片目になったという。

石岡から北浦へと大鰻の話があるが(「野々井の鰻」など)、霞ケ浦の南となる稲敷にもこのような話がある。釜井には大きな溜め池が見えるが、立霧の池なのかどうかは不明。『大系』では、村松虚空蔵尊にも関わる阿漕が浦の片目魚の類話として掲載されているが、釜井のほうの虚空蔵信仰とは、というと現状不明。霞ケ浦周辺の鰻の話は必ずしも虚空蔵信仰のものとは思われないところもある。また、この話は片目の魚の話であるとともに、鰻の不死性を強調したものでもある。イメージは強いが、それを直截に話にした事例はそうそうない。
常陸の伝説 稲敷郡東村釜井
立切池の大うなぎ
むかし、釜井村(現在の東村釜井)に、長兵衛という弓のたいそう上手なお百姓さんがおりました。野良仕事に行くにも弓矢をもってでかけ、鳥や小さなけものなどを射止めておりました。ある日、近くの立切池のそばを通りかかると、水面が大きくゆれ、黒いかげがゆったりと動いていくのが見えました。
(こいではなさそうだが、いったい何だろう。)そう思って目をこらしてみると、それは今まで見たこともないほどの大きなうなぎだったのです。長兵衛は、とっさに、うなぎの頭にねらいをつけると、さっと矢をはなちました。矢は見事に命中し、うなぎの片目につきささりました。
長兵衛は、大うなぎを家にもち帰ると、さっそく近所の人をよんで焼いて食べることにしました。ところが、さこうとしても包丁が入りません。しかたなく、丸ごと焼こうとしましたが、こんどは、いくら火を強くしても火が通らないのです。みんな気味が悪くなってしまいました。
「ひょっとすると、このうなぎは、立切池の主かもしれないぞ。たたりがあったらたいへんだ。」
あわてた村人たちは、すぐにうなぎを池にもどしました。
すると、ぐったりしていたうなぎは、不安げに見つめる人々を尻目に、池の奥深くへ泳ぎ去りました。それ以来、立切池にすむうなぎは、みんな片目がつぶれていたということです。
茨城県稲敷市  
■丸池のうなぎ 
むかしむかし、奈坪の森の奥深くに、波一つ立たない静かな、丸池があったそうです。その池の水は青黒く、とても不気味で、村人からは「底なし沼」と呼ばれていました。この頃、金吾という片目の男が居りました。
ある年の大水で、女房と娘を失い、悲しみのあまり、仕事も手に付かず、とうとう、丸池に身をなげて死んでしまいました。
そののち、この丸池では何故か、片目のウナギばかり獲れるようになりました。
ウナギを見た村人たちは、「この沼のウナギは金吾の生まれかわりだ」と、金吾を憐れみ、だれも丸池のウナギを獲ろうとしなくなりました。
それから幾十年が過ぎたころ。金吾の悲しい話のことなどすっかり忘れ去られてしまいました。
ある日、この里に住んでいた彦五郎が、丸池でウナギを沢山獲って帰ろうとしたところ、
「彦五郎〜、彦五郎〜」と池から呼ぶ声がしました。
彦五郎は怖ろしくなり、その場から逃げ出しました。
逃げ出した彦五郎が、びくの中をみると、沢山いたはずのウナギが、何故か一匹も居なくなっていたそうです。 
■うなぎ 
その形態から生殖器崇拝と結びついて、京都市三島神社、埼玉県三郷市彦倉虚空蔵堂などでは夫婦和合、子授けの信仰があり、願掛けにはウナギが交尾している絵柄の絵馬を奉納する習俗がある。伝説では片目ウナギ、物言うウナギとして登場し、川ざらえの前日、池や川の主であるウナギが坊主に化けて、その非をさとして帰る話が各地で語られている。ウナギの転生譚(たん)として山芋が化してウナギになる話が《醒睡笑》《東遊記》などに見え、笑話化している。ウナギは水界の主として登場する一方、水神、竜王、金比羅、三島明神の使わしめとされ、伊豆の三島神社の社地内では神使として捕獲は固く禁じられた。なかでも、ウナギは虚空蔵菩薩の使わしめとされ、これを祭る所の人はウナギを食べない。岐阜県郡上市の旧美並村の粥川では妖怪退治にこの川のウナギが虚空蔵菩薩を加護、案内したとして住人はウナギを決して捕獲せず、明治初年までこの禁を犯すと村八分の制裁を受けた。旧仙台藩領に特徴的に分布するウンナン神はウナギ神で、近世初期の新田開発と洪水の頻発から、ウナギは洪水を起こすものとして、これを慰撫(いぶ)、祭りこめたものと考えられる。ウンナン神社の多くは湧水地や水流の近く、さらに落雷の跡に祭られるなど水神、作神的性格が強い。 
■景政伝説 
全国各地に鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)の伝説がある。
耳取り川の片目のカジカ(岩手県和賀郡西和賀町)
景政が傷ついた眼を西和賀町の耳取り川で洗ったところ、下流に住むカジカの片目がつぶれた。 耳取り川の片目のカジカとして伝えられている。
片目のかじか(秋田県横手市金沢)
景政は鳥海弥三郎に右目を射られ、その弥三郎を討ち取った後、刺さった矢を三浦為次に抜いてもらい厨川の清水で目を洗ってもらった。 その後この厨川からは右目の見えない片目のかじかが出るようになった。
片目の魚(山形県山形市宮町)
前九年の役の合戦のとき、源頼義の家臣の鎌倉権五郎景政の目に矢が突き刺さった。 そこで弁天池で矢を抜き、この池の水で洗ったところ目が完治した。それ以来、この池の魚は片目であるという。
片葉の葦(山形県南陽市高畠町)
鳥海弥三郎に左の目に矢を射られた景政はこの地で休み、安久津八幡神社の池の源泉たる弘坊水で眼を洗い治療したが片目となった。 この地に生えている葦も片葉になった。
鎌倉温泉(宮城県刈田郡蔵王町平沢)
前九年の役の四方峠の戦いで、鳥海称三郎の矢に目を射られ、川久保川で傷を洗ったところ、川に生息する鰍(カジカ)は、 片目になってしまったと言われます。 戦いが住んで、景政が平沢で傷の療養をしていると、ある夜、羽山の女神が夢の中に現れて、 この沢の上流に温湯があると言った。 そこで景政は、郎党に探させたところ、湯がわき出ている沢を見つけそこで傷をいやした。それ以来この湯の沢を「鎌倉沢」と呼んだ。
お手洗いの丸池(群馬県伊勢崎美茂呂町)
美保神社にある。丸池の鮒はことごとく片目になったという。
鎌倉権五郎と片目のイモリ(飯田市上郷)
後三年の役で目を矢で射られた景政は、傷ついた身で南条雲彩寺に辿り着いて、 田中八幡宮の杉の木の根元から湧き出る清水で目を洗って全快したら、その地のイモリは片目になったという。  
■お北 
頃は寿永(1182〜1183)。越後浅井家に誕生した次男は、生来の持病を癒すため赴いた湯治場で山水に流され、あえなく死亡してしまいます。同じ頃、浅井家臣の梁川外記とその本妻の間に娘お高が生まれ、外記の弟・岩倉隼太にも万吉という子が誕生していました。万吉が七歳になった頃、隼太は浪人となり、士官の口を求めて妻子と共に京都へ向かいます。しかし望み叶わぬまま隼太は患いつき、困窮して万吉を奉公に出した後に病死しました。万吉は長じて歌舞伎の女形となり、親の苗字をそのままに「岩倉万之丞」と称するようになりました。
大坂の女形芸子の置屋・都屋長七の娘お北は万之丞と恋仲で、やがて愛玩する飼猫を連れて彼に嫁入りしました。ところが万之丞は生まれついての放蕩者、京大坂の芝居の世界における息が詰まるような付き合いを嫌い、地方興行を好んでの旅歩きを重ねる日々。夫婦は貧苦のために家財を売って長七方へ身を寄せるも、長七夫婦が世を去ってからは置屋の芸子も他へ移り、やはり生活は苦しくなるばかりでした。万之丞はなお酒や賭事の癖が直らず、いつも妻から金をせびっていました。貞女お北はそれでも夫に忠節を尽くし、苦労を厭わず懸命に働きました。ところが、万之丞は依頼を受けて越中富山の芝居興行に赴いたきり音信不通となってしまいます。留守番のお北は万之丞が勝手に取り交わした約束のため、借金のかたに家屋敷を奪われ、着の身着のままで追い出されると、髭剃という地の借家でその日暮らしを送ることとなりました。かつて都屋の下男だった又介という男はお北の生活を援助し、またお北の飼猫も主のためにどこからともなく小玉銀などを咥えて持ってきたので、人々はその志に感じ入ったといいます。
一方、富山の万之丞は逗留中にまたしても多額の借金をして、いよいよこの地にも留まっていられなくなっていました。そこで知り合った芝居の座元と共に生国の越後へ向かい、縁者を探して頼ろうと画策します。芝居は越後でたちまち評判をとり、見物に来ていた梁川外記の娘お高は万之丞を見初めて逢引きを重ねる関係となりました。やがて、お高はとうとう万之丞の子を宿し、万之丞の素性を知った外記は、彼をかつての山水で行方不明になった浅井家の次男と偽り、娘の夫とすることで己も権力を得ようと目論むのでした。しかし、そのためにはお北との婚姻関係が邪魔になります。そこで「万之丞北国にて病死」と文を送り、お北が諦めて再婚するよう仕向けました。外記はかねてより隠し持っていた浅井家二男の臍の緒が入った守袋を証拠に用い、万之丞が浅井の血筋であることを認めさせます。こうして万之丞とお高は柏崎に設えられた屋敷に移り住み、腰元や中元を召し抱え、殿からの手当てまで賜る身分となりました。
大坂のお北は夫を案じて泣き明かした末に眼病となって片目を失明していました。戒名が添えられた万之丞死去を報せる手紙を受け取ってからは食事も喉を通らなくなって痩せ衰え、念仏供養に明け暮れたため、髪や身なりも乱れて凄まじい有様となりました。ところが、ある時訪ねてきた旧知の人物から万之丞の真の近況を教えられると心境は一変、お北の胸中は憎悪に満たされました。北国へ行かんとて病身の不自由も厭わず、鉄漿黒々と歯を染めて、鏡台に向かって髪を梳きあげれば、夥しく毛が抜け落ちて眼前に山と積もります。「海山隔たり暮らすとも、この恨み、思い知らさでおくべきや」 自分を裏切った夫への怨念に取り憑かれたお北は「北国とは何処、越後の方はいずれぞや」と狂ったように繰り返してさまようようになりました。見兼ねた又介たちが抱き留めたこともありましたが、大力の持ち主となったお北は又介を投げ飛ばしてどこかへ去っていきました。またこの頃、お北の猫も偽りの戒名を記した紙位牌を咥えてどこかへ姿を消しました。
又介はお北失踪の日を命日とし、四十九日目には仕事の川魚漁を休んで菩提を弔いました。その後、淀川支流で鰻を獲っていた又介は、頭髪が残っている女の髑髏を水中から掻き上げました。その眼窩には片目の大鰻が入っており、逃げ出そうともしません。これこそお北の頭蓋骨であろうと考えた又介は、それを鰻が入ったまま仏壇に飾り、回向した後に鰻だけを問屋へ送ることにしました。すると、魚籠に入れられた鰻は「又介、又介」と微かに声を発し、淀川に入って息絶えたお北の一念が乗り移っていること、いまだ中有に迷っているため髑髏と鰻を寺に埋めて念仏供養をしてほしいこと、そして万之丞への恨みは消えておらず、怨念を晴らさねば浮かばれないことを告げて死亡しました。又介は髑髏と鰻を灰にして寺に収め、妻に暇を出して出家すると、お北を弔うために善光寺を目指しました。
柏崎では万之丞夫婦がなに不自由ない生活を謳歌していました。しかし、ある夜の酒席に紙片を咥えた猫が侵入し、万之丞の顔面を掻き毟って怪我を負わせるという事件が起こります。血を止めようと手元にあった紙を顔に当てたところ、これが猫の運んできた偽りの紙位牌で、奇妙なことに顔に貼りついたまま剥がすことができなくなってしまいます。傷の痛みは増し、腫れが酷くなっても、まだ動じずに夫婦は旅に出ました。越後七不思議のひとつ・妙法寺村の囲炉裏の火を見ていたところ、不意に噴き出した硫黄の火でお高が耳に大火傷を負いました。顔面も夫同様に腫れ上がり、果ては夫婦ともに籟病に等しい症状となって悶え苦しむようになりました。召使いの者たちは病を恐れて次々と暇を取り、月極で下働きの者を雇うようになるも、万之丞にはかれらの姿が恨み言を述べるお北に見え、矢庭に抜刀して斬りつけるなどの乱心ぶり。遂に屋敷は夫婦二人だけとなり、新居も屋根から天井、壁、庭に至るまで荒れ果てました。
そんな中で、お高は俄かに産気づいて子を産み落としましたが、その姿はなんと片目の大鰻でした。外記がこれを秘かに小川へ捨てましたが、悪事千里を走るの喩え通り、大坂の先妻の一念であろうとの噂がすぐに広まりました。
外記の妻お弓は尼となって貞岳と名を改め、死霊を弔うため信州善光寺に参詣し、旅の宿にて又介と知り合います。又介は帰る貞岳に同道して越後に至り、万之丞邸に居候することになりましたが、容貌の崩れた亭主をあの万之丞だとは認識できません。反対に万之丞は道心が又介であると気付いていました。旧悪を暴露される前に殺害しようと考えた彼は、上手く言い包めたお高と共謀して又介の寝込みを襲いました。が、刺し殺されたのは又介ではなく、雨漏りを気の毒に思って寝室を替わっていた貞岳でした。妻が帰らないことを怪しんで万之丞邸に来た外記がちょうどこの瞬間を目撃し、是非なく万之丞夫婦を斬り殺しました。外記は騒ぎに気付いた又介道心に縄をかけて捕らえたうえ、この出家が原因で妻と娘夫婦が乱心して斬り合ったとする偽りの報告を御上に提出し、自身は咎めを免れようとしました。
日を経て万之丞の葬式がまず執り行われましたが、この際にわかに雨風が激しくなり、天は黒雲に覆われてかき曇り、虚空から異形の変化が現れて棺を掴み砕くと、万之丞の骸を引っ攫っていきました。これぞまさしく「火車」という怪物であろうとされました。外記が斬りかかるも、火車は刀を掴んでなお猛ります。ところが脇差を抜くと、その刃の輝きに恐れをなして死体を捨て、雲中へと逃げ込みました。この脇差は、かつてお抱えの悪徳医者・養眠が待遇の不満を動機として盗んだ浅井家の家宝・仁王三郎の短刀を、養眠横死の折に外記が秘かに我が物にしたといういわくつきの品。火車退治の評判が知れ渡ると、かの脇差は変化をも退ける名作であろうという評判になり、主家に持参せよとの命が下りました。
数々の悪事が露見することを恐れた外記は、浅井を身限り他国で恩賞に与ろうとて、夜の内に逐電します。その間に又介の口から全ての真相が語られると、外記は逃走叶わず捕らえられて重い刑罰に処されました。家宝の短刀も浅井家に戻され、お北の凄惨な復讐も遂に終わりを告げるのでした。

お北は、鶴屋南北による『怪談岩倉万之丞』の登場人物です。年老いた猫が妖怪「火車」となって死骸を奪い去るという俗信は広く知られたもので、物語の終盤で万之丞の死骸を狙った火車も、明言こそされないもののお北の愛猫が化したものであろうと考えられます。怨念に凝り固まったお北が髪を梳く場面は『阿国御前化粧鏡』『東海道四谷怪談』に続く南北三度目の趣向です。又介が鰻掻きをしている場面も、やはり四谷怪談の直助権兵衛を想起させるものです。 
■鈴ヶ池と片目の魚 
昔、俗称、城中山(現在の石岡小学校の西)に鈴ヶ池と呼ぶ池がありました。そこには府中落城にまつわる悲しい物語が伝えられています。
時は、天正十八年(1590年)12月22日。名実ともに堅城不落を誇り、連綿24代続いた大掾(だいじょう)氏も左近太夫浄幹(きよもと)の代に武運つたなく佐竹義宣により滅ぼされたのです。浄幹は戦死した父の後、5歳で家督を継いだが戦国時代末期の群雄割拠の時代で、毎日のように戦いに明け暮れており、この時まだ18歳であった。
この天正18年春に豊臣秀吉が天下統一の最後の仕上げとして、小田原城の北条氏を攻め滅亡させた。そして、小田原攻めに参戦しなかった大掾氏は秀吉から常陸国を任された佐竹義宣によって滅ぼされる運命にあったのである。浄幹の妻は小川の園部城主の息女鈴姫といい、容姿美しい方であった。
佐竹義宣は、難攻不落と言われた府中城攻略のため、まず園部城(小川)を打ち落とし、その園部の軍勢をもって府中へ、府中へと攻め寄せさせたのです。府中城の周りには出城や砦を多く持っていたが、これも次々に陥落し、城に残っていた浄幹のもとに砂塵をけってはせ参ずる注進は、いずれも味方の敗北のみであった。浄幹の無念やるかたなく、鈴姫の悲嘆はいかばかりであったろう。見方と思っていた園部氏も今は敵。敵が目の前まで迫り、いよいよ観念のほぞを固めた城主浄幹はついに部下に命じて館に火をかけさせた。歴史的名城、府中城もたちまちのうちに、火の海と化し、黒煙と火の粉は勢いよく大空に舞い、突然、夢破られた夜鴉の群れは塒(ねぐら)を捨てて戸惑い舞い狂った。
この燃えさかる炎の中、浄幹はついに乱心し、づかづかと鈴姫に迫り 「そなたの父、園部も今日は敵だ。そちも、また、わが妻でないぞ。思い知れ」 とばかり、手にする刀で鈴姫の片目につきさした。そして、燃えさかる火中に浄幹は身を投じ、城と運命をともにしたのです。
片目に死の烙印を押された鈴姫は、焼け落ちる棟木の火明に、身悶えの姿も哀れに城中の池へ身を投じたのであった。なんと悲しい最後であったか。かくして名城府中城は亡びたのである。
それから後、この池にすむ魚は、不思議なことにみな片目で、悲劇的な鈴姫の恨みの表われだと語りつがれている。
茨城県石岡市 
■片目の魚 
『阿津姫さまは、海部川をさかのぼって相川村へ隠れたがそこにも居られなくなり、向う岸へ渡って山の下の小さな池のそばまで逃げてこられた。追手はどんどん迫ってくる。姫は覚悟を決めて大切にしていた機(はた)を抱いたまま、その池へ身を投げられた。土地の人々は、この美しい姫の最期を哀れんで、相川村に阿津神社を、この池のほとりに池姫神社を建てて姫の霊を祀り、この里を姫村と呼ぶようになったといわれている。この池にすむ魚は、姫の機のオサが当って片目になっているといわれ、実際に右の目がふくれて白くなったり血走ったりしているフナやハエやウナギが幾匹もとれたことがあったそうである。』云々…
阿波志に「立池祠 在大井村 即龍祠称姫明神 林木うつ然其中在池 長四十歩 土人雫」とある池姫社は瀬織津姫命を祀り雨乞いと片目魚の伝説で名高く、姫の地名もこの社名に因んだものと思われる。聖神社・杉尾神社・御崎神社は、それぞれ大井・姫・能山の氏宮であるがその由緒も創建年代も不詳である。
町史大井村の項に、「小名姫 姫池大明神 此社の下に池あり。此池往古何もの姫君か夫をしたひ給へとも行衛知れねばかなしと身を投死しより池名も姫池と唱え社号同じく姫の霊祭るよし 池長三拾間 横巾四間斗 此池に住るうろくつことごとく一眼にてあしき方くされる如く白し。」とある。
また、隣接する能山地区には能山薬師があり、薬師如来三姉妹のうち、妹君が日和佐の薬師寺に、中の君が芝の薬師庵に祀られ、能山にはいちばんの姉君が鎮座ましましたといわれています。と記されています。
更に、「この池にすむ魚は、姫の機のオサが当って片目になっている」といういわれがあるようですが、オサとは(筬)、織物を織るときに経糸を通しておく道具です。
実際は機を抱いたまま池に飛び込んだにしても、オサが当って云々はよくある昔話の府会でしょうが、ここでのキーワードは「ハタのオサ」ということなのでしょう。
徳島県海部郡海陽町の昔話 
■片目の魚 
「片目伝説」は、日本各地に散らばっている。近辺で有名なのは、横手の厨川(くりやかわ)にすむ片目のカジカである。後三年の役、鎌倉権五郎景政が、射られた目を洗った厨川のカジカが片目になったという、全国各地に伝わる「鎌倉権五郎景政伝説」とよばれるもののひとつである。
なぜ、片目の魚が出現するかというと、その原因は釣針にちがいない。口が大きく、目が前方にあるカジカ・ハゼ類は、大きな針でもくわえるために、目を針先が貫通することが多い。絵は魚体とマス類の釣針を同じ縮尺で描いた。
以前、イカの餌付けに使用するために、岸辺の岩の間に釣針を落として ドロメ類を釣ったことがあるが、かなりの率(20%くらい)で釣針は目を貫いていた。
片目伝説にはフナが多いが、釣ろうと思っていない小さな魚が、ある大きさの釣針に食いついてくると、やはり目を貫くことがある。とくに私のような釣りの下手な人間がやれば確率は大きい。そして、釣ろうとした目的の魚ではないために、再び放される。
以上、科学的思考もできることの自慢である。実は男鹿半島にも、片目魚の伝説があるが、少し変わっている。
(1)無理に押しかけてくる八郎太郎を退治してほしいと、一ノ目潟の姫が竹内神主に頼んだ。竹内神主が八郎太郎を弓で射ると八郎太郎の目に当たった。それ以来、一ノ目潟のフナは片目になった。
(2)無理に押しかけてくる八郎太郎を退治してほしいと、一ノ目潟の姫が竹内神主に頼んだ。竹内神主が八郎太郎を弓で射ると当たった。しかし、八郎太郎は矢を抜き取り、「子孫七代まで片目にしてくれる」と叫びながら、投げ返した矢は神主の目に当たった。
(1)は一般的な「秋田の民話」に載っている内容、(2)は、男鹿市教育委員会で出版した「男鹿の昔話」である。基本的内容を変えないように気をつけて、両方とも文章を要約変形している。
どちらが元の話なのだろうか。わたしは(2)が最初の話に近いと思う。(1)は主人公であるべき人間が片目になってしまって、おかしいと、あとの人がつじつまを合わせたのである。
柳田 國男(やなぎた くにお)は「一目小僧(ひとつめこぞう)」で次のようなことを述べている。
ずっと昔の大昔には、祭りのたびごとに一人ずつの神主を殺す風習があった。殺される神主は前の年の祭りの時から籤(くじ)か神の声である神託(しんたく)によって決められていた。生け贄(にえ)となるこの神主をはっきり見分けることができるように、片目をつぶし、逃げられないように片足を折った。そしてその人を優遇し尊敬した。やがて、その神主も死んだら神になれるという確信を持つようになり、心も澄んで、神の心を伝える神託預言を始め、人々の中で力を持ってくる。死にたくないという気持ちから、「この神主(自分)を殺す必要はない」と神が言っているという託宣(たくせん)もしたかもしれない。
上の話から、幻想を進めると、日本書紀、垂仁天皇(すいにんてんのう)の次の話を私は思いうかべる。
倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなったとき、いままで使えていた者を集めて、陵の周りに生き埋めにした。泣きうめく声がいつまでも続き、やがで死んで腐り、犬や鳥が食い始めた。泣きうめく声を聞いて、天皇は「これからは殉死を中止するように」と命じた。その後、皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなられたとき、野見宿禰(のみのすくね)は埴輪(はにわ)を考案して、人を生き埋めにはしなかった。
昔、殉死があり、やがてそれがなくなったように、神主の片目をつぶし殺すかわりに、神社の池で泳ぐ魚の片目をつぶすようになったのかもしれない。
わたしは片目が壊れている。わたし自身、神と人間との間の存在で、話す言葉は神の声ということになる。そういわれればそんな気もしてくる。^ 
■片目の魚 
ついこの間まで、といっても四、五十年前、木戸の吉野神社の裏に、小さな池がありました。小さくなる前は、大きな池だったそうです。村人は、その池をたいしょう池とよんでいました。ところで、このたいしょう池でとれる魚は、不思議なことに、どれもこれも片目の魚ばっかりだったそうです。それには、こんな話が伝わっています。この大池ができる前、中村川の堤ぎわに、たいしょう寺というお寺がありました。そこの和尚(おしょう)さんときたらとても碁(ご)が好きで、ひまさえあれば、朝といわず昼といわず、愛用の碁盤(ごばん)と碁石を持ち出してきて、お手本をながめては、パチッ、パチッ、とひとり碁を打つほどでした。ある年のことでした。その夏は例年になく雨が長く降り続いていました。そのため、中村川の水かさも、ぐんぶん増してきました。長雨が続くとすぐ頭に浮かぶしんぱいは、堤が切れはせぬか、ということです。
村びとは、雨にぬれるのもいとわず、堤がしんぱいで水がもれてこないかと堤の見張りをしていました。ところが、そんな村びとのしんぱいをよそに、真黒に垂れ下がった雨雲からは、バケツの水をぶちまけたかのような雨が降り続いていました。また、堤はというと、まるでスポンジが水をふくんだようなありさまで、今にもくずれるばかりにうんでいました。村びとが必死に堤防を守っているとき、和尚さんはやっぱり碁の好きな相手と、パチッ、パチッ、と碁を打っていたのでした。堤の方が気がかりで仕方のないおくりさんは、おろおろしながらも、客を何とかもてなさなくてはと、うどんを打ちはじめました。とそのとき、裏の方から聞こえてくるざわめきを耳にしたのでした。それは、村びとがいちばんおそれていた堤が切れそうだという話声だったのです。
びっくりしたおくりさんは、「切れそうです。切れそうです。」と和尚さんに知らせました。ところが和尚さんときらた、何を勘違いしたのか、「切れそうでもかまわん。食べれば切れてしまうわ。さ、はよう持ってこい。」と、一向(いっこう)にとりあいません。そうして、あいかわらず碁を打っているのでした。
しばらくしたら、おそれていたことが起きてしまいました。ほんとうに堤が切れてしまったのです。あわてたおくりさんは、大声をはりあげて和尚さんに、「切れてしまいました。切れてしまいました。」とさけびながら、寺から飛び出したそうです。だが和尚さんときたら、うどんのことしか頭にないので、「切れたのでよい。はよ持ってこい。」といい返して、なおも碁を打っていたのです。
さあたいへん、堤を押し破った濁流は、波を起こして、田や畑はおろか、この寺やふたりまでものみ込んでしまいました。そして、その後に大きな池を残したのでした。たいしょう池はこうしてできたのですが、それからあと、ここに住む魚はみな片目だったのです。村びとは、これはきっと和尚さんが池に入って池のぬしになったからだとうわさをしました。というのも、たいしょう寺の和尚さんは片目だったからです。そして、堤の切れたことをうどんが切れたものと見分けがつかぬほど、碁にむちゅうになっていた自分を、情けなく思って死んだにちがいありません。こうして、和尚さんの魂が魚にのり移って、片目の魚がすむようになったと考えるようになったのでしょう。それからは、村びとはきみわるがって、たいしょう池の魚を捕えなくなりました。
しかし、今では、その池も見られません。ただ、切れ所から土を運んで一段と高くなったさんまいの前の畑だけが、当時をしのばせるにすぎません。
輪之内町本戸  
■片目の神魚 
見沼には神魚とされる片目の魚がいた。女体社の祭礼には社中の者が捕えて供えるのが例だった。
承応年中、江戸の町人が片目の魚を得ようと勝手に漁をしたところ、小蛇が三笊も引き上げられ、肝をつぶして江戸に逃げ帰ったという。また、貞享年中に、浅草の見沼運上を御請した店が、奥州米沢の手代七兵衛とういのを連れていたが、この男が急に盲になってしまった。
驚き調べると、江戸に送った荷物に片目の鯉があったという。知らずに行ったことと、急ぎ返上して参籠したところ、三七満夜に、許しの霊夢があり、両目が明いたという。

見沼にも片目の魚の話があった。これをもって氷川女體神社の神は片目だ、といえるかというとそうはいかないだろうが、覚えておくべき伝ではある。草加のほうだが、女体さまの神像が片目だ、という話は実際あるはある(「片目の女体様」)。氷川女體神社の御祭神は額面としては勿論、大宮の須佐之男命の妃神・奇稲田姫命を祀るのだが、それだけでは見沼の竜蛇祭祀との関係は語ることができない。
埼玉県さいたま市緑区 
■片目鮒の井戸  
木屋町四丁目住宅群の中にある。昔は紫井戸と水路でつながっていて、両方ともあふれる程の水量があり鮒もゆききしたという。
鮒鱠(なます) 鮒に片目の由来あり  子規
伊予節の一節に唄われている片目鮒には、子規の句にあるように弘法大師の伝説が伝えられている。巡礼中の大師が半分焼かれている鮒を見て、これをあわれみ手ずから井戸に放ったところ元気に泳きはじめたというのである。
紫井戸のこと
イヨ鉄城北線木屋町四丁目電停の北方100メートル位の住宅群の中にある。伊予節で「紫井戸や片目鮒」と唄われている。水が常に紫色に見えていた、という説と、ほかに、水質がよく醤油を造ったので醤油のよびな「むらさき」の井戸と呼ばれたという。昔はあふれるほど水量があり、近くの片目鮒の井戸とも水路でつながっており、片目の鮒が行ききしていたと伝えられている。しかし今では水位が下り、両方とも水は細れ、昔の面影はない。
愛媛県松山市 
■片目のどじょう 
昔、一太郎という乱暴者がいたがある日旅に出て、10年以上後に坊主になって帰ってきたが、喧嘩が元で片目になっていた。一太郎は小金を持っており、それを狙った村人は一太郎を池に投げ込んで水死させた。以来、その池に住むどじょうは皆片目になった。両眼のあいているどじょうを放しても、片目になってしまうという。
長野県塩尻市  
■片目の鰍(どじょう) 
鎌倉義政が片目を射られてすぐ復讐したものの、帰路にはこの地に止まって身を隠したという。こういったいわれから、この地の鰍はすべて片目だという。
新潟県南蒲原郡  
■片目の泥鰌(かためのどじょう) 
遠州の横須賀村につたわるもので、眼が片一方しかないどじょうが多く棲んでるというもの。
そのあたりでは夜になると「てんぐ」が火の玉になって殺生(魚とり)にやって来ると言われてて、どじょうの眼を片方だけ捕っていってしまうので、そこのどじょうはみんな片一方しか眼がないと言われてました。  
■片目のどじょう 
慶長2年(1597)上三川城に、めんこい姫君がいたんだ。真岡城主・芳賀高武、が嫁に欲しいって言って来たんだけんどな。姫君には、好きな人がいたんで、ことわったんだと。そこに宇都宮氏の、跡継問題が持ち上がったんだ。で、養子をとるって話になった。真岡城の芳賀高武は、反対派。上三川城の今泉高光は、賛成派。意見が食い違って、揉め事になっちまった。姫君のこともあって、怒った芳賀高武は、上三川城に夜襲を掛け、落城さしちまったんだっぺ。姫君は、刃物で首を突いて、死のうとしたんだども、手元さくるっちまってな。片目を突いちまった。その後、お堀に身を投げて、自害したんだと。それ以来。お堀のどじょっこは、みんな片目になっちまったって、言い伝えなんだ。他には、姫君の婚礼の日に、高武が攻め込んできた、ってのもある。最後もな。好きな武士と一緒に、お堀に身を投げた、って説もあるんだど。
他に、話の主人公は、姫君じやなくって、今泉高光の奥方さまだったって話だべ。あとの部分は、ほぼ同じ。最後は、高光と供に、御堀に飛び込んだっ、てことになってる。
上三川落城伝説 
■だいだらぼうと片目のどじょう 
昔、瀬戸井村に「だいだらぼう」という大沼があり、葦がびっしり生えていた。これを食べさせると牛馬が腹を壊してしまうので、伸び放題になっていた。沼には片目のどじょうがいて主だといわれ、これは百年ほど前に漁師にヤスで片目を突かれて片目になってしまったのだという。
片目のどじょうは、時折水鳥を呑もうと、一斗樽ほどもある真っ赤な口を見せるので、村人は恐れ、誰もだいだらぼうには近づかなかった。ある年のひどい干ばつには、だいだらぼうの水も干上がり、底が見えていたが、片目の主がいるからだいだらぼうは干上がらない、という伝えを思い出した村人が鍬を打ち込むと、こんこんと水が湧き出したという。
この水と別雷神の清水で雨乞いを行うと、すぐに雨が降った。沼に水が戻ると、また片目のどじょうがゆらりと見え、底に消えたという。そのだいだらぼうも今は田んぼになってしまい、片目のどじょうを見つけることもできなくなってしまった。

瀬戸井の真ん中あたり、八坂神社の南に、不自然に丸い田地が見え、そこが池だったのじゃなかろうか。ともあれ「だいだらぼう」という名が、巨人の話ではなく、単に沼の名として出てくる事例となる。一斗樽の口という片目の泥鰌もすごいものだが、そこはさて置く。だいだらぼっち、というのは巨人の名で、大太郎「法師」の名が先だろうとされるが、「(だいだら)ぼっち」といって巨人の話を出さずに池沼や山峰をいうことがある。那須のほうではいまだ「ぼっち」が峰をさす言葉として現役で、那須岳近くにも西ボッチや東ボッチがある。さらに、竜神が造った山(とその掘り跡の池)という「ゆうじんぼっち」が黒羽のほうにはありもする(「ゆうじん」とは竜神のこと)。私は「ぼっち」というのは地形上の目印となる山や池のことを言ったのが巨人・法師より先じゃなかろうかと考えており、瀬戸井のだいだらぼう沼もそういう「ぼっち沼」だった可能性はないか、と思う。
茨城県結城郡八千代町 
■どんぶりの主 
三代前くらいにいたずら者がいて、どじょうぶち(どじょうを捕る道具)を針でこしらえて、どんぶりにどじょうを捕りに行った。そして、どじょうが掛ったが、目に刺さり、怒ったどじょうが大きくなって、蛇になった。蛇がどじょうに化けていたのだ。それで蛇に追われて、その人はどんぶりの海苔屋に助けを求めた。
その人が、堪忍してくれと謝って頼んで、それから毎月一日、十五日だかに赤飯を炊いて御神酒と供えて、その主の蛇を祀るようにした。だから、そのどんぶりの蛇は片目がつぶれていた。
その後、嵐があった時、浜沿いの家々はみな流されたが、その蛇を祀った家だけは助かった。蛇が家をぐるぐる巻いて、流されないようにおさえたのだという。だからその家は今も残っている。どんぶりというのは昔の大地主だ。その溜池をどんぶりの池といっていた。

中島地区の話。そもそもそこの大網元(長者)の家が水没して「どんぶり池」になったのだともいい、その網元の家は代々そのヌシの大蛇に守られていた、という話もあるようだ。そうなると、泥鰌に化けたヌシの蛇の片目を突いた人は、そのヌシを祀る家に助けを求めた、という筋なのかもしれない。ともかく、ここではヌシの蛇が片目であるという感覚が木更津の海にも確かにある、ということで引いた。
千葉県木更津市 
■鰻を喰うと目が潰れる 
山高の幸燈宮の祭神、稚日要命(わかひるめのみこと)は、女ながらも武勇並びなき軍神で、ある時騎馬で出陣し、ある沼辺で敵の大将と組討ちになり、沼の中へ落ちてしまった。沼は泥が深くて、どうにもならなかった。すると泥の中から何にか命を押し上げるものがあるではないか、命は、これに力を得て有利な態勢になり敵将を倒すことができた。この為からくも戦に勝つことができた。その命を下からおしあげてくれたものは実は直径二〇センチもある大鰻であった。
こうして氏神が鰻に助けられたので、氏子である山高の村人は鰻を喰うと神罰があたって目が潰れるといって、誰一人鰻を喰う者がなく、捕えた鰻は全部、幸燈神社前の池に放したという。
『甲斐国志』(唐土明神の項)にも祭礼には、鰻の餌である、どじょうをあげ村人は鰻を食べないということが載っている。
「祭礼ハ九月中ノ九日、前夜初更ヨリ庭燎ヲ焼キ四更ニ至リテ供物ヲ献ズ、其ノ内ニ泥鰌汁アリ一社ノ旧例ナリ、又村人古ヨリ鰻ヲ食ハズトナン。」初更午後十時、四更午前二時
今から百何十年の昔、この山高に源三郎という村一番の強情者がいた。この源三郎が三吹に奉公しているとき、川干をした際に沢山の雑魚をとった。その中にも鰻が数匹まじっていた。そしてその雑魚で一杯やるのが例であった。
仲間の者たちは源三郎の強情を知って、面白半分に「源三郎何ぼう強の者でも、山高生れの悲しさに、このうまい鰻は喰えんなァ。源三郎は、あとの「かす」みたような雑魚だけ喰っていりや、いいや」、また一人は「目が潰れちゃ困るから、その鰻はこっちのもんだ」また「どうせ山高の源三郎はまずいもんで我慢しろやい、うまいのはこっちの係だ」と口々に言うので源三郎も酒が段々まわると口惜しくなって「俺だってうまいものを喰ったって悪いことあねえや、鰻を喰ったって目が潰れるもんか」と本気になって、ほんとうに喰う気になった。しかし腹の中では、いい気拝もしない。するとまた他の一人は「ほら、なんぼう強気の源三郎でもやっぱり目が潰れるのは、おっかねえや」という。
源三郎は、「はうれ、みんなよく見ていろ」と言いつつ箸を手に取ったかと思うと、前手にあった鰻の切を、ついに口に入れてしまった。
「な、目が潰れんら(でしょう)」と男の意気高々にその夜は引き揚げて行った。
二、三日たつと源三郎の目は、霞がかかったように段々見えなくなった。そして今日よりは明日、明日よりは明後日というように悪くなってとうとう見えなくなってしまった。
源三郎はいよいようろたえた。そしてこれは、まさしく氏神さんの祟りがあったのだ。このうえは幸燈神社に行って、その罪をあやまり、ぜひ今一度目が見えるように祈るよりほかはないと思い熱心に祈願した。三、七、二十一日の満願の日に、ようやくおぼろ月夜程度に回復し不自由の目で暮らしたという。
その後お宮の前の池には、もっともっとたくさんの鰻が氏子によって放され、社殿には鰻の絵馬がたくさん奉納された。
北杜市武川町山高 
■片目清水  
古くからある自噴泉には、その清水に係わる伝説があることが多い。福島市の矢野目地区にある清水にも「片目清水」という伝説が残されている。この清水も、伝説の内容には、八幡太郎義家とのかかわりが出てくる。
この地区は、高圧線が通過するぐらい、藪の中にあり、ひなびた所であった。それが、突然道路が拡張されて、それに伴って開発が進んだ地域である。私がこの清水を確認した時には、高圧線の鉄柱の足下に位置し、立ち入り禁止のロープが張られていたた。それでも、立て札と、水神を祭る社が確認できた。
立て札には、以下の説明があった。
後三年の合戦に鎌倉権五郎景政、鳥海弥三郎の射る矢、左の目に立つ景政矢を抜かずして弥三郎を追い遂に射斃す。傷をこの清水にて洗いし後世小魚 左目盲目なり、この時景政十六才なり。
どんな風に取り扱うようになるのか心配した。 吾妻の里の自噴泉と伝説_a0087378_1929465.jpg しばらくして、再び訪れた時には、公園の一部にこの清水が美しく整備されていた。周りは、商店街ができ、住宅地が建ち並んでいた。清水は、美しく整備されたが、人工を感じ、いかにも公の機関の仕事として、美しく整備したというデザインだった。自然に湧き出る神秘な雰囲気もないし、近くの人手が入って、綺麗に管理されるという雰囲気も無かった。水神も祠もなかった。それでも、そこに清水があり、説明板が建ったということで、清水の存在の確認ができることは、それなりにうれしいことではあった。
この清水、地元の記念誌には、次のような伝説として残されている。
昔、有名な八幡太郎義家に味方した鎌倉権現五郎景政という武将が居ました。後三年の役(1083〜1087)2ときのことです。景政は、ある戦いで、敵の弓の名人、鳥海弥三郎に矢を射られ、左の目に矢が突き刺さってしまいました。傷の手当てをしようと、後退する途中、こんこんと湧き出している泉を見つけたので、矢を抜き目を洗っていますと、弥三郎がやってきて、一騎打ちになりました。勇ましい景政は、重傷なのに少しもひるみません。ついに弥三郎を討ち取りました。それからこの清水には、景政と同じように左の目が潰れた鮒ばかりいるようになったといわれ、「めっこ清水」と呼ばれるようになりました。また、弥三郎の妻は、夫の死を聞いて悲しみ、尼になって清水のそばに住み、菩提をとむらいました。今もこの清水は、片目清水13番地にあり、清水が湧いています。
(注) この片目清水については、違う言い伝えもあります。景政はその時15歳で、突き刺さった矢を7日7夜も抜かないで、弥三郎を追いかけて討ち取り、その後、この清水で目を洗ったとも言われています。
吾妻の里の自噴泉 
■法隆寺「カエルには片目がない」 
1993年に日本の文化・世界遺産第一号に登録されたのは、1400年の歴史を持つ世界最古の木造建築の法隆寺です。聖徳太子が作ったことでも有名です。そんな法隆寺には、お寺が公認している七不思議があります。
(一)クモが建物に巣をかけない
(二)南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある
(三)五重塔の相輪(塔の上部にある金具)には4本鎌が刺さっている
(四)不思議な伏蔵(地中に埋めてある宝の蔵)がある
(五)因可池にすむカエルには片目がない
(六)夢殿の礼盤(僧が座る台)の下に水がたまる
(七)雨だれが穴を開けるはずの地面に穴が開いていない
気になるのが五番目の「片目がないカエル」。昔、聖徳太子が斑鳩宮で勉強をした際に、因可池に住むカエルの声がうるさかったため、持っていた筆でカエルの目を突くとカエルの片目がなくなった、と言い伝えられています。聖徳太子、わりと過激です…
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奈良の法隆寺の七不思議のなかでも面白いのが、「因可池のカエルは片目がない」というものです。可因池(よるかのいけ)は、かつて聖徳太子が住んでいたという斑鳩宮(いかるがのみや)のすぐそばにあった池です。斑鳩宮は現在夢殿が建っている場所にありました。
ある日、聖徳太子が学問にいそしんでいた時に、因可池のカエルがあまりにもうるさく鳴いたので、静かにするように筆で片目をつついたところ、この池にいたカエルがすべて片目だけになってしまったという言い伝えがあります。
10人が一度に言ったことを漏らさず理解し、全員にそれぞれ的確な答えをしたという聡明な聖徳太子がカエルの鳴き声が気になって学問が進まなかった、というのは疑わしいような気がしますね。因可池ななくなった今となっては当然ですが噂の域をでません。  
 
ひじりの家 / 柳田國男

 

日向路の五日はいつも良い月夜であつた。最初の晩は土々呂の海浜の松の蔭を、白い細かな砂をきしりつゝ、延岡へと車を走らせた。次の朝早天に出て見たら、薄雪ほどな霜が降つて居た。車の犬が叢を踏むと、それが煙のやうに散るのである。山の紅葉は若い櫨の木ばかりだが、新年も近いのにまだ鮮かに残つて居る。処々の橋の袂、又は藪の片端などに、榎であらうか今散りますとでも云ふやうに、忽然として青い葉をこぼし始め、見て居るうちに散つてしまふ木がある。土持殿の御支配の頃から、否々皇祖御東征よりも更に以前から、海に近い県あがたの里の野原では、寒い霜夜の月の明方ごとに、斯うして物の緑が土に帰して居たのであらうが、或時或旅人が通り過ぎて、之を美しいと見るのは瞬間であるなどゝ、自分は有りふれた斯んな事を考へ出した。それといふのも自分が今尋ねて行く人の境涯が、余り我々の生活と変つて居る事を、想像しながら来たからであつた。
南方の竜仙寺さんと謂つて尋ねて廻つたが、不思議と誰も知つた人には逢はぬ。そんな筈は無いのだ。内藤家の御祈願所の、随分名の有る法印さんだと聞いて見る。それならば野田の稲荷山の行者殿に違ひない。もう此辺には他に無いからと謂ふので、旭がさして来た松山の霜解けを、こつ/\と登つて見た。縞の着物に角帯の、髪は一寸も延ばした老人が、果して訪ねる谷山さんであつた。日向に移住して来て既に十七代に為る。本国は大和で谷山覚右衛門と云ふ人、土持家の盛りの頃に兵法の師範として、子息の重右衛門を連れて下つて来た。所領は山の麓の大貫村で、野田山に砦を構へ、稲荷は即ち其城内の鎮守であつた。世中が改まつて内藤氏の藩が出来た時、只の臣下で居る代りに山伏に為つてしまつたが、それでも火事に遭つてこの山上に移つた父の代までは、大貫の元の屋敷に引続いて居たさうである。稲荷大明神の右手には広い平地が有つて、其中央に井戸がある。之を前に取つて今の住居が、背戸を谷間に臨ませて、幽かながらも城地の俤を遺して居る。明治五年に修験の職は廃せられたが、関東諸郡の山伏のやうに、神主やたゞの農家に為らうとはせずに、作州津山の在から潰れ寺の名跡を買ひ、表向きこれを引移したのが竜仙寺で、土地の人もまだ其名を知らぬ位である。以前の名は明実院、それを法印は御自分の名にして御座る。
鎮守の稲荷様は御寺だけに、憎k尼天だきにてんとして祀つてある。詣る人が今風だから、華曼や提灯の真赤なのも仕方が無い、自分は帰り途にその数多い鳥居の下を通りながら、是とは縁も無い津軽の海岸の荒浜を思ひ浮べた。今年初秋の風の早大いに冷かな朝であつた。一つ事ばかり考へながら、独りあの浜手の淋しい路を歩いた。曾て深浦沿革史を世に公にした海浦さんと云ふ人は、名が義観だから或は僧侶だらうとは思つたが、あんな阿倍比羅夫の直系見たやうな、昔の儘の山伏だらうとは考へて居なかつた。自分までゞもう五十一代、肉身の相続で此十一面観世音に御仕へ申すと謂つて居られた。一宗の事相は淵底を究めた篤信の聖である。日本の国風に是ほどよく適合した永い歴史の一宗派を、何で又取潰して只の真言寺に編入してしまつたかと、六尺もある大きな体を前にのし掛かつて、まるで私がさうしたかの如く、真正面から見詰められる。わしの寺は聖徳太子様の時から、俗生活の儘で成仏する教に基づいて、肉食もすれば妻子も育んで来たものだ。世中が変つたからもうよろしいと、それを大目に見て置かれる寺とは話が違ふ。世間が八釜しく無いだけで、只の寺に女房を置くのはあれは非如法じや、破戒ぢや。わしの方は教理ぢや。手を組んで並んで行かれるわけが無いのぢやとも言はれた。貴僧を見ると昔を見るやうな気がします。定めて戦国の頃などは、此地方の勇士の家々と縁組なされ、薙刀などで大いに働いた人たちが、此御寺からも何人か出られたことであらうと謂つて見ても、にこりともせずに、此宗派の独立せねばならぬことを説く人であつた。一度逢つたら忘れ能はざる上人である。
日向の延岡の近くに谷山さんの居らるゝことは、この深浦のひじりから聞いたのである。修験派独立の初期の運動に、東京は神田の電車の交叉点の近くで、全国の行人たちが大集会を催した事があつた。其所に兜巾鈴懸の昔のまゝの姿で、期成同盟に馳せ加はつたのは、竜仙寺の法印一人であつたさうだ。自分の寺は旧藩公の時代から、此行装で寺禄を食み祈祷を仰せ付かつて来た。世間を憚かるべき道理はないと、立派に言切つて居られたと謂ふが、自分が話をして見た感じでは、海浦さんと同様小児よりも無邪気で、些しも山伏一流の高慢な様子などは無かつた。
それとは反対に寧ろ寂莫たる陰影が有つた。津軽の御寺でも二三年前に、自分等より大分若い篤学なる嫡子を亡なつた。次男は絵などを描く人である。さうして同志と為る弟子たちが少ない。自分は日向へ来てこの気の毒な話をすると、しきりに谷山さんの顔の色が曇つた。実は私の方でも相続させる積りの倅が死にました。その次は実業の方に居る為に呼戻しもならず、十五に為る孫を是から仕立てることになつたとある。其少年は今戸口に立つて、いつまでも帰る自分の後影を見て居るのがさうらしい。自分は旅人だから、勿論ずん/\往つてしまふ。しかもこの閑かな山の寺の人々とても、やはり亦世中の道をあるいて居て、一つ処に永くたゝずんでは居られぬのである。 
 
伝説緒話

 

奥能登あえのこと 
奥能登一帯に伝わる田の神行事。全国的に「田の神様」と呼ばれる神事が伝承されているが、奥能登のものは、古式と厳格さをとどめており、きわめて貴重なものである。一般的に、アエは神を供応する「饗」、コトはハレの行事を意味する「事」で、「饗の事」と考えられている。
田の神は夫婦神で、稲穂で目を突いたとか、長い間暗い土の中で働いておられたために目が不自由であるとされ、所作のいちいちに言葉掛けを行なう。12月5日に、正装した主人が田まで神を迎えに行き、メバル、ブリ、二股大根など海の幸・山の幸で供応。いろりで暖をとってもらい、風呂に案内したあと、春までゆっくり休んでもらう。2月9日に再び田へ送り出す。  
奴奈川姫 
「奴奈川姫(ぬなかわひめ)」は『古事記(こじき)』や『出雲風土記(いずもふどき)』などの古代文献に登場する高志国(現在の福井県から新潟県)の姫であると言われています。
『古事記』では出雲国(今の島根県)の大国主命(おおくにぬしのみこと)が沼河比売(= ぬなかわひめ?)に求婚に来た、とあり、また、『出雲風土記』では天の下造らしし大神(大国主命)が奴奈宜波比売(=ぬなかわひめ?)の命と結婚して御穂須々美(みほすすみ)命を生み、この神が美保に鎮座していると記されています。
あくまでも伝説ですが、それでも奴奈川姫を祭る神社が糸魚川・西頚城地方に多く、また、考古学的資料にも恵まれていること、さらには『万葉集(まんようしゅう)』の記述にある「沼名河の底なる玉…」との関係をみても、奴奈川姫は神秘的であり、姫にまつわる伝説がこの地方に多いのも興味深いものです。
1 西頚城郡の伝説
1.奴奈川姫の遺跡
青海(おうみ)町黒姫山の東麓に「福来口(ふくがくち)」という大鍾乳洞がある。ここに大昔、奴奈川姫が住んでおり、機(はた)を織っては、洞穴から流れ出る川でその布をさらした。それでこの川を「布川(ぬのかわ)」という。この福来口から二里ばかりの所に「船庭の池」がある。これは姫の船遊をされた所だという。又今井村字今村との境に「東姥(うば)が懐(ふところ)」「西姥が懐」という地がある。ここは姫を育てた乳母の住んだ所だという。黒姫山頂には姫を祀(まつ)った石祠(いしぼこら)があり、毎年四月二十四日の祭には多勢が登山する。その際不浄な物を身につければ上られぬという。青海町字田海(とうみ)には、この石祠の拝殿、山添(やまぞえ)社がある。渇水や霖雨(りんう)の時は祈願をする。
2.奴奈川姫の産所
能生谷(のうだに)村大字島道(しまみち)字滝の下に、岩井口(いわいぐち)という所がある。水がこんこんと流れ出ている。人々は奴奈川姫の産所であるといっている。
3.経ヶ峰
西海村字平牛(ひらうし)の経ヶ峰には、太古には奴奈川姫の一族が住み村の形をしていた。その峰の頂には神に捧(ささ)げた金幣(きんぺい)が埋められてあり、毎夜光を放っていたので沖の漁師の標(しるし)となったという。また、平牛の某(なにがし)が西国三十三番を巡り帰国の後、経札を三十三の塚に埋めた。これを「平牛の三十三塚」といい、この経ヶ峰は初一番だという。
4.飯塚
西海村字平牛の田圃(たんぼ)中に大きな土饅頭(まんじゅう)のように盛り上がった飯塚(いづか)の森がある。今は諏訪明神が祀られており、盆踊唄にも「平牛の飯塚の森にあ 鳥とまらぬこりゃ不思議」とうたわれている。
この塚には次のような二つの伝説がある。大昔この地に住まれた奴奈川姫が御使用になった食器を埋められた所であるという。もう一説は、義経に従って此の地を通った弁慶が、畚(もっこ)に土を小山のように盛って投げつけたので出来たのである。その時もう一つ投げたが、それはどこだかわからないという。
5.宮地
能生谷村大字柵口(ませぐち)の権現(ごんげん)岳は、奴奈川姫の旧跡で、今の宮地は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の住まれた所だという。
6.奴奈川姫の石
浦本村字鬼伏(おにぶし)の海岸と山とに、三個の質も形も同じ石がある。これを奴奈川姫の「おもちゃ石」といっている。
7.羽生の不動滝
西海村字羽生(はにゅう)の北西海小学校の裏に、不動滝がある。昔平牛の山に、奴奈川姫がおいでになり、火の玉となってこの滝に来、目を洗って眼病をなおしたという。後に或る武士が姫を祀る為に、一振の刀を埋め、不動明王を安置したという。
8.奴奈川姫の鏡
青海町の福来口(ふくがくち)に住んで居られた奴奈川姫は、出雲(いずも)族に攻められ、夜しめ川(今の姫川)を渡り大野村に、秘蔵の鏡を埋めてかくされた。今の信用組合裏の地蔵さんの所だという。
9.駒ヶ嶽(こまがたけ)
根知村字梶山(かじやま)の駒ヶ嶽は、ひし(絶壁)の所に駒に似た白い瘤(こぶ)があるから、付いた名だ。そこの鰐口(わにぐち)といふ洞穴に、昔明誓上人(みょうしょうしょうにん)が修行していたが、一跳に字根小屋(ねごや。現在は糸魚川市大字根小屋)へとび、尻をかけた所が、今井村字しりかかりという所だ。一説。奴奈川姫が駒ヶ嶽の麓(ふもと)に居られた時、大国主命が尋ねて来た。門口に男と女の声がした。男は土地の神であった。二人は賭(かけ)をし、大国主は牛、土地の神は白い駒に乗りとんだ。土地の神は早かったが、駒は動かず石に化してしまった。それで大国主の牛が先に洞穴へついた。又根知村字蒲池(がまいけ)の中上方(なかじょほう)に、駒の蹄(ひづめ)の跡のついている岩がある。青海町の黒姫山から、駒ヶ嶽へ大黒様が駒に乗って跳ばれたが、その岩に一寸駒の脚がかかったのだという。
10.市野々(いちのの)の地名
西海村字市野々の地名については、次のような話がある。
奴奈川姫の夫は松本の豪族であったが、大国主命との間に争を生じた。豪族は福来口で戦い、敗けて逃げ、姫川を渡り、中山峠に困り、濁川(にごりがわ)の谷に沿うて、市野々に上って来た。登り切って、後を望み見た所が、今の「覗戸(のぞきど)」である。大国主命に追いつめられ、首を斬られてしまった。後祀られたのが今の「大将軍社」である。豪族の駒は、尚奥へ逃げ込み、遂に石になってしまった。今根知村(現在糸魚川市根知地区)字梶山の向いの黒い絶壁に、白い馬の形となっている。その山も「駒ヶ嶽」といわれるようになった。
市野々という村名も、元は「一奴奈」であったのが、「一布」となり、更に市野々と変わったのだという。
11.権現岳の地名
能生谷村字柵口の背の権現岳には、奴奈川姫に関する地名が多い。中腹に「胎内(たいない)」という岩屋がある。奴奈川姫の住んだ所で、麓の「横清水(よこしょうず)」は飲料水であった。これは奴奈川姫が杖で突いて出した清水である。その中間に「わらじのぎ」という所もある。大国主命に追われて来たのだという。
12.西山の白山様
根知村字西山(にしやま)の白山様の柱は、全部一本の欅(けやき)を引き分けて建てたものだ。この宮の御神体は「奴奈川姫の焼飯(やきめし)」という石で、盗んで行っても、屋根を越して字蒲池へ向くと、重くなって担げないという。この神様は山犬を嫌いだから、西山には山犬の巣くう所が無かったという。
2 天津神社並奴奈川神社より
1.西頚城(にしくびき)郡田海(とうみ)村を流るゝ布川の川上に黒姫山と云ふ山あり、奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと)の御母黒姫命の住座し給ひし山なり、山頂に石祠あり黒姫明神と称す、又黒姫権現(ごんげん)とも云う、此(こ)の神こゝにて布を織り其(その)川の水戸に持出で滌曝(てきぼう)まししによりて布川と云ふ。此神の御歌に「ここに織る此の荒たへはかの海の小島にいますわがせの御衣」 と。
2.黒姫山の半腹に福来口(ふくがくち)と称する洞穴あり、洞口高百五十尺、横七十尺、遠く之(これ)を望めば門扉を開くに似たり、水洞中より出で流れて川となる即ち布川の水源なり、古昔奴奈川姫命の布を織りし所なり。福来口は蓋(けだ)し夫来ヶ口ならんと。
3.西頚城郡に姫川と云ふ川あり、糸魚川と云ふ町にあり、糸魚川はもと厭川と書きしと云ふ。之れ奴奈川姫命が今日の姫川を渡りなやませたまひてかく呼びたまひしによると。
4.糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子(ちご)ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦(あし)原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。
5.奴奈川姫の命は御色黒くあまり美しき方にはおはさざりき。さればにや一旦大国主命に伴はれたまひて能登の国へ渡らせたまひしかど、御仲むしましからずしてつひに再び逃げかへらせたまひ、はじめ黒姫山の麓にかくれ住まはせたまひしが、能登にます大国主命よりの御使御後を追ひて来たりしに遇(あ)はせたまひ、そこより更に姫川の岸へ出(い)でたまひ川に沿うて南し、信濃北条の下なる現称姫川原にとどまり給ふ。しかれとも使のもの更にそこにも至りたれば、姫は更にのがれて根知谷に出でたまひ、山つたひに現今の平牛山稚子ヶ池のほとりに落ちのびたまふ。使の者更に御跡に随(したが)ひたりしかども、ついに此稚子ヶ池のほとりの広き茅(かや)原の中に御姿を見失ふ。仍(より)てその茅原に火をつけ、姫の焼け出されたまふを俟(ま)ちてとらへまつらんとせり。しかれども姫はつひに再び御姿を現はしたまはずしてうせたまひぬ。仍て追従の者ども泣く泣くそのあたりに姫の御霊を祭りたてまつりしとなり。
6.根知谷上野村に御所と呼ぶ所あり、小高く土を盛り、四方を切石にて囲む、之れ奴奈川姫命宮居の跡なりと。
7.根知谷に上澤、大神堂(だいじんどう)の二ヶ所あり。上澤はもと神澤、大神堂はもと大神道と書きしが明治六年地権の際現在の如く改めしなり。いづれも大国主命と奴奈川姫命とに関係ある史跡ならんと土人云ひ伝ふ。
8.根知谷山口山にジンゾウ屋敷と呼ぶ所あり、之れ往昔奴奈川姫命の従者の住居せし跡にして、同谷山寺日吉神社裏山に奴奈川姫命の神剣埋めありと。
9.根知谷別所(べっしょ)山に牛の爪の痕(あと)の三つ刻まれある岩と、馬の足跡の一つ刻まれたる岩とあり。昔奴奈川姫命に懸想したる土地の神が大国主命の来りたまひて姫を娶(めと)らんとしたまひしを憤り、大国主命の宮居へあばれ込み、論争の結果、山の高所より跳びくらべをなし勝ちしもの姫を得ることにせんと約す。即ち土地の神は黒き青毛の駒に跨(またが)り、大国主命は牛に乗り給ひて、駒ヶ岳の絶頂に立つ。茲(ここ)に於(おい)て先づ土地の神馬に鞭をあててその絶頂より飛びしにかの馬の爪痕の残れる別所の一角に達す。次に大国主命牛をはげまして飛びたまひしに、不思議にも馬の達せしところより二三町先なる地点に達したまふ。之れ今日なほ牛の爪痕の残れる岩のあるところなり。然るに土地の神この結果を見て更に大に憤り、今一度勝敗を争はん事を求む。大国主命快く諾ひたまふ。仍て土地の神先づ憤激にまかせて、馬を飛ばせしが、天なる神の咎(とが)めやありけむ、僅(わず)かに駒ヶ岳の中腹に達せしのみにて、しかも馬毫(わずか)も動かず、そのまま石に化し了(おわ)る。今なほ駒ヶ岳の中腹に馬の形をしたる岩石ありありと見ゆ、即ち之れなり。而して此の馬、石と化してもなほ時候の変り目などには折々寝返りをなすとは今日尚ほ土俗の信ずるところなり。
10.姫川の上流なる松川に姫ヶ淵と名づくるところあり、之れ奴奈川姫命の身を投げてかくさせたまへるところなりと。
11.長野県北安曇郡此小谷村に中又と呼ぶところあり、ここにて奴奈川姫命建御名方神奴奈川姫二柱なり。
12.姫川の上流姫ヶ淵の付近にコウカイ原と云ふところあり、ここにて奴奈川姫命その御子建御名方神と別れたまひしところなりと。
13.糸魚川の地方にては毎朝鶏鳴(けいめい)を待ちて一同起き出で屋内、門前等の掃除をなす、此は奴奈川姫の古事によりて今に替らず、これ当国中に曽(かつ)て見得ざる所なりとは越後風俗志の誌(しる)すところより。
3 北安曇郡郷土誌稿より
1.山王池
北小谷村戸土(とど)区戸土神社の横手に山王池がある。諏訪明神御出生の砌(みぎり)、此の池の水を用ひて産湯になされたと云ひ伝へてゐる。尚この池の水は越後の根知村山寺の山王神社の御手洗水に通じてゐるとも云はれてゐる。
2.姫淵伝説
北城(ほくじょう)村字大出(おおいで)の地籍に属する姫川の中程に、姫淵(ひめがふち)といふ深い淵がある。大昔沼川姫の御入水の淵だと言はれてゐる。姫淵も姫川もこのことから名づけられたのだ。尚姫は入水に当つて一子を残された。その御方が諏訪大明神だ。
3.奉納の古宮の梨の木とうば杉
中土(なかつち)村奉納(ぶのう)部落の入口に小高い丘があつて、昔そこに奴奈川姫を祭つたお宮があつた。古宮と云つてゐたが、白鳳年間に部落の上の方へ移して諏訪神社と云ひ他の神様も合せ祀つて村の産土神となつてゐる。其の古宮のあつた処に今高さ四尺幅二尺五六寸厚さ一尺位の、石の墓標(はかじるし)らしいものが建たつてゐて、奴奈川姫の墓じるしだと云つてゐる。此のそばに二抱へもある梨の木があるが、昔から伐ることを禁じられてゐる。此の梨の木に実がなれば其の年は「けかち(凶年)」だと云つてゐる。今まで出逢つた「けかち」には大てい実がなつた。又其の近くに「うば杉」と云ふ杉の大木があつた。松本城主某が築城の為めこれを伐つて松本まで運搬方を命じたが、伐る時四方へとび散つた木片が忽(たちま)ちとびかへつて来て元通りにくつゝき、又鋸(のこぎり)で挽(ひ)けば血が出たりして困つた。そこで其の木片全部を焼き棄てた。此の木の長さは三十三丈余もあつて、伐り倒した時は此部落の入口の沢に橋にかゝつたと云ふ。又此の木を運んで今の平(たいら)村木崎(きざき)辺へ来た時、重くて容易に動かなくなつた。その木の先が此の地にさしかゝつたので、此地方を木崎(木先)と云つたのだと云ふ。
奴奈川姫の墓じるしのある所から少し離れた道下に、「おてふ塚」と云ふ塚がある。これは姫に仕へた腰元の墓だといふ。
4.姫ヶ淵
中土村館山(たてやま)の中央、姫川筋に深さ幾尺あるか測り知れない凄い淵があつて、姫ケ淵と呼ばれてゐた。昔建御名方命の母奴奈川姫が身をお隠しあそばされたところだといふ。又一説には平倉城の落ちたとき、城主飯森十郎盛春の娘某が名馬に乗つて一鞭あて、平倉城から中谷川を跳越し飯山の麓に到り、この淵へ入水したのだともいはれてゐる。南小谷村にも姫ケ淵と呼ばれてゐる淵があるが、ここは大昔奴奈川姫が越後から姫川を遡つて休まれた処なので姫ケ淵といふようになつたのだといひ、姫川の名もこれから出たのだといふ。又この淵の涸れたときは国に変事のある前兆だといひ、日清・日露の両戦役の前には実際水の涸れたことがあつた。
5.行人塚
南小谷村親ノ原部落の千国街道の西側に小丸山といふ丘陵があるが、ここに三体の石仏像と石塔が一基あつて土地の人は行人塚といつて居る。行者を葬つた塚だともいひ、或ひは又親ノ原は親納原で奴奈河姫の御霊を納めた塚であつて、崇神天皇様の御代の建設だともいつてゐて判然しない。又附近からは土器石器等の破片が沢山出る。 
指さしごうろ・指突きごうろ  
地質研究者の横山裕さん兄弟は小学生の頃、太郎山山麓の上平地籍で遊びの一つとして土器片拾いをしてたそうな。ある時兄がこっち側から弟が向こう側から掘り上げた物は、土管を半割した形の布目瓦であったそうな。
今は「西小学校蔵」となっているけれど「あれは、まぎれもなく、ぼく達兄弟が採集したんです」と目を輝かせて語った事が心にずっと残っていた。
初秋の頃、横山さん夫妻におねだりをして現地に案内していただき、土器片を畑の畔道の小石の中から拾った。
話者によって話の違いはあるのだけれど、神科方面からやって来たデーダラボッチか太郎山の天狗が指をちょんと突いた場所に「指さしごうろ」または「指突きごうろ」と呼ばれる「ごうろ」が太郎山にあるが、その辺りからの小扇状地が上平地籍である。山に向って右の沢が虚空蔵沢、左側の「ごうろ」近くには湧水の「おはぐろ池」がありその続きに寺沢がある。
布目瓦採集後の昭和43年5月に上平遺跡の発掘が行われたそうで、その調査報告書を読むと、上平の地は、遺物から見て縄文中期からの生活の痕跡が認められる場所である。須恵器の古窯址が発掘されたり弥生時代後期の石組みを伴う土拡墓も検出され、その中から弥生後期箱清水土器と言われる丹塗りの土器片が多く採集されたそうである。
我々も、報告書にある丹塗りや櫛描波状文の土器片を拾った。
信濃 太郎山山麓  
茶ノ木稲荷神社 
古くはこの地を「武蔵の国稲荷山」と称し、この山のような地形を聖地と定めた弘法大師が、稲荷神社を立てたのが始まりです。従って、市谷亀岡八幡宮が遷座してきた江戸初期までは、800年以上は茶の木稲荷神社がこの地の本社でした。眼病平癒に関して特に霊験新たかと言われていますが、以下の伝説によるものです。
「稲荷大神の使いである白キツネが茶の木で目を突いて、怪我したことから、崇敬者は正月の3日間茶を断つと病気が治るいわれています。とくに眼病の人には霊験あらたかといわれ、17日、37日、77日の間お茶を断って願えばご利益が授かるそうです。」
新宿区  
寸倍石 
北野新田(加古川市野口町)の公民館の庭に、「寸倍石」と呼ばれている不思議な石があります。「ズンバイシ」と読よみます。この石には、こんな話があります。
「・・・弁慶が高御座(たまみくら)で弁当を食べていたら、飯の中に小石が混じっていた。ポイと投げたら鳥が岡の林の中に落ちた・・・」と云うものです。
そのうちの一個が北野新田の公民館に置かれ、もう一個は、村人が水足の墓地に運こび、ズンバイシの台の部分を石碑の土台に利用したといいます。この石は、北条郷(神野村)との境界を示す境界石(膀示石−ぼうじいし)であろうと言われています。石見完治氏も、「これをスエイシと呼び、境界点に据えられた石であろう」と考証されています。
播磨鑑(宝暦12年−1762)に、次の説明があります。俗に「ずんばいし」と云う。これ北条の郷の堺也。形鞠の如し・・・
野口村阪元 
しやぶぎ婆石塔 
川越市の喜多町の広済寺には、縄を結びつけておくと咳が止まると伝えられる石塔がある。高さは60センチほどで、四肢はない。咳が治ったら縄をほどいてやるとよいとされるが、常にぐるぐる巻きに縛られている。しやぶき(しわぶき)とは、咳の古語。喘息などで苦しむ人が多い現在でも、古くからの民間信仰が受け継がれている。
1
咳のおば様の石は東京だけでなく、元は他の県にもそちこちにありました。 例えば川越の広済寺というお寺の中にも、しやぶきばばの石塔があって、咳で難儀をするのでお参りに来る人がたくさんにあったそうですが、 今ではその石がどれだか、もうわからなくなりました。しわぶきは古い言葉で、咳のことであります。
「川越の民話と伝説」には、 広済寺のしわぶきばばの石は現在もあり、百日咳や風疹によくきくと言われて、お詣りする人が多いと紹介されています。
2
咳のおばさまについて、「久米の仙人」で、つぎのように述べています。
このように、女のために神通力を失ってしまい、空から下界へおっこちることを「久米の仙人」、略して「粂仙」などと言う。 この久米寺で飛行機の墜落よけのお守りを売っているのは、日本的でなかなか愉快である。 今の論理ではおかしいが、墜落した者が、こんどは墜落せぬように守るという考え方は、日本民族にあっては、ほかにも見られることであって、 たとえば、咳のばばあとか、咳のおばさまと呼ばれている小さなおばあさんの石の像が方々に遺っており、たいてい、小さな子どもたちが咳が出て困るという時、 このお婆さんに頼むとじきになおる、と言い伝えている。 このばあさんは自分が咳で苦しんだから、子どもの咳をまもってくれるのだ、と考えられているようなものである。 つまり、自分が出来なかったことを、他人の身においてしようというわけで、「悲願」とはこれである。
埼玉県川越市喜多町  
婆石 
婆石
早池峰山は、霊山として女人禁制の戒律が厳重だった…。
昔、一人の巫女が女の身であるが神に仕えるものであるから障りはあるまいと、早池峰山へと登りかけると忽ち山霊の怒りにふれて登山を阻まれ引き返してきたが、此処で連れていた犬と共に石に化したと伝えられている。
石上山の話と似通っている話ではあるが違いは、石上では巫女が吹き飛ばされたのに対し、ここでは自力で戻ってきた。また石上での話は牛に乗って山へと向かったが、ここでの連れは犬である。それと石上山にある石は「姥石」だが、ここの石は「婆石」である。
平安時代から山伏が山を占拠した為、巫女は山に出入り禁止になったという説がある。
また、昔は性に関する知識が乏しく、女性は人間以外の獣と交わる可能性があるので、それを避ける為に入山禁止として女性を守ったという説がある。
姥石(おばいし)
舘山阿武隈川の北岸河中にある大小二個に分れ廻り六丈余の巨大石でその半面を水上に露出している。伝説には昔、村の若者が朝、草刈に行き藤の花に見惚れてる中に鎌を水中に落とした。鎌は巨石の水底に見えるので水中に飛び込んだ所、彼はそのまま帰らなかった。星は(月日は)移り物変わり幾百年、若者の家に一老翁が尋ねて来そして今までの経過を物語った。それは恰も浦島太郎龍宮物語と大同小異のそれであった。若者は巨石の奥の細道から水宮玉殿に至り四六時中春色暖かい夢の王国に遊んでは乙姫ならぬ美女に愛されて来たと・・・。(伊具郡史)
爺婆石(じじいばばあいし)
武州の横瀬村につたわる石。むかし田んぼで仕事をしていた欲張りな爺様と婆様がお日様が西の空にしずんでしまうのを見て「こら、仕事が終わるまで出ていやがれ、戻れ戻れ戻れっ、もう一度でてこいっ」と呶鳴りちらしたら、お日様がしずむのをやめてのぼって来て、ふたりをあっという間にこがして石にしてしまった、と言われています。

お日様を戻して罰をうけるのは総州の「ちわがいけ」などと同類です。
爺石、婆石
昔、松代の金持の年寄り夫婦が、上田に住む娘の所へ孫が生まれたお祝いに行こうと籠で地蔵峠を越えた。しかし、そのときの籠かきが性悪な二人で、金剛寺峠に差し掛かると夫婦から金を奪い、籠ごと山の中へ放り投げて行ってしまった。その時、転がり落ちたおじいさんは山の途中に引っかかって爺石に化け、お婆さんは林の中で止まって婆石に化けた。また、籠は山の神の傍に落ちて籠岩に化けた。
長野県上田市
巾着石
むかし、むかし、光明横川村のおうた婆さんが、友達数人とさそい合って、四国の金比羅さんへお参りに出かけて行った。そして何日もかかって、やっと金比羅さんへ到着した。「ああ、あ、やれやれ。ここが金比羅さんかいな。さあ、ようく、拝まにゃあ。」お婆さんたちは、一生懸命にお祈りをした。そのうち、「せっかく、こんな遠い所まで来たんじゃ。何かよい土産は、ないもんかなあ。」と、あたりを、きょろきょろしていたおうた婆さんは、いいことを思いついた。「そうじゃ。金比羅さんの境内にころがっている、この小石を、一つだけ失敬していこう。」おうた婆さんは、小石をそっと拾って、巾着袋に入れて、持ち帰った。
やがて、無事家へ帰ったおうた婆さんは、その小石を巾着袋から取り出して、神棚にあげ、毎日お祈りするようになった。しばらくしてからのことである。「あれ、この石、何だか大きくなってきたようだが・・・・・・。」おうた婆さんは、不思議な気持ちで小石を見た。そのとおり、それから毎日、小石は少しずつ大きくなっていく。そして、とうとう神棚にまつっておくことができないほどに、大きくなった。「仕方ない。悪いけんど、外へ出すことにしようかのう。」おうた婆さんは、そう言いながら、石を庭先へ出してしまった。それからまた数日が過ぎたある夜、おうた婆さんは、きれいなお姫さまの夢を見た。
お姫さまは、「私は、お前の巾着袋に入れられて、はるばる四国の金比羅権現からやって来た、石の精じゃ。いくら石じゃとて、雨ざらし、日ざらしはつらい。夜の寒さも身にしみる。」と、うらめしそうに言いながら、消えていった。おうた婆さんはびっくりして、早速祠を作って、石をおまつりした。
それから後、みんなはだれ言うことなく、この石を『巾着石』と呼ぶようになった。
巾着石は、今でもしっかりと祠の中におさめられて、万病の神さまとされている。  
関の姥石(せきのうばいし) 
千葉県富津市関にある石。高さ約5尺(1尺は約30.3cm)、周囲28尺。形は八角で、上面に穴がある。もとは路傍に2個あった。関の御場石ともいう。かつてこの地に関所があり、その礎石であろうという。道路改修のさい、1個を取りのけたところ、祟りがあったとつたえ、残り1個を南方山上に安置して石凝姥命を祀り、これを姥神となづけた。
御場石の名は、セキの語から関所を連想したこじつけの説であり、セキはせきとめる意で、塞の神の塞などと同じ意であり、そこに神を祀るふうはふるく、例はおおい。
村落の境に神を祀ることと石に霊魂のやどる思想と女性が神の祭祀にあずかる民俗が習合して、石を姥とし、あるいは姥石と称するようになったのであろうという。
2
関には「姥石」と称する大きな石があります。巨人の姥が頭に載せてきたもので、姥石の上に載っている小さな石は、姥がたもとに入れて来たと言い伝えられています。
また、志組と中倉には、この姥の足跡と伝えられている足の形をした水田があると言われ、それは1里(約4km)もの歩幅があるそうです。
姥石には加工の痕がはっきりしていて、八角形に角が取ってあり、上部に凹形をした穴があります。石質は砂岩で、外径2.4m、高さ1.2mです。この巨石が何であるかは、まだはっきりとわかってはいませんが、早くに民俗学者の柳田国男も取り上げており、いろいろな説があります。関所の柱の台石、寺の塔礎、巨人への信仰などさまざまです。「関」と「せき」の音をかけて風邪の神様とも言い、姥神事にも転じ、さらにこの姥石の上の石に触れる人がいると地元に火事が起こるとも言われています。
いずれにしても、巨石信仰・巨人伝説・民間信仰などを包蔵しながら地元では大切にされています。
3
むかしこの地に、大きな姥が住んでいた。その姥は、猿に木の実を集めさせて、大きな石臼で粉にして、木の実団子を食べていた。・・・(中略)・・・ある日、猿を相手にすることにあきて、話し相手になる大男を求めて旅に出ることにした。その時、ふところに入れておいた石臼を落としてしまった。この姥の大きさは、大股であるくと、片方の足が関で、もう片方の足は吉野というくらいだったそうだ。姥が落としていった石臼が、「関の姥石」だという話である。 
明光寺雷神石(みょうこうじらいじんせき) 
雷神石は高さ135センチメートル 、幅75センチメートル、厚さ42センチメートルで、凝灰岩製の遺品です。
碑の前面には、上部に右から左へ「天照山(てんしょうざん)」、 中央に「天下和順日月清明(てんか わじゅん にちげつ せいめい)」、 右列に「檀主安全子孫繁(だんしゅ あんぜん しそんはん)」、 左列に「伽藍常栄興仏法(がらん じょうえい こうぶっぽう)」、 右側面に「弘治三丁巳九月吉日 可信(こうじさん ひのとへび くがつ きちじつ かしん)」と彫られています。弘治三年は1557年になります。
この碑は、江戸時代の『河内名所図会(かわち めいしょ ずえ)』の明光寺の項に「一ケの奇石あり」と紹介されていますが、その名の由来は不明です。
形状、材質から石棺を再利用したもので、裏面に加工された形跡がないことから、家形石棺の身の部分と考えられています。
かつて、明光寺のある打上周辺は「八十塚(やそつか)」といわれ、多くの古墳がありました。 この石棺もこれらの古墳の中に納められていたものと考えられます。
寝屋川市 打上元町
雷神石と船魂様
高神村の漁師の弥平は村一番の働き者だ。その上、浜は連日イワシの豊漁で、網を入れれば船に揚げきれないほど魚が獲れ、暮らしに困ることは無かった。弥平にはまだ嫁がない。母親と二人暮らしだ。父親は三年前の大時化で死んでしまった。だから、母親はいつも弥平のことが心配でならないのだ。一人で漁に出る弥平が無事で帰ってくるように、高台の渡海神社と港の大杉神社を毎日拝んでおった。 正月の七日の朝、漁師らは三社詣りに出た。東大社、豐玉姫神社と見廣村の雷神様に、毎年豊漁と漁の無事を祈る慣わしになっている。この三社は昔、この浦が地震と大風・高波に襲われた時、御幸して鎮めてくれた神様だから、今でも皆でお参りに行くことになっている。弥平等が、橘村の東大社と良文村の豐玉姫神社を参拝し、雷神様に着いたのは、昼近くになった。祈祷を受け無事お参りも済まし、神社の相撲場に座り、てんでに握り飯食った。弥平が尻に敷いていた手拭を持ち上げると、一寸ばかりの扁平な玉石があった。気に留めるほどもないただの石ころだが、「何かのご縁だ。船魂様として船に祀っておこう」 と思い、御札と一緒に懐に入れて持ち帰った。母親は大層喜んで、崖下の清水で玉石を洗い、弥平の船に祀って息子の無事を祈った。 ある日、弥平が海に出ると、何度網を入れてもイワシがかからない。イワシばかりか雑魚一匹獲れない。朝から風もなく、波も静かで良い日和なのに、不思議なこともあるもんだ。 そろそろ潮時で、今日は漁をあきらめて帰ろうかと、何度目かの網をあげだすと、舳先の方でことこと、ことこと、と音がする。行ってみると、雷神様で拾った玉石が、船が揺れてもいないのに、動いて音を立てている。妙なことだと玉石を見ているほどに、水平線に黒い雲が湧き出し、そっちから風が吹きだした。おやっと思っている間に、どんどん雲は広がり風も波もたってきた。 弥平は、手早く網を上げると、大急ぎで船を漕いで港に帰ってきた。港に着いた頃には、波は岩場を越え大荒れ、風は漁師の家の屋根を吹き飛ばそうというほど強くなった。やがて稲妻が空を切り裂き、大雨が降り出したが、仲間の船は帰ってこない。弥平は、雷神様の玉石を握り締め、犬若の岩場に登り沖を見た。漁船が幾艘も波に揉まれているのが見えた。「雷神様、皆を守りたまえ」 弥平はそう叫んで、玉石を海に向かって思い切り投げ、一心に 「雷神様、雷神様、雷神様……」と叫び、祈った。 すると、次第に雷はおさまり、雲間から光が差して波も治まり、仲間の漁船も港に帰ることができた。 弥平は、仲間の漁師に今までのいきさつを話すと、皆は 「海が荒れるのを雷神様が教えれくれた」と口々に言い合い、雷神様にお礼参りに出かけた。  それからというもの、雷神様の正月参りの時には、境内の玉石を拾い、密かに船の守り神として祀る漁師が多くいたということだ。 いつのことからか、玉石は雷神石(らいじんせき)と呼ばれ、一年間船に祀られ、翌年の正月参りの際に雷神様の境内に帰し、新しい玉石を拾って帰るようになったということだ。
雷神社 千葉県旭市見広
金村別雷神社
小貝川の畔、つくば市上郷の地に、金村別雷(かなむらわけいかづち)神社がある。祭神は別雷大神で、931年に京の賀茂別雷神社から分霊を受け創建された。県指定の有形文化財で、茨城百景の一つでもある。水戸の別雷皇太神、群馬県板倉町の雷電神社とともに関東三雷神とされる。
別雷とは若雷のことで、若々しい力に満ちた雷の意。別雷大神は雷を支配統御する神で、霹靂で邪悪を正し災難を消滅させるという荒魂と、旱天に慈雨をもたらすという和魂の二面の神格を持つといわれている。
雷という字の付く神社は、落雷多発地域の河川沿いにあるのが共通点で、この社も小貝川の堤防に挟まれた河川域(沖積低地)にある。普段は無人らしくかなり荒れた感じだが、18世紀建立の本殿は覆屋で覆われた二重構造を持ち、拝殿・回廊・神楽殿とともに風格ある佇まいを見せている。また境内には、威風堂々たる榎の老神木や14柱の合社がある。 
半世紀前までは参道沿いに鳥居前町があったらしいが、河川改修で町全体が移転し廃業したという。現在は釣り人以外、来訪者はあまり多くない。  
袂石 
日本の伝説の中には、袂石伝説というのが全国に散らばっているらしいのです。
ビンゴの太郎左衛門 毎年安芸の宮島に参詣していたのですが、ついに歳をとってきて、もう来年からはくることができないでしょうと言って帰ってくると、懐に小さな石が入っていて、誰かがいたづらしたんだろうって、海に捨てたそうですが、翌日、いつの間にか同じ石が懐に入っていて、あまりに不思議に思って、これは神さから頂いたものだろうと社を作って、その石を厳島大明神といって崇めていたら、、その石がだんだん大きくなって一尺8寸の高さの石になったそうです、なるほど一尺というのは3.3センチですから、6センチ近くの大きさだから、懐に入っているのを気づかないわけがないから、やっぱり大きくなったのか知らんとは、思惑はないけれど、そんな馬鹿なことがあるもんかともおもうのです。
伊勢の山田、船江長に残っている伝説は、菅原道眞を筑紫、九州太宰府に送って行った渡会春彦という人が帰りに播州袖の浦で拾ったさざれ石も年々大きくなって、白太夫の袂石と呼ばれる大石になったそうで、大きくなって行ったって思われているのです、祀っているところは菅公社になっているそうです。
肥後に、滑石村というのがあって、ここの石は神功皇后が三韓征伐のおかえりの折に、懐に入れて持ち帰った小石が大きくなったものだと言われていました。 
成長する石 
むかし信州伊那郡の今田村というところで、娘が天竜川の河原で綺麗な小石を拾って袂に入れて帰ろうとすると、途中で石が大きくなり、驚いて水神の社のそばに石を放り投げたところ、その後も石は大きくなり続け、今は巌のようになっているという。
あるいは、ある石を一晩見ないでいたら大きくなっていたという伝説もあります。石が成長することもあるわけです。ですから長い年月のあいだには、小さなさざれ石も巌となるわけで、「君が代」ではそのことを歌っています。民俗学者はみなそう言います。巌になるまでの年月は、千代ないし八千代で、五劫の擦り切れとは逆の話になります。
わが君は、千代に八千代に、さざれ石の巌となりて、苔の生すまで  古今集
急に成長するような石も稀にあるのでしょうが、実際はなかなか石の変化はわからないかもしれません。石の大きさの変化がわかるためには、今の石をじっと見つめて、その色や形や大きさなど全てを正確に頭に入れて認識しておくことが必要かも。アフリカの狩猟民族の視力は2.0以上だといいますから、人間にできないことはないのでしょう。
認識能力が落ちてきた現代の人間の場合は、石の大きさの変化に気づくのにかなり長い年月を要するかもしれません。20年になるか30年になるかわかりませんが、そんなに長い間、記憶を保持できるでしょうか。結局大事なのは、幼いころの記憶を忘れずにいる能力なのかもしれませんね。 
咳の婆様(しわぶき婆の石) 
咳の婆様(しわぶき婆の石)
8キログラムばかりの三角形の石で、これをしわぶき婆という。子どもが風邪にかかった時、いりゴマと茶をこの石に供えて祈ると風邪が全快すると言われている。この三角形の石は、昔、行き倒れた老婆を埋葬した跡へ、墓の印のために置いた石だといい、これを動かすとたたりがあると伝えられている。
中巨摩郡白根町
しゃぶきのばば
喜多町に廣済寺という曹洞宗の古刹がある。山門の右手に木造の小さな祠があり、地元で「しやぶきのばば」と呼ばれる、変わった石仏がある。大きさは約1メートルほど、荒縄でグルグル巻きにされている。傍に解かれた荒縄が無造作に散らばっており、小ビンににつめたお茶、豆が供えられている。
石像に違いないか、顔や手足など判らない。ただ人らしく彫ったと思われるほどの石像であるが、200ほど前から、庶民の信仰が厚かったことは、古い記録から伺われる。
「川越素麺」   寛延2年 (1749) の標題は「嚏姥」 はなひる
「三芳野名勝図会」 享和1年 (1801)  の標題は「嚏婆々塔」 しゃぶきのばばとう
「武蔵風土記稿」  文政11年 (1828) の標題は「嚏婆塔」
「嚏」は 「ハナヒル」と読み「くしゃみ」のこと
「咳」は 「シワブキ」と読み「せき」のこと
これらの、江戸時代の古典に載っている伝説は次のようなものである。

元禄の頃であろうか、上州厩橋の生まれという一人の浪人が喜多町に住んでいた。彼は、ある時用事があって外出し、夜も大分更けてから帰って来たが、暗い夜道を歩いていると、浪人の後から誰かが付いてくるような気配がした。
急いで門の戸を明けて、内へ入ろうとすると、やはり誰かが一緒に入って来た足音がした。見回したが誰もいるような様子が無かったが、明かりを点けて、家の中を見回すと、台所に一つの石があったがあまり気にとめずそのまましておいた。
翌朝、その石を見ると、石塔のような石だったので、俗家に置くのは、良くないと考え、広済寺納めた。
ところが、誰となく、咳や喘息の病気の時、この石を荒縄でからげ、病気平癒の願を掛けると不思議と効能があるという噂が広まって、願を掛ける人が後を絶たない。願が成就すると縄を解き、豆を煎って供えてお礼をするとよいとされた。
この伝承と信仰は、咳の神様として、今も続いており、地元で「しゃぶきのばば」と呼ばれ親しまれている。
埼玉県川越市
石の婆々様
「石の婆々様」は、元は築地の稲葉家の屋敷内にありましたが、現在は向島の弘福寺にあります。
弘福寺周辺には、三囲神社や長命寺など、さらに「長命寺の桜餅」や「こととい団子」など和菓子の老舗があり、何回もご案内をしたことがあります。
弘福寺は、隅田川七福神の一つ布袋尊が祀られていたり、中国様式の本堂(大雄宝殿:右写真)、与板藩井伊家寄進の梵鐘•池田冠山墓があり、史跡に事欠きません。また、弘福寺は、稲葉正則が開基のお寺で稲葉家と縁の深いお寺です。
その弘福寺の境内に「石の婆々様」があります。弘福寺では、「翁媼尊(じじばばそん)」とよばれていて、二つの石像が祀られています。その説明板には、次のように書かれています。 
「石の婆々(願懸重宝記2 江戸の祭礼と歳事)_c0187004_10335118.jpg この石像は、風外禅師(名は慧薫、寛永年間の人)が、相州真鶴の山中の洞穴に於いて求道して居た所、禅師が父母に孝養を尽くせぬをいたみ、同地の岩石を以って自らが刻んだ父母の像です、禅師は之を洞穴に安置し恰も父母在すが如く日夜孝養怠らなかったといわれております。小田原城主当山開基稲葉正則公が、その石像の温容と禅師の至情に感じ、その放置されると憐れみ城内に供養していましたが、たまたま同公移封の為小田原を去るにあたり、当寺に預けて祀らしめたものです。尚、古くよりこの石像は咳の爺婆尊と称せられ、口中に病のあるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快を得た折には煎り豆と番茶を添えてその礼に供養するという風習が伝わっております。」
こうした説明板もあることから、この石像が咳や口の病に信仰されていたというのを知っていました。しかし、「江戸神仏願懸重宝記」に載るほど江戸っ子に信仰されていたとは知りませんでした。
「江戸神仏願懸重宝記」には、つぎのように書かれています。
「木挽町つきぢ稲葉公の御屋敷に年古き石にて老婆のかたちを作りなしたる石像あり、諸人たんせきのうれひをのがれんことを願かけするに、すみやかに治する。願ほどきは、豆をいりて供ずるなり、小児百日ぜきすべて咳になやむ人これを信ずること往古よりの事なりとて諸人これを石の婆さまと称す。」
ちくま学芸文庫「江戸のはやり神」の中で、宮田登氏は詳しく書いています。
それによると、三途川で亡者の衣類をはぎとる奪衣婆は、三途川に関所を設けていることから関(石)の婆という呼び名があり、この関を咳と読みかえて、咳の婆さんと呼ばれ、子供の咳の病いに願かけすれば治るといわれているといわれていたと書いてあります。
さらに「江戸のはやり神」には 「咳の願かけの時は、かならず豆やあられなどの煎り物を煎じ茶とともに供えた。霊験あらたかな願掛けの仕方は、はじめに婆さんに咳を治してくださいと頼み、ついで爺さんのところへ行って、婆さんだけではおぼつかないから何分よろしくと祈願するのがよいといわれていたという。明治に入ってからは稲葉家の菩提寺の弘福寺に引き移されて、咳の神であるよりは、腰から下の病気に霊験ありといわれるようになって、供物に履物などが供えられていたという」 と書いてあります。 
赤子石 
手塚原の赤子石
むかし、吉岡のお城が敵に攻められ、下條さまの家族は美濃の国へ逃げて行くことになりました。そのとき、奥方さまはおなかに殿さまの子供を身籠っていました。奥方さまはやっとの思いで手塚原まで来て、入野へ登る急な坂道にさしかかったとき、突然おなかが痛くなりました。奥方さまは道ばたの大きな石の上に横になり、おともの人たちに助けられながら赤子を生みました。赤子は元気な泣き声を上げましたが、そのあとすぐに、石の上で死んでしまいました。奥方さまもおともの人たちも、たいそう悲しみました。奥方さまは泣きながら死んだ赤子を、石の元にうめてお祈りをすると、浪合の方へ向かって、急ぎ足で逃げて行きました。
それから何年か過ぎたある夜のことです。この石の近くに住むある母親が、夜泣きがつづく赤子を抱いて石の前を通りかかりました。そして、石に向かって手を合わせ「どうか、この子の夜泣きがなおりますように」と拝みました。すると、それまで激しく泣いていた赤子はぴったりと泣き止みました。母親は次の夜も、また次の夜も子供を抱いて、この石にお参りをしました。すると、赤子は夜泣きをしなくなり、元気になりました。
この話がひろがり、近所の人びとは赤子を抱いてこの石を大切にお参りするようになりました。そして、このあたりの家からは、赤子の夜泣きは聞こえなくなりました。やがて、この話を聞いて遠くの方からも、毎晩のように赤子を抱いた母親がお参りに来るようになりました。「どうかこの子の夜泣きがなおり、元気になりますように」そうお願いすると、不思議なことに赤子の夜泣きがなおりました。
それから、人びとはこの大きな石を、「赤子石」と呼んでお祀りしました。そして、この石の辺りを「赤子石」と呼んで今も大切に伝えています。

大きな石や岩には神仏が宿る。とする人びとの巨石や巨岩に寄せる信仰は、何千年も昔から伝わる信仰です。赤子石は、古くから伝えてきた石信仰に、下條氏の出来事を恩寵に伏して、地域の大事な信仰と伝えている「巨石信仰」です。近くには、新井の「おころいし」鎮西の「かわごいし」などがあります。
長野県下伊那郡下條村
赤子石
平谷村の中心からは浪合に寄ったところに靭という集落がある。現在の国道は集落の上を通っていて、気がつく人は少ないが、旧道に入って行くと柳川の対岸に別荘群が見えてくる。今や平谷村も別荘地が村のあちこちにあり、旧来の家々に匹敵するほど別荘が目立つ。そんな別荘群の対岸の掘割りに「滝之澤城郭跡」という大きな看板が右手にある。ここは中世の城郭跡で、天正10年(1582)に織田の軍勢と激戦を交わした場所だという。この看板の反対側に朱に塗られた「赤児石堂」という小さな堂がある。中には石仏が3体祀られていて、中央にある文字碑には「赤児石尊」と刻まれている。堂は「昭和五年三月に建立された」と『平谷村誌』上巻(平成8年)には書かれているが、現在のものがその当時のものかは定かではない。もともと赤子石は「現在地の反対側(道を挟んで)」にあったといわれ、「赤子石」と言われるだけに石仏ではなく、平たい石だったようで、その石の上に赤子の足跡が二つあったという。大正15年(1926)ごろ現在堂のある前のあたりに埋めたという。その後現在の「赤児石尊」が祀られたようで、向かって右側面に「昭和五年三月建之」と刻まれている。ということは石仏の建立と堂の建立は時を同じくしたということになるだろうか。石仏の左側面には「家内安全」と刻まれており、赤子信仰のみならず、家の安泰を願って建てられたものと思われる。
堂外に掲げられた説明板によると、その「由来は、合戦時の落人が、赤子を連れて逃げていましたが、追手の追及が厳しく、ついに石の上に赤子を置き去りにして落ち逃れて行きました。赤子は長い間、石の上に立ったまま泣いており、その足跡が石に残って、以後この石を「赤子石」と呼ぶようになった」という。「赤子が患った時や夜泣きをする時に、平癒の願をかけてお参りすると御利益があるといわれており、御礼に朱色の旗を奉納するのが常であります」とも。堂内には「奉納 赤子石様」という旗が納められているほか、よだれ掛けらしきものや帽子、マフラーなどがお地蔵さんに被されている。「石尊」と彫られた左手あたりに小さな足跡がふたつ刻まれているのは、石工によって刻まれたものらしく、本当の足跡があった石は、前述の説明のように、堂前に埋められているというがあくまでも言い伝えである。
赤子石ということで、前掲書『平谷村誌』上巻の「人の一生」を開いてみたが、こちらではそのことは触れられていなかったが、興味深かったのは村誌を発刊された年(平成6年という)に生まれた出生児のみなさんが全員写真付きで紹介されていたことだ。おそらくこのような村誌をよそで見ることはないだろう。平成6年出生ということは現在21歳、総勢6名の村の宝であった。
河童と赤子岩
…ある夏の日のこと。陰田の漁師さんが魚と一緒に網にかかった子河童を取って帰り、家のやんちゃ子にやった。子どもは生きたおもちゃに大喜びで、さんざん連れ回っていじめ、夜は海辺の岩に縛っておいた。
その様子を親河童は心配そうにこっそり見守っとったが、子河童の頭の皿の水が干上がるとみた夜、親河童は岩に縛られている子河童を必死の思いで助け出し、海に運れ戻した。
それから数日後のこと。漁師がいつものように静かな海に船を出して漁をしかけたら、一瞬の間に嵐になり船は木の葉のように揺れだした。命からがらで漕ぎ帰る途中で漁師が見たものは、荒波の向こうに浮かぶ河童親子の恨めし気な姿だった。
やっとの思いで家に帰ってみると子どもが居らん。聞くと「アリャ、さっきあんたが連れ出したがな」とおかあがいう。慌てて捜しに海辺に出てみると、子どもは河童を縛っとった岩の上で尻ごをを抜かれて気絶しとった。
その夜以来漁師は怖くて漁に出れんようになっとったが、ある夜ふっと姿を消した。慌てた家の者が海岸を捜すと、何と親父も尻ごを抜かれて海で溺れかけとる。急いで引き上げ、水を吐かせ、大騒ぎしとる時に、旅の僧が通りかかって「何の騒ぎだ。」と聞くので、 実は…と話すと、僧は「そりゃあ河童親子の怨霊だ。 わしが祈祷して払ったる。」 といって、河童を縛っとった岩を清めてから、岩に小屋がけさせた。それから岩に何か刻んどったが、数日後、小屋を取り払ってみたら、岩に赤児の足跡が点々と刻まれとった。僧は「これでもう河童は悪いことはすまい」といって旅だったそうな…
赤子橋
この橋には、悲しい言い伝えが残っています。
大昔のこと、来る年も来る年も不作が続き、いろんなところが飢饉におそわれ、このようなことが何年も続くうちに、川の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえるようになりました。村の人たちはたまらずに川の中へ入っていくと、一つの石が泣いているではありませんか。人々はおどろき、赤ちゃんを供養して、その石をおまつりしました。
今は、石神様としてまつられ、どんなことでも一つだけは願い事をかなえてくれるそうです。
市川町  
蛭子神  
蛭子神
異形の子が福をもたらすという神話は、世界中にあるらしい。
蛭子神もその一人で伊邪那岐、伊邪那美の神がおのころ島で神産みをされた時、神代の決め事を違えて、女神から言問いをされたため、生まれたのが骨のない蛭子。両神はこの子を憐れみ葦の船に乗せて海に流されたと古事記にあるが、日本書紀では若干異なり、三歳になっても足が立たず、泣く泣く天磐樟船に食料を積み込み流したとある。この蛭子が海の向こうから恵福を持って流れ着いた、という話は日本中に残され蛭子神社、あるいは魚釣り神〈海神〉との同一視から恵比寿〈戎〉神社として祀られている。
最も有名なのは、神戸、西宮の夷三郎、商売繁盛の神として、正月10日前後副男を決める「十日戎」に100万人を集める。鹿児島では。隼人、喜入、枕崎、中甑他20以上の神社で祀られ、阿久根石神神社では磐樟船と謂われる大岩があり、艫には舵床の跡もある。
また神子が流されるとき食料として与えられた365個の餅が餅井集落に餅石として残されている。この餅石は大晦日の夜、新しい俵に詰め替えられるらしい
えびす神社
えびす神社は、えびす或いはヒルコ或いは事代主を祭神とする神社。
えびす神社は全国に点在し、夷神社、戎神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社、恵比寿神社、恵美須神社、恵毘須神社などと表記する。また正式名では「えびす」の語を含まない神社であっても、祭神がえびすである場合「○○えびす神社」と通称されることもある。またおもに関西地域では、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称される。
蛭子神社の中には、読みが「えびすじんじゃ」ではなく「ひるこじんじゃ」のものがある。これはヒルコ(蛭子神)を祭祀しているからであるが、祭神がヒルコであっても読みを「えびすじんじゃ」とする神社もあり、これはヒルコとえびすが習合・同一視されるよう になったためである。また逆に祭神がヒルコではなく事代主であっても蛭子神社とする神社もある。
西宮神社(兵庫県西宮市) /  西宮神社(栃木県足利市)  / 桐生西宮神社(群馬県桐生市)  /  蛭子(ひるこ)神社(神奈川県鎌倉市)  / 西宮神社(長野県長野市)  / 柳原蛭子神社(兵庫県神戸市兵庫区)  /  堀川戎神社(大阪府大阪市北区)  / 蛭児遷殿(大阪府大阪市北区大阪天満宮境内)  / 石津太神社(大阪府堺市西区)  / 名古曽蛭子神社(和歌山県橋本市)  / 胡子神社(広島県広島市中区)  / 蛭子(ひるこ)神社(徳島県那賀郡那賀町)
蛭子様騒動
昔々、天文年間の頃、村人に、『私は蛭子の神である。私を村に迎えてお祀りしなさい』と、神様からお告げがありました。翌朝、村の南東へ300bほど行った谷の清水岩という大きな石の上に何やら神様の様な形をした石像がありました。『エビス様のようだ』と村人が言い、これを持ち帰ってお祀りすることにしました。エビス様が出てきたところなので、村人はその後この谷を「蛭子谷」と呼ぶようになりました。
エビス様を持ち帰って道端の石の上に置いてお参りしていましたら、村が大層繁盛するようになりました。村人は忙しく動き回って商売に精を出していましたから、ついつい石のエビス様のことを忘れてしまいました。
10年ほども経ったのでしょうか、気がつくと村が少しさびれ始めていました。人通りも少なくなって、商売の売り上げも落ちていたのです。
ふと気がつくと、今まで道端に置いてあった石のエビス様が無くなっていました。その頃、大和の国の丹波市というところが大層繁盛しているということが伝わってきました。旅人の話では、『エビス様を祀ったら、村が大層繁盛するようになった』と言うのです。
天理市丹波市の町並 そこで古市の村人数人が丹波市へ行ってみることにしました。丹波市へ行くと、古市で祀っていたエビス様が道端に祀ってありました。夜になって、古市の村人はこっそりエビス様を持って帰ったのです。
村に着いて、再び同じ場所にエビス様をお祀りしたところ、村は再び賑やかに商売が行われ、活気に満ちあふれた村になって行きました。一方、丹波市はなぜか商売がうまく行かず、気がついてみるとエビス様が無くなっていたのです。『さびれ始めていた丹波の古市が、今また賑やかに商売が繰り広げられている』という旅人の話が丹波市の人に伝わりました。
丹波市の人は、『さては取り返されたのでは・・・』と、古市を訪れると、案の定、道端に以前と同じようにエビス様が祀られていたのです。またもや、夜陰に乗じてエビス様を抱えて丹波市へ戻りました。
すると不思議なことに、エビス様のいなくなった丹波の古市はさびれ始め、大和の国の丹波市は再び活況が戻ってきたのです。古市の村人がやっと気づいて、もう一度丹波市へ出かけていきました。また取り戻せると思ったのでしょう。しかし、丹波市へ到着してみると、エビス様は町の一角に境内を構え、立派な祠の中にお祀りしてありました。祠には鍵がかけられており、もう取り戻すことはできませんでした。
天理市丹波市の蛭子神社 仕方なくトボトボと古市の村人は丹波に帰ってきたのです。『エビス様は商売の神様。古市は商売の村ですから、エビス様をお祀りしなくては・・・』と、寺の住職に頼んでエビス様を彫ってもらうことになりました。そして今度は誰にも盗られないようにと、2尺(60p)四方の祠に入れてお祀りすることになりました。その場所は、現在の庚申池の側に立っている常夜灯のある場所でした。
江戸時代の終わり頃、嘉永年間には、エビス様は宗玄寺の参道の脇の寺屋敷のあった所に引っ越しになりました。現在の場所は古市蛭子神社御影元々二つの土地に分かれていました。北側は空き地で、南側には屋敷が建っていて、その屋敷で使用していた井戸が今も蛭子神社の境内の真ん中に残っています。
明治29年(1896)に、二つの土地をあわせた上に現在の蛭子神社を建てることになり、翌年の明治30年に完成しました。そして今も1月10日には十日戎のお祭りが続けられています。昔はたくさんの商家が軒を連ねていて、十日戎のお祭りも大きなイベントとして商売に反映していましたが、今は商家も少なくなってしまいました。
蛭子(ひるこ)
伊邪那岐神と伊邪那美神が契りを結ぶときに、先に伊邪那美神が「ああ、いい男よ」と言ったために、生まれた蛭子は手足が萎えた不具の御子だった。葦船に入れて流し捨てられた。葦船は流されて、摂津国西宮に流れ着いた蛭子神を養い奉じた西宮土民が夷三郎殿(えびす)と号したことから、夷三郎大明神と崇められた。エビスは夷・戎・恵比寿などの漢字を当てているが、エビスそのものは異邦人を意味する言葉であり、本来は異卿から来臨して幸をもたらす客神(まれびと)であった。西宮戎神社の信仰はこのような意味で崇敬された。
水蛭子(ひるこ)
ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。次に淡島を生みたまひき。こも子の例(かず)に入らず。
古事記神話が先天十七言霊全部の出現で人間精神の先天の構造がすべて明らかとなり、言霊学を解説する視点が先天構造から後天構造へ下りて来ました。ここで後天現象の単位である現象子音言霊の誕生の話に移ることとなります。先にお話しましたようにアオウエ四母音とチイキミシリヒニ八父韻の結びで計三十二の子音誕生となる訳でありますが、古事記はここで直ぐに子音創生の話に入らず、創生の失敗談や、創生した子音が占める宇宙の場所(位置)等の話が挿入されます。古事記の神話が言霊学の原理の教科書だという事からすると、何ともまどろこしいように思えますが、実はその創生の失敗談や言霊の位置の話が言霊の立場から見た人類の歴史や、社会に現出して来る人間の種々の考え方、また言霊学原理の理解の上などで大層役立つ事になるのであります。その内容は話が進むにつれて明らかとなって行きます。
吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり
子音創生の話を、古事記は人間の男女間の生殖作用の形という謎で示して行きます。男女の交合とか、言葉の成り立ちとかは人間生命の営みの根元とも言える事柄に属しますので、その内容が共に似ている事を利用して、子音創生を男女交合の謎で上手に指し示そうとする訳です。
伊耶那岐の命が伊耶那美の命に「汝が身はいかに成れる」と問うたのに対し、美の命が「吾が身は成り成りて、成り合わぬところ一処あり」と答えました。「成る」は「鳴る」と謎を解くと言霊学の意味が解ります。アオウエ四母音はそれを発音してみると、息の続く限り声を出してもアはアーーであり、オはオーーと同じ音が続き、母音・半母音以外の音の如く成り合うことがありません。その事を生殖作用に於ける女陰の形「成り合はぬ」に譬えたのであります。
我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。
「我が身」とは伊耶那岐の命の身体という事で言霊イを意味するように思われますが、実際にはその言霊イの働きである父韻チイキミシリヒニのことを指すのであります。この八つの父韻を発音しますと、チの言葉の余韻としてイの音が残ります。即ちチーイイイと続きます。これが鳴り余れる音という訳です。この事を人間の男根が身体から成り余っていることに譬えたのであります。
この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土生み成さむ。
この一節も男女の交合(身体の結合)に譬えて言葉の発声について述べたものです。父韻を母音の中に刺し塞ぐようにして声を出しますと、父韻キと母音アの結合でキア=カとなり、父韻シと母音エでシエ=セとなります。このようにして子音の三十二言霊が生れます。
「国土生み成さむ」の国土とは「組んで似せる」または「区切って似せる」の意です。組んで似せるとは父韻と母音とを組み合わせて一つの子音言霊を生むことを言います。その子音、例えばカの一音を生むことによってカという内容の実相に近づける事です。区切って似せると言えば、カという音で表わされるべきものを他の音で表わされるべきものから区切って実相を表わす、の意となります。
人間智性の根本リズムである言霊父韻と、精神宇宙の実在である母音言霊との結合で生れた、現象の実相を表わす単位である子音言霊を組み合わせて作られた日本語は、その言葉そのものが物事のまぎれもない真実の姿を表わす事となるという、世界で唯一つの言葉なのであるという事を、その言語を今も尚話すことによって生活を営んでいる現代の日本人が一日も早く自覚して頂き度いと希望するものであります。
伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗の麻具波比せむ」とのりたまひき。
天の御柱とは主体を表わす五母音アオウエイ(伊耶那岐の命)の事であり、それに対する客体の半母音ワヲウヱヰ(伊耶那美の命)の柱は国の御柱と呼ばれます。この天の御柱と国の御柱は先にお話しましたように相対的に双方が離れて対立する場合と、絶対的に主体(岐)と客体(美)とが一つとなって働く場合があります。今、この文章で伊耶那岐と伊耶那美が天の御柱を左と右から「行き廻り合う」という時には図の如く絶対的な立場と考えられます。その場合の天の御柱とは、実は天の御柱と国の御柱とが一体となっている絶対的立場を言っているのだとご承知下さい。
八つの父韻は陰陽、作用・反作用の二つ一組の四組より成っています。即ちチイ・キミ・シリ・ヒニの四組です。伊耶那岐と伊耶那美が天の御柱を左と右の反対方向に廻り合うという事になりますと、左は霊足(ひた)りで陽、右は身切(みき)りで陰という事になり、伊耶那岐は左廻りで八父韻の陽であるチキシヒを分担し、伊耶那美は右廻りで八父韻の陰であるイミリニを分担していると言うことが出来ます。
「美斗の麻具波比せむ」の「美斗」とは辞書に御門・御床の意。寝床をいう、とあります。麻具波比とは「目合い」または「招(ま)ぎ合い」の意。美斗の麻具波比で男女の交接すること、の意となります。即ち「結婚しよう」という事です。竹内文献には「ミトルツナマグハヒ」と書かれています。陰陽の綱を招(ま)ぎ合い、縒(よ)り合って七五三縄(しめなわ)を作ることを謂います。即ち夫婦の婚(とつ)ぎ(十作)(とつぎ)の法則に通じます。この事については子音創生の所で詳しく解説いたします。
汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢わむ。
伊耶那美の命は女性で「身切り」より廻り、伊耶那岐の命は男性で「霊足り」より廻り、その女陰と男根、成り合はぬ所と成り余れる所を交合することによって現象子音言霊が生れます。その際、岐の命は八父韻の中のチキシヒの四韻を、美の命はイミリニの四韻を分担する事となります。
女人先だち言へるはふさはず
伊耶那美の命が「あなにやし、えをとこを」、「あなたは愛すべき良き男性です」と伊耶那岐の命より先に発言したのは適当ではない、の意。これは男尊女卑の思想を言ったのではなく、飽くまで子音創生の言葉の発声に関する意味であります。子音を生むに際して、母音を先にして父韻を後にしたのでは、子音は生れない、だから適当ではないと言ったのです。父韻キに母音アで子音カが生れます。逆に母音アを先にして父韻キが続けばカの単音は生れない事を言ったのであります。
然れども隠処に興して子水蛭子を生みたまひき。
「女人先だち言へるはふさはず」と母音を先に、父韻を後に発音したのでは正統な現象子音を生むのに適当ではない、と知りながら「然れども隠戸に興して水蛭子を生んだ」というのです。言霊学上重要な子音創生という時、何故適当ではない方法で正統な現象音ではない水蛭子を生む事などを文章に載せたのでしょうか。
水蛭子とは如何なることを言うのでしょうか。それは霊流子(ひるこ)とも書けます。霊(ひ)である父韻が流れてしまって現象音が出来ない、という意味です。蛭(ひる)に骨なし、と謂われるように、霊音(ほね)である父韻が役に立たぬ、の意ともとれます。実際には言霊子音にならぬものをどうして取上げたのでしょうか。それは母音を先にし父韻を後にすると、現象は生れないが、そういう心の操作を実際に行う人間の行動も起り得ることを太安万侶は知っていたからであります。それは何か。
言霊の原理が世の中から隠没した後、言霊学に代わる人類の精神の拠所となる各種の個人救済の小乗信仰の事をいうのであります。言霊の原理は人類歴史創造の規範です。その原理が隠されて、その間に現われた個人救済の信仰、例えば仏儒耶等の信仰は、「人間とは何か」「心の安心とは」「幸福とは」等々、人間の心の救済は説いても、人類の歴史創造についての方策に関しては何一つ言挙げしません。否、言挙げする事が出来ません。現在の地球上の人類生存の危機が叫ばれている昨今、世界の宗教団体から何一つ有効な提言が出されない事がそれを良く物語っています。
世界の大宗教がその点に盲目な原因は、人間の生命創造の根本英智である言霊八父韻と、それによって生れる現象の要素である三十二の子音言霊の認識を全く欠いているからに他なりません。しかし言霊原理隠没の時代には、信仰心に見えるように生命の実在である宇宙(空)とか、救われを先にし、社会・国家・世界の建設等の創造を捨象してしまう事も、即ち母音を先にし、父韻を後にする発声が示す精神行為も時には必要となるであろう事を、古事記の撰者太安万侶は充分知っていたからに他なりません。
「隠処に興して」の隠処とは「組むところ」の意。頭脳内で言葉が組まれる所のことで、組む所は意識で捉えることが出来ない隠れた所でありますので、隠処と「隠」の字が使われています。では実際には言葉は何処で組まれるのでしょうか。それは子音創生の所で明確に指摘されます。言霊学が人間の言葉と心に関する一切を解明した学問であるという事は此処に於ても証明されるのであります。
この子は葦船に入れて流し去りつ。
母音を先に、父韻を後に発音して現象を生まない、即ち創造の行為ではないが、世界にはそういう行為もある事であろうから成り行きのままに世界に流布させた、というわけです。「葦船に入れて」とは五十音言霊図の原理に照らし合わせて、世界の歴史の進行の中では小乗的な信仰等の考え方も必要であろうと世界中に広め、教えたという意味です。葦船が何故五十音図の原理と謂われるのか、は古事記神話の解説が進むにつれて明らかにされます。船は人を運ぶ乗物、言葉は心を運ぶもの、の意から言葉を船に喩えることが出来ます。「葦船に入れて流し去りつ」を日本書紀では「天磐樟船(あまのいはくすぶね)に載せて、風の順(まにま)に放ち棄(す)つ」と書かれています。磐(いは)は五十葉(いは)の意、樟(くす)とは組んで澄ますの謎、で全体で五十音言霊図のことです。
廣田神社と西宮神社
廣田神社と西宮神社(西宮えびす)を訪ねることにした。両社とも何度か訪れているのだが、改めて鎮座伝承について考えてみたいと思う。廣田神社では二箇所の湧水(御神水、おすぎ水)、西宮神社では摂社の沖恵美酒(おきえびす)神社、南宮神社を訪れる。冬にしては暖かい日ざしの一日、自転車でまず廣田神社へと向かう。地図を忘れたので、鳥居前までちょっと時間がかかってしまった。参道は北へと進み西に折れる。改修して白く新しくきれいになっているが、個人的には古いほうが好ましい。自転車を止め、進んでいくと一の標柱(しめばしら)が見えてきた。標柱は鳥居の原型のような石柱である。注連縄から綯い合わされた長い三本の縄が下がっていて、笠木はなく、古い様式の神門という印象、さらに緩い石段を上ると二の標柱が立ち、こちらは注連縄から短い御幣が下がっている。参道は再び北へと延びており正面奧に重厚な社殿がのぞまれた。主祭神は天照大神の荒御魂(あらみたま)で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。長くてとても一度ではいえない。意味は、天を離れ水辺に向かって降りられ、神聖な木に依りついたあらたかな御魂、というようなことらしい。社殿は伊勢神宮にも似た威厳のあるたたずまいで、格式の高さはいうまでもない。脇殿には住吉三神、八幡大神、諏訪健御名方神、高皇産霊神。
創建は古く神功皇后の御世にさかのぼるという。書紀によれば、西征の旅の途上で仲哀天皇が急逝、身重の皇后は神々に助けられて新羅を討ち、九州で御子(応神天皇)を出産した。大和への帰途、仲哀天皇の皇子、香坂王と忍熊王の反乱計画を知り、紀淡海峡へと迂回するが、難波の港の近くまで来て嵐に遭い、船がぐるぐる廻って進まなくなった。武庫の港(務古水門)へ入って神意をうかがうと、天照大神は、わが荒御魂を皇后(皇居との説も)の近くではなく、廣田の国に祀るように、といわれたので、山背根子(やましろねこ)の女(むすめ)の葉山媛が山麓にお祀りした。このとき同様の託宣により、葉山媛の妹長媛が長田の地に事代主神を祀り(長田神社)、海上五十狭茅(うながみのいさち)が生田の地に稚日女(わかひるめ)命をお祀りした(生田神社)。また住吉三神もお祀りした(大阪の住吉大社、神戸市東灘区の元住吉神社と二説ある。本居宣長は後者とみている)。古代では、嵐も遭難も荒らぶる神のなせるわざとされていたらしい。するとこれらの祭祀により船は無事に進んで難波に着き、忍熊王の乱も武内宿禰の軍により制圧されたという。
天照祭祀に関しては、日本書紀に記述がある。崇神天皇はそれまで天照大神と倭大国魂神の二神を宮殿内に祀っていたが、「その神の勢ひを畏(おそ)りて、共に住みたまふに安からず」という状態になったので、天照大神は豊鋤入姫に託(つ)け、倭大国魂神は渟名城入姫につけて、宮廷の外の地で祀らせることにした。そして垂仁天皇の御代になると、天照祭祀を引き継いだ皇女倭姫は、大和を旅立ち、天照大神の神霊を伊勢へと導いて鎮座させるのである(伊勢神宮の起源)。崇神天皇がその勢いをおそれて宮殿から外へ出し、倭姫が結局伊勢に持ち運んで鎮めることになったほど霊威の強い神を、しかもその荒御魂を、神功皇后が凱旋というかたちで、再び王城の地へ迎え入れるのは…はばかられたのではないだろうか。危惧もあったかもしれない。皇后は戦に貢献した天照大神はじめ他の神々に対し、それぞれふさわしい宮地に社を建ててお祀りする、というかたちで謝意を示そうとしたように見受けられる。
神話的に考えれば、上述のようなことかと思われるが、これを別の面から捉えてみると、皇后が率いて海を渡ったとされる軍団は、宗像族、住吉族、安曇族、また若狹、但馬、丹波、伊勢など各地の海人族の軍船で構成されており、各氏族にはそれぞれ信奉する神(守護神)があった。古では戦はそれぞれの神を奉じて戦うのである。戦で功績があったのは、天照神、事代主神、稚日女神、住吉神、などを奉じる軍団であったと思われる。皇后は九州に帰り着くと社を建て、また戦勝祈願をした社に神田を定めるなどの褒賞を行っている。大和への帰途、「神がのぞまれた地」の穴門(下関市)においても祭祀を行い、住吉三神を祀る社を建てた。また各地で神を祀りつつ、帰還の船旅を続けた。社を定めるとは、祭祀者とその氏族集団がそこに住んで祭祀権を得、神田を領有、社領とした地から山川の産物も獲得、海辺なら海上交通の支配権も持つということであった。
当初、葉山媛が天照大神の荒御魂を祀った地は、甲(かぶと)山山麓の高隈原(たかくまはら)であったという。(上ケ原地区という)古には秀麗な甲山を神体山とみたのであろう。甲山はお椀を伏せたような丸いかたちが独特で、阪急電車に乗って西宮に差しかかると、いつも吸い寄せられるように見てしまう。この甲山山頂には登ることができ、中腹には神呪(かんのう)寺がある。その後廣田神社は山麓から降り、御手洗川のほとりに遷るものの、そこで洪水に遭い、今度は水の心配のない現在地に遷座(江戸時代)したようである。ところが昭和二十年、空襲により社殿が焼失してしまい、現在の社殿は、伊勢神宮遷宮の折に旧荒祭宮社殿を譲り受け、昭和三十一年に竣工、造営されたものという。長い年月の間にはいろいろな災害が起きるということであろう。阪神大震災で社殿が倒壊してしまった生田神社が、再建されたことはまだ記憶に新しい。災害で社殿を失ったとしても、神を失ったわけではないので、人々はがんばって気持ちを奮い立たせ、社を復活させていくのだと思う。
古来廣田神社の神は、国家鎮護、武運長久、勝運の神として朝廷、公家、都の人々の崇敬を受けてきた。京都の西にあるので(西宮えびす神社など、他の神社群とともに)西宮と呼ばれたという。廣田神社には源頼朝も領地を寄進、豊臣秀頼も社殿を改修、徳川吉宗も篤く信仰したそうである。現在も阪神タイガースが勝利祈願に訪れる神社として、地元では知られている。
境内摂社のひとつに斎殿(ときどの)神社がある。甲山山麓ではじめて天照祭祀を行った葉山媛を祀っている。葉山媛はおそらくはまだ少女だったかと思われ、祭祀に携わる巫女の一人として神功皇后の船に乗っていたのであろう。以前鞆の浦を旅したとき、三韓征伐の帰途、鞆の浦で神功皇后の妹の淀媛がとどまり、海辺で海神の大綿津見神を祀った(沼名前神社)という伝承を知り、訪ねてみたことがあった。神功皇后は各地に神を祀りつつ帰還したようである。葉山媛は甲山山麓で天照大神を祀って、その荒みたまを鎮め、妹は長田で事代主神を祀った。この二柱の神に対し女性が選ばれているのは、仕える神が男性神だったからではないだろうか。天照大神の荒らぶる御魂は、武内宿禰が審神者(さにわ)をつとめた神降ろしの場で、思いがけず外征を告げることにはじまり、神託を疑った仲哀天皇を死に至らしめ、皇后に掛かって三韓征伐の戦へといざない、海を渡って戦を勝利へと導いた。その行動には男性神の持つ好戦的な相貌がある。
天照大神は記紀では女神と表現されており、それを否定するものではないが、顕現のその原初の姿は男神であった、という説を聞いたことがある…。ここで神の性別を詮索するのも申し訳ないことだし、そして古の神はまた性などを超越するような存在なのかもしれないと思うけれども…三神(あるいは四神)祭祀のこのとき、生田の地では、海上五十狭茅という男性祭祀者が、稚日女という女神を祀っていることと考え合わせてみれば、女神には男性が、男神には女性がついて奉仕するかたちがあったと考えられ、葉山媛姉妹はそれぞれの男神に仕えたように思えてくるのである。
境内は広大で自然林の公園になっており、高台にあるため市内がよく見渡せ、初夏には神苑にコバノミツバツツジが咲き乱れて美しい。ただ神社は二つの駅の間の山手にあって、ここへ来る交通手段が駅からバスか徒歩しかなく、どうしても参拝者は少ないようであった。境内の一角には古代と現代の西宮の地図が二枚並べてあって、比較できるようになっており、それを眺めてみると川の流れや海岸線がずいぶん異なっているのがわかる。自然による土砂の堆積、人工的な埋め立てなどで海はかなり陸地に変っているのである。
御神水と呼ばれる井戸(湧水)が境内にあった。柄杓で手に受け頂いてみる。冷たいが味はよくわからなかった。六甲山の花崗岩の岩盤を通り抜ける水は、鉄分が少なくミネラルに富み、酒造りに適する水なのだそうである。伏流水も質がよく、海水も少し混じっているという西宮の水は特に宮水と呼ばれて、おいしいお酒が造られるようになったそうだ。この地域は灘五郷と呼ばれて有名である。西宮では白鷹、白鹿、日本盛、御影では菊正宗、白鶴、剣菱…などの酒造会社がよく知られているだろうか。御神水のほかにもう一箇所、湧水があると聞いていたので、社務所の人に場所を教わって訪ねてみた。境内を出て社殿の裏へまわると児童公園と丘があるが、丘には上らずにその丘を左手に見ながら住宅地の細い道をたどっていくと、「おすぎ水」という湧水があった。位置からみると、かつては参拝者が身を清めるみそぎの水として使われていたものだろうか。今はパイプが引かれて水汲み場も設置され、付近が水浸しにならないように、小さく溝も刻まれていた。飲み水には適さないそうだが、震災時には生活用水として住民が利用したという。水は目立たない丘の樹木の茂みの一角で、今も静かに湧き続けていた。
自転車で真っ直ぐに住宅街の道を降りていく。国道二号線までくると、人通りが多くなりにぎやかになった。重要文化財の大練塀に沿って下り、西宮神社の鳥居をくぐって赤門横に自転車を止める。この門は豊臣秀頼の寄進によるもので、表大門というのだが、朱塗りなのでふつう赤門と呼ばれている。福男選びのとき、太鼓の音を合図に閉ざされていた門が開けられると(開門神事)、いっせいに参道を駆け出す人たちの様子が毎年テレビで報じられるが、その場所がここである。一月九日の夜に神様が道を通られるので、付近の人々は「居籠り」をして外出せず物音を立てず静かにする慣わしがあった。それが解かれる十日の早朝、一番乗りのお参りを目指して、人々が家から競って駆け出したのが福男選びのはじまりという。参道は廣田神社と同様二度曲がっており、走りにくそうである。社殿の前で待ち構えている神職に抱きとめてもらえた三人目までが福男と認定され、ご褒美(えびす像、お米、お酒など)が出るそうである。境内にはかつての海岸の名残なのか多くの松があり、参道脇には陶器市の露店が軒を並べていた。参道を進んでいくと、社殿の屋根が見えてくる。屋根が三つ並んだ三連春日造りという珍しい本殿で、もとのお社は廣田神社同様空襲で焼失してしまい、昭和三十年代に再建されたものという。青空に銅葺きの屋根が映えてきれいである。
祭神は第一殿(右)に蛭児大神(えびす様)を祀り、第二殿(中央)に天照大神と大国主大神(明治初年から)、第三殿に須佐之男大神を祀っている。ここは全国にあるえびす様を祀る神社の総本社である。創建は古く平安時代にはすでにお社があったとされる。廣田神社の摂社として、浜南宮がここに建てられたのが起源であるという。古事記には、伊耶那岐、伊耶奈美二神の国生みの際、最初に生まれた子が蛭のようによくない子だったので海に流した、とある。地元に伝わる鎮座伝承によれば、その子どもは後に西宮の海から神として顕現、社に祀られるようになったという。少し記紀をみてみよう。
…くみどに興して子(みこ)蛭子を生みたまひき。この子は蘆舟に入れて流し去(や)りつ。次に淡島を生みたまひき。こも例(かず)に入らず。(古事記)
書紀では最初の子ではなく、天照、月読の次の第三子として生まれている。
…次に蛭児を生む。すでに三歳(みとせ)になるまで、足猶(なほ)し立たず。故、天磐橡樟船(あまのいはくすぶね)に載せて、風の順(まにま)に放ち棄つ。(日本書紀)
最初の子が流し棄てられるというのは、各国の神話に見受けられるらしい。救われて養育され立派になって戻ってくるという話になっていることが多いとも…それはともかくとして、記紀の場合、障害を持って生まれた蛭子が、親の手で棄てられるというのはなんとも哀しい話である。流すほうも切なかったのではないか。丈夫な子に生まれ変わってきてほしいと願い、また厄災を身に引き受けて遠い世界に持ち運んでくれるようにと祈りつつ、子を舟に載せ海原に押し出したのであろうか。流されていく不具の幼な子には、形代(かたしろ)や流し雛の姿が重なっていく。
伝承では、淡島神のほうは住吉明神の妃となるが、婦人病にかかって流され、紀の国の海辺に漂着、里人に祀られて女性の病を治す神となった(淡島神社)。一方蛭子神は西宮の海に流れ寄り、海から引き上げられ祀られ、福をもたらすえびす神としてよみがえった。両神とも海に流され、罪や穢れを負って神送りにされる点では共通している。蛭子神は三歳になっても足が立たなかったと書紀にはあるが、耳が遠かったという伝承もあり、今宮戎神社には社の裏に銅鑼があって、これを叩き大声で願いを言うと聞いてもらえるといわれている。
以前、加太(和歌山県)の海辺の淡島神社を訪れたとき、境内は古い人形やおもちゃ、ぬいぐるみ、置物、雛人形、市松人形、などで埋め尽くされ、異様な雰囲気が漂っていて圧倒され立ちすくんだ。(このことは、友ケ島、加太を歩く、の項に書いている)各地から淡島神社に送られてきた古い雛人形は、三月三日の節句の日に舟に載せられ、紀州の青い海を流れ漂うのであるが、その神事の遠い起源を思うとき、人の厄や災い、罪禍も身に引き受け風のままに漂っていく蛭子の蘆舟が思い起こされるのである。今も各地の神社では、撫で物として、半年間に積もった罪や穢れを吸い取って?ってもらえる白い紙の形代が置いてあるのを見かける。気が向いたときは、撫でて身の穢れを移し祈願することにしているが、切り抜かれた白くて薄い人形(ひとがた)を手にするとき、ふと古代の呪術が今も受け継がれていることを感じることがある。
もう少し西宮神社の鎮座伝承をみてみよう。それによると、昔鳴尾浜の漁師が漁に出て、沖で神像のようなものを引き上げたが、魚ではないので海に帰した。和田岬のほうへ行って漁を続けると再び同じものが網にかかったので、畏怖した漁師は像を持ち帰り、家でお祀りを続けていた。その後神託があり、像は蛭子の神と名乗り、西の方角にふさわしい宮地を求められたので、神像を浜南宮の境内に遷したという。当時の海岸線は今と違っていて、ここは海辺に建つお社であったらしい。平安時代のことであるそうだ。海に流された蛭子は海神(龍神)に拾われて養育され、やがて西宮の海に顕現したのだという伝承もあるそうである…。
蛭子とはなんとも不吉な漢字であるが、時代を経るうち、えびす様には(戎、恵比寿、恵比須、恵美酒など)良字、好字が使われるようになり、蛭の字が持つ忌まわしさは払拭されていったようである。海に棄てられ海からよみがえった神は、当初は漁業の神として信仰されていたが、時代が下っていくにつれ、商業の神、福の神としても広く信仰を集めるようになっていった。室町時代には、えびすかきと呼ばれる傀儡(くぐつ)師の集団があって、えびす神の由来や神徳を説いて各地をまわり、その信仰を全国に広めていったという。持ち運びできる小型の木の箱を使いえびすの人形を操って人々に見せ、面白く物語っていたらしい。江戸時代になると傀儡の人たちはやがて淡路島や徳島に移り住み、西宮を去ってしまうが、後にその芸能は人形浄瑠璃、文楽として隆盛、発展していくことになる。
社殿の奧、周辺には深い森が見えている。うっそうと茂るえびすの森(天然記念物)であるが、残念ながら入ることは許されないので、張り巡らされたフェンス越しに、楠の大木を眺めて往時の森の様子をしのぶことにする。西宮神社はなんといっても一月十日の十日戎が有名であろう。宵えびす、十日えびす、残り福の三日間で百万人もの人出があるという。三百キロの冷凍大まぐろの奉納でも知られており、まぐろに硬貨を貼り付けると縁起が良いというので、このことに興味を持ち、何年か前のある年に、西宮神社に出かけたことがあった。列に並んで順番を待つほどの盛況で、本殿に入る通路では、巫女さんが頭上から御幣で勢いよく祓ってくださった。ふだんは入れてもらえない本殿に近づいてお参りをすませ、招福まぐろの所へ行くと、すでにまぐろは体中にびっしりと硬貨をまとっていた。ほかの人のお金を落とさないように気をつけながら、十円玉を苦労してまぐろのえらの隙間に挟み込み、周囲を見ると、どの人も皆楽しそうに冷たいまぐろにさわり、お金を貼り付けている。
社殿横では縁起物の福笹が売られていた。昔は本物の笹だったと思うが、今はビニール製である。境内には露店、食べ物の屋台がたくさん軒を連ね、人でにぎわっている。こうやって大人も子どももいっとき明るい気分にひたり、浮き立った気持ちで境内を歩けることが、お祭りのありがたさなのであろう。遠い日々に、傀儡の人形遣いの人たちがたくみに人形を操ってみせ、人々が楽しそうに笑い興じる様子が、この情景に重なってふと想起されるのであった。
社殿の西には傀儡の祖を祀った百太夫社があり、大国主西神社が鎮座する。明治の初め、西宮神社はそれまでの廣田神社の摂社という位置づけから離れ、大国主西神社と社号を変えて県社と認められるが、その後社号が取り消され、もとの西宮神社に戻り、大国主西神社は境内社として、ともに県社となった。祭神と社号を巡ってなにか混乱があったようである。いきさつからみると、このお社はいったん得た社格が失われてしまったということになるのだろうか。大国主西神社は深い森を背に、新年のざわめきを一隅から静かに見つめていた。
庭園に入って橋や飛び石を眺めつつ池を巡り、参道をゆっくりと戻って、南門近くで立ち止まった。参道脇には廣田神社の摂社、南宮神社が鎮座している。この辺りが西宮神社の発祥の地なのであろう。赤門から見ると最初の曲がり角に位置し、お社は廣田神社のほうを向いている。南宮という社号には、廣田神社の南という以外にも意味があるといい、製鉄と関連があるという説も聞いたことがあるが、この地に鍛治集団が住んでいたという伝承はこれまで聞いたことはない。南宮といえば、まず思い浮かぶのは、梁塵秘抄の歌であるが、(このことは、美濃の南宮大社、諏訪大社、敢国神社の項で、すでに書いている)六甲おろしが吹く地域ではあるので、強い風を利用して遠い時代にはあるいは精錬が行われていたのかもしれない。
南宮神社のお社の南には沖恵美酒(おきえびす)神社がある。何度も西宮神社に来ているのだが、たくさんの摂社があるので、このお社のことは長く気づかなかった。あるとき社務所の会館の展示室に何気なく入ってえびす資料とビデオを見た際、この沖恵美酒神社のことが紹介されていてはじめて知ったのである。沖恵美酒神社には、えびす様の荒御魂が祀られているという。もとはもう少し南の荒戎町に祀られていたが、明治のはじめにここに遷座した。あらえびすさんと呼ばれており、鳴尾の漁師が海から引きあげて祀った原初の姿(荒御魂)を祀るという。異界からこの世に来られたばかりの神様は、とても荒々しいお姿なのだとも。長い時間をかけて祭祀を続けるうちに荒御魂は和み、穏やかな姿(和御魂)へと変わってゆくらしい。海辺には、とくに嵐の後などには不思議な形の流木、美しい石、他国の珍しい器物、くじら、いるか、水死人など、さまざまなものが漂着してくるが、人々は霊威を感じるものに出会ったときには、これらを引き上げて祀るのであった。えびす様もそのようなかたちの信仰なのであろう。
七福神の一人としてえびす様はあるが、宝船に乗っている他の神様たちも、皆それぞれに違うかたちの不幸を背負っているだと聞いたことがある。あの船に乗っているのは実は幸せな神様たちでなく、それぞれに苦しみを負い、人の厄災も罪禍も穢れも引き受け、それを船で遠い異界に持ち運んでゆくのだと…。
お参りの最後は、南宮神社と沖恵美酒神社に寄って手を合わせることにしているが、この辺りはいつもひっそりしている。でもここは本来熱いお社だったのではないかと思いつつ門を出て、帰途についた。
四神石
四神(しじん)というのは、四神相応(しじんそうおう)というのからきている。四神相応は、中国や朝鮮、日本に置いて、天の天の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。京都の街は、この四神相応という考え方からつくられているんです。東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武。
この吉田神社の表参道の大きな鳥居をくぐり、砂利道を通ると一番目の神社は吉田一族の祖先を奉る「祖霊社」。二番目が今日の話題の「今宮社」です。吉田村(昔はこのあたりは吉田村だった!)の産土神(うぶすなかみ)。産土神は、あなたが生まれた土地を守護する神。氏神や鎮守神とは別の性格なんです。最近この区別が混同していますね。
京男の産土神は、今宮神社なんです。別にあぶり餅があるからじゃないですよ。名前を決めたのは清明神社らしいけど。
ここは、10メートル四方ほどの小さな境内。そこに四神石があります。怨霊を恐れた桓武天皇は平安京造営の際、怨霊が都に入らないよう珍獣を都の四方に配置しました。この言い伝えを模したのかな。珍獣ではなく、石に置き換えてありました。
東南に青龍石、西南に白虎石、西北に玄武石(亀石)と30cm位の石が置かれており、東北の朱雀石は、内陣にあると書いてあります。 
石鎚神のなげ石 愛媛の伝説 
伊曽乃神社の一の鳥居の右手に、大きな石が、どっかりこしすえとるの知っとろ?四、五人で手えつないで、ようようひとまわりするぐらいの大きさじゃのう。その石に、まるでねんどでもつまんだように、大きな指あとがついとるが、なんじゃとおもう。あれは、神さんの指のあとぞい。とおい、むかしのこと。石鎚の男神と伊曽乃の女神が、加茂川のほとりでであわれたそうな。ちょうど若葉のかおるころじゃったと。女神は、男神をひと目見るなり、気にいってしもうた。きりりとしたまゆ、すずしいひとみは、見るからに男らしい。ほんで、おもいきって心のうちをうちあけたんじや。
「どうぞ、わたしと結婚してくれませんか。」ほしたら、男神はあわてて、「いやいや、わたしは修行ちゅうの身。これから、たかい山にのぼって、もっともっと修行にはげまなければなりません。せっかくのおもうしでござるが……。」いうて、ことわったんじゃと。
それをきいた女神は、男神にすがっていうた。「それなら、わたしもお山につれていってください。」 「いやいや、お山に女がおとずれるのは、天のいかりにふれるのじゃ。けっして、ついてきてはいけん。」男神は、なおも首をつよくふって、ことわったんじゃ。すると女神は、ころものそでを顔にあててなきくずれた。
そのすがたを見て、さすがに男神も女神をいとしくおもわれたのじゃろ。それでは、こうしよう。わたしが伊予の高嶺にのぼったら、そのいただきから、三つの大きな石をなげよう。その三つの石がおちてきたら、まん中の石のおちたところに家をたてて、まっていてくださらんか。」 こういいのこして、いそいで石鎚の山にのぼってしもうたんじゃと。なん日も、なん日もたった、ある日。大空の一角から、ギューン、ギューン、ギューンと、ものすごいうなりをあげて、三つの大石が、つぎつぎにとんできたんじゃと。ほして、ド、ド、トーンと地ひびきたてておちたんよ。女神は、よろこびいさんで、まん中の石がおちた場所に、かわいらしい家をたてた。この石が、ほれ、一の鳥居のところにある石じゃ。指のあとは、男神がつかんでなげたときについたんじゃと。
こうして女神は、それからというもの、男神のおいでになる日を、指おりかぞえてまっておったんじゃが……。 かんかんてりつける夏がすぎてしもうた。田んぼにすず風がふきぬけて、秋もいんでしもうた。こな雪のつめたい冬がやってきた。ほんでも男神は、まだ、もんて(もどって)こん。女神がそんなにまちよるのに、男神の修行は、おもうようにはかどらんかったんじゃ。(もしも、女神がこの山にのぼってきたら、どうしよう。)
そうおもうと、男神は気が気でなかって、おもねず天ににげのぼろうとして、右足をあげてしもうたそうな。そじゃけん、いまも石鎚大権現さまの像は、右足を上にあげておられるんじゃ。それから、よう修行をつんで石鎚の峰に鎮座するようになった男神は、やくそくどおり、伊曽乃の女神と夫婦になることができたんじゃと。
むかし、むかしの話よのう。これでおしまい。

夜泣石・誕生石 夜泣石(松山市平井・松山城三の丸 爼板石・伊予市稲荷 稲荷神社・中島町北浦 泣石・双海町上灘亀の石・松山市高井 波賀部神社・松山市朝美町 赤子の足跡石)は捨て児が夜になると泣くと伝えられ小児の夜泣きどめに験があるという。誕生石(吉海町泊 三島明神誕生石)は安産守護の信仰がある。同じく安産祈願に子宝石(御荘町菊川 分神石神社神体)がある。分身石…「御荘組菊川村 分身石明神由緒之事 夫分身石乃由来は天文二歳癸巳八月舟乃川と申す処に独りの農夫あり 或日仏崎とゆう磯に行き釣をたれしに掛目三匁ばかりなる小石鈎にかゝり揚り 得る処の魚ならざれば渺と投捨て候 又釣をたれしに石の小石又々鈎を喰み揚り彼の漁夫不思議の思ひをなし我が家にかえり小さき祠を営み沖の権女とあがめ安置す内に石追々太さを増し年を経るに縦って分増し今にいたり尊石五体と相成り因て茲に分身石と…後年に相改申候以上 辰六月 同村別当 寿明院」(御荘町史) 町史記載による一ノ石〜五ノ石の計量掛目記録を一覧表に作成するとつぎのとおりとなる。(図表「量集録」参照)
〈未ノ八月廿一日石大サ貫目改申候事〉一、壱番ノ石 拾六貫目 立廻り三尺九寸 横廻り三尺七寸六分 一、弐番ノ石拾六貫目 立廻り四尺五分 横廻り三尺六寸七分 一、参番ノ石 壱貫五百目 立廻り壱尺八寸三分 横廻り壱尺八寸七分一、四番ノ石 百五拾六匁 立廻り九寸壱分 横廻り八寸八分 一、五番ノ石 弐拾参匁 立廻り四寸五分 横廻り四寸 石ノ数大小五ツ 右之通改相違無之候依而如件 元禄四年未ノ八月廿一日 摺木村庄屋 徳左衛門 同組頭 甚兵衛同横目 新兵衛
〈おきよのごぜんかけめ事〉一、一番石 拾六貫目 高サ壱尺参寸四分 廻り参尺八寸弐分 横指渡壱尺五寸九分 一、弐番石 拾六貫目 高サ壱尺四寸弐分 廻り参尺七寸五分 横指渡壱尺五寸 一、参ノ石 壱貫五百目 高サ六寸四分 廻り壱尺七寸七分 横指渡六寸弐分 一、四ノ石 百五拾九匁 高サ参寸弐分 廻り八寸六分 横指渡弐寸七分弐厘 一、五ノ石 廿三匁 高サ廻り四寸六分 横廻り四寸 右之通元禄四未ノ八月廿弐日改如此二御座候
ちょうど布を曳いたごとき痕をとどめて三島明神が布を織られたとする布旋石(大島荒戸)、曽我兄弟の母が袂から落した小石が生長したというおんじの袂石(松野町松丸)、村を跨ぎ越すとき大人が落したという大人の袂石(別名弁天岩・城川町魚成)、弘法大師の両袂からこぼれた袂石(城川町古市・城川町窪野下里組)、鳥越の海中から引揚げて明治一九年に奉納された龍宝石は潮汐の干満により両側いずれかの穴の水が増減する干満石(別名干満石・日月石・銀杏石、伊予三島市 三島神社)、潮汐により石の色が黒白に変化する満石(北条市 高繩寺)、触れるとほろせができるとするほろせ石(玉川町小鴨部 熊野新宮神社境内・重信町上林瞽女童)、疣を治す疣石(朝倉村鶴の巣 水大師石・肱川町赤岩)、大晦日の夜湯気を立てるという甑石(北条市庄)、苧が無尽蔵に出る桶を得た村人が追い来る女に仙人の行方を明かしたため桶が化してしまったとされる苧桶石(美川村七鳥)、三月三日岩面に花形を生ずる花石(双海町上灘)、弘法大師が網をかけたとされる網掛石(松山市窪野)、碁盤と碁笥を備えるという碁盤石(小田町深山)、蛇石(内子町立川・西条市大町八ガ塔用水井手 蝮石・城川町下相江戸淵 蛇石)、虎石(別名鈴石 松山市恵原)などのほか、瞽女が道に迷うたが村人はだれも教えなかったので餓死して石に憩い、石に化したといわれる瞽女石(重信町上林)など、さまざまな伝説をともなう石がある。 
鏡岩(かがみいわ) 
那珂ICから国道118号線を北上し、常陸大宮市の小貫橋で久慈川を渡ると、照山という地区がある。そこの生井沢の山道を暫く進み、終点からは徒歩で崖に沿った小道を進むと「鏡岩」に辿り着く。
急な斜面に露出した縦2b、横5bほどの石英斑岩の断層面で、茨城県指定の天然記念物。その誕生時には、強い摩擦で断層面が鏡のような光沢を持っていたらしいが、永年の風化作用で今はその面影もなく、何の変哲もない只の岩にしか見えない。
この岩に関しては、8世紀初めに書かれた常陸国風土記に「東の山に石の鏡あり。昔、魑魅在り。集まりて鏡を翫び見て、即ち自ら去りき。」、「疾き鬼も鏡に面えば自ら滅ぶ」などと書かれている。昔、鬼が群れ集まって鏡で遊んでいたが、すぐ自然といなくなった、というのである。
この話で思い出すのが筑波山の蝦蟇の油売りの口上。蝦蟇を四面鏡張りの箱の中に入れると、「おのれの姿の醜きに驚き、タラーリタラリとあぶら汗を流す」というくだりである。江戸時代のこの口上の創作の際に、この鏡岩の話がヒントになったと考えられなくもないが、果たして?  
伊勢金剛寺の霊石伝説 / 白大夫の袂石 
要約
伊勢山田の金剛寺は、かつて真言宗寺院であったが、明治の廃仏毀釈にあって、今はない。その境内には袂石が祀られていた。白大夫度会春彦が、流罪の菅原道真にしたがって、九州太宰府に赴いた帰途、須磨袖が浦で拾った小石が、成長して巨大になったという。石の霊異をかたる伝説が、金剛寺に残されていた。この伝説の伝承伝播について、伊勢比丘尼に論点をしぼって述べてみたい。
(一)伊勢比丘尼と霊石伝説
伊勢の白大夫や比丘尼については、何度か取りあげて論じてきた。それをくり返すつもりはないが、論じ残したことはある。石の伝説がそのひとつ。今もわからぬところの多い課題である。行き先が見えているわけではないが、考え方のすじみちだけは立てておきたい。すでに論じたことと、かさなる処もあるが、できるだけ重複はさけて、論点を石の伝説および比丘尼にしぼってゆこう。石が神を宿す、と信じられた時代に、伊勢比丘尼も諸国に石の伝説を残している。袂石伝説もそのひとつである。
まずは現代に伝わる伝説から取りあげて、できるだけ課題を明確にしておこう。熊野市五郷町大井谷に残されている「たもと石」の伝説である( 『東海の伝説』 ・昭和四十八年刊) 。
大井谷は、山深い山村である。そこに、フクジマ石という有名な丸っこい石がある。その大きさは、直径六メートルくらいもあろうか。大井谷の旧家福島家の前に、小川が流れており、なかばそのせせらぎをせき留めるように、フクジマサマは横たわっている。
フクジマサマの上には、多少の土がおおいかぶさっていて、いろいろな雑木や草が生い茂っている。福島家で聞いてみると、だいぶ昔のことらしいが、先祖に為右衛門という人があり、お伊勢参りをしたことがあった。その帰途ふとたもとに入ってきた小石があったというが、神さまの思し召しと思って、たいせつに持ち帰ったという。
ところが、そのたもとへ入るような小石が不思議に少しずつ大きく成長して、人々を驚かした。これは伊勢の神さまに違いないというので、小川の清いところにおまつりした。福島家では、毎年十一月五日を祭日にして、フクジマサマのお祭りを怠らない。
熊野市大井谷の旧家福島家の前に「フクジマサマ」という大石が横たわっている。誰かはしらず、福島家にちなんでそう名づけたとおもわれる。先祖がお伊勢参りをしたとき、袂へ入ってきた石を持ち帰ったところ、次第に大きく成長したという。これが「たもと石」の由来である。この石を伊勢の神さまとして、毎年、十一月五日、祭りしているという。袂へ入ってきたといい、みずから成長するといって、石の霊異をかたる伝説である。それが伊勢と結びつけられるのはなぜか。たとえば、伝説をもち歩いたのが、伊勢信仰を宣伝する宗教者であったのか、そう考えてはみるものの、資料が少なくてとても判断はつきかねる。課題は、伝説の伝承伝播にあるのだが、さらにいえば、石の霊異こそが問題なのだ。以下、その霊異をかたる伝説をいくつかあげてみよう。
『日本伝説名彙』は、右の伝説を「袂石」と分類している。同じような話が、久留米市大石町字速水に鎮座する「伊勢天照御祖神社」に伝わる。 『筑後志』がそれを記録している。
社家伝へていふ。往昔大石越前守、今の神体の霊石を懐にして、伊勢国より此地に来り伊勢大神宮と崇め祭れりと、又一説に古昔一老尼ありて、小石を袖にし来りて此地に棄つ。其石漸々肥大し、慶長年間に到り、其径方九尺、別に一箇の石方三尺、厚三尺なるがあり、里民天照大神と崇め、伊勢御前と称し、小祠を創立すと。何れか正説なるを知らず。年歴も亦詳ならず。
大石越前守が伊勢より持ちかえった霊石を伊勢大神宮として祀った。
あるいはまた、老尼が伊勢より持ちかえった石、成長して天照大神と崇め祀ったという。 『久留米市誌』 (上巻)は、この地の「伊勢天照御祖神社」について、 『諸社十実抄』なる書物を引いて、つぎのように解説する。
<諸社十実抄>伊勢御前神社は延喜式に御井郡伊勢天照神社とあるは是か。今は三瀦郡に属す。所祭神荒祭宮・天照大神宮・豊受大神なり。建立年月詳ならず。伝に云国司越前守某伊勢大神宮の瑞籬の内なる小石と神庫の古鏡を申請て此地に祠れりと云(神宝に大石あり)謹て按るに、当社を古記に伊勢御前神社或は天照御前神社と記し、今は大石御前と称せり、
神宝として、伊勢神宮の石と古鏡を蔵しているという。俗に当社を「伊勢御前」 、あるいは「大石御前」とも称するという。大石越前守にちなんだ命名なのだが、小石が大きく成長するゆえ、大石御前とつけられたのだろう。御前とは女性につけられる。それならば祭神は、もちろん女神である。現に「御祖神社」とは、女神のことをいう。あるいはまた、この伝説を宣伝して歩いた比丘尼を称して、大石御前とよんだのかもしれぬ。五来重氏は、 『石の宗教』のなかで、 「袂石」を取りあげて、熊野比丘尼が神体の小石を持って遊行し、熊野信仰を伝播して歩いた、としている。それならば、右にあげた石の信仰と、伊勢および熊野は、どのように結びついているのか。疑問は尽きないが、伊勢の伝説を取りあげて、石の霊異について考えてみよう。
(二)西行谷神照寺の巨石
「袂石」ではないが、伊勢の内宮ちかく、西行谷に大きな石の伝説がある。なんと熊野から飛んできた石という。 『勢陽雑記』にその伝承が紹介されている。
俗説に、三十年計り以前天くだりとて、五尺四方程の岩石藪の中に有り。又或は云ふ、熊野神倉に有りし石、爰に飛行し来ると云々。
熊野の神倉から飛んできたという。神倉といえば、新宮神倉神社の「ごとびき岩」が連想される。その本願・妙心尼寺は、伊勢の本願・慶光院ゆかりの寺である。この比丘尼は、熊野から出たという。
内宮岩井田に近い西行谷に、尼寺・神照寺があった。明治維新までは比丘尼が寺を守ってきた。今はもう跡もないが、その林藪のなかに、この巨石はあったという。この尼寺は、巨石をなかだちとして、どうやら熊野ともつながっているようだ。神照寺は退転してないが、かつて寺宝に『熊野の本地』の写本を有していた。それならば、この尼寺は、熊野につながる伊勢比丘尼の寺と考えていい。明治維新以前まで、この寺の比丘尼は、二月十六日、西行法師の命日や、彼岸のとき、宇治の町まちを、勧進に歩くことを許されていた( 『秘木草紙』 「西行供養」 ) 。西行谷の巨石のことを記録した『勢陽雑記』は明暦二年に書かれた。とすれば、それ以前に、すでにこの石の俗説は流布していたと考えられる。 『勢陽五鈴遺響』 (度会郡「西行谷神照寺」 )には、
又俗伝ニ天ヨリ降タリト云フ五尺許ノ巨石、林叢ノ中、松ノ朽株ノ傍ニアリ。或云三十年前明暦年中、熊野権現ノ神庫ニ収ムル処ノ石ニシテ此地ニ飛来レリト云。
と記されてある。この記述からも、当時、伊勢の人々が、熊野権現と神照寺のつながりを想定していたことがうかがえる。もちろん石が飛んでくるはずはない。こちらは天より天降ったという。どちらにしても石の霊異をかたることでは同じだ。もちろん、この巨石の俗伝をはこんできた宗教者がいるはずである。比丘尼寺・神照寺の旧址にこの巨石が残ることをおもえば、比丘尼のしわざと考えていい。熊野と伊勢を往来していた比丘尼が、この西行谷に定住したのではないか。もちろん推定にすぎないが、もうしばらくかの女たちが残した伝説の痕跡を追いかけてみよう。
熊野の石といえば、 『塩尻』 (巻之三十七)には出羽の「袂石」伝説が記録されている。
出羽延沢銀山の隣郷中島村熊野の祠は、文禄年中に村の民熊野七度まふでせし、那智の浜にて一小石を拾ひ帰国せし、年月を経て其石大になり行ほどに、八十年来母石は一拱余りになり、形老嫗のごとしとて姥石といふ、此石より児石分する事、二千余にて年々にかさなりふとりて、太郎石、次郎石、孫石大小あり。小石は皆卵の形に似たり。是を崇めて今熊野というよしかゝる事もあるにや。
熊野那智の浜で拾って帰った石が、年々成長したばかりか、太郎、次郎、そして孫にいたる、子(小)石まで生みふやしたという。その形、老嫗のごとし、といって姥石と名づけられたのだが、おそらく、その名のごとく、石をもち歩いた女性宗教者のかかわりが推定できる。熊野の祠に祀られているのだから、熊野比丘尼とも考えられるが、判断の材料が少なすぎる。
袂石、姥石、そして西行谷の巨石、いずれもが石の霊異をかたる伝説である。ひとくちに霊異とはいっても、さまざまにバリエーションがある。この話の伝播に、比丘尼が関与しているとすれば、なんのためにかの女たちは石の霊異をかたったのか、そのことを明らかにする必要がある。伊勢山田の金剛寺の袂石は、それを考える材料を提供してくれるている。
(三)金剛寺の袂石
山田の船江町金剛寺に巨大な石の伝説が残されている。白大夫にまつわる伝説である。 『勢陽五鈴遺響』 (度会郡「金剛寺」 )から一節を引いてみる。
海蔵寺ノ西ニアリ。禅宗相伝。古昔ハ弘法大師開基ニシテ真言宗ナリ。今禅宗尼僧代々住ス。子院多シ。本尊虚空蔵菩薩堂前左傍ニ鎮守天神祠稲荷祠アリ。天神祠ノ檀上ニ巨岩アリ。其上ニ小祠ヲ建伝云。度会春彦(俗云白大夫)菅公太宰府ニ左遷ノトキ随従シテ播州ニ至ル。同州袖ケ浦ノ海瀕ニシテ一小石ヲ懐ニシテ携帰ル。後歳々長シテ巨嵒トナレリ。故ニ此祠ノ下ニ置テ天神ヲ祀ル処ナリト云。其岩大六尺計。青蒼ニシテ海嵒ニ似リ。今猶存ス処ナリ。又宝暦中松木度会高彦一禰宜ハ菅公ニ奉仕処ノ春彦ヨリ七十余世ノ後裔ナリ。其家蔵ニ元徳年中奏覧度会系図一巻アリ。又菅公ノ画像アリ。俗ニ云其頭ハ茶箋髪ニ類シテ頭巾ノ如キヲ被リ白色ノ直衣ヲ着セラル。是自画ニシテ春彦ニ所賜ト相伝ヘリ。寛文年中火災ニ罹リテ烏有トナリ惜ムヘシ。 (以下略)
本尊・虚空蔵菩薩の堂前に天神の祠あり。その壇上に巨岩ありという。往古、菅原道真、太宰府に左遷の折、白大夫・度会春彦が、その側にしたがった。下向の途次、白大夫は播州袖ケ浦にて、拾った小石を懐にして持ち帰った。それを天神の祠の傍らにおいたところ、その石、成長して長大になったという。それが金剛寺の巨岩である。
金剛寺は、廃寺となって今はない。もと真言宗で弘法大師の開基になるという。文禄四年(一五九五)に再興されて、臨済宗となった。
外宮鬼門除けの寺で、尼僧寺であった。松木時彦の『正続神都百物語』は、この寺についての事情をもう少し補ってくれる。
明治二年住尼帰俗して廃寺となつた船江町江西山金剛寺は、元禄九年三方会合所調査書に、本寺及塔頭正応軒岳仙庵、慶金庵、福田庵、竹泉庵、花蓮院とあり、宝永七年寺院改には、江西金剛寺本尊虚空蔵前田光明寺末禅開基不詳とある。元来本寺は松木男爵家の支配寺で有つたのを享保三年十一月故有つて光明寺に移した。
(中略)此の巨岩は白大夫春彦神主の墓だから、古来松木家の支配だと確信する。
不明な点が多すぎるが、それでも元禄期から宝永期の事情がかろうじてわかる。かつては松木家の支配寺であったというが、支配寺とはどういうことか、これだけではわからない。さらに松木神主家とこの比丘尼寺とのかかわりなど、詳しい事情はわかりかねる。もうひとつ、境内の巨岩を、 「白大夫春彦の墓」としている。しかし今のところ、白大夫の墓とこの比丘尼寺とを結びつけるものは、何もない。ただこの石は、白大夫が比丘尼寺に残した足跡のひとつといってよかろう。もちろん石をもち帰ったという白大夫の問題は残る。白大夫春彦は、伊勢神宮の神官にして、御師である。それについてはかつて論じたので、ここでは比丘尼のことに限って述べてゆきたい。
山田に住した比丘尼のことが、松木時彦『神都百物語』に記録されている。伊勢の「勧進比丘尼」について述べた記事である。
この山田比丘尼は岡本町と岩淵町松木とに親比丘尼が本陣を構へ、貧民の子女を貰ひ受けて之れを養育し、受持区域を定め、子比丘尼を引率して米麦の喜捨を乞ひ、毎年一度代表として熊野山へ参詣し、牛王を受け来る。之れを年籠の浄業と称していた。併しながら彼らが内容を穿てば、矢張り私娼の臭気は免れ得ずである。
山田岡本町と岩淵町に比丘尼が本陣を構え、毎年一度、子比丘尼を連れて、熊野へ参詣し、牛王札を得て帰ってきたという。おそらくかの女たちは、熊野比丘尼の流れをうけた伊勢比丘尼なのだろう。おなじく『神都百物語』には、慶光院三代・清順尼は、岡本町密厳庵に居住していたと記している。この清順尼は、熊野比丘尼であったという記録もある( 『宮川夜話草』 ) 。岡本町は、比丘尼の住まいする処だったのか。また岩淵町松木には、 『蟄居紀談拾遺』によれば、白大夫度会春彦を祀る祠があった。
春彦の小祠岩淵郷松木の町小家の間に形かはり有けるを、今の長官智彦卿小家を退け土地を広く築き殿舎を造立有て寛延三年九月十一日遷宮あり( 「春彦称二白大夫一」 )
岡本町は、外宮の東南、勢多川中流の両岸に位置した。岩淵町は、岡本町の北、勢多川の東南に接するという。岡本町から岩淵町あたり、勢多川をはさむようにして、比丘尼が居住していたとおもわれる。そして岩淵町には、白大夫の祠が祀られていた。こうした記事の断片から、比丘尼と白大夫をつなぐ勢多川の川筋が見えてくるようにおもう。そして金剛寺のあった船江は、勢多川河口の町である。つまり勢多川の川筋に白大夫伝説は残り、それを伝える比丘尼寺があったのである。
これだけで、金剛寺の白大夫伝説と山田比丘尼のつながりを説明するのは、あまりに不十分である。もう少し、金剛寺についての検討が必要である。
(四)金剛寺の恵康尼
伊勢市立図書館が所蔵する資料に『宇治山田市史史料寺院篇1』がある。 『宇治山田市史』二冊を刊行するにあたって、収集した資料群を分野別に整理したものである。市史二冊も宇治山田の歴史を学ぶためには、今でも必須の文献であるが、この市史史料群も、細部にわたってたいへん貴重なものである。その寺院篇に「船江三橋氏旧記」(以下「旧記」と記す)が収められている。これは「金剛寺」の中興縁起である。今、そのあらましを「市史史料」の解説にしたがって抜書きしてみる。
寺伝ニ云フ弘法大師ノ開基ニシテ真言宗ナリシガ、其ノ後漸次ニ衰運ノ傾キシニ、文禄四年(三三二年前)十二月恵康尼再興シテ禅宗臨済派トナリ、代々尼僧タリ。恵康尼俗名きんト云ヒ、豊臣秀次ノ妾ニシテ、文禄三年、秀次山田ニ落チ来リ、松木神主家ニ寄食シ、後チ当寺ニ潜居セシガ、翌年京都ニ帰ル日、きん女ト会シテ落飾シテ当寺ヲ中興セシムト。
寺庭ニ袂石ト称スル長四尺巾二尺許ノ青蒼色ノ石アリ、伝ヘ云フ、度会神主春彦、菅原道真ノ左近ニ従ヒシ後チ、暇ヲ乞ヒテ帰国セシ時、播磨国袖ケ浦ニテ、小石ヲ拾ヒ袂ニ入レテ持チ帰リ、此ノ所ニ置キシニ、不思議ナルカナ年々長シテ、終ニ大石トナレリ。故ニ其ノ側ニ菅公ノ祠ヲ建設シタリト。今猶其ノ寺跡ノ存シ、周囲ニ垣ヲ廻ラセリ。
前半が恵康尼によって中興された金剛寺の縁起。後半が白大夫の「袂石」伝説となっている。この「旧記」の本文は、意味の通じにくいところもあり、真偽のさだかではない記述もある。たとえば、文禄四年、豊臣秀次が山田に逃げ落ちてきて、 「きん女」 (のち落飾して恵康尼となる)と契りを結んだ、というのも、眉つばもので、信じがたい。一篇の貴種流離譚のごとき体裁をとっていて、いかにも疑わしい。かつてこの「旧記」を取りあげて、注解をくわえながら金剛寺について述べたことがある。今はそれにしたがって、金剛寺の比丘尼についてまとめておきたい。
「旧記」は、御巫尚書が、嘉永三年五月十七日に借覧して写したものを、御巫清在が、大正十三年五月にあらためて書写したという。「船江三橋氏旧記」と題されているが、三橋氏についての詳細は不明である。本文の冒頭に、
元祖三橋氏は、三州白井並柳郡出生にて、猿狭山に引籠、三橋弥右衛門好集、三橋彦兵衛好唯は、由緒有る侍なれば、秀次公へ加勢し家臣と成り、勢州度会郡伊良胡崎へ、秀次公趣給ふ時、奉供仕、伊良胡崎に引移り居止りける。
とだけ紹介されている。伊良胡は、 『神鳳鈔』に、 「三河国。伊良(外宮)御厨は、神郡神戸より上る租税御贄等凡て大神宮所用の雑物を貯へ置く所」 (本田安次著作集第七巻「神楽Z」 )とあるように、外宮の御厨の地である。伊勢大神宮の末社、伊良胡大明神勧請の地に、 「きん女」 、のちの恵康尼は生まれた。こうして「旧記」は、恵康尼による金剛寺中興の来歴をかたる。
ここに「旧記」の要点をまとめておこう。前稿で注釈をくわえながらまとめたものを、しめしてみる。
1箕曲郷は、むかしより松木氏の領地であった。
2「奥西郷」の森にまつられる船江上社は、水の神をまつる。
3船江上社の境内社箕曲氏社は、度会氏の遠祖「天牟羅雲命」をまつる。
4金剛寺は、外宮豊受宮の鬼門をまもる。
5金剛寺に菅神の祠が勧請され、境内の石に白大夫伝説が残る。
6船江の比丘尼寮を、恵康尼が金剛寺として中興開基した。
箕曲郷船江上社の境内に、箕曲氏社がある。当社は、度会氏の遠祖、天牟羅雲命を祀っていた。その名のごとく水の神を祭り、洪水や旱魃の害の少なからんことを祈念したのである。船江にあった比丘尼寮「西星寮」を、秀次の思い人「きん女」こと、恵康尼が、金剛寺として中興開基したという。この比丘尼寮に、少将井天王、波利賽女とともに、宇法童子(雨宝童子)を祀っていた。 「雨宝童子」とは、朝熊山の護法神とされ、天照大神の化身と考えられた。朝熊山で修行した空海が、天照大神十六歳のすがたを感得して、刻んだといわれている。伊勢神宮ゆかりの神を、金剛寺(西星寮)の比丘尼は祀っていたのである。
「きん女」は、剃髪して比丘尼寮「西星寮」に入り、恵康尼を名のった。そして開いたのが金剛寺である。それ以前から、 「西星寮」にいた比丘尼は、少将井天王、波利賽女などの疫神や雨宝童子をまつっていた。それらの神々の祀りを受けついだ金剛寺は、神仏習合の寺であった。その金剛寺の境内に、袂石は鎮座する。松木氏はそれを「白大夫度会春彦の墓」とする。 「旧記」はつぎのように袂石の伝説をのせている。
松木春彦白大夫大明神、菅丞相の筑紫にて御別れ被遊候節、為御形見、御姿彫刻し、御姿絵姿の石壱ツ給り、白大夫袂に入れ、筑紫より帰らせ給ふ。壱ツの石此社地に納祭り給ふ所、大石と相成により、袂の天満宮とも崇め祭る。又鎮守共奉祭り、正五九月には、松木氏より御供備る。菅丞相御姿は京都宮様に有之。御姿絵は山田の原箕曲の郷匂村にも有之と云。松木氏の支配せらるゝ社地なれは、町屋に縁無之。殊更大神宮の鬼門を守る社地なれは、かなる敵も押寄来る事叶まし。
金剛寺が松木氏の「支配寺」ならば、比丘尼もその支配下にあったと考えられる。松木氏が、白大夫春彦の形見を代々伝来してきたように、比丘尼も袂石の霊異をかたっていたのではないか。金剛寺は、外宮の鬼門を守る寺であった。ならばそこに祀られる白大夫の袂石は、外宮の町々を守護する神石と考えられたのではないか。松木氏がこの巨石を、 「白大夫春彦神主の墓」と主