浄土真宗 [親鸞] 法話

東本願寺法話 / 法話1法11法21法31法41法51・・・真宗の教え・・・
本山東本願寺法話 / 法話1法11法21法31法41法51法61・・・
西本願寺法話 / 法話1法11法21法31法41法51法61法71法81法91法101法111法121法131法141法151法161法171法181法191法201法211法221法231法241法251法261法271法281・・・

正信偈正信偈の教え / 教え1教6教11教16教21教26教31教36教41教46教51教56教61教66教71教76・・・
教行信証 / 文類一文類二文類三文類四文類五文類六・・・
 

雑学の世界・補考

真宗大谷派東本願寺・法話

真宗大谷派東本願寺 沿革
真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173〜1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂びょうどうを建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞聖人の娘覚信尼かくしんには門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職るすしき」として真宗本廟の給仕を務めた。爾来、真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟の懇念により護持されている。
第3代覚如かくにょ上人(1270〜1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになった。こういった経緯により、真宗本廟は、御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式となっている。
戦国乱世の時代、第8代蓮如れんにょ上人(1415〜1499)は、その生涯をかけて教化に当たり、宗祖親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめ、本願寺「教団」をつくりあげていく。このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興さいこうの上人(中興ちゅうこうの祖)」と仰ぐ。
京都東山にあった大谷本願寺は比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂(石山:現在の大阪市中央区)へと移転する。しかし、第11代顕如けんにょ上人(1543〜1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することとなる。この際、顕如上人の長男教如きょうにょ上人(1558〜1614)は、父顕如上人と意見が対立し、大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶された。天正10年(1582)に義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺(現在の西本願寺:浄土真宗本願寺派の本山)は移転した。顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如じゅんにょ上人が継職した。
しかし、その後も教如上人は活動を続け、慶長3年(1598)秀吉没、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。慶長8年(1603)上野国妙安寺みょうあんじ(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。これが当派の本山である「真宗本廟」のなりたちであり、教如上人を「東本願寺創立の上人」とするゆえんである。
真宗本廟は、その後四度にわたって焼失しており、現在の堂宇は明治28年(1895)に再建されたものである。世界最大の木造建築物である御影堂をはじめとする諸堂宇は、100余年の経年により屋根瓦や木部の随所に損傷が見られ、現在その修復工事に取り組んでいる。
江戸時代の東本願寺は、創立時における家康との関係もあって徳川幕府との関係は良好であり、また、寺院と門徒の間には、寺じ檀だん関係(檀那寺と檀家の関係)による結び付きがあった。明治時代に入ると、新政府による神仏判然令(神仏分離令)、廃仏毀釈はいぶつきしゃく(仏教弾圧)の動きが仏教諸宗にふりかかり、東本願寺も苦境に陥った。さらに幕末の戦火で両堂を失っていた東本願寺であったが、厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大なる懇念により財政再建が果たされ、明治の両堂再建が成し遂げられた。しかし、一方で教団は、江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、近代天皇制国家のもと戦争に協力していくことにもなったのである。
そのような中、当派の僧侶である清沢きよざわ満之まんし(1863〜1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を願い、宗門改革を提唱し、数多の教学者と聞法の学舎を生み出していった。この潮流は、昭和37年(1962)に「同朋会運動どうぼうかいうんどう」として結実し、爾来、当派の基幹となる信仰運動として、半世紀にわたって展開している。
ただし、こうした「同朋会運動」の潮流は、始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではない。昭和44年(1969)、「同朋会運動」に抗する勢力により教団問題が顕在化する。当時、東本願寺の歴代は、法主ほっす※(法統伝承者)・本願寺の住職・宗派の管長の3つの職を兼ね絶大な権能を有していたが、その力を利用しようとする側近や第三者により、東本願寺が私有化され数々の財産が離散するという危機に瀕したのである。
また、数々の差別問題を引き起こし、旧態依然とした教団の封建的体質が根底から問われることになったのである。
こういった教団の本義を見失う危機を経て、当派は、これらを深く懺悔さんげし、昭和56年(1981)、最高規範である「真宗大谷派宗憲」(当派の最高規範)を改正。「同朋社会どうほうしゃかいの顕現けんげん」(存在意義)・「宗本一体しゅうほんいったい」(組織理念)・「同朋公議どうほうこうぎ」(運営理念)を運営の根幹とし、一人ひとりが信心に目覚め、混迷する現代社会に人として本当に生きる道を問いかけていくことを課題とし、純粋なる信仰運動たる「同朋会運動」を軸として歩み続けている。
東本願寺
東本願寺は、浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、御影堂には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。これが東本願寺の始まりです。
東本願寺は、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏の教えに出遇い、それによって人として生きる意味を見出し、同朋(とも)の交わりを開く根本道場として聖人亡き後、今日にいたるまで、門徒・同朋のご懇念によって相続されてきました。
親鸞聖人は、師・法然上人との出遇いをとおして「生死出ずべきみち」(凡夫が浄土へ往生する道)を見出されました。人として生きる意味を見失い、また生きる意欲をもなくしている人々に、生きることの真の意味を見出すことのできる依り処を、南無阿弥陀仏、すなわち本願念仏の道として見い出されたのです。
それは混迷の中にあって苦悩する人々にとって大いなる光(信心の智慧)となりました。そして、同じように道を求め、ともに歩もうとする人々を、聖人は「御同朋御同行」として敬われたのです。
どうぞ心静かにご参拝いただき、親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗の教えに耳を傾け、お一人お一人の生き方をお念仏の教えに問い尋ねていただきたく存じます。  
 
 

 

■1 釈尊の説教を頂戴される聖人
いま手元に、安井広度先生を代表者とした親鸞聖人全集編集同人(八人)により刊行された『親鸞聖人全集教行信証』2を置いている。昭和三十六年五月三十日の初版発行、定価四百五十円である。東本願寺では、親鸞聖人七百回御遠忌が無事勤修された直後のことになる。この全集こそ、宗門の学者が派を越えて結集し、全力を傾注して世に問うたものである。
全十八冊。この刊行が始まった昭和三十年、私は、学業も生活も日本育英会の奨学金に依存する貧乏学生であった。なぜかお金がなかった。指導を受けていた藤島達朗先生から、全集刊行を教わっても、すぐには入手できず、学部を出て大学院に進み、かたわら教学研究所に嘱託から助手に採って頂いてから、給料全部で既刊分を買った。
その全集本の『教行信証』1と2は、稲葉秀賢先生が中心となり、藤原幸章、細川行信、幡谷明の諸先生が携わられた。学寮から明治以降の真宗学が凝縮している。
その2の二九七頁の中央に、
『阿弥陀経』言不可以少善根福徳因縁得生彼国聞説阿弥陀仏執持名号
を諸本を対校して訓(よ)み(真宗聖典三四八頁参照)を示した上で、〈〔底本〕「不可…生彼国」十四字、右に補記〉と注意してくださってある。そこで、近年宗門から出た坂東本コロタイプのこの箇所を確認すると、親鸞聖人が当初はお釈迦さまの教えを「阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ」と頂いておられたことが分かる。その凛然たる態度に身の置き所のない感動を覚える。
住職を四十一年勤めて息子に譲った。三十戸に満たない門徒だが、ほぼ全戸に月参りしてきた。拝読するのは阿弥陀経である。この頃気づいたのだが、短時間で読了する阿弥陀経なのに、親鸞聖人はその前半、極楽の荘厳を著書にご引用にならない。「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」。以下五首の弥陀経和讃にも、すばらしい極楽の描写は出ない。極楽に憧れて、善根功徳を積み重ねて、極楽に往生することは「不可」だとお釈迦さまが仰せられるのだ、と。
それでも福徳を気にする人のために、親鸞聖人は元照律師の著作を引いて、補説される(真宗聖典三五一頁)。それはまさしく「信心のひとにおとらじと疑心自力の行者も如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」(疑惑和讃七)という励ましで、改めて、親鸞聖人の峻厳(しゅんげん)な聞法の姿と同朋への暖かい思いやりとに頭が下がる。こんなことに気づいたのも、譲職の効能であろうか。 

■2 諸仏の声
十方恒沙の諸仏は 極難信ののりをとき 五濁悪世のためにとて 証誠護念せしめたり(真宗聖典四八六頁)
先日、ある聞法会に参加した時、ある方の今の聞法生活に至るまでの歩みを聞いた。自分の息子さんを亡くされ、その死をどのように引き受けたらよいのかに苦しみ、それまでの自分自身が保てなくなり、精神科の病院に通っていることまで話しをされた。そして仏教に解決の糸口を求めて話を聞いているということだった。しかし色々な法話等を聞いてもやはり難しいと話されていた。「難しい」にも色々な意味合いと響きがあるが、その方には苦悶の顔があった。そして最後に自分なりの教えの了解を話され、息子さんの死を何とか受け止めようとされていた。
私たちは、様々な出来事、友人、先生と言われる人と出会いながら生きている。出会いには様々なものがあり、そのすべてが意味のあるものとはなりえず、そのほとんどが不信感や猜疑心に覆われてしまうことだってある。その中で、たまたま出会った真宗の教えを通して生きる意義、喜びを得たいと求めている。
念仏といい、信心といい、このような宗教心が芽生えることによって私たちは、生きる意義を得るという。そしてその芽生えの事実を改めて振り返ると、そこには一切衆生を救わんとする弥陀の慈悲の深きことを知る。しかし弥陀の慈悲というがどこでそれを確かめることができるのだろうか。自分の中で作り出した「物語」にしか過ぎないかもしれない。
清沢満之は、「無限」(如来)との出会いを求めて歩んでいた。自分の頭で考え出した無限ではなく、病気をし、様々な批難中傷を受けるといった壮絶な人生の中でその出会いをかちとっている。さらに自分が経験したそれまでの人生を、無限との出会いという視点から改めて振り返っている。
教えとの出会いとは、言葉と人(「よき人」)との出会いにあると言われる。ここでいう「人」とは「事実」との出会いと私は受けとっている。言葉だけでなく、人との出会いにおいて、弥陀の慈悲が事実として働いていることを知る。そしてその出会いは、さらに他の様々な出来事等への眼を開いていく。自分の中で弥陀の慈悲を確かめるのではなく、出会おうとして出会えるものではないという偶縁によってこのような眼が開かれていくことが大事なことだといえる。
何も信じられるものがなくなったといわれる現代においても、不信感や疑い等を深く見つめると同時に、どこまでも深いところで出来事や人を信じる生き方が求められているように思う。そこにあらゆる事実を担っていく力、言うなれば空の手で担う力が与えられるように思う。 

■3 そらした視線
「点滴の針跡が痛々しい黒ずんだ両腕のぶよぶよ死体が、時には喉や下腹部から管などをぶら下げたまま、病院から運びだされる。どうみても、生木を裂いたような不自然なイメージがつきまとう。…死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぽっちで死と対峙するようにセットされる。」(『納棺夫日記』青木新門著)
人の生き死について、今も忘れられない出来事がある。記憶の奥に留めてきたことだが、最近『納棺夫日記』を読んでいて、ふと思い出されてきた。
学生時代、弁当配達のバイトをしていた。店主は、古希を過ぎた老女で、店の看板が台風で飛ばされても修繕しない弁当屋さんだった。五〇個程度であったか、数名の学生が手分けして、古い軽トラで配達するのが仕事だった。
配達先に、市内最大の病院があった。客人は、休息時間がままなら無い看護師たちである。配達着の白の割烹着姿で「どうも」と挨拶すれば、「給湯室に置いておいて」と、短いやり取りがすめば、急いで次の配達場所へ移動する。
その病院へ配達に行ったある日、看護師を通じて、別に弁当一つの注文が来た。翌日、ナースセンターで病室の番号だけを教えてもらって、いつもと違う階の、階段に近い部屋にやってきた。
ノックをしてドアを開けると、そこは、さながら集中治療室だった。ビニールシートの膜に覆われたベッドの中で、口を呼吸器で覆われた老婆が、いくつもの生命維持装置と見受けられる医療器械に、身体を繋がれていた。真っ先にその老婆と目が合い、思わず息を呑んだ。合った目を斜め下にやった先に、ドア横のイスに座る付き添いの婦人が目に入った。婦人に弁当の箱を一つ渡し、「明日も」と約束して帰った。
翌日だったと思う。頼まれた弁当をその病室へ持っていくと、半開きになったドアから、ただ布団が敷かれたベッドが置いてある光景が目に入った。呼吸器を付けた老婆も付き添いの婦人も、そこにはいなかった。あの老婆は、亡くなったのだと直感した。病室が並ぶ病棟は、しかし、普段と何も変わらなく、看護師たちが、相変わらず忙しそうだった。
その時、人の生き死にとは、こんなものか、と思ったことが忘れられないでいる。あっけなさとかではなく、人の生き死にが、放り出された、その剥き出しな有様に、戸惑いを覚えたのだ。
『納棺夫日記』に綴られた納棺夫である著者の言葉は、しばし頁を捲(めく)ることを忘れさせ、私に迫った。「死を忌むべき悪としてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死ぬという事実の前で、絶望的な矛盾に直面することである。…仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶たちと会っているうちに、彼らに致命的な問題があることに気づいた。死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしているのである。」(『同』)
弁当配達の通りすがり私が、ベッドの上で死に直面する見ず知らずの老婆と、たった一度、目が合った。しかし思わず私は、その合った視線をそらしたのである。私は、その視線の合った老婆に、まもなく訪れるであろう死を直感し、その死から目をそらしたのだ。
あの時までも、あの時からも、ずっと死から目をそらして生きてきた私なのではないか。今は、ただそう認めるしかない。そう思い切ると、急に親鸞が気になりはじめた……。 

■4 越後での家庭生活
仏教各宗の中で真宗は、肉食妻帯、在家仏教と称されるのが特色の一つである。それは特別に滝に打たれるような荒行をしたり、世間との交渉を断って仏道を求 めるのではなく、普通の家庭生活・社会生活を営みながら仏道を歩むことから、そのようにいわれるのである。
それは仏法を聞き念仏申す身となり、人生を荘厳していくことである。賜った命を人間として日暮らしの中でつくしていくことでもあろう。
そのゆえんは、宗祖が妻帯され家庭をもつ身で「教え」を明らかにされたからである。否、家庭をもって「生死する命」をつくす中で、いかに救われていくか が課題であったといえよう。
宗祖が恵信尼公と結婚された時期について京都説と越後説とがあるが、近年の研究では前者が有力となっている。宗祖の結婚について大きな契機となったの が、六角堂参籠の九十五日の暁に、「聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて」(恵信尼消息、聖典六一六頁)の夢告である。いわゆる「女犯偈」と いわれる「行者宿報設女犯」以下の四句である。おそらくこの夢告を得た近い時期に宗祖は結婚されたと考える。
とすれば、承元元年(一二〇七)宗祖三十五歳の時、越後に流罪となるが、少なくとも小黒女房が生まれていたであろう。家族を伴って越後に向われたのであ る。
宗祖が明らかにされた信仰・思想体系は越後での生活が基本になっていると考えられる。
比叡山や京都で生活されていた宗祖は、陸路を長距離歩かれ、海路を船に乗られたことなどは初めての経験であったであろう。越後の居多ヶ浜に上陸され国府 で暮らされたのであるが、流人の身であり、役人の監視下であった。
自らの力で農耕を営み、家族を支えていかなければならない。自然の恩恵にありがたさを感じるとともに、一方で冬は豪雪となり北風の猛吹雪の日が続いたこ ともあったであろう。あるいは荒れる海にも出て魚を追う漁民の姿、山へ入って狩猟をし、生計をたてる人。いわば「殺生」という罪業に直面しながら懸命に生 き抜いている人々を、宗祖は眼のあたりにされたのである。
また、優しい自然と厳しい自然の中で、互いに支えあい、協力しあっている純朴な民衆、逆に妬み憎しみあう人間どうしの醜い争い等々、一般民衆とともに同 じ家族をもつ日常を営む中で、宗祖はそれらを肌で体得されたのである。
我々は生まれて生きて死んでいく「生死の命」をつくしている。その限られた命を、「教え」を聞き「化生」(和讃)して人間らしく荘厳していきたいもので ある。それは時を超えた「無量寿」に聞き、目覚めることである。
宗祖の越後生活を推測する時、我々と同じ視線をもって感得されたことを基盤に「教え」として示してくだったことを身近に感じる。 

■5 「親鸞」の名のり
時々、「親鸞」とは誰なのだろうと考える。おかしいかもしれないが、私は、一体誰を「親鸞」と呼んでいるのだろう、と疑問に思うのである。
たしかに「親鸞」の書いたものが残され、不明なことが多いながらその生涯が伝えられている。そして七五〇年にわたって、その人の教えに生きた人々があって、いま、私がその教えに縁をいただいている。それが私の前にある「親鸞」という人の事実である。だがいつの間にか、この「親鸞」という人を、宗祖と呼び、聖人といただくようになっているが、私がこの人の何を知っているのだろう。私はやはりそのように問い返さざるを得ない。
そんなとき、いつも立ち戻るのが「親鸞」という名のりの問題である。肩書きがなくなったらただの人というが、現代では、名が私とはこういうものであると明示することはほとんどない。しかし、「親鸞」という名はそれとはちがう。そこには明確な主張がある。
宗祖の名は「親鸞」の他に、比叡山時代の「範宴」、法然上人と出遇って名のった「綽空」、そして「親鸞」とともに生涯使用された「善信」がある。「綽空」は、末法という時代を課題にした道綽という人と、その道綽の提起した課題に浄土宗独立という形で応答した法然(源空)という人、その二人の名を合わせた名である。法然はその「綽空」の名において『選択本願念仏集』の流通を宗祖に託したのであった。それはいわば師から託された課題的な名といってよいだろう。しかし宗祖は、その名を返上して新たな名を名のる。
その名のりについては諸説があるが、宗祖は、『選択本願念仏集』をどこまでも戴き、善く信じる者であり続ける立場に自らを決したに違いない。つまり、師から託された課題への自己全体を挙げての応答、「善信」への改名である。そして「親鸞」。この名は流罪以後に名のられたものに違いない。それは師との別離を機に、どこまでも師の教えを善く信じようとする存在が、なお遺された教言を尋ね続けていく営みを象徴する名であるといってよい。
「親鸞」という名は、天親と曇鸞からとられたという。その二人が表しているのは、師の教えに生きる弟子の営みである。つまり天親の『浄土論』と曇鸞の『浄土論註』の関係からわかるように、師の教えを生みだした根源、すなわち阿弥陀の本願のはたらきを自他に明らかにしてやまない営みこそ、曇鸞の示した学びである。そこに師なき後を歩む弟子の営みがあると見定めたところに、「善信」は「親鸞」と名のりつつ生きる者となったのである。その二つの名のりの結晶化が「(愚禿釈)親鸞」の名のもとに編まれた『教行信証』に他ならない。
「親鸞」とは誰か、「親鸞」とは師の教えを尋ね続けるその営みにこそおられる。あの真筆『教行信証』(坂東本)を手に取り、私はそのことにいつも立ち返らされる。 

■6 親鸞を学ぶ 親鸞に学ぶ
欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。 (聖典二三七頁)
と述べられています。それは、私達が念仏を申せば申すほど、かえって信心が遠ざかってしまうことを言われているのかも知れません。
そして、その信心が得られない者にとって、念仏とはそのまま「聞」という学びを徹底するものでなければならないと、いわれているのだと思います。
しかし、真宗における学びとは、どのような方法を持っているのかということは、私達一人ひとりに与えられた課題であります。私はそれを、親鸞を学び、親鸞に学ぶものだと考えています。
親鸞を学ぶとは、言うまでもなく『教行信証』をはじめとして、親鸞の残された言葉そのものを学んでいくことであります。しかし、その学び方は、決して親鸞を対象化した学びであってはなりません。
むしろ、親鸞の目によって聖教を読みなおしていくような学びでなければならないのです。それを親鸞聖人は、「真宗」の一言で表わしているのではないかと思います。
私達は真宗というと、浄土真宗と結びつけてしまいます。しかし、親鸞にあっては、浄土と真宗は、決してそのまま一つの言葉として、表現されているわけではありません。
むしろ、真宗というものを徹底して見ていくという、そこに浄土という世界が拡がり、また浄土の真実は、真宗という表現となっていると、宗祖は言われていると思うのです。ここでいう真宗こそ、物事に対する私達の態度であり、思考の方法を示すものだと私は思うのです。
それは、親鸞において、真・仮・偽と表現される現象と真実の関係の中で、一切のものを、この構造の中で捉えようとする思惟の歩みそのものだと言えると思います。
そして、この真宗の立場に立って、仏教を捉え直し、浄土思想そのものも「仮」として問い続けたものこそ、親鸞の残された言葉に他ならないのです。ですから、親鸞を学ぶとは、決して親鸞の言葉の外から学ぶものであってはならないのです。むしろ親鸞の言葉によって、学ばなければならないと思うのです。
そのために、私達は、親鸞に学ぶことを同時にしていかなければならないのです。
親鸞に学ぶとは、「親鸞」にまでなった念仏者の道程を学ぶことであります。それは、むしろ「愚禿」という名告りへの、宗教心の旅ということが出来るでしょう。
そして、その「愚禿」の名告りをさせたものこそ、流罪であり、そこから見えてきた社会―世間であったのだと思うのです。
それは、どこまでも、信不具足に立った、聞不具足の自覚を深めていくものではないかと、流罪八百年の今、強く思っています。 

■7 釈尊と親鸞聖人
仏教とか親鸞聖人の真宗が私の人生の具体的な関門となったのは、大谷大学で恩師山口益先生の仏教学に出遇うことができたからであった。末寺の長男として生まれ、寺の後継者として特別な扱いを受けながら大切に養育されてきたが、高校生になる頃には、それが重荷となり、周囲の敬愛に満ちた束縛から解放される自分の未来を考えるようになった。このままでは田舎の末寺に埋もれた人生となってしまう。あまりにも不本意である。自分の未来はこのままでよいのであろうか、自分に相応しい別の未来があるのではないか、と。そこには、仏教とか真宗は眼中になく、自分の未来への漠然とした大志だけがあった。
私の高校生の頃は、塾や予備校もなく、ときどき全教科の模擬試験があるだけの大らかな時代であった。仏教といえば京都というイメージがあったのか、担任の先生からは京都大学を受験してはどうかと薦められた。私自身も京都では京大に、東京では早稲田大学に憧れを抱いていたので、そのことを父に告げると、寺の後継者は大谷大学に進学すべきであり、京大などに行く必要はないと一蹴された。谷大に行かないのなら学費は出さないとまで言われ、頑固な父を恨みつつ、泣く泣く谷大の門をくぐった。そのとき父は「谷大でしっかり仏教を勉強してこい。それでも仏教に回心できず、仏教に人生を委ねる決意が沸いてこないのなら無罪放免してやる。青春時代の四年間などは短いものだ。」と、私を押し出した。
谷大での仏教への学びは、私としてはかなり真剣であった。卒業後の人生について決断しなければならなかったからである。授業だけでなく、仏書屋や古本屋を巡り歩きながら真宗学や仏教学に関する仏教書を求め読みあさった。そのとき、山口益著『空の世界』(理想社)に出遇った。それまで乱読してきた仏教書にはない信頼の置ける確かさがそこにあった。難解ではあったが、新鮮であった。入学したときは真宗学科を専攻するつもりでいたが、三回生となったとき躊躇なく仏教学科を専攻し、山口先生の指導の下で、縁起・空性・無我という徹底した自我崩壊の原理を前にして呆然自失し、一方では「自己とは何か」と自我を問うことのない唯物史観に虚構を感じ、ニーチェのニヒリズムに共感していたとき、
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。如来、世に出興したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり。 (聖典二〇四頁)
という「正信偈」の六句が、釈尊と親鸞聖人となって面前に立ち現れたのである。恩師の学問と父の信念とに導かれての出遇いであった。
今年の報恩講においても、面前に立ち現れてくださる世尊と宗祖の御前で、回心懺悔して仏恩報謝の念仏をいただける勝縁が待っている。 

■8 地獄=大悲の本願に遇うところ
秋葉原での無差別殺人事件の犯人が、(真偽はわかりませんが)人を殺せば死刑になれると思ったとか、ネットで殺人の予告をすれば誰か止めてくれると思ったと言っている事がマスコミを通して漏れ聞こえてきた時、それならなぜ人を巻き込むようなことをしないで、自殺しないんだという怒りをおぼえたのは、遺族だけではないでしょう。しかしその一方で、「彼の気持ちがよくわかる」「自分もいつ同じことをするかわからない」という多くの反応が起こったことに、人間の立てた善悪の観念ではとても解決のつかない、精神の闇が深まっていることを憶わずにはおれません。
犯行の背景には、ワーキングプアなどの雇用問題・経済問題があるとコメントする政治家や評論家もいますが、世界を破壊したいという衝動は、そうした経済などの条件問題とは全く次元の異なる問題にその根はあるのでしょう。その根とは、世界全体が自分を拒絶する敵であるという感覚であり、それは自分はこの世界にあって、全くのよそ者であるという、底知れない孤立感です。
自殺はもちろん悲惨なことであり、自殺しようとするところまで追い込まれるということは、苦しいことではありますが、そこには自己愛があります。つまり、苦しみのただ中で、苦しい自分を助けて、楽になりたいという、自分への愛着がそこには動いています。ところが、世界を破壊し、無差別に人を殺したいという、底知れぬ衝動に駆られるときには、その自分そのものも破壊し尽くしたいという、出口の全くない絶望的な精神状態がそこにはあるのです。
親鸞聖人が「正信偈」で、浄土の教えに帰した大切な先輩として仰いでおられる「七高僧」の一人である源信僧都は、その著『往生要集』で、人間にとって一番苦しい地獄は「無間地獄」であり、それは「孤独無同伴」つまり孤独な世界であると、はっきりとおっしゃっておられます。そして真宗の根本経典である『仏説無量寿経』に説かれる、阿弥陀如来の本願の第一願には「地獄・餓鬼・畜生」がないことを誓われています。つまり、その地獄に生きるものはまた、餓鬼・畜生の生き方をせずにはおれないと、阿弥陀の本願は、衆生の苦しみを智慧によって見抜き、大悲しておられるのです。
親鸞聖人がその本願に触れ、本願に生きることになったのは、親鸞聖人自身が本願の目当てである孤独の地獄をくぐられたからでありましょう。非道な行動をとることは、人倫からは許すことのできないことではありますが、人間の立てた愛や善悪の価値観の虚偽を痛いほど知り、孤独の地獄にあって、世界を恨み、絶望するということは、機縁さえ熟すならば、親鸞聖人を殺そうとした板敷山の弁円がそうであったように、大悲に触れて懺悔がおこる、重大な意味があるということを、親鸞聖人から教えられるのです。 

■9 親鸞が出遇った釈尊
宗祖親鸞聖人はどこで釈尊と出遇ったのであろうか。もとより、様々な仏典によって教主世尊・大聖としての釈尊を遙かに礼拝していたであろうが、直接的には『無量寿経』において出遇ったにちがいない。同経では、まず聴衆として、釈尊の直弟子たちの名前が列挙され、続いて、大乗の菩薩たちの名前が列挙された後に、釈尊の生涯が伝記(仏伝文学)に基づいて説かれている。その内容は、言葉の限りを尽くしての賛嘆に満ちあふれている。
ちなみに、この釈尊の伝記の部分は、現存する同経のサンスクリット原典にはなく、漢訳の際に挿入されたのであろうが、この挿入はきわめて重要であったと考えられる。そこには、大乗の菩薩たちへの釈尊の授記によって浄土への往生が説かれるという漢訳者の了解が込められていると見なされるからである。原典の場合は、ここに釈尊の伝記がなくても、そこには自明なこととして釈尊は絶対的な存在としてあり得ていたのであるが、漢訳ではそのことを明示し、かれら大乗の菩薩たちは、釈尊の授記を得た菩薩たちであることを再確認しておく必要があったということであろう。
ここに説かれている伝記は、大方の伝記にならいながら、要を得て巧みに釈尊の生涯を辿りつつ、釈尊が群生を荷負する大乗の菩薩たちにとっての大聖であることを説き、釈尊から記別を授けられた菩薩たちがここに来会していることを示すためである。そのような手続きを経て、まさしく同経の主題である本願について、阿難の問いが起こされることになる。
ところで、ここに説かれている釈尊の伝記の記述において注目しなければならないのは、大乗経典、特に浄土経典であるが故の大切な記述が含まれていることである。それは、
成等正覚、示現滅度、拯済無極。(釈尊は「覚り」を成し遂げられ、その入滅においては大般涅槃を示現されたけれども、救済されなければならない衆生に極まりがない)(聖典四頁)
という、大切な一文である。
この一文の中の「成等正覚示現滅度」は、宗祖の『正信偈』において、
成等覚証大涅槃(「覚り」をなし、大涅槃を証することは)(聖典二〇四頁)
と詠まれている一文とまっく同意である。「等正覚」とは、釈尊の「覚り」のことで、「等覚」「正等覚」とも漢訳されるsamyaksambodhi(三藐三菩提)の意訳である。「滅度」とは「大般涅槃」「大涅槃」「無上涅槃」のことに他ならない。従って、『正信偈』における、
成等覚証大涅槃必至滅度願成就(同右)
は、「釈尊が「覚り」を成し遂げられて、その入滅において大涅槃を証明され、滅度を示現されているから、私たちを必ず滅度に至らしめるという本願はすでに成就されている」と了解されるべきではなかろうか。しかしこれまでのところ、この句が釈尊自身のこととして解釈されていないようであるが、私はここに宗祖が出遇った釈尊を看取するのである。 

■10 宗祖の姿を求めて
教学研究所では、昨年『親鸞聖人行実』を改訂し発行した。ここ数年改訂作業にかかわり、発行を終えて、親鸞聖人を憶うということの意味を改めて考えている。
私たちは、九歳で出家し、二十九歳で法然上人に出遇い、流罪ののち関東で布教し、京都に戻って沢山の著述に力を尽くされたという、大まかな宗祖の生涯は知っている。しかし、私たちが思っている宗祖は、それだけではないのはどうしてであろう。私たちの思う宗祖は、その大まかな生涯以上に、もっと肉がつき、豊かであるはずである。私たちは、実在が疑われたほどに、生涯を知る確実な手がかりが少ないこともよく知っているが、その宗祖像はどのように出来上がったものであろうか。そして果たしてそれは、正しいものであるだろうか。
私の宗祖像、つまり私の憶う宗祖のお姿は、様々なところから形成されているはずである。親や先輩の話、法話、聖教、その他の書物、学校…。そして宗祖像にも時代性がある。かつてはマルクス史観的な階級闘争に宗祖が位置づけられたこともあった。そのような生々しい人間親鸞といった見方や、あるいはさらに近世に遡れば、奇瑞を起こし、神もが尊敬する貴人としての親鸞。このような宗祖像はその時代性を背負っている。つまり人間親鸞と言うところには、近代化する社会において生き生きと生きることが失われていく中、まさしく生々しく生き生きと生きる人間という理想が、親鸞に求められ、重ねられたのであろう。また、近世の伝記であれば、厳しい身分制度、そして幕藩体制下の寺檀制のもと、日々忍従しつつ暮らす人々にとってその忍従を宥めるよき教えとなって用いたのであろうことは想像できる。それと同じように、私たちも、私たち自身(の思想)を補完するものとして宗祖という存在を利用してしまうことがある。
しかし、宗祖の生涯のほとんどが不明であるという事実は、その私たちの宗祖像が本当に正しいのであろうか、自分の考えを投影しているのではないのかと、どこまでも私たちの宗祖像を問い直していく。勿論、そこには絶対に正しいという宗祖像などない。私たちの宗祖像は、常に必ず問い直されるものとしてある。これは宗祖像だけでなく、真宗という教えの受け取りもそうである。皆それぞれ、自分なりの教えへの受け取りがある。しかし果たしてそれは宗祖のお心であるのか。そう問い直す場が、聞法である。宗祖像であれ、教えの受け取りであれ、どちらも常に固定化を破り、問い直していくところに、真宗という仏道の大切な営みがある。
だからこそ私たちは、いつでも新しく宗祖に出遇うことができるのである。その宗祖像は、人ごとに違ってよく、同じである必要はない。私たちは語り合うところに、いつでも様々な宗祖に出遇うことができる。そう、私たちには、宗祖像が無限に開かれている。いつでも新しく、私たちは親鸞聖人の姿を求め続けていくことができる。 
 

 

■11 『伝絵』中の親鸞聖人―箱根示現の意味―
親鸞聖人の曾孫覚如上人は『本願寺聖人伝絵』上下二巻十五段を制作し、聖人を顕彰した(康永本)。「伝絵」中に、ア「六角告命」の段、イ「蓮位夢想」の段、ウ「定禅夢想」(「入西鑑察」の段)、エ「箱根示現」の段、オ「熊野示現」の段と、仏神の示現・夢告の段に三分の一を割いてあるのが目を引く。
これらのなかで、本地(来)の仏が衆生済度のために、権りに神に姿を変えて現れる本地垂迹思想に依り、聖人は弥陀の化現として表されている。覚如上人の「伝絵」制作の意図のひとつに、本願念仏の教えを広めた親鸞聖人を、「生身の弥陀如来」として讃仰することがあったと考えられる。
これらのなかでエの「箱根示現」の段についてその意味を考えてみたい。
「箱根示現」は、関東から帰洛する親鸞聖人一行が、箱根の山中で日が暮れて困っていた所、箱根神社の神官が一夜をもてなした。聖人が理由を尋ねると、われ尊敬をいたすべき客人…かならず慇懃の忠節を抽でて、殊に丁寧の饗応を儲くべし、と権現の夢告があったからと答えたという。
聖人が箱根神社に立ち寄ったという伝承は「伝絵」以外の史料には見えない。そもそも本となる伝承があったのか、また覚如上人の創作なのかはわからない。この段はこれまで「念仏者は、無碍の一道…信心の行者には、天神地祇も敬伏」(『歎異抄』第七条)することを説いた段として理解されてきた。しかし、なぜ箱根神社でそのことを言わなければならなかったのか。他の神社でもよかったのではないか。道中には鶴岡八幡神社や三島大社、尾張の熱田神宮、近江の多賀大社など有名な神社がある。しかし、それらの神社ではなくて、箱根神社でなければならなかったのであろうか。また、箱根権現は、なぜ聖人を「尊敬を致すべき客人」と夢告したのか。
覚如上人が「伝絵」に「箱根示現」の段をいれた理由を、その祭神にあると考える。箱根神社の祭神は、ニニギノ尊、コノハナサクヤヒメノ尊の夫婦神と、子のヒコホホデノ尊の三柱である。そして、ヒコホホデノ尊の本地は勢至菩薩とされている。『仏説観無量寿経』に、「住立空中」の弥陀三尊が現じたように、勢至菩薩は観音菩薩とともに阿弥陀如来に脇侍としてつかえている。ここに、箱根権現でなければならない必然性があった。それこそ本地垂迹思想で説明できるのである。
ところで、「伝絵」のなかで、すでに勢至菩薩の示現とされた人物がいた。それは法然上人で、幼名を勢至丸といい「智慧第一の法然房」と称されていた。したがって、「伝絵」解釈では法然上人を勢至菩薩の示現として、弥陀三尊とみてきた。しかし、法然上人は聖人を教え導いた師匠であって、法然上人が、聖人を礼拝する形をとっていない。ところが「箱根示現」の段を設けることによって、勢至菩薩(法然上人)が弥陀如来(親鸞聖人)を尊敬するかたちとなって解決するのである。
親鸞聖人を「生身の弥陀如来」として崇敬させるうえで、「箱根示現」の段はそれを補完し証明す意味をもっていたのである。 

■12 如来が出興する「世」とは
如来所以興出世 唯説弥陀本願海(聖典二〇四頁)
―釈尊がこの世に生まれ出られたのは、ただ阿弥陀の本願海を説くためである― と『正信偈』にはっきりと述べられている。それが親鸞聖人から釈尊へと向けられた眼差しであり、敬いである。この二句には『大無量寿経』を通して釈尊の教えに直に触れ、本願に帰した仏弟子としての自覚が顕わされていると聞かせて頂いた。
親鸞聖人が生まれた時代とは貴族と武家との政権争いによる動乱期であり、さらに飢饉や疫病によって都には死者があふれ、死臭が鼻をついたという。それはまさに恐れと不安に満ちた時代である。「死」がむき出しにされ、同時に「死」に迫られての「生」がむき出しにされていた世界だったといえよう。親鸞聖人にとって、如来が出興すべき「世」とは釈尊在世時代の過去の出来事ではなく、まさに親鸞聖人が生きた「その時」の事に他ならない。
さて、親鸞聖人の生まれたそのような時代からおよそ八〇〇年以上が過ぎ、今を生きる私たちは便利で快適な生活が送られるようになった。しかし、言い換えれば「便利で快適」な時代とは「死が見えない」時代とも言えないだろうか。やはり人間にとって死とは何事にも代えがたい恐れを孕み、私自身、死を遠ざけたところに幸せがあると思っているのである。そして、死から離れた幸せをこそ頂点として、生活の進歩と向上をさらに求め続けているのだ。その先に本当の満足はあるのだろうか。
今年の五月、臓器移植法の改正に伴い様々な議論が交わされ深く考えさせられた。そもそも臓器移植とはかつては夢のような話だったのが「出来る限り長く生きていたい」、或いは「なんとか生き長らえてほしい」、そういう素朴でありつつも切なる願いを受けて医学は発達し、高い医療技術を我々は手に入れた。そして、臓器移植が夢の事ではなくなったのだ。実際に生きた臓器が求められる現場からは、違った意味で「死を乗り超え」ようとしていることの強い意志が表われているように感じる。そしてそれが科学技術を手に入れた人間の必然性であるともいえる。
私はこのことを書いて医学や臓器移植についての善し悪しを言及したいのではない。ただ、生きた臓器がやりとりされる時代を生きる者として、死を遠ざけ、生のみを求め続ける人間の姿がさらに際だって見えてきたと感じるのである。
これらのことを合わせて考えてみると、釈尊在世の時代、親鸞聖人在世の時代、そして私たちが生きている今と時代は全く違っているが、死をめぐる混乱は何一つ変わっていないといってもいいだろう。だからこそ「今、現に在して」法を説きたもう如来が出興すべき「世」とは「常に」なのだといえる。今こそ、釈尊の声に耳を傾ける時だと確かめておきたい。 

■13 「和讃」に親しむ
自坊で毎月声明や勉強会を門徒とともに行っている。二十数年が経ち「正信偈」、『歎異抄』、「和讃」、『唯信鈔文意』などを読みながら解釈や宗祖のいわんとするところを提示している。また、宗祖、蓮如上人の生涯、あるいは本願寺東西分派などの歴史的な話も順次行った。
特に多数の和讃を紹介、読誦した時は、筆者もそのわかりやすさや讃歌にあらためて心うたれることがあった。和讃は宗祖が「ヤハラゲホメ」と左訓されるように、経、論、釈の深い教理を和語をもって意味をわかりやすくされ、諷誦するようにされた歌である。和語の『教行信証』ともいわれる。
『三帖和讃』の「浄土和讃」、「高僧和讃」は宗祖七十八歳の時脱稿され、八十三歳の時に再治された。その喜びを描かれたのが著名な「安城の御影」である。蓮如上人の孫、顕誓は『反故裏書』で「世に申伝へけるは、『和讃』御所作をなされ御歓悦の御かたちをうつさせられ侍る、画工は朝円法眼と云云」(『真宗聖教全書』第三巻九五七頁)と、宗祖が「和讃」完成で歓ばれ、自画像を描かせたと伝え聞いていると記している。
宗祖が高齢にもかかわらず、「浄土和讃」一一八首、「高僧和讃」一一九首(蓮如文明版)の多数を著され、また宗祖八十歳代半ばで「正像末和讃」一一六首を加えられた。七五調の四句一章形式の讃歌は、拝読したり聞く門徒にとって心に印象深く残る。宗祖は難解な漢文を解読できない者にわかりやすくするため心血を注いで和讃を作成してくださったのである。また、流暢な語調や教義的に組織だてられている内容は改めて必読、口誦することが求められているように思う。
筆者が好む和讃が多々あるが、たとえば左掲の和讃もその一つである。
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし (「天親讃」聖典四九〇頁)
特に「功徳の宝海」に魅せられる。宝海は苦海に対応する文言であろうが、宗祖は「海」と「水」を喩えにされていることが多い。右掲の「煩悩の濁水」、「弘誓の智海」、「名号不思議の海水」、「智願海水」、「他力の信水」等々である。煩悩は本願を信ずるとそのまま同化、一味になるもっともわかりやすい比喩として海、水を宗祖は提示して下さったと考えられる。海は清濁、大小の川の水をみな受け入れてくれる身近な自然であろう。もちろん『願生偈』に「能令速満足功徳大宝海」(聖典一三七頁)とあり、宗祖も読誦しておられたのはいうまでもない。
筆者は「正信偈」を日常的にお勤めする時、「帰入功徳大宝海必獲入大会衆数」(聖典二〇六頁)の箇所で、前掲の「和讃」を思いおこす。特に「宝海」に思いをはせる。
多くの「和讃」を味読することは、門徒としての自覚をより一層促されるのではないだろうか。 

■14 悪人こそがすくわれる
阿闍世と言えば『仏説観無量寿経』の序分に説かれる、「王舎城の悲劇」の一方の主人公で、父を殺し、仏を傷つけようとした五逆、謗法の大悪人です。宗祖親鸞聖人は、『大般涅槃経』を『教行信証』「信巻」に引用して、その阿闍世のすくいを説かれて、浄土真宗の信心を明らかにしておられます。そこで阿闍世は「一闡提」といって、「仏がすくおうと思ってもその手がかりがない者」としてえがかれています。「すくわれないもののすくい」、つまり悪人がどのように成仏道に立てるかということが浄土真宗の信心の内容だということなのです。
『教行信証』のこの部分はまた、『仏説無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の第十八の願の「すべての者をすくうけれども、ただ五逆と正法を誹謗したものを除く」という言葉の意味を明かしている、と宗祖が受け止めていらっしゃいます。宗祖にとって阿闍世のすくいが自らのすくいであるということです。それは実は、同時に自らも、すくいからもれるべき五逆と謗法のものであるという自覚に立っているということでもあります。
このような「悪人のすくい」が浄土真宗の大きなしるしであるのは間違いありません。しかし、このことは実は法然・親鸞のお二人が特別に考えられたことなのではないのです。仏教は実はその初めから「悪人・阿闍世のすくい」を一つのテーマとしてきました。阿闍世のすくいを述べた経典がたくさんあるのです。そこで阿闍世のすくいは「無根の信を得た」と説かれています。阿闍世の側には根拠がない信心だというのです。それはちょうど宗祖がおっしゃる「阿弥陀さまからいただいた信心」のことです。
私たちはどこかに仏がいて、それに自分がであうのだろうと考えています。「自覚」という言葉で示されるのは、善悪を自分で決め、その延長に仏やすくいをおいて疑いもしない、そういう偽りが照らし出されることです。仏とであったから悪人と名づけられる者になるのですし、また悪人であるという自覚こそが仏とであった証拠なのです。真なるものとであうから偽であることがわかるのです。正しい教えを聞こうとも、仏になろうとも思ってもいないのが私のすがたです。そういう自分のすがたに目覚めること以外に、私たちに仏道が成り立つ根拠はありません。このことこそが「南無阿弥陀仏」という言葉で示される浄土真宗の「信心」であり、仏教であるしるしなのです。
すくわれる者ではないという自覚から深められていった宗祖親鸞の仏道が、時間を超えてまっすぐお釈迦さまの説かれた教えにつながっています。 

■15 往生極楽のみちをといきかんがため
先日、御門徒の方々と親鸞聖人の御旧跡を巡る時間を共にした。ゆかりの地を巡りながら、その地で語り継がれる聖人のお姿を想った。また同じ頃、地元の博物館で「安城の御影」が公開され、そのお姿にお遇いすることができた。御遠忌を間近に控え、各地で聖人の足跡を尋ねる機会が増えている。八百年の時代を超えて聖人のお姿を想う。
時を経て聖人在世中と現代では時代は大きく変わった。御旧跡に立ち、眺める景色も、そこに住む人々もすっかり違っている。その変化の度合いはますます急激なものとなり現代を生きるわれわれを呑み込んでいるように感じる。自然科学や社会科学の発達はその技術と知識で人々の世界観を大きく変えた。生活の利便性を向上させ、当時では考えられなかったような社会が実現しているのである。
そんな社会のなかにあって、八百年もの時代を超えて、さらに釈尊からは二千五百年もの時代と国を超えて、その教えがこの時代を生きる自分とどう関わってくるのか、戸惑いながら考える。今、親鸞聖人のしめされた教えに聞いていこうというのはどういうことであるのか。変わりゆく世界のなかで、教えがその時代その時代の衆生に応えていくということはどういうことであるのかと考えさせられるのである。
『歎異抄』第二条には聖人と門弟とのやり取りが記されている。「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり」(聖典六二六頁)。関東から尋ねてこられた門弟に対して、あなた方がはるばる尋ねてこられたお気持ちは、「往生極楽のみちをといきかんがため」である、と。そしてその「みち」は、よきひと法然上人によって出遇った「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(聖典六二七頁)というお念仏の教えであることを伝えておられるのである。おそらくさまざまな質問をもって参上したであろう門弟に対して、それらへの回答ではなく、それらの問いをつつんだ、ただひとつの根源的な問いを言い当てるこの場面は印象的である。そしてこのことは、現代のわれわれも同じく、たとえ時代が変わろうとも、「往生極楽のみちをといきかん」というところでしか聖人とつながる道はないのだと教えられてあるように思う。
教えは時代の相を言い当てるのではなく、その時代を生きる人間の苦悩の根源を言い当てるのである。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」とは、その苦悩の根源に応答する如来の本願の勅命である。その勅命に従うことによって、聖人もまた時代を超えて七祖に出遇っていかれたのであろう。 

■16 本当の自分とは
私は京都の大谷専修学院に、週一回ではあるが、学院生と共に仏教を学ぶご縁を頂いている。学院生は、スタッフと共同生活をしながら、その生活を通して仏の教えを聞き、学んでいる。その姿から、私自身の学びの姿勢を振り返る機会に恵まれている。
その専修学院で、先日、座談会が開かれ、そこに参加した。座談会ではいくつかのテーマが出されていたが、その中の一つに、「本当の自分とは何か」というものがあった。
他人との生活の中で私たちは、友達や先生、あるいは家族からどのように自分は見られているのかという、他人の「目」を気にして生きている。またその「目」を気にして、他人に気に入られるように、嫌われないように、いろんな自分を作っている。いろんな顔をもつ自分がいる中で、本当の自分とは一体何なのか、自分は何のために生きているのか、自分を生きるとはどういうことなのかという問いが生まれてくるというものであった。座談では、実際に自分が感じることや、聖典の言葉を持ち寄りながら、そのテーマについて話し合われた。
本当の自分とは何か、という問いそのものはとても大切なものであることはいうまでもない。しかし、「日頃の自分」とはまた別に、「本当の自分」があるということになると、その自分に、「日頃の自分」を無理に当てはめようとする。そこに「本当の自分」と「日頃の自分」とに自己分裂が起こり、「本当の自分」に振り回され、逆に自分を見失ってしまうことになる。
清沢満之は、「自己とは何ぞや」(大谷大学編『清沢満之全集』第八巻三六三頁、以下『全集』と略)という問いが人世の根本問題であるとした。これはどういう意味があるのだろうか。
満之は、人間関係に苦しみ、不治の病に罹る中で、自らの人生の意義を問う日々を送っていた。その中で、次のように言っている。
人生の意義は不可解であるという所に到達して、ここに如来を信じるということを惹起したのであります。(『全集』第六巻一六一頁)
様々な思いが交錯する中で、人生の意義は、「不可解」(不可思議)であることに到達したとある。この不可解とは、問おうとしている自分自身の思慮分別が崩れたことを意味している。そしてこのことから「如来を信じる」のである。満之は本当の自己とは、「今、如来を信じている自己」以外にないという結論に至ったのである。
私たちは、「本当の自分とは何々である」ということを具体的に示すことによって安心しようとする。それは今の自分に満足できずにもっと違う自分がいると思いたいからである。しかしそれは同時に何かを見失うことであることに気づいていないのである。
「自己とは何ぞや」という問いは、本当の自分に対する答えをどこか外に求めるものではなく、それを探し求めている自分そのものが問われることに、本当の意義がある。それはまた、「日頃の自分」の中にすでにはたらいている課題を照らし出す意義がある。自分を超えて自分にはたらき続ける仏の願い、ここに気づくことが大切なのである。 

■17 雑行を棄てて本願に帰す
宗祖親鸞聖人は、二十九歳の時、自力作善の心を棄て、本願他力の浄土門に帰入された。この慶びを、後年『教行信証』「化身土巻」に「雑行を棄てて本願に帰す」(聖典三九九頁)と記されている。「雑行」とは、「正行」に対してであり、「正行」とは弥陀他力回向の「念仏」である。それは「大行」ともいわれる。「雑行」は、念仏以外の自力作善の行である。「本願に帰す」とは、自力作善の心を棄て、他力の念仏を頂く身となることである。
しかし、「雑行を棄てて本願に帰す」ことの難しさを痛感する。“ご門徒”も、お内仏にお参りして念仏を称えることも少なくなり、また念仏を称えても、追善供養・現世利益を求める自力作善の念仏であることが多いのではないだろうか。「個の自覚の宗教へ」という、五十年前の同朋会運動発足時のスローガンは遠くなっている。
遺骨とお墓、追善供養がお参りの中心となり、亡き人へ追慕の情を抱くことを、信心と勘違いされている。それは聞法の抜け落ちたお参りである。わたし自身が教えを頂き教えに問われることがないお参りである。それは、極言すればご本尊を無視し、必要としないお参りである。情を超えて不変の法に遇わなければならない。
また、健康・家内安全など現世利益で称える念仏も多く見受けられる。弥陀の「本願」と「わたしの願」の認識に大きなずれがある。
弥陀は、煩悩を断つことができず生死流転の闇を迷い続けている一切全て、このわたしたちを、真実覚りの世界、浄土極楽に往生させようと、願を建てて下さった。しかし、煩悩まみれのわたしたちは、本願を自分の欲にすり替えてしまっている。
ある“ご門徒”の家にお参りすると、お内仏の戸袋の前に紙の束が置いてあった。「…ジャンボ宝くじ」の文字が見えた。その“ご門徒”は、《わたしの願いを叶えてほしい。わたしの願いは、たくさんのお金を手に入れることである。宝くじに当たったら家を買い、旅行に行って、貯金をして…》と妄想をえがく。このわたしの願いとは、煩悩から生じている欲である。わたしの願と、阿弥陀如来の本願を勘違いし、同一と思いこんでいるのである。弥陀の超世の願、本願までも、自分の欲を叶えることとして受け取っている。我欲を叶えるために、阿弥陀如来をも利用しようとする、煩悩熾盛のわたしがいるのである。
親鸞聖人は、
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし(聖典五〇八頁)
と、「愚禿悲歎述懐和讃」に詠われている。これこそが、わたしたちのすがたであろう。
親鸞聖人は、「愛欲の広海に沈没し名利の太山に迷惑し」「いずれの行もおよびがたき」「底下の凡愚」と、自身を厳しく見据えられ、雑行を棄てて「本願に帰」されたのである。
この聖人の生きざまと教えを頂かなければならない。煩悩熾盛・罪業深重のわが身の事実を頷き懺悔し、「本願他力」の念仏を頂く身とならなければならないのである。 

■18 斉しく悲引したまうや
親鸞聖人を宗祖とするということは、決して聖人の言葉を金科玉条とするということではありません。むしろ、そのように受け取ることを拒絶するものこそ親鸞聖人の言葉です。
それはある意味では、宗教が、そのままの形では伝承することができないとする、仏教の末法思想と通底するものであります。
その時に、易行をもって宗教の伝承を可能としようとされたのが、法然上人の選択念仏の思想だったともいえるでしょう。
しかし親鸞聖人は、その法然上人との出遇いによって、自らを愚禿と名告り、愚禿の心によって賢者の信を受けとめていくことが、いかにして可能かを生涯の課題とされたのでありましょう。その思索と苦悩の記録こそが『愚禿鈔』ではないかと思います。
そして、その思索を通して、易行として伝えられるものと、難信として断絶するものの絶対的矛盾を受けとめた時に、はじめて宗教心が大菩提心として伝承されることを顕らかにされたのが『教行信証』として私達に残された言葉だと思われます。
『教行信証』には、「己が能を思量せよ」(聖典三三一頁)、「己が分を思量せよ」(同三六〇頁)と私達に教誡されています。
それは「己の能」の自力無効によって、浄土の思想が全ての者の救いを完遂することを顕らかにすると同時に、その救いが一人ひとりの「己の分」によって異なった相を持ち、その異なりによって普遍的な救いとなることを示されているのでありましょう。そのことを「広大異門に生まる」(聖典二四五頁)と示されています。
ですから、親鸞聖人にとって顕真実とは、浄土を顕すことだけでなく、同時に穢土を顕すものでなければなりません。そして、この浄土と穢土の二つの世界の用きこそが、私たちの生に真実を与えるものであります。親鸞聖人は、この真実を生きた者として、私たちに、これから生きていく根拠と力を自覚させることで宗祖として用きつづけているのです。
そのような、宗祖としての言葉は、何よりも親鸞聖人自身の、愚禿としての自覚の中にある絶望と、その絶望を通した先にある希望を示すからこそ私達に具体的な力となって作用するのであります。
「悲しきかな、愚禿鸞」と悲嘆される言葉をそのまま、「悲しきかな、垢障の凡愚」と呼びかけられた、その憶いを受けとめることこそ、私達が親鸞聖人を宗祖とするということに他なりません。
そして、この絶望を通して伝わるものこそ末法思想として表現された宗教心をもって人間を成就する力となるといわれているのでしょう。「浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや」(聖典三五七頁)という言葉こそ、私達が親鸞聖人を宗祖として生きる事に与えられる課題だと思えてなりません。そこから、親鸞聖人を学び、親鸞聖人に学ぶ学び方が明らかになるのではないかと思います。 

■19 御遠忌に遇う慶び
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌も、いよいよ第三期法要をお迎えすることになり、すでに多くの方々に、この尊い御法要の勝縁にお出遇いいただいたことです。宗務にたずさわる私たちも役目として、参拝くださる人々をお迎えさせていただいています。五十年ごとにお勤まりになる御遠忌にお遇いできるのは、生涯において二度という方もいらっしゃるでしょうが、一度限りという人が多いのではないでしょうか。それだからこそ五十年ごとの大法要にお遇いすることは尊い御縁なのです。
お参りくださる方々のお顔を拝見していると、どなたも慶びにあふれておられるようです。その雰囲気は言葉で交わさなくても、その姿を通して伝わってくるものです。五十年前の七百回御遠忌の様子を教学研究所の大先輩である宮城先生は、全体を包んで、御遠忌中にあふれていました生命感というものは、尊く力強いものでありました。百万を越える人々が、一人の師の教を中心に、しかも七百年後の今日心を一つにして集まったということは驚くべきことです。(『教化研究』第三二号「編集後記」) と記しておられます。宗祖と仰ぐ親鸞聖人がお説きになった真実の教えを拠り所として生きている人々のつながりを「生命感」と感じ取られたのでしょう。
親鸞聖人のお言葉に、遠く宿縁を慶べ。(総序、聖典一四九頁) とあります。悩み苦しみながらなんとか生きている者をこそ、拯い取ろうと願い続けていてくださる阿弥陀如来に、今お遇いできた慶びを情感をこめて記しておられます。お念仏もご信心も、この私のために仏さまが、すでに用意してくださっていたことに、今、気づいた慶びなのでしょう。
「慶」の字には、めでたい時に祝いものとして鹿の皮を贈ることを表していて、よろこぶの意とともに、祝うとか、たまわったものという語意があるようです。必ずたまわることが約束されていたものを、今、この私がいただけたという大きな慶びでしょう。親鸞聖人が晩年にお書きになった『唯信鈔文意』には 、慶喜するひとは、諸仏とひとしきひととなづく。慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。(聖典五五五頁) とあります。私の得た信心は、生きとし生ける者すべてを拯い取るという阿弥陀如来の大慈悲心そのものなのです。そのお心をいただいて慶喜する人の姿を通して、さらに衆生を救済したいという仏さまの慈悲心がひろがっていくと述べておられるのでしょう。
この御遠忌に間近くお遇いさせてもらいながら、全国から、また海外からもお参りになる方々の慶びにあふれた姿に接して、親鸞聖人がお亡くなりになって七百五十年という年月はたっても、聖人がいただかれた仏法が確かにあることを実感しています。御遠忌を御縁として、今を生きる私を貫いて伝わり、伝わっていく浄土真宗の御教えを確かめさせていただきたいものです。 

■20 師の言葉とともに生きる
近年、真宗門徒にとって最も大切な法要である報恩講でのお話を依頼されることが多くなった。ご法中方が報恩講のお勤めをされている間、私は控え室でひとり『真宗聖典』を読むことが多い。ご法中方の声明を聞きながら聖典を読んでいると、いつもより深く宗祖の言葉が響いてくる。そして、思いがけない発見をすることがある。
ある日、宗祖が晩年に頻繁に使われる言葉があることに気がついた。それは師・法然上人からいただかれた「義なきを義とす」という言葉である。『歎異抄』に「念仏には無義をもって義とす」(聖典六三〇頁)という言葉が語られていることは承知していたが、聖人八十六歳のときに認(したた)められた『尊号真像銘文』にもその言葉がある。「他力には義のなきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり」(聖典五三二頁)と述べられている。また、関東のご門徒に送られた手紙にも「行者のはからいのなきゆえに、義なきを義とすと、他力をば申すなり。善とも、悪とも、浄とも、穢とも、行者のはからいなきみとならせ給いて候えばこそ、義なきを義とすとは申すことにて候え」(五九三頁)と書き記されている。
晩年の親鸞聖人は何故にこれほどまで「義」にこだわられたのだろうか。そこには阿弥陀さまの誓願を「他力」という表現で伝えることにたいへん苦労されている姿が伝わってくる。言葉も絶え果てた世界を文字で伝えることの厳しさを知らされる。関東のご門徒に対して手紙という手段を用いて 、なんらかの言葉で語らねばならない。宗祖は具体的に善、悪、浄、穢という私たちが立場として取りやすい事柄を示して、このようなことを「はからい」というと語られている。そして所々に散見される言葉は「ただ、仏にまかせまいらせ給えと、大師聖人のみことにて候え」(聖典五九三頁)である。若い頃に師・法然上人から聞いた言葉をいつも憶念され、生涯にわたって師の言葉とともに生きられた聖人の姿を思い浮かべる。  ひるがえって、私は先師から「法は法自身によって伝わる」というような言葉を聞いたことを思い出す。報恩講で貴重な時間をいただいて、仏法を語ろうとすればするほど上滑りしそうなとき、先師からいただいたこの言葉に安心し、「法」に託してお話を続けさせてもらっている。先師もまた、仏法をどのように語るか苦労されたのかもしれない。先ほどの言葉は、その苦労の中から生まれ出たものであるように、私は感じている。
親鸞聖人が「他力」をいかに伝えるか、師・法然上人の言葉を繰り返し繰り返し、手紙に認めておられる姿を思うとき、聖人が師の言葉とともに生きられたことをあらためて感じる。
宗祖親鸞聖人の徳を讃嘆する報恩講という場でお話をさせていただく身として、仏法が正しく伝わっていくか心配しつつ、聖人が師・法然上人から聞き取られた言葉をいつも憶念されていた姿を思いながら、お話をさせていただいている。 
 

 

■21 人間であることの問い
実家でもある田舎の寺を手伝わせて頂くようになって今年で六年が過ぎた。月参りが盛んな地域で、親しくご門徒さんと顔を合わせられる大切な時間だと思ってお勤めさせて頂いている。ほとんどの家ではどなたかお一人が私の後ろに参られるのだが、一件だけ必ず家族でお参りされるお宅がある。
そのご家族が熱心になられるのには理由がある。六年前の夏、高校生の息子さんをクラブ活動中に心不全で亡くされ、それがご縁となって皆でお参りされるようになったのだった。息子さんのご両親と妹、そして祖父母の五人が毎月必ず一緒にお勤めをする。そのような一家族の姿をそういうこともあると簡単に片付けてしまえばそれまでであるが、なにしろ毎月必ず、家族そろってという姿勢に何か強い意志を感じさせられる。  お勤めを終えて茶の間で雑談をしていると、「あの子は今何しているんだろうね?」「あの世で頑張っているのかね?」と、まるでどこかで生きているかのような会話に度々なるのだが、私はその会話を大事にすべきだと思っている。なぜならそのような会話となって現われ出る亡くなった息子さんへの尽きせぬ思いが家族を動かし、毎月必ず仏前へと歩ませていると感じるからだ。
言うまでもなく、諸行無常という仏教の教えからすれば亡くなったことを受けとめることが教えに適うことではあろう。しかし、受けとめられない人の心があるのではないか。私には親しい人の死に向き合う一家族の姿を通して、このお釈迦さまと親鸞聖人の姿が思い起こされる。
若き日のお釈迦さまは人の死を目のあたりにされて「生まれることなく老いることなく病むことなく死ぬことのない、悲しみなくけがれのない、無上な、寂静な涅槃を求めねばならないではないか」(山口益編『仏教聖典』一八頁)と、出家を決意されたと伝えられている。そしてお城を棄てて托鉢乞食をしながら導師たるべき師をもとめて歩み出されたのだった。また親鸞聖人は、比叡山での修道に実りを見い出せないままに、「生死出ずべきみち」とは何かを求めて、
百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、(『恵信尼消息』聖典六一六頁)
と、法然上人のもとに足を運ばれた。若き日のお釈迦さまと親鸞聖人は、ともに生き死んでいくいのちをいかに生きるのかにまどい、自らの足で師を求めて歩み出されたのであった。この誰もが道を求めてやまない、人間であることの問いを、一家族の亡き人への尽きせぬ思いが私に教えてくれたのだと思う。
思い起こせば六年前、寺を守っていこうと決心し、意気揚々と自坊に帰ってきた私の姿が確かにあった。その同じ年の夏、若くして亡くなられた高校生の葬儀を勤めさせて頂き、生死の問いこそが門徒さんと私の間を繋ぐものだと確認したはずであった。あれから六年、また今年も夏が近づいてきた。私自身は、その問いを頂き続け歩み続けてきたであろうか。自己自身を振り返らずにはいられない。 

■22 親鸞聖人にとっての本願
親鸞聖人は、自らの回心の体験を『教行信証』の後序に、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(聖典三九九頁)と記している。建仁元(一二〇一)年は、聖人二十九歳の時で、法然上人の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(聖典六二七頁)という教えに出遇った年である。普通なら「ただ念仏せよ」という教えには、「念仏に帰す」と応答する。しかし宗祖は、如来の本願に帰すと言われる。つまり宗祖において、「念仏して弥陀にたすけられる」という法然上人の教えは、如来の本願に帰すこととして頷かれたのである。それは、念仏を救いの手段とすることの問題性、自分に都合の良い救いを実現しようとする人間関心に念仏が取り込まれることの問題性を見抜き、それと法然上人の念仏とが決定的に違うことを明確にすることであった。
本願に帰すということが宗祖にとってどれほど大切であったかは、『教行信証』全体が真実教としての『大無量寿経』の論書であること、つまり本願とその成就という関心で貫かれていることを見れば明らかである。それでは、親鸞聖人は、どのように本願ということを確かめておられるのであろうか。
  法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
  覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
  建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
  五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方  「正信偈」(聖典二〇四頁)
「正信偈」はその冒頭、阿弥陀如来の恩徳を述べるところで、阿弥陀そのものではなく、いきなり因位の法蔵のことを述べている。親鸞聖人が見ておられた阿弥陀如来とは実体的なものではなく、具体的には、法蔵菩薩が誓われた本願というはたらきであった。法蔵菩薩が、その説法を聞いて自らもその様な世界を作りたいと誓った仏の名が、「世自在王仏」という一人の仏であった。一人の仏の名であるけれども、世自在という名は、すでに法蔵菩薩が、自ら発願して起こすべき願の課題をすでに表現している。それは、世において自在であること。生きとし生けるものすべてが、いきいきと自らの人生を自在に全うしていくという世界という名のりである。その世自在王仏のもとでまず最初に法蔵菩薩が取った態度が、「国を棄て、 王を損てて、行じて沙門と作り」(聖典十頁)ということである。本当に一人ひとりが自在であるためには、先ずは、私たちが日常的に依りどころとしているような、社会や秩序を立場とすることを止める必要があると法蔵菩薩に託して親鸞聖人は説く。それは別に、世捨て人となれということを言っているのではない。それは、私たちの作っている社会や秩序は、結局は誰かの犠牲の上に成り立っているものであることを示されているのである。その根にあるものは、私たちの自我を主体とする執着心である。どこまでも自分を立てていくこころである。そのことを私たちに、自らの態度で法蔵菩薩は示しているのであると思う。
その法蔵菩薩が、誓願(本願)を建てるにあたってまずされたことが、「覩見諸仏浄土因」と言われるように、徹底して、諸仏の浄土の因を見ることであった。浄土がきれいだと結果だけを見るのではなく、その因を見られた。それが「国土人天之善悪」と言われる人間の欲望とそれによって作られる苦しみや悩みの世界を徹底的に見ることであった。
このように親鸞聖人は、阿弥陀の本願を、どこまでも人間がその欲望によってお互いを傷つけあっている現実を徹底して見据え、そのようなあり方から人間を開放するはたらきであると確かめておられたのではないだろうか。 

■23 つねならざる年
遇うということは、その人が生きた時代に、その人の背後にある世界に遇うということでもあるだろう。
親鸞聖人が三部経の千部読誦を発願された年は、一二一四(建保二)年であるという。最終的に読誦は中止された。千部読誦の発願という出来事の背後に時代全体を覆う闇を感じる。それは、困難を前にして何ともならないという諦念であり、何もしたくはないという無気力である。
時代を覆う闇は、千部読誦の発願と同じ年に起きた別の出来事の背後にも感じられる。この年の六月、将軍・源実朝は日照りが続いたため、栄西に依頼し、自ら八種の戒律を守って法華経を読誦した。将軍が自然の恩恵を求めて祈願することは極めて珍しいことである。
鎌倉時代の政治に関する記録である『吾妻鏡』によれば、一二一四年の夏は洪水、日照りなどが相次ぎ、季候は不安定であった。人間の生活は自然の動きに左右される。異常な事態を前に人々は天を仰ぐしかなかったと思われる。
このような異常な季候は政治情勢にも影響する。民衆のみならず、為政者も安定した季候を望む。実朝が祈願した結果、雨が降ったと『吾妻鏡』は伝えている。山本幸司氏によれば、「実朝が単なる政治的支配者にとどまらず、天水の支配力を持つレイン・メーカーの霊能まであわせ持つ人物として描かれていることは、その真偽とは別に当時の人びとの実朝に対する最大級の評価を表していることになる」(山本幸司『頼朝の天下草創』、 「日本の歴史」第九巻、講談社)。つまり、実朝による祈願は、将軍としては前例のないことであり、実に異常なことであったのである。
一方、天皇が祈願することは珍しいことではなかった。実朝以前の政治状況を概観するなら、武力による支配は鎌倉幕府が、祭祀や儀礼を通じての支配は朝廷が分担していたように見える。ところが、実朝が将軍であった時代には、幕府と朝廷の間における支配の分担の境界線があいまいになり、将軍が祭祀や儀礼の領域にまで進出してきた。
伊藤喜良氏によれば、「国土安穏・万民快楽・徳政の興行というような帝王としての役割は、少なくとも初期における源氏将軍にはそのような権威はそなわっていなく、将軍では代位できなかった」。その後、幕府による支配の長期化に伴い、将軍・実朝は支配の基盤をより強固なものとするために朝廷から「呪術的要素や儀礼」を「移入」した(伊藤喜良『日本中世の王権と権威』、思文閣出版)。先に述べたように一二一四年は夏の季候が安定しない年であったと同時に、将軍による支配のありようが変化した年でもあったのである。このような時期に、親鸞聖人の関東での生活がはじまったのである。
一二一四年は、その時代を生きた人々にとって異常な年であった。今日から見れば、そのような異常な年を幾度も経験しながら、人類は歴史を形成してきた、と言うこともできるだろう。人類が経験したことのない事態に直面している今、忘れてはならないことは、異常な年を経て今があるという事実である。異常な年も連綿とした歴史の流れの中にある。歴史の中で孤立したり、隔絶したりしているわけではない。この一年は確かに未来へとつながっているのである。 

■24 慙愧和讃における宗祖の「かたち」
よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり (『真宗聖典』五一一頁)
右は、文明本三帖和讃の最後に載る二首の和讃の内の一つである。宗祖晩年(八十八歳のころ)の作で、通称「慙愧和讃」と呼ばれる。なぜそう呼ばれてきたのか、この和讃の不思議な魅力を思う。
「よしあしの文字をもしらぬ」の「しらぬ」は古語で「付き合いがない」「関係がない」「用がない」の意。だからはじめの二句は、「善だ悪だというような尺度でものごとを決めたり選んだりしている生活には縁がない人は皆、まことの心をもっている」という意味。「まことのこころ」は「いつわりのない誠実な心」の意。
昨年の十一月、本山の仕事で北海道に出向いた際、アイヌの人たちにお会いした。皆アイヌ差別と戦ってきた勇者であるが、ものの見方が柔軟で、特に自然に対する敬虔の念が深い。アイヌとはカムイに対することばで、アイヌは人間、カムイは神の意味である。「両者は紙の裏と表の関係で、もしカムイがいなかったらアイヌもいない。友達のような間柄です」と教えてくれた。そういえばアイヌ民族は文字をもたない。すべてカムイから「まこと」をもらってアイヌはアイヌ(人間)らしく生きているので、文字は不要なのだろう。
都を離れ越後・関東において宗祖が触れた人々もそういう人たちだったに違いない。それは、夜明けと共に起き、外の空気に触れて今日の天候を知り、田畑に出て大地に汗して働く人たちであり、一日の仕事が終わると、夕日に向かって今日一日を感謝し、自然の恩恵に頭をさげる人たちであった。宗祖は、そのような人たちの「まこと」に感動すると同時に、今まで求め続けてきた仏道の歩みが、実際は善悪の文字づらにこだわり、その是非を競うという「おおそらごとのかたち(おおきなまちがいをしているすがた)」ではなかったかと気づかされたのであろう。
しかし、「文字づらにこだわる」という「かたち」―書を著し、手紙をしたため、和讃を作り、あらゆる努力をつくして念仏の大道を人々に伝えようとする、その宗祖の「かたち」は晩年になっても変わらなかった。ただ、そのかたちが「おおそらごと」であることへの慙愧は、年とともに深まっていったに違いない。宗祖八十八歳の和讃と言われるこの和讃が「慙愧和讃」と呼ばれる所以ではないかと思われる。 

■25 御遠忌をお勤めして
今年は大震災の年として誰の心にも銘記され続けるでしょう。そして、宗門に身を置く方は皆、震災に思いを寄せつつ、同時に宗祖の七百五十回御遠忌の年として、御遠忌を勤修して意味があったのか、御遠忌は何だったのかと考え続けていくに違いありません。
かつて、ナチスの強制収容所を生き抜いたV・E・フランクルは、生きる意味を問うことについて、その問いの立て方の問題に言及しています。私たちは、人生に、あるいはさまざまな出来事に何かを期待します。そして、その期待が裏切られる時、私たちはきっと人生の意味を問い、何のために生きるのかと自問することでしょう。しかし、フランクルは、
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ(『夜と霧 新版』一二九頁、みすず書房)
と、人生から問われているのは自分の方なのだとして、問いの百八十度方向転換を説きます。そしてフランクルはさらに、
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。…中略…生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(同一三〇頁)
と続けます。人生から問いかけられ、答えを迫られているのは私であり、私がなすべきは課題を果たし、要請を充たす義務を引き受けることである、と教えるのです。
このフランクルの言葉に、私は、宗祖の六角堂参籠を想起します。宗祖は、六角堂に参籠し、夢告を受けて、法然上人のもとへと向かいました。その夢告は、「あなたがいかなる存在であろうが関係ない、あなたが歩む仏道はすでにある、問題はあなたが仏道を歩もうとするかどうかなのだ」、そう宗祖に問いかけたのではないか。そしてそこに宗祖の問いに方向転換があったのではないかと思うのです。つまり、仏道はいかに自己を救うのかという仏道に対する問いから、あなたはいかに仏道に立とうとするのかという、自己に対する仏道からの問いへと転換があったのではないか。そして、夢告を得てすぐさま吉水に向かった宗祖に、私は、自己を引き受け、立ち上がった人間の姿を見るのです。
私たちは、宗祖の七百五十回御遠忌をお勤めしました。御遠忌に何かを期待していた時は過ぎ、すでに御遠忌からの問いに答える責務を負っています。御遠忌をいかに引き受け、課題を果たしていくのか。その課題は、一人ひとり、生きる現場によって一様ではありません。ですが御遠忌は、立ち上がっていく契機を斉しく与えてくれたのだと思います。 

■26 篤信者に学ぶ
日常生活の中で真宗の教えが生かされてはじめて念仏者であることはいうまでもない。単に知識として学ぶだけではない。
小生は歴史分野を研究対象にしており、論文作成で史料調査をした中で感動した印象深い真宗の篤信者が何人かいる。現在も時に思いおこし考えさせられることが多い。
江戸時代中頃、大坂商人に平野屋五兵衛(高木宗賢)という篤信者がいた。彼は大坂今橋一丁目(現在、中央区北浜付近)に住し、両替商(金融機関)を営んでいた。そこは当時、大坂商人を動かす二大銀行のひとつであった。もう一人は天王寺屋五兵衛で、双方とも今橋に居住し、「天五に平五、十兵衛横丁」と称された最有力両替商であった。
平野屋五兵衛は大坂商人に影響力の大きい家職であり、一方で真宗信者として知られていた。彼は東本願寺(大谷派)初代講師の恵空に師事していた。
恵空は教義・歴史・儀式・遺跡などの総合的著書『叢林集』九巻などを著した学僧で、俊秀な門弟を育成した高倉学寮の中心的人物である。当時、講師などの学僧は学寮内の安居で講義するのが基本であった。
しかし、恵空は学寮以外でもたびたび法話を行った。先述の平野屋が施主となって天満本泉寺(現四条畷市)で、恵空を招いて法話会を毎年行った。宝永六年(一七〇九)より計六回である。
大桑斉氏によると、学寮外での恵空の講話は本泉寺で合計九回、八尾別院二回、難波別院一回、長浜別院二回である。ほとんどが大坂あるいはその周辺であった。その法話会を催したのは平野屋五兵衛を中心とする大坂商人らであり、教学者を招いて自らの信仰深化に務めたのである。真宗を日常生活、職業生活に生かそうとしたのであろう。
恵空と平野屋との接点は光徳寺(柏原市)である。平野屋は代々光徳寺門徒であり、光徳寺の支坊が大坂北久太郎町(中央区)にあった。恵空伝の信頼できる『恵空老師行状記』には、二十一歳から二十七歳までは不明朗で記載されていない。その期間、恵空は光徳寺でいわゆる役僧をしていたといわれる(暁烏敏編『恵空語録』)。
恵空はおそらくこの時期に法務のかたわら、勉学に励み、一方で平野屋五兵衛と接触する機会をもったと考えられる。また、五兵衛も恵空の人柄、求道・勉学にとりくむ姿勢に共感し、支援したり師事したのであろう。
五兵衛も商人道を形成する中で真宗に依った価値観をもって職業生活を実践したと考えられる。大坂商人の家訓に「商い」は「報恩行」として行うなどとある。
五兵衛は大坂商人・大黒屋道誓とともに学寮の経蔵一棟を寄進し、広く教団の人材育成に尽力したことでも知られる。
僧侶は篤信者・念仏者が育成されることを願い情熱を注ぐが、逆にご門徒が僧侶を育成することも多々あったことであろう。僧俗ともに真摯に教えを聞き学ぶというところに、門徒としてお育ていただくことをあらためて気づかせていただく。 

■27 弟子一人ももたず
親鸞は弟子一人ももたずそうろう
『歎異抄』第六条の言葉である(聖典六二八頁)。ならば、宗祖には師匠はいなかったのだろうか、弟子はいなかったのだろうか。否、宗祖には「よきひと」法然上人という師がいることを私たちは知っている。そして、真仏をはじめとした多くの門弟がいることも知っている。ならば、宗祖はどうして「弟子一人ももたず」と宣言したのだろうか。
私が学生時代から、ずっと教えを受けてきた先生が、先日私の叔父と初めて対面した。その際、先生は叔父に「義盛君は私の友なんです」と話してくださったそうである。私としては、その先生から多くの教えを受けたし、当然師と慕う方である。しかし、私が師と慕っていたその先生は、私を弟子ではなく友、すなわち共に念仏往生の仏道を歩む者として見ていてくださっていたのである。その先生の言葉によって、私もともに念仏の仏道を歩もうと言うメッセージを聞いた。
「師」と慕っている方が「友」と敬ってくださる、一見矛盾するような感もあるが、これが浄土真宗の伝統であろう。
宗祖はその九十年の御生涯を通して多くの人に念仏の教えを弘めたが、宗祖にとって信心とは自らの力で発起するものではなく、また自らの力で他の人に発起させるものでもなかった。信心とは、どこまでも阿弥陀如来のはたらきによって発起するものであり、阿弥陀如来の前では誰もが煩悩具足の凡夫、一人ひとりが仏弟子である。だからこそ、宗祖は師弟関係を越えた人間一人ひとりの姿を見つめて「弟子一人ももたずそうろう」と宣言された。そして、多くの門弟から師と慕われながらも「弟子一人ももたずそうろう」と宗祖は宣言し、門弟を「とも同行」と敬った。宗祖は門弟をどこまでも、法然上人より受けた選択本願念仏の教えを共に聞く仲間として敬ったのである。重ねて述べるが、阿弥陀如来の前にあっては、師であろうと弟子であろうと、同じ煩悩具足の凡夫であり、仏弟子なのである。
蓮如上人はそのことを、
とも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり。(聖典七六〇頁)
と了解されている。思えば、
他力の信心うるひとを うやまいおおきによろこべば すなわちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまう(聖典五〇五頁)
と和讃にあるように、私たちが釈尊と敬い、教主世尊と仰ぐ方もやはり、同じ念仏往生の仏道を歩む者として私たちを敬い、しかも「わが親友」とほめてくださる。
ならば、私たちが師から受けるのは教えだけではない。教えとともに敬いを与えられている。そして、共に仏道を歩んでいこうと呼びかけられ、歩み続ける原動力をも与えられている。
これが御同朋・御同行の道理なのだろう。 

■28 有縁の法による
先日、日蓮宗主催のセミナーに参加した。このセミナーは日蓮宗教師・寺族・檀信徒を対象に二十年以上開催されている。今回、当教学研究所も招待を受け、聴講することができた。
二百人を超える会場のほぼ全員(私と本願寺派の一名を除く)が、おそらくは日蓮聖人を宗祖と仰ぐ方々だった。日蓮聖人といえば、その著『立正安国論』で、「法然というものあり。『選択集』を作る。すなわち一代の聖教を破し、あまねく十方の衆生を迷わす」と述べ、念仏の教えに対して異論を唱えた人物である。いささかアウエーの感がないわけではなかったが、同じ仏教でありながら立場の違う方々の考えに直接触れられることに胸躍った。それは親鸞聖人の教えのみを学んでおけばそれでよしとしようとする(これは聖人の願いではなく、したがって教えを学ぶことにはならないだろう)、私の閉鎖的かつ怠惰な日頃の姿勢への自身が抱く危機感の裏返しでもあった。
今回のテーマは「震災と祈り―立正安国とは何か」だった。開会に先立って「南無妙法蓮華経」とお題目が唱えられた。外部宗教学者一名、そして宗派講学識と呼ばれる碩学二名によって発題と討議がなされた。「よいことをしたからといって、よい結果が出るとはかぎらない不条理の世界だからこそ、この世は菩薩行をするのにふさわしいんです」と語られた碩学のおひとりの言葉は力強かった。その後すぐに「そう信じたいのです」と言い直されたところにはその方の実直な人柄がうかがえた。
セミナーの議論のひとつは、昨年物議を醸した震災天罰論についてどのように受け止めていくかであった(日蓮聖人は「国が正法を失えば大災害がおこる」と言い、弟子にあてた手紙には「天この国を罰す」という表現がある)。震災を単に「生死無常」ととらえることは無責任対応に陥りやすい、そうではなくむしろ「天罰」という言葉で受け止めたほうが、自分のこととして主体的に考えていけるのではないか、というのが全体の論調だった。
議論はさらに、生き残った者ができることは何かということに進んだ。一人ひとりが法華信仰を確かめ直していかなければならないという見解に大変共感を覚えた。「法華信仰」の部分を「親鸞の教え」に置き換えれば、私たち真宗門徒の取るべき姿勢となるだろう。
それぞれがその縁にしたがって、それぞれの宗祖に出遇っている、出遇いたいと願っている。このことを実感したセミナーだった。 

■29 民の如く生きる親鸞聖人
宗祖七百五十回御遠忌を機縁として、各地で親鸞聖人と浄土真宗をテーマとした展覧会が開催された。聖人と門弟たちの自筆や御影、絵伝などを間近に拝見することで、聖人たちの面影と真宗の息吹を感じたように想う。一見、他の文化財と同じような展示物に見えても、浄土真宗の教えを伝えるために時代を超えて遺された宝物類は、黙してはいるが何かを語ろうとしているのである。
出展された宝物のなかに、親鸞聖人が「花押(かおう)」を記された自筆の書状が数通あった。花押とは署名の一種で、今でいうサインである。元々は名前を崩し字で書いたものであったが、聖人の時代には筆者の意志や主張を文字に込めてデザインした花押が登場していた。すると、花押からは筆者の人格や思想が読み取れるのである。
聖人が何の文字を花押とされたのかは謎であり、あるいは「鸞」を崩したものかという意見もあるが、一説に「如民」と読めるのではないかという興味深い見解がある(『花押読み解き小事典』)。 もし聖人が、 「如」と「民」をデザインして自身のサインとされていたとすれば、そこには何が込められているのだろうか。
聖人の書状は、ほとんどが関東門弟宛であるから、「民」の語からは聖人が終生親しんだ関東の門弟たち、「ゐなかのひとびと」を連想できると思う。もし聖人が「私は民の如く生きる者である」と花押に込められていたとすれば、様々な理解が可能であろうが、私はまず最晩年の聖人が書状で「信心の人は如来に等し」「弥勒に同じ」と繰り返し説かれていたことを思い起こす。
この教えは『教行信証』などにも説かれているが、注意しておきたいことは、京都や奈良の「いみじき僧」(高位の僧侶たち)に向けたのではなく、関東のいなかの人々へ向けて教説されたことである。その根拠は「信巻」に示され、のちに『唯信鈔文意』に展開された元照律師の文、
具縛の凡愚・屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。「世間甚難信」と謂うべきなり。(聖典二三八頁)にある。
聖人が凡愚・下類とされるような「民」と身近に接し、共に生きたのは流罪地越後であり、特に二十年に及ぶという関東時代であったことは疑いない。この人々に向かって、信心を獲た人は煩悩の身のままで無上大涅槃にいたる、如来と等しい位の仏者である。これが煩悩に縛られた凡愚、あるいは下類とされた人々が世俗の常識を超えて仏となる道、本願の仏道であると、聖人は告げられている。
いなかの人々という「民」と同じ凡愚であるという自覚と、本願他力の教えを身証し伝えるのはこの人たちであるという信頼を、聖人は抱き続けた。聖人は関東を離れ京都でその生涯を終えられたが、終生、民の如く生きる関東の仏者の一人であり続けたことが、聖人の花押に込められているように想うのである。 

■30 「であい」の大切さ
毎年、高校の恩師から年賀状をいただいている。高校を卒業してからであるから、もう十数年になる。今年の年賀状には、「この三月で高校教師を退職します」と記されていた。私には、高校時代にこの先生から言われた、いまだに忘れられない、大事な言葉がある。
先生は、私が高校二年生の時の担任で、英語を担当される女性の方であった。何事にも非常に厳しく、豪快で、かつ生徒一人ひとりと真向かいになって相談にのってくれる方であった。高校の中で唯一寺院出身であった私に対しては、特に進路について大変心配をし、様々なアドバイスをして下さった。
はっきりとは記憶していないが、進路を決める三者面談の時であったと思う。進路に悩む私に対して、先生は次のようなことを言われた。「偏差値や就職率で大学を選ぶことは大切なことだ。しかし、本当に大切なのは、大学に進学して、一人の先生、一人の友達にであうことだ」と。当時は、成績の悪い私に対するなぐさめの言葉としか思えなかった。しかし、大学に進学し、少しずつではあるが、親鸞聖人の言葉に触れていくにつれ、先生から言われた言葉の重みを感じるようになった。
親鸞聖人は、『教行信証』「化身土巻」に、
愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(聖典三九九頁)
と記され、また『歎異抄異抄』第二条には、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(聖典六二七頁)
と述べられている。これは、聖人が二十九歳の時、「よきひと」法然上人の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えとのであいを通して、阿弥陀の本願に帰依されたことを表している。さらに、『高僧和讃』には、
曠劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし(聖典四九八頁)
と記されている。曠劫多生という長い間、生死を離れる強縁である阿弥陀の本願を知らなかった、もし法然上人がおられなかったならば、一生涯をむなしく過ごしていただろう、と。親鸞聖人が生涯をかけて念仏者として生きていくことを決定できたのは、法然上人とのであいによってであった。
また親鸞聖人は、流罪の地の越後や、その後身を置かれた関東でたくさんの方とであわれ、その方々と共に念仏の教えを聞き、仏道を歩んでいかれた。その意味で、親鸞聖人が歩まれた仏道は、法然上人を始めとするたくさんの方々とのであいを抜きには考えることは出来ないだろう。
現在、全国各地の方々とであう場に身を置いて仕事をさせていただいている。先生ご自身がどのような意図で「であいが大切だ」と言われたのかは分からないが、ただ、今の私にとって「であい」が元気や勇気を与えてくれていることは間違いない。 
 

 

■31 心がおこる
「発心」という言葉は、道心をおこす、菩提心をおこす、という意から転じて、一般には仏門の入門に限らず、目的意識を持って何かを思い立つ意として用いられる。
あるとき、タレントの小泉今日子さんが、「いつ歌手になろうと思ったのですか?」と尋ねられ、「歌手になってからです」と答えていたことに、なるほどと思った。歌手になる前から明確な動機があるはずだと思うと、ぽかんとしてしまうが、歌手になってみてから、はっきりと歌手になりたいと思った、と言うのは率直な思いだったのではないか。目指したきっかけはあったとしても、その気になるということは、その場に身を置くことで、場のほうから引き出してもらうものなのかもしれない。
さて、この私が、お念仏の教えを聞かせてもらおうと思ったのはいつですかと尋ねられるとどうであろう。お寺に生まれたことが大きなきっかけとしてあるにせよ、いつの間にか聴聞の場に身を置いていた。しかし、実感として大きなことは、聴聞の場に身を置くことを通して、聴聞していかねばならないという心を引き出してもらっているということである。私が思い立って聴聞の場に足を運んでいる、というより、教えのほうから聴聞する気を起こしてもらっているように感じるのである。聞法する機会に出遇ったことは不思議としかいってみようがないが、私が、先立って教えを聞こうという心をおこすのではない。教えに触れて、教えを聞いていこうという心を賜るのである。
親鸞聖人は、
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(「総序」聖典一四九頁)
と、念仏の教えに出遇わせてくださった「宿縁」に対する慶びを表白されている。そして、その慶びについて、
「慶」は、うべきことをえて、のちによろこぶこころなり。(『一念多念文意』聖典五三九頁)
と言い表しておられる。つまり、念仏の教えに出遇いえて「のちに」、出遇うべく願われ続けてきたという「宿縁」を知り、よろこんでおられるのである。かねてから「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(『歎異抄』)と呼びかけられてあったことを今知り、その願いに応えるべきわが身を知らされる。そのよろこびは、目標を実現したときだけの達成感のような、ひと時のよろこびではないのである。教えに出遇うからこそ、教えから問われ続け、教えに聞き続けていく身をいただく。聞法の場は、私を立ち止まらせる場ではなく、教えに触れてみて、いよいよ聞いていかねばならないという心がおこる、歩みだしの場であることを教えられてあるように思う。
すでに聞かせていただいていること、共に聞かせていただく人たちの姿。それらに背中を押されて、私はなんとか聴聞の場に足を運べているのだと感じている。 

■32 明易や
明易や 花鳥諷詠 南無阿弥陀 (高浜虚子)
六月下旬のある席で、この高浜虚子(一八七四〜一九五九)の俳句を知る機会を得た。「明易」とは、夜が明けるのが早い、夏至前後の短い夜のことを意味する季語であり、ここでは、「短い明易い人間」(虚子談)を意味している(以下、『高浜虚子の世界』〈角川学芸出版、二〇〇九年〉他参照)。そして「花鳥諷詠」というのは、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂」という、「客観写生」と共に虚子が提唱した俳句の理念である。この句は、虚子が八十歳の時(昭和二十九年)の句である。「明易」という季語を前に、自らの人生を思い起こす時浮かび上がる、花鳥諷詠と南無阿弥陀(仏)を詠み上げた句と思われる。
高浜虚子は、正岡子規に師事したことが知られている。その子規との出会い、そして朋友の河東碧梧桐との確執、その後勃興する新興俳句との関わりという俳句人生を思い起こしながら、「俳句は『花鳥諷詠詩である』と断じた事は、私の一生のうちの大きな仕事であったと思う」という辞が示すように、虚子自身が出会った俳句が、この花鳥諷詠であったことがわかる。  この花鳥諷詠とともに 、ここに南無阿弥陀仏がある。虚子は東本願寺の門徒であり、若い時には、暁烏敏、そして句仏上人(大谷光演)との出会いがある。虚子の辞世の句は、句仏上人十七回忌の時(昭和三十四年)に詠んだ、「独り句の推敲をして遅き日を」が知られている。あまり表に出ることはないが、虚子の俳句には、この南無阿弥陀仏への「信仰」があることが、これらの俳句によって知ることができる。
俳句については初学の筆者だが、季節の移り変わりの機微の一つひとつに季語があり、その季語によって映し出される詩情の世界を、十七文字に表現する俳句のもつ魅力、形容しがたい力強さを感じるものの一人である。この花鳥諷詠とともに虚子は、「客観写生」を唱える。あらゆる主観を離れ、小さな感動をも消し去ろうとする姿には、厳しさが同居している。「俳句は沈黙の文芸であります」という虚子には、言葉を超えた沈黙を生きる姿があるように思う。このように主観を離れ自然を詠むということの中には、単なる自然賛美とは違うものがあると思うが、これからまた探っていきたいと思う。
主観を離れ、そのままありのままに見ていくというのは、阿弥陀仏の心に通ずるものがあるようにも思う。そのままありのままというのは、その現象の根源を照らし出す光であり、あらゆる生死勤苦の姿を浮かび上がらせる眼差しだともいえる。そこに、本願を建立しようとする、不可思議なる法蔵菩薩の初一念の声がある。  六月のこの季節、虚子の大切な句を知る機会を得たことから感じたことを記させていただいた。 

■33 手話から問われたこと
テレビの歌番組で「いのちの理由」という歌が流れていた。ベテランの女性歌手が手話をまじえて優しく語りかけるように歌っていた。テレビの字幕に歌詞が表示されており、歌詞と手話が対応していて、手話にまったく知識がない私でもわかるところはあった。そのなかで「幸せ」という部分は、あごに手を当てて下になでるような表現をされていた。この部分はどういう意味でこのような仕草をされるのか、たいへん気になった。インターネットで手話の研究所のホームページを開いて問い合わせたところ、あなたの住んでいる町の近くに県立聴覚障害者センターがありますからそこを紹介しますといわれ、県立聴覚障害者センターに電話した。
手話を習いたいということではなく、ただ表現の由来を知りたいということだけでたいへん失礼ではないかと伝えたが、どうぞお越しください、ということで直ちに訪問することになった。私のために一人の方が時間をさいて応対してくださった。あごに手を当てて下に長く伸ばすのは「好き」という表現ですと言われた。「幸せ」という単一の表現はありませんので他の表現で表します、ということであった。
いろいろな話をうかがっているうちに、聴覚障害の人たちが置かれている状況に話が展開していった。昨年の東日本大震災のとき、避難情報などは防災無線で呼びかけられましたが、聴覚に障害のある人たちは聞き取ることができません。それで、今何が起きているのかわからない。聴覚に障害のある人たちは目から入ってくる情報が頼りです。津波などの情報がわからないため、逃げ遅れて多くの人が亡くなりました、という話をされた。さらにその方は、その歌を知りませんので私見となりますが、と断られたうえで、手話に関心をもっていただけるのはありがたいですが、歌に手話をつけて表現するのは聞こえている人たちの文化です、そこに聴覚障害の人がいたのでしょうか。誰を対象に歌っているのでしょうか。そこまで掘り下げてほしい、と言われた。また、手話はコミュニケーションの手段です。役所などの窓口に手話ができる人がいれば、聴覚障害の人たちの世界はずいぶん変わります。医療機関にかかろうと思っても、まず対話が成り立たないとだめです。バリアフリーといいますが、アクセスの問題があります。利用可能にしていくという仕組みが社会の側にあります。社会の側が変わっていくことが大事です。このような多岐にわたる話を聞くことになった。
「聞こえる人たちの文化です」ということばには強く響くものがあった。「共に生きる」と標榜している私たちであるが、どのような人と共に生きようとしているのか。最も基本的なことが問われているように感じた。終生、世の人々と共に生きることを願われた宗祖親鸞聖人に、身を入れて尋ね直さねばならない。 

■34 山を出でて
「山を出(い)でて、六角堂に百日こもらせて給いて…」これは、親鸞聖人命終の知らせを受けた越後住いの妻恵信尼が末娘覚信尼へ宛てた返信の手紙の冒頭の一節である。「山を出でて…」―私はこの文字を読むと、曽我量深先生が『精神界』に載せられた「出山(しゅっせん)の釈尊を念じて」という文の次の一節を思う。「我は徒(いたずら)に出家入山の釈尊を逐(お)ふて、出山の釈尊を知らなかった。釈尊は已(すで)に山を出でて、聚落(じゅらく)に来り、又霊山法華(りょうぜんほっけ)の会座を没(もっ)して王宮(おうぐう)に降臨ましましたではないか。惟(おも)ふに釈尊入山の後を遂ふは小乗仏教であり、釈尊出山の大精神より出立するが大乗仏教である」と。
「山を出でる」ということは大乗仏教の道を歩む者の必然の道であると曽我先生はおっしゃる。そうであれば、この恵信尼の手紙の冒頭は、親鸞によって誓願一仏乗たる浄土の真宗が開かれる契機となった出山の経緯を覚信尼に伝える大事な手紙となる。手紙は出山からはじまって六角堂夢告→法然上人との出会い→上人への帰依→下妻での夢→恵信尼の親鸞帰依の表白→覚信尼への同意の催促…と続く。長い手紙だが 、内容は豊かで深い。
『大経』が説く釈尊の入山は、「老病死を見て世の非常を悟る。国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう」と述べられている。しかし、その入山においての悟りは、梵天による転法輪の勧請によって出山へと転じ、「もろもろの庶類のために請せざる友と作(な)る」のである。仏道とは、この入山から出山へと転ずる道程を指すのだろう。世間に背を向けて山に入って学んだ者が、そのままそこに居座ったら仏道は消滅する。声聞とはそこに居座る者を言う。だから「声聞は…仏道の根芽を生ずべからず」と曇鸞は言う。
ふりかえって恵信尼の手紙を読むと、冒頭の短い文のあと、「山を出でて…」と親鸞の出山を語りだす。推定だが、恵信尼は覚信尼の手紙の中に、父への不信が潜んでいることを感じたのではないか。あのころの時代は、古代から中世への急激な転換期で、世情が混乱を極め、加えて地震・台風・洪水・冷害・干ばつ・大火などが頻発し、その結果として凶作・飢饉・疫病などがうち続き、民衆は明日ともしらぬ命におびえながら苦境にあえいでいた。
しかし、そのような苦悩に寄り添うべきはずの仏教は、密教的修法による加持祈祷や浄土教的な臨終来迎往生説などによって一時的な慰安を与えるに過ぎなかった。そのような社会の雰囲気の中に育った覚信尼は、父の臨終に何の奇瑞も起こらなかったことに疑問をもち、その父の一生の歩みが声聞的であったと誤解したのではないか。
「山を出でて」からはじまる恵信尼の手紙は、その覚信尼の不信を氷解させ、親鸞への崇敬と帰依の念を生じさせた。そのように思うと、覚信尼から始まる本廟護持の精神は、この手紙から出発したように思われる。ともあれ、この恵信尼の手紙は、われわれ真宗人が立脚すべき地(じ)を示したものと言えるのではないだろうか。 

■35 念仏の本源を尋ねる
親鸞聖人は、法然上人の教えによって頂かれた称名念仏について、
「選択易行の至極」(行一念釈・聖典191頁)
と言って、一切の衆生を平等に救うために選び取られた究極の易行であると言われる。正に念仏は、誰もがたやすく、どこでも、いつでも出来る行であり、だからこそ、一切の人々が漏れることなく、平等の救いが実現されるのである。
しかし、親鸞聖人は、その究極の易行をただ単に頂かれただけではなく、なぜそのような易行念仏を選択されたのかと、阿弥陀仏の選択の願心を尋ねていかれる。そこで、
「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることをあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう」(『歎異抄』聖典627頁)
と、本願をおこされた本意を明らかにされたのであった。阿弥陀仏はなぜ念仏を選びとられたのか、その本源を尋ねると、そこには正に煩悩具足の凡夫としての自己のためであったと、自己のすがたが明らかにされるのである。念仏を選びとられた本願を明らかにすることは、同時に真実の自己自身を明らかに知らされることにもなるのである。正に念仏を尋ねていくことは、真実の自己自身との出遇いでもあり、そのことによって、はじめて念仏を頂くことが出来るのではないだろうか。正に、選択の願心の本意を尋ねることが、信心の課題であることが窺われる。
曽我量深先生は、そのような行の一念について、
「最後最終の一声」と言われ、それに対して信心の発起する信の一念については「最初の一念」を示すと言われる(『開神』「「行の一念」と「信の一念」」『曽我量深選集五巻』108頁)。
その事を川の流れに譬えれば、行の一念は、あらゆる念仏を伝え流れてきた歴史伝統の最終最後の到達点であり、信の一念は、そうした流れが涌き出る本源の泉を尋ねあてたことになる。
私たちはその本源を尋ねることを辞め、伝えられた結果の念仏ばかりを我が物に奪い取ってはいけない。どこまでも流れついた最後の念仏をもとに、その念仏がどこから起こってきたのか、その本源を尋ねていかなければならない。そうでなければ、一声の念仏は最後とは頂けずに、念仏を手段として、更なる結果を求めることになるであろう。そこでは念仏は自力の念仏となり、臨終来迎を祈る念仏となってしまう。
そうではなく、念仏は最後の一声であり、その念仏の一声において、人生のあらゆる経験がこの一声に到達するためのものであったと、あらためて自分の人生を捉え直すことができるのではないだろうか。曽我量深先生は、日々の念仏とはこの最後の限りなき連続であると明かされた。
正に念仏を選択された本源の願心を尋ねあてたとき、念仏は最終最後の一念であると肯かれるのである。お念仏申すとは、そうした大いなる流れの中に自己を見出し、その流れにまかせきる自身として、そこに立って生きていくことではないだろうか。 

■36 「いなか」はどこにあるか
いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、たびたびとりかえしとりかえし、かきつけたり。……(聖典559頁)
以前から「いなか」という言葉の語感が気になっていた。「いなか」という言葉は都会から遠く離れた土地、あるいは郷里といった意味で用いられることが多いように思われる。親鸞聖人の時代も同じ意味で「いなか」という言葉が用いられたのだろうか。『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「いなか」は「中世では京都郊外よりさらに外の地、また単に地方の意にも使われたらしい」とあり、この他にも「上代のいわゆる両貫貴族の本貫の地、すなわち生産を営む場をさす場合」もあったと説明されている。「いなか」が「生産を営む場」に近い意味で用いられている例として『方丈記』の次の部分を挙げることができる。
……京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。……(『日本古典文学大系』第30巻、岩波書店)
鴨長明は養和元年(1181)年前後の時期を回想して、当時の世の中の動きについて述べている。親鸞聖人が出家された時期のことである。都の物質的な豊かさは「いなか」から集積された富を基礎としている。豊かさの源泉は「いなか」にあったのである。長明は災害に関する記述を通じて、「いなか」に依存した都の生活が脆弱であることを指摘している。物質的な豊かさに内実がないと認識していたからこそ長明は必要最小限の「方丈」(畳の間で言えば四畳半)の生活を実践したのである。
もう少し広い視野から解釈するならば、鴨長明や親鸞聖人の時代には、「いなか」から都へと向かう富の流れが変化しつつあった。平安時代後期において「院の権力は、諸国の富を集め、蕩尽する装置として機能した」。だが、平氏政権の終わりとともに、支配者が統率する一極集中的な「蕩尽する装置」にもほころびが生じて、「荘園領主の経済圏と金融業者の経済圏とが互いに支えあい、表裏を成す体制」へと移行した(本郷恵子『蕩尽する中世』新潮社)。当時の人々は都の華美な文化が朽ち果てる姿を眺めつつ、「みなもとは田舎」という実感を共有していたのではないだろうか。
現代においても「みなもとは田舎」という表現は過去のものではない。都市の内部で自給自足の経済圏が確立できない以上、つねに「みなもとは田舎」である。だが、生産・流通・消費が世界市場と結びついた現代において、一国の内部に「いなか」を発見することは稀である。例えば、コンピュータ機器を分解すると、複数の国で製造された部品が国境を越えて一つの枠の中に収まっていることに気がつく。このような場合、生産の場である「いなか」を特定することはできるのだろうか。おそらく、現代の「いなか」は、複数の国々がつながり合う関係性の中に存在するのだろう。 

■37 花からの愛情
「癒し」ということが最近よく言われるが、それはいま私たちが、さまざまなストレスで日々疲れ切っていることの裏返しであろう。確かにそうだと思う。
昨年の春以来、大阪の南河内から京都の教学研究所まで通勤している。京都駅から高倉会館の裏手にある教学研究所の建物まで歩いて十五分程度だが、その途中に、道路際に鉢植えの花をいくつも並べておられる家がある。四季折々に、いろんな花が顔をのぞかせている。毎朝その家の前を通りながら、何かホッとするものを感じさせてもらっている。
長い花だと、下の方から上の方へ次々と二ヶ月ぐらい咲き続けるものもある。最後の一輪が咲き終わる時には、長い間楽しませてくれて有り難うと、お礼を言いたい気持ちになったりもする。花の世話をしておられるその家の方を見かけることもあるのだが、「いつも楽しませてもらっています」と挨拶をさせて頂きたいところだが、見ず知らずの私がいきなり声をかけたら、きっと驚かれるであろうと、そのことは果たせないでいる。
以前、平野修先生が、「化身土末巻」の『大集経』「月蔵分」の「地の精気・衆生の精気・正法の精気」(聖典三七七頁)に触れての講義の時であったと記憶しているのだが、「皆さんは、なぜ私たちが花によって癒されると思いますか。それは、花たちが私たちに愛情をそそいでくれているからですよ」というお話をされたことがある。
多くの人は、この話を聞いたときに、動物でもない植物である花に愛情というような心があるはずがない、と思うにちがいない。そのような私たちの思いを、平野先生は見透かしておられたのだろう。その言葉に続いて「月蔵分」の「地の精気」という経言を紹介されて、「このように大地に心があるように、花にも心があるんですよ。」と話された。
私はそれ以来、いろんな花に出会うたびに、とくに行きずりに花に出会うとき、平野先生のその言葉を思い出す。そしてますます、花たちが私たちに愛情をそそいでくれているということは間違いのないことだ、という感を深めている。ご縁を頂いたお寺の法話でも、時にこのお話を紹介している。
いのちというものが、いよいよ見えにくくなっているという現状がいま社会の中にある。先日も大阪でホームレスの人たちを手当たりしだいに襲っている若者の記事が載っていた。他人のいのちを軽く扱ってしまうということは、おそらく自分のいのちの尊さにも出会えていないのであろう。そしてその根本には、彼ら自身が「愛されている」という実感を持ったことがない、ということがあるのではないか。
七五〇年前、親鸞聖人はどのように花々と出会っておられたのであろうか。 

■38 教如上人と「ふるさと」
本年は東本願寺を創立された教如上人の四百回忌に当たる。上人は信長・秀吉・家康と対応し苦労されたことでも知られる。
上人の人格形成の一端は「頭」ではなく「肌」から感じとられたことが大きく影響していたのではないかと考える。上人は大坂(石山)本願寺で永禄元年(一五五八)誕生され、二十三歳まですごされた。その間、全国各地から本山へ上山した門徒の姿、同朋・念仏者が集う解放的な寺内の環境などを眼前にした日常であった。その環境が自ずと上人の人格や志願を育くんだといえるのではないだろうか。誰もが「ふるさと」の風景が生涯忘れられないのと同様である。
上人四歳の時、親鸞聖人三百回御遠忌が十昼夜盛大に厳修された。御影堂、阿弥陀堂で法要があり、初めての行道が行われ、沢山の参詣者があった。幼い上人にとってたいへん印象深い法要であったことだろう。
祖父・証如上人の時にできた寺内町には、各地から商人や手工業者らが集まり自由に営業する念仏者の活動、あるいは寺内各町の「綱引き大会」、能の観賞など文化的な行事が活々と繰り広げられた。そのような同朋・同行の姿を見ながら上人の日常は過ぎていった。
しかし、上人十三歳の時、信長との石山合戦が始まる。各地から番衆として門徒が上山し、本山・御真影を護るための必死のはたらきを上人は見られた。各門徒にはそれぞれ家族もあったことである。その心情も上人は察知していたであろう。
石山合戦終結の和睦に対し、父から義絶されながらも徹底抗戦を主張し籠城した上人の決意の背後には、上述の門徒・同行の行動があったと考えられる。宗祖を慕う真摯な門徒の心に共感された上人といえよう。上人の消息に「宗祖聖人の御座所を仏敵の信長軍の馬のひづめにけがされるのは無念」とある。この文言の根底には門徒が本山を死守してきた心情がうかがえる。
「本能寺の変」後、本願寺は鷺森から貝塚、そして天満へ移転するが、その際、上人は秀吉政権の中枢にいた千利休に積極的にはたらきかけ、大坂に天満本願寺を成立させた。
また、上人は東本願寺創立以前、隠居中の文禄五年(一五九六)、大坂に「大谷本願寺」を建立した足跡がある。その地は敢えて大坂城の北、渡辺である。これも天満本願寺と同様、旧縁の大坂本願寺を意識してではないだろうか。
上人は東本願寺御影堂建設中に巨大な梵鐘を鋳造している。これは現在の東本願寺阿弥陀堂内に安置されている。その銘に「大坂大工浄徳」とある。「浄徳」の人物については不明であるが、法名であることから大坂の門徒と推定される。先の大谷本願寺の梵鐘銘にも大工は大坂の「我孫子杉本」(現大阪市住吉区)の家次という。
教如上人はこれらの職人に大坂本願寺時代に出会ったのだろう。二十三歳まですごされた大坂本願寺・寺内町には「仏国土」ともいえる「報恩行」で活動する門徒の世界の雰囲気があり、それが上人の願われた教団のかたちとなっていったのではないだろうか。 

■39 芯
子どもたちが巣立って、二十年が経った。まだ核家族という言葉の珍しかった頃には、老い二人の日が、こんなに早く訪れようとは思いもせずにいただけに、驚くのである。
世界にも前例のない経済成長を遂げた日本の激しい変わり方は、一人ひとりの人生や家族の生活、さらには、社会状況や自然の生態系にまで及んでいることは、「身土不二」の教語に照らしても、道理の示す所である。
ところで、我が家では事情あって、五、六年前から、家事のほとんどが我が務めと相成り、一年を通して台所に立つことになっている。朝、台所からコトコトと聞こえる包丁の音で、目を醒ましていた頃の気分はとっくに消えて、時に哀れをもよおすこともあったが、ほどなく、「台所も、これまた聞法の道場よ」と、心は決まってきた。
少年の頃から寺で四世代、十三人の大世帯の中で育ったので、食事の手伝いも珍しくなく、学生の頃の自炊生活も、今は助けとなっている。
気がつけば、素早く要領よく、しかも栄養も片寄ることなく作るということが、出勤前の朝食の準備の掟となっていた。
南瓜、玉葱、キャベツ、人参、大根、椎茸に玉子に竹輪、すり胡麻、出しじゃこ、そこへ時には季節の青物と前日の残飯を入れての味噌仕込みの雑炊が、三百六十五日、朝食の定番となっている。
ところで地元の朝市から、丸ごと求めてきた特大のキャベツを、上の葉から切り離しては使って一ヶ月ばかりが経ったころ、その真ん中あたりが脹れ出してきたのであった。そして冬が近づきキャベツにとって替わった白菜も、春間近のころには花芽がのぞき出してきた。根を切られても、なおその芯が含んでいる養分を糧に、生命を継ぎ生きんとするその姿に、私は驚いた。生命の要は、まさに「芯」にあったのである。
「マニュアル」や「システム」の改革も必要であろう。だが何よりもまず家庭や学校で親や教師が、この子やこの生徒のその「芯」はどこにあるのか、と見守り育むところに、そして一方で子どもや生徒達は、自分に向けて下さっているその気持ちを、じっと胸に手を当てて聞いてみるところに、心が通い合いそれぞれの歩む道が見つかってくるに違いない。
仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。(『唯信鈔文意』聖典五五四頁)
との、聖人の教語を思い浮かべるほどに、いかに五濁悪世の度合いが進もうとも、人類のみならず、無辺なる衆生のすべてに通底する「いのち」(仏性)こそが私達人間にとっても「芯」であるという事実に目醒めるところにしか道はないとの思いが、年々に深まってくるのも、加齢のためとばかりとは、思われないのである。
この人間の道を、聖人との出遇いのなかに生涯を尽くされた教育者の、
私どもは、自分の生涯でただ一度、それも五十年、六十年前にお会いしただけでも、一緒にいて離れないという実感がする人があります(中略)一度も出会ったことがなくても、場合によっては生涯、自分と一緒にいる人があるわけです。 (廣小路亨「一期一会」『縁に随う』)
との遺語が、いよいよ身に沁みるのである。 

■40 思いと願いが声になって
真宗大谷派仙台教区主催で行われた「3・11東日本大震災・心に刻む集い」に教学研究所のメンバー二名とともに参席した。あの震災から二年と二日たった三月十三日のことである。杜の都・仙台の中心部にある会場の仙台国際センター大ホールは約千人の聴衆でほぼ満席だった。招待席には原発事故で全町民が避難を余儀なくされ、現在は福島県いわき市の仮設住宅で過ごす多くの方々が座っていた。
嘆仏偈が厳粛に勤められ、集いは始まった。震災に遭い、震災問題と向き合う二人の僧侶が登壇し、いまの思いを「私は聞く」という形で吐露した。
私は聞く、あなたの悲しみが分からないから。
私は聞く、お前には分からないという慟哭を。
この最初の二句には、これまでの支援がいかに精神的な重圧のなかでなされてきたか、いかに苦労の多いものであったかが綴られていた。さらに「聞く」対象は被災者の叫び、汚染された大地の呻き、素朴であるがゆえに胸が痛まざるをえない子供の願いなどへと広がっていった。そして「今に生きる。今に生きる。南無阿弥陀仏」で閉じられた。
次にさまざまな立場にある七人がリレートークの方式で思いを語った。当時実家を離れて高校生活する自分に「あなたはそこにいなさい」とメールを残したのを最後に津波で流された母親との思い出を語る大学生、「申し訳ないという気持ちでやっている」「支援する者・される者の関係をこえて、人と人という関係ができてきた」と語る被災地で支援活動する人たち、「本当に申し訳ない」と涙する甲状腺検査の数値が思わしくない子供を持つ母親、「なぜ検問を受けて一時帰宅しなければならないのか」とやるせない心情を述べる原発事故のために故郷を離れて生活をする人などの声が会場に響きわたった。
最後に被災地で支援ライブを行っている二組の歌い手によるライブがあった。「三百六十五歩のマーチ」「上を向いて歩こう」など十曲以上が歌われ、会場は一体感で包まれた。「自分たちはなにかを言うよりも、歌で思いを伝えたい」。そう語る男性ボーカルの声は、支援のあり方のヒントを教えてくれているようだった。それは「自分のフィールドで自分のできることをする」ということである。したがって支援のあり方は人それぞれであり、被災地に出向く形もあれば出向かない形もあるのである。
翌日、私たちは石巻市の大川小学校に向かった。津波で全校児童百八人のうち七十四人が死亡・行方不明となった小学校である。変わりはてた校舎の横には慰霊碑が建てられ、多くの人がお参りに来ていた。「おとうさんおかあさん、もっとみんなといっしょにいたかったよ」。そんなたくさんの声なき声がこだましているかのようだった。
二年たっても震災・原発問題はまだまだ終わっていない、風化させてはならない。このことを身をもって再確認した三日間だった。 
 

 

■41 真宗移民の記憶
真宗の移民といえば、明治初期の海外移民が思い浮かぶが、江戸時代にも集団移民があった。いわゆる労働移民とは異なる、真宗の信仰と生活習慣を護り続けた人々を「真宗移民」と呼ぶ。
最初は、天明の大飢饉と間引きの流行により荒廃した関東幕府領を、越後門徒の移住によって回復させようという合法的移民であった。北陸地方は間引きの悪習がなく、人口も多い真宗地帯であった。しかし北関東の荒廃は続き、やがて藩が禁じる非合法的移民(走り人)が始まる。親鸞旧跡寺院の稲田西念寺良水は笠間藩(茨城県)と語らい、真宗移民によって間引きを絶ち農村復興を目指した。北陸前田藩領からの移民は関東旧跡巡拝を口実にしたが、やがて発覚し頓挫する。その後、真宗移民の引受先となったのが同じく飢饉で荒廃した相馬中村藩(福島県浜通り地方)である。
文化八年(一八一一)の入植以来、真宗移民は藩より厚遇されたが、信仰や習俗を巡って地域との摩擦は消えず、移民門徒は真宗寺院や講を中心に結束し信仰を護り続けた。以降も移民は続き、各地の真宗寺院や門徒の支援を受け相馬を目指し、約三十年間で移民数約九千人、開墾地は約三万石に達したという。
真宗移民の尽力で復興を遂げたかにみえた相馬中村藩を天保の大飢饉が襲うが、弘化二年(一八四五)より藩民一体の一八〇年に及ぶ復興計画(報徳仕法)を実施する。この計画は明治維新で途絶えたが、真宗移民はこの時も尽力したという。
前田藩領内では縁者から移民が出たことが発覚すれば厳罰を受ける。送り出した人々は移民を懐かしむことも許されず、真宗移民は歴史の彼方へ消えたかに見えた。しかし、移民の子孫たちは先祖が北陸出身であることを語り継いでいた。3・11直後、子孫たちは支援に駆けつけた越中門徒に、故郷を同じくする自分たちの先祖について問うたという。二百年の時を超えた再会である。
現在、原発災害が特に深刻な福島県浜通り地方は、放射線による健康不安とともに、人口流出による地域衰退への危機感が増している。この過疎化と高齢化の加速は、実は全国でも起こっている問題である。国の農林業政策への不信感、更に地球温暖化が原因とされる近年の異常気象が地域住民の不安を煽り、郷土の荒廃が進みつつある。
原発災害は自然界が長い時間をかけ減らした放射線量を逆戻りさせた。地球温暖化と同じく人間がもたらした人災であり、目先の政策では解決しない。私たちは、この事実を便利さを求め続けた業果と受けとめ、未来世代に害を残さぬよう、今の生活を問い直さなければならない。原発被災地と同質の問題が全国で起きている今、かつてこの地の復興に尽くした真宗移民の歴史に学びたい。時代は変わっても、復興の手がかりは真宗移民の記憶のなかに遺されているはずである。 

■42 凡夫の歴史
福井県を訪れた際、勝山市にある白山神社へ連れて行っていただいた。養老元(七一七)年に創建された古社で、中世以降、白山信仰の拠点寺院であった平泉寺の旧境内である。平泉寺は、四十八社、三十六堂、六千坊といわれるほどの巨大な宗教都市を築いていたが、一向一揆勢力の攻撃により全山焼失したという。その後近世にやや復興したが、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって平泉寺は廃寺となり、今は遺構をのこすのみである。その平泉寺の廃墟跡に立ち、一向一揆と対立した人びとの逃げまどう姿を想像しつつ、織田信長によって虐殺された一向一揆の人びとや戦国の戦乱で亡くなっていった人びとのことを思った。一向一揆の戦いがもつ意味をあらためて考えさせられたひとときであった。
学生の時、聖人の御生涯以外の歴史にはほとんど興味がなかった。しかし入所以来、広く仏教史から近現代の教団の歴史まで学び、考える機会をいただいて、よく戸惑いを覚えた。それまでは、歴史の一部分を切り取ってあれは間違いだ、これは大事だといって済ませていればよかったが、知るほどにそれでは済まないことや異なる見方にであってしまう。そして、歴史に対する善悪の判断や、否定、肯定は簡単にできるものではないということを知り、戸惑うのであった。それは単に判断がつかないという戸惑いではなく、自分の立ちどころがどこにあるのかと歴史を通して問い直される経験であったと思う。
歴史は単なる事柄の羅列、時間の経過ではなく、人の生きた歴史である。そして、それは「凡夫(ただひと)」(聖典九六五頁)が生きた歴史である。英雄や偉人の歴史もまた「凡夫」の生きた歴史である。すばらしい業績に意味がないということではなく、誰もが「凡夫」であるという一点を外すならば、結果として、人間の中に正邪や上下といった価値体系を作り出すほかない。どの人の歴史も、様々な縁によって生きた存在の歴史の他ではなく、その歴史が、逆に、縁によって様々な在り方をしてきているわが身を浮かび上がらせる。「凡夫」の生きた歴史は、わたしが「凡夫」であることを証しするのである。そして歴史の方が、「凡夫」であるお前はどう生きるのか、と問うてくるのである。
だから私にとって歴史を知ることは、歴史の中におぼろげに浮かび上がる人間の姿、物言わぬ他者との対話のようなものの気がする。「なぜこのような歴史になったのか。あなた方は何を、なぜ、どのように求めたか」。その問いは、自ずと自分自身に還ってくる。「あなたこそ凡夫であることを見失って、何を求め、どう生きようとしているのか」。歴史は、そう私に問いかけ、見守ってくれているようにも思えてくる。こうして、教団を含めた、歴史を学ぶことは、いつの間にか、私にとって真宗の学びの一つとして大切なものとなっていた。 

■43 親鸞聖人と『観阿弥陀経』
『観阿弥陀経』とは、『観経阿弥陀経集註』、『観無量寿経註・阿弥陀経註』などとも呼ばれる親鸞聖人の著作である。この著作は、料紙に『観無量寿経』と『阿弥陀経』が書写され、その経文の行間、経文の上下の欄外、紙背に善導大師の著作を中心に、こと細かく註記が施された巻物仕立てのものである。
昭和十八(一九四三)年二月に西本願寺より発見され、翌年影印本が刊行されている。影印本の解説には、「二経を分離して両巻とし」とあることから、もとは一巻であったと考えられる。高田派専修寺には存覚書写本が所蔵されているが、それには「観阿弥陀経」と題号が付され、奥書には「二経一巻」と記されている。ここから、「観阿弥陀経」が原題名ではなかったか、と指摘されている。
もちろん、『観阿弥陀経』という経典が存在するわけではない。しかし、二経に註記が施された聖人の著作に「観阿弥陀経」という題号が付されるところには、『観経』と『阿弥陀経』を「二経一巻」として受け止めていかなければならない必然性があることが示唆されているのではないだろうか。その意味で、「観阿弥陀経」という題号に、重要な意味があるように思われる。
『教行信証』「化身土巻」に、
愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(聖典三九九頁)
と述べられるように、親鸞聖人は二十九歳の時、法然上人の本願念仏の教えとの出遇いを通して、阿弥陀如来の本願に帰依された。それから越後へ流罪となる三十五歳までの約六年間、法然上人のもとで多くの門弟と共に、本願念仏の教えを懸命に聞き続けられたのだろう。『観阿弥陀経』は、筆跡や引用文などから、吉水にいた頃にはほぼ完成していた、と先学によって推測されている。吉水時代に親鸞聖人がどのような学びをしていたのかを具体的に示す史料はほとんどないため、『観阿弥陀経』は、若き聖人の学びが窺える重要な著作と言えよう。
『観経』の流通分に、
汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。(聖典一二二頁)
と説かれ、『阿弥陀経』には「名号を執持せよ」と勧め、そのことを六方の諸仏が証誠することが説かれている。『観経』と『阿弥陀経』に一貫して説かれていることこそ、本願念仏である。法然上人の本願念仏の教えを、この二つの経典の上に確かめようとした著作が『観阿弥陀経』ではないだろうか。このような親鸞聖人の学びは、主著『教行信証』にも展開するものと考えられる。その意味で、『観阿弥陀経』は、親鸞教学の原点を明らかにする著作と言えるだろう。
「本願念仏の教えに出遇ってほしい」。『観阿弥陀経』は、私にそのように呼びかけているように感じる。 

■44 「伝親鸞聖人筆」名号について
「伝親鸞聖人筆」とする六字名号と十字名号が二幅づつ、高山教区内の四か寺に伝来する。六字名号には「善信(花押)」とあり十字名号にはない。署名・花押、書体も聖人真筆ではない。それらの寺院は御旧蹟でもなく伝来は不明である。
以前、これと同様の六字名号を新潟県と富山県の御旧蹟寺院で見た。富山の寺院では、転宗した際聖人から授与されたものと伝えていた。「伝聖人筆」とする同じ書体の六字と十字の名号が、岐阜(飛騨)、新潟、富山の寺院に伝来することから、もっと広範囲で多数存在する可能性があり、製作された場所や意図がずっと気になっていた。
近頃知人が、先祖の高山の豪商に伝わった「親鸞聖人筆」六字名号と「由緒書」を見せてくれた。名号には「善信(花押)」とあり、先の「伝聖人筆」の六字名号と全く同じである。「由緒書」には次のように記されていた。
「延享三(一七四六)年に、信濃国戸隠山の修験者から十字・九字・六字三幅の名号を譲ってもらった。その後、宝暦十三(一七六三)年七月二十九日に名号の極め書きを頼んだ。十字・九字・六字の名号は、安貞二(一二二八)年秋、五十六歳の聖人が戸隠山に参籠して奉納したもので、六字は聖人が六角堂へ参籠した時、感得した名号である。近年、戸隠山の宝庫から三幅が発見されたので、東本願寺門跡に上覧のため上洛する途次商家に逗留した。主が“御開山様”の真筆を拝見することは“宿縁浅からず”“隨喜感嘆ふかく仏祖の大悲善巧の恵”と感じ譲渡を願い出た。すると戸隠山行勝院は“辞退なく譲書を相添、授与した」
とある。「伝聖人筆」名号の出処が戸隠山の修験者と判明した。飛騨の二か寺の十字名号は、この商家から出たものかもしれない。また他に九字名号が存在する可能性もある。
贋作の「聖人筆」名号が出回るのにはいろんな要件がある。いわゆる「聖人御旧蹟」には、聖人の遺品が伝来しているはず、という先入観がある。当時、ほとんどの真宗の僧侶・門徒は聖人真筆を知らない。「善信(花押)」があれば、偽物という疑念をもたない。聖人が越後に流罪中、北信濃や善光寺へ参籠したという伝承が既にあり、それを背景として、戸隠山では「親鸞聖人真筆名号」を創出し、出開帳をしながら広範囲に売り歩いた。ターゲットは真宗寺院や篤信の豪商であった。門徒、特に篤信の門徒は疑うより先に合掌礼拝の対象としたため、このような門徒の崇敬の念を利用したのである。売り渡した後は、冥加の無い者には拝ませないよう秘蔵させたようである。
真宗門徒は、親鸞聖人を「御開山様」と称して崇敬し、「正信偈」や「和讃」などの聖教に念仏の教えを深く戴く伝統に生きている。加えて遺品(聖教・名号などの手跡)に生前の聖人の聞思の姿や息吹を感じ取る情も抱いたと思う。「伝聖人筆」名号の真偽は重要である。しかし、本願念仏の教えを相続している門徒にとって、「善信(花押)」は、真筆か否かを超え、本願念仏の確かさを証すものとして受けとめられてきたのである。 

■45 人知の闇
2011年に宗祖の七百五十回忌御遠忌法要が勤まった。しかし、その法要に先立つ3月11日に発生した東日本大震災は、今でも多くの爪痕を残すと共に、人々の心の中に大きな悲しみと痛みをもたらしている。復旧・復興に全力を挙げて取り組まれている現在でも、今なお先の見通しがつかない極めて深刻な危機を招いているのが福島第一原子力発電所爆発による放射能汚染事故である。この事故は、そこに住んでいる人々に不安と怒りと悲しみを二年経った今も与え続けている。当時、御遠忌中に配布された挨拶文の中に、
原子力発電所の極めて深刻な事態は、経済至上・科学絶対主義と表される人知の闇が、まさしく露わになった事実であり、私たちの生活の根底から問い直させる、大変重要な意味をもっている。
という文章がある。
今なお続く原発事故問題に対し、二年以上経った今でも、完全な解決策が示されているわけではない。逆に、この先どの様になるかさえ、その最終的な真の結論については誰一人知る人はいないのではなかろうか。それにもかかわらず、国は原発の安全性を改めて主張すると共に、海外に向けて輸出しようとしている。何故、あのような悲惨な事故が起こったのかに対する総括や問題の解決策も示されてはいない。それよりも、今も現状に苦しむ人々の痛みや悲しみを受け止めることなく、ひたすら「科学絶対主義」を信じ、そこに何らの疑いも挟むことなく、それを裏付けに「経済至上」に邁進しようとするのであろうか。そこに、人間の幸せがあるかのような幻想を抱かせようとしていることに、危機感を感ぜずにはいられないのである。その根本にある課題とは何なのか。
私たちは、人間のもつ知恵により全ての幸せが達成できると信じて疑わない。今日の社会の繁栄はその知恵の結晶によって成立してきたと考えているし、その様な社会をひたすら求めていたのも、実は私たちである。しかしその事を根底から問い直させているのが原発問題ではないだろうか。その事は「想定外」と言葉に聞き取れると思う。つまり、「想定」そのものが人知の象徴であるならば、それが「外」れた事は、正に科学万能を疑わない人知そのものが問題である事を示しているのではなかろうか。何故なら、全てを「数値化」し、それを基準に判断していく人知そのものが、実は「闇」であると教えられているからである。
宗祖が、何故私たちに阿弥陀仏を仰ぐ生き方を勧められるのかといえば、それは光としてはたらく阿弥陀仏によって自らの闇が知らされる以外に、本当の生き方はないと頷かれたからである。私たちはどこまでも仏の教えに依らない限り、他者への痛みを感じることなく互いに傷つけ合う生き方しかできないのではなかろうか。その様な現実を、大悲して止まないところに阿弥陀仏の願いがある。私たちは、どこまでも教えを通して人知の闇が破られ慚愧するところに、共なるいのちを生きる道が開かれるのではないかと思う。 

■46 師教の恩厚を仰ぐ
『小倉百人一首』の撰者として名高い藤原定家(一一六二〜一二四一)は、宗祖と十一歳上の同時代人である。彼は一一八〇年(十八歳)から五十六年間にわたり、ほぼ毎日日記を綴った。その全文が、のちに『明月記』と題して世に出、公家の世から武士の世へと転換していく中世初期の社会のありさまが知れる貴重な史料となった。
その日記の一二〇七(建永二)年一月から三月にかけての記を見ると、宗祖が越後へ遠流となった「承元の法難」に関する生々しい記事が散見される。まず一月二十四日の日記に、次のような記事があらわれる。
「専修念仏ノ輩(やから)停止(ちょうじ)ノ事、重ネテ宣下スベシト云々(専修念仏を広める人々に対して、再び停止せよとの天皇の命令がおりた)」〔以下( )内は意訳〕と。続いて二月九日、「近日、只一向専修の沙汰。搦メ取ラレ、拷問サルト云々。筆端ノ及ブ所ニアラズ(近頃は、毎日一向専修の人々の裁判がどうなったのかという話ばかり。今日は数人が捕縛されて拷問を受けているとのこと。その有り様は筆に書きとめられないほど過酷なものである)」。
そして二月十八日、裁決が出、住蓮・安楽など四名斬首、法然・親鸞など八名、俗名を与えられて遠流に処され、三月十六日、還俗させられ俗名藤井元彦となった法然が鳥羽の近くで乗船したと言われている。
この三月十六日の出来事については、『親鸞聖人正明伝』に更に詳しく、次のように語られている。
「(三月十六日)午ノ時(正午)、源空上人、華洛(京都)ヲ出テ配所ニ赴タマフ。(中略)同十六日卯初刻(午前五時)、善信聖人(親鸞)出京ナリ。コレ空上人イマダ都ニマシマス内ニ、片時モ先立テ洛ヲ出ムトテ 、兼テ送使ノ許ヘタノミタマヘバナリ(わずかな時間でも先に出発して都を出たいと思い、前もって送使役の人に頼んでおいたからである)」。
流刑の地へ出発する師の背中を弟子が見送ることは、師に我が身の罪を背負わせることになる。そう直感した宗祖は、すべての罪を一身に背負い、暁天のときを待って越後の国へと旅立たれたのだろう。一方、法然上人の伝記には、配所に旅立つときの上人の言葉が次のように残されている。
「流刑さらにうらみとすべからず(中略)、念仏の興行、洛陽(京の都)にしてとしひさし、辺鄙(へんぴ)におもむきて、田夫野人(でんぷやじん)をすすめん事、季来(としごろ)の本意なり。しかれども時いたらずして、素意いまだはたさず。いまの事の縁によりて、季来の本意をとげん事、すこぶる朝恩ともいふべし」(『法然上人行状絵図』第三三)
この言葉は、やがて宗祖の目にも止まっただろう。宗祖はこれを受けて、『教行信証』「後序」末で「深く如来の矜哀を知りて、良(まこと)に師教の恩厚を仰ぐ」と述べておられる。法難を逆縁として、「朝恩(朝廷の恩)」といただかれた師法然と、それを「師教の恩厚」と仰いで、ここに凡愚救済の仏道があきらかに開かれる時が熟したとして、「慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」と受けられた宗祖との見事な応答が、「承元の法難」という一過性の出来事に永遠の真理性をもたらしたのである。  

■47 言葉の歴史
改めて言葉の歴史は大切であると痛感することがある。それは言葉の歴史を知ることによって前よりも聖教の意味が明らかになった時である。しかし言葉の歴史を知るということはなかなか容易なことではない。日本語や漢文だけでも各々に長い歴史があるし、さらにそれが翻訳語や仏の教えの言葉となると、事情がより複雑になるからである。
そもそも仏教の経論はインドから日本へと翻訳されながら伝来している。訳者は言葉では表現できない真実を表現しなければならないだけでなく、原語の意味と完全に一致しない、それと近似する言葉を用いることによってしか翻訳することができない。そのために意味が複雑になるのだろう。
またそれ以外に意味が複雑になるのは、数種類のサンスクリット語などの原語が、一つの言葉に漢訳されるからであると思われる。現代の日本語からみると一つの言葉の中に、数種類の原語からの意味と、中国や日本での伝統的な意味と時代特有の意味、そして漢字そのものがもつ意味が混在する。そしてその混在することから起こる混乱と、さらにはそこに現代人の語感と、個人的な感情や意図が加わることによって新たな意味が創り出される。
これはもちろん仏教術語だけではない。例えば自然という言葉についても同様だったようである。明治の頃もともと日本で用いられていた自然と、外来語の訳語として用いられるようになった自然との間で混乱があった。しかもその混乱の中にいる人は、そのことに気づかなかったという。
ところがそのような言語的な問題を、仏教における過去の先輩たちは超えておられる。もちろんそれは仏のお力や善知識からの教えによるものであり、信仰上の実体験に基づくものであるが、一つには多読であり多聞によるものだろう。親鸞聖人が仏教術語について、あれほど偏りのない語感をお持ちなのも、様々な経論に通じておられたからであると思われる。
ただ言葉の歴史が大切であるとしても、気にかかるのは、歴史と個人的な感情についての曽我量深先生の次の言葉である。
個人的感情は妄念である。個人的感情も歴史にうらづけられたとき真実である。 (『歎異抄聴記』真宗大谷派宗務所出版部二七五頁)
ここでの歴史とは、念仏に生きる者にとっての歴史的背景や事実のことであり、それは法蔵菩薩から七高僧そして親鸞聖人まで伝えられた伝統的な精神のことである。ただそれらのことを私たちに伝えてくださるのは仏や善知識や聖教である。聖教はその中の一つであり、誰もが確かめることのできることからも、やはり重要であると思われる。
しかしどうしても聖教の言葉自体にとらわれてしまう。聖教は人間を絶対的な自由に導くものであるにも関わらず、気づかぬうちに個人的な感情のまま他者を否定し、自らを肯定し正当化してしまう。そのようになるのは凡夫の身としてはやむをえないことではあるものの、ただ悲歎し慚愧するのみである。
そうであるからこそ曽我先生の言葉には、私たちにもそのことに気づいてほしい、個人的な感情や思いに終始することなく聖教の言葉にたずねてほしい、そのような意味が含まれているように思われてならない。 

■48 自己とは何ぞや
自己とは他なし 絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾にこの境遇に落在せるものすなわちこれなり(『清沢満之全集』〈大谷大学編、岩波書店刊、以下『全集』〉第八巻三六三頁)
これは、清沢満之(一八六三〜一九〇三)が、『臘扇記』(一八九八年八月)に記した一連の文章の中にある一節である。当時満之は、人間関係に悩み、また肺結核を煩いながら、現実に差し迫る「死」を前にしていた。その中にあって人生の意義(「死後の究極」)を尋ね、畢竟「不可思議」であるということから、真実の自己は、絶対無限の妙なる働きに乗托して、現前の境遇に落在せるものであると決着したのである。ここに念仏への目覚めが表現されているといえる。
念仏への目覚めが、「自己とは何ぞや」という問いとともに表現されている。この問いはわが身への深いまなざしと自覚をうながしていく響きをもっているといえるだろう。もちろんこの一文は、満之自身が記したものだが、同時に満之を超えたものとして、以後の満之を導き、そして今の私たち一人ひとりに問いかける。
この一節の後には、次のような内容が続いている。
絶対吾人に賦与するに善悪の観念を以ってし避悪就善の意志を以てす。いわゆる悪なるものもまた絶対のせしむる所ならん。しかれども吾人の自覚は避悪就善の天意を感ず。これ道徳の源泉なり。吾人は喜んでこの事に従わん(同上)
ここに善悪の観念が与えられることが記されている。満之は「無限の境界には善悪なし」(『全集』第二巻一二六頁)としているが、冒頭にみた一節は、善悪を超えた不可思議なる世界、真実によって自我分別が破られる世界を意味する。その善悪を超えた世界から、今度は善悪の観念が開かれると記される。
この善悪について、満之は「吾人をして絶対を忘れざらしむるものこれ善なり」として、念仏(絶対)への目覚めを善悪の基準としている。ここには念仏する歩み、念仏する生活(願生浄土の道)が示されているのである。
善悪を超えた世界から善悪の世界へと転換していくというのは、自己に本来そなわる関係存在(同朋)への眼を開いていくことを意味する。
有限無限の関係はついに吾人が無限に対する信仰を発得せしめ、他力信仰の結果は吾人の同朋に対する同情となり、同情の開展する所は道徳を策進して真正の平和的文明を発達せしむるに至るべきなり、(「他力信仰の発得」『全集』第六巻二一五頁)
自己への深い眼は、自己に本来そなわる同朋への眼を開く。自己への眼差しが、狭い自己に閉じこもるのではなく、同朋への世界を開いていく。また同朋ということが、観念の中に閉じこもるのではなく、自己への目覚めを伴ったリアルな内容として頷かれてくることが示されている。
昨年(二〇一三)は、満之生誕百五十周年の年にあたり、満之の出現の意味が改めて確かめられる。ここで示される同朋への眼をもう一度確かめ直していきたいと思う。 

■49 念仏における二つの特徴
曽我量深師は、親鸞聖人と法然上人の念仏における趣の違いを次のように指摘する。
「法然聖人は果して本願を憶念することに依りて念仏を唱へられた乎、将(は)た念仏の声に導かれて本願力を憶念せられた乎。是れ須要の研究問題である。此憶念と称名との因果前後の関係が法然、親鸞二師の信念の色味を異ならしめた要点である。親鸞聖人は先づ本願力を憶念して、此憶念の心が顕はれて称名となった。然るに、法然聖人の傾向は正しく反対であった。彼は先づ忽然として称名の声が現はれ、此声の上に本願力の虚しからざることを憶念し給ひた」(「大闇黒の仏心を見よ」『曽我量深選集二巻』三〇三頁)。
これは、法然上人には「日課七万遍」などと言われる、毎日お念仏を称えていた伝承があるのに対して、親鸞聖人にはそのようなお念仏を熱心に励むことがなく、その相違を論じているものである。
この二つの違いを単純化して表せば、先に念仏を称えてから本願を憶念するか、本願を憶念してから、そこに自然に念仏を申すかの違いである。その一つ目の特徴は意志実行の念仏で、この念仏の声に往生決定や本願力を証し、開顕しようとするものと表されている。もう一つは瞑想的な感謝の想いから出る念仏で、まず決定往生を確信し、その確信が感謝の想いとなり、その表明としての念仏の声となったものと言われる。
師は、この違いは教義意見の違いではなく、人格上の相違であると言われる。私は、この違いは、その生きられた時代の違い、その立場による課題の違いであるとも思うのである。
というのも、法然上人の時の課題は、新しく浄土宗を独立し、専修念仏を広めていくことにあった。そのような新しい宗を興こす場合は、まずもって念仏を称えることが重視されたのではないだろうか。それに対して、親鸞聖人の立場は、すでに多くの専修念仏者が居るなかでは、むしろ真実に念仏する意義、念仏をする心の在り方をよくよく思案することが課題となったと思われる。そのような課題の違いから、それぞれの特徴が出てきたと言えるのである。
そこで問題は、我々が生きている現代の状況にはどのような課題があるかである。この事をよくよく考える必要があるのではないだろうか。現代は、核家族化がすすみ、御内仏の無い家が増え、信心が相続せず、念仏を申す機会など、圧倒的に減少しているといえよう。
このような教えが伝統相続していくことの危機的な状況にあっては、法然上人のように念仏を称える声、念仏を称えるすがたを積極的に表現する必要があるのではないだろうか。念仏に生きる人を通さなければ、どれだけ理屈を重ねても、阿弥陀仏の本願のはたらきや浄土の存在についても、伝わらないからである。
具体的に称えられる念仏の声、御本尊を前に合掌・念仏を申す後ろすがた、そうしたことがだんだん貴重となってきているのである。 

■50 露伴のなかの親鸞聖人
他力に頼って自己を新にしようとするにしても、信というものは自己によって存するのであるから、即ち他力に頼る中に自力の働(はたらき)がある。自力によって自己を新にせんとするにしても、自照の智慧は実に外囲の賜物であるから、自力による中に他力の働がある。
(『努力論』改版、岩波文庫、二〇〇一年、四五頁)
これは幸田露伴の著書『努力論』の一節である。露伴は『五重塔』などの作品によって知られた小説家だが、今日では娘の幸田文の方が有名であろう。
露伴の『努力論』は一九一二(明治四十五)年に刊行された。題名を見ると努力することを奨励しているように見えるが、露伴は「一所懸命に努力しよう」と主張しているわけではない。露伴は「人が努力するということは、人としてはなお不純である」、「努力を忘れて努力する、それが真の好いものである」(「初刊自序」、『努力論』改版、二五頁)と述べている。
先の一節は親鸞聖人の御消息から着想を得て書かれたものであるが、その内容は『努力論』の基調ともかかわる。幸田露伴が参照した御消息は次のとおりである。
他力のなかには自力ともうすことはそうろうとききそうらいき。他力のなかにまた他力ともうすことはききそうらわず。他力のなかに自力ともうすことは、雑行雑修・定心念仏・散心念仏とこころにかけられてそうろうひとびとは、他力のなかの自力のひとびとなり。他力のなかにまた他力ともうすことはうけたまわりそうらわず。(聖典五八〇頁)
幸田露伴は、努力を自己目的化することに批判的であった。『努力論』の後半では宇宙全体を貫流する「気」について語られている。露伴は「気」の循環を説きつつ、個人と宇宙との調和した関係を描いている。『努力論』は、その題名とは無関係であるかのような内容を含んでいるのである。
露伴の主張は当時の時代状況とも結びついている。『努力論』は日露戦争と「大正デモクラシー」との間の時期に刊行された。日本は日露戦争以後、西欧列強と肩を並べる存在になった。ひとまず「富国強兵」の理想が実現したかのように見えた時代であるが、人々の生き方も変化していく。人々の視線は、対外関係だけでなく、国内の政治的、経済的不平等に向けられる。ここに「大正デモクラシー」が幕を開ける。
このような時代のなかで「富国強兵」の理想と表裏一体の関係にある「努力」や「立身出世」という生き方も限界に達した。夏目漱石が小説「それから」のなかで描いた「高等遊民」の姿は、「努力」や「立身出世」とは対極の生き方を体現していた。
親鸞聖人の言葉は、「努力」や「立身出世」という生き方が限界に達した時代にあって、この時代の底を流れるものとつながっているように思われる。 
 

 

■51 「よきひと」からのメッセージ
「よきひと」というと、まず『歎異抄』第二章のお言葉が浮かんできます。親鸞聖人は師である法然上人からの言葉を
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」と語られます。
親鸞聖人が「よきひと」とおっしゃったのは、その師の言葉が法然という単なる一個人の言葉ではなく、本願に出遇い念仏申す身となった人の言葉であるという受けとめがあるからです。その言葉の背景には、第十七の本願による脈々と流れ続けている念仏の大行の歴史、そしてその大行に出遇っていった大信(信心)の伝統、すなわち親鸞聖人が『正信念仏偈』に歌いあげられ、顕らかにしてくださった浄土真宗の世界があるのです。
また親鸞聖人の『御消息』(聖典五六四頁)には
「それこそ、この世にとりては、よきひとびとにてもおわします」
というお言葉があります。ここでは、「よきひとびと」の前に置かれている「この世にとりては」という言葉が気がかりになります。「この世にとりては」という言葉で親鸞聖人は何を言おうとされているのでしょう。
「この世」とは文字通り、私たちが人びとと共に現実に生きているこの社会のことでしょう。宗教が歴史的社会的現実に対してどう関わるべきなのか、宗教と政治の関係性、それはいつの時代においても大きなテーマです。聖徳太子の政治の背景には、『十七条憲法』に象徴されるように仏教精神がありました。対外的にも中国や朝鮮半島の国々と平和外交を展開されました。今日の安倍首相の国内外への政治姿勢には大いに危うさを感じている者の一人ですが、その姿勢の背景にも彼の思想と宗教観があるのでしょう。
御消息のこの言葉は、聖覚のお書き物を勧められる言葉に続いて述べられたものです。聖覚の書かれた『唯信鈔』は、一二二一年の承久の乱直後に書かれたものですが、その大混乱については一切触れられていません。にもかかわらず親鸞は「この世にとりては、よきひとびと」と言われるのです。聖覚も親鸞もこの世の現実を無視されたのでしょうか、決してそうではないでしょう。
親鸞聖人がこの世の現実にどのように向かい合おうとされたのか、その真意をくみ取ることは容易ではありませんが、真宗門徒はそれを見出し歩もうと努力してきました。真宗教団のこれまでの歴史的な歩みは、その苦闘の足跡とも言えるのではないでしょうか。
同朋会運動の中で蓬茨祖運先生は大きな仕事をされた方ですが、「僧伽と還相」という講義(聞思の人・蓬茨祖運集上)で、
「教団僧伽というものは人であると言いたい気持ちがする。…念仏によって人間が自己を本当に回復できる。…そこから本当の僧伽をつくっていく。そのつくり方は、どこかに場所を求めていくのではなく、その人自身がなっていくのではないかと思う」(一〇九頁)
と語っておられます。蓬茨先生のお仕事の背景にあるものが何か、そのことがいま想われます。 

■52 在家止住
蓮如上人の
「末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは」(聖典八三二頁)
で始まる「御文」は誰もがよく聞き、日常的にも親しんでいる。上人は第十八願の念仏往生の誓願を簡潔に述べられているのが主旨である。
この中にある「在家止住」の文言に筆者は心がひかれる。我々は滝にうたれ、山にこもるなど修行をしなくて、家庭生活を営みながら仏道を歩み、仏心を聞けるからである。いわゆる修行は特別な人ができるのであり、一般職業に従事している人は不可能に近い。
また、在家・家庭生活を営む中で、人間関係や周辺環境、あるいは怒りやおごりに接し、悩んだり苦しんだりする。罪業や我執を感得するのも家庭生活の中からではないだろうか。もちろん、楽しみや喜びも家庭生活や出会いの中から、わかちあえることが多い。
そのようなことを考えると、宗祖の家庭生活はどのようであっただろうかと推測する。宗祖は自らの私的なことは語っておられない。であるから、「恵信尼文書」や覚信尼の行状から推察せざるをえない。
宗祖と恵信尼との結婚の時期は従来より諸説がある。また最近、梅原猛氏が「玉日」との結婚も背定的に論じておられる(「芸術新潮」二〇一四年三月号)。
少なくとも越後時代は家庭をもっておられたことは確かである。越後での宗祖の具体的な生活基盤・実態などは明確にできないが、承元五年(一二一一)宗祖三十九歳の時、息男信蓮房が誕生している。いわば「子育て」をしながらの日暮らしであられた。また、越後の厳しい寒さ、自然の恵み、温かい人の心、人間同士の醜さ、漁業、狩猟にたずさわる人々などの風景を眼前にされ、肌で感じられたことと推察できよう。
また、「恵信尼文書」にある、宗祖が高熱の病気、恵信尼が夢でみられた夫婦の会話などから、あらためて宗祖の教えを多視的に求めようと筆者は考える。
覚信尼は宗祖五十二歳の時、関東で誕生され、宗祖が帰洛後、命終されるまで側におられた。宗祖命終の十年後、覚信尼は再婚された小野宮禅念の土地に大谷廟堂を建立された。
特筆すべきことは、廟堂・御真影・敷地すべてを、覚信尼が宗祖の門徒、墓所に寄進したことである。所領拡大に精根をむける当時の一般的風潮の中で、覚信尼は廟堂等を門徒共有にしたのである。それは廟堂が永遠に維持・相続されることを願いとされたからであろう。
覚信尼が常に宗祖の身近におられ、「同朋精神」を自ずと身につけてこられた結果でもあろう。家族や宗祖の門弟方との何気無い会話や「うしろ姿」をみて育たれ、体得された覚信尼の人柄・真宗精神の行状としても考えられるのではないだろうか。 

■53 相手の話を聞く
以前、本山・同朋会館に、
人間を尊重するということは、相手の話を最後まで静かに聞くことである。(安田理深師)
ということばが掲げられていた。全国から奉仕団や研修会等で上山される方々が聞法し、様々な話を交わす。 そんな場において、ことさらに味わいがあることばだと感じたのだが、我が身に問えば「相手の話を最後まで静かに聞く」ことが容易ならないといつも思い知らされている。
先日、原発事故による被災が今なお続いている福島を訪れた。地元の方々にお話を伺うと、震災当時のことや、今も苦しんでおられる状況を色々とお話しくださった。涙ながらに話をされる姿などに触れると、私に何かできることはないのだろうかという思いを改めて持つ。しかしそこで印象的だったのは、こちらからお願いしてお話しいただいた方々の多くが、「話を聞いてくださってありがとうございました」と口々におっしゃったことであった。
「話を聞いてくれる人がまだいる。そう思えるだけで明日からもうちょっとだけがんばってみようかな、という気持ちになります」。そう言われたとき、今の原発の問題を外から眺め、「どうしたらいいか」「私は何をすべきか」ということばかりを考えていた私には、「まずは私たちの話を聞いてください」と叱られたように感じられ、はっとした。それがいつでも自分のところだけで「どうすべきか」と考えていて、「相手の話を聞く」ことが抜け落ちる私の姿である。
このことは心がけ一つで劇的に変われるような根の浅いものではないと思う。表向きは静かにしていたとしても、心の中では黙っていないようなものを抱えていて、耳を傾けても私はせいぜい自分の都合でしか人の話を聞けない。
蓮如上人が、聞法において、
一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり(『蓮如上人御一代記聞書』一三七条 聖典八七九頁)
と指摘されている。このことを私は、「法を得手に聞いてはいけない」とおっしゃったのではなく、「得手にしか聞けないことを知らされていく大切さ」を説かれているのだといただいている。 そのはたらきこそが聞法の場が持っている座の功徳であると教えられているのではないか。談合することでしか、自分の「得手に聞く」姿には気づいていけない。 「よく聞き、談合する」ということは、自分の聞かせてもらったところを語ることでもあるし、「相手の話を最後まで静かに聞く」ことでもある。だれもが得手にしか聞けない者として、 「一人では聞法はできない」ということをはっきりされたのが蓮如上人のことばであったのだと思う。
共にたずねる人があることが在り難いことであり、「相手の話を最後まで静かに聞くこと」は、他人を尊重することに留まらず、自身の歩みを大切にしていくことに重なっている。

■54 東国伝道八〇〇年
東国とは、古くは京都より東の地方を指し、やがて関東・東北の国々を意味した。四十一歳の親鸞聖人が上野国「さぬき」(群馬)に至ったのは建保二(一二一四)年とされ、「浄土三部経千部読誦」の逸話が妻恵信尼によって伝えられている。すると、本年は聖人の東国伝道開始より八〇〇年目に当たる。この春、教学研究所「真宗の歴史研究班」は、この地域の風土と歴史を直に感じ、今後の研究の糧とするため、主に茨城県の笠間から常陸太田を中心とした関東御旧跡を参拝した。
茨城県は三年前の東日本大震災において、県内全域で震度5弱以上の本震と同規模の余震を観測し、北茨城市などの沿岸部は最大六・九mの津波に遭い、原発災害の影響を受けた。特に笠間など八市は震度六強の烈震であり、現在も残る震災の傷跡を目にすると今さらながら被害の大きさに気づかされた。
この地域に伝わる浄土真宗の歴史が、聖人とその門弟たちの伝道を始原とすることに変わりはないが、それに加えて、この始原を受け伝えてきた真宗門徒の歴史についての関心が、特に震災以降高まってきたように思われる。それは、江戸時代後期に北陸地方から北関東に移住し、飢饉などの災害によって荒廃した村々の復興へ力を尽くしたとされる「真宗移民」の歴史についてである。
現在の笠間から水戸へかけての一帯には聖人の東国伝道を偲び、また真宗移民の記憶を伝える寺院が点在する。聖人の稲田草庵跡とされる西念寺は
「かの国(加賀藩領)にあふれる民俗を引き入れ、荒田を開発せしめ風儀をここに移さば」(「入百姓発端之記」)
と記した移民史料を伝え、近接する林照寺は移民門徒による本堂再建の逸話と「蓮如上人四幅絵伝」を伝えている。真宗移民は単なる移民労働者ではなく、真宗門徒としての生活文化を持ち込むことが期待されていたのである。
また門弟唯信を開基とする宍戸の唯信寺は、十九代唯定の時代に西念寺と共に北陸門徒より移民を募り、入植門徒の子孫は現在でも唯信寺門徒の七割を占めるという。いずれも文化文政年間(一八〇〇年代前半)のことである。農民など庶民の移動が厳しく制限されていた当時、移民たちは関東旧跡巡拝を口実に北陸を離れたとされ、同寺本堂に掲げられる当時の通行許可証である「往来切手の事」からは苦難の歴史が偲ばれる。
今回、私は御旧跡を訪ねながら、移民門徒の歩んだ道をたどっているような想いに駆られた。一説に移民門徒は更に東国を進み、やがて福島県浜通り北部の旧相馬中村藩領(相双地方)に到達した。聖人五五〇回忌の年(一八一一)のことである。聖人が志した東国伝道は後世の真宗門徒によって受け継がれ、この地に浄土真宗が根づいていった。現在、東電の原発災害が続く仙台教区浜組相双地域では、震災復興が実現する世界を共に考える場として「相馬親鸞教室」を開催し、真宗移民の歴史を学んでいる。 

■55 直感すること
将棋の世界に羽生善治さんという天才がいる。デビュー以来、数々の記録を打ち立て、獲得したタイトルは八十を超える(歴代一位)。さる五月には通算八度目の名人位に返り咲き、四十三歳になった今も現役トップの棋士だ。羽生名人は著書のなかで自身の棋風について次のように語る。
これまで公式戦で千局以上の将棋を指してきて、一局の中で、直感によってパッと一目見て「これが一番いいだろう」と閃いた手のほぼ七割は、正しい選択をしている。
直感力は、それまでにいろいろ経験し、培ってきたことが脳の無意識の領域に詰まっており、それが浮かびあがってくるものだ。まったくの偶然に、何もないところからパッと思い浮かぶものではない。(『決断力』角川書店)
また、学問の世界には島薗進さんという多才な学者がいる。元東京大学教授(現上智大学グリーフケア研究所所長)で、宗教学、近代日本宗教史、死生学を専門とし、さまざまな社会問題に対して提言を行うオールラウンダーだ。昨年の日本生命倫理学会では、原発放射線被曝問題に関するシンポジウムで発題し、そのなかで学問に取り組む自身のスタンスをおおよそ次のように語った。
私は実践的・フィールド的な感覚を好んで研究をしてきました。ここがおかしいというところをついていけば、大事なものが出てくるであろうということです。
島薗さんも直感を大切にしていることが分かる。「ここがおかしい」というこの直感は、幅広い知識に裏付けされたものだからこそ、そこを掘り下げていけば「大事なものが出てくる」のであろう。
宗祖親鸞聖人もこのような直感力の持ち主だったのではなかろうか。法然上人に出遇ったとき、宗祖は次のように直感したと私は想像する。
―この人は本当のことを語っている―
二十年におよぶ比叡山での学びと苦悩が深かった分、それはとてつもなく研ぎ澄まされた直感だったであろう。そして、この直感は宗祖の強靱な聞思によって確かめられていき、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり(聖典六二七頁)
という信念となった。
また本願の教えとして『教行信証』に体系化された。
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。(聖典四○○頁)
そのような視点であらためてこの大書を拝読したい。その上で、今度は頭を真っ白にした状態で拝読し、宗祖のおこころを直感してみたい。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
真宗大谷派東本願寺・真宗の教え

 

 
 

 

■人は死んだらどうなるの?
人は死んだらゴミになるといった人がいます。いかにも唯物的な考え方ですね。事実はゴミではなく、灰になるのでしょう。灰は事実で、ゴミは一つの価値観です。ゴミは無用なもの、不必要なモノの代名詞です。人間の最後がゴミならば、人間の存在はゴミへの途中でしょうか。
それにしても、なぜ私たちは「人は死んだらどうなるのか」と問うのでしょうか。おそらく、それは私たちがどこから来てどこに行くのかがわからない、その存在の不安からおきているのでしょう。それは来た先と行き先を問いながら、実は、現在の自分を問うているのです。
現在ただ今の自分がわからない、その迷いが「人は死んだらどうなるのか」と死後を問わせるのです。インドに古くからある輪廻(りんね)の考え方は、そういう問いに、霊魂不滅の立場から、生まれ変わり死に変わりする人間の在り方を示すものです。それは、死後のよき再生を願って、いまの不幸を耐えて来世のために頑張りなさいと教えます。
日本においては、人は死んだら霊となり、その霊となった死者に対して、生者が慰霊・鎮魂・祭祀をしないと、死者に祟られ、災いをもたらされると考えられています。それはこの世の吉凶禍福がすべて霊の支配下にあるとする考え方です。
インドの輪廻の思想も、日本の霊の宗教も、いずれの場合も、この現在の矛盾と不正と過ちを作り上げてきた私たち自身の愚かさに目を向けることを妨(さまた)げています。それに対して浄土真宗の教えは、我は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」、我が世は「火宅無常(かたくむじょう)の世界」であると、どこまでも過去を背負い、未来をはらむ自分のこの「現在」をごまかさず問うものであります。
そのような自分の「現在」を問わないで「人は死んだらどうなるのか」と考えることは、私たちを出口のない路(みち)に迷わせ、神秘的な世界に惑わすこととなるだけでしょう。 

■真宗にとって供養とは?
宗教の形でいえば、供養ほど、私たちの身近なものはないでしょう。法事・法要にお墓参り、先祖供養に水子供養、さらには針供養に人形供養、全部ひっくるめて供養という名で、私たちの宗教的行為が語られています。
それだけではなく、若い人たちまでもがテレビの影響なのでしょうか。心霊写真などと称した霊のたたりに恐怖して、「供養してもらわないと」と思わず口に出す今日このごろの状態です。
一体全体、供養とは何でしょうか。もともと供養とは、「食物や衣服を仏法僧の三宝に供給する」ことを意味しています。決して、亡くなった人から祟られたりすることのないようにと願って供養するなどということはないのです。
それがいつの間にか、供養が祟りと災いから、自分の身を守るための道具にされてきたのです。それは、私たち自身が仏教を利用して自分の欲望を満足させようとしてきた結果であります。
供養は、仏さまの大いなる世界を私がいただいたことの表現です。それが、死者を供養しないと私が祟られる、私に災いが起こる、だから供養しなければならないと、供養が自分の欲望を満足させる道具になっていることが問題なのです。
そうではなくて、供養とは、「仏法僧の三宝」として現されている真実の世界に対してなされるものです。本当に尊敬されるべき世界、本当に大切にされるべき世界を見いだすことです。それは自分を中心にして生きているものが、自他平等のいのちを現す仏さまの世界に、われもひとも共に生きることのできる世界を見いだすことです。その感動が供養の形をとるのです。 

■南無阿弥陀仏って何?
仏さまに手をあわせるときに、心に何か思い浮かべますか。口に何か言いますか。それとも何も思わない。何も言わない。ただ習慣として手をあわせているだ けですか。どうでしょうか。
たとえば、こんなことはないですか。仏さまに手をあわせて、病気を治してもらいたい。お金をたくさんもらいたい。いい暮らしがしてみたい。幸せになりたい。そして最後に、何か言わないとカッコもつかないので、そこで「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」とお念仏を称えたことないですか。
もしあれば、そういうお念仏は、自分の都合を満足させるために、私の根性で仏さまを念ずる私の念仏です。それはどれほど一生懸命に称えようと、私による人間の行(ぎょう)であります。この私が問題になることはありません。
それに対して、親鸞聖人が法然上人をとおして、我が身にいただかれたお念仏は、それとは全く反対に、仏さまが私を念ずる、仏さまの行です。仏さまの呼びかけです。親鸞聖人は「大」の一字を加えて大行(だいぎょう)と表しています。仏さまの大いなるおはたらきと言ってもいいでしょう。
つまりお念仏は、あらゆることを自分中心にしてしか考えない私たちに、仏さまが「それでいいのか」と問うてくださる呼びかけです。人を踏みつけ、傷つけ、時として殺しあって、人間であることを見失っている私たちに、人間であることを回復せしめる根源のことばです。
私たちが南無阿弥陀仏と念仏申すときは、仏さまが私を呼びかけてくださるときです。お念仏は、人間を見捨てない仏さまの願いが、まさしく南無阿弥陀仏の言葉となって、私たちにまで届けられた仏さまの名告りなのです。決して、私たちの欲望を満足させる呪文ではありません。 

■いま浄土とは…
浄土は仏さまの世界です。その仏さまの世界に生まれることが私たちにとっての救いです。それが真宗の基本的な教えです。浄土とは、安楽国とも安養国ともいわれる阿弥陀如来の国土です。私たち人間の生きる世界になぞらえて国土として現されています。
人間の救いがなぜ国土として、つまり、浄土として現されているのでしょうか。それは私たちの救いが、個人的な私一人の心の安らぎにとどまらないからです。もちろん、私たちの心が落ち着き、心が安らかになることは大事なことでしょう。
しかし、人間の救いということになりますと、ただ単に私一人の心が安らぐことでは本当の救いになりません。あらゆる人々と共に安らぐことが成り立たないと、私たちは救われないのです。
なぜなら、人間は、文字どおり、人と人との間柄を生きる存在だからです。私たちは関係を生きています。世界とともにある存在です。他者とともに生きる存在です。
ですから、私たちが日々感じる喜びも悲しみも、それはかかわりの中で起きる感情であります。生活をともにする相手が悲しんでいるときに、私ひとりが喜べますか。悲しいはずです。それが人間を生きることの具体的な姿です。
そのような私たちの生きることの現実が、真宗が浄土をもって人間の救いを明らかにしてきた根本的な理由です。浄土とは阿弥陀経に「倶会一処(くえいっしょ)」(ともに一つ世界に生きる)とあります。あなたも私もともに生きることのできる世界です。
それは、決して私たちが普通に考えているような死後の世界としての「あの世」ではありません。また、ユートピアとしての理想郷でもありません。それは、人間を見失ったものに人間を回復させる仏さまの世界なのです。
そういう人間回復の大地としての浄土こそが、人を傷つけ踏みつけてやまない私たちの誰もが、何よりもいただかなければならない世界なのです。 

■亡き人を縁として
「五代前の先祖がたたっていますよ」と言われると、ドキッとする人は多いかもしれません。しかし、「亡くなったお母さんがたたっていますよ」と言われれ ばどうでしょう。ほとんどの人は、「私のお母さんはそんな人ではありません」と怒り出すのではないでしょうか。つまり、先祖が迷っているとか、祟っているというのは、亡くなった人のことをはっきりと受け止められていない私たちの心のすき間につけ込んでくるものなのです。そして、ほとんどの場合、それにはお金がからんでいます。
亡くなった人は、すでに喜怒哀楽はありません。ですから、お内仏(仏壇)に何々を供えろと言うことはありません。また言うことをきかないと化けて出るぞということも言いません。にもかかわらず、生きている私たちの方が、亡くなった人をどうにかしないといけないと勝手に思いはからっているのです。
それは、一見すると亡くなった人を大切にしているようですが、実は自分の人生を守ってもらいたいという気持ちや、災いが自分におよぶことを恐れる気持ちからきていることが多いのではないでしょうか。お祓(はら)いなどが流行るのもこのためです。
亡くなった人は、自らの身をもって、人は必ず命を終えていかねばならないということを教えてくれています。限りある人生をどのように生きるのかと呼びかけているのです。近しい人の死は、特にこのことを感じさせられます。亡き人と向き合うことにより、私たちは初めて自分の人生についてよく考えることができるのです。
お墓参りに出かけるのも、法事を勤めるのも、それは亡くなった人の生き方に思いをはせ、自分の生き方を見つめ直す大切な機会なのです。 

■お経に遇う
お坊さんが「ニョーゼーガーモン、イチジーブツ」と読んでいる声だけを聞いていると、お経には訳のわからないことが書かれているように思うかもしれません。しかし、お経には迷い苦しみを越えていく釈尊の教えが説かれています。いわば釈尊からのメッセージが詰まっているのです。ですから、お経を読むということは、本来は釈尊の教えに出遇うことなのです。
ところが、私たちは自分が迷いの人生を送っているとは、日ごろ思っていません。そのため、自分がお経に出遇う必要があるとは感じておらず、他人事のよう に考えています。亡くなった人にお経を読んであげないといけないというのも、そのあらわれです。亡くなった人がお経を聞いているかどうかを、確かめたことがないにもかかわらずです。
ましてや、お経をお坊さんだけに読ませて、自分は聞くこともなく済ませているのであれば、それは亡くなった人を大事にしているのではありません。単に自分がすっきりしたいだけの気やすめにすぎません。お経はどこまでも、私たちに対する呼びかけであるというのが大事な点です。
たとえば、親鸞聖人が真実の教と仰いだ『大無量寿経』には、次のような言葉があります。
「吉凶禍福(きっきょうかふく)、競(きそ)いておのおの之(これ)を作(な)す。一(ひとり)も怪しむものなきなり。」
これは、吉凶や禍福にとらわれている人間の姿を教えようとする釈尊の言葉です。自分に都合の良いことばかりを追い求め、お互いに競い合い、しかも自分のしていることを正しいと信じ込んで怪しむこともない生き方が見据えられています。
日ごろは疑ったこともない自分の生き方を見つめ直すこと、これがお経との出遇いによって始まるのです。この意味で、お経は私たちの生き方を照らし出すものだといえます。 

■朱印をしない理由
そんなに古い歴史をもつわけではありませんが、参拝した記念に朱印を押してくれるところが数多くあります。寺の名前や仏教の言葉などが添えられる場合もあります。
回ったお寺の数だけ朱印が増えていくことは楽しみでありましょう。また、八十八箇所とか三十三所というように決められた場所をすべて回ったときには、何らかの達成感があることもわかります。
でも、ちょっと待ってください。お寺とは朱印を集めるためにお参りするところなのでしょうか。それならば、一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはないでしょう。大事なのはお参りしたことがあるかどうかではなくて、お参りして教えに出遇(あ)ったかどうかです。また、どんな教えに出遇ったかということであるはずです。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、師の法然上人との出遇いをとおして、生涯を「ただ念仏」の教えに生きられた方です。それは念仏を称える時、どんな者も 決して見捨てることのない仏の世界が、いつでも憶い出されてくるからでした。逆の言い方をすれば、貪(むさぼ)りや憎しみの心に翻弄(ほんろう)されて、何が大切であるかをすぐに見失っていく自分であることをよく知っておられたからでした。
私たちはどうでしょうか。一度お参りしたから大丈夫とか、教えはこの前に聞いたからもう聞かなくてもいい、などといえるでしょうか。さまざまな問題が次々と起こってくる状況の中で、何を本当の拠(よ)りどころとして生きていくかが、いよいよ問われてきているのが現代です。お寺を回ったというような達成感に腰を落ち着けてしまうのではなく、教えを聞き続けようと立ち上がる必要があるのではないでしょうか。 

■お守りを持たない理由
どこの神社でもお守りは売られていますし、お寺でも置いていないところの方が珍しいくらいです。形もさまざまで、昔からのお札(ふだ)、かばんなどにぶらさげるもの、またかわいいシールになっているものまであります。
効力にもいろいろあって、合格祈願や恋愛成就などの願いごとをかなえるためのもの。交通安全や家内安全といった無事を祈るもの。また、厄除けや病気平癒など嫌なことの消滅を願うもの、などなど。
しかし、本当に効力があると思っている人はどれだけいるでしょうか。願ったとおりにならなかったからといって、お守りを買った先を訴えたという話を聞くことはあまりありません。お守りが気休めでしかないことを実はわかっているのです。わかっていながら、軽い気持ちで、だんだんとはまり込むのです。
たとえば、交通事故にあったのはお守りを忘れたからだとか、商売がうまくいかなくなったのは始めた日が悪かったからだとか、不幸が続くのは名前の画数が悪いからだとか。問題の原因さがしに追われたり、もっと効力のあるお守りをさがし求めたり、振り回されていくのです。
自分にとって良いことを追い求め、都合の悪いことを避けようとする、これは人間の性分といっていいでしょう。しかし、良いことだけを追い求める生き方は、必ず悪いことを恐れるようになります。そして悪いことが続くと、自分の人生までも呪ったりするのです。
どのような状況に投げ出されたとしても、自分の人生は誰とも代わることはできません。しかし、それは同時に誰とも代わる必要のない人生なのです。お守りをもたないということは、良し悪しを越えて、現実と向き合っていこうとする生き方の表現なのです。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺・法話

 

東本願寺の法統
念仏の教え
浄土真宗の御開山親鸞聖人(1172〜1262)は、平安時代の終わりに京都で生を受けられ、幼くして両親と死別されました。9歳の時、青蓮院門跡慈圓和尚のもとで頭を丸め出家され僧侶となられました。その後20年比叡山で厳しい修行をなされましたが、ついに世の人々を真に救いうる教えが何であるかを悟ることはできませんでした。 源平の争乱が長引き、京の町も荒れ果てて、多くの人々が苦しみ迷っていたのです。「叡山での修行では、御仏の光を見つけることができないし、ましてや迷える人々に救いの手をさしのべることもできない」と親鸞聖人は思われ、山をおりる決心をされました。その後、聖徳太子を奉安した六角堂での夢告もあり、新たな教えと出会うこととなるのでした。その頃京都では法然上人(1133〜1212)がお念仏の教えを広めておられました。 お念仏の教えを聞きに法然上人のもとを訪ねられた親鸞聖人は、まるで雷に打たれたようにショックを受けたのです。この法然上人のもとで、親鸞聖人は本願他力のお念仏の教えを、あたかも乾いた大地に雨がしみていくように吸収されました。 親鸞聖人は法然上人にお会いできたことを心から喜ばれたのでありますが、その後訪れる悲劇をこの時、一体誰が知っていたでしょうか。
立教開宗
法然上人の念仏の教えが盛んになってきたことを快く思っていない人たちの陰謀によって、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後に流され(1207)離ればなれにさせられてしまいました。親鸞聖人は深い悲しみに沈まれましたが、法然上人に教えていただいたお念仏の教えを越後の国でも広めようと思い立たれたのでした。遠く離ればなれになった法然上人のお心に通じるだけでなく、当時の都から離れたところに仏法を弘め人々を救うことが、阿弥陀如来の願いであると思われたのです。その後、流罪を赦された(1211)親鸞聖人は一刻も早く法然上人と再会しようと、雪深い北陸路をさけ雪解けの早い関東から一路京都を目指されました。その途中法然上人がお亡くなりになったという訃報を受けた親鸞聖人は、法然上人と再会できないならば、京都へは戻らず関東の地で布教をしようとお考えになり、稲田を中心に布教を始められました。瞬く間にお念仏の教えは関東一円に広まっていきました。この頃親鸞聖人は浄土真宗の根本聖典である『教行信証』を著されました。その年(1224)を以て浄土真宗では立教開宗の年としてしています。その後、関東から京都へ戻られた親鸞聖人は多くの著書を作られ、九十歳で御浄土に還られました。
本願寺開創
親鸞聖人がお亡くなりになった後、末娘の覚信尼公が親鸞聖人の御骨を京都の大谷というところに御堂を建てて埋葬されました。これを大谷本廟といいます。その後、親鸞聖人の御弟子の唯円(1222〜1289)という方が聖人のみ教えが正しく伝わっていないことを嘆かれ、『歎異抄』という書物で、その異義を正されました。時は流れ親鸞聖人の曾孫の覚如上人(1270〜1351)の時代になると、真宗念仏のみ教えは日本中に広まりましたが、その一方で様々な異義もまた現れました。このような状況の中で覚如上人はお念仏の教えの純粋性を高らかに主張され、大谷本廟を本願寺と改められ、親鸞聖人よりの本流はここ本願寺にあるとし、本願寺を中心として真宗教団全体としての統一を目指されました。しかし当時の各地の御門徒は覚如上人の純粋にして高潔高邁な理想が理解できず、本願寺に参詣する人もまばらとなり、本願寺は衰退の道をたどるのです。そう、ある人物の登場までは・・・・。
中興の偉業
参詣する人もない寒々とした状態の大谷の本願寺の一隅で産声が上がりました。御一代で本願寺教団を日本一にされた蓮如上人(1415〜1499)の御誕生です。幼くして御生母と生き別れられた蓮如上人は大変な御苦労と御苦学の末、親鸞聖人御一流の御法義を修められました。この結果、み教えは、上人の人格の高みを感じさせながらも誰にでもわかるやさしいものとなったのです。父、存如上人の後を受け42歳で本願寺住職となられた蓮如上人が、近江地方に布教にまわられるとお念仏の教えは、りょう原の火のごとく瞬く間に当時の民衆にひろがり、大谷の本願寺には参詣者が引きも切らず訪れるようになりました。しかし、あまりにも爆発的にその教えが広まったために他の宗派から反感を買い、様々な迫害を受けるようにもなりました。そしてとうとう比叡山の衆徒により大谷の本願寺は跡形もなく破壊されてしまったのです。これを「大谷破却」といいます。けれどもこんな事では蓮如上人の布教への情熱を止めることはできませんでした。親鸞聖人の御真影を南近江にお移しし、今度はお念仏のみ教えを簡潔にまとめた『御文』(おふみ)というお手紙を数多く書かれたのです。それが蓮如上人に代わって四方八方に広がって、お念仏の声が各地に轟くようになったのです。しかし蓮如上人の活躍を快く思わない人たちから様々な妨害を受けるようになり、蓮如上人は争いを避け布教の新天地を求るため一路北を目指し旅立たれたのでした。
本願寺再建
北陸に入られた蓮如上人は吉崎というところに落ち着かれ、北陸の人々に布教されました。 するとわずか一年で近くの越前・加賀は言うに及ばず奥州・出羽にまでお念仏の教えが弘まって、蓮如上人に会いたいという人々で吉崎は大変な賑わいとなり、大谷の本願寺以上の参詣者が集まるようになりました。けれども、蓮如上人は南近江に預けたままになっている親鸞聖人の御真影を御安置する本堂を建てたいと思い続けておられました。その思いを実現するため北陸の地を離れ、京都の隣、山科の地に本願寺を再建し御真影をお迎えしました。その年の親鸞聖人の御命日には盛大な報恩講をお勤めし、お念仏の声高らかに大勢の御同行と一緒に本願寺の再建を親鸞聖人に御報告されました。やっと念願の本願寺再建を果たされた蓮如上人は関西の各地を布教に歩かれ、所々に坊舎をお建てになりました。中でも大阪の石山というところに隠居所として建てられた坊舎は、後に荒れ狂う歴史の荒波に飲み込まれることとなるのです。そう、天下大乱の足音はもうすぐそこまで迫っていたのです。
争乱の足音
応仁の乱に端を発した天下の暗雲は日本全土を覆い尽くし、本願寺もそれと無縁ではいられなくなりました。このころの本願寺は蓮如上人の曾孫の證如上人(1516〜1554)の時代でした。證如上人はわずか五歳で父圓如上人と死別され、そして祖父實如上人がお亡くなりになり、十歳で本願寺を背負うという大変な御苦労をされました。しかし御苦労はそれだけではとどまらず、あろうことか蓮如上人と御同行が心血を注いで建立された山科本願寺は、他宗徒と近江の大名六角氏に攻められ、紅蓮の炎に包まれてしまったのです。證如上人は大阪石山の坊舎に移り、そこを本願寺と定められました。これが有名な「石山本願寺」です。世の乱れはますます勢いを増し、本願寺の歴史に大きな爪痕を刻み込むこととなるのです。
戦国の世
顕如上人(1543〜1592)の時代はまさに戦国時代。織田信長が猛威を振るい各地で戦が絶えませんでした。本願寺とていつ信長に襲われるか分からない緊迫した中で、顕如上人は布教活動をなさっておられました。ついに本願寺にまでも信長の魔の手が伸びてきました。信長は本願寺を見て、一方的に「ここに城を築くので本願寺を移転せよ」と顕如上人に伝えてきたのです。当然のことながら顕如上人はこれを頑なに拒否されました。蓮如上人が築かれた法城を再度失うことは思いもよらぬことです。これに激怒した信長は本願寺を武力で攻めてきましたが、顕如上人は御門徒にこの事態を説明し、よくこれを防がれました。これが歴史の教科書などでお馴染みの、十一年間の長きにわたり繰り広げられた『石山合戦』なのです。あまりの長期にわたる戦に、時の天皇陛下が和議に立たれたので、長引けば犠牲者が多くでるばかりであると考えられた顕如上人は、信長に石山本願寺を明け渡し、紀州鷺森に移られる御決心をなさいました。しかし、当時新門であられた長男教如上人(1558〜1614)は、信長の過去の行為から講和後の奇襲も予想されるとお考えになられて、徹底抗戦の構えを崩されませんでした。が、再度朝廷より和議の命を受け鷺森に退かれました。ついに蓮如上人御苦心の石山本願寺は信長の手に渡ってしまったのです。顕如上人が鷺森を本願寺とし再興なさろうとしていた矢先、教如上人の予見通り、信長は家臣の丹羽長秀に鷺森襲撃を命じました。しかし命運が尽きたのは、信長の方だったのです。そのときちょうど本能寺の変が起こり、顕如上人も鷺森本願寺も難を逃れました。その後、顕如上人は貝塚、天満と移られ、その都度本願寺の寺基も移り変わりました。そして豊臣秀吉から京都七条堀川の地に十万余坪の土地を寄進され、顕如上人はそこに移られ、本願寺の寺基もまたその地に移されたのでした。戦国の世も終わりに近づき天下太平の槌音が聞こえて参りましたが、この直後に思いもよらぬ出来事が起こるのです。
東西分立
戦国の世も終わりに近づき、顕如上人は長男教如上人と共に京都堀川の本願寺に移られました。その翌年(1592)顕如上人が御浄土に御還りになり、教如上人が本願寺を継職され、親鸞聖人御一流の御法義はより一層諸国に弘まろうとしていました。ところがその三年後、急に時の天下人豊臣秀吉が介入、教如上人は突如として隠居させられる事となりました。代わりに本願寺を継職されたのは三男の准如上人というお方です。教如上人は時流を読むのに長けた方でしたので、秀吉は、日本最大の教団に教如上人がおられるのを恐れたのです。さらに時は流れ、いつしか天下の趨勢は徳川家康の手に落ちていました。家康は京都七条烏丸に寺基を寄進し本願寺を建て、隠居されていた教如上人を招きました。時の天皇陛下の勅許を賜り、教如上人はこの本願寺に入ることとなりました。ここに本願寺は二つに分かれ、その位置から准如上人の堀川七条にある本願寺を西本願寺といい、教如上人の烏丸七条にある本願寺を東本願寺と称するようになったのです。統治能力に優れた家康は、本願寺を東西に分かつことによって、本願寺の力を二分し、幕府の基礎を安泰ならしめたのです。ここで私たちが覚えていなければならないことは、親鸞聖人御一流の御法義に食い違いが生じて東西に分かれたのではないということです。
昭和の法難
激動の現代にあって、親鸞聖人の法統を受け継がれたのは二十四代闡如上人(1903〜1993)でした。闡如上人は、終戦後荒廃していた人々の心に、親鸞聖人の御教えにより、広く救済の手を差し伸べられました。特に、大谷智子御裏方と共に、大谷楽苑を設立し、仏教音楽を通じて戦後日本の文化的復興に尽されて、その御感化は遠く海外にまで及びました。多くの人々が教化を受けて闡如上人の下に集い、親鸞聖人七百回忌(1961)、並びに蓮如上人の四百五十回忌(1949)の法要も盛大に行われました。蓮如上人四百五十回忌の法要では、京都東本願寺の参詣者だけでも50万人を超えました。しかし、この一見順風満帆に見えた東本願寺にも、世界の東西冷戦という時代の影響が、暗い影を落とし始めていたのです。1969年本願寺と包括関係にあった真宗大谷派内部から、当時の反体制革命思想等の影響を受けた僧侶(宗政家)達に煽動され、教義を根底から覆し、親鸞聖人から続いた法統を廃絶しようとする反乱が起きました。闡如上人は本願寺の法統を守るために、真宗大谷派との包括関係を解き、京都の本願寺を独立させようとされました。そして全国の別院末寺にも独立をするよう命を下されたのでした。それを受けて闡如上人の長男の興如上人(1925〜1999)は、自身が住職をされている東京本願寺の独立を進められたのでした。 が、悲しきかな1981年改革派は、700年の法統を廃絶するように、宗憲を変更してしまいました。ここに真宗大谷派は、従来の東本願寺とは全く異なった宗教団体へと変質してしまったのです。そればかりか、1987年「宗本一体」の実現という名目で、京都の本願寺を法的に閉鎖消滅させてしまいました。けれども、御仏の光はどんな時代にも、真に信仰ある人々を見捨てません。希望は残ったのです。
真の法統
東京本願寺は、1981年6月15日東京都知事の認証を得て大谷派からの独立を達成しました。けれども1987年京都の宗教法人本願寺が閉鎖解散し、法主・住職・法統ともに全て消滅してしまいました。700年に及ぶ法統が断絶するというこの危機に、興如上人(1925〜1999)は深く歎き悲しまれます。そして念仏三昧のなか阿弥陀如来の願いを憶念され、「これを逆縁として、自ら法統を継承せよ」との御冥意を受けられます。1988年2月29日、興如上人は「今こそこの御冥意を直ちに具現せねばならない」との使命責務を痛感され、 阿弥陀如来の尊前で、東本願寺第二十五世を継承されました。同時に、東京本願寺を本山とし、全国独立寺院の数百ヶ寺とともに「浄土真宗東本願寺派」を結成されました。 ここに、親鸞聖人から受け継がれた法統は、浄土真宗東本願寺派本山・東京本願寺において継承されたのです。興如上人は、御開山親鸞聖人を始め歴代御法主の御真骨を茨城県牛久市に移し、高さ120メートルの阿弥陀大仏が立っておられる、東京本願寺の施設「牛久アケイディア」の一角に、「東京本願寺本廟」を建てられ、全国の門信徒の心のよりどころとされたのであります。
法統伝承
御開山親鸞聖人から連綿として受け継がれて参りました東本願寺の美しい伝統は、1999年に遷化された興如上人の後を受け、そのご長男聞如上人(1965〜)へと受け継がれました。平成13年(2001)、21世紀の最初の年に賑々しく東本願寺第26世 大谷光見法主 傳燈式が挙行されました。
− 名称変更のお知らせ − 本山東京本願寺の寺院規則の変更が平成13年4月26日付で認証され、名称が「東京本願寺」より「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」に変更となりました。これによって、名実ともに東本願寺の正しき法統を受け継ぐ本山として、御開山親鸞聖人立教開宗の御精神に基づき、御歴代上人のお心を体し、御法主台下のお導きのもとに和合の僧伽として、多くの御同行御同朋の方々と共に、新たなる一歩を踏み出すこととなりました。
関東における歴史
光瑞寺開創
1591年、教如上人は江戸神田に江戸御坊光瑞寺を開創。江戸における本願寺の録所(教務所・出張所)となる。一説には1603年の開創ともいわれる。
1609年、同じ神田域内で更に広い土地へ移転。俗に「神田明神下」といわれる場所がそれであるが、神田明神は1616年に同所へ移転したので、正確には神田筋違橋外というべきか。
1614年教如上人遷化後、光瑞寺は掛所(別院)となる。
補足:1621年、江戸浅草御堂(築地本願寺)が創建。この頃から東西分立が本格化。1622〜24年、本願寺末刹・輪番所となる。
浅草へ移転
神田明神下においては、慶長16年(1612)、寛永9年(1632)、そして明暦3年(1657)と、度々火災に見舞われた。特に明暦の大火により、江戸市中ことごとく焼失、死者10万人以上。この頃、東本願寺は14世琢如上人の時代。
明暦の大火以後、幕府は「築地か浅草か好きな方を選べ」とし、東本願寺は浅草を選び堂宇を建立。浅草本願寺時代が始まる。ちなみに江戸浅草御坊は築地へ移転し現在に至る。
大正時代から昭和へ
大正12年9月1日、関東大震災が発生。地震には耐えたが、火災で焼失。
昭和9年11月26日、定礎式を挙行し、本堂再建が始まる。
コンクリート杭を480本打ち込んで基礎を造り、昭和11年には闡如上人御親修のもと、上棟式が行われ、同14年に遷仏法要が厳修された。しかし、第二次大戦末期の昭和20年3月、空襲により被災し、本堂内部は全焼したが、外郭は鉄筋コンクリートのため残った。
東京本願寺へ改称
昭和40年04月、宗祖700回御遠忌が厳修され、同年5月に浅草本願寺の名称を東京本願寺に変更する認証が下りた。翌年、大谷光暢法主のご長男、大谷光紹師が住職に就任した。
昭和48年5月3〜5日 立教開宗750年、親鸞聖人御誕生800年慶讃法要
昭和56年6月15日 大谷派との包括関係を廃止
昭和63年2月29日 東本願寺派結成 25世興如上人、法統伝承を宣言
平成05年4月13日 24世闡如上人遷化
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺へ改称
平成10年 蓮如上人500回御遠忌を厳修
平成11年12月24日 25世興如上人遷化
平成13年04月26日 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺の名称が文化庁より認証される
平成13年06月01日 第26世聞如上人傳燈式・奉告法要が厳修され、現在に至る  
 
 

 

■1 落ちるまんまで、落とさんぞ
仏教とは知識だけで救われるものではないというお話です。
美濃の国(今の岐阜県)に、あるお婆さんがおりました。このお婆さんは、大変な物知りでございました。読み書きさえ出来ないお婆さんでありましたけれども、お参りしている時には、一言も聞き漏らすまいと、命がけに聞いているものですから何時の間にか、お文さまであろうとお説教で聞いた事は、すべて頭へ覚えておりました。
そのようなお婆さんでありますから、周りの方々から褒め讃えられたお婆さんでありましたけれども、ふとした病が元で、明日をもしれんという身になってからは、今までの喜びはどこへやら、一変いたしまして「地獄へ落ちる。地獄へ落ちる」と七転八倒の苦しみを始めました。
そのような苦しむお婆さんをなんとかしてあげたいと思う実の娘さんは京都の本願寺まで香樹院御講師に教えを聞きに行かれました。そこで香樹院御講師に母のことを伝え、助けを求めましたところ香樹院御講師は「自分勝手に、地獄へ落ちるというならば仕方が無いなあ。残念ながら落といてしまえよ」と申されました。これを聞かされた娘さんは悲しみのあまりその場で泣き崩れてしまいました。堪えきれない心のまま帰路に着こうとしたその時、香樹院御講師に呼び止められると「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。凡夫じゃもんの。地獄へ落ちるは今更の事ではないぞ。石の自性は、沈むのが石の自性なら凡夫の自性は落ちるのが凡夫の自性でないか。その落ちるに間違いのないそのものを、落ちるまんまで、落とさんぞと呼んでくださいますところの御勅命じゃが、それでも自分勝手に落ちるつもりかいや」と阿弥陀さまの慈愛のこころを頂いたのでございます。
その言葉を聞いた娘さんは寛喜の涙に咽び入りながら、母の元へと急いで帰り、母へ香樹院御講師の御言葉を涙ながらにそのまま伝えましたところ、この親思うところの娘の一念と、大悲の親の、「助け救わにゃあおかんぞ」のこの一念とが見事に一つになって、お婆さんの胸のどん底へと到り届きましてついに、しぶといところのお婆さんもやがて、御恩の称名、喜びながら、めでたく浄土往生を遂げられました。 

■2 当たり前のことにこそ
世の中には、自分と年齢も生活環境も趣味も全く違った実に多様な人々がいます。私は東京に住み始めてから、新しい出会いがとても増えました。最近は特に年上の方に出会う機会が多いのですが、やはりそういう方々は、いろいろな面で手本となることが多く、私がまだまだ未熟なのだと気付かされる毎日であります。
その知り合いの中に、とても旅行が好きで、特に海外旅行には週末を利用して頻繁に出かけているという方がいます。その方に海外の話をよく聞かせてもらうのですが、「海外に行くと自分がいかに幸せな生活を送っているのかということを思い知らされる。今の自分の生活に感謝しなくてはならない」と聞いた話が特に印象に残っています。
私は、毎日本堂で報恩感謝のお念仏を称えているつもりでいましたが、この話を聞いた時、自分には感謝の気持ちが足りないのではないのかと、ふと疑問が浮かびました。なぜなら、話を聞いて始めに思い浮かんだ気持ちが、改めて感謝を感じる体験ということを自分は最近まったく経験していない、と羨んでしまったからです。何も特別な体験だけが感謝に繋がるわけではありません。毎日の何気ない生活、朝起きて、ご飯を食べて、仕事をして帰宅し、夜寝床に就くというような当たり前のことにこそ感謝しなければならないのです。どんな些細な出来事にも感謝の気持ちから南無阿弥陀仏と手が合わさる、ということが大事なのです。先の旅行の話を聞いた時にも南無阿弥陀仏とすぐに手を合わせることができたら良かったなと今になって思います。
善導大師は、南無阿弥陀仏の「南無」というのは「帰命」ということであると説かれています。「帰命」とは、自己中心的な思いに立った生き方をしていた自分が、阿弥陀如来の本願を聞き、うなずかされ、真実なる生命の声にうながされて初めて、阿弥陀如来に全面的に頭が下がるということです。この帰命という言葉の意味をしっかりと心に留めて、どんな時でも感謝の気持ちを忘れず、「ありがとうございます」とお念仏を称える日々を送らせていただきたいものです。 

■3 煩悩に向き合う 不断煩悩得涅槃
私たちは、この世に生を受けた時以来すべからず、一説には八万四千あるともいう煩悩の心を持っているものです。それは死ぬまでなくなりません。その煩悩に身も心も任せすぎると、自分自身を滅ぼしてしまうこともよくあり、それは今も昔も変わりません。
宗祖親鸞聖人がお書きになられた正信偈の中に「不断煩悩得涅槃」という一文があります。煩悩を断たずして、涅槃の境地を得るということです。煩悩を断たずに涅槃を得ると聞くと、自分の好き勝手に欲のまま行動していても、涅槃の境地に至ると考えそうなものですが、そうではないのです。
確かに阿弥陀如来は、煩悩にまみれた人間こそ、一人残らずお浄土に救い取りたいと願い誓われています。しかし煩悩にまみれた生活をしてもよいとは仰っていません。煩悩に身をまかせて生活をするということは、自分があれをしたい、これをしたいと自己中心的な生活となってしまい、他のことを考えなくなってしまいます。とても涅槃の境地に至る状態とは言えないでしょう。阿弥陀如来は知らず知らずのうちに煩悩まかせになっていることをしっかりと自覚して欲しいと願われているのです。私たちはその願いに気づき、煩悩と向き合っていかねばなりません。それが不断煩悩得涅槃につながっていくのではないでしょうか。
仏様の尊前には花瓶・香炉・鶴亀(燭台)の三具足が備えられてます。お供えした花を仏様の方に向けずに私たちの方へ向けるのは、仏様からの回向を表しているからです。お香を焚くのは、良い香りが隅々まで行き渡るように、全ての人々に行き届く仏様の慈悲の姿を表しています。鶴亀の蝋燭は、仏様の知恵を表し、鶴は千年、亀は万年と言うように、長い時間、仏様の大いなる知恵で私たち人間を導いて下さることを表しているのです。いつでもどこでも私たちみんなのことを見守り、手を差し伸べているよとの阿弥陀如来の思いがそこに詰まっているのです。
日々のお仏壇のお給仕も仏様の願いを味わいながら心を込めていたしましょう。 

■4 その人はその人であっていい
今月二日、バンクーバー冬季五輪の選手団が帰国した。各競技とも盛り上がっていたが、特に冬の競技の花形といわれるフィギュアスケートは見応えがあった。氷上を優雅に舞う各選手の姿に、感動を覚えた方々も多いことだろう。
よくメディアに取り上げられる事だが、フィギュアスケートの採点基準は素人目にはわかりづらい。芸術性を求められる競技なので、その基準はスピン、ジャンプ、ステップの出来栄えや難度だけでなく、他にもテーマ曲を正しく表現できているか、さらには選手の衣装までを評価対象としているのである。他の競技がタイムの差や得点といったように明確な判断基準があるのに対して、フィギュアスケートは優劣がつけにくい競技と言われる所以である。
男子では四回転ジャンプを決めた選手が銀メダル、四回転を封印した選手が金メダルだった。両者とも確かにすばらしい演技であったが、これでは四回転という大技の醍醐味が無いようにも思える。失敗する恐れがある大技に果敢に挑む姿勢は評価されるべきではないだろうか。選手それぞれの良さが最大限に尊重される採点とはまた難しいものだと痛感した。
『仏説阿弥陀経』には「地中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光微妙香潔」とある。「極楽浄土の池の中にある蓮華の花には様々な色があり、青い花は青色、黄色い花は黄色、赤い花は赤色、白い花は白い光を放っていて、それらは奥深く高潔なものだ」という意味である。青い花が黄色や赤色の光を出す必要はない。青い花は青いままでいい、人はそれぞれ顔も形も違うけれども、その人はその人であっていい。別の誰かになる必要はないのだ。
「参加することに意味がある」とは五輪精神であるが、競技である以上、順位がつき優劣が決まる。メダルを取った選手もいれば、予選で敗退してしまった選手もいる。だが、どの選手にもそれぞれの輝きがある。五輪という晴れ舞台で力を尽くしてきた選手たちを笑顔で迎え、讃えたいものである。 

■5 心に罪深き鬼を飼っていないか
先日のテレビ放送で、普通の人間では難しい海の中での緻密な作業において評価が高く、それまでにも世界各国で数々の潜水作業の仕事をしてきた潜水士のドキュメンタリーが流された。その中に、その潜水士が以前に橋を建築した場所へ潜る機会があった時に見た海底の姿は、橋を建築した当初の海藻が生い茂る海の姿ではなく、見渡す限り一面岩だらけという、まるで砂漠のような海の姿に変わっていたという話があった。
これについて、その潜水士は、橋の建造によって影響を受けた海流が起こした海水温の変化、またそれにともない、その海流が運んでいた栄養となる物質も欠如した事などが原因として考えられると分析していた。そして、その事実を目の当たりにしたとき、一流の技術を持つ潜水士として今まで自分のしてきた行動が、地球規模でみて一流の自然破壊者でもあったということに気づかされ、自分の行動に初めて罪の意識が生まれたという。それからは海を再生するために、ボランティアとして様々な活動をし、失われ続ける自然と向かい合いあうようになったと話されていた。
このように、人間にとっては良いことをしているつもりでも、自然にとっては大変迷惑なことをしている場合が、実は私たち一人一人にも例外なくあるものです。知らず知らずのうちのことなので、それと気づかず日々を過ごしてしまいがちですが、それに気づかされることによって、自分がそんなことをしていたなんて思いもよりませんでした、お恥ずかしい限りです、と自分の言動を改めることができます。
自分が気づかないうちに行ってしまった悪いことには、悪いことをしたという意識がありません。ですから悔いることもありません。言い換えれば、後悔しなければ、人は悪いとも感じないとも言えるでしょう。自分が悪いと気づいていないことは大変恐ろしいことではないでしょうか。今月、豆まきがありますが、心に罪深き鬼を飼っていないか、今一度自らを振り返ってみてはいかがでしょう。 

■6 私たちを包む暖かい光
年も改まり、また気持ちを新たに仏さまのみ前で襟を正してこれから一年を過ごさせて頂きたいと思います。寒くなった気候とも相まって、身が引き締まるとはこの事でしょう。
寒さが厳しくなると、日なたと日陰では過ごしやすさが違います。暖かい日の光があるからこそ、日中はいくらか暖かいものです。もしこの光がなければ、毎日つねに暗くて寒い中、生きていかねばなりません。なんと過ごしにくいことでしょうか。太陽がなければ次に来る春もなく、もちろん昼夜もなく、毎日が真冬の夜中のような状態なのかもしれません。太陽の光の暖かみ、ありがたみを実感できる良い季節だと感じます。
「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と『観無量寿経』に説かれております。阿弥陀様の光はあらゆる方向の世界を照らしてくださっています。また十二の光にも例えられて、無碍光と讃えられる光はさまたげられる事がありません。すなわち、日陰がないのです。さらに炎王光と讃えられ、最高の輝きを持つ光。不断光とも讃えられ、絶えることなく常に照らしてくださる光でもあります。また超日月光とも讃えられ、日の光や月の光とは比べられない光です。私たちはなんとありがたい光を受けて一日を送らせていただいているのでしょうか。
太陽の光は暖かくとてもありがたいものですが、それでも日陰が出来てしまいます。ですが、その日陰ですら照らしてくださるのが阿弥陀様の光なのです。深い悩みや迷いの闇の中という内面の日陰でただ身震いをするのではなく、すでに暖かい仏さまの光が私たちを包んでいるのです。その暖かさに私たちは気付かねばなりません。お念仏を称える私たちを迎え入れて、決して見放すことがない。それが阿弥陀様という仏さまなのです。
ただ日々を寒い寒いと言って過ごすだけでなく、阿弥陀様の暖かい光のありがたさ。そのような光に出会わせていただいた、ご縁のありがたさ。寒い日々ではありますが、皆様心も体も暖かくしてお過ごしください。 

■7 本当の価値
私たちはたくさんの人や物に支えられて生かされています。
以前、私の家の近くのご住職が草刈をしていたところ、足を虫にかまれてひどくはれ上がり、動くのも困難になるということがありました。その方の、「足が動かないことが、どれだけ不便なのかということと、こういう怪我をしてみて初めて足が動くありがたさと、家族のありがたみを感じました」という言葉を聞いて、私は深く頷かせられました。今の世の中、物が溢れている状態が当たり前になっています。またスイッチ一つで結構なんでもできてしまうので手助けをあまり必要としません。何とはなしに生活していると気づかないものですが、このご住職のように当たり前だったものが当たり前でなくなったときに、はたと気づかせていただくのです。
本願寺第八世・蓮如上人は、廊下を歩かれていた際、落ちていた紙切れを拾い上げ、「仏法領の物を、あだにするかや」と仰り、その紙切れを両手で押し戴かれたそうです。
紙切れを頂くというのは、ただ物としての紙切れを拝むということではありません。その紙一枚を製造するに当たっても、自然の恵みや人の技術が必要であり、表面上だけでなく、それらも含めて紙切れ一枚の本当の価値となるのです。たかが紙切れ一枚ではない、仏様からの頂き物なのだ、何事も粗末にしてはいけない、と蓮如上人は説いて下さっているのです。
人間というものは現状にはなかなか満足せず、さらに上へ上へと考えてしまうものです。この欲望には限りが無く、次から次へと物を手に入れようとします。先にも書きましたが、その手に入れた物は、そこにあるのが当たり前の物ではないのです。それらの背後にある本当の価値に目を向けた時に、それが有り難いものなのだと気づくことができるのです。
皆さんも年末の大掃除の際には、ご家庭にある物一つひとつへ感謝の思いをこめて埃を払ってみてはいかがでしょう。
きっと今まで以上に晴れやかな心で新年を迎えることができるのではないでしょうか。 

■8 ほんの一瞬
街中の紅葉も深まり、カメラを片手に街中を散策に出かけた時のことでした。何気なくシャッターを切ったときピントがずれていたことに気付き、もう一度同じ場所を撮ろうとしましたが、そこには先ほどと同じものはありませんでした。同じ場所、同じ背景ですけれど、風になびく木々の揺れの違いや、街中を走る車や人達など、そこには同じものは存在していませんでした。
最近は、日本のアニメーションが海外でも大変人気があり、日本の文化を代表するものの一つとして認知されてきています。ご承知の通り、このアニメーションというのは、セル画という静止画が元になっています。一枚一枚のセル画には人物や背景が描かれていますが、ちょっとずつ姿勢やものを動かしたようにしてあり、それが何枚も繋ぎ合わされて一つの動画アニメになっているのです。
私たちの日常生活を動画として考えるならば、写真を撮るというのは生活の中から一枚の静止画を切り取る作業と言えるでしょう。ただその一枚はほんの一瞬です。その一瞬が過ぎれば、違う一枚になっていくのです。
日本各地で色鮮やかな紅葉の季節が訪れていますが、やがて冬が訪れると枯れ落ちるのが自然の流れです。しかし、色づいた紅葉のように、いつまでも若く綺麗でありたいというのは誰しもが望んでいることかもしれませんが、この世に存在するものは一瞬一瞬の刹那に変化しているのであり、その刹那ごとに生じては滅し、滅しては生じて続いていくのが事実です。
だからといってそのことに失望し、刹那的に生きなさいということではありません。むしろその一瞬一瞬を大切にして欲しい、二度と戻らないその瞬間の意味を深く考えて欲しいというのが仏様の願いです。一瞬が一時間になり、一日、一週間、一月、一年と積み重なって私たちの生活が営まれ、いのちが続いていくのです。一瞬一瞬を生かされていることに気付くこと、これはとても大切なことなのです。 

■9 十円玉の数とお念仏の数
先日、お盆に実家へ帰省した際、古い友人から、一つの昔話を聞いた。それは、その友人が以前に会社の旅行で海外へ行ったときの話で、空港で家族が見送ってくれた際に、おばあちゃんが出発の前に意外なモノを手渡してくれたという。その意外なモノとは、両手いっぱいの十円玉だった。そして「何か困ったことがあったらいつでも電話しなさいよ」と、おばあちゃんから言われたそうだ。そこまで言って少し笑ったあと、友人は「やさしいおばあちゃんでしょ」と言った。
それを聞いた私は、国際電話は高いから「十円玉ではいくら入れても足りないだろう」とか、「海外では十円玉を使うことのできる公衆電話はないだろう」などと多少ナナメから話しを聞いていた。
しかし、"その十円玉の数に見合うほどおばあちゃんは孫を心配し、大事に想っているのだ"というふうに肯いてみると、忙しい毎日の生活の中でついつい忘れているさまざまな事に気づかされ、また、そのようなたくさんの思いやりや支えの上に私たちの人生が成り立っているのだと、自分を見つめ直すことのできる、よい機会となった。
また、よく門徒の方から、お念仏は何回唱えたらいいですか?と聞かれることがあるが、"数に規定や、いつどこで合掌しなければいけないという指定はない"と答えると、不思議そうな顔をされる事がある。
先に書いた十円玉の数とお念仏の数は、心配と喜びの数ともいえるのではないだろうか。何枚でも、親の心配と御恩の数だけ渡したくなるものであり、これをお念仏に置き換えると何回でも唱えずにはいれなくなくなるものといえるだろう。
日常生活において、そのように考えることが自然とできた時、今、なんとなく唱えなければいけないと思い称えているお念仏が、阿弥陀仏の勧める南無阿弥陀仏という報恩感謝のお念仏に置き換わるのではないか、と思う。
私もまた、たくさんの支えによって、今をいただいていることに改めて感動し、人生をお念仏と共に生かさせていただこうと思えてくる。 

■10 たかが夢?
皆様は、夢をどのように考えるでしょうか。私は最近よく夢を見るのですが、目が覚めると、「夢を見た」ことは覚えていますが、その内容まで鮮明に覚えていることはあまりありません。
世の中には、「夢は観念の作用であり、疲れた意識の乱舞であって、何の実在性も真実性もない幻だ」と言い切る人もいますが、夢の中でも現実の生活そのものであり、全く変わったところがないという経験をされた方もいるのではないでしょうか。
しかし夢は、事実として厳然たる実在性をもって、夢の中の私たちを苦しめ、悩ませ、驚かせ、悲しませ、ややもすれば覚めた後の私たちの生活にまで、大きな影響を与えることがあります。
例えば、ある日見た夢が正夢になった、逆夢になったということもあるでしょう。また今まで神社仏閣に参ったことがない人が、生々しい恐ろしい事故に遭った夢を見て飛び起きた朝などは、急に参拝したくなったということもあるかもしれません。夢には不可思議とも思える神秘性があるようにも思えますが、心理学などでもいまだ全容が解明されていないのが現実です。
御開山親鸞聖人は、夢を多く見られた方であったとされています。そして、自らが見た夢を夢告であるとされました。なぜなら、聖人が何かに悩み苦しんでいるときに必ず夢を見たからです。比叡山の六角堂で救世観音よりこの夢告を得て、山を下り師匠の法然上人の門下に入った聖人は、山での仏道修行に限界を感じていられたのです。聖人の夢告には、救世観音や如意輪観音があらわれましたが、聖人はそれを仏様からのおはからいと受け取ったのでしょう。
私たちが何気なく見ている夢ですが、その夢も全て、もしかしたら凡夫に向けての阿弥陀さまのおはからいかもしれません。この無意識から働きかけてくる夢を、たかが夢と終わらせるのではなく、必然的にご縁を頂いて見ているのだと頂くのも興味深いと思います。 
 

 

■11 後世へ伝えること
近年若者の宗教離れが深刻であると言われ続けていますが、はたしてその原因はどこにあるのか、またそれは事実なのでしょうか。
多くの人が情報源とするマスコミの影響は決して少なくなく、世間で騒がれた事件を起こした一部のカルト教団などによって、宗教にマイナスのイメージが植え付けられてしまったのが実際であり、若者の宗教離れを加速させる原因の一つともいえるかもしれません。
しかし全てがそうというわけでもなく、例えば正月の初詣や盂蘭盆会でのお墓参り、寺院観光には多くの方々が参詣に訪れていますし、アクセサリーとしての腕輪念珠をする若者もたくさんいます。意識するしないは別にして、宗教に本当に無関心な訳ではないように見えます。
以前ある寺院で、誰に言われたわけでもなく被っていた帽子を脱ぎしっかりと一礼や合掌をしたり、通りがかるお坊さんの挨拶に声を出して返していたりする若者の姿を多く見ました。逆に、挨拶を返さなかったり帽子を脱がないなど配慮に欠ける様子が、逆に年配の方に多く見受けられました。
過去、現在、未来と時間の流れる中で命を頂いている私たち。先人の方々が良いお手本を示してこそ、輝ける未来社会へと進んでいけるのではないでしょうか。しかしながら、核家族化が進み、地域社会も崩壊している現代社会においては世代間で伝えられてきたことが、なかなか伝えられなくなっています。こうしたことも宗教離れの一因ともいえますが、だからこそ今、一人ひとりが自分を見つめ直し、自分が両親、祖父母から伝えられてきた真宗の作法、お念仏の有り難さを今一度思い出し、子や孫へはもちろんのこと、より多くの方々へ伝えていくことが何より重要な勤めであり、また自分たちのお念仏の実践へとも繋がっていくのです。
南無阿弥陀仏と手を合わせ感謝のお念仏を称える、その姿をしっかりと後世へ伝えることは、仏様から託されたとても大切な自分の役割なのです。 

■12 子猫が一匹
ある日のことでした。本願寺の倉庫から猫の鳴き声が聞こえてきたのです。倉庫の中を見てみると、子猫が一匹。しかし鳴き声は複数で、他にもいるようでした。親猫らしき姿は周囲に見あたりません。食べ物の無い倉庫で、親猫ともはぐれ、やせ細りながら、親猫を探す呼び声を発していたのです。
何とかして助けてあげたいと思ってゆっくり近づいて、そっと手を伸ばすものの、親猫でないものが近づくとビックリするのか、子猫は逃げていきます。物の多い倉庫の中、小さい子猫たちが相手では鬼ごっこにもなりません。小さな隙間に入られては、私の手では届かないのです。何とかしてあげたいが、倉庫から出してあげるにはどうしたらいいだろうか、またその後子猫たちが安心して暮らす場所はあるだろうかなどと考えているうちに時間ばかりが過ぎていきました。
結局、倉庫にいた都合三匹の子猫を無事に助けることができましたが、子猫と鬼ごっこをするうちに、ふと気づきました。仏さまからみれば、私はこの子猫と変わらない存在なのです。仏さまの私を救うために立てられた願い、そして私を救おうと伸ばしてくださっている手、それらを信じられずに逃げ回っていたのではと。ただ仏さまを信じて疑わず、その手にゆだねてしまえばよいのに、それができない私だったのです。
生まれたばかりの赤ちゃんが母親をしたって頼りにし、やがて「ママ」と呼ぶようになるのは、母親が慈愛をこめて何度も何度も「ママですよ」と名乗り、呼び続けているからです。私の方から仏さまにお助け下さいとてを伸ばしているより前に、実は先に仏さまの方から、お前を救うぞと手を差し伸べて下さっているのです。
浄土真宗の仏さまである阿弥陀さまは、私たちを救う手立てと、私たちのいずれ行き着く極楽浄土を、五劫という長い間考えられたのです。そしてさらに長い間修行なされて、私を今救おうとしてくださっているのです。子猫は、私にその事を教えてくれたのでした。 

■13 「一期一会」
「一期一会」という言葉があります。これは、江戸時代の末期に幕府の大老と なった井伊直弼の言葉であり、著書である「茶湯一会集」という茶道の心得書の 中に出てきます。
一般的にこの「一期一会」を、物や人との一つ一つの出会いを大切にするとい うニュアンスで使っている人が多いと思われますが、別に間違いではありません 。しかし、この言葉にはもっと奥深い意味があるのです。
私たちの出会いには喜怒哀楽のいろいろな出会いがあると思います。その中で 、一期一会と思える出会いとはどんなものかと問われたら、強く記憶に残るよう な特別な出会いが思い浮かぶのではないでしょうか。ですが、それだけが大切な 出会いではなく、普段の私たちの生活を含めた全てが大切にすべき出会いなので す。私たちがほぼ毎日のように会っている人たちとの出会いもこの「一期一会」 に含まれているのです。
この「一期一会」は始めに述べたように茶道の言葉です。茶道では、毎回同じ 主人がお茶を入れ、同じお客がそれをいただくということは珍しいことではあり ません。そういったくり返しの連続であっても「一期一会」なのです。なぜなら 、各人はもとより、一切のものが時間と空間によって変化しているからです。そ のため、茶道ではこの一回の茶会が一生で一度の出会いと説くのです。その事を お互いに心得ているからこそ主人と客人が万事に心を配り、誠意をもってお互い に最善を尽くすのであり、ここから「一期一会」という言葉が生まれてきたので す。ですから、私たちの日々の生活においても決して同じ出会いはなく、どれも が一生に一度の出会いなのです。
私たちの命は「無常」の中に生かされているのです。生かされるためには多くの出会いがあってはじめて成立しているのだという事をしっかりと理解し、「一 期一会」を大切にしたいものです。 

■14 モノサシ
昔、三河に篤信な妙好人の老夫婦が住んでいました。その夫はある晩、吹き荒れたすさまじい東風によって家の戸が立てるガタガタという音で目を覚まします。すると、当時、京都にあった御本山(本願寺)の伽藍が気になり、すかさず横に寝ていました奥さんを起こします。「この嵐では御本山さまが心配じゃ。今から嵐を止めに参ろう」と。
そして老夫婦は話し合い、家にある出来るだけ大きな風呂敷を探し出して、凍える様な嵐の中、家の裏にある小高い丘に登ります。二人は風呂敷の四隅をしっかり持ち広げ、「なんまんだぶ、なんまんだぶ。これで少しでも風が弱くなれば有難いのぉ」「本当ですね。なんまんだぶ、なんまんだぶ」と冷たい風雨も忘れ、風が弱まるのを待ちました。結局、風が弱まり、老夫婦が家に帰れたのは夜も明けるころでした。
この二人の行動はすぐに村の人々へ伝わりましたが、その村ではこの夫婦に対しての意見が大きく二つに分かれました。一方では、「風呂敷ごときで、あの大風が防げるはずがない。しかも御本山はここから五十里以上も離れた京都にあるのに、なんと馬鹿なことをしたんだろう」と非難する声です。もう一方では、「なんと、この夫婦は有難いのだろうか。私たちも見習わなければならん」と賞賛する声です。
この老夫婦を非難する声はもっともな話でしょう。私たちも「そんなつまらない、役に立たないことをしても無駄じゃないか」とついつい思ってしまいます。それが人間のモノサシであり、現代の多くの人間がこの様なものの考えをしているのかもしれません。しかし、この老夫婦が行ったことは果たして非難されるべき事でしょうか?
この老夫婦が行ったことはたとえ愚かなことであったとしても、この老夫婦の心持ちは大変素晴らしいものであり、この老夫婦とそれを賞賛した人々の心は仏のモノサシといえるでしょう。
この様な人々を素直に賞賛することが出来るでしょうか?知らず知らずのうちに自分だけのモノサシで物事をはかっていませんか? 

■15 明日ありと 思う心の あだ桜
今年も桜の季節がやってきました。この季節を迎えると、我々浄土真宗の僧侶の心には一首の歌が浮かびます。
明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
この歌は、わずか九才の少年が詠んだ歌と言われています。この少年は幼い頃に両親と死に別れ、叔父のもとで生活をしていましたが、世の無常を感じ、僧侶になることを決意しました。そして僧侶になる試験を受けにお寺まで行きましたが、着いたのは日もとっぷり暮れた夜でした。少年が「今からでも試験をして欲しいのですが」と尋ねると、試験官は「今日はもう時間も遅いし、明日に試験をしましょう」と答えました。
それを聞いて少年は冒頭に紹介した歌を詠みました。いま綺麗に咲き誇っている満開の桜も、もし夜に嵐が吹き荒れれば、明日までには全て散ってしまうでしょう。同じように、人の命にも明日があるという保障はありません、と少年は歌にのせて自分の思いを告げたのです。すると試験官はハッと気付かされ、すぐに試験を始めたそうです。少年は見事に合格し、僧侶になりました。この少年こそが浄土真宗の宗祖、親鸞聖人です。
このエピソードは今から約八百年前のことです。この頃と現代とは環境も全く違いますが、「明日もわからぬ人の命」というのは変わることのない事実です。医療が発達して治る病気も増えましたが、それでも病気で亡くなる方は絶えません。また、多くの方々の命を奪う凶悪な事件や悲惨な事故が、毎日どこかで起こっています。
しかし、これらを人ごとだと思い、何をするにも「明日から」とか「明日でいいや」としてしまう人も多いのではないでしょうか。明日には、あなたが当事者になるかもしれないのです。咲き誇っている桜の花を見て「綺麗だな」で終わるのではなく、この歌を思い出し、今を大切に過ごすことが大事なのです。もう一度いいますが、明日を約束されている人などいないのです。 

■16 横載五悪趣
「あ〜した、天気に、なあ〜れ〜。」
懐かしいかけ声にふと振り返ると、空高く小さくも色鮮やかな靴が舞い上がっていた。
そこにいた子供達は、小さな身体を躍動させながら、笑顔をいっぱいに振りまいていた。
今私は、人生の岐路に立っていた。家庭や仕事、幾十もの想いを巡らせながら、どの選択が正解なのかを模索していた。考えても考えても出ない答えを・・。
人が考える正解には、正しい答えは無い。この人にはこの人の、あの人にはあの人の答えがあり、それも人それぞれの主観であり、煩悩渦巻く本性が根底にはある。いつからか笑顔を忘れている自分がいた。そんな自分の心に、子供達のいっぱいの笑顔が太陽のように光輝き、昔持っていた純真な心が呼び覚まされていった。
これはある私小説の下りである。
親鸞聖人が述べておられる「横載五悪趣(おうぜごあくしゅ)」について、大無量寿経では、"横"という字は阿弥陀如来が衆生を必ず救うという願いを表し、"載"という字には切るという意味が、そして"五悪趣"は迷いの世界のことを指していると説かれています。これは、阿弥陀如来が一人も漏らさず迷いの世界の絆を横ざま(本願力)によって断ち切るとおっしゃっておられるということです。
私たち衆生は、「幸せになりたい、健康でいたい」などいろいろな想いを巡らせ、努力したり願ったりしておりますが、それらは全て私たちの煩悩うずまく本性から生まれたものであります。浄土真宗の教えをいただくということは、このような煩悩や迷いの心を断ち切っていただく仏心を頼りとして信じるということですから、信じることは自分で思いたってするのではなく、阿弥陀如来よりいただいたものとなるのです。
子供のような素直で純真な心を今一度思い起こし、仏さまへの報恩感謝の心をいつまでも持ち続けたいものです。 

■17 「恩」
「恩に着せる」「恩に着る」「恩を仇で返す」「恩を売る」など、世の中には「恩」を使う言葉がたくさんありますが、使われ方によって、いい意味だったり悪い意味だったりします。仏教では恩を非常に大切にしており、古来より、人は恩を知り(知恩)、心より感じ(感恩)、それに報いなければいけない(報恩)と説かれています。
恩という字は「因」に「心」と書きます。恩を知ることや、恩を感じることは、私たちの「心に因る」のです。ですから、もし私たちが誰かに親切にされた時、素直な心を持っていれば、その恩に感謝して自然とそれに伴った行動がわき起こってくるものなのです。しかし、私たちはついつい疑いの心を持ち、その好意の裏には何か思惑があるのではないかと勘ぐってしまうことがあります。
江戸時代中期の中根東里という学者が著した書物『東里新談』にこんな言葉があります。「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」(人にモノを送ってお礼を期待するな、人からモノをもらったらすぐにお礼をしなさい)
この、施して報を願うとは、自らの行為を誇り、それによって慢心することと言え、まさに「恩に着せる」事ではないでしょうか。また、受けて恩を忘れずとは、人からもらった恩を、恩と感じて、それに報いようとする行いであり、報恩感謝と言えます。
仏事においても同じ事です。仏様から受けているご恩を、素直に感じて、それに報いようとする事が大切なのです。しかし、誰しもはじめは煩悩による疑いの心があるものです。ましてや仏様のご恩は目に見えないもので、科学万能の現代に育った私たちにはなかなか受け取りづらいものですが、それでも仏様がくださるご恩の深さを知り、心より感じることが出来れば、感謝するお念仏が自然と沸き起こってくるのです。
さまざまな人の思惑が交差する世の中においても、私たちが素直な心でいれば、いろいろな人からたくさんの恩を受けている事に気づき、感謝の日々を送っていけるのではないでしょうか。 

■18 お正月
お正月には、多くの方々が神社・仏閣へ初詣、初参りに行く様子がテレビなどで報道されます。
「今年も一年無事健康で過ごせますように、交通事故に遭いませんように、商売が繁盛しますように、望みの大学に合格しますように、もっとお金が貯まりますように...」
などなど、それぞれに願い事をされたことでしょうが、それらはどうしても自分中心の願い事やお祈り事が多くなってしまうものです。
しかし、どんな願い事にせよ、叶えばとても嬉しいことです。また難しい願いであればあるほど「自分一人の力ではない。神様仏様のお力によるものだ」と感謝の念も湧いてくることでしょう。
ですが、仏様の教えでは、願いが叶わなくても感謝を申し上げなければならないのです。
仏様は、どうしてもみんなに本当の幸せを与えたいと強い願いをもって、常に私たちに目を向け、誰であってもどんなことがあっても区別することなく、平等に働きかけてくださっています。
ですから、願いが叶ったときでも、願いが叶わなくて生きる望みもないというようなときでも、仏様は常に私たちに目を向けて下っているのです。
親鸞さまは「逆縁」といって、自分に都合の悪い出来事に出会ったとしても、それがかえって大切なことに気づかせてくれることもあり、「仏様のお導きであった」と受け取らせていただいています。
例えば、泥棒に入られて大切なものを盗まれたとしても、前述の教えからいくと喜び、感謝申し上げねばならない、となります。
自分には盗まれるだけのものが手元にあった、それだけの財産を持てるということは幸せなことだ、盗まれてみて初めて気づかせていただいた、ありがたい、ということです。
しかしながら、なかなかそのような心情にはなれないのが性です。普通は怒ってしまうでしょうね。
日々の生活の中で、なかなか気づかせていただけないことに、目を向けて欲しいと願われているのが仏様です。
一年の計は元旦にあり。
自分にとって都合の良い願い事、お祈り事ばかりではなく、本来あるべき仏様との関わり方を、今年も一年目指していきたいものであります。 

■19 「命を大切に」
車を運転していると、ふとある標語が目に止まりました。
『命は大切に。交通ルールはしっかり守ろう』
車を運転される方だったら、誰でも運転中にヒヤリとしたことやハッとした経験があるでしょう。車の重量は1tくらいあります。それが40km以上のスピードで走り、道路を行き交っていると考えると恐ろしいですね。車が多く普及している現在、その便利な車によって毎日多くの人の命が失われているのも事実です。命の大切さはみんなわかっていることですが、失われてから気づくのでは遅いのです。今、ここで、私たちが命の大切さを実感していかなければなりません。
お釈迦さまは「人生は苦である」と仰いました。確かに世の中には思い通りにならないことは多く、現代社会では人々のストレスもたまる一方で、「たった一度の人生だから、自分の思い通りに生きなければ損だ」となるのもやむを得ないことです。人生において、自分の役に立つか立たないか、楽か辛いか、などの尺度は必要です。しかし「こんな風に生きれば損だ」「あんな風に生きれば得だ」と、自分の人生を損得で勘定してそれだけで良いのでしょうか。
命に損得はありません。あるとすれば「尊く生きたか」「無駄に生きたか」ではないでしょうか。その基準から見れば、自分の利益になることばかりをし、楽をして生きた結果、ずいぶんと得をした人生だったとしても、自分の人生を無駄に生きたということも充分あり得ます。反対にどのような辛い日々を過ごしたとしても、尊く生きた、真実に生きたということもあり得るはずです。
損したり、思い通りにならなかったことが無駄に生きたということではありません。お釈迦さまも「この世に無駄なものは何一つない」と仰っています。ましてや私たちの命は、多くの命の支えによって成り立っているのです。「自分だけが」という思いを超えていくところに、本当に意味で「命を大切に」していくことになるのではないでしょうか。 

■20 機事あれば、必ず機心あり
ここ十数年の間に、私たちの生活はどんどん変化してきています。特に携帯電話やパソコンの普及によってワープロやEメールなどを使用する機会が増えた反面、自分で文字を書くという機会が減っています。そのせいでしょうか、いざ自分で何か漢字を書く必要があった時に、その漢字が出てこないことがあります。
また現代では、都会になるほど地域社会のつながりは薄く「向こう三軒両隣」の顏や名前は知っているけれどもどんな人かわからないことも多いのではないでしょうか。そんな現代で、人気があるものにインターネットがあります。これは電子機器を使って利用するのですが、ボタン一つで商売や調べ物ができたりと大変便利なものです。さらに、それだけではなく新しい社会としても機能しており、たとえば遠くに住んでいて顏も名前も知らない人と知り合ったり、仲良くなったりすることも可能です。かたや顏や名前は知っていても交流が薄い、かたや顏や名前は知らなくても交流が深い、面白いですがどこか変ですね。こんなねじれが様々な事件や事故を起こしている原因の一つかもしれません。
大谷光紹台下御遺著「弥陀をたのめ」の中で、台下は、中国の昔の書である「荘子」に出てくる「機械あれば、必ず機事あり、機事あれば、必ず機心あり」という言葉を引用されています。台下の御言葉によれば、「機事」というのは機械によって一つの仕事ができる、機械を使う仕事ができる、ことであり、「機心」というのは、機械を使って仕事をしていると、いつの間にか心まで機械のようになってしまう、ということだそうです。
機械や道具を使って仕事をしているうちに、いつの間にか今度は心まで道具に使われてしまっている、そんなことを感じることはないでしょうか。自分の足下をしっかりと見据えて下さい。大きな落とし穴があいているかもしれませんよ。 
 

 

■21 「聞く」
私たちが、わからないことを質問して解決することを「聞く」といいますが、その聞の字が出てくることわざをいくつか探してみましょう。
1. 下問を恥じず 知らずば人に問え
2. 聞くは一時の恥聞かぬは一生の損
3. 聞くは一時の恥聞かぬは末代の恥
4. 聞くはその時の恥聞かざれば一生の恥
5. 問うは当座の恥問わぬは末代の恥
6. 負け惜しみは一生文盲
と、ざっと上げただけでも六つもでてきます。  しかもこれらは全部、自身の疑問をそのままにせず、出来るだけ早く先達にうかがって解決する事の大切さを教えることわざです。
このようにわからない事を質問して解決する事を「聞く」といいますが、大切な教えを享受することも「聞く」と表します。この二つの「聞く」は同じ字ですが同じ意味でしょうか。
わたしたち浄土真宗の御開山聖人の説かれた有名なお言葉に「平生業生」(生きている平生に、往生の業事が完成する)があります。その言葉通りに、今生きているこの世界で往生を決定するには、何よりも阿弥陀様より賜る他力のご信心に気付かせていただかなければなりません。その手段が聞といえるのです。その理由の一つを、仏説阿弥陀経に垣間みることができます。
阿弥陀経は、如是我聞に始まり、聞仏所説 歓喜信受 作禮而去と、聞に始まり聞に終わるなど、その重要さを説かれております。つまり、お経をふまえましても、阿弥陀様から賜る他力のご信心は「聞」つまり聞法が大切ということがみえてきます。  
このように「聞」という字を味わいますと、平生業成を成すために一刻も早くご信心を決定させていだだく大切な手段を表した一文字としてわかってきます。
わたしたちは、自問自答を繰り返しながらそのつど仏法にわが身を照らし合わせることによって私たちの無明の闇が浮かび上がってくるのです。
手を合わせてお念仏を称えさせて頂ける仏恩のありがたさに感謝いたしましょう。 

■22 ありがとう
「孝行したいときには親なし」と言いますが、最近、私は友人に「お前は親孝行しているか?」と聞かれました。その友人は、自分の親に「ありがとう」と言いたくても、恥ずかしさが先に立ち、なかなか言い出せなかったそうです。しかしある時、友人は母親がしていた食事の支度を手伝った際、それまでなかなか言えなかった「お母さん、いつもありがとうね」という言葉をやっとの思いで言ったのです。するとその言葉を聞いた友人の母は、何も言わずにしゃがみこんで号泣されたそうです。
この話を聞いて、今まで親孝行をしてきたのか、一回でも親のために何かをしたのか、と自らを振り返ってみました。しかしよく考えてみると、今まで、私は親が子供のために何かをしてくれるのは「当たり前のことだ」と思っていたので、親のために何かをしたことがほとんど無いことに気づかされました。全く恥ずかしい限りです。
そこで先日、私も両親に感謝に気持ちを伝えよう、まずはそれを親孝行の第一歩にしようとの決意を胸に実家に帰省しました。ですが、やはり友人同様になかなか言い出すことがむずかしく、日にちばかりがどんどん過ぎていきました。帰る前日の夜になって、ようやく母とゆっくりと話せる機会が出来ましたので、「お母さん、今までありがとうね」と言いました。母は「急に何を言っているの。子供が親を頼るのは当たり前のことなんだから、いいんだよ」と言ってくれましたが、感謝の思いを伝えることができて本当に良かったと思いました。
子供の頃は素直にありがとうといえた記憶がありますが、大きくなるに従い、言えなくなっている自分がいます。また今度のことでそんな自分であるということに築かされました。今、伝えなければ、一生言えないかもしれません。私たちの一生は、一瞬一瞬の積み重ねです。一瞬のちの確証がないからこそ、今この一瞬を大切に、今しか出来ないという気持ちで物事にあたる事が大切でしょう。 

■23 避けがたいことを避けがたいと知る
最近の報道を見ますと、嫌な事件のニュースばかりどんどん増えてきています。その中でも、多くなってきたのは、若者による無差別的な犯行です。無差別的、つまり、特に動機はないことが多く、強いてあげるなら人生の苦に対する反発と思えます。何とも身勝手で、自分にしか苦はないと思っているのでしょうか。
釈尊は、「世の常の人々は避けがたいことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は避けがたいことを避けがたいと知るから、このような愚かな悩みを抱くことはない」と説かれました。
人は誰でも老いや病気や死など、どうしても避けがたい事実にいずれ直面するでしょう。その時に、目の前の事実を「避けることの出来ない当たり前のこと」と受け入れることこそ、安らぎの道であると釋尊は説かれているのです。
そもそも苦しみや悩みというのは、物事が自分の思い通りにならないところに生まれるものですから、自分の思い通りにならないのならば、その思いを変えれば良いのではないでしょうか。
「人間万事塞翁が馬」という故事成語があります。
『准南子(人間訓)によると、塞に住む翁の馬が逃げてしまったが、その馬が北方の駿馬を率いて戻ってきました。喜んで翁の息子がその馬に乗ったのですが、落馬をして足の骨を折ってしまいました。しかし、そのおかげで戦士にならず命長らえたそうです。』
これは、世の吉凶・禍福(わざわいとしあわせ)は転変常なく何が幸で何が不幸か予測しがたいという喩えです。
「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざもあります が、その幸も楽も、不幸も苦も基準があるわけではなく自分の思いが幸か不幸か決めるものです。
苦しみから逃れるのが宗教ではなく、その苦しみに出会ったときに、物事を正しく見ていかに対応するかという「柔和忍辱」の心を養うのが仏教なのです。 

■24 「見ざる・言わざる・聞かざる」
昔からよく『口は災いのもと』と言いますね。自分の失言はもちろんのこと、相手に良かれと思った一言が、相手の気分を害したり、嫌な気持ちにさせてしまった、ということは、誰しも一度は経験したことがあるでしょう。
皆さん鏡で自分の顔を見てください。言うまでもなく目は二つ耳も二つ、鼻も二つあるけれども、口は一つです。世界文化遺産である日光東照宮に「見ざる・言わざる・聞かざる」の有名な三猿の彫刻があります。「見ざる・聞かざる」が、二つある目や耳を両手で押さえるのはわかりますが、一つしかない口を押さえている「言わざる」も片手ではなく両手で押さえています。それぐらいしないと口というものは押さえられないのかもしれません。
『十悪』という仏様の教えがあります。これは「殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴」の十個の悪業を指しますが、その中に、嘘をつくという意味の妄語、二枚舌を使うという意味の両舌、悪い言葉という意味の悪口、かざりことばという意味の綺語と、実に口に関することが四つもあるのです。どうやら人という生き物は少なからず噂話やお喋りが好きであり、ついつい「一を聞いて十を知る」ではなく「一を聞いて十を話す」くらいになってしまうようです。仏教では、聞くということをとても大切にしています。聞く耳をしっかりと持ち、二つを聞いて一つを喋るくらいの生活を心がけなさい、という仏様のお諭しではないでしょうか。
人と人が心を通じ合わせるためには、会話がとても大事です。会話せずとも以心伝心といけば最高ですが、なかなかそうはいかないものです。最近では、電子メールなどによる文字での会話も多いようですが、話し言葉にせよ、文字にせよ、その一言、一文字が人と人とを繋ぐ大切なご縁を育んでいくものとなるのですから、日頃より和顔愛語(穏やかな顔で優しい言葉を話す)の気持ちで接していくことを心がけたいですね。 

■25 敬い、思いやり、感謝の心
親鸞様は、歎異抄で「私は亡き父や母を供養するために念仏したことは一度もありません」と仰っております。これは亡き方々を敬わなくていいと仰っているのではありません。親鸞様は、いくら親のことを思って「どうか成仏できますように」とか「あの世で幸せに暮らせますように」と祈ったところで、自分にそんな力なんか無い、と気づかれたのです。もし、私たちにそんな力があれば、迷信に振り回されたりはしないのですが、力がないゆえに信じてしまうのです。それ故に、私たちは「生死の苦海」に溺れているような状態で、むしろ自分たちの足下の方が覚束ないはずなのです。まずはそれに気づかなくてはなりません。またそれに気づいて欲しいと仏様やそのお手伝いをしているご先祖様、親鸞様は願われているのです。
しかし、その声は、なかなか私たちには届きにくいので、仏様やご先祖様は、残されたものたちに、何とか気付かせようと必死に働きかけているのです。お参りもその働きかけの一つなのですが、では「お参りに来たけど、何をすればいいの?」という方もいるでしょう。仏様の教えは、ご縁を大切にして、敬い、思いやり、感謝の心で生活させていただきましょうというものです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、迷信に惑わされ、大量の情報に溺れてしまっていると、なかなかできないことなのかもしれません。何かと忙しい毎日を送っている私たちですが、仏様の前に座り、手を合わせてお参りをすると心静かになるものです。その時には、ぜひ考えてみて下さい。ご縁を大切にしているだろうか。敬い、思いやり、感謝の心を忘れてないだろうか、と。そのように自らを振り返り、それ以降、充実した日々を過ごして欲しいのです。
敬い、思いやり、感謝の心のある生活では、争いごとは起こりません。何かと暗い世情の現代を少しでも明るくしていきたいと仏様はいつでも見守っておいでなのです。 

■26 「つつしむ」
春になると街中のいたる所で新生活応援フェアの文字が躍り、新しい事を始める方も多いことでしょう。また次々と新商品が広告され、発売される季節でもありますので、購買意欲もかき立てられますね。
ご承知の通り、私たちには「欲」がありますから、物が欲しくなってしまうのは仕方のないことです。しかし、それに心を奪われて自分を見失うと、周りが見えなくなって、人に迷惑をかけたり、知らないうちに誰かを傷つけたりしてしまいます。
だからといって、欲が無くなればいい、という訳にもいきません。なぜなら三大欲をはじめとして、私たちの生活は欲の上に成り立っている部分が多いからです。もし無くなってしまったら、私たちの営みもできなくなってしまうかもしれません。ではどのように「欲」と向き合っていくのが良いのでしょうか。
私の好きな言葉に「少欲知足」(大無量寿経)というものがあります。意味は「少しの欲で足りると知る」ということです。百獣の王ライオンは、お腹が満たされているときに、目の前をエサとなる草食動物が通っても襲いません。腹八分が体に良いと言いながら、お腹いっぱいに食べ、更に別腹だといってデザートを食べたりするのは、人間だけなのです。とどまるところを知らない欲に身をまかせるのではなく、「ほどほど」にすることが大事なことなのです、と仏さまは教えて下さっているのです。
古来より日本には「つつしむ」という素晴らしい習慣があります。これを「慎む」と書いた場合は、いきすぎた行動をして身の破滅を招いたりしないように、自らを戒めるという意味になります。また「謹む」と書いた場合は、相手を尊重し、それに応じる気持ちがあるという意味になります。
「欲」に心を奪われれば、道を踏み外しかねない私達の本質を見抜いた仏さまのありがたいお諭しが「少欲知足」です。「つつしみの心」を持って日常生活をおくるということは、仏さまの思いを受け止めて生活することといえるでしょう。 

■27 諸行無常
今年も早いもので厳しかった寒さもやわらいで春のあたたかい風が吹き始め、本山境内の桜も咲き、春を感じさせる季節となりました。
春、夏、秋、冬という四季は順序よくやってきますが、私たちの寿命、人生の終わりというのは、順序とは関係なく誰にでもやってくるものだ、というのは、みなご承知のことだと思います。 しかし私たちは、「死なんて、まだ先のことだ」と、いくつになってもさし迫ったこととは考えていないものですから、「死」は誰にとっても思いがけず、にわかに自分のところにやってくると感じるのです。
「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」という詩がありますが、この世のあらゆる現象は変化して止まないという諸行無常は、三宝印という仏教の大切な教えの一つです。 古来より私たち日本人は諸行無常を日々の生活の中に感じ、心得ながら生きていました。色々なもののはかなさを感じる故に、それらの大切さを大事にしていたのです。 現代は科学が発達し、便利な世の中になっています。スイッチを押せば何でもできるような今では、一つ一つ物事の大切さは感じにくいでしょう。現代ではどこへでかけるにも早く目的地に着くことができます。旅行をするからといって、家族や友人と今生の別れを偲ぶ人はないでしょう。 かつて旅に出るといえば、まさに命がけのこと、今生でもう会えるかどうかわからないほどだったのです。色々なものが便利になった分、時間や物事一つ一つの大切さ、人との出会いのありがたさが薄れてしまっているようです。
仏さまは「今まさにあなたの心は何を感じているの」と常に問いかけて下さっているのです。仏さまと向かい合うということは、自分自身の心と向かい合うということなのです。いつ自分に諸行無常の風が吹くかも知れないというときに、あなたは何を感じ、何をしようとしているのか、その一瞬一瞬が繋がって一時間となり、一日となり、一週間となり、私たちの人生になっていくのです。 

■28 私たちの姿が映る鏡
苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、嫌なことなどがなく、毎日が楽しく、楽に過ごしたいと思うことは誰にでもあることでしょう。
ですが、実際の生活ではなかなかそうはいかないということは誰もがわかっていることです。
仕事でもプライベートでも、同僚・先輩後輩、家族、友人知人とぶつかり合って不平不満が出ることもしばしばですが、だからといって一人きりで生きてゆくことができるかというとどうでしょうか。
やはり周りにいる人々と支え合っているからこそ生きていくことができるのです。
あるテレビ番組で、体の不自由なあるお子さんの人生が紹介されていました。
その子は普段、周りの人たちに助けてもらっているから、何か自分でできることで、他の人の役に立ちたいと考えていました。
そこで思いついたのが、養護施設での人形劇です。友達と一生懸命に練習して発表の日を迎え、見事な劇を披露して施設の方々に喜んでもらえました。その子も役に立てたと満足したようでした。
それからしばらくすると、その子の考えに変化が出てきました。役に立ちたいと頑張って何かをしたけれども、よく考えてみたら、自分が元気に生きているだけでも他の人の喜びになっているんだ、役に立っているんだと。生きていることのすばらしさに気づいたのでしょうね。
いいことも悪いことも、喜びも苦しみも含めて、生きている、更に言えば生かされているということなのです。それが当たり前になってしまい、不平不満ばかりになっていてはそのすばらしさには、なかなか気づきません。
当たり前のことが、本当は当たり前のことではないのだよ、と教えて下さるのがみ仏さまの教えなのです。本当に今のままの自分でいいのかい、今一度振り返ってみたらどうだい、と私たちの姿が映る鏡を目の前に示して下さっているのが仏様です。その鏡に自分の姿を映してみて下さい。どんな姿が映っているでしょうか。本当の姿を知ることで、当たり前なことが当たり前ではなくなり、そのありがたさが感じられてきます。
仏様はいつでも私たちのそばにおいでになり、見守って下さっています。 

■29 帰るべき場所
ある日、道端で土人形と、木の人形が口論をしていました。
木の人形が「おい土人形、お前は一雨降ったら簡単に流れて無くなってしまうではないか? お前はなんと弱いのだ。俺は雨がどれだけ降ろうと大丈夫だ。しかし、お前は雨が降って無くなってしまうのではないかと心が安まるときがないだろう」と自信満々に土人形に言います。
それに対して土人形は「俺はたしかに一雨降ると無くなってしまうもろい存在だ。しかし俺はどれだけ大雨が降っても、ただ故郷の土に帰るだけだ。しかしお前はどうだ。一度大雨が降って流されてしまったら何処にたどり着くかも分からないぞ。」と言いました。(司馬遷著「史記」より)
木の人形は自分が丈夫であるということを頼りにしています。しかし、丈夫さを頼りにしている木の人形も、例えば火の中にくべられてしまいますと、あっという間に燃えて無くなります。逆に土の人形は火に燒かれると、焼き物となり、丈夫になります。しかし、土人形はこの様な反論はしなかったのです。ただ「俺には帰るべき場所がある」とだけ答えているのです。
私達も木の人形のように、若さ、体の丈夫さ、名誉、財産など頼りとしているものが色々とあります。しかしこれらはいつかは失ってしまう、不確かなものです。私達はこの不確かなものを頼りに生きていることで苦しみ、更には、周りの人をも傷つけていることになかなか気づきません。
土の人形は雨が降ってしまうと無くなってしまう、はかない存在ではありますが、帰るべき場所のあることのありがたさ、を教えてくれているのです。旅行に出かけて楽しく遊べるのも、帰ってきてホッとできる自分の家があるからではないですか。あてのない旅路は辛いものです。人生という旅路の、帰る場所はどこでしょう。仏様のお導きによって、いのちの帰る場所であるお浄土へ参らせていただくことが真の安心で、心の拠り所となる、それこそが一番大事なことであると親鸞聖人は説いて下さっておられます。 

■30 「怨憎会苦」
お釈迦さまが教えて下さった八苦の中に、「怨憎会苦」というのがあります。「怨憎会苦」とは、「怨み、憎しみ合うもの」が「会わなければならない」という「苦しみ」です。人生どこにいっても「会いたくない人」と会うものです。地域でも職場でも、顔を見るのもいやな人が、一人や二人はいるものです。そんな時はお釈迦さまの言われることは本当だなと思うのですが、みなさんはどうでしょう。
しかし、よく考えてみますと、「怨み憎しみ合うものが会う」というのも本当ですが、「会ううちに憎しみ合うようになる」ということもあります。初めは、「いい人」だと思っていた人が、一緒にいる間に「いやな人」になるということが私たちには多いのではないでしょうか。嫁姑の関係も最初のうちは自慢の嫁であっても、しばらくすると「いい嫁ですが」となり、最後はお嫁さんの愚痴ばかりとなっていくこともあるように。何も嫁と姑に限ったことではなく、地域でも職場でもあることです。
人間は悲しいことに、人やものの長所を見るよりも、短所の方が先に見えてしまうのです。そして短所が気になりだすと、そこから目が離れなくなり、長所を全く見なくなります。それで「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」のです。そしてお互いに苦しめ苦しむのです。「漢書」に「短を捨て長を取る」という言葉があります。欠点や短所を知ることは大切ですが、それを気にし、そこを責めながら生きる人生は、他を損なうと同時に自分自身を損なう、自損損他の人生です。美点や長所を知って、そこを大切に伸ばすことが、素晴らしい人生を実現する秘訣でしょう。
人間というのは他の人やものの短所を探しだして文句をいうだけでなく、自分の肉体の短所まで探して文句をいうのです。しかしこの肉体が、今、ここにあることの不思議に気づいたら、本当は文句なんか言えないのです。短所ばかり気にしてみている人は、生かされている「いのち」の不思議に気づいていない人なのかも知れません。 
 

 

■31 正しく聞く
広く見聞して知識を蓄えることは、過去を知り未来を知るための備えとなります。人間は常に明日を見つめ、未来を見つめて生きる生きものです。明日を失い、未来を失ったら人間は生きられなくなります。それほど人間にとっては明日が、未来が大切なのです。それなのに、私たちは明日をよく考え、未来をよく見極めて生きているかというとそうではないようです。太陽が昇ってから、その日のことを考え、目の前のことにあわてるということが多いのではないでしょうか。あわてないためにもしっかりと見聞することが大事です。
聞くということは、耳さえ不自由でなかったら、簡単なことのように思っていますが、私たちは、この耳で聞いているようで案外聞いていないのです。私たちは、耳に心地いい言葉や、自分に都合のいい話は聞いていますが、そうでないものは、全く聞いていないということがよくあります。これは見るということに関しても同じようで、私たちの目は自分の都合で、自分の都合のいいようにしかものを見ないようです。
私たちは、きちっと聞いたようでも、間違って聞いたり、自分の都合のいいように聞いていることが多いのです。その証拠に、一つ話を聞いても、人によって聞いているところが違いますし、そして、その受け取りもまちまちです。ご法話を聞く時も同じで、蓮如上人は「蓮如上人御一代記聞書」で
「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり」
と仰ってます。正しく聞くためには、聞いた者同士で、聞いた話を話し合うことです。話し合うことによって、偏った自分の聞き方が修正されます。
また仏教を聞く上で一番大切なことは、どのようなお話でも他人事に聞かないことです。どれほど素晴らしいご法話を聞いても、他人事と聞くならば、それはただテレビのワイドショーで噂話を聞いただけと同じです。自分のことと聞いていく時、ご法話はそのまま自分の仏道となるのです。 

■32 「眼施」
多くの「いのち」に生かされて生きているのが私たちですから、自分の身体も、自分の持ちものも、全て、他の「いのち」によって与えられたものです。よってお釈迦さまは、自分の身体も持ちものも、みんなに施すことを仏道の第一に挙げられているのでしょう。でも分け与えるものを何にも持たない人は、どうしたらいいでしょうか。お釈迦さまは、無財の七施といって、他の人に分け与えるものが何にもない人でも、分け与えるもののあることを教えて下さいました。しかもそれは誰にでもできることであり、日常生活の中で行えることばかりなのです。
その中の一つに「眼施」というのがあります。これは「やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心が和やかになる」ものです。
私たちは、主体性だとか、自主性ということをよく口にしますが、人生は、どのような「まなざし」の中で生きるかによって決まります。「冷たいまなざし」の中で生きると、私たちは知らないうちに冷たい心の人間になってしまいます。「意地の悪いまなざし」を意識し、負けるものか、跳ね返してやると頑張っていると、いつの間にか、頑張っている本人も意地の悪い人間になってしまいます。「眼施」である「やさしいまなざし」の中で生きて、初めて、やさしい心の人間になることができるのです。
ですが世の中、「やさしいまなざし」ばかりではありません。どちらかというと「冷たいまなざし」「意地の悪いまなざし」の方が多いでしょう。だから「冷たいまなざし」「意地の悪いまなざし」の方が気になり、そちらに引っ張られて、自分もつい冷たく、意地悪いまなざしになってしまうのです。人は「まなざし」で人を殺しも、生かしもするのです。
常に「やさしいまなざし」を見失わないように、「やさしいまなざし」の中で生きるように心がけて、「やさしいまなざし」の持ち主になれるのです。見失いそうになったら、仏さまの前に座るのです。仏さまの「やさしいまなざし」の前で、「やさしさ」を取り戻して下さい。 

■33 「心の広さ」
お釈迦さまは、言葉には耳に心地よいものと、そうでないものがあることを教え、耳に心地よい言葉を気持ちよく聞くだけでなく、その反対の言葉も「慈しみの思いを心にたくわえ怒りや憎しみの心をおこさないように」聞いて受け入れる人が「心に広い人」であると教えて下さってます。
私たちはどうしても自分の耳に心地よい言葉だけを聞いて、そうでないものをシャットアウトして聞こうとしません。言葉だけでなく、自分と考えの近い人だけを集め、考えの違う人を排斥したりもします。どちらにしましても、自分の物差しを最優先させ、自分の物差しに合う人だけを集め、自分の物差しに合わない人を非難したり、中傷したり、排斥して、自分の世界を自分で狭めながら生きているようです。
「心の広い、狭い」は、どれだけ自分と異質なものを持っている人を理解し受け入れることができるかによって、決まるのではないでしょうか。自分と異質なものを持った人を排斥し、同質のものだけが集まれば、話もよく合い、気持ちが良いかもしれませんが、視野をだんだん狭め、結局「井の中の蛙」になってしまいます。また、同質のものだけが集まっていると、物事が順調にいっているときは良いのですが、問題が起こったときに困ります。その時には、反対の意見も聞く、異質なものを持った人も大切にしていくという「心の広さ」があれば、良い方向が見出せるはずです。
家庭においても、地域においても、職場においても同じ事がいえるでしょう。お互いが異なるものを持った人を尊重しながら、それぞれが持ち味を出し、お互いに補い合っていくことが大切です。頭ではわかっていても実践するのはなかなか難しいですが、そのためにはお互いに、異質なものを受け入れる「心の広さ」がなければなりません。人生は障害の多い道、それも曲がりくねった道を進むようなものです。人生はアクセル役だけではなく、しっかりしたブレーキ役がいないと、安心して進めないような道なのです。異なる役割を果たしてくれる異なったものを持つ人を大切にすることは、この人生を全うする上でも何よりも大切といえるでしょう。 

■34 相共に賢愚なること、鐶の端なきがごとし
人間的に素晴らしい人に出会って、「私と人間のできが違う、私はダメなつまらない人間だ」と、劣等感にさいなまれたことがないでしょうか。また、素晴らしい仕事をした人に会って、「私には、あんなことはできない」と、やってみようとも思わず、はじめからあきらめたり、更には「私は粗末な人間」と居直ってみたり、ひどい場合は親や周りに責任を押しつけたりすることがないでしょうか。
聖徳太子の「十七条憲法」の第十条には
忿を断ち、瞋を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執れることあり。彼の是はすなわち我の非にして、我の是はすなわち彼の非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫のみ。是非の理。たれかよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶の端なきがごとし
とあります。どれほど素晴らしい人でも聖ではありません。どれほどつまらない私も、一から十まで愚ではありません。時には自分で驚くほど素晴らしいことを言ったり、したりします。しかし、それもたまたまであって私の全てではありません。一から十まで間違いのないという完璧な人間もいません。どれほど素晴らしい人間にも、一つや二つ問題はあるものです。反対に、一から十まで間違いという人間もいません。必ず素晴らしいところを持っているものです。
「共にこれ凡夫」とは、どれほど素晴らしく見え、どれほど素晴らしいことをした人間も、その時の縁で何をしでかすかわからない危うい、人のことは見えていても自分の将来は何も見えない悲しい、自分中心の、存在ということです。いばることもいりませんが、卑下することもいりません。
他の人と比べて勝った負けたでなく、私は私として、同じにはなれないがあの人のようになりたい。同じ事はできなくともあの人のやったようなことはやりたいと、他の人を良き手本とし、他の人の仕事を良き見本として、私は私として頂いた「いのち」を精いっぱい生きたいものです。 

■35 「精進」
私たちは、ややもすると毎日の生活を疎かにし、何か事があると、はりきったりするものです。しかし事あるときだけはりきっても、人は高く評価してくれません。やはり、人間は普段の行いが大切でしょう。人から信頼されるのも、また人から軽く見られるのも、みんな普段の行い次第です。
「阿含経」に、「声聞は精進をもって力となる」という言葉があります。声聞とは、文字通り、仏様の声を聞く人ということであります。(後には違う意味づけがされますが)何を力にして生きているのかと言いますと「精進」を力にしていると教えて下さっています。「精進」の「精」は「不雑」、「進」は「不間」という意味ですから、すなわち、「精進」とは、あれもこれもでなく、これだけはと、間を空けずにコツコツと努力していくことなのです。
ですから「常が大事」ということの実践が「精進」であるといっていいでしょう。コツコツと「常を大事」に続けていくところに、自ずから、信用もでき、信頼もされる人生になるのです。
若い者は、お仏壇に手を合わすことがないと愚痴っている人に、「あなたはどうですか」と聞くと、「親の命日には欠かさず仏壇に手を合わせています」とのこと。「毎朝や毎晩はどうですか」と続けて聞くと、「何かと忙しいので」と答えられます。そこで「きっと若い方も、毎日忙しいのでしょう」と言うと「忙しいと言い訳をしてはいけませんね」と気づかれました。朝夕の勤めとしてお仏壇に参る自分の姿が、いつか若い人をお仏壇の前に座らせる力となるのです。常のあり方が、自分自身を育て、周りの人を育てていくのです。そしてその人生が、他の人を導き、他の人を大きく変えるような素晴らしい人生となるのです。
「平生業成」という教えがあります。臨終を目前にして、あわてても、なかなかみ教えは聞けません。平生に聞いて、間違いなく「仏に成る」という大事業を成就しておきなさいという言葉です。み教えを聞く人は「常が大事」と今を生きる人になるということです。 

■36 泰山、大河、大海
中国の歴史書「史記」には「泰山が大きな山になったのは、どのような小さな土塊でも、辞退することなく受け入れたからであり、大河も大海も、どのような小さな川の水も受け入れた故に、大きく深いものになったのです」とあります。これを人間に例えれば、大人物といわれる人は、どれほどつまらないと思われる意見でも、他の人の言葉に耳を傾け、受け入れて参考にすることによって、大人物になるということでしょう。
人間の大きさ、深さはどれだけのものが受け入れられるのかという包容力によるのです。どれだけすばらしい才能に恵まれ、どれほどすばらしい考えを持っていても、包容力のない人は大人物になることはできませんし、また、その考えは通りません。
人間は、自らに才能があると、それを振り回して、周りの相手かまわず切りまわり、結局自らの身を滅ぼすことになりやすいのです。「能ある鷹は爪を隠す」というのは、なかなかむずかしいことで、立派な爪があるとついつい使いたくなります。実力・才能のあるものほど、謙虚に人の意見をよく聞くことが大切です。
また、すばらしい考え、正しい意見を言うときは、謙虚に述べるべきです。正しい意見にはみんな賛成するしかないのですから、正しいことは正しいと大きな声で高圧的な態度で言えば、反発され意見が通りません。
自分の小さなものさし、自分流のゆがんだものさしで、他の人や他の意見を計って取捨選択すれば、受け入れる人や意見はわずかなものになってしまいます。自分のものさしを捨て、その人をそのままに、その意見をそのままに聞いていく、取捨選択は最後の最後、事に当たるときに考えればいいのです。はじめから、自分の思いで取捨選択するのでは、人も集まらない、他の人の意見も聞けないという悲しい結果に繋がっていくでしょう。何かを成そうとするとき、謙虚な態度で泰山や大河、大海の如くどっしりと構えることも時には大切なことです。 

■37 「好きな道に辛労なし」
好きなことをしているときは、時間の過ぎるのが早く、疲れも残りません。反対に、嫌々ものをしているときは、時計の針が止まっているのかのごとく時間が経ちませんし、やたらと心身共に疲れが残ります。
同じ事をするにしても、それに取り組む私たちの心のあり方によって、辛労なしとなったり、苦痛になったりします。生きていくためには、嫌いなことにも取り組まなければならないこともしばしばあります。そんなとき嫌いなものでも好きになれば、同じ事をしても、辛労のない疲れの残らない、楽しい日暮らしになります。「好きな道に辛労なし」という言葉の通り、好きになることが、物事を遂げる上では大切なことの一つです。とはいえ、嫌いなものは嫌いという人もいるでしょう。
ですが、私たちが嫌いといっているものは「食わず嫌い」なものが多いのではないでしょうか。誰にでも食わず嫌いの食べ物が一つくらいあるものです。食べたことがない物を食べるには勇気がいります。確かにいつも食べている物は味もなじんでいますし、何かにつけて安心です。しかし、それでは人生に広がりがありません。珍味といわれるものは一癖あって、なじみにくく、嫌いな方も多いでしょうが、何度か食べているうちに美味しくなり、病みつきになってしまうこともあります。
ですから、物事が好きになる方法は、自分の経験を盾にした小さな枠から出て、それに慣れ親しむことが第一です。私たちの好き嫌いは、向こうに問題があるのでなく、こちらにも問題があるのです。「私はこれは嫌い、これはできない」と自分で自分を限定した上に、自分のものさしで他を量って、好き嫌いをいうのです。自分で自分を限定すること、また、全てのものに自分のものさしを当てることをやめて、ありのままにそのものを受け入れ、慣れ親しめば、嫌いなものはなくなり、みんな好きになります。みんな好きになれば、何をしても辛労なしという人生が実現するでしょう。 

■38 「怨憎会苦」
「四苦八苦」の中に「怨憎会苦」というのがあります。「怨憎会苦」とは、「怨み、憎しみ合うもの」が「会わなければならない」という「苦しみ」です。人生○○年もあると「会いたくない人」と会ったり、顔を見るのもいやになる人が、一人や二人はいたりするものです。またはじめは「いい人」だと思っていた人が、一緒にいる間に「いやな人」になるという「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」ケースもしばしばあるようです。
息子さんにお嫁さんを迎えた姑さんが、はじめはお嫁さんの自慢話ばかりしていたのが、しばらくすると自慢話が陰をひそめ「いい嫁ですが......」と不満げな口ぶりになり、しまいには口から出てくる言葉は、お嫁さんのグチばかり、という話はよく耳にします。
だけど、これは嫁姑だけに限った話ではありません。私たちは悲しいことに、人やものの長所を見るよりも、短所の方が先に見えてしまうのです。そして短所が気になりだすと、そこから目が離れなくなり、長所を全く見なくなり、「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」のです。
欠点や短所を知ることは大切ですが、それを気にして、そこを責めながら生きる人生は、他を損なうと同時に自分自身を損なう人生です。また人間というのは他の人やものの短所を探し出して文句をいうだけでなく、自分の肉体の短所まで探して文句をいうのです。もう少し身長があれば、痩せていれば、この鼻が高かったら、目が切れ長だったらなどなど。しかし、この肉体が、今、ここにあることの不思議に気づいたら、本当は文句なんか言えないのです。ましてやその肉体は、文句をいわれても不平不満を言わずに、日夜私のために働いてくださっているのですから。短所ばかり気にしてみている人は、生かされている「いのち」の不思議に気づいていないのかもしれません。
美点や長所を知ってそこを大切に伸ばすことが、素晴らしい人生を生きる秘訣の一つです。

■39 「大事の前の小事」
「大事の前の小事」ということわざには反対の二つの意味があります。一つは、大事を行うには、小事を慎重にしないと、油断から思わぬ失敗をするという意味です。二つには、大事の前では小事にかまっていられないという意味です。一つの言葉に反対の意味があるのは面白いですね。でもどちらが本当で、どちらがウソということではなく、どちらも本当なのでしょうね。
さて、私たちがこの人生をどう生きるかは、一人ひとりにとっての大事であります。ましてや、迷いの世界である此岸に「いのち」をいただいている私たちが、仏様のみ教えを聞き、さとりの世界である彼岸にお導きいただけることは、わが人生の大事であり、「いのち」の一大事です。
お釈迦様はお聖教にて、
道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。
志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。
道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。
と一歩一歩、一日一日の大切なことを教えて下さっています。一歩をおろそかにし、一日を無駄にすることが、仏道において恐ろしいことなのです。小事をおろそかにして、さとりの岸に至るという大事は達せられないのです。どんなに堅固な堤防でも、虫のあけた小さな穴や数センチのひび割れから崩れるのです。最新技術の詰まったシステムビルも、ちょっとした漏電やネズミが配線をかじっただけで、設備が動かなくなってしまいます。全く不可能と思われたさとりの岸にわたるという大事も、毎日の日暮らしの中で、み教えを聞き、実践することによって実現していくのです。
ですが、つい忙しいから、疲れたからと言ってまた明日、また明日と、今日一日おろそかにしてしまいがちです。そんなことぐらいと大雑把にみ教えを聞く姿勢が、仏道の歩みをストップさせているのです。お釈迦さまのお言葉を真摯に受け止め、日々、精進に励ませて頂きたいものです。 

■40 「心得たと思うは心得ぬなり」
「親の心 子知らず」との言葉があります。人間は自分勝手なもので、自分の都合のいいときに「お父さん」「お母さん」と近づいて、用事を頼んだりします。
しかし、自分にとって都合が悪くなると、近づくどころか父母にさえ背を向けて離れていきます。そんな背を向けて離れていく子のことを案じ続けてくれるのが父母なのです。
親がものを言うと、言い終わる前に「言いたいことはよくわかっている」と反発したり、途中で立って最後まで聞かないようなことは、誰にでも記憶にあることでしょう。
心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得たるなり『蓮如上人御一代記聞書』
という言葉があります。子どもに反発されたり、聞いてもらえなかったりしても、嫌な顏をせずにまた言葉をかけてくれるのは親だけです。そんな時、子どもは「親の心ぐらいわかっている」と心得顔でいますが、本当は何もわかっていないのです。何がわかっていないのかというと、親の言う言葉はわかっているのですが、何度も何度も言わずにいられない親の心がわかっていなかったのです。
親の心を本当に「心得た」ならば、ありがとうと頭が下がるはずです。しかし、ありがとうの言葉も、頭の下がることもなく「心得た」と言っているのは「心得ぬ」証拠です。何度言われても親の心が受け取れない、何と「心得ぬ」私であったかという方が、親の心を受け取れている、「心得たる」姿なのです。
何かにつけて、あれも心得ていると思い上がる私たちですが、何事も、自分が当面して苦労すると始めてわかってきます。当然、父母の恩も、自分が子を養うことに当面してわかっていくことなのです。子ができて、初めて父母の恩を知ることができた、という話も聞いたことがあります。親は子を育てることによって、子に育てられているのです。子に教えられて親になり、親に養育してもらって子は成長します。互いに敬い、思いやり、感謝しあう、それが真の親子の姿でしょう。 
 

 

■41 み教えの本末・終始を聞く
古代中国の書物『礼記』に「物に本末あり事に終始あり」とあります。どのような問題でも、本当に解決しようと思えば、その問題がなぜ起こったのか、始まりはどうであったのかを正しく把握しなくてはいけません。物事には、必ず本と末、始めと終わりがあり、それをしっかりと心得ることが大切です。物事の本末、終始が明らかになれば、どのように難しい問題でも解決したようなものです。
実は、み教えを聞くことにおいても、「何故この教えは説かれたのか、誰のための教えであったのか」と、み教えの本末・終始を聞くことが大切なのです。
それを親鸞聖人は、  しかるに『経』に「聞」と言ふは、衆生、仏願の 生起・本末を聞きて疑心有ることなし。これを 「聞」と曰ふなり。(教行信証 信巻) とお説き下さいました。「経」とは『大無量寿経』(大経)です。「聞」とは、大経の要「阿弥陀如来の本願」(仏願)を聞くことです。「衆生」とは、あらゆる世界(十方)の生きとし生けるものです。しかし、私一人がそこから抜けると、生きとし生けるもの全てになりません。衆生=私なのです。
ですから、この私が、「阿弥陀如来の本願」は、誰のために、どうして起こされたのか(生起)ということと、そのためにどのようなことがなされ、その結果はどうなったのか(本末)を聞いて、疑いの心が無くなり、そのまま受け入れることが、み教えを聞いてゆくことなのです。
親鸞聖人は『歎異鈔』にて「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえ に親鸞一人がためなりけり。」 と仰っています。
しかし、私達は、私のためにみ教えが説かれ、本願が起こされていたとは受け取れないのです。聖教に悪人と出てきても、法話で地獄行きの人間だと言われても、他人事だと思い、なかなか私のためと自覚できるものではありません。ですが、「阿弥陀如来の本願」は、AさんもBさんもみな等しくさんも救いたいという誓いですが、まず「私」を救いたいという願なのです。 

■42 「千里の行も一歩より始まる」
「今日一字を覚え、明日一字を覚え、久しければ則ち博学となる」
これは江戸時代の儒者・中井竹山の言葉です。また似たようなことわざで
「千里の行も一歩より始まる」や「ローマは一日にして成らず」があります。
何事も一つ一つの積み重ねが大切です。私たちは結果だけ見て、私もあの人のようになりたい、私もあんなものを手に入れたい、どうしたら手っ取り早く、どうしたら楽にそれが実現できるかを考えますが、どのようなことでもまず一から始めるしかないのです。
世には様々な記憶術のようなものがあったりしますが、仮にそれを使ったとしても、何かを覚えようと思って覚えることは大変です。
しかし繰り返しや積み重ねが記憶術にも勝るときもあります。例えば皆さんが毎日通る通学通勤などの道のりを思い浮かべてみてください。
まず花屋さんがあって、その先にコンビニ、角を曲がると電気屋さんという具合にすぐに思い出せるのではないでしょうか。同じ道を毎日通ると知らず知らずのうちに自然と覚えてしまうもの。更には、あの家の飼い犬はいつも居眠りしているなどという、覚える必要のないことまで覚えていたりしませんか。
「千里の行も一歩より始まる」のことわざのもととなったのは、
「合抱の木も毫末より生じ、九層の台も塁土より起こり、千里の行も足下より始まる」
という老子の言葉です。一人では到底抱えることのできないような大木も、初めは、小さな枝葉から大きくなったのです。
また、天にとどく程の高い塔も、まず基礎の土盛りから始まったのです。
千里の遠方へ行く旅も、足下の一歩から始まるのです。同じように、着実に一歩ずつ進むことによって大事業をも成し遂げられるのです。
仏教の大切な行の一つに「精進」がありますが、「精は雑に対する言葉、進は不間ということ」という意味です。あれもこれもではなく、一つでもいいから、間も開けずに進むことが、何よりも大切な姿勢なのです。 

■43 「塵を払い垢を除く」
釋尊の弟子・周利槃陀伽はもの覚えが悪いのが有名で、他の弟子の中には彼を軽んじている者もいました。ある時、周利槃陀伽は釋尊のもとを去ろうとしました。
「お釈迦さま、私のようなものは迷惑をかけるばかりで、さとりをひらくことなど到底考えられません。ここを出ようと思います」
「周利槃陀伽よ、本当にそう思っているのか」
「思うも思わないも、私のような愚か者は、この世にいません」
すると釋尊は他の弟子を集め、全員に
「もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち『賢者』である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる」と説かれました。
のちに周利槃陀伽は、釋尊から教えられた「塵を払い垢を除く」という言葉の通り、精舎の掃除をしながら、ついには塵や垢とは次々に起こってくる自らの煩悩のことであったと、自分を軽んじていたお弟子たちもより早くさとりをひらいたのです。
親鸞さまは御和讃にて
浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし
とうたっておられます。
仏さまのみ教えを聞くまでは、自分には「真実の心」「真実の身」「清浄の心」もあると思っていました。しかしみ教えをたずねていくと、私には「真実の心」のない。わが身は「虚仮不実の身」である。他人を思いやるより、わが身かわいいの心ばかりで「清浄の心」を持ち合わせていない。み教えに照らされて、ようやく自分という人間がよくわかりました、と親鸞さまは告白されているのではないでしょうか。
み教えを聞くということは、色々なことを覚えたり、知ったりすることでなく、自分自身に出会うことなのです。自分自身を知らない人は自分に「真実の心」があると思い、どこまでも自分を善しとし、他の人を悪しとして責めてしまいます。まず自分を知ることこそ、自分自身の幸せの道であり、他の人を幸せにする道なのです。 

■44 五百着の衣
ある国の妃から、五百着の衣を供養されたとき、阿難尊者は快く受け入れました。王様は妃よりこれを聞いて、もしや阿難が貪りの心から受けたのではあるまいかと疑い、阿難を訪ねて聞きました。
「尊者は、五百着の衣を一度に受けてどうしますか?」阿難は答えました。
「大王よ、多くの比丘は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」
「それでは破れた衣はどうしますか?」「破れた衣で敷布を作ります。」
「古い敷布は?」「枕の袋に。」
「古い枕の袋は?」「床の敷物にします。」
「古い敷物は?」「足ふきを作ります。」
「古い足ふきはどうしますか?」「雑巾にします。」
「古い雑巾は?」「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々に裂き、泥に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。」
仏さまの教えでは、自分の周りにあるものは一つとして「わがもの」ではない。全てはみな、ただご縁によって、自分の元にきたものであり、しばらく預かっているだけだと考えます。
蓮如上人は、廊下を通られているとき、紙切れが落ちているのをご覧になって、「仏法領(如来からいただかれた物)の物を粗末にするのか」と仰って拾い上げ、それを両手で押しいただかれたということであります。紙切れ一つのようなものでも、大切にして粗末にしてはならない、活かして使っていかなければならないのです。
また預かっているだけですから、手放す時がきたら執着せずに、見返りを期待せずに、喜んで手放さないとなりません。自分で汗水流して働いて稼いだお金や、そのお金を使って、手に入れた大切なものであったとしても、です。普段私たちが思っている常識のものさしでははかれないのが、仏さまのものさしなのです。
ですから、自分の宝物が盗まれても喜びなさいとなります。それが手元にあったということは自分には富があって幸せだったということがわかり、その宝物によって盗んでいった人も幸せになれるかもしれない、となるからです。人のものを盗むのは良くないのは当然ですが、仮にそうなったときが来たら皆さんは喜べますか? 

■45 「人間の命はどれくらいあると思うか」
ある時、お釈迦さまが一人の僧に尋ねました。 「人年の命ははかないものだが、どれほど生きていることができるだろうか」 すると僧は答えました。 「数年の間ともいうべき短いのが私たちの命です」 お釈迦さまは 「お前は仏教がよくわかってないね」 と言われました。また二人目の僧に聞きました。 「人間はどれくらい生きられるものだろうか」 僧は答えます。 「ご飯を食べている間は確実に生きていることができるでしょう」 お釈迦さまはまた 「お前も仏教の心がつかめていない」 と言われました。そして三人目の僧に聞きました。 「人間の命はどれくらいあると思うか」 すると僧は答えました。 「確実に生きているといえるのは、息を吸って次に吐く瞬間だけです」 するとお釈迦さまは褒められました。 「その通り。お前は仏教の心をよく把握している」
自分の命はあと数年、あと数十年は大丈夫と私たちは思っています。しかし、命は極めてはかないものです。いつ自分が事件事故、災害に遭遇するかもしれない、いつ不治の病に冒されるかもわからないというのが本当のところです。にもかかわらず、自分は大丈夫だと思い込み、今日しておかなければならないことを明日に、明後日に延ばしてしまいます。
蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』に  「今日の日はあるまじきと思えと仰せられ候う」 と言われ、何事も急いでやり、今日できることはその日の内に済まされました。
確実に生きているといえるのは、今の一瞬だけです。ですから一瞬一瞬を大切に生きていく心構えが必要だと先達の方々は仰せになられているのです。「一瞬一瞬を大切に生きる」ということは「一瞬一瞬を有意義に生きる」ということです。そうすることで毎日毎日を心新たに、充実した気持ちで生きてゆくことができるのです。 

■46 捨つるも取るもいずれも御恩なり
動物実験について書かれたある本に、化粧品を作るための実験として使われていたウサギの話が載っていました。
それによると、ウサギは涙腺が発達していないので、異物を目に入れられても涙を流して洗い流すことができないのだそうです。また痛い目に遭わされても、泣き叫んだりしません。この特性を利用して、化粧品の原料をウサギの目に注入して実験を行います。目の粘膜が悪くなり、役にたたなくなったウサギは処分されます。その数は年間で何十万匹にもなるそうです。何気なく使っている化粧品の陰にある多大なる犠牲に驚きを禁じ得ません。
また内に目を向けてみると、私たちの身体の中では、心臓や腎臓、肝臓などの臓器が四六時中働いて私たちのいのちを支えてくれています。健康なときには気づきにくいですが、私たちがまだ意識のない母の胎内にいるときから、いのちが終わるときまで、文句一ついわず、御礼も要求せず、黙々と動いてくれているのです。
蓮如上人は「万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、悪しきことだに思ひ捨てたるは御恩なり。捨つるも取るもいずれも御恩なり」と仰せになられています。
例に出したウサギをはじめ、生きていくために頂かねばならない多くのいのち、私たちの臓器などに支えられている私たちの生活を振り返ってみれば、何もかもが「御恩」「おかげさま」の中にあるのです。自分の力だけで何もかもできればいいですが、そうはいきません。ですから生きるということは迷惑をかけていくということなのです。迷惑をかけるということはつながりを持つということです。たくさんのいのちとつながりを持って生かされている私たちなのです。それを当たり前だと思ってしまえば、御恩を忘れ、感謝の心を失います。当たり前だと思っている生活を今一度見つめなおして、それまで見えてなかったかもしれない驚きを知ることが大切なのではないでしょうか。そこからおかげさまの感謝の心が生まれてくるのです。 

■47 「さてその後は死ぬるばかりぞ」
「世の中は 食うて稼いで 寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりぞ」 一休禅師
仕事や用事に追われて「忙しい、忙しい」と思いながらの日々も多いことでしょう。「忙」のりっしんべんは「心」を表したもの、つまり「忙しい」というのは心を亡くした状態なのです。朝起きてご飯を食べ、仕事して寝るをただただ繰り返す毎日では、あまりに悲しい人生です。
「雑阿含経」というお経にこんな話があります。 「広い海底に、目が不自由な一匹の亀がいて、百年に一回、海面に浮上する。大海には、真ん中に亀の頭が入るほどの穴が一つあいている流木が、一本流れている。百年に一回浮かび上がる亀の頭が、その穴に入ることがあるか?」 お釈迦さまが阿難尊者に問いました。 「そんなことは、ほとんど考えられません」 阿難尊者の答えにお釈迦さまは諭します。 「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れないのだ。人間に生まれることは、今の例えよりも、更にあり得ない難いことなのだ。」
地球ができて、生物が発生して、人間ができて、そして自分は両親から生まれました。何十億年よりもっと前からの、多くの縁が重なってここにいるのです。大げさな話のようですが、自分が今いのちをいただいているのは当然のことではなく、本当にありがたいこと、有ることが難しく滅多にないことなんです。
いのちを粗末に扱うような事件や事故が毎日のように報道されています。ものの使い捨てが当たり前になり、ついには人のいのちも使い捨てられる時代になってしまったのでしょうか。いのちすらモノのように扱う、それでは敬いや思いやり、そして感謝の心も育たず、「死ぬるばかりぞ」のさみしい一生です。一休さんの歌の通りにならないように、まずは一人ひとりが考えていかねばなりません。 

■48 慈しみ
牛久浄苑にて、墓参に向かうご家族と同行している時のこと。 私の後ろを歩いていた二十歳くらいのお嬢さんが、お母さんとこんな話をしていました。
「あの大仏様は怒った顔をしているのかな?」
阿弥陀様が憤怒の形相と思われてはマズイので、ちょっと振り返り、
「あれはね、怒っているんじゃありませんよ。あれはね、ええ〜っと...」 とまで口に出して、「慈悲」という言葉を呑み込みました。現代っ子に「慈悲」といって果たして理解してもらえるのだろうかと。それで、「あれはね、慈しみのお優しい表情なんですよ」と言ったのです。
するとお嬢さんは、少々戸惑いながらも「はあ、そうなんですか」と言って、今度は私には聞こえないように言ったつもりでしょうけど、私には聞こえてしまいました。
「イツクシミってナニ?」
いきなりで恐縮ですが、鯛の仲間に随分と変わった習性を持つ魚がいます。メスが数千個の卵を産むと、オスはそれを全部口の中に入れてしまうのです。卵から稚魚に孵化するまでは一週間程かかりますが、オスは口の中には大切な自分の子供が入っている訳ですから、餌を食べる事もできません。そうしてまさに命がけで新しい生命を育むわけです。では、無事に孵化した稚魚がお礼の一言も云うのかといえば、さっさと大海原へ泳ぎだしてしまいます。単なる本能・習性だと言ってしまえばそれまでですが、何の見返りも求めず尽くすこの親の姿、守ろうとする姿に慈しみの本質を感じます。
阿弥陀如来は私たちに一体どんな見返りを求めていますかと問われれば、何もないと答えるよりほかありません。見方によっては一方的とさえ言える阿弥陀如来のお誓い、普段拝んだり感謝しない私を、ためらう事なく救わんとする如来のお働きを慈悲というのでありましょう。先例に挙げた魚が「ネンブツダイ」と名付けられているのは何かの偶然でしょうか。

■49 赤色赤光白色白光
地中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔
<訳> 池の中には車輪のように大きな蓮の花があり、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかである。
これは『仏説阿弥陀経』の一節です。
蓮の花は清らかな水では育たず、泥の田で育ちます。泥の田というのは苦しみや煩悩を表しています。蓮の花はその泥が汚いからといって逃げ出したりはしません。その苦しみや煩悩を養分として育ち、煩悩の汚れの無い美しい花を咲かせます。これは、命が終った後の話ではなく、今生きている現実から逃げることなく、ここを自分が育つための場所と捉えて生き抜くための教えだろうと思います。
さいた さいた チューリップの花が
ならんだ ならんだ あか しろ きいろ
どの花みても きれいだな
という有名な唱歌があります。歌詞が前出の阿弥陀経の一節に似ていますね。
私たちは果たして、赤・白・黄色と花が並んでいる、それを見てどの花見てもきれいだなと感動を持って言えるでしょうか。
「どの花が一番きれいだろう」と比較していないでしょうか。「どの花みてもきれいだな」と言えるのは仏の目だろうと思うのです。ここで説かれる花は、実は人間を譬えています。生まれた場所や、皮膚の色、職業や、顔の形などで差別する心を持っていて、どの花みてもきれいだなという心が起こらない。それぞれの色が輝いていることを見抜けないところに地獄というものがあるのです。そこを見抜くための目、いままで掛けていた色眼鏡を外すということを、仏法聴聞を日々重ねていく中で気づかせていただきたいものです。 

■50 不平不満
暑い夏の日、とある大学のバスケットボール部の練習風景です。
体育館ではバタバタバタ、キュッキュッ、走る音、止まる音、人の声、さまざまな音が聞こえてきますが、肝心のボールの音はしません。
「早くボール使った練習したいよな。走るの、もう飽きたよ」
「これじゃまるで陸上部だな」
休憩時間となり、部員たちはタオルで汗をぬぐいながら口々に不満を言います。
練習が再開され、ようやく監督からボールを使う指示が出ました。するとどうでしょう、先ほどまで文句を言っていた部員たち、なんとも楽しそうにコート中を走り回っています。ボール一つ手にすることによってとても生き生きとしているのです。
しかし明日にはまた同じ不満を言い、ボールを与えられたら嬉々として練習に励むわけですが、こうして徐々に上達するのでしょうね。急激に上達するような「魔法の練習方法」でもあれば便利なのですが、現実的にはこうやって反復練習する事が向上への近道のようです。
私たち仏教のみ教えを聞くものにとっても同じことではないでしょうか。 法話を聞いたり本を読んだりして、一時的に心が安らいだという経験をされた方も多いでしょう。しかし残念な事に、せっかく安らいだ気持ちも長くは続きません。
地域、会社、学校などの人間関係その他日常の生活に埋没し、つい、不平不満をこぼしてしまいます。
よく浄土真宗は「何もしなくていい教え」と思われがちです。確かに私のはからい(自力)によって浄土往生するわけでは決してなく、全ては阿弥陀さまによって往生が定まるのですから、そういった意味では「何もできる事はない」かも知れません。しかし、こうして生かされているあいだに何もしなくて良いという事にはならないのです。たとえ明日にはまた不満を言ってしまうかも知れないけれど、少しの時間でも割いて仏法を聞く、お念仏を称えるといった習慣を身に付けてゆきたいものです。 
 

 

■51 厳しい「慈悲」
七高僧のお一人、源信僧都と弟子たちが住む草庵近くに鹿が迷い込んできました。すると僧都は、その度に飛んでいって力任せに鹿を殴るので、鹿は悲鳴を上げて逃げていきます。
何度も繰り返されるその様子に弟子たちは、
「鹿はそんなに悪いことをする動物でもないし、何も殴らなくても......」 と僧都をなじる者さえ出てきましたが、僧都は、
「これが慈悲というものではないか? 私も鹿が憎い訳ではなく、命の限り生きて欲しいと思っている。この山に私とお前たちだけしかいないなら、三度の飯を二度にしても鹿に与えてやりたいが、山裾には至る所に罠が仕掛けられ、猟師も沢山いる。わたしが可愛がったらどういうことになるか? 猟師にまですり寄っていくことになるまいか? だから、人間は恐ろしいものだから近づくなと教えてやるのだ」と話をしました。
僧都の胸のうちを聞いた弟子たちは、鹿を殴り続ける師の姿に、厳しい「慈悲」の姿を学んだのです。同情と慈悲は似ていますが、実は異質なものです。同情は、思いやりの心の動く有様で常に温かいものです。ですから美しいように思いがちです。しかし、よく考えてみると同情され続けた挙げ句にダメになってしまうこともあるでしょう。同情する側の心に優越感が潜んでいることもあり、必ずしも良い結果をもたらすとは限りません。
対して慈悲は、いつも温かいものとは限りません。時には僧都のように、はた目には非常に厳しく、冷たいものだったりします。ですが、それは本当に相手の身になって考えるからこそ出来る行為なのです。
子供を叱らない、または叱れない大人が増えたと世間では言われます。何をしても無関心あるいは無関心を装うような大人ばかりに囲まれた彼らの目に、私たちはどのように映っているのでしょう。他人事ではないはずです。 

■52 「モノとお前自身のどちらが大切か?」
昔々、ある裕福な家庭の若者が大きな宴に参加しました。
着飾った若者は歌っては飲み、飲んでは踊り、しまいには疲れ果て、仲良くなった美女と庭先の木陰で寝てしまいました。
目覚めると、隣で寝ていたはずの美女がいません。しかも、いつも首に掛けていた大切な首飾りが見当たらないのです。若者はあの女が盗んだに違いない、と慌てふためきます。
「若い女を見なかったか?」と尋ね回っているうちにお坊さんに出会います。
「大事な首飾りを盗まれました。あれは私にとって一番大切なモノです。それを盗んだ女です」
お坊さんはそれには答えず、逆に問いかけました。
「モノとお前自身のどちらが大切なのか?」
あれを無くしたら生きていけない。これこそ私の命だと思い込んでいるモノ。例えば財産や名誉、地位をはじめ、目に見えるモノや見えないモノなど様々ですが、それらは私たちの欲や煩悩、つまり執着心が姿を変えて現れているに過ぎません。
自分にとって大事なものには違いありませんが、「私そのもの」ではないのです。
考えれば野生動物はごく僅かの例外を除けば、貯えたり収集したりする事はありません。人だけが競って財を成そうとした結果が現代社会と言えましょう。しかしせっかくため込んだ財産も生活のための道具に過ぎないのであり、それを所有する人が逆に支配されるようでは、人生とは誠に味気ないものではないですか。
裕福な若者から盗んだ女は、その首飾りを売って、自分が住む貧しい村の人々に食べ物を施しました。しかし、同情してその罪を許せば、困っていれば人からモノを盗んでもいいのだという誤った考えを持ってしまうかも知れません。盗みは許されない罪であるとお釈迦さまも説いておられます。
大事なことはモノそのものに罪があるのではなく、それを所有したり取り扱う人間の心の有り様ではないでしょうか。あるから幸せ、ないから不幸という考え方、こんな有るか無いかの世界ではない、束縛されない自由な生き方を仏法は教えてくれるのです。 

■53 子煩悩
その家では、農閑期になると、一家の大黒柱である父は大阪へ出稼ぎに行きます。
妻との間には就学前の小さな男の子が一人おりますが、胸を患い、時に激しく咳き込むのでした。この事は、子煩悩の父にとって大きな悩み苦しみでありましたが、妻にくれぐれも我が子のことを頼み、遠く離れた地で働く父でした。
お正月、束の間の里帰りをした父。久々の我が家、そして可愛い我が子を膝に抱き上機嫌でお酒をいただきます。こうしていると厳しい出稼ぎ現場の疲れが融けてゆくようです。
酔いも手伝ってか、ウトウトまどろんでいたこの父を目覚めさせたのは、息子の激しい発作でした。久しぶりに息子の病の重大さを目の当たりにして、ただただ狼狽えるばかり。
「はて、妻はどこにいる? 息子がこれほど苦しんでいるというのに、何故気が付かない?」 と周囲を見回すと、妻は炬燵の向こうで突っ伏したまま眠っていたのでした。
その姿に憤った父、思わず声を荒げて、
「おい、お前! この子を何とかせんか!」
妻はあまりの大声に慌てて顔を上げると、何事が起きているのかをすぐに察知し、子供に薬を与え介抱したのでした。
息子もようやく落ち着きを取り戻し、ほっと胸をなで下ろした父でしたが、妻の憔悴しきった姿を見て愕然としました。
「ああ、私は子煩悩だ、などといいながら、本当に愛していたのは息子ではなく、子煩悩を演じる自分であった。妻は日々、このような息子の発作と対峙しながら家を守り、私を温かく迎えてくれたのに、情けなくも私はその妻を罵ってしまった。そんな自分は息子の看病すら出来ないではないか」
そして涙を流して、すまなかった、申し訳なかったと妻に手をついたのでした。
「あなたのお陰でこの子も私も暮らせるのです。有り難いことです、」と妻は申したそうです。 この夫婦はともに、お寺参りを欠かさない、お念仏の家で育ったそうです。 

■54 「蜘蛛の糸」
芥川龍之介作『蜘蛛の糸』という有名な物語があります。
カンダタという極悪人がその死後、当然のように地獄に堕ちてしまいますが、ある日、一本の細い銀色の糸が自分の目の前に降りてくるではありませんか。 お釈迦様が彼が生前、蜘蛛の命を救ったことを覚えておられ、救いの手を差し伸べられたのです。 急いで蜘蛛の糸をたぐり登ったカンダタ、途中地獄の方を眺めると、おびただしい罪人どもがこの細い糸にぶら下がっており、今にも糸が切れそうです。 思わず叫びました。 「この蜘蛛の糸は俺だけのものだ。お前たちは 来るんじゃない」 その瞬間、カンダタのぶら下がっているところからぷつりと糸が切れてしまい、地獄へ真っ逆さまに堕ちていったのでした。
私が子供の頃、学校の授業の中で先生からは「カンダタはやはり悪者。だから、自分だけ助かろうとして、その報いで再び地獄に戻されたのです。皆さんは日頃からはしっかりと良い事に励み、皆と仲良くいたしましょう」といった感じでお話しされた事を思い出します。
それから数年後、今度はお寺で再び、この『蜘蛛の糸』を聞きました。布教使のお話はいきなり、「誠にカンダタはかわいそうなお人じゃ...」で始まるのです。道徳の時間ではカンダタのような悪者はこうなる、という具合に悪者の代表のように非難されたのに。
「ここに参詣をしておる者一人ひとりが、もしカンダタの様な境遇であったならば、『おりろ!』とは叫ばんかの?親鸞様はご自身みずからを『心は蛇蠍の如くなり』と申された。カンダタは紛れもない、この私たちの心の有り様を表しておる」と。
この布教使のお話は、「少なくとも自分はカンダタの様な非道い悪人ではない」などと思い上がっていた私に、実は彼こそが自分自身の本当の姿であると気付かせて下さったのです。 

■55 パソコン
小学生が当たり前のようにパソコンを操る時代、なんでも「検索」すれば様々な情報が手に入ります。また、ある話題についてパソコンを通じて語り合うことが出来る「掲示板」や「チャット」なども大流行。
インターネットは文字通り、今や世界中に網羅され、その特性をフルに活用すれば大変便利なものです。
例えば主婦の方が「今晩のおかずは何にしよう?」などと悩んだなら、パソコンの前に座りキーワードとなる「おかず・今晩」を画面に入力すれば、なんと数十万件の関連ページが瞬時に表示されるのです。多すぎてむしろ悩みそうですね。
そんな便利なパソコンですが、最近は犯罪に利用されたり、思わぬトラブルに巻き込まれたりするケースが増えてきています。成人向けの「チャット」でも、パソコン画面の中では、発言者が本当に成人なのかどうか確認できません。またある掲示板が、暴力的な発言や特定の人を名指しで中傷するなどといった行為がエスカレートし、ついに閉鎖されるという事態も今や珍しいことではありません。
大切なことは問題の原因がパソコンやネットにあるのではなく、実はそれを使う私たちにあるということです。特に「掲示板」や「チャット」では相手からはこちらが見えないという安心からか、何を言ってもいい、相手が傷つこうが構いはしないという意識が持たれがちです。逆に今までチャットの中で友人だと思っていた人から嫌なことを言われたとたんに、相手を非難し始める。所詮は苦楽を共にした訳ではない、仮想空間における友情などその程度のものかもしれません。
今後もどんどんパソコンは身近になりますが、しかし私たちが生身の人間である以上、社会から孤立しては生きていけません。画面の中のバーチャル(仮想)空間では、今晩のおかずは決められても、明日ありと思う心の問題はどうにもならないのではないのでしょうか。
このコーナーも本山ホームページに掲載されていますが、どうかそこを入り口として、お寺の門をくぐって頂くことを切に願うばかりです。 

■56 「いただきます」
言葉はコミュニケーションの方法として生活に不可欠なものですが、最近、テレビや雑誌などでしばしば日本語の乱れが話題になります。
以前読んだある本に、こんな事が書かれてありました。それは、イギリスの旧家へ嫁がれた方が書いたものです。...ある日、彼女のお宅へ日本から友人が訪れました。ちょうどお昼時でしたので、
「お食事は?」と尋ねたところ、
「来る途中レストランでいただいて参りました」と友人は答えたのですが、この「いただく」という言葉に、この本の筆者は違和感を憶えたといわれるのです。彼女によれば、
「誰かにご馳走になったのでもなく、自分で食事代も払ったのに『いただく』というのはおかしくありませんか?」ということです。
確かに、お食事を作って下さった方、ご馳走になった方にも「いただく」という言葉を使います。しかし、いただくという言葉は、たった、それだけのものでしょうか。言葉の表面にばかり執らわれて、自分の都合良く言葉を受取ってばかりいると、大切な事を見失いがちになるでしょう。  みなさんの今日の晩ご飯はなんですか? 魚・牛・豚・鶏はもちろんのこと、野菜もお米も、お茶の一杯まですべて、ついさっきまで生きていた「いのち」を私たちは食材として食べています。
私たちが「いただきます」と手を合わせて言うのは、そのいのちの恵みに対して心から申しあげる言葉なのです。
仏さまがいらっしゃる極楽浄土は、「言葉の要らない世界」と説かれます。一方、言葉一つ間違えれば、大きな問題が起こるのが私たちの住む娑婆世界です。
普段何気なく使っている言葉だけに、その大切さが分からなくなっていないでしょうか。私たちは一人では生きていけません。互いに支え合うためにも、言葉を通して心まで通じ合う真のコミュニケーションが必要です。
「いただく」に限らず、聞こえてくる言葉が真に伝えようとするこころに耳を傾けなくては、とあらためて考えさせられました。 

■57 三つの髷 (もとどり)
法然上人のもとで大勢が聴聞に励んでいた頃、お弟子の一人が故郷に帰りたいと申し出ました。すると上人は、
「おや、髷も切らずに帰るのかね?」 と仰ったので、このお弟子は、
「はて、出家した私のどこに髷が? 上人のおっしゃる意味が私には分かりません」 と尋ねました。そこで上人は、
「お前さんは故郷へ帰って、ここで学んだ知識で人々を驚かそう、そして有名になろうと考えてはいませんか? またそれを利用して生活の糧を得ようなどとは思っていませんか?」 と答えられたのです。さらに続けて、
「知識をもって人を驚かそうとする我慢勝他の心、それによって有名になろうとする名聞の心、そして経済的にも恵まれようとする利養の心の三つの髷が私には見えるのです」
すっかり自分の心を見透かされてしまったこのお弟子、直ちに自ら書きためた書物を焼き捨て、裸一貫で帰ったと伝えられます。
せっかく勉強したのに何てもったいない、と考える読者も多いのではないでしょうか。中には法然上人って、ちょっとイジワルな人だと感じる方もいるかも知れませんね。
でもこのお弟子に限らず、私たちがもし、「世間のほとんどの人が知らない知識」を手に入れたとしたら、「優越感」を持つことはないでしょうか。かといって、仏法を聴聞することを全く止めてしまったのでは意味がありません。
聴聞は大切、だけど自分自身が偉くなったなんて考えたら大間違い、考えれば当たり前のことです。だって、仏法とは全て仏さまが私たちを導くためにご用意下さったものであり、それを聞いて知ったからといって、自分が偉くなるわけでもなんでもないのですから。
そこで蓮如さまのお言葉をひとつ。
「王法(世俗の法律)をもってさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」
自慢げにひけらかすなんてもってのほか、との上人の仰せ。耳が痛くなるお言葉です。 

■58 「親死ぬ子死ぬ孫死ぬ」
一休禅師のお話として伝えられている有名な物語です。
むかし裕福な商人が、孫が生まれたお祝いに、何かめでたいことばを書いて欲しい、家宝にするから、と一休さんに頼みました。
「喜んで書きましょう」と気軽に引き受けた一休さん、さらさらと書いた言葉はなんと、『親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ』。
それを見た商人、顔を真っ赤にして怒ります。
「私は、めでたい言葉と言ってお願いしたのに、死ぬ死ぬ死ぬとは何事ですか」
そこで一休禅師、慌てず騒がずさらりと、
「なるほど、ではなにか、お前のところでは、『孫死ぬ 子死ぬ 親死ぬ』の方がめでたいのかな」と言ったのです。
商人はますます怒って帰ろうとすると、一休さんは、
「お前さんにはこの言葉のめでたさが分からんようだな。年寄りのあんたより先に、せっかく生まれた孫が不治の病にでもなったらどうする?代わってやりたいと嘆いても代われんだろう?」
年老いたものから順番どおりに死ぬということは実はとても難しいことです。
もしも自分の家族が年齢の順に亡くなったとすれば、それこそ家族みんなが長生きをし、仏さまより頂戴した命をまっとうしたということで、めでたいのです。
しかし現実はどうでしょうか。
時代を問わず、若者がある日突然、命を落とすことは、毎日どこかで必ずあるのです。
順番だなんて、最初から無いのです。
また順番通りにいかなかった家族が不幸だという考え方の根底には、「死」イコール「不幸の象徴」のように決めつけてしまう事に問題があるのではないでしょうか。
家族や最愛の人を失う辛さ悲しみは誰しも共通のものです。
しかし、生まれたものがいつか必ず死ぬことは避けられません。
ならば人生とは「生」も与えられ「死」も与えられたものだと言えましょう。
その、せっかく与えられた生を精一杯生きて欲しい、と一休さんは言いたかったのかも知れませんね。 

■59 「無明」
三人の子供たちにゾウの絵を描かせました。
前からゾウを見た子供は長くて大きな鼻を描き、横から見た子供は、大きな耳と大きなお腹を、後ろから見た子供は大きなお尻とシッポだけを描いたそうです。そして、絵を描き終えた子供たちが互いの絵を見て、これはゾウの絵ではない、あなたのも、あなたのもゾウではない、私の絵こそゾウであると言い争うのです。
この寓話は、私たちが実は、物事の一部分だけしかとらえていないのに、つい、全部理解したつもりになっている様子を表します。
自分がどういう場所に座ってゾウの絵を描いたのか、事の始まりはここにあると思うのです。
私たちは、とかく手に入りやすい答えを求め、その答えが自分以外の大勢の意見と同じだと安心します。
しかしその安心は、まったく異質なものに対しては、時として激しい嫌悪感を抱いたり、敵意をむきだしにする時もあります。
仏教では、自分の本当の姿を知らずに、悩み、もがく様子を「無明」といいます。
光が無いから手探りで歩き、目の前にどんな危険があろうと気付かないのです。
仏法は、そんな私自身とこれから歩むべき道を光で照らして下さいます。あせって急ぎすぎれば、時につまずいたり、転んだりするかもしれません。でも、自分が今どこにいるのかが明らかになることは、私にほんとうの安心と勇気を与えてくれます。
光がもっと大きくなれば、今度は他人の姿をも照らして下さいます。すると、ああ、この人にはこういう事情があったのかと、他人が進もうとしている道も見えてくることでしょう。お互いの道は時に交わったり、重なったりしています。「無明」を生きている間は、そこで争いが生まれます。
しかし、お互いの道がはっきり見えれば、ゆずることだって、ともに歩むことだって出来るはずです。争う必要のない世界、異なるものどうしが異なったままで歩める世界を、どうか仏法に聞いていただきたいのです。 

■60 「お陰さま」
これは、とある草野球チームの試合中の出来事です。
守備についたA君のもとへ、平凡なフライが飛んできました。
彼はグラブを構えボールを見据えていたのですが、夜間照明の光のせいか、ボールはグラブをかすめ彼の左目に直撃したのです。
A君はその場にうずくまってしまいましたが、大変気の毒な事にチームメイトは「どうせ照れ隠しの演技だろう」ぐらいにしか思わなかったのだそうです。
ところが一向に立ち上がってこないので、さすがにみんなが心配して様子を見にいきますと、哀れにもまぶたは腫れ上がり、出血はするわで、大変な事になっていたのです!!すぐさま病院に運ばれ、眼科の先生方二人により念入りな検査と手当てを受けた結果、大事に至らなかったのは不幸中の幸いでした。
みんな、見るからに痛々しい姿のA君に口々にこう言いました。
「だいじょうぶ?災難だったね」
まあ、もともと彼のエラー(!?)が原因だし、結果的に打撲で済んだのですから、みんな口で言うほど、同情しているとも思えないのですが・・・。A君はそんな彼らに、こう漏らしました。
「いやあ、助かった」
「???」みんなA君がケガのせいで少し混乱しているのか、と少々心配になりましたが、 「目の前が真っ暗になったときは、これでもう光を失ったかと思いましたよ。打撲で済んでよかった。ありがたい」というのです。
人はいざ自分自身に災難が降りかかると、不幸を嘆き、他を恨みがちです。 しかし、若い頃から家庭環境の中で仏法に親しんでいた彼は、「お陰さま」と手を合わせたのでした。
仏法には、良きにつけ、悪しきにつけ、全て「お陰さま」と引き受けてゆく強さがあります。
そしてその強さとは、からだをいくら鍛えてもなかなか手に入らない強さなのです。なぜなら、それはみ法を聞きひらき、仏さまから授かる強さなのですから 。 
 

 

■61 自分中心のメガネ
事件の容疑者が捕まるたび、近所や知り合いの方がいいます。「なぜあの人が...」と。
ふだん真面目そうな人、優しいひと、そんな風にみられている人間でも、「縁」がもよおせば信じられないことをしてしまいます。それは裏を返せば私の姿でもあるわけです。
親鸞聖人は「なにごとも心にまかせてしまえば、極楽へいきたいがために人を千人でも殺すだろう。それができないのは、そこまでやるほどの業縁が自分にないだけのこと。自分の心が美しいからではありません」とするどく見抜かれています。
「邪智世間智」という言葉があります。これは普段私たちが自分中心のメガネをかけて全てのものを推しはかっていることを意味します。例えば、あの人が好きとか嫌いとか、これは正しいとか間違っているとかの判断は全てこのメガネによるというのです。自分の都合次第で、これまで大嫌いだった人間が好きになれるのも、このメガネのせいなのです。
そんなメガネをかけている私ですから、仏教がいくら、「全てのものは移り変わり、永遠に変わらないものはない。また全てのものは互いに関係し、支え合って存在する」と説き、この言葉を頭で理解したとしても、いざ自分のこととなると、はなはだ怪しいかぎりなのです。
高度に文明が発達した現代社会に住む私たちは、命がほかの多くの命によって支えられ、生かされているという事実に、少し気付きにくくなっているのかも知れません。しかし、いったん気がつくと、これまで見えていなかったことが見えてきます。すると痛みも伴うかもしれません。
でも大丈夫。誰もけっしてひとりじゃないんです。恐れず一緒に見ていきましょうよ。
「一人いて喜ばは、ふたりと思うべし。ふたりいて喜ばは、三人と思うべし。その一人は親鸞なり。」あたたかい、親鸞様のお言葉です。 

■62 まっすぐに見る
村の大きな松の木の下に「この曲がった松の木をまっすぐに見ることのできたものには褒美を与える」という立て札が立ちました。
さあ大変、村中が大騒ぎです。村人の中には弁当持参で一日中じっと見ているものもいましたが、その松は幹はもちろんのこと、枝も曲がりっぷりがよく、ものの見事にねじれていて、どこからどう見ても曲がっているのです。
そこへふと、お坊さんが通りかかって、立て札を読むなり、お付きの小僧さんに「まっすぐに見えたから、褒美をもらってきておくれ」と言うのです。あっという間になぞを解いてしまったお坊さんの言葉に、村人たちは戸惑うばかり。そこで、村人の一人がおそるおそる尋ねました。
村人:「お坊さま、どうやったら、この松がまっすぐに見えるのでしょうか。私には曲がってしか見えないのですが...」
お坊さま:「そりゃ私が見ても、この木はよおく曲がっているとも」
村人:「ですが、まっすぐに見えたんですよね」
お坊さま:「その通り、まっすぐに見えたよ」
村人:「ならば曲がっていないのですよね」
お坊さま:「いいや、よく曲がっておる。見事な曲がりっぷりだよ」
村人たちは訳が分からずチンプンカンプン。
そこでこのお坊さんが云うには、
「あなたたちは、この曲がった松の木をまっすぐに見ようとするからダメなんだよ。いいかい、まっすぐに見るというのは、この松を見て『何ともよく曲がっておるの』と感心することが『まっすぐ』なんだよ。わかるかな。曲がったものを曲がっていると見ること、それがまっすぐということなのだよ」とのこと。
お釈迦さまの教えの中に正見(正しくものごとを見る)という教えがあります。私たちは普段、ちゃんとものを眺めているつもりですが、自分勝手な都合のよい見方や考え方をして、自分の意見ばかりを主張してはいないでしょうか。仏教では、物事を正しく見ることから正しい心、つまり正しい考えが生まれてくると説きます。仏法とは常に自分の心を問いただすことが大切なのだ、と教えて下さっているのです。 

■63 人間も自然の一部
結婚式などに出席すると、晴れてさえいれば「良いお天気でよかったですね」などと、皆が口々に言います。子どもの運動会となればなおさらですが、ここで私たちが言う「良いお天気」とは、つまりは「晴れ」のことですね。
なんだ当たり前じゃないか、と思うのも当然ですが、では快晴が何週間も何ヶ月も続いたら、どうでしょう。
夏ならば海の家は大繁盛で、電気店ではエアコンが飛ぶように売れることでしょう。一見なんの問題もないようですが、水不足となれば農業にとって深刻な問題となります。工業にも大きな影響がでるかもしれません。とても「良いお天気」などと浮かれてはおられないのです。「そろそろ一雨欲しいなあ」などと言っていても、自分が旅行に出かける時だけは晴れて欲しいと思うもの。結局、私の都合を最優先に考えてしまうんです。
春になると桜の花が美しく咲きますが、都合良く週末に満開を迎えるとは限りません。せっかく満開になっても、風が吹いて雨も降るかも知れません。自然とは私の勝手な思いとは関係なく、その営みを続けています。
あふれるモノや情報で、そんなことすら忘れがちですが、よく考えると人間も自然の一部なのです。私たちは、土や水、光の力を借りて作物を実らせますが、肝心の土を作ることはできませんし、太陽そのものを作ることはできません。全て与えられたものばかりです。そして、それらの自然を恵んでくれる地球という星は、果てしない宇宙の中で他の惑星や恒星と深く関わり合いながら存在しています。
地球の自然を含む宇宙全体の働きかけがあってはじめて、桜の花は開き、海水浴にもいけるのです。大きな事を言うようですが、人生の営み全てが自然のお陰様、お陰様の人生でございましたと謙虚になると、自分一人で生きていたのではない、生かされていたのだという事実が、新鮮な驚きとして心に響いてくるのではないでしょうか。 

■64 一粒の米の重さ
「一粒の米の重さはどれくらいだと思うか」
ある時、お釈迦さまは弟子の阿難尊者にお尋ねになりました。
「お米は小さいものでございますから、とても軽いものと考えます」と阿難尊者が答えると、
「その重さは須弥山(しゅみせん)よりも重いものである」とお釈迦さまは仰せになりました。
須弥山というのは、仏教の世界観で宇宙の中心をなす巨大な山のことで、十六万由旬(一由旬=約七キロメートル)もの高さがあります。
現代に生きる私たちもお釈迦さまのお尋ねには、同じように答えるのではないでしょうか。
お米一粒は秤にかけても針はほとんど動きませんし、お金に換算したとしてもわずかの値打ちにもなりません。だから阿難尊者のお答えは科学的、合理的見方としては正解です。
しかし、お釈迦さまが「須弥山よりも重い」と仰ったのは、もちろん、秤にかけた重さではありません。この一粒ができあがるまで、春から秋までに受けた恵みの重さは量り知ることのできない広大無辺なものである、そのご恩を忘れてはいけない、との教えであります。
少し考えただけでも、お米が私たちの御膳にのるまでどれほどの恵みがあることでしょうか。太陽の光、大地の熱、水などの自然の恵み、子育てをするように大切に稲の世話をする人々、お米を運搬する業者、販売店、炊事してくれる家族......。無数の恵みのお陰様で、やっと私にいただけるのですね。
目に見えないものはついつい忘れがちです。ましてや使い捨てが当たり前になってしまっている現代、お釈迦さまの教えをしっかりと心にとどめ、お陰様の日々を暮らさせていただきたいものです。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
浄土真宗本願寺派龍谷山本願寺(西本願寺)・法話

 

 
 

 

■心ゆさぶるお手紙
行間から漂う香り
よくしれらんひとに尋ねまうしたまふべし。またくはしくはこの文(ふみ)にて申すべくも候(そうら)はず。目もみえず候ふ。なにごともみなわすれて候ふうへに、ひとにあきらかに申すべき身にもあらず候ふ。よくよく浄土の学生(がくしょう)にとひまうしたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。
親鸞聖人、85歳の時のお手紙です。ある人からの質問に対して、丁寧に的確かつ理路整然として応答されたお手紙の結びの一節です。丁寧にお答えになられたその上で、「この手紙にいちおう詳しくは書きましたが、よくお浄土について学んでいる人にお尋ねください。もう私はご存知のように老いてしまいました。目もよく見えません。なにごとも忘れてしまいました。人さまに教えを説くような身ではございません」とおっしゃっているのです。なんともいえず深い味わいがあって、私はこのお手紙が好きです。私はうまく表現できないのですが・・・、聖人が「老い」を静かに引き受けている香りが漂っている気がするのです。どこにも力みがなく、行間からは、自然の風景を観じているがごとき眼差(まなざ)しで自らの有りさまを語っておられる雰囲気を読み取ることができます。
一筋縄でいかないお方
一方、このようにおっしゃられながら、聖人は90歳近くまで精力的に著述活動を続けられました。「悲嘆述懐(ひたんじゅっかい)和讃」のような緊張感あふれるご和讃や、近代哲学で高く評価された「自然法爾章(じねんほうにしょう)」を書かれたのは85歳以降の最晩年です。一方では自らの老いをあるがままに引き受け、一方では「浄土は恋しからず候う」(歎異抄)と語る。なんて一筋縄ではいかない方なのでしょうか。しかし、考えてみれば、「生きる」ということは一筋縄ではいかないんですよね。理屈で割り切れないことばかりです。私たちは、お念仏してお浄土へ往生させていただく身を喜びながら、這(は)いずり回って生にしがみつき、アンチエイジング(加齢への抵抗)を試みます。まさに、仏さまの教えと日常との狭間(はざま)でのたうち、宙づりにされる日々です。それが「生きる」ということでしょう。どこにも着地できない・・・。浄土真宗の教えはそこから決して目を逸(そ)らさない厳しさがあります。その中で、確かに確かに生と死を超える世界が開かれる、親鸞聖人が書き残されたいくつかのお手紙からはその実感が伝わってきて、私の心はゆさぶられます。
必ずお浄土で会う
例えば、かくねんぼう(お弟子の覚念房?)という人が今生の息を引き取られたときには、かならずかならず一つのところへまゐりあふべく候ふ(同)
「必ず必ず同じお浄土でお会いいたします」と、手紙にお書きになっています。それは、「私はかくねんぼうと少しも変わらぬ道を歩んでいるから」という覚悟に立脚した揺るぎのない宗教性です。間違いなくお浄土へと往生させていただける喜びを語る聖人。その反面、『歎異抄』では、ちょっとした病気だけでも「死ぬんじゃないだろうか」と心配してしまう苦悩の世ではあっても「離れ難い」、そう告白した赤裸々な聖人が描かれています。どちらも親鸞聖人の実存(現実の存在そのもの)です。すごいですね。私など聞かせていただくほどに迷路の奥へと進むような気持ちになります。でも、間違いなく、心ゆさぶられます。普段とても大事に思っていることがつまらなく見えてきたり、いつもは考えてもいないものが浮上してきたり・・・。
どうでしょう、みなさんもご一緒にゆさぶられませんか。 生と死を超える世界の扉が向こう側から開(ひら)けてくる教え、なかなか出あえませんよ。

■ベンチの風景
なんで座ってない?
平成18年、私の住んでいる兵庫県で「のじぎく国体」が開催されました。それに伴い、県全体の競技力アップを図ろうという動きが起こりました。その縁で私は、地元の小・中学生と一緒にハンドボールをすることになりました。そこで出会う子どもたちのいのちは、実に個性豊かです。ガッツポーズを乱舞させ、闘争心を前面に押し出す子ども、自分のミスに責任を感じて、思わず泣き出してしまう子どもなどなど。これからも、縁ある限り、そんな子どもたちと共に汗や涙を流していきたいと思います。そんなふれあいの中で、先日、こんなやりとりがありました。それは、ビデオ録画をしていた自分たちの試合を観ながら、各々の反省点を探そうという時のことです。ある1人の子どもが、ベンチに映っている私たちスタッフの姿を見て、「なんでイスがあるのに座ってないの?」と聞いてきたのです。その場にいたスタッフを代表してチームの監督が「それは、みんなのことが心配で心配で仕方ないから、思わず立ってしまうんや。練習してきたことを精いっぱい、発揮してほしいと思うから、立ち上がって、声をかけてるんやで。みんながコートで一生懸命プレーしてる時に、ベンチのイスにふんぞり返って座ってるなんてことはせえへん」と答えたのです。
お立ち姿の仏さま
私は納得してくれたのかなぁと、彼の様子を窺(うかが)っていると「ふーん。でも、試合になると無我夢中やから、ベンチからの声は聞こえへんで」と笑いながら話したのです。素直な言葉です。これが選手たちの本音なのでしょう。あまりにも正直な返答に、私たちスタッフも苦笑いするしかありませんでした。けれど監督が「それでもええねん。みんなに声が聞こえなくても、みんなのことが大好きやから、それでも立って応援し続けるんや」と言葉を続けました。これは、スポーツを通して交わされた、監督と選手の何気ない会話です。けれど、その場に居合わせた私は、このやりとりから、阿弥陀さまのお姿をふと思い浮かべたのです。浄土真宗の阿弥陀さまは、お木像であれ、ご絵像であれ、すべてお立ち姿の仏さまです。逆に言えば、蓮華の座に腰をおろし、じっと座りながら、私たちを見ておられないということです。なぜか? このことについて、中国の善導(ぜんどう)大師は、ご自身のいのちの問題として深く味わっておられます。
迷い続ける私のために
善導大師は『観経疏(かんぎょうしょ)』を著され、「仏さまのお徳は、この上なく尊いことである。だから、仏さまというのは、本来、たやすく、軽々しく立ち上がるべきものではない」(筆者取意)と告げられました。その上で、にもかかわらず、お立ち姿で現れてくださったことを「この世を偽りの笑みを浮かべながら、裏切りを胸に秘め、欲望に振り回されて生きていこうとする凡夫の在り様は、まさに三悪道(さんまくどう)(地獄・餓鬼・畜生)の迷い火の中に堕(お)ちていく姿そのものである。さらに申すなら、その危機に直面しながら、気付こうともしていない。その凡夫のいのちを、ただ座ったままで、じっと見続けることができないと願われ、阿弥陀さまがわざわざ立ち上がってくださったのだ。迷いの牢獄にいる凡夫のために立ち上がり、抱きとって、光を与えよう、ぬくもりを与えようとはたらき続けてくださるのが阿弥陀さまの大悲の深さである」(同)とお示しくださいました。生死(しょうじ)の海に流されながら、溺(おぼ)れゆく私を、岸辺から座ったままで眺(なが)めることができなかった阿弥陀さまは、私のために立ち上がり、休むことなく、私のいのちに寄り添い続けてくださっている。私を決して決して、ひとりぼっちにはさせないと立ち上がり、今、まさにこの私にはたらき、生き続けてくださっている阿弥陀さま。
喜びの日も、悲しみの日も、愛する日も、背く日も、この人生を共に歩んでくださる阿弥陀さまの慈しみと育(はぐく)みのおこころを、あらためて教えてくれたのは、子どもの感じ取ったベンチの風景からでした。

■暗闇(くらやみ)にいるようなもの
教壇に立ってみて
「学校がなかったら暗闇の中にいるようなもんや」
みなさんは〈夜間中学〉をご存じでしょうか。全国で35校しかないのですが、夜間といっても公立の中学校です。不思議なご縁で、私が非常勤講師として教壇に立たせていただいて6年になります。生徒さんは、先の戦争のために小中学校で学べなかった方々。日本人、旧植民地出身の在日韓国朝鮮人と台湾人、そして現在では多数を占められる、旧満州に終戦とともに置き去りにされた中国残留邦人とそのご家族です。この方々に、家庭崩壊や不登校などの理由で若者がちらほら加わって、なんともバラエティに富んだ学校となっています。さて、文字を知らない、読み書きができない、とはどういうことでしょう。冒頭の言葉は74歳の生徒、Sさんの言葉です。「朝鮮」から父親とともに渡日。父親は日雇いで働き、彼女が家事や妹たちの子守を引き受け、結局学校にはいけなかったのです。自分の子育ても終わり、やっと〈夜間中学〉にたどりつかれて、初めて鉛筆をにぎり「あいうえお」を書かれた。・・・読み書きができないことが恥ずかしい・・・だから無文字であることを隠すために近所づきあいもできない・・・。もちろん福祉や人権なども遠い話、役所にいっても申請書類が書けないのです。
おごりも卑下もなく
また、入学当時は誰とも目を合わせずいつもうつむいておられたHさん。彼女は「学校に入っていろいろ教えてもらって、私、初めて一人で町へ出たんやで」と教えてくださいました。それまでは、家事を行うのもすべておつれ合いの指示で動き、値札も読めないから買い物も二人連れであったそうです。その彼女に「学校に来て何が一番良かったですか」とお聞きしましたら「修学旅行がうれしかった」と。「なるほど旅行する機会がなかったので、珍しい風景やモノが見られて良かったんですね」と言うと、「ちがうの。生まれて初めて他人といっしょに宿泊したから、楽しくうれしかったのよ」とおっしゃられたのです。先ほどのSさんも自分と同じ境遇の仲間と出会い、何一つ隠すことなくすべてをさらけ出して無邪気に学べる、そこに人生に灯(あか)りがともったような喜びがあると言われるのです。お二人の内なる思いを聞けたとき、「教員であるとモノ知り顔の私は何もわかっていなかった」と大きなショックを受けたのです。その人の人生に本当に寄り添わなければ、真実はわからない。と同時に、人はそのように自分のことを真実理解し支えようという存在の中でこそ、驕(おご)りもせず卑下(ひげ)もしない「人間」に育てられていくのだよ、と示された思いでした。
一味平等の世界
「無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)になるぞ」とお名のりになられた阿弥陀さまは、遠くから照らし見ているような仏さまではありません。私の人生に飛び込んでこられてその痛みや悲しみを共に受けて支えようという如来さまだとお聞かせいただきます。その尊さと困難さを思うと、今さらながら頭が下がります。〈夜間中学〉は、失った「学び」を取り戻す学校です。そのために受けた差別やそこから生まれた劣等感から解放されることを目指します。けれどそれは、文字を知って知らない人より優位に立つことではありません。それでは過去の自分を否定することになります。むしろ過去の自己をも含んである今の自分にかけがえのない価値を見出し、共に課題を越えていく「学び」でなければならないのです。そこでは、読み書きができるできないというモノサシを超えて、一味(いちみ)平等の世界が広がるのでしょう。「南無阿弥陀仏」に遇(あ)わせていただくとは、「衆生は皆平等にわが子なり」という如来のお慈悲に遇うことです。だからこそ親鸞さまは「善悪の文字をも知らぬ人はみな まことの心なりけるを 善悪の字知り顔は おおそらごとのかたちなり」と、我々のはからう心を戒め阿弥陀さまへの帰依をすすめてくだされたのです。あらゆる姿、境涯の存在から、生徒さん方の尊い人生の一つ一つから如来さまが立ち現われ、この私をお育てくださるのだと感謝の思いを深める毎日です。みなさんにも〈夜間中学〉に関心をもっていただき、知ろうとしてくださることを念じます。

■心の依りどころ
結婚式って何のため
年末に、北豊(ほっぽう)教区仏教青年連盟の活動として、模擬仏前結婚式を開催しました。青年が対象ですので、まずは仏教に興味を持ってもらわねばと考えた結果、仏前結婚式にたどり着いたのです。実をいいますと、私自身結婚を間近に控えており、そのことも手伝って結婚式についていろいろと考えてみました。まず、私の実感として、仏前結婚式はあまり一般に知られていないように感じます。仏事と言えば、葬儀や年回法要といった印象が強いせいでしょう。実際、日本における結婚式は神社で行う神式や、教会やチャペルで行うキリスト教式、最近では人前式がはやる一方で、仏式はごくわずかです。とはいえ、いずれの形態にしても、宗教的な思いから行っているとはあまり言えないようです。例えば、「あの有名人が○○神社で挙式したから」といった流行や、「ウエディングドレスも着ることができるし、見た目もいいから」といった外見などが重視されがちです。しかし、そもそも結婚式とは形式だけのものなのでしょうか。本来は、巡り遇(あ)い、結ばれるご縁をいただいた二人が、新たな人生を歩み始める大切な儀式です。ですから、流行を追いかけたり、見た目を気にしたりするよりもまず、夫婦二人が生きていく上での心の依りどころに基づいて行うべきではないでしょうか。
「僕と苦労を共に」
ところで、すでにご結婚されている方は、プロポーズの言葉を覚えておられるでしょうか。現代においては「必ず幸せにするよ」という内容のものが多いようです。しかし、以前は「一緒に苦労しておくれ」といっていたようです。「どうか私の苦労を分け合っておくれ、一人ではとても背負いきれないから」「あなたの苦労を私にも背負わせておくれ、あなたと共に歩んで行きたいから」そんな思いが、この言葉には込められています。一緒に喜ぶことよりも、一緒に苦労したり、泣いたりすることの方が、はるかに難しいことではないでしょうか。私はここに、仏さまのようなあたたかさを感じます。『仏説無量寿経』には「もろもろの庶類(しょるい)のために不請(ふしょう)の友となる。群生(ぐんじょう)を荷負(かぶ)してこれを重担(じゅうたん)とす」と、あります。私自らが求めなくとも、仏さまの方から私にはたらきかけてくださり、友となってくださるのです。そしてまた、私の苦をそのまま自らの苦として引き受けてくださり、私のいのちを引き受けてくださっているのです。苦しみ、悲しむ私に向けて、「一人じゃないよ、私がそばにいるよ」とよびかけてくださり、私の心の依りどころとなってくださっているのです。その仏さまの尊前において、結婚を誓い、互いに敬い合い助け合う人生を誓うのです。そして、その仏さまと一緒に、夫婦が歩んでいく人生であるからこそ、二人の新たな出発点である結婚式を仏前で執り行うのです。
お慈悲は私の活力
浄土真宗では「仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)」ということを大切にします。仏のご恩とは、私が求めなくてもいつも私のそばに寄り添い、私のいのちを引き受けてくださる仏さまから受けたご恩です。では、報謝はどうでしょうか。私たちは、自分勝手な生き方しかしていません。それどころか、自分勝手な生き方をしていることにすら、気付いていないのです。仏さまの光に照らされることによってはじめて、私の姿が知らされるのです。そして、自身の姿が知らされたならば、恥ずかしく思って立ち止まるのではなく、自身を改めることはかなわなくとも、少しでも仏さまのお心にそっているかとたずねていく。それは、この私のいのちを精いっぱい、力強く生き抜くことでもあります。これが報謝の姿です。阿弥陀さまのお慈悲が、今を生きる私の依りどころとなっているのです。最初に触れましたが、私も今年の3月に結婚します。形式的に仏前で行うのではなく、いつも私に寄り添ってくださっている阿弥陀さまのお慈悲を依りどころとし、そのお心にそった、夫婦共に敬い合い支え合っていく、仏恩報謝の日暮らしを歩ませていただきたいものです。

■如是我聞(にょぜがもん)
とても謙虚な姿勢
お経(きょう)は「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉から始まります。日頃親しく拝読いたします『阿弥陀経』も「如是我聞、一時仏在(にょぜがもん、いちじぶつざい)・・・」と始まります。『大無量寿経』は「我聞如是」で始まりますが、意味は同じです。「わたしは、かくの如くお聞かせいただきました」。これが「如是我聞」です。「仏さまがかくの如くおっしゃられました」で始まるのではなく、あくまで「私はこのようにお聞きしました」と、われわれ人間の立場から始まるのが、お経の大きな特徴であると言えます。これは、お釈迦さまのおさとりの世界は広大無辺で捉えようもないが、この私が頂いたところによりますとという、とても謙虚な姿勢です。私見をまじえることなく、そのまま、その通りに聞く、仏さまの意にかなう姿勢が示されていることだと思います。実際私たちは人間は、自分のあるようにしか世界が見えません。ほかの人を見て、その人の過去も、また何を思ってその人生を歩んでこられたのか、その人の百分の一、万分の一もわかっていないのに、「この人はこういう人だ」と決めつけたりします。何もわかっていないのに、わかっているつもりになっていることこそが迷いです。また、「今日は寒い」と言いますが、「私が感じるところでは、今日は寒い」と言うのが正確な表現です。寒いと思わない人がその場にいるかも知れません。私たちは自分の感じる世界にしかいることができません。自分がしんどい時には世界は灰色に見え、楽しい時にはバラ色に見えるのが私たちの有り様です。ですからどこまでいっても真実がわからないのです。
よき人のおおせに
しかし私たちは真実に遇(あ)っていく世界があります。それが如是我聞、聞いていく世界です。ここに何を言ってもウソをつく人がいたとします。さて、そのウソつきの人が「私はウソつきです」と言った言葉はウソでしょうか・・・。いいえ、この言葉だけは真実です。ウソつきも一つだけ真実を言うことができます。そのように真実の全くわからない私たちも一つだけ真実のことが言えます。それは「私の中にはどこまでいってもあてになるものはありません。真実はありません」ということです。聞けば聞くほど私の中には真(まこと)のまの字も無いと知らされていくのが、実は真実に遇っていく世界なのです。このことに徹底されたのが親鸞聖人でした。聖人は「私の言うことは真実であり、間違いない」という姿勢ではありませんでした。『歎異抄』に「よきひとの仰せをかぶりて」とありますように、「ただ恩師・法然聖人からこのようにお聞かせいただきました」という姿勢を一生貫かれました。聖人の著された『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)も自説が展開されているのではありません。お釈迦さまの説かれた経典、法然聖人までの高僧の方々が著されたご文(もん)、そしてそれをいただかれた聖人のお言葉が載せられてあります。これこそ如是我聞の姿勢そのものだと思います。
愚かさを知らされる
世の中に「この私の言うことこそ真実だ」と宣言する教祖がいて、その教祖という一人の人間の言葉こそ真実の声だという教団があったら、それは最も危険なものと思われます。如是我聞という世界は、聞けば聞くほど私こそ真実に近づき偉くなっていくことではありません。逆に愚かさに気付かされていくことです。私たち人間は上へ上へとはい上がっていくことを好みますが、聞けば聞くほど逆に下へ下へと落ちていくのです。ではどこに落ちていくのかと言いますと、それこそ阿弥陀さまの胸の中へと落ちていくのです。もし「私の信じる教えこそ真実である」と主張する異なる教えの信奉者が二人いたら、そこに起こるのは争いでしょう。その想いが純粋であればあるほど争いは熾烈(しれつ)になっていきます。これが現に今世界で起こっていることではないでしょうか。もしそこにお互いが、「我々人間の中にはどこまでいっても、自分の力で真実の世界を見ることができない」という気付きがあったならどうでしょうか。主張して、戦って相手に勝つことより、自分の愚かさへと眼が向けられていきます。そこにはもはや争いはありません。「如是我聞」―これこそ異なった民族、宗教がますます混ざり合ってボーダレスになりつつある今日この世界の、大切なキーワードに思えてなりません。

■「すでに道あり」
旅ゆくしんらんを・・・
平家物語でも有名な「盛者必衰会者定離(じょうしゃひっすいえしゃじょうり)」という言葉が示す通り、これは私たちが住む世界の道理です。盛んなる者は必ず衰え、出会った者は、いつかは必ず別れねばなりません。小学校入学から卒業するまで、月に一度の自坊の子ども会に出席していたK君のおばあさんが、先日ご往生になりました。亡くなられたという知らせを受けてお参りしました。K君も親族のみなさんといっしょに、ご遺体の傍らに座っていました。K君は昨年、初めての子どもに恵まれ、育児にも励む新米お父さんです。新しい家庭を持ってすぐに、ご本山からご本尊をお迎えしました。秋には初参式のご縁に遇(あ)い、おばあさん共々大変喜んでいました。そのK君が読経の後で、おばあさんが息を引き取る前の様子を話してくれました。「祖母はたったひと月の療養で往(ゆ)きました。小さい時からかわいがってくれました。厳しいけれども優しい、懐の深い情の厚い祖母でした。亡くなる一時間前に僕に『旅ゆくしんらん』を耳元で歌ってくれと言うのです。残念ながら僕はその歌を知りません。でも、ご本尊の前にいつも置いている、子どもの時から使っているお経本にはこの歌があるだろうと思って、急いで病院から家に帰りました。それを手に取り病室に戻り、経本を開きました。でもその歌は載っていませんでした。あぁと落胆しましたが、『恩徳讃』なら知っている、空で歌えると思い直し、ずっと繰り返し歌いました。その歌を聞きながら祖母は静かに安らかに目を閉じました」
懸命に伝えようと
思い返せば昨年11月末のお取り越し報恩講には、87歳になるそのおばあさんは、参拝のみなさんの前に立ち、『旅ゆくしんらん』の歌唱指導をされました。5番までの歌詞が大きな文字で印刷されたものと、音符と歌詞がいっしょに印刷してある2枚の紙を全員に配られて、大きな声で歌われていました。みなさまに伝えよう、歌ってもらおうと懸命な姿勢でした。親鸞聖人のお姿が目の前に立ち現れるようなこの歌詞に、大いに励まされる心持ちがすると生前によく話されていました。あらためて歌詞の1番から5番までの出だしを見てみると、「しろい小径(こみち)」「暗い夜道」「吹雪の道」「けわしい坂」「長い旅路」となっています。長短の差はあれ、人生行路において、それぞれに自分が出合っていかねばならないものです。時には暗く吹雪の道を進み、時には険しい山坂をつまずきながらも越えなければなりません。
一人じゃないから
今、子ども会に1年生の男の子が来ています。先日、本堂に入るとすぐに「今日はここまで歩いて来るのに、すごく近くに感じたよ。いつもは遠いなぁと思うのに・・・。今日はずっとおばあちゃんが付いてきてくれたから」と話してくれました。私はその子のうれしそうな誇らしげな顔を見て、自分もうれしくなりました。そしてこれだと思ったのです。連れがある、連れがいるという心強さは、一人の心細さを払拭(ふっしょく)し、安心と明るさをもたらし、感じ方さえも変えてしまうのだなと思いました。「南無阿弥陀仏」は「わたしがいますよ。あなたは一人ではありません。暗く寂しい道にあっても、つまずく険しい山坂にあっても、わたしがいます。さぁ元気を出して。さぁ辛(つら)くても立ち上がれ。共に乗り越えていきましょう。いつでもどこでもどんな時にも、南無阿弥陀仏とわたしをよんでください。わたしは南無阿弥陀仏となって自らを知らせていますから」という言葉です。あなたは決して一人ではない、あなたと共にわたしがいますという名告(なの)りです。「すでに道あり」。この南無阿弥陀仏の白道(びゃくどう)はすでに私のために用意されてあります。その道を親鸞さまもお歩きになりました。「しろい小径がありました」と歌詞には表されています。そして、さきに往(ゆ)かれたおばあさんは『旅ゆくしんらん』を自ら歌いながら、また人にも教えていく中に、親鸞さまと同一のお念仏の道を歩む身の幸せを喜ばれていたのでした。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えながら往かれた親鸞聖人。「夕陽のような人でした」と歌は結びます。

■忘れてませんか?
お休みしてるのは・・・
春の足音とともに、きびしかった冬もようやく終わりを告げようとしています。「春眠暁(あかつき)を覚えず」などといわれますが、朝の寝床の名残惜しさも、あまり感じなくなってきた今日この頃です。朝の目覚めとともに気になるのが、その日の体調。「胃がちょっともたれてるな」とか、「なかなか肩こりがとれないな」と、日頃の疲れがたまっているのが、忙しさに追われる現代人ではないでしょうか。さて、私たちのお腹の中にある胃や腸といった臓器は、食べ物を消化して、生きていくために必要な栄養を身体(からだ)に取り込んでくれています。これらの臓器は心臓と同じように、意識をしなくても勝手に働いてくれています。ありがたいことです。元気な時は忘れがちでも、ちょっと風邪をひいたり、お腹が痛くなったりすると、健康のありがたさが身にしみます。毎日頑張って、それこそ寝ている時も起きている時も、私の身体中のすべてが働き続けてくれているのです。ところが、一つだけお休み?をしているところがあります。それは「おへそ」です。いかがですか、「この前、おへそに世話になったなぁ」という方がおられるでしょうか。やっぱり、おへそなんて何の役にも立っていませんね。
親の心 子知らず
でも、私がこの世に誕生するまで、母親のお腹の中で私と母は一本の管で繋(つな)がっていました。その名残がおへそです。日頃の会話の中にも、「へそを曲げる」とか「へそで笑う」など、昔からおへそに関することわざは多く使われています。普段はあまり気にも留めていませんが、おへそをよく見てみると、へこんでいるものや、出ているもの、右に向いたり、左に向いたりと、いろんな顔を持っているおへそです。このおへそのおかげで、オギャアと産まれてくるまで休むことなく母親から充分な栄養を分けてもらって育ててもらいました。ですが、そんなことはすっかり忘れてしまっているのが、ほかならぬこの私自身なのです。確かに、実際に見てきたわけでもないので、母親にその時のお礼なんてするはずがありません。でも、「親の心 子知らず」といったところでしょうか、よく考えてみると何とももったいないことです。
常にわが身を省みる
釈迦(しゃか)は慈父(じふ)、弥陀(みだ)は悲母(ひも)なり。われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。親鸞聖人は『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』というお書物に、こうお示しになりました。お釈迦さまは、慈しみあふれる父親であり、阿弥陀如来さまは、あわれみ深い母親であるといわれます。そんな私たちの父(ちち)・母(はは)は、さまざまな手だてを施して他力の信心を開きおこしてくださるとおっしゃるのです。私たちが「おやさま」とお慕いする阿弥陀如来さまは、五劫(こごう)という永い永い間、あらゆる衆生を救うために思惟(しゆい)されました。そして、めでたく南無阿弥陀仏のご本願を成就され、この私は必ずお浄土へ往(い)って仏に成ることができるのです。迷いのまっただ中を生きているこの私ですが、阿弥陀如来さまに願われて「そのまんま」救われていくのです。でも、おやさまの願いをよそに、目の前のことだけに右往左往しているのが、ほかならないこの私です。いつも私の真ん中にある「いのち」の証(あかし)なのに、こんなに身近にあるおへそなのに、ほったらかしにしているように・・・。皆さんはいかがですか? おへそに最近ご挨拶されましたか?ひょっとして汚れていませんか?私という縁を結んでくれた「おへそ」をきれいにして、私のいのちをもう一度見つめてみませんか?「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と「そのまんま」救われていくこの身のしあわせを喜びながら、「このまんま」でよいのか、と常に自らのすがたを問うていく日暮らし。それがおやさまの願いに出遇(あ)い、お念仏を申す日暮らしなのです。

■出遇(あ)えてよかった
何でだろう?
親鸞聖人はご生涯をかけて、私に「阿弥陀さま」を告げてくださいました。「すべての世界の『念仏のいのち』をご覧になり、おさめ取り、決して捨てることのないおはたらきであるから阿弥陀ともうしあげるのだよ」とのお心が示された、
十方微塵(じっぽうみじん)世界の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなわし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
というご和讃も、そんな尊いお言葉の一つです。ただ、このご和讃を聞かせていただくたび、「何でだろう・・・」と気になることがありました。というのは、「十方」とは、四方八方の八方に上下の二方を加えた言葉。「平べったいところも上も下も全部」という意味です。だったら「十方世界の」とおっしゃるだけでも「あらゆる場所に住む、すべてのいのち」という意味は示されます。実際、お経(きょう)にも「十方世界」と示されているのです。どうして親鸞聖人は、数限りないという意味の「微塵」を挟(はさ)まれたのか・・・。「和讃は当時の流行歌の形式だから、歌いやすいよう言葉数を調(ととの)えられたのかもしれない」と思いつつ、それでもそれでも「何でだろう・・・?」
来てあげたよ!
あるご法縁でのこと。そのお寺の幼稚園の年長さんの男の子が、ずっと私と一緒にいてくれました。それはそれで、うれしかったのです。が、何度も繰り返されるトランプ、はたまた、果てしなく続くゲームでの対戦、そのお付き合いには疲れました。なにせ、ご法話の間にとらせていただくわずかな休憩の時間さえも許してもらえなかったのです。1日目のご縁が終わり、いったん自坊へ帰ろうとした時のことです。見送りに来てくれたその子が「明日は、大好きなお稽古(けいこ)があるから一緒に居られないかもしれない・・・」と言いました。私は「そう、それは残念だなぁ」と言いつつ、内心は「あしたは解放される!」とホッとしていたのです。さて、その翌日。ご法話を控え用意をしていると、ドタドタ、バタバタとあわただしい足音。その足音が急速に近づいてきたかと思うと、いきおいよく襖(ふすま)が開けられました。肩には、まだカバンが掛けられたまま。ゼイゼイと息を切らせながら、それでも「先生、ただいま。僕、来てあげたよ!」との大きな声が飛んで来ました。後でお母さんから聞かせていただきました。今まで休んだことのなかった大好きなお稽古を取りやめてくれたこと。しかも、間に合うように一生懸命、走って帰ってきてくれたこと・・・。私は前日、ご法話の間に、この男の子の遊び相手をしてあげていたつもりでした。ところが、この子の思いは違っていたのです。講師部屋で一人っきりでさびしくないようにと、私の相手をしてくれていたのです。幼い胸のうちにそんな思いをかかえてくれていたのです。だからこその「僕、来てあげたよ!」だったのです。その心を大変ありがたく思いながら、「同じ場所で一緒にトランプし、ゲームをしながら、まったく違う思いの世界でいたんだなぁ」とつくづく思わされたのです。
念仏よろこぶ衆生に
おかげで「何でだろう・・・?」が少し解決しました。いのちの数だけ、「いのちの世界」があるのです。だからこそ親鸞聖人は「微塵(みじん)」という言葉を挟んでくださったのでしょう。十把一絡(じっぱひとから)げではなく、それぞれの「私一人(いちにん)」を、そのいのちがかかえる悲しみ・不安をとことんご覧になってくださった如来さま。そんな如来さまを告げてくださる大切な言葉であったのです。すると今度は「念仏の衆生」の響きまで変わってきました。確かに「念仏するもの」という言葉です。けれど、それはそのまま、『念仏の衆生』とする以外には救いようがないとみてくださった如来さまご自身が、まさにそのようにしようと私の上にはたらいてくださっている姿であったのです。私の「いのち」となりきって私をお救いくださる如来さまとの出遇(あ)い。同時に、そうまでしていただかないと救われようのない私との出遇い。「念仏の衆生」に、そのような響きまでが重なってきたのです。安心の如来さまに抱かれて、如来さまに呼びさまされていく「念仏の衆生」という人生。なんともたのもしく、豊かな「いのちの世界」です。南無阿弥陀仏、浄土真宗に出遇わせていただいて本当によかった!ナモアミダブツ

■満ち足りた人生
こんなはずじゃ・・・
「疲れがたまって、しんどいから、ちょっと温泉に行ってくる」 そんな言葉を家族に残して家を出た後、帰ってきて玄関の扉を開けると、思わず私が口にするセリフがあります。「あぁ疲れた。やっぱり家が一番」そんなふうに思うのなら、そもそも行かなければいいんだけれど、また、次の旅行の予定を考えたりします。別に、「温泉が悪い」「旅行に行ったって仕方がない、行かない方がいい」─そんな話をしているわけではありません。ただ、私が選んだり、決めたりして行動すると、よくこんなことになってしまうのです。「こんなはずじゃなかった・・・」と。きっと、問われているのだと思うのです。「あなたは今、どこに向かって、一体どうなりたくて生きているのですか?」
さとりの岸にいたる
春と秋にはお彼岸があります。彼岸は「到(とう)彼岸」。「彼(か)の岸に到(いた)る」という意味です。「迷い」というこちらの岸から、「悟り」という彼の岸に到るということだと聞かせていただいています。でも「迷い」とは?私は自分の価値観の中で懸命に「こうすれば楽になる」「こうなればきっと満足できるはず」と考えて人生を組み立てているつもりです。でも、思いがけないことがたびたび起こりますし、仮に予定通りにいったとしても、すぐに「こんなものか」と、何の感激もなく、空(むな)しく時を過ごしているのが事実だったりします。感動することも、満足することも失ってしまった私は、一体どうなれば満足するのか・・・?おそらくこんな私のありさまを「迷い」というのだと思います。「彼の岸」は、阿弥陀さまのお浄土。私はこのいのちを終えると、お浄土に生まれる。でも、そこに生まれてどうなるのか・・・。「私と同じような仏さまになるんだよ」と阿弥陀さまはおっしゃってくださいます。仏さまになるとは?それは、一切のいのちを・・・、時間でいえば「すべての瞬間」と、きっといえるのだろうし、場所でいえば「どこでも」、人でいえば「誰でも」ともいえるのだと思います。そんな一切を、私のように空しく、無意味なものに見ていくのではなく、全(すべ)てにきちんと意味を与えることのできるいのちになること。そして、他の人にも、ちゃんとそのことを気づかせることができるような、そんな大きな大きないのちになること。「無意味ないのちなど一つもないんだ」と。そんなことを、ちゃんと考えて生きていないのが、私であったりするのです。
生まれてきてよかった
私はどこかで、自分だけが思い通りにいけば、都合通りにいけばいいと思っています。他の人は関係なし。でも、そんなところでけっこう孤独を作っていたりもします。「誰も僕のことなんてわかってくれない」などと言いながら・・・。ずいぶん勝手なものです。何だか恥ずかしいのかもしれません。なぜなら、もし他人のことを考えるとしても、私は見返りだったり、結果を気にしますから。それで思い通りにいかないと、またイライラしたりするのです。でも、阿弥陀さまは、全部知っていてくださいます。そんな私だから、「南無阿弥陀仏。ここにいるからね。絶対捨てないからね。必ず仏さまにするからね」と一緒にいてくださるのです。いつ終わるかわからない、今という時間しか生きることのできない、この私を捨てない、そんな世界がここにあります。私の人生の方向は決まっています。とてもとても不思議なことですが、阿弥陀さまがいてくださる。きっと私が生きるということは、そんな大きな大きな阿弥陀さまに、たくさんたくさん気づかされ続けていくことなのでしょう。一体私はどこに向えばいいのか、何を望めばいいのか、願えばいいのかということも、全部阿弥陀さまが知っていてくださった。阿弥陀さまが、私の人生を本当に満足させてくださる。私は生まれてきてよかった。いつ終わってもいいのだと。

■大いなるはたらきの中に
命の深さが見える
座談会の時でした。「先生、私は93歳になり、長生きをしすぎました・・・」と、思いがけない言葉を聞きました。長生きがあたりまえのような現代ですが、その人生の中身は充実しているのでしょうか。お釈迦さまは「人生は長生きが尊いのではなく、いかに生きたかが人生の尊さを決める」ということをおっしゃっています。今の自分の生き方を問いながら考えさせられます。かつて「肉体は衰(おとろ)えても、心の目がひらかれている。人間の晩年というものはおもしろいものである。ここまで生きてきて、いのちの深さが見えてきた」と言われた念仏者がいます。人生そのままがお念仏のなかにあるような先生の生きざまでした。私に浄土真宗の素晴らしさを感じさせてくださった先生です。人は心の目がひらかないと、衰えた肉体は愚痴(ぐち)るだけのものになります。この先生がおっしゃる「おもしろい」とはよろこびです。年とともにいつもお育てにあずかることのできたよろこびがある人生であり、今まで生きてきたことの満足の声です。「この人生おかげさまでした」というよろこびと満足の声なのです。
損など一つもなし
私たちは、さまざまな出会いによって人生に多くのことを学びますが、お念仏を生活の依りどころにして生きている人との出会いほどうれしいものはありません。それがウチのおじいちゃん、おばあちゃんなら、この上ないよろこびです。蓮如上人は「仏法者になれ近づきて、損は一つもなし」とおっしゃっています。いつもお念仏がこぼれるような人と交われば、生きることがうれしくなってきます。それは自分だけで生きているのでなく、生かされて生きているよろこび≠ェ感じられてくるからです。いつも「あたりまえのありがたさ」を伝えていた念仏者に、宇野正一さんという方がおられました。この方の詩に、「たべものさま」というありがたい詩が残っています。
たべものさまには仏が
ござる おがんでたべなされ 帰命無量寿如来 おじいさん 今頃やっと おがめました たべものさまには 仏がござりました おじいさん
正一さんは、母親が亡くなり、祖父母に育てられました。おじいさんは、4歳の正一さんに、「おかあさんにあいたかったら仏さまにおまいりしなさい」といって、「正信偈」を教えてくれたそうです。そのおじいさんの口癖が「たべものには仏さまがござる。拝んで食べなされ」です。
わが心にナモアミダブツ
このおじいさんが亡くなって、四十数年が経ってもこの言葉の意味がわからずに、ずっと聞法を続けてきました。長い年月をかけてようやく探しあてたよろこびと、おじいさんへの感謝がこの詩になったのです。正一さんがめざめたものはなんだったのでしょうか。仏さまはお仏壇のなかでじっとされているのではなくて、「私のいのち」となり、私を生かし続けるはたらきであった、とうなずけたのです。私は、私を生かし続けるはたらきに生かされて生きていることに、気がついたのです。私はいつも気づかずに過ごしていたが、私が気づこうが気づくまいが、ただ私だけにはたらいてくださるはたらきがあることに気づいたのです。このことにめざめた時に「たべものさま」の詩がうまれたのです。このはたらきをナモアミダブツといいます。ナモアミダブツのはたらきを、わが心・わが身にいただくことができて、人生の意味にめざめたのです。人は気づかず傲慢(ごうまん)に生きています。大いなるみ仏のはたらきに生かされている自分に気づかないと、大事な人生もさびしく愚痴だらけのものになるかもしれません。正一さんのように聞法を通してこのことに気づかさせていただき、人生を豊かにしていきたいものですね。 
 

 

■お骨になったって・・・
胸がつまりそう
親鸞聖人の兄弟子・聖覚法印(せいかくほういん)が書かれた『唯信鈔(ゆいしんしょう)』というお書物があります。親鸞聖人も大切にされていたものですが、その結びのところに、「今生(こんじょう)ゆめのうちのちぎり(契り)をしるべとして、来世さとりのまへの縁を結ばんとなり」というお言葉があります。「ともに過ごした人生は夢のように過ぎてしまったが、この娑婆(しゃば)でのご縁は、実はともにお浄土に生まれる前の不思議なご縁だったんだよ」と私におっしゃっているような気がして、胸がつまりそうになるときがあります。
もう聞きたくない
奥さんが亡くなって四十九日(しじゅうくにち)。その法要のとき、ご主人に「奥さんが逝(い)かれてからどんな感じですか」とお聞きしました。「お医者さんから、がんだって聞かされて、しばらく動けなかった。先生(医師)は奥さんにも説明しますって言うけど、2回も聞きたくなくて・・・。おれはもう聞いたから、お前聞いてこいって、家族と一緒に先生のところにやった。身体がいよいよ悪くなってから、家内がそのときのことを怒るのよ。『あの時、一緒に聞いてくれなかった』って。1回聞いたらじゅうぶんだって言ったら、キッとした顔してビンタされた」 奥さんが逝かれてから、いろんなことを考えた時間の中で、一番思うことは奥さんに「すまなかった」ということだったのでしょうか。ご主人だって、奥さんが部屋に帰ってくるまで、どんなにつらい思いで待っていたのだろうか・・・、と思いましたが、私はわざとこんな言い方をしました。「そりゃ、怒るわ。なんで一緒に聞かなかったのさ」「2回も聞きたくなくてな」「そうだよね。奥さんもわかっていたと思うけど、それでも何で一緒にいてくれないんだ、と思ったんだろうね」「そうだな」と言ったあと、こんなことをお話されました。「骨箱抱えて、帰って来たとき、近所の人が骨箱を撫(な)でながら、『お骨って拾ってすぐは箱の中でカサカサって音するんだよね』って言うからよ、せめてその音を聞きたくて、みんな寝てから、骨箱の前に布団敷いて、横になったのよ」「それで音は聞こえたの」「いや、無理やり詰め込んだから、音はしないんだな。今聞こえるか、今聞こえるかと思っている間に、朝になってしまってよ」「それじゃ余計に切なくなってしまったろさ。そして、どうしたの」「どうしたってか。『おい、お骨になったって返事くらいできるべ』って、怒鳴ってやった」そう聞いたとたん、二人で声を上げて笑いながら、泣きました。
みんなよび声のなか
お骨が返事をするなんて無理な話です。でも、声くらい聞かせてくれたっていいじゃないか、と思うのです。普段、慎重な物言いをする人の素直な言葉だけに、その気持ちはよくわかりました。愚かといえば愚かなことです。でも、その愚かさや弱さが今まで気付かなかったことを教えてくれるのです。この四十九日から最初の月命日に、お宅にお参りしたときのことです。私は、「お浄土があるって、なんかうれしいよね」と言いました。なんと言われるかなと思っていたら、ニヤッと笑って、涙を拭かれました。そのご主人も昨年往生され、4月初旬に1周忌を迎えました。ご家族にとって大切なことを受け取る時間になるように願い、法事をつとめました。私たちは、いつの日か必ず別れる日を迎えます。でも、あなたも私も、如来の「十方衆生(じっぽうしゅじょう)よ」という喚(よ)び声の中にあります。夢のように過ぎていった人生、何もしてやれない、何もしてやれなかったあなたとの出会い。でも、この悔い多き娑婆のご縁は、ともにお浄土に生まれる前のご縁だったことを仏法は教えてくれます。

■医学の進歩とお念仏
病を診る 人を診る
日本緩和医療学会という学会があります。どのような学会かと言いますと、がんやその他の治療困難な病気の全過程において、いかにQOL(生きることの質)の向上を目指すかを考える医療・福祉系の学会です。以前は終末期医療という考えのもと、治療が困難になった方の終末期に対してどのように医療が寄り添えるかを考えていましたが、今は、大きな苦悩を抱える病気の全過程を対象とするように変わってきました。いずれにしても、かつての医学教育の中には、無かった分野です。「医者は病気を治すもの」と考えていましたから、「治せない病気の人」に対して医者は関(かか)わりが持てませんでした。しかし、「病気を治す」という考えから「病気の人を治す」。あるいは「病気を診る」から「人を診る」という考えに変わってきました。海外では日本より先んじて、先の緩和医療という考えも起こり、日本もその考えを学び、医療・福祉の考えも進化してきました。現在、緩和医療の考えの一つにチームアプローチがあります。医者や看護師、薬剤師、ソーシャルワーカーなどがチームを組み、患者や家族に知識や技能を提供するのです。かつて海外からこれらの考えが輸入された時、このチームの中に「宗教家」という名前が入っていました。残念ながら、最近の日本の学会発表の場において、このチームの中に「宗教家」を入れている学会発表は少なくなっています(実際、学会が出している「緩和ケアチームの手引き」には「宗教家」の文字は見当たりません)。海外における宗教観と日本における宗教観の違いでしょうか。あるいは、あまりに動かない日本の「宗教家」に対して、医療・福祉の現場であきらめられてしまっているのでしょうか。
私の存在は?
毎年多くのメンタルサポート(精神的な寄り添い)について学会発表がなされている中で、「その先はどうするの?」と疑問がわく発表を多く聞きます。これは「歳をとること」より「若い方」が良い。「病気」よりも「健康」が良い。「死」より「生」が良いというような、二元的で、比較でしか価値を見出せない考えから抜けきれないための行き詰まりでしょう。どのように寄り添おうとも、治らないのですから、悪い方にしか行かない。最後に「やっぱりだめだった」と死を迎えることになってしまいます。寄り添う方も、この比較の価値の中にいる限りは、「ここから先どうしたらいいの」と途方にくれるのでしょう。親鸞聖人は「現生(げんしょう)における正定聚(しょうじょうじゅ)」をお説きくださっています。これは死んでからいいことがあり、生きている間は我慢しなさいという考えでもなければ、生きている間にいいことが起こり、死んでからは知りませんという考えでもありません。生きている現在から、人間界と縁が尽きることとなっても、途切れることなくお念仏の日暮らしが続くというものです。「生」と「死」という対比的な言葉をあえて使うならば、「生」と「死」が一体の価値を持つというものです。言い換えますと、私たちの本来の存在価値は生きていようと死んでしまおうと変わらずに有るということです。
南無阿弥陀仏の世界
私たちが今ここにいるのは、数限りない因子の結合と重なり合いがあって存在しています。仏教では「因」とか「縁」とかいわれます。この無数の「因」や「縁」の集合体が「私」なのです。もし、たった一つの「因」でも欠落していたなら、今の「私」は存在しません。その関係の中で「私」の存在なくしては、他のいかなる物も存在しなくなってしまいます。「私の命」というのは人間の目に見えているものの中だけに有るのではないのです。「あなたの命」はあなた一人の物ではなく、すべてに影響を与え、肉体が滅んでもその影響はいつまでも続いていくのです。穏やかな春の風の中にも私がおり、柔らかな日差しの中にもあなたがいるのです。それが「南無阿弥陀仏」の世界なのです。

■最後の言葉「た・・・」
タイムマシンのように
「トミちゃん、あんたとしゃべっていたら、あの時、お父さんが何を言いたかったのか・・・やっとわかったわ」私の父が亡くなって、今年の夏で49年になります。50回忌の相談をしていた時に、急に姉が何やらうなずいていたかと思うと、「わかった」と安堵(あんど)した顔で言ったのです。父が亡くなったのは、私が10歳の時、8月の早朝でした。父が入院先の病院で死んだと知らせが入り、その後、どうやって病院まで行ったのか・・・。私が病院に着いた頃には、父は遺体安置室に移されていました。眠っているような穏やかな父の顔、高い鼻が印象的でした・・・。「春休みに新聞社の見学を申し込んでいるので、お母さん、一緒に行ってやってくれませんか?」と、嫁から言われた時、面白そう!!と喜びました。私はわくわくして、孫の保護者として新聞社の見学に行きました。以前に編集の仕事をしていた時から、印刷工程が見たくて仕方がなかったのです。新聞がどうやって作られるか、新聞社の女性は子どもたちが理解できるよう、やさしく、詳しく説明してくださいました。印刷現場のドアが開けられた瞬間、インクのにおいと印刷機の騒音で、タイムマシンに乗ったような気分になりました。このにおい、この音・・・いつかどこかで出あったような・・・。最後に、孫と一緒に「マイ新聞」の紙面をあれこれ言いながら作りました。裏面には、孫が生まれた日の新聞紙面のコピーが用意され、一緒にラミネート加工してくださいました。新聞社からの帰り道、夕陽に向かって歩いている時に気付きました。孫は10歳、私が父を亡くした時と同じ年齢。そして父は印刷工場をしていた・・・深いご縁で胸がいっぱいになりました。
姉が父亡き後を・・・
父は入院してから、しばらくして、突然言葉が出なくなりました。見舞いに行くと、私の頭を悲しそうな顔をして撫(な)でていました。私が覚えている数少ない父との思い出です。父はある日、母や姉に、「た・・・」と振り絞るように言ったそうです。「たばこ?」父は首を横に振ります。姉は、「た」の付く言葉を考えましたが、わかりません。別の日、いのちの終焉(しゅうえん)を感じた父は姉の手を握って、また「た・・・」と言いますが、伝わりません。そして姉の心の中に大きな謎が残りました。6人姉弟の次女。家族の難事は、いつもこの姉が助けてくれました。父なき後も、姉の夫とともに、私たち家族のことで奔走し続けてくれました。その一番末っ子の私がもう、60歳を迎えようとしているのです。父の50回忌を私と相談している時、そんな姉は弟、妹のことはもう、心配しなくていいんやなあ≠ニ安心した途端、父の「た・・・」の言葉が「たのむ」であったと確信できたのでした。小さな子どもを遺(のこ)していく悲しさ、「どうか頼む」と父は言いたかったに違いありません。姉は、その父の想いを受け継ぎ、成し遂げていたのでした。
人生のすべてが仏縁
時代が濁(にご)り、人々の思いも乱れています。貪欲に私欲を追い求め、すぐに怒り、真実を見失っている私。先にお浄土に生まれた人は、お浄土から私の所に来て、迷いに沈んでいる私に、お釈迦さまのようにはたらき続けてくださっていました。振り返れば、父の死によって、私は仏縁をいただきました。その後も、思わぬ病に出あい、戸惑うこともしばしばです。老いて寂しさも忍び寄ってきました。だけれども、それらの一つひとつに、阿弥陀さまとの出遇(あ)いを感じます。それはまるで、氷が解けると水になるように、つらさ、悲しさ、苦しさは、先人の言葉を思い出すきっかけになり、友の有り難さを気付かせてくださるご縁となりました。身近な人々の温かい思いのその向こうに、ほのぼのとした明かりを見ることができた時、お念仏申す私をたくさんの仏さまが見護(まも)ってくださっていたのだと知らされました。人生には何一つ無駄はないのです。50回忌の法事は、そんなご縁に気付かせていただきありがとう、おかげさま≠ニ、みんなでお念仏申したいと思います。

■私の気持ち 聞いてえな
自分がなってみて
うちの母は、8年前から認知症。母との生活や応対を通して、母の想いと、心に気付かされました。母の気持ちを聞いてください。私は86歳。8年ほど前、私にとっては自然な行動だったのですが、周囲には異常に見えたようです。これが「認知症」の初めの頃。会話がうまくできなくなり、直前の記憶があいまいになって、多くの人たちに迷惑をかけたようです。その時、周囲の人たちは認知症のことをよくわかっておられなかったようです。「あの人ボケてはる」「恥ずかしいな」「なりとうないな」と陰口を立てられ、悲しい思いをしました。恥ずかしいことですが、実はそういう私も「認知症」をよく知らなかったんです。自分がなってみて、みんなの変な視線に、やり場のないストレスを感じました。でも、私が病気の理解のお役に立てたことはうれしいことです。家族も最初は戸惑っていたようですが、福祉施設で働く孫娘の助言のおかげで、少しずつわかってもらえたようです。初めて病院に行き「認知症」だとわかった時は、認めたくないという気持ちでいっぱいになり、「なんでこんなことになったんやろ」と情けなくなって一人で泣いたこともありました。でも、家族のみんなが支えてくれ、やがて周囲も受け入れてくれました。
これが病気の自然な姿
私は編み物や手芸の教室も開き、人一倍手先も頭も使いましたが、この病気になりました。でも、罰(ばち)だとか、恥ずかしいと思ったことはありません。ご縁をいただいたと理解しました。「認知症」は、病気なんですね。この病気、物覚えがあいまいになっても、プライドや生きてきた経験は今でも身に付いています。ただボケーッとしているんじゃありません。それが病気の自然な姿なんです。「きみょーう・むりょーう」と、おつとめもできますよ。毎日してきたことですから。「恩徳讃」も忘れてません。阿弥陀さんが好きですから、一緒にいると安心できるんです。年を重ねると、昔が懐かしくなり、実家に帰りたくなります。思い始めると、居ても立ってもいられず、足が先に動きます。でも、どこをどう通ってということがうまく考えられず、道に迷ってしまうんです。皆さんはそれを「徘徊(はいかい)」と言われます。でも、私にとっては、行きたいところをめざして、一生懸命歩いているんです。ところが、どうも目的地とは違う方向に行ってしまうことが多いようです。皆さんにご心配をおかけしています。また、家族のためにと、デイサービスやショートステイも行きましたが、毎日環境が変わり、気遣いをする性格の私はなじめず、不安になるんです。どうしていいのかわからず、つい身近な人に当たってしまうんです。思い込みも多く、頑固(がんこ)な自分が悲しくなります。家族がそれを心配して、病院に入れてくれました。慣れるのにしばらくかかりましたが、おかげさまで、今は穏やかな毎日を送っています。
憂いに寄り添う人
病院に入って1カ月ぐらいした時、歯の具合が悪かったんですが、介護の人に伝えられず我慢してたんです。そのうちにストレスで食事ができなくなり、動けなくなりました。でも、そのことに嫁が気付いてくれ、食事ができるようになり、歯の治療もしていただきました。その最初に3人で食べたパンは本当においしかった・・・。ある人が「いつもボケーッとしてて、何の悩みもなくていいな」と言われました。でも、私にも悩みや思いも皆さんと同じようにあるんですよ。親鸞聖人が「凡夫(ぼんぶ)」について、「怒(いか)りやそねみ、妬(ねた)むこころが息絶えるまで消えない」とお示しいただいていることに、あらためて「その通りだな」とうなずかされます。同じ生身の凡夫です。悩みもありますよ。み教えの通り、阿弥陀さまはどんな私であってもお救いくださいます。いつも一緒。寂しくはありません。でも、わがままですが、私の憂いに、優しく寄り添い、病を理解してくださる人があれば、よりうれしいのですが・・・〈憂い+人=優しさ〉。

■戦争は絶対だめ
敗戦で生活が一番
私は中学校の恩師やその仲間たちと一緒に、地元で活躍されている方々のお話を聞く会を月に一度開いています。その会の会員にある女性がいます。彼女は81歳の今でも、「下宿のおばさん」として、地元の農業高校に通う女子生徒の世話をしています。毅然(きぜん)とした態度で学生に向き合うその姿には、大人の私たちも大いに学ばされます。そんな彼女の原風景には、過酷な戦争体験があります。樺太(からふと)(現・サハリン)生まれの彼女は、12歳の時、父親に連れられて満州(現・中国東北部)へと渡りました。一家5人が入植したハルビン近郊の村には、樺太や北海道から新天地を求めて多くの人が移り住んでいました。しかし、その土地は満州を統治する関東軍が中国の農民から略奪したものでした。比較的自由な気風の青年学校で学んでいた彼女でしたが、1945(昭和20)年8月15日の日本の敗戦を境に、生活が一変します。ソ連軍の侵攻の知らせに、着の身着のままで村から逃れた一家は、何とか難民収容所にたどり着くことができました。けれども、逃げ遅れた人々の中には、ソ連軍や中国人に襲撃されて全滅した開拓団や、強姦(ごうかん)されて殺された女性もいました。息絶え絶えの子どもを連れてこられず置いてきた母親もいました。また、収容所にたどり着けても、そこには食糧も暖房もなく、病気も蔓延(まんえん)して、大勢の人が冬を越せずに亡くなりました。満州で生まれた彼女の幼い妹二人も命を落としました。
先生やお坊さんが・・・
彼女の一家は翌年、無事帰国することができ、水戸にある父親の実家に世話になりました。ですが、もはや生まれ故郷の樺太に帰ることはできません。長女である彼女は意を決して、一家を連れて北海道へと渡り、町から40キロ離れた山奥の開拓地に入ることになりました。政府による「戦後開拓」で引揚者に入植地としてあてがわれたのは、作物のとれないやせた土地が多かったのですが、その土地もご多分にもれず、開墾(かいこん)に適さない荒れた土地でした。それに加えて寒さで作物は育たず、一家は山菜を食べて飢えをしのぎました。開拓地で結婚した彼女は、家族を食べさせるためにどんな仕事でもしたそうです。けれども、懸命に開墾した土地はダムの底に沈むことが決まり、一家は十数年暮らした開拓地を離れることになりました。町に下りてきてからも彼女は懸命に働き、子どもたちを育てあげました。数年前には40年連れ添った夫に先立たれましたが、今、若い女生徒たちと暮らす彼女は、いつも元気いっぱいで年齢を感じさせません。そんな彼女は折に触れて、次のように語ります。「私の原点は満州。あのとき、無残に死んでいった人のことを考えると、こんなことは二度とあってはいけないと思う。戦争は絶対にだめ」そして、こうおっしゃいます。「学校の先生やお坊さんこそが戦争反対!≠ニいわなければなりません」
非戦平和こそ仏教
『仏説無量寿経』に「兵戈無用(ひょうがむよう)」〈兵戈用(もち)ゐることなし〉という言葉があります。仏さまが巡り歩く国々には、仏法のはたらきで戦争は起こらないというのです。このように非戦・平和こそが仏教の立場といえますが、私たちが、そのような生き方を貫くには、さまざまな困難が伴います。私も仏教徒の一人として非戦・平和の活動にささやかながら取り組んでいますが、周囲の人から批判を受けたりすると落ち込むこともしばしば。そんな頼りない私の背中を彼女の言葉は力強く押してくれたのです。また、平和活動に取り組む元日本軍兵士の方には、次のような言葉をいただきました。「ご門徒さんを大事に、ゆっくり、ゆっくりと取り組んでいきなさい。君が生きているうちに伝わらなくてもいい。次の世代につながればいいじゃないか」このような先輩たちに導かれつつ、その平和への想いを多くの人たちに伝えていくことが自分に課せられた役割だと、今、あらためて思っています。

■お母さんのさん
親心のはたらく証拠
親の名告(なの)りは、実に味わい深いものです。というのも、母親は子どもに「おかあさんよ」と名告りますが、「おかあさん」の「さん」という言葉は、本来よぶ側が用意するものです。それを名告る側が用意したら、おかしなことになります。たとえば、「私は北嶋さんです」と名告ったら、おかしいのと同じです。けれども、母親は「おかあさん」と名告ります。一体、「おかあさん」という名告りは何なのでしょうか。それは、母親は最初から子どもの立場に立って、名告っているのです。「さん」という言葉は、よぶ側の子どもが用意しなければなりません。でも、それができない子どもに先立って、「おかあさん」と名告っているのです。つまり、その名告りには、「このように、よんでおくれ。私を頼っておくれ。いつでもどこでも一緒だよ」という親心があるのです。ですから親の名告りは、そのままが親心いっぱいのよびかけなのです。そのよびかけを聞いて、子どもは安心します。その安心しているままが、親を頼っているすがたです。その頼っているすがたが、親心のはたらいている証拠です。実に、親を頼る心まで、親が与えてくれるのでした。
南無の心もご用意に
このように、「おかあさん」という名告りは、最初から子どものためであったのです。ところで、南無阿弥陀仏というみ名は、最初から私たちのための名告りであったことを、親鸞聖人は「回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて」と示されました。阿弥陀さまは、私たちに南無阿弥陀仏と名告られたのですが、南無は「おまかせします」という意味ですから、本来は私たちが南無の心を用意しなければなりません。けれども、南無阿弥陀仏の南無は、阿弥陀さまがご用意くださっています。最初から私たちの立場に立って、名告られたのです。まかせる心を起こすことができない私たちのために、阿弥陀さまが先立って南無阿弥陀仏と名告られたのです。つまり、その名告りには、「このように、よんでおくれ。私にまかせておくれ。いつでもどこでも一緒だよ」というお慈悲があるのです。ですから南無阿弥陀仏は、そのままがお慈悲いっぱいのよびかけなのです。そのよびかけを聞いて、安心します。その安心しているままが、阿弥陀さまにまかせているすがたです。そのまかせているすがたが、お慈悲のはたらいている証拠です。実に、まかせる心まで、阿弥陀さまが与えてくださるのでした。このように、南無阿弥陀仏という名告りは、最初から私たちのためであったのです。
苦悩する者のために
阿弥陀さまは、私たちに南無阿弥陀仏とよびかけずにはおれませんでした。なぜなら、阿弥陀さまの眼に映った私たちが、「苦悩の有情(うじょう)」であったからです。心弱く、愚かに、涙しながらしか生きていくことのできない悲しい存在・・・それが阿弥陀さまがご覧になった私たちの姿でした。誠に、涙しながらしか生きていけないのが、私たちです。「なぜ、自分だけがこんな目に遭わねばならないのか・・・」と、暗い気持ちになることもあります。「誰も私のことをわかってくれない・・・」と、愚痴をこぼすこともあります。「こんなはずじゃなかったのに・・・」と、悲嘆にくれることもあります。それがどうにもならないことだとわかっていても、弱々しく涙を流しながら生きているのが、私たちの現実です。悲しみに沈む時、苦しみにあえぐ時、心の底は一人ぼっちです。誰も知ることはできません。そういう中で、たったおひと方、この悲しみ苦しみの境界(きょうがい)をお知りになり、涙されたのが阿弥陀さまでした。そして、「悲しき者よ。どんな時も、あなたを見捨てない」と、南無阿弥陀仏とはたらきかけてくださっていました。私たちの現実は、苦悩の現実です。しかし、今ここに阿弥陀さまがご一緒です。苦悩する涙の中で、お慈悲の深さが味わえてまいります。

■シュウカツ
近くの座席の会話が
「最近のシュウカツって、大変ねえ」「ほんとほんと、今じゃなくってよかった!」新幹線で移動中に、通路をはさんだ座席から聞こえてきた会話です。ふと、その席を見ると、二十七、八歳の同級生同士らしい女性たちが話していました。「ん?シュウカツってなに」と思っていたら、就職活動のことなんですね。何でも略してしまうんだなあと思って聞いていたら(いえいえ、決して聞こうと思って聞き耳を立てたわけではなく、ついつい聞こえてきてしまったのです)彼女たちも就活とやらを、したようなのです。「就活をすると、自分が見えてくるよね」「これでもか、これでもかって落とされて、自分のどこが悪いのかって、さんざん悩んで・・・」「そうそう、ほんと自分が見えてくるよね。それで、がく然としたこともあるし、へえ〜、私ってこんなところもあるんだって思ったり・・・」「そうそう、周りの人がいろいろ言ってくれたり・・・。うるさいって感じたけどね。うふふ」「とっても嫌だったけど、終わってみればありがたい期間だったわ!」そろそろ、定年後の生活は・・・などと考えるようになってきている私たちの頃は、そんな苦労はなかったなあ。いい時代だったんだなあ。希望するところに大抵は就職できましたもの。
自分が見えてくる
会話は、続きます。「でもさ、一人では何にもできないんだよね。今までだって、みんなに協力してもらって、いろんなことしてきてるんだもんね。今の私があるのは、あのサークル活動で培った根性や、この勉強で身につけた知識の上に今の考え方ができるとか・・・。ほんと、みんなにお世話になってるんだよね。支えられてここまで来たんだよねえ」自分が見えてくる、って、とっても大事なことですよね。この二人の会話を聞いていて、「いい経験をしたなあ」とつくづく思うのです。そして、そんな彼女たちを見て、私はちょっと(いや、かなりかな?)先輩ぶって「よくぞ気付いてくれました」と思うのです。「自分を見る」ということは、周りの人たちに支えられていることがしっかりと見えてきて感じたはずです。たとえば、就活中に周りでいろいろ言っていた人。活動に必死で、それしか見えていなかった彼女たちには、「あ〜、うるさい。ほっといて!」と思われたことでしょう。でも、自分が見えてきた今は、それが私を心配してくれている表れであることが身にしみて感じられたことでしょう。ついつい、自分は一人で努力して自分の力で、自分を築き上げたように思ってしまうんですよね。
お育ていただこう
「み光の中に生きる」「お育ていただく」とよく言います。阿弥陀さまの「ひかり」と、周りの方々に支えられているということは、一見何の関係もないように思います。でも、一つ一つのことが別々の所で起こっていたことなのでしょうか?いいえ、そうではありません。阿弥陀さまの大きな大きな光に照らされた中で起こっていたことなのです。彼女たちは、照らされていたからこそ、自分の姿がうつり、しっかりと自分を見ることができたのでしょう。うつった姿を、しっかりと受けとめることができたのでしょう。阿弥陀さまは、私たちをいつも照らしてくださっています。その光によって、気付かせていただけたのです。ありがたいなあ、うれしいなと思える瞬間です。だから、こころからのお念仏が、出てくるんですよね。おいしい果物は、太陽の光を浴びて光合成をおこない、地中にはった根っこからも栄養を摂取し、お世話してくださる方があり、はじめて美味しい実になります。そして、いろんな人々の手が掛けられ、私たちの口に届きます。就活で、いろいろ感じ取った彼女たち同様、私たちも「み光の中に生き」「お育ていただく」毎日をおくっているんですね。この就活のお話を、ちょっと小耳にはさんだおかげで、私もまた自分を見つめなおすことができました今日も、このおかげさまの気持ちと共に、「み光の中、お育ていただこう」と思います。

■やさしくしかって
近くの座席の会話が
自分がわからない人は 他人を責める 自分が知らされた人は 他人を痛む
あるお寺の掲示板です。この言葉に、私の姿をズバリと言い当てられた思いでした。私には3人の子どもがいます。長男9歳、長女6歳、そして4歳の次男です。今から約5年前、一番下の次男が誕生する7カ月前のことでした―。私が住職を務めるお寺は保育園を運営しており、その年も恒例の運動会が開催されました。ちょうどその頃、副園長であるつれあいには、新たな生命が宿り、すでに妊娠3カ月とわかっていたのですが、3人目という油断もあったのでしょう、園児と一緒になって、夢中で走り回っていました。ところが次の朝、真っ青な顔をして「流産したかもしれない」と言うのです。急いで病院に駆け込みました。「絶対安静! 即入院!」という医師の言葉。告げられた診断結果は切迫流産というものでした。その日から約2カ月間、入院を余儀なくされたのです。大変な日々が始まりました。報恩講とも重なり、私は多忙を極めました。その上、4歳と1歳の兄妹は何かと手がかかります。私なりに精いっぱい歯をくいしばり頑張りました。
親の都合の押しつけ
入院から約1カ月近く経った夜のことです。私は疲れ果てた状態で、ようやく長女を寝かしつけ、一刻も早く自分も休みたいと思っていました。ところが、その日に限って、長男は寝る気配がなく、「絵本読んでよ〜」「遊んでよ〜」とせがむのです。「また明日な!」と答えても、全く言うことを聞きません。頭に血が上った私は「お前はこんなにパパが大変なのに、何でわかってくれんのや!」と大声で怒鳴ってしまったのです。長男は目に涙をいっぱいためながら「ごめんなさい。ちゃんと寝ます・・・」。そしてこうつぶやきました。「でもパパ・・・、もっとやさしくおこってよ・・・」。その瞬間、私は「はっ」と我に返りました。「怒(おこ)る」と「叱(しか)る」は違うのです。「怒る」は子どもの身になれずに、自分の都合ばかりを押しつけている態度です。「叱る」とは、まず自分の都合を離れて、子どもの身になって、言い諭す姿勢です。その時の私はまさに「怒る」でした。「こんなに苦労しているのに」と、自分の都合で怒(いか)りの弓を引き、その矢を長男に向けていたのです。それが、「パパ、やさしくおこってよ・・・」という言葉によって、その矢が自分自身に突き立てられたような痛みを感じました。長男も一生懸命に妹の面倒を見て、お手伝いもして頑張っていたのです。まだ4歳なのです。1カ月も母親がいない寂しさはどれほどのものだったでしょう。その寂しさを少しでも埋めたい一心で、父親とふれあいたかったはずなのに・・・。
お育て≠ェ必要な私
長男の言葉を通して、阿弥陀さまの「目覚めよ、気づけよ」との厳しいまでのおよび声が聞こえてきました。痛むべき、恥ずべき私の姿でした。そして、思わず「ごめんな。お前も頑張っていたんよな。パパが悪かったな」と抱きしめながら謝りました。すると、息子は満面の笑みを浮かべて、「パパ! 大変やけど、がんばれよ!!」。この言葉には一本とられましたが、「一緒に頑張っていこう」という思いが伝わってきました。これまでのトゲトゲしい私の思いが、安らぎへと転じられるのを感じました。状況が変わったわけではありません。しかし、状況は変わらない中にも、阿弥陀さまの智慧と慈悲に支えられながら、できる範囲で精いっぱい頑張っていこうという力がわいてきたのです。そこには「痛みをともにしてくれる安心」の生活が恵まれていました。しかし、縁によっては、再び怒っている私の姿がありました。そのような私だからこそ、日々の生活の中で、阿弥陀さまからの「お育て」が必要なのです。
苦労をすれば苦労をにぎる 我慢をすれば我慢がたまる 我が励めば、励むが残る 積んだそれらが 他人を泣かす 放す力が南無阿弥陀仏
友人が教えてくれた、ある念仏者のお言葉が身にしみる今日この頃です。

■安心をいただきます
アレルギーでもOK
2年ほど前に、あるドキュメンタリー番組で、食物アレルギーの方でも食べられるケーキを作っておられる菓子職人が取り上げられていました。現在、厚生労働省が発表している食物アレルギーの原因となる食品は25種類もあり、日本の1歳児の10人に1人が食物アレルギーに苦しんでいるとのこと。その菓子職人は、アレルギーの原因となる25種類の食品を一切使わずにケーキを作っておられました。小麦粉の代わりに「ゆきひかり米粉」や「アマランサス」という植物の粉、「ホワイトソルガム」という高キビの粉などを使用し、クリームなどの乳製品の代わりに菜種マーガリンを使用して作られたケーキは美しく、とてもおいしそうでした。番組が進むにつれて、1人の女の子が取り上げられました。「4歳の誕生日に、今までアレルギーで食べられなかったケーキを食べさせてやりたい」と、お母さんがその菓子職人に誕生日ケーキを注文します。しかし、その女の子は代用品として使ってきた食品にもアレルギー反応が出て、加えて砂糖にも反応がでる症状のお子さんでした。その菓子職人は医師と相談して、その女の子が食べることができるケーキを作るために、試行錯誤を重ねて見事なタルトのケーキを仕上げられました。誕生日になり、ハッピーバースデーの歌とともに、そのケーキは女の子の前に運ばれてきました。今まで、絵本のケーキやプリンを指差して「これなあに?」と聞いても、「わからない」としか答えられなかった女の子が、ケーキを口にしてひと言、「おいしい」といって、うれしそうに笑顔をこぼしたのです。その姿を見たお母さんは涙ぐまれ、菓子職人は一番うれしそうに女の子を見つめていました。そして、最後に夢をたずねられた菓子職人は「2015年までに、食物アレルギーで苦しむ子どもたちが、おいしいケーキを食べられるようにしたい」と話されました。番組を見終えた後、何ともいえない感動とともに、味わいをひとつ深めさせていただきました。
常に私に寄り添って
私の地元・山形最上(もがみ)の20カ寺(現22カ寺)に、第19代のご門主・本如(ほんにょ)上人から賜(たまわ)ったご消息には「十方の諸仏に捨てられしを阿弥陀如来こそかかる機をたすけんと不可思議の大願を起こして救いたまふなり」というご文(もん)があります。阿弥陀さまから見抜かれた私の姿は、まことのいのちのあり様を知らず、迷っていることもわからず日暮らしをしています。その「知らない」「わからない」私を何とか救わずにはおれないと、五劫(ごこう)という長い時間を費やし、四十八の願いを立ててくださいました。ケーキでいうレシピでありましょう。そして兆載永劫(ちょうさいようごう)というとてつもなく長い時間とご苦労を重ねられ、その願いを『南無阿弥陀仏』の名号(みょうごう)として完成してくださいました。言い換えますと、そこまでのご苦労がないと、諸仏に捨てられている私を救うことができなかったといえるでしょう。こちらからは見向きもしない私に、阿弥陀さまは姿や形をかえておはたらきくださり、み名の仏となって、常に私に寄り添ってくださっています。 また、その尊いおみ法(のり)を勧めてくださる方々がおられて、今私が『南無阿弥陀仏』に遇(あ)わせていただいているのでした。誕生日にケーキを食べることができた女の子は「おいしい」と言いました。女の子が言った言葉ではありますが、言わしめたのはケーキです。菓子職人の真心と努力が詰まったケーキというはたらきがあったからこそ、感動が女の子の口からこぼれました。今、この口からこぼれてくださる『南無阿弥陀仏』も、この身を揺り動かすはたらきがあったからに他なりません。菓子職人が語っていた夢は、誰でも分け隔てなく安心して食べることができるケーキを作ることとも言えます。阿弥陀さまもいつでもどこでも誰にでも分け隔てなく寄り添い、私のいのちを自分の事として案じてくださり、その安心の中でいのちを生き抜かせてくださるのです。

■大きな羽のぬくもり
あくなき大悲
「阿弥陀さまの姿をこの眼で確認できるなら、文句無しに信じることができるのに・・・」そんなふうに思ったことがあります。しかし、私の眼は煩悩によって曇っている、迷いのまなこでしかありません。迷いをもって見る世界は、すべてが迷いなのです。親鸞聖人は『高僧和讃』に、
煩悩にまなこさへられて 摂取(せっしゅ)の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり 
といわれています。悲しいことに自己中心の生活に明け暮れ、欲望に心を閉ざされている私には、仏さまのお姿を見ることができません。しかし阿弥陀さまは光明によって私を摂(おさ)め取り、片時も目を離さずに護(まも)りはぐくんでくださることをお慶(よろこ)びになったお言葉です。摂取の光明は、あらゆるものを照らしはぐくんでくださいます。それはまるで太陽の光を受けた、生きとし生けるすべてのいのちが、いきいきと躍動するように。ところで、はぐくむという字は「育む」と書きますが、これはもともと「羽包(はぐく)む」という意味だそうです。親鳥の大きくて柔らかな羽で卵を大切に包み込み、わが子を温めている姿を想像させてくれます。親の深い愛情を感じずにはおれません。
おなかすかへんの?
以前、娘とお寺の境内の掃除をしていましたら、梅の木にハトが巣を作っているのを見つけました。ちょうど私の目の高さ辺りで、とても見やすい位置にありました。ハトは公園やお寺など、どこに行っても見られる鳥ですが、卵を抱いているハトを見たのは初めてでした。しかし、私はとりたてて気にかけることもありませんでした。ある日のこと、梅の木の前を通りかかると、あの親バトが私に背を向ける格好で卵を温めていました。そっと近づいていくと、私の気配に気づいたのか、急に身をひるがえして、こちらに向きなおるのです。普段見かけるハトは人間が近づくと慌てて飛び去ってしまうのですが、その時ばかりは、まるで私に挑みかかってくるような、そんな気迫さえ感じました。卵を抱いている時の親の迫力たるや想像を絶するものがあります。そして私たちがいつ見かけても、必ずそこにじっとしているのです。それからというもの、私と娘はハトが本当に巣を離れることがないのか気になって毎日様子を見に行くようになりました。朝、昼、夕方と時間帯を変えて何度も見に行ったのですが、ハトが巣から離れることはありませんでした。疑問に思った娘が、私に「ハトさんは、ゴハンどうしてるんやろ?」「お腹(なか)すかへんのかなあ?」と聞いてきます。私は「親は2羽いるのだから、どちらかがエサを捕りに行って、交代で抱いているのだろう」と単純に考えていました。すると娘が、「自分のゴハンより、卵の方が大切なんかな?」といったその一言に、私はハッとさせられました。
仏とならせていただく
このハトは自分の身がどうなろうとも、「この子を立派に育て上げる」と必死に抱きつづけている姿であったと気づかされたのです。ただ外敵から卵を護っているだけではありません。我がぬくもり(体温)を卵に与え続け、それがそのまま子のぬくもりとなっているのです。ヒナは殻に閉ざされて親の姿を見ることができません。しかし、その大きな慈愛の中で成長し、やがてその硬い殻を破って、親と出あうのです。一方、親は一瞬の休みも油断も許されません。そんな苦労を思わずにはおれませんでした。私は煩悩という自我の殻に覆われて阿弥陀さまのお姿を見ることができません。けれども、阿弥陀さまは、そのかたくなな心を障りとせず、摂取の光明という大きくて柔らかな羽で抱きかかえ、ぬくもりを与え続けてくださいます。阿弥陀さまのお徳のすべてを、この私にふり向けてくださっているのです。卵が親バトにはぐくまれてやがて立派なハトになるように、私も今、仏さまにはぐくまれて、お念仏を喜ぶ身に、そして、お浄土で仏とならせていただくのだと思わせていただきました。 
 

 

■「はやぶさ」が届けたもの
地球誕生の頃のまま
最近、火星と木星の間にある小さな星「イトカワ」に行った惑星探査機「はやぶさ」が帰ってきました。往復7年もの歳月をかけて、さまざまなトラブルに見舞われながらも、無事地球に帰ってきました。さらにうまくいけば、地球まで届いたカプセルの中に、小惑星「イトカワ」の塵(ちり)が入っているかもしれません。その塵には、46億年前の地球ができた頃のそのままの状態が封印されていますので、太陽系形成の謎を明らかにできるかもしれません。そのため世界中が注目しています。宇宙は、実に137億年前に始まったといわれています。地球ができるずっと前から、宇宙は存在していたのです。気の遠くなるような過去ですね。では、宇宙が始まって、地球ができるまでの約90億年のあいだには、何があったのでしょう。私たちにはちっとも関係がないかといいますと、大ありなのです。地球上の海の水、植物、そして私たちのからだを作っている物質すべては、この90億年間に、星のなかでゆっくりと作られたものなのです。宇宙の中では、星が生まれ、成長し、やがて爆発して、物質が宇宙空間に戻っていきます。この星の一生の繰り返しを何度も経た後、さまざまな物質の元が作られたのです。従って、「はやぶさ」が「イトカワ」の塵を持ち帰っていたとしますと、地球ができた46億年前の無垢(むく)の物質が探れるのです。一方、地球上の物質は、火山や生物の影響などを多様に受けていますので、もともとの姿を留(とど)めていないのです。このようにみていくと、私は今年59歳になりますが、本当のからだの寿命を考えますと宇宙の年齢プラス59歳、つまり、137億59歳なのだと気づかされます。長い永い時間の、いろいろな働きによって、今ここに生かされている自分であると思い知らされます。作詞家の永六輔さんも同じことをお話しされていると聞きました。
無限の過去から私のために
137億年と聞くと想像もつかない時間ですが、仏の世界はもっと長大でした。ご開山(かいさん)・親鸞聖人の詠(よ)まれたご和讃(わさん)に、
弥陀成仏(みだじょうぶつ)のこのかたは いまに十劫(じっこう)とときたれど 塵点久遠劫(じんでんくおんごう)よりも ひさしき仏(ぶつ)とみえたまふ ・・・(阿弥陀さまが仏と成られて十劫という時間が経(た)つとお経(きょう)に説かれていますが、それよりはるか昔の塵点久遠劫より久しい仏と思われます)とあります。
「劫(こう)」というのは、仏教で使う長い永い時間の単位です。現代の時間でいいますと、諸説があるのですが、私なりに計算してみますと、なんと宇宙の年齢(137億年)の約3京(けい)(10の16乗)倍でした。法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)さまが、修行の後に、阿弥陀さまとなられて十劫の時が経(へ)ましたと、お経にはあります。それだけでも、想像もつかない時間の長さです。しかし、親鸞聖人は、私たちが阿弥陀さまのおはたらきによって信心が開かれるならば、阿弥陀さまは、無限の彼方(かなた)の過去より、私たち一人ひとりのためにはたらいてくださる仏さまであったと気づかせていただくと説かれています。私たち凡夫のことを想って、ずっと以前より、まさしくいつでも、どこでも、どのようなときも、お慈悲のはたらきをかけてくださる阿弥陀さまなのです。そのような仏さまがおられるということに感激するばかりです。そのことに気づかせていただきますと、お念仏するこころを、さらにいだきます。「はやぶさ」が持ち帰ったかもしれない小さな塵は、小さいですけれども、地球の生まれたときの姿を留めているかもしれません。それもすごいことですが、もっと大きな感激は、阿弥陀さまは、目には見えませんけれど、無量の寿命をもって、ずっと以前より、私たちを慈悲の心で包んでくださっていることです。本当に有り難いことです。

■原爆地獄から出発した吉田勝二さん
被爆体験を語り続け
平和の原点はひとの痛みがわかる心を持つ事≠アの言葉は、被爆体験を語り続けたご門徒・吉田勝二(かつじ)さんが、今年4月1日に78年の生涯を終えられるまで、力の限り訴え続けられた言葉です。私も原爆の時は6歳、小学1年でしたが、あの時のことは65年たった今も原風景として焼き付いています。本堂に次々と運び込まれてくる人々、何の治療も受けられず、ただ赤チンをぬるだけ...。やがてウジがわき、苦しんで亡くなっていかれた様子は忘れられません。ご遺体は大八車やリヤカーで近くの小学校へ運び運動場で火葬に...。その煙と臭いは今も私の体にしみ込んでいます。まだ1年生、何もわからなかったはずですが、あの日あの時、B29の爆音とピカドンの一瞬、死にものぐるいで防空壕に飛び込んで助かったようです。しかも、どこのどなたかわかりませんが、「コラッ! 早く逃げろ!」と大声で呼んでくださった方のおかげでした。いつも8月9日11時2分には、その声の主を想って手を合わせお念仏申さずにはおれなくなりました。それがまた、南無阿弥陀仏の弥陀のよび声≠ニ重なり、いつもよび続けてくださっている如来さまのお心に気付かされることでもあります。
戦争を憎んで人を憎まず
さて、吉田勝二さんは、当時13歳。長崎工業学校造船科の2年生で、学友7人とともに被爆。畑や道路を飛び越え40メートルも吹き飛ばされ、全身焼けただれ、意識もかすかで、気がつくと全くの悪夢でした。血に染まり死体で埋まった浦上川。友人同士「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合いました。元気だった一人が数キロ離れた吉田さんの自宅までたどり着き、「吉田君はやけどはしているが生きています。早く学校へ助けにいってやってください」と伝えてくれました。ご両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、白い包帯でぐるぐる巻きにされた人ばかり。「勝二! 勝二!」と叫んでも、誰がわが子かわかりません。一人一人に声をかけやっと捜(さが)し当てたものの、それでも半信半疑。あまりにも変わり果てていた姿に驚くばかりでした。やっとの思いで自宅へ連れて帰られた後も、全身からの膿(うみ)やウジで、何ともいえない臭気が家中に漂っていました。それからは全く意識が無くなり、うわ言ばかり。治療のため大村の海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきた米軍によりペニシリンが使われ、九死に一生を得ました。その後1年余りでなんとか退院したものの、人目にさらされる苦しみから一歩も家を出られなくなりました。でもお母さんの「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出るようになりました。そして、悲しいことばかりに出あいながらもやっと立ち直り、社会人として生きるため食品会社に就職。しかし、セールス先で子どもに泣かれていやがられたりして苦しみました。それから幾年月。お母さんの命日には大きな声で正信偈をおつとめし、今日の自分があるのは母親のおかげと、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と、お念仏申す人となられました。そして「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語りました。近年は次の世代の小中学生に語り続けられ、これに感動した中学生が吉田さんの体験をパネルにし、やがてそれが絵本になりました。吉田さんは絵本を紙芝居仕立てにして、長崎平和推進協会の白鳥純子さんと読み聞かせを始めました。3年前の初公演は、光源寺の仏さまの前で、ひかり子ども会のみんなに、と決めていました。この4月に吉田さんが亡くなられ、その追悼の紙芝居が、吉田さんの心を受け継ぐ白鳥さんによってお寺で上演されました。その後も各地で公演されています。原爆地獄から出発してお浄土へ歩まれた吉田さんの78年。信じられないほど明るく強く、優(やさ)しさいっぱいの生涯でした。
安楽浄土にいたるひと 五濁(ごじょく)悪世(あくせ)にかへりては 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて 利益(りやく)衆生(しゅじょう)はきはもなし
ご和讃の通り、今も吉田さんは平和を語り続けています。

■本当に大切なもの
あまりに冷たすぎる
医師兼僧侶>泄s思議な肩書と思われた方は、少なくないと思います。実は、医師と僧侶には共通する点があります。それは、悩んでいる人・苦しんでいる人に、何がしてあげられるか、お手伝いできるか考え、そして実際にその悩み苦しみにかかわっていくということです。そして、その中で"いのち"を見つめ、"いのち"を大事にしていくということです。私は医師として、"がん"の患者さんと多くかかわり、治療し、看取りもしてきました。現在、日本で年間約34万人の方が"がん"で亡くなり、日本における死因の第1位です。現代人の少なくとも3人に1人は"がん"で亡くなり、"がんで死ぬ"ということが、非常に身近なものになっているわけです。私見ですが、死ぬ準備は大事だし、必要だと本当に思っています。ある意味、仏教も生死(しょうじ)を見つめる中で、そのようなことを説いてきたのかもしれません。しかし、本当に死を見つめるということは、つらいというより残酷なことだと思うのです。この世における、愛別離苦の極みとも言えると思います。「自分は治る!」と信じながら"がん"と戦い、そして敗れ、そして愛(いと)おしきこの世、愛する家族と死をもって別れなければならない。それを、「生死は自分の問題だから責任もって自分で考えなさい」というのは、あまりにも冷たすぎる仕打ちじゃないかと思うのです。
まず人間同士として
浄土真宗の他力の信心は「二種深信(じんしん)」といわれています。「機(き)の深信」と「法(ほう)の深信」です。二種深信とは、落ちるしかない救われようもない私(機の深信)が、必ず取って捨てぬ仏、必ずお救いくださる阿弥陀仏(法の深信)に出あわせていただくことといただいております。妙好人(みょうこうにん)といわれるお園(その)さんの「落ちればこそ、救ってもらいますわいのー」といういただき方でしょうか。「死ぬ準備をしなさい」とはある意味、落ちるしかない救われようもない自分に気づきなさいということです。そこに救いがなければ、どうなるでしょう。そのようなときに、宗教家が「この世は、どうにもならない。どうにもならないことをご存じで、そのままで救うとおっしゃるのが阿弥陀さまだ」と説教をして、はたしてありがたい法話といただけるでしょうか。その前に、家族として、友人として、同朋として寄り添い、一緒に涙する。そういった、生きた人間同士として、精いっぱい出来ることをやる。やるだけやったがどうにもならん。そこに立ってこそ、本当の意味で阿弥陀さまの救いを語れるような気がします。お慈悲の水は、高いところにはたまらぬ。信心の蓮華は泥の中にこそ開く─。
心のメタボリック
小川一乗先生(大谷大学元学長)の妹さんで、乳がんで亡くなられた鈴木章子(あやこ)さんは自著『癌告知のあとで』の中で、転々移を告げられて ふと 末期の痛みに恐怖がはしった その時 如来様 誰もが死んでゆけた お前も必ず死んでゆけると 励まして下さった だれもが死んでゆける 例外者なしが 安心・・・・・・ と自分の死をいただかれています。
鈴木章子さんは、別な詩の中で、がんになって自分の自惚(うぬぼ)れが砕かれたことを語っておられます。私の出会ったがん患者さんからも同様なことをうかがいました。目が見えなくなって、本当の世界が見えてきたというお話をうかがったこともあります。現代は"心のメタボリック"の時代だと思っています。あまりにも情報やものが溢(あふ)れています。だから、本当に大切なものが見えにくい時代、混迷の時代とも言えるでしょう。そして、"がん"になって、落ちるしかない救われようもない自分に気づいたその時に、ようやく"本当に大切なもの"が見えてきたのでしょうか。あなたにとって、本当に大切なものは何ですか?

■わたしの大遠忌
活き活きと弾んだ顔
昭和36(1961)年、本願寺では親鸞聖人700回大遠忌法要が修行されました。法要に参拝する人たちを、自坊の山門で見送ったことを微(かす)かに覚えています。その頃に出始めた8ミリフィルムカメラを、父は得意そうに肩にかけ、皆さんと一緒に京都に向かいました。お寺に帰ってきてから、そのフィルムに収められた本願寺の姿を、法座のたびに白いカーテンに映しては、それぞれみやげ話や自慢話に花を咲かせていました。法要に参拝した人たちの顔が活(い)き活(い)きと弾んでいるのが、とても印象的でした。昭和30年代は、終戦後の復興が形になって現れた時期といわれています。テレビの全世帯への普及をはじめ、経済成長は10%を超え、新幹線の開業や東京オリンピック開催に象徴されるように、全国民そろって豊かな暮らしを求めて奔走しました。しかし、私たち人間の欲望を満たしてくれる進歩・発展の陰で、過密化する都市や工業地帯では公害が問題となり、農漁村では人口流出による過疎化が表面化し始めていました。
警鐘に耳を傾ける
平成24年1月16日は親鸞聖人の750回忌。その前年の4月からこのご正当(しょうとう)にかけて、本願寺で親鸞聖人750回大遠忌法要が修行されます。聖人は「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなり」と、この私一人の存在意義と尊厳を示されるとともに、「『十方衆生(じっぽうしゅじょう)』といふは、十方のよろづの衆生なり、すなはちわれらなり」と、いのちあるすべての存在が等しく救われてゆく大乗仏教の究極をお諭しになられました。私一人の存在は、すべての存在と切り離すことはできないのです。我欲が肯定される競争社会の原理とは相容(あいい)れない聖人のみ教えの世界です。私たちは、誰もがやっていることだからと、社会や自分の悪業に鈍感になり、自らの欲望のおもむくままに心身の満足を求めて暮らしています。それでは聖人の思いから遠のいているのではないでしょうか。そんな私たちに今、警鐘が鳴らされているようです。そんな鐘の音に敏感でありたいと思う今日この頃です。目前に迫った親鸞聖人の大遠忌法要。聖人の思いからはずれることなく、少しでも近づけるよう自らを律していきたいと思います。それには、逃れることのできないこの現実の苦しみと向き合っていく以外にはないと思います。閉塞感に包まれる時だからこそ、念仏とともに力強く生き抜く姿を共に示していきたいと思います。

■倶会一処(くえいっしょ)
亡き人を偲び仏縁に
お墓参りに行きますと、「倶会一処(くえいっしょ)」と刻まれたお墓を目にすることがあります。「倶会一処」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)で、同じ阿弥陀さまのお浄土でまた共に会わせていただくという意味です。阿弥陀さまは、この私を必ず浄土に往(ゆ)き生まれさせ仏にさせると願われ、今「南無阿弥陀仏」と私にはたらいてくださっています。私たちがお称(とな)えするお念仏、南無阿弥陀仏は「我にまかせよ、必ずあなたを救う」という阿弥陀さまのおよび声です。そのおよび声、願いをそのまま疑いなく聞かせていただき、いのち終わったらすぐに、阿弥陀さまのはたらきによってお浄土に参らせていただくのです。ですから、「死んで墓の下に眠る」のではありません。お墓というのは亡き方のお骨を納め、亡き方を偲びつつ、仏縁にあわせていただく大切な場所です。しかし、私たちは死んで墓の下のような暗い世界にいくのではないのです。阿弥陀さまの限りない光の世界、智慧の世界であるお浄土に参らせていただくのです。そして、お浄土に眠りにいくのでもありません。浄土で仏に成るということは、阿弥陀さまの願いを伝え、後の者を導く活動体としてはたらいていくということです。
どこのお墓に入る?
昨年末、伯父が亡くなりました。伯父はナマンダブツ、ナマンダブツとお念仏を申された方でした。身近な人を亡くすのはさびしいものです。私は都合で翌日お参りさせていただきましたが、妻と7歳の娘、4歳の息子はその日の夕方、家が近くなので歩いてお参りさせていただいたそうです。私が家に帰ると、妻がその時の様子を話してくれました。娘はよく知っているおじさんが亡くなった姿を見て、いろいろなことを考えたのだと思います。お参りがすんで、また夜道を3人で手をつないで帰ったのですが、その帰り道、いろいろなことを尋ねたそうです。「お母さん、おじちゃんこれからどうするん?」「どうするって、おじちゃんは焼いて、お骨にして、おじちゃんちのお墓に納めるんよ」「えーっ、焼くの!」と娘は驚いたそうです。「じゃ、うちのおじいちゃんとおばあちゃんは?」「そりゃ、うちのおじいちゃんもおばあちゃんも亡くなったら、お骨にしてうちのお墓に納めるんよ」「お父さんとお母さんは?」「お父さんもお母さんも一緒のお墓よ」今度は自分のことが気になったのでしょう。「じゃ、私は?」「たぶん、お嫁さんに行って、その嫁ぎ先のお墓に入ることになるでしょうね」すると弟はどうかと聞いてきたので、妻は「しまった!」と思ったそうです。しかし、正直に「うちのお墓に入ることになるでしょうね」と答えました。でも、やはり娘は自分だけが取り残されるような思いがしたのでしょう。「イヤだ、私も一緒にお墓に入る。一緒にお墓に入りたい」と言い出しました。私は少しおかしさもあったのですが、みんなが入る同じお墓に自分も入りたいという娘の気持ちを思うと、何とも言えない気持ちがしました。でもその時、妻が娘にこう言ってくれたそうです。「そりゃ、お墓は別々のところで違うかもしれんけど、往(ゆ)く場所はおんなじなんよ。阿弥陀さまのお浄土で仏さまに成って、また一緒に会えるんよ」有り難かったですね。よくお取りつぎしてくれたなと思いました。
仏と仏としての再会
伯父とこの娑婆(しゃば)世界ではもう会うことはできません。しかし、伯父は身をもって、いろいろなことを娘やこの私に伝えてくださっているなと思いました。「限りある人生だぞ、限りある人生をどう生きるのか、お念仏を申し、またお浄土で会おうな」と呼びかけてくださっているように思いました。同じ阿弥陀さまのはたらきによるからこそ、同じ倶会一処のお浄土で、また懐かしい方々とも仏と仏としてのお出会いをさせていただき、仏としての活動に加わらせていただくのです。

■しっかり刻まれてます
亡くなった後の仕事
先に亡くなった人はズルイ、と思うことがあります。こっちは老(ふ)けていくばかりなのに、まぶたの裏に浮かんでくるあの顔も、耳の奥底に残っているあの声も、まったく歳を取らないし、なにより、悪い思い出は色あせて、いいイメージばかりが色濃くなっていくんですよね、なぜか。残してくれた言葉だってそう。ちょっと困ったときなんか、すぐに頼りにしてしまうんです。死んでるのに、「たぶん、こう言うだろうな」とか「ああ、怒られる」とかね。言われっぱなしで反論もできないし、ときには、それがしがらみになったり足かせになったりする。でも、それはそれで心地よくもあるんです。あの人がまだわたしの人生に関(かか)わっている、みたいなものですね。残された言葉というか教えに、亡き人の願いが込められているからなんでしょうか、逆らえないんです、あの人に。だから、ズルイ。亡くなる前は、そうじゃなかった。関係が近しければ近しいほど、「言われんでもわかっとるわ」と反発して、ケンカにもなりましたよね。でも、いなくなって初めて気付くんです、「ああ、このことを言ってたのか」って。死んだ人は、亡くなった後の方が仕事するって、そういうことなのかってね。わたしの所へ還(かえ)ってくるって、こういうことなのかと思うんです。誰にだって、懐かしい人との思い出はごまんとあるし、忘れられない言葉の一つや二つはありますよね。もちろん、わたしにもあります、そんな言葉が二つほど──
死を覚悟した状態で
「田井よお、ホンマ苦しいときはなあ、殺してくれとしか思われへんのや。命の瀬戸際で、お念仏なんぞ出えへんぞ」何があっても裏切れない大恩人であり、二人いる師匠の一人、僧侶であり説教師であり物書きだった某先生のひと言。もう10年近く前の話です。型破りで精力的、前をしっかと見すえながらも、繊細かつ淋(さび)しがり屋で人の心を読むのが実に巧(うま)い人でした。缶に入った両切りのタバコを、40本から50本も喫(の)んでいたんです、1日に。成るべくしてなった「肺がん」。お連れ合い曰(いわ)く、「肺がんになって本望。他のがんなら後悔してたけど、あれだけタバコを吸ってたからね」病に冒(おか)されても、先生は先生のままでした。「好き放題、充分(じゅうぶん)生きた」と豪語したかと思えば、人生初の入院で、お経典の「人は、ひとり生まれ、ひとり死んでいく」の言葉を実感し孤独に身がさいなまれた、とも聞きました。手術前の検査を重ねるうち、カルテの中だけに自分の命があるかのように錯覚されたそうです。重要な検査の当日朝、始発のモノレールに飛び乗り逃げ出しもしたそうです。長時間の検査に身体がたえきれず、持病の喘息(ぜんそく)が暴発。とうとう、西洋医学に見切りをつけ、漢方薬を服用するように。「どや、元気そうになったやろ」の言葉は弱々しく、肉はそげ落ち骨と皮だけのような身体に。激しく咳(せ)き込み、呼吸器の入り口にへばり付く痰(たん)を切る。悶え苦しむしかない状態。「死」を覚悟されたのか、「死」を待っておられたのか。そのころ言い放ったのが、先ほどの「お念仏なんぞ」の件(くだり)です。
もう一つのメッセージ
死の淵に立っていると実感した人間の本音を吐露してくれたんだと思います。でも、「やっぱり、ナンマンダブツやのう」と言ってほしかった。だから、忘れられない。話はこれで終わりじゃありません。結局、近代医学に降伏して終末医療を受けることに。緩和ケアによって小康を得られました。最後のお見舞いで、わたしの胸にしっかりと刻んでくれた、もう一つのメッセージ──「ワシはなあ、自分からお念仏を捨てたと思い込んどったんや。でもなあ、田井よお。阿弥陀はんは、ワシを捨てずにいてくれてたんや。ほら、いまでも、ワシの口から、ナンマンダブツが出てくださるんや。変わってないんや。捨てられてないんや。ひとりじゃなかったんや。かたじけないのう」 うれしすぎて忘れられない、お浄土を恋しくさせる珠玉のひと言です。

■化かされていませんか
仏さまと直結の道
ときたま浄土真宗には行(ぎょう)がない≠ネどと言われる方がありますが、行のない仏教なんてありえないのです。なるほど、この世で煩悩をなくして聖者(しょうじゃ)をめざす修行≠ニしての行はありませんが、だからといって、行がないとなると仏教を逸脱することになります。ではどうなのか── はい、この世でさとりを開く此土入聖(しどにっしょう)の修行は無用ですが、浄土に往生し仏と成(な)る彼土得証(ひどとくしょう)の「大行(だいぎょう)」である「南無阿弥陀仏」のお念仏があるのです。大行であるお念仏をこの身に確かにいただいております、と味わうのが浄土真宗のみ教えではないでしょうか。その南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)大行は、私たちにとっていかなる意味をもつのでしょう。それについて、親鸞聖人は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』総序(そうじょ)のご文(もん)に、かならず最勝(さいしょう)の直道(じきどう)に帰(き)して、もつぱらこの行(ぎょう)に奉(つか)へ、ただこの信(しん)を崇(あが)めよ ・・・とご教示くださいました。すなわち南無阿弥陀仏の大行は、阿弥陀さま直接の道ですからわが道≠ニいただき、「この道を歩め」と願われた阿弥陀さまのおこころを尊崇いたしましょう、との思(おぼ)し召(め)しであります。
「他の道」で右往左往
それではなぜ「南無阿弥陀仏」を私の歩む道≠ニいただくのかについて、同じ総序のご文に、
穢(え)を捨(す)て浄(じょう)を欣(ねが)ひ、行(ぎょう)に迷(まど)い信(しん)に惑(まど)い
であるからと仰せられました。すなわち、いかに「厭離穢土(えんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」の理想を掲げてみても、阿弥陀さまの直道(じきどう)をわが道≠ニいただかず、その道に疑念を懐(いだ)くなら、それこそが迷いであり惑いのすがたである、とおっしゃるのです。しかしながら、仏教の通例では、迷いの根源は煩悩であると見られるようですが、親鸞聖人はもっと深く見られ、人間の迷いは煩悩というよりも、道に迷うことである。すなわち、私たち煩悩のまっただ中に「この道を歩め」とよびたもうお念仏の道があるのに、他に道がないのだろうかと右往左往しているすがたが人間の迷い≠ナあると、実に具体的な見解を示されるのです。
すべての人が歩む道
ちょっと面白い話ですが── 道に迷った旅人が原っぱに出たところ、一匹のキツネが人間を化(ば)かす準備をしている姿を見つけました。旅人が「おまえごときに化かされてたまるか」と大声で怒鳴ると、びっくりしたキツネは「あなたは化かしません。向こうの竹やぶの一軒家にいるおじいさん、おばあさんを化かす準備をしているのです」と言って娘に化けました。そして泥であんころもちを作り重箱に入れ、「さあ、化かしにいきましょう」と旅人を誘いました。一軒家に着いた旅人が格子から中をのぞくと、おじいさんたちが今まさにおもちを口に入れようとしていました。旅人が思わず「あっ、そのあんころもちを食べてはいかん」と大声で叫んだその時、ポンと旅人の肩を猟師がたたきました。「あんた、竹やぶに頭突っ込んで、何をそんなに大声で騒いでいるんだい」気がついてみれば、そこには一軒家もなければおじいさんやおばあさん、キツネもいません。ただどういうわけか、旅人一人が、握った竹の間から大声で叫んでいたということです。私たちは、自分はキツネになど化かされない、と思っていますが、そうでしょうか。本当は人間すべからく煩悩というキツネに化かされ続けて一生を終えるのではないでしょうか。ですから阿弥陀さまは、煩悩をなくしてからお浄土に来なさいと、そんな無茶なことはおっしゃいません。なぜならば煩悩をもってしか生きられないのが人間だからです。それ故に、私たち在俗の人々も、山にこもって修行される人々も、皆ともに煩悩成就の人間なのです。ですから「一切善悪大小凡愚」のすべての人間が歩ませていただく、お浄土への道は「お念仏の道」ただひとつでありました。

■私を照らすはたらき
頑張ってきたけれど
季節の移ろいの中、懐かしい知人の訪問を受けました。知り合ったのは、彼が学生の頃なのですが、卒業後どんな生活をしていたのか、知る由(よし)もありませんでした。訪問の数日前に突然の電話で、「いろいろとお話したい事があって・・・、聞いていただけますか?」とのことでした。私は「話を聴くだけならいいですよ。でも、アドバイスを求められると・・・、ちょっと困るかな?」と応えておいたのです。彼はやって来るなり、家族のことを語り始めました。親ごさんとの関係、子どもさんとの関係、そして事業を起こして頑張ってきたこと、その過程で大病を患ったこと、病気を通して知り合った人たちのこと、そして最後に夫婦関係のことを語ってくれました。それは一気にあふれ出すような語り口で、瞬く間に3時間近くが過ぎました。まるで彼の卒業後の人生物語のすべてのようでした。彼は学生時代から、体育会系で頑張り屋さんでした。そんな性格と姿勢は少しも変わっていなくて、話を聴いていて相変わらずパワフルだなと感じて、そのことを彼に伝えると、「そうですよ。ポジティブ・シンキング(肯定的発想)とプラス思考が私のすべてだと思って頑張ってきたんですから」と言うのです。そして続けてこうも言うのでした。「でも最近、このポジティブ・シンキングとプラス思考、ちょっと違うんじゃないかと感じてるんです」 私が「それって、どういうこと?」と尋ねると、「家の外で出会う人には笑顔をふりまいて、一緒に頑張りましょうねって。でも家族に対しては、眼をつり上げて、私がこんなに頑張ってるのに、どうしてもっと頑張れないのか・・・」と。親ごさんにも、子どもさんにも、連れ合いさんにも、そのように要求する自分がいて、そういう自分が「醜(みにく)くて、嫌(いや)なんです」と言うのです。「私って、醜いのです。どうしたらいいですか?」というのが、私に対する彼の問いかけでした。
人と人との関係こそ
私自身が日頃から感じていることですが、人生で一番つらいことは人間関係の上に起こるということ。逆に、人生で一番うれしいことも、やはり人との関係性の上に起こるということです。例えば、素晴らしい景色に出合ったときの感動。美しいメロディーや自分を励ましてくれる歌を耳にしたときの感動。いかにも元気をもらえそうなおいしいものを口にしたときの感動。これらは、それぞれに素晴らしい体験ではあるのですが、やはり人との関係の中で感じる親密さのこと、いわゆる心底理解し合えたときの感覚、何かを共に感じ合っていることなど、これらは他とは比較にもならないのではないでしょうか。あなたと出会えて本当によかったという、あの感覚です。そこには、人として感じる絶対の喜びと感謝があるように思うのです。訪ねてきた彼は、それこそ人生に苦悶(くもん)しながらも、同時に生活の中で味わった喜びもたくさん語ってくれました。そして、帰り際になってから、いのちについてのことも語ってくれたのです。「私はずっと過去にさかのぼって、ご先祖さまや今まで出会った人や、いろんな人に支えられて今の私があるんですよね。感謝しないといけないなと思うんです」「いのちの連鎖のこと?」と尋ねると、続けてこうも言いました。「私がいろんないのちに支えられているんだということを、子どもたちや、出会ういろんな人にも伝えていきたいんです」実際に、そのような絵本も見つけたのだというのです。彼が帰った後、私なりに思いをめぐらせました。「醜い私」を自覚させたもの、同時に一連(ひとつら)なりのいのちを自覚させているものは何か?それは、真実というものが、今ここに私に向かって、はたらき続けているという事実でした。そうであればこそ、苦悩しながらも生きていける。すべてのいのちを、照らし護(まも)り続けるという真実のはたらきによって、私自身の人生への信頼と安堵(ど)が成り立っているということでした。彼の訪問によって、そのことにあらためて気づかせていただき、私に感謝が生まれました。

■『せいてん』とともに!
なぜお経を読むの?
この夏、お寺に地元の小学校から3年生41人の参拝がありました。最初と最後はきちんと正座をします。先生が「おへそを住職さんの方に向けて」と号令をかけると背筋も伸びて、私も真剣な表情に応えて楽しくお話しました。早速質問、一問一答です。「お経は長いのにどうやって覚えるんですか?」私は「覚えません。このお寺では、毎朝6時半に鐘(かね)をついて、その後おつとめをします。毎日読んでいたら結果的に覚えることになります。間違わないように本を持つのですよ。後で一緒に読んでみましょう」と答え、子ども向けの『せいてん』を配ると、はやくも「正信偈」を読み出す児童がいました。日頃からご家族と朝夕のお参りをしているのでしょう。お念珠(ねんじゅ)についての質問もありました。「お念珠は何のために持つのですか?」と聞いたのはひと昔前の子どもで、今時の子どもは「お念珠の効果は?」と聞いてきます。「お念珠は仏教を信じる者が持つのです。かばんやポケットに入れているお念珠を見るだびに、私は仏教を信じる者だったんだと思い出す効果があります」と答えましたが、どれだけの児童に通じたことか少し疑問が残ります。「何のためにお経を読むのですか?」という質問には、『せいてん』のはじめにある少年連盟総裁(大谷範子お裏方)のお言葉を紹介しました。「私たちが、お経を読むということは、文字だけを読むことでしょうか。私たちは、毎日ごはんを食べています。一回だけ食べれば、それで一生食べなくていいというものではありません。仏さまのみ教えを聞くことも、それと同じではないでしょうか。毎日毎日聞いていかねばなりません。お経を読むときに、文字を通して、仏さまのお心を、まちがいなく受け取らせていただくのです」あっという間の1時間が終わりました。『せいてん』を持って帰りたい人は持って帰っていいというと、半分以上が持ち帰りました。終わりにあたり、香炉に炭火を入れると、たちまち焼香したい児童の列ができ、『せいてん』を見ながら作法をお互いにチェックし始めました。正しく焼香できたという満足感から、帰宅後にはきっとお寺で見てきたことを得意げに話したことでしょう。家族中がご本尊と向き合う日暮らしをしてくれればいいなあと思います。
子どもから大人まで
子どもたちの参拝があってから、この『せいてん』のお言葉をご法事でも紹介することにしました。あらかじめ子ども向けに書かれているお言葉と説明するので、朗読し始めると、大人も慈愛に満ちた笑顔になります。先日、95歳のおばあさんの葬儀がありました。私の地域では葬儀があると、収骨の後、自宅に帰る前にお寺の阿弥陀さまにお礼のお参り(還骨(かんこつ)勤行)をする風習があります。本堂で一緒に「讃仏偈(さんぶつげ)」をおつとめするのですが、5歳の女の子(亡くなった方のひ孫)が、この『せいてん』を手にすると、仮名が読めるのがうれしいのか、少しフライング気味ながら大きな声で読んでいました。完全に大人を引っ張っているのです。初七日に伺った時に「大きな声でおつとめできたね」と褒(ほ)めると、大きな声で「うん」と返事がありました。それ以来、毎週玄関で約束の時間に私を待っていてくれます。大人の声もそろってきた五(いつ)七日からは「正信偈」をおつとめしました。少し遅めのテンポですが、女の子は一生懸命声を出しておつとめについてきます。六(む)七日からは「念仏・和讃」もよく読めるようになり、満中陰(まんちゅういん)には40人を超える親戚(せき)が集まって声高らかに「正信偈六首引(しゅびき)」をおつとめしました。このお宅に受け継がれてきたおみ法(のり)の宝物が、おばあさんからお子さん夫婦へ、そして孫、ひ孫へと、それぞれ目に見える形で受け継がれはじめました。まさにご勝縁です。還骨のおつとめで、この女の子が初めて手にした『せいてん』がご縁となって、家族中が「正信偈」を読めるようお育ていただいたのです。満中陰のキーパーソンもやはり5歳の女の子でした。

■いま仏さまといっしょ
きれいに撮ってや!
阿弥陀さまはとっても素晴らしい仏さま。私のいのちを常に思い、いのちの行く末を案じてくださる仏さまです。私の苦しみ・悩みを他人事とせず、私の悲しみを我が事とし、このいのちの痛みを解決しようとはたらき続ける仏さま。そんな阿弥陀さまが私は大好きです。ところで、「いらっしゃ〜い!」で有名な落語家、と言えば桂三枝さんです。その三枝さんの実際にあった話なのですが、ある観光ツアーの方々と一緒に記念写真を撮ることになったそうです。誰もが三枝さんの近くで写真を撮ってもらいたいと、奪い合うように周りを囲んで並んだのですが、全員並ぶものですから三枝さんが、「誰がお写しになるんですか?」と尋ねると、「アッ!そやー」。それまで誰も気付かなかったのです。ちょうど通りかかったお兄さんに、「ちょっと兄ちゃん、撮ってんか!」と、5個も6個もカメラを渡して撮ってくれとせがむのです。おばちゃんのパワーに翻弄(ほんろう)されて、「それでは撮りますよ」と声を掛けると、「きれいに撮ってや!」と大きな声。必ずこういう方がおられますが、「それは無理やわ!」とツッコミ。するとAさんが「ちょっと待って」と後ろを向いて、「Fさん。三枝さんの横に座らせてもらいーな」と言うのです。振り向くと、その中で一番年長の80歳ぐらいの方がおられたのです。「三枝さんの横で撮ってもらい!記念やから」ちょうど横には30歳前ぐらいの、その中で一番若い女性が座っていたのです。「あんた後ろに行きぃ!Fさん。三枝さんの横にきい!」Aさんが勝手に席替えをするんです。するとFさんは気をつかって「私みたいな年寄り、三枝さん嫌がりはるがなぁ」と謙遜(けんそん)されました。その時、「なに言うてんねんな! 今より若い時はもうないねんで!」すかさずAさんが言ったのです。「今より若い時はもうないねんで・・・・・・そや、今が一番若い。この言葉に感動した」と、三枝さんが語っておられました。私たちは歳を多く重ねると、何だかいのちが減ったような、残りわずかの衰えたいのちになったような感覚が強くなり、気力も衰えがちです。でも、「今が一番若い。今より若い時はもうない」と言われると「今しかない。今やれることをやろう!」と、今しかない自分のいのちに気付かされるような気がします。
逃げる私を追いかけて
この話を聞かせていただいて、私はふと阿弥陀さまのことを思ったのです。阿弥陀さまはいつでも・どこでも・どなたにもはたらき続けている仏さま。つまり、今・ここで・この私にはたらいていてくださる仏さまです。『仏説観無量寿経』というお経に、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」というお言葉があります。親鸞聖人はこのお言葉の意味を「ものの逃ぐるを追はへとるなり」「ひとたびとりて永く捨てぬなり」とお示しくださいました。阿弥陀さまから、せっかく救いのおはたらきが与えられていても、そのお心に背き、逃げ出す私がいるのです。そのいのちを放ってはおけない、必ず救うぞと追いかけて、捕まえ放さない仏さま、ということです。私は「逃げる者を捕まえるのは一筋縄ではいかない大変なご苦労をなさっておられるが、ひとたび捕まえてしまえば、後はさほどの苦労はなかろう」と、どこか心の中で思っていたのです。でもふと思い直してみれば、捕まえた後でも今、今、今・・・・・・と煩悩まみれの私を、阿弥陀さまは一瞬一瞬に持てる力をすべて、惜しげもなく与え続けて、はたらいてくださるのです。まるで、病の子どもを抱えた親のように、ぬぐい払う額の手ぬぐいや、何度も蹴る布団も、気を緩めることなく夜通し看病するように、このいのちにはたらき続けてくださるのです。今、今、今のこの一瞬を阿弥陀さまと共に歩ませていただけるこの身をあらためて思いますと、我がいのちでありながらも尊いこと、頼もしいことであるなぁと、阿弥陀さまのおはたらきを味わわせていただきます。まるで、病の子どもを抱えた親のように、ぬぐい払う額の手ぬぐいや、何度も蹴る布団も、気を緩めることなく夜通し看病するように、このいのちにはたらき続けてくださるのです。今、今、今のこの一瞬を阿弥陀さまと共に歩ませていただけるこの身をあらためて思いますと、我がいのちでありながらも尊いこと、頼もしいことであるなぁと、阿弥陀さまのおはたらきを味わわせていただきます。 
 

 

■いのち≠ヘ平等やもんな〜
恥ずかしくて言えない
私の父は、1990(平成2)年6月、56歳で往生いたしました。早いもので20年の月日が経ち、現在、四女の私が住職にならせていただいています。私が小学1年生だったある日、父と二人でお風呂に入ることになりました。「おい、一緒にお風呂入らんか」「え〜っ、お父さん一人で入れば〜」「そい事言わんと入らんかよ」「ん?〜〜〜うん!」私は、なんだか緊張しながらお風呂に入りました。その頃の父は毎日のように住職として法務や、布教使としてご法座、講演会に出かけたりして、ほとんど家にはいなかったからです。しかしその姿が、私にとって自慢の父であり、住職でありました。戸惑いながらも一緒に、お風呂に入っていると、父が私に、「弦(ゆずる)は、家族の中で一番好きな人は誰け?」と聞きました。私はしばらくして、「おばあちゃん!」と答えました。すると、「ほ〜ん、おばあちゃんか。次は?」「お母さん!」「ほぉ〜ん、次は?」「上のお姉ちゃん!」「ふぅ〜ん、次は?」「下のお姉ちゃん!」「おっ、そん中にお父さん入っとらんがか?」「なぁ〜ん、ちゃんとお父さんも入っとるちゃ」「で、お父さんは一番最後なんか?」「違うちゃ!一番最後やってわけじゃない!」私は「一番好きながはお父さん!」と言いたいのに・・・なにか恥ずかしくて言えませんでした。私は「家族で一番誰が好きかって聞かれたって、順番なんかつけられん。み〜んな大好き」と答えました。すると父は、「そうかそうか、順番はつけられないか。そっかそっか"いのち"は平等やもんな〜」と言いました。私は「"いのち"?"平等"?何が?どういう意味?」と、たずねていたことを今でも覚えています。
お慈悲の温もりが
仏教では、生きとし生けるものすべての"いのち"は「平等」であると教えてくださいます。男女や老少の違い、姿形は違っていても生あるものは、すべて、かけがえのない尊い"いのち"なのです。阿弥陀さまは、すべての"いのち"を我が子とおっしゃいます。阿弥陀さまを「親さま」といただけば、私たちは、みんな兄弟姉妹(きょうだい)ということになります。しかし、阿弥陀さまは、私一人に向かっては、「一子(いっし)(ひとり子)」とおっしゃいます。それは、どのようなお心から、そうおっしゃるのでしょうか。
親鸞聖人は、平等心(びょうどうしん)をうるときを 一子地(いっしじ)となづけたり 一子地は仏性(ぶっしょう)なり 安養(あんにょう)にいたりてさとるべし ・・・と、お示しくださいました。
阿弥陀さまは「みんな、私の大切な子どもたちですよ。でも私は、あなたたちを比べたり、順番をつけたりしませんよ。あなたの"いのち"は、この世にたった一つしかありません。あなたの"いのち"は、あなたにしか生きられません。だから、あなたは、私のかけがえのない『ひとり子』ですよ」と呼びかけ、「ひとり子のあなたを、私はすでに摂(おさ)め取っていますよ。必ずお浄土に参らせて、素晴らしい仏さまに生まれさせますよ」とお誓いくださっておられるのでした。阿弥陀さまは、私たち一人ひとりの"いのち"を、隔てない"無量の光(ひかり)"と、限りない"無量の寿(いのち)"の中に育んでいてくださるのです。阿弥陀さまは「平等心」というお心の故に、すべてが「我が子」でありながら、私を「ひとり子」として見ていてくださるのです。「ひとり子」だから、順番はつけられないのです。「そっかそっか"いのち"は平等やもんな〜」という父の言葉を懐かしく思い出しながら、「私も父と同じ住職かぁ・・・。私も父も、阿弥陀さまから大切に思われている『ひとり子』なんだなぁ〜!」と、ひとり呟(つぶや)いていたお風呂の中は、お慈悲のような温もりがありました。

■聞いていてよかった
このいのちに感謝
あるお宅のご法事にうかがった時のことです。おつとめの前にお茶をいただいていますと、70代後半のKさんに「暑いですが、お体は大丈夫ですか?」と、お参りに来られた方々が口々に声を掛けておられました。私は「ご病気なのかな」と思っていました。法要が終わり、お斎(とき)の席に座りましたら、先ほどのKさんが私の隣りに座られましたので、「どこか具合がお悪いのですか」とおたずねしました。するとKさんは「先日、膵臓(すいぞう)がんの宣告を受けたんだ」とおっしゃったのです。そして、「だけどなぁ若さん、俺(おれ)が昔お寺の壮年会の役をしていた時、研修会でのお話や、お彼岸や常例法座でお話を聞いていたから、がんの宣告を受けた時はショックだったけど、すぐに、『あぁ阿弥陀さんにおまかせだな』と思えたんだ。今になって思うと、阿弥陀さんのお話を聞かせていただいていて本当に良かったなぁと思うよ。聞いていなかったらこんなに落ち着いてなんかいられなかったかも知れない。あとどれだけ生きられるかわからないけど、いただいた命、感謝の気持ちで最後まで生かさせてもらおうと思っている」
与えることを第一に
私たちのみ教えは「阿弥陀さまの願いを聞かせていただく教え」です。阿弥陀さまは、悩み苦しみ悲しんでいる私を何とかしたいと、いつもはたらきかけてくださっています。そんな阿弥陀さまが私たちの苦悩を解決するために、断食をしなさいとか、滝に打たれなさいなどとはおっしゃいません。
親鸞聖人は『正像末和讃』に、如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心をば成就(じょうじゅ)せり ・・・とお示しくださいます。
なぜ阿弥陀さまが苦悩の私を救おうと願いをたててくださったのかと尋ねれば、悩み苦しみ悲しんで不安の中にある私を捨てることはできないと、ただ私に仏の功徳を与えることを第一に考えて、南無阿弥陀仏という六字のお名号で私の苦悩を解き放つという大きな慈悲を完成されたのだとおっしゃいます。阿弥陀さまは私の苦悩を何とかしたいという願いを「南無阿弥陀仏」のお念仏に込めて、私に届けてくださっているのです。いつでも・どこでも・誰でも、称(とな)え易(やす)いように、南無阿弥陀仏というみ名となって、すでに私に寄り添ってくださっているのです。
自分勝手な私たち
でも、南無阿弥陀仏とお念仏を称えたからといって、病気が治るとか、事故に遭わないということではありません。私たちは勝手なもので、できれば自分に都合の良いことばかり起きてほしい、都合の悪いことはなるべく来ないでほしいと思っています。しかし、実際の生活では、自分に都合の良いことばかりではありません。むしろその逆です。お念仏を称えさせていただく私に阿弥陀さまは、「あなたの喜びは私の喜びであり、あなたの苦しみは私の苦しみ。私も背負うぞ、あなたの悲しみを、私も共に悲しもう」といつも寄り添ってくださっているのです。都合の良い出来事にはありがとうの感謝ですが、都合の悪い出来事にも感謝です。なぜならその都合の悪い出来事は阿弥陀さまと共にその出来事を乗り越えさせていただく機会であり、阿弥陀さまのお慈悲をより一層深く受け止めさせていただき、私をお育ていただくご縁にほかならないからです。いつ命尽きるかわからない不安の中でKさんは、仏法を聴聞されたお蔭(かげ)で、この世の命尽きてもそれが終わりではなく、無量光明土に往生し無量の寿(いのち)をいただくということ、そしていつも阿弥陀さまが寄り添ってくださっていることを感じておられるのでしょう。膵臓がんの宣告を受けられたKさんの落ち着いた所作・言葉と、日々感謝の気持ちで生きておられる姿を目の当たりにしたとき、「あぁ、Kさんはまさに阿弥陀さまと共におられるのだなぁ、阿弥陀さまの願いがここに届いておられるのだなぁ」と思わせていただいたことでした。

■無縁社会と仏教の縁起
病院で迎える「死」
在宅で亡くなられる数と、病院で亡くなられる数は15年ぐらい前から完全に逆転し、今では80パーセント以上が病院で死を迎えられるそうです。私は43歳ですが、祖母は私が9歳の時に、日に日に老いながら、自宅でゆっくりと「死」を迎えました。家族や親類、お医者さんに見守られながらの最期でした。近所の人もそういう形で亡くなられることが多かったようです。お別れすることの寂しさは深く感じていなかった記憶がありますが、「死」が眼の前にある時の、あの空気、人々の気配、感情、緊迫感は、今でもはっきりと覚えています。「死」というものがどういうものかを知識としてではなく、経験として触れ、「命」を少し学んだ気がしています。家には、3世代が住み、タテの世代間で伝わる「老」「病」「死」の姿を間近に学ぶことができました。集落共同体として、互いに関(かか)わり合いながら地域の人々が生活をしていました。最近、にわかに「無縁社会」と言われ始めました。しかし、いきなりそうなるわけでもなく、実はその流れは、2世代だけで住み始めることが増えだした、20年以上も前から起こっていたのではないかと思います。身元不明や引き取り手のない「無縁死」は年間3万2千人もあり、自殺で亡くなる人は3万人を超え、自殺未遂の数はその5倍とも言われています。理解、想像し難い社会が今現在あります。そもそも縁のある人々、家族や親類、地域の人々などは、互いに迷惑をかけたり、助け合ったりという関係のものであったと思います。共同体意識があるうちはまだ残っていましたが、いつからか、葬式での香典を断ったり、身内のみで結婚式だけを済ませたりと、付き合いを狭めることが増えてきました。冠婚葬祭だけでなく、多面にわたり、「付き合いが面倒だから」「迷惑をかけたくないから」という言葉が聞こえだしました。世代間のタテの関係も、同世代のヨコの関係も薄くなりました。そうせざるを得ないという事情があるかもしれませんが、一方でそうすることの気楽さを選んだのかもしれません。そこに大きな間違いの始まりがあったと思います。
できることから始める
仏教は「縁起」ということを説きます。「すべてのものは深く関わりあっており、単独で存在するものはない」という教えです。それは、ある方の言葉で例えるなら、「一枚の紙に、空を流れる雲を観(み)る」ということです。雲があることによって、雨が降ります。雨が降ることによって樹木は水分を得て育ちます。そして育った樹木から紙の原材料であるパルプをとることができ、紙が出来上がります。紙からは、直接雲は観えませんが、雲がなければこの紙は存在しないのです。直接観えるからとか、観えないからとかではなく、すべてのものはこのように、関わりあって存在している、網の目のように世界はつながっているということ、それが「縁起」です。よく、「知り合いの知り合いが知り合いだった、世の中狭いな」ということを言いますが、人間の関係も、人間の行いも、この世のものすべてが、どこかで縁によって結ばれつながっている、それが「縁起」です。直接観えないもの(雲)を、いかに見えているもの(紙)から観えるようになるか、観える心を育てるかが、仏教を学んでいくことであり、仏の願いに生きることです。それはまさしく、私の「命」は、多くの縁において成り立ち、「生きている」のではなく、「生かされている」と思い当たることです。同時に私の「命」は、他の「命」を「生かしている」存在なのです。そこには、重みもあり、責任もあります。宮沢賢治が、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言ったことは、「縁起」と深く関わっており、私たちに教えてくれていると思います。良き事にしろ、悪しき事にしろ、一人一人がつくってきた社会が現在あるわけです。そしてまた多くの未来の縁をつくっています。だからこそ変えうる事もできるはずです。今すぐ自分ができること、それを考え行動にうつすことから始めることが大切だと思います。

■お念仏ひとつ とは?
もう一つの意味は?
私がまだ学校に通っていた頃のことです。あるとき、先生が私たち生徒に問いかけました。「ここに『授業中の飲食禁止』と書いた紙が張ってありますが、これには二つの意味があります。一つはもちろん、授業中に飲食してはならないということですが、もう一つの意味が皆さんにはわかりますか?」いきなりそんなことを言われても、私にはその質問の意味さえよくわかりません。ただ、先生にそう言われたので、いろいろ考えてみました。「教室は勉強をする場所で、食事をする場所ではないということなのかなぁ」とか、「授業中は飲み食いせずにきちんと授業に集中して、しっかり勉強しなさいということなのかなぁ」などが頭に浮かびはしたのですが、手をあげてまで発表する勇気もなく、黙っていました。ほかのクラスメートも同じようで、しばらくの間沈黙が続きました。するとその沈黙の後、先生はこのように言われました。「これは、授業中に飲食をする人が実際にいるということなんです」そう言われてみればその通りです。私たちの周りを見まわしてみても、例えば「ゴミ捨て禁止」の紙が張ってある場所は、おそらく誰かがよくゴミを捨てていくのでしょう。また、「迷惑駐車お断り!」の紙が張ってある場所は、おそらく誰かがよく路上駐車をするのでしょう。そのような例はいくつもあります。
自分の姿知らされる
その教室も、それまで実際に授業中に飲み食いをする生徒がいたので、「授業中の飲食禁止」の紙が張られることになったのでしょう。 浄土真宗は、お念仏ひとつでこの私が救われていく教えです。 しかし、このことは同時に、この私はお念仏によってしか救われないということでもあります。 親鸞聖人は、七高僧の第五祖・中国の善導大師が記された、決定(けつじょう)して深く、自身は現にこれ罪悪生死(しょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もっ)し、つねに流転(るてん)して、出離(しゅっり)の縁あることなしと信ず。 ・・・というお言葉を大切にされていらっしゃいます。
「わが身は今このように罪深い凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる」ということです。親鸞聖人が、お念仏でしか救われない自分であるというところに立っていらっしゃったのは間違いありません。み教えに出遇(あ)うということは、私が教えの内容を知るだけでなく、教えを通して私の姿が明らかにされていくということです。ですから、私たちは、「教えを学ぶ」という表現のほかに、「教えに学ぶ」という表現を大切にしているのです。み教えに私自身のほんとうの姿を学ぶのです。そして、そこから知らされてくる私の姿はまさしく、「いづれの行もおよびがたき身」です。お念仏以外に、私の救われていく道はないのです。み教えに私の姿を学び、そのような私を救わんがためのみ教えであると聴聞していくことこそ、本当の意味でみ教えに出遇ったということができるのです。最初に紹介した「授業中の飲食禁止」の張り紙の話は、当時も「なるほどなぁ」とは思ったものの、まだ仏教を深く学んでいない時期だったので、そこまでの受け止めに終わっていました。しかし、こうしてみ教えを学んだ最近になって振り返ってみると、あの「授業中の飲食禁止」の張り紙こそ、ほかの誰のためでもなく、私のために張ってあったのであり、縁さえ整えば授業中の飲食はおろか、何をしでかすかわからない私であったんだなぁと味わっております。

■生死出づべき道
生命に宿る問い
「自分が死んでいかなければならない」これは極めて宗教的な問いです。しかし、この問いを持つ人は少ないのではないでしょうか。また、臨終になろうとも、この問いを真剣に考えることなく死んでいく人もあることでしょう。ところがこの問題は、たとえ若くとも、また健康に自信があろうとも、決して無関係ではなく、この世に生まれた万人が抱える共通の問題なのです。この宗教的な問いをひとたび持つような事態となれば、この私を支えてくれるものは何ひとつないことに気付かされます。ただ一人この世に来て、ただ一人この世を去っていく。まったくの単独者であり、孤独です。「自分が死んでいかなければならない」という宗教的な問いは「生命」そのものの中に宿っているといってよいでしょう。「生命」を営んでいくために必要な教養や知識、蓄えた財産などは、死を目の前にしては何の支えにもなりません。では、ただ一人空(むな)しくこの世を去っていかなければならないのか、と思い悩むしかないのでしょうか。生と死は紙の裏表のようなものですから「生死(しょうじ)の問題」といい、「生死の壁」ともいいます。浄土真宗では「後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)」ともいいます。生死の壁の前で終わる人生は、ただいたずらに暮らし、いたずらにあかした生活であり、そこに、人間に生まれた意義を見いだすことはできません。あたかも人生は夢のようなもので、夢を見ているときはそれが現実で、その現実にいかり、腹立ち、悲しみ、喜びます。しかし夢から覚めてしまうと、夢の中の現実は、まったく空ごとたわごとというものでしょう。この生死の壁を超えていく道を明らかにされたのが、今年、750回大遠忌のご法要がおつとめされる親鸞聖人です。聖人が説かれた仏法は、まさしく「生死出(しょうじい)づべき道」なのです。
煩悩をかかえたまま
仏法のさとりは涅槃(ねはん)といい、涅槃をインドの古語ではニルバーナといいます。それは煩悩(ぼんのう)を吹き消した状態を意味します。しかし煩悩具足といわれるこの私は、煩悩の世界から一歩も出ることは不可能です。というのは、この煩悩は、自己中心のメガネをかけて人生を受けとっているために生じるのです。このメガネはいかに知識や教養があっても取り除くことは至難です。しかし、阿弥陀如来のご本願にあわせていただくと、「正信偈(しょうしんげ)」に「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」(煩悩を断(た)たずに涅槃を得る)とあるように、煩悩の身のままで、涅槃のさとりに至る道が開かれています。阿弥陀如来のご本願は、煩悩から一歩も出ることの不可能なこの私のために特別に誂(あつら)えられた大慈悲の願いだからです。このご本願に「必ずたすける」と誓われたまま、この私の上にはたらいてくださるのが南無阿弥陀仏のお名号です。この南無阿弥陀仏は、私の存在するところに、いつでも、どこでも既に与えられているのです。ですから、この私の生死の問題は私が解決するのではなく、解決してくださっている南無阿弥陀仏の法が先に与えられているのです。それ故(ゆえ)、浄土真宗の教えは、今ここが臨終であっても、このご本願を聞けば、間に合う教えなのです。
俳人・松尾芭蕉の門人として知られる曽良(そら)の句に、
行きゆきてたおれ伏すとも 萩の原 ・・・と詠(よ)まれたものがあります。
南無阿弥陀仏のはたらきは、いま私の上に至り届いています。それは私を仏にするというはたらきであり、私がどこで倒れようともそこが彼岸の世界、お浄土なのです。「萩の原」とは、このお浄土をあらわした名句です。不治の病となり、明日をも知れない状況であっても、阿弥陀如来は一人も漏らさず救うはたらきとなってくださっています。その証拠が、いつでもどこでも誰にでも届けられている南無阿弥陀仏であり、皆さんのお家のお仏壇(ご本尊)です。この私のたすかる道を、自分が求め聞いて理解するのではなく、救い取って捨てないという南無阿弥陀仏の法を聞かせていただくのが、浄土真宗の要なのです。

■阿弥陀さまと歩む人生
いただいたわら草履
数年前のこと、布教に出掛けた先で、ご門徒のAさんにお会いしました。それからというもの、そのお寺に布教に行くたび、Aさんからお土産(みやげ)をいただきました。そのお土産は、藁草履(わらぞうり)二足、そして布で仕上げた草履二足。さらに、携帯電話のストラップとして、糸で仕上げた小さな草履数個をいただいて帰るのです。私はただ「ありがとうございます」と、お礼の言葉だけを言って帰っていました。お寺に帰って、早速、お土産の藁草履を使わせていただきました。あるとき、草履で歩きながら、ふとAさんのことを思い出しました。「この藁草履を作るのに、いったいどれほどの時間がかかるのだろうか。大変な集中力や気力が必要だろうな」と思いました。数年後、そのお寺の法座にまたご縁をいただき、同じく藁草履のお土産をAさんからいただきました。私はAさんに「ありがとうございます」と、まずお礼を申し上げてから、「この藁草履を作られるのにどれほどの時間がかかるのですか。大変な集中力や気力が必要なんでしょう」と尋ねてみました。するとAさんはにっこりと笑いながらお話をしてくださいました。「時間も集中力も気力も、考えたこともないです」そして私に向かってAさんは「先生のー、先生はここにお越しになるのに何を履(は)いてこられましたか」と聞かれました。私は靴(くつ)ですと答えました。Aさんは「靴を買うには、わしが靴に合わせないといけない」と言われました。自分に合った靴を見つけないといけないということでしょう。続けてAさんは「藁草履はのー、わしの足が藁草履に合わせなくても、藁草履がわしの足に合わせてくれる。最初に履いたときは堅いかもしれんが、藁草履は履けば履くほど、わしの足にしっかりと合わせてくれる。まるで『阿弥陀さま』のような気がします」と話してくださいました。
ひとりじゃないよ
藁草履を作ることが、Aさんにとって、生活の中にいて、阿弥陀さまのご苦労に「であう」ご縁だったのかも知れません。藁草履のお話を終えてから、今度は布の草履の説明を受けました。この草履を履いて、庫裏や本堂の中を歩くようにご指導を受けました。なぜかというと、布の草履は雑巾として使ってくださいと言われました。歩きながら掃除ができるから一石二鳥だということです。携帯電話のストラップ、糸でできた小さな草履は、ご縁のある方々に差し上げてくださいとおっしゃいました。Aさんはお念仏のみ教えをいただく中で、私が阿弥陀さまに合わせる教えではなく、阿弥陀さまが私に合わせてくださるみ教えを私に伝えたいがために、苦労して細かい作業をしてくださっていたのだと、味わわさせていただきました。私はAさんの温かさをいっぱい聞かせていただきました。お寺へ帰る時、Aさんが力いっぱい手を振って見送ってくださったことを思い出します。「独(ひと)りじゃないよ」 お念仏のみ教えは、私たち自らが阿弥陀さまに合わせる教えではなく、阿弥陀さまがすべての「いのち」に寄り添ってくださり、「必ず救う」という阿弥陀さまの「願い」を聞かせていただく教えです。私は阿弥陀さまの願いを、どこにいても、いつでも「独りじゃないよ。『南無阿弥陀仏』となって、苦しみ悲しみ多いあなた≠フ人生と共に歩みます」とお聞かせいただいています。しかし、自己中心的な恥(は)ずかしい思いを持つばかりの私。そんな私であっても、逃げも隠れもせずに寄り添ってくださる阿弥陀さま。ただただ申し訳ないと思うだけでなく、その阿弥陀さまの願いに応えたいと思わずにおれなくなりました。孤独な人生から、こころ豊かに生きることのできる社会の実現に向けて手を携えて歩んでくれるお仲間との「であい」。ともにいのちかがやく世界へ

■灯台もとくらし
エコのため車を軽く
あるご門徒さんのお宅で、ご法事をつとめさせていただきました。親族が集まり、厳かな雰囲気の中で法要をつとめ、そのままお食事まで同席させていただきました。無事ご法事が終わったこともあってか、アルコールが入った勢いもあってか、皆次第に楽しげな雰囲気となり、会話も盛り上がってきました。すると、突然ご門徒さんが私に「うちの息子は結婚適齢期なのに、彼女もつくらないで、車にばっかり入れ込んでるんですよ。どうにかなりませんかね。誰かいい人でもいませんか?」と尋ねてこられたのです。差しあたって思いつく方もおられなかったので「う〜ん、おられませんね」とお答えすると、ご門徒さんは肩をガクッと落とされ苦笑されていました。そんな光景に私も笑いながら「では、いい人が見つかったらご連絡いたします」と約束をしながら、話題を息子さんの車に関するものへと向けていきました。30歳という息子さんは、とにかく車好きで、お金もたくさん車にかけられているようでした。車の知識が乏しい私は興味を抱き、隣に座っていた息子さんに話しかけてみました。「車のどのようなところが楽しいのですか?」 すると息子さんは「最近は車の燃費をできるだけよくしようと運転するところに楽しみを感じます」と答えてくれました。さらに「エコの時代に一人ひとりが低燃費で運転することは地球にとっても大事なことだ」と目を輝かせながら主張し始めたのです。その時、私は気付きました。ご子息さんの関心に火をつけてしまったことを・・・。それから話は続きました。燃費がよくなる車の運転の仕方、大切な部品、最後には車の軽量化を維持するため、ガソリンは満タンにはしないとまで言いだしたのです。妥協を許さないその性格から、彼女がいない理由が何となくわかったように思いました。すると、話を聞いていたお母さんから一言、「そんなに車を軽くしたいのなら、まず先に自分の体重を減らせばいいのにね」と。確かに息子さんはふくよかな方でしたので、思わず笑ってしまいました。まさに灯台下(もと)暗し≠ナす。お寺に帰り、父である住職にその日の出来事を報告しました。すると住職は「ありがたいことだね」と笑みを浮かべながら「ナンマンダブナンマンダブ」とお念仏を称え始めました。
後生の一大事を心に
私たちはついつい目先のことに惑わされ、気付けば足下が見えていないことがあるものです。例えば、生きていることが当たり前のように思いながら日々を過ごしていることも同じではないでしょうか。蓮如上人は「白骨の御文章」で「われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず」(わたしが先か、人が先か、命の終わりを迎えるのは今日とも知れず、明日とも知れない)と、私の命のあり方を示されています。確かにテレビや新聞を見ていても、老若男女を問わず、亡くなる方の報道は後を絶ちません。思えば私の命も死の縁にあえば、むなしく果てるだけです。生きていることは当たり前のことではありません。足下をみれば、いつ死ぬのかわからない無常の世界を生きているのです。私は死んだらどうなるのでしょう。どうなるのかわからなければ不安でたまりません。だからといって、死ぬことを考えず不安を忘れようとしても、本当の解決にはなりません。だからこそ蓮如上人は「たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて」(どなたも早く浄土往生の一大事に真剣に心を向けて)と、死の不安を解決できる浄土往生に一刻も早く心を向けなさいとお示しくださっておられます。「南無阿弥陀仏」というおはたらきは、私が安心して死んで往ける世界を調えてくださるおはたらきです。そのおはたらきに出遇(あ)えば、私の命は安心の中に包まれます。安心できる人生を歩むことは、人生の有り難さに気付かせてもらうことともなるでしょう。住職の称えたお念仏には、そのような世界がひろがっていたのです。ちなみに住職の「ありがたいことだね」という言葉の前には「足下は阿弥陀さまに照らされているんだから」という一言がありました。

■仏さまのこころとは
おこころをいただく
浄土真宗の門信徒にとって、ご本尊は、言うまでもなく阿弥陀さまです。私たちの先人は、悲しい時、うれしい時、腹の立った時、それこそ毎日毎日、何があってもなくても、阿弥陀さまと向き合い、「ナンマンダブ、ナンマンダブ」とお念仏申しながら暮らしてきました。そして、日々の生活の中に起こってくるさまざまな問題を、その都度、阿弥陀さまに相談し、自分とまわりの世界のあり方を問い、生きてきました。言うなれば、阿弥陀さまのおこころ(願い)をいただき、生きる力としてきたのです。蓮如上人は、「信心獲得(ぎゃくとく)すといふは第十八の願をこころうるなり」と「御文章(ごぶんしょう)」にお示しくださいました。阿弥陀さまのおこころを、わが身にいただいて生きなさいとの実に明確なお示しです。それでは、阿弥陀さまのおこころをいただくとは、どういうことをいうのでしょう。念仏者、教育者として知られた東井義雄先生のご本の中に、『次郎物語』で有名な下村湖人(こじん)先生の「おかあさんのかんじょう書き」というお話が紹介されていましたので、要約してご紹介します。
みんなただ
進君という少年が、学校へ出かける時、前夜書きつけた紙片を二つに折って、お母さんの机の上にそっと置いて学校へ行きました。紙片には次のように書いてありました。
請求書 ・・・ 市場へのお使い代 十円 / マッサージ代 十円 / お庭のそうじ代 十円 / 妹をつれて行き代 十円 / 婦人会の留守番代 十円   進    お母さんへ
進君のお母さんは、これを見てニッコリしました。そして、その日の夕食の時、今朝の請求書と五十円が、ちゃんと机の上にのっていました。進君は大喜びで、お金を貯金箱に入れました。その翌日、進君がごはんを食べようとすると、机の上に一枚の紙があります。開いてみると、それはお母さんからの請求書でした。
お母さんの請求書 ・・・ ハシカの看病代 ただ / 学校の本代、ノート代、えんぴつ代 みんなただ / 毎日のお弁当代 ただ / 冬のオーバー代 ただ / 進さんが生まれてから、今日までのおせわ代 みんなただ   お母さん   進さんへ
このお話の中には、私と阿弥陀さまのつながり、阿弥陀さまのおこころをいただくとはどういうことなのかというヒントがあると思います。進君とお母さんに、私と阿弥陀さまが重なってくるように思えるのです。進君は自分がしたことを請求書としてお母さんに送りましたが、お母さんが自分にしてくれたことは「みんなただ」でした。つまり、進君は親に請求書を出すより先に、お礼と感謝という領収書をお母さんに送るべきだったのでしょう。そのことに進君は気付かされたのです。このように心がひるがえることを「回心(えしん)」といいます。「摂(おさ)め取って捨てない」という阿弥陀さまのおこころをいただくことが、まさに回心なのです。「みんなただ」というお母さんの言葉には、いつも進君を心配しているお母さんのこころ(願い)がありました。そして進君に芽生えた、大好きなお母さんのためには何でもしてあげようと思うこころも、進君がつくったこころではなく、お母さんの言葉からいただいたこころでした。阿弥陀さまの親ごころ(願い)は、私たち一人ひとりに南無阿弥陀仏として今届けられています。阿弥陀さまは、今日も、私と共に歩んでくださっているのです。

■大地のような大悲<
生きる価値がない?
ある育児冊子に「子どもを"ほめる""しかる"という一見相反する行為は、実は"評価する"という同じ性質をもったものである」とありました。子どもの将来を考え、小さい頃から善悪をしっかり教えておかなくては、というのが親心です。誰もがそうして子育てをしているのではないでしょうか。しかし、冊子には子どもにとって本当に必要なのは、評価ではなく、さまざまに生じる気持ちをそのまま受け入れ、寄り添ってくれる存在だとありました。以前、「自己肯定感」について世界の子どもたちにアンケート調査をしたという記事を見ました。自己肯定感とは「自分は生きている価値がある」という感覚です。結果は、日本では30%程度の子どもしか自己肯定感を持っていなかったようです。「自分は生きている価値がある」という感覚を持たない子どもがいるということは、大変な驚きであり、本当に悲しいことです。幼い頃から他人と比較され、大人から"よい子"になることを求められ、また過剰な競争の中にさらされていることで、他人と比べることや、自分が大人の期待に応えることでしか自分の存在意義を確認できなくなっている、と専門家は分析していました。幼い子どもに限らず、学生時代も常に成績や生活態度を評価され、就職してからもきびしく業績を評価されるのが現代社会ではないでしょうか。ベンチャー企業のある社長さんが、「部下を叱(しか)る時、何に気をつけていますか」と聞かれた時、「叱ると同時に、必ず"あなたは会社にとってとても大切な人です"と伝えることです」と答えました。この娑婆(しゃば)世界では「評価」もやむを得ないことで、時には必要なことでしょう。しかし、真に人を救うのは、評価ではなく"受け入れてくれる存在""寄り添ってくれる存在"なのです。「あなたが大切ですよ」というメッセージをしっかりと伝えることが大事なのだと思います。その大事なメッセージが、なかなか伝わりにくくなっているのではないでしょうか。
いつでもどこでも
お年寄りや病気の方などにとっても、現代は自分自身を大切な存在であると思えなくなり、生きづらい世のなかになっているように思います。お参りにうかがうご門徒のおばあさんで、手術をされた方がいらっしゃいます。退院後も、頭が重く手がしびれ、つらい思いをされていて、この先、自分一人で自分の世話ができなくなるくらいだったら死んだ方がいい、とおっしゃいます。もちろん、家族に迷惑をかけたくないという気持ちからの言葉ですが、一人で自立できないと生きる価値がないという意味にも聞こえ、たとえようのない寂しさを感じます。「自立」を辞書で調べると、「他の援助や支配を受けずに自分の力で身を立てること。ひとりだち」とありました。自分の力でしっかり生きていくことは素晴らしいことです。しかし、本当に「他の援助や支配を受けずに・・・」なんて可能でしょうか。私たちは気付いていないだけで、日々たくさんの命をいただき、他人の世話なしでは生きられない存在なのです。「立」という字は、人が両手を広げ、両足を地面につけている状態から作られた象形文字だそうです。人と地面が一体になった字であり、つまり、人が"自ら立つ"ためには地面がないと立てないということを表しているのです。「誰の世話にもなっていない」「誰にも迷惑をかけていない」と思っている時、「私は自立している」と慢心になります。反対に、仕事を失ったり、病気になったりして、まさに、他人の助けなしに生活できなくなると、途端に不安になり、情けなくなり、絶望的になったりするものです。あるお寺に「転んでも転んでも大地の上」という言葉が掲げられていました。"大地"とは阿弥陀如来のことでしょう。人生は悩み苦しむことがたくさんありますが、いつでもどこでも大地が私を支えてくれているように、阿弥陀如来は、私をいつでもどこでもそのまま受け入れ、寄り添ってくださっています。

■だいじょうぶ だいじょうぶ
みなさんは『だいじょうぶだいじょうぶ』(いとうひろし作・絵)という絵本をご存じでしょうか。主人公の僕(ぼく)は、幼い頃からずっとおじいちゃんの愛に包まれて成長してゆくのですが、その過程で、いじめや学業不振、杞憂(きゆう)や社会の矛盾というような壁にぶつかるたびに、おじいちゃんから「だいじょうぶだいじょうぶ」という言葉がけをしてもらいます。おかげで僕は大きくなるのですが、今度はおじいちゃんが入院してしまいます。もしかすると今生(こんじょう)の別れになるやもしれません。二人にとって一番つらい結果が待っているかもしれないその時、僕は「今度は僕の番です」と念じ、おじいちゃんの枕元で「だいじょうぶだいじょうぶ。だいじょうぶだよ、おじいちゃん」と、今までずっとかけてもらっていたあの言葉を、今度はおじいちゃんに返すのです・・・。この絵本のタイトルには「だいじょうぶ」が二回繰り返されています。その意味は、大切なことは繰り返すのが肝要ということもありますが、一回目の「だいじょうぶ」と二回目の「だいじょうぶ」の意味合いが違うからかもしれません。一回目の「だいじょうぶ」は、「きっと、たぶん、だいじょうぶよ!」という、安心は安心でも一(ひと)安心(気休め)のだいじょうぶでしょう。きっとだいじょうぶと思い込んで一歩踏み出さねばならないことが、この世の中には多いですよね。でも"きっと"の裏返しは"万が一はダメ"ですから、二回目の「だいじょうぶ」が必要なのです。この「だいじょうぶ」は「生きてよし、死してよし」のだいじょうぶ、すなわち結果がどうであろうと見捨てられないだいじょうぶ。「ご安心(あんじん)をいただく」とは、こういった心持ちをいただくことではないでしょうか。渡る世間で必要なだいじょうぶと、阿弥陀さまにどんな時でも抱(いだ)かれているご安心のだいじょうぶを、この絵本は簡潔にあたたかく描いていると私は思いました。
不安でたまらない
実は私自身、この「だいじょうぶ」を、5年前に往生した祖父から、最後の敬老の日にかけてもらった経験があるのです。私は敬老の日だけは、どんなに忙しくても祖父に会いに行こうと努力していましたが、今思えば、寝たきりになってもその日には必ずワイシャツにネクタイをして待っていてくれた祖父のおかげだったと、目頭が熱くなります。でも最後の敬老の日の三日前に、私には大変なことがあったのです。初めての入院・手術が決まり、不安でたまらない私でしたが、祖父のお祝いだからと何とか笑顔で出発しました。しかし、会食の最中、大出血という惨事が起きたのです。頭がまっ白になりましたが、これ以上心配をかけるわけにはゆかず、取りつくろって病院に向かおうとしたその瞬間、「ゆうちゃんや、なんかあったんかい?おじいちゃんに言うてみなさい」と祖父が絶叫したのです。私は祖父の胸の中で号泣しました。成人してからは呼ばれていなかった幼名で呼んでくれたおかげで鎧兜(よろいかぶと)(見栄や体裁)を脱ぎ捨ててありのままの私に戻って泣きました。そしてとうとう涙も枯れ果てたころ、ぽんと背中をたたかれて「だいじょうぶ、おじいちゃんがついとる!」と、春の日だまりのような声で伝えてくれたのです。おかげで私は手術を無事受けることができました。おじいちゃんがついとる!と言ってもらったから、不安は全部祖父にあずけてしまったのです。祖父は、手術の結果ばかりが気になって今を安心して生きられない私に、「どうなるかではなく、どうにかなる大丈夫(だいじょうぶ)。おじいちゃんがずっとそばにいるから、一人で立ち向かっているのではないのだから」という確かな安心を届けてくれたのだろうと思っています。
でも、だいじょうぶ
私は今でも、強い心の持ち主ではありません。いつもくよくよ悩みます。でもそのたびに、仏さまとなった祖父の声が届きます。「だいじょうぶ、おじいちゃんがついとる!」「まかせよ、必ず救う!」――南無阿弥陀仏が届きます・・・。 
 

 

■聞く安心
お寺で開く書道展
「本願寺新報」では、いろいろなお寺でさまざまな行事に取り組んでおられる様子を見ることができます。コンサート、キャンプ、落語会・・・、特に本年が親鸞聖人750回大遠忌法要の年ということもあり、各寺院での活動もバラエティーに富んでいる感じがします。私のお寺でも、昨年5月に大遠忌お待ち受け法要を住職継職法要とともにつとめさせていただきました。その時、お参りいただいたご門徒の一人に、美術館の副館長の方がいらっしゃいました。その方から「亡き父がお世話になったこのお寺で、父の書道展を開けないだろうか」とのご提案をいただきました。この提案が昨年10月に実現。「竹澤丹一 信心の世界展」という書道展で、本紙にも掲載していただきました。浄土真宗の信仰に深く関(かか)わったこの書家の生涯を通した40数点の作品を本堂や庫裏に展示する、本格的な書道展となりました。多くの方がお寺に足を運び、書道の作品を通して浄土真宗のみ教えに触れることができたと思っています。書道展自体は、主催者でもある息子さんが、各地の美術館や施設にある作品を借用され、専門業者による移送・展示と、寺院側としては何の心配もいりませんでした。しかし、裏方としての住職や坊守には、この展示の10日間、大きな心配がありました。それは防犯という心配です。通常は美術館のガラスの中にある作品が、本堂の鴨居(かもい)や庫裏の床の間にそのまま掛けられているのです。しかも、多くのメディアで宣伝したため、遠近各地からこの作品を見るために集まって来られました。そのため、作品が展示されていた10日間は、神経が休まることはありませんでした。少しの物音が気になり、心配して見回りをしたり、見知らぬ来場者の様子を陰からうかがっていたこともありました。10日間の展示期間が終わり、息子さんが片付けに来られました。「期間中いかがでしたか。何か変わったことはありませんでしたか?」。そして「保険に入ってはいたのですが・・・」と一言。この言葉を聞いたとたん、体の力が抜けました。「保険のことを早く聞いていれば、10日間もピリピリしなくてすんだのに・・・」と思ったからです。保険は将来に備えて加入しますが、そこから生まれる安心は今現在のことです。現在の安心と未来の損害補償は別々のことではないのです。
今聞かないと未来も
蓮如上人は「御文章」の中に、「一念発起(ぽっき)のかたは正定聚(しょうじょうじゅ)なり。これは穢土(えど)の益(やく)なり。つぎに滅土(めつど)は浄土にて得(う)べき益(やく)にてあるなりとこころうべきなり」と、浄土真宗の利益(りやく)を現在と未来の二つについて述べられています。信心をいただいた時、浄土に往生することが正(まさ)しく定まり、必ずさとりを開いて仏となることが決定している身にさせていただきます(現在)。そして、この世の縁尽きた時、ただちに浄土に生まれ、無上のさとりを開かせていただきます(未来)。しかし、凡夫の私たちは、眼前の雑事にばかり心を奪われ、日々不安にさいなまれて生きています。だからこそ、阿弥陀さまは、そんな私たちを救わずにはおれないと、南無阿弥陀仏の名号を私たちに回し向けてくださいました。親鸞聖人は『浄土和讃』に、「五濁悪時悪世界濁悪邪見(ごじょくあくじあくせかい じょくあくじゃけん)の衆生には弥陀の名号あたへてぞ恒沙(ごうじゃ)の諸仏すすめたる」と詠(うた)われています。南無阿弥陀仏の六字は「必ず救う、まかせよ」という阿弥陀さまのおよび声です。その名号を聞き、大きな安心をいただくことができます。これが「正定聚」という現世の利益です。残念ながら今でも「仏教は死んでからの教えだ」とか、「まだお寺まいりをする年齢ではない」といった声を聞くことがあります。しかし、今聞かずして、それに続く未来もまたありえないのです。このたびの大遠忌のさまざまなご勝縁に、阿弥陀さまの願いが今生きている私たちに向けられていることを、あらためて聞き、大いなる安心をいただきたいと思います。

■言葉というもの
虹の色は7色?
年に何回か、空にきれいな虹を見ることがあります。空にかかった橋のような大きな虹を見た時は、なぜか幸せな気持ちになります。実はこの虹、国によって色の数が違うようです。旧ソビエト連邦では4色〜7色、ドイツでは5色だそうです。日本では小学校で「虹は7色」と教えられたように覚えています。太陽の光を、プリズムという三角柱の透明のガラスの中に通すと、いろいろな色に分かれます。この色は赤、橙(だいだい)、黄、緑、青、藍(あい)、紫の7色に分かれているように見えます。光がガラスの中を通るとき、色によって曲がる角度が異なるためにこのように分かれるそうです。これが虹の正体です。ところが、本当は7色ではなく、よく見ると無限の色に分かれているのです。私たちがその無限の色を、私たちが使っている色を表す言葉の範囲で区切って、7色の言葉として表現しているだけなのです。世の中には、いろいろな言葉があふれています。時代とともに使わなくなっていく言葉があり、新しくできる言葉があります。その中で私は、あまり使いたくない言葉があります。「婚活(こんかつ)」「就活(しゅうかつ)」「無縁社会」です。婚活とは結婚活動の略、就活とは就職活動の略だそうです。
人にラベルをはる
結婚も就職もなんらかの縁により結ばれていくものです。そこに「活動」などという言葉がくっついた時点で、それをしなければ社会からはずれた人間になってしまったような感覚になり、結婚、就職ができないことが、罪悪であるかのように感じてしまわれる方がおられます。就職できていない状態に対して、「ニート」や「フリーター」などという新しい言葉ができてきます。そして、そういった状態にある人に、「ニートの人」などというラベルをはってしまうのです。ラベルをはられた方は、それによって何かその状態が申し訳ないかのごとく、新しい悩みとなってしまうのです。人生の中で、なんらかの理由によって、一人で生きていかなければならない状態になってしまった。そして、もしかしたら誰にも見取られずに亡くなっていくかもしれない。そういう方々が増えていく可能性がある。そこに「無縁社会」というラベルをはってしまっているのではないでしょうか?縁がうすれる社会の傾向を何とか違った方向に変えていかなければならないという思いは必要かもしれません。しかし、この言葉だけで、どれだけの人がつらい感覚、いやな感覚、底知れぬ孤独感を覚えたことでしょう。私たちの世界に「縁」が無いなどということはありえないのです。
「犯罪者」などという言葉も、その人が育ってきた環境、生きてきたプロセスなど、すべて無視して、一人の人間にラベル付けを行ってしまう言葉です。臨床心理学者であった河合隼雄さんが、「大人の友情」というテーマで、ある心理学者の話を引用して次のようなことを話しておられました。「ほんとうの友人とは?」という問いに対して、「夜中の12時に、車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言った時、黙って話に乗ってくれる人だ」と。そこには「犯罪者」というラベル付けは存在しません。私自身も、その縁があれば、同じような状況で罪を犯してしまうかもしれないのです。言葉は、自と他を分離する働きを持っています。本当は一つの世界であったものが、言葉によって、分離した世界を作り上げていると言っても過言ではないかもしれません。コンビニやファストフード店に行くと、それがよくわかります。「人と人」の関係が、店に入った瞬間から「客と店員」になります。客にとって「店員」は、何かちょっと気に入らないことがあると平気で文句を言ってしまう存在になります。反対に店員にとって「客」という言葉は、一人の人間というより、単に物を買ってお金を払ってくれる存在になってしまうのです。
「南無阿弥陀仏」という言葉はどうでしょう。その言葉に「量(はか)りしれない光」「量りしれないいのち」が含まれています。私は、「南無阿弥陀仏」をよくよく味わってみるとき、分離されない、あらゆるものが一つである世界が見えてくるのですそこには、「犯罪者」も「無縁社会」も存在しないのではないでしょうか?

■いのちの帰依処
遠くて近いお浄土
「とってもきれいなお日さまですよ」川土手の道路を運転していると、同乗の方が教えてくれました。「本当ですね」車を止め、しばらく美しい夕陽を眺(なが)めました。ため息をつかんばかりに夕陽に見とれていました。私たちの顔は陽の光に照らされて赤く染まっています。太陽ははるか彼方にあるのですが、その光は私たちを照らし、包んでいました。教えてくれた方があったので、私は美しい夕陽を見ることができました。そして、その光が私を包んでいることに気付かされました。お彼岸には、太陽は真西に沈みます。西は、月や星も沈む方角です。お経(きょう)には、お浄土は西にあると示されます。西の方角をもっていのちの帰依処(きえしょ)、さとりにいたる方向を指し示してくださっているのです。『阿弥陀経』には、「これより西方に十万億の仏土を過ぎて」と、はるか遠くにあると説かれます。「これ」とは私の煩悩の世界です。煩悩を超えたところがお浄土と示されます。煩悩からすると、お浄土ははるか遠くにあるのです。しかし同時に、お浄土のはたらきは、この煩悩の身をも包んでくださっているのです。煩悩の身では、私たちはどの方向に歩んでいいのかわかりません。煩悩に振り回され、迷いの世界にとどまるばかりです。欲や煩悩の方に向いている私たちに、さとりの方角を示して、お浄土への歩みをおすすめくださっているのです。
迷いを重ねるこの私
先日、「お寺に行きたいのだけれど道に迷ってしまって」と、携帯電話からお電話をいただきました。「今どこにおられますか」と尋ねると、「それがどこにいるかわからないのです」という返事。こちらも答えようがなく、「何か目印になるような建物などありませんか」と聞くと「丸い建物があります」と言われました。「それではよくわかりませんね。お店か何かは?」 「少し戻ってみます」などと長いやり取りがありました。しばらくして、「今、消防署の所に出ました」という電話があり、ようやく今どこにおられるかがわかり、道順をお伝えしました。カーナビをたよりにお寺においでになろうとしていたそうなのですが、どうも目的地の設定がうまくいっていなかったようです。道に迷うにはいろいろな原因があります。行きたい所がはっきりしていても、行き方を間違えると迷ってしまいます。「今自分がどこにいるかわからない」と、現在地を見失うと迷いは深まります。さらに深い迷いは、行き先も現在地もわからないときです。どこに行っていいのかわからずに、さまよっているときでしょう。もっと深刻な迷いがあります。それは、自分が迷っていることさえ気付かずに、迷いに迷いを重ねてしまうときです。
道に迷ったら たちどまって 道を知っている人に 尋ねるのが一番 そのうちにと思っていると 日が暮れてしまう  鈴木章(あや)子『癌(がん)告知のあとで』
迷いのままの自分では、迷いから抜け出すことはできません。そんなときは、まず立ち止まることです。今、自分がどこにいて、どこに行こうとしているのか、そしてどういう方法で行くのかを確かめることです。それを教えてくれるのは道を知っている人です。道を知らない人に尋ねると、かえって迷いは深まります。道を知っている人とは、お釈迦さまであり、親鸞聖人であり、すでにお浄土にお生まれになった、有縁の方々でしょう。煩悩に惑わされ、自分が迷っていることさえ気付かずに、迷いに迷いを重ねている私たちに、さとりの方角を示し、お浄土へ生まれゆく人生、お念仏申す人生を教えてくださいます。お彼岸のこの時季、お浄土のはたらきに気付かせていただきながら、今、私の人生はどこを向いているのか考えてみたいものです。

■聞こえたまま
布教にうかがったお寺の坊守さまから、このようなお話を聞かせていただきました。「私の祖父は『お浄土でまっているぞ』という言葉を母にのこして亡くなったそうです。それ以来、母は『父がまっているお浄土に参らせてもらわないと』と、一生懸命、聞法に励みました。しかしいつも、『お浄土の蓮の花のつぼみが開かん』と口癖のように言っては、さびしそうにしていました。そうして私が三十七、八歳の頃でした。母は脳こうそくを患い、闘病生活を送っていたのですが、いつの頃からか、母はあの口癖のような言葉を言わなくなったのです。私は気になって、『お母さん、お浄土の蓮の花のつぼみはどうなったの?』と尋ねました。すると『もうそんなことは、どうでもいい、どうでもいい』と言うのです。病気になって、きっと考えるのも煩わしくなったんだ、と私は思っていました。でも、違っていました。母は阿弥陀さまのお慈悲に出遇っていたんですね。私もやっとそのことに気付かせていただきました。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ・・・」ありがたいお話でした。このお話を、もう少し味わってみたいと思います。
まず「お浄土の蓮の花」とは、ご信心のことです。「つぼみが開かない」とは、お母さまがご信心をいただけないと嘆かれていたということでしょう。阿弥陀さまのお救いは「信心一つ」のお救いですから、み教えを真剣に求める人にとって、どんなにつらいことだったでしょうか。ところで、親鸞聖人が明らかにされた他力の信心とは、一般的に考えられている「信じる」ということではありません。阿弥陀さまが「必ず救う、間違いないぞ」と喚んでくださっている、南無阿弥陀仏の喚び声を聞く以外にない信心です。聞いてから信じるのでもありません。信じようとする必要がない、聞こえたまま、それが信心です。例えば、大学の合格発表です。発表を聞くまでは心配でなりませんが、合格と聞いたとたん、その心配はなくなります。信じる必要もありません。ただそこには合格したという事実があるだけです。その事実が「よかった」という喜びとなり、安心になるのです。
蓮如上人は、南無阿弥陀仏を「われらが往生の定まりたる証拠なり」とおっしゃっています。まさに私たちの往生の解決した証拠です。この喚び声に遇わせていただいたなら、そこには「ようこそ、ようこそ」しかありません。これが他力の信心です。ところが、その信心がいただけません。喚び声が聞こえないのです。なぜでしょうか。それは、こちらから手を出すからです。自分の心に「落ちついた。安心した」という確かなものを作ろうとするからです。これが「自力のはからい」「疑い心」です。その疑いは何百年聞法しても私の力では取れません。向こうからしか開かない扉を、こちらから押しても引いてもダメなのです。救い取ってくださるのは阿弥陀さまです。だから今一度、阿弥陀さまのお慈悲を聞いてみてください。いつでも「そのまま救う」の親さまです。疑う私を救わないとはおっしゃっていません。疑う私に、そのまま救うとはたらいてくださる広大なお慈悲に遇って、あんなに取れなかった疑い心が取られてしまいます。
胸にさかせた信の花 弥陀にとられて今ははや 信心らしいものは さらになし 自力というても 苦にゃならぬ 他力というても わかりゃせぬ 親が知っていれば 楽なものよ ・・・と詠んだ浅原才市さんの歌が何ともありがたく響いてきます。
お話してくださった坊守さまも、お母さまがはからってもはからっても、はからいきれなかった阿弥陀さまの広大なお慈悲を、ご自身も喜ばれていたのでしょう。その眼には涙がにじんでいました。

■み光の中でお育てを
今まで経験ない揺れ
カタカタカタ・・・・・・。引き戸の揺れる音で始まった。「えっ! 地震?」と思っている間に、ゆさゆさゆさ・・・・・・。今まで経験したことのない揺れ。窓から見える親鸞聖人の像が今にも倒れそう。本堂に走って行ったその間も、ゆさゆさ・・・・・・。「阿弥陀さまは大丈夫だろうか!?」土香炉(ぢごうろ)が、金香炉(かなごうろ)が、落ちている。阿弥陀さまは、動じずにじっとお立ちであった。ほっとする間もなく、あちこちから、がしゃんがしゃん・・・・・・。あさましいことに、とっさに、どれが高価なものか、頭の中で計算機が動く。テレビに走った。揺れが治まってから、家中を見て回った。「ああ!納骨堂が!」納骨堂の中の各お仏壇が、すべて倒れている。あちこちに、被害を発見。でも、これくらいで済んでよかった。大ざっぱな片付けが終わる頃、テレビで情報収集をしていた母が、「大変だ! 津波が!」と叫んだ。テレビの画面にくぎ付けになってしまった。親類・友人のことが気になる。電話はつながらない。どうすることもできないことにいら立つ。
スカウトたちが尽力
私の住む会津若松市は、東北の被災県ではあるが、目を覆うような大きな被害はなかった。翌12日より、福島原発が相次いで爆発を起こし、煙が上がる。避難区域に指定された町の方々が、次々と会津に避難。体育館が、あっという間にいっぱいになった。そんな中、我が家にも親類の勝縁寺から避難してきた。当初は津波被害の方々を受け入れていたが、自分たちの所が避難区域になったからだ。しかし、その住職は、ご門徒の葬儀で地元に残っている。私たちも気が気ではない。そのうちに、ご門徒方も避難されてきた。また別に、知り合いの伝(つて)を頼って、受け入れの要請があった。もちろん、受け入れた。着の身着のままでの避難。そんな中、「お彼岸なのに、お寺参りも、お墓参りもせず、お仏壇もほったらかしで・・・」と気に病んでいる方々が多いと聞いた。急きょ「彼岸会・震災追悼法要」を計画。ガソリンがないため、歩いてこられる範囲の避難所に連絡。ご法要まで中一日。情報は伝わっただろうか?いや、誰もお見えにならなくても、私たちの気持ちで追悼法要を、と思った。当日、本光寺と勝縁寺の門徒さん・スカウトを含め35人の方々が参拝。終了後、茶話会をする。地震の時の恐怖、この先の不安、少しは吐き出していただけただろうか?こころ和ませていただけただろうか?避難所にいて、お参りはしたい。だけど、ここまで来る気力がない方もいる。スカウトたちは、今後の活動を話し合う。
地震直後から、募金やボランティアをしようと声をあげてくれたスカウトたち。今年の活動は、被災した方々に焦点を当てたプログラム展開にすることで一致。リーダーたちは、すでにそれぞれに避難所でお手伝いを開始。本光寺に避難してきている子どもたちと遊んでくれたスカウトもいる。回数が問題ではない、かけた時間が問題ではない。そう思ってくれるこころが、とにかくうれしい。普段、「お話に耳も傾けずそっぽを向いている」と思っていた自分が恥ずかしい。自分の欲・損得でしか動かない私の姿を突き付けられた。被災して、帰るに帰れないでいる方々、手を合わすことさえできなかったことに心を痛めている方々。私の中で、響いてきた言葉。私の好きな言葉・・・。「み光の中で、お育ていただく」本当だろうか?私は体裁ぶって言っているだけではないだろうか?自問自答もした。それでも、今回ほどこの言葉を心の底からかみしめたことはない。もやもやが、すっきりと晴れた。やっぱり私たちは、阿弥陀さまのみ光の中で生かされ生きているんだ。お育ていただいているんだ。
ありがたいなあ。涙が出る。今現在、福島県は原発問題で、遺体捜索確認ができない状況もある。まだまだ歩み出せないでいる。私たちのできることはなんだろう?精いっぱいつとめさせていただこう。

■希望を胸に
千年に一度の・・・
東日本大震災が発生した3月11日、所用で外出していた私に、坊守から電話がありました。大阪で就職活動の説明会に出席していた大学生の次女から、地震があり結構揺れてこわかったと連絡してきたという内容でした。どこが震源かなぁ、と思いながら寺に帰りテレビを見た瞬間、体が凍りつきました。その後の惨状は、皆さんがご存じの通りです。震災の直後から、「千年に一度」「想定外」という言葉が、防災や原発の専門家、担当者の口から相次ぎました。確かに、人間の想像を超えた災害であったに違いありません。しかし、それまで「地球にやさしい」「環境に配慮した」など、人間の力で自然をコントロールできるかのような宣伝を、同じような人や企業が発言していたのです。この宣伝文句がいかにおこがましいものであったのか、今回の災害は人間の能力が自然に対して、微力ではなく無力であることを証明しました。ですから「千年に一度」「想定外」などの発言は、人間の言い訳以外の何ものでもありません。実はこれと似たようなことが、以前にもありました。
阪神・淡路大震災で
私は神戸市灘区に住んでいますが、16年前、阪神・淡路大震災により大きな被害を受けました。その時は震度7でした。震度7という揺れは、実際には「揺れ」とは感じられません。器の中でかき回されているような感じです。よく訓練などで、地震がきたら先にガスやストーブを消して・・・などといわれますが、まず不可能です。何しろ自分を守るのが精いっぱいで、それ以外の余裕などほとんどありません。この時、よく使われたのが「無常」という言葉でした。今までのすべてが一瞬にして崩れて変わってしまったのですから、あながち間違いではありません。しかし、それまでは各地に災害が発生しても、「無常」などと頻繁に使われたことはなく、あの大震災をきっかけに突然、盛んに使われだしたのです。私は近所の方々と避難生活を送りながら、「そうかな?」と疑問を持っていました。なぜなら、阪神・淡路大震災も今回の東日本大震災も、被災地はそれまでと一変して非日常的な状況になります。その非日常的な状況を指して「無常」と使ったのです。日常と非日常を区別する、つまり被害があった地域と、そうでない地域を区別してとらえていました。しかし、そうでしょうか。毎日の暮らしが、電気・水道・ガスを当たり前のように使えることに慣れてしまい、一つでも止まると右往左往して不便に思います。でも何でも手に入るなどという社会は、むしろ異常でもあるのです。つまり安定した毎日を日常的というのではなく、山あり谷ありの人生をひっくるめて日常的と言えるのです。
「無常」は、決して他人事ではなく、私自身の生き方を問題にしているのです。ともあれ、生きるか死ぬかの状況から、いかに生きるかという現実を前に、悲しみを抱きながら、先の見えない日々を過ごすつらさは、どのようなお見舞いの言葉も空(むな)しく響くだけかもしれません。最後に歌詞を紹介します。阪神・淡路大震災が起きた後、小学校の音楽の先生・臼井真さんが、壊れた街並みを歩きながら作った歌です。今でも、小学生を中心に歌い継がれ、多くの人々に勇気と希望を与えてきました。皆さんに笑顔が戻る日が来ることを、いつまでも待ちたいと思っています。
しあわせ運べるように   作詞・作曲臼井真
地震にも負けない 強い心をもって 亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に 生きてゆこう 傷ついた神戸を 元の姿に戻そう 支え合う心と 明日への希望を胸に 響きわたれ ぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに 届けたい わたしたちの歌 しあわせ運べるように

■「なもあみだぶつ」は不思議な言葉
もしも私が・・・
ある日、私が帰ってこなくなったら、探したのに見つからなかったら、お浄土に行ったんだ、と思ってください。あるいは、どこかに転がっていたら、ご迷惑をおかけしますが、自分ではどうにもできないので、葬ってくださるようお願いします。お骨がないときは、お墓に入れてやれなくてかわいそう、と思われるかもしれませんが、お墓に入ろうと思って生きてきたわけではありませんから、どうぞ気になさらないでください。もしくは、私を葬(ほうむ)ってくださることになる方、お世話になります、本当にありがとうございます。どんな最期を迎えるか誰もわかりません。が、問題は死にざまではなく、生きざまだ、とお聞かせいただいています。苦しんだとか楽だったとか、私が死んでも、そんなことは話題にしないでほしいです。できれば、私の良いところを思い出して、お褒(ほ)めいただければ幸いです。もし、ありがたいことに葬式をしてやろうということになり、でもなんにもなしじゃあ、と残念に思われたならば、「南無阿弥陀仏」と書いた紙を張って、手を合わせ、「なもあみだぶつ」と称えてください。紙がなければ、「なもあみだぶつ」の声だけで、もう本当にうれしいです。その声の中に私がいます。驚かないでください。私と言っても、私はもういません。それは仏さまという存在です。「なもあみだぶつ」は不思議な言葉で、その声は、称えた人の声であると同時に、仏さまの声でもあります。私も、死んだら即!仏さまの仲間に入れていただくので、「なもあみだぶつ」の中に私の声がする、と申しあげました。そんなことはない、これは自分の声で、誰の声でもない、と思われますか?自分ひとりで生まれてきたわけでもなければ、自分ひとりで育ってきたわけでもありません。声だってそうです。ざっくりと申せば、おかげさま、で生きているのです。この私も、おかげさまのかたまりなのです。
おまかせします
さて、不思議な言葉「なもあみだぶつ」の意味はというと、こちらからいえば、「おまかせします、阿弥陀さま」ですが、それは阿弥陀さまからの「なもあみだぶつ」に応えた言葉です。阿弥陀さまからはこうおっしゃっています。「まかせなはれ」。すみません、関西人の私にはそう響きます。「まかしんしゃい」とか「まかしなされ」かもしれません。ともかく、私はそう言ってもらったので、「ありがとう、阿弥陀さま」と、私の全部をおまかせしているわけです。いつでもどこでも、阿弥陀さまは私を見まもっていてくださいます。そして、いのちが終わるその時には、阿弥陀さまの国、さとりの世界に私を生まれさせ、仏さまにしてくださるのです。仏さまになったならば、今度は生きている人々を、見まもっていきます。だから、行ったといっても、実はすぐに帰ってきているのです。帰ってきたら、阿弥陀さまと同じようにはたらきます。阿弥陀さまのはたらきとはどんなものかというと、生きている人をともかく尊敬してくださるのです。悲しんでいる人がいたら、とことん尊敬してくださり、涙する人がいたら、とことん尊敬してくださる。下を向いていても、尊敬してくださっている。前を向けなくても、上を向けなくても、とことん尊敬してくださっているから、安心してうつむいていていいのです。もし、身近に、小さい人がいて、父親や母親がいなくなってしまった人がいたら、不思議な言葉「なもあみだぶつ」を称えてごらん、聞いてごらん、と声をかけてください。それは、ののさまの声だよ、そして、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんの声でもあるんだよ、と。言葉の意味を問われたら、「ありがとう」ということだよ、とお話しください。人の言葉は、時にわずらわしいことがあります。意味はわからなくても、慈しみの声を響かせて、そこに光あることを聞いていってもらいたい、と願います。

■無縁の慈悲
うなずけない言葉
いきなりお国自慢で恐縮ですが、私の住む富山は「いい所」です。立山連峰は四季を通じて雄大な姿を見せ、世界遺産の五箇山合掌集落、おわら風の盆、さらに富山湾から恵まれる、ブリやホタルイカなどの海の幸、もちろんコシヒカリもおいしい。本当に富山は「いい所」なのです。けれども、今まで何度か「そうだよね」と、素直にうなずけないことがありました。例えば阪神大震災のとき、あるいは近年の大型台風上陸の折、「ごんげはん(住職さん)富山ちゃ地震もないし、台風も来んし、本当にいい所やちゃ」という言葉を聞いたときでした。そして今回の東日本大震災でも、私が山形出身であることをご存知の方々が、私の実家のことや両親のことを心配してくださって、「ごんげはん、山形のお父さんとお母さんはご無事でしたか?お家の方は大丈夫ですか?」と、たくさん温かい言葉をかけていただきました。その上、被災した東北の人々のことを気づかって「何といとしや(かわいそうな)」と心を痛めておられました。ところがその後に、「ごんげはん、やっぱり富山ちゃいい所やちゃ」とおっしゃるのです。同じ言葉でありながら、冒頭の「いい所」とはちょっと違います。やはり素直にうなずけません。実際、仙台で暮らす息子さんが被災したご門徒がおられますが、命に別状はなかったものの、ご両親にしてみれば息子さんやそのお連れ合い、かわいいお孫さんのことを思って夜も寝られなかったに違いありません。その場で「富山ちゃいい所」と言えるでしょうか。震災の後、東京に住む私の娘から、スーパーに食べ物が無くなったから何か送ってくれという電話がありました。日本で一番物があふれる所でそんな馬鹿なと信じられませんでしたが、本当でした。テレビでは、食品の無くなったスーパーの棚を映していました。別の画面では卵のパックやお米の袋をいくつも買い求めている人がいます。あれまあと思いつつ私は娘に言われるがまま、ダンボールにカップ麺やレトルト食品を詰め込みました。娘は計画停電に備えて懐中電灯も送れというので、ホームセンターに行くと、どこも売り切れでした。富山も一緒だったというわけです。そんな私自身、実家の両親や弟家族が無事だとわかったときは、ほっとした瞬間、岩手、宮城や福島のことを忘れていました。
そばにいるだけで・・・
大震災以降、「幸せとは何だろう」という問いが私の頭から離れません。もちろん一人一人の幸せの価値観は異なります。ただ、人はどんなにささやかなことでも、一緒に喜んでくれる仲間がいるときに幸せだと感じるのではないでしょうか。阪神大震災で被災したある医師は「誰かがそばにいてくれるだけでいい」と語っておられます。以前、子ども会でこんな話をしました。「ここに一個のおまんじゅうがあります。Aさんは一人でこっそり食べました。Bさんはみんなで分け合って食べました。さてどっちがおいしいでしょうか?確かに一人あたりのおまんじゅうは少なくなったかもしれませんが、こそこそ隠れて食べるより、みんなと一緒に『おいしかったね』と言い合える方が、きっとおいしいよね」 どこまでも自己中心的で、自分の欲望を満たすためには、平気で人をだましたり傷つけたり(そういえば被災したお宅に泥棒に入ったり、学生が集めた義援金を脅し取った人がいました)しかねない私たちですが、そのような私たちだからこそ放(ほ)ってはおけない、と立ち上がってくださった阿弥陀さまでした。「無縁の慈悲」という言葉があります。辞書によれば、「仏の慈悲は平等で、差別がなく、なんら関係のないものにもそそがれる」とあります。つまり縁もゆかりもないものもたすけずにはおかないという無条件の救いです。今はやりの「無縁社会」とは対極の言葉です。それに引きかえ私たちは、どうしても自分と、自分に関係のあるものから優先的に考えてしまいますが、お念仏の教えを聞かせていただく中から、共に生かされ共に歩む人生を送りたいと思います。

■猫も小判!
学ぶとどうなる?
東西本願寺など浄土真宗の十派でつくる真宗教団連合が、京都市美術館で開催している「親鸞展」を見学しました。聖人が実際に書かれたものや生前のお姿など、本物の持つ迫力が伝わってきて、とても感動しました。イヤホンから流れる三國連太郎さんの音声ガイドも、素晴らしいものでした。「○○展」などの展示を見学するたびに思い起こす一つの光景があります。もうずいぶん前のことなのですが、博物館での兄弟の会話です。保育園か幼稚園に通っている子が、展示ケースの中を見てこんなことを言いました。「なんでここに"石ころ"が入れてあるの?」 それを聞いた小学校高学年ぐらいの兄とおぼしき男の子が、「これは"石器"といって、昔の人が使った石の道具だよ」と説明していました。幼い弟には単なる石ころにしか見えなかったものが、兄には石器という大昔の人々が生活の中で使用していた道具だと見ることができたのです。学ぶことによって、見方が変わったのです。価値を発見できたのです。ただ、学ぶことは偉くなること、立派になることだと思ってはいけないと思います。学ぶことによって、「こんなことも知らなかった。あんなことも・・・」と自分の愚かさを知らされる、と味わいたいものです。学べば学ぶほど、自分の知らないことが逆に増えてきます。至らない自分に気付かされることでもあるのです。学んだことにより知識が増え、知恵がつき、賢くなったとしても、その結果が人を馬鹿にするだけでは困ります。私は、賢くなることばかりを求める教育には問題があると危惧(きぐ)しています。
親鸞聖人は、ご自分のことを「愚禿(ぐとく)」と名のっておられます。しかし、国宝「観無量寿経註(ちゅう)」を見るだけでも、ものすごい研鑽(さん)を積まれたことが知らされます。「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」とは、まさしく親鸞聖人の姿です。その聖人が一筋に歩まれたのが、お念仏の一道です。「南無阿弥陀仏」です。このわずか六字に込められた阿弥陀さまのお心、そして親鸞聖人のお心は、聴聞を重ねていく"仏縁"の中で聞き開いていくものです。先人たちが命がけで伝えてくださったお念仏を、石ころにしか思えないようでは、本当に残念なことです。
役に立たなくても・・・
ところで皆さんはペットを飼っていますか。うちのお寺には「たま」という名の猫がいます。お昼寝の大好きな猫です。猫は人の役に立つようなことは、あまりしませんね。その点、犬は立派なものです。盲導犬、耳の不自由な人を助ける聴導犬、車いすを引くこともする介助犬、麻薬の探知犬・・・など、さまざまに活躍しています。人に役立つということだけで比べれば、断然、犬に軍配が上がります。でも、猫は猫でかわいいところがあります。愛らしいところがあるものです。犬のように役立つようになったらかわいがってやる、というわけではないのです。猫は猫なりに素晴らしいところがあると思います。『仏説阿弥陀経』には「青色(しょうしき)には青光(しょうこう)、黄色(おうしき)には黄光(おうこう)、赤色(しゃくしき)には赤光(しゃくこう)、白色(びゃくしき)には白光(びゃくこう)ありて、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり」と説かれています。青、黄、赤、白のそれぞれの色が、そのまま輝く世界が描かれています。猫は猫のまま、犬は犬のまま輝く世界があるといえるのです。
「猫は犬にはなれません!」 同様に、私はあなたになれないのです。私は私として生まれ、私として生涯を終えていかねばならないのです。そして、この私は年をとり、病気になり、迷惑をかけるだけで、何の役にも立てなくなるかもしれません。でも、私がどういう存在になったとしても、「あなたしかできない尊いことがあるのですよ」と、いつでもどこでも阿弥陀如来さまから大切に思われている"私"であるというのです。本当にありがたいことだと、お念仏申させていただくばかりです。

■私たちの務め!
お仏飯の盛り方から
私の住んでいる兵庫県の播州地方では、田植えが始まりました。今では機械で行っていますが、その昔、手で田植えをしていた頃には、田植えで余った苗を田んぼの片隅に、かためて植えておいたようです。この苗がある程度の大きさになった時に刈り取って、それを束にして、輪灯(りんとう)のような真鍮(しんちゅう)の仏具のお磨(みが)きに、タワシとかスポンジのかわりに使っていたそうです。大きくなった苗は柔らかく、仏具が傷まなくて良かったそうです。そのかわり、今のようにピカピカというわけにはいかなかったようです。この話を聞いた時に、仏さまのご飯・お仏飯(ぶっぱん)の昔の盛り方も教えてもらいました。当時は麦飯だったので、普通にすくっても、ご飯がバラバラして盛れなかったそうです。それで、ご飯が炊けた時、お釜の真ん中に少しだけ真っ白なお米だけの部分があって、その部分をそーっと杓文字(しゃもじ)ですくって、仏さまのご飯にしていたそうです。ですからお仏飯は冷えても、それだけで大変なご馳走だったそうです。このような営みで、それぞれのお家のお仏壇と仏さまを大切に護(まも)ってこられたのです。私の地方では、姫路仏壇とか播州仏壇と呼ばれる独特のお仏壇があります。彫刻が多く施された豪華なものです。その彫刻にもいろいろな図柄があるのですが、その一つに西遊記の図柄があります。なぜ西遊記の図柄がお仏壇に施してあるのか疑問でしたが、これはいかにお経、ひいては仏教の教えが、私のもとに至り届くのに、どれほどの先人たちの苦労があったかということを示したものであるということが、お磨きの仕方や、お仏飯の盛り方を聞いてわかったように思います。
後書きとは違う
お経の内容を学び始めた時、経典は前書きにあたる部分を「序分(じょぶん)」といい、本文にあたる部分を「正宗(しょうしゅう)分」、そして後書きにあたる部分を「流通(るずう)分」ということ教えてもらいました。本当に仏教を習い始めた時でしたので、仏教だからそれぞれの名称が違うのだなぁというくらいの認識でした。序分は序章のようなものだろうし、正宗分も正しい宗(むね)が書いてあるから本文だろうというくらいの理解です。後書きをどうして流通分というのかなぁ・・・という疑問はその時には、残念ながらおこりませんでした。仏教では「りゅうつう(流通)」と書いて「るずう」と読むのかということだけに注意がいっていたように思います。しかし、あらためて考えますと、「後書き」と「流通」では、その思いが全く違うということに気付きます。後書きは、文章が終わり、さらに最後のまとめを行うことが目的です。それに対して流通分は、それでお経が終わったということにはなりません。このお経を語るのは終わったけれども、この経典の中に説かれている教えは広く流布(るふ)し、今後私たちに流れ込み、私たちの思いに通わないといけない。そして、後に伝えていかないといけない。私たちが受け取っているみ教えを後に伝える、ということを担っているように思います。
こういうと何やら難しいのですが、「○○ちゃん、マンマンちゃんにナムナムしようね」と、仏さまの前で手を合わしてその声や姿を後に伝える、仏さまを敬う生活を知らせていくことが大切な時代ではないでしょうか。今の人は幼い頃に労働期がないといいます。労働期というと何か大仰(おおぎょう)な感じがしますが、要はお手伝いをする機会がないということです。「手伝い」とは「時間を自分以外の他者のために使いなさい」ということです。勉強、勉強と自分のためだけにしか時間を使ったことのない人間に対して、他者を敬えとか認めろということは、もともと無理なことかもしれません。自分に対して有意義な存在であるかないか、荒っぽく言うと「損か得か」という点でしか他者を見ることができないとしたら、とても悲しいことです。仏さまとは、無量のいのちの輝きです。このいのちの輝きにお礼している姿を後に伝えていくことこそが、今この時を生きる私たちの務めです。 
 

 

■問いかけ
喜びや悲しみさえも
「なして『あなかしこ、あなかしこ〜』って言うと?」 ひいおばあちゃんの祥月命日。御文章の拝読の後、小学生のA子ちゃんの問い。「真宗の坊さんたちゃあ、おかげさまとか、生かされとるとか言わすばってん、ほんなこて、そがん思とらすとかにゃあ」 外で会った他宗派の酔っぱらったおじさんの問い。「来る道で思うたことばってん、疑う罪によって化土(けど)(辺地(へんじ))にとどまるということば考えてきた。ばってん、ようわからん」 毎月の常例法座の後、お茶を飲みながら、篤信のIさんからの問い。お参りに行く先々での問い、教育現場での子どもたちの問い・・・、これまでどれだけの問いかけに出あい、考えさせられたことでしょう。問いかけばかりではありません。目の前に起こってくるさまざまなトラブルや心配事、煩わしい出来事、喜びや悲しみ・・・それらもすべて、僕自身に対する問いかけなのだと思えた時、それらに応えるべく、考え、書物を読み、どう答えるかを構築していきました。さまざまな問いかけが、この身にしみ込んで、僕を育ててきたように思います。その中の一つのことです。
ちがってていいんだ
今から20年ほど前、小学校で1年生の担任を受け持った時、学級園にチューリップが咲いたので、みんなでチューリップの歌を歌いました。ある女の子が「どの花見てもきれいだねって良かねえ」と、つぶやきました。「うん、良かねえ」と言いながら、僕は『仏説阿弥陀経』の「青色青光(しょうしきしょうこう)、黄色黄光(おうしきおうこう)、赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)、白色白光(びゃくしきびゃっこう)」(青い花は青い光、黄色い花は黄色い光、赤い花は赤い光、白い花は白い光を放ち)を思い浮かべていました。お浄土の蓮の花が、青が黄色をうらやましがったり、赤が白をバカにしたり、白が青を邪魔したり、黄色が赤にへつらったりせず、それぞれの色がそれぞれの光を輝かせて、個性を発揮している。そして、一つひとつが全体を荘厳(しょうごん)している。これは、お浄土の蓮の花のことではない、目の前にいる一人ひとりの子どもたちのことだと思いました。さっそく、教室の後ろの壁に、「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」と墨書した紙を張りました。子どもたちを十把一絡(じっぱひとから)げにしないという僕自身の戒めの言葉として。その言葉を毎日眺めているうちに、金子みすゞさんの「小鳥とすずとわたし」の詩を子どもたちと群読するようになり、さらに曲をつけて歌うようになりました。みすゞさんには失礼ですが、「ちがってていいんだよ、ちがうからいいんだよ、ちがうあなたがいて、ちがうわたしがいる」というフレーズを入れ込んで・・・。
蓮のつぼみが花開く
そのクラスには、車いすで生活している女の子がいました。バリアフリーではない学校の暮らしの中で、まわりの子どもたちは、その困難さを克服するやさしさを学び、「元気を出せば何でもできる」を合言葉にして、運動会も遠足も車いすで参加できるように考え、工夫し、実行していきました。1年生なりの精いっぱいのアイデアを駆使して。その子たちが小学校を卒業する時、町の体育館のスロープや電話ボックスの扉が車いすでは使えないこと、公共施設の歩道や段差が実際にはバリア(障壁)になっていることなどをクラスのみんなで検証し、地元の新聞に提言したそうです。「クラスのみんながまとまって行動できるようになった」と6年生の担任の先生から聞かされて、僕は「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」のつぼみが大きく花開いたのだと思いました。問いかけのおかげで、子どもたちと一緒に、僕も育てられたのだと思いました。すべて阿弥陀さまのはたらき(無量寿、無量光)の中で。

■阿弥陀さまの涙
カッコウの声
6月も下旬を迎え、日本列島の大半は梅雨の季節の真最中となりました。前線の影響の少ない北海道や、私の住んでいる北東北の岩手県でも、どんよりとした空になっています。本堂の裏手にある杉の木や公孫樹(いちょう)の天辺(てっぺん)では、夜も明け切らぬうちから、カッコウが飛んで来て、大きな声で鳴いています。この情景を、私と同じ渋民(しぶたに)村(現盛岡市玉山区)出身の、薄幸・漂泊の詩人、石川啄木は、「ふるさとの寺の畔(ほとり)のひばの木のいただきに来て啼(な)きし閑古鳥!」(歌集『悲しき玩具』)と詠(よ)んでいます。ここでの「ふるさとの寺」とは、すぐ近くにある啄木の育った宝徳寺(曹洞宗)のことです。今は亡き私の祖母は、「カッコウは木の頂(いただき)から、四方八方を眺めながら『お前の親さまはここにいるぞよ』と呼んでいるのだ」と、よく話してくれたことを思い出しています。しかし、私・私たちは、この「親さまの声」に気付くことなく、一生を終えてしまいがちです。
親のこころ
ここで、啄木の短歌を二首紹介しましょう。「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」(歌集『一握の砂』) 「もうお前の心底をよく見届けたと、夢に母来て泣いてゆきしかな。」(歌集『悲しき玩具』) 上京し、貧困と病苦の床から、思郷の想いで詠んだものですが、母親の恩愛に気付かなかった自分の恥ずかしい姿を嘆いたものです。だれの親であろうとも、親は自分の子どもの「幸福」を願いながら、育てています。いつでも、自分の子どもの安否を心配し、それを子どもに対する愛情と思って生きているのです。外の世界を充分に知らない、よちよち歩きの幼児が、ひろびろとした草原で遊んでいる間でも、一時さえ目を離すことはしません。また、自動車が往来して危険な道路や、深くて流れの速い河川のほとりで、それに気付かないで無心に遊んでいる場合はもちろん、急いで走り寄って、抱きかかえるようにして、その子どもを連れもどすのが親の愛情でしょう。子どもの願望をそのまま認めるのは、真の愛情ではありません。親よりも人生や社会経験の乏しい子どもですから、正しく、道理にかなった時は認め、子どもの判断に過ちや危険がある場合は、親として、また人生の先輩として、生命をかけ、身を挺してまでも子どもを救うために反対もするのです。しかし、このような親の心を子どもは理解できないのが実情ですね。
姥捨山伝説から・・・
貧しい村の青年が「口べらし」のため、年老いた母を背負って、山に登っていきます。背の母は山に捨てられるのを覚悟のうえで、息子の帰り道を心配していたのでした。これは、長野県・姥捨(おばすて)山伝説より取材した、深沢七郎の小説『楢山節考(なりやまぶしこう)』の内容です。この時の、老母の気持ちは、どれほどの悲しみに満ち、また子どもへの愛情で涙したことでしょう。帰り道を迷わずにとの息子への配慮から、さらには、母が折り捨てた薪(たきぎ)の小枝を、後に息子が見つけたときの心情は・・・。感動なしに、読み終えることはできません。みなさまにもぜひ一読をお勧めいたします。
み仏のこころ
ここでの「息子」とは、だれのことでしょうか。「親の心」に気付かない「私の姿」です。
親鸞聖人が晩年に詠まれた『浄土和讃』には、
超日月光(ちょうにちがっこう)この身には 念仏三昧(ねんぶつざんまい)をしへしむ 十方(じっぽう)の如来は衆生を 一子(いっし)のごとく憐念(れんねん)す 子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶(おく)すれば 現前当来(げんぜんとうらい)とほからず 如来を拝見うたがはず 
・・・と、仏(母)が衆生(子)を慈悲の心で「一子のごとく憐念」してくださることを示されています。これが阿弥陀仏の大慈悲心、つまり、「親さまの心」なのです。阿弥陀仏は、人生に迷い苦しむ「私」の姿をごらんになり、深い悲しみと、ふびんに思う親心から、大切な我が子、私を一子と喚びかけ続けているのです。阿弥陀仏は慈悲の涙を流しながら、必死の声が「南無阿弥陀仏」なのです。親心を歓喜で聞信させていただきましょう。

■「だいこん」と言ったね〜
すべて子ども中心
如来さまのおはたらきを「南無阿弥陀仏のおよび声」と聞かせていただきます。
原口針水(しんすい)和上は、
われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよび声 ・・・とお味わいくださいました。
阿弥陀さまは私の親と名乗ってくださり、いつもいつも私と一緒にいてくださるのです。阿弥陀さまが私の親と名乗ってくださることは、どういうことなのでしょう。この関係は私たちの身の回りにも味わえることがあります。赤ちゃんが泣いている声を聞いて、親が急いでわが子のもとに行き、「お母さんよ」と声をかけながら抱きかかえる姿がそれでしょう。子どもがはげしく泣いているのに、何もしない親はいません。子を抱きかかえ、「大丈夫よ、お母さんがいるからね」と、子どもに安心を与えながらあやします。わが子の声を聞き、遠くからでも「お母さんはここにいるよ」と子どもに聞こえるように大きな声で伝えるのです。
私事ですが、かつてわが子の誕生の時、心躍る出あいの喜びを感じつつも、必ず別れていく寂しさとつらさを少し感じたことを思い出します。別れる時が必ずくるというつらさがあるなら出あわなければよいのでしょうか。いいえ、出あいたくて出あえたわが子です。その子を抱きかかえ「お父さんだよ」と何度呼んだことでしょう。妻が子どもを抱き「お母さんよ」と、そして私の両親が「おじいちゃんよ」「おばあちゃんよ」と呼んでいるのは、自分の名前ではなくて子どもにとっての呼び名なのでしょう。その声も、ちょうど子どもに届くほどの大きさで、柔らかく和ませるような優しい声で呼んでいるのです。私の母が孫に「お父さんもここにいるよ。お母さんもここにいるよ」と、自分の親ではないのに父母と言い、私も「お母さんもいるよ」と自分の母親ではないのに母と言います。わかりにくい話ですが、すべて子ども中心ということなんです。私の母が孫に「おばあちゃんよ」と10回言うと、私はそれ以上に「お父さんだよ」と呼びました(「お父さん」と呼んでほしい負けず嫌いの父心でした)。
六字以外にはない
そんなある日、ついに子どもがはっきりとしゃべったのです。それがなんと「だいこん」だったのです。妻と私は大笑いしました。初めてしゃべる言葉は何だろうと期待していたのに、「だいこん」だったのです。すぐにその子を抱きかかえ「だいこんと言ったね〜」と大喜びしました。期待と違う言葉でしたが、いいんです。「お父さん」と10回呼んでも20回呼んでもこの子に届いたのは、近所の方が「たくさんできたのでお供えしてください」と持ってきてくださった「だいこん」という声だったのでしょう。だからといって「だいこん」と言ったわが子を嫌いになったりはしません。この子に届いた声のように、私に届けと、仏さまが南無阿弥陀仏の六字に仕上げ、み声の仏さまと現れていつでもどこでも誰にでも称えられる仏さまなのだと知らせていただきました。
私が称えるみ名、私が聞くみ名は「南無阿弥陀仏」という、「必ず連れて行くから安心して今生(こんじょう)を生き抜いておくれ」という親の願いです。その願いを、ただ疑いなく信じ、親の名をよばせていただくのです。蓮如上人は「御文章」の無上甚深(じんじん)章に「南無阿弥陀仏の名号は、わずか六字ですから、それほどのはたらきがあるとは思えませんが、この六字の名号にはこの上ない深い功徳や利益(りやく)があり、その広大なことははかり知れません。信心を得るということも、この六字にあるのであり、それ以外にあるわけではありません。信心とは、六字の名号のいわれをよく心得ることをいうのです。この六字のいわれを心得たものを他力の信心を得た人というのです。南無阿弥陀仏の六字には、このようなすぐれたいわれがあるのですから、疑いなく深く信じるべきです」(取意)とお知らせくださっています。

■妙好人(みょうこうにん)のこころ
困難に出あっても
私はここ数年、妙好人(みょうこうにん)について学ばせていただきました。妙好人とは、善導大師や親鸞聖人が、真実の信心をいただいた人のことを讃(たた)えられた言葉ですが、江戸時代以降に編集された『妙好人伝』では、多くは一般庶民で真実の教えにめざめ、お念仏の生活を送った人を指します。妙好人にもそれぞれ個性がありますが、共通するのは、み教えを聞いて、今まで気づかなかったわが身の煩悩の姿を知らされ、阿弥陀さまのお慈悲に抱かれていることにめざめ、感謝と仏恩報謝の思いで生きたことです。困難に出あっても、お慈悲に抱かれたわが身を、「おらにゃ苦があって苦がないだけえのう」「お慈悲の力は強いでなあ」と語り、何ごとも「ようこそようこそ」と感謝しつつ生きた因幡(いなば)(鳥取県)の源左(げんざ)さん、阿弥陀さまの光明に照らされた自分を「あさましあさまし」と恥じながら、その私をお救いくださる阿弥陀さまのお慈悲に出あって、「うれしうれし生きるがうれしなむあみだぶつ」といのちの喜びを詠(よ)んだ石見(いわみ)(島根県)の浅原才市(さいち)さん、「おも荷背負ふて山坂すれどご恩思へば苦にならず」とうたった長門六連島(ながとむつれじま)(山口県)のお軽(かる)さんたちの生きざまです。
こうした妙好人は、阿弥陀さまの智慧の光に照らされ、お慈悲に抱かれ、損得・勝敗・賢愚などの相対を超えた安らぎの世界を見いだしています。身はこの世にあって、心は浄土につながっているのです。お慈悲に触れて苦しみ悲しみを乗り越え、いのちの尊さにめざめて人々や動植物、すべての命あるものに温かくやさしく接しました。親鸞聖人が『教行信証』に「大悲の願船(がんせん)に乗(じょう)じて光明の広海(こうかい)に浮びぬれば、至徳(しとく)の風静(かぜしず)かに衆禍(しゅか)の波転(なみてん)ず」(阿弥陀さまの、すべての者を救うという大悲のお誓いを喜び、智慧の光明に照らされると、この上ないお徳によって、もろもろの禍(わざわい)が安らぎへと転換される)といわれる境地に生き、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」の願いをわが願いとして生きた人たちでした。
火の中に落とさない
中でも印象深いのは、六連島(むつれじま)のお軽さんのことです。お軽さんは勝気で活発な娘さんでした。結婚しますが、夫の浮気で死ぬほどの苦しみを味わいます。しかし、それが縁となって必死の思いで仏法を聴聞するようになり、やがてまことの信心をいただき、お念仏する身となって心豊かに暮らしたそうです。先ほどのお軽さんの歌は、江戸時代の僧純(そうじゅん)編『妙好人伝』第三編に収められている「お軽三十五歳の信心の歓び歌」十六首の中の一首ですが、この歌から、阿弥陀さまのお慈悲に出あって苦しみを乗り越えたお軽さんの喜びが伝わってきます。お軽さんのお寺である、下関市六連島・西教寺の西村真詮住職が編集された『妙好人おかるさん』に次のような逸話が載っています。ある年のこと、北海道でアジ船が大しけにあい、船が潮に流され、ようやく六連島に漂着したことがありました。命からがら助かった漁師たちは、お軽さんの家で食事などでもてなされた後、囲炉裏(いろり)を囲んで、お軽さんの語る阿弥陀さまのお慈悲の話に耳を傾けました。そのとき、お軽さんは次のような歌を詠んだそうです。
私しゃ自在鉤 阿弥陀さまこざる 落としゃなさらぬ 火の中に
「自在鉤」とは、囲炉裏の上の天井から鍋を吊り下げる道具のことです。その鉤に鍋を懸けて囲炉裏の火で煮炊きするのです。「こざる」とは小猿鉤(こざるかぎ)のことで、自在鉤を上げ下げして鍋と火の距離をとり、火加減を調節する横木です。お軽さんは自分を自在鉤に見立て、阿弥陀さまを小猿鉤に見立てて、阿弥陀さまがいつも私を離さず、煩悩の火の中に落ちないように支えてくださっている安心を詠んだのです。どんな時にも、阿弥陀さまは南無阿弥陀仏の名号となって私に寄り添い、抱いてくださっていることを漁師たちに伝えたのです。漁師たちの心に、安らぎと生きる力が湧いたことでしょう。この世は、生きている限りつらく悲しいことが起きますが、仏法を聴聞させていただき、お慈悲をよろこび、お念仏申しつつ、共に手を携えて乗り越えたいものです。

■わかり合う
経験した者同士でも
私には中学生になるダウン症の息子がいます。その体験を大学生に話す機会がありました。生まれてまもなく医師からダウン症の疑いと告げられた時の驚きや戸惑い、病気がちで困ったこと、早期療育が大切と聞いてあちこち走り回ったこと、偏食で保育所の給食を食べるのに1年かかったことなど、話題はいくらでもあります。ちょうどテレビでダウン症のドラマやドキュメンタリーが放送されていた時期でもありました。メディアの美談調なパターンに疑問を持っていた私は、「当事者でないとわからないことがあります」と無意識に口に出していたようです。後で学生の感想を読んだら、「私は障がいに関(かか)わる人の気持ちを理解したいと思いますが、当事者でないとわからないと言われてしまうと悲しくなります」というものがありました。私ははっとしました。「経験した人こそわかる」ということが言われます。私も、ダウン症親の会というものに入れてもらって、他の親御(おやご)さんと話をして落ち着いた時期がありました。なるほど遠慮なく話ができる場ほど安心できるものはありません。話をしていて、肩の力が抜けていくのを感じたものです。この意味では、経験した者同士が共鳴し合えるというのは事実です。しかし、必ずしも経験者との交流が、私の苦しみを取り除いてくれるとは限りません。
私が少し冷静になった時、見えてきたのは他との違いの部分でした。一口にダウン症といっても、個々の症例は全然違います。同じくくりに入れるのが難しいぐらいに、症状の出方も発達の度合いも変わるのです。加えて家族の環境や考え方も千差万別です。社会の雰囲気も制度もめまぐるしく変化します。もちろん本人の性格や意志もそれぞれです。こうなると、経験談は参考意見の一つに過ぎず、悩みを解決できるものではないのです。そんな中で出てきたのは、優越感、羨望(せんぼう)、後悔、嫉妬(しっと)といった「煩悩」でした。これでは安心できるどころか、迷いが深くなるばかりです。ダウン症以外の症例でも、同じようなことがあるのではないでしょうか。これはまさに「自我」のなせるわざです。私はこうありたい、私にはこう見えるという自我のフィルターが、次から次へと苦しみを作り出しているのです。頭ではわかっていても、それをやめられないのですね。
ありがたい出あい
先日も、私は近所の中学生の制服姿を見て、複雑な気持ちになりました。息子は支援学校に満足して通っているにもかかわらずです。私というものは、絶望的に自己中心的な生き物だと思わざるを得ません。ややこしいことを言って申し訳ありませんが、私たちが知らなければならないのは、わかり合うことの難しさそのものではないでしょうか。学生たちへの私の発言は、人との間に壁を作る傲慢(ごうまん)な響きを持っていたのでしょう。それに対して「でも私は理解したい」という学生がいたということに、私は恥ずかしく感じ、有り難いと思いました。考えてみたら、私はそのようないくつもの「ありがたい」出あいに支えられてきたという気がします。
私の苦しみは、自我の壁がある限りなくなりません。でも、私が私である以上、私の方からその壁を乗り越えることも困難です。それが可能になるのは、自己中心的な私が、自己中心的でない大きなものに出あった時でしょう。私の自己の抵抗が無意味になることによって、自己の問題が解決されるのです。そこに、私が苦しみから解放される可能性が開け、人と人とがわかりあえる可能性が開けるのだと思います。その出あいというのも、実は向こうから準備されたものであるはずです。私たちに準備されている、この私たちを下支えするものが阿弥陀さまの慈悲です。悲しみの経験を語るというのも、同じではないでしょうか。語ったことが、たとえわずかであっても相手に共感してもらえるという思いがなくては、語りは成立しません。その共感を生む根拠は、阿弥陀さまの慈悲が私たちに届いているということにほかならないでしょう。私たちは、その慈悲の上で救われ、共感していくのです。

■人生を歩む力
わかってもらえる
人生の中で起こるほとんどの努力や苦労は、誰にもわかってもらえないまま耐え忍ばなければならないことがほとんどです。私たちが生きているこの世界のことを「忍土(にんど)」ともいうのはこういうことです。もし、その苦労をわかってもらえる方がいらっしゃるとしたら、その時、一緒に苦労した方でしょうか。しかし、それでもすべての歩みを知ってもらえるわけではありません。私のすべてをわかっておられる方がいらっしゃるとしたら、それは阿弥陀さまです。私の恥ずかしいところも全部知ってくださっていますが、それだけでなく、これまでの歩みをすべて知っていてくださるのです。私たちの歩みのすべてをご覧になられ、誰にもわかってもらえないことまでも知ってくださっているのです。報われない努力、耐え忍ばなければならない苦悩、そんなことを全部ひっくるめて「おまえを救いたいのだ」と、はたらいてくださるのが阿弥陀さまです。それが「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」、摂(おさ)め取って捨てたまわず、というお言葉にあらわされているお心です。阿弥陀さまは私たちに寄り添い「一人ではない」とよび続けてくださっています。この寄り添う心こそが阿弥陀さまの「慈悲」のお心です。それは、全部知ってくださっている阿弥陀さまが、私の悲しみをわが悲しみとして寄り添い、またうれしいときには一緒によろこんでくださるお心です。阿弥陀さまと一緒に歩む人生ほど心強いことはありません。
一人じゃない
3年前、住職であった父の突然の退任により、私は25歳で住職になりました。90歳の祖父と、がんで二度の手術を終えて退院したばかりの母とでお寺を守っていくという中で、大きな不安がありました。しかし、悩む暇もなく、住職としての日々が始まり、とにかく一生懸命でした。音楽をやめ、大学院を休学し、お寺に専念する中で、私は心の底で「誰にもわかってもらえない」という気持ちがありました。そんなある日、私はご門徒さんのお宅へお参りし、おつとめの後、いつものようにお話を聞かせていただいておりました。私はご門徒さんとわかりあいたい、ご門徒さんの気持ちに出来るだけ寄り添いたい、という思いでお参りさせていただいており、故郷の話や戦争の話、身近な出来事や家族の話などを聞かせていただいて、一緒によろこんだり、悲しんだりさせていただくのです。たとえ、その方の人生の千万分の一にも満たないことでも聞かせていただこう・・・。しかし、その日ずいぶん時間をかけてお話を聞かせていただいた後、そのご門徒さんが言われた最後の言葉は「誰もわかってくれへん。やっぱり一人です。寂しいです」というものでした。これだけ時間をかけて、聞かせていただいたのに残念だな、と思ったその瞬間、私は「あっ・・・!」と思いました。「この方は、私だった!」 報われない努力、耐え忍ばなければならない苦悩、そんなことを全部ひっくるめて「一人じゃない」「おまえを救いたいのだ」とはたらいてくださる阿弥陀さまがいらっしゃるではないか。「摂取不捨」(摂め取って捨てたまわず)と、聞かせていただいてきたではないか!
つながりあって
人生には、誰にもわかってもらえず、真っ暗闇の中で独りぼっちだと思うことが一度はあることでしょう。そんな時、「南無阿弥陀仏」を称(とな)えると、阿弥陀さまのよび声が聞こえてきます。「一人ではない」 「おまえを救いたいのだ」 「まかせよ」 まるで、厚い雲が割れて光が差し、闇で見えなかった光る一本の道が与えられていることにようやく気付かせていただいたように、一歩踏み出す勇気が湧いてくるのです。「一人じゃない」というお慈悲に気付かされ、人生を歩む力をいただいた者どうしがつながり大切にしあって、この人生を生き抜きたいと思うのです。

■サンキュー ブッダ
アリガトウ・・・だけは
「やっぱり」と思いました。その時、彼女は確かに「アリガトウ」と、たどたどしい日本語で、コンビニのレジにいる男の子に言ったのです。ビジネス街にあるその店では、レジ袋に商品を入れてもらって店員にお礼を言うような人はほかになく、その男の子はちょっとけげんそうな表情をしたように見えました。彼女は、女子高生です。ただし、カナダから来た。海外開教区からの青少年国際研修団の一員として来日し、私のお寺がホームステイ先として受け入れることになり、京都市内を案内している時のことでした。彼女は日系4世で、話せる日本語は非常に限られているのですが、なぜ、「ありがとう」だけは忘れずに言えたと思いますか?それは、お礼の言葉を言わずにおれなかったからです。英語を使う生活をしていて、一日のうちで、一番よく使う言葉は何かというと、間違いなく「サンキュー」または、類似の言葉です。「サンクスアミリオン(百万回ありがとう)」などという言い方までありますし、断る時だって、「ノーサンキュー(結構です。でも、ありがとう)」などと言ったりします。「サンキュー」を言わないというのは、社会的に受け入れられないのです。「それは日本語だって一緒だ」という声が聞こえてきそうですが、問題は「誰が、誰に対して言うか」なのです。
地位や立場ではなく
日本では、店員さんとある程度の関係ができていないと、お客が店員に「ありがとう」とは、あまり言いません。なぜか。それは、店が客に対して「ありがとうございました」というものであって、その逆ではないという理解があるからです。でも北米では、お客が店員に「サンキュー」と言い、店員は「ユアウェルカム(どういたしまして)」と返すのが当たり前なのです。私もかつてカナダに住んでいた時、最初は戸惑いましたが、慣れてくると、その感覚がしみ込んでいきました。お店に行っても、客である私は、店員という「立場」を意識することなく、レジを打って袋に品物を詰めてくれた相手の「行為」に対してお礼を言うのです。(どういう立場の)「誰」が、ではなくて、「何を」してくれたか、が大事なのです。
帰国して、もう20年以上になります。「カナダは、住みやすいですか?」と、今でもよく聞かれます。私は答えます。「見知らぬ人とでも、相手の地位や立場を意識しないで、個人として会話が成立する社会は居心地がいいですよ」 自然が豊かで住みやすいというような答えを期待しておられた方は、不思議そうな顔をします。
翻(ひるがえ)って、日本では地位や立場による、固定観念がまだまだ根強いように感じます。女が男に、子が親に、生徒が先生に、店員が客に、言うべきではないことがたくさんあるように思います。「ありがとうございます」は、相変わらず店員が客に一方的に使う言葉のようです。当たり前、でいいのでしょうか?仏教では、「有り難い」というのは、人として命をいただき、仏の教えを聞くことができたという、難しいことができたことを感謝するのであって、地位や、金銭のやり取りの有る無しによって、感謝する相手を選ばないはずです。「いただく」ということは、もともと自分のものではないのですから。
親鸞聖人が、師の法然聖人の「信心」も、自分の「信心」も、ともに「仏」からいただいたものであるから同じものだとおっしゃって、ほかのお弟子さんから反発されたにもかかわらず、法然聖人も同じ信心だと認められたというお話がありました。この中に、お念仏をいただく者の、真に個人を尊ぶ社会への道が示されているのではないでしょうか。
カナダにいた時に、ある日曜学校の子どもが、「先生、南無阿弥陀仏とは『サンキューブッダ』だね」と言いました。思わず、うなりました。誰に対しても、「ありがとうサンキュー」を言う、そんな社会にしていくのは、私たちの責任だと思いませんか?

■悲しませていませんか
お彼岸のご法話で
「口はわざわいのもと」という言葉がありますが、「あんなこと、言わなければよかったなぁ・・・」と、後悔することがありますよね。さて、仏教ではこのようなことを、どう考えるべきだと教えているでしょうか?私はカナダで開教使として6年ほどご縁をいただいておりました。毎年、特に春と秋のお彼岸になると、多くの開教使の先生方は「六波羅蜜」についてのご法話をよくされます。六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、大乗の菩薩が修めなければならない六種の行業(ぎょうごう)です。この中で、第二に挙げられているのが、「持戒(じかい)」です。浄土真宗のお寺では「戒(かい)」についてのお話はあまり聞かないかもしれませんが、大乗仏教では仏さまの説かれた「戒(いまし)め」(自らに課す自己規律)というものを、ただ自分のさとりのためだけでなく、利他行(りたぎょう)として味わうものであるといわれています。浄土真宗も大乗仏教ですので、その道を歩む者が「他の方の幸せを願う」生き方こそが尊いという、慈悲のはたらきによびさまされ続けるみ教えなのです。さて、持戒の中にはどんなことが掲げられているのでしょうか?それは「十善戒(じゅうぜんかい)」ともいわれています。1殺さない 2盗まない 3配偶者以外と淫らな行為をしない 4嘘をいわない 5悪口をいわない 6二枚舌を使わない 7へつらいの言葉を語らない 8貪(むさぼ)らない 9怒らない I愚かな考えをしない、です。これを破るのが「十悪(じゅうあく)」です。耳が痛いとお思いでしょうが、結局この持戒を含めた六波羅蜜とは、仏さまがお示しになられた「仏になる道」、つまり「菩薩の道」を具体的に示したものなのです。
何とも心痛むこと・・・
しかし、みなさんご安心を。浄土真宗では六波羅蜜は私たちが行うのでありません。どんな修行にもたえられない、煩悩だらけの私たちを救おうと、阿弥陀さまが大変な修行を成し遂げられ、その功徳を「南無阿弥陀仏」の六字のお名号として完成され、私たちに届けてくださっているのです。縁に触れれば十悪を行ってしまうような弱い愚かなこの私を、救いの目当てとされているのです。でもここで安心だけしていていいのでしょうか?阿弥陀さまは生きとし生けるものの悲しみや痛みを、我がものとされているということをお聞かせいただくたびに、人を傷つけ、他の生命を犠牲にしてもなんとも思わないような「私」の姿を深く悲しんでいらっしゃることを知り、十悪は決してすべきことではなく、「他の生命を悲しませることをした・・・」と、心から慚愧(ざんぎ)をすることが大切なのではないでしょうか?
親鸞聖人は、お手紙(ご消息(しょうそく))に次のように記されています。
「煩悩をそなえた身であるから、心にまかせて、してはならないことをし、言ってはならないことを言い、思ってはならないことを思い、どのようにでも心のままにすればよい、と言いあっているようですが、それは何とも心の痛むことです。はじめて阿弥陀仏のご本願を聞いて、自らの悪い行いや悪い心を思い知り、このような私ではとても往生することなどできないであろうという人にこそ、阿弥陀仏は私たちの心の善し悪しを問うことなく、間違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。このように聞いて阿弥陀仏を信じようと思う心が深くなると、心からこの身を厭(いと)い、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けることをも悲しんで、深く阿弥陀仏のご本願を信じ、その名号を進んで称(とな)えるようになるのです。以前は心にまかせて悪い心を起こし悪い行いをしていたけれども、今はそのような心を捨てようとお思いになることこそ、この迷いの世界を厭うすがたであろうと思います(現代語訳)」 当時、関東に起こった「悪いことをしても浄土往生のさまたげとなるものは何もないから、悪を行おう」という大きな誤解に対して、京都の親鸞聖人が深く嘆いておられるお手紙です。現代の私も、阿弥陀さまや親鸞聖人を、悲しませていないでしょうか・・・。

■お浄土の妻へ
携帯に残る温もり
今年の夏、あるご門徒宅で初盆のお参りをした時のことです。お仏壇に携帯電話が置いてありました。付いているストラップなどの様子から、それが亡くなった奥さまのものであろうことがわかります。毎日触れておられた携帯電話には、今も奥さまの温もりが残っているような気がしました。私自身も、今年の3月、妻をお浄土へ見送りました。38年の生涯でした。妻は、昨年の9月に娘を産みました。ようやく授かった第一子で、婿養子に入った私も、妻の両親も、とても喜んでいました。夜泣きによる寝不足の疲労も、娘の一つ一つの仕草で吹き飛んでしまうように思っていました。しかし、妻は産後の体調がすぐれず、娘の1カ月健診の1週間後に入院したのです。検査の結果、卵巣がんであることがわかり、妻本人にも伝えられました。すぐに抗がん剤治療が始まり、妻は病室で娘の様子を気にかけながら、私たちに子育ての指示を出し、治療に取り組んでいました。ところが、順調に進んでいると思っていた抗がん剤治療のさなか、11月に脳梗塞(こうそく)をおこし、病状は絶望的に悪化したのです。
妻の言葉
年明けを病院で迎え、友人や親戚(しんせき)がお見舞いに来てくれました。病院の方々の懸命な処置もあって、一時は体調が上向きのように見えました。家に帰ったらあれを食べたい、娘を連れてどこに行こう、そんな話もしていました。しかし、がんの進行を止めることはできず、2月に入って状態は見る見る悪くなっていきました。がんの転移は明らかで、完治は見込めないことから、体調のいい時を見計らって一度家に帰ることを検討するようになりました。治療方針の変更にともない、本人に状態を伝えることになり、2月16日の夕方、私は妻にすべてを話しました。病気はもう治らないこと、残された時間が短いこと、一度家に帰るのを目指すこと。だまって聞いていた妻は、少し間を置いた後、「ごめんなぁ・・・ ごめんなぁ・・・」と二度、私に謝りました。2月末のある日、体を起こして座っていた妻が、下を向いたまま、小さな声で私に言いました。
「それでは・・・ひと足お先に・・・失礼します」 私は、妻の言葉と同じ調子で答えました。「私も・・・すぐに・・・参ります」 すると妻は、こう言いました。「すぐでは・・・困ります」 私は、うなずいて言いました。「かほのことを・・・ひと通り終えたら・・・参ります」 「かほ」とは娘の名前です。間もなく6カ月を迎えようとしていました。結局家に帰ることができないまま、3月6日の夕方、妻は静かに息を引き取りました。
入院中、いろいろな思いが頭をよぎりました。どうしてこんなことになったのだろう。誰か何とかしてくれないか。夢だったらいいのに。見ず知らずの他人なら、死とはこういうものだと客観的に考えられますが、大切な人が死にゆくとなると、なかなかそうはいかないものです。親鸞聖人のお手紙の、次の言葉が浮かびます。
浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし
お浄土があって、本当によかった。でなければ、私は立っていられませんでした。死とは、さとりとは、という理屈ではなく、妻を感じることができる世界があったのです。今年のお盆に、4月から娘が通っている保育園の先生が、妻の初盆のお参りに来てくださいました。一度も会ったことのない、かほちゃんのお母さんへ、と手作りのポストカードを持って。保育園の友達と一緒に写る娘の写真を貼(は)った裏、宛て名の面にはこう書いてあります。「かほちゃんのママへ、みんな仲良しです」 お浄土の妻は私たちを見守ってくれているに違いありませんが、私からは見えません。会いたい、声を聞きたいという思いは募り、携帯電話などを通して妻の温もりを感じていたいのです。ですから、待ってくれているお浄土の妻へ、私は語りかけます。「一生懸命生きていくよ、お浄土に参る、その日まで」と。

■大いなる慈悲
私が仏に成る教え
親鸞聖人は90年の長い苦難の人生を過ごされました。そのご生涯の中で、私は特別大切な出来事が二つあると思います。その一つは、比叡山での修行をすてて山を下りられたこと。もう一つは、妻子とともに家庭生活を送られたことです。比叡山での修行をすてて山を下りられたことについて、聖人ご自身が「雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰す」と主著『教行信証』に記されています。これは自分の修行によって仏さまになるという道をすてて、阿弥陀如来の大慈悲によって救われていく道を選ばれたということです。雑行とは自力、本願によって救われる道は他力といいます。出家して、一人黙々と修行する道では救われず、家庭生活を送り、複雑な人間関係の中で親類縁者、すべての人々とともに救われる道に出あわれたのです。
さて、「仏教」とは、お釈迦さまの教えを実践して私が仏さまになる教えですが、親鸞聖人のみ教えを通して、私は次の三項目に分けて味わっています。
一、 お釈迦さまという仏さまによる教え。
二、 その内容は阿弥陀如来と名のられる仏さまのお慈悲よって救われる教え。
三、 それは、この私が救われ仏になる教え。
阿弥陀さまのお慈悲は「大慈悲」と呼ばれ、すべての苦悩の人々を余すことなくお救いくださるはたらきです。そのお慈悲が、この世界に満ちあふれてはたらいてくださっていることをお釈迦さまがさとり、み教えを説かれたのです。そして親鸞聖人は、一人で修行しても救われない私たち凡夫が家庭生活を送りながら、複雑にもつれた社会の中で、そこに生きるすべての人々がお慈悲のはたらきに出あって救われるという真実のみ教えを明らかにして、私たちに開いてくださったのです。
やさしかった祖母
私は小学生の頃、脚(あし)が痛む病気で長年苦しみました。当時、お医者さんの診断は「小児座骨神経痛」でした。遠足や運動会の日には、午後になると毎回脚が痛くなって、泣きながら家に帰りました。痛みをかかえて帰った夜は、いつも祖母が朝方までずっと、私の脚を撫(な)でてくれました。「目の中に入れても痛くないっていう孫だけれど、痛みは取ってやれない。代わってやれない」と言って、祖母は嘆いていました。「おばあちゃんが死ぬ時は、この痛いのを持っていってやるからね」と言いながら、私の脚から痛みをすくい取る仕草をして、自分の脚にすり込んでいました。そのずっと後のこと、私の脚の痛みは神経痛などではなくて、重度の骨髄炎だったことがわかりましたが...。かわいいかわいい孫だから、朝まで撫でてやれる。でも、痛みは代わってやれない。人間の慈悲、慈愛には限界があるのです。人間の慈悲を「小慈悲」といいます。それに対して、阿弥陀如来のお慈悲は「大慈悲」です。
すべての人々を幸せにしなくてはいられない。すべての人々が幸せになったとき、「ああ、うれしい。これで私も幸せになれた」と言われるのが仏さまなのです。祖母は60年前に亡くなりましたが、いまはお浄土から私の脚の痛みがなくなっているのを眺めて、「ああ、うれしい」とよろこんでくれていることでしょう。目には見えないけれど、多くの慈愛と慈悲によって、私たちは生かされ守られてきました。そんな私たちは「小慈悲」であっても、真実のみ教えに出あえたよろこびから、精いっぱい報恩感謝の営みに努めさせていただき、この世の縁が尽きてお浄土で仏さまになったときには、すぐにこの世に還(かえ)ってきて「大慈悲」を実践することができるのです。
親鸞聖人はそのことをよろこばれました。そしてそのみ教えが永遠に伝えられていくことを願われました。お念仏のみ教えを伝えてまいりましょう。 
 

 

■無縁の慈悲
殻の中に閉じこもる
皆さんは目の前にいる友人、隣にいる家族でさえ、時々わかり合えないなと感じる時がありませんか。「凡夫(ぼんぶ)」のことを、仏教では「異生(いしょう)」とも言うそうです。人間は一人一人が異なる境涯を生きていかざるをえない孤独な存在である、と私は味わっています。だから、自分の都合でしか相手を見ることができず、わかり合えない時があるのではないでしょうか。もしも、相手の喜びや悲しみを自分のことのように共に分かち合うことができたならば、どんなに素晴らしいでしょう。しかし、私自身を顧みてもなかなかそうはいきません。特に気持ちに余裕がなくなると、最も身近な人の苦しみ悲しみさえ、我が苦しみ悲しみとしてなかなか受け止めることができません。むしろ自分の思いを相手に押し付け、わかってくれないと自分の殻に閉じこもってしまいます。学生時代、私は龍谷大学男声合唱団に所属していました。仲間と仏教讃歌を練習する中で、私には一つ目標がありました。それは定期演奏会で独唱者に選ばれることです。皆がハーモニーを奏でる中で独唱をすれば、スポットライトを浴びることができると思ったのです。独唱をするのは当然歌のうまい、限られた者だけです。そのために私はひたすら練習に励みました。しかし選ばれたのは、残念ながら私ではなく、同じバリトンというパートの友人F君でした。私は表面上では「おめでとう」と言いました。しかし本心は悔しくてたまらず、こう思っていました。「前日に風邪をひいて、演奏会を休んだらいいのに...」 当日F君は元気に演奏会に来て、演奏は感動するほどの素晴らしい出来栄えでした。しかし、私はモヤモヤした気持ちで一人落ち込んでいました。
あるがままを救う
演奏会の終了後、打ち上げの時にF君がボソっと私に言ってくれた一言があります。「お前がいてくれたからバリトンのパートがまとまることができたよ。ありがとう」 私は思いもよらないF君の言葉にびっくりしたと同時に、私を見ていてくれたことがうれしく、ホッと肩の力が抜けました。そして、そんなF君にひどいことを思っていた自分を恥じました。思えば、皆の羨望(せんぼう)やプレッシャーに耐え、一人本番に臨まねばならなかったF君の方がよほど苦しかったに違いありません。それなのに私は「どうしてわかってくれないのだ」と自ら殻に閉じこもり、F君のことを見てこなかったように思います。その殻を突き破ってくれたF君の言葉から、私は少しでも相手の思いを知っていく大切さに気付かされました。
『仏説観無量寿経』には、
仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈(じ)をもつてもろもろの衆生を摂(せっ)したまふ ・・・と説かれています。
「無縁の慈」とは、阿弥陀さまがどんな者でも差別なく、大きな慈悲のお心で、「あなたの悲しみは私の悲しみ」「あなたの喜びは私の喜び」と、私のことを我がことと見てくださることです。親鸞聖人は、ひかりといのち量(はか)りなき阿弥陀さまは、常に相手とすれ違い、殻に閉じこもっていく自己中心の私に至り届き、いつでもどこでもご一緒くださっているとお示しくださいました。今、み教えに出遇(あ)って思うことは、私はあの時、独唱に選ばれなかったことが悲しいのではないということです。確かに選ばれなかったのは残念だけれど、自分なりに精いっぱい努力し練習をして叶(かな)わなかった結果は決して恥じることではなく、青春のほろ苦い1ページとなったのです。しかし何より悲しいのは、私はあの時、F君と共に心から喜ぶことができなかったことです。阿弥陀さまのお心は、どこまでも相手とすれ違って生きていかざるを得ないこの私の、あるがままを抱き取ってくださいます。そして「異なる境涯を生きるお互い」だからこそ、逆に相手の思いに寄り添おうとすることの大切さを教えてくださっているのです。私自身、お念仏を喜ばせていただきながら、ご縁ある方々にしっかりと温かく寄り添っていきたいものです。

■いのちの壁
みんなの願い
先日、組(そ)内の連続研修会で「環境やいのち」について学ぶ機会がありました。環境破壊の現実を見るにつけ、地球温暖化や海洋汚染、熱帯雨林や野生生物の種の減少、廃棄物の処理問題や酸性雨による被害など、枚挙にいとまがありません。これらの問題の原因を作っているのが人類であることは、全く疑う余地がありません。その陰で人間以外の数え切れないいのちが失われてきたことを、私たちは決して忘れてはなりません。もし、今からでも人類が目指す方向を180度転換できるなら、これらの問題も徐々に改善していくかもしれません。もう10年ほど前になるでしょうか、テレビで「週刊ストーリーランド」という番組が放送されていました。視聴者から寄せられるストーリーを、アニメ仕立てで構成し直したものでした。フィクションですが、いまだに心に残っている一つのストーリーがあります。それは「みんなの願い」というお話です。
ある時、神さまからのメッセージが、地球上に届けられました。「一週間後に、地球は七色の光に包まれる。その時、それぞれの心の中で願い事をしなさい。その中で最も多い願いを、地球のみんなの願いとしてかなえよう」というものでした。そこで、超大国であるA国の若き大統領を中心に国際会議が招集され、世界中の願いを一つにまとめようとしました。ところが、各国の利害が対立して、混乱が増すばかりとなりました。このままではいけないと、若き大統領は世界のためにある決断をします。それは「みんなが願うことをやめよう」という呼びかけでした。 いよいよ願いをかなえる日がやってきました。地球のみんなの願いとはいったいどんな願いなのか? そして、願いがかなえられることになったまさにその瞬間......。人類はすべて滅亡してしまいました。
一如(いちにょ)のあり方を私に
なぜ、人類は滅亡してしまったのでしょうか。それは、人間以外の多くの生き物が「この地球から人間を消滅させてほしい」という願いを持ったからでした。それが地球上で最も多い「みんなの願い」だったのです。好き放題にいのちをむしり取る人間に対して、他の生き物がそんな願いを持ったとしても、何ら不思議ではありません。もし、犠牲になった多くのいのちが、人間にわかる言葉で訴えたとしたらどうなるでしょう。金子みすゞさんの詩「大漁」に出てくる「何万の鰮(いわし)のとむらい」の声は、私たちにどう聞こえるのか。その悲痛な叫びが轟音(ごうおん)となって、人類をのみ込んでしまうことでしょう。阿弥陀如来のご本願は、「十方衆生(じっぽうしゅじょう)」に対して建てられた願いです。本来、「衆生」とは生きとし生けるものすべてであって、人間だけを指す言葉ではありません。ところが人間は、勝手に衆生のあいだに壁を作り、人間とそれ以外の生き物とを分け隔ててしまいます。
「いのち」と言われても、人間にしか思いが及びませんし、他人よりも自分のいのちにしか関心がありません。如来さまとは、自他の壁のない一如のあり方を知らせるために、私の元にやって来てくださったお方です。自分は自分、他の世話にはならないなどと、いのちに自他の壁など作ったら、真っ先に自分のいのちが立ちゆかなくなってしまうだけです。他のいのちのおかげで成り立っている私のいのちなのに、自分のいのちしか大事にしない私に、阿弥陀如来は他を思いやることの大切さを教えます。お念仏を申すということは、阿弥陀如来のおこころにかなう人生を歩むという、自らの生き様を表明することです。いのちはみんな同じだ、自分のいのちと同じように他のいのちも思いやるのだという阿弥陀如来のおこころを体して、精いっぱい、お念仏の道を歩んでまいりましょう。

■どこまでも追いかけて
お釈迦さまを避ける
芥川龍之介さんの命日は「河童(かっぱ)忌」として知られています。これは、芥川さんの作品の一つである「河童」や、芥川さんが河童の絵を好んだことにちなむ名称だそうです。芥川さんは、「河童」に河童の出産シーンを描きます。河童の父親が母親のお腹の中の子どもに対して「生まれたいか」と尋ねると、子どもは「生まれたくはない」と返すのです。なるほど、ここに至るまで流転輪廻(るてんりんね)して繰り返す生(しょう)の中には、生まれたくはない「私」もあったかもしれません。芥川さんはまた、「尼提(にだい)」という作品を書いています。尼提は、『阿弥陀経』に「一時仏在舎衛国(いちじぶつざいしぇこく)・祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)」と説かれる、その舎衛国城内で排泄された糞尿(ふんにょう)を城外に捨てに行く仕事をしている人物です。ある時、尼提は、はるか前方より釈尊が歩んで来られるのを目にします。彼は自分が卑(いや)しい身分であることを恥(は)じ、釈尊の目に触れることを避けようと横道に入ります。ところが、避けたはずの道で、やはり前から来られるお姿を見つけるのです。幾度繰り返して道を変えても同じことです。持っていた器を割ってしまい糞尿にまみれる尼提の前に立たれた釈尊は、彼に出家を勧められます。さて、この作品は仏典に材を取っています。その一つ『賢愚経』というお経には、自分は下賎弊悪(げせんへいあく)の極みであるからと、尼提は釈尊の勧めをいったんは断ったと伝えます。対して、仏の法は弘広無辺にして貧富貴賎男女の差はないのだと、釈尊は説かれます。いのちに貧富貴賎男女の差別はありません。しかし、尼提は自分が卑しい身分だからと自らを蔑(さげす)みます。釈尊はその思い込みこそが尼提自身を苦しめてきたのだ、とおっしゃっているのです。
間違いのない救い
釈尊の時代においては、出家すること自体が、河童と違って生まれ来るか否かを選べない、人間の苦悩からの救いであったのかもしれません。ところで、尼提はついに出家するのですが、なぜ彼はそのように思い込んでいたのでしょうか。他者のいのちを自分のために利用しようとする人がいます。生まれによる差別を作ることによって、自分は快適に暮らそうとする人がいます。親鸞聖人の生きられた時代もまた、わずかな人が巧みな仕組みによって多くの人々から自由な思考と行動を奪う、身分制の世の中でした。願ったわけではないのに、貴族や武士たちの道具として生まれたいのちは、道具のまま死んでいくしかありませんでした。しかし、尼提のような立場の人を受け入れた教団はありません。なぜなら、仏教教団そのものがその身分制度の中にあって、その仕組みを支えていたからです。
親鸞聖人は飢饉(ききん)に苦しむ人々のために「浄土三部経の千回読誦」を発願されたことがある、と伝えられています。結局、阿弥陀さまの願いに違(たが)うとして読誦を止められるのですが、このことからも知られるように、聖人は当時の仏教教団の中心であった比叡山から下りることにより、自ら耕しながら自らの食(く)い分(ぶん)までも奪われていく人々、災害や飢饉、争いなどの際に真っ先に切り捨てられる人々の中においでくださいました。生まれや立場によって、生き残るいのちと死んでいくいのちとに選別されていく。そのことを当然のこととして受け入れている姿は、釈尊から逃げようとする尼提の悲しみに重なります。阿弥陀さまのおはたらきの場は、今この時この私です。逃げる尼提をどこまでも追われた釈尊は、尼提の逃げざるを得なかった苦しみと悲しみを見抜かれ、尼提を救うためにその前に立たれました。尼提にとっての釈尊と同じく、今この私の前にお念仏となって阿弥陀さまがおいでくださるからこそ、間違いのない救いにあずかるのです。父は私に、門信徒会運動は「寺の中の差別をなくす」運動、同朋運動は「社会の差別や不条理に向かい合う」運動、と教えてくれました。運動という言葉を、仏弟子たる念仏者の生き方と聞く時、750年の月日をつなぐ教えが知らされます。今日もまた、そこに我が身が積み重なる一日にしたいですね。

■よしよし、大丈夫だよ
どうして言えない
このたび50年に一度の親鸞さまのご法要のご勝縁にお参りすることができました。特に新しく制定されました「宗祖讃仰作法(しゅうそさんごうさほう)」の音楽法要での、あのご和讃とお念仏のリズム、そしてメロディーは、今でも耳に心地よく残っております。そのご和讃の一つ ───
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生をみそなはし 摂取(せっしゅ)して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる
摂取不捨(せっしゅふしゃ)、如来さまのお慈悲の光の中に摂(おさ)め取(と)って絶対に捨てることはない、だから「阿弥陀さま」と申し上げるのだよ、とお聞かせいただきながら、昔の出来事を思い出しておりました。今から20数年前、長女が2歳の頃のことです。その娘が遊びの最中、私の母に大けがをさせかねない過ちをしてしまったことがありました。その時、私はまだ幼い娘を「どれだけおばあちゃんが痛かったと思うの!ごめんなさいと言いなさい!」と、大声でしかりつけました。きっと恐ろしい形相だったのでしょう。娘は驚きと恐怖からか、ただ泣きじゃくるばかりで「ごめんなさい」がどうしても言えません。だから私はさらに大きな声になります。「はやく言ってくれたら許してあげられるのに」と私も悲しい気持ちでしたが、「これもしつけ」と思って、しかり続けました。母は娘をしかるそんな私の姿をじっと見つめながら、とても悲しそうな表情をしていました。そのうちにたまらなくなったのでしょうか、母は私をそっと押しのけ、娘を優しく抱きしめました。そして「よしよし、大丈夫だよ、よしよし大丈夫」と笑顔で、しかし、涙を流しながら何度もそう言うのです。すると娘は大泣きしながら母の胸に抱きついていきました。そして震える声で「おばあちゃん、ごめんね、ごめんね」と、その胸にすがり、絞り出すようにやっとそう言えたのです。
仏のハタラキのなか
思えばこの時、幼い娘の胸の中には、逃げ場のない深い悲しみ、どうしようもない思いが渦巻いていたことでしょう。そのことを見抜き、今一番つらいのは、自分に痛い思いをさせたこの孫なんだ、だからこそ愛(いと)おしいと、ただ「よしよし」と抱きしめずにはいられなかったのが私の母でした。そして、しつけと言いながら恐ろしい顔で、泣きじゃくるわが子をしかりつける息子を、母はどのような思いで見ていたのでしょう。どれほど悲しかったでしょう。私には見抜けませんでした。「ごめんなさい」と言わせることが先ではなかったのです。悲しみにしっかりと寄り添い、あたたかく包まれたからこそ、娘は「ごめんなさい」と言わずにおれなかったのですね。そして、その母の大きな慈愛に、実は私も包まれていたのだと知らされました。多くの世界に、さまざまな苦悩や悲しみを抱えたいのちが存在します。その中には、怒りや憎しみに打ち震えているいのちもあるでしょう。そのひとつひとつの姿をしっかりと見抜いて寄り添い、お念仏する身へと育ててくださるのが、阿弥陀さまのハタラキでした。それが「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし」ということであり、そして「摂取して捨てざれば阿弥陀となづけたてまつる」と、その光明の中に摂め取って決して捨てない。だからこそ無量寿(むりょうじゅ)・無量光(むりょうこう)の仏さま、阿弥陀さまと名のられるのです、と教えてくださいます。
「宗祖讃仰作法」ではこの後、
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり ・・・のご和讃が続きます。
煩悩によって阿弥陀さまの光明が見えないとは、まさしく怒りによって母の悲しみも娘の苦しみも見えなかった私の姿だったと思います。けれどその私を、阿弥陀さまのお慈悲の光は常に照らし包んでくださっていた。私がお念仏申す身となるずっとずっと前から、阿弥陀さまは「必ず救う。絶対に捨てぬ。どうかお念仏しておくれ」と願い続け、よび続けておられたのです。私は阿弥陀さまの大いなる慈悲の願いの中にいたのでした。母が往生して17年になります。大きな気付きをいただいた、私の大切な思い出です。

■遺された言葉と共に
一言の中に人生が
親鸞聖人750回大遠忌法要で行われた「街頭布教」のお手伝いをさせていただきました。京都駅の前にある京都タワーの下で、観光客などに法要のご案内をしました。お坊さんの姿ですから、修学旅行生には珍しそうに見られますし、外国の方には写真を撮られたりします。信号で立ち止まる方はいても、聞いてくださる方はほとんどありません。最初ははずかしくて言葉に詰まりましたが、次第に慣れてきて、法要のご案内と仏教のお話をしていました。1時間経ったので本願寺へ戻ろうとした時、一人の女性がこちらをじっと見ておられました。「どうぞお参りしてくださいね」と私が声をかけると、「坊主はきらいだ」と言って立ち去られました。1時間いて、たった一言「坊主はきらいだ」との言葉に、私は落ち込みながら本願寺へ戻りました。しかし、時間が経ってから、本当に嫌いであれば私と話をしないのでは、何か伝えたかったのかもしれない、と考えるようになりました。一言の中にはその人の人生があります。その人がこれまでに誰とであい、何にであい、どのようにであってきたのか、と考えさせられました。お坊さんらしい人間ではない私に「坊主は嫌いだ」と、お坊さんとして声をかけてくださったことが有り難く、尊いご縁であったと後から思えるようになりました。
時計を見ながら
今年、祖父の25回忌を迎えました。祖父が亡くなった当時、小学生だった私に祖父は「よいお坊さんになれよ」と言い遺しました。私にとって、その言葉だけが心の片隅に遺されました。そんな祖父のことを、昨年3回忌を迎えた祖母が「いつが別れになるかわからんから話しておくね」と、いつも私に語りかけてくれました。寒い冬の日、祖父が脳出血で倒れた時のこと、半身不随での厳しい闘病生活を送っていたこと、貧しいお寺の状況の中で、ご門徒の方々が支えてくださったことなど...。ご門徒さんのお宅へお参りできない祖父は、唯一、時間励行に朝夕の梵鐘と勤行を日課にしていました。杖をつきながら、お念仏と共に本堂へゆっくり歩んでいく半身不随の祖父を思い出します。祖母は亡くなる直前、私に腕時計と掛け時計をくれました。それは祖父のようなお坊さんになってほしいからでした。部屋に掛けてある祖母から贈られた時計をいつも見ながら、祖父の生涯と「よいお坊さんになれよ」という言葉を思い出します。時間にルーズな私は、よいお坊さんにはなれそうにありませんが、祖父と祖母のお念仏の声と遺された言葉を心の支えとして、法灯を護っていきたいと思います。
私を救うよび声
親鸞聖人の面授の門弟である唯円房が遺された『歎異抄』には、「故聖人の仰(おお)せ」られた「耳の底に留むるところ」のお言葉が伝えられています。特に後序(ごじょ)には「聖人のつねの仰せには...」(親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことです...)とありますように、聖人からいつもお聞かせいただいたお言葉を、唯円房は生涯大切に味わっておられたことがうかがえます。当時、親鸞聖人の遺されたお言葉が、唯円房だけに限らず越後でも、関東でも、晩年の京都においても、多くの人の心の中で依りどころとなっていたのではないでしょうか。さらに第2条には「親鸞におきては...よきひとの仰せをかぶりて(法然聖人のお言葉をいただき)」とありますように、親鸞聖人ご自身も、法然聖人の「仰せ」を生涯大切に味わっておられたことがうかがえます。先人の遺された言葉が、教えをいただく人々の心の中で生き続け、その人の生涯を支えていくことに、み教えが言葉となって伝わっていく尊さを思います。「坊主はきらいだ」と言われた一言にはその人の人生があります。「よいお坊さんになれよ」という祖父の言葉の中には祖父の私への願いがあります。「南無阿弥陀仏」の御名(みな)は、阿弥陀さまが私のために歩まれたご苦労と、私を必ず救う願いの喚(よ)び声であることを、先人の遺してくださった言葉と共に大切に聞かせていただきます。

■ひろくあまねく大悲
善導大師のおことば
「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難(かた)きがなかにうたたまた難し。大悲弘(ひろ)くあまねく化(け)する、まことに仏恩(ぶっとん)を報(ほう)ずるになる」 今年は多くの出来事がありました。深い悲しみの中で年の瀬をお迎えの方も数多いことと思います。そんな私たちがさまざまな思いを抱えて生きる今ここが、阿弥陀さまのはたらくところ、「あなたを必ず救う」とよびかける如来大悲の真っただ中なのです。「自(みずか)ら信じ、人を教えて信ぜしむる」。漢文では「自信教人信(じしんきょうにんしん)」です。これは七高僧のお一人、中国の善導大師のお言葉です。親鸞聖人はこのお言葉を『教行信証』の中で引用されて、他力の信心を恵まれた者は、自ら信じさせていただいたことを大いによろこび、ほかの人をまた信じさせることになる。それは実に得難いよろこびであるといただかれました。それに続く「大悲弘くあまねく化する」は、阿弥陀さまのお慈悲が主語です。聖人は教えを伝えることも私たちの手柄ではなく、阿弥陀さまのはたらきの中の出来事といただかれました。私たちが教えを信じ、人に教えて信ぜしめることも、法そのものの持つ「弘まる」はたらきということです。お念仏をよろこぶ、お浄土へ向かう今をよろこぶ方々を通じて、私たちに如来の大悲が届いているのです。
若い夫婦がおつとめ
今から10数年前、私は広島県のお寺に法務員(お参りのお手伝い)として勤めていました。広島は各ご家庭で「お取り越し」が盛んな地域です。お取り越しとは、親鸞聖人のご遺徳(いとく)を偲ぶ報恩講のご法要のことで、1月の御正忌(ごしょうき)報恩講より先に「取り越して」おつとめすることです。私のいたお寺でも、毎年10月下旬から、ご門徒のお宅にお参りをさせていただいておりました。ある年、私がお参りしたお宅は、街に完成したばかりのマンションの一室でした。お伺いしてまず驚かされたのは、ご夫婦の年齢です。当時の私と同世代の、若いご夫婦だったのです。マンションですからお仏間はなく、案内されたのはリビングの窓際でした。そこには、小さいながらも丁寧にお飾りされたお仏壇があり、明るい秋の日差しを受けて、阿弥陀さまが輝いておられました。そして、一緒に正信偈のおつとめをさせていただきました。私はおつとめをさせていただきながら、ご夫婦にどんなご縁があってお取り越しのお参りをされることになったのかと考えました。ご夫婦いずれかの親御さんか...、もしかすると、お子さんか...。いずれにしても、お身内を亡くされたことがきっかけとしか考えることができません。またお参りさせていただく機会があれば、ゆっくりお話ししたいと思いながら、マンションを後にしました。
忘れ得ぬご縁に
しかし、お寺に戻ってから聞いたいきさつは、私の想像とは全く違っていました。お仏壇は、奥さんのおばあさんからの結婚祝いだったのです。おばあさんは、結婚して家庭を持つことになる孫娘さんに、お念仏申す家庭を築いてほしいと願われ、お仏壇を贈られたそうです。そして、「結婚してどこに住むことになっても、まずは浄土真宗のお寺を探しなさい。そして年に一度、必ず親鸞さまの報恩講にはお参りに来てもらいなさい」と、おっしゃったのだそうです。そのおばあさんの願いをしっかり受け止められた孫娘さん、つまり奥さんのおかげで、その日のご縁があったのでした。私にとって、おばあさんと孫娘さんを通じて「自(みずか)ら信じ、人を教へて信ぜしむる」姿をいただいた、今でも忘れ得ぬご縁です。そして、それもまた「大悲弘くあまねく化する」出来事なのです。さまざまな出来事があった今年が間もなく終わります。今、それぞれの皆さんにそれぞれの思いがおありのことと思います。もし手を合わせる人やお念仏申される方に出会うことがあるならば、そこにもまた「あなたを必ず救う」と届いた、如来さまのはたらきがあるのです。

■阿弥陀さまをつかむ!?
「ご信心が大事!」
私はお寺育ちです。小さい頃から、学校が休みなら毎月の常例法座にいやいやながらも出され、ご法話を聞きました。ご講師は皆さん、阿弥陀さまと親鸞聖人をほめて「ご信心が大事」とおっしゃいます。ご法話の後でいただく御文章(ごぶんしょう)にも「聖人一流(しょうにんいちりゅう)の御勧化(ごかんけ)のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」、やはりご信心が大事だとあります。「ぼくは長男だから、ゆくゆくはお寺を継ぐのかな。だったら浄土真宗でいちばん大事な『ご信心』がわからないといけないな。自分が理解できない、ありがたくないものを他人に勧(すす)めたりはできないもの・・・」 そのように思った時から「ご信心」が気になりだしました。やがて哲学や思想を学び、浄土真宗以外の宗教でも「信心」が大事であることを知りました。でも浄土真宗のご信心は、普通の信心と違うようでした。そして、よくわからなくなりました。わからないご信心の問題を先送りしたかったのでしょうか。私は浄土真宗の大学には行かず、東京の私立大学に進みました。卒業後、僧侶になる心づもりが少しだけでき、お寺の専門学校に進学し、その後も浄土真宗の学校に通い続けました。しかし、いかに学んでもご信心のことはわからないままでした。
何をどうすればいい
私に転機が訪れたのは、あるお寺でご法話をさせていただいた時でした。最初、私は辞退しました。「私はご信心がわからないので、ご法話はできません。阿弥陀さまにご迷惑がかかります」 ご法話をすすめてくださった方は、おっしゃいました。「ここのご門徒さん方は大丈夫。ご法話することも勉強ですから、しゃべってごらんなさい」 そう言われたら断れません。心を決めて、よせばいいのに、浄土真宗でいちばん大事な「ご信心」の話をしました。「私はいかにしてご信心を得るのか。私はどうすれば阿弥陀さまの救いにあずかることができるのか・・・・・・」 話しながら、聞いてくださっているご門徒さん方が残念そうな顔をされ、心が遠のいていくのが見えました。それでも私は一生懸命に話しました。ご法話が終わり「何か変だったな・・・」と思っていた私に、ご法話をすすめてくださった方が話しかけてくださいました。
「少し気になることがあったんだけど、言ってもいいかな?」 「ぜひお願いします」 「いま石田くんは、自分がどうすればご信心を得られるか、自分がどうすれば阿弥陀さまの救いにあずかれるのかという話をしてくれた。でもね、お聖教(しょうぎょう)を読んでみたかい?」 「どういうことですか?」 「お聖教のどこにも、そんなことは書かれてないよ。お聖教には『私が何をどうすれば救われるか』ではなく、『阿弥陀さまがいかにして私を救ってくださるか』だけが説かれているんだよ・・・」 私はそれを聞いて、すごくびっくりしました。
「そんな話はずっと前から聞いていたよ!なのになんにも聞けていなかったぞ」 私ではなく、すべて阿弥陀さまのはたらきによって救われるんだ、ずっとそう聞いてきました。南無阿弥陀仏が私に届いているのが、私が救われる証拠だ、そう聞いてもいました。なのに、こちらからご信心や阿弥陀さまをつかみ取ろうとして、結果、なんにも聞けていなかったのです。私は一体何をしていたのかと思い、恥ずかしくなりました。でも同時に、だから大丈夫であることも知らされました。つかもうとする前から、私はつかまれていたのです。それから、それまでは知識でしかなかったいろいろなことが、心の中で有機的に結びつくようになり、とても楽になりました。阿弥陀さまが私を救ってくださる事実を聞いたままがご信心なのです。同じ事実を聞くから、親鸞聖人も法然聖人も、そしてあなたも私も同じご信心なのです。自分が力を入れて信じる必要はないのです。聞いたつもりで何も聞いていなかった私は変に遠回りをしましたが、そのあいだもずっと待っていてくださった阿弥陀さまは、やっぱりすごいです。

■仏さまのはたらき
この絵さえあれば...
自坊のお内陣の片隅には、タンポポの花が咲き、綿毛が空に向かって一面に飛ぶ様を描いた屏風(びょうぶ)絵があります。その絵は、私自身お寺に全く縁がなかった独身時代、浄土真宗のみ教えどころか、宗教に偏見さえ持っていた頃に、いただいたものでした。後に縁あって私はお寺に入り、お内陣に絵を置かせていただいて、今に至っています。この絵を描いたのは、私の祖母の弟で、3年ほど前、68歳で亡くなりました。彼は生前、新聞記者をしながら男手一つで二人の息子を育て、記者を辞(や)めてからは、島根県の山奥で一人暮らしをしていました。牛小屋を改装し、ギャラリーにした彼の家へ、私は片道2時間半かけて車を走らせ、何度か遊びに行ったのです。話し上手で聞き上手の、冗談が大好きなおちゃめな人でした。そこで描かれたタンポポの絵が、不思議なほどどうしても欲しくなり、彼に頼み込んで譲ってもらったのです。今思えば、当時の私は不満でいっぱい、何に関しても投げやりな状態でした。でも、タンポポの絵を見ると、「この絵さえあれば、穏やかに安心して生きられるかもしれない・・・」と感じたのです。彼は、「ここまで取りに来るんじゃったらあげるけえ。その代わり、絵ができたらすぐに来んさいよ。手元に長くあったら、渡しとうないなるけえのお」と言ってくれました。その時は、鮮やかに輝くタンポポの黄色と空の青、光に向かって一斉に飛ぶタンポポの綿毛があまりにきれいで欲しがったのですが、この絵は私に、これまで多くの縁をつくり、さまざまなはたらきをしてくれています。
教えられ、導かれて
タンポポが花を咲かせて種を生み、それが大空へ旅立ち、そして土へ舞い降り、残った花や葉が枯れ、次の栄養となるべく土へと還(かえ)っていく。一連のドラマが絵に凝縮され、「こうやって、いのちはみんな繋(つな)がっているんだよ」と伝えてくれている気がします。それと同時に、世の中のあらゆる物事は変化し、一定ではないという諸行無常(しょぎょうむじょう)の理(ことわり)を教えているようでもあります。小さな小さな綿毛が、宇宙の星の輝きのようにキラキラと光って見え、自分が些細(ささい)なことにとらわれ、くよくよしているなあと、知らされたりもします。まさか、私の一人暮らしのアパートにあった絵が、お寺のお内陣に置けるとは思ってもみなかったので、「おじさん、亡くなってからも必死で導いているんだなあ」と感じたりもしました。彼の人生は、はた目には決して幸せとはいえないものでしたが、多くのものを残してくれました。仏さまとなってよびかけておられるなあと思うのです。きっと、どなたにも先立たれた大切な方がおられることでしょう。その方々は今、四苦八苦しながら懸命に生きている私たちに向けて、どうか仏さまのお心に気付いてほしいと、あの手この手でよびかけておられるはずです。
自己中心の塊(かたまり)である私は、それが感じられていませんでした。さらに言えば、「真実に気付いておくれ」と願う仏さまのお心が、私を包んでいたにもかかわらず、欲に縛られ、はねつけていたのです。だから不満だらけでした。「仏さまなど見えないからないのだ」というのは、人間の傲慢(ごうまん)です。見えないものにこそ心を砕かないと本当の安らぎは感じられません。つまり、仏さまのお心は、難しいことを会得してから感じるものでは決してないのです。ある布教使の方が、「正信偈」の中の「唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)」の「説」を「聴」に置きかえて、自らのことを次のようにおっしゃいました。「私はただ、阿弥陀さまの願いを聴かせていただくのみです」 ですから、お寺でのお聴聞を通じて、私自身のこととして、自己中心的な私の心をごまかさず、どこまでもすなおに聞く、ただそれだけです。タンポポの絵は、欲だらけの私をまるごと受けとめ、仏さまのお心に触れさせてくださった、仏さまからの贈り物。これからも、仏さまのはたらきを喜ばせていただけるような日暮らしをしたいと思います。

■大地に根をはる人生
独立を決心する
今夏開催されるロンドンオリンピックに向けて注目を集める選手がいます。マラソンの川内優輝さんです。川内さんは埼玉県職員として働く公務員の市民ランナーで、実力は日本人トップレベル。その素朴な人柄と、ゴールに倒れ込むまで懸命に走る姿が人気の若手です。私も埼玉県に住む一人として、川内さんを応援しています。川内さんは雑誌のインタビューで自分のマラソン人生を振り返り、こう話していました。「高校時代は5000メートル14分台を目指し、駅伝で埼玉県代表として走れば、箱根駅伝の強豪校からスカウトされるだろうと、将来陸上の道を進む夢を持っていましたが、高校2年生で腸けいじん帯を傷めたため、高校生活の後半は全く走れず、最大の挫折を味わいました。進学した学習院大学では自分に才能もなく、実業団からの誘いも来ませんでした。大学卒業後もしばらく母校の監督に指導を受けていたのですが、徐々に自分の理想とのギャップに悩むようになり、走行中に派手に転倒したことがきっかけで、指導者から離れて独立することを決めました」 川内さんは現在、監督やコーチを持たず、トレーニングを自分で考え、ひとり黙々と練習するスタイルで知られています。「振り返ると、挫折と失敗の連続でした。ケガをしたから無理せず走ろうと思い、弱小校だから自分なりに工夫し、市民ランナーだから時間をやり繰りしてトレーニングに集中しなくてはいけない。落ちこぼれたことやエリートの道を外れたことは、自分にとって発想の転換になりました。だから私は、走るということが実業団か市民ランナーかの二者択一ではないということを知ってもらいたいのです。自分に合った形を見つけることが、競技を続けるうえで一番大切だということを若い世代に伝えたいのです」
本当の依りどころ
川内さんは、大学時代の恩師、陸上部の津田誠一監督の言葉が今も思い出されるそうです。ハード過ぎるトレーニングで故障がちだった川内さんに、津田監督は言いました。「頑張るな」 この言葉を何度も聞き、川内さんは不思議と記録が伸びたと語っています。「頑張るな」──私たちは反対に「頑張ろう」と自分自身を励まし、「頑張って」と人の背中を押します。では、何を依りどころに頑張るのでしょう。私たちの心は日々、単に社会的な価値観に押し流されているに過ぎません。ただ押し流されているだけの私が、何を「頑(かたく)なに」「張る」というのでしょう。大地がなければ種は芽吹かないように、ゆるぎない大地に根をおろすことは私たちの人生で最も大切なことです。それはお金という大地でしょうか。名誉や学歴という大地でしょうか。家族や夢という大地でしょうか。大地に根を張っていなければ、頑張ることも頑張らないこともできません。
親鸞聖人がお示しくださった数々のお言葉の中に、「心(こころ)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶっち)に樹(た)て、念(おもい)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す」というお言葉があります。
私の心を本願の大地にたてて根を張り、思いを不可思議の大海に流す。私の心は阿弥陀如来のお心の大地にしっかりと立てる、それは成功も失敗も、どんなときも揺るがない根をおろすことです。台風がきて枝のたくさんの葉が舞い散ろうとも、大地の下では太い根がびくともしない、揺るぎない大地に自らをゆだねていくことです。同時にそれは、社会的な価値観に押し流されてきた私が、いかに頼りにならないものを頼りにしてきたかわかることでもあります。人生を通して依りどころになるものは、たったひとつしかありません。私の心が仏法の大地にしっかりと根をおろしていれば、日々の感情と思いは、人生の順境も逆境も見通した教えの大海のなかに安心して流すことができます。人生の依りどころとなる深い教えに出遇(あ)えたよろこびは、頑張る、頑張らないという世界を超えた、何ものにも勝(まさ)る安心を与えてくださるのです。

■私を知らされる
「涙が止まらない...」
お歳を召した女性から、こんなお話を聞きました。「あるとき、私は幼稚園の孫娘とお話をしていました。すると、『おばあちゃん、いつまで生きているの?』って、突然聞いてきたのです。私はそれでムッと腹を立てて、孫娘を一方的にしかりつけてしまったのです・・・」 このお孫さんは、3人兄弟の末っ子で、お兄さんやお姉さんには勉強部屋や、勉強机があるのに、自分にはいまだにないので、普段からお母さんに、おねだりをしていたそうです。それに対して、このお母さんは、「家は余裕もないし、狭いからだめよ。でも、もうちょっと待っていなさいね。もうちょっと待っていたら、勉強部屋をご用意してあげるから」 と言ったとか?もちろん、そんなことをおばあさんの目の前では言いませんが、同じ屋根の下に暮らしていると、お互い察するものがあるのでしょう。ですから、この方もうすうす気付いていたところに、「いつまで生きているの?」と孫娘から言われたので、一方的にしかりつけたというのです。このお孫さんは、おばあさんのあまりの剣幕に、びっくりして泣きじゃくりながら、「だっておばあちゃん、私の結婚式に出てほしいの。出てちょうだいね・・・」 と言ったそうです。おばあさんは言葉に詰まり、お孫さんを抱きしめながら涙が止まらなくなった、というのです。
わかったつもりでも
この話が、私の心に深く刻まれた理由を、自分なりに考えてみました。私はお寺に生まれ、それなりに親鸞さまの浄土真宗を聞いてきたつもりです。その私には、次のように自分の心の動きが見えてきました。まず、私は「けしからんお母さんだな。たとえ、おばあさんがその場にいないからといっても、このような発言をするのは親としてなっていない。教育上、問題のある発言だな」と、お母さんを裁き、批判する心の動きが起こったのだと思います。次に、私は、このおばあさんに対しても、「この人もなってないな。たとえ、相手が幼稚園の子どもでも、話というものは最後まで聞いてやるものだ。それなのに、このおばあさんも一方的で、せっかちだな」と批判していたと思います。もちろん人間はいちいち自分の心を確かめながら生きているわけではありませんから、後になって見つめ直すことができたということになります。しかし、「おばあちゃん、私の結婚式に出てちょうだい」という言葉を聞かされて、私の思い上がりが、決定的に知らされたのです。
親鸞聖人を通して仏教を学び、お互いが認め合い、尊び合うような生き方こそ、浄土真宗が示している「御同朋御同行(おんどうぼうおんどうぎょう)」だと理屈ではわかっているつもりでした。しかし、私は、相手を認めたり、尊ぶことよりも、気付いたときには、相手を裁き、批判するような自分中心のあり方を、より深いところに抱え込んでいたのです。そして、それを教えてくれたのが、この幼稚園に通うお孫さんの一言だというわけです。私が仏法を学ぶのは、新しく知識などを学ぶことが大切だと思っていました。つまり、自分の上に、一つでも多く仏さまの教えを知識として覚えて、理解して、それを利用して、どれだけ自分がわかった人間になっていくことができるか。そして、それが人間にとって幸せなことなのだと思っていたのです。しかし、人間にとって本当に学ぶべきことは、私がどのように物事を考え受けとめているのか、そして、私自身が気付いていない私とはどういう姿なのか、ということだと思いました。ちょうど、鏡の前に立てば自分が見えてくるように、仏さまの教えの前に身を置くと、今まで見えていなかった自分が見えてきます。教えを学ぶとは、人間として本当に大切なことを自分の上に受けとめていくと同時に、そうなっていない、思い上がった自分に気付かされていくことこそが大切なのだと思いました。 
 

 

■恋のはなし
恋をしていますか
学生さんにとっては、卒業式の季節が近づきました。「3月は別れの季節、4月は出会いの季節」ということで、これからむかえる3月4月を「恋の季節」と申します!思い返せば二十数年前、高校の教室で一人の女の子の笑顔が見たい一心で、ずっこけてみせたり、おどけてみせたり、日々むなしい努力を積み重ねている私がいました。しかし現実は、好きな人には振り向いてもらえず、好かれようとすると、自分が自分でなくなってしまう。結局、想いは伝えられませんでした(心が純だったから)。しばらくして、その子に彼氏ができたことを耳にした時、私に残ったものは、勇気を出せなかった自分のなさけなさと、怒りだけ。思えば、それが大人に一歩近づいた瞬間でした。さて、恋にもいろいろあると私は思うのです。この会社に絶対入りたい・・・就職活動という恋ごころ。いつまでも元気で若くて・・・健康への恋ごころ。「オリンピック誘致」というのも、恋ごころの一つでは・・・。ある中学生が、おばあちゃんに「受験に失敗したら、どうしよう・・・」と、不安を打ち明けました。おばあちゃんは孫を抱き寄せ、こう諭(さと)しました。「受かっても、受からなくても、あんたの人生に寄りそってあげるよ。どちらを引き受けても、それはあんたの人生の宝だよ」 そこには、中学生の「受験」という恋ごころがありました。皆さんは、どうお考えになりますか。ふつう、想いがかなった出来事は人生の宝になりますが、どうして想いかなわぬ出来事が宝であるのか。宝とは、何なのか・・・。今、皆さんはどんな恋をしていますか。
心の眼を開こう
親鸞聖人がお書きになった『高僧和讃』という書物に、
煩悩にまなこさへられて 摂取(せっしゅ)の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり ・・・というご文があります。
「煩悩によって自分の殻(から)に閉じこもってしまい、人生の道筋を見失っているこの私に、阿弥陀如来の大悲が常に光を照らしてくださっている」と、自身の身近な所に寄せて味わわせていただきます。人は、誰もが人生に理想を描きながら、時間の流れと複雑な人間関係に翻弄(ほんろう)されていきます。しかし、大悲に照らされている「わが身」とは、決してそのような孤独な私という意味ではなく、世の中全体のつながりにある私の存在であることに眼を向け直そうというメッセージと味わわせていただきます。その場にいる時は気付かなくても、失敗やつまずきは私の深さであり、私の傷は必ず誰かに寄り添い、出会いは私の広さとなります。世の中全体のつながりにある私自身の足下に眼を向け直すことができた、実はそれが、弥陀大悲の光明のはたらきなのです。どうか、阿弥陀如来の大悲のみ教えを聞き、照らされた互いのつながりを大切に味わいましょう。そして手を合わせ、世の中全体に心の眼を開いていきましょう。その、お念仏と共に歩む私たちの人生こそが、弥陀の大悲が伝わる尊い仏縁と活(い)かされてゆくのだから。親鸞聖人は、そう呼びかけてくださっています。
新たな一歩
あの時、勇気を出していたら、自分の人生、何かが変わっていただろうか・・・。たまにそんな思い出にひたりながらも、今では、昔の道化師だった自分も、勇気を出せなかった自分も、それはそれでよかったのだ。あの時の自分は、今の私の人生に欠かせない大切な自分であったことを、手を合わせ聞き学んでいます。「どちらを引き受けても、人生の宝」。宝とは、「味がある」ということ。私の宝には、青春時代のほろ苦い味がありました。いろんな出来事や出会いが、人生の味を深めます。味のある人生こそ、生き甲斐(がい)ではないでしょうか。もうすぐ新しい年度が始まります。どんな出来事があるでしょうか。どんな出会いがあるでしょうか。どれを引き受けても、それは光に照らされた人生の宝です。お念仏申しながら、一歩を大切に踏み出しましょう。

■わが身に届くはたらき
忙しいから難しい?
親鸞聖人750回大遠忌法要が終わりました。私自身、50年に一度のご勝縁にあわせていただく中で、こうして聖人のお導きに出あえたことを、ますます喜ばせていただきました。しかし、こうしてみ教えにご縁をいただきながらも、お念仏を申す難しさ、お念仏を喜ばせていただくことの難しさを、あらためて感じたご縁でもありました。皆さまはいかがでしょうか。お念仏申す喜びということを、日々の生活の中で味わうことは、なかなか難しいと感じておられるのではないでしょうか。私自身、共働きですので、日々の生活を忙しく送っておりますと、阿弥陀さまの前で腰をすえて手を合わせて、お念仏を申して喜ぶことの難しさを日々感じております。わが家では、手の空いた者が食事の準備をしたり、洗濯をしたり子育てをしたり・・・、そういった生活をしておりますので、あれもしなければ、これもしなければならないという日常ですから、腰をすえて仏さまの前に座るということの難しさといったらありません。それは共働きの家庭に限ったことではありません。皆さんそれぞれに忙しい日々を送っておられることでしょう。朝早くから夜遅くまで仕事をされている方もおいででしょうし、家事や子育てに追われる生活をされている方も、高齢化社会でありますから、家族の介護を中心として生活している方もいらっしゃるでしょう。そうした本当に忙しい生活をしておりますと、なかなかお念仏を申すということが難しい、お念仏どころか口を開けば不平不満、何で私がこんなことをしなければならないのか、世間が悪い、あの人が悪いと、愚痴(ぐち)をこぼすことしかないのがこの私です。また、忙しいというだけでなく、日々深い悲しみに暮れている方も多くおられます。私のご縁のある方々にも、お連れ合いを亡くされた方、近しい方を亡くされた方、小さなお子さんを亡くされた方も見えました。多くの方が悲しみのどん底におられます。その中には、人生を悲観して生きておられる方、ただ時間だけを重ねてその悲しみを薄れさせていくような生き方をされている方もおられます。そうした日々に思いをいたす時にも、お念仏を喜ぶことの難しさを感じるのです。
この私を目当てに
親鸞聖人が示されたお念仏のみ教えは、「必ず救う、まかせよ」といわれる阿弥陀さまから信心をいただいて、ただ念仏申す一生を送らせていただく、ということであり、聖人ご自身の歩みでもありました。お念仏というのは本来、私がしようと思って私がしているものではない。あれこれして右往左往している者、悲しみ苦しみを抱えて生きている者を目当てとして、念仏申す者に育て上げようというはたらきがあるからこそ、今、私がお念仏している。それが「阿弥陀」という仏さまのおはたらきだとお伝えくださるのです。悲しみの声を上げたから来てくださる仏さまではありません。私が私の人生をどうにかしてくださいと頼んだから来てくださる仏さまでもありません。私が呼び、私が頼む、そのずっと前から、私の本性を見抜き、日々生活の中であれこれして悲しみに沈みこんでいる、念仏申すことのない者を目当てとして、はたらき続けてくださる仏さま、寄り添ってくださる仏さまが、阿弥陀という仏さまなのです。不平不満しかこぼれ出ることのない私の口から、阿弥陀さまの願いとはたらきによってお念仏となってくださっている。阿弥陀さまの願いが私の体に満ち満ちて、私の口からお念仏がこぼれ出てくださる。それが親鸞聖人の示されたお念仏だと味わわせていただきます。そのことを知らされますと、仏さまのことも、仏法のことも知らず、お念仏申すこともなかった私が、いつの間にかお念仏させていただく身の上に育て上げられてきたことの有り難さ、不思議さを感じるのです。私が称えるお念仏は、阿弥陀さまから我が身に届けられたおはたらきでありますよ、との親鸞聖人のお導きであったと、あらためて喜ばせていただいたこの大遠忌法要でありました。

■合掌ができない子どもたち
浄土真宗が風土に
20年ほど前から滋賀県に住んでいます。住職が亡くなった後、後継者がいなくて坊守がひとりで護っていたお寺に家族4人で入寺しました。滋賀県には若いとき琵琶湖に遊びに来たくらいで、住むのは初めてです。私が住む大津市は琵琶湖の南で「湖南」といいますが、長浜市など「湖北」では、今も人が生まれたら「赤ちゃん、もらわはったんやてな。おめでとう」「おおきに、おかげさんでいい子をもらいましたわ」。人が亡くなったら「今朝、ばあちゃん、まいらしてもらいましたんや」「ほらまあ、お早いお旅立ちどしたなあ」という会話が日常的に行われていることを知りました。滋賀県には140万人が住んでいますが、浄土真宗の寺院は1600カ寺近く(そのうち本願寺派が601カ寺)あり、「浄土真宗が風土」ともいえます。そういえば、嘉田由紀子滋賀県知事は、6年前に「もったいない」をキャッチフレーズにして初当選しました。マスコミの取材で「なぜ"もったいない"なのですか」と聞かれ、若いときから県職員として琵琶湖研究所などで環境問題に取り組んできた嘉田さんは「調査で県内をくまなく回ったが、琵琶湖のほとり、あるいは山手のどんな小さな集落に行っても、皆さんが"もったいない"と言うのですよ、だから」と答え「私が生まれた埼玉県ではあまり聞いたことがありません」と言っていました。
「お育て」の大事さ
その滋賀県は全国でも数少ない、人口が増えている県です。この20年、田や山地が開発され新しい住宅やマンションができ、核家族化した住民が増えています。10年ほど前、そのような家族の子どもと昔から住んでいる家族の子どもが混在する20人ほどの集まりで、お経(きょう)をおつとめする機会がありました。経本を配り、おつとめを始めようと「合掌」と言いました。ちょっと振り返ってみたら半分ほどの子どもは合掌をせずにキョロキョロしているのです。
「君たち合掌を知らんのか」「知らん」「家でご飯を食べるときにするやろ」と尋ねると、「してない」という返事が返ってきました。
合掌は「自己を見つめる・他を思う・感謝」の表現であり、そもそも日本人にとって、宗教行為の基本動作です。逆に合掌ができない生活や社会は、「自己中心、他を思えない、感謝の気持ちに欠ける」、つまり宗教心がない、ということです。「浄土真宗の教章」の「生活」にある「つねに我が身をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のうちに、現世祈祷(げんぜきとう)などにたよることなく、御恩報謝(ごおんほうしゃ)の生活を送る」ことは、合掌ができないに対置しています。昨年夏に『合掌ができない子どもたち』(白馬社刊)を上梓しました。刊行のきっかけは、宗教心の基本行為ができていない人がいることへの僧侶としての責任でした。それに原発問題への対応を含めて政治、経済、科学、思想など日本を動かす一部の人に見られる倫理観のなさに「合掌ができない」ことが根底にあるからではないかと思ったからです。倫理観の根底には宗教心があるからです。農山漁村など日曜学校が続きキッズサンガが盛んな地域の住職からは「合掌ができない子どもがいることを初めて知りました」、都市部の住職からは「その通りです。家族や親類が集まっての年回法要などで、合掌をしない人が増えたので、おつとめのはじめに"合掌"と言うようにしました」と、大まかに二通りの感想が寄せられました。手紙を読ませていただきながら、「広辞苑」にもない言葉ですが、最近聞かなくなった「お育て」という言葉を思い出しました。湖北の人たちに「赤ちゃん、もらわはった」という日常会話が続いていることは、まさに「お育て」によるものであり、それがなくなってしまったところに「合掌ができない子どもたち」が現出したように思います。
阿弥陀さまの救い(浄土真宗の教え)は、「(自分で)得る」ものではなく「たまわる」ものであるという、現代思潮から理解が難しい一面がありますが、それ故(ゆえ)に「理屈」だけではなく「お育て」が求められています。まもなく春の彼岸を迎えますが、私が「合掌の生活」を送ることから子や孫に「お育て」がなされていくこと、その大事さを痛感しています。

■おかげさま 阿弥陀さま
お弁当の温もり
35年前の春4月、高校へ入学して下宿生活を始めたある日、本来は、2年生担当の数学の先生が、都合でひとクラスだけ1年生の私のクラスを担当されました。その先生は、下宿生活で昼の弁当がない私のために、先生方が取られている弁当を、ご厚意で一緒に取ってくださることになりました。毎日、弁当を先生から受け取り教室で食べ始めた半月後のこと、職員会議で「先生と生徒が同じ弁当を食べるとは、けしからん」と大問題になり、弁当は取ってもらえなくなり、先生も、私のために、ひどく怒られたそうです。翌日、先生は「弁当、取ってやることができなくなったわ。すまんのう」と私に断りを言われ、「取ってやると約束して取ることができなくなったのは、私に責任があるから、明日からお前の弁当は私が作ってくる」と、その翌日から私のために約3年間、弁当を作ってきてくださったのです。本当に有り難く、これほど人の温もりを感じうれしかったことはありませんでした。しかし、高校3年生の2月、大学も決まり、卒業間近で気も緩み浮かれていた頃、私は学校を休んだのです。その先生は、金曜日が休みの日でしたので、「今日は弁当を持って来られない日だ。サボってやれ」と、学校を休んで下宿で寝ていたのです。ところが、先生は学校がお休みにもかかわらず、わざわざ弁当だけ学校へ届けに行き、私が休んでいるとわかると、下宿先まで私のために足を運んでくださったのです。怒ることもせず、「明日は出て来いよ」とひと言、声を掛けられただけでした。一人下宿生活する私を温かく見守り、道を逸(そ)らさないように導いてくださった先生に背き、ここまで私のことを考えてくださる先生のご厚意に対してとても恥ずかしく、これほど反省したことはありませんでした。その時の弁当の味は、一生忘れることができません。
一如(いちにょ)の世界から
温かく見守り育ててくださる先生の大きな力に支えられ、おかげさまで無事、高校を卒業。そして進学した京都の大学も卒業し、実家の広島へ帰り副住職をしていたある日のことです。大学の恩師から見合い話をいただき、京都で見合いをすることになりました。その時の相手が何と、高校の時、弁当を作ってくださった先生の娘さんでした。その後、結婚して3人の子どもに恵まれ、その先生は今では、優しいおじいちゃんとして、私たちのことを見守ってくださっているのです。3年間の高校在学中、一度もご縁のなかった先生は何人もいらっしゃる中、本来2年生の担当で、会わなかったであろう先生と出遇(あ)い、弁当まで作っていただき、その娘さんとも結婚して35年の歳月が流れました。そして、これからも末永くずっとお付き合いがあるのだと思うとき、自分の考え、力では及びもしない、計り知れない大きなつながり、かかわり合いの中で生かされていることに気付かされるのです。
仏さまは、すべての存在をあるがまま如実に見尽くされ、何一つぽつんとあるものはなく、すべてつながり、かかわり合い存在することを「縁起(えんぎ)」(相依相関(そうえそうかん))の法として教えてくださいました。この縁起の法にうなずかずにはおれません。この教えをいただき、「決して一人で生きているのではないのだ。自分の気付かない大勢の陰(かげ)の力があればこそ、今があるのだ」と、謙虚に生き抜かれた先人が残してくださった言葉が「おかげさま」です。自分は気付いていなくても、支えてくださる大勢の人や物に感謝し、自分さえ良ければいいという傲慢(ごうまん)な生き方を戒めながら日々、歩みたいことです。そして、すべてのいのちのつながりを、自他不二(じたふに)、自他一如(いちにょ)(一つの如(ごと)し)と、さとりきわめられたのが阿弥陀さまです。その大きな一如のお慈悲に抱かれているのが私の命です。問題を抱え、悩み、苦しみ、悲しむこの私のことを思い、その問題をわが問題と受けとめ、おはたらきくださるのが阿弥陀さまです。決して一人ではありません。いつも阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」となって常に願い守ってくださっているのです。

■みんなちがってみんないい
「アシ」は「悪し」?
2カ月ほど前、新聞にこんな記事が出ていました。水辺に生える「葦」は「アシ」だが「ヨシ」とも読むこと。それは発音からアシは「悪し」に通ずるとして「ヨシ」(良し)に読み変えたのだというのです。こういうのを「忌(い)み言葉」といって、他にもいっぱいあると知りました。浄土真宗とは無縁な、いわゆる「げんをかつぐ」ということでしょう。「アシ」を「ヨシ」に読み変えるというのは、単に言葉の表現上の問題だといわれれば、そうかも知れませんが、それを人の心について問いかけてみたらどうでしょう?「悪し」つまり「悪いこと」をどう受け止めているでしょうか。例えば、マスコミなどが連日のように世の中の不正や欺(ぎ)まんを報じています。人間は悪を悪と受容したがらないのでしょうか。それとも人間の身勝手な欲望が、罪悪感を鈍感にさせているのでしょうか。それでは、私自身はどうでしょうか?小学5年生の時でした。家ではニワトリを飼っていました。昼間は小屋から出すのですが、それがどこでもフンをするのです。勝手口を閉め忘れるとすぐ家の中に入ってきて、そこらはフンだらけ。閉め忘れた方が悪いのに、それにフンガイ?して私はニワトリを蹴ったのでした。「ギェーッ」とすごい鳴き声の後、苦しそうな声になり、ピクピクと体をけいれんさせて息絶えたのです。それを知った母は烈火のごとく怒り、私は長時間、命の尊さを説諭(せつゆ)されたのでした。生意気盛りの私も、この時ばかりは黙って聞いていました。それは、目の前で死んでいったニワトリの残酷な光景の一部始終が、私の心に食い込んでいたためでした。食前の言葉、合掌「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうを・・・」と言って食事をします。ニワトリとのことを悔やんでいるはずの私が、平然と鶏(とり)肉を口にします。姿造りのお刺身を目の前にする時、かわいそうだと思いますが一瞬です。そういった私とは一体何なのでしょう?
あたたかなお慈悲
布教使の先生方からは「煩悩を抱えている自分に気付くことが大切です」と、お説教の端々(はしばし)でよく耳にしていました。換言すれば、自己の罪悪性に気付くことの大切さ、必要性を説いていらっしゃったともいえるでしょう。幼少時、友達と遊ぶ中でいわゆる「悪さ」もよくしました。しかし、例えば窃盗とか恐喝といった刑法犯罪に触れるようなことは今までありません。それを普通と言えば普通と言うのでしょうか。人は誰しも利己的であるといいます。それを是認する私ですが、深く自覚しているわけではありません。それを良しとはしませんが、正直なところ特別に自戒するほどでもないと思っているのです。いや、思っていたのです。あいまいな感覚が明瞭に変わったことがあります。自分にとってこれは長い道のりでした。良きにつけ悪しきにつけ、人は自分のすべてをひとつ残らず一生引き受けていかねばなりません。それぞれ顔が違うように、能力も性格も何もかも違います。「みんな違ってみんないい」と、金子みすゞさんはおっしゃいました。味わい深いことばで私も大好きなのですが、人は誰しも、他人の言わばそれぞれの「特徴」のすべてを、広い心でもって「みんな違ってみんないい」と受け止めてくれるでしょうか。悪の自覚に気付いたら改善されるかというと、そうとは限りません。あさましいことです。しかし、そのような人生を歩む私たちであるからこそ、向けられているあたたかなお慈悲がありました。それが「ご本願」と味わわせていただき、お念仏を申すばかりです。そして、やはり「みんな違ってみんないい」のでしょう。

■罪を罪とも知らずに
郷に入っては郷に
数年前、十数人でインドに旅行に行った時のことです。インドの人は牛をとても大事にします。牛はヒンドゥー教のシヴァ神が乗る神聖な動物とされているからだそうです。インドでは街中のいたる所に牛がいましたが、牛が道路をふさいで寝ている場合も、人や車が牛をよけて通るのです。人間よりも牛が優先ということだそうです。ですからインドの人は牛を絶対に食べません。そして旅行者である私たちの食事にも、牛肉が出されることは一切ありませんでした。あの有名なハンバーガーチェーンも、インドでは牛肉は一切使用せず、鶏(とり)肉などで代用しているそうです。私たちの旅行中、現地ガイドとして案内してくれたのは、インド人のJさんでした。日本に住んでいたことがあるそうで、日本の文化をよく知っていて、流暢(ちょう)な日本語を話す方でした。10日間ほどの旅行日程も中盤にさしかかった頃でした。ある日の晩、ホテルの部屋でJさんを囲んで話をする機会がありました。その時、牛の話になり、ある人がJさんに次のような質問をしたのです。「インドの人は牛を食べないけれども、外国では牛は普通に食べられています。このことについてインド人としてどう思いますか?」 Jさんはこう答えました。「他の国には他の国のやり方があるのだろうから、それをとやかく言うことはできません」 Jさんは観光ガイドという職業柄か、幅広い国際感覚を持ち合わせているようでした。そしてさらに質問は続きます。「日本に何年間も留学していたと聞きましたが、日本でも牛は食べなかったんですか?」 すると、「実は、牛とは知らずに間違って食べたことはあるけれど、それを今でも後悔しています。でも、自分から牛を食べようと思って食べたことは絶対にありません」と。
そして、これまでのにこやかな表情を一変させ、「逆に、インドに外国人がやって来て、牛を食べたりすることがあったなら、それは許せない。黙って見ていられない」と言うのです。突然真顔になったJさんを見て、私たちは少し驚いたのですが、この話は、一応これで終わったのでした。さらにその後もしばらく、いろいろな話をしつつ、全体としては和やかな雰囲気で、その場はお開きとなりました。その時の部屋のテーブルには口の開いたお菓子の袋がならんでいました。日本から持ち込んだポテトチップスが、実はグリルビーフ味だったことに気づいたのは、Jさんが自室へ戻った後のことでした。インドの文化や習慣は日本とまったく異なるものでしたが、旅行中は「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、異国の地の文化を尊重しようと努めていたつもりでした。Jさんが、ポテトチップスの袋に描かれた牛の顔に気づいていたかどうかはわかりませんが、広い心で許してくれていたのかもしれません。
気付くことすら・・・
仏教では、自分の犯した罪を認め、恥じることを「慚愧(ざんぎ)」といいます。罪を犯さないことが第一ですが、いったん犯してしまったなら、それを反省し、同じ過ちを繰り返さないようにしなければならないということでしょう。けれども慚愧は、自分自身が罪を犯したということに気づくことが前提となります。それがなければ慚愧はありえません。親鸞聖人は晩年、阿弥陀さまのはたらきに照らし出されたご自身の姿を「無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて」と述懐されています。これは、罪を罪とも知らずに日々を過ごす私たち凡夫の姿であり、それはそのまま救われていく者の姿でもあることをお示しくださったものと受け止めたいと思います。グリルビーフの一件は、幸いにも後で気づくことができましたが、おそらくそのほかにも、外国人である私たちが、Jさんにいやな思いをさせたことがあったことでしょう。4月に入り、新たな生活が始まった方も多いのではないかと思います。実は私もその中の一人です。生活環境は変わっても、愚かな凡夫であることは変わりありませんが、今後もお聴聞を忘れることなく、精いっぱいに過ごしていきたいと思います。

■花びらは散っても・・・
蓮如上人のお導き
いつも私がお育ていただいているお聖教(しょうぎょう)に『蓮如上人御一代記聞書(ききがき)』があります。その198条に、年下の蓮如上人を生涯慕いながら、お念仏をよろこんだ道西(どうさい)(のちに改名して善従(ぜんじゅう))のことが記されています。「ある人、善従の宿所(しゅくしょ)へ行き候(そうろ)ふところに、履(くつ)をも脱ぎ候はぬに、仏法のこと申しかけられ候ふ・・・・・・履をさへぬがれ候はぬに、いそぎかやうにはなにとて仰せ候ふぞと、人申しければ、善従申され候ふは、出(い)づる息は入(い)るをまたぬ浮世なり、もし履をぬがれぬまに死去(しきょ)候はば、いかが候ふべきと申され候ふ。ただ仏法のことをば、さし急ぎ申すべきのよし仰(おお)せられ候ふ」 お同行(どうぎょう)が善従の道場に来た時のことです。その人が履(は)き物をぬぎ終わらないのに、善従はお念仏の話をはじめました。するとその人は、まあまあ、そんなに急がれずとも後でお話しましょう、と言いました。すると善従は、お釈迦さまが吐(は)く息は吸うをまたぬ無常の命と言われているではありませんか。もし履き物をぬぎ終わらないうちに死んだらどうしますか、と厳しく言われたのでした。これは、何よりも仏法のことは急がねばならないことを伝えているのですね。私の命は風前の灯火のようなものです。だから、大事なことは何をさておいても急がねばなりません。
私のよき人の仰せ
また、同じ『聞書』の48条には、蓮如上人から法敬(ほうきょう)と順誓(じゅんぜい)の二つの法名をいただいた法敬坊の話があります。「法敬坊九十まで存命(ぞんめい)候ふ。この歳(とし)まで聴聞(ちょうもん)申し候へども、これまでと存知(ぞんじ)たることなし、あきたりもなきことなりと申され候ふ」 これは「お念仏の教えを何度聞いても、聞けば聞くほど尊くありがたい。知らされれば知らされるほどもったいない阿弥陀さまのお慈悲であります」と、死の直前までお念仏をよろこんでいたことを伝えていると味わっております。これは、花びらは散っても・・・日々を過ごす私たち凡夫の姿であり、それはそのまま救われていく者の姿でもあることをお示しくださったものと受け止めたいと思います。
蓮如上人のお弟子の法敬坊や善従などがお念仏に生きる姿をいきいきと伝えている『聞書』ですが、このような信仰をもてたのは、お念仏のおいわれを伝え導いてくださった蓮如上人に巡り会えたからです。人生のよろこびはよき師、よき同行との出会いからはじまります。まさに池山栄吉先生が詠(うた)われた、
よき人の仰せにききてみ名を呼べば喚(よ)ばはせたまふみ声きこえぬ ・・・の心です。
私自身も、巡り会った先生方の言葉と生きざまが、今の私を支えています。その一つが、今年13回忌の村上速水先生の晩年のお言葉です。「病気をして嬉(うれ)しいとは思わないが、有り難いと思うようになった。・・・・・・私の場合は、そのよろこびの心境を味わうのに、六、七年の年月が必要であった。ご法義のよろこびもまた、長い間かかって純熟(じゅんじゅく)するものであり、その代わりに、いつまでも決して消えぬ喜びであるように思われる」(「大乗」昭和60年1月号)という、その澄み切ったよろこびの言葉です。この言葉に私は、ずいぶんと心が癒されてきました。愚鈍な私も長い時間をかけて求道(ぐどう)していれば、いつしかみ仏が私を喚(よ)びたまう声が聞こえてくる・・・。京都の浄住寺にある池山先生の名号碑(ひ)の裏には、「オネガイダカラスグキテオクレヨ」と書かれていますが、この仏の願いとみ声が私に聞こえてくるのですね・・・と心に響いてくるのです。また、今年3回忌の浅井成海先生のおかげで、私は浄土真宗のありがたさを素直によろこべるようになりました。昨年、先生のお寺にお参りした時に、坊守さまが「ご門徒の皆さんが、お寺の前を通るたびに、阿弥陀さまと前住職に手を合わせてくださっているのですよ」と何気なく言われたのが心に残っています。思わず、金子大栄先生の「花びらは散っても花は散らない。形は滅(ほろ)びても人は死なぬ」の言葉を思い出しました。お念仏のご縁のあった方々は仏となって、今の私を導いてくださっているのですね。

■親の願い 子どもの姿
「おやさま」と呼ぶ
私たちのご法義、浄土真宗のみ教えは「他力本願」(他力回向(えこう))のみ教えであるとよくいわれます。阿弥陀さまは、ふらふら生きているこの私を、抱きかかえて共に歩んでくださいます。そしてこの娑婆(しゃば)のいのち終われば、お浄土へお連れくださり、私をさとりの身と仕上げてくださるのです。他力本願という阿弥陀さまの願いとはたらきは、私の親となってみせることがその中心であるといえるでしょう。「間違いなく、お前の親はここにおるぞ!安心しておくれ」と、およびくださるその声が、いま私の口から「南無阿弥陀仏」と、お念仏となってくださいます。そして、この私をお念仏する身に仕上げてくださった阿弥陀さまのお慈悲の心に包まれて大きな安心をいただき、私たちはお念仏とともに阿弥陀さまを「おやさま」とお呼びしてまいりました。阿弥陀さまは私をいつも無条件に抱(いだ)いてくださいます。確かにお経(きょう)さまをいただきますと、讃仏偈(さんぶつげ)の最後に、たとひ身(み)をもろもろの苦毒(くどく)のうちに止(お)くとも、わが行(ぎょう)、精進(しょうじん)にして、忍(しの)びてつひに悔(く)いじと、阿弥陀さまが私の親となる決意がうかがえます。阿弥陀さまが法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)のお姿をして、師匠の世自在王仏(せじざいおうぶつ)にひれ伏される厳しいお姿です。でもそのお姿を、厳しい修行と精進のほどを、凡夫である私たちに説き示して見習わせようとされているのではありません。人の親も、どれほど仕事で疲れていても、家に帰って幼い子が飛びついてくれば、笑顔で向き合い、優しく抱きしめます。子にいらぬ詮索をさせまいとの親の慈悲心が、子には疲れをみせまいとさせます。やがて子どもは親の優しさに安心をしつつ、この子の親でありたいという親の強い決心に、親の名を呼ぶ子と育てられていきます。
本当の願いとは
ところで最近、阿弥陀さまを「おやさま」と呼ぶのは、あまりにも感情的すぎる。また具体性がない、現代に合わないなどと、私たち人間の発想で「おやさま」と呼ばなくなっているようです。背景には、阿弥陀さまの願いとはたらきを、今の教育や思想によって把握してしまおうとする傾向があるように思います。「浄土真宗は、わかったといったら間違っている」といわれます。阿弥陀さまのはたらきを、私の知識で理解できると思うなということでしょう。私が理解できるくらいの阿弥陀さまは、私の生き方や考え方が変われば、崩(くず)れていく阿弥陀さまです。そのことにいつも気を付けておくことが大切でしょう。私が大学院の受験に臨んだ時のことでした。試験日の朝、母親が「お前はすでに、私たち両親の願い通りの子どもだよ」と言うのです。その時は、まだ受験もしていないのに不思議だなぁと、思ったくらいでしたが、何かホッとしました。しばらくして、よくわかることができました。私が大学院に進学しようとしたのは、親の願いに応えようと思ったからです。だから何としても合格しなければならないと思っていました。しかし、実際の親の願いは違ったのです。親の願いは、私がお坊さんになることでした。だから、私がお坊さんになることに前向きになった時、親は願いがかない、とてもうれしかったのです。大学院を目指して勉強することとか、ましてその合否は、私が勝手につくり上げた親の願いだったのです。私はそれがわかった時、恥ずかしい自分を思い知らされました。親の願いは、子である私が詮索できるような、浅いものではありません。子が子の知恵で詮索した親は、いつか崩れていく関係です。子はただ、親の願いを親の慈愛を通して安心をもらうだけなのでしょう。私たちは、法蔵菩薩の厳しいご修行があるから「おやさま」と呼ぶのではありません。厳しい姿を隠し、「安心しなさい」と私を抱きかかえて「南無阿弥陀仏」と、お慈悲の仏さまとなってくださった、その阿弥陀さまのおはたらきに救っていただいています。阿弥陀さまを「おやさま」とお慕いし、お念仏申しながら、手を合わせ頭を下げさせていただくばかりです。それが阿弥陀さまの子である姿なのです。

■真夜中のギター
三拍子揃った部屋に
「♪街のどこかに淋しがり屋がひとりいまにも泣きそうにギターを奏(ひ)いている・・・」という歌い出しで始まる『真夜中のギター』という曲があります。いつ頃この歌を聴いたのかは忘れてしまいましたが、なぜだか歌詞に共感し、時折思い出す歌になっています。ただ今回お話しするのは、私が2年半ほど前に体験した「真夜中のギター」についてです。当時、私は引っ越しをしました。新しい住まいは、街中で駅に近くて便利、手頃な家賃、しかも広い、という三拍子そろったマンションでした。下見をせずに部屋を決めたため、引っ越しの当日が初見でした。部屋に入ると、予想以上に広く、これは本当にいい所を選んだなぁと、あらためて満足感でいっぱいでした。しかし、引っ越しを終えて2日目の深夜でした。もうお察しかと思いますが、突然大きなギターの音が響いてきたのです。あまりに大きい音のため、初めはマンションの中に生演奏をするお店があるのかと思ったほどです。実は、階上の住人がミュージシャンで、夜中にギターの練習をしていたのでした。引っ越しの満足感から一転、大変な所に来てしまったのではないかと重たい気持ちになりました。翌日、寝不足の状態で仕事を終え、夕方、不動産会社に連絡して、注意してもらうようにお願いしました。会社側からは、マンションの管理は別の管理会社に委託しているので、そちらに電話してくださいと、そっけないものでした。続いて管理会社へ連絡しましたが、管理しているのはマンションの共有部分だけで、各部屋については管轄外と言われました。結局、全戸への注意書きを掲示板に貼り出してもらうことしかできませんでした。不動産会社に連絡すれば解決すると思っていましたが、なかなか思うように進まず、また、直接、階上の住人に注意できないとなると、すぐには解決しないだろうと暗い気持ちでした。そしてまた夜がやってきました。そろそろ眠りにつこうかという頃、昨日同様、ギターの音が響き始めました。この日はギターに加え、隣の部屋からも大音量の音楽が聞こえてきました。「このマンションは一体どうなっているんだろう」 夕方の会社の対応から始まり、上から横からの騒音。ほとんどの荷物が段ボールに入ったままの殺風景な部屋に一人でいると、だんだん冷静さが失われます。「みんなぐるなんじゃないか」 ありえないことまで考えてしまいます。「こんな状況では眠れないな」と思っていた時でした。外から「カンカンカンカン」と音が鳴りました。ベランダの手すりを叩いたような金属音です。誰がどんな意図で叩いたのかはわかりません。しかし、私には騒音への抗議に聞こえ、「やっぱりうるさいですよね」と妙に安心したのです。そして自分でも驚いているのですが、騒音が気にならなくなり、朝まで熟睡してしまいました。
わかってくれる人が
作家の遠藤周作さんは、人間の「苦痛」というものについて、手術を受けた際の体験から語られています。術後、あまりの激痛に耐えかねていた遠藤さんですが、看護師さんに手を握られて、「この人はおれの痛みをわかってくれるんだと思うとね、痛みがおさまるんです」「人間の苦痛というものには、かならず孤独感というものがつきまとっている」と言われています。この晩の私も、騒音への不快感、怒り、不安などの感情を持っていましたが、その根本には、孤独感があったのではないかと思います。だから、「わかってくれている人がいる」と思った瞬間、安心して眠ってしまったのでしょう。人は一人でないとわかった時、何とも言えないぬくもりを感じます。親鸞聖人は煩悩を抱えた私たちのあり方を「長い夜」、阿弥陀さまのおはたらきを「ともしび」にたとえられ、「弥陀の誓願(せいがん)は無明長夜(むみょうじょうや)のおほきなるともしびなり」とお説きくださいました。真っ暗な闇の中で、孤独にうちふるえる私たちを、阿弥陀さまのお救いの光があたたかく照らしてくださっています。

■値遇(ちぐう)─であい
本願寺出版社が発行する「伝道」の編集スタッフとなって、今年で7年目を迎えました。その間、13冊の表紙画に、親鸞聖人のご一生を描かせていただきました。今でこそ、「描かせていただいた」と思っていますが、当初はかなり嫌々引き受けたというのが正直なところです。そのあたりの経緯は、その絵をまとめた拙書『絵とき親鸞聖人』の「あとがき」で愚痴っていますので、ここでは控えます。しかし、このご縁によって、今まで意識することのなかった聖人のお姿に出あうことができました。私は表紙画のスタートをあえて聖人の29歳に設定し、画題を「値遇」としました。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」とまで言い切られる、法然聖人との出遇いを描かせていただきました。13回のうち、ビジュアル的には4回も法然聖人が登場しています。絵に寄せることばにも、「法然」という文字が8回も出てきます。私としては、法然聖人を抜きに、親鸞聖人を描くことができませんでした。親鸞聖人のご生涯は、法然聖人を抜きにしては「浄土真宗」というみ教えもなければ、それを人に語り伝えることもありえなかったと思います。そして、このお二人の師弟関係が、古きよき時代の出来事としてではなく、今日的にも大切な姿として、考えなければならないと思うようになりました。内田樹先生が「師であることの条件は、師を持っていることだ」とおっしゃるのを聞いたことがあります。養老孟司先生からも同様のことをお聞きしたことがあります。「私は師を超えた」と思った時に、その人の成長は止まるわけです。ここで言う「成長」とは、技術や学力の向上とか、経済成長、身体の成長といった計測可能な技量や数値のことではありません。
内田先生のことばを借りれば、「自分の中のどこかに外部へ続く〈ドア〉が開いている、そういう開放性」のことです。「年を取っていようが、体力が衰えようが、つねに自分とは違うもの、自分を超えるものに向けて開かれている。そうやって自分の中に滔々と流れ込んでくるものを受け止めて、それを次の世代に流していく」(『下流志向』)。これが、師が師である姿であるとすれば、親鸞聖人のお姿こそ、私にとっての師であると思います。「師を持つ」ということは、言い換えれば「学ぶ姿にある」と言えると思います。一生超えることのできないものがあるからこそ、人は学び、そして謙虚であることができます。しかし学びを止めた途端、一端極めたものも、それはそれまでであるということでしょう。そこには謙虚さもなくなり、傲慢になります。親鸞聖人が88歳の時に書かれたお手紙には、「故法然聖人は、『浄土宗の人は愚者になりて往生す』と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに...」と、本師・法然聖人のおことばを引かれて、愚者としての目覚めと、「信心の定まらぬ人は正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる人なり」と、信心の大切さを述べておられます。ご自身もお年を重ねられて、すでに、80歳で往生された法然聖人のお年をも超えられてもなお、どこまでも師を師として仰ぎ続けられる親鸞聖人です。だからこそ、師の示された教えをより深く、より広く領解されたのでしょう。そしてアミダ仏の願いとはたらき、その「源」であるお浄土に向き開かれたお姿で、私たちに語り、伝えてくださるのだと思います。「♪師主知識の恩徳も ほねをくだきても〜」と、お気楽に「恩徳讃」を歌っている自身の姿に恥じ入ると同時に、親鸞聖人のご生涯から「生涯聞法」の大切さを改めて教えられる、尊いご縁でもありました。 
 

 

■前(まえ)に生まれた人
花びらは散っても・・・
新緑の季節を迎え、お寺の境内の木々も、とてもきれいな緑色となりました。私が暮らす富山県は、冬になると雪が多く降ります。そして、木々の葉も枯れ落ちてしまいます。しかし、不思議なことに春になると必ず新しい葉が芽吹いてきます。最近、そんなことをよく考えるようになりました。というのも、私にお念仏の尊さを伝えてくれた母方の祖母が昨年秋、お浄土へ往生させていただいたからです。あれからもう半年が過ぎました。祖母は、母の実家のお寺の坊守として、96歳の長寿を全うしました。幼い頃から本当によく私をかわいがってくれた祖母でした。高校生の頃は、ちょうど通学路がお寺の近くで、帰り道にはしょっちゅう寄っていました。祖母は、私と話している時も、台所に立っている時でも、いつも「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」と、お念仏がこぼれていました。そして、「お念仏を大切にな・・・」「み教えをしっかりと聞いてゆくんだよ・・・」と私に話していました。
「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛)
祖母は身をもって、この世の無常を私に示してくれました。それは同時に、仏さまとなった祖母が、これからもお浄土からこの私を、お念仏とともに、さとりの世界へと導いてくれることでもありました。
「花びらは散っても、花は散らない」(金子大栄)
たとえ木々の葉が枯れ落ちても、新たな葉が芽吹くように、仏法という大地に根を下ろした人は、その命亡き後も、残された有縁の者を導いてくださいます。
親鸞聖人は、ご和讃に
南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量(じっぽうむりょう)の諸仏(しょぶつ)は 百重千重囲繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して よろこびまもりたまふなり ・・・と詠(うた)われました。
今生(こんじょう)で祖母と会うことはもうありません。しかし、私が南無阿弥陀仏とお念仏する時、仏さまとなった祖母が寄り添ってくれているんだと感じます。
連続して途切れなく
世間一般では、亡き方に対して「供養」という言葉をよく使います。これは、ご先祖のたましいをなぐさめることのように使われていますが、仏教本来の意味ではありません。供養とは「供(そな)え養(やしな)う」と書きます。「供給資養(くきゅうしよう)」の意味だそうです。仏さまに対して、お敬いのこころで、お香やお花、お灯明(とうみょう)、飲食物などをささげることをいいます。つまり、亡き方がなぐさめてほしい、物を供えてほしいと願われているのではなく、残された私たちが仏さまを敬い、仏さまとなられた亡き方を偲んで、こころからお供えさせていただくのが「供養」なのです。しかも、「供えている」側であるはずのこの私が、実はお供えすることを通して、仏さまをお敬いするこころを「養われ」ているのです。この私が、亡くなられた方をなぐさめるのではなく、亡き方の生前のご恩、これからのお導きに対して感謝し、お敬いのこころで供養させていただくのです。それだけではありません。ご本尊に礼拝(らいはい)し、み教えが説かれた聖典を拝読し、仏さまとなられた亡き方を偲び「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」とお敬いのこころでお讃(たた)えすることも、大切な「供養」なのです。
親鸞聖人は、主著である『教行信証』の一番最後のところに、「前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ、連続無窮(むぐう)にして、願はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。無辺(むへん)の生死海(しょうじかい)を尽(つく)さんがためのゆゑなり」とお示しになりました。前に生まれたものは、後のものをお念仏の道へと導き、後から生まれたものは、前に生まれた方にみ教えを尋ねていき、連続して途切れないようにしましょう。なぜならば、数限りない迷いの人々が一人残らず救われるためです、と親鸞聖人はおっしゃっています。美しい緑の木々を眺めるたび、聖人のお言葉が心にしみる今日この頃です。

■友人としての姿
ただ聞いてほしい・・・
「友人」。どのような人を指すのでしょうか。広い意味から狭い意味まで、さまざまな形があるでしょうが、一つ考えさせられた出来事があります。先日、友人のYさんから相談したいと連絡があり、一緒に飲みに行くことになりました。すると、Yさんには付き合っていた恋人がいたのですが、別れたというのです。私はYさんがその恋人と結婚するだろうと思っていたので、非常に驚き、かける言葉が出てきませんでした。かろうじてできたのが、Yさんの言葉に対して「そうなんや、そっか〜」と、うなずくことだけでした。その後も、Yさんは、別れた経緯について自身の感情を交えて話していましたが、しばらくしゃべり続けた後、落ち着いたのか少し沈黙が続きました。そこで私が少し慰めるつもりで、「でも、切り替えて新しい恋にいったらいいと思う」と言うと、私の思いとは逆に、Yさんの顔つきが変わったのです。その後もいろいろ話してはくれますが、何か不満そうな顔つきをしています。それから一時間くらいで別れたのですが、その後もずっとYさんの態度が気になり、Yさんがどのような心情であったかをいろいろと考えてみました。すると、もしかしてYさんは私に相談したいと言いながらも、私の意見がほしいと思っていたのではなく、ただ自分の話を聞いてほしかったのではないか、と思うようになりました。私は相談にのってほしいと言われ、相手に頼られていると思い、何かアドバイスする必要があると考えていたのです。頼りにされれば「何か言ってやらなくてはならない」と、相手が気付かないことや納得しそうなことなどを頭の中でたくさん考えて、相手の役に立たなければならないと必死になっていたのだと思います。しかし、Yさんにとっては、ただ自分の思いの丈(たけ)や感情を発散したかっただけ、もしくは誰かに認めてほしかっただけなのかもしれません。いや、きっとそうであったでしょう。もし私がYさんの言葉に素直に耳を傾けて聞くことができていたなら、Yさんは自身が打ち明けた怒りや悲しみなどの感情を共有してくれているという気持ちになり、安堵の表情を見せたのではないかと思うのです。私は、そのYさんの態度から、相手の思いをそのまま受け入れていくことは大切であり、「無条件に相手を受け入れる」という「友人」としての姿に気付かされたのでした。
大いなる慈悲
人は誰かに助言を求められた時、自分の経験や考えをもってアドバイスしようとします。その思いは相手の気持ちに完全に応えることができるわけではありません。その相手が自身のことを認めてほしいと思っていたとしても、それを完全に受けとめることができず、それどころかアドバイスを強要することすらあるのです。親鸞聖人が「小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて」とおっしゃるように、私たちはそのような小さな慈悲さえも持ちえないのかもしれません。
『仏説観無量寿経』には、
仏心(ぶっしん)とは大慈悲(だいじひ)これなり。無縁(むえん)の慈(じ)をもつてもろもろの衆生(しゅじょう)を摂(せっ)したまふ ・・・との言葉があります。
阿弥陀さまの慈悲とは、大いなる慈悲です。「慈悲」は抜苦与楽(ばっくよらく)ともいわれ、仏・菩薩が私たちの苦しみをとりのぞき、楽を与えることだと示されています。阿弥陀さまは大いなる慈悲で常に私たちをみておられ、「ありのままでいいんだよ」とすべてを認めてくださっています。喜びや悲しみをそのまま受けとめてくださるのが阿弥陀さまなのです。今思うと、私が発した言葉の内容くらいのことならYさん自身もわかっていたはずであり、Yさんの感情を共有しようとしなかったことを反省しています。どこまでも自分のはからいをもってしか相手の気持ちを汲(く)めない私であることを、阿弥陀さまに見抜かれて、自分の姿を省みる良い縁をいただきました。

■最後のお弁当
私は自称シンガーソングボンサンとして、自作の歌や替え歌をギター弾き語りで法話に挟み、み教えを味わい伝えています。その中で毎年、梅雨の時期になると思い出す悲しい出来事と歌があります・・・。
忘れられない歌
西井真菜実ちゃんは、じょうせん保育園に通うとっても明るくかわいい女の子でした。5歳の誕生日が過ぎてすぐの暑い暑い6月最後の土曜日の午後。当時は、まだ学校週休二日制実施前のことです。お昼すぎに保育園からおうちに帰った真菜実ちゃん、お昼ごはんもそこそこに「行ってきまーす!」と仲の良いお友達と遊びに出かけました。梅雨の合い間の快晴の午後、気の早いセミの鳴き声が響く中、田植えが終わったばかりの田んぼの中のあぜ道をお友達と走りまわっている姿が、近所の人たちの見た最後の真菜実ちゃんの元気な姿でした。その日の夕方、近くの小さな公園にあるブランコから落ちて頭を打ち、意識不明になってしまったのです。救急車で病院に運び込まれ、すぐさま手術を受けましたが、すでに脳死状態でした。病室のベッドに寝かされた真菜実ちゃんの姿は、人口呼吸器から伸びた透明パイプが口に固定されている姿が痛々しく、また規則的に「プシュー・・・プシュー・・・」というポンプ音に合わせた胸の動きが不自然なほかは、体温や皮膚の色も普段のまま・・・閉じた目も少し涙で濡れていて、とてもすでに死亡しているとは思えませんでした。わが子の額(ひたい)を撫(な)でながら「痛かったら我慢しなくていいよ。いつもは頑張り屋さんの真菜実だけど・・・今日は泣いてもいいんよ」というお母さんの呼びかけに、今にも甘え声で泣き出しそうな・・・まさに眠っているような姿でした。家族中つきっきりの看病の末4日目の夕方、とうとう人口呼吸器が外され、お別れの時がきました。次の日にお通夜、その次の日がお葬式でした。親類、縁者、村中の人々や保育園のお友達・家族など、数百人の見送りの中で読経が終わり、やがて火葬場へ出棺。子ども用の棺(ひつぎ)は切ないほどの小ささでした。
1.ここは御浄土(みくに)を何億土(なんおくど) 離れて遠き苦の浮(う)き世(よ)
 わずか5歳の娘でも 無常(むじょう)の風にさらわれる
2.思えば悲し今しがた 元気に遊びに出たものを
 事故の知らせに駆けつけば 泣き叫びさえしてくれぬ
3.これが我が子の見納めと 夜どおし眠らず4日間
 どうか夢であってくれ 誰か嘘(うそ)だと言ってくれ
4.かわいい着物に薄化粧 帽子におもちゃにお人形
 最後のお弁当持たせつつ この母さんを忘るるな
5.あきらめきれぬ別れでも また会う浄土(くに)があると聞く
 静かに名号称(みょうごうとな)えれば 浮かんできますあの姿
 聞こえてきますあの声が 聞こえてきます・・・ あの声が・・・
そのお弁当のおにぎりは、真菜実ちゃんが見て喜ぶように大好きなドラえもんの顔になっていました。大きさは真菜実ちゃんがちょうど食べやすい大きさです。味は真菜実ちゃんが一番好きな味つけです。親でないと作ることができない、わが子だけのためのおにぎりでした。南無阿弥陀仏とは、この「私」が仰ぐご本尊として、また称えやすいお念仏として、そして心で味わえるご信心として表れてくださり・・・悲しいくらい、お前がかわいいよ・いとしいよ・大切だよ・・・とのお慈悲のおにぎりであると、私は味わわせていただきました。今年も、まもなく命日です。
満中陰に寄贈された玄関ゲートに「平成二年六月二十七日 寄贈 西井真菜実」とお名前を入れました。今日もそれをくぐり登降園するかわいい園児たちを見守ってくれています。

■いのちの輝き
日本産か中国産か?
今年の春は、野生放鳥されたトキ(朱鷺)の卵からヒナが誕生したというニュースがありました。「ニッポニア・ニッポン」という学名を持つトキ。19世紀までは東アジアに広く生息し、よく見かける鳥だったようですが、20世紀には乱獲や開発による環境変化によって激減したようです。日本の自然界で絶滅状態に陥る中、佐渡にあるトキ保護センターで少しずつヒナの数を増やし、数年前からは野生復帰をめざして放鳥を重ねてきました。4月22日には、野生下でのヒナの誕生が確認され、5月下旬には7羽のヒナが順調に巣立ちを始めました。私はこのニュースを聞きながら、十数年前の出来事を思い出しました。それは、蓮如上人500回遠忌法要が本山で厳修された翌年、1999年春のことです。既にこの時点で、日本における野生のトキは0羽、トキ保護センターでも1羽のみとなっており、日本のトキによる人工ふ化は不可能となっていました。そのため、中国からトキのペアを譲り受けて、このペアによる人工繁殖がトキ保護センターで行われていました。そして、この年の5月21日に、1羽のヒナが誕生したのです。このニュースは日本中を駆け巡りました。ところがヒナの誕生が一つの論争を生み出したのでした。それは「このヒナは日本のトキか?中国のトキか?」というものです。「両親は日本へ贈呈されたものだし、佐渡で生まれたのだから日本のトキだ。日本のトキ絶滅は避けられたのだ!」 という意見と、「たとえ佐渡で生まれようと、もともと両親とも中国産のトキなんだから、生まれたトキも中国のトキだ。日本のトキはもう絶滅するのだ!」 という意見の対立です。
私自身は後者の意見に賛同していたので、ヒナ誕生のニュースが流れても醒(さ)めた目で見ていました。そんな時、長年トキの保護に尽力されていた方が、この論争についてインタビューに答えておられるのを見ました。「トキには日本も中国もありません。国境は人間が作ったものです。人間によって絶滅の危機に追い込まれたトキの"新たないのちの誕生"を、どうして素直に喜べないのですか・・・」 このコメントを聞いて、とても自分が恥ずかしくなりました。トキの"新たないのちの誕生"を見ているつもりだったのですが、結局は日本か、中国か、ということに執着している自分自身の姿が照らし出されたのでした。
決して見捨てない
浄土真宗は、阿弥陀如来のはたらきによって救われると説きます。そのはたらきは光となって届くと示されています。いつでもどこでも、決して私を見捨てず、護り育ててくださる光です。それだけではありません。光には、私の本当の姿を照らし出すというはたらきもあります。阿弥陀如来の光は、自ら認めたくないほどの、情けなく恥ずかしい私の姿を知らしめながらも、その私を決して見捨てないというはたらきです。そのはたらきが依りどころとなり、私の歩むべき方向を示してくださるのです。私は、「新たないのちの誕生をどうして素直に喜べないのですか」というコメントによって、いのちの価値を自分の都合でしか見ていなかった己(おのれ)の姿を知らされました。このコメントは、私にとって阿弥陀如来のはたらきのようにも思えます。阿弥陀如来は、私の自己中心性を知らしめた上で「仕方ないよね。いいよいいよ」と甘やかす仏さまではありません。でも、「もう、おまえはダメだ」と切り捨てる仏さまでもないのです。阿弥陀如来は「おまえのことがほっとけないんだ」と、私とずっと一緒にいてくださる仏さまです。あれから10年以上経ちましたが、トキのニュースを聞くたびに、わが身を振り返らされています。ついつい自分勝手な価値観でいのちを見ている私に、「本当のいのちの輝き」を教えてくれるのです。

■大いなる灯火
あんたどこにおる?
昨年の春に九州新幹線が全線開通し、実家の近くにも新幹線の駅ができました。以前は、京都から九州方面の新幹線に乗ると終点は博多駅でした。そこから在来線に乗り換えてしばらくすると、だんだんと緑が増え、見慣れた故郷の景色が広がってきます。新幹線の駅ができたことで、時間の短縮にはなりましたが、まだなかなか慣れません。その新幹線の駅で初めて降りた時のことです。私の実家は、田園に囲まれた地域にあって、今の季節は虫の声がよく響く、のどかな場所にあります。そんな地域にできた新幹線の駅ですから、初めて降りた時は、そこだけ異空間のようでした。天井が目映(まばゆ)いばかりにピッカピカで、「すごいのができたなあ」と感心しながら改札を抜けました。しかし、一歩駅を出ると辺りは真っ暗でした。母と出口で落ち合うことになっていましたが、姿が見あたりません。反対側かと思い、そちらへ行ってみると、そこにも見あたりません。すぐ近くに在来線の駅があり、そっちだったかもしれないと思い、さらに行ってみましたが、やはり姿はありません。ウロウロとして最初に出た所まで戻ってきてしまいました。よく考えたら具体的な場所を決めていなかったのです。慣れた駅ならば、どこの出口ということは言わなくても暗黙の了解でわかるものですが、初めて降りた駅です。実家から車で10分ぐらいの場所にあり、私は妙に慣れたつもりでいたのですが、向かうべき実家がどの方向にあって、駅のどの出口から出ればそちらに近いのか知らなかったのです。その時です。携帯電話が鳴りました。母からです。「あんたどこにおるとね?」 「どこって・・・」 遠くに明かりは見えますが、あたりは真っ暗で、東西南北を判断するような目印は見つかりません。「駅の表ね? 裏ね?」 「表か裏かわからん・・・」 自分がどの方向を向いて立っているのかわからないのですから、表も裏もあったものではありません。「何が見えるね?」 「広い駐車場・・・」 「わかった。そしたらそこまで行くけん。そのままそこにおりんしゃい」 電話を切って間もなく、真っ暗な景色の中に母の車のライトが見えました。母の話を聞いて車に乗って、はじめて私がどちらを向いていたのかがわかりました。
迷いに気付かない私
仏教では、私自身のあり方を「迷い」と言います。それは、私が苦悩の解決のために歩むべき方向を知らず、知らない私であることさえも気付いていない、煩悩をそなえた存在であるからです。阿弥陀如来という仏さまは、そのような私であることを知って、放(ほう)ってはおけず、必ず救うと願われた仏さまです。親鸞聖人は、阿弥陀さまのことを光の仏さまであると、そのご著作のさまざまなところでおっしゃっています。
『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』には、
無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ ・・・と、阿弥陀さまの必ず救うと誓われたご本願を、絶えることのない大きな灯火に譬(たと)えられています。
夜の闇の中にある大いなる灯火のように、迷いながらの人生にも、この私を照らす光があるのです。親鸞聖人は、迷いを打ち破る眼(まなこ)がないからといって悲しむことはない、とお示しになられています。それは、ほかならぬ阿弥陀さまがおられるからです。進むべき方向も知らずにウロウロと迷い、自分の居所がどこなのかもわかっていない私であることを知って、「そこまで行くけん。そのままそこにおりんしゃい」と言ってくれた母のように、阿弥陀さまはこの私のもとに南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって喚(よ)びかけ、至り届いてくださっています。そして、この私をお浄土へ迎えとり、仏とならせてくださるのです。

■亡き友を縁として
アメフトの練習中に
毎日毎日、暑い日が続いています。8月といえば、お盆を思い浮かべられることでしょう。私には、お盆になると必ず思い出すことがあります。それは亡き友のことです。私は学生の頃、とある大学のアメリカンフットボール部に所属し、日本一を目指して仲間たちと日夜励んでいました。学生アメフトは9月初旬からはじまる秋のシーズンが本番で、わが部では毎年8月のお盆の頃に1週間ほど合宿し、集中して練習を重ねるのです。最終学年の4年生になると、最後のシーズンですから、自ずとより一層気合いが入り、練習の強度も増すことになる、というのは想像に難くないかと思います。私が4年生の夏合宿最終日、最後の追い込み練習を終えた時、一人の選手が倒れて意識を失ってしまいました。彼は私の同期で、当時の学生アメフト界において名の知られた優れたプレーヤーでした。すぐに救急車の手配をしましたが、山の上の合宿所ですから、到着までかなりの時間を要しました。やっとの思いで搬送されましたが、みんな気が気ではありません。最終日ですので次の団体のために合宿所を明け渡さなくてはなりませんから、それぞれ不安な思いを抱えながら私たちは帰路につくこととなりました。
危うい存在の私を
帰りの貸切バスの中、逐一、彼の容体が伝えられますが、芳しいものではありません。そして伝えられたのです。彼が亡くなったと。何とも言えない重たい空気が車内を支配しました。その時に、私のこころにふっと浮かんできたのは、「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おほよそはかなきものはこの世(よ)の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり・・・されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身(み)なり・・・」という蓮如上人の「白骨の御文章」の言葉でした。それまでも祖父や曾祖母の死は経験していましたが、まざまざと、「無常」ということを、「生まれたからには必ず死なねばならん。それは年寄りだろうが若かろうが関係ない、いつでも死ぬのだ」ということを、突きつけられ思い知らされたのはまさにこの時でした。と同時に、「あのとき練習をやめさせていれば・・・。自分がアイツを殺してしまったのではないのか・・・」と、助けられなかった後悔と自責の念を抱きました。この思いは拭(ぬぐ)っても拭いきれません。おそらくこの先もずっと持ち続けていくものと思います。ともかく、この出来事が、浄土真宗のみ教えを聞いていく一つの縁となったことは間違いありません。このようなことですから、「やっぱり自分は救われてはいけないのではないか。相応の罰を受けるべきではないのだろうか」と思うこともあります。しかしその反面、例えば自分の気にくわないものに出あうと、「早くいなくなってほしい」と思って恥じもしないこともあるのです。まさに私というものは、何を考え、何をしでかすかわからない危ない存在です。けれども、阿弥陀さまはそんな私のことなど百もご承知で、「必ず救う、われにまかせよ」と喚(よ)び続けてくださる。本当にもったいないことだと思います。
親鸞聖人は『浄土和讃』に、
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世(ごじょくあくせ)にかへりては 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて 利益衆生(りやくしゅじょう)はきはもなし ・・・と詠(よ)まれています。
阿弥陀さまのご本願のはたらきによって、お浄土に往生し仏さまと成らせていただいたものは、大いなる慈悲のこころをおこし、再びこの迷いの世界に還(かえ)り来て、迷いのなかで苦しむ一切の生きとし生けるものを自在に救うはたらきをしていく。この還相(げんそう)ということは、私の「人生の目標」として大変大事なことです。これも浄土真宗のみ教えの素晴らしいところであり、私の大きな支えとなっているように感じます。また気持ちを新たにして、み教えを聞き続けていきたいと思います。

■いのちは誰のもの
本人でも私物化ダメ
昨年11月21日、落語家の立川談志さんが亡くなりました。75歳。「最後の名人」「100年にひとりの天才」などと、談志さんの名声は死後ますます高まりました。その凄(すご)さが多方面から語られているため、生前は談志さんの落語に興味がなかったけれども、あらためて聴いてみたいと思った人が少なくないようです。そのために死後続々と新たにDVDやCDが発売され、よく売れているようです。ある人が、談志さんのお弟子さんにこう聞いたそうです。「いろいろ発売されているので、どれを聴いたらいいかわかりません。これが談志のおもしろさだ、これを聴けば談志の凄さがわかると言えるような噺(はなし)をひとつ推薦してください」 それに対するお弟子さんの答えはこうでした。「それなら、志の輔の落語を生で聴いてください」 そのお弟子さんの言いたいことはこうです。談志の落語の凄さやおもしろさは生で聴いて初めてわかるもの。いや、談志に限らず落語というのはそういうもの。たしかにDVDやCDで落語を聴くのもいいが、それはもはや記録でしかない。でも、談志の生きた落語は、志の輔に、志らくに、談春に、談笑に、その他の弟子の落語の中に確実に生きている。その弟子たちが今、高座にあがっている。だから、談志の落語を今聴きたかったら、その弟子の落語を生で聴いてほしい。そこに必ず談志は生きている、と(コラムニスト・堀井憲一郎氏の発言より)。このお弟子さんのことばを私は、とても仏教的いのち観に重なるなあと受け止めました。談志さんの落語は、談志個人が私物化できるものではなく、弟子たちと共有されていたのでしょう。ここでの「落語」を私は「いのち」と読み替えます。談志さんのいのちは記録や思い出の中にではなく、弟子のいのちの中にあります。談志さんのいのちは弟子をはじめとする多くの方々が共有しているのです。
落語は人間の業の肯定
「君のいのちは誰のもの?」と問われたらどうお答えになりますか。「ぼくのいのちはぼくのもの」 小学生でなくてもほとんどの人がそう答えるでしょう。でも仏教的にこの問いに答えるなら、「誰のものでもありません」。仏教から見たいのちは、その身ひとつの中に小さく収まっているものではなく、縁にしたがって大きくひろがり大きくつながり大きくはたらいているものです。到底私物化できるものではないのです。それを私物化できる、と疑わなくなってしまったところから、社会の分断化と人の孤立化が始まったと考えるのは、大げさではないと思います。「落語とは人間の業の肯定である」。談志さんが弱冠28歳にして著した『現代落語論』にあるこのことば以上に、落語を一言で表わしたことばを知りません。ろくでもない人間のろくでもなさを、どうしようもねえなあとひっぱたきながら抱き取る。「肯定」と言ってしまうと開き直りのようですがそうではなく、みっともなくしか生きられない人間への静かなまなざしがここにあります。そこに私はどうしても親鸞聖人のまなざしを重ねてしまいます。「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」。条件と環境によっては、どんなにしないでおこうと思っても悪いことをしかねない、あるいは思いがけずも良いことをしかねない我(わ)が身であると表白(ひょうびゃく)し、賢(さか)しらに厭(いと)うことなく隠すことなく、そんな我が身であったと肯(うなず)いていった親鸞聖人のことばが、先の談志さんのことばに重なります。談志さんは宗教嫌いと自称し、最期まで破天荒な発言を続けていました。しかし、その言葉とは裏腹に、芸や生き方から弟子たちや観客へ宗教的な深みを湛えたものを伝えていたように思えてなりません。談志さんの公式ウェブサイトは今も開設中です。タイトルはなんと「地球も最後ナムアミダブツ」。

■仏さまはみてござる
生涯の座右の銘に
親鸞聖人は、「正信偈」に、
煩悩(ぼんのう)、眼(まなこ)を障(さ)へて見(み)たてまつらずといへども、大悲(だいひ)、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照(て)らしたまふといへり ・・・と述べられ、絶え間なく照らす如来大悲のはたらきを讃(たた)えられています。
どんな苦悩の日々にあっても、如来さまと共に歩む人生は、まことに力強い人生です。著名な布教使であった愛知県の宮部円成(みやべえんじょう)氏は「みてござる」を生涯の座右の銘にされたのでした。「誰も見ていなくても、仏さまが見ておいでだ!」 いかなる場面でも、「無倦(むけん)の大悲」のはたらきをわが身に感じる生き方は、時として、厳しい誡(いまし)めを与えてくださいます。私たちの日常生活では、「相手」や「周囲の人々」、さらには「世間」の視線を敏感に意識することが、極めて多いです。「こんなことをしたら、あの人にどう思われるだろうか?」 「ああ言ったけど、世間の不評をかいはしないだろうか?」 これが、私たちの善悪判断の基準の一つになっています。その一方で、人間の理解や思考の世界を超えた「大悲の光」を身近に感じている人が、はたしてどれほどいらっしゃるでしょうか。「よいこと」をした時は「一人でも多くの人に知ってもらいたい」と願い、「悪いこと」は、どこまでも隠したい私たち。しかし、如来さまは常に「みてござる」のです。
そうせざるを得ない?
「ご講師さん。明日、和上(わじょう)さまのお墓にお参りしんさるか?」 一昨年、島根のあるお寺へ布教のご縁をいただき、初日の法座が終わって玄関を出た時、一人の年配の男性が、石見(いわみ)弁で遠慮がちに声をかけられました。「和上さま」とは、明治時代の服部範嶺勧学(はっとりはんれいかんがく)のことで、私の寺の四代前の住職と縁があり、たいそうお世話になったと聞いていました。その日、偶然にも服部和上がそのお寺のご門徒の出身であると伺(うかが)い、ご法話の中で感謝の思いの一端を述べさせていただいたのでした。もちろん、ぜひお参りしたい気持ちでいっぱいでしたが、布教先での勝手な行動はご迷惑だとの心配が一瞬胸をよぎり、「もしお座の前に時間があれば・・・」と、中途半端な返事でお茶をにごしてお寺を後にしました。幸い翌日は、早目にお寺に到着できました。すると昨日のお同行(どうぎょう)が、駐車場の一番出やすい場所に車を置いて、私を待っていてくださったのです。お寺の裏山のつづら折れの急坂を登りつめた林道の終点に車をとめ、「ここからは少し山道を歩いてもらわにゃ」という案内に促され車を降り前を見た時、一瞬わが目を疑いました。雑草が生い茂っていたであろう数十メートルほどの墓地への参道が、きれいに除草されているではありませんか。このお同行は、おそらく何時間もかけて、あやふやな返事しかしていない私のために草刈りをされたのです。もし万が一、その日の時間の都合で墓参ができなかったとしたら、大変な努力は徒労に終わってしまうのに・・・。
いや、それはちがう!たぶんお同行は、私に見せたくて掃除をされたのではない。私が行こうと行くまいと、それ自体この方にとってさして重要な意味を持たなかったのでしょう。それよりも、この方を突き動かしたのは、服部和上への報恩の思いであり、さらに常に我を照らしたもう如来の大悲を身に受けて「そうせざるを得ない」ご催促に出あわれていたからではないでしょうか。「これは、何ともったいない」 精いっぱいの感謝のことばを探している私に対し、「なあに、朝露はすべりますけーな。気ぃつけちゃんさい」 それ以上は何も話されず、ただ「ナンマンダブツ・・・」と念仏を称えながら、飄々(ひょうひょう)と坂道を登っていくお同行の後ろ姿にそっと手を合わせ、私も共に称名念仏させていただくばかりでした。石見の地は、まさにお念仏の「土徳」篤(あつ)きところでした。「大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふ」と、いかなる厳しいご縁に出あっても、いつも如来さまが「みてござる」とお念仏もろとも、強く明るく日々を生き抜きたいと思います。

■大悲の絆の中で
宗派をこえて聴聞
8月に、四国の自坊に帰省しました。京都での生活がとても多忙で、なかなか時間が取れなかったのですが、小学校1年と幼稚園の子どもたちが、リュックサックに宿題や着替えを詰め込んで、「早く帰ろう」と急(せ)かすものですから、渋々(しぶしぶ)応じた感じでした。お寺に着いて玄関の戸を開けると、懐かしい家の匂いがして、帰ってきたという安堵(あんど)感が湧きました。子どもたちは、早速、自分の玩具箱を持ち出し部屋中に広げたり、おばあちゃんのお手伝いをするといって、本堂の掃除の手伝いに真剣でした。そして水を得た魚のように、蝉しぐれの境内を走り回り、クモがいると大声を上げ、ムカデがいると血相を変えて報告にきたりで、すっかりわんぱく小僧に戻っていました。自坊では、夏季に4日間、お盆行事として、朝6時から仏典講座が開かれています。『法句(ほっく)経』のパーリ語の原典と、漢文・英語・日本語の諸訳とを読み比べて、お釈迦さまの教えを味わうのです。参加者の中に、英語、漢文に堪能な方々がおられるので、それぞれ分担して味読し合います。宗派や門徒の別を問わない30人程のグループという雰囲気です。それでも30年以上続いています。まず「礼讃文(らいさんもん)」を唱和して始まりますが、皆お念仏・礼拝しているのは、ご本尊の阿弥陀さまからのおよび声があるからでしょう。仏法は毛穴から入るものだとつくづく思います。
お彼岸に想う
お盆も終わり、9月はお彼岸。曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花の色を見るにつけても、お浄土に想(おも)いを馳せる時節です。『仏説無量寿経』には、お釈迦さまが「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)、いますでに成仏(じょうぶつ)して、現に西方(さいほう)にまします。ここを去ること十万億刹(じゅうまんおくせつ)なり。その仏の世界をば名づけて安楽(あんらく)といふ」と弟子の阿難(あなん)に説法され、その世界は果てしなく広々として大きく限りがないことを、言葉を尽くして説明しておられます。なぜ西方か、ということについて、唐(とう)の道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、東は生の始め、西は死の終わりを表し、心の落ち着くところとして西方を選んでいると説明され、善導大師(ぜんどうだいし)は西方を指し示して、煩悩のために心が乱れて安定しない凡人に、正念(しょうねん)を得させるためであるとお示しくださっています。思いますに、西方は太陽もお月さまも等しく目指す方角であって、懐かしく大恩ある両親や祖父母がまします世界であり、この私もやがて往(ゆ)き生まれる世界でもあります。したがって、私どもの生の依るところ、死の帰するところ、それが阿弥陀さまの西方浄土、さとりの世界と領解(りょうげ)いたします。
大悲の絆
九州の友達から「いのちの絆(きずな)を思う」という法話レターが届きました。絆とは、絆創膏(ばんそうこう)の「絆」ですから、「つなぎとめるもの」の意です。また、人間関係に用いるときは、人と人との断つことのできないつながりの事実、離れがたい結びつきを指します。英語で言えば「ボンド」です。
「正信偈(しょうしんげ)」をおつとめするとき、ご和讃の第一首目に、
弥陀成仏(みだじょうぶつ)のこのかたは いまに十劫(じっこう)をへたまへり ・・・とありますが、私たちは、すでに十劫の昔から阿弥陀さまの大悲の絆に結ばれていたということに気付かされます。同時に、日々の生活は、報恩感謝の姿勢であるべきですが、散乱にして放逸(ほういつ)の生きざまに明け暮れていることを恥ずかしく思うばかりです。
私どもの暮らしの行事の中に、春秋のお彼岸や、お盆、あるいは報恩講があるのは、阿弥陀さまの大悲の絆を偲ばせていただく、気付きの機会でもあると思うのです。千載一遇(せんざいいちぐう)の大悲の絆に気付かせていただき、二度とないこの人生を深く顧みて、生かされて生きる今後に思いを馳せるべきでありましょう。『法句経』182偈をいただいて結びといたします。「人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい」

■ともに会える世界
極楽は無量光明土
お彼岸の季節です。彼岸とは「彼(か)の岸」、すなわち「さとりの世界」を表し、いのちの向かうべき方向を示しています。ところが、お葬式の弔辞や弔電を聞いていますと、いのちの行く末がさまざまな言葉で表現されています。「草葉の陰」はお墓のイメージでしょうか。「葬」の字は草の上に死体を載せてその上に草が生えるイメージと聞いたことがあります。「天国」は、仏教では六道輪廻(ろくどうりんね)の迷いの境涯。なかでも一番上の「非想非非想処天(ひそうひひそうしょてん)」の別名が「有頂天(うちょうてん)」で、あとは堕(お)ちるしかない世界とされています。「黄泉(こうせん)の客」の黄泉はヨミの国、亡くなったイザナミノミコトを追いかけて行ったものの、ウジがわき腐って醜い姿になっているのに驚いて、イザナギノミコトが一目散に逃げ帰って来た世界。ケガレを落とすために海水でミソギをしたことから、清め塩の風習が生まれたという説もあります。「ご冥福を祈ります」の冥福は、冥土(めいど)の幸福。冥土とは冥(くら)い世界、冥い世界の幸福ってどんな幸福なんだろうか、冥福の祈り方を知っている人はいるのだろうか、などなど考えれば考えるほど、一般的にはあまり良い世界には行けないことになっているのだと思います。そんな中で有り難いことに、私たち念仏者に示された阿弥陀如来の極楽浄土は「無量光明土」、光り輝くさとりの世界とされています。まことに願うべきは極楽浄土ですね。
会いたい夢でもいい
さて、数年前ですが、テレビの報道番組を見ていました。小学1年生の男の子が殺された事件からちょうど1年ということで、番組の中で事件の経緯が流され、リポーターが被害者のおばあさんのお宅を訪ねてマイクを向け、いろいろと尋ねています。その中でリポーターが「お孫さんの夢を見ますか」と尋ねました。するとおばあさんは「夢でもいいから、もう一度会いたい」と、消え入りそうな声で答えていました。「夢でもいいから、もう一度会いたい」 その言葉から、おばあさんの万感の思いが伝わってきました。このおばあさんは「孫の夢を見たい」と単純に言っているのではありません。「もう一度孫に会いたい」というやるせない思いが、「たとえ夢であっても、もう一度会いたい」という言葉になって表れているのだと思いました。お釈迦さまは私たちの現実を「一切皆苦(いっさいかいく)」と示し、さらにその苦の内容を生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の四苦、さらには愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)を加えた八苦に分類されました。孫を殺された祖母の苦しみは愛別離苦、どんなに愛しく思い、どれほど一緒にいようと思っていても別れていかなければならない苦しみそのものです。
子どもを亡くした親が「うちの子はどこへ行ってしまったんでしょう」と尋ねるとき、本当はどこへ行ったかが問題ではないのだろうと思います。「私も同じところへ行きたい」「どうしたら子どもと同じところへ行けるのか」が問題なのでしょう。先立って逝(い)った者と、今ここに生きている私が再び会えるのか、同じ世界に生まれることができるのかということが、私たちにとっての大問題なのです。阿弥陀さまは私たちの苦悩の現実を見抜かれて、あらゆる衆生をもらさず生まれさせることのできる世界として極楽浄土をご用意くださいました。「倶会一処(くえいっしょ)」――倶(とも)に一つの処(ところ)で会える世界として、お浄土の存在をお聞かせいただかなければ、私たちは安心して人生を歩んでいけないのではないでしょうか。お念仏のみ教えは、一生涯を精いっぱい生き抜いた一人のお方が、この世の命を終えるとともに、お浄土に生まれて仏さまとしての歩みを始められていると受け止めて、敬いの心でお見送りすればよいのだと教えてくださいます。見送る側の私もまた、故人と同じく阿弥陀さまのはたらきで浄土に生まれ仏になるべきいのちをいただく者として、自らの生き方を仏さまの教えに学びながら、残りの人生を精いっぱい歩ませていただきたいものです。 
 

 

■み光につつまれて
美しい夕日に想う
ある秋の日に、長男と一緒に買い物に行こうと自転車を走らせていました。すると、眼前にとてもきれいなあかね色の夕焼けが見えました。自宅の近くは高い建物が多く、あまり美しい夕焼けを見ることができませんが、自転車を走らせていたJRの線路沿いの道には、障害物がないので見えたのでした。「きれいな夕焼けだね」と息子と話をしながら、しばらく眺めていました。それから数日後、仕事を終えて帰途についたところ、ふっと西にある本願寺の方を望みますと、見事なあかね色の夕焼けが見えました。御堂(みどう)のはるか西の空が真っ赤に染まっているのですが、御堂がその中で浮かんでいるように見えたのです。「わー、まるで西方浄土だ」と感動しました。その時、きれいに見える夕焼けを西方浄土のすがたと重ね合わせていたのでした。しかしながら、そのあかね色の光は、毎日のように、この私を照らしていたはずなのですが、平素は、そのことに気をとめるわけでもなく、家の周りは高い建物が多いとか、日々の生活が忙しいとか言いながら、毎日を過ごしています。
親鸞聖人は『高僧和讃』に、
煩悩にまなこさへられて 摂取(せっしゅ)の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり ・・・と、阿弥陀さまのおはたらきを讃仰(さんごう)されています。
高い建物があるとか、日々の生活が忙しいからとか、ついつい自分以外のもののせいにしてしまう私ですが、阿弥陀さまはそういう私であっても、いやそういう私こそ、救いのめあてとして、はたらき続けてくださっています。
ひとりじゃない
金子みすゞさんは「さびしいとき」という詩をつくっておられます。
私がさびしいときに、よその人は知らないの。
私がさびしいときに、お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、仏さまはさびしいの。
私が苦しみ悲しみ寂しがっている時に、阿弥陀さまは私と同じく苦しみ悲しみ寂しがってくださっています。人生を歩んでいく中で、楽しくうれしい時もありますが、悲しいこと、苦しいことも必ずあります。そのような悲しい時や苦しい時に、「何で私だけがこんなつらいめにあわないといけないんだ」と思ってしまいますが、阿弥陀さまも私とともに悲しみ苦しんでくださっている、ということを、みすゞさんの詩からうかがうことができます。
親鸞聖人は『教行信証』に、
悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲(あいよく)の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑(めいわく)して、定聚(じょうじゅ)の数(かず)に入(い)ることを喜(よろこ)ばず、真証(しんしょう)の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥(は)づべし傷(いた)むべし ・・・と、ご自身のことを述懐されています。
自己中心にしかモノを見ることのできない私は、常に不平不満を言っています。幸せそうに見える他人を見てはうらやましいと感じ、つらいことがあれば「何で私だけがこんなつらいめにあわないといけないんだ」と言っては、心に高いカベを作りふさぎこんでしまいます。しかも、阿弥陀さまがいらっしゃることを有り難いとも思えない心を持っているのです。しかしながら、このような心の持ち主の私を、阿弥陀さまは救いのめあてとしてくださっているのです。そのことさえ喜べないこの私を「恥(は)づべし傷(いた)むべし」と親鸞聖人は仰せになっている、と私は味わわせていただいています。あかね色の夕日がすべてのものをつつみこむように、阿弥陀さまの大悲の光明は、この私を常に照らし、つつんでくださっています。たとえ、心に煩悩という高いカベを作りふさぎこんでいても、それをまるごとつつみこんで、阿弥陀さまは私と同じく悲しみ苦しんでくださっています。そこには人生の荒波を乗り越えていく大きな力が恵まれ、お浄土への道を歩ませていただくはたらきがとどいているのです。

■ただ除く
交番に連れて行く!
あらゆる人々をもらさずに、さとりの世界へ救うと誓われた阿弥陀さまのご本願。『仏説無量寿経』に説かれるこの本願文(もん)の末尾には、「唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」とあります。「ただ、五逆の罪をおかし、仏の教えを謗(そし)るものはその救いから除く」と但(ただ)し書きが添えられています。なぜ、あらゆる人々をもらさずに救うと誓いながら「唯除(ゆいじょ)」(ただのぞく)とあるのでしょうか。親鸞聖人は、これこそ阿弥陀さまの慈悲心のあらわれであると味わっていかれました。そのことを考えるとき、私は大川毅さんが書かれた「負(お)んぶ」というお話を思い出します。『私が四歳の夏だった。そのころ子どもたちの間でビー玉遊びが流行(はや)り、近くの駄菓子屋で売っていたビー玉が欲しくて仕方がなかった私は、父がやっていた日本橋の製氷問屋の店の手提(さ)げ金庫から、そっと小銭を盗んだところを父に見つかった。
「泥棒は交番に連れて行く!」 私の手から小銭を取り上げた父は、私を負んぶして店を出て、百メートルほど離れた街角にある交番のほうに歩いていった。小さな私は、いかめしい顔にちょび髭(ひげ)を生(は)やし、サーベルを下げた交番の中年巡査の顔を思い浮かべていた。「いやだよぉ、いやだよぉ!」 父の背中で私は必死に泣きわめいた。しかし父はそのまま交番の前に行った。すると交番の表にあの中年巡査が立っていた。「こ・・・怖いよう!」 私は懸命に父の背中に顔を隠した。「こんにちは、暑いですねぇ」 「そうですなぁ」 父と巡査の声が聞こえた。「坊や、お父さんに負んぶしてもらっていいなぁ」 という声に、私がハッと顔をあげると、巡査がにこっと私の顔をのぞいていた。その顔は予想に反してやさしい顔だった・・・』
抱き取られた私
「泥棒は交番に連れて行く」とわが子に罪を告げ、交番に向かうことを通してその罪の重さを知らせる父親。これは決して、罪を犯したわが子を憎み、その子を家族から除かんとしてする行為ではありません。罪を恐れて泣きわめく子ども以上に、父親はわが子が犯した罪に対して涙しているのです。心で涙を流しながら、わが子に心からの反省を願っているのです。阿弥陀さまの願いの世界もそうでした。「唯除」(ただのぞく)とは、凡夫と真剣に向き合ってくださる阿弥陀さまなればこその罪の宣告であり、改悔への願いだったのです。そして、「泥棒は交番に連れて行く」と罪を告げ、その罪に涙する父親が、わが子を負ぶって交番に向かう姿・・・・・・これはわが子を真剣に愛する父親の慈しみのあらわれそのものであり、父と子が宿す真実がここにあるのです。ですから巡査はただ「お父さんに負んぶしてもらっていいなぁ」とほほ笑むばかり。
親鸞聖人は「罪のおもきことをしめして、十方一切(じっぽういっさい)の衆生(しゅじょう)みなもれず往生(おうじょう)すべしとしらせんとなり」と示されています。私たち凡夫を罪悪深重(ざいあくじんじゅう)であると見抜ききった上で、必ず救うと誓われた阿弥陀さまなればこその「唯除」(ただのぞく)。ここには慈悲の親さまである阿弥陀さまと凡夫が宿す真実があるのです。自らの悪業(あくごう)煩悩を知り、阿弥陀さまの慈悲を味わうならば、私たちはただその阿弥陀さまの願いにおまかせするばかり。そして、これこそが「南無阿弥陀仏」であり、「私は阿弥陀さまに負んぶされ、抱きしめられている者でありました・・・」という驚きと安堵と歓喜のお念仏です。妙好人(みょうこうにん)の浅原才市(あさはらさいち)さんは、
なむあみだぶつに 抱きとられ とられて申す なむあみだぶつ ・・・と見事に歌いあげられました。
私たちの口からこぼれてくださる南無阿弥陀仏こそが、いつでも、どこでも、どんな時のあなたでも必ず抱きとりますという阿弥陀さまの慈悲の喚(よ)び声なのです。共々にお念仏を大切に味わっていきましょう。

■お慈悲のぬくもり
豆腐が好きだった?
先日、ご門徒のお宅へ法事でお参りした時のことです。その日は、亡くなられたお母さんの13回忌でした。おつとめや法話が終わり、仕出し屋さんから届けられたお斎(とき)を皆さんと一緒にいただいておりました。すると、そのお料理とは別に、ひと切れの豆腐が出てきました。お斎の際、このようなかたちで豆腐を出していただいたのは初めてでしたので、私は息子さんに、「亡くなられたお母さんは、お豆腐がお好きだったのですか」と尋ねました。すると息子さんは、「いや、そういうわけではないんですが、豆腐には母に関する特別な思い出があるんです・・・」とおっしゃりながら、次のようなお話をしてくださいました。息子さんとお母さんは二人暮らしで、息子さんがまだ小さい頃、学校から帰るといつもお母さんからお使いをたのまれていたそうです。そのお使いとは、近所の豆腐屋さんに置いてあった「おから」をもらってくるというものでした。息子さんはほぼ毎日、その豆腐屋さんにおからをもらいに行ったそうです。そんなある日、いつものようにおからをもらいに行くと、豆腐屋のご主人が「ぼくちゃん、いつもお使いご苦労さま。でもね、お母さんにたまには豆腐も買ってくださいと言っておいてね」と言われたそうです。そう言われた息子さんは、家に帰るとすぐにそのことをお母さんに伝えました。すると、それを聞いたお母さんは、そのまま静かに泣いていたそうです。お母さんは、子どもに思うように食べさせてやれないつらさに涙を流されたのでした。息子さんは、お母さんが亡くなって以後、折にふれてこのことを思い出しては、あの時お母さんはどんなにつらい思いをしたのだろうかと涙し、お母さんが日々畑で泥にまみれ、虫に刺されながらも、一生懸命自分を育ててくれたことに、言葉に尽くせないほど感謝しておられるそうです。
「死ぬ」でなく「往く」
そんなお母さんが生前、よく独り言のように言っておられた言葉があったそうです。「親さまは私を抱いて決して捨てることがない。それは親さまなればこそ、親さまなればこそ・・・」 私の地域は、昔から「安芸門徒」と呼ばれ、現在でも信仰の篤い方々が多くおられる土地柄で、特に年配の方は阿弥陀さまを「親さま」と呼んでおられます。こちらのお宅のお母さんも、お寺やお講でいつも熱心にお聴聞をしておられたそうです。そのお母さんが料理をする時も畑を耕す時も、「親さまなればこそ・・・、親さまなればこそ・・・」とつぶやいてはお念仏しておられた姿を、息子さんはいつも見ておられたといいます。現在、息子さんはお母さんがそうであったように、お聴聞のご縁を大切にされ、お念仏を味わう生活をしておられます。
親鸞聖人はご和讃に、
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる ・・・とお示しくださっています。
こちらのお宅のお母さんは、毎日一生懸命、畑を耕しながら、そして、時に子どもに思うように食べさせてやれないことに涙しながらも、自らを抱きとって決して捨てることなく大悲のまなざしをそそいでくださっている親さまの、そのお慈悲のぬくもりを感じ、お念仏を依りどころとして生きていかれたのでした。そのお母さんが亡くなられる前に最後におっしゃった言葉が、「お母ちゃんは死ぬんじゃないんで、往(ゆ)かせてもらうんで(お浄土にまいらせてもらうんだよ)」というものだったそうです。涙ながらに話をしてくださる息子さんと共に、ご法義の深い味わいの中に生きていかれたお母さんの姿を偲ばせていただきました。

■人から人へ・・・いま私に
前途に浄土あり
太陽と水、万物を育む大地・・・。そして、今、お念仏の日暮らしを恵まれていることのありがたさ・・・。加えて、成熟社会・超高齢化時代に生きる仕合わせを思います。中学時代の同級生Sさんのお母さんは、今年98歳。息子のSさんは福岡市内に居を構えていますので、週に一度は100キロ離れた故郷へ母親に会うために帰って来られます。茨城県に住む同級生のKさんのお母さんは94歳。そして、私の母が97歳になります。私たちは、そんな社会に生きているのです。古希(こき)(70歳)を過ぎてから、同窓会などで時折、「80歳までいのちがほしいものだ」などという話もします。そんな夏のある日、Sさん、Kさんと3人で本願寺のお朝事にお参りしました。その時、仏縁が熟したのでしょう。お二人は仏弟子として生き抜くことを尊前に誓う帰敬式(ききょうしき)(おかみそり)を受け、法名(ほうみょう)をいただかれました。そして、「このいのちがどこで終わっても、お浄土がある」との悦(よろこ)びを共にしました。お念仏の日暮らしは、み仏さまが私と共に生きてくださっているという、法悦(ほうえつ)の世界です。ですから浄土真宗の家庭では、人が亡くなることを「死」ではなく「往生」といいます。お浄土に生まれて仏となることを意味します。親鸞聖人がお勧めくださったみ教えは、世間でいう「死は人生の終わり」ではなく、お浄土(無量寿(むりょうじゅ)・無量光(むりょうこう)の世界)に生まれて仏になるという、阿弥陀如来さまのお救いのご法義です。そのことを「生死(しょうじ)を超える」ともいいます。「前途にお浄土あり」と、お念仏の大道を歩ませていただくのです。そのみ教えが人から人へと伝えられ、今、ここに私のお念仏の生活があるのです。
頼みもしないのに
この春にいただいた一通のお便りがあります。「春本番、ここ和歌山は桜が散り、毎日暖かくなりました。今日は、浄土真宗についてお伺いいたしたく、お手紙を出しました。先日、私の先祖のお骨が分骨されている京都の西大谷(大谷本廟)にお参りしました。私も定年から早9年が過ぎ、その時に、自分の死のことを考えました。私の家には、結婚の時に母がプレゼントしてくれたお仏壇があります。学生時代には、母に連れられて京都の本願寺にお参りし、その時に帰敬式を受け、法名もいただきました。その時にいただいたのは『釈泰然』という法名でした・・・」と綴(つづ)られていました。その方のお母さんは生前に、『み仏に抱かれて?お浄土へ』という小冊子に、「ご縁のつながるご一同さまへ」と題して、「愚かな母が念をこめて書き遺(のこ)す」という一文を遺言として記され、91歳で往生されました。その中に、
頼みも願いもせぬのに 私の生まれたのが人間だった。
頼みも願いもせぬのに 私の生まれた所が日本だった。
頼みも願いもせぬのに 私の住む所が田川(福岡)だった。
頼みも願いもせぬのに 私の生まれた家が浄土真宗だった。
とありました。
み仏さまのお育てを悦ばれたご生涯が偲ばれます。「遠(とお)く宿縁(しゅくえん)をよろこべ」という、親鸞聖人のお言葉が心に響きます。今年は、このお母さんの17回忌のご法要をおつとめしました。晩年まで、お寺のご法座には車いすを持参され、息子さんが夫婦同伴で片道40キロの道のりを通われました。そして、最晩年にはお寺参りもできなくなりましたが、それからというものは、「行く先は大丈夫ですね・・・、お浄土ですよ」と家族に話しかけられ、いつもお念仏を称えられていたといいます。お念仏の故郷に生かされる仕合わせです。今、ここに「いのち」あり、お念仏あり。そして、前途にお浄土あり・・・・・・

■本当の「こころ」にあう
終わらない苦しみ
先日、在宅緩和ケアに携わっていらっしゃる医療従事者を対象にした講演会で、ご法話をする機会がありました。お話をした後に、あるリハビリ施設に勤めている女性の方が質問をされました。その方は、リハビリ期間が終わって退所された患者さんが亡くなられたとき、「最後まで自分は看取(みと)れなかったけれども、ご縁のあった方なので」と思い、ご遺族にご挨拶に行くようにされているそうです。しかし、「自分が本当に十分な対応ができたのだろうか?」と不安になり、「ご遺族の方と向き合うのには相当の覚悟がいるし、正直しんどいです」と話してくださいました。また、実際に家族を介護されている方も参加されていたようで、ある方は「正信偈をおつとめしていても、イライラした気持ちや、上の空になっている時も多いです。本当にこんな気持ちでいてもいいのでしょうか」と質問されました。誰しも、人生にはいろんな問題が起こります。家族、学校、友人、仕事、金銭的なこと。また、病気になったり、ケガをしたり、年をとったりと、健康や身体的な問題も起こってきます。身近な問題だけでなく、大きな範囲では政治や経済、地域、国同士の問題なども関係してきます。こうした問題は、私自身と周囲との関係性の中で悩みの程度が変わっていきます。自分とあまり深い関係がないと思えば「このことは捨てて、違うものを求めよう」と先送りをすることもできますが、関係が深ければ深いほど、「この問題を解決するもっと良い方法があるのではないか」「こんなことでいいのだろうか?」と不安になります。そして、なんとかしようともがけばもがくほど悩みは深くなっていきます。親鸞聖人は、そうした私の姿を「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなしひさしくしづめるわれら・・・」とお示しになられています。ほとりがないということは、勇気を出してそこから外(そと)に一歩踏み出そうとしても、そこにはまた生死の苦しみが続いているということです。泳ぎ切ろうともがけばもがくほど、海に深く沈んでいくかのような、無辺の苦しみが広がっているのです。
同じ方向を向くと・・・
あるご門徒のお宅に、お参りした時のことです。おつとめの後、お茶をいただいていると、「昔は、お義母(かあ)さん(姑)が植えたあのイチジクの木を、どうしても切りたかったんです・・・。でも今では切らなくてよかったと思ってます」と、その女性は庭を眺めながら話を始められました。その方はご主人を亡くされ、一人暮らし。それを心配して、事あるごとに娘さんが家族連れで里帰りをされるそうです。その時、亡くなったおじいちゃんのことが大好きだったお孫さんたちは、家に上がると真っ先に仏間に行き、阿弥陀さまに手を合わせるのだそうです。孫の隣りに座って一緒に手を合わせていると、ふと「お義母さんはこんな思いで私を見てくれていたのかな・・・」と気付かされたのだそうです。すると今まで憎いと思っていたイチジクの木が、大切なことを伝えてくれていたのではないかと思えるようになったというのです。お義母さんの植えた木と向き合って対峙していた時は、木を見ながらも自分の思いを見ていたのかもしれません。しかし、お義母さんと同じ方向を見たとき、その木に込められた本当の「こころ」に出あわれたのだと思いました。私の苦しみは無辺であり、そこから抜け出す方法を持たないからこそ、「弥陀弘誓(みだぐぜい)の船のみぞのせてかならずわたしける」(同)という阿弥陀さまの無上のはたらきがあるのです。自分の勝手な思いから苦をつくり、それを越えようとさらに苦しみ、越えてもなお苦しみが続くと悲しみに沈む私を、大きく包み込んでくださるのです。問題を抱えたとき、そばにいる人の心と対峙し、自分の心と対峙する先には苦しみが続き、不安しかありません。「どんな状態であっても、見護(みまも)り、育て続けていきたい」という阿弥陀さまの「こころ」をともに喜ぶ中に、お互いが安心しあって人生の問題に取り組んでいける道があるのです。

■ほんとうの親心
互いに条件をつける
「おかえり〜」 私が玄関を開ける音に気づいて、息子がリビングから小走りにかけよってきます。先日3歳になったばかりの息子の笑顔と声には、一日の疲れを吹き飛ばしてくれる力があります。3歳にもなると、いつ、どこで覚えたのかと思うような言葉を使ってみたり、ハラハラするような行動をしたり、好き・嫌い、したい・したくない、欲しい・欲しくない、といった意思表示もできるようになり、私と妻は子どもに振り回されています。日々、子どもの成長に喜び、悩み、不安を抱えながらも、親としてできる限りのことをしようと奮闘しています。こうした日常を過ごすなか、自坊での法要の際でしたが、私やご門徒のマネをして念仏する息子のすがたを見て、ふと気づかされたことがあります。それは、ひそかに私と息子は、「〜をしたら」「〜ができたら」という条件をつけあいながら関係を築いていたということです。例えば、百貨店に行った時です。息子は車が好きなのか、ゲームコーナーにある車の乗り物に向かって脇目もふらず駆け寄ったかと思えば、「ブッブー」と声を張り上げ、ハンドルをグルグルと回し続けます。短い時間ならいいのですが、20分、30分と経つにつれ私も待ち疲れて、「違うところに行こうよ」「もう終わりにしよう」などと声をかけますが、息子は無視・・・。さらに10分も経つと我慢も限界、「ジュース飲みに行こうか・・・」。息子はそれきた、とばかりに「うん。ジュース、ジュース」とまたもや声を張り上げ、ハンドルを離します。こういったことは、その時々の都合によってしょうがない面もあるのかもしれません。しかしながら、私はいつも「私の都合」を中心にした態度や言動をしているのです。百貨店での言動も、「私が疲れてきたから」「私が飽きたから」「私が違うことをしたいから」、このような「私の都合」を隠して、息子に「ダメだよ」「〜しなさい」「〜しよう」などと言い、自分がしたいように息子を誘導しているのです。
如来のお心を聞く
「親さま」とも呼ばれる阿弥陀如来は、私たちをどのように見ていらっしゃるのでしょうか。『教行信証』「行(ぎょう)巻」には、源信和尚(げんしんかしょう)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』から、次のような文が引用されています。慈眼(じげん)をもつて衆生(しゅじょう)を視(み)そなはすこと、平等(びょうどう)にして一子(いっし)のごとし。ゆゑにわれ極大(ごくだい)慈悲母(じひも)を帰命(きみょう)し礼(らい)したてまつる。「仏(ほとけ)は慈悲の眼(まなこ)で衆生を平等に、またただ一人の子供のようにご覧になる。だからわたしは、広く大いなる慈悲の心を持つ母である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる」と示されます。阿弥陀如来は、あらゆる人々を平等に、一人の子どものようにご覧になる慈悲の眼をそなえていらっしゃる母に喩(たと)えられています。あらゆる人々を我が子のようにご覧になる阿弥陀如来の慈悲の眼にうつるものこそ、「私の都合」を中心としてしか生きられない私たちのすがたです。阿弥陀如来は、そのような私たちに向かって「必ず救うまかせよ」との南無阿弥陀仏のよび声となっておはたらきくださっています。息子の口から現れ出たお念仏に接し、阿弥陀如来のお心に気づかされるとき、同時に、自分の息子に対してだけでなく、あらゆる場面で、したい・したくない、欲しい・欲しくないと、「その時々の自分の都合」を押しつけ、もっともらしく親として、またあるときは子として、先輩として・・・などと上手に仮面をつけかえては行動している私自身のすがたに気づかされ、反省させられます。阿弥陀如来のようなお心になることはできませんが、お念仏の中でそのお心に気づかされ、支えられて生きていく中には、尊い一つ一つの命の中で生かされてある「今この私」に気づかされ、感謝できる生活が恵まれるのではないでしょうか。それは「私の都合」で発するのではない、「私」を生かしてくれる阿弥陀如来へ、そして息子への「ありがとう」の生活でありましょう。

■いのちのセーフティーネット
学校だけではない
最近、子どもたちの「いじめ」についての報道が多くみられます。「いじめ」はいけない行為であることは、子どもたちや先生はもちろん、みんなが知っています。しかし、一向になくなる気配はありません。むしろ、どこにでも起こっていることが報道などで知られます。この「いじめ」の原因は、いったい何なのでしょうか。私は子どもたちの人権保護の役割の一端を担わせていただいています。そこで聞かれることは、「学校の指導が・・・」「教員の質が・・・」などの言葉で、学校関係の責任を問う声が多く聞かれます。確かに、いじめの事件が起こっているのは子どもたちの世界ですから、学校が舞台となっていることは事実です。その意味で原因の一端は学校にあることは否定できません。しかし、いじめの加害者を生んだのは、単に学校での指導の問題ではないようです。別の視点で見ると、地域社会や家庭の大人の問題が、大きな要因となっているように感じます。教育関係機関の研究データによると、現在の子どもたちは、学校以外の社会で多くのストレスを感じていることが報告されています。また、それを解消できる家庭・家族関係でもストレスを受け、こころを休めることができる場所もありません。家はあっても子どもたちのこころを受け入れ、安心できる家庭が少ないのが現実です。常に、子どもたちから「お母さんやお父さんが私のことをわかってくれない」「誰も私の話を聞いてくれない」などの相談を受けることが多いのも頷(うなず)けます。子どもの成長過程によりさまざまなケースがあり、一概には断言できませんが、仮にいじめを受けた子どもが、追い詰められてサインを出しているとしても、こうした家庭では察知することは不可能です。さらには、自死のセーフティーネットにもなり得ません。ですから、家庭や社会での子どもたちへの寄り添いと安心できる場の確保を私は呼びかけています。
何があっても安心
ある家に養子に入った友人から、過去にいじめを受けた話を聞いたことがあります。その理由が「よそもの」の排除です。それは、養子に入った当初、地域の同年の友達と楽しく自然に遊んでいたのですが、ある時、友達のお父さんから、一緒に遊ぶことを禁止されました。何も問題になることがあったわけではないのですが、その理由が「よそもの」です。そのとき彼は、本当に腹が立って養子先から少し距離を置くようになりました。何度か実家へ帰っていたそうです。実家は両親がいて、何もなくても、そこにいるだけで安心できました。1〜2時間ゆったりとして落ち着くと、養子先へ帰ることを繰り返していました。その間、心配をかけないようにと、一度も愚痴(ぐち)をこぼすことはありませんでした。1カ月ほど過ぎた頃、実家のお母さんが、彼の悩みを察して、「いつ帰ってきてもいいよ」と言ってくれたそうです。そのとき彼は、ふっと気づかされたのです。「何も悩みを話してないのに、お母さんは私の想いを受け止めていてくれていたんだ」。彼はそれを機に、自分の目の前の課題に目を向けるようになりました。そして前向きに努力し、それ以来、15年を経て地域の人に認められるようになったそうです。その心の内は「いつ何があっても、帰れるところがある」という想いの安心の中での毎日でした。この事を通して、「いじめ」対策の一方法に気づかされます。「何があっても受け入れてくれる」家庭・両親がいること。それがどれだけ大きな安心と力となるか。また、前向きな生き方ができる力が、そこにあることが理解されます。これが「いのちのセーフティーネット」です。「何があっても、必ず救うぞ」と、いつも母の如く私の側にいて、寄り添っていてくだる阿弥陀さまの御こころ。おおきな安心の中に現実に気づかされ、安心の願いのうちに生き抜かせていただく場所が私にはあります。私たち念仏者は、いつもこの「いのちのセーフティーネット」に生かされているのです。

■心豊かに生きるとは
孤独死が社会問題に
まもなく私が住職となって20年になります。振り返ると本当に早かったという思いがします。「光陰矢のごとし」。まさにこの言葉が胸に響きます。時代の変化とともにかつての家族制度は崩壊し、社会全体も大きく変革してきている中で、お寺を取り巻く環境も以前とはずいぶん変わってきました。ひと昔前なら、三世代が一つ屋根の下で暮らすことが当たり前と考えられていたことが、最近では「親は親、子どもは子ども」といった考え方が主流となり、子どもたちもある一定の年齢を過ぎれば自立し独立しています。祖父母が去った後は家に残るのは夫婦二人。お互いいつまでも健康であれば結構なことですが、そうはいかず、いずれ必ずどちらかは先に亡くなられる。その後、また子どもと同居という方もおられますが、なかなかそうもいかない。その結果、一人暮らしのご家庭が目に見えて増えてきたように思われます。ここ最近、日々のお参りの中での実感です。この究極の核家族化が変化する兆しは見えてきません。それだけではなく、近隣同士の関係は希薄化し、かつて「東京砂漠」と言われた時代も今は昔。次第に人間同士が無関心な時代になってきました。バブルの崩壊以降、人にかかわっている余裕がなくなってきたことも一因かもしれません。現代人は、時間は持てても、ゆとりと余裕を無くしてしまったといわれます。そんな状況下、「孤独死」が大きく社会問題化しています。孤独死とは、一般的に一人暮らしの人が一人だけの時に、自分の住居内で生活中に死に至ることといわれるそうですが、中でも多いのは、突発的な事態が起こり、そのまま誰にも連絡できずに亡くなってしまうというケース。遺品整理専門の業者も毎年増えているといいます。本当に寂しい限りですが、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』には「世間愛欲(せけんあいよく)のなかにありて、独(ひと)り生(うま)れ独り死し、独り去り独り来(きた)る」と示されています。結局最期(さいご)は一人なのかもしれません。
お念仏申す身は
先日、iPS細胞の研究・開発により京都大学の山中伸弥教授がノーベル賞を受賞されました。心からお祝い申し上げたいと思いますが、あれだけ類(たぐ)い稀(まれ)な研究をされている方のコメントがまた素晴らしい。「私が受賞できたのは、日本という国に支えていただいて、日の丸のご支援がなければ、このように素晴らしい賞は受賞できなかったということを心の底から思いました。まさに日本という国が受賞した賞だと感じています」 この謙虚さには清々(すがすが)しい感動を覚えました。これからも難病治療に留まらず、さまざまな分野で役立っていく研究を期待するばかりです。ただ、ここで忘れてならない大切なことは、たとえこの研究がどれだけ進んでも、人間が不老不死の妙薬を手に入れることは有り得ないということです。今まさに問われている大きな課題は「心豊かに生きることとは、どんな生き方か」という問いを持つことだと思います。いくら物質的に恵まれた生活であっても、それは一時的なものであって、未来永遠に喜びが続くとは到底考えられません。近年、都市圏では「家族葬」といった言葉が一種の流行語のようになり、最近に至ってはそれも通り越して「直葬」という言葉も珍しいものではなくなってきました。葬儀がコンパクトに行われ、家族と親族の方のみが、他から何の干渉もされずに感謝とお礼、そしてお見送りをする。これもひとつの現代風葬儀の形態かもしれません。しかし、これは残った方々にお任せしておくこととして、現在を生きている私たちは、今まさに阿弥陀如来の大願業力(だいがんごうりき)によって、その御手(みて)のうちに生かされていることに気づいていく。これがお念仏申す身であり、自らの思慮分別(しりょぶんべつ)だけで生きるのではなく、常に阿弥陀如来に導かれて生きる。これが親鸞聖人ご自身の一生涯をかけて示された人生でありましょう。『歎異抄』に「念仏申(もう)さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあづけしめたまふなり」と示される通り、今逃げる私がその救いの中にあることを気づかせていただくことが肝要です。

■切手のない手紙が届きました
終活≠はじめる
ご院主さん聞いとくなはれ。ちょっと手紙を書かせてもらいます。私は今年77歳の喜寿を迎えました。なんとなく体がしんどくて、気になって早々と病院へ行きました。お医者さんがおっしゃいました。「どこも悪いとこありません。としのせいでしょう」。そうです、加齢のためです。私は後期高齢者に分類されております。平均寿命まではまだ何年かあるはずですが、日をまちがえます、時間をまちがえます。外出時には、カギをかけたやろか、電気消したやろか、仏だんのローソクの灯はどうやったろうか、と必ず一度は家へもどります。テレビみてましても、健康のために、長生きのためにと、サプリメントの広告が不安をあおりますし、市からは無料で検査をしてやるから病院へ≠ニ催促の案内がとどきます。眠りは浅いし、夜中には2回も3回も便所へ行かんならんし、小学校の同窓会も3年に1回やったんが、5年前から「毎年しよう」ということになったんです。それでも参加者はへりつづけ、ついこのあいだなんかはまるで達者じまんみたいで、ああ同窓会もこれで終わりやなあと思いました。昨日の気力・体力が今日はないんです。そんなこんなで、私もついに人生の終わりにむけての準備活動、つまりいま世間で言われる終活≠はじめようと決心したのです。現代は無縁社会≠竄ニ言われ、そこへ孤独死≠竄フ、家族でのうて孤族≠竄ニ追いうちをかけられ、いや恥ずかしいことですが、もっと早うに、若いときにしっかりと聴聞させていただいてたら、とご院主さんすまんことです。息子夫婦も孫も、遠くに離れて住んでます。ですから、いま家ではばあさん、いや嫁さんと二人ぐらしです。田んぼは少しありますが、他人に頼んで米をつくってもらってます。荒らさんだけのためです。米つくるより楽やし、買うた方が安いです。息子は田んぼなんかいらんと言うてます。築70年の家は雨もりを心配せんならんし、息子は帰りとうないと言うてます。過疎になっていく、ということです。ほんま・・・・・・。
まちまゐらせ候ふべし
財産とか、健康とか、地位とか、そんなもんあてにし、自分の支えにして生きとったということに、ふと気づかされたんですわ。『人間臨終図巻』(徳間文庫)て読まはったことありますか。山田風太郎さんが書きはった、15歳から120歳までの有名人923人の人はどのように死を迎えたか¢S4巻です。自分に重ねましてね、としに関係なく人はいのちの終わりを迎えるんやと、聴かせてもろてたはずやのに、どないなっとるんや、思いましてね。無常やといわれてもおれだけは別やと、喜寿や米寿迎えても、傘寿や白寿迎えても、みんなあたりまえみたいで、このとしまでよう生かされたと言ういのちへのありがたさや、はらのそこからの喜びもなくなってしもうた。ときどき聴聞させてもろうてたときのこと、思いだしてたんです。いつ、どこで死んでもええ、そんな生き方させてもらわなあかん。81歳で亡くなった親父がいつも言うとりました。「お念仏さえとなえてたらええ、というもんではないぞ。そのもとにはな、アミダ如来さんの大きなおはたらきによって得させていただいたご信心がある、ということをしっかりといただけよ。ええようにしてくださる。おまかせしたらええのや、おまかせのほか、ないのや」 このとしになって、無性に親に会いとうなりましてな。ほれ、ご開山(かいさん)さまのお手紙に、
この身(み)は、いまは、としきはまりて候(そうら)へば、さだめてさきだちて往生し候(そうら)はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候(そうろ)ふべし
そう、お浄土で、かならずかならずと・・・・・・、涙がこみあげてきます。ご院主さん、本願力にて往生させていただく、まさにこれこそいのちの終活=A自分で何の準備もいらんということですね。お会いしておはなしすればすむことを、なんやしらん、手紙にしました。春の彼岸会(ひがんえ)≠ノは、ご本山へお参りして聴聞させていただこうと思うております。また、お手紙を書きます。ナマンダブツ、ナマンダブツ。

■安心して悩む
お仏飯で育つんじゃ
先日、あるお宅で報恩講のおつとめをした時のことでした。お茶をいただきながら話をしていますと、そのお宅のご年配の女性から突然、「私はあんたのおしめを取り替えたこともあるんよ。それもバスの中で」と言われました。そんなご冗談を・・・と思いながら続きを聞きました。私のお寺では毎年、本山へ団体参拝を行っているのですが、二十数年前、まだ幼かった私も一緒に参加したようでした。おしめの卒業が少し遅れていた私は、予想通り、バスの中でしてしまったらしいのです。予想していたものの慌てる母を察してか、周りのベテランの女性方が揺れる車中で手際よく私のおしめを取り替えてくれたそうです。話を聞き終わるや、あまりの恥ずかしさに私は耳の先まで赤くなりましたが、その方は「ええ思い出です」とにこやかにおっしゃいました。また、私が生まれて間もない頃、「跡取(あとと)りが生まれたんじゃね。よかったね」と皆さんが言ってくださったそうですが、そんな言葉を聞いて過ごした私は、幼稚園に入り、将来の夢を絵に描こうというとき、何を勘違いしたのか「鳥」の絵を描いたそうです。お寺に参られた方々は、私が自慢げに示したその絵を見て、「アトトリを鳥じゃと思うとるよ」と皆で笑った、というお話も披露してくださったのです。このような話を聞くと、周囲の方々の願いとお育ての中にいること、「あんたはお仏飯で育つんじゃよ」と言われたその意味を、あらためて感じることができます。そんな幼少期を過ごした私も次第に大きくなりますと、自我の芽生えとともに、何でも自分で決め、自分でしないと気がすまなくなってきました。以前は父が「今年も京都へ団体参拝に行くぞ」と言ってくれるだけでうれしくてたまらなかったのに、「本山のお参りすんだらどこへ行くの?ほかにも楽しい所へ行こうよ」などと、父や母に注文をつけるようになりました。中学生の頃には、お坊さん以外にも何か進路があるんじゃないかと悩むようになり、理由もなくふてくされることも多かったように思いますし、次第にご門徒の方々を避けるようになっていたようです。
決して捨てはしない
ある時、そんな私にあるご門徒さんが、「どんな道に進んでも、ちゃんと見ておるよ、しっかり悩んで思うことやりなさい。大丈夫じゃ。心配せんでええ」と言ってくださいました。その時、お坊さんにならなきゃいけないんだと思っていたプレッシャーが、すっと消えたような気がしました。おかげさまで、今、私は僧侶として歩んでいますが、そのひと言がなかったら、どのような人生を歩んでいたかわからなかったと思います。
親鸞聖人は、ご和讃に、
十方微塵(じっぽうみじん)世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる ・・・と示されています。そして「摂取」の文字の左側に「ひとたびとりて永く捨てぬなり。ものの逃(に)ぐるを追(お)はへとるなり」と註釈を施されています。
阿弥陀如来は、私たちをお慈悲に包み込んで永遠に捨てられない。逃げる私を追いかけて救い取ってくださる。だからこそ、「阿弥陀」とおよびするのだといわれます。私たちが起こす願いは、どのような努力をしても我執を離れることができません。時にはその願いが他者に思わぬプレッシャーをかけることもあるでしょうし、思い通りにならないことに腹を立ててしまうこともあります。如来さまが私たちにかけてくださる願いは、どのようなことがあろうと決して捨てぬとはたらかれている温かいお慈悲なのです。如来さまのお慈悲にあわせていただきながらも、煩悩に惑わされ、お慈悲を忘れ、如来さまにまかせきれず、ジタバタともがき、逃げ回り、悲しみに沈んでいるような時もあります。そんな私たちをも追いかけて、お慈悲に包み込もうとされるのです。なんと有り難い如来さまでしょうか。必ず救う、捨てぬと誓われ、どこまでもどこまでもはたらかれるそのお慈悲があるからこそ、安心して悩むことができるのです。 
 

 

■悲しみの意味
長生きの保証書ない
「浄土真宗ってどういう教えですか?」と尋ねられたら、「それはお浄土の真(まこと)を宗(むね)とすることです」と答えます。私のいのちが、人生が、お浄土の真に貫かれているということです。お浄土とは、私がこの限りあるいのちを生き切る依りどころ、支えです。ところが、私たちの現状はどうかといえば、お浄土が生きることとは無関係なところに切り離されて、死後の世界に追いやられてしまっているように感じます。ですから、60歳や70歳になった方にお寺参りを勧めても、「私にはまだ早いから、当分お参りする気はありません」と言われます。80歳、90歳まで生きられて当然、死後のことなど考える暇があったら、いかに楽しく生きるかを考える方が利口と言わんばかりです。ちまたでは、いわゆる「平均寿命」なる数字が幅を利かし、あたかも80歳までは生きられるかのように考える人も多いようですが、私は誰からもそんな保証書はもらっていません。私だけでなく、誰一人としてそんな保証はしてもらっていないはずです。確かに、100歳まで生きる人は年々増えているのかも知れません。しかし、平均寿命に至らずに終わるいのちもたくさんあります。病気が縁で終わる若いいのちもあれば、不慮の事故が縁で終わる幼いいのちもあります。いのちの事実は「老少不定(ろうしょうふじょう)」。老いた者から順番にいのちが終わるのではないのです。そう言うと、「そんなこと言われなくてもわかっているさ」と言われるかも知れません。しかし、頭ではわかっているつもりでも、私たちの心と体はなかなか理解しようとはしません。だから、大切な人を失った時には、私たちは平静を保つことができず、深い痛みと悲しみに襲われることもあるのです。しかし、そんな時、浄土真宗の教えに触れていると、この痛みや悲しみには大切な意味があることが知らされます。
限りないいのちになる
もう24年も前のことです。私が23歳の時、同級生を交通事故で亡くしました。彼とは、中学校の野球部のチームメートで、3年間共に白球を追った仲間でした。私たちはそれぞれ別々の高校・大学に進学し、彼は教師を目指しました。そして、大学卒業と同時に、彼は東京の中学校に教師として赴任しました。学校では、弱小野球部を任されましたが、持ち前のガッツと牽引(けんいん)力でチームを引っ張り、その年の秋の都大会では優勝を勝ち取ったのでした。彼は、いち早く優勝の報告をと、会場から学校に向けバイクを走らせました。その途中、路面でスリップした彼は、車にはねられ即死しました。彼の死の知らせを受けた私は、彼の実家へ急ぎました。お仏壇の前に置かれた棺(ひつぎ)の中で物言わぬ彼に、私は胸を切り裂かれるような悲しみに襲われ、葬儀の時もまともに読経ができないほど、悲しみに打ちひしがれたのでした。しかし、月日の流れの中でその悲しみも次第に薄れ、最近では彼のことも忘れかけたような生活をしていました。ところが、そんなある日、町で偶然、彼の妹さんにお会いしました。彼の面影を偲ぶに十分な妹さんの姿を見た時、思いがけず24年前の悲しみがよみがえってきました。あの時の悲しみは、消えたわけではなかったのです。
お浄土の真(まこと)を宗(むね)として生きる。それは、このいのちがお浄土に生まれさせていただき、仏に仕上がるいのちだと知らされて生きることです。そして、このいのちがお浄土に生まれるということは、限りあるいのちが限りなきいのちに生まれるということです。この世のいのちには必ず限りがあります。しかし、そのいのちの終わりは「死」ではなく、限りなきいのちへの誕生です。そして、限りなきいのちへの誕生は、同時にそのいのちが、残していったいのちにはたらきだす瞬間でもあります。24年経っても無くならなかった悲しみは、彼のいのちが限りないいのちとなって私のいのちにはたらき続けていた証(あかし)だったのでした。限りある私のいのちに、お浄土の限りなきいのちがはたらく証。それがいただいた悲しみの意味でした。

■祖父の後ろ姿
西に沈む夕日を眺め
私の今の楽しみの一つは、2人の子どもと本堂でお夕事(ゆうじ)のお参りをすることです。子どもたちが見たいテレビ番組などがあると、なかなか素直についてきませんが、子どもたちには、親である私が、阿弥陀さまのことを大切にして、お参りをする姿をできるだけ見せておきたいと思っています。本当に大切なことは、後ろ姿を通して伝わっていくのではないかと思います。阿弥陀さまに手を合わせることもそうです。おじいちゃんやおばあちゃん、父親や母親、そして周りの大人たちが阿弥陀さまに手を合わせる姿を子どもたちが見て、またその子も手を合わせる人として育っていきます。私自身も、かつて祖父と一緒にお参りをしたその後ろ姿が、心に強く残っています。中学生の頃、私はサッカー部に所属していましたので、日頃は帰宅が遅かったのですが、定期試験前など部活動が休みのときは早く家に帰っていました。そういう時は、夕方になると決まって祖父が「おーい、おつとめやぞー」と呼びに来ました。私は祖父の後について、まず本堂で正信偈をおつとめし、続いて会館の2階の仏間でおつとめをします。そしてその後、天気のよい日には、祖父は決まって会館の2階の窓から西に沈む夕陽を眺めていました。私の住んでいる地域は夕焼けが大変きれいなところで、「砥山夕照(とやませきしょう)」と呼ばれ、栗太八景の一つにも数えられています。周りをぐるっと山に囲まれているのですが、ちょうど西の方角だけ山が切れていて、天気がよければ、お夕事の時間帯に本当にきれいな夕焼けが見えます。そういう時、祖父は西の方に向かってじっと手を合わせて、なかなか動こうとしませんでした。中学生の私は、祖父の後ろで待ちながら、心の中では「早く終わらへんかなぁ」などと思っていたように思います。でも今思い返しますと、祖父のその後ろ姿が大変ありがたいと思うのです。
受け継がれるお念仏
これは父から聞いた話ですが、祖父も若い頃は「お浄土」をどのように受けとめたらいいのか、またどのように語ればいいのかということについて悩んでいたそうです。祖父が青年時代を過ごした大正、そして昭和初期という時代は、日本の近代化が進み、人々の価値観も大きく変わっていった時代でした。「お浄土」に対する人々の受けとめ方も変わっていきました。そのような中で祖父は「浄土真宗が浄土を説かなかったらよかったのに」とさえ思っていたこともあったそうです。それが、だんだんと年を重ねていくと、「お浄土が説かれていることが本当にありがたいと思う」と、しみじみ語っていたといいます。そしてさらに晩年になると、理屈や言葉を超えて、ただ夕陽の沈む西方に向かってじっと手を合わせるようになったのです。祖父がお浄土に往生してから22年が経ちました。あの時、西に沈む夕陽に手を合わせながら祖父が何を思っていたのかは私にはわかりませんが、今、私がお浄土のことを考える時、いつも祖父のあの後ろ姿が思い浮かびます。それは理屈や言葉を超えた世界でありながら、何とも言えない温かさを伴うイメージです。そして私も祖父のような後ろ姿を示すことができる人になりたいと思うのです。そういうとき私は、今でも祖父の後ろ姿に導かれているような気がいたします。
親鸞聖人が『教行信証』の最後に引用される、道綽禅師の『安楽集』の次の文が思い浮かびます。
前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ、連続無窮(むぐう)にして、願はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。
先にお浄土へ往生された方々の後ろ姿に導かれて、私も同じようにお浄土への道を歩ませていただくのです。そしてそのようにして歩んだ私の後ろ姿も、きっとまた子どもたちが見て歩んでくれる。このようにして、阿弥陀さまのご本願のお念仏が、絶えることなく受け継がれていくのです。今日もまた、西に沈む夕陽を見ながら、祖父が往(ゆ)き生まれていったお浄土を思い、子どもたちと一緒にお念仏したいと思います。

■ともにこれ凡夫(ただひと)
幻の完全試合
2010年6月、大リーグ・デトロイトタイガースのアルマンド・ガララーガ投手は、9回ツーアウトまでパーフェクトピッチングを続けていました。27人目の打者が打った一、二塁間へのゴロを一塁手が捕球し、ベースカバーに入ったガララーガに送球しました。塁審はセーフのジャッジを下し、それに対してタイガースの選手たちは大いに抗議し球場全体も騒然となりましたが、判定は覆(くつがえ)りません。試合終了後、ビデオ再生を見たこの塁審は明らかに自分のミスジャッジであると認め、すぐさまガララーガ投手に詫(わ)びました。審判のミスジャッジによって大リーグ史上21番目のパーフェクトゲーム達成投手になれなかったのですから、ガララーガ投手の無念さは想像に余りあるものがあります。ところが彼は、「たぶん僕よりも彼のほうがつらい思いをしているだろう」と反対に気遣い、心から詫びるこの審判を「完全な人間なんていないのだから」と言って、寛容な態度で許したのです。唐突なようですが、このニュースを聞いて私は、聖徳太子の「憲法十七条」の第十条の言葉を思い出しました。「われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚(おろ)かなるにあらず。ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ」 日本に仏教を受け入れて、仏教精神にもとづく社会のあり方を目指されたのが聖徳太子でした。もちろんガララーガ投手が聖徳太子や「憲法十七条」を知っていたはずはありませんし、彼の示した態度を仏教精神に裏付けられたものというつもりもありません。ただ世の東西を問わず、人は自分の非はなかなか素直に認めようとせず、逆に自分への不利益に対しては怒りや報復の態度をあらわにしがちです。そうであるからこそ、相手の過ちをせめないという寛容のこころは、人類の精神史において培われてきた最も尊いもののひとつであると思います。
自分のことは棚上げに
普段の生活の中で、人の善し悪しを口にして他者を裁いているのが、偽らざる私の姿です。私たちが人を裁き批判する時には、どのような位置に立っているでしょう。自分の不完全さを棚上げして、あるいは「自分も立派なことは言えないけれど」と抜け道を作っておいて、他者の批判をしているのではないでしょうか。『歎異抄』後序(ごじょ)のお言葉が思い起こされます。
「本当にわたしどもは、如来のご恩がどれほど尊いかを問うこともなく、いつもお互いが善いとか悪いとか、そればかりをいいあっております。親鸞聖人は、『何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽(つく)したのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽したのであれば、悪を知ったといえるからである。しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫(ぼんぶ)であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変わる世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである』と仰(おお)せになりました」 
まことなるものに聞き触れるとき、わが身のまことならざる姿が知らされます。そこから、ともにこれ凡夫であり、真実なる如来さまから哀(かな)しまれているものどうしでしたね、という共感と寛容のこころが、私のうちにひらかれていくのではないでしょうか。こうした態度は、決して綺麗(きれい)ごとでも生ぬるいことでもなく、人間の持ち前である自己中心性と対立する厳しいものであるはずです。お念仏の教えに育てられる人は、しばしば蓮(はす)の華(はな)に譬(たと)えられます。お念仏の教えは、一つ間違えば根から腐(くさ)らせてしまう汚泥(おでい)の毒を、逆にしなやかに私の栄養と転じ、泥(どろ)に汚(けが)されることなく清浄(しょうじょう)な花を咲かせ、汚泥をも麗(うるわ)しく荘厳(しょうごん)していく力となってくださいます。涼(すず)しげに咲く白蓮華(びゃくれんげ)の根は、地中で汚泥と必死に闘(たたか)い続けているに違いありません。そして共感と寛容のこころは、その底にこうした厳しさを内包するものであればこそ尊いものといえるのでしょう。

■苦悩を生きる
生老病死の四苦
お釈迦さまは「人生は苦である」として、「生(しょう)・老・病・死」の四苦(しく)を示されました。確かに、生まれたからには誰しも、老・病・死を背負って生きていかなければなりません。若い時には平気だったのに、体力が続かないなど、日常のふとした時に自分の老化を痛感することがありますが、そんな時は「本当に年はとりたくないもんだ・・・」と誰もが思うことでしょう。病気もそうです。誰だって病気になんかなりたくありません。でも、病気になってしまったら引き受けるしかありません。それなのに、なんで私がこんなことになったのか・・・と思い悩んでしまいます。昨年のことです。突然、腰に痛みを感じました。お酒の席でしたので、友人が「飲めば治る」というので飲み続けたところ、痛みが消えたのです。「本当に治った」と喜んだのですが、次の朝は痛みで目が覚め、動けないほどになり、お世話になっているカイロプラクティックの先生にみてもらいました。先生は首から肩、腰とマッサージをして、「老化かな」と言ってお腹(なか)を手で診察された時、「あっ」と言われたのです。「何ですか」と聞くと、「いや、何でもありません」と言われましたが気になります。おかげで痛みは和らぎましたが、気になったせいでしょうか、帰宅する車の中でまた痛み出しました。今度は友人のところで電気治療をしてもらい、湿布をたくさんはってもらいました。帰り際に友人が薬をくれたので、飲んでから帰りました。家に着いて、横になって休んでいると、妻が「この薬を飲むと、痛くないの?」と尋ねるのです。「痛くないよ」と答えると、妻は「おかしいね、これは化膿止めよ」というのです。その言葉が気になってきた私は、次第に腰が痛み出し、ついにその夜は、今まで感じたことのない痛みで眠れませんでした。そして、痛みが少し弱まってくると、今度はカイロプラクティックで言われた「あっ」のひと言が気になって、「もしかしたら大変な病気では・・・」と、ただただ不安でいっぱいになりました。次の日の朝も痛みが取れず、結局、病院に行きました。レントゲンでもわからず、MRIで調べてもらうと、「原因はヘルニアです」と言われました。痛みを抑える注射をしてもらい、経過をみながら治療することになりました。おかげで痛みはなくなりました。私という人間は、人のひと言ひと言で、すぐにふらふらと迷ってしまうのです。「飲めば治る・・・」「老化かな・・・」「あっ・・・」「この薬は・・・」。痛みを抱えた時も不安で仕方なかった私ですが、病院で痛みの原因を正しく知らせてもらって、ようやく安心することができました。
阿弥陀さまだけが・・・
親鸞聖人は『高僧(こうそう)和讃』のなかに、
生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめる われらをば 弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける ・・・と詠(うた)われています。
私たちいのちあるものの生死(しょうじ)の苦しみ、迷いの深さは、海のように巨大でほとりがないとおっしゃいます。どんな名医でも治せない難病のように、どんな仏さまでも救い出すことのできない深い海です。しかし、阿弥陀さまだけが、「救わずにはおかない」とご本願をおたてになり、南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)を成就して私たちに与えてくださっています。「われ称(とな)えわれ聞くなれど南無阿弥陀つれてゆくぞの親のよびごえ」という、原口針水(しんすい)和上の有名なお歌があります。病気になると、「何か大変なことでは・・・」と右往左往し、人の言葉一つで、あっちにふらふら、こっちにふらふらする私。そんな私に阿弥陀さまはいつも「われにまかせよ、必ず救う」とよび続けてくださいます。「ナモアミダブツ、ナモアミダブツ・・・」とお称えするひと声ひと声の中に、苦悩の人生を精いっぱい生きる喜びがあふれています。

■私を見抜くはたらき
自分を知ってる?
私たちは、自分のことは自分が最もよく知っているつもりで暮らしているのではないでしょうか。ところが、案外、そうでもないことに気付かされたクイズがあります。簡単なものですので、ぜひ、挑戦していただきたいと思います。こんなクイズです。
<問題>父と息子がドライブに出かけました。ところが、事故に遭(あ)ってしまい、二人はそれぞれ別の病院に運ばれました。息子が病院に到着すると、待っていた外科医が出てきて叫びました。「これは私の息子!」 病院に運ばれてきた息子と、外科医とはどのような関係でしょうか。答えは出ましたでしょうか。息子のことを「私の息子!」と呼ぶ人は父か母です。お父さんはここにいませんから、外科医は運ばれてきた息子の母親になります。息子と外科医の関係は母子だというのが正解です。お母さんが外科医として勤務する病院に、たまたま息子さんが運ばれたのでした。私はこのクイズに答えることができませんでした。なぜかと考えていきますと、「外科医と言えば男性」という誤った思い込みが原因でした。試(こころ)みに問題文の「外科医」を「看護師」に置き換えると、間髪入れずに正解できそうです。もちろん、私も女性の外科医がおられることは知っていました。けれども、その知識は役立ちませんでした。つまり、このクイズでは、知識の有無ではなく、私の愚かさ、すなわち誤った思い込みに自分の力では気付くことができないことが問題にされているのです。
仏かねてしろしめして
私はこのクイズに出あうまで、自分の物事の見方がこんなに危ういものであるとは考えもしませんでした。私がクイズに答えられなかったように、私たちの物事の見方は、さまざまな思い込みに縛られた、あてにならないものです。クイズのような形で教えていただかなければ、気付くことができない思い込みを、まだまだしているに違いありません。ところが、そのような悲しいありさまを、私は自分の力では知ることができずにいます。私たちはそのような愚かさを抱えているのです。『歎異抄』第九条に、「仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫と仰(おお)せられたることなれば・・・」と記されています。私たちは、自分のあてにならない物事の見方を「正しい」と思い込んで暮らし、「正しい」もの同士が衝突しては自他共に傷つき、悩みを深めているのではないでしょうか。とりわけ、「最後は結局自分がかわいい」という物事の見方は、自分の力では気付くことも、なくすこともできない根深いものです。その私たちのすがたを、阿弥陀さまはすでに見抜き、「煩悩具足の凡夫」であると仰せになっているのです。
阿弥陀さまは、物事を正しく見抜くお智慧と、智慧なき愚者を救うお慈悲をお持ちの仏さまです。その智慧と慈悲はお名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏」に込められています。私たちにとって大切なのは、このお名号に込められた阿弥陀さまのおこころを聞かせていただくことです。お名号を聞くとは、阿弥陀さまが見抜いてくださった、私の本当のすがたを聞かせていただくということです。私が煩悩具足の凡夫であることを聞かせていただくのです。それはそのまま、私の愚かさを放っておけないというお慈悲を聞かせていただくということです。「煩悩具足の凡夫」などと言われると、「私はそんなに愚かではない」と、反発してしまうかもしれません。けれども、家族や先輩から厳しく意見されて反発したものの、よくよく考えると、至らないのは私であったという経験はないでしょうか。私は愛情をもって見抜かれていたのです。お名号を通して、自分の力では気付くことができない私の愚かさ、危うさを知らせていただく時、私を見抜く阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきの中に、今、この私があることに気付かされるのです。

■真の仏弟子
法要つとめる心持ち
先日、故郷を離れて久しいご門徒さんから、うれしいメールが届きました。「おかげさまで、夫婦ともどもご本山御影堂においておごそかに帰敬式(ききょうしき)を受け、法名をいただきました。すぐにご報告、御礼に参上すべきところ、誠に失礼ながらメールにて取りあえずお知らせいたします。ありがとうございました」という報告です。また「これからは浄土真宗のみ教えを大切に過ごしてまいります」と付け加えてありました。九州から首都圏に出られてからも、故郷のお寺を忘れることなく、おかみそりを受け、法名をいただこうと思い立たれたことが何よりありがたく、うれしいことでした。すでにお浄土の人となられたご両親も、きっと喜んでいてくださることでしょう。私たち浄土真宗の門徒は帰敬式を受けることにより、親鸞聖人が仏・法・僧の三宝(さんぼう)に帰依し、仏弟子として生き抜かれたように、そのみ教えに生きようという思いを新たにさせていただきます。帰敬式を受けると、お釈迦さまの教えを聞くもの、お釈迦さまの弟子として、釋(しゃく)(釈)の一字を冠した、釋○○という法名をいただきます。仏弟子としての名のりであり、仏弟子として生きるということの表明です。
すべて阿弥陀さまが
仏弟子という言葉は、あまりなじみがないかもしれません。一般的に弟子というと、師匠から弟子へと特別な技術や技能を伝承する世界で多く使われるようです。学問、芸術の分野や、落語など古典芸能の世界などが思い浮かびます。師匠と弟子の個人的な関係が重要で、手取り足取り指導するというイメージです。でも、仏弟子というときはそうではありません。
『歎異抄』には「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」という有名なお言葉があります。お念仏は私が教えたり、こと細かに指導したから伝わったというのではなく、念仏申させずにはおかないという阿弥陀さまのはたらきによって、念仏申す身になったのですから、弟子とか師匠という人間関係で語るべきことではないのです、と教えられています。善導大師は「深く信じる心」を説明する中に「真の仏弟子」という言葉を使われています。「また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者(ぎょうじゃ)たちが、一心にただ仏(ほとけ)の言葉を信じ、わが身もわが命も顧(かえり)みず、疑いなく仏が説かれた行(ぎょう)によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。これを釈尊の教えにしたがい、仏がたの意(い)にしたがうという。これを阿弥陀仏の願にしたがうという。これを真の仏弟子というのである」と、この私のためにおこしてくださった本願に、お念仏一つを選び取ってくださったお心を聞きひらいてお念仏申すものを「真の仏弟子」といわれたのです。
親鸞聖人はこれを他力の信心をいただいた念仏者のことだと受けとめられました。とても自分の力で仏のさとりに至ることなど、考えられもしない愚かな私が、こんな私をこそ見捨てておけないのだと、はたらき続けてくださっている本願名号「南無阿弥陀仏」によって、無上のおさとりを開かせていただくからこそ、真の仏弟子といわれるのです。お釈迦さまをはじめ、諸仏と呼ばれる無量無数の仏さまたちも、この私に「南無阿弥陀仏」とお念仏申させようと、真実の慈悲をもってわが子を育てはぐくむ父母のように、ありとあらゆる手だてをもって、無上の真実信心をひらきおこしてくださったのです。この真仏弟子釈の結びには、「悲しきかな」と遇(あ)いがたき本願に遇いお念仏申す身にさせていただき、安心して今を生きることのできる身をたまわりながら、相変わらず自己中心の小さな私から抜け出せず不平不満のただ中にある身を「恥(は)づべし、傷(いた)むべし」と悲嘆されています。仏弟子として名のりをあげた私たち真宗門徒は、阿弥陀さまの本願に出遇い、無上のおさとりを開かせていただくよろこびとともに、この身の現実はどこまでも本願に背き続けていることを教えられ、傷み悲しみをもって歩ませてもらいます。

■有ること難し
法要つとめる心持ち
先日、ご門徒のお宅で一周忌のご法要をおつとめしました。一周忌は最初の年忌法要ですので、私は「法要はどんな気持ちでおつとめしたらいいのか」ということを、お話しすることにしています。私自身も若い時、そのことを先輩にお聞きしたところ、二つの心持ちでつとめよと教えていただいたのです。一つは「故人を偲ぶこと」です。法要にお参りしている人たちは故人と縁の深い人たちばかりですから、これは当然でしょう。皆さんが故人の思い出話をしていました。そして、自分の暮らしを故人にご報告されるのがよいと思います。もう一つは「ご勝縁(しょうえん)」です。法要は、日常忙しい生活をしている人も、仏縁を結ぶことのできる優(すぐ)れたチャンスだということです。つまり、ご法要は亡き人を偲ぶとともに、仏縁を結ぶ大切な行事であるということでしょう。『三帰依文(さんきえもん)』の最初の文に、「人身受(じんしんう)け難(がた)し、今すでに受(う)く。仏法聞(ぶっぽうき)き難し、今すでに聞く」とあります。人間として生まれることは、とても難しい。しかし、そのことを今初めて気付くことができた。仏法についても同じことだという意味でしょう。私が学校に勤めていた時に、生物の先生とこんな話をしました。「現在、地球上には多くの生命体がありますが、一番多いのは何ですか」と聞いたところ、バクテリアやウイルスなどのミクロの世界の生物、微生物だそうです。グラウンドで話を続けました。「例えば、このグラウンドの砂が地球上の命の数だとしたら、人間の数はどれ位ですかね」と問うと、「一握りの砂」だと教えられました。これでは人間に生まれる可能性は皆無に等しいでしょう。皆さんはよく生まれましたね。生物の先生と話した後、お釈迦さまのお話を思い出しました。
すべて阿弥陀さまが
お釈迦さまが弟子のアーナンダに、足もとの土をすくいあげさせて、「この世の中に生きているものは、大地の土のようにたくさんいるけれども、人間に生まれるのは手のひらの土ほどのわずかなものだ。よほど幸せなことだ」と話されました。さらに、手のひらの土を指の爪ですくい、「手のひらの土が人間ならば、爪の上の土は仏の教えを聞くことができるもので、喜ばねばならない」とおっしゃいました。「有り難い」という日常用語があります。文字通り見ると、「有るのが困難である」という用語です。存在が稀(まれ)である。めったにない。珍(めずら)しいという意味でしょう。今までお話ししてきたことによると、「人間として生まれること」や「仏の教えに遇(あ)うこと」はなかなか難しく「有り難い」ことです。だからこそ「人間に生まれた」「仏の教えを聞けた」ことは決して当たり前ではなく、大変貴重なことです。ですから、「ありがとう」は、感謝を表す言葉となりました。有り難いことですね。
先日のご法要には、皆で「正信偈(しょうしんげ)」を唱和しました。その「正信偈」の中に、往還回向由他力(おうげんねこうゆたりき)とあります。現代語訳では「往相(おうそう)も還相(げんそう)も他力の回向(えこう)であると示された」とあります。「往相」は浄土に往生するすがたのことです。「還相」は浄土からこの世に還(かえ)ってきて人々を救う活動をすることです。そして、そのような行動は、「他力による」とあるように、すべて阿弥陀仏の本願力の回向によるのです。その次には、正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)とあります。現代語訳では「浄土へ往生するための因は、ただ信心一つである」とありました。
一周忌のご法要が終わりました。「故人を偲ぶこと」と「仏縁を結ぶこと」を中心に、「有り難い」法要に感謝して、ご門徒のお宅を後にしました。

■薫習(くんじゅう)の世界
大人のあり方が影響
新しい年度が始まり、日本列島も春爛漫(らんまん)の季節を迎えました。ピカピカの新入生たちが、それぞれの世界で輝き羽ばたいています。春の陽光に包まれてはしゃぐ子どもたちの笑顔は、何ものにも替えがたい尊いものです。しかしながら今、子どもたちを取りまく環境は大変きびしく、学校でのいじめや教職員による体罰、さらには家庭内での虐待など、昨年1年間のまとめによりますと、これまでの統計で最も多かったことが報じられていました。残念ではありますが、その中にはかけがえのない尊い〈いのち〉を自ら絶ってしまった児童や生徒が含まれていることは周知の通りです。このようないじめ・体罰・虐待はどうして起こるのだろうかと、その原因を探ってみますと、一つには大人社会の価値観の倒錯やその生き方などが影響していると言っても過言ではありません。さらに追跡をいたしますと、戦後教育において宗教教育を忌諱(きき)してきた文教施策のもたらした弊害と言えなくもありません。自分の権利の主張には長(た)けていても義務を遂行することは他人任せで、自分の思い通りにならなければ他人のせいにするなど、自己中心のライフスタイルが反映しているとも言えるのです。かつての家庭には独自の家風があり、学校にはよき校風があって、それぞれが人間性を育(はぐく)む学びの場でありました。今、その学びの場が機能せず、親も教師も自己主張や防衛に腐心して、都合の悪いことは隠蔽(いんぺい)する体質で、人間存在の原点である〈いのちの教育〉についての学びを置き去りにしてきたからではないでしょうか。生きとし生けるものの〈いのち〉の尊厳について真摯に向き合うことが、今あらためて問われているのです。その〈いのち〉の尊厳とは、弱者は弱者のままで尊重され、共に生き、生かされる絆づくりが求められているのです。
決して一人ではない
京都女子学園では毎年、宗教文化研究所主催の懸賞論文を、児童・生徒・学生から募集しています。過年度、入賞した高校2年のBさんは、体育祭の体験をもとに文章をまとめました。その一部を紹介いたします。『体育祭名物、応援合戦の人文字は、一人ひとりに割り当てられた役割を正確にこなさないと全体として完成しない。呼吸を合わせ、プラン通りの動きを何度も練習を重ね、みんなの気持ちが一つになった時に初めて、あの感動の発表が完成するのだ。歴史と伝統の重さを感じ、強く心を揺さぶられた瞬間は鳥肌が立った。親鸞聖人は、人間は善行(ぜんぎょう)や学問によって浄土往生を遂げることは難しいため、己の罪深さを自覚することが大切であると説かれた。このことを今の自分にあてはめてみると、自分一人がよければよい、自分の行いは正しいのだというような思いあがった心ではなく、周りのみんなに支えられ、教えられ、助けられてはじめて自分が存在するのだということを自覚せよとのことではないかと思う。お釈迦さまの教えにある「縁起(えんぎ)」とは、ありとあらゆるものは互いに関係しあい「もちつもたれつ」の状態にあることを表す。この世にはただひとつだけで存在するものはないのだ。私が思い悩み、苦しんでいる時も決してひとりではないのだ。目には見えないかもしれないが、私にはいつも両親や友達、先生方や先輩方の手が、そして阿弥陀仏の救いの手が差し伸べられているのだ。宗教の授業で「縁起」という教えを学んだことで、私の心は救われたのである。今年も先輩方の一糸乱れぬ素晴らしい演技を見て、来年は自分に番が回ってくると、誰もが不安を覚えたかもしれないが、お互いに手を差し伸べ合い気持ちが繋(つな)がっていけば、大きな一つの「輪」がうまれる。そんな繰り返しが広がっていけば、うれしいことも悲しいこともみんなで共有できる関係になれる。私たちはひとりではなく、大きな温かい眼差(まなざ)しのなかで見守られているのだ』と結んでくれています。
このような文章は毎年、学校が発行する伝道誌「求道(ぐどう)」に掲載し、在校生(保護者)全員に配布して閲覧してもらいます。学校でも家庭でも、それぞれの場におけるはたらきかけと学びは、知らず知らずの間に成長期の子どもたちには豊かな心を育む種まきとして、人格形成にとても重要なのです。この「薫習(くんじゅう)」の世界を大切にしていきたいものです。

■桜が教えてくれたこと
報道の力は大きい
私のあずかるお寺は、田舎の小さなお寺です。境内の本堂の屋根に枝がかかりそうな場所に、斜めに生えた桜の木がありました。ほかの桜から遅れて4月の終わりごろの温かい時期に花を咲かせ、天気がいい日には、その桜の下で花見をしながら家族でお昼ごはんを食べたりしていました。4年ほど前、門徒の方がきれいに咲いた桜を見て、この桜はなんという品種ですか、と尋ねてこられました。詳しいことは知らないと伝えると、植物園で聞いてみますと言われるので、枝を切って、持って行ってもらいました。いろいろな調査の結果、この桜が、どこにもない新種であることがわかりました。名前を調べようとしたら、名前がない桜であるとわかったのです。このニュースは、地元の新聞やテレビで大きく報道されました。メディアの力は大きく、その年の春はずいぶんと忙しくなりました。電話はひっきりなしに鳴り、境内にはカメラを持った人がたくさん訪れ、暗くなるまで人が絶えませんでした。はじめは、ようこそようこそと出迎えていたのですが、だんだんと説明するのも追いつかなくなり、お参りにも行けない状況となりました。あわてて案内のチラシを作りましたが、コピーしたものがすぐになくなり、結局、1000枚ほど印刷することになりました。本堂で手を合わせていかれる方も多く、桜のおかげで、たくさんのご縁を結ぶことができました。
仏さまのそばなのに
しかし、たくさんの方が来られると、困ったことも起こります。もっとほかに見るものはないかと、境内の裏のほうまで見に来られる方もいらっしゃいます。うっかり洗濯物も出しておけません。犬の散歩がてら来られて隅の方で用を足して行かれたり、前の道路を車がふさいでしまって出入りができなくなったり、近くのお寺に迷い込む人がたくさんあって苦情がきたりと、いろいろな対応に追われました。はじめのうちは有名になった気分でうれしかったのですが、だんだんと、こんなことなら知られないほうがよかったんじゃないか、とも思うようになりました。そんなある日、庫裏(くり)の2階の窓から、そっと境内の様子をうかがっていると、見なれない、赤い高級外車が門前に止まりました。中からは、濃い色のメガネをかけた、とても派手なおばさんと、小学生くらいの男の子が2人現れました。その姿を見た時、私は、この人たちもきっと桜を見に来たので、お寺には用のない人たちだから出て行く必要はないな、と思いました。案の定、子どもたちは「これや! これや!」と大きな声を出して桜のほうへ走ってきました。「やっぱりね」と思っていたら、後から来たおばさんが、もっと大きな声で子どもたちを叱りました。「あんたら、お寺に来たら、最初に仏さまにあいさつせんとあかんでしょ!」
子どもたちは素直に従って、おばさんといっしょに本堂のほうへと歩いて行きました。私は、人は見かけによらないなと感心しましたが、よく考えると、すべての衆生に願いをかけている阿弥陀さまのそばで、この人は関係ある、この人は関係ない、とより分けている自分の姿が急に恥ずかしくなりました。足を運んでくださった方はすべてご縁のある方に違いないのに、つながりを見ようとしなくなっていたのは、私自身であったと反省させられました。桜の花が咲いている間はにぎやかだった境内も、散った後は静かになりました。少し遅れて訪れた方は、もう葉ばかりになった桜を見上げて残念そうにされますが、花が咲いていない季節にも、桜は生きているのです。咲いては散る「花の命」のその奥で、それぞれの命を育む広い根や、支えとなる大きな幹や枝も含めた「木の命」がはたらいていることに気づくとき、一人一人が「無量寿(むりょうじゅ)」という大きないのちから願いを注がれて生きている。私のいのちが私だけでは終わらない世界が見えてくるように感じるのです。

■生きる力育むとき・ところ
死は終わりではない
昨年11月11日付、産経新聞朝刊の1面に、東日本大震災で親友のゆいちゃんを亡くした小学1年生の羽奈ちゃんの記事が掲載されていました。羽奈ちゃんは親友のゆいちゃんと、海岸から1・5キロ内陸にある同じ幼稚園に通っていました。その幼稚園を津波が襲い、園児8人、職員1人が、避難するために乗った送迎バスごと流されて亡くなりました。早退していた羽奈ちゃんは、海から遠く離れた病院にいて助かりました。震災後、小学生になった羽奈ちゃんは、毎週、幼稚園の献花台を訪れ、置かれたノートにメッセージを書き続けているそうです。「まるで亡くなったゆいちゃんが目の前にいて、話しているかのよう」だと、記者は綴っています。私が住職を務めるお寺では、わが子を亡くした母親が、毎日お墓参りに来られています。もう1年が過ぎました。私は、その姿を見守り続けることしかできませんが、お母さんはきっと「ここへ来ればわが子に会える」との思いで来ずにはおれないのだと、私は感じてきました。住職として、多くの人の死と、その家族や周囲の人たちに会ってきました。予期せぬ別れであったり、つらい別れにも出会ってきました。それらの経験から私が学び感じてきたことは、「死んだら終わりではない」と仏教が説き続けてきたことが、その通りなんだということでした。「死んだら終わりではない」ことは、私の死ということと遺(のこ)された方にとっても、その両方に言えることなのです。
何でも話せる場所
以前出会った詩に、小学6年生(当時)の中村良子さんが書いた『宿題』があります。良子さんのお母さんは若くして亡くなりましたが、学校の宿題で「お母さんの詩」が出されたのです。先生から「つらい宿題だと思うけど、がんばって書いてきてね。お母さんの思い出としっかり向き合ってみて」と言われました。詩の一部ですが紹介します。
がんばってがんばって書いたけれど お母さんの詩はできなかった 一行書いてはなみだがあふれた 一行読んではなみだが流れた 今日の宿題はつらかった今まででいちばんつらい宿題だった でも「お母さん」といっぱい書いてお母さんに会えた 「お母さん」といっぱい呼んでお母さんと話せた 宿題をしている間私にもお母さんがいた
またあるとき、ご門徒さんからこんな質問を受けたことがありました。その方は、連れ合いの方と2人で暮らしていましたが、連れ合いの方が先に亡くなり、いま家にひとりぼっちで暮らしています。お仏壇に向かって、昨日あったこと、今日あったこと、うれしかったこともつらく悲しいことも、時には愚痴や不満も話しかけるそうです。「それはいけませんか」というのが質問でした。「おうちのなかで、何でも話しかけられる場所があってよかったですね」と、私は答えたように記憶しています。今までは、家の中で話しかける相手がいたのですが、先立たれたあと、お仏壇に向かって話しかけるようになったというのです。お仏壇の前に座ったとき、阿弥陀さまを見つめながら、亡き夫に話しかけているのかもしれません。話しかけても決して返事がもどってくるわけではありません。それでも、いつでも、ずーっと黙って聞いてくれているのでしょう。きっと、どんなに日々支えられていることかと想像いたします。
仏教が「死」を通して「生」を考えることを示し続けてきたからこそ、仏教が私に生きる力を与えてきたのではないかと思っています。そして、わが「いのち」を精いっぱい生きていくためには、時には亡き人に出会える「ところ」「とき」が必要なのです。その出会える「ところ」や「とき」は、人それぞれです。その一つに、お寺の本堂やお仏壇、あるいは儀礼があるとするなら、いまを生きる私にとって、宗教的空間や宗教の意義はとても大きく大切なものではないかと思うのです。 
 

 

■宿題できたよ!
その視線の先は...
長いゴールデンウイークも、あっという間に終わりを告げました。楽しい休日を過ごした子どもたちにとって、次の楽しみは夏休みでしょうか。ある年の夏休みのことです。長いお休みも終わりに近付いた8月下旬、お寺のサマースクールには、朝から近所の子どもたちが夏休みの宿題を持って遊びにやって来ました。一緒に「正信偈」のおつとめの後、机を並べてみんな一斉に夏休みの宿題帳「夏の友」を開きます。課題が進んでいる子もいれば、これから取りかかる子も・・・。その中に、兄妹で参加してくれているA君がいました。みんなが勉強しているのをよそに、何をするわけでもなく座っていました。私が「宿題忘れたん?」と尋ねると、「宿題もうできたよ!」と言ったままじっと座っています。「どうしたん?」と、さらに尋ねると、「でかいなぁ!」とひと言。珍しそうに見入るその視線の先は、お内陣の阿弥陀さまでした。ご門徒さんのお仏壇の阿弥陀さまからすると、本堂の阿弥陀さまがとても大きいなぁと目に映(うつ)ったのでしょう。しばらくA君の視線の先の阿弥陀さまを、一緒に眺めていました。すると「宿題終わったけん、遊んでもいい?」とA君。「ほかのみんなは、まだ勉強してるから、もうちょっと待ってね・・・」 その時ふと、子どもたちと一緒におつとめした「正信偈」のご文(もん)がうかびました。重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう) ── 「重(かさ)ねて誓(ちか)ふらくは、名声十方(みょうしょうじっぽう)に聞(きこ)えんと」
私が呼ぶ前から
阿弥陀さまは、自らの名前である「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう)が、あらゆる世界を超えて響き渡り、聞こえ届くことを重ねて誓われました。名号の号の旧字「號」は、トラがほえるようにさけぶことを表します。まさに「阿弥陀」という救いのみ親の存在をこの私に知らせるための名号であったのです。いつの頃かはっきり覚えていませんが、よほど心地よかったのでしょう、お風呂場のベビーバスで、両親から「お母さんよ、お父さんよ」と声をかけられながら、体を洗ってもらったことが記憶に残っています。それはひとえに、私が親の名を呼ぶようになる前から、親の方から「あなたの親がここにいるよ」と、いつもよび続けてくれたからこそでしょう。阿弥陀さまは、救い難いあらゆるいのちをどうすれば救うことができるのかという大問題を、「五劫(ごこう)」という気の遠くなるほど長い長い時間、考えに考え抜かれ、さらに「兆載永劫(ちょうさいようごう)」という果てしなく長きにわたるご修行によって、ついに名号「南無阿弥陀仏」を成就されました。それはそのまま、この私を必ず救うという何より確かな「答え」でありました。阿弥陀さまは、み名となり声の仏となられて、私たち一人一人を「如来の子」として見まもり、常にはたらいてくださっています。私たちは直近の課題、目の前の問題が解決されると、肩の荷が下りてホッとした気持ちになります。でも、阿弥陀さまはこの私を必ず助けるという願いを立て、確かな救いの「答え」である親の名告(なの)りを完成し、久遠(くおん)の昔より今も、この私を救い取るためにはたらき続けておられました。
「親の心子知らず」といいますが、阿弥陀さまの目に映る、如来の子である私の毎日のすがたは、時に腹を立て、時に愚痴をこぼしたり・・・と、お恥ずかしい限りのすがたです。でも、阿弥陀さまは、そのような私にこそ、親の願いを聞かせ、親の名をよぶ子に育ってほしいと、はたらき続けてくださいます。お寺に遊びに来る子どもたちは、幼稚園から中学生まで、元気のいい子からおとなしい子までさまざまですが、ともに合掌し、おつとめをします。お寺の本堂は、誰でもみ教えをお聴聞できる場であると同時に、ともに「如来の子」である子どもたちのすがたを通して、み親の願いを聞かせていただく場でもあったということを知らされた、夏のお寺のひとときでした。

■離れることのない教え
今の自分はどうか?
「みんな生かされているんだよ」と、私は生徒に頻繁に語ります。私が奉職している東京の千代田女学園中学校・高等学校は、創立125周年、本願寺の龍谷総合学園に加盟している中高一貫の女子校です。4月になると新入生が入学してきます。中学1年生は、本当にまだ小学生の延長線上にあるような幼い状態ですが、その分素直な心を持っています。その姿を見て、先生として、というより人間として、恥ずかしく思うことが多々あります。鏡のように、自分の姿が生徒に映っているからかもしれません。浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、ご自身のことを「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」と自ら語り、常に自己と向き合ってみ教えに生きられた方であると言えましょう。ところで、「素直に話を聞きましょう」「常に自分を振り返りましょう」などと日常的に使いますし、それを否定する人はいないのではないかと思います。学校という場所に身を置いているからこそ感じることかもしれませんが、素直に指導を聞いてくれる生徒ほど早く上達するということは、本当に多くの先生方が実感されます。先生が正しく一生懸命に生徒を指導すれば、生徒はきちんと成長します。クラブ活動などではそのことがよくわかります。その生徒の姿を見て感じることは、「今の自分は素直に人の話が聞けているのか。素直に行動に移せているのか」という思いです。先生として今の自分は正しい指導ができているのか、という思いと、人間として素直に行動しているのかという思いは、共通しています。理想通りにはいきませんが、努力はしなくてはいけないという思いで日々生活を送っています。
知恵と智慧のちがい
さて、私はお寺の次男として生まれました。住職である父の姿を見て育ちましたが、浄土真宗にあまり関心を持たなかった私が、ある時からその教えにひかれるようになり、大学にも入り直し、以後、人生の半分以上の年月を、み教えを聞きながら生きてきました。まだまだ聴聞が足らないことは実感していますが、人生で一つ確信していることは、この教えから離れることはないということです。
智慧(ちえ)の光明はかりなし 有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく 光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし 真実明(しんじつみょう)に帰命せよ ・・・と親鸞聖人は『浄土和讃』に詠(うた)われています。
私たちは常に悩み苦しみ、いろいろと言い訳を探しながら、日々生活を送っています。そんな私に、阿弥陀仏の智慧が光となって届いていることに気付くとき、何ものにもかえられない喜びに満たされます。そこで大切なことは、「知恵」と「智慧」には、大きな違いがあるということです。再び生徒たちの話に戻りますが、生徒はまだ人生経験が少ない状態です。でも、自分たちが少しずつ知恵を得て、良くも悪くも成長していることを知っています。ある時、授業中に「小さかった頃の自分の方が好き」という生徒に出会いました。それは、知恵を得て余計に多くの苦悩(煩悩)をかかえていると感じているからではないかと思います。幼い頃は勉強しなくてよかったとか、しなければいけないことが少なかったから楽だったという意味合いもあるかもしれませんが、そればかりではないと思うのです。
私たちには確かに「智慧の光」が全員平等に届いているはずです。しかし、それに気付かないのです。「智慧の光」とは、「自己中心」の私、「煩悩を抱えたまま」の自己に目覚めさせていく「智慧」のはたらきのことです。本願寺派の関係学校では、人間として気付いてほしい大切なことを生徒たちに伝えようと、それぞれの学校で努力しています。蓮如上人は「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい」とおっしゃいました。知恵はある程度自然に得られます。しかし、「智慧の光」にはなかなか気付きません。若い時にこそ智慧の光に満たされ、以後の長い人生をしっかりと歩んでほしいと切望しています。そこに「みんな生かされているんだよ」という言葉の意味が、きちんと認識されてくる世界が開かれると思います。

■見えないはたらきに導かれ
慌てず様子を見て...
お釈迦さまの涅槃(ねはん)のご様子は、涅槃図として描かれ、時代を越え国を越えて、お釈迦さまを敬う人々の間で「絵解(えと)き」として伝えられてきました。その絵には、弟子たちの姿や悲しむ動物たち、沙羅双樹(さらそうじゅ)などが描かれていますが、空を見ますと、雲に女性の姿を見ることができます。この方は、お釈迦さまの母「マーヤ夫人(ふじん)」の姿だそうです。お釈迦さまの誕生から7日後に亡くなられたお母さまのことを、お釈迦さまはとても大切に思っておられたことがわかります。いつもそのご活躍を見守られ、いよいよ涅槃をむかえられる時にも、会いに来てくださる姿がそこには描かれています。私は今年の9月、三男の7回忌を迎えます。2007年の9月9日、三男の亮都(りょうと)は、3歳で急死しました。当時、私は妻と5歳の長男、3歳の双子の次男、三男の5人家族で、双子の弟たちがようやく幼稚園に通うようになった矢先のことでした。
9月8日、その日は土曜日でしたが、3人ともいつものように元気に朝のお参りをしました。そのお昼過ぎ、お昼寝からさめると、三男は38度の熱がありました。かかりつけの小児科の先生は、普段から「熱があってもあわてなくていいですよ。食欲があって元気なようだったら、しばらく様子をみてください。元気がなければいつでも診察しますから」と言ってくださっていました。様子をみていると、元気にお兄ちゃん二人と一緒に遊んで、晩ご飯も残さずに食べましたので、少し安心していました。長男、次男を順番にお風呂に入れている時、三男は突然倒れました。あわてて抱き起こすと、まったく息ができず、唇は紫色に変わってきました。すぐに救急車で病院に運ばれ、医師の先生と看護師さんが交代で心臓マッサージをしてくださっているそのそばで、私は見守るしかできませんでした。画面や音などで心臓の動きや血圧、呼吸などを示すモニターで、子どもの心臓の音が私にもわかりました。先生が胸を押している時だけ、音がしますが、手を止めるとだんだん音が弱くなり止まってしまいます。その様子から、とても危ない状態であることが伝わってきます。どれほど時間がたったのか、やがて先生から「打つ手はすべて打ってみましたが、お子さんを助けることはできませんでした」と伝えられ、ようやく触れることができた亮都のおでこは、少し冷たく感じました。日付は9日になっていました。
また出会える世界が
三男が亡くなってから数週間後のある日の夕食の時です。長男がこんなことを言いました。「家族が4人になっちゃったね。僕、5人の時が楽しくて好きだったんだ。もう5人に戻れないんだよね」 「でも、僕たちが楽しくご飯を食べると、亮ちゃんもうれしいんだよね。だから楽しくご飯を食べようね」 どうやら、私も妻も、まったく笑顔を見せずに毎日を過ごしていたようで、長男は、悲しんでばかりいる私たちを励まそうと、そんなことを言ったのだと思います。でも、その言葉は、大切なことを教えてくれました。「悲しみが大きいのは、出会いの喜びが大きかったからだよ」と。
親鸞聖人がお示しくださった浄土真宗のみ教えは「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還(かえ)って人々を教化(きょうげ)する」教えです。一緒にお念仏香(かお)る家庭を生きた三男は、浄土に生まれ、今度は仏さまとなって私たちを導いてくれます。でも、感情ばかりで生きている私には、そのはたらきが見えずにいます。今見えなくても、仏さまとなってたしかに私を導いてくださる、このことを長男は教えてくれました。そのはたらきに包まれ、このいのちを生き抜いて、また出会うことのできる世界がお浄土です。お浄土でまた会うことのできる亮都に、そして先輩方に、顔向けのできない人生をおくるわけにはいきません。「よくがんばったね」とかけてくれる声に包まれ、家族とともに笑顔で過ごしたいと思います。

■ガンジス河の砂よりも
この子の分まで...
澄んだ夜空を見ると、いまも鮮明に思い出すことがあります。その日は、通院の日でした。夕方からの診察だったので、終わって病院を出た頃には、夜の帳(とばり)がおりていました。当時、私は九州の小さな町に住んでいて、どこに行くのも自分で車を運転していました。病院の帰り道に、町で一番の大きな交差点にさしかかったとき、猫の横たわった身体が運転する私の眼に入ってきました。往来する車も多く、止まることができずに通り過ぎましたが、バックミラーに映った猫はピクリとも動きません。ほどなく家に着いた私は意を決し、猫を納めるための箱とゴム手袋を手に家を出ようとしました。すると、会社から帰っていた夫が「どこへ行くの?」と聞くので、猫のことを話すと、玄関のドアの前に立ちはだかり、「いまの君の状態では、そんなつらいことはしないほうがいい」と言いました。病院通いの私の身を案じる夫。「このままだと、あの猫のことが心配で・・・」と言う私。夫は何度も引きとめましたが、私の決意の固いことを知り、一緒に行くと言ってくれました。交差点まで二人で歩いて行くと、猫の身体は、まだそこに横たわっていました。夫は、私が車にひかれないようにと、車道に立って見護ってくれました。私はそっと猫を持ち上げました。1キロほどしかない小さな猫でした。子猫は、お母さんとはぐれて、こんな大きな道路の角でひかれてしまったのでしょうか。猫を入れた箱を抱えて10分ほど、家への緩やかな登り坂をトボトボと歩きました。夫も私も言葉が出ません。涙がほほを濡らし、小さな子猫の身体が、歩くほどに重みを増していきます。その重みを受けて思いました。さっきのさっきまで生きていたこの子猫の分まで、私は精いっぱい生き抜かなければ・・・。ふと見上げると、澄んだ夜空に満天の星が輝いていました。
夜も昼も私のそばに
遠い昔、お釈迦さまがおっしゃいました。人(ひと)、世間愛欲(せけんあいよく)のなかにありて、独(ひと)り生(うま)れ独(ひと)り死(し)し、独(ひと)り去(さ)り独(ひと)り来(きた)る。行(ぎょう)に当(あた)りて苦楽(くらく)の地(じ)に至(いた)り趣(おもむ)く。身(み)みづからこれを当(う)くるに、代(かわ)るものあることなし 
病(やまい)に出合って暗やみの中を過ごしました。すごく孤独でした。そして、あらためて思い知らされました。「生・老・病・死」の苦は、誰にも代わってもらえない。しかも、死は誰の上にも等しく訪れるけれど、それがいつかはわからない。今日かもしれないし、明日かもしれない。草の根もとに落ちるしずくのように、ポトポトと・・・。夫が先か、私が先か、死のあと先はわからない。そんなはかないこの世の縁を、うかうかと過ごしてはいないだろうか・・・。小さな子猫の身体が、あんなに重く感じられたのは、いのちの重さと、誰もが受ける苦を伝えていたからでしょう。涙でうるんだ眼で夜空を見あげると、九條武子さまのお歌がこころに浮かびました。
星の夜ぞらのうつくしさ たれかは知るや天のなぞ 無数のひとみかがやけば 歓喜になごむわがこころ ガンジス河のまさごより あまたおわするほとけ達 夜ひるつねにまもらすと きくに和めるわがこころ
夜空の星の美しさを感じて、数えきれないいのちの輝きを想い、喜びに包まれてこころが和んでいきます。インドのガンジス河の砂よりも、たくさんの仏さまが夜も昼も見護ってくださっていると聞くと、ホッとします。そんな想いに包まれると、現実の厳しさを受けとめると同時に、緩(ゆる)んでいくこころ・・・。「私は、あなたと共にいます。安心して、あなたはあなたのままに、いのちのかぎり精いっぱい、生きなさい」 独りで苦を受けているとばかり思っていた私のそばに、阿弥陀さまは、そっと寄り添っていてくださいました。

■ずいぶん静かになりました
最後のお別れではなく
最近、お念仏の声が小さくなっている、とよく言われます。特に実感するのが、葬儀の時です。以前はほとんどが自宅で葬儀をしていました。遺族、親族、会葬者が「正信偈」を読誦(どくじゅ)し、そこにはお念仏の声が満ちあふれていました。時代が変わったのでしょうか。葬儀がずいぶん静かになりました。通夜の法話の中で、心がけていることがあります。人は死んだらみんな仏さまになると思っている人が時々ありますが、決してそうではありません。もしそうなら、キリスト教徒も、イスラム教徒も、仏さまになってしまいます。仏教はそんな独善的な教えではありません。仏さまになることができるのは仏教徒だけなのです。親鸞さまは「南無阿弥陀仏」とお念仏申す人を真の仏弟子であると教えてくださいました。今こうして悲しみの中にある私たちにできることは、お念仏しかありません。ご一緒にお念仏いたしましょう。そうすれば、これが故人との最後のお別れにはならないはずです。このように法話の中で、必ずお念仏を呼びかけます。しかし、法話の後で「一同合掌・礼拝」のアナウンスがあるのですが、お念仏の声が増えることはまずありません。どれだけ呼びかけても残念ながら法話の前と同じです。いつも自分の力のなさを思い知らされます。初めて法話を聞いて、いきなり「お念仏いたしましょう」と言われても無理だろうなと思いつつ、それでも愚直に同じことを繰り返しています。
裏切られた期待
しばらく前になりますが、こんなことがありました。60代の男性の方の葬儀でした。いつものように通夜の法話が終わり、やはり静かな合掌・礼拝があって、退出しようと立ち上がった時でした。男の子の声が聞こえたのです。導師退出ですので、普通は静まりかえる瞬間です。
「お母さん、お念仏しなかったでしょう」 小さな声でしたが、その声は静かな会場内に響きました。声の方向を見ると、遺族席の親子が目に入りました。まだ小さな男の子が隣の母親を見ていました。初めて見る顔でしたが、故人の娘さんとお孫さんだと直感しました。母親は口の前で人差し指を立て、息子さんに向かって静かにするよう目配せをしていました。ところが、男の子がまた言ったのです。「お母さんのお念仏が聞こえなかった」 母親は小声で答えました。「あと少しの間、静かにしていてね」 この親子のやり取りを聞きながら横を通り過ぎようとしたその時です。背中から男の子の半泣きの声が聞こえてきました。「お念仏しないと、もうおじいちゃんに会えなくなるよ。そんなのいやだよ」 そうです。この言葉を聞いて確信しました。この男の子はお念仏してくれていたのです。母親がお念仏したかどうかはわかりません。けれども、少なくともこの子はおじいちゃんのことが大好きだったのでしょう。このままお別れしたくなかったのでしょう。法話を聞いて素直にお念仏してくれたのです。
振り向いて「ありがとう」と言って抱きしめたいほどの喜びでした。実際は何もしませんでしたが、退出しながらうれしくなりました。ところが、喜びはこれだけではなかったのです。次の日は葬儀です。入場の際、横目で男の子を探すと、昨夜と同じ席に母親と並んで座っていました。着席して司会者の開式の辞を聞きながら、耳をすませば彼のお念仏の声が聞こえるかもしれないと期待しました。しかしその直後、期待は裏切られました。「一同合掌・礼拝」のアナウンスと同時に、たくさんのお念仏の声が後ろから響いてきたのです。男の子の声などとても聞き取れません。会場全体からお念仏の声が響いてくるのです。目頭が熱くなり、勤行の最初の声がかすれました。通夜での親子のやり取りをみんなが聞いていたのです。男の子の一言がこれまでお念仏をしていなかった人の心を動かしたのです。彼の素直さが会場全体を変えてくれたのです。後ろを振り向くことはできませんが、声を出してお念仏する母親の姿と、それを聞きながら隣で堂々とお念仏する男の子の姿をありありと想像しながら、私は遺影のお顔を見て、おつとめを始めました。

■灯(あか)りと共に歩む先に
最後になるかも・・・
母の病気が明らかになったのは、昨年の春の頃でした。すでに治療が難しいほど、病気は進んでいました。痛みだけを和らげる治療を進めることとなり、在宅で緩和ケア専門の先生にお世話になることとなりました。自宅での療養でしたから、病気が進行して体力がなくなっていく様子がよくわかります。夏を過ぎ、秋になり、いよいよ動けなくなりました。食事もほとんど受けつけなくなり、水も飲めません。その頃、私は1週間ほど泊まりがけで布教に出かける予定が入っていました。「もしかしたら、母の往生にあえないかも知れない・・・」との思いで、覚悟しつつ、「行ってくるからね」と母に話しかけました。母は声を絞り出すように「気をつけてね」といって、いつものように私を送り出してくれました。重体の母を気遣(づか)い、心配して、「行ってくるからね」と声をかけたつもりが、その母に心配されていたとは・・・。最後になるかも知れない母の言葉を噛(か)みしめながら、車を走らせました。親の思いは、いつも子どもの心を越えているということでしょう。布教に出かける二、三日前、往診に来られた先生から一枚の紙を渡されました。先生は、「大丈夫。お母さんはきっとうまく着陸できますよ」とおっしゃいました。その紙には、母の命が終わっていく過程で、心と体に起こりうる変化について丁寧に書かれていました。母が往生したのは、布教を終えて寺に帰った翌日でした。静かな静かな臨終でした。家族全員で、お念仏を称えさせていただきました。「穏やかな最期でした。うまく着陸できたのは、先生とスタッフ皆さんのおかげです」というと、先生は「それは、私やスタッフの力ではありませんよ。家族の皆さんが、お母さんにがんばれ、がんばれと言わなかったからですよ。がんばれと言われたら、お母さんはもっとつらかったと思いますよ」とおっしゃいました。先生の「大丈夫」という言葉は、亡くなっていく母の気持ちに寄り添うゆとりを、私たち家族に与えてくれました。
聖人と一緒に歩む
『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』の一首です。
無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海(しょうじたいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ 
親鸞聖人は、「人生は暗闇を手探りで歩むようなものである。風雨にさらされることもあるが、嘆(なげ)くことはないぞ。阿弥陀さまが用意してくださった灯火(ともしび)があるぞ。念仏という船に乗せていただき、苦悩の海を渡らせていただこう」とお示しです。若い時も、年老いた時も、元気な時も、病の時も、どんな時も、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏とよんでおくれ、私をたよりとしておくれ」と、おっしゃいます。そのよび声と共に歩むとき、安心が生まれ、心にポッと灯りがともります。人生を飛行機に喩(たと)えると、離陸が誕生で、着陸が死ということになります。その間は、まさに順風満帆(まんぱん)な時あり、暴風雨の中の飛行ありと、さまざまでしょう。そして、着陸する時、ゆっくり高度を下げる着陸もあれば、急降下もあるでしょう。飛行機が順調に飛んでいるときは、何も心配ありませんが、突然揺れ出したりすると急に不安な気持ちが起こってきます。しかし、「気流の変化で揺れることがありますが、飛行には問題ありません。当機は、順調に飛行を続けています」と機長のアナウンスが入ると、不安な気持ちが晴れていきます。そして、飛行機は目的地に向かって高度を下げ、点々と輝く誘導灯をたよりに着陸します。阿弥陀さまが、お浄土を用意してくださる。この命を引き受けてくださる。そのお心が「南無阿弥陀仏」となって、私に届いています。その時その時に口からこぼれるお念仏は、灯りであり、その灯りに導かれてお浄土に向かいます。念仏と歩む人生を、親鸞聖人は「私と共に参りましょう」とお誘いになっておられます。

■人といのちのハーモニー
あいさつさえも
みなさんはどんな音楽が好きですか?誰でもお気に入りの曲が一つはあると思います。音楽は、私たちの生活においても大切なものとなっています。その音楽ですが、さまざまな音から成り立っています。トランペットだったり、サックスだったり・・・。それぞれ違った音色を奏(かな)で、自らが中心となるときは主張し、他の音を引き立てるときは一歩下がり、絶妙なバランスで成り立っています。もし、そのバランスが崩れたらどうでしょうか。それぞれの音がぶつかり合っているような状態です。音階が一つ違っただけでも、不協和音になってしまいます。不協和音とは、それぞれの音色が本来素晴らしいものであっても、お互いの響きを遮(さえぎ)り、調和のとれない、耳障りに聞こえるような音のことです。それは私たちの人間関係にもいえるのではないでしょうか。私は僧侶になる前、事務の仕事をしていました。その時、まさに不協和音ともいえる関係の方がいました。その方は、私より少し年上の女性の上司・Aさんでした。最初はとても仲良く和気あいあいと仕事をしていたのですが、いつの頃か、私と話をしてもらえなくなりました。Aさんとは一緒にペアを組んで仕事をしていたので、話さないことには仕事が進みません。しかし、仕事の話どころか、挨拶さえもしてもらえなくなり、意を決して話しかけてみると、「勝手にやったら?」としか言われませんでした。その時、ムカッとした私は、以降、自分からはほとんど関(かか)わろうとしなくなりました。このことが原因かはわかりませんが、Aさんは胃かいようになってしまい、しばらく胃薬を飲んでいました。苦しかったとは思いますが、なぜそのような対応しかしてもらえないのか理解できませんでした。不協和音の原因は全く思い浮かばず、Aさんはひどい人だなぁ、とばかり思っていました。
相手でなく自分が
仕事を辞(や)め、浄土真宗のみ教えを学び始めた時、「宮商和(きゅうしょうわ)して自然(じねん)なり」というお言葉に出あいました。
清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは いつつの音声(おんじょう)いだしつつ 宮商和(きゅうしょうわ)して自然(じねん)なり 清浄薫(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし 
雅楽(がかく)やお経(きょう)では東洋音階を用います。宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)という五つの音階がありますが、その中でも、宮と商の二つの音は、ぶつかり合って聞こえる不協和音の関係で、西洋音階でいうドとレのような隣り合う音です。
親鸞聖人は、阿弥陀さまのお浄土の世界では、その不協和音が調和していくと示してくださいました。自分の音も相手の音も、ぶつかり合うことなく響き合っていくということです。不協和音・・・真っ先に思いついたのはAさんとの関係でした。「こちらは誠意をもって話しかけていて、ちゃんと対応しているのに、Aさんはなんでそんなことを言うのだろう?」とばかり思っていました。しかし、よく考えてみると、不協和音の原因となっていたのは、自分の主張ばかりして、なぜわかってくれないのかと相手だけを責めていた自分の姿でした。その時、Aさんのことを避けようとしていた自分に、恥ずかしい思いがしました。「宮商和して自然なり」。このお言葉に出あって、Aさんとのことだけではなく、自分が正しいと思いこみ、相手と調和していけない自分の姿に気付かされました。阿弥陀さまは、私が心地よい音楽のように周りと調和できないことを見抜かれ、放ってはおけないと立ちあがってくださいました。そして、この世の命のご縁が尽きた時、すべてのいのちが調和していける世界をご用意くださっただけではなく、それは今の私にもはたらいてくださっています。今、私を決して見捨てないはたらきが届いていると思うと、少しでも相手のことを尊重していける生き方をしていこうと思います。Aさんとのことは、どこまでいっても現実を見ようとせず、相手に配慮できなかった自分との出あいにもなりました。嫌な出あいではなく、今では大切な出あいだったと思っています。

■「遺言」
何か心に引っかかる
今から3年ほど前、あるご門徒の葬儀をおつとめして、斎場に向かう車中でのことです。いつもなら自家用車で斎場に向かいますが、その日はご門徒が私のためにタクシーを呼んでくださっていました。その時、運転手さんがご自身のお母さまの話をしてくださいました。「実は私も先日、母を亡くしました。私はできるだけ時間をつくり、施設に入所している母の顔を見に行きました。でも、母は私の顔を見ても他人行儀。晩年から認知症になった母は、私の顔すら忘れてしまっていたのです。とてもショックでした。母の頭の中に、母の心の中に、私の存在がないのかと思うと本当にショックでした。ただ、それは病気がさせたこと。決して母の意思ではないと何度も自分に言い聞かせました。そしてもう一つ残念なことがあるんです。それは、母の遺言が聞けなかったことです。最後に一言、母の遺言が聞けるとよかったんですがね・・・」 運転手さんは「遺言が聞きたかった・・・」と何度もおっしゃっていました。その都度、私は「そうですね・・・」と口では相づちをうっていたのですが、なぜか心の底のほうで何かが引っ掛かるような思いもしていました。そして、お話を聞いているうちに、気付かせていただいたことがあったのです。それは「遺言」という言葉でした。何度か運転手さんがおっしゃった「遺言」という言葉に引っ掛かりがあったのです。
誰のためか考える
「遺言」という言葉は、ドラマなどでよく見られる臨終間際に発せられる言葉が「遺言」のように思われがちですが、そうではないことに気付かせていただいたのです。遺(のこ)された言葉。遺さなければならなかった言葉なのです。ということは、遺言とは、遺す側に必要な言葉ではなく、遺された者に必要な言葉で、遺された者が出あっていかなくてはいけない言葉です。臨終間際の言葉ではないのです。私は「運転手さん、私、今気付かせていただきました。私の両親はおかげさまで今も居てくれております。私が小学校に入学した頃は、母からいつも、『ハンカチ・鼻紙持ったか?』『先生の話、しっかり聞くんやで』『友達と仲良くするんやで』と言われていましたが、その一言一言が、その当時の母の遺言だったと思うんです。今もいろいろと母から言葉をもらいます。私のことを思って発してくれているその言葉すべてが遺言だったんだと気付きました。私の心の状態によっては、なかなか素直にありがとう≠ニ言えないことのほうが多くありますが、運転手さんも、お母さまのお言葉(遺言)を聞いてらっしゃるんじゃないですか?」 こうお話すると、運転手さんも「そうでした。母はたくさんの遺言を遺してくれていました。何度も繰り返して、うるさいとまで思っていたあの一言一言が遺言でした」とおっしゃいました。
「お経(きょう)」も同じことではないでしょうか。経典は、お釈迦さまが私たちに遺してくださった遺言です。お釈迦さまは、今この娑婆(しゃば)世界で迷い≠迷いとも気付かずに生きる私のために 尊いお言葉を遺してくださっていたのです。お経は、三蔵法師によって、「絹の道」、別名「骨道(こつどう)」ともいわれているシルクロードを通って日本に届けられました。今もなお道中には、白骨化した無数の動物の遺骨が砂に埋もれています。先の見えない砂漠にあって、はるか彼方(かなた)にお経を届ける・・・。「はるか彼方」とは、三蔵法師が目指される国というだけでなく、遠い先の時代も意味するものでしょう。そして三蔵法師の瞳に目標と映ったはるか彼方というのは、それは「私」のことではないでしょうか。ラクダに背負わせた経典が届けられなければならなかった場所、仏さまが三蔵法師に届けさせたかったその場所とは、正しく「私の手」だったのです。さらに、そのお心を頂戴(ちょうだい)することこそが、本当にお経が私に届いたことを意味するのでしょう。誰に届けられた経典なのか、誰に届けなければならなかった遺言なのか。今一度考えてみたいものです。

■苦しみも悲しみも喜びもご縁
美しい蓮の花
広島の作木町の溜池に自生する蓮の花を、妻と一緒に見に行きました。青い空の下、優しいピンクや清楚な白の大輪の花が一面を覆い尽くす様は、あたかも大海の波のようで、その迫力に目を奪われました。この溜池では、4年ほど前に水を抜いて護岸工事を行ったところ、その翌年から突然、蓮の花が咲き始めたそうです。近くの百歳くらいのおばあさんは、ここに蓮の花が咲くのは見たことがないとおっしゃっています。つまり、少なくとも百年以上昔にあった蓮の種が、工事の影響で傷つき、それが縁となって咲いたのです。実(じつ)は、蓮の種は硬い殻に覆われていて、そのまま蒔(ま)いても発芽しません。種の一部をヤスリなどで削り、傷つけなければ発芽しないのです。傷つくことが縁で発芽し、美しい花を咲かせる蓮の花。私たち人間も、時に傷つくことが仏縁となり人生に目覚め、美しいいのちの花を咲かすということもあるのではないでしょうか。
私を目覚めさせる仏
「仏さま」「ブッダ」とは「覚者」。つまり「いのちの尊さに目覚めたお方」のことです。そして、自らが目覚めるがゆえに、寝ている者を起こし、必ず目覚めさせずにはおれないお方なのです。私たちは口では、命は尊いとは言うものの、日々有り難く尊い命だとは感じず、愚痴や不平の中に暮らしていて、とても目覚めたとは言えません。そんな私たちに、命の尊さに目覚めてほしいとはたらき続けてくださるお方こそが仏さまなのです。昨年の2月、お寺の総代を以前してくださっていた方の長男さんが、働き盛りでお亡くなりになりました。初七日の折、「私たちが亡き方を仏さまと仰ぎ、手を合わすのは、私たちにいのちの尊さを目覚めさせてくださるからです」とお話ししました。すると奥さまが「主人が亡くなりこの初七日まで、一人仏間で寝ておりました。しかし、昨晩は寂しくって寂しくって、二十歳を過ぎた娘の布団に潜り込みました。娘の横で寝ながら、この娘と共に一つのお布団で休むなんて何年ぶりだろう。そして、じっとじっと娘の顔を見ていたら、なんてこの娘かわいいんだろう、と思い、今までこんなにかわいい娘と一緒にいながらも私はなんとも思わなかった。主人はあらためて家族の大切さに気付かせてくれました。これからは主人を仏さまと受け止め手を合わせていきます」と語られました。かけがえのない方を亡くされるというやり場のない悲しみのご縁でしたが、奥さまのお心に、美しく尊い、いのちの花が咲くきっかけとなられたに違いありません。
お寺でフェンシング
昨年の9月、三男がフェンシングをしたいと言い出しました。私にとっては約25年ぶりで学生時代やっていたフェンシングの再開です。すると友達も続々集まり、高校1年生ばかり総勢6人のチームが出来上がりました。その新チームを、広島市中区フェンシングクラブの方々がご指導くださり、大学時代の後輩がわざわざ福山から新幹線に乗ってコーチをしてくれたりしています。福岡では以前お世話になっていた元全日本のチャンピオンの方の所で合宿させていただいたり、子どもたちの親御さんも皆協力してくださいます。そして何より、私が監督として試合などに同行する時、坊守は応援にも行けず、お寺の法務を私に代わってつとめるなど、私や子どもたちを支え続けてくれています。また、子どもたちを私たちのお寺に招いて何度か合宿もしました。宗門校の崇徳高校に通っている生徒たちですから、朝起きてからの勤行も皆大きな声を出しておつとめします。おつとめの後、「仏さまは目に見えなくても、いつでもどこでも私たちを支えてくれるお方だよ。試合の時は、自分一人で臨まなくてはいけない。だが、勝ってる時も負けてる時も君たちは、仏さまやお父さん、お母さん、たくさんの指導者の方々のおかげがあることだけは覚えていてほしい」と話しました。一人ぼっちのように思えても大きな支えをもらっていることに気付くことは力となります。私たちも、喜びの時も、悲しみの時も、時には傷ついた時も、仏さまの教えを聴き、必ずや人生の花を咲かせましょう。

■絶え間ない親心
三つの小包が毎月
学生時代、郵便局でアルバイトをしていた時のことです。私の担当は、小包の仕分けでした。全国から届いた小包を、配達区域に分けて、配達員に引き継ぐ仕事です。さまざまな荷物を、差出人から受取人へと取り次ぐという作業の中で、毎月ある荷物が届いていました。その荷物は大きな段ボール箱で、重量制限いっぱいの30キロの荷物でした。しかも、その荷物が同時に三つも届くのです。配達準備作業もひと苦労です。ところが不思議なことに、その荷物は配達されても、毎回受け取られることなく郵便局に戻ってくるのです。戻ってくるたびに、翌日の再配達の手続きをしなければなりません。30キロにも及ぶ大きな荷物を持って、保管室と配達員の間を何度も往復するうちに、だんだんとその荷物が煩わしく思えてきます。「どうせまた返ってくる荷物なのに・・・」と思うと、自分のしている作業もむなしく感じてきます。そして保管期限が切れると、決まって差出人に還付されてしまうのです。どうして受け取りのされない大きな荷物が何度も送られてくるのか、長らく疑問でした。ある時、その荷物を引き受けてきた局員さんに聞いてみました。すると、その三つの小包は年配の母親が息子さんに送ったものでした。ただ、その方は認知症で、息子さんが引っ越したことも忘れてしまい、元の勤め先の住所に荷物を送り続けているのだそうです。局員さんは事情を知りつつも、その母親の気持ちを思うと言うに言い出せず、結局、荷物を引き受けていたのだそうです。そして、荷物が息子に受け取ってもらえずに戻ってくるときの母親の気落ちした顔を見るたびに「息子さん、次は受け取ってくれるといいですね」と声をかけるしかなかったのだと教えてくれました。わが子を思って、重量制限いっぱいになるまで荷物を作る親心とは、どのようなものでしょう。「あの子は、これが好きだったから。これ、あの子に似合うかしら・・・」。きっと、そんな子を思う一心で作られた荷物だったと思います。あふれるばかりの想いのこもった送りものです。「お母さんありがとう」と、ただ受け取ってくれただけでも、母親は大喜びだったと思うのです。残念ながらその後も、荷物が受け取られることはありませんでした。
ただ受け取るだけ
重量制限いっぱいの荷物を送り続ける親心に触れて、同じように親心のいっぱい込められた南無阿弥陀仏のお念仏がこころに重なってきました。私たちは、阿弥陀さまのことを「親さま」とお呼びすることがあります。阿弥陀さまが私のことを一人子(ひとりご)のように心配し、苦悩の世界から救おうとはたらき続けてくださっていることをお聞きすると、「親さま」と呼ばずにはおられないからです。阿弥陀さまはこの私を救うため、五劫(ごこう)というとてつもなく長いあいだ思案され、兆載永劫(ちょうさいようごう)のご修行を積まれた結果、南無阿弥陀仏のお念仏が、この私に届いてくださっています。「この念仏ひとつに、私のさとりの功徳を全(すべ)て込めましたよ。どうか南無阿弥陀仏の六字を受け取ってくれよ」という親心によって、いま届けられているのです。そのお念仏を受け取ろうともせず、背き続けてきた私の姿は、どれだけ親さまを悲しませ、泣かせてきたことでしょう。にもかかわらず、「次こそは、次こそは」と、南無阿弥陀仏を私に届けようとする親心が、絶え間なく私にかけられていることを聞かせていただくたびに、その親心の大きさに気づかされます。
親鸞聖人は『浄土和讃』に、
南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量(じつぽうむりょう)の諸仏(しょぶつ)は 百重千重囲繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して よろこびまもりたまふなり ・・・と詠(うた)われています。
迷いの世界を輪廻する私に「どうか救われてくれよ。南無阿弥陀仏を受け取ってくれよ」という阿弥陀さまの願いを、お釈迦さまをはじめ、十方無量の諸仏もまた願われ、見守ってくださっていたのでした。ただ受け取るだけで、親さま、仏さまのほうが大喜びしてくださるというのです。その喜びの大きさは、ご苦労の大きさ、これまで待ちわびた気持ちの大きさに裏打ちされているようで、申し訳なさと、ありがたさに、お念仏申すほかありません。 
 

 

■ふすま越しのお念仏
声をふるわせて・・・
私が僧侶となったのは、高校2年生の時でした。当時から、日々のご門徒宅のお参りでは『仏説阿弥陀経』をおつとめしていました。漢文で書かれたお経(きょう)は、高校生の私には難しい言葉ばかりで、おつとめはシドロモドロ。なので、留守宅に一人でお参りする時はホッとしました。反対に、ご家族が後ろに座ってお参りされるとひどく緊張するのです。間違ったらどうしよう、そんな思いで、声を震わせておつとめをしていました。あるお家に、おばあさんがおられました。お歳は98歳。長年お寺へお参りされていたこともあり、後ろに座って一緒におつとめをされます。その声の大きいこと素晴らしいこと。私はおつとめに自信がないので、だんだん声が小さくなっていきます。逆におばあさんの声はどんどん大きくなります。これが本当につらかったのです。こんな調子で毎月のお参りにうかがっていましたが、どういう心境の変化でしょうか、そのうちにおばあさんと一緒におつとめするのが楽しみになってきたのです。ある日、今日もお会いできると思ってうかがうと、おばあさんの姿が見えません。畑にでも行っておられるのかなと思いながら、おつとめを済ませて帰りました。しかし翌月もその次の月も、お家におられる様子がないのです。そこでご家族にお聞きすると、「いやあ、実は体調が悪くて入院していまして・・・」とのこと。「そうですか、ちっとも知りませんでした。くれぐれもお大事にとお伝えください」と申し上げました。それからの月参(つきまい)りはとても寂しく感じました。一人でおつとめするほうが気楽だ、と思っていたのが嘘のようでした。そしてしばらく月日が経ったある日のこと、お仏壇で手をあわせお念仏を称えていると、どこからか声が聞こえてくるのです。もう一度私がお念仏を称えると「なんまんだ〜ぶ、なまんだぶつ」と、ふすま越しにお念仏の声が聞こえてくるではありませんか。それはおばあさんの声でした。「退院されたんだ!」と思うとうれしくなりました。「仏説阿弥陀経〜如是我聞(にょぜがもん)〜一時仏在(いちじぶつざい)・・・」とおつとめしますと、隣の部屋からもおつとめの声が聞こえてきます。よろこびに満ちた、声の弾むようなおつとめでした。
思い出≠ネどでなく
おつとめの後、「少しお会いしたいのですが」と声をかけ、ベッドで横になっていたおばあさんと久しぶりに対面しました。「よく戻ってくださいましたね」と声をかけると、私に手を差し出されるのです。思わずその手を両手でギュッと握りました。なんとあたたかい手でしょうか。でも、とても硬い手でした。その手に今までのご苦労を感じました。この手は長い間、土をさわってこられた手、家族を養ってこられた手なんですね。戦争中の物のない時代、言えない苦労もあったでしょう。人生そのものが伝わってくるようでした。「この手は人を幸せにしてきた手なんだ」と、そう思いました。するとおばあさんは、目にいっぱいの涙を浮かべて「ありがたいねぇ、うれしいねぇ」とおっしゃったのです。忘れられない一言になりました。それからしばらく後に、おばあさんはご往生になりました。あの年齢での入院は、さぞ心細かったことでしょう。家には戻れないのではという不安もあったに違いありません。そんなおばあさんにとって、何がありがたく、何がうれしかったのか。それは、いつでもどこでも阿弥陀さまとご一緒だったということではないかと思うのです。ふすま越しに聞こえてきたお念仏が忘れられません。もう一緒におつとめできないと思うと寂しい気持ちでいっぱいになります。ふすま越しに声が聞こえてくるような気さえします。でも、私の心には確かに響いてくるのです。あのお念仏の声がずっと残っているのです。これは、単なる思い出ではないような気がします。阿弥陀さまのおはたらきの中に、私を喚(よ)ぶ声ではないかと思うようになりました。「なんまんだぶつ、いつも一緒にいるよ」。いつどこで、どのように命終えたとしても、お浄土へ往(ゆ)くことが定まっているのです。そのお約束を今いただいているということが、老いに向き合っても、病の床にあっても、ありがたく、うれしく生き抜けるんだよ、と私に伝えてくださった尊いご縁となりました。

■あなたはどこに
「つぶてそんぐ」
あなたはどこに居ますか。
あなたの心は 風に吹かれていますか。
あなたの心は 壊れていませんか。
あなたの心は 行き場を失っていませんか。
   命を賭けるということ。
   私たちの故郷に、命を賭けるということ。
   あなたの命も私の命も、決して奪われるために
   あるのではないということ。
2011年の3月11日に東日本大震災が起こり、それに伴い、福島第1原発の事故が発生して、多くの人が被災しました。詩人で高校の国語教師もされている和合亮一さんは、福島県伊達市の学校で被災されました。避難所で数日過ごした後、自宅に戻ってからは、数々の詩を作ってツイッターで発信し続けられたのです。それらの詩は大反響を呼びました。その詩に感激した作曲家の新実徳英氏が、「つぶてそんぐ」として合唱曲を作りました。その「つぶてそんぐ」第1集におさめられた第1曲が、初めに挙げた「あなたはどこに」です。いま、この歌は全国の合唱団で歌われています。先ほど紹介したように、この詩は大震災、ことに原発事故で、ふるさとを離れることを余儀なくされた人々に向けて送られたメッセージです。私が指導させていただいている永源寺コール・メイプルでも、いま「あなたはどこに」に取り組んでいますので、この曲を歌うときは、できるだけ被災地の方々に思いを寄せるように心がけています。その中で、この詩をよくよく味わってみると、ただ被災された方々だけに向けられたものではないと思うようになりました。平穏な日常の生活の中にあったとしても、傷つくような言葉を投げかけられて孤独感に襲われ、自分の居場所を見失ったり、逆に、知らず知らずのうちに、周りの人を傷つけ、居場所を奪ったりしてはいませんか、と私自身に問いかけているメッセージとして、私の心に響いてきたのです。
安心のメッセージ
さて、お釈迦さま出世本懐の経典といわれる『大無量寿経』では、浄土からその説法の座に集まられた菩薩方は、「私たちが願わなくても、私たちのために大いなる慈しみをもって親友となり、私の重き荷物を一緒に背負ってくださる方々である」と讃えられています。そのような菩薩方の中でも、ことにすぐれたお慈悲の心をもって現れてくださったのが、法蔵(ほうぞう)菩薩というお方でした。師の世自在王(せじざいおう)仏の前で「恐れや不安を抱えて生きるすべてのもののために、私は大きな安らぎとなります」と高らかに宣言し、それを実現するために、長い長いご思案の末に、世に超えすぐれた四十八の誓願をおこされました。さらに、もっともっと長い時間をかけて、これらの誓願を実現するための修行を積み、見事に一切衆生をもらさず救い取ることのできる「阿弥陀仏」という仏さまとなられたのです。そして「あなたを救い取る手だてはすべて完成したから、どうか私にまかせなさい」という、仏としての名のりが、私の口からこぼれ出る「南無阿弥陀仏」というお念仏なのです。いま、『大無量寿経』のお心と「あなたはどこに」という詩に込められたメッセージを重ねてみるとき、
無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ ・・・という『正像末(しょうぞうまつ)和讃』の一首が、私の心に強く響いてくるのです。
私たちは、乗り越えられそうにないほどの苦しみや悲しみに出あうと、つらさのあまり、自ら心を閉ざしてしまいがちです。そんな時、私の心の闇を破り、行く手を照らしつつ、背中を押してくれる温かい言葉、それが「南無阿弥陀仏」という仏さまからの安心のメッセージであると、親鸞聖人はお示しくださいました。

■いのちの行方
ラジオで仏事相談
私の住む地域では、葬儀の大半が葬儀社の会場で行われます。ある時、葬儀の前に放映されていたビデオ映像で、宗派の紹介が行われていたのですが、「浄土真宗は、亡くなると誰もが極楽浄土に生まれて仏さまとなる有り難い教えです」というコメントを聞き、がくぜんとしました。日常生活の中で、「死んだら仏」という安易な考えや言葉を聞くことがありますが、経典(きょうてん)のどこを探しても、「死んだら誰もが仏となって浄土に生まれる」とは一言も書いてありません。安易な往生論が安易な生きざまとなっていないか、自らを問いたいものです。私は地元のラジオで、仏事相談の番組を担当しています。日頃の素朴な仏事に関する質問や疑問をはじめ、さまざまな苦しみや悲しみの想いを聴かせていただいています。また寺院や僧侶、宗教者への叱咤激励(しったげきれい)をいただくこともあり、その一つひとつが、私にとっての大切な学びとなっています。昨年の暮れに、聴取者の方からお手紙をいただきました。60代後半の女性の方で、その手紙には「人は死んだらどうなるのですか?」「死んだらどこへ行くのですか?」という問いが記されていました。春先にお嫁さんを亡くされ、残されたお孫さんから「お母さんはどこへいったの?」「何になったの?」と、ことあるごとに尋ねられるそうです。ある時、はからずも「お母さんは星になった」と伝えたその日から、お孫さんは毎日、夜空の下に立って母親を探しました。その姿が余りにもふびんで、本当にそのような答え方でよかったのかという自責の想いとともに、その手紙は綴られていました。後日、その方とお会いして、お話を伺ったのですが、死んだことがない人間にとって、死んだらどうなるのか?どこへ行くのか?という質問に応えることはとても難しいことです。心に汗をかきながら聴き、うなずかせていただいたのが、私の正直な姿でした。一方で、「星になる」という受けとめは、死を受容する一定の期間で効果のある手段であっても、その悲しみを背負って生きる私の人生の歩みにはならない、つまり限界があるという率直な思いをお伝えしました。そして、お嫁さんが伝え、お孫さんが問うた「いのちの行方」を、私自身の問いとして歩むことの大切さを述べ、お念仏によって拓(ひら)かれる「さよならのない世界」への想いを共にさせていただきました。
悲しみに心を寄せる
私たちに、死後の世界の実証はできませんが、すべてのものを手放し、愛するものと必ず別れなくてはならない「いのちの事実」が私の問題となった時、人は自らの「いのちの行方」を求めずにはおれないのだと思います。そこでは「浄土があるとか、ないとか」で量(はか)られるのではなく、「浄土がなくてはならないもの」として存在するはずです。親鸞聖人は、阿弥陀さまの「どんなことがあっても、私はあなたを見捨てることはしません。かけがえのないこのいのちを、あなたらしく力の限り生きなさい」という声を聞き、そのお心を「疑いなく信じ喜んで生きる者は、必ず浄土に仏として生まれる」とお示しくださいました。阿弥陀さまのお心をいただいて生きる者には、必ず会える世界が拓かれているのです。その後、ご質問の女性がお孫さんに話をされました。その9歳の男の子は「ぼくはお母さんに会いたい。お母さんに会うため、ぼくは仏さまの話を聞きたい」と言ったそうです。今は共にお参りのご縁をいただいていますが、これは別れの悲しみの中で道を得た者の姿であり、同時にこの子にとって、浄土とは今の自分を照らす確かな力となっているのだと感じています。「いのちの行方」を浄土といただくことは、阿弥陀さまの「同悲同感」のお心、悲しみを同じくし、その想いに心寄せるお心を、我が身の歩みとしていただいていくことに他なりません。だからこそ、いのちの尊厳性を損なうさまざまな社会の問題に対して、私が決して傍観者でなく、不条理・不平等の排除に向けた実践者であることが、念仏者としての生き様でもある、と私はいただいています。

■コスモスのいのち
酒蔵の並ぶ川辺に
9月16日に上陸した台風18号は、河川の氾濫(はんらん)など、各地に甚大な被害をもたらしました。私の住む京都・伏見の町も、自宅近くを流れる宇治川や桂川が急激に増水し、多くの家屋が浸水しました。宇治川に注ぐ派流も増水し、毎朝の散歩道も水に浸かる勢いでした。数日後、水の引いた川は、濁流に草が引きちぎられ、堤防は泥だらけの無残な姿になっていました。そんな堤防を見ながら、私は「もう、土手にコスモスは咲かないなぁ」と、一人のご門徒さんとの想い出を振り返っていました。そのご門徒さんとは、今年9月12日、102歳でお浄土にかえられた山口杉枝さんという方です。私がいつも「スギエばあちゃん」と親しみを込めて呼んでいた方でした。スギエばあちゃんは、伏見の酒蔵が立ち並ぶ川辺にお住まいでした。90歳を過ぎて息子さんを亡くし、独り暮らしになってからも自宅前の土手に季節の花を育て、人々の目を楽しませておられました。やがてスギエばあちゃんは娘さんの所に身を寄せられますが、スギエばあちゃんがいなくなった後も、自宅前の土手にはいつもきれいな花が咲いていました。数年前、初秋を迎えたある日のことでした。足が不自由になってお寺まで歩くことが困難になったスギエばあちゃんから、お寺に一本の電話がかかってきました。
「土手に、コスモスがきれいに咲いたから、とりにきて」 私はうれしくなって、自転車でご自宅へと向かいました。玄関を開けるとスギエばあちゃんは、たくさんのコスモスの花束を抱えて・・・ではなく、一本のハサミを持って、私を出迎えてくれました。一瞬「えっ?」と思いましたが、スギエばあちゃんの電話は「(摘んだものを)取りにきて」ではなく「採りにきて」だったのです。
かみしめて味わう
土手に下りると、一面に赤や紫や薄紅色といった、色とりどりのコスモスが、たくさん風に揺れていました。私は渡されたハサミでその中の一本を切ろうとしたその時です。スギエばあちゃんが大きく手を振りながら「それはだめ〜!」と叫ぶのです。「それはまだこれから咲く子どものコスモスやから、まだダメ〜!」。またまた「えっ?」と思った私が「じゃぁ、どれを摘んだらいいの?」と聞くと、スギエばあちゃんはこんなふうに答えてくれました。「それは、これから花開く、子どものコスモスやねん。それは放っておいてもみんなが見てくれる。でも、川岸にある、今にも散りそうな大人のコスモスは、もう花が開ききって、誰も見てくれへん。でも、アミダさまは、いつでもどんな時でも、見つめてくださる方やろ。だったら、その散りそうなコスモス、アミダさまのいらっしゃるお寺で、最後を迎えさせてあげたいんや」 私はなんだか胸があつくなって、今にも散りそうな「大人のコスモス」をいっぱい摘んで、スギエばあちゃんのお宅を後にしました。お寺に着く頃には、開ききった「大人のコスモス」はほとんど途中で散ってしまいましたが、「取りにきて」ではなく「採りにきて」でよかったなと思いました。軸だけになったコスモスのいのちは、アミダさまのまなざしを受けながら、お寺でそのいのちを一本一本、終えていきました。あれから数年、この9月12日にお浄土へと往生されたスギエばあちゃん。葬儀の時にお孫さんが、スギエばあちゃんの晩年の口癖を話してくださいました。
「粗食とは、よく咀嚼(そしゃく)して美味となる・・・」 百歳を超えて、おそらく噛むこともままならなかったスギエばあちゃんですが、食べ物だけのことではなく、お念仏を噛みしめて、噛みしめて、味わわれた言葉と受け止めました。豪雨の爪痕は大きく、土手の草花はほとんど流されてしまいました。もう、あのスギエばあちゃんのコスモスを見ることはできないかもしれません。でも、花を通して「いのちのありよう」を教えてくださったスギエばあちゃん。そのスギエばあちゃんが称えていたお念仏が、今、私を育ててくれているように思うのです・・・。

■どこにいても どんな時も
予定通りのほうが・・・
もう7年前になります。私は数人の友人たちと仏跡参拝旅行を計画し、およそ8日間、インドに滞在しました。すでにインドの旅行を経験した方々から、「現地に入ると、なかなか時間通り、予定通りに行動するのは難しいよ」と聞かされていました。しかし、インドでの最終日、帰国する航空便の遅延には、ほとほと疲れたことでした。3時間ほど待たされたでしょうか。私たちと同じ便に搭乗予定の人の中には、怒り半分に、説明を求めてカウンターに詰め寄る人もいました。そのいずれもが、インド以外の国の人です。そこで、ずっとご一緒くださった現地ガイドの方に、疑問に思っていたことを友人と共に尋ねてみました。「インドの人は待たされることに、なぜ苦情も言わず、憤りもしないのですか?」 するとガイドさんはニッコリ笑って、私たちに答えてくれました。「私はいつも同じ質問を受けますよ。でも考えてみてください。予定通りに物事が進む方がおかしくないですか?あなたたちは仏教徒ですよね?『命は風前の灯(ともしび)のようなもの』だと、聞いたことはないですか?」 中国の善導大師のお言葉の中に聞いたことがありました。
「灯(ともしび)の風中(ふうちゅう)にありて滅(めっ)すること期し難きがごとし・・・」 
私たちは「聞いたことがあります」と、その方に答えました。「日本人は、『命は風前の灯・・・いつ壊れても、いつ消えてもおかしくない命』だと言われるのに、灯(ひ)の付くロウソクの長さだけを眺めていないでしょうか?『予定通り。まだしばらく大丈夫だ』と・・・」 先の善導大師のお言葉は、「忙々(もうもう)たる六道(ろくどう)に定趣無(じょうしゅな)し」と続きます。「私の過ごすこの世界には、定まるところなどない。みんな壊れていく。本当にあてになるものなどない、迷いの世界なのだよ」 言われてみれば、そのロウソクも灯も、定まることのない、変転極まりない世界にあるのです。一度風が吹けば、どのようなことがそれぞれの身の上に起こっても、何もおかしくないのでしょう。なのに、それが自身のことだとは、なかなか思えないのがこの私です。自分に嘘をつきながら、自分をだましながら、その自分をあてにしながら生きているのが、私なのでしょう。
私が仏さまになる
6月25日、このガイドさんに一緒に質問してくれた友人が、今生(こんじょう)の縁尽き、お浄土に往生しました。突然のことのように感じました。彼の息絶え横たわる姿を目にした時には、やはり「嘘だろう?」とさえ思い、涙した私がいました。しかし、「嘘」は私自身でした。「おのおの聞け。強健有力(ごうこんうりき)の時、自策自励(じしゃくじれい)して常住(じょうじゅう)を求めよ」 善導大師は、「力の有る今こそ、自らを励まして、常住の法を求めよ」とおっしゃいます。壊れていくことに気付かぬふりをしていた私が、その事実と向き合った時、迷い、戸惑いながら恐れおののくこの私自身が願われている世界があります。その願いによって開かれた道があります。「お前の人生を虚(むな)しく終わらせはしない。安心してくれ。必ず救う。たのむから、この阿弥陀仏をよりどころとする道を歩んでおくれ」
阿弥陀仏は、自分をさえだましながら生き、戸惑い、ただ壊れていくことに虚しさしか抱けない私を、今、支えきってくださいます。それは、阿弥陀仏に導かれ、育まれていく道です。目覚めさせられていく道です。私自身を、もう壊れることのない、本物の値打ち者に仕上げてくださる道を、ととのえていてくださるのです。それがお浄土への道です。迷う者を目覚めさせる仏さまに、私がならせていただく道です。「力有る今、この今しかないで。加藤さん、やっぱり今しかないんやで。自分にだまされたらアカン。僕が加藤さんを支えていくからね」 彼は今現に、この私を目覚めさせるべく、導き育むはたらきとなってくださっています。今生の縁、いつ尽きるかわからないこの私の歩む一歩一歩を、彼はずっと見ていてくださるのです。どこにいても、どんな時も・・・。

■アンパンマンの魅力
戦いに勝つのではなく
漫画家のやなせたかしさんが、10月13日に亡くなられました。「手のひらを太陽に」という曲の作詞者としても知られますが、何といっても「アンパンマン」の作者として、とみに有名でしょう。絵本『アンパンマン』が誕生して40年、テレビアニメの放映が始まって25年になります。その間、アンパンマンは、つねに子どもたちのヒーローであり、国民的人気キャラクターであり続けているのです。私ごとで言えば、20年以上も前のことですが、息子が幼稚園に入る時の面接で、先生から「何が好き?」と尋ねられて、「アンパンマン・・・」と恥ずかしそうに答えていたのを、今も鮮明に覚えています。アンパンマンのどこが魅力なのか?なぜ子どもたちは惹かれるのか?――その理由が、やなせさんが亡くなられてから、さまざまな報道を通してわかったような気がします。やなせさんは言います。正義のヒーローは「戦いに勝つことではなく、ひもじい者に食べ物を与えることだ」と。アンパンマンのキャラクターは、その信念で貫かれているのです。戦争体験をされたやなせさんならではの発想です。そこから「自分の顔を食べさせることで、飢えから助けてあげる」真のヒーローとして、アンパンマンが誕生したのだそうです。「ほんとうの正義というのは、決してかっこいいものではない。必ず自分も深く傷つくものです」とも言われます。自らが犠牲になって、弱者や困窮している人を助ける――そこに人びと、特に子どもたちは尊敬のまなざしを持って共感するのでしょう。
大悲の心が私を救う
「他者を救うために犠牲になる」という出来事は、最近、ほかのところでも話題になりました。横浜市緑区のJR線踏切内で、線路上に倒れたお年寄りの男性を、40歳の女性が助け、結果として自身が電車に轢(ひ)かれて犠牲になられました。彼女の行為に対して、種々の反応はあったものの、多くの人々が心動かされ、お花を供え、手を合わせる人が後を絶たなかったといわれます。実は、自己犠牲の話は仏教では「付き物」なのです。ジャータカ物語では「捨身飼虎(しゃしんしこ)」など、前世のお釈迦さまの善行として数多く語られていますし、「身代わり観音」や「身代わり地蔵尊」など、苦しむ人たちに成り代わって、その苦を引き受ける菩薩の霊験譚(たん)が、全国各地で言い伝えられてきました。日本人の心の中に、こうした自己犠牲を伴う救済に深く感動する心、敬い感謝する心が、今もなお、息づいているということなのでしょう。かといって、私自身の心の中をのぞいた時に、それがあるかと言えば、お恥ずかしいとしか言いようがありません。
今、私は、あれだけ世話になった年老いた母を、介護施設に入れたまま、寂しいであろうその母の側に居てあげていません。月に一、二度ぐらいしか顔を見せていないのです。恩知らずなのです。また、最近、私は大腸にがんができていたことがわかり、ポリープを切除し、なおかつ、近日、大腸とリンパ節の一部を切除する予定です。そこで思ったことは、いかに大腸に負担をかけていたかということです。つらい思いをさせ苦労をかけ、その上、一部を切り取り捨ててしまうのですから、身勝手としか言いようがありません。申しわけないことです。大腸もいのち、リンパもいのち、それらが連携しあって、より大きな「私」と思っている「いのち」を支えていると言えるでしょう。まったく都合のいい話ですが、切除されたポリープも、毎日の排泄物も、「自己犠牲」となって、私を生かしてくれているのかもしれません。どんな小さなものであっても、そこにいのちの息吹を感じたならば、それは間違いなく、仏さまの大いなる慈悲のお心に通じるものがあります。「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」―おさめ取って決して捨てない阿弥陀さまの大悲のお心が、そんな私を救ってくださっています。

■光に照らされて
いきなり法事の席で
「阿弥陀さまの光にいつも照らされている」って、どういうことか考えてみましょう。あるご法事での出来事です。目の前に座ってくれていたのは、中学生の女の子でした。私は、次のような質問から話を始めました。「ちょっと聞いていいかな。今まで、ウソついたことある?」 皆さんはいかがですか?今までウソをついたことはありませんか?私は「ありません」なんて言えません。あります。その数は・・・・・・正直数えることができません。大きなものから小さなものまで、いろんなウソをついてきました。その女の子はビックリしていました。いきなり法事の席で質問されたことにもビックリでしょうし、質問の内容にもビックリ、二重の驚きだったようです。それもそのはず、隣にはご両親が、周りには親戚の方がいらっしゃる中での問いかけでした。「まあまあ、どんなウソかは聞かないからさ(笑)、安心して答えていいよ」 そう言うと、彼女は目を真ん丸に開いて、息をのみながら首を縦に振ってくれました。ウソをついてきた自分を認めた瞬間でした。しかし、ここで終わりではありません。私はさらに質問を続けました。「ありがとう。じゃあさ、その今までついてきたウソの中で、まだ誰にもばれていないウソって、ある?」 女の子はさらにビックリです。今度は「えっ!?」と声まで出してしまいました。とても答えづらい質問ですね。「ばれていないウソがある」って認めてしまうと、その後が大変そうです。その時、一言だけフォローしました。「お父さん、お母さん、この後いろいろ追及しちゃダメですからね!」 そう言うと、ご両親も笑顔で了解してくださいました。
そんなやり取りの中、覚悟を決めた女の子は、ついに答えを返してくれました。静かに一言、「うん・・・」。ばれていない(と思う)ウソがある、という告白でした。あの真剣なまなざし、表情。忘れることはできません。もし私が同じことを聞かれたら、果たしてどう答えるでしょうか。正直に答えられるかどうか、とても不安です。そこから少しお話をしました。
大変だけど素敵
まずは彼女が答えてくれたことにお礼を。そして、仏さまの光に照らされるって、どんなことかを一緒に考えました。私自身のことを話しながら・・・。私もたくさんウソをついてきた、という事実。そしてその中には、彼女と同じように、たぶん誰にもばれていないと思うものもある、ということ。でもここからが大切です。誰にもばれてはいないけれど、ウソをついたということを私自身は知っています。光に照らされるということは、「ウソをついてしまったんだよな」って、「それでよかったのかな」って問いかけを持つことだと私はいただいています。そんな話をしました。
それを聞いて、今度はその女の子から問い返されました。「それって、大変じゃないですか?」 聞いてくれたこと自体がうれしかったので、私はニコニコしながら彼女に返事をしたと思います。「そうだね。とっても大変。きついこともあるけど、おじさんはそれが素敵なこと≠セと思ってるんだ」 阿弥陀さまの光にいつも照らされている。照らされたからウソをつかなくなるのかと言うと、とてもそうだとは言えません。しかし、ウソをついて、つき通して、ばれなければそれでよし、という開き直った生き方とは明らかに違ってくる気がしています。大変であることに変わりありませんが。阿弥陀さまの光は、他の誰でもなく、この私にこそ注がれています。その温かさにであえばであうほど、また私の本当の姿が浮かび上がってくるのでしょう。それでもなお必ず救う、離したりはしない、そう誓ってくださったみ教えです。この私の姿から歩みだそう、と思った出来事でした。

■報恩講をお迎えして
おとりこし
今年も報恩講の時節を迎えました。親鸞聖人の祥月(しょうつき)命日は、1月16日です。報恩講はご本山でおつとまりになる御正忌(ごしょうき)報恩講(1月9日〜16日)をはじめ、各地の別院や全国の真宗寺院、そして門信徒のご家庭でおつとめする宗祖親鸞聖人のご法事です。ご本山の御正忌に先だって、前年の秋の収穫が終わる頃からおつとめする場合が多いので、報恩講は「お取り越し」「お引き上げ」とも呼ばれています。私の地元の安芸教区では、広島別院から毎月、安芸教区報「見真(けんしん)」が発行されています。私は編集委員の1人ですが、今年も「見真」では、報恩講の時節に合わせて特集号を発行しました。今年度は、毎月のページとは別に、「親鸞聖人のご生涯」「親鸞聖人と恵信尼さまとの出会い」という二つの特集を組みました。そして編集会議を繰り返す中で、私たちにとって編集作業がそのまま、親鸞聖人の足跡(そくせき)をたずねさせていただく営みとなりました。一つ目の特集「親鸞聖人のご生涯」では、「お得度」「比叡山」「六角夢想」「吉水入室」「流罪(るざい)」「弁円(べんねん)」「教行信証執筆」「ご往生」と八つの場面の記事を掲載しています。そして今回の編集で実感させていただいたことは、親鸞聖人のご生涯が、筆舌に尽くしがたい苦難の連続であったということです。しかし同時に、親鸞聖人におかれては、苦難の出来事が苦難の状態のままではなかったということです。
「流罪」の場面を紹介します。親鸞聖人が法然門下に入った6年後の承元元(じょうげんがん)(1207)年、ついに朝廷が、8人を流罪に4人を死罪に処す念仏弾圧に踏み切ったのです。法然聖人は土佐(高知県)に、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪を命じられ、これがお二人の今生の別れとなりました。「承元の法難」と呼ばれる、法然聖人75歳、親鸞聖人35歳の時の出来事です。こうした処罰は、親鸞聖人が怒りをもって明言されるほど、不当な念仏弾圧でした。しかし親鸞聖人は流罪を契機として、越後での布教伝道に心血を注がれたのです。5年で流罪を赦(ゆる)された後も、この地の人々に阿弥陀如来のお救いを伝えるために、2年もの間越後で過ごされました。不当と明言しながらも、ご自身の身に及ぶ念仏弾圧まで仏縁へと転換されたところに、親鸞聖人が残された足あとの一端をうかがうことができると思います。
今・ここ・私
今年の1月、自坊の法要で、ご講師の先生から「お味わい」ということについてお話しいただきました。真宗門徒の先輩方は、「必ず救う」との阿弥陀如来の仰(おお)せを仰せのままに聞き、仰せのままにたまわる他力の信心を、「お味わい」という味覚的表現を用いられてきました。私は耳慣れたふりをしていた自分に恥ずかしさを感じながら、あらためて「お味わい」の一言に尊さを覚えました。「幼い頃においしいと感じていたものは、今でもおいしいですか? 幼い頃に苦いと感じていたものは、今でも苦いままですか? 目の前の事実は変わらなくても、私が変わることで味わいは変わるのです。死を迎えるという事実は一つでも、味わいはそれぞれに違います。死んだら同じではありません。行く先が変われば、今の味わいが変わってきます」と。
「生老病死(しょうろうびょうし)」のみならず、親鸞聖人が歩まれたご生涯は、まさに苦難の連続でした。9歳でのお得度、比叡山との決別、流罪、山伏弁円による殺害計画。苦難の出来事は誰しもが避けたいものですが、親鸞聖人は苦難の真っただ中で「必ず救う」の仰せを味わわれました。かねてより恩師からいただいてきた言葉があります。「お味わいは必ず、今・ここ・私。聞かせていただくまんまが信心。信心は未来のお救いではありません」 阿弥陀如来のお救いは今なのです。全国の真宗寺院で報恩講がおつとまりになっています。いのちある今、ご一緒に仏縁をいただきましょう。

■暮らしにお念仏の声を!
8年前から減少
日本の人口は、2005年に戦後初めて前年に比べて減少しました。その後の2年間はわずかに増加しましたが、2008年には前年比7万9000人減と大幅な減少となりました。それ以降現在まで、いずれの月においても、人口は前年に比べて減少し、しかも減少率は徐々に大きくなってきています。つまり、日本は人口減少社会となったのです。 それまでも、少子高齢化が社会構造を大きく変える大変な問題だと指摘されてきましたが、なかなか実感として受け止められませんでした。そのうち、地域の子どもの数が少なくなり、お寺での日曜学校にお参りする子どもたちが激減していきます。 一方、老人会のメンバーの数が増え、地域社会を支える大きな力になっています。三世代同居の家族は少なくなり、多くの子どもたちは、高校卒業や就職を機に親元を離れるのが当たり前のようになっています。農山村地帯だけではなく、地方都市でさえも、伝統的な行事や風習などの伝承、さらには生活の継続さえも次第に難しくなりつつあります。
問題があるのは私
そんな状況の中、祖父母世代からその子どもたち、孫たちへの仏法相続が希薄になっています。かつては、両親が仕事で忙しくて子どもとの接触が薄くても、祖父母から孫へと仏法が伝えられてきました。その依りどころは、お仏壇だったのではないでしょうか。しかし、祖父母と孫が共に生活する機会が失われ、お仏壇のない生活では、仏法の相続が難しくなっているのです。今や団塊の世代以降の家族では、お仏壇を持たないことが当たり前のようになっています。「亡くなった家族もいないのに、仏壇など必要ない」というのです。しかし、それでは家族に、そして人生に、依りどころとなるものを失ってしまっていることになります。こんな時代だからこそ、親元から離れて生活を始めるときには、まずお仏壇をお迎えすることが必要でしょう。お名号などのご本尊だけでもよいのです。簡素であっても、お仏壇が安置されれば、忙しさに紛れてしまっても、フッと気づかされたときにお仏壇に手を合わすことができます。お仏飯やいただき物をお供えするということもできますし、「ナモアミダブツ」とお念仏することも、仏さまを敬う心も、お仏壇があってこそはぐくまれるのではないでしょうか。それでも、日常生活に追われ、わが身わが心にとらわれて生きるのが精いっぱいの私たちです。生活の糧としてのお金、さらには仕事や人間関係など、わずらわしいことに追われて、わが心を振り返ることなく一日が過ぎていきます。ましてや仏さまのことなど、すっかり忘れてしまう日も少なくはないでしょう。しかし、そんな者さえも、必ず救うとお誓いになられた阿弥陀さまです。いつでも、どこでも、だれでも、どんな状況でも、たもちやすく称えやすい「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、私のところにおでましになってくださっているのです。
世間の目を気にして、お念仏することに抵抗を感じてしまうと、いつでも、どこでもお念仏するということはとても難しいことになってしまいます。それでは、南無阿弥陀仏(名号)が「たもちやすく」「称(とな)えやすい」という阿弥陀さまの願いを、この私が抑えていることにもなりかねません。仏法の相続を難しくしているのは、人口の減少でも、家族や地域の変容でもなく、お念仏のこころをいただく私に問題があるとは言えないでしょうか。どのような社会的な状況であったとしても、私自身がいただいたお念仏を称えさせていただくことによって、お念仏の声とそのこころは必ず世に響いていきます。お念仏を称える者を必ず救い取るというのが阿弥陀さまの誓いです。お念仏への抵抗やわだかまりがあるのなら、その思いをもって聴聞の席に着き、あらためて阿弥陀さまのおこころを聞かせていただきましょう。お念仏は阿弥陀さまのおこころであり、称名念仏は阿弥陀さまのはたらきなのですから。

■あなたの泣ける場所は・・・
ぐっとかみしめ我慢
2年前のある日の夕方、当時3歳の娘が、お寺の境内で自転車の練習をしていました。まだ慣れてないのでいつ転んでもおかしくありません。ちょうどお参りから帰ってきた私は、その姿を見ていました。「お父さん見ててね〜」と調子にのっています。私が「気をつけなさいよ〜」と言ったその時です。機嫌よく乗っていた娘が、パタリと転んでしまったのです。それみたことかと、私が慌てて駆け寄ろうとすると、娘がすっと立ち上がりこっちに向かって来ます。その時、私はその姿を見て驚きました。なんと、泣き虫なはずの娘が泣いていないのです。涙をぐっと噛みしめて、がまんしています。私はケガはしてないかと思い、走って来る娘を受け止めようとしました。すると、走ってきた娘はそのまま私の横を素通りして、玄関から家の中へ入っていくではありませんか。どこへ行くのかと後を追うと、娘は真っ直ぐに、台所にいるお母さんの所へ行きました。そして、お母さんの足にしがみついて、そこで初めてワーッと泣いたのです。妻は「どうしたの」と聞きますが、娘はただただ泣いているだけでした。本当に痛いのは転んだ時だったはずです。しかし、そこでは泣きませんでした。不安そうな顔をして、下唇をかんで我慢していました。安心できるお母さんに抱かれて初めて泣いたのです。娘にとっての泣ける場所はお母さんでした。
安心して泣く
『観無量寿経』というお経に、マガダ国の王妃イダイケが泣く場面が描かれています。それは息子の皇太子アジャセが、お釈迦さまのいとこのダイバダッタにそそのかされてクーデターを起こし、父ビンバシャラ王を幽閉してしまいます。そして、ビンバシャラ王を助けようとしたイダイケも、アジャセによって幽閉されてしまいます。息子によって牢獄に入れられたイダイケは深く悲しみ嘆いて、雨のような涙を流しながらお釈迦さまに助けを請います。その心を知られたお釈迦さまはすぐにイダイケの所に来られました。お釈迦さまの姿を見たイダイケは、みずから首飾りを絶ち、大地にわが身を投げだして、号泣してお釈迦さまに胸の内のありったけをぶつけたのです。イダイケにとってお釈迦さまは、全てを投げ出して泣くことができる存在でした。お釈迦さまは号泣するイダイケをそのままに受け止めておられました。苦悩のすべてを受け止められたイダイケは、苦しみなき世界へ生まれたいという願いをおこします。これはイダイケが現実を受け止め、前へ進もうとしている姿です。
そういえば、私にもこんな経験があります。あるお寺でお取り次ぎさせていただいた時のことです。あるお同行さんが、法話の最中に静かに泣き始められたのです。私としては、泣くような話をしたつもりはありませんでしたが、話の内容が変わっても、しばらくそのお方の涙はやみませんでした。私の母も、自坊でご法座がつとまった時、ご講師の先生が淡々とお話をされている中、一人泣いていることも少なくありませんでした。私はその姿を横目で見ながら、何を泣いているのだろうと思ったことを今でも思い出します。母は、涙をそそる喩(たと)え話を聞いていたのでもなく、ただ普通におみ法(のり)をお聴聞していただけでした。お同行さんも母も、阿弥陀さまのお慈悲の中で、自らの人生を照らし合わせて涙していたのかもしれません。二人にとって、泣ける場所は、ご法座だったのです。
考えてみると、泣ける場所はそう多くはありません。この世は、がんばって笑顔を作り、自分をごまかさなくてはいけないことの方が多いのかもしれません。ゆっくりと自分に向き合える場所。そのままの私でいられる場所。悲しみを悲しみのままごまかさずにいられる場所...。さあ、私にとっての泣ける場所はどこでしょう?あなたにとって泣ける場所はどこですか? 
 

 

■仏さまの御(おん)約束
VBA48
「お父さん、NMB48って知ってる?」 「AKB48なら、ちょっと知ってる。親戚みたいなもの?」 「親戚じゃない。でもAKBと同じようにアイドルグループで、大阪の難波を拠点に活動しているからNMB48、ほかに福岡・博多のHKT48とか...、聞いてる?」 「一応は」 子どもの頃、一緒にテレビを見ていると父はよく、「最近の歌手はみんな顔が同じで、歌詞も何をいっているのかよくわからん」と嘆いていました。私は父の感覚の方がわからず、「だったら一緒に見なけりゃいいのに」と思っていましたが、いつのまにか父の年齢に近くなりました。そして気がつけば自分も、「48人いるから48なの? 顔が似ていて、ぜんぜんわからんわ」とか言っているわけです。典型的なおじさんです。人生の先輩方によれば、これからは新しいものを受け入れていくことがだんだんと苦手になっていくようです。そして加速度的に記憶力が落ちていくようです。父の気持ちがほんの少しですが、わかりました。あの嘆きは、きっと自分の老いに対するものでもあったのですね。でも、認めたくないわけです。私も、「えっ! 知らないの」という顔を娘にされると悔しくて、「じゃあ、VAB48を知ってる?」と娘に反対に尋ねました。しばらく、考えていましたが、「そんなのないでしょ、いま作ったんでしょ」と言います。「ははは、まだまだ中学生やね。これは英語の略なんだよ。ザ・48ヴァウズ・オブ・アミダブッダ。ヴァウ(VOW)というのは仏さんの本願、仏さんがされた約束、阿弥陀さんの本願は四十八個ある。これを、略してVAB48、どう?」 「......」
契約ではないお約束
親鸞聖人は門弟に出されたご消息(しょうそく)(お手紙)の中で、本願は「仏(ぶつ)の御約束(おんやくそく)」だとおっしゃっています。『歎異抄』の中にも、「この名字(みょうじ)をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば」と述べられていますので、本願は御約束とも呼ばれていたようです。普段、私たちも「約束」という言葉を使っていますが、仏の御約束は人と人との間の約束とは違います。そして、神の救済を説く宗教でも約束ということを説きますが、これとも大きく性格が違います。どこが違うのかといいますと、神の約束というのは、預言者によって交わされた神と人間との間の契約をいいます。契約ですから、人はその約束を果たすためにしなければならない事柄が課せられています。そしてそれを果たし遂げることによって、神より恩恵をうけるという関係です。また、人と人との間の約束は、当事者が何らかの取り決めをして作り上げるものです。ですが、いくら納得して決めた事柄であっても、しょせん人間のすることですから、それはしばしば破られます。たとえ故意でなくても、忘れてしまって結果的に破られることもあります。「約束したじゃない!」と叱られた経験は誰でもありますよね。ですから、大切な約束の場合、私たちはそれに強制力をもたせるため、やはり契約を結び、罰則を設けるわけです。
このような契約としての約束に対して、阿弥陀仏の御約束は、私たちのように煩悩を具(そな)え、何一つ確かなものを持っていない愚かな凡夫のすがたを、あらかじめ見通されて、仏の側より先手をうって建てられたものです。本願に説かれる念仏は、契約ではありません。阿弥陀さんが「我にまかせよ、必ずあなたを救う」と、仏に背を向ける私をたえず喚(よ)び続けておられる声なのです。よって本願には、私たちのあれやこれやの詮索、つまり、はからいの心は入っていません。阿弥陀仏と人間との間で交わされた約束ではなく、どこまでも仏自身のおはからいによる御約束だからです。さて、私に似て負けず嫌いな娘は、「お父さん、だったらSTK48はわかる?」と聞きます。 「S・T・K、ステキな48?」 「違う! スギオカ・タカノリさん、今年もう48歳の略」 「いや、素敵な48歳や!」 「素敵な人は約束破らん」 確かにその通りでした。

■唯可信...ただ信ずべし
この命と引き換えても
私には「唯(ゆい)」という4歳の娘がいます。正信偈(しょうしんげ)の最後のご文「唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)」からいただきました。唯は生後8カ月の時に危篤に陥りました。原因不明のおう吐を繰り返し、意識不明になりました。地元の病院では「原因がわからないんです。ただ血液検査の結果、極端に酸性に傾いています。これは身体に毒素が溜まっているのです。恐らく代謝の異常だと思われますが、群馬には代謝の専門チームがありません。このままでは大変危険です。栃木の医科大病院には専門チームがありますので、今から唯ちゃんをそちらに搬送します」と言われました。今思えば、この時の医師の説明などほとんど耳に入らず、手を握るわが子の脈が弱くなっていくこと、体温が下がり手の温もりを感じられなくなっていく現実に、「たのむから助かってくれ! 私のこの命と引き換えでもいいから助かってくれ!」と思うばかりでした。小さな身体が担架に乗せられて付き添う妻とともに救急車の中に消えて行きました。医師から「お父さんしっかりしてください! 唯ちゃんが無事に到着できるかどうかは五分五分です。私も救急車に乗り、精いっぱい努力します!」と告げられた時には、腰から下の力が抜けていくのを感じました。自分の車を運転し群馬から栃木に向かう車中、考えたのは「どうしたらいいんだ...どうしたらいいんだ...」ばかりでした。病院に着き病室に駆け込むと、唯は数人の医師に囲まれて懸命に小さな呼吸をしてくれていました。医師や看護師さんの必死の治療のおかげで、3日目に意識を取り戻してくれました。しかし、病名は不明のまま。尿や血液を全国の病院に送り、検査をする日が続きました。
どうであろうとも
約1カ月後、医師から妻と私に説明がありました。「まず、唯ちゃんの病名が判明したことを幸いと言わねばなりません。というのも、この病気は数年前までSIDS(乳児突発死症候群)に含まれていたものですが、医学の発達により病名が明らかになりました。メチルマロン酸血症と呼ばれるものです。健康な人は、食事をすると、それを分解・吸収し、排泄します。ですが、この病気の人は、個人差はあるものの、1日でタンパク質を体重1キロに対して1グラムまでしか分解できません。唯ちゃんの体重が約10キロですから、タンパク質は10グラムまでしか分解できないということになります...。10グラムというのは牛乳1本に含まれる量です。肉やお魚を食べたいだけ食べるというわけにはいかないんです。そして日本には120人しか患者さんがいないので、臨床例も極めて少なく、われわれも手探りで治療をしていくことになります」 説明を聞き終え、妻を唯の付き添いで病院に残してから、ひと月ほど家で一人で過ごしました。その間、私が考えたのは、「唯は...いつまで生きることができるんだろう? 唯は...普通の生活が送れるんだろうか? 唯は...学校に行っても給食は全部食べられないだろうなあ...給食を食べられないとイジメられたりするのだろうか?」。
毎日そんなことばかり悩んでいました。唯が退院してきた晩、唯を寝かしつける妻の背中に、抱えていた不安をすべてぶつけました。すると妻は、ゆっくり振り返って満面の笑みで「唯は唯ですから...」と答えてくれました。その時、私はハッと気付かされたのです。布教先では「青色青光(しょうしきしょうこう)・黄色黄光(おうしきおうこう)・赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)・白色白光(びゃくしきびゃっこう)......青は青色に輝けばいい、黄色は黄色に輝けばいい、赤は赤のまま輝けばいい、白はそのまま真っ白に光ればいい」などと、お釈迦さまの言葉を引用して自ら語っておきながら、わが子のことになると、この子の色以外の色に光ってほしいなどと考えてしまう自分がいる。そうだった、唯は唯のまま輝けばいい! 妻の笑顔に涙をこぼした私でした。「唯可信(ゆいかしん)...」−ただこの高僧の説を信ずべし。唯−ただ−とは何となくではありません。無気力ということでもありません。己(おのれ)のはからいを超えた「他力」の世界にまかせきるということです。「どうしたらいいんだ」ではなく、「どうであろうとも」それを確かに引き受けていく...。唯ひたすらに南無阿弥陀仏とともに強く明るく...。

■被災地を訪ねて
涙声で話すお母さん
昨年の10月、北海道教区日高組(そ)内寺院のご門徒さんと一緒に東日本大震災の被災地を訪問しました。震災から2年半、「復興」の掛け声とはうらはらに、いまだ心の傷の癒(い)えない方々と出会う旅になりました。東電福島第1原発の大事故によってまき散らされた放射性物質は、福島県の浜通り・中通りを中心とする広域に下降して土地や水を汚染し、動植物、そして人間に被害をもたらしました。浜通りの南相馬市では、稲作農家が米を作り続けるには、これからずっとカリウムを田んぼにまかなければいけないそうです。そうしないと稲がセシウムを吸ってしまうのです。米と野菜を買わなくてはならない屈辱に、農家の方は泣いているとお聞きしました。中通りの二本松市では、6月に北海道にお越しいただいた、幼い子どもを育てている若いお母さん方と再会しました。原発事故以来、お母さん方はさまざまな決断を迫られてきました。福島から逃れるか、福島にとどまるか。洗濯物を外に干すか、中に干すか。外遊びをさせるか、させないか。地元産の野菜を買うか、県外の野菜を買うか。給食を食べさせるか、弁当を持たせるか...。復興を急ぐ周囲との軋轢(あつれき)や、心無い人々の言葉に傷つきながら、必死に子どもを守ってきました。原発事故が起こった当時、放射性物質が頭上から降り注いでいることを知らずに、幼い娘を連れてお店にミルクを買いに走ったことを深く後悔しているお母さんがいます。子どもをこれ以上被ばくさせないために、彼女は家族の協力を得て、常に県外の食物を与えています。そのためには、祖父母が家庭菜園でつくった野菜も食べさせません。しかしある日、外遊びをしたい娘がおばあちゃんにせがんでイモほりをしたそうです。「思わず娘をきつく叱ってしまった」とお母さんは涙声で話してくださいました。
聖道・浄土の慈悲
覚えておられるでしょうか。震災の起きた2011年を代表する漢字は「絆(きずな)」だったことを。被災された方々の悲しみの大きさに触れ、多くの人が日々の普通の暮らしと、人とのつながりの大切さを思い出したからでした。しかし、被災地で私たちが見たものは、絆があるゆえに苦しむお母さん方や、補償の問題をめぐって被災者同士が傷つけあい、絆が壊される現実でした。ひょっとしたら、私たちは被災者を置き去りにして、絆という言葉を自分たちだけで消費していたのではなかったでしょうか。親鸞聖人は『歎異抄』第4条の中で、苦悩の中にいる人々を哀れみ、いとおしみ、はぐくむ慈悲のことを「聖道(しょうどう)の慈悲」、念仏してすみやかに仏となり、その大いなる慈悲の心で思いのままにすべてのものを救う慈悲を「浄土の慈悲」と示されました。「聖道の慈悲」は、人間にできる最高の慈悲ですが、この世に生きている間はどんなにかわいそうだと思っても、思いのままに救うことはできません。ですから、念仏して仏になることだけが本当に徹底した慈悲だというのです。この言葉をそのまま読めば、聖人はこの世で人々を救うことを断念したようにも受け取れます。しかし、私はこの言葉に、お念仏を伝えることですべてのものを救いたいという聖人の決然とした意志を感じます。悲しみに打ちひしがれている人々の心の中で、阿弥陀如来が「あなたの悲しみは私の悲しみです。私はあなたと共にいます」と呼び続けていると伝えたかったのだと思います。
私たちも「人の悲しみをわが悲しみとする」阿弥陀如来のお心にうながされながら、困難な状況の中におられる方々の痛みを想像し、気持ちを尊重しながら、被災地支援の活動を続けていきたいと思います。「聖道の慈悲」にも遠く及ばないちっぽけな、誤りの多い営みですが、これからも被災地の方々と関わりながら、お育てをいただきたいと思っています。そして阿弥陀如来のお心のように「人の痛みを想像する」ことが、今平和をめぐって曲がり角にあるこの国に一番求められていることのように思うのです。

■仏かねてしろしめして
スタッフもドキドキ
私が住職を務めるお寺では、保育園をしています。4月、桜が舞う中、かわいらしい新入園児さんが保育園に入園してくれます。と同時に、保育士免許を取得したばかりの新しい保育士さんが就職してくれます。これに先立ち、就職前の2月には、新任保育士さんのための研修会を1泊2日で行っています。志(こころざし)を共にする保育園合同の研修会で、毎年10人ほどの新任保育士さんが参加され、各保育園の園長先生や先輩保育士さんが講師とスタッフを兼ねてくださいます。私も今から8年前にその研修会に参加し、翌年からはスタッフとしてお手伝いをさせていただいています。この研修会には「恐怖の人差し指」と呼ばれる名物があります。どうして人差し指が怖いのかといいますと、講師である園長先生の人差し指が誰彼かまわず飛んできて質問攻めにあうのです。例えば......、「はい、あなた! 子どもが絵の具を誤飲してしまった。どうする?」 「では君! 子どもが急に熱を出して、今39度ある。どうする?」 しかも、恐怖の人差し指は研修生だけでなく、私たちスタッフにも飛んできます。ですから、研修生もスタッフもドキドキしながら、いや、きっとスタッフは研修生以上に緊張しながら毎年学ばせていただいております。
私を見抜き寄り添う
ある年の研修会、まとめの講義でのことです。講師の園長先生は「あなた!」と個人を指差すのではなく、そこにいる研修生やスタッフ全員に向かってこんな質問をされました。「では、この研修会最後の質問をします。どこの保育園にも物事をすばやく行うのが苦手な子どもっているやろ。例えば、はい、あーつまれ≠チて言っても、なかなか集合できない子どもがいる。その子は一生懸命やっている。けれども早くできない。だから、お友達にまた○○君遅い∞○○ちゃん、いっつも遅い≠チて言われてしまう。その子がかわいそうやな。では、皆さんに質問します。あーつまれ≠チて集合をかけて、一番遅い子が、一番早く集合できるようにするには、どうしたらいい?」 いかがでしょう。ちょっと考えてみてください。私がその時思いついたのは、「うちは幼児クラスには担任と副担任がいるから、一方の先生が集合をかけて、もう一方の先生がその子にがんばって一等賞になろう≠ニ背中を押してあげる」 これが正解じゃないかなぁと考えました。もちろん答えはひとつではありません。先生と子どもの関係、子どもの成長の度合いによって、それぞれに方法があると思います。ですが、講師の園長先生は私たちにこう教えてくださいました。
「あのな、一番遅い子の横で集合をかけてあげたらいいねん。そうしたらその子が一番や!」 続けて「これが、みなさんがこれから成ろうとしている保育士にとって、一番大切な『子どもの目線に立つ』ということなんですよ」と教えてくださいました。この答えを聞いた時、園長先生の保育に対する熱い想いをいただいたようで鳥肌が立つくらい感動しました。園長先生がおっしゃった「子どもの目線に立つ」ということは、「その子を見抜き、その子に寄り添い応じていく」ということだったのです。『歎異抄』に「仏かねてしろしめして」というお言葉があります。「阿弥陀さまはこの私を、誰よりも深く見抜いてくださっていました」という意味です。私はこの「仏かねてしろしめして」と示される阿弥陀さまのお心を、先ほどの園長先生の言葉を通して味わわせていただきました。「こちらにお浄土という素晴らしい世界があるよ。正しい生き方があるよ」とどれほど告げられても、理想の通りに生きていくことができない。阿弥陀さまを目指すどころか、阿弥陀さまに背をむけて、日々愛憎の煩悩を燃やし続けている。そんな私と見抜いてくださった阿弥陀さまだからこそ、こちらにひとつの条件・注文をつけることなく、また私を責められることもなく、「必ず救う」と立ち上がり、南無阿弥陀仏のみ声となって私の「今、ここ」にはたらいてくださっているのです。

■リヤカーと仏教
ひざの上が定位置に
私が生まれた年、父は30歳でお茶の行商を始めました。父は私をよく行商に連れて行ってくれました。父は茶箱をリヤカーに積んで「おちゃーエー」と売り声を出しながら、毎日10キロの道のりを行商していました。私はリヤカーの後を押しながら歩きました。ところが、そんな私も中学生になると、リヤカーを引いて行商をする旧態依然とした父の姿を恥ずかしく思うようになり、家業を継ぐのがいやでいやで仕方がありませんでした。自分にはもっと格好のいい仕事があるはずだと思ったからです。そんな私に家業を継がせてくれたのは、龍谷大学で学んだ仏教と父の仕送りでした。大学の講義で私の心に大きな変化を与えてくれたのは「宗教学」の講義でした。教授に「祈り≠ヘ自己の欲望を絶対者に叶(かな)えてもらうことではないのですか」と知ったらしく質問すると、「告白≠ニいう意味もありますよ」という答えが返ってきました。その予期せぬ教授からの言葉に私は全身に電撃を受けたようなショックを味わいました。今まで自分の考えは絶対と思っていただけに、教授の言葉は私の「自惚(うぬぼ)れ」を打ち砕いてくださいました。その体験があってからは、仏教を肩ひじ張らずに素直に聞けるようになりました。
しわくちゃのお札
わが家の宗旨は代々「真言宗」でしたが、龍谷大学の経営学部に在籍しながら仏教を学んだことが私の人生には大きなご縁になり、在学中に得度を受けました。その時から仏教が私の「いのち」になりました。そんな私のようなわがまま息子を陰で支え続けてくれたのが、毎月送られてくる父からの「仕送り」でした。現金封筒にはいつもお札が2万5000円入っていました。いつも、しわくちゃの汚れたお札ばかりでした。「跡取り息子に送るお金ぐらい、もうちょっときれいなお札を送ればいいのに...。年を取ったら看(み)てやるのに...」とは言いませんが、不満に思っていました。しかし、そのお札は父がリヤカーを引いて、一軒一軒、頭を下げ、お茶を売って稼いだお金でした。それが私の手元に、しわくちゃのまま届いています。新札もしわくちゃのお札もお金の価値は同じですが、しわくちゃのお札には父の限りない「願い」がいっぱい込められています。「おまえは跡取りだから、卒業したら家業を継いでくれよ。大学に行くからには、一所懸命勉強してくれよ」。そんなお金を使うとき、いつしか父の願いが先に働いて、「もったいない」という思いが起きて、無駄遣いができなくなりました。愚かな息子には、百の小言よりもしわくちゃのお札一枚のほうが応えるのでした。
父の仕送りと仏教の出会いが、それまでいやでいやで仕方なかった家業を継ぐ大きな力となりました。お茶と仏教は歴史的に深い関係がある。お茶を通して仏教を肌で学ぶことができて、その上素晴らしい仏教の教えを伝えていけるなら、この道で生きよう。そう思ったとたん、大きな重荷が全身から抜け落ちて急に身が軽くなりました。あれから40年、今は亡き父が歩いた10キロの道のりを、父がやっていた通りに今も毎日リヤカーを引いて行商をしています。お茶の売れない時や悩みのある時は、リヤカーを引く足も重くなります。そんな時は「たとひあきなひをするとも、仏法の御用(ごよう)と心得(こころう)べき」という蓮如上人のお言葉を思い出します。帰宅した時には「今日も1日リヤカーが引けた!」と充実感いっぱいになります。それはリヤカーを引く私を、阿弥陀さまが光明で包み込んでいてくださったからに違いありません。阿弥陀さまの光明には、私たちの煩悩の闇を破るはたらき(破闇(はあん)の光明)、信心をいただくように導くはたらき(調熟(ちょうじゅく)の光明)、信心の念仏者を摂取(せっしゅ)して捨てないはたらき(摂取の光明)といった三つの側面があるといわれています。明日もリヤカーにお茶と仏教を満載して、ご恩報謝のよろこびで、お客さまにお届けします。

■大いなるはたらき
同じ場所にたどり着く
毎年1月下旬から2月上旬にかけて、北海道の北東部に流氷が漂着します。シベリア大陸の沿岸部でできた氷は、長い距離を南下して北海道にたどり着くようです。その年によって気象状況は異なります。しかし、嵐が吹き巻こうが、激しい波が立とうが、その氷は、何ものかの力で引きずられるように、ある一定の方向に進み続け、必ず同じ場所にたどり着くというのです。何とも不思議なことだなと思っていました。海に浮かぶ船であれば、嵐にあえば嵐に流されたり、激しい波に襲われて航路を変えることもあるでしょう。しかし、流氷はそうしたことを無視して風に逆らい、何ものにも影響されず決まった方向へと進み続け、必ず同じ場所にたどり着くというのですから不思議なことです。けれども、よくよく調べてみれば、流氷の行方は、その年に吹く風や波によって決まるのではなく、海の中を流れる潮の流れによって決まるのだというのです。私たちが日常使う言葉で「氷山の一角」という言葉があります。これは、見えている部分は、ほんの一部分であって、見えないものが大半であるといったことを表す時に使う言葉です。流氷も同じように、海面上に1メートルほどの高さがある氷は、おおよそ海面下に6メートルほどの深さを保っているそうです。つまり、見えている部分はわずか7分の1程度であって、見えてない部分がほとんどなのです。潮はその見えない部分にはたらきかけて、氷を南へ南へと運んでいくのです。潮の流れは決して変わることはありません。ですからその強大な氷は必ず同じ場所へとたどり着くのです。
評価の世界を超えて
思えば、この流氷こそ、私そのものではないかと感じました。私たちは日々、家族や友人など、たくさんの方との関わりの中で、言葉を交わし、悩みや慶びを共有して生活をしています。しかし、私たちは、どれほど胸の内のすべてを相手にさらけ出して生活しているでしょうか。実は皆、誰にも知られようのない、悲しみや苦しみ、そして弱さをたくさん抱えて生きています。つまり、外からは見ることのできないものをたくさん抱えた流氷そのものだと思います。阿弥陀さまは、そのような、外からは決して見ることのできない悲しみも苦しみも、すべて知っていてくださいます。すべて見抜いてくださったうえで、「あなたを必ずお浄土へと往(ゆ)き生(う)まれさせる」と、私のすべてをまる抱えしてくださっているのです。
『歎異抄』には、弥陀の本願には、老少(ろうしょう)・善悪のひとをえらばれず ・・・とありますように、阿弥陀さまの本願の大悲は、一人一人の「いのち」を、かけがえのない大切なものと認め、万人を分けへだてなくお救いくださいます。言い換えれば、若い時の私も、老いた時の私も、善い心を起こして善を行う私も、悪心を起こして振る舞う私も、どのような私であっても、「老少・善悪」という善悪をもって人を批判する評価の世界を超えて「いのち」そのものを見すえてくださっているのです。
私たちの人生は、自分の人生でありながら、決して思うようにはなりません。何もかもが思うように進む、順風という追い風が吹いている時もあれば、逆風といったつらい出来事に出くわすこともあります。縁(えん)に触れれば何をしでかすかわからない弱く悲しい存在であるからこそ、阿弥陀さまは、その人生の善(よ)し悪(あ)しにかかわらず、「あなたがどのような人生になろうとも、必ず浄土へ生まれさせる」と喚び続けてくださっているのです。流氷の姿に、私も人生の善悪という荒波に流されることなく、善にほこらず、悪にひがまず、大いなるはたらきの中に生かされてあることを思うのでした。

■待たせ通しの喜び
立派なご住職にお願い
「棺(かん)おけに入っていただけませんか?」 以前、こんな変わった依頼を受けました。といっても、いま話題の終活(しゅうかつ)≠ナの「入棺(にゅうかん)体験」ではありません。何でも、非常に立派な体格の方が亡くなられたそうで、火葬場に入るギリギリの大きさの棺(ひつぎ)を特注でつくったというのです。その葬儀社の人が私を何度か見かけていたようで、私の体格が亡くなられた方とそっくりだから、特注棺の事前チェックをするので手伝ってほしいというご依頼でした。実際、棺の中に入ってみると、外から他人事として見ていた時と違って、あらためて自分も必ずこの中に入るんだ、必ず死ぬんだということをイメージせざるを得ません。なるほど、終活≠ノまじめに取り組む人たちに人気があるのもうなずける気がしました。そんな私をよそに、葬儀社の方たちの入念なチェック作業も終わりました。「ご住職、ありがとうございました。無事に終了いたしました。どうぞ、お出になってください」と言われたその時でした。私の体が全く動かないのです。自分で起き上がろうとしても、体のどこにどう力を入れたらいいのかわからない状態になってしまい、何人もの方々に体を支えていただきながら、ようやく特注棺から抜け出ることができたのです。日頃から「おかげさんで...」と口にしている私ですが、内心では「何でも自分でやっている。ひとさまの手を煩(わずら)わすことなく生きている」と思い上がっていた自分の姿が、あらためて知らされたように感じました。短い時間の入棺体験≠ナしたが、自分自身を見つめ直す貴重なご縁となりました。
案内状を送り続けて
そんなことがあったためか、しばらくして、また葬儀社の方から連絡が入りました。「1歳8カ月のお子さんを亡くされた若いご夫婦がおられるのですが...」 ご臨終から、通夜、葬儀までのおつとめだけでよいので、というお葬式のご依頼でした。20代の若いご夫婦と友人数人だけのお葬式で、私の目の前に置かれた棺は、本当に小さな小さな棺でした。葬儀が終わり、私はご法話で何をお話ししようかと考えました。小さなお子さんを亡くされたご両親、そして若い人たちだけのお葬式です。少し難しいかなと思いつつ、お釈迦さまの時代にも、子どもを亡くした母親がお釈迦さまに救いを求めてやってきたことを話しました。そして、死は必ず、誰にも例外なく訪れること、阿弥陀さまはそんな私を決して見捨てることなく、お念仏一つでお救いくださることをお話ししました。葬儀から数週間後、満中陰(まんちゅういん)(四十九(しじゅうく)日)を前にまた連絡が入りました。今度は若いご夫婦がお仏壇を迎えられるので、入仏法要をお願いしたいということでした。私はとてもうれしくなりました。少しは私の話が心に届いたのかなと思ったからです。
法要に向かう途中、私は何かいいものはないかと仏壇店に立ち寄り、正信偈のCDと勤行(ごんぎょう)聖典2冊を買ってお伺いしました。ピンク色の打敷(うちしき)できれいにお飾りされた小さなお仏壇には、お嬢さんを想うお二人の心が表れているようでした。私は「ナモアミダブツとお念仏申し上げるところに、仏さまはいつもお嬢(じょう)さんとともに、私たちを見まもり続けてくださっているのですよ」と話し、CDと聖典を手渡しました。それ以来、私はお寺の法座案内を、若いご夫婦に送ることにしました。きっとご仏縁が育(はぐく)まれると思ったのですが、1年経っても、2年が過ぎても、お二人がお参りされることはありませんでした。案内状を出し続けながら、いつしか私は「やっぱり若い人には...」と、お参りに来ない夫婦を責めている自分の心に気付かされました。「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」 私は1年や2年どころか、生まれてこの方66年間、阿弥陀さまを待たせ通しだったのです。いや66年はおろか、五劫・十劫という限りない過去から、阿弥陀さまにご心配をかけ通しであったのです。あらためて阿弥陀さまの大悲のお心を、有り難く喜ばせていただきました。

■グチコレ
マスコミも注目
「あなたのグチを聞かせてください」 しんしんと底冷えのする京都の街角で今、街ゆく人々のグチを無料で聞き続ける学生たちがいます。グチコレクション(愚痴の収集)、略してグチコレ≠ニ名付けられたこの活動。場所は主に京都タワー前で、週1回程度、不定期に行われます。彼らは「愚痴 集めています」などのプラカードを持って座り込み、家路を急ぐ人たちや観光客に呼びかけるグチコレクターです。メンバーは宗門校に所属する有志20人ほどで、龍谷大学大学院実践真宗学研究科の藤原邦洋(ふじはらくにひろ)さんが代表を務めています。2012年11月に始めたこの活動ですが、活動回数75回分で来談者総数は約1000人、収集したグチ数は2500グチを超える実績を持ちます。1回あたり13人ほどの来談、1人あたり2・6グチを傾聴したことになります。こうした活動の積み重ねにより、テレビ、新聞、ラジオ、雑誌などさまざまなメディアでも注目されるようになりました。最近ではNHKでも報道され、海外ニュースとしても発信されました。
「悩み多き現代人には、ためこんだ愚痴をこぼす場所が必要なのかもしれない」と藤原さんは言います。「愚痴といえば悪口や弱音などネガティブに捉えられがちですが、僕たちは愚痴を本音と向き合うポジティブなことだと捉え、気軽に愚痴を言える社会を作っていきたい」と熱く語る彼の言葉に、私は驚かされました。愚痴を本音と向き合うポジティブなことと捉える発想は、私にはなかったからです。「あなたのグチを聞かせてください」というキャッチフレーズは、このように柔軟な発想から生まれた言葉だったのです。ですから、彼らの活動は路上で傾聴するだけではありません。グチコレで集められたグチたちを、本願寺が運営する「他力本願ネット」で公開し、多くの人々が見ることのできるものにしています。それは他人のグチを見て共感するだけでも、少し気持ちが楽になることもあるのではないかという考え方に基づいています。もちろん個人情報の保護(守秘義務の順守)は言うまでもありません。「最近、愚痴が言えてない」「一人で飲んで解決している」「(就職活動で)将来、進路が決まるか不安」など、実際にグチを聞いてもらった人たちは、知らない人のほうが話しやすい、スッキリしたと言います。
願われていたいいのち
グチコレでは、気持ちよくグチってもらうために大事にしていることがあります。1共感的な態度で聞く、2意見してグチを遮(さえぎ)らない、3聞いたグチを関わりのある人に言わない、の三つです。これはグチる≠アとで自分の本音に向き合う人を尊重する姿勢です。つまり、相手が自分の本音に向き合おうとする時間の流れを見守ることで、何かに気付いてもらいたいというグチコレの積極的な願いであり、「待つ」「許す」という、いわば支える姿勢だと私は理解しています。さらに、自分たちが龍谷大学の学生であり、本願寺派の僧侶であることを事前に相手に伝えることも、安心してもらえる要素のようです。「聞く」ということは、積極的な願いである。このことについて、お味わいさせていただくことがあります。それは親鸞聖人が「聴聞」の聴の字に、「ユルサレテキク」と註釈を施されていることです。
私たちは、お念仏のこころを聞かせていただく中に、阿弥陀さまに願われていたいのち≠ナあることにめざめさせていただきます。私の愚痴が許され、私の言葉を沈黙のうちに待っていてくださった大悲のこころがあることを知らせていただきます。知らせていただくがゆえに、ともに聞き、ともに語り合える、お念仏の仲間がおられることにあらためて気付かされるのです。グチコレの活動を知るにつれ、私はこのことを何度も何度もお味わいさせていただきます。「僕たちは未熟ですが、グチに耳を傾け、少しでも寄り添うことで人々に決して一人ではない≠ニいうことを伝えたい」という彼らの言葉が深く心に響きました。

■救い≠チてなに
変えられないことも
人間の苦しみ悩みの解決を求めたお釈迦さまが、求道(ぐどう)の末に開いた「さとり」から始まるのが仏教です。ですから、この世界と人間の具体的な苦悩の現実から、自分自身のさまざまな問いを元にして、その問題解決の道を経典(きょうてん)に尋ねる、という営みが仏教です。さて、人生の不安や苦悩のしくみ(構造)は、自分の思い(自我)と、経験している出来事(事実)がずれることで生まれます。それなら、これらが一致するようになれば、不安や苦悩はなくなります。そのためには、二通りの方法が考えられます。一つは、出来事を自分の思いに合わせるように変化させることです。病気ならば、治療を受け、健康な身体に変えることです。人間は、こうした努力で文化や社会を発展させてきました。もう一つは、出来事が変えられないなら、事実をありのままに受けとめられるよう、自分の思いを改め変えることです。人生を生きるとき、思い通りにならない事実を少しでも変えて、お互いが暮らしやすい平和で平等な生活、そして、争いや差別のない社会をつくっていくことは、とても重要です。しかし、人生の出来事には、どうしても変えられないことがあります。それをお釈迦さまは、生老病死(しょうろうびょうし)、さらに、愛別離苦(あいべつりく)などといわれ、そこから真実の生き方を示されています。
ねてもさめても
私は小学校1年で曾祖母(そうそぼ)(ひいおばあさん)が、2年で祖母が、3年で母方の伯父(おじ)が、そして、4年で父が死にました。いずれも、自宅で亡くなっています。その頃、夜、布団に入ると天井を見ながら、似ているようだけど少しずつ違う板の模様に、一人ひとりの人間の生きざまや自分の死にざまを考える少年期を送りました。その頃の家は残っていませんが、あの部屋で父は、祖母は死んだという思い出の中に、その死はあります。1977年、自宅で亡くなる人の数より病院で亡くなる人の数が上回りました。今では9割を超える人が、医療関係の施設で亡くなって、自宅で看(み)とることは希(まれ)です。また、葬式も自宅ですることが珍しくなり、現代の生活環境は、死を考えるものではなくなってきています。以前、子どもを葬式に連れて行かない若い親がいると聞きました。そういう不吉な姿を子どもに見せたくないということでした。すると、こういう方は、自分が死んでも、子どもには来るなということになるのでしょうか。都内の坊守さんが、近くのレストランの経営者に、法事のお斎(とき)(食事)を希望する門徒さんの話をすると、断られたそうです。黒い服を着ている人が出入りすると、他の客に対してエンギが悪いということでした。エンギがどうであろうと、子どもにも、死というものを見つめさせ、自覚させることがないと、生きていることの尊さ不思議さ、いのちの有り難さが、だんだん感じられなくなるのではないでしょうか。
浄土真宗では、座禅などの出家者の行(ぎょう)は勧(すす)めません。ただ、お念仏を日常生活の中で、称(とな)えなさいと勧めます。
弥陀大悲(みだだいひ)の誓願(せいがん)を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなふべし
阿弥陀仏の教えに出遇(であ)い、その本願の勧めるお念仏を生活習慣として称えていくならば、そこに新しく浄土真宗らしい人格が育てられていきます。苦しいときにも、いつもアミダさまが一緒にいてくださる。今日のいのち、この巡り合わせをかけがえのない尊いことだったと受けとめられるような人格主体が生まれていきます。それを「お育てにあう」と私は受けとめています。これこそ、事実をありのままに受けとめられるような人格が育てられることだと思います。「三度の飯がおいしいときに仏法は聞くものだ」と聞いたことがあります。お念仏を称え、親鸞聖人のまことの浄土真宗を通して、阿弥陀仏の教え、お釈迦さまの教えを大切に生きていきたいと思うことです。

■無限の光
南無阿弥陀仏とは?
浄土真宗のご門徒でなくとも南無阿弥陀仏を知らない人はいないでしょう。でも、それがどんな意味かと問われると答えるのは難しいものです。もともと、ナモアミダブツはインドから中国を経て日本に伝わった言葉です。インドでは、「ナマステー」と挨拶します。この「ナマス」と「ナモ」とは同じ語源で、そこには「尊敬する」「尊ぶ」という意味があります。「テー」は「あなた」、ナマステーは、「私はあなたを尊びます」という意味です。同じようにナモアミダブツは、「私はアミダという仏さまを尊びます(アミダ仏に帰依します)」という意味なのです。さて、アミダとは仏さまの名ですが、名はそのまま、仏さまのはたらき、力の大きさをあらわします。アミダという言葉は、「ア・ミダ」と分けることができます。アは否定の言葉「〜でない」という意味、英語のアンやノンにあたります。ミダの語源は「ミター」、これが西洋ではメーターとなったようです。電気やスピードのメーター、長さの単位のメーター。「メーター」は「はかり」です。ア・ミダとは「はかることができない」という意味で、中国では「無量」と漢字があてられました。では、何がはかれないのでしょうか。中国に伝わる途中、阿弥陀に続く二つの言葉が省略されました。その言葉とは「光」そして「いのち(時間、寿命)」です。はかりしれない光、はかりしれないいのち。阿弥陀仏とは、無限の光、いのちのはたらきを備えた仏さまなのです。南無阿弥陀仏とは、「私は、はかりしれない光といのちの仏さまを尊びます」という意味となります。
宗祖が示された他力
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、この言葉の意味を大きく転換されます。 私がナモする、私が尊ぶのではなく、「仏さまが私を・・・」というふうに、南無も含めすべて仏さまのはたらきとされたのです。これを他力といいます。私が無限の仏さまを尊ぶのではなく、はかりしれない光といのちの仏さまが、今、私を抱きとってくださる。仏さまが私のいのちに、いつでも、どこでもはたらいてくださるとよろこばれました。南無阿弥陀仏は、無限です。いつかは死んでいかなければならない、常に変わっていかなければならない、有限、無常の私だからこそ、はかりしれない、無限のはたらきの仏さまでなければならない。念仏は、無限の仏さまと有限の私とのであいの言葉なのです。
地球がリンゴ引っぱる
以前、若い方からの質問にインターネット上で答える機会がありました。寄せられた質問は、「信仰とはなんでしょうか。仰ぐのは仏像? 経典? 自分?」「念仏とは具体的になんですか」というものでした。私は次のように答えさせていただきました。「ニュートンは、万有引力を発見しました。リンゴは木から地面に落ちるように見えます。それを地面、つまり地球がリンゴを引っ張っているのだと彼は見たのです。誤解を恐れず言いますと、私が仰ぐのは、仏像でも経典でも自分でもなく、そこにあらわれた『はたらき』です。私を真理へと引っ張る、導くはたらきがある。そのことをお姿であらわされたのが仏像であり、言葉であらわされたのが経典、そしてそのすべては私に今はたらいている。私はそのはたらきを『南無阿弥陀仏』とお呼びし、人生をかけて聞き、味わい、礼拝させていただいています」 親鸞聖人は、今日の私を底から支えてくださる「力」、真実に導き続ける「はたらき」を南無阿弥陀仏と教えてくださいます。浄土真宗のみ教えは、遠い先の話でも、日常とかけ離れたものでもないのです。私が今、ここで、無限の光に包まれている。そのことを日々の生活の中で、よろこびや悲しみを通して共に聞かせていただきましょう。 
 

 

■お葬式は迷惑?
シンポジウムでの発言
「葬儀の意義とは何なのか?」 私の所属している備後(びんご)教区三次(みよし)組では、この問いかけをもとに3年間にわたって、僧侶門徒が一体となって研修を重ねてきました。三次組は広島県の中山間地域に位置していますが、近年の過疎化や高齢化に伴って地域での葬儀が大きく変化してきています。これまで葬儀は、講中(こうちゅう)と呼ばれる十数軒単位の近隣組織が中心となって、互助的に運営されていました。男性は葬儀の受付や会場設営、女性は食事の世話など、自らの仕事を2日間は休んで葬儀のお手伝いをしていました。しかし、三次市の中心部に葬儀会館が相次いで建設されると、地域で支える葬儀の形は次第に希薄になり、家族の意向を中心に葬儀業者がその運営を担うようになりました。その結果、「家族葬」をはじめ、地域のつながりから離れた葬儀の形が増えつつあります。一連の研修の中で三次組が主催した葬儀に関してのシンポジウムで、あるお寺の総代さんが次のような発言をされました。一人暮らしの近所の高齢者が入院し、その後、亡くなられた。しかし、地域の人には知らされず、「家族葬」で葬儀はすでにすまされたという。地域活動でお世話になっていたこともあり、数人でお参りに駆け付けた。すると、遠方に住んでいるその家族が「地域の皆さまにご迷惑をおかけしないため、皆さまにお知らせせずに、家族葬で営みました」という。はたして「迷惑をかける」とは何なのか、という発言です。この言葉は「葬儀の意義とは何なのか?」を問う私たちの研修の大きなポイントになったと思っています。確かに近年の葬儀は経済的、社会的負担が大きくなる場合があり、その反動として「家族葬」や「直葬」と呼ばれる葬儀が出現する一因となっています。シンポジウムでは、先ほどの発言を受けてある出席者から「私たちは、生きている限りは他人にいろいろな迷惑をかけ、支えられながら生きている。葬儀はこれらへの感謝の場でもあるのに、いまさら『葬儀で迷惑をかけない』というのは、逆に迷惑だ」という発言がありました。
私が転じられる世界
親鸞聖人はご自身のことを「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫(ぼんぶ)」といわれました。それはすなわち私自身の姿であり、そのままが阿弥陀さまの救いの目当てでもあります。
罪障功徳(ざいしょうくどく)の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし
阿弥陀さまの救いとは、私たち人間が抱えている罪業を消し去るのではなく、そのまま氷が水に変わるように、罪障を功徳に転じるはたらきであるとおっしゃいます。むろん私たちは、その深く重い罪業を自らの力で消し去ることなどできません。しかし、それほど大きな功徳をいただきながら歩むのならば、人生の見方や味わいも自(おの)ずから転じられていくのではないでしょうか。確かに葬儀を行うことは、家族や地域・近隣に「迷惑」をかけることかもしれません。しかし、その「迷惑」は、人としてこれまで生きてきた総決算の場であるともいえるでしょう。そして葬儀に集まる参列者や手伝いの人、家族、そうした縁ある人々に私たちは支えられて生きてきました。葬儀という儀式を通して私たちは、「迷惑」ともいわれる人と人とのつながりを、支え合い助け合うことによって「絆(きずな)」に転じてきたのではないでしょうか。もちろん故人や家庭の状況、地域での風習など、葬儀の背景は多様であり、その形を一様に押しつけることはできません。ただ、人間としての生きざまの総決算である葬儀を通して、迷惑をかけながらも多くのものに支えられてきたこれまでを振り返っていく。さらにその儀式を通して、阿弥陀仏の願いと功徳の中で生かされてきたことをあらためて見出しよろこぶ、そんな葬儀をこれからもおつとめしたいと思っています。

■親のよび声
脇目も振らず一直線
ある年の保育園の運動会でのことです。頑張って練習してきた園児たちの晴れの舞台。園児の親だけではなく家族も駆けつけ、応援席では絶えず大きな声援があがっていました。閉会式も終わり、いよいよ解散となりました。担任の先生が整列している園児一人一人とお別れの挨拶をしていますが、どの園児もそわそわして心ここにあらずという様子です。そして、先生との挨拶が終わるやいなや、勢いよく走り出し、「お母さん!」「お父さん!」と大きな声を上げながら、家族のところへ脇目も振らずに一直線です。どの園児も満面の笑みを見せ、安堵(あんど)した様子で帰って行きました。驚いたことには、走って行く方向を間違えた園児は一人もいませんでした。よくよく思い返しますと、演目の最中でも、親や家族からの声援に手を振って応え、向けられたカメラにピースサインで応える園児を何人も見ました。園庭を囲む数百人の中からでも、親や家族の声や顔を聞き間違えることも、見間違えることもなく、その居場所を必ず見つけ出すことができるのです。自分の親や家族を間違えない園児がすごいのでしょうか。
すべて仏のはたらき
ところで「お母さん」「お父さん」と呼び始めたのはいつ頃からでしょうか。身近にいた人を自分が勝手に親と決めつけ、呼び始めたわけではないはずです。それは「私があなたのお母さんだよ」「私があなたのお父さんだよ」という、親の方からわが子に向けた名のりに始まることでしょう。また、この名のりは子どもにとってどんな存在であるのかをも知らせています。そして、早く私の名(お母さん、お父さん)を呼んでほしいという思いをもって呼びかけ続けるのです。この呼びかけはいつもわが子を慈しみ、一度この名を呼んでくれればすぐそばに寄り添い、不安な思いをさせることはないという親心で満ちあふれています。ですから、子どもが親を間違えることがないのは、この親心のおかげであり、子どもの口に出た「お母さん」「お父さん」の一言は、両親の強い思いが確かにわが子に届き、まさしくそこにはたらいていることを物語っているのです。しかし、親心や親の名の意味を理解してから、呼び始めていたのでしょうか。子どもの方から親に請い求める必要がないことや、「母」「父」の上下に「お」と「さん」という、尊び敬う言葉が付いている意味は、幾度となく口にし、心に思い浮かべる中に自然と明らかになってくるのではないでしょうか。はっきりと発音できなくても、声にならない声であっても、目の前に姿を見ることができなくても、そのたった一言が不思議な安心感を与えてくれます。
『拝読浄土真宗のみ教え』の中に「浄土真宗の救いのよろこび」という、浄土真宗の救い、信心のよろこびを表す文章があります。その最初には、
阿弥陀如来の本願は かならず救うまかせよと 南無阿弥陀仏のみ名となりたえず私によびかけます ・・・とあります。「南無阿弥陀仏」の六字は私へのよび声であり、また、どんな存在であるかを名のり、知らせる声です。
「あなたを必ず救う、安心してまかせてほしい」という阿弥陀さまの本願(誓いと願い)が、この六字に仕上げられたのです。親がわが子を思うように、阿弥陀さまは私をわが子であると慈しんでくださる親さまなのです。私の方から阿弥陀さまに向け、そのお救いを請い求めたからではなく、先に阿弥陀さまの方から私に向け、「必ず救う、われにまかせよ」とよびかけられていたのです。阿弥陀という仏にまかせよという六字を、そのままに受け入れることが浄土真宗の「まかす」ということであり、私のおまかせ心や、その名を称える声や、合掌するすがたとなって現れ出てくださるのです。それは阿弥陀さまの本願が私の上に届き、まさしく今ここではたらいているすがたであり、すべて「南無阿弥陀仏」のひとりばたらきなのです。

■鬼のこころ
悪いものを外へ
最近の日本人の風潮を見ていますと、悪いことの原因を全部自分の外に追いやって、自分と切り離して考えているようなところを強く感じます。そもそも仏教は内に煩悩を見、それとどう向き合うかというところを大切にします。毎年2月3日になると、日本中で「鬼は外、福は内」の声が鳴り響くのです。この心やこの見方に、今の日本人の大半がなっているように思えてなりません。鬼というか、悪もの狩りばかりが目立つのです。私の孫が小学4年生の時のことです。「じいちゃん、うちじゃあ、豆まきはせんのんか?」と、問いますので、「うちはお寺じゃけー、せん」と、答えました。すると「どうして」と、問いを上乗せします。そこで私が「節分の行事は、ありゃあ仏教とは違うから、真宗のお寺ではしないんだよ」と答えますと、また、上乗せして「それって、どういうことなの」と問いかけてきました。そこで、一般社会の現状ということを一緒に考えたのでした。自分にとって都合の悪いものを外へ追いやり、自分にとって都合の善いものはこっちに来いというのですから、ずいぶん、手前勝手なものの考え方・見方のように思えてなりません。そもそも鬼というのは、腹を立てると全く聞く耳を持たなくなる自分勝手な心のさまの形容のようです。聞く心がないから状況判断ができなるなるということで、私たち人間に不幸や災いをもたらすものが鬼だと考えたのでしょう。これを外に向けるのが、日本古来の宗教観や一般社会の仏教観、考え方のようです。節分の豆まきの行事を全国的にやっていて、何も疑問に思わないということにも、問題があるように思われます。孫が「それなら、お寺でやってもいいじゃない」というので、反対に私が「どうして」と聴くと「仏教や浄土真宗に合うように言葉を変えたらいいじゃない」と言いました。「じゃあ、どういう言葉にしたらいいの」と私が聴くと、孫は「それを考えるのが、おじいちゃんのお仕事でしょ!」と言われてしまいました。
他力真実のみ教え
仏教本来の教義や、妙好人の才市(さいち)さんの姿勢などを通して考えてみたいと思います。才市さんは「自分こそ鬼だ」との味わいから、自分の肖像画に角(つの)を描いてもらわれたのです。そこから考えてみると「鬼は内!(鬼こそこの私)、外を鬼に!(しているのもこの私でした)」という標語にするのはどうでしょうか。この煩悩だらけの鬼のこの私が阿弥陀如来さまのお救いのお目当てだから、「ご恩うれしや、なむあみだぶつ」といわずにはおられなかったのが才市さんでした。普通は煩悩を要らないもの、邪魔ものにして無くそうとするのですが、浄土真宗ではそうではありません。法然聖人ご自身も「十悪の法然房」「愚痴の法然房」といわれ、親鸞聖人もご自身の名のりとして「愚禿(ぐとく)」を標榜されています。どなたのものかは不明なのですが、「黒犬を提燈(ちょうちん)にする雪の路」「煩悩を喜びにする念仏者」というのがあります。浄土真宗では、煩悩を要らないもの、邪魔ものにして無くそうとするのではなく、反対に、喜びといいますか、味わいの糧(かて)といいますか、自力の廃(すた)る要素が煩悩であり、他力に帰せしめられるのも煩悩であると味わわれているのです。浄土真宗の本義といいますか、他力真実の味わいといいますか、この積極的な煩悩に対する姿勢こそ、浄土真宗の煩悩に対する対処の仕方であろうと思われます。その証(あかし)として、親鸞聖人のご和讃に、
悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり 修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに 虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる
無慚無愧(むざんむぎ)のこの身(み)にて まことのこころはなけれども 弥陀(みだ)の回向(えこう)の御名(みな)なれば
とあります。よって、煩悩(鬼)が自分自身を見つめ直すよりよいはたらきをしているからこそ、このように味わえるのだと思われます。これが他力真実のご法義なのです。

■大好きなお名前
美しさのあまり・・・
5月21日は、親鸞聖人の誕生日をお祝いする宗祖降誕会(しゅうそごうたんえ)です。以前、聖人のお名前にある「鸞」という鳥の物語を聞かせていただきました。鸞は中国に古くから伝わる伝説の鳥です。その姿は、やや赤みをおびた体から五色の光を放ち、羽を広げたその姿はまぶしいくらいに光かがやき、鳴き声も美しい五つの音色を奏で、それはそれは美しい声で鳴くそうです。しかし、その美しさのあまり、鸞は悲しい思いをしなければならなかったのです。卵を産んでヒナがかえった時のことです。親鳥は餌(えさ)をとってきて与えようとします。しかし、鸞のヒナは、親の姿とは違って、体が真っ黒です。ヒナ鳥からしますと、自分の黒い体と、美しく光り輝く親鳥を見比べて、「なんぼなんでも違いすぎる。こんなのはお母さん違う」と、背を向け餌を食べようとしません。そこで鸞の親鳥は悩みました。どうしたら、わが子は餌を食べてくれるだろうか。どうしたら親であることがわかってもらえるか・・・。そして思いついたのが「子どもと同じ姿になろう」ということでした。餌をとってきて、わが子の所へ戻る前に、真っ黒の泥沼に行き、光り輝くその体に泥をかぶって、体を真っ黒にして戻っていったのです。するとヒナ鳥は、ようやくお母さんが来てくれたと思い、「お母さ〜ん」と言って、餌をもらうようになりました。それからというもの、鸞の親はいつも体を真っ黒にして、わが子を育てていったということです。
呼ぶよりも先に
このお話を聞かせていただき、ちょっと阿弥陀さまに似ているなと思いました。阿弥陀さまは、本来そのお姿、真実の光は、私には見えません。よくわかりません。しかし、わからない、わからないでは、いつまでたっても私にはわかりません。そこで、わからない私と知り抜いてくださったうえで、私にわかる姿をもってあらわれてくださいました。「南無阿弥陀仏」というお名号となって、お念仏となってあらわれてくださいました。私の耳に聞こえ、私の口に称えられ、私の心にしみ込んでくださり、「まかせよ、必ず救う、親だからね」と、阿弥陀さまは、仏の子である私に「あなたの親はもうここにいるよ」と告げてくださいました。鸞の親も、光り輝く美しい姿のままでは、わが子に親であるということがわかりませんでした。そこで鸞は、悩み考え抜いた末に、自ら泥をかぶって真っ黒になることによって、子に親であるということを知らせたのでした。さらに味わうと、ヒナ鳥が真っ黒な親の姿を見て「お母さん」と言いました。一見すると、子どもが真っ黒の鳥を親だとわかって、子どもが親の名を口にしたようです。しかし、ここには、子がわかるよりも先に、子が親の名を口にするよりも先に、子にわからせた、呼ばせたのは親のはたらきです。親の苦労があったのです。今、私たちも「南無阿弥陀仏」とお念仏を口にしますが、そこには私がとなえるよりも先に、私にとなえさせようとはたらいてくださる親のご苦労が確かにあったのです。
親鸞聖人のお名前は、インドの天親菩薩の「親」と、中国の曇鸞大師の「鸞」をいただかれたことと思います。しかし、これは私の勝手な味わいですが、親鸞聖人も、どこかでこの鸞の物語を聞かれて、鸞の親鳥を阿弥陀さまと重ねて味わわれたのではないかと思うのです。そして、これからは鸞の親鳥のように生きていきたい、阿弥陀さまのお心にそうように生きていきたい。そんな想いから、鸞の親・・・親鸞・・・と名乗られたのではないかと想像をふくらませています。阿弥陀さまのお慈悲の心を聞き抜かれた聖人にとって、仏法に縁のない人々、お念仏に背を向ける人こそ、浄土真宗の伝道のめあてであったと思います。私には、親鸞聖人はお名前からも「南無阿弥陀仏」のお心を教えてくださっているように思えます。ですから私にとって聖人のお名前は、うれしく、あたたかく、そして厳しくもあり、大好きなお名前なのです。

■ご門徒と共に
気持ちだけがカラ回り
私たちの日々の暮らしには、いろんな人間関係があり、仲間がいます。職場なら同僚、学校なら同級生、地域ならご近所さん、そして家なら家族です。その中で、仲間に認められたいがために、実力以上の立派な人間に見せようとして失敗した経験、皆さんも一度はあるのではないでしょうか?私は4年前、縁あって今のお寺に後継者として入寺しました。現在、お葬式や法事、月参りなど法務のお手伝いをするかたわら、寺報の発行や日曜学校の開催など新しい活動にも取り組んでいます。近所に仏教壮年会(仏壮(ぶっそう))がものすごく盛んなお寺があります。いつもワイワイ盛り上がっていてうらやましいなぁと眺めていました。「いつかうちのお寺にも仏壮をつくりたい!」と思ってはいたものの、自分一人で立ち上げようにもなかなか第一歩が踏み出せません。そんなある日、「若さん、うちも仏壮をつくろう!」と、ご門徒のTさんから声をかけてもらいました。実はTさんも、この近所のお寺の仏壮のことをよく知っていて、私と同じ思いを抱いていたのです。それから総代のIさんも加わって3人で立ち上げに向けて準備を進め、昨年の4月にめでたく発足の日を迎えました。このように始まった仏壮ですが、「仏教を学ぶ会」と銘打って始めた例会が、なかなかうまくいきません。レジュメを作って私が懸命に説明するのですが、気持ちばかりがカラ回りして、自分でも何を言っているのかわからなくなる有り様で、僧侶としての力量のなさを痛感するばかりです。Tさんが一生懸命声をかけて集めてきてくれたご門徒にも、「だめだこりゃ」という雰囲気が漂い始め、早くも行き詰まってしまいました。
わが身を知らされる
ちょうどその頃、日曜学校では、初めての企画「もちつき大会」を予定していました。当初は自分でホームセンターへ行って道具を用意するつもりでした。でも、いざ準備を始めてみると、何をそろえたらいいのか、そもそも、もちつきの手順そのものがさっぱりわかりません。そこで仏壮の例会の時に思い切って「今度の日曜学校でもちつき大会を予定しているのですが、道具を持っている方がおられたら貸してもらえませんか?」とお願いしてみました。そうしたら、皆、快く引き受けてくださり、Tさんが先頭になって臼(うす)や杵(きね)の道具からもち米などの材料まで、すべて用意してくださいました。当日は仏教婦人会の方にもお手伝いいただいて、もち米を蒸(む)すところから、臼と杵でついて、あんこやきな粉をつけて、子どもたちに振る舞うところまで、すべて仏壮におまかせしました。大人も子どもも私も大喜びでおもちをほおばり、お寺の境内にこんなたくさんの人が集まって楽しげな雰囲気になったのは私が入寺して以来初めてのことで、胸がジーンとなったのを覚えています。
親鸞聖人は同じお念仏の教えをいただく仲間のことを、「御同行(おんどうぎょう)・御同朋(おんどうぼう)」と敬われ慶ばれました。仏壮の例会がうまくいかなかった当時を思い返すと、私のどこかに「御同行・御同朋」とはまったく逆の「教えてやろう」「自分を立派に見せてやろう」という気持ちがありました。もちつき大会を終えて、その時の自分がなんだかとっても恥ずかしくなりました。お寺の本堂は、私が教える場でも、私を立派に見せる場でもありません。私にかけられた阿弥陀さまの願いを聞かせてもらう場です。お寺の主役はご門徒です。阿弥陀さまの願いの中で皆が繋がりあう場のお手伝いをさせてもらうのが、僧侶である私の本来の役割であることに、あらためて気付かされたのでした。私のお寺の本堂は6年前に再建されたばかりです。ご門徒の大変なご苦労と願いのかかった大切な本堂です。この本堂は、阿弥陀さまの願いを聞かせてもらう場であり、わが身の愚かさを知らされる場でもあります。また同じお念仏の教えをいただく仲間が繋(つな)がりあう場でもあります。一僧侶としてわずかな力ですが、そのお手伝いをさせていただき、これからご門徒と共に未来のお寺作りを一歩一歩、進めてまいりたいと思います。

■布施の心 教えてくれた父
白エビのお土産
現在、姉妹誌「大乗」に毎月書かせていただいている「わたしの正信偈」のご縁や、中央仏教学院の通信教育などのご縁で、全国のいろんなところに行かせていただきます。卒業生のいるところでは、懐かしい再会があり、出張の一つの楽しみでもあります。出張の帰りには、ご当地の名産をお土産として買うことがあります。帰宅してお土産を渡し、うれしそうに笑顔で受け取ってくれると、こちらもうれしくなります。相手の笑顔を思い浮かべながらプレゼントをさがしているから、プレゼントを買うことが楽しみなのですね。結婚前の話ですが、富山県への出張の帰りです。予約した電車の発車時刻を気にしながら、白エビのお刺身を急いで買って、電車に飛び乗りました。連休中のせいか満席で、隣にも乗客がいたので、買ったお土産を棚に置きました。お土産をリクエストしていた母にメールを送ると、普段は味気ないメールの返信ですが、この時ばかりは絵文字満載、うれしさいっぱいのメールが返ってきました。お土産と一緒に買った缶ビールを飲んでいると、うとうとしてきて、とうとう寝てしまいました。時々目を覚ましてはいたのですが、気がつけば大阪駅に到着していました。すぐに足元のかばんを手に取り、電車を乗り換え、お寺に戻りました。そして鍵を開ける時に「アッ!」と思いました。お土産を忘れたことに気づいたのです。
忘れたらいい
お土産を楽しみにしていた母が残念そうな表情を浮かべる中、大阪駅の忘れ物預かり所に電話をすると、機械音声で営業時間外であることが告げられました。生ものなので、明朝まで待てないと思い、緊急連絡先を調べて祈るような気持ちでかけてみると、今度は人の声でした。「あぁよかった!」と、まだ見つかってもいないのに喜びながら、乗った電車の号車と座席番号を言って探してもらいました。しばらく待って返事がきました。すでに車内清掃がすんでいましたが、私の探している白エビのお土産は見当たらないとのことでした。「寝ている隙(すき)に盗られたのかなぁ?」などと、自分が忘れたことを棚に上げて、誰かを責める気持ちがわき起こってきました。母を喜ばせられなかった残念さと、モヤモヤとした思いのまま、その晩は床に入りました。翌朝、前夜の出来事を住職である父に話したところ、一言、「忘れたらいいんや、お布施ができたんや」と言われました。
すでに仏教を学び、浄土真宗のみ教えを学んでいましたから、「布施」という言葉は私も知ってはいましたが、「なるほど、そうだった」と気づかされました。布施は、誰に何を施したということを忘れてはじめて、本当の布施になるのですね。逆に、誰に何を施した、何かをしてあげた、という思いを忘れないとすれば、それは執着(しゅうじゃく)の心になるのですね。笑顔を期待していても、笑顔が返ってこなければ、モヤモヤとした心になります。布施に似た意味の言葉として、喜捨(きしゃ)という語があります。相手の笑顔を期待するのでもなく、施すことが喜びとなるということです。私が棚に忘れた白エビのお刺身は、どなたかがおいしくいただいてくれたのかなと思うことにしました。けれども、何年も経つのに、この時のことをいまだに忘れていないのは、執着の心かもしれませんね。恥ずかしいことです。この出来事は、布施・喜捨の心をそれとなく教えてくれた住職である父を、尊敬した一瞬でもあります。親鸞聖人が正嘉(しょうか)元年閏(うるう)3月3日のお手紙に「目もみえず候(そうろ)ふ」と記されたのは、85歳の時です。私の父は今年82歳になりますが、動きもスローに、声も小さくなり、頭の回転も話のスピードもゆっくりになりました。法務も充分(じゅうぶん)にできなくなってきましたが、私の到達していない年齢を生きている先輩として、まだまだ教えてもらうことがありそうです。はてさて、今年の父の日には、何を贈りましょう。

■いのちの行方
仏さまの教えにあう
私は、どこに向かっているのか? 私のいのちは、どこにいくのか? この問いが解決されない限り、人間は真に落ち着けないのではないでしょうか。
今、共に仏さまの教えを聞かせていただいているご夫婦がおられます。そのご夫婦は、平成18年、今から8年前に1歳のご長男と、今生(こんじょう)のお別れをなさいました。ご長男のお名前を丈太郎君といいます。丈太郎君は長く入院していたので、お葬式はご夫婦の意向により自宅で行われました。丈太郎君とのお別れがご法縁となり、お寺の法座にお参りされるようになりました。また、ご夫婦と私たち夫婦は年齢も近いので家族ぐるみのお付き合いとなり、時々食事も一緒にするようになりました。以前、お食事の折に奥さんが、こんな話をしてくれました。「小さい子どもを亡くした家族の集いに行ってきたんだけど、他の方々が『私の子どもは、どこにいったんだろうか?どこにいるんだろうか?』と悲しまれている中で、私は仏さまの教えに遇(あ)うことができたので・・・難しいことはわからないけど・・・丈太郎と同じところに行く!って思えてくる。そう思っている」 それから、また何回かお食事するうちに、「京都に行こう。本願寺にお参りしよう!」ということになりました。
真に落ち着く人生
平成22年9月、丈太郎君のご往生から4年後、もうひと家族と一緒に、計3家族で佐賀からご本山へ参拝しました。折角のご縁なので過去帳を持っていき、ご本山の阿弥陀堂で丈太郎君の永代経のおつとめをしていただきました。3家族みんなで手を合わせ、お焼香をしました。お参りが終わり、本山から宿泊所までの道中で奥さんが、「本願寺でおつとめしてもらって、お焼香もできてよかった!丈太郎が本願寺に私たちみんなを連れてきてくれた。丈太郎がお参りさせてくれたように思う」とおっしゃいました。丈太郎君とのつらいお別れを目の当たりにしておりましたので、奥さんからこの言葉を聞いた時、奥さんが丈太郎君とのお別れを受け止め、しっかりと人生を歩まれているように感じ、大変感動しました。今年の5月の祥月(しょうつき)命日には、例年のように私たち家族にもご案内を下さり、みんなでおつとめをし、法話を聞き、食事をしました。次の日、奥さんから妻の携帯にメールがありました。「わが子ながら丈太郎のすごさに感謝です」 祥月命日の座で、丈太郎君が仏さまとして、残された私たちを導くはたらきをされていることを喜ばれたメールの言葉でした。
これまでご紹介してきたように、このご夫婦と共に仏法を聞き、お付き合いする中で、お二人から発せられてきた言葉があります。その言葉の中に、阿弥陀如来のおこころ、おはたらきを味わいます。あらためて、阿弥陀如来がお浄土を建立され、生きとし生けるものをお浄土にむかえとろうとされる願いを頼もしく思います。共々に生まれゆく世界であるお浄土があること。今、この私をお浄土にむかえとろうという阿弥陀如来のはたらきと願いの中にあること。このことに気づかされたいのちは、今、この人生を力強く歩むことができます。このご夫婦が力強く歩まれている姿をみて、今、まさに阿弥陀如来がお二人にいきいきとはたらかれていることを感じます。丈太郎君が仏さまとして、いきいきとはたらいていることを感じます。今、私が称(とな)えた南無阿弥陀仏のお名号は、苦しみの真っただ中に生きているこの私に、阿弥陀如来がおはたらきくださっているお姿です。「われにまかせよ、必ず救う」との阿弥陀如来の私に対するよび声です。はるか昔から、無限の過去から迷い続けてきたこの私が、このたびの人生で南無阿弥陀仏のお名号に遇(あ)いました。お名号に遇いお浄土に生まれるいのちとなりました。いき先が決まることにより、苦しみの真っただ中にありながらも、真に落ち着く力強い人生を歩ませていただけるのです。

■おらは果報者
ご縁の不思議さ思う
6月5、6日、ご門徒の皆さんと一緒に「法統継承」のご縁にあおうと、富山から京都のご本山に参拝しました。5日には、第24代即如ご門主が退任される「御消息発布式」にお参りしましたが、私はただただ寂寥(せきりょう)の思いばかりで、最後に唱和した正信偈は今も心に響いています。しかし、一夜明けた翌6日の「法統継承式」では、若き第25代専如ご門主と前門さまのおそろいのお姿を拝し、これからはお二方ともどものご教導を仰ぎながらお念仏の日暮らしができるのだと、わが身の幸せを喜ぶ尊いご勝縁となりました。そもそも今回の参拝は、ご門徒のお一人が「私は前回の法統継承式(1977年)にお参りしたよ」と、37年前の思い出を話されたのがきっかけでした。そこで団体参拝を実施しようと企画したのですが、その方は都合が悪くなって行けなくなるなど、実施が危ぶまれる時もありました。しかし最後は「私をご本山に連れて行ってほしい!」というお方のひと押しで実現できたのでした。多くの皆さまのおかげにより参拝できましたことに、ご仏縁の不思議さと有り難さをあらためて感じたことでした。
心の田を耕す
ところで、私は昨年からお寺の近くに畑をお借りして耕しています。大根の種をまいたところ、おかげさまで冬には立派な大根が収穫できました。しかし、大根が立派に育つまでには、畑を貸してくださった方をはじめ、種のまき方を教えてくださったご門徒、肥料をくださった農家の方、草取りを手伝ってくださったご近所の方など、多くのご縁やおはたらきがありました。それによってはじめて成就したことだと知らされました。仏教では「心の田を耕す」と申します。お釈迦さまが托鉢(たくはつ)をされていた時のことです。ある人が「あなたも私のように田を耕しなさい」とお釈迦さまを非難しました。すると、お釈迦さまは「私も田を耕している」とお答えになりました。つまり、さとりに至る真実の法を人々に説くことこそが「田を耕す」ことであり、そこで収穫されるのは「さとり」の境地なのです。お釈迦さまの「田を耕す」というのは、すなわち人々の「心の田を耕す」ということだったのでしょう。
私がお育てをいただいたご門徒のおばあちゃんで、一昨年に九十代半ばでご往生された方がいらっしゃいました。おばあちゃんは、とても口数の少ない方でしたが、ある日、毎月のお参りに伺った時、「若はん、私は人間に生まれたことを喜んでおります」と1回だけ言われたことが印象に残っています。そして亡くなる数日前には、息子さんに「おらみたいな果報者はおらん」と言い残されていたそうです。おばあちゃんは若い時から、おしゅうとめさんと一緒に、いつもお寺で聴聞されていたそうです。私が布教使になって法話をするようになってからも、いつも一番前に座ってお話を聞いておられました。蓮如上人は「ただ仏法は聴聞にきはまる」とおっしゃいました。おばあちゃんは若い時から聴聞を重ね、阿弥陀さまのみ教えによって、心の田が耕されたのでしょう。そして、「人間に生まれてよかった!」「お聴聞ができてありがたい」「お念仏の日々を送る私は、本当に果報者!」と、ご仏縁を心から喜ぶ身となられたのでしょう。ご本山で「法統継承式」が営まれましたことは、まさにお念仏のみ教えが次代に確かに受け継がれていくことにほかなりません。私も、おばあちゃんからいただいたお育てを忘れることなく、「布教を志すものこそ、まず聞法に励まねば」という恩師の言葉を肝に銘じつつ、お念仏の日暮らしを喜ばせていただき、み教えを次代へ伝えてまいりたいと思います。

■まことに包まれて
隠した本音が背中に
「まんまんまん、あっ」 2歳の子がお仏壇の前でお念仏を称えます。一方で、ご法事のとき、合掌しつつもなかなかお念仏が出ない人もいらっしゃいます。いま、私たちがお念仏を称える身としていただいたのは、実はとても大きな出来事です。それは、親鸞聖人が「誠(まこと)なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)」、「念仏のみぞまことにておはします」とお示しのように、「真実の言葉」「まこと」がわが身に至りとどくということだからです。「真実」「まこと」は、いつ、いかなるときも真実でなければ真実とはいえません。いまの私の目に真実と映った事柄でも、時を経て真実でなくなってしまうものは「虚仮(こけ)」「いつわり」です。父親のNさんは、高校生の息子さんとの距離感について難しさを感じています。今年になって意見の衝突が多くなってきました。そしてある日、口論はつかみ合いに発展し、はたして体力で勝る息子さんに圧倒されました。馬乗りになった息子さんが、しかし泣きじゃくりながら、「結局、父さんはいつもカネと世間体だけじゃないか!」と訴えたのでした。Nさんには大変堪(こた)えました。この日に至るまで、父子の意見が対立したときには、「家庭のためだ」「おまえのためだ」と息子さんに言い聞かせてきました。Nさんの努力のおかげで、一家が豊かな生活を送っているのは一面で事実です。ですが、同じ家に暮らす息子さんにとっては、父親の面と向かって諭す時間より、背中を見ている時間の方がはるかに長かったのです。詳しい事情は知り得ませんが、先の息子さんのセリフは私にも迫ってきます。私たちはひょっとして、隠しているつもりの本音を、背中から後ろに漏らしつつ暮らしているのかもしれません。前に向かって空虚な正論をかざしながら・・・。
薬をのめばなおる?
先ほどの「念仏のみぞまこと」の言葉の直前には「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」とありました。しかし、まことなき虚仮の私が、虚仮(こけ)のまま放っておかれるなら、真実がはたらいていないことになります。虚仮を真実ならしめるものこそ真実です。まことが私に来たって私の虚妄(こもう)が破られる、それが南無阿弥陀仏という名号(みょうごう)のまことです。真実はお名号となり届いてくださいました。
南無阿弥陀仏の名号はわずか六文字ですが、「この六字の名号のうちには無上甚深(じんじん)の功徳利益(くどくりやく)の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり」と蓮如上人は「御文章」でおっしゃっています。仏さまのまことのすべてが込められているのです。絶大な効能をもつ薬も、一口で飲める錠剤としてつくられるように、お名号はほかの行(ぎょう)に勝(すぐ)れていて、なおたもちやすく称えやすく仕上げられています。
妙好人(みょうこうにん)の浅原才市同行(あさはらさいちどうぎょう)は、「さいちが病気はなむあみだぶをのみこめばなおるかいやそんならどうすればなおるかへさいちが病気はなむあみだぶつさまにのみこまれるでなおるであります」 と詠(よ)んでおられます。
その称えやすさから、お名号は一粒の丸薬を飲むかのように思いましたが、実は広大なまことに私のほうが丸のみされている事態だったのです。自分で称えているつもりが、称えるほどに、まことに包まれていたことが知られて、いっそうありがたくうれしいのです。また蓮如上人は「衆生(しゅじょう)をしつらひたまふ。『しつらふ』といふは、衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御(おん)くはへ候ひて、よくめされ候ふ」とお述べです。阿弥陀さまは私たちのあさましい心をそのままに、真実の心をお与えくださるのです。だからこそ、まことに成り変わるべく頑張らなくても、いいえ、頑張れずにいるこの虚仮の私の安心となるのです。

■さとりの必然
阿弥陀さまの御前(おんまえ)に
お寺の本堂にお参りすると、いつもと随分ちがった雰囲気に包まれます。広いお堂、きれいなお内陣、お優しい顔つきのお仏像・・・・・・。それだけが要因ではありません。一番大きな要因は、本堂の中心にいらっしゃいます仏さまが、本当にこの私のことを全部ご存知で、必ず救うと、いま・ここで・この私にはたらきかけてくださっているからです。浄土真宗のご本尊、阿弥陀さまは、さとりそのものが現れてくださった仏さまだと、親鸞聖人は明らかにしてくださいました。このさとりのことを「無分別智(むふんべつち)」ともいいます。とても難しい言葉ですが、簡単に意味を窺(うかが)うと「あらゆる物事を分け隔てせず、ありとあらゆる物事を自分と一つの如(ごと)くに見ていく心を開く」ということだそうです。いまだにさとりの一分(いちぶ)でも開いていない私たちには、想像がつかない話ですね。でも、これはとっても大事なポイントなんです。
みなさんは足の向こうずねを、コツンと打ったことはありませんか?俗に「弁慶の泣き所」などといわれています。ちょっと打っただけでも涙がでるほど痛いのが向こうずねです。おっちょこちょいの私は、時々、この向こうずねをゴツンと打つことがあります。もう打った瞬間に「あ、痛っ」と、思わず打った向こうずねを押さえてうずくまります。よく見て、落ち着いて、ちゃんと歩いていれば向こうずねなど打つはずもありません。なのによくぶつけるんです。かわいい娘が同じように向こうずねをぶつけたら、どうでしょう。私は愛情たっぷりの父親だと自負しています。娘がどれほど痛いかも、自分の経験でよく知っています。ですから、「大丈夫か?血はでてないか?ケガしていないか?」「今のは痛かったろうに・・・」と心の底から心配します。でも、私の向こうずねは痛くないのです。どれほど愛情があっても、親子であっても、親と娘と分け隔てして、とらまえることしかできないのが私たちです。
仏さまは違います。自と他を一つの如くに見る無分別智を開いていらっしゃるのです。私がいろいろなことで苦しみや痛み、悲しみや寂しさにさいなまれることがあります。この私の痛みを、仏さまは自らの痛みとするのです。自らの痛みとするなら、当然その痛みを何とかして取り除こうとするのです。そうです。無分別智といわれる自他一如(じたいちにょ)のさとりを開いた仏さまは、私の苦悩を自らの苦悩として、その苦悩を取り除こうと、いま・ここで・この私にはたらきかけてくださっているのです。それがさとりの必然です。
ご一緒してくださる私
私たちは今、いろいろな状況のなか、一人ひとりがそれぞれの現場を抱えて生きています。他者には解ってもらえない苦しみや痛み、寂しさや孤独感を感じながら生きています。愛情たっぷりの親子でも、お互いの心を完全にわかりあえることはありません。誰も私の心の奥深くまで知ってくれる人はいないのです。いわば私たちは多くの人と一緒にいても、全くの孤独を感じることがあるのです。無分別智といわれる他者を自己と一つの如くする仏さまは、誰にもわかってもらえない私の心の奥底までを自分のこととしてくださって、そんなあなたをそのままにしてはおけない、その苦悩の本(もと)をぬぐいさろうと、いま・ここで、はたらきかけてくださっているのです。私たちが単純に「見守る」「寄り添う」などと言っている程度のことではなかったのです。
阿弥陀さまという仏さまは、いま・ここで・この私とご一緒となってくださって、この私を支えてくださっているのです。本堂にお参りして、阿弥陀さまの御前に座ると、自然と頭が下がります。それは、いま・ここで・この私に「あなたのことはすべて私のこと、そんなあなたを必ず救う。安心しなさい」と阿弥陀さまが届いてくださっているからでした。 
 

 

■母のお弁当
売店で何か買うから
教区の子どもたちと本願寺に参拝した時のことです。お昼に、持参したお弁当を車座になって食べました。子どもたちに話しかけながら、私が順に見回っていると、「うわ、ピーマン入っとる。いらんって言ったのに」と、男の子がスパゲティを指さしながら言います。その隣で別の子が、ピラフの中からグリンピースだけを黙々と取り除いています。「サンドイッチがよかったのに」と言いながらおにぎりをほおばる子、注文したものが入ってないと文句を言う子・・・・・・親御(おやご)さんの苦労にただただ同情します。そんな時、自分が母のお弁当を食べていた時のことを思い返しました。小学生の頃、野球の練習で持たせてもらったお弁当。空になったお弁当箱を自慢気に母に見せていました。中学になると、友達のお弁当と見比べるようになり、思春期の恥ずかしさからか、隠すように食べていた気がします。高校に入ると給食がないため、毎日お弁当が必要になりました。母は忙しい中で家族の朝食を準備しつつ、毎朝私のお弁当を作ってくれました。けれども私はというと、周りの友人の影響もあってか、日に日に母のお弁当を食べるのが嫌になり、毎度同じ食材を残したり、時にはほとんど手を付けずに持ち帰ったこともありました。無言で茶の間に返したお弁当箱を、母はどんな顔で洗っていたのでしょうか。そしてどんな思いで次の日のお弁当を作っていたのでしょうか。ある日、「もうお弁当いらんで、売店で何か買うからいいわ」と母に言いました。母は何も言わず少しうなずき、次の日からは昼食代を私に持たせました。その時の私は、これで自分の好きな物が食べられると喜ぶだけでなく、母の手間を省いてやったとさえ思っていました。
命の原動力
昼食代は次第に私のお小遣いの一部と化し、何か欲しい物があるとお金を貯めるため、飲み物だけで昼を乗り切ることも多々ありました。母はそのことを知ってか知らずか、いつの日からか昼食代と共におにぎりを添えて渡すようになりました。断る私を制して母は「持って行きなさい。食べんかったらそれでいいし」と言い、かばんにおにぎりを詰め込みました。当時の私は、そのおにぎりに頼ることもありましたが、母のお節介としか受け取れませんでした。そのおにぎりに込められた親心を知らされたのは数年後、ご門徒さんのご法事での会食の席でした。給食がない時代、幼い頃に母親に持たされたおにぎりや芋(いも)を思い出して、「お母(かあ)のあれはうまかったなぁ」と互いに懐かしむご兄弟。学校までの遠い道のりを歩く毎日、母親のお弁当だけが原動力だったと言い切られました。物不足の時代にもかかわらず、子どもの成長だけを願って母がこしらえたお弁当・・・。「どこにいようがお前たちを思っているよ」という母心が、家では手料理として、外ではお弁当として子に届けられる。子はそのご飯を食べ、お腹(なか)におさめる。そして肉や血となり、子をたくましくさせる。単に空腹を満たすための食料ではなく、苦労をいとわない母の親心だとわかっていたから、このご兄弟は何十年経とうと忘れず、味を思い出すことができ、うれしかったと言えるのでしょう。
考えてみますと、私が聞かせていただいている南無阿弥陀仏の名号もまた、「どこにいようともいつでもあなたを思っているよ。安心しなさい」という阿弥陀さまの本願が込められた喚び声です。南無阿弥陀仏はわずか六字の言葉です。しかしその六字には、私を思ってくださる親心やご苦労が満ち満ちていると知れば、六字の名号の称えやすさや忘れにくさは自ずと有り難みと強みとして感じられるのではないでしょうか。母のお弁当には親心のすべてがそこに詰まっており、渡されたおにぎりは「あなたを思っている母がここにいる」と、欲に迷う私に知らせるためだったのでしょう。お念仏を称えるたびに「そばにいるからね」と親心を感じられる喜びが、私に安心を与えてくださり、命の原動力として心身に染みついていくことが「お念仏を味わう」ことなのでしょう。

■原爆を知らない人たちに
爆心280メートルで被爆
8月6日、ヒロシマは69回目の朝を迎えました。私は爆心から280メートルの勤務先で被爆しました。19歳でした。奇跡的に一命は取り留めましたが、骨髄性異形症候群という難病のため、新しい血液があまり作れず、いま生きているのが不思議なくらいです。あの時、即死された多くの遺体を見て私も覚悟しましたが、おかげさまで生かしていただいています。しかし、何も知らず、何も言えずに亡くなった多くの人たちがいます。どうか、二度と戦争のない平和な世の中を築いていってほしいと思います。今からもう40年ほど前、私がつくりました次の詩を、NHKで朗読したことがありました。
「原爆を知らない 幼い人たちに」
その時昭和20年8月6日 午前8時15分 とてもよく晴れた朝でした 赤ちゃんのミルクをつくっていたお母さん 植木に水をやっていたおじいさん 仏さまにお花をあげていたおばあさん ごはんを食べていた坊や 会社に出てこれから仕事をしようとしていたお父さん そして仕事にゆくために道を歩いていたたくさんの人 みんな死んだのです
原爆を落とされることなど何も知らないで いつものように用事をしていたのに 突然「ピカッ」と光って 「アッ」と気がつくまもなく 家の中にいた人は家ごと押しつぶされ 道を歩いていた人は吹き飛ばされ 顔も手も足もからだ中 ヤケドをして広島中の人がみなヤラれてしまったのです たったひとつの原爆で
その時死んだ人 百人?いいえ千人?いいえ一万人?  いいえもっともっとたくさんの人 かぞえきれないほどの人が なんにも言えないで なんにも知らないで 死んでしまったのです ほかの人も大ヤケドをしました大ケガもしました 投げ出されておなかのやぶれた人 背中の骨が折れてしまった人 からだ中にガラスのつきささった人 服などだれも着ていません 焼けてちぎれてなくなったのです
原爆が落ちてすぐ火事になりました 広島中が火事です どこからどこへにげたらよいのかわかりません それでもにげなければにげなければ みんなハダシです 燃えている火の道 われたガラスの上 つぶれた屋根の上 遠く広い火の海を怒りと 悲しみの涙を流しながら 阿修羅のように髪をさか立てて走りました ケガをしている人の血が流れました ヤケドをしている人の皮がはがれブラブラになりました 火の竜巻が吹き荒れました 30センチぐらいの火の塊が なん百なん千と 旋風となって吹き寄せました 火に囲まれて息をするのも苦しく煙のために目もよく見えません
私たちはどうなる? ケガをしながらヤケドをしながら生きていた人たち 声の限りさけびました 「たすけて、たすけて」 道を歩いていて死んだ人の指が燃えました 青い炎を出してボロボロ燃えました 指は短くなり うす墨色をした液体が手のひらを伝わって流れ 地面に落ちました あの指はだれの指だったのでしょう 30年近く経過した今もなお あの青い炎の色を思いだすとき 私は深い悲しみで 胸がいっぱいになります

■川の流れのように
初めての出あい
本願寺派のお寺がなかった愛知県刈谷市で布教所を開き、都市開教専従員として法務に勤(いそ)しんでいます。都市開教における法務の特徴を一つ挙(あ)げますと、「初めての出会いがその方の葬儀」ということでしょうか。長崎県の地方都市で法務をしていた頃、寺院周辺の家庭のほとんどは本願寺派のご門徒で、それぞれの家庭で亡くなる方がおられたら、顔見知りであるのが当たり前のことでした。顔見知りのお宅へ臨終勤行(りんじゅうごんぎょう)に訪れ、顔見知りの葬儀社のスタッフと打ち合わせをして、顔見知りのご遺族と故人の思い出を語り合うのが常でした。長く門徒総代を務めていた方が亡くなられた時、臨終勤行に参らせていただきました。ご遺族と一緒に読経をさせていただきながら、報恩講やお彼岸の荘厳(しょうごん)(お飾(かざ)り)を一緒にしたことを思い出すと涙がこぼれて止まらず、困った覚えがあります。おつとめを終えてご遺族やご近所の皆さんの方へ向き直ると、故人の長男さんが同様に涙をこぼしながらバツが悪そうに笑っておられました。「家での親父は頑固でうるさいばかりで、お坊さんが泣いて惜しんでくれるような男でしたかなぁ・・・」 僧侶が泣いてしまうのはいかがかと思いますが、忘れ難い記憶として大切にしています。私の命が尽きるまで、何度も思い返すことでしょう。お寺とそれを護持されるご門徒が、代々にわたって関係性を築いてきたからこそ、故人お一人おひとりの話題やご遺族との絆が育まれていくのでしょう。ところが、私が都市開教を行う愛知県下、特に都市部においては事情が異なります。本願寺派の盛んな地域、北陸・中国・九州地方などから炭鉱の閉鎖、農業・漁業環境の変化、集団就職など、さまざまな事情で東海地区に移住し、就職、結婚して家を構えて、いざ法事や葬儀を営むという時、本願寺派の寺院を探してくださる方々と出会うことになります。
みな同じ塩味に
葬儀に際し、初めてお会いする故人は既に棺(ひつぎ)の中におられます。初めて会うご遺族からは、法名をおつけするために故人のエピソードを聞かせていただきます。出身地域が親しみのある場所であったりすると、葬儀の取り持つご縁の不思議を思わずにはいられません。そして、本願寺派の僧侶として、何を一番にお伝えするべきかを考える時、正信偈の一節が浮かびます。
「凡聖(ぼんしょう)・逆謗(ぎゃくしょう)斉(ひと)しく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅすい)海(うみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし」 「凡夫(ぼんぶ)も聖者(しょうじゃ)も、五逆(ごぎゃく)のものも謗法(ほうぼう)のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる」
川の流れは古くから人生にたとえられてきましたが、その長さは生きた時間でしょうか。その人の人生をその人が生き抜いたのだから、他の誰かが勝手な物差しで優劣を決めるなどおこがましいとわかっているはずなのに、私たちは平均寿命などの物差しに振り回されて、勝手に悲しみを増しているのかもしれません。川の広さは人生の豊かさでしょうか。経済的な豊かさ、交友関係の範囲。自分が選んだ末の人生であるにもかかわらず、隣の芝生の青さが気になって、感じなくてもいい不平や不満を感じているのかもしれません。川のあり様は生き様でしょうか。清らかにありたいと願いながらも、思いのままに生きられない人生、心ならずも傷つけたり傷つけられたり、憎(うら)んだり妬(ねた)んだり、気付いたら取り返しがつかないほどに濁ってしまった自らの姿にため息をつくのでしょうか。しかし、流れ込んでくる川の水を一切分け隔てすることなく、自らの中に摂(おさ)め取り、ついには自らと同じ塩味一味(しおあじいちみ)に調(ととの)えていく海のはたらきは、まるで阿弥陀さまのようだ、と示されているのです。この正信偈の一節があればこそ、私たちが浄土に生まれることはお慈悲のはたらきによるのだから、何の心配も疑いもありません、とお伝えすることができます。 旧知でもそうでなくても、地方でも都市部でも、私たちの都合を問題としない心強いお慈悲のはたらきの中、安心して今日も法務に励んでいます。

■「開講偈」のこころ
命がけで仏法を
「無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法(ほう)は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遇(あ)い値(お)うこと難(かた)し。我今(われいま)見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得(え)たり。願(ねが)わくは如来(にょらい)の真実義(しんじつぎ)を解(げ)したてまつらん」 毎週火曜日、私は京都の中央仏教学院に出講しています。学院の教室では毎朝第1講時の開始前に、講師・学生全員が起立合掌してこの言葉を唱和します。「開講偈(かいこうのげ)」と呼ばれています。遇い難き仏法に出遇えたことをよろこび、命がけで仏法を学ぶ決意を表明する言葉です。布袍・輪袈裟(ふほう・わげさ)に身を包み、「開講偈」を唱える学生たちの姿に初めて接したとき、私は背中を打たれたような衝撃を感じました。多くは大学を卒業した後、自坊の住職になるために入学された方々ですが、中には定年退職後の人生の依りどころを求めて来られた方、ご住職を亡くされ法灯(ほうとう)を守るために来られた坊守さまや中学を卒業したばかりの若い寺院後継者、さまざまな事情を抱え仏法に救いを求めに来られた方もいらっしゃいます。命がけで仏法を学ぶ人たちに、私は命をかけて講義ができているだろうかと、ふと思うことがあります。源信僧都(げんしんそうず)の『往生要集』に、逃げ遅れたキツネの話が紹介されています。人道無常(にんどうむじょう)の相を説く一段に、死苦の恐ろしさを知らせるために提示された譬え話です。源信僧都はその文を天台大師の『摩訶止観(まかしかん)』から引用されていますが、キツネの譬喩は、もとは『大智度論(だいちどろん)』に説かれたものです。 物語風にご紹介しましょう。
まだまだ大丈夫
森に一匹のキツネがいました。ライオンやヒョウの食べ残しをもらって、何とか命をつないでいました。しかし、その日は獲物がありませんでした。おなかがすいてたまらず、真夜中に城壁を越えて町に入り、長者の家に忍び込みました。台所をあさりましたが、肉を見つけられず、とうとう力尽きて戸棚のかげで眠ってしまいました。朝になって気付いた時には、たくさんの人間に取り囲まれていました。逃げ切れないと判断し、そのまま死んだふりをして様子を見ることにしました。ある男が、「おれはこいつの耳をもらおう」と言って切り取りました。キツネは思いました。「耳は痛いけれど、身体(からだ)はまだ大丈夫だ。もう少しじっとしていよう」 次に別の男が、「おれは尾っぽをもらうぞ」と言って持ち去りました。「尾っぽは痛いけれど、これくらいなら我慢できる」 キツネの心にはまだ余裕がありました。「おれは牙(きば)をいただこう」という声を聞き、キツネは考えました。「どんどん持って行きやがる。もし首を取られたらおしまいだ」??そう思った瞬間、キツネは恐怖に襲われて跳び上がり、すべての知恵を傾けて最短の逃げ道を求め、一目散に走って難をのがれました。
手遅れにならぬよう
キツネは、死に直面してはじめて「命がけ」の姿勢をとることができました。もう少し早く行動を起こしていれば傷つかずにすんだのに・・・・・・。私はどうでしょう。「ご催促」はすでに何度かあったような気がします。でもまだ大丈夫と高をくくっています。源信僧都は次のようにもおっしゃっています。
「無限の生死(しょうじ)の中で、人間に生まれることは極めて難しい。たとえ人間に生まれても、仏の教えに出遇(あ)うことは難しく、たとえ仏の教えに出遇えても、信心をいただくのは希有(けう)のことである。ところが今、われらは幸いにも仏法を聞くためのすべての条件に恵まれた。娑婆(しゃば)に訣別(けつべつ)し、浄土に往生できる機会は、今この時をおいてほかにない。なのにいつになっても欲望はなくならない。臨終の時、猛炎の中に堕(お)ちながら助けを求めても、もはやどうにもならない。どうか一刻もはやく、さとりへの道を歩み始めていただきたい。宝の山に入りながら、手ぶらで帰ってくるような、愚かな生き方をしてはならない」(一部要約)
手遅れにならないうちに、居眠りのような人生をそろそろ何とかしなければ、と思っているところです。

■「大悲」のこころ
深い悲しみに...
私が住んでいる広島は今、深い悲しみに覆われています。8月20日未明に襲った土砂災害。多くの方が犠牲になり、家を失った被災者の方々は、現在も不安な生活を強いられています。そうした中、知り合いの若手僧侶たちは、土砂の撤去作業のボランティアをはじめました。尊い行いだと思います。
阿弥陀さまはお誓いになりました。「あなたを浄土に生まれさせたら、その身体や心に不思議なはたらき(神通(じんずう))を得させ、迷いの衆生を自在に救えるようにしよう」 『無量寿経』に説かれる阿弥陀さまの四十八願の第五願からは、このような誓願(せいがん)が説かれています。例えば、天眼通(てんげんつう)=あらゆる苦悩のいのちを見落とさない眼の力。天耳通(てんにつう)=あらゆる苦悩のうめき声を聞きもらさない耳の力。他心通(たしんつう)=あらゆる苦悩の心のうちを知り尽くす力。神足通(じんそくつう)=苦しむいのちのもとへ、自在に飛んでゆける足の力・・・。
詩人・宮澤賢治は、岩手の農民たちの窮状を、「ジブンヲカンジョウ(=勘定)ニ入レズニヨクミキキ(=見聞き)シワカリ(=解り)ソシテワスレズ」にいられる、眼や耳や心を欲しました(雨ニモマケズ)。「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ・・・」と、苦しみ悩む人々のもとへ、ひとっ飛びに飛んでいける足を欲しました。
あなたの苦しみが私の苦しみ。何とかその苦しみを和らげ、安らぎを与えたい・・・。そんな「慈悲」の願いに生きてこそ、「真実に生きた」と言えるのでしょう。けれども、私たちの眼や耳や足には、限界があります。
共にお念仏申す
時間がたつにつれ、全国ニュースで広島の土砂災害のことが報じられる度合いが少なくなっていくのを見て、ある布教使の先生の厳しい言葉を思い出しました。「見たくないもの、聞きたくないものは、見ない、聞かない。私たちは『他人事』をつくりながら生きています」 私も、自分の家族や友人が、よその人より大切なのです。その意味では、私はこの3年間、東日本大震災を「他人事」として生きてきたのでした。自分の家族を養っていく日々の営みの方が大事だったから・・・。どれほど被災者に同情しようとも、「『自分』を勘定に入れ」、いのちにランクをつけて生きるほかない私たちの「慈悲」は、範囲の限られた「小さな慈悲」でしかないのでしょう・・・。
親鸞聖人は、「自分に人を救う力があるなどと、思い上がってはならない」という自戒を、常に持っておられました。晩年には、長男・善鸞さまを義絶することになりましたが、自分には、わが家族を救う「小さな慈悲」すらないと、おのれの無力をかみしめられたのではないでしょうか。けれども、そのように無力な私たちこそ、阿弥陀さまの「大悲」の願いの現場です。
「仏心とは大慈悲これなり」 「大悲」とは、『他人事を持たない心』のことです。阿弥陀さまには「自分と関係のないいのち」など存在しません。土砂に流され亡くなった人々のいのち。大切な家族を一瞬にして奪われた遺族の悲しみ。今も不自由な生活を送る被災者の不安。救助・復旧作業にあたる人々の辛労・・・・・・。すべてのいのちを隔てなく包み、一人一人の苦悩の人生に無上の尊厳を与え、いのち終えたら、無力な私たちを、阿弥陀さまと同じように、自在に人々を救える「大悲」のはたらきに転じてくださる真実の言葉が、「なもあみだぶつ」でした。予想だにしない悲しみに見舞われる世界が、この娑婆(しゃば)です。突然やってくる災難の前に立ちすくみ、おろおろと涙するほかないのが、私たち凡夫(ぼんぶ)です。けれども、この悲しみの大地にこそ、阿弥陀さまの声は響きわたっています。私には、人を救う力などない。でも、みんなで一緒に、阿弥陀さまに救われていくことはできます。真宗門徒はそのように、共になもあみだぶつを仰いで苦難を乗り越えてきました。今この苦難の中で、共々にお念仏を申したいと思います。

■ともに会える世界
ひざの上が定位置に
大切な人を失うと、いくら時間が経っても、遺(のこ)された家族には悲しみや苦しみが大きくのしかかってきます。人生は喜びや楽しみよりも、苦しみや悲しみに直面することの方が多いのではないでしょうか。お釈迦さまの説かれた教えに「四苦八苦」があります。その中に、愛するものと別れる苦しみ「愛別離苦(あいべつりく)」があります。親鸞聖人の尊敬された七高僧のお一人・中国の善導(ぜんどう)大師も「五苦(ごく)」と顕(あらわ)され、第三代覚如上人の『口伝鈔(くでんしょう)』には、「愛別離苦、これもつとも切なり」と記され、愛するものと別れる苦しみは、さまざまな苦しみの中でも特にきびしいものであると示されています。私自身も、愛する者と別れる苦しみを経験しました。それは母方の祖母との別れでした。祖母は大柄で、いつも笑顔で、優しく、温かい人でした。私が祖父母の家で両親に怒られると、泣いたり怒ったりした私を、祖母はいつも慰めてくれました。ですので、心安らげた祖母の膝(ひざ)の上がいつも定位置となりました。祖母とは、学校の休みごとにしか会わなかったのですが、いつも、どんな時でも「ナンマンダブナンマンダブ」と称えていたそうです。
共にお念仏申す
そんな祖母は、毎日決まって夕方の5時になると、祖父と共に仏間で正信偈をおつとめしていました。そして、おつとめが終わったあとも、一人でお念仏を称えていたことを今でも覚えています。そんな祖母が、体調を崩したのは10年ほど前のことでした。糖尿病になり、目が見えなくなりました。次々に病気にかかり、大柄だった身体もとても小さくなっていきました。そして、私が中央仏教学院の研究科で学んでいた時のことです。身体が弱りきった祖母を、私のお寺に移して看病することになり、私と母が交互に面倒を見ました。祖母は認知症にもなって、話もなかなか通じず、私のこともわかっているかどうかというほどでした。そして、ある夜のことでした。あまり口も開かなくなり、私たち家族も「もうあかんかも・・・」と考えるようになっていきました。すると、寝たきりの祖母が、お腹のあたりで手を合わせているのです。祖母の口元に耳を近づけると、小さな声が聞こえてきました。それは、「ナンマンダブナンマンダブ・・・」とお念仏を申していたのです。祖母は、最後まで阿弥陀さまに、すべてをおまかせしていたのでしょう。その後すぐ、いつも私を慰め、かばってくれ、温かく見守ってくれた大切だった祖母を失いました。そして、私は愛するものと別れる苦しみに苛(さいな)まれる日々を過ごしました。
「かくのごときのゥ上善人(しょじょうぜんにん)とともに一処(いっしょ)に会(え)することを得(う)ればなり」 そんな私に『阿弥陀経』のこのお言葉が響いています。「死に別れていくだけじゃない。再び会える世界がある」と釈尊がお説きくださっているのです。今生(こんじょう)の世界では別れてしまいましたが、共にお念仏申す私たちには、再び会わせていただく世界があるのです。今生の世界では、別れて、再び言葉を交わしたりすることはできませんが、ナンマンダブのお念仏の中で出会わせていただけるのだと知らされます。亡くなった祖母も阿弥陀如来のゆるぎないお慈悲の中にあり、私もまた同じお慈悲の中にあり、そこに生かされている私たちは、お浄土で再び会わせていただくことが約束されています。私がこうして祖母のことをお話しさせていただいていることによって、お浄土に仏となって生まれた祖母が、私に「南無阿弥陀仏」とよびかけてはたらきかけてくれているように感じています。それを、祖母の姿を通して知らされました。これからは、私にとって大切だった故人の生き方を偲ぶ中で、再び会わせていただける世界があるという思いを深めて、共にお念仏の道を歩んでまいりたいと思います。

■あなたにだけ
阿弥陀さまを大事に
「あなたにだけあげる」 心に残っているお同行(どうぎょう)の言葉です。小学校低学年の頃の私は、自坊でお座があるのを待ちに待っていました。いつもご法座があると、私の好きなお菓子を袋に入れてお参りに来られるT子さんというお同行がいたからです。T子さんはお寺にお参りになられると、本堂にあがる前に必ず家の玄関に来られます。そのT子さんの声が聞こえると、お菓子欲しさに一目散に走っていく私がいました。私の姿を見つけると、ニコニコしながらおいでおいでと呼んでくれます。「これ、あなたにだけあげる」 と言ってお菓子の入った袋をカバンから取り出すのです。その袋を受け取ると同時に、T子さんは私の手をパッと握ってきます。袋の中身をすぐに見たい私がその手を振り払おうとすると、今度は両手でギュッと握って離してくれません。「阿弥陀さま大事にしてね。お寺に参ってね」 T子さんの顔を見ると、ドキッとするような優しくも真剣な表情が私へ向けられているのです。「うん、わかった」と応えるまで握り続けるその手の温もりは今も心に残っています。
ただひたすらに
昨年の10月のことでした。富山のお寺に嫁いでいる姉のご縁で、報恩講のご法話によせていただいた時のことです。いつもお念仏をよろこんでおられたT子さんの話になったのです。「T子さんかあ。懐かしいなあ。いつも明るくて、ニコニコしてたおばあちゃんで・・・。そういえば、お寺に来られたらいつもお菓子くれてたよね」 「あれ??」と私は一瞬思いました。私にだけあげると言っていたはずでは?と思ったのです。家に帰ってからもう一人の姉にT子さんのことを聞いてみると、「そうやねえ・・・。三人それぞれに、袋に入れたお菓子を同じようにくれてたよ」と言うのです。そして同じくT子さんのことを懐かしいなあと話していました。二人の姉と話をしているうちに、T子さんは「あなたにだけ」とはっきり言っておられたのではないのかもしれないと思い始めました。「阿弥陀さま大事にしてね。お寺に参ってね」と、私へ向けられた優しくも真剣な表情と、あの心に残っている手の温もりがお菓子の思い出と重なって私の中に生き続け、いつしか「私にだけ」という受け止めになったのではないかと思います。「私にだけ」と受け止められるほど、ただひたすらに私に向けられた思い。それは同じように、二人の姉へも分けへだてなく向けられていたからこそ、それぞれの思い出の中に「懐かしいなあ」と同じように今も生きているのです。
お寺に生まれ、お寺で育てていただいたご縁の中での話となりましたが、皆さまはどのような「であい」をお持ちでしょうか。生活の中にお念仏と共に歩まれた方々が、私たちに残してくださった思い出は、大切なものだとあらためて感じました。このお菓子の思い出が私を育て、南無阿弥陀仏に出遇(あ)わせていただく機縁の一つとなったのだと思います。
親鸞聖人は、「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」 と、ご述懐なさっておられたと『歎異抄』後序(ごじょ)に記されています。この「ひとへに」とは「ただひたすらに」という意味です。阿弥陀如来さまの願いが「私のために」と受け止められるほど、ただひたすらに私へ向けられているのです。そしてその願いは、ただひたすらに私へ向けられているように、分けへだてなくすべての一人ひとりに同じく届けられているのです。南無阿弥陀仏に出遇い、そのよろこびを伝えずにはおれない思いをお菓子に込めて、私に届けてくださったT子さんのように、お念仏をよろこんでおられるお方が身近にいてくださった。阿弥陀如来さまの五劫思惟のご苦労が、そのお姿を通して聞こえてくる、得難いお育てをいただいているのです。

■阿弥陀さまの眼差(まなざ)し
親子で猛特訓
「這(は)えば立て立てば歩めの親心」。子の成長を目を細めてあたたかく見守っているやさしい親心が表されています。しかし、あるご法話で、「這えば立て立てば歩めの親のエゴ」と聞かせていただいたことで、少し見方がかわりました。息子の入園式を前に、先生から「お子さんのお名前を呼びますので、呼ばれた人はハイと大きな返事をして立ち上がってくださいね」と言われました。早速、家で猛特訓が始まりました。「先生に呼ばれたらどうすんの?」 「知らん」 「違うやろ。はーいって大きな返事するんやろ。よし、練習や。藤本慶哉くん」 「・・・」 「慶哉くん」 「・・・はい・・・」 「よっしゃー、やればできる。返事したらどうすんの」 「知らん」 「立つんやろ」 まぁ、そんなやり取りで特訓した結果、なんとかできるようになったのです。
さて、入園式当日。先生が名前を呼び始めました。「はい」と力強く返事をして、すくっと立つお子さんがおられます。すると保護者の方でしょうか。「よくやった。えらい」と大きな声をあげて会場に響き渡るような拍手。一方で、恥ずかしそうにもじもじして返事ができないお子さんがいらっしゃいます。「もーうちの子は・・・」と恥ずかしそうにしている親御(おやご)さん。いよいよ息子の番です。「藤本慶哉くん・・・・・・藤本慶哉くーん・・・・・・」 わが子は何をしているかといえば、椅子に後ろ向きに座って、先生にお尻をむけ、そ知らぬ顔ですましています。「あーやりよった。あれだけ練習したのに」 私は恥ずかしくなって、悔しくなって、帰ったら怒ってやろうと思いました。
お念仏をいただく
入園式も終盤にさしかかった頃、PTA会長さんの挨拶がありました。 「今日は元気よく返事できたお子さんもいらっしゃいます。まったく返事ができなかったお子さんもいらっしゃいます。実は私の子どもも返事ができませんでした。でも私は、それがわが子が精いっぱい頑張っている姿だと思いました。だから返事ができたお子さんの親御さんも返事ができなかったお子さんの親御さんも、まずはしっかり抱きしめて、よく頑張ったねとほめてあげてくださいね」 私はこの言葉がガツンと響きました。勝った負けたで計らない、私の精いっぱいをそのまましっかりと受け止めてくださる、阿弥陀さまの眼差(まなざ)しを味わいました。と同時に「わが子のため」との思いが、気付かない間に「私に恥をかかすな」という、私のエゴにすり替わっていた自分に気付かされ、大変恥ずかしい思いでした。家に帰ったわが子に「よう頑張ったなー」と言って抱きしめると、びくっとして私に言いました。「お父ちゃん、今日は怒らんのか・・・」
お恥ずかしい限りです。わが子にとって、幼稚園は新たな社会との出会いです。お友だちとの比較や競争といった世界の中でもまれ、大きく成長していくことはもちろん大切なことです。しかし一方で、時には幼心ながら傷つき、涙をこらえることもあるかもしれません。わが子にとって、安心できる家庭までもが、競争や比較の眼差しにさらされた空間であったなら、緊張の連続であり、ほっと一息つくことすらできません。「十方微塵(じっぽうみじん)世界の念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし摂取(せっしゅ)してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」 微塵の如く無数にあるいのちの中で、どれほどささやかな私の涙をも、決して見過ごすことのない阿弥陀さまの眼差しがありました。涙ながらにもれ落ちていくものこそ、抱きとらねばならないというお心が、阿弥陀さまの大悲なのです。「南無阿弥陀仏・・・また負けたか、つらかろう、苦しかろう。わかっているよ。私がいるから安心しておくれよ」 阿弥陀さまのあたたかな眼差しが注がれ、頼もしい大きなみ手に今、抱かれてある姿がお念仏をいただく姿でありました。

■私一人のために
姪のケーキを作る
昨年11月、妹の長女が3歳の誕生日を迎えるにあたり、家族全員でお祝いすることになりました。そこで、母が私の連れ合いに、誕生日ケーキを作るように頼みました。なぜ、妹の長女の誕生日ケーキを私の連れ合いが作ることになるのかといいますと、私たちの娘が小麦アレルギーを持っていたからです。小麦粉が少量でも体内に入ってしまうと体中にかゆみが走り、顔を含めた全身がはれ上がるような状況でした。店頭に並んでいるケーキは、基本的に小麦粉が使われています。それを買ってきたのでは、一人ケーキを食べることができない子が出てきます。それが、私たちの娘だったのです。最近は小麦アレルギーで悩んでいる方が増えてきたようで、スーパーなどでも小麦粉に代わる米粉を置いてくださる所が増えてきました。そこで母は私たちの娘のことを一番理解している連れ合いに、アレルギーの出ない食材を使った、娘も食べることのできるケーキを作るように頼んだのです。早速、連れ合いはスーパーに行き、娘に合わせ米粉を含めたアレルギーの出ない食材を探し、子どもたちが喜ぶようにと、果物などを買ってきてケーキを作りました。
条件などつけない
その晩、子どもたちが大喜びで、おいしそうにケーキを仲良く食べている姿を見た時、私も心からうれしくなりました。この日の誕生日会では、たとえ主役であっても、妹の長女の好みだけに合わせてしまったのでは、娘はケーキを食べることができず、楽しい会にはならなかったでしょう。どうすればみんながケーキを食べて、楽しい雰囲気のまま会を終えることができるのか?それは、アレルギーのある娘に合わせることでした。相手に合わせる場合は、合わせる側が一方的に合わせるのです。娘に「早くアレルギーを治しなさい」などというのではなく、相手の状況や素質、能力などを見きわめ、一切条件を付けることはありません。条件を付けたところで、その条件を満たすことができないことを知っているものが、わざわざ条件を突き付けることはありません。すべて合わせる側の仕事です。世間一般の考え方では、高額で希少価値があり、少人数、一握りの人だけ食べることのできるものが素晴らしいもので、一般大衆、多人数が食べることができるものは評価されにくいものでしょう。しかし、本当にそうでしょうか?違う考え方もあるはずです。今回の誕生日会でいえば、主役しか食べられないケーキの方がつまらないもので、家族がみんなで、楽しく食べられるものの方が素晴らしいものでした。
信じさせ称えさせ
阿弥陀さまが法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者であられた時、善人も悪人も、賢者も愚者も、出家も在家も、持戒(じかい)の者も破戒(はかい)の者も、富める者も貧しき者も、すべてを分けへだてなく救い、浄土に迎え取ろうと願いを立てられました。自力の修行は、必ず落ちこぼれが出てくるような難行道(なんぎょうどう)であるから選び捨て、一人も漏(も)れることなく救い得る称名一行(しょうみょういちぎょう)を往生の行(ぎょう)として選び取られました。そして「どうかお願いだから、念仏して浄土に生まれてきてほしい」と、救いだけを告げ続けてくださっていました。世俗のこと、また自身の愛欲と憎悪に振り回されながら、他を傷つけ、自らも傷つきながら生き、さとりを開く手がかりさえもない私のことを救おうと、五劫(ごこう)もの間、思惟(しゆい)され、今まで見捨てず抱え続けてきてくださっていました。何か一つでも条件がつけば漏れてくる者、落ちこぼれてくる者とは、まぎれもなくこの私だったのです。しかし、この私が漏れてしまっては、命あるすべての者ということにはなりません。だからこそ、この私に条件は一切つけず、この私に合わせてくださったのです。信じさせ、称(とな)えさせ、生まれさせる。この私のためにと仕上がってくださった方のお名前を阿弥陀さまというのです。

■仏の一人子として
初参式は誰のため
先日、生後4カ月になった息子の初参式(しょさんしき)のため、お世話になっているお寺に参りました。初参式は、新たな命の誕生をよろこび、初めて阿弥陀さまにご挨拶をさせていただく大切な儀式です。私たち夫婦と、それぞれの両親も一緒に、家族総出で息子と阿弥陀さまのご縁を喜びました。しかし、考えてみると、生後4カ月の息子は、おつとめができるわけでもありませんし、ご法話がわかるわけでもありません。阿弥陀さまという仏さまのこともよくわからないでしょう。わけがわからないまま連れてこられて、周りの大人が騒がしくしているなあ、くらいにしか思っていないかもしれません。そんな息子にとって、この初参式は「お寺へのお参り」であったり「聞法(もんぼう)」であると言えるのだろうか?そんな疑問が後になってふとわいてきたのです。そう思った時、初参式の時のご住職のご法話を思い出しました。「初参式は、赤ちゃんが初めてお参りに行くことを祝う儀式ですが、その赤ちゃんのお母さんも、お父さんも、その子が生まれた時に親として生まれました。ですから、この子が4カ月生きたなら、この子の親も生後4カ月の親なのです」 確かに、私たちはこの子が生まれた時に、初めてこの子のお母さん・お父さんとしてスタートしたのです。生後4カ月の子の親である私たちは、生後4カ月のお母さん・お父さんというわけです。「この初参式は、息子のための儀式だ」と思っていましたが、実は、親として生まれた私たちにとっても初参式≠セったのだなと知らされたのでした。
私のためのご縁
初参式は、息子を縁としておつとめする家族みんなのための初参式でした。私にとっては、息子が私に結んでくれた、お参りと聞法のご縁だったのです。初参式に限らず、お葬式や法事なども、すでにご往生されたその人自身がお参りしたり、聞法したりしているわけではありません。お参りし聞法しているのは、その人に縁のあった人たちです。つまり、お参りや聞法は「誰かのために」のご縁ではなく、私のためのご縁なのです。親鸞聖人は常々、「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」とおっしゃられていたといいます。「阿弥陀さまが長い長い間、思いをめぐらし、さとりの世界へ救いたいと願ってくださったその願いを、よくよく考えてみると、それは、ただこの親鸞、一人を救いたいがためであった」ということです。
阿弥陀さまの願いはすべての衆生(生きとし生けるもの)を救おうと願われた願いですが、それを誰かのための願いであるように聞いてしまうと、せっかく浄土真宗という素晴らしいみ教えに出あいながらも、私にとってのみ教えから離れて、何か遠くのものになってしまうということでしょう。阿弥陀さまは、いつでもこの私を全力で救おうとはたらいてくださっています。阿弥陀さまの救いはすべての衆生に向かっていると聞くだけではなく、この私こそ目当てとされた救いであると聞いていくところに、浄土真宗のみ教えは私が救われていく仏道となるのです。仏法は、私でない誰かではなく、今ここにいるこの私が聞いていく教えなのです。
私たちは親であったり子であったり、あるいは祖父母として、それぞれ違った立場に立って、それぞれの人生を生きています。しかし、仏さまは人間の立場とは関係なく、一人一人を救いたい目当てとして、一番大切な命として、全力で救おうと見てくださっています。仏さまの前では、私たちは等しく仏の一人子なのです。初参式は息子一人のための式ではなく、私たちみんなが新しい関係性の中で、阿弥陀さまにご挨拶をさせていただき、それぞれが仏の一人子(ひとりご)として仏法を聞かせていただくご縁でありました。 
 

 

■一枚の壁
忘れられないひとみ
銀座の一角にある画廊に「僧職ナイト」という、仕事帰りの会社員や学生たちと僧侶が語り合う場があります。仏教や浄土真宗のこと、日常生活の出来事から悩み事の相談まで、仏教とご縁がない方々と私たち僧侶が気軽に語り合っています。悩みの相談で多いのは、家族や友人、上司と部下など、やはり人間関係の問題でしょう。そんな悩みを聞いて私がいつも感じるのは、状況は人それぞれですが、根源的な問題として横たわる、人と人との間にいつの間にかできてしまう「壁」という存在のことです。数年前になりますが、国際協力活動を行うNGO団体の研修で中東パレスチナ自治区を訪れました。首都エルサレムは、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地がある宗教都市です。訪れてまず驚いたのは、辺りを張り巡らす高さ8メートルの巨大なコンクリートの「壁」でした。1948年、ユダヤ人がイスラエルを建国し、もともとパレスチナに住んでいたアラブ人との間に紛争が起こります。イスラエルの安全を守るという理由でこの壁は造成されました。壁は決められた境界線を大きくまたぎパレスチナ側の道路や学校、家の中までをも分断しています。そして何よりも二つの民族の心を分断しているのです。ある者にとって必要であっても、他の者の平穏な生活を破壊する壁には違いありません。迫る巨大な壁を前に、他者を犠牲にしても自らの利益を追い求める人間の心の欲深さを見るような思いがしました。
そんな状況下でも、輝いていた子どもたちの目が忘れられません。ある難民キャンプを訪れ、楽しく遊び仲良くなった少年に質問されました。「あなたの名前は何ですか?」 私が答え、少年の名前を聞き返そうとした時、さらに「あなたのお父さんの名前は何ですか?」と尋ねられました。一瞬戸惑いました。これまで、初めて会った相手に親の名前を聞かれることなどなかったからです。彼らは親があって恵まれたいのち、そして家族の大切さを実感しているのだと思いました。難民キャンプでは、子どもたちも生きるか死ぬかという厳しい環境の中で生活しています。生きるためには多くの助けが必要なことを知っています。パレスチナの子どもたちは皆、人と人が家族としてつながる重みや、お互いに助け合わずには生きていけないことを肌で感じているのでしょう。そんな切実な思いが伝わり、今でも私の心に深く残っています。
大きな安心恵まれる
親鸞聖人は、阿弥陀如来の救いのはたらきを光にたとえてお示しになります。
解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きはもなし 光触(こうそく)かぶるものはみな 有無(うむ)をはなるとのべたまふ 平等覚(びょうどうかく)に帰命(きみょう)せよ
時間・空間を超えた阿弥陀如来の光明は、どこからどこまで照らすという辺際(へんざい)がないために「無辺光(むへんこう)」と呼ばれます。壁を作らず、境界線を引かず、一切の世界を遍(あまね)く照らしてくれます。光明に照らされるとは、決して捨てないという阿弥陀如来の大慈悲心のうちに摂(おさ)め取られるということです。今ここで確かな救いのはたらきに出遇(あ)うからこそ、光明に照らされた人生は、大きな安心を恵まれた人生となるのです。しかし、私たちの日常生活では、「私」「あなた」と壁を作り、目先の境界線を引くことに一生懸命になっています。そして、自分の都合で区別をし、思い通りにならないものを排除して生きています。しかし、阿弥陀如来の無辺光のはたらきに出遇う時、自ら作った境界線によって振り回されて、他を傷つけ、最後には自分をも傷つけている愚かさに気づかされます。目には見えずとも、数限りない思議を超えた大いなるはたらきに生かされている私のいのちです。知らず知らずのうちに心に壁を作って悩み苦しむことがありますが、パレスチナの子どもたちの目の輝きを思い出すと、つながりの中でこそ私たちは生かされ合う存在であったと知らされるのです。お互いに支え合い手を取り合って、自らを省(かえり)みながら、如来さまの光の中を歩ませていただきたいと思います。

■私とは?
ロボットに押し付け
私が住む富山市にも冬がやってきました。もうしばらくすると初雪が降ることでしょう。そんな中、私が園長を務める幼稚園の子どもたちが、頬を真っ赤にしながらも元気いっぱい走り回っています。「園長先生!これ見て!」と、落ち葉や木の枝を持って来たり、私の手を引き、土や泥、砂、木の実など園庭に落ちているもので作ったケーキや山などの作品を見せてくれたりします。子どもたちを見ていると不思議と元気をもらえます。だから私は、子どもによい環境は何かをよく考えます。具体的には自然の中で遊ぶこと、大人から絵本の読み聞かせをしてもらうこと、わが園では特に、お寺の本堂で仏さまの前に座ることも大切だと考えています。先日、とても面白い絵本を読みました。「ぼくのニセモノをつくるには」(ヨシタケ シンスケ著)の主人公は、よしだ けんた君、小学校3年生です。けんた君は宿題やお手伝いや部屋の掃除など、やりたくないことだらけでゲンナリしていました。ある日、けんた君は名案が浮かびました。ロボットを買って、やりたくないことを全部押し付けようと考えたのです。家への帰り道、買ったロボットにニセモノ作戦について説明しました。
するとロボットは「じゃああなたのこと詳しく教えてください!」といいました。けんた君は名前などのプロフィールや家族構成、容姿や特徴、好き嫌い、できることできないこと、ロボットがしつこく聞くことに自分なりに考えて答えていきます。そのやりとりの中で少しずつ、内面的なところに内容が変わっていきます。「ぼくのなかにはちいさいころのぼくもぜんぶはいっているんだとおもう」と。そして、両親の子どもであることは両親にも「それぞれおとうさんとおかあさんがいるからずっとたどっていくとすごいたくさんの人がぼくとかんけいあるみたい」と、いのちのルーツをたどったり、日によって「ぼくのきもちはコロコロかわるいろんなぼくになるけれどやっぱりぜんぶぼくはぼく」と心の移り変わりを見つめたりしながら、最後に「ぼくはひとりしかいないおばあちゃんがいってたけどにんげんはひとりひとりかたちのちがう木のようなものらしい・・・・・・木のおおきさとかどうでもよくてじぶんの木を気にいっているかどうかがいちばんだいじらしい」と気付きます。けんた君がロボットに説明することで感じたことは、「うーん・・・ぼくってなんだろう・・・かんがえればかんがえるほどいろいろでてきちゃう。でもじぶんのことをかんがえるのってめんどくさいけどなんかちょっとたのしい気もする」ということでした。
煩悩具足の凡夫
私とは?知っているようで意外と知らないのが本当ではないでしょうか?例えば両親の両親、そのまた両親・・・と代をさかのぼっていくと、私の中に多くの方の命が溶け込んでいることになります。また私の心や気持ち、気分は肉体的・精神的な状態によって一瞬一瞬変化し、コントロールしているようでできていません。自分らしさとは何か、そして何よりも私の命はかけがえのないもの、唯一無二の存在であることを真摯(しんし)に受け止めていないということです。私はこの絵本を通して仏教に出遇(あ)うことができました。自分自身を見つめることのできない私の不完全さを、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)と知らされ、その私を決してダメとせず、「ニセモノをつくる」ことはできない存在、自身の命の尊さを教えられました。お寺の本堂で子どもたちに伝えたいことは、本堂の中心におられる阿弥陀さまのお心です。「みんなが生まれてきたことって、すごいことなんだよ!失敗したり、つらいことがあったりしても、あなたは大丈夫、素晴らしいよ。あなたの命は一つしかないんだよ。だから大切にしてね。それとね、あなたと同じように、他の人や動物、植物もみんな大切な命なんだよ」 子どもたちの「なもあみだぶつ、なもあみだぶつ」の声が、わかったつもりの私に「あなたのことだよ」と、私にも教えてくださいます。

■音声(おんじょう)の不思議
まさに無常
今夏、父がその一期(いちご)を終えました。長年、雅楽に親しんできた父は、8月上旬に久しぶりに舞楽を舞ったばかりでした。お盆の時も、住職として多くのご門徒と本堂でお話をさせていただいておりました。ところが、お盆明けに突然体調不良を訴え入院し、8月末に急逝しました。まさに無常を具現するような出来事でした。通夜や葬儀の準備をしながら、まったく理解できないことの中で自分がいる、という、とても奇妙な気持ちでいました。父の死への悲しみも封印されたままでした。あまりにも突然すぎて、あっけなさすぎて、本来自然に湧き出るはずの感情すら、反応に困っている状態でした。父や私が所属する雅楽会では、会員の通夜の席で、献楽するならわしになっています。演奏する曲は、父が一番得意としていた舞楽の曲をお願いしました。しかし、献楽の間近になって「これは失敗したかな」と思い始めました。その曲がきっかけになって感情があふれ出て、涙が止まらなくなって献楽後のご挨拶ができなくなったらどうしよう、と思ったのです。そんな思いを巡らせているうちに、たくさんの方による演奏が始まりました。最初ははらはらしていたのですが、不思議なことに、雅楽の音の中から、笑顔で語り掛ける父の声が自然に聞こえたような気がしました。「突然いなくなって、お前たちと一緒におれなくなったのは残念やけど、わしのことは悲しむ必要はないよ。お浄土に生まれさせてもろたから・・・。死んだ後も全然つらくないし、むしろ、この雅楽の音のように清らかでええところや・・・」 この声が聞こえてから、凍てついていた私の心は次第に解けほぐれて、涙が出るどころか、不思議な温かい安堵(あんど)感に包まれてきたのです。
心を込めて丁寧に
ご門徒には「亡くなったおばあちゃんは、お浄土にいっておられますよ」などと日頃言っておきながら、自分のことになると、有無を言わせない死の不気味な力を前に身をすくませ、それに巻き込まれた父のつらさはいかばりかと、父の行方を案じていたのです。しかし、献楽の途中から「死を経た後も父は苦しんでいない。この雅楽の音の内から声が聞こえてきたのだから、父はこの音に包まれているのだろう。そして生きているときと変わらず雅楽を楽しんでいるのであろう」という確信が自然に生まれてきたのです。そしてこのような素晴らしい音楽に包まれていた父の一生は、立派で幸せであったことであろうという思いもわいてきました。演奏が終わる頃には、ずっと暗雲の中にいた私の心にうっすらと光が差し込んできて、何かに塗り固められて停止していた思考が自然に融け出し、落ち着いてご挨拶ができたことでした。
葬儀が終わって数カ月経った今でも、寂しさはありますが、この時の温かい安堵感に支えられています。僧侶になりたての頃、お通夜の席で自分の未熟な法話を披露して空回りしていることに気付き、ある先生にその悩みをお話しました。その時、先生は「私自身も、今でもそう思っていますよ。だからね、そんな時は、亡くなった方はお浄土へいかれたのであって、苦しい思いは決してされていませんよ、と念じて、心を込めて丁寧に勤行をして儀礼を執行することが大切ですよ。その心は必ず伝わりますよ」と言われました。今回の雅楽の演奏中に、雅楽会の会員さんがそう念じてくださったのかもしれません。あるいは、父も生前から死をそのように考えていて、雅楽の音が触媒となって、父の思いが私の心で開かれたのかもしれません。さらにいえば、阿弥陀さまが雅楽の音にのせて私に語りかけてくださったのかもしれません。われわれの宗門では雅楽が儀礼に用いられて長い伝統がありますが、やはり雅楽は真宗の救いと深いかかわりがあるようです。勤行や雅楽を通じて救われ、支えられ、音声(おんじょう)の不思議にあらためて気付かされた経験でした。

■かしこいと勘違い
恩師に心苦しい思い
中学生時代の同窓会の案内がきました。二十数年ぶりに会う懐かしい学友の顔、幼なじみとの再会に心はずませ、喜んで出席しました。同窓会はお互いの近況報告や思い出話に花が咲き、当時のニックネームで呼び合いながら、まるであの頃にタイムスリップしたかのような、本当に楽しいひと時でした。しかし残念ながら、最もお会いしたかった担任のH先生は、すでに亡くなっておられました。H先生は経験豊富な男の先生で、ユーモアがあり温厚なお人柄でしたので、みんなの人気者でした。思春期真っ盛りの生徒の目線まで降りてくださり、一人ひとりに目を配りながら、生徒と一緒に泣き・笑い、生徒と一緒に便所掃除をされる先生でした。そんなH先生に対し、今でも心苦しく思っていることがあります。生徒の目線まで降りてくださる先生に対し、対等にでもなったかのような気持ちで、反抗的な態度をとったことがありました。未熟者である私のレベルに合わせて会話してくださる先生の優しさに甘え、自分の方が賢いとでも思っていたのでしょう。先生の言われることを素直に聞かず、反論したのです。その時の寂しそうな先生のお顔は、今でも忘れられません。しかし、決して私のことを見放さず、常に気にかけてくださり、中学卒業後もしばらく相談にのっていただきました。大変お世話になった先生でした。
対等になったと錯覚
本当に賢い人は、未熟な者にも理解できるよう、会話の程度を下げて話をされます。ところが未熟な者は、自分の愚かさを知りません。賢い人と対等に話ができると思ってしまいます。自分も賢くなったと勘違いしてしまうのです。対等になったという思い上がりの心は、賢い人の話を素直に聞くことができません。また、相手を見くだす心にもつながります。阿弥陀如来と私の関係も似ています。如来さまは、私のことをよくご存じでいらっしゃいます。しかし、私は如来さまのおさとりの世界を量(はか)り知ることができません。そんな私のすべてをお見抜きの上で、私にあわせてご用意してくださったおみ法(のり)が「南無阿弥陀仏」です。その中身は、「わが誓いを信じ念仏せよ。必ず清らかなさとりの世界に生まれさせる」ということなのです。しかし私は、如来さまの智慧によって仕上がったおみ法を、自分のはからい(思い量(はか)らい)を持って理解しようとしています。自分のはからいで理解しようとするのですから、わかるはずがありません。さらには対等になった錯覚から、如来さまのおおせを謗(そし)ることにもなります。
愚者になりて往生す
法然さまは「愚者になりて往生す」といわれました。愚か者と思えということではありません。如来さまの側で、この私を愚者と見抜かれてのおおせを、自らのはからいを雜(まじ)えず、聞こえたままに受け容(い)れるのです、といわれたのです。唯一その中で、愚者の自覚が芽生えていくのでしょう。浅はかな私の知恵や努力(自力)では、おさとりの世界にはいたれませんが、如来さまのおおせの通りに受け容れてのみ、往(ゆ)き生まれることのできるおみ法です。
親鸞さまは「正信偈」に、速入寂静無為楽(そくにゅうじゃくじょうむいらく) 必以信心為能入(ひっちしんじんいのうにゅう) ・・・「すみやかに寂静無為(じゃくじょうむい)の楽(みやこ)に入ることは、かならず信心をもつて能入(のうにゅう)とすといへり」と示されました。
すみやかにさとりの世界に入るには、ただ本願を信じる以外にはありません、と法然さまのお示しをお讃(たた)えになられました。自分は賢いと勘違いしている私のはからいが、如来さまのお救いの法を難しくさせているのです。ただただ、如来さまのおおせの通りお念仏申すばかりです。

■ぬくもりのあるやさしさ
背中に違和感が・・・
昨年の3月、住職を継職しました。手続きを済ませた後は、本山で住職補任式を受け、自坊で継職法要を営むことになります。そのための準備や打ち合わせなどを進めていた5月末、胃から背中にかけて違和感を感じました。最初のうちは気にしていませんでしたが、やがてそれは痛みとなり、日常生活にも支障を来(きた)すほどになってきました。病院で専門の医者に見てもらえばよいのですが、とりあえずインターネットで調べてみました。私は性格的に、まずは最悪の場面を想定して、それから開き直るタイプです。痛みの原因についても、「たぶん何でもない、大丈夫だろう!」ではなく、「もしかしたら大変な病気の徴候では?」という気持ちで調べていました。すると、死亡率の高い病気と症状が当てはまるものがあったため、最悪の場面が私の頭に浮かんできました。私は勝手に、自分が間もなく死ぬことを想定しはじめました。朝食を妻と二人の子どもと一緒に取りながら、「こんな朝もあと何日・・・。いや、入院したら、もう今が最後の団欒(だんらん)かも・・・」と、ひたすら悪夢のスパイラルです(ちなみにこれは、私の勘違いであることが判明します。医師の診断はただの痛みですね)。もし余命が少ないとすれば、これからの予定を整理しなければなりません。あれやこれやと調整し、あるものはキャンセルし・・・。せっかく継いだ住職が継職法要前に亡くなって・・・。いろいろなことに思いを巡らせましたが、一番気がかりなのは私がいなくなって困る人よりも、悲しむ人のことです。
銀(しろがね)も 金(くがね)も 玉(たま)も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも
万葉の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)は、どんな金銀財宝も子宝には及ばない、と詠(よ)みました。目の前で無邪気に朝ごはんを頬(ほお)ばる子どもたちは、たしかに私の宝です。けれども、それはやがて離ればなれになる宝です。まもなく別れを迎えるとしたら、私は、どんな宝を大切な人たちに遺(のこ)せるのでしょうか。また、私にとってほんとうの宝とは、何なのでしょうか。
お念仏の宝
ところで、妄想をふくらませるうちに、実際にそのような別れを経験した人、そして、悲しみを抱えながらも安らかに日々を送っておられる人たちが、私の身の周りに数多くいらっしゃることに、あらためて思いがいたりました。その人たちに遺された宝とは何でしょう。そう、それは「南無阿弥陀仏」のお念仏です。蓮如上人は「当流(とうりゅう)の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なり」とお示しくださっています。どんなに名残が惜しくても、この世の縁が尽きたとき、私の命は終わります。しかし、その命を無量のいのちとしてすくい取る世界が、私たちにはめぐまれています。「ナモアミダブツ」の声となって私にとどく阿弥陀さまの願いのはたらきは、死にゆく人も遺された人も、ともにあたたかく包み込んでくださいます。それは今を生きる力をはぐくむ宝であり、やがて生まれるさとりの世界へとつながる同じ一つの道となる宝です。早合点であれこれと思いをめぐらせましたが、ほんとうは誰が先に最期を迎えるのか、いつそのときが来るのか、それは誰にもわかりません。だとすれば、今、阿弥陀さまの願い、決して壊れることのない宝に出遇(あ)うしかないのです。
つながりが強ければ強いほど、別れの悲しみやつらさ、寂しさは癒(い)えることはないでしょう。お念仏という宝は、悲嘆の解消剤ではありません。ただ、どんなときにあっても、やさしさのあるぬくもりを添えてくださるのが、お念仏という宝なのでしょう。阿弥陀さまの願いの中に生かされる。それがそのままお念仏の宝を伝えることです。見渡せば、そんなぬくもりに出遇(あ)った人たちのお念仏の声に包まれておりました。

■天国と浄土
気がつけばお念仏を
「先生、結局お浄土も天国も同じところなんですよね?」 カナダで開教使をしていた頃、お寺で毎週催されていたシニアカラオケクラブに来られた日系2世の男性から、このように問われました。お話をよく伺うと、その方のお家は仏教徒でご家族もお寺のメンバーでしたが、熱心なクリスチャンである奥さまの影響で結婚後キリスト教徒になられたそうです。しかし70歳を超えた最近、夢の中に亡くなったお父さんや弟さんが出てこられ、気がつけば明け方にお念仏を称えていることが多いとのことでした。私はその問いに一瞬悩みました。なぜなら涙ぐんだその瞳(ひとみ)には、「お願いだから同じであると答えてほしい」という思いがにじんでいたのです。しかし私は、阿弥陀さまの極楽浄土とキリスト教の天国は、その性質も違うし、そこへ行く方法も違うということ、もっと言えば、阿弥陀さまと神さまは性質が全く違うことを思い切って伝えました。その違いを聴きにお寺にお参りくださいとお見送りしたのですが、やはり落胆されていました。帰国後、そのことがいつまでも頭から離れなかったので、龍谷大学の大学院でご指導を受けていた先生に質問させていただいたところ、「このいのち終わったあと、すぐには会えなくても、いつかはお浄土で出会えます。阿弥陀さまが必ずすべての衆生(しゅじょう)を残らず浄土に生まれさすとお誓いなんですからね。それに浄土の時間は人間が感じる時間と違いますから、会えない時間もほんの一瞬ですよ」とお答えくださいました。有り難いお言葉に胸がすく思いでしたが、同時にカナダでそのように答えられなかった後悔の念でいっぱいになりました。
すべて我が師
親鸞聖人はお手紙に「聖道門(しょうどうもん)というのは、すでに仏(ほとけ)になられた方が、わたしたちを導こうとして示された、仏心(ぶっしん)(禅)宗・真言宗・天台宗・華厳(けごん)宗・三論(さんろん)宗などの大乗の究極の教えです。・・・また、法相(ほっそう)宗や成実(じょうじつ)宗・倶舎(くしゃ)宗といった権教(ごんきょう)や、小乗(しょうじょう)などの教えも、すべて聖道門です。権教というのは、すでにさとりを開かれた仏や菩薩が、仮にさまざまなすがたを現(あらわ)してお導きになるので『権』というのです」とお示しです。聖人は、師の法然聖人や自らを法難にあわせる原因ともなった天台・法相宗を含めた聖道門の僧侶の方々をも、自身を仏にならしめるためにはたらきかけてくださっている還相(げんそう)の菩薩として見ておられたのです。またその最後には、「釈尊の善知識(ぜんちしき)は百十人です。このことは『華厳経』に説かれています」と示され、善財童子(ぜんざいどうじ)が求道(ぐどう)の旅で出あったさまざまな職業や年齢の方を、すべてわが師と仰ぐ謙虚な姿を讃(たた)えておられます。
今も世界中で宗教の違いが原因になり、さまざまな憎しみ合いが起きています。私が受け持つ京都女子大学の仏教学の講義では、毎年1年生の最初の授業で「宗教についてどう思いますか?」というアンケートを書いてもらっていますが、「無い方が平和な世界になる」という答えが見受けられます。世界を見渡した時、仏教の他宗の方々や、他の宗教を信仰している方々、そして特定の宗教を信仰していない方々と、多様な宗教観の中で私たちは生活をしています。ご修行中の阿弥陀さまが二百十億もの仏国土をご覧になり、その長所や短所を学ばれたように、私たちもさまざまな仏教の宗派や他の宗教、そして感動をもたらしてくれる芸術や言葉などにも心を開いて、その素晴らしいところを謙虚に学び、あらゆるいのちからお念仏のみ教えを味わわせていただくという姿勢が大切だと思います。阿弥陀さまの眼(まなざし)から見れば、この世に無駄ないのちはひとつもないのですから。1歳になったばかりの私の息子にとっては、宗教や思想の違い、肩書や社会的地位などは関係なく、自分を見てにっこり笑いかけてくれる人に、ただただにっこりと心の底からほほ笑んでいるのです。その無垢な笑顔に、私の分別に満ちた心の濁りが照らし出される気がいたします。

■言葉になった仏さま
大丈夫です!
近所に一軒の小児科医院があります。そこは、あまり薬を出さないことで有名です。子どもが熱を出して受診しても、普通のカゼならば薬は出ません。暖かくして十分な睡眠を取れば、自然に治るからというのが理由のようです。親にしてみれば、せめて症状を軽くする薬を出してほしいとか、よけいな感染症にならないように抗生物質を飲んだほうがいいんじゃないかと考えるのですが、そういう薬もなしです。でもこの病院は結構人気が高いようです。私たちは、なぜ病院に行くかというと、薬をもらうためではなく、どういう病気であるかを診断して、治し方を教えてもらうためです。この小児科医院でも、薬を飲まないと治らない病気には処方箋(しょほうせん)が出ますし、場合によってはほかの病院へ行くことをすすめられることがあります。病気を治す専門家から、こうすれば治りますという言葉を聞くのが、お医者さまを受診する目的なのです。「大丈夫です」という言葉を聞くと、安心できるんですね。たとえ今熱が出ていても、3日後には下がると知っていれば、それほど不安はありませんから、病気の先は見えたようなものです。その思いに答えてくれるから、人気なのでしょう。
どうして救いなの?
阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏という名前になって私たちを救うといわれます。名前というのは言葉です。言葉を口にすることが、どうして救いになるのか、若い頃の私はよくわかりませんでした。皆さんはそういう疑問を持ったことはありませんか?たとえば、「おにぎり」という言葉と、おにぎりそのものは別ものです。お腹(なか)がすいたときに、口で何百回「おにぎり」といっても、お腹はいっぱいにはなりません。塩味のきいたご飯のかたまりが大事であって、それを何と呼ぶかはどうでもいいことです。あるいは、口約束だけで世の中を渡るような人は、決して信用されません。あの人は言葉だけだと言われて、喜ぶ人はいないでしょう。言葉よりも中身や実行が大事だというわけです。こう思っている人の心の底には、言葉は人間の持ち物で、人間が自由に操(あやつ)れるものだという理解があるようです。でも、これは勝手な思い込みにすぎません。人間が、自分の意志で言葉を完全にコントロールすることなんてできません。言葉は、ペンや自転車のような道具ではないのです。ペンや自転車は、使わないときはペン立てやガレージにしまっておくことができます。ところが、言葉の使用は停止することができません。誰とも話していない時でも、私たちの頭の中では言葉が湧き出ています。これを書いている私自身も、言葉の海の中にいます。たとえ夢の中であっても、私たちは言葉を使っているでしょう。これは道具でないことの証拠です。
また、私たちは言葉に傷つき、言葉で蘇(よみがえ)ります。さらに言えば、私たちが育つためには言葉が不可欠です。「褒(ほ)めて育てよ」というではありませんか。食べ物さえあればいいというものではないのです。人間は言葉から離れられないのです。名前というのは、そういう言葉のひとつです。私たちは、生まれたらすぐに名前をもらいます。そして、名前を呼ばれながらこの世を去ります。私たちの生は、常に名前という言葉とともにあるのです。名前のない人生、言葉のない人間は考えられないでしょう。そう考えてみると、人間が言葉を使うという言い方は、適切でないことがわかります。そうではなく、言葉の世界に生きているのが私たちなのです。そんな私たちのありようをご覧になったから、阿弥陀さまは名号になられたのでしょう。私たちは、迷いにも救いにも自分で気づくことはできません。けれども名前となって呼び続ければ、いつも衆生(しゅじょう)と一緒にいることができる。そしていつか慈悲の存在に気づくはずだというのが、阿弥陀さまの確信だったのです。だから南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)は、私に仏さまの存在を知らせると同時に、「心配ない」と告げてくださっているのでしょう。それを聞けば、私の不安は消えるのです。

■泥の中に咲く蓮
鈴木大拙の著書を
目がさえて眠れず、テレビをつけました。新春特別番組の再放送が流れていて、そのまま画面をぼんやり眺めていました。4人のゲストがそれぞれ1冊の本を紹介し、日本人について考察するという内容でした。そのうちの一人が、鈴木大拙先生の著した『日本的霊性』を紹介しました。「ひょっとしたら浅原才市(さいち)さんが登場するかもしれないぞ」と期待しながら見続けました。私が住む島根県は、才市さんのふるさとです。隣の町が才市さんの暮らした町・温泉津(ゆのつ)です。今もお念仏の土徳(どとく)が薫(かお)る土地柄です。その才市さんを世に広く紹介したのが、世界的な宗教学者の鈴木大拙先生です。やがてテレビ画面に石州(せきしゅう)瓦の町並みが映し出され、「ああやっぱり才市さんが出るぞ。うれしいなぁ」と思いました。テレビには才市さんの写真とともに肖像画が現れました。肩衣(かたぎぬ)を着け念珠をかけて合掌した小柄な姿、柔和な顔の才市さんです。そしてその頭から2本の角(つの)が生えています。地元の画家が才市さんの姿を描いたところ、才市さんは「これはわしじゃない」と言って、鬼を表す角を描き加えさせたといいます。才市さんの鬼の姿から、手帳に記していた俳句を思い出しました。数年前の新聞に紹介されていたものです。
犬抱けば犬の目にある夏の空(高柳重信)
犬をわが手に抱き、つぶらな瞳(ひとみ)をのぞいてみれば、その目に夏の空が見えた。犬の目にはもちろん、抱いている者の姿が映っています。犬の目は、風景も私をも写す鏡です。私が阿弥陀さまに出あい、阿弥陀さまのこころをわが身に受け取ったならば、阿弥陀さまの眼(まなこ)に写る私の姿が発見されます。阿弥陀さまがご覧になっている姿を、才市さんは角の生えた鬼の姿で表したのでした。
なむあみだぶつは よいかがみ 法もみえるぞ 機もみえる あさましあさまし ありがたい あみだのこころ みるかがみ
鬼の私を救い取る
才市さんは南無阿弥陀仏に出あえたよろこびを、こうして詩(うた)にしてたくさん残しました。自分は一皮むけば、本当の姿は鬼。偽(いつわ)りなくそのままを映し出す法の鏡の前に立って知らされる鬼の自覚でした。しかし、その鬼を助けるはたらきが、すでに自分に届いていた。自分のために届けられていた。鬼の私を救わねばならぬと、この私のために阿弥陀さまが、自らの存在を南無阿弥陀仏と名のられた。そして今ここに、南無阿弥陀仏は私をはたらき場所として共にある。あさましい鬼の私が、阿弥陀さまの救いの目当てであったとは。なんとありがたいことか。念仏申す身になって気づかされた。鏡が気づかせてくれた・・・。阿弥陀さまのおこころをいただきながらお念仏申し、日々の生活を正直に生きた才市さんでした。深夜のテレビを見続けていると、司会者が「初めて聞いた言葉です」と言いました。それは「妙好人(みょうこうにん)」という言葉です。
お釈迦さまは『観無量寿経』の終わりに「もし念仏するものがあれば、それは人間の中でも分陀利華(ふんだりけ)である」とおっしゃいました。分陀利華とは白蓮華(びゃくれんげ)のことです。念仏者を「蓮華」といわれたのでした。蓮華は泥(どろ)の中に咲くけれども泥に染(し)みず、清らかに咲き誇ります。善導(ぜんどう)大師はこれを解釈して、妙好人、上上人(じょうじょうにん)、希有人(けうにん)、最勝人(さいしょうにん)といわれています。親鸞聖人は『入出二門偈(にゅうしゅつにもんげ)』の中で曇鸞(どんらん)大師のお言葉をお引きになり、「淤泥華(おでいけ)といふは、『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地(ろくじ)には蓮(はちす)を生(しょう)ぜず。卑湿(ひしゅう)の淤泥(おでい)に蓮華を生(しょう)ず」と示されました。番組の終盤、妙好人・才市さんの話の最中、一人のゲストが「そういえば昔、亡くなった母親が『なんまんだぶ、なんまんだぶ』とつぶやいとったなあ」とぽつりと発言しました。それがとても心に残りました。深夜、興味深く見終わった時には、時計はすでに2時をまわっていました。

■速い!阿弥陀仏
如来の手のひら
「西遊記」の主人公・孫悟空(そんごくう)。孫は姓で、悟空は法名です。空(くう)を悟るとはすごい法名です。如来は言います「この右手のひらから飛び出すことができたらそちの勝ち」と。悟空は?斗雲に乗り、あっという間に十万八千里をひとっ飛び。天界の端に立つ五本柱の真ん中の柱に大きな字を記し、第一の柱に小便をして帰ってきます。戻った悟空に「そちは手のひらから出てはいない」と如来。字を書いたのは如来の中指、小便をひっかけたのは親指だったのです。さて、この如来さん、悟空に名を問われ「南無阿弥陀仏じゃ」と答えます。たしかにそのスケール感は阿弥陀仏を思わせます。中国の一里は一説では約400メートル、悟空はあっという間に4万3200キロを飛びますが、それより前に如来の手は伸びていました。その手のひらの広いこと、そして速いこと。さすが、南無阿弥陀仏。阿弥陀仏は広大(こうだい)で長久(じょうく)で、そして高速なのです。阿弥陀仏はまたの名を無量寿如来、不可思議光仏といい、大悲ともいいます。阿弥陀はインドの言葉、アミタに同じ音の漢字をあてたもので、音を伝えますが意味は伝わりません。そこで、意味をとって訳したのが、無量寿如来、不可思議光仏、大悲です。お経(きょう)は海を渡り、さらに東の島国へ。時代を経て今、私の手にも届き、その意味を聞かせていただきました。
量(はか)っても量りしれない年月、考えても考えの及ばない空間、それは空っぽの永遠や無限ではなく、はるばると広がりはてしなく続くいのちの輝きであると。また過去にも未来にもこの世に生きる一人ひとりの悲しみをすべて引き受けてくださる大きな慈しみであると。だから、その輝きはいつでもどこでも私を照らし、悲しいときは同じ悲しみの中にあると。先にこの世の生を終えた私の父も祖母も祖父も弟も、今は阿弥陀仏の国にいます。だからいつでもどこでも私を照らしてくれ、私もいのちが終わったらまたそこで会えるのです。いのち終わると即!阿弥陀仏が浄土に救い取ってくださるのです。なぜ即!なのか。阿弥陀仏の救いは頓速(とんそく)といわれます。私は一瞬で浄土に生まれるのです。お経に阿弥陀仏は光としても説かれています。この世で光は一番速く、?斗雲よりも断然速い。だから弥陀の手はいつも先手なのか、と私は勝手に味わっています。そして阿弥陀仏の国に生まれたら、私は慈しみの光となって、この世のあちこちの悲しみの人を照らします。
こんな私だからこそ
そうはいっても、簡単に老いるものか、死ぬものかと思ってやまない強欲な私。悟空もそもそもは、不老長寿の法を求めて旅に出たのでした。そしてまた、あらあら、このお方も?「苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだ生(うま)れざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず」と親鸞聖人。苦しいけれど懐かしいこの世とは別れがたく、浄土は恋しくない。まったくその通り! そして、そんな煩悩がおこってくる私だからこそ、阿弥陀仏は哀れみ悲しんでくださっている、と聖人はおっしゃいます。「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏が「この阿弥陀仏にまかせなされ」とおっしゃっている言葉です。私はただただ阿弥陀仏の慈しみに圧倒されて、ほれぼれと頭が下がるばかりです。「まかせなされ南無阿弥陀仏」「おまかせします南無阿弥陀仏」と、阿弥陀仏と私はごあいさつします。
さて、如来の大きさが信じられず、まやかしだと疑った悟空は、山中に閉じ込められること500年、その後、仏道に帰依し、三蔵とともにお経を東土に伝える旅の終始をまっとうし、仏となるのです。悟空はその生をまっとうしたのです。一つしかない、一回しかない私のいのち、そしてそれは私のものじゃない。私のものと思っているけれど、いろいろな縁によって成り立っているもの。それが悟空の「空」の意味です。ものすごい修行の旅をした悟空に比べ、修行も旅もしない私。でも、そんな私だからこそ、仏にしてくださるという阿弥陀仏。私も悟空のように、この縁をまっとうしたいものです。

■願いを受けとめ味わう
自分の名前がイヤ
私の名前は、漢字で「嘉円」と書いて「よしまる」と読みます。でも私は中学生くらいまで、この名前が嫌いでした。それは幼稚園の時も、小学校に上がってからも、私の名前をまともに「よしまる」と読んでくれた人が誰もいなかったからです。新学期が始まり、担任の先生が出席をとるため生徒の名前を名簿順に呼ぶときなどは、憂うつでたまりませんでした。どの先生も私の名前が読めないのです。すると先生が「この名前はどう読むのか」と言われます。私が「よしまる≠ニ読みます」と言うと、先生が「変わった名前だなぁ。おまえの家はお寺か、それで・・・」と言われるのです。すると、なぜだかクラスのみんながドッと笑うのです。しかし、高校生や大学生になると、友だちが「おまえの名前はオリジナリティーがあっていい」って言ってくれるようになりました。私は単純なのか、人から「いい」って言われるとうれしくって、自分の名前も「まんざらでもないなぁ」と思うようになりました。それでも今も多少のコンプレックスはあります。今思えば、父に「何でこんな名前つけたん?」って聞いておけばよかったと思います。しかし、その父も27年前にお浄土へ往生させていただき、今となっては聞きようがありませんが、おそらく父は、親鸞聖人がお書きになった『教行信証』にある「円融至徳(えんにゅうしとく)の嘉号(かごう)(あらゆる功徳(くどく)をそなえた名号(みょうごう))」というお言葉から私の名前をつけたのではないかと思っています。もしそうなら、好きになれなかった私の名前にも、私のことを思う父の願いが込められていたのではないか・・・。仏教を学ばせていただく中で、今ではこのように思うようにもなりました。あらためて、私という存在と名前とは、別ものではなく一つなのだということを思います。だから、自分の名前を軽く扱われたり、馬鹿にされると傷ついたり、腹が立ったりするのです。たかが名前、されど名前です。
名号として届けられ
浄土真宗のご本尊である阿弥陀さまは、「名声十方(みょうしょうじっぽう)に超(こ)えん。究竟(くきょう)して聞(きこ)ゆるところなくは、誓(ちか)ひて正覚(しょうがく)をならじ(私の名号(みょうごう)を広くすべての世界に響かせよう。もし聞こえないところがあるなら誓って仏にはなるまい)」と言われ、みずから名前を名告(なの)り、その存在を私たち一人ひとりに知らせ、私たち一人ひとりのところに届いていてくださっているのです。だから私たちは、阿弥陀さまの名前を称(とな)えながら、阿弥陀さまに出遇(であ)うことができるのです。
では、「阿弥陀」というお名前に込められた願い(はたらき)とは何なのでしょうか。「阿弥陀」とは、インドの言葉「アミターバー、アミターユス」を音訳(おんやく)(発音を漢字に)したもので、「無量光(むりょうこう)、無量寿(むりょうじゅ)」と漢訳(かんやく)(言葉の意味を漢字に)されました。光には、ものを明るく照らしはっきりさせるというはたらきと、ものをあたたかく包み育(はぐく)むというはたらきがあります。私たちは、この阿弥陀さまの無限なる光(無量光)のはたらきに遇(あ)うことによって、自分では見えなかった煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)という愚かな本当の自分の姿を知らせていただくと同時に、そんな私を放っておけないという阿弥陀さまのあたたかいおこころに包まれていることを知らせていただくのです。また、阿弥陀さまは無限なるいのち(無量寿)をもつ仏さまですから、この阿弥陀さまの光のはたらきはいつまでもとどまることがないこと(無量光)も併(あわ)せて知らせていただきます。私たちは、「阿弥陀」という名前に込められた願い(はたらき)をよく受けとめてお念仏を申させていただくこと。また、お念仏を申しながら「阿弥陀」という名前に込められた願い(はたらき)をよく味わわせていただくことが大切です。このように日々お念仏を申して生きる中で、わが身の愚かさを厭(いと)い、阿弥陀さまのあたたかいお育ての中で、お浄土をめざして生きていく新たな自分になっていくのです。一緒にお仏壇の前でお念仏申しながら味わわせていただけたらと思います。
 

 

■お彼岸に寄せて
此岸から彼岸へ
今年の冬は寒暖の差が激しく、例年にない厳しい冬となりました。しかし着実に雪も緩み、春の日ざしが一段と輝きを増し、いよいよお彼岸の季節を迎えました。厳しい冬だからこそ、春の和やかな光に包まれる心地よさを、ありがたく感じることができるこの頃です。旅の楽しみは帰る故郷(ふるさと)があるからこそ、安心して旅をすることができます。人生の旅もまた、帰る故郷がある人と「故郷」に気づかない人生では、今を生きる生き方に大きな違いがあります。「一期一会(いちごいちえ)」の時にも、心にゆとりを持って、日々の出来事を「しみじみ」と味わうことができるのではないでしょうか。このお彼岸のご縁は、あらためて人生の旅の「故郷」を「浄土」として示されたことを再確認させていただく行事でもあります。お彼岸は日本独自の仏教行事で、季節の変わり目の「春分」「秋分」に、西に沈む太陽の先に阿弥陀仏の浄土を想い、此岸(しがん)(この世)から彼岸(お浄土)へいたる「到彼岸(とうひがん)」の仏事として取り組まれてきたことでした。昨今、浄土というと何か夢物語のような世界を思われがちですが、浄土とは阿弥陀仏が願いを持って建立された私たちのいのちの故郷です。親鸞聖人は、私が浄土を願うのではなく、浄土から私が願われている存在であることをお示しくださいました。その浄土からのはたらきかけがお念仏となり、明日をも知らないこの私を照らし、はたらきかけてくださっているのです。次の詩にそのことがよく表されています。
闇の夜の 月の光のありがたさは わかるけど 太陽の光は 大きすぎて わからない  
雨の日の 傘のありがたさは わかるけど 屋根のご恩は 大きすぎて わからない
生かされている私
阿弥陀さまの大悲というものは決して目に見えるものではありません。太陽の光もその存在があまりに大きすぎて、有り難さに気付きにくいものですが、闇夜の「月光」となって、その存在に気づかされます。阿弥陀さまの大悲もすべての場所に行き渡っており、それに目を向け「南無阿弥陀仏」とお称(たた)えすることで、人々を漏らすことなく苦しみの世界から西方浄土へと救いとってくださるのです。また、傘の存在は雨道に傘をさしている時にはその有り難さはよくわかるのですが、家に入ってしまうと、大屋根の恩恵を忘れがちです。しかし、阿弥陀さまは私が忘れていても常に私たちを照らし護ってくださっているのです。
『歎異抄』第十四章に「一生(いっしょう)のあひだ申(もう)すところの念仏(ねんぶつ)は、みなことごとく如来大悲(にょらいだいひ)の恩(おん)を報(ほう)じ、徳(とく)を謝(しゃ)すとおもふべきなり」とあります。一生のあいだに称える念仏は、すべてみな、如来大悲のご恩への感謝の表れだと思うべきであるといわれます。身に着(つ)けたもの、目に見える財産は、やがて時代とともに形がなくなってしまいます。しかし、私のいのちの存在は、父母を通して先祖から、網の目のようにつながっているのです。毎日毎日、私たちは、さまざまなことに振り回されていますが、それをいちばん根っこのところで支え、私が私として、生きることを成り立たせてくれている、大きないのちのはたらきがあるのです。大いなる阿弥陀さまの大悲の中に、私が生かされていることに目覚めたとき、初めて、報恩感謝の生活が開けてくるのではないでしょうか。そのことに気づかされるときに、私たちは本当に大切な教えに遇(あ)うことができたといえるでしょう。ぜひ慌ただしい日々の中にあって、お彼岸を機会に仏事に参加し、自らのいのちの行く末について、しっかり向き合うことのできる人生の時を持ちたいものです。

■私を思うお念仏
今お念仏のおかげで
ときどき思うことがあります。親鸞さまの教えに出あわなかったらどんな人生だっただろうか、お念仏の教えを知らずに生きていたら、どんな生き方をしていただろうかと。今から四十数年前の学生時代に聞いた、金子大栄(だいえい)先生の幸福三條(さんじょう)「一、人身(じんしん)を受けし有(あ)り難(がた)さ一、仏法に遇(あ)へる忝(かたじ)けなさ一、今日を生きる勿体(もったい)なさ・・・・・・この人はまことに幸福な人生を歩んでいる」との言葉が今も心に残っています。私がおあずかりしているお寺は一村一カ寺で、何百年とご先祖から代々相続しているお念仏を、生きる糧(かて)としている人たちが住む田舎町にあります。毎月の常例法座や各法座にお参りする人たちのにこやかな顔が私は大好きです。この笑顔はどこからきているのでしょうか。きっと、いつもアミダさまにいだかれて生きているしあわせが心身に染みているからでしょう。子どもの頃から日曜学校に通い、日常勤行(ごんぎょう)は自分でおつとめできる人たちばかりです。金子先生が晩年によく言われた幸福三條がそのままあてはまるような人たちです。私はこんな人に囲まれてお参りしていて、梅原真髦a上(しんりゅうわじょう)の「生かされて生きるいのちのとうとさよ名もなき草にひかりこぼれる」の歌をいつも思いだして感謝しています。私のまわりには、つらいときも、うれしいときも、お念仏をしながら如来さまのご恩をいただいている妙好人(みょうこうにん)たちがいっぱいおられます。
いつもいだかれて
覚如(かくにょ)さまが「悲しきかなや、徳音(とくいん)は無常の風に隔(へだ)たるといへども、実語(じつご)を耳の底に貽(のこ)す」と申されています。ナモアミダブツの喚(よ)び声が聞こえると、アミダさまのお慈悲が念仏者の心身に満ちて、お念仏が念仏者の生きる力となってくるということです。お念仏の日暮らしをしている私は、いつも・どこでもアミダさまと一緒に生きていると伝えてくださっているのです。覚如さまのおこころはここにあります。どうして、そういえるかといえば、親鸞さまは「諸有(しょう)の群生海(ぐんじょうかい)を悲引(ひいん)したまへり。すでにして悲願(ひがん)います」と明示されています。この「すでにして」とは、私が気づく前から大悲のご本願が私のうえにはたらいてくださっているということです。私たちにはアミダさまの大悲のご本願がかけられてあった身なのです。それでは、その大悲のご本願のはたらきを、私たちはどこで感じうけとるのでしょうか。それはアミダさまがナモアミダブツとなってはたらいてくださっているのです。これをお念仏といいます。
親鸞さまはお念仏を智慧(ちえ)の念仏と領解(りょうげ)されます。アミダさまの智慧がナモアミダブツとなって、私たちにはたらいてくださるのです。そして、私は「信心の智慧」を賜(たまわ)るのです。かならず仏さまになってくれよと、よびづめによんでいてくださっているのがお念仏なのです。多くの人はお念仏を「仏を念ずる」と受けとり、お願いの念仏と理解しています。この理解をひっくりかえしたのが親鸞さまです。親鸞さまは「念ずる仏まします」と領解されました。それは私が仏さまにお願いするよりも先に仏さまのほうから念じられていた私であったと、アミダさまのお慈悲を味わわれています。ですから、お念仏は名号(みょうごう)であり信心(しんじん)です。念仏は正念(しょうねん)だとお示しです。
「念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり」
そしてその正念は「『正念』の言(ごん)は、選択摂取(せんじゃくせっしゅ)の本願なり、また第一希有(けう)の行(ぎょう)なり、金剛不壊(こんごうふえ)の心(しん)なり」と、お念仏は他力真実の信心であると伝えてくださいました。このことを木村無相(むそう)さんが「おねんぶつ」という詩でみごとにうたいあげています。
にょらいさんがわたしを おもっておもって おもっておもって くださるのがおねんぶつ にょらいさんのおもいが わたしに とおってとおって とおってとおって くだされたのがおねんぶつ

■見捨てない
「寄り添う」とは
56年歩んできた人生の中で、直近の3年間は波瀾万丈の連続でした。3年前には心臓の病気を患い、2度の入院と体にメスを入れる手術を経験しました。一昨年は妻の入院と二男の不登校、昨年は長男の遠隔地への突然の転校など、予想だにしない出来事ばかりでしたが、そんな時、支えになったのは、40年以上続けている音楽活動でした。分けても、不登校で自宅に引きこもった二男との生活は、本当にこたえました。大好きな音楽を楽しむ気持ちも失せてしまうほどでした。引きこもりの家庭は地獄の苦しみだと聞いてはいたものの、実際にわが身に起こってその意味が身に染みてわかってきます。昼夜逆転の生活、時々暴れたり、自傷行為をほのめかしたり、家中とても不安定な時間が続きました。医師の診察を受けると、昼夜逆転の生活リズムの是正が治療の第一歩であるとのアドバイスがあったので、懸命にその実現に努め、子どもに関わり、寄り添おうとしました。しかし、子どもは簡単に心を開こうとはせず、八方ふさがりの状況になりました。そんな時、新たな気づきを与えてくれたのが、友人のホームページにあった「寄り添うとは、忘れないということであり、見捨てないということだ」という一文でした。「寄り添う」という言葉は、東日本大震災発生後によく見聞きするようになった言葉の一つです。非常に耳ざわりのいい言葉でついつい安易に使ってしまいがちですが、つかみ所のない言葉でもあります。この4年の間に何度か被災地を訪れました。被災者の方とお話をしてみると、まだ4年しか経っていないのに忘れられつつあることへの不安を口にする人が多いことに愕然(がくぜん)とします。恥ずかしながら、今年の1月17日が阪神・淡路大震災から20年というニュースを耳にして、すっかり忘れてしまっていたわが身に反省しきりでした。もう一つの「見捨てない」ということも、そんなに簡単に行えることではありません。いついかなる時も自分のことはさておいて他者を最優先に考え行動する。それができなければ、見捨てないということを完全に成し遂げたことにはなりません。いざ自分に乗り越えなければならない問題が発生すると、他者どころではなくなってしまうのが、人間の偽らざる姿でしょう。
本当の幸せ
『仏説無量寿経』に、法蔵菩薩という修行者が四十八(しじゅうはち)の願(がん)を建て修行を重ね、阿弥陀仏になられたと述べられています。第18番目の願いに、「わたしが仏になるとき、すべての人が心から信じてわたしの国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません」と誓われています。まさに自ら仏になることに先んじて、すべての人を念仏で救うと誓われた阿弥陀さまでなければ、見捨てないということは完全に成し遂げられないでしょう。
最近では、二男とは親子の会話が成立するまでになりました。引きこもりが始まった当初は、子どもにしっかり向き合うことよりも、世間体を気にしたり、知らず知らずのうちに1日も早く学校に復帰させなければといった親のエゴを子どもに押しつけてしまい、子どもを最優先にしていなかったのです。ようやく子どもの本音に耳を傾けて行動する余裕が出てきました。何よりも私にも子どもにも阿弥陀さまの「見捨てない」というはたらきが届いていることがあたたかく感じられます。親鸞さまは、生老病死のすべてを「いのち」と見られ、苦を伴う生老病死それぞれに大切な意味があり、本当の幸せとして仏のいのちに生まれる人生を、お念仏の道としてお示しくださいました。音楽は私にとって生きる支えになるものであっても、生も死も超えて私を支えきれるものではありません。私も決して十分とは言えませんが、見捨てないとお誓いくださった阿弥陀さまの寄り添う心を体し、現実に向き合っていこうと思います。

■みほとけさまってどんなおかた
真実に導くはたらき
浄土真宗で「みほとけさま」と言えば、「阿弥陀如来さま」のことですが、「阿弥陀如来さま」と「お釈迦さま」と「親鸞さま」の区別はちゃんとつきますか? 多くの中学生・高校生はこんがらがっています。私は時々、意地悪な質問をします。「お釈迦さまは何人(なにじん)?」と聞くと、「インド人」と答えてくれます。「親鸞さまは何人(なにじん)?」と聞くと、「日本人」と答えてくれます。そして、「阿弥陀さまは何人(なにじん)?」と聞くと、多くの場合、「インド人」という答えが返ってきます。きっとお釈迦さまと混同しているのでしょう。阿弥陀さまは何人(なにじん)でもありません。お釈迦さまと親鸞さまは、歴史上に存在した人間ですが、阿弥陀さまは歴史上に存在した人間ではありません。では、何者でしょう。阿弥陀さまは、私たちを真実に導いてくださる真実のはたらきそのもので、私たちのために人格的に現れてくださった方なのです。「阿弥陀さまがいるのなら見せてみろ」という人がよくいますが、阿弥陀さまは目で見て出遇(あ)う仏さまではなく、そのお心を聞かせてもらうことによって出遇うことのできる仏さまなのです。ですから、阿弥陀さまは「いるかいないか」と問うのではなく、「どのようなお方か」とそのお心を聞かせてもらうことが大切なのです。そして、そのお心に出遇った時、私の前に新しい世界が開けてくるのです。阿弥陀さまは、「すべての人を必ず救うという願いをたて、はたらき続けてくださっている仏さま」です。「すべての人を救う」ということは、実はとてもすごいことなのです。普通の宗教は、いいことをした人は救われるけれど、悪いことをした人は救われないのです。ところが、阿弥陀さまは、いいことをした人も、悪いことをした人も、平等に救ってくださるのです。では、どんな悪いことをしてもいいのでしょうか。
お慈悲の心を聞く
皆さんは今までに、「そんな悪いことをしたら、罰(ばち)が当たるよ」と言われたことはありませんか。私は親からそう言われたことはありません。けれど、そんなにいい子だったわけではありません。私が悪いことをした時は、「そんな悪いことをしたら、仏さまが悲しまれるよ」と言われました。浄土真宗は、裁きの宗教ではなく慈悲の宗教です。阿弥陀さまは善悪を裁き、悪いことをしたら罰を与えるということはされません。善悪を超えて、すべての存在を平等に慈(いつく)しんでくださるのです。しかし、悪いことをしてもいいのではありません。悪いことをしたら悲しまれます。その阿弥陀さまの悲しみ(慈悲の心)に出遇うことによって、私の生き方が、少しずつ正しい方向へと導かれていくのです。
親鸞さまは「阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏のお念仏となって、私に届いてくださる」とお示しくださっています。私の母は生前『みほとけさまって どんな おかた』という詩を創っていました。
みほとけさまって どんな  おかた みほとけさま みほとけさま いくら おさがししても おすがた みえない みほとけさま みほとけさま いくら お呼びしても お声が 聞こえない じーと静かに 眼をとじた じーと静かに 手を合わせた 小さな口から 小さな 小さな声が出た なもあみだぶつ なもあみだぶつ みほとけさま いらっしゃった みほとけさま みつけた かなしいときも うれしいときも いつでもおそばに いらっしゃる どこでもおそばに いらっしゃる みほとけさま みほとけさま なもあみだぶつ
南無阿弥陀仏とお念仏するところに「阿弥陀さまはいらっしゃった」と言える世界が開けてきます。南無阿弥陀仏のお念仏を通して、阿弥陀さまのお慈悲の心を聞かせていただきましょう。そして、少しでも阿弥陀さまを悲しませない生き方を求めていきたいものです。

■ことばはこころ
胸に手を当てて・・・
息子が小さな頃、「お父さん、お互いさま≠チてどういう意味?」と尋ねられ、ドキッとしたことがありました。確かに近頃は、責任を押し付け合う姿は目にしても「お互いさま」と責任を取り合うシーンは、テレビドラマでも見ることはありません。何より私自身が使っていなかったのではと反省し、意識して使うように心がけました。そんな折、頼み事をされたので、ここぞとばかりに「お互いさまですから」と言うと、相手がホッとするのが伝わってきたのです。貸し借りではなく、温(ぬく)もりのある関係が生まれたようにも感じられ、これは大切な言葉だなと、あらためて気づかされました。こんなに大切な言葉を使っていないということは、その心を見失っているということなのでしょう。考えてみれば、「縁の下の力持ち」という言葉も聞かなくなりました。見えないところで支えてくださる方への、敬いの心が見失われてきたということでしょうか。いや、そこまで深く物事を考えることのない、薄っぺらな生き方が広がっているのかもしれません。「胸に手を当てて考える」という言葉も、久しく聞きませんね。自分を振り返り、どんな生き方をしているのかを見つめることは、人間が生きる上で大切なことであるはずなのに。ファッションやヘアスタイルといった外見には気を使っても、自分がどんな生き方をさらしているのかにまで思いが及ばないというのは、いかがなものでしょう。かくなる私も、米沢英雄先生の「自分だけが我慢していると思っていて、相手から我慢されているということがわからないのです」という言葉を聞いて、まず最初に誰かの顔を思い浮かべ、しばらくしてからようやく顔が赤らむ程度の者なのですが。昔は良くて、今はダメだという話ではありません。ただ、昔は「私は大切なことを忘れがちな存在だ」という自覚があったからこそ、言葉にすることでその心を思い出す営みも、続けられていたのでしょう。
お念仏の歴史の中に
もう一つ言えば、ひと昔前までは牛や豚を「育てる」と言いました。ところが今やニュースでは、牛や豚を「生産する」と当たり前のように言い切っています。気がつけば「消費する」「投資する」など、私たちの生活を経済用語であらわす時代になりました。海の魚は「海産資源」、木は「森林資源」、景色は「観光資源」で、人は「人的資源」だそうです。確かに経済は大切なことですが、それがすべてと偏ってしまうことで、役に立つか、お金になるかどうかが判断基準となりました。いのちを、自然の恵みを「いただく」という謙虚さは失われ、「資源」としか見ない傲慢(ごうまん)な考え方が広がっています。「いただきます」「ご馳走さま」が言えなくなるはずです。言葉が失われるとは、心が失われるということです。「お念仏の声が聞こえなくなった」ことも同様です。お念仏を称え、お念仏によびかけられ、お念仏に育てられた私たちの先輩方の歩みが、そしてお念仏に込められた心が、見失われているということなのでしょう。
私が子どもの頃は、山を走り回って遊んでいました。しかし、今は大人でも入ることができません。なぜなら、山に入る人がいなくなったことで、道がなくなってしまったからです。道は、先に行く人が踏みしめる歩みによってできるのです。私の前を先立ち、お念仏を称え、歩んでくださる方があった。そして、その人の前にも歩まれた人があり、その人の前にも、その人の前にも...とさかのぼれば、親鸞聖人はもちろんのこと、たくさんの人々が連なる、長い長いお念仏の歴史があったのです。その歩みが、今私のところにまで至り届き、大切な心を伝えている。これってすごくないですか。ならば、道を消すわけにはいかないでしょう。お念仏を称え、その心を伝えていく歴史の歩みに、私も踏み出していかねばと強く思っています。でも、よくよく「胸に手を当てて考え」てみれば、私などお寺で育てられ住職になっていなかったら、大切な言葉を見失っていてもまったく気づかないタイプです。こんな私もこうして育てられていると思うと、ただお念仏のはたらきに頭が下がるほかありません。

■お浄土があってよかったね
今の人には通じない
『お浄土があってよかったね』 このタイトルは、茨城県にある精光会みやざきホスピタルという病院の宮崎幸枝副院長が、2008年に出版された本(樹心社刊)の書名です。昨年には続編の2も刊行されました。読ませていただくと、まさに書名通りの浄土真宗のこころで病院が運営されていることを知ることができ、浄土真宗が味わえます。実は、同書の出版を広告で知ったときに、私は義母が30年ほど前にこの言葉をもらしたことを思い出しました。妻(坊守)の実家である京都のお寺でテレビのドキュメンタリー番組を見ていました。ある有名な寺院へ信者さんが行き、住職と会話する場面でしたが、信者さんが「(交通事故で)死んだ息子はどこへ行った。今どうしているのか教えてください」と泣き叫んで問うのです。住職は「お浄土」とは言わないものの、それなりに答えていましたが、納得できないのか、信者さんが泣き続けていました。その番組が終わったときに、義母が「お浄土があってよかったね」ともらしたのです。その時は、「そうやな」と感じただけでしたが、だんだんと「お浄土があってよかったね」と共感しあえることが、御同朋御同行(おんどうぼうおんどうぎょう)の内容であると思うようになりました。しかし、このテレビ番組での信者さんの「どこへ行ったのか」との問いに、「お浄土」と答えても納得してもらえなかったのではないかと思います。というのも、私はその後、滋賀県大津市のお寺へ入寺して住職になりましたが、従来からの門徒さんには通じた「お浄土」が、通じなくなっていました。ご門徒が亡くなり、遠隔地に住んでいる息子さんなどが来られて自身の親の葬儀を営み、お寺とのご縁ができた次の世代の門徒さんには、「お浄土」が通じないことが多いのです。
合掌ができる社会へ
とりわけ、死後は「天国」という言葉が昨今一般化してきたため「浄土」がなおさら見えなくなった、曖昧(あいまい)になったようにも思います。もちろん、そうなったのは浄土真宗の僧侶である私自身の責任でもあるのですが、そういう状況に接して、私は浄土真宗教団は仏教教団のひとつではあるが、「浄土真宗の独自性」をいっそう明確にすることが必要な時代、そして社会であると思うようになりました。別の表現をすれば、私はいつも「み教えを依りどころにした人生を」と伝えるのですが、み教えの根本といえる「お浄土」が「死後」のことという理解があり「人生」と繋(つな)がりにくいのです。つまり、「生前」と「死後」が続いていることがわかりにくくなった時代であるように思うのです。
私は入寺して25年になりますが、10年目頃に「合掌ができない(合掌をしらない)子どもたち」に出会ったことがきっかけで、4年前に『合掌ができない子どもたち』(白馬社刊)を出版しました。そして、それが縁となって本願寺出版社から「その本の内容を踏まえて、新たに執筆を」という依頼をいただきました。ほうわ・HOWA・法話シリーズ『合掌ができる社会へ』です。前の本では「合掌ができない子ども」は、「合掌ができない大人(社会)」が作ったことを書きましたが、それは「お浄土が見えなくなった」ことと重なります。今回の執筆依頼を受けて、この機会に「み教えを依りどころにした人生を」というときの「み教え」と「人生(社会)」の内容をあきらかにしようと思い、そのことを書きました。「心身ともに健康」を願いながら「身の健康」に必死になる一方、「心の健康」は「癒(い)やし(パワースポット)」に陥(おちい)っている現代社会の様子などにも触れ、『合掌ができる社会へ』を書き上げました。お浄土?それは、私が心身ともにこの世を力強く生きる世界です。義母が亡くなって7年になります。きょうも「お浄土があってよかったね」の声が私に響いてきます。

■究極の乗り物
半世紀も前に開業
私の住む岡山県高梁市から遠く離れた石川県金沢市。今年の3月、東京〜金沢間を結ぶ北陸新幹線の開業に伴い、一躍時の街≠ノなりました。少しさかのぼって、昨年の10月1日。あるニュースが話題に。東京〜新大阪間を結ぶ東海道新幹線が1964(昭和39)年10月1日の開業から50周年を迎えました。現在まで走行距離にして約20億キロ(地球5万周に相当)、運んだ乗客のべ56億人。特筆すべきは、その間、脱線、衝突などによる乗客の死亡事故が一度もないことです。誰もが安心して乗ることができ、安全に目的地まで連れて行ってくれる唯一の交通手段かもしれません。その裏には立案当時から現在に至るまで、関係者の創意工夫、たゆまぬ努力や苦労があってこそでしょう。例えば、東海道新幹線が走る区間には、トンネルがたくさんあります。できるだけ直線を確保するためです。カーブが多いとスピードも出せませんし、脱線などの大事故に繋がる可能性があります。次に、東海道新幹線の区間には踏切がありません。車との衝突事故を防ぐため、わざわざ高架に敷かれています。人が線路に侵入することも防ぎます。これらの創意工夫があってはじめて、乗客の安心・安全が守られています。と、簡単に述べましたが、これらの策を講じるのにどれだけの苦労があったか、我々は知る由もありません。少し想像してみると、トンネルを掘ることの大変さ。工事に伴う事故が起こったかもしれません。線路を通す土地を買収するために、幾度も頭を下げて回った関係者の姿。逆に、先人が守ってきた大切な土地を泣く泣く手放した方の姿。線路を高架に造るといっても、コストはもちろんのこと大変な時間と労力がかかったはずです。私たちが知りえない、たくさんの苦労があってこその開業50周年です。おかげさまで、安心して乗車できます。乗車したその瞬間から、読書をしようが、駅弁を食べようが、はたまたトイレに行こうが...。車掌さんが切符を確認しに来るため、寝過ごす心配もほとんどありません。それぞれが思い思いの時間を過ごす中、東海道新幹線は乗客を間違いなく目的地まで届けてくれます。北陸新幹線をはじめ、今や全国各地を結ぼうと計画されている新幹線。その原点は、50年前の東海道新幹線開業にありました。
お念仏に確かな安心
『仏説無量寿経』には、阿弥陀さまがおさとりを開く前、法蔵菩薩であられたとき、五劫(ごこう)という長い時間の思惟(しゆい)の末に、「すべてのいのちに寄り添い、決して見捨てることなく浄土へ迎えとることのできる仏となる」と誓われ、この誓いを成就するのに、兆載永劫(ちょうさいようごう)という想像を絶する時間を要された内容が説かれます。皆さんは法蔵菩薩の五劫思惟像をご存知ですか? さまざまな五劫思惟像がありますが、そのほとんどが、ご苦労を表現された痛々しいお姿の像です。目は落ちくぼみ、頬はこけ、指先までやせ細り、今にも折れそうなあばら骨。現在、浄土真宗のお寺にご本尊として安置されている阿弥陀さまのお姿からは、想像し難い痛々しいお姿が表現されています。おさとりを開くことが、どれほど大変であられたか。私を救うことがどれほどの大仕事なのか。法蔵菩薩のご苦労が偲ばれます。
私たち一人ひとりを救いの目当てとして、常に寄り添い、決して見捨てることなく浄土へ導く阿弥陀さまの間違いないはたらきが、ご苦労の上に今、「南無阿弥陀仏」の喚(よ)び声となってこの私に届けられています。阿弥陀さまは私たちに生きる意味といのちの行く末を知らせるため、声の仏となることを選ばれました。家族や子どものことで悩もうが、仕事や人間関係で悩もうが、自身の健康、将来のことで悩もうが...。それぞれの人生を歩む中、そのはたらきに出遇(あ)った時すでに、「南無阿弥陀仏」という究極の乗り物に乗せられているいのちであったことを知らされます。お念仏申す私の声を通して、唯一確かな安心をいただいています。

■メダカと仏さま
様変わりした自然
西山さんは、間もなく80歳を迎えますが、隣村のお寺の役員の傍ら、ゲートボールやカラオケも大好きな、元気なおじいさんです。北陸の山間(やまあい)にある戸数100軒前後の集落にお住まいになり、四季折々に移り変わる田舎の風景を何よりも好み、楽しんでいらっしゃいます。ところが近年、気になるのは、周りの自然が少し様変わりしてきたことです。幼かった頃、家の中まで舞い込んで来たホタルが、最近ではめったに見られません。オニヤンマや初秋の赤トンボの群れも、すっかり少なくなりました。そういえば、うるさいほどだった夏のセミも、トーンダウンしたように感じます。中でも、小川や水田の水たまりに群れていたメダカが、ほとんど姿を消してしまったのに、少しさみしさを感じていました。メダカは農薬や生活排水による環境の悪化に加え、用排水路の改修などの影響で、1960年代から全国的に減少しはじめ、2003年には環境省から「絶滅危惧(きぐ)種」に指定されました。そんな話を、学校で学んだお孫さんたちから聞いた西山さんは、農作業の合間に、谷間の小川や、水たまりなどを注意して見ているうちに、小さなため池に生息(せいそく)している野生のメダカを発見したのです。早速、水槽を用意して、メダカの飼育が始まりました。喜んだのはお孫さんたちです。争うようにして飼育係を買って出て、生息していたため池の水を汲んできて、汚れた水と交換したり、水草などを採取してきて、メダカの住環境を整えてやりました。しかし、熱心だったのは数カ月で、珍しさが薄れると、いつの間にかメダカ係はすっかりおじいちゃんの仕事になってしまいました。それから10年近く、お孫さんたちは成人し、水槽の中では世代交代を繰り返したメダカが、今も西山さんの玄関に置かれた水槽の中で、元気に泳ぎ回っています。
お説教のアンテナ
2、3年前の秋の夕方です。ひょっこりお寺を訪ねて来た西山さんが、よもやま話の中で、このメダカの経緯(いきさつ)を聞かせてくださり、「犬や猫なら飼い主の顔を覚えるが、メダカは自分たちが誰のおかげで生きているのか識別がつかないようだ」というのです。その証拠に、人影を感じると少しでも遠くへ逃げようとする習性は理解できるが、長年世話をしている西山さんに対しても、全く同じ行動を繰り返すというのです。そんなメダカを見ているうちに、西山さんはふと、かつてお説教で「仏さまはその存在が余りにも大きすぎるため、私たちは、命まるごとが、仏さまの慈悲の手に包まれてあることにも気付いていない」とお聞きしたことを思い出し、「私とメダカの関係に似ているなあ」と思ったとおっしゃるのです。また「水槽で生まれた現在のメダカは、それ以外の世界を知らないから、水槽の中が全世界だと思っているに違いない」と考えられました。
つまり、私たちは、仏さまの大いなる御手(みて)に包まれてあるとも知らず、そのお姿に背を向けその手から抜け出すような生き方をしていないだろうか。そして、世の中のことはほとんどわかっているつもりでいるものの「実はメダカと何も変わらない生き方をしているのではなかろうか」というのが、西山さんの感想です。お説教を他人事として聞き、単なる知識か、教養の一端としてしか受け取らない私がいますが、西山さんのように、何回も繰り返して聞かせていただく中で、耳の底に残ったお話しがアンテナとなって、「ああ、そういうことだったのか」と気付かされるような聞き方があったのですね。ご自分のこととして受け取られ、大げさではなく、淡々として話される様子に、私は大いに感銘を受けたことでした。

■お鍋のフタ
母のひと言
私が結婚して奈良・吉野のお寺にやってきてから、早いもので3年半の月日が流れました。うれしいことに子どもにも恵まれ、わが子のおかげで父親にならせていただきました。親とならせていただきながら、親のつとめを果たせているのか不安を感じつつも、わが子を抱きしめる喜びを感じる日々を送っています。親と言えば、私には実家の母との忘れることのできない思い出があります。私がまだ大学生くらいの時だったと思います。その日の晩ご飯はお鍋でした。私は暇だったので、母のいる台所へ向かいました。台所では、すでに下準備が始まっており、テーブルの上にはニンジンなどの野菜を入れたお鍋が火にかけられていました。私はそれをぼーっと見ていたのですが、その時、お鍋が突然噴き出しました。あせった私はフタを開けようとするのですが、熱くて持てません。「熱い、熱い」とただ騒いでいるだけでした。すると母がさっとやって来て、フタを取っていったのです。私は思わず「ようそんな熱いもんが持てるなぁ」と言いました。すると母は、「何を言ってるのよ。あんたらを育てることを思ったら、こんなお鍋の熱さなんか何ともないわ」と言ったのです。母は私を大切に育ててくれているのに、そのことをあまり口にするタイプの人ではありません。そんな母からこんな言葉が出たことに、私は驚いたと同時に、うれしかったことを覚えています。
忍びてついに悔いず
よく親しまれているお経(きょう)(おつとめ)に讃仏偈(さんぶつげ)があります。私はこの一番最後のフレーズが大好きです。
仮令身止(けりょうしんし) 諸苦毒中(しょくどくちゅう) 我行精進(がぎょうしょうじん) 忍終不悔(にんじゅうふけ) ・・・たとひ身(み)をもろもろの苦毒(くどく)のうちに止(お)くとも、わが行(ぎょう)、精進(しょうじん)にして、忍(しの)びてつひに悔(く)いじ
讃仏偈は、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)(阿弥陀仏)が師匠である世自在王仏(せじざいおうぶつ)を誉(ほ)め讃(たた)えつつ、自分もこのような仏になりたいと願って諸仏の証明を求めた詩文(偈頌(げじゅ))です。その讃仏偈の最後がここに挙げた一文です。法蔵菩薩は、最後に「たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない」といわれるのです。なぜでしょうか。それは今ここにいる私、迷いを迷いとも思わず、犯している罪を罪とも思っていない私を、何とか救い取ろうとされるからです。しかも、「忍びてつひに悔いじ」いう一文からは、「あなたを救うことができるのであれば、どんな苦難があったとしても悔いることはない」という、人々を救うためならば、自分の行為(苦労)などまったく問題にしないという、仏さまの姿を知ることができるのです。そもそも、法蔵菩薩が仏になろうと思われたのは、自分のためではなく、私たちを救うためでした。親鸞聖人はそのことを、
如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首としたまひて 大悲心をば成就せり ・・・と示してくださいます。
法蔵菩薩は、私たちを救うためであれば、どんな苦労をしたってかまわない、そうやって私たちを救う阿弥陀仏という仏となってくださったのです。
願いの中に生かされ
母との出来事は、阿弥陀さまのお心に気づかせてくれる尊いご縁でありました。しかし、それは同時に、阿弥陀さまのお心に気づくことすらできずに、日々を過ごしている私の姿を教えてくれるものでもありました。願いの中に生かされながら、そのことに全く気づいてもいなかったのです。阿弥陀さまは、そんな私に関係なく、今日も常に私を思い、願い続けてくださっています。ただお念仏させていただくばかりです。

■「いまを生きる」
3万枚の写真で
「いまを生きる」 私の好きな映画の邦題ですし、よく聞くスローガンです。法語などにもよく見受けられます。確かに現在を生きることができなければ、過去の後悔と、未来への不安にとらわれた一生となってしまうでしょう。しかし、瞬間瞬間に転じていくこの世界で、今とはいつでしょうか。われわれに現在を確かめることはできるのでしょうか。5年前のことです。安芸教区青年僧侶の会・春秋会で「坊(ぼう)さんフェス2010」というイベントを開催し、多くの皆さんのご協力により大成することができました。このイベントのメーン企画となったのが「アミダプロジェクト」と題して制作した巨大フォトモザイクです。一人ずつ合掌してもらった写真を組み合わせて、縦9b×横5bというとんでもない大きさの阿弥陀さまのモザイク画に仕上げたのです。撮影期間は3、4カ月ほどでしたが、100人ほどの会員で手分けをして撮影した合掌写真は3万600枚にも及びました。高評を賜り、先の親鸞聖人750回大遠忌法要では、御正当(ごしょうとう)までご本山に掲示していただきました。ご覧になられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
仏と同じはたらき
「坊(ぼう)さんフェス」当日、会場の一画「ふれあい坊さん広場」に、一人の女性が来られました。そこは、お坊さんがお話を聞くブースで、その手がかりにと、ポストカードに法語を書いたものを販売していました。「あみだくじ」と名付け、48種類あるポストカードをくじで引く仕組みで、どれが当たるかはわかりません。しかし、その女性は1枚のポストカードをじっと見られていたそうです。それは「アミダプロジェクト」の阿弥陀さまをポストカードに印刷したものでした。
「どうかなさいましたか?」 一人の会員が声をかけると、その女性がこう答えられたそうです。「この阿弥陀さまのモザイクの1枚に、先日亡くなった母が写っているんです」 応対した会員は、そのポストカードをそっと差し上げたそうです。9bという大きさで、合掌写真1枚が4aほどの大きさですから、ポストカードに縮小したものではお母さんは判別できません。でも、そのポストカードを受け取った女性はとても喜ばれ、大事そうに持って帰られたそうです。恥ずかしい話ですが、私はこのとき初めて気づいたのです、撮影してからそれまでにいのち終えられる方がおられることに。つまり、私たちと亡くなられた方々が共に写っていたということ、生と死が一つとなったフォトモザイクだったことにあらためて驚かされました。そして「弥陀同証(みだどうしょう)」といわれるように、お浄土に生まれれば阿弥陀さまと同じはたらきをさせていただきます。
先ほどのお母さんの合掌写真は生前の、過去のすがたですが、見ておられる娘さんの現在にはたらきかけています。それが、お聴聞のご縁となれば、そのはたらきは娘さんの未来のおすがたとなるでしょう。現在の一点に生と死、過去と未来が一体となって阿弥陀さまを形づくっている。それは、遠い過去に織りなされたご縁から、まだ見ぬ未来のご縁まで、すべてを現在の私に「南無阿弥陀仏」、尊いご縁であると聞かせてくださっていたのです。『阿弥陀経』に「今現在説法(こんげんざいせっぽう)」と説かれています。このお経はお釈迦さまがおよそ2500年前にインドで説かれました。では、この「今現在」とは2500年前のことか、というとそうではありません。今日を生きるわれわれに阿弥陀さまは法を説いてくださっています。
「南無阿弥陀仏」と聞こえた今、この瞬間に、遠い昔から喚び続けられていた過去、お浄土に往生させていただく未来が開かれます。過去に惑い、未来に迷っていては現在は確かなものとはなりません。過去と未来が間違いのないものとして開かれ、「南無阿弥陀仏」と聞こえたところに、初めて確かな今が現れるのです。お念仏が聞こえたところが、「今現在」と確かめさせていただき、共に「いまを生きる」私とさせていただきましょう。  
 

 

■「おふくろさん」
まさに"お袋さん"
「おふくろさん」 私はこの言葉が、人間存在の原点だと思います。混迷をきたしている現今の政治や経済の状況、そして、それによる我欲の狂奔を見るにつけ、今こそこの人間の原点に立ち戻らねば、人類の存続自体が危ぶまれるとさえ、思わざるを得ないのです。北海道を旅していて、シャケのふるさと館に立ち寄ったことがあります。メスのシャケは産卵の1カ月前ぐらいになると、何も餌(えさ)を食べなくなり、やがて産卵し終えると、1匹残らず死に絶えるのだそうです。そして、やがて孵化(ふか)したシャケには、それぞれに大きな袋が付着しており、その中には栄養がたっぷりとあり、それを餌としてシャケは成長し、やがて泳ぎ出すというのです。驚きました。シャケの子どもには母は1匹もいないのです。母に代わるお袋≠ェあるのです。何としたことでしょうか、このカラクリは。まさに自然の妙です。これぞまさに「おふくろさん」です。
牛や馬、犬や猫などの動物はどうでしょうか。産まれると間もなく、ひょろひょろと自力で立ち上がり母親のオッパイにまでたどり着くのです。これがこの動物たちがおのずからいただいているはたらきです。さて、それでは私たち人間はどうなのでしょうか。お袋≠ヘもらっていません。1年近くは立ち上がることもできません。そのまま放置されるならば、生存不可能なのです。おふくろさん、すなわち育ててくれる者なくしては生きられないのです。ひとりで生きていく術(すべ)は与えられていないのです。お世話をしていただき、だからまたお世話をして生きるいのちというのが、人間存在なのです。いのちの真実なのです。母は子を抱いて母親となり、子は母に抱かれて子どもとなるのです。しかしはたして今、このように本当に母が子を抱いて育てているでしょうか。豊かで便利な世の中は、親がいなくても子は育つと思い込んではいないでしょうか。言葉もなく、表情も未熟な赤ちゃんは、母親が放置していても、無反応です。だからこそ危ないのです。母が母となり、子が子となるのは感性の世界です。抱きしめられることで、響き合うのです。体が認知するのです。そして長じては、親は老い、子は育ち、やがて親のお世話をし、そのいのちに寄り添う、これが人間といういのちのありようなのです。
我欲が自らを破壊
かつて、著名な先生が、人間はいかに生きるべきかを語り、人間は「人間していく」ことだと話されたのを耳にしたことがあります。赤ん坊は抱き、老人には寄り添う、これが「人間していく」ことだと私は思います。また、お世話は、人に限ったことではありません。いのちを育む食べもの、飲みもの、そしてそれらを生み出すはたらき、太陽・水・土などの「めぐみ」。そしてまた身体に与えられた絶妙なる「しくみ」など、すべてにお世話になり、わがいのちを生きているのです。大変なはたらきなのです。どこにも自分のものなどないのです。みんないただきものなのです。
親鸞聖人は如来の慈悲、仏さまのはたらきこそ真実であるとお示しになりました。そこにおいて「人間していく」すがたとは何でしょうか。「有り難う」の合掌です。南無阿弥陀仏のお念仏です。ところが人間の煩悩・我欲は、わが命、わが思い、わが力だけで生きていると思い込んでいます。そしてそれは、政治、経済の現実の姿となって噴出するのです。領土をめぐり、日本の、韓国の、中国の...と角突き合わせてせめぎあっていますが、一体領土と称する島は誰が生み出したものなのですか? お互いに仲良く寄り添って利用させてもらうのが「人間していく」世界なのではないでしょうか。しかし、為政者は国防と称して軍事力を誇示し、せっかくいただいたいのちを破滅へと導く愚かさにのめり込もうとしています。すべて我欲に根ざした不自然が、不可思議なすばらしいいのちを滅亡させるのです。

■漆黒の宇宙に輝く宝石
碧(あお)く美しいオアシス
長大な河は、何マイルにもわたって緩(ゆる)やかに蛇行しながら、国を跨(また)いで悠然(ゆうぜん)と流れ、広大な森は、幾(いく)つもの国境を越えて、果てしなく広がっている。そして、ひとつの大海が、異なる大陸をつないでいる。眼下に展開する景色を見るや「それらは共有のものであり、互いに支えあっている」という言葉が脳裏に浮かぶ。すべてのものは、みなひとつの世界である。1985年7月29日、フロリダ州のケネディ宇宙センターから飛び立ち、同8月6日に帰還したスペースシャトルの宇宙飛行士、ジョン・デヴィッド・バートゥさんの言葉です。高度400キロメートル上空の宇宙ステーションの窓からは、地表の人工的な構造物など見る影もなく、地球は、漆黒(しっこく)の宇宙に碧(あお)く輝く宝石のように映り、大河も森林も大地も互いに調和して、ひとつの世界を形成しているということでしょう。凄(すさ)まじいエネルギーを放っている太陽を周回する地球は、その109分の1の直径しかない惑星であるといわれています。そして、その太陽でさえ、全天に点在する恒星のなかではありふれた星の一つであり、太陽の数百倍以上の大きさを誇る巨星も数多く存在しています。私たちは、はかり知ることのできない深淵(しんえん)な宇宙にある、小さな太陽系のオアシスのなかで生きているのです。
かけがえのない星で
地球の誕生から46億年、人類が現れて500万年といわれています。地球の年齢を365日とすると人類の年齢はわずか数時間です。そのなか、私たちはめざましい発展を遂げる一方で、利己的な利潤ばかりを追い求めては自然を破壊し、争いを繰り返しています。一体、私たちは何処を見て暮らしているのでしょうか。何ものにも代え難い碧い星を前にして、今、自らを振り返る時が訪れています。日常の生活のなかでは、地球規模で起こっているさまざまな悲劇は縁遠いように映るかもしれません。しかしながら、その多忙さに紛れて、同じ世界で生きているという思いが薄らいでいるように思えてなりません。デヴィッドさんをはじめ、宇宙飛行士の多くは「すべてのものは、みなひとつの世界である」という旨の言葉を残しています。私たちは、この言葉から何を学ぶべきなのでしょうか。
広がれ朋友への思い
釈尊は「すべてのものは移り変わるものであり、一時も同じところに止(とど)まっているものはない」という無常の道理を説いていらっしゃいます。碧く輝いている地球も、私たち人類も、永遠に存在し続けることなどできるはずもありません。地球を眺めている宇宙飛行士に鮮烈な感銘を与えているものは、あらゆるものが移り変わって行くなかで、互いに支えあって懸命(けんめい)に生きている美しい姿であるといえるでしょう。
蓮如上人の法語などが収録されている『蓮如上人御一代記聞書(ききがき)』には「信心を得たなら、先に浄土に生(うま)れるものは兄、後(あと)に生れるものは弟である」「仏恩(ぶっとん)を等しくいただくのであるから、同じ信心を得る。その上は世界中のだれもがみな兄弟である」とあります。その意は「移り変わる世界のなかで念仏を喜ぶものは、浄土にいらっしゃる方々と兄弟であり、それらのものは阿弥陀仏のはたらきのうちに抱かれている同朋(どうほう)である」ということです。そして、それはまた、わき起こる煩悩に向きあい、悲喜交わる人生に立ち向かっているあらゆる人々に対する、深い慈しみの心からあふれでた言葉であるともいえるでしょう。
漆黒の宇宙のなかで、大地や森林や大海がひとつになって碧く輝いている宝石のように、私たちも、私たち人類がつくりだした愚かな障壁を打ち破り、すべてのものはみな、かけがえのない朋友(ほうゆう)であるという思いを広く伝えていかなければならないでしょう。

■悲喜の初盆
亡き父といま再び
この8月は義父の初盆を迎えます。妻の父は昨年9月に92歳で往生し、まもなく一周忌でもあります。義父はごく普通のサラリーマンでした。ただ、妻からいえば祖母にあたる義父の母は大変熱心なご門徒で、朝夕、お仏壇で正信偈(しょうしんげ)を欠かさずおつとめされる方でした。義父はそんな母親の後ろ姿を見て育ったのでしょう。義父も定年後は朝夕、同じお仏壇で同じようにおつとめするのが日課でした。お酒が好きで、大食漢でしたが、身体が弱られて入院している時に、「ワシもお棺(かん)に入れられて焼かれるんやろうな...」と、ポツンと言われたそうです。自分の死期を何となく感じておられたのでしょうか。妻にとって父はもう見ることのできない人です。どんなに願っても再び姿を目にすることはできません。妻は口には出しませんが、心のどこかに、できるならもう一度会いたい、という気持ちがあるのだと思います。そんな妻にとって、今年の初盆は、見ることができない、触れることができない父に、再び出会う機会ではないかと思うのです。
永遠なる命を思う
幼少の頃は別にしても、自立した子どもが親の存命中に親を見る時、おそらく自分の都合で見ているように思います。もちろん、親の有り難さはたびたび感じます。しかし、その有り難さは、さまざまな援助をしてくれたというような条件付き≠ナはないでしょうか。人は記憶に刻まれた思い出によって亡き方を思います。しかし、単に記憶に残った思い出だけではなく、亡くなってはじめて無条件の有り難さ、こころの底から居るだけでいいというような有り難さ、そのような思いで、亡き方と出会うことになるのではないでしょうか。義父の初盆は、そんな「出会い」の象徴ともなることでしょう。それは単に亡父に会うということだけではありません。父につながるおじいさん、おばあさんにつながっていくことでしょう。さらに私につながっているすべての人、すべてのいのちと出会うということでもありましょう。そしてこのことが、自分が真実のいのちに気がつくということであり、私は亡き人に出会うことによって、はじめて生きていることの大切さ有り難さ、永遠なるいのちを知ることになるのではないでしょうか。
声で楽しむ世界
浄土真宗の篤信(とくしん)者を「妙好人(みょうこうにん)」と讃(たた)えます。その一人、島根県温泉津(ゆのつ)町の浅原才市さんは、「口(くち)アイ」と呼ばれるたくさんの信心の歌を残されています。その中に次の歌があります。
わたしゃ 極楽見たこたないが 声で楽しむ 南無阿弥陀仏
才市さんは、極楽は見たことがないといいます。それは浄土に往生された方の世界だからです。しかし同時に、お念仏で極楽を楽しんでいるといいます。私たちは、亡くなられた方と二度とこの世で会うことができません。会えないことは悲しみ以外の何ものでもありません。しかし、お念仏は阿弥陀さまが私を必ず極楽浄土に生まれさせるというよび声であり、そのお念仏の世界を通して、再び出会うことができるのです。
亡くなられた方の世界は見えない世界です。私たちが生きている人間の世界は見える世界です。見える世界は確かな世界、見えない世界は不確かな世界のように私たちは思っています。そして見える世界は美しく、見えない世界はおどろおどろしい世界のように思っています。でも果たしてそうなのでしょうか。無条件の有り難さ、こころの底から居るだけでいいと思うような有り難さ、そのような有り難いという思いの世界こそ美しく確かなものなのではないでしょうか。
親しい方の死は、たいへん悲しいものです。その悲しみが阿弥陀如来のよび声によって、あらゆるいのちとつながり、静かな喜びへと転じられていくのがお念仏の素晴らしさです。お盆とは、亡くなられた方を追悼(ついとう)し偲(しの)ぶためだけの場ではなく、お念仏によって私たちの悲しみが喜びに転じられる、かけがえのない機会なのです。

■仏さまになる?
本当に私の命?
仏教の目的は仏さまになることです。あるお寺で「みなさんは仏さまになりたいですか?」と問いかけましたら、多くの人はぽかんとしていました。しばらくして、「そんなことは考えたこともないわ」という人、「私は仏さまになりたいと思わない」という方、いろいろなご意見を聞かせていただけました。私が仏さまに成(な)るとは、現実の生活の中で、どんな意味があるのか考えてみましょう。お釈迦さまは、人間として避けることができない老病死の苦しみからの解放を目的として、王さまになる地位を捨て出家され、縁起の道理に目覚め、覚(さと)られました。縁起の道理とは、私という存在はたくさんの因縁によって生かされているということです。私たちは自分で生きていると思っていますが、お釈迦さまは、たくさんのご縁が集まって私になってくださっているという命の事実、本当の相(すがた)に目覚められました。もともと私という存在はなく(無我)、いろいろなご縁が集まって私が存在している事実(縁起の教え)に目覚めさせていただくと、私が私が≠ニ、我(が)に執着して苦しむ自分の姿に気づかされます。若さに執着するから老いの苦しみが始まり、健康に執着して病気を忌(い)み嫌い、生きることに執着するあまり、死をタブー化してしまいます。しかし私の苦しみは老病死という事実ではなく、若さ・健康・生に執着することにより生じるのです。私たちは、私のお金、私の家族、私の命と思っていますが、よく考えてみると私のお金、家族、命というより、ご縁によって一時的に私のものになっているにすぎません。ですからご縁がなくなれば私から離れていきます。私の命と思っていますが、私の思いとは無関係に心臓が動き続け、呼吸しているのが事実です。私の命というなら心臓の動き、呼吸を自由にできるはずです。例えば生きることに絶望し死んでしまおうかと思いつめた時、自分で心臓の動きを止めることができるでしょうか? そんなことは不可能でしょう。仏さまになるとは、私の思いを超えた大きな命のはたらきの中に生かされている私の本当の姿があきらかになり、老病死という苦悩の原因がはっきり自覚されて生きる者になることです。
人生が転換される
自分の思いに執着して苦しむ私を目覚めさせようとするはたらきかけが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が私にはたらいて私のお念仏となります。お念仏は仏さまにお願い事をする言葉だとか、お葬式の時に称える言葉、呪文(じゅもん)だと人によってさまざまな受け取り方がされていますが、親鸞聖人は仏さまのはたらきかけがよび声となって届いたのがお念仏ですよと教えてくださいます。色もなく、形もましまさぬ仏さまが、すべての人が受け取り易(やす)く、保ち易いことばの仏さまとなって私によびかけてくださっているのが、南無阿弥陀仏です。よび声ですからいろいろなご縁を通して、お念仏を聞き続けるうちに、私をよびづめによんでくださってあった仏さまのおよび声であったことに気づかされます。および声が聞こえてきたら、今まで避けていた現実を認め、自分にとって不都合なこともご縁と受け入れる人生に転換されます。
私たちは与えられた事実を自分の都合でとらえて、自分の思いにかなえば幸せ、思い通りにならなければ不幸だと考えますが、このような幸福感は老病死という不都合な事実にであうといきづまります。自分の思いを中心とするのでなく、大きな命の中に生かされてあった自分の本当の姿に目覚めると、生かされていること自体の安心・満足・喜びが与えられます。多くのご縁によって生かされている自分の姿に気づいた時、何事もご縁でありましたと、不都合な事実も受け入れていく人生が開かれます。
ご縁 ご縁 みなご縁 困ったことも みなご縁 ナムアミダブツにあうご縁   木村無相

■仏法に照らされて
「乗せて」いただく私
「主人は毎日、正信偈をおつとめしてお念仏申しておりましたが、お浄土に参って仏となれましたでしょうか?」 先日、ご主人を亡くされた方から、このような相談を受けました。私はこう申し上げました。「大丈夫ですよ、ご主人は先の列車に乗られただけです。阿弥陀さまは、生死(しょうじ)のことについて全く無力な私たちをいつも包み込んでいてくださいますから、必ず摂取不捨(せっしゅふしゃ)(摂(おさ)め取って捨てない)の利益(りやく)にあずかります。ですから、今生(こんじょう)の命尽(つ)きた時、必ず仏とならせていただくのです。そして、私たちも同じ本願力によって、阿弥陀経にある倶会一処(くえいっしょ)(倶(とも)に一つの処(ところ)で会う)なのだと喜べるのです」 後日、奥さまから「あれから心が落ち着きました」と聞かせていただきました。きっと、奥さまにも阿弥陀さまのお喚(よ)び声が届いたのでしょう。親鸞聖人の『高僧和讃』に、「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」とあります。阿弥陀さまの弘誓の船は、私が「乗って」ではなく、阿弥陀さまが「乗せて」ですから、私がいつどのようにあっても必ず乗せてくださるのです。これは、正に私が阿弥陀さまに抱(いだ)かれているからこそです。私たちは、生死について全く無力ですから、ただただ「あなかしこ あなかしこ。有り難いことです、もったないことです」といただくばかりです。
つかめない信心
この春、89歳になる母が介護施設に入所しました。見舞いに行くと母は決まって言います。「忙しいから、体に気をつけて早く帰りなさい。帰り道は気をつけなさい」と、自分のことで精いっぱいなはずなのに、私のことばかりを気にかけるのです。そんな母の思いに接するたびに、親は子どもが何か言う前に察して、心配してくれているのだなあと思わずにはいられませんでした。そんな私を、真に支えてくださる本当の親こそ阿弥陀さまです。阿弥陀さまは無条件で私を救ってくださいます。「そのまま救うから我(われ)にまかせよ」と常に私に寄り添い喚(よ)び掛け続けてくださっているのです。この喚び声が私の心に至り届いた時、私の自己中心的な本当の姿が明らかになりました。そして、今まで私は自分の命を大まかな意味でしか捉えることができませんでしたが、そんな私が、永遠の「いのち」の中に生かされてあったんだと気付かせていただいたことです。
主役は私ではなく阿弥陀さまです。私は常に阿弥陀さまに抱かれているのです。たとえこの身が病気であっても、貧しくても、人がどう思おうと、すべて「おかげさま」と受け入れることができるのです。この仏法に照らされ、名号(みょうごう)(南無阿弥陀仏)が私に至り届いたことを、真実信心をいただいたと申します。親鸞聖人は「念仏のみぞまこと(真実)にておはします」といわれ、名号すなはち信心と示されるのです。それを不実(ふじつ)(真実と反対)である私が、「マコトノココロ」である信心を得よう、取ろうとすると、不実な私が主体となりますから、信心に疑いが生じてしまうことになります。蓮如上人は、『御一代記聞書』(ごいちだいきききがき)で、ある人から「私の心はまるで籠(かご)に水を入れるようなもので、法話を聞いている時は有り難いのですが、その場を離れるとたちまち元の心に戻ってしまいます」という悩みを打ち明けられます。これに対し、「その籠を水の中につけなさい、わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と上人はおっしゃいます。真実信心をいただくくとは、「私」がつかむものではなく、疑いのない「仏法(信心)」に素直につからせていただく方向なのです。
私は、この阿弥陀さまのご信心につからせていただくということを、正信偈の最後にある「道俗時衆共同心」(どうぞくじしゅうぐどうしん)で味わっています。僧侶でも、一般の方でも、今ここに生きるすべての人々が共に同じ阿弥陀さまのご信心につからせていただくことによって、煩悩を断(た)たずして、皆ともに救われていくお心だと、いただいております。

■現実をささえるみ教え
「かわいいねぇ・・・」
愛知県刈谷市で布教所を開所させていただいて、二度目の夏を迎えました。本願寺派の盛んな九州や中四国、北陸地方からこの東海地方に移り住み、故郷で過ごしたのと同じお盆の過ごし方を望まれるご門徒の方々と共に過ごす夏のひと時は、大いにこころ楽しいものでした。そんな今年のお盆の最中、珍しいお客がありました。中学校時代の同級生がご家族をともなって、広島県から愛知県までお参りに来てくださったのです。この同級生ご夫婦がお寺にお参りされるようになったのは、10年ほど前の出来事をご縁としています。生まれたばかりの双子の女の子と男の子を、半月足らずで相次いで亡くされたのでした。同級生は、私が僧侶の道を歩んでいることを知っていたため、「お経をあげてもらえないか」と連絡をくれたのです。その時、私は長崎県で法務に就くべく、転居したばかりでしたが、事情をお伝えすると法務先のご住職は快く広島県へのとんぼ返りを許してくださいました。同級生の自宅に着いたのは夜半を過ぎていました。
その赤ちゃんは、初めて病院の保育器から出ることを許されたのだそうです。とても小さな棺(ひつぎ)がないため、木製ではなく発泡スチロールの棺の中、脱脂綿でくるまれた小さな男の子の姿を、どうしても私は忘れることができずにいます。女の子の方が先に亡くなったので、すでに荼毘(だび)に付され、小さな骨壺が安置されていました。出産後すぐに滅菌された保育器に移されたため、手袋越しでしか子どもに触れることができなかったそうで、ようやく子どもの顔をじかに撫(な)でることができたと、お母さんがずっと子どものかたわらに寄り添っていらっしゃいました。子どもの皮膚は薄く、輸液で栄養を摂取していると頬がひび割れてしまうので、絆創膏(ばんそうこう)が貼(は)ってありました。医療用の絆創膏は飾り気がなくてかわいそうだと、お母さんの手でアンパンマンの顔が描かれていました。子どもが生まれてから亡くなるまで、2週間ほどの出来事を聞かせていただきながら、私も女の子の骨壺を抱かせていただき、男の子の頭を撫でさせていただきました。「かわいいねぇ」と泣きながら。それから双子の中陰(ちゅういん)法要をはじめ、百か日法要、初盆法要、一周忌法要をご縁として、ともに浄土真宗のみ教えに親しませていただきました。
私たち一人ひとりに
「つつしんで浄土真宗を案(あん)ずるに、二種の回向(えこう)あり。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)なり」 「還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地(りたきょうけじ)の益(やく)なり」 
わが子を亡くした悲しみで「自分も死んでしまえたら」と思っても、死ねなかった。親子であっても、別々の命であると向き合うからこそ、現実の世界を生きる厳しさが明らかにされます。そして厳しい現実を生きなければならない、寂しい私たちに等しく恵まれているお念仏が、決して一人にはしないとはたらきかけてくださいます。現在、同級生ご夫婦は、6歳の男の子と2歳の女の子に恵まれています。二人とも空手を習っているので力も強く、ケンカともなれば騒がしいこと、この上ありません。その兄妹が、お浄土へ生まれて往(ゆ)かれた姉と兄の写真をご仏前に安置し、ご両親と一緒に「南無阿弥陀仏、なもあみだぶつ」と称(たた)えています。このお姿を見させていただくたび、阿弥陀さまのお慈悲のはたらきが間違いなく私たち一人ひとりに届いていることを聞かせていただいています。
ひとたび仏と生まれた方々が、いつでも私の称えるお念仏として寄り添ってくださることを味わわせていただいています。「家庭を構(かま)えるって、素晴らしいことだね」 「おじさんは結婚しないの?」 「...結婚はね、一人ではできんのよ...」

■寿限無(じゅげむ)・寿限無(じゅげむ)
人間にうまれて・・・
「寿限無(じゅげむ)・寿限無、五劫(ごこう)の擦(す)り切れ...」で始まる落語「寿限無」は、いのちに限りなしという意味です。仏教用語でこれを書くと「無量寿」でしょうし、古いインドの言葉では「ア・ミター」。これを漢字で表すと「阿弥陀」。寿限無とは阿弥陀さまに通じることだったのです。阿弥陀さまは「願い」を持たれた仏さまで、「すべてのいのちを救いたい」と強く深い誓いを立てられたお方です。私たちは限りのある時間を生きています。仏教では流転(るてん)していると説いています。「生死流転(しょうじるてん)」という世界観でこの世を理解しているのです。人間に生まれる前は、縁によって何らかの生き物であったというのです。私は今生(こんじょう)で、人間として53年も生かしていただきました。何とかこうして人生を歩めるようにお育ていただきましたが、この後50年はさすがになさそうです。瞬く間に時は過ぎ、寿命の折り返し地点は過ぎ去りました。わがままを繰り返した人生でした。思いの叶(かな)うこともありましたが、どちらかというと不自由で忍耐しなければならないことのほうが多く、努力と工夫を必要とした人生だったと振り返ってみたりしています。
私たちの生死流転するいのちは「分段生死(ぶんだんしょうじ)」といわれ、前の生の記憶は全くないそうです。ひょっとすると、私は鳥だったかもしれませんね。朝飛び立つ時には「昨日は5匹しかついばんでないので、お腹(なか)が空(す)いたなあー。今日は10匹くらいは欲しいね」と出かけていき、満腹で帰ってきても、木の枝につかまって、うつらうつらしている間に朝がきます。忙しすぎてお腹が空きすぎて、安心した一生ではないようです。その前はミミズだったかもしれません。目の前の土を食べては栄養を吸収し、ずっと地中の生活のつもりでしたが、ふと地上に顔を出した瞬間、鳥の餌食(えじき)となってしまいます。その前もそのまた前の生も、忙しすぎて、ひもじすぎて、不安の中をさまよったことでしょう。仏さまの存在を思う余裕なんて皆無。なぜかこのたびは人間に生まれ、親に育てられ、人さまから学ばせていただき、多くの出会いを恵まれました。とりわけこのいのちの流れを知ったとき、感動となって生きられる身となったことでした。きっと仏さまが私のいのちにご縁を結んでくださったことだろうとお察し申し上げる次第です。
必ず会える世界
「人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く」といわれます。とりわけこのたびは、素晴らしいお救いに出遇(あ)えました。すべてのいのちを責任もって二度と悪い世界に戻らないようにするからと、この私のために誓いを立てられた仏さまに出遇わせていただいたのです。「南無阿弥陀仏」は素晴らしいです。あらゆる仏さまたちが「最高の救いをよくぞつくられ達成されました!」とほめたたえるほどの最高の救いです。「南無阿弥陀仏」をこの私に届け、安心して任せてほしい、次のいのちは無量のいのちになることを完成したからね...と。ようやくその阿弥陀さまのよび声が、この私のうえに届いてくださいました。いのちのはかなさを思いつつも、この世の縁が尽きるその時まで、精いっぱい歩ませていただこうと思います。この世で出会った縁は、今までもそうでしたが、次のいのちに花開いていくのですね。先に生まれていった多くの親しかった人、この世でもう会えないと別れた人々...。そうした方々と会える世界を阿弥陀さまがご用意くださっているのです。
阿弥陀さまの浄土は「倶会一処(くえいっしょ)」、必ず会えると聞かせていただきました。この世で出会った縁はいつか消えてなくなりますが、親子・兄弟・夫婦・友人知人・同僚...と、さまざまな方々と再び出会えることを人生の楽しみにできるのです。必ず会える世界、無量のいのちとなって待っていてくださる世界に向かう人生が開けてきます。寿限無・無量寿・阿弥陀。素晴らしい出会いをこれからも続けていこうと思います。人生に起きるさまざまな出来事を、お浄土への楽しいお土産と思って歩んでいこうと思います。

■"ともに生きていく"
チベット難民を支援
インドやネパール在住のチベット難民の支援活動を続けて30年がたちました。ネパールの難民キャンプには特に教育と医療の面での支援を中心にしていますので、必ず学校を訪問します。何度も訪問していると、校長先生ほかスタッフの方など知り合いが多くなります。訪問するたびに新しい経験をしています。ネパールのカトマンズ郊外にあるチベット難民の学校を訪問した時のことです。着いた時が昼食の時間でした。この学校はほとんど全寮制なので、男子生徒は体育館で、女子生徒は寮の食堂で昼食をとります。体育館に入った時、ちょうど生徒たちは席に着いていました。いきなり昼食が入っているトレーを額(ひたい)の上に持っていき、食前の言葉らしきチベットの言葉を発しました。食べ物を額の上まで持っていく行為は、私たちが「食前のことば」の最後に「いただきます」と言うのと似ているので驚きました。私たちも、おつとめの前に聖典を額の前に「いただいて」から開き、おつとめが終わると聖典を閉じ「いただいて」終わることを作法としています。聖典の中の「教え」を敬う気持ちを形に表すわけです。「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」という私たちの「食前のことば」と同じ意味の心が、トレーを額まで上げるという形で示されているのでしょう。同じ仏教徒の心を感じました。
共生のスローガン
この学校の玄関を入ったところの壁には、英語のスローガンがかけてありました。私なりに解釈しますと「この学校での生活を楽しみましょう。そして幸せになりたいと思うなら、他者を幸せに」という内容でした。校長室でこのスローガンの話になりました。これは、慈悲喜捨(じひきしゃ)の精神をあらわした言葉で、子どもの時から非殺生(ひせっしょう)、非暴力(ひぼうりょく)の仏教精神を育てるための教育理念の一つであると言っておられました。また、海外の支援団体から援助された食料などを、学校周辺のお年寄りや障害を持ったネパール人に分けたり、仕事のないネパール人女性にミシンの使い方を教えたりして、「ともに生きていく」という精神の共生教育を行っていると話しておられました。まさにスローガンを実践している姿です。
仏教徒のチベット人の家庭でも、殺生をしないという生き方があります。知り合いになったチベット人の家庭で、子どもが蚊(か)を窓から外へ追い出している姿を見たことがあります。私たち浄土真宗の生き方にも「いのち」を大切にする、できるだけ殺生をしないという生活スタイルがありました。広島大学で教授をされていた有元正雄先生の著書『真宗の宗教社会史』には、門徒の生活が、1殺生を嫌う、したがって堕胎(だたい)・間引きの忌諱(きい)による人口増加、2勤勉・忍耐・節倹(せっけん)などのエートス(慣習や雰囲気)をもつこと、3どこに住んでも弥陀の救いに変化がないと郷里に恋着がないこと、とその特徴をあげて、ハワイやアメリカへ多くの門徒が移民していった要素をあげておられます。
私も小さい頃、友達と魚釣りに行った時、それを見ていた人から父に話が伝わり、その晩、父に怒られたものです。食卓には魚があって、寺の子は魚釣りはダメ、その矛盾に不満がありました。でも後にわかるのです。いのちをとってしか生きてはいけない私たちが、できるだけ殺生を避けていくことで、どんなに小さい「いのち」も大切にしていく生き方をまもっているのです。チベット難民の仏教徒もまさに同じ生き方をしておられます。仏教徒は三宝(さんぽう)に帰依(きえ)します。「三帰依(さんきえ)」を称(とな)えることが仏教徒の証(あかし)です。その三番目、南無帰依僧(なもきえそう)の「僧」(サンガ)をどの範囲まで意識しているでしょうか。サンガをお念仏の仲間から同じ仏教徒の枠まで広げて「同朋(どうぼう)」といただくこともできるでしょう。今年6月にスタートした宗門総合振興計画の基本方針の一つ「自他ともに心豊かに生きる生活の実践」の中に、難民として苦難な状況にある仏教徒を仲間として支援していくことも、その一つににかなうものと確信しております。

■生きる意味って何ですか
人とのつながりの中
「生きる意味ってどこにあるんですか?」 縁あって仲間とはじめた「NPO法人京都自死・自殺相談センター」が今年で6年目を迎えました。6年の間にさまざまなご相談を受けましたが、私がもっとも印象に残っているのが、この言葉です。「こんな苦しい状況で生きていて意味があるんですか?」 「私に生きる価値はあるんでしょうか?」 いままさに「死にたい」と考えておられる方からの問いかけに、私はすぐにお応(こた)えすることができませんでした。いったい、自分の存在の意味や価値はどのようなときに感じられるのでしょうか。3年前、こんな出来事がありました。事務所に若い男性が相談に来られました。その日、事務所は刊行物の発送作業が重なっており、多くのボランティアでにぎわっていました。その片隅のソファで向きあい、お話に耳を傾けます。
1年前に両親を亡くされたその方は、仕事も見つからず一人ぼっちで「生きる意味」を見いだせないこと、そしてこの面談の後に自死するつもりであることを途切れ途切れの声で話されました。固い決意の前に、内心焦りが募ります。その時です。切手貼(は)りをしていたボランティアの一人が、大量の封筒を前に「人手が足りないなあ」と漏(も)らしたのです。私は「あっ」と思って、恐る恐る相談者の方に「もしよかったら一緒にお手伝いいただけませんか」と尋ねました。すると「私でよければ」と快諾され、半日にわたり一緒に作業をしてくださいました。そして帰り際、数人のボランティアから「本当に助かったよ、ありがとう」とお礼を言われると、「また来てもいいですか。人手がなければいつでも言ってください」と、明るい表情で帰られたのです。「自分の命のかけがえのなさ」や「大切さ」。それらは「自分自身」をどれほど見つめていってもなかなか感じられるものではありません。見つめれば見つめるほど、取るに足りない自分が露(あら)わになってくる場合もあるでしょう。そうではなく、私たちは「誰かにとって必要とされること」「大切な存在であること」、つまり「他者」とのつながりのなかでこそ、はじめて「自分の大切さ」が実感できるのではないでしょうか。私は相談を通して、そのことにあらためて気づかされたのです。
私へのよびかけ
大乗仏教の経典には、「インドラの網(あみ)」という有名な譬喩(ひゆ)が示されています。インドラとは、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)という名で知られている古代インドの神様です。その宮殿の天井を飾っている網の結び目の一つひとつには宝珠(ほうしゅ)が結(ゆ)わえられており、それらがちょうど合わせ鏡のように互いに互いを映(うつ)し合い、どれか一つの宝珠をとりあげれば、そこにはその他すべての宝珠の姿が映し出されているというのです。孤立し、ひとりぼっちで生きているかに見えるこの「私」は、実際には、さまざまな他者とわかちがたく結びつき、かかわり合いながら生きているということ――。それこそがこの世界における真実のあり方であるというのです。「生きる意味」を見失いかけたとき、「あなたが必要だ」「あなたはここにいていいんだ」という他者からの「よびかけ」こそが、そうした関係性を「再発見」させていくのではないでしょうか。
親鸞聖人は、阿弥陀さまのお救いについて、『浄土和讃』で次のように讃(たた)えておられます。
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる
あらゆる世界のいのちあるものに対し、光明のなかにおさめとって捨てることがない阿弥陀さま。その「よび声」は「南無(なむ)阿弥陀仏」のお念仏となって、今この私のもとに届けられています。さまざまな問題に悩み、孤独を抱(かか)え、ときには死をも考えるこの「私」に対し、よびかけつづけ、見守りつづけてくださっているということ。ここに、「生きる意味」を支える確かなはたらきがあると気づかされるのです。

■「死にたい。でも怖い」
頭ではわかるのに・・・
「一生のうちにどうしても出会わねばならない人がいる。それは自分自身だ」と聞いたことがあります。自分自身に出会うとはどういうことでしょうか?一人の女性を通して、有り難い気付きをいただきました。彼女は70代前半の方で、幼い頃からお寺で聴聞されていました。そんな彼女が1年前にがんと診断され、うつも発症し、家族に不安や怒りなど、つらい思いをぶつけてこられました。そして病状が進行し自宅で過ごすことが困難になり、私が勤めている病院に入院されました。当初は「死にたい。生きてても何もいいことはない。どうせ死ぬのになぜ食べないといけないの? 怖い、大丈夫かな? 死にたい...」と、会うたびに固い表情で言われました。そして僧侶でもある私に「ご法話も聞いたし、頭ではわかるんです。阿弥陀さまもお浄土もあるということは...。でもどうしても今がつらいんです。苦しいんです。頭でわかることと、現実とのギャップが苦しいんです」と。
私はただ聞くことしかできませんでした。そして彼女の思いを聞かせていただく日が10日ほど続いた日のこと。この日も病室にうかがい、お顔を見た瞬間、今までにないスッキリとした表情に気付きました。しかし、あえて触れず、いつも通り血圧を測っていると、彼女から話し出されました。「東さん、今まで無事に死ねなかった人はいないんですね。肝の据わった人も、私のような怖がりも、みんな...私も無事に死んでいけるんですね...」 私は鳥肌が立ち、とても大切なことに気付かれたんだ、苦しみ抜かれたからこそ出たお言葉なのかと思い、心が強く突き動かされるような驚きと喜びを感じました。彼女は本当に美しいお顔でした。「そうですね、あなたから教えていただきました。無事に死んでいけない人は今までにいませんよね。生まれたからには必ず死にます。でも、それは必ず無事に死んでいけるってことですよね。有り難いことですね」とお返しし、共に穏やかで優しい時間を過ごさせていただきました。この日以来、彼女の口から二度と「死にたい。怖い」という言葉は聞かれなくなりました。その3日後に静かに息を引き取られました。
いつもいだかれて
人は当たり前のことに気付かされた時、初めて、今まで見えなかった世界が見えてきます。「死にたい。でも怖い」とあれほど繰り返し苦しい思いを訴えていた彼女から「無事に死んでいけるんですね」と。このお言葉の意味するところは、解決できない苦を抱えたまま、この身のままおまかせすればいいんだと気付かれたところに、この上ない安心を得ていかれたのだといただきました。
如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり
「必ず救う。我にまかせよ」という阿弥陀さまの私にかけられた願いが、彼女にも私にも至り届いているにもかかわらず、それに気付かなければ、私たちは不安と苦しみから逃れることはできません。私の力で生死(しょうじ)、つまり迷いを超えていくことなど到底できないのです。なのに、それをどうにかしようと、もがき苦しむのが私たちの偽りなき姿です。しかし、こんな救われようのない私だからこその阿弥陀さまの願いであったと気付かされた時、初めて、余計な力が抜け、私の力でどうしようもないことに必死でもがき、苦しむ必要がなくなります。安心して泣き、笑い、そして死んでいける。苦しみと喜びは別にあるのではないのです。自分自身に出会うということは、教えに出会うということ。教えに出会うと、自分の置かれた場所、いのちの行き先が見えてきます。身の丈いっぱいに精いっぱい生きる中、自分の力ではどうしようもない生死のことはすべておまかせすればいい。それは投げやりに生きることでは決してありません。与えられたいのちに「ありがとう」と言える生き方であり、どのような自分であっても「自分であってよかった」と言える人生を歩ませていただけることです。  
 

 

■通夜と葬儀と告別式
何がどう違うの?
私は現在45歳ですが、年齢のせいでしょうか、若い時にはあまりなかったお葬式や仏事についての質問や相談を、同年代の友人から受けることが多くなりました。あるとき友人から、「お通夜とお葬式って、どっちに出たらいいんだ?」と聞かれました。「そりゃあどちらも出た方がいいけど、1回というならお葬式だよ」と答えると、「えっ、お通夜だけはダメなの?」と聞き返されました。「本当はね。ただ仕事の関係とかでお通夜だけという人も実際増えたし、遺族としてもお通夜だけのお参りはお断りと言えないしねぇ」と返すと、友人は少し憤慨して「大体、なんでお通夜とお葬式と2回もあるんだよ。何がどう違うんだよ」とのご発言。最後の言葉は友人同士だからこそ出たのでしょうが、言葉に出さなくても、このことを聞きたいと思ってる人は意外と多いのではないでしょうか。お通夜とお葬式の違いはいろいろとありますが、一番の違いは、通夜は生きていた方(の最後の夜)として接し、お葬式は亡くなった方として接するという点にあります。お通夜はもともと「夜伽」(よとぎ)と呼ばれ、身内の者が亡き方を生きた方として一晩中お世話をしていたことがルーツです。
お慈悲を仰げる場に
最近は仕事の関係でしょうか、本来は身内のみでつとめていたお通夜に、仕事の関係者などいわゆる一般参列の方がお参りされて、まるでお葬式のようにつとまり、一方で仕事を抜けてお参りしなければならないお葬式の方が身内ばかりで、お通夜のようにつとまるという逆転現象も起こっています。私の同年代に聞くと、お通夜は一般参列を含めて皆が参るもの、お葬式は主に身内でつとめるものだと思っている人がけっこう多いようです。お通夜もお葬式も今や自宅ではほとんど行われず、葬儀会館で行われるという現実もこれに拍車をかけているのでしょう。本来は式ではないお通夜が通夜式と呼ばれたりするなど、いろいろな面で、お通夜のお葬式化を目のあたりにする機会が増えました。
一方で、お葬式に代わって告別式という表現が増えてきたように感じます。会場の看板には、「通夜式○時、告別式○時」と書かれたものも多く、お葬式の開式にあたっても、「葬儀並びに告別式を執り行います」という表現も珍しくありません。しかしながら、告別式とは明治時代に、葬儀の代わりに行われるようになったものが始まりですから、浄土真宗の作法にのっとるのであれば、普通に「葬儀を開式します」というべきです。また、告別式とは、「別れを告げる式」ですが、浄土真宗の教義から言えば、この「別れを告げる」という言葉についても慎重であるべきでしょう。
親鸞聖人は「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向(えこう)あり。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)なり」とお示しくださっています。亡き方はお浄土にいき、それで終わりということではないのです。お葬式は亡くなった方に別れを告げる場ではなく、お浄土での再会を誓う場であり、また、すでに仏となられた故人の、お浄土からの還相摂化(げんそうせっけ)のおはたらきを受けている場でもあります。
弔辞などでよくお聞きする、「お浄土でまた会える日を...」というお言葉も、もちろんその通りではあるのですが、弔辞を述べていらっしゃる方にとっての今という時間が、亡き方とお浄土で再会するまでの、ただただつらいだけの、辛抱の時間に終わってしまっているということであれば、私たちが宗祖のお心を伝えきれていないということでもあります。ただ、これらの考えは浄土真宗の教義に基づくものではありますが、ご遺族がそのように感じているかは全く別の問題となります。日頃の教化活動も確かに大切ではありますが、お通夜やお葬式の場が決して教義の押し付けにならないよう、しかしながら、阿弥陀さまを中心にご安置するということに一本の筋を通し、その場にいるもの全員がともに阿弥陀さまのお慈悲を仰いでいけるような、遺族と僧侶にとってもっともよいお通夜やお葬式の形を考え続けていきたいと思っています。

■人生を振り返って
泥の中の美しい花
人生を振り返って後悔することはありませんか?罪の意識に苦しむことはありませんか?取り返しのつかないことほど、忘れてしまいたいことほど、いつまでも心の中で生き続けます。反省は懺悔(ざんげ)の心です。罪の重さに心が痛むことは、「申しわけありません」という気づきが芽生えている証拠です。「申しわけありません」と思う気づきは、「どんなあなたであろうと、決して見捨てはしません」という、今まさに目の前にある阿弥陀さまのお心に気づくご縁となることでもあります。阿弥陀さまは、私と一緒に苦しんでくださり、悲しんでくださっています。私たちは、そんな阿弥陀さまの深い思いを胸に抱いて歩むのです。阿弥陀さまは、いつも私たちの心の底を静かに照らされています。その思いに照らされて、私の愚かさを知らされるとき、泥の中に根を張りながら、泥に染まらないで美しい花を咲かせる蓮(はす)のような輝きを放ち始めるのが、心の底から湧き起こる懺悔の気持ちです。何度となく自己嫌悪に陥ったり、心がくじけたり、悲しいほどの後悔を繰り返しながらも、「申しわけありません」という気持ちが少しでもあれば、「元気を出そう。何か今からでも私にできることはないだろうか」「今日一日だけでも、背筋を伸ばして前を向いて素直に生きてみよう」と、毎日新たな一日を、新たないのちを歩むことができるようになるのです。ありのままの私をまるごと受け入れてくださる阿弥陀さまのお心が、私を生かし、今日を新たに歩ませてくださる力になるのです。
ほんとうの幸せとは
私たちは、過ぎ去った過去を変えることも、明日の私に触れることもできません。しかし、今日の私のいのちは見つめることができます。私たちは、生きていることを当たり前のように思っていますが、一切のものは時々刻々と移り変わり、生滅(しょうめつ)していますから、縁に会えば今日が人生最後の日でも不思議ではありません。人のいのちのはかなさが、悲しさが、身に染みます。通り過ぎていく時間の中で、二度とない今日一日のいのちの尊さに触れるとき、「あなたをどうしても助けたい」と誓われた阿弥陀さまの願いに包まれて生きる、生死(しょうじ)を乗り越えて生きるいのちに気づかされます。また、人生にはつらく苦しいことも多々あります。暮らすことにつまずき、生きることに戸惑うこともあるでしょう。理不尽な仕打ちに傷つけられることも、何を信じてよいのかわからなくなることもあるでしょう。誰もがみな心に何らかの傷をかかえて生きています。
お釈迦さまは、「人生は苦しみです」と仰(おお)せられました。この世は思い通りにならない、苦しみの尽きない、耐え忍ばなくてはならない世界です。しかし、苦しみや悲しみという縁を通して、本当の幸せとは何かということを問う心が起こったら、真実に耳を傾けることができたら...。誰にも言えなかった私の心の中を阿弥陀さまにさらけ出せたら、阿弥陀さまのお心を知り、「ああそうだったのか」と合掌している私がいたら...、それは尊いことです。阿弥陀さまがご本願を起こされたのは、どうしても救われなければいけない私がここにいるからです。阿弥陀さまのお心は、すべてのいのちを救い幸せにするという大慈悲のお心です。すべてのいのちを救うとは、この私も絶対に救われるということなのです。阿弥陀さまは、さみしくて悲しくて怖(こわ)くてうつむく私をそっと抱きあたため、淡々と凛々(りんりん)と悠々と生きられるようにやすらぎを、喜びを与えてくださるのです。何が起こっても、どんなことがあっても、阿弥陀さまがご一緒です。これだけは忘れてはいけません。私たちは、私を決して見捨てられない、その阿弥陀さまの大慈悲のお心の中に、すでにいるのです。私の目に見えない真実、この「幸せになってほしい」と願い続けてくださっている阿弥陀さまのお心に気がつくかつかないか、この違いは大きいのです。

■なぜなら、それが・・・
ハニーハンター
ヒマラヤの奥地。崖(がけ)に作られた巨大な蜂の巣から、昔ながらの方法で蜂蜜を採って暮らす人々がいます。人呼んでハニーハンター。以前、その達人ぶりがテレビで紹介されました。ずいぶん前に一度見ただけなのですが、妙に記憶に残っています。というのも、ナレーションがたいへん印象的だったからです。ハニーハンターは、断崖絶壁を簡素な縄ばしごで降り、宙吊(づ)りのまま巣に向かいます。一歩間違えば転落死。なぜ、そこまでの危険を冒すのか?〈ナレーション〉「なぜなら、それがハニーハンターだから」 ハニーハンターが巣を切り取りにかかると、当然のように蜂が全身に群がり刺しまくってきます。しかし彼らは黙々と働き続けます。なぜ、平気なのか?〈ナレーション〉「なぜなら、それがハニーハンターだから」 ずっとこんな調子なのです。この姿を見よ、他に説明は不要。そこには理屈を超えた不思議な説得力がありました。
本願、本願、本願
場所と時代は変わって、中国は唐代のはじめ。長安の都に一人の僧がいました。善導大師(ぜんどうだいし)です。大師は、南無阿弥陀仏と称(とな)えて浄土に往生する念仏往生の教えを、人々に精力的に説いておられました。ところが当時、念仏往生の教えには逆風が吹いていました。高名な僧たちが複雑な仏教理論を用いて、こう主張していたのです。念仏は簡単すぎる、それだけで往生はできぬと。そんな中で善導大師はただ独り、念仏往生に間違いなしと明らかに説かれたのです。なぜ、間違いないのか?「なぜなら、それが仏の本願だから」 人間が組み立てた理論ではない。どうしようもない愚か者を念仏によって必ず救うと、仏さまが願っている。それが、何ものにも比べられない、確かな根拠だったのです。
場所と時代は変わって、日本は平安時代の末。比叡山に壮年の学僧がいました。法然聖人です。聖人は長い苦悩の中にいました。修行を重ねても開けない心。私は仏道を歩める器ではないのか。蔵にこもり、涙ながらに仏典に答えを求めていたのです。そんなある日、善導大師の言葉が目に止まりました。
――いつでもどこでも念仏、それこそが正しき浄土往生の道である――
この言葉によって、法然聖人は比叡山を離れ、念仏ひとつの道を歩まれることとなったのです。なぜ、あらゆる修行を捨てて念仏ひとつなのか?「なぜなら、それが仏の本願だから」 修行を達成できる立派な人だけが仏道を歩めるのではない。どうしようもない愚か者を念仏によって必ず救うと、仏さまが願っている。それが、何ものにも比べられない、確かな根拠だったのです。場所と時代は変わって、日本は鎌倉時代の半ば。京都市中(しちゅう)に八十五歳の老僧が住んでいました。親鸞聖人です。法然聖人の元で学んでいたときから五十年あまり。その教えを静かに振り返る日々を送っておられました。そんなある日、親鸞聖人が見た夢の中に、ひとつの和讃が浮かんできたのです。
弥陀(みだ)の本願信(ほんがんしん)ずべし 本願信(ほんがんしん)ずるひとはみな 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて 無上覚(むじょうかく)をばさとるなり
やはりご本願であった。ご本願こそさとりの源であった。聖人は深いよろこびをもって、この和讃を書き留めました。聖人が、息子・善鸞(ぜんらん)との縁を切ったのはこの前の年のことでした。あろうことか、父からの教えと偽(いつわ)って、弥陀の本願はもう不要になったと人々に説いた善鸞。わが子にすら正しい教えを伝えることができず、多くの人々に道を誤らせてしまったという苦悩は、聖人から消えることはなかったでしょう。なぜ、こんな自分がさとりを開けるのか?「なぜなら、それが仏の本願だから」 条件などない。はからうことなど何もない。どうしようもない愚か者を念仏によって必ず救うと、仏さまが願っている。それが、それだけが、何ものにも比べられない、確かな根拠だったのです。

■一茶のまなざし
念仏者の生き様から
人ならば仏性(ほとけしょう)なるなまこ哉(かな) 江戸時代の俳人・小林一茶の句です。一茶は1763年、現在の長野県信濃町柏原で農家の長男として生まれますが、3歳の時に母を亡くしています。そのような生い立ちからでしょう、有名な句「我と来て遊べや親のない雀」があります。15歳で江戸へ出て、20代からの2万句とも言われる一茶の句には、蝶(ちょう)、蛍(ほたる)、蚊(か)やハエなどの虫、動植物がたくさん出てきます。そこには動植物との一体感が読み取れます。また、熱心な念仏者であった祖母、父親の影響もあり、念仏生活の中で育てられた一茶にとって、俳人としての旅は、そのまま仏法求道の旅であったのではないでしょうか。40代後半から65歳で亡くなるまでの句にはお念仏の句も多く、社会的弱者の視点とともに、念仏者の視点から、いや念仏者の生き様から詠まれているように私には感じられます。さて、「人ならば仏性なるなまこ哉」の句は一茶48歳の時のものです。「なまこよ、もしも人間ならば仏になれるのになあ」との意でしょう。一茶がなぜなまこに仏性を見ているのでしょうか。その背景には『古事記』の中にある一節が関わっていると思われます。
絶望などない一本線
『古事記』によると、アメノウズメノミコト(神様の前で踊りをする踊り子)が、すべての大きな魚、小さな魚を追い集め、尋ねて言います。「お前たちは、天(あま)つ神(かみ)である御子(みこ)にお仕(つか)え申し上げるか」と。すべての魚は皆、「お仕えします」と申しますが、なまこだけがそう言わなかった。そこでアメノウズメノミコトはなまこに向かって「この口はまあ、返事をしない口だこと」と言って、紐(ひも)付きの小刀でその口を裂きました。それで、なまこの口は裂けていて、海に沈んで、静かにずっと今まで来たといいます。別の言い方をすれば、「神さまの言われるままに奉仕しなさい。食べられてもしかたがない。食べられることが奉仕なんだ」ということです。そしてなまこだけが「殺されるのはイヤだ。みな平等なる命ではないか、殺されてもいい命などないのだ」と拒否したのです。
念仏者・一茶にとっては、そのなまこの拒否の姿に、もしもなまこが人間だったらなあとの思いが感じられます。仏教では、われわれがそれぞれの行為によって趣(おもむ)き往(ゆ)く迷いの境界(きょうかい)を「六道(ろくどう)」といいますが、その一つに畜生道(ちくしょうどう)があります。畜生とは貪欲(どんよく)・淫欲(いんよく)だけをもち、父母・兄弟の別なく害しあい、苦多く、楽の少ない生きものとあります。また、自立することなく人にたくわえ養われるものとあります。それはまさに、人の言いなりになって言われるがままに生きることを言います。
親鸞聖人は、ご自身が大切なことを述べられるとき、「親鸞は...」「親鸞におきては...」というように、他者に強制されることはありませんが、はっきりと自らを名告(なの)られてからおっしゃっています。「心(しん)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て、情(こころ)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流(なが)す」
私がお念仏申すそのままがいつも、いかなる状況の私であっても、決して見捨てないとの阿弥陀さまの大いなるはたらき、大地に支えられているという身の安らぎです。その安らぎの中においてこそ、本当に自立できるのです。「念仏者は無礙(むげ)の一道(いちどう)なり」(歎異抄)。そして「犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め」(スッタニパータ)とあるように、念仏者の歩む人生には苦難はあっても絶望はありません。一茶のなまこを詠んだ別の句があります。「浮けなまこ仏法流布(ぶっぽうるふ)の世(よ)なるぞよ」です。なまこさん、安心して浮いてこい。今は仏法が広まり、命を大切にする世の中だ。言われるまま喜んで食べられろという時代じゃないから...。今、私が問われているようです。

■人生の灯火
念仏者の生き様から
もうすぐ1歳9カ月になる娘と過ごす中で、ふとその言動や行動を興味深く観察してしまうことがあります。40代という年齢で授かったことや、職業柄も影響しているのかもしれません。このようなことを言ってる時点でイクメンでないことは確かです。とにもかくにも、自分以外の他者を識別するようになっていく姿に関心を寄せています。発達心理学的には、およそ6カ月頃から自分と他者、特定の対象(おもに母親)を区別するようになるといわれています。今の私は彼女からどのように識別されているんだろうかと気になります。それとともに、もうすでに「分別心(ぶんべつしん)」が育っていってるんだなとも感じます。善導大師(ぜんどうだいし)のお書きになった『般舟讃(はんじゅさん)』に「仰(あお)ぎておもんみれば同生(どうしょう)の知識等(ちしきとう)、よくみづから思量(しりょ)せよ。却(しりぞ)きて受生(じゅしょう)の無際(むさい)なることを推(すい)するに、空性(くうしょう)と同時(どうじ)なり。同時(どうじ)にして心識(しんしき)あり」という文があります。難しい言葉が出てきますが、ここで大師は、私たちがいのちを受けたご縁の背景には、私たちが思議できないほどの、はかり知れない無限の歴史がありました(受生の無際)。またそのいのちは、永遠不滅の実体(本体)を有しているわけではありません(空性と同時)。同時に「心識(心の作用)」も形成されているといわれています。大師はまずもって、身心ともに縁によって生まれ、無常の性質を抱えながらも縁のはたらきが相続されてきたことによって、今の私があるという、「いのちの真実」を思量せよ、とお諭しになられるのです。
闇に気づかない怖さ
生まれたばかりの子どもは、自己と他者との区別がない未分化な状態であるとされます。もちろんそれは、「自他一如(じたいちにょ)」と言われる智慧を得てさとりを開いていることとは違います。むしろ「個(自我)の確立」の準備段階と言えます。生老病死(しょうろうびょうし)などの四苦八苦を生み出す原因を、12の項目によってたどっていく「十二因縁(じゅうにいんねん)」というものがあります。それによると、その根本原因は「無明(むみょう)」とされます。無明とは、縁起(えんぎ)や無常(むじょう)・無我(むが)といったいのちの真実、普遍の道理に暗いことを言います。
先師の説によって、そこから苦が生じる仕組みをうかがっていくと、暗闇で自分勝手に生きている状態であったため(無明)、誤った行いを繰り返して(行(ぎょう))、認識作用にも自分勝手な判断がまじり(識(しき))、認識対象である自他のいのち、さまざまな出来事などを錯覚して(名色(みょうしき))、認識能力までおかしくなってしまう(六処(ろくしょ))。つまり、認識すべてが不確かなものであり(触(そく))、不確かな認識によって、自分にとって楽か苦か、都合がいいか悪いか、などの思いが生まれ(受(じゅ))、楽という感受からはこれを激しく愛し求めようとする欲求が、苦という感受からはこれを激しく憎み避けようとする欲求が生まれ(愛(あい))、愛するものはこれを奪い取り、憎むものはこれを払い捨てるという行動が起き(取(しゅ))、そうした行動が蓄積され習慣化しているものが私たちの存在の本質であり(有(う))、その本質に基づいて、さらに新しい経験が生み出され(生(しょう))、次々に新しい苦悩が生まれるのである(老死(ろうし))、となっています。
これは、暗闇の中で自分の思いこみ(分別心)だけで考え、行動を起こすことの愚かさを教えてくださっているものです。一番怖いのは、自分が暗闇にいるということを認識していないことです。
親鸞聖人は『正像末和讃』に、
無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ ・・・と示されます。
真実を持ち合わせていない私たちの心識に、阿弥陀さまは智慧の用(はたらき)を届け、さまざまな生活の出来事を通して、無明の自己に気づかせてくださいます。ご本願を人生の灯火とし、合掌の日暮らしを営み、お念仏の道をともに歩めればと思います。

■私の歩む道
心がきれいになるよ
以前、京都の有名なお寺に参拝に行きました。8月の暑い夏でした。一通り参拝し、帰るために山門に向かって歩いていた時、私の前を歩いていた3人の女性の観光客の会話が聞こえてきました。1人の女性が山門近くにある観音堂の存在に気づかれました。その時の3人の会話を紹介します。
Aさん 「そこに観音堂がありますよ。お参りしましょう」
Bさん 「もう十分参らせてもろうたから早くバスに戻りましょう」
Aさん 「せっかくここまで来たんやし、すぐそこですしお参りしましょうよ」
Bさん 「お参りして何かよいことあるんですか」
Cさん 「手を合わせたら心がきれいになるんよ」
Bさん 「なるほどね。いいこと言われますね。ほな参らせてもらいましょう」
とても暑かったので、Bさんはクーラーの効いたバスに早く戻りたかったのでしょう。でもCさんの「心がきれいになるんよ」の一言に納得されました。この「手を合わせたら心がきれいになるんよ」の言葉は、とても説得力のある言葉だなぁとその時思いました。このやり取りを読まれてその通りだなぁ≠ニ思われる方もおられるかもしれません。でもちょっと一緒に考えていただきたいのですが、皆さんは今まで何回くらい手を合わせてこられたでしょうか。きっと数えきれないと思います。ということは心はすでにピカピカのきれいな心になっているはずですが、どうでしょうか。私自身の心は...どうもきれいにはなっていないようです。手を合わす姿がどんなに尊く美しく見えても、心の中まで見通す力は私にはありません。心の中は自己中心的な願いであったり、ともすれば人の不幸や死を願っているということもあるやもしれません。
親鸞聖人は『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』に、
外儀(げぎ)のすがたはひとごとに 賢善精進現(けんぜんしょうじんげん)ぜしむ 貪瞋(とんじん)・邪偽(じゃぎ)おほきゆゑ 奸詐(かんさ)ももはし身(み)にみてり ・・・と、人は誰でも、外面に現れた身のふるまいは、賢く善を行いつとめているかのように見せかけているが、内心は貪(むさぼ)り・怒り・偽(いつわ)りに満ちみちていて、人を偽り、だましてばかりいると示されています。ぐうの音も出ない厳しいお言葉です。
よい人≠ニいう仮面をかぶり、面をとると違う顔が出てくるのです。信じていたものに裏切られた気持ちを「虚(むな)しい」というのでしょう。
闇が知らされていく
『教行信証』の序に、無礙(むげ)の光明(こうみょう)は無明の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり ・・・と示されています。阿弥陀如来さまの光明(ひかり)は智慧であり無明を破るはたらきをもちます。
ある先生より、仏法の智慧を「忍」という言葉で表すと教えていただきました。「忍」というのは事実をありのままにはっきりと認めるということであり、事実を事実として受け止めていく勇気だと。光明によって、私の闇(苦悩)が知らされます。老病死とわかっていてもあきらめきれない心。仮面の下にある本当の姿。言い訳ばかりを考える姿。愛と憎しみに翻弄(ほんろう)されている姿。忘れようとしても忘れることのできない心に刻まれた悲しみや悔しさ。それはどれほど手を合わせようとも消えることのない闇です。その闇が破られるとは、ただ私の本当の姿が知らされたということだけではなく、闇のなかにあっても歩んでいくことのできる道がすでに阿弥陀如来さまより届けられていることが知らされていくということでしょう。それは悲しみや罪を忘れて歩むのではなく、悲しみや罪を担い、自分が生きている時代と向き合っていかなければならないことを、手を合わせ念仏申す中で気づかせていただくのです。それが他の人の苦悩にも気づくこととなり、「自他共に心豊かに生きることのできる社会」を実現する歩みとなっていくのではないでしょうか。

■救いのレシピ
おせちもいいけど・・・
仏教と同じく、インドにルーツを持ち、日本人に広く愛されている料理と言えば? そうです、「カレーライス」です。そういえば以前、「おせちもいいけどカレーもね!」というテレビCMが年末年始に流れていました。このお正月にも、カレーを召しあがった方がいらっしゃるかもしれません。さてこのカレーライス、皆さんはどのように作っておられますか? いろいろな調味料や食材を入れて工夫されている方もあるでしょう。私も隠し味にコーヒーがいいと聞き、試したことがあります。しかし、私は長い間、見落としていたのです。カレーをおいしく作るために必要な、とても基本的なことを。何を隠そう、それは「カレールウの入れ方」です。皆さんは、ルウを入れる際、火を止めますか? 止めませんか? 正解は、「止める」だそうです。いったん火を止め、粗熱(あらねつ)をとり、ルウを溶かし混ぜる。それから再び弱火で煮込むのが正しい方法だということです。なぜかというと、ルウはグツグツ煮立った熱い鍋の中ではダマになってしまう性質をもっているからです。私たちがおいしいと感じるカレーの特徴の一つが、カレーソースの「なめらかさ」です。つまり、ダマになるのは、カレーにとってとてもよくないことなのです。この「火を止める」ことが大きなポイントだということは、NHKの「ためしてガッテン」という生活情報番組で以前紹介されていたものです。ただ、「火を止める」という方法は、そもそもカレールウの箱の「作り方」にちゃんと書いてあるんです。あるメーカーの箱には、「いったん火を止め、ルウを割り入れて溶かします」という記載がありました。実は私、この方法を知っていました。でも、まったく気にもとめていませんでした。なぜなら、ルウはアツアツの鍋に入れたほうがよく溶けると思い込んでいたからです。まさか箱の「作り方」通りに調理することが、おいしいカレー作りのポイントだったとは。自分の思い込みを反省させられた出来事でした。長々とカレーの話をしてしまいましたが、この私の失敗談は、浄土真宗の教えにも通じるところがあると思うのです。
「ただ念仏」
親鸞聖人が80歳を過ぎた頃のことです。関東の門弟たちがはるばる京都の親鸞聖人を訪ねてきました。この時、関東では門弟たちの信仰を惑わすさまざまな出来事が起こっていました。門弟たちの心には、親鸞聖人が「浄土に往生する道」として説かれた念仏への疑念が頭をもたげていたのです。「念仏は本当に浄土に生まれ仏になる道なのか」「本当は念仏以外に何か別の道があるのではないか」、この疑問を親鸞聖人にお尋ねするためだけに、門弟たちは長い道のりを旅してきたのでした。そんな門弟たちに親鸞聖人が語られたのが、次のお言葉です。
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰(おお)せをかぶりて、信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり」
「この親鸞は、〈ただ念仏して阿弥陀さまに救われ往生させていただくのである〉という法然聖人のお言葉を信じているだけです。その他に何か特別のわけなどはありません」 おそらく門弟たちは、「念仏は浄土に往生する道である」と知りながらも、「南無阿弥陀仏」と称えるだけの念仏をたよりなく感じ、念仏以外の道を求めてしまったのでしょう。しかし、門弟たちがたよりなく感じた念仏を、ただ称えることは決してたよりない行(ぎょう)ではありません。「ただ念仏する」とは、念仏以外の他の行を捨て、「念仏するものを救う」とお誓いくださった阿弥陀さまにまかせきった境地です。そこには、阿弥陀さまに抱かれているという大きな安らぎがめぐまれているのです。「念仏するものを救う」。これこそが阿弥陀さまの救いのレシピです。「隠し味」もなにもない、そのレシピにしたがってただ念仏する身とならせていただく。そこにこそ浄土真宗の救いがあるのです。

■悲しみのなかに
阿弥陀仏が私の親に
身内が亡くなり、仲間を失い、師と仰ぐ方とお別れをする。この境界(きょうがい)ではさまざまな別れを経験します。第3代覚如上人は『口伝鈔(くでんしょう)』の中で、「人間の八苦(はっく)のなかに、さきにいふところの愛別離苦(あいべつりく)、これもつとも切(せつ)なり」とおっしゃいました。確かに愛する人との別れは言葉にならないほど悲しくてつらく、身が引き裂かれる思いになります。お釈迦さまは、私たちが生きているこの境界を「娑婆(しゃば)」と説かれました。「娑婆」とは、悲しみや苦しみに満ちた世界、まさに自分の思い通りにならない世界のことです。この思い通りにならない世の中を、思い通りにしようとする煩悩を抱えている限り、私の苦悩は決してなくなることはないのでしょう。私は悲しみや苦しみを背負ってしか、生きることのできない存在なのかもしれません。けれどお釈迦さまは、この世が苦しみであることをお告げになるために、私の煩悩を責(せ)めるためにお出ましになったわけではありません。この娑婆の境界で、悲しみを背負ってしか生きることのできない私がいたからこそ、「必ず救う」とおっしゃる阿弥陀さまのお慈悲を説いてくださいました。たとえどんなことがあっても、私を抱(いだ)きとって離さない、「南無阿弥陀仏」の仏さまがましますことをお告げになるために、『大無量寿経』をお説きくださったのです。
如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり
阿弥陀さまは法蔵という菩薩であられた時、苦悩の底にうち沈むこの私の姿をすでに見抜かれ、「この子を必ず救うことのできる親となる」と誓ってくださいました。それから想像を絶するようなご苦労の果てに、その誓いを成就され、「南無阿弥陀仏」という、まことの親の名告(なの)りをあげてくださったのです。
泣く時もお慈悲の中
先日、あるご門徒のご法事に寄せていただきました。80代で亡くなられたお母さまの7回忌のご縁です。ご法事には60代の息子さんがお一人でお参りでした。おつとめを始めますと、背中越しに、すすり泣く声が聞こえてきます。息子さんが肩を震わせて泣いておられるご様子でした。そのすすり泣きは、おつとめが終わるまで止むことはありませんでした。人の一生には歴史があります。息子さんとお母さまとの間にどのような時間があり、物語があったのか私にはわかりません。しかし親子の関係には、親と子にしかわからない深い思いがあることだけは間違いありません。ご法事を終えた後、息子さんがおっしゃいました。「仏さまの前で安心して泣かせていただきました。苦労して生き抜いた母を、お念仏の中に感じさせていただきました」 私たちは誰にも見せることのできない思いを、心の中に大切におさめて生きています。仏さまの前に座らせていただく時、ふとその思いが涙となってあふれ出ることがあります。けれどそれは、絶望や暗闇の中で一人で流す涙ではありません。仏さまのお慈悲の中で泣かせていただく涙です。
浄土真宗の教えは苦しみや悲しみをなくす魔術や奇術ではありません。ましてや私のわがままや欲望を満たす教えでもありません。決してなくすことのできない苦悩を乗り越えていく道、自分一人ではどうすることもできないこの人生を支えてくださる教えが浄土真宗です。悲しみも喜びも、ともに阿弥陀さまのお慈悲の中にあると、親鸞聖人や先達(せんだつ)方は「南無阿弥陀仏」の人生を生き抜いてこられました。人に見せることのできない私の涙を、思いを、法蔵菩薩はご覧になってくださいました。そして今「南無阿弥陀仏」の仏さまとなって、私のもとへ届いてくださっています。今日も私とご一緒の仏さまがいてくださいます。「南無阿弥陀仏」の仏さまがご一緒であればこそ、苦悩の人生が支えられ、先立って往(ゆ)かれた方々と、また必ず会わせていただくお浄土への道が、確かに開かれていくのです。

■一切隔てなく照らす
一切隔てなく照らす
自爆テロの横行、それを阻止するための厳戒態勢・制裁がせめぎ合う昨今の世情です。お互いが目障りなものを排除≠キることをめざす中で、そこから生じる負の連鎖が恐ろしくてならないのは、私だけでしょうか。親鸞聖人は、人間の姿を「有礙(うげ)」とおっしゃいました。「有礙」とは「障(さわ)りあるもの」ということです。そして『ヨロヅノコノヨノコトナリ』と説明されています。この世間一切そのものが「障り」であるということは、ひとえに「私」が障りを生み続ける以外にない存在である、ということです。大変厳しいお言葉です。道理に背き、保身のためには、他を裁き、切り捨て、そして争いから抜け出せない私。そんな苦しみを、「有礙」の二字から自身の事として受け止めます。
光雲無礙如虚空(こううんむげにょこくう) 一切(いっさい)の有礙(うげ)にさはりなし 光沢(こうたく)かぶらぬものぞなき 難思議(なんじぎ)を帰命(きみょう)せよ ・・・と、親鸞聖人は阿弥陀如来のお徳を讃嘆(さんだん)されました。
このご和讃からお教えいただくことは、「輝く雲のように広がる阿弥陀如来の光は、まるで大空のように、どんな煩悩にもさまたげられることがなく、すべてのものをわけ隔てなく照らす」ということです。言い換えれば、いのちを隔てなく照らしづめの阿弥陀如来のおはたらきであればこそ、「有礙」の壁にもがき苦しんでいる私の本当の姿に出あうのだ、ということなのでした。しかしながら、難思議とお示しのように、私の知識や理解で及びがつくはずのない阿弥陀如来のおはたらきです。だからこそ仏法に耳を傾け、浄土真宗をその身にいただかれた方々のお姿から、その願いをお伝えいただくのでした。
居場所を与える光明
ご門徒のKさんは北海道の雄大な大地の中で育ち、林業に生きた人生の大先輩。たくましさの中に洒脱(しゃだつ)さを併せ持つそのお人柄で、お寺の門信徒会を盛り立ててくださいました。対する私は大阪人で、理屈っぽさだけが特徴の若輩者。ご縁あって、現在の北海道のお寺に迎えていただいたのです。対極に位置するようなKさんと私の個性でしたが、互いに時を同じくして、予期せぬ体調の異変と出あうこととなりました。私は身心のバランスを崩し、平素の生活ができないばかりか、人前に出ることさえできなくなりました。またKさんは、重い肺病を患われ、自宅での療養を余儀なくされたのです。私は何にも手につかない自分に焦りといらだちを覚えてなりませんでした。ふがいなさを打破しようと動いてみては、結果、周囲の方々に深い傷を与えてしまい、すべてが悪循環にしか感じられませんでした。そして1年以上が経ちました。Kさんの具合が芳しくないという報(しら)せを聞いていた私は、沈んだ心のまま、久々にKさん宅へ月命日のお参りにうかがいました。
お参りの後、お連れ合いの方がお茶の支度のために台所へ向かわれた時、Kさんは酸素吸入の器具を装着したお姿で、私に、ゆっくりとこうささやいてくださったのです。「俺さ、もうお寺へは参れんかもしれん。だから、今、住職に伝えておくな。...住職、住職に代わる住職はどこにもおらんのだからな! どんな姿であってもいい。俺の住職は、あなたなんだよ...」 小さな声でそう話してくださったKさん。私は全身の力みが解かされてゆく自分に出あいました。同時に「無礙光」のおはたらきを教わったのです。私の障り、不確かさを問題とすることなく、いかなる境遇にあろうとも居場所を与え、必要としてくださるおはたらきが「無礙光」であったのだ、と...。間もなく、Kさんはお浄土に仏としてお生まれになりました。しかし、Kさんの命懸けのご法話は、有礙の私を知らせつつ、南無阿弥陀仏とお念仏申し、「排除なきいのち」に私が喚(よ)び覚まされていく中にこそ、円(まど)かな日々が育まれるのだと、今、この瞬間も教え続けてくださるのです。

■慈悲に生かされる
"きょうだい"って
みなさんは「きょうだい」をご存じでしょうか。重い病や慢性の病気、そしてさまざまな障がいのある兄弟姉妹がいる「きょうだい」のことを言います。「きょうだい」たちの多くは、病気や障がいのある兄弟姉妹に両親がかかりっきりになるため、小さい頃から我慢することが多く、甘えることも十分にできず、さまざまな葛藤や問題を一人で抱え込んでしまうことが多いと言われています。私は、そのことをわが子から教えられました。数年前のある日、わが家の1歳になったばかりの次男が白血病を発症しました。長い入院治療に24時間の付き添い、病院近くへの引っ越しと、家族の生活は一変しました。お兄ちゃんは両親がほとんどいない生活に不満も言わず、逆に看病に疲れてつかの間家に帰ってくる私に「先に寝ていいよ」といたわってくれていました。そんな日々が数カ月過ぎたある朝、お兄ちゃんが突然「今日は学校休みたい」と言い出しました。仕方なく、その日は病院の待合で一日を過ごすことになりました。弟に会いたくても、子どもは小児科病棟に入ることができません。ましてや、抗がん剤の影響で免疫が下がり、空気清浄機の前から動けない弟です。一目見ようにも、顔を見ることすらできないのです。当然、親は離れた病室と待合の間を行ったり来たりすることになります。すると、一人の看護師さんが気付いて、「お兄ちゃん、どうしました?」と声をかけてくれました。私が事情を話すと、忙しい中、看護師さんやお医者さんたちが、代わる代わる話し相手になってくれたり、宿題をみてくれたり。お兄ちゃんには何も聞かず、ただ普通に楽しく接してくれました。
家族にも寄り添う
思えば入院中、医療者の皆さんは、患者だけでなく私や家族のことを常に気にかけてくれていました。「眠れていますか? 今のうちに少し休んでくださいね」 「お兄ちゃんは元気にしていますか?」 いつも声をかけ、病室の様子を気にしてくれていました。最初は何気ない気遣い程度に思っていましたが、実は医療者がチームとなって、患者だけでなく家族全体を支えていてくれたんだということに初めて気がつきました。「きょうだい」の問題についても、当然、専門的によくご存じだったのです。 でも、誰もそのことについて私に意見することも、何かを教えようとすることもありません。ただ、目の前にいる患者やその家族の一人ひとりの立場に立って、その悲しみや苦しみに寄り添い、共にあろうとしてくれていたのです。『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には「仏心(ぶっしん)とは大慈悲(だいじひ)これなり」と説かれ、善導大師(ぜんどうだいし)は、仏道を学ぶということは「仏(ぶつ)の大悲心(だいひしん)を学ぶことである」とおおせられました。
大慈悲とは、阿弥陀如来があらゆるいのちの悲しみと痛みを自らのこととして引き受けていかれる心のことです。だからこそ仏道とは人の痛みのわかるものになろうと努め、痛みを分かちあいながら生きようと努める道なんだよ、とお聞かせいただいています。しかし、実際には弟の病を代わってやることはおろか、お兄ちゃんの気持ちに寄り添ってやることもできなかった親です。仏さまのお慈悲を聞かせていただくほど、それとは真逆のわが身であることを知らされます。そのようなわが身であると教えてくださったのも、如来の大悲心でした。如来さまのお慈悲をこの身に味わわせていただくことで、痛み、苦しみを抱えて生きているのが自分だけではないことに気付かされます。そして、ほんの少しでも他の人と痛みを共にしようと努める中に、同じお慈悲に包まれていることをよろこび、その痛み、苦しみの中に生きる意味を見出そうとする方向性が育まれてくるのです。あれから数年が経ち、おかげさまでようやく同じ悩みを抱える友と交流会を立ち上げ、共に学びをはじめることができました。やればやるほど果てしなく、自分の無力さと身勝手さに情けなく申し訳のない思いが募る毎日ですが、その一日一日が、お慈悲に包まれお慈悲に導かれる毎日であるといただいています。  
 

 

■生きる勇気
春彼岸が近づくと
春のお彼岸が近づくと、優しくて厳しかった姉の声が聞こええてくるようです。私の姉は、平成14年3月20日、58歳でお浄土にかえりました。姉はご主人の仕事の関係で海外におりましたが、定年で帰国すると、しばらく故郷でのんびりしたいと、熊本の人吉に帰ってきました。両親の遺骨が人吉別院の納骨堂に納められていますので、姉の日課は、雨の日も風の日も1日も休むことなくお晨朝(じんじょう)に参拝し、納骨堂へお参りして、境内をお掃除して、家に帰ると正信偈を唱えることでした。姉はよく、ご法話でわからないことや、勉強してもわからないところは、納得のいくまで僧侶の方に質問していました。いつもそばにくっついていた私は、終わるのをじーっと待っていました。夏のある日、姉が外から帰ってくると、「背中が痛いのよね。明日、病院に行ってみようかしら」と言って、翌日、お晨朝の後に二人で病院に行きました。担当の医師は「末期の肺がんです」と。姉は顔色ひとつ変えず、すぐ「あと、どのぐらい生きられますか?」と尋ねると、医師は「来年のお正月を迎えるのは無理でしょうね」と言われました。横にいた私のほうが力が抜け、よろよろと姉の肩につかまると、「しっかりしてよ!良子(りょうこ)ちゃん。私が死んだら、そんなに弱くてどうするの!」と反対に私を叱(しか)りました。
もっと大きな声で!
ある日、姉は別院のご輪番や僧侶の方にこう話しました。「今までの私、がんになる前の私にとっては、浄土真宗のみ教えは、お料理に例えますと、お料理のサンプルが、とてもおいしそうに並んでいるようでした。目で見て楽しみ、食べてもいないのに喜んで、頭の中でいただいていたように思います。でも、今の私は違います。み教えの一語一語を、しっかりと手に取って、ひと味ひと味、かみしめていただいています。そのひと粒ひと粒が、私の心の栄養となり、生きるエネルギーです。これまでの聴聞の機会とご指導ありがとうございました」 お礼の言葉でした。姉は歩けなくなるまでお晨朝に通い続けました。やがて、痛み止めも効かなくなり、呼吸が苦しくて、夜も眠れない日々が続きました。そして絞り出すような声で、「この苦しみはね、お浄土に生まれるための苦しみだと思うのよね。お浄土に生まれさせていただくと思ったら、なんとかがんばらなくっちゃね! 私がこの世に生まれる時も、きっとこんなに苦しかったのね」と言いました。私は何も言えなくて、歯を食いしばって、ただただ、背中をさすり続けました。
その後、お正月を迎えることができた時は、本当にうれしそうでした。そして3月19日の夜、もうほとんど何も食べられなかったのですが、「私は明日、死ぬと思うから、体力をつけておこうと思うの」と言って、ゼリー飲料を一袋飲み干しました。「ほら、一袋でごはん2杯分のカロリーだって! これで明日はがんばれる!」 翌20日、言った通り臨終でした。姉の願いで前日、僧侶の方に病室に来ていただき、臨終勤行をつとめました。病室に集まった、家族、友人、医師、看護師さん、お掃除のおばさんたちに、「最後に皆さまにお願いがあります。一緒にお念仏を称(とな)えてください」と言ったので、皆、戸惑いながらも、涙声でやっと「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...」とお称えしました。すると姉は「ああ、声が小さくて聞こえない。もっと大きな声で、元気を出して!」と。皆、涙をこらえ、精いっぱいの声で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...」とお称えしました。「ああ、よーく聞こえます。ありがとう! 私はお浄土で待っているから...さよなら...」と言って、姉はVサインをしてニッコリしました。私が思わず、「お姉ちゃん、ヤッタね!」と言うと、汗でキラキラ輝く顔で、「うん!」と大きくうなずいて、姉は息を引き取りました。お浄土に生まれさせていただくことが、姉の人生の目標であり、それがそのまま生きるエネルギーでした。目標があったからこそ、苦しみも痛みも悩みもすべて乗り越えて、精いっぱい生き抜いたのだと思います。「お念仏」から、真の生きる勇気をいただくことができたのです。

■私の願い 仏の願い
願いごとばかりでは
ある神社の宮司さんが、初詣客のお賽銭(さいせん)一人あたりの平均額を調べたそうです。参拝者の数をカウントし、お賽銭の総額から計算すれば一人あたりの平均額が出ます。また、神社にはお願いごとを書き込んで奉納する絵馬もあり、こちらは数百円しますが結構な人気だそうです。書き込まれるお願いは「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」「受験合格」といったところが定番ですが、中には「世界平和」と書かれたものもあるそうです。テロや戦争など世界のこのような状況に心を痛めた方が書かれたのでしょうか。さて、お賽銭の一人あたりの平均額ですが、結果はなんとたったの6円だったそうです。無病息災や家内安全をたったの6円で、とは、ずいぶんと厚かましい態度であるように思われます。ましてや「世界平和」に至っては何をかいわんや。アメリカ人のお笑い芸人から「why Japanese people!(おかしいだろ日本人は!)たったの6円で、世界が平和になるわけないだろ?!」とツッコまれそうです。お願いごとばかりをしていると、私たちはかえって自分自身のあり方やなすべきことが見えなくなってしまうのではないでしょうか。
脇に置いておく
私たちには、それぞれにさまざまな願いがあります。「世界平和」という真剣なものから「お金があって楽をしたい」といった正直なものまで、また「この病気さえ治れば」とか「時計の針があの時以前にもどってくれたら」という切実な願いもあるでしょう。ここに、浄土真宗にうなずいていくための大きなポイントがあります。それは、「私たちの願い」をいったん脇に置いてみるのです。無くしてしまう必要はありません。ちょっとそばにどかしておくのです。そうしておいて、と言いますか、それと同時に「阿弥陀さまの願い」を私たちの正面から聞かせていただく、受けとめさせていただく、ここのポイントが非常に大切です。私たちの願いがどれだけ真剣で切実なものであっても、それを強く握りしめたまま私の願いの延長線上で阿弥陀さまの願いを聞こうとしてもダメなのです。いったん全部を脇に置くのです。それでは、「阿弥陀さまの願い」とは一体どんな願いでしょうか? たとえるならばこんな感じでしょうか。この地球上の、さらに広げてこの宇宙のすべてのいのちあるもの一つひとつの親のような存在として、そのいのちある限りそれを支え、見まもり、そして「何があっても大丈夫だよ」と励まし続け、しかしながらいのちには必ず終わりがありますので、その終わりに際しては、すべてのいのちを、今度は仏のいのちとして私の世界に生まれさせよう、私の国に迎えとろう、という願いを持った仏さま、と表現できるでしょうか。
「お金があって楽がしたい」といった「私たちの願い」とははるかに次元の異なる尊く大いなる願いを持ち、その願いを成し遂げて仏さまとなられたお方、それが阿弥陀さまなのです。
平等心(びょうどうしん)をうるときを 一子地(いっしじ)となづけたり 一子地(いっしじ)は仏性(ぶっしょう)なり 安養(あんにょう)にいたりてさとるべし
「一子地」とは、あらゆるいのちあるもの一人ひとりを、ひとり子であるかのように思う阿弥陀さまのお心とさとりの境地のことです。親鸞聖人は、「三界(さんがい)の衆生(しゅじょう)をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」と解説してくださり、そのひとり子が、私たちのことであると教えてくださいました。「阿弥陀さまの願い」を正面から聞かせていただく人生は、「何があっても大丈夫」の人生であり、「死んでも大丈夫」の人生ですが、それよりもむしろ「十二分に生きる人生」です。阿弥陀さまが今の私たちをどのように見ておられるか? それを心の片隅に意識しつつ、私たち一人ひとりが阿弥陀さまの救いにこたえていくべく十二分に生きることが大切です。「世界平和」とまではいかなくても、私たちのまわりや世界が少しだけ平和になるかもしれません。

■■よび声が私の念仏に -逃げるものをほっておけない阿弥陀さま-
新幹線の車窓に!
ちょうど、入学式や入社式のシーズンです。大学入学や就職では、親元を離れるケースも多いでしょう。親にとっても、子にとっても、期待や不安の入りまじった時期で、いや応なく、親離れ、子離れを意識させられます。私は、子の立場も経験しましたし、今は親の立場も経験させてもらっています。「子を持って知る 親の恩」とは、よく言ったものだと今になって感じますが、それまでは自分ひとりで大きくなったような顔をしてきました。私の広島の自坊の真裏には山陽新幹線が通っています。開業時には、境内の約40坪が路線に当たったので、私の感覚では、境内に新幹線が走っているようなものです。私は、大学が福岡でしたから、帰省には新幹線を利用しました。広島から博多へ向かう下りの新幹線からは、自坊がよく見えます。ずっと何の意識もなく自坊の裏を通過していたのですが、ある時、ふと懐かしく思って、座席から立ち上がって、車窓から自坊を見た時のことです。新幹線に最も近い本堂の西縁側に、なんと母親が立っていて、こっち(新幹線)を見ているのです。この新幹線に乗っていると見当をつけていたのでしょう。大げさでなく、本堂の縁側に誰がいるか、顔まで見えるくらいの距離を走っていました。その後、大阪の大学院に移ってからは、広島から下りの新幹線に乗らなくなりましたが、大学時代に福岡の下宿に戻る時は必ず母親の姿がありました。お互い、「見てるからね」とか「見てくれてたんだね」という会話はしませんでしたが、母からすれば、いつまでたっても、不安でしようがなかったのでしょうね。当時の私は、仏教や真宗に直接関わる学問をしていませんでしたが、正信偈の「大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」の一句に出あったとき、「ああ、このことかもしれない」と実感したのを覚えています。
目先の欲にとらわれ
阿弥陀さまにとって、この私は、実に危なっかしくてしようがない存在です。ちょっと目を離しているうちに何をするかわからないと、いつも気をもませていたはずです。それが「五劫(ごこう)」という長いご思惟(しゆい)となり、「常照我(じょうしょうが)」という大悲を完成させねばならない必然性だったのでしょう。親鸞聖人は、この大悲のはたらきである常照の光明について、摂(おさ)め取って捨てないという「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」の語を特に尊ばれ、和讃の左訓(さくん)(注釈)に、この語の意味を「ものの逃(に)ぐるを追(お)はへとるなり」と示してくださいました。阿弥陀さまという仏さまは、逃げ回っている私を追いかけ続けておられます。つまり、自分の方を向いた時だけ救ってあげましょうという仏さまではないのです。真実を見ようとせず、あれがしたい、これが欲しいと、目先の欲にとらわれ、仏縁に背を向け続ける私を、ほっておけないのです。
阿弥陀さま以外の神や仏は、自分の方を向いた時だけ、これだけのことを成し遂げた時だけという、言わば条件付きの救いです。そのいい例が神社に参拝した時の作法だと思います。私は神社に参拝はしませんが、テレビなどで、そういう場面を見ますと、共通の行為に気がつきます。神前に立つと、まず大きな鈴をジャラジャラと鳴らしています。「ちゃんと来ましたよ。こっち向いてください」という意思表示なんでしょうね。さらに柏手(かしわで)を「パンパン」と2回打ちます。「こっち向いてくださいよ、ちゃんと見ていてくださいよ」という意思表示をして、賽銭(さいせん)を投げ入れるのです。私たちが、「南無阿弥陀仏」と、お念仏を声に出すのは、「阿弥陀さま、聞いてください」という意味ではありませんね。「南無阿弥陀仏」のよび声となられた阿弥陀さまが、私の念仏の声となってはたらいてくださっているのです。

■かたちとこころ -よく聞く、心かよわせて生きていくために-
切り離せない二つ
最近、こころにかかることがあります。それは、よく語られることですが、かたちとこころ、その関係ということです。取り立てていうほどのきっかけもないのですが、次のような場面に会いました。私は、瀬戸内海にある島で住職をしています。ご門徒のうちにお参りしたときのことです。日曜日でしたので、子どもたちも一緒に正信偈をあげ、御文章を拝読し、法話を終えて玄関に向かいました。そして、履物に足をかけようとして、ふと後ろを向きますと、家族全員の顔がそろっていました。みんなで見送りに玄関まで来ておられたのです。それは当然だなどというつもりは毛頭ありません。ともかく、お互い心かよいあうような雰囲気、またお会いしましょうね、という気持ちさえ伝わってくるように思えたことでありました。近頃、あまり見かけられなくなったように思います。姿が見えなくなるまで見送っている風景を。それだけ、世の中が忙しくなってきたということでしょうか。人間関係が希薄になっていくように思えてなりません。
このように、人を見送るということと、一方で迎えるということにも人のこころがあらわれるように思います。よくこの時期、歓迎するとか、歓迎会を催すといいます。迎える人のこころがあらわれていることばです。私たちは、迎え受け入れてくださる方がおられるから、知らないところにも安心して出かけることができ、滞在することができるのです。このように考えていきますと、かたちとこころは決して切り離されるものではないように思えてきます。それは、かたちの中にこころを感じ、こころは、かたちを通してあらわれるものだ、と説明できそうです。私たちは、よくこころが大事だ、こころが、こころがと申します。その通りだと思います。ただそのときに、かたちがどこかに忘れられているような気がします。また、先ずかたちから入っていくんだ、だからかたちを大切にしなければいけない、と声を大にして言う人もおられます。いずれも一方にこだわった言い方なんですね。そうではなく、こころは、かたちを通してあらわれていくものだ、こう認識していくことが大切なことといえましょう。
「愚」を深く味わう
ここに、かたちといいましても、ただ目に見えて形をとったものだけをいうのではなく、人間のことば、行為、あるいは芸術作品等にいたるまで含めてかたちと考えます。ですから、優しいこころがあれば、でてくることばもおのずからやさしくなるように、こころとかたちは分けられないものといえます。いま、こころを「内」、かたちを「外」とおいて考えますと、親鸞聖人の『愚禿鈔(ぐとくしょう)』冒頭のおことばが浮かんでまいります。法然聖人の人徳に接し、その教えに耳を傾けることによって本当の意味でこの親鸞のこころが明らかになったということを最初に掲げられ、
賢者(けんじゃ)の信(しん)は、内(うち)は賢(けん)にして外(ほか)は愚(ぐ)なり。愚禿(ぐとく)が心(しん)は、内(うち)は愚(ぐ)にして外(ほか)は賢(けん)なり。 ・・・と続いています。ここに、こころの内面と外にあらわれる姿の関係性を、法然聖人と親鸞聖人の上で比較して示されているのです。
とくに「愚禿(ぐとく)が心(しん)は...」の文(もん)からさらに『大無量寿経』の教説が重なってきます。それは「愚痴矇昧(ぐちもうまい)にしてみづから智慧(ちえ)ありと以(おも)うて」という文です。道理がわからず愚鈍(ぐどん)であるにもかかわらず、自分は智慧があると思っているという意味ですから。この文のこころを深く味わってみたいものです。ともかく、私たちが心かよわせて生きていくためにはどうすればいいかということです。ただ、顔を合わせればいいということではありません。朝から晩まで一日中一緒にいても刹那(せつな)も会わず、ということばもあります。直接顔を合わすことは大事なことですが、そこでよく話し合っていく、その時、よく聞くということを忘れず、大切にしたいと思います。そんなことを思いながら、お参りした家の方と少しでもお話しする時間を持たねばと思うことです。

■お慈悲の花咲く心 -一人じゃないよ、そのよび声がお念仏-
煩悩だらけの私
3月11日。専如ご門主さまが大分教区へご巡回くださいました。吹く風は、とても冷たかったけれど、四日市別院の縁まであふれた満堂のお同行(どうぎょう)さんたちと共に、あたたかい気持ちで、あたらしいご門主さまに出会わせていただきました。「ひとの幸せをわが幸せとし、ひとの悲しみをわが悲しみとするものを仏さまと呼び、そのはたらきは慈悲そのもの...」と語られた記念布教の天岸浄圓先生の言葉が、私の心にしみこんできました。悲しみに寄り添い苦しみを共にすることは、私にとって、とても難しいことです。ひとの幸せを願い、悲しみに共感していく心は、なかなか持てるものではありません。むしろ、ひとの幸せを妬(ねた)み、ひとの悲しみを嘲(あざけ)り笑ってしまう愚かな私が、ここにいます。お恥ずかしいと知りながら、お恥ずかしいことしかできない、この私のことを凡夫(ぼんぶ)というのだとも聞かせていただきました。「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫」と、親鸞聖人がお示しくださった言葉が、あらためて身にしみます。この私の、どうしようもない生きざまを見抜かれて、摂取(せっしゅ)して捨てない、かならず仏にすると願ってくださっている阿弥陀さまのお慈悲は、いま、この私を包んでくださっています。
煩悩(ぼんのう)にまなこさへられて 摂取(せっしゅ)の光明みざれども 大悲(だいひ)ものうきことなくて つねにわが身(み)をてらすなり
欲や不平や不満や愚痴や怒りを抱えた、煩悩だらけの私の目には、なかなか見ることはできませんが、阿弥陀さまのお慈悲の光は、たとえ、この私が下を向いていても背を向けていても、そっぽ向いていても、どこまでも捨てることなく照らしてくださっているのです。冷たい北風が、いつのまにか暖かい春風に変わるように、雪が溶けて桜の花が咲くように、お慈悲の光は、この私の、とげとげした心をやわらかく包み、やがて、ぬくもりを与えてくれます。私の苦しみに「苦しいね」と。私の悲しみに「悲しいね」と。私の喜びに「うれしいね」と、阿弥陀さまのお慈悲のはたらきは、私の心、そのままに受けとめてくださいます。
心からありがとう
先にご往生された方々は、いま仏さまとなって、この私のために、はたらいてくださっていると聞かせてもらいます。ここにいるよ、大丈夫だよ、一人じゃないよ、と呼んでくださる、そのお呼び声が、南無阿弥陀仏のお念仏だと教えていただきました。大震災から5年というその日、四日市別院には教区内の合唱団が集い、被災地を思いながら、皆で「花は咲く」を歌いました。常日頃、何もできない、ともすれば忘れてしまっていることを申し訳なく恥ずかしく思いつつ、どの人の心にも、阿弥陀さまのお慈悲の花が咲いてくれていることに手を合わすばかりです。私の、この手は握りこんで拳(こぶし)になって人を傷つけることができます。この手に武器を持って人のいのちを奪う縁に会うかもしれません。けれど、私たちは、右の手と左の手を合わせる、ということを教えていただいています。合わす手とともにお念仏を称(とな)える生き方も聞かせていただいています。
北風の中、一緒に四日市別院へ参拝された、米寿を迎えたご門徒さんが、翌日、とてもうれしそうに「昨日は、本当にいいご縁でした。生きていればこそ、ですね」と笑顔で話してくれました。生きていればこそ、出遇(あ)わせていただいたご縁、ただいまの出来事、一つ一つを共々によろこび合えるうれしさを、しみじみと味わっております。そして、阿弥陀さまのお慈悲の中で、このいのち尽きるとき、かならず仏にならせていただくみ教えに、いま、出遇わせていただいていることに、心から、ありがとうと、お念仏させていただきます。

■すでに道ありき -確かな依りどころをいただく人生-
病とのであい
幼い頃からたびたび、風邪をひいて扁桃腺(へんとうせん)が腫(は)れ、高熱が出ることがありました。昨年の秋にも同じような症状がありました。ところが、夜中に起き上がろうとすると、掛け布団が重いのです。さらに高熱があり、今までに感じたことのない強い痛みが全身を駆け巡りました。病院で検査を受けると、「関節リウマチの可能性がありますので、早めに専門病院で検査を受けてください」とのことでした。数日後には、熱は下がり、体の痛みもすっかりなくなって、爽快な朝を迎えることができました。一週間後、布教のご縁を終えての帰り道、ハンドルを握っている手に一瞬、こわばりを感じたのです。車を止めて安静にしていると治(おさ)まりましたが、今度はペットボトルのふたを開けようとしても、開けることができないのです。体からの警告に危機感を覚えた私は、早速、専門の外来で精密検査を受けました。「藤井さん、早期の関節リウマチです。現在は症状が出ていなくても、今後、強い痛みが出てくることも考えられます。今は、研究が進んで早期発見で、早期に治療を開始すれば、寛解(治癒)に至る患者さんも増えています。人によって、合う薬の種類も量も注射も個人差がありますので、定期的に検査をしながら副作用にもじゅうぶん注意をして、しっかりと治療していきましょう」と担当の医師。私は、「早期発見」「寛解」という言葉に希望を見いだしました。治療を始めて半年が経過した頃から、体調が良好になって劇的に回復し、検査の結果が、それを裏づける数値になっていました。しかし、これから先ずっと健康で、若々しく、死なない人生が永遠に続いていくことなどあり得ません。
人生の根本問題
お釈迦さまが説かれた仏教は、人間に生まれ、年老いて、あるいは病にかかり、最後には命を終える、という誰ひとり避けて通ることができない生老病死(しょうろうびょうし)という、人生の根本の苦しみを教えてくださいます。健康なときには、まったく考えもしなかったことですが、自分が病気になってみると、いかに深刻な苦しみであるか、身にしみます。老いていくなかで、さまざまな悩みを体験するようになって、老苦がいかに厳しい問題かを知らされます。しかし、私たちは、刻々と変わっていく無常の身でありながら、明日もあさっても、死ぬなどということは考えたくない、考えてもしかたがない、死を遠ざけごまかして、今の状態と同じように元気で生活できるものと信じ込み、今日一日を過ごしています。
親鸞聖人は、『教行信証』の冒頭で、これから顕(あら)わそうとされる浄土真宗の教えの中心は、救いの根本である阿弥陀如来の本願と、何ものにもさまたげられない阿弥陀如来の光明であると、お示しくださっています。「ひそかにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、無礙(むげ)の光明(こうみょう)は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり」 
阿弥陀さまの光明に照らされた私のほんとうの姿は、さとりに役立つものを何一つ持ち合わせていない、どこをとってみても、ただ迷いの世界に沈み続けるしかない凡夫(ぼんぶ)なのです。だからこそ、阿弥陀さまは、凡夫が凡夫のままで、迷いの世界を抜け出すことのできる確かな救いの法である本願を建立されたのです。阿弥陀さまの「われにまかせよ、わが名を称(とな)えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という本願は、お誓いの通りに完成された、「南無阿弥陀仏」のよび声となって、仕上がってくださいました。阿弥陀さまの智慧と慈悲を円(まど)かに具(そな)えた救いのはたらきである「南無阿弥陀仏」を称え、聞かせていただき、確かな依りどころをいただいた人生は、阿弥陀仏の大悲のお心に導かれる人生です。人生でもっとも苦しい死を乗り越える道はすでに、阿弥陀さまによって開かれていたのです。

■帰る場所 -「われにまかせよ、必ず浄土へ!」-
「死んだらしまい」
「住職さん、死んだら本当に、何もかも終(しま)いですか?」 目にいっぱいの涙をためながら、唐突に尋ねられたので、私は言葉に窮(きゅう)してしまいました。「浄土に生まれるとか...ホンマですか?」「浄土に往生するとか聞かされてもねぇ...」と言われることは、時折ありましたが、「死んだら本当に、何もかも終いですか?」と聞かれたことは、これまでありません。とっさに、「どうして、そう思われるのですか?」と、私の方から質問を返してみますと、「主人は病気になってから、ずっとそう言いながら死んだんです...」。56歳のお連れ合いと、今生(こんじょう)の別れをされたこの女性は、「死んだら終いや。何もかも終いや」という言葉を、ずっと聞きながら、看病される日々を過ごしておられたのだそうです。「うん。死んだら終いやからね。あなた、お願いやから、頑張って病気を治しましょう」と、その言葉に応えながら、彼女は懸命に大切な時間を越えてこられたのです。ところが別れの後、「死んだら終い」というこの言葉が刃(やいば)となって、自身を斬りつけてくるのだそうです。「私も頭ではやっぱり、死んだら終いやと今でも思っています。でも終いやと苦しいんです。苦しいんです」 むせび泣きながら訴える彼女に、私は「そうでしたか。とても苦しいんですね。終いやとつらいんですね...」と応えたあと、しばらく黙って、彼女の口からこぼれる思いを聞き続けるばかりでした。
涙、涙、涙のゆえに
帰る場所&£i、私たちはあまり意識することがないのかもしれません。「帰る場所≠求めるというのは、生きているものの血の中に通っている、一つの大きな強い願いだ」とおっしゃってくださった先生がおられます。例えば、ウナギの生態は謎だらけで、最近になってやっと紐解(ひもと)かれつつあるのだそうですが、日本のウナギの場合、マリアナ沖の深海で卵を産み、孵化(ふか)した稚魚が6センチぐらいになると、日本の河口にやってくるのだそうです。そこで半年ほど暮らすと、今度は川を上って10年間暮らした後に、あらためて川を下り、必ず元のマリアナ沖の産卵場に向かって旅をするのだと聞きました。非常に雄大な旅です。旅は「帰る場所」があってこそ、旅になります。「帰る場所」を持たないものは、放浪です。不安の中の彷徨(ほうこう)です。私たちにとって、「帰る場所」があるということは、実は本当に大事なことなのではないでしょうか。
親鸞聖人は、善導(ぜんどう)大師の「南無阿弥陀仏」の六字のご解釈を受けられながら、「必得往生(ひっとくおうじょう)(必ず往生を得(う)る)」の「必ず」という言葉を、深く味わってくださいました。自らの思いや考えに縛られることなく、阿弥陀さまの「我にまかせよ。必ず浄土へと生まれさせ、仏に成らしめる」という喚(よ)び声を、疑いなく聞き受けさせていただいた人生は、もはや放浪でも彷徨でもない。単に不安に怯(おび)えるだけではなく、ただ嘆(なげ)くことに終始するだけの人生でもない。それは生に涙し、死にうろたえるしかない私が決め定めるのではなくて、阿弥陀さまが私に、間違いなく「帰る場所」に往(ゆ)き生まれることができるようになったと定めていてくださるのです。白井成允(しげのぶ)という先生は、ご自身のご生涯を通じて、阿弥陀さまのお浄土を、
涙、涙、涙のゆえに みほとけは 浄(きよ)きみくにを 建てたまひけり
とお詠(よ)みくださいました。阿弥陀さまは、浄土を誰か他の人のためでなく、ここに生きる私が、どこまでも涙を溜めねばならない身であるがために、「帰る場所」浄土をご建立(こんりゅう)くださったのではないかといただくのです。

■いま、私に届く願い -「うまれてくださり、ありがとうございます」-
いつもの朝の光景
5月21日は、宗祖親鸞聖人の843回目のお誕生日です。といっても、親鸞聖人は90歳でお亡くなりになられて、もう750年以上経ちます。では、なぜ、すでに亡くなった方の誕生日をお祝いするのでしょうか?「それは、この私にお念仏を伝えてくださった、大切な方だからですよ」と話してきた私でしたが、それを本当の意味で実感したのは、父が亡くなってからでした。平成26年12月19日早朝、リビングで、こっそりミカンをほお張る父に、「ちょっとお父さん! 朝食前に何食べてはるの!」と母の声。ギョッと振り向く父の顔。週3回の透析をし、食事制限のあった父の、いつもの朝の光景でした。「あ〜あ、またか...」と、うんざりしていた私。昼前になって、透析病棟から、父の容態急変の電話がかかるまでは、また明日も同じ風景があるのだと信じて疑いませんでした。ところが病院に駆け付けると、透析中に心不全を起こした父の意識はすでになく、12時53分、眠るが如(ごと)く、この世のいのちを終え、お浄土へ往生いたしました。ドラマで見るような「最後の言葉」がないどころか、住職としての引き継ぎはゼロ状態。涙を流す間もなく、通夜、葬儀を迎えたことでした。
亡くなる約1週間前の12月11日は、父の77歳の誕生日でした。しかし、当日に誕生会ができず、あらためて家族そろって誕生日の食事会をしようと計画していたその日が、まさかまさかの父の葬儀となりました。「人は生まれたら、必ず死ぬ。それがいつかはわからない。でも死んで終わりじゃないんだよ。お浄土にうまれて先に仏さまとなって、いつもお念仏をすすめてくださる、大切な存在となったんだよ」と話してきた私でしたが、「まさか」がこんなに突然来るとは思いもしませんでした。父の存命中から住職交替の手続きは進めていましたので、父の満中陰にあたる2月5日、本願寺で住職補任式を受け、ご門主から住職任命の辞令書をいただきました。
案じてくれていた父
父はかねてより手取り足取り教える人ではありませんでした。しかし、教えないからこそ、父の作法やおつとめの様子をみて覚えるのが、いつしか私のクセとなりました。それが父から今の私への「おそだて」になっているのだと気づいたのは、ごくごく最近のことです。月参(つきまい)りに寄せていただいた数軒のご門徒宅では「お父さんとそっくりの声と立ち居振る舞いですね」と涙を流しながら父の想い出を話してくださり、父の意外な一面を知ることになりました。あんなに私と反目していた父が、「いずれ娘が寺を継ぎますので、どうか育ててやってくださいなぁ」と畳に頭をこすりつけるようにご門徒にお願いしていたのです。「何も教えない」中で、父は「案じてくれて」いたのです。昨年12月19日、父の一周忌法要を、数人のご門徒とともに本堂でおつとめしました。77歳の誕生会ができなかったことと、お浄土への誕生1歳という意味を込めて、小さなケーキをお供えしました。
最初は数名のお参りでしたが、おつとめが終わって振り返ると20人以上のご門徒がお参りくださり、とてもケーキが足りません。新たにケーキを買い足そうかどうしようかと思っていた時、一人のご門徒が「せっかくの前住職のおさがりやから、一口ずつ、みんなでいただいたらええ」と言ってくださり、バースデーソングの代わりに、「みほとけにいだかれて」の仏教讃歌を歌ったあと、一口ずつのケーキをいただき、父の想い出を語り合いました。「何も教えなかった父」の想いが、「何も聞かなかった私」の思いと交差して、ご門徒との語らいの中、いま、この私に届いています。人は人により育てられ、仏縁によって仏さまと出遇(あ)わせていただく...。阿弥陀さまの願いが、親鸞聖人、そして父を通して、この私に届いているのですね。うまれてくださり、ありがとうございます。

■究極の依りどころ -愚痴ばかりの口から、お念仏が出てくださる-
痛っ、何しやがる
新緑から万緑の季節へと移り、木々の緑もいっそう美しく、草木も虫たちも、いのちの息吹を伝えてくれています。私も、お念仏の息吹を伝えていかねばと思います。しかし現実には、「お念仏の声が聞かれなくなった」と言われて久しいものがあります。どうして、お念仏の声が出にくくなっているのでしょう。「南無阿弥陀仏」という、よび声の仏さまとなられ、私を通して、お念仏の声となってはたらいてくださっているのに。それは、私たち自身が邪魔をしているからのようです。一つの邪魔は、「恥ずかしい」とか、「照れくさい」とかいうものでしょう。私の地元広島の高名なM布教使さんから、こんなエピソードをお説教で聴きました。M布教使さんが、坊守さんと一緒に映画を見に行かれた時のことを、お話しくださいました。当時評判の映画で、感動的な場面にさしかかると、突然、隣の奥さまが、脚をつねるのだそうです。「痛っ、何しやがる」と思われたそうですが、声を荒げるわけにいかず、じっと我慢して、しばらく続きを見ておられました。そして再び感動的な場面になったら、また奥さまが脚をつねる、ということが何回かあったそうです。映画が終わって、帰りの途中、奥さまが、「いい映画でしたね」と言われるので、「そうだな」と相づちを打ったものの、脚をつねられたことを思い出し、「それはそうと、なぜ何度も脚をつねるんだ。痛いじゃないか」と責めたそうです。すると、「まあ、あなた覚えてないんですか?」と聞かれたので、「何のことだ」と言うと、「あなたは、いいところになると、ナマンダブ、ナマンダブと言うので、恥ずかしくて」とおっしゃったそうです。ありがたい話だなあと思って聞きましたが、映画館では恥ずかしいという奥さまの言い分も理解できなくはありません。しかし、お御堂(みどう)の中、お仏壇の前は、如来さまの前ですから、恥ずかしいなどという水くさい思いは不要です。思う存分、お念仏申したいものです。
父に申し訳ない
二つめの邪魔は、煩悩の邪魔でしょうね。後生(ごしょう)の一大事の解決ですから、これ以上ない喜びのはずなのに、テレビが面白い、カラオケが楽しいと、ご法義の喜びを忘れた日暮らしを送っています。しかしテレビもカラオケも、大きな悲しみに出あうと、何の支えにもなりません。娯楽番組も見る気になりませんし、ハイテンションな音楽も疲れるばかりです。つまり、これらは、本当の支えではないのです。今年は、父の33回忌になります。32年前の夏、父は心筋梗塞(こうそく)で急死しました。父との死別は悲しかったですし、当時、大阪大の大学院生だった私は、それまでの学問を途中で諦めねばならないこと(自分勝手な発想ですが)や、ゼミの仲間たちと別れて自坊に戻らねばならないこともつらく感じました(もっとも、この点は実際にはそうではなく、数年後に妻となってくれたのは、大阪大の1年後輩のゼミ生でした)。悲しくつらい時には、テレビも見たくありませんし、ご飯もおいしくありません。それでも、父の葬儀の翌日から、自坊の法務が待ち構えていました。慣れない法事での緊張感や、たどたどしい法話、本当にへとへとな毎日でした。
法務をこなしているうちに、ふと「自分は、こういうことがなかったら、ご法義に遇(あ)えなかったのでは」という思いが起こったのです。仏教や真宗とは直接関係のない学問をしていた私に、こういう形で、父はご法義を伝えようとしたのかと思うと、父に申し訳ない思いでいっぱいでしたが、それ以上に、大きなお育ての中にあったことに気付きました。そして、同時に、その先に、阿弥陀さまの大きなお慈悲があることにも気付きました。どんな時でも、心の底から支えてくださっている「畢竟依(ひっきょうえ)(究極の依りどころ)」を、自ら味わい、伝えていくことが大切なのだと思えました。そんな時、思わず、お念仏が出てくれます。他人の悪口を言うのが楽しく、愚痴(ぐち)ばかりこぼしている、この口から、お念仏が出てくださるのは、本当にすごいことです。仏力・他力のたまものだと、しみじみ思います。

■変わるもの、変わらないもの -まことの世界に生まれさせてただく第1歩を-
昨日、今日、違う私
この春、甲子園球場に足を運びました。少し肌寒い日でしたが、観客席はほぼ満席で熱気にあふれていました。芝生のあざやかな緑に爽やかなプレーが重なって、全体が一層美しく感じられました。その日からしばらく経ったある日のこと、古い新聞の切り抜きを見ていましたら、甲子園球場の歴史と魅力について書かれた短い一文が眼にとまりました。そこには、おおよそ次のようなことが書かれていました。
――球場の周辺は大きく変わった。美しい浜辺も消え、球場のそばには高速の高架道路が走り、大きな団地もできた。その中で、球場だけは変わらないものがある。70年前も今も、見る人のこころに焼きつけるものがある。無くてもいいものははんらんする中で、甲子園球場は無くてはならないもの、不変なものの美しさで輝いている――
この新聞記事は私に、変わるもの、変わらないものについて考える一つのきっかけを与えてくれました。私たちは、いつも自分を中心において、こちらから向こうを眺めています。生きているということはそういうことだと思われます。そして、この眼で見えているものは確かに変わっています。私の住んでいるところも24時間煌煌(こうこう)と明るいところが増えてきました。都会では、知らないあいだに、高いビルが建ち、中に入ると方角さえわかりにくくなることもまれではありません。ところで、私の外(そと)の変化は眼に見え、誰もが認識できますが、外を眺めているこの私自身はどうかということです。かつて、こんなことばに出会ったことがあります。「他人と私の違いより、昨日の私と今日の私の違いが大きい」というものです。これをある人に言いましたら、「カッコイイ」ということばが返ってきました。恐らく、こころに強く響いたに違いありません。また、世間的におかれる立場が変わりますと、その前後で同じ人が違ったことを言い出すこともあります。このように考えていきますと、もはやこの世に変わらないもの、そして頼りとすべきものなどないということになります。『歎異抄』に「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに」、「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と述べられるのは、まさにこのことを示すものです。
4種のさかさま
仏教には四顚倒(してんどう)ということばがあります。顚倒とは、正しい見方やあり方の反対、さかさま、誤った考えという意味です。真実のあり方に背く四種の見方をいいます。最初は、常顚倒(じょうてんどう)と出てきます。無常なるものを常と顚倒してみるという意味です。また二番目からは、苦しみの世界を楽しみの世界とみてしまう楽(らく)顚倒、無我(むが)であるのに我はあるという我顚倒、不浄(ふじょう)を浄と思う浄顚倒。合わせて、凡夫(ぼんぶ)の四顚倒というのです。つまり、仏教の道理に背いた生き方をしているということです。それは顚倒ですから、ひっくり返っている状態をいいます。しかし、それに気付いていないのが凡夫の姿です。真実まことに遇(あ)って知らされるということです。このような四顚倒に対し、涅槃(ねはん)の四徳(しとく)ということが経典に説かれます。ことばとしては、常・楽・我・浄と、それぞれ顚倒がとられた文字で表されます。常は永遠、楽は安楽に満ち、我は絶対であり、浄は清浄である、このように辞書は説明します。そして、この涅槃界(ねはんがい)のことを浄土ということばでいい表します。
したがって、浄土はさとりの世界です。変わることのない世界です。変わる世界にどっぷり身をおきながら生きていく、そこに変わらないものを求めていく心が起こるのです。それは、仏法というものがはたらくということです。浄土は、如来の願心(がんしん)によって完成された世界です。阿弥陀如来は一切の衆生を浄土に生まれさせて救いとろうと願いつづけてくださるのです。その願いの中に生かされるとき、永劫に変わることのないまことの世界に生まれさせていただく一歩がはじまるということです。 
 

 

■"終活"から"聞活"へ -お念仏申す人生、お聴聞に終わりはない-
命終わらない世界
アメリカ合衆国オバマ大統領が、現職として初めて広島を訪問しました。広島に生まれ育ち、平和教育を受けた者として、深い感銘を受けました。静かな興奮がおさまりません。核兵器の根絶を掲げ、差別を禁じる、私が学んだ平和教育は、机上の理想でしょうか。残念なことに武器としての核は、地球をいくつも消滅させられるほどたくさんあります。愚かなことに、新たな出来事に呼応するかのように、差別は世の中ににじみ出てきます。それが現実だからこそ、痛みや苦しみを抱える人と共に歩む努力を惜しんではいけません。恨みや憎しみを解き放つ勇気を持ち続けなければなりません。そうでなければ、人に生まれた甲斐がありません。私たちは互いにより深く理解するために、問い続け学び続け、思索を深めることを止めてはいけません。投げやる訳にはいきません。しかし、言うは易しです。自分が思う正しさは、正しいのでしょうか。何に照らせば本当の正しさ、真実の様を知ることができるのでしょうか。私は、如来大悲のおこころに尋ねるしか術(すべ)を知りません。
智慧(ちえ)の光明(こうみょう)はかりなし 有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく 光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし 真実明(しんじつみょう)に帰命(きみょう)せよ
親鸞聖人がご和讃を通して伝えてくださる真髄が、いよいよ深く、より一層鮮明になってまいります。ところで、近頃しばしば見聞する《就活》《婚活》《終活》といった言葉がありますが、僧侶なので、やはり人それぞれが望む最期の在り様に関心を持ちます。《終活》というと、人生の幕引きを迎える活動ですが、《聞(もん)活(聴聞活動)》とか《念(ねん)活(念仏活動)》として捉え直すと、終わりが終わりではなくなる世界が見えてきませんか。
唯一無二の原動力
人生は、いかに綿密な計画を立てても、努力を積み重ねても、希望通りになるという確約は得られません。私自身、自分が大病をした後に、息子が心肺停止から蘇生したり、介護に明け暮れていた妻が病気になり手術をしたりと、想像さえしなかったことが現実になりました。私の人生は、突然の病でいのちこそ終わりませんでしたが、一瞬にして転変することを体験しました。当たり前の日常も、その先にある予想できる未来もぶっ飛びます。確かなものは、「必ず救う」という阿弥陀如来さまのご本願だけです。すると、大切な人の《死》が喪失の事実だけではなくなります。悲しい寂しい虚(むな)しいという感情を超えて、また会える世界をあらためて深く思い知る千載一遇の機縁なのです。「お聴聞に終わりはない。わかったと思ったそばから迷っている」と、口癖のように話してくれた人がいました。話してくれた父は往生の素懐を遂げましたが、その命は、まったく休むことなくはたらきかけてくれます。
だから私は、誓願不思議の如来大悲をつくづくと知らされるのです。あれやこれやと心定まらない迷いを忘れて、まっすぐに絶対他力のご本願におまかせすればいいのです。とはいえ、私はきっと命尽きる瞬間まで、なにかを思い願うことを止められないでしょう。そして、思い願うままにならないことを嘆き、悔やみ、それでもまた思い願い続ける自我を滅することもかないません。しかし、この迷いや煩悩が転じられ、真実として深まっていく道があります。それがお聴聞です。命ある限り迷いの世界をさまよう「わたし」こそが、必ず救うと誓われた阿弥陀如来さまのお目当てです。「わたし」のためにはたらいてくださるご本願のおこころを深く深く聞かせていただきましょう。それがお聴聞です。寸分先もわからない人生だからこそ、本願他力のお念仏は、心頼もしく生き抜かせていただく唯一無二の原動力です。ただただ尊く有り難く、報恩謝徳のお念仏を申すよりほかありません。

■宝の山 -人生は邂逅と謝念である-
結論は仏法聴聞
私は、滋賀県にある田舎のお寺に入寺してから、ふと気付いたことがあります。ご門徒に出会って話をすると、必ずと言っていいほど「おかげさまで」が話のはじめについていることです。何百年もお念仏の道場を護(まも)り大事にしてくださった方々の願いが、現代の今を生きる人の中で具現しているかのように...。ご門徒とのお話の中で「おかげさま」が聞こえたら、「先祖代々、お念仏のご縁があってよかったね」と心の中でつぶやいています。時代の変遷の中で、富める時代も貧しい時代も、お念仏という宝がいつも生活の中心にあったから、「おかげさま、ありがとう」という感謝の心が、命のつながりとして、代々綿々と継承されてきているのだと実感しています。
若い頃に聞いて感動した亀井勝一郎先生の「人生は邂逅(かいこう)と謝念である」という言葉と、『往生要集(おうじょうようしゅう)』の「頭(こうべ)に霜雪(そうせつ)を戴(いただ)きて、心(しん)は俗塵(ぞくじん)に染(そ)めり。一生(いっしょう)は尽(つ)きぬといへども、悕望(けもう)は尽きず。...願はくはもろもろの行者(ぎょうじゃ)...すみやかに出要(しゅつよう)の路(みち)に随(したが)ふべし。宝の山にいりて手を空(むな)しくして帰ることなかれ」の言葉は、私にとって忘れられないものです。この言葉がつくづくわが身にしみてきている昨今です。ところで、「宝の山」とは何なのでしょうか。結論をいえば仏法の聴聞のことです。宝の山に入りて空しくして帰る人は、仏さまの教えを聞くご縁のない人のことです。こんな人生を過ごさずに心豊かに生きていきましょうと、およそ千年前にお念仏をよろんだ源信(げんしん)さまの声なのです。それではどのように仏さまの教えを聞けばいいのでしょうか。この私に、仏さまの教えを私心・私見を交えず素直に聞くことができるのでしょうか。ここが問題です。
名号は私のために
浅原才市(さいち)さんが、  わたしゃあなたに眼(め)の玉もろて あなたみる玉なむあみだぶつ ・・・と詩(うた)っています。才市さんはお聖教(しょうぎょう)をそらんじたり教えを講釈する人ではありません。ただ純粋無垢(むく)にアミダさまのお慈悲をよろんでいた好々爺(こうこうや)でした。仏さまはあるがまま見る眼(まなこ)を私たちにあたえてくださる方だと体解(たいげ)していたのです。だからこそ、
ええな せかいこくうが みなほとけ わしもそのなか なむあみだぶつ わたしゃ あなたにおがまれて たすかってくれとおがまれて ご恩うれしや なむあみだぶつ ・・・というすばらしいお領解(りょうげ)を披露できたといえます。
才市さんの領解は、アミダさまは南無阿弥陀仏の六字の名号(みょうごう)です。アミダさまの姿・形を求めているのではありません。お名号は誰のために完成させられたのかを聞いてみれば、この私のすべてをみぬき、この私を救うためにこそ誓願(せいがん)をたて修行されて阿弥陀如来となり、その救いはお名号となってはたらいているのです。アミダさまはみ名となって、いつでも・どこでも私に「かならず救うぞ」とはたらいてくださるのです。つまりが、ナモアミダブツと称(とな)えるままが、アミダさまに喚(よ)ばれつづけている私と領解すべきです。
このことを甲斐和里子(かいわりこ)さんが、 み仏をよぶわが声は み仏の われを喚(よ)びますみ声なりけり ・・・とみごとに歌っています。できればこの歌をかみしめて、いつもアミダさまと共に生きているわが命と、よろこびにみちた生活をしていきたいものです。また、親しい先生から聞いた話ですが、池山栄吉先生の書いた名号碑の南無阿弥陀仏と刻んである裏に「オネガヒダカラスグキテオクレヨ」の文字があるそうです。ありがたいですね。私はアミダさまを拝みたのむのではないのです。すでにアミダさまから「タスカッテクレヨ」とたのまれているのです。このことを知ることが人生の宝をよろこぶ生活の出発なのです。

■不自由のど真ん中 -根深い迷信を断ち切るのがお念仏-
占いは偏見のもと
久しぶりに帰省した子どもたちが、ある時、私のいないところで、こんな会話をしていたそうです(誰が明かしてくれたかは機密です)。三男が口火を切りました。「俺たちみんな性格はバラバラだけど、悪いところは、みんなあの親父だよな」 すると次男が、「確かに、頌(しょう)(長男)の、妙に完璧主義で面倒くさい性格や、俺の、おちゃらけたところ、淳(じゅん)(三男)の、我が強いところ、皓(こう)(四男)の、プライドが高いところ、みんな、あの親父だな」 と言うのです。その場に私はいなかったので、言いたい放題です。本当にすべて私のせいなのかは保留するとして、「みんな性格はバラバラ」は確かです。私の血液型は0型で、妻も0型です。必然的に子ども4人も0型です。しかし、この6人、性格はみなバラバラです。血液型占いが、いかにあてにならないかを、わが家が実証していると自負しています。
そういえば、故市川團十郎さんが白血病にかかり、その治療として血液をすべて入れ替える輸血をされ、その時に血液型が変わってしまったそうですが、ご本人が言われるには、「性格は全然変わらなかった」そうです。世の中、占いがはやっています。「ファッションだ」とか言う人もいます。私の購読している地元の地方新聞も、以前は「占い」などなかったのですが、10年以上前から、「○月生まれの運勢」という占い欄が載るようになりました。「安芸門徒の地元の新聞なのに、けしからん」と思い、当時、知己だった、ある記者にクレームを言うと、何とか部長さんという、偉い役職の人が来てくれました。一宗派の論理だけでは聞き入れてもらえないと思い、少し客観的な物言いをしました。「ひのえうまのように、占いは予断や偏見の元で、いじめや差別の原因にもなるので、人権上、悪影響を及ぼす」と抗議しました。すると、予想はしていましたが、「一定の需要があるので、そういう読者層の要望にも応えねばなりません」と言うのです。私も面倒くさい性格ですから、引き下がりません。「需要があるからというだけで、オピニオン・リーダーとしての責務が果たせるのですか」と迫りました。すると、「貴重なご意見として、持ち帰って検討いたします」となりました。この手の立場の人の「持ち帰って検討」とは、「改める気は、ありません」と同義語です。案の定、占い欄は掲載され続け、失望と無力感にさいなまれたことを思い出します。
科学は迷信に無力
また、これも、かなり前のことですが、ある航空会社の飛行機に乗ったとき、自分の座席番号が「5A」だったので、「1A、2A、3A」と順番に捜していったら、何と「3A」の次が「5A」でした。3と5の間に非常口があったのではありません。その場で、理由を問い詰めませんでしたが、どう考えても、理由は一つしか思い浮かびません。「4」は、「死」をイメージするということです。もし飛行機が墜落したら、4番の座席の人だけが危ないなんてはずはありません。さらには、病院も「4号室」が無いという話を聞いたことがあります。金属の塊を空に飛ばす科学の最先端で、人命を救う医療の最前線においてさえ、かくも迷信とは根強いものかとがくぜんとした記憶があります。すべての飛行機やすべての病院ではないでしょうし、現在は改善されているかもしれません。しかし、発達した科学でも迷信には無力なのだと、つくづく感じました。この根深い迷信を、横さまに断ち切るのが、お念仏です。「自由、自由」と、自由を喧伝(けんでん)する現代人が、占いや迷信という呪縛から逃れられない「不自由のど真ん中」にいるのが、滑稽(こっけい)というか残念です。真実信心を、もっと自信を持って伝えていかねばと自省する、この夏です。

■バランスと少欲知足 -仏さまの教えを聞き、欲望を制御する生活を-
均衡を保つ自然界
今朝もホトトギスの鳴き声が聞こえてきます。「夏は来(き)ぬ」の一番の歌詞には、
卯(う)の花の 匂(にお)う垣根(かきね)に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴(きな)きて 忍(しの)び音(ね)もらす 夏は来(き)ぬ ・・・とあります。
このように親しまれているホトトギスですが、いわゆる托卵(たくらん)する鳥としてよく知られています。ホトトギスはウグイスの巣に卵を産み、ウグイスはそれを知らずにあたため、先にふ化したホトトギスのひなは、ウグイスの卵を巣から落としてしまうのです。ウグイスは、ホトトギスの雛を自分の子どもだと思い込んで、育てていくのですね。このような鳥の世界のはなしから「バランス」ということが頭に浮かんでくるのでした。それは自然界は自然そのままでバランスが保たれているんだなあ、そして、人間はバランスをとろうとして、逆にそれを壊しているのかな、と思ったことです。日常生活の中でも、栄養のバランスを考える、バランス感覚がよい、悪い、バランスよくできている、などとしばしば使っています。ただ、このバランスも、人間の命を保っていくという意味ではあまり聞かれないようです。たとえば、あの人はバランスをとって生きておられる、とか。でも考えてみますと、体の諸器官がバランスよく働いて元気でいられるのですから、健康とはバランスのとれた状態といえましょう。ともかく、自然界はそのままで、また人間が生きていくということも、ともに均衡が保たれている、そういう状況だといえます。そして、そこには、「少欲知足(しょうよくちそく)」ということばが大きな意味をもってあらわれてくるように思われます。それは「欲少(よくすく)なく足(た)るを知る」ということを考え、実践していくところにバランスが保たれていく、そのように思えてくるからです。
欲には限りがない
欲望というものは限りがなく大きく膨らんでいく本性があります。新幹線ができるまでは、新幹線以上速い乗り物は考えません。しかし、いったん新幹線が走ると、そのスピード以上のものを求め、手に入れようと懸命になります。『無量寿経』のなかには、「田(た)あれば田(た)に憂(うれ)へ、宅(いえ)あれば宅(いえ)に憂(うれ)ふ」「田(た)なければ、また憂(うれ)へて田(た)あらんことを欲(おも)ふ。宅(いえ)なければまた憂(うれ)へて宅(いえ)あらんことを欲(おも)ふ」と説き明かされます。無いから求めるだけでなく、有っても有っても満足することがないということです。それは、こんな譬(たと)えで示すこともできるでしょう。手に砂を握っている人が、そのままでさらに砂をつかもうとしている姿です。砂にかぎらず、握っているものは手から放さなければ新しいものをつかむことはできません。さらに、つかむことのできないものまでもつかもうとしているのが凡夫(ぼんぶ)の私かもしれません。1歳ぐらいの幼児が外で遊んでいて、砂場に水道の水が流れている。それを一生懸命つかもうとしている。それは、水が棒に見えているからだ。こんな話を保育専門の先生から聞きました。たまたま子どもの話をしましたが、似たことは年齢に関係なくあるかもしれません。
仏教では、欲望のことを煩悩と称して大きくとりあげ問題にします。それは、迷いの世界から悟りの世界をめざす以上、どうしても避けることができないからです。その場合、煩悩を断(た)つという方向が一つあります。これは、ある意味で理解しやすいといえます。ただ、わかりやすいということと、実際に行(ぎょう)ずるということは一つになるとは限りません。そこで、今一つの立場が重要になります。それが、煩悩を制御していくという方向です。これは煩悩を否定してしまうのではなく、かといって、湧き起こってくるものをそのまま容認したり、放置するものでもありません。そこに、制御することの意味があります。少欲とは欲望をなくすことではありません。また知足の意味は、心が穏やかなことである、ともいわれます。謙虚にこのことばのこころを聞いていくべきでしょう。親鸞聖人はお手紙で「仏(ぶつ)のちかひをききはじめしより、無明(むみょう)の酔(よ)ひもやうやうすこしづつさめ、三毒(さんどく)をもすこしづつ好(この)まずして...」と説き示されます。深く味わいながら、念仏者としての生活を送っていきたいものです。

■いのちのつながり -偽りても賢を学ばんを賢というべし-
おかげさまの生活
毎年8月には、お墓掃除、仏教壮年会の本堂掃除、そして盆会(ぼんえ)のおつとめをお寺でしています。親子、そして孫たちと一緒に合掌しているご門徒の姿をみると、それぞれのお顔が輝いているように、いつも思っています。お墓であっても、本堂の如来さまの前であっても、やさしい顔をしています。そんな顔をみるにつけ、ワンガリ・マータイさんが、日本で見つけた「もったいない」という世界を思い出します。私が学生時代、第23代勝如(しょうにょ)ご門主が、親鸞聖人ご誕生八百年のご法要(ご満座)に際してのご消息に、念仏の道は『おかげさま』と生かされる道であり、『ありがとう』と生きぬく道であります。とお示しになりました。お念仏の生活は「ありがとう、おかげさま」の日暮らしなのですね。つきつめれば、今をもったいないと感じて生きているのが念仏生活なのです。
私は前門さまのご著書『朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて』を愛読していますが、その中で、「ひとりの人間が存在するとき、その背後には、長いいのちの流れ、いのちの連鎖といったものが必ずあります。両親、そのまた両親と、祖先から連綿と続いてきたいのちのつながりによって、ここに生きていることができるのです。(中略)衣食住を考えてみましても、何かのおかげによらないものはありません」と日常の視点を示されています。お参りに来られたお同行(どうぎょう)がよく申されます。「ワシらが今こうしておれるのは、ご先祖さまのおかげじゃあ。この年になっても、お寺参りさせてもらうのはなぁ、阿弥陀さまにまちがいがないことを、何度も知らされ聞かせてもらうためじゃあ」 こんなつぶやきを聞くたびに、歴代の住職の願いがわかりました。「お浄土まいりの人生を歩ませていただいているわが命、阿弥陀さまにいつも喚(よ)ばれどおしのわが身である」ことを。
無条件のおすくい
梅原真隆和上(うめはらしんりゅうわじょう)が、浄土真宗の要を歌っています。
なにもかもまかせまつりて南無阿弥陀 この身このまますくわれてゆく ・・・という歌です。さきに、お念仏の日暮らしは、「もったない」と感謝の生活だと申しました。梅原和上の心情に迫れば、わが往生には何も条件はいらないのです。たとえるならば、赤子を育てる母親は子どもの生きる力を母乳を通して与え、やさしい腕で子どもを守り育てています。阿弥陀さまはこの私を仏にするために、ナモアミダブツのお名号と摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光明でいつも私にはたらいているのです。それはまるでお名号が母親の乳房のようであり、光明が母親のやさしい腕のようなものなのです。ナモアミダブツは阿弥陀さまの「私をタスケルすがた」であり、また、私が「タスカッテイルすがた」なのです。このナモアミダブツの本当の意味を理解するには聴聞しかありません。有り難い人間に生まれ育っているのですから、「薄俗(はくぞく)にしてともに不急(ふきゅう)の事(じ)を諍(あらそ)ふ」と指摘される人生の解決に努力しなければ、空(むな)しい一生です。じゃ、どうすればナモアミダブツが理解できるでしょうか。ヒントに『徒然草(つれづれぐさ)』八十五段の文章を味わってみましょう。
「偽(いつわ)りても賢(けん)を学ばんを、賢といふべし」です。たとえ本心でなくても賢者を学ぼうと実践しておれば、やはり賢者というべきであると吉田兼好は言うのです。日々の月参りで、兼好法師の言わんとすることを味わいました。ご門徒宅へお参りにうかがえば、多くの家は私の後ろでおつとめをしています。おつとめしている子どもは小さな好人(こうにん)です。いつもありがたく思いながら、日曜学校に来てくれる日を指折りかぞえています。おじいちゃんのお念仏の声にひかれ、おうむ返しにお念仏している姿を目(ま)の当たりにして、お念仏のおいわれを領解(りょうげ)できる日が早くおとずれるだろうと信じています。

■ミズスマシ -慈悲に目覚める人生は空しく終わらない-
おかげさまの生活
農民詩人として宗教的な詩をたくさん残された村上志染(しぜん)さんの詩です。
方一尺(いっしゃく)の天地 水馬(みずすまし)しきりに 円を描(か)ける なんじ いずこより来たり いずこへ旅せんとするや? ヘイ! 忙しおましてナ!
方一尺、一辺が30センチあまりの水たまり。そこを自分の世界として、どこから流れてきたのか、ミズスマシがせわしなく動き回っています。お前さんはどこからきて、どこへ行こうとしているのかね。まもなく干上がってしまう狭いその水たまりの中で、そのいのちを終わってゆかねばならないのだよ、という問いかけに返ってきた答えが、「忙しくてそんなこと考えてません」というものでした。言うまでもなくこれはミズスマシになぞらえて、人のいのちの意味と行方を問うているのですね。ミズスマシに比べればはるかに長い時間と広い空間を生きているのが私たち人間ですが、肝心ないのちの来(こ)し方、行方、そしてそのいのちの意味を問うことなく終わってゆかねばならないのなら、このミズスマシと大差ないではないですか、と村上さんは問いかけます。せめて、人と生まれたこのいのちの意味、死の意味の決着をつけさせていただかねば、いただいたいのちにあまりに申し訳ないことです。
自分しか見えてない
ところで、人間の知恵は、自分の見た世界、経験した世界にしか及ばないものです。それも自分を中心にしてしか見ていない世界です。こんなことがありました。36年前の春、私は結婚式を挙げました。その時、参列予定だった母方の祖母が体調を崩し、大事を取って入院したと聞いたので、式の前々日、私は妻と二人で母の実家のある石川県加賀市の病院へ見舞いに行きました。「周りの勧めもあって入院したけど、あさっての結婚式の始まる時間には、病室から福井の方を向いて、お念仏しながらおめでとうと手を合わせてお祝いさせてもらいますよ」と温かいお祝いの言葉をかけてくれた祖母でした。私たち家族は翌々日の結婚式、さらに翌日のご門徒さんへの披露と、慌ただしい中にも皆さまのご祝福をいただき幸福感に浸っていました。ところが、その頃を見計らったようにかかった母の実家からの電話で、本当のことを知らされ、一転して悲しみのどん底に引きこまれたのです。私たちが見舞ったその日、容体が急変して祖母は往生を遂げていたのです。叔父の深い配慮と思い切った決断により、「通夜・葬儀の日取りは延ばすから、結婚式の披露宴に呼ばれている人は何事もなかった顔をして参列するように」という通知が親戚に回されていました。本当のことを知らない私たちは、幸せそうにふるまっています。叔父をはじめとする母方の親戚は、その私たちの姿にどれだけ胸を痛めたことでしょう。その電話の後、とるものもとりあえず、それまで延ばしてくださっていた納棺の儀にかけつけ、祖母の枕辺に座りました。結婚式、披露宴をつつがなく穏やかに済まさせてやりたいというあの時の叔父の配慮には、今でも心から感謝の思いでいっぱいです。私たちは自分の見た世界しか見えていない、ということを痛切に教えられた、厳しくも尊い経験でした。
人生に確かな意味
生と死を平等に見わたせる、まことの智慧(ちえ)を自らの上に体現された如来さまの眼差(まなざ)しには、私の生きざまが危なっかしく哀れで、胸を痛める姿として映ったのです。私のいのちの行方を本当に案じ、胸を痛めてくださる阿弥陀さまを、慈悲の親さまとして、お念仏の先輩方は仰ぎ慕ってこられました。自分にかけられたお慈悲の温かさ、確かさに心動かされた人は、そのまま慈悲の人へと育てられてゆくのでしょう。慈悲に目覚めるためにこの世に生を受け、そしていのち終わっても、お浄土で仏さまと同じはたらきをさせていただくのだと知らされた人生は、決して空(むな)しく終わることはありません。私のいのちはあなたのお慈悲に目覚めさせていただくために賜(たまわ)っていたのですねと、自分の生と死に確かな意味を与えてくださるお慈悲のご恩を、あらためてかみしめさせていただくことです。

■消防車と子ども -問題を遠くに置こうとする私を照らすみ教え-
誰かたすけてくれ!
昨年の春のことでした。私が暮らすお寺の南側には5階建てのビルがあり、朝夕ほんの少ししか陽(ひ)が入りません。冬は洗濯物が乾かないのです。でも、一番東にある1階和室の上の小屋根には陽が当たっています。それなら、そこに物干し場を作ろうということになりました。工事が始まった2日目のことです。古い鉄骨の骨組みを切り外すために「キーン」というけたたましい音が鳴り響いていました。その直後のことでした。何やら騒がしい声が聞こえます。「誰か助けてくれ!」と、現場を仕切る担当者の悲壮な声が聞こえてきました。「どうしたのですか?」 「この小さな隙間から火が入り込んでしまった!」 火事です! 鉄骨の解体時の火の粉が1階天井裏に入ってしまったのです。工事関係者は慌てるばかり。私は、休んでいた夫に知らせ、消火器を取りに行きました。それを工事関係者に渡した後、そうだ、隣に住む息子家族に知らせなくては、彼らに逃げるように言わなくては...と声をかけると、息子は冷静に、「消防署に電話したのか!」 あっそうだ、まだだった。「一番肝心なことをしないで何してるの! 早く電話して!」と叱られ、やっと消防署に通報しました。
息子はすぐに現場に来て、手早く指示してくれました。ほどなく道いっぱいの大きな消防車が入ってきて、たくさんの消防隊員が手早く動いているのを近所の人が心配そうに見守っています。しばらくして、火は広がっていないと判断して、放水は見合わせるように指示されました。通報から2時間ほどして、火が延焼していないことがわかり、大通りに待機していた7、8台の消防車が撤収。最後の消防隊員が「あらゆる所を点検しているから安心するように」と言って帰って行かれた時には、すでに4時間は経過していたと思います。その間、消防隊員、警察官、町の消防団員と多くの方々が動いてくださいました。あんまり慌てると、正常な判断ができず、一番に知らせなくてはならない消防署への通報が後手に回り、住職としてあまりにもお粗末でした。お年寄りの多い街ですから、本当に大火にならずによかった、と胸をなでおろしました。
私のために来た方
一方、家の中は、工事関係者が水道の水をかけ、1階の和室の天井をはがし、和室の中はボロボロ、見るも無残な姿です。ボヤでよかった。内陣の方には火が入らなくてホッとした。でも、これからどうなるのだろうか...。すっかり疲れた頭は何も考えられません。先ほどまでの喧騒(けんそう)は去って、もとに戻った静かな街並み。私は表の通りから敷地内を一人でぼんやりと眺めていました。その時、おじいさんが小さな男の子を連れてやって来ました。たたずむ私のことは目に入らなかったらしく、そのおじいさんは火事の現場であるわが家をのぞき込み、孫に向かって言いました。「な〜んや、もう終わってしまったわ」 どうやら、孫に消防車を見せたかったらしいのです。そう言った後、子どもの手を引いて去って行きました。
悲しかった。火事という痛ましい出来事は、孫に消防車を見せる機会であり、消防車を見る孫の喜びだけを考えて「な〜んや」と言っていたのでしょう。しばらく、その老人の言葉が頭から離れませんでした。数日、そのことを考えているうちに、「そうだよ、あなたも、そんなふうに、人のしんどい場面で、知らない間に、思いの至らぬことを口に出して、悲しみ、痛みを増幅させているようなことをしていない?」と言う声が聞こえてきました。そうか、あの老人は、そのことを私に知らせるために来てくださったお方なのかもしれない...と思えた頃、前に向かって歩み始めることができました。争い、いじめ、むさぼり、いかり、ぐち、資質の低下、社会の混迷...。どこか遠くに問題を置いて暮らしているけれど、どれも私の人生そのもの。だからこそ、お念仏の教えとともに、丁寧に暮らしてゆかなければと思う出来事でした。

■「うけつぐ伝灯」 -私に中継ぎされていたお念仏-
ご門徒の夢に父が
5月29日に、住職継職奉告法要をおつとめしました。その日、稚児行列や出勤僧侶を率いておねりの先頭を歩き、献灯・献華・献香のなかで、献灯の大役をしてくださったのは、ご門徒のMさんでした。Mさんは昨年、末期の胃がんと診断されました。しかし90歳近くなるので進行は遅いだろうから、体に負担をかけないためにも手術はしないという方針になりました。手術をしないとなると、がんを抱えたままですから不安になります。おつれあいさんも私も心配して、少しでも元気になってもらいたいという思いから、体によい食材を勧めたりしましたが、ご本人は「ありがとうございます」とは答えられるものの、その食材を口にすることもほとんどなく、「がん」という言葉に押しつぶされそうになりながらの日暮らしでした。お寺の役員をされた経験もあるので、継職法要の発起人をお願いすると、「私はがんですし、法要まで生きているかどうかも...」とおっしゃいます。私はどう言葉を返していいかわかりませんでした。ところが、その生き方がゴロッと180度変わる出来事が、Mさんの身に起こります。
それは年の瀬も押し迫った深夜のことでした。Mさんの夢の中に、前住職であった父が出てきたそうです。父は黒地に金の刺繍(ししゅう)の入った羽織袴(はおりはかま)を身にまとい、柔和な顔で、大きな盃(さかずき)と扇子(せんす)を持って舞いを踊ります。そして踊り終えたあと、Mさんの前に進み出たかと思うと、持っていた大きな盃を渡し「お寺の事、法要の事、よろしゅうにお願いしますな。ほんまに、よろしゅうに、お願いしますな。なんまんだぶつ」と深々と頭を下げ、盃にナミナミとお酒を注ぎ、「さ、呑(の)んでくださいや」とMさんにほほ笑みかけます。Mさんは「わかりました。ありがとうございます」と盃に口をつけたその時、父の姿がスッと消え、夢から覚めたのだそうです。夢かうつつか幻か、しばらく呆然(ぼうぜん)として、それから「あぁ、夢やったんか」と思ったと同時に、Mさんはその時、「あぁ、そうだった」と生きる力が湧いてきたのだそうです。
主役じゃないの?
その夢をきっかけに、Mさんの生き方が変わります。あまり口にしなかった健康食品も食べ、大好きなカラオケやビリヤードも再開されたり。そして一番うれしかったのは、「せめて法要までは生きていたい。私でよろしければ、発起人をさせてもらいます」と言っていただいたことでした。法要が近づき、実行委員会での準備が進む中、稚児行列を含めた、おねりの参加を呼びかけました。おねりの先頭はろうそくを灯す献灯です。「私、させてもらいます!前住職さんと約束したんです」。そう言って一番に手を挙げてくださったのはMさんでした。胃がんと診断され、生きる希望を見失いかけていたMさんと父との夢の中での約束。「お寺の事、法要の事、よろしゅうにお願いしますな。ほんまに、よろしゅうに、お願いしますな。なんまんだぶつ」その言葉をしっかりと引き継ぎ、法要当日は献灯の大役をつとめてくださいました。そして、法要から約1カ月後の7月8日、Mさんはお浄土へ往生されました。
亡くなるまで何度も、父の夢の話をしてくださり、「お父さんが夢の中で、私にお念仏の大事さ、その意味を伝えてくださったんですよ」と頬を紅潮させながら話しておられた姿は、今も私の脳裏に焼き付いています。父は生前、私によく「中継ぎ」という言葉を使いました。「お前はこのお寺の中継ぎや」というのです。それを聞くたび、私は「中継ぎは主役ではない」と感じ、反論したものでしたが、このMさんの夢の話を通して、父からMさんへ、そして多くのご門徒さまからこの私へと、お念仏が「中継ぎ」されていたことに、気づかせていただいています。まもなく「伝灯奉告法要」がおつとまりになります。「うけつぐ伝灯 伝えるよろこび」のスローガンのもと、この私まで届いてきたお念仏を次世代に弘め伝える歩みをさせていただきたいと思います。

■「自由」という不自由 -「生死出づべき道」が課題にならない現代-
伝灯のよろこび
いよいよ、10月1日から伝灯奉告法要が始まります。ご存じのように、一昨年の6月6日に、第24代即如門主から第25代専如門主へと法統継承式が行われました。法統継承式は「儀式」ですから、通例、儀式は1回のみです。 たとえば「葬式」も、その人にとっては1回だけですし、「帰敬式(ききょうしき)」も1回だけです。「結婚式」も、その後の事情は別として、その時は1回きりのつもりで行っています。ただ、披露宴はいろんな会場で複数回行われることも少なくありません。「法統継承式」は1回だけですが、その喜びを多くの人と分かち合い、決意を新たにする機縁、それが伝灯奉告法要です。10月から来年の5月にかけて、10期80日間にわたって厳修(ごんしゅう)されます。一人でも多くの人にお越しいただきたいものです。専如ご門主は、「法統継承に際しての消息」の中で、「本願念仏のご法義は、時代や社会が変化しても変わることはありませんが、ご法義の伝え方は、その変化につれて変わっていかねばならないでしょう。現代という時代において、どのようにしてご法義を伝えていくのか、宗門の英知を結集する必要があります」と、ご教示くださっています。
親鸞聖人の時代と今の現代とで、何が一番違っているかを考えたとき、私の思いでは、最大にして、かつ決定的な違いは、「生死出(しょうじい)づべき道(みち)」が課題になっているかどうかだと感じています。今の時代は、少なくとも物質的には便利で快適ですから、「今さら信心や念仏などなくても、何の不自由もない」と考えられていて、「生死出づべき道」が課題にならない人には、「さとり」も「浄土」も響かないでしょう。そこに、現代の伝道の難しさがあると思います。自分が迷っているという自覚がなく、「自分のことは自分が一番よくわかっている」と思い込んでいます。他人のことではありません。この私が、そうだったのです。
欲望に支配され・・・
私は、自分では「若く見える」と思っていました。髪もほどほどありますし、白髪もほとんどありません。時々同級生と会っても、彼らの変わり果てた姿を見るにつけ、「私は若い」と思っていたのです。私は週の半分、京都で本山の研究所に勤めています。時折、その同僚と何人かで食事に行くのですが、店員さんに、「この中で、誰が一番若いと思う?」と聞くと、「そりゃ、お客さまですよ!」と、満面の笑顔で答えてくれました。自分でも若く見えると思ってますし、お店の人も若いと言ってくれる。それで、ますます「自分は若い」と思い込んでいたのです。ところが、数年前、急に十二指腸潰瘍(かいよう)で約2週間入院することになりました。お医者さんには行きたがらない性分でしたが、突然の吐血に驚いて近所の医者に行くと、そこで救急車を呼ばれ、そのまま総合病院に担ぎこまれました。いろんな検査をされて入院となり、主治医の先生が夜になって回診に来られたとき、開口一番、「あなたは、もう若くないんですから、無理をしてはいけません」と言われました。「私は若い」という自意識が、粉々に打ち砕かれたのです。
私が愚かなだけではありません。「自分のことは、自分が一番よくわかっている」と多くの人が思っているでしょうが、実は自分自身の明日さえ、誰もわかっていないのです。さらにまた、「今さら念仏などなくても、何の不自由もない」と思っている「自由」って何でしょうか。おそらく、「自分の思い通りになる」ことを「自由」と考えているのでしょう。しかし、「自分の思い通り」は、決して本当の自由ではありません。「自分の思い通り」とは、欲望という煩悩に支配された、これも一つの不自由なのです。私たちは、こういう価値観の転換を促していかねばなりません。蓮如上人は、「弥陀(みだ)をたのめば南無阿弥陀仏の主(ぬし)に成(な)るなり」とおっしゃっています。欲望という煩悩を自らの主とせず、南無阿弥陀仏を主とした日暮らしを送りたいものです。

■月の光に照らされて -名月はながめる人の心にこそある-
よび続けの仏さま
お彼岸も過ぎ、日暮れも一段と早くなり、夜空にはお月さまや星が輝く季節となりました。名月もこの季節ならではの美しさです。お月さまは、私がどこにいようと、必ず付き添い照らし見守ってくれているように感じます。しかしながら、その美しさがわかる人は、ながめることのできた人だけです。親鸞聖人のよき人、恩師である法然聖人は、
月影(つきかげ)のいたらぬ里(さと)は なけれども ながむる人(ひと)の心(こころ)にぞすむ ・・・と詠(うた)われました。
月の光は、野山や里をくまなく平等に照らしていても、その月をながめる人でなければその美しさは心に伝わらない、という意味です。「月影」は仏さまの光。「ながむる」とはみ教えを聞く「ご聴聞(ちょうもん)」のことです。親鸞聖人は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に「『聞(もん)』といふは、衆生(しゅじょう)、仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)を聞(き)きて疑心(ぎしん)あることなし、これを聞(もん)といふなり」と示されています。何を聞くかというと、阿弥陀さまが、必ず救うと誓われたご本願を建て、この私のために「南無阿弥陀仏」の六字となってよび続けていらっしゃったとお聞かせいただくのです。ところが、月と同様に、阿弥陀さまの大慈悲(だいじひ)に照らされていても、ながめる心、すなわち「ご本願の生起本末(しょうきほんまつ)」を聞くことなくしては、その美しさや有り難さが心に宿ることはありません。親鸞さまもそのご生涯を通して、「人間として生まれてきた悲しみ」を解決する道は、自力修行で解決できるものではなく、「南無阿弥陀仏」と照らされ届けられている六字の名号(みょうごう)のいわれを疑いなく聞く以外に、この私が救われていく道はないことを示されました。
「まことの保育」を
また、『教行信証』には、王である父を殺し母をも殺そうとしたアジャセ王子が、お釈迦さまの「月愛三昧(がつあいざんまい)」によって、その深い罪から救われていく姿が示されています。ここでも、お釈迦さまの光明が月の光にたとえられています。親鸞聖人もアジャセ王子が救われた姿に、わが身の救いを重ねておられたことでしょう。この愚かな身にも平等に、分け隔てなく照らす月の光によって、夜道でも安心して歩むことができるように、煩悩の尽きることのない「わが身」が照らされていることによって、安心して人生を歩んでいけるのです。妙好人(みょうこうにん)として知られる因幡(いなば)(鳥取)の源左同行(げんざどうぎょう)は、次の法座に誰を講師に呼ぼうかと相談されたとき、「誰でもよい、ご本願のいわれと、源左お前を必ず助けるということさえお聞かせいただければそれでよい」と答えたそうです。「ご聴聞」の場は人を選ぶのではなく、話される「み教え」を再確認する場であったのです。せっかく人間として生まれてきて、阿弥陀さまのご本願に照らされていながら、その月をながめることもなく「ご聴聞」もせず、もったいないことであったと気付かされ、ご本願を聴聞する場にこの身を置くことが何より大切なのです。
今、社会は高度成長期から、成熟社会へ移行しています。成熟社会を生きる私たちは、「ものの豊かさ」から「存在の豊かさ」を再確認する時代にあるといいます。私が勤める保育園は、北海道小樽市にある小樽別院の新光(しんこう)地区の説教所に開設されました。今年で創立51年を迎える、園児100人あまりの保育園です。まことの保育(仏教保育)の実践は、時代が変わっても変わることのない事柄と、時代の変化とともに変えていく事柄とがあります。保育園では、お参りの時に手を合わせ「仏参(ぶっさん)」をします。そして「みほとけさま! いつでもどこでも そばにいてくださってありがとうございます」と「奉讃文(ほうさんもん)」を全員で唱和しています。どんな子も、どんな時でも、いつでもどこでも月の光のように照らし見守ってくださる阿弥陀さまの「存在」を伝えていくことが、保育の使命であり、いつの時代であっても変わることはありません。阿弥陀さまは、すべてのいのちの「存在」に、救いの光を照らし続けてくださっているのです。 
 

 

■「念仏うり」-み教えの尊さを縁ある人に伝える-
拝まれて下さる仏
私が住んでいる地域は、浄土真宗の信仰が長い歴史とともに伝えられ、念仏生活が根付いているところです。私のお寺では10月に報恩講が修行されると、そのあとから、各家々の在家報恩講「おとりこし」のお参りに時間をかけています。私にとって、門信徒の方々と、先祖からいただいたお念仏の教えを語りあいながら、親鸞さまのご苦労やアミダさまのお救いが味わえる至福の時間です。若い頃に島根県有福(ありふく)の光現寺を参拝したことがありました。そのときにご住職からいただいた本に、「おがんで たすけてもらうじゃない おがまれてくださる 如来さまに たすけられて まいること こちらから おもうて たすけてもらうじゃない むこうからおもわれて おもいとらるること この善太郎」という味わいがありました。善太郎さんのこの徹底したご本願の領解(りょうげ)は、私に大きな影響をあたえました。心身にしみこんでありがたく、今では、お念仏を味わう導きになっているお領解です。純心にアミダさまの喚(よ)び声を心からうけとっておられます。善太郎さんのこのよろこびを味わっていると思い出すのが、蓮如(れんにょ)さまのお弟子として有名な道宗(どうしゅう)です。道宗の聴聞の心得は『蓮如上人御(ご)一代記聞書(ききがき)』一三一条に「同じお言葉をいつも聴聞しているが、何度聞いても、はじめて耳にするかのようにありがたく思われる」(意訳)とあります。蓮如さまは「いつも初事(はつごと)のようにご法義を聞くべき」とか、「耳慣(みみな)れ雀(すずめ)になってはいけない」などと、お聴聞の心得を申されていましたから、道宗はこのように生涯無心にお念仏をよろこんでいたのです。
油断あるまじき事
蓮如さまのお子さまの蓮悟(れんご)が著わした『拾塵記(しゅうじんき)』に道宗のことが書かれています。道宗は1年の大半を本山参りや同行(どうぎょう)の家を訪ねることについやしていたこと、そして同行といつもお念仏の話をして、アミダさまのお慈悲をよろこんでいたことが記されています。ある時、道宗が数人と本山参りをしたあと、ほかの同行が家に帰ったのに、道宗だけが帰ってこないことに心配した伯父の浄徳(じょうとく)が「一緒にお参りしたはずの道宗がまだ家に帰ってこないのだが、ご存じでしょうか」と同行たちにたずねました。すると、「道宗さんは念仏うりだから、いろんな人の家に泊まっているはずです。いつ帰ってくるのかはわかりません」と答えたそうです。「念仏うり」の意味がわからなかった浄徳は、それからだいぶ経ってから家に帰ってきた道宗に、「道宗よ、みんながお前のことを念仏うりと言っていたよ。これからはみんなと一緒に帰ってきなさい」とたしなむように言いました。これを聞いた道宗は、「どういう意味だろうか」といてもたってもおれません。すぐさま、京都の蓮如さまのもとに行き、事の次第を申しあげました。これを聞かれた蓮如さまは「道宗よ、結構なことではないか。何も心配することはない。お念仏をおおいに売り広めねばなりません。買い手が少ないですからね」と言われたそうです。この蓮如さまのお言葉に感じ入った道宗は、今までにもまして同行とお念仏の話に花をさかせていたといいます。
この時の「念仏うり」は売り買いの話ではなく、お念仏のありがたさ、アミダさまの尊さを縁ある人々に伝えるということです。念仏うりと揶揄(やゆ)した同行の心中は好意的なものではありませんが、ナモアミダブツのはたらきの中に生かされ生きている自分がうれしくて、まわりの人にお念仏をすすめずにはおれなかった道宗の生き方です。その生き方を一言で言えば、蓮如さまがご往生されて2年後に書いた「道宗覚書(おぼえがき)」にある、「後生(ごしょう)の一大事、いのちのあらんかぎり、油断あるまじき事(こと)」「ひきたてる心なく、大様(おおよう)になり候(そうろう)は、心中をひきやぶりまひるべき事」ということにつきると思います。豊かな生活環境にある今の私は、道宗のこの純粋な思いを受け取って生きているだろうかと省みるばかりです。

■一人で生きる力-宇宙全体の中に自己を見出す-
約束がつくる現実
遠方に嫁いだ娘が、2歳前の子を連れて1年ぶりに里帰りしました。娘の来訪の目的は、友人の結婚披露宴への出席です。披露宴の1週間前に帰ってきて、子どもを祖父になじませてから外出しようという考えです。孫は家に来てから、知らない家に来ての不安もあってか、トイレに行っても「ママ、ママー...」と付きまとう状況でした。娘が駅まで人を送っていって不在となった10分間も、やはり「ママは、ママは」と言い続けていました。1週間後の娘の外出は、午前11時から午後6時までの予定です。2時間くらいで泣きやむかな=@これが私の予想でした。さて当日です。私は朝から所用があって外出し、お昼頃に帰宅しました。きっと「ママは、ママは...」と泣いているだろうと思いながら居間に入ると、なんと祖母に見守られながらニコニコして、一人で遊んでいます。夜、娘が帰ってきた時に、「出かける時はどうだった」と確認しますと、「ママは今日はご用事で外出するけれど、夕方には帰って来るからお利口にしていてね。ナナちゃん(長男の子)も来てくれるからね」としっかり約束して、駅でバイバイしたとのことです。言葉には現実をつくっていく働きがあります。「明日、東京駅で会うという約束」によって、人と人が会う≠ニいう現実がつくられます。「広島支社に転勤を命ず」という辞令によって転勤≠ニいう現実がつくられていきます。母と子の約束によって、一人で過ごすという現実がつくられたのです。私には驚きでした。娘が自分の家に戻った後、私はなぜ幼児が母との約束を実行できたのかを考えました。それはおそらく今まで、生活の中で何度も「少し待っててね、すぐ来るから」といった約束という経験の積み重ねがあったからだと思われます。
一人でも一人でない
阿弥陀仏の約束を誓いと言います。「私を浄土へ摂(おさ)め取る」という誓願です。私は、この誓願を生活の中で受け入れて暮らしています。私がなぜ、その誓いを受け入れているのかを考えると、孫と同様に、過去の経験の中で私の念仏となり、私をみ教えを喜ぶ人間≠ノ仕上げ、誓いどおりにはたらき続けてくださっているという事実があったからなのでしょう。『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に「人(ひと)、世間愛欲(せけんあいよく)のなかにありて、独(ひと)り生(うま)れ独(ひと)り死(し)し、独(ひと)り去(さ)り独(ひと)り来(きた)る」とあります。お経(きょう)の言葉は、「ひとり」という孤独な人生の事実を伝えたものです。
そのひとり≠ノついて、ウィニコット(1896〜1971)は「一人でいられる能力」という重要な示唆(しさ)を与えてくれています。ウィニコットは、イギリスの小児科医・児童分析家で、40年以上にわたり6万例の臨床経験を基盤に、独自の視点から母子の対象関係論を発展させています。ウィニコットが教える「一人でいられる能力」は、乳幼児期に開発されるものだそうです。常に親が自分のことを守ってくれているということを体験として理解した乳幼児は、物理的に親が傍(そば)にいなくても、いつしか善意にあふれた心地よい環境に深く安心し、ひとり遊びができるようになる。この安心感を伴ったひとり遊びは、悲観的な孤独体験とは全く正反対で、安心して自ら未知の世界へと向かって行くことのできる孤独だといいます。この能力によって、人は他者といることでひとりでいられるようになり、ひとりでいられることによって他者と一緒にいられるようになるのだそうです。
「一人でいる能力」とは、一人でいても一人でない≠ニいった感性です。逆に、一人でいる能力が阻害されると、「独房に監禁されていて、それでも一人でいることができないということがありうる。こうした人が、いかに苦しむかは想像を超える」とウィニコットは語っています。浄土真宗は、阿弥陀さまによって「一人でいられる能力」が育(はぐく)まれていくのでしょう。その能力は「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(歎異抄)と示されるように、宇宙全体の生命の中に自己を見出(みいだ)すというほどに、力強いものなのです。

■決してすてない -いつもわたしとご一緒の南無阿弥陀仏-
悪いのは母のほう
私の自坊は滋賀県高島市にあります。坊守である母は、本堂でのお朝事(あさじ)を終えると、そのままお内仏(ないぶつ)に行き、おつとめの後、法話集を声に出して読んでいます。私は以前、母の念仏申す姿を他人事のように思い、理解しようとしていませんでした。それは、私が小さい頃から母とあまり気が合わなかったからでした。母は私の自由な行動に腹を立て、私も母の命令口調に腹を立て、よく言い争いになっていました。私はずっと母に原因があるのだと、相手にすべての責任を押しつけていました。大人になって一人暮らしを始め、母の干渉から解放されると思ったら、今度は母からの電話です。その電話を煩(わずら)わしく思い、私が「もう切るで」と強い口調で言うと、受話器の向こうから、「ナンマンダブ ナンマンダブ」という母の声がするのです。私はその声を聞くのが嫌で、「もうやめて!」と怒り、すぐに電話を切っていました。電話のたびに同じことが続くので、母からの電話に出るのが億劫(おっくう)になっていきました。その後、浄土真宗のみ教えを学ぶようになり、お得度もさせていただきました。それからは、お参りの手伝いで自坊へたびたび帰るようになりましたが、母との関係はうまくいきませんでした。その頃母は、体の不自由なご門徒や一人暮らしのお宅に、作ったごはんのおかずを持って行ったりしていましたが、私には何が母をそうさせるのか全くわかりませんでした。ある日、自坊でのお参りが終わり、車で帰ろうと運転し始めると、見送ってくれている母が手を合わせて合掌し、「ナンマンダブ ナンマンダブ」とお念仏申している姿が車のミラー越しに見えてくるのです。その道中、母はなぜ合掌していたのか...と考えつつ、これまでの母との出来事を振り返ってみました。
知らず知らずに・・・
小学生の頃、寝坊した私を自転車の後ろに乗せ、大急ぎで学校まで送ってくれたり、破れた服を夜遅くまで直してくれたり、体が痛む時にはマッサージをしてくれたりもしました。また、学校に行くのが嫌になった時には、母は怒ることなく理由も聞かず、ただ黙って美術館や映画館に連れて行ってくれました。それだけ私のことを思ってくれた母に対して、なかなか感謝することができず、それは歳を重ねてからも変わることがありませんでした。私の口から出るのは汚い言葉や悪口ばかりです。そんなことを思い返していると「南無(なも)阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と私の口からお念仏がこぼれていたのです。
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
これは、あらゆる世界において、阿弥陀仏の名号(みょうごう)のいわれを信じて念仏する衆生を、光明の中に摂(おさ)め取って決して捨てることなく、必ず往生成仏させてくださるのが阿弥陀という仏さまである、という親鸞聖人のご和讃(わさん)です。母は、阿弥陀さまのご恩に報いる生き方を依りどころとする、お念仏中心の生活を送っていたのです。念仏申す母の姿は、まさに阿弥陀仏の大悲心に抱かれた「念仏の衆生」であったのです。私は母に原因があるとばかり思い込み、母の思いに気付こうともしませんでした。いつも反発し、全く阿弥陀さまのお心に気付こうともしない愚かしい私の姿が、本当の自分の姿であると知らされました。同時に、母の念仏申す生きざまを通し、途切れることのない南無阿弥陀仏のおはたらきが、この私を知らず知らずのうちに念仏の衆生へと育てあげてくださったのです。
これまで悪口しか出なかったこの私の口から、今「南無阿弥陀仏」とお念仏がこぼれてくださっています。阿弥陀さまの願いである南無阿弥陀仏の名号が、この私といつもご一緒してくださっているのです。だからといって、自分中心に物事を見てしまう限り、母との関係がうまくいくかはわかりませんが、今はただ、阿弥陀さまの大悲のお心に出あわせていただいていることをよろこばせていただき、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すばかりです。

■再発見 伝統の意義 -ストレス多い現代こそ、お寺が心の支えに-
報恩講
「報恩講」 金子みすゞ
「お番」の晩は雪のころ、雪はなくても暗(やみ)のころ。くらい夜みちをお寺へつけば、とても大きな蝋燭(ろうそく)と、とても大きなお火鉢(ひばち)で、明るい、明るい、あたたかい。大人はしっとりお話で、子供は騒いじゃ叱(しか)られる。だけど、明るくにぎやかで、友だちゃみんなよっていて、なにかしないじゃいられない。更(ふ)けてお家へかへっても、なにかうれしい、ねられない。「お番」の晩は夜なかでも、からころ足駄(あしだ)の音がする。
今は、ちょうど「お番」(報恩講・お取り越し)の季節です。ついこの間まで当たり前だった、この光景が、今は、むしろ珍しくさえ感じます。近所の人たちが、こぞって大人も子どもも、お寺に集まって、寒い夜でも心の底から暖かい、一年に一度の地域の特別な集い。それが報恩講でした。お寺だけでなく、各家庭でも、また地域の集落でも行われてきました。しかし、現在、地方の各地の「お講」は、昨今の社会構造の激変により、壊滅的な打撃を受けています。私の地元でも、講中(こうちゅう)の維持が困難な状態となっています。これまでずっと、行政の「区や組」とは別に、むしろそれ以前から「講」という地域の集まりがあり、この「講」は、毎年の報恩講(地域によっては毎月の法話会もありました)と、講員の葬儀とが主な行事で、これが求心力となって維持されてきました。昔「村八分」という言葉があった時代、「八分」のあとの二つが火事と葬式で、「村八分」にされても、火事と葬儀の二つだけは近所が助け合ったと言われています。
自分の都合が横行
ところが、近年、「会館葬」の急増により、求心力の大きな柱が失われてしまいました。葬式には、大変な労力がかかります。これまでは、「お互いさまだから」と、近所の人たちが力を合わせて、一大行事を出してくれていました。それが、「近所に迷惑をかけない」という美名の下(もと)に、葬儀会館という合理的な請負い業者に任せるようになり、講の存在意義が薄れ、新しく講に入会する人がなくなってきたのです。そのため、今や報恩講だけ継続するのがやっとという状況です。お互いに助け合うという意識よりも、自分にメリットがないものには関わりたくないという、「自分の都合主義」が横行しているということなのでしょうか。これは、ご法義の集まりだけではなく、行政の区や組の話し合いでも、学校の保護者会でも、参加数は減少する一方のようです。
他人と関わることを「わずらわしい」と感じるのは、人間関係や気遣(きづか)いに疲れている表れかもしれません。確かに、現代は、さまざまな不安が押し寄せてきて、ストレスに押しつぶされそうになりますし、気心の知れない人と関わるには、大きなエネルギーを要します。しかし、その一方で、人間関係に疲れた現代だからこそ、人は「つながり」を求め、優しい心や、心の支えを必要としてもいるのです。要は、お寺が、その「受け皿」を、どう提供できるかにかかっています。気心の知れない人との関わりは疲れますが、お念仏という同じ価値観を持つ者には、何より安心感があります。そして、心の底から支えてくださる阿弥陀さまのお慈悲につつまれ、お念仏のやさしい心でつながった集まり、お寺がそういう存在として、再認識してもらえたらと願ってやみません。「報恩講」には、実は、その要素が詰まっています。先人たちからの伝統の意義を、私たちが再発見し、自信を持ってつとめていきたいものです。

■妙好人に学ぶ-わが身を振り返り、ますます聴聞を-
現代にはいない?
妙好人(みょうこうにん)、この言葉は、もともとは『仏説観無量寿経』に「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中(にんちゅう)の分陀利華(ふんだりけ)なり」と、念仏者を分陀利華、蓮華(れんげ)の中でももっとも高貴とされる白蓮華(びゃくれんげ)と喩(たと)えられていることによります。さらに、この言葉を七高僧のお一人である善導(ぜんどう)大師が解釈され、念仏者を、人中(にんちゅう)の好人(こうにん)、妙好人(みょうこうにん)、上上人(じょうじょうにん)、希有人(けうにん)、最勝人(さいしょうにん)と五つの名でほめたたえられ、ここに「妙好人」という言葉が出されます。真実の信心を得た念仏者をほめたたえる言葉として「妙好人」が出てきますが、それとともに、真宗門徒の中でも特に篤信(とくしん)の念仏者を指して「妙好人」という言葉が使われるようになってきます。これは、江戸時代の仰誓和上(ごうせいわじょう)が見聞された篤信の念仏者を『妙好人伝』という書にまとめられたことに始まり、以来、大和(やまと)の清九郎(せいくろう)さん、讃岐(さぬき)の庄松(しょうま)さん、因幡(いなば)の源左(げんざ)さん、石見(いしみ)の才市(さいち)さんなどが有名な妙好人として知られています。
妙好人のお話をうかがうとき、「ありがたい念仏者の方がおられたのだな、私も先徳のように阿弥陀さまのおはたらきを味わっていきたい」という思いを抱くとともに、どこかで、「妙好人は昔の人」という思いを抱いていました。私は平素、京都にある中央仏教学院に勤めています。学院には、通学して仏教・真宗の教えやおつとめを学ぶ、いわゆる全日制の学校とともに通信教育があり、私は主に通信教育に携わっています。この通信教育に携わる中で「妙好人は昔の人」という思いが変わってきました。通信教育は、家庭にいながら、仕事をもちながら、仏教・真宗について学んでいくという教育制度です。親鸞聖人ご誕生800年、立教開宗750年を機縁に1972(昭和47)年に創設され、以来45年、3万5000人以上の方が入学されています。
自分の都合が横行
通信教育は、配布される教材を通して、受講生がそれぞれに学びを進めていきますが、その教材の中に、毎月、受講生のもとに届けられる『学びの友』という小冊子があります。その第1号(1972年9月)の中に「忙しいので勉強ができない 忙しいので手紙が書けない 忙しいので掃除ができない なるほど それじゃあ多分 忙しいので死ねないだろう」という法語が掲載されています。いざ仕事をはじめたり、家庭を持ったり、子育てがはじまったりすると、学校に通って勉強するということが非常に難しくなります。そういった中で、学びたいという思いを持ち、実際に通信教育に入学するという行動を起こされている方がおられます。まして、資格や趣味の勉強ではなく、仏法、親鸞聖人の教えの学びです。
『蓮如上人御一代記聞書(ききがき)』に上人は、「仏法には世間のひまを闕(か)きてきくべし。世間の隙(ひま)をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり」とのお言葉を遺されています。真剣に仏法を聞いていくことは本当に難しいことかもしれませんが、仕事を持ち、家庭を持ち、忙しい中で時間を作り、仏法を聞いていこうとする方がおられます。
こうした通信教育の受講生と出会い、交流を深める中で「妙好人は昔の人」という思いはすっかり薄れ、今の時代においても確かに妙好人はおられるという思いが強くなってきました。それぞれにさまざまな思いを抱いて受講されていますので、一概には言えないかもしれませんが、少なくとも、私には今の時代にも妙好人はおられる、そのように感じられます。ただ、妙好人との出会いは「篤信の念仏者がおられる。有り難いことだ」という話では終わりません。仰誓和上も、大和の清九郎さんと会われ、「誠に我が身のあさましきことも実に思い知られて、かかる広大の御恩を何とて喜ぶ心のなきやと恥(はず)かしみ」と述べられています。はたして私自身はいかほどに如来さまのおはたらきをしっかりと聞けているのであろうかと恥じ、自省する思いが湧いてきます。通信教育だけでなく、お念仏をよろこばれている方々がたくさんおられます。有り難く思うとともに、わが身を振り返り、ますますの聴聞を重ねてまいりたいと思います。

■お念仏のある人生 -父母のように導いてくださる釈迦・弥陀-
先人のおかげで
私もいつのまにか、今年で古希(こき)を迎えました。この人生を空(むな)しく過ごしてはもったいない、と歳を重ねるごとに願っているのですが、その実情はお恥ずかしいばかりです。昨晩、前門さまのご著書『人生は価値ある一瞬(ひととき)』を一気に二度読みしました。その「まえがき」に「外見的には困難に見える人生でも、目に見えない大切なものをわが身に持っているならば、こころ豊かな、空しくない人生となりましょう。目に見えない大切なものとは、一人ひとり、縁によって獲得するべきものですが、私にとっては、仏教の教えです」とあるお心は、この歳になればより深く心にしみてきます。私にとって浄土真宗のみ教えは生きる支えですが、これまでに多くの方々の著書やお言葉に導かれて歩いてきた人生です。
甲斐和里子(かいわりこ)先生の歌に、「ともしびを高く掲げてわが前を行く人のあり小夜中の道」があります。晩年の瓜生津鱆チ(うりゅうづりゅうしん)先生が、「いいお歌だね」と、ほほ笑みながらお話になった姿をなつかしく思い出します。今、この歌が伝えようとする和里子先生の心が届いてきました。私がよろこんでいる浄土真宗のみ教えは、私が親鸞さまの教えを勉強し解釈して身につけたものではありません。すべては先人のよろこんだ心をうけついでいるものばかりだと知らされました。ある人がこんなことを書いていました。私たちは、干しシイタケやかんぴょうをそのまま食べることはできないが、一度水にもどして、それに味をつけて煮付けるとおいしくいただけるように、難解と思える教えも、領解(りょうげ)した人に教えられると、自分の生活のうえで有り難くいただけると。本当にその通りだと実感します。
煩悩があってこそ
私はお目にかかったことがありませんが、一昔前に多くの念仏者が尊敬していた池山栄吉先生は、晩年に大病にかかったそうで、お見舞いにきた人に、「病中ただ念仏ひとつで何もかも始末がついていたが、それでよさそうなのに何か物足りない気がしていました。あるときに気がつきました。それは自分のうちにいろいろの煩悩(ぼんのう)が、花道にひかれた役者のように出番を待っているのに気づきましたよ。そこで初めてしっくりとお念仏が味わえるようになりました。あくまで煩悩があってのお念仏ですよ」と語られたそうです。このご領解(りょうげ)に多くの念仏者がみちびかれてきたのです。浄土真宗の信仰に生涯お念仏をよろこばれたもう一人の念仏者を紹介しておきます。その人は臼杵祖山(うすきそざん)先生です。病床のなかで、「大いなるめぐみのなかにめぐまれてめぐみも知らでみ恵みに生く」という歌を残されました。
臼杵先生の口ぐせは「めぐみによってめぐみをいただく」だったそうです。いつもアミダさまと向き合いながら、わが身を知らされ、称名(しょうみょう)念仏のなかに生きられている尊いすがたが彷彿(ほうふつ)として思いおこされます。親鸞聖人は『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』に、「釈迦は慈父(じふ)、弥陀は悲母(ひも)なり。われらがちち・はは、種々の方便(ほうべん)をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり」と、釈迦・弥陀を父母にたとえられます。釈迦・弥陀は善巧(ぜんぎょう)方便で私たちを導いてくださっているのです。今、こんな私がご本願を有り難くいただかせてもらってお念仏を申すのも、まったくアミダさまのおはたらきのおかげといわずにはおれません。「わが名を称(とな)えるものを必ず救いとげないと正覚(しょうがく)をえない」とのアミダさまのお誓いが有り難く身にしみてきます。ご本願を信じお念仏を申している自分が不思議で、また有り難く感謝しています。一年一年歳をかさねるごとに、蓮如上人が歌われた、「ひとりでも行かねばならぬ旅なるを弥陀にひかれて行くぞうれしき」を有り難く味わっています。いつもお念仏がある人生だからこそ、人生を空しく感じることなく、喜怒哀楽のなかに有り難い毎日を過ごしています。

■阿弥陀さまの処方箋 -「無自覚性自己中心症候群」の私へ-
"ほんとうの私"
あるお医者さんから聞かせていただいた話です。60歳くらいの男性患者さんが顔をしかめて、お腹(なか)を押さえながら診察室に入って来ました。患者「先生、ワシはどうも肝臓が悪いようです。すみませんが肝臓の薬を出してください...」 医師「えっ? まだ肝臓かどうか、わからないでしょ。まあ、とにかくここに横になってお腹を診(み)せてください。(患者のお腹を押さえながら)ここはどうですか? ここは...?」 患者「そ、そこ...、そこが痛いんです」 医師「ほらほら、ココは肝臓じゃありませんよ。腎臓が腫(は)れていますね」 おそらく、この患者さんは、「若い頃から毎晩酒を飲み続けてきた自分のことだから、腹が痛くなったのは肝臓の病気のせいだろう」と自分の知識で診(み)たてたのでしょう。そんな患者さんが言う通りに肝臓の薬を出したとしても、腎臓の病気は治りません。診たてるのは、きちんと医学を学び、確かな医術を身に付けた医師にお任せしたほうがよいでしょう。そして、医師から自分の病気に応じた薬を処方してもらって、病気を治すことができるのです。同じように「ほんとうの私」もまた、自分で診たてたのでは、わかりません。あるお寺の掲示板にあった「人間みんな裁判官。他人は有罪。自分は無罪」という言葉のように、自分の診たては、どこまでも自分中心で、ご都合次第で変わる、いい加減なものです。ですから、仏さまの教えをお聴聞(ちょうもん)することは、「自分の物差し」で自分を省(かえり)みる「反省」とは違います。間違いのない仏さまの智慧(ちえ)によって診たてられた、自分では気づくことのできない「ほんとうの私」を知らされることでしょう。
私のための六字丸
親鸞聖人は、阿弥陀さまが診たててくださった私の姿を、「無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身(み)にみちみちて、欲(よく)もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念(いちねん)にいたるまで、 とどまらず、きえず、たえず」と『一念多念証文(いちねんたねんしょうもん)』にお示しくださいました。ちなみに、阿弥陀さまの診たてによる私のカルテにある病名を味わってみますと、「無自覚性自己中心症候群」「先天性不治癒型悪性傲慢(ごうまん)炎」、そして「瞬間湯沸器(ゆわかしき)型地獄直行性立腹病」など、次から次に出てきます。そんな私に対して、阿弥陀さまの処方箋(せん)によって調(ととの)えられた薬が「南無阿弥陀仏」の名号です。その主成分は、私にはとてもできない修行や善根(ぜんこん)の功徳(くどく)です。ちょっと善(よ)い行(おおな)いをしても相手からお礼がなければ腹を立てたり、修行を10年すると、3年の修行をした人に対して7年の差を威張ってしまう「重病人」の私のための薬です。
その薬を服用する(念仏申す)とき、不治癒型の(治ることのない)病気を抱えたまま、いのちいっぱい自分の人生を引き受けて歩んでいくことができます。そして、この命が尽きるとき、すべての病気から解き放たれ、死なないいのちを恵まれます。昔の先輩はこの南無阿弥陀仏のことを、飲むだけでよく効(き)く丸薬(がんやく)にたとえて、「六字丸」といわれました。一錠(じょう)の新薬が出来上がるまでには、その研究・開発のために膨大な時間と手間が費やされると聞きます。南無阿弥陀仏の六字丸も、聖典のお言葉に引き当てていうならば、阿弥陀さまの「五劫(ごこう)」「兆載永劫(ちょうさいようごう)」という思いも及ばないほどの永い時間にわたる「思惟(しゆい)」(研究)と「修行」(開発)によって仕上げられました。しかし、どれほど薬の効能や成分を理解したとしても、それを飲まなければ病気は治りません。同じように「南無とは...」「 阿弥陀とは...」と、南無阿弥陀仏の説明で本が一冊書けたとしても、この私が迷いから離れることはありません。六字丸は、飲みやすい糖衣(とうい)錠のように称えやすい言葉として処方されています。薬を口に飲むように、ナモアミダブツ、ナモアミダブツとお念仏申す中に、この私を心配し、「われにまかせよ。必ずすくう」と、よび続けてくださる仏さまの願いをいただくのです。

■心の基礎工事 -ひと声ひと声のお念仏に仏さまのお慈悲が-
闇は闇を破れない
もう来月で、あの東日本大震災から、まる6年、つまり七回忌を迎えることとなります。いまだに復興のスタート地点にも立てない方も多いと聞き、その爪痕(つめあと)の大きさには、今も言葉が見当たりません。昨年の11月にも福島では津波の発生する比較的大きな地震が発生しましたし、昨年だけでも熊本や鳥取などで大きな地震が起こりました。日本列島は、四つのプレートの上に乗っていて、これらのプレートは絶えず動いているために、徐々にではあっても、必ずひずみが生じ、言わば半ば定期的に地震は起こるもののようです。こういった地殻変動などの自然現象に対しては、人間の知恵も力もまったくの無力です。人間の力で地殻変動を押さえ込むことはできません。少し乱暴な譬(たと)えかもしれませんが、私たちの心の底深くには、六大煩悩(ぼんのう)という、煩悩の大きなプレートが六つあり、これが絶えず活動しているために、百八もの煩悩現象として表われ、時にこれが大激震や大爆発を起こすことさえある。そういう状態ではないかと思うのです。そうすると、この煩悩の活動自体は、人間の力では、どうしようもないのではないでしょうか。生身の人間には、暑い時は暑いし、寒い時は寒く、痛い時は痛いし、眠(ねむ)い時は眠いものです。「心頭(しんとう)を滅却(めっきゃく)する」ことは、少なくとも私には不可能で、親鸞聖人が「煩悩具足(ぐそく)」「煩悩成就(じょうじゅ)」と言われたのは、このような意味をおっしゃってくださっているように思います。さらには、煩悩は、煩悩の力で、それを退治することはできません。闇(やみ)の力で、闇を破ることができないのと同じです。しかし、千年の闇室(あんしつ)も、一瞬の光で、たちまちに、その闇が破られるように、私たちの無明(むみょう)煩悩は、仏さまの光に出値(であ)う以外に、破られることはありません。
経験知を生かして
人間の力で地殻変動などの自然現象を止めることはできませんが、私たち人間には、あの悲しい経験知を生かして、これからいつどこで起こるかもわからない地震や台風などの被害を最小限に止めることのできる知力はあるでしょう。ある人の譬(たと)えでは、「身長が2メートルになれと言われても、それはできないが、2メートル上の棚の上にある物を取れと言われたら、はしごや台を持ってくれば取ることができる」と言っておられました。できることと、できないことを見分けることが重要です。津波の被害に遭った経験知によって、高台への移転や避難訓練など、実際に効果が表われたものも多いと聞きます。阪神大震災の後も、耐震基準をより厳しくし、新しい基準より後に建てられたものと、それ以前の建物とでは、地震に対する強度が大きく違い、熊本の大地震などでも、倒壊した建物は、そのほとんどが、基礎のしっかりしていない、古い建物だったと聞きます。
このことを思うとき、先人の「お念仏は心の基礎工事」との言い伝えを思い出します。いつ、何が起こるかわからない、この娑婆(しゃば)世界において、逆境によっても崩(くず)れにくい、心の基礎工事が必要だ、との先人の知力を物語っていると思います。特に、今の時代は、物質的には恵まれて暮らしているだけに、その恵まれた状態を「当たり前」と思い込んでいたら、いざ、大きな逆境に出あったときには、簡単に負けてしまうことになりかねません。お念仏が、なぜ「心の基礎工事」なのでしょう。お念仏申すひと声ひと声の中に、阿弥陀さまのお慈悲が、私たちの心の底から、いのちの底から、支えてくださっているからだと思います。悲しいときや、つらいとき、あるいは腹が立ったときなどに、静かにお念仏申してみますと、なぜか少しずつ心が和らいでくることが実感できるでしょう。やはり、これも、仏力・他力のはたらきでした。如来さまのお慈悲の支えを、あらためて、ありがたく思えるひと声ひと声です。

■去りゆく人が残すもの -すべてのいのちがつながっていくみ教え-
歌人・中城ふみ子
遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ
東京・杉並区に築地本願寺の墓所「和田堀廟所(びょうしょう)」があります。古賀政男や樋口一葉などの有名人の墓もあります。先日、法話に招かれたおり、境内を散策していると、新しい区画の中に故渡辺淳一氏のお墓がありました。『失楽園』などで有名な作家です。私は渡辺淳一氏の小説では『冬の花火』だけ読んだことがあります。戦後の代表的な女性歌人・中城(なかじょう)ふみ子(1922〜54)を小説で書いたものです。冒頭の歌は、その中城ふみ子が詠(よ)んだものです。北海道の帯広に生まれ、20歳のときに鉄道技師の男性と見合い結婚。3男1女を出産し、離婚。乳がんで片方の乳房を切除(1953年)、翌年に再発し、2月に肺臓への転移を宣告されました。そして8月3日に病死、31歳の若さでした。亡くなった年に出版した、川端康成の序文を付けた処女歌集『乳房喪失』は、歌集としては異例のベストセラーとなっています。
渡辺淳一は、中城ふみ子が札幌医大病院で亡くなった時、その大学の医学部1年でした。中城ふみ子とは、直接には会っていませんが、「偶然先輩の医師を訪ねて放射線科の詰め所に行った時、暗い病棟と、そのなかで迫り来る死を待っている人々の群を見た」と、当時、中城ふみ子が置かれていた現場を語っています。魚店を営む両親、乳がんの治療、子育て...、子らに残す遺産は、おそらく皆無であったことでしょう。冒頭の歌は、その遺産のない状況の中で、命には終わりがあります。その終わりのある命を生きているのです≠ニいう事実を、自(みずか)らの死をもって子らに残し置きますという歌です。「死」は、去りゆく人が最後に残してくれる、大切な教えでもあります。
"お念仏になる"
10年前に往生した父に、生前、「浄土へいったら何がしたいか」と聞いたことがあります。父は僧侶で、食道がんを患い、治癒の見込みもない状態でした。私がなぜそのような質問をしたかというと、毎月、訪問する老人ホームで、こんなことがあったからです。92歳の老婦人が、いつもお訪ねすると、亡くなられたお父さんの悪口を言うのです。あるとき、「Tさんも、この先、そう長い人生ではありません。お浄土へいったら、お父さんがいるから、直接、なじったらいいですよ」と言うと、寂しい顔をされました。そのとき私は、「Tさんは、浄土で父親に会うということが想像できないのだ」と思いました。見て聴いて知って、という自分の常識に納まることしか思えないんだ、そう思ったとき、私は、自分のいのちが終わった後、仏に成って、2500年前の仏さまの教えを直接聞こう...と楽しんだり、意外と自由にいった先のことを思うことができたのです。そのような思いがあったので、父に「浄土へいったら何がしたいか」と聞いたのでした。そのとき父は、少し沈黙があって「ん、南無阿弥陀仏の念仏になる」と言いました。
父が、なにを考え念仏になると言ったかは問いませんでした。しかし今、父から有り難い言葉をいただいたと思っています。南無阿弥陀仏...と称(とな)える中に、この念仏のお心を教えてくださった親鸞聖人に出会うこともあります。また、南無阿弥陀仏...と念仏しながら、30代で往生した浄土真宗の伝道に燃えていた友のことを思うこともあります。いま南無阿弥陀仏...と称えながら、この浄土真宗というみ教えにふれる環境に育(はぐく)んでくれた父のことを思っています。私たち浄土真宗の者は、お浄土に至ってなき方々と出会うということも有り難いことですが、それ以上に、いまこうして南無阿弥陀仏...と称える中に、先にゆかれた方々とふれ合っていける。これがなんとも有り難いことです。中城ふみ子は遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ≠ニ詠(よ)みました。私の父は父が唯一のものとして残しゆく「南無阿弥陀仏」を子らは受取れ≠ニ残してくれたようです。父とのご縁が念仏で結ばれている。父だけではない、すべてのいのちとつながっていけるみ教えが浄土真宗という仏道です。

■ご法義の風邪をひく -死を超えていく人生を歩む-
咳のようなお念仏
2月は旧暦で「如月(きさらぎ)」ともいいます。「如月」の由来は、寒さに対応するために「着物を更(さら)に重ねて着る=着更着」というぐらい、一年で一番寒い時季を迎えました。暖房のせいで室内は乾燥し、寒暖の体温調整に体力も奪われ風邪(かぜ)もひきやすく、インフルエンザ流行の注意喚起も出される季節です。恥ずかしながら、私もこの時期になると、なぜか必ず風邪をひいてしまいます。そんなとき、「石見(いしみ)の才市(さいち)」として知られる、島根県大田市・温泉津(ゆのつ)の里の妙好人(みょうこうにん)・浅原才市さん(1850〜1932)の詩(口(くち)あい)をいつも思い出します。
かぜをひけば せきがでる さいちが ごほうぎのかぜをひいた ねんぶつのせきがでるでる
本願念仏に出遇(あ)って、意図しなくても風邪をひいたときの咳(せき)のように、お念仏があふれ出ることを喜ばれ、口あいにされました。親鸞聖人は「真実の信心はかならず名号(みょうごう)を具(ぐ)す」と示されました。お念仏が咳のように才市さんの口からあふれでた姿がうかがえます。私が学生時代に才市さんのお手次(てつぎ)の安楽寺を訪問し、ご門徒に才市さんの思い出をお尋ねしたとき、その女性は「私は祖母に連れられ、何もわからずにお寺にお参りしていましたが、才市さんはいつも法座では一番前に座られていて、ご法話の途中にあたった≠ニ何回も立ち上がられ、それを数えるのが楽しみでした」と話されたことを思い出します。才市さんは法座の中で、聞かせていただいたご法話の内容が自分のことに思い当たった時、「あたった!」と飛び上がり、身をもって納得されていたのでしょう。その姿が、その女性のご仏縁を結ばれるきっかけになったとのことでした。
燃え盛る煩悩の身
才市さんの姿は、頭に二本の角(つの)がはえている肖像画が有名ですが、自身の中に潜(ひそ)む煩悩が燃え盛る、角の生えた鬼のような姿そのままで救われるという「ご信心」の姿を表したものといわれています。正信偈の「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」を、鬼の姿そのままで救われていく合掌の姿で表わされたのでした。風邪をひくことは誰しも好まないものですが、才市さんは風邪をひいて咳が出るように「ご法義の風邪をひいた」と、ご本願に出遇えた喜びをわが身に引き当てて、お念仏があふれんばかりに口元からでることを口あいにして再確認されたのでした。仏教の原点は、肉体がある限り誰もが避けることのできない「死」を自らの問題として、「死を超えていく人生の道」を示すことです。そして「生死(しょうじ)出(い)づべき道」を求められ、解決の道を示されたのが親鸞聖人でした。
親鸞聖人は『高僧和讃』に、
本願力(ほんがんりき)にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし
「阿弥陀如来の本願に出遇(あ)ったものは、人生が空(むな)しく過ぎるということはない。それは大海の水が隔てなく満ちているように、阿弥陀如来の功徳のおはたらきは、煩悩にまみれた私たちにも、分け隔てなく満ちわたる」 弥陀の本願力に遇うことは、「死」は単なる「死」ではなく「死んで往(ゆ)ける道=浄土への道」であることを示されました。一部の限定された者だけが救われる教えではなく、浄土真宗のみ教えは、誰もが、いつでもどこでも隔てなく、煩悩を抱えたそのままの姿で救われていく、開かれた浄土への道を歩む在家仏教としての道でした。2月は一年の中でも最も寒く、風邪のひきやすい季節ですが、才市さんがご法座で率先して一番前の席に座って聴聞され、「ご法義の風邪をひいた」と、角のはえた、煩悩を抱えたまま合掌し救われていくことを喜ばれた姿を思いつつ、ともに「ご法義の風邪」をひかせていただきたいものです。 
 

 

■永遠に見捨てない救い -逃げる私をどこまでも追いかけて-
いざ減量となると
外出時に私は、デジタルカメラを持ち歩くようにしています。食事の際、これからいただく料理を撮影するためです。もう5年以上も行(おこな)っている日課ですので、私のまわりには食前に写真を撮っていることを知っている方が増えてきましたが、その様子を初めて見る方からは、「何のために撮っているの」「ブログに投稿しているの」などと聞かれることもあります。しかし、そのような理由から撮影しているわけではありません。毎食の写真を撮影するようになったきっかけは、医師から次のようなことを聞かれたからです。あなたは何を食べていますか? 1週間前の晩ご飯は何を食べましたか?医師からこのような質問を受けた私は即答することができず、とても恥ずかしい思いになりました。多くのいのちをいただいて生かされている身でありながら、具体的に何を食べたのかも忘れてしまっていたからです。医師はもちろんそのようなことを自覚させようとしたわけではありません。腎機能が低下していく病を患っている私に、食べた物が検査の数値に現れることを示し、18歳の時の標準体重に戻すことを勧められたのです。
いざ減量するとなると大変なことです。栄養士の方からはバランスの取れた食事をとるようにアドバイスを受け、私の身体に合った食生活として、塩分やたんぱく質の制限をうながされました。医師からは何度もこれらを「食べないように」と注意されました。それからは気をつけるようにしていましたが、それでも食べすぎているという自覚がなかったせいか、しばらくは目の前に見えた食卓のお菓子や人からふるまわれたご馳走を口にしたり、子どもの食べ残しを食べたりするなど、つい食べてしまいました。その様子を見かねた医師は入院をうながし、自分だけではなかなかできない減量を、医師の指導のもと半ば強制的に行うことになりました。数年かけて何とか標準体重に戻すことができましたが、大変苦労したとともに、病状が進行してしまい、もう少し早く取り組めばよかったという思いにもなりました。病であると聞かされていても、私にはそれができなかったのです。
わかっているけど
阿弥陀如来の本願の救いは、しばしば重病人に最善の薬を与え、力の限りを尽くして治療する医師の医療行為にたとえられます。病を患っている私に対し、医師は私の身体の状況をくまなく検査し診察して、私の病に合った適切な治療を施そうとします。けれども私は病の自覚症状が乏しいことから、病人であるにもかかわらず、医師が私のことを思って「食べないように」と指導してくださっていても、わかっていながらそのことを受け入れようとせず、食べてしまっていたのです。阿弥陀如来は、この医師と同じように重病人である凡夫(ぼんぶ)をくまなく見とおされて、その苦悩をわがこととして受けとめ、共に痛む心で、凡夫に合った「南無阿弥陀仏」のお念仏を与えようとはたらきつづけておられます。けれども凡夫はなかなか受け入れようとせず、背を向けて逃げまわっているのです。
親鸞聖人は、このような凡夫を救おうとする阿弥陀如来のはたらきを「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」と表されています。『浄土和讃』の「摂取してすてざれば」の句の左側には小さな字で、「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」と記されています。「ひとたびとりて永く捨てぬ」とは、一度救い取ったならば永遠に見捨てることがないという阿弥陀如来のはたらきをいったものです。また、「ものの逃ぐるを追はへとる」とは、阿弥陀如来に背を向けて逃げまどっているこの私(もの)を、阿弥陀如来がどこまでも追いかけ、抱きとめてくださるはたらきを表したものです。食事の撮影をするたびに、逃げまどう私をどこまでも追いかけ、「われにまかせよ、必ず救う」と、はたらき続けてくださっている阿弥陀如来に抱かれていることを思い返しています。

■宝の山での生涯 -前坊守の遺産を受け継ぐ人生に感謝-
小さいまま花咲く
私が入寺したお寺の前坊守(ぜんぼうもり)(義母)が先日、往生いたしました。『往生要集(おうじょうようしゅう)』に「宝の山に入(い)りて手を空(むな)しくして帰ることなかれ」とありますが、前坊守の人生は、お念仏の宝の山に入り、阿弥陀さまのお慈悲をよろこぶ生涯でした。幼くして父である住職と死別した義母は、坊守と姉妹三人できびしい時代を生きてきました。
小さきは 小さきままに 花咲きぬ 野辺の小草の 安けきを見よ
という高田保馬(やすほ)先生の歌がありますが、義母の葬儀を通じて、この歌を思い出していました。先人から何百年と護(まも)ってきたお念仏の生活を、村のご門徒とともに大事にしてきた生涯は、世間からみれば名も知れぬ小さな花みたいな存在でした。しかし、いつもお念仏がこぼれ、笑顔のたえない、ありがたいおばあちゃんでした。お聴聞(ちょうもん)する日暮らしこそが人生の安らぎだと、身をもって伝え続けてくれたありがたい前坊守さんでした。
蓮如上人は「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。仏法においては、明日ということがあってはならない」ときびしくおっしゃっています。ご本願はまさに私のためであったと信ずることができれば、人々は恵まれた人生を空(むな)しく過ごすことはありません。お念仏をよろこぶ生活のままが、阿弥陀さまとともに歩んでいる人生だからです。甲斐和里子(かいわりこ)先生と弟である足利瑞義和上(ずいぎわじょう)とのありがたい会話が残っています。姉の和里子先生が病中の弟の瑞義和上を見舞ったときのことです。「あんたは唸(うな)ってばかりいて、ちいっとも念仏がでておらんがな。どうしたことかのオ」と言うと、「いまさらにのう」と返答したそうです。そして、二人はお互いにほほ笑みながらうれしそうにお念仏したそうです。和上が亡くなる前日のことです。阿弥陀さまにいだかれてまさにお浄土へ往(ゆ)かんとするとき、「いまさらに...」のお念仏を二人でよろこばれたのです。ありがたいことです。
救急の大悲
十方微塵(じっぽうみじん)世界の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる ・・・と親鸞聖人は『浄土和讃(わさん)』に詠(よ)まれています。
阿弥陀さまのお慈悲をよろこび、阿弥陀さまを心の支えとしているご門徒はたくさんおられるでしょう。前坊守を偲(しの)びながら、このご和讃をありがたくいただくことです。この和讃から阿弥陀さまがどんな仏さまかがわかります。「名義(みょうぎ)」といいますが、親鸞聖人は摂取不捨(せっしゅふしゃ)(摂(おさ)め取って捨てない)から阿弥陀仏の名が成立していると味わっておられます。親鸞さまは「信心」や「念仏」を条件として阿弥陀仏が私を摂取するのではなく、むしろ阿弥陀仏の摂取不捨のはたらきによって、信心の身になさしめられるとご理解なさっています。
浄土真宗のご本尊は『観無量寿経』の「住立空中(じゅうりゅうくうちゅう)」(空中に住立したまふ)からきているといわれています。善導大師(ぜんどうだいし)はこれを、「立ちながら撮(と)りてすなはち行(ゆ)く。端座(たんざ)してもつて機(き)に赴(おもむ)くに及(およ)ばざるなり」と解釈されて、「立撮即行(りっさつそくぎょう)」の阿弥陀仏といわれています。撮(さつ)はつかみとることですから、生死(しょうじ)の世界に迷い苦しむものをつかみとってお浄土につれて行き、仏さまにしてくださる阿弥陀仏という意味です。阿弥陀仏の救いのはたらきが南無阿弥陀仏のお名号(みょうごう)なのです。私を救わんとはたらいているお名号こそが、私を救わんとはたらいてくださっている救急(くきゅう)の大悲なのです。このことを領解(りょうげ)していれば、お念仏の日暮らしがそのまま、阿弥陀さまと生きている証(あかし)であると、よろこびがわいてくるはずです。もったいないことです。

■代われないいのち -あなたよりあなたを思う方がいる-
同じ重さと値打ち
評判になった映画「この世界の片隅に」を観ました。戦前・戦中・戦後の困難な時代を生き抜いた一人の女性を通して、淡々と、しかし前向きに生きようとする人たちを描いたアニメーションです。タイトルのとおり、「この世界の片隅に」あるありふれた人生を、それでも必死に生きる姿に焦点をあてたとき、一人一人がその人にしか生きられないいのちのドラマを精いっぱい生きているんだという、至極当たり前の事実をいまさらながら感じさせられました。私たちは、いのちの尊さをあらわす時に「かけがえのないいのち」ということを口にします。かけがえがないとは文字どおり「掛け替え」、つまり代わりがないということにほかなりません。カレンダーも掛け時計も、時期が過ぎたり、修理しても動かなくなったらかけかえます。役割を果たせなくなったら無用の長物、いらないものになってしまいます。つまり役に立つか立たないかが物や道具の価値を計る物差しなのです。
それに対していのちは、代わってくれるものがないという特質をもつものだといえるでしょう。物や道具と同じく、社会的地位や役割もすべて代理がきくのです。副のつく役職があるというのがその証拠です。代わってその役割を果たす人がいるわけです。でも、いのちそのものは誰も代わってくれません。お経(きょう)にはこのことを「無有代者(むうだいしゃ)」(代(か)わる者(もの)も有ること無し)と説かれます。仏教は代わるものがいないというこの一点において、すべてのいのちは等しく同じ重さと値打ちをもつものと教えてくれます。私がこの世から消え去っても、社会は何事もなかったかのように昨日と同じく過ぎていくのでしょう。しかし、私の存在をこころから大切に思ってくださっている人から見たら、私がいるのといないのでは世界は一変してしまうほどの大事件なのです。大切に思うとはそういうことでしょう。
知恵と慈悲を実感
このたびの伝灯奉告法要の協賛事業として募集された「今 あなたに 伝えたい言葉」の最優秀賞に選ばれたのは「あなたよりあなたを思う方がいる」という言葉でした。私のいのちの大切さは自分自身が一番よく知っていると思っていましたが、どうもそれは危(あや)ういようですね。物事が順調にいっているときにはいのちは大切といいながら、逆境に立たされると反対のことを、つまり自分の存在がひどくつまらなくて意味のないもののように思われたことはないでしょうか。「あなたよりあなたを思う方がいる」という言葉は、どんな時でも変わることなく私を大切に思い続けている方がいてくださるということを伝える言葉と味わいました。そんなまなざしが私の上に注がれ続けていたのですね。
お経やお正信偈(しょうしんげ)に「覩見(とけん)」というお言葉が出てきます。目を凝(こ)らしてじっと見るという意味ですが、仏さまが私たち一人一人のいのちを慈愛を込めてご覧になるまなざしのことです。まさに世界の片隅に生き、歴史にその名を刻むこともなく、あるいは生きた痕跡(こんせき)すらとどめることなく終わっていくのが私のいのちのありようなのでしょう。また、お経にはそのような存在を「群萌(ぐんもう)」とも説かれています。しかし、群(むら)がって生(は)えてくるようないのちを雑草のように十把(じっぱ)ひとからげにご覧になるのではなく、一本一本、一人一人の存在を誰よりもいとおしむように大切に覩見してくださる方がいてくださることを知らされたとき、いのちのかけがえのなさ、その尊さと重さに、これ以上ない安らぎと厳しさを思います。
親鸞聖人は正信偈に、このまなざしを「大悲無倦(だいひむけん)」とお示しになられます。先年ご往生を遂げられた恩師・梯實圓和上(かえはしじつえんわじょう)は、大悲無倦のお言葉をこう味わってお示しくださいました。「如来さまの厳(きび)しい智慧(ちえ)の眼(まなこ)と、暖かい慈悲のまなざしに見守られていることを実感するものは、傲慢(ごうまん)にもならず、卑屈(ひくつ)にもならず、遠慮(えんりょ)もせず、気ままもせず、おおらかに、しかし慎(つつし)みぶかく生きようと心がけます。そして死は浄土に生まれていく機縁であると領解(りょうげ)して、死を受容することともできます」

■ものさしが違う -「畢竟依(ひっきょうえ)」はすべての人の究極の依りどころ-
すべての命は平等
昨年、NHKの大河ドラマ「真田丸(さなだまる)」を、毎週、興味深く見ました。その第15回で次のような場面がありました。豊臣秀吉が天下をおさめ、かねてから計画していた検地を行いますが、なかなかうまく進みません。それは、各地方によって米の量をはかる枡(ます)の大きさがバラバラだったからです。そこで秀吉は、「じゃあどうすればいいか」と主人公の真田信繁(のぶしげ)(幸村(ゆきむら))にたずねると、信繁は「枡の大きさを統一すればいいのではないでしょうか」と答え、全国で枡を統一することとなりました。歴史的には、各地で使われていた枡を統一したというよりも、公定計算枡を京枡として、各地の枡をこの京枡(きょうます)に換算して計量したというのが正しいようです。「京枡」とは、戦国時代から京都を中心に用いられた「京都十合枡」のことで、10合=1升(しょう)となる十合枡です。米の単位は、兵1人が1食に食べる米の量を1合とし、兵1人が概(おおむ)ね1年間に食べる米の量1000合(1合×3食×365日)が1石(こく)とされ、石高(こくだか)は軍事動員力を示す単位としても用いられるようになったようです。この1石の米を収穫できる田の面積が1反(たん)です。ものさしを統一する≠アれは抜きんでた統制者によってなされます。仏教もこのものさし≠問題としています。私のものさし≠ナはなく、仏さまのものさし≠ノよって人生を生き抜くということです。私のものさし≠ヘ損か得で、得になることだけを大切にします。仏さまのものさし≠ヘ、平等です。すべてのいのちあるものを尊んでいかれます。正しいものさし≠ェあるとき初めて、私のものさし≠フ狂いが明らかになります。
"常識"は不確か
次のような寓話(ぐうわ)があります。
遠い異国の村でのこと。海辺に近い丘の上に、砲台がありました。毎日きっかり正午に号砲が鳴り、誰もがそれで時間を合わせるのが何十年もの慣(なら)わしになっていました。あるとき、一人の少年が、ふと疑問を抱いて、丘をのぼり、砲兵に尋ねました。「どうやって毎日ちょうど正午に号砲を鳴らしているんですか?」 砲兵はにっこり笑って、「隊長の命令で鳴らしているんだよ。一番正確な時計を見つけてそれを手に入れ、その時計の時間がいつもちゃんと合っているように管理することも、隊長の仕事なんだ」と答えました。それを聞いた少年は、隊長のところへ行きます。隊長は、精巧に作られた、正確に時を刻むその時計を、誇らしげに少年に見せました。「じゃあ、この時計はどうやって合わせるんですか?」と隊長に聞くと、「週に一度、町まで散歩するときに、いつも同じ道を行くんだ。すると必ず町の時計屋の前を通る。そのとき立ち止まって、時計屋のショーウインドウに飾ってある立派な古い大時計に、この時計を合わせるんだ。町でも大勢の人が、この大時計を使って時間を合わせているんだよ」と答えました。次の日、少年は時計屋を訪れ、「ショーウインドウの大時計の時間は、どうやって合わせているんですか?」と尋ねました。時計屋は「そりゃあ、このあたりの誰もが使ってきた一番確かな方法だよ。正午の号砲で合わせるのさ!」
おもしろい話です。この寓話は、私たちのものさしである常識≠風刺しているようでもあります。多くの人が常識を依りどころとして過ごしています。その生きざまが新しい常識をつくっていくのです。常識というものさしは、常にその時代の常識なのですが、なかなか、そのものさしの不確かさに気がつきません。しかし、仏さまのものさしから見ると、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」世界であるようです。親鸞聖人は、阿弥陀如来を「畢竟依(ひっきょうえ)」であると讃(たた)えておられます。畢竟依の「畢」を漢和辞典で調べると、「ことごとく」とあり、「竟」は、「最後の境界までとどく」とあります。畢竟依とは、すべての人の究極の依りどころということです。いつでも、どこでも、どのような状態にあっても、わたしの支えとなってくださるみ教え、はたらき、ぬくもり、それが阿弥陀如来です。

■かけがえのないいのち -得難い出来事が、いま私の人生の上に-
初めての"お参り"
5月になりますと、親鸞聖人のご誕生をお祝いする降誕会(ごうたんえ)が、本願寺をはじめ、各地の寺院で営まれます。北海道にある私のお寺では、降誕会にあわせて初参式(しょさんしき)を行っています。初参式とは、この世に新しいいのちを恵まれて初めてお寺にお参りをする大切な儀式です。赤ちゃんがお参りをするということは、必ずそこに親や家族がそろうことになります。初参式は、いのちの誕生をご本尊の阿弥陀如来に奉告(ほうこく)し、新しいいのちの歩みを始めることであり、家族そろって迎える仏縁となります。親も子も、ともに阿弥陀如来の大いなる慈悲の中に抱(いだ)かれていることに思いをいたす大切な仏事です。また、新たに恵まれたいのちとは、両親や家族だけではなく、はかり知れないご縁があって生まれてきたことです。勤行(ごんぎょう)聖典の冒頭などに掲載されている「礼讃文(らいさんもん)」(三帰依文(さんきえもん))には、「人身(にんじん)受け難(がた)し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」と示されています。この世に人として生まれ、得難い仏法という真実に出遇(あ)うことができたという極めて希有(けう)な出来事が、いま私のこの人生において実現していることの意味を受け止める言葉です。日々の生活の中で、思いを新たにさせていただきたいものです。
ところで、私のお寺の初参式に参拝された赤ちゃんには、お念珠や記念品を授与し、記念写真を撮影します。その写真は、お寺に掲示していますが、初参式を始めて今年で29回目となりますので、29枚の写真が飾られることとなります。これまでに初参式を受けられ、大人になってお寺にお参りをされた方の中には、「ここに写っているのが私だね。こんなに小さかったんだね」というほほえましい言葉を耳にすることもあります。これらの写真をみつめることで、かけがえのないいのちを恵まれたよろこびを、あらためてかみしめるきっかけにもなることでしょう。このようないのちの大切さ、ありがたさを私の身において思い知らされる出来事が一昨年にありました。
生かされている私
一昨年の夏は記録的な猛暑日がつづき、大変暑い夏でした。北海道も例外ではなく、猛暑の中、ご門徒のお宅のお盆参りをしていました。日を追うごとに、身体にだるさを感じていました。そしてお盆参りを終えて自宅へ帰ると動けなくなってしまい、翌朝は目をはっきりと開けることもできず、身体を起き上がらせることもできなくなりました。まぶたや顔はふくれ上がり、腕も足もお腹(なか)もむくみ、とても重くて動けません。いつも当たり前にしていることが当たり前にできなくなっていました。そのため急きょ、妻が当時小学1年生の長男を連れて、私を病院まで運んでくれました。その病院には、私が通院していたことから顔なじみの看護師さんがいましたが、その方は私の姿を見るだけでは私であることに全く気づけなかったそうです。また、医師から症状の質問をされ、きちんと応えているつもりでしたが、医師は私が何を言っているのか、よくわからないようで、受け答えができる状態ではありませんでした。検査を受けると、肺に水がたまり、心臓は肥大し、脳に障害を及ぼす危険性があるという結果が出ました。症状も次第に悪化していき、むくみやだるさのほかにも嘔吐(おうと)、食欲不振、極度の高血圧、頭痛、寒気、息苦しさ、呼吸困難、けいれん、意識障害が起こってきました。
そこで医師からは「あなたのいのちは危ない」と告げられたのです。そのとき私はただベッドに横たわっていることしかできず、自分のいのちは自分ではどうすることもできないということを痛感させられました。ことしも、このいのち生かされて降誕会をつとめさせていただきます。いのちには限りがあり、必ず人は死ななければならないということ、生かされて生きているということ、だからこそかけがえのないいのちの尊さを、この降誕会や初参式を通してかみしめさせていただきたいものです。

■親鸞さまの魅力 -「弟子一人ももたず」という生き方-
後ろ姿で伝える
若き日の親鸞さまは、比叡山(ひえいざん)でのご修行(しゅぎょう)中、まるで暗闇(くらやみ)の中で生きているような不安をかかえられていました。それが縁あって、源空(げんくう)(法然(ほうねん))聖人が説くお念仏の教えに遇(あ)い、人生に一点の光を見つけ、アミダさまの光明の中に生かされて生きているよろこびを感得していかれました。
生涯の師との出会いを、『高僧和讃(わさん)』に、
曠劫多生(こうごうたしょう)のあひだにも 出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき 本師源空(ほんしげんくう)いまさずは このたびむなしくすぎなまし ・・・と詠(よ)まれています。
浄土真宗の教えを学んでいると、「もし、私が親鸞さまの教えにあえなかったら、今頃はどんな生き方をしていただろうか?」とつくづくと思うことです。親鸞さまのご誕生をお祝いし、浄土真宗のみ教えにあえたよろこびのご法要である降誕会(ごうたんえ)が、毎年ご本山では5月20、21日につとめられています。また、親鸞さまがお生まれになった日野の里にある日野誕生院では、5月19日に誕生会(え)が営まれています。さて、多くの人たちは、親鸞さまのどこにひきつけられたのでしょうか。苦悩と混迷のこの世にあって、「真実・まこと」は「弥陀(みだ)の本願」であると説き、アミダさまとともに生きる人生の大切さを伝えられた親鸞さまのご生涯でした。
親鸞さまがたくさんの人を魅了した理由の一つに、「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候(そうろ)ふ」という生き方があると思います。「そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候(そうら)はばこそ、弟子にても候(そうら)はめ。弥陀の御(おん)もよほしにあづかつて念仏申し候(そうろ)ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼(こうりょう)のことなり」(同)という信念に基づいた生き方です。「私もあなたがたも、阿弥陀如来さまのお慈悲にもよおされて、お念仏申す身になったのです。師匠とか弟子というのは、とんでもないことです」と言い放って、お念仏をよろこぶ生きざまは、まるで磁石が鉄をひきつけるように多くの人々をひきつけたのです。ある先生が「親鸞さまはアミダさまを拝んでいる後ろ姿で、アミダさまに救われているよろこびを伝えた人だった」と言われたことがあります。今でもその時に受けた感動が忘れられません。ありがたいですね。
涙を流された聖人
親鸞さまが関東から京都に帰られたのが、63歳の頃です。それからは京都でお暮らしでした。遠くの関東から20日ほどかけて、京都の親鸞さまを訪ねたお弟子は、長く滞在して、親鸞さまからご法話を聞いたり、著述の書写をしていたのでしょう。このような生活を「学問せば、いよいよ如来の御本意(ごほんい)をしり、悲願の広大のむねをも存知(ぞんじ)して」と『歎異抄』にあるのが、その様子を伝えているのでしょうか。親鸞さまのもとに集った同行(どうぎょう)は、教えを学ぶのは知識をふやすのでなく、阿弥陀如来のご本願のおいわれを知らせていただき、お慈悲の中に生きていることをよろこんでいたのですね。
親鸞さまのお手紙をみると、多くの弟子が京都の親鸞さまを訪ねて、いろいろな苦悩を聞いてもらい、アドバイスを受けていたようです。親鸞さまのもとで亡くなった人もありました。下野(しもつけ)高田の覚信(かくしん)です。覚信は親鸞さまに面談するために京都に来る途中、重い病気にかかりました。同行の人たちは帰国して療養するように勧めました。しかし、「どうせ死するのならば、親鸞さまのみもとで」と言い張り、親鸞さまのおそばで亡くなりました。これは、親鸞さま常随(じょうずい)の弟子・蓮位(れんい)が、国元にいる覚信の子の慶信(きょうしん)に送った手紙に記されています。覚信は臨終にあたって「南無阿弥陀仏、南無無礙(むげ)光如来、南無不可思議光如来ととなへ」亡くなったそうです。この手紙を送る際、蓮位が親鸞さまの前で読み上げると「御涙(おんなみだ)をながさせたまひて候(そうろ)ふなり」と記しています。何度読んでも感激します。このようなところに親鸞さまの魅力があるのではないでしょうか。

■仏の香り 露の味 -南無阿弥陀仏の花を咲かせた俳人・田上菊舎-
無意味でない絶望
ある本に「チンパンジーは絶望しない」ということが書かれていました。絶望は、将来に対する希望が断たれることです。チンパンジーは、未来を想像するという思考がないので、いわれてみれば納得です。これはチンパンジーだけにとどまらず、人と動物の違いでもあるようです。絶望≠ニは私の無力さに触れる≠ニきです。無力な私が明らかになる。それは絶望ともなりますが、より大きな希望が開かれるときでもあります。その大きな希望とは、阿弥陀如来の本願のみ教えに出遇うということです。絶望≠ニいう言葉を聞いて、思いつくお聖教(しょうぎょう)の言葉があります。それは中国の善導大師(ぜんどうだいし)の「二河白道(にがびゃくどう)」に説かれている言葉です。
二河白道とは、念仏者の信心のすがたを、旅人の喩(たと)えで示されたものです。その説話の中で旅人は「われいま回(かえ)らばまた死せん。住(とど)まらばまた死せん。去(ゆ)かばまた死せん」と絶体絶命の状況に追い込まれる描写があります。まさに、絶望≠フ淵に立ったのです。そのとき、お釈迦さまの「なんぢ、ただ決定(けつじょう)してこの道を尋(たず)ねて行け」という言葉が聞こえ、そして阿弥陀さまの「なんぢ一心正念(いっしんしょうねん)にしてただちに来(きた)れ」(同)という本願のみ教えが旅人に届くのです。この教説は、人は、悲しみや苦しみの中で体験される絶望的状況は、ただ自己の無力さを知るだけの無意味な体験で終わらず、阿弥陀さまのみ教えに出遇(あ)うときでもあることを示唆(しさ)しています。苦しみを通してみ教えに出遇う=B過去、多くの念仏者が体験し、その体験は現代においても浄土真宗のおみ法(のり)のはたらきとして脈々と受け継がれています。
苦渋をなめて知る
田上菊舎(たがみきくしゃ)という江戸時代の俳人がいました。現在の山口県下関市豊北(ほうほく)町に生まれ、16歳で嫁ぎ、24歳の時に夫が死去。子どももなく、実家に帰ります。26歳の時に「菊車」(のち菊舎)の俳号を授かり、周囲の俳人たちから祝福を受けています。また、萩の真宗寺院・清光(せいこう)寺で剃髪(ていはつ)し、59歳の時には、本山の親鸞聖人550回忌に参拝しています。菊舎は俳人としての枠を超え、書・画・琴・茶の湯・和歌・漢詩にも精通し、その生涯の大半を旅で過ごし、その間、交流した人は数知れず、長府藩主・毛利元義とも親交がありました。『田上菊舎全集』の序文に詩人の大岡信(まこと)氏は「もし古人を今甦(よみがえ)らせることが可能なら、女性としてはまず真先に甦らせ、その謦咳(けいがい)に接してみたい人である」と書いています。夫の死後、29歳にして美濃派六世朝暮園傘狂(ちょうぼえんさんきょう)に入門するために、はるばる長門から美濃国へと旅立ちます。若い菊舎の率直な感性は人々に好感を与え、30歳の時、師は「信」の一字を大切にと、「一字庵」の号を与えています。それから、一人で「奥の細道」を芭蕉とは逆のルートで江戸に行き、北陸、信濃、京、大坂、九州まで一人旅は続いています。
辞世は、  無量寿の宝の山や錦時(にしきどき) ・・・で、念仏者らしい句を詠(よ)んでいます。菊舎の俳句には「無量寿(むりょうじゅ)」(阿弥陀仏)をうたった作品がいくつもあります。その中に次のような句があります。
無量寿の種いただきぬ むつの花
なめてしる無量寿の香(か)や 露(つゆ)の味(あじ)
「なめて」とは、苦渋をなめること、苦しみ悲しみの体験です。阿弥陀さまの功徳を「香りと露の味」で表現しています。苦しみを通して、無量寿仏の豊かさや慈(いつく)しみに出遇(あ)ったという歌です。夫との死別、持病の喘息(ぜんそく)、74年の苦難多き生涯を、南無阿弥陀仏の花を咲かせるご縁として生ききった姿は見事です。人生、どうにもならない苦しみや悲しみに遭遇することがあります。その苦しみや悲しみを通して、平安ならば拝むはずのない阿弥陀さまを礼拝(らいはい)し、み仏の教えが心に響くということがあります。そして阿弥陀さまの慈しみに出遇(あ)えた時、苦しみや悲しみが、み教えに出遇う意味ある営みとして受け入れられていくのでしょう。いつの時代にも人の苦しみや悲しみは尽きません。その苦しみや悲しみが、み教えに出遇う意味ある営みとして受けいれられていく。ここに浄土真宗の時代を超えた普遍的な価値があります。

■であっているのに・・・ -「埋め木」にみる阿弥陀さまのおこころ-
会った覚えが・・・
ある研修会で、ご講師からこんな言葉を頂きました。「藤澤さん、あなた、であっているのにであっていなかったんですねぇ」 困惑する私に、さらに先生は「であっていないのにであっていたんですねぇ」と続けられました。「であっている」と「であっていない」は正反対の言葉です。さらに「であっていないのにであっている」も正反対の言葉が重なっています。ご講師に「どういう意味ですか?」と尋ねたところ、先生はほほ笑みながら、「そのことを一生かけて味わってくださいね」とおっしゃるのみでした。その時は意味がわかりませんでしたが、それから数年後、その言葉の意味に気づかせていただく大切なであいがありました。
その日、私は京都駅でバスを降り、地下街から階段を上って本願寺に向かっていました。すると前方から階段を下りて来られた女性が、すれ違いざまに、「あら! 藤澤さん、お久しぶりです! あの時はお世話になりました!」と満面の笑顔でお声がけくださったのです。しかし、私はその女性に見覚えがありません。すぐに「どちらさまですか?」と聞けばよかったのですが、「あ?お久しぶりです。こちらこそ、その節は有り難うございました」と返事をしてしまったのです。全く見覚えがないのに、「お久しぶりです」と言ってしまった手前、もうあとには引けません。誰だろう? とドキドキしながら当たり障りのない話をしていました。しばらくして女性は「あ、お急ぎのところ、お引き止めしてすみません」とおっしゃったので、「助かった」と挨拶もそこそこにその場を去ろうとしたその時でした。女性は静かに「そうですよね、覚えておられませんよね」とおっしゃったのです。「えっ?」と振り返るのと同時に、恥ずかしさのあまり、顔から火が出るような思いで「申し訳ありません」とお詫びし、あらためてお会いした経緯をお尋ねしました。
ピタッと寄り添う
聞けば、その女性とのであいは、本願寺の永代経のおつとめの時でした。ご主人を亡くされたご縁で、幼い男の子と二人でお参りされていたのですが、大切なご主人のことを思い出してか、おつとめの最中、ずっと涙を流しておられました。その横で、幼い男の子はニコニコとアミダさまのお顔をのぞき込んでいました。そしておつとめが終わると、男の子は一目散に外の縁側へと走っていったのです。広い縁側には、節穴などを補修した、いろいろな形の「埋(う)め木」がたくさんあります。男の子はそれを見ながら「富士山だ!」「ひょうたんだ!」と探しています。そのうち、はめ込んだ形が取り出せると思ったのでしょう。一生懸命に埋め木を引っ張りはじめたのです。でも、埋め木はピクリともしません。
私は「その木はね、隙間(すきま)なくピタッとくっついているから取れないのよ。阿弥陀さまがいつもボクのことを大事に抱きしめてくださるように、ピタッとね」と話したのです。男の子は埋め木の接(つ)ぎ目をなでて、「本当だ、ピッタリだね」とほほ笑み返してくれました。そこへお母さんが涙をぬぐいながら出て来られました。男の子は母親の姿を見つけるなり「見て見て! この木、どれもピッタリとくっついていて、取れないんだって」と報告します。するとお母さんは男の子をギュッと抱きしめながら、「あら本当。ピッタリくっついているね」と言ったあと、ポロっと涙を流して「お父さんもね、遠い所じゃなくて、いつもあなたと、それからお母さんにもピタッとくっついているからね。だから寂しいけれど寂しくないからね」と言いながら、もう一度ギュ?っと男の子を抱きしめておられました。阿弥陀さまのおこころにであわれた大切なご縁。私はそんな大事な「であい」をさせていただきながらその「であい」を忘れていました。しかし京都駅での再会を通して、再びであわせていただいたのです。どんな時も、この私にピタッと寄り添い、はたらき続けてくださる阿弥陀さまのおこころ。埋め木は数百年の時を超え、ピタッと隙間なくくっついて、阿弥陀さまのおこころを私に伝え続けてくれています...。

■苦悩のご縁の救い -愚者になりて往生す-
次のご法要にも
ご本山で10期80日間厳修(ごんしゅう)された伝灯奉告法要も、5月31日にご満座を迎えました。私もご門徒の方々と共にお参りさせていただきました。その帰りのバスの中で一人のご門徒に、「次のご法要にも一緒にお参りしたいですね」と話しました。すると「もうこの歳では、次はお参りさせていただくことはできません」と寂しそうにおっしゃいました。「そうですね。次のご法要は、私も無理かもね」と、その場のみんなで苦笑いしました。あらためてこのたびのご法縁をよろこばせていただいたことです。ところで、わが家には2歳の孫娘が同居しています。最近、泣くことが多くなり、近所が気になる毎日です。彼女はしたいことをさせてもらえず、思い通りにならないと泣き叫ぶのです。子どもは純粋だと言われますが、自分の思いへの執(と)らわれはことのほか強いことを知らされました。私はこんな時、泣き叫ぶ彼女を抱きかかえて、軽く背中をトントン...とゆっくりたたきながら、「思い通りにならんね」「いやだね」「腹が立つね」などと繰り返すのが日課です。すると、なぜか安心して泣きやんでしまうんです。笑顔になって、気持ちが切りかわるんです。でも、私の心には「大人になると、もっと自由にならない思いで泣くことになるのかな」とため息交じりの思いが走り、心が痛みます。これから、思いを受け止めてくださり安心できるみ教えを、彼女が聞いてくれることを願わずにはおれません。彼女の安心をみる時、ふと実父の姿を思い出します。72歳でがんを患い、仏さまの世界へ往(ゆ)きました。病室での臨終のその日は、私たち夫婦が介護の当番でした。
お救いの特等席
病室では、肺炎も起こし、繰り返し襲ってくる痛みに顔をゆがめる父でした。その夜、父の大きな膝(ひざ)の上に座っていた幼い頃のことを思い出し、深い考えもなく父を私の膝の上に座らせました。やせているとはいえ、骨格の太い父の体は重く、すぐに足に痛みが走りました。そんなわずかな間に、痛みに耐えているはずの父の顔に、孫娘と同じような笑顔が見えました。考えてみれば、父は一人っ子で、幼い頃に父親と別れ、父親の顔を知らなかったと聞かされたことがあります。父の心の奥底に、父親に抱かれた温(ぬく)もりが残っていたのかもしれません。膝の上で見せた、安心しきった顔の父。仏さまの温かい御手(みて)の中にいる心地だったのでしょうか。人生の多くを、あの悲しい戦争の中に生き、戦後は子どもたちの教育に尽力し、家族の生活を支えてきた人です。退職後、お寺のことにまい進し、大学で真宗を学ぶほどでした。いつもご門徒と共に「ナンマンダブ ナンマンダブ」と仏さまの方を向いて生きた父。入寺して家を離れてからの私にとっては、よき理解者で、よき師で、心の支えでした。
臨終間際のわずかな時間の父の安心した顔は、苦痛の中でのよろこびであったと思います。ただ、あれほど「ナンマンダブ」と口癖(くちぐせ)のように言っていた父。父の口からは、残念ですがお念仏の声を聞くことはできませんでした。苦痛が、お念仏する心までも遮(さえぎ)っていたのかもしれません。最後まで、苦悩のご縁の中に翻弄(ほんろう)された父のいのち。私も同じなら、お念仏することもできないかもしれません。孫娘の心配はしても、「次のご法要には、必ずお参りできる」と心のどこかで思っている私ですから。苦痛の中にあって、臨終のお念仏すら出てこない父は、み教えを聞かされてきた通り、仏さまのお救いの特等席にいたようです。苦悩のご縁に生きる私だからこそ、救わずにはおれないと願いを完成してくださった阿弥陀さま。ご縁に翻弄される私だからこそ、お念仏に出遇(あ)えたことをよろこばずにはおれません。「浄土の教えを仰(あお)ぐ人は、わが身の愚かさに気づいて往生する」(浄土宗の人は愚者(ぐしゃ)になりて往生す) との法然聖人のお言葉をよろこばれた、親鸞聖人のお心をうかがわずにはおれません。

■和顔(わげん)『にこやかな表情』 -日々の生活の中で実践を-
「布施(ふせ)」といいますと、財物(ざいもつ)を仏さまや僧侶に施すことである、という方程式がすぐ頭の中に浮かびます。もちろんそのような意味も間違いではありませんが、仏教ではもう少し広く深い意味があります。「布施」の語は、インドの古い時代の言語(梵語(ぼんご))の「ダーナ」の意訳です。仏教婦人会総連盟作成のパンフレットを見ますと、法施(ほうせ)(真実の仏法を伝え広める)・財施(ざいせ)(金品を分かちあう)・無畏施(むいせ)(恐れを除き、癒(いや)しと勇気を与える)とあります。これを総称して三施といいます。次に財物が何一つなくても実践できる七つの布施(無財の七施(しちせ)≠ニいいます)があります。1眼施(げんせ)(あたたかいまなざし)2和顔悦色施(わげんえつじきせ)(にこやかな表情)3言辞施(ごんじせ)(やさしい言葉)4身施(しんせ)(精一杯のおこない)5心施(しんせ)(慈しみ深いこころ)6床座施(しょうざせ)(人にあたたかい席を)7房舎施(ぼうしゃせ)(気持ちよく迎えるこころがけ)と説明されています。今回は1眼施を含めた2和顔悦色施について考えてみましょう。
わたしの顔は
以前、私はある中学校の保護者会に寄せていただきました。会場には約200人、そのうち8割以上が母親でした。そこで私は全員に目を閉じていただき、「皆さんは1日のうちで自分の顔を鏡の中で見る時間はどのくらいですか?」と問いかけました。それぞれ時間を区切って、自分の該当する時間のところで挙手をしてもらいました。そして目をあけてもらい「最長の人は1時間30分でした」と言ったところ、会場全体からワァーという声が上がりました。目を閉じているので誰かわかりません(ここがミソです)。各自の周辺同士で「あなた?」「ちがうよ!」と、しばらくは次の話に進めませんでした。一段落したところで話を続けました。
「朝、起きた時、仕事で人に会う時、職場から帰宅する前など、顔や頭髪や服装を整える時の鏡の中を見る顔が一番イイ顔です。合計して1時間30分の時間が長いと思われるかもしれませんが、1日のうち、残りの22時間30分は自分の顔を他の人にみせているのです。毎日の生活で、この時間の自分の顔を考えてみませんか?」と話したのです。人間関係で悩んでいる時、仕事で困っている時、体調が悪くて心配な時など、なかなか笑顔はできません。私事で恐縮ですが、時々妻とケンカをします。その時、私は私の顔を、妻は自分の顔を、見たことがありません。当たり前のことですが、そのような心の余裕などあるはずがありません。たぶん、目をつり上げ、口を大きく開けている私(妻も同様です)。平常の時、鏡の中で見るすました自分の顔とは全く違っているハズです。
仏さまのお顔は
蓮如上人は、「他人の悪いところはよく目につくが、自分の悪いところは気づかないものである。もし自分で悪いと気づくようであれば、それはよほど悪いからこそ自分でも気づいたのだと思って、心をあらためなければならない。(中略)自分自身の悪いところはなかなかわからないものである」と仰(おお)せになられています。毎朝のお参りの時、お仏飯をお供えします。阿弥陀さまのお顔を間近に拝んでみますと、眼をパッチリと開いているのでもなく、閉じているのでもありません。私の至らないところについては眼を少し閉じ、少しでも好ましいところがあれば、ほほ笑んで見つめてくれているようなお顔です。ホッとして心が安らぎ落ち着きます。ほほ笑みは万国共通のパスポート≠ニいう言葉があります。あらためて鏡の前に立って笑ってみましょう。すると鏡の中の顔も笑顔です。私たちは毎日多くの人たちと顔をあわせます。また、言葉は通じなくても外国の人とでも笑顔で接すれば心が通じ合う世界が生まれます。自分自身はもとより、周辺もなごやかで明るく、あたたかい雰囲気が生まれてきます。そうです。お金も知識も肩書も必要条件ではありません。いつでも、どこでも、だれにでもできるのが「和顔悦色施」なのです。日々の生活の中で精いっぱい実践しましょう。 
 

 

■愛語『やさしい言葉』-日々の生活の中で精いっぱい実践を-
言葉は生きている
人間は言葉を駆使する動物である、といわれています。自分の思いを他の人に伝える言葉という道具を持っていることは、たいへん便利です。言葉を交わすことでお互いに理解できたり、親密度が深まっていきます。しかし、時には失言・暴言で相手の人格を傷つけ、自分の立場さえ失うこともあります。「他人の悪口を言わずに楽しく世間話を30分続けてできる人を紳士という」という諺(ことわざ)がドイツにあるそうです。なるほどとうなずきながら、それで終われば問題はないのですが、私はすぐ周辺の人の顔を思い浮かべてしまいます。あの人は...この人は...紳士だろうか...と思ってしまいます。そこには自分自身が抜けているのです。恥ずかしい限りです。また、私は人をホメる口を持っています。しかし、時には心にもない′セ葉を口にすることがあります。
釈尊は『無量寿経』に「心口各異(しんくかくい) 言念無実(ごんねんむじつ)」(言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でない)と説かれていますが、私のことを指摘されているような気がします。
一つの言葉でケンカして 一つの言葉で仲直り 一つの言葉でお辞儀(じぎ)して 一つの言葉で泣かされた 一つの言葉はそれぞれに 一つの心を持っている
という言葉を目にしたことがあります。そうです! たった一言というけれど、一人の全存在を否定する恐ろしい力になる言葉もあります。逆に勇気や希望をもらう言葉もあります。自分だけでなく、周辺のみんなが笑顔になり、心が温かくなるのも、一つの言葉です。私がまだ運転免許を持たず、徒歩や公共の乗り物を利用してご門徒さん宅のお参りをしていた学生時代のことです。A子さん宅に毎月バスを乗り継いで、お参りしていました。A子さんはおからだが不自由で、20年近く自宅の仏間の隣室で床に臥せたまま養生生活をされていました。私が仏間に入って、「暑いのに大変ですね」「寒いから風邪をひかないで」(当時はまだ冷暖房設備のない時代でした)などと挨拶する前に、A子さんが先に元気な大きな声で、「ご院家(いんけ)さん、暑いのにお参りありがとう!」「寒い中、遠方まですまないねぇ!」といわれます。続いて、必ず「ナンマンダブ ナンマンダブ」とお念仏を称(とな)えておられました。そして、いつもいつもニコニコと語りかけてくれるのです。
本願のお心を聞く
学生の私は、どうしてあのような笑顔で、あのような言葉が、そしてお念仏が絶え間なく称(とな)えられるのだろうか、と不思議でなりませんでした。後年、私は『無量寿経』の次の言葉に出あいました。「和顔愛語(わげんあいご) 先意承問(せんいじょうもん)」(表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れる) これはもう単なる言葉ではなくて、阿弥陀仏のお心(本願)を示しておられるのです。このお心(本願)を聞いた人は、次のように示されます。「信心を得たなら、念仏の仲間に荒々しくものをいうこともなくなり、心もおだやかになるはずである。阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心もやわらげるとあるからである」 これら二つの言葉(み教え)で、なるほどと合点がいきました。
日常、私たちは意識、無意識にかかわらず、この口から妄語(もうご)(ウソ)、両舌(りょうぜつ)(二枚舌)、悪口(あっく)(あらあらしい言葉)、綺語(きご)(お世辞)、かげ口、告げ口、へらず口などが次から次へと出ています。ところが仏縁をいただきますと、同じ口から「ありがとう」「おかげさま」「もったいない」などの言葉が自然と出てくるようになります。このようなよい言葉の原形が「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。シマッタ? あの時、あんなことを言わなければよかった、という思い出が一つや二つありませんか? まだ間に合います。そうです? お金も知識も肩書も必要ありません。いつでも、どこでも、だれにでもできるのが言辞施(ごんじせ)―愛語(やさしい言葉)―なのです。日々の生活の中で精いっぱいの「和顔愛語(わげんあいご)」の実践をしましょう。

■ものみな金色(こんじき) -すべてのいのちを価値あるものとして-
もし自分だったら
昨年の7月26日に神奈川県相模原市で知的障害者の施設を利用する19名が刺殺されるという、大変痛ましい事件が起きました。自首した犯人は施設の元職員で、「障害者はいなくなればいい」と供述していました。戦後最悪といわれる殺人事件であり、また、犯行に至る動機から、マスコミでも大きく取り上げられました。「障害者はいなくなればいい」という言葉には、「障害者は不幸をつくることしかできない」という考えが根底にはあり、「障害者は死んだほうが幸せ」というのが犯行の動機です。その考えに対して、非難の声が多く寄せられていましたが、逆に犯人の考え方に賛同する意見もインターネットにはありました。しかし、「障害」があることが「不幸」であるかどうかは、社会や周囲の人が決めるものではありません。まず何よりも、命を奪われていったお一人お一人の思いやご家族の思いに、心を寄せたいと思います。事件に関する報道が連日にわたり続きましたが、私の胸の中に何か釈然としない思いがありました。もしも自分自身が認知症になり、また、寝たきりになってトイレにもいけなくなったら、自分ならどう思うだろうか...。そのとき「生きている価値はない」「死んだほうが幸せ」と思わないだろうか...。認知症や寝たきりになることは、人に迷惑をかけて不幸であるとするならば、「障害者は不幸」という犯人の考えと共通した価値観になりかねません。相模原の事件を通して、自分自身の、また、社会の闇が浮き彫りになったような気がします。
迷いを知らされる
阿弥陀さまの四十八願(しじゅうはちがん)の第三番目に、 たとひわれ仏(ぶつ)を得(え)たらんに、国中(こくちゅう)の人天(にんでん)、ことごとく真金色(しんこんじき)ならずは、正覚(しょうがく)を取(と)らじ。 ・・・とあります。
この願いを「悉皆金色(しっかいこんじき)の願」といい、すべてのいのち≠ェ金色に光り輝くことがなければ、さとりを開かないとお誓いくださっています。阿弥陀さまの願いのなかであらわされる「金色」とは、一つには「価値」あるものとして、二つには決して色あせることのない「不変」という意味があります。つまり、すべてのいのち≠、変わらず価値あるものとして光り輝かせようという願いです。阿弥陀さまが、このように願われた背景には、すべてのいのち≠ェ金色ではない現実があるからでしょう。
相模原の事件では「優生(ゆうせい)思想」という言葉が取り上げられていました。いのち≠ノ対して、「優生」なものと「劣生」なものと分け隔てをして、「劣生」なものは排除していこうとする考え方です。その「優」と「劣」を分ける基準は自分の都合や社会の都合にあります。私たちは自分を中心にしながら、自分にとって都合のいいものは大切にしますが、都合の悪いものは排除しようとします。それによって、「大切ないのち」と「そうでないいのち」「使いものになるいのち」と「使いものにならないいのち」がうまれてきます。そのような自己中心的な見方が、金色なるいのち≠フ輝きを曇らせる原因といえるでしょう。
阿弥陀さまの「悉皆金色」の願いは、すべてのいのち≠変わることなく価値あるものとしてご覧くださっています。いのち≠ノ「優」や「劣」はなく、「老い」や「病気」によって「劣化」するものでもありません。また、「障害」のあるなしによって、その価値が変わるものでもありません。「障害者は不幸をつくることしかできない」のではなく、自分中心の価値観から不幸はつくり出されます。阿弥陀さまの願いのなかに、自他のいのち≠傷つけている愚かなわが身が知らされます。その愚かなわが身を痛むからこそ、念仏者として「自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現」につとめたいと思います。

■星とり -煩悩の泥の中に咲く菩薩の花-
紙芝居と小ばなし
お寺の壮年会の人たちが、毎月、病院と老人施設で紙芝居を上演しています。紙芝居は、離れていてもよく見えるようにと、普通の紙芝居を倍の大きさにし、紙芝居のホルダーも手作りしたものです。一昨年、紙芝居を始めた頃、いつもの施設ではなく、私が不定期で招かれる老人ホームに紙芝居チームも同伴しました。私が主で、紙芝居はお伴(とも)です。すると、紙芝居がよかったと評判になり、今までご縁がなかった老人施設からも声がかかり、このときは紙芝居が主で、私がお伴でご法話のご縁をいただきました。先日、久しぶりに紙芝居とご一緒して施設を訪問しました。壮年会のメンバーが「住職、いつもは紙芝居の後、これを少し読んでいます」と、ある本を見せてくれました。本のタイトルは『読み聞かせ 子どもにウケる落語小ばなし』(小佐田定雄著)とあります。実際に紙芝居の後、本に掲載されている短い小ばなしを参加者に披露していました。集いが終わって、その本を手にすると、おもしろい小ばなしがたくさん掲載されています。私が一番おもしろいと思った話は「星とり兄弟」です。それは次のようなストーリーです。
弟の次郎くんが夜、道の真ん中で長い長いさおをふりまわしています。それを見た兄の太郎くんが、「おい、次郎、なにをしてるんだい」と声をかけると、次郎くんは、 「ああ、お兄ちゃんかい。お空にいっぱいお星さまが出てるだろう。あんまりきれいだから、ひとつたたき落としてブローチにしてやろうと思ってさ」 「おまえって、ほんとにばかだなあ。お星さまって、ずーっと高いところにあるんだぞ。そんなさおを道でふりまわしたって、とどくもんか」 「だったら、どうしたらいいのさ?」 「屋根の上へあがれ、屋根の上へ」
私の闇を照らす仏
おもしろい内容です。さおで星を落とそうとしている弟の行為を、「おまえって、ほんとにばかだなあ」とたしなめておきながら、「屋根の上へあがれ、屋根の上へ」とアドバイスする兄の言葉。星と地球との距離は、地球に住む人が屋根に上ったくらいでは、まったく変わるものではないと知っている読者の笑いを誘います。小ばなしを読みながら、ふと仏さまと私との距離のことが思われました。仏教では、仏さまのおさとりに近づく行為を善といい、おさとりに近づく障(さまた)げとなるものを悪といいます。私の煩悩(ぼんのう)は、おさとりに近づく障げとなるので悪です。この悪である煩悩を取り除いて、さとりに近づく。これが一般仏教の考え方です。しかし、仏教の中には、人間の抱く欲や怒り、愚痴(ぐち)などの煩悩は人間性そのものであり、その人間の愚かさを認めていこうという仏道があります。それが浄土真宗という阿弥陀さまのみ教えです。
親鸞聖人は、この私を「煩悩具足(ぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」であると示されています。具足とは、十分にそなわっていることであり、欠け目がないということです。この煩悩を取り除いておさとりに近づく。その努力は、先の「星とり兄弟」の兄が「屋根の上へあがれ」とアドバイスしたようなものなので、結果に至ることがないということです。浄土真宗のみ教えは、私の煩悩を取り除いておさとりに至るのではなく、阿弥陀さまが煩悩具足の私を摂(おさ)め取るという慈(いつく)しみの如来となって私の身の上に至り届いてくださっているという仏道です。南無阿弥陀仏は、その阿弥陀さまの名のりであり、存在の証(あかし)です。お経(きょう)には、この阿弥陀さまのはたらきを蓮華(れんげ)にたとえられています。
「『維摩経(ゆいまぎょう)』に〈高原の乾(かわ)いた陸地には蓮(はす)の花は生(しょう)じないが、低い湿地(しっち)の泥沼(どろぬま)には蓮の花が生じる〉と説かれている。これは、凡夫(ぼんぶ)が煩悩の泥(どろ)の中にあって、菩薩(ぼさつ)に教え導かれて、如来回向(えこう)の信心の花を開くことができるのをたとえたのである」
阿弥陀さまの世界というと、遠いはるか彼方を想像される人もおられると思いますが、私の闇(やみ)を照らす光となり、南無阿弥陀仏と称(とな)えられるはたらきとなって、煩悩具足の私の上に至り届いてくださっているのです。

■心に寄り添うとは -阿弥陀如来に照らされて生きる私たち-
苦悩に目を向ける
私は僧侶の傍(かたわ)ら、臨床心理士として働いております。カウンセリングをしていると、いろいろな悩みを抱える人と出会いますが、近年、うつ病の方が増えています。日本における患者数は100万人にものぼり、誰しもが他人事ではない病となりました。うつ病のときは「何をやっても楽しくない」「誰も私の気持ちをわかってくれない」と感じてしまいます。そんなときに、「あなたの周りには素敵な人がいて楽しい時間もありますよ」と、良いところに目を向けて元気になってもらおうとしても、なかなかうまく伝わりません。ほとんどの場合、うつ病の方は周りの状況はよく見えており、良い部分もわかっているのに、自分だけなぜこんなにもつらいのかがわからずに苦しんでいます。
こうしたとき、カウンセリングでは、無理に良いところを探すより、「本当は何に苦しんでいるのか?」を話し合います。本当の苦しみを受け止められたとき、現実の問題は解消していなくても、その意味づけが変わり、うつ症状が改善することがあります。カウンセラーとして、誰かにお会いするときには、目の前の人の「心に寄り添う」ことを心がけています。「心に寄り添う」ためにいろいろな理論や技法の研究が積み重ねられています。こうした勉強をして、一生懸命、目の前の人に「寄り添う」ことを考えますが、もちろん、うまくいくときといかないときがあります。カウンセリングが順調にいっていると、「自分は相手の気持ちを理解できた」という思いがこみ上げてくる瞬間があります。しかし、この思い込みには注意が必要です。ご門主は、伝灯奉告法要のご親教「念仏者の生き方」の中で「仏さまのような執(とら)われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです」とおっしゃっています。
まさに目の前の人の「心に寄り添う」ときにも大切なお言葉だと思います。「心に寄り添おう」とする思いは大切ですが、「心に寄り添えた」と思い込むと、目の前の人の気持ちとはズレてしまいます。また、私たちは実際に目の前の人の「心に寄り添う」ことを完璧に行うのは難しいですが、「心に寄り添う」ための努力は続けなければなりません。
心に当たる光
うつ病の特徴として、色彩のコントラストを認識しにくくなり、世界が灰色に見えるということがあります。これは気分の問題だけでなく、科学的な研究結果からも実証されています。灰色の世界では、きれいな色は見えませんし、汚(きたな)く醜(みにく)い色もはっきりと見えません。そのため、苦しんではいるものの、自分が何に苦しんでいるのかさえもわからないという状態になってしまいます。きっと心にうつる色は、他者が自分を「理解してくれる」「見てくれている」ことが光となり、はじめて見えてくるのでしょう。誰にも気持ちがわかってもらえないときには、心に光が当たらず、世界が灰色に見えてしまいます。お互いに本気で語り合うことは、見たくない部分と直面する苦しい作業になることもありますが、それでもしっかりと向き合い続けることで、お互いの心に光を当てることができるでしょう。しかしながら、私たち人間同士で完璧に「心に寄り添う」ことはできません。
そんな私たちのことを、阿弥陀如来は広大な智慧と慈悲の光で照らしてくださっています。
光明月日(こうみょうつきひ)に勝過(しょうが)して 超日月光(ちょうにちがっこう)となづけたり 釈迦嘆(しゃかたん)じてなほつきず 無等等(むとうどう)を帰命(きみょう)せよ
親鸞聖人は、このご和讃で、阿弥陀如来を太陽や月よりも素晴らしい光であると表現なさっています。太陽は智慧の光、月は慈悲の光をあらわしているそうです。そして、お釈迦さまが讃(たた)え尽くすことのできないほどの、くらべるもののないほど素晴らしい阿弥陀如来のお救いにおまかせしましょうとおっしゃっています。お互いに阿弥陀如来に照らされている身であることに気づくことができれば、目の前の人の心、そして、自分の心にある新しい色を見つけることができるかもしれません。

■お彼岸への願い -「あみだほとけをおがまなん」-
ピザから法味の輪
「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)ひとむら燃えて秋陽(あきび)つよし」と、お彼岸の景色を詠(よ)んだ詩があります。小学校の国語の教科書に出ていたのが、なぜか印象に残り、この時期に思い出します。また、土手に群生している曼珠沙華(彼岸花)を、哀(かな)しい想いを持って次々となぎ倒していたことも思い出します。親鸞聖人が道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の『安楽集』のご文(もん)を引かれて、 「前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ、連続無窮(むぐう)にして、願はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。無辺(むへん)の生死海(しょうじかい)を尽(つく)さんがためのゆゑなり」 ・・・と、お念仏の教えの相続への思いを著されているご文があります。
彼岸花は、毎年同じ場所に群生します。一面に咲く景色は、炎のように燃えているように見えます。この時期、多くの方々がお墓にお参りされ、墓碑の「南無阿弥陀仏」を見て、手を合わせて「ナンマンダブ」と称(とな)えられます。彼岸花のように、お念仏のご相続のご縁を目の当たりにし頭が下がります。ずっと大切にと願うばかりです。ところで、数年前に境内に二層式の本格的なピザ窯(がま)を造ってしまいました。きっかけは、ある方から「お寺にピザ窯があるといいわね」と言われたことで、調子に乗って一年半かかって造りました。本で調べ上げ、さまざまな窯の条件を考えて設計図を何度も書き換え、法務の合間を縫(ぬ)って1日2時間ほどの作業の繰り返し。耐火レンガと焼きレンガを都合千枚近く積み上げました。その間、持病の入院手術を挟んでの作業でした。大変だなと多くの方にご心配いただきましたが、おかげさまで「みなさんに法味(ほうみ)を味わっていただきたい」との願いを持って積み重ねて、完成しました。この窯を、多くの方々にピザの味とともにお念仏も味わっていただきたいと、「法味窯(ほうみがま)」と名付けました。いまでは、願い通り、ピザの味とともに法味の輪ができつつあります。
お寺で楽しい笑顔
今年も夏休みの終わりに、「子どもの集い」というピザパーティーを催しました。子どもの数も少なくなりましたが、ご門徒や地域の枠を越えて、ご縁のある多くの子どもたちへ案内しました。お母さんやお父さん、おじいさんやおばあさんが、子どもたちとともに楽しい一日をお寺で過ごしてくださいました。お念珠(ねんじゅ)の持ち方やおつとめの練習をした後、「らいはいのうた」のおつとめ。初めての子どもたちや保護者の方も一緒になって「あみだほとけをおがまなん」と、大きな声でおつとめしてくれました。そして「多くのいのちをいただいていることに感謝し、いただきます ごちそうさま≠言いましょう」とのお話。お経本(きょうぼん)などのおかたづけも、みんな競ってしてくれました。本堂には、子どもたちの楽しい遊び声が響き、境内を自由に走り回っていました。また、年上の子が小さな子の遊び相手にと、ほほ笑ましい様子が見られました。いよいよピザパーティーです。さまざまな形のピザ。アンパンマンやピカチュウなど、思い思いのデザインを大人と一緒に形にしていました。みんなの素敵な笑顔があちらこちらに。焼き上がったピザもあっという間に子どもたちの口の中へ。法味窯ピザの味とともに笑顔がいっぱいあふれていました。お寺での楽しい笑顔の時間、大人になっても忘れないでほしいとの願い。実は、お越しいただいているお父さんやお母さんの中にも、子どもの頃、お寺で遊ばれた思い出があるとか。
親鸞聖人がお引きいただいたご文のお心。前に生まれた人は後の人を導き、後に生まれた人は前の人を訪(たず)ねよ。その休みなき繰り返しの中に、お念仏の教えがすべての人々の幸せにつながることとなる≠ニ、お念仏のご相続を願っていただいています。ピザパーティーの子どもたちの歓(よろこ)びの声とともに「あみだほとけをおがまなん」と、代々受け継がれることを願ってやみません。

■阿弥陀さまのお救い -生と死をこえた真のいのちのあり方-
米兵となった2世
カナダの開教使だった頃、日系二世の方のご葬儀のときに、ご遺族の方から戦時中の故人のご苦労をおうかがいするご縁が度々ありました。戦前に北米大陸に移住したほとんどの日系人は、西海岸に暮らされていましたが、戦時中の大陸内部への強制収容という悲劇の裏側で、お念仏のみ教えが日系の方々の心の支えとなっていたことは、残念ながら今はあまり知られていないように思います。真珠湾攻撃の後、米国の開教使を含む日系指導者は、スパイ容疑で逮捕・抑留され、大統領令によって約12万人もの西海岸在住の日系人は、土地や家屋を手放し、手荷物だけで、有刺鉄線に囲まれた10カ所の強制収容所に収容されました。日系人社会で最大勢力だった本願寺派寺院のほとんどが閉鎖されましたが、容疑が晴れた開教使は、家族や門信徒のいる強制収容所に合流し、各収容所内に仏教会を設立して日曜礼拝・法話会・勉強会、仏青・日曜学校・婦人会などの活動を再開していきます。当時の様子を伝える開教使たちの書簡などには、立派な本堂がなくても仏法を聞くには最適な環境だと、逆境を前向きにとらえる言葉や、親鸞聖人の流罪(るざい)と自らの境遇を重ね合わせ、深くお念仏を味わわせていただいているという言葉も見られます。
日系人がこの戦争で失ったのは、財産だけではありません。あらゆる戦争というものが多くの者に苦しみを与え、別離の涙を流させるように、二世の青年たちは、自分の両親や他の日系人が米国人として認められるために、地獄のような欧州戦線の最前線へと送られて、その多くが死傷されました。戦争への悲歎(ひたん)に満ちた、ある二世兵士の収容所内でのご葬儀では、次のような法話がありました。「彼らは今、両親に死を知らせる一通の電報≠ヨと変わり果てたのです。血に染められた見知らぬ山中で、孤独に息絶えていった彼らのことを考えると、どれほど悲しいことでしょう。先日、ある兵士の遺品と、次のような手紙が母親に届けられました。『オカアサン、マザー。これは僕の下手な日本語で書く最後の手紙でしょう。僕はついに最前線に送られました。長い間育ててくれたこと、心の底から感謝します。もし僕が戦死しても、子どものころから開教使の先生に聞いた仏さまのところに行くので、心配することは何もないです。先生によろしく伝えてください。身体に気を付けて。サヨナラ』 仏教の教えを受け入れると、先に往(い)った者と後に残った者が一緒になり、浄土で再会できるのです。これが救われるということではないでしょうか。南無阿弥陀仏」
究極の依りどころ
親鸞聖人のご和讃には、
清浄光明(しょうじょうこうみょう)ならびなし 遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば 一切(いっさい)の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ 畢竟依(ひっきょうえ)を帰命(きみょう)せよ ・・・と示されています。
「畢竟依(ひっきょうえ)」とは、阿弥陀さまのお徳をたたえておよびするお名まえ(徳号(とくごう))の一つですが、「畢竟」という言葉は「究極」「究極的なさとり」を意味し、この言葉をある先生は、これ以上どうにもならないぎりぎりの最後とおっしゃられていました。何もかも失った日系一世、そして死に直面した二世の方々の心の依りどころとは、畢竟依という言葉があらわすような境地である阿弥陀さまのお救いだったのでしょう。聖徳太子のお言葉に「世間虚仮(せけんこけ) 唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」とありますが、戦争やテロ、自然災害などにより、あたりまえの日常が突然失われることもあるのです。しかし、究極の依りどころである阿弥陀さまは、私たちの凡情からうまれる苦しみや悲しみの感情を否定することなく、また会える世界、お浄土という確かな行き先と、生死(しょうじ)をこえた真のいのちのあり方をお示しくださっています。そして、私にとって二人の幼い息子が大切な存在のように、大慈悲心を持つ阿弥陀さまにとって世界中のすべてのいのちはわが子のように大切で、互いに傷つけ合うことのない平和な世を願っておられることでしょう。その願いにかなうよう、少しでも努めていきたいと思います。

■濃密な時間 -すべての苦に寄り添う阿弥陀さま-
悲しみ一つなく・・・
「あなたがお父さんと一緒に過ごせる時間は、残り13日!」 あるテレビ番組で、出演者の一人の46歳になるタレントに向けられた言葉です。彼が実家に帰省する日数から、入浴やトイレなどの時間もすべて差し引いた、純粋に親と顔を合わせる時間と平均余命、親子の年齢差から導き出した時間だそうです。意外な少なさに、思わず「ええっ」と声を上げました。また、その方法で計算すると、子どもが一生のうちに親と過ごす時間の55%を、小学校卒業までに終えてしまうのだそうです。私の実家は、昭和40年代から造成が始まった住宅街にありました。お寺などの宗教施設は1件もない所で、家族は共働きの両親と姉・兄、宗教とは無縁の核家族でした。私が7歳、兄が11歳の時、両親は家を新築しました。その家を兄は高校卒業と同時に就職で出ましたので、家族5人がそろって家で過ごした時間は8年たらずです。やがて姉も就職で、母は離婚で家を出ます。末っ子の私も、ご縁があって僧侶の道を歩み始める大学卒業まで、約14年で家を出ました。番組で紹介されたように、実際そう長い時間ではありませんでした。
「無縁社会」「孤独死」-そんな言葉がよく聞かれた年、実家で一人暮らしをしていた父が小脳梗塞(こうそく)で倒れました。発見が早かったのですが、右半身にマヒが残りました。退院後も父は自宅での一人暮らしを望み、いったん自宅に戻ります。しかし、遠くに住む兄が何度も都合をつけて父のもとへ通い、なかなか「うん」と言わない父を説得して、やっとの思いで自分の家の近くに引っ越させました。父の新しい生活が落ち着きはじめたある日、父から電話がかかってきました。父からの電話なんて初めてのことです。言いにくそうに「がんが見つかった。余命半年ほどなんだ...」。突然のことに私は言葉が出ませんでした。半年後、父は亡くなりました。葬儀では私が導師をつとめ、遺骨を引き取りました。だけど、悲しみひとつ込み上げてきません。むしろホッとしている感情さえあることに気づいて、がくぜんとしました。悶々(もんもん)とする自分に、きっと父と過ごした時間が短かったからだ...と言い聞かせました。
後悔が喜びへと
それからしばらくして、父の遺品整理のために、姉・兄の家族らと実家に集まることになりました。数年ぶりに入った実家。父がよく過ごしていた居間に入ってびっくりしました。壁には姉と兄、それぞれの子どもが写ったたくさんの家族写真、それに得度(とくど)したてのつるつる頭の私の写真も飾ってあったのです。15年もの長い間、いったいどんな思いで父はここで一人で過ごしてきたんだろう...。父の思いに触れた途端、父が自宅に帰りたがった理由と、自分が父と過ごした時間の長短ばかり気にして、家族に向けていた父の思いに気づけなかったことに思い至りました。懐かしさ、うれしさと同時に、止めようのない悲しみがあふれてきました。日々お正信偈のおつとめで、「必至無量光明土(ひっしむりょうこうみょうど) 諸有衆生皆普化(しょうしゅじょうかいふけ)」(浄土に至ると、あらゆる衆生(しゅじょう)を導くことができる)とのご文(もん)を頂(いただ)きます。
阿弥陀さまがお念仏の中に、先立った方々と一緒におられて、常に私を仏の教えに導いてくださると、親鸞聖人はお示しくださいました。阿弥陀さまは、悲しいまんま、後悔のまんまで終わらせない、あなたの止まってしまった時間をそのまんまになんかしておけないと、私の悲しみの解決のために、深いお慈悲と、強い願いで、また会える世界をご用意くださったとお聞かせいただきます。そして時に阿弥陀さまは、お念仏の日暮らしの中で、「がんで余命半年ほど」と告白せざるを得なかった父の思いに何も言葉が出なかった自分の姿を見せてくださったり、寂しく暮らす父の力になろうとしなかったわが身の勝手さを思い知らせてくださいます。だけど、そんな後悔を二度とさせないと、悲しみの分だけ私の歩みの時間を濃密にしてくださいます。だって、阿弥陀さまの願いの中で、阿弥陀さまと亡くなった方々、そしてお同行(どうぎょう)とご一緒している、かけがえのない尊い濃密な歩みの時間なんですから。

■「称」は「はかり」-凡夫の私を称えさせて救う阿弥陀仏-
1メートルとは・・・
昨年、株式会社ミツトヨの創業者である沼田恵範(えはん)氏のご命日法要のため、本社がある川崎市と広島県呉市、栃木県宇都宮市の工場へ招かれました。恵範氏は1915年、仏教を伝えようと渡米し、英文雑誌「ザ・パシフィック・ワールド」を発刊しましたが、資金難により休刊。日本へ帰国して仏教伝道のために起業を志(こころざ)し、マイクロメータの国産化により、現在のミツトヨを育てた方です。仏教伝道では、仏教伝道協会を設立して、世界各国のホテルに『仏教聖典』の寄贈を始めた方です。ご生前は、横浜市鶴見区のご自宅で、毎月、法話会を開催しておられました。私も何度か、ご法話のご縁をいただいたことがあります。昨年が恵範氏の23回忌でした。
さて、宇都宮工場へ出向した時のことです。マイクロメータは、微小な長さを精密に測定する機械のことです。はかりの会社なので、講話の中で、「1メートルは、光が真空中を1秒間に進む距離の2億9979万2458分の1」という話をしました。話を終え、工場長の方と一緒にお茶を飲んでいると、その工場長の方が次のように言われました。「私たちの会社は恵まれています。1メートルの単位は、どこではかっても1メートルは1メートルで変わることがありません。これが重さとなると地球には重力があるので、はかる場所によって重さが違ってきます」とのことでした。家に帰って調べてみると、赤道直下と北極点では同じものでも重さが異なるようで、赤道上での体重を1とすれば極地では0・5%増えるとあります。赤道上で100キロの人は、極地に行けば体重が500グラム増えて計量されるのです。工場長が言われたはかる場所によって重さが違う≠ニはこのことです。その点、1メートルは、どこではかっても1メートルです。しかし、重力のもとでの重さの計量には違いが出てしまうのです。「そうなんだ」と思ったことです。人の体重なら数百グラム違っても、それほど問題はありません。しかし、これが金(きん)の商取引なら重要な問題です。高額であればあるほど、0・5%の違いは大問題です。実際、分析化学で使われる電子天秤(てんびん)などは、設置場所を変えると、日本国内であっても、誤差の調整が必要になることがあるそうです。逆にいえば、場所が変われば、電子天秤も正しいはかりではなくなるということです。
名にそなわる功徳
秤(はかり)は、禾偏(のぎへん)に平という会意(かいい)文字です。禾偏は稲、平はたいらで同じ重さを表し、作物の重さをはかる天秤(てんびん)ばかりのことです。天秤は片側に重りをのせてはかります。1キロの重りにつり合う作物は、たとえ重力が違う所ではかっても1キロの作物です。量は変わりません。重力によって重さが違っても、違うまんまが、正しい質量なのです。念仏を「称(とな)える」の「称」の字も同様に「はかり」という文字です。旧字では「稱」と書き、どちらも「秤」と同様の会意文字です。
親鸞聖人は、阿弥陀さまの名を称える「称」は、「称(しょう)の字、軽重(きょうじゅう)を知るなり。『説文(せつもん)』にいはく、銓(せん)なり、是(ぜ)なり、等(とう)なり、俗(ぞく)に秤(はかり)に作(つく)る、斤両(きんりょう)を正(ただ)すをいふなり」と示されています。秤は、稱の俗字であり、斤両とは、斤も両も重さの単位で目方のことです。称は、正しい物の重さを示すということです。私が「南無阿弥陀仏」と、み名(な)を称えることは、それはそのまま、この凡夫(ぼんぶ)の私を「信じさせ称えさせて救う」という阿弥陀さまの願いとはたらきが、私の上に表れたものであるということです。
南無阿弥陀仏のみ名(名号(みょうごう))を称えることは、どれほど値打ちがあることなのかといえば、「大行(だいぎょう)とはすなはち無礙光如来(むげこうにょらい)の名(みな)を称(しょう)するなり。この行(ぎょう)はすなはちこれもろもろの善法(ぜんぽう)を摂(せっ)し、もろもろの徳本(とくほん)を具(ぐ)せり」と聖人は述べられています。阿弥陀さまのみ名を称えることは、善法と徳本、つまり私を仏にする法のはたらきと、私が仏になるすぐれた功徳が名号に具(そな)わっているのです。重力は物が上から下に落ちる姿の上に知ることができます。阿弥陀さまの私を仏にするというはたらきも、私が南無阿弥陀仏と如来のみ名を称えるところに知ることができるのです。

■何度繰り返しても初-ご法話を批判して聞いている私-
聴聞をかさねても
私は、いつも『蓮如上人御一代記聞書(ごいちだいきききがき)』を味わっています。その一七四条に、 「おどろかすかひこそなけれ村雀(むらすずめ) 耳なれぬればなるこにぞのる」、この歌を御引(おんひ)きありて折々(おりおり)仰(おお)せられ候(そうろ)ふ。ただ人はみな耳なれ雀なりと仰(おお)せられしと云々(うんぬん)。 ・・・とあります。
これは、雀がなれてくると、鳴子(なるこ)の上にとまるようになりますが、同じようなことが念仏者にもいえるようです。はじめは感動していた人も、いつしか感動がなくなり、まるで雀のようです、と誡(いまし)められているお言葉です。何度お聴聞をかさねても、初事(はつごと)として聞き、アミダさまのおたすけにまちがいない、と聞きつづけるのがお聴聞です。この蓮如上人のお言葉は、「おまえはどうなんだ」と、私に問いかけているようにひびいてきます。私は、葬儀をおつとめするたびに、「おまえも必ず死ぬのだぞ。むなしく過ごすな」と言われていると思って、人の死とむきあってきました。しかし、しばらくすると、どうでしょう。お恥ずかしいかぎりです。上人から、「仏法をわが身にいただきながら生きているのか」と、諭(さと)されている気がいつもしています。仏法を生活の中でいただいて生きていくのだと伝えてくださっていると、ありがたく、繰り返しいただいているお言葉です。
「よくお気づきに」
以前、広島にご法座のご縁でうかがった時に、ご住職から大瀛和上(だいえいわじょう)のエピソードをお聞きしたことがありました。うろ覚えですが、お聴聞の真髄(しんずい)を知らされた話でした。若い夫婦がお寺に参ってきて、「今日は父の命日なので、おつとめとご法話をお願いします」と、お願いしたそうです。和上はおつとめをし、御文章(ごぶんしょう)の「聖人一流(しょうにんいちりゅう)章」を拝読しました。夫婦は、これから世に聞こえた和上のありがたい法話が聞けると、頭をたれて待っていました。ところが、ご法話をするどころか、「聖人一流章」を繰り返して拝読されるだけでした。たまりかねた夫婦は、「御院家(ごいんげ)さま、この御文章は、そらんじるほど聞いて覚えています。ですから、父の命日のためにありがたいご法話をお願いします」と丁重にお願いしたそうです。それを聞いた和上は、何も言わずに庫裏(くり)にもどってしまいました。本堂に残っている夫婦はぼう然としながら、お互いに顔を見合わせて、「何か失礼なことを言ったのだろうか」と言い合っていたそうです。わけがわかりません。
しばらくご本尊を仰ぎ見ながらお念仏を申していた夫が、法座で聞いたことに思い当たり、すぐに庫裏に走っていったそうです。そして、泣かんばかりに、「御院家(ごいんけ)さま、もう一度、私のために御文章をお聞かせください」とお願いしました。これを聞いた和上は本堂にもどり、「聖人一流章」を拝読され、「よくお気づきになりましたな。御文章には、親鸞聖人が伝えてくださった大事な教えが説かれています。御文章やご法座の聴聞は、親鸞聖人が伝えてくださっているアミダさまのお心をいただかなくては何にもならないのですよ」と申され、この夫婦のために懇切なご法話をされました。
このようなエピソードを聞かせてもらって、あらためてお聴聞の大切さを知らされ、感動しながらよろこんだことを思い出します。みなさんは、先の蓮如上人の言葉から、何をお感じになるでしょうか。私は、ご法話の領解(りょうげ)よりも、知識でご法話を批評している自分が知らされるようです。蓮如上人のお弟子に、越中赤尾(えっちゅうあかお)の道宗(どうしゅう)がいました。上人のご往生から2年後、自らの信仰生活を誡しめる「道宗覚書(おぼえがき)」を書いています。その最初に「後生(ごしょう)の一大事、いのちのあらんかぎり、油断あるまじき事」とあります。なんと純粋でありがたい人なのでしょうか。道宗は偶然、上人の法話を聞いて念仏者になった人です。以来、上人を慕い、お念仏の教えに生きた道宗は、いつもみ教えを初事として聞いていました。 私たちは、お念仏の教えをいつも初事として聞いていかねば、アミダさまのみ心にふれられないことを、道宗は伝えてくれています。

■宇宙カレンダー -またたく間のような人間の一生-
大晦日の23時59分
11月は「霜月(しもつき)」といわれるように、霜が降り、思わず寒さに姿勢が正される季節となりました。日没も早くなり、自(おの)ずと夜空を見上げる機会に恵まれます。今年もあと2カ月を切りました。そんなことを考えながら見上げる夜空に広がる「宇宙」を想像する時、人間はギリシャ神話やかぐや姫の昔から、宇宙へのロマンと神秘を求めて探索してきたことに思いを馳(は)せました。歴史上初めて、人類が宇宙空間を体験したのは、有名な旧ソ連時代のガガーリンでした。彼が言った「地球は青かった」という名言は、今でもよく知られています。また、アメリカのサーナン飛行士は「地球は宇宙のオアシス(生命の泉)だ」と語ったそうです。アポロ15号のアーウィン飛行士は、月世界に66時間滞在しました。宇宙飛行士として月に着陸し、月の大地に実際に立ち、そこから地球を見た時、地球はなんと美しい星なんだとあらためて実感したと言います。
なぜならば、月の大地の上には、生きとし生ける生命はありません。まさに死んだ砂漠でしかない月の大地の上に立った時、彼は植物が生き、動物が生き、ありとあらゆる生命の存在、生命の生きる美しさが地球の美しさであることに気づかされたと語っていました。また、アメリカの宇宙科学者カール・セーガン博士は、150億年(現在は138億年が定説)に及ぶ宇宙の歴史を1年間に縮めた「宇宙カレンダー」を作り、わかりやすく宇宙の成り立ちを説明してくれました。それによると、宇宙の始まりは150億年前の「ビッグバン」と呼ばれる大爆発に始まり、銀河系の始まりは、5月1日になるそうです。太陽系の起源は9月9日、地球の成立は9月14日頃になるということです。また、地球上において生命らしきものが現れ始めるは、9月25日頃であり、人類が登場するのは、大晦日(みそか)の夜10時半であり、歴史の教科書などに紹介される有史時代については、なんと午後11時59分50秒、わずか10秒前になるそうです。
無始以来ずっと
このように、宇宙の気の遠くなるような歴史から見れば、人間の一生は、まばたきする間もない、ほんの一瞬の出来事と言えます。人間は、そのまばたきする間もない一生の中で、悲しみ、憎しみ、怒り、そして対立して傷つけ合い、殺し合いをくり返して生きています。露(つゆ)のように短く、はかない一生のいのちでしかないのに。そんな「いのち」の尊厳を知らせんと、人と生まれ、仏となられたのが、お釈迦さまであり、その教えが仏教として伝えられてきたのです。
親鸞聖人は、ご和讃(わさん)に、 弥陀成仏(みだじょうぶつ)のこのかたは いまに十劫(じっこう)とときたれど 塵点久遠劫(じんでんくおんごう)よりも ひさしき仏(ぶつ)とみえたまふ ・・・と示されます。
阿弥陀仏が、一切の衆生を救いたいという願いを発(おこ)して仏になられたのは、十劫(じっこう)という気の遠くなるような昔にさかのぼります。以来、その願いは実際に力となり、無限のいのちをもって今日に至るまで、止むことなくはたらき続けています。すべてのいのちを救わずにはおかない、という本願のはたらきによって信心が開かれると、実は始めのない無限の過去から、すでに阿弥陀仏として存在されていたと見受けられるということです。しかも、本願の智慧(ちえ)のはたらきは、光がどのような暗闇(くらやみ)の世界であろうと照らし尽くすように、煩悩の闇に惑わされ、真実の智慧をもたない私たちを、一人残さず真実に目覚めさせてくださるのです。
本願の智慧の光は、私が月の光を見ていたのではなく、月の光によって、月をながめるようにはたらきかけられていたことに気づかせてくださいます。今を生きる私たちを生み出すために、無限の過去から絶えることなく続いてきた無数のいのちの歴史。夜空をながめて星空に思いを馳せる時、無始以来、この私のいのちを願ってはたらき続けてくださっている阿弥陀如来の偉大さに気づかされます。親鸞聖人は、本願を聞き、お念仏申す生活の中に、そのことがあるとお示しくださったのです。 
 

 

■願いに生きること-私をそのままに引き受ける阿弥陀さま-
ご法事の中で
近年は、「遠くに住んでいる家族が集まるきっかけにもしたい」と、ご法事の依頼をいただくことが増えてきました。ご家族が久しぶりの再会の中、時折、ご法事もお坊さんに会うのも初めて、という子どもたちに出会います。そのようなご法事では、子どもたちに向けて、こんなクイズを出します。どうぞ皆さんも考えてみてください。「私は今、一生懸命、追いかけっこをしています。頑張って頑張って走って、私は今、3位の人を追い越しました。3位を追い越した私は、今、何位でしょう?」 さて皆さんは今、何位とお答えになられましたか?子どもたちだけでなく大人も笑顔で「2位!」と答えてくれることが多いです。正解は、3位なのです。3位を追い越しても、私の前には2位の人がいます。ゆっくり正解を説明すると、子どもたちは、初めて会ったお坊さんの私をヒーローのように見つめてくれます。さて、このクイズ。実は私自身も答えを間違えた経験がありました。そして、ある友人の言葉をきっかけに、いろんな方へ問うようになったのです。その友人は、つねに頑張れ頑張れと言われ続け、結果を出さないと認めてもらえない環境に懸命に応えようとして、自分自身を見失い、苦しんでいました。そんな時、 「仏心(ぶっしん)とは大慈悲(だいじひ)これなり。無縁(むえん)の慈(じ)をもつてもろもろの衆生(しゅじょう)を摂(せっ)したまふ」 ・・・との言葉をきっかけに、私の存在そのものを無条件で、痛みも悲しみも引き受けてくださっている阿弥陀さまの願いに出あったそうです。そのよろこびを、こうも語ってくれました。「結果や順位を問題にしないで、私のことをずっと見つめて、知り尽くし、抱いてくれている阿弥陀さんが好き。世間は全くそうじゃなかったけど...。頑張っても、ずっと理解されずに苦しんできたもん。阿弥陀さんが好き。その願いに生きていける」と。
「どうでもいい・・・」
あるご法事で、いつものようにこのクイズを出したところ、元気に「2位!」と聞こえる中に、小さな声で「3位」という口の動きを見つけました。「今、何位って言ったの?もう一度教えて」 私の問いかけに、その子は小さく「3位」と答えてくれました。まわりの子どもたちは、間違っていると指摘して、大変にぎわっています。その子に理由を尋ねると、また小さな声で、そして、そっぽを向いて、「どうでもいいし、順位なんて」と答えてくれました。その反応には少々ショックでしたが、うれしい返事でした。
正解を知った子どもたちは、先ほどの態度から大きく変わって、その子をほめています。その様子を見ていた、その子のおじいちゃんが、みんなにこう言われました。「私の時代は勝つか負けるか競争しながら、結果を出しながら頑張ってきました。大きな声には従いながら、我慢して頑張ってもきました。それが当たり前でした。そんな経験から、息子にも厳しく接してきたのです。孫にも。でも昨年の運動会の後、いつものように徒競走の順位を孫に聞いたのです。その時、下を向いてなかなか返事をしない孫の前に、息子が立ちはだかって言ったんです。毎回毎回、順位なんか聞くなよ! この子が一生懸命走っていたところを見てたのかよ! 昔から俺は親父(おやじ)のそういうところが嫌だった≠ヘっとさせられました。
さっきのクイズ、正解は3位でも、みんなが2位と言えば、答えは2位と考えてしまう私がまだいたことも恥ずかしいです。みんなが2位と言う中で3位だと、よく言ってくれました」 阿弥陀さまの願いをともに聞かせていただく中で、おじいちゃんの言葉をみんなで味わい、ご家族それぞれ帰宅された後も、私と大切な誰かとの有り様や、私を取り巻く社会、世間のあり方が、果たして私たちがほんとうに心豊かに生きていけるものなのかと問い、思い返すご法事のご縁をいただいたことでした。

■帰る家がある-必ず連れて帰ってくれる阿弥陀さま-
不急のことばかり
みなさんは、蓮如上人の「白骨の御文章(ごぶんしょう)」をご存じのことと思います。その一番最後に、「たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」とあります。蓮如上人は、誰もが早く命の往(ゆ)く先を阿弥陀さまのお浄土であると聞き受けてくださいとお示しくださいました。それは、縁次第では今にも命を終えていかねばならない私たちに、後生の一大事は二の次(つぎ)三の次がない、ただ今私の大問題であるとの仰(おお)せです。ところが、私たちは健康で元気で人生がうまく運んでいる時には、「命の往く先」にあまり関心がないのかもしれません。「死んだらおしまい」ともよく耳にします。そんな私たちにお釈迦さまは、「世(よ)の人(ひと)、薄俗(はくぞく)にしてともに不急(ふきゅう)の事(じ)を諍(あらそ)ふ」と『無量寿経』にお示しになられました。そこには、急がなくてもよいことを争って、欲に追い回されて少しも安らかな時がないとあります。
確かに、働いてお金を稼ぐことは大事なことです。衣食住が足りていることなど、世の中には大事なことはたくさんあります。しかし、それらは「死」を前にした時、すべて色あせ、その価値を失い、私の生死(しょうじ)の苦悩には何一つとして間に合いません。死を前にした時、私たちはいったい何を想(おも)うのでしょうか。それはどうやら健康で元気な時とは変わっていくようです。ある時、近くの公民館に音楽家の方が、お話とコンサートに来られました。その方は、全国のホスピス病棟を歌のボランティアで回られたそうです。その際、「あなたは命を終える時、もし歌が聞けるとするならば、いったいどんな歌が聞きたいですか」と尋ねて回られました。すると全国で最も多かった答えは、童謡の「ふるさと」であったというのです。故郷(ふるさと)とは、友達と駆けずり回った懐かしいあの山、あの海、あの川のことです。地方の方であれば田畑のある風景、都会の方であれば、電車が走り、家が多く建つ風景が故郷でしょう。そして何よりも、あの生まれ育った実家のある風景。そこには、父や母や兄弟が、そして祖父や祖母がいて、けんかしたり笑いあったりした懐かしい家がある。それが故郷の中身です。そうすると、私たちはいよいよたった独り、死を前にした時に、いったい何を心に想うかといえば、それは「ふるさと」を想うということです。つまり健康で元気な時にあったような「無関心」でも「死んだらおしまい」という心でもなく、私たちは「帰る場所」を想って命を終えいくということです。
"さあ帰ろう!"
「ふるさと」の歌詞には「こころざしをはたして いつの日にか帰らん」とあります。帰郷する者の中には、人生に掲げた目標を成し遂げたと意気揚々と帰る人もいるでしょう。一方で、夢や仕事のことなど、志半ばで意気消沈して帰る人もいます。しかし、故郷は手ぶらで帰っていける唯一つの場所です。親鸞聖人は善導大師のお言葉を受けて、「帰去来(いざいなん)、他郷(たきょう)には停(とど)まるべからず。仏(ぶつ)に従(したが)ひて本家(ほんけ)に帰(き)せよ」と示されました。本家とは阿弥陀さまのお浄土のことです。そして帰去来(さあ帰ろう)の「帰る」とは、家や故郷に向かう時に使う言葉でした。お寺のご門徒の中には、病院や施設など、長く家を離れて暮らされている方や、故郷を離れて子ども夫婦がいる都会で暮らされている方も多くあります。すでに親を見送り、お連れ合いやお子さんに先立たれた方も多くいらっしゃいます。
そんな私たちに親鸞聖人は、「なごりをしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁尽(えんつ)きて、ちからなくしてをはるときに、かの土(ど)へはまゐるべきなり」 「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候(そうら)ふべし」とおっしゃられます。
誰もが死にたくはないし、この世を離れがたい思いを抱えながらも、必ず命が終わる時を迎えなければなりません。しかし、今ここに「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまがずっと先手先手にご一緒くださって、必ずお浄土に連れ帰ると告げてくださいます。あの懐かしい方々が先に往って待っているお浄土に、このたび帰らせてもらう。お念仏のお心を今聞いて、後に帰るお浄土を想う。家に帰るのは後ですが、後に帰る家のあることが、今の安心となっているのです。

■決して見捨てない -そこにかならず阿弥陀さまが-
当たり!
今年、小学生向けの学習教材のドリルが、ベストセラーになりました。その名も『うんこドリル』。漢字や算数の問題の例文すべてにうんこ≠ニいう単語が入っているのだそうです。特に男の子の間で爆発的な人気を博したことで話題になりました。喜んで問題を解く子どもたちですが、そのくせ学校では、トイレでうんこをすることが苦手なんだそうです。かくいう私もそうでした。 「トイレに行きたい」 授業中の先生に、そう言い出すのは本当に勇気がいります。お腹(なか)が痛くなると、決まって私は心の中で大声で先生を呼んでいました。もちろん、心の中の声なので、先生は気づきません。それでも気づいてもらえるように、机に突っ伏せたり、大げさに顔を苦痛にゆがめたり、アピールに必死です。でも気づいてもらったことはありませんでした。私はいつも思ったものです。「ぼくが先生なら、気づいてあげるのに」 小学生の頃のことを思い出しながら、大人になった今も、人の思いには気づけそうもない私であると感じました。そして、当時の自分に謝りたい気分になっていると、突然、小学2年生の時の出来事が脳裏によみがえってきました。
その年の夏、家を新築するため、家族で仮住まいをしていました。私の実家はお寺ではありません。共働きの両親、中学生の姉、小6の兄、そして私です。母は、子どもがお腹をすかせた時のために、いつも果物を箱買いしてくれていました。その時の果物は、ソフトボールサイズのプリンスメロンでした。ある日曜日のことです。両親は、ほぼ完成していた新築の家の整理に行って留守でした。夕方お腹がすいた私は、メロンを手に取り、台所で半分に切りました。プリンスメロンの果肉はだいたい緑色ですが、その時のメロンは赤かったのです。「当たり」だと思いました。だけど、すぐに気づきました。メロンの果肉が赤いのではなく、私の指先から流れる血で赤いのでした。止血のため慌(あわ)てて傷口をなめますが、止まるわけがありません。オロオロしているうちに、いつしか台所、服、床にまで血が流れ落ちています。さすがに「こりゃ隠し通せない」と思った私は、リビングにいた姉に指を切ったと言いました。
血まみれの私を見た姉が、「あぁ!」と声をあげます。すると隣の部屋にいた兄が飛んで来て、私の様子を見るなり、何やら叫びながら家を駆け出して行きました。後で聞いた話ですが、その時、兄は私が指を切断してしまったと思い込み、少し離れた新築中の家にいる両親を呼んでこなければと、飛び出したらしいのです。家までは全力で走っても10分以上かかるうえ、途中には車の多い幹線道路もあります。一刻を争う状況だと思い込んでいた兄は、短パンにTシャツ姿。慌てて飛び出したので、履(は)いていたのは靴ではなく、大人用のサンダルでした。兄はタイミング悪く幹線道路の信号につかまってしまいました。一向に変わらない信号、通り過ぎる無数の車、焦る兄。「このままでは間に合わない。弟は出血多量で...」と涙がこぼれ落ちそうになったその時、普段着とは言い難い姿で信号待ちをしている子どもの異変に気づいた男性が、車を止めて兄に声をかけてくれたのでした。その後、男性は兄を乗せ、新築中の家に母を迎えに行き、さらに、いまだ止血できない私を病院まで運んでくれました。おかげさまで軽傷ですみました。
救いようのない私
浄土真宗の所依(しょえ)の経典『仏説無量寿経』には、阿弥陀仏がお出ましになるまで、はるかな昔から五十三もの仏が相次いでこの世にお出ましになって、すでに去られたと示されています。それはすなわち、はかり知れない昔から、五十三もの仏さまですら、この私は救われなかったのだと教えていただきました。阿弥陀さまは、自分の苦しみにすら気づけていない私の本当のありようを見抜かれ、多くの仏さまを見送らなければならなかった私の悲しみをあわれみ、決してお前たちの前を黙って通り過ぎるような仏にはならない、心細い思いはさせないと立ち止まられました。悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、そこにかならず阿弥陀さまが一緒にいてくださいます。

■ゆきし母に導かれ -笑顔を絶やさず、お念仏を喜ぶ-
一滴の水・一枚の紙
私は若い頃から30年ほど、龍谷大学名誉教授の浅井成海(なるみ)先生から浄土真宗の教えを、先生がお亡くなりになるまで学びました。その勉強会の折にうかがった話が、懐かしく思い出されます。それは江戸から明治にかけて、臨済宗の高僧として知られた儀山禅師(ぎざんぜんじ)にまつわる話です。備前(岡山)の曹源(そうげん)寺におられた儀山禅師のもとには、弟子の修行僧がたくさんいました。あるとき、若い修行僧がお風呂を沸(わ)かしていました。しかし、熱くなりすぎたので、手桶(ておけ)に水を汲んでうめました。そして、桶に残った水を無造作に捨てたところ、それを見ていた儀山禅師がきつく叱責(しっせき)しました。「おまえは手桶の残り水を捨てたけれど、一滴の水でもほしい庭の草や木にかけてやったら、どんなによろこぶだろう。一滴の水、一本の草木にも心をかけて生活するのが仏道修行なのだよ」と諭したそうです。それを聞いたお弟子は、この言葉から仏教の「こころ」をさとり、名前を「滴水(てきすい)」とあらためて修行をかさね、後に京都・天龍寺の管長となり、滴水禅師と呼ばれる高僧になりました。
浅井先生は、この話はなんでもないことのようだが、仏教の深い「こころ」が伝えられていると説明してくださったことがありました。仏教の教えを学ぶと、「あらゆるいのち」に支えられて、私が生かされているということが知らされてきます。浄土真宗の教えを多くの人々に伝えられた蓮如上人は、廊下に落ちていた一枚の紙を拾われ、「仏法領(ぶっぽうりょう)の物をあだにするかや(仏さまより恵まれたものを粗末にするのか)」と言われ、その紙をおしいただかれたといいます。「一滴の水」「一枚の紙」を大切にして生きるということは、もったいないから節約するというだけでなく、私をとりまいている「いのち」を大切にして生きていることと言えます。
十億の母がいても
私はいま、古稀(こき)を前にして、実家の母のことをしきりに思い出します。晩年に母は私の顔をみるたびに、「おまえは、わしをたまにしか思い出さないだろうが、わしはかたときもお前のことを忘れたことがないけんね」と言っていました。母は38年前にお浄土に参らせてもらい、続いて父が参らせてもらいました。私はそれからさまざまな出来事の中で挫折を繰り返し、その都度、両親の願いに生かされていた自分を知らされました。暁烏敏(あけがらすはや)『母を憶(おも)う歌』370首の中に、「十億の人に十億の母あらむもわが母にまさる母ありなむや」 という歌があります。母を思い出す時、いつもこの歌を思い出して母に感謝しています。母の晩年、7年間はパーキンソン病と中風で寝たきりの日々でした。私が帰省すると、「浄土真宗でよかったね。うれしいね」と、よく話をしていました。母は不自由な体でしたが、いつも笑顔のたえない人でした。この時の母の心中が、今なら理解できます。
親鸞聖人はお手紙の中で、「南無阿弥陀仏にあひまゐらせたまふこそ、ありがたく、めでたく候(そうろ)ふ御果報(ごかほう)にては候(そうろ)ふなれ」とお書きになっています。無学な母でしたが、心から親鸞聖人のおこころを喜んでいたに違いありません。どんなことよりも、南無阿弥陀仏に遇(あ)うことが、「ありがたく、めでたい」と病床で喜んでいたことでしょう。 そんな母ですから、同じく聖人のお手紙に、「ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり」とあるように、お念仏しながらお浄土に往生する身になることを、一番の幸せと生きていたに違いありません。私は療養生活をしていた母の念仏相続から、大事な南無阿弥陀仏の宝を受け取りました。母は私をアミダさまのみ心にちかづけてくれた先生でもありました。「悪人のまねをすべきより、信心決定(けつじょう)の人のまねをせよ」との蓮如上人がお示しが、心に響いてきます。 「おほいなる御手(みて)にひかれてゆきませしおん足跡のうるわしきかな」(梅原眞髦a上(わじょう))

■大きなるともしび -「あなたを決して見捨てない」-
片面しか見てない
皆さんは最近、月をご覧になりましたか。スーパームーンや月食など、月は魅力的な表情を私たちに見せてくれます。しかし、月は満ち欠けはしますが、今日は裏側を向けているということは決してありませんよね。月は自転と公転が同期し、常に地球に同じ側を向けているそうです。2013年にロシアのチェリャビンスク州で隕石(いんせき)が落ち、1500人もの負傷者が出るという大事件がありました。地球は常に隕石落下の危機にさらされているのです。隕石で恐竜が絶滅したという説もあります。しかし、月にも引力があるため、過去には地球に落ちるはずの隕石を、月の裏側が食い止めたこともあるそうです。月を見て「きれいだな」と思うことはありますが、「私を生かしてくれて有り難う」と手を合わせたことはあったでしょうか。月の裏側は見ることができないように、私たちはいつも物事の一面しか見ていないようです。また、自分の都合のよいところしか見なかったり、「好きか嫌いか」「得か損か」などと、偏(かたよ)って見てしまうのが私の見方です。たとえば、病気と健康だったら、同じいのちの営みにもかかわらず、私は当然、健康をよしとして選びます。自分も家族も、ずっと健康であってほしいと願わずにはいられません。しかし、昨年の5月に住職である父が大腿骨(だいたいこつ)を骨折、その後ウイルスに感染するなどして、今も入院を続けないといけない状態になってしまいました。
常に私を照らす光
そのような中、あるご門徒のご葬儀で、父に代わり私が導師を務めました。葬儀の後、亡くなられたご門徒の奥さんが「住職さんに導師をしていただきたかったです」とポツンとおっしゃいました。私は「住職の代わりが務まらなかったか」と申し訳なくなりました。その様子を察してくださったのか、こう言ってくださいました。「おつとめいただき、とても有り難かったです。ただ、主人と住職さんは同い年で、いつも仲良く話をさせてもらっていたのです。実は、亡くなったことを入院中のご住職の携帯電話にご連絡したのです。すると、声を詰まらせて泣いておられました。『おつらいでしょう。本当にお世話になったんですよ』と言ってくださって...。私もその声を聞いたら、それまで張りつめていたものが一気にあふれて、しばらく一緒に泣いてしまったんですよ」 私は父の病(やまい)を外側から見て、つらいだろう、しんどいだろうと思っていました。しかし、それは病の一面でしかありませんでした。父は今、病の中にあるからこそ、同じ立場から闘病中のご門徒の心情に思いを馳(は)せたり、看病して見送られたお連れ合いの気持ちを察したりして、涙がこぼれたのだと思います。
後でそのことを話すと、父は「ともに阿弥陀さまのお浄土を聞かせてもらっているから、また必ずお会いさせてもらうことができる。でも、やっぱり寂しいな」と話してくれました。父にとって病はきれい事ではなく、つらくしんどいことでしょう。そのこと自体は変わりませんが、自らの病の経験によって相手の悲しみを知ることができたのです。それなのに、病を悪いこと、嫌なことだという見方しかできない、しかもそれを当然だと思ってしまう私のあり様を、阿弥陀さまは真っ暗闇、つまり真理に暗い「無明(むみょう)」の存在と示されます。
「弥陀(みだ)の誓願(せいがん)は無明長夜(むみょうじょうや)のおほきなるともしびなり」と、親鸞聖人はお示しくださいました。
私のあり様をしっかりと見抜いてくださった上で、「あなたを決して見捨てない」と願い、照らし、包んでくださるのが阿弥陀さまの灯(ともしび)です。阿弥陀さまが私たちに向けられた大きな灯に照らされると、私たちの見方には限りがあり、それなのに自分は正しい気でいることに気づかされます。浄土真宗では、お聴聞(ちょうもん)を何よりも大切にします。なぜならそれは、この私が「無明」の存在であるということを、また、そのような私に阿弥陀さまの願いが常にはたらいてくださることを聞かせていただくからです。ともに繰り返しお聴聞させていただきましょう。

■一杯の温かいお茶 -ひと声のお念仏には-
優しい心遣い
二月は、陰暦で「如月(きさらぎ)」といわれますが、また「衣更着(きさらぎ)」とも書かれます。それは、この時季が一年を通して最も気温が低いことから、重ね着をして寒さを凌(しの)ぐという意味を表しているようです。立春を迎えるといっても、陽(ひ)の昇(のぼ)っている時間は短く、すぐに辺りは薄暗くなります。その日のお仕事を終えられる頃には、肌を刺すような寒さのなか、家路を急がれることでしょう。
「ただいま」 「おかえりなさい。寒かったでしょう」 そうして、一杯のお茶が差しだされます。「温まってね」 「ありがとう」 そこには、寒天の夜空の下を帰ってくるわたしを気遣う言葉、冷え切ったわたしの身体をいたわる気持ちがあります。そして、帰宅するとすぐにお茶が差しだされているということは、わたしの思いを汲(く)み取っていらっしゃるお家の方の優しい心遣いがあるということです。心温まるお茶を前にして、感謝の言葉とともにおいしくいただかれることでしょう。
お念仏のこころ
お念仏のこころについても、これと同じように考えることができます。親鸞聖人は、そのこころを三つに分けて説かれています。その一つは「わたしを招(まね)き、喚(よ)び続けておられる(阿弥陀)如来の本願の仰(おお)せである」とおっしゃっています。それは、寒風のなか帰宅したわたしに「おかえりなさい。寒かったでしょう」と声をかけられるように、南無阿弥陀仏のお念仏は、煩悩に凍(こご)えるわたしを気遣う「阿弥陀さまの喚(よ)び声」であるということです。その二つは、お念仏には「阿弥陀仏が因位(いんに)のときに誓願(せいがん)をおこされて、わたしたちに往生の行(ぎょう)を与えてくださる大いなる慈悲の心」(同)が込められてあるとおっしゃっています。それは、帰宅するとすぐに、わたしをいたわる気持ちから一杯のお茶が差しだされるように、そこには、わたしの思いに先んじて「お念仏を称(とな)えさせたい」という「阿弥陀さまの優しいおこころがある」ということです。そして、三つには、そのお念仏は「衆生(しゅじょう)を救うために選び取られた本願の行(ぎょう)である」とおっしゃっています。それは、優しい心遣いから差しだされた温かいお茶によって、こわばったわたしの心が和(やわ)らぐように、南無阿弥陀仏のお念仏には「あなたを救い取って必ずさとりに至らせる」という「阿弥陀さまの願いにかなったはたらきが満ちあふれている」ということです。
報謝の思い
このように差しだされたお茶を、わたしたちはどのようにいただいているのでしょうか。第十三代宗主の良如(りょうにょ)上人の頃から本願寺の歴代のご門主に献茶を行っている藪内(やぶのうち)流には、その茶風を表して、
すなほなる 心をうつす わざなれば 手つきまがらず すなほなるべし
という道歌(どうか)が伝えられています。その意(こころ)は「茶の道は、客人をもてなすまっすぐな心を映(うつ)すものであるから、立ち居振る舞いを正し、心身ともに清らかでなければならない」ということでしょう。このように、茶の湯には、それを点(た)てるものの心が、そのまま所作(しょさ)に映ります。そして、亭主のおもてなしの心と客人の心がひとつになるところには、おのずから感謝の気持ちがわき起こってくるでしょう。点(た)てていただいた南無阿弥陀仏というお茶には、阿弥陀さまの清らかなおこころが映っています。そして、そのお茶は、阿弥陀さまのおこころにかなったはたらきに満ちあふれています。一声(ひとこえ)、一声、お念仏を称えるたびに、温かいお茶を差しだされている阿弥陀さまのお姿を思い起こし、悲喜交わる人生という荒天のただ中にあるわたしたちを救い取ろうとしていらっしゃるおこころに、報謝の思いを忘れてはならないでしょう。

■よび声が聞こえる -仏教が私を追い求めてくださっている-
役に立たないと・・・
昨年12月、あるお宅にお参りに行きました。お寺の報恩講が終わって数日後だったので、奥さんと「先日のご講師のお話は、とてもありがたかったですね〜」と話をしていました。すると、ご主人が「家の中のこととか、孫の面倒とか、庭の落ち葉の掃除(そうじ)とかで大変な時にまったく...。参れと言いますが、みんな忙しいんですよ。よっぽど役に立つ話なんでしょうね。そうじゃなくちゃ困りますよ」と、不満を口にされました。さあ、こんな時には何をどのようにお話しすべきでしょうか? 短い時間で考えたものの、お釈迦さまのような当意即妙(とういそくみょう)な例えは思い浮かばず、少し残念な雰囲気でそのお宅を後にしました。しかし、その時の「役に立つ」という言葉は、私の心に引っかかりました。
あえてこの言葉を使って、「仏教は役に立つんですよ〜。役に立つとか立たないという私たちのものさし(価値観)がブッ壊れるのに役立つんですよ〜」とでも説明すればよかったかなとも後々考えましたが、すんなり納得してもらえる自信もなく、ご主人にお寺に参ってもらうのは今後の課題となりました。「何があっても、あなたを離すことはありません」という阿弥陀さまのはたらきを、私が感得(かんとく)させていただくことが仏教ですが、「そこのところが、どうもよくわからない」と言われる方もたくさんおられます。かつて私もそうでしたが、自分のことも振り返って考えますと、「わからない」理由に大きく二つあるように思います。
私を抱きしめる方
一つ目は、仏教が私よりもはるかに大きくて深いものであると思っていない、ということです。近頃、人工知能(AI(エーアイ))が急速な進化を遂げて、すでにさまざまな分野で人間の能力を上回り、もしかすると将来、AIが人間を支配する時代がくるのではないかとも言われています。そういう事態を恐れる人々に対して、脳科学者の養老孟司さんは「そうなりそうな手前でコンセントの電源を抜けばいいじゃないか」とおっしゃっており、確かにそうかもしれません。それはさておき、私たちは普段、自分が理解し使いこなしているものに対しては安心感がありますが、逆に私たちよりも大きなもの、理解を超えたものに対しては恐怖を感じます。このことからすれば「仏教は役に立つか」という発想は、仏教を私たちよりも小さいものとして見て、ちょっとくらい学べば理解できると高をくくっているからこそ出てくるものでありましょう。
そうではありません。仏教は私たちが本来なら恐怖を感じるくらいに、とてつもなく大きくて深いものなのです。わからない理由の二つ目は、その仏教を、私が問いたずね、私が追い求めていく、という方向性です。教えを追い求めることは大切なことです。しかし、そこからさらに、とてつもなく大きく深い仏教が、私を問い、私を追い求めてくださっていることに気づかされなければなりません。親鸞聖人は、この「仏教」そのものが、阿弥陀さまである、という結論に至られました。そして阿弥陀さまは、私を追い求め、つかまえ、あたたかく抱きしめてくださっているお方なのだ、と深くよろこばれました。お正月に、報恩講のご講師から年賀状が届きました。毎年、干支をモチーフにしたありがたい賀状を頂いております。今年は、犬を抱きしめている阿弥陀さまの後ろ姿の絵と、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」(摂(おさ)め取って捨てない)というタイトルの詩が書かれていました。
迷子になった犬は 自分が迷子であることも忘れ その日の食物を求めるだけの野良犬になっていた。ある日 その犬は自分の名を呼ぶ声を聞いた。その瞬間 その犬はもはや野良犬ではなかった。そして犬は気付いた。自分の名を呼び続けた御方(おかた)にしっかりとハグされていることに。
この犬は、実に私たちのことです。
十方微塵(じっぽうみじん)世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる ・・・親鸞聖人のご和讃があらためてうれしく味わわれます。

■「ほんとに幸せな人生」-どうしても伝えておきたかった手紙-
一字一字が声に
ご門徒の光子さんという方が体調を崩され、病院へ入院される際に、妹さんへ次のようなお手紙を託されました。「みなさま、長い間大変お世話になりました。言葉が出なくなった時のために、お礼を申させていただきます。長い人生、いろいろありましたが、お念仏にあわせてもらい、親さまに生かされて、ほんとに幸せな人生でした。家族のみんな、親族の方々をはじめ、お友達のみなさま、今日の日まで、このような私をかわいがり、おつき合いしていただいて、ほんとうに有り難うございました。みなさまのご健康とご多幸を念じて、お礼の言葉とします。 合掌」
このお手紙は、光子さんのお通夜の時に披露され、今もご自宅のお仏壇の前に大切に置かれています。これはお手紙ですから、文字で書かれたものです。しかし、「言葉が出なくなった時のために...」と書き始められたこのお手紙の一文字一文字は、光子さんの「声」でもありました。いったいどのような思いでこのお手紙を書かれたのか。それは私の想像が及ぶところではありません。しかし、91歳の光子さんが、「長い人生、いろいろありましたが...」と述べられるところに深い重みを感じます。また、阿弥陀さまのことを「親さまに生かされて...」と仰(あお)いでおられるところに、その人生を貫いていたのは、阿弥陀さまの力強さと温もりであったことが知られます。光子さんは3歳の時に親戚に養女として出され、それから戦前、戦中、戦後を生きられました。その間、数々の苦労があり、誰にも代わってもらえない、時には誰にも語れない悲しみや寂しさがあったはずです。しかし、歳を重ねられ、いよいよ力なくして言葉も出なくなる前に、家族や親族や友人にどうしても伝えておきたかったその一声とは、お念仏に出遇(あ)い、阿弥陀さまに出遇えたことが、人生において本当の幸せであったということでした。そして、頂いた多くのご縁にお礼を申されることでした。光子さんは、そんな思いのありだけをご自身の「声」として遺されたのでした。「声」は、例えば「読者の声」というように、心のうちを相手に届けるという時に用います。また、「春の声」というように、季節の訪れが知られる時にも使います。それは、「声」には目には見えない心や存在を相手に告げる力があるからです。
南無阿弥陀仏一つ
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまの「お喚(よ)び声」ですと教えてくださいました。そのところに、「告(つぐる)なり、述(のぶる)なり、人(ひと)の意(こころ)を宣述(せんじゅつ)するなり」とお示しです。「人の意」とは阿弥陀さまのお心のことで、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまが私たちに向かって、「まかせよ、必ず救う」というお心を告げてくださる声であるとの意味です。つまり、阿弥陀さまは私たちを思うお心のありだけを南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)に仕上げて至り届き、私たちのお念仏となってあらわれ出て、「ここにいるよ、独りじゃないぞ」と、ご自身の存在とお救いを告げてくださるのでした。
今日、私たちの手元には、お釈迦さまや七高僧、そして親鸞聖人が文字であらわされたお聖教(しょうぎょう)が数多く伝え遺されてあります。それらお聖教の言葉や表され方はさまざまですが、そこに貫かれてあるのは私たち一人ひとりのお救い、すなわち阿弥陀さまのお心がよび声となった「南無阿弥陀仏」一つでありました。そうすると、すべてのお聖教は阿弥陀さまの声であり、私たちへ宛てられたお手紙ともいえます。日頃、私たちが声に出しておつとめしているお経(きょう)の一文字一文字は、そのままが阿弥陀さまのお心を一声一声聞かせていただいていることなのでした。そこには、たとえどんな人生を送ろうとも、決して孤独はありません。阿弥陀さまは、うれしい時も悲しい時も、お念仏の声となり、おつとめの声をうながして、独りじゃないことを心いっぱいに知らせてくださいます。そして、たとえいつどこでどのように命終えようとも、必ずお浄土に生まれさせ、仏さまにしてくださいます。そんな人生の最後に「有り難うございました」とお礼が言える。それを「ほんとに幸せな人生」というのでした。

■実りある今 -黙って座ってはいられない仏さま-
「しあわせ」とは
山のあなたの空遠く 『幸(さいわい)』住むと人のいふ 噫(ああ)われひとと尋(と)めゆきて 涙さしぐみかえりきぬ 山のあなたになほ遠く 『幸』住むと人のいふ ・・・これはカール・ブッセの有名な詩「山のあなた」です。
また、「幸福を探して幸福を見つけた人はいない」という言葉もお聞かせいただきました。「しあわせ」を、私を離して遠くに求めると、いつまでもしあわせになれないのかもしれません。辞書で「しあわせ」を調べると「仕合わせ」とあり、「めぐりあわせ」を意味していました。つまり「仕合わせ」とは、今日一日の不思議なめぐりあわせをよろこぶ私、つらいこと苦しいことも多いけれど、今日一日、今一瞬を、尊いご縁であったと味わう私の心を離れてはないのでしょう。ご門徒さんに、80歳過ぎのお母さんを看病されているお宅があります。
お母さんは若い頃から笑顔がたえず、娘さんたち姉妹とも非常に仲のよいご家庭です。しかし、数年前からお母さんは認知症を患うようになりました。はじめの頃は症状も軽く、自宅と施設を行ったり来たりの生活で、お参りの時には必ずご自宅におられました。それが最近では、症状が進んだこともあり、施設にいることがほとんどで、お参りのご縁にもあえなくなりました。毎日の看病はお姉さんがされています。少し離れた所に妹さんがお住まいなのですが、距離があるので、月に一度くらいしか看病に来られません。そのような中、昨年末にお参りした時のことです。その日もお母さんは施設におられ、お参りはお姉さんお一人でした。おつとめが終わると、お姉さんが「妹と母の話をしますと、どうしても病気の話になります。そして、妹は母の看病を私にばかりさせていると、すごく気をつかってくれるんです」と話されました。それを黙ってうなずいて聞いていますと、続けて「私も当然、病気も気になりますし、看病が大変なときもあります。元気な時の母を思うといたたまれません。でも、私は母に会うのが楽しみなんですよ」と話されたのです。
私が「今も大切な時間なんですね」と申しますと、涙ながらに「そうなんです。母の状態は日によって違います。でも、私が行くとうれしそうにしてくれるんです。時には、私が誰かわからない日もありますが、そんな時でも、『ありがとう。気をつけて帰ってね』と言ってくれるんですよ。母のほうが気をつけなくてはいけないのにね...」とお話しくださいました。いろんな思いや不安はつきませんが、お母さんの看病の日々は、そのままお母さんとの大切な時間が積み重なっている毎日なのでしょう。いのちに無駄な時間はありません。どんな時もかけがえのない大切な人生です。その方と一緒にいる今一瞬は何より尊い時間であり、元気な時には決して味わえなかった大切ないのちの時間なのです。
空しくない人生を
中国の善導(ぜんどう)大師が、阿弥陀さまのお立ちになったお姿を解釈されたお言葉に、「立(た)ちながら撮(と)りてすなはち行(ゆ)く。端坐(たんざ)してもつて機(き)に赴(おもむ)くに及(およ)ばざるなり」とあります。「撮(と)りて」とは、つかみとることで、迷いの世界で苦しむ者をつかみとってお浄土につれて行き、仏さまにしてくださるのです。苦しむ者がそこにいれば黙って座っていることができず、立ち上がってその者のところまで来てくださるというのです。私たちは、苦しみ悲しみを背負い生きています。だからこそ阿弥陀さまは、あなたを救わずにはおれないと、苦しみ悲しみのど真ん中へはたらき出てくださっているのです。それが、この口に現れるお念仏です。
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし 
私の人生を空(むな)しく過ごさせない、必ず実りある人生を歩ませてみせる。それが阿弥陀さまの願いです。人生の実りとは、未来にあるのではなく「今・ここ」にあるのでしょう。そのような「いのち」を見る眼(まなこ)を開いてくださるのが、ご本願のおはたらきなのです。

■独りじゃないよ-ただ分かれるだけでは終わらない人生-
「しあわせ」とは
「いつか別れがやってくる」ということを思いながら、ご門徒のお宅へお参りするようになりました。私が初めてお参りに行ったのは、今から二十数年前、お得度を受け、僧侶にならせていただいたすぐ後でした。父の代わりに初めてお参りしたその日、まだ高校生だった私を、母がご門徒のお宅へ送ってくれました。「不安やわ...」と母に言ったのですが、「大丈夫、心配ない。あとで迎えに来るからね」と車を降ろされました。不安を抱えたままのお参りでしたが、それからも父の代わりにお参りに行くことがあり、運転免許を取ってからは一人でお参りに行けるようになりました。何度もお参りをしている間に、いつしか不安を感じなくなっていました。私が26歳の夏、住職であった父が突然亡くなりました。当時、私は京都で仕事をしていましたので、ご門徒のお参りは私の予定に日を合わせていただけるようになっていきました。そして、父が亡くなってから数年が経ちました。僧侶になって初めてお参りしたご門徒のお宅にうかがった時のことです。毎月、ご夫婦でお参りされ、いつものように一緒におつとめした後にいろいろお話をしていると、突然、奥さまから「この人、『あなたのお父さんの代わりになるんや』って言うたんですよ」という言葉が飛び出しました。
「えっ?」と聞き返すと、「お父さんが亡くなった日の夜遅く、うちに連絡あったでしょ。この人、『すぐにお寺の明かりつけて、住職を迎える準備せなあかん』って家を飛び出して行ったのよ」と話してくださいました。あの日の夜、私は帰ってくる父を迎えるために病院から急いでお寺に戻っていました。お寺に着くと、誰もいないはずなのに本堂や家に明かりがついていました。「あの時はビックリして、ただいま≠チて玄関に飛び込みました」とお話しすると、「そう! 玄関から入ってきたあなたの疲れた顔を見て、『えらいことになった。お父さんの代わりになって支えたらなあかん』って思ったんですって」と教えてくださいました。この時まで、私はまったく気づいていませんでした。初めてお参りした日からずっと、私の成長をいつもそばで見ながら支え続けてくださっていたのです。いつの間にか不安を感じなくなって、今日まで何とか歩んでこられたのも、支え続けられていたからだったのです。
得難い日を今日も
そんなお二人とも、やがてお別れのときがやってきました。現在は、息子さん夫婦が後を継いでおられます。「南無阿弥陀仏」とお念仏するたびに、お育ていただいた日々を思い出します。別れは、さびしいものです。けれど、阿弥陀さまをご本尊と仰(あお)ぎ、「南無阿弥陀仏」とご一緒にお念仏申させていただいた日々は、今も私の支えとなっています。阿弥陀さまは、私たち一人ひとりのいのちを「ひとり子」のように、大いなるお慈悲の心をもってお育てになられていると、お釈迦さまは仰(おお)せになられました。「あなたを支え、その苦しみを取り除きたい」という願いが、どのいのちにも平等に澍(そそ)がれているのです。私たちは独りで生きていけません。独りではなかったからこそ、今日まで生きてこられたのです。「独りじゃなかった」と気づくその生活の中に、聞こえてくるお言葉が南無阿弥陀仏であり、お念仏に導かれて豊かに生き抜いていける道が開かれていくのです。
「いつか別れがやってくる」 でも、「ただ別れるだけではない」のです。今は、息子さんとご両親の思い出話に花が咲きます。お父さまがお亡くなりになった頃は、「これからは、父の代わりに母を支えていきます」とおっしゃっていました。お母さまがお亡くなりになってからは、「今は夫婦でお仏壇にお参りするようになりました」と、うれしそうにお話しされます。そのお姿に、今もお父さまやお母さまのおこころに育てられているなあと感じます。支えられ、生かされていると気づかせていただいたからこそ、「いつか別れがやってくる」ことを大切に思えるようになったのだと思います。南無阿弥陀仏の大いなるお慈悲を学ばせていただく得難い一日を、今日も恵まれています。 
 

 

■どんな私も どんなあなたも-たとえ雲におおわれても暗闇ではない-
架空の"みんな"
私は昨年まで8年間、高校で宗教科の講師として授業をさせていただきました。毎年4月の新入生の授業では、この授業は阿弥陀さまの願いをともに聞いていく時間です、という説明の後に、こんな作業をしてきました。「誰とも相談せずに、今から言う絵を描(か)いてください。四角の上に円(まる)を三つ描いてください。テストじゃないです。自分の思うままでかまいません」 入学して間もない生徒たちですので、私はそれぞれの性格や個性はまだ把握できていません。ひと通り生徒の絵を確認した後、それぞれ異なる構図で絵を描いた生徒数人にお願いして、黒板に自分の描いた絵を描いてもらいます。ところが、指名された生徒たちは、チョークを持って黒板の前に立ったままで、なかなか絵を描いてくれません。少人数だった中学校から大人数の高校へ入学してきた生徒たちは、新しい環境でいろんな緊張や不安を抱えています。そんな気持ちに想いを寄せながら、「何を描いても大丈夫ですよ」と声をかけ続けると、ようやく一人が描き始めます。すると、その絵を見て他の生徒も絵を描き始めます。ところが、それは自分の絵ではなく、最初に描いた生徒の絵と全く同じ絵を描くのです。
私の経験上ですが、自分が描いた絵を黒板に描けず、誰かと同じ絵を描くことでとりあえず安心する様子は、年々増えてきたように思います。そのたびに私は「大丈夫、この問いに正解はありません。同じ言葉を聞いても、みんなそれぞれ違う感性がありますよね。同じいのちを生きていても、個性もまた違いますよね。どんなあなたも否定することなく、しっかり大切に抱(いだ)き取る。それが阿弥陀さまの願いです。誰かとの違いは間違いではないのです。素直な自分でいられず悩んできたこと、架空のみんな≠ノ合わせてきたこと、わかってもらいたかったこと、あなたの過去も、今も、これからもずっと阿弥陀さまはうなずいて、思い願われ続けているのです。どんな絵でもいいのです。今のあなたの答えをみんなにも教えてください」と、阿弥陀さまの願いを私なりに受け止めている言葉で、ゆっくり何度も話し、ともに聞いていきます。生徒たちは、なんとなくその願いにうなずき、少し安心したように、ゆっくりとあらためて自分の絵を描き始めます。教室には、自分の絵との違いを見つけた驚きや感嘆の声が響きます。その声にまた、一人一人、黒板に自分の絵を描き始めます。お互いに見せ合い語り合いつつ、まんざらでもない表情が広がります。
本当の私になれる
親鸞聖人は、阿弥陀さまの光明を「正信偈」に、 「阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂(おさ)め取ってお護(まも)りくださる。すでに無明(むみょう)の闇(やみ)ははれても、貪(むさぼ)りや怒りの雲や霧は、いつもまことの信心の空をおおっている。しかし、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るくて闇がないのと同じである」とお示しくださいました。
私がどうあろうとも問題とせずに必ず救いとっていくという阿弥陀さまの願いに生かされていくことは、大きな安心です。たとえ眼前に苦悩のぶ厚い雲が次々にもくもくと生まれてきても、阿弥陀さまの願いの中にはもうすでに真っ暗闇ではなかったのです。まるで太陽に照らされ包みこまれている雲のように、迷いの中にいる私の姿や、私を取り巻く社会に揺れ悩む私の姿をも、どっしりと知らされることでもあるのでした。人生には答えのない問いがたくさん生まれます。そのたびに苦悩はいつまでも消えません。私にかけられた阿弥陀さまの願いを聞かせていただくことは、悩むまま、ありのままに生きることが肯定され、誰かとの違いを間違いと思うことも、誰かの違いを間違いと思うことも、架空の「みんな」に合わせることもしなくていい、本当に一人(私)になれる世界を知らせていただくのでした。またそこには他者(あなた)の個性を素直に尊重していく心も育てられるのです。

■真実の視点 -どこからみているの-
右京と左京
あちらこちらで桜の便りが届く季節となりました。国内はもちろん、国外からも古(いにしえ)の都・京都の美しい景色に触れようとお越しになっています。その数、年間六百数十万人に上るともいわれます。そのため、毎日のように外国の方を見かけるようになり、時折、市内の地図を広げて道を尋ねられることがあります。地図は、通常、図面の上が北になるように描かれていますので、右は東、左は西を示しています。ところが、市内の区画の名称は、地図の右側(東)が左京(さきょう)区、左側(西)が右京(うきょう)区と記されていますので、行き先の説明に戸惑われたこともあるでしょう。一体、右・左が逆転して名づけられているのは、どうしたことでしょう。
扶風と馮翊
親鸞聖人の行績(ぎょうせき)を綴(つづ)る『御伝鈔(ごでんしょう)』には、 長安(ちょうあん)・洛陽(らくよう)の棲(すみか)も跡(あと)をとどむるに懶(ものう)しとて、扶風馮翊(ふふうふよく)ところどころに移住(いじゅう)したまひき。(親鸞聖人は、京の都のお住まいも跡を残すのは気が進まないからと、右京や左京を転々と移住されていた) ・・・とあります。
このうち「長安・洛陽」は、かつて隆盛を極めた中国の王都の名ですが、ここでは「京の都(平安京)」を表しています。また「扶風(ふふう)・馮翊(ふよく)」は「右扶風(ゆうふふう)・左馮翊(さひょうよく)」ともいわれ、もとは王都の行政区画や官職の名称ですが、「右京・左京」を表しています。そうしますと、この右京(右扶風)と左京(左馮翊)の右・左は、どこを起点に名づけられているのでしょう。それは、古代中国の都城制(とじょうせい)(都市計画)で用いられていた「天子南面(てんしなんめん)」という考え方にしたがって、北を背にした皇帝の宮城から南を臨んで、眼下に広がる西の区画を右、東の区画を左としているのです。ですから、京の都も、これに倣(なら)って、北にある大内裏(だいだいり)(宮殿)から南を臨んで、西(右側)が右京、東(左側)が左京となっているのです。南側から地図をみていた私たちとは、まるで逆の視点です。
右余間と左余間
これと同じようなことが、お寺でもいえるのです。本堂には、大きく分けて阿弥陀さまのいらっしゃる内陣(ないじん)と、私たちが参拝する外陣(げじん)の他に、内陣の外側の右と左に余間(よま)といわれるところがあります。さて、どちらが右(みぎ)余間、どちらが左(ひだり)余間でしょう。それは、内陣にいらっしゃる阿弥陀さまの視点から右と左が決まるのです。したがって、外陣から内陣に向かって参拝している私たちの視点からは、左側が右余間、右側が左余間となるのです。このように、私たちは知らず知らずのうちに自らを起点にしてものごとを判断しています。外陣に座し、おもむろに合掌して念仏を称えていますが、「この私が、お参りをしている」という思いに気を取られ、「本尊の阿弥陀さまのいらっしゃるところが本堂である」ということを忘れてはいないでしょうか。
お寺というところ
自らを起点とする見方にとらわれている限り、わが身の姿に気づくのは、きっと難しいことでしょう。親鸞聖人は、 如来(にょらい)の御(おん)こころに善(よ)しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪(あ)しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめ ・・・とおっしゃっています。
その意(こころ)は「私たちのものの見方や考え方は、どこまでも不確かなものであり、それはものごとを把握(はあく)するための手段であって、決して真実そのものを捉えたものではない、という内省(ないせい)を忘れてはならない」ということでしょう。お寺というところ、そこは自(みずか)らの視点にとらわれている私たちの姿を照らしだし、真実の視点を与えようとはたらいていらっしゃる阿弥陀さまのおられるところであるのです。

■ほんとうの目覚め -自己中心的で傲慢な姿に気づかされる-
休眠打破
桜満開のニュースが次々と届いています。お花見を楽しまれた方も多いことでしょう。各地で春の訪れが本格化しています。さて、春に咲く桜の花芽(はなめ)は、前年の夏に形成され、その後「休眠」という状態になるそうです。休眠したら目覚めなければなりません。春にかけて気温が上昇することで目覚めると思われますが、休眠した花芽は、秋から冬にかけて一定期間低温にさらされることが重要なポイントだそうです。冬の寒い気温が目覚めのスイッチとなり、眠りから覚め、開花の準備を始めるそうです。これを「休眠打破(きゅうみんだは)」といいます。「休眠打破」の後は、気温が上昇するにともなって、花芽の生成も加速します。このように、冬の時期に低温にさらされる「休眠打破」が順調に進むことが、桜の開花時期に大きく関係してくるそうです。
さて、この私の一生を桜のそれと同じように考えることには無理がありますが、私の一生がずっと「休眠」状態ということはないでしょうか。「無明(むみょう)」という言葉があります。「自分にとらわれて、真実の道理、本当に大切なことが見えていない私のありよう」を「無明」といいますが、まさにこの「無明」は、私の「休眠」状態といえるのではないでしょうか。私は車を運転するとき、交通量が少なく、信号機もない抜け道を利用することがあります。ただ、その抜け道は幅が狭く、対向車との離合(りごう)が難しいのです。対向車が来た場合は、離合ができる広い場所(離合ポイント)に近い車がバックして、相手の車が通り過ぎるのを待つ、それが暗黙のルールと私は勝手に思っています。ある日、その抜け道で、止まってくれると思った対向車がそのまま向かって来たため、私の車がバックしなければならない時がありました。私は「そっちの車が離合ポイントに近いのに、どうして自分がバックしないといけないのか...」とブツブツ文句を言いながら、後ろを振り向きました。すると、後部座席に座っていた二人の娘が何ともいえない悲しい顔をしていたのです。その顔を見て、私はハッと気がつきました。私が怒りながら車をバックさせたのは、この時が初めてではありません。そして、後部座席に娘が座わっていたことも一度や二度ではありません。ということは、そのたびに「あー、お父さんがまた怒っている。見たくないなー」と、娘は悲しい思いをしていたに違いないのです。
開き直らない
私は自分勝手な思いで腹を立て、娘たちが悲しい思いをしていたことに気づいていませんでした。あらためて娘の顔を見たことにより、お恥ずかしいことですが、やっと、私自身のありように気づかされたのでした。つまり、娘の姿が、傲慢(ごうまん)な生き方となりかねない私のありようを気づかせる大事な機縁となってくれたのです。親鸞聖人は「弥陀(みだ)の誓願(せいがん)は無明長夜(むみょうじょうや)のおほきなるともしびなり」とお示しくださいました。阿弥陀さまのご本願に照らされて、眠っている状態(無明の私)であったことに気づかされ、同時に目覚めさせていただくのです。それは、自己中心的で傲慢なありようの愚かさに気づかされ、いのちあるものは互いに尊重しあい、支えあうわが身へと転換されていくことです。ただ、自分自身へのとらわれを捨てることはできません。だからといって、開き直ったり、あきらめたりしてはいけません。「休眠打破」を終えた私、つまり阿弥陀さまのご本願に出遇(あ)えた私は、自分自身に本当に向き合うことができる私になるのです。それは、私自身のありようにしっかりと向き合うことであり、暗い闇(やみ)として終わらせることなく、「ともしび」となってはたらいてくださる阿弥陀さまのご本願を依(よ)りどころとして生きることです。「休眠打破」を終えた桜は、その美しい花を咲かせます。美しい桜の花は、多くの人の心を和ませてくれるでしょう。ひるがえって、「ともしび」を依りどころとして生きる私たちは、「つねにわが身をふりかえり」「自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する」私に成長させていただくのです。

■有り難きご縁 -感謝しても感謝し尽くすことはできない-
兄妹でおつかい
ある兄弟のお話です。食事の用意をしていたお母さんが、二人の子どもにおつかいを頼みました。兄弟二人でお店に買い物に出掛け、お店で頼まれた品物を見つけましたが、大小二つのサイズがありました。兄弟で相談した結果、大きいサイズの品物を選び、レジに持って行って精算を済ませ、お店を出ました。少しして兄があることに気づきました。
兄 いまレシートを見たら、小さいサイズの値段になってる。弟 店員さんが間違ったんだ。お店に戻って、精算し直してもらおうよ。兄 こっちが間違えたり、ごまかしたりしたわけではないから、このまま黙って帰ってもいいんじゃない。弟 でもやっぱり...。正直に言おうよ。兄 じゃあ、戻ろうか。二人はお店に戻って、レジの店員さんに値段が間違っていたことを告げました。店員 本当だ。間違ってましたね。兄 差額はおいくらですか。店員 こっちが間違ってたんだから、差額はいいよ。わざわざ戻ってきてくれて、ありがとう。兄 本当にいいんですか。兄弟 ありがとうございます。店員 こちらこそ、ありがとうね。兄 おまえの言ったとおり、お店の人に正直に言ってよかったね。家に帰ってお母さんにいきさつを話した後、兄弟はお母さんが作ってくれた食事をおいしそうに食べたそうです。
私はこの話を聞いたとき、二人の兄弟に「いいお買い物だったね」と言いました。そして布施の「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」の教えを思い出しました。
簡単でない"感謝"
「清らかな布施(ふせ)」とは、「施(ほどこ)しを与える人」「施しを受ける人」「施すもの」の3つ(三輪)がすべて清浄な状態を言います。先ほどの話に置き換えると、「店員さん」「二人の兄弟」「商品」となるでしょう。商品を売買することは布施ではありませんが、「売ってやってる」「買ってやってる」と思う人には、「ありがとう」は出てきません。兄弟の正直な心、店員さんのいとおしみのある対応、この両者の清らかなはからい(心や行為)は、お互いに相手に対して向けられた感謝の言葉だったと思います。とは言え、「感謝」は簡単なものではありません。「ありがとう」は「有り難(がた)し」から来ています。「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。たとえば私のいのち。親から授かったいのちであり、家族や友人によって育(はぐく)まれてきたいのちであり、多くの生きものに支えられているいのちですが、いただいた相手に返していくことは非常に難しく「有り難い」ことです。いのちをお返しすることはできませんから。「多くのもののおかげ」という感謝の心を持てば持つほど、相手に返していくことの難しさを思わずにはいられません。
親鸞聖人は、法然聖人との出遇(であ)いによって、阿弥陀如来のみ教えに遇われました。『歎異抄』には、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰(おお)せをかぶりて、信ずる」と表されています。法然聖人(よきひと)を通して、阿弥陀如来のみ教え・お念仏の有り難さに気づかされました。言い換えれば、阿弥陀如来のお心が法然聖人を通して親鸞聖人に届けられたのです。このことを親鸞聖人は大いによろこびつつも、どれほどの感謝の心をもってしても感謝し尽くすことはできないととらえられました。
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報(ほう)ずべし 師主知識(ししゅちしき)の恩徳も ほねをくだきても謝(しゃ)すべし
このご和讃(わさん)から、親鸞聖人の切実なるご様子がうかがえます。そして、親鸞聖人が称(とな)えられる阿弥陀如来への感謝のお念仏が、周りの人々にとっては、阿弥陀如来のみ教えに遇うご縁、はたらきとなり、親鸞聖人を通して阿弥陀如来のみ教えが多くの人々に伝えられていきました。そのみ教えは、人から人へ、時代を超えて、いま私たちにも届いています。多くの先人のお導きによって有り難き仏縁に出遇えたことを感謝しつつ、これからもお念仏を相続していきたいと思います。

■出会いの不思議 -同じ景色が全く違った世界に見えてくる-
「お前もやってみ」
ある先生から、こう聞かせていただいたことがあります。「仏法は人から人へ伝わる。だから自分に仏法を聞かせてくれたのが誰かを言うことができないようではだめだ」 たしかに、私自身も「この人の言うことはまだ自分にはよくわからないが、いつかわかるようになりたい」、そう思える方々との不思議な出会いによって育てられてきたように思います。人との出会いによって、それまでの自分には知られていなかった世界が知られてくる、このことは、いろいろな場面でもいえることだと思います。
学生の頃、京都の大徳寺という臨済(りんざい)宗のお寺で座禅をならっていたことがあります。3年間、1日も休まず毎晩通っていました。座禅だけでなく、作務といって、廊下の雑巾がけや庭の掃除も、時々手伝わせていただいていました。あるとき、庭の苔(こけ)にはえた細かな雑草を摘んでいますと、和尚(おしょう)さんがちょうど通りかかり、「それじゃあ、見えんじゃろ」とおっしゃって、私の横にしゃがみ込み、頬(ほ)っぺたを地面につけるようにして苔を眺められました。「お前もやってみ」 そうおっしゃって、和尚さんは立ち去られましたが、同じように頬っぺたを地面につけて見てみると、自分ではきれいに整えていたつもりだった苔が、なんとも乱れたさまのままでした。そうして、何度か苔の手入れを手伝ううちに、手入れをした苔とそうではない苔との違いがはっきりと見えるようになりました。手入れされた苔は鮮やかな緑で、庭の苔以外の部分との境が際立っています。それに対して、手入れされていない苔はぼんやりとした緑で、あたりの庭全体がぼやっとした印象になっています。ただ上から眺めていたときには見えていなかった、ごく細かな違いが見えるようになると、全体がこれほど違って見えるようになるのかと、驚いた経験でした。
こんなにすごい!
磁器や刀剣などを趣味としている方と話していると、「何年かすれば見えるようになりますよ」とたしなめられることがあります。それでも見続けていると、見えていなかったものが、まるで、初めて眼鏡をかけたときの「世界はこんなにもはっきりとしたものだったのか」と驚くときと似て、見えるようになります。能楽でも同じような経験をしたことがあります。これも学生の頃ですが、能を集中的に観(み)ていた頃がありました。能好きの先輩から勧められて観だしたのですが、最初の数十回はただただ退屈なだけでした。
「早く終わらないかな...。でも隣に先輩がいるし、白けた素振りを見せるわけにはいかないし...」といった感じでしたから、少しでも自分の関心を高めるために、能楽本を勉強したり、謡本(うたいぼん)で予習したりを繰り返していました。すると、あるとき、シテの踏み出した一歩に、体がビクッと跳ね上がるように反応し、その瞬間からは「能って、こんなにすごいものだったのか」と、観能に没入できるようになりました。大徳寺の和尚さんも、観能の先輩も、とても尊敬する方たちでした。その方たちが見えると言っているのだから、自分には今はまだ見えていないものがある、自分もいつか見えるようになりたいと思えたことが、よかったと思います。そうでなければ、自分が見えているものだけで疑問にさえ感じずに、好みに合う合わない、素晴らしい素晴らしくないと勝手を言って、狭い世界にとどまり続けたことでしょう。尊敬する人に出会えたからこそ、見えていない自分を知らされました。
同じものを目の前にしているのに、この人は自分には見えないものが見えている、そう思える方々との出会いに恵まれてきました。同じ教えにふれていても、この人は腹落(はらお)ちして聞いていらっしゃる、そう思える方々との出会いを恵まれるたびに、なんとありがたい出会いであったものかと、その出会いの不思議さを感じます。

■真実の物語 -よび声を聞き、全く違う世界が開かれる-
甘い?酸っぱい?
「お荷物になるかもしれませんが、どうぞお持ち帰りください」 布教先のお寺で控え室におりますと、お参りされていた女性が、小さな紙袋を持って来られました。手渡された袋の中には、柑橘(かんきつ)系の実が二つ。「何という実ですか?」と私がたずねますと、「ポンカンです」と言われました。私はポンカンを食べ慣れていませんので、「ポンカンかぁ...。ポンカンってどんな味だったかな? 甘かったかな? 酸っぱかったかな?」と、いろんな味を想像しました。そして、「どうして二つだけくださったのだろう? ひょっとしたら、大変高価なポンカンなのかも...」などと思ったことでした。それはともかく、「ありがとうございます。おいしくいただきたいと思います」とお礼を申し上げますと、「このポンカンはですね...」と、その女性は話し始められました。
お話によると、この二つの実は、その女性のご両親がお作りになったということでした。ただ、ご両親といいましても、その方ご自身が、私の母ほどの年代の方と見受けられましたので、私は少し驚きました。「ご両親がお作りになられたのですか? ご両親はおいくつになられますか?」とおたずねしますと、「二人とももう90を越えております」とのこと。「そうでしたかぁ。お二人とも、お元気になさってるんですね。来年もまた、ポンカンができるといいですね」と申しますと、「そうですね」と少し笑顔にはなられたのですが、「でも、もうね、来年はできないんですよ...」と、少しさびしそうにおっしゃられました。時間の都合もあり、それほど詳しく聞けませんでしたが、ポンカンをお作りになるには、ご両親の体力は限界にきているようでした。「そうなんですか...。それはさびしいですね。残念ですね」と申し上げるしか、私はできませんでした。気がつくと、この一通りの会話をしている間に、私はいつの間にかポンカンの入った紙袋をテーブルの上に置いていました。私はあらためて紙袋を持ち、「ご両親がお作りになった最後のポンカン、大事にいただきます」と、お礼を言いました。すると、その方も「どうぞ、どうぞ」とひと言おっしゃられ、部屋を出て行かれました。
苦悩の闇を破る道
私は、紙袋を手渡された当初、「甘いのか? 酸っぱいのか?」とか、入っている数を見て、「高いのか? 安いのか?」などと想像を巡らせていました。今、ここに届いているポンカンにどのような背景があるのか、思いもしませんでした。しかし、このポンカンには物語がありました。その女性から、ポンカンの物語を聞かせていただくと、その意味が変わってきました。届けてくださった女性の表情から見て取れるその思いから、重みも感じます。ただ舌(した)で味わうだけの「甘さや酸っぱさ」ではなく、「高価なものかどうか」などといった価値観でもなく、全く異なる世界をいただきます。同じように、今、私の口に届いてくださっている「南無阿弥陀仏」のお念仏にも、物語があります。私たちがいつもおつとめしている「重誓偈(じゅうせいげ)」には、このように説かれています。
わたしは世(よ)に超(こ)えすぐれた願(がん)をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。この願を果(はた)しとげないようなら、誓って仏(ほとけ)にはならない。わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主(ぬし)となり、力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、誓って仏にならない。 わたしが仏のさとりを得たとき、その名(な)はすべての世界に超えすぐれ、 そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。
自分なりにあれこれと思案し、懸命に生きながらも、智慧(ちえ)に貧(まず)しいが故(ゆえ)に苦悩の闇(やみ)にある私。その私に、阿弥陀さまは真実を聞かせ、智慧を与え、その闇が破られつつ歩むことのできる道を完成してくださいました。その智慧のよび声が、今、私に届いているお念仏でありました。「南無阿弥陀仏」のお念仏は、その真実の物語を聞かせていただく私に、私の価値観とは全く違う世界を開いてくださるのです。

■願われたいのち -「量(はか)り無きいのちの仏」の阿弥陀さま-
かけがえのない姉
私には、ダウン症の知的障がい者である姉がいます。養護学校(現在は特別支援学校といいます)を卒業後、長いあいだ地元のパン屋さんで働いていましたが、不況の影響で退職を余儀なくされてから今日まで、お寺の手伝いを一生懸命してくれています。お寺に来られたお客さんへのお茶出しや、お寺の掃除などの大切な仕事、さらには玄関先でのお客さんへの取り次ぎも機転のきいた会話でこなすなど、ちょっとした人気者です。そんな姉の楽しみは、毎日通う水泳です。スイミングクラブでは、パラリンピックの選手のコースに在籍し、全国大会へ出場してメダルを獲得するほどの本格派スイマーなのです。
ある時、練習を終えてきた姉が、「今日は一生懸命泳いだから、いっぱい汗をかいた」と言いました。私はその言葉に多少の違和感を覚えました。「だいたい水の中で汗などかくわけがないよ」 そう姉に伝えたのです。すると姉はすかさず、「水の中でも汗は流れるんだよ」と言い返します。はじめのうちは、頑張って泳いでいる気持ちを、汗に重ね合わせて表現しているのだと勝手に理解しましたが、実際のところ、水泳では汗をかくのだそうです。それで、ふと思いました。姉には、私には見えなかったり、感じられないことを、見えたり感じたりできているのかもしれないと。思い返せば、姉は時々、外で陽(ひ)の光や風に向かってニコニコしている時があります。まるで光や風とお互いの存在を認め合って会話をしているようです。その姿は、私には見たり感じたりできなくなってしまったもの、見えないけれど確かにあるものの存在を教えてくれていると感じます。姉は私にとって、大切な家族であり、かけがえのない存在なのです。
願いに生きる姿
一昨年の夏、障がい者福祉施設で19人の尊いいのちが奪われる事件が起こりました。事件後、容疑者は「障がい者なんていなくなればいい」と口述したと聞いて、深い哀(かな)しみと強い憤りとともに、大切な家族の存在が否定されたことは、そのまま自分の存在も否定されたと感じました。そして、社会からの自己喪失を想(おも)い起こさせました。この事件は典型的なヘイトクライム(憎悪犯罪)といわれますが、そこから見えてくるのは、この事件が特異な思想の持ち主によって突発的に起こされたのではなく、「障がい者なんていなくなればいい」という考え方を育て、受け入れてきた社会構造の背景です。つまり、この事件は容疑者や関係者だけのものではなく、身近な暮らしの中の問題であり、私たち一人ひとりが向き合うべき問題なのです。
「みんな違って、みんないい」 童謡詩人として知られる金子みすゞさんの言葉です。人それぞれの違いを認めることは、多様性の世界の有り様を受け入れ、そのつながりの中で自分の存在があることにうなずいていくことのはずです。ところが、私たちの人間社会は「善悪」や「損得」で人やモノが判断され、さらにいのちまでもが「役に立つか、立たないか」という有益性によって量(はか)られていく価値観が横行します。その価値観に私が立って、私が苦しみ、私が人を裁(さば)き、傷つけているのです。
「南無阿弥陀仏」とお念仏をいただくことは、「量(はか)り無きいのちの仏」である阿弥陀さまを、私が依りどころにするということです。願いは、相反(あいはん)する現実があってこそ起こされるものです。善悪の善(よ)し悪(あ)しを私の都合によって判断し、いのちを推(お)し量り、その尊厳を大切にできないこの私を阿弥陀さまがご覧になり、救わずにはおけないと、この私を目当てに願いをたてられたのです。親鸞聖人は、すべてのいのちが阿弥陀さまに願われたいのちであり、そのいのちの尊厳にうなずくとき、お互いのいのちを「御同朋(おんどうほう)」と、共に敬って生きる生き方を教えてくださいました。いのちの尊厳が簡単に傷つけられていく今だからこそ、私の、人間の小賢(こざか)しさによっていのちを量るのではなく、量り無き大いなるいのちの存在を大切に受けとめ、お互いの違いを認め合い、さらには自らに内在する差別性を見失うことなく問い続けることが、南無阿弥陀仏の願いに生きる姿となるのでしょう。

■救急(くきゅう)の大悲 -阿弥陀さまの救いのめあては、この私-
溺れる人から救う
6年前、大好きな自転車で走っているとき、交通事故に遭(あ)ってしまいました。対向からやってきた右折の軽自動車とぶつかってしまい、顔面・首・右腕を骨折して、救急医療のお世話になったのでした。事故現場が、なんと診療所の目の前だったため、応急処置も、救急車の手配も、看護師によって迅速(じんそく)かつ的確に行われたようです。そのまま救急病棟へと運ばれ、治療を受けることができました。不幸中の幸いって、まさにこのことでした。この体験を通して、かつて先生から聞かせていただいた、善導大師(ぜんどうだいし)のお喩(たと)えが、まさに私のこととして味わわれたのです。
「すみやかにすべからくひとへに救(すく)ふべし」 仏さまのお救いとは、陸の上にいる者よりも、水の中で溺(おぼ)れるいのちを急(すみ)やかに救うという「救急(くきゅう)の大悲」であり、まるで救急(きゅうきゅう)医療のようであると喩えられるのです。「苦悩の中にあるいのちを救いたい」 救急医療に込められたこの願いは、さまざまなはたらきで私たちに届けられています。
一つには、「いつでも」とはたらいてくださいます。「お盆とお正月はお休みします」という救急医療は、あまり聞いたことがありませんよね。
二つには、「どこでも」とはたらいてくださいます。「飛騨(ひだ)は田舎(いなか)だから、都会を優先しておこう」という救急医療だったら、飛騨に住んでいる私は困ってしまいます。
三つには、「平等に」とはたらいてくださるのです。「痛いところはありませんか? 手足のしびれはありませんか?」とは聞かれましたが、「あなた、ちゃんと税金払ってますか? 支持する政党はどこですか?」とは聞かれませんでした。それは、そのような条件によって区別や差別をしない、ということでもあるのです。
この私一人のため
私が救急病棟に運ばれると、どうやら先客がおられたようです。腰を痛めて歩けない方や、泣きやまない赤ちゃんなどが治療を待っておられました。でも、あとから運ばれた私のほうが、真っ先に治療を受けたのです。もちろん、知り合いの看護師さんに頼み込んだとか、医師に金品を渡したりはしていません。それなのに、私が真っ先に治療を受けたのはなぜか。それは、私がそれだけ大きなケガを負っていたからですよね。つまり、治療の優先順位は、ケガの大きさによって決められるのです。「あなたのケガの治療は、専門家である私たちにまかせなさい」 私を担当してくださった医師や看護師が、私に届けてくれたメッセージです。私はただ「はい、おまかせします」といただくまま、大きな安心に包まれていました。
阿弥陀さまの大悲のお心も、まさに、いつであっても、どこであっても、すべてのいのちに等しく、救いのはたらきを届けてくださいます。時を超え、空間を超え、ひとつのいのちももらさず救うと誓われた阿弥陀さまの、お救いの一番おめあては誰であったのか。それは、最も大きな苦悩を抱えているこの私のためであったと聞かせていただくのが、救急(くきゅう)の大悲というお慈悲のお心なのでした。「必ず救う。我(われ)にまかせよ」 その願いをお聞かせいただき、「そうでありました。おまかせします」とお聞かせいただくままが、大いなる安心となるのです。「阿弥陀仏が五劫(ごこう)もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」 親鸞聖人は、つねづねこのように仰(おお)せになっておられたと、『歎異抄』には記されています。そして今、阿弥陀さまの救いのおめあては、ほかでもないこの私であったのだと、しみじみいただかれるのです。交通事故はもうこりごりですが、救急医療のお世話になったおかげで、阿弥陀さまのお慈悲のお心を深く味わうことができました。こういうのをきっと、災(わざわ)い転じて「仏(ぶつ)」となる、っていうんでしょうね。

■タカラモノ -階段が織りなす仏縁-
わずか3段の階段
うちのお寺の本堂には、わずか3段の階段があります。お寺にとってその階段が、「かけがえのない宝物」なのだと気づかせていただく出来事がありました。20年前に本堂を再建した時、その階段をめぐって、スロープをつけようとか、真ん中に手すりをつけようとか、はたまたエレベーターをつけようとか、バリアフリー化に向けていろいろ議論しましたが、スペースもなく、「わずか3段だから」ということで階段のみになりました。無事に本堂が完成し、多くの方がお参りくださるようになりました。その中に、いつもお揃(そろ)いの手押し車を押しながら仲良くお参りされる二人のご婦人の姿がありました。一人は当時102歳のユタさん、そしてもう一人は92歳のスギエさんでした。本堂前に手押し車を置き、二人並んで階段を上がろうとされるのですが、スタスタと階段を上がられる102歳のユタさんに対して、92歳のスギエさんは、「よっこらしょ、どっこいしょ」とわずか3段≠フ階段に、欄干(らんかん)をつたいながら苦戦されています。やはりスロープをつけるべきだったかと思っていましたら、先に上ったユタさんが振り返り、「私の手につかまって上がりいやぁ」と、スギエさんに向かって手を差しのべられます。その言葉にスギエさんは、ユタさんの手につかまるのかと思いきや、「そんな100歳超えたおばあちゃんの、シワシワの手ぇにつかまるより、わたしゃ、若い男さんの手の方がええわ」とおっしゃるのです。するとユタさんも負けていません。
「そうかいな。私も、90超えたあんたの手を引っ張るより、若い男さんの手を引っ張る方が若返るわ」と。そして二人は大声で笑いあうのです。すると、その会話を聞いていた男性数人が「ほんなら、わしの手につかまりいや」と本堂の中から走り寄って手を差し出します。するとスギエさん、その中でも一番若い(といっても60歳は過ぎておられるのですが)男性の手を選び、ほかの方からも背中を支えてもらったり、かけ声をかけてもらったりしながら、本堂入口まで上がられました。ユタさんも「よかった、よかった。これで一緒に阿弥陀さんの前でお念仏できますなぁ」と大喜び。みんなで手をとりあって阿弥陀さまの前まで進み、どっこいしょと横一列に座って、ナンマンダブ、ナンマンダブとお念仏されました。わずか3段≠フ上りにくい階段は、スギエさんとユタさん、そしてお参りに来られるみんなをお念仏つながりにする階段でした。
雨の日も風の日も
その階段の欄干にも、やがて年月とともにひび割れが目立つようになりました。すると総代さんや世話方さんたちが「お寺は私らの宝ものやし、この階段も欄干も大事なもんやから、ずっとずっと残っていてほしい」と言ってくださり、修復することになりました。ほどなくして、ひび割れた欄干は洗いにかけられ、本堂の柱の色に合わせて色も塗っていただき、欄干は見事に新築の頃のようによみがえりました。ところが、総代のお一人が、その欄干のひび割れた部分が気になると、さらに「とのこ」を塗って修復を加えられます。「みんなが上る時に支えにする欄干やから、ささくれたりヒビが入っていたら危ない」とおっしゃるのです。大工さんでも塗装屋さんでもない総代さんは、雨の日も風の日も、お寺にやって来てはやすりをかけて、「とのこ」を塗って、やがて手触りのやわらかい欄干に仕上げてくださいました。今、ユタさんもスギエさんもご往生され、二人のことを知る人も少なくなりました。けれども欄干は、二人の笑顔とお念仏を引き継いで、これからも多くのご門徒を阿弥陀さまの前へと押し上げていくのでしょう。わずか3段の階段≠ニ、やわらかな手触りの欄干。そこに「お寺は私らの宝もの」とおっしゃってくださる世話方さんの言葉が重なって、これからも人から人へ、宝ものである「お念仏」が、笑顔とともに伝えられていきます。

■遠く宿縁を慶べ-私が気づく前から届けられていた仏縁-
安心できたひと言
昨年の12月のことです。あるお寺のご住職からお葉書をいただきました。実はある先生の代わりに、急きょ、そのお寺のご法座にお話に行くことになっていたのですが、その連絡をさせていただいた返信の葉書でした。その葉書には、「ご因縁が整いましたね」と書かれていました。ご法座直前のことで、お寺の掲示板やご門徒の方々への案内もすでに終わっていました。代役として不安で緊張していた私に、ご住職からのひと言は、ほっと安心させていただける言葉でした。不安だらけの私に、難しいことを考えずに、阿弥陀さまが「ご因縁が整いましたね」と、ご一緒に喜んでくださっていること、私はその仏縁を喜ばせていただくほかはないことを教えていただいたお葉書でした。
ところで、私がご門徒のお宅にお参りに行きますと、「おじいさんにそっくりですね」と言われることがあります。「うれしいような、うれしくないような...。ありがとうございます。お互いに年を重ねると親や祖父母に似てきますね」などと笑いながら会話を楽しみます。でも最近は、「おじいさんにそっくりですね」と言われることが少なくなってきました。祖父を知らないご門徒が増えてきたからです。祖父が亡くなってもう30年の月日がたったことを感じます。「おじいさんにそっくりですね」と言ってくださるご門徒は、祖父に出会い、祖父の姿を見て、お寺とのご縁を大切にしてこられたのです。祖父の姿を通して、今も仏縁にあっておられます。お寺もご門徒も世代がかわっていきますが、その人を通して頂いている仏縁は、大切に受け継いでいきたいと思います。
赤ちゃんの私に
もう一人の祖父である母方の祖父は、私が1歳になる1週間前に往生しました。今生(こんじょう)では11カ月と3週間ほどの期間になりますが、母方の祖父ということもあり、私と会ったのは一度きりです。もちろん、私は全く記憶にありません。両親が私を連れて、母の実家へ私を見せに里帰りした時のことです。今なら新幹線で2時間ほどですが、当時は電車に揺られながら、おむつを持って、私が泣きじゃくる中、大変な道中だったと思います。病床の祖父に孫の顔をひと目見せたいとの思いで、広島の福山から赤ちゃんの私を北九州の八幡(やはた)まで連れて帰ったのです。祖父は私の顔を見て喜んだと思います。生後3カ月の私の姿を見ながら語りかけているほほえましい光景が、写真に残されています。その時の写真を見ると、祖父と私が一枚の布団の上に横になり出会っているのです。私は寝かされているだけですが、祖父は一方的に語りかけ、話しかけ、喜んでいたそうです。その後、祖父は力を振り絞(しぼ)って私に法話を語りはじめたそうです。それも難しい法話を30分も。理解できるはずもない3カ月の私に向かって法話をするのです。わかるとか、わからないとかは全く関係なく、祖父は、どうぞみ教えを聞いてくれよ、どうぞ仏さまのご縁を喜んでくれよ、どうぞお念仏を相続してくれよ、と赤ちゃんの私一人に向かって願いをかけて、法話をしてくれていたのです。
私はその時の状況も法話も光景も全く知りませんし、覚えてもいません。しかし、その時の法話と会話はテープに録音されて保管されていました。そのテープは、私が大学に入学する時に、そろそろ聞けるかなと両親から渡されました。祖父から、生まれたばかりの私にすでに仏さまのご縁が届けられていたのです。これは私だけのことではないのでしょう。皆さん、お一人お一人にも、気づかないけれども、覚えていないけれども、ご縁を届けてくださっている方がおられるのです。そして今、ご因縁が整っているのです。そのご因縁をよろこばせていただくほかはありません。親鸞聖人は「たまたま信心を獲(え)ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ」と述べられます。どうすれば信心をいただけるかではなく、長い長いお育ての中で、阿弥陀さまのほうからご因縁を私の上に届けてくださって、今、阿弥陀さまが「ご因縁が整いましたね」と喜んでおられるのです。お互いに喜ばせていただきましょう。 
 

 

■わが身をかえりみる -阿弥陀さまのおこころを鏡とする生き方-
浄土真宗の生活信条
「浄土真宗の生活信条」は、皆さんよくご存じのことと思います。私は中でも「み仏の光りをあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます」という言葉がいつも胸につきささるのです。私たちの社会はどうも、「自分をかえりみる」「見つめ直す」ということが大事にされていないことが多くなっているように感じます。この春、家族とドライブした時のことです。海が見えるカフェに入りました。私と妻はコーヒー、長女はジュース、次女はアイスココアを注文しました。しばらくして運ばれてきた飲み物を見て、次女が「あっ」と言ったのです。その声を聞いた女性の店員さんがすぐに、「申し訳ございません。すぐに取り替えてまいります」と謝られたのです。実は間違えて、ホットココアを運んでこられたのでした。でも妻は、「大丈夫です。このココアでいいです」と言って、次女も「いいよ」と笑顔でした。それでも、「いえ、替えてきます」と店員さん。こちらも、「本当に大丈夫ですから」と言いましたが、店員さんは再度、「申し訳ございませんでした」と言ってさがっていかれました。
その後、会計をしようとレジに行くと、同じ店員さんが「先ほどのココアの代金は結構です」と言われたのです。「いや、それではかえって申し訳ないから、払います」と言ったのですが、店員さんはニコッと笑って、「本当に申し訳ございませんでした」と言ってココア以外の代金を受け取られ、私もその厚意に甘えたことでした。代金まで受け取らないというのはさすがに想像していませんでしたが、飲食店として、謝るという行為は当然なのかもしれません。けれども、その店員さんの誠意がこもった対応には、すがすがしさを覚えたことでした。なぜなら、少し大げさな言い方かもしれませんが、店員さんは自らの行(おこな)いを恥じ、責任を負っていこうとする態度を明らかに示してくれたからです。そのことが伝わった私たちは、人としての大切なあり方をあらためて感じさせてもらったことでした。
慚愧しきれない私
「慚愧(ざんぎ)のないものは人とは呼ばず」 「慚愧があるから父や母、兄弟姉妹の関係もたもたれる」 これは、親鸞聖人が、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に引用された『涅槃経(ねはんぎょう)』のお言葉です。父を殺害して苦しむ阿闍世(あじゃせ)王に、医者の耆婆(ぎば)が語った言葉です。そこには、自らの罪の現実を無視するのではなく、自らの罪の現実に向き合い、二度と罪をつくらない、また人に罪をつくらせないことが大切だと示されています。そして、慚愧がないものは人とは呼ばないとまで言い切って、さらに、慚愧をしてこそ人間関係がたもたれると教えています。「恥じる」という言葉があります。「恥じる」とは、恥ずかしいと思う気持ちです。「良心がとがめ、誤りに気づき、他人に顔向けできないと思うこと」とされます。この「恥ずかしい」という心が、今の社会、現代の私たちには、だんだん薄れてきていると思うのです。
私は恥ずかしいと思う気持ちは、とても大事なことだと思います。ところで、親鸞聖人は『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』に、 無慚(むざん)無愧(むぎ)のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向(えこう)の御名(みな)なれば 功徳は十方にみちたまふ ・・・とお示しくださいました。どんなに慚愧してもしきれないのが私である、という厳しいお言葉です。いくら慚愧する、罪を恥じるといっても、どうしても自分を正当化して、自己中心的な思いから抜け出すことはできません。つい、心のどこかで「仕方がない」と思う私がいます。そのことを阿弥陀さまは見抜いてくださって、南無阿弥陀仏というまことの心を依りどころとするようにはたらいてくださっています。ですから、「浄土真宗の生活信条」には、「み仏の光りをあおぎ」とあるのでした。自分勝手にわが身を振り返り慚愧するのではなく、常に阿弥陀さまのおこころを鏡とするのです。自己の都合を中心としていないだろうか、自分のことを正当化していないだろうかと思うその姿が、すでにお念仏申す人生を歩んでいるということであり、阿弥陀さまのおはたらきの中にあるということでしょう。今こそ「常にわが身をかえりみる」、そして「感謝のうちに励む」生き方を大事にしたいと思います。

■めでたきは無量寿のいのち -長寿時代を生きる「意味」再発見-
人生の方向転換
『ライフ・シフト 100年時代の人生戦略』(リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット共著)という本が話題です。共にロンドン・ビジネススクール教授である二人の著者は、長寿社会の到来と新しい生き方を提案し、特に世界トップクラスの長寿国・日本には、「教育?仕事?引退」、すなわち「晩年は余生」という古い生き方から転換し、世界の先頭に立ってほしいと「日本語版」の中で期待を寄せています。日本は100歳以上の人がすでに6万人以上ですが、国連の推計によれば、2050年には100歳以上人口は、100万人を突破する見込みです。しかし、不老不死などあり得ないのは百も承知のはずであり、「生死(しょうじ)出(い)づべき道」が聞き開かれてこそ、本当にめでたき人生と言えるのではないでしょうか。
かつて、長らくお寺の門徒総代をおつとめくださった方のご家族から、俳句や短歌など、心の糧となるメモ書きのノートをいただきました。病気の治癒を断念して緩和ケア病棟に移られた直後にお見舞いした時、「伝道教化に役立ててください」と遺言された法味(ほうみ)あふれる宝庫のようなノートです。「一杯の水も仏の涙かな」という俳人・種田山頭火(たねださんとうか)の俳句や、前住職であるわが父が晩年に詠(よ)んだ一句、「冬もみじ母なる浄土(つち)に召され往(ゆ)く」という俳句も書き留められてあります。「この命は枯(か)れて舞い散るもみじ葉のようであるが、その大地はお浄土だから大安心だ」という父の心に共感してくださっていたのだな、と懐かしさを覚えました。この方は、気に入った誰かの言葉をメモするだけでなく、自作の俳句や短歌も残してくださいました。「喜寿(きじゅ)米(べい)寿白(はく)寿百寿も何のその 我(われ)は無量寿ナモアミダブツ」。これは、喜寿を迎えた頃に詠まれた歌です。77歳の喜寿を祝ってくれるのは有り難いことで、さらに米寿までなどと言われるのはうれしいけれど、所詮は限りある行き止まりの人生なのだ。本当にめでたいのはお浄土に生まれ、仏さまにさせていただくいのちである。この世の命が終わっても無量寿のいのちを賜(たまわ)る身にさせていただけることほどめでたいものはない、という「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)(必ず仏に成る身に定まっている)」の喜び、安らぎの心が詠まれています。ここに「生死(しょうじ)を超えて往(ゆ)く意味」を学ぶことができます。
念仏喜ぶ者の利益
親鸞聖人は、平均寿命が40歳にも満たないであろう時代に90歳の長寿を全うされましたが、それは「生死出づべき道」のお手本とも言える無礙(むげ)の白道(びゃくどう)でありました。聖人が『教行信証』に説かれる「現生(げんしょう)十種の益(やく)」は、浄土に至る人生の尊い「意味」を体験的に明らかにされたのでした。1冥衆護持(みょうしゅごじ)の益(やく)(目に見えない方々に護(まも)られる)、2至徳具足(しとくぐそく)の益(この上もなく尊い功徳が身にそなわる)、3転悪成善(てんあくじょうぜん)の益(罪悪(ざいあく)を転じて念仏の善と一味(いちみ)になる)と順に示され、8知恩報徳(ちおんほうとく)の益(如来の恩を知らされ報謝の生活をする)、9常行大悲(じょうぎょうだいひ)の益(如来の大悲を人に伝えることができる)、I正定聚(しょうじょうじゅ)に入(い)る益(仏になると定まった正定聚の位(くらい)に入る)と十種をあげられています。
先ほどの門徒総代の方も、両親を相次いで亡くされ、弟や妹の結婚など、長男としてその面倒をみてきた苦労人ですが、早くから聴聞のご縁を重ねられました。さらに、掲示板の法語を自筆で書いて、伝道活動への協力を惜しまない方でした。「世の為(ため)、人の為などと世間では言うが、人に為をつけると偽(にせ)ものになる」と自省され、ご恩報謝に励まれました。そして「他人事(ひとごと)が我(わ)が事となる浮世かな」という句を胸に、限りある命を自覚し、仏法の余韻を残してお浄土に旅立たれました。人生は長さだけではない。大慈悲心のお育てをいただき、生死を超える道に目覚めてこそ、「生かされて有り難う」「また遇(あ)える世界がある」とうなずいていけるのです。この方は「ライフ・シフト」すなわち、「生の意味、死の帰する処(ところ)」を教えてくださったのですね。

■いつでも どこでも-深い悲しみの中にひびく親のよび声-
「親さま」とは
浄土真宗では、伝統的に阿弥陀さまのことを「親さま」とよんで仰(あお)いできました。けれども、それは、私たちが阿弥陀さまから生まれたということではありません。煩悩にまみれた身で、仏さまのことを「親さま」とよべるのはなぜでしょうか。それは、阿弥陀さまのほうから「親の名のり」をしてくださったからです。「親の名のり」とは「南無阿弥陀仏」です。それは「我(われ)にまかせよ、必ず救う」という、阿弥陀さまが私をよんでくださるよび声でした。「南無」とは「おまかせします」という意味です。しかし、迷っている自覚もなく、阿弥陀さまに背を向けるような私たちに「まかせる」心は起こりません。阿弥陀さまはそれでは救いに間に合わないと、ご自身の名のりに「南無」をつけて、「まかせよ」とよび続けてくださっているのです。「我にまかせよ」の我とは阿弥陀さまのことです。「阿弥陀」とは、寿命と光明が量(はか)りしれない仏さまというお名前です。それは、阿弥陀さまがまだ法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)であった時、寿命が無量(むりょう)の仏となって「いつでも」私に寄り添い、光明が無量の仏となって「どこでも」私のところに至り届いて、必ず救える仏になろうと誓いをたてられ、成就されたのです。
「いつでも どこでも」とは、今、ここ、私のところをおいて、ほかにはありません。今、ここ、私のところにおられないのであれば「いつでもどこでも」とは言えません。つまり、阿弥陀さまに背を向けて逃げていた時も、日々の生活に追われて阿弥陀さまのことを忘れている時も、うれしさに心躍(おど)る時も、悲しみに打ちひしがれて涙する時も、今も昔も、これからもずっと、阿弥陀さまは私とご一緒してくださる仏さまなのです。それをご自身の名のりとして仕上げてくださったのが「南無阿弥陀仏」です。こうして、私がいついかなる時も、決して変わらないお心で「我にまかせよ、必ず救う」と飽(あ)きもせず、疲れも知らずお育てくださる仏さまを「親さま」とお譬(たと)えするのです。親とは、子を産んだというだけではありません。「お母さんだよ」「お父さんだよ」と言うように、「まかせよ、お前の親であるぞ」と、私が思うより先に名のってくださった方が親なのです。
親であり続ける姿
お寺にキクエさんというご門徒がおられます。キクエさんのお母さんは、早くに先立たれ、きょうだい共にお父さんの後妻の方に育てられました。その方は何にでも一生懸命で、とても優しいお母さんでしたが、それをキクエさんは素直に受け入れることができませんでした。しばらくして、戦争でお父さんとお兄さんにも先立たれました。するとお母さんは、毎日お仏壇の前で涙し、昼夜を問わず、お父さんとお兄さんの名前をよび続けられたというのです。キクエさんは、その姿を見るのがとてもつらくてイヤで、目を背けて耳をふさいだといいます。そんなお母さんもおなくなりになり、キクエさんは結婚して、二人のお子さんに恵まれます。ところが、そのお二人が事故と病気で先立っていかれたのです。その時、言い知れない深い悲しみの中で気づいたことがありました。それはあの時、見るのも聞くのもつらくてイヤだったお母さんと同じように、お仏壇の前で先立ったわが子の名をよんでいたことです。そして、お母さんが兄を本当の子ではないとわずかでも思っていたなら、あれほど涙し、名前を毎日よび続けただろうか...ということでした。それは、子が死してなお親であり続けた姿でした。決してお兄さんが亡くなってからのことではなかったはずです。また、お兄さんだけの話でもありません。お母さんが家に来て、「あなたのお母さんになります」と名のってくれた時からずっと、キクエさんの親であり続けてくれたのです。「あのお母さんは今も、この悲しみの中にあって、私と一緒に泣いてくれているように思えた」とキクエさんは話してくださいました。「南無阿弥陀仏」は、「いつでも どこでも」離れずにいることを子に告げる親の名のりです。阿弥陀さまは、今も昔もこれからもずっと「わが子よ」とよび続けてくださいます。そのよび声を聞く時、私たちはいついかなる時であっても決して独(ひと)りではありません。たとえ深い悲しみの中であっても、親の声を聞き、親の腕に抱かれて安心して泣いていけるのです。

■よび声がひびく -「だいじょうぶ、そのままいいよ」-
境内に満ちる歓声
今年も仏教壮年会が主催してくださる「夏休み子ども会」が、お寺で開催されました。毎回、お互いに名前を呼び合えるように、全員が自分の名前を書いたシールを服にはります。おつとめのときには、みんなで「ナモアミダブツ ナモアミダブツ ナモアミダブツ」とゆっくりとお念仏を称(とな)えます。でも静かな時間はここまで。例年、境内では竹水鉄砲遊びや流しそうめん、風船をスイカに見立てたスイカ割り≠ネどを行います。ここ数年、子どもたちにこんな質問をされます。「大きい声出していいの?」 「水をかけてもいいの?」 静かにしなさい、と今日ばかりは言われないこともあり、準備万端の水着姿で所せましと元気いっぱいに駆け回る子どもたちの歓声が、境内に満ちあふれます。そして終盤には大人気のスイカ割り。この時もまた大歓声が響きます。
スイカ割りをする子は、本堂正面の山門から本堂へ向かって、まっすぐの参道を目かくしをして進みます。ほかの子どもたちは応援です。「前、前、前...」 聞こえる声のまま一歩一歩近づきます。スイカまでの距離が近くなると、声援はよりいっそう大きくなります。「右、右!」 「もっと左、左!」 「もうちょっと右ななめ!」 聞こえるままに体を動かせば動かすほど、真逆の二つの声が飛び交います。それもそのはず、自分から見て左右の指示を出している子、スイカ割りをする本人から見て左右の指示を出している子がいるからです。大声援の中、頑張って進んだものの、あまりの声援の多さに何が正しいのかわからず、立ちつくしてしまう子がいました。私はその時、この子は今、本当に頼りとなる声(情報)が届かない、不安のただ中にいるのだろうなと思いました。それは、頼りとしたい声がまったくないのではなく、何を頼っていいのか迷うほどさまざまな声に包まれ、反対に自ら心を閉ざしているのだろうと感じました。すると、私の目の前を数人の子が、「Kちゃん、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、名前を呼びながら、その子のもとへ駆け寄っていきます。棒でたたかれる可能性もあるのに、まったくおかまいなしです。
「だいじょうぶ、そのままいいよ、いいよ」 そこにはもう左右の指示はありません。見ればみんな、これまでに同じ経験をした子どもたちでした。閉ざされた心の中に、安心できる声が届いたのでしょう。Kちゃんのスイカ割りの再開です。そんな子どもたちの支えもあって、今年もみんなで一緒にスイカ割りを楽しめたことでした。
私を招く仏の本願
親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の六字を、次のようにご解釈くださります。
『そこで、「南無(なむ)」という言葉は帰命(きみょう)ということである。「帰」の字は至るという意味である。また、帰説(きえつ)という熟語の意味で「よりたのむ」ということである。この場合、説(せつ)の字は悦(えつ)と読む。また、帰説(きさい)という熟語の意味で「よりかかる」ということである。この場合、説(せつ)の字は税(さい)と読む。説(せつ)の字は、悦(えつ)と税(さい)との二つの読み方があるが、説(せつ)といえば、告(つ)げる、述べるという意味であり、阿弥陀仏がその思召(おぼしめ)しを述べられるということである。(中略)このようなわけで、「帰命(きみょう)」とは、わたしを招き、喚(よ)び続けておられる如来の本願の仰(おお)せである』
生きるほどに、自分をとりまく声は無数に飛び交います。わき起こる不安に心を閉ざし、一人ぼっちでさまようこともあるでしょう。その私を、阿弥陀さまは、決して見捨てることなく、よりたのみなさい、よりかかりなさいと、私をよび続け、お浄土へとご一緒してくださっているのです。参加した子どもたちにとって、頑張って正座をして一緒におつとめをしたことや、終わりの会でスイカ割りを通じて阿弥陀さまのお話を聞いたことは、自慢できる経験になったようです。「ナモアミダブツ」 阿弥陀さまの大きなよび声が響き合います。

■この命を生きる意味 -迷いの世界であることを知らない私-
夏を生きるセミ
今年の夏は、本当に暑かったですね。私も外に出ただけで、どっと汗がふき出すありさまでした。普段であれば、「おはようございます」「こんにちは」と挨拶を交わす方でも、第一声は「暑いですねえ」でした。この暑さに参ったのは、人間だけではないようです。夏を生きるセミも、日中はじっとしていて、夜のすずしくなった頃に活動をしていたようです。さて、セミといえば、私は子どもの頃、夏休みになると毎日のようにセミを捕って遊んでいました。多いときには虫かごいっぱいになり、玄関先で「ジリジリ」「ミーン、ミーン」とセミの大合唱です。しかし、次の日にはほとんどのセミが亡くなってしまいます。セミを無理やり捕ってきて、かごに押し込めておきながら、「セミはわずか1週間の命しかない。かわいそうだなあ。私には来年も再来年もあるのになあ」と他人事のように思っていました。やがて大学に進み、それなりの大学生活を送っていましたが、何かに一生懸命取り組むわけでもなく、平々凡々の毎日を過ごしていました。ところが、学生生活も後半にさしかかった頃です。授業でお聖教(しょうぎょう)を読んでいて、かつて私がセミに向けた言葉が、そっくりそのまま私に突き返されたように感じました。
それは、曇鸞大師(どんらんだいし)が著された『往生論註(おうじょうろんちゅう)』を読んでいたときのことです。「『蟪蛄(けいこ)は春秋(しゅんじゅう)を識(し)らず』といふがごとし。この虫(むし)あに朱陽(しゅよう)の節(せつ)を知(し)らんや。知るものこれをいふのみ」 これは、「セミ(蟪蛄(けいこ))は夏しか生きられないので、春とか秋を知らない。夏以外の季節があることを知っているものが、セミは夏しか生きられないと言えるのだ」という意味です。
セミが鳴くたびに
私たちは、自分たちが生きているこの世のことしか知りませんし、見ていませんが、それでは、なぜ私がこの世に生まれてきたのか、その本当の理由に気づくことができません。大学生活を適当に過ごしていた私は、夏しか知らないセミと同じだったのです。学生生活しか見ていなかった私は、学生生活の大切さを見失っていました。「このままでは人生も無駄に終わってしまう」 そう感じました。「どうにかしないと」と思いましたが、いくら考えても、私の力では何も見えてきません。それで、あらためてお聖教(しょうぎょう)と向き合い、阿弥陀如来のみ教え、親鸞聖人のご領解(りょうげ)を尋ねてみました。
親鸞聖人も若い頃、「どのように生きたらよいのか」がわからず、迷っておられました。しかし、親鸞聖人は法然聖人との出あいを通して、阿弥陀如来のみ教えに出あわれました。そして、ご自身を凡夫(ぼんぶ)(愚者(ぐしゃ))、この世を「火宅無常(かたくむじょう)の世界」と見られ、お念仏の道を生き抜かれました。親鸞聖人は「わたしどもはあらゆる煩悩(ぼんのう)をそなえた凡夫(ぼんぶ)であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変(かわ)る世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである」とおっしゃいました。私は、「人は、阿弥陀如来のみ教えにあわせていただき、お念仏を称(とな)えさせていただいて、少しずつだけれども、この世の命を生きる意味に気づくことができるようになるのだ」と思えるようになりました。
今年もセミの声を聞きました。『往生論註』の意味とは少し違いますが、セミの鳴き声を聞くたびに、「私はこれでいいのか」と自問しています。セミに「私は今年の夏しか生きられない。でも今を一生懸命に生きているぞ。おまえも頑張れ!」と励まされているようにも感じています。私たちは、「いま」をどのように生きるかが、とても重要になってくると思います。親鸞聖人は「阿弥陀如来のみ教えにあわせていただくことによって、この世の命を終えたら、お浄土に往生させていただけるのですよ」と教えてくださいました。親鸞聖人のみあとを慕(した)い、お念仏の日暮らしを送りたいと思いつつ、暑かった夏の終わりを迎えようとしています。

■組体操と阿弥陀さま -いつでも子どもの所にいける状態で立っている親-
「サボテン」の姿勢
1964(昭和39)年の東京オリンピックでは、開会式が10月10日に行われました。その2年後に、10月10日を国民の祝日(体育の日)としたということもあって、少し前までは「秋の運動会」が定番となっていました。しかし、このごろは6月あたりに運動会をする学校が増えました。その理由について、小学校の先生をしている友人にたずねたところ、9月末から10月にかけては、まだ残暑が厳しいことで熱中症になる子どもの出る可能性が高いということ、秋には修学旅行などの学校行事が多くあるということ、学級作りにちょうどよいことなどで、6月に運動会をする学校が増えたようです。私の子どもたちは、小学校が秋に、中学校は6月に運動会が行われます。中学の運動会はもう終わっていますが、その中学生の娘が、「本堂の阿弥陀さまって組体操している!」と言うのです。最初は「どういうこと?」と思ったのですが、よくよく聞いてみると、阿弥陀さまは直立して少し前傾姿勢をされています。それが、組体操の姿勢に似ているということだそうです。その組体操とは、「サボテン」という演技のことです。
サボテンとは、二人一組になり、一人は少し腰を落とし、膝を曲げて太ももの上にもう一人の両足をのせて立たせます。下で腰を落とし膝を曲げている人は、上で立っている人の両足を持って支えます。上でバランスよく立っている姿は、確かに阿弥陀如来のような姿勢です。ただ単に立っているだけでなく、少し前傾姿勢だからです。親バカな私としましては、「よく見ているな、さすがだな」と感心していましたが、阿弥陀如来がそのような姿勢をされている理由を、子どもに話さないといけません。「それはねぇ、たとえば小さな子どもが危ないところで遊んでいたら、どうする?」 「遊ぶのを止めさせる!」 「でも、遊ぶのをやめなかったら、どうする?」 「怒る!」 「怒る間がなかったら、どうかな。じっと座っていられないね。いつでも子どもの所にいけるような状態で、立っているんよ」と言いました。
自己中心の思い
いつでも子どもの所にいける状態で立っている。それが親(阿弥陀如来)の姿なのです。危険な場所がこの世、ということを言っているのではありません。危険と親(阿弥陀如来)が思うような行為を私がしている、ということなのです。私たちは、自己中心の思いで行動し、他の人とぶつかったりしています。相手にとってよかれという思いをもってした行為が、相手にとってよくなかったということもあるでしょう。自己中心の思いで相手を見ているからです。しかしながら、そのような自己中心という濁(にご)った心を治すことは難しいことです。実際に心に余裕があるときは、相手の心をすべて受け止め、相手のことをじっくりと考えて行動して、なるべく傷つけないように心がけることができますが、私の状況次第で変わってしまいます。
自分の心に余裕がない場合は、相手の心を受け止めるどころか、どうしても自らの思いにとらわれてしまうことでしょう。また、相手次第で対応を変えてしまいます。好意をもっている人に対しては、精いっぱい相手のことを考えますが、そうでもない人に対しては、自分の思いを貫(つらぬ)き、相手を傷つけてしまいます。それに対して阿弥陀如来は、いつでもすべてを受けとめるという清らかな心でないと救わない、とおっしゃっているのではありません。どのような状況、どのような相手であっても、清らかな心を保ち続けて行動することが難しい私の姿を見抜いてくださり、じっと座って見ていることができなくて、親(阿弥陀如来)は立ってくださっているのです。そして、清らかな心になれない濁った心の持ち主である私を、そのまま救い取ろうとしてくださるのです。
「組体操のあのサボテンの姿勢ってしんどいよな?」 と私が言うと、「しんどいっていうもんじゃないよ。めちゃくちゃしんどいよ!」 と子どもが言います。「ずっーとあの前傾姿勢でおられる阿弥陀さまってすごいよ」 「ありがたいね」 「うん」

■義父の背中 -阿弥陀さまのおはたらきを知らされる-
一番身近な住職
昔ながらの細い道が残る町に、妻の実家であるお寺があります。お寺がある住宅街の外側には、これまた昔ながらの墓地があります。ある時、その墓石のほとんどにお名号が刻まれていることに気づいて、当時、住職をしていた妻の父に尋ねたことがあります。「おとうさん、昔からお名号のお墓が多かったの?」 すると、義父は「こうなるのに50年かかった」と感慨深げに答えてくれました。私はお寺で生まれ育ったのではありませんので、私にとって一番身近な住職≠ニいうのは義父でした。義父は、民生委員を長くつとめ、PTAや町内会の役もしていました。地域では知らない人がいないくらいの有名人です。さらには、40年以上も住職をしており、布教使でもあり、教区の研修会にも足繁く通っていました。熱心で活動的なので、私は教区では名の知れた僧侶に違いないと勝手に思っていたのですが、いろいろな場で知り合う同じ教区の僧侶に義父の名を告げても、特別な反応はありません。義父は有名ではなかったようです。一方、私は布教使をめざして、本山で長期の研修を受講することになりました。研修が始まって2日目の夕方、寮の自室でくつろいでいるところに義母から電話がありました。義父にがんが見つかったという連絡でした。
主治医によると「早くて3カ月。抗がん剤治療をしても2年はきびしい」とのこと。義父は「そんなに悪いですか」と返したそうです。私は研修の休みの日、病院の義父に会いに行きました。すると、「おうっ」といつも通りの挨拶です。それどころか、義父は病室にノートパソコンを持ち込み、カタカタとキーボードをたたいて寺報を作っていました。それから間もなく義父は、病院では何も治療することはありませんと言われ、自宅療養を始めます。療養といっても、その日が来るのをただただ待つ日々です。
最後の正信偈
次の休みの日、再び義父に会いに行きました。義父はリビングのいつもの場所でくつろいでいました。しかし、病状は進み、歩けないほどに足がむくんでいます。「こわくない?」と私が尋ねると、「如来さまはここにいてくださるから、なーんもこわくない」とこれまたいつも通り。「断末でどうなるかはわからんけれど、念仏しながら往(い)きたいな」と笑っています。そして、1枚のリーフレットを取り出して、「ここに入院したい」といいます。それは「あそかビハーラ病院」のものでした。宗門が京都府城陽市に設立した緩和ケア病棟です。私は長期研修が終わってすぐの春のお彼岸に、義父の見ている前で、最初で最後の法話をいたしました。義父は終始イスに座り、じっとお聴聞していました。そして、ご法座の終わりには、2日後に入院する義父に、お参りされたご門徒が一人ひとりお別れの挨拶に来られていました。入院の翌日には容態が悪化。病室に行くと、義父は、臨終勤行をしてほしいと言います。義父の兄弟、家族が見守る中、正信偈をおつとめしました。ベッドに寝たままの義父は、声は出ないながらも、ご文(もん)を口にしています。
義父にとって今生(こんじょう)最後の正信偈。臨終勤行が終わると、義父は力を振り絞るように合掌してお念仏をしました。翌日の午前、家族が見守る中、義父のこの世のご縁が尽きました。義父に教わったことは数えきれません。けれど、その一つ一つは、言葉や指導で直接教えられたことではなく、ただただ行動や背中で教えてくれたことばかりでした。それは義父が亡くなった今も、時折お参りのお手伝いをする中で、変わることなく教わり続けています。ご門徒のお宅のお仏壇には、義父がご本山から求めるように勧めお迎えしたであろうご本尊が掛けられ、どのお宅でも朝炊かれたお仏飯が供えられています。「春が来たよ」と、花は言葉で伝えてはくれません。花が咲く姿に、春が来たことを教えられます。生涯お念仏をよろこび、お念仏と歩んだ義父が手を合わせていた姿に、間違いなくはたらいてくださっている如来さまを教えられています。

■「わかりあえない」からこそ -他者とどのように向きあい、理解しあうのか-
奮闘する高校生
「こんなに真剣に考えたのはじめてです!」 熱闘甲子園≠ニいうと、夏の高校野球の熱戦をつたえるキャッチフレーズですが、実は宗門の龍谷総合学園加盟校の高校生たちが毎夏、龍谷大学を舞台に熱い議論をたたかわせていることをご存じでしょうか。「龍谷アドバンストプロジェクト」と題されたこの企画は、今年で10年目。各高校から選出された高校生たちが、仏教、法学、経営学の三つの分野ごとに分かれ、サポーターの大学生たちとともに3日間泊まり込みで与えられたテーマにそって議論し、意見をまとめます。最終日はプレゼンテーション大会があり、もっとも優れたグループは表彰されます。私は仏教分野の担当講師として参加。私が高校生に出したテーマは、ズバリ「社会を変える方法の探究」でした。身近にある社会問題をどうすれば解決できるのか。自分たちにできることは何か。普段の思い込みをこえて「多角的・複眼的」に探求してみようと高校生たちに投げかけたのです。「多角的・複眼的に物事をみる」。すなわちいろいろな方向から物事を捉え直してみるというのは、大学での学びの基本姿勢です。しかし、単なる学びの姿勢だけでなく、仏教の教えとも深く通底しています。
いうまでもなく仏教では、自らの自己中心的で固定的なものごとの見方を離れ、ありのままに物事をみること〈如実知見(にょじつちけん)〉の大切さが繰り返し説かれてきました。お釈迦さまは次のような言葉をのこされています。「諸々(もろもろ)の事物に関する固執(こしゅう)(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故(ゆえ)に人はそれらの(偏執(へんしゅう)の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。私たちは知らず知らずのうちに、自分自身や物事に対してこだわり〈固執〉をもって生きています。それらはすべて、自分の都合のよいようにという自己中心的な見方からくるものです。お釈迦さまはまさに、こうしたこだわりこそが自らを苦しめるものであると見抜かれたのです。
一見ばらばらでも
さて、高校生たちはこうした大きなテーマのもと、各自が関心のある社会課題を選びました。ある学校では、「死にたい」という人に向き合うにはどうすればよいか、という自死の問題を取り上げました。また、文化の異なる海外からの旅行者のマナーをどうしたら理解できるか、という問題や、殺人のような重大な犯罪を犯した者とどのように向き合うのか、という問題。あるいは、人工知能と人間は共存できるか、といったテーマもありました。一見、ばらばらに見えるこれらのテーマ。しかし、私はある一点で共通していることに驚きました。それは、自分とは一見異なり、ときにはわかりあえない存在である「他者」とどのように向きあい、理解しあうことができるのかという点です。無理解や拒絶ではなく、対話しながらこの社会を生きるという方向。はからずもこの点に十代の若者が共通した関心をもっていたのです。
親鸞聖人は阿弥陀仏の光に照らされた私たちの存在は、「無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身(み)にみちみちて」おり、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と示されています。息を引き取るその瞬間まで、自己中心的な見方から離れられない私であるということ。このことは同時に、私たちが他者とわかりあうのは本質的にきわめて難しいという厳しい現実を示しているように思います。実際に「犯罪」をテーマに取り上げた高校生たちは、議論をすすめるうちに、「自分が被害にあった場合でも相手を尊重できるか」といった難問にぶち当たり、言わばきれいごとの結論は出せないことに気がつきました。現実の社会的課題の多くは、きわめて複雑な要因が絡み合っており、簡単に結論を導くことはできません。しかし、一人ひとりは決して何もできないかというと、そうではないでしょう。容易にわかりあえると考えたり、「わかったつもり」になるのではなく、「わかりあえない」ことを前提に、それでもなお、この社会で共に生きていくにはどうすればよいのか見つめていく営み。これこそが学校という学びの場において、仏教の教えを実践することになるのではないかと思われるのです。

■六字のいわれ -「大丈夫、ひとりじゃないよ!」
言葉本来の意味
先日の新聞に、文化庁の平成29年度「国語に関する世論調査」の記事がありました。これによると、「なし崩(くず)し」や「檄(げき)を飛ばす」の本来の意味を理解している人は2割程度だという結果でした。時代の変化とともに言葉の意味も大幅に変わるのでしょうか。しかし、同じ記事に、あるべき言葉の使い方として、「書き言葉も話し言葉も正しく使うべきだ」と答えた人が47・6%もあるという調査結果もありました。多くの方々が、言葉の正しい意味や、言葉の持つ力に関心を持っているということなのでしょう。ちなみに、「なし崩し」のもともとの意味は「借金を少しずつ返していくこと」で、「檄を飛ばす」は「自分の考えを広く人々に知らせ同意を求める」とありました。
ある時、ご門徒とお話をしていますと、日常語の中で仏教と通じている言葉が意外に多いという話になりました。「実は大丈夫≠ニいう言葉も仏教に通じていますよ。十号(じゅうごう)という十種の仏さまの呼び名の中に『調御(じょうご)丈夫』という言葉があるのです。本当の意味で大丈夫と言えるのは仏さまだけかも知れませんね」 「戸がガタガタいうとき、ガタピシする≠ニ言いますが、あれは『我他彼此』と書く仏教語なのです。自分と他人、あれやこれと物事を対立してとらえているから、そこから衝突や摩擦が生じるというのです。人や自然とのつながりを大事にしなくてはいけませんね」 こうしたご門徒との会話の中で時折、「南無阿弥陀仏ってどんな意味ですか」と尋ねられることがあります。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の六字を釈(しゃく)されて「本願招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)なり」と示されました。「我(われ)に帰(き)せよ」と喚(よ)び続けておられる如来の喚び声であるとのお示しです。つまり、南無阿弥陀仏とは、阿弥陀さまが私に向けて願いをかけてくださり、「安心しておくれ、私がそばにいるよ。あなたはかけがえのないいのちを生きているのですよ」と、私のいのちを包んでくださるお言葉なのです。
正しい意味を聞く
先日、保育園のあるお寺の友人が、こんな話をしてくれました。大人が子どもに向けて言う言葉で多いのが、「早くしなさい」なのだそうです。朝は、早く起きなさい、早くご飯食べなさい、早くしないと学校に遅刻するよ...。学校では、早く着席しなさい、早く授業の準備をしなさい、トイレなら早く行きなさい...。疲れて家に帰ると、早く宿題しなさい、早くお風呂に入って早く寝ないと、また明日寝坊するよ...と言われます。これでは子どもの気の休まる時がありません。その友人の保育園では、園児を部屋に誘導する時、「早くしなさい」を使わずに、「みんな、そろそろお部屋入ろうか。先生待ってるよぉー」と声をかけるのだそうです。早く来る子も、遅くなる子もいます。でも、先生はずっと待ってくれているのです。早くできない時もあります。しかし、そんな時でもこの私を待ってくれる、受け止めてくれる世界があることは有り難いことです。
子どもでも大人でも、大きな失敗をした時や、うまくいかない時などは不安になります。ともすれば、生きている意味を見失ってしまうこともあります。そんな時、あなたはかけがえのない人です。あなたが生きていることはとても意味のあることなんですよと、苦悩する私の全人生を受け止めてくださる言葉に出あうことは、大きな支えとなるでしょう。
無慚無愧(むざんむぎ)のこの身(み)にて まことのこころは なけれども 弥陀(みだ)の回向(えこう)の御名(みな)なれば 功徳(くどく)は十方(じっぽう)にみちたまふ
人に恥(は)じ、天に恥じる心のないこの身であり、真実清浄(しょうじょう)の心はないけれども、阿弥陀如来が回向された名号ですので、その功徳は十方世界にみちみちておられると、親鸞聖人はお讃(たた)えになっています。真実の心がなく、苦しみ悲しみながら生きていくことしかできないこの私を、そのまま包んでくださっている仏さまのお言葉が、南無阿弥陀仏の六字だったのです。南無阿弥陀仏の正しいおいわれをお聞かせいただきましょう。お念仏は呪文(じゅもん)でもなく、私の願い事をかなえるための手段でもありません。私がお念仏申しながら生きる人生は、そのまま、阿弥陀さまが私を「大丈夫。あなたはひとりじゃないよ。あなたの人生は尊い意味を持っていますよ」と包んでくださっている姿だったのです。

■ありがとうと生き抜く -私たち家族は「ビハーラ活動」の中で生かされている-
ALSという難病
皆さんは「ビハーラ活動」という言葉を聞かれたことがあるでしょうか?「ビハーラ活動」とは、病院や介護施設などで、「仏教徒が、仏教・医療・福祉のチームワークによって、支援を求めている人々を孤独のなかに置き去りにしないように、その心の不安に共感し、少しでもその苦悩を和らげようとする活動」とされています。今、私たち家族は、この「ビハーラ活動」の中にいます。なぜなら、私の父、深水正道(しょうどう)が、ALS(筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう))という病気で入院しているからです。ALSは10万人に一人の難病といわれる病気です。脳の指示を筋肉に伝える神経が炎症を起こして破壊され、次第に全身の筋肉が動かなくなり、最終的には死に至ります。残念ながら、現在の医学ではそれを治すことはできません。昨年の初めに発症した父は、次第に手足が動かなくなり、現在では首から下の身体を自分で動かすことは全くできず、病院のベッドの上で一日を過ごしています。しかし、脳の機能や話すこと、食べること、飲み込むことは今のところ維持されています。
父が入院している病院は、広島県三次(みよし)市にある「ビハーラ花の里病院」という病院です。先述した「ビハーラ活動」の理念に基づいて、市内の浄土真宗寺院のご住職が設立された病院です。父はこの病院の設立以来、地域の僧侶として、病院でのボランティアや法話会の活動を推進してきました。では、病気を抱え患者として入院することになった父は、「ビハーラ活動」を実践する側(がわ)から、される側、受け取る側へと変わったのでしょうか。父の今の姿は、ビハーラ活動を行う側と受け取る側に分けて考えがちなあり方を、問い直すものとなっています。
ともに浄土への道を
確かに父は、身体を動かすことができませんから、誰かを介助するようなことはできません。一方で、その動かない身体にイラ立つわけでも、また過度に感傷的になるわけでもなく、淡々とその状況を受け止めています。私たちは普段の生活の中で、近づく死から目を背けています。しかし、父の場合は、刻一刻と全身の麻痺(まひ)が進み、さまざまなものが失われていくことで、死への大きな不安があるはずです。この不安に、お念仏の教えは最後の、そして唯一の救いを与えてくれています。あらゆるものを失っても、お念仏だけはなくならない。この思いが、父の淡々とした日常を支える力となっているのでしょう。もちろん、日常の中で時にはわがままも言います。ある時、病院に行ったらいつになく不機嫌でした。どうしたのかと聞くと、「アイスクリームがなくなった」と言います。実は、病院でのおやつ代わりにアイスクリームを冷凍庫に入れていたのですが、私の弟の子、つまり父の孫がやって来て、それを全部食べてしまったというのです。あまりの他愛のなさに思わず笑ってしまいましたが、これも、これまでと同じ父の姿でもあります。
果たして私自身が死を目前にしたら、どのような心を持つのでしょうか。ともすれば、気落ちして自暴自棄(じぼうじき)になるかもしれません。そしてその姿は、家族や看護・介護者に大きな不安と苦悩をもたらすことになるでしょう。一方で、父はお念仏を力として、日常のまま周囲と接しています。それこそが、父にとっての「ビハーラ活動」そのものとなっています。今年の一月、病院の法話会でお話しした父は、「病気を抱えながらも、子や孫、周囲の人に、ありがとうと生き抜く姿を残していく。それが私にできる唯一のこと」と語りました。
「真宗宗歌」の3番には、次の歌詞があります。
海の内外(うちと)の へだてなく み仏(おや)の徳の とうとさを わが同朋(はらから)に つたえつつ 浄土(みくに)の旅を ともにせん
与えるものと受け取るもの、死にゆくものと残るもの、そのような区別は一切なく、ただ念仏をよろこび、それを伝える道がお浄土へとつながる、といただいています。今、私たち家族は、そうしたお念仏と父の「ビハーラ活動」の中で生かされています。 
 

 

■安心 -「本堂に参ってくれてうれしい」-
ALSという難病
お寺、寺院の語源をたずねますと、「ビハーラ」や「アランニャ」というインドの言葉が見つかります。「ビハーラ」とは、心身の安らぎの場所、休息の場所を意味するそうです。また、「アランニャ」とは、森林など、修行するのにふさわしい静かな所という意味があります。現代のお寺も、あわただしい世の中にあって、心落ち着く場所、安心できる場所でありたいものです。
『無量寿経(むりょうじゅきょう)』の中に、おつとめとして親しんでいる「讃仏偈(さんぶつげ)」があります。その中に「一切恐懼(いっさいくく) 為作大安(いさだいあん)」(生死(しょうじ)の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう)というお言葉が出てきます。阿弥陀さまは、不安をかかえる私たちに、大いなる安心を届けてくださっています。お寺の本堂は、阿弥陀さまの安心してくれよという願いを聞かせていただく聞法の道場であるとともに、私のいのちがそのままで安心させていただける居場所でもあるのです。本堂の阿弥陀さまの前に座らせていただきますと、私はなつかしい祖父や祖母のことを思い出します。祖父は、私が小学校6年生の時に亡くなりました。51歳で脳出血を起こし、亡くなる74歳まで右半身不随の生活を送りました。倒れた2月10日は、発病の記念日として、毎年、本堂にお参りをし、家族で祖父を囲んでいたことを思い出します。祖父の車いすを押して公園に行くのが、私の幼い頃の楽しみでした。亡くなる前年の秋、本堂再建の入仏法要が営まれました。車いすで本堂に参拝し、感動のあまりずっと涙を流していた祖父の顔を今も覚えています。その時は、なぜ涙を流しているのかわかりませんでしたが、お寺の歴史の中で、この法要がおつとめできること、またそのご勝縁にであえた重みを誰よりも感じていたのでしょう。
「ひとすじの道」
それから3カ月後に病気が再発し、重体の日々が続きました。亡くなる1カ月前の5月には、本堂落慶(らっけい)法要が予定されておりました。法要の準備が進む中、祖父は自分の容態が悪くなる病床で「わしが死んだら伏せるように」と家族に伝えました。自分のいのちが法要までもってくれるのか不安だったのです。危篤状態の中、祖母の精いっぱいの看病もあって、落慶法要を中継のテレビを通して病床で見ることができました。そして法要から1カ月後に亡くなりました。祖父が書き残したものに「死ぬまでも 死にての後も我(われ)と云(い)う ものの残せる ひとすじの道 九條武子」とありました。私にとって、祖父の生きてきた姿も、そして「伏せてほしい」という言葉も、「ひとすじの道」となって残っています。その祖父を看病した祖母は、10年前の年末に亡くなりました。人生の最後を本堂で迎えました。亡くなる日の朝、いつものように5時に鐘(かね)をつき、6時からの朝のおつとめの後、姿が見えなくなっていました。家族が探しましたが、なかなか見つかりません。本堂の演台と黒板の間に横たわり、合掌して静かに息をひきとっていたのです。
本堂の黒板には、新年にお参りされる方へ、「年頭のことば」とだけ書いた文字が残されていました。一年の終わりにあたり、新しい年を迎える準備をしていたのです。「本堂によう参ってくれた。これほどうれしいことはない」 祖母がいつも私に掛けていた言葉です。祖母の居場所はいつも本堂でした。本堂での仏事を大切にし、朝夕のおつとめはもちろん、新聞を読んだり、昼寝をしたり、ご門徒と語り合ったりと、本堂で多くの時間を過ごしていた祖母でした。最後も本堂でいのちを終えていったのです。今でも本堂にお参りすると「よう参ってくれた」とよろこんでいるように感じます。私にとってお寺の本堂は、祖父と祖母を思い出せるなつかしい場所であり、歩んできた人生の原点に戻れる安心できる場所です。祖父は半身不随の生活の中で杖(つえ)をたよりに、祖母は祖父に寄り添いながら、朝晩、仏前に座り、お念仏をよろこぶ日々を過ごしていました。祖父や祖母の歩んできたような人生は歩めませんが、同じ仏前に座り、お念仏をよろこびながら、同じ「ひとすじの道」を歩ませていただきたいと思います。

■ずっと一緒に -「本当に長らくお待たせいたしました...」-
小さな幸せ
「早く帰って来るんやで」 出かける娘に、私は必ずこの言葉をかけます。まだ学生ですし、帰りが遅くなると、とにかく心配だからです。私たち家族が住んでいる地域は、山手に広がる新興住宅地で、街灯はあるものの、夜は決して明るいとは言えません。遅くなればなるほど、人通りも極端に少なくなります。そこを娘が一人だけで帰ってくるのが、非常に心配なのです。ですから、遅くなる時には必ず連絡するようにと、これもたびたび言うのですが、なかなかこちらが思うような連絡の仕方はしてくれません。これがなおさら心配なわけです。
そんなある日のことです。いつもより遅い時間になっても、娘が帰ってきません。連絡もありませんので、連れ合いに、娘の携帯電話へ「電話をかけてみて」「メールをしてみて」「ラインをしてみて」と頼んで、私自身も同様に連絡してみました。しかし、連れ合いにも私にも、いつまでたっても返事がありません。家の中で待っておれない私は、気がつけば携帯電話だけを持って外に出ていました。坂を上って帰宅してくる人たちの中に、娘の姿を確認しようと、坂の上で待っているのですが、暗がりの中に、その姿を見つけることができません。私の足は無意識のうちに、坂の下にある最寄りの駅へと進んでいくのでした。娘から何の連絡もないまま、駅の改札前にたどり着いた私は、今度は電車を降りてホームから改札に向かって出てくる人たちの中に、娘を探そうとします。しかし、やはりなかなか降りて来てはくれません。私はあてもなく、不安なまま、携帯電話の画面を見つめ、ただただ待つばかりでした。30分ほど待ったでしょうか。私には非常に長い30分に思えました。すると、娘が電車を降り、改札の方へ向かって来ました。
「お〜い、父ちゃん心配して迎えに来たぞ!」と大声で叫びたい気持ちを抑えつつ、改札を出てくる娘を見つめていました。ですが、娘のほうは、友達とでしょうか、携帯電話でやりとりをしているのです。画面を見つめたまま、改札の外で待つ私の姿には気づきません。改札を通って出てきてから、初めて私がいることに気がつきました。その時、私を見た娘の第一声は「父ちゃん、何しに来たん?」でした。私はひと言だけ「心配やから迎えに来たんやで」と言いますと、娘は「ああ、そうなんやぁ」と言うだけ。さすがにがっかりしましたが、それより何より、もう安心です。娘を一人だけで暗がりの中を帰らせずにすんだのですから。娘は携帯電話をカバンに入れ、いつもは暗いところが嫌いなはずなのに、時に声を弾ませながら、私に今日一日のことを話し、並んで歩いてくれました。父親としての、小さな幸せです。
今、私のところに
金剛堅固(こんごうけんご)の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護(しんこうしょうご)して ながく生死(しょうじ)をへだてける
その翌朝、おつとめをさせていただきますと、阿弥陀さまが立って、私をご覧になっていました。そういえば阿弥陀さまも、私が仏さまの前に座り、お念仏する身になるまで、30分どころか、果てしない時間を待っていてくださったのでした。私に「早く帰ってくるんやで」とおっしゃってくださり、人生どんなことが起こるかわからない、不安いっぱいの暗がりの中を、「お前一人で歩かせるにはあまりに心配や」と、私のところまでおいでくださり、「南無阿弥陀仏」の仏となって、私を守っていてくださったのです。私は遅くに帰ってくる娘を迎えに、不安なまま、ただ駅の改札までしか行きませんでした。しかし、阿弥陀さまは違います。私がどこにいても、いつでも、必ず私のところまでおいでくださいます。「安心したらいいんやで。大丈夫やからな。お前と一緒にずっとおるんやで」 いろんな出来事がある今日一日を、私も阿弥陀さまと歩ませていただきます。私の安心は、阿弥陀さまの安心です。阿弥陀さまの安心が、私の安心でありました。

■氷がとければ... -お念仏とともに柔軟で寛容な生き方を-
水のすごいところ
唐突(とうとつ)ですが、みなさんは、「水(みず)」の形をご存じでしょうか? そう、水道の蛇口(じゃぐち)をひねれば出てくる、あの透明な水です。水に形があるの? と不思議に思われるかもしれませんが、ここは想像力を豊かにして、具体的にイメージしていただきたいのです。たとえば、グラスを一つ手に取って、そこに水を注いでみたとします。そうすると、グラスとピッタリ同じ形の水が映し出されるはずです。また、形が違う、もう一つ別のグラスを手に取り、そこに先ほどのグラスの水を注いでみてください。水は、グラスに合わせて形を変えるでしょう。当たり前のようですが、これが水のすごいところなのです。いつでも、器に合わせて、柔軟に形を変えることができるのです。丸でも四角でも、自由自在に形を変えられるから、用意された器にピッタリとフィットし、違(ちが)うことがないのです。どのような器にも平等で、決して器を選(え)り好むこともない。柔軟で平等、それが水の特性なのです。しかし、その水がいったん冷やされ、氷となったらどうでしょう。形が固定され、完全に水の柔軟性が失われてしまいます。自分と同じ形の器でなければフィットしなくなり、サイズ次第では、目の前の器にさえ入らなくなるのです。もはや、そこに、水の平等性をみることはできません。
さとりと煩悩
こうした水と氷の特性は、人の生き方にも当てはまるのではないでしょうか。親鸞さまは、菩提(ぼだい)(さとり)を水に、煩悩を氷に譬(たと)えて、両者の関係性をわかりやすくご教示くださいました。
無礙光(むげこう)の利益(りやく)より 威徳(いとく)広大の信をえて かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる
水と氷は、もともと別の体(たい)ではありません。おかれている条件や環境の違いから、別の状態になっているだけなのです。菩提と煩悩の関係も同じで、体は無二(むに)、その状態の違いから別々の名前がつけられているのです。水のような性質を持つ菩提は、相手に応じて自在に自分を変化させ、ピッタリと寄り添うことができますが、氷のような性質を持つ煩悩は、頑(かたく)なに自分の形を変えず、自己中心的な関(かか)わり方しかできません。一方は、身心が柔軟で平等、もう一方は、身心が凝(こ)り固(かた)まって差別的。一つの体ではあるけれど、その状態次第で、ずいぶんと違っているわけです。気がつけば氷のように硬くなっていた身心を、どうすれば、水のように自由で、柔軟にすることができるのでしょうか。氷は、氷自身の力で水になることはできません。他からのはたらきかけによって、はじめて自分を変えることができるのです。そこで、ためしに、氷を水のなかにつけてみたらどうでしょう。たっぷりの水の中に氷をつければ、水が氷に作用して、ついに、氷を融(と)かしてしまいます。完全に融けてなくなるまでには、相応の時間が必要ですが、少しずつ少しずつ、水は氷を融かしていくのです。
この水と氷の道理を菩提と煩悩、また、阿弥陀さまと凡夫の関係に置き換えることはできないでしょうか。つまり、阿弥陀さまの菩提の中で、凡夫の煩悩が融かされる、というようなお味わいをさせていただきたいと思うのです。阿弥陀さまの菩提(さとり)は、煩悩を離れることができない凡夫(ぼんぶ)を悲しみ、その凡夫の救いを目当てに成就(じょうじゅ)されたものですから、逃げる凡夫を追いかけて、捕(つか)まえ、摂(おさ)め取ってくださいます。凡夫の側は、「摂め取って捨てない」という阿弥陀さまのお心を聞いて、その智慧(ちえ)と慈悲にすべてをおまかせするのです。そうすることで、この上もない菩提(功徳(くどく))の水の中につけていただき、煩悩の氷が融かされるのです。凝り固まった見方に縛られた自己中心的な私が、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきによって、少しずつ、自由で柔軟な方向へと転じられていく。自分中心の生活が阿弥陀さま中心の生活へと転換されていくのです。お念仏を申しながら、柔軟で寛容な生き方をさせていただきたいものです。

■あなたまかせの年の暮 -阿弥陀さまをたよりとする一茶の素直な心-
他力本願とは
今年の夏、私は大学の学生さんたちと、北陸の名刹・名所を訪ねました。私にとっては二十数年ぶりの北陸で、学生さんたちと一緒ということもあってか、とても新鮮に感じられました。そんな中で、ひとつ残念な光景に出くわしました。お土産(みやげ)屋さんに立ち寄ったときのことです。どう見ても、その観光地には不自然なグッズを扱っているコーナーがありました。興味本位で近づいて見ていると、その中に「他力本願 本当にすみません」とプリントされたTシャツがありました。それを見た私は、深い悲しみと憤りを覚えました。「他力本願」の誤用・乱用を助長していると感じたのです。
そのことを先日、カルチャーセンターでの講義の合間にお話ししましたら、受講生の方から「世の中の多くの人が間違った受け止め方をしている『他力本願』の意味を、もっと正していくべきではないでしょうか。浄土真宗のみ教えの要(かなめ)ですよね」とのお言葉をいただきました。私はそのとき、浄土真宗の僧籍にあるものの一人として「他力本願」の誤用・乱用を正そうとしないのは、黙認しているのと同じではないかと痛感させられました。周りで間違った使い方がされていても、「この人は『他力本願』の意味を知らないな」と流していたからです。世の中の多くの人は、「他力本願」を「自分は努力しないで、人に期待すること。他人任せ」と思っています。たいていの辞書には、これは誤用であると記されていますが、間違いであると認識されないで使われ続けると、それがあたかも正しいものであるかのように受けとめられてしまいます。親鸞聖人は『教行信証』に、「他力といふは如来の本願力なり」と表され、続けて『往生論註(ろんちゅう)』の文(もん)を引用して、「本願力」とは阿弥陀如来が法蔵(ほうぞう)菩薩であられたときにすべてのものを救いたいとして起こされた願いにもとづくはたらきである、と示されています。「すべてのものを救おうとされる阿弥陀如来を信じ、如来のはたらきに素直な心でお任(まか)せすること」が、親鸞聖人がお示しくださった「他力本願」の正しい意味です。
阿弥陀任せ
では、「阿弥陀任せ」は「他人(ひと)任せ」と、どう違うのでしょうか。親鸞聖人が関東の門弟たちに送られたお手紙の中に「第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです」と述べられています。また、法然聖人のお言葉として、「他力には義(ぎ)なきを義とす」(他力においては、自力のはからいがまったく無いことが、教えの根本の義である)と随所に示されています。
親鸞聖人は晩年に「自然法爾(じねんほうに)」の言葉をもって「他力」を述べておられますが、その中に「弥陀仏の御(おん)ちかひの、もとより行者(ぎょうじゃ)のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然(じねん)とは申すぞとききて候(そうろ)ふ」とあります。「行者」とは念仏を称えるもののことです。「南無阿弥陀仏とたのませたまひて」とは、「阿弥陀如来を信じ、たよりとして」という意味です。もとより私のはからい(思ったり行動したり)によって救われるのではありません。「必ず救う」という本願を信じ、あるがままの状態で阿弥陀如来にお任せしていくこと、それが「阿弥陀任せ」です。小林一茶は文政二年(1819)の年末に、「後生(ごしょう)の一大事は、その身を如来の御前(おんまえ)に投げ出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御(お)はからひ次第(しだい)あそばされくださりませと、御頼(おたの)み申すばかり也......ともかくも あなた任せのとしの暮(くれ)」と詠(よ)んでいます。「あなた」とは阿弥陀如来のことです。阿弥陀如来を信じ、たよりとする一茶の素直な心が読み取れます。今年もあとひと月で終わりを迎えますが、お念仏の日暮らしの中に、行く年来る年を迎えられたらと思っております。

■おさめ取って捨てない -背を向ける私をどこまでも追いかける阿弥陀さま-
カーナビのおかげ
家族で久しぶりの旅行でした。富士山を見に行こうという話が盛り上がり、静岡県まで足を伸ばしました。自宅の最寄り駅から電車に乗り、それから新幹線に乗り換えて、新富士駅で降りました。駅前でレンタカーに乗り、まず富士山がよく見えるスポットを目指して車を走らせました。20年以上前、私が独身の頃は、助手席に乗っていた将来、妻になる彼女に道路地図を見てもらって目的地まで行ったことが思い出されます。今ではカーナビがあるのは当たり前という感覚になっていますが、実は有り難いことです。今回の旅行では、初めて行く所ばかりなので、目的地をカーナビにセットしてルート案内通りに車を走らせました。その指示に従って行けばいいのに、「ここで曲がるんだろうね」と言いながら自分勝手な判断で曲がって、道を間違えてしまいました。路肩に止まっている車があったので、「何かトラブルがあったのかな」と家族で話していると、また、曲がるべき所を思わずまっすぐ行ってしまいました。ナビの声をちゃんと聞いていない私が悪いのですが、道を間違うとどうしても頭の中が混乱してしまい、「道を間違えたじゃないか」と語調を強めて不機嫌に言うと、家族は「さっきの交差点に看板があったよ」「きっと、さっきの道を曲がるんだろうね」と優しく声を掛けてくれます。そのような会話をしている最中にカーナビは再検索してくれて、迷い込んだ場所からの道筋を指示してくれます。そして目的地に到着することができました。
なぜこんな目に...
人生も同じように考えることができるのではないでしょうか。道に迷う前は、日常生活において憂うことがない、何事も起こっていない状態と言えます。実は有り難いことなのですが、ついつい当たり前と思ってしまいます。また、車で走っていて、周りの車が路肩などに止まっていたりして何かトラブルなんだろうな、ということに気づいていても、それは私には関係ないことと思っています。同じように車に乗る者として、そのようなトラブルにあう可能性があるにもかかわらず、自分に重ねた問題にはしません。同様に、周りの人が病気になったり、亡くなっていかれたりしても、どこか他人事のように思ってしまいます。しかしながら、道に迷ったりしたならば、つまり、自分自身が体調を崩したり、自分に近しい人の病気や死に遭遇すると慌てます。「なぜ、このような目にあわないといけないんだろうか」と、悪い状態にはまってしまって身動きがとれず、ふさぎこんでしまいます。けれど、どのような状態、どのような時であっても、阿弥陀さまは常に浄土への道を示し、この道に従って来ればよいとよびかけてくださっています。
お経(きょう)には、阿弥陀さまのすくいのはたらきを「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」ということばで説かれています。親鸞聖人は、
十方(じっぽう)微塵(みじん)世界の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる ・・・というご和讃を作っておられます。
数限りないすべての世界において、念仏するものを見通され、摂(おさ)め取って決してお捨てにならないのが、阿弥陀さまです。ご和讃の「摂取」の語の左には「ひとたび取りて永く捨てぬなり」「ものの逃(に)ぐるを追はへ取るなり」と、その意味を示してくださっています。阿弥陀さまのお慈悲に気づかないで、自分の意のままに行動し迷っているもの、如来に背を向けているものをどこまでも追って、お慈悲に気づかせようと常にはたらき続けておられます。そして、私を捕(と)らえたら決してお捨てになりません。どのような境遇になろうとも、阿弥陀さまのよび声を聞かせていただくことによって、浄土への道を歩ませていただく。そしてその道はそのままさとりを得させていただく道でもあるのです。阿弥陀さまの摂め取って決して捨てないというはたらき、それは浄土への道を示し、この道に従って来ればよいと、常によびかけてくださっています。阿弥陀さまのおはたらきの有り難さが心にしみます。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
正信偈(しょうしんげ)

 

『正信偈』は、浄土真宗のお通夜や葬儀、朝晩の勤行でよく読まれます。7文字かける120行の840文字の漢字ばかりで書かれていますのでお経だと思っている人があります。しかし「お経」は、お釈迦さまの説かれたことをお弟子が書き残したものですが、『正信偈』は親鸞聖人の書き残されたものですので、『正信偈』はお経ではありません。親鸞聖人の主著『教行信証』の一部です。『教行信証』はお釈迦さまの説かれた一切経を圧縮して仏教の真髄を明らかにされたものです。その『教行信証』を圧縮されたのが『正信偈』です。ですから『正信偈』を拝読することは、一切経七千余巻を拝読するのと同じ功徳があるのです。『正信偈』は親鸞聖人が一字書いては涙を流され、一字一涙の思いで書かれたといわれます。
帰命無量寿如来   無量寿如来に帰命し、
南無不可思議光   不可思議光に南無したてまつる。
法蔵菩薩因位時   法蔵菩薩因位の時、
在世自在王仏所   世自在王仏の所に在して
覩見諸仏浄土因   諸仏浄土の因、
国土人天之善悪   国土・人天之善悪を覩見して、
建立無上殊勝願   無上殊勝の願を建立し、
超発希有大弘誓   希有の大弘誓を超発せり、
五劫思惟之摂受   五劫に之を思惟して摂受す。
重誓名声聞十方   重ねて誓うらくは「名声十方に聞えん」と。
普放無量無辺光   普く無量・無辺光、
無碍無対光炎王   無碍・無対・光炎王、
清浄歓喜智慧光   清浄・歓喜・智慧光、
不断難思無称光   不断・難思・無称光、
超日月光照塵刹   超日月光を放ちて塵刹を照らす、
一切群生蒙光照   一切の群生、光照を蒙る。
本願名号正定業   本願の名号は正定の業なり、
至心信楽願為因   至心信楽の願を因と為す、
成等覚証大涅槃   等覚を成り大涅槃を証することは、
必至滅度願成就   必至滅度の願、成就すればなり。
如来所以興出世   如来世に興出したまう所以は、
唯説弥陀本願海   唯弥陀の本願海を説かんとなり。
五濁悪時群生海   五濁悪時の群生海、
応信如来如実言   応に如来如実の言を信ずべし。
能発一念喜愛心   能く一念喜愛の心を発せば、
不断煩悩得涅槃   煩悩を断ぜずして涅槃を得、
凡聖逆謗斉廻入   凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば、
如衆水入海一味   衆水の海に入りて一味なるが如し。
摂取心光常照護   摂取の心光は常に照護したまう、
已能雖破無明闇   已に能く無明の闇を破すと雖も、
貪愛瞋憎之雲霧   貪愛・瞋憎の雲霧、
常覆真実信心天   常に真実信心の天を覆えり、
譬如日光覆雲霧   譬えば日光の雲霧に覆わるれども、
雲霧之下明無闇   雲霧の下明らかにして闇無きが如し
獲信見敬大慶喜   信を獲て見て敬い大いに慶喜すれば、
即横超截五悪趣   即ち横に五悪趣を超截す。
一切善悪凡夫人   一切善悪の凡夫人、
聞信如来弘誓願   如来の弘誓願を聞信すれば、
仏言広大勝解者   仏は広大勝解の者と言い、
是人名分陀利華   是の人を分陀利華と名く。
弥陀仏本願念仏   弥陀仏の本願念仏は、
邪見憍慢悪衆生   邪見・憍慢の悪衆生、
信楽受持甚以難   信楽受持すること甚だ以て難し、
難中之難無過斯   難の中の難斯に過ぎたるは無し。
印度西天之論家   印度西天の論家、
中夏日域之高僧   中夏・日域の高僧、
顕大聖興世正意   大聖興世の正意を顕し、
明如来本誓応機   如来の本誓、機に応ずることを明す。
釈迦如来楞伽山   釈迦如来楞伽山にして、
為衆告命南天竺   衆の為に告命したまわく、「南天竺に、
龍樹大士出於世   龍樹大士、世に出でて、
悉能摧破有無見   悉く能く有無の見を摧破し、
宣説大乗無上法   大乗無上の法を宣説し、
証歓喜地生安楽   歓喜地を証して安楽に生ぜん」と。
顕示難行陸路苦   難行の陸路の苦しきことを顕示し、
信楽易行水道楽   易行の水道の楽しきことを信楽せしめたまう。
憶念弥陀仏本願   「弥陀仏の本願を憶念すれば、
自然即時入必定   自然に即の時必定に入る、
唯能常称如来号   唯能く常に如来の号を称じて、
応報大悲弘誓恩   大悲弘誓の恩を報ず応し」といえり。
天親菩薩造論説   天親菩薩は論を造りて説かく、
帰命無碍光如来   「無碍光如来に帰命したてまつる」と。
依修多羅顕真実   修多羅に依りて真実を顕し、
光闡横超大誓願   横超の大誓願を光闡し、
広由本願力廻向   広く本願力の廻向に由りて、
為度群生彰一心   群生を度せんが為に一心を彰したまう。
帰入功徳大宝海   「功徳の大宝海に帰入すれば、
必獲入大会衆数   必ず大会衆の数に入ることを獲、
得至蓮華蔵世界   蓮華蔵世界に至ることを得れば、
即証真如法性身   即ち真如法性の身を証せしむ、
遊煩悩林現神通   煩悩の林に遊びて神通を現じ、
入生死薗示応化   生死の薗に入りて応化を示す」といえり。
本師曇鸞梁天子   本師曇鸞は梁の天子、
常向鸞処菩薩礼   常に鸞の処に向にいて「菩薩」と礼したまえり。
三蔵流支授浄教   三蔵流支、浄教を授けしかば、
焚焼仙経帰楽邦   仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。
天親菩薩論註解   天親菩薩の論を註解して、
報土因果顕誓願   「報土の因果は誓願なり」と顕したまう。
往還廻向由他力   「往還の廻向は他力に由る、
正定之因唯信心   正定之因は唯信心なり。
惑染凡夫信心発   惑染の凡夫、信心を発しぬれば、
証知生死即涅槃   生死即ち涅槃なりと証知せしむ、
必至無量光明土   必ず無量光明土に至れば、
諸有衆生皆普化   諸有の衆生、皆普く化す」といえり。
道綽決聖道難証   道綽は聖道の証し難きことを決し、
唯明浄土可通入   唯浄土の通入す可きことを明す。
万善自力貶懃修   万善の自力、懃修を貶し、
円満徳号勧専称   円満の徳号、専称を勧む。
三不三信誨慇懃   三不・三信の誨、慇懃にして、
像末法滅同悲引   像・末・法滅同じく悲引したまう、
一生造悪値弘誓   一生悪を造れども弘誓に値いぬれば、
至安養界証妙果   安養界に至りて妙果を証せしむ」といえり。
善導独明仏正意   善導独、仏の正意を明かにし、
矜哀定散与逆悪   定散と逆悪とを矜哀して、
光明名号顕因縁   光明・名号の因縁を顕したまう。
開入本願大智海   「本願の大智海に開入すれば、
行者正受金剛心   行者正しく金剛心を受け、
慶喜一念相応後   慶喜一念相応の後、
与韋提等獲三忍   韋提と等しく三忍を獲、
即証法性之常楽   即ち法性之常楽を証せしむ」といえり。
源信広開一代教   源信広く一代の教を開きて、
偏帰安養勧一切   偏に安養に帰して一切を勧む。
専雑執心判浅深   専・雑の執心に浅・深を判じ、
報化二土正弁立   報・化二土正しく弁立したまう。
極重悪人唯称仏   「極重の悪人は唯仏を称すべし、
我亦在彼摂取中   我も亦の彼の摂取のの中に在れども、
煩悩障眼雖不見   煩悩、眼を障えて見たてまつらずと雖も、
大悲無倦常照我   大悲倦きこと無くして常に我を照したまう」といえり。
本師源空明仏教   本師源空は仏教に明かにして、
憐愍善悪凡夫人   善・悪の凡夫人を憐愍し、
真宗教証興片州   真宗の教・証を片州に興し、
選択本願弘悪世   選択本願を悪世に弘めたまう。
還来生死輪転家   「生死輪転の家に還来することは、
決以疑情為所止   決するに疑情を以て所止と為す、
速入寂静無為楽   速に寂静無為の楽に入ることは、
必以信心為能入   必ず信心を以て能入と為す」といえり。
弘経大士宗師等   弘経の大士・宗師等、
拯済無辺極濁悪   無辺の極濁悪を拯済したまう。
道俗時衆共同心   道・俗・時衆、共に同心に、
唯可信斯高僧説   唯斯の高僧の説を信ず可し。
これが浄土真宗の葬式や朝晩の勤行で読まれる正信偈の全文と、読み方です。蓮如上人は、朝晩の勤行で『正信偈』を拝読することに定められましたので、もう何百年にも続いている浄土真宗の習慣です。しかし、せっかく読んでいても『正信偈』に親鸞聖人が何を教えられているのか知らなければもったいないことになってしまいます。
 

 

正信偈とは
『正信偈』の「偈」はうた、ということですので、『正信偈』は、正しい信心のうた、ということです。「信心」とは、何かの宗教で神や仏を信じることだと思う人が多くありますが、親鸞聖人の教えられた信心は、そのような信心とはまったく異なります。そもそも信心とは、心で何かを信じることです。信じるというのは、頼りする、あてにするということです。人は何かを信じなければ、生きてはいけません。例えば、いつまでも元気でいられると、自分の健康を信じて生きています。また、明日や一週間後の予定を立てています。これは明日も生きていられると、自分の命を信じて生きているのです。お金や財産、地位や名誉、妻や夫、子供など、家族を信じ、頼りにして生きています。共産主義の人は、宗教を信じないといいますが、共産主義を信じています。人は、何かを信じなければ生きていけない、ということは、何かの信心を持たなければ生きていけないということです。
ところが私たちは、その信じていたものに裏切られたときに、苦しまなければなりません。信心が崩れたときに、苦しむということです。仏教では諸行無常と教えられるように、この世は無常の世界ですから、一切は移り変わっていきます。ですから、どんな信心も、やがて裏切られるのではないかと不安になります。心からの幸せにはなれないのです。
私たちは、幸福を求めて生きているのですから、一体何が私たちを幸せにするのか。真実の信心を教えられたのが、親鸞聖人です。
ところが、真実の信心は、2つも3つもありません。真実はただ1つです。「正しい」という漢字は、一つに止(とど)まると書くように、一つしかないものです。その私たちを本当の幸福にするたった一つの真実の信心を、親鸞聖人は、「正しい信心」といわれています。すべての人は、変わらない幸福を求めて生きていますから、全人類が求めてやまない信心です。その正しい信心を獲得することが、私たちの生きる目的であり、本当の生きる意味なのです。
その私たちをこの世も未来も変わらない幸せにする信心を、親鸞聖人が明らかにされたのが『正信偈』なのです。その正しい信心とはどんなことかは、最初の2行と最後の2行にすべて表れています。
正信偈の最初の2行の意味
正信偈の最初には、このように書かれています。
帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)
南無不可思議光(なむふかしぎこう)
これは、「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」と読みます。これは親鸞聖人ご自身のことを言われたことですから、親鸞は無量寿如来に帰命いたしました、親鸞は不可思議光に南無いたしました、ということです。
まず「無量寿如来」とは、「不可思議光」と同じで、阿弥陀如来のことです。阿弥陀仏ともいいます。阿弥陀仏という仏様は、たくさんのお名前を持っておられるということです。それは阿弥陀仏が色々のお徳を持っておられるからです。お徳というのは、働きとか力のことです。本名は「阿弥陀如来」ですが、次によく言われるのが「無量寿如来」です。「無量寿」とは寿命に限りがないということです。「如来」は仏のことですから、無量寿仏ともいわれます。その次が「不可思議光如来」です。「光」とは仏様の力を光で表されますので、不可思議光如来とは、想像もできない大きな不思議なお力を持たれた仏様ということで、不可思議光如来とか不可思議光仏といわれます。
ですから、「無量寿如来」も「不可思議光」も阿弥陀仏のことです。
次に、「帰命」と「南無」も同じ意味です。「帰命」は昔の中国の言葉、「南無」は昔のインドの言葉です。仏教はインドでお釈迦さまが説かれました。それがやがて中国を経て日本に伝わりましたので、仏教の言葉には、インドの言葉も中国の言葉も遣われます。
では日本の言葉でいうとどんな意味かというと、救われた、助けられたという意味です。ですから親鸞帰命したぞ、南無したぞ、というのは、親鸞救われたぞ、助けられたぞ、ということです。無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつるというのは、親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ、と同じことを2回繰り返されているのです。
なぜ同じことを2回繰り返されているのかというと、何回言っても言い足りない、何回書いても書き足りない、言っても言ってもまだ言いたいというお気持ちを2回繰り返されて表されているのです。親鸞聖人がどんなに阿弥陀如来に救い摂られたことが嬉しかったか、阿弥陀如来に助けられたことを叫ばずにはいられなかったかが分かります。
私たちも、夕食を食べようとしたら、ぱっと電気が消えて、停電になったとします。5分待っても10分待っても光が来ない、1時間待っても2時間待っても、光が来ない、今日はもう夕食なしで寝ようかと思っていた所へ、パッと電気がついたとします。すると、「ついた、ついた、ついた」と同じことを何回も言わずにはいられません。それは、長い間待っていた光が来たからです。
親鸞聖人が『正信偈』の最初に救われたぞ、助けられたぞ、と繰り返しておられるのは、いかに親鸞聖人が阿弥陀仏の救いを求めておられたか、長い間苦しみながら探し求めておらたれことが満足できたのか、ということです。どれだけ言っても言っても言い尽くせない喜びと満足を、『正信偈』の最初の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の2行に表されているのです。それだけ阿弥陀仏に救われた喜びが大きいということです。どれだけ叫んでも叫んでも、これで満足だ、これで終わったということのない喜びです。
親鸞聖人は、このようになれたのも、阿弥陀仏のお力であった、阿弥陀仏のおかげであったと言われています。
仏教の教えとは
仏教とは、約2600年前、インドに表れたお釈迦さまの説かれた教えです。お釈迦さまは、80年の生涯、何を教えられたのかというと、今日一切経経七千余巻といわれるたくさんのお経に書き残されています。お釈迦さまの教えはその中に全部記録さています。七千余巻のお経があるから、七千以上のことを仏教に教えられているのかと思いますが、実は仏教には、たった一つのことしか教えられていないのです。親鸞聖人は、お釈迦さまの七千余巻の一切経を何回も何回も読まれて、『正信偈』にこのように教えられています。
如来所以興出世(にょらいしょいこうしゅっせ)
唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)
これは、「如来、世に興出したまう所以は、ただ弥陀の本願海を説かんがためなり」と読みます。「如来」とはお釈迦さまのことです。お釈迦さまが、「世に興出された」というのは、地球上に現れたということです。「所以」とは目的のことですから、お釈迦さまが地球上に現れて、仏教を説かれた目的は、ということです。釈迦一代の教えは、どんなことを教えられたのかというと、次に、「唯説」であったと言われています。
「唯説」とは、2つも3つもない、ただ一つのことを説かれた、ということです。こんな断言は、一切経全部を正しく理解しなければできません。親鸞聖人は一切経を何度も読み破られて、自信を持って教えられているのです。
ですから、そのただ一つのことを知れば、仏教全部知ったことになります。そして、世界の三大聖人といわれるお釈迦さまが、一生涯ただ一つのことを教えられたということは、非常に大事なことだと分かります。すべての人にとって、これ以上大事なことはありません。そのただ一つのこととは、「弥陀の本願海」です。「弥陀」とは阿弥陀仏のことですので、阿弥陀如来の本願一つを教えられたということです。本願とはお約束のことですので、それを海にたとえて、海のように広くて深い、阿弥陀如来の本願一つをお釈迦さまは教えていかれたのだと親鸞聖人は明らかにされています。
阿弥陀仏というのは、大宇宙にたくさんおられる仏様の、先生の仏です。蓮如上人は、『御文章』にこのように教えられています。
弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり(御文章2帖目8通)
地球上に現れた仏さまは、お釈迦さまただ一人ですが、大宇宙には地球のようなものが、数えきれないほどありますから、大宇宙には仏様が数え切れないほどおられます。その大宇宙の仏を「十方諸仏」といいます。その十方諸仏の本師本仏が阿弥陀如来であるとおしえられています。「本師本仏」とは、「本師」も「本仏」も先生のことですから、大宇宙の仏方の先生の仏が阿弥陀仏ということです。ですから、大日如来も薬師如来も、奈良の大仏は毘盧遮那如来という仏様ですが、みんな阿弥陀仏のお弟子です。地球上に現れたお釈迦さまも大宇宙の仏の一仏ですから、阿弥陀仏のお弟子です。
地球上に現れたお釈迦さまが、先生である阿弥陀如来の本願一つを教えられたのが仏教なのです。
29歳で救われた親鸞聖人
親鸞聖人は、4歳でお父さんを亡くされ、8歳でお母さんを亡くされ、「次に死ぬのは自分の番だ、死んだらどうなるのだろう」と自分の死に驚かれました。この死んだらどうなるかの一大事を後生の一大事といいます。何とかこの後生の一大事を解決したいと、親鸞聖人は9歳のときに出家され、比叡山で天台宗の血のにじむような修行に20年間打ち込まれました。それでも、後生暗い心の晴れなかった親鸞聖人は、迫り来る無常に居ても立ってもおれず、29歳のときに泣く泣く山を下りられて、法然上人から阿弥陀如来の本願を聞かれるようになりました。
それから真剣に雨の日も風の日も阿弥陀如来の本願を聴聞し、29歳のときに、一念で後生明るい心に救い摂られたのです。その阿弥陀如来の本願に救い摂られ、死によっても崩れない絶対の幸福になられた喜びを、親鸞聖人は、『正信偈』に「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」と言われているのです。これを「信心決定」といいます。その叫んでも叫んでも叫び尽くすことのできない喜びの身に親鸞聖人はなられたので、親鸞聖人はこの後『正信偈』に、親鸞はどうしてこんな幸せな身になれたのか、教えられているのです。
そして親鸞聖人は、『正信偈』の最後はこう結ばれています。
正信偈の目的
道俗時宗共同心(どうぞくじしゅうぐどうしん)
唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)
これは「道・俗・時宗、共に同心に、唯、この高僧の説を信ずべし」と読みます。この『正信偈』の最後の2行は、親鸞聖人が『正信偈』を書かれた目的を言われている所です。
「道俗」の「道」とは、僧侶のことです。僧侶というのは、寺に住んでいますが、田んぼや畑を作るためではありません。仏教を伝える為に寺にいるのです。「俗」とは、在家の人です。人それぞれ仕事をして、お金や財産、地位、名誉を信じて生きています。しかし、後生の一大事も知らなければ本当の生きる意味も知りませんから、信じては裏切られ、信じては裏切られを繰り返して、最後はすべてに裏切られて死んで行かなければなりません。そのような仏教を聞く立場の人のことです。ですから「道俗」で、仏教を説く人と聞く人です。これですべての人です。
「時衆」とは、その時その時ご縁があって集まられた人たちということです。実際の参詣者です。ですから「道俗時衆」ですべての人です。阿弥陀如来の本願に救われて、絶対の幸福になられた親鸞聖人は、正しい信心を知らずに苦しみ悩むすべての人に呼びかけられているのです。何を訴えておられるのかというと、「共に同心に」といわれています。この親鸞と共に、親鸞と同じ心になってもらいたい、ということです。親鸞聖人と同じ心とはどんな心かというと、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」、と『正信偈』を書き始めてからずっと、親鸞はどんな心に救われたかここまで書いてきた。だからその親鸞と同じ心になってくれ、ということです。
親鸞聖人と同じ心になれるのかというと、それは自分の力ではなく、阿弥陀仏のお力ですから、阿弥陀如来の本願に救われれば、まったく同じ心になれるのです。
ではどうすればいいのかというと、次に「唯この高僧の説を信ずべし」といわれています。その道はただ一つしかないので、「唯」といわれています。 「この高僧の説」とは、親鸞聖人が『正信偈』にここまで書いてこられた、インド、中国、日本の7人の仏教の先生方のお名前をあげて、一貫して説かれている、いつの時代、どこの国でも変わらない、時空を超えた真実の教えを明らかにされています。
その真実の仏教を信じて進みなさいよ、一日も早く絶対の幸福になりなさいよ、と言われているのです。それが親鸞聖人が『正信偈』を書かれた目的なのです。  
 

 

正信偈・意訳
帰命無量寿如来   かぎりなき「いのち」の如来に帰依(きえ)し
南無不可思議光   かぎりなき「ひかり」の如来に南無したてまつります
法蔵菩薩因位時   (阿弥陀如来が)法蔵菩薩と名のられていたとき
在世自在王仏所   師の世自在王仏(せじざいおうぶつ)のみもと(所)にあらわれて
覩見諸仏浄土因   諸仏の浄土の建立のいわれや、そこにどうしたら往生できるか、
国土人天之善悪   また、その国土のありさまと、そこに往生している人々の善悪を観察され
建立無上殊勝願   このうえもないすぐれた願(十八願)をおたてになり
超発希有大弘誓   いまだかつてなかったすぐれて大きい誓いをおたてになり
五劫思惟之摂受   そして五刧(ごこう)という長い時間、思惟(しゆい)を重ねておさめとり
重誓名声聞十方   かさねて名号(名声)を十方に聞かせて救う、と誓われました
普放無量無辺光   (阿弥陀如来の)あまねく放たれる「量りない光」「辺(はし)なき光」
無碍無対光炎王   「何ものにも碍げられない光」「対(ならび)なき光」「もっともさかんな光」
清浄歓喜智慧光   「清浄(しょうじょう)な光」「歓喜(かんぎ)の光」「智慧(ちえ)の光」
不断難思無称光   「断えることのない光」「思いはかり難い光」「称(とな)えつくせぬ光」
超日月光照塵刹   「太陽や月を超えた光」を放ち、数え切れない世界を照らし
一切群生蒙光照   すべてのいのちあるものが、この光明(こうみょう)に照らされている
本願名号正定業   本願の名号は、正しく浄土往生が決定する業因(ごういん)ですから
至心信楽願為因   お名号をいただく信心(しんじん)によって、私は救われるのです
成等覚証大涅槃   この世で仏になるべき身に定まり、お浄土で覚(さと)りをひらくのは
必至滅度願成就   かならず成仏(じょうぶつ)させるという、仏の願いが完成したからです
如来所以興出世   釈迦如来(しゃかにょらい)が、この世にお出ましになったのは
唯説弥陀本願海   ただ阿弥陀如来の本願(第十八願)をお説きになるためで
五濁悪時群生海   五濁悪時(ごじょくあくじ)の世にある一切の人々は
応信如来如実言   釈迦如来(しゃかにょらい)の真実のお言葉を信じるべきである
能発一念喜愛心   ふたごころなく(一念)本願を信じよろこぶ(喜愛心)なら
不断煩悩得涅槃   煩悩(ぼんのう)を断たないままで、涅槃(ねはん)を得ることができる
凡聖逆謗斉回入   凡夫(ぼんぷ)も聖者も極悪の人も、自力心を捨てて信心の道に入れば
如衆水入海一味   川の水が海に入って一味(いちみ)になるがごとく、平等に救われる
摂取心光常照護   阿弥陀如来の摂取の光明は、常に私を照らし護(まも)って下さる
已能雖破無明闇   仏さまを疑わなくなり(無明闇を破す)救われた身になっても
貪愛瞋憎之雲霧   むさぼり(貧愛:とんない)や瞋(いか)り憎しみの心は、雲や霧のように
常覆真実信心天   常に如来からたまわる真実の信心の上におおいかぶさっている
譬如日光覆雲霧   たとえば、日光は雲や霧に覆(おお)われていたとしても
雲霧之下明無闇   雲や霧の下は明るくて闇がないが如(ごと)し :救われるということ
獲信見敬大慶喜   信心をいただいて仏さまを敬い、大いに喜ぶ(慶喜:きょうき)なら
即横超截五悪趣   五悪趣といわれる迷いの世界を即座に飛び越え
一切善悪凡夫人   世間で善人だ、悪人だといわれる一切の人々は
聞信如来弘誓願   阿弥陀如来の本願(弘誓願:ぐぜいがん=第十八願)を聞いて信ずれば
仏言広大勝解者   お釈迦様は、広大な智慧を得た者(広大勝解者)とほめたたえ
是人名分陀利華   この念仏の信心の人を泥沼に美しく咲く白蓮華だとたたえられる
弥陀仏本願念仏   阿弥陀仏の本願による念仏の法(教え)は
邪見僑慢悪衆生   誤ったよこしまな考えをもち、おごりたかぶる人々には
信楽受持甚以難   信じること(信楽受持:しんぎょうじゅじ)は、はなはだむずかしい
難中之難無過斯   難の中の難で、これ以上に過ぎるむずかしいことはない
印度西天之論家   インドに出られた論家(龍樹・天親菩薩:りゅうじゅ・てんじんぼさつ)がた
中夏日域之高僧   中国、日本の高層(曇鸞・道綽・善導・源信・源空)がたは
顕大聖興世正意   お釈迦様(大聖)がこの世に出られた本意(正意)をあらわし
明如来本誓応機   阿弥陀如来の本願(本誓)は末世の私のためのものだと明らかにされた
釈迦如来楞伽山   お釈迦さまは、インドの楞伽山(りょうがせん)において
為衆告命南天竺   多くの人々のために告げられた。それは南インド(南天竺:なんてんじく)に
龍樹大士出於世   龍樹菩薩(大士:だいじ)というおかたが世にでられて
悉能摧破有無見   「有無の見」をことごとくうちやぶり(摧破:ざいは)
宣説大乗無上法   大乗のこのうえもない教え(法)を説きのべ(宣説:せんぜつ)
証歓喜地生安楽   歓喜地(かんぎじ)をさとり安楽(浄土)に往生するだろう、と
顕示難行陸路苦   難行の陸路をすすむのは苦しいとあらわされた龍樹菩薩は
信楽易行水道楽   易行の船の旅(易行の水道=信心)の楽しきことをすすめられ
憶念弥陀仏本願   阿弥陀仏の本願(第十八願)を信(憶念:おくねん)ずれば
自然即時入必定   信心をいただくと同時に、必ず仏になることが決定(けつじょう)した位に入る
唯能常称如来号   だから、ただよく常に阿弥陀如来の名号を称えて(常称如来号)
応報大悲弘誓恩   すべての人々を救って下さる大悲(だいひ)の恩を報ぜよと述べられた
天親菩薩造論説   天親菩薩(てんじんぼさつ)は『浄土論』をつくって説かれた
帰命無碍光如来   何ものにもさまたげられることなく救って下さる如来を信じて
依修多羅顕真実   経典(修多羅:しゅたら)に依りて真実をあらわして
光闡横超大誓願   すみやかに仏になる法(横超大誓願=第十八願)を広く説かれた
広由本願力回向   広大な阿弥陀如来の第十八願の力(本願力)のはたらきによって
為度群生彰一心   衆生(群生:ぐんじょう)を救う(度す)ため一心をあきらかにされた
帰入功徳大宝海   大きな功徳の宝海(名号:みょうごう)に帰依投入(帰入=信ずる)すれば
必獲入大会衆数   必ずお浄土の聖衆(大会衆数:だいえしゅしゅ)の仲間に入り
得至蓮華蔵世界   命終(みょうじゅう)とともに阿弥陀如来のお浄土(蓮華蔵世界)に生まれて
即証真如法性身   お浄土でただちに阿弥陀如来とおなじ仏(真如法性身)となり
遊煩悩林現神通   煩悩のさかんな世界に遊んで不思議な力(神通力)をあらわし
入生死園示応化   迷いの世界(生死薗)にかえって衆生を救うことができると示された
本師曇鸞梁天子   本宗の祖師・曇鸞(どんらん)大師は、中国・梁の国王が尊敬し、国王は
常向鸞処菩薩礼   常に大師のおられた北の方向に向かい「曇鸞菩薩」と礼拝(らいはい)された
三蔵流支授浄教   菩提流支(インドの仏教学僧)から浄土教の経典を授けられ
焚焼仙経帰楽邦   仙人の経を焼き捨て(焚焼)、阿弥陀仏の浄土の教えに帰入された
天親菩薩論註解   天親菩薩の「浄土論」を註解(ちゅうげ)して解説書『往生論註』を書かれて
報土因果顕誓願   お浄土に生まれる因(いん)も果(か)も如来の誓願によると示された
往還回向由他力   お浄土に往生するのも、迷いの世界で人々を救うのも他力による
正定之因唯信心   お浄土に往生し、仏となるべき身に定まるのは信心ひとつである
惑染凡夫信心発   まどいで汚染(おせん)された人々(凡夫)は、本願を信じさえすれば
証知生死即涅槃   生死の迷いのままが涅槃(覚り:さとり)であるという、仏果をうる身になり
必至無量光明土   かならず、はかりない光明のお浄土に往生して仏(ぶつ)となり
諸有衆生皆普化   迷える人々を、みんなすみずみまで救うといわれた
道綽決聖道難証   道綽禅師は聖者の自力修行の教えでは証(さと)りがたいと決められて
唯明浄土可通入   ただ往生浄土の教えこそが仏さまの覚りを得る道であると明らかにされた
万善自力貶勤修   そして多くの善根(万善:まんぜん)を積む自力の修行をしりぞけられて
円満徳号勧専称   功徳を円満にもっている名号(円満功徳)を称えることを勧められた
三不三信誨慇懃   「三不信と三信」の教え(誨:おしえ)を、ねんごろに示し(慇懃:おんごん)
像末法滅同悲引   正法・像法・末法・法滅のどの時代でも平等に救う法を明らかにされ
一生造悪値弘誓   一生涯、悪をつくりつづけても本願(弘誓:ぐぜい)を信じれば
至安養界証妙果   阿弥陀如来のお浄土(安養界)に往生して、仏の覚りを開くといわれた
善導独明仏正意   善導大師は、ただひとり誤りを正し、仏の正意を明らかにされた
矜哀定散与逆悪   自力の善行の人も、極悪の人も共にこれをあわれみ(矜哀:こうあい)
光明名号顕因縁   如来の光明と名号が救いの手だてであることを明らかにされた
開入本願大智海   広大な阿弥陀如来の本願の智慧の海に入らせてもらうと
行者正受金剛心   行者は正しく金剛(こんごう)のごとく堅固(けんご)な信心を得て
慶喜一念相応後   お念仏をよろこぶ心(慶喜一念=信)がおこったとき
与韋提等獲三忍   韋提希夫人(いだいけぶじん)と等しく三忍(さんにん)の徳を得て
即証法性之常楽   浄土に生まれ、法性の常楽のさとり(法性之常楽)をひらくと述べられた
源信広開一代教   源信(げんしん)和尚は、ひろく釈尊一代の教え(一代教)を学ばれて
偏帰安養勧一切   ひとえに阿弥陀如来のお浄土を願い、一切の人々に勧められた
専雑執心判浅深   専修念仏の信心は深く、雑業雑修の信心は浅いとわけ
報化二土正弁立   おもむく浄土は真実の報土と、そうでない化土(けど)があるとされた
極重悪人唯称仏   極重(ごくじゅう)の悪人は、ただただ念仏をしなさい
我亦在彼摂取中   私(源信和尚)もまた、阿弥陀如来の光明に摂(おさ)め取られているが
煩悩障眼雖不見   煩悩に眼(まなこ)がさえぎられて、その光明をみることができない
大悲無倦常照我   しかし如来の大悲は常に私を照らして下さっていると述べられた
本師源空明仏教   本宗(真宗)の祖師である源空(げんくう)上人は仏教をきわめつくして
憐愍善悪凡夫人   すべての人(善悪の凡夫)をあわれみて(憐愍:れんみん)
真宗教証興片州   真実の宗教たる真宗を、日本の国におこし(興片州:こうへんしゅう)
選択本願弘悪世   選択本願(第十八願)を、悪世のこの世にひろめられた
還来生死輪転家   生死輪転(しょうじりんてん)の迷いの世界からぬけられず、とどまっているのは
決以疑情為所止   本願の教えをうたがい(疑情:ぎじょう)、信受(しんじゅ)しないからであり
速入寂静無為楽   すみやかにさとりの世界(寂静無為の楽=都)に入るには
必以信心為能入   ただ信心(しんじん)ひとつによると述べられた
弘経大士宗師等   『無量寿経』の教えをひろめて下さった真宗の祖師がたは
拯済無辺極濁悪   すべての極濁(ごくじょく)の悪人を、かずかぎりなくお救い下さる
道俗時衆共同心   出家者(道:どう)も在家者(俗:ぞく)も、一切の人々は共に同心に
唯可信斯高僧説   ただよくこの高僧がたの説かれたことを信じなさい  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
正信偈の教え

 

 
 

 

■偈前の文
私たちは日ごろ、真宗の『勤行集』によって「正信偈」に接していますが、それはもともと、親鸞聖人が著された『教行信証』に収められているものです。『教行信証』というのは、親鸞聖人の代表的なご著作です。聖人は、このご著作によって、浄土の教えが「真実」であることを顕らかにされたのです。その意味で、真宗の教えの根本となる聖教しょうぎょうであるわけです。『教行信証』は六巻からなる大著ですが、その第二番目、「行ぎょうの巻」の末尾に「正信偈」が添えられているのです。正信偈」は、詳しくは「正信念仏偈」といいますが、それは、「念仏の教えを正しく信ずるための道理を述べた歌」というほどの意味です。漢文で書かれた詩で、七文字を一句とし、百二十句、六十行からなっています。親鸞聖人は、『教行信証』に「正信偈」を掲げられるに先だって、まず「正信偈」をお作りになった、そのお気持ちを、
「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、」 ・・・と述べておられます。
「大聖の真言に帰し」とあるのは、釈尊が説かれた真のお言葉を依り処とする、ということです。釈尊は、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』というお経をお説きになりました。そしてこのお経のなかで、阿弥陀如来がすべての人を救いたいと願われた、いわゆる弥陀の本願のことを教えられたのです。それが大聖の真言、つまり釈尊の真のお言葉ということなのです。親鸞聖人は、「正信偈」を作るにあたって、この『大無量寿経』の教えを依り処とされたというわけです。次の「大祖の解釈に閲して」というのは、インド・中国・日本の三国に出られた七人の高僧が、『大無量寿経』の教えを正しく受けとめられた、そのご解釈を手がかりにする、ということです。親鸞聖人は、『大無量寿経』についてのご自分の見解を主張しようとされたのではなく、三国の七高僧のご教示を仰がれたのです。親鸞聖人は、ご自身を見つめるのに大変厳しい眼をおもちでありました。ご自身を、愚かで罪深い凡夫であると見極めておられたのです。実は、そのような凡夫を何としても助けたいというのが、『大無量寿経』に説き示されている阿弥陀如来の本願なのです。親鸞聖人は、このような『大無量寿経』の教えを依り処とし、また、このお経の教えについての大先輩がたのご解釈によって、釈迦しゃか牟尼むに仏ぶつ(釈尊)と阿弥陀仏の恩徳おんどくがまことに深いことを信じさせていただき、知らせてもらったことを喜んでおられるのです。そのことを「仏恩の深遠なるを信知して」といっておられるのです。そして、自ら信ずるとともに、人にも教えて仏の恩の深いことを信じさせるために、「正信偈」をお作りになったのです。「正信偈」は、全体を大きく二つの部分に分けて見られています。その一つは、「依経分えきょうぶん」といわれていますが、これが、先ほどの「大聖の真言」にあたる部分です。すなわち、仏の大悲が説かれている『大無量寿経』の要となる教えについて讃嘆さんだんしてある部分です。いま一つは「依釈分えしゃくぶん」といわれますが、これは「大祖の解釈」にあたるところで、七高僧お一人お一人の教えを紹介し、それぞれの高僧の徳を讃えてある部分です。私たちが、日々のお勤めのときに「正信偈」をあげ、またこうして「正信偈」の「こころ」に触れようとするのは、愚かで、なさけない生き方しかできていない者が、親鸞聖人のお勧めの通りに、「大聖の真言」と「大祖の解釈」を讃嘆し、その恩徳に感謝することになるのです。 
■生きる依り処
「帰命無量寿如来きみょうむりょうじゅにょらい」。この句から「正信偈」は始まります。
この句と、次の「南無不可思議光なむふかしぎこう」の二句は、「帰敬ききょう」といわれているところです。阿弥陀如来に順い、阿弥陀如来を敬うという、親鸞聖人のお心が述べられている部分です。聖人は、「正信偈」を作って、仏の恩徳おんどくを讃嘆さんだんし、仏の教えを承け伝えられた七高僧の恩徳を讃えようとされるのですが、それに先だって、阿弥陀如来へのご自身の信仰を表明されているわけです。「帰命」という言葉と、次の句の「南無」とは同じ意味です。「帰命」は、「ナマス」というインドの言葉を中国の言葉に訳したものです。ご承知の通り、仏教はインドに起こりましたので、お経はすべて、インドのサンスクリット語(梵語ぼんごともいいます)という言葉によって中国に伝えられました。そしてこれが中国語に翻訳されたのですが、あるときは「ナマス」の意味を中国の言葉に置き換えて「帰命」と訳し、またあるときは、意味を訳さないで、インドの言葉の発音を漢字に写し換えて、「南無」という字を当てはめたのです。どちらも、「依り処として、敬い信じて順います」というほどの気持ちを表わしているのです。ここでは、一つの信順の思いを二つの言葉に分けて表現してあるわけです。また、「無量寿如来」も「不可思議光」も、どちらも阿弥陀仏のことです。「如来」の「如」は「真実」という意味です。「真実」を覚られたのが仏ですが、仏は覚りに留まることなく、「真実」に気づかない「迷い」の状態にある私たちに、「真実」を知らせようと、はたらきかけて来てくださっているのです。その「はたらき」を「如」(真実)から「来」てくださった方というのです。言い方を換えると、姿や形のない「真実」は、いつでも、どこでも、はたらいていますが、私たちの日常の生活を包んでいる、その「はたらき」を、理屈にたよろうとする私たちにもわかるように「如来」という言い方で表わしてあるのです。
「無量寿」とは、量のない寿命ということです。つまり、数量と関係のない寿命、始めもなく、終わりもない寿命です。『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』というお経には、阿弥陀仏がまだ仏に成られる前のことが説かれています。そのときは、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられたのですが、この菩薩は、仏に成る前に四十八の願いを起こされました。そしてその願いがすべて実現したので、阿弥陀仏に成られたと説かれているのです。その四十八願の第十三の願は「寿命無量の願」といわれるもので、「私が仏に成るとしても、寿命に限量があるならば、私は仏には成らない」という誓願せいがんであったのです。その誓願が成し遂げられて仏に成られた阿弥陀仏の寿命は無量なのです。過去と現在と未来にわたって、いつも悩み苦しむ人びとがいます。それらの人びとをすべて救いたいと願われる阿弥陀仏は、寿命が無量なのです。そのように時間を越えてはたらく阿弥陀仏の限りない慈悲が、いま私たちにはたらいていると教えられているわけです。「不可思議光」の「光」は、阿弥陀仏の智慧ちえのかがやき、何ものをも照らし出す智慧の「はたらき」をいいます。「思議」とは、心に思ったり、言葉で話したりすることですが、それが「不可」(できない)とされているのです。私たちがどのように思考を尽くそうとも、また言葉をどのように尽くそうとも、それによっては捉え切れない、それらを越えた智慧のはたらきが「不可思議光」といわれているわけです。『大無量寿経』の四十八願の第十二願が「光明こうみょう無量の願」といわれていますが、「私が仏に成るとしても、光明に限量があって、あらゆる世界を照らし出さないのであれば、私は仏には成らない」と誓われたのです。その誓いが実現したわけですが、それは、阿弥陀仏の智慧の「はたらき」が、空間の限度を越えたものであることを表わしているのです。 
■いただいている名号
「帰命」と「南無」とは同じ意味で、ともに「敬い信じて順う」ということでありました。前回申し述べた通りです。また「無量寿如来」と「不可思議光」とは、いずれも「阿弥陀仏」のことであって、「無量寿如来」は阿弥陀仏の「慈悲」を、「不可思議光」は阿弥陀仏の「智慧ちえ」を、それぞれ表わしているということも申し述べました。そうしますと、「帰命無量寿如来きみょうむりょうじゅにょらい」(無量寿如来に帰命し)ということ、そして「南無不可思議なむふかしぎ光こう」(不可思議光に南無したてまつる)ということは、結局、「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に南無したてまつる)ということと同じことになるわけです。「阿弥陀仏を敬い信じて、その教えに順います」という念仏の心が、三つの言い方で表わされていることになります。ところが、ここに一つ、大切なことがあります。「念仏」という場合、それは阿弥陀仏のお名前、つまり名号を称えることなのですが、その名号は、実は「阿弥陀仏」だけをいうのではないのです。「南無」を含めて、「南無阿弥陀仏」の全体が名号であると親鸞聖人は教えておられるのです。「南無阿弥陀仏」という名号を称えることが、称名の念仏となるのです。同様に、「無量寿如来」「不可思議光」だけを名号というのではなくて、「帰命無量寿如来」また「南無不可思議光」の全体が私たちに与えられている阿弥陀仏のお名前であるというわけです。
阿弥陀仏に帰命するといいますが、それは、自分が自分の思いで帰命するかどうかを決めるのではないのです。私どもの思いは決して純粋ではありません。清らかではないのです。常に「自分の都合」がつきまといます。「自分の都合」による念仏は、自分のことを念じているだけであって、仏を念じたことにはならないのです。自我にこだわり続け、その結果として、悩み苦しむことになるのが、私たちの現実です。そのような、まともな念仏のできない者に代わって、阿弥陀仏の方が念仏してくださって、その清らかな念仏を、信心というかたちで、私たちに回向えこうされているのです。「回向」とは、「振り向ける」という意味です。阿弥陀仏の慈悲が原因となり、その原因によって起こるよい結果だけが、私たちに振り向けられていることになるのです。そのような慈悲の「はたらき」に素直に感謝し、「南無阿弥陀仏」「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」という名号を、私たちに差し向けられた信心として受けとめるというのが、親鸞聖人の念仏の教えなのです。よく「念仏をいただく」といわれますが、それは、この教えによるのです。この教えによりますと、「帰命無量寿如来」という名号は、量り知れない私の「いのち」の源が、私自身の在り方を呼び覚まそうとしている、その「よびかけ」であることに気づかされるのです。また「南無不可思議光」という、思慮を越えた「智慧」の「はたらき」が、私の人生の道理を明らかにし、現に道理に包まれて生きている私自身を照らし出していることを思い知らせているのです。それらのことに気づかされ、思い知らされるとき、称える念仏は、苦悩する私を救おうとする「よびかけ」と「はたらき」に対する感謝の念仏となるのです。
「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」が名号であると教えられていますが、そうすると、親鸞聖人が、「正信偈」の冒頭に、「無量寿如来に帰命し」「不可思議光に南無したてまつる」と述べておられるのは、一見、奇異に見えます。しかしそれは、凡夫の代わりに念仏してくださる阿弥陀仏、そして「南無阿弥陀仏」という名号を差し向けてくださっている阿弥陀仏、すなわち無量寿如来・不可思議光を、心から敬い信じて、その慈悲に順うお気持ちを率直に表わしておられるのであると、私どもには拝察されるのです。 
■法蔵菩薩
この二句からあと、しばらく、阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵という名の菩薩であられたときのことが述べられます。少しわずらわしいですが、はじめに「正信偈」の段落についてふれておこうと思います。「法蔵菩薩因位時ほうぞうぼさついんにじ」からの四十二句は、親鸞聖人が、お経にもとづいて阿弥陀如来の本願のことを讃えておられる部分で、「依経段えきょうだん」といわれています。そして、四十三句目の「印度西天之論家いんどさいてんしろんげ」からあとは、インド・中国・日本に出られた七人の高僧、お一人お一人がお示しになった本願についてのご解釈の要点を掲げて讃嘆しておられる部分で、「依釈段えしゃくだん」といわれているところです。
はじめの「依経段」のうち、「法蔵菩薩因位時」から「必至滅度願成就ひっしめつどがんじょうじゅ」までの十八句は「弥陀章」と呼ばれ、ここに阿弥陀如来の誓いと願いのことが述べられているのです。そして、次の「如来所以興出世にょらいしょいこうしゅっせ」から三十八句目の「是人名分陀利華ぜにんみょうふんだりけ」までを「釈迦章」といい、釈尊がこの世間に出られた意味が明らかにされているのです。そのあとの「弥陀みだ仏ぶつ本願念仏ほんがんねんぶつ」から四十二句目の「難中なんちゅう之難しなん無過斯むかし」までの四句は、「依経段」の結びとなる「結誡けっかい」といわれている部分です。
今回からしばらく、「依経段」の「弥陀章」について学ぶことになるわけです。さて、「法蔵菩薩」についてですが、「菩薩」というのは、人びとを導き、救うために仏になろうとしておられる人のことです。つまり、仏になられる前の段階をいいます。世間の無数の人びとは、真実に気づかず、自我にこだわっています。そのために、迷いを重ね、誤った生き方をしながら、それが正しいと思い込んでいます。その結果、人びとは悩み苦しまなければならないのです。菩薩は、みずから早く覚りを得て仏になって、そのように悩み苦しまなければならない、すべての人びとを救いたいと願われるのです。
菩薩がこのような広大な願いをもって、仏になるための修行をしておられる段階を「因位いんに」といいます。そして、「因位」のときの菩薩の行ぎょうが完成し、願いがかなえられて仏になられた、その仏としての地位を「果位かい」というのです。もともと、「菩薩」というのは、仏になられるまでの釈尊のことだったのです。釈尊の教導を受けた人びとは、釈尊がたまたま仏になられて、自分たちを導いてくださったのだとは、受けとめませんでした。そうではなくて、まず自分たちを導いてやりたいという願いを懐いだいてくださって、その願いを実現させるために、途方もない辛苦の末に、仏になってくださったのだと受けとめたのです。そして、その恩徳に感謝の誠を尽くしたのです。やがて、そのような、人類を救いたいという願いが、仏教の根本精神として確かめられ、「菩薩」の思想は大きく発展して、釈尊お一人に限ることはなくなったのです。
『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』によりますと、遠い遠い昔、阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵という名の菩薩であられたとき、ひたすら、人びとを救いたいという願いから、「世自在王仏せじざいおうぶつ」という名の仏に仕えて教えをお受けになられた、と説かれています。法蔵菩薩も、たまたま阿弥陀仏になられたのではなくて、過去と現在と未来の人びとを救いたいと願われ、菩薩としての行を尽くして、阿弥陀仏になってくださったというわけです。
『歎異抄たんにしょう』に、「弥陀の五劫思惟ごこうしゆいの願がんをよくよく案あんずれば、ひとえに親鸞一人しんらんいちにんがためなりけり」という親鸞聖人のお言葉が伝えられています。「阿弥陀仏が菩薩であられたとき、五劫という途方もなく永い時間をかけて考え抜いた末、おこしてくださった本願のことを、つらつら考えてみると、それは実は、私(親鸞)一人をたすけようとしてくださった願いとしか思えない」と、聖人はしみじみと述べておられるのです。なお、「法蔵」は、仏法を蔵めているという意味、「世自在王」とは、智慧ちえと慈悲をそなえた王のように世間を自由自在に救うという意味です。また、偈文げもんの「在ざい」を親鸞聖人は「在ましまして」と読んでおられるのです。 
■法蔵菩薩の願い
『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』には、釈尊が、阿難あなんという仏弟子に語って聞かせるというかたちで、法蔵菩薩のことが詳しく紹介されています。そして広く人類を救いたいという願いを発おこされた菩薩の徳が讃えられるのです。そのあらましは、次の通りです。
ある日、阿難尊者そんじゃがお見受けしたところ、釈尊は、いつになく、すがすがしいご様子で、歓びにあふれて、輝いておられるように思われたのです。そこで、阿難尊者は、そのわけをお尋ねしたのです。すると釈尊はお告げになりました。「きみは、とてもよいことを尋ねた。私がこの世に出現したのは、教えを説いて人びとを救い、真実の利益りやくを与えるためなのだ。私が歓びにあふれているのは、人びとに真実の利益を明らかにする時がきたからなのだ」と。そして、法蔵菩薩のことをお説きになられたのです。遠い遠い昔の、そのまた遠い遠い昔、世自在王仏せじざいおうぶつという仏がおられました。その時、一人の国王がおられました。王は、その仏の教えをお聞きして、心からの喜びを懐いだかれたのです。そして、自分も仏になって、世の人びとを悩みや苦しみから救いたいと願うようになられたのです。王は、国を棄て、王位を捨て、世自在王仏のもとで出家して修行者となり、法蔵と名告なのられました。これが法蔵菩薩です。
法蔵菩薩は、諸仏の浄土がどのようにしてできたのか、それを教えていただきたいと、世自在王仏に願い出られました。そして、自分も、教えの通りに修行して浄土を建立こんりゅうしたいという決意を述べられたのです。世自在王仏は、菩薩の熱心な願いに応じて、二百十億という、ありとあらゆる仏の浄土の成り立ちと、それらの浄土にいる人びとのありさまをつぶさにお示しになったのです。法蔵菩薩は、それらの浄土のありさまを拝見された後、五劫ごこうという途方もなく永い期間にわたって思惟を重ねられ、この上にない優れた願いを発されたのです。すなわち、仏になって理想の浄土を実現するための願いを発されたのです。それが四十八項目からなる本願なのです。
この本願の第十八の願では、自分が仏に成るとしても、自分が実現する浄土に、一切の人びとが心から生まれたいと願って、もし人びとが往生できないのであれば、自分は仏には成らないと誓われたのです。さらに、『大無量寿経』には、次のようなことも説かれています。阿難尊者は、釈尊にお尋ねするのです。「法蔵菩薩は、すでに仏に成っておられるのでしょうか、それとも、まだ仏に成っておられないのでしょうか」と。すると、釈尊はお答えになりました。「もうすでに仏に成っておられる。いま現に、西方の、ここから十万億の世界を越えた安楽浄土におられるのだ」と。つまり、法蔵菩薩の四十八願はすべて成就されて、阿弥陀仏に成られたということです。ついで、阿難尊者が「法蔵菩薩が阿弥陀仏になられてから、もうどれほどの時が過ぎたのでしょうか」とお尋ねすると、釈尊は、「おおよそ十劫の時が経過しているのだ」と、教えられたのです。
このお話のなかに、「五劫」「十劫」という言葉がありましたが、「劫」は、時間の長さです。これには諸説が伝えられていますが、有名なのは次のような話です。横幅四十里、高さも四十里、奥行も四十里という大きな岩石があったとして(もちろん富士山よりも大きい)、その岩のそばを羽衣を身にまとった天女が百年(あるいは千年)に一度通りかかるのです。すると羽衣の袖がサッと岩にふれるのです。これを何度も何度も繰り返すと、岩が磨り減ります。この岩石が完全に摩滅してしまうのに要する時間よりも、さらに長い時間を一劫というのです。十劫はその十倍です。このような、とてつもなく長い時間のことが言われるのは、数量ではとらえきれない質の深さを表わそうとするからです。仏の慈悲の深さが、始まりと終わりを考える必要のないものであることを教えようとしていると思われるのです。 
 

 

■諸仏の浄土
正信偈」のこの句には、法蔵ほうぞう菩薩が、諸仏の浄土の成り立ち、そして、それぞれの浄土のありさまの違い、さらに、それらの浄土に生きる人びとの善し悪しの差をはっきりと見み究きわめられた、ということが詠われています。
『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』によりますと、法蔵菩薩は世自在王仏せじざいおうぶつの教化きょうけに出遇われて、自らも仏に成ってすべての人びとを救いたいという大きな願いを発されたのでした。もと、一人の国王であった法蔵菩薩が、かけがえのない大切な出遇いを経験されたのです。真実に出遇われたのです。このことは、真実の教えとの出遇い、真実の教えを知らせてくださる人との出遇いの大切さを私たちに教えていると思われるのです。
法蔵菩薩は教えを請い求められました。「十方におられる仏さまがたは、それぞれどのようにして浄土を実現なさったのでしょうか。そのことをお教えください。わたくしはそれを承って、み教えの通りに修行いたします。そして、わたくしも浄土を実現して、悩み苦しむ人びとを救いたいと存じます」、と。世自在王仏は、法蔵菩薩のこの深い願いをお聞き入れになりました。そして、二百十億の諸仏の浄土のありさまと、それらの浄土に生きる人びとの様子をお示しになったのです。浄土というのは、雑まじりもののない清浄しょうじょうな国土ということで、仏によって浄められた世界です。私たちが常にこだわっているような、自分中心という愚かで穢れた思いが一切はたらかない世界なのです。
ところで、ここに「諸仏」という言葉が用いられています。「真実」に目覚めて仏に成られたお方といえば、私たちが人類の歴史の上で知っているのは、いまから二千五百年ほど前にインドに出られた釈尊お一人です。そのようにだけ考えることを「一仏」の思想といいます。しかし、釈尊がお覚りになられた「真実」は、釈尊お一人のものではないのです。私たちにはわからないだけで、釈尊の他にも「真実」を覚られた方がおられるかもしれません。おられると考えたとしても、それは決して間違いとは言えないのです。「真実」という以上、それは、時間と空間を越えて、いつでも、どこでも、「真実」であるはずだからです。「真実」は、いつでも、どこにでも、行きわたっているはずです。むしろ「真実」が、たまたま釈尊というお姿をとってこの世界に現われ、はたらき出したと考えることもできるのです。そうすると、過去と現在と未来の三世さんぜにわたって、また十方(あらゆる方角)に恒河沙ごうがしゃ(ガンジス河にある砂粒の数)ほどの多くの仏がおられるということにもなるのです。このように見ることを「多仏」の思想といいますが、これは「大乗」といわれる仏教の見方です。
私たちは、『大無量寿経』に説かれている釈尊の教えを通して、世自在王仏や阿弥陀仏のことを知らせていただいているわけです。そして、そのお経のなかに、世自在王仏が、阿弥陀仏に成られる前の法蔵菩薩に対して、無数におられる仏のうち、二百十億の仏の浄土の成り立ちと、それらの浄土のありさまとをお示しになったと説かれているのです。法蔵菩薩は、世自在王仏がお示しになった多くの仏の浄土と、それらの浄土に生きる人びとのことについて、みなことごとく覩見されました。すなわち、それらをはっきりと見究められたのでした。そしてその上で、法蔵菩薩は、他の仏の浄土とは違った浄土を実現したいという、この上にない、殊ことのほか勝すぐれた願いを発されたのです。殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知でありながら、教えに背を向けている凡ぼん夫ぶ、いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を実現したいという願いであったのです。法蔵菩薩は早く仏に成ろうとしておられましたが、もし、その願いを成就させることができないのであれば、むしろ自分は仏には成らないとまで誓われたのです。 
■この上にない勝れた願い
この句には、法蔵ほうぞう菩薩が殊ことのほか勝れた願いを発おこされたことが述べられています。その願いは、実は、私たちにとってとても大切な願いなのです。
『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』によりますと、世自在王せじざいおうという名の仏が法蔵菩薩の願いを聞きいれられ、あらゆる方角におられる多くの仏さまがたの浄土の成り立ちをお示しになったと説かれています。菩薩は、示されたそれらの浄土の様子、そしてそれぞれの浄土の人びとのありさまをくまなく見届けられたのです。それについては、前回申し述べた通りです。諸仏の浄土を見届けた上で、法蔵菩薩は、無上殊勝の願、つまり、この上にない、殊のほか勝れた願いを立てられました。それは、他の諸仏が浄土を建設しようとされたときのお気持ちとは違った、法蔵菩薩だけの志願であったのです。浄土に往生できていないすべての人びとを救いたいという願いでありました。『大無量寿経』に「無上殊勝の願を超発せり」と説かれているところを、親鸞聖人は、「無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」と詳しく言い換えておられます。希有というのは、希に有るということ、つまり希にしかないこと、という意味です。法蔵菩薩は、他に例のない大きく広い誓いを発されたということです。ここで誓いといわれているのは、「無上殊勝の願」を願いのままで終わらせることなく、その願いを必ず実現させることを誓われたということなのです。しかも、超発といわれているのは、他の仏より超えて勝れた誓願せいがんを発されたということです。この誓願が、実は『大無量寿経』に明らかにされている四十八願なのです。
四十八からなる法蔵菩薩の願いのなかで、もっとも注目されてきたのが、第十八の願です。その願文がんもんは、「たとい我われ、仏を得んに、十方じっぽう衆生しゅじょう、心を至いたし信楽しんぎょうして我が国に生まれんと欲おもうて、乃至ないし十念じゅうねんせん。もし生まれずは、正覚しょうがくを取らじ。唯ただ五逆ごぎゃくと正法しょうぼうを誹謗ひほうせんをば除のぞく」というものです。これは「至心ししん信楽しんぎょうの願」、もしくは「念仏往生の願」といわれている本願です。法蔵菩薩は、世自在王仏の前みまえで願いを発され、そして誓いを述べられました。「たとえ私が仏に成ることができるとしましても、十方のあらゆる人びとが、心を尽くして、私の浄土に生まれることを信じて楽ねがい、念仏したとしまして、もしもその人びとが浄土に生まれることができないのであれば、私はむしろ仏の覚りを得ることはないでありましょう。ただ、五つの重い逆罪を犯す者と正しい教えを謗そしる者だけは別です」、と。心から念仏して浄土に往生することを楽う人ならば、誰でも往生させてあげたいというのが法蔵菩薩の願いなのです。
ここに、「唯…をば除く(唯除ゆいじょ)」とあります。法蔵菩薩が誰でも往生させたいと願いながら、そこから排除される者があるように見えて、奇異に感じられます。しかし、この文は「抑止おくしの文もん」といわれていますように、「唯除」というのは、往生から排除することが目的なのではなくて、このような罪を犯さないようにと、あらかじめ、いましめられている慈悲に満ちた教えなのです。なお、五つの重い逆罪とは、一般には、父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢あらかん(聖者)を殺すこと、仏のお身体を傷つけ血を流させること、サンガ(教団)の調和を破って分裂させることとされています。
これらの重罪を犯した人としてよく知られているのは、マガダ国の阿闍世あじゃせ王と、提婆達多だいばだったという仏弟子です。阿闍世王は、父の王の頻婆びんば娑羅しゃら王を死にいたらしめて王位を奪いました。そして頻婆娑羅王を助けようとした母の韋提希いだいけ夫人ぶにんをもう少しで殺すところでした。また、仏弟子でありながら釈尊に反逆した提婆達多は、釈尊を害そうとして傷を負わせ、それをたしなめた阿羅漢である比丘尼びくにを殺害し、仲間を引き連れてサンガから去って行ったと伝えられています。なお、この二人の救いは別のお経に説かれます  
■深い思い
『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』によりますと、阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵ほうぞうという菩薩であられたとき、世自在王せじざいおうという仏のもとで教えを受けておられましたが、教えを受けるなかで、菩薩は、“浄土を建設して、悩み苦しむ人びとをすべて救いたい”と願うようになられたのでした。そのために、他の仏の浄土の成り立ちを教えていただきたいと、世自在王仏に懇願されたのです。世自在王仏は法蔵菩薩の願を聞き入れて、多くの仏の浄土をお示しになりました。菩薩は、諸仏の浄土とそれらの浄土に生きる人びとのありさまについて、みなことごとく見み究きわめられたのでした。そしてその上で、法蔵菩薩は、他の仏の浄土とは違った浄土を実現したいという、殊ことのほか勝すぐれた願いを発おこされたのです。殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知でありながらそれに気づかず、教えに背を向けているために悩み苦しむ凡ぼん夫ぶ、いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を実現したいという願いであったのです。法蔵菩薩は仏になろうと志しておられましたが、もし、その願いを成就させることができないのであれば、むしろ自分は仏には成らないとまで誓われたのです。凡夫は、ものの道理がわかっていないのです。しかも、ものの道理がわかっていない、そのことも、実はわかっていないのです。それなのに、自分自身にこだわって、自分はわかっていると思い、わかっていると思っていることだけが道理だと思い込んでいます。このような凡夫が浄土に生まれるなどということは、通常はあり得ないことです。浄土というのは、自分にこだわって思い上がるなどという、そのような汚けがれがまったくない世界だからです。
法蔵菩薩は、そのように浄土に往生できるはずのない凡夫を、どのようにすれば自分が建設しようとしている浄土に導き入れることができるのか、それを深く深く思案されたのだと、『大無量寿経』に説かれています。そのことを親鸞聖人は「五劫ごこう思惟しゆい之し」(五劫、これを思惟して)と述べておられるのです。「劫」というのは、気が遠くなるような、途方もなく永い時間です(それについては、すでに簡単に解説を加えたことがあります。「正信偈の教え 第5回」参照)。その一劫の五倍の時間をかけて法蔵菩薩は思案されたわけです。私たちも、時には、真剣に思案することがあります。けれども、どんなに真剣に、誠実に思案したとしても、必ず、自分とか、自分の都合とかいうものが絡んでしまいます。そのような思案とはまるで違った、純粋な思案、どうにもならない凡夫を救うための思案を深く深く重ねられたのです。その思いの深さを「五劫」という時間の永さで言い表わしてあるのです。つまり質の深さを量の多さによって表わしてあると考えることができるのです。それほどの深い思い、大きな願いが、私ども凡夫に差し向けられているわけです。
ここであらためて、親鸞聖人のお言葉が思い起こされます。『歎異抄たんにしょう』によりますと、聖人は、「弥陀の五劫思惟ごこうしゆいの願がんをよくよく案あんずれば、ひとえに親鸞一人しんらんいちにんがためなりけり」と述べておられます。これほど深い願いがご自分に差し向けられていることに感動しておられるのです。「たすかるはずのない凡夫を何とかしてたすけたいというこの願いは、実は、自分に向けられているとしか思えない」と言っておられるのです。ここには、ご自分を救い難い凡夫であると、真っ正直に厳しく見据えておられる聖人の眼差しがうかがわれるのではないでしょうか。そして、その深い自覚から法蔵菩薩の願いに触れたときの喜びを表明しておられるのではないでしょうか。法蔵菩薩は、深い思案のすえ、たすかるはずのない凡夫をたすける手立てはこれしかないと、思い当たられたのです。そして、四十八項目からなる誓願せいがんを選び取られたのです。そのことを「摂受しょうじゅ」(摂おさめ受ける)と説かれているのです。 
■さらなる誓い
法蔵ほうぞう菩薩は、「たすかるはずのない凡ぼん夫ぶを何とかしてたすけたい」という願いを発おこされました。そして、その願いを実現する手立てについて深く深く思案されたのでした。それは五劫という途方もない時間の永さによって表わされる深さの思案だったのです。そのことが「五劫、これを思惟して」と詠われているわけです。このような思案の上で、凡夫を救いたいという願いを四十八項目の誓願せいがんとして選ばれたのでした。それが「摂受」ということでありました。
『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』によりますと、四十八の願いを立てられた法蔵菩薩は、その願いの一つ一つの内容を師の世自せじ在王仏ざいおうぶつに向かって申し述べられたのです。そして、この願いを何としても実現させたいと誓われたのです。さらに菩薩は、この誓いを明確にするために、世自在王仏のみもとで、重ねて偈頌げじゅを説いて誓いを立てられるのです。これが「重誓偈じゅうせいげ」といわれている偈うたです。またこの偈文げもんは、はじめに三つの大切な誓いが述べられていますので、「三誓偈さんせいげ」とも呼ばれています。
その第一の誓いは、「私が発した願いがすべて成就しないのであれば、私は仏に成りません」という誓いでありました。ここには、一切の人びとをたすけたいという本願を必ず実現させようとする、法蔵菩薩の強い決意が表わされています。そして第二の誓いは、「悩み苦しむあらゆる人びとを救えないのであれば、私は仏に成りません」という誓いです。これは、いつでも、どこでも、苦悩のない人はいないので、その人びとの悩み苦しみを取り除いて、ほんとうの安らぎを与えたいという誓いなのです。第三の誓いは、「私の名声みょうしょうをあらゆる処ところに行き渡らせたいが、もし私の名が聞かれないことがあるならば、私は仏に成りません」という誓いです。ここに述べられている「名声」とは、「名号みょうごう」のことです。すなわち「南無阿弥陀仏」のことをいうのです。すべての人びとに「南無阿弥陀仏」を届けたいという誓いなのです。そして、「南無阿弥陀仏」を受け取らせることによって、生きていることを心の底から喜べない私たちに、真の喜びを与えたいと願っておられるのです。親鸞聖人は、この第三の誓いをとくに大切に受けとめられて、この「正信偈」に「重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと」と詠っておられるわけです。それは、この第三の誓いが、四十八願全体の中心となっていると受けとめられたからだと拝察されるのです。
さきほど、「名声」というのは「名号」のことだと申しましたが、「名号」は「お名前」ということですから、「阿弥陀仏」という四文字が名号だと考えてしまいます。しかし、実はそうではなくて、これに「南無」を加えて、「南無阿弥陀仏」の六文字が、私たちに届けられているお名前なのです。「南無」は「信順しんじゅん」(信じて順う)ということですから、「阿弥陀仏を信じて順います」というのが「名号」だということになります。
私たちには、いつも自分へのこだわりが付きまとっています。いつも自分の都合を優先させてしまいます。そのような私たちが信順するといっても、それは自分の都合のための信順ですから、まともな信順にはなりません。純粋な「南無」ではないわけです。いわば取り引きのようなものになってしまいます。そのために、そのような私を憐あわれんで、阿弥陀仏が、この私の都合が含まれていない「南無阿弥陀仏」を用意してくださって、その「南無阿弥陀仏」を、私が聞信する名号として届けてくださっているのです。こうして、親鸞聖人は、『大無量寿経』に説かれている釈尊の教えに基づいて、阿弥陀如来が「南無阿弥陀仏」という名号を私たちに施し与えてくださっていることを教えておられるのです。聖人は、「南無阿弥陀仏」がご自分のところに届けられていることを深く喜ばれ、届けられた「南無阿弥陀仏」を大切に受け取られたお方であると思うのです。 
■如来の光明
ここには、阿弥陀仏の智慧ちえの徳が十二種の光として述べられています。これは、阿弥陀仏、すなわち無量寿仏の別の呼び名として『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』に述べられているものです。阿弥陀仏は、あらゆる方向にこの十二種の光を放って、塵のようにちらばっている無数の世界を照らしておられるというわけです。すなわち、阿弥陀仏の智慧には、人間のあらゆる状況を覆っている無知という闇を破って、すべてを光り輝かせる徳がそなわっているということです。そして、一切の衆生しゅじょうは、この光の輝きを現に蒙こうむっているのです。智慧のはたらきをいま受けていない衆生はいないのです。阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられた時、すべての人びとを例外なく救いたいと願われて、四十八項目からなる誓願せいがんを発おこされたのでした。『大無量寿経』によりますと、法蔵菩薩は、この四十八の願いを実現するために、私どもの思慮の及ばない、はるかな時間をかけて、無量の徳行を積み重ねられたと説かれています。そして、そのような徳行が実を結んで、法蔵菩薩は仏に成られたのです。それが阿弥陀仏なのです。法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られてから、すでに十劫じっこうという途方もなく永い時間が経過していると、『大無量寿経』に説かれています。つまり私は、この私を救ってやりたいと願われた阿弥陀仏の願いが現にはたらいている状況のなかに生まれてきたのです。そして、その願いと、その願いによって放たれている智慧の光明こうみょうの輝きに包まれ、絶えず光に照らされながら、私はいま生きているのです。
さて、親鸞聖人は、『大無量寿経』によって、「正信偈」に、十二種の光の名を掲げておられるのですが、その最初は「無量光」です。これは、阿弥陀仏の四十八願の第十二願、すなわち「光明無量の願」によるものです。それは「たとえ、私が仏に成るとしても、私の光明の輝きに限量(かぎり)があるならば、私は仏にはならない」という誓願なのです。これについて親鸞聖人は、『和讃わさん』に、「智慧の光明はかりなし 有量うりょうの諸相しょそうことごとく 光暁こうきょうかぶらぬものはなし 真実明しんじつみょうに帰命きみょうせよ」と詠っておられます。阿弥陀仏の智慧の光明は、はかり知ることができないものであって、限りのある私たちの現実のありさまは、すべてこの光の輝きを蒙っているのだから、真実の光明である阿弥陀仏に帰命しなさいと、教えておられるのです。
第二は、「無辺光」です。阿弥陀仏の智慧の光明は、ここから先は行き届かないというような際はない、ということです。これを『和讃』には、「解脱げだつの光輪こうりんきわもなし 光触こうそくかぶるものはみな 有無うむをはなるとのべたまう 平等覚びょうどうかくに帰命せよ」と詠われています。私たちを悩み苦しみから解き放つ光明のはたらきには辺際がなく、この光に触れることができるものは、みな自分がこだわっている誤った考えから離れることができるといわれているので、平等普遍の智慧をそなえられた阿弥陀仏に帰命しなさいと、教えられているのです。
第三は、「無碍光」です。何ものにも、さえぎられることがないのが阿弥陀仏の智慧の光明です。『和讃』には、「光雲こううん無碍むげ如虚空にょこくう 一切の有碍うげにさわりなし 光沢こうたくかぶらぬものぞなき 難思議なんしぎを帰命せよ」と詠われています。光に満ちた雲のような阿弥陀仏の智慧は、ちょうど大空をさまたげるものがないように、何ものにもさまたげられることなく、障害と思われる、どのようなものであっても、阿弥陀仏の智慧のはたらきには、何の障害にもならないので、光に満ちた雲の潤いを蒙らないものはないのだから、われわれの思慮では推し量れない阿弥陀仏の徳をよりどころにせよと、親鸞聖人は教えておられるのです。 
 

 

■最後の依り処
前回に引き続き、十二種の光明こうみょうについて申し述べることとします。この十二光は、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』に阿弥陀仏の別の呼び名として示されているものです。これらの光明の名前は、いずれも阿弥陀仏の勝すぐれた徳を表わしています。前回は三番目の「無碍光」までご紹介いたしました。
第四の「無対光」ですが、これは、対比するものがない光ということです。阿弥陀仏は、他の何ものとも比較のしようがない、勝れた智慧ちえの徳をそなえておられるのです。この徳について、親鸞聖人はまた、『和讃』に次のように讃えられています。「清浄しょうじょう光明こうみょうならびなし 遇斯光ぐしこうのゆえなれば 一切の業繋ごうけものぞこりぬ 畢竟依ひっきょうえを帰命きみょうせよ」と。清らかな智慧の光のはたらきは、これに並ぶものはなく、この光に遇うことによって、身勝手な一切の行いから起こって自分自身を悩ませるこだわりの心が取り除かれるのだから、人生の最後の最後の依り処である阿弥陀仏を頼りにしなさいと教えられています。「畢」も「竟」も、終わりという意味です。私たちは目先の価値にとらわれて、あてにならない物事をあてにして、それを依り処にして生きています。本当に最後の最後に依り処になるものを確かめられたならば、これほど安らかで歓びに満ちた人生はないと教えられているのです。
第五の光は、「光炎王」(『大無量寿経』では「焔王光えんのうこう」)です。「炎」は、私たちの愚かさから起こるさまざまな迷いを焼き尽くすことをたとえたものです。阿弥陀仏の智慧の光明は、無知の暗闇を照らし、暗闇を暗闇でなくしてしまうはたらきがあるのです。『和讃』には、「仏光ぶっこう照曜しょうよう最第一さいだいいち 光炎王仏こうえんのうぶつとなづけたり 三塗さんずの黒闇こくあんひらくなり 大応供だいおうぐを帰命きみょうせよ」と詠われています。阿弥陀仏の智慧の光の輝きは最高であるので、阿弥陀仏を「光炎王仏」ともお呼びする。仏の智慧の光は、われらの迷いの暗闇を打ち開いてくださるのだから、供養するのに最もふさわしいお方として敬おうではないかと、述べられているのです。
第六は、「清浄光」です。貪りに支配される私どもの心の汚けがれに気づかせ、心が清らかになるように、はたらきかけてくださる智慧の光です。『和讃』には、「道光どうこう明朗みょうろう超絶ちょうぜつせり 清浄光仏ともうすなり ひとたび光照こうしょうかぶるもの 業垢ごうくをのぞき解脱げだつをう」と詠われています。本願の光は、他を超えて明るく輝いているので、阿弥陀仏を「清浄光仏」とも申し上げる。ひとたびこの光を身に受けたならば、心身の汚れは取り除かれ、あらゆるこだわりから解き放たれると、説いておられるのです。
第七は、「歓喜光」です。慈しみとしてはたらく阿弥陀仏の智慧の光は、怒りや憎しみの深い私どもの心を和らげてくださるので、私どもの心は喜びに変わるのです。『和讃』には、「慈光じこうはるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには 法喜ほうきをうとぞのべたまう 大安慰だいあんにを帰命せよ」と詠ってあります。阿弥陀仏の慈しみの光は、あらゆるところに向けられていて、この光のおよぶところでは、真実によって起こる喜びがあふれるといわれているので、最大の慰めとなる阿弥陀仏を頼みにしようと、呼びかけておられます。
第八は、「智慧光」です。私どもは、真実に暗く、愚かで無知そのものです。そのために悩まなければならないことが多いのです。しかも、自分が無知であることにも、実は無知なのです。阿弥陀仏の智慧の輝きは、私どもに無知を知らせ、無知の闇を破ってくださるのです。これを『和讃』には、「無明むみょうの闇あんを破はするゆえ 智慧光仏となづけたり 一切諸仏しょぶつ三乗衆さんじょうしゅ ともに嘆誉たんよしたまえり」と讃嘆してあります。深い無知の闇を破ってくださるので、阿弥陀仏を「智慧光仏」ともお呼びする。一切の諸仏も諸菩薩も仏弟子も、こぞってこの智慧の光をほめ讃えておられると、述べてあるのです。 
■光明に遇う
引き続き、今回も十二種の光明こうみょうについて申し述べたいと思います。『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』には、阿弥陀仏の別の呼び名として、十二種の光の名が示されています。これらの光明の名前は、いずれも阿弥陀仏の勝すぐれた徳を表わしていますので、「正信偈」には、これらの光の名をあげて阿弥陀仏の徳が讃えられているのです。また親鸞聖人は、『和讃』にもこれらの徳を讃嘆しておられるのです。
今回は、第九の「不断光」からです。これは、一刻も途絶えることなく、私どもを照らし続けてくださる阿弥陀仏の智慧ちえの光明のことをいいます。このような光明のことを『和讃』には、「光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力もんこうりきのゆえなれば 心しん不断にて往生す」と詠ってあります。阿弥陀仏の智慧の光明は常に輝いて絶えることがないので、阿弥陀仏のことを「不断光仏」ともお呼びする。この光を感じ取るために、絶えることのない信心によって往生するのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。
第十の「難思光」は、凡夫ぼんぶの思いによっては、到底量り知ることのできない阿弥陀仏の智慧の光明のことです。『和讃』には、「仏光ぶっこう測量しきりょうなきゆえに 難思光仏となづけたり 諸仏は往生嘆たんじつつ 弥陀の功徳を称しょうせしむ」と詠われています。阿弥陀仏の智慧ちえの輝きは、誰も思い量ることができないので、阿弥陀仏を「難思光仏」とお呼びする。あらゆる仏が、凡夫の往生を讃嘆され、それを実現される阿弥陀仏の恩徳をほめ讃えておられると、説いてあるのです。
第十一は、「無称光」です。「称」は「はかる」という意味です。どのような方法によっても説明しきれない阿弥陀仏の智慧の輝きをいいます。これを『和讃』には、「神光じんこうの離相りそうをとかざれば 無称光仏となづけたり 因光いんこう成仏じょうぶつのひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり」と讃えてあります。阿弥陀仏の光明は、あらゆる迷いから離れたものであるが、凡夫にはとてもそのありさまは説明できないので、阿弥陀仏を「無称光仏」ともお呼びする。悩みの多い凡夫を救うために、阿弥陀仏ご自身も、その光明によって仏に成られたので、すべての仏がこの光明の徳をほめておられると、述べておられるのです。
最後の第十二は、「超日月光」です。阿弥陀仏の智慧の光明が、日月の光を超えた光にたとえられているわけです。太陽の光は昼間に輝き、夜は照らしません。月の光は、夜は照らすけれども昼は輝きません。光のはたらきにかたよりがあるのです。さらに、どちらの光も、光の届かない影を作ってしまいます。阿弥陀仏の光明は、かたよりがなく、しかも届かないところがないのです。これを『和讃』には、「光明月日つきひに勝過しょうがして 超日月光となづけたり 釈迦嘆じてなおつきず 無等等むとうどうを帰命せよ」と讃嘆されています。阿弥陀仏の智慧の光明は、日月の光よりはるかに勝れているので、阿弥陀仏を「超日月光仏」とも申し上げる。釈尊ですらこの智慧の徳をほめ尽くしておられない。等しく並ぶもののない阿弥陀仏に帰命しようではないか、と勧めておられるのです。
阿弥陀仏の智慧には、塵のようにちらばっているすべての世界を照らし出し、人びとの迷妄を打ち破って、人びとを輝かせる徳がそなわっていると、親鸞聖人は言っておられるのです。そして、その輝きを蒙こうむっていない者は一人もいないと言っておられるのです。それなのに私は、そのことに気づこうともしていないようです。自分の思いにのみこだわって、しかも私は自分の思いを正当化し、あえて智慧の光明に背を向けているわけです。そのような私のことを悲しく思って、何とか私が目覚められるよう、親鸞聖人は、この偈うたによって教えてくださっていると思われるのです。 
■本願のかたじけなさ
親鸞聖人は、「正信偈」をお作りになるに際して、まず、阿弥陀仏の徳を讃えられています。阿弥陀仏は、仏に成られる前、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられましたが、菩薩は仏に成って一切の人びとを救いたいという、格別の願いを発おこされたのでした。それは、深く悩み苦しみながら生きなければならない私たちを救おうとされた願いなのです。目先の出来事に心を奪われて、苦悩している自分の事実すら見失っている私たちを救いたいという願いなのです。
法蔵菩薩がそのような願いを発され、その願いが実現したことによって、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られたのですが、そのことを讃えてあるのが、「正信偈」の「法蔵ほうぞう菩薩ぼさつ因いん位時にじ」という句からはじまる「依経段えきょうだん」といわれている部分です。『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』というお経に依って述べてある段落ということです。そしてその「依経段」のはじめの十八句が「弥陀章」といわれている偈文ですが、今回の「本願ほんがん名号みょうごう正定しょうじょう業ごう」以下の四句は、その「弥陀章」の結びとなるもっとも大切な偈文です。「本願の名号」といいますのは、「南無阿弥陀仏」のことです。法蔵菩薩は、どのような人もすべて救いたいと願われたのです。もし、すべての人びとを救うことができないのであれば、自分は仏には成らないと誓われたのでした。そして、法蔵菩薩のこの誓願せいがんは成就したのです。つまり、「南無阿弥陀仏」という名号みょうごうを私たちに与えることによって、私たちが苦悩から救いとられて、間違いなく浄土へ往生することが明確になったのです。それで、菩薩は阿弥陀仏に成られたわけです。
阿弥陀仏の本願は、私たちが生まれてくるよりも前から、もともと私たちのために立てられている願いなのです。そして、その本願は現に私たちに対してはたらき続けているのです。そのことに気づいていない私たちを目覚めさせるために、「南無阿弥陀仏」が私たちに施し与えられているのです。すがたのない本願が「南無阿弥陀仏」という、私たちがいつでも、どこでも称えられる名号として、私たちに差し向けられているというわけです。そのような「南無阿弥陀仏」が、まさしく、私たちの往生を確定させるはたらきとなるのです。それが「正定の業」ということです。与えられている「南無阿弥陀仏」をありがたくいただいて称えることが、自分の力では悩み苦しみから脱け出せないでいる私たちの救いの原因となるということなのです。この本願の名号が、私たちの救いをまさしく確定させるためのはたらきとなるのは、実は、法蔵菩薩が立てられた願いが原因となっているからです。すなわち、法蔵菩薩が立てられた四十八の誓願のうち、「至心ししん信楽しんぎょうの願」といわれる第十八願が、私たちの往生の直接の原因となっているのです。
すべての人びとが、法蔵菩薩の建立こんりゅうしようとされる浄土に生まれることを求め(欲生よくしょう)、心を尽くして(至心)、そこに生まれることを信じて願い(信楽)、そのことを念じたとして、もしも、その人びとが往生できないのであれば、自分は仏には成らないと、法蔵菩薩は誓われたのです。それが第十八の誓願です。本願の名号、つまり「南無阿弥陀仏」によって、私たちが往生することが、まさしく確定しているのは、とりもなおさず、法蔵菩薩の第十八の願いが成就して、阿弥陀仏に成られたからなのです。ありがたいことに、私たちは、何とかして助けたいという深い願いがはたらいている世界に生まれてきているのです。しかし、私たちは、そのような願いに応えようとしないのです。また、応えることができないのです。そのような私たちのために、さらにありがたいことに、「南無阿弥陀仏」が届けられているのです。それなのに私たちは、自分の都合にこだわって、「南無阿弥陀仏」を軽んじてしまいます。何ともなさけない私たちに、親鸞聖人は、これらの偈文によって、「本願のかたじけなさ」を教えておられると思われるのです。 
■往生の確定
「正信偈」の「法蔵ほうぞう菩薩ぼさつ因いん位時にじ」という句からはじまる十八句は、「弥陀章」といわれる部分です。そこには、阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩が、一切の人びとを浄土に往生させたいという誓願せいがんを発おこされたことが詠われています。それは、親鸞聖人が、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』の教えの要点を偈文にしてととのえられたものです。そして、その「弥陀章」の結びとなる部分が、「本願ほんがん名号みょうごう正定しょうじょう業ごう 至心ししん信楽しんぎょう願為がんに因いん 成等じょうとう覚証がくしょう大涅槃だいねはん 必至滅度ひっしめつど願がん成就じょうじゅ」(本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり)という四句なのです。この四句の前半の二句については、前号に申し述べました。今回はその後半の二句について学びたいと思います。
最初に「等覚を成り」とありますが、その「等覚」というのは、「無上むじょう正等しょうとう正覚しょうがく」という言葉を短くしたものと思われます。これは、仏になる覚りのことをいいます。「無上」ですから、その上がなく最高であるということです。「正等」は、かたよりがなく等しいということですから、平等ということになります。ただし、平等といいましても、あれとこれが平等だというようなことではなくて、いつでも、どこでも等しいということで、「普遍」と言い換えてもよい言葉なのです。次の「正覚」は、仏の完全な覚りのことです。
釈尊が得られた覚りは、ご自身のための覚りというのではなくて、人類を導き、人類を救うことを目的とした、人類のための覚りだったのです。そのために、「この上にない、完全に平等な、すぐれた覚り」といわれるのです。この「無上正等正覚」というのは、インドの言葉を中国語に改めた言い方ですが、中国語に訳さないで、インドの言葉の発音を写し取って(「音写語」といいます)漢字に表記するときには、「阿あ耨のく多羅たら三藐さんみゃく三菩提さんぼだい」と書き表わされています。
「等覚を成り」という言葉について、これは、菩薩の五十二の階位のうちの第五十一番目の「等覚位」(ほとんど仏に近い境地)のことだと、多く解釈されていますが、ここでは、親鸞聖人が、『大無量寿経』とは別に訳された『無量寿如来会』にある第十一願の願文に依っておられるように思われますので、菩薩ではなくて、仏になることと理解することにいたしました。
「大涅槃」の「涅槃」は、もともとは、苦悩の原因である煩悩をすべて滅して、迷いから解放された状態を指す言葉です。また、菩薩たちが六ろく波羅はら蜜みつという、気の遠くなるような厳しい修行によって到達される悟りの境地のことをいうようにもなりました。しかし、親鸞聖人の教えでは、「涅槃」は、私どもが、阿弥陀仏の本願によって遂げさせていただく「往生」を指しているのです。ですから、「成等覚証大涅槃」(等覚を成り、大涅槃を証することは)という句は、「仏になって、往生という大涅槃を身に受けるのは…」という意味になるわけです。
「等覚を成り、大涅槃を証する」ということ、つまり、私たちが、往生という大涅槃にいたるのは、それは、阿弥陀仏が、法蔵菩薩であられたときに発された本願のうちの、「必至滅度の願」といわれる第十一の願いが成就したからです。第十一願はまた「証大涅槃の願」ともいわれているものです。それを親鸞聖人は「必至滅度願成就」(必至滅度の願成就せり)と詠っておられるわけです。
「滅度」は「涅槃」のことですから、「必ず滅度に至る」ための願いというのは、「必ず涅槃に至る」願いということです。結局それは「必ず浄土に往生させる」という願いということになるのです。
阿弥陀仏の本願によって、私たちに差し向けられている名号、つまり「南無阿弥陀仏」こそが、私たちの往生をまさしく確定するはたらきをもつのです。それには第十八の「至心信楽の願」が成就していることが直接の原因となっているのです。そして、私たちが往生するということで仏に成るのは、第十一の「必至滅度の願」が成就しているからなのです。 
■釈尊が世に出られたわけ
「正信偈」の最初の部分、「弥陀章」についてのあらましの説明は、前回で終わりました。それは、親鸞聖人が『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』にもとづいて阿弥陀仏の本願のことを教えておられる部分でありました。阿弥陀仏の本願というのは、私たち一人一人を間違いなく救おうとしてくださっている、深く大きな願いのことでありました。そのような広大な願いが、私がこの世間に生まれてくる以前から、すでに私に差し向けられ、私のために用意されているということです。その広大な願いがはたらいているところに、実は私が生まれてきていることに、私が気づくのかどうか、そのような願いが現にはたらいているという事実を私が喜ぶのかどうか、そのことだけが残っている問題なのです。私にとっての最大の用事なのです。
今回からは、釈尊について詠われている「釈迦章」といわれている部分に入ります。まず、「如来にょらい所以しょい興出世こうしゅっせ」「如来、世に興出したまうゆえは」とあります。「如来」というのは、「如(真実)から来た人」という意味ですが、この場合は、釈迦しゃか牟尼むに如来、すなわち釈尊のことをいっておられます。
「世に興出したまうゆえ」というのは、「この世間にお出ましになられた理由」ということです。「所以」を「ゆえ」と読んでおられるのです。つまり、釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか、ということです。釈尊は、どのような目的があったために、この世に生まれてこられたのか、ということなのです。それについて、親鸞聖人は、「唯説ゆいせ弥陀みだ本願海ほんがんかい」すなわち「ただ弥陀本願海を説かんとなり」と述べておられます。つまり、釈尊がこの世間にお生まれになって、仏に成られたのは、ただただ、われわれに、阿弥陀仏の本願のことを教えようとされたためであった、ということです。「本願」という言葉に、親鸞聖人は「海」という字を添えておられます。それは、どのような人もすべて浄土に迎え入れたいとされる阿弥陀仏の本願が、海のように広く深い願いであることを印象深く表現されているのだと思われます。
親鸞聖人は、たとえば「一乗海いちじょうかい」とか、「功徳くどく大宝海だいほうかい」というように、仏教の大切な言葉のあとに、しばしば「海」という字を添えておられます。これはやはり教えの広さ深さを表わしておられるのでありましょう。ところが、また一方では、「五濁ごじょく悪時あくじの群生海ぐんじょうかい」とか、「一切苦悩の衆生海」などというように、さまざまな汚れのなかで、悩み苦しみに浮き沈みするわれわれ衆生の現実についても、「海」という字をつけ加えておられます。聖人は「願海は二乗雑善ぞうぜんの中下の屍骸しがいを宿さず」と教えておられますが、まことに、海は屍骸を岸辺に打ち上げてしまい、生きているものを住まわせるのです。阿弥陀仏の本願という海は、汚れた衆生、苦悩する衆生であっても、身をゆだねて喜ぶならば、生き生きと活かされるところなのです。
親鸞聖人は、師の法然上人のもとで、本願念仏の教えに出遇われましたが、ほどなく念仏への弾圧という法難ほうなんに遭われて、越後に流罪になられました。京都に生まれ育たれた聖人は、この時はじめて海を見られたのではないかと思います。あらゆる川の水をそのまま受け入れ、生きものであれば、すべてを生き生きと活かす力をそなえた、広く深い日本海を感慨深くご覧になったことが偲ばれます。話をもとに戻します。釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか。釈尊は、たまたまこの世間にお生まれになり、たまたま仏になられて、人びとに教えを説かれた、ということではないのです。この世間にお出ましになられたのは、それは、ただただこの私を救ってやりたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を私に教えようとしてくださったためである、ということなのです。 
 

 

■仏説無量寿経
「如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり」(如来にょらい所以しょい興出世こうしゅっせ 唯説ゆいせ弥陀みだ本願海ほんがんかい)と、親鸞聖人は詠われました。それは、前号に詳しく申しましたように、釈尊が、この世間にお出ましになられた目的は、ただただ、阿弥陀仏の海のように広大な大悲の本願のことをお説きになるためであった、ということでありました。親鸞聖人のこのお言葉は、『仏説無量寿経』すなわち『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』によるものです。このお経のなかで、釈尊は、「如来、無蓋むがいの大悲をもって三界さんがいを矜哀こうあいしたまう。世に出興しゅっこうしたまう所以ゆえは、道教を光闡こうせんして、群萌ぐんもうを拯すくい恵むに真実の利をもってせんと欲おぼしてなり」と説いておられるのです。それは、「釈尊は、何ものにもおおわれることのない大悲によって、果てしない迷いの状態(三界)にある人びとを哀れんでおられるが、釈尊がこの世間に出られたわけは、教えを世に明らかにして、そのような人びとを救い、真実の利益を恵み与えたいと願われたからである」というほどの意味になります。
このようにお説きになったうえで、釈尊は、法蔵ほうぞう菩薩が四十八の誓願せいがんを発おこされたこと、そしてそれらの誓願がすべて成就して、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られたことなどを説かれます。つまり、阿弥陀仏の本願のことを教えられるのです。先ほどの経文きょうもんに「真実の利」とありましたのは、阿弥陀仏の本願のことを釈尊がわれわれに教えてくださったということなのです。このように、『大無量寿経』というお経は、釈尊が世に出られた理由を明らかに説いてあるために、「出世しゅっせ本懐ほんがいの経」といわれます。釈尊が世に出られた本当のお気持ちを表わしてあるお経という意味です。
「出世本懐の経」といわれているお経が、もう一つあります。それは『法華ほけ経きょう』(『妙法みょうほう蓮華経れんげきょう』)というお経です。このお経には、「一乗」ということが説かれているのです。それは、仏に成れる人と、仏に成れない人とがあるのだと、誤ってそのような理解にこだわる人びとが世の中にはいるだろうが、しかしそのような受け取り方は、仏教の真実ではないという教えです。誰もが仏に成るという、一つの乗り物、一つの教えしかないのだ、というのが『法華経』の教えなのです。すべての人が仏に成るといわれるけれども、それはなぜであるのか、そのことについては、『法華経』には必ずしも明確に説き明かされていないのです。仏に成る根拠を示すことは『法華経』の目的ではなかったのです。しかし『大無量寿経』には、仏に成るという言い方ではありませんが、すべての人びとが浄土に往生するのは、阿弥陀仏の本願によるのであると、明確に示されているのです。親鸞聖人はお若い時に、比叡山で『法華経』を深く学ばれたはずですが、阿弥陀仏の本願が説かれているために、『大無量寿経』を最も大切にしておられるのです。
ところで、阿弥陀仏の本願のことを私に教えるために、釈尊がこの世間にお出ましになられたのだということは、私どもの常識からしますと、理屈に合わないことです。歴史的な見方からしましても、筋の通らない話ということになります。釈尊はたまたまお生まれになったのであり、のちにようやく仏に成って教えを説かれたと見るからです。釈尊がわざわざこの世間にお出ましになられたのは、ただ、阿弥陀仏の本願のことをお説きになるためだったのだと、親鸞聖人が「正信偈」に詠っておられるのは、常識や歴史的な見方ではなくて、それは心の奥深いところから湧き出てくる宗教心による見方なのです。聖人がお受け取りになられた信心による自覚の問題なのです。阿弥陀仏の本願という大悲に出遇われた親鸞聖人にしてみれば、世間の常識がどうであろうと、また歴史がどうであろうと、それはそれとして、釈尊は、親鸞聖人ご自身のために『大無量寿経』を説いてくださり、阿弥陀仏のことを教えてくださったのだと、そのようにしか、お受け取りになれなかったのではないでしょうか。「正信偈」のこの二句を拝読しますと、心から感激しておられる聖人のお気持ちが何となく伝わってくるような気がするのです。 
■この世間に生きる私たち
親鸞聖人は、「如来、世に興出こうしゅつしたまうゆえは、ただ弥陀本願海ほんがんかいを説かんとなり」(如来にょらい所以しょい興出世こうしゅっせ 唯説ゆいせ弥陀みだ本願海ほんがんかい)と詠われました。釈尊がこの世間にお出ましになられたのは、たまたまのことではなくて、それはただただ阿弥陀仏の本願のことを世間の人びとに教えようとされたためであったと、このように親鸞聖人は受けとめられたのです。釈尊がお出ましになられた世間というのは、どのような世間なのでしょうか。それは、とりもなおさず、私たちが生きているこの世間なのです。それでは、私たちが生きているこの世間とは、どのようなところなのでしょうか。釈尊は、『阿弥陀あみだ経きょう』のなかで、この世間のことを五濁ごじょくの悪世あくせであると教えておられます。すなわち、五つもの濁りがある、ひどい世の中ということです。私たちが生きているこの世間は「五濁悪世」であり、私たちが生きているこの時代は「五濁悪時」なのです。
私たちは、この世間が何の問題もない立派な世間だとは思っておりませんし、また、まことにいい時代だとも思ってはおりません。だからといって、「五濁」だとはっきり認識しているかというと、どうもそうではなくて、この世間にもこの時代にも愛着を感じているのではないでしょうか。そして、悪い世の中、悪い時代だと言いながら、誰かに何とかしてほしいと思い、もっといい時代になってほしいものだと、身勝手なことを考えているのです。まったく不確実な期待をいだいて、事実から目をそらせているのです。私たちが愛着を感じているこの世間は、釈尊の澄みきった眼まなこでご覧になると、実はひどく濁りきったところなのでしょう。また親鸞聖人は、ご自分を厳しく見つめられて、「罪悪ざいあく深重じんじゅう」と見きわめられましたが、ご自身が生きられたその日々を、どうしようもなく濁りきった毎日と受けとめられたのだと思われます。
「五濁悪時の群生ぐんじょう」といわれる「群生」は、「衆生しゅじょう」と同じ意味の言葉で、「あらゆる生きもの」ということです。インドの言葉が中国語に翻訳されるときに、翻訳者によって用いた訳語が異なったわけです。「群生」も「衆生」も、さしあたっては、私たちのことを指しているのです。「五濁悪時の群生」、つまり五濁といわれる悪い時代に生きている私たちは、いったいどうすればよいのか。それについて、「正信偈」には「如来如実の言みことを信ずべし」(応信おうしん如来にょらい如実言にょじつごん)と詠われています。すなわち、五濁の悪時に生きる私たちとしては、ありのままの事実(如実)をお説きになられた如来のお言葉を信ずるほかはないのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。
この場合の「如来」は釈尊のことですから、「如実の言」というのは、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』に説かれている釈尊のお言葉です。つまり、阿弥陀仏の本願について教えられた釈尊のお言葉なのです。先ほどの「群生」という言葉に「海」の字が添えられていますが、これは、前の句の「本願海」という言葉と関連していると見てよろしいでしょう。阿弥陀仏の本願が海のように深く広いものであり、群生は海のなかの生きものほども数が多いことから、関連させておられると理解することもできると思います。しかし、海はあらゆる生命の源です。生きるための依り処です。広大な本願の海が、そのまま、そこでなければ生きものが生きられない群生の海なのです。どう見ても、なさけない生きものとしか言いようのない私が、本当に「いのち」あるものとして生ききれるのは、阿弥陀仏の大きな願いのなかに包まれている自分自身に気づかされることによるのだと、聖人は教えておられると思うのです。なお、「五濁」の内容については、紙幅の関係で今回は述べられませんでしたので、次回に少し詳しくふれることにしたいと思っています。 
■「五濁の悪時」
親鸞聖人は、「正信偈」に詠われておりますように、聖人が生きられた時代を「五濁の悪時」と見定められました。つまり「五つの濁りのある悪い時代」ととらえられたのです。また、聖人が生きられた世の中を、『阿弥陀あみだ経きょう』に説かれているように「五濁の悪あく世せ」と受け止めておられたことでしょう。そこで、「五濁悪時の群生海、如来如実の言みことを信ずべし」(五ご濁じょく悪あく時じ群生海ぐんじょうかい 応信おうしん如来如実言にょらいにょじつごん)と詠われたのでした。すなわち、五濁の悪時に生きる人びとは、如来の事実の通りのお言葉、つまり釈尊が『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』にお説きになられた真実、阿弥陀仏の本願の教えを信ずるべきであると、親鸞聖人は教えられたのでした。しかし、「五濁」ということは、私たちの身近なところで言うならば、すでに釈尊の教説である『阿弥陀経』の中に説き示されていることですから、それは、親鸞聖人の時代と社会に限ることではないわけです。釈尊の時代も社会もやはり「五濁」だったのです。そればかりか、『阿弥陀経』や「正信偈」の教えは、実は今の私どもに対して指し向けられている教えなのですから、それらの教えの中に説かれている「五濁」は、そのまま、現代という時代、現代の社会のことであると認識しなければならないのです。
「五濁」というのは、末の世において、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは「劫濁こうじょく」「見濁けんじょく」「煩悩濁ぼんのうじょく」「衆生濁しゅじょうじょく」「命濁みょうじょく」の五つです。
まず、「劫濁」ですが、「劫」は、「時代」という意味ですから、「劫濁」というのは、「時代の汚れ」ということになります。疫病や飢饉、動乱や戦争が続発するなど、時代そのものが汚れる状態なのです。
「見濁」の「見」は、「見解」ということで、人びとの考え方や思想を言います。したがって「見濁」とは、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。
「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。
「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。心身ともに、人びとの資質が衰えた状態になることです。
「命濁」は、命の汚れということですが、それは自他の生命が軽んじられる状態と考えられます。また生きていくことの意義が見失われ、生きていることのありがたさが実感できなくなり、人びとの生涯が充実しない虚しいものになってしまうことであると、今は解釈しておきたいと思います。もともとは、人間の寿命が短くなることであると解釈されてきましたが、それは命の年数が短くなるというよりも、精神の豊かさが薄らぐことを意味していると理解してよいように思われるのです。
私たちが暮らしている現代社会というのは、どのような時代社会なのでしょうか。身のまわりに起こっている、さまざまな出来事や事件を一つ一つ眺め返しますと、とても喜びにあふれた社会とは申せません。悲しいこと、悩むことが多すぎます。しかもおぞましいことに、そのような出来事があまりにも多いので、慣れっこになってしまって、驚きや悲しみの実感が薄らいでしまってさえいるのではないでしょうか。現代の世相は、まさしく「五濁」というよりほかはありません。この悲しい「五濁の悪時」に生きる人類は、いったいどうすればよいのでしょうか。あらためて釈尊のお言葉を信じて生きるよりほかはない、と親鸞聖人は教えておられるのです。すなわち、釈尊が『大無量寿経』に示された、阿弥陀仏の本願を依り処にして生きるほかはないと教えておられるのです。実は、釈尊がこの世間にお出ましになられたのは、ただただ、海のようにすべてを包み込む阿弥陀仏の本願のことを私たちに知らせようとされたためであったのです。親鸞聖人は、「如来、世に興出こうしゅつしたまうゆえは、ただ弥陀本願海ほんがんかいを説かんとなり」(如来にょらい所以しょい興出世こうしゅっせ 唯説ゆいせ弥陀みだ本願海ほんがんかい)と教えておられるではありませんか。 
■喜愛の心
「正信偈」には、これまで見てきましたところに、まず、阿弥陀仏の本願の徳が讃嘆してありました。本願というのは、一切の人びとを浄土に迎え入れたいという願いでありました。そしてその願いが、常に私どもに差し向けられていることが述べてありました。次いで、釈尊がこの世間にお出ましになられた、そのわけが述べてありました。それはただ、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私どもに教えようとされたためであったのでした。そして、五濁ごじょくという悪い時代社会に生きる私どもは、阿弥陀仏の本願を説かれた釈尊のお言葉を信ずるほかはないと、親鸞聖人は教えておられるのでした。
それでは、『大無量寿経』に示されている釈尊のお言葉に従うということは、どのようなことであるのか。また、釈尊のお言葉に素直に従うことによって、私どもはどうなってゆくのか。それらのことが、これからしばらく、八行十六句にわたって述べられるのです。まず、「能発一念のうほついちねん喜き愛心あいしん 不ふ断煩悩得だんぼんのうとく涅槃ねはん」(よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)と詠われます。つまり、教えを信じて、ひと思いの喜びの心を起こすことができるならば、煩悩をなくさないまま、煩悩にまみれた身のままに、煩悩の支配を受けない涅槃という境地にいたることができる、と説かれているのです。あとの「不断煩悩得涅槃」については、次回に少し詳しく考えることにして、今回は「能発一念喜愛心」の句に注目したいと思います。この句の前に、「五濁ごじょく悪あく時じ群生海ぐんじょうかい 応信如来如実言おうしんにょらいにょじつごん」(五濁悪時の群生海、如来如実の言みことを信ずべし)とあります。五つの濁りのある悪い時代に生きる人びとは、釈迦如来が説かれた事実の通りのお言葉、つまり、釈尊が『大無量寿経』にお説きになられた阿弥陀仏の本願についての教え、それを信ずるべきであると、親鸞聖人は教えておられるのです。そしてこれに、「能発一念喜愛心」(よく一念喜愛の心を発すれば)という句が続くわけです。
このような「正信偈」の偈文げもんの意味は、どのように受け取れるでしょうか。文脈からすると、それは、私どもが、釈尊のお言葉、つまり本願の教えを信じて、一念の喜びの心を起こすことができるならば、煩悩のままに、涅槃の境地を得ることができるという、そのような意味に受け取れることになります。けれども、親鸞聖人は、もう少し大切な意味をこの句に込めておられると思われます。「能発」(よく発す)というのは、文字通りには、起こすことができるという意味ですが、私どもが自分で(喜愛の心を)起こすことができる、というのではないでしょう。それは、阿弥陀仏の願いによって、その願われた通りに、(喜愛の心が)私どもの心の中にわき起こるということを意味するのです。
さきに「応信如来如実言」(如来如実の言を信ずべし)と詠ってありました。この流れからしますと、「信」がもとになって「喜愛」があるわけです。しかも親鸞聖人が教えられる「信」は、私どもが自分の意志で起こすものではありません。「南無阿弥陀仏」としてはたらく、阿弥陀仏の本願の力によって起こるものと教えられています。阿弥陀仏の願いによって私どもに信心が生じ、その信心によって歓喜かんぎの心が起こされるのです。『大無量寿経』に、「あらゆる衆生しゅじょう、その名号みょうごうを聞きて、信心しんじん歓喜せんこと、乃至ないし一念せん」と説かれています。ここには、「南無阿弥陀仏」という名号によって「信心歓喜」があると教えられています。しかも「信心」と「歓喜」とが一つのこととして説かれているのです。まことに、信心をたまわっていることに気づかされることは、うれしいことなのです。同時に、自分に願いが差し向けられていることを素直に喜ぶことが、実は信心をいただくということになるわけです。 
■煩悩と涅槃
私どもは、自我のはからいを捨てることが、なかなかできません。けれども、はからいを少し横に置くことによって、阿弥陀仏の本願に素直になれると教えられています。そして、仏の願いに素直になる信心によって、喜愛の心が起こされるのだと諭されています。さらに、喜愛の心が起こされることによって、煩悩をなくさないままで、煩悩の支配を離れた涅槃という境地にいたることができると詠われているのです。
「煩悩」というのは、私どもの身や心を煩わせ、悩ませる心のはたらきのことです。しかもそれは、自分自身が引き起こしている心の作用なのです。私どもの心には、いつも一〇八種類の煩悩がはたらいていると言われていますが、その代表的な煩悩、最も深刻な煩悩を「三毒さんどく煩悩」と言います。それは、貪欲とんよく(欲望をいだくこと)と、瞋恚しんに(憎み怒ること)と、愚癡ぐち(道理に無知であること)の三つです。あらためて自分の心の中を静かにのぞいてみると、まさに教えられている通り、そのような煩悩がいつも心に付きまとっていて、絶えず自分を支配していることを認めざるを得ません。自分の利益のためになると思い込み、自分の思い通りにしようとしていること、それが実は煩悩であって、結局はそれが自分自身を苦しめ悩ませる原因になっていると、釈尊は教えられたのです。しかも、私どもは、自らが引き起こしている煩悩によって、自分自身が苦しんでいる、そのことにすら、なかなか気づけないでいるのです。まことに、道理に無知だといわなければなりません。
私どもが身に受けているさまざまな苦悩から解き放たれるために、釈尊は、その原因である煩悩を取り除く道を教えられたのでした。そして、すべての煩悩が取り除かれた、心穏やかな状態を「涅槃」と教えられたのです。このように、「涅槃」は煩悩を滅した状態を意味するのでした。そしてさらに、完全に煩悩を滅した状態というのは、人の「死」であることから、「涅槃」は「死」と理解されるようにもなったのでした。人が亡くなることを「涅槃に入る」とか、「入滅」とか言われるようになったのです。ところが、やがて「涅槃」についての理解はさらに深められ、「滅」というような消極的な見方ではなく、「悟り」という積極的な意味に「涅槃」は理解されるようになったのです。煩悩が滅することを「涅槃」というならば、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」というのは、煩悩をなくさないままで、煩悩のなくなった状態になるということになりますから、矛盾した言葉になります。けれども「悟り」ということであれば、「悟り」は煩悩の有る無しをはるかに越えた境地ですから、煩悩を断ずるとか、断じないとかにかかわりなく、「悟り」としての「涅槃」に到達することがあるわけです。これが「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という教えの一般的な理解です。しかし、「悟り」ということであれば、悟れる人と、悟れない人とができてしまいます。悟る力のある人と、悟るほど力のない人との区別が出てくるわけです。
「正信偈」に示されている親鸞聖人のお心からすれば、「涅槃」は、ある個人の「悟り」というようなことではないでしょう。釈尊が教えられた通り、私どもは五濁の世に生きなければなりませんが、その自分の身に届けられている信心を喜ぶことによって、その人の煩悩ばかりではなく、すべての人びとの煩悩を飛び越えた「涅槃」が、その人に実現するということになるのではないでしょうか。もう少し言葉を換えてみるならば、阿弥陀仏の本願によって往生すること、そのことが「涅槃」の意味であるということになるのです。煩悩を断ずることができなくても、いや、煩悩を断ずることのできない、愚かで情けない自分であるからこそ、「本願」ともいうべき「涅槃」、「往生」ともいうべき「涅槃」を、私どもは得させてもらうのであると、聖人は教えておられるように思うのです。 
 

 

■凡夫も聖者も
五濁ごじょくという悪い世に生きる私どもには、阿弥陀仏の本願について教えられた釈尊のお言葉を信ずるほかはないと、親鸞聖人は詠われました。釈尊のお言葉、すなわち『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』の教えに素直に従うということは、どのようなことであるのか。それについて聖人は、煩悩を断じないままでも、涅槃を得させてもらえるということであると教えられました。さらに、親鸞聖人は続けられるのです。「凡聖ぼんしょう逆謗ぎゃくほう斉さい回え入にゅう 如衆にょしゅう水入海すいにゅうかい一いち味み」(凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし)と。
「凡聖」というのは、煩悩にまみれて迷っている「凡夫」と、煩悩をなくして清らかになられた「聖者」とです。「凡夫」と「聖者」とは、煩悩に支配され続けているか、それとも煩悩を滅し尽くしているか、そこに違いがあるわけです。また「逆謗」というのは、「五ご逆ぎゃく」という重い罪を犯した人と、「謗法ほうぼう」の人、すなわち仏法を謗そしるという悪をはたらく人です。五逆とは、1父を殺すこと(害父) 2母を殺すこと(害母) 3聖者を殺すこと(害がい阿羅あら漢かん) 4仏のお体を傷つけて血を流させること(出しゅつ仏身血ぶつしんけつ) 5教団を分裂させること(破和はわ合僧ごうそう)を言います。「回え入にゅう」とは、回え心しんして帰き入にゅうすることと言われます。つまり、自分の思いにこだわり続ける心をひるがえして、真実に目覚めることです。常に阿弥陀仏の願いが差し向けられている身であるのに、そのことに気づかないのは、仏の願われていることよりも自分の目先の判断を大切にしているからなのです。ですから、自分のはからいを捨てて、真実に背を向ける心をひるがえすことが必要なのです。大きな願いの中に生きている、本来の自分に立ち戻ることが必要なのです。
煩悩にまみれ続けている凡夫であろうと、煩悩を滅し尽くした浄きよらかな聖者であろうと、また、たとえ五逆というような重い罪を犯す人であろうと、さらには、仏法を謗るような人であろうと、いずれも自分の力では「涅槃」といわれる勝すぐれた境地にいたることはできないのです。誰も自力では「往生」することはできないのです。しかし、凡夫であろうと、聖者であろうと、五逆であろうと、謗法であろうと、自分本位という思いを大きくひるがえして、真実に対して謙虚になり、本願を喜べるようになるならば、阿弥陀仏の願いによる救いにあずかることになると、親鸞聖人は教えておられるのです。それはちょうど、どこから流れてきた川の水であろうと、海に注ぎ込めば、みな同じ塩味になるようなものだと教えておられるわけです。海に流れ入る水には、どこから流れ出てくるか、それぞれ水源の違いがあります。また途中でどのような所を流れ下ってくるのか、そのたどってくる場所や状況が違っています。しかし、出発や経過がどうであれ、海に入れば同じ水になるわけです。
人はそれぞれ、いまの生き方の実状に違いがあります。善し悪しの違いもあります。またこれまでに生きてきた経過や経歴もさまざまです。けれども、どのような状態にあろうと、またどのような経歴であろうと、阿弥陀仏の願いのもとでは何の違いも区別もないと教えられているのです。ただ問題は、私どもの今のあり方がどうであるかということです。私どもが、真実に背を向けたままの愚かな自分にこだわり続けるのか、それとも、そのような自分に阿弥陀仏の願いが向けられていることに気づかせてもらって喜ぶのか、というところに決定的な相違があります。凡夫も聖者も五逆や謗法ですら、ひとしく心をひるがえすならば、さまざまな川の水が海に流れ入って一つの味になるようなものだ、と詠われていますが、この句の直前にあるように、一念の喜愛の心を起こすならば、自ら煩悩を断ち切ることができない者たちであろうとも、涅槃、すなわち往生を得させてもらえるのです。ここには、本願に触れた一念の喜愛の心が、何にも先立って大切であることが教えられているわけです。 
■常に照らされている私の事実
自分のはからいを頼りにする、そのような自力の心をひるがえすことが大切であると、親鸞聖人は教えられました。そのことを聖人は、「回え入にゅう」という言葉で示されたのです。釈尊は、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』をお説きになって、人類に、阿弥陀仏の本願のことを教え示されました。これについて、親鸞聖人は、凡夫ぼんぶであろうと、聖者しょうじゃであろうと、また、五ご逆ぎゃくという重い罪を犯した者であろうと、さらには、仏法を謗そしってきた者であろうと、釈尊のこの教えにふれるならば、自分の身に阿弥陀仏の深い願いが差し向けられていることに気づかされるのであると、教えられました。そして、心がひるがえって、そのような釈尊の教えにふれ得たことを喜ぶことができると、教えられました。さらに、親鸞聖人は、「摂取心光せっしゅしんこう常照じょうしょう護ご」(摂取の心光、常に照護したまう)と詠って喜んでおられます。「摂取」というのは、阿弥陀仏が私たちを摂おさめ取ってくださること、すなわち、救い取ろうとしてくださっていることです。そして、その「摂取」ということは、「心光」によることとされています。「心光」は、阿弥陀仏の大慈悲心の光です。
「光」は、多くの場合、仏の「智慧ちえ」のはたらきのことをいいます。私どもは、自分の思いにこだわり続けていますから、本当のことがわからず、ものの道理についてまったく「無知」なのです。しかも、道理がわかっていないのに、わかっていると思いこんでいるのです。つまり、わかっていないこと、そのこと自体が、実はわかっていないのです。そのような心は真っ暗闇のようだと教えられています。暗闇を暗闇でなくするもの、それが「光」です。しかし、暗闇が、どこか他の所へ移動していって、そこが暗闇でなくなるのではありません。「光」のはたらきを受けて、同じ暗闇そのものが、そのまま暗闇でなくなるのです。私どもの心を照らし出し、その心の暗闇を破ってくださるのが仏の「智慧の光」なのです。ところが、仏の「智慧」は、単に「智慧」としてだけはたらくのではありません。実は、「智慧」が完全にはたらくときには、それは「慈悲」となって私どもにはたらきかけているのです。言い換えれば、私どもに差し向けられている「慈悲」を身に感ぜしめられることによって、仏の深い「智慧」のはたらきを知らしめられるのです。そのような「智慧」にもとづいた「慈悲」の心のことを、「摂取の心光」と詠われているのです。「摂取の心光」、すなわち阿弥陀仏の大慈悲心の光は、「常照護」(常に照護したまう)と言われています。いつも私たちの身と心を包んで照らし、私たちを護ろうとしてくださっているというわけです。
親鸞聖人は、「常照護」を「照護したまう」と読んでおられます。ここには、大慈悲心の光がいつでも照護してくださっているという、事実が述べられているのです。照護していただきたいという、希望を述べておられるのではありません。また、照護してもらっているだろうという、推測を述べておられるわけでもないのです。あくまでも、いま現に起こっている事実を聖人は教えておられるのです。私たちは、自分の思いを最優先させて物事に接しています。そして、自分にわかることだけが事実であると思い込んでいるのではないでしょうか。親鸞聖人は、『仏説無量寿経』の教えを通して、阿弥陀仏の大慈悲心の光が、常に照護してくださっているという事実にお気づきになり、私どもの思い込みが、実は思い違いでしかないことを指摘しておられると思われるのです。常に私どもを照らしている光によって、私たちの「無知」(無明)は破られているはずなのです。それもまた事実なのです。しかし、心を支配している「貪むさぼり」(貪愛とんない)と「憎しみ」(瞋憎しんぞう)によって、私どもは、その事実に眼をそむけているのです。 
■信心を覆うとも
親鸞聖人は、「摂取心光せっしゅしんこう常照じょうしょう護ご」(摂取の心光、常に照護したまう)と詠っておられます。これによれば、私たちは、すべてを摂おさめ取ろうとされる阿弥陀仏の大慈悲心の光に常に照らされ、常に護られているのです。この光に照らされているという事実によって、「已い能雖のうすい破無はむ明みょう闇あん」(すでによく無明の闇を破すといえども)とありますように、私どもの心の「無明」の闇は、すでに破られているのです。「無明」というのは、根元的な無知です。真実に暗く、真実を知見ちけんする智慧ちえの明るさが欠けている状態です。それが凡夫ぼんぶの迷いの根本となる煩悩なのです。「無明」は、私どもの心のなかでは「愚癡ぐち」というすがたをとってはたらきます。「愚癡」は、どうしようもない愚かさです。何が真実であるのか、まったくわかっていないのです。真実がわかっていないだけではなく、そのわかっていないことすら、わかっていないのです。逆に、自分にわかっていること、それが真実だと思い込んでいるのです。まことに愚かというほかはありません。哀れで滑稽なすがたです。
このような「愚癡」となってはたらく「無明」の闇は、実は、阿弥陀仏の大慈悲心の光によってすでに破り尽くされているはずなのです。そして私どもは、真実に素直に向き合うことができているはずなのです。ところが、「貪愛瞋憎とんないしんぞう之し雲うん霧む 常じょう覆ふ真実信心天しんじつしんじんてん」(貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり)と詠われていますように、「貪愛」や「瞋憎」といわれる煩悩が、雲や霧のようにわき立ち、私どもの心に立ち込めて、「真実信心」を覆い隠してしまっているのです。
「貪愛」は「貪欲とんよく」とも言われますが、しがみつく愛着・欲望です。私どもは、しがみつくべきでないものにしがみついてしまいます。それは無知によって起こる心の動きです。無知ですから、しがみつけば必ず苦という結果をもたらすのに、それを知らずに、自分にとってこの上なく大切なものと錯覚して、愛着をいだくのです。「瞋憎」は「瞋しん恚に」とも言われます。怒り憎む心です。怒りや憎しみは、自分の思い通りにならないときに起こります。私どもは、何ごとについても、自分の思い通りになることを期待します。ときには、思い通りになるはずのないことをも、思い通りにしようとこだわります。これも無知によって起こります。怒りや憎しみは、他の人びとを傷つけると同時に、自分自身をも傷つけることになります。そして心の平静さを失わせ、ますます間違った方向に自分を追いやってしまうのです。せっかく阿弥陀仏の大慈悲心の光に照らされて、無知が除かれ、「真実信心」が受け止められるようにしてもらっているはずなのに、どこからともなくわき起こってくる「貪愛」や「瞋憎」によって、その「真実信心」を覆い隠して、それに気づかない自分になっているのです。わざわざ自分で自分をいっそう深刻な無知にしているのです。
「真実信心」という言葉には、少し注意が必要です。私どもの「信心」が、どうして「真実」であるのかということです。「信心」は、私どもの判断で、信じるか信じないかを決定する信心ではありません。愚かで間違いの多い私どもが決定する信心であるならば、どうして「真実」と言えるでしょうか。それは阿弥陀仏から振り向けられた信心なのです。自力によって引き起こす信心ではなくて、阿弥陀仏からいただく、他力の信心です。だから、その「信心」は「真実」なのです。私どもは、自らが引き起こす「貪愛」や「瞋憎」によって、せっかく回え向こうされている「真実の信心」を覆い隠して、それを自分から遠ざけているのです。けれども、阿弥陀仏の大慈悲心の光は、そのようなことでは覆い尽くせるものではないと、親鸞聖人は、この次の句に詠われます。 
■信心を覆うとも
今回の「譬ひ如日光にょにっこう覆ふ雲うん霧む 雲うん霧之下むしげ明みょう無む闇あん」(たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし)という二句は、前回の四句と内容が直接に連なっております。
まず、「摂取心光せっしゅしんこう常照じょうしょう護ご」(摂取の心光、常に照護したまう)とありました。私どもを摂おさめ取って、救おうとしてくださる阿弥陀仏の大慈悲心の光は、いつも、今もなお、私どもを照らし、護っていてくださっているということでありました。ところが、本当に照護されているのかどうか、私どもの常識では確信がもてません。けれども、現に照護されていることは、まぎれもない事実であると、親鸞聖人は受けとめられたのです。それは、照護されていることを身をもって確信された人のお言葉です。敢えて言うならば、それが親鸞聖人の常識なのです。阿弥陀仏の大慈悲心の光に照護されていますので、その光によって、私どもの心の闇はすでに破り尽くされているのです。「已い能雖のうすい破無はむ明みょう闇あん」(すでによく無む明みょうの闇あんを破はすといえども)と続けられている通りです。
にもかかわらず、私どもの心には、貪りや憎しみなどの煩悩が、雲や霧のように立ちこめてきています。そして、その雲や霧のために、阿弥陀仏の大慈悲心という天空を覆ってしまっているのです。阿弥陀仏の大慈悲心は、「真実信心しんじん」として、私どもの身に具体化されています。その「真実信心」を覆っていることになるのです。そのことが、「貪愛瞋憎とんないしんぞう之し雲うん霧む 常じょう覆ふ真実信心天しんじつしんじんてん」(貪愛とんない・瞋憎しんぞうの雲霧、常に真実信心の天に覆えり)と詠われているのでありました。阿弥陀仏は、大慈悲心によって、「真実信心」を私どもに差し向けて(回え向こうして)くださっています。煩悩の泥にまみれている私が、自分の考えや都合によって引き起こす信心であれば、それは「真実信心」ではありませんが、阿弥陀仏が私に施与せよしてくださっている信心ですから、それは「真実信心」なのです。そのような「真実信心」を私は見失っているわけです。
しかしながら、そのあと、「たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし」と詠われています。日光が雲や霧に覆われてしまっているため、私どもには日光を見ることはできません。けれども日光は輝き続けているわけですから、その雲や霧の下は、決して暗闇ではなく、私どものところに明るさは届いているのです。太陽そのものが隠れた夜の暗闇とは、まったく異なっているのです。私どもは、心に起こす貪りや憎しみなどの煩悩よって、せっかくの「真実信心」を覆ってしまっているわけです。しかし、「真実信心」を見失っているからといって、「真実信心」が私のところに届かなくなっているのかというと、そうではないと、親鸞聖人は教えておられます。雲や霧が覆っていても、雲や霧の下にも明るさは届いているのです。
私どもは、雲や霧がなくなったとき、初めて日光の恩恵を受けるかのように錯覚しますが、実はそうではないのです。雲や霧が立ちこめているときでも、日光の恩恵を受けているのです。煩悩がなくなったとき、大慈悲心、つまり「真実信心」に気づかされるのではありません。取り除き難い煩悩にまみれながら、「真実信心」に目覚めることがあるのです。煩悩が決して信心の妨げにはならないということでしょう。むしろ、日光の輝きによって、雲や霧のありさまが、はっきりと確かめられます。ちょうどそのように、常に私を照護し続ける阿弥陀仏の大慈悲心によって、かえって、貪りや憎しみの心に支配されている自分の実態が、どのようなものであるかを思い知らされるのではないでしょうか。「真実信心」に背を向けている自分の姿が映し出されてくるのではないでしょうか。そのようなことを、親鸞聖人は、私どもに教えようとなさっているように思うのです。 
■大きな喜び
まず「信を獲れば」といわれています。これは申すまでもなく、阿弥陀仏の本願を信ずる信しん心じんが得られたならば、ということです。阿弥陀仏の本願は、多くの人びととともに、この私を悩み苦しみから救ってやりたいと願ってくださる願いです。哀れなことに、私は自分がそこまで悩み苦しんでいることにすら、気づいていないようです。眼の前の利害に心を奪われて、自分の思いに合致すれば満足し、そうでなければ、不平不満をいだいて、他を恨むのです。ところが、そのような私を救いたいと願われる願いが、私の知らないうちに、すでにはたらいているのです。それが本願です。常にはたらき続けている本願のなかに、私はいま生活しているのです。しかも、そのような本願を信ずるということは、私が自分で心に決めて信ずるのではないと教えられています。自分で自分の心に決めることは、「自力のはからい」でしかない、といわれます。私がどれほど誠実に、熱心に信ずるとしても、それは本願を信ずるというよりも、私の都合を信じているに過ぎないのです。まことの「信」は、私が起こすものではなくて、いただくものだと教えられています。
私という人間は何とも情けない生きものであるということ、そしてその私を何としても救ってやりたいという願いが現にはたらいているということ、そのような事実に、ふと気づかされ、しみじみと納得させられること、それが「信を獲る」ということではないでしょうか。あくまでも誤魔化しでしかない私自身の実態と、そのような私だからこそ、願いが差し向けられているという事実に、心の底から頷かされれば、何かが見えてきて、何かを敬う心が私に起こるのだと諭されているのです。それが「信を獲れば見て敬い」というお言葉です。
それでは、何が見えてきて、何を敬うのかということですが、これについては、いくつかの受け止め方ができるように思われます。第一に、阿弥陀仏と、阿弥陀仏が願われているその願いとを、素直な心の眼によって見届けるということです。そうなれば、それが本当にありがたく思われ、阿弥陀仏に心から敬服する以外、私には何もできない、という意味になります。第二に、私を救いたいと願われる願いが現にはたらいていることに気づかされると、この本願に生きられた七高僧のように、まことの信心を得られた方々のお心がよくよく見えてくる、という意味に理解されます。そうなれば、その方々を敬愛する気持ちが深くなるということになります。第三に、阿弥陀仏の本願に気づかされると、ますますはっきりと愚かで哀れな自分自身の姿が見えてくるという理解です。そして、このような自分を救うための信心がすでに用意されているという事実を、自分としては敬いの心をもって受け入れるしかない、というように理解されます。
これらの他にもいろいろな理解があるかと思います。正直なところ、親鸞聖人のお心をどのように汲み取ればよいのか私にはわかりませんが、いまさし当たっては、第三の理解のように受け止めておきたいと思います。この私をどうしても導いて救ってやりたいと願ってくださる願いに、自分が包まれていることに気づかされるときに、あらためて見えてくるものは、やはり何もかも自分本位に考えて、どこまでも思い上がっている、何とも情けない自分の姿ではないでしょうか。そのような私であればこそ、私の思いを越えた願いが差し向けられているのです。私はその事実を心底から敬うこと以外には、何もできないのです。その事実におまかせするしかないのです。そのように、自分の姿を見て本願を敬う身になるならば、それこそが私にとってこの上にない喜び、「大だい慶きょう喜き」となるのだと、親鸞聖人は教えておられると思うのです。そして、その喜びが起こると、深刻な苦悩の状態を一挙に超えていけると教えられています。 
 

 

■苦悩を越える
親鸞聖人は、まず「獲ぎゃく信見しんけん敬きょう大だい慶きょう喜き」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)と詠われました。前回学びましたように、「信を獲れば」というのは、まさに、この私を救ってやりたいと願われている、阿弥陀仏の本願が自分に対して差し向けられていることに気づかされて、信心を感得することでありました。そして信心とは、自分に向けられている願いに対して素直になることでありました。そうすると、願いに気づかずに、自分の思いだけを頼りにしてきた愚かな自分の姿が、はっきりと「見えて」くるのです。そして、そのような自分には、心から本願を「敬う」こと以外に、何もすることがないのだと、聖人は教えておられるのです。
このように、愚かな自分の姿にあらためて気づかされ、本願を敬う身になるならば、それは、この上なく大きな喜びとなると教えておられます。「大きに慶喜せん」と言われるのです。阿弥陀仏が願っておられる、その願いを敬い、願いを喜べる身になるならば、私どもは、たちまちにしてさまざまな迷いの状態を飛び越えていけると言われます。そのことを、次の句に「すなわち横に五悪趣を超截す」と詠われているのです。「五悪趣」は、五道ともいいますが、凡夫が自分の為した心身の行いの結果として趣くところです。地獄・餓鬼がき・畜生ちくしょう・人にん・天てんの五趣をいいます。畜生と人との間に阿あ修しゅ羅らを加えて、六趣とか六道とも言います。生前中の行いによって、死後に地獄に落ちたり、天上界に生まれかわったりすると言われることがあります。それはもともと、仏教が興る以前の古代インドの宗教が教えていた考え方でありました。それが仏教の中にも取り入れられてきたものと思われます。
しかし仏教では、生まれかわりの主体と考えられるものを「我が」といい、釈尊は「無我」を教えられて、そのような主体の実在を否定されました。釈尊のこの教えからすれば、死後に地獄などに生まれかわるなどということはないわけです。そればかりか、私どもの日常生活の他に、どこか別のところに地獄のような場所などは実在しないことになります。仏教の中で、地獄に落ちるとか、畜生に生まれるとか、そのようなことが言われてきましたのは、人が悪を行わず、善いことをするようにという、教訓的もしくは警告的な意味があったからだと考えられます。しかし、釈尊の教えの基本からすれば、この六道はいずれも、私どもが現在の生涯において、入れ替わり立ち替わり、次々と経験しなければならない苦悩の状態を教えたものであると理解しなければなりません。
それでは、六道の一つ一つをどのように受け止めればよいのでしょうか。試みに次のように理解してはいかがでしょうか。「地獄」とは、自分の行いの結果として生存中に経験しなければならなくなる耐え難い苦しみの状態です。「餓鬼」というのは、自分が引き起こす貪欲とんよくのために、自分自身が苦しまなければならなくなる状態です。「畜生」は、道理に対して無知であるために、互いに争い合い、殺し合って、結果として自分が苦しむことになる、そのような状態です。「阿修羅」というのは、古代のインドでは戦闘をつかさどる鬼神とされていたものでありましたが、いまは、自らが起こす怒り憎しみの心によって、かえって自分が傷つき苦しむことになる、その状態のことであると理解することができます。「人」は、人間らしい感情に支配されて思い悩む状態です。「天」は、精神作用の活発な状態で、六道の中では最も勝すぐれた状態ではありますが、やはり迷いの状態であることには違いはないのです。五悪趣といい、六趣といっても、それらは、実体としてどこかに存在するというものではなく、私どもが自分の行為の報いとして日常に経験している苦悩のことであるのです。阿弥陀仏の本願を敬い、本願を喜ぶならば、苦悩の状態を一挙に超えられるのだと親鸞聖人は言われるのです。「横に超截する」ということについては、次回、少し考えたいと思います。 
■横に超える
私たちは、目の前の喜怒哀楽に気を奪われています。そのために、自分が一体どのような者として今生きているのか、その自分の根本を見失っているようです。そして、そのことによって、さらに喜怒哀楽の情に支配され続けているのです。そのような私を何とか救ってやりたいと願われている、阿弥陀仏の本願が、現に私に対して差し向けられているのだと、釈尊は教えておられます。そして、釈尊の教えに接して、その願いにつくづくと気づかされるならば、願いに対して素直になれる「信」が得られると、親鸞聖人は教えておられます。
願いに素直になると、自分の思いだけを頼りにして、喜怒哀楽に支配されている自分の愚かさが、さらにはっきり「見えて」くると言っておられます。そうすると、私はどうなるのか。心から、阿弥陀仏の本願を「敬える」ようになり、それはこの上ない大きな「喜び」となると言われます。それが「獲ぎゃく信見しんけん敬きょう大だい慶きょう喜き」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)と詠われている意味でありました。その願いを敬い、喜べるようになるならば、それは、私どもが日ごろ経験している「五悪趣」といわれる迷いと悩みの状態を一挙に超えることになるのです。そして「五悪趣」の迷妄めいもうを断ち切ることになります。そのことを、親鸞聖人は、「即横そくおう超截ちょうぜつ五ご悪趣あくしゅ」(すなわち横よこざまに五悪趣を超截す)と詠っておられるのです。
「五悪趣」の意味は、前号に申し述べた通りであります。「超截」は、それを飛び越えて、束縛を断ち切ることです。「即」は「すなわち」と読んでありますが、「即座に」という程の意味です。本願について「大きに慶喜」するならば、「たちどころに」「五悪趣を超截する」ことになるのです。念仏を心から喜ぶならば、たちどころに、一切の迷い、一切の悩みから解き放たれるということです。念仏を喜ぶことが、そのまま、悩みの解決であるということです。逆に言うと、悩みが解決しないのは、念仏を喜べないからだということになります。
ところで、「横に五悪趣を超截す」とありますが、この「横」と「超」とを合わせた「横超おうちょう」という言葉があります。これは親鸞聖人が独特の使い方をなさったお言葉です。「横超」というのは、順序や段階をまったく経ないで、一挙に横っ飛びをすることです。たとえば、仏に成って一切の人びとを救いたいという志を固めた菩薩は、命がけの修道を延々と重ねて、一段一段と段階を経て、徐々に仏の境地に近づいていくというのが、インド以来の仏教の通常の見方でありました。また、浄土に往生したいと願う者は、そのような善い結果が生ずるための原因となる善業ぜんごうを、十分に積み重ねなければならないと見るのが、通常の理解なのです。そのような考え方を親鸞聖人は「竪超じゅちょう」と言われます。目標とされる到達点に向かって、順序よく、段階を竪たてに一つ一つ登りつめて行く方法です。
ところが「横超」は、それと違っています。一切の段階を飛び越えて、一挙に目的に達するという見方です。迷いの凡夫が、難題を一つ一つ解決して、徐々に仏の境地に近づくというのではないのです。凡夫が凡夫のままで、仏に成るのです。本来は、仏でないのを凡夫といい、凡夫でないのを仏というのです。ところが、凡夫が一挙に仏に成るのです。浄土往生にふさわしくない者、往生できるはずのない者が、実は往生するのです。このような不思議なことがどうして起こるのでしょうか。それは、常に私どもにはたらきかけている阿弥陀仏の本願の力によるのです。私どもの常識では説明のつかない、大慈悲のはたらきによるのです。先の「竪超」は、自分の力を頼りにしています。自分の努力を信頼しています。しかし、自分の力が信頼できなくなれば、一体どうするのか。「いずれの行ぎょうもおよびがたき身」は、阿弥陀仏の願いという他力にお任せする以外に、なすすべはないのです。本願力にお任せするときに、「横超」ということが起こると教えておられるのです。 
■聞信するということ
ここではまず、親鸞聖人は、「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり。」(一切善悪凡いっさいぜんあくぼん夫ぶ人にん 聞信如来もんしんにょらい弘ぐ誓願ぜいがん 仏言広大ぶつごんこうだい勝しょう解げ者しゃ)と詠っておられます。
「凡夫人」は短く「凡夫」とも言われますが、凡夫というのは、聖者しょうじゃでない人のことで、普通の人のことを言います。私たちは、静かに自分自身の生き方を見つめ直してみると、どう見ても聖者とは言えないのです。だから私たちは凡夫なのです。さらに厳しく自分を見つめるときに、「愚ぐ悪あくの凡夫」という言い方がなされます。自分は愚かでよろしくない人間だという自覚です。善人であろうと、悪人であろうと、一切の凡夫人が、その善悪に関係なく、「阿弥陀如来の弘ひろい誓願せいがんを聞信するならば、」と続けられています。阿弥陀仏は、すべての人びとを救いたいと願っておられます。すべての人びとを救わなければならないと誓っておられるのです。それがここに言われる誓願です。しかもその誓願は、いつでも、どこでも、はたらき続けているのです。だから「弘い誓願」と言われているわけです。
その誓願は『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』の中に四十八願として説き示されています。中でもその中心となるのが、「念仏往生の願」と言われている第十八願です。私どもは、真実を知らないばかりに、迷い続け、悩み苦しみ、不平や不満をつのらせながら日々を過ごしています。そのような、なさけない愚かなわれわれを、念仏によって助けたいと願ってくださっているわけです。しかも、阿弥陀仏が私どもに代わって用意してくださった念仏、すなわち私どもに差し向けられている「南無阿弥陀仏」、それをそのまま素直に受け取ってほしいと願っておられるのです。そのような願いが、この私に差し向けられているにもかかわらず、いや、そのような願いがはたらく真っ只中に私は生きているにもかかわらず、私は心からそのことに気づいていないのです。そのような願いに気づかせるのが「聞信」ということになります。親鸞聖人以来、ずっと「聞法もんぽう」ということが大切にされてきた意味がそこにあると思われます。
法を聞くということは、阿弥陀仏の願われたことについて説き示されるその場所に身を置くということです。気づかずに過ごしてきたことに気づかせてもらえる場所に足を運ぶということです。阿弥陀仏の誓願のことが説かれているのは、『仏説無量寿経』です。だから、阿弥陀仏がどのようなことを、どのように願っておられるのかを、私どもに教えておられるのは釈尊なのです。釈尊の教えについて語られることを聴聞ちょうもんすること、それはもちろん聞法であります。しかしそれだけではないでしょう。釈尊の教えを伝達することも、実は釈尊の教えを聴聞することになるのです。親鸞聖人が釈尊の説かれた念仏の教えをどれほど喜ばれたのか、それを互いに受け止め合い、確かめ合う場が、聞法の場なのです。
「聞信」は、聞法して信ずることですが、「信ずる」ということは、疑わないということです。そもそも疑いの心というのは、教えよりも、自分の思いや考えを大切にするときに起こります。だから「信ずる」ということは、何かのために信ずるとか、信ずれば自分はどうなるかとか、そういうことではなくて、「はからいを離れよ」と教えられているように、自分の思いを離れ、教えに対して自分を空しくして謙虚になることではないでしょうか。そのように、阿弥陀仏の弘い誓願のことを聞信するならば、仏、つまり釈尊は、その人のことを「広大勝解の者」と言ってくださると教えられています。阿弥陀仏の誓願について聞信しなければならないのは、凡夫人であります。凡夫人であるには違いないのですが、聞いて信ずるということがあるならば、その凡夫人は広く偉大な、勝すぐれた見解をもつ者であると、釈尊は言われるのです。そしてその人を「分ふん陀利華だりけ」(白い蓮の華)のように気高く清らかな人だと呼ばれると、親鸞聖人は詠っておられるのです。 
■分陀利華
まず、「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり。」(一切善悪凡いっさいぜんあくぼん夫ぶ人にん 聞信如来もんしんにょらい弘ぐ誓願ぜいがん 仏言広大ぶつごんこうだい勝しょう解げ者しゃ)とあります。善人であろうと、悪人であろうと、一切の凡夫が、阿弥陀如来の広大な誓願せいがんについて聞信するならば、それぞれの善悪に関係なく、釈尊は、その人びとのことを広く偉大な、勝すぐれた見解をもつ人であると言ってくださるのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。阿弥陀仏の誓願は、どのような人でも、例外なく救いたいと願われた願いでありました。しかも、およそ往生とは縁がないと思われるような人、自分の力ではとても往生できるはずのない人、そのような人をこそ救いたいと願っておられるのです。
したがって、阿弥陀仏の本願からすれば、世間で善とされる人も、悪とされる人も、まったく関係のないことなのです。有能な人も、無能な人も、区別がないのです。本願は、人の善悪や能力を越えていて、それらをすべてまとめて包み込むような、大きな力なのです。ただ、誰にとっても、阿弥陀仏の本願について説かれた教えを聞信することが大切だと教えてあります。聞いて信ずるということは、どのようなかたちであろうと、教えに触れさせてもらって、触れ得た教えを疑わないことです。阿弥陀仏の本願について教え示された釈尊のお心に触れて疑わないならば、善であろうと悪であろうと、その人は、釈尊が期待してくださった通りの、勝れた了解をもつ人になれるのです。そのような人はまた、「分ふん陀利華だりけ」と名づけると、親鸞聖人は詠っておられます。
「分陀利華」というのは、蓮の華のことです。蓮の華のなかでも、とくに白い蓮の華です。白い蓮の華は、インドではプンダリーカと呼ばれていました。中国語にはカタカナやひらがながありませんから、インドの言葉の発音を漢字で写し取って、「分陀利華」という文字があてはめられたのです。インドには、たくさんの種類の美しい花があることでしょうが、それらの花のなかで、蓮の華がもっとも気高く尊い華とされてきたのです。お寺の本堂やご門徒のお内仏などの荘厳しょうごんに蓮がデザインされているのも、そのためだと思います。ここでは、阿弥陀仏の本願の教えを聞信する人は、蓮の華のように尊ばれるという意味になります。『仏説観無量寿経ぶっせつかんむりょうじゅきょう』には、「もし念仏する者は、当まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。」と説かれています。
蓮の華はもっとも気高く尊い華なのですが、それでは、その華はどのような所に生育するのかということについて、親鸞聖人は『教行信証』に、『維摩経ゆいまきょう』というお経から、次のような経文を引用なさっています。「高原の陸ろく地じには、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥おでいに、いまし蓮華を生ず。」 もっとも尊ばれる蓮の華は、実は、誰もが理想とするような、明るくて風通しのよい、すがすがしい場所に育つのではないのです。そうではなくて、誰からも遠ざけられるような、汚らしくてジメジメとした泥沼にこそ、蓮の華は咲くのです。一切の汚れに汚されていない真っ白な蓮華は、ドロドロと濁りきった泥沼のなかにしか咲かないのです。何とも不思議な感じがします。
世間の泥にまみれている哀れな凡夫、煩悩にあふれた日常に埋没していて、そこから脱け出そうにも脱け出せない悲しい凡夫、何が人生の最後の依り処なのかがわからず、そのわかっていないことすら、わかっていない愚かな凡夫、そのように情けない凡夫であるからこそ、阿弥陀仏は救いたいと願っておられるのだと教えられています。私たちの日常は、まさに「卑湿の淤泥」であります。釈尊と親鸞聖人の教えから、そのような我が身のありようをつくづくと思い知らされて、阿弥陀仏から私たちに差し向けられている願いのことをよくよく聞かせてもらい、疑うことなく素直になって信じるならば、その人こそ、泥のなかに咲く白い蓮華であると言われているのです。何ともありがたいことです。 
■邪見・憍慢
「正信偈」は、大きく三つの段落に分けられます。親鸞聖人ご自身がこれらの段落をお決めになられたのではなく、「正信偈」の教えを学びやすくするために、後の世に工夫されたものです。第一の段落は「総讃そうさん」、第二が「依え経段きょうだん」、第三が「依え釈段しゃくだん」といわれているものです。
第一の「総讃」は「帰き敬きょう」とも名づけられていますが、「正信偈」の冒頭の「帰き命みょう無む量りょう寿如来じゅにょらい 南無不可思議なむふかしぎ光こう」という二行がその段落です。ここには、阿弥陀仏が願われていることをしっかりと受け止められた親鸞聖人のお心が簡明に述べられています。二行ともに同じ意味で、「心の底から阿弥陀仏を敬い、生きるための日々の拠りどころといたします」というお心が表明されているわけです。順序を換えますが、第三の「依釈段」というのは、親鸞聖人から見られて、念仏の教えを正しく伝えてくださった大先輩が七人おられましたが、その七人の方々について讃えてある部分です。ここには、インド・中国・日本に出られた七高僧と、七高僧が教示してくださった本願念仏についての解釈の要点を掲げて、徳を讃嘆してあるのです。
第二の「依経段」は、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』に依って述べてある段落ですが、この「依経段」は、さらに三つの段落に分けられています。最初の「法蔵ほうぞう菩ぼ薩因さついん位時にじ」という句から始まる部分が、阿弥陀仏の本願のことが述べられ、讃えられている「弥陀章」です。次の「如来所にょらいしょ以い興出世こうしゅっせ」という句からが「釈迦章」です。ここには、『仏説無量寿経』というお経を説いて、阿弥陀仏の本願について教えてくださった釈尊のことが讃えてあるのです。そしてその次の「弥陀みだ仏本願念仏ぶつほんがんねんぶつ」という句からの四行が「結誡けっかい」といわれていますが、これはいわば、「依経段」の結びに当たる部分です。
これまで、この連載では、「依経段」の「弥陀章」「釈迦章」について学んできましたが、前回でもって「釈迦章」が終わりましたので、今回から「結誡」の部分に示されている教えについて確かめることになるわけです。ここには「弥陀仏本願念仏 邪見じゃけん憍きょう慢まん悪衆生あくしゅじょう 信楽受しんぎょうじゅ持じ甚じん以に難なん 難中なんちゅう之し難なん無過斯むかし」(弥陀仏の本願念仏は、邪見憍慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし)と詠われています。
阿弥陀仏は、一切の衆生をもれなく救いたいという願いを発おこされました。これが阿弥陀仏の本願です。そして衆生を救いとるために、阿弥陀仏は一切に等しく念仏を施し与えられました。つまり衆生は「南無阿弥陀仏」という名号をいただいているのです。しかしながら、衆生には、「邪見」があり、「憍慢」の心が常にはたらいています。「邪見」とは、真実に背いたよこしまな考え方です。また「憍慢」は、自ら思い上がり、他を見下して満足する心のはたらきです。すなわち衆生は、邪見にとらわれ、自分を思い高めて、阿弥陀仏が願われている願いに背を向けているのです。罪悪深重ざいあくじんじゅうの凡夫なのです。
そのような悪衆生にとっては、阿弥陀仏の本願として施し与えられている念仏を素直な思いで受け取らせてもらい、「南無阿弥陀仏」を保ち続けることは、とてもとても困難なことであると、親鸞聖人は教えておられます。悪衆生が、本願を喜び、念仏をいただくことは、困難なことの中でも、最も困難なことであって、それ以上の困難はないといっておられます。「邪見」や「憍慢」が妨げとなっているからです。それはまた、同時に、阿弥陀仏が発された本願が、衆生にとっては容易には信じ難いほどの広い大慈心によるものであることを意味しています。そしてまた、衆生に差し向けられている「南無阿弥陀仏」が、衆生には受け止めきれないほどの深い大悲心によるものであることを意味しているのです。 
 

 

■難の中の難
私たちは道理を見失っていると、釈尊は教えておられます。そして、そのために私たちは、いま現に悩み苦しんでいるのだと、教えておられます。私たちには、自分が道理に迷っているとか、いま悩み苦しんでいるとか、そのような実感は強くないかもしれません。しかし、道理に目覚めた人をブッダ(仏陀)といいますが、その仏陀であられる釈尊が、私たちのありさまを、そのように指摘しておられるのです。どうやら私たちは、道理とは関係のない、自分の目先のことに、自分の思いを信用してかかわっているに過ぎないのです。また、たとい自分は悩み苦しんでいると感じているとしても、それは、あくまでも道理に気づいていない私たちが感じていることであって、釈尊が指摘しておられる悩み苦しみと同じ質のものであるとは限らないのです。実は、本当に悩み苦しまなければならないこと、現に悩み苦しんでいるはずのこと、それを知らずに迷い続けているわけです。
そのような自分の事実に深く目覚めて、迷いから離れることができればよいのですが、理屈ではそれがわかっていても、現実にはその事実から眼をそらせて暮らしています。それなのに、これでよいのだと思い込んでいます。あるいは、しかたがないのだと言いわけをしています。救い難い愚かさというよりほかはありません。このような私たちを哀れんで、釈尊は『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』というお経を説いてくださったのです。このお経の題にある「仏」とは釈尊、「無量寿」とは、無量寿仏つまり阿弥陀仏のことですから、『仏説無量寿経』とは、釈尊が阿弥陀仏についてお説きになられたお経、ということになります。
「阿弥陀仏の本願念仏」といわれていますが、『仏説無量寿経』によれば、阿弥陀仏は、愚かで救い難い私たちを何とかして救いたいと願っておられます。そのような私たちだからこそ、救わなければならないと願っておられるのです。この願いが「阿弥陀仏の本願」なのです。阿弥陀仏は、私たちを深刻な悩み苦しみから救いたいという願いから、私たちに「念仏」を施し与えておられます。私たちには「南無阿弥陀仏」が贈り届けられているわけです。ところが、私たちは、道理に背いた邪悪な思い(邪見じゃけん)から離れられていません。そして思い上がって(憍慢きょうまん)、阿弥陀仏が願ってくださっていることよりも、自分の思いの方を信用して大切にしています。まさに私たちは「邪見憍慢の悪衆生あくしゅじょう」なのです。
悪衆生にとっては、阿弥陀仏の本願による念仏を「信楽しんぎょうし受持じゅじする」ことは、甚だ困難なことであると、親鸞聖人は指摘しておられます。「信楽」は、信じて楽うことです。本願によって念仏が私たちに差し向けられていることを疑わずに素直に信ずること、そして喜んで念仏を楽い求めることです。また「受持」は、受けとめて保つことです。施されている念仏をしっかりといただき、日に日にいただき続けることです。邪見や憍慢にとりつかれている私たちにとって、本願の念仏を素直に信じて喜ぶことが甚だ困難であり、そればかりか、それは難の中の難であって、斯これに過ぎた困難、つまりこれ以上の困難はないと、聖人は教えておられるのです。
そうすると、私たちには、念仏を信ずることは、まったく不可能だということになりますが、実はそうではないのです。そのために、この「依経段えきょうだん」の後に「依釈段えしゃくだん」が続きますが、そこには、このような私たちだけれども、むしろ、このような私たちだからこそ、私たちの自力によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられているのだという、七高僧の教えを親鸞聖人は述べてゆかれるわけです。ただ、「難の中の難、これに過ぎたるはなし」という句は、『仏説無量寿経』の経文によると思われますが、お経では、教えにはまれにしか遇えず、遇うことの困難さが説かれています。親鸞聖人は、あえて、経の趣旨とは少し違った文脈でこの句を用いておられるようです。 
■七高僧
「正信偈」は、大きく三つの段落に分けて見ることができます。前々回にも述べた通りです。
第一の段落は「総讃そうさん」といわれ、冒頭の「帰き命みょう無む量りょう寿如来じゅにょらい 南無不可思議なむふかしぎ光こう」という二行がそれに当たります。
第二は、「依え経きょう段だん」です。『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』に依って述べてある段落です。この「依経段」には、まず「法蔵菩薩因ほうぞうぼさついん位時にじ」という句から始まる「弥陀章」があります。ここには、阿弥陀仏の本願のことが述べられています。次に「釈迦章」があります。「如来所以興出世にょらいしょいこうしゅっせ」という句から始まる段落です。ここには、『仏説無量寿経』をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私たちに教えておられる釈尊を讃えてあります。そしてその次に「依経段」の結びに当たる「結誡けっかい」といわれる部分があります。それが、前回見ていただいた「弥陀みだ仏本願念仏ぶつほんがんねんぶつ」から始まる四行です。
この「結誡」の段落には、私たちのような邪見じゃけん・憍慢きょうまんの悪衆生あくしゅじょうにとっては、念仏を信じて受け入れることが、とても困難なことであると誡めてあります。「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀仏の大いなる願いによって、私たちに施し与えられているのですが、自分本位の邪悪な考えや思い上がりの心の盛んな私たちには、せっかく与えられている念仏を素直に受け止めることが、非常に困難になっているということです。これ以上に困難なことはないと、親鸞聖人は言っておられます。
ここで「依経段」が終わり、第三の段落である「依え釈しゃく段だん」に入るわけです。この「依釈段」には、インド・中国・日本に出られた、七高僧が教えてくださった本願念仏についての解釈の要点を掲げて、七高僧の徳を讃嘆してあります。邪見・憍慢の私たちには、本願による念仏を信じることは、この上なく困難なことです。そのような私たちだからこそ、何とかして導いてやりたいと、阿弥陀仏ははたらきかけておられるのですが、そのはたらきかけにも、私たちは背を向けているのです。やはり邪見・憍慢によるのです。そこで、そのような私たちは、どうすればよいのか、それを七人の高僧が教えてくださっていると、親鸞聖人は述べておられるのです。それが「依釈段」なのです。
七高僧のお一人お一人の教えが述べられる前に、「総讃」といわれる四句があります。「印いん度ど西天さいてん之し論ろん家げ 中ちゅう夏か日域じちいき之し高僧こうそう 顕大聖興けんだいしょうこう世せ正しょう意い 明如来本誓応みょうにょらいほんぜいおう機き」(印度・西天の論家、中夏・日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす)という偈げ文もんです。
「印度」は、いうまでもなくインドのことです。また「西天」というのは、中国より西方にあたる天竺(インド)のことです。「論家」というのは、「論」といわれる著作を世に残しておられる人という意味です。「中夏」は、中国のことで、「夏」は、この場合は大きくて盛んなありさまを表わす文字です。中国の人びとは、古くから、自分たちの国に誇りをもっていて、中国こそが世界の中心であり、盛んな国であると考えていました。そういうことから「中夏」という言い方がなされてきたわけです。「日域」は、私たちが住む日本のことです。
インドには、二人の高僧が出られました。龍りゅう樹大じゅだい士じと天親てんじん菩薩です。中国には、曇鸞大どんらんだい師し・道綽禅どうしゃくぜん師じ・善導大ぜんどうだい師しという三人の高僧がおられました。そして日本には、源信僧げんしんそう都ずと源空げんくう(法然ほうねん)上人のお二人が出られたのです。この方々の他にも、念仏の大切さを教えられた先人は何人もおられました。けれども親鸞聖人は、特にこの七人の方々が、「大聖」つまり釈尊が世にお出ましになられた本当のお心を顕らかにしてくださったのだと見ておられるのです。そしてまた、阿弥陀如来が起こされた誓願が、まさしく私たちのような邪見・憍慢の悪衆生を救うのにふさわしい誓願であることを、七高僧は明らかにしてくださっていると教えておられるのです。 
■信心の伝統
親鸞聖人は、インド・中国・日本に出られた七人の高僧の徳を讃えておられます。それは、「印度・西天の論家、中夏・日域の高僧」と言っておられる、これらの方々が、間違いのない信心を、後の世の凡ぼん夫ぶのために、正しく伝えてくださっていると、聖人は見ておられるからです。高僧というのは、徳の高い僧ということです。別に名僧という言葉がありますが、中国の仏教界では古くから、高僧と名僧とは厳しく区別されてきました。名僧は、よく名の知れた僧ということですが、名僧は必ずしも高僧であるとは限らないのです。世の人びとが生きてゆくのに、かけ替えのない指針を与えてくださっている方、それが高僧です。親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願によって与えられている念仏を素直にいただいて生きるしかないこと、そのことをつくづくと思い知らせてくださった高僧として、七人の大先輩を讃えておられるわけです。
「大聖興世の正意を顕し」とありますが、「大聖」とは釈尊のことです。釈尊が、この世間にお出ましになられた、その本当のお心、それが「興世の正意」ということです。釈尊が、この世間に出られた本当の目的は何であったのか、そのことを七人の高僧がたが顕かにしてくださっているのだと、親鸞聖人は述べておられるわけです。この「正信偈」の少し前のところに、「如来所以興出世にょらいしょいこうしゅっせ 唯ゆい説弥陀せみだ本願海ほんがんかい」(如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり)と詠ってありました。「釈尊がこの世間にお出ましになられたのは、たまたまのことではなくて、ただただ、海のように広大な阿弥陀仏の本願のことをお説きになるためであった」と聖人は言っておられます。
釈尊は、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』というお経をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私たちに教えておられるわけです。釈尊が私たちに何を願って『仏説無量寿経』を説いてくださっているのか、まさにそのことを七高僧は私たちのために顕かにしておられるということです。次に、「如来の本誓、機に応ぜることを明かす」とありますが、この「如来」は、阿弥陀如来です。「本誓」というのは、どうにもならない凡夫を何としても救いたいと願われた、阿弥陀仏の本願です。そしてその願いが成就しないのであれば、仏にはならないと誓われた誓願せいがんのことです。「機」とは、一人一人の人間のあり方、また、その一人一人の人間の「はたらき」のことをいいます。私たちは、いわば「邪見じゃけん・憍慢きょうまんの悪衆生あくしゅじょう」というあり方をしております。そして「邪見・憍慢の悪衆生」という「はたらき」をもって生きているわけです。
そのようなあり方をしている者であるからこそ、また、そのような「はたらき」をしている者であるからこそ、それを救わねばならないと願われる阿弥陀仏の願いが差し向けられるに相応しい者なのです。つまり「機」とは、本願の対象となっているという、そのようなあり方をしている者であり、またそのような「はたらき」をしている者のことなのです。
さて、龍りゅう樹大じゅだい士じ・天親てんじん菩薩・曇鸞大どんらんだい師し・道綽禅どうしゃくぜん師じ・善導大ぜんどうだい師し・源信僧げんしんそう都ず・源空げんくう(法然ほうねん)上人という、七人の高僧がたは、釈尊が何のためにこの世間にお生まれになってくださったのか、まず、その意味を顕かにしてくださっている方々であるとして、その徳を親鸞聖人は讃えておられるわけです。そして、親鸞聖人は、まさしくご自分こそが、阿弥陀仏の本願のお目当てであることを、七高僧が明らかにしてくださっていると、喜んでおられるのです。私たちも、他ならぬ、自分のような邪見・憍慢の人間こそが、阿弥陀仏の大悲の願いが向けられている者であることに気づかされて、そのことを親鸞聖人のように心から喜べる身になりたいという、そのような気持ちを確かめることが、「正信偈」に託された親鸞聖人のお心に沿うことになるのではないでしょうか。 
■龍樹大士
今回から、「正信偈」「依え釈しゃく段だん」の「龍樹章」といわれているところに入ります。七高僧の最初の龍樹大士について述べてある部分です。
初めの「釈迦如来」は、申すまでもなく、釈尊のことです。真実に目覚められたお方を「仏ぶつ」といいますが、「如来」は、真実(如にょ)から来られたお方、という意味ですから、真実に目覚められた上で、真実でない私たちの世界に真実を伝えに来られたお方であるということになります。仏と如来とは、自ら真実に目覚めた人と、他に真実を伝えようとした人と、そのような言葉の上での意味の違いがあるわけです。釈尊は、『楞りょう伽が経きょう』というお経をお説きになりました。それは、「楞りょう伽が山せん」という山の中でお説きになったお経とされているものです。伝えられているところによりますと、楞伽山という山は、セイロン島、今のスリランカにある山だということになっておりますが、くわしいことは明らかではありません。
『楞伽経』によりますと、釈尊は、その楞伽山におられて、そこで、大だい慧えという名の菩薩をはじめ、多くの人びとに向かって教えを説いておられましたが、その中で、重要な予告をされるのです。これを専門的には「楞伽懸けん記き」と言っています。釈尊が語られた、その予告といいますのは、ずっと後の世に、南天竺なんてんじく、つまり南インドに、龍樹という名の菩薩が出生するであろうということ、そして、その龍樹菩薩は、人びとがこだわっている誤った考え方をことごとく打ち砕くであろうということ、そのような予告だったのです。人びとがこだわる誤った考え方というのは、ものごとを実体として肯定する考え方(有うの見けん)と、ものごとを虚無として否定する考え方(無むの見)とです。その両方の考え方を龍樹大士は一挙に粉砕されるであろうと予告されているわけです。
龍樹大士の「大士」というのは「菩薩」のことです。古代のインドの言葉に「ボーディ・サットヴァ・マハー・サットヴァ」という言葉があります。この言葉が中国に伝えられましたが、中国には、これに当たる言葉がなかったのです。そのために、インドの言葉を耳で聞いて、それにもっとも近い発音の漢字があてはめられたわけです。このような方法を音写といっています。中国には、片仮名や平仮名がありませんから、音写するほかはなかったのです。それで、インドの言葉を「菩ぼ提薩だいさっ埵た摩訶まか薩さっ埵た」と音写したのです。ボーディ(菩提)は「仏の覚り」、サットヴァ(薩埵)は「生きもの」という意味で、さし当たっては「人」のことです。もとの言葉の前半の「菩提薩埵」は、「仏の覚りを求める人」いう意味になりますが、これを短く省略して「菩薩」という言葉にしているわけです。
後の半分の「摩訶薩埵」のマハー(摩訶)は「偉大」という意味で、サットヴァ(薩埵)は先ほどと同じで「人」という意味です。このマハー・サットヴァは、「偉大な人」ということですから、これを中国語にあらためて、「大士」としているのです。したがって、「菩薩」は、もとのインドの言葉の前半を音写して短くしたもの、「大士」は、もとの言葉の後半を中国語に訳したもの、ということになるわけです。結局、菩薩も大士も、釈尊が教えられた真実を顕かにしようとしておられる立派な人という意味になるのです。龍樹という人は、西暦一五〇年ごろから二五〇年ごろにかけて、南インドで活躍された人であるとされていますが、年代のくわしいことはわかっておりません。伝説では、この人は、龍に導かれて大乗の教えを体得された人であり、樹の根元で生まれられた人であったので、「龍樹」と呼ばれるようになったと伝えられています。この人は、釈尊がお説きになられた「縁起」という道理を、「空くう」という思想によって解明され、また、形式化していた当時の仏教を「大乗」という思想によってよみがえらせた人でありましたので、「菩薩」と仰がれておられる人なのです。 
■有無の見
釈尊は、楞りょう伽が山せんという山で説法をされたとき、聴衆に向かって、重要な予告をなさいました。後の世、インドの南の方に、龍樹りゅうじゅという菩薩が出るであろうと。そして、ものごとを肯定する「有う」とか、否定する「無む」とか、そのような誤った考えにこだわる見方をことごとく砕き破るであろうと。
龍樹という人は、二世紀から三世紀にかけて活躍された人です。釈尊の教えを正しく受け継がれた人です。『中ちゅう論ろん』や『大だい智度ちど論ろん』など、貴重な著作を残しておられますが、これらの著作によって、どのような考え方をするのがもっともよく釈尊のお心にかなうのか、その根本を明らかにしておられるのです。このため、後に中国や日本の仏教において、「八宗の祖師」と言って龍樹大だい士じを崇めてきたのです。八宗というのは、八つの宗派ということではありません。仏教のあらゆる宗旨ということです。仏教全体ということです。釈尊以後に出られた最高の祖師ということなのです。また龍樹大士は、『十住じゅうじゅう毘婆びば沙論しゃろん』という著作も著わされました。ここには、「難行道なんぎょうどう」と「易い行道ぎょうどう」という、念仏の教えにとても密接に関係する教えが述べられているのです。親鸞聖人は、このような龍樹大士の教えに出遇われたわけです。
釈尊の予告によりますと、その龍樹大士は、「悉能摧しつのうざい破有無はうむ見けん」(ことごとく、よく有無の見を摧破せん)とありますように、「有」「無」にこだわる邪見じゃけんを粉砕されるであろうということでした。「有の見」というのは、「常見じょうけん」とも言いますが、ものの実在に固執する見解です。一方の「無の見」というのは、「断見だんけん」とも言いますが、虚無にこだわる見方です。残されている著作によりますと、龍樹大士は、「有見」と「無見」と、この両方の考え方を一挙に払い除いて、事実を事実の通りに受け取ることが大切であると教えておられます。たとえば、人間が死んでしまっても、霊魂のようなものが実在し続けると考えるのが、「有見」です。それは、凡ぼん夫ぶがそのように思い描いているだけであって、事実としてそうなのかどうか、ということとは関係がないのです。また、人が死ねば、まったく滅尽してしまって、無に帰するのだと考えるのが「無見」です。これも、凡夫がそのように勝手に思い込んでいるだけであって、事実とは関係がないことなのです。いずれも、凡夫が自分の思いを語っているに過ぎません。事柄の事実そのものとは、まったく関係がないのです。
凡夫というのは、煩悩にまみれた愚かなあり方をしているのだと、釈尊は教えておられます。私たち凡夫は、浅はかな知識にたより、限られた経験にもとづいて、自分本位にものごとを判断します。そして、それがあたかも「事実」であるかのように錯覚してしまうのです。要するに、ほしいままに、自分が思いたいように思い込んでいるだけですから、それは「事実」ではないわけです。実在するのか、実在しないのか、そのようなことよりも、「実在する」とか、「実在しない」とか、そのように自分勝手に思い込んでこだわる、そのような「思い」や「こだわり」から、まずは離れる必要があると、龍樹大士は教えておられるのです。そうでなければ、自分が迷いを深めて混乱するばかりか、他人をも混乱させて苦しませることになると教えられるのです。
釈尊は、「縁起」という教えをお説きになりました。縁起の法は難解ですが、あえて一言で言いますならば、一切のものごとは、互いに他のものごとと関係しつつ成り立つのであるから、それ自体で、単独に成り立つと思うのは誤りである、ということです。しかも、その関係も、縁(条件)次第で、どのようにも変化するということです。釈尊が説かれた「縁起」の深い内容を、龍樹大士は「空くう」ということによって顕かにされました。それは、ものごとを固定的に考えたり、実体的にとらえたりして、それにこだわってはならないという教えなのです。ものごとの「事実」は、私たちの知識ではなくて、釈尊が教えられた智慧ちえによって明らかになるということなのです。 
 

 

■大乗無上の法
釈尊は、楞りょう伽が山せんという山で説法されたとき、重要な予告をされました。それは、ずっと後の世に、南インドに龍樹りゅうじゅという名の菩薩が出るであろうということでした。そして、ものごとを認めることにこだわる「有うの見けん」と、ものごとを認めないことにこだわる「無むの見」と、その両方の誤った考え方を一挙に砕き破るであろうと告げられたのでした。
そのことを親鸞聖人は「正信偈」に「釈しゃ迦か如来にょらい楞りょう伽が山せん 為い衆しゅう告命ごうみょう南天竺なんてんじく 龍りゅう樹大じゅだい士じ出しゅっ於世とせ 悉能摧しつのうざい破は有無うむ見けん」(釈迦如来、楞りょう伽が山せんにして、衆のために告命ごうみょうしたまわく、南天竺なんてんじくに、龍樹りゅうじゅ大だい士じ世に出でて、ことごとく、よく有無うむの見けんを摧ざい破はせん)と詠っておられるわけです。
釈尊は、さらに予告を続けられました。それが、今回の二行に詠われている予告です。すなわち、「宣説大せんぜつだい乗じょう無む上法じょうほう 証しょう歓かん喜地ぎじ生安楽しょうあんらく」(大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と)というところです。
龍樹という菩薩は、後の世に、「大乗という、この上になくすぐれた法を述べ伝えるであろう」ということ、そして「歓喜地というさとりを得て、安楽国、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土に生まれるであろう」ということ、このような予告だったのです。龍樹大士は、「大乗」といわれる仏教を大成させた人でありました。そのため大乗仏教に属するあらゆる宗旨の祖と仰がれている人なのです。「大乗」というのは、「大きな乗り物」ということです。それは「多くの人を誰でも、迷いの状態から、迷いのなくなった状態に導いて行ける教え」というほどの意味に理解することができます。「大乗」に対して、一方に「小乗」という言葉がありますが、それは適切な言い方ではありません。「大乗」という考え方を主張していない伝統的な仏教の考え方をおとしめた言い方だからです。
釈尊がお亡くなりになった後、釈尊が語り残された教えは、それぞれの世代を越えて、仏弟子の間で忠実に受け継がれました。そして、釈尊のお言葉を正確に受け止めようとする懸命の努力が何百年にもわたって積み重ねられてきたのです。そういうなかで、「大乗」という考え方が起こったのです。それは、釈尊がお亡くなりになって三百年以上も後のこととされています。釈尊は教えられました。人が生きるには、さまざまな悩み苦しみを経験しなければならないと。そして、そのような苦悩がなぜ起こるのかと言えば、それは、真実について無知であり、欲望のために、こだわるべきでない物事にこだわるからだと。だから、苦悩から逃れるためには、その原因である無知や欲望に代表されるさまざまな煩悩から離れなければならないと教えられたのです。この教えを忠実に受けとめた伝統仏教の人びとは、無知や欲望などの煩悩をなくした阿羅あら漢かんという境地に到達することを目指しました。そして命がけの熱心な修行に励んだことでしょう。しかし、ここに重大な問題があります。
釈尊は、三五歳で仏になられ、八〇歳でお亡くなりになるまで、四五年間、休む間もなく、人びとに教えを説き続けられたのです。それは、すべての人が迷いから覚めて、真実に沿って安楽に生涯を尽くしてほしいと願われたからでした。釈尊のこのお心と、自分一人の解げ脱だつを求める、伝統仏教の受けとめ方の間には、大きな隔たりがあるわけです。そこで、釈尊のみあとを慕い、釈尊のお心に沿って生きようとする人びとが、「どのような人でも載せていただける大きな乗り物」つまり「大乗」として、釈尊の教えを受けとめ直そうとしたのです。それにともなって、自分一人の解脱を求める伝統仏教の考え方を「小乗」としておとしめたのです。しかし、小乗との関係によって成り立つ大乗、小乗を排除するような大乗、そのような考え方は、真の「大乗」とは言えないのです。やはり、すべてを包み込めるような「大乗」でなければ、すべての人を救いたいと願われた釈尊のお心に沿わないことになるのです。
そのような「無上の大乗の法」を、龍樹大士は世間に宣説されたというわけです。 
■歓喜地
釈尊は、『楞りょう伽が経きょう』というお経をお説きになりました。このお経のなかで、後の世に龍樹りゅうじゅという名の菩薩が出て、世間の誤った考え方をただすであろうと、釈尊は予告されました。さらに、この龍樹という菩薩が、「大乗というこの上になくすぐれた法を述べ伝えるであろう」ということ、また「歓喜地というさとりを得て、安楽国、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土に生まれるであろう」ということ、このような予告をも釈尊はなさったのでした。そのことが、「正信偈」に、「宣説大せんぜつだい乗じょう無む上じょう法ほう 証しょう歓かん喜地ぎじ生しょう安楽あんらく」(大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と)と詠われているわけです。この二句の前半の「宣説大乗無上法」については、その大まかなところを前回見ていただきました。
後半の「証歓喜地生安楽」(歓喜地を証して、安楽に生ぜん)というところですが、「歓喜地」というのは、菩薩が到達されるさとりの境地のことです。そもそも菩薩といいますのは、悩み苦しんでいるすべての人びとを救いたいと願い、そのために自分も仏に成りたいと願って、仏に成るための修行に励む人のことです。菩薩が仏に成るために実践する修行は、六ろく波羅はら蜜みつといいます。布施ふせ波羅蜜(完全な施し)・持じ戒かい波羅蜜(決まりを完全に守ること)・忍辱にんにく波羅蜜(完全な忍耐)・精進しょうじん波羅蜜(完全な努力)・禅定ぜんじょう波羅蜜(心の完全な集中)・般若はんにゃ波羅蜜(完全な智慧ちえ)、これらを完成させる修行を六波羅蜜というのです。波羅蜜とは、完全とか完成とかと解釈される言葉です。初めてこの志を立てた菩薩を初発心しょほっしんの菩薩といいます。初発心の菩薩が、六波羅蜜の行を開始してから、これが完成して仏の境地に達するまでには、多くのさとりの段階があるとされています。経典によって、この段階の数え方はさまざまですが、古くから、最も整ったものと見られてきたのが、『瓔珞本ようらくほん業経ぎょうきょう』というお経に説かれているものです。
このお経によりますと、初発心の菩薩が六波羅蜜の修行を完成させて仏に成るまでには、五十二の菩薩の階位を経なければならないとされています。十信位・十住位・十行位・十廻向位・十地位・等覚とうがく位・妙覚みょうがく位の五十二位です。これらの段階でそれぞれに六波羅蜜の行の中身を深めなければならないとされているのです。『瓔珞本業経』に従いますならば、「歓喜地」といいますのは、十地の最初、第一地(初地位)のことです。つまり、下から数えて四十一番目の段階になります。この境地に到達しますと、何が真実であるかということが明確に体得され、間違いなく仏に成れるという確信が得られるといわれているのです。そして、この確信が得られますと、何にもたとえようのない喜びがわき起こってくるので、この境地を「歓喜地」と名づけているというわけです。しかし、親鸞聖人の本願他力の教えからしますと、「歓喜地」というのは、自らの修行によって到達する境地ではありません。阿弥陀仏の願いによって、自分が間違いなく浄土に往生させてもらえること、そのことを身にしみて喜べるようになれるとき、それが「歓喜地を証する」ことになるのです。阿弥陀仏よりたまわっている信心を素直に受け取り、施し与えられている「南無阿弥陀仏」を、一切の迷いや疑い、はからいから離れて、虚心にいただけること、これが「歓喜地」であると聖人は教えておられるのです。
親鸞聖人が、龍樹菩薩について、「証歓喜地生安楽」(歓喜地を証して、安楽に生ぜん)と詠っておられますのは、龍樹菩薩が、本願の念仏を心から喜べる身になられたということ、そしてそのことによって、安楽国、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土に往生されたのだということ、それを私たちに教えておられるのです。「正信偈」には、「歓喜」とか「慶きょう喜き」とか、喜びの気持ちを表わすお言葉が随所に見られますが、それは念仏を喜ばれた親鸞聖人のお気持ちが率直に表明されているからだと思います。真実の教えに触れることは、本当にうれしいことなのだということを教えられているように思うのです。 
■難行か易行か
釈尊は、後の世に、龍樹りゅうじゅという菩薩が出られるであろうと予告されました。龍樹大だい士じは、この上なくすぐれた大乗の法を世間に説き明かされるであろうということ、そして、やがては阿弥陀仏の浄土に往生されるであろうということ、このような予告を釈尊はなさったのでした。それは『楞りょう伽が経きょう』というお経に説かれているものです。このお経の所説にもとづいて、親鸞聖人は龍樹菩薩のことを「正信偈」に紹介しておられるのですが、これは、釈尊が六百年も後のことを予告なさったという、不思議なお話として述べておられるのではありません。親鸞聖人は、龍樹という人こそが、釈尊の教えを正しく継承され、その肝心かなめのところを広く世間に伝えてくださったお方であることを私たちに教えようとしておられるのです。
龍樹大士は、いくつかの著作を残しておられますが、その中に、「十住じゅうじゅう毘婆びば沙論しゃろん」というものがあります。これは『華け厳ごん経きょう』という大きなお経の「十じゅう地じ品ほん」という章の教えを解説した「論」なのです。なお、「十地品」を『華厳経』から独立させて、『十地経』として用いられる場合もあります。「十住毘婆沙論」の「易い行ぎょう品ほん」というところに、「難行道」と「易行道」のことが述べられているわけです。つまり仏道を歩むのに、困難な道と、易しい道と、二つの道があると説かれているのです。「難行道」は、自分の歩く力をたよりにして、けわしい陸路を進もうとする「聖しょう道門どうもん」の修行をたとえたものです。一方の「易行道」は、阿弥陀仏の本願という船に乗せてもらって、安楽に浄土往生に導かれるとする「浄土門」の念仏の教えです。
そのことを親鸞聖人は、「顕けん示じ難行なんぎょう陸ろく路苦ろく 信楽しんぎょう易い行ぎょう水道楽しいどうらく」(難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ)と詠っておられるのです。つまり、龍樹大士は、難行の陸路は苦しみでしかないことを明らかに教え示されて、水路を進むことは易行であって、それは楽しくてうれしいことであることを私たちに信じさせ、私たちにその易行の道を願わせようとしてくださっているのだということです。親鸞聖人は、そのような龍樹大士の徳を讃えて、大士の教えを大切に受け止めるよう私たちに教えておられるというわけです。おそらく、龍樹大士は、自分の努力によって悟りを得るために、それこそ命がけの修行に励まれたことでしょう。目の前にちらつく世間の快楽と闘い、ややもすれば気力を失いがちな自分の心を奮い立たせながら、ひたすら道をきわめようとされたことであろうと思われます。しかし、励まれれば励まれるほど、自分の力の限界、自分の弱さ、自力を尽くすことの空虚さ、それを痛切に思い知らされるようになられたのではないでしょうか。その時に、ハッと気づかれたのが、阿弥陀仏の大慈大悲によってはたらきかけてもらっている本願他力の教えのありがたさだったのだと思います。
ですから、難行と易行と、二つの道があって、そのどちらかを選びなさいという教えではないのです。自力難行の行き着く、その絶望の果てには、他力易行の教えしか残っていなかったということを教えておられるのだと思います。私たちは、「五ご濁じょくの悪時」といわれる世の中に生きなければなりません。五濁の世においては、時代社会そのものが濁っているのだと教えられています。また五濁の世を生きる人びとの資質も濁りきっていると教えられています。そのような現実のなかで、人びとは、自らの努力によって平和を実現しようと願いながら、そのために争いを続けています。自分の幸せを求めながら、そのことによって、不安や苛立ちを背負いこんでいます。豊かになろうと努力しているのに、そのために寒々とした心の貧しさに恐れおののいています。このような時であるからこそ、愚かな凡ぼん夫ぶの「はからい」をちょっと横に置いて、この私を何とかして安楽にしてやりたいと、願われている願いに謙虚に身をゆだねられるような自分になりたいと思うのです。 
■如来大悲の恩徳
前回見ていただきましたように、龍りゅう樹大じゅだい士じは、仏道の歩みには、自力聖しょう道門どうもんの難行道なんぎょうどうと他力浄土門の易い行道ぎょうどうとがあることを教えられました。自分の力をたよりにして、困難な修行に励む聖道門の教えは、苦しみに耐えながら険しい陸ろく路ろを進むようなものだと教えられました。一方、ひたすら如来の願力におまかせしきって、阿弥陀仏の浄土に導いていただくとする浄土門の教えは、船に身をゆだねて水路を進むようなものだと教えられたのです。厳しい自力の修行は、一見、真面目そうで、誠実そうに見えるでしょうが、それは、誰にもできる修行ではありません。できそうもないことをやり抜こうとするとき、そこには自己過信の心がはたらきます。つまり思い上がりです。自分を見失ったすがたです。
自分を正直に見つめるならば、そこには、よこしまで愚かな自分のすがた、間違いを犯してばかりいる自分自身が見出されるわけです。よこしまで愚かな者には、自分の力で悟りに近づくことはできません。間違いを犯す者には、自分の力で浄土に往生するための原因を作ることはできないのです。しかし、実は、そのような者をこそ、何とか安楽浄土に迎え入れなければならないと願われた願いが、阿弥陀仏の本願なのです。自分なりに、険しい陸路を進もうとしたとしても、邪念を払いのけられない自分は、結局は、船に乗せてもらって水路を行くしかないからです。そのような阿弥陀仏の本願について、「憶念おくねん弥陀みだ仏本願ぶつほんがん、自じ然即ねんそく時じ入必定にゅうひつじょう」(弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る)と、龍樹大士は教えておられます。
「本願」は「もとからあった願い」ということで、私たちには思いも及ばない遠い昔からはたらき続けている「願い」です。「憶念」というのは、いつも心にとどめて忘れないことです。本願のことを理解するというのではなくて、そのような願いがはたらいている事実に心を保ち続けていることです。「自然」は「自おのずから然しかる」とも読みますが、理屈では説明しきれないけれども、「なぜかそのようになる」ということです。ここでは、阿弥陀仏が願っておられる願いが、私たちにしてみれば、「なぜかそのようになる」としか受け止められないことを「自然」と言っているわけです。「即の時」とありますのは、「ただちに」とか「そのまま」などと理解される言葉です。「必定」は、「かならず浄土に往生して仏に成ることが確定する状態」ということで、「正定しょうじょう」(まさしく確定する)とも言われます。
この私を助けてやりたいと願っておられる阿弥陀仏の本願のことを、いつも心にとどめているならば、それがそのまま、私の浄土往生を決定することになると、龍樹大士は教えておられるのです。私には説明はできないけれども、私は間違いなく阿弥陀仏の浄土に往生させてもらえることになっていると、教えておられるのです。それでは、私たちはどうすればよいのか。これについて、龍樹大士は「唯能ゆいのう常称じょうしょう如来号にょらいごう、応報大おうほうだい悲弘ひぐ誓恩ぜいおん」(ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし)と教えておられます。ただひたすら、阿弥陀仏のお名前を称えるほかはないということ、阿弥陀仏から贈り届けられている「南無阿弥陀仏」という号みなを虚心に受け取らせてもらうほかはないということです。
私たちは、そのように受け取るべき者としてここに生きているわけです。「南無阿弥陀仏」が素直に私たちの口から発せられること、そのことが、何とか助けたいと願われる如来の大悲のご恩に報謝することになるのだから、ぜひとも、そのように感謝の思いを保ちながら念仏しなさいと、龍樹大士はすすめてくださっているのです。親鸞聖人は、「和讃」に、「如来大悲の恩徳は 身を粉こにしても報ずべし」と詠っておられます。たとい身を粉にしても、感謝しきれないものがあることに、心の底から目覚めなさい、ということです。人は、素直に感謝している時だけが、もっとも幸福な時なのではないでしょうか。 
■天親菩薩
親鸞聖人は、念仏の教えを正しく伝えられた七人の高僧の徳を讃えておられます。この方々の教えがあったからこそ、ご自分のところにまで、間違いのない念仏が伝えられたと喜んでおられるのです。「正信偈」には、七高僧お一人お一人がどのようなお方であったのか、そして、どのような教えを後の世に伝えてくださっているのか、それを簡潔に述べてあります。その最初は、これまでに見ていただきましたように、龍樹りゅうじゅ菩薩でありました。そして第二祖として、今回からみていただく天親菩薩のことが述べられているのです。
天親菩薩は、龍樹大士からおおよそ二百年ほど後に、北インドに出られました。西暦四〇〇年ごろに生まれられて、四八〇年ごろに亡くなられたと推定されています。それは、釈尊の時代から数えて、おおよそ八〇〇年ほど後のことです。「天親」という呼び名のほかに、「世せ親しん」という呼び方もされています。浄土の教えの伝統では、通常「天親」とお呼びしていますが、一般には、どちらかと云えば、「世親」という呼び方の方が多いように思われます。釈尊がお亡くなりになって、一〇〇年ほどしますと、仏教は大きく二つの部派に分かれました。そして時代とともに、さらに分裂が進み、天親菩薩が出られたころには、いくつもの部派が林立していたのでした。それぞれの部派では、釈尊の教えを誤りなく、正しく伝承するために、教えの緻密な理論化がそれぞれに進められ、壮大な教義学が発達するようになりました。
天親菩薩は若くして出家され、当時、北インドのカシュミールという地域に栄えた部派に所属され、その部派の学問をきわめられたと伝えられています。教義の探求に大成功をおさめられ、伝統のあるその部派を代表する学僧になられたのでした。ところが、伝統仏教をよりどころにしておられた天親菩薩は、実兄の無む著じゃくという人から手厳しく批判されたのでした。そしてお兄さんから説得されて、部派の仏教を捨てて大乗仏教に転向されたのです。伝統仏教では、自分独りが煩悩から離れて阿羅あら漢かんという聖者しょうじゃになることを理想にしておりました。それに対して、お兄さんの無著は、釈尊が願われた通り、すべての人びとと共に、釈尊のような仏(目覚めた人)になることを目標とする、大乗の精神をよりどころにしておられたのでした。天親菩薩は、説得により自信を失い、これまでの非を痛感されたのです。そしてお兄さんから教えを受けて大乗を学ばれました。しかし、天才的な学僧であり、ご自分の実力で教義学の奥義をきわめて来られた天親菩薩にしてみれば、これまでとは根本的に異なる大乗の教えによって、釈尊が願われた、その願いをきちっと受け入れることは容易ではありませんでした。また、どれほど深く学んでも、大乗の精神を体現することの困難さを痛感されるばかりだったのです。
そのような挫折のなかで、天親菩薩は、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』の教えに出遇われたのです。つまり、自分の実力で仏になろうとするのが大乗仏教だと思い込んでおられたのに、実はそうではなくて、阿弥陀仏が願いとされた、本願に素直に身をゆだねることこそが、釈尊が願われたことであり、それこそが大乗であることに気づかれたのでした。そこで、天親菩薩は、『仏説無量寿経』の教えを自分はどのように受け止めたのか、その大切なところを「論」としてまとめられたのです。それが『浄土論』という著作になったのです。「正信偈」には、「天親菩薩、論を造りて説かく」とありますが、それは、天親菩薩が浄土の教えに帰して『浄土論』を著わされたことを指しています。そして、次の句に「無碍光如来に帰命したてまつる」と詠われていますが、「無碍光如来」というのは「阿弥陀仏」のことですから、『仏説無量寿経』によって阿弥陀仏の本願に目覚められ、本願をよりどころにされた天親菩薩の信心の内実が表明されているのです。 
 

 

■浄土論
「天親てんじん菩ぼ薩造論説さつぞうろんせつ」(天親菩薩、論を造りて説かく)とありますように、天親菩薩は、『浄土論』という「論」をお作りになりました。そして、阿弥陀仏の浄土のことについての教えを示されたのでした。この『浄土論』は、『仏説ぶっせつ無む量りょう寿じゅ経きょう』にもとづいて説かれたものです。『仏説無量寿経』というときの「仏」は釈尊のことですから、それは「釈尊が無量寿についてお説きになられたお経」つまり「釈尊が阿弥陀仏について説いてくださったお経」ということになります。このお経に説かれた釈尊の教えについて、天親菩薩が独自の解説を加えられたもの、それが『浄土論』なのです。
『浄土論』は、くわしくは『無量寿経優婆うば提舎願生だいしゃがんしょう偈げ』といいます。「優婆提舎」は、インドの言葉「ウパデーシャ」の発音を漢字に写し取った言葉で、「論議」という意味です。『仏説無量寿経』の「論」ということになります。さらに「願生偈」とありますが、この『浄土論』には、まず、天親菩薩が阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願われた、そのお心を「偈うた」にして述べてあり、その後に、「長行じょうごう」といわれる散文によって、その「偈」の意味するところを解説してあるのです。したがって往生を願われた「偈」と、その「偈」についての論議とを合わせたものが『無量寿経優婆提舎願生偈』ということになります。
『浄土論』は、私たちが依りどころにしております『真宗聖典』に収載されています。その最初のところに、『無量寿経優婆提舎願生偈』という標題があります。そしてその下に、「婆藪ばそ槃ばん頭菩ずぼ薩造さつぞう」とあります。これは、「天親菩薩が造られたもの」という意味です。「婆藪槃頭」は、「天親」のことですが、「ヴァスバンドゥ」というインドの言葉を「天親」とか「世親」とか、中国語に訳さないで、発音をそのまま漢字に写して表記したものです。さて、『浄土論』によりますと、その冒頭に、「世せ尊そん我が一心いっしん 帰き命みょう尽じん十方じっぽう 無碍むげ光如来こうにょらい 願がん生しょう安楽国あんらくこく」(世尊、我一心に、尽十方 無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)という四句があります。「尽十方無碍光如来」は、阿弥陀如来のことです。「帰命尽十方無碍光如来」は、十字の名号みょうごうとされていますように、「南無阿弥陀仏」のことなのです。「阿弥陀仏に南無したてまつります」ということです。
天親菩薩は『仏説無量寿経』の教えについて論議・解説を加えられるに先立って、まず、「帰き敬きょう」のお心を表明されたのです。つまり、どのような気持ちで今から論を進めるのかという、ご自身の基本的な姿勢を明らかにしておられるわけです。
天親菩薩は、まず「世尊」といって、釈尊に向かって呼びかけておられます。そして、「私は心を一つにして、阿弥陀如来に帰命したてまつります。そして私は(釈尊のみ教えにしたがって)阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願っております」という、帰依の気持ちを表しておられるのです。このあたりのことを、親鸞聖人は「正信偈」に「天親菩薩造論説 帰命無碍光如来」(天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる)と詠うたっておられるのです。ここに、聖教しょうぎょうに対する私たちの接し方がはっきりと教示されていると思います。私たちは、ややもすれば、「帰命」の心を抜きにして聖典を扱うことがあります。聖教の客観的、論理的な読み方も必要だと思いますが、その大前提に「帰命」の心がなければならないと、天親菩薩も親鸞聖人も教えておられるのです。
迷いばかりの凡ぼん夫ぶが勝手に作り出した論理や学説のなかに、仏や菩薩のお言葉を引っ張り込んで、都合よくつじつまを合わせたり、判断を加えたりするようなことでは、せっかくの教えをまともに学ぶことなど到底できないということではないでしょうか。私が勤めております学校の教室で、学生が『真宗聖典』を開く前に、いつも聖典を軽く押し頂く様子を見て、本人は何気なくやっていることかもしれませんが、すがすがしく感じさせられるのです。 
■真実を顕す
天親てんじん菩薩は『浄土論』をお作りになりました。それは『仏説ぶっせつ無む量りょう寿じゅ経きょう』の教えにもとづいて述べられた『論』でありました。阿弥陀仏の本願を教えてあるのが『仏説無量寿経』ですから、天親菩薩は、本願によって凡ぼん夫ぶに施与されている念仏こそが真実であることを顕かにされたのです。お経に説かれた真実が、まさしくその通りの真実であることを天親菩薩が顕かにされたのです。そのことを親鸞聖人は「修多羅に依って真実を顕して」と述べておられるのです。
「修多羅」は、インドの「スートラ」という言葉の発音を漢字に写しとったものです。「スートラ」は、織物の縦糸を意味する言葉です。漢字の「経」も縦糸のことですので、「スートラ」は通常は「経」と訳されるのです。織物の場合、縦糸が端から端までずっと貫かれていて、それに横糸がからんでさまざまな模様を作り出します。縦糸は表面には出ませんが、一貫して通っていて横糸を支えているわけです。お経にも、いろいろな言葉があり、さまざまな表現がありますが、それは模様のようなものです。どの経典にも、釈尊が教えようとされた精神が変わることなく貫かれていることから、釈尊の教えを伝える聖典を「経」と呼ぶわけです。
天親菩薩は修多羅に依って真実を顕かにされたのだと、親鸞聖人は教えておられますが、天親菩薩が依られた修多羅、つまりお経とは、『仏説無量寿経』を指しています。したがって、このお経に依って真実を顕かにされたのが『浄土論』なのです。そして、天親菩薩が顕かにされたその真実とは、この句の直前にありました「帰命無碍光如来きみょうむげこうにょらい」つまり「南無阿弥陀仏」なのです。「南無阿弥陀仏」という名みょう号ごうこそが阿弥陀仏から私たちに与えられている真実なのです。決して私が真実であるかどうかを判断するような真実ではないのです。
『浄土論』の冒頭に、天親菩薩は「我われ修多羅、真実功徳の相そうに依って」と述べておられます。「私は『仏説無量寿経』の真実功徳の相に依って、この『論』を作ります」というほどの意味になります。「真実功徳の相」というのは、真実のすぐれた徳を具えたものということです。親鸞聖人は、『尊号真像銘文そんごうしんぞうめいもん』に「真実功徳相というは、真実功徳は誓願せいがんの尊号そんごうなり。相はかたちということばなり」と述べておられます。つまり「真実功徳」とは、阿弥陀仏の誓願による名号、「南無阿弥陀仏」のことであるとしておられるのです。「真実功徳」は、真実のすぐれた徳を具えたものですから、誰にとってもなくてはならないものであり、生きてゆく上での究極的な依り所となるものです。その依り所が「南無阿弥陀仏」という名号なのです。その名号が私たちに施されているのですから、「南無阿弥陀仏」をありがたく受け止めて、それを素直にいただくこと、それだけが私たちに残されているわけです。
これに続いて「正信偈」には「光闡横超大誓願こうせんおうちょうだいせいがん」(横超の大誓願を光闡す)と詠ってあります。「光闡」というのは、光り輝かせて明らかにすることです。「横超」というのは、今は結論的な言い方をしておきますと、それは「他力」ということです。「他力」は阿弥陀仏の本願の力です。「大誓願」は阿弥陀仏の誓願ですから、「本願」ということになります。したがって、「横超の大誓願」は、「他力の本願」ということです。「南無阿弥陀仏」は、私たちの自我の意志によって称える名号ではなくて、阿弥陀仏が阿弥陀仏の願いとして、私たちに差し向けられている「南無阿弥陀仏」なのです。「南無阿弥陀仏」という六文字の全体が名号として施されているのです。「修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す」とありますが、それは、天親菩薩が、『仏説無量寿経』に依って、「南無阿弥陀仏」が真実であることを顕かにされ、その真実である名号が、他力の本願によるのであることを明らかにされた、ということなのです。 
■横超の大誓願
「依え修しゅ多羅たら顕真実けんしんじつ」(修多羅に依って真実を顕して)とありますように、天親てんじん菩薩は、修多羅、つまり『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』によって真実を顕かにされました。天親菩薩が顕かにされた真実とは何であるのかといえば、それは、「帰き命みょう無む碍げ光こう如来にょらい」(無碍光如来に帰命したてまつる)ということ、すなわち「南無阿弥陀仏」というお名号みょうごうでありました。如来よりいただいている「南無阿弥陀仏」だけが真実であることを顕かにされたのでありました。そして親鸞聖人が「光闡横超大誓願こうせんおうちょうだいせいがん」(横超の大誓願を光闡す)と続けておられますように、天親菩薩は「横超の大誓願」を光り輝かせて明らかにされたのです。「横超」というのは他力のこと、「大誓願」は、一人ももらすことなく浄土へ迎え入れたいと誓い願われた阿弥陀仏の本願です。
親鸞聖人は『愚ぐ禿とく鈔しょう』という著作を残しておられますが、その著作の中に「横超」という教えが示されています。一口に仏教というけれども、その内容は四つに分けて見ることが必要であると教えておられるのです。まず仏教の全体を「竪しゅ」と「横おう」の二種に分けられます。「竪」は、順序次第に従って段階的に一つの方向に進もうとする方法をいいます。つまり、自力・聖道門しょうどうもんの仏教です。「横」は、順序段階を経ずに一挙に最終目的を達成しようとする方法です。すなわち他力・浄土門の教えです。そして「竪」と「横」に、それぞれ「出」と「超」の二種があるとされています。「出」は、迷いによって生ずる苦悩からの脱出をはかって、やがてさとりの安楽に到達しようとする教えです。一方の「超」は、迷いの身のままに、一挙にさとりの境地に達しようとする教えです。
この「竪」「横」と「出」「超」とをそれぞれに組み合わせますと、四つに分類できるわけです。その第一は「竪出しゅしゅつ」ですが、永い永い厳しい修行によって徐々に仏のさとりに近づくと教えられている自力・難行道なんぎょうどうのことです。第二は「竪超しゅちょう」ですが、強靭な菩ぼ提心だいしんによって修行に励み、一挙に仏のさとりを体得するという教えです。これももう一つの自力・難行道です。第三は「横出おうしゅつ」です。これは困難な修行によるのではなく、念仏によって一足飛びに浄土に往生して仏のさとりを得ようとする教えです。他力・易行道いぎょうどうです。往生は阿弥陀仏の本願力、すなわち他力によるのですが、この場合は、自力によって他力にすがろうとする教えなのです。つまり自力の念仏です。第四が「横超」です。これは一切のはからいから離れ、ひたすら『仏説無量寿経』に説かれている阿弥陀仏の本願に帰依して、阿弥陀仏の浄土に往生させていただこうとする教えです。如来より賜っている信心、いただいている念仏です。
親鸞聖人は『尊号真像銘文そんごうしんぞうめいもん』に「横はよこさまという、如来の願力なり。他力をもうすなり。超はこえてという。生しょう死じの大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり」と述べておられます。「横」は「よこさま」ということですが、理屈に合わないことを「横」といいます。煩悩具足の凡ぼん夫ぶを一挙に往生させたいと願われる如来の本願は、私たちの理屈に合うものではありません。私たちの理屈からすれば、懸命の修行によってこそ浄土に近づくということになります。しかし私たちの理屈とは無関係に、迷いの大海を一挙に超えさせて、最高のさとりを得させたいと願われる、それが「横超」ということなのです。そして横さまに一挙に往生させたいと願っておられる、この「横超の大誓願」の意味を天親菩薩が『浄土論』によって顕かにしてくださったのです。親鸞聖人は、「邪見憍慢じゃけんきょうまんの悪衆生」である凡夫にとって、自分の力によっては何一つ良い結果は得られないと見きわめておられます。そのような凡夫であるからこそ、この「横超の大誓願」のことわりを顕かにしてくださった天親菩薩の教えを喜んでおられるのです。私たちも、何とか、この教えを心から喜べる身になりたいのです。 
■本願による回向
親鸞聖人は、天親てんじん菩薩の教えを讃えて感慨深く詠っておられます。『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』によって、本願による「南無阿弥陀仏」の真実を顕かにしてくださったのが天親菩薩であると述べておられるのです。また、愚かで、しかも思い上がりが激しい凡ぼん夫ぶ、そのような凡夫だからこそ、一挙にすくい取ろうとしてくださるのが阿弥陀仏の大悲であり、その大悲の誓願せいがんのありがたさを、天親菩薩が私どものために顕かにしてくださったのだと、聖人は教えておられるのです。さらに親鸞聖人は、天親菩薩を讃えられます。「広こう由ゆ本願力ほんがんりき回え向こう 為度いど群生彰一心ぐんじょうしょういっしん」(広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す)と詠っておられるのです。
阿弥陀仏の本願の力は「回向」というすがたによって凡夫に及ぼされているのであって、天親菩薩は、その「回向」されている本願に信順しながら、人びとを救いに導くために、まことの信心しんじん(一心)の意味を明らかにしてお示しになられたのです。阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられたとき、悩み苦しむ人びとをもれなく救いたいという願いを発おこされました。人びとは、深刻な悩み苦しみの状態にあるにもかかわらず、そのことにすら気づいていないのです。そのような凡夫を救おうとされる願い、それが「本願」です。
「回向」というのは、現代風にいうならば「振り向ける」ということになります。この「回向」の教えの根底には、「自業自得」という教えがあります。それは、自らの行い(自業)が原因となって、自らが結果を受け取る(自得)という教えです。「自業自得」という言葉は、失敗したり、病気になったりするような、悪い意味に使われることが多いように思われますが、それは本来の意味ではありません。たとえば、仕事が成功するのも「自業自得」なのです。ところで「回向」は、自分がなした修行によって生ずるよい結果を自分のさとりのために「振り向ける」ことと解釈されることがあります。しかし浄土の教えでは、意味がまったく違っています。
私たち末世の凡夫にとっては、自分の力では浄土に往生する原因を作れないのです。原因を作れなければ、往生という結果は起こらないわけです。念仏が往生の正因しょういんであると教えられておりましても、私が私の思いで念仏することを決定するとしますと、どうしても、自我へのこだわり、自分の都合、場合によっては、打算がつきまとってしまいます。そうすると、本人としては、どれほど誠実なつもりであっても、結局は、阿弥陀仏を念じているのではなくて、自分の都合を念じているに過ぎないことになってしまうのです。そのようなものは念仏とは申せません。そのようなことは、初めから明らかなので、それを哀れんで、阿弥陀仏は願いを発されたのです。原因を作れない私に代わって、私の往生の原因を阿弥陀仏が作ってくださり、その結果だけを私に振り向けてくださっているのです。それが本願によって「回向」されている念仏なのです。私には、私に振り向けられた「南無阿弥陀仏」をありがたくいただくことだけが残っているわけです。
よく「先祖に回向する」という言葉を耳にします。うっかり聞きますと、何か善いことのように聞こえますが、はたして、どうなのでしょうか。先祖は善い結果が生ずるような善い原因を作れないので、それを哀れんで、この私が先祖に代わって善い原因を作り、善い結果を先祖に振り向けてあげる、ということになるのではないでしょうか。すでに諸仏に成られたご先祖さまに対して、大変ご無礼な話になるのではないでしょうか。さて、先ほどの「一心」は、結論的にいえば「信心」ということになります。そこで、天親菩薩は「本願」によって「回向」されている「信心」の意味を私どもに顕かにしてくださっていると、親鸞聖人は歓んでおられるのです。聖人が、折にふれて「如来よりたまわりたる信心」ということを語っておられたことの意味をあらためて思い起こさせていただけるのではないでしょうか。 
■一心
親鸞聖人は、天親てんじん菩薩のことを「広由本願力回向こうゆほんがんりきえこう 為度いど群生ぐんじょう彰一心しょういっしん」(広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す)と述べて讃嘆さんだんしておられます。
天親菩薩が、阿弥陀仏から凡ぼん夫ぶに対して回向されている(差し向けられている)願い(本願)にもとづいて、群生を本願に目覚めさせるために、一心(信心しんじん)の意味を明らかにしてくださったのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。ここに言われている「群生」というのは、「衆しゅ生じょう」という言葉とインドの原語は同じで、中国語に翻訳されるときの訳し方に違いがあるだけです。「あらゆる生きもの」という意味ですが、差しあたっては人間のことを言います。つまり凡夫のことです。次の「度する」というのは、「渡らせる」ということで、苦悩に満ちた状態から、苦悩が解消した状態へ導くことです。迷いの此し岸がんから、覚りの彼ひ岸がんへ渡らせることです。
天親菩薩は、苦悩する一切の凡夫を救いに導くために、「信心」の意味を明らかにしてくださっている、ということです。その「信心」を「一心」という言葉で言い表しておられるのです。天親菩薩は、『浄土論』(『無量寿経むりょうじゅきょう優婆うば提舎願だいしゃがん生しょう偈げ』)をお造りになりました。『真宗聖典』には「婆藪ばそ槃ばん頭菩ずぼ薩造さつぞう」と標記されていますが、その婆藪槃頭は、ヴァスバンドゥの音写で、天親と訳されているものです。ですから『浄土論』は「天親菩薩がお造りになった」ということになります。
その『浄土論』の冒頭に、天親菩薩は「世尊我一心せそんがいっしん 帰命尽十方きみょうじんじっぽう 無碍光如来むげこうにょらい 願生安楽国がんしょうあんらくこく」(世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)と述べて、心のうちに沸き立つ思いを表白ひょうびゃくしておられます。「世尊よ、私は心を一つにして、阿弥陀仏に帰命して、極楽浄土に生まれたいと願っております」という切なる願いを表明されたのです。「世尊」は釈尊のことです。釈尊は『仏説ぶっせつ無む量りょう寿じゅ経きょう』をお説きになられて、阿弥陀仏の本願のことを教えておられるのです。「正信偈」に「如来所以興出にょらいしょいこうしゅっ世せ 唯ゆい説弥陀せみだ本願ほんがん海かい」(如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり)とありますが、これは、釈迦如来がこの世間にお出ましになられたのは理由があることであって、その理由とは何であるのかと言えば、それはただただ、阿弥陀仏の海のように広大な本願のことをお説きになるためであったのだ、ということです。
天親菩薩が「世尊よ」と呼びかけておられるのは、本願の真実をお説きになられた釈尊に対して、眼を逸らせることなく、真正面から仰ぎ見る姿勢を示しておられるのです。そして「我」と言っておられるのは、釈尊が顕かにしてくださった本願の真実に、きちっと向き合っておられる天親菩薩の自覚を示されたお言葉なのです。さて「一心」でありますが、これについて、親鸞聖人は、『尊号真像銘文そんごうしんぞうめいもん』に「一心というは、教主世尊の御みことのりをふたごころなくうたがいなしとなり。すなわちこれまことの信心なり」と説明しておられます。「一心」というのは、釈尊のお言葉に対して、二心なく、また疑わないことであって、それはまことの信心である、と教えておられるのです。親鸞聖人はまた、「一心の華か文もん」という表現によって、天親菩薩が述べられた「一心」という言葉を大切にしておられるのです。
「一心」は「まことの信心」ということであります。「真実信心」であります。その「信心」は凡夫が凡夫の意志で起こす信心でないことは明らかです。親鸞聖人は、これを「如来よりたまわりたる信心」と教えられました。如来の願いとして回向されている信心ですから、誰にとっても平等に及ぼされている信心です。天親菩薩は、「群生を度せんがために、一心を彰す」と詠っておられる通り、一切の凡夫を導くために、そのような「一心」と言われる「信心」をいただいている意味を彰かにしてくださったと、親鸞聖人は喜ばれ、讃えておられるのです。 
 

 

■大会衆の数に入る
前回見ていただきましたように、親鸞聖人は、天親てんじん菩薩のことを「為度いど群生彰一心ぐんじょうしょういっしん」(群生ぐんじょうを度せんがために、一心を彰あらわす)と讃えられています。すべての人びとを救い導くために、天親菩薩が「一心」の意味を明らかにしてくださったと、親鸞聖人は讃えておられるのです。すなわち、如来よりたまわっている真実の信心しんじんの意味を「一心」という言葉で明らかにしてくださったからです。そしてその天親菩薩は、次に「帰き入にゅう功く徳どく大宝海だいほうかい 必獲入大ひつぎゃくにゅうだい会え衆数しゅしゅ」(功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲)と教えておられるのです。すなわち、私たちが功徳の大宝海に帰入するならば、必ず大会衆の数に入ることができると言われるのです。
「功徳」というのは、善い行いを原因として生ずる善い結果を意味します。一般には、自分が実行する修行によって、自分が覚りに近づくという功徳が得られる、と理解されています。つまり、自分が善い原因を作り、それによって生ずる善い結果を自分が受け取るのです。しかし、本願他力の教えからしますと、意味がまったく異なります。私たちが自分で善い原因を作るのではないのです。私たちには作れないのです。善い原因は阿弥陀仏がお作りになっているのです。そして阿弥陀仏がお作りになっているその原因によって、善い結果が生じますが、その善い結果は、阿弥陀仏が受け取られるのではなくて、私たちがいただいているのです。
この私を何とか救ってやりたいと願われる阿弥陀仏の願いが原因となります。そして、その原因によって生ずる善い結果、つまり功徳が私に与えられているわけです。その功徳は「南無阿弥陀仏」という名号みょうごうとして与えられているのです。
「功徳大宝海」というのは、天親菩薩の『浄土論』の偈げ文もんにあるお言葉です。功徳である名号は、私たちにとっては、この上ない偉大な宝物です。しかも、宝物である名号の功徳は、あふれるばかりの水をたたえた海のように、私たちの身に満ちあふれていますので、これを親鸞聖人は、「功徳大宝海」という天親菩薩のお言葉を掲げて喜んでおられるわけです。つまり、「帰入」しておられるのです。「帰入」は「帰依きえ」と「回え入にゅう」とを一つにした言葉です。最も大切にするべきものを心から敬い、まかせきって、最後の依り所とすること、それを「帰依」と言います。自力のはからいから心を回らせて、本願という他力に心身をゆだねることを「回入」と言います。
さて、自我のはからいから離れて、私たちに与えられている功徳としての名号、「南無阿弥陀仏」にこの身をおまかせするならば、「必獲入大会衆数」とありますように、必ず大会衆の数に入ることができると教えられているのです。これも親鸞聖人は、天親菩薩の『浄土論』のお言葉を用いておられるわけです。
「大会」は、この場合、阿弥陀仏が、極楽浄土で、今、現に説法しておられる会座えざを言います。『仏説阿弥陀経』に「今現在説法こんげんざいせっぽう」(いま現にましまして法を説きたまう)と説かれていますが、その法座のことです。阿弥陀仏の浄土に往生して、その説法に参集している多数の菩薩を「衆」と言っています。つまり、私たちが「南無阿弥陀仏」を依り所にするならば、すでに浄土に往生して阿弥陀仏の説法を聴聞ちょうもんしている人びとの数に必ず入ることになるということです。ということは、すでに往生している人びとの仲間に必ず入るということですから、今、この身のままに、功徳の名号によって往生が確定するということになるのです。なぜ「必ず」なのか。それは、私たちが阿弥陀仏の極楽浄土にすでに往生している人びとと同じになることが、阿弥陀仏の願っておられることだからです。凡ぼん夫ぶの願いやもくろみならば、条件次第でどうなるかわかりません。「必ず」などとは言えないのです。けれども、本願は唯一絶待の真実です。真実は、どのような条件にも左右されることがないのです。 
■往生成仏
親鸞聖人は、天親てんじん菩薩の教えを讃えておられます。その天親菩薩は、前回見ていただきましたように「功く徳どく大宝海だいほうかいに帰き入にゅうすれば、必ず大だい会え衆しゅの数かずに入いることを獲う」(帰き入にゅう功く徳大宝海どくだいほうかい 必獲入大ひつぎゃくにゅうだい会え衆数しゅしゅ)と教えておられました。阿弥陀仏は、どのような人であろうと、一切の人びとを救いたいと願ってくださっています。その願いによって生じている結果が「功徳」なのですが、その功徳が「南無阿弥陀仏」という名号みょうごうとして、すべての人びとに施し与えられているわけです。また、その「南無阿弥陀仏」が、大いなる宝物を蓄えていて、私たちに本当の恵みをもたらす海に喩たとえられているのです。あとは、私たちが、すでに与えられている「南無阿弥陀仏」に帰き順じゅんするのかどうか、宝の海に入ろうとしているのかどうか、そのことだけが私たちに残されている問題なのです。
浅はかな自分の思いへのこだわりから離れて、与えられている功徳としての名号、「南無阿弥陀仏」に、この身をおまかせするならば、すでに阿弥陀仏の浄土に往生している人びとの仲間に必ず入ることができると、天親菩薩は教えておられます。つまり、「南無阿弥陀仏」によって、今、この身のままに、浄土往生が確定するのだと教えておられるのです。浄土に往生するということは、どのようなことであるのか、これについて、天親菩薩は、「得とく至し蓮れん華げ蔵ぞう世せ界かい 即そく証しょう真如法性身しんにょほっしょうしん」(蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと)と教えておられるのです。
「蓮華蔵世界」といいますのは、もとは『華け厳ごん経きょう』というお経に説かれている浄土のことなのですが、ここでは、親鸞聖人は、『阿弥陀経』に説かれる阿弥陀仏の極楽浄土のことをこのように呼んでおられるわけです。それは「蓮華」のような徳をそなえた阿弥陀仏の浄土ということです。『維ゆい摩ま経きょう』というお経に、大変よく知られている一節があります。「高原の陸ろく地じには、蓮華を生ぜず。卑ひ湿しつの淤お泥でいに、いまし蓮華を生ず」というものです。これは、親鸞聖人の『教行信証きょうぎょうしんしょう』にも引用されている経文です。白い蓮の華は、多くの華の中で最も尊ばれている華です。その蓮華は、誰もが理想とするような、すがすがしい高原には生じないというのです。そのような所ではなくて、誰もが避けたくなるような、卑しくてじめじめとした泥沼にこそ、この最も尊ばれる蓮華は生ずるのだ、ということです。
阿弥陀仏の浄土は浄きよらかな世界なのですから、それは、私たちが住むこの穢土えどとは無関係な世界のように受け取れます。しかし、実はそうではないのです。この穢土において、さまざまな煩悩に汚されきっている私たちこそが迎え入れられる世界なのです。このようにして、私たちが「蓮華蔵世界」つまり阿弥陀仏の浄土に往生すると、どのようなことになるのか。それについて、天親菩薩は、「すなわち真如法性の身を証せしむ」と教えられています。「すなわち」は即座ということです。「真如」は「真実」、「法性」は「真実の本性」を言い表わす言葉です。「真実」というものがどこかにあるのではなく、この世界の本当のすがたが「真実」なのです。しかしそれは、自我の意識に曇らされている私たちの思慮ではとらえきれないのです。言葉や文字で「真実」と表現してしまうと、それは私たちの思慮のなかに取り込んだ「真実」でしかなくなり、もはやそれは「真実そのもの」ではなくなるのです。この「真実そのもの」のことを、「真如」といい、また「法性」というのです。
その「真如」「法性」を「証する」というのは、「真実そのもの」に目覚めるということですから、それは仏の覚りを意味することになります。つまり「真如法性を証する」ということは、仏に成るということなのです。阿弥陀仏の功徳として与えられている名号に帰依するならば、この身のままで、浄土に往生している人びとの仲間に入らせていただくことになり、そして浄土に往生すれば、直ちに仏になることができるのだと、天親菩薩は教えておられるのです。 
■往生人のこころ
親鸞聖人は、天親てんじん菩薩の教えを深く讃嘆しておられます。
天親菩薩は、まず、一切の人びとに本当の安らぎをもたらすために、阿弥陀仏の願いとして私たちに差し向けられている「一心」の意味を明らかにされたのでした。「広こう由ゆ本願力ほんがんりき回え向こう 為度いど群生彰一心ぐんじょうしょういっしん」(広く本願力りきの回え向こうに由よって、群ぐん生じょうを度せんがために一心を彰あらわす)と詠われているところです。親鸞聖人は、この「一心」は「信心しんじん」のことであると教えておられます。何とかして私たちを助けたいと願われるために、阿弥陀仏は「信心」を私たちに与えてくださっているというわけです。
この「信心」によって、私たちがどうなるのか、それについての天親菩薩の教えを、親鸞聖人は、三つの点に要約しておられるのです。
第一は、「帰き入にゅう功く徳大宝海どくだいほうかい 必獲入大ひつぎゃくにゅうだい会え衆数しゅしゅ」(功く徳大宝海どくだいほうかいに帰き入にゅうすれば、必ず大だい会え衆しゅの数に入いることを獲う)ということです。与えられている「信心」によって、功徳としての名号みょうごう、すなわち「南無阿弥陀仏」にすべてをおまかせするならば、すでに浄土に往生し、現に阿弥陀仏のみもとで説法を聴聞している人びとの仲間に必ず入ることになるといわれるのです。つまり「信心」によって、今、この身のままに必ず浄土に往生することが確定するのだと教えておられるのです。往生の確定は、死後のことでもなければ、遠い未来のことでもなくて、今のこの生涯のうちに起こることであるとされるのです。
第二には、「得とく至し蓮れん華げ蔵ぞう世せ界かい 即証真如法性身そくしょうしんにょほっしょうしん」(蓮れん華げ蔵ぞう世せ界かいに至ることを得うれば、すなわち真如法性しんにょほっしょうの身しんを証しょうせしむ)という教えです。蓮華蔵世界に至るというのは、阿弥陀仏の浄土に往生することです。また、真如法性の身を証するというのは、一言でいえば、仏に成るということです。したがって、「信心」によって、私たちは、間違いなく浄土に至ることができて、必ず仏に成るのだと教えられるのです。往生にしても、成仏にしても、それは死後のことのようにも受け取れます。けれども、浄土往生ということは、私たちの自我へのこだわりによって汚されているこの世界(穢土えど)が、「信心」によって、浄化された世界になることなのです。つまり、往生とは、私が生まれるという意味でもありますが、同時に、私が住んでいる世界が、浄きよらかな世界になるということでもあるのです。「土」(世界)は私たちの生活の場です。そうすると、「信心」によって、穢土が浄化されて浄土になるということは、私たちの生活が、阿弥陀仏の願われている通りに浄化された生活になるということでもあるのです。
第三の教えが、今回の「遊煩悩林現神通ゆうぼんのうりんげんじんづう 入生にゅうしょう死じ園おん示じ応おう化げ」(煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す)ということです。「煩悩」は、私たちの身体を煩わせ、心を悩ませるものです。「神通」は、仏や菩薩が人びとを救うために用いられるすぐれた力です。「生死」は、道理から外れて限りなく迷いつづけている状態です。「応化」は、仏や菩薩が人びとの救いのために、それぞれの人の状況にふさわしいはたらきかけをされることです。ここには、浄土に往生した人の在り方が示されています。浄土に往生した人は、浄土にとどまるだけではなく、あたかも密林のように煩悩がはびこる世界に自由に出入りし、迷いに満ちた園林おんりんにあえて入り込んで、そこで苦悩する人びとに応じたはたらきかけをすることになるというのです。他の人びとを導くことを含めて、それが実は往生した人にとっての往生とするのであると教えられているのです。与えられている「信心」を私たちは素直に受け取るのです。そのことによって、私たちの生活は阿弥陀仏の願ってくださっている通りに浄化されます。しかし、浄化されるということは、他の誰にも阿弥陀仏の願いが向けられている事実を、ともに喜べるように、人びとにはたらきかけをすることを同時に含んでいるのだと、天親菩薩は教えておられるというわけです。 
■曇鸞大師
「正信偈」は、大きく三つの段落に分けて見ることができます。「総讃そうさん」と「依え経きょう段だん」と「依え釈しゃく段だん」です。初めの「総讃」は、「帰き命みょう無む量りょう寿如来じゅにょらい 南無不可思議なむふかしぎ光こう」(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)という二句です。「帰命無量寿如来」も「南無不可思議光」も、どちらも「南無阿弥陀仏」という名号みょうごうと同じ意味ですから、この二句は、無量寿如来、すなわち阿弥陀仏の願いによって、凡ぼん夫ぶに与えてくださっている名号に対して、親鸞聖人が心から信順しておられるお心を表明された部分です。次の「依経段」は、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』というお経に依って述べてある段落です。これは「法蔵菩薩因ほうぞうぼさついん位時にじ」から始まる四二句で、ここには、阿弥陀仏による、本願他力の念仏の意味が詳しく表明されています。最後の「依釈段」は、七人の高僧の解釈に依って述べてある段落です。ここには、親鸞聖人のところにまで、念仏の教えを正しく伝えられた七人の高僧の徳が讃えてあります。インドの二人、中国の三人、日本の二人です。そしてこれら七高僧の教えが讃えられてあるのです。
これまで、この「依釈段」のうちの、インドの龍りゅう樹大じゅだい士じと天親てんじん菩薩、このお二人について述べてある部分を見ていただきました。今回から、中国の方々について見ていただくことになります。その最初が、曇鸞大師です。曇鸞大どんらんだい師し(四七六―五四二)は、人生の深い悩みのなかで、若くして出家されました。大師は、広く仏教を学ばれましたが、仏教の聖典ばかりではなく、中国の儒教や道家の教えをも広く深く学ばれたのでした。曇鸞というお名前は、釈尊の家系の姓である瞿く曇どん(ゴータマ)から下の文字の「曇」をもらわれ、それに中国で古くからめでたい鳥とされてきた「鸞」をつけ加えたものであると伝えられています。
曇鸞大師が仏教を学び始められたころ、中国では、インドの龍樹大士の教えが盛んに研究されていました。その百年近く前に、龍樹大士が書き残された『中論』『十二門論』『大だい智度ちど論』と、龍樹大士の直弟子の聖提だい婆ばが書いた『百論』が中国語に翻訳されていたのでした。これら四つの論は、いずれも「大乗」の精神を高らかにかかげ、その精神の根幹となる「空くう」の思想を大成させたものです。「大乗」というのは、「偉大な教え」ということで、一言でいうと、他の人びとが救われることが自らの救いとなるという教えです。また「空」というのは、あらゆるものごとへのこだわりから離れるということです。もっぱらこの四つの論を依りどころとして仏教を学ぶ人びとの集まりを「四し論ろん宗しゅう」といいますが、曇鸞大師はこの四論宗に属して、大変すぐれた学僧として広く尊敬されておられたのです。この場合の「宗」は、今の「宗派」という意味ではなくて、「学派」というほどの意味に使われていた言葉です。その当時の中国は、約一七〇年にわたって南北に分断されていました。北から侵入してきた異民族が北方を支配し、南に逃れた漢民族が南方に王朝をたてていたのです。曇鸞大師は北方の北魏という国におられたのですが、その学僧としての名声は、遠く南の人びとにも知られていたのです。
そのころ、南には梁という国が栄えていました。文学や芸術など、文化の面では北方とは比べものにならないほど発展していたのです。梁の皇帝の武帝(五〇二―五四九在位)は、仏教を手厚く保護するとともに、自らも熱心に仏教を学んだ人だったのです。そして、遠く北魏におられる曇鸞大師を深く敬っていたのです。このあたりのことを、親鸞聖人は、「正信偈」に「本ほん師じ曇鸞梁天子どんらんりょうてんし 常向鸞処じょうこうらんしょ菩ぼ薩礼さつらい」(本師、曇鸞は、梁の天子、常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる)と述べておられるわけです。すなわち「私たちの師である曇鸞大師の場合、南の梁の天子である武帝が、いつも、曇鸞大師がおられる北方に向かって、曇鸞大師を菩薩として敬って拝んでいた」ということです。 
■浄土の教えに帰す
曇鸞大どんらんだい師しは、四し論ろん宗しゅうのすぐれた学僧として、大乗仏教を深く学んでおられました。その名声は、中国の北方はもとより、南方にも広く響きわたっていたのでした。大師は、中国の人びとに仏教の大切な教えを正しく伝えなければならないという使命を強く感じられたのです。このため、志を立てられて、『大集経だいじっきょう』という、六十巻もある大きな、そして難解なお経の註釈の作成に取りかかられたのでした。ところが、あまりにも厳しく精を出して研究に打ち込まれたためか、病にかかられ、註釈の仕事を中断せざるを得なくなられたのです。この時、大師はすでに五十歳を越えておられました。大師は、仏法に対しても、また教えを学ぼうとしている中国の人びとに対しても、本当に申しわけない気持ちを強くもたれたのです。そこで、広大な仏法をきわめ、また『大集経』の註釈を完成させるには、健康な心身と長寿を得なければならないと大師は痛感されたのです。このため、まず神仙の術を学ぼうと心に決められました。
当時、南方に、道教という宗教の指導者で、陶弘景とうこうけいという人がおりました。この人は、医学や薬学の大家でもあり、長寿の秘訣を教える仙人として有名だったのです。中国の北方におられた曇鸞大師は、はるばる南の陶弘景の所に趣いて、長生不老の術を学ばれたのでした。やがて大師は、十巻からなる仙経、すなわち長生不老の術を説いてある道教の経典を陶弘景から授けてもらわれ、喜び勇んで北へ帰られたのです。途中、都の洛陽に立ち寄られました。都には、ちょうどインドから三蔵法さんぞうほう師しの菩ぼ提だい流支るしという僧が来ていて、お経の翻訳をしながら、中国の僧侶を教導していたのです。
三蔵法師というのは、経蔵と律蔵と論蔵の三蔵を深く学び、それについて指導する僧のことです。「蔵」は「集めたもの」という意味で、経蔵はお経を集めたもの、律蔵は戒律についての文章を集めたもの、論蔵はインドで作られたお経の註釈を集めたものです。曇鸞大師は、三蔵法師の菩提流支にお会いになりました。そして、誇らしげに、自分は長生不老の術を学んできたばかりであることを告げられたのです。そして、インドにこのような術はあるのかと尋ねられたのです。すると、菩提流支三蔵は、唾を吐き捨てて「何という愚かなことだ」とばかりに、叱りつけたのです。そして、『観かん無む量寿経りょうじゅきょう』を授けて、阿弥陀仏と「無量寿」(長さに関係のないいのち)について教えたのでした。
曇鸞大師は、この教えに触れられて、長生不老などというものは、愚かな欲望に過ぎないことに気づかれたのです。そして「こんなものがあるから、人は愚かな迷いを繰り返すのだ」とばかりに、大切にしておられた仙経を惜しげもなく焼き捨ててしまわれたのです。大師は、いのちを我がものと思い込んで、その安泰を願っていた愚かさに気づかれたのでしょう。たとい、百年や二百年の長寿を得たとしても、人はやがては死を迎えなければなりません。人は、不思議な縁によってこの世に生を享け、また、さまざまな縁に恵まれて生存するのです。そして、その縁が尽きれば、悲しいことではあっても、この世から去らなければならないのです。
曇鸞大師は、菩提流支三蔵から授けられた『観無量寿経』によって、無量寿ということ、量と関係のない「いのち」のはたらき、そのことに気づかれたのでした。そして、無量寿仏、すなわち阿弥陀仏を念ずる念仏によって浄土に往生する信心を得られたのでした。そのあたりのことを親鸞聖人は『正信偈』に、「三蔵さんぞう流支るし授浄教じゅじょうきょう 焚焼仙経ぼんしょうせんぎょう帰き楽邦らくほう」(三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき)と詠っておられるのです。すなわち、菩提流支三蔵が浄土の教えを授けられたので、曇鸞大師は、長生不老を教える仙経を焼き捨てて、楽邦、つまり阿弥陀仏の安楽浄土に往生する教えに帰依されることになられた、ということなのです。 
 

 

■本願他力の伝統
曇鸞大どんらんだい師しは、長寿の秘訣を学ばれ、意気揚揚と自信にあふれておられました。しかし、インドから中国に来ておられた三蔵法さんぞうほう師し、菩ぼ提だい流支るしとの劇的な出遇いによって、身体的な寿命にこだわるご自分の愚かさに気づかれたのでした。そして、心を大きくひるがえされて、無量寿(長さとは関係のないいのち)を教える浄土の教えに深く帰依されたのでした。その菩提流支三蔵は、インドの天親てんじん菩薩が書かれた『浄土論』を中国語に翻訳されました。そして曇鸞大師が、その注釈をお作りになったのです。
『浄土論』というのは、実は『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』を註釈したものです。以前に見ていただきましたように(第40回)、天親菩薩は、自らの力によって悟りを得ようとするのは誤りであって、阿弥陀仏がすべての人を浄土に迎えいれたいと願われた、「本願」に率直に身をゆだねることこそが真実であることに気づかれたのでした。そのために、釈尊が阿弥陀仏の本願のことをお説きになった『仏説無量寿経』に対して註釈を施されたのでした。その『浄土論』に対して、今度は、曇鸞大師が註釈をお作りになりました。これが『浄土論註』です。つまりそれは、『仏説無量寿経』の註釈の註釈ということになります。これについて、親鸞聖人は「天親菩薩の論、註解して」(天親てんじん菩ぼ薩さつ論註ろんちゅう解げ)と述べておられるわけです。かつて龍りゅう樹大じゅだい士じが、仏道には難行道なんぎょうどう(難しい方法)と易い行道ぎょうどう(やさしい方法)とがあると教えられましたが、天親菩薩の『浄土論』こそが、誰もが浄土に往生することができるとする、易行道を勧めたものと、曇鸞大師は讃えておられるのです。そして、阿弥陀仏の本願に随順する他力の信心しんじんを明らかにされたのが天親菩薩であると説いておられるのです。
人は、自らが起こす煩悩によって、自らを悩ませ、苦しめています。しかも、悩み苦しみの原因が、自らが起こす煩悩にあることすらわかっていないのです。さらにまた、自分が現にそれほどにまで悩み苦しむ状態にあることにも気づいていないのです。目先の快楽に眼を奪われているからです。釈尊は、このような私たちを哀れんで『仏説無量寿経』をお説きになられました。そのような者こそを助けようとされているのが阿弥陀仏の本願であることを教えられたのです。釈尊がお説きになられた阿弥陀仏の本願他力の教えをさらに明らかにされたのが天親菩薩でありました。そして本願についての天親菩薩の教えをさらに明確にされたのが、曇鸞大師だったのです。
親鸞聖人は、釈・尊と天親・菩薩と曇鸞・大師とが説き示された本願の伝統に、ご自分の位置を見定められて、自ら「釈親鸞」と名乗られたのです。さて、親鸞聖人は、曇鸞大師のことを「報土の因果、誓願に顕す」(報ほう土ど因いん果が顕誓願けんせいがん)と讃えておられます。報土の因も果も、どちらも阿弥陀仏の誓願によることであることを、曇鸞大師が顕かにされた、といわれるのです。報土とは、阿弥陀仏の浄土のことです。阿弥陀仏の浄土は、阿弥陀仏の本願が成就した世界です。願いが報いられた国土なのです。
阿弥陀仏の浄土が開設されることになった原因も、すでに開設されているという結果も、また、私たちが浄土に往生することになる原因も、また往生するという結果も、すべて阿弥陀仏の誓願によることなのです。阿弥陀仏が仏になられる前は、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられました。そのとき、法蔵菩薩は、自分の力では往生できるはずのない人が往生できる浄土を建立したいと願われました。そして、もしその願いが実現しないのであれば、自分は仏にはならないという誓いを立てられたのです。その法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたのです。ということは、願いと誓いがすべて報いられていることを意味しています。凡ぼん夫ぶの往生は、他の理由によるのではなく、ひとえに阿弥陀仏の大慈悲心である誓願によることなのです。その本願のはたらきを「他力」として顕かにして下さったのが曇鸞大師なのです。 
■往相の回向と還相の回向
曇鸞大どんらんだい師しは『浄土論註』という書物を著されました。インドの天親てんじん菩薩が『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』の註釈を作られて『浄土論』を著されましたが、その『浄土論』に対して、曇鸞大師がさらに註釈されたもの、それが『浄土論註』でありました。
親鸞聖人は、「正信偈」に、曇鸞大師のことを「報ほう土どの因いん果が、誓願せいがんに顕あらわす」(報ほう土ど因いん果が顕誓願けんせいがん)と詠って讃えておられますが、報土である阿弥陀仏の浄土が開設されることになった原因も、すでに開設されているという結果も、さらには、私たちが浄土に往生することになる原因も、また私たちが間違いなく往生するという結果も、これらはすべて阿弥陀仏の誓願によることであること、そのことを曇鸞大師が『浄土論註』の中で顕かにされたのでした。また、曇鸞大師は、親鸞聖人が「往・還の回向は他力に由る」(往還おうげん回え向こう由他ゆた力りき)と詠っておられます通り、「往相おうそうの回え向こう」と「還相げんそうの回向」という、二種の回向についても教えておられるのです。
私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生することを「往相」といいます。そして浄土に往生した人が、迷いのこの世間に対してはたらきかけることを「還相」というのです。すなわち、「往相」は、穢土えどから浄土に往くすがたです。これに対して「還相」は、浄土から穢土に還るすがたなのです。人が穢土から離れて浄土に往生するということは、「自利」(自ら利すること)の成就です。しかし「自利」の成就を果たすだけでは仏教とはいえないのです。「利他」(他を利すること)がなければならないからです。他の人びとが浄土に往生できるよう、穢土の人びとへのはたらきかけがなければならないのです。つまり、自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになること、それが仏教の根本の精神なのです。
そもそも釈尊は、覚りを得て仏になられましたが、ご自分の覚りの境地に安住されることなく、世間の迷いの人びとのところに出向いて教えをお説きになり、人びとを覚りに導こうとされました。ここに「自利利他」が一つになった仏教の根本が示されているのです。このようなことから、「往相」と「還相」とが一つのこととして大切であるとしても、私たち凡ぼん夫ぶにしてみれば、自分の力では「往相」はもとより、「還相」も不可能なことです。私たちは、自分の往生の原因は自分では作れないのです。まして、自分の力でこの世間へのはたらきかけなどはとうてい不可能です。「往・還の回向」といわれています通り、「往相」も「還相」も、ともに阿弥陀仏の「回向」によることなのです。「回向」というのは、「振り向ける」という意味で、原因を作れない私たちに代わって、阿弥陀仏が原因を作ってくださり、その原因によって生ずる結果だけを私たちに「振り向けて」くださっているのです。
曇鸞大師は、この「往相回向」も「還相回向」も、ともに私たちの自力によるのではなくて、「他力に由る」(由他力)と教えておられます。「他力」は、私たちが期待するとか、期待しないとか、そういうことにはまったくかかわりなく、一方的に私たち差し向けられている阿弥陀仏の願いによることなのです。「本願力ほんがんりき」といわれます。本願力の回向に由って、私たちに「往相」と「還相」とが実現するということは、とりもなおさず、私たちが浄土に往生して仏に成るということを意味します。それでは「往相回向」と「還相回向」とは、どのようにして私たちに実現するのでしょうか。それについて、曇鸞大師は、「正定の因はただ信心なり」(正定しょうじょう之し因唯信心いんゆいしんじん)と説き明かしておられます。すなわち、間違いなく浄土に往生して仏になることが確定するのは、それは、ただただ「信心しんじん」によることであると教えておられます。しかもその「信心」は、自力の信心ではなくて、阿弥陀仏の本願によって回向されている、他力の信心なのです。つまり、阿弥陀仏の本願に素直に従っておまかせする心なのです。 
■凡夫の信心
親鸞聖人は、曇鸞大どんらんだい師しの教えをほめたたえておられます。親鸞聖人によりますと、曇鸞大師は「報ほう土どの因いん果が、誓願せいがんに顕あらわす」(報ほう土ど因いん果が顕誓願けんせいがん)と述べられて、阿弥陀仏の浄土が開かれることになった原因も、そして、すでに開かれているという結果も、さらには、私たちが浄土に往生することになる原因も、また往生するという結果も、すべて阿弥陀仏の誓願によることであると教えておられるのです。そして、「往おう・還げんの回え向こうは他た力りきに由よる」(往還おうげん回え向こう由他ゆた力りき)といわれていますように、私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生する「往相おうそう」も、浄土に往生した上で、迷いのこの世間に対してはたらきかける「還相げんそう」も、どちらも、阿弥陀仏の本願力によって回向されている(差し向けられている)ことであって、私たちの自力によるのではなくて、他力によることであると教えておられるのです。
それでは、本願による他力によって、私たちはどうなるのかということについて、曇鸞大師は、「正定しょうじょうの因いんはただ信心しんじんなり」(正定しょうじょう之し因唯信心いんゆいしんじん)と教えられます。すなわち、私たちが、間違いなく浄土に往生して仏になることが確定するのは、ただただ他力を信じる「信心」によることであると教えておられます。もちろん、その「信心」は、自力の信心ではなくて、阿弥陀仏の本願によって回向されている、他力の信心なのです。その上で、「惑染の凡夫、信心発すれば」(惑染凡わくぜんぼん夫ぶ信心発しんじんほつ)といわれます。
「惑染」の惑も染も煩悩の別名です。迷惑といわれますように、私たちは、真実を見失っているために、道理に迷い惑っていて、またそのために、心が純粋でなく汚染されているのです。そのような私たち「惑染の凡夫」にも「信心発すれば」と述べられております通り、信心が起こることがあるのです。ここで注意しておかなければならないことは、親鸞聖人が「信心を発する」(発信心)ではなくて、「信心が発する」(信心発)といっておられることです。「信心」は凡夫が起こすものではなくて、阿弥陀仏の大慈悲の本願力によって、凡夫の身の上に起こることなのです。そこで、私たち「惑染の凡夫」に「信心が起これば」どうなるのかということですが、それについて、曇鸞大師は「生死即涅槃なりと証知せしむ」(証しょう知ち生しょう死じ即そく涅ね槃はん)と教えておられるわけです。
「生死」というのは、自分の煩悩によって引き起こされる迷いのために、自分が苦悩している状態です。そして「涅槃」とは、逆に、その迷いが解消したことによって苦悩が滅した状態のことです。この二つのことが「即」という言葉で結びつけられているわけです。「即」は、「すなわち」と読みますが、「ただちに」とか「そのまま」という意味です。これは、仏典の中では少し注意して読まなければならない文字だと思います。「生死即涅槃」は、生死がそのまま涅槃である、ということです。言い換えると、「迷いの状態」がそのまま「迷いのない状態」ということになりますから、互いに矛盾し合う二つのことが、そのまま一つになっているのです。
このような見方は大乗の経典にしばしば説かれている教えです。その場合「涅槃」は「悟り」という意味ですから、迷いのままに悟りが得られるということになります。これによく似た言葉が「正信偈」の別のところにあります。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」(不ふ断煩悩得だんぼんのうとく涅ね槃はん)という言葉です。「涅槃」は、親鸞聖人のお言葉使いからすれば、「悟り」という意味よりも、「往生」という程の意味に理解されると思います。そうすると、「生死即涅槃」は、「迷いの状態そのままで往生する」ということになります。次の「証知」の「証」は、「あきらかにする」「はっきりさせる」という意味ですから、「正信偈」には、曇鸞大師の教えとして、「迷い続けている惑染の凡夫に、本願による信心が起こるならば、迷いのままに往生させていただくことが、はっきりと思い知らされる」と示されているのです。 
■他力の回向
親鸞聖人は、中国の曇鸞大どんらんだい師しが教えられた、他力回え向こうの教えのことを感銘深く述べておられます。曇鸞大師は、まず「惑染わくぜんの凡ぼん夫ぶ、信心発しんじんほっすれば、生しょう死じ即そく涅ね槃はんなりと証しょう知ちせしむ」(惑染凡わくぜんぼん夫ぶ信心発しんじんほつ 証しょう知ち生しょう死じ即そく涅ね槃はん)と教えられました。
私たちは、真実を見失っているために道理に惑い、そのために、心が汚染されています。このような惑染の私たちにも、信心しんじんが起こることがあると教えておられるのです。その信心は、阿弥陀仏の大慈悲の本願力によって起こるのです。私たちに信心が起これば、私たちは、迷いの状態(生しょう死じ)のままに、迷いから解放された状態(涅槃)になることができる、と曇鸞大師は教えておられるわけです。迷いから解放されるということは、往生するということですから、迷い続けている惑染の凡夫に、本願による信心が起こるならば、その迷いのままに浄土に往生させていただくことが確信できる、と教えておられるわけです。惑染の凡夫が、阿弥陀仏の願いによって、間違いなく、浄土に往生するわけですが、そのことを「必ず無量光明土に至れば」(必ひっ至無しむ量りょう光こう明みょう土ど)といっておられます。
「無量光明土」は、限りのない光が輝いている国土、つまり阿弥陀仏の極楽浄土のことです。阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵という名の菩薩であられましたが、その法蔵菩薩は、四十八の願いと誓いをお立てになりました。その第十二の願が「光明無量の願」と呼ばれているのです。『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』によりますと、第十二願は、「たとい我、仏を得んに、光明能よく限げん量りょうありて、下しも、百千億那由他なゆたの諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」という誓願です。ちなみに「那由他」は、インドの数の単位で、一千万とも、一千億ともいわれていて定かではありませんが、とても大きな数をいいます。
法蔵菩薩は、仏に成ろうとしておられましたが、たとい仏に成られるとしても、その浄土の光明の輝きに限りがあって、途方もなく多数の仏さまがたの国々をすべて照らさないのであれば、自分は仏には成らない、という誓いを立てられたのでした。そしてその誓いが実り、願いが報いられたので、法蔵菩薩は阿弥陀仏に成られたのでした。このために、阿弥陀仏の浄土は「無量光明土」と呼ばれるのです。
さて、「必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり」(必至無量光明土 諸しょ有う衆しゅ生じょう皆かい普化ふけ)と述べられていますが、「諸有」は「あらゆる」と読みますから、「諸有の衆生」は「あらゆる人びと」という意味になります。惑染の凡夫が、阿弥陀仏の本願によって、無量光明土、すなわち阿弥陀仏の浄土への往生を果たすならば、やはり阿弥陀仏の本願によって、迷いの世間に立ち戻り、あらゆる人びとを教化することになると、曇鸞大師は教えておられるのです。
先ほど見ましたように、阿弥陀仏の本願によって、惑染の凡夫に信心が起これば、迷いの状態のままに浄土に往生することが確実となる、ということが教えられていました。そして、すでに「往おう・還げんの回え向こうは他力に由よる」(往還おうげん回え向こう由ゆ他た力りき)と述べてありました。凡夫が往生するのは往相おうそうといい、それは阿弥陀仏から回向されている(振り向けられている)本願に由ることであるとされています。そして、浄土に往生できた人が穢土えどにはたらきかけるのを還相げんそうといい、これもやはり阿弥陀仏から回向されている本願に由ることであると教えられているわけです。今の、惑染の凡夫に信心が起これば、迷いのままに浄土に往生するというのは、阿弥陀仏の往相の回向に由ることです。そして、無量光明土に至った人が、世間に戻ってあらゆる人びとを普あまねく教化することになるというのは、阿弥陀仏の還相の回向に由ることなのです。曇鸞大師はこのようなことを私たちに教えてくださっていると、親鸞聖人は曇鸞大師を讃えておられるのです。 
■道綽禅師
道どう綽しゃく禅ぜん師じ(五六二‐六四五)は、少年時代に出家されました。しかし程なく、北周の武帝が厳しい仏教弾圧の政策をとりましたので(五七四)、仏像や経典は焼き払われ、僧尼は殺されたり、強制的に還俗げんぞくさせられたりしました。この時、若い道綽禅師も僧侶の身分を失われたのでした。この過酷な廃仏は、武帝の死とともに終わり、仏教は復興したので(五七八)、道綽禅師は再び出家されました。そして厳しい実践修行に励まれたのです。また主として『涅ね槃はん経ぎょう』を深く学ばれ、やがて『涅槃経』研究の大家という名声を得られるようになられたのです。『涅槃経』は大きなお経で、さまざまな教えが説かれていますが、その中心となる教えは、人間の本性を徹底して見きわめることです。そして、すべての人に例外なく「仏性ぶっしょう」(仏としての性質)が具そなわっているという教えが説かれているのです。
親鸞聖人が、七高僧として崇められた方々のうち、中国から出られたのは、曇鸞大どんらんだい師しと道綽禅師と善導ぜんどう大師でありました。そのうち、道綽禅師だけが「禅師」と呼ばれ、他のお二人は「大師」と呼ばれておられます。当時の僧は、どなたも仏教の教理を探求し、戒律を厳しく守り、実践的な修行に励んでおられました。その中でも、教理の研究に特徴を発揮した人を「法ほっ師し」といい、戒律に特に厳格で、精通した人を「律りっ師し」といい、座禅など、実践修行を特徴とした人を「禅師」と呼んでいたのです。この場合の「禅師」は、後に禅宗の僧を「禅師」と呼ぶようになったのとは、意味が違っていました。そして、これらの特徴のいずれにも当てはまらない人を、敬愛の気持ちをもって呼ぶ場合に「大師」といっていたようです。
さて、道綽禅師は、伝えられているところによりますと、四十八歳の時、旅の途中で、かつて曇鸞大師がおられた玄げん中ちゅう寺じにたまたま立ち寄られたのです。そこには、曇鸞大師の徳を讃えた石碑が建てられていました。道綽禅師は、その碑文を読まれて大変驚かれ、また深く感銘を受けられたのです。そして、これまでの思いを翻して、深く浄土の教えに帰依されたのです。それは曇鸞大師が亡くなられてから、七〇年ほど後のことでありました。道綽禅師は、曇鸞大師の徳を慕って、そのまま玄中寺に住みつかれました。そして八十四歳で亡くなるまで、そこで、阿弥陀仏の名号みょうごうを称える念仏に専念され、また、さかんに『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』の講説をしたり、『安楽集あんらくしゅう』を著すなどして、人びとに称名の念仏を勧められたのでした。
道綽禅師のご幼少のころ、インドから『大集月蔵経だいしゅうがつぞうきょう』(『大集経月蔵分だいじっきょうがつぞうぶん』ともいう)というお経が伝わって来ました。このお経には、仏教の教えは、釈尊が亡くなられた後、時代がへだたるにともなって世に正しく伝わらなくなり、やがて仏法は衰滅する時が来ると説かれているのです。いわゆる「末法」の到来が説かれているわけです。道綽禅師が生まれられたのは、すでに末法の時代に入って十一年目のことであったとされています。その上に、武帝による過酷な廃仏がありましたから、まさに仏法は衰滅に向かいつつあるという、強い危機の意識が広まっていた時でした。
このような状況では、自分の力によって人生の苦悩を解決するとか、自分の努力を信じて修行して、覚りに近づくなどということは、もはや不可能になっているという自覚が、道綽禅師にはあったのです。「道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす」(道綽決聖道難証どうしゃくけっしょうどうなんしょう 唯明浄ゆいみょうじょう土可どか通入つうにゅう)とありますように、道綽禅師は、自力によって修行しようとする聖道門の教えでは覚りは得られないことを明らかにされました。そして、阿弥陀仏の願いとして凡ぼん夫ぶに差し向けられている他力の念仏によって浄土に往生するという、浄土門の教えこそが私たちの通るべき道であることを明らかにされたのです。 
 

 

■聖道門と浄土門
道綽禅どうしゃくぜん師じのご幼少のころ、インドから『大集月蔵経だいしゅうがつぞうきょう』(『大集経月蔵分だいじっきょうがつぞうぶん』ともいう)というお経が伝わって来ました。このお経には、「末法まっぽうの到来」ということが説かれています。仏教の教えは、釈尊が亡くなられた後、時代がへだたるにともなって、世に正しく伝わらなくなり、やがて仏法は衰滅する時が来ると説かれているのです。このお経によりますと、仏教は、正法しょうぼう・像法ぞうぼう・末法という三つの時期を経て、やがて滅尽してしまうというのです。
釈尊が亡くなられた後、はじめの五百年は「正法」の時代とされます。この時までは、教えが正しく伝わり、その教えによって正しい修行ができるので、正しい証さとりが得られるとされます。この後「像法」となり、それが千年続きます。この時には、像かたちばかりの教えが伝わり、その教えによって像ばかりの修行はできますが、教えも修行も像ばかりですから、証は得られない時代です。そしてその後の一万年が「末法」です。かろうじて教えは伝わっているけれども、行も証もともなわない時代です。このような末法の世では、教えの伝わり方も不十分であり、修行もできなくなっているわけですから、自分の信念や努力を頼りにして、厳しい修行を重ねても覚りに近づくことは不可能であるとされるのです。
道綽禅師がおられた当時、すでに末法の時代に入っていると受けとめられていました。道綽禅師がお生まれになったのは、末法に入って十一年目のことであったとされていたのです。しかも、前回述べました通り、道綽禅師は、厳しい仏教弾圧の事件を身をもって経験されましたから、末法の世を生きて、そこで仏法を学び、仏教を守らなければならないという自覚が、私たちが想像する以上に強かったことでしょう。末法という危機意識のほかに、『法華ほけ経きょう』や『仏説ぶっせつ阿弥陀あみだ経きょう』には、すでに「五ご濁じょくの悪あく世せ」ということが説かれていましたから、その自覚も高まっていたことと思われます。
「五濁」というのは、この連載の第18回目に説明したことですが、末の世において、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは、劫濁こうじょく・見濁けんじょく・煩悩濁ぼんのうじょく・衆生濁しゅじょうじょく・命濁みょうじょくの五つです。「劫濁」の「劫」は、「時代」という意味ですから、それは、「時代の汚れ」ということになります。疫病や飢饉、動乱や戦争が続発するなど、時代そのものが汚れる状態です。「見濁」の「見」は、「見解」ということで、人びとの考え方や思想です。したがって、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。心身ともに人間の質が低下する状態です。「命濁」は、命の汚れということで、自他の生命が軽んじられる状態です。また生きることの意義が見失われ、生きていることのありがたさが実感できなくなり、人びとの生涯が充実しない虚しいものになってしまうことです。
さて、このような末法の時、しかも五濁の世にあっては、自力によって厳しい修行を重ね、覚りに近づこうとする聖道門の教えは、事実上、不可能な教えであるというのが道綽禅師の指摘なのです。悪時・悪世に生きる凡ぼん夫ぶであればこそ、すべての人を浄土に迎えたいと願われるのが阿弥陀仏の本願です。そしてこの本願の力によって私たちに与えられているのが「南無阿弥陀仏」という念仏です。自力を捨てて阿弥陀仏の本願に従うという他力の念仏の教え、それが浄土門です。末法・五濁の世では、この浄土門の教えしか残されていないと、道綽禅師は教えておられるのです。そして、その教えを親鸞聖人は大切にして受け継がれ、念仏をありがたく受け取っておられるのです。 
■他力の念仏
釈尊は、すべての人がご自分と同じように、仏(目覚めた人)になってほしいと願われました。眼の前の利害得失から離れて、人生の真実に目覚めることによって、一切の悩み苦しみを解決し、心豊かに生涯を尽くしてほしいと願われたのです。道綽禅どうしゃくぜん師じは、釈尊のみ教えにしたがって、仏に成るための道を歩むのには、「聖道門しょうどうもん」と「浄土門」との、二つの道があることを教えられました。
「聖道門」は、覚りを妨げる煩悩を克服するために、自らの能力を信じて、厳しい修行に励む道です。この道を進むには、常に起こる怠け心をおさえ、また、さまざまな誘惑に打ち勝って、ひたすら努力を積み重ねて、努力の成果をあげなければなりません。つまり「難行道なんぎょうどう」です。しかし、釈尊のご在世の時であればともかく、今や、時代が遠く隔たった末法まっぽう五ご濁じょくの世であると教えられています。このような世においては、邪悪な考え方がはびこり、欲望が深まります。何よりも、人間の資質が衰えてしまっているのです。そのような状況のもとで、はたして、自分の努力の成果を期待することが適切なことであるのかどうか、それが問題なのです。できるはずがないと、お経に教えられていることを、できると信じて実行しようとすることは、かえって、教えに対する思い上がりとなり、また自分に対して不誠実であるということになります。
道綽禅師は、そのような厳しい眼を、ご自分の身に向けられたのです。そして、ややもすれば起こりがちな思い上がりを捨て、ご自分に誠実であろうとされたのです。力のない凡ぼん夫ぶを何としても助けたいと願われる阿弥陀仏の本願に素直に従おうとされたのです。そのような自覚から開かれてくるのが「浄土門」であり、「易い行道ぎょうどう」であると、教えられたのです。自分の力では仏に成ることができない凡夫を浄土に迎え、そこで仏に成らせようとされるのが阿弥陀仏の願っておられることです。しかも、煩悩に覆われて、自分の力では浄土に往生する原因を作れない凡夫をそのままで往生させるために、阿弥陀仏が施し与えておられる「南無阿弥陀仏」を、そのまま受け取って称えるように勧められているのです。
「万善の自力」というのは、仏道を成し遂げるために、自分の力を信じて実践しようとするさまざまな修行のことです。つまり「聖道門」のことです。道綽禅師は、そのような修行に勤め励もうとすることは誤りであるとして、それを退けられたのです。「貶する」というのは、退ける、という意味です。こうして、善いとされるさまざまな自力の修行を退けられた道綽禅師は、「円満の徳号」を専もっぱら称えることを人びとにも勧められたのです。「円満の徳号」とは、すぐれた功徳が完璧にそなわった名号みょうごう、すなわち「南無阿弥陀仏」です。
いま「功徳」という言葉を使いましたが、それは、善い行いによって生ずる善い結果のことをいいます。浄土の教えでは、凡夫の善い行いによって生ずる善い結果ではなくて、阿弥陀仏が善い原因をお作りになって、それによって生ずる善い結果が私たちに振り向けられているとされています。阿弥陀仏の功徳としての名号が、なぜ「円満」なのかということですが、それは、あくまでも、私たちの思いによって称える名号ではないからです。私たちの思いによって称える「南無阿弥陀仏」であれば、そこには、どうしても、私たち凡夫の都合が入り混じりますから、偏りがあって、欠けるところがあるのです。 
「南無阿弥陀仏」という名号は、本願力という、私たちからすれば他力となるはたらきによって、私たちに回向されているものなのです。阿弥陀仏の願いとして、施されている名号ですから、円満なのです。他力にしたがう念仏だからです。ご自身にとても厳しい眼を向けられた道綽禅師の教えを、同じようにご自分に厳しい眼を向けられた親鸞聖人は、感銘深く讃嘆しておられるのです。そしてその教えの通りに、愚かで誤った「はからい」から離れて、阿弥陀仏が願ってくださっていることに、素直にしたがうよう、教えておられるのです。 
■三不三信の教え
「三不三信の誨」とありますのは、道綽禅どうしゃくぜん師じが、三不信と三信との区別をはっきりさせて、それを懇切丁寧に教えてくださった、ということです。「慇懃」というのは、懇切丁寧ということです。天親てんじん菩薩は、『浄土論』の冒頭に、「世せ尊そん我が一心いっしん 帰き命みょう尽十方じんじっぽう 無碍むげ光如来こうにょらい 願生がんしょう安楽国あんらくこく」(世せ尊そん、我われ一心に、尽十方じんじっぽう無碍むげ光如来こうにょらいに帰き命みょうして、安楽国に生まれんと願ず)と述べておられます。これは、天親菩薩が、遠い昔に亡くなっておられる釈尊に向かって、強い決意を表明されたものです。すなわち「私は、釈尊の教えにしたがって、一心に、阿弥陀仏に帰命して、極楽浄土に生まれることを願います」ということです。ここに述べられた「一心に帰命する」というのは、他の何ものをも混じり合わせないで、ただひたすらに阿弥陀仏に帰依するという、深い信心しんじんを言い表されたお言葉です。この『浄土論』に対して、曇鸞大どんらんだい師しが註釈をお作りになりました。それが『浄土論註』です。曇鸞大師は、天親菩薩の「一心」を解釈されるのに、その信心の純粋さに驚かれたのでしょうか。そして、それに比べて、ご自分の信心の頼りなさを痛感されたのでしょうか。
曇鸞大師は、「一心」でない凡ぼん夫ぶの信心を三つに開いて、「不ふ淳じゅんの信心」「不ふ一いつの信心」「不相続の信心」とされました。これが「三不信」です。「不淳」は、信心が純粋でなく、あるようにも見えるけれども、実はないに等しい信心です。だからその信心は「不一」なのです。自力のはからいが入り混じっていて、徹底していない信心です。したがって、そのような信心は、「不相続」なのです。徹底していないから、信心が持続しないのです。このような「三不信」でない「三信」が、天親菩薩の「一心」であると、曇鸞大師は教えられたのです。曇鸞大師が述べられた「三不信」の反対側、つまり「三信」について、道綽禅師が『安楽集あんらくしゅう』のなかで、詳しく丁寧に説明なさっているのです。自力の信心が「三不信」であるのに対して、他力の信心は、純粋で混じりものがなく(淳心)、ふたごころがなくて散乱することもなく(一心)、一貫して持続する(相続心)と教えられるのです。
次の「像末法滅」は、「像法ぞうぼう」と「末法まっぽう」と「法滅ほうめつ」です。仏滅後の五百年は、教えが正しく伝わる「正法」の時代とされます。その後の一千年は像かたちばかりの教えが残る「像法」です。この時は、教えも修行も像ばかりですから、証さとりが得られないのです。さらにその後の一万年が「末法」です。かろうじて教えは伝わっているけれども、行も証もともなわない時代です。その一万年が過ぎると、「法滅」となり、仏法は完全に衰滅するとされているのです。「法滅」の後は、やがて遠い未来に次の仏が世に出られて、また「正法」の時代に入るとされています。
道綽禅師は、ご自分が「末法」の世に生きていることを強く意識しておられました。そして、同じように、証が得られなくなっている「像法」と「末法」の世を悲しまれたのです。また仏法にまったく触れることができなくなる「法滅」の世についても、深く悲しまれたのです。そのような時機には、凡夫の自力は、何の役にも立たないのですから、阿弥陀仏は、それを哀れんで、すべての人びとを救いたいという大きな願いを発おこしておられたのです。阿弥陀仏は、無量寿如来ともお呼びしますが、無量寿をそなえておられる阿弥陀仏は、「像法」「末法」「法滅」の世の人びとを浄土に迎え入れて救いたいと願われ、「南無阿弥陀仏」という念仏を授け与えておられるのです。これが他力の念仏です。そして、この他力の念仏を素直にいただこうとする心が、他力の信心です。他力の信心をいただくのに、道綽禅師は、曇鸞大師が述べられた「三不信」と「三信」との意味を明らかにされ、「三信」によらなければならないことを丁寧に教えられたのです。
親鸞聖人は「同じく悲引す」と詠っておられるように、道綽禅師が、これらの時機の人びとを等しく哀れんで、他力の信心の教えに導き入れようとしてくださったと、讃えておられるのです。 
■誓願に遇うということ
道綽禅どうしゃくぜん師じは、仏教を学ぶ学び方に二つあることを教えられました。自力の聖道門しょうどうもんと他力の浄土門です。自分の能力を信じて修行に励み、それによって仏のさとりに近づこうとするのが聖道門です。しかしこれは、釈尊ご在世の時から遠くへだたり、しかも、次第に資質が衰えてきている凡ぼん夫ぶにとっては、まさに難行なんぎょうであるとして、道綽禅師はこれを退けられたのでした。そして、末の世の劣悪な凡夫にとっては、一人ももらすことなく、すべてをすくい取りたいと願われる阿弥陀仏の本願の力の他に、何も頼るものはないことを明らかにされたのです。
さまざまな善に励んで、さとりに近づこうとするのは、自分というものを知らない人のなすことであって、完全な徳がそなわっている「南無阿弥陀仏」をいただいて、もっぱら称えることが、自分に正直な、そして末法まっぽうの世にふさわしい唯一の道であるとされたのです。そのような教えについて、「一生造悪いっしょうぞうあく値弘ちぐ誓ぜい 至し安養界証妙あんにょうかいしょうみょう果か」(一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむ)と道綽禅師が言っておられるとして、親鸞聖人は、道綽禅師の教えをしめくくっておられるのです。たとえ、一生の間を通じて、さまざまな悪を作る者であっても、阿弥陀仏の広大な誓願に遇うことになれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、そこで仏のさとりを得るのであることを教えられた、ということです。
「弘誓」は阿弥陀仏の誓願です。阿弥陀仏は、仏になられる前、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられましたが、法蔵菩薩は、心から浄土に生まれることを求める人びとを、すべて、ご自分の浄土に迎え入れようと願われました。そして、その願いが成就しないのであれば、ご自分は仏にはならないという誓いを立てられたのでした。そして、法蔵菩薩は阿弥陀仏になられたのでした。「悪を造る」と言われていますが、その「悪」は、もちろん、法律上の罪を犯したり、世の道徳に反する行為をも言うのですが、それだけではありません。何よりも、釈尊が明らかにされた真実、人が生きる普遍の道理、それに背くのを「悪」というのです。「安養界に至る」と言われる「安養界」は、心が安らかとなり、身が養われる世界ということで、阿弥陀仏の極楽浄土のことです。一生の間、悪をなし続ける者も、浄土に至る、つまり往生する、と教えられているわけです。「妙果」とは、ことにすぐれた結果ということで、「仏のさとり」を意味します。したがって、一生の間、悪をなすものも、阿弥陀仏の誓願に遇うことになれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、そこで、仏になる、ということです。
ところで、一生、悪をなしてきた者が、どうして、浄土に往生し、そして仏になるのか、ということですが、それは、「弘誓に値いぬれば」ということによるのです。道理に逆らい、真実を疑う者が、往生して仏になれるのは、それは、それが阿弥陀仏の願っておられることであり、誓っておられることだからなのです。それ以外の理由ではないのです。道綽禅師は『安楽集あんらくしゅう』という著作を残しておられますが、その中に述べられている一つの喩えが、親鸞聖人の『教行信証きょうぎょうしんしょう』に引用されています。それによりますと、ひどい悪臭を放つ伊い蘭らんという樹が茂る林があって、その林の地中に、一株の芳ばしい香りを放つ栴檀せんだんの樹の根があり、栴檀が芽を出すまでは、耐え難いほどの悪臭が充満しているけれども、栴檀が芽を出し始めると、たちどころに、その伊蘭樹の林が、栴檀の芳ばしい香気に包まれた林に変わってしまう、というのです。伊蘭樹の林は私たちの生涯です。栴檀の芽は、阿弥陀仏の誓願を歓び、信ずる心を喩えたものです。その芽が出始めると、私たちの生涯は、そのまま誓願のはたらく生涯となるのです。悪をなす者が往生して仏になるということは、誓願によることであり、「誓願不可思議」と言われます通り、それは私たちの知性や論理でははかりきれない出来事なのです。 
■善導大師
親鸞聖人は、「正信偈」に、七人の高僧がたのお名前をあげて、その方々の徳を讃えておられます。この七高僧が、間違いのない念仏の教えを、親鸞聖人のところにまで、正しく伝えてくださったことを歓んでおられるのです。七高僧のうち、インドに出られた龍樹大士りゅうじゅだいじと天親てんじん菩薩については、すでに見ていただきました。次に、中国の曇鸞どんらん大師と道綽禅師どうしゃくぜんじのお二人についても、これまでに見ていただいたところです。
中国に出られた三人目の高僧が善導大師でありましたが、この善導大師について、親鸞聖人は、どのようなことを私たちに教えておられるのか、今回から、それをうかがって参りたいと思います。善導大師(六一三―六八一)は、若くして出家され、はじめ『維摩経ゆいまきょう』や『法華経ほけきょう』などのお経を学ばれました。のちに、たまたま『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』に出遇われ、このお経に説かれている念仏の教えを深く学ばれたのです。しかし、念仏といっても、それは、古くから中国の仏教界で行われていた、修行としての念仏だったのです。心の雑念を払いのけて、心を純粋に保って集中させるという、三昧さんまいの行です。この行によって、阿弥陀仏のお姿と阿弥陀仏の極楽浄土のありさまを心に観察する「観想かんそうの念仏」だったのです。のちに善導大師が教えられた「称名しょうみょうの念仏」とは、まるで異なる念仏でありました。
善導大師は、このような「観想の念仏」の修行に懸命に励まれて、やがてある一定の境地を体験されたと伝えられています。しかし、この「観想の念仏」に強く疑問を感じ取られたようでした。その頃、遠くの玄中寺げんちゅうじというお寺に道綽禅師がおられました。道綽禅師は、主として『観無量寿経』によって、念仏の教えを広めておられたのですが、そのことを、善導大師は伝え聞かれたのでした。そこで大師は、さっそく、厳しい冬の難路をさまよいながら、玄中寺に向かわれたのでした。玄中寺といえば、その昔、曇鸞大師が、本願他力の教えを説いておられたところでありました。曇鸞大師が亡くなられて七〇年ほどのちに、『涅槃経ねはんぎょう』の学僧であられた道綽禅師が、旅の途中でたまたま玄中寺に立ち寄られ、曇鸞大師の徳を讃えた石碑の文をお読みになり、曇鸞大師の教えに深く感銘を受けられたのでした。そして、これまでの思いを翻して、深く浄土の教えに帰依されたのでした。そして道綽禅師は、曇鸞大師の徳を慕って、そのまま玄中寺に住みついておられたのでした。その玄中寺を訪ねられた善導大師は、道綽禅師から親しく『観無量寿経』の講説をお聞きになり、本願他力の念仏の教えに目覚められたのです。それは、道綽禅師が八十歳、善導大師の二十九歳のときであったと伝えられています。
その後、善導大師は、唐の都の長安に移られ、光明寺こうみょうじというお寺を中心に、「称名の念仏」の教えをお説きになり、広く民衆を教化されたのでした。善導大師の教えは、自己の愚かさを厳しく自覚させ、それ故にこそ、阿弥陀仏から回向えこうされている他力の「称名の念仏」によって浄土に往生することを深く歓ぶという、とても情熱的な教えであったのです。中国には、浄土の教えに三つの流れがありました。その第一は、廬山ろざん流といわれているもので、廬山の東林寺におられた慧遠えおん法師(三三四―四一六)が、多くの同志とともに、阿弥陀仏像の前で修行しておられた自力の「観想の念仏」の伝統でした。第二は善導流で、今の、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師と次第して伝えられた他力の「称名の念仏」です。そして第三は慈愍じみん流の念仏で、慈愍慧日えにち(六八〇―七四八)という三蔵法師が唱えられた念仏と禅とを融合させた念仏禅でした。
このうち、日本に伝えられて栄えたのが、善導流の浄土教だったのです。日本の法然上人(一一三三―一二一二)が、「偏依善導一師へんねぜんどういっし」(偏ひとえに善導一師に依る)と宣言され、それが親鸞聖人に受け継がれたのでした。 
 

 

■独り仏の正意を明かす
前回から、「正信偈」の「善導章」を見ることになりました。親鸞聖人が、善導大師ぜんどうだいしの教えを簡潔に紹介され、善導大師の徳を讃えておられる部分です。善導大師は、いくつもの著書を残しておられますが、その代表的な著作は、『観無量寿経疏かんむりょうじゅきょうしょ』(四巻)です。これは『仏説観無量寿経』(『観経』)の註釈で、略して『観経疏かんぎょうしょ』と言われています。また、『観経疏』は四巻からなりますので、「四帖疏しじょうしょ」とも呼ばれています。
『観経』は、古代インドのマガダという国で起こされた事件が題材になっているお経です。マガダ国の王子の阿闍世あじゃせが、父の頻婆娑羅びんばしゃら王を幽閉して、食べ物も飲み物も与えずに、死に至らしめたという事件です。王妃の韋提希夫人いだいけぶにんは、夫である王を救おうとして、ひそかに食べ物や飲み物を牢獄に運んだのです。しかし、それが発覚して、韋提希は、激怒した王子に刃を向けられ、今にも殺害されそうになったのです。その場に居合わせた大臣たちが王子を押しとどめたので、韋提希は殺されずに済みましたが、宮殿の奥深い部屋に閉じ込められたのです。頻婆娑羅王は間もなく亡くなりました。韋提希にしてみれば、敬愛する夫が殺されたこと、しかも殺したのは自分が生み育てた王子であったこと、さらには、夫が殺されないように、息子が殺人者にならないように、二人を救おうとした自分が息子に刃を向けられたこと、このような深刻な苦悩の中に突然投げ込まれたのでした。韋提希は、釈尊に救いを求めました。釈尊は韋提希のために、浄土に往生する教えをお説きになりました。教えを聞いた韋提希は、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを願い、この教えによって、心に歓喜かんぎをおぼえ、立ち直ることができたのです。
善導大師(六一三―六八一)よりも前に、『観経』の註釈はいくつも著されていました。地論宗じろんしゅうの慧遠えおん(五二三―五九二)、天台宗の智ちぎ(五三八〜五九七)、三論宗さんろんしゅうの吉蔵きちぞう(五四九〜六二三)などが、いずれもすぐれた註釈を著しておられたのです。地論宗は、天親てんじん菩薩の『十地経論じゅうじきょうろん』をもっぱら依りどころにする宗派で、慧遠法師はその最高の学僧だったのです。天台宗は、『法華経ほけきょう』を依りどころにして、仏教の思想を大きく発展させた宗でした。その開祖が天台大師智だったのです。三論宗は、龍樹大士りゅうじゅだいじなどの著作を依りどころにして、「空くう」の思想を大成させた学派で、その指導者が吉蔵という学僧だったのです。
善導大師は、ご自分の『観経疏』のことを「古今楷定ここんかいじょう」と名づけておられます。これは、「古の人の解釈と今(ご自分)の解釈とを比べて、解釈を正しく確定した」という程の意味です。それでは、どのように解釈が違うのでしょうか。諸師の間にも、それぞれに解釈の違いはありますが、共通していることは、諸師はいずれも、韋提希を「大権だいごんの聖者しょうじゃ」と見ておられるということです。『観経』には、韋提希は愚かな凡夫ぼんぶとして説かれていますが、それは、聖者が、大衆を導くための方便として、仮にそのような姿をとっているのだと解釈されたのです。このため、『観経』は、聖者が往生するためのお経ということになります。
これに対して、善導大師は、韋提希を「実業じつごうの凡夫」と解釈しておられます。韋提希は聖者などではなく、文字通りの愚かな凡夫であり、悩み苦しみをもって生きなければならない凡夫の一例であると見ておられるのです。ですから、『観経』は、凡夫のために、浄土往生の教えが説かれているお経ということになるのです。また、諸師は、厳しい修行によって、浄土のありさまを心に念じ続ける「観想かんそうの念仏」によらなければならないとされました。これに対して、善導大師は、そのような、特定の人にしかできない修行を求めることは、釈尊の教えのご本意ではないとして、誰もが称えられる「称名しょうみょうの念仏」こそが往生の道であると説かれたのです。このため、親鸞聖人は、「善導独り、仏の正意を明かせり」として、讃えておられるのです。 
■悲しい凡夫を哀れむ
善導大師ぜんどうだいしは、誰もが称えられる「称名しょうみょうの念仏」こそが往生の道であると教えられました。力のない愚かな凡夫が救いとられる教えこそが、釈尊のご本意であることを明らかにされたのでした。永い仏教の歴史のなかで、インドにも、中国にも、多くのすぐれた仏教者、思想家が出られましたが、善導大師ただお一人だけが、私たち凡夫に対して、もっとも厳しくも、もっともやさしいまなざしを向けてくださっていることを、親鸞聖人は、感動をこめて讃えておられるわけです。
親鸞聖人は、その善導大師の徳を讃えて、「矜哀定散与逆悪こうあいじょうさんよぎゃくあく」(定散と逆悪とを矜哀して)と述べておられます。すなわち、定散の人びと、そして逆悪の凡夫は、悲しい生き方をせざるを得ない人びととして、これらを善導大師は、痛ましく、哀れに思っておられた、ということです。「矜哀」の「矜」も「哀」も、どちらも「あわれむ」という意味です。また、「与」は、「…と…と」という意味を表す文字です。そして「定散」は、「定善じょうぜん」と「散善さんぜん」のことです。また「逆悪」は「五逆ごぎゃく」と「十悪じゅうあく」とを短く言い表した言葉です。『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』は、思いもかけない出来事によって、深い悩み苦しみを経験することになった、韋提希いだいけという女性の悲しみが素材となっています。
古代インドのマガダ国の王子の阿闍世あじゃせが、父の頻婆娑羅びんばしゃら王を牢獄に幽閉したのです。王子の母であり、王の妃である韋提希夫人ぶにんは、何とかして王を救おうとして、ひそかに食べ物などを牢獄に運んだのです。それが発覚して、王子の怒りをかい、韋提希自身も斬り殺されそうになったのでした。韋提希は殺されずに済みましたが、宮殿の一室に閉じ込められ、程なく頻婆娑羅王は亡くなったのでした。
絶望した韋提希は、釈尊に救いを求めます。そして、憂い悩みのない、阿弥陀仏の極楽世界に生まれたいと願ったのです。釈尊はその願いに応えて、極楽浄土へ往生する方法として、十六項目の教えをお説きになったのです。そのうちの初めの十三項目は、阿弥陀仏の浄土のありさまや、阿弥陀仏のお姿を、心に想い浮かべる観察の方法(十三観)が説かれています。後の三項目には、人びとがそれぞれの性質や能力に応じた修行によって、浄土に往生する様子(三観)が述べてあるのです。
善導大師は、前の十三観を「定善」とされ、後の三観を「散善」と見ておられます。「定善」は、雑念を除き、精神を一点に集中する安定した修行によっておこなう善です。一方の「散善」は、日常の散乱した心のままで修める善なのです。
「定善」にしても、「散善」にしても、結局は、それは、自分の力を頼りにして修める自力の善なのです。ですから、善導大師は、これらの人びとを、自力という深い迷いにある者として哀れんでおられるのです。しかし善導大師は、定散の二善を、他力真実の念仏に出遇う「縁」になると見ておられるのです。「五逆」は、1父を殺すこと、2母を殺すこと、3阿羅漢あらかん(聖者しょうじゃ)を殺すこと、4仏のお体を傷つけること、5僧伽サンガ(教団)の調和を破壊して分裂させることです。このうち、前の二つは、阿闍世が該当します(母を殺しませんでしたが、殺そうとしました)。後の三つは、釈尊に反逆した提婆達多だいばだったがおこなったことです。「十悪」は、1生きものを殺すこと、2盗みをはたらくこと、3よこしまな男女関係をもつこと、4嘘をつくこと、5二枚舌を使うこと、6ののしること、7へつらうこと、8貪ること、9立腹すること、I愚かであることです。
善導大師は、「定善」と「散善」の善人も、「五逆」と「十悪」の悪人も、どちらも痛ましいことと悲しまれ、哀れんでおられるのです。悪人はもとより、自力に迷う善人も、阿弥陀仏から施し与えられている念仏、「南無阿弥陀仏」を素直に受け取ることこそが、本当の意味での救いになること、感謝のうちに自分の人生を見直すことになることを教えておられるのです。
親鸞聖人は、自力に迷い、時として悪を犯す私たちにとって、他力の称名念仏こそが救いになると述べておられるのです。 
■光明と名号
まず、「矜哀定散与逆悪こうあいじょうさんよぎゃくあく」(定散と逆悪とを矜哀して)と述べてあります。善導大師ぜんどうだいしは、定善じょうぜんと散善さんぜんの人びと、そして五逆ごぎゃくと十悪じゅうあくの凡夫ぼんぶを哀れんでおられるのでありました。それは、前回、少し詳しく見ていただいた通りです。「定善」にしろ、「散善」にしろ、これらは自力によることです。自力に頼るということは、自分を見誤ると同時に、阿弥陀仏の願いに背いていることに気づいていないことになります。それを、善導大師は悲しまれ、哀れんでおられるのです。また、「五逆」とか「十悪」とか、重い罪を犯すという、そのような悲しい生き方をせざるを得ない人びとを、善導大師は、痛ましく、哀れんでおられるのです。
善導大師が哀れみをかけておられるのは、他の誰かのことではなくて、実は、今の私たちのことなのです。常に自力に迷い、また縁があればどのような罪悪をも犯す私たちのことです。親鸞聖人も、ご自身のことを、そのように、危うい、悲しい凡夫であると見ておられたのではないでしょうか。「光明名号顕因縁こうみょうみょうごうけんいんねん」(光明名号、因縁を顕す)とありますが、その「光明」は阿弥陀仏の智慧ちえのはたらきを意味します。光明は、暗闇を破ります。自力に迷い、道理について無知・無自覚である私たちの心の暗闇は仏の智慧の光によって破られるのです。しかし、仏の智慧の光明が、どこからか射し込んで来るというのではないでしょう。それは、阿弥陀仏の本願が、この私に差し向けられていることに私が気づかされたとき、つまり、私は、深い願いに包まれて生きていることに気づかされたときに、私は私の心の誤りを思い知らされ、道理に目覚めさせられるのです。それが、無知の暗闇が破られるという、本願の光明のはたらきなのです。
「名号」とは「南無阿弥陀仏」です。これも、私のために起こされている阿弥陀仏の願いによって私に届けられているものです。「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏に帰命きみょうする」ということです。すなわち、「阿弥陀仏を心から敬います」ということなのです。しかし、それを平たく言い換えるならば、「阿弥陀仏におまかせいたします」という意味になると思います。私は、どう考えても、自力では浄土に往生する原因は作れないのです。そんなことはわかりきっていることですから、阿弥陀仏は、「余計なことはしなくてよろしい。私にまかせなさい」と呼びかけておられるのです。その呼びかけに従って、「おまかせいたします」というのが、「南無阿弥陀仏」なのではないでしょうか。
次に「因縁」ですが、「因」は「原因」です。「縁」は、原因となるものに直接かかわる「条件」です。つまり、「原因」と、それをとりまく「条件」とを「因縁」というのです。「原因」と「条件」の組み合わせによって、一つの「結果」が生ずることを「因縁」というのです。
さて、「光明名号顕因縁」(光明名号、因縁を顕す)とあります。順序は逆ですが、善導大師が顕らかにされたのは、「名号」が「因」(原因)であり、「光明」が「縁」(条件)となっているということです。本願によって私たちに与えられている「名号」が、「信心」の原因となります。その「名号」つまり「南無阿弥陀仏」が、私に与えられていることに気づかせていただく条件となるのが、本願による智慧の「光明」であると、善導大師は教えておられるわけです。「信心しんじん」というのは、私が私の思いによって起こすものではなくて、阿弥陀仏の願いが原因で私に起こるものであり、その願いが私に向けられていることに気づかされることが「信心」の条件となっている、ということなのです。阿弥陀仏が私たち一人一人に願っておられる、その願いに素直に従う心、それが「信心」でありますが、今こそ、その「信心」が私たちに不可欠であるとして、善導大師は、その「信心」の意味を顕らかにしてくださったのです。 
■金剛の信心
親鸞聖人は、多くの方々が『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』を学んでこられたけれども、善導大師ぜんどうだいし、ただお一人だけが、仏の正しいお心を明らかにされた(善導独明仏正意ぜんどうどくみょうぶっしょうい)と述べて、善導大師を讃えておられます。その善導大師は、自分の努力によって心を静めて浄土を見つめようとする人(定善じょうぜん)も、散乱した心ながらも善を修めることによって浄土を求める人(散善さんぜん)も、さらに、五逆ごぎゃくとか十悪じゅうあくという罪悪を犯す人びとにも、等しく哀れみの心を向けられたのでした(矜哀定散与逆悪こうあいじょうさんよぎゃくあく)。そして善導大師は、本願によってすべての人に与えられている「南無阿弥陀仏」という他力の名号みょうごうが、定善や散善、五逆や十悪などの人びとの信心しんじんの因となり、阿弥陀仏の智慧ちえの光明が信心の縁となることを顕らかになさったのでした(光明名号顕因縁こうみょうみょうごうけんいんねん)。
これに続けて、親鸞聖人は、善導大師の教えについて、「開入本願大智海かいにゅうほんがんだいちかい 行者正受金剛心ぎょうじゃしょうじゅこんごうしん」(本願の大智海に開入すれば、行者、正しく金剛心を受けしめ)と、詠っておられるわけです。「本願の大智海」は、本願によってはたらく、海のように広く深い仏さまの智慧です。『正信偈』には、「本願海ほんがんかい」という言葉があります。「本願海」と「大智海」は、慈悲と智慧の関係です。また、「群生海ぐんじょうかい」という言葉もあります(前掲に同じ)。本願の海、大智の海、それは同時に、五濁ごじょくの悪時に生きている私たち群生の海でもあるのです。私たちは、本願の海、大智の海でなければ、生きられない生きものなのです。海は、どのような源から流れ出る川の水も、また、どのような所を流れて下ってきた水も、みな同じ塩味にしてしまうのです。そして、海は、生きものを養い育てるところなのです。生きているものでなければ、海にはとどまることができないのです。
親鸞聖人のご和讃に、「名号不思議の海水かいしいは 逆謗ぎゃくぼうの屍骸しがいもとどまらず 衆悪しゅあくの万川帰ばんせんきしぬれば 功徳くどくのうしおに一味いちみなり」という一節があります。不可思議な名号という海水は、五逆を犯す人や、仏法を謗る人のような死骸は留め置かないのだけれども、そのような悪であっても、すべての川の水が海に注いで一つの塩味になるように、すべて等しく、名号のすぐれたはたらきによって、信心をいただいて、活き活きと生きてゆけるようになると、教えておられるのです。
「開入」は、開示帰入かいじきにゅうの省略で、見失っているものが、開かれて示され、それに立ち戻らされて迎え入れられる、ということです。「定善や散善、五逆や十悪の人であっても、開き示された本願による大智に立ち戻らせられたならば」という意味になります。そうすると、どうなるかということですが、この「行者」、すなわち、定善・散善・五逆・十悪などの人も、「正受金剛心」(正しく金剛心を受けしめ)とありますように、間違いなく、金剛のような堅い信心を受け取らせていただけるのです。「金剛」は、ダイアモンドで、もっとも硬いものを喩えています。自分の思いによって起こす自力の信心は、もともと脆くて、壊れやすいものです。しかし、阿弥陀仏の本願の力によって施し与えられている他力の信心は、金剛のように硬く、壊れることがないのです。「開入本願大智海」という句は、その前の句につなげて、「定散と逆悪とを矜哀す。光明・名号、因縁を顕して、本願の大智海に開入せしむ。行者、正しく金剛心を受けて、・・・」と読まれることがあります。これによりますと、「光明と名号が因縁となることを顕らかにする」ことによって、定散と逆悪とを「本願の大智海に開入させる」という意味になります。
いまは、親鸞聖人のご指示にしたがって、「定散と逆悪とを矜哀して、光明・名号、因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、行者、正しく金剛心を受けしめ」と読みました。「本願の大智海に開入するならば」「行者は金剛心を受けさせられることになる」という意味になります。 
■慶喜の一念
親鸞聖人は、さらに続けて善導大師ぜんどうだいしの教えを紹介しておられます。人は、自分の力を頼りに、心を静める修行をして浄土を見つめようとする場合があります(定善じょうぜん)。また、散乱した心ながらも善を修めることによって浄土を求める場合があります(散善さんぜん)。さらにまた、五逆ごぎゃくとか十悪じゅうあくという悪を犯す場合があります。しかし、どのような場合、どのような人であろうと、阿弥陀仏の智慧ちえの光明の輝きが、それらの人びとにとって、真実の信心しんじんに目覚める「縁」となり、阿弥陀仏の大慈大悲によって誰にも等しく差し向けられている「南無阿弥陀仏」という名号が、真実の信心の「因」となると、善導大師は教えられるのです(光明名号顕因縁こうみょうみょうごうけんいんねん)。そして、誤って、どのような方向に向かってしまった人であろうと、本願の智慧の輝きのなかに呼び戻されるのであるから(開入本願大智海かいにゅうほんがんだいちかい)、その人は、まさしく金剛のように硬い他力の信心を受け取らせてもらえるのである(行者正受金剛心ぎょうじゃしょうじゅこんごうしん)と、教えておられるのです。
親鸞聖人は、善導大師の教えについて、「慶喜一念相応後きょうきいちねんそうおうご 与韋提等獲三忍よいだいとうぎゃくさんにん」(慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲)と続けておられます。真実の信心に目覚めさせてもらった人の一念の喜びの心が、本願を発された阿弥陀仏のお心に合致(相応)するならば、その人は、韋提希夫人いだいけぶにんが得たのと同じ「三忍」を受け取ることになる、と教えられるのです。『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』に、「あらゆる衆生しゅじょう、その名号を聞きて、信心歓喜しんじんかんきせんこと、乃至一念ないしいちねんせん」と説かれていますが、ここでは、それを「慶喜の一念」と述べてあるわけです。「南無阿弥陀仏」をいただき、本願に出遇った人の喜びです。本願による名号、本願による信心を喜べる人は、どうなるのかということですが、それは、あの韋提希のようになる、と言われているのです。
韋提希夫人は、敬愛する夫である頻婆娑羅びんばしゃら王が、事もあろうに、自分が産み育ててきた王子の阿闍世あじゃせによって死に至らしめられ、その上、それを助けようとした自分自身も宮殿の奥深くに幽閉されるという悲しみに遇ったのです。彼女は、苦悩の中から釈尊に教えを請うのでした。その求めに応じて説かれたのが『仏説観無量寿経かんむりょうじゅきょう』でありました。
『仏説観無量寿経』によりますと、韋提希は、釈尊のみ教えによって、阿弥陀仏と観音かんのん・勢至せいしの二菩薩を拝むことができて、歓喜の心を生じ、「無生法忍むしょうぼうにん」という悟りを得た、とされています。ここに説かれる「無生法忍」(真理を確信する境地)を、善導大師は三つに分けて「三忍」とされたのです。「忍」は「認める心」というほどの意味です。
「三忍」は、喜忍きにん・悟忍ごにん・信忍しんにんの三つです。喜忍は、信心によって生ずる喜びの心、悟忍は、智慧の光明によって目覚めさせられた心、信忍は、本願を疑うことなく信ずる心です。そして、この「三忍」が、一念の信心のなかに同時にはたらくとされているのです。阿弥陀仏の本願を心から喜べる人は、韋提希夫人がそうであったように、現在の生活のなかで、この「三忍」を得ることになると、善導大師は教えられるのです。そして、そのことによって、「即証法性之常楽そくしょうほっしょうしじょうらく」(すなわち法性の常楽を証せしむ)と言われていますように、ただちに、真実(法性ほっしょう)こそが常に変わることのない、究極の安楽であることを会得することになる、と教えておられるのです。「常」は、一定していて変わらないことです。「楽」は、苦に対する楽ではなくて、私たちが認識する苦と楽をともに超えた安楽のことを言っておられるのです。 
 

 

■源信僧都
これまでに、何度か申し述べてきました通り、親鸞聖人の「正信偈」は、古くから、大きく三つの段落に分けて学ばれてきました。第一の段落は「総讃そうさん」といわれ、冒頭の「帰命無量寿如来きみょうむりょうじゅにょらい 南無不可思議光なむふかしぎこう」という二行がそれに当たります。第二は、「依経段えきょうだん」で『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』というお経に依って述べてある段落です。「依経段」には、まず「法蔵ほうぞう菩薩ぼさつ因いん位に時じ」という句から始まる「弥陀章」があります。ここには、阿弥陀仏の本願のいわれが述べられています。次に「釈迦章」があります。「如来にょらい所しょ以い興こう出世しゅっせ」という句から始まる段落です。ここには、『仏説無量寿経』をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを教えておられる釈尊の徳を讃えてあります。そしてその次に「依経段」の結びに当たる「結誡」といわれる部分があります。「弥陀仏本願念仏みだぶつほんがんねんぶつ」から始まる四行です。第三の段落は、「依釈段えしゃくだん」です。これは、インド・中国・日本に出られた七人の高僧がたの、本願念仏についての教えの解釈にもとづいて述べてある部分です。ここに、親鸞聖人は、七高僧の教えの要点をかかげられ、七高僧の徳を讃嘆しておられるのです。
このうち、インドの龍樹大士りゅうじゅだいじ・天親てんじん菩薩、中国の曇鸞大師どんらんだいし・道綽禅師どうしゃくぜんじ・善導ぜんどう大師について述べられているところをすでに見てまいりました。今回からは、日本の源信げんしん・源空げんくうというお二人について、親鸞聖人が讃えておられるところに入るわけです。その最初、六人目の高僧は、源信僧都そうずというお方です。源信僧都(九四二〜一〇一七)は、比叡山の恵心院えしんいんにおられましたので、恵心僧都ともお呼びしています。今の奈良県に誕生され、十三歳のときに出家して比叡山に上られ、そこで天台宗をはじめ、諸宗の教義を究きわめられたのでした。そして、並はずれた学識によって、広く名声を高められたのでした。これによって、朝廷から、「僧都」という僧侶の高い位が授けられようとしたのですが、これを固辞して受けられませんでした。しかし、世の人びとは、このお方こそが「僧都」とお呼びするにふさわしい人であるとして、敬意をこめて、源信僧都とか、恵心僧都とか、そのように尊称するようになったのでした。
源信僧都は、世の名刹を避けて、比叡山の奥深く、恵心院に隠棲されて、仏教の真髄を究められたのでした。ところが、諸教を広く深く学ばれるなかで、末世の 凡夫ぼんぶにふさわしい教えは、念仏往生の教え以外にはないことに気づかれ、浄土の教えに帰依されることになったのでした。それは、源信僧都の四十四歳のときでありました。念仏の教えを教え広めるために、多くの著作をのこされましたが、中でも、『往生おうじょう要よう集しゅう』は、多くのお経の文などを集めて、仏教全体の帰するところは、結局は念仏往生の教えしかないことを明らかにされたのでした。これが、日本の浄土教の源流となり、のちに法然上人による浄土宗の開宗に大きな影響を与えたのです。
このような源信僧都について、親鸞聖人は、「広く一代の教を開きて」(広開一代教)と讃えておられるのです。「広く一代の教えを開かれた」というのは、釈尊がご生涯に説かれた教え、すなわち仏教の全体ですが、その真髄を広く世に公開されたということです。そして、「ひとえに安養に帰して、一切を勧む」(偏帰安養勧一切へんきあんにょうかんいっさい)と言われていますのは、源信僧都が、釈尊の一代の教えを広く深く究められた上で、ひとえに、安養世界、つまり阿弥陀仏の浄土に往生する念仏の教えに帰依するようになられたことをいうのです。これによって、『仏説無量寿経』に説かれている念仏往生の教えこそが、さまざまなすがたをとっている仏教全体の肝要の教えであることが示されているわけです。さらに、源信僧都は、多くの著作によって、ご自分の信心を世の一切の人びとに盛んに勧められたのでした。世の一切の人びとが、釈尊のご本意に立ち戻り、念仏の教えに目覚めてほしいと願われたということなのです。 
■報土と化土
親鸞聖人は、源信僧都げんしんそうずの徳を讃えて、「広く一代の教を開きて」(広開一代教こうかいいちだいきょう)と述べておられます。そして「ひとえに安養あんにょうに帰して、一切を勧む」(偏帰安養勧一切へんきあんにょうかんいっさい)と詠っておられます。源信僧都は、釈尊がそのご生涯のうちにお説きになったみ教え(一代教)を、膨大な数にのぼるお経によって、くまなく学びとられたのでした。そして、仏教の真髄を世間に広く示されたのです。つまり、釈尊ご一代のみ教えの帰結するところは、「南無阿弥陀仏」をとなえる念仏の教えでしかないことを明らかにされたのです。そして、自ら念仏に深く帰依されるとともに、世間の一切の人びとに本願による念仏をいただくように勧められたのでした。次に、親鸞聖人は、源信僧都について、「専雑の執心、浅深を判じて」(専雑執心判浅深せんぞうしゅうしんはんせんじん)と述べておられます。「専せんの執心」は深く、「雑ぞうの執心」が浅いことを、きっぱりと判別されたということです。「専」は、もっぱら阿弥陀仏の名号みょうごうを称える念仏(専修念仏せんじゅねんぶつ)です。もう一方の「雑」は、念仏のほかにさまざまな行を雑ぜ合わせて修める行(雑修ざっしゅ)のことです。
「執心」は、普通には、「執着心」ということで、「こだわりの心」という意味に解されることがあると思います。しかし、ここでは、「執持心しゅうじしん」ということで、「執とり入れて持たもつ心」という意味に用いられています。つまり、失わずに持たもち続ける心をいうのです。阿弥陀仏の本願に素直に従って、一途に「南無阿弥陀仏」を称える他力の信心しんじんは深く、本願よりも、自らの努力を信頼して、さまざまな修行に励んで往生を期待する信心は浅はかであること、その違いを、源信僧都は、はっきりと判別してくださったと、親鸞聖人は喜んでおられるのです。
「報化二土ほうけにど」は、「報土」と「化土」ということで、源信僧都は、この二つの浄土を正しく区別して明らかにされたのです。一切の人びとを迎え入れたいと願われた阿弥陀仏の本願が報いられて開かれている浄土を「報土」というのですが、その「報土」に、さらに「報土」と「化土」の二種の浄土があるとされています。まず、阿弥陀仏の浄土は「真実報土」といわれます。他方、阿弥陀仏が、自力に執とらわれている行者ぎょうじゃに思い描かせておられる浄土を「方便化土」というのです。どちらも、阿弥陀仏の「報土」なのです。
「方便」は、凡夫ぼんぶを「真実」に近づけるために仏が設けられた手段ということです。自力から離れられないでいる雑心の凡夫を、本願他力を信ずる専心によってしか往生できない真実の「報土」にやがて導くために、仮に方便として化現けげんされているのが「化土」です。
このように見てきますと、源信僧都は、浄土に二種あることを説明しておられるように思われます。しかし、源信僧都は、彼方に阿弥陀仏の浄土を想定して、その浄土について解説しておられるのではないのです。むしろ、専心と雑心という、信心に区別があることを言おうとされているのです。専修念仏が与えられているにもかかわらず、思い上がって、その念仏に従わずに、雑修に心を向けてしまう愚かさを、源信僧都は誡めておられるのです。本来、「真実報土」に往生させてもらうはずの者が、本願よりも自我を優先させて、自分が思い描いている浄土に固執し、そして、それに満足しようとしている誤りを指摘しておられるのです。しかも、源信僧都は、「信心」のあり方を説明しようとしておられるのではないと思います。本願の教えからすれば、「真実報土」に往生することが明らかな事実であるのに、容易に自我を捨てきれず、自我を確保しようとしているご自分のお心を厳しく誡めておられるのではないかと思われるのです。ここには、阿弥陀仏の本願を深く喜ばれ、釈尊のみ教えを正しく受け取られながら、どうしても、我が心に閉じこもってしまうという、源信僧都の緊迫した慚愧のお心がうかがえるのではないでしょうか。 
■報土と化土
親鸞聖人は、源信僧都げんしんそうずのお言葉を掲げておられます。源信僧都は、呼びかけておられるのです。「極重の悪人は、ただ仏を称すべし」(極重悪人唯称仏ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)と。「極重の悪人は、ただただ阿弥陀仏のみ名を称となえなさい」という呼びかけです。「極重の悪人」とは、極めて重大な悪をはたらく人ですが、それは、どのような人なのでしょうか。法律に違反すること、それは悪です。また、法律には違反しなくても、世の道徳・倫理に反すること、それも悪です。しかし、それよりも、仏の教えに従えない人、真実に背く人、何とかして救ってやりたいと願っておられる仏の大慈悲心に逆らっている人、それが「極重の悪人」なのです。
前回の話に関連づけてみるならば、すでに、阿弥陀仏から専修せんじゅ念仏が与えられているにもかかわらず、それを無視して自分の思いを優先させ、あえて雑修ざっしゅに心を向けてしまうのが「極重の悪人」なのです。心静かに我が身を眺めてみると、阿弥陀仏の本願による信心しんじんをいただいていることを、繰り返し繰り返し、教えられていることに気づかされます。そして、その教えを十分に承知しているつもりになっています。にもかかわらず、どこまでも、自分自身にこだわって思い上がり、本願の教えを他人事のように感じ取っていることに気づきます。情けないことですが、これこそが「極重の悪人」なのではないでしょうか。このような凡夫ぼんぶは、早く自分へのこだわりから離れ、思い上がりを捨てて、ただ、素直に「南無阿弥陀仏」を称えるしかないと、源信僧都は言っておられます。
「極重の悪人は、ただ仏を称すべし」と呼びかけておられますが、しかし、それは、だれかれに教えておられるというよりも、源信僧都ご自身に向かって言っておられるお言葉であると、親鸞聖人は受け取っておられるのではないでしょうか。またそれと同時に、親鸞聖人は、素直に「南無阿弥陀仏」を称えるならば、阿弥陀仏は、そのような「極重の悪人」でも、むしろそのような「極重の悪人」だからこそ、必ず摂おさめ取ってくださるのだと、源信僧都が私たちを励ましてくださっていると見ておられるのではないでしょうか。
源信僧都は、ご自身のことを「我また、かの摂取の中にあれども」(我亦在彼摂取中がやくざいひせっしゅちゅう)と述べておられます。ご自分もまた、「かの摂取の中」、つまり、阿弥陀仏の本願の中にしっかりと摂め取られているという事実を述べておられます。ところが、「かの摂取の中にあれども」と言っておられます通り、本願に摂め取られているという事実があるにもかかわらず、「煩悩、眼を障えて見たてまつらず」という、ご自身の現実を、源信僧都は率直に表明しておられるのです。つまり、絶え間なくはたらき出す煩悩、自我へのこだわりが、心の眼を覆いつくしていて、摂め取って捨てられることのない本願の事実を自分自身で見えなくしてしまっている、といっておられるのです。ところが、「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」( 煩悩障眼雖不見ぼんのうしょうげんすいふけん)と言われます。自分が引き起こしてしまっている煩悩によって、自分で見えなくしてしまっているのだけれども、それでもなお、「大悲ものうきことなく、常に我を照したまう」(大悲無倦常照我だいひむけんじょうしょうが)と述べられて、阿弥陀仏の大悲の光明こうみょう、大いなる哀れみのお心は、あきらめることなく、常にご自分を照らして護ってくださっていることに、感激しておられるのです。
源信僧都は、摂取の中に身をおいているという事実と、その事実を見たてまつっていないという現実と、この食い違いを直視なさっているのです。そして、この食い違いを、凡夫の常識を越えたところで解消している不可思議なはたらきこそが、阿弥陀仏の大悲であると受けとめておられるのです。そして、そこに、源信僧都の信心歓喜かんぎのお気持ちが表明されているということで、親鸞聖人は、源信僧都のお言葉をここに掲げておられるのだと思われるのです。 
■法然上人
「正信偈」の「依釈段えしゃくだん」といわれている段落に、親鸞聖人は、七人の高僧の名をあげて、その徳を讃えておられます。これまで、六人の高僧がたについて述べられた部分を見てきましたが、今回からは、七高僧の最後、第七番目の、源空上人について述べられている部分を見ることになります。源空上人というのは、親鸞聖人の直接の師であられた法然上人のことです。
法然上人(一一三三〜一二一二)は、美作国みまさかのくに(今の岡山県)に、地方武士の子としてお生まれになりました。上人の九歳のとき、お父上は、抗争に巻き込まれ、夜討ちに遭われて亡くなられたのでした。命終に際して、お父上は、幼い法然上人に、次のようなことを言い遺されたと伝えられています。「仇を恨んではならない。出家して、敵も味方も、ともどもに救われる道を求めよ」と。このような出来事が縁となって、法然上人は、十三歳のときに比叡山に上られ、十五歳のとき出家されたのでした。上人は、はじめ源光げんこうという僧の弟子となられ、十八歳のとき、叡空えいくうという僧を師として天台宗の教えを学ばれたのでした。叡空師は、上人の非凡な才能を認め、「法然房」という房号を与えられ、また最初の師の「源光」と、ご自分の名の「叡空」とから、「源空」という名を授けられたのでした。
法然上人は、僧侶としての栄達をかなぐり捨てられ、一人の孤独な求道者として、人は、どのようにして悩みや悲しみから離れることができるのか、その道をひたむきに探し求められたのでした。しかし、その願いは、比叡山の伝統の教えによっては満たされることがなかったのです。そこで、上人は、直接、仏の教えに正しい答えを求められました。厖大ぼうだいな数にのぼるお経と、それらのお経に対する先人たちの注釈書類を虚心に読みあさられたのでした。そのことを親鸞聖人は「本師源空明仏教ほんじげんくうみょうぶっきょう」(本師・源空は、仏教に明らかにして)と詠んでおられるのです。釈尊の教えであるお経によって道を明らかにされた、ということです。そのような求道の中で出遇われたのが、源信僧都げんしんそうずによる『往生要集おうじょうようしゅう』の言葉でした。「自分のような愚かな者にとっては、ただ阿弥陀仏の本願を信じて極楽浄土に往生させてもらうしか方法はない」という教えだったのです。自分の努力によって悟りに近づくための教えではなかったのです。
源信僧都のお言葉に導かれて、上人は、それまであまり深く関心を向けておられなかった善導大師ぜんどうだいしの教えに、衝撃的な出遇いをなさったのです。善導大師の『観経疏かんぎょうしょ 』の「一心に弥陀の名号みょうごうを専念して」というお言葉に遇われたのです。それは、上人の四十三歳のことであったと伝えられています。それが衝撃であったのは、「念仏でもよい」という自力聖道門しょうどうもんの伝統的な教えとは異なり、「ただ念仏しかない」という教えだったからです。しかも、「ただ念仏」によってのみ救われるということは、誰かがそのように理解したというのではなく、それが「かの仏願に順ずるがゆえに」(同前)と説かれていますように、阿弥陀仏の願われた願いに順う道理だからなのです。
法然上人は、やがて比叡山から下りられ、京都の吉水において、貧富・貴賎きせんを問わず、濁った世を生きなければならない人びと、真の仏教を求める人びとに、「専修せんじゅ念仏」(専ら念仏を修める)の教えを広められたのでした。この法然上人に出遇われ、その教えをまっすぐに受け取られたのが親鸞聖人だったのです。専修念仏の教えが広まるにつれて、権威を失うことを恐れた比叡山や奈良の伝統仏教からの攻撃が強まり、同じく権威を守ろうとした朝廷によって念仏は弾圧されることになりました。法然上人の門人の四人は死罪に処せられ、法然上人は四国の土佐(高知県)に、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪となられたのでした。法然上人は、四年あまり後に赦免しゃめんされて京都にもどられましたが、ほどなく、念仏のうちに八十年のご生涯を閉じられたのでした。  
■善悪の凡夫人
法然ほうねん上人は、人が、次々に襲ってくる悩みや悲しみから、どのようにして解き放たれるのか、その道を真正面から学ぼうとされたのでした。そのために、お若いころから、比叡山で、天台宗の修行や学問に励まれたのでした。そして、まれに見る逸材として、比叡山の誰からも一目も二目も置かれるようになっておられたのでした。比叡山ばかりではなく、南都(奈良)の法相宗ほっそうしゅうをはじめ、諸宗の宗義の研鑽けんさんにも努められたのでした。これらの修養によって、法然上人は、当時、日本に伝わっていた仏教の教義の最も深いところを究きわめられたわけです。このことを、親鸞聖人は「正信偈」に「明仏教」(仏教に明らかにして)と詠っておられるのだと思います。つまり、当時の仏教の教義に精通しておられたということです。しかし、それにもかかわらず、法然上人は、それらの学びからは、心から喜べる人生の答えを見出されなかったのです。そこで、諸宗の教義から離れて、直接、釈尊のみ教えの中に答えを探し求められたのでした。このため、上人は、釈尊の教説である厖大ぼうだいなお経と、それらのお経に対する先人たちの解釈げしゃくなどを精力的に学ばれたのでした。この意味でも、親鸞聖人は、法然上人のことを「明仏教」(仏教に明らかにして)と讃えておられるのだと思います。諸宗教の一つである「仏教」ではなくして、釈迦牟尼むに仏の教えの全体を解明されたということです。
このような経過の中で、前回述べました通り、法然上人は、『仏説観無量寿経ぶっせつかんむりょうじゅきょう』と、善導大師ぜんどうだいしによる、その注釈である『観経疏かんぎょうしょ』に出遇われたのです。善導大師が『仏説観無量寿経』の教説から受け取られた「ただ念仏して」という教えこそが、釈尊のご本意であることを、法然上人はお気づきになられたのです。この劇的な出来事を契機に、上人は、ご自身が「専修せんじゅ念仏」の道を歩まれるとともに、世の貧富・貴賤・老若・男女・善悪の人びとに、一心に専ら阿弥陀仏の名号みょうごうを称となえる念仏を勧められたのです。その勧化かんげを受けた多くの人びとの中に、実は、親鸞聖人がおられたのです。
「正信偈」には、「憐愍善悪凡夫人れんみんぜんまくぼんぶにん」(善悪の凡夫人を憐愍せしむ)と述べられていますが、「凡夫」とは、普通の人ということで、真実に目覚められた仏以外の、どこにでもいる人のことです。法然上人は、善悪にかかわらず、真実に目覚めることができていないすべの凡夫を憐れまれたのです。しかし上人は、ご自分以外の凡夫を憐れに思われたということではないでしょう。阿弥陀仏の本願が、善悪にかかわらず、悩み多いすべての凡夫を憐あわれんで発おこされている慈愛であること、そして凡夫は、本願に素直に従うしかないことを説き示されたのが、釈尊の慈愛であることを、法然上人はまた明らかにされたのです。ここには、悪の凡夫も、善の凡夫も、ともに区別なく見られていることに、注意を向ける必要があると思われます。悪の凡夫は、自分が起こす欲望に自分が支配されて、法律を犯し、道徳に背き、仏が説き示された真実をないがしろにしているのです。善とされる凡夫は、現実には、法律は犯していないかもしれません。また道徳に背く行いはしていないかもしれません。しかし、わずかばかりの自重の努力をもとにして、知らず知らずのうちに、その果報を要求します。また、他人を見下して自らの優越を誇っているのです。これも、仏の真実をないがしろにしているのです。
善であろうと、悪であろうと、どちらにしても、愚かで悲しい存在であるのが凡夫なのです。そのように愚かで悲しい存在である凡夫のあり方に、法然上人は、ご自身のすがたを見ておられたのではないでしょうか。凡夫は、どこまでも憐れむべき存在であり、そのような凡夫であるからこそ、摂おさめ取って捨てられることがない阿弥陀仏の本願が一方的に差し向けられていることを、法然上人は強く受け止められたのです。自棄やけになる他はないような絶望の中で思い知らされる歓喜かんぎを、身をもって教えておられるのではないでしょうか。 
 

 

■真宗
親鸞聖人は、法然ほうねん上人の徳を讃えておられます。法然上人こそが、「真宗」の教えと、その教えによって得られる結果とを、この日本の国で、初めて誰にもわかるように明らかにしてくださった、と讃えておられるのです。「真宗」という言い方は、たとえば「真宗大谷派」などというように、仏教の中の一つの宗派の名前として用いられることが多いと思います。それはそれで、間違いではないのですが、ここでは、宗派の名前のことではありません。「真」は「まこと」と読みます。また「宗」は「むね」と読みます。したがって、「真宗」は「まことのむね」ということになるのです。私たちが日ごろ親しんでいる「真宗宗歌」に、「まことの みむね いただかん」という一節がありますが、その「まことのみむね」がここに詠われている「真宗」なのです。「真宗宗歌」は、「真宗をいただきましょう」と詠ってあるのです。「真」は、真実ということです。「宗」は、もっとも中心になること、肝心要かなめのことをいいます。したがって、「真宗」は、仏教、つまり釈尊の教えの全体の中で、たった一つの真実であり、肝心要である、ということを意味しているのです。
釈尊の教えの肝心要ということは、人が日常の生活をするときの肝心要であるということを意味します。なぜならば、釈尊は、「人はなぜ悩まなければならないのか」「人はどうして悲しまなければならないのか」と、人の日常のありさまを問い続けられ、その答えに目覚められ、そして、その答えを人類に教えられたからです。このため、「真宗」は、人類の日常にとって、もっとも重要な教えということになるのです。
親鸞聖人は、『浄土和讃』に、「念仏成仏これ真宗」と詠っておられます。「真宗」という言葉は、すでに中国の唐の時代の善導大師ぜんどうだいしや法照禅師ほっしょうぜんじが用いておられる言葉でもあります。「成仏」は、仏(目覚めた人)に成ることです。したがって、念仏によって真実に目覚めさせていただくこと、それが「真宗」である、ということです。もう少し言葉を補うならば、本願による念仏をいただくということが、人生の最重要課題である、という意味になると思います。「教証」は、「教・行・証」を短く表したものです。「教」は、教法きょうぼうということですが、ここでは、釈尊が『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』にお説きになられた「阿弥陀仏の本願」の教えです。一切の人びとを漏れなく救いたいと願っておられる阿弥陀仏の願いについての教えです。「行」は、修行・実践ということですが、ここでは、一切を救うために阿弥陀仏が施し与えておられる「念仏」です。その他力の念仏を素直に受け取ること、それが、たった一つの「行」である、ということです。そして「証」は、「教」にもとづく「行」によって生ずる結果です。もとは、厳しい修行によって得られる「さとり」を意味する言葉ですが、浄土の教えでは、他力の念仏による「往生」という意味に受け止められています。「片州」は、片隅の国ということで、それは、この日本の国のことです。仏教が興ったインド、その仏教が大きく発展した中国、これらの国々からすれば、日本は、片隅の国なのです。
ところが、仏教の「まことのみむね」が明らかにされたのは、仏教の発祥の地でもなく、発展の地でもない、むしろ、世界の片隅である日本においてであった、というわけです。そして、それを明らかにしてくださったのが、他ならぬ、法然上人であったと言っておられるのです。法然上人は、仏教の、そして私たちの生活の、「まことのみむね」、つまり「真宗」を、この片隅の国に興してくださったのだと、どうしてそれが言えるのかといえば、それは、法然上人に至って、ようやく、阿弥陀仏が選び取られた願い、すなわち、往生するはずのない人を往生させたいと願われた本願を、この悪い世に広めてくださったことによるのです。 
■選択本願
親鸞聖人は、法然ほうねん上人のことを「真宗教証興片州しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう」(真宗の教証、片州に興す)と述べられて、その徳を讃えておられます。
法然上人こそが、この世界の片隅である日本の国に、「真宗」の「教え」と、その教えの結果である「証」とを興隆させてくださった、と喜んでおられるのです。「真宗」は、「まことのみむね」と読みます。それは、仏教の最も大切なところ、という意味です。仏教の最も大切なところということは、とりもなおさず、私たちの日々の生活のなかで最も大切なこと、ということになります。それを、法然上人は、誰にもわかるように、教えてくださったというわけです。それでは、その「真宗の教証」とは何であるかと言えば、それが、次の句にある「選択本願」ということなのです。つまり「阿弥陀仏が選び取られた願い」ということです。
浄土の教えの根本となるお経は『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』です。「仏が無量寿についてお説きになられたお経」です。「仏」は釈尊のこと、「無量寿」は阿弥陀仏のことですから、このお経は「釈尊が阿弥陀仏についてお説きになられたお経」なのです。この『仏説無量寿経』に、「選択本願」のことが説かれています。
阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられたとき、世自在王仏せじざいおうぶつという仏のみもとで教えを受けておられましたが、法蔵菩薩は、人類すべてを救うための浄土を開きたいという大きな願いを発されたのです。そして、そのような浄土を実現するための教えを師の世自在王仏に乞い求められたのです。世自在王仏は、法蔵菩薩のこの深い願いにお応えになって、何と二百十億もの仏さまがたの浄土のありさまと、それらの浄土に生きる人びとの様子をお示しになったのです。法蔵菩薩は、これら二百十億の諸仏の浄土の様子を詳しく見せていただいた上で、「無上殊勝むじょうしゅしょうの願がん」と説かれていますように、この上にない、殊ことのほか勝すぐれた願いを発おこされたのです。他の仏さまがたの浄土とは違った、特別な浄土を実現したいという願いであったのです。これが、選び取られた願い、すなわち「選択本願」なのです。殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知であり、教えに背を向けている凡夫ぼんぶ、いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を実現したいという願いであったのです。
法蔵菩薩は、仏になろうとしておられましたが、もし、この願いが成就しないのであれば、自分は仏にはならないという誓いを立てられたのです。ところが、その法蔵菩薩が、阿弥陀仏になられたのです。ということは、どういうことになるでしょうか。法蔵菩薩の願われた願い、つまり、往生するはずのない人を往生させたいと願われた「本願」が、すでに実現しているということなのです。助かるはずのない人を助けたいと願われた「本願」、それが「選択本願」なのです。そしてまた、それが、仏教の「真宗」(まことのみむね)なのです。
「選択本願弘悪世せんじゃくほんがんぐあくせ」(選択本願、悪世に弘む)と詠われていますように、法然上人は、この「選択本願」の教え、つまり「阿弥陀仏によって選び取られている願い」が現にはたらいていることを、この悪世に弘めてくださったのです。「悪世」は、私たちが生きているこの世界のことです。『仏説阿弥陀経あみだきょう』には、これを「五濁ごじょく悪世」と教えられています。劫濁こうじょく・見濁けんじょく・煩悩濁ぼうのうじょく・衆生濁しゅじょうじょく・命濁みょうじょくという、五つもの濁にごりがある、ひどい世の中ということです。親鸞聖人は、「正信偈」では、「五濁悪時」としておられますが、私たちが生きているこの世間は「五濁悪世」であり、私たちが生きているこの時代は「五濁悪時」なのです。
法然上人は、『選択本願念仏集せんじょくほんがんねんぶつしゅう』という書物を著されました。そして、阿弥陀仏の本願という他力によって私たちに「念仏」が与えられていること、そしてこの「念仏」を、五濁悪世に生きる私たちが、率直に受け取ること、それが「選択本願」に従うことであることを教えておられるのです。この教えを親鸞聖人は深く喜んでおられるのです。 
■疑いの心
親鸞聖人は、法然上人のお言葉に基づいて、その教えを讃えておられます。法然上人は、私たちの人生の重大な誤りは、何によって起こるかを教えておられるのです。
「生死しょうじ」は、生きることと死ぬこと、という意味ではありません。仏教用語の「生死」は、「迷っている状態」という意味です。人は、日ごろ、目先の出来事に気を取られて、かけがえのない人生の最も大切なことを見失っています。つまり、真実を見失っているのです。真実を見失ったまま生きているということは、迷っているということなのです。しかも、迷っていることにも気づかずに、迷ったまま生きていますから、さらに次々と迷いを重ねるのです。幾重にも重なる深い迷いの中を転がり回ることになりますが、これを「正信偈」では「生死輪転」と言っておられるのです。まるで、人が故郷の家を懐かしむかのように、私たちは、「生死」(迷いの状態)が自分の帰るべき所であるかのように錯覚して、すぐに迷いに立ち戻ってしまうのです。「還来」は、「還かえり来きたる」と読みます。もとの所に戻ることです。この二文字を親鸞聖人は「かえる」と読んでおられるのです。
「生死に輪転する」というのは、迷いの状態にあるということですから、真実を見失い、道理に従っていないのです。道理に従わず、道理に逆らっていますから、それが、悩み苦しみの原因になるのです。悩み苦しみからの本当の解放を教えるのが仏教なのですが、私たちは、目の前の快適さに気を奪われて、愚かにも「生死」を頼りにしてしまうのです。このため、表面的な、形ばかりの安楽に酔よい痴しれて、結果として苦悩に苦悩を重ねることになるのです。どうして、生死に輪転して苦悩を重ねることになるのか、それについて、親鸞聖人は、それは、「疑情ぎじょう」、つまり「疑う心」に止とどまっているからだと教えておられます。つまり、人が苦悩を背負うのは、よく修行に励んだかどうかの問題ではないのです。人の資質や能力の問題では決してないのです。その人の生い立ちや実績の問題でもないのです。人が「生死」から離れることができず、悩みに悩みを重ねなければならないのは、仏の教えを疑うからだと教えておられるのです。釈尊は、私たちのために『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』をお説きになって、阿弥陀仏が、苦悩する人びとをすべて本当の安楽に導きたいと願っておられるのだから、その阿弥陀仏の本願にお任せしなさいと、教えておられます。ところが、私たちは、その教えを疑うのです。
それでは、どうして、疑う心が生ずるのでしょうか。それは、教えに触れるに先立って、自分が心に懐いだいている思いを重視しているからです。仏の教えよりも、自分の考えを尊重しているからです。自分が思っていることと事実とは、まったく関係はないはずなのですが、自分はそれなりにわかっていると思っていますから、自分を信用するのです。実は、愚かであるのに、愚かだとは思っていないのです。それほどまでに凡夫は愚かなのです。自分の考えを無条件に信用して、それを確保したままで教えに接しますと、教えを素直に受け取れなくなったり、また、自分の考えと、教えとの間に食い違いが起こったりします。食い違いが起こった時には、自分の方を信用しますから、教えは信用できなくなるのです。それが「疑い」なのです。「信」の反対語が「疑」なのです。
法然上人は、『選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』に、「当まさに知るべし。生死の家には疑いを以もって所止しょしと為なし、涅槃ねはんの城しろには信しんを以て能入のうにゅうと為す」と述べておられます。このお言葉の前半の「生死の家には疑いを以て所止と為し」という部分を、親鸞聖人は、今回の二行にして述べておられるわけです。そして、後半の部分をこの次の二行で説明しておられるのです。ただ、法然上人が「当に知るべし」(このことは知っておくべきだ)と言っておられますところを、親鸞聖人は「決するに」(間違いないことだ)と言っておられます。師の教えを大切に受け取られたお気持ちが伝わるように思われるのです。 
■信ずる心
親鸞聖人は、前回の二句に引き続いて、さらに、法然上人のお言葉を取り上げられて、その教えを讃えておられます。前回の二句は、「還来生死輪転家げんらいしょうじりんでんげ 決以疑情為所止けっちぎじょういしょし」(生死輪転しょうじりんでんの家に還来かえることは、決けっするに疑情ぎじょうをもって所止しょしとす)ということでありました。これは、法然上人の『選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』に述べられている「生死しょうじの家には疑いを以もって所止しょしと為なし」というお言葉に基づくものでありました。迷いによって生ずる苦悩(生死)に流転るてんするという状態に、私たちが、いつも止め置かれるのは、それは、私たちの心にはたらく疑いによることである、と教えておられるお言葉です。
それでは、どうすれば、生死に流転するという苦悩から離れて、本当の安楽に到ることができるのか、そのことを、今回の二句に示しておられるのです。「速入寂静無為楽そくにゅうじゃくじょうむいらく 必以信心為能入ひっちしんじんいのうにゅう」(速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり)と述べてあるのです。「といえり」というのは、「法然上人が仰せになった」ということです。本当の安楽の境地には、疑いのない信心によって、必ず速やかに入ることができるのだ、と法然上人は教えておられる、ということです。ここに言われています「寂静」も「無為」も、いずれも「涅槃ねはん」という言葉と同じ意味の言葉です。「涅槃」は、インドの「ニルヴァーナ」という言葉の発音を漢字に写し取って表記したものです。
人が悩んだり苦しんだりするのは、自我へのこだわりや、飽くことのない欲望など、さまざまな煩悩が原因であるとされています。その煩悩から離れて、もはや煩悩に乱されなくなった静寂な境地が「涅槃」なのです。このため「涅槃」は「寂静」と訳されるのです。また、煩悩を離れたまったく静かな「涅槃」の境地は、凡夫が日ごろ為していること、また為し得ることをはるかに越えた世界であることから、「無為」と訳されているのです。
「寂静無為の楽」といわれていますが、それは、自我へのこだわりなどを離れた、「寂静」であり「無為」である「涅槃」こそが、本当の安楽である、ということです。私たちは、「苦」の反対が「楽」であると思いがちですが、釈尊は、そのような「楽」は、次の「苦」の原因となるだけであって、本当の安楽は、私たちが感ずる「苦」と「楽」を越えた静けさであると教えておられるのです。私たちが思う「苦」も「楽」も、「一切は皆苦なり」と教えられ、その苦の解決を「涅槃は寂静なり」と教えられているのです。
親鸞聖人は、「寂静無為の楽(らく)」を「寂静無為の楽(みやこ)」と読んでおられますが、それは、法然上人が『選択本願念仏集』に「涅槃の城には信を以て能入と為す」と述べておられることによると思われます。「涅槃の城」に対して、「寂静無為の楽(みやこ)」つまり「涅槃の楽(みやこ)」としておられるのです。また、中国では、古くから洛陽という都市が、永らく都城として栄えてきました。ところで、都である洛陽の「洛らく」と、涅槃である安楽の「楽らく」とは、発音が共通していますので、安楽と洛陽を重ね合わせて、「楽(みやこ)」と読んでおられるのであろうかと考えられるのです。
前の句では「疑情をもって所止とす」とありましたが、今の句では「信心をもって能入とす」となっています。この二句が対照となっているのです。「疑情」の反対が「信心」です。真実よりも、自我を優先させることによって、真実を疑う情こころが生じますが、その疑いの情がないことが、信まことの心なのです。また、「所止」と「能入」が対照です。「所」は受身を表す文字で、「所止」は、止とどめさせられる、という意味になります。「能」は能動を表す文字でありまして、「能入」は、入って行くことができる、という意味になるのです。「疑いの心によって、迷いの苦の繰り返しの中に止めさせられ、」「信心によって、本当の安楽に入ることができる」という関係が述べてあるわけです。 
■七人の高僧がた
「正信偈」は、全部で百二十句からなる偈文(詩)です。古くから、この百二十句を三つの段落に分けて学ばれてきたのでありました。
まず第一の段落は、「帰命無量寿如来きみょうむりょうじゅにょらい 南無不可思議光なむふかしぎこう」という二句で、「帰敬ききょう」と言われている部分です。この二句の初めの「帰命」と「南無」とは、もとのインドの言葉に戻せば同じ意味になります。次の「無量寿如来」は、阿弥陀仏のことです。そして「不可思議光」は、阿弥陀仏の智慧のはたらきのことを表す言葉です。ですから、最初のこの二句は、いずれも「南無阿弥陀仏」という六文字の名号みょうごうを、七文字にそろえて表してあるわけです。したがって、この二句は、親鸞聖人が阿弥陀仏の本願による念仏、「南無阿弥陀仏」をいただかれた、そのご信心を詠われたものなのです。第二の段落は「依経段えきょうだん」で、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』に依って述べてある部分です。第三句目の「法蔵菩薩因位時ほうぞうぼさついんにじ」からの四十二句がこれに当たります。ここには、阿弥陀仏の本願の由来と、釈尊が『仏説無量寿経』をお説きになられた意味が述べてあります。第三の段落は「依釈段えしゃくだん」で、第四十五句目の「印度西天之論家いんどさいてんしろんげ」から最後までの七十六句です。ここには、七人の高僧がたによる、本願の教えについての解釈が述べてあります。
今回から、「依釈段」の最後の四句について学ぶことになりますが、この四句は、「依釈段」の「結び」になる部分であり、同時に、「正信偈」全体の「結び」でもあるわけです。
まず、「弘経大士宗師等ぐきょうだいじしゅうしとう 拯済無辺極濁悪じょうさいむへんごくじょくあく」(弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう)とあります。「弘経の大士・宗師等」というのは、「お経を世に弘めてくださった高僧がた」ということです。そのお経とは、『仏説無量寿経』のことなのです。これは「釈尊が無量寿仏(阿弥陀仏)についてお説きになられたお経」ということです。
「大士」は、「菩薩」(ボーディ・サットヴァ、マハー・サットヴァ)というインドの言葉の中国語訳で、ここでは、龍樹りゅうじゅ大士と天親てんじん菩薩のお二人を指します。この二菩薩は、すべての人びとを救いたいと願われた釈尊のお心を最も深く汲み取られた方がたなのです。
「宗師」は、「真宗の祖師」ということで、中国の曇鸞大師どんらんだいし・道綽禅師どうしゃくぜんじ・善導大師ぜんどうだいしの三人の方がたと、日本の源信僧都げんしんそうず・源空げんくう(法然)上人のお二人のことを指しています。釈尊の教えの「真まことの宗みむね」を誤りなく伝えてくださった祖師がたなのです。
この七人の高僧がたこそが、釈尊がお説きになられた、阿弥陀仏の本願の教えを世に弘められ、後の時代にまでそれを正しく伝えてくださったのであることを、親鸞聖人は讃えておられるのです。そして、「無辺の極濁悪を拯済したまう」と述べておられます通り、これら七高僧のお一人お一人が、間違いのない本願の教えを伝えようとしてくださったのは、極めて濁りきった悪世に生きて苦しまなければならない、数限りない人びとを拯すくいとり、本当の安楽に済わたらせようとしてくださったためであると、聖人は感嘆しておられるのです。
そもそも、お経というものは、釈尊のお言葉を文字にしたものです。しかし、数あるお経から、釈尊が真に願われた、そのお心を、その通りに読み取ることは、容易なことではありません。人は、悲しいことに、自分に都合よく理解できる範囲のことしか、理解しないからです。七高僧は、お経を弘められた方がたでありましたが、龍樹・天親の二菩薩は、釈尊のご真意を深く汲み取られたのでした。そして、曇鸞・道綽・善導・源信・源空の宗師がたは、二菩薩の教えに沿ってお経の本意を誤りなく読み解かれたのでした。これを受けて、親鸞聖人は、『教行信証きょうぎょうしんしょう』「教巻きょうのまき」の冒頭に、「それ、真実の教きょうを顕あらわさば、すなわち『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』これなり」と述べておられます通り、『大無量寿経』、つまり『仏説無量寿経』こそが、釈尊の教えの真実を顕しているお経であると明言するにいたっておられるのです。 
 

 

■共に心を同じくして
親鸞聖人は、「正信偈」の「依経段えきょうだん」に、阿弥陀仏が本願を発された由来について述べておられました。それは、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』に基づいて、本願が私たちに対して現にはたらき続けている事実を教えておられるのでありました。さらに親鸞聖人は、釈尊が『仏説無量寿経』をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私たちに知らせるために、わざわざこの世間にお出ましになられたことを、歓喜とともに述べておられたのでした。次の「依釈段えしゃくだん」では、インド・中国・日本に出られた七人の高僧がたのお名前とその事績について教えておられました。そして、これら七高僧が出られて、本願念仏の教えを正しく伝え、本願のはたらきに目覚めるよう促してくださったからこそ、仏教の真髄の教えが親鸞聖人ご自身のところに誤りなく伝えられたことを、感銘深く述べておられるのでありました。
釈尊がお説きになられた『仏説無量寿経』の真実を、七高僧が誤りなく親鸞聖人のところに伝えられたということ、それは、何を意味するかと言いますと、釈尊と七高僧が、親鸞聖人を通して、「極濁悪ごくじょくあく」である私たちを阿弥陀仏の本願に目覚めさせようとしてくださったということなのです。そのことを私たちは、前回学んだ「弘経ぐきょうの大士だいじ・宗師等しゅうしとう、無辺むへんの極濁悪ごくじょくあくを拯済じょうさいしたまう」(弘経大士宗師等ぐきょうだいししゅうしとう 拯済無辺極濁悪じょうさいむへんごくじょくあく)という二句からうかがうことができると思うのです。そのために、親鸞聖人は、この句に続けて、「道俗時衆共同心どうぞくじしゅうぐどうしん 唯可信斯高僧説ゆいかしんしこうそうせ」(道俗時衆、共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし)と述べておられるのです。
「道俗」は、「僧侶と僧侶でない人」ということです。つまり「僧侶であろうと、僧侶でなかろうと」ということです。阿弥陀仏の願いが向けられている人びとであり、共に本願による念仏をいただくすべての人びとのことです。親鸞聖人は、この「道俗」のことを別に「御同朋おんどうぼう」、「御同行おんどうぎょう」と呼んでおられます。次の「時衆」というのは、「その時々の人びと」ということですから、親鸞聖人の時代の人びとはもちろん、今の私たちをも含んでいるわけです。「共同心ぐどうしん」(共に同心に)ということは、すべての人びとが、互いに、あれこれと思いをめぐらせるのではなく、心を一つにするということです。親鸞聖人は、ここで、互いに心を一つにするべきであると教えておられるのですが、それは、親鸞聖人ご自身と同じ心になってほしいと、私たちに願ってくださっているお言葉としてお聞きすることができると思うのです。
その親鸞聖人が私たちに「ただこの高僧の説を信ずべし」と教えておられます。これは、他の人びとの教えではなくて、ただただ七高僧の教えを信ずるべきであると教えておられるのです。しかしそれは、七高僧が、並外れて勝すぐれた方々だからということだけではないと思います。何よりも、この高僧がたは、阿弥陀仏の本願の通りに生きられた方々だからなのです。この高僧がたの教えによって、親鸞聖人は、ご自身が、本願の念仏に出遇うためにこの世に生まれて来られたことを身をもって体感されたのではないでしょうか。そして、他力の信心に生きる歓よろこびを教えてもらわれたのではないでしょうか。そのようなご自分と同じようになってほしいと、親鸞聖人は私たちに願ってくださっているのではないでしょうか。
「高僧の説を信ずべし」と言われていますが、それは、七高僧の教えを鵜呑うのみにするということではないでしょう。親鸞聖人がそうであられたように、この私が、自分が邪見憍慢じゃけんきょうまんの悪衆生あくしゅじょうであることをつくづくと思い知らされるときに、何かが始まると思われるのです。その私に対して、すでにして、何とかして救いたいという本願が向けられているという事実があります。そして、その事実に気づいた感動が、誤った方向に向かわないように教えてくださったのが七高僧ですから、七高僧の教えを素直に受け取られた親鸞聖人と同じようになってほしいと、私は願われているのだと思うのです。 
■まとめ
前回までのところで、「正信偈」の各句の教えについて、一通りのことを見ていただきました。今回は、その全体について、少し整理してみたいと思います。「正信偈」は、詳しくは「正信念仏偈しょうしんねんぶっけ」(正しく念仏を信ずる偈うた)といわれます。全部で一二〇句からなる偈文げもんですが、古くから、これを三つの段落に分けて学ばれてきました。
その第一の段落は、「総讃そうさん・帰敬ききょう」と呼ばれている段落で、「帰命無量寿如来きみょうむりょうじゅにょらい 南無不可思議光なむふかしぎこう」の二句がこれにあたります。この二句は、どちらも「南無阿弥陀仏」というお名号みょうごうを別のお言葉で表されたもので、ここには、正しく念仏を信ずるということは、どのようなことであるのか、親鸞聖人が、その教えを述べられるに先立って、まず、阿弥陀如来への帰依信順きえしんじゅんのお心を表明しておられるのです。
第二の段落は「依経段えきょうだん」です。『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』(釈尊が阿弥陀仏についてお説きになられたお経)に依って述べてある段落です。この「依経段」は、さらに細かく三つの部分に分けて見られています。
最初の部分は「弥陀章みだしょう」といいまして、三句目の「法蔵菩薩因位時ほうぞうぼさいんにじ」から「必至滅度願成就ひっしめつどがんじょうじゅ」までの十八句です。ここには、お経にもとづいて、阿弥陀仏と、阿弥陀仏の本願のいわれについて述べておられるのです。
第二の部分は「釈迦しゃか章」といわれていますが、二十一句目の「如来所以興出世にょらいしょいこうしゅっせ」から「是人名分陀利華ぜにんみょうふんだりけ」までの二十句です。ここには、釈尊がこの世間にお出ましになられた意味と、『仏説無量寿経』に説かれてある釈尊のみ教えに接する私たちの心構えが教えてあります。
第三の部分は「結誡けっかい」で、「依経段」の結びにあたる部分です。四十一句目の「弥陀仏本願念仏みだぶほんがんねんぶ」から「難中之難無過斯なんちゅうしなんむかし」までの四句です。ここには、私のような邪見じゃけん・憍慢きょうまんの悪衆生あくしゅじょうにとっては、阿弥陀仏の本願によって与えられている念仏を、信じて持たもつつことは、甚はなはだ困難なことであると誡いましめておられるのです。世の中には、困難なことがさまざまあるけれども、念仏を正しく信じて持つことは、困難なことの中の困難で、これ以上の困難なことはないと、親鸞聖人は、言い切っておられるのです。まさに私にとっては、絶望するしかない誡めです。
ところが、その後が重要なのです。つまり、第三の段落の「依釈段えしゃくだん」です。
「依釈段」は、七人の高僧による、本願の念仏についての解釈が示されている段落です。ここには、インドの龍樹大士りゅうじゅだいじ、天親菩薩てんじんぼさつ、中国の曇鸞大師どんらんだいし、道綽禅師どうしゃくぜんじ、善導ぜんどう大師、日本の源信僧都げんしんそうず、源空げんくう(法然ほうねん)上人、この七人の高僧がたが、どのようなことを教えてくださっているのか、それを詳しく述べておられます。(この段落も、さらに細かく九つの部分に分けられますが、詳細は省略させていただきます)。
邪見・憍慢といわれますように、身勝手に自我を尊重して思い上がっている私にとっては、本願によって、私の思いを越えて、私に与えられている念仏を、素直に信じて持つことは、絶望的に困難なことであると、まず指摘されてありました。
だからこそ、そのような私のために、インド・中国・日本に、七人の高僧が出てきてくださって、「顕大聖興世正意けんだいしょうこうせしょうい」(大聖興世だいしょうこうせの正意しょういを顕あらわし)とありますように、釈尊がこの世間にお出ましになられた正まさしくそのお心を顕あきらかにしてくださっているのです。そして、「明如来本誓応機みょうにょらいほんぜいおうき」(如来の本誓ほんぜい、機きに応おうぜることを明あかす)とありますように、何としても救ってやりたいと願ってくださる阿弥陀如来の誓願が、そのような私だからこそ、私に相応ふさわしく、私のためであることを、七高僧は明らかにしてくださっているのです。
最後のところに「弘経大士宗師等ぐきょうだいじしゅうしとう 拯済無辺極濁悪じょうさいむへんごくじょくあく」(弘経ぐきょうの大士だいじ・宗師等しゅうしとう、無辺むへんの極濁悪ごくじょくあくを拯済じょうさいしたまう)とありますが、釈尊が説かれたお経の教えを広められた龍樹・天親の二菩薩と、真まことの宗みむねを明らかにしてくださった祖師がたは、どうしようもない極濁悪の私を救おうとしてくださっているのだから、「唯可信斯高僧説ゆいかしんしこうそうせ」(ただこの高僧の説を信ずべし)として、親鸞聖人は、ただただ、これら七高僧の教えに素直に従うしかないと、私に勧すすめてくださっているのです。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
『教行信証』 1

 

親鸞聖人90年の教えは、すべて『教行信証』に書かれています。親鸞聖人の主著ですから、浄土真宗の「根本聖典(こんぽんせいてん)」とか「御本典(ごほんでん)」といわれます。教行信証は、教巻、行巻、信巻、証巻、真仏土巻、化身土巻の6巻で構成されています。教行信証の草稿は親鸞聖人52歳ごろの成立といわれますが、その後も常に手元に置かれ、生涯をかけて加筆修正された畢生(ひっせい)の大著(たいちょ)です。今日、親鸞聖人といえば『歎異抄(たんにしょう)』を思い浮かべる人が少なくありませんが、『歎異抄』は著者不明で、親鸞聖人がじかに書かれたものではありません。ですから、親鸞聖人の教えを正確に知るには『教行信証』を物差しとしています。
教行信証』を一読してだれもが驚くのは、その引用文の多さです。『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の正式名称は『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』です。最後に「文類(もんるい)」とありますが、「文類」とは経・論・釈の重要な文章を集めて整理したもののことです。『教行信証』には「私釈(ししゃく)」といわれる親鸞聖人の作文は少なく、そのほとんどが経(きょう)、論(ろん)、釈(しゃく)からの引用です。
経(きょう)とは、お釈迦さまの説かれたお経。
論(ろん)とは、インドの仏教の先生が書かれたもの。
釈(しゃく)とは、中国、日本の高僧方の書物。
それらの仏教の書物から要の文を集めたもの(=文類)が『教行信証』ということですから、『教行信証』はたくさんの経、論、釈の中から親鸞聖人が大事な文章を選ばれて、集められたものです。「親鸞さらに私(わたくし)なし」が親鸞聖人の常の仰せでした。いかに私見(自分の考え)を交えず、正確にお釈迦さまの真意を明らかにされたかがお分かりでしょう。
教行信証の内容
『教行信証』は、「よろこばしきかな」で始まり、「よろこばしきかな」のお言葉で終わっています。親鸞聖人の、書いても書いても書き尽くせない喜びがあふれているのです。文芸評論家の亀井勝一郎(かめいかついちろう)氏も、『教行信証』全巻には大歓喜の声が響きわたっていると驚嘆しています。そのほか『教行信証』を称賛する声は枚挙にいとまがありません。親鸞聖人のお言葉には、大変な魅力、摩訶不思議な力がありますから、時代を超えて多くの人が『教行信証』に魅了されるのでしょう。
『教行信証』の冒頭の言葉は多くの人に知られています。例えば「釣りバカ日誌」「マルサの女」「大病人」などの映画で活躍し、親鸞聖人の映画「白い道」では監督を行った故・三國連太郎氏はこう言っています。私が一番感動するのは『教行信証』の冒頭の言葉です。
その冒頭のお言葉が 「難思の弘誓(なんしのぐぜい)は難度の海(なんどのうみ)を度(ど)する大船」 です。この『難思の弘誓は難度の海を度する大船』の意味がわかれば、『教行信証』で親鸞聖人が伝えたかったことのすべてを理解することができます。
『歎異抄』
今日仏教書の中で最も多くの人に読まれている有名な『歎異抄』は、親鸞聖人のお亡くなりになったあと、約30年たって成立したといわれています。親鸞聖人が亡くなられてからしばらく経つと、親鸞聖人が教えられていないことを「これが親鸞聖人の教えだ」と言いふらすものが増えてきました。それらの異説を歎いて書かれたのが歎異抄です。著者はお弟子の唯円(ゆいねん)ともいわれますが、ハッキリしていません。
全18章のうち1章から10章までは、親鸞聖人がおっしゃったお言葉として書かれています。それらの親鸞聖人のお言葉を物差しとして当時の異説を正そうとしたのが、11章から18章です。たぐいまれなる名文ですが、親鸞聖人の教えをよく理解している人が読まないと大変な読み間違いをするところが多いため、蓮如上人(れんにょしょうにん)は「だれにでも読ませてはならない」と奥書に書き加えておられます。
『正信偈』
「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」で始まる『正信偈(しょうしんげ)』は多くの人に親しまれています。浄土真宗の人にとっては、朝夕の勤行で拝読する最も身近な仏教の本です。『正信偈』は、独立した書物ではなく、『教行信証』行巻(ぎょうかん)の最後に書かれている文章を抜き出されたものです。1行7文字、120行の偈(げ)になっています(1行14字と数えた場合は60行)。840字の『正信偈』は、『教行信証』6巻の内容をギュッと絞ったエキスですから、浄土真宗の教えは「正信偈」におさまっているといえます。つまり、『正信偈』が分かれば、聖人90年の教えはすべて分かるということです。
まとめ
『教行信証』は親鸞聖人の主著で、全6巻に分かれています。「更に親鸞、私なし」と私見を交えず真実の仏教を説かれたのが親鸞聖人ですが、『教行信証』もその内容のほとんどが経、論、釈からの引用であり、親鸞聖人がご自身の言葉で書かれた私釈の部分はわずかです。朝晩の勤行で親しんでいる正信偈は『教行信証』の行巻の末尾に書かれてものを抜き出したもので、『教行信証』6巻の内容が収まっています。ですから『正信偈』がすべて分かれば、『教行信証』がすべて分かるということになり、親鸞聖人の教えのすべてが分かることになります。  
『教行信証』 『顕浄土真実教行証文類』 2
概要
浄土真宗の宗祖である親鸞の主著。『教行信証』『教行証文類もんるい』『広文類こうもんるい』『本典ほんでん』などともいう。浄土真宗の教義体系が示されており、立教開宗の根本聖典といえる。全6巻から成り、漢文で書かれている。「文類もんるい」とあるように様々な書物からの引用が行われている。書かれた正確な年はわかっていないが、1224年(元仁元)、親鸞が52歳の頃に書き始められ晩年に至るまで加筆・推敲すいこうが行われたと考えられる。親鸞がこの本を著した目的としては恩師である法然の教えを「浄土真宗」として体系化しその真意を明らかにすること、また自らが法然の教えを正しく受け継いだ者であるということを示すということが挙げられる。この背景には高弁こうべん(1173-1232。華厳けごん宗中興ちゅうこうの祖。明恵みょうえともいう)の『摧邪輪ざいじゃりん』など、法然の教えに対する批判があった。これらの批判に対抗するために、法然の真意を明らかにしていく必要があったと考えられる。現存する真蹟しんせき本(筆跡より、親鸞本人が書いたと認められる本)が1冊あり、これは現在真宗大谷派(東本願寺)が所蔵している。坂東ばんどう報恩寺が所蔵していたことから「報恩寺本」「坂東本」とも呼ばれている。また、国宝に指定されている。そのほか古い時代に書き写されたものとしては以下のものが伝えられている。
題号
『顕浄土真実教行証文類』の文字列を分解して見ていくと以下のようになる。
•「顕」とは、あきらかにするという意味である。
•「浄土」とは、浄土真宗の教えのことを指している。
•「真実」と冠されるのは真実の教えということである。
•「教行証」は釈尊の教え、称名念仏の行、さとり(証)のこと。
•「文類」とは様々な書物を集めたということ。本書では多数の引用が行われている。
構成
全6巻から構成されている。 その他、第一巻の前に「総序」、第三巻の前に「別序」があり、第六巻の最後の部分は「後序ごじょ」と呼ばれる。
『教行信証』の構成          通称
顕浄土真実教行証文類序     総序
顕浄土真実教行証文類 一     教文類、教巻
顕浄土真実行文類 二        行文類、行巻
顕浄土真実信文類 序        別序
顕浄土真実信文類 三        信しん文類もんるい、信巻
顕浄土真実証文類 四        証文類、証巻
顕浄土真仏土文類 五        真仏土文類、真仏土巻
顕浄土方便化身土文類 六     化身土文類、化身土巻 最後の方に後序
また「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」の五巻は真実の巻、「化身土巻」の一巻は方便の巻となっている。それぞれの巻の冒頭にはいくつかの単語が書かれており、これは「標挙ひょうこの文もん」と呼ばれる。各巻の標挙の文を以下に挙げる。()内の願の番号は筆者による追記である。原文は漢文であり以下の表記とは異なるため、「鎌倉時代書写本」(清書本)の縮刷本をスキャンした画像も掲載する。なお「鎌倉時代書写本」では「化身土巻」の標挙が欠落している。その一方で「坂東本」では「教巻」の標挙(を含む冒頭部分)が欠落している。
各巻の概要
   総序
大きく分けて3つの内容が述べられる。まず、浄土真宗の教えはどのようなものでも速やかにさとりに至ることのできる教えであり、釈尊の本意にかなった真実の教えであるということが述べられる。次に、この真実の教えにしたがうように勧められ、疑いを持たないように誡められる。そして、親鸞自身の「遇あいがたい教えに遇えた」という慶よろこびが述べられ、この教えをたたえるために本書を著したということが述べられる。
   教巻
まず浄土真宗の「往相おうそう回向えこう」と「還相げんそう回向」について次のように述べられる。
〇 阿弥陀如来より「往相おうそう」と「還相げんそう」の2つのはたらきが回向される(与えられる)
〇 往相として回向された真実の「教」と「行」と「信」と「証」がある
往相回向とは衆生しゅじょうがこの迷いの世界から浄土へと往生し、仏となることをいう。還相回向とは仏になった後、この迷いの世界へと還り、衆生を救済する活動のことをいう。その後、標挙の文に「大無量寿経」「真実の教」とあるように、釈尊の説いた『無量寿経』が出世本懐しゅっせほんがいの経であり真実の教えであることが示される。『無量寿経』の主旨は阿弥陀仏の本願を説くことであり、この経の本質は阿弥陀仏の名号であると述べられる。
   行巻
往相回向の中にある真実の行(大行だいぎょう)について述べられる。大行とは南無阿弥陀仏の名号を称えることであり、これが衆生を往生成仏させる法であるということが示される。ここで注意すべきは、衆生が名号を称える行為を指して大行というのではなく、 そうさせている仏の力、すなわち南無阿弥陀仏の名号が大行だということである。 また名号そのものが大行ということでもなく、これは常にはたらいており、衆生の信心・称名となって現れるものである。この巻の最後には『正信念仏偈』が書かれている。
   別序
「信巻」の冒頭に置かれた序文である。真実の信心を明らかにし誤った教えを正すという「信巻」を著した意図が示されている。
   信巻
往相回向の中にある真実の信(大信)について述べられる。大信とは第十八願に誓われた信心であると述べられ、三一さんいち問答によってそれが示される。三一問答とは第十八願の至心・信楽しんぎょう・欲生よくしょうの三心が信楽の一心におさまることを明らかにしたものである。三心それぞれの文字があらわす意味から説明される字訓釈と、三心それぞれの内容を示して説明される法義釈ほうぎしゃくが示される。そして、三心には疑いが混じっていないから真実の信心であるということが述べられ、この信心が衆生の往生成仏の因となることが示される(信心正因)。また、第十八願の抑止門おくしもんを取り上げて悪人正機について述べられる。
   証巻
真実の証(さとり)と還相回向について述べられる。真実の証とは、真実の行と信を因として得られる果である。これは標挙の文にある「必至滅度の願(第十一願)」に誓われている。現生げんしょうにおいて、衆生が仏より回向された行と信を得て正定聚しょうじょうじゅ(浄土往生が正しく定まった位)を得る。そして、必ず浄土に至って滅度を得る。また、滅度について様々な言葉で言い換えられた後に「一如いちにょ」と表現され、阿弥陀如来のさとりも衆生のさとりも同じであることが述べられる。そして、浄土真宗の「教」と「行」と「信」と「証」はすべて阿弥陀如来より回向された利益りやくであり、往生成仏の因も果も清らかなものであると述べられ、往相回向についての話が終わる。続けて還相回向について述べられる。これも往相回向と同じく阿弥陀如来より回向されたはたらきであり、「必至補処ふしょの願(一生補処の願、還相回向の願)(第二十二願)」に誓われている。これについては曇鸞大師の『往生おうじょう論註ろんちゅう』を参照するようにいわれる。
   真仏土巻
真仏と真土、つまり阿弥陀仏の徳と阿弥陀仏が作られた浄土について述べられる。ここで「仏土」に「真」をつけて「真仏土」というのは、次の第六巻(化身土文類)で述べられる仮の仏土との区別を示すためである。ここでは真仏土について2つの見方が示される。
〇 往相回向の結果(証)として衆生がさとりをひらく場所である
〇 阿弥陀仏の自らのさとりの世界であり、往相・還相の二回向と教・行・信・証の四法はここから展開されている
つまり真仏土とは阿弥陀仏のさとりの世界であり、衆生のさとる世界でもある。凡夫ぼんぶであっても阿弥陀仏と同じさとりをひらくことができる。また、最後の部分では真実と方便について述べられる。阿弥陀仏の願には真実の願と方便の願があり、成就された仏土にも真実の仏土と方便の仏土がある。真実の願である第十八願を因として、真実の仏土が成就される。方便の仏土については次の第六巻で述べられる。
   化身土巻
前五巻では真実の教えについて述べられたが、この巻では方便の教えと仏教以外の教えについて述べられる。ここでは、方便の教えは仏の本意ではなく捨てるべきものとして示される。真実でない教えを示すことによって真実の教えがあらわされる。まず化身・化土けどについて述べられる。真実でない教えにしたがうものは、真実の浄土に生まれるがその真実のすがたを見ることができず、仮のすがたしか見ることができない。これを化土という。なお、化身・化土けどについて述べられるのは冒頭の短い部分のみであり、この巻では以下の2種類の「真実でない教え」について大半のページが割かれている。
〇 仏教以外の教え。「邪偽じゃぎの教え」「外道げどう」といわれる。
〇 仏教の中の自力の教え。「権仮ごんけ方便ほうべんの教え」ともいわれる。真実の教えに引き入れるために仮に説かれた教えということである。
また、浄土三部経の中にも真実の教えが説かれる『仏説無量寿経』と方便の教えが説かれる『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』があるとし、それぞれについて『仏説無量寿経』の中に説かれる「第十八願」「第十九願」「第二十願」に対応させて述べられる。『仏説観無量寿かんむりょうじゅ経きょう』『仏説阿弥陀あみだ経』については、表面的には真実でない教えが説かれているように見えるが、結局は『仏説無量寿経』と同じ真実の教えが説かれており、それがこれらの経を説いた仏の本意であるということが示される。
   後序
「化身土巻」の最後の部分は後序と呼ばれている。ここでは親鸞が自分自身の体験したことについて述べられている。親鸞が自分自身のことについて書いた文章は少ないため、これは貴重な記述であるといえる。
〇 法然の専修念仏教団が弾圧を受けた承元じょうげんの法難ほうなんについて、自身を含む数名が僧籍を剥奪はくだつされ流罪るざいや死罪に処されたこと
〇 自身が自力の行を捨てて本願に帰依きえし、法然に入門したこと
〇 法然より『選択本願念仏集』と真影しんねいの書写を許されたこと
このように述べられた後、仏への恩、師への恩に報ずるために本書を著したということが述べられる。 そして最後には、すべての者はこの教えを仰いで信じ敬うべきであると述べられている。  
 
顕浄土真実教行証文類 序

 

わたしなりに考えてみると、 思いはかることのできない*阿あ弥陀みだ仏ぶつの*本願ほんがんは、 渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、 何ものにもさまたげられないその光明は、 *煩悩ぼんのうの闇を破ってくださる智慧の輝きである。
ここに、 浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、 ※*提だい婆ば達だっ多たが*阿あ闍じゃ世せをそそのかして*頻びん婆ば娑しゃ羅ら王を害させたのである。 そして、 浄土往生の行を修める*正しょう機きが明らかになり、 *釈しゃく尊そんが*韋い提だい希けをお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。 これは、 菩薩がたが仮のすがたをとって、 苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、 また如来が慈悲の心から、 *五ご逆ぎゃくの罪を犯すものや仏の教えを謗るものや*一闡いっせん提だいのものを救おうとお思いになったのである。
よって、 あらゆる功徳をそなえた*名みょう号ごうは、 悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、 得がたい*金剛こんごうの信心は、 疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると知ることができる。
このようなわけで、 浄土の教えは*凡ぼん夫ぶにも修めやすいまことの教えなのであり、 愚かなものにも往いきやすい近道なのである。 釈尊が説かれたすべての教えの中で、 ※この浄土の教えに及ぶものはない。
煩悩に汚けがれた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、 行に迷い信に惑い、 心が暗く知るところが少なく、 罪が重くさわりが多いものは、 とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、 必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、 ひとえにこの行につかえ、 ただこの信を尊ぶがよい。
ああ、 この大いなる本願は、 いくたび生を重ねてもあえるものではなく、 まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。 思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、 遠く過去からの因縁をよろこべ。 もしまた、 このたび疑いの網におおわれたなら、 もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。 如来の本願の何とまことであることか。 摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。 世に超えてたぐいまれな正しい法である。 この本願のいわれを聞いて、 疑いためらってはならない。
ここに*愚ぐ禿とく釈の*親鸞しんらんは、 よろこばしいことに、 インド・*西域さいいきの聖典、 中国・日本の祖師方の解釈に、 遇いがたいのに今遇うことができ、 聞きがたいのにすでに聞くことができた。 そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、 如来の恩徳の深いことを明らかに知った。 そこで、 聞かせていただいたところをよろこび、 得させていただいたところをたたえるのである。
真実の教を顕す 一
真実の行を顕す 二
真実の信を顕す 三
真実の証を顕す 四
真仏土を顕す   五
化身土を顕す   六  
 

 

 
顕浄土真実教文類 一

 

大無量寿経 真実の教 浄土真宗
愚禿釈親鸞集
【1】 つつしんで、 浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、 如来より二種の相が回向されるのである。 一つには、 わたしたちが浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、 二つには、 さらに迷いの世界に還って*衆しゅ生じょうを救うという還相が回向されるのである。 往相の回向の中に、 真実の教と行と信と証とがある。
【2】 その真実の教を顕せば、 『*無む量りょう寿じゅ経きょう』 である。 この経の大意は、 阿弥陀仏はすぐれた誓いをおこされて、 広くすべての人々のために法門の蔵を開き、 愚かな凡夫を哀れんで功徳の宝を選び施され、 釈尊はこの世にお出ましになり、 仏の教えを説いて、 人々を救い、 まことの利益を恵みたいとお思いになったというものである。 そこで、 阿弥陀仏の本願を説くことをこの経のかなめとし、 仏の名号をこの経の本質とするのである。どのようなことから、 この経は釈尊が世にお出ましになった本意を述べられた経であると知られるのかというと、
【3】 『無量寿経』 に説かれている。
「*阿あ難なんが申しあげた。 “*世せ尊そんは今日、 喜びに満ちあふれ、 お姿も清らかで、 そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。 まるでくもりのない鏡に映った清らかな姿が、 透きとおって見えているかのようでございます。 そして、 その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。 わたしは今日までこのような尊いお姿を拝見したことがございません。 そうです、 世尊、 わたしが思いますには、 世尊は、 今日、 世の中でもっとも尊いものとして、 とくにすぐれた*禅ぜん定じょうに入っておいでになります。 また、 煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、 仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります。 また、 迷いの世界を照らす智慧の眼まなことして、 人々を導く徳をそなえておいでになります。 また、 世の中でもっとも秀でたものとして、 何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。 そしてまた、 すべての世界でもっとも尊いものとして、 如来の徳を行じておいでになります。 過去・現在・未来の仏がたは、 互いに念じあわれるということでありますが、 今、 世尊もまた、 仏がたを念じておいでになるに違いありません。 そうでなければ、 なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか”
そこで釈尊は阿難に対して仰せになった。 “阿難よ、 神々がそなたにそのような質問をさせたのか、 それともそなた自身のすぐれた考えから尋ねたのか”
阿難が答えていう。 “神々が来てわたしにそうさせたのではなく、 まったく自分の考えからこのことをお尋ねしたのでございます”
そこで釈尊は仰せになった。 “よろしい、 阿難よ、 そなたの問いは大変結構である。 そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、 人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである。 如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。 世にお出ましになるわけは、 仏の教えを説き述べて人々を救い、 まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。 このような仏のお出ましに会うことは、 はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、 ちょうど*優う曇どん華げの咲くことがきわめてまれであるようなものである。 だから、 今のそなたの問いは大きな利益をもたらすもので、 すべての神々や人々をみな真実の道に入らせることができるのである。 阿難よ、 知るがよい。 如来のさとりは、 はかり知れない尊い智慧をそなえ、 人々を限りなく導くのである。 その智慧は実に自在であり、 何ものにもさまたげられない”」
【4】 『*如来にょらい会え』 に説かれている。
「阿難が申しあげた。 “世尊、 わたしは世尊のたぐいまれな輝かしいお姿を拝見して、 このように思ったのです。 決して神々に教えられてお尋ねしたのではありません”
釈尊は阿難に仰せになった。 “よろしい、 そなたは今まことによい質問をした。 如来のすぐれた弁舌の智慧をよく*観察かんざつして、 このことについて尋ねたのである。 すべての仏がたは大いなる慈悲の心から人々を救うために世に現れるのであり、 それは優曇華が咲くほどきわめてまれなことである。 今、 わたしが仏としてこの世に現れた。 そこで、 あなたはこのことを尋ねたのである。 また、 あらゆる人々を哀れんで、 恵みと安らぎを与えるために、 このことについて尋ねたのである”」
【5】 『*平びょう等覚どうがく経きょう』 に説かれている。
「釈尊が阿難に仰せになった。 “世間にある優曇鉢樹には、 ただ実だけがあって花はないが、 この世に仏が現れることは、 その優曇鉢樹に花が咲くほどまれなことである。 たとえ世間に仏がおられても、 出会うことはきわめて難しい。 今、 わたしは仏となってこの世に現れた。 阿難よ、 そなたはすぐれた徳があり、 聡明で善い心をそなえ、 あらかじめ仏のおこころを知って忘れず、 いつも仏のそばに仕えているのである。 そなたが今尋ねたことについて説くから、 よく聞くがよい”」
【6】 *憬きょう興ごうが 『*述じゅつ文賛もんさん』 にいっている。
「“世尊は、 今日、 世の中でもっとも尊いものとして、 とくにすぐれた禅定に入っておいでになります” とあるのは、 仏の*神通じんずう力りきによって現された姿であり、 ただ普通と異なるというだけでなく、 等しいものがないからである。 “煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、 仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります” とあるのは、 *普ふ等とう三昧ざんまいに入って、 多くの悪魔や魔王を制圧しておられるからである。 “迷いの世界を照らす智慧の眼として、 人々を導く徳をそなえておいでになります” とあるのは、 *五ご眼げんを導師の徳といい、 人々を導くのに、 これ以上のものはないからである。 “世の中でもっとも秀でたものとして、 何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります” とあるのは、 仏は*四智しちをそなえて、 独り秀でておられ、 等しいものがいないからである。 “すべての世界でもっとも尊いものとして、 如来の徳を行じておいでになります” とあるのは、 仏は*第一だいいち義ぎ天てんであり、 *仏ぶっ性しょうは無量の徳をそなえ*常住じょうじゅうであることをさとっておられるからである。 “阿難よ、 よく知るがよい。 如来のさとりは” とあるのは、 とくにすぐれた禅定について述べられたのである。 “その智慧は、 実に自在であり” とあるのは、 何よりもすぐれた智慧の境地について述べられたのである。 “何ものにもさまたげられない” とあるのは、 如来の徳について述べられたのである」
【7】 すなわち、 これらの文は、 真実の教を顕す明らかな証あかしである。 まことに 『無量寿経』 は、 如来が世にお出ましになった本意を示された正しい教えであり、 この上なくすぐれた経典であり、 すべてのものにさとりを開かせる至極最上の教えであり、 速やかに功徳が満たされる尊い言葉であり、 すべての仏がたがほめたたえておられるまことの言葉であり、 時代と人々に応じた真実の教えである。 よく知るがよい。 
 

 

 
顕浄土真実行文類 二

 

諸仏称名の願 浄土真実の行 選択本願の行
愚禿釈親鸞集
【1】 つつしんで往相の回向をうかがうと、 大行があり、 大信がある。 大行とは、 *無礙むげ光こう如来にょらいの*名みょう号ごうを称えることである。 この行は、 あらゆる善をおさめ、 あらゆる功徳をそなえ、 速やかに*衆しゅ生じょうに功徳を円満させる、 *真如しんにょ一実いちじつの功徳が満ちみちた海のように広大な法である。 だから、 大行というのである。ところで、 この行は大悲の願 (第十七願) より出てきたものである。 この願を諸仏称揚の願と名づけ、 また諸仏称名の願と名づけ、 また諸仏咨嗟の願と名づける。 また往相回向の願と名づけることができるし、 また選択称名の願とも名づけることができる。
【2】 諸仏称名の願 (第十七願) は、 『無量寿経』 に次のように説かれている。「わたしが仏になったとき、 すべての世界の数限りない仏がたが、 ことごとくわたしの名号をほめたたえないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい」
【3】 また次のように説かれている (無量寿経)。「わたしが仏のさとりを得たとき、 わたしの名号を広くすべての世界に響かせよう。 もし聞えないところがあるなら誓って仏にはなるまい。 人々のためにすべての教えを説き明かし、 広く功徳の宝を与えよう。 常に人々の中にあって、 獅子が吼ほえるように教えを説こう」
【4】 第十七願成就文は、 『無量寿経』 に次のように説かれている。「すべての世界の数限りない仏がたは、 みな同じく※無む量りょう寿じゅ仏ぶつのはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる」
【5】 また次のように説かれている (無量寿経)。「無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、 すべての世界の数限りない仏がたは、 残らずこの仏をほめたたえておいでになる」
【6】 また次のように説かれている (無量寿経)。「その仏の*本願ほんがんのはたらきにより、 名号のいわれを聞いて往生を願うものは、 残らずみなその国に往生し、 おのずから*不ふ退転たいてんの位に至る」
【7】 『如来会』 に説かれている。「わたしは今、 仏の前で*弘ぐ誓ぜいをおこした。 ※これを満たして必ずこの上ないさとりを得よう。 もしこれらの願いが満たされなかったなら、 *十じゅう力りきをそなえたこの上なく尊い仏とはなるまい。 普通の行に耐えられないものに施し与え、 功徳のないものを広く救ってさまざまな苦を離れさせ、 世の人々に利益を与えて安楽にさせよう。 (中略) もっともすぐれた勇気あるものとして、 修行を成しとげて、 功徳のない人々のために無量の宝をおさめた蔵となろう。 そして善をまどかにそなえ、 他に並ぶもののない仏となり、 *大衆だいしゅの中にあって高らかに法を説こう」
【8】 また次のように説かれている (如来会)。「*阿あ難なんよ、 無量寿仏にはこのようなすぐれたはたらきがあるから、 はかり知ることのできないあらゆる世界の数限りない仏がたが、 みなともに無量寿仏の功徳をほめたたえておられるのである」
【9】 『*大だい阿あ弥陀みだ経きょう』 に説かれている。「わたしが仏となったときには、 わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えわたらせ、 仏がたに、 それぞれの国の*比丘びくたちや大衆の中で、 わたしの功徳や浄土の善を説かせよう。 それを聞いて神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、 わたしの名号を聞いて、 喜び敬う心をおこさないものはないであろう。 このように喜びにあふれるものをみなわが浄土に往生させたい。 わたしは、 この願いを成就して仏となろう。 もしこの願いが成就しなかったなら、 決して仏にはなるまい」
【10】『平等覚経』 に説かれている。「*無む量りょう清浄しょうじょう仏ぶつは、 “わたしが仏となったときには、 わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えさせ、 それぞれの仏がたに、 弟子たちの中で、 わたしの功徳や浄土の善さをほめたたえさせよう。 そして、 神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、 わたしの名号を聞いて喜びに満ちあふれるものをみなことごとく、 わたしの浄土に往生させよう。 もし、 そのようにできなかったなら、 わたしは仏になるまい” と願われ、 また、 “わたしが仏になったときには、 他方の国の人々が、 前の世で※悪を縁としてわたしの名号を聞いたものも、 まさしく道を求めてわたしの国に生れようと思ったものも、 寿命が終ればみなふたたび*地獄や餓鬼や畜生の世界にかえることなく、 願いのままにわたしの国に生れさせよう。 もし、 そのようにできなかったなら、 わたしは仏になるまい” と願われた。
※*阿あ闍じゃ世せ王の太子や五百人の長者の子たちは、 この無量清浄仏の*二に十じゅう四し願がんを聞いて、 身にも心にも大いに喜び、 ともに心の中で “わたしたちも無量清浄仏のような仏になりたい” と願った。
釈尊はこれをお知りになって、 多くの比丘たちに、 “この阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、 今後長い年月を経て、 みな無量清浄仏のような仏となるであろう” と仰せになった。
さらに、 “この阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、 すでに菩薩の道を修めて以来、 はかり知れない年月の間に、 みなそれぞれ四百億の仏を供養しおわり、 今またここに来てわたしを供養している。 この阿闍世王の太子や五百人の子たちは、 みな前の世に*迦か葉しょう仏ぶつが世に出られた時に、 わたしの弟子になっていた。 その因縁で今またここに会うことができたのである” と仰せになった。
集まっていた多くの比丘たちはこのお言葉を聞いて、 心から喜ばないものはなかった。 (中略)
釈尊は、 “このような人々は、 仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。 わたしたちもこの功徳をいただいて、 それぞれこのようなよい国を得よう。 無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、 «わたしは前世に本願をたてた。 どのような人も、 わたしの法を聞けば、 ことごとくわたしの国に生れるであろう。 わたしの願うところはみな満たされるであろう。 多くの国々から生れてくるものは、 みなことごとくこの国に至ることができるのである。 すなわち、 来世をまたずに不退転の位を得るのである» とお述べになった。 阿弥陀仏の*安楽あんらく国こくに、 速やかに往くことができる。 限りない光明の世界に至って、 無数の仏を供養しよう。 過去にこのような功徳を積んでいない人は、 この経の名を聞くことができない。 ただ清らかに*戒律かいりつをたもった人だけが、 この本願の教えを聞くことができる。 邪悪なもの、 おごり高ぶるもの、 誤った考えを持つもの、 おこたりなまけるものは、 この教えを信じることが難しい。 過去の世で仏を見たてまつった人は、 よろこんで仏の教えを聞くであろう。 人として生れることはまれであり、 仏が世におられても、 会うことは難しい。 信心の智慧を得ることはさらに困難である。 もし仏法に出会えたなら努め励んで道を求めよ。 この法を聞いて忘れず、 信を得て敬い大いによろこぶものは、 すなわちわたしの善き親友である。 だからさとりを求める心をおこすがよい。 たとえ世界中に火が満ちみちていても、 その中を通り過ぎて法を聞くことができるなら、 必ず後に仏となって、 すべての迷いを超えるであろう” と仰せになった」
【11】『*悲華ひけ経きょう』 に説かれている。「わたしがこの上ないさとりを開いたとき、 数限りない国々のあらゆる人々が、 わたしの名号を聞いて念仏し、 わたしの浄土に往生したいと思うなら、 彼らが命終って後、 必ず往生させよう。 ただし、 *五ご逆ぎゃく罪を犯し、 聖者を謗り、 正しい法を破るものは除かれる」
【12】こういうわけで、 ただ名号を称えるところに、 衆生のすべての*無む明みょうを破り、 衆生のすべての願いを満たしてくださるのである。 称名はすなわちもっともすぐれた正しい行業である。 正しい行業はすなわち念仏である。 念仏はすなわち*南無阿弥陀仏の名号である。 ※南無阿弥陀仏の名号はすなわち信心である。 よく知るがよい。
【13】『*十住じゅうじゅう毘婆びば娑しゃ論ろん』 にいわれている (入初地品・地相品)。「ある人の説には、 “*般舟はんじゅ三昧ざんまいと大いなる慈悲を仏がたの家と名づける。 この二法から多くの仏がたが生れるからである” といわれる。 この中では、 般舟三昧を父とし、 大いなる慈悲を母としている。 また次に、 “般舟三昧は父で*無む生しょう法忍ぼうにんは母である” ともいわれる。
『*菩ぼ提だい資し糧りょう論ろん』 の中に、 “般舟三昧は父、 大いなる慈悲と無生法忍は母であり、 すべての仏がたはこの父母から生れる” と、 説かれている通りである。
家にあやまちがなければ、 家は清浄なのである。 だから、 清浄とは、 *六ろっ波羅ぱら蜜みつの行と*四し功く徳どく処しょであり、 *方便ほうべんと智慧を善慧というのであって、 般舟三昧と大いなる慈悲と*諸忍しょにん、 これらの法は、 みな清浄であって、 あやまちがないのである。 だから、 仏がたの家が清浄といわれるのである。 *初しょ地じの菩薩は、 このような清浄の法を家としているから、 あやまちがないのである。
それは、 世間の道を転じて出世間の上道に入るものである。 世間の道とは*凡ぼん夫ぶの行じる道である。 ※転じるとは、 その道を進むのをやめることをいう。 凡夫の道は、 どのように努めても、 結局のところ、 さとりに至ることはできない。 いつまでも迷いの世界をさまようから、 これを凡夫の道というのである。 出世間とは、 この世間の道をもとにして迷いの世界を離れることができるから、 それを出世間の道というのである。 上とは、 この道がすぐれた道であるから、 上というのである。 入るというのは、 まさしくその道を修行するから入るというのである。 この心で初地の位に入るのを歓喜地というのである。
問うていう。 初地をなぜ歓喜地というのであろうか。
答えていう。 *声しょう聞もんが*初しょ果かを得たなら、 遂には必ず*涅ね槃はんに至ることができるように、 菩薩がこの初地の位に至ると、 心に常に歓喜が多く、 おのずから仏となる種を育てることができる。 だから、 このような人を賢善のものというのである。
ここで “初果を得るように” というのは、 声聞が*須しゅ陀だEおん果を得るようであるというのである。 この位に入ると、 地獄や餓鬼や畜生の世界におもむく門戸をかたく閉じて、 *四し諦たいの法を見、 その法をさとり、 その法を体得し、 堅固な法に安住して心が動揺することなく、 ついには涅槃に至ることができる。 道理に迷う*煩悩ぼんのうを断ち切ってしまうのであるから、 心は大いに歓喜する。 そして、 たとえおこたりなまけるようなことがあっても、 *二十九回も迷いの生を繰り返すことはない。
たとえば、 一すじの毛を百に分け、 その一分の毛を大海に浸して水を分け取るようなものである。 すでに消滅した苦は、 その二、 三滴のようであって、 なお消滅せずに残っている苦は、 大海の水ほどである。 わずか二、 三滴ほどの苦を消滅したにすぎないけれども、 ふたたび迷うことのない位につくのであるから、 心は大きな歓喜に満たされる。
菩薩もまたそのようである。 初地の位に至ったことを、 仏がたの家に生れたという。 そして、 すべての仏法を守護する神々・竜・*夜や叉しゃ・*乾けん闥だつ婆ばなどや、 声聞・*縁覚えんがくなどに、 みな一様に供養されあつく敬われるのである。 なぜなら、 この仏がたの家にはあやまちがないからである。 だから世間の凡夫の道を転じて、 出世間のさとりの道に入るというのである。 ただ、 仏をよろこび敬うだけで、 四功徳処や六波羅蜜などの果報を得て、 その尊い味わいを愛あい楽ぎょうし、 多くの仏となるさまざまな因を相続するから、 心に大きな歓喜を得るのである。 この菩薩の徳からいえば、 残っている苦は二、 三滴の水ほどである。 たとえ百千億*劫こうもの長い間かかってこの上ないさとりを得るとしても、 はかり知れない昔からの苦にくらべれば、 それは二、 三滴ほどの苦を残しているにすぎない。 滅すべき苦は、 大海の水ほどもあるが、 その徳からいえば、 二、 三滴の苦を残しているにすぎないのであるから、 この位を歓喜地というのである。
問うていう。 初歓喜地の菩薩は、 この位にあって、 歓喜が多いという。 多くの功徳を得て歓喜するから、 これを位の名とするのである。 菩薩は法を歓喜するのであるが、 どのような法を得て歓喜するのであろうか。
答えていう。 常に仏がたを念じ仏がたの大いなる法を念じることは、 *必ひつ定じょうの位に入る希有の行である。 だから、 歓喜が多いのである。 このような歓喜すべきいわれがあるから、 菩薩は初地の位において心に歓喜が多いのである。
ここで “仏がたを念じる” というのは、 *燃灯ねんとう仏などの過去の仏がた、 阿弥陀仏などの現在の仏がた、 また*弥み勒ろくなどの将来の仏がたを念じることである。 常にこのような過去・現在・未来の仏がたを念じれば、 現に行者の前におられるようにお護りくださる。 仏はすべての世界においてもっともすぐれた方であり、 これにまさる方はおられない。 だから、 歓喜が多いのである。
次に “仏がたの大いなる法を念じる” について、 仏がただけがそなえておられる四十の尊い徳について、 そのいくつかを述べてみよう。 一つには、 自由自在に飛行する徳である。 二つには、 自由自在にすがたを変える徳である。 三つには、 自由自在に声を聞き分ける徳である。 四つには、 自由自在に無量の智慧をもってすべての衆生の心を知る徳である。 (中略)
次に “*念ねん必ひつ定じょうの菩薩がた” とは、 もし菩薩がこの上ないさとりを得ることを仏から約束されたなら、 その菩薩は不退転の位に至って無生法忍を得るのであり、 たとえ千万億の悪魔の軍勢が押し寄せても、 決して心を乱されることがなく、 大いなる慈悲の心を得てさとりを成就するのである。 (中略) これを念必定の菩薩という。
“希有の行を念じる” とは、 必定の菩薩が、 たぐいまれなもっともすぐれた行である本願の名号を念じるのである。 これによって心が大いに歓喜する。 あらゆる凡夫の及ばないところであり、すべての声聞・縁覚の行じることのできないところである。 それは、 仏法の何ものにもさまたげられないさとりとすべてを知る智慧を開示するのである。 また、 *十じゅう地じの菩薩の行じるところの法を念じるのであるから、 心に歓喜が多いといわれるのである。 そこで、 菩薩が初地の位に入ることができたなら、 そのものを歓喜地の菩薩というのである。
問うていう。 凡夫の身で、 この上ないさとりを求める心をおこさないものや、 あるいは、 その心をおこしてもまだ歓喜地を得ていないものがある。 このような人も、 その大いなる法を念じ、 必定の菩薩および希有の行を念じるなら、 また歓喜を得るであろう。 初地の位に至った菩薩の歓喜とこの人の歓喜とは、 どのような違いがあるのであろうか。
答えていう。 初地の位に至った菩薩は、 その心に歓喜が多い。 それは仏がたのはかり知れない徳を自分も必ず得られると思うからである。
初地の位に至った必定の菩薩が仏がたを念じたなら、 仏がたのはかり知れない功徳を自分も必ず得るに違いないと思う。 なぜなら、 自分はすでに初地の位に至り、 必ず成仏することに定まった菩薩の仲間に入っているからである。 初地の位に入っていないものにはこういう心がない。 だから、 初地の菩薩は多くの歓喜を生じるのである。 初地の位に入っていないものはそうではない。 なぜなら、 それらのものは、 仏がたを念じても、 自分も必ず仏になることができるという思いをおこすことができないからである。
たとえば、 *転輪てんりん聖じょう王おうの王子は、 転輪聖王の家に生れて、 転輪聖王となるべき相をそなえており、 過去の転輪聖王の功徳の尊いことを念じて、 自分にもまたこの相があるから、 やがてまた、 この豊かで尊い身となることができると思い、 心が大いに歓喜するであろう。 しかし、 転輪聖王となるべき相がないものには、 そのような喜びがおこらないようなものである。 いま必定の菩薩が、 仏がたを念じ、 またその大いなる功徳や尊いおすがたを念じれば、 自分にもこの相があるから必ずやがて成仏するに違いないと思って、 大いに歓喜するであろうが、 他のものには、 そのようなことがない。
必定の心とは、 深く仏法を体得して、 何ものにも動揺しない堅固な信心のことである」
【14】また次のようにいわれている (浄地品)。「信のはたらきの増上とは、 どういうことであろうか。 聞かせていただき、 知らせていただいた法を確かに受け入れて疑わないのを信のはたらきの増上といい、 殊勝というのである。
問うていう。 増上には、 多いという意味で説かれる場合と、 すぐれているという意味で説かれる場合があるが、 ここでは、 どちらの意味で説かれたのであろうか。
答えていう。 両方の意味が説かれるのである。 菩薩が初地の位に入れば、 多くの功徳を味わうことができるから信のはたらきがより一層増すのであり、 また、 この信のはたらきで仏がたの功徳が無量で深くすぐれていることを思いはかって、 それを信受することができるのである。 だから、 信には、 多いという意味の増上の徳も、 すぐれているという意味の増上の徳も、 どちらもあるのである。
“深く大いなる慈悲を行じる” とは、 衆生を哀れむ思いが骨髄に徹するから “深く” といわれ、 すべての衆生を救うためにさとりを求めるから “大いなる” といわれる。
慈悲の心とは、 常に衆生を利益することを求めて、 衆生を安穏にさせる心である。 この慈悲に三種がある (以下略)」
【15】また次のようにいわれている (易行品)。「仏法には、 はかり知れない多くの教えがある。 たとえば、 世の中の道には、 難しい道と易やさしい道とがあって、 陸路を歩あゆんでいくのは苦しいが、 水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。 菩薩の道も同じである。 *自じ力りきの行に励むものもいれば、 *他た力りき信心の*易い行ぎょうで速すみやかに不退転の位に至るものもある。 (中略) もし人が速やかに不退転の位に至ろうと思うなら、 あつく敬う心をもって仏の名号を信じ称えるがよい。
もし菩薩がこの一生のうちに不退転の位に至り、 ついにこの上ないさとりを成就しようと思うなら、 すべての世界の仏がたを信じて、 その名号を称えるがよい。 このように名号を称えることは、 『*宝月ほうがつ童どう子じ所問しょもん経ぎょう』 の阿惟越致品の中に説かれている通りである。 (中略) 西方にある善世界の仏を無む量明りょうみょう仏と申しあげる。 その身にそなわる智慧の光明は明らかであり、 その照らされるところは広くどこまでも限りない。 その名号を聞いて信じるものは、 ただちに不退転の位に至ることができる。 (中略) はかり知ることのできない遠い過去の世に*海徳かいとくという仏がおられた。 現在の仏がたはみな、 この仏のもとで願いをおこされたのである。 その仏の寿命は限りなく長く、 光明は限りなく照らし、 その国土はこの上なく清浄である。 その名号を聞くものは必ず仏となるであろう。 (中略)
問うていう。 ただこの十仏の名号を聞いて信じるものは、 ついにこの上ないさとりに至る位を得ることができるが、 他の仏・菩薩の名号によっても、 同じように不退転の位に至ることができるのであろうか。
答えていう。 阿弥陀仏などの仏がたや多くの菩薩たちの名号を称えて一心に念じれば、 同じように、 また不退転の位を得ることができる。 阿弥陀仏などの仏がたを、 あつく敬い礼拝して、 その名号を称えるがよい。
今、 詳しく無量寿仏について説こう。 *世せ自じ在王ざいおう仏をはじめ、 その他の仏がたもおられるが、 これらの仏がたは、 現にすべての清らかな世界において、 みな阿弥陀仏の名号を称え、 その本願を念じておられることは、 以下の通りである。 すなわち、 阿弥陀仏の本願には、 “もし人が、 わたしの名を称え、 他力の信心を得るなら、 ただちに必定の位に入り、 この上ないさとりを得ることができる” と誓われている。 だから、 常に阿弥陀仏を念じるがよい。 そこで、 今*偈げをもって阿弥陀仏をほめたたえよう。
はかり知れない智慧の光明に輝くお体は、 まるで黄金の山のようである。 わたしは今、 体と言葉と心をもって合掌し礼拝したてまつる。 (中略) この仏の名号がそなえるはかり知れない徳のはたらきを信じる人は、 ただちに不退転の位に至ることができる。 だからわたしは常にこの仏の名号を念じたてまつる。 (中略 )もし人が仏になろうと願って、 阿弥陀仏を念じれば、 そのとき阿弥陀仏はその人の前に現れてくださる。 だからわたしは阿弥陀仏の本願のはたらきを信じたてまつる。 すべての世界の多くの菩薩たちも、 ともに来て阿弥陀仏を供養し尊い法を聞く。 だからわたしは阿弥陀仏を礼拝したてまつるのである。 (中略) もし*善根ぜんごんを積んで生れようとするのであれば、 それは疑いの心であるから、 その身を包んでいる花が開かない。 他力回向の清浄な信心を得ているものは、 花が開いて仏を見たてまつるのである。 すべての世界に現在おいでになる仏がたは、 さまざまな因縁を示して、 阿弥陀仏の功徳をたたえておいでになる。 だからわたしは今、 阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。 (中略) *八はっ正しょう道どうという船に乗って、 渡ることのできない迷いの海を超えるのである。 自ら仏となって迷いの海を渡り、 またあらゆる人を救って迷いの海を渡してくださるから、 わたしは自在のはたらきをそなえた阿弥陀仏を礼拝したてまつる。 多くの仏がたが、 はかり知れないほどの長い年月をかけて、 阿弥陀仏の功徳をほめたたえても、 その功徳をほめ尽すことはできない。 だから清浄の徳をそなえた阿弥陀仏を信じたてまつる。 わたしも、 今仏がたがほめたたえるように、 阿弥陀仏のはかり知れない徳をほめたてまつる。 この讃嘆の功徳をもって、 仏が常にわたしを護念してくださることを願う」
【16】『*浄じょう土ど論ろん』 にいわれている。「わたしは*大だい乗じょうの経典に説かれている真実の功徳をそなえた名号の相により、 この*願がん生しょう偈げを説き、 阿弥陀仏の本願のはたらきを示して、 仏の教えにかなうことができた。 阿弥陀仏の本願のはたらきに遇って、 いたずらに迷いの生死を繰り返すものはなく、 速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださるのである」
【17】また次のようにいわれている (浄土論)。「*法蔵ほうぞう菩薩は礼拝・讃嘆・作願・*観察かんざつの四種の門において、 *自利じりの行を成就されたと、 知るべきである。 そして、 第五の回向門において、 衆生に功徳を施される*利他りたの行を成就されたと、 知るべきである。 菩薩は、 このように*五ご念門ねんもんの行を修めて自利利他を行じ、 速やかにこの上ないさとりを成就されたのである」
【18】『*往おう生じょう論ろん註ちゅう』 にいわれている。「つつしんで、 *龍りゅう樹じゅ菩ぼ薩さつの 『十住毘婆娑論』 をうかがうと、 “菩薩が不退転の位を求めるのに二種の道がある。 一つには*難なん行ぎょう道どうであり、 二つには*易い行ぎょう道どうである。
難行道とは、 *五ご濁じょくの世、 また仏がおられない世において、 不退転の位を求めることを難行というのである。 難行である理由は多いが、 略して、 少しばかりあげて意味を明らかにしよう。 一つには、 ※かたちにとらわれた*外げ道どうの善が菩薩の法を乱す。 二つには、 声聞が自利のみを求めて菩薩の大慈悲を行うことをさまたげる。 三つには、 人の迷惑を考えない悪人が他の人の修行を邪魔する。 四つには、 迷いの中の善果である人間や神々に生れることに執着して仏道の行を損なう。 五つには、 ただ自力のみであって他力のささえがない。 このようなことは、 みな眼前の事実である。 これをたとえていえば、 陸路を徒歩で行けば苦しいようなものである。
易行道とは、 ただ仏を信じて浄土の往生を願えば、 如来の願力によって清らかな国に生れ、 仏にささえられ、 ただちに大乗の*正定しょうじょう聚じゅに入ることができることをいう。 正定聚とは不退転の位である。 これをたとえていえば、 水路を船で行けば楽しいようなものである” といわれている。 いまこの 『*無む量りょう寿じゅ経きょう優婆うば提舎だいしゃ願がん生しょう偈げ』 に示された法は、 大乗の中の極致であり、 不退転の位に向かって順風を得た船のようなものである。
“無量寿” とは、 浄土の如来の別名である。 釈尊は、 *王舎おうしゃ城じょうや*舎しゃ衛え国こくにおいて、 大衆の中で無量寿仏の本願によって成就されたさまざまな*荘しょう厳ごん功く徳どくをお説きになった。 そこで、 その荘厳功徳のすべてをおさめた名号をもって*浄じょう土ど三さん部ぶ経きょうの本質とするのである。 後代の聖者*天親てんじん菩ぼ薩さつが、 釈尊の大いなる慈悲のお心から説かれた教えをいただかれ、 経にしたがって願生偈をつくられたのである」
【19】また次のようにいわれている (往生論註)。「また衆生救済の願いは、 軽々しいことではない。 如来の尊い力がなければ、 どうしてこれを達成することができよう。 そこで、 仏力をお加えくださることを乞うのである。 このようなわけで仰いで*世せ尊そんに告げられるのである。 “わたしは一心に” とは、 天親菩薩ご自身が述べられた領解のお言葉である。 その意味は、 無礙光如来を念じて浄土への往生を願い、 その心が変らずに続いて、 少しも自力の心がまじらないということである。 (中略) 『浄土論』 に “*尽じん十方じっぽう無礙むげ光こう如来にょらいに*帰き命みょうしたてまつる” とある。 “帰命” は五念門の中の礼拝門であり、 “尽十方無礙光如来” は讃嘆門である。
どうして “帰命” が礼拝であると知ることができるのであろうか。 まず、 龍樹菩薩のつくられた*阿あ弥陀みだ如来にょらいをたたえる偈の中に、 あるいは “*稽首けいしゅ礼らい” といい、 あるいは “我帰命” といい、 あるいは “帰命礼” といわれている。 また、 この 『浄土論』 の後半にある論述の文の中にも、 “五念門の行を修める” といわれているが、 五念門の中で、 礼拝門はその一つであり、 天親菩薩は、 すでに往生を願っておられるのであるから、 礼拝されないはずはない。 だから帰命は礼拝であると知ることができる。 ところが、 礼拝はただ尊敬することであって、 必ずしも帰命とは限らない。 しかし、 帰命には必ず礼拝を伴う。 もし、 こういう意味から推しはかるなら、 帰命の方がその意義が重い。 そこで、 『浄土論』 の願生偈の方では、 まず天親菩薩ご自身の領解を述べられるのであるから、 帰命というべきであり、 後の論述の文では、 願生偈の意味を解釈するのであるから、 広い意味で礼拝とされたのである。 願生偈と論述の文とが互いに対応して、 より一層その意味が明らかとなる。
どうして “尽十方無礙光如来” が讃嘆門になるのかというと、 後半の論述の文の中に、 “どのようにほめたたえるのかというと、 この如来の名号を称えるのである。 そしてこの如来の光明という智慧の相にかない、 また阿弥陀仏の名号のいわれにかなって、 *如実にょじつに行を修め、 本願に相応しようとするからである” といわれている。 (中略) 天親菩薩は、 ここで “尽十方無礙光如来” といわれている。 すなわちこれは、 この如来の名号によって、 智慧の相である光明のいわれにかなってほめたたえるからである。 だから、 この一句は讃嘆門であると知られる。
“安楽国に生れようと願う” とは、 この一句は作願門である。 天親菩薩の帰命のおこころである。 (中略)
問うていう。 大乗の経典や論書の中には処々に “衆生は究極のところ無生であって虚空のようである” と説かれている。 それなのにどうして、 天親菩薩は “生れようと願う” といわれているのであろうか。
答えていう。 “衆生は無生で虚空のようである” と説くのには、 二つの意味がある。 一つには、 凡夫が思っている実体としての衆生や、 凡夫が考えている実体としての生死のように、 凡夫が実体と思い、 考えているような衆生や生死というものは、 本来存在しない。 それは、 亀についている藻を見誤って亀の毛というようなものであって、 実体がなく、 虚空のようだということである。 二つには、 あらゆるものは因縁によって生じるのであるから、 もとより実体として生じるのではなく、 そのように実体のないことが、 あたかも虚空のようであるというのである。 いま天親菩薩が “生れようと願う” といわれるのは、 因縁によって生じるという意味でいわれているのである。 因縁によって生じるのであるから仮に “生れる” というのであって、 凡夫の考えるように実体としての衆生がいて、 実体として生れたり死んだりするということではない。
問うていう。 どういう意味で往生と説くのか。
答えていう。 この世界で仮に人と名づけられるものが五念門を修める場合、 前後は因果相続する。 この世界の仮に人と名づけられるものと、 浄土の仮に人と名づけられるものとは、 まったく同じであるということも、 まったく異なっているということもできない。 往生する前の心と往生した後の心との関係もまた同じである。 なぜかといえば、 もしまったく同じであるなら、 因果の別がないことになり、 また、 まったく異なっているなら、 相続していないことになる。 天親菩薩が往生ということを説かれているのは、 この不ふ一いつ不異ふいの道理に立つものである。 この道理は*論の中に詳しく述べられている。
以上で、 偈の第一行の*三念さんねん門もんを解釈しおわった。 (中略)
『浄土論』 に、 “わたしは、 経に説かれている*真実しんじつ功く徳どくの相に依って、 願生偈を説いて総持し、 仏の教えに相応するのである” といわれている。 (中略) その “依って” といわれるのは、 何に依るのであろうか、 なぜ依るのであろうか、 どのように依るのであろうか。 何に依るのかといえば、 経に依るのである。 なぜ依るのかといえば、 如来は真実功徳の相だからである。 どのように依るのかといえば、 五念門を修めて仏の教えに相応するように依るのである。 (中略)
“経” とは、 *十じゅう二部にぶ経きょうの中で、 仏がただ教えそのものを説かれているものをいう。 *四し阿あ含ごんなどの教え以外の大乗の経典も、 また経というのである。 ここで “経に依る” といわれている経は、 大乗の経典であって、 阿含経などの経典ではない。
“真実功徳の相” というのは、 功徳には二種類があり、 一つには、 煩悩に汚れた心によって修めた、 *真如しんにょにかなっていない功徳である。 いわゆる凡夫が修めるような善を因として、 人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、 因も果もみな真如にかなっておらず、 いつわりであるから、 不実功徳というのである。 二つには、 菩薩の*法ほっ性しょうに順じる清らかな行からおこって、 仏の果報を成就する功徳である。 これは、 法性にしたがい清浄の相にかなっている。 この法は真如にそむいているのでもなく、 いつわりでもないから、 真実功徳というのである。 なぜ真如にそむいていないのかというと、 法性にしたがい*二に諦たいの道理にかなっているからである。 なぜいつわりでないのかというと、 衆生を摂め取ってこの上ないさとりに入らせるからである。
“願生偈を説いて総持し、 仏の教えに相応する” というのは、 “持” とはたもって散失しないことをいい、 “総” とは少ない言葉で多くをおさめることをいう。 (中略) “願” とは往生を願うことをいう。 (中略) “仏の教えに相応する” とは、 たとえば箱とふたとがびたりと合うようなものである。 (中略)
『浄土論』 に “回向してくださるとはどういうことであろうか。 仏は苦しみ悩むすべての衆生を捨てることができず、 いつも衆生に功徳を施そうと願われ、 その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである” と述べられている。 阿弥陀仏の回向に二種の相がある。 一つには往相、 二つには還相である。 往相というのは、 仏ご自身の功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに浄土に往生させてくださることである」
【20】『*安楽あんらく集しゅう』 にいわれている。「『*観仏かんぶつ三昧ざんまい経きょう』 に、 “世尊は、 父である*浄飯じょうぼん王のうに*念仏ねんぶつ三昧ざんまいを修めるようにお勧めになった。 父の王は世尊に、 «仏のさとりの徳は*真如しんにょ実相じっそう第一だいいち義ぎ空くうとのことでありますが、 それを観ずる行を、 どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか» とお尋ねした。
世尊は父の王に、 «仏がたのさとりの徳は、 はかりがたい深い境地であり、 仏は*神じん通ずう力りきや智慧をそなえておいでになります。 これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。 そこで、 父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです» と仰せになった。
父の王は世尊に、 «念仏の功徳はどのようなものでしょうか» とお尋ねになった。
世尊は父の王に、 «たとえば、 四十*由ゆ旬じゅん四方の*伊い蘭らんの林の中に一本の*牛頭ごず栴檀せんだんがあるとします。 栴檀の根や芽はあっても、 まだ土の中にあるうちは、 伊蘭の林はただいやな臭いがするだけで、 よい香りなど少しもありません。 もし、 伊蘭の花や実を食べたなら、 その毒のために発狂して死んでしまうほどです。 その後、 栴檀の芽が次第に成長して、 少しばかり樹木らしく見えるようになると、 かぐわしい香りを放ち、 遂には伊蘭の林のいやな臭いをすべてよい香りに変えてしまいます。 そして、 その林を見る人々は、みなたぐいまれなすぐれた思いをおこします。 そのようなものです» と仰せになった。
世尊は、 続けて父の王に、 «あらゆる人々が迷いのうちにあって念仏する心も、 このようなものです。 念仏の行をたもち続けることができたなら、 必ず阿弥陀仏のもとに生れることができるのです。 ひとたび往生することができたなら、 すべての悪をあらためて大いなる慈悲の心を生じさせてくださることは、 栴檀が伊蘭の林のいやな臭いを変えてしまうようなものです» と仰せになった” と説かれている。
ここでいわれている “伊蘭の林” とは、 *三毒さんどくや、 *三さん障しょうなどの、 衆生が持っている数限りない重い罪にたとえたものであり、 “栴檀” とは、 衆生の念仏の心にたとえたものである。 “少しばかり樹木らしく見えるようになる” とは、 どのような人も絶えることなく念仏したなら、 往生の*業因ごういんが成就することをいうのである。
問うていう。 ※一人の念仏の功徳を推しはかれば、 あらゆる人々についても同様であると知ることができる。 しかしどうして、 一本の栴檀の樹が四十由旬四方の伊蘭の林をかぐわしい香りに変えてしまうように、 一声の念仏の功徳によって、 すべての罪障を断つことができるのであろうか。
答えていう。 さまざまな大乗の経典によって、 念仏三昧の功徳が思いはかることのできないすぐれたものであることを明らかにしよう。
どのようにすぐれているかというと、 『*華け厳ごん経ぎょう』 に、 “たとえば、 人が獅子の筋で琴の弦をつくり、 これをひとたび奏でたなら、 その他のものでつくった弦はみな切れてしまうというようなものである。 もし人が*菩ぼ提だい心しんをもって念仏三昧を修めたなら、 すべての煩悩、 すべての罪のさわりは、 ことごとく断たt20Cれ滅するのである。 また、 人が牛や羊やロバなどの乳をしぼって器の中に入れ、 そこへ、 獅子の乳を一滴入れたなら、 さっとまざりあって、 それらの乳がことごとく破壊され、 清らかな水に変ってしまうというようなものである。 もし人がただ菩提心をもって念仏三昧を行じたなら、 すべての悪魔や障害もさまたげることができないのである” と説かれている通りである。
また同じ経には、 “たとえば、 人が体を見えなくする薬を用いてさまざまなところを歩きまわっても、 他の人々は、 この人を見ることができないようなものである。 もし菩提心をもって念仏三昧を行じたなら、 すべての悪神やさわりも、 この人を見ることができず、 どこへ行ってもさまたげられることはない。 なぜかというと、 この念仏三昧はすべての*三昧さんまいの中の王だからである” と説かれている」
 

 

【21】また次のようにいわれている (安楽集)。「『*大だい智度ちど論ろん』 の中に、 “他のさまざまな三昧も三昧でないというわけではない。 なぜかというと、 三昧の中には、 *貪欲とんよくだけを除いて、 *瞋しん恚にや*愚痴ぐちを除くことができない三昧もある。 また、 瞋恚だけを除いて、 愚痴や貪欲を除くことができない三昧もある。 また、 愚痴だけを除いて、 貪欲や瞋恚を除くことができない三昧もある。 あるいはまた、 現在の罪障だけを除いて、 過去と未来のすべてのさわりを除くことのできない三昧もある。 ところが、 もし常に念仏三昧を修めたなら、 現在・過去・未来を問わず、 すべてのさわりがことごとく除かれるのである” と説かれている通りである」
【22】また次のようにいわれている (安楽集)。「『*讃さん阿あ弥陀みだ仏ぶつ偈げ』 に、 “もし阿弥陀仏の功徳の名号を聞き、 喜びたたえて信じれば、 わずか一声念仏するだけで大きな利益を得て、 功徳の宝を身にそなえることができる。 たとえ*三千さんぜん大千だいせん世せ界かいに火が満ちみちていても、 その中をひるまずに進んでいき阿弥陀仏の名号を聞くがよい。 仏の名号を聞けば、 不退転の位に至る。 だから心をこめて礼拝したてまつる” とある」
【23】また次のようにいわれている (安楽集)。「また、 『*目連もくれん所問しょもん経ぎょう』 に “世尊は*目連もくれんに、 «たとえば、 長い川の流れに漂う草木は、 前のものが後のものを気にかけることもなく、 後のものが前のものを気にかけることもなく、 すべて大海に流れこむようなものである。 世間のありさまもその通りで、 身分が高く豊かで何不自由ないものでも、 すべてのものはみな生老病死の苦を免れることはできない。 どのようなものでも、 仏法を信じなかったなら、 後の世に人間に生まれても、 さらに苦しみがきわまることになり、 千の仏が出られる尊い国に生れることはできない。 そこで、 わたしは "無量寿仏の国は往生しやすくさとりやすいのに、 人々は念仏の行を修めて往生するということができない。 逆に、 *九く十じゅう五ご種しゅの外げ道どうに仕えている" と説くのである。 ※わたしはこういう人を、 真実を見る目がない人といい、 真実を聞く耳がない人という» と仰せになった” と説かれている通りである。
経典にはすでにこのように説かれている。 どうして、 難行道を捨てて易行道によらないのであろうか」
【24】*善導ぜんどう大だい師しが 『*往おう生じょう礼讃らいさん』 にいわれている。「また、 『*文殊もんじゅ般若はんにゃ経きょう』 に、 “*一いち行ぎょう三昧ざんまいを明かそうと思う。 ただ、 独り静かなところにいて、 さまざまな心の乱れをとどめて心を一仏にかけ、 おすがたを観ずるのではなく、 もっぱら名号を称えることを勧める。 そうすれば、 その念仏の中において、 阿弥陀仏をはじめすべての仏がたを見たてまつることができるのである” と説かれている通りである。
問うていう。 どうして仏のおすがたを観ずるのではなく、 ただもっぱら名号を称えるようにお勧めになるのか、 これにはどのような意味があるのか。
答えていう。 それは、 衆生はさわりが重く、 ※観ずる対象が細やかであるのに、 心は粗雑であり、 思いが乱れ飛んで、 仏のおすがたを観じようとしても成就することができないからである。 そこで、 釈尊はこれをお哀れみになって、 ただもっぱら名号を称えることをお勧めになるのである。 称名は行じやすいので、 相続して往生することができるのである。
問うていう。 すでに仏のお勧めにより、 もっぱらただ一仏の名号を称えるのに、 なぜ、 多くの仏が現れるのか。 これは、 よこしまな観法と正しい観法とがまじわって、 一仏と多仏とがまじって現れるのではないだろうか。
答えていう。 仏がたはみな同じさとりを開いておられ、 また姿かたちにも区別はない。 だから、 一仏を念じた結果、 多くの仏がたを見たてまつることになっても、 どのような道理にも決して背くはずがない。 また、 『*観かん無む量りょう寿じゅ経きょう』 に説かれている通りである。 仏は観察や礼拝や念仏などを行じることをお勧めになる。 その際には、 みな*西方さいほう浄じょう土どに向かうのがもっともすぐれているのである。 それはちょうど、 樹が倒れる場合には、 必ずその樹の傾いている方向に倒れるようなものである。 だから、 事情があって、 どうしても西方浄土に向かうことができない場合には、 ただ西方浄土に向かう思いを持つだけでもよい。 それでも同じ結果を得ることができる。
問うていう。 すべての仏がたは*法身ほっしん・*報身ほうじん・*応身おうじんのさとりの身を得られ、 慈悲と智慧とをまどかにそなえておられることにはまったく違いがないはずである。 とすると、 どの方角の一仏を礼拝し、 *憶念おくねんし、 念仏しても、 また往生することができるであろう。 なぜ、 ただひとえに西方浄土のみをほめたたえて、 もっぱら弥陀一仏への礼拝や憶念などをお勧めになるのか。 どういうわけがあるのであろうか。
答えていう。 仏がたのさとりそのものは平等で一つであるけれども、 もし、 その*因いん位にの願・行をもって考えてみると、 それぞれの因縁の違いがないわけではない。 ところで、 阿弥陀仏は法蔵菩薩であった因位のときに深重の*誓願せいがんをおこされ、 これを成就して、 光明と名号によってすべての世界の衆生を導いて摂め取られるのである。 わたしたちはただ信じるばかりで、 長い生涯念仏を相続するものから、 短命にして十声・一声の念仏しかできないものに至るまで、 すべて仏の願力によって、 たやすく往生することができる。 そこで、 釈尊および仏がたは、 西方浄土に向かうことをお勧めになるのであり、 これを特別の違いとするだけである。 これはまた、 他の仏がたの名号を称えても罪のさわりを滅することができないというのではないということを、 よく知るべきである。 もし上に述べたように、 命終るまで念仏を相続するものは、 十人であれば十人すべて、 百人であれば百人すべて、 みな往生することができる。 なぜなら、 外からのさまざまなさまたげがなく、 他力の信心を得るからであり、 阿弥陀仏の本願にかなうからであり、 釈尊の教えに違たがわないからであり、 仏がたの言葉にしたがうからである」
【25】また次のようにいわれている (往生礼讃)。「ただ、 念仏する衆生をご覧になり、 摂め取って決してお捨てにならないので、 阿弥陀と申しあげるのである」
【26】また次のようにいわれている (往生礼讃)。「阿弥陀仏の智慧の誓願は、 海のようであり、 限りなく深く果てしなく広い。 名号を聞いて往生を願えば、 みなことごとく阿弥陀仏の国に至る。 たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、 その中をひるまずに進んでいき、 仏の名号を聞け。 名号を聞いて喜びたたえるなら、 みな間違いなくその国に往生することができる。 *末法まっぽう一万年の後、 他の教えがすべて滅しても、 この法だけはいつまでもとどまるであろう。 そのとき、 この法を聞いて信を得、 わずか一声念仏するものまで、 みな阿弥陀仏の国に往生することができるのでる」
【27】また次のようにいわれている (往生礼讃)。「わたしたちは現に迷いの凡夫であって、 罪のさわりが深く迷いの世界をさまよい続けている。 その苦しみはいい尽くしがたい。 今、 *善ぜん知ぢ識しきに遇って、 阿弥陀仏の本願に誓われた名号を聞くことができた。 一心に称えて往生を願うがよい。 願は仏のお慈悲であり、 仏はその本願の誓いを決してお捨てになることはないから、 仏弟子であるわたしたちを摂め取ってくださるのである」
【28】また次のようにいわれている (往生礼讃)。「問うていう。 阿弥陀仏の名号を称え、 あるいは礼拝・観察すれば、 この世においてどのような功徳や利益があるのであろうか。
答えていう。 もし阿弥陀仏の名号を一声称えるなら、 八十億劫の迷いのもととなる重い罪が除かれる。 礼拝や憶念などもまた同様である。
『*十じゅう往おう生じょう経きょう』 には、 “もし衆生が、 阿弥陀仏を念じて往生を願えば、 阿弥陀仏は二十五菩薩を遣わして行者を護られ、 歩いていても、 座っていても、 立っていても、 臥していても、 昼であろうが、 夜であろうが、 すべての時、 すべてのところにおいて、 悪鬼・悪神につけ入るすきを与えないのである” と説かれている。
また、 『観無量寿経』 に、 “もし阿弥陀仏の名号を称え、 礼拝・憶念して、 その国に往生しようと願えば、 阿弥陀仏はすぐさま無数の*化け身しんの仏や、 無数の*観音かんのん・*勢せい至しの化身を遣わして行者を護ってくださる。 そして、 また前の二十五菩薩などとともに、 行者を百重千重に取りかこんで、 何をしていても、 どのような時、 どのようなところでも、 昼夜を問わず、 常に行者からお離れになることはない” と説かれている通りである。
今すでにこのすぐれた利益があるのであるから、 阿弥陀仏の本願を信じるがよい。 願わくは多くの行者よ、 それぞれにみな仏の真実のお心をいただいて往生を求めよ。
また 『無量寿経』 に説かれている阿弥陀仏の本願には、 “わたしが仏になったとき、 すべての世界の衆生が、 わたしの名号を称え、 それが※わずか十声ほどのものであってもみな往生させよう。 もしそうでなければわたしはさとりを開くまい” と誓われている通りである。
阿弥陀仏は今現に成仏しておられる。 だから、 深重の誓願は間違いなく成就されており、 衆生が念仏すれば、 必ず往生できると知るべきである。
また 『*阿あ弥陀みだ経きょう』 に、 “世尊は、 «衆生が、 阿弥陀仏について説かれるのを聞いたなら、 本願を信じて名号を称えるがよい。 あるいは一日でも二日でも、 あるいは七日に至っても、 一心に思いを乱さず仏の名号を称えるなら、 命終ろうとするとき、 阿弥陀仏が多くの聖者たちとともに、 その人の前に現れてくださる。 そこでその人は、 臨終に心を取り乱すことなく、 阿弥陀仏の国に往生することができる» と仰せになる。 さらに、 世尊は*舎しゃ利り弗ほつに、 «わたしは、 このような利益のあることを知っているから、 このことを説くのである。 もし衆生の中でこの法を聞くものがあれば、 信をおこして阿弥陀仏の国に生れようと願うがよい» と仰せになった” と説かれ、 その後、 “東・南・西・北および上・下のそれぞれにおられる数限りない仏がたは、 それぞれの国で広く*舌相ぜっそうを示して、 世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、 まごころをこめて、 «そなたたち世の人々よ、 この "阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、 すべての仏がたがお護りくださる経" を信じるがよい» と仰せになっている。 どうして «お護りくださる» というのであるのか。 衆生が、 あるいは七日あるいは一日、 あるいは十声・一声に至るまで、 阿弥陀仏の名号を称えるなら、 必ず往生することができる。 このことを証明してくださるから «お護りくださる経» というのである” と仰せになり、 さらに、 その下の文に、 “仏の名号を称えて往生するものは、 常にすべての世界の数限りない仏がたに護られるから «お護りくださる経» というのである” と仰せになっている通りである。
今すでにこのすぐれた誓願があるのだから、 これを信じるべきである。 多くの仏弟子たちよ、 どうして懸命に往生を願わないのか」
【29】『*観かん経ぎょう疏しょ』 にいわれている (玄義分)。「*弘ぐ願がんというのは 『無量寿経』 に説かれている通りである。 善人も悪人もすべての凡夫が往生できるのは、 みな阿弥陀仏の大いなる本願のはたらきに乗じる (乗の字は、 かごにのるという駕がの意味であり、 自力にまさるという勝しょうの意味であり、 舟にのるという登とうの意味であり、 仏に守られているという守しゅの意味であり、 おおわれ護られるという覆ふくの意味である) のであり、 これをもっともすぐれたはたらきとしないものはない」
【30】また次のようにいわれている (玄義分)。「南無というのは、 すなわち帰命ということである。 またこれは、 発願廻向の意味でもある。 阿弥陀仏というのは、 すなわち衆生が浄土に往生する行である。 南無阿弥陀仏の六字の名号にはこのようないわれがあるから、 必ず往生することができるのである」  
【31】また 『*観念かんねん法門ぼうもん』 にいわれている。「*摂せっ生しょう増ぞう上じょう縁えんというのは、 『無量寿経』 の*四し十じゅう八願はちがんの中に、 “阿弥陀仏が、 «わたしが仏になったとき、 すべての世界の衆生が、 わたしの国に生れようと願って、 名号を称えること、 わずか十声のものに至るまで、 わたしの本願のはたらきに乗じて往生することがなかったなら、 わたしは決してさとりを開くまい» と仰せになっている” と説かれている通りである。 これは、 往生を願う人を本願のはたらきの中に摂め取り、 命終るときには往生を得させてくださるということなのである。 だから摂生増上縁というのである。
【32】また次のようにいわれている (観念法門)。「善人も悪人もすべての凡夫に、 自力の心をひるがえして念仏の行を修めさせ、 ことごとく往生を得させたいと思われて、 仏がたがこの法を証明してくださっている。 これが*証生しょうしょう増ぞう上じょう縁えんである」
【33】また 『*般舟はんじゅ讃さん』 にいわれている。「法門は八万四千の多数に分れるが、 迷いの因果を滅する鋭い剣は弥陀の名号にほかならない。 わずか一声、 その名号を称えるところに罪はみな除かれるのである。 多くの悪い行いも凡夫のはからいもすべて滅し、 教えないのにおのずからさとりへの門に入ることができる。 果てしなく続く*娑しゃ婆ば世界の苦難を免れることは、 とりわけ釈尊のお導きのご恩を受けてできることである。 仏のさまざまなはからいや、 巧みな手だてにより、 とくに阿弥陀仏の本願の門に入らせてくださるのである」
【34】そこで、 「南無」 という言葉は帰命ということである。 「帰」 の字は至るという意味である。 また、 帰き説えつという熟語の意味で 「よりたのむ」 ということである。 この場合、 説の字は悦えつと読む。 また、 帰き説さいという熟語の意味で 「よりかかる」 ということである。 この場合、 説の字は税さいと読む。 説の字は、 悦えつと税さいとの二つの読み方があるが、 説といえば、 告げる、 述べるという意味であり、 阿弥陀仏がその思召しを述べられるということである。 「命」 の字は、 阿弥陀仏のはたらきという意味であり、 阿弥陀仏がわたしを招き引くという意味であり、 阿弥陀仏がわたしを使うという意味であり、 阿弥陀仏がわたしに教え知らせるという意味であり、 本願のはたらきの大いなる道という意味であり、 阿弥陀仏の救いのまこと、 または阿弥陀仏がわたしに知らせてくださるという信の意味であり、 阿弥陀仏のお計らいという意味であり、 阿弥陀仏がわたしを召してくださるという意味である。 このようなわけで、 「帰命」 とは、 わたしを招き、 喚び続けておられる如来の本願の仰せである。
「発願回向」 とは、 阿弥陀仏が因位のときに誓願をおこされて、 わたしたちに往生の行を与えてくださる大いなる慈悲の心である。
※「即是其行」 とは、 衆生を救うために選び取られた本願の行という意味である。
「必得往生」 とは、 この世で不退転の位に至ることをあらわしている。 『無量寿経』 には 「即得」 と説かれ、 『十住毘婆娑論』 には 「必定」 といわれている。 「即」 の字は、 本願のはたらきのいわれを聞くことによって、 *真実しんじつ報ほう土どに往生できる因が定まるまさにその時ということを明らかに示されたものである。 「必」 の字は、 明らかに定まるということであり、 本願の*自じ然ねんのはたらきということであり、 迷いの世界にありながら正定聚の位に定まるということであって、 *金剛こんごう心しんを得ているすがたである。
【35】『*五会ごえ法ほう事じ讃さん』 にいわれている。「そもそも、 如来が教えを説かれるときには、 その相手に応じて、 詳細に説かれたり簡略に説かれたりする。 それは、 まことのさとりにたどりつかせるためであり、 不生不滅の真実のさとりを得たものに、 これらの教えを与える必要はない。 この念仏三昧は、 真実でこの上なく奥深い法門である。 阿弥陀仏の四十八願成就の名号をもって、 その本願のはたらきにより衆生を救われるのである。 (中略) さて、 如来は常に三昧の中にあって、 詳しく教えを説き明かされるのである。 釈尊は父である浄飯王に、 “王よ、 今静かに座して念仏すべきであります。 念を離れて無念を求め、 生を離れて*無む生しょうを求め、 姿かたちを離れて法身を求め、 言葉を離れて言葉の及ばない*解げ脱だつを求めるというような難しいことが、 凡夫にどうしてできましょうか” と仰せになる。 (中略) この上ないすぐれた真実のさとりは、 まことに尊く、 *一如いちにょそのものであって、 衆生を教え導き、 利益するのである。 しかし、 それぞれ誓願が異なるから、 釈尊は煩悩に汚れたこの世にお生まれになり、 阿弥陀仏は浄土に出現されるのである。 出現されたところはそれぞれ別であるが、 その利益には変るところがない。 修めやすくさとりやすいのは、 まことに浄土の教えである。 西方浄土はことにすぐれており、 他にくらべられるものがない。 また百もの宝でできた蓮の花でうるわしく飾られている。 その蓮の花の開いた中に、 あらゆる人々を往生させてくださるのである。 これが仏の名号のはたらきである。 (中略) 
『*称しょう讃さん浄じょう土ど教きょう』 によって法照のつくった偈。
“如来の尊い名号は、 きわめてすぐれて明らかであり、 すべての世界に広く行きわたり、 衆生に念仏させてくださる。 衆生はただその名号を称えて念仏するだけで往生する身に定まり、 観音菩薩と勢至菩薩は自らその人のもとに来って、 お護りくださるのである。 阿弥陀仏の本願はことにすぐれており、 慈悲の心から巧みな手だてにより凡夫を摂め取ってくださる。 すべての衆生はみな迷いを離れることができ、 その名号を称えればただちに罪を除くことができる。 凡夫がもし西方浄土に往くことができれば、 長い間の数知れない罪はすべて消える。 六つの神通力をそなえて、 自在のはたらきを得、 永久に老いや病の苦は除かれて、 *無む常じょうを離れることができる”
『*仏ぶつ本ほん行ぎょう経きょう』 によって法照のつくった偈。
“どのようなものを正しい法というのか。 道理にかなっているなら、 それは真実の教えである。 今この時に、 よい教えなのか悪い教えなのかを定めなければならないのである。 一つ一つ細かい点も吟味して曖昧にしてはならない。 正しい法は迷いの世を超え離れることができる。 *持じ戒かいや*座ざ禅ぜんも正しい法というけれども、 念仏して成仏する、 これこそが真実の教えなのである。 仏の教えによらないものは外道という。 *因いん果がの道どう理りを信じない考えは意味のないものである。 正しい法は迷いの世を超え離れることができるのである。 座禅や持戒がどうして正しい法なのであろうか。 念仏三昧こそが真実の教えである。 浄土に往生して*仏ぶっ性しょうをあらわし、 仏となる。 まことに道理にかなった法ではないか”
『阿弥陀経』 によってつくった偈。
“西方浄土はさとりに向かって進むことが娑婆世界よりすぐれている。 人々の欲望をかきたてるものもなく、 悪魔のさまたげもないからである。 そのため、 仏となるのに苦労を重ねてさまざまな功徳を積む必要もなく、 ただ、 蓮の花の台座に座り、 弥陀を念じたてまつるのである。 煩悩に汚れた世で修行すれば、 さとりの道から退転することが多い。 だから、 念仏して西方浄土に往生することほど、 すぐれたことはない。 浄土に至れば本願のはたらきにより自然にさとりを成就するのである。 そして迷いの世界に還ってきて、 衆生をさとりの世界へ導くための橋となるであろう。 あらゆる行の中で念仏がもっとも大切である。 速やかにさとることができるのは、 浄土の教えよりすぐれたものはない。 ただ釈尊が説かれているだけではない。 すべての世界の仏がたもともに広く念仏の教えを伝え、 それが真実であることを証明しておられる。 この世界で一人の人が仏の名号を称えると、 浄土に一つの蓮の花が生じる。 生涯、 信心を失うことなく念仏を相続するなら、 その蓮の花がこの世界に来ってその人を迎えてくださるのである”
『*般舟はんじゅ三昧ざんまい経きょう』 によって*慈じ愍みん和か尚しょうのつくった偈。
“今日道場に集まった多くの人々よ、 わたしたちはみな、 はかり知れない昔から迷いの世界をさまよってきた。 今、 人として生れたことを考えると、 それは実に得がたいことである。 このことは、 たとえば、 *優う曇どん華げがはじめて咲くようなものである。 今まさに、 聞きがたい浄土の教えを聞く縁に会うことができた。 今まさに、 念仏の教えが説き開かれるときに会うことができた。 今まさに、 阿弥陀仏の本願がお喚びになる声にあうことができた。 今まさに、 人々が信を得て往生を願うのにあうことができた。 今まさに、 今日この経によって阿弥陀仏をたたえるのにあうことができた。 今まさに、 人々がともに蓮の台座に往生することを約束するのにあうことができた。 今まさに、 人々が道場につつがなく集うのにあうことができた。 今まさに、 病もなく一同がここに来るのにあうことができた。 今まさに、 この七日間の念仏の功徳が成就するのにあうことができた。 阿弥陀仏の四十八願は、 このわたしを必ず浄土に連れていってくださる。 広くすべての道場に集まった念仏の行者に勧める。 つとめて心をひるがえし、 わたしたちのふるさとに帰ろうではないか。 それでは、 そのふるさととはどこにあるのだろう。 それは*極楽ごくらくの池の中に咲く、 *七宝しっぽうでできた蓮の花の台座にほかならない。 阿弥陀仏は因位のとき、 弘誓をおたてになった。 «名号を聞いて、 わたしを念じるものをすべて迎えとろう» と。 貧しいものと富めるものをわけへだてることなく、 知識や才能の高下によってわけへだてることなく、 博学多聞のものも清らかな戒律をたもつものもわけへだてることなく、 戒律を破ったものも罪深いものもわけへだてることなく、 ただ信を得て念仏すれば、 瓦や小石を黄金に変えるようにしてお救いくださるのである。 今ここに集まった大衆に «同じ念仏の縁を結び迷いの世界を離れて浄土に往生しようと願うものは、 はやく求めて往くように» と告げる。 問う、 求めてどこへ往くのか。 答える、 阿弥陀仏の浄土へ往くのである。 問う、 どうして阿弥陀仏の浄土に往生することができるのか。 答える、 信心を得て念仏すれば、 本願のはたらきによっておのずと往生できるのである。 問う、 今この身には多くの罪やさわりがあるのに、 どうして浄土に受け入れてもらえるのか。 答える、 名号を称えればそれらの罪はみな消えるのである。 たとえば明るい灯火が闇の中に入るようなものである。 問う、 凡夫でも往生できるのであろうか。 どうして信を得てひとたび念仏すれば、 闇が明るくなるようにすべての罪が消えるのか。 答える、 疑いを離れて念仏すれば、 阿弥陀仏の方から間違いなく親しみ近づいてくださるのである”
『観無量寿経』 によって法照のつくった偈。
“*十じゅう悪あくや五逆の罪をつくるようなどうしようもなくおろかな人は、 はかり知れない長い間迷いの世界に沈んでいる。 しかし、 信心を得てひとたび阿弥陀仏の名号を称えたなら、 浄土に往生して、 仏と同じさとりの身が得られるのである”
【36】*憬きょう興ごうが 『*述じゅつ文讃もんさん』 にいっている。「釈尊の広く説かれた 『無量寿経』 は二つの内容に分れる。 はじめの方では、 阿弥陀仏となられ、 その浄土がととのえられることの因果について、 すなわち因位の願・行と果の成就のありさまを、 広くお説きになるのである。 後の方では、 衆生が浄土に往生することの因果について、 すなわち阿弥陀仏が衆生を摂め取り、 利益をお与えになるありさまを、 広くお明かしになるのである」
【37】*また次のようにいっている。「『悲華経』 の諸菩薩本授記品には、 “そのとき、 宝蔵如来が後に阿弥陀仏となられる転輪聖王をほめたたえて、 «何と善いことであろうか、 (中略) 大王よ、 あなたが西方を見ると、 ここから百千万億の仏の世界を過ぎたところに尊善そんぜん無垢むくという世界がある。 その世界に仏がおられ、 尊音そんのん王おう如来と申しあげる。 (中略) 今現に多くの菩薩がたのために正しい法を説いておられる。 (中略) それはまじりけのない純一な大乗の清浄な世界である。 ※その世界の人々はみな平等に清浄な生れ方をして、 男女の区別がなく、 区別する名前さえもない。 その世界のあらゆる功徳は、 実に清らかにうるわしくととのえられている。 これはすべて大王の願いの通りで、 何の相違もないであろう。 (中略) そこで今あなたの名をあらためて、 無量清浄としよう» と仰せになる” と説かれている。
『如来会』 には、 “このような大いなる誓願をおこし、 そのすべてを成就したのである。 これは世にすぐれてたぐいまれなことである。 この願いをおこしおわって、 真実の心をもってさまざまな功徳を身にそなえ、 すぐれた徳にあふれた清らかな世界をうるわしくととのえられたのである” と説かれている」
【38】また次のようにいっている (述文賛)。「*福徳ふくとくと*智慧ちえとの二つの徳を成就されたから、 それらの徳をすべておさめて、 等しく衆生に念仏の行を施されるのである。 仏は自分の修めた行の徳をもって他の衆生を利益されるのであるから、 念仏の行を施して衆生の上にすべての功徳を成就されるのである」
【39】また次のようにいっている (述文賛)。「はかり知れない昔からの因縁によって、 仏に出会い、 法を聞いてよろこぶことができるのである」
【40】また次のようにいっている (述文賛)。「浄土の人々はみな尊い聖者であり、 その国土は実にすぐれている。 往生のために努めようとしないものなど、 だれかいるのであろうか。 善を行じて往生を願え。 如来の善によって往生の因がすでに成就されているので、 おのずから果を得ることができないはずがない。 だから自然という。 貴賎のわけへだてをせず、 みな往生させてくださる。 だから、 上下の差別がないというのである」
 

 

【41】また次のようにいっている (述文賛)。「『無量寿経』 には、 “浄土は往生しやすいにもかかわらず往く人がまれである。 しかしその国には、 間違いなく本願のはたらきのままにすべての人々が受け入れられる” と説かれている。 因を修めれば往生し、 修めなければ往生できない。 因を修めて往生することは、 本願のはたらきのまま、 そうなるのである。 すなわち往きやすいのである」
【42】また次のようにいっている (述文賛)。「“本願力の故に” とあるのは、 わたしたちが往生するのは阿弥陀仏の本願のはたらきによるということである。 “満足願の故に” とあるのは、 衆生を救う願いが欠けることなく成就されているということである。 “明了願の故に” とあるのは、 阿弥陀仏の願い求められることには決して間違いがないということである。 “堅固願の故に” とあるのは、 本願はどのような縁にも破られることがないということである。 “究竟願の故に” とあるのは、 阿弥陀仏の願いは必ず果しとげられるといことである」
【43】また次のようにいっている (述文賛)。「総じていえば、 愚かな凡夫に浄土往生を願う心を盛んにさせるために、 阿弥陀仏の浄土のすぐれていることをあらわされているのである」
【44】また次のようにいっている (述文賛)。「すでに “この娑婆世界で菩薩の行を修められた” と説かれている。 これによって、 後に阿弥陀仏となられた*無む諍じょう念王ねんおうが、 この娑婆世界におられたことが知られる。 後に釈尊となられた*宝海ほうかい梵ぼん志じもまた同様である」
【45】また次のようにいっている (述文賛)。「仏のすぐれた功徳が広大であることを聞いたから、 不退転の位を得たのである」
【46】『*楽邦らくほう文類もんるい』 にいっている。「*総官そうかんの職にあった*張ちょう掄りんがいう。 “仏の名号ははなはだたもちやすく、浄土ははなはだ往きやすい。 八万四千の法門の中で、 これ以上の近道はない。 明け方のわずかな時間をさいても、 ぜひ、 永久に損なわれることのない功徳をたくわえるべきである。 仏の名号をたもつものは、 力を用いることがはなはだ少なくて、 功徳を得ることがはかり知れない。 人々は何の苦しみがあって、 自らこのような尊い法を捨ててしまい、 修めようとしないのであろうか。 ああ、 人生は夢幻のようであり、 真実のものは何一つない。 寿命ははかなくて、 長くたもつことができない。 わずか一呼吸ほどの間にすぐ来世となる。 ひとたび人としての命を失えば、 もはや一万劫を経てももとにはかえらない。 今この時目覚めなかったなら、 仏にも、 わたしたち衆生をどうすることもできない。 どうか、 深く無常を思って、 いたずらに悔いを残すようなことはしないでほしい。 浄楽居士張掄、 縁のある人々に勧める”
【47】*天台てんだい宗しゅうの祖師、 *山陰さんいんがいっている。「まことに、 仏の名号は真実の報身よりあらわれ、 尊い慈悲よりあらわれ、 広大な誓願よりあらわれ、 すぐれた智慧よりあらわれ、 はかり知れない法門よりあらわれているから、 ただもっぱら一仏の名号を称える中に、 仏がたの名号をすべて称える徳が収まっている。 その功徳ははかり知れないから、罪やさわりを滅し、 浄土に生れることができる。 どうして疑いをおこす余地があろうか」
【48】*律りっ宗しゅうの祖師、 *元がん照じょうが 『*観かん経ぎょう義ぎ疏しょ』 にいっている。「まして、 釈尊は大いなる慈悲のお心から浄土の法をお説きになり、 また広くさまざまな大乗経典の中に示されたお勧めも、 実に行き届いたものである。 ところが、 世間の人は、 これを見たり聞いたりしてもただ疑い謗そしって、 迷いの世界に沈むことに満足し、 さとりを求めようとしない。 如来はまさにこの哀れむべきもののために浄土の法をお説きになったのであるが、 まことに、 世の人々がこの法を疑い謗るのは、 普通とは異なる尊い法であることを知らないからである。 賢者と愚者、 出家と在家をわけへだてることなく、 修行の年時の長短を論ぜず、 罪の軽い重いを問わず、 ただ決定の信心をもって往生の因とされるのである」
【49】また次のようにいっている (観経義疏)。「いま浄土の経典には、 どれにも悪魔のさまたげのことは説かれていない。 だから浄土の法には悪魔のさまたげがないことは明らかである。 山陰の*慶文けいぶん法師の “*正しょう信しん法門ほうもん” にはこのことが詳しく論じられている。 いまその問答をそのまま引用しよう。
“ある人が、 «臨終に仏・菩薩が光明を放って、 蓮の花の台座を持って現れるのを見たてまつり、 清らかな音楽が鳴り響き、 すぐれた香りが漂って、 *来迎らいこうにあずかって往生する、 というようなことは、 みな悪魔のしわざである» という。 この説はどうであろうか。
答えていう。 『*首しゅ楞りょう厳ごん経ぎょう』 によって三昧を修める場合には、 *五ご陰おん魔まが現れ、 修行をさまたげることがある。 『*大だい乗じょう起き信しん論ろん』 によって三昧を修める場合には、 *天てん魔まが現れ、 修行をさまたげることがある。 『*摩訶まか止し観かん』 によって三昧を修める場合には、 *時媚じみ鬼まが現れ、 修行をさまたげることがある。 これらはどれも、 *禅ぜん定じょうを修める人が自力によるから、 元来悪魔のさまたげを受けるような因があり、 それが三昧を修めることを縁として現れ出たものである。 もし、 これを明らかに見きわめて、 それぞれが制するなら、 悪魔のさまたげを除くことができる。 もし、 自らが聖者になったと思いあがるなら、 みな悪魔のさまたげを受けるのである。 (以上はこの世界でさとりを開こうとする場合を明かした。 これには悪魔のさまたげがおこる)
いま修めるところの念仏三昧は仏力をたのむのである。 それはちょうど、 帝王の近くにいるとだれも害を加えるものがないように、 悪魔のさまたげがない。 これはつまり、 阿弥陀仏が、 大いなる慈悲の力、 大いなる誓願の力、 大いなる智慧の力、 大いなる三昧の力、 自在に救う大いなる力、 邪悪を砕く大いなる力、 悪魔を降伏させる大いなる力、 遠く未来を見通す天眼通の力、 遠くの声を聞き分ける天耳通の力、 すべてのものの心を知りぬく他心通の力、 光明をあまねく照らして衆生を摂め取る力、 それらの力をそなえておられることによる。 このようなはかり知れない功徳の力をそなえておられるのである。 念仏の人を護って臨終までさまたげのないようにすることが、 どうしてできないことがあろうか。 もし仏が行者をお護りくださらないのなら、 慈悲の力があるといえようか。 もし仏が悪魔のさまたげを除くことができないのなら、 智慧の力、 三昧の力、 自在に救うことのできる力、 邪悪を砕く力、 悪魔を降伏させる力なども、 またあるといえようか。 もし仏がすべてを見抜くことができずに、 行者が悪魔のさまたげを受けるようなら、 天眼通の力、 天耳通の力、 他心通の力なども、 またあるといえようか。 『観無量寿経』 には、 «阿弥陀仏の光明は、 すべての世界を照らし、 念仏の衆生を摂め取ってお捨てにならない» と説かれている。 もし、 念仏して臨終に悪魔のさまたげを受けるというなら、 光明をあまねく照らして衆生を摂め取る力も、 またあるといえようか。 まして、 念仏の人が臨終にすぐれた相を見ることは、 多くの経に出ている。 これらはみな仏のお言葉である。 どうして、 それを悪魔のしわざであるとけなすことができよう。 今誤った疑いをはっきりと打ち破った。 まさに正しい信を生ずべきである” (以上は “正信法門” の文である)」
【50】また 『*阿あ弥陀みだ経きょう義ぎ疏しょ』 にいっている。「*一いち乗じょうの至極の教えも、 最後に帰するところは、 みな極楽世界を指し示すのである。 すべての行の徳をまどかにおさめてもっともすぐれていることは、 弥陀の名号にまさるものはない。 まことに、 阿弥陀仏は因位のときから、 願をたて、 志をかたく守り、 行をきわめ、 はかり知れない長い時をかけて、 衆生を救おうとする慈悲の心をいだかれた。 そして、 芥子粒ほどのわずかな場所であっても、 衆生救済のために自らの身を捨てて行を修めていかれなかったところはないのである。 智慧と慈悲を兼ねそなえた六波羅蜜の行を修め、 すべてのものを導いて摂め取り、 余すところがない。 その身心もあらゆる財宝も、 持っておられたものはすべて求められるままにお与えになった。 このようにして、 機が熟し縁が生じ、 行が満足し、 功徳が成就して、 一時に法身・報身・応身のさとりの身をまどかに成就されたのである。 そのすべての徳がみな阿弥陀仏の四字にあらわれているのである」
【51】また次のようにいっている (阿弥陀経義疏)。「まして、 阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。 そこで、 この名号を耳に聞き、 口に称えると、 限りない尊い功徳が心に入りこみ、 長く成仏の因となって、 たちまちはかり知れない長い間つくり続けてきた重い罪が除かれ、 この上ない仏のさとりを得ることができる。 まことにこの名号はわずかな功徳ではなく、 多くの功徳をそなえていることが知られるのである」
【52】また次のようにいっている (阿弥陀経義疏)。「臨終の正しい思いということについて、 凡夫の臨終は、 心が乱れてしまい、 平生の善悪の行いが因となり、 必ずその報いがあらわれることになる。 悪い思いをおこすこともあれば、 よこしまな考えをおこすこともあれば、 愛着の情を生じることもあれば、 狂乱の悪相を示すこともある。 これらはどれも迷いのすがたというべきである。 しかし以前より、 仏の名号を称えているものは、 それによって、 罪が滅し、 さわりが除かれ、 心の内は清らかな念仏の功徳に満ち、 外は大いなる慈悲の光明に摂め取られるのであって、 わずか一*刹せつ那なの間に、 迷いの苦を逃れ、 浄土の楽を得ることができるのである。 この 『阿弥陀経』 の次の文に浄土往生をお勧めになっているのは、 このような利益があるからである」
【53】また 『観経義疏』 にいっている。「*慈じ雲うん法師は、 “浄土へ往生する清らかな行いだけが、 さとりへのまことの近道であるから、 これを修めるべきである。 出家のものも在家のものも、 速やかに無明の闇を破って、 永久に五逆・十悪などすべての罪を滅したいと思うなら、 まさにこの法を修めるべきである。 大乗・*小乗しょうじょうの戒律を長く清らかにたもち、 念仏三昧を得て、 菩薩のさまざまな行を成就したいと思うなら、 まさにこの法を学ぶべきである。 臨終に、 さまざまな恐れを離れ、 身も心も安らかになり、 現れ出た多くの聖者に手を取られて導かれ、 そしてはじめて煩悩を離れて不退転の位に至り、 速やかに無生のさとりを得たいと思うなら、 まさにこの法を学ぶべきである” といっている。 昔のすぐれた方が教えておられる言葉にしたがうべきである。 以上、 五つに分けて要点を述べた。 これ以外のことについてはここには述べず、 文を釈するところで詳しく明かそう。
『*開元かいげん釈教しゃくきょう録ろく』 によると、 この 『観無量寿経』 は、 二回訳されている。 前の訳本はすでになくなり、 今の訳本は*畺きょう良りょう耶や舎しゃの訳である。 『*高僧こうそう伝でん』 には、 “畺良耶舎はこの国の言葉では時称という。 宋の元嘉のはじめに都に来られた。 *文帝ぶんていの時代である” とある」
【54】慈雲がいっている (観経義疏)。「念仏の教えは真実をもっとも明らかに説いた教えである。 完全なさとりにもっとも速やかに到達できる教えである」
【55】*大だい智ちがいっている (観経義疏)。「念仏の教えは完全なさとりに速やかに到達できる唯一最上の教えである。 それは純粋でまじりけがない」
【56】律宗の*戒かい度どが 『*正しょう観かん記き』 にいっている。「阿弥陀仏の名号は、 法蔵菩薩がはかり知れない長い間行を修められたことによってできあがったもので、 そのすべての功徳をおさめている。 それらの功徳がみな阿弥陀仏という四字にあらわれているのである。 だから、 この仏の名号を称えれば、 利益を得ることは限りなく深いのである」
【57】律宗の*用欽ようきんがいっている。「今もし、 弥陀一仏の尊い名号を心に念じ口に称えれば、 その仏の因位から*果位かいに至るまでの無量の功徳がこの身にすべてそなわるのである」
【58】また次のようにいっている。「すべての仏がたは、 はかり知れない時を経て*実相じっそうをさとられ、 あらゆる執着を離れておられるから、 おこされた願は虚妄の相を離れた大いなる願であり、 どのようにすぐれた行を修めても、 それにとらわれることはない。 さとりを得てもそれにとらわれず、 浄土をうるわしくととのえてもそれにとらわれない。 神通力をあらわしても、 それは通常の神通力を超えているので、 広く舌相を示して世界のすみずみにまで、 とらわれることなく真実の法をお説きになる。 だから、 この 『阿弥陀経』 を信じるようお勧めになるのである。 どうして凡夫がこのことを、 思いはかり、 あれこれいうことができようか。 わたしが思うには、 仏がたのはかり知れない功徳は、 たちまちに阿弥陀仏とその浄土の*荘しょう厳ごんに収まっている。 弥陀の名号をたもつ念仏の行は、 この仏がたの説の中に必ず収まっているのである」
【59】*三論さんろん宗しゅうの祖師、 *嘉か祥じょうが 『観経義疏』 にいっている。「問うていう。 念仏三昧は、 どういうわけで、 このような多くの罪を滅することができるのであろうか。
この問いについて解き明かすと、 仏ははかり知れない功徳をそなえておいでになる。 この仏のはかり知れない功徳を念じるのであるから、 はかり知れない罪を滅することができるのである」
【60】*法相ほっそう宗しゅうの祖師、 *法ほう位いが 『*大だい経きょう義ぎ疏しょ』 にいっている。「仏がたはみなその功徳を名号におさめる。 だから、 名号を称えることは、 仏の功徳をたたえることである。 仏の功徳はわたしたちの罪を滅して利益を生じる。 名号もまたその通りである。 もし仏の名号を信じたなら、 善根を生じて悪を滅するのは、 間違いのないことであり、 疑いのないことである。 名号を称えて往生を得ることに、 何を迷う必要があろうか」 
 

 

【61】*禅ぜん宗しゅうの*飛ひ錫しゃくが 『*念仏ねんぶつ三昧ざんまい宝王ほうおう論ろん』 にいっている。「念仏三昧の善は最上のものである。 すべての行の王であるから三昧の王というのである」
【62】『*往おう生じょう要よう集しゅう』 にいわれている。「『無量寿経』 に説かれる*三輩さんぱいの行には、 浅いものもあれば深いものもあるが、 それぞれにすべて、 “ただひとすじに無量寿仏を念じる” と説かれている。 三つには、 四十八願の中で、 念仏の教えについて、 特別に一つの願をおこされており、 “たとえば十声念仏して、 もし、 わたしの国に生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい” と誓われている。 四つには、 『観無量寿経』 の中に、 “きわめて重い罪をかかえた悪人に、 この他の手だてはない。 ただ弥陀の名号を称えて、 極楽世界に往生させていただくばかりである” と説かれている」
【63】また次のようにいわれている (往生要集)。「『*心しん地じ観かん経ぎょう』 に説かれている仏の六種の功徳によるべきである。 一つには、 田畑のように、 この上ない大いなる功徳を生じてくださる方である。 二つには、 この上ない大いなる恩徳を恵んでくださる方である。 三つには、 すべての命あるものの中でもっとも尊い方である。 四つには、 優曇華のようにきわめて遇いがたい方である。 五つには、 三千大千世界にただ独り出られる方である。 六つには、 世間と出世間の功徳をまどかにそなえた方である。 仏はこのような六種の功徳をそなえておいでになり、 常にすべての衆生を利益されるのである」
【64】この六種の功徳によって、 *源信げんしん和か尚しょうは次のようにいわれている (往生要集)。「一つには、 次のように仏を念じるがよい。 一声念仏すれば、 みなすでにさとりを開くことのできる身となる。 だからわたしは、 田畑のように、 この上ない大いなる功徳を生じてくださる阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。 二つには、 次のように仏を念じるがよい。 仏は慈悲の眼で衆生を平等に、 またただ一人の子供のようにご覧になる。 だからわたしは、 広く大いなる慈悲の心を持つ母である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。 三つには、 次のように仏を念じるがよい。 すべての世界の菩薩がたも阿弥陀仏をあつく敬われる。 だからわたしは、 この上もなく尊い方である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。 四つには、 次のように仏を念じるがよい。 わずかひとたびでも仏の名号を聞くことができるのは、 優曇華が咲くよりもまれなことである。 だからわたしは、 きわめて遇いがたい方である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。 五つには、 次のように仏を念じるがよい。 三千大千世界に二仏が同時にお出ましになることはない。 だからわたしは、 たぐいまれなすぐれた*法王ほうおうである阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。 六つには、次のように仏を念じるがよい。 仏・法・僧の*三宝さんぼうは、 過去・現在・未来を通じてその本質は同一である。 だからわたしは、 三宝すべての徳をまどかにそなえた方である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる」
【65】また次のようにいわれている (往生要集)。「*Jとう利り天てんにある*波利はり質しっ多た樹じゅの花で、 一日の間衣に香りをつけると、 *瞻蔔せんぷく華げや*波は師し迦華かげで千年の間香りをつけても、 とうてい及ぶことができないように、 念仏の功徳はあらゆる功徳に超えすぐれている」
【66】また次のようにいわれている (往生要集)。「一斤きんの*石せき汁じゅうは、 千斤の銅を黄金に変えることができる。 牛が*雪山せっせんにある忍辱にんにくという名の草を食べると、 その牛は*醍だい醐ごを出す。 *尸利しり沙しゃの樹は*昴星ぼうせいが現れると果実をつける。 まるでこのように、 名号を称えると功徳が得られるのである」
【67】*源空げんくう上しょう人にんの 『*選せん択じゃく集しゅう』 にいわれている。「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、 この念仏にほかならない」
【68】また次のようにいわれている (選択集)。「そもそも、 ※速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、 二種のすぐれた法門のうちで、 *聖しょう道どう門もんをさしおき、 *浄じょう土ど門もんに入れ。 浄土門に入ろうと思うなら、 *正行しょうぎょうと*雑ぞう行ぎょうの中で、 雑行を捨てて正行に帰せ。 正行を修めようと思うなら、 *正定しょうじょう業ごうと*助業じょごうの中で、 助業を傍かたわらにおいておきもっぱら正定業を修めよ。 正定業とは、 すなわち仏の名号を称えることである。 称名するものは必ず往生を得る。 阿弥陀仏の本願によるからである」
【69】明らかに知ることができた。 本願の念仏は、 凡夫や聖者が自ら励む自力の行ではない。 阿弥陀仏のはたらきかけによるものであるから、 行者の側からすれば*不ふ回え向こうの行というのである。 大乗の聖者も小乗の聖者も、 また重い罪の悪人も軽い罪の悪人も、 みな同じく、 この大いなる宝の海とたとえられる選択本願に帰し、 念仏して成仏すべきである。
【70】そこで 『往生論註』 にいわれている。「浄土への往生は、 みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの*化け生しょうである。 それは同じ念仏によって生れるのであり、 その他の道によるのではないからである」
【71】このようなわけで、 真実の行信を得ると、 心は大きな喜びに満たされるので、 この行信を得た位を*歓かん喜ぎ地じというのである。 これを*阿羅あら漢かんのさとりでいう初果にたとえるのは、 初果の聖者は、 たとえ仏道修行をなまけおこたるようなことがあっても、 二十九回も迷いの生を繰り返すことはないからである。 まして、 あらゆる世界のどのような衆生も、 この行信をいただくなら、 仏は摂め取って決してお捨てにならない。 だからこの仏を阿弥陀仏と申しあげるのである。 これを他力という。
そこで、 龍樹菩薩は 「即の時に必定に入る」 といわれ、 *曇鸞どんらん大だい師しは 「正定聚の位に入る」 といわれたのである。 仰いで如来の本願を信じるべきであり、 もっぱら念仏の行を修めるべきである。
【72】いま、 知ることができた。 ※慈悲あふれる父とたとえられる名号がなければ往生の因が欠けるであろう。 慈悲あふれる母とたとえられる光明がなければ往生の縁がないことになるであろう。 しかし、 これらの因縁がそろっても信心がなければ浄土に生れることはできない。 真実の信心を*内因ないいんとし、 光明と名号の父母を*外げ縁えんとする。 これらの内外の因縁がそろって真実報土のさとりを得るのである。 それで善導大師は、 『往生礼讃』 に 「阿弥陀仏は光明と名号によってすべての世界の衆生を導いて摂め取られ、 わたしたちはただ信じるばかりである」 といわれ、 また 『五会法事讃』 に 「念仏して成仏する、 これこそが真実の教えなのである」 といい、 また 『観経疏』 に 「真実の教えにはなかなか出会うことができない」 (散善義) といわれている。 よく知るがよい。
【73】総じて、 往相回向の行信について、 行に一念があり、 また信に一念がある。 ※行の一念というのは、 最初の一声というもっとも少ない称名の数を示すことにより、 如来の選び取られた本願念仏という易行の究極の意義をあらわすのである。
【74】だから 『無量寿経』 に説かれている。「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 “もし、 阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、 わずか一声念仏すれば、 この人は大きな利益を得ると知るがよい。 すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである”」
【75】善導大師は 『観経疏』 に 「下至一念」 (散善義) といい、 また 『往生礼讃』 に 「一声一念」 といい、 また 『観経疏』 に 「専心専念 (散善義) といわれている。
【76】*智ち昇しょう師の 『*集しゅう諸しょ経きょう礼懴らいさん儀ぎ』 におさめられている善導大師の 『往生礼讃』 にいわれている。「深心とは、 すなわち真実の信心である。 わたしはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、 善根は少なく、 迷いの世界に生れ変り死に変りしてそこから出ることができないと信知し、 いま阿弥陀仏の本願は、 名号を称えることわずか十声などのものやただ名号を聞いて信じるものに至るまで、 必ず往生させてくださると信知して、 少しも疑いの心がない、 だから深心というのである」
【77】『無量寿経』 には 「乃至」 と説かれ、 善導大師の 『観経疏』 には 「下至」 (散善義) といわれている。 乃至と下至とは、 言葉は異なるけれども、 意味は同じである。 また乃至とは一念も多念も包みいれる言葉である。 「大利」 というのは小利」 に対する言葉であり、 「無上」 とは有上に対する言葉である。 いま、 まことに知ることができた。 大利無上とは、 本願一乗の法のもつ信実の利益であり、 小利有上とは、 自力の八万四千の方便の法である。 『観経疏』 に 「専心」 (散善義) といわれたのは、 一心のことであって、 二心のないことをあらわすのである。 「専念」 といわれたのは、 一行のことであって、 二つの行を並べて修めないことをいうのである。 いま 『無量寿経』 の*弥み勒ろく付属の文に出ている 「一念」 は、 すなわち一声である。 一声はすなわち一念である。 一念はすなわち一行である。 一行はすなわち正しい行である。 正しい行はすなわち正定の業である。 正定の業はすなわち正しい念である。 正しい念はすなわち念仏である。 これはすなわち南無阿弥陀仏の名号である。
【78】そこで、 本願の大いなる慈悲の船に乗り、 念仏の衆生を摂め取る光明の大海に浮ぶと、 この上ない功徳の風が静かに吹き、 すべてのわざわいの波は転じて治まる。 すなわち、 迷いの闇を破って、 はかり知ることのできない光明の世界に速やかに至って、 仏のさとりを開き、 衆生を救うはたらきをさせていただけるのである。 よく知るがよい。
【79】『安楽集』 にいわれている。「十声の念仏とは、 釈尊が一つの数をあげられたにすぎない。 念仏を続けて、 他のことを思わなければ、 往生の業因は成就するのである。 わずらわしく念仏の数を数える必要はない。 また、 もし長い間念仏を続けている人なら、 数を数える必要はないが、 念仏を始めたばかりの人なら、 その数を数えてもよい。 これもまた聖教によりどころがある」
【80】これらの文はみな、 真実の行を顕す明らかな証である。 いま、 まことに知ることができた。 この行は、 阿弥陀仏がとくに選び取ってくださった本願の行であり、 世に超えてたぐいまれなすぐれた行であり、 すべての徳をまどかにそなえた真実の法であり、 何ものにもさまたげられない究極の大行である。 よく知るべきである。
 

 

【81】他力とは如来の本願のはたらきである。
【82】『往生論註』 にいわれている。「本願のはたらきとは、 法蔵菩薩が*平びょう等どう法身ほっしんのさとりの中において、 常に禅定にあって、 さまざまなすがたを現し、 さまざまな神通力をあらわし、 さまざまな説法をなされることをいう。 これらはみな本願のはたらきからおこったものである。 たとえば*阿あ修しゅ羅らの琴は、 弾くものがいなくても自然に調べを奏でるようなものである。 これを思いのままに衆生を教え導く*第五の功徳の相というのである。 (中略)
『浄土論』 には、 “法蔵菩薩は礼拝・讃嘆・作願・観察の四種の門において自利の行を成就されたと、 知るべきである” とある。 “成就” とは、 菩薩の自利が完成したことをいう。 “知るべきである” とは、 自利を完成することによって利他することができるのであって、 自利を完成できずに利他するのではないと知るべきである、 という意味である。
次に、 “法蔵菩薩は第五の回向門において衆生に功徳を施される利他の行を成就されたと、 知るべきである” とある。 “成就” とは、 法蔵菩薩が因位の回向門によって、 思いのままに衆生を教え導くという果をさとられたことをいう。 因も果も一つとして利他でないことはない。 “知るべきである” とは、 利他を完成することによって自利することができるのであって、 利他を完成できずに自利するのではないと知るべきである、 という意味である。
次に、 “法蔵菩薩はこのように五念門の行を修めて自利利他を完成し、 速やかに*阿あ耨のく多羅たら三さん藐みゃく三さん菩ぼ提だいの成就を得られたからである” とある。 仏の得られたさとりを阿耨多羅三藐三菩提という。 このさとりを得られたから仏というのである。 いま “速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた” といっているのは、 法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。 “阿” は無と訳し、 “耨多羅” は上と訳し、 “三藐” は正と訳し、 “三” は遍と訳し、 “菩提” は道と訳す。 まとめてこれを訳すと無上正遍道という。 “無上” とは、 この道がすべてのものの真理や本性をきわめ尽していて、 これを超えるものはいないことを意味する。 なぜそのようにいうかというと、 “正” だからである。 “正” というのはさとりの智慧である。 すべてをありのままに知るから正しい智慧という。 すべてのものの本性は定まった相がないから、 これをさとる智慧も、 *分別ふんべつを離れた智慧である。 “遍” の意味に二種がある。 一つには、 仏のさとりの心が広くすべての法を知り尽していることであり、 二つには、 さとりの身が広くすべての世界に満ちわたっていることである。 仏は身も心も行きわたらないところがないのである。 “道” とは、 無礙道である。 『華厳経』 に “すべての世界の無礙人である仏がたは、 ただ一つの道によって迷いを出られた” と説かれている。 “ただ一つの道” とは、 ただ一つの無礙の道のことである。 “無礙” とは、 迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。 このように*諸法しょほう不二ふにの相をさとることが無礙の相である。
問うていう。 どのような縁によって、 “速やかに阿耨多羅三藐三菩提の成就を得る” と、 『浄土論』 にはいわれているのか。
答えていう。 『浄土論』 には、 “法蔵菩薩が五念門の行を修めて自利利他を完成されたからである” といわれている。 そこでいま、 衆生が速やかにさとりを得ることの根本を明らかにするなら、 阿弥陀仏をそのもっともすぐれたはたらきとするのである。
他利と利他とについては、 何を語ろうとするかによって違いがある。 仏の方からいうなら、 他すなわち衆生を利益するのであるから、 利他というのがよい。 衆生の方からいうなら、 他すなわち仏が利益するのであるから、 他利というのがよい。 いまは仏のはたらきを語ろうとするのであるから利他というのである。 この意味をよく知るがよい。
そもそも、 衆生が浄土に生れることも、 浄土に生れてからさまざまなはたらきをあらわすことも、 みな阿弥陀仏の本願のはたらきによるのである。 なぜなら、 もし仏力によらないのであれば、 四十八願が設けられたのは無意味なことになるからである。 今これを示す三つの願を引いてそのわけを証明しよう。
まず第十八願に、 “わたしが仏になったとき、 あらゆる人々が、 まことの心で信じ喜び、 わたしの国に生れると思って、 たとえば十声念仏する。 もし、 わたしの国に生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい。 ただし、 五逆の罪を犯したり、 正しい法を謗るものだけは除かれる” と誓われている。 この仏の願のはたらきによるから、 たとえば十声念仏して往生することができる。 往生することができるのだからもはや迷いの世界をさまようことはない。 浄土に往生することができ、 もはやさまようことがないというのが、 速やかに仏となることができるということの第一の証あかしである。
また第十一願に、 “わたしが仏になったとき、 国の中の人々が正定聚に住して必ずさとりに至ることができないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい” と誓われている。 この仏の願のはたらきによるから、 正定聚に住する。 正定聚に住するから必ずさとりに至ることができ、 迷いの世界をさまよい苦しむことがないというのが、 速やかに仏となることができるということの第二の証である。
また第二十二願に、 “わたしが仏になったとき、 他の仏がたの国の菩薩たちが、 わたしの国に生れてくれば、 必ず菩薩の最上の位である*一いっ生しょう補ふ処しょの位に至らせよう。 各自の希望によって、 それぞれの菩薩が人々を自由自在に導くため、 かたい決意に身を包んで、 多くの功徳を積み、 すべてのものを救い、 さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、 すべての仏がたを供養し、 数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることも自由にできる。 すなわち、 通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、 大いなる慈悲の行を実践できる。 そうでなければ、 わたしは決してさとりを開くまい” と誓われている。 この仏の願のはたらきによるから、 通常に超えすぐれて、 菩薩の徳をすべてそなえ、 人々を救うはたらきをすることができる。 通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、 菩薩の徳をすべてそなえるというのが、 速やかに仏となることができるということの第三の証である。
これらのことから、 他力すなわち仏のはたらきということを考えてみると、 他力は人々が速やかにさとりを得るためのもっともすぐれたはたらきなのである。 それはもはや否定できないことである。
さらに例をあげて、 自力と他力のありさまを示そう。 人が、 地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることを恐れるから戒律をたもち、 戒律をたもつから禅定を修めることができ、 禅定を修めるから神通力を習得し、 神通力を得るからあらゆる世界へ自由自在に行くことができるようになる。 このようなことを自力という。 また、 力のないものがロバに乗っても空へのぼることはできないが、 転輪聖王にしたがって行けば、 空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。 このようなことを他力というのである。
自力にとらわれるのは何と愚かなことであろう。 後の世に道を学ぶものよ、 すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、 信心をおこすべきである。 決して自力にこだわってはならない」
【83】元照律師が 『観経義疏』 にいっている。「この世界で煩悩を断ち切ってさとりを開くには自力を用いる。 そのことは、 大乗や小乗の多くの経典の中に説かれている。 また、 浄土に往って法を聞き、 さとりを開くには他力にまかせるべきである。 このため、 往生浄土の法が説かれている。 自力の法門と他力の法門との違いはあっても、 どちらも、 わたしたちにさとりを開かせるための如来の巧みな手だてである」
【84】「一乗海」 というのは、 「一乗」 とは大乗であり、 大乗とはこの上ない仏のさとりを得る教えである。 一乗の法を得るものはこの上ないさとりを得るのである。 この上ないさとりとは涅槃の境地であり、 涅槃の境地とは*法ほっ性しょう法身ほっしんそのものである。 法性法身を得るとは一乗の法をきわめ尽すことである。 これより他には如来もなく法身もない。 如来はすなわち法身である。 一乗の法をきわめ尽すとは、 空間と時間を超えたさとりを得ることである。 大乗には*二に乗じょう・三さん乗じょうの教えはない。 二乗・三乗の教えは、 一乗の教えに入らせるために説かれたものである。 一乗の教えは最上の教えである。 それは如来の本願のはたらきにより、 あらゆるものに仏のさとりを開かせるただ一つの教えにほかならない。
【85】『*涅ね槃はん経ぎょう』 に説かれている。「善良なものよ、 真実の教えを大乗という。 大乗でないものは真実の教えとはいわない。 善良なものよ、 真実の教えとは仏の説かれたもので、 悪魔の説いたものではない。 悪魔の説いたものは、 これは仏の説かれたものではないから、 真実の教えとはいわないのである。 善良なものよ、 真実の教えは、 清らかなただ一つの道であり、 二つあることはない」
【86】また次のように説かれている (涅槃経)。「どうして、 菩薩は一乗の法に信順するのか。 菩薩は、 仏がすべての衆生を導いて、 みなその一道に入らせることを、 明らかに知っている。 一道とは大乗の教えである。 仏や菩薩たちは、 さまざまな衆生のために、 仮に、 声聞の教え・縁覚の教え・菩薩の教えと、 三乗に分けて説かれているのである。 だから、 菩薩は一乗の法に信順するのである」
【87】また次のように説かれている (涅槃経)。「善良なものよ、 畢竟に二種がある。 一つには荘厳畢竟、 もう一つは究竟畢竟である。 これをそれぞれ世間畢竟とも出世畢竟ともいう。 荘厳畢竟とは六波羅蜜の行であり、 究竟畢竟とはすべての衆生が得る一乗の道である。 この一乗の道を仏性という。 このようなわけで、 わたしは “すべての衆生にことごとく仏性がある” と説くのである。 すべての衆生は、 ことごとく一乗の道を得ることができる。 ただ煩悩におおわれているから、 これを見ることができないのである」
【88】また次のように説かれている (涅槃経)。「なぜ一とするのか。 すべての衆生が、 ことごとく一乗の道を得るからである。 なぜ非一とするのか。 仮に三乗に分けて説かれるからである。 なぜ一でもなく非一でもないとするのか。 一乗の道は数で限定することのできないものだからである」
【89】『華厳経』 に説かれている。「*文殊もんじゅの法は本来不変である。 法の王とはただ一つの法のことである。 すべての仏がたは、 この一道によって迷いを出られた。 だからすべての仏がたの法身は、 ただ一つの法身である。 一つの心であり、 一つの智慧である。 力も徳も同様である」
【90】だから、 これらのさとりはみな、 浄土で得られる大いなる利益であり、 本願によって得られるはかり知ることのできない功徳である。 
【91】「海」 というのは、 はかり知れない昔からこれまで、 凡夫や聖者の修めたさまざまな自力の善や、 五逆・*謗法ほうぼう・*一闡いっせん提だいなどの限りない煩悩の水が転じられて、 本願の慈悲と智慧との限りない功徳の海水となることである。 これを海のようであるとたとえる。 これによってまことに知ることができた。 経に 「煩悩の氷が解けて功徳の水となる」 と説かれている通りである。
本願の海は声聞や縁覚の自力の善の死骸を宿さない。 まして、 神々や人々のよこしまないつわりの善や煩悩の毒のまじった自力の心の死骸などを宿すはずがあろうか。
【92】だから 『無量寿経』 に説かれている。「声聞や菩薩でさえも、 仏の心を知りきわめることはできない。 ※まるで生れながらに目の見えない人が、 人を導こうとするようなものである。 如来の智慧の大海は、 とても深く広く果てしなく、 声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。 ただ仏だけが知っておいでになる」
【93】『往生論註』 にいわれている。「“*不ふ虚作こさ住じゅう持じ功く徳どく成じょう就じゅとは何か。 願生偈に、 «阿弥陀仏の本願のはたらきに遇ったものは、 いたずらに迷いの生死を繰り返すことはなく、 仏は速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださる» という” と 『浄土論』 に述べられている。
“不虚作住持功徳成就” とは、 つまり阿弥陀仏の本願のはたらきのことである。 いま、 少しばかりこの世のことがいつわりであてにならないことを示して、 本願のはたらきがいつわりでなく変らないこと、 すなわち不虚作住持ということについて明らかにしよう。 (中略) 本願のはたらきがいつわりでなく変らないのは、 因位の法蔵菩薩の四十八願と、 果位の阿弥陀仏の自由自在で不可思議な力とにもとづくのである。 願は力を成り立たせ、 力は願にもとづいている。 願は無駄に終ることはなく、 力は目的なく空転することがない。 果位の力と因位の願とが合致して、 少しも食い違いがないから成就というのである」
【94】また次のようにいわれている (往生論註)。「“海” というのは、 すべてを知り尽しておいでになる仏の智慧が、 深く広く果てしなく、 声聞や縁覚の自力の善の死骸を宿さないことを、 海のようであるとたとえるのである。 だから 『浄土論』 に、 “浄土に往生する不動の人々は、 如来の清らかな智慧の海から生れる” と述べられている。 “不動” とは、 浄土に往生する人々が大乗の資質を成就しており、 決して揺り動かされないという意味である」
【95】善導大師が 『観経疏』 にいわれている (玄義分)。「わたしは速やかにさとりを開く大乗の教えである一乗海による」
【96】また 『般舟讃』 にいわれている。「『*菩ぼ薩さつ瓔珞ようらく経きょう』 の中には長い時を費やさなければならない教えが説かれている。 それは、 一万劫の間修行して不退転の位に至ることができるのである。 『観無量寿経』 や 『阿弥陀経』 などに説かれている教えは、 速やかに仏のさとりを開くことができる教えである」
【97】*宗暁しゅうぎょうが 『楽邦文類』 にいっている。「*還丹かんたんという薬はたった一粒で鉄を金に変える。 真実の道理である如来の名号は、 悪い行いの罪を転じて善い行いの功徳とする」
【98】ところで、 教えについて念仏と諸善とを比較して論じると、 次のようである。1念仏は行じやすく、 諸善は行じがたい (難易対)。 2念仏は速やかにさとりを開き、 諸善は長い時を費やしてさとりを開く (頓漸対)。 3念仏はただちに迷いを離れ、 諸善は次第に迷いを出る (横竪対)。 4念仏は迷いを飛び越え、 諸善は歩いて渡るかのようである (超渉対)。 5念仏は本願に順じ、 諸善はこれに背く (順逆対)。 6念仏は功徳が大きく、 諸善は小さい (大小対)。 7念仏は功徳が多く、 諸善は少ない (多少対)。 8念仏はすぐれた法であり、 諸善は劣った法である (勝劣対)。 9念仏は阿弥陀仏に親しく、 諸善は阿弥陀仏に疎遠である (親疎対)。 10念仏は阿弥陀仏に近く、 諸善は阿弥陀仏に遠い (近遠対)。 11念仏は深い法であり、 諸善は浅い法である (深浅対)。 12念仏は強い法であり、 諸善は弱い法である (強弱対)。 13念仏は重い法であり、 諸善は軽い法である (重軽対)。 14念仏は利益するところが広く、 諸善は狭い (広狭対)。 15念仏は純一な往生の行であり、 諸善は他にも通じる行である (純雑対)。 16念仏はさとりを得る近道であり、 諸善はまわり道である (径迂対)。 17念仏ははやくさとりに至る法であり、 諸善はおそい法である (捷遅対)。 18念仏は特別の法であり、 諸善は普通の法である (通別対)。 19念仏は不退転の法であり、 諸善は退転の法である (不退退対)。 20念仏はまさしく往生の行として説かれ、 諸善はこれに添えて明かされた法である (直弁因明対)。 21念仏は他力回向の名号に即した行であり、 諸善は自力の*定じょう善ぜん・*散善の行である (名号定散対)。 22念仏は道理を尽しており、 諸善はそうではない (理尽非理尽対)。 23念仏は仏がたが勧めておられ、 諸善は勧めておられない (勧無勧対)。 24念仏は間断のない法であり、 諸善には間断がある (無間間対)。 25念仏は断絶せず、 諸善は断絶する (断不断対)。 26念仏は相続し、 諸善は相続しない (相続不続対)。 27念仏の利益には限りがなく、 諸善の利益には限りがある (无上有上対)。 28念仏はもっともすぐれた法であり、 諸善はそうではない (上上下下対)。 29念仏は衆生の思いが及ばない尊い法であり、 諸善はそうではない (思不思議対)。 30念仏は阿弥陀仏の果位の徳が収まり、 諸善はまだ仏になっていないものの行である (因行果徳対)。 31念仏は仏が自ら説かれた往生の法であり、 諸善は衆生に応じて説かれた法である (自説他説対)。 32念仏は仏から回向された法であり、 諸善は衆生が回向する法である (回不回向対)。 33念仏は仏に護られる法であり、 諸善はそうではない (護不護対)。 34念仏は仏がたが証明され、 諸善はそうではない (証不証対)。 35念仏は仏がたにほめたたえられ、 諸善はそうではない (讃不讃対)。 36念仏は後の世に伝えよと託された法であり、 諸善はそうではない (付嘱不嘱対)。 37念仏は仏の真意が完全に説き明かされた教えであり、 諸善はそうではない (了不了教対)。 38念仏は衆生にふさわしい法であり、 諸善はそうではない (機堪不堪対)。 39念仏は弥陀が選び取られた法であり、 諸善はそうではない (選不選対)。 40念仏は真実の法であり、 諸善は方便の法である (真仮対)。 41※念仏は浄土で不滅の仏を見、 諸善は*入にゅう滅めつする仏を見る (仏滅不滅対)。 42念仏は*法滅ほうめつの時代にも利益があり、 諸善は利益がない (法滅利不利対)。 43念仏は他力の行であり、 諸善は自力の行である (自力他力対)。 44念仏は本願の行であり、 諸善は本願の行ではない (有願無願対)。 45念仏は阿弥陀仏に摂め取られ、 諸善はそうではない (摂不摂対)。 46念仏は正定聚に入る法であり、 諸善はそうではない (入定聚不入対)。 47念仏は真実報土に生れる法であり、 諸善は*化土けどにとどまる法である (報化対)。
教えについて、 念仏と諸善とは、 このように比較することができる。 以上のようなことから、 *本願ほんがん一いち乗じょう海かいである念仏の教えを考えてみると、 その教えは、 すべての功徳が満足し、 何ものにもさまたげられず速やかに利益を与えてくださる、 絶対不二のものである。
【99】また、 行を修めるものについて比較して論じると、 次のようである。1念仏の人は仏の智慧を信じ、 諸善の人はこれを疑う (信疑対)。 2念仏の人は本願を信じるから善であり、 諸善の人はこれを疑うから悪である (善悪対)。 3念仏の人は本願を信じるから正であり、 諸善の人はこれを疑うから邪である (正邪対)。 4念仏の人は本願を信じるから是であり、 諸善の人はこれを疑うから非である (是非対)。 5念仏の人は他力の真実を得、 諸善の人は自力の*虚仮こけである (実虚対)。 6念仏の人は他力の真実を得、 諸善の人は自力の邪偽である (真偽対)。 7念仏の人は他力清浄の法を得、 諸善の人は自力雑穢である (浄穢対)。 8念仏の人は仏の智慧を信じるから智慧がすぐれ、 諸善の人はこれを疑うから智慧が劣る (利鈍対)。 9念仏の人は速やかにさとりに至り、 諸善の人はおそい (奢促対)。 10念仏の人は名号の徳を得るから豊かであり、 諸善の人はこれを失っているから貧しい (豪賎対)。 11念仏の人は仏の光明に照らされているから明るく、 諸善の人はこれをさえぎっているから暗い (明闇対)。
行を修めるものについて、 念仏と諸善とは、 このように比較することができる。 以上のようなことから、 本願一乗海である念仏の行を修めるものを考えてみると、 そのものは、 *金剛こんごうの信心を得た絶対不二のものである。 よく知るがよい。
【100】つつしんで、 往生を願うすべての人々に申しあげる。 本願一乗海は、 さまたげるものもなく果てしなく、 もっともすぐれて奥深く、 説き尽すことも、 たたえ尽すことも、 思いはかることもできない徳を成就されている。 なぜかといえば、 誓願が不可思議だからである。
1本願は、 たとえば大空のようである、 そのさまざまな尊い功徳は果てしなく広大であるから。 2また大きな車のようである、 あらゆる凡夫や聖者を乗せてさとりに至らせるから。 3また美しい蓮の花のようである、 世間の何ものにも汚されないから。 4また薬の中の王である*善見ぜんけんのようである、 すべての煩悩の病を退治するから。 5また鋭い剣のようである、 あらゆるおごり高ぶりの鎧を断ち切るから。 6また*帝たい釈しゃく天てんの軍旗のようである、 すべての悪魔の軍勢を降伏させるから。 7また鋭い鋸のようである、 すべての無明の樹を断ち切るから。 8また鋭い斧のようである、 あらゆる苦しみの枝を切るから。 9また善知識のようである、 すべての迷いの束縛を解くから。 10また導師のようである、 凡夫に迷いを出る道を巧みに知らせるから。 11また湧き出る泉のようである、 智慧の水を出し続けて尽きることがないから。 12また蓮の花のようである、 すべての罪の垢に染まらないから。 13また疾風のようである、 あらゆるさわりの霧を吹き払うから。 14また良質な蜜のようである、 すべての功徳の味わいが欠けることなくそなわっているから。 15また正しい道のようである、 あらゆる人々をさとりの都に入らせるから。 16また磁石のようである、 煩悩にまみれた衆生を引き寄せるから。 17また*閻えん浮ぶ檀だん金ごんのようである、 その輝きはすべての世間の善の光を奪うから。 18また蔵のようである、 すべての仏がたの法をおさめているから。 19また大地のようである、 過去・現在・未来のすべての世界の如来はみなこれより生じるから。 20また太陽の光のようである、 すべての凡夫の愚痴の闇を破って信心をおこさせるから。 21また王のようである、 すべての仏がたに超えすぐれているから。 22またきびしい父のようである、 すべての凡夫や聖者を教え導くから。 23また哀れみ深い母のようである、 すべての凡夫や聖者が浄土に生れるまことの因を育むから。 24また乳母のようである、 善人も悪人も往生を願う人をみな護り育てるから。 25また大地のようである、 すべての人の往生をささえているから。 26また洪水のようである、 すべての煩悩の垢を洗い流すから。 27また大火のようである、 あらゆる*邪見じゃけんの薪を焼き尽くすから。 28また激しい風のようである、 広く世間に行きわたりさまたげられることがないから。
この本願は、 迷いの城につなぎとめられている衆生を救い出し、 すべての迷いの門を閉じる。 真実報土に往生させ、 よこしまな道と正しい道の区別を明らかにする。 愚痴の海を干あがらせ、 本願の海に入らせる。 浄土に往生したなら、 さとりの船に乗じて迷いの海に浮び、 *福ふく智ち蔵ぞうと呼ばれる真実の法を説き、 あるいは*方便ほうべん蔵ぞうと呼ばれる方便の法を説いて衆生を導くはたらきをさせてくださる。 まことにこの本願名号の法を信じたてまつるべきであり、 つつしんでいただくべきである。
 

 

【101】そもそも誓願の内容には、 真実の行信があり、 また方便の行信がある。 その真実の行を誓われた願は、 諸仏称名の願 (第十七願) である。 その真実の信を誓われた願は、 至心信楽の願 (第十八願) である。 これがすなわち選択本願の行信である。 その救いの対象は、 善人や悪人、 大乗や清浄の教えに遇うもの、 これらすべての凡夫である。 その往生は、 *難なん思議じぎ往おう生じょうである。 その仏と国土は、 *報仏ほうぶつ・*報ほう土どである。 これがすなわち、 衆生のはからいを超え、 真如にかなった、 唯一真実の*本願ほんがん海かいであって、 『無量寿経』 に説かれた法のかなめであり、 他力*真しん宗しゅうの教えの本意である。
ここに、 仏の恩を知り、 その徳に報いるために曇鸞大師の 『往生論註』 をひらいてみると、 「菩薩は仏にしたがう。 それはちょうど、 親孝行な子供が父母にしたがい、 忠義な家来が君主にしたがって、 自分勝手な振舞いをせず、 その行いが、 必ず父母や君主の意向によるようなものである。 仏の恩を知ってその徳に報いるのであるから、 何ごともまず仏に申しあげるのは当然である。 また衆生救済の願いは、 軽々しいことではない。 如来の尊い力がなければ、 どうしてこれを達成することができよう。 そこで、 如来がそのお力をお加えくださることを乞うのである。 このようなわけで天親菩薩は仰いで世尊に告げられるのである」 といわれている。
そこで、 釈尊のまことの教えにしたがい、 また※浄土の祖師方の書かれたものを拝読して、 仏の恩の深いことを信じ喜んで、 次のように 「正信念仏偈」 をつくった。
【102】限りない命の如来に帰命し、 思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる。法蔵菩薩の因位のときに、 世自在王仏のみもとで、仏がたの浄土の成り立ちや、 その国土や人間や神々の善し悪しをご覧になって、この上なくすぐれた願をおたてになり、 世にもまれな大いなる誓いをおこされた。五劫もの長い間思惟してこの誓願を選び取り、 名号をすべての世界に聞えさせようと重ねて誓われたのである。本願を成就された仏は、 *無む量りょう光こう・無む辺へん光こう・無礙むげ光こう・無む対たい光こう・炎王えんのう光こう・清浄しょうじょう光こう・歓かん喜ぎ光こう・智慧ちえ光こう・不ふ断だん光こう・難なん思じ光こう・無む称しょう光こう・超ちょう日月にちがっ光こうとたたえられる光明を放って、 広くすべての国々を照らし、 すべての衆生はその光明に照らされる。
※本願成就の名号は衆生が間違いなく往生するための行であり、 至心信楽の願 (第十八願) に誓われている信を往生の正因とする。
正定聚の位につき、 浄土に往生してさとりを開くことができるのは、 必至滅度の願 (第十一願) が成就されたことによる。如来が世に出られるのは、 ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。五濁の世の人々は、 釈尊のまことの教えを信じるがよい。信をおこして、 阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、 自ら煩悩を断ち切らないまま、 ※浄土でさとりを得ることができる。凡夫も聖者も、 五逆のものも謗法のものも、 みな本願海に入れば、 どの川の水も海に入ると一つの味になるように、 等しく救われる。阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂め取ってお護りくださる。 すでに無明の闇ははれても、貪りや怒りの雲や霧は、 いつもまことの信心の空をおおっている。しかし、 たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、 その下は明るくて闇がないのと同じである。信を得て大いによろこび敬う人は、 ただちに*本願ほんがん力りきによって迷いの世界のきずなが断ち切られる。
善人も悪人も、 どのような凡夫であっても、 阿弥陀仏の本願を信じれば、仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ、 汚れのない白い蓮の花のような人とおほめになる。阿弥陀仏の本願念仏の法は、 よこしまな考えを持ち、 おごり高ぶる自力のものが、信じることは実に難しい。 難の中の難であり、 これ以上に難しいことはない。インドの菩薩方や中国と日本の高僧方が、釈尊が世に出られた本意をあらわし、 阿弥陀仏の本願はわたしたちのためにたてられたことを明らかにされた。釈尊は*楞りょう伽が山せんで大衆に、 「南インドに龍樹菩薩が現れて、 *有無うむの邪見じゃけんをすべて打ち破り、尊い大乗の法を説き、 歓喜地の位に至って、 阿弥陀仏の浄土に往生するだろう」 と仰せになった。龍樹菩薩は、 難行道は苦しい陸路のようであると示し、 易行道は楽しい船旅のようであるとお勧めになる。
「阿弥陀仏の本願を信じれば、 おのずからただちに正定聚に入る。ただ常に阿弥陀仏の名号を称え、 本願の大いなる慈悲の願に報いるがよい」 と述べられた。天親菩薩は、 『浄土論』 を著して、 「無礙光如来に帰依したてまつる」 と述べられた。浄土の経典にもとづいて阿弥陀仏のまことをあらわされ、 *横おう超ちょうのすぐれた誓願を広くお示しになり、本願力の回向によってすべてのものを救うために、 一心すなわち他力の信心の徳を明らかにされた。「本願の名号に帰し、 大いなる功徳の海に入れば、 浄土に往生する身と定まる。阿弥陀仏の浄土に往生すれば、 ただちに真如をさとった身となり、さらに迷いの世界に還り、 神通力をあらわして自在に衆生を救うことができる」 と述べられた。曇鸞大師は、 *梁りょうの武ぶ帝ていが常に菩薩と仰がれた方である。*菩ぼ提だい流支るし*三蔵さんぞうから浄土の経典を授けられたので、 *仙せん経ぎょうを焼き捨てて浄土の教えに帰依された。天親菩薩の 『浄土論』 を註釈して、 浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし、往相も還相も他力の回向であると示された。 「浄土へ往生するための因は、 ただ信心一つである。煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら、 仏のさとりを開くことができる。はかり知れない光明の浄土に至ると、 あらゆる迷いの衆生を導くことができる」 と述べられた。
*道どう綽しゃく禅ぜん師じは、 聖道門の教えによってさとるのは難しく、 浄土門の教えによってのみさとりに至ることができることを明らかにされた。自力の行はいくら修めても劣っているとして、 ひとすじにあらゆる功徳をそなえた名号を称えることをお勧めになる。*三信さんしんと三不信の教えを懇切に示し、 *正しょう法ぼう・*像法ぞうぼう・末法・法滅、 いつの時代においても、 本願念仏の法は変らず人々を救い続けることを明かされる。「たとえ生涯悪をつくり続けても、 阿弥陀仏の本願を信じれば、 浄土に往生しこの上ないさとりを開く」 と述べられた。善導大師はただ独り、 これまでの誤った説を正して仏の教えの真意を明らかにされた。 善悪のすべての人を哀れんで、光明と名号が縁となり因となってお救いくださると示された。 「本願の大いなる智慧の海に入れば、行者は他力の信を回向され、 如来の本願にかなうことができたそのときに、*韋い提だい希けと同じく*喜き忍にん・悟ご忍にん・信忍しんにんの三忍を得て、 浄土に往生してただちにさとりを開く」 と述べられた。源信和尚は、釈尊の説かれた教えを広く学ばれて、 ひとえに浄土を願い、 また世のすべての人々にもお勧めになった。さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く、 化土にしか往生できないが、 念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、 報土に往生できると明らかに示された。「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。 わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、 見たてまつることができない。 しかしながら、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、 そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」 と述べられた。源空上人は、 深く仏の教えをきわめられ、 善人も悪人もすべての凡夫を哀れんで、この国に往生浄土の真実の教えを開いて明らかにされ、 選択本願の法を五濁の世にお広めになった。
「迷いの世界に*輪りん廻ねし続けるのは、 本願を疑いはからうからである。速やかにさとりの世界に入るには、 ただ本願を信じるより他はない」 と述べられた。浄土の教えを広めてくださった祖師方は、 数限りない五濁の世の衆生をみなお導きになる。出家のものも在家のものも今の世の人々はみなともに、 ただこの高僧方の教えを仰いで信じるがよい。 以上、 六十行百二十句の偈を終る。  
 

 

 
 
顕浄土真実信文類 序

 

さて、 考えてみると、 *他た力りきの信心を得ることは、 阿弥陀仏が*本願ほんがんを選び取られた慈悲の心からおこるのである。 ※その真実の信心を広く明らかにすることは、 釈尊が*衆しゅ生じょうを哀れむ心からおこされたすぐれたお導きによって説き明かされたのである。
ところが、 *末法まっぽうの世の出家のものや在家のもの、 また近頃の各宗の人々の中には、 自らの心をみがいてさとりを開くという*聖しょう道どう門もんの教えにとらわれて、 *西方さいほう浄じょう土どの往生を願うことをけなし、 また*定じょう善ぜん・*散善さんぜんを修める*自じ力りきの心にとらわれて、 他力の信を誤るものがある。
ここに愚禿釈の親鸞は、 仏がたや釈尊の真実の教えにしたがい、 祖師方の示された宗義をひらきみる。 広く*三さん経ぎょうの輝かしい恩恵を受けて、 とくに、一心をあらわされた 『浄土論』 のご文をひらく。 ひとまず疑問を設け、 最後にそれを証された文を示そう。 心から仏の恩の深いことを思い、 人々のあざけりも恥じようとは思わない。 浄土を願うともがらよ、 *娑しゃ婆ば世界を厭う人々よ、 たとえこれに取捨を加えることがあっても、 真実の法を示されたこれらの文を謗るようなことがあってはならない。  
 
顕浄土真実信文類 三

 

至心信楽の願 正定聚の機
愚禿釈親鸞集
【1】 つつしんで、 往相の回向をうかがうと、 この中に大信がある。 大信心は、 1生死を超えた命を得る不思議な法であり、 2浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、 3阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、 4他力より与えられる深く広い信心であり、 5*金剛こんごうのように堅固で破壊されることのない真実の心であり、 6それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、 7如来の光明におさめられて護られる一心であり、 8たぐいまれなすぐれた大信であり、 9世間一般の考えでは信じがたい近道であり、 10この上ないさとりを開く真実の因であり、 11たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、 12この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。
この信心は念仏往生の願 (第十八願) に誓われている。 この大いなる願を選択本願と名づけ、 また本願三心の願と名づけ、 また至心信楽の願と名づける。 また往相信心の願とも名づけることができる。
ところで、 常に迷いの海に沈んでいる*凡ぼん夫ぶ、 迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、 この上もないさとりを開くことが難しいのではなく、 そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。 なぜなら、 信心を得るのは、 如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、 如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。 たまたま、 清らかな信心を得たなら、 この信心は*真如しんにょにかなったものであり、 またいつわりを離れている。 そこで、 きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も、 大きな喜びの心を得て、 仏がたはこのものをいとおしみ、 お護りくださるのである。
【2】 至心信楽の本願 (第十八願) の文は、 『無量寿経』 に次のように説かれている。「わたしが仏になったとき、 あらゆる人々が、 まことの心で (至心) 信じ喜び (信楽)、 わたしの国に生れると思って (欲生)、 たとえば十声念仏して (乃至十念)、 もし生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい。 ただし、 *五ご逆ぎゃくの罪を犯したり、 正しい法を謗そしるものだけは除かれる」
【3】 『如来会』 に説かれている。「わたしが無上のさとりを得たとき、 他方の国の人々がわたしの*名みょう号ごうのいわれを聞いて、 あらゆる*善根ぜんごんを※まことの心より与え施されて、 わたしの国に生れようと願い、 たとえば十声念仏して、 もし生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい。 ただし、 *無む間けん地じ獄ごくに堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、 正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる」
【4】 本願 (第十八願) 成就文は、 『無量寿経』 に次のように説かれている。「すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、 その信は阿弥陀仏がまことの心 (至心) をもってお与えになったものであるから、 浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、 *不ふ退転たいてんの位に至るのである。 ただし、 五逆の罪を犯したり、 正しい法を謗るものだけは除かれる」
【5】 『如来会』 に説かれている。「他方の国のすべての人々が、 無量寿如来の名号のいわれを聞き、 たちどころに浄らかな信をおこして歓喜し、 あらゆる功徳をおさめた名号を与えられたことを喜んで、 無量寿如来の国に生れようと願うなら、 願いどおりにみな往生し、 不退転の位を得て、 この上ないさとりを開くことができる。 ただし、 無間地獄に堕ちる五逆の罪を犯したり、 正しい法および聖者を謗るものは除かれる」
【6】 また 『無量寿経』 に説かれている。「教えを聞いてよく心にとどめ、 仏を仰いで信じよろこぶものこそわたしのまことの善き友である。 だから信心をおこすがよい」
【7】 また 『如来会』 に説かれている。「このように信を得た人々は、 すぐれた徳をそなえたものであり、 広大なさとりが得られる無量寿仏の浄土に往生することができる」
【8】 また次のように説かれている (如来会)。 「如来の功徳は仏だけが知ることのできるものである。 したがって仏だけが説き示すことができるのであり、 神々・竜・*夜や叉しゃなどにはとても力が及ばない。 *声しょう聞もんや菩薩も言葉を失ってしまう。 たとえば多くの人々が仏となり、 その行は*普ふ賢げん菩ぼ薩さつに超えてすぐれたものであり、 さとりの世界をきわめ尽して、 無量寿仏の功徳を説き述べるとしよう。 それでも、 考えられないほどの長い時間を必要とする。 その仏の全生涯をかけて説いても、 なお無量寿仏のすぐれた智慧は、 はかり知ることができないのである。 だから、 信を恵まれることと、 本願のいわれを聞くことと、 *善ぜん知ぢ識しきの導きに遇うこととがすべてととのって、 このような深くすぐれた阿弥陀仏の法を聞くことができたなら、 仏がたはそのものをいとおしんで護ってくださるのである。 如来のすぐれた智慧は大空のすみずみにまで行きわたり、 その智慧を説かれた教えの内容は仏だけがさとられるものである。 だから広く浄土の法を聞いて、 わたしの教え、 真実の言葉を信じるがよい。 人の身を得ることははなはだ難しく、 仏が世に出られるのに遇うこともまた難しい。 多くの生死を重ねてきたが、 今ようやく信心の智慧を得ることができる。 だから道を修めるものは努め励むがよい。 このような法を聞くことができたなら、 常に仏がたがお喜びになるのである」
【9】 『往生論註』 にいわれている。「『浄土論』 に “この如来の名号を称えて、 如来の光明という智慧の相にかない、 また、 名号のいわれにかなって、 *如実にょじつに行を修め、 本願に相応しようとするからである” と述べられている。 “この如来の名号を称えて” とは、 *無礙むげ光こう如来にょらいの名号を称えることである。 “如来の光明という智慧の相にかない” とは、 仏の光明は智慧のあらわれであり、 この光明がすべての世界を照らして、 何ものにもさまたげられず、 あらゆる人々の*無む明みょうの闇を除いてくださるのであって、 太陽・月や珠の光がほら穴の闇を破るようなことと同じではないということである。 “名号のいわれにかなって、 如実に行を修め、 本願に相応しようとする” とは、 無礙光如来の名号は、 衆生のすべての無明の闇を破り、 衆生のすべての願いを満たしてくださることをいうのである。
ところが、 口に名号を称え、 心に念じながらも、 なお無明があって、 願いが満たされないのはどういうわけかといえば、 それは、 如実に行を修めず、 名号のいわれに相応しないからである。 如実に行を修めず、 名号のいわれに相応しないのはどういうことであろうか。 それは、 如来が*真如しんにょ実相じっそうをさとられた*自利じり成就の仏であるとともに、 そのままが衆生をお救いくださる*利他りた成就の仏であることを知らないことをいうのである。 また三種の不相応がある。 なぜ相応しないのかというと、 一つには、 信心が淳あつく (淳じゅんの字は、 あつく飾り気のないこと。 諄じゅんの字は、 至極ということであり、 またまごころのこもった懇切なありさまであって、 淳の字と同じである) なく、 あるようなないような信であるからである。 二つには、 信心が一つでなく、 信が決定しないからである。 三つには、 信心が相続せず、 疑いの心がまじるからである。 この三つは互いに関連しあっている。 信心が淳くないから決定の信がない。 決定の信がないから信心が相続しない。 また、 信心が相続しないから決定の信が得られない。 決定の信が得られないから信心が淳くないのである。 そして、 これらのあり方と異なっていることを “如実に行を修め本願に相応する” というのである。
こういうわけで、 天親菩薩は 『浄土論』 のはじめに “わたしは一心に” といわれたのである」
【10】曇鸞大師の 『讃阿弥陀仏偈』 にいわれている。「すべての人が、 阿弥陀仏の功徳の名号を聞いて、 信心を得てよろこび、 またその名号のいわれを聞いてよろこぶ、 その*信しんの一念いちねんまでも、 如来が与えてくださるのである。 浄土を願えばみな往生することができる。 ただし、 五逆と正しい法を謗る者は除かれる。 だからわたしは如来をうやうやしく礼拝し往生を願う」
【11】善導大師の 『観経疏』 にいわれている (定善義)。「“如意” には二つの意味がある。 一つには衆生の意のままにという意味で、 その心にしたがってみなお救いになる。 二つには阿弥陀仏の意のままにという意味で、 *五ご眼げんをもってまどかに照らし出され、 六つの*神通じんずう力りきを自在に用いられて、 済うべき人をご覧になり、 ただちに、 身も心も同時に等しく衆生のところへおもむき、 身・口・意の*三業さんごうをもって迷いを打ち砕き、 それぞれの利益を与えられる」
【12】また次のようにいわれている (序分義)。「この*五ご濁じょくの世に生れ、 生老病死の苦しみや*愛別あいべつ離苦りくなどの苦しみにさいなまれるのは、 あらゆる迷いの世界に通じることであり、 これらの苦しみを受けないものはいない。 すべてのものは常にその苦しみに直面して悩まされているのである。 もし、 この苦しみを受けないものがいるなら、 そのものは凡夫ではないのである」
【13】また次のようにいわれている (散善義)。「『観無量寿教』 の “何等をか三と為す” から “必ず彼の国に生ず” までは、 三心とは何かということを説き、 その三心が浄土に往生する正しい因であると明かされたものである。 そこには二つのことが示されている。 一つには、 *世せ尊そんは衆生の能力・素質に応じて利益を与えられるのであるが、 仏のおこころは奥深く、 うかがい知ることができない。 そこで、 仏が自ら問いを設けて明らかにしてくださらなかったなら、 他のものには理解することができないということを明かされる。 二つには、 世尊が自ら、 その三心とは何かという問いに対して、 その一つ一つをあげてお答えになったことを明かされるのである。
経に “一つには至誠心” と説かれている。 “至” とは真であり、 “誠” とは実である。 すべての人々が身・口・意の三業をもって修める行は、 必ず、 如来が真実心のうちに成就されたものを用いることを明らかにしたいという思召おぼしめしである。 うわべだけ賢者や善人らしく励む姿を現してはならない。 心のうちにはいつわりをいだいて、 貪り・怒り・よこしま・いつわり・欺きの心が絶えずおこって、 悪い本性は変らないのであり、 それはあたかも蛇や蝎さそりのようである。 身・口・意の三業に行を修めても、 それは毒のまじった善といい、 また、 いつわりの行というもので、 決して真実の行とはいえないのである。 もし、 このように自力の心で、 行を修めようとするのであれば、 たとえ身を苦しめ心を砕いて、 昼夜を問うことなく、 ちょうど頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、 それはすべて毒のまじった善というのである。 この毒のまじった行を因として、 阿弥陀仏の浄土に生れようと求めても、 決して生れることはできない。 なぜかというと、 まさしく、 阿弥陀仏が*因いん位ににおいて、 菩薩の行を修められたときには、 わずか一念一*刹せつ那なの間であっても、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 真実の心においてなされたことに由よる (如来を経て、 如来の行を行じて、 如来によりしたがって、 如来のまことを用いて、 ということである) からである。 すべて、 このように如来が真実の心において修められた功徳を衆生に施してくださるのであり、 それをいただいて浄土に生れようと願うのであれば、 またすべてみな真実なのである。
また真実に二種がある。 一つには自力の真実、 二つには他力の真実である。 (中略) 衆生がおこなう不善の三業すなわち自力の善は、 如来が因位のとき、 真実の心において捨てられたのであり、 その通りに捨てさせていただくのである。 また善の三業は、 必ず如来が真実の心において成就されたものをいただくのである。 聖者も凡夫も、 智慧ある人も愚かな人も、 みな如来の真実をいただくのであるから、 至誠心というのである。
“二つには深心” と説かれている。 深心というのは、 すなわち深く信じる心である。 これにまた二種がある。 一つには、 わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、 はかり知れない昔からいつも迷い続けて、 これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、 ゆるぎなく深く信じる。 二つには、 阿弥陀仏の*四し十じゅう八はち願がんは衆生を摂め取ってお救いくださると、 疑いなくためらうことなく、 阿弥陀仏の願力におまかせして、 間違いなく往生すると、 ゆるぎなく深く信じる。
また、 釈尊は 『観無量寿経』 に、 世福・戒福・行福の*三福さんぷく、 浄土を願うもののそれぞれの資質、 定禅・散善についてお説きになり、 浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、 人々に浄土を求めさせておられるのであると、 疑いなく深く信じる。
また、 『阿弥陀経』 に、 あらゆる世界の数限りない仏がたが、 すべての凡夫が間違いなく往生できることを証明して勧めておられると、 疑いなく深く信じる。
また、 深く信じるものよ、 仰ぎ願うことは、 すべての行者たちが、 一心にただ仏の言葉を信じ、 わが身もわが命も顧みず、 疑いなく仏が説かれた行によって、 仏が捨てよと仰せになるものを捨て、 仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、 仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。 これを、 釈尊の教えにしたがい、 仏がたの意にしたがうという。 これを阿弥陀仏の願にしたがうという。 これを真の仏弟子というのである。
また、 すべての行者たちよ、 ただこの 『観無量寿経』 に示される行を深く信じることだけが、 決して人々を誤らせないのである。 なぜなら、 仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、 その説かれた言葉はまことだからである。 仏以外のものは、 智慧も行もまだ十分でなく、 それを学ぶ位にあり、 *煩悩ぼんのうもその*習じっ気けもまだすべては除かれていないので、 さとりを求める願いも、 まだまどかに成就していない。 したがって、 これらのものは、 たとえ仏のおこころを推しはかっても、 確かに知ることはまだできないのである。 ものごとの道理を正しく明らかに理解することがあったとしても、 必ず仏にその証明をお願いして、 当否を定めるべきである。 もし、 仏のおこころにかなえば、 仏はこれを認められて “その通り” といわれる。 もし、 仏のおこころにかなわなければ、 “あなたがたのいうこの理解は正しくない” といわれるのである。 仏がお認めにならない説は、 無意味で利益のない言葉と同じである。 仏がお認めになる説は、 仏の正しい教えにかなうものなのである。 仏のお言葉はすべて、 正しい教であり、 正しい義であり、 正しい行であり、 正しい領解であり、 正しい行業であり、 正しい智慧なのである。 多数のものでも少数のものでも、 菩薩であっても人間であっても神々であっても、 その説の善し悪しを定めることなどできない。 仏の説かれた教えは、 完全な教えであり、 菩薩などの説は、 すべてみな不完全な教えというのである。 よく知るがよい。 だから、 今この時、 往生を願うすべての人々に勧める。 ただ深く仏のお言葉を信じて、 ひとすじに行を修めるがよい。 菩薩などの説く、 仏のお心にかなっていない教えを信じて、 疑いをおこし、 惑いをいだいて、 自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。 (中略)
釈尊はすべての凡夫に対して、 命のある限り、 ひとすじに念仏して、 命終れば間違いなく阿弥陀仏の国に生れることを示してお勧めになるが、 すべての世界の仏がたもみなこれと同じようにほめたたえ、 同じように勧め、 同じように証明されるのである。 なぜならそれらは、 同じさとりからおこる大いなる慈悲のはたらきだからである。 釈尊が教え導こうとされているものは、 そのまま、 すべての仏がたが救おうとされているものであり、 すべての仏がたが救おうとされているものは、 そのまま、 釈尊が教え導こうとされているものなのである。
すなわち 『阿弥陀経』 の中に、 “釈尊は*極楽ごくらくの種々の*荘しょう厳ごんをほめたたえておられる。 またすべての凡夫に、 一日でも七日でも、 ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えて、 間違いなく往生するがよいと、 お勧めになる” と説かれている。 その次の文には、 “すべての世界にそれぞれ数限りない仏がたがおいでになって、 釈尊をほめたたえておられる。 すなわち、 さまざまな濁りに満ちた時代にあって、 人々は悪事を犯すばかりであり、 思想は乱れ、 煩悩は激しく盛んとなり、 仏法を聞いても疑い謗るばかりで信じようとしない。 そのような世の中に釈尊はお出ましになって、 阿弥陀仏の名号を指し示してほめたたえられ、 念仏すれば必ず往生を得ると衆生を勧め励まされている。 このことを仏がたはみな同じくほめたたえておられる” と説かれている。 これがその証拠である。 また、 すべての世界の仏がたは、 衆生が釈尊の説かれた教えを信じないことをおそれて、 みなともに同じ慈悲の心から、 同時に、 それぞれの国で広く*舌相ぜっそうを示して、 世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、 まごころをこめて、 “そなたたち衆生はみな、 釈尊が説かれ、 ほめたたえられ、 証明されたこの法を信じるがよい。 すべての凡夫は、 罪や功徳の多少、 念仏する時の長短を問うことなく、 長ければ一生涯から短ければ一日・七日に至るまで、 ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えれば、 必ず往生を得る。 それは決して疑いのないことである” と仰せになっている。
こういうわけで、 一仏すなわち釈尊の教えを、 すべての仏がたがみな同じく証明されるのである。 これを、 *勧める人について信を立てるというのである。 (中略)
また、 この*正行しょうぎょうの中に二種がある。 一つには、 ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えるのである。 いついかなるときも、 また時の長短を問わず、 ※他力回向の念仏を行じるのを*正定しょうじょう業ごうという。 阿弥陀仏の本願にしたがうからである。 礼拝や読誦などは*助業じょごうという。 この正定業と助業以外のすべての行は、 みな*雑ぞう行ぎょうという。 (中略) すべて、 仏の本意にかなっていない自力の行というのである。 以上のようなことから、 深信というのである。
“三つには回向発願心” と説かれている。 (中略) また、 浄土の往生を願うものは、 必ず阿弥陀仏が真実の心をもって回向してくださる本願のお心をいただいて、 間違いなく往生できると思うがよい。 この心は金剛のようにかたい信であるから、 本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、 乱されたり砕かれたりすることはない。 ただ疑いなく、 ひとすじに本願を信じて、 わき目もふらずに進み、 心を惑わすものの言葉に耳を傾けてはならない。 それを聞いて、 心が動揺しおそれをいだいてためらうなら、 ※迷いの世界に落ちて往生という大いなる利益を失うことになる。
問うていう。 本願他力と異なる教えにしたがうさまざまな自力の人々が来て惑わし、 あるいはさまざまな疑いを示して非難し、 “往生できない” といったり、 あるいはまた、 “あなたたちは、 はかり知れない昔から今にいたるまで、 身・口・意の三業にわたり、 あらゆる凡夫や聖者方に対して、 *十じゅう悪あく・五逆・*四し重じゅう禁きん・*謗法ほうぼう・*一闡いっせん提だい・*破は戒かい・*破は見けんなどの罪をことごとくつくり、 まだそれらの罪を除き尽すことができないでいる。 これらの罪は迷いの世界につなぎとめるものである。 どうして、 わずか一生の間、 功徳を積み、 念仏したからといって、 すぐさま煩悩の汚れのない生死を超えた浄土に生れて、 不退転の位に至ることができるだろうか” というであろう。 このことについてはどうであろうか。
答えていう。 仏がたの教えや修行の道は数限りなく、 衆生がさとりを得ることになる縁も、 衆生の心に応じてそれぞれに異なる。 たとえば、 世間の人の目に見え、 わかるようなものでいえば、 光は闇を晴らし、 *虚こ空くうはものをおさめ、 大地はものを載せ、 育て、 水はものをうるおし成長させ、 火はものを熟成させたり破戒したりするようなものである。 このように、 それぞれのものには、 みなそれぞれ対応することがらがある。 これらの目に見えることでさえ、 千差万別である。 まして仏法の不思議な力に、 どうして、 さまざまな利益のないはずがあろうか。 それぞれの縁にしたがい、 一つの法門によって出るというのは、 一つの迷いの門を出るということであり、 一つの法門によって入るというのは、 一つのさとりの智慧の門に入るということである。 だから、 ※阿弥陀仏の*本願ほんがん力りきにより、 縁に応じて念仏の行を修め、 みなさとりを求めるべきである。 念仏の行がわたしにとってふさわしい行であるのに、 なぜあなたはそうでない行を持ち出して、 わたしをさまたげ惑わそうとするのか。 私が好むのは、 わたしにふさわしい行である。 あなたの求めるものではない。 あなたが好むのは、 あなたにふさわしい行である。 わたしの求めるものではない。 したがって、 それぞれの好みに応じて、 それにふさわしい行を修めるなら、 必ず速やかにさとりを得るのである。
行者よ、 よく知るがよい。 もしさとりについてただ学ぶだけなら、 凡夫の法から聖者の法、 さらに仏のさとりにいたるまで、 どの教えでも学ぶことができる。 しかし、 実際に行を修めようと思うなら、 必ず自分にふさわしい法によるべきである。 なぜなら、 少しの力で多くの利益を得るからである。
また、 往生を願うすべての人々に告げる。 念仏を行じる人のために、 今重ねて一つの譬たとえを説き、 信心を護り、 考えの異なる人々の非難を防ごう。 その譬えは次のようである。
ここに一人の人がいて、 百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。 その途中に、 突然二つの河が現れる。 一つは火の河で南にあり、 もう一つは水の河で北にある。 その二つの河はそれぞれ幅が百*歩ぽで、 どちらも深くて底がなく、 果てしなく南北に続いている。 その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。 その幅はわずか四、 五寸ほどである。 この道の東の岸から西の岸までの長さも、 また百歩である。 水の河は道に激しく波を打ち寄せ、 火の河は炎をあげて道を焼く。 水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、 少しも止むことがない。 この人が果てしない広野にさしかかった時、 他にはまったく人影はなかった。 そこに盗賊や恐ろしい獣けものがたくさん現れ、 この人がただ一人でいるのを見て、 われ先にと襲ってきて殺そうとした。 そこで、 この人は死をおそれて、 すぐに走って西に向かったのであるが、 突然現れたこの大河を見て次のように思った。 “この河は南北に果てしなく、 まん中に一すじの白い道が見えるが、 それはきわめて狭い。 東西両岸の間は近いけれども、 どうして渡ることができよう。 わたしは今日死んでしまうに違いない。 東に引き返そうとすれば、 盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。 南や北へ逃げ去ろうとすれば、 恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。 西に向かって道をたどって行こうとすれば、 また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう” と。 こう思って、 とても言葉にいい表すことができないほど、 恐れおののいた。 そこで、 次のように考えた。 “わたしは今、 引き返しても死ぬ、 とどまっても死ぬ、 進んでも死ぬ。 どうしても死を免れないのなら、 むしろこの道をたどって前に進もう。 すでにこの道があるのだから、 必ず渡れるに違いない” と。
こう考えた時、 にわかに東の岸に、 “そなたは、 ためらうことなく、 ただこの道をたどって行け。 決して死ぬことはないであろう。 もし、 そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう” と人の勧める声が聞えた。 また、 西の岸に人がいて、 “そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな” と喚よぶ声がする。 この人は、 もはや、 こちらの岸から “行け” と勧められ、 向こうの岸から “来るがよい” と喚ばれるのを聞いた以上、 その通りに受けとめ、 少しも疑ったり恐れたり、 またしりごみしたりもしないで、 ためらうことなく、 道をたどってまっすぐ西へ進んだ。 そして少し行った時、 東の岸から、 盗賊などが、 “おい、 戻ってこい。 その道は危険だ。 とても向こうの岸までは行けない。 間違いなく死んでしまうだろう。 俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない” と呼ぶ。 しかしこの人は、 その呼び声を聞いてもふり返らず、 わき目もふらずにその道を信じて進み、 間もなく西の岸にたどり着いて、 永久にさまざまなわざわいを離れ、 善き友と会って、 喜びも楽しみも尽きることがなかった。 以上は譬えである。
次にこの譬えの意味を法義に合せて示そう。 “東の岸” というのは、 迷いの娑婆世界をたとえたのである。 “西の岸” というのは、 極楽世界をたとえたのである。 “盗賊や恐ろしい獣が親しげに近づく” というのは、 衆生の*六根ろっこん・*六識ろくしき・*六塵ろくじん・*五ご陰おん・*四し大だいをたとえたのである。 “人影一つない広野” というのは、 いつも悪い友にしたがうばかりで、 まことの善知識に遇わないことをたとえたのである。 “水と火の二河” というのは、 衆生の貪りや執着の心を水にたとえ、 怒りや憎しみの心を火にたとえたのである。 “間にある四、 五寸ほどの白い道” というのは、 衆生の貪りや怒りの心の中に、 清らかな信心がおこることをたとえたのである。 貪りや怒りの心は盛んであるから水や火にたとえ、 信心のありさまはかすかであるから四、 五寸ほどの白い道にたとえたのである。 また、 “波が常に道に打ち寄せる” というのは、 貪りの心が常におこって、 信心を汚そうとすることをたとえ、 また、 “炎が常に道を焼く” とは、 怒りの心が信心という功徳の宝を焼こうとすることをたとえたのである。 “道の上をまっすぐに西へ向かう” というのは、 自力の行をすべてふり捨てて、 ただちに浄土へ向かうことをたとえたのである。 “東の岸に人の勧める声が聞え、 道をたどってまっすぐに西へ進む” というのは、 釈尊はすでに*入にゅう滅めつされて、 後の世の人は釈尊のお姿を見たてまつることができないけれども、 残された教えを聞くことができるのをたとえたのである。 すなわち、 これを声にたとえたのである。 “少し行くと盗賊などが呼ぶ” というのは、 本願他力の教えと異なる道を歩む人や、 間違った考えの人々が、 “念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、 また自分自身で罪をつくって、 さとりの道からはずれ、 その利益を失うであろう” とみだりに説くことをたとえたのである。 “西の岸に人がいて喚ぶ” というのは、 阿弥陀仏の本願の心をたとえたのである。 “間もなく西の岸にたどり着き、 善き友と会って喜ぶ” というのは、 衆生は長い間迷いの世界に沈んで、 はかり知れない遠い昔から生れ変り死に変りして迷い続け、 自分の業に縛られてこれを逃れる道がない。 そこで、 釈尊が西方浄土へ往生せよとお勧めになるのを受け、 また阿弥陀仏が大いなる慈悲の心をもって浄土へ来きたれと招き喚ばれるのによって、 今釈尊と阿弥陀仏のお心に信順し、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 ただひとすじに念仏して阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせ、 この世の命を終えて浄土に往生し、 仏とお会いしてよろこびがきわまりない。 このことをたとえたのである。
また、 すべての行者よ、 何をしていてもいついかなる時でも、 この他力回向の信心を得て間違いなく往生できるという思いがあるから、 これを回向発願心というのである。
また、 回向というのは、 浄土に往生して後、 さらに大いなる慈悲の心をおこして、 迷いの世界に還って衆生を救う、 これも回向というのである。
以上の至誠心と深信と回向発願心の三心が欠けることなくそなわれば、 もはやすべての行が成就しないことはない。 願と行がすでに成就しているので、 往生しないという道理はない。 また、 この三心は、 定善にも通じるのである。 良く知るがよい。
【14】また 『般舟讃』 にいわれている。「敬って、 往生を願うすべての人々に申し上げる。 ※わたしたちは大いにこれまでの罪を恥じなければならない。 釈尊はまことに慈悲深い父母である。 さまざまな手だてをもって、 わたしたちに他力の信心をおこさせてくださる」
【15】『*貞元ていげん新しん定じょう釈教しゃくきょう目録もくろく』 の第十一巻には、 「『*集しゅう諸しょ経きょう礼懴らいさん儀ぎ』 は、 唐の西さい崇しゅう福ふく寺じの*沙門しゃもん*智ち昇しょうがつくったものである。 *貞元十五年十月二十三日、 皇帝の勅命にしたがって*大蔵だいぞう経きょうに編入された」 と記されている。 その上巻は、 智昇がさまざまな経によってつくったものであるが、 このうち、 『観無量寿経』 によってつくられたところには、 善導大師の 『往生礼讃』 の*日にっ中ちゅうにつとめる*偈げが引かれている。 また、 下巻には 「*比丘びく善導が集め記す」 とある。 その 『集諸経礼懴儀』 によって、 大切な文を次に引用する。
「二つには深心。 すなわちこれは真実の信心である。 わたしはあらゆる煩悩を持っている凡夫であり、 善根は少なく、 迷いの世界に生れ変り死に変りしてそこから出ることができないと信知し、 いま阿弥陀仏の本願は、 名号を称えることわずか十声などのものや、 ただ名号を聞いて信じるものに至るまで、 必ず往生させてくださると信知して、 少しも疑いの心がない、 だから深心というのである。 (中略)
阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、 疑うことがなければ、 みなその浄土に往生することができる」
【16】『往生要集』 にいわれている。「『*華け厳ごん経ぎょう』 の入法界品に次のように説かれている。 “たとえば、 人が*不ふ可壊かえの薬を得れば、 どのような敵もこの人を傷つける手だてがないようなものである。 菩薩もまたその通りで、 *菩ぼ提だい心しんという不可壊の法薬を得れば、 すべての煩悩や悪魔などの敵も、 その菩薩を傷つけることができないのである。 またたとえば、 人が*住じゅう水すい宝珠ほうしゅを身につけていれば、 深く水の中に入っても溺おぼれないようなものである。 菩提心という住水宝珠を得れば、 迷いの海に入っても沈んでしまうことはない。 またたとえば、 金剛は、 長い年月※水の中にあっても、 崩れたり、 変質したりしないようなものである。 菩提心もまたその通りで、 はかり知れない長い間、 迷いの世界で、 煩悩にまみれた行いをしていても、 なくなりもせず、 損なわれもしない”」
【17】また次のようにいわれている (往生要集)。「わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、 煩悩がわたしの眼をさえぎって、 見ることができない。 しかし阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、 そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」
【18】このようなわけであるから、 往生の行も信も、 すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。 如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、 それ以外に因があるのではない。 よく知るがよい
【19】問うていう。 阿弥陀仏の本願には、 すでに 「至心・信楽・欲生」 の三心が誓われている。 それなのに、 なぜ天親菩薩は 「一心」 といわれたのであろうか。
答えていう。 それは愚かな衆生に容易にわからせるためである。 阿弥陀仏は 「至心・信楽・欲生」 の三心を誓われているけれども、 さとりにいたる真実の因は、 ただ信心一つである。 だから、 天親菩薩は本願の三心を合せて一心といわれたのであろう。
【20】わたしなりに三心それぞれの字の意味を考えてみると、 三心はそのまま一心である。 それはどのようなことかというと、 「至心」 というのは、 「至」 とはすなわち、 真しんであり、 実じつであり、 誠じょうである。 「心」 とはすなわち、 種しゅであり、 実じつである。 「信楽」 というのは、 「信」 とはすなわち、 真しんであり、 実じつであり、 誠じょうであり、 満まんであり、 極ごくであり、 成じょうであり、 用ゆうであり、 重じゅうであり、 審しんであり、 験げんであり、 宣せんであり、 忠ちゅうである。 「楽」 とはすなわち、 欲よくであり、 願がんであり、 愛あいであり、 悦えつであり、 歓かんであり、 喜きであり、 賀がであり、 慶きょうである。 「欲生」 というのは、 「欲」 とはすなわち、 願がんであり、 楽ぎょうであり、 覚かくであり、 知ちである。 「生」 とはすなわち、 成じょうであり、 作さ (為い、 起き、 行ぎょう、 役えき、 始し、 生しょう) であり、 為いであり、 興こうである。
明らかに知ることができる。 「至心」 とは、 虚偽を離れさとりに至る種となる心 (真実誠種の心) であるから、 疑いのまじることはない。 「信楽」 とは、 仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心 (真実誠満の心) であり、 この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心 (極成用重の心) であり、 二心なく阿弥陀仏を信じる心 (審験宣忠の心) であり、 往生が決定してよろこぶ心 (欲願愛悦の心) であり、 よろこびに満ちあふれた心 (歓喜賀慶の心) であるから、 疑いがまじることはない。 「欲生」 とは、 往生は間違いないとわかる心 (願楽覚知の心) であり、 往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心 (成作為興の心) である。 これらはすべて如来より回向された心であるから、 疑いがまじることはない。
いま、 この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみると、 みな、 まことの心であって、 いつわりの心がまじることはなく、 正しい心であって、 よこしまな心がまじることはないのである。 まことに知ることができた。 疑いのまじることがないから、 この心を信楽というのである。 この信楽がすなわち一心であり、 一心はすなわち真実の信心である。 だから、 天親菩薩は 『浄土論』 のはじめに 「一心」 といわれたのである。 よく知るがよい。
 

 

【21】また問う。 字の意味によれば、 愚かな衆生に容易にわからせるために本願の三心を一心と示された天親菩薩のおこころは、 道理にかなったものである。 しかし、 もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、 三心の願をおこされたのである。 このことは、 どう考えたらよいのであろうか。
答えていう。 如来のおこころは、 はかり知ることができない。 しかしながら、 わたしなりにこのおこころを推しはかってみると、 すべての衆生は、 はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、 煩悩に汚れて清らかな心がなく、 いつわりへつらうばかりでまことの心がない。 そこで、 阿弥陀仏は、 苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、 はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、 まことの心でなかったことがない。 如来は、 この清らかなまことの心をもって、 すべての功徳が一つに融とけあっていて、 思いはかることも、 たたえ尽すことも、 説き尽すこともできない、 この上ない智慧の徳を成就された。 如来の成就されたこの至心、 すなわちまことの心を、 煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
この至心は、 如来より与えられた真実心をあらわすのである。 だからそこに疑いのまじることはない。 この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその*体たいとするのである。
【22】そこで 『無量寿経』 に説かれている。「貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心をおこさず、 また、 そういう思いを持ってさえいなかった。 すべてのものに執着せず、 どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、 数多くの苦をものともせず、 欲は少なく足ることを知って、 貪り・怒り・愚かさを離れていた。 そしていつも*三昧さんまいに心を落ちつけて、 何ものにもさまたげられない智慧を持ち、 いつわりの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。 表情はやわらかく、 言葉はやさしく、 相手の心を汲み取ってよく受け入れ、 雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。 ひたすら清らかな善を求めて、 すべての人々に利益を与えた。 仏・法・僧の*三宝さんぼうを敬い、 師や年長のものに仕えたのである。 大きな願いをもってさまざまな行を修めて、 すべての人々に功徳を与えたのである」
【23】『如来会』 に説かれている。「世尊が*阿あ難なんに仰せになった。 “法蔵菩薩は、 *世せ自じ在王ざいおう仏ぶつおよびおよび多くの神々や人々、 魔王・*梵天ぼんてん・沙門・*婆羅ばら門もんなどの前で、 このような大いなる誓いをおこし、 そのすべてを成就したのである。 この願をおこしたことは、 世に希なことである。 それを実現して、 すでにさとりの世界に安住し、 さまざまな功徳を身にそなえ、 すぐれた徳にあふれた清らかな仏の国をうるわしくととのえたのである。
このような菩薩行を、 はかり知ることができない果てしなく長い時をかけて修めた。 その間、 一度たりとも貪り・怒り・愚かさの心をおこさず、 すべてのものに執着せず、 まるで身内のものに対するかのように、 あらゆる衆生を常に敬愛したのである。 (中略) その性はおだやかで、 荒々しいところが少しもなく、 どのようなものにも常に慈悲と忍耐の心をいだき、 いつわりへつらくことなくおこたることもなかった。 人々に勧めてさまざまな清らかな善を求めさせ、 広く人々のために雄々しく努め励んで退くことなく、 世の中に利益を与え、 大いなる願いを欠けることなく成就されたのである”」
【24】善導大師が 『観経疏』 にいわれている (散善義)。「毒のまじった行を因として、 阿弥陀仏の浄土に生れようと求めても、 決して生れることはできない。 なぜかというと、 まさしく、 阿弥陀仏が因位において、 菩薩の行を修められたときには、 わずか一念一刹那の間も、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 真実の心においてなされたことによるからである。 すべて、 このように如来が真実の心において修められた功徳を衆生に施してくださるのであり、 それをいただいて浄土に生れようと願うのであれば、 またすべてみな真実なのである。 また、 真実に二種がある。 一つには自力の真実、 二つには他力の真実である。 (中略) 衆生がおこなう不善の三業すなわち自力の善は、 如来が因位のとき、 真実の心において捨てられたのであり、 その通りに捨てさせていただくのである。 また善の三業は、 必ず如来が真実の心において成就されたものをいただくのである。 内外明暗の人の別をいわず、 みな如来の真実をいただくのであるから、 至誠心というのである」
【25】このようなわけであるから、 釈尊の真実のお言葉や、 また善導大師の御解釈によって、 この心は、 思いはかることも、 たたえ尽すことも、 説き尽すこともできない、 如来の智慧の*誓願せいがんにもとづいて、 すべての衆生に与えてくださった他力の真実心であると知ることができる。 これを至心というのである。
【26】すでに 「真実」 といった。 その真実というのは、『*涅ね槃はん経ぎょう』 に次のように説かれている。
「真実の教えは、 清らかなただ一つの道であり、 二つあることはない。 真実というのはすなわち如来である。 如来はすなわち真実である。 真実はすなわち虚空である。 虚空はすなわち真実である。 真実はすなわち*仏性である。 仏ぶっ性しょうはすなわち真実である」
【27】善導大師のこの御解釈の中に、 「内外明暗の人の別をいわず」 といわれている。 「内外」 というのは、 「内」 は出世間すなわち聖者のことであり、 「外」 は世間すなわち凡夫のことである。 「明暗」 というのは、 「明」 は出世間であり、 「闇」 は世間である。 また、 「明」 は智慧のことであり、 「闇」 は煩悩のことである。
『涅槃経』 に説かれている。
「闇は世間であり、 明は出世間である。 また、 闇は煩悩であり、 明は智慧である」
【28】次に信楽というのは、 阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、 すべての功徳が一つに融けあっている信心である。 このようなわけであるから、 疑いは少しもまじることがない。 それで、 これを信楽というのである。 すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。
ところで、 はかり知れない昔から、 すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に*輪りん廻ねし、 多くの苦しみに縛られて、 清らかな信楽がない。 本来まことの信楽がないのである。 このようなわけであるから、 この上ない功徳に遇うことができず、 すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、 いついかなる時も、 貪りの心が常に善い心を汚し、 怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。 頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、 それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、 嘘いつわりの行といって、 真実の行とはいわないのである。 この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、 決して生れることはできない。なぜかというと、 阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 ほんの一瞬の間に至るまで、 どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
この心、 すなわち信楽は、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、 必ず*真実しんじつ報ほう土どにいたる正因となるのである。 如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、 この上ない功徳をおさめた清らかな信を、 迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。 これを他力の真実の信心というのである。
【29】『無量寿経』 の本願信心の願 (第十八願) 成就文には、 「すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき」 と説かれている。
【30】また 『如来会』 に説かれている。「他方の国のあらゆる人々は、 無量寿如来の名号のいわれを聞いて、 たちどころに清らかな信をおこして歓喜する」 
【31】『涅槃経』 に説かれている。「善良なものよ、 *大だい慈じ・大だい悲ひを仏性というのである。 なぜかというと、 大慈・大悲は、 影が形にしたがうように、 常に菩薩から離れないのである。 すべての衆生は、 ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、 すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。 大慈・大悲を仏性といい、 仏性を如来というのである。
また、 *大だい喜き・大捨だいしゃを仏性というのである。 なぜかというと、 菩薩が、 もし迷いの世界を離れることができなければ、 この上ないさとりを得ることはできない。 あらゆる衆生は、 ついには必ずこの大喜・大捨を得るから、 すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。 大喜・大捨は仏性であり、 仏性はそのまま如来である。
また仏性を大信心というのである。 なぜかというと、 菩薩はこの信心によって、 *六ろっ波羅ぱら蜜みつの行を身にそなえることができるのである。 すべての衆生は、 ついには必ず大信心を得るから、 すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。 大信心は仏性であり、 仏性はそのまま如来である。
また、 仏性を*一いっ子し地じというのである。 なぜかというと、 菩薩は、 その一子地の位にいたるから、 すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。 すべての衆生は、 ついには必ずその位を得るから、 すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。 この一子地は仏性であり、 仏性はそのまま如来である」
【32】また次のように説かれている (涅槃経)。「この上ないさとりについて説くなら、 それは信心を因とする。 さとりに至る因も数限りなくあるけれども、 ただ信心について説けば、 すべてその中に収まってしまうのである」
【33】また次のように説かれている (涅槃経)。「信には二種がある。 一つには、 ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、 二つには、 よくその意味内容を知って信じるのである。 ただ言葉を聞いただけで、 その意味内容を知らずに信じているのは、 完全な信ではない。 また信には二種がある。 一つには、 たださとりへの道があるとだけ信じるのであり、 二つには、 その道によってさとりを得た人がいると信じるのである。 たださとりへの道があるとだけ信じて、 さとりを得た人がいることを信じないのは、 完全な信ではない。
【34】『華厳経』 に説かれている。「この教えを聞き、 信を得て喜び、 心に疑いのないものは、 速やかにこの上ないさとりを得るであろう。 すべての仏がたと等しい身となるのである」
【35】また次のように説かれている (華厳経)。「如来はすべての衆生の疑いを完全に断ち切り、 その望みにしたがってみな満足させてくださる」
【36】また次のように説かれている (華厳経)。「信はさとりのもとであり、 功徳を生む母である。 すべての善を養い育てる。 疑いを断ち切って煩悩を離れ、 この上ないさとりを開かせる。 信は煩悩の汚れがない。 清浄であって、 おごり高ぶりの心を除き、 敬いの心をおこさせる。 またすべての功徳の中で第一の宝とする。 この清らかな信心の手にすべての行を受ける。 信は惜しむことなく恵み施す。 信は喜びをもって仏法に入らせる。 信は智慧と功徳を育てる。 信は必ずさとりに至らせる。 信は心のはたらきを清らかですぐれたものにさせる。 信の力は堅固であるから砕かれることはない。 信は煩悩のもとを完全に滅ぼす。 信は仏の功徳へ向けさせる。 信は何ものにも執着しない。 さまざまな難のある世界を離れ、 難のない世界へ生れさせる。 信は悪魔のさまたげに満ちた世界を超え出で、 この上ないさとりを開かせる。 信は功徳を得るための壊れない種である。 信はさとりの樹を育てる。 信はすぐれた智慧を増大する。 信はすべての仏を現し出す。 だから菩薩の行を積む順序についていうと、 信楽はもっともすぐれていて、 得ることがとても難しいのである。 (中略)
常に仏がたを信じ敬えば、 大いなる供養をすることになる。 大いなる供養をすれば、 その人は仏の不思議を信じる人である。 常に尊い法を信じ敬えば、 仏の教えを聞いて飽きることがない。 仏の教えを聞いて飽きることがなければ、 その人は法の不思議を信じる人である。 常に清らかな僧を信じ敬えば、 信心が退転しない。 信心が退転しなければ、 その人の信の力はゆるぐことがない。 信の力がゆるぐことがなければ、 心のはたらきが清らかですぐれたものになる。 心のはたらきが清らかですぐれたものになれば、 善知識に親しみ近づくことができる。 善知識に親しみ近づくことができれば、 広大な善根を積むことになる。 広大な善根を積めば、 その人はさとりを開く因となる力を成就する。 人がさとりを開く因となる力を成就すれば、 間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得る。 間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得れば、 仏がたに護られる。 仏がたに護られるなら、 菩提心をおこすことができる。 菩提心をおこせば、 仏の功徳を修めることができる。 仏の功徳を修めれば、 如来の家に生れることができる。 如来の家に生れることができれば、 そこでの善は利他のはたらきをする。 利他のはたらきをすれば、 信楽の心が清らかになる。 信楽の心が清らかになれば、 この上なくすぐれた心を得る。 この上なくすぐれた心を得れば、 常に菩薩の行を修める。 常に菩薩の行を修めれば、 *大だい乗じょうの法を身にそなえることができる。 大乗の法を身にそなえることができれば、 正しく仏を供養することができる。 正しく仏を供養すれば、 念仏の心が動揺しない。 念仏の心が動揺しなければ、 常に数限りない仏がたを見たてまつる。 常に数限りない仏がたを見たてまつれば、 如来は永久に不変であることを知る。 如来が永久に不変であることを知れば、 さとりの法が不滅であることを知る。 さとりの法が不滅であることを知れば、 自由自在な弁舌の智慧を得ることができる。 自由自在な弁舌の智慧を得ることができれば、 広大無辺の法を説き述べることができる。 広大無辺の法を説き述べることができれば、 慈しみの心から衆生を救うことができる。 慈しみの心から衆生を救うことができれば、 堅固な慈悲の心を得る。 堅固な慈悲の心を得れば、 奥深い教えを喜び味わうことができる。 奥深い法を喜び味わえば、 迷いの罪を離れることができる。 迷いの罪を離れることができれば、 おごり高ぶりやなまけ心を離れる。 おごり高ぶりやなまけ心を離れるなら、 すべての人々を残らず救うことができる。 すべての人々を残らず救うことができれば、 迷いの世界にいて疲れることはない」
【37】『往生論註』 にいわれている。「“如実に行を修め、 本願に相応する” というのである。 こういうわけで、 天親菩薩は 『浄土論』 のはじめに “わたしは一心に” といわれたのである」
【38】また次のようにいわれている (往生論註)。「教典のはじめに “如是” と説かれるのは、 信心がさとりに至る因であるということをあらわすのである」
【39】次に欲生というのは、 如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである。 そこで、 この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体とするのである。 まことに、 これは大乗・*小乗しょうじょうの凡夫や聖者などの定善・散善の自力の心での回向ではないから、 *不ふ回え向こうというのである。
あらゆる衆生は、 煩悩に流され迷いに沈んで、 まことの回向の心がなく、 清らかな回向の心がない。 そこで、 阿弥陀仏は、 苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 ほんの一瞬の間に至るまでも、 衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、 それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。 そして他力真実の欲生信を、 迷いの衆生に施し与えられたのである。 すなわち、 衆生の欲生心は、 そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、 疑いがまじることはない。
【40】そこで本願の欲生心成就文は、 『無量寿経』 に次のように説かれている。「その信は阿弥陀仏がまことの心 (至心) をもってお与えになったものであるから、 浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、 不退転の位に至るのである。 ただし、 五逆の罪を犯したり、 正しい法を謗るものだけは除かれる」
 

 

【41】また 『如来会』 に説かれている。「あらゆる善根の収まっている功徳を与えられたことを喜んで、 *無む量りょう寿じゅ国こくに生れようと願うなら、 願いどおりにみな往生し、 不退転の位を得て、 ついに無上のさとりを開くことができる。 ただし、 無間地獄に堕ちる五逆の罪を犯したり、 正しい法および聖者を謗るものは除かれる」
【42】『往生論註』 にいわれている。「『浄土論』 に “回向してくださるとはどういうことであろうか。 仏は苦しみ悩むすべての衆生を捨てることができず、 いつも衆生に功徳を施そうと願われ、 その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである” と述べられている。 阿弥陀仏の回向に二種の相がある。 一つには往相、 二つには還相である。 往相というのは、 仏ご自身の功徳を他のすべての衆生に施して、 みなともに浄土に往生させてくださることである。 還相というのは、 浄土に生れた後、 自利の智慧と利他の慈悲を成就することができ、 迷いの世界に還ってきてすべての衆生を導き、 みなともにさとりに向かわせることである。 往相も還相も、 みな衆生の苦しみを除いて迷いの世界を離れさせるために与えられたものである。 だから、 天親菩薩は “衆生に功徳を回向しようとする心を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである” と述べておられる」
【43】また次のようにいわれている (往生論註)。「*浄入じょうにゅう願心がんしんというのは、 『浄土論』 に、 “さきに、 阿弥陀仏の国土にそなわる功徳の成就と、 阿弥陀仏にそなわる功徳の成就と、 浄土の菩薩にそなわる功徳の成就とを観ずることを説いた。 この三種の功徳の成就は、 法蔵菩薩の願心によるものである。 知るべきである” と述べられている。 “知るべきである” とは、 この三種の功徳の成就は、 因位の四十八願などの清らかな願心によるものであり、 その因位の願心が清らかであるから、 結果として成就された功徳も清らかとなるのである。 法蔵菩薩の因位の願心によって成就されたのであるから、 因がないのではなく、 また他の因によったのでもないことを知るべきである、 という意味である」
【44】また次のようにいわれている (往生論註)。「『浄土論』 に、 “*出しゅつの第だい五ご門もんとは、 大慈悲の心をもって、 苦しみ悩むすべての衆生を観じて、 救うためのさまざまなすがたを現し、 煩悩に満ちた迷いの世界に還ってきて、 神通力をもって思いのままに衆生を教え導く位に至ることである。 このようなはたらきは阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。 これを出の第五門という” と述べられている」
【45】善導大師が 『観経疏』 にいわれている (散善義)。「また、 浄土の往生を願うものは、 必ず阿弥陀仏が真実の心をもって回向してくださる本願のお心をいただいて、 間違いなく往生できると思うがよい。 この心は金剛のようにかたい信であるから、 本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、 乱されたり砕かれたりすることはない。 ただ疑いなくひとすじに本願を信じて、 わき目もふらずに進み、 心を惑わすものの言葉に耳を傾けてはならない。 それを聞いて、 心が動揺し恐れをいだいてためらうなら、 ※迷いの世界に落ちて往生という大いなる利益を失うことになる」
【46】いま、 まことに知ることができた。 善導大師の*二河にがの譬たとえの中に 「四、 五寸ほどの白い道」 といわれているが、 「白い道」 の 「白」 という言葉は 「黒」 に対するものである。 「白」 とはすなわち、 阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、 浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。 「黒」 とはすなわち、 無明に汚れた行であり、 また、 声聞や*縁覚えんがく、 人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。 「道」 という言葉は 「路」 に対するものである。「道」 とはすなわち、 第十八願の唯一信心の道であり、 この上ないさとりを開くすぐれた道である。 「路」 とはすなわち、 *二に乗じょう・三さん乗じょうの法、 さまざまな行を修めなければならない劣った路である。 「四、 五寸」 とはすなわち、 衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。
「清らかな信心がおこる」 というのは、 金剛のように堅固な真実の心を得ることである。 如来の本願力によって回向されたすぐれた信心であるから、 破壊されることはない。 これを金剛のようであるとたとえたのである。
【47】『観経疏』 にいわれている (玄義分)。「出家のものも在家のものも、 今の世の人々は、 それぞれ自力の菩提心をおこしても、 迷いの世界は厭い離れることが難しく、 またさとりへの道は求めて得ることが難しい。 みなともに他力金剛の信心をおこして、 ↓*ただちに迷いの流れを断ち切るがよい。 まさしく他力金剛の信心を得て、 本願にかなう一念の人はついには仏のさとりを得るものである」
【48】また次のようにいわれている (序分義)。「まことの信心をいただいて、 苦しみに満ちた娑婆世界を厭い、 安らぎの浄土を願って、 いつまでも変らないさとりに帰すがよい。 しかし、 さとりの世界には軽々と入ることができない。 苦しみに満ちた娑婆世界からは、 たやすく離れることなど、 とてもできるものではない。 他力金剛の信心をおこすのでなかったなら、 どうして迷いの本を永久に断つことができようか。 もし、 ※慈悲深い阿弥陀仏にしたがわせていただかないなら、 この長い迷いの嘆きからどうして脱れることができようか」
【49】また次のようにいわれている (定善義)。「金剛というのは、 清らかな仏の智慧のことである」
【50】いま、 まことに知ることができた。 至心と信楽と欲生とは、 その言葉は異なっているけれども、 その意味はただ一つである。 なぜかというと、 これらの三心は、 すでに述べたように、 疑いがまじっていないから真実の一心なのである。 これを金剛の真心という。 この金剛の真心を真実の信心というのである。 この真実の信心には、 必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。 しかしながら、 名号を称えていても必ずしも他力回向の信心がそなわっているとは限らない。 信心すなわち一心がかなめであるから、 天親菩薩は 『浄土論』 のはじめに 「わたしは一心に」 といわれたのである。 また、 「名号のいわれにかなって、 如実に行を修め、 本願に相応しようとするからである」 といわれている。
【51】総じて、 この他力の信心についてうかがうと、 @身分の違いや出家・在家の違い、 Aまた、 老少男女の別によってわけへだてがあるのでもなく、 B犯した罪の多い少ないやC修行期間の長い短いなどが問われるのでもない。 1また、 自ら行う行でもなく、 自ら行う善でもない。 2速やかにさとろうとする教えでもなく、 長い時を費やしてさとろうとする教えでもない。 3定善もなく、 散善でもない。 4正しい観法でもなく、 よこしまな観法でもない。 5相を念じるのでもなく、 想を離れて理を念じるのでもない。 6平生に限るのでもなく、 臨終に限るのでもない。 7称名を多念に励むのでもなく、 一念に限るのでもない。 これはただ、 思いはかることも、 たたえ尽すことも、 説き尽すこともできないすぐれた信楽である。 たとえば、 *阿あ伽陀かだ薬やくがすべての毒を滅するように、 如来の誓願は、 自力のはからいである智慧の毒も*愚痴ぐちの毒も滅するのである。
【52】ところで、 菩提心には二種類がある。 一つには竪すなわち自力の菩提心、 二つには横すなわち他力の菩提心である。 また、 竪の中に二種がある。 一つには*竪しゅ超ちょう、 二つには*竪しゅ出しゅつである。 この竪超と竪出は、 *権ごん教きょう・*実じっ教きょう、 *顕けん教ぎょう・*密みっ教きょう、 大乗・小乗の教えに説かれている。 これらは、 長い間かかって遠まわりをしてさとりを開く菩提心であり、 自力の*金剛こんごう心しんであり、 菩薩がおこす心である。 また、 横の中に二種がある。 一つには*横おう超ちょう、 二つには*横おう出しゅつである。 横出とは、 正行・雑行、 定善・散善を修めて往生を願う、 他力の中の自力の菩提心である。 横超とは、 如来の本願力回向による信心である。 これが願作仏心、 すなわち仏になろうと願う心である。 この願作仏心は、 すなわち他力の大菩提心である。 これを横超の金剛心というのである。
他力の菩提心も自力の菩提心も、 菩提心という言葉は一つであって、 意味は異なるといっても、 どちらも真実にはいることを正しいこととし、 またかなめとし、 まことの心を根本とする。 よこしまで不純なことを誤りとし、 疑いをあやまちとするのである。 そこで、 浄土往生を願う出家のものも在家のものも、 信には完全な信と完全でない信とがあるという釈尊の仰せの意味を深く知り、 如来の教えを十分に聞き分けることのないよこしまな心を永久に離れなければならない。
【53】『往生論註』 にいわれている。「*王舎おうしゃ城じょうにおいて説かれた 『無量寿経』 によれば、 往生を願う*上じょう輩はい・中ちゅう輩はい・下げ輩はいの三種類の人は、 修める行に優劣があるけれども、 すべてみな*無む上じょう菩ぼ提だい心しんをおこすのでる。 この無上菩提心は、 願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。 この願作仏心は、 そのまま度衆生心である。 度衆生心とは、 衆生を摂め取って、 阿弥陀仏の浄土に生れさせる心である。 このようなわけであるから、 浄土に生れようと願う人は、 必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。 もし、 人がこの心をおこさずに、 浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、 楽しみを貪るために往生を願うのであれば、 往生できないのである。 だから 『浄土論』 には “自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、 すべての衆生の苦しみを除こうと思う” と述べられている。 “変ることのない安楽” とは、 浄土は阿弥陀仏の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、 絶え間なく楽しみを受けることができるということである。
総じて、 回向という言葉の意味を解釈すると、 阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自ら積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、 みなともにさとりに向かわせてくださることである」
【54】*元がん照じょう律師が 『*阿あ弥陀みだ経きょう義ぎ疏しょ』 にいっている。「『阿弥陀経』 には、 釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、 阿弥陀仏の教えを説かれたことを “甚難希有” と示されているが、 他の仏がたのできないことであるから甚難であり、 この世で今までになかったことであるから希有である」
【55】また次のようにいっている (阿弥陀経義疏)。「念仏の教えは、 愚者と智者、 富めるものと貧しいもののへだてなく、 修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、 ただ決定の信心さえ得れば、 臨終に悪相をあらわしても、 たとえば十声念仏して往生をとげる。 これこそは、 煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、 また、 ※生きものを殺し、 酒を売って生活し、 賎しいとされるものであっても、 たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。 まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」
【56】また次のようにいっている (阿弥陀経義疏)。「この五濁の世で修行して仏になるということは難しい。 多くの衆生のために阿弥陀仏の教えを説くことも難しい。 この二つの難事をあげて、 仏がたが釈尊をほめたたえられることが無意味でないことを明らかにされている。 これは衆生に教えを聞かせて信を得させるためである」
【57】*律りっ宗しゅうの*用欽ようきんがいっている。「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、 まことにこの教えは、 凡夫を転じて仏とすることが、 ちょど手のひらを返すようだからである。 きわめてたやすいから、 かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。 そこで 『無量寿経』 には、 “浄土は往生しやすいにもかかわらず、 往生する人がまれである” と説かれている。 このようなわけで信じることが難しいと知られる」
【58】『*聞もん持じ記き』 にいっている。「『阿弥陀経義疏』 の文に、 “愚者と智者のへだてなく” とあるのは、 人々の性質に賢愚の違いがあることをいう。 “富めるものと貧しいもののへだてなく” とあるのは、 人々の生活に貧富の違いがあることをいう。 “修行期間の長短を論じることなく” とあるのは、 修行の功に浅深の違いがあることをいう。 “行いの善し悪しを論じることなく” とあるのは、 行いに善悪の違いがあることをいう。 “決定の信心を得れば、 臨終に悪相をあらわしても” とあるのは、 『観無量寿経』 の下品中生の文に “*地じ獄ごくの猛火が一斉に押し寄せてくる” などと説かれているありさまをいう。 “煩悩に縛られた愚かな凡夫” とあるのは、 *見惑けんわくと*思し惑わくの煩悩をすべて持っているものをいう。 “※生きものを殺し、 酒を売って生活し、 賎いやしいとされるものであっても、 たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。 まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである” とあるのは、 生きものを殺すもの、 酒を売るものなど、 このような悪人でも、 たとえば十声念仏して、 たちまち飛び超えて浄土に往生することができるのであって、 まことに信じがたいすぐれた教えではないか、 という意味である。
*阿あ弥陀みだ仏ぶつは、 真実しんじつ明みょう・平びょう等覚どうがく・難なん思議じぎ・畢ひっ竟きょう依え・大だい応おう供ぐ・大だい安あん慰に・無む等等とうどう・不可ふか思議しぎ光こうと申し上げる」
【59】『*楽邦らくほう文類もんるい』 の後序にいっている。「浄土に往生するために行を修する人は常に多いが、 他力真実の教えに出会い、 ただちに浄土に往生したものはほとんどいない。 浄土の教えを論じる人は常に多いが、 その要を得て正しく教えるものは少ない。 今まで、 自らさとりへの道をさまたげ、 自ら正しい道をおおい隠すということについて説いたものを聞いたことがない。 今わたしは、 これを知ったから述べよう。 自らさとりへの道をさまたげるのは、 *貪愛とんないの煩悩に及ぶものはなく、 自ら正しい道をおおい隠すのは、 疑惑の煩悩に及ぶものはない。 ただ、 この貪愛と疑惑の二つの煩悩をさまたげとしないのは浄土の教えだけである。 阿弥陀仏の大いなる本願は、 このような煩悩をそなえた衆生をわけへだてなく、 常に摂め取ってくださる。 これは本願のはたらきによる必然の道理である」
【60】さて、 まことの信楽について考えてみると、 この信楽に一念がある。 一念というのは、 信心が開きおこる時のきわまり、 すなわち最初の時をあらわし、 また広大で思いはかることのできない徳をいただいたよろこびの心をあらわしている。 
 

 

【61】そこで 『無量寿経』 に説かれている。「すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき (信心歓喜乃至一念)、 その信は阿弥陀仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、 浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、 不退転の位に至るのである」
【62】また 『如来会』 に説かれている。「他方の国のすべての人々が、 無量寿如来の名号のいわれを聞いて、 一念の清らかな信をおこして歓喜するであろう」
また 『無量寿経』 に説かれている。
「その仏の本願のはたらきにより、 名号のいわれを聞いて往生を願う」
また 『如来会』 に説かれている。
「仏の名号の尊い功徳のいわれを聞く」
【63】『涅槃経』 に説かれている。「完全な聞でないとは、 どのようなことであろうか。 如来の説かれた教えは*十じゅう二部にぶ経きょうである。 その中の六部の教えだけを信じて後の六部を信じないのは、 完全な聞ではない。 また、 この六部の教えを受けたといっても、 読んで理解することもできずに人に説くのであれば、 何のためにもならない。 それは、 完全な聞ではない。 また、 この六部の教えを受けて、 議論のために、 他の人よりもすぐれたいために、 利益のために、 ※世俗的な目的のために、 それを読んで人に説くのは、 完全な聞ではない」
【64】善導大師は 『観経疏』 に 「一心専念」 (散善義) といわれ、 また 「専心専念」 (散善義) といわれている。
【65】ところで 『無量寿経』 に 「聞」 と説かれているのは、 わたしたち衆生が、 *仏願ぶつがんの生しょう起き本末ほんまつを聞いて、 疑いの心がないのを聞というのである。 「信心」 というのは、 如来の本願力より与えられた信心である。 「歓喜」 というのは、 身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。 「乃至」 というのは、 多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。 「一念」 というのは、 信心は二心がないから一念という。 これを一心というのである。 この一心が、 すなわち清らかな報土に生れるまことの因である。
金剛の信心を得たなら、 他力によって速やかに、 *五ご悪趣あくしゅ・*八難はちなん処じょという迷いの世界をめぐり続ける世間の道を超え出て、 この世において、 必ず十種の利益を得させていただくのである。 十種とは何かといえば、 一つには、 眼に見えない方々にいつも護られるという利益、 二つには、 名号にこめられたこの上ない尊い徳が身にそなわるという利益、 三つには、 罪悪が転じて善となるという利益、 四つには、 仏がたに護られるという利益、 五つには、 仏がたにほめたたえられるという利益、 六つには、 阿弥陀仏の光明に摂め取られて常に護られるという利益、 七つには、 心によろこびが多いという利益、 八つには、 如来の恩を知りその徳に報謝するという利益、 九つには、 常に如来の大いなる慈悲を広めるという利益、 十には、 *正定しょうじょう聚じゅに入るという利益である。
【66】善導大師が 「専念」 といわれたのは、 念仏一行のことである。 「専心」 といわれたのは、 二心のない一心のことである。 すなわち、 1本願成就の文に 「一念」 とあるのは二心のない心、 すなわち専心である。 2この専心は深い心、 すなわち深心である。 3この深心は深く信じる心、 すなわち深信である。 4この深信は堅く信じる心、 すなわち堅固深信である。 5この堅固深信はゆるぎない心、 すなわち決定心である。 6この決定心はこの上なくすぐれた心、 すなわち無上上心である。 7この無上上心は真実の徳を持った心、 すなわち真心である。 8この真心は生涯たもたれる心、 すなわち相続心である。 9この相続心は淳朴で飾り気のない心、 すなわち淳心である。 10この淳心は常に仏を思う心、 すなわち*憶念おくねんである。 11この憶念はまことの徳をそなえた心、 すなわち真実一心である。 12この真実一心は広大な法を受けた喜びの心、 すなわち大慶喜心である。 13この大慶喜心はまことの心、 すなわち真実信心である。 14この真実信心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、 すなわち金剛心である。 15この金剛心は仏になろうと願う心、 すなわち願作仏心である。 16この願作仏心は衆生を救おうとする心、 すなわち度衆生心である。 17この度衆生心は衆生を浄土に往生させる心である。 この心は大菩提心である。 この心は大慈悲心である。 なぜなら、 はかり知れない阿弥陀仏の智慧によって生じるからである。 阿弥陀仏の本願が平等であるから、 阿弥陀仏より回向された信心も平等である。 信心が平等であるから、 その信心にそなわる智慧も平等である。 智慧が平等であるから、 慈悲も平等である。 この大慈悲をそなえた信心が、 浄土に至ってさとりを開く正因なのである。
【67】そこで 『往生論註』 にいわれている。「浄土の往生を願う人は、 必ず無上菩提心、 すなわち信心をおこさなければならない」
【68】また次のようにいわれている (往生論註)。「“是心作仏” とは、 信心がさとりを開く正因であるという意味である。 “是心是仏” とは、 この信心を離れて仏がはたらいておられるのではないということである。 ※たとえば、 火は木について木を離れることはない。 木を離れないから火は木を焼くことができる。 木は火に焼かれて火となるようなものである」
【69】善導大師が 『観経疏』 にいわれている (定善義)。「この信心がさとりを開く正因である。 この信心は仏心である。 この信心を離れて仏がはたらいておられるのではない。
【70】こういうわけであるから、 衆生の一心は、 如実に行を修め、 本願に相応するといわれるのである。 これが正しい教であり、 正しい義であり、 正しい行であり、 正しい領解であり、 正しい行業であり、 正しい智慧である。
【71】本願の三心はすなわち一心であり、 その一心はすなわち金剛の真心であるということについて答えおわった。 よく知るがよい。
【72】『*摩訶まか止し観かん』 にいっている。「“*菩ぼ提だい” とはインドの言葉であり、 中国の言葉では道という。 “*質しっ多た” とはインドの言葉であり、 中国の言葉では心という。 心とは思慮分別する心である」
【73】さきに引いた善導大師の 『観経疏』 に 「↑横超断四流」 (玄義分) といわれている。 横超というのは、 横とは、 竪超・竪出に対し、 超とは遠まわりに対する言葉である。 竪超というのは聖道門の中の大乗真実の教えである。 竪出というのは聖道門の中の大乗*方便ほうべんの教えであり、 二乗・三乗の区別を立てるものであって、 さとりを開くまで遠まわりしなければならない教えである。 横超というのは、 本願が成就して、 すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、 すなわち*真しん宗しゅうである。 また、 *浄じょう土ど門もんの中に横出がある。 それは*三輩さんぱい・*九く品ぼんの*機きが定善・散善を修め、 *方便ほうべん化土けどである*懈け慢まん界がいに往生する遠まわりの善の教えである。 本願によって成就された清らかな報土は、 三輩・九品の別を問わない。 往生すると同時に、 速やかにこの上ないさとりを開くから横超というのである。
【74】『無量寿経』 に説かれている。「この上なく超えすぐれた願いをおこされたのである」
【75】また次のように説かれている (無量寿経)。「わたしは世に超えすぐれた願いをたてた。 必ずこの上ないさとりを得よう。 わたしの名号を広くすべての世界に響かせよう。 もし聞えないところがあるなら誓って仏にはなるまい」
【76】また次のように説かれている (無量寿経)。「必ずこの生死の流れを超え離れて浄土に往生し、 ただちに輪廻を断ち切って、 迷いの世界に戻ることなく、 この上ないさとりを開くことができる。 浄土は往生しやすいにもかかわらず、 往く人がまれである。 しかしその国は、 間違いなく本願のはたらきのままに、 すべての人々を受け入れてくださるのである」
【77】『大阿弥陀経』 に説かれている。「生死の流れを超え離れることができる。 阿弥陀仏の浄土に往生すれば、 ただちに輪廻を断ち切って、 迷いの世界に戻ることなく、 この上ないさとりを開くことができる。 浄土は往生しやすいが、 往く人がまれである。 しかしその国には、 間違いなく本願のはたらきのままに、 すべての人々が受け入れられるのである」
【78】断というのは、 往生してさとりを開く他力の信心をおこすのであるから、 もはや未来に迷いの世界の生を受けることがない。 すでに迷いの世界を輪廻する因が消され、 果もなくなるのであるから、 速やかにその迷いの世界の輪廻を断絶してしまう。 だから断というのである。 四流というのは、 迷いの因である*四し暴流ぼる、 すなわち煩悩であり、 また、 迷いの果である四苦、 すなわち生老病死である。
【79】『無量寿経』 に説かれている。「必ず仏のさとりを開いて、 広く迷いの流れを超えるであろう」
【80】また 『平等覚経』 に説かれている。「必ず後に仏となって、 すべての迷いを超えるであろう」
 

 

【81】『涅槃経』 に説かれている。「*涅ね槃はんを島という。 なぜなら涅槃は、 四つの大きな煩悩の河にも、 押し流されないからである。 その四つの河とは、 一つには欲暴流、 二つには有暴流、 三つには見暴流、 四つには無明暴流である。 だから涅槃を島というのである」
【82】善導大師が 『般舟讃』 にいわれている。「すべての行者たちにいう。 凡夫の迷いの世界に執着することなく、 これを厭うべきである。 阿弥陀仏の浄土を軽んじることなく、 これを願い求めるべきである。 厭えば娑婆世界、 すなわち迷いの世界を永久に離れ、 願えば浄土、 すなわちさとりの世界にいつもいる。 迷いの世界を離れると、 迷いの因も滅し、 迷いの果もおのずから滅することになる。 因も果もすでに滅したのであるから、 迷いのかたちも言葉もたちまちになくなってしまうのである」
【83】また 『往生礼讃』 にいわれている。「どうか、 往生を願うすべての人々よ、 よく自分の能力を考えていただきたい。 今、 この一生をもって浄土への往生を願うものは、 いついかなるときも、 心を励ましておこたらず、 昼も夜も念仏を捨ててはならない。 命終るまで一生の間行を修めることは、 いささか苦しいようでもあるが、 この世の命が終って後、 ただちに浄土に生れて、 常にいつまでもさとりの楽しみを受け、 仏となって、 もはや迷いの世界に輪廻しないのである。 なんと楽しいことではないか。 よく知るがよい」
【84】善導大師の 『観経疏』 に 「真の仏弟子」 (散善義) といわれている。 真という言葉は偽に対し、 仮に対するのである。 弟子というのは釈尊や仏がたの弟子であり、 他力金剛の信心を得た念仏の行者のことである。 この他力回向の信と行によって、 必ずこの上ないさとりを開くことができるから、 真の仏弟子という。
【85】『無量寿経』 に説かれている。「わたしが仏になるとき、 すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、 わたしの光明に照らされて、 それを身に受けたなら、 身も心も和やわらいで、 そのようすは人々や神々に超えすぐれるであろう。 そうでなければ、 わたしは決してさとりを開くまい。
わたしが仏になるとき、 すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、 わたしの名号を聞いて、 菩薩の*無む生しょう法忍ぼうにんと、 ※さまざまな深い智慧を得られないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい。
【86】『如来会』 に説かれている。「わたしが仏になるとき、 広くすべての数限りない世界のものたちが、 わたしのすぐれた光明を受けたなら、 身も心も安らいで、 そのようすは人々や神々に超えすぐれるであろう。 そうでなければ、 わたしは決してさとりを開くまい」
【87】また 『無量寿経』 に説かれている。「教えを聞いてよく心にとどめ、 仏を仰いで信じよろこぶものこそわたしのまことの善き友である」
【88】また次のように説かれている (無量寿経)。「信心を得て*安楽あんらく国こくに往生したいと願うものは、 明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである」
【89】また 『如来会』 に説かれている。「他力信心の人は、 広大ですぐれた智慧をそなえたものである」
【90】また次のように説かれている (如来会)。「このように信を得た人々は、 すぐれた徳をそなえたものであり、 広大なさとりが得られる無量寿仏の浄土に往生することができる」 
【91】また 『観無量寿経』 に説かれている。「もし念仏するものがあれば、 まことにその人は、 人々の中でもっともすぐれた尊い人であって、 泥の中に咲く白い蓮の花のようであると知るがよい」
【92】『安楽集』 にいわれている。「いくつかの大乗教典によって、 教えを説くものと聞くものとの心得を明らかにすれば、 『*大集だいじっ経きょう』 には “法を説くものは、 自らをすぐれた医者であると想え。 相手の苦しみを取り除くのであると想え。説き与える法については、 *甘かん露ろの味わいであると想え。 *醍だい醐ごの妙薬であると想え。 その法を聞くものは、 仏法を深く理解し味わう心が成長していくと想え。 病が治ると想え。 このように法を説くもの、 また法を聞くものは、 みな仏法を盛んにすることができ、 いつも仏の前にあるであろう” と説かれている。
また、 『涅槃経』 によれば “仏は、 «もし人が心から常に*念仏ねんぶつ三昧ざんまいを修めるなら、 すべての世界の仏がたが、 あたかも目の前におられるかのように、 いつもこの人を見ていてくださる» と仰せになる” と説かれている。
そこで、 同じく 『涅槃経』 に “仏が迦葉菩薩に、 «もし善良なものが、 常に心からひとすじに念仏するなら、 山の中にいようと村の中にいようと、 昼も夜も、 座っていても臥していても、 仏がたはあたかも目の前におられるかのように、 いつもこの人を見ていてくださる。 そして、 いつもこの人の供養をお受けになってくださる» と仰せになる” と説かれている。
また、 『*大だい智度ちど論ろん』 によれば、 念仏三昧について次のような三つの解釈がある。 “第一には、 仏は無上の*法王ほうおうであって、 菩薩はそれに仕えるものである。 したがって尊び重んじるべきものはただ仏のみである。 だから、 常に仏を念じなければならない。 第二には、 多くの菩薩がたが自ら、 «わたしたちは、 はかり知れない昔から、 仏にわたしたちの*法身ほっしん・智ち身しん・大だい慈悲じひ身しんを養い育てていただいた。 そして*禅ぜん定じょうと智慧、 数限りない願いと行を、 仏によって成就することができたのである。 その恩に報いるために、 常に仏の側そばにお仕えすることを願っている。 ちょうど大臣が、 王の慈しみを受けて、 常にその王のことを思うようなものである» という。 第三には、 多くの菩薩がたがまた、 «わたしたちは因位のとき、 *悪あく知ち識しきに遇って仏法を謗り、 迷いの世界に落ちた。 そこで数限りなく長い間、 さまざまな行を修めたけれども、 そこから出ることはできなかった。 後に、 あるとき善知識に遇い、 念仏三昧を行じることを教えられた。 そのときに、 多くのさわりから解き放たれたのである。 このような大きな利益があるから、 仏のおそばを離れまいと願うのである» と、 このようにいう”
また、 『無量寿経』 には “浄土の往生を願うものは、 必ず信心すなわち菩提心をおこすということがもとになる。 なぜなら、 菩提とは浄土に往生して得られるこの上ないさとりのことだからである。 信心をおこして仏になろうと思うなら、 この信心は広大であって、 すべての世界にあまねく行きわたり、 また、 この信心は長久であって、 はかり知れない未来にまでわたる。 また、 この信心は声聞や縁覚に落ちるさわりをすべて遠ざける。 ひとたびこの信心をおこすなら、 はかり知れない昔から繰り返してきた輪廻を断ち切るのである” と説かれている。
また、 『*大だい悲ひ経きょう』 には “どのようなことを大いなる慈悲というのであろうか。 もし、 もっぱら念仏してやむことがなかったなら、 その人は、 命を終えると間違いなく浄土に往生するであろう。 この念仏を次々に人々に勧めて行じさせるなら、 このような人をすべて大いなる慈悲を行じる人というのである” と説かれている」
【93】善導大師が 『般舟讃』 にいわれている。「ただ嘆かわしいことは、 衆生が疑ってはならないことを疑うことである。 浄土はわたしたちの前にあって何ものも拒むことなく受け入れてくださる。 阿弥陀仏がお救いくださるかどうかを論じる必要はない。 ただ、 わたしたちがひとすじに浄土に往生しようと願うかどうかによるのである。 (中略) あるいはいう。 これからさとりを開くまで、 長く仏の徳をたたえて、 大いなる慈悲の恩に報いていこう。 阿弥陀仏の本願のはたらきを受けることがなかったなら、 はたしていつ迷いの世界を出ることができようか。 (中略) どうしてこのたび浄土に往生することを期待できようか。 実にこれは釈尊のお力によるものである。 釈尊のお勧めがなければ、 阿弥陀仏の浄土にどうしてはいることができようか」
【94】また 『往生礼讃』 にいわれている。「仏が世に出現されている時に生れあわせることはきわめて難しく、 人が信心の智慧を得ることも難しい。 すぐれた尊い法を聞くことは、 またもっとも難しいことである。 自ら信じ、 そして人に教えて信じさせることは、 難しい中でもとくに難しい。 仏の大いなる慈悲によって広く人々を教え導くことは、 まことに仏の恩に報いることになる」
【95】また次のようにいわれている (往生礼讃)。「阿弥陀仏のお体は黄金の山のようである。 その光明はすべての世界を照らす。 ただ本願念仏の行者だけが、 その光明に摂め取られる。 まさに本願のはたらきが最もすぐれているのを知るがよい。 すべての世界の仏がたは広く舌相を示してこのことが真実であることを証明してくださる。 ひとすじに阿弥陀仏の名号を称えて西方浄土に往き生れ、 蓮の花の台座の上で尊い法を聞き、 *十じゅう地じの菩薩の徳がおのずと身にそなわるのである」
【96】また 『観念法門』 にいわれている。「ただ阿弥陀仏を信じて念仏する衆生だけを、 仏の光明は常に照らし、 摂め取ってお捨てにならない。 他の雑行を修めるものを照らして摂め取るとは、 まったくいわれていない。 これもまたこの世で信心の行者をお護りくださるすぐれた力なのである」
【97】また 『観経疏』 にいわれている (序分義)。「『観無量寿経』 に、 “心が喜びに満ちて無生法忍を得る” と説かれているが、 これは阿弥陀仏の浄土の清浄な光明がたちまち目の前に現れると、 踊りあがるほどの喜びに満ちあふれ、 その喜びによって、 無生法忍を得るということを明かされるのである。 この無生法忍を*喜き忍にんともいい、 *悟ご忍にんともいい、 *信忍しんにんともいう。 『観無量寿経』 の*序分じょぶんでは、 まだそれがどこで得られるかということをはっきりとあらわさず、 ただ*韋い提だい希けなどにこの利益を願わせようとされるのである。 心を励ましてただひとすじに、 自らの心のうちに仏を身たてまつろうとするとき、 まさしくこの無生法忍を得るのである。 だから 『観無量寿経』 に説かれる無生法忍は、 凡夫の位で得るものであって、 高位の菩薩が得るものではない」
【98】また次のようにいわれている (散善義)。「『観無量寿経』 の “もし念仏するものは” から “諸仏の家に生ずべし” までは、 念仏三昧の功徳が超えすぐれていて、 雑行とくらべることなどできないことをあらわすのである。 この文は五つの内容に分れる。
一つには、 もっぱら阿弥陀仏の名号を称えることを明かす。 二つには、 その念仏の人をたたえることを明かす。 三つには、 念仏し続ける人はきわめてまれな尊い人であって、 まったくこれとくらべられるものがないことを明かす。 だから清らかな白い蓮の花によってたとえているのである。 白い蓮の花というのは、 人の世に咲くすばらしい花であり、 またたぐいまれな花であり、 またすぐれた花であり、 また美しい花である。 この花は、 古くからめでたい花といい伝えられている。 すなわち念仏する人は、 人々の中のすばらしい人であり、 美しい人であり、 すぐれた人であり、 たぐいまれな人であり、 もっともすぐれた人なのである。 四つには、 ひとすじに阿弥陀仏の名号を称える人には、 *観音かんのん・*勢せい至しがいつも影のようにつきそって護ってくださり、 親しい友となてくださるということを明かす。 五つには、 この世ではすでにこのような利益を受け、 命を終えれば仏の家、 すなわち浄土に生れ、 いつも尊い法を聞き、 また仏がたの世界をめぐって供養し、 成仏の因も果も満たされる。 すなわち浄土に生れてさとりを開くことは決して遠いことではないことを明かす」
【99】*王おう日にっ休きゅうが 『*龍りゅう舒じょ浄じょう土ど文もん』 にいっている。「『無量寿経』 をうかがうと、 “すべての人々は、 阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、 浄土に生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、 不退転の位に至るのである” と説かれている。 不退転の位とは、 インドの言葉では*阿あ惟ゆい越おっ致ちという。 『*法華ほけ経きょう』 には、 “*弥み勒ろく菩ぼ薩さつが長い間行を修めて得られた位である” と説かれている。 信じ喜ぶまさにそのとき往生する身に定まれば、 すなわち弥勒菩薩と同じ位になる。 仏のお言葉にいつわりはない。 この 『無量寿経』 はまことに往生の近道であり、 迷いを離れることができる不可思議な方法である。 みなこの経を信じるべきである。
【100】『無量寿経』 に説かれている。「釈尊が弥勒菩薩に、 “この世界からは、 不退転の位にある六十七億の菩薩が阿弥陀仏の浄土に往生するであろう。 その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、 その位は、 弥勒よ、 そなたと同じである” と仰せになる」
 

 

【101】また 『如来会』 に説かれている。「釈尊が弥勒菩薩に、 “この娑婆世界に七十二億の菩薩がいるが、 その菩薩たちは数限りない仏がたのもとで多くの功徳を積んで不退転の位を得ており、 みな阿弥陀仏の浄土に生れるであろう” と仰せになる」
【102】*律りっ宗しゅうの用欽師がいっている。「教えの深いことは、 『華厳経』 の説く至極の法、 『法華経』 の説く至妙の法に及ぶものはない。 しかしながら、 すべての衆生が将来さとりを得ることを約束されているのではない。 すべての衆生がこの世の命を終えて後に、 みなこの上ないさとりを得ることを約束されるのは、 まことに阿弥陀仏の不可思議な功徳による利益である」
【103】いま、 まことに知ることができた。 弥勒菩薩は*等覚とうがくの金剛心を得ているから、 *竜りゅう華げ三さん会ねのときに、 この上ないさとりを開くのである。 念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、 この世の命を終えて浄土に生れ、 たちまちに完全なさとりを開く。 だから、 すなわち弥勒菩薩と同じ位であるというのである。 そればかりでなく、 他力の金剛心を得たものは、 韋提希と同じように、 喜忍・悟忍・信忍の三忍を得ることができる。 これは往相回向の信心をいただいたからであり、 阿弥陀仏の不可思議な本願によるからである。
【104】*禅ぜん宗しゅうの*智ち覚かくが 『楽邦文類』 に、 念仏の行者をほめていっている。「不可思議なことである。 仏の力は思いも及ばないものであり、 いまだかつてない尊いものである」
【105】律宗の元照師がいっている。「ああ、 *智ち者しゃほど教義と実践に通じていたものはいない。 彼もまた臨終には 『観無量寿経』 を仰ぎ、 阿弥陀仏の浄土をたたえてこの世を去った。 *杜と順じゅんほど*法界ほうかいの教理に達していたものはいない。 彼もまた出家や在家の人々に勧めて念仏し、 臨終に奇瑞を感得して、 西方浄土に往生した。 *高こう玉ぎょくや智覚ほど禅定に入って自己の本性を見たものはいない。 彼らもまた仲間とともに念仏し、 すぐれた往生をとげた。 *劉りゅう程てい之しや*雷らい次じ宗そう、 *柳りゅう子し厚こうや*白楽はくらく天てんほど儒学者の中で学識のあったものはいない。 ところが彼らもまた、 誠実な心を文にあらわして、 浄土に生れたいと願った」
【106】さきに仮といったのは、 聖道門の人々、 および浄土門における自力の人々のことである。
【107】そこで善導大師が 『般舟讃』 にいわれている。「仏教には八万四千の法門といわれる多くの教えが説かれている。 これはまさに衆生の資質がさまざまに異なっているからである」
【108】また 『*法ほう事じ讃さん』 にいわれている。「*方便ほうべん仮け門もんの教えも、 その目的は等しくて異なることがない」
【109】また 『般舟讃』 にいわれている。「衆生の資質に応じてさまざまに説かれた教えを*漸ぜん教ぎょうというが、 一万*劫こうの長い間行を修めて、 はじめて無生法忍を得るのである」
【110】さきに偽といったのは、 *六十二種の誤った考えを持つ人々や*九く十じゅう五ご種しゅのよこしまな教えにしたがう人々のことである。
【111】『涅槃経』 に説かれている。「釈尊は常に、 “九十五種のよこしまな教えを学ぶものは、 みな地獄や*餓鬼がきや*畜ちく生しょうの世界に落ちる” と仰せになる」
【112】善導大師が 『法事讃』 にいわれている。「九十五種のよこしまな教えはみな、 世の人々を惑わしている。 ただ仏の教えだけが清らかである」
【113】いま、 まことに知ることができた。 悲しいことに、 愚禿親鸞は、 *愛欲あいよくの広い海に沈み、 *名みょう利りの深い山に迷って、 正定聚に入っていることを喜ばず、 真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない。 恥しく、 嘆かわしいことである。
【114】さて、 仏は治しがたい病のものについて、 『涅槃経』 に説かれている。「迦葉よ、 世の中にはその病を治しがたい三種類の人がいる。 一つには大乗の法を謗るもの、 二つには五逆罪を犯すもの、 三つには一闡提である。 このような三種類の人の病は、 この世でもっとも重く、 これらはみな声聞や縁覚や菩薩などの教えでは治すことができるものではない。 善良なものよ、 たとえばそのままでは治すことができずに必ず死んでしまう病にかかった時、 適切な看病と名医と良薬があるようなものである。 適切な看病と名医と良薬がなかったなら、 これらの病は決して治すことはできず、 この人が必ず死ぬことは疑いないのである。 善良なものよ、 いまの三種類の人もまたこの通りである。 これらの人は仏・菩薩にしたがって、 すべてのものをさとりに至らせる尊い法を聞いてその病が治り、 無上菩提心をおこすであろう。 声聞や縁覚や菩薩などは法を説く説かないにかかわらず、 これらの人に無上菩提心をおこさせることができない」
【115】また次のように説かれている (涅槃経)。「そのとき、 王舎城に*阿あ闍じゃ世せという王がいた。 その性質は凶悪で好んで生きものを殺し、 乱暴な言葉遣いをし、 二枚舌を使い、 嘘をつき、 きれいごとを並べ、 心は貪りと怒りと愚かさばかりがただ激しく盛んであった。 (中略) 悪い仲間にしたがい、 この世のさまざまな欲望にとらわれ、 その楽しみにふけって、 罪もない父の王を非道にも殺害した。 父を殺したことにより、 後悔の念にさいなまれ、 熱を出して苦しむことになった。 (中略) そのために、 全身にできものができた。 そのできものは汚くて悪臭を放ち、 側へよることもできないほどであった。 そこで王は自ら “わたしは今この身に、 すでに悪い報いを受けた。 地獄へ堕ちて苦しみを受けるのも、 遠いことではないだろう” と考えた。
そのとき、 王の母親の韋提希が、 さまざまな薬を阿闍世王に塗ったけれども、 そのできものはただ増えるばかりで、 少しも減らなかった。 王は母に “このできものは心から生じたものであって、 体からおこったものではありません。 もし治せるというものがいても、 そのような道理はありません” といった。
そのとき月がっ称しょうという大臣がいて、 王のもとへ行き、 傍かたわらに立って “王さま、 なぜ愁え悲しんで、 お顔の色がすぐれないのですか。 体の苦しみでしょうか、 心の苦しみでしょうか” といった。 王は月称に “どうして身も心も苦しまずにおられようか。 わが父には罪がないのに、 非道にも殺害してしまったのである。 わたしはかつて智慧ある人から次のように聞いたことがある。 «世の中には五種の悪人がいて、 そのものは地獄に堕ちることを免れない。 それは五逆罪をおかした人である» と。 わたしは今すでに、 はかることのできない多くの罪がある。 どうして身も心も苦しまずにおられようか。 このようなわたしの身と心とを治す良い医者はいないであろう” と答えた。 それを聞いて月称は王に次のようにいった。 “どうが王さま、 あまりお悩みなさいますな。 詩にも «いつも憂え苦しんでいると、 憂いはだんだん増すものである。 人が眠りを好むなら、 眠りはますます多くなる。 色を好み酒を好むことも、 またこの通りである» といわれています。 王は «世の中には五種の悪人がいて、 そのものは地獄に堕ちることを免れない» といわれますが、 だれか地獄へ行って見てきた上で、 王に申しあげたのでしょうか。 地獄というのは、 ただ世間で知恵者といわれている多くのものたちがいっているだけのことです。 王は、 «世の中にわたしの身と心とを治す良い医者はいないであろう» といわれますが、 今すぐれた医者がいます。 *富ふ蘭らん那なといいます。 この方はすべてのことがらに通じ、 すべてに自在であり、 清らかな行を修め尽し、 常に数限りない人々のために、 この上ないさとりへの道を説いています。 そしてたくさんの弟子たちに対して、 次のように教えを説いております。 «悪い行いというものはないから悪い行いの報いもない。 善い行いというものはないから善い行いの報いもない。 すなわち善い行いも悪い行いもないのであるから善い行いや悪い行いの報いもないのである。 行いにすぐれているとか劣っているとかはないのである» と。 この方が今王舎城内にいます。 どうか王さま、 その方のもとへ足をお運びいただいて、 王さまの身と心とを治してもらってください” そこで王は “間違いなくこのわたしの罪が除かれるなら、 わたしはその方に帰依しよう” と答えた。
また蔵徳じうとくという大臣がいて、 この人も王のもとへ行き、 “王さま、 どうしてお顔の色がすぐれず、 口も渇いて、 お声も弱々しくなっておられるのですか。 (中略) どこが苦しいのですか。 体の苦しみでしょうか、 心の苦しみでしょうか” といった。 そこで王は “どうして身も心も苦しまずにおられようか。 わたしは愚かものであり智慧の眼まなこがなかったのである。 多くの悪い友達に近づき、 しかも悪人の*提だい婆ば達だっ多たの言葉にしたがい、 正しく国を治めていた王を非道にも殺害してしまったのである。 わたしは昔、 智慧ある人が次のような詩で教えを説くのを聞いた。 «もし父や母、 仏やその弟子に対して、 善くない心をおこし、 悪い行いをするなら、 その報いとして無間地獄に堕ちる» と。 そこで、 わたしは心に恐れをいだき、 大いに苦しみ悩んでいるのである。 そしてまた、 わたしを治してくれる良い医者はいないであろう” と答えた。 それを聞いて、 蔵徳がまた次のようにいった。 “どうか王さま、 あまりお悩みなさいますな。 法というものには二通りあります。 一つには出家の法であり、 二つには王法であります。 王法というのは、 自分の父を殺して、 すなわち国の王となるのです。 これは逆罪といわれても、 その実は罪ではないのであります。 たとえば*迦羅羅からか虫ちゅうが、 必ず母の腹を破ってから生れるようなものです。 この虫にそなわった生れ方がこの通りなのですから、 母の身を破っても罪はありません。 騾馬らばは子をはらんで死ぬといいますが、 これらのこともまた同じです。 国を治める法も、 法としてはこれと同じであります。 父や兄を殺したといっても罪があるわけではありません。 出家の法はこれと違って、 蚊や蟻のようなものを殺すことでさえ、 罪になるのです。 (中略) 王は «世の中にわたしの身と心とを治すような良い医者はいないであろう» といわれましたが、 今立派な方がいます。 *末伽梨まかり拘く賖しゃ梨子しりといます。 この方はすべてのことがらに通じており、 衆生を赤子のように哀れみ、 すでに自らは煩悩を離れていて、 衆生の身に突き刺さっている*三毒さんどくの鋭い矢を抜き取ってくださいます。 (中略) この方が、 今王舎城にいます。 どうか王さま、 そこへおいでになってください。 この方に会われたなら、 王さまのすべての罪がなくなるでしょう” そこで王は “間違いなくこのわたしの罪が除かれるなら、 わたしはその方に帰依しよう” と答えた。
また実徳じっとくという大臣がいて、 やはり王のもとへ行き、 詩を詠よんで “王さま、 どのようなわけで、 身につけた飾りものを取り、 髪もそれほどまでに乱れているのでしょうか。 どうしてそのような姿をしておられるのでしょうか。 (中略) それは心の苦しみでしょうか、 体の苦しみでしょうか” といった。 そこで王は次のように答えた。 “どうして身も心も苦しまずにおられようか。 わが父である先王は、 情深い方で、 とくに人々を哀れみ、 少しも罪のない方であった。 わたしが生れるとき、 父が占い師に見てもらったところ、 占い師は «この子は生れて後、 必ず父を殺すでしょう» と答えた。 父はこの言葉を聞いたけれども、 それでも大事に育ててくださったのである。 わたしはかつて智慧ある方がこのようにいわれたのを聞いたことがある。 «もし人が母と通じ、 *比丘びく尼にを汚し、 教団のものを盗み、 無上菩提心をおこした人を殺し、 また父を殺すなら、 このような人は必ず無間地獄に堕ちるに違いない» と。 今、 身も心もどうして苦しまずにおられようか” それを聞いて、 実徳がまた次のようにいった。 «どうか王さま、 お悩みなさいますな。 (中略) すべての衆生には、 過去になした行いのうち、 まだその結果のあらわれていないものがあります。 それが縁となって、 生死を繰り返すのです。 もし先王が過去の世になした行いがもととなって死ぬのであれば、 王さまが今先王を殺したといっても、 王さまに何の罪がありましょうか。 どうか王さま、 気を楽にして、 お悩みなさいますな。 «いつも憂え苦しんでいると、 憂いはだんだん増すものである。 人が眠りを好むなら、 眠りはますます多くなる。 色を好み酒を好むことも、 またこの通りである» という詩もあることですから。 (中略) *刪闍さんじゃ耶や毘羅びら胝てい子しという方がいます”
また悉しっ知義ちぎという大臣がいて、 王のもとへ行き、 このようにいった。 (中略) そこで王は “どうして身も心も苦しまずにおられようか。 (中略) 先王には罪がないのに非道にも殺害してしまったのである。 わたしはかつて智慧ある方がこのように説かれたのを聞いたことがある。 «もし父を殺すようなことをすれば、 はかり知れない長い間大きな苦悩を受けなければならない» と。 わたしはそう遠くないうちに、 必ず地獄に堕ちるであろう。 そしてまた、 わたしの罪を除き治してくれるような良い医者はいないであろう” と答えた。 それを聞いて、 悉知義が次のようにいった。 “どうか王さま、 お悩みなさいますな。 王はこういうことを聞かれなかったでしょうか。 昔、 羅摩らまという王がいました。 この王は、 その父を殺して王位を継ぎました。 跋提ばつだい大王・毘楼びる真しん王・那睺なご沙しゃ王・迦か帝てい迦か王・毘び舎佉しゃきゃ王・月光がっこう明みょう王・日光にっこう明みょう王・愛あい王・持多じた人にん王など、 これらの王はみな、 その父を殺して王位を継ぐことができたのです。 ところが一人の王も地獄に堕ちたものはありません。 今現に*毘び瑠璃るり王・優陀うだ邪や王・悪あく性しょう王・鼠そ王・蓮れん華げ王などがいますが、 これらの王は、 みなその父を殺しました。 しかしだれ一人として憂え悩んでいる王はありません。 地獄や餓鬼や神々の世界などというけれども、 だれか見たものがいるのでしょうか。 王さま、 この世の生には二つしかありません。 一つには人間であり、 二つには畜生であります。 この二つがありますけれども、 人間・畜生として生れ死ぬことは、 因縁によるのではありません。 因縁によるのでなければ、 そのようなものに善や悪があるといえるのでしょうか。 どうか王さま、 お悩みなさいますな。 «いつも憂え苦しんでいると、 憂いはだんだん増すものである。 人が眠りを好むなら、 眠りはますます多くなる。 色を好み酒を好むことも、 またこの通りである» という詩もあるのですから。 (中略) *阿あ耆多ぎた翅し舎しゃ欽きん婆羅ばらという方がいます” (中略)
また吉徳きっとくという大臣がいて、 (中略) 次のようにいった。 “地獄というのはどのような意味であるのか、 わたしが説明しましょう。 地とは大地の地のことであり、 獄とは破ることです。 地獄を破っても罪の報いはありません。 地獄とはこのような意味なのです。 また、 地とは人間のことであり、 獄とは神々のことです。 父を殺すことによって人間や神々の世界に生れます。 このようなわけで、 婆蘇ばそ仙人は «羊を殺して人間や神々の世界の楽しみを得る» といっております。 地獄とはこのような意味なのです。 また、 地とは命のことであり、 獄とは長いということです。 生きものを殺すことで長い寿命を得るのです。 地獄とはこのような意味なのです。 王さま、 このようなわけですから、 実際には地獄というものはありません。 王さま、 麦を植えれば麦を得、 稲を植えれば稲を得られるように、 地獄を殺せばまた地獄に生れ、 人を殺せばまた人に生れるのであります。 王さま、 これからわたしが申すことをお聞きください。 そもそも殺害ということはないのであります。 もし不滅の実体というものがあるなら、 それを殺すことはできません。 もし不滅の実体というものがないなら、 それが殺されるということもないのです。 なぜなら、 不滅の実体というものがあれば、 それは常に変りません。 変らない永久の存在であるから、 殺害することはできないのです。 破られも壊されもせず、 つながれも縛られもせず、 怒りも喜びもないのは、 ちょうど虚空のようであります。 どうして殺害の罪がありましょうか。 また、 不滅の実体というものがなければ、 すべてのものは*無む常じょうであります。 無常であるから一瞬一瞬に滅び去ります。 すべては一瞬一瞬に滅び去るのですから、 殺したものも殺されたものも一瞬一瞬に滅び去るのです。 もし一瞬一瞬に滅び去るなら、 だれに罪がありましょうか。 王さま、 それは火が木を焼いても火には罪がなく、 斧が樹をきっても斧には罪がなく、 鎌が草を刈っても鎌には罪がないようなものです。 また、 刀が人を殺しても、 刀は人ではないのだから、 刀には罪がないようなものです。 人にもどうして罪がありましょうか。 また、 毒が人を殺しても、 毒は人ではないのだから、 毒薬には罪がないようなものです。 人にもどうして罪がありましょうか。 すべてのものはみなこの通りです。 もとより殺害ということはないのです。 どうしてその罪がありましょうか。 どうか王さま、 お悩みなさいますな。 «いつも憂え苦しんでいると、 憂いはだんだん増すものである。 人が眠りを好むなら、 眠りはますます多くなる。 色を好み酒を好むことも、 またこの通りである» という詩もあることですから。 (中略) 今立派な方がいます。 *迦羅から鳩駄くだ迦か旃せん延えんといいます”
また無む所しょ畏いという大臣がいて、 次のようにいった。 “今立派な方がいます。 *尼に乾けん陀だ若にゃ提だい子しといいます” (中略)
そのとき*耆婆ぎばというすぐれた医者がいて、 王のもとに行き “王さま、 安らかに眠れますか、 どうでしょうか” といった。 王は詩をもって答えていった。 (中略) “耆婆よ、 わたしは今重い病にかかっている。 正しく国を治めていた王を非道にも殺害してしまったのである。 どのような名医も良薬も呪術も行き届いた看病も、 この病を治すことはできない。 なぜなら、 わたしの父は王として正しく国を治めており、 まったく罪はなかったのに、 非道にも殺害してしまったからである。 今のわたしは魚が陸ににいるようなものである。 (中略) わたしは昔、 智慧ある人が次のように教えを説かれるのを聞いた。 «身・口・意の三業が清浄でないなら、 この人は必ず地獄に堕ちるのである» と。 わたしもまたそうなるのである。 これがどうして安らかに眠ることができようか。 どのようにすぐれた医者でも、 今のわたしを治すことはできない。 病を治す薬となる教えを説いてわたしの苦しみを除くことはできないのである” と。 耆婆が答えていう。 “善いことを仰せになりました。 王さまは罪をつくりましたが、 深く後悔して*慚ざん愧ぎの心をいだいておられます。 王さま、 仏がたは常に次のように説いておられます。 二つの清らかな法があって、 衆生を救うことができます。 その法とは、 一つには慚であり、 二つには愧であります。 慚とは自分が二度と罪をつくらないことであり、 愧とは人に罪をつくらせないことです。 また慚とは心に自らの罪を恥じることであり、 愧とは人に自らの罪を告白して恥じることです。 また慚とは人に対して恥じることであり、 愧とは天に対して恥じることです。 これを慚愧といいます。 慚愧のないものとは人とは呼ばず、 畜生と呼びます。 慚愧があるから父や母、 師や年長のものを敬い、 慚愧があるから父や母、 兄弟姉妹の関係もたもたれるのです。 今王さまが十分に慚愧の心をいだいておられるのは、 実に善いことです。 (中略) 王は、 «この病を為すことはできないであろう» といわれますが、 王さま、 迦か毘羅びら城に*浄じょう飯ぼん王の王子で、 姓は*瞿く曇どん、 名は*悉達しっだっ多たといわれる方がおられます。 師につかずに、 おのずからこの上ないさとりを開かれました。 (中略) この方は仏・世尊であります。 金剛の智慧をそなえておられ、 衆生のすべての罪悪を破ることができます。 王さまの病を治せないという道理はありません。 (中略) 王さま、 この如来の従弟には提婆達多というものがいます。 彼は教団の和を乱し、 仏の体に傷をつけて出血させ、 *蓮れん華げ比丘尼を殺して、 五逆罪の中の三つまで犯しました。 しかし、 如来はこの人のためにさまざまな尊い法を説いて、 その重い罪を軽くしておやりになりました。 だから、 如来は実にすぐれた医者なのであります。 これまでにお聞きになった六人の師などとは違います” (中略)
そのとき “王よ、 一つの逆罪を犯せば間違いなくそれに相当する罪の報いを受ける。 もし二つの逆罪を犯せばその二倍の報いを受けることになる。 五逆罪をすべて犯せばその報いもまた五倍になるのである。 王よ、 よいか、 そなたの悪い行いの罪は決して免れることはできないものと知れ。 王よ、 速やかに仏のもとに行がよい。 仏の他にはだれも救うことはできない。 わたしは今そなたを哀れむからこそ、 このように勧め導くのである” という声が聞えた。 王はこの言葉を聞きおわって、 身も心も恐れおののき、 さながら芭蕉の樹のように全身を震わせた。 そして、 空を仰いで “天におられるのはどなたです。 姿は見えずにただ声だけが聞えますが” といった。 すると “王よ、 わたしなそなたの父、 *頻びん婆ば娑しゃ羅らである。 そなたは今耆婆 のいったことにしたがうがよい。 誤った考えを持つ六人の大臣の言葉にしたがってはならない” という声がした。
その声を聞きおわって、 阿闍世王は悶もだえ苦しみ気絶して大地に倒れた。 できものは体中に増え広がり、 前にも増して汚くなりひどい悪臭を放った。 薬を塗って冷し、 できものを治療したけれども、 それはじくじくして毒のためにますます熱を持ち、 増えることはあっても減ることはなかった」
ここで六人の大臣の名と、 その勧めた六師の名をあげると次の通りである。
一、 月称という大臣は、 富蘭那を勧めた。
二、 蔵徳という大臣は、 末伽梨拘賖梨子を勧めた。
三、 実徳という大臣は、 刪闍耶毘羅胝子を勧めた。
四、 悉知義という大臣は、 阿耆多翅舎欽婆羅を勧めた。
五、 吉徳という大臣は、 迦羅鳩駄迦旃延を勧めた。
六、 無所畏という大臣は、 尼乾陀若提子を勧めた。
【116】また次のように説かれている (涅槃経)。「釈尊は次のように仰せになった。 “善良なものよ、 わたしはさきにいった通り、 阿闍世のために涅槃に入らない。 このことの深い意味を、 そなたはまだ理解できないであろう。 それはどういう意味かといえば、 わたしが «ために» というのは、 すべての凡夫のためにということである。 «阿闍世» とは、 広くすべての五逆罪を犯すもののことである。 また «ために» とは、 迷えるすべての衆生のためにということである。 わたしは迷いを離れて真理をさとった衆生のために世にとどまっているのではない。 なぜなら、 真理をさとったものはもはや衆生ではないからである。 «阿闍世» とは、 あらゆる煩悩をそなえたもののことである。 また、 «ために» とは仏性をさとっていない衆生のためにということである。 わたしは仏性をさとっているもののために長く世にとどまるのではない。 なぜなら、 仏性をさとっているものはもはや衆生ではないからである。 «阿闍世» とは、 まだ無上菩提心をおこさないすべてのもののことである。 (中略) また、 «ために» とは仏性のことである。 «阿闍» とは不生のことであり、 «世» とは怨のことである。 仏性を生じないから煩悩の怨が生じ、 煩悩の怨が生じるから仏性を知らないのである。 あるいは、 煩悩の怨を生じないから仏性をさとり、 仏性をさとるから*無む上じょう涅ね槃はんに安住することができるのである。 これを不生というのである。 これが «阿闍世のために» ということの意味である。 善良なものよ、 また «阿闍» とは不生のことであり、 不生とは涅槃のことである。 «世» とは世間のことがらのことである。 «ために» とは汚されないということである。 仏はさまざまな世間のことがらに汚されることがないから、 はかり知れない長い間涅槃に入らない。 そこで、 わたしは «阿闍世のためにはかり知れない長い間涅槃に入らない» というのである。 善良なものよ、 如来の奥深い言葉は不可思議である。 仏・法・僧の三宝もまた不可思議である。 菩薩もまた不可思議である。 『涅槃経』 もまた不可思議である”
そのとき、 慈悲に満ちた導師である釈尊は、 阿闍世のために月愛がつあい三昧にお入りになり、 三昧に入りおわって大いなる光明を放たれた。 その光は清らかですがすがしく、 王のもとへ至ってその身を照らすと、 全身のできものはたちまち癒えたのである。 (中略) 王は耆婆に、 “あの方は神々の中でももっとも尊い方である。 どのようなわけでこの光明を放たれたのであろうか” といった。 “王さま、 今如来が光明を放たれたのは、 王さまのためになさったことと思われます。 王さまがご自身の体と心とを治す良い医者は世の中にいないといわれましたので、 如来は、 この光明を放ってまず王さまの体を治してくださったのです。 その後王さまの心をお救いくださるのです” と耆婆がいった。 王が耆婆に、 “※如来は、 わたしのようなものにも会ってくださり、 心をかけてくださるのであろうか” と尋ねた。 耆婆は答えた。 “たとえばあるものに七人の子がいたとしましょう。 その七人の子の中で一人が病気になれば、 親の心は平等でないわけはありませんが、 その病気の子にはとくに心をかけるようなものであります。 王さま、 如来もまたその通りです。 あらゆる衆生を平等に見ておられますが、 罪あるものにはとくに心をかけてくださるのです。 放逸のものに如来は慈しみの心をかけてくださるのであり、 不放逸のものにとくに心をかけられることはないのです。 不放逸のものとはどういうものかというと、 *初しょ地じから六地までの位にある菩薩のことです。 ※王さま、 仏がたはあらゆる衆生に対して、 その生れや老若や貧富の違い、 また、 生れた日の善し悪しなどを見られるのでもなく、 手仕事をしているとか低い身分であるとか召使いのものであるとかを見られるのでもありません。 たとえば王さまのおこされた慚愧の心のように、 善の心のある衆生を、 ただご覧になるのです。 そして、 もし善の心があるなら、 慈しみの心をかけてくださるのであります。 王さま、 この光明は如来が月愛三昧に入って放たれたものに違いありません”
王は “月愛三昧とはどのようなものをいうのか” と尋ねた。
耆婆が答える。 “たとえば月の光がすべての青い蓮の花を鮮やかに咲かせるようなものであります。 月愛三昧もまた同じです。 衆生に善の心をおこさせます。 だから月愛三昧というのです。 王さま、 たとえば月の光がすべての路行く人の心に喜びをおこさせるようなものであります。 月愛三昧もまた同じです。 さとりへの道を修めるものの心に喜びをおこさせます。 だからまた、 月愛三昧というのです。 (中略) あらゆる善の中でもっともすぐれたものであり、 甘露の味わいであり、 すべての衆生が願い求めるものであります。 だからまた、 月愛三昧というのです” (中略)
そのとき、 釈尊は弟子たちに、 “どのような衆生もこの上ないさとりに近づくためには、 まず善き友を縁とするに越したことはない。 阿闍世が、 耆婆の言葉にしたがわなかったなら、 来月の七日には必ず命が尽きて無間地獄に堕ちるところであった。 だから、 この上ないさとりに近づくためには、 善き友を縁とするに越したものはない” と仰せになった。
阿闍世はまた、 釈尊のもとへ行く途中で、 “*舎しゃ衛え国こくの毘瑠璃王は、 船に乗って海に出かけたけれども火事に遇って死んだ。 また*瞿く伽離かり比丘は、 大地が裂けて生きながら無間地獄に堕ちた。 また*須しゅ那な刹せっ多たは、 さまざまな悪をつくったけれども、 仏のもとに行き、 そのすべての罪が消滅した” ということを聞いた。 阿闍世はこの話を聞いて、 耆婆に “わたしは今、 このような二つの話を聞いたけれども、 まだ不安でならない。 そなたが来たからには、 耆婆よ、 わたしはそなたと同じ像に乗りたいと思う。 わたしが無間地獄へ堕ちそうになっても、 どうかつかまえて、 わたしが堕ちないようにしてくれ。 なぜなら、 わたしは以前に、 «道を得た人は地獄に堕ちない» と聞いているからである” といった。 (中略)
釈尊が仰せになる。 “どうして、 きっと地獄に堕ちてしまうというのか。 王よ、 すべての衆生がつくる罪には、 総じて二つある。 一つには軽いもの、 二つには重いものである。 心と口とにつくる罪は軽く、 身と口と心とにつくる罪は重いのである。 王よ、 心に思い、 口にいうだけで、 身に行わないなら、 その報いは軽い。 王は昔、 父王を殺せと口で命じたのではなく、 ただ足を傷つけて幽閉せよといったのである。 王がもし家来に、 父王の首を切れと命じたなら、 家来はただちにそのようにしたであろう。 そのとき父王の首を切ったとしても、 命じただけでは王の罪にはならない。 まして王はそのように命じてはいないのだから、 どうして罪になろうか。 王にもし罪があるなら、 仏がたにもまた罪があるであろう。 なぜなら、 そなたの父である頻婆娑羅王は、 いつも仏がたを供養して多くの功徳を積んでいたから王位につくことができたのであって、 仏がたがその供養をお受けにならなかったなら、 王位につくことはなかったのである。 王位につかなかったなら、 そなたが国を奪うために父王を殺害するということもなかったであろう。 そなたが父を殺し、 それが罪になるのなら、 わたしを含めて仏がたにもまた罪があるはずである。 仏がたに罪がないのなら、 そなただけにどうして罪があろうか。
王よ、 頻婆娑羅王は昔、 悪い心をおこしたことがある。 すなわち*毘富羅びふら山に猟にでかけ、 鹿を射ようとして広野を歩きまわったことがあり、 そのとき、 一頭の鹿も得ることができなかった。 そこにはただ*五つの神通力をそなえた仙人が一人いるだけだった。 頻婆娑羅王はこの仙人を見て大いに怒り、 悪い心をおこしたのである。 «わたしが今猟に来ているのに獲物が得られないのは、 このものが追い払って逃したからだ» と思い、 そこで家来に命じてこの仙人を殺させてしまった。 仙人は命が終るときに怒りの心をおこして神通力を失い、 «わたしには何の罪もない。 それなのにお前は心と口とで非道にもわたしを殺す。 わたしも来世では、 またお前がしたように、 心と口とできっとお前を殺す» と誓いをたてた。 父王はこれを聞いて後悔の念にかられ、 その亡骸なきがらを供養したのである。 父王はこのようなわけで、 罪が軽くなって地獄には堕ちなかった。 まして王は殺せと命じたわけでもないのに、 地獄に堕ちるはずがあろうか。 父王は自分で罪をつくって、 自分でその報いを受けたのである。 王には父を殺したという罪はない。 王は、 父王に罪がないというけれども、 どうして罪がないといえようか。 罪があれば罪の報いがあり、 罪がなければ罪の報いもないであろう。 そなたの父に罪がないなら、 どうして殺されるという報いがあろうか。 頻婆娑羅王はこの世で、 王になるという善の果報と、 殺されるという悪の報いとを得た。 だから、 父王は、 善とも悪ともいえない。 善悪不定であるから、 これを殺してもそれは善悪不定である。 殺したことが善悪不定なら、 どうして間違いなく地獄に堕ちるといえようか。
王よ、 衆生の錯乱に総じて四通りがある。 一つには*貪欲とんよくによるもの、 二つには薬によるもの、 三つには呪われたことによるもの、 四つには過去の行いによるものである。 王よ、 わたしの弟子たちの中にも、 この四つの錯乱がある。 錯乱したものが多くの悪をつくったとしても、 わたしはこの人が*戒律かいりつを犯したとはしない。 錯乱したものが作った悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。 もし正気に戻ったなら、 そのものが戒律を犯したとはいわないのである。 王は、 かつて国王の位につきたいという心から父王を殺害した。 それは貪欲による錯乱からしたのであるから、 どうして罪になろうか。 王よ、 人が酒によって母を殺し、 酔いが醒めてから後悔するようなものである。 この行いもまた報いを受けないものと知るがよい。 王は今貪欲による錯乱から王を殺害したのであって、 正気でしたことではない。 正気でしたことでないのなら、 そうして罪になろうか。
王よ、 たとえば幻術師が、 街の四つ角でさまざまな男女、 象や馬、 飾り物や衣服などの幻を見せるようなものである。 愚かな人はそれを真実と思うが、 賢い人は真実ではないと知っている。 殺害もまた同じである。 凡夫は真実と思っているが、 仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。 王よ、 また山びこのようである。 愚かな人は真実の声と思うが、 賢い人はそれが真実の声ではないと知っている。 殺害もまた同じである。 凡夫は真実と思っているが、 仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。 王よ、 また怨みをいだいているものがいつわって親しげに近づいてくるようなものである。 愚かな人は本当に親しくなったように思うが、 賢い人はそれが嘘いつわりであると知っている。 殺害もまた同じである。 凡夫は真実と思っているが、 仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。 王よ、 また人が鏡を持って自分の顔を見るようなものである。 愚かな人はそれが真実の顔と思うが、 賢い人はそれが真実の顔ではないと知っている。 殺害もまた同じである。 凡夫は真実と思っているが、 仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。 王よ、 また逃げ水のようである。 愚かな人はこれを水であると思うが、 賢い人はそれが水ではないと知っている。 殺害もまた同じである。 凡夫は真実と思っているが、 仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。 王よ、 また蜃気楼のようである。 愚かな人は真実と思うが、 賢い人はそれが真実のものではないと知っている。 殺害もまた同じである。 凡夫は真実と思っているが、 仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。 王よ、 また夢の中で*五ご欲よくの楽しみを受けるようなものである。 愚かな人はこれを真実と思うが、 賢い人はそれが真実ではないと知っている。 殺害もまた同じである。 凡夫は真実と思っているが、 仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。
王よ、 殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、 そしてそれからの逃れ方もわたしはすべて知っているが、 わたしに罪があるのではない。 王が殺害のことを知っていても、 どうして罪があろうか。 王よ、 たとえば人が酒についてよく知っていても、 飲まなければ酔わないようなものである。 また火について知っていても燃えないようなものである。 王もまた同じである。 殺害のことを知っていても、 どうして罪があろうか。 王よ、 ある人が太陽の出ているときにはさまざまな罪を犯し、 また月の出ているときには盗みを働き、 そして、 太陽や月が出ていないときには罪を犯さないとしよう。 この場合、 太陽や月によって罪を犯すけれども、 しかしこの太陽や月には罪があるのではない。 殺害もまた同じである。 (中略)
王よ、 またたとえば、 涅槃が有でもなく無でもなくて、 しかも有であるようなものである。 殺害もまた同じであり、 有でもなく無でもなくて、 しかも有なのである。 慚愧の心がある人には有ではなく、 慚愧の心がない人には無ではないのであって、 その報いを受ける人からいえば有なのである。 また、 すべては*空くうであると知った人には有ではなく、 すべては有であると考える人には無ではないのであって、 この有の考えにとらわれた人からいえば有なのである。 なぜかというと、 有の考えにとらわれた人は報いを受けるからである。 有の考えにとらわれない人は報いを受けない。 また、 涅槃が変ることなく存在していることをさとっている人には有ではなく、 それをさとらない人には無ではないのであって、 涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることはできない。 なぜかというと、 変ることなく存在していることにとらわれている人には悪い行いの報いがあるからである。 だから、 涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることができないのである。 このようなわけで、 有でもなく無でもなくて、 しかも有なのである。 王よ、 衆生とは呼吸するもののことである。 呼吸を断つから殺害というのである。 衆生の本来は空であるから殺害も空であるが、 仏がたも世間の考え方に合せて、 殺害と説くのである” (中略)
阿闍世が申しあげた。 “世尊、 世間では、 *伊い蘭らんの種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。 伊蘭の種から芳香を放つ*栴檀せんだんの樹が生えるのを見たことはありません。 わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。 伊蘭の種とはわたしのことであり、 栴檀の樹とはわたしの心におこった*無む根こんの信しんであります。 無根とは、 わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、 法宝や僧宝を信じたこともなかったので、 それを無根というのであります。 世尊、 わたしは、 もし世尊にお遇いしなかったなら、 はかり知れない長い間地獄に堕ちて、 限りない苦しみを受けなければならなかったでしょう。 わたしは今、 仏を見たてまつりました。 そこで仏が得られた功徳を見たてまつって、 衆生の煩悩を断ち悪い心を破りたいと思います” と。
釈尊が仰せになる。 “王よ、 よいことである。 わたしは今、 そなたが必ず衆生の悪い心を破ることを知っている” と。
阿闍世が申しあげる。 “世尊、 もしわたしが、 間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、 わたしは、 常に無間地獄にあって、 はかり知れない長い間、 あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、 それを苦しみとはいたしません” と。
そのとき、 *摩訶陀まかだ国の数限りない人々は、 ことごとく無上菩提心をおこした。 このような多くの人々が無上菩提心をおこしたので、 阿闍世の重い罪も軽くなった。 そして阿闍世とともに韋提希夫人や妃や女官たちも、 ことごとくみな無上菩提心をおこしたのである。
そのとき、 阿闍世が耆婆にいった。 “耆婆よ、 わたしは命終ることなくすでに清らかな身となることができた。 短い命を捨てて長い命を得、 無常の身を捨てて不滅の身を得た。 そしてまた、 多くの人々に無上菩提心をおこさせたのである” と。 いまや仏の弟子となった阿闍世は、 こういいおわってから、 さまざまな*法幢ほうどうをささげて仏がたを供養し、 (中略) また、 詩をつくり仏をほめたたえて次のようにいった。
“如来の仰せははなはだすぐれている。 説かれる言葉もその意味内容も、 実に巧みであり、 はかり知れない深い教えがこめられている。 衆生のために、 ときには広大な法義をあらわし、 ときには略して説かれる。 このような言葉で衆生の病を治してくださる。 もし多くの衆生がこの言葉を聞くことができたなら、 信じるものも信じないものも、 必ず仏のおこころを知るであろう。 仏がたは常にやさしい言葉で説かれる。 しかし、 ときには相手に応じてきびしい言葉でも説かれる。 きびしい言葉もやさしい言葉も、 みな*第一だいいち義ぎ諦たいから離れることはない。 このようなわけでわたしは今世尊に帰依したてまつる。 如来の言葉はどれも同じ真実の味わいであり、 ちょうど大海の水のようである。 これを第一義諦というのである。 だから如来の言葉には何一つ無意味なものがない。 老若男女を問わず、 如来が今お説きになったさまざまなはかり知れない法を聞いたものは、 みな同じく第一義諦を得るであろう。 因もなければ果もなく、 生もなければ滅もない。 これを大涅槃というのである。 このことを聞いたものは煩悩の束縛を離れる。 如来はすべての人々のために、 常に慈悲の父母となってくださる。 よく知るがよい。 あらゆる人々はみな如来の子なのである。 世尊が大慈悲をもって衆生のために苦行を修められるようすは、 ちょうど人が魔ものにとりつかれて、 錯乱してさまざまなことをするようである。 わたしは今仏を見たてまつることができ、 身・口・意の三業の善をいただいた。 願わくはこの功徳をこの上ないさとりにふり向けたい。 わたしは今仏・法・僧の三宝を供養したてまつった。 願わくはこの功徳によって、 三宝がいつまでも世にあってほしいと思う。 わたしが今得るであろうさまざまな尊い功徳で、 衆生の*四し趣しゅの悪あく魔まを砕きたい。 わたしはかつて悪知識に遇い、 過去・現在・未来にわたる罪をつくった。 今仏の前にこれを*懴さん悔げする。 願わくはふたたびこのような罪をつくるまい。 願わくはあらゆる人々がことごとく菩提心をおこし、 すべての世界の仏がたを心にかけて常に念じてほしいと思う。 また願わくはあらゆる人々が永久に煩悩を離れ、 *文もん殊じゅ菩ぼ薩さつのように明らかに仏性をさとってほしいと思う”
そのとき、 世尊は阿闍世をほめたたえて仰せになる。 “よろしい。 もし人が菩提心をおこすなら、 その人は仏がたとその*大衆だいしゅをうるわしくととのえるものであると知るがよい。 王よ、 そなたは昔、 *毘び婆尸ばし仏のもとで、 はじめて無上菩提心をおこした。 それ以来、 わたしが世に出るまでの間、 まだ一度も地獄に堕ちて苦しみを受けたことはない。 王よ、 菩提心にはこのようなはかり知れない果報があると知るがよい。 王よ、 今より後は常にまごころこめてさとりを求め努め励むがよい。 なぜなら、 この因縁によって無量の罪悪を消滅することができるからである”
この仰せを聞いて、 阿闍世および摩訶陀国のすべての人々は、 その場を立ち、 うやうやしく仏のまわりを三度めぐって退出し、 王は宮殿に帰ったのである」
【117】また次のように説かれている (涅槃経)。「善良なものよ、 王舎城の王である頻婆娑羅の太子を*善見ぜんけんという。 過去の行いがもととなって邪悪な心をおこし、 父を殺害しようと思っていたが、 その機会がなかった。 ときに悪人の提婆達多もまた過去の行いがもととなって、 わたしに対して悪い心をおこし、 わたしを殺害しようと思っていた。 そこで提婆達多は五つの神通力を身にそなえ、 ほどなく善見と親しい友達となることができた。 そして善見のために神通力でさまざまな不思議をあらわして見せた。 門でないところから出て門から入ったり、 門から出て門でないところから入ったり、 またあるときには、 象・馬・牛・羊・男・女などの姿を示したりしたのである。 善見はこれを見て、 提婆達多を愛し、 喜び、 敬い信じる心をおこした。 そこで、 さまざまな品物をそろえ、 彼にささげて供養したのである。 そしてまた提婆達多に向かって、 “わが師よ、 わたしは今*曼まん陀羅だらの花を見たいと思います” といった。
すると提婆達多は、 すぐさま神通力をもって*Jとう利り天てんに行き、 そこの神々に曼陀羅の花を求めたけれども、 彼の功徳が尽きていたので、 だれも与えてくれない。 花が得られなかったので、 提婆達多は “曼陀羅の樹は草木であるから、 自分とか自分のものとかを考えるような心などない。 もしわたしがこれを取っても何の罪があろうか” と考えた。 そこで、 花に近よって取ろうとすると、 すぐさま神通力を失った。 ふと気がついてわが身を見ると、 王舎城にいたのである。 提婆達多は恥しく思って、 善見に会うことができなかった。 そして、 このような考えをおこした。 “わたしは今、 釈尊のもとへ行って、 その弟子たちをわたしにまかせるようにいおう。 釈尊がもし許したなら、 わたしは思い通りに*舎しゃ利り弗ほつらに指図することができるであろう”
そして提婆達多はわたしのところに来てこのようにいった。 “どうか如来よ、 この弟子たちをわたしにまかせてください。 わたしはさまざまに法を説いて教え導き、 弟子たちの心身をととのえましょう” わたしはこの愚かものに対して答えた。 “舎利弗らはすぐれた智慧をそなえており、 世の人々から信頼されている。 その彼らにさえ、 弟子たちをまかせないのである。 まして、 そなたのような愚かもので、 人の唾つばをなめるようなものに、 どうしてまかせられようか” すると提婆達多はわたしに対してますます悪い心を募らせ、 このようにいった。 “瞿曇よ、 あなたは今多くの弟子たちの心身をととのえているけれども、 その勢いも遠からず滅びてしまうだろう” と。 こういいおわると同時に、 大地が六度打ち震えた。 提婆達多はそのとき地面に倒れると、 その身のまわりに激しい風がまきおこって砂塵を吹きあげ、 提婆達多の体を汚したのである。 提婆達多は自分の見苦しい姿を見て、 またこういった。 “もし、 わたしが生きながらに必ず無間地獄に堕ちるということなら、 わたしもそれと同じひどい仕返しをしてやろう”
そういいおわると提婆達多は立ちあがって、 善見のところへ行った。 善見は提婆達多を見て尋ねた。 “師よ、 あなたはなぜ、 そんなにやつれたご様子で、 憂いに沈んでおられるのですか” 提婆達多がいう。 “わたしはいつもこの通りです。 ご存じないのですか” 善見が答えていう。 “どうかそのわけをお話ください。 なぜそうなのですか” と。 提婆達多がいう。 “わたしは今、 あなたときわめて親しくしています。 宮廷の外では人々があなたのことをののしって、 道理からはずれたものといっています。 わたしがそれを聞いて、 どうして憂えずにいられましょうか” 善見がまたいう。 “この国の人々は、 どのようにわたしをののしっているのですか” 提婆達多がいう。 “この国の人々はあなたをののしって*未み生しょう怨おんと呼んでいます” 善見がまたいう。 “どうして、 わたしを未生怨と呼ぶのですか。 だれがそのような名をつけたのですか” 提婆達多がいう。 “あなたが生れる前に、 すべての占い師がみな次のようにいいました。 «この子は生れてから、 きっとその父を殺すであろう» と。 だから宮廷の外ではみな、 あなたのことを未生怨というのであります。 宮殿内の人々はみな、 あなたのこころを荒立てないために、 善見と呼んでいるのです。 また、 韋提希夫人は占い師の言葉を聞いて、 あなたを、 高い建物の上から地面へ生み落としたのですが、 あなたは一本の指を折っただけでした。 このようなわけで人々は、 あなたのことを折せっ指しとも呼んでいます。 わたしはこれを聞いて悲しみ、 また憤って、 今までそれをあなたにお話しすることができなかったのです” 提婆達多は、 このようなさまざまな悪事を善見に吹きこんで父を殺すようにしむけ、 “もしあなたが父を殺せば、 わたしもまた沙門瞿曇を殺しましょう” といった。
善見は、 雨う行ぎょうという一人の大臣に問うた。 “父王は、 なぜわたしを未生怨と呼ばれるようにしたのか” と。 大臣はそこで、 その一部始終を説いたが、 それは提婆達多の説くところと相違しなかった。
善見はこれを聞くと、 ただちのこの大臣を連れていき、 父の王を捕え、 城外の建物に閉じこめて*四種の兵にきびしく見張らせた。 韋提希は、 このことを聞いてすぐさま王のもとに行ったが、 王を見張っているものがさえぎって、 入ることを許さなかった。 そのとき韋提希は怒って見張りのものを叱りののしった。 そこで、 見張りのものたちは善見に尋ねた。 “韋提希夫人が父王に会いたいといわれますが、 どうなのでしょうか。 お許ししてもよろしいでしょうか” と。 善見はこれを聞いてまた怒り、 すぐに母のところへ行って、 その髪をつかんで引き倒し、 刀を抜いて切ろうとした。 そのとき耆婆が善見に向かって “この国ではこれまで、 どれほど罪が重くても、 女性を処刑したことは一度もありません。 まして、 生みの母ではありませんか” といった。 善見はこの言葉を聞いて、 耆婆のいう通りに母を放したが、 父王に対しては衣服も寝具も食べものも飲みものも薬も与えるのを禁じた。 そして七日が過ぎ、 王の命が尽きたのである。
善見は父王が亡くなったのを知り、 後悔の心をおこした。 大臣の雨行が、 またさまざまなよこしまな教えを善見のために説いた。 “王さま、 どのような行いにも罪はありません。 なぜ後悔の心をおこされるのですか” と。 そこでまた耆婆がいった。 “王さま、 お気づきください、 王さまのなさったことには二重の罪があります。 一つには、 父である王を殺したという罪であり、 二つには、 聖者の位に達していた王を殺したという罪であります。 このような罪は、 仏以外にはだれも除いてくださる方はありません” と。 善見がいった。 “如来は清浄であって、 汚れのない方である。 わたしのような罪深いものが、 どうしてお会いすることができようか” と。
善良なものよ、 わたしはこのことを知っており、 阿難に対して、 “三月を過ぎた後に、 わたしは涅槃に入る” と告げた。 善見はこれを聞いて、 すぐさまわたしのもとに来た。 わたしは、 善見のために法を説いてその重い罪を軽くし、 無根の信を得させたのである。
善良なものよ、 わたしの弟子たちの中には、 この教えを聞いても、 わたしの真意を理解しないで、 次のようにいうものがいるであろう。 “如来は、 必ず涅槃にお入りになると説かれた” と。
善良なものよ、 二種類の菩薩がある。 一つには本当の意味での菩薩であり、 二つには名ばかりの菩薩である。 名ばかりの菩薩は、 わたしが三月の後に涅槃に入ると聞いて、 みな心がくじけて、 次のようにいうであろう。 “もし如来が無常であって、 この世にとどまられないのなら、 わたしたちはどうすればよいだろうか。 この身が無常であるために、 はかり知れない長い間、 大いに苦しみ悩み続けてきたのである。 如来ははかり知れない功徳を成就して身にそなえておられるのに、 それでも、 この死という悪魔を打ち破ることができない。 まして、 わたしたちのようなものがどうして打ち破ることができようか” と。 善良なものよ、 だからわたしはそのような菩薩のために、 次のようにいうであろう。 “如来は常に世にとどまられて変ることはない” と。 わたしの弟子たちの中にはこの教えを聞いても、 わたしの真意を理解しないで、 きっと次のようにいうものがいる。 “如来はいつまでも世にとどまられ、 決して涅槃にお入りにならない” と」
【118】このようなわけで、 いま釈尊の真実の教えによると、 救われがたい五逆・謗法・一闡提のもの、 すなわち、 治しがたい重病人とたとえられたものも、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の誓願にまかせ、 他力回向の信心に帰すれば、 如来は深く哀れみ、 救ってくださる。 たとえば、 醍醐の妙薬がすべての病を治すのと同じである。 五濁の世の人々、 煩悩に汚れた人々は、 何ものにも砕かれない他力金剛の信心をいただき、 尊い本願の妙薬をしっかりとたもたねばならない。 よく知るがよい。
【119】さて、 さまざまな大乗の教典によると、 救われがたい人々について説かれている。 いま 『無量寿経』 には、 「ただし、 五逆の罪を犯したり、 正しい法を謗るものだけは除かれる」 と説かれ、 『如来会』 には、 「ただし、 無間地獄に堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、 正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる」 と説かれている。 また 『観無量寿経』 には、 五逆のものの往生は説かれているが、 謗法のものについては説かれていない。 『涅槃経』 には、 治しがたい病の人々とその病とが説かれている。 これらの仏の教えについて、 どのように考えたらよいであろうか。
【120】答えていう。 『往生論註』 にいわれている。「問うていう。 『無量寿経』 には、 “浄土の往生を願うものは、 みな往生することができる。 ただし、 五逆の罪を犯したり、 正しい法を謗るものだけは除かれる” と説かれている。 『観無量寿経』 には、 “五逆・十悪など多くの善くない行いをしてきたものもまた往生できる” と説かれている。 この二つの経の意をどのように解釈すべきであろうか。
答えていう。 『無量寿経』 では、 二種の重罪を両方ともそなえているから除くと説かれたのである。 二種の重罪とは、 一つには五逆の罪を犯すこと、 二つには正しい法を謗ることである。 この二種の罪があるから往生することができないのである。 『観無量寿経』 では、 ただ十悪・五逆などの罪を犯すことだけをあげ、 正しい法を謗ることはあげていない。 正しい法を謗らないから往生することができるというのである。
問うていう。 経には、 ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、 正しい法を謗らないなら往生することができるとある。 では、 ただ正しい法を謗るだけで、 五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、 往生することができるのであろうか。
答えていう。 ただ正しい法を謗るだけで、 他に罪は何一つなくても、 決して往生することはできない。 なぜかといえば、 経に、 “五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、 一劫の間その重い罪の報いを受ける。 正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、 一劫が尽きると、 また続いて他の無間地獄に堕ちる。 このようにして次々と、 数多くの無間地獄をめぐるのである” と説かれていて、 仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。 それは、 正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。 また正しい法というのは、 すなわち仏法である。 この愚かな人は、 すでに仏法を謗っているのであるから、 どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。 たとえ、 浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、 その願いは、 水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、 往生することができるはずはないのである。
問うていう。 正しい法を謗るとは、 どのようなことをいうのか。
答えていう。 仏もなく仏の教えもなく、 菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、 自分自身でおこしたり、 他の人に教えられて、 その通りと心に定めることを、 みな正しい法を謗るというのである。
問うていう。 このように考えることは、 ただ自分にだけ関わることである。 他の人に対してどのような苦しみを与えることで、 五逆の重罪より重い罪であるというのであろうか。
答えていう。 もし、 世の中のことや仏法について、 善い教えを説いて人々を導く仏や菩薩がたがおられなかったなら、 どうして*仁じん・義ぎ・礼れい・智ち・信しんという人の道があると知ることができようか。 そうなると世の中のすべての善も断たれてしまい、 仏道を歩むすべての尊い方々もいなくなってしまうであろう。 あなたはただ、 五逆の罪が重いということを知っているだけで、 五逆の罪は正しい法がないことからおこるということを知らないのである。 このようなわけで、 正しい法を謗る人は罪がもっとも重いのである。
問うていう。 業の道理を説いた教典の中に、 “業の道理は秤はかりのようなものであって、 まず重い方に引かれる” と説かれている。 一方 『観無量寿経』 には、 “五逆・十悪の罪を犯し、 多くの善くない行いをしてきたものは、 地獄・餓鬼・畜生という世界に落ちて、 限りなく長い間、 はかり知れない苦しみを受けなければならない。 ところが、 そのものの命が終ろうとするとき、 善知識に出会い南無阿弥陀仏と称えよと教えられたとしよう。 そこで、 まことの心で、 たとえば十声念仏し続けるなら、 浄土に往生する身に定まり、 ただちに大乗の正定聚に入って、 もはやその位から退くことはない。 そして、 地獄・餓鬼・畜生という世界のさまざまな苦しみから、 永久に離れるのである” と説かれている。 そうすると、 まず重い方に引かれるという業の道理はどうなるのか。 また、 はかり知れない昔から、 人々は多くのさまざまな行いをしてきたが、 煩悩にもとづいた行いは、 その人々を迷いの世界につなぎとめるものである。 それが、 たとえば十声、 阿弥陀仏を念じることによって迷いの世界を出るとするなら、 煩悩にもとづいた行いが人々を迷いの世界につなぎとめるという道理はどうなるのであろうか。
答えていう。 あなたが、 五逆・十悪の罪や、 人々を迷いの世界につなぎとめている行いなどは重く、 *下げ品ぼん下げ生しょうの人がたとえば十声念仏する、 その念仏は軽いと考えて、 犯した罪に引かれて、 まず地獄に堕ち、 迷いの世界につなぎとめられるというのなら、 ここで筋道を立ててどちらが軽いか重いかをくらべてみよう。 重いか軽いかを定めるものは、 心にあり、 縁にあり、 心の決定にあるのである。 時間の長い短いや、 多い少ないにあるのではない。
まず心にあるとはどういうことか。 それらの人が犯す罪は、 真実に背いた誤った考えによって生じるのである。 この十声の念仏は、 善知識がさまざまな手だてによって心を安らかにさせ、 真実そのものの教えを聞かせることによって生じるのである。 一方は真実であり、 他方は*虚仮こけである。 どうしてこれをくらべることができようか。 たとえば、 千年もの間闇に閉されていた部屋に、 少しでも光が入れば、 ただちに明るくなるようなものである。 千年もの間部屋の中にあったからといって、 光が入っても闇が去らないなどとどうしていえようか。 これを心にあるというのである。
次に縁にあるとはどういうことか。 それらの人が犯す罪は、 自分の妄想の心によっており、 また煩悩にまみれて真実に背いている衆生によって生じる。 この十声の念仏は、 この上なく尊い信心によっており、 また阿弥陀仏の真実の慈悲より成就した清らかな尊い名号によって生じるのである。 たとえば、 人が毒矢にあたって、 筋が切れ骨が折れたとしよう。 しかし滅除めつじょという名の薬を塗った鼓の音を聞けば、 矢が抜け毒が消えるようなものである。
『*首しゅ楞りょう厳ごん経ぎょう』 には、 “たとえば、 滅除という名の薬があって、 戦いのときにこれを鼓に塗っておくと、 その音を聞けば矢が抜け毒が消えるようなものである。 菩薩もまた同じように、 *首しゅ楞りょう厳ごん三昧ざんまいに入ってその三昧の名を聞けば、 三毒の煩悩の矢がひとりでに抜ける” と説かれている。 その矢が深く刺さって毒がはげしいからといって、 鼓の音を聞いても、 どうして矢を抜き毒を消すことができないといえようか。 これを縁にあるというのである。
さらに心の決定にあるとはどういうことか。 それらの人が犯す罪は、 まだ後があるという心、 雑念のまじった心によって生じる。 この十声の念仏は、 もはや後がないという心、 専念の心によって生じる。 これを心の決定にあるというのである。
この三つの道理から考えると、 十声の念仏の方が重い。 そこでまず重い十声の念仏に引かれて、 この迷いの世界を出ることができる。 このようなわけで、 『観無量寿経』 と業の道理を説いた教典との内容に相違はないのである。
問うていう。 一念とはどのくらいの時間をいうのか。
答えていう。 百一の消滅を一刹那といい、 六十刹那を一念というのであるが、 いまここでいう念は、 このような時間の長さをいうのではない。 ただ、 阿弥陀仏を心に念じて、 その全体のすがたでも、 またそれぞれの部分のすがたでも、 その観ずるところにしたがって、 心に他の想いをまじえず、 十回念じ続けるのを十念というのである。 ただ名号を称えることについても、 また同じである。
問うていう。 もし心が別のことに移るなら、 それから元へ戻すので、 何回念じたかがわかる。 しかし、 何回念じたかがわかるのなら、 間が切れているので念じ続けることにはならない。 想いを集中して念じ続けるときは、 どうすれば何回念じたかを知ることができるのか。
答えていう。 『観無量寿経』 に十声の念仏と説かれているのは、 これによって浄土に往生することが決定することを明かしているのであって、 必ずしもその念仏の数を知らなければならないということではない。 たとえば、 “蝉は春や秋を知らない。 だから、 この虫は夏ということも知らない” というようなものである。 ただ春夏秋冬を知っている人間が、 蝉が鳴くのは夏だというだけである。 たとえば十声念仏することによって往生が決定するということも、 神通力を持っている仏が仰せになるだけである。 衆生においては、 ただ念仏し続けて、 心が別のことに移らなければ、 それでよいのである。 どうして念仏の数を知る必要があろうか。 もし、 数を知る必要があるというなら、 また方法がある。 しかし、 それは口づてに伝えるべきことであって、 書き記すべきことではない」 
 

 

【121】善導大師が 『観経疏』 にいわれている (散善義)。「問うていう。 『無量寿経』 の四十八願の中に、 五逆の罪を犯すものと正しい法を謗るものとが除かれるとあり、 往生を許されていない。 しかし、 この 『観無量寿経』 の下品下生の文には、 謗法のものだけを除いて、 五逆の罪のものを摂め取るとある。 それは、 どのような意味なのであろうか。
答えていう。 このことは、 如来が罪をつくらせまいとして抑え止められる意味と理解される。 四十八願の中に、 謗法と五逆とを除くとあるのは、 この二つの行いは、 そのさわりがきわめて重いからである。 衆生がもしこの罪を犯せば、 ただちに無間地獄に堕ち、 限りなく長い間もがき苦しむばかりで逃れ出ることができない。 そこで如来は、 この二つの罪を犯すことをおそれ、 慈悲の心から抑え止めて、 “五逆と謗法の罪を犯すなら往生ができない” と仰せになったのである。 摂め取らないということではない。 また、 下品下生の文に、 五逆のものは摂め取って謗法のものを除くとするのは、 五逆の罪はもうすでに犯しているのであり、 その罪人を見捨てて、 迷いの世界に生れ変わり死に変りし続けさせてはならないと、 さらに慈悲をおこし、 摂め取って往生させてくださるのである。 しかし、 謗法の罪はまだ犯していないから、 “もし謗法の罪を犯すなら往生することはできない” と止められるのである。 これはまだ犯していない罪のことと理解される。 もし犯したなら、 またこのものを摂め取って往生させてくださるのである。 ただし浄土に往生することができたとしても、 蓮の花の中に包まれて、 非常に長い間その中から出ることができない。 これらの罪を犯した人には、 花の中にいるとき、 三つのさわりがある。 一つには、 仏や菩薩がたに会うことができない。 二つには、 仏の教えを聞くことができない。 三つには、 他の世界の仏や菩薩がたを供養することができない。 この三つのさわりを除けば、 その他には何の苦しみもないのである。 これを経典には、 “ちょうど、 比丘が*第だい三禅さんぜんの世界の楽しみを受けるようなものである” と説かれている。 よく知るがよい。 花の中に包まれていて、 非常に長い間その花が開かないといっても、 無間地獄の中で限りなく長い間さまざまな苦しみを受けるのにくらべたなら、 はるかにすぐれている。 以上のように、 このことはまだ犯していない罪を抑え止める意味と理解することができた」
【122】また 『法事讃』 にいわれている。「浄土では永久に、 謗りきらわれるようなことがなく、 平等であって、 憂い悩むことは何もない。 善いものも悪いものもみな往生することができ、 浄土に往生すれば平等のさとりを開き、 二度と迷いの世界に退くことはない。 どのようなわけでそうなるかといえば、 それは阿弥陀仏が因位のときに、 世自在王仏のもとで王位を捨てて出家し、 智慧と慈悲の心をおこして、 広く四十八願をたてられたことによる。 この本願のはたらきにより、 五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださるのである。 謗法のものや一闡提であっても、 心をひるがえして如来の本願を信じれば、 みな往生することができる」
【123】*五逆ということについて、 次のようにいっている。「*淄し州しゅうによれば五逆罪に二種類がある。 第一には三乗のすべての教えに通じる五逆罪である。 すなわち、 一つには、 故意に父を殺すこと、 二つには、 故意に母を殺すこと、 三つには、 故意に*阿羅あら漢かんを殺すこと、 四つには、 間違った考えをおこして教団の和を乱すこと、 五つには、 悪い心をいだいて仏の体を傷つけて血を流すことである。 これらは父母や仏や僧などから受けた恩や徳に背くから、 逆罪というのである。 この逆罪を犯したものは命が終れば間違いなく無間地獄に堕ち、 果てしなく長い間、 間断なく苦しみを受けるから、 無間業ともいう。
また、 『*倶く舎しゃ論ろん』 の中に、 無間地獄に堕ちるこの五逆罪と同類の行いをあげている。 すなわちその偈の文に、 “母や*無む学がく果かの比丘尼を汚すことは母を殺す罪と同類、 *無漏むろ定じょうに住する菩薩を殺すことは父を殺す罪と同類、 *有う学がく果か・無学果の聖者を殺すことは阿羅漢を殺す罪と同類、 教団の和の縁となるものを奪うことは教団の和を乱す罪と同類、 *仏塔ぶっとうを壊すことは仏の体を傷つけて血を流す罪と同類” といっている。
第二には大乗の五逆罪である。 これは 『*薩遮さっしゃ尼に乾けん子じ経きょう』 に、 “一つには、 仏塔を壊し、 教典を焼き、 三宝の財物を盗むこと、 二つには、 声聞・縁覚・菩薩の教えを謗って仏教ではないといい、 仏法の流布をさまたげ、 危難を加え、 仏法の光をおおい隠して広まらないようにすること、 三つには、 *持じ戒かい・*無む戒かい・破戒にかかわらず、 すべての出家した人に対して、 ののしり打って苦しめ、 過失を並べ立てて閉じこめ、 還俗させて、 かりたてて使い、 重税を課して、 ついに命を断つまでに追い込むこと、 四つには、 父を殺し、 母を害し、 仏の体を傷つけて血を流し、 教団の和を乱し、 阿羅漢を殺すこと、 五つには、 *因いん果がの道どう理りを否定して、 常に十悪の罪を犯すこと” と説かれている通りである。
『*大だい方広ほうこう十輪じゅうりん経ぎょう』 には、 “一つには、 善くない心をおこして縁覚を殺すこと、 これは*殺せっ生しょうである。 二つには、 阿羅漢のさとりを得た比丘尼を犯すこと、 これは*邪淫じゃいんである。 三つには、 施された三宝の財物を横領すること、 これは*偸ちゅう盗とうである。 四つには、 間違った考えをおこして教団の和を乱すこと、 これは*妄語である” と説かれている」 
 

 

 
顕浄土真実証文類 四 

 

必至滅度の願 難思議往生
愚禿釈親鸞集
【1】 つつしんで、 真実の証を顕せば、 それは*他た力りきによって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、 この上ないさとりという果である。 この証は必至滅度の願 (第十一願) より出てきたものである。 この願をまた証大涅槃の願とも名づけることができる。
さて、 *煩悩ぼんのうにまみれ、 迷いの罪に汚れた*衆しゅ生じょうが、 仏より回向された信と行とを得ると、 たちどころに*大だい乗じょうの*正定しょうじょう聚じゅの位に入るのである。 正定聚の位にあるから、 浄土に生れて必ずさとりに至る。 必ずさとりに至るということは、 *常じょう楽らく我が浄じょうという徳をそなえることである。 この常楽我浄の徳をそなえるということは煩悩を滅し尽した境地、 すなわち畢竟寂滅に住することである。 この寂滅はこの上ないさとり、 すなわち無上涅槃である。 この無上涅槃は消滅変化を超えた真実そのもの、 すなわち無為法身である。 この無為法身はすべてのものの真実のすがた、 すなわち実相である。 この実相はすべてのものの変ることのない本性、 すなわち法性である。 この法性はすべてのものの絶対究極のあり方、 すなわち真如である。 この真如は相を超えた絶対の一、 すなわち一如である。 そして阿弥陀仏は、 この一如よりかたちを現して、 *報身ほうじん・*応身おうじん・*化け身しんなどのさまざまなすがたを示してくださるのである。
【2】 必至滅度の願 (第11願) の文は、 『無量寿経』 に次のように説かれている。「わたしが仏になったとき、 わたしの国の人々が正定聚の位にあり、 必ずさとりに至ることができないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい」
【3】 また 『如来会』 に説かれている。「わたしが仏になったとき、 わたしの国の人々が間違いなく*等とう正しょう覚がくを成就し、 大*涅ね槃はんをさとらなかったなら、 決してさとりを開くまい」
【4】 願 (第11願) 成就文は、 『無量寿経』 に次のように説かれている。「浄土に生れる人々は、 すべて正定聚の位にある。 なぜなら、 阿弥陀仏の浄土には*邪じゃ定じょう聚じゅや*不ふ定じょう聚じゅのものはいないからである」
【5】 また次のように説かれている (無量寿経)。「阿弥陀仏の国は浄く安らかであり、 すぐれて楽しく、 涅槃のさとりの世界である。 その国の*声しょう聞もん・菩薩・神々・人間は、 みなすぐれた智慧と自由自在な*神通じんずう力りきをそなえ、 姿かたちもみな同じで、 何の違いもない。 ただ他の世界にならって人間とか神々とかいうだけで、 その顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、 その姿は美しく、 いわゆる神々や人間のたぐいではない。 すべてのものが、 きわまりなくすぐれたさとりの身を得るのである」
【6】 また 『如来会』 に説かれている。「浄土に往生する人々は、 みなすべて正定聚のものであり、 必ずこの上ないさとりをきわめ、 涅槃に至るであろう。 なぜなら、 邪定聚や不定聚のものは、 仏が浄土に往生する因を設けられたことを知らないので、 往生することができないからである」
【7】 『往生論註』 にいわれている。「*妙声みょうしょう功く徳どく成じょう就じゅとは、 *願がん生しょう偈げに、 «清らかなさとりの声は実に奥深くすぐれていて、 すべての世界に響きわたる» といっていることである” と 『浄土論』 に述べられている。 これがどうして不可思議なのであろうか。 教典に、 “阿弥陀仏の浄土が清く安らかであることを聞いて、 他力の信を得て往生したいと願うものと、 また往生したものとは、 ともに正定聚に入る” と説かれている。 これはその浄土の名が衆生を救うはたらきをするのである。 どうして思いはかることができようか。
また “*主しゅ功く徳どく成じょう就じゅとは、 願生偈に、 «阿弥陀仏が*法王ほうおうとしてすぐれた力で住持しておられる» といっていることである” と 『浄土論』 に述べられている。 これがどうして不可思議なのであろうか。 阿弥陀仏は衆生のはからいを超えておられる。 浄土は、 この阿弥陀仏のすぐれた力によって住持されているのである。 どうして思いはかることができようか。
“住” とは変らず滅しないことをいい、 “持” とは散失しないことをいうのである。 たとえば、 *不ふ朽きゅう薬やくを種に塗ると、 水の中でも腐らず、 火の中でも焦げず、 条件がそろえば芽を出すのと同じである。 なぜなら、 不朽薬のはたらきによるからである。 ひとたび浄土に生れたなら、 その人が後に迷いの世界に戻って衆生を導きたいと願い、 浄土を離れてその願いの通りに迷いの世界の火の中に生れても、 この上ないさとりの種は決して朽ちることはないのである。 なぜなら、 阿弥陀仏のすぐれた住持の力をすでに受けているからである。
また “*眷属けんぞく功く徳どく成じょう就じゅとは、 願生偈に、 «浄土の清浄の人々は、 みな阿弥陀仏のさとりの花から*化け生しょうする» といっていることである” と 『浄土論』 に述べられている。 これがどうして不可思議なのであろうか。 この迷いの世界には、 *胎たい生しょうや卵らん生しょうや湿しっ生しょうや化け生しょうという生れ方をする多くのものがいて、 そこで受ける苦も楽も千差万別である。 それはさまざまな迷いの行いに応じて生れるからである。 しかし、 浄土への往生は、 みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの化生である。 それは同じ念仏によって生れるのであり、 その他の道によるのではないからである。 そこで、 遠くあらゆる世界に通じて、 念仏するものはみな兄弟となるのであり、 浄土の仲間は数限りない。 どうして思いはかることができようか」
【8】 また次のようにいわれている (往生論註)。「浄土への往生を願うものは、 この世では*九く品ぼんの違いはあっても、 往生してからは何の違いもない。 それは、 *淄しと*澠じょうの川の水も海に入れば一つの味になるようなものである。 どうして思いはかることができようか」
【9】 また次のようにいわれている (往生論註)。「“*清浄しょうじょう功く徳どく成じょう就じゅ” とは、 願生偈に、 «浄土のあり方を観ずると、 迷いの世界を超えている» といっていることである” と 『浄土論』 に述べられている。 これがどうして不可思議なのであろうか。 あらゆる煩悩をそなえた*凡ぼん夫ぶが、 阿弥陀仏の浄土に生れると、 迷いの世界につなぎとめるこれまでの行いも、 もはやその力を失う。 これは、 自ら煩悩を断ち切らずに、 そのまま浄土で※涅槃のさとりを得るということである。 どうして思いはかることができようか」
【10】 『安楽集』 にいわれている。「釈尊と阿弥陀仏の不可思議なはたらきは同じはずであるが、 釈尊はご自身のはたらきをお述べにならず、 ことさらに阿弥陀仏のすぐれていることを明らかにされる。 それはすべての人を阿弥陀仏に帰依させたいとお思いになるからである。 そこで釈尊は、 教典のさまざまなところで阿弥陀仏をほめたたえて帰依するようにお勧めになるのである。 このお心をよく知らなければならない。 曇鸞大師の本意も*西方さいほう浄じょう土どに帰することにあるから、 『讃阿弥陀仏偈』 に次のようにいわれている。 “浄土の声聞・菩薩・人間・神々は、 この上ない智慧をすべてそなえている。 姿かたちもみな同じで、 何の違いもない。 ただ他の世界にならってこのようにいうだけである。 顔かたちの端正なことは他にくらべようがなく、 その姿の美しいことはいわゆる人間や神々のたぐいでなはい。 それはきわまりなくすぐれたさとりの身である。 だから、 わたしはすべてのものに平等のさとりを得させる阿弥陀仏を礼拝したてまつるのである”」
【11】 善導大師の 『観経疏』 にいわれている (玄義分)。「*弘ぐ願がんというのは、 『無量寿経』 に説かれている通りである。 善人も悪人もすべての凡夫が往生できるのは、 みな阿弥陀仏の大いなる*本願ほんがんのはたらきをもっともすぐれた力として、 それによるからである。
また仏の思召おぼしめしは広くて奥深いから、 その教えは容易に知ることができない。 *三賢さんげん・十じっ聖しょうという位にある菩薩でさえはかり知ることはできないのである。 ましてわたしは*十信じっしんの位にも入ることのできない愚かな凡夫である。 どうしてその思召しを知ることができようか。 仏のお示しを仰いで考えてみると、 釈尊は*娑しゃ婆ば世界から、 往けとお勧めになり、 阿弥陀仏は浄土から、 来れといって迎えてくださる。 向うから来れと喚び、 こちらから往けとお勧めになる。 どうして往かずにおられようか。 ただ心から信順し、 命終るときには煩悩に汚れた身を捨てて、 変ることのないさとりを開くべきである」
【12】 また次のようにいわれている (定善義)。「西方浄土は煩悩を滅し尽した変ることのないさとりの世界であって、 すべてのとらわれを離れ、 はからいがない。 西方浄土に生れると、 大いなる慈悲の心をおこしてあらゆる世界に行き、 さまざまなすがたを現して人々を等しく救済する。 あるいは神通力によって教えを説き、 あるいは仏のすがたをとって涅槃に入る。 思いのままに現し出すうるわしい*荘しょう厳ごんは、 それを見るものの罪をすべて除き去るのである。 またたたえていう。 さあ帰ろう、 迷いの世界にとどまるべきではない。 はかり知れない昔からさまざまな迷いの世界を生れ変わり死に変りし続けてきた。 どこにも何の楽しみもなく、 ただ嘆き悲しみの声ばかりである。 この一生を終えた後には、 さとりの浄土に往こう」
【13】さて*真しん宗しゅうの教・行・信・証を考えてみると、 すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。 だから、 往生成仏の因も果も、 すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。 因が清らかであるから、 果もまた清らかである。 よく知るがよい。
【14】二つに、 還相の回向というのは、 ※思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、 他力によって恵まれることである。 これは必至補処の願 (第二十二願) より出てきたものである。 この願をまた*一いっ生しょう補ふ処しょの願と名づける。 また還相回向の願とも名づけることができる。 これは 『往生論註』 に明らかにされているので、 ここには願文を出さない。 『往生論註』 を見るがよい。
【15】 『浄土論』 にいわれている。「*出しゅつの第だい五ご門もんとは、 大慈悲の心をもって、 苦しみ悩むすべての衆生を観じて、 救うためのさまざまなすがたを現し、 煩悩に満ちた迷いの世界に還ってきて、 神通力をもって思いのままに衆生を教え導く位に至ることである。 このようなはたらきは、 阿弥陀仏の*本願ほんがん力りきの回向によるのである。 これを出の第五門という」
【16】 『往生論註』 にいわれている。「還相というのは、 浄土に生れた後、 *自利じりの智慧と*利他りたの慈悲を成就することができ、 迷いの世界に還ってきてすべての衆生を導き、 みなともにさとりに向かわせることである。 往相も還相も、 みな衆生の苦しみを除いて迷いの世界を離れさせるために与えられたものである。 だから、 天親菩薩は “衆生に功徳を回向としようとする心を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである” と述べておられる」
【17】 また次のようにいわれている (往生論註)。「『浄土論』 に、 “浄土に往生して阿弥陀仏を見たてまつると、 まだ自他のとらわれが残っている菩薩も、 ついには平等の真理をさとった身すなわち平等法身となる。 すでにとらわれを離れた上位の菩薩方と同じく、 ついには*寂じゃく滅めつ平びょう等どうの法を得るのである” と述べられている。 平等法身とは、 *八はち地じ以上の位にある菩薩の身で、 *法ほっ性しょうから生じた身である。 寂滅平等とは、 この法身の菩薩のさとる平等の法である。 この寂滅平等の法を得るから平等法身というのである。 平等法身の菩薩の得るところの法であるから、 寂滅平等の法というのである。 この菩薩は、 *報ほう生しょう三昧ざんまいを得る。 その*三昧さんまいの力により、 いながらにして、 時を経ず、 一度にすべての世界に行って、 すべての仏およびその仏のもとに集う*大衆だいしゅを、 さまざまに供養する。 また、 数限りない世界の、 仏・法・僧の*三宝さんぼうのないところでさまざまなすがたを現し、 すべての衆生をさまざまに導き救い、 常に衆生救済のはたらきをする。 もとより、 行き来するという思い、 供養するという思い、 救済するという思いはない。 そういうわけで、 この菩薩の身を平等法身というのであり、 この法を寂滅平等の法というのである。 まだ自他のとらわれが残っている菩薩というのは、 *初しょ地じから七地までの菩薩である。 この菩薩も、 百、 あるいは千、 あるいは万、 あるいは億、 あるいは百千万億の身を現して、 仏のおられない国土で衆生救済のはたらきをすることができるが、 その場合、 必ず心をはたらかせ努力して三昧に入るのであって、 努力することなく三昧に入るのではない。 それで、 七地までの菩薩はまだ自他のとらわれが残っている、 というのである。 この菩薩は、 浄土に生れて阿弥陀仏を見たいと願う。 阿弥陀仏を見るとき、 八地以上の菩薩がたとついには同じく平等法身を得、 寂滅平等の法をさとることができるのである。 龍樹菩薩や天親菩薩のような方々が、 阿弥陀仏の浄土に生れたいと願われたのは、 まさにただこのためである。
問うていう。 『*十じゅう地じ経きょう』 をうかがうと、 菩薩がその位を進めるのは、 限りない功徳を積み、 はかり知れないほどの長い時を経て、 やっと進めることができるのである。 それなのに、 阿弥陀仏を見たてまつるとき、 ついにはその身も法も八地以上の菩薩がたと等しくなるというのは、 どういうわけであろうか。
答えていう。 “ついには” というのはそのままただちに等しくなるということではない。 ついには必ず等しくなるから、 等しくなるというだけのことである。
問うていう。 もしただちに等しくないのなら、 どうして菩薩という必要があろうか。 初地の位にまで至れば、 そこからだんだんと進んで、 おのずから必ず仏と等しくなるはずである。 仏と等しいといわずに、 どうしてわざわざ八地以上の菩薩と等しいというのか。
答えていう。 菩薩が七地においてすべては本来*空くうであると知ると、 上に向かっては求めるべき仏のさとりもなく、 下に向かっては救済すべき衆生もないと考える。 そして以後の仏道修行を捨ててその境地に安住してしまおうとする。 そのときに、 もしすべての世界の仏がたがすぐれた力で励ましてくださらなければ、 そのまま自分だけのさとりに閉じこもって、 声聞や*縁覚えんがくと同じになってしまう。 菩薩が浄土に往生して阿弥陀仏を見たてまつると、 このような恐れはないであろう。 このようなわけで、 ついには八地以上の菩薩と等しくなるという必要があるのである。
また次に、 『無量寿経』 の中には、 阿弥陀仏の*誓願せいがん (第二十二願) として、 “わたしが仏になったとき、 他の仏がたの国の菩薩たちが、 わたしの国に生れてくれば、 必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。 それぞれの希望によって、 自由自在に人々を導くため、 かたい決意に身を包んで、 多くの功徳を積み、 すべてのものを救い、 仏がたの国に行って菩薩の行を修め、 すべての世界の仏がたを供養し、 数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることも自由にできる。 すなわち、 通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、 大いなる慈悲の行を実践できる。 もしそうでなければ、 わたしは決してさとりを開くまい” と説かれている。
この経文から考えてみると、 浄土の菩薩は、 初地から二地、 二地から三地へと順次に位を進めるのではないであろう。 *十じゅう地じという段階は、 釈尊がこの娑婆世界に出られて衆生を導かれる一つの教え方なのである。 阿弥陀仏の浄土でも、 どうしてこれと同じであるといえようか。 さまざまな不可思議のうちで、 仏法がもっとも不可思議である。 菩薩は必ず一地ずつ位を進めるのであって、 位を飛び超えて進むという道理はないというなら、 それは仏法の不可思議ということをよく知らないのである。
たとえば*好堅こうけんという木がある。 この木が地面から生じて百年たったとしよう。 地上に出てからは、 毎日百丈ずつ伸びていくのであるが、 百年たってこの木の高さを計ったなら、 いくら背が高いといっても松の木などでは比較にならない。 松の生長するのを見ると、 一日に一寸も伸びない。 だから世の人が、 この好堅の木のことを聞いても、 一日に百丈伸びることなど、 どうして信じることができようか。 ある人は、 釈尊が一度の説法でたちまち*阿羅あら漢かんのさとりを開かせ、 朝食前のひとときに*無む生しょう法忍ぼうにんに至らせたということを聞いて、 これはただ仏法に導くためにいわれたことであり、 実際の話ではないと思った。 そういう人は、 浄土の菩薩が位を飛び超えて進むということを聞いても、 やはり信じないであろう。 そもそも世間の常識を超えた話は普通の人の耳には入らず、 聞いてもそういうことはないと思うものである。 それも仕方のないことではある。
『浄土論』 に、 “略して八種の功徳をあげ、 このような順序で仏の自利利他の功徳が成就されていることを示した。 よく知るべきである” と述べられている。 どのような順序であるのかといえば、 さきの十七種は、 阿弥陀仏の国土にそなわる功徳の成就である。 すでに国土のすがたを知ったから、 国土の主を知らなければならない。 このようなわけで、 次に阿弥陀仏にそなわる八種の功徳を観ずるのである。 阿弥陀仏は、 功徳をそなえて、 どのような座にすわっておられるのか。 そこでまず座を観ずるがよい。 座を観じたなら、 その座の主を知らなければならない。 そこで次に仏の*身業しんごうにそなわる功徳を観ずる。 身業について知ったなら、 どのような*名みょう号ごうをあらわされたのかを知らなければならない。 そこで次に仏の*口く業ごうにそなわる功徳を観ずる。 口業により仏の名号があらゆるところに聞えることを知ったなら、 その名号を得られた理由を知らなければならない。 そこで次に仏の*意い業ごうにそなわる功徳を観ずる。 このようにして、 阿弥陀仏が身・口・意の三業すべてに功徳を成就しておられるのを知ったなら、 次に人間や神々を導く大師となられた仏の教えを受けるのはだれであるかを知らなければならない。 そこで次に仏のもとに集う人々の功徳を観ずる。 その人々にははかり知れない功徳があることを知ったなら、 その中心となって導くものはだれであるかを知らなければならない。 そこで次に中心となるものを観ずる。 中心となるのは阿弥陀仏である。 人々の中心となるものを知ったが、 阿弥陀仏が中心となるのは年の上下によると思われるおそれがある。 そこで次に仏は主であることを観ずる。 この主を知ったなら、 主にはどのようなすぐれた徳があるかを知らなければならない。 そこで次に仏力がいつわりでなく変らないという不虚作住持の功徳を観ずる。 阿弥陀仏にそなわる八種の功徳の順序はこのようにして成り立っているのである。
菩薩を観ずるというのは、 『浄土論』 に、 “どのようにして浄土の菩薩にそなわる功徳の成就を観ずるのであろうか。 菩薩にそなわる功徳の成就について観ずると、 浄土の菩薩には、 四種の正しい修行の功徳が成就されている。 よく知るべきである” と述べられている。 *真如しんにょがすべてのものの本当のすがたである。 この信如にかなって修行すれば、 それはとらわれを離れた修行である。 とらわれを離れて修行するのを、 真実にかなった修行というのである。 浄土の菩薩の修行はこの唯一絶対のあり方においてなされるものであるが、 意味の上で四つに分ける。 このようなわけで、 四種の修行を一つにまとめて正しい修行というのである。
『浄土論』 に、 “その四種とは何か。 一つには、 菩薩は一つの世界にいながら、 その身を動かさずに、 すべての世界にさまざまなすがたを現し、 真実にかなった修行をして、 常に衆生救済のはたらきをする。 願生偈に、 «*安楽あんらく国こくは清らかであって、 煩悩の汚れのない仏の教えが常に説かれる。 化身の仏や菩薩は太陽のようであり、 また*須しゅ弥み山せんにたもたれているようである» といっている。 すべての衆生の煩悩の泥の中に蓮の花を開くからである” と述べられている。 八地以上の菩薩は、 常に三昧の境地にあり、 その三昧の力によって、 身はもとのところから動かないですべての世界に至り、 仏がたを供養し、 衆生を教え導く。 “煩悩の汚れのない教え” とは仏のさとりの功徳である。 仏のさとりの功徳には、 煩悩やその*習じっ気けもない。 仏は多くの菩薩たちのために、 常にこの教えを説かれる。 多くの菩薩たちも、 この教えによってすべての人々を教え導いてかたときも休むことがない。 そこで “常に説かれる” というのでる。 法身は太陽のようであって、 その化身は太陽の光のように多くの世界に広く行きわたる。 “太陽” というだけでは不動ということをあらわすのに十分ではないから “須弥山にたもたれているようである” といったのである。 “煩悩の泥の中に蓮の花を開く” とは、 『*維ゆい摩ま経きょう』 に “高原の乾いた陸地には蓮の花は生じないが、 低い湿地の泥沼には蓮の花が生じる” と説かれている。 これは、 凡夫が煩悩の泥の中にあって、 菩薩に教え導かれて、 如来回向の信心の花を開くことができるのをたとえたのである。 まことに菩薩は、 仏・法・僧の三宝を次々と受け継いで広く盛んにし、 絶えないようにされているのである。
『浄土論』 に、 “二つには、 菩薩の化身は、 あらゆる時において、 前後なく同時に、 しかも一瞬のうちに、 大いなる光明を放ってすべての世界に至り、 衆生を教え導いて、 さまざまな手だてを施し、 行を修めて、 すべての衆生の苦しみを除く。 願生偈に、 «身にそなわる汚れのない光が、 一瞬のうちに、 かつ同時に、 広くさまざまな仏がたの説法の座を照らして、 多くの衆生に利益を与える» といっている” と述べられている。 さきに、 菩薩は “身は動かないですべての世界に至る” といっているが、 それだけでは至ることに前後があるとも考えられる。 そこで “一瞬のうちに、 同時に、 前後なく” といわれるのである。
『浄土論』 に、 “三つには、 菩薩はあらゆる世界において、 余すところなく仏がたの説法の座や大衆を照らして限りなく供養し敬い、 仏がたの功徳をほめたたえる。 願生偈に、 «清らかな音楽や花や衣や香りなどによって供養し、 仏がたの功徳をほめたたえるが、 そこにわけへだての心はない» といっている” と述べられている。 “余すところなく” とは、 広くすべての世界、 すべての仏がたの説法の座に至るのであって、 一つの世界、 一つの説法の座も至らないところはないことをいうのである。 *僧そう肇じょうが “法身は一つのかたちに定まらないでさまざまなかたちを現し、 さとりの声は一つの言葉に定まらないでさまざまな深い教えを行きわたらせ、 さとりの心は一つの考えに定まらないでさまざまにはたらいて物事に対応する” というのはこのことである。
『浄土論』 に、 “四つには、 菩薩はすべての世界の、 仏・法・僧の三宝のないところで、 海のように大いなる三宝をたもち伝えてほめたたえ、 真実にかなった修行を衆生に広く示してお教えになる。 願生偈に、 «どこか仏法の功徳のない世界があるのなら、 わたしが行って、 仏のように仏法を説き示そう» といっている” と述べられている。 さきにあげた三つの菩薩のはたらきは、 すべての世界に至るといってもすべて仏のおられる国である。 もしこの第四のはたらきがなければ、 法身も至らない世界があることになり、 すぐれた善もまことの善とならない世界があることになるだろう。 以上で、 *観かん行ぎょう体相たいそうは終る。
以下は、 *解義げぎ分ぶんの第四章である。 *浄入じょうにゅう願心がんしんという。 浄入願心というのは、 『浄土論』 に、 “さきに、 阿弥陀仏の国土にそなわる功徳の成就と、 阿弥陀仏にそなわる功徳の成就と、 浄土の菩薩にそなわる功徳の成就とを観ずることを説いた。 この三種の功徳の成就は、 法蔵菩薩の願心によるものでる。 知るべきである” と述べられている。 “知るべきである” とは、 この三種の功徳の成就は、 *因いん位にの*四し十じゅう八はち願がんなどの清らかな願心によるものであり、 その因位の願心が清らかであるから、 結果として成就された功徳も清らかとなるのである。 法蔵菩薩の因位の願心によって成就されたのであるから、 因がないのではなく、 また他の因によったのでもないことを知るべきである、 という意味である。
『浄土論』 に、 “略して*一いっ法ぽっ句くに収まると説く” と述べられている。 さきに述べた国土にそなわる十七種の功徳と、 阿弥陀仏にそなわる八種の功徳と、 菩薩にそなわる四種の功徳とを広とし、 それらが一法句に収まるのを略とする。 どうして広と略とが互いに収まるのか。 仏や菩薩がたには二種の法身がある。 一つには*法ほっ性しょう法身ほっしんであり、 二つには*方便ほうべん法身ほっしんである。 法性法身によって方便法身を生じ、 方便法身によって法性法身をあらわす。 この二種の法身は、 異なってはいるが分けることはできない。 一つではあるが同じとすることはできない。 このようなわけで、 広と略とは互いに収まるのであり、 法という言葉でまとめるのである。 菩薩が、 もしこの広略が互いに収まるということを知らなければ、 自利利他のはたらきをすることはできない。
『浄土論』 に、 “一法句とは清浄句である。 清浄句とは真実の智慧・無為法身である” と述べられている。 この三者は順次に互いに収まる。 どのようなわけで一法句というのかといえば、 清浄だからである。 どのようなわけで清浄句というのかといえば、 真実の智慧・無為法身だからである。 真実の智慧とは、 *実相じっそうをさとった智慧である。 実相は相がないから、 真実の智慧は対象を*分別ふんべつして知るような知ではない。 無為法身とは、 法性の身である。 法性は空であるから、 法身には相がない。 相がないから、 あらゆる相となる。 このようなわけで、 如来や浄土の相は、 そのまま法身なのである。 対象を分別して知るような知ではないから、 あらゆることを知る。 このようなわけで、 あらゆるものの実相を知り尽くす智慧が、 真実の智慧なのである。 真実という言葉で智慧を表わすのは、 智慧がはたらくものでもなく、 はたらかないものでもないことを明らかにしているのである。 *無為むいという言葉で法身を表すのは、 法身はかたちのあるものでもなく、 かたちのないものでもないことを明らかにしているのである。 否定を否定するとき、 どうして否定を否定することが肯定することと同じであるといえようか。 思うに、 否定することがないということが肯定なのである。 それはもとより肯定なのであって、 肯定が否定に対しているわけではない。 肯定でも否定でもなく、 どこまで否定を重ねてもたとえられるものではない。 このようなわけで清浄句といったのである。 清浄句とは真実の智慧・無為法身である。
『浄土論』 に、 “この清浄に二種がある。 知るべきである” と述べられている。 さきに一法句と清浄句と真実の智慧・無為法身の三者が互いに収まることについて、 一法句は清浄句に収まり、 清浄句は無為法身に収まるといった。 いまこの清浄を二種に分けて示そうとするから、 “知るべきである” というのである。
『浄土論』 に、 “二種とは何かというと、 一つには*器き世せ間けん清浄しょうじょうであり、 二つには*衆しゅ生じょう世せ間けん清浄しょうじょうである。 器世間清浄とは、 さきに説いた国土にそなわる十七種の功徳の成就のことをいうのである。 衆生世間清浄とは、 さきに説いた仏にそなわる八種の功徳の成就と、 菩薩にそなわる四種の功徳の成就のことをいうのである。 このように一法句に二種の清浄の意義が収まっていると知るべきである” と述べられている。 そもそも衆生とは、 それぞれの行いの果報としてある主体であり、 国土とは、 共通の行いの果報として用いるものである。 主体と用いるものとは一つではない。 そこで “知るべきである” というのである。 しかし浄土のものはすべて、 さとりの世界として願心によって成就されたものである。 衆生と国土とは異なるものではなく、 一つなのである。 意義によって分けるが、 異なるわけではない。 同じく清浄なのである。 器とは用いるものの意である。 浄土は清浄な衆生が用いる国土であるから器というのである。 清らかな食べものを清らかでない器に盛ると、 食べものも清らかでなくなる。 清らかでない食べものを清らかな器に盛ると、 器も清らかでなくなる。 食べものと器の両方が清らかではじめて清らかであるといえる。 だから清浄という言葉には、 必ず器世間清浄と衆生世間清浄との二種が収まるのである。
問うていう。 衆生世間清浄といったのは仏と菩薩についてである。 浄土に往生する人間や神々もこの清浄の衆生の中に入るのであろうか。
答えていう。 清浄ということはできるが、 本当の清浄ではない。 たとえば、 出家した聖者は煩悩を滅しているから*比丘びくといわれるが、 まだ煩悩を滅していない凡夫が出家しても比丘といわれるようなものである。 また*転輪てんりん聖じょう王おうの王子は、 生れた時に*三さん十じゅう二に相そうをそなえ*七宝しっぽうを持っている。 まだ転輪聖王の仕事をすることはできないが、 転輪聖王といわれるようなものである。 それは必ず転輪聖王となるからである。 浄土に往生する人間や神々もその通りであって、 みな大乗の正定聚に入ってついには清浄法身を得ることができる。 だから清浄ということができるのである。
*善ぜん巧ぎょう摂せっ化けというのは、 『浄土論』 に、 “このような菩薩は、 止観、 すなわち思いを止め静かな心で浄土の広略を*観察かんざつする行を修め、 とらわれのない心を得ているのである” と述べられている。 “とらわれのない心” とは、 広と略の止観がそれぞれ相応し、 この行を修めて、 観ずる心と観じられる実相とが区別できない一つのものとなったことをいうのである。 たとえば、 水にものの姿を映すとき、 水の清らかさと静かさとの両方がそろって、 はじめて姿が映るようなものである。
『浄土論』 に、 “真実にかなって広略のすべてを知る” と述べられている。 “真実にかなって知る” とは、 実相のままに知ることである。 広の国土・仏・菩薩にそなわる二十九種の功徳も、 略の一法句も、 すべて実相なのである。
『浄土論』 に、 “このように*善ぜん巧ぎょう方便ほうべんの回向を成就するのである” と述べられている。 “このように” とは、 さきに示した広も後に示した略もみな実相であり、 その実相のままにということである。 実相を知るから、 迷いの世界の衆生の虚妄のすがたを知る。 衆生の虚妄のすがたを知るから、 これを救おうする真実の慈悲をおこす。 実相すなわち真実の法身を知るということは、 さとりを求める真実の帰依をおこすということである。 その慈悲と帰依と善巧方便とは、 以下に示されている。
『浄土論』 に、 “菩薩の善巧方便の回向とはどのようなことであろうか。 菩薩の善巧方便の回向とは、 礼拝などの*五ご念ねん門もんの行を修めることを説いたが、 その行を修めて得られたすべての*善根ぜんごん功徳によって、 菩薩は、 自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、 その功徳によって、 すべての衆生の苦しみを除こうと思うことである。 そこで願をおこしてすべての衆生を摂め取り、 みなともに浄土に生れさせる。 これを菩薩の善巧方便の回向の成就というのである” と述べられている。 *王舎おうしゃ城じょうにおいて説かれた 『無量寿経』 によれば、 往生を願う*上じょう輩はい・中ちゅう輩はい・下げ輩はいの三種類の人は、 修める行に優劣があるけれども、 すべてみな*無む上じょう菩ぼ提だい心しんをおこすのである。 この無上菩提心は、 願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。 この願作仏心は、 そのまま度衆生心である。 度衆生心とは、 衆生を摂め取って、 阿弥陀仏の浄土に生れさせる心である。 このようなわけであるから、 浄土に生れようと願う人は、 必ず無上菩提心をおこさなければならない。 この無上菩提心をおこさずに、 浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、 楽しみを貪るために浄土に生れたいと願うのであれば、 往生できないのである。 だから 『浄土論』 には “自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、 すべての衆生の苦しみを除こうと思う” と述べられている。 “変ることのない安楽” とは、 浄土は阿弥陀仏の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、 絶え間なく楽しみを受けることができるということである。
総じて、 “回向” という言葉の意味を解釈すると、 自ら積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、 みなともにさとりに向かわせてくださることである。 “善巧方便” とは次のようなことである。 菩薩が自分の智慧の火ですべての衆生の煩悩の草木を焼こうとし、 もし一人でも成仏しないようなことがあれば、 自分は仏になるまいと願う。 ところが、 すべての衆生が成仏したわけではないのに、 菩薩自身がさきに成仏してしまう。 それはたとえば、 木の火ばしですべての草木を摘み集めて焼き尽くそうとしたところ、 草木がまだ焼けきらないうちに、 木の火ばし自体がさきに焼けてしまうようなものである。 自身を後にと願いながら、 他の衆生よりもさきに成仏してしまうから、 善巧方便というのである。 いまここに “*方便ほうべん” というのは、 願をおこしてすべての衆生を摂め取り、 みなともに浄土に生れさせることである。 阿弥陀仏の浄土は、 仏となる究極の道であり、 この上なくすぐれた手だてなのである。
*障しょう菩ぼ提だい門もんというのは、 『浄土論』 に、 “菩薩はこのように善巧方便の回向の成就を知ると、 すなわちさとりへの道をさまたげる三種の心を遠く離れる。 三種の心を遠く離れるとはどのようなことであろうか。 一つには、 智慧によって、 自らの楽しみを求めず、 自分自身に執着する心を遠く離れることである” と述べられている。 さとりに向かって進むことを知り、 そこから退かないようにするのを “智” といい、 *空くう・無我むがの道どう理りを知るのを “慧” という。 智によるから自らの楽しみを求めず、 慧によるから自分自身に執着する心を遠く離れるのである。
また 『浄土論』 に、 “二つには、 慈悲によって、 すべての衆生の苦しみを除き、 衆生を安らかにすることのない心を遠く離れることである” と述べられている。 苦しみを除くのを “慈” といい、 楽しみを与えるのを “悲” という。 慈によるからすべての衆生の苦しみを除き、 悲によるからすべての衆生を安らかにすることのない心を遠く離れるのである。
また 『浄土論』 に、 “三つには、 方便によって、 すべての衆生を哀れむ心をおこし、 自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れることである” と述べられている。 かたよりなく平等であるのを “方” といい、 自らのことを顧みないのを “便” というのである。 かたよりなく平等であるから、 すべての衆生を哀れむ心をおこし、 自らのことを顧みないから、 自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるのである。 『浄土論』 に、 “このことを、 さとりへの道をさまたげる三種の心を遠く離れるというのである” と述べられている。
*順じゅん菩ぼ提だい門もんというのは、 『浄土論』 に、 “菩薩はこのようなさとりへの道をさまたげる三種の心を遠く離れて、 さとりへの道にかなった三種の心をまどかにそなえることができる。 三種とは何かというと、 一つには、 煩悩の汚れのない清らかな心である。 これは自分自身のためにさまざまな楽しみを求めないことである” と述べられている。 仏のさとりというのは、 煩悩の汚れのない清らかな境地である。 自分自身のために楽しみを求めるなら、 それはさとりに背くであろう。 このようなわけで、 煩悩の汚れのない清らかな心はさとりへの道にかなうのである。
また 『浄土論』 に、 “二つには、 衆生を安らかにする清らかな心である。 これはすべての衆生の苦しみを除くことである” と述べられている。 仏のさとりというのはすべての衆生を安らかでおだやかにする清らかな境地である。 すべての衆生を救って迷いの苦しみを離れさせようと努めないなら、 それはさとりに背くであろう。 このようなわけで、 すべての衆生の苦しみを除くのはさとりへの道にかなうのである。
また 『浄土論』 に、 “三つには、 衆生に楽しみを与える清らかな心である。 これはすべての衆生に大いなるさとりを得させることである。 また、 衆生を摂め取って阿弥陀仏の浄土に生れさせることである” と述べられている。 さとりというのは、 決して変ることのない究極の楽しみの境地である。 すべての衆生に決して変ることのない究極の楽しみを得させないなら、 それはさとりに背くであろう。 この決して変ることのない究極の楽しみは何によって得るのかといえば、 大乗の法門によるのである。 その大乗の法門とは、 すなわち阿弥陀仏の浄土をいうのである。 このようなわけで、 また “衆生を摂め取って阿弥陀仏の浄土に生れさせることである” と述べられたのである。 『浄土論』 に、 “このことを、 さとりへの道にかなった三種の心をまどかにそなえたというのである。 よく知るがよい” と述べられている。
*名みょう義ぎ摂対せったいというのは、 『浄土論』 に、 “さきに説いた智慧・慈悲・方便の三種の法門は般若をおさめ、 般若は方便をおさめる。 知るべきである” と述べられている。 “般若” とは平等の*一如いちにょに達する慧をいい、 “方便” とはそれぞれの異なった相に通じる智をいうのである。 一如に達すれば、 心のはたらきが滅する。 それぞれの異なった相に通じれば、 あらゆる衆生のあり方をはっきりと知る。 あらゆる衆生のあり方をはっきりと知る智はすべてに応じ、 しかも*無知むちである。 また心のはたらきが滅した慧は、 無知であって、 しかもあらゆる衆生のあり方をはっきりと知る。 だから、 般若と方便とは互いに縁となって動であり、 互いに縁となって静である。 動でありながらしかも静を失わないのは、 般若の徳であり、 静でありながらしかも動を失わないのは、 方便の力である。 そこで、 智慧と慈悲と方便とは般若をおさめ、 般若は方便をおさめるのである。 “知るべきである” とは、 般若と方便とは菩薩の父母であって、 般若と方便とによらないなら、 菩薩の行が成就しないと知るべきであるということである。 なぜかというと、 般若によることなく衆生救済にはたらけば、 迷いに落ちてしまう。 方便によることなく一如を観ずるなら、 自分だけのさとりの境地に安住してしまう。 このようなわけで、 “知るべきである” というのである。
『浄土論』 に、 “さきに、 自分自身に執着する心を遠く離れ、 衆生を安らかにすることのない心を遠く離れ、 自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるということを説いた。 この三つが、 さとりへの道をさまたげる心を遠く離れることなのである。 知るべきである” と述べられている。 すべてのものにはそれぞれさまたげがある。 たとえば風は静けさをさまたげ、 土は水の流れをさまたげ、 湿気は火をさまたげ、 *五ご逆ぎゃく・*十じゅう悪あくの罪は人間や神々として生れることをさまたげ、 *四し顛倒てんどうは声聞のさとりをさまたげるようなものである。 ここにあげた三種の心を遠く離れないなら、 さとりへの道をさまたげることになる。 “知るべきである” とは、 さとりへの道にさまたげのないことを得ようと思うなら、 このさまたげとなる三種の心を遠く離れなければならないということである。
『浄土論』 に、 “さきに、 煩悩の汚れのない清らかな心、 衆生を安らかにする清らかな心、 衆生に楽しみを与える清らかな心を説いた。 この三種の心は、 まとまってただ一つの*妙みょう楽らく勝しょう真しん心しんを成就する。 知るべきである” と述べられている。 “楽” に三種がある。 一つには外楽、 すなわち*五ご識しきによる楽しみである。 二つには内楽、 すなわち*初しょ禅ぜん・第だい二に禅ぜん・第だい三禅さんぜんの*禅ぜん定じょうの*意い識しきによる楽しみである。 三つには法楽ほうがく楽らく、 すなわちさとりの智慧による楽しみである。 この智慧による楽しみは、 阿弥陀仏の功徳を願い求めることからおこるのである。 自分自身に執着する心を遠く離れ、 衆生を安らかにすることのない心を遠く離れ、 自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるという、 この三つが清らかに進展して一つの妙楽勝真心となる。 妙とは、 よいという意味である。 この楽は阿弥陀仏を縁としておこるからである。 勝とは、 迷いの世界の楽しみに超えすぐれていることである。 真とは、 いつわりでなく真実にかなっていることをいうのである。
*願がん事じ成じょう就じゅというのは、 『浄土論』 に、 “このように菩薩は、 般若・方便・無障・妙楽勝真という四つの心により、 阿弥陀仏の浄土に往生させていただくのである。 知るべきである” と述べられている。 “知るべきである” とは、 この四種の心の清らかな功徳により、 阿弥陀仏の浄土に往生できるのであって、 他の功徳により往生するのではないことを知るべきであるというのである。
『浄土論』 に、 “これを、 菩薩が五念門にかなって、 自由自在に自利利他の行いができるようになるというのである。 さきに説いたように、 身業・口業・意業・智業・方便智業が五念門にかなっているからである” と述べられている。 “自由自在に” とは、 この五念門の功徳の力は、 阿弥陀仏の浄土に往生させ、 またあらゆる世界にすがたを現すことが自由自在であるようにさせることをいうのである。 “身業” とは礼拝である。 “口業” とは讃嘆である。 “意業” とは作願である。 “智業” とは観察である。 “方便智業” とは回向である。 この五種の行いがととのうのを、 往生浄土の法門にかなって、 自由自在に自利利他の行いができるようになるというのである。
*利り行ぎょう満足まんぞくというのは、 『浄土論』 に、 “また五種の法門があって、 五種の功徳を成就することを知るべきである。 五種の法門とは何かというと、 一つには近門、 二つには大会衆門、 三つには宅門、 四つには屋門、 五つには園林遊戯地門である” と述べられている。 この五種の法門は、 浄土へ入ってさとりを開くという自利の入の相と、 浄土から出て衆生をさとりへ導くという利他の出の相とを、 順次に説き示したものである。 入の相の中、 まず浄土に生れるのは近門の相である。 つまり大乗の正定聚に入ると、 さとりに近づくのである。 浄土に生れると、 そこで阿弥陀仏の*大だい会え衆しゅの中に入る。 大会衆の中に入れば、 安らかに修行できる住い、 すなわち宅に至るであろう。 その宅に入れば、 まさにその屋内で修行を積むに至るであろう。 そこで修行が成就すれば、 思いのままに衆生を教え導く位に至るのである。 この位は、 すなわち衆生を教え導くことを菩薩自らの楽しみとする位である。 このようなわけで、 出の法門を園林遊戯地門というのである。
『浄土論』 に、 “この五種の法門は、 はじめの四種の法門は入の功徳を成就し、 第五の法門は出の功徳を成就するのである” と述べられている。 この入出の功徳とはどのようなものであろうか。
これについて 『浄土論』 に、 “*入にゅうの第だい一門いちもんとは、 阿弥陀仏を礼拝し、 すなわち本願のはたらきにより阿弥陀仏の国に生れようとするから、 浄土に生れさせてくださる。 これを入の第一門という” と述べられている。 阿弥陀仏を礼拝して浄土に生れようと願うのである。 これが第一の功徳の相である。
『浄土論』 に、 “*入にゅうの第だい二に門もんとは、 阿弥陀仏をほめたたえ、 名号のいわれにかなって如来の名号を称えさせていただき、 すなわち如来の光明という智慧の相によって行を修めるから、 大会衆の中に入らせてくださる。 これを入の第二門という” と述べられている。 阿弥陀仏の名号のいわれにかなってほめたたえるのである。 これが第二の功徳の相である。
『浄土論』 に、 “*入にゅうの第だい三門さんもんとは、 一心にもっぱら作願して阿弥陀仏の浄土に生れ、 すなわち思いをやめ心を静める行を修めるから、 *蓮れん華げ蔵ぞう世せ界かいに入らせてくださる。 これを入の第三門という” と述べられている。 心を静める行を修めるために一心に浄土に生れようと願うのである。 これが第三の功徳の相である。
『浄土論』 に、 “*入にゅうの第だい四し門もんとは、 浄土のすぐれたすがたをもっぱら観察し、 すなわちそのすぐれた観察の行を修めさせていただくから、 浄土に往生してさまざまな法を味わう楽しみを受けさせてくださる。 これを入の第四門という” と述べられている。 “さまざまな楽しみ” とは、 観察の行の中に、 仏とその国土の清らかなことを観ずる楽しみ、 衆生を救い大乗のさとりを開かせることを観ずる楽しみ、 阿弥陀仏の本願力がいつわりでなく変らずにはたらき続けることを観ずる楽しみ、 菩薩が衆生に応じて行を修め仏とその国土を示して衆生を救うことを観ずる楽しみなどがあり、 このように数限りない法を味わう楽しみが浄土にそなわっているから、 さまざまな楽しみというのである。 これが第四の功徳の相である。
『浄土論』 に、 “出の第五門とは、 大慈悲の心をもって、 苦しみ悩むすべての衆生を観じて、 衆生を救うためのさまざまなすがたを現し、 煩悩に満ちた迷いの世界に還ってきて、 神通力をもって思いのままに衆生を教え導く位に至ることである。 このようなはたらきは阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。 これを出の第五門という” と述べられている。 “救うためのさまざまなすがたを現す” とは、 『*法華ほけ経きょう』 の普門品に、 *観音かんのん菩ぼ薩さつが衆生を救うためにさまざまなすがたを現すことが説かれているようなものである。 “思いのままに” というのには二つの意味がある。 一つには自由自在という意味である。 浄土の菩薩が衆生を救うのは、 たとえば獅子がいともたやすく鹿を捕えるようなものであり、 それは自由自在なのである。 二つには衆生を救いながらも救うというとらわれがないという意味である。 浄土の菩薩が衆生を観ずるとき、 実体があるとみるのではない。 数限りない衆生を救いながら、 一人としてさとりを得させたというとらわれがない。 衆生を救うはたらきをあらわすことに、 とらわれがないのである。 “本願力” とは、 八地以上の菩薩が平等法身のさとりの中において、 常に禅定にあって、 さまざまなすがたを現し、 さまざまな神通力をあらわし、 さまざまな説法をするのであるが、 これらはみな阿弥陀仏の本願力によるものであることをいう。 たとえば*阿あ修しゅ羅らの琴ことは弾くものがいなくても自然に調べを奏でるようなものである。 これを思いのままに衆生を教え導く第五の功徳の相というのである」
以上のことから、 釈尊の真実の仰せにより知ることができた。 この上ないさとりを得ることは、 阿弥陀仏の本願力の回向によるのであり、 還相のはたらきを恵まれることは、 阿弥陀仏が衆生を救おうとされる本意をあらわしているのである。 こういうわけであるから、 天親菩薩は、 何ものにもさまたげられない広大な功徳をそなえた一心をあらわして、 娑婆世界にあって煩悩にけがされている衆生を教え導いてくださり、 曇鸞大師は、 往相も還相もみな阿弥陀仏の大いなる慈悲による回向であることをあらわして、 他利と利他の違いを通して他力の深い教えを詳しく説き広めてくださった。 仰いで承るべきであり、 つつしんでいただくべきである。 
 

 

 
顕浄土真仏土文類 五 

 

光明無量の願 寿命無量の願
愚禿釈親鸞集
【1】 つつしんで、 真実の仏と浄土をうかがうと、 仏は思いはかることのできない光明の如来であり、 浄土はまた限りない光明の世界である。 すなわち、 それは法蔵菩薩のおこされた大いなる慈悲の*誓願せいがんの果報として成就されたものであるから、 真実の*報仏ほうぶつ・*報ほう土どというのである。 その誓願とは、 すなわち光明無量の願 (第十二願) と寿命無量の願 (第十三願) とである。
【2】 第十二願は、 『無量寿経』 に次のように説かれている。「わたしが仏になったとき、 光明に限りがあって、 数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい」
【3】 また第十三願は、 次のように説かれている (無量寿経)。「わたしが仏になったとき、 寿命に限りがあって、 はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、 わたしは決してさとりを開くまい」
【4】 第十二・十三願の成就文は、 次のように説かれている (無量寿経)。「釈尊は、 *阿あ難なんに仰せになる。 “無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、 仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。 (中略) このため無量寿仏を、 *無む量りょう光こう仏ぶつ・無む辺光へんこう仏ぶつ・無礙むげ光こう仏ぶつ・無む対光たいこう仏ぶつ・炎王えんのう光こう仏ぶつ・清浄しょうじょう光こう仏ぶつ・歓かん喜ぎ光こう仏ぶつ・智慧ちえ光こう仏ぶつ・不ふ断だん光こう仏ぶつ・難なん思じ光こう仏ぶつ・無む称しょう光こう仏ぶつ・超ちょう日にち月光がっこう仏ぶつと申しあげるのである。
この光明に照らされるものは、 *三毒さんどくの煩悩が消え去って身も心も和やわらぎ、 よろこびに満ちあふれて善い心が生れる。 もし*地じ獄ごくや餓鬼がきや畜ちく生しょうの苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、 みな安らぎを得て、 ふたたび苦しみ悩むことはなく、 命を終えて後にすべて迷いを離れることができる。 無量寿仏の光明は明るく輝いて、 すべての仏がたの国々を照らし尽し、 その*名みょう号ごうの聞えないところはない。 わたしだけがその光明をたたえるのではなく、 すべての仏がたや*声しょう聞もんや*縁覚えんがくや菩薩たちも、 みな同じようにたたえておいでになるのである。 もし人々がその光明のすぐれた功徳を聞いて、 まごころをこめて日夜それをほめたたえ、 絶えることがなければ、 願いのままに阿弥陀仏の国に往生することができ、 菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられるであろう。 そして後に仏のさとりを開いたときには、 今わたしが阿弥陀仏の光明をたたえたように、 すべての世界の仏や菩薩たちにその光明をたたえられるであろう” と。
釈尊は、 “阿弥陀仏の光明の気高く尊いことは、 わたしが一*劫こうの間、 昼となく夜となく説き続けても、 なお説き尽すことができない” と仰せになる。
釈尊はさらに阿難に、 “阿弥陀仏の寿命は実に長くて、 とてもはかり知ることができない。 そなたもそれを知ることはできないだろう。 たとえ、 すべての世界の数限りない*衆しゅ生じょうがみな人間に生れて、 残らず声聞や縁覚となり、 それらの聖者がすべて集まって、 思いを静め、 心を一つにしてさまざまな智慧を尽し、 百千万劫の長い間、 力を合せて数えても、 その寿命の長さを知り尽くすことはできない” と仰せになる」
【5】 『如来会』 に説かれている。「阿難よ、 このようなわけで、 無量寿仏にまた異なった名がある。 すなわち、 *無む量りょう光こう・無む辺光へんこう・無む着じゃく光こう・無礙むげ光こう・光こう照しょう王おう・端厳たんごん光こう・愛光あいこう・喜き光こう・可か観かん光こう・不可ふか思議しぎ光こう・無む等とう光こう・不可ふか称量しょうりょう光こう・暎蔽えいへい日光にっこう・暎蔽えいへい月光がっこう・掩奪あんだつ日月にちがっ光こうである。 その仏の光明は清らかで広大であり、 あらゆる衆生の心身によろこびを与える。 また、 他のすべての仏国にいる神々・竜・*夜や叉しゃ・*阿あ修しゅ羅らなどにもみなよろこびを得させるのである」
【6】 『平等覚経』 に説かれている。「阿弥陀仏の*安楽あんらく国こくに、 速やかに往くことができる。 限りない光明の世界に至って、 無数の仏を供養する」
【7】 『大阿弥陀経』 に説かれている。「釈尊は、 “阿弥陀仏の光明はもっとも尊いもので並ぶものがなく、 どのような仏がたの光明も及ぶことのないものである。 すべての世界の数限りない仏がたの中には、 その光明が七丈を照らすものがあり、 一里を照らすものがあり、 (中略) 二百万の仏国を照らすものがある” と仰せになる。
続いて、 “すべての世界の数限りない仏がたの光明が照らすところは、 みなこのようである。 阿弥陀仏の光明が照らすところは千万の仏国である。 仏がたの光明の照らすところに遠近の違いがあるのはどういうわけであろうか。 かつて仏がたが過去の世に菩薩として修行していたとき、 願い求めた功徳にもともと大小の違いがあった。 そして後に仏となり、 それぞれ功徳を成就したのである。 だから、 光明もまた異なっているのである。 仏がたのすぐれた力は同じであり、 仏がたが心のままに求めるところは、 あらかじめはかり知ることができない。 阿弥陀仏の光明の照らすところは最大であって、 仏がたの光明のみな及ぶところではない” と仰せになる。
また釈尊は、 阿弥陀仏の光明のきわめてすぐれていることをほめたたえられる。 “阿弥陀仏の光明はきわめてすぐれていて、 実に明るく美しい。 その快いことは並ぶものがなく、 超えすぐれてきわまりがない。 阿弥陀仏の光明は、 清らかであって汚れなく欠けるところがない。 阿弥陀仏の光明は、 太陽や月の明るさよりも百千億万倍もすぐれている。 仏がたの光明の中でもっとも明るいものであり、 美しいものであり、 傑出したものであり、 快いものである。 阿弥陀仏は仏がたの王であり、 その光明はもっとも尊いものであり、 明るくきわまりないものである。 無数の暗闇を照らして、 みな常に明るくなる。 あらゆる人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいにいたるまで、 阿弥陀仏の光明を見たてまつらないことがない。 見たてまつるもので、 敬う心をおこしてよろこばないものはないであろう。 三毒の煩悩にまみれたどのようなものでも、 阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、 善い行いをしないものはない。 地獄や畜生や餓鬼などのさまざまな苦しみの世界において、 阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、 その苦しみはみな治まる。 そこで苦しみを除き去ることはできないけれども、 命を終えて後に苦しみから解き放たれないものはない。 阿弥陀仏の光明と名号とは、 すべての世界の数限りない仏がたの国々に至り届く。 あらゆるものはみなこれを聞いて信じないことがなく、 聞いて信じるものは迷いを離れないことがない” と。
そして、 “わたしだけが、 阿弥陀仏の光明をほめたたえるのではない。 すべての世界の数限りない仏・縁覚・菩薩・*阿羅あら漢かんもみな、 このようにほめたたえているのである” と仰せになり、 さらに、 “※善良なものが、 阿弥陀仏の名号を聞いて光明をほめたたえ、 朝夕にそのすぐれていることをまごころをこめてほめたたえ、 絶えることがなければ、 願いのままに阿弥陀仏の浄土に往生する” と仰せになる」
【8】 『*不ふ空くう羂けん索じゃく神変じんぺん真言しんごん経きょう』 に説かれている。「そなたが未来に生れるところは、 阿弥陀仏の清らかな報土である。 蓮の花から*化け生しょうして、 常に仏がたを見たてまつり、 さまざまなさとりを得るであろう。 寿命は限りなく、 百千劫に及ぶであろう。 ただちにこの上ないさとりに至り、 決して退くことはない。 わたしはそなたを常に護ろう」
【9】 『*涅ね槃はん経ぎょう』 に説かれている。「釈尊は、 “また、 さとりはとらわれを離れた無という。 とらわれを離れた無はすなわちさとりである。 さとりはすなわち如来である。 如来はすなわちとらわれを離れた無である。 これははからいを離れたあるがままのはたらきである。 (中略) 真実のさとりは生じることも滅することもない。 だからさとりはすなわち如来である。 如来もまたそうであって、 生じることも滅することもなく、 老いることも死ぬこともなく、 破れることも壊れることもなく、 変化するものではないのである。 このようなわけで、 如来は大*涅ね槃はんに入るというのである。 (中略) また、 さとりはこの上なくすぐれたものという。 (中略) この上なくすぐれたものはすなわち真実のさとりである。 真実のさとりはすなわち如来である。 (中略) この上ないさとりを成就することができれば、 貪りや疑いの思いはない。 貪りや疑いの思いがないのはすなわち真実のさとりである。 真実のさとりはすなわち如来である。 (中略) 如来はすなわち涅槃である。 涅槃は尽きることのないものである。 尽きることのないものはすなわち*仏ぶっ性しょうである。 仏性はすなわち決定である。 決定はすなわちこの上ないさとりである” と仰せになる。
迦葉菩薩が釈尊に、 “*世せ尊そん、 もし涅槃と仏性と決定と如来とが同じ意味の言葉であるのなら、 どうして仏・法・僧の*三宝さんぼうに帰依すると説かれるのですか” と申しあげる。
釈尊は迦葉菩薩に、 “善良なものよ、 すべての衆生は、 生れ変り死に変って絶えることのない迷いの世界をおそれるから三宝に帰依しようとする。 三宝に帰依することにより仏性と決定と涅槃とを知るのである。 善良なものよ、 言葉は同じで意味が異なるものがあり、 また言葉も意味もともに異なるものがある。 言葉は同じで意味が異なるというのは、 仏が*常住じょうじゅうであり、 法が常住であり、 僧が常住であるというようなことである。 涅槃も*虚こ空くうもまたみな常住である。 これを、 言葉は同じで意味が異なるという。 言葉も意味もともに異なるというのは、 仏を覚、 すなわちさとるものといい、 法を不覚、 すなわちさとられるものといい、 僧を和合、 すなわちなごやかに親しむことといい、 涅槃を*解げ脱だつ、 すなわちさとりといい、 虚空を非善、 すなわち善悪を超えたものといい、 また無礙、 すなわちさまたげのないものという。 これを、 言葉も意味もともに異なるという。 善良なものよ、 仏・法・僧の三宝に帰依することもまたこの通りである” と仰せになる」
【10】また次のように説かれている (涅槃経)。「光明とはいつまでも衰えないものである。 いつまでも衰えないものを如来という。 また、 光明を智慧という」
【11】また次のように説かれている (涅槃経)。「善良なものよ、 すべての*有為ういはみな*無む常じょうである。 虚空は*無為むいであるから常住である。 仏性は無為であるから常住である。 虚空はすなわち仏性である。 仏性はすなわち如来である。 如来はすなわち無為である。 無為はすなわち常住である。 常住はすなわち法である。 法はすなわち僧である。 僧はすなわち無為である。 無為はすなわち常住である。 (中略)
善良なものよ、 たとえば、 牛は*乳ちちを出し、 次に乳から*酪らくをつくり、 次に酪から*生しょう蘇そをつくり、 次に生蘇から*熟じゅく蘇そをつくり、 最後に熟蘇から*醍だい醐ごをつくる。 この醍醐はもっともすぐれたものである。 もしそれを飲めば、 さまざまな病がすべて治る。 あらゆる薬がことごとくその中に収まっているようなものである。 善良なものよ、 仏もまた同じである。 仏は 『*華け厳ごん経ぎょう』 を説き、 次に “*阿あ含ごん経きょう典てん” を説き、 次に “*方等ほうどう経きょう典てん” を説き、 次に “*般若はんにゃ教きょう典てん” を説き、 最後に 『涅槃経』 を説く。 『涅槃経』 はもっともすぐれた醍醐と同じである。 醍醐とは仏性をたとえたものである。 仏性はすなわち如来である。 善良なものよ、 このようなわけで、 “如来のあらゆる功徳は限りなく、 はかり知ることができない” と説いたのである」
【12】また次のように説かれている (涅槃経)。「善良なものよ、 道に二種がある。 一つには常住であり、 二つには無常である。 *菩ぼ提だいの相にまた二種がある。 一つには常住であり、 二つには無常である。 涅槃もまた同じである。 仏教以外の道は無常であり、 仏教の道は常住である。 声聞や縁覚の菩提は無常であり、 仏や菩薩たちの菩提は常住である。 仏教以外の教えでの解脱は無常であり、 仏教の解脱は常住である。 善良なものよ、 道と菩提と涅槃とは、 すべて常住である。 すべての衆生は、 常に多くの*煩悩ぼんのうにおおわれて智慧の眼がないから、 これらを見ることができない。 そこで、 多くの衆生はこれらを見ようとして戒・定・慧の*三学さんがくを修め、 その修行によって道と菩提と涅槃とを見るのである。 これを、 菩薩が道と菩提と涅槃とを得るというのである。 道の本性もすがたも、 もとより消滅がない。 このようなわけでとらえることはできない。 (中略) 道はかたちはないけれども、 見ることができるし、 はかり知ることもできるのであって、 まさにはたらきがあるのである。 (中略) 衆生の心も、 物質ではなく、 長くも短くもなく、 粗くも細かくもなく、 縛られることも解かれることもなく、 見えるものではないが、 確かに存在する」
【13】また次のように説かれている (涅槃経)。「善良なものよ、 大いなる楽があるから大涅槃という。 涅槃には*凡ぼん夫ぶの思うような楽はないが、 四つの大いなる楽があるから大涅槃というのである。 その四つとは何であろうか。
一つには、 さまざまな世間の楽を断っていることであり、 それを大いなる楽という。 世間の楽を断っていないのは苦である。 苦があれば大いなる楽とはいわない。 世間の楽を断っているから苦のあることはない。 世間の苦も楽もないのを、 大いなる楽というのである。 そもそも涅槃の本性には苦も楽もない。 だから涅槃を大いなる楽という。 このようなわけで大涅槃というのである。 また善良なものよ、 楽には二種があり、 一つには凡夫の楽、 二つには仏がたの楽である。 凡夫の楽は、 無常でありこわれるものであるから、 楽ではない。 仏がたの楽は、 常住であり変ることがないから、 大いなる楽という。 また善良なものよ、 凡夫が苦楽を感じるのに三種がある。 一つには苦であると感じること、 二つには楽であると感じること、 三つには苦でも楽でもないと感じることである。 この苦でも楽でもないというのも、 実は苦である。 涅槃も、 苦でも楽でもないということは同じであるが、 大いなる楽という。 大いなる楽であるから大涅槃というのである。
二つには、 煩悩を滅した究極の平安を得ていることであり、 それを大いなる楽という。 そもそも涅槃の本性は究極の平安である。 なぜなら、 身心を乱し悩ませるすべての煩悩を遠く離れているからである。 究極の平安を得ているから大涅槃というのである。
三つには、 すべてのことがらの真実を知る智慧を得ていることであり、 それを大いなる楽という。 すべてを知る智慧を得ていないのを大いなる楽とはいわない。 仏がたはすべてを知る智慧を得ているから大いなる楽という。 大いなる楽であるから大涅槃というのである。
四つには、 その身が損なわれないことであり、 それを大いなる楽という。 その身が損なわれるなら楽とはいわない。 如来の身は*金剛こんごうのように堅固であって損なわれることがない。 煩悩の身ではなく無常の身ではないから、 大いなる楽という。 大いなる楽であるから大涅槃というのである」
【14】また次のように説かれている (涅槃経)。「はかり知ることも考えることもできないから、 大涅槃ということができる。 また完全な清浄であるから大涅槃という。 完全な清浄とはどのようなことであろうか。 清浄に四種がある。 その四つとは何であろうか。
一つには、 迷いの世界を不浄といい、 これを永久に断ち切ることである。 だから清浄ということができるのである。 この清浄がすなわち涅槃である。 このような涅槃はまた存在するものであるということができる。 しかし、 凡夫の考えるような存在ではない。 仏がたは世間の考え方に合せて涅槃は存在するものであると説かれたのである。 たとえば、 世間の人が父でないものを父といい、 母でないものを母といい、 実際は父母でないのに父母というようなものである。 涅槃もまた同じである。 世間の考え方に合せるから、 仏がたは存在するものであって、 そのまま大涅槃であると説かれたのである。
二つには、 行いが清浄であるということである。 すべての凡夫の行いは清浄でないから涅槃はない。 仏がたは行いが清浄であるから大いなる浄という。 大いなる浄であるから大涅槃というのである。
三つには、 その身が清浄であるということである。 その身が無常であるなら、 不浄という。 如来の身は常住であるから大いなる浄という。 大いなる浄であるから大涅槃というのである。
四つには、 心が清浄であるということである。 心が煩悩に汚されているなら不浄という。 仏の心は煩悩に汚されていないから大いなる浄という。 大いなる浄であるから大涅槃というのである。 善良なものよ、 このように大涅槃を得るものを善良なものたちというのである」
【15】また次のように説かれている (涅槃経)。「善良なものよ、 仏がたには煩悩がおこらない。 これを涅槃という。 仏がたのそなえておられる智慧は、 すべてに通じて何ものにもさまたげられることがない。 これを如来という。 如来は凡夫や声聞や縁覚や菩薩などの*因いん位にのものではない。 これを仏性という。 如来の身心にそなわる智慧は、 数限りない国土に行きわたりさまたげられることがない。 これを虚空という。 如来は常住であって変ることがないから*実相じっそうという。 このようなわけで、 如来は涅槃にとどまることなく、 まさに迷いの世界で活動されているのである。 これを菩薩というのである」
【16】また次のように説かれている (涅槃経)。「迦葉菩薩が、 “世尊、 仏性が常住であって、 虚空のようであるのなら、 どうして仏性を未来のこととして説かれるのですか。 また、 *一闡いっせん提だいのものには善がないと仰せになるなら、 一闡提のものは、 友達や師匠や父母や親族や妻子に対して、 愛する心がおこらないのでしょうか。 もし愛する心がおこるのなら、 それは善ではないでしょうか” と申しあげた。
仏が、 “よろしい、 善良なものよ、 それはよい問いである。 仏性は虚空のように常住であって、 過去でもなく未来でもなく現在でもない。 しかし、 すべての衆生には三種の身がある。 いわゆる過去・未来・現在の身である。 衆生は未来に*法ほっ性しょうにかなった清浄の身となって、 仏性を見ることができるであろう。 だから、 わたしは仏性を未来のことといったのである。 善良なものよ、 仏は衆生のために、 あるときは因のことを果で説き、 あるときは果のことを因で説く。 だから、 経には、 命は食をとった結果であるが、 命という結果を食において説き、 また物質は感覚によって認知された結果であるが、 物質という結果を感覚において説く。 そのように衆生も未来にはその身が清浄であるから、 仏性と説くのである” と仰せになった。
そこで迦葉菩薩は、 “世尊、 お説きになられた通りであります。 そうであるなら、 すべての衆生にはことごとく仏性があると、 どうして説かれるのですか” と申しあげた。
釈尊が次のように仰せになった。 “善良なものよ、 衆生の仏性は、 現在には見ることはできないけれども、 ないということはできない。 虚空のようである。 その本性はとらえることができないけれども、 現在にないとはいえない。 すべての衆生は、 また無常であるけれども、 仏性は常住であって変らない。 だから、 わたしはこの経に、 «衆生の仏性は、 内にあるのでも外にあるのでもなく、 それは虚空のようである» と説くのである。 内にあるのでも外にあるのでもなく、 虚空のように存在するのである。 内とか外とかいうのなら、 虚空のようだといっても、 一であるとも常住であるともいうことができず、 すべてのところに存在するということもできない。 虚空は、 また内にあるのでも外にあるのでもないけれども、 すべての衆生にことごとくある。 衆生の仏性もまた同じである。
そなたのいう一闡提のものなどは、 その身心におこすすべてのはたらきも行いも、 それらはことごとくよこしまなものである。 なぜなら、 *因いん果がの道どう理りを信じようとしないからである。 善良なものよ、 *訶か梨り勒ろくは、 根も幹も枝も葉も花も実もすべて苦いようなものである。 一闡提のものの行いもまたその通りである”」
【17】また次のように説かれている (涅槃経)。「釈尊が仰せになる。 “善良なものよ、 如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。 だから如来は、 衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、 その人の劣った資質があらたまり、 よりすぐれたものとなることを知り、 あるいは、 その人のすぐれた資質が損なわれ、 より劣ったものとなることを知っておられるのである。 だからよく知るがよい。 衆生の資質は定まったものではないのである。 定まったものではないから、 善い資質を失うようなことがあり、 失ってしまっても、 ふたたび善い資質を生じることがある。 衆生の資質が定まったものであるなら、 ひとたび善い資質を失ってしまうと、 また生じるということはないであろう。 したがって、 一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。 善良なものよ、 このようなわけで、 如来はすべてのものには定まった相がない、 と説くのである” と。
迦葉菩薩が釈尊に、 “世尊、 如来は衆生の資質を知る力をそなえておられるのですから、 *善ぜん星しょう*比丘びくが善い資質を失うだろうと、 きっと知っておられたはずです。 どのようなわけで、 善星比丘の出家をお許しになったのですか” と申しあげる。
釈尊が仰せになる。 “善良なものよ、 昔わたしが出家したばかりのころ、 弟の*難なん陀だ、 従弟の阿難と*提だい婆ば達だっ多た、 息子の*羅ら睺羅ごらなどが、 みなことごとくわたしにしたがって出家して仏道を修めることになった。 わたしがもし善星の出家を許さなかったなら、 善星は一族のものとして次に王位を継ぐことになったであろう。 そうなれば、 思いのままにその力を使って、 仏法を破壊したであろう。 このようなわけで、 わたしは、 出家して仏道を修めることを許したのである。 善良なものよ、 善星比丘は、 出家しなかったとしても、 やはり善い資質を失ったであろう。 そうすれば、 はかり知れない長い間何の利益もないことになる。 すでに出家し、 後に善い資質を失ったが、 *戒律かいりつをたもち、 長老や先輩や有徳の人を供養し敬い、 さまざまな段階の*禅ぜん定じょうを修めるということは、 善の因となる。 このような善の因は善を生じる。 善が生じたなら仏道を修めるであろう。 仏道を修めたなら、 ついにはこの上ないさとりを得るであろう。 だから、 わたしは善星の出家を許したのである。 善良なものよ、 もしわたしが、 善星比丘が出家して戒律を受けることを許さなかったなら、 わたしのことを、 *十じゅう力りきをそなえた如来と称することはできないであろう。 (中略) 善良なものよ、 如来はこのように衆生の資質がすぐれているか劣っているかを知っている。 だから仏のことを、 衆生の資質を知る力をそなえたものと称するのである” と。
迦葉菩薩が釈尊に申しあげる。 “世尊、 如来は衆生の資質を知る力をそなえておられます。 だから、 すぐれているか劣っているかなど、 すべての衆生の資質の違いを知って、 その人に応じ、 その心に応じ、 そのときに応じて法を説かれるから、 如来のことを、 衆生の資質を知る力をそなえた方、 と申しあげるのです。 (中略) あるときは、 *四し重じゅう禁きん戒を破ったもの、 *五ご逆ぎゃく罪を犯したもの、 一闡提などにも、 みな仏性がある、 とお説きになるのです” (中略)
釈尊が仰せになる。 “如来は、 それぞれの世界に応じて、 それぞれの時に応じて、 それぞれの使っている言葉に応じて、 それぞれの人に応じて、 それぞれの資質に応じて、 一つのことがらについて違った説き方をするのである。 一つの名を持つことがらを数限りない名で説き、 一つの意味を数限りない名で説き、 数限りない意味を数限りない名で説く。
一つの名を数限りない名で説くとは、 どのようなことかというと、 涅槃を説くようなものである。 煩悩を滅しているから涅槃といい、 生じることも滅することもないから無生ともいい、 ふたたび迷いの世界に出ないから無出ともいい、 はからいなくはたらくから無作ともいい、 つくられたものでないから無為ともいい、 すべてのよりどころであるから帰依ともいい、 堅固なところであるから*窟宅くったくともいい、 迷いの束縛を離れているから解脱ともいい、 智慧が明らかであるから光明ともいい、 迷いの闇を照らすから灯明ともいい、 迷いのこの世界を超えているから彼岸ともいい、 何ごとにも畏れることがないから無畏ともいい、 迷いに退転しないから無退ともいい、 安らかなところであるから安処ともいい、 煩悩を滅して静かであるから寂静ともいい、 あらゆる相を離れているから無相ともいい、 何ものにもくらべられないから無二ともいい、 ただ一つのまことのはたらきであるから一行ともいい、 煩悩を離れて涼しく清らかであるから清涼ともいい、 迷いの闇を離れているから無闇ともいい、 何ものにもさまたげられないから無礙ともいい、 何の争いもないから無諍ともいい、 煩悩の濁りがないから無濁ともいい、 すべての世界に満ちわたっているから広大ともいい、 すぐれた功徳を味わうことができるから*甘かん露ろともいい、 めでたいものであるから吉祥ともいう。 これを、 一つの名を数限りない名で説くというのである。
一つの意味を数限りない名で説くというのは、 どのようなことかというと、 *帝たい釈しゃく天てんを説くようなものである。
数限りない意味を数限りない名で説くとは、 どのようなことかというと、 仏・如来を説くようなものである。 *真如しんにょより現れきたったものとして如来といい、 供養を受けるにふさわしいものとして阿羅漢といい、 平等のさとりを得たものとして*三さん藐みゃく三さん仏ぶっ陀だという。 これらは意味も異なり名も異なる。 また迷いの岸からさとりの岸へ渡すものとして船師ともいい、 衆生をさとりへ導くものとして導師ともいい、 真実をさとったものとして正覚ともいい、 智慧と行とがともに完全であるものとして明行足ともいい、 すべてのものの王として大師子王ともいい、 善い行いを勧め悪をとどめるものとして*沙門しゃもんともいい、 清らかな行を修めるものとして*婆羅ばら門もんともいい、 煩悩を滅して心が静まったものとして寂静ともいい、 人々に功徳を施すものとして施主ともいい、 さとりの岸に到ったものとして到彼岸ともいい、 すべての煩悩の病を治すものとして大医王ともいい、 すべてのものを巧みに降伏させるものとして大象王ともいい、 不可思議な力をあらわすものとして大竜王ともいい、 人々に智慧の眼を施すものとして施眼ともいい、 すぐれた力をそなえたものとして大力士ともいい、 何ごとにも畏れることがないものとして大無畏ともいい、 功徳の宝を集めたものとして宝聚ともいい、 隊商の長にたとえられるものとして商主ともいい、 迷いの束縛を離れたものとして得解脱ともいい、 雄々しく努め励むものとして大丈夫ともいい、 神々や人々を導くものとして天人師ともいい、 煩悩の泥に汚されないものとして大*分ふん陀利だり華けともいい、 世に並ぶものなく独り尊いものとして独無等侶ともいい、 人々の供養を受けて功徳を得させるものとして大*福田ふくでんともいい、 海のように広大な智慧を持つものとして大智海ともいい、 あらゆる相を離れたものとして無相ともいい、 *八はっ智ちをそなえたものとして具足八智ともいう。 これらはすべて意味も異なり名も異なる。 善良なものよ、 これを、 数限りない意味を数限りない名で説くというのである。
また、 一つの意味を数限りない名で説くことがあるとは、 いわゆる*陰おんのようなものである。 陰といい、 また*顛倒てんどうともいい、 また諦ともいい、 また*四し念処ねんじょともいい、 また*四し食じきともいい、 また*四し識しき住じゅう処しょともいい、 また有ともいい、 また道ともいい、 また時ともいい、 また衆生ともいい、 また世ともいい、 また第一義ともいい、 また*三修さんしゅともいい、 また因果ともいい、 また煩悩ともいい、 また解脱ともいい、 また*十じゅう二に因縁いんねんともいい、 また声聞・縁覚・仏ともいい、 また*地じ獄ごく・餓鬼がき・畜ちく生しょう・人間にんげん・天てん上じょうともいい、 また過去・現在・未来ともいう。 これらはみな陰なのである。 これを、 一つの意味を数限りない名で説くというのである。
善良なものよ、 如来は衆生のために、 広く説かれたものを簡潔に示し、 簡潔に示されたものを広く説く。 *第一義諦を説いて*世俗諦とし、 世俗諦を説いて第一義諦とするのである”」
【18】また次のように説かれている (涅槃経)。「迦葉菩薩がまた申しあげる。 “世尊、 第一義諦をまた道といいます。 また菩提ともいい、 また涅槃ともいうのであります” (以下略)」
【19】また次のように説かれている (涅槃経)。「善良なものよ、 わたしは教えの中で如来の身についておおむね二種を説く。 一つには*生しょう身じん、 二つには*法身ほっしんである。 生身というのは、 衆生を救済するために現れた身である。 このような身には、 生老病死の変化があり、 長短や黒白の相があり、 あれとこれとの区別があり、 なお学ぶべき余地を残す段階ともはや学ぶべきことのない境地とがあるということができる。 弟子たちがこの教えを聞いて、 わたしの真意を理解しなかったなら、 “如来は仏身が消滅変化するものであるとはっきりとお説きになった” というであろう。
法身というのは、 *常じょう楽らく我が浄じょうの徳のすべてをそなえた身である。 これは永久に、 生老病死の変化、 黒白や長短の相、 あれとこれとの区別、 なお学ぶべき余地を残す段階ともはや学ぶべきことのない境地との違いなど、 これらすべてを超え離れていて、 仏が世に出られても出られなくても、 常にゆるぎなく変ることがない。 善良なものよ、 弟子たちがこの教えを聞いて、 わたしの真意を理解しなかったなら、 “如来は仏身が消滅変化しないものであるとはっきりとお説きになった” というであろう」
【20】また次のように説かれている (涅槃経)。「わたしが説いた*十じゅう二部にぶ経きょうには、 あるいは仏自らの意にしたがって説いた教えがあり、 相手の意にしたがって説いた教えがあり、 あるいは自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えがある。 (中略)
善良なものよ、 わたしは*第だい十じゅう地じの菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くが、 このように説くのを相手の意にしたがって説いた教えというのである。 なぜ少ししか見ないと説くのか。 第十地の菩薩は*首しゅ楞りょう厳ごん三昧ざんまいなどの*三昧さんまいを得、 すべての教えに通じている。 そのため、 明らかに自分がこの上ないさとりを得るということは知っているが、 すべての衆生がこの上ないさとりを得るということは知らない。 このようなわけで、 わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くのである。 善良なものよ、 わたしは常にすべての衆生には仏性があると説く。 これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。 すべての衆生は、 仏性が途切れることもなくなることもなく、 やがてはこの上ないさとりを得る。 これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。 すべての衆生にはことごとく仏性があるが、 煩悩におおわれているから見ることができないのである。 このように説くのは、 わたし自らの意にも、 そなたたちの意にもかなっている。 これを自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えというのである。 善良なものよ、 如来は一つのことを明らかにするために数限りない教えを説くことがある」
 

 

【21】また次のように説かれている (涅槃経)。「“すべてをさっとったものを仏性という。 第十地の菩薩はすべてをさとったものとはいえないから、 仏性を見るといっても明らかに見るのではない。 善良なものよ、 見るということに二種がある。 一つには眼見、 二つには聞見である。 仏がたは手のひらに置いた*阿摩あま勒ろく菓かを見るように、 はっきりと仏性をご覧になる。 第十地の菩薩は仏性を聞見するけれども、 それほど明らかに見るのではない。 第十地の菩薩は、 ただ自分が間違いなくこの上ないさとりを得ると知ることができるが、 すべての衆生にみな仏性があると知ることはできないのである。 善良なものよ、 仏性を眼見するのは、 仏がたである。 第十地の菩薩は、 少しは眼見もするが聞見もする。 すべての衆生は、 第九地の菩薩にいたるまで、 みな仏性を聞見する。 ただし菩薩が、 すべての衆生にみな仏性があると聞いても、 それを信じなければ、 聞見とはいわないのである” (中略)
師子吼菩薩が申しあげる。 “世尊、 すべての衆生は如来のお心を知ることができません。 どのように*観察かんざつしてそのお心を知ることができるのでしょうか” と。
“善良なものよ、 すべての衆生は本当に如来の心を知ることはできない。 もし観察して知りたいと思うなら、 二つの方法がある。 一つには眼見、 二つには聞見である。 如来の*身業しんごうを見たてまつり、 これが如来であると知ることを眼見という。 如来の*口く業ごうを観察して、 これが如来であると知ることを聞見という。 如来のおすがたを見たてまつると、 そのおすがたはすべての衆生に超えすぐれている。 そこでこれが如来であると知る。 これを眼見という。 如来の声を聞くと、 この上なくすぐれており、 衆生の声とは異なっている。 そこでこれが如来であると知る。 これを聞見という。 如来の不可思議なはたらきを見たてまつり、 それが衆生のためなのか、 如来ご自身のためなのかというと、 それは衆生のためであってご自身のためではない。 そこでこれが如来であると知る。 これを眼見という。 如来を観察すると、 如来が*他た心しん通つうにより衆生のありさまを知られて教えを説かれている。 それは如来ご自身のためなのか、 衆生のためなのかというと、 衆生のためであってご自身のためではない。 そこでこれが如来であると知る。 これを聞見という”」
【22】『浄土論』 にいわれている。「世尊よ、 わたしは一心に*尽じん十方じっぽう無礙むげ光こう如来にょらいに*帰き命みょうしたてまつり、 安楽国に生れようと願うのである。 浄土のあり方を観ずると、 迷いの世界を超えている。 はかり知れないことは虚空のようであり、 広大であってきわまりがない」
【23】『往生論註』 にいわれている。「“*清浄しょうじょう功く徳どく成じょう就じゅとは、 *願がん生しょう偈げに、 «浄土のあり方を観ずると、 迷いの世界を超えている» といっていることである” と 『浄土論』 に述べられている。 これがどうして不可思議なのであろうか。 あらゆる煩悩をそなえた凡夫が、 阿弥陀仏の浄土に生れると、 迷いの世界につなぎとめるこれまでの行いも、 もやはその力を失う。 これは、 自ら煩悩を断ち切らずに、 そのまま浄土で涅槃のさとりを得るということである。 どうして思いはかることができようか」
【24】また次のようにいわれている (往生論註)。「“正道の大慈悲は、 少しも汚れのない出世間の*善根ぜんごんから生じる” と願生偈に述べられている。 この二句を*性しょう功く徳どく成じょう就じゅという。 (中略)
性とは、 まず根本という意味である。 それは、 浄土がすべての根本である*真如しんにょ法ほっ性しょうにかなっていて、 これに背かないという意味である。 これは、 『華厳経』 の宝王如来性起品に説かれている*性しょう起きの意味と同じである。
また次に、 修行を積んで得た功徳によって性を成就するということである。 法蔵菩薩が、 多くの修行を積み重ねて性を成就されたことをいうのである。
また次に、 性とは*聖しょう種しゅ性しょうのことである。 法蔵菩薩が因位のとき、 *世せ自じ在王ざいおう仏ぶつのもとで*無む生しょう法忍ぼうにんをさとられた。 そのときの位を聖種性という。 この聖種性の位において四十八の大いなる願をおこされて、 浄土をおたてになったのである。 すなわちこの浄土は、 因位の聖種性における願によって得られたのである。 いま、 果においてその因を説くから、 性というのである。
また次に、 性とは、 必ず他を自身と同じにするという意味であり、 自身の本質は変らないという意味である。 たとえば、 海水は一つの塩味であって、 そこに流れこむ水を同じ塩味にし、 海水の味は流れこむ水によって変らないという性質があるようなものである。 また、 人間の体は本来不浄であるから、 さまざまなよい色や香りや美味しいものも、 人間の体に入ったなら、 みな不浄になるようなものである。 浄土では、 往生する人はみな、 不浄の身も不浄の心もなく、 ついに消滅変化を離れた、 真如そのものである清浄なさとりの身を得るのである。 それは浄土に清浄という性質が成就されているからである。
“正道の大慈悲は、 少しも煩悩の汚れのない善根から生じる” というのは、 この正道とは平等の大いなるさとりである。 平等のさとりを正道というのは、 平等がすべてのものの本体のあり方だからである。 すべてのものの本体が平等であるから、 法蔵菩薩のおこされた願心も平等である。 願心が平等であるから、 さとりの智慧も平等である。 智慧が平等であるから、 大慈悲も平等である。 この大慈悲が仏のさとりの正因であるから、 “正道の大慈悲” といわれたのである。
慈悲には三縁がある。 一つには*衆しゅ生じょう縁えんであり、 これは小悲である。 二つには*法縁ほうえんであり、 これは中悲である。 三つには*無む縁えんであり、 これは大悲である。 この大悲は、 少しも煩悩の汚れのない善である。 浄土は、 法蔵菩薩の大悲によりたてられたのであるから、 この大悲を浄土の根本という。 だから “少しも煩悩の汚れのない善根から生じる” といわれたのである」
【25】また次のようにいわれている (往生論註)。「問うていう。 法蔵菩薩の誓願 (第十四願) や龍樹菩薩が阿弥陀仏をほめたたえられているのをみると、 どれもみな浄土に声聞が多いのをすぐれたありさまとされているようである。 これはどのような意味があるのだろうか。
答えていう。 声聞は、 ただ自分が迷いの世界を離れるだけでさとりとする。 考えてみると、 声聞にはさらに仏のさとりを求める心はおこらないのである。 それを阿弥陀仏の不可思議な*本願ほんがんのはたらきにより、 摂め取って浄土に往生させ、 またそのはたらきで、 必ず*無む上じょう菩ぼ提だい心しんをおこさせるのである。 たとえば、 *鴆ちん鳥ちょうが水の中に入ると魚や貝などはすべて死んでしまうが、 犀が触れると、 死んだものがみな生き返るようなものである。 このように菩提心をおこすことのできないものに菩提心をおこさせるから、 これを不可思議とするのである。 だから五種の不可思議の中で仏法がもっとも不可思議なのである。 阿弥陀仏は声聞にふたたび無上菩提心をおこさせる。 まことに不可思議のきわみである」
【26】また次のようにいわれている (往生論註)。「不可思議なはたらきとは、 総じて浄土の十七種の功徳のはたらきが思いはかることのできないことを指すのである。 さまざまな経の中に、 五種の不可思議が説かれている。 一つには衆生の数の不可思議、 二つには業のはたらきの不可思議、 三つには竜のはたらきの不可思議、 四つには禅定のはたらきの不可思議、 五つには*仏法ぶっぽう力りきの不可思議である。 この 『浄土論』 の中には、 阿弥陀仏の浄土の不可思議なはたらきについて二種の力があると説く。 一つには、 業のはたらき、 すなわち法蔵菩薩の少しも煩悩の汚れのない善根と大いなる本願のはたらきという因の力により、 成就されているということである。 二つには、 この上ないさとりを開かれた阿弥陀仏にそなわる住持のはたらきという果の力により、 よくたもたれているということである」
【27】また次のようにいわれている (往生論註)。「*自利じり*利他りたのはたらきをあらわすということについて、 “略して阿弥陀仏の国土にそなわる十七種の功徳を説いて、 阿弥陀仏には、 仏ご自身のための功徳のはたらきと、 衆生のための功徳のはたらきとがそなわっていることをあらわすのである” と 『浄土論』 に述べられている。 “略して” というのは、 浄土の功徳ははかり知ることができず、 わずか十七種だけではないことをあらわしている。 *須しゅ弥み山せんが芥子粒に収まり、 大海が毛穴の中に収まるといわれるが、 須弥山や大海に不思議な力があるのではなく、 また芥子粒や毛穴に不思議な力があるのでもない。 ただ、 不可思議な力をそなえた仏のはたらきをあらわしているのである」
【28】また次のようにいわれている (往生論註)。「“*不ふ虚作こさ住じゅう持じ功く徳どく成じょう就じゅとは何か。 願生偈に、 «阿弥陀仏の本願のはたらきに遇って、 いたずらに迷いの生死を繰り返すものはなく、 速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださる» という” と 『浄土論』 に述べられている。 “不虚作住持功徳成就” とは、 つまり阿弥陀仏の本願のはたらきである。 (中略) この “不虚作住持” すなわち仏力がいつわりでなく変らないのは、 因位の法蔵菩薩の*四し十じゅう八願はちがんと、 *果か位いの阿弥陀仏の自由自在な不可思議な力とにもとづくのである。 願は力を成り立たせ、 力は願にもとづいている。 願は無駄に終ることがなく、 力は目的なく空転することがない。 果位の力と因位の願とが合致して、 少しも食い違いがないから成就というのである」
【29】曇鸞大師の 『讃阿弥陀仏偈』 にいわれている。「南無阿弥陀仏 (この*偈げを 『*無む量りょう寿じゅ傍ぼう経きょう』 ともいう。 浄土をたたえて*安あん養にょうともいう)
阿弥陀仏は、 仏となられてからすでに十劫を経ておられる。 その寿命は限りなく、 はかり知ることができない。 さとりの身から放たれる光はすべての世界に満ちみちて、 迷いの闇の衆生を照らす。 だから阿弥陀仏を礼拝したてまつる。 智慧の光明ははかり知ることができないから、 仏をまた無量光と申しあげる。 迷いの世界のものはみな、 その光に照らされる。 だから真実の智慧の光の如来を礼拝したてまつる。 さとりの光は限りがないから、 仏をまた無辺光と申しあげる。 その光に照らされたものはすべてのとらわれを離れる。 だからすべてが平等であるとさとった如来を礼拝したてまつる。 光は虚空のように何ものにもさまたげられないから、 仏をまた無礙光と申しあげる。 迷いの世界のものはすべてその光のはたらきを受ける。 だから衆生の思いを超えた如来を礼拝したてまつる。 清らかな光は並ぶものがないから、 仏をまた無対光と申しあげる。 この光に遇えば、 迷いの世界につなぎとめる行いも、 その力が失われる。 だから衆生の究極のよりどころである如来を礼拝したてまつる。 仏の光はその輝きがもっともすぐれているから、 仏をまた光炎王と申しあげる。 苦しみの世界の闇もその光によって除かれる。 だからあらゆる供養を受けるにふさわしい如来を礼拝したてまつる。 さとりの智慧の光は明るく輝き、 すべてのものに超えすぐれているから、 仏をまた清浄光と申しあげる。 この光にひとたび照らされると、 罪が除かれみなさとりを得ることができる。 だから礼拝したてまつる。 慈悲の光は広くすべてのものを照らして安らぎを与えるから、 仏をまた歓喜光と申しあげる。 この光の届いた人々は、 仏の恵みに喜びの心をおこす。 衆生に大いなる安らぎと慰めを与える如来を礼拝したてまつる。 仏の光は*無む明みょうの闇をすべて破るから、 仏をまた智慧光と申しあげる。 すべての仏も菩薩も縁覚も声聞もことごとくこの仏をたたえる。 だから礼拝したてまつる。 その光はいつも絶えることなくすべてを照らすから、 仏をまた不断光と申しあげる。 この光のはたらきすなわち仏の本願を聞き信じるものは、 その信が一生を通して絶えることはなく、 みな往生することができる。 だから礼拝したてまつる。 その光は仏でなければはかり知ることができないから、 仏をまた難思光と申しあげる。 すべての仏は阿弥陀仏による衆生の往生をほめ、 この仏の功徳をたたえる。 だから礼拝したてまつる。 この不可思議な光は姿かたちを超えていて、 どのような言葉でも説き示すことができないから、 仏をまた無称光と申しあげる。 光に限りがないようにと誓われて仏となられ、 その光はこの上なく輝き、 仏がたはみなたたえておいでになる。 だから礼拝したてまつる。 仏の光の輝きは日や月の光に超えすぐれているから、 仏をまた超日月光と申しあげる。 その徳をどれほど説いても説き尽すことはできないと釈尊はたたえられる。 だからわたしはくらべようもなく超えすぐれた如来を礼拝したてまつる。 (中略) わたしが師と仰ぐ龍樹菩薩は*像法ぞうぼうの時代のはじめにお生まれになり、 崩れてきた仏法のかなめをととのえ、 よこしまな教えを閉じて正しい道を明らかにされた。 龍樹菩薩こそ、 この世界のすべての人々を教え導く智慧の眼である。 釈尊のお言葉を承り、 *歓かん喜ぎ地じの位にあって、 阿弥陀仏に帰依して浄土に往生された。 わたしははかり知れない昔から迷いの世界にあって、 生れ変り死に変りし続けている。 わたしの行いはすべて、 わたしの足を迷いの世界につなぎとめ、 苦しみの世界にとどまらせる。 願わくは仏の慈悲の光がわたしを護って、 わたしに菩提心を失わせないようにしていただきたい。 わたしは仏の智慧と功徳の名号をほめたてまつる。 願わくは、 縁のあるすべての人々にこれを聞かせて、 浄土に往生したいと思うものが、 みな思いのままに往生することができ、 さまたげのないようにしたい。 あらゆる功徳をすべての人々に施して、 みなともに往生させよう。 思いはかることのできない光明の如来に帰依し、 ひとすじに信じて礼拝したてまつる。 過去・現在・未来のすべての仏は、 同じく*一如いちにょにかなってまことのさとりを得られた。 智慧も慈悲もまどかにそなえてそのさとりは平等である。 ただそれぞれの衆生の縁に応じて救うから、 その数は実に多い。 わたしが阿弥陀仏の浄土に帰依することは、 そのまますべての仏に帰依することなのである。 わたしは一心に阿弥陀仏一仏をほめたたえ、 これがすべての仏をたたえるものとなることを願う。 このようにしてすべての数限りない仏がたをみな、 まごころこめて礼拝したてまつる」
【30】善導大師が 『観経疏』 にいわれている (玄義分)。「問うていう。 阿弥陀仏の浄土は、 報土であろうか、 *化土けどであろうか。
答えていう。 報土であって化土ではない。 どのようにしてそれを知ることができるか。 『*大だい乗じょう同どう性しょう経きょう』 に、 “*西方さいほう浄じょう土どは報土であり、 阿弥陀仏は*報身ほうじんである” と説かれている通りである。 また、 『無量寿経』 には、 “法蔵菩薩が世自在王仏のもとで菩薩の行を修められたときに四十八の願をおこされて、 それぞれの願に «わたしが仏になったとき、 あらゆる人々が、 わたしの名号を称えてわたしの国に生れようと願い、 それがたとえば十声ほどの念仏であっても、 すべてわたしの国に生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開くまい» ということを誓われた” と説かれている。 その法蔵菩薩が今すでに阿弥陀仏として成仏しておられるのであり、 これは因位の願の果報として成就された報身である。 また 『観無量寿経』 には、 *上じょう品ぼんの三種のものが命を終えようとするときに、 等しく “阿弥陀仏が*化け身しんの仏とともにこのものを迎える” と説かれている。 これは、 報身である阿弥陀仏が化身の仏を伴い、 迎えに来て手をさしのべてくださるということである。 だから “ともに” というのである。 これらの文により、 阿弥陀仏は報身であり、 その浄土は報土であることが明らかに知られる。
報身といっても応身といっても、 それは眼と目のように同じものの表現の違いである。 時代や訳者によって、 同じ仏身のことを報身としたり応身としたりしている。 報というのは、 因位の行が無駄に終ることなく、 必ず後に果を導き、 その果が因に応じたものであるから報というのである。 また、 はかり知れない長い間修めたすべての行は、 必ずそれに応じてさとりを得るものであり、 すでにそのさとりを成就したのであるから応身ともいうのである。 すなわち、 過去・現在のすべての仏は法身・報身・化身のどれかであり、 これらの他に別の仏身があるわけではない。 たとえ迷いの世界において、 さとりを開くすがたがはかり知れないほど多く、 また数限りない仏の名があろうとも、 これらの仏身はすべて化身に収まる。 このようなわけで、 浄土の阿弥陀仏は報身なのである。
問うていう。 阿弥陀仏が報身であるというなら、 その身は常住であて、 永久に滅したりすることはない。 それではなぜ 『*観音かんのん授じゅ記き経きょう』 に、 “阿弥陀仏もまたその身を滅して涅槃に入られるときがある” と説かれているのか。 これをどのように解釈すればよいのか。
答えていう。 身を滅して涅槃に入るとか入らないとかは、 ただ仏のさとりの世界でいわれることであって、 声聞・縁覚・菩薩などの浅い智慧によってうかがい知ることはできない。 まして愚かな凡夫にはたやすく知ることなどできるはずがない。 しかしながら、 是非とも知りたいのであれば、 経文を引いて、 明らかな証拠としよう。 それはすなわち、 『*大品だいぼん般若はんにゃ経きょう』 の如化品に説かれている通りである。 “釈尊が*須しゅ菩ぼ提だいに仰せになる。 «そなたはどう思うか。 幻の人がいて幻の人をつくり出したとすると、 この幻の人は実在するものであるか、 実在しないものであるか» と。
須菩提が申しあげる。 «世尊、 実在するものではありません» と。
仏が須菩提に仰せになる。 «体はすなわち幻である。 心とそのはたらきもすなわち幻である。 完全なさとりの智慧にいたるまですべて幻である» と。
須菩提が仏に申しあげる。 «世尊、 世俗のことがらが幻なら、 仏道におけることがらもまた幻でしょうか。 いわゆる*四し念処ねんじょ・四し正しょう勤ごん・四し如にょ意い足そく・五ご根こん・五ご力りき・七しち覚分かくぶん・八はっ聖しょう道分どうぶん・三さん解げ脱だつ門もん・仏の十じゅう力りき・四し無む所しょ畏い・四し無礙むげ智ち・十じゅう八はち不共ふぐ法ほう並びに、 それぞれの修行によって得る果および*賢げん聖じょう人にん、 いわゆる*須しゅ陀だEおん・斯陀しだ含ごん・阿那あな含ごん・阿羅あら漢かん・*辟びゃく支し仏ぶつ・菩ぼ薩さつ・仏がた、 これらもまた幻でしょうか» と。
仏が須菩提に仰せになる。 «すべてのことがらはみな幻である。 声聞に現れることがら、 辟支仏に現れることがら、 菩薩に現れることがら、 仏がたに現れることがら、 煩悩に現れることがら、 行いの因縁に現れることがらもまた、 幻である。 こういう因縁によるのであるから、 須菩提よ、 すべてのことがらはみな幻である» と。
須菩提が仏に申しあげる。 «世尊、 このさまざまな煩悩を断じたもの、 いわゆる須陀E果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏果は、 またさまざまな煩悩の*習じっ気けをも断ち切っています。 これらもみな幻でしょうか» と。
仏が須菩提に仰せになる。 «生じたり滅したりするものは、 みな幻である» と。
須菩提が申しあげる。 «世尊、 どのようなことがらが、 幻でないのでしょうか» と。
仏が仰せになる。 «生じたり滅したりしないものは幻ではない» と。
須菩提が申しあげる。 «どのようなものが生じたり滅したりしないものであり、 幻でないものなのでしょうか» と。
仏が仰せになる。 «いつわりのない涅槃は幻ではない» と。
«世尊、 ご自身がお説きになったように、 すべてのものの本性は平等であって、 声聞がつくったものでもなく、 縁覚がつくったものでもなく、 菩薩がつくったものでもなく、 仏がたがつくったものでもありません。 仏がおいでになっても、 おいでにならなくても、 すべてのものの本性は常に*空くうであります。 その本性が空であることがすなわち涅槃です。 どうして涅槃だけが幻のようではないのですか» と。
仏が須菩提に仰せになる。 «その通りである。 すべてのものの本性は平等であって、 声聞や他のものがつくったものではなく、 本性は常に空であって、 その本性が空であることがすなわち涅槃である。 もし菩提心をおこしたばかりの菩薩が、 すべてのものはみな本性はすなわち空なのであり、 涅槃までもまた幻のようであると聞いたなら、 驚き恐れるであろう。 このような菩提心をおこしたばかりの菩薩のために、 あえて、 生じたり滅したりするものは幻のようであり、 生じたり滅したりしないものは幻のようでないと分けたのである»” と。
今すでにこの聖教によって、 確かに阿弥陀仏は報身であると明らかに知ることができた。 後に身を滅して涅槃に入るとしても、 阿弥陀仏が報身であることに差し支えがない。 智慧のある人々はこれがわかるであろう。
問うていう。 阿弥陀仏が報身であり、 その浄土が報土であるというなら、 報身・報土は非常にすぐれたものであり、 高い位の菩薩でなければ入ることはできない。 煩悩のさわりにまみれた凡夫など、 どうして入ることができようか。
答えていう。 衆生の煩悩のさわりを考えると、 阿弥陀仏の浄土への往生を願い求めることなどできないが、 阿弥陀仏の本願にまかせると、 その不可思議な強いはたらきによって、 凡夫も聖者もみな往生させてくださるのである」 
【31】また次のようにいわれている (序分義)。「『観無量寿経』 の “われいま*極楽ごくらく世界の阿弥陀仏のところに生ぜんことを楽ねがふ” とは、 まさしく*韋い提だい希けが、 とくに阿弥陀仏の浄土を選んで、 そこに往生したいと願ったことをあらわすものである。 これは阿弥陀仏の浄土が四十八のすぐれた願によりおこされたことをあらわしている。 すなわち、 願のそれぞれがみなすぐれた因を生じ、 その因によってすぐれた行をおこし、 その行によってすぐれた果を受け、 その果によって因位の願に報いたすぐれたあり方を成就し、 そのすぐれたあり方によって極楽世界を成就し、 そしてこの成就された極楽世界によってすべての衆生を救う慈悲のはたらきをあらわし、 その慈悲のはたらきによって智慧のはたらきをあらわすのである。 この慈悲は尽きることがなく、 その智慧もまたきわまりがない。 阿弥陀仏は慈悲と智慧とをともにはたらかせ、 尊い浄土の法門を広く開かれたのである。 このようにして法のうるおいが行きわたり、 すべての衆生を救ってくださる。 他の数多くの経典にも、 阿弥陀仏の浄土へ往生することが勧められている。 仏がたは、 みな同じ心で等しく阿弥陀仏をほめたたえられるのである。 このような因縁があって、 釈尊が深い思召おぼしめしによって、 とくに阿弥陀仏の浄土を韋提希に選ばせられたのである」
【32】また次のようにいわれている (定善義)。「西方浄土は煩悩を滅し尽した変ることのないさとりの世界であって、 すべてのとらわれを離れ、 はからいがない。 西方浄土に生れると、 大いなる慈悲の心をおこしてあらゆる世界に行き、 さまざまなすがたを現して人々を等しく救済する。 さあ帰ろう、 迷いの世界にとどまるべきではない。 はかり知れない昔からさまざまな迷いの世界を生れ変り死に変りし続けてきた。 どこにも何の楽しみもなく、 ただ嘆き悲しみの声ばかりである。 この一生を終えた後には、 さとりの浄土に往こう」
【33】また 『法事讃』 にいわれている。「極楽は変ることのないさとりの世界である。 人それぞれの縁にしたがって修めるような*自じ力りきの善根によっては生れることができない。 だから釈尊は本願の名号を選びとって、 ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった」
【34】また次のようにいわれている (法事讃)。「仏にしたがい、 はからいを離れて、 さとりの世界に帰る。 さとりの世界とは阿弥陀仏の浄土である。 煩悩の汚れがなく変ることのない真実の世界である。 すべての行いはいつも仏とともにあり、 この上ないさとりの身を得るのである」
【35】また次のようにいわれている (法事讃)。「阿弥陀仏のすぐれたさとりをこの上ない涅槃という」
【36】*憬きょう興ごうが 『*述じゅつ文賛もんさん』 にいっている。「“無量光仏” とあるのは、 はかり知ることができないからである。 “無辺光仏” とあるのは、 照らさないところがないからである。 “無礙光仏” とあるのは、 何ものにもさえぎられることがないからである。 “無対光仏” とあるのは、 どのような菩薩も及ぶことができないからである。 “光炎王仏” とあるのは、 光明の自由自在なはたらきはこれを超えるものがないからである。 “清浄光仏” とあるのは、 貪りを離れた善根より現れるからであり、 また衆生の汚れた貪りの心を除くのであり、 汚れた貪りの心がないから清浄という。 “歓喜光仏” とあるのは、 怒りを離れた善根より生じるから、 また衆生の怒りに満ちた心を除くからである。 “智慧光仏” とあるのは、 愚かさを離れた善根よりおこるのであり、 また衆生の愚かな迷いの心を除くからである。 “不断光仏” とあるのは、 常に絶えることなく衆生を照らし導くからである。 “難思光仏” とあるのは、 声聞や縁覚には推しはかることができないからである。 “無称光仏” とあるのは、 仏を除いては説くことができないからである。 “超日月光仏” とあるのは、 日夜常にすべてを照らし、 この世界の日や月と異なるからである」
この光明に照らされるものはみな、 *身も心も和らぐという願の利益を受けるのである。
【37】このようなわけであるから、 釈尊が説かれた真実の教えや、 祖師方が示された解釈には、 阿弥陀仏の浄土は真実報土であることが顕されていると、 明らかに知ることができた。 煩悩にまみれた衆生は、 この世界では仏性を見ることができない。 それは煩悩におおわれているからである。 『涅槃経』 には 「わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説く」 と説かれている。 このようなわけで知ることができる。 浄土に往生すれば、 そこで必ず仏性をあらわすのである。 それは阿弥陀仏の*本願ほんがん力りきの回向によるからである。 また 『涅槃経』 には 「衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、 仏性を見ることができる」 と説かれている。
【38】『*念仏ねんぶつ三昧ざんまい宝王ほうおう論ろん』 にいっている。「『*大だい乗じょう起き信しん論ろん』 に “もし、 真如を説くといっても、 どのように説いても説くことができず、 また、 どのように念じても念じることができないと知るのを随順という。 さらにそのようなすべての念を離れるのを、 真如をさとり、 その世界に入るという” と述べられている。
真如をさとり、 その世界に入ることを*真如しんにょ三昧ざんまいという。 まして、 真如そのものになるのは仏の位であり、 そこにおいて無明のはじまりを知るのである。 すなわち、 この無明のはじまりを知るとは真如そのものになることであり、 それは*十じゅう地じの菩薩でも知ることができない。 ところが、 今の人は*十信じっしんの位にさえ至っていないのであって、 *馬め鳴みょう菩薩の言葉にしたがう他はない。 すなわち、 “仏の説かれた言葉により、 言葉を超えた世界に入り、 仏を念じることにより、 すべての念を超えた世界に入る” と仰せになっている」
【39】さて、 報ということを考えると、 如来が因位においておこされた願の果報として浄土は成就されたのである。 だから報というのである。 ところで、 如来の願に真実と*方便ほうべんとがある。 だから、 成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
※第十八願を因として真実の仏と浄土が成就されたのである。 真実の仏とは、 『無量寿経』 には 「無辺光仏、 無礙光仏」 と説かれ、 また 『大阿弥陀経』 には 「仏がたの王であり、 その光明はもっとも尊い」 と説かれている。 『浄土論』 には 「帰命尽十方無礙光如来」 といわれている。
真実の報土とは、 『平等覚経』 には 「限りない光明の世界」 と説かれ、 また 『如来会』 には 「あらゆる智慧をそなえた世界」 と説かれている。 『浄土論』 には 「はかり知れないことは虚空のようであり、 広大であってきわまりがない」 といわれている。
往生とは、 『無量寿経』 には 「すべてのものが、 きわまりなくすぐれたさとりの身を得る」 と説かれている。 『浄土論』 には 「浄土の清浄の人々は、 みな阿弥陀仏のさとりの花から化生する」 といわれ、 また 『往生論註』 には 「同じ念仏によって浄土に生れるのであり、 その他の道によるのではないからである」 といわれている。 また 『法事讃』 に 「*難なん思議じぎ往おう生じょう」 といわれているのがこの往生である。
方便の仏と浄土のことは、 次の 「化身土文類」 に示すので、 そこで知るがよい。 すでに述べてきたように、 真実も方便も、 どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、 報仏であり報土であると知ることができる。 方便の浄土に往生する因は、 人によってそれぞれにみな異なるから、 往生する浄土もそれぞれに異なるのである。 これを方便の化身・方便の化土という。 如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、 如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。 このようなわけで、 ここに真実の仏・真実の浄土について明らかにした。 これが浄土のまことの教えである。 釈尊の経説、 龍樹菩薩や天親菩薩の説示、 浄土の祖師方の解釈を、 仰いで敬い信じ、 つつしんで承るべきである。 よく知るがよい。  
 

 

 
顕浄土方便化身土文類 六

 

『観無量寿経』 の意   至心発願の願 邪定聚の機 双樹林下往生
『阿弥陀経』 の意  至心回向の願 不定聚の機 難思往生
愚禿釈親鸞集
【1】 つつしんで、 *方便ほうべんの仏と浄土を顕せば、 仏は 『観無量寿経』 に説かれている*真身しんしん観かんの仏であり、 浄土は 『観無量寿経』 に説かれている浄土である。 また 『*菩ぼ薩さつ処胎しょたい経きょう』 などに説かれている*懈け慢まん界がいである。 また 『無量寿経』 に説かれている*疑ぎ城じょう胎たい宮ぐである。
【2】 さて、 *五ご濁じょくの世の人々、 *煩悩ぼんのうに汚れた人々が、 *九く十じゅう五ご種しゅのよこしまな教えを今離れて、 仏教のさまざまな法門に入ったといっても、 教えにかなった真実のものははなはだ少なく、 虚偽のものははなはだ多い。 このようなわけで、 釈尊は、 さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、 阿弥陀仏は、 そのもととなる*誓願せいがんをおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。 すなわち、 すでに慈悲の心からおこしてくださった第十九願がある。 この願を修諸功徳の願と名づけ、 また臨終現前の願と名づけ、 また現前導生の願と名づけ、 また来迎引接の願と名づける。 また至心発願の願とも名づけることができる。
【3】 そこで 『無量寿経』 の第十九願に説かれている。「わたしが仏になったとき、 すべての人々がさとりを求める心をおこして、 さまざまな功徳を積み、 心からわたしの国に生れたいと願うなら、 命を終えようとするとき、 わたしは多くの聖者たちとともにその人の前に現れよう。 そうでなければ、 わたしは決してさとりを開くまい」
【4】 『*悲華ひけ経きょう』 に説かれている。「わたしがこの上ないさとりを開いたとき、 他の数限りない仏がたの世界にいる*衆しゅ生じょうがみな、 この上ないさとりを求める心をおこしてさまざまな功徳を積み、 わたしの世界に生れようと願うなら、 命を終えようとするとき、 わたしは多くの聖者たちとともにその人の前に現れよう。 その人はわたしを見て、 すぐさまわたしの前で心に喜びを得、 わたしを見ることによって、 さまざまなさまたげが除かれ、 そこで、 命を終えてわたしの世界に生れるであろう」
【5】 この第十九願の成就文は、 『無量寿経』 の*三輩さんぱいの往生を説く文であり、 また 『観無量寿経』 の*定じょう善ぜん・*散善さんぜん、 *九く品ぼんの往生を説く文である。
【6】 また 『無量寿経』 に説かれている。「また、 無量寿仏の国の菩提樹は高さが四百万里で、 根もとの周囲が五十*由ゆ旬じゅんであり、 枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。 それはすべての宝が集まって美しくできており、 しかも宝の王といわれる*月光がっこう摩尼まにや*持じ海かい輪宝りんぼうで飾られている。 (中略)
*阿あ難なんよ、 もしその国の人々がこの樹を見るなら、 三種の法忍が得られる。 一つには*音響おんこう忍にん、 二つには*柔順にゅうじゅん忍にん、 三つには*無む生しょう法忍ぼうにんである。 それはすべて無量寿仏の不可思議な力、 満足願・明了願・堅固願・究竟願と呼ばれる*本願ほんがんの力によるのである。 (中略)
また、 その国の講堂・精舎・宮殿・楼閣などは、 みな*七宝しっぽうで美しくできていて、 真珠や月光摩尼のようなさまざまな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。 その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、 その大きさは十由旬から、 二十、 三十由旬、 さらに百千由旬というようにさまざまで、 縦横の長さは等しく深さは一定である。 それらの池には、 不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、 その水は実に清らかでさわやかな香りがし、 まるで*甘かん露ろのような味をしている」
【7】 また次のように説かれている (無量寿経)。「*胎たい生しょうのもののいる宮殿は、 あるいは百由旬、 あるいは五百由旬という大きさで、 みなその中で、 *Jとう利り天てんと同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである。
そのとき*弥み勒ろく菩ぼ薩さつがお訪ねした。 “*世せ尊そん、 いったいどういうわけで、 その国の人々に胎生と*化け生しょうの区別があるのでしょうか”
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 “人々の中には、 本願を疑う*自じ力りきの心でさまざまな功徳を積み、 その国に生れたいと願うものがいる。 そしてまた、 この上なくすぐれた無量寿仏の智慧を知らず、 この智慧を疑って信じない。 それでいて悪の報いを恐れ、 善の果報を望み、 善の本である*名みょう号ごうを称えて、 無量寿仏の国に生れたいと願う。 これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、 五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、 菩薩や*声しょう聞もんたちを見ることもできない。 そのため、 無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。 (中略) 弥勒よ、 よく知るがよい。 化生のものは智慧がすぐれているが、 胎生のものは智慧が劣っている” (中略)
釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。 “たとえば*転輪てんりん聖じょう王おうが七宝でできた牢獄を持っているとしよう。 そこにはさまざまな装飾が施されており、 立派な座が設けられ、 美しい幕が張られ、 さまざまな旗がかけられている。 その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、 その牢獄の中に入れられて黄金の鎖でつながれる” (中略)
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 “胎生のものもまたその通りである。 仏の智慧を疑ったためにその宮殿に生れるのである。 (中略) これらのものは、 仏の智慧を疑った罪を知り、 深く自分のあやまちを悔い、 その宮殿を出たいと願う。 (中略) 弥勒よ、 よく知るがよい。 仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである”」
【8】 『如来会』 に説かれている。「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 “もし人々が疑いの心を持ちながら功徳を積んで、 この上なくすぐれた仏の智慧を願い求めるなら、 ※自ら積む功徳にとらわれて*他た力りきの信を生じることができない。 このようなわけで、 五百年の間宮殿の中にとどまるであろう。 (中略)
弥勒よ、 そなたはすぐれた智慧のものを見たであろう。 彼らは信心の広大な智慧のはたらきによりさとりの花の中に化生して結跏趺座しているのである。 また、 そなたは智慧のない劣ったものを見たであろう。 (中略) 彼らはさまざまな功徳を修めることができず、 正しい因である信心を得ることもなく無量寿仏にお仕えしているのである。 この人々は過去の世に仏の智慧を疑ったためにそうなっているのである” (中略)
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 “その通りである。 疑いの心をもってさまざまな功徳を積み、 この上なくすぐれた仏の智慧を願い求めるなら、 自ら積む功徳にとらわれて他力の信をおこすことができない。 また、 仏の名号を聞いても自力の信をおこすのであるから、 浄土に生れても蓮の花の中に閉じこめられて外に出ることができない。 その人々は花の中にいることを、 花園の宮殿の中にいるかのように思っている”」
【9】 『無量寿経』 に説かれている。「さまざまな行を修め、 わずかな功徳を積むものも、 数えきれないほどいるが、 どのものもみな往生するであろう」
【10】また 『如来会』 に説かれている。「ましてその他に、 わずかな功徳によってその国に生れる菩薩は、 数えきれないほど多い」
【11】善導大師の 『観経疏』 にいわれている (定善義)。「花に包まれたまま、 外に出ることがない。 これを*辺へん地じに生れるともいい、 また疑城胎宮に生れるともいう」
【12】*憬きょう興ごう師が 『*述じゅつ文賛もんさん』 にいっている。「仏の智慧を疑うことによって、 その国に生れても辺地にとどまり、 仏の教えを受けることがない。 もし胎生したなら、 その疑いを捨て去るべきである」
【13】源信和尚の 『往生要集』 に*慧え観かん禅師の 『*群ぐん疑ぎ論ろん』 を引いて、 次のようにいわれている。「問うていう。 『菩薩処胎経』 の第二巻に、 “この世界から西方へ十二億*那な由他ゆたのところに懈慢界がある。 (中略) さとりを求める心をおこして阿弥陀仏の浄土に生れようと願う衆生は、 ほとんどみな懈慢界に深く執着してとどまり、 そこから進んで阿弥陀仏の浄土に生れることができない。 億千万もの人々の中で、 阿弥陀仏の浄土に生れることができるのは一人いるかどうかである” と説かれている。 この経によって考えるなら、 はたして阿弥陀仏の浄土に往生できるのであろうか。
答えていう。 『群疑論』 には、 さきの善導大師の 『往生礼讃』 の文を引いてこれを解釈し、 また自らの解釈を加えて次のようにいっている。 “この 『菩薩処胎経』 の次の文に、 «なぜなら、 みな怠惰で慢心しており、 信心が堅固でないからである» と説かれている。 これによって知ることができた。 さまざまな行を修めるものは信心が堅固でない人である。 だから懈慢界に生れるのである。 他の行をまじえないでひとすじに念仏すれば、 これは信心が堅固であって、 間違いなく*極楽ごくらく世界に生れるであろう。 (中略) また浄土に生れるといっても*真実しんじつ報ほう土どに生れるものはきわめて少なく、 *化け土どに生れるものはきわめて多い。 だから 『菩薩処胎経』 と 『観無量寿経』 とはまったく矛盾しないのである”」
【14】以上のようなことから、 源信和尚の解釈をうかがうと、 『往生要集』 の念仏証拠門の中に、 第十八願について、 *四し十じゅう八願はちがんの中の特別な願であるとあらわされている。 また 『観無量寿経』 に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。
【15】問うていう。 『無量寿経』 に説かれる至心・信楽・欲生の三心と 『観無量寿経』 に説かれる至誠心・深信・回向発願心の三心とは、 同じなのであろうか、 異なるのであろうか。
答えていう。 善導大師の解釈された意向にしたがって 『観無量寿経』 をうかがうと、 顕彰隠密の義がある。
その顕とは、 定善・散善のさまざまな善を顕すものであり、 往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、 至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。 しかし、 定善・散善の二善、 世福・戒福・行福の*三福さんぷくは、 報土に生れるまことの因ではない。 三輩のそれぞれがおこす三心は、 それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、 他力の一心ではない。 これは釈尊が*弘ぐ願がんとは異なる方便の法として説かれたものであり、 浄土往生を願わせるために示された善である。 これが 『観無量寿経』 の表に説かれている意味であり、 すなわち顕の義である。
その彰とは、 阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、 すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。 *提だい婆ば達だっ多たや*阿あ闍じゃ世せのおこした悪事を縁として、 浄土の教えを説くという、 釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、 *韋い提だい希けがとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。 これが 『観無量寿経』 の底に流れる隠彰の義である。
このようなわけで 『観無量寿経』 には、 「わたしに清らかな世界をお見せください」 と説かれている。 「清らかな世界」 とは本願成就の報土である。 また 「わたしに極楽世界のすがたを想い描く方法をお教えください」 と説かれている。 これは往生のための仮の手だてのことをいうのである。 また 「極楽世界のすがたとわたしの心が一つになり、 観が成就する方法をお教えください」 と説かれている。 これは他力*金剛こんごうの信心のことをいうのである。 また 「清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきりと想い描くがよい」 と説かれている。 これは本願成就の*尽じん十方じっぽう無礙むげ光こう如来にょらいを信知すべきであるということである。 また 「極楽世界のすがたを想い描くためのさまざまな方法を説く」 と説かれている。 これは定善の十三観をいうのである。 また 「そなたは*凡ぼん夫ぶで、 能力が劣っている」 と説かれている。 これは悪人が浄土に往生すべきものであることを彰すのである。 また 「仏がたには特別な手だてがある」 と説かれている。 これは、 定善・散善のさまざまな善が説かれるのは、 他力念仏に導き入れる仮の手だてとしての教えであることを顕すのである。 また 「仏の力によってその世界を見ることができる」 と説かれている。 これは、 仏の力、 すなわち他力によって往生することを顕すのである。 また 「釈尊が世を去られた後の世の衆生は」 と説かれている。 これは、 未来の衆生すなわち凡夫こそまさに浄土に往生すべきものであることを顕すのである。 また 「経典に説かれることと合致するなら、 粗々あらあらは極楽世界を見たということができる」 と説かれている。 これは、 定善を成就することが難しいことを顕すのである。 また 「この身のままで*念仏ねんぶつ三昧ざんまいに入ることができる」 と説かれている。 これは、 定善の*観察かんざつが成就して得られる利益は他力の念仏三昧であることを顕す。 すなわち定善の観察を方便の教えとされるのである。 また 「至誠心・深信・回向発願心の三心をおこして往生する」 と説かれ、 また 「三種の行を修める人々があって、 みな往生することができる」 と説かれている。 この二つの文によって考えると、 *上じょう輩はい・中ちゅう輩はい・下げ輩はいの三種類の人について、 それぞれ定善の自力の三心・散善の自力の三心・弘願他力の三心があり、 また真実報土への往生と方便化土への往生とがある。
これによって、 まことに知ることができた、 すなわち 『観無量寿経』 には顕彰隠密の義があることを。 『無量寿経』 の三心と 『観無量寿経』 の三心とが同じであるか異なるかを述べるにあたっては、 よくこのことを考えなければならない。 この二つの経は顕の義によれば異なるが、 彰の義によれば同じである。 よく知るがよい。
【16】そこで善導大師が 『観経疏』 にいわれている (玄義分)。「そのとき釈尊は韋提希の求めによって、 浄土に導くための方便の教えすなわち*要門ようもんを説かれ、 阿弥陀仏は世に超えすぐれた弘願をあらわされた。 その要門とは、 『観無量寿経』 に説かれている定善・散善で往生する教えである。 定善とは、 心を乱さず想いを一つに集中して浄土のすがたを観ずることであり、 散善とは、 想いを浄土に集中することのないまま、 悪い行いをやめて善い行いをすることである。 この二種の行を修めることにより往生しようと願い求めることを要門という。 弘願とは、 『無量寿経』 に説かれている他力の教えである」
【17】また次のようにいわれている (玄義分)。「この 『観無量寿経』 は、 *観仏かんぶつ三昧ざんまいを教えのかなめとし、 また念仏三昧を教えのかなめとして、 一心に浄土に心を向けて往生を願うのを、 その本質とするのである。
問うていう。 この経は、 *大だい乗じょうと*小乗しょうじょうとのどちらに入るのか、 また*頓とん教ぎょうと*漸ぜん教ぎょうとのどちらの教えに入るのか。
答えていう。 この 『観無量寿経』 は、 大乗の中に入り、 また頓教の中に入る」
【18】また次のようにいわれている (序分義)。「また “如是” というのは、 仏の説かれた法を指していて、 定善・散善の法門のことである。 “是” とは間違いないという言葉である。 教えを受けるものがこの行を修めれば必ず利益を得る。 これは、 如来の説かれたお言葉には誤りがないということを示している。 だから如是という。
また “如” とは、 衆生の意のままということである。 衆生の願いにしたがって、 仏はお救いくださる。 教えとそれを受けるものとが相応しているのを、 また “是” というのである。 だから如是という。
また “如是” というのは、 如来の説かれる教えについて明らかにしようとするのである。 漸教は漸教のままに、 頓教は頓教のままに、 ものの相はものの相のままに、 *空くうは空のままに、 人間の世界に生れる教えは人間の世界に生れる教えのままに、 神々の世界に生れる教えは神々の世界に生れる教えのままに、 小乗は小乗のままに、 大乗は大乗のままに、 凡夫は凡夫のままに、 聖者は聖者のままに、 因は因のままに、 果は果のままに、 苦は苦のままに、 楽は楽のままに、 遠いことは遠いままに、 近いことは近いままに、 同じことは同じままに、 別のことは別のままに、 清らかなことは清らかなままに、 汚れたことは汚れたままにお説きになる。 このようにすべてのことをそれぞれに応じて種々さまざまにお説きになるのである。 如来はすべてをありのままに観じて明らかに知り尽しておられる。 衆生は自らの願いのままに行を修めるから、 それぞれに受ける利益が同じではない。 しかし、 如来の行為とその結果は道理にかなっていて、 すべて誤りがないのである。 これをまた是という。 だから如是という」
【19】また次のようにいわれている (序分義)。「『観無量寿経』 の “かの国に生ぜんと欲おもはんものは” から “名づけて浄業とす” までは、 世福・戒福・行福を修めよとお勧めになることを明らかにされたものである。 これは、 すべての衆生の資質は二種類に分れることを明らかにしている。 一つには定善を修めるもの、 二つには散善を修めるものである。 もし、 定善の行だけを説くのであれば、 すべての衆生を救うことはできない。 このようなわけで、 釈尊は仮の手だてとして、 世福・戒福・行福すなわち散善の行を説き、 心が乱れて定善を修めることができないものに応じられたのである」
【20】また次のようにいわれている (散善義)。「また、 真実に二種がある。 一つには自力の真実、 二つには他力の真実である。 自力の真実に、 また二種がある。 一つには、 真実の心をもって、 自分や他人の悪をとどめ、 汚れたこの世に執着する思いを離れて、 いついかなるときも、 すべての菩薩がたがさまざまな悪をとどめられるのと同じように、 自分もまたその通りにしようと思うのである。 二つには、 真実の心をもって、 自分が凡夫や聖者の善を修め、 また他人にも勧めるのである。
真実の心をもって、 口には阿弥陀仏とその浄土や聖者たちをほめたたえる。 また真実の心をもって、 口には自分や他人の住むすべての迷いの世界とその衆生の苦しみや悪をきらい謗る。 またすべての衆生の身や口や意で行なう善をほめたたえる。 もしその行いが善でなければ、 気をつけてこれに近づかず、 また喜んではならない。 また真実の心をもって、 身には合掌し礼拝して、 種々の品で、 阿弥陀仏とその浄土や聖者たちを供養する。 また真実の心をもって、 身には自分や他人の住むすべての迷いの世界とその衆生を軽んじきらい捨てる。 また真実の心をもって、 意には阿弥陀仏とその浄土や聖者たちを、 まるで目の前に現れるかのように、 想い浮べ、 観察し、 常に念ずるのである。 また真実の心をもって、 意には自分や他人の住むすべての迷いの世界とその衆生を軽んじきらい捨てる。 (中略)
また、 釈尊は 『観無量寿経』 に、 世福・戒福・行福の三福、 浄土を願うもののそれぞれの資質、 定善・散善についてお説きになり、 浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、 人々に浄土を求めさせておられるのであると、 疑いなく深く信じる。 (中略)
また、 深信が深く信じる心であるとは、 ゆるぎなく自分の心を定め、 釈尊の教えにしたがって修行し、 すべての疑いを離れて、 本願他力の教えと異なるどのようなものにも、 退かされたり動揺させられたりしないということである。 (中略)
次に、 行について信を立てるのにあたって、 行には二種がある。 一つには*正行しょうぎょうであり、 二つには*雑ぞう行ぎょうである。 正行とは、 もっぱら浄土の経典に説かれている行を修めることをいうのである。 それはどのようなことであろうか。 一つには読誦、 すなわち一心にもっぱら 『観無量寿経』・『阿弥陀経』・『無量寿経』 などを読誦することである。 二つには観察、 すなわち一心にもっぱら浄土や仏および聖者たちに心を集中し、 よく観察して、 思い続けることである。 三つには礼拝、 すなわち一心にもっぱら阿弥陀仏を礼拝することである。 四つには称名、 すなわち一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を称えることである。 五つには讃嘆供養、 すなわち一心にもっぱら阿弥陀仏をほめたたえ供養することである。 この五つを正行というのである。
また、 この正行の中に二種がある。 一つには、 ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えるのである。 いついかなるときでも、 また時の長短を問わず、 他力回向の念仏を行じるのを*正定しょうじょう業ごうという。 阿弥陀仏の本願にしたがうからである。 礼拝や読誦などは*助業じょごうという。 この正定業と助業以外のすべての行は、 みな雑行という。 正定業と助業の二行を修めるなら、 心はいつも阿弥陀仏とともにあり、 思う心が断えないから、 これを*無む間けん修しゅという。 雑行を修めるときは、 いつも心が途切れる。 これを修めることによって往生できるといっても、 すべて、 仏の本意にかなわない自力の行というのである。 以上のようなことから、 深心というのである。
“三つには回向発願心” と説かれている。 回向発願心というのは、 功徳には自分自身が過去から現在まで身・口・意の*三業さんごうに修めた世俗および仏道の*善根ぜんごんの功徳と、 他のすべての凡夫や聖者たちが身・口・意の三業に修めた世俗および仏道の善根を喜んで得られる功徳とがあるが、 深く信じる真実の心をもって、 これらの功徳をすべて積み、 それによって、 浄土に生れようと願うことである。 以上のようなわけで、 回向発願心というのである」
 

 

【21】また次のようにいわれている (序分義)。「定善は他力の信心を示す縁である」
【22】また次のようにいわれている (序分義)。「散善は他力の念仏を顕す縁である」
【23】また次のようにいわれている (散善義)。「浄土の要門である定善・散善の教えに出会うことは難しい」
【24】また 『往生礼讃』 にいわれている。「『観無量寿経』 に説かれている通りである。 すなわち三心をそなえて、 間違いなく往生できるのである。 その三心とは何であろうか。 一つには至誠心である。 身に阿弥陀仏を礼拝し、 口に阿弥陀仏をほめたたえ、 意に阿弥陀仏をもっぱら念じて観察する、 これらの身・口・意の三業をおこすにあたり、 必ず真実の意でなければならないから、 至誠心という。 (中略) 三つには回向発願心である。 自分の修めたすべての善根によって往生を願うから、 回向発願心という。
この至誠心と深心と回向発願心の三心をそなえて、 間違いなく往生できるのである。 そのうち一つでも欠けたなら往生できない。 『観無量寿経』 に詳しく説かれている通りである。 よく知るがよい。 (中略)
また菩薩はすでに迷いの世界を離れ、 修めた善根によって仏のさとりを求める。 これが*自利じりである。 はかり知れない未来にまでわたり衆生を教え導く。 これが*利他りたである。 しかし今の世の衆生はみなことごとく煩悩に縛られて、 迷いの世界の苦しみを免れることができないでいる。 そこで、 それぞれの縁に応じて行を修め、 速やかにそのすべての善根によって、 阿弥陀仏の浄土に往生しようと願うのである。 浄土に往生してからは、 もはや何も恐れることがない。 さきに述べた*四し修しゅの行法によっておのずと行を修めることができ、 自利と利他のはたらきがすべてそなわるのであると知るべきである」
【25】また次のようにいわれている (往生礼讃)。「もっぱら念仏することを捨てて、 雑行を修めるものは、 百人の中でもまれに一、 二人、 千人の中でもまれに三、 四人が往生できるだけである。 なぜなら、 さまざまなことに乱されて信心を得られないからであり、 阿弥陀仏の本願にかなっていないからであり、 釈尊の教えと相違するからであり、 仏がたの教えにしたがっていないからであり、 浄土に思いをかけ続けられないからであり、 阿弥陀仏を思う心が途切れるからであり、 往生を願う心が真実でないからであり、 貪りや怒りや、 よこしまな考えなど、 さまざまな煩悩がおこって思いが途切れるからであり、 *慚ざん愧ぎの心、 *懴さん悔げの心がないからである。 懴悔には三種がある。 (中略)
*上じょう品ぼん・中ちゅう品ぼん・下げ品ぼんのそれぞれのものが行なう懴悔である。 上品の懴悔とは、 毛穴から血の汗を流し眼から血の涙を出すことである。 これを上品の懴悔という。 中品の懴悔とは、 全身の毛穴から熱い汗を出し眼から血の涙を流すことである。 これを中品の懴悔という。 下品の懴悔とは、 全身が熱を帯び眼から涙を出すことである。 これを下品の懴悔という。 この上・中・下の三品には、 それぞれに違いがあるとはいっても、 みなはるかな昔からさとりに向かって善根を積んできた人なのである。 これらの人は、 この世で法を敬い、 人を重んじ、 身命を惜しまず、 わずかな罪に対してでも、 その懴悔は心の奥底まで貫き通る。 このように懴悔すれば、 時の長短にかかわらず、 どのような重い罪もみなたちまち滅してしまうのである。 もし、 このように懴悔しなければ、 たとえ昼夜休みなく懸命に行を修めても、 結局利益を得ることがない。 行を修めることすらないのはいうまでもない。 涙を流し血を流すなどの懴悔はできなくても、 まことの信心をいただいた人は、 三種の懴悔をしたものと同じである」
【26】また 『観念法門』 にいわれている。「阿弥陀仏の光明が他の雑行を修めるものを照らして摂め取るとは、 まったくいわれていない」
【27】また 『法事讃』 にいわれている。「釈尊は五濁の世にお出ましになり、 それぞれに応じた手だてによって衆生を導かれる。 あるいは仏の教えを多く聞いてさとると説き、 あるいは少し教えを理解して*三さん明みょうを得ると説く。 あるいは*六ろっ波羅ぱら蜜みつの行を修めて煩悩を除くと説き、 あるいは*座ざ禅ぜんによって深く思いをめぐらせよと説く。 さまざまな教えにより、 みな迷いを離れることができるのである」
【28】また 『般舟讃』 にいわれている。「一万*劫こうの長い間、 行を修め続けることは実に難しい。 わずかな間にも数多くの煩悩がおこる。 この*娑しゃ婆ば世界で無生法忍を得ようと思うのなら、 迷いの世界をめぐって果てしなく長い間を経ても、 その時は来ない。 衆生の資質に応じてさまざまに説かれた教えを漸教というが、 一万劫の長い間行を修めて、 はじめて無生法忍を得るのである。 だから命の終るまでもっぱら念仏するがよい。 命が終ればたちまち仏が浄土に導いてくださるのである。 一度食事をするわずかな間にも煩悩はおこる。 どうして一万劫の長い間、 貪りや怒りをおこさずにいられようか。 貪りや怒りは人間や神々として生れることをさまたげ苦しみに満ちた世界に身をとどまらせるものなのである」
【29】また次のようにいわれている (般舟讃)。「定善・散善の自力の行によって浄土に往生するがよいというのは、 釈尊の特別な手だてである。 韋提希は女性であり、 また貪りや怒りなど、 すべての煩悩をそなえた凡夫なのである」
【30】『往生論註』 にいわれている。「功徳には二種類がある。 一つには、 煩悩に汚れた心によって修めた、 *真如しんにょにかなっていない功徳である。 いわゆる凡夫が修めるような善を因として、 人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、 因も果もみな真如にかなっておらず、 いつわりであるから、 不実功徳というのである」 
【31】『安楽集』 にいわれている。「『*大集だいじっ経きょう』 の “月蔵分” に、 “*末法まっぽうの世には、 どれほど多くの衆生が仏道修行に励んだとしても、 一人としてさとりを得るものはいないであろう” と説かれている。 今は末法の世である。 この五濁の世では、 ただ浄土の教えだけがさとりに至ることのできる道なのである」
【32】また次のようにいわれている (安楽集)。「一万劫の長い間にわたる修行が成就しないうちは、 迷いの世界を離れることはできない。 なぜなら真如にかなっておらず、 迷いの世界に沈むからである。 それぞれが懸命に行を修めても、 得られる果報はいつわりでしかない」
【33】ところで、 『無量寿経』 によると、 阿弥陀仏は他力念仏が説かれた真実の願すなわち第十八願と、 往生のためのさまざまな善が説かれた方便の願すなわち第十九願・第二十願とをおこされている。 また 『観無量寿経』 には、 釈尊が定善・散善の方便の教えを外に顕され、 他力念仏の真実の教えを内に彰されている。 『阿弥陀経』 には、 ただ*真門しんもんの念仏が説かれているだけで、 方便の善は説かれていない。 このようなわけで、 『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』 に説かれる真実の教えは、 第十八願をそのかなめとするのである。 また、 その三経に説かれる方便の教えは、 さまざまな善根を修めることをそのかなめとするのである。
これらのことから方便の願を考えると、 そこには方便と真実とがある。 また行と信とがある。 その願とは臨終現前の願 (第十九願) である。 その行とは定善・散善のさまざまな善根功徳を修めることである。 その信とは至心・発願・欲生の自力の三心である。 この第十九願の行と信とをよりどころとして、 釈尊は 『観無量寿経』 に、 浄土の要門すなわち方便である仮の教えを顕された。 この要門の教えに正定業と助業と雑行の三つの行が示されている。 その正定業と助業について*専修せんじゅと*雑修ざっしゅとがある。 これらの行を修めるものに二種がある。 一つには定善を修めるものであり、 二つには散善を修めるものである。 また二種の三心があり、 二種の往生がある。 二種の三心とは、 一つには定善の三心であり、 二つには散善の三心である。 この定善・散善を修める心は、 一人一人異なる自力の心である。 二種の往生とは、 一つには即往生であり、 二つには便往生である。 便往生とは、 胎生であり、 辺地への往生であり、 *双そう樹林じゅりん下げ往おう生じょうである。 即往生とは、 真実報土への化生である。
また、 『観無量寿経』 の中には真実がある。 すなわち金剛の信心を説いて、 他力念仏の行者を摂め取って決して捨てないという本願のはたらきを明らかにしようとされるのである。 このようなわけで、 五濁の世ですべての衆生を導かれる釈尊は、 至心信楽の願 (第十八願) のおこころをお説きになったのである。 報土に往生するまことの因は、 まさしく第十八願の信楽であり、 これを正因とするからである。 そこで、 『無量寿経』 には 「信楽」 と説かれている。 阿弥陀仏の誓願には疑いがまじらないから、 信といわれるのである。 『観無量寿経』 には 「深心」 と説かれている。 それぞれの衆生がおこす自力の信が浅いことに対するから、 深といわれるのである。 『阿弥陀経』 には 「一心」 と説かれている。 念仏以外の他の行がまじらないから、 一といわれるのである。 また、 この一心について深い一心と浅い一心とがある。 深い一心とは他力回向の真実の心であり、 浅い一心とは定善・散善を修める自力の心である。
【34】善導大師の説かれた 『観経疏』 によれば、 「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。 その教えは八万四千を超えている。 漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、 縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」 (玄義分) といわれている。
しかし、 はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、 定善の行を修めることができない。 心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。 散善の行も修めることができない。 悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。 このようなわけで、 仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、 『観経疏』 には、 「たとえ千年という長い寿命を費やしても、 真実を見る智慧の眼が開かない」 (散善義) といわれている。 ましてすべての相を離れ、 *真如しんにょ法ほっ性しょうをそのまま観ずることなど決してできない。 だから、 『観経疏』 には、 「釈尊は、 はるかに遠く、 末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、 仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。 ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、 それは、 *神通じんずう力りきのないものが空中に家を建てようとするようなものであり、 決してできるはずがない」 (定善義) といわれている。
『観経疏』 に 「その教えは八万四千を超えている」 (玄義分) といわれているのは、 「教え」 とは八万四千の方便の教えであり、 自力*聖しょう道どう門もんのことである。 「超えている」 のは*本願ほんがん一いち乗じょう海かいの教えであり、 他力*浄土門のことである。
【35】総じて釈尊が説かれた教えの中で、 この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、 *難なん行ぎょう道どうという。 この聖道門の中に、 大乗と小乗、 漸教と頓教、 *一いち乗じょうと*二に乗じょうと*三さん乗じょう、 *権ごん教きょうと*実じっ教きょう、 *顕けん教ぎょうと*密みっ教きょう、 *竪しゅ出しゅつと*竪しゅ超ちょうがある。 これらはすべて自力の教えであり、 衆生を真実に導くための、 仮の手だてとして説かれた教えである。
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、 *易い行ぎょう道どうという。 この浄土門の中に、 *横おう出しゅつと*横おう超ちょう、 方便と真実、 漸教と頓教、 そして助正と雑行、 雑修と専修がある。
正とは、 読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。 ※助とは、 称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。 雑行とは、 正・助の行以外をすべて雑行というのである。 これは、 浄土門の中の自力である横出の教えで、 長い時を費やす漸教であって、 定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、 三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。
横超とは、 阿弥陀仏の本願を信じて自力の心を離れることであり、 これを横超他力という。 これは、 専修の中の専修であり、 頓教の中の頓教であり、 真実の中の真実であり、 一乗の中の真の一乗である。 これが*真しん宗しゅうである。 このことは、 「行文類」 においてすでに明らかにした。
【36】さて、 雑行と雑修とは同じような言葉であるが、 意味は違っている。 雑という言葉には、 すべての行をおさめてしまうのである。 五種の正行に対しては、 五種の雑行がある。 この雑という言葉は、 人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。 これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、 浄土を願う心をおこし、 これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、 浄土往生の行としては雑行というのである。
また、 雑行について、 専行があり専心があり、 また雑行があり雑心がある。 専行とは、 一つの善をもっぱら修めるから専行という。 専心とは、 心をもっぱら浄土に向けるから専心という。 雑行・雑心とは、 さまざまな善をいくつも修めるから雑行といい、 定善・散善を修める自力の心をまじえるから雑心というのである。
また、 正・助の行について、 専修があり雑修がある。 この雑修について、 専心があり雑心がある。 専修には二種がある。 一つには他力の念仏であり、 二つには五つの専修の行である。 この行について、 専心があり雑心がある。 五つの専修の行とは、 一つには、 もっぱら阿弥陀仏を礼拝すること、 二つには、 もっぱら浄土の経典を読誦すること、 三つには、 もっぱら阿弥陀仏やその浄土のすがたを観察すること、 四つには、 もっぱら阿弥陀仏の名号を称えること、 五つには、 もっぱら阿弥陀仏をほめたたえることである。 これらの行を修めるのを五専修という。 この五つの専修の行について、 専修という言葉は同じであるが、 その意味には違いがある。 すなわち定善の行を修める専修と散善の行を修める専修との違いである。 専心とは、 もっぱら五正行を修めて他の行に心を移さないから専心というのであるが、 この専心にも定善を修める専心と散善を修める専心とがある。 雑修とは、 正・助の行である五正行のうち二つ以上を修めるから雑修という。 雑心とは、 定善・散善を修める自力の心をまじえるから雑心という。 よく知るがよい。
浄土門で説かれるすべての自力の行について、 道綽禅師は 『安楽集』 に 「万行」 といわれ、 善導大師は 『観経疏』 に 「雑行」 (散善義) といわれている。 懐感禅師は 『群疑論』 に 「諸行」 といっている。 源信和尚は懐感師により、 源空上人は善導大師によっておられる。 釈尊の経説にもとづき、 祖師方の解釈を見てみると、 雑行の中には、 雑行雑心、 雑行専心、 専行雑心があり、 また正行の中には、 専修専心、 専修雑心、 雑修雑心がある。 これらはみな自力の行であって、 辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。 だから、 浄土に生れても仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、 菩薩や声聞たちを見ることもできない。 阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。 第十九願を方便の願とするのは、 まことに意味深いことである。 釈尊が 『観無量寿経』 に定善・散善を説かれ、 善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、 いよいよ明らかに知られるのである。
『無量寿経』 の三心と 『観無量寿経』 の三心とは、 顕の義によれば異なるが、 彰の義によれば同じなのである。 これで、 三心が同じか異なるかということについて答えおわった。
【37】また問うていう。 『無量寿経』 や 『観無量寿経』 に説かれる三心と 『阿弥陀経』 に説かれる一心とは、 同じなのであろうか、 異なるのであろうか。
答えていう。 いま方便真門の誓願についてみると、 これに行と信とがある。 また真実と方便とがある。 その願とは植諸徳本の願 (第二十願) である。 その行には二通りの名がある。 一つには*善本ぜんぽんであり、 二つには*徳本とくほんである。 その信とは至心・回向・欲生の心である。 この心を修めるものに、 *定じょう心しんのものと*散心さんしんのものとがある。 そして往生とは、 *難なん思じ往おう生じょうであり、 その仏とは*化け身しんであり、 その浄土とは疑城胎宮である。
『観無量寿経』 に準じて考えてみると、 『阿弥陀経』 にも顕彰隠密の義があると知られる。 その顕についていうと、 釈尊は、 念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、 善本・徳本の真門を説き示し、 自力の一心をおこすようにと励まされ、 難思往生を勧めておられる。 このようなわけで、 *『阿あ弥陀みだ経きょう』 には、 「念仏は多くの功徳をそなえた行である」 と説かれ、 善導大師の 『法事讃』 には、 「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって*不ふ退転たいてんの位を得るがよい」 といわれ、 また 「念仏して*西方さいほう浄じょう土どに往生する教えにまさるものはない。 少ししか念仏しないものまで、 阿弥陀仏は*来迎らいこうして浄土に導いてくださる」 といわれている。 以上は 『阿弥陀経』 の顕の義を示すものである。 これが真門の中の方便である。
その彰とは、 自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。 これは不可思議の本願を明らかに説き示して、 何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召おぼしめしである。 まことにこのお勧めは、 あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、 信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。 だから自力の心では、 この信心を得ることなどとうていできないというのである。 善導大師の 『法事讃』 には、 「仏がたは次々世に出られて、 その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、 凡夫はただ念仏して、 ただちに往生させていただくのである」 といわれている。 これは隠彰の義をあらわすものである。 『阿弥陀経』 には 「執持」 と説かれ、 また 「一心」 と説かれている。 「執」 という言葉は、 心がしっかりと定まって他に移らないことをあらわしている。 「持」 という言葉は、 散失しないことをいうのである。 「一」 という言葉は、 無二すなわち疑いがないことをいうのである。 「心」 という言葉は、 真実であることをいうのである。 『阿弥陀経』 は、 大乗経典の中で、 問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた教典である。 だから、 釈尊が世にお出ましになったのは、 あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、 すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。 このようなわけで、 すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、 他力念仏を説き示し、 五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。
『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』 の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、 みな他力の信心を明らかにして、 *涅ね槃はんに入る因とする。 そのため三経のはじめには、 「如是」 と示されているのである。 「如是」 という言葉は、 善く信じるすがたをあらわしている。 いまこの三経をうかがうと、 みな決して損なわれることのない真実の心をまさにかなめとしている。 その真実の心とは他力回向の信心である。 この信心は、 たぐいまれな、 もっともすぐれた、 真実の、 清らかな心である。 どうして信心の大海には入ることが難しいのかというと、 この信心は仏力によっておこるからである。 しかし、 真実の浄土に往生することはとてもやさしい。 それは本願のはたらきによってただちに往生できるからである。 いま、 『無量寿経』 や 『観無量寿経』 に説かれる三心と 『阿弥陀経』 に説かれる一心とが同じか異なるかを論じようとするのは、 このことをあらわすものである。 これで、 この三経に説く教えはみな他力の信心をかなめとするということについて答えおわった。
【38】この五濁の世の出家のものも在家のものも、 速やかにこの上ない功徳をまどかにそなえた真門に入って、 難思往生を願うべきである。 真門の方便には、 行に善本と徳本の名がある。 また定善の専心があり、 散善の専心があり、 そして定善・散善の雑心がある。 雑心とは、 大乗・小乗の聖者や凡夫、 すべての善人や悪人がそれぞれに、 正定業と助業の区別を知らず、 本願を疑う自力の心で名号を称えることである。 まことに、 名号はこの上ない功徳をまどかにそなえ、 ただちにさとりに至る他力真実の法であるが、 これを修めるものが、 自力を離れることができず、 速やかにさとりに至ることのできない衆生なのである。 行は専すなわち念仏一行であるが、 これを修める心は雑すなわち本願を疑う自力の心である。 だから雑心というのである。 定善の専心・散善の専心とは、 罪を恐れ自分の善をあてにする心で*本願ほんがん力りきを願い求めるのであり、 これを自力の専心というのである。 善本とは阿弥陀仏の名号をいう。 この名号は、 あらゆる善をまどかにそなえているのであり、 すべての善い行いの本であるから、 善本というのである。 徳本とは阿弥陀仏の名号をいう。 この名号は、 一声称えるときこの上ない徳がその身に満ちてあらゆる罪がみな功徳に転じるのであり、 過去・現在・未来のすべての仏がたにそなわる徳の名の本であるから、 徳本というのである。
そこで、 釈尊は、 念仏を称える功徳により浄土に往生する功徳蔵と呼ばれる教えを説き述べて、 すべての五濁の世のものを導かれ、 阿弥陀仏は、 そのもととなる*果か遂すいの誓ちかいをおこして、 あらゆる迷いの人々を他力念仏の法に引き入れてくださるのである。 すなわち、 すでに慈悲の心からおこしてくださった第二十願がある。 この願を植諸徳本の願と名づけ、 また係念定生の願と名づけ、 また不果遂者の願と名づける。 また至心廻向の願とも名づけることができる。
【39】そこで 『無量寿経』 の第二十願に説かれている。「わたしが仏になったとき、 すべての人々が、 わたしの名号を聞いて、 浄土をひとすじに思い、 仏がたの徳の名の本であるその名号を称え、 心を励まして、 その称える功徳により浄土に生れたいと願うなら、 その願いをきっと果しとげさせよう。 そうでなければ、 わたしは決してさとりを開くまい」
【40】また次のように説かれている (無量寿経)。「阿弥陀仏のさまざまな智慧を疑って信じない。 それでいて悪の報いを恐れ、 善の果報を望み、 善の本である名号を称えて、 阿弥陀仏の国に生れたいと願う。 これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまる」
 

 

【41】また次のように説かれている (無量寿経)。「もし人が過去に善の本である名号を称えることがなかったなら、 この教えを聞くことはできない。 清らかに*戒律かいりつをたもったものは、 この弘願の教えを聞くことができる」
【42】『如来会』 に説かれている。「わたしが仏になったとき、 数限りない国々のあらゆる衆生が、 わたしの名号について説かれるのを聞き、 その名号を自分の善根として称えることにより極楽に生れようとするであろう。 もしそのものが生れなければ、 わたしは決してさとりを開くまい」
【43】『平等覚経』 に説かれている。「過去にこのような功徳を積んでいない人は、 この経の名を聞くことができない。 ただ清らかに戒律をたもった人だけが、 この本願の教えを聞くことができる。 邪悪なもの、 おごり高ぶるもの、 誤った考えを持つもの、 おこたりなまけるものは、 この教えを信じることが難しい。 過去の世で仏を見たてまつった人は、 よろこんで釈尊の教えを聞くであろう。 人として生れることはまれであり、 仏が世におられても、 あうことは難しい。 信心の智慧を得ることはさらに困難である。 もし仏法に出会えたなら努め励んで道を求めよ」
【44】『観無量寿経』 に説かれている。「釈尊が阿難に仰せになった。 “そなたはこの言葉をしっかりと心にとどめるがよい。 この言葉を心にとどめよというのは、 すなわち無量寿仏の名号を心にとどめよということである”」
【45】『阿弥陀経』 に説かれている。「わずかな功徳しかない自力の行によって、 浄土に生れることはできない。 阿弥陀仏について説かれるのを聞き、 その名号をしっかりと心にとどめよ」
【46】善導大師が 『観経疏』 にいわれている (定善義)。「念仏以外のさまざまな行も善といわれるけれども、 念仏にくらべたなら、 まったくくらべものにならないほど劣っている。 だから、 数多くの経典の中に、 いたるところで広く念仏のはたらきをほめておられるのである。 たとえば 『無量寿経』 の四十八願には、 ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えて往生することができると示されている。 また 『阿弥陀経』 には、 一日でも七日でも、 ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えて往生することができると説かれ、 またすべての世界の数限りない仏がたがこのことにいつわりがないと証明しておられる。 また 『観無量寿経』 の中で定善・散善を説くところには、 ただ、 ひとすじに名号を称えて往生することができると示されている。 このような例は少なくない。 ここに広く念仏三昧について明らかにした」
【47】また次のようにいわれている (散善義)。「また、 『阿弥陀経』 に、 あらゆる世界の数限りない仏がたが、 すべての凡夫が間違いなく往生できることを証明して勧めておられると、 疑いなく信じるがよい。 (中略)
仏がたの仰せになること、 行なわれることには食い違いがない。 釈尊はすべての凡夫に対して、 命のある限りひとすじに念仏して、 命が終れば間違いなく阿弥陀仏の国に生れることを示してお勧めになるが、 すべての世界の仏がたもみなこれと同じようにほめたたえ、 同じように勧め、 同じように証明されるのである。 なぜならそれらは、 同じさとりからおこる大いなる慈悲のはたらきだからである。 釈尊が教え導こうとされているものは、 そのまま、 すべての仏がたが救おうとされているものであり、 すべての仏がたが救おうとされているものは、 そのまま、 釈尊が教え導こうとされているものなのである。 すなわち 『阿弥陀経』 の中に、 (中略) “また、 すべての凡夫に、 一日でも七日でも、 ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えて、 間違いなく往生するがよいとお勧めになる” と説かれている。 その次の文には、 “すべての世界にそれぞれ数限りない仏がたがおいでになって、 釈尊をほめたたえておられる。 すなわち、 さまざまな濁りに満ちた時代にあって、 人々は悪事を犯すばかりであり、 思想は乱れ、 煩悩は激しく盛んとなり、 仏法を聞いても疑い謗るばかりで信じようとしない。 そのような世の中に釈尊はお出ましになって、 阿弥陀仏の名号を指し示してほめたたえられ、 念仏すれば必ず往生を得ると衆生を勧め励まされている。 このことを仏がたはみな同じくほめたたえておられる” と説かれている。 これがその証拠である。 また、 すべての世界の仏がたは、 衆生が釈尊の説かれた教えを信じないことをおそれて、 みなともに同じ慈悲の心から、 同時に、 それぞれの国で広く*舌相ぜっそうを示して、 世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、 まごころをこめて、 “そなたたち衆生はみな、 釈尊が説かれ、 ほめたたえられ、 証明されたこの法を信じるがよい。 すべての凡夫は、 罪や功徳の多少、 念仏する時の長短を問うことなく、 長ければ一生涯から短ければ一日・七日に至るまで、 ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えれば、 必ず往生を得る。 それは決して疑いのないことである” と仰せになっている。
このようなわけで、 一仏すなわち釈尊の教えをすべての仏がたがみな同じように証明されるのである。 これを、 *勧める人について信を立てるというのである」
【48】また次のようにいわれている (散善義)。「阿弥陀仏の本願のおこころからすると、 ただ信心を得て名号を称えることをお勧めになっているのである。 浄土往生について、 その速やかなことは、 自力で修める行と同じではない。 『観無量寿経』 をはじめさまざまな経典の中にいたるところで広くほめたたえられているのは、 名号を称えることをお勧めになっているのであり、 これをかなめとされるのである。 よく知るがよい」
【49】また次のようにいわれている (散善義)。「『観無量寿経』 の “仏、 阿難に告げたまはく、 なんぢ、 よくこの語を持たもて”、 すなわち “そなたはこの言葉をしかりと心にとどめるがよい” と述べられているところからは、 阿弥陀仏の名号を阿難に託して、 はるか後の世まで伝え広めることを明らかにされたものである。 『観無量寿経』 にはここまで定善・散善の利益が説かれているけれども、 阿弥陀仏の本願のおこころからすると、 釈尊の思召しは、 人々に阿弥陀仏の名号をただひとすじに称えさせることにある」
【50】また 『法事讃』 にいわれている。「極楽は変ることのないさとりの世界である。 人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。 だから釈尊は本願の名号を選びとって、 ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった」
【51】また次のようにいわれている (法事讃)。「この世が終ろうとするとき、 世界にはさまざまな濁りがあふれている。 衆生はよこしまな考えにとらわれて、 とても仏法を信じることができない。 ただひとすじに信じ念仏するように教えられ、 浄土往生の道に入ることがあっても、 他のものに惑わされて、 またもとのよこしまな考えに陥ってしまう。 はかり知れない昔からいつもこの繰り返しである。 この世に生れてはじめてそのことに気づいたわけではないが、 すぐれた本願のはたらきに出会わなかったために、 迷いの世界にさまよい続けてそこから抜け出ることができないのである」
【52】また次のようにいわれている (法事讃)。「仏のさまざまな教えは、 みな迷いを離れることのできるものであるが、 念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。 生涯をかけて念仏するものから少ししか念仏しないものまで、 阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる。 仏がたは次々に世に出られて、 その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、 凡夫はただ念仏して、 ただちに往生させていただくのである」
【53】また 『般舟讃』 にいわれている。「すべての仏がたが方便の教えを説いておられることは、 この世界に出られた釈尊と同じである。 衆生の資質に応じて教えを説かれるから、 衆生はみなその利益を受けるのである。 それぞれ仏の思召しを心得て念仏の真門に入るがよい。 (中略) 仏教には八万四千の法門といわれる多くの教えが説かれている。 これはまさに衆生の資質がさまざまに異なっているからである。 安らかで変ることのない世界を求めるなら、 まずかなめである念仏の行を求めて真門に入るがよい」
【54】また 『往生礼讃』 にいわれている。「このごろ、 方々の出家のものや在家のものについて見たり聞いたりしたところでは、 その理解も行も同じではなく、 専修と雑修の違いがある。 ただひとすじに念仏すれば、 十人が十人、 すべて往生する。 他の行をまじえるのは心が真実でないから、 千人に一人も往生しない」
【55】*元がん照じょう律師の 『*阿あ弥陀みだ経きょう義ぎ疏しょ』 にいっている。「釈尊は、 念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、 まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。 *布施ふせをし、 戒律をたもち、 あるいは寺を建て、 仏像をつくり、 仏を礼拝し、 経を読み、 または座禅をし、 懴悔し、 苦行するなどのすべての善は、 もし正しい信がなかったなら、 そのような善によって浄土に往生しようと願っても、 みなわずかな功徳しかなく、 往生の因ではないのである。 もし、 『阿弥陀経』 の教えにしたがって念仏するなら、 間違いなく往生するであろう。 だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、 わたしはこのような解釈をしたが、 世間の人はなお疑って信じなかった。 しかし最近、 襄陽の石碑に刻まれた 『阿弥陀経』 の文を見たところ、 わたしの解釈と見事に一致しており、 そこではじめて深く信じるようになったのである。 その文には次のように説かれている。 “善良なものよ、 阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、 心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。 名号を称えることにより、 あらゆる罪が除かれる。 すなわち念仏は多くの功徳をそなえた行である”」
【56】*孤こ山さんの 『阿弥陀経義疏』 にいっている。「『阿弥陀経』 に “名号を執持する” と説かれているのは、 “執” とは受け取ることであり、 “持” とはたもつことである。 信心のはたらきにより、 名号を受け取って心におき、 念仏のはたらきにより、 名号をたもって忘れないのである」
【57】『無量寿経』 に説かれている。「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、 その如来に出会うことも難しい。 また、 仏がたの教えを聞くこともむつかしい。 菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くことも難しく、 *善ぜん知ぢ識しきに出会って教えを聞き、 修行することもまた難しい。 まして、 この阿弥陀仏の教えを聞き、 信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、 これより難しいことは他にない。 そうであるから、 わたしはこのように仏となり、 さとりへの道を示し、 阿弥陀仏の教えを説くのである。 そなたたちは、 ただこれを信じて、 教えのままに修行するがよい」
【58】『*涅ね槃はん経ぎょう』 に説かれている。「すでにこの経に説いたように、 すべての清らかな行いの因は善知識すなわち如来である。 すべての清らかな行いの因は数限りなくあるけれども、 如来について説くだけですべてその中に収まってしまうのである。 わたしがこれまで説いたように、 すべての悪い行いは誤った考えによる。 すべての悪い行いの因は数限りなくあるけれども、 誤った考えについて説くだけですべてその中に収まってしまうのである。 あるいはこの上ないさとりについて説くなら、 それは信心を因とする。 さとりに至る因も数限りなくあるけれども、 信心について説くだけですべてその中に収まってしまうのである」
【59】また次のように説かれている (涅槃経)。「善良なものよ、 信には二種がある。 一つには、 教えをただ理解する信であり、 二つには、 教えにしたがって道を求める信である。 教えをただ理解しているだけで、 教えにしたがって道を求めることがないのは、 完全な信ではない。
また信には二種がある。 一つには、 ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、 二つには、 よくその意味内容を知って信じるのである。 ただ言葉を聞いただけで、 その意味内容を知らずに信じているのは、 完全な信ではない。
また信には二種がある。 一つには、 たださとりへの道があるとだけ信じるのであり、 二つには、 その道によってさとりを得た人がいると信じるのである。 たださとりへの道があるとだけ信じて、 さとりを得た人がいることを信じないのは、 完全な信ではない。
また信には二種がある。 一つには、 正しい教えを信じるのであり、 二つには、 よこしまな考えを信じるのである。 *因いん果がの道どう理りがあり、 仏・法・僧の*三宝さんぼうがあると信じるのを、 正しい教えを信じるという。 因果の道理がなく、 仏・法・僧の三宝の本質が一体ではなくそれぞれ別のものであるといって、 さまざまなよこしまな考え、 たとえば*富ふ蘭らん那ななどの言葉を信じるのを、 よこしまな考えを信じるという。 仏・法・僧の三宝があると信じても、 三宝の本質が一体であるということを信じておらず、 また因果の道理を信じても、 さとりを得た人がいることを信じていないのは、 完全な信ではない。 この人は、 不完全な信しか得ていないのである。 (中略)
善良なものよ、 次の四つは善いことでありながら、 悪の報いを受けるものである。 その四つとは何かというと、 一つには、 他の人よりもすぐれたいために経典を読むこと、 二つには、 利益を得るために戒律をたもつこと、 三つには、 ※他の人を自分にしたがわせるために布施をすること、 四つには、 *非ひ想そう非非ひひ想そう処しょに生れるために心静かに思いをこらすことである。 この四つは善いことでありながら悪の報いを受けるのである。 もしこのような四つのことを行なうなら、 その人は迷いの世界に沈んではまた浮び、 浮んではまた沈むことになる。 どうして沈むのかというと、 迷いの世界に生れることを願い求めるからである。 どうして浮ぶのかというと、 仏の教えに出会うからである。 仏の教えに出会うとは、 *持じ戒かいと布施と*禅ぜん定じょうの教えを聞くことである。 どうしてまた沈むのかというと、 よこしまな考えが増し、 おごり高ぶる心が生じるからである。
このようなわけで、 わたしは経に次のような*偈げを説く。
“もし迷いの世界に生れることを願い求めて、 そのために善い行いや悪い行いをするのなら、 この人はさとりへの道を見失う。 すなわち少しの間さとりへの道に入っても、 ふたたび迷いの世界に沈むことになる。 闇に閉ざされた迷いの海を渡って、 ひとたび抜け出すことができたとしても、 煩悩をそなえた身であるから、 この人はまた悪の報いを受ける。 すなわち少しの間さとりへの道に入っても、 ふたたび迷いの世界に沈むことになる”
如来には二種の涅槃がある。 一つには*有為ういの涅槃であり、 二つには*無為むいの涅槃である。 有為の涅槃は*常じょう楽らく我が浄じょうの徳をそなえていない。 常楽我浄の徳をそなえているのは無為の涅槃である。
仏教の戒律によっても、 仏教以外の戒律によっても、 ともに善の果報が得られると深く信じるのは、 完全な戒律ではない。 信も戒律もそなえずに、 多く教えを聞きたいと願っても、 完全な聞にはならないのである。
完全な聞でないとは、 どのようなことであろうか。 如来の説かれた教えは*十じゅう二部にぶ経きょうである。 その中の六部の教えだけを信じて後の六部を信じないのは、 完全な聞ではない。 また、 この六部の教えを受けたといっても、 読んで理解することもできずに人に説くのであれば、 何のためにもならない。 それは、 完全な聞ではない。 また、 この六部の教えを受けて、 議論のために、 他の人よりもすぐれたいために、 利益のために、 世俗的な目的のために、 それを読んで人に説くのは、 完全な聞ではない」
【60】また次のように説かれている (涅槃経)。「善良なものよ、 もっともすぐれた真の善知識は、 仏や菩薩たちである。 なぜなら、 常に三つの善い方法で衆生の心をととのえて導くからである。 その三つとは何かというと、 一つには、 この上なくやさしい言葉を用いること、 二つには、 この上なくきびしい言葉を用いること、 三つには、 やさしい言葉ときびしい言葉を併せて用いることである。 このようなわけで仏や菩薩たちは真の善知識なのである。
また次に、 善良なものよ、 仏と菩薩とはすぐれた医者であるから善知識という。 なぜなら、 病のことも薬のこともよく知っており、 病にあった薬を与えるからである。 たとえば名医が病を治すのにさまざまなすぐれた手当をするようなものである。 まず病状を見るのであるが、 病の症状には三種類がある。 その三つとは何かというと、 咳と熱と寒気とである。 咳の出る人には溶かしたバターを与え、 熱のある人には氷砂糖を与え、 寒気のする人にはしょうが湯を与える。 病の原因を知って薬を与えるから、 病が治るのである。 だから名医というのである。 仏や菩薩もまたこれと同じである。 すべての凡夫には三種類の病があると知っている。 一つには貪り、 二つには怒り、 三つには愚かさである。 貪りの病のものには、 *骨相こっそうを観じさせる。 怒りの病のものには、 慈悲の相を観じさせる。 愚かさの病のものには、 *十じゅう二に因縁いんねんを観じさせる。 このようなわけで、 仏や菩薩たちを善知識という。 善良なものよ、 たとえば人を渡す船頭を大船頭というようなものである。 仏や菩薩たちもまたこれと同じである。 すべての衆生を導いて迷いの大海を渡らせる。 このようなわけで善知識という」 
 

 

【61】『*華け厳ごん経ぎょう』 に説かれている。「そなたは善知識を念じるがよい。 善知識がわたしを生んでくださるのは父母のようであり、 わたしを育ててくださるのは乳母のようである。 さとりのためのすべての徳を積ませてくださるのである。 それは、 医者が多くの病を治すようであり、 天が甘露をそそぐようであり、 太陽が正しい道を示すようであり、 月が清らかな光を放つようである」
【62】また次のように説かれている (華厳経)。「如来は大いなる慈悲をもって世の中にお出ましになり、 広くさまざまな衆生のためにこの上ない教えをお説きになる。 如来がはかり知れない長い間苦労されたのは衆生のためである。 世の中の衆生は、 これほどの如来の恩にどうして報いることができるだろうか」
【63】善導大師が 『般舟讃』 にいわれている。「ただ嘆かわしいことは、 衆生が疑ってはならないことを疑うことである。 浄土はわたしたちの前にあって何ものも拒むことなく受け入れてくださる。 阿弥陀仏がお救いくださるかどうかを論じる必要はない。 ただ、 わたしたちがひとすじに浄土に往生しようと願うかどうかによるのである。 あるいはいう。 これからさとりを開くまで、 長く仏の徳をたたえて、 大いなる慈悲の恩に報いていこう。 阿弥陀仏の本願のはたらきを受けることがなかったなら、 はたしていつ迷いの世界を出ることができようか。 どうしてこのたび浄土に往生することを期待できようか。 実にこれは釈尊のお力によるものである。 釈尊のお勧めがなければ、 阿弥陀仏の浄土にどうして入ることができようか。 浄土に往生して仏の恩に報いるがよい」
【64】また 『往生礼讃』 にいわれている。「仏が世に出現されている時に生れあわせることはきわめて難しく、 人が信心の智慧を得ることも難しい。 すぐれた尊い法を聞くことは、 またもっとも難しいことである。 自ら信じ、 そして人に教えて信じさせることは、 難しい中でもとくに難しい。 仏の大いなる慈悲によって広く人々を教え導くことは、 まことに仏の恩に報いることになる」
【65】また 『法事讃』 にいわれている。「さあ帰ろう、 迷いの世界にとどまるべきではない。 仏にしたがってさとりの家に帰るがよい。 さとりの国に帰ったなら、 すべての願いと行とがおのずから成就するのである。 悲しみと喜びとがあふれてくる。 自分自身を深く考えてみると、 釈尊の教えに導かれなければ、 いつ阿弥陀仏の本願名号のいわれを聞くことができようか。 仏の慈悲をこの身にいただいておりながら、 まことにその恩に報いることは難しい」
【66】また次のようにいわれている (法事讃)。「衆生は、 すべての迷いの世界を繰り返し*輪りん廻ねしてとどまることがなく、 めぐりめぐって長い間欲望の波にのまれ、 苦しみの海に沈み続けている。 そのように人間として生れ仏道を歩むのは難しいのに、 わたしは今すでにそれを得ることができた。 浄土の教えを聞くのは難しいのに、 今すでに聞くことができた。 信心をおこすのは難しいのに、 今すでにおこすことができた」
【67】いま、 まことに知ることができた。 もっぱら念仏しても、 自力の心で励むものは大きな喜びの心を得ることができない。 だから善導大師は 『往生礼讃』 に、 「自力のものは仏の恩に報いる思いがなく、 行を修めてもおごり高ぶる心がおきる。 それは、 いつも名誉や利益を求めているからであり、 “わたしが” というとらわれの心におおわれて、 同じ念仏の行者や善知識に親しみ近づくことがないからであり、 好んでさまざまな悪に近づき、 自分および他人が本願の名号をいただいて浄土に往生する道をさまたげるからである」 といわれている。
悲しいことに、 煩悩にまみれた愚かな凡夫は、 はかり知れない昔から、 他力念仏に帰することなく、 自力の心にとらわれているから、 迷いの世界を離れることがない。 果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、 限りなく長い時を経ても、 本願力に身をまかせ、 信心の大海に入ることはできないのである。 まことに悲しむべきことであり、 深く嘆くべきことである。 大乗や小乗の聖者たちも、 またすべての善人も、 本願の名号を自分の功徳として称えるから、 他力の信心を得ることができず、 仏の智慧のはたらきを知ることがない。 すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、 真実報土に往生することがないのである。
【68】このようなわけで、 愚禿釈の親鸞は、 龍樹菩薩や天親菩薩の解釈を仰ぎ、 曇鸞大師や善導大師などの祖師方の導きにより、 久しく、 さまざまな行や善を修める方便の要門を出て、 永く、 双樹林下往生から離れ去り、 自力念仏を修める方便の真門に入って、 ひとすじに難思往生を願う心をおこした。 しかしいまや、 その方便の真門からも出て、 選択本願の大海に入ることができた。 速やかに難思往生を願う自力の心を離れ、 *難なん思議じぎ往おう生じょうを遂げようとするのである。 必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をおたてになったのは、 まことに意味深いことである。
ここに久しく、 本願海に入ることができ、 深く仏の恩を知ることができた。 この尊い恩徳に報いるために、 真実の教えのかなめとなる文を集め、 常に不可思議な功徳に満ちた名号を称え、 いよいよこれを喜び、 つつしんでいただくのである。
【69】いま、 まことに知ることができた。 聖道門のさまざまな教えは、 釈尊の在世時代と*正しょう法ぼうの時代のためのものであって、 *像法ぞうぼうや末法や*法滅ほうめつの時代とその人々のためのものではない。 すでにそれは時代にあわず、 人々の資質に背くものである。 浄土の真実の教えは、 釈尊在世の時代にも、 正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、 煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。
【70】このようなわけで、 釈尊のお説きになった教えにもとづき、 祖師の解釈を見てみると、 『観経疏』 に、 「教えを説く人の違いについていうと、 すべての経典において教えを説きおこすものは、 次の五種だけである。 一つには仏、 二つには仏弟子、 三つには神々や仙人、 四つには鬼神、 五つには変化である」 (玄義分) と述べられている。 この五つのうち、 信じるべきであるのは仏が説かれた教えであり、 他の四種のものが説く教えではない。 『無量寿経』 も 『観無量寿経』 も 『阿弥陀経』 も、 すべて釈尊が自ら説かれた教えである。
【71】『*大だい智度ちど論ろん』 に、 四つの依りどころについて次のようにいわれている。「釈尊がまさにこの世から去ろうとなさるとき、 *比丘びくたちに仰せになった。 “今日からは、 教えを依りどころとし、 説く人に依ってはならない。 教えの内容を依りどころとし、 言葉に依ってはならない。 真実の智慧を依りどころとし、 人間の*分別ふんべつに依ってはならない。 仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、 仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。
教えを依りどころとするとは、 仏の説いた教えには十二部経があり、 この教えにしたがうべきであって、 説く人にしたがってはならないということである。 教えの内容を依りどころとするとは、 教えの内容に、 よいと悪い、 罪と功徳、 嘘とまことなどの違いをいうことはなく、 だから言葉は教えの内容を表しているものであって、 教えの内容が言葉そのものなのではない。 言葉に依って教えの内容に依らないのは、 人が月を指さして教えようとするときに、 指ばかりを見て月を見ないようなものである。 その人は、 «わたしは月を指さして、 あなたに月を知ってもらおうとしたのに、 あなたはどうして指を見て月を見ないのか» というであろう。 これと同じである。 言葉は教えの内容を指し示すものであって、 言葉そのものが教えの内容であるわけではない。 このようなわけで、 言葉に依ってはならないのである。 真実の智慧を依りどころとするとは、 真実の智慧に依れば善と悪とをよく考えてその違いを知ることができるが、 人間の分別は常に楽しみを求め、 さとりへ向かう正しい道に入ることができないということである。 だから、 人間の分別に依ってはならないといったのである。 真実を完全に説き示した経典を依りどころとするとは、 智慧あるものすべての中で仏を第一とし、 すべての教えの中で仏の教えを第一とし、 教えを受けるものすべての中で出家のものを第一とするということである” と。
仏のおられない世の衆生を、 仏は罪が重いとされた。 これは仏を見たてまつる功徳を積まなかった人なのである」
【72】このようなわけであるから、 末法の時代の出家のものも在家のものもこの四つの依りどころをよく知って仏法を修めなければならない。
【73】そこでいま、 如来が示された真実の教えにもとづき、 昔の高僧方が伝え説かれた教えによって、 聖道門と浄土門の真実と方便を明らかにし、 また仏教以外の誤ったよこしまな考えを戒めるのである。
釈尊が*入にゅう滅めつされた年代を考えて、 正法と像法と末法の時代の区別をあらわそう。
【74】これについて、 道綽禅師が 『安楽集』 にいわれている。「ところで、 仏道を修めるものは、 一万劫もの長い間絶えることなく修め続けて、 はじめて不退転の位に至るのである。 しかし今日の凡夫は、 現に吹けば飛ぶような軽い毛ほどの信心しかないといわれ、 また名ばかりの菩薩ともいわれ、 また*不ふ定じょう聚じゅともいわれ、 また*外げの凡ぼん夫ぶともいわれる。 いまだに迷いの世界を離れることができないのである。 どうしてこのように知ることができるかというと、 『*菩ぼ薩さつ瓔珞ようらく経きょう』 にさとりに至るまでの修行の段階が詳しく説かれているのによれば、 菩薩の位を一段一段とのぼり続けていかなければならないからであり、 これを難行道というのである」
【75】また次のようにいわれている (安楽集)。「浄土の教えがおこった理由を明らかにし、 時代と衆生の資質について示して、 浄土の教えを勧めるというのは、 もし衆生の資質と教えと時代とがあっていなければ、 修行することは難しく、 さとりに入ることも難しいということである。
『*正しょう法ぼう念ねん経ぎょう』 には、 “行者が一心にさとりを求める場合には、 いつも時と方法とを考えなければならない。 もし時を得なければ方法も失われる。 これではさとりを求めることはできず、 成果は得られない。 どのようなことかというと、 たとえば湿った木を擦こすり合せて火を出そうとしても火を得ることはできないが、 それは時を得ていないからである。 また、 たとえば乾いた薪を折って水を出そうとしても水を得ることはできないが、 それは智慧がないからである” と説かれている。
『大集経』 の “月蔵分” には、 “仏が入滅された後の第一の五百年間は、 多くの弟子たちは智慧を修めることが確かであろう。 第二の五百年間は、 禅定を修めることが確かであろう。 第三の五百年間は、 多く教えを聞いて経を読誦することが確かであろう。 第四の五百年間は、 塔や寺を建て、 功徳を積み、 懴悔して罪を除くことが確かであろう。 第五の五百年間は、 仏の教えは隠れて、 多くの争いがおこり、 わずかに残った正しい教えをたもつことだけが確かであろう” と説かれている。
今日の衆生を考えてみると、 仏が世を去られた後の第四の五百年にあたっており、 これはまさしく懴悔して罪を除き、 功徳を積み、 仏の名号を称えるべき時代の人々である。 一声阿弥陀仏の名号を称えたなら、 八十億劫の迷いの罪を除くことができる。 一声の念仏でもこのように罪を除くことができるのであり、 ましていつも念仏するなら、 そのものは常に懴悔して罪を除く人なのである」
【76】また次のようにいわれている (安楽集)。「仏の教えの存続と消滅についていうと、 釈尊在世の時代、 正法の五百年、 像法の千年、 末法の一万年を経て、 修行するものもいなくなり、 仏の教えもことごとくなくなってしまうが、 釈尊はそのとき苦しみ悩む衆生を哀れんで、 とくに浄土の教えだけをいつまでもとどめておかれるのである」
【77】また次のようにいわれている (安楽集)。「『大集経』 に、 “末法の時代には、 どれほど多くの衆生が仏道修行に励んだとしても、 一人としてさとりを得るものはいないであろう” と説かれている。 今は末法の時代であり、 五濁の世である。 ただ浄土の教えだけがさとりに至ることのできる道なのである」
【78】このようなわけであるから、 煩悩に汚れた五濁の世の人々は、 末法の時代にあって末法のことを知らずに、 出家のものの振舞いを謗っているのであるが、 今日の出家のものも在家のものも、 自分自身のことをよく考えなければならない。
【79】正法・像法・末法の三つの時代が説かれた教えについて考えると、 釈尊の入滅された年代は、 *周しゅうの第五代穆王ぼくおうの五十三年にあたっている。 その年からわが国の*元仁げんにん元年に至るまで二千百七十三年を経ている。 また 『*賢劫げんごう経ぎょう』・『*仁王にんのう経きょう』・『涅槃経』 などの説によると、 すでに末法の時代に入ってから六百七十三年を経ているのである。
【80】*最さい澄ちょうの 『*末法まっぽう灯とう明みょう記き』 をひらいてみると、 次のようにいっている。「さて、 唯一絶対の真実にもとづき、 人々を教え導くものは*法王ほうおうであり、 広く世界を治め、 徳をもって人々を導くものは仁王である。 したがって、 仁王と法王とはそれぞれに世に現れて人々を導き、 仏教の真理と世間の道理とは互いに助けあって教えを広めるのである。 これによって奥深い教えが世に広まり、 正しい道が天下に行きわたる。
ここにいま、 わたしたち愚かな僧侶はみな国の法律に縛られ、 そのきびしい罰を恐れて身も心も安まる時がない。 しかしながら、 仏法には三つの時代があり、 人にも三種の資質の違いがある。 教えや戒律は時代に応じて移り変り、 謗る言葉やほめる言葉も人に応じてそれぞれに異なる。 古代の中国における賢者も、 移り変って衰退していった。 釈尊が入滅された後の仏の教えも五つの段階を経て衰え、 人々の智慧やさとりは異なっていく。 このように時代も資質も異なった人々を、 どうして一つの方法で救い、 一つの道理でおさめることができようか。 このようなわけであるから、 正法と像法と末法の時代の区別を詳しく述べ、 戒律を破る僧侶とたもつ僧侶とについて明らかにしてみよう。 このことを三つに分けて述べる。 はじめに正法・像法・末法の時代を定め、 次に戒律を破る僧侶とたもつ僧侶とについて明らかにし、 最後に経典に説かれた教えと末法の時代のありさまとをくらべることにする。
はじめに正法・像法・末法の時代を定めるにあたり、 これにはさまざまな説があるが、 とりあえず一つの説をあげてみよう。 *窺基ききは 『賢劫経』 を引いて、 “釈尊が入滅された後、 正法の時代は五百年、 像法の時代は千年である。 この千五百年の後には、 釈尊の教えはなくなってしまう” といっており、 末法の時代には触れていない。 他に正法の五百年を千年とする説もあるが、 その場合は*比丘びく尼にが*八はち敬きょう法ほうにしたがっていなければならないが、 実際にはそうではなく怠惰であるため、 正法の時代は五百年より増えることはない。 だからその説にはよらない。 また 『涅槃経』 に、 “末法の時代にも十二万のすぐれた菩薩がたが教えをたもっていて、 仏の教えがなくなることはない” と説かれているが、 これは上位の菩薩についていったものであるから、 この説も用いない。
問うていう。 もしその通りなら、 正法と像法の千五百年の間、 僧侶はどのように振舞うのであろうか。
答えていう。 『*摩訶まか摩耶まや経きょう』 によれば、 “仏の入滅後、 はじめの五百年は、 *摩訶まか迦か葉しょうなどの七人の聖者が次々に仏の教えをたもち、 失われることはないが、 五百年の後には、 正しい仏の教えがなくなってしまうだろう。 六百年になると、 仏教以外の九十五種の教えがはびこるが、 *馬め鳴みょう菩薩が世に現れて、 それらの誤った教えを打ち破るであろう。 七百年には、 龍樹菩薩が世に現れてよこしまな考えを打ち砕くであろう。 八百年には、 比丘がほしいままに振舞い、 わずかに一人か二人しかさとりを得るものがいなくなるであろう。 九百年には、 比丘や比丘尼を召使いのように見て軽んじるであろう。 千年には、 *不ふ浄じょう観かんが説かれると、 怒って聞こうとしないであろう。 千百年には、 僧侶も妻や夫を持ち、 戒律を謗るであろう。 千二百年には、 僧侶の多くは子供を持つであろう。 千三百年には、 僧侶の袈裟が在家のものの衣服のように白くなるであろう。 千四百年には、 出家のものも在家のものも、 仏弟子でありながら殺生をするようになり、 三宝の財物さえ売り払うであろう。 千五百年には、 *拘く~せん弥み国こくにいる二人の僧が互いの是非を争い、 ついには殺しあうであろう。 このため仏の教えはこの世から消え去り、 竜王の宮殿に隠れてしまうのである” と説かれている。 『涅槃経』 の第十八巻および 『仁王経』 などにも同様のことが説かれている。
これらによれば、 千五百年の後には戒律も禅定も智慧もなくなってしまっているのである。 だから 『大集経』 の第五十一巻に “わたしが世を去った後、 最初の五百年間は、 多くの比丘たちはわたしが説いたままに行を修めてさとりを得ることが確かであろう。 (ここでは*初しょ果かを得ることをさとりという) 次の五百年間は、 禅定を修めることが盛んであろう。 次の五百年間は、 多くの教えを聞くことが盛んであろう。 次の五百年間は、 寺をつくることが盛んであろう。 最後の五百年間は、 争いが盛んになり、 仏の教えはこの世から姿を消してしまうであろう” と説かれているのである。 これは、 はじめの三つの五百年間は、 時の経過にしたがいながら、 戒律と禅定と智慧の三つが確かにたもたれるということである。 すなわちさきに引いた説の、 正法五百年、 像法千年という二つの時代にあたる。 次の、 寺をつくることが盛んな時代から後は、 すべて末法である。 だから窺基の 『*金剛こんごう般若はんにゃ会え釈しゃく』 に “正法の時代は五百年、 像法の時代は千年であって、 この千五百年の後には仏の教えはなくなってしまう” といっているのである。 これにより、 釈尊の入滅から千五百年を経た後は、 末法の時代であることがわかる。
問うていう。 そうであれば、 今はどの時代にあたるのか。
答えていう。 釈尊が入滅された年代には多くの説があるけれども、 とりあえず二つの説をあげる。 一つには*法ほう上じょう師などの説であり、 『*周しゅう書しょ異記いき』 によって、 釈尊は周の第五代穆王ぼくおう満まんの五十三年に入滅されたとする。 この説にしたがえば、 その年からわが国の*延えん暦りゃく二十年に至るまで千七百五十年を経ている。 二つには*費ひ長ちょう房ぼうなどの説であり、 魯ろの 『*春秋しゅんじゅう』 によって、 釈尊は*周の第二十代匡きょう王おう班はんの四年に入滅されたとする。 この説にしたがえば、 その年からわが国の延暦二十年に至るまで千四百十年を経ているから、 今は像法の時代の最後にあたる。 像法の最後の時の僧侶のあり方はすでに末法と同じである。 すなわち末法の時代であれば、 ただ仏の説かれた言葉が残っているだけで、 行もなくさとりもない。 もし戒律があるのならその戒律を破るということもあり得る。 しかし、 末法の時代にはすでにたもつべき戒律がないのに、 いったいどの戒律を破ることで戒律を破ったといえるのであろうか。 戒律を破ることすらないのに、 まして戒律をたもつことなどあるはずもない。 だから 『大集経』 には、 “仏の入滅後、 たもつべき戒律を持たない無戒のものが世の中に満ちあふれるであろう” と説かれているのである。
問うていう。 さまざまな経や律では、 戒律を破るものをきびしく制し、 教団に入ることを許していない。 戒律を破るものでさえこの通りであり、 まして無戒のものはいうまでもないことである。 ところが今あらためて末法の時代について論じ、 末法には戒律がないという。 しかし教団の中にもとより無戒のものはいないのだから、 それについて論じるのは、 傷もないのに傷ついているというようなものではないか。
答えていう。 そうではない。 正法と像法と末法の時代における僧侶のあり方はすべて、 さまざまな経典に説かれている。 出家のものも在家のものもみなこれを読んでいるのであり、 どうして自分のよこしまな生活をむさぼり求めて、 国をたもつ正しい教えを隠すことなどできようか。 ただし、 今論じているのは末法の時代であり、 名ばかりの比丘しかいないのである。 この名ばかりの比丘をこの世のまことの宝とする。 そしてこれを*福田ふくでんとするのである。 もし末法の時代に戒律をたもつものがいるというなら、 それこそおかしなことであって、 町中に虎がいるようなものである。 だれがこれを信じるであろうか。
問うていう。 正法と像法と末法の僧侶のあり方は、 すでに多くの経典に説かれている。 末法の時代の名ばかりの比丘をこの世のまことの宝とするということは、 経典に説かれていることなのか。
答えていう。 『大集経』 の第九巻に、 次のように説かれている。 “たとえば金を最上の宝とするようなものである。 もし金がなければ銀を最上の宝とする。 もし銀もなければ真鍮などのいつわりの宝を最上の宝とする。 もしいつわりの宝もなければ赤銅・白銅・鉄・白鑞はくろう・鉛を最上の宝とする。 このようなものを世間では宝というが、 仏の教えこそもっとも尊い宝なのである。 もし仏がおられなければ、 *縁覚えんがくをもっとも尊いものとする。 もし縁覚もいなければ、 *阿羅あら漢かんをもっとも尊いものとする。 もし阿羅漢もいなければ、 阿羅漢に達する前の聖者たちをもっとも尊いものとする。 もしその聖者たちもいなければ、 禅定を得た凡夫をもっとも尊いものとする。 もし禅定を得た凡夫もいなければ、 清らかに戒律をたもつ比丘をもっとも尊いものとする。 もし清らかに戒律をたもつ比丘もいなければ、 戒律を破る比丘をもっとも尊いものとする。 もし戒律を破る比丘もいなければ、 髪を剃って袈裟を身につけただけの名ばかりの比丘をもっとも尊い宝とする。 この名ばかりの比丘は、 仏教以外の九十五種のよこしまな教えを信じるものにくらべたなら、 もっとも尊いものである。 すなわち世間から供養を受けるべきものであり、 世の人々にとって最初に福田となるものなのである。 なぜなら、 本当に恐れるべきことは何かを、 人々に示すことができるからである。 名ばかりの比丘であっても、 その比丘を安らかに護り育てるものは、 やがて無生法忍のさとりを得るであろう” と。
ここには八つのもっとも尊い宝が説かれている。 つまり、 如来、 縁覚、 阿羅漢、 阿羅漢に達する前の聖者、 禅定を得た凡夫、 戒律をたもつ比丘、 戒律を破る比丘、 無戒の名ばかりの比丘であって、 この順序にしたがってそれぞれを正法・像法・末法の時代のもっとも尊い宝というのである。 はじめの四つが正法の時代の宝であり、 次の三つが像法の時代の宝であり、 最後の一つが末法の時代の宝である。 これによって、 戒律を破る比丘も無戒の比丘もすべてこの世のまことの宝であると明らかに知ることができるのである。
問うていう。 つつしんで今引かれた経文をうかがうと、 戒律を破る比丘も無戒の名ばかりの比丘もまことの宝でないものはない。 それなのにどのようなわけで 『涅槃経』 や 『大集経』 に、 “国王や大臣が戒律を破る比丘を供養すれば、 その国には三つのわざわいがおこり、 遂には*地じ獄ごくに堕ちることになる” と説かれているのか。 戒律を破る比丘を供養してさえこの通りである。 まして無戒の比丘についてはいうまでもない。 そうすると、 如来は戒律を破る比丘について、 一方では謗り、 一方ではほめていることになる。 それでは、 同じ釈尊の仰せの中に矛盾する二通りの見方が説かれているという誤りがあることにならないか。
答えていう。 そうではない。 『涅槃経』 などでは、 正法の時代に戒律を破るものを制しているのであり、 像法や末法の時代の比丘についていわれているのではない。 戒律を破る比丘ということは同じであっても、 正法・像法・末法の時代の違いがある。 時代に応じて、 制したり許したりされるのである。 これが釈尊のおこころであるから、 その教えに矛盾する二通りの見方が説かれているという誤りがあることにはならない。
問うていう。 もしそうであれば、 『涅槃経』 などでは、 ただ正法の時代に戒律を破るものを制しているのであり、 像法や末法の時代の比丘についていわれているのではないと、 何によって知ることができるのか。
答えていう。 さきに引いた 『大集経』 に説かれている八つのまことの宝などが、 その証拠である。 みな時代に応じてもっとも尊いものとするからである。
正法の時代の戒律を破る比丘は、 清らかに戒律をたもつ人々を汚すことになるから、 仏は戒律を破るものが教団に入ることをかたく禁じているのである。 そのことについて、 『涅槃経』 の第三巻に、 “如来は今この上なく正しい教えを、 諸国の王や大臣や宰相、 比丘や比丘尼に託された。 (中略) 戒律を破って正しい教えを謗るようなものについては、 王や大臣や、 仏の教えを受けたすべてのものが、 心してそのあやまちを正していかなければならない。 このような王や大臣などは、 はかり知れない功徳を得るであろう。 (中略) これらのものこそわたしの弟子であり、 わたしの教えを聞くまことの聖者である。 このものは、 はかり知れない功徳を得るであろう” と説かれている。 (中略)
このように経典のいたるところで戒律を破るものを制している。 これらはみな正法の時代に戒律を破るものを制しているのであって、 像法や末法の時代に通じる教えではない。 というのは、 像法の時代の最後や末法の時代には、 正しい教えを受けて行を修めるものがおらず、 謗ろうにも謗るべき教えがないのである。 どのようなことを、 教えを謗るというのだろうか。 破ろうにも破るべき戒律がないのである。 どのようなものを、 戒律を破るものというのだろうか。 またその時代の大王は護ろうにも護るべき行者がいないのである。 どうして、 三つのわざわいがおこり、 戒律や智慧を失うということがあるだろうか。 また、 像法や末法の時代にはさとりを得る人がいないのである。 どうして、 さとりを得た聖者たちに仏の教えや教団の財物を護るようにと説かれることがあろうか。 このようなわけで、 『涅槃経』 などに説かれていることはすべて、 戒律をたもつことができる正法の時代に戒律を破るものについて示されたものであると知ることができる。
次に像法千年のうち、 前半の五百年には戒律をたもつものが次第に減り、 戒律を破るものが次第に増えるであろう。 戒律をたもって行を修めるものはいても、 さとりを得るものはいない。 だから 『涅槃経』 の第七巻には、 “迦葉菩薩が仏に申しあげる。 «世尊は、 さまざまな悪魔がいるとお説きになりましたが、 悪魔が仏に似せて説くことと仏が自ら説かれることとを、 どのようにして区別することができるのでしょうか。 さまざまな衆生がいて、 悪魔の行いにしたがうものもいるでしょうし、 仏が説かれることにしたがうものもいるでしょう。 このようなものたちについても、 またどのようにして知ることができるのでしょうか» と。 仏が迦葉菩薩に仰せになる。 «わたしが世を去って七百年たつと、 魔王が次第にその姿を現して、 わたしの説いた正しい教えをしきりに破ろうとするであろう。 たとえば猟をするのに法衣を身につけるようなものであり、 魔王もまたこれと同じように比丘の姿、 比丘尼の姿、 仏の教えを信じる在家のものの姿となって、 人々をだますであろう。 (中略) そして、 たとえば次のように説く。 "比丘たちは、 召使いなどを置き、 牛や羊や象や馬などを飼い、 また銅や鉄の釜、 大小の銅の器など必要なものをそろえ、 あるいは田畑を耕して種をまき、 商いや取引をして穀物をたくわえることなどを許される。 これらのことはすべて、 仏が大いなる慈悲の心で衆生を哀れみ、 たくわえることを許しておられるのである" と。 このような教えや戒律はすべてみな悪魔の説である»” などと説かれている。
すでに “七百年たつと魔王が次第にその姿を現す” と仰せになっており、 このことから、 その時代の比丘は本来持ってはならないさまざまなものをむさぼり求めてたくわえるようになると知ることができる。 このような誤った教えを説くものは、 悪魔の仲間である。 これらの経には、 年代を明示して、 詳しく僧侶のあり方を説いている。 決して疑ってはならない。 とりあえず一つの経文をあげたのであるが、 その他についてはこれに準じて知るがよい。
次に像法の後半には、 戒律をたもつものが少なくなり、 戒律を破るものがきわめて多くなる。 『涅槃経』 の第六巻には、 そのことについて説かれている。 (中略) また 『*大だい方広ほうこう十じゅう輪りん経ぎょう』 にも、 “わたしの教えにしたがって出家しながら、 悪い行いをするものがいる。 これは、 修行者ではないのに自分は修行者であるといい、 また清らかな行を修めてはいないのに自分は清らかな行を修めているというものである。 このような比丘であっても、 神々・竜・*夜や叉しゃなどすべてのものにあらゆる善や功徳を中におさめた教えの蔵を開いて示し、 衆生の善知識となることができるであろう。 欲は少なく足ることを知るというわけではなくても、 髪を剃り、 法衣を身につけるものであれば、 そうすることによって、 衆生により多くの善を積ませ、 さまざまな神々や人々にさとりへ向かう道を示すことができるのである。 (中略) 戒律を破る比丘はもはや死んだ人のようなものではあるが、 かつて戒律をたもったことの功徳は残っている。 それは*牛ご黄おうのようなものである。 牛が死んでも、 人はとくに薬としてこれを取り出す。 また、 麝香じゃこう鹿は死んでからも香料が得られて役に立つようなものである” などと説かれている。
『涅槃経』 には、 “有毒な実のなる*迦羅から樹じゅの林の中に、 美味しい実のなる*鎮ちん頭迦ずか樹じゅが一本だけある” と説かれているのだが、 これは像法の時代がすでに終りに近づき、 戒律を破るものばかりの五濁の世に、 わずかに一人二人、 戒律をたもつ比丘がいることをたとえたものである。 また 『大方広十輪経』 には、 “戒律を破る比丘はもはや死んだ人のようなものではあるが、 麝香鹿が死んでからも役に立つように、 衆生の善知識となる” と説かれている。 これによって明らかに、 この時代には仏が次第に戒律を破るものをお許しになり、 世の人々の福田とされることを知ることができる。 それはさきに引いた 『大集経』 の説と同じである。
次に像法の時代が終ってしまうと、 戒律はまったくなくなってしまう。 仏はそのような時代の動きを知っておいでになり、 末法の時代の人々を救うために、 名ばかりの比丘をたたえて、 世の人々の福田とされるのである。
また 『大集経』 の第五十二巻に、 “もし末法の時代に、 わたしの教えを受けて髪を剃り袈裟を身につけただけの名ばかりの比丘がいて、 この比丘に心から布施をして供養するものがいれば、 そのものははかり知れない功徳を得るであろう” と説かれている。
また 『*賢げん愚ぐ経きょう』 に、 “将来末法の時代になり、 仏の教えがなくなろうとするときには、 妻を持ち子をもうけるような名ばかりの比丘の教団であっても、 その教団に布施をするものは、 *舎しゃ利り弗ほつや*目連もくれんなどに対するように礼拝し尊敬すべきである” と説かれている。
また 『大集経』 に、 “もし戒律を破る比丘をむち打ったりののしったりして、 袈裟を身につけていることを認めないなら、 その罪は万億もの仏の体を傷つけて血を流す罪と同じであろう。 もし衆生がわたしの教えを受けて髪を剃り袈裟を身につけるなら、 たとえ戒律をたもたなくても、 そのものたちはみなさとりを得ることがすでに約束されているのである” と説かれている。 (中略)
『*大だい悲ひ経きょう』 に、 “仏が阿難に仰せになる。 «将来末法の時代になり、 仏の教えがなくなろうとするときには、 わたしの教えを受けて出家した比丘や比丘尼が、 子供の手を引いて、 一緒に酒場から酒場へと遊び歩くであろう。 そしてわたしの教えを受けながら、 よくない行いをするであろう。 このように酒という悪い因縁を持ったものたちであるといっても、 この*賢劫げんごうの時代には千の仏が世に出るのであり、 みなその仏弟子となるであろう。 わたしの次には、 弥勒が後を継いで仏となるであろう。 そして最後の盧至るし如来まで、 このように相次いで仏が世に出ることを、 そなたはよく知るがよい。 阿難よ、 わたしの教えを受けて、 身分は修行者となりながらその行を汚し、 自ら修行者と名乗って見た目だけはそれらしく袈裟を身につけているようなものであっても、 賢劫の時代、 弥勒から盧至如来まで仏が次々と世に出る間に、 これらの修行者は仏のもとで相次いでこの上ないさとりを得ることができ、 一人として残るものはいない。 なぜなら、 このようなすべての修行者の中で、 わずか一声でも仏の名号を称え、 ひとたび信を生じることがありさえすれば、 その功徳は決してむなしいものとはならないからである。 わたしは仏の智慧によって世界のすべてを知り尽しているから、 わかるのである»” などと説かれている。
これらの経典には、 みな年代を示して、 将来末法の時代には、 名ばかりの比丘であっても世の人々を導く尊いものとすると説かれている。 もし正法の時代について定められた戒律により、 末法の時代の名ばかりの比丘を制するのであれば、 教えの内容と人々の資質とが相反し、 人と教えとがあわないことになる。 このようなわけで 『*四し分ぶん律りつ』 には、 “制するべきでないものを制することは、 仏の三明を断じることになり、 そのようなことは罪である” といわれている。
以上、 経文を引用して正法・像法・末法のそれぞれの時代にふさわしい僧のあり方について述べおわった。
最後に、 釈尊在世の時代や正法の時代について説かれた教えを示し、 末法の時代とくらべてみると、 末法の時代には当然仏の教えが損なわれ、 すべての行いは意味のないものとなり、 生活も仏道に背くものとなるであろう。 さしあたっては、 『*像法ぞうぼう決けつ疑ぎ経きょう』 に説かれ、 (中略) また 『*遺ゆい教きょう経ぎょう』 に説かれ、 (中略) また 『*法ほう行ぎょう経きょう』 に説かれ、 (中略) また 『*鹿ろく子母しも経きょう』 に説かれ、 (中略) また 『仁王経』 に説かれている通りである (以下略)」
 

 

【81】 ここで、 さまざまな経典により、 真実の教えと虚偽の教えとの区別を明らかにし、 仏教以外の誤ったよこしまな考えを戒めることにする。
【82】 『涅槃経』 に説かれている。「仏に帰依するなら、 決してその他のさまざまな天の神々に帰依してはならない」
【83】 『*般舟はんじゅ三昧ざんまい経きょう』 に説かれている。「この念仏三昧について聞き、 これを修めようと思う在家のものは、 (中略) 進んで仏・法・僧の三宝に帰依するがよい。 仏教以外の教えにしたがってはならない。 天の神々を拝んではならない。 鬼神を祭ってはならない。 日の善し悪しを選んではならない」
【84】 また次のように説かれている (般舟三昧経)。「念仏三昧を修めようと思う在家のものは、 (中略) 天の神々を拝み、 鬼神を祭ったりしてはならない」
【85】 『大集経』 「日蔵分」 に説かれている (星宿品)。「“そのとき、 *佉盧かる虱しっ≠ス仙人が天の神々に告げていう。«これらの月や星などには、 それぞれ受け持つ役割がある。 そなたたちは四種の衆生を救わなければならない。 その四種とは何かというと、 地上にいる人間とさまざまな竜と夜叉と蝎さそりなどであり、 これらのものをすべてみな救うのである。 わたしはすべての衆生を安らかに育むために星々を配置した。 この星々にはそれぞれ受け持つ時間と空間があり、 それはきわめて短い時間に至るまで定まっている。 それらのことすべてについて詳しく説こう。 その国土のそれぞれの方角や場所に応じて行なわれることは順調に進められるであろう» と。
佉盧虱$蜷lは、 神々の前で合掌して次のように説いた。 «このように日・月・年などの時節を定め、 大小の星々を配置する。 まずどのように六つの時節があるかというと、 一月・二月を暖かい時節とする。 三月・四月を種をまく時節とする。 五月・六月は雨を求める時節である。 七月・八月は作物が実る時節である。 九月・十月は寒い時節である。 十一月・十二月は雪が多い時節である。 このように十二の月を分けて六つの時節とする。
また八つの大きな星がある。 いわゆる木星・火星・土星・金星・水星・太陽・月・*荷羅睺からご星である。 また二十八の小さな星がある。 いわゆる昴ぼうから胃いまでの星々である。 わたしはこのような順序や配置を定め、 それについての法則を説きおわった。 そなたたちはこのことをよく見、 よく聞かなければならない。 どうだろうか、 そなたたちはみな、 わたしが星々を配置した法則について、 よいと思うか。 二十八の小さな星と八つの大きな星の運行やさまざまなはたらきは、 そなたたちの喜ぶものになっているだろうか。 よいと思うかどうか、 それぞれの考えを述べるがよい» と。
そのとき、 すべての神々や仙人、 *阿あ修しゅ羅ら、 竜および*緊きん那羅ならなどは、 みなことごとく合掌し、 口をそろえて次のようにいった。 «あなたのようなすぐれた仙人は、 神々の中でももっとも尊い方であります。 竜や阿修羅などに至るまで、 あなたにまさるものはいないでしょう。 あなたは智慧・慈悲がもっともすぐれておられます。 はかり知れない長い間、 忘れることなくすべての衆生を哀れんでおられるから、 功徳がそなわり誓願が満足して、 その功徳は海のようであります。 過去・現在・未来のすべてのことを知ることができ、 神々の中でこのようなすぐれた智慧を持つものはいません。 このような法則やはたらき、 すなわち昼と夜、 *刹せつ那なや*加羅からの時間の決り、 大小の星々の配置、 一日から十五日までが月の前半であり、 十六日から三十日までが月の後半であって、 十二箇月で一年が終るなどの法則やはたらきは、 あなた以外のものが定めることなどできないでしょう。 わたしどもを安楽にしてくださることを、 みなことごとく喜んでおります。 大いなる徳をそなえたあなたが衆生を安穏にしてくださることは、 大変結構なことです» と。
このとき佉盧虱$蜷lはまた次のようにいった。 «この十二箇月、 一年の始まりから終りまではこのように設けた。 大小の星々や刹那などの時間のこともみなすでに説きおわった。 次に、 *四し天王てんのうを*須しゅ弥み山せんの四方に配置する。 すなわち、 四方のそれぞれに一人ずつ王を置き、 これらの王はそこでそれぞれに衆生を治めるのである。 北方の天王を多聞天という。 その世界には多くの夜叉がいる。 南方の天王を増長天という。 その世界には多くの*鳩く槃はん荼だがいる。 西方の天王を広目天という。 その世界には多くの竜がいる。 東方の天王を持国天という。 その世界には多くの*乾闥けんだつ婆ばがいる。 どの方角の世界においても、 これらのものがみな、 国土やそのさまざまな町のすべてを護っているのである。 そしてまた、 鬼神を配置して護らせるのである» と。
※そのとき佉盧虱$蜷lの言葉を受けて、 神々・竜・夜叉・阿修羅・緊那羅・*摩睺まご羅伽らがなど、 すべての人並びに人ではないものすべては、 みな «大変結構なことです» とたたえてはかり知れない喜びを得た。 こうして、 神々・竜・夜叉・阿修羅などは、 昼も夜も佉盧虱$蜷lを供養したのである。
次に、 またはかり知れない時を経た後、 今度は伽か力りき伽かという仙人が現れて、 あらためて、 さまざまな星々や大小の月の法則、 時節のあらましを説くであろう”
*光こう味み仙人がこのように説いた時、 聖者の住処である*佉羅からрトい山せんにいた多くの竜は、 光味仙人を尊び敬い、 その竜の力を尽して供養したのである」
【86】 また次のように説かれている (念仏三昧品)。「そして魔王がこの詩を説きおわった時、 それを聞いていたものの中に、 *離り暗あんという一人の魔女がいた。 この魔女は、 過去の世において多くの功徳を積んでいたのである。 そして次のようにいった。 “釈尊は、 徳の高いすぐれた方といわれています。 もしこの仏の名を聞くことができて、 一心に帰依したなら、 どのような悪魔もその人に対しては危害を加えることができません。 まして、 仏にお会いして、 親しく法を聞いた人であれば、 さまざまな手だてにより、 深く広い智慧をそなえることができるのです。 (中略) たとえ、 千万億の悪魔の軍勢がすべて襲いかかっても、 少しも危害を加えることはできません。 釈尊は、 今、 さとりに至る道を開いてくださいました。 わたしは、 この仏のもとへ行って帰依しようと思います” と。
そして、 その父の魔王のために次のような詩を説いた。 (中略) “過去・現在・未来の仏がたの教えを学び、 苦しみ悩むすべての人々を救いたい。 あらゆることが思いのままに行える力を得て、 やがてはわたしも仏と同じようになりたい”
そして離暗がこの詩を説きおわると、 父の魔王の宮殿にいた五百人の魔女は、 姉も妹も一族のものすべてが、 ことごとくさとりを求める心をおこしたのである。
このとき魔王は、 宮殿にいた五百人の魔女たちがみな仏に帰依してさとりを求める心をおこしたのを見て、 いよいよ大いに怒り、 恐れ、 憂えたのであった。 (中略) そこで、 五百人の魔女たちは、 さらに魔王のために次のような詩を説いた。 “仏に帰依するものは、 千億の悪魔も恐れることがありません。 まして迷いの流れを渡り、 さとりの岸に至ろうとするものであればなおさらです。 もし一本の香り高い花で仏・法・僧の三宝を供養し、 堅い決意で道を求めたなら、 すべての悪魔もその思いを砕くことはできません。 (中略) わたしどもがこれまでにつくってきたはかり知れないほどの悪も、 すべて滅して残ることがありません。 心からひとすじに仏に帰依すれば、 必ずこの上ないさとりを得るでしょう”
こうして魔王は、 この詩を聞きおわり、 いよいよ大いに怒り、 恐れ、 いらだちを増し、 やつれて憂いに沈んだ。 そして一人宮殿の中に座っていた。
ちょうどこの時*光こう味み菩薩は仏の説法を聞いていた。 そしてすべての衆生は、 ことごとく煩悩を離れ、 *四つの清らかな行を得たのである。 (中略)
仏が仰せになった。 “体を洗いきよめ、 汚れのない清らかな衣を着て、 午前中に一度だけ採食するという戒律をたもち続け、 辛いものや臭いものを食べてはならない。 静かなところに修行の場を設け、 心静かに足を組んで座り、 あるときは歩き、 あるときは座り、 仏の相を念じ、 心を乱してはならない。 さらに、 心を他に向けて仏以外のことを念じてはならない。 昼夜を分かたずあるいは一日あるいは七日の間、 他のことをせずに、 心から仏を念じれば、 やがて仏を見たてまつるであろう。 小さな声で念仏すれば小さな仏を見、 大きな声で念仏すれば大きな仏を見たてまつる。 さらにはかり知れないほど念仏すれば、 はかり知れない仏を見たてまつるであろう”」
【87】 また次のように説かれている (護塔品)。「そのとき魔王は、 八十億の悪魔を前後にしたがえて、 仏のもとへ向った。 そして釈尊のもとに至ると、 その足をおしいただいてうやうやしく礼拝し、 次のような詩を説いた。 (中略) “過去・現在・未来の仏がたよ、 大いなる慈悲をもってわたしの礼拝をお受けください。 わたしはここにすべての罪を懴悔いたします。 法と僧という二つの宝にも、 同じように心から帰依することに変りはありません。 願わくは、 世の導師として今日人々から供養し敬い重んじられている世尊よ、 わたしは、 あらゆる悪を滅して二度と生じさせず、 命終るまで仏の教えに帰依したいと思います”
そして魔王は、 この詩を聞きおわると、 続けて仏に申しあげた。 “世尊よ、 如来は、 わたしやすべての人々を、 わけへだてのない心で、 常に喜びと慈しみをもって哀れみ、 お救いくださるでしょうか” と。
仏は “その通りである” と仰せになった。 それを聞いて魔王は喜びに満ちあふれ、 清らかな心をおこしたのである。 そして重ねて仏の足をおしいただいてうやうやしく礼拝し、 三度右まわりにめぐり、 うやうやしく合掌し、 片隅に退いて釈尊のお姿をいつまでも仰ぎ見るのであった」
【88】 『大集経』 「月蔵分」 に説かれている (諸悪鬼神得敬信品)。「そなたたちは、 よこしまな考えを離れることによって十種の功徳を得るであろう。 その十種とは何であろうか。 一つには、 おだやかな善い心となり、 賢く善良な仲間がまわりにいるようになる。 二つには、 因果の道理により命を落とすこともあると信じて、 さまざまな悪をつくらないようになる。 三つには、 仏・法・僧の三宝に帰依して敬い、 その他の神々を信じないようになる。 四つには、 正しい考えを身につけて、 年や日や月の善し悪しを見ないようになる。 五つには、 いつも人間や神として生れ、 地獄や*餓鬼がきや*畜ちく生しょうといった悪い世界には生れないようになる。 六つには、 賢く善良な心を持っていて、 人々にほめられるようになる。 七つには、 世俗のことにとらわれることなく、 いつもさとりを求めるようになる。 八つには、 *断見だんけんや*常じょう見けんというかたよった考えを離れて、 正しい因果の道理を信じるようになる。 九つには、 いつも正しい信、 正しい行、 正しい*菩ぼ提だい心しんの人とともに集まって会うようになる。 十には、 善い世界に生れるようになる。
よこしまな考えを離れることによって得られたこれらの功徳によってこの上ないさとりを得ようとするなら、 そのものは速やかに六波羅蜜の行を成就し、 浄土に往生してさとりを得るであろう。 さとりを得た後には、 浄土で功徳と智慧とすべての善により衆生を導き、 その国に生れさせるのである。 衆生は、 他の神々を信じることなく、 迷いの世界に落ちる恐れもなく、 その世界で命を終えてまた善い世界に生れるであろう」
【89】 また次のように説かれている (諸悪鬼神得敬信品)。「“仏が出現される世に生れることは実にむつかしい。 仏法を聞き僧に出会うことはまた難しい。 衆生が清らかな信をおこすことは難しい。 さまざまな苦難を離れることはまた難しい。 衆生を哀れむことは難しい。 足ることを知るのはもっと難しい。 正しい教えを聞くことは難しい。 よく修行することはもっと難しい。 これらの難しいことをよく知って平等をさとるなら、 この世において常に楽しみを受ける。 智慧のあるものはこの平等について速やかに知るべきである” (中略)
そのとき世尊は、 多くの悪鬼神たちの中で、 法をお説きになった。 “多くの悪鬼神たちの中には、 昔、 深く仏法を信じていたものがいる。 しかしそのものは、 後に*悪あく知ち識しきと親しくなり、 他人の罪を見て心が悪に染まってしまった。 このようなわけで悪鬼神として生れたのである”」
【90】 また次のように説かれている (諸天王護持品)。「そのとき釈尊は、 世界のすがたを示すために、 娑婆世界をつかさどる大*梵天ぼんてんにお尋ねになった。 “須弥山の四方に広がるこの世界は、 だれが護り育てているのか”
すると娑婆世界をつかさどる大梵天は、 次のように申しあげた。 “世尊、 天の神々が四方の世界をそれぞれ護り育てています。 兜率天王は*兜と率そつ天てんにいる数限りない神々とともに、 *北鬱ほくうつ単越たんおつすなわち北方の世界を護り育てています。 他化自在天王は*他化たけ自じ在ざい天てんにいる数限りない神々とともに、 *東弗とうほつ婆ば提だいすなわち東方の世界を護り育てています。 化楽天王は*化け楽らく天てんにいる数限りない神々とともに、 *南閻なんえん浮ぶ提だいすなわち南方の世界を護り育てています。 夜摩天王は*夜摩やま天てんにいる数限りない神々とともに、 *西さい瞿陀尼くだにすなわち西方の世界を護り育てています。
世尊、 四天王もまた、 四方の世界をそれぞれ護り育てています。 多聞天は数限りない夜叉とともに、 北方の世界を護り育てています。 持国天は数限りない乾闥婆とともに、 東方の世界を護り育てています。 増長天は数限りない鳩槃荼とともに、 南方の世界を護り育てています。 広目天は数限りない竜とともに、 西方の世界を護り育てています。
世尊、 星々もまた、 四方の世界をそれぞれ護り育てています。 まず、 佉盧虱$蜷lの定めた次のような七つの小さな星と、 三つの大きな星と、 *三人の天童女とが、 北方の世界を護り育てています。 その七つの小さな星とは、 虚きょ・危き・室しつ・壁へき・奎けい・婁ろう・胃いであり、 三つの大きな星とは土星・木星・火星であり、 三人の天童女とは方角をつかさどる鳩く槃はん・弥那みな・迷沙めいしゃであります。 世尊、 この七つの小さな星のうち、 虚きょと危きと室しつの三つの星は土星の領域にあり、 鳩く槃はんの方角に位置します。 壁へきと奎けいの二つの星は木星の領域にあり、 弥那みなの方角に位置します。 婁ろうと胃いの二つの星は火星の領域にあり、 迷沙めいしゃの方角に位置します。 世尊、 このような七つの小さな星と、 三つの大きな星と、 三人の天童女とが北方の世界を護り育てています。
世尊、 また、 佉盧虱$蜷lの定めた次のような七つの小さな星と、 三つの大きな星と、 三人の天童女とが、 東方の世界を護り育てています。 その七つの小さな星とは、 昴ぼう・畢ひつ・觜し・参しん・井せい・鬼き・柳りゅうであり、 三つの大きな星とは金星・木星・月であり、 三人の天童女とは方角をつかさどる毘利びり沙しゃ・弥み偸ちゅう那な・羯かつ迦≠ゥた迦かであります。 世尊、 この七つの小さな星のうち、 昴ぼうと畢ひつの二つの星は金星の領域にあり、 毘利びり沙しゃの方角に位置します。 觜しと参しんと井せいの三つの星は木星の領域にあり、 弥み偸ちゅう那なの方角に位置します。 鬼きと柳りゅうの二つの星は月の領域にあり、 羯かつ迦≠ゥた迦かの方角に位置します。 世尊、 このような七つの小さな星と、 三つの大きな星と、 三人の天童女とが東方の世界を護り育てています。
世尊、 また、 佉盧虱$蜷lの定めた次のような七つの小さな星と、 三つの大きな星と、 三人の天童女とが、 南方の世界を護り育てています。 その七つの小さな星とは、 星せい・張ちょう・翼よく・軫しん・角かく・亢こう・рトいであり、 三つの大きな星とは太陽・水星・金星であり、 三人の天童女とは方角をつかさどるしゃく訶か・迦か若にゃ・兜羅とらであります。 世尊、 この七つの小さな星のうち、 星せいと張ちょうと翼よくは太陽の領域にあり、 しゃく訶かの方角に位置します。 軫しんと角かくの二つの星は、 水星の領域にあり、 迦か若にゃの方角に位置します。 亢こうとрトいの二つの星は金星の領域にあり、 兜羅とらの方角に位置します。 世尊、 このような七つの小さな星と、 三つの大きな星と、 三人の天童女とが南方の世界を護り育てています。
世尊、 また、 佉盧虱$蜷lの定めた次のような七つの小さな星と、 三つの大きな星と、 三人の天童女とが、 西方の世界を護り育てています。 その七つの小さな星とは、 房ぼう・心しん・尾び・箕き・斗と・牛ぎゅう・女じょであり、 三つの大きな星とは火星・木星・土星であり、 三人の天童女とは方角をつかさどる毘離びり支迦しか・檀だんfと婆ば・摩ま伽羅からであります。 世尊、 この七つの小さな星のうち、 房ぼうと心しんの二つの星は火星の領域にあり、 毘離びり支迦しかの方角に位置します。 尾びと箕きと斗との三つの星は木星の領域にあり、 檀だんfと婆ばの方角に位置します。 牛ぎゅうと女じょの二つの星は土星の領域にあり、 摩ま伽羅からの方角に位置します。 世尊、 このような七つの小さな星と、 三つの大きな星と、 三人の天童女とが西方の世界を護り育てています。
世尊、 この四方の世界の中で、 南方の閻浮提がもっともすぐれています。 なぜなら、 閻浮提の人は勇ましく健やかで聡明であり、 清らかな行を修めるのに適しています。 世尊はこの世界にお出ましになりました。 だから四天王はとくに努めてこの閻浮提を護り育てているのです。 この閻浮提には十六の大国があります。 鴦おう伽摩かま伽陀かだ国こく・傍ぼう伽摩かま伽陀かだ国こく・阿あ槃はん多た国こく・支し提だい国こくの四つの大国は、 多聞天が多くの夜叉たちに取りかこまれて護り育てています。 迦尸かし国こく・都薩羅とさら国こく・婆ば蹉しゃ国こく・摩羅まら国こくの四つの大国は、 持国天が多くの乾闥婆たちに取りかこまれて護り育てています。 鳩羅婆くらば国こく・毘時びじ国こく・槃遮はんしゃ羅ら国こく・疎那そな国こくの四つの大国は、 増長天が多くの鳩く槃はん荼だたちに取りかこまれて護り育てています。 阿あ湿しゅう婆ば国こく・蘇摩そま国こく・蘇羅≠サらた国こく・甘満かんまん闍国しゃこくの四つの大国は、 広目天が多くの竜たちに取りかこまれて護り育てています。
世尊、 かつて佉盧虱$蜷lは四方の世界を護り育てるために、 すべてのものをこのように配置したのです。 しかし後に、 その国土の町・村・寺院・林・樹の下・墓地・山や谷・野原・河や泉・港、 あるいは海の中の島や祠などの場所に応じて、 *卵らん生しょう・胎たい生しょう・湿しっ生しょう・化け生しょうというさまざまな生れ方をした多くの竜・夜叉・*羅ら刹せつ・餓鬼・*毘び舎遮しゃしゃ・*富ふ単たん那な・*迦≠ゥた富ふ単たん那ななどは、 その場所に生れ、 またその場所に住み、 だれにも属することなく、 だれからも教えを受けていません。 だからどうか世尊、 この閻浮提のすべての国土を護るために、 すべての衆生を護るために、 それらの鬼神を配置してください。 この通りにしてくださったなら、 わたしどもは、 心からありがたく思います”
釈尊は、 “その通りである。 大梵天よ、 そなたがいう通りである” と仰せになり、 そして、 重ねてこのことを明らかにしようとお思いになり、 次のような偈をお説きになった。
“世の人々に明らかにするために、 導師である仏が大梵天に問う。 «この四方の世界は、 だれが護り育てているのか» と。 天の師である大梵天はこのように答えた。 «兜率天、 他化自在天、 化楽天、 夜摩天にいる神々は、 それぞれの天王のもとでこの四方の世界を護り育てています。 四天王およびそれにしたがうものたちも同じく護っています。 さらに二十八の小さな星々や十二の方角やそれをつかさどる天童女などが配置され、 四方の世界を護っています» と。 またその生れた場所にしたがって、 竜や鬼や羅刹など、 だれからも教えを受けていないものにもその場所を護らせる。 それは天の神々がとくに仏に願って、 そのものたちを配置させたのである。 すなわち衆生を哀れむ心から正しい法の灯火を明るく輝かせるのである”
そのとき、 釈尊は月蔵菩薩に仰せになった。 “※月蔵菩薩よ、 この賢劫のはじめ、 人の寿命が四万年であった時、 *拘留くる孫そん仏ぶつがこの世にお出ましになった。 その仏は、 数限りない多くの衆生のために、 迷いの世界に現れて正しい法をお説きになった。 そして地獄・餓鬼・畜生という悪い世界に行くはずのものに、 人間や神々の世界に生れてさとりへ至る道をお示しになった。 その仏は、 この四方の世界を、 娑婆世界をつかさどる大梵天や、 他化自在天王・化楽天王・兜率天王・夜摩天王などにまかされた。 それは、 護るためであり、 育てるためであり、 衆生を哀れむためであり、 仏・法・僧の三宝の種を絶えさせないためであり、 それを盛んにするためであり、 大地の力、 衆生の力、 仏法の力をいつまでもとどめて大きくするためであり、 多くの衆生を地獄・餓鬼・畜生という悪い世界から離れさせるためであり、 人間や神々などの善い世界に向わせるためである。 このようなわけで四方の世界を大梵天および天王たちにまかされたのである。
このようにして次第に時代が移り、 神々たちの資質が衰え、 すべての善い行いや清らかな法が失われ、 悪が盛んとなって煩悩に溺れるようになる。 人の寿命が三万年になった時、 *拘耶くな含ごん牟尼むに仏ぶつがこの世にお出ましになった。 その仏は、 この四方の世界を、 娑婆世界をつかさどる大梵天や、 他化自在天王をはじめ四天王およびそれにしたがうものたちにまかされた。 それは、 護り育てるためであり、 そしてすべての衆生を地獄・餓鬼・畜生という悪い世界から離れさせ、 人間や神々などの善い世界に向わせるためである。 このようなわけで四方の世界を大梵天および天王たちにまかされたのである。
このようにして次第に時代が移り、 神々たちの資質が衰え、 清らかな法が失われ、 悪が盛んとなって煩悩に溺れるようになる。 人の寿命が二万年になった時、 *迦か葉しょう仏ぶつがこの世にお出ましになった。 その仏は、 この四方の世界を、 娑婆世界をつかさどる大梵天や、 他化自在天王・化楽天王・兜率天王・夜摩天王・*帝たい釈しゃく天てん・四天王およびそれにしたがうものたちにまかされた。 それは護り育てるためであり、 そしてすべての衆生を地獄・餓鬼・畜生という悪い世界から離れさせ、 人間や神々などの善い世界に向わせるためである。 迦葉仏は、 このようなわけで四方の世界を大梵天や四天王などにまかされ、 さらに多くの神々や仙人、 七つの大きな星々、 十二の天童女、 二十八の小さな星々などにまかされた。 それは護るためであり、 育てるためである。
※月蔵菩薩よ、 このようにして時が移り、 今や時代は濁り、 煩悩は盛んとなり、 人々は資質が劣り、 悪に染まり煩悩に溺れ、 互いに争うような世界となり、 人の寿命は百年になった。 すべての清らかな法は滅し、 あらゆる悪がこの世をおおうであろう。 たとえば海の水が一様に塩からいのと同じで、 世界はどこも煩悩の味しかしないようになる。 集まった悪党は手に髑どく髏ろを持ち、 手のひらを血に染めて、 互いに殺しあうであろう。 このような悪にまみれた衆生の中に、 わたしは今現れて、 菩提樹の下ではじめてさとりを開いたのである。 そして*提だい謂いや*波利はりという商人たちから食べものの供養を受けた。 彼らのために、 この閻浮提に神々・竜・乾闥婆・鳩槃荼・夜叉などを配置するのである。 それは護り育てるためである。
こうして、 すべての世界のあらゆる菩薩などが一人残らずことごとくここに集まり、 そしてこの娑婆世界に、 彼らの世界の百億の太陽や月、 百億の四方の世界、 百億の四方の大海、 百億の*鉄てっ囲ち山せんや大鉄囲山、 百億の須弥山、 百億の*四し阿あ修しゅ羅ら城じょう、 百億の四天王の世界、 百億のJ利天、 百億の非想非非想処などがあって、 数え尽すことができないほどである。 この娑婆世界において、 わたしは仏として衆生を導くのである。 また、 娑婆世界にいるあらゆる梵天およびそれにしたがうものたち、 魔天王・他化自在天王・快楽天王・兜率天王・夜摩天王・帝釈天・四天王・阿修羅王・竜王・夜叉王・羅刹王・乾闥婆王・緊那羅王・迦楼羅王・摩睺羅伽王・鳩槃荼王・餓鬼王・毘舎遮王・富単那王・迦&x単那王などが、 ことごとくその一族を率いてここに大勢集まった。 それは法を聞くためである。 そして、 この娑婆世界のあらゆる菩薩や声聞たちが一人残らずことごとくここに集まった。 それは法を聞くためである。 わたしは今、 ここに集まった大勢のもののために奥深い仏の教えを説き示そう。 また、 世の人々を護るために、 この閻浮提に集まった鬼神たちを配置しよう。 そのものたちはこの世界を護り育てるであろう”
こうして釈尊は、 娑婆世界をつかさどる大梵天に、 もう一度お尋ねになった。 “過去の仏がたは、 この四方の世界をだれにまかせて守り育てさせておられたのか” と。
そのとき娑婆世界をつかさどる大梵天が申しあげた。 “過去の仏がたは、 この四方の世界を、 昔、 わたしと帝釈天に託し、 護らせておられました。 ところがわたしはうかつにも、 わたしの名と帝釈天の名をあげることなく、 ただ他の神々や星々などが護り育てているとだけ申しておりました” と。 そして、 娑婆世界をつかさどる大梵天と帝釈天は、 仏の足をおしいただいてうやうやしく礼拝し、 このように申しあげた。 “世尊よ、 *善逝ぜんぜいよ、 わたしどもは今このあやまちをお詫びいたします。 わたしどもは子どものように愚かで智慧もなく、 如来の前で自分の名をあげることができませんでした。 世尊よ、 どうか許してください。 善逝よ、 どうかお許しください。 また、 ここに集まってこられた大勢の方々よ、 どうぞお許しください。 わたしどもは、 この世界で教えを説こうと思います。 自由自在な力を得て護り育て、 そして、 多くの衆生を善い世界に生れさせるためです。 わたしどもは、 昔、 拘留孫仏のもとで教えを受け、 そしてすでに仏・法・僧の三宝の種を育てて盛んにしました。 拘耶含牟尼仏や迦葉仏のもとでも、 また同じく、 わたしどもは教えを受け、 すでに心をこめて三宝の種を育てて盛んにしました。 大地の力、 衆生の力、 その味わいが*醍だい醐ごにたとえられる仏法の力を、 いつまでも世にとどめて盛んにするためです。 わたしどもは、 今また世尊のもとで教えを受けたなら、 自分の世界で教えを説こうと思います。 自由自在な力を得て、 すべての争いや飢饉をなくし、 そして、 三宝の種を絶やさないようにするために、 また三種の力をいつまでも世にとどめて盛んにするために、 また悪い行いをする衆生をさえぎりとどめて仏道を修める衆生を護り育てるために、 また衆生を悪い世界から離れさせて善い世界に向わせるために、 仏法をいつまでも世にとどめるために心をこめて護りたいと思います”
仏が仰せになった。 “よろしい、 すぐれたものたちよ、 そなたたちは今願い出た通りにするがよい”と。 そして仏は、 百億の大梵天に次のように仰せになった。 “その行がみな法にもとづき法にしたがっており、 悪を厭い捨てるものは、 今そのすべてのものを、 そなたたちの手に託そう。 そなたたちは、 百億の四方の世界のそれぞれにおいて教えを説くのである。 そなたたちは自由自在な力を得て、 そこにいる衆生が、 悪い心を持ち、 荒々しく、 人々を悩まし、 自分以外のものを哀れむことなく、 死後どうなるかを考えておそれることもなく、 ※クシャトリヤからバラモン・ヴァイシュヤ・シュードラにいたるまで、 さまざまな人々の心を苦しめ、 さらに畜生の心までも悩まし、 このように生きものを殺したりよこしまな考えをいだくことにより、 その行いが思いがけない風雨の害を引き起こし、 さらに、 大地の力、 衆生の力、 仏法の力を損なうようであれば、 そうした悪をさえぎりとどめて、 善を行なうようにさせなければならない。
衆生の中で、 善を得ようと思うもの、 法を得ようと思うもの、 迷いの世界を離れてさとりの世界に至ろうとするもの、 六波羅蜜の行を修めようとするもの、 あらゆる行が法にもとづいている衆生、 および行のために何か事を営んでいるものがいれば、 このようなさまざまな衆生を、 そなたたちは護り育てなければならない。
衆生の中で、 経典や論書を読んで理解し、 他のものに説いて聞かせ、 さまざまな解説をするものがいれば、 そなたたちは、 そのもののために、 心が乱れないように思いをかけさまざまな手だてを施し、 何ものにもさまたげられない強い力を得、 聞いた教えを忘れることなくすべてのもののあり方を知って、 そのものたちに迷いの世界を離れさせ、 *八はっ正しょう道どうを修めさせて、 さとりに至るはたらきをその身にそなえさせなければならない。
衆生の中で、 そなたたちの世界において、 法にもとづき、 順序よく手だてを施して、 思いをとどめ心を静める行を修め、 さまざまな*三昧さんまいを得て、 心をこめて声聞・縁覚・菩薩のさとりの道を進もうとするものがいれば、 そなたたたちは、 さまたげを取り除き、 そのものを護り助けて、 行き届いた施しを与えて、 不自由のないようにしなければならない。
衆生の中で、 人々に衣食住の品々を施し、 病気のものに薬を与えるものがいれば、 そなたたちは、 その施しをしたものについて五つのことが増すようにしなければならない。 どのような五つが増すのかというと、 一つには寿命が増すのであり、 二つには財物が増すのであり、 三つには楽しみが増すのであり、 四つには善い行いが増すのであり、 五つには智慧が増すのである。
そして、 そなたたちは長い間にわたって利益と安楽を得るであろう。 また、 このことによってそなたたちは六波羅蜜の行を成しとげ、 速やかにさとりの智慧を身につけることができるであろう”
これを聞いて娑婆世界の主である大梵天をはじめとして、 百億の梵天も一緒にみな、 声をそろえてこのように申しあげた。 “仰せの通りにいたします。 世尊、 わたしどもはそれぞれ自分の世界において、 悪い心を持ち、 荒々しく、 人々を悩まし、 自分以外のものを哀れむ心がなく、 死後どうなるかとおそれることもないものがいれば、 わたしどもは、 そのような悪をさえぎりとどめ、 人々に施し与えるもののためには五つのことが増すようにいたしましょう” と。
仏が仰せになった。 “よろしい、 そなたたちはそのようにするがよい” と。
そのときにまた、 すべての菩薩、 すべてのすぐれた声聞、 すべての神々・竜、 そしてすべての人並びに人ではないものなどがみな、 大梵天たちをたたえて申しあげた。 “大変よいことです。 すぐれた勇猛の士であるあなた方は、 このようにしていつまでも法をこの世にとどめ、 多くの衆生を悪い世界から離れさせ、 速やかに善い世界へと向わせてくださるでしょう”
そのとき釈尊は、 重ねてこのことを明らかにしようとお思いになり、 次のような偈をお説きになった。
“わたしは月蔵菩薩に説き聞かせる。 この賢劫のはじめにおいて、 拘留孫仏が大梵天たちに四方の世界をまかされた。 さまざまな悪をさえぎりとどめることにより、 正しい智慧の眼を輝かせ、 さまざまな悪を捨てさせて、 行を修めるものを護り、 仏・法・僧の三宝の種を断やさずに、 大地の力、 衆生の力、 仏法の力をますます大きくし、 悪い世界への門を閉じて、 善い世界へと向わせるのである。 拘耶含牟尼仏もまた大梵天や他化天・化楽天、 そして四天王にまかされた。 次いで迦葉仏もまた、 大梵天や化楽天たち、 帝釈天や四天王たち、 および過去の神々や仙人たちにまかされ、 世の多くの人々のために、 大小の星々を配置して、 守り育てさせておられた。 五濁の世になり、 正しい法がすべて失われようとするとき、 わたしが独りこの上ないさとりを開き、 人々を安らかにして護るのである。 今この世界の人々を前にして、 世の中の濁りきったすがたはわたしをしばしば悩ませる。 まさに今わたしはこのものたちのために法を説こう。 そして神々を配置して衆生を護らせようと思う。 すべての世界の菩薩たちがすべてことごとく集まり、 天の神々もまたこの娑婆世界に来た。 わたしは大梵天に尋ねた。 «かつてだれがこの世を護ったのか» と。 すると帝釈天と大梵天は、 自分たち以外の天の神々の名をあげたのである。 そして帝釈天・大梵天は、 導師であるわたしにそのあやまちを詫びていう。 «わたしどもが王として護る世界では、 すべての悪をさえぎりとどめ、 仏・法・僧の三宝の種を育てて盛んにし、 大地の力と衆生の力と仏法の力とを大きくし、 多くの悪を行なう友をさえぎりとどめ、 善を行なう友を護り育てましょう»”」 
【91】 また次のように説かれている (諸魔得敬信品)。「そのときにまた、 その場に集っていた百億の悪魔たちも同時に立ちあがり、 仏に向って合掌し、 その足をおしいただいてうやうやしく礼拝し、 仏に申しあげた。 “世尊、 わたしどももまた、 強く勇ましい心を奮い起こして仏のお説きになる法を護り育て、 仏・法・僧の三法の種を育てて盛んにし、 いつまでも世にとどめるようにいたします。 大地の力と衆生の力と仏法の力とを、 すべてみな大きくしていきましょう。 世尊よ、 仏の教えを聞く弟子が、 法にもとづき法にしたがい、 その行いのすべてにおいて法にかなって行を修めるなら、 わたしどもはみなことごとく護り育て、 必要なものが欠けることのないようにいたしましょう” (中略)
また釈尊が仰せになった。 “この娑婆世界において、 賢劫のはじめに鳩留孫仏が、 すでに四方の世界を帝釈天と大梵天におまかせになって、 護り育てさせておられた。 そして仏・法・僧の三宝の種を育てて盛んにし、 大地の力と衆生の力と仏法の力を大きくしていかれた。 拘耶含牟尼仏もまた、 四方の世界を大梵天・帝釈天、 多くの天の神々におまかせになって、 護り育てさせておられた。 迦葉仏もまた同じように、 すでに四方の世界を大梵天・帝釈天など、 世界を護る王におまかせになって、 行を修めるものを護らせておられた。 そして過去の多くの仙人たちや多くの神々たちにも、 大小さまざまな星々などをおまかせになって配置させられたのである。 今、 わたしが五濁の世に現れて、 さまざまな悪魔の害を退け、 はかり知れないほど多くのものを集めて、 仏の正しい教えを明らかにするのである。 (中略) すべての天の神々は口をそろえて仏に対して次のようにいう。 «わたしどもが王として護る世界では、 みな正しい教えを護って、 仏・法・僧の三宝の種を育てて盛んにし、 大地の力と衆生の力と仏法の力とを大きくして、 多くの病や飢饉および人々の争いがないようにいたしましょう»”」
【92】 また次のように説かれている (提頭頼%V王護持品)。「仏が仰せになった。 “*日天にちてん子し・月天がつてん子しよ、 そなたたちがわたしの教えを護り育てるなら、 そなたたちが長い寿命を得、 さまざまな衰えやわずらいのないようにしよう” と。
そのとき、 また百億の持国天・百億の増長天・百億の広目天・百億の多聞天が同時に、 その一族とともに立ちあがり、 衣服をととのえて合掌し、 うやうやしく礼拝してこのように申しあげた。 “世尊、 わたしどもはそれぞれに、 自分にまかされた世界において、 心をこめて仏の教えを護り育てましょう。 そして仏・法・僧の三宝の種を育てて盛んにし、 それがいつまでもとどまるようにして、 また大地の力と衆生の力と仏法の力とがみなことごとく大きくなるようにいたしましょう» (中略) また、 多聞天にしたがうものたちはことごとくみな立ちあがり、 次のように申しあげた。 “わたしどもは今、 長である多聞天とともに心を一つにして、 この閻浮提と北方世界を護り、 仏がたの教えをお護りいたします”」
【93】 また次のように説かれている (忍辱品)。「仏が仰せになった。 “その通りである。 そなたのいう通りである。 もし自分を愛し、 苦を厭い楽を求めるなら、 仏がたの説く正しい教えを護るべきである。 そのことにより限りない幸せを得るであろう。
もし、 わたしの教えを受けて出家し、 髪を剃り袈裟を着ける衆生がいるなら、 たとえ戒律をたもつことがなくても、 みなことごとく、 すでにさとりを得ることが約束されているのである。 また、 出家して戒律をたもつことのないものに対し、 無法な振舞いをしてそのものを悩まし、 ののしり辱しめ、 責め謗り、 あるいは手に刀や杖を持って、 打ったり縛ったり、 たたいて切ったりするものもいるであろうし、 その衣や鉢を奪い、 また生きていくのに必要な品々を奪うようなものもいるであろう。 そのような人は、 過去・現在・未来にわたる仏がたのまことの*報身ほうじんを損ない、 またすべての神々や人々の眼を取り除くものである。 この人は、 仏がたの説く正しい教えや仏・法・僧の三宝の種をなくしてしまおうとするのだから、 神々や人々が利益を得られないようにしていることになり、 地獄に堕ちていくのであるから、 地獄・餓鬼・畜生という悪い世界に生きるものをますます増やし、 この世にあふれさせることになるのである”」
また次のように説かれている。
「そのとき、 またすべての神々や竜をはじめすべての迦&x単那、 人や人でないものなどにいたるまで、 みなことごとく合掌して、 このように申しあげた。 “わたしどもは、 仏の教えを聞くすべてのお弟子がたはもちろんのこと、 あるいは戒律を護らず、 ただ髪を剃って形ばかりの袈裟を着けたものにまで、 師や目上のものに対するような思いをいだき、 それらの人々を護り育て、 必要なものを与えて欠けることのないようにしましょう。 もし、 他の神や竜、 そして迦&x単那などが、 その人を悩ましたり、 あるいは悪意に満ちた眼で見るようなことがあるなら、 わたしどもはみな力を合せて、 その神や竜や迦&x単那などの体から、 さまざまなすぐれたところを奪い取り、 醜い姿にしてしまいましょう。 そしてそのものたちが二度と、 わたしどもとともに住み、 ともに食事をすることができないようにし、 また、 一緒に笑いたむれることもできないようにしましょう。 このようにして、 そのものたちを追い出して罰することにします”」
【94】 『華厳経』 に説かれている。「吉凶を占うことをやめて正しいものの見方を学び、 善いことも悪いこともすべて因果の道理によっておこることを、 疑いなく深く信じるべきである」
【95】 『*首しゅ楞りょう厳ごん経ぎょう』 に説かれている。「禅定を修めても煩悩を離れることができずに悪魔や鬼神や邪鬼となったものたちは、 仲間とともに、 口々に “わたしはこの上ないさとりを開いた” というであろう。 わたし (釈尊) が入滅して後、 末法の時代になると、 このような悪魔や鬼神や邪鬼が多いことであろう。 そして世間にはびこり、 善知識と称して多くの衆生を煩悩の穴に突き落とし、 さとりの道を失わせ、 狂い惑わして判断のできないようにし、 心までも失わせるであろう。 そして、 そのものたちが通り過ぎた後は、 一家は離散し、 人々はみな煩悩にとらわれ、 成仏の種を失うことになる」
【96】 『*潅かん頂じょう経きょう 』 に説かれている。「三十六の鬼神の王は、 数限りない鬼神たちをしたがえて、 姿を現すことなく、 かわるがわる、 仏・法・僧の三宝に帰依するものを護る」
【97】 『*地じ蔵ぞう十じゅう輪りん経ぎょう』 に説かれている。「まさしく仏・法・僧の三宝に帰依し、 すべてのとらわれを離れ、 吉凶を占うことをやめようとするものは、 よこしまな鬼神や誤った教えに帰依することが決してあってはならない」
【98】 また次のように説かれている (地蔵十輪経)。「あるいはさまざまに、 多い少ないの違いはあれ、 吉凶の占いばかりに気を取られ、 鬼神を祭り、 (中略) きわめて重い罪をつくり、 *無む間けん地じ獄ごくに堕ちることになる。 このような人は、 もしそのきわめて重い罪を懴悔して消し去らなければ、 出家して*具ぐ足そく戒かいを受けていないものであっても、 あるいは出家して具足戒を受けたものであっても、 地獄に堕ちてしまうのである」
【99】 『*集しゅう一切いっさい福徳ふくとく三昧ざんまい経きょう』 に説かれている。「仏道を歩むものは他の教えに心を向けてはならない。 他の神を礼拝してはならない」
【100】 『*本願ほんがん薬やく師し経きょう』 に説かれている。「清らかな信を得た善良なものは、 生涯他の神に仕えてはならない」
 

 

【101】 また次のように説かれている (本願薬師経)。「また、 世の中には悪魔や、 仏教以外の教えを信じるものや、 あやしげなことを説いて人の心を惑わすものがいて、 みだりにわざわいと幸せとを説く。 これを信じて恐れと動揺を生じ、 心は平静を失ってしまう。 占いに頼ってわざわいを招き、 さまざまな生きものを殺すであろう。 神に祈り、 妖怪を呼びよせ、 福を求め、 長生きしたいと願うのであるが、 結局その望みはかなえられない。 愚かさのために心に迷いが生じ、 よこしまな教えを信じて誤った考えをいだき、 遂には天寿をまっとうせずに死に、 地獄に堕ちて抜け出すことができない。 (中略) 突然の死に九種あるが、 その八番目は、 毒を盛られたり、 まじないや祈祷によって呪われたり、 *屍鬼しきを呼びおこされたりして、 突然思いがけず死んでしまうというものである」
【102】 『*菩ぼ薩さつ戒かい経きょう』 に説かれている。「出家した人の規則としては、 国王に向って礼拝せず、 父母に向って礼拝せず、 *六親ろくしんに仕えず、 鬼神を礼拝しない」
【103】 『*仏ぶつ本ほん行ぎょう集じっ経きょう』 に説かれている。「そのとき、 兄弟である*三さん迦か葉しょうに一人の甥がいた。 彼は火を尊ぶ*婆羅ばら門もんであり、 名を優婆うば斯那しなといった。 (中略) 彼はいつも、 同じように火を尊ぶ婆羅門である二百五十人の弟子たちとともに仙人の道を学んでいた。 彼は、 おじの三迦葉が多くの弟子たちとともに、 釈尊のもとに行き、 髪を剃り袈裟を着けたということを聞いた。 彼はおじたちに会い、 彼らに詩を説いて次のようにいった。 “おじたちはいたずらに百年間火の神を祭っていたことになり、 またいたずらに苦行を修めていたことになる。 今、 三人が同じようにこれまでの教えを捨てるのは、 蛇が古い皮を脱ぎ捨てるようなものであるが、 それでよいのか”
すると、 おじの三迦葉は、 声をそろえて詩を説いて、 甥の優婆斯那に対して次のようにいった。 “わたしたちはかつていたずらに火の神を祭っていたのであり、 またいたずらに苦行を修めていたのである。 わたしたちが今、 これまでの教えを捨てるのは、 実に蛇が古い皮を脱ぎ捨てるようなものなのである”」
【104】 『*大だい乗じょう起き信しん論ろん』 にいっている。「あるいは、 善根を積んだことのない衆生であれば、 さまざまな悪魔や仏教以外の教えを信じるものや鬼神に惑わされることになる。 たとえばその場にいる人々の中に恐ろしい姿を現したり、 あるいは、 美しい男や女の姿を現すのである。 このようなときには、 すべては心のつくり出した世界であると念じるがよい。 そうすれば消えてなくなり、 もはや心を悩ますことはない。
あるときは、 神々や菩薩の姿を現したり、 如来の円満な姿を現して、 *陀だ羅尼らにを説いたり、 六波羅蜜の行を説いたり、 あるいは、 すべては平等であり、 本来空であるからそれぞれの相というものはなく、 願い求めるべきものは何もないのであって、 敵もなければ味方もなく、 因もなければ果もなく、 究極のところ空無なのであり、 これがまことのさとりの世界であるなどと説いたりするであろう。
あるときは、 人に過去のことを教え、 また未来のことを教え、 他人の心の中を知ることができる力を得て、 自由自在に弁舌を振わせ、 人々に世俗の名誉や利益について執着させるのである。 また、 たびたび人を怒らせたり喜ばせたりして、 その人の性質を異常なものにしてしまう。 その結果、 愛に溺れ、 眠りをむさぼり、 また※少ししか眠らなかったりして、 病気がちになり、 心が怠惰になってしまう。 あるいは、 突然修行に励みだすかと思えばすぐにやめてしまい、 信が欠けて疑いやはからいばかりが多くなる。 また、 これまで修めてきたすぐれた行を捨てて、 他の行をあれこれと修め、 世俗のことばかりにとらわれて、 さまざまなことに引きずりまわされるようになる。 またあるときは、 人にさまざまな三昧に少しばかり似たものを修めさせるが、 それは仏教以外の教えを信じるものが修めるものであり、 まことの三昧ではない。 あるいは、 人に一日、 二日、 三日、 もしくは七日に至るまでの間、 その三昧に似た境地にとどまらせ、 ひとりでにあらわれる香りも味もよい食べものや飲みものを得させて、 その人は身も心も心地よく、 飢えたりのどが渇いたりすることがない。 そしてその境地にとらわれてしまうのである。 あるいは、 人に節度のない食事をとらせ、 その人はむやみに食べたり逆に食べなくなったりして、 体調を崩して顔色も変ってしまう。
このようなわけであるから、 仏道を歩むものは、 常に智慧の眼でよく観察し、 自分の心がよこしまな教えの網にとらわれないようにしなければならない。 すなわち正しい思いをたもつように努め、 さまざまな執着を離れ、 仏道を歩むにあたってのさまざまなさまたげから遠ざかるがよい。 仏教以外の三昧は、 どれもみな、 よこしまな考えや貪りの心やおごり高ぶりの心を離れるものではなく、 世俗の名誉や利益や尊敬されたいという思いにとらわれたものにすぎないからである」
【105】 『*弁べん正しょう論ろん』 にいっている。「*十じゅう喩ゆ篇へん並びに*九きゅう箴しん篇へん は、 *道どう教きょうの*李り仲ちゅう卿けいが、 仏教を非難するためにあげた*十じゅう異い九きゅう迷めいに対して答えるものである。
道教から第一の違いとして次のようにいう。 “太たい上じょう老君ろうくんすなわち*老ろう子しは、 美しい仙女にその魂をあずけ、 左の脇から生れた。 *釈しゃ迦か牟尼むには、 *摩耶まや夫ぶ人にんの胎内に宿って右の脇から生れた” (中略)
このことについて仏教からは次のようにさとす。 “老子は、 世の常に逆らい、 牧場の娘の左から生れた。 釈尊は、 法にしたがって、 聖なる母摩耶夫人の右からお生れになった”
徳の高い僧侶は次のようにいう。 “慮りょ景裕けいゆう・戴詵たいしん・韋い処玄しょげんたちの著わした 『*老ろう子し』 の注釈書や、 *梁りょうの元帝げんていや周しゅう弘政こうせいたちの老子に関する解説などを調べてみると、 太上には四種を数える。 *伏ふく羲ぎ・神農しんのう・黄帝こうていの三人の皇帝に*尭ぎょう・舜しゅんの二帝王を一つにして四種とするのである。 それは、 上古にこれらの徳の高い君主がいて、 万民の上に立って世を治めていたから太上というのである。 *郭かく象しょうが著わした 『*荘そう子し』 の注釈書には、 «その時代の人々が賢者として敬う人を君といい、 その才能が世の中に称讃されない人を臣という» といっている。 老子は帝王でもなければ、 皇帝でもなく、 太上といわれる四種の中に入らないのである。 どのような根拠があって、 軽々しく太上といってたたえるのか。
道教のいう *『玄げん妙みょう』 および 『中ちゅう台たい』・『朱韜しゅとう玉ぎょく扎さつ』 などの経、 並びに 『出しゅっ塞さい記き』 を調べてみると、 老子は李氏の娘を母として生れたとあり、 美しい仙女がいたとは書いていない。 もとから正しい説ではなく、 まったくの間違いである。 『仙人玉録』 では、 «仙人には妻がなく、 仙女には夫がない。 仙女は女性として生れても一生涯子どもを産むことがないのである» といっている。 もし、 老子が仙女から生れたというような奇瑞があれば、 まことにめでたいことではある。 ところがどうしたことか、 『*史記しき』 にも 『周書』 にもそのような記載はない。 ありもしないことによって本当のことを非難するのなら、 それは嘘つきのいうことを信じているにすぎない。
また、 『*礼らい記き』 には、 «官職を退き地位を失うことを左遷という» といい、 『*論ろん語ご』 には、 «衣服を左前に着ることは礼儀に反する» といっている。 もし、 左が右にまさるとすれば、 道教のものが儀式で行道するとき、 どうして左にまわらずに、 逆に右にまわるのであるか。 また国の詔書には、 みな «右の通り» とある。 これはみな、 天地自然の法にしたがうものである” (中略)
道教から第四の違いとして次のようにいう。 “老子は、 周王朝の基礎を築いた*文ぶん王のうの時代以来、 周王朝興隆期の国王の師である。 釈迦牟尼は、 *荘王そうおうの時、 インド西北部にある小国の教主であったにすぎない”
このことについて仏教からは次のようにさとす。 “老子は低い官職にあり、 書庫を護らせてもらっていたにすぎない。 しかも文王の時代の人物ではなく、 また周王朝興隆期の国王の師でもない。 釈尊は、 皇太子の位にあり、 出家しては、 この上ないさとりを開かれたのである。 その時期は周王朝の全盛期である*昭しょう王おうのころであり、 全世界の教主なのである” (中略)
道教から第六の違いとして次のようにいう。 “老子がこの世に姿を現していたのは、 周王朝の文王の時代から*孔こう子しが出た時代までである。 釈迦牟尼がこの世に現れたのは、 インドの*浄じょう飯ぼん王のうの家であって、 それはわが国の荘王の時代にあたる”
このことについて仏教からは次のようにさとす。 “釈尊の弟子である摩訶迦葉の生れ変りである老子は、 周王朝の*桓王かんのうの時代、 紀元前714年に生れて、 *景王けいおうの時代、 紀元前519年に亡くなっている。 孔子の出た時代まで生きてはいたが、 文王の時代に生れたわけではない。 釈尊は、 昭王の時代、 紀元前1027年に誕生され、 穆王の時代、 紀元前949年に入滅されている。 浄飯王の世よ嗣つぎとしてお生れになったのであり、 もとより荘王の時代以前に現れた方である”
徳の高い僧侶は次のようにいう。 “孔子が周に行って老子に会い、 礼について尋ねたことは、 『史記』 にも詳しく記されているが、 老子が文王の師であったということは根拠のない話である。 老子が周代の末に出たということは知ることができるが、 周のはじめにいたということは史書に記されていない” (中略)
道教から第七の違いとして次のようにいう。 “老子は周の時代に生れたが、 晩年は*流りゅう沙さに行き、 その消息は明らかでなく、 行方もわからない。 釈迦牟尼はインドに生れ、 *跋提ばつだい河が畔で生涯を終えた。 弟子たちは胸をたたいて悲しみ、 異国の人々が大勢声をあげて泣き叫んだ”
このことについて仏教からは次のようにさとす。 “老子は頼郷らいけいに生れて槐かい里りに葬られたのである。 このことは老子の友人である秦佚しんいつがそのお悔みに行った話に詳しく述べられており、 遁天とんてんの形けいということについて非難している。 釈尊は、 王宮にお生れになり、 *沙さ羅ら双樹そうじゅのもとで入滅されたのである。 そのことは後漢の*明帝めいていの時代に伝わり、 宮中の書庫に秘蔵されている”
徳の高い僧侶は次のようにいう。 “『荘子』 の内篇には、 «老子が亡くなった時、 友人の秦佚がそのお悔みに行き、 三度泣き叫んだだけで外に出てきた。 弟子がどうしたことかと思い、 "老子は先生の友人ではありませんか" と尋ねたのに対し、 秦佚は、 "さきほど、 わたしが家に入って見ると、 若者は、 父の死を悲しむかのように泣き悲しんでおり、 老人は、 子の死を悲しむかのように泣き悲しんでいた。 昔、 人は老子のことを遁天の形と呼び、 自分もはじめはそういう人であると思っていたが、 今はもはやそのように思わない" と答えた» といっている。 遁とは世間から身を隠すことであり、 天とは世俗のとらわれを免れることであり、 形とは体のことである。 つまり、 はじめは老子を、 世俗のとらわれを逃れて身を隠した仙人であると思っていたが、 今はそう思わないという意味である。 ああ、 世にへつらい人情に取り入ったために、 死を免れることができなかったのである。 とてもわたしの友ではないというのである” (中略)
仏教から十にわたってさとしたのは、 道教のあげた十の違いに答えるものである。
道教は、 老子と釈尊の生れ方に左と右の違いがあることを第一の問題としているが、 仏教からいえば、 左から生れることと右から生れることに優劣があるというのである。
このことについて仏教からは次のようにさとす。 “服を左前に着るように、 左を尊ぶのは文化の低い異国のことであり、 文化の高いわが中国では、 上からの命令を右命ゆうめいというように、 右を尊ぶのである。 そのため 『春秋』 には、 «宰相には王の命がなく、 宰相を補佐する大臣に王の命があるのは、 左すなわち道理に反するではないか» といっている。 『史記』 には、 «*藺りん相如そうじょは功績が大きかったので、 *廉れん頗ぱより右すなわち上位になった。 廉頗はこれを恥じた» といっている。 また、 «宰相である*張ちょう儀ぎは、 秦の国を右にし、 魏の国を左にした。 宰相である*犀首さいしゅは、 韓の国を右にし、 魏の国を左にした» といっている。 恐らく不都合な方を左すなわち下位としたのである。 『礼記』 には、 «左道すなわち正しくない政治を行なって民衆を困らせるものは、 殺す» といっている。 右が優まさって左が劣っているではないか。 また、 *皇こう甫ほ謐ひつの 『*高こう士し伝でん』 には、 «老子は楚の国の人相見で渦水の南に住み、 *常樅じょうしょう子しに師事していた。 常樅子が病気にかかった時、 老子はその見舞に行った» といっている。 また、 *麹Nけいこうは «老子は、 *涓けん子しに師事して九仙の術を学んだ» といっている。 *司馬しば遷せんなどが記した多くの書物を調べても、 老子が仙女の左の脇から生れたとはいっていない。 これまでにはっきりといわれたことがない以上、 信じることができないのは明白である。 明らかに知ることができる。 武器を振い筆を操るのは右であるが、 それが文武の始まりであって、 そのことは、 *五気ごき通運し、 太陽や月や星のめぐることが、 天地の始まりであるという道理にかなったものである。 このようなわけで、 仏教が右まわりを作法などに用いるのは、 人々の求めにもあっているのであり、 *張陵ちょうりょうの道教は左道であって、 まことに天地の道理に逆らうものである。 なぜこのように仏教で右が重んじられるかというと、 釈尊は人々に等しく慈悲の心をおこし、 衆生の求めに応じられたのであり、 仏教はその釈尊の歩まれたあとを語るものだからである。 (中略)
釈尊は天上天下に独り厳然として、 その尊い位にあり、 すべての世界に超えすぐれて、 そのすぐれた徳をお示しになるのである” (中略)
道教は次のようにいう。 “老子が規範とするのは、 もっぱら孝と忠とであり、 世を救い人を救うのに、 慈愛の限りを尽すのである。 このようなわけで、 名声と教えはいつまでも伝わり、 代々の王は変ることなく、 この老子の幽玄な教えにしたがわせ、 長い年月にわたって、 この道に背くことがない。 だから国を治めるにも家を治めるにも、 この教えは常に変らない正しい手本なのである。 釈迦牟尼の教えは、 彼自身が国や人々に対する義を捨て、 また親を捨てており、 仁でもなく孝でもない。 阿闍世王は、 その父を殺したのに、 心をあらためたので罪はないと説き、 提婆達多は、 従兄の釈迦牟尼を射たのに、 その罪の報いを得たとは聞かない。 このような教えで一般の人々を導くなら、 ますます悪を生じさせることになる。 このような教えを世の手本として、 どうして善を生じることができようか。 これが、 老子の教えは道にしたがうものであり、 釈迦牟尼の教えは道に背くものであるという第十の違いである。
このことについて仏教からは次のようにさとす。 “道教では、 義を立てるのは道の徳から見れば卑しいとらわれであり、 礼を示すのはまことの心が薄いことから生じるいつわりにすぎず、 小さな情は、 取るに足らないもののすることであると謗り、 大きな情は、 裕福なものが行なうものであるという。 その行いも風変わりで、 人の不幸に歌ったり笑ったりするが、 これは中国の風習に背いている。 また、 喪中に盆をたたいて騒いだりするが、 これも中国の教訓にないことである。 (*原げん壌じょうは母が亡くなった時、 その棺にまたがって歌った。 しかも、 孔子はその葬式に参列していながら、 それをとがめなかった。 子し桑そうが亡くなった時、 *子し貢こうが弔いに行ったが、 四人の子どもはお互いに顔を見合せて笑っていた。 また、 *荘そう子しはその妻が亡くなった時、 盆をたたいて歌ったのである) そのため、 このようなものに孝を尽すことを説いて教えるのであり、 それは、 すべての人々にその父を敬わせるためである。 また、 このようなものに忠を尽すことを説いて教えるのであり、 それは、 すべての人々にその王を敬わせるためである。 このように人々を導き、 それがすべての国々に行きわたるのは、 賢明な君主のすぐれた仁の力によるものであり、 世界のすみずみまで及ぶのは、 まことに神聖な帝王の大いなる孝の力によるものである。
仏教の経典には、 «わたしという存在はさまざまな苦しみの世界をさまよい続けているのだから、 すべてのものはみな父や母であり、 迷いの世界を生れ変り死に変りし続けているのだから、 敵や味方の区別をすることなどできないのである» と説かれ、 また、 «煩悩が智慧の眼をおおい、 生れ変り死に変りして迷いの世界をさまようのである。 さまよい続ける中で結ぶ数多くの縁により、 お互いに父ともなり、 子ともなる。 また、 敵も味方も、 しばしば友となるのであり、 友もしばしば、 敵にもなり味方にもなるのである» と説かれている。 このようなわけであるから、 修行者は俗世間を離れて仏道に入り、 すべての衆生を肉親と同じように敬うのである。 この世の栄誉を捨ててさとりの道に入り、 あらゆる衆生を自分の父や母と同じように見なすのである。 (すべてのものに正しい心で接し、 すべてのものを親しい心で等しく扱うのである)
また、 道はすべてにとらわれのない心を尊ぶのに、 あなたは肉親の情を重んじる。 法はすべてのものの平等を尊ぶのに、 あなたは敵か味方かを区別する。 それは迷いではないか。 勢力を争って肉親を捨てることは、 歴史の書に明らかなところで、 *斉せいの桓公かんこう、 *楚その穆王ぼくおうなどはそのたぐいである。 そのようなことで釈尊を謗ろうとするのは、 誤りにほかならない。 これが、 道教が劣っている第十の点である” (中略)
“*伏ふく羲ぎと*女じょ媧かの二人の皇帝は万物をまとめあげて、 (『須弥四域経』 には «応おう声しょう菩薩を伏羲とし、 吉きっ祥しょう菩薩を女媧とするのである» と説かれている) 人々がまだ素朴であった世の始まりのころにあって国を治め、 老子と孔子と*顔回がんかいの三人の聖人は教えを説いて、 (『空寂所問経』 には «迦葉を老子とし、 儒童を孔子とし、 光浄を顔回とする» と説かれている) 濁りきった世の終りのころにあって道を盛んにした。 人為を離れて自然の道理と一つになるというおもむきは、 黄帝こうていや老子がその教えを盛んにし、 詩、 書、 礼儀、 音楽などの教養は、 *周しゅう公こうや孔子がその教えを盛んにしたのである。 謙譲の徳を明らかにし、 質朴の気風を守ることは、 聖人の位に登る階段であり、 君子の恐れるべき天命と有徳のものと聖人の言葉の三つ、 および、 人の護るべき*仁じん・義ぎ・礼れい・智ち・信しんの五つは、 神や人として生れるための道である。 これらは仏教の道理に通じるものでもあろうが、 正しい道理をきわめたものではない。 それは、 口の利けないものや耳の聞えないものに道を尋ねても、 彼らはただ方向を指し示すだけで、 道のりが遠いか近いかについては詳しく教えてはくれず、 また、 兎や馬に河の渡し場を問うても、 彼らはただ渡ることを知っているだけで、 河が浅いか深いかについては知らないようなものである。 このように考えると、 *殷いんや周の時代は、 まだ仏教が広まるのにふさわしい時代ではなかったといえる。 つまり、 まぶしく照り輝く太陽を子どもは正視することができず、 激しくとどろく雷鳴を、 気の弱いものは耳をそばだてて聞くことができないようなものである。
このようなわけで、 河や池の水が湧きあふれたのを見て、 昭王は神が生れたとおそれ、 釈尊の入滅にあたって雲や虹が色を変えたのを見て、 穆王は聖人が亡くなったと喜んだのである。 (『周書異記』 に «昭王の二十四年四月八日に、 河や池などの水がことごとくあふれた。 穆王の五十三年二月十五日に、 暴風がおこって樹木が折れ、 空が暗くなり、 雲が黒く広がり、 白い虹が出るという異変があった» とある) このような中で、 どうして、 *葱そう河かを渡って教えを受け、 *雪山せっせんを越えて道を求めるということができようか。 『*維ゆい摩ま経ぎょう』 に «目の見えないものが光を感じることができないのは、 太陽や月の罪ではない» と説かれている。 よかれと思って細かな論義を尽そうとすれば、 あなた自身を傷つけることになるだろう。 仏の教えはあなたが知ることのできないものである。 以上は、 あなたが真実の道理を見ることができない第一の点である”
仏教から戒める第二の点として、 仏像や*仏塔ぶっとうを建造することについて次のように教える。
“後漢の明帝の時代から*斉せい・梁りょうの時代までに、 国王や公卿や官吏、 また在家信者の男女および出家した男女などで、 心に仏を感じ、 目に不思議な光明を見たものは、 この国に二百人以上もいた。 仏像の足跡を万山ばんざんに見たり、 光り輝く仏像が*松しょう江こうに浮びあがったり、 *清せい涼りょう台だいの下には満月のような仏のすがたを見ることができ、 *雍門ようもんの外には仏塔の影を見ることができるようになった。 また、 晋の南平なんぺい王おうは尊い仏像を見て仏の心を感じ、 斉の*文宣ぶんせん帝ていはこれから渡来する仏の歯を夢の中ですでに見たという。 斉の*高帝こうていは一度で仏像の鋳造に成功したが、 宋そうの*明帝めいていは四度企てても成功しなかった。 このような例は数多くあり、 とても一々述べられるものではない。 あなたが見ることができないからといって、 これらの不思議な出来事を、 どうして否定することができようか。
ところで、 すべての徳をそなえたものを涅槃といい、 すべての道に通じたものを*菩ぼ提だいといい、 すべての智慧をおさめたものを*仏ぶっ陀だという。 わが国の言葉すなわち漢語で、 インドの言葉すなわち梵語を翻訳すれば、 双方でいう仏のことが明らかになり、 信じることができるのである。 どのようにして明らかになるかというと、 仏陀は漢語で大覚といい、 菩提は漢語で大道といい、 涅槃は漢語で無為というのである。 ところが、 あなたたちはいつも菩提の大地をふみながら、 大道が菩提の別名であることを知らない。 身を大覚の境界に受けながら、 まだ大覚が仏陀の訳名であることに慣れていないのである。 だから荘子は、 «大覚があって、 はじめて大夢であったことを知る» というのである。 これについて郭かく象しょうの註釈には、 «覚とは聖人のことである。 すなわち、 心にわずらいがあるものはまだ覚ではなく、 みな夢なのである» といい、 さらに註釈して «孔子とその弟子の子し游ゆうとは、 まだ言葉を離れて心にさとることができない。 だから大覚ではないのである» といっている。 そこで、 君子は «孔子の教えは言葉で語ることに尽きてしまっている» というのである。
さとりの智慧が静かに照らし出す世界は、 いわゆる識別や認知といったはたらきでは知ることができない。 すなわち、 言葉で表すこともできず、 心で考えることもできない。 だから言葉を離れているのである。 さとりそのものは、 *法身ほっしん・*般若はんにゃ・*解げ脱だつの三徳と常楽我浄の四徳を成就しており、 静寂であって何ものにもわずらわされることがない。 だから解脱というのである。 これが、 その心にさとってすべてのわずらいを離れるということである。 老子は聖人であるといっても、 はるかに仏に及ばない。 なぜなら、 前漢の*劉向りゅうきょうが記した故旧の記録を調べてみると、 «仏教経典が中国に伝わってから百五十年の後に、 老子は 『老子道徳経』 を説いたのである» とあり、 つまり荘子も老子も、 ともに仏教経典を見て学んだのであって、 彼らの説く教えには、 ところどころにその影響が見られることを考えるべきである” (中略)
『正法念経』 に説かれている。 “もし人が戒律をたもたないなら、 神々の力は衰えて阿修羅の勢いが盛んになり、 善竜は力がなくなって悪竜が力を持つ。 悪竜が力を持つと、 霜や雹を降らし、 時ならぬ暴風や豪雨のために、 穀物は実らず、 疫病が次々に流行はやり、 人々は飢えに苦しみ、 お互いに殺しあう。 もし人が戒律をたもつなら、 多くの神々はその威光を増し、 阿修羅の勢いは衰え、 悪竜は力がなくなって善竜が力を持つようになる。 善竜が力を持てば、 風も雨も時にしたがい、 四季もおだやかで、 よい雨が降って穀物は豊かに実り、 人々は安らぎ、 戦い争うこともなくなり、 疫病も流行らない” (中略)
君子がいう。 “道教の 『大だい霄しょう隠書いんしょ』 や 『無む上じょう真書しんしょ』 などには、 «*無む上じょう大道だいどう君くんである老子の治めるところは、 第五十五重の無ぶ極きょく大だい羅ら天てんのうち、 玉きょく京けいの上にあって、 七宝の台、 金の床、 玉ぎょくの机があり、 仙童・仙女にかしずかれ、 *三さん十じゅう三天さんてん・三界さんがいの外に住んでいる» といっている。 『神仙しんせん五ご岳がく図ず』 を調べてみると、 «大道天尊である老子は、 太玄たいげんの都、 玉ぎょく光こうの州、 金真きんしんの郡、 天保てんぽうの県、 元明げんめいの郷、 定てい志しの里を治めている。 そこはわざわいの及ばないところである» とあり、 『霊書れいしょ経けい』 には、 «大たい羅ら天は、 五億五万五千五百五十五重の天の上にある世界である» とある。 また 『五岳図』 には、 «都は "みやこ" という意味である。 太上大道は道の中でもとくにすぐれた道であり、 神明しんめい君最くんさいである老子は静かに太玄の都に住んでいるのである» とある。 さらに 『諸天しょてん内音ないいん』 には «神々が仙人たちとともに楼都の鼓を鳴らし、 この美しい都に集まって老子を楽しませている» とある”
道教から天子にたてまつった目録について調べてみると、 みな “宋人の*陸りく修しゅう静せいの目録によって、 千二百二十八巻をつらねた” といっている。 もともとは、 雑書や、 『*韓かん非子ぴし』 や 『*淮え南なん子じ』 などの諸子のものを入れていない。 ところが、 いまこの道教のものは二千四十巻の書物をあげている。 その中の多くは、 『*漢書かんじょ芸文げいもん志し』 からとってきて、 勝手に八百八十四巻を書きつけ、 道教の経や論書としているのである。 (中略)
変化の術を説いたという陶とう朱公しゅこうについて調べてみると、 この人こそがあの*范蠡はんれいであり、 親しく越王の*勾践こうせんに仕えた人物である。 しかし、 勾践も范蠡も、 ともに呉に捕えられ、 糞をなめ尿を飲み、 実に悲惨なことであった。 また、 范蠡の子は斉の国に殺されている。 父の范蠡がすでに変化の術を会得していたのなら、 どうしてその変化の術を使って難を逃れることができなかったのであろうか。 また、 『造立ぞうりつ天てん地ち記き』 を調べてみると、 “老子は、 *幽王ゆうおうの皇后の腹に宿って生れた” とある。 すなわち老子は幽王の子である。 また “蔵書室の役人であった” とあるから、 一方では幽王の家臣でもある。 『*化胡かこ経けい』 には、 “老子は漢の時代に*東方とうぼう朔さくであった”という。 もしそれが本当であるなら、 幽王が西方の異民族に殺された時、 どうして君主であり父親である幽王を愛して神仙の護符を与え、 幽王が死なないようにできなかったのであろうか。 (中略)
さきに陸修静の目録について触れたが、 この目録にはもともと正本がなく、 なんとも誤りの多いものではないか。 だから、 陸修静が目録をつくったということ自体がすでに大きないつわりであり、 それによったといういまの道教の目録は、 いつわりの中のいつわりである」 (以下略)
【106】 また次のようにいっている (弁正論)。「『涅槃経』 の中に、 “道には九十六種あるが、 ただ、 仏教だけが正しい道である。 その他の九十五種は、 すべてみなよこしまな道である” と説かれている。 わたしは、 よこしまな道を捨てて如来に仕える。 もし公卿の中で、 わたしと同じく如来に帰依しようと誓うものは、 それぞれさとりを求める心をおこすがよい。 老子・周公・孔子などは、 如来の弟子として人々を導くといっても、 すでによこしまな道である。 ただ世俗の善を説くにすぎず、 凡俗を離れてさとりの世界に入ることはできない。 公卿・官吏や、 諸侯・王家の一族の人々は、 いつわりの教えをひるがえしてまことの教えにつき、 よこしまな道を捨てて正しい道に入るべきである。 このようなわけで、 仏教の 『*成じょう実論じつろん』 には次のように説かれている。 “もし、 よこしまな道に仕えてこれを重んじ、 仏法を軽んじるなら、 それはよこしまな考えである。 もし、 どちらに対しても等しい心であれば、 それは善いとも悪いともいえず、 善悪のどちらにもあたらない。 もし、 仏に仕えて強く信じ、 老子をあまり信じていないなら、 それは清らかな信である。 清らかとは表も裏もともに清らかで、 煩悩の汚れやわずらいなどがみな尽きていることであり、 信とは正しい道理を信じてよこしまでないということである。 このようなわけで清らかな信を得た仏弟子という。 それ以外はみなよこしまな考えである。 清らかな信ということはできない”
老子のよこしまな教えを捨てて、 仏法の真実の教えに入るがよい」
【107】 善導大師が 『法事讃』 にいわれている。「上方の世界におられる仏がたもまた数限りなくおいでになる。 その仏がたが舌相を示してお説きになるのも、 *十じゅう悪あくや*五ご逆ぎゃくの罪を犯すもののためである。 このようなものは仏法を疑い謗ることが多く、 よこしまな教えを信じて鬼神に仕え、 神々や悪魔にささげものをして、 誤った考えで恩恵を求め、 福が得られると思っていても、 思わぬわざわいやさわりがますます多くなる。 長年病の床に臥し、 耳も聞えなくなり目も見えなくなり、 足が折れたり手が引きつるなど、 神々に仕えてもこのような報いを受けたもののためにお説きになるのである。 どうしてそのような迷いの行いを捨て去り、 阿弥陀仏の本願を信じないのだろうか」
【108】 *天台てんだいの 『*法界ほうかい次し第だい』 にいっている。「一つには、 仏に帰依したてまつる。 『涅槃経』 には、 “仏に帰依するものは、 最後まで仏教以外のさまざまな神々に帰依することがあってはならない” と説かれている。 また、 “仏に帰依するものは、 決して地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがない” と説かれている。
二つには、 法に帰依したてまつる。 これは釈尊の説かれた教えとその法に帰依して、 その通り修めなさいということである。
三つには、 僧に帰依したてまつる。 これは出家して声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えを正しく修め行じるものたちに帰依することをいう。 だから経典には、 “永久に仏教以外のさまざまな教えに帰依することがない” と説かれている」
【109】 *慈じ雲うん大師が 『*楽邦らくほう文類もんるい』 にいっている。「ところで、 神々を祭る法は、 インドでは*ヴェーダ、 中国では*祀し典てんという。 しかしこれらは世俗の迷いを離れるものでなく、 真実の立場から論じれば、 世俗の人々を真実へと誘うための手だてにすぎない」
【110】 高麗の*諦観たいかん法師が 『*天台てんだい四し教きょう儀ぎ』 にいっている。「餓鬼の境界を梵語ではプレータという。 この境界のものはまた、 さまざまな世界の中に存在する。 功徳のある餓鬼は、 山林や墓所の神となり、 功徳のない餓鬼は、 汚い場所に住み、 飲むことも食べることもできず、 いつもむち打たれ、 河や海を塞ぐような仕事に使われて、 はかり知れない苦しみを受ける。 人にへつらい欺く心を持ち、 *下げ品ぼんの五逆十悪の罪をつくったものがこの境界に生れるのである」
【111】 *神じん智ち法師が 『*天台てんだい四し教きょう儀ぎ集しゅう解げ』 にいっている。「餓鬼の境界とは、 常に飢えていることを餓といい、 鬼という字は帰に通じる。 『*尸子しし』 という書物には “昔は死んだ人を帰人といった” とある。 また、 人の神を鬼といい、 地の神を祇という。 (中略) 形は人に似ており、 また獣などのようでもある。 心が正直でないためにへつらい欺くものという」
【112】 *大だい智ち律師が 『*盂蘭うら盆ぼん経ぎょう疏しょ新しん記き』 にいっている。「神とは鬼神のことである。 この境界は*天てん上じょう・修しゅ羅ら・餓鬼がき・地じ獄ごくの四つの世界に属している」
【113】 *戒かい度ど律師が 『*観かん経ぎょう扶ふ新論しんろん』 にいっている。「悪魔はすなわち地獄や餓鬼や畜生の世界に属している」
【114】 『*摩訶まか止し観かん』 に悪魔のことがらを明かすところでいっている。「二つに、 悪魔の生じるありさまを明かすと、 その属しているところもさまざまであるが、 総じて悪魔というのである。 その違いを細かく調べてみると、 次の三種以外にはない。 すなわち、 一つには*慢まん悵ちょう鬼きであり、 二つには*時媚じみ鬼きであり、 三つには*魔羅まら鬼きである。 これら三種の悪魔が生じるありさまは、 それぞれに異なっている」
【115】 源信和尚が 『往生要集』 に、 『摩訶止観』 によっていわれている。「悪魔は、 煩悩によってさとりをさまたげるものである。 鬼は、 病をおこして命を奪うものである」
【116】 『論語』 にいっている。「*季路きろが問う。 “鬼神に仕えてもよいものでしょうか” と。 孔子が答える。 “仕えてはならない。 人がどうして鬼神に仕えることなどできようか”」
【117】 わたしなりに考えてみると、 聖道門のそれぞれの教えは、 行を修めさとりを開くことがすたれて久しく、 浄土真実の教えは、 さとりを開く道として今盛んである。
しかし、 諸寺の僧侶たちは、 教えに暗く、 何が真実で何が方便であるかを知らない。 朝廷に仕えている学者たちも、 行の見分けがつかず、 よこしまな教えと正しい教えの区別をわきまえない。 ※このようなわけで、 *興福こうふく寺じの学僧たちは、 *後ご鳥羽とば上じょう皇こう・*土つち御み門かど天皇てんのうの時代、 *承じょう元げん元年二月上旬、 朝廷に専修念仏の禁止を訴えたのである。 天王も臣下のものも、 法に背き道理に外れ、 怒りと怨みの心をいだいた。 そこで浄土真実の一宗を興された祖師源空上人をはじめ、 その門下の数人について、 罪の内容を問うことなく、 不当にも死罪に処し、 あるいは僧侶の身分を奪って俗名を与え、 遠く離れた土地に流罪に処した。 わたしもその一人である。 だから、 もはや僧侶でもなく俗人でもない。 このようなわけで、 禿とくの字をもって自らの姓としたのである。 源空上人とその門弟たちは、 遠く離れたさまざまな土地へ流罪となって五年の歳月を経た。
*順じゅん徳とく天皇の時代、 *建けん暦りゃく元年十一月十七日、 朝廷から許されて、 源空上人は都にお戻りになり、 それ以降は京都東山の西の麓、 *鳥とり辺野べのの北のあたり、 大谷の地にお住いになった。 そして同二年一月二十五日、 正午にお亡くなりになったのである。 その時、 不思議で尊い出来事が数多くあった。 そのことは源空上人の*別の伝記に記されている。
【118】 ところでこの愚禿釈の親鸞は、 *建仁けんにん元年に自力の行を捨てて本願に帰依し、 *元げん久きゅう二年、 源空上人のお許しをいただいて 『選択集』 を書き写した。 同年四月十四日には、 「選択本願念仏集」 という内題の文字と、 「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、 この念仏にほかならない」 というご文、 並びに 「釈綽しゃく空くう」 というわたしの名を、 源空上人が自ら書いてくださった。 また同じ日に、 源空上人の絵像をお借りしてそれを写させていただいた。 同じ元久二年の閏七月二十九日、 その写した絵像に銘として、 「南無阿弥陀仏」 の六字の名号と、 「本願には、 “わたしが仏になったとき、 あらゆる世界の衆生がわたしの名号を称え、 わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな浄土に往生するであろう。 もしそうでなければ、 わたしは仏になるまい” と誓われている。 その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから、 ※重ねて誓われたその本願はむなしいものではなく、 衆生が念仏すれば、 必ず浄土に往生できると知るべきである」 と述べられている 『往生礼讃』 の真実の文を、 源空上人が自ら書いてくださった。 また、 わたしは、 ※夢のお告げをいただいて、 綽空という名をあらためて善信ぜんしんとし、 同じ日に、 源空上人は自らその名を書いてくださった。 この年、 源空上人は七十三歳であった。
『選択集』 は、 関白*九く条じょう兼実かねざね公の求めによって著されたものである。 浄土真実の教えのかなめ、 他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、 拝読するものは容易にその道理に達することができる。 まことに、 たぐいまれなすぐれたご文であり、 この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。 長い年月のうちに、 源空上人の教えを受けた人は数多くいるが、 親疎を問わず、 これを書き写すことを許されたものはごくわずかしかいない。 それにもかかわらず、 わたしは、 すでにその書物を書き写させていただき、 その絵像も写させていただいた。 これは念仏の道を歩んできたことによる恵みであり、 往生が定まっていることのしるしである。 よって、 喜びの涙を押えて、 その次第を書き記すのである。
まことによろこばしいことである。 心を本願の大地にうちたて、 思いを不可思議の大海に流す。 深く如来の慈悲のおこころを知り、 まことに師の厚いご恩を仰ぐ。 よろこびの思いはいよいよ増し、 敬いの思いはますます深まっていく。 そこで、 いまここに浄土真実の教えをあらわす文を抜き出し、 往生浄土のかなめとなる文を集めたのである。 ただ仏の恩の深いことを思うのみであり、 世の人のあざけりも恥とはしない。 この書を読むものは、 信順すればそれが因となり、 ※疑い謗ってもそれが縁となり、 本願のはたらきによって真実の信を得、 浄土においてすぐれたさとりを得るであろう。
【119】 『安楽集』 にいわれている。「真実の言葉を集めて往生の助けにしよう。 なぜなら、 前に生れるものは後のものを導き、 後に生れるものは前のもののあとを尋ね、 果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。 それは、 数限りない迷いの人々が残らず救われるためである」
【120】 このようなわけであるから、 末法の時代に生きる出家のものも在家のものも、 この教えを仰いで、 信じ敬うべきである。 よく知るがよい。
【121】 『華厳経』 の偈に説かれている通りである。「さまざまな行を修める菩薩を見て、 善い心をおこしたり善くない心をおこしたりすることがあっても、 菩薩はみな摂め取って救うであろう」 
 

 

 
 

 

 
 

 

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