剣豪

宮本武蔵 / 武蔵1武蔵2武蔵3武蔵4壮年期武蔵5哲人武蔵6武蔵7武蔵の名言五輪書1五輪書2五輪書3技の解説五輪書4兵法思想五輪書5五輪書6二天一流青木城右衛門石川左京竹村与右衛門武蔵諸話1武蔵諸話2・・・
佐々木小次郎 / 小次郎1小次郎2小次郎3人物像小次郎4生誕小次郎5生誕小次郎6小次郎7実在の人?小次郎諸話1小次郎諸話2・・・
塚原卜伝 / 卜伝1卜伝2卜伝3卜伝4卜伝5卜伝6卜伝7諸話1諸話2・・・
上泉信綱 / 信綱1信綱2信綱3信綱4信綱5「言継卿記」信綱6信綱7新陰流信綱諸話1信綱諸話2・・・
伊藤一刀斎 / 一刀斎1一刀斎2一刀斎3長遠山常楽寺一刀斎4一刀斎5一刀斎6一刀斎先生剣法書一刀斎諸話・・・
柳生石舟斎宗厳 / 柳生1柳生2柳生3柳生氏柳生新陰流新陰柳生流勢法柳生諸話1柳生諸話2・・・
剣豪 / 東郷重位胤栄林崎甚助丸目長恵1丸目長恵2丸目長恵諸話長谷川宗喜寺尾孫之允寺尾求馬助夢想権之助中条兵庫頭長秀富田勢源中条流系譜鐘捲自斎と戸田一刀斎柳生新陰流源流考山崎左近将監剣道観疋田景兼支配層と剣術小野忠明上田攻め松林蝙也斎荒木又右衛門柳生十兵衞針ヶ谷夕雲山内甚五兵衛愛洲伊香斎柳生宗矩剣豪伝諸岡一羽斎藤伝鬼房冨田重政木村友重・・・
剣豪諸話 / 新渡戸稲造の「武士道」卜伝の生きた戦国時代堺の戦い物語宝蔵院流槍術1宝蔵院流槍術2剣の四君子柳生石舟斎林崎甚助高橋泥舟小野忠明
 

雑学の世界・補考

 
   1450  1500  1550  1600  1650  
愛洲伊香斎                                                     
塚原卜伝                                                    
上泉信綱                                                    
胤栄                                                     
富田勢源                                                     
柳生宗厳                                                     
諸岡一羽                                                     
疋田景兼                                                     
丸目長恵                                                     
林崎甚助                                                     
斎藤伝鬼坊                                                     
伊藤一刀斎                                                     
佐々木小次郎                                                     
東郷重位                                                     
富田重政                                                     
小野忠明                                                     
柳生宗矩                                                     
鐘捲自斎通家                                                     
宮本武蔵                                                     
木村助九郎                                                     
松林左馬之助                                                     
荒木又右衛門                                                     
柳生十兵衛                                                     
針ヶ谷夕雲                                                     
山内甚五兵衛                                                     
寺尾孫之允                                                     
寺尾求馬助                                                    
小田切一雲                                                     
深尾角馬                                                     
伊庭秀明                                                     

宮本武蔵

   1584 - 1643 / 1582 - 1645
宮本武蔵 1

 

江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載がある。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。
本姓は藤原氏、名字は宮本、または新免。幼名は辨助(べんのすけ)、通称(百官名)は武蔵、諱は玄信(はるのぶ)である。号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている。
熊本市弓削の墓碑は「新免武蔵居士」、養子・宮本伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654年)に建てた『新免武蔵玄信二天居士碑』(以下、小倉碑文)には「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」とある。
武蔵死後71年目の『本朝武芸小伝』(1716年)で政名なる名が紹介された。これを引用した系図や伝記、武蔵供養塔が広く紹介されたことから諱を「政名」とする武蔵の小説や紹介書が多数あるが、二天一流門弟や小倉宮本家の史料にこの「政名」は用いられていない。逆に史的信頼性が完全に否定された武蔵系図等で積極的に用いられている。
出生
生年
『五輪書』の冒頭にある記述「歳つもりて六十」に従えば、寛永20年(1643年)に数え年60歳となり、生年は天正12年(1584年)となる。江戸後期にまとめられた『小倉宮本家系図』、並びに武蔵を宮本氏歴代年譜の筆頭に置く『宮本氏正統記』には天正10年(1582年)に生まれ、正保2年(1645年)享年64で没したと記されている。
出生地
『五輪書』に「生国播磨」の記載があり、養子・伊織が建立した『小倉碑文』、江戸中期の地誌『播磨鑑』や「泊神社棟札」(兵庫県加古川市木村)等の記載による播磨生誕説(兵庫県高砂市米田町)と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の美作国宮本村で生まれたという記載による美作生誕説がある。美作生誕説は、吉川英治の小説『宮本武蔵』などに採用されたため広く知られ、岡山県および美作市(旧大原町)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っている。
出自
父は赤松氏の支流・新免氏の一族・新免無二とされているが異説もある。『小倉宮本系図』には武蔵の養子・伊織の祖父で別所氏の家臣・田原家貞を実父とし、武蔵はその次男であるとされているが、伊織自身による『泊神社棟札』や『小倉碑文』にはそのことは記されていない。また、武蔵や伊織に関する多くの記事を載せている江戸中期に平野庸脩が作成した地誌『播磨鑑』にも武蔵が田原家の出であるとはまったく触れられていない。
生涯
『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。
『五輪書』には21歳の頃に、京都で天下の兵法者(吉岡一門と考えられる) と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。この内容は吉川英治『宮本武蔵』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。
武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。
大坂の陣では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。
その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行ったことが伝えられている。
元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。
寛永元年(1624年)、尾張国に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。
寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる。
寛永期、吉原遊廓開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。
島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。
寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。
正保2年5月19日(1645年6月13日)、千葉城の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。
決闘伝説に関する諸説
吉岡家との戦い
通説
『五輪書』には「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。この「天下の兵法者」は、『小倉碑文』に記された「扶桑第一之兵術吉岡」すなわち吉岡家と考えられる。
決闘の経緯は『小倉碑文』の記録を要約すると以下の通りとなる。
「武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。吉岡家は代々足利将軍家の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。足利義昭の時に新免無二を召して吉岡と兵術の試合をさせた。三度の約束で、吉岡が一度、新免が二度勝利した。それにより、新免無二は「日下無双兵法術者」の号を賜った。このこともあって、武蔵は京で吉岡と戦ったのである。最初に吉岡家の当主である吉岡清十郎と洛外蓮台野で戦った。武蔵は木刀の一撃で清十郎を破った。予め一撃で勝負を決する約束だったので命を奪わなかった。清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、治療の後、清十郎は回復したが、兵術をやめ出家した。その後、吉岡伝七郎と洛外で戦った。伝七郎の五尺の木刀を、その場で武蔵が奪いそれで撃ち倒した。伝七郎は死亡した。そこで、吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎と洛外下松で勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、武蔵を殺害しようとした。武蔵はそのことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破った。この一連の戦いにより、吉岡家は滅び絶えた。」
宮本伊織が武蔵の菩提を弔うために承応3年(1654年)に豊前国小倉藩(現北九州市小倉北区)手向山山頂に建立した顕彰碑文。
『小倉碑文』などの記録は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られる。吉岡家の記述に限定すれば、武蔵に完敗し引退した清十郎、死亡した伝七郎、洛外下松の事件の記録は他の史料になく、創作の可能性がある。また、兵仗弓箭(刀・槍・薙刀などの武具と弓矢)で武装した数百人の武人を相手に一人で勝利するなどの記述は現実離れしている。同様に新免無二と吉岡家との足利義昭御前試合に関する逸話も他の史料になく、因縁を足利将軍家と絡めて描くことで物語性を高めるための創作の可能性がある。
福岡藩の二天一流師範、立花峯均が享保12年(1727年)に著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』にも、吉岡家との伝承が記されている。これを要約すると以下の通り。
「清十郎との試合当日、武蔵は病になったと断りを入れたが、幾度も試合の要求が来た。竹輿に乗って試合場に到着した武蔵を出迎え、病気の具合を聞く為に覗き込んだ清十郎を武蔵は木刀で倒した。清十郎は後に回復したが、兵術を捨てて出家した。伝七郎は洛外で五尺の木刀を用いて武蔵に立ち向かったが、木刀を奪われ撲殺された。又七郎は、洛外下り松のあたりに鎗・薙刀・弓矢で武装した門人数百人を集めて出向いた武蔵側にも十数人門人がおり、若武者の一人が武蔵の前に立つが弓矢で負傷した。これを見た武蔵は門人達を先に退却させ、自らが殿となって、数百人の敵を打払いつつ退却した。武蔵は寺に逃げ込み、寺伝いに退却し、行方をくらませた。与力同心がその場に駆けつけ、その場を収めた。この事がきっかけで吉岡家は断絶した。」
この文書には『小倉碑文』の全文が転記されており、碑文の内容を基に伝承を追記し、内容を発展させたものであると考えられる。
細川家筆頭家老・松井氏の家臣で二天一流師範、豊田正脩が宝暦5年(1755年)に完成させた『武公伝』には、正脩の父・豊田正剛が集めた武蔵の弟子達が語った生前の武蔵に関する伝聞が記載されている。これには、道家角左衛門が生前の武蔵から度々聞いた話として、洛外下松での詳しい戦いの模様が記されている。これによると、
「武蔵に従いたいという弟子に対して、集団同士の戦闘は公儀が禁ずるところであると断った。清十郎・伝七郎のときは、遅れたことで勝利したので、今回は逆のことをやることにした。下松に行く途中に八幡社の前を通ったとき、普段はやらない勝利祈願をしようとしたが止めた。まだ夜のうちに下松に来て松陰に隠れていた。清十郎の子である又七郎が門弟数十人を連れてやってきた。「武蔵待得タリ」と叫びながら現れ、又七郎を斬り殺した。門弟が斬り付け、また、半弓で射られ矢が武蔵の袖に刺さったが、進んで追崩したため門弟は狼狽し縦横に走散し、勝利を得た。」
この説話は、武蔵が度々語ったものとして当時の細川藩の二天一流の門弟間に伝えられていた伝聞を記録したものである。『武公伝』の内容は正脩の子・豊田景英によって『二天記』に再編集され、明治42年(1909年)に熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』(通称「顕彰会本」)で『二天記』が原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』で顕彰会本の内容を用いたことから現代にも広く知られるようになった。
異説
福住道祐が貞永元年(1684年)に著した『吉岡伝』に武蔵と吉岡家の対決の異説が記されている。この文書には吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重という二人の吉岡側の人物と、松平忠直の家臣で無敵流を号し二刀の名手で北陸奥羽で有名であるとの肩書きの宮本武蔵が登場する。洛外下松のくだりは記されていない。また試合内容が碑文と全く異なるため、直綱が清十郎で直重が伝七郎であると単純に対応づけすることはできない。要約すると以下の通り。
「源左衛門直綱との試合の結果、武蔵が額から大出血し、直綱勝利と引分けの2つの意見が出た。直綱は再試合を望んだが武蔵はこれを拒否し、又市直重戦を希望した。しかし直重戦では武蔵が逃亡し直重の不戦勝となった。」
これは宮本武蔵と吉岡家が試合をし引き分けたという内容の最初の史料である。ただし、『吉岡伝』は朝山三徳・鹿島林斎という原史料不明の武芸者と同列に宮本武蔵が語られ、前述のようにその肩書きは二刀を使うことを除き現実から乖離しており、創作の可能性がある。この史料は昭和になり司馬遼太郎が小説『真説宮本武蔵』の題材にしたことから、武蔵側の記録に対する吉岡側の記録として紹介される機会が多い。
また巷間には、武蔵吉岡戦を引き分けとする逸話が伝承されている。
○日夏繁高が享保元年(1716年)に著した『本朝武芸小伝』には、巷間に伝わる武芸者の逸話が収録されているが、ここに武蔵と吉岡が引き分けた二つの話が記されている。
○柏崎永以が1740年代に編纂した『古老茶話』も巷間の伝承を記録したものであるが、宮本武蔵と吉岡兼房の対戦が記されており、結果はやはり引き分けと記されている。
また『武公伝』には道家角左衛門の説話として、御謡初の夜の席での雑談で、志水伯耆から武蔵が先に清十郎から打たれたという話があるが本当か、と武蔵が訊ねられ武蔵が否定する話が記述されている。『武公伝』の話に従えば、晩年の武蔵は弟子等に盛んに吉岡に勝利したことを語っていたが、武蔵の生前に巷間に「吉岡が勝利した」という異説があったと考えることができる。
その後の吉岡家
『小倉碑文』や『兵法大祖武州玄信公伝来』『武公伝』には武蔵との戦いで吉岡家が絶えたとあるが、吉岡家がその後も存続したことは『駿河故事録』等、いくつかの史料からも推測できる。それらの史料によると、慶長19年(1614年)に禁裏での一般にも開放された猿楽興行で、吉岡清次郎重賢(建法)なる者が警護の者と諍いをおこし切り殺されるという事件がおこり、これにより兵術吉岡家は滅んだとあり、武蔵戦以降も吉岡家は存続している。
『本朝武芸小伝』にも猿楽興行の異説があり、事件を起こしたのは吉岡又三郎兼房であり、京都所司代・板倉勝重は事件の現場に吉岡一族の者が多く居たが、騒ぎたてず加勢しなかったため吉岡一族を不問にしたとある。この説を取るならば武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。
『吉岡伝』にも同様の記録があり、吉岡清次郎重堅が事件を起こし、徳川家康の命により兵術指南は禁止されたが吉岡一族の断絶は免れたとある。更に翌年の大坂の陣で吉岡源左衛門直綱・吉岡又市直重の兄弟が豊臣側につき大坂城に篭城、落城とともに京都の西洞院へ戻り染物を家業とする事になったとあり、この説でも武蔵戦・猿楽興行事件以降も吉岡家は存続している。
巖流島
武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巖流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に当時豊前小倉藩領であった舟島で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。
試合の行われた時期については諸説あり、定かではない。
○享保12年(1727年)に丹治峯均によって記された、黒田藩の二天一流に伝わる伝記『丹治峯均筆記』では「辨之助十九歳」と記述しており、ここから計算すると慶長7年(1602年)となる。
○天明2年(1782年)に丹羽信英によって記された、同じく二天一流に伝わる伝記『兵法先師伝記』では「慶長六年、先師十八歳」と記述しており、慶長6年(1601年)となる。
これらの説では武蔵が京に上り吉岡道場と試合をする前の十代の頃に巖流島の試合が行われたこととなる。
一方、熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『武公伝』では試合は慶長17年(1612年)とされる。同様に熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『二天記』では慶長17年(1612年)4月とされる。これらの説では武蔵が京に上った後、巖流島の試合が行われたことになる。また『二天記』内に試合前日に記された武蔵の書状とされる文章に4月12日と記されており、ここから一般に認知され記念日ともなっている慶長17年4月13日説となったが、他説に比して信頼性が高いという根拠はない。
この試合を記した最も古い史料である『小倉碑文』の内容を要約すると、
「岩流と名乗る兵術の達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ。武蔵は、貴方は真剣を使用して構わないが自分は木刀を使用すると言い、堅く勝負の約束を交わした。長門と豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者が対峙した。岩流は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した。以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。」とある。
『小倉碑文』の次に古い記録は試合当時に門司城代であった沼田延元(寛永元年(1624年)没)の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、近年再発見された『沼田家記』がある。内容を現代語で要約すると以下の通り。
「宮本武蔵玄信が豊前国に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。門人同士の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。試合の結果、小次郎が敗れた。小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。勝負に敗れ気絶した後、蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。延元は武蔵を門司城に保護し、その後鉄砲隊により警護し豊後国に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。」
武蔵が送り届けられたのが豊後国のどこであったのかには以下の説が挙げられる。
○豊後国杵築は細川家の領地で慶長年間は杵築城代に松井康之・松井興長が任じられていた。宮本無二助藤原一真(原文は宮本无二助藤原一真)が慶長12年(1607年)、細川家家臣・友岡勘十郎に授けた当理流の免許状が現存する。これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、武蔵は杵築に住む無二の許へ送られたことになる。
○当時、日出藩主であり、細川忠興の義弟であった木下延俊の慶長18年(1613年)の日記に延俊に仕えていた無二なる人物のことが記されている。これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、試合当時も豊後日出に在住していた無二の下へ武蔵は送られたことになる。
様々な武芸者の逸話を収集した『本朝武芸小伝』(1716年)にも巖流島決闘の伝説が記されており、松平忠栄の家臣・中村守和(十郎右衛門)曰くと称して、『沼田家記』の記述と同様、単独渡島の巖流に対し武蔵側が多くの仲間と共に舟島に渡っている様子が語られている。
『武将感状記』(1716年、熊沢淡庵著)では、武蔵は細川忠利に仕え京から小倉へ赴く途中、佐々木岸流から挑戦を受けたので、舟島での試合を約し、武蔵は櫂を削った二尺五寸と一尺八寸の二本の木刀で、岸流は三尺余りの太刀で戦って武蔵が勝ったとしている。
江戸時代の地理学者・古川古松軒が『二天記』とほぼ同時代の天明3年(1783年)に『西遊雑記』という九州の紀行文を記した。ここに当時の下関で聞いたという巖流島決闘に関する民間伝承が記録されている。あくまでも試合から100年以上経った時代の民間伝承の記録であり、史料としての信頼性は低いが、近年再発見された『沼田家記』の記述に類似している。内容を現代語訳すると以下の通りである。
「岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。赤間ヶ関(下関)で地元の伝承を聞いたが、多くの書物の記述とは違った内容であった。岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、浦の者が「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください」と岩龍を止めた。しかし岩龍は「武士に二言はない、堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」と言って強引に舟島に渡った。浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、今のように岩龍島と呼ぶようになった。真偽の程はわからないが、地元の伝承をそのまま記し、後世の参考とする。ある者は宮本の子孫が今も小倉の家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向を向いているという。」
『武公伝』には、巖流島での勝負が詳述されている。これによると
「巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巖流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。
慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。」
この話は、武蔵の養子・伊織の出自が泥鰌捕りの童であったという話と共に、戦いの時に武蔵が島に渡るときの船の漕ぎ手であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されている。『武公伝』で慶長17年(1612年)に行なわれたとされる巌流との戦いで漕ぎ手だった者が100年後に正脩の祖父の豊田正剛に語った話とされている。仮に、この勝負の内容が、事実であれば、細川家でこれだけの事件が起こったにもかかわらず、それについての記述が『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕える松井家中になく、藩外の怪しげな人物からの伝聞しかなかったことになる。また、前述の『沼田家記』の内容とも大きく異なっている。
『武公伝』では武蔵の弟子たちが語ったとされる晩年の武蔵の逸話が多く記載されているが、岩流との勝負については、村屋勘八郎の話以外、弟子からの逸話はなく、松井家家臣の田中左太夫が幼少の頃の記憶として、松井興長に小次郎との試合を願い出た武蔵が、御家老中寄合での決定を知らず下関に渡り、勝負の後に興長に書を奉ったという短い話のみ記載されているのみである。これは、晩年の武蔵が度々吉岡との勝負を語っていたという逸話と対照的であり、『五輪書』に岩流との勝負についての記述が全くない事実を考えると晩年の武蔵は舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測することができる。
『本朝武芸小伝』(1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、『武公伝』を再編集した『二天記』(1776年)によって、岩流の詳しい出自や氏名を佐々木小次郎としたこと、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が疑わしい内容によって詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』で原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』でその内容を用いたことから広く知られるようになった。
また、様々な文書で岩流を指し佐々木と呼称するようになるのは、元文2年(1737年)巖流島決闘伝説をベースとした藤川文三郎作の歌舞伎『敵討巖流島』が大阪で上演されて以降である。この作品ではそれぞれに「月本武蔵之助」「佐々木巖流」という役名がつけられ、親を殺された武蔵之助が巖流に復讐するという筋立てがつけられている。
人物
民間伝承
武蔵にゆかりのある土地、武道の場などで語られる事があるが、明確な根拠や史実を記したとされる史料に基づくものではない。
○人並み外れた剛力の持ち主で片手で刀剣を使いこなすことができた。これが後に二刀流の技術を生み出すに至った。
○祭りで太鼓が二本の撥を用いて叩かれているのを見て、これを剣術に用いるという天啓を得、二刀流を発案した。
○自身の剣術が極致に達していた頃、修練のために真剣の代わりに竹刀を振ってみると、一度振っただけで竹刀が壊れてしまった。そのため木剣を使い始めたという。
○立会いを繰り返すうちに次第に木剣を使用するようになり、他の武芸者と勝負しなくなる29歳直前の頃には、もっぱら巖流島の闘いで用いた櫂の木刀を自分で復元し剣術に用いていた。
○二本差しや木刀を用いるようになったのは、日本刀の刀身が構造上壊れやすくなっているので、勝負の最中に刀が折れるのを嫌ったため。
○吉岡家の断絶は、武蔵が当時における、武者修行の礼儀を無視した形で勝負を挑んだため、さながら小規模な合戦にまで勝負の規模が拡大し、吉岡がそれに敗れてしまったためである。
芸術家としての武蔵
武蔵没後21年後の寛文6年(1666年)に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が既に記されている。また『武公伝』には、「武公平居閑静して(中略)連歌或は書画小細工等を仕て日月を過了す、故に武公作の鞍楊弓木刀連歌書画数多あり」と書かれている。
現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、熊本での作品は、細川家家老で八代城主であった松井家や晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家を中心に残されたものが所有者を変えながら現在まで伝えられている。
水墨画については二天の号を用いたものが多い。筆致、画風や画印、署名等で真贋に対する研究もなされているが明確な結論は出されていない。
主要な画として、「鵜図」「正面達磨図」「面壁達磨図」「捫腹布袋図」「芦雁図」(以上永青文庫蔵)「芦葉達磨図」「野馬図」(以上松井文庫蔵)「枯木鳴鵙図」(和泉市久保惣記念美術館蔵)「周茂叔図」「遊鴨図」「布袋図」(以上岡山県立美術館蔵)「布袋観闘鶏図」(福岡市美術館蔵)などがある。
書としては、「長岡興長宛書状」(八代市立博物館蔵)「有馬直純宛書状」(吉川英治記念館蔵)「独行道」(熊本県立美術館蔵)「戦気」(松井文庫蔵)が真作と認められている。
伝来が確かな武蔵作の工芸品としては、黒漆塗の「鞍」、舟島での戦いに用いた木刀を模したとされる「木刀」一振。二天一流稽古用の大小一組の「木刀」が松井家に残されている。また、武蔵作とされる海鼠透鐔が島田美術館等にいくつか残されているが、武蔵の佩刀伯耆安綱に付けられていたとされる、寺尾家に伝来していた素銅製の「海鼠透鐔」(個人蔵)が熊本県文化財に指定されている。
諸話
身の丈
『兵法大祖武州玄信公伝来』は、武蔵の身の丈を6尺(換算:曲尺で約182センチメートル相当)であったと記している。当時の日本人の平均身長からしてみれば、稀に見る大男であったらしい。
風体など
武将・渡辺幸庵の対話集『渡辺幸庵対話』の宝永6年9月10日(グレゴリオ暦換算:1709年10月12日)の対話によると、武蔵とは以下のような者であったという。
「竹村武藏といふ者あり。自己に劔術けんじゆつを練磨れんまして名人めいじん也なり。但馬たんばにくらへ候さふらひてハは、碁にて云ハいふは井目せいもくも武藏強つよし。」「然しかるに第一の疵きずあり。洗足せんそく行水ぎやうずいを嫌ひて、一生いつしやう沐浴もくよくする事なし。外へはたしにて出、よこれ候さふらへは是これを拭のごせ置おく也なり。夫故それゆゑ衣類よこれ申まをす故ゆゑ、其その色目いろめを隠す爲ために天鵡織てんむおり兩面りやうめんの衣服を着、夫故それゆゑ歴々に疎うとして不近付ちかづけず。」 — 『渡辺幸庵対話』宝永六年九月十日条
これによれば、囲碁の腕前は手合割を物ともしない相当なものであったらしい。体には一つの大きな疵があって印象に残った様子である。足を洗ったり行水をすることは嫌いで、ましてや沐浴をすることなどあり得ない。裸足で外を出歩き、体などの汚れは布や何かで拭って済ませている。汚れを隠すために天鵡織で両面仕立ての衣服を着ているが、隠しおおせるわけもなく、それゆえに偉い方々とお近付きになれない、という。武蔵が生涯風呂に入らなかったといわれているのは、この史料に基づいた話である。もっとも、『渡辺幸庵対話』の記述には他の多くの史料によって知られている当時の世相と相容れない矛盾点も多く、係る武蔵の人となりに関しても、実際に幸庵が語ったものかどうか、疑問視する研究者もある(※詳細は別項『渡辺幸庵』を参照のこと)。
試合の真偽
『二天記』は、大和国(現・奈良県)人で宝蔵院流槍術の使い手である奥蔵院日栄、伊賀国(現・三重県西部)人で鎖鎌の使い手である宍戸某、江戸の人で柳生新陰流の大瀬戸隼人と辻風左馬助らとの試合を記しているが、『二天記』の原史料である『武公伝』に記載が無く、また、他にそれを裏付ける史料が無いことから、史実ではないと考えられている。
木刀
細川家家老で後に八代城主になった松井寄之の依頼により、巌流島の試合で使用した木刀を模したと伝えられる武蔵自作の木刀が現在も残っている。1984年(昭和59年)には、熊本県がNHK総合テレビの時代劇『宮本武蔵』の放送を記念してこの木刀の複製を販売した。
円明流時代の高弟
青木条右衛門
石川左京
竹村与右衛門
「宮本武蔵」 映画史
宮本武蔵地の巻    嵐寛壽郎             1936
宮本武蔵       片岡千恵蔵            1929
宮本武蔵地の巻    片岡千恵蔵            1937
宮本武蔵風の巻    黒川弥太郎            1937
宮本武蔵草分の人々  片岡千恵蔵 月形龍之介(小次郎)  1940
宮本武蔵栄達の門   片岡千恵蔵 月形龍之介(小次郎)  1940
宮本武蔵剣心一路   片岡千恵蔵 月形龍之介(小次郎)  1940
宮本武蔵一乗寺決闘  片岡千恵蔵            1942
決戦般若坂      近衛十四郎            1942
二刀流開眼      片岡千恵蔵            1943
決闘般若坂      片岡千恵蔵            1943
宮本武蔵       河原崎長十郎 中村翫右衛門(小次郎)1944
武蔵と小次郎     辰巳柳太郎 島田正吾(小次郎)   1952
宮本武蔵       三船敏郎             1954
続宮本武蔵一乗寺決闘 三船敏郎             1955
決闘巌流島      三船敏郎 鶴田浩二(小次郎)    1956
剣豪二刀流      片岡千恵蔵 東千代之介(小次郎)  1956
佐々木小次郎前編   東千代之介 片岡千恵蔵(武蔵)    1957
佐々木小次郎后編   東千代之介 片岡千恵蔵(武蔵)    1957
巌流島前夜      森美樹 北上弥太朗(小次郎)    1959
宮本武蔵       中村錦之助            1961
宮本武蔵般若坂の決斗 中村錦之助            1962
宮本武蔵二刀流開眼  中村錦之助            1963
宮本武蔵一乗寺の決斗 中村錦之助            1964
宮本武蔵巌流島の決斗 中村錦之助 高倉健(小次郎)    1965
真剣勝負       中村錦之助            1971
宮本武蔵       高橋英樹 田宮二郎(小次郎)    1973
巌流島        本木雅弘 西村雅彦(小次郎)    2003
宮本武蔵双剣に馳せる夢 (アニメドキュメンタリー)    2009
武蔵−むさし−    細田善彦 松平健(小次郎)     2019


後年、千恵蔵は“吉川英治−宮本武蔵”に関して、次のように書いている。
吉川英治先生と云えば、立派な作品が数多くありますが、やはり「宮本武蔵」はその代表作品の一つであると思います。私の多くの主演映画の中でも「宮本武蔵」は代表作の一つです。その「宮本武蔵」のタケゾウ時代を最初に主演させてもらったとき、偶々吉川先生が京都ホテルに来られたので、早速お伺いしていろいろお話をしておりましたところ、「千恵さん、これからの俳優は、どんな役が来てもいいように、人間的修養が大切だね」といわれましたが、当時若い私には、そのお言葉の意味がよく理解できなかったのです。つまり、俳優は、演技なり、立廻りがうまければよいのではないか、など生意気なことを思っていました。続いて。「剣心一路の巻」を撮影し終り、その試写を見ますと、私自身でも、役の「武蔵」になりきっていない、何か「なま」のままなのがよくわかりました。当時の新聞の映画評にも、「千恵蔵はまだ武蔵をやる役者ではない」などと酷評されましたが、残念乍ら、私も認めざるを得ないもっともな批評でした。その後、最後の「巌流島の決闘」を撮るまでの時間を、もう一度「宮本武蔵」を、心して読み直しました。心の底に、先生が云われたお言葉が残っていたこともあったのでしょうが、前に読んだ時は只、ストーリーの面白さで「武蔵」の動きだけを頭に描いていたのが、こんどは「武蔵」の心、悩み、がよく理解出来て、修養ということの意味の大切さをしみじみと感じました。「巌流島の決闘」を撮る時、私の人間的、精神的に、少々オーバーですが、十年位は成長したのではないかと思いました。以来、私の俳優としての「悟」を開く大きな転機になったと、京都ホテルでの吉川先生のお言葉を感謝と共に思い出しています。  [片岡千恵蔵「武蔵で得た人間修養」(1968年9月)]  
 
宮本武蔵 2

 

熊本と武蔵の縁
小次郎との巌流島の戦いなど数々の武芸者との勝負を重ねて諸国を修行し、大阪夏の陣や島原の乱へも出陣した武蔵は、寛永17(1640)年8月、57歳の時に熊本入りした。肥後藩の初代藩主細川忠利(ほそかわ ただとし)からの招きがあったからだ。16歳の頃から諸国を行脚(あんぎゃ)した武蔵が、自己と向き合う終焉の地となったのが熊本だった。武蔵と熊本の縁が繋がったのは、彼の養子宮本伊織(みやもと いおり)が明石藩主小笠原忠真(おがさわら ただざね)に仕えていたことにあろう。忠真は幕府の命による国替えによって小倉藩へと移り、伊織もそれに伴い小倉藩の筆頭家老となる。その小倉の前藩主が細川忠利であり、忠利の妻は小笠原忠真の妹・千代姫であった。この縁から武蔵の話が忠利へと伝わり、武芸にも通じていた忠利は、兵法家として知名度が高い武蔵を相談役として招いたのである。
武蔵熊本入り
熊本での武蔵の待遇は、士官でもなく役職もない客人扱い。熊本城内の千葉城の一角にある屋敷を与えられた。そこからは熊本城の天守閣が見える。現在は、この場所にNHK熊本情報センターが建っており屋敷の面影はないが、敷地内には武蔵が使ったという井戸跡がある。武蔵が熊本入りして間もない10月23日付の奉書(ほうしょ)が永青文庫(えいせいぶんこ)に残っている。その内容は、「道鑑(どうかん)様と宮本武蔵を呼び寄せるので、人馬味噌塩すみ薪に至るまで念を入れて接待するよう、藩主忠利から申し付けられた」という内容。湯治のために、熊本城下の北部、山鹿湯町(やまがゆまち)の新築の御茶屋(別荘)にいた忠利が、彼らを呼び寄せたのである。山鹿は豊前街道の宿場として栄えた温泉地で、現代においても泉質が良く「美人」の湯として県外からの湯治客が多い温泉郷。一説によると、武蔵は風呂嫌いとされているが、忠利から招かれた際に11月初め頃まで滞在したようなので、山鹿の湯につかって穏やかなときを過ごしたのかもしれない。
武蔵が遺した「二天一流兵法」
武蔵は、今までの剣豪人生の集大成ともいえる「二天一流兵法」を確立し、彼の元に入門した多くの熊本藩士やその子弟にそれを伝えた。肥後藩主忠利、家老となる長岡(松井)式部寄之、沢村宇右衛門友好、「二天一流」の正当な継承者となる寺尾孫之丞勝信と寺尾求馬助信行の兄弟はじめ、多くの藩士が門弟となり、その数が一説には千人以上ともいわれた。二天一流兵法とは、テレビや映画にも出てくる有名な二刀流のこと。左右の手に一本ずつ剣を持って構えるその姿はとても勇ましい。
寛永20(1643)年10月上旬、武蔵は、熊本の西にある岩戸山に登って天を拝み、観音様に拝礼し、二天一流の「考え方」「真髄」を書き表すことを決意する。その書とは、かの有名な『五輪書(ごりんのしょ)』である。五輪書には、武蔵の自伝、武術にあたる際の心構え、兵法技術、戦術、他の流派など多岐に渡って記載されている。五輪とは、密教の用語で万物を構成する『地水火風空(ちすいかふうくう)』を表し、それらを1つの輪にたとえて欠けるところがないという意味。『地の巻』の中で、武蔵は兵法の道を大工に例えている。
〜大工の心得は、よく切れる道具を持ち、暇ひまには研ぐことが肝要である。その道具を使って、御厨子(みずし)、書棚、文机(ふづくえ)、卓、または行灯(あんどん)、まな板、鍋のふたまでも上手に作り上げること、大工の最も大事な仕事である。〜
そして、人を統率する道を大工の棟梁に例えている。
〜棟梁(とうりょう)が大工を使うには、その技術の上中下の程度を知り、あるいは床廻り(床の間)、あるいは戸・障子…(中略)…といったようによく人を見分けて使えば、仕事も捗り、手際がよいものである。(中略)使いどころを知ること、やる気の程度を知ること、励ますこと、限界を知ること。これらの事どもは棟梁の心得である。〜 (五輪書)
この内容は、兵法だけでなく、現代社会においても共通する心得であろう。武蔵は、13歳の頃に初めて播磨で勝負を行ってから28から29歳まで60余の勝負を行い、30歳を超えた頃にそれまでの道を振り返ったという。そこからは、自らを極める鍛錬を続け、50歳のころに兵法の真髄を会得した、と五輪書に記されている。もしかしたら武蔵は熊本に移る前から何らかの証を遺したかったのかもしれない。この五輪書には武蔵の遺志がちりばめられている。
霊場 霊巌洞の気迫
「五輪書」が書かれた場所は、金峰山近くにある曹洞宗雲巌禅寺(そうどうしゅううんがんぜんじ)の裏手にある霊巌洞(れいがんどう)と言われているが確かではない。実際にこの場所を訪れてみた。霊巌洞へと向かう道は岩山を削った細い道。武蔵が訪れたときは、人がすれ違うのもやっとの狭さであっただろう。道を進んで行くと五百羅漢(ごひゃくらかん)が並ぶ神秘的な岩場が出現する。そこを通り過ぎると、洞窟「霊巌洞」がある。高さ3m、幅3.5m、奥行6mの空間。この凛とした空間に佇んでいると、静けさの中にある凄みと腹の底にずっしりとした力強さを感じた。武蔵が五輪書を書き記すことを決意したとき、これまでの数々の真剣勝負の刃の音が洞窟内に響き渡ったような気がする。
ところで、この「五輪書」。現代に残っているのはすべて写本である。また、地水火風空の五巻も途中からは弟子達が書いているという説もある。原本が発見されていないのは残念ではあるが、武蔵の遺志が弟子達を通じ現代に伝わっているのは確かである。
秘密の御前試合
武蔵が熊本入りしてまもなく、忠利の命により雲林院(うじい)弥四郎光成と秘密の御前試合が行われたという記述が武蔵の伝記「二天記(にてんき)」にある。光成は、柳生新陰流免許皆伝の達人で剣術指南役を担っていた人物。伊勢の出身で光成の父は新当流免許皆伝の剣豪、雲林院弥四郎光秀である。御前試合は、側近をも遠ざけ、太刀持ち一人を置いて木刀による立ち会いであった。双方とも、剣術の達人である。緊迫した試合が繰り広げられた。指南役の威信をかけて武蔵に挑んだ光成だったが、なかなか打ち込めない。光成の打ち込む気を感じた武蔵が二刀流特有の構えを自在に変え、打ち込む隙を与えないからだ。光成は三度打ち込もうとするがついに一度も打ち込めなかった。そこで、柳生新陰流の達人でもある忠利自らが武蔵と立ち会うが、やはり勝てなかった。忠利は驚き感心し、細川藩は藩をあげて武蔵の二天一流の門下となった。光成との秘密の御前試合については、熊本市横手・禅定寺(ぜんじょうじ)にある雲林院氏奕世(うじいしえきせい)之墓と刻まれた墓碑文の中にも刻まれている。その中には、「宮本武蔵と君前に於いて校技(こうぎ)を興(おこ)す。公すなわち之を賞し佩刀(はいとう)を賜(たま)う」とあるが、御前試合の結果についてはここには記されていない。とはいえ、墓碑に武蔵との御前試合について刻まれているということは、光成にとっても一門にとっても、この勝負は大きな出来事だったのであろう。
武蔵が眠る武蔵塚公園
「死後も藩主を見守りたい」という遺言から、大津(おおづ)街道沿いに葬られたという武蔵の墓碑が熊本市龍田町にある。葬儀が終った武蔵の亡骸(なきがら)は甲冑(かっちゅう)を着けた立ち姿で埋葬されたとの話も伝わっている。この場所は、藩主の参勤交代の行列を見送る場所であったそうだ。自らの人生のまとめともいえる五年間をこの地で過ごさせてくれた細川家への武蔵の感謝の気持ちを死後も伝えるためだったのだろうか。独行道にある「身をあさく思、世をふかく思ふ(自分中心の心を捨て、世の中のことを深く考える)」という思いと通じるようにも思う。この地は、現在、武蔵塚公園として整備され、宮本武蔵像や日本庭園などがある市民の憩いの場で、桜の季節には花を楽しむ家族連れも訪れる。なお、武蔵の墓といわれる場所は、熊本市内には他に四カ所ある。熊本の人々に武蔵が愛され親しまれているという証であろう。
武蔵が遺した芸術作品
武芸の達人武蔵は、兵法の心に通じる芸事や芸術にも造詣(ぞうけい)が深く、多くの芸術作品を遺している。武蔵の墨絵の題材は、花鳥画や達磨(だるま)などの人物画が多く「鵜図(うず)」(国指定重要文化財)や「正面達磨図」(国指定重要文化財)を目にした方も多いだろう。また、今回、永世文庫展示室に展示される「達磨・浮鴨図(うきかもず)」の達磨の目をじっと見ていると、まるでこちら側が見られているような緊張感がじわっと溢れてくる。剣気みなぎる達磨の眼に光が宿っているようだ。  
 
宮本武蔵の旅 3

 

兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初めて書物に顕さんと思ひ時に寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもって六十。
我、若年の昔より兵法の道に心をかけ十三にして初めて勝負をす。其のあいて、新当流有間喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝つ、二十一歳にして都に上り、天下の兵法者にあひ数度の勝負をけっすすといへども、勝利を得ざるといふ事なし。其後国々所々に至り、諸流の兵法者に行合ひ六十余度迄勝負をなすといへども、一度も其利をうしなはず、其程年十三より二十八、九迄の事也。
我、三十を越へて跡をおもひみるに、兵法至極にしてかつにはあらず。をのづから道の器用有りて、天理をはなれざる故か。又は他法の兵法、不足なる所にや。其後なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕錬してみれば、をのづからを兵法の道にあふ事、我五十歳の頃也。夫より以来は尋ね入るべき道なくして、光陰を送る。兵法の利にまかせて、諸芸・諸能の道となせば、万事におゐて我に師匠なし。 〜「五輪書」より
生誕の地・宮本 / 岡山県大原町、兵庫県佐用町
青年時代・修行の旅 / 龍野、姫路、豊前、京都、奈良、柳生
決闘の地・巌流島 / 下関、北九州小倉
伊織と暮らした小倉 / 北九州小倉、福岡県金田
終焉の地・熊本 / 熊本
天正12(1584) 1歳 
  平田無二斎の次男として美作国吉野郡宮本村に生まれる。
慶長1 (1596)13歳 
  播磨国平福で新当流有馬喜兵衛とはじめて試合して勝つ。
慶長4 (1599)16歳 
  但馬国秋山某という兵法者に勝つ。
慶長5 (1600)17歳 
  伏見城攻防、岐阜城攻め、関ケ原の合戦に参戦。
慶長9 (1604)21歳 
  京都の蓮台野・一乗寺下り松・三十三間堂にて吉岡一門に勝つ。
  奈良で槍の奥蔵院道栄に勝つ。伊賀の鎖鎌の使い手・宍戸梅軒に勝つ。
慶長10 (1605)22歳 
  江戸にて柳生新陰流大瀬戸隼人・辻風典馬に勝つ。
慶長13 (1608)25歳 
  明石にて、神道流夢想権之助を破る。
慶長17 (1612)29歳 
  舟島(巌流島)にて中条流佐々木小次郎に勝つ。
慶長19 (1614)31歳 
  大坂冬の陣・夏の陣に参戦。
元和4 (1618)35歳 
  東軍流三宅軍兵衛に勝つ。
元和5 (1619)36歳 
  造酒之助を養子として、姫路城下に住む。
寛永1 (1624)41歳 
  伊織を養子にする。
寛永3 (1626)43歳 
  造酒之助、主君本多忠刻の墓前で殉死。
  伊織、明石にて小笠原忠真に仕える。
寛永7 (1630)47歳 
  名古屋にて、徳川義直家臣を破る。
寛永9 (1632)49歳 
  伊織、小笠原忠真に従って小倉に移る。
寛永11 (1634)51歳 
  尾張国で宝蔵院流高田又兵衛を倒す。
寛永15 (1638)55歳 
  松江にて、出雲松江藩主・松平出雲守直政を破る。
  伊織とともに小笠原忠真の指揮監として島原の乱に出陣。
寛永17 (1640)57歳 
  細川忠利より客分として熊本に迎えられる。
  細川忠利家臣・柳生新陰流氏井椰四郎を破る。
  細川忠利家臣・塩田浜之助を破る。
寛永18 (1641)58歳 
  細川忠利の命により兵法三十五箇条を書く。
寛永20 (1643)60歳 
  岩戸山霊厳洞にこもり五輪書を書きはじめる。
正保2 (1645)62歳 
  五輪書を書き終えるが病気が重くなり、
  独行道十九条を書いて5月19日永眠。  
 
宮本武蔵 4 壮年期

 

宮本武蔵は二人いる―――「達人」・武蔵と、「哲人」・武蔵と。
今回と次回は、2回にわたって、この「二人の武蔵」について書いていく。
武蔵の生誕については諸説ある。まず誕生年だが、天正10年(1582)説と、その2年後だとする説。前の説だとすると、織田信長が本能寺で命を落とした、あの年にあたる。生誕地も美作(岡山)と播磨(兵庫)の二説ある。まあ、このように、生い立ちはミステリアスだが、逝去の時は、その年も場所もはっきりしている。命日は、正保2年(1645)5月19日。場所は熊本城下であった。
武蔵は、生涯、恋人を持たず、妻を娶らず、従って、子もなさなかった。
彼は16、7の時に「関ヶ原」体験がある。西軍に属した。その関係もあり(のちに詳説)、「関ヶ原後」は諸国を遍歴。各地で自分の剣の技の具合を試す。その数は、剣術の名門「吉岡一門」との死闘や、宝蔵院流の槍や二刀神影流鎖鎌の異種対決も含めると、全部で60を超える。その60を超える仕合で武蔵は一敗もしていない。60数戦無敗。強い男だった。「剣の達人・武蔵」たる所以である。
その「達人」武蔵を語る上で特筆さるべきは、巌流島での佐々木小次郎との対決だろう。これについてはのちほど触れる。
しかし、そんな、「滅法強い武蔵」にも死ぬときはやって来る。既述の正保2年、彼は細川家の領地内の山中(の洞窟)で本を執筆中だった。日々衰弱していく彼を見かねた細川家の家老の必死の説得を受け武蔵は洞窟を出て熊本城下に居を移し、そこで息を引き取る。死の直前まで書いていたその本の名は、「五輪書」という。寛永20年(1643)起稿。兵法の極意を地・水・火・風・空の5巻に説いた書。
例えば、「剣術のみを鍛錬してもまことの剣の道を知ることは出来ない」とか、「大きなところから小さなところを知り、浅きところから深きところを知るがごとく、おのれの目指す道とは全く異なる方向から本質がつかみとれることもある」といった文言がちりばめてある。これは、その4年ほど前に、細川忠利の依頼で執筆し完成させた「兵法三十五箇条」に代表される単なる剣術の解説書、指南書の類ではない。人の生き方について触れた哲学書である。日本人だけではなく、海外でも多くの人に読み継がれた。「哲人・武蔵」と呼ぶ所以である。「武蔵が二人」―――しかし、いうまでもなく、前半生の剣豪・不敗の武蔵と、後半生の求道者・哲人武蔵は、いずれも、紛う方なき「彼自身」。となると、彼に何が起こって、あるいは、彼が何を感じて、「そうなった」のか。
彼の人生は「凡そ60年」だった。巌流島での決闘が慶長17年(1612)でおよそ30歳の頃だったから、この巌流島で、彼の人生を二つに分けてみようと思う。巌流島以前とそれ以後と。まずは、彼の前半生である。
武蔵の自著「五輪書」の序文の自分の半生を振り返った個所には、彼が剣技試しに諸国の諸流の兵法者と勝負をしたのは、13歳から29歳くらいまでで、30歳を超えて、「跡をおもひみるに至った」と記されている。そして、「その後、なおも深き道理を得んと朝鍛夕錬」して、兵法の神髄を会得したのは「我、50歳の頃也」とある。つまり、30歳までの「前半生」は、ただただ決闘に明け暮れ、「勝利に拘る日々」であった。
北九州市小倉に、武蔵の死後、養子の伊織によって建てられた石碑がある。「小倉碑文」というが、そこに初の決闘記事が刻まれている。それによれば、決闘初体験の相手は「新当流」という剣術の使い手で、名を有馬喜兵衛といった。武蔵、13歳。この時、13の武蔵は相手と堂々と組みうち、相手を投げ飛ばし、手にした棒で有馬を滅多打ちにして、勝つ。ここから、およそ17年間、60数回戦って負けなしという「決闘不敗記録」がスタートした。
さて。この初決闘から4年後、武蔵16、7の時、天下分け目の「関ヶ原」がある。この時、武蔵は父の関係から宇喜多秀家の手のもの、として参戦した説が有力である。宇喜多、ということは三成側で、非家康側である。武術に自信を持っていた武蔵にとってこの戦乱は願ってもないチャンスだった。
合戦で手柄を立てて、武将に取り立てられれば、やがては一国一城のあるじになる事も夢ではない―――父は一介の「十手の武芸者」という家に生まれた武蔵は、「一国一城の主に」という立身出世の夢を追い続けていた。
この関ヶ原で武功を挙げればその夢は一歩近づいたかもしれないが、勝ったのは家康側だった。結果、彼は落武者として追われることになる。吉川英治の小説などでは、この時期に「恋人・お通」や沢庵和尚に出会ったりするのだが、これらは、みな、フィクションである。
彼の自著「五輪書」によれば、実際は、関ヶ原の4年後には、「都へ出て、天下の兵法者と勝負」した、とある。武蔵は「合戦の手柄によって出世する望みが断たれた上は、全国一流の武芸者との決闘によって、名を挙げよう」と思った。この中で有名なのが武芸の名門「吉岡一門」との3度にわたる決闘である。まずは門主・清十郎。ついで、兄の仇、と立ち上がった弟の伝七郎。二人とも、武蔵の一撃に、斃れた。そして対吉岡一門3連戦の最後の相手は清十郎の子供、又七郎であった。名門・吉岡一門にとっては3度も続けて同じ相手に負けられない。だから、背水の陣を敷き、数十人とも数百人とも言われる一門の門弟を、又七郎の助っ人に配置した。場所は京都郊外、一乗寺下り松。
早めに現場に着いていた武蔵は木陰に身を潜めて、ただ一人、幼な子・又七郎を待つ。やがてその子が到着すると、他の門弟には目もくれず、ただただその幼子の命だけを狙って武蔵は全力で躍りかかり、そして、殺す。卑怯も糞もない。決闘は勝たねばならぬのだ、と武蔵は思う。武蔵はこのころから、自分の名前の上に「天下一」と署名するようになる。しかし、それなのに。武蔵は、なおも放浪の旅を続けねばならなかった。どの大名からも「仕官」の声がかからなかったからである。
関ヶ原に勝った家康は、その後、幕府を開き、世情は安定し、戦乱はなくなっていった。世間には職を求める武士、武芸者で溢れていた。武蔵の伝記「二天記」によれば、その頃、ひょっとして武蔵より強いのではないかと噂される人物が人々の口に上るようになる。佐々木小次郎である。この小次郎は小倉の大名・細川家の剣術指南役を務めていた。細川家は、「関ヶ原」での功績を家康から認められ、それまでの18万石から40万石に加増されていた。家中には新たに多勢の武士が召し抱えられ、その武士たちのための剣術指南役をおく余裕もできていた。だから武蔵は、小次郎を倒せば自分が小次郎に代って、その指南役になれると思った。
伝承によれば、小次郎は「巌流」という流派を起こし、燕返しと呼ばれる必殺の技を身につけていたという。前出の「小倉碑文」によれば、その長刀の長さは90センチ。それを自在に扱う小次郎は、並の腕力、体力ではない。武蔵はまさに、武者震いをしながら、小次郎との腕比べを細川家の家老に願い出た、と「二天記」には記されている。
やがて、「両者の対決は、藩主の許しを得た正式の仕合」という「許し」が細川家から出るのだが、「ただし、決闘の場所は無人島」という条件が付けられていた。それには関ヶ原以後の政治情勢が色濃く影を落としていた。家康が、たまたまこの両者対決の前年に、各地の大名に差し出させた誓紙には、「謀叛人や殺人者を召し抱えませぬ」という一節がある。謀叛人とは、かつて関ヶ原の合戦で、家康に敵対した西軍の武士たちを指す。
突然現れた武蔵に対して、細川家は当然、警戒心を抱く。細川家の城下で大々的に決戦挙行をぶち上げた時の、幕府側のリアクションを考える時、この「無人島決戦」は、細川家としては必要な「保険」だったかもしれない。ところで、武蔵は、そんな政治的思惑など全く分からない。決戦の場所がどこであろうが、要は自分が勝てばいいのだ、としか考えていない。武蔵はこの一戦に全てを賭けていた。小次郎もそうだった。直前に、小次郎からは「真剣を以て雌雄を決せん」という申し入れがあったが、これに武蔵は「自分は木刀で」と答えた(小倉碑文)という。
そして、さあ、いよいよ決戦当日。慶長17年(1612)4月13日の朝9時過ぎのこと、である。でも、、、予定の刻限に2時間近くも遅れて武蔵は小舟で到着したこと、大幅な遅刻に、小次郎が怒りの余り、鞘を投げ捨て武蔵に躙りよったこと、その刹那、武蔵は大音声で「小次郎破れたり」と叫んだこと、対決そのものは、小次郎の長刀よりさらに30センチも長い武蔵の樫の木の刀が小次郎の眉間を一撃し、小次郎はその場に倒れたこと、、、なんてことは皆さんよくご存じの事である。
ただ一つだけ、付け加えるなら、最強と言われた小次郎に勝っても、武蔵には、細川家から小次郎に代わる剣術指南を、という声がなかったことである。だから武蔵は、やむなく、また放浪の旅に出る。―――この時、武蔵の胸に去来したものは何だったか。何のために自分は勝ったのか。「勝つため」の、自分の半生は何だったのか、、、。 
 
宮本武蔵 5 哲人武蔵

 

武蔵の父(無二)に関しての資料はあまり多くはないが、彼は武芸、とりわけ「十手」の使い手だったという。武蔵の幼少期にこの父は武蔵に連日武芸の特訓を施したが、一介の、十手を扱う『武芸者』の父の下では、武蔵の幼少年時代は、そう豊かな日々とはいえなかった。
だから、少年・武蔵は、「よりよい生活」を希求した。しかし、自分にはその夢を実現するためのこれといった手段がない。恃むは、父から受ける連日の武芸の特訓のみ。彼は必然的に「剣技競い」の生活を選択する。敵を求めて全国を歩き、そこで剣技を競い勝利を重ねることで、その名声がその土地土地の藩主に届くことを希った。
目指すは安定した収入が得られる「藩への仕官」であった。その、武蔵の初の「剣技競い」は13歳の時だったと「小倉碑文」(後述)には刻まれている。そして最終決闘は、あの巌流島対決で、これは武蔵30歳の頃といわれている。武蔵の全決闘戦績は、60戦以上戦って、不敗。
しかし武蔵は、その「『剣技競い』生活」を、この巌流島以後はやめる。「剣の道」の追求はやめないが、「勝負に拘る」人生は30年でやめて、以後の、それまでとほぼ等量の30年を、今度は「五輪書」に代表される、物書きと思索の「哲人武蔵」に生きるのである。
「勝負に拘った」時代、武蔵には決闘に勝っても勝っても、仕官の道はこなかった。それは、あるいは、武蔵自身の問題、例えば、勝利のため、仕官のために「勝負に異様に拘る武蔵の、あまりの考え方の偏屈さ」に周囲が「引く」場面があった所為かもしれない。然しそうした風評は、本人にとっては、そのことに気を配ることさえ気が付かない程度の些末な問題だった。
私は、武蔵の「就活失敗」最大の原因は、やはり、当時のトレンド、時流にあったのではないかと思う。武蔵の初決闘が13歳の時だったと先刻、書いたが、それは1595年前後の、秀吉が小田原の北条氏を降伏させて事実上の日本一になってから5年ほど経った時期、92年には京都に絢爛豪華な伏見城が完成している。日本は秀吉のもと、泰平の日々が続いていた。13歳の少年が初決闘で勝利したと聞いても、周囲は「ほう、元気のいい坊やだな」くらいの反応しかない世間の風向きだった。
その後の、4年から5年の間の武蔵の連戦連勝も、感覚としては、まさに、その延長線上だった。何せ、天下は泰平なのである。全国から血眼で剣豪を捜し出し自陣営に引き入れて、少なくとも武芸の面だけでも他の後塵を拝することがないような算段をするという風向きでは、世間全体がなかったのである。剣豪が必要のない時代、剣豪同士が果し合いをして勝ったところで、それが大した意味を持たない時代になってしまっていた。
そして、時は流れて1600年の関ヶ原。ここでの武蔵の選択が、「剣の達人・勝負師・武蔵」の運命を決めた。武蔵はこの関ヶ原では、父の関係もあって宇喜多秀家系に与した。要するに武蔵は西軍についたのである。この戦で宇喜多軍は福島正則軍と激突する(この戦いが関ヶ原では最も激戦だったと言われている)が、この戦で宇喜多軍の一人としてそれなりの活躍をした武蔵は、家康や東軍の有力武将から、当然、目をつけられてしまう。家康にしてみれば、関ヶ原で西軍についた者は「謀反人」であり「殺人者」だった。家康が「関ヶ原」のあと、各地の大名に差し出させた誓紙には「謀反人や殺人者を、新たに召し抱えない」という一節があった。だから、武蔵は「関ヶ原」以後、とりあえずは身を隠さねばならなかったのである。
武芸者というより、逃亡者だった。そんなある日、武蔵は佐々木小次郎の風評を聞く。「現代最強ではないか」という世間の噂は、剣技一筋でここまで来た武蔵にとって看過できない事態である。
小次郎は当時、細川家に剣術指南として仕官していた。細川と家康の両者の関係は良好で、関ヶ原での功績で細川家はそれまでの18万石から40万石に加増されている。細川家は十分に新しい武士を召し抱えられる財力が出来たし、その大勢の武士たちの剣術指南役をおくことも、家康公認で出来た。しかも両者のテリトリーは豊前と江戸と、遠く離れているから日常の些末事は、お互いにその都度ツーカーといく距離ではない。これまで武芸・武技一辺倒の生活で、「世間を読めない」武蔵は、「ひょっとしたら…」の思いがあったかもしれぬ。武蔵は、小次郎に勝ったら、ひょっとしたら細川家は自分を小次郎の後任として雇ってくれるのではないか―――もちろん武芸者としてのプライドが第一だったが、武蔵はそんなこともあって、小次郎との対戦を熱望し、実現し、そして勝った。
小次郎の、あの有名な90cmの物干し棹(長刀)は、武蔵の頭に巻いた鉢巻きをかすめて空を斬った。その長刀よりさらに30センチも長い樫の櫂(木刀)は、一撃で小次郎の眉間を割った。武蔵の完勝だった。しかし、現実は、この決闘勝利にも拘らず、決着のあと、細川家だけでなく、どこからも「剣術指南役」や「仕官の話」はなかったのである。「なぜ?」の思いで、武蔵はまたもや放浪の旅に出る。時代が武蔵を見放した、と思うほかはない。もはや「毎日が戦争」の戦国の世ではなかったことに、武蔵だけは気が付いていなかった。いつ起こるかもしれぬ戦の場で、明日死ぬかもしれぬという恐怖感が人の行動を左右する日々ではなくなっていた。一定のルールと組織で世の中が動く、一種の管理社会になりつつあった。
つまり、武蔵のような人間にとって、最も不得手とする時代が来てしまった。すべては運命だった。そして、そのことを誰よりも深く感得したのは武蔵だった。「自分は今まで、何のために戦ってきたのか、何のために勝ってきたのか」。武蔵が死の直前まで筆を執っていた「五輪書」の序文に、彼の半生を振り返って、『30を越えてあとを思ひ見るに至った』と記した箇所がある。剣豪「剣の達人・武蔵」から、思想家「剣の哲人・武蔵」誕生の瞬間であった。
武蔵が40歳になった頃、生涯独身だった彼は養子をとった。伊織という名のこの養子に、武蔵は自分とは全く違う人生を歩ませた。武蔵は父から、日々、剣士としての厳しい鍛錬を受けていたが、結局、それが何だったのかと激しく自問する「その後の人生」だった。だから伊織には「武芸・武技」ではなく「学問」を身に着けさせようと思った。伊織はその父の期待に応えた。15歳で武蔵の手を離れた伊織は、九州の大名・小笠原家の家臣となり、その後も順調に出世を続け、19歳で藩の重役の執政に栄進、やがて家老にまで取り立てられる。武蔵が死んだ9年後、伊織が、その任地・小倉に、父・武蔵の事蹟を記した碑を建立する。それが武蔵研究には欠かせない前出の「小倉碑文」なのだが、自分とは全く違う生き方を生き、成功している養子を、生前、武蔵は自分の半生と比較しつつ、陰ながら目を細めてみていたことだろう。
息つく暇もなく生きてきたこれまでの自分の半生を思うとき、それは、武蔵に訪れた人生初の「安らぎ」だったかもしれない。そして、伊織が武蔵の下を離れて10年ちょっと経った寛永14年(1837)、伊織の仕官先の小笠原家から思いがけない連絡が武蔵に届く。「いま、島原で幕府に対する反乱が起きているので参陣してほしい。息子も一緒。」というのである。いまや小笠原家の執政になっている伊織と一緒に戦える―――自分の「決闘人生」はやめたけれども、武芸・武技についての熱が冷めたわけではない。再び、自分の腕を生かすことが出来る、しかも、息子と一緒に!
武蔵は勇躍、その島原の地に向かった。武蔵個人は戦場で足を負傷して不本意な結果に終わった戦いだったが、乱は鎮定された。そんなこともあって、その後、九州に落ち着いた武蔵は、ある日、熊本の細川家から招請を受ける。無論、武蔵に断る論理はない。以後、武蔵は藩主・忠利の剣術指南の傍ら、書画に打ち込んだ。画の代表作は、墨画・枯木鳴鵙図。書物で有名なのが「五輪書」である。「五輪書」は細川家に仕官して間もないころ、主君・忠利から、「これまで会得した剣の極意を書物としてまとめよ」との要請で書いた「兵法35箇条」の完成4年後の、寛永20年(1643)に起稿、脱稿は、亡くなる一週間前であった。
それまで細川領内の山中の洞窟で、鬼神が乗り移ったような形相で執筆していた武蔵が、細川家家老の嘆願を受け入れ、ようやく市内に居を移した直後の死だった。この本は「剣の技術書」ではない。人の生き方の極意を、地・水・火・風・空の5巻に分けて説いた「哲学書」である。昭和49年(1974)、この本はアメリカでベストセラーとなる。
日本の「達人武蔵」は、世界の「哲人武蔵」となった。 
 
宮本武蔵 6

 

第一話 巌流島の決闘
世にも有名な名勝負
古来、宮本武蔵といえば、何はなくとも巌流島の決闘が取り上げられる。
武蔵の死後百年ほどして書かれた『二天記』という武蔵伝の中でも、この決闘が大きく取り上げられており、古くから人々の注目を集めていたことがわかる。
『二天記』ではないが、こんな逸話が残されている。晩年の武蔵が熊本細川藩の食客となっていたころのことだ。ある席で清水伯耆という武士が武蔵に向かってこんなことをいった。
「有名な巌流島の戦いでは、小次郎の太刀が先に武蔵さんを打ったという噂があるが、本当ですか?」
これを聞いた武蔵の反応が面白い。武蔵はかっとして相手の目の前に頭を突き出し、総髪をかき分け、
「もしそうだとすれば、小次郎の刀の跡がわたしの頭に残っているはず。どこにそんなものがありますか」
と、詰め寄ったという。
事実かどうかはわからない。が、『二天記』を見れば、武蔵が怒るのも無理はないと思える。この決闘で完全な勝利を得るために、武蔵がいかに必死であったか、そこに詳しく語られているからだ。
用意周到だった武蔵の作戦
『二天記』によれば、巌流島の決闘は武蔵が29才だった慶長17年(1612年)4月13日午前7時に行われる予定だった。場所は小倉と下関の間にある船島という小島である。決闘相手は当時小倉を領していた細川藩の剣術師範・佐々木小次郎。したがって、この決闘は細川藩公認のもので、普通なら遅参するなど考えられないことである。
だが、武蔵は違った。
戦いの前夜、下関の回船問屋に宿泊した武蔵は、当日の午前七時頃になってやっと起き出し、飯を食い、それから櫂を削って大きな木刀を作り始める。この木刀のが、一説によると長さ4尺6寸(約140cm)もあるものだった。
この間に、小倉から二度も飛脚が来て、早く小島に渡るようにと催促したが、武蔵は落ち着いたものである。武蔵はゆっくりと回船問屋の小舟に乗り込むと、船中でこよりをつくって襷に懸け、綿入れをかぶって横になった。
このすべてが武蔵の作戦だった。武蔵の行動にはとても決戦の直前とは思えない静けさがあるが、その背後で、武蔵はすでに戦っていたのである。
西国一の剣豪・佐々木小次郎
武蔵がここまでしたのは、決闘相手の佐々木小次郎を剣豪として高く評価していたからともいえる。
『二天記』によれば、小次郎は幼少の頃から中条流の剣豪・富田勢源の弟子となり、勢源の打太刀をつとめたほどの腕前だった。
勢源といえば小太刀の名手だった。その打太刀は自然と長い刀を使うことになり、小次郎は刃渡り3尺を超える長大刀の扱いに精通したのだという。
その後、小次郎は自らの流派を巌流と呼び、諸国をめぐって高名の武芸者と対戦するが、ついに一度も負けなかった。この実力を小倉藩主・細川忠興に認められ、その地で武芸を教えることになったのである。年齢は18才とされているが、これには異説が多い。剣術師範をつとめる以上はそれ相当の年齢であるはずだから、やはり武蔵と同じくらいではなかっただろうか。
いずれにしても、武蔵は小次郎についてかなり詳しく知っていたに違いない。そうでなければ、小次郎の刀よりも長い木刀を用意するなどできるはずもないからだ。
長大刀が繰り出す秘剣・燕返し
そんな武蔵に対して、小次郎の方は真正直でありすぎたかもしれない。
「遅れるとは何事か」3時間も遅れて武蔵がやって来たとき、小次郎は叫んだ。武蔵の方は落ち着いたもので、小次郎が進み出て大刀を抜き、鞘を投げ捨てるのを見るや、「小次郎敗れたり。勝つ者がなぜ鞘を捨てるのか」といった。
この言葉に小次郎はさらにいきり立ってしまうのだ。
とはいえ、それは剣豪同士の決闘にふさわしいものだった。
一般に小次郎は「燕返し」という秘剣を使ったといわれている。本来は「一心一刀」または「虎切」と呼ばれるもので、「敵の眼前で大太刀を平地まで打ち下ろし、同時にかがみ込み、大太刀をかつぎ上げるようにして敵を斬る」という技である。
この大技を小次郎は武蔵に対して使っているように見えるのだ。残念なのは、このとき武蔵が飛び上がっていたことだ。このため、小次郎の剣は武蔵の鉢巻きと袷の裾を斬っただけに終わり、武蔵の木刀が小次郎の頭を打ち砕いたのである。
剣に生きた宮本武蔵の魅力
こうして、巌流島の決闘は一瞬にして武蔵の勝利に終わった。だが、これを一瞬の勝利と呼ぶべきかどうか。
例えば、武蔵は小次郎に勝つために4尺6寸の木刀を用意したうえ、3時間も遅れて決闘の場所に臨んでいる。これを見ただけでも、2人の勝負が一瞬だったとは思えないのだ。
武蔵自身が晩年に書いた『五輪書』によれば、武蔵は29才頃までに60回以上の勝負をし、そのすべてに勝ったとされている。つまり、武蔵が29才のときの巌流島の戦いは、戦い続けた武蔵の総決算でもある。
小次郎にとっても同じだったろう。
とすれば、勝負にかける意志において、剣にかける厳しさにおいて、武蔵は小次郎に勝ったのではないだろうか?
もちろん、意志や厳しさを実際に量ってみることはできない。が、武蔵のことを知れば知るほど、そうなのではないかと思えてくる。そう思わせるところに宮本武蔵の魅力があるといってもいいのである。
第二話 宮本武蔵の誕生
自然に恵まれた武蔵の故郷
武蔵が晩年に著した『五輪書』を見ると、剣豪としての宮本武蔵の戦いがすでに少年時代に始まっていたことがわかる。武蔵は29才までに60回を超す試合をしているが、その最初の戦いがなされたのは武蔵がまだ13才のときなのである。
いったい宮本武蔵はどんな少年だったのだろう?
通説によれば、武蔵は天正12年(1584)、美作国吉野郡讃甘(さぬも)村宮本(岡山県英田(あいだ)郡大原町宮本)に生まれたとされている。宮本姓の由来もここにある。
有名な小説『宮本武蔵』の著者・吉川英治氏は、この宮本村について随筆の中で次のように書いている。「山を縫い、山を繞(めぐ)り、やっと宮本村に着く。……その宮本村付近は、何っ方を向いても山で、平面の耕地は甚だ少い。然し山は峻険でなくそう高くなく、線の和らかい所に、北陸や信州あたりの山国とはちがう平和な明るさがある。」
武蔵が持っているいかにも自然児らしい雰囲気は、まさにこのような環境によって育てられたといえるかもしれない。
父祖三代にわたる武門の家系
剣豪・武蔵について考える場合、もうひとつ忘れてならないのは、武蔵が父祖三代にわたる武門の家に生まれたということだ。
武蔵の祖父・平田将監は美作国小房城主・新免則重の家老職をつとめ、十手、刀術に秀でた人物だった。父・武仁も新免家の家老職をつとめ、祖父から十手、刀術の技を受け継いでいた。しかも武仁は将軍・足利義昭に招かれて京に上り、武芸の名門・吉岡兼法との試合に勝ち、「日下無双」の号を賜ったほどの腕前だったといわれる。
また、将監も武仁も新免家の娘を妻にしており、武蔵は新免家の血も引いている。この新免家は平安時代の大貴族・藤原氏と戦国武将・赤松氏の血を引く名門である。武蔵が武の道を志す条件は十分にそろっていたといえるだろう。
しかし、武の道にもいろいろある。武蔵は祖父や父と同じように、新免家に仕えてもよかったはずだ。それなのになぜ、武蔵は故郷を捨て、たった一人で剣の道を突き進むことになったのだろうか?
父・武仁と対立した武蔵
それについて、『丹治峰均筆記』(1727年)という本に面白い逸話がある。
少年時代の武蔵は父の十手術に大いに不満を持ち、しばしば批判がましい意見を述べたという。多分、武蔵は武門の家の者として、父から武芸の指導を受けていたのだろう。が、やがて日本一の剣豪になるほどの天才武蔵はそんな父の武芸の欠点を見抜いたのではないだろうか。
あるとき、武蔵が文句を言い始めると、武仁はかっとして手にしていた小刀を投げつけた。この小刀を武蔵は見事にかわした。これを見た武仁はさらに腹を立て、今度は手裏剣を投げつけたが、武蔵はこれもかわしてしまった。
何ともすさまじい親子関係ではないか。子供の分際で親に逆らう武蔵を生意気だともいえるが、それ以上に父・武仁の異様な性格を物語っているように思える。
もちろん、こんな親子関係が長続きするはずはないので、武蔵はその直後に家出し、二度と故郷の土を踏まなかったという。事実かどうかはわからない。だが、家を捨てて剣の道を選んだ武蔵の中に、父への敵愾心があったとしても、少しも不自然ではないはずだ。
母を慕った意外な一面
武蔵が父を嫌った背景には、母・率子(よしこ)の存在もあったようだ。
武蔵の実母については、新免家から武仁に嫁いだ於政(おまさ)だという説もある。が、於政の死後に武仁の妻になった率子こそ武蔵の母だともいわれる。
率子は宮本村に近い播州佐用郡平福村の城主・別所林治(しげはる)の娘で、武蔵を産んだ後に武仁と別れ、平福村の田住家の後妻になったという。少年時代の武蔵はこの母のことを慕い、しばしば平福村まで遊びに出かけたというのだ。
豪快な武蔵の生き様から見ると意外な一面と見えるかもしれない。しかし、率子が家を出た理由が、もしも武仁の異様な性格にあるとすれば、少年だった武蔵が必要以上に父と対立した理由もうなづけるのである。
武蔵はこの母を慕う気持ちが強かったようで、家出後には田住家に身を寄せたこともあったようだ。
が、そのうちにもっといい場所を見つけた。平福村にある正蓮院という寺院である。そこに道林坊という住職がおり、武蔵に剣術や絵画の手ほどきをしてくれたのだという。
有馬喜兵衛との最初の決闘
そうやって、武蔵がどれくらいの年月を過ごしたか、はっきりしたことはわからない。が、13才になったころには武蔵は並外れた体格と膂力の持ち主になっており、かなりの自信も持っていたようだ。それが、武蔵の最初の決闘へとつながるのである。
あるとき、平福村に有馬喜兵衛という兵法者がやってきて、浜辺に仮設の試合場を設け、望む者があれば誰でも相手をするという高札を立てた。と、武蔵はすぐにも「宮本弁之助(武蔵の幼名)、明日相手をいたすべし」と高札に書き込んだのだ。武蔵の面倒を見ていた道林坊は驚き、翌朝武蔵を連れて試合場に出向き、「とにかく、こどものやったことだから」と有馬に向かって頭を下げた。決闘なんてとんでもないというわけだ。
しかし、武蔵は違った。道林坊の横から飛び出すや「いざ、勝負!」と叫び、持ってきた2mほどの棒で有馬に打ちかかった。有馬も応戦した。と、武蔵が棒を投げ捨てて有馬に組み付き、高々と担ぎ上げると地面に叩きつけた。それから武蔵は棒を取り、十四、五回も殴りつけて有馬を殺してしまうのだ。
これが武蔵の最初の勝利だった。乱暴で力任せの、とても剣豪とはいえないような勝利かもしれない。が、このときから、武蔵の新たな旅が始まるのである。
第三話 吉岡一門との決闘
失意の関ヶ原で固めた決意
晩年に武蔵自身が著した『五輪書』などを見ると、武蔵の一生はまさに剣一筋だったという印象がある。
しかし、剣一筋とは並大抵ではない。武蔵はいつ、どこで、そのような人生を選び取ったのだろう?
13才にして播磨国(兵庫県)で有馬喜兵衛を倒したときだろうか? だが、その後武者修行に出たとされている武蔵は、なおしばらく故郷の近くにいたことがわかっている。武者修行に出たといっても、このころの武蔵は故郷を断ち切ることができなかったのである。
こんな武蔵にとって人生の転機となったのが、17才で参戦した関ヶ原の戦いだといわれている。
合戦に参加したのは、もちろん手柄を立ててどこかの大名に認められるためである。そうなれば、武士として仕官(就職)の道も開けてくるからだ。
だが、どこの誰ともわからない浪人身分の武蔵が一介の兵士としてできることには限りがある。そのことを、関ヶ原の合戦で武蔵は思い知らされたのだという。そして、武蔵は思った。
「こうなった以上は、もはや剣によって名を上げるしかない」と。
武蔵が関ヶ原の合戦に参戦したという記録は、武蔵の死後100年以上たってまとめられた武蔵伝『二天記』にあるくらいで、確実な証拠はどこにもない。だが、こう考えと、武蔵の次の行動も十分に納得できるのである。
打倒! 京の名門・吉岡流
関ヶ原の戦いから数年、21才になった武蔵は、突然これまでとは格の違う相手に戦いを挑むことになる。
そのころ、京都に吉岡家という剣法の一門があり、京都西洞院に兵法所を構えていた。家祖・吉岡直元が足利12代将軍義晴に仕えて軍功をあげ、以来その弟・直光、直光の息子・直賢が足利将軍家の兵法師範をつとめたほどの名門である。
当時、吉岡流を継承していた直賢の息子・清十郎(直綱)には、こんな話も伝わっている。清十郎は密教の行法で心胆を鍛えていたが、その気合いはすさまじいものだった。深夜に森の梢に向かって精神を統一すると、それだけで森の小鳥たちが一斉に飛び立ったというのだ。
21才になった武蔵が次の相手に選んだのが、この吉岡清十郎だった。
何がなんでも名を上げたい、そんな気持ちを武蔵は押さえることができなかったのだろう。
だが、相手は名門である。この戦いは、単に武蔵対清十郎の戦いではなく、武蔵対吉岡一門の戦いへと発展することになった。
清十郎、伝七郎との決闘
武蔵と吉岡清十郎との戦いは、『二天記』によれば、武蔵が21才の慶長9年(1604年)春、京都北郊外の蓮台野(京都市北区船岡山の西)で争われたとされている。
この戦いはあっけなかった。木刀を持った武蔵が、真剣を持った清十郎を一撃で打ち倒したのである。
幸い、清十郎は死ななかった。2人の対戦を見ていた清十郎の弟子たちがすぐにも板に乗せて連れ帰り、手を尽くして看病したからだ。しかし、回復した清十郎は、この敗北を恥じ、兵法を捨てて出家したといわれている。
この結果に我慢できなかったのが、清十郎の弟・伝七郎(直重)だった。伝七郎は兄以上の膂力の持ち主と伝えられているから、自分ならという気持ちもあったかもしれない。
伝七郎はすぐにも兄の仇を討つべく、武蔵に挑戦状をたたきつけた。
場所は京都洛外、伝七郎は5尺の大木刀を携え、武蔵に打ちかかった。だが、結果はまたしても武蔵の勝利だった。伝七郎は大木刀を武蔵に奪い取られ、その大木刀で打ちのめされ、その場に絶命してしまうのである。
一乗寺下り松の決闘
清十郎、伝七郎の兄弟を倒したことで、吉岡家との戦いは、完全に武蔵の勝利に終わったといっていい。おそらく、武蔵はそう思っただろう。
だが、吉岡一門の弟子たちはそうは思わなかった。
当時、清十郎に10才になるかならないかの又七郎という嗣子があった。この又七郎を名目人にして、吉岡一門の者たちが武蔵に試合を申し込んだのである。
場所は京都洛外一条寺薮の郷下り松(京都市左京区詩仙堂の西)である。
もちろん、10才の又七郎が武蔵と戦えるはずはない。吉岡側によからぬ企みがあるのは明らかだった。
そこで、武蔵もこれまでとは違う作戦に出たようだ。『二天記』によれば、この戦いで武蔵は約束の刻限よりも早い夜明け前に試合場所に行き、松陰で敵を待ち伏せしたのである。
するとしばらくして、吉岡一門の者たちがやってきた。このとき、吉岡一門は数十人おり、槍や弓矢まで用意して又七郎を取り囲んでいたが、まさか武蔵が待ち伏せしているとは予想していなかった。そこに武蔵が飛び出し、吉岡勢のただなかまで突き進み、一刀のもとに又七郎を切り捨てたのだ。さらに、武蔵はたった1人で数十人の敵をけちらした。又七郎を失った吉岡勢はすっかり狼狽し、もはや武蔵の敵ではなかったのである。
これが武蔵と京の名門・吉岡流との戦いのすべてだった。
武蔵は生涯に数多くの試合をしているが、吉岡一門ほど有名な相手はほかにいない。また、多人数を相手に戦ったこともこのほかにはない。その意味で、吉岡一門との戦いは、佐々木小次郎との決闘に匹敵する、重要な戦いになったといっていいだろう。
第四話 二刀流開眼
『五輪書』に見る二刀流の思想
宮本武蔵の流儀が二刀流であることはよく知られている。
武蔵自身が晩年に書いた『五輪書』を見ても、二刀流が武蔵の剣技を貫いた重要な思想だったことがわかる。
『五輪書』の”地の巻”に、「この一流、二刀と名づくること」と題して、武蔵は次のようなことを書いている。
「自分が二刀流を主張するのは、武士は将卒ともに、腰に二刀を付けているものだからだ。それが武士の道なので、この二つの利をしらしめんために、二刀一流というのである」
また、武蔵はこれに続けて、刀というのは本来片手で使うべきものだという。馬に乗るとき、人ごみで戦うとき、左手に道具を持っているときなど、刀を両手で持つわけにはいかないからだ。自分が二刀流を主張するのも、基本的には刀を片手で使えるようにするためだというのだ。そして、武蔵は次のようにいう。
「もし片手にても打ちころしがたき時は、両手にても打ちとむべし」と。
このように、二刀流を流儀の中心にしたのは武蔵が最初といっていい。それゆえ、武蔵は二刀流の祖といわれるのだ。
とすれば、武蔵がいつどこで二刀流に開眼したか、大いに気になるところだ。
若くして二刀流の流派を興す
武蔵の二刀流開眼について、ただ一つはっきりしているのは、それが武蔵が23才より以前のことだったということだ。
慶長11年、まだ23才の武蔵が、紀州藩士・落合忠右衛門に円明流の印可状を与えたことが確認されているからだ。
円明流は武蔵が興した二刀流の最初の名で、晩年になって二天一流、二刀一流などと称することになったのである。
23才という年齢は確かに若いようにも思える。だが、武蔵は21才で早くも京都の武芸の名門である吉岡一門を打ち破っている。この戦いで剣豪としての名をあげた武蔵のもとに、多くの弟子が集まってきたとしても少しも不思議はない。
また、武蔵が生きた戦国末から江戸にかけての時代は、日本を代表する流派が生まれ、育とうとする時代だった。剣に生きる武蔵が一流一派を興すのはまったく自然なことといっていいのである。
鎖鎌に二刀流の原理を見る
では、23才以前のいつどこで、武蔵は二刀流に開眼したのだろう。これについては、鎖鎌の名手・宍戸某と戦ったときとする説がよく知られている。
これは武蔵の伝記的書物『二天記』を根拠にしてる。それによれば、宍戸が鎖鎌を振り出したとき、武蔵は大刀を構えたまま、とっさに小刀を抜いて投げつけ、宍戸の胸を貫いたのだという。
武蔵は二刀流の祖といわれるが、記録に残る勝負で実際に二刀を使った例は少ない。宍戸との対戦はその少ない例のひとつであり、しかも武蔵が二刀を使った最初なのである。
二刀流開眼が23才以前という事実にも合う。宍戸との対戦は、『二天記』によれば武蔵が21才の慶長9年、伊賀国(三重県)でのこととされている。この年、武蔵は吉岡一門を倒しているが、それから間もなく、宍戸と対戦したわけだ。
吉川英治氏の小説『宮本武蔵』でも、宍戸との対戦が二刀流開眼の重要な要素になっている。鎖鎌は鎌と分銅を鎖でつないだ武器で、基本的には分銅の方を振り回すようにして使う。敵の得物にこの鎖を巻き付け、引きつけた上で、鎌を使って敵の首を切るのである。その鎌と分銅の動きに、武蔵が二刀流の原理を見出すというのが、小説『宮本武蔵』の二刀流開眼なのである。
多人数との戦いから会得する
杉浦国友著『武蔵伝』には、まったく違った二刀流開眼のエピソードが紹介されている。
武蔵が備後(広島県)鞆ノ津にいたときのこと。海辺近くの農民たちが水田に引く水をめぐって村同士の喧嘩を起こした。このとき、武蔵は逗留先の庄屋に頼まれ、木刀を持って警戒に出た。そこに多数の農民たちが武器を持って押し寄せてきた。やむなく武蔵は戦ったが、気がつくと浜辺に落ちていた櫂を拾い、左手に持っていた。そして、左手の櫂で敵の武器を受けとめ、右手の木刀で打つということを繰り返し、ついに大勢の農民を追い払ったのである。
こうして武蔵は左手に持った櫂がいかに有効かを知り、さらに研究を続け、二刀流を創始したというのだ。
残念なことに、この事件がいつのことなのかはわからない。だが、二刀流開眼のきっかけとして、かなり説得力があるといっていいだろう。
大流派に発展しなかった二刀流
このほかにも、武蔵の二刀流開眼についてはいろいろなことが語られているが、どれも確実な証拠があるわけではない。
確かなことは、それが23才以前の若い頃だったということだけだ。
二刀流を興した武蔵がそれ以降、二刀流を広めようとしたことはわかっている。
しかし、武蔵の二刀流は一刀流や新陰流のような大流派とはならなかった。
二刀を自由に使いこなすのは、一刀を使いこなすよりもはるかに大変なことだからといわれることが多い。武蔵自身は身長180センチを超す立派な体格をしており、膂力もあった。そんな武蔵にしてはじめて可能な流儀だったのだろう。
武蔵と同時代を生きた柳生新陰流の達人・柳生兵庫助利厳は、「武蔵の剣は武蔵ならではのもので、余人が学べるものではない」といっている。
二刀流が大流派とならなかったのは確かに残念なことだ。だが、こういうところに日本一の剣豪・宮本武蔵の凄みと独自性があるといえるのではないだろうか。
第五話 巌流島以降の武蔵
戦いから離れた後半生
宮本武蔵の人生は驚くほど対照的な前半生と後半生に2分することができる。
慶長17年(1612年)、29才の武蔵が巌流島で戦った佐々木小次郎との決闘がその区切りになる。
それまで、武蔵はただひたすら戦っていた。武蔵自身が晩年に書いた『五輪書』では、武蔵は29才までに60回以上の勝負をしたとされている。もちろん、その多くが命がけの勝負である。
そんな武蔵が、巌流島の決闘以降は命がけの勝負をやめてしまうのだ。
戦わない武蔵に興味はないという人もいるかもしれない。しかし、武蔵は29才で小次郎と戦ってから、62才まで生き続けている。
これほど長い後半生を無視して、武蔵を理解したとはいえないだろう。
人生の転機となった大坂の陣
武蔵の後半生を考える場合、慶長19年(1614)と翌元和元年に起こった大坂冬の陣及び夏の陣への参戦を見逃すことはできない。
この戦いに武蔵は東軍の一員として参戦し、かなり大物の武将たちと知り合いになったと思われるからだ。
武蔵が参戦したのは、もちろん仕官(就職)の口を見つけるためである。
どこかの有力大名に認められ、その配下として仕官するというのは、武蔵にとって少年時代からの夢だったといっていい。武蔵がその前半生において数多くの勝負に命をかけたのも、結局はその夢を叶えるためだった。
だが、佐々木小次郎に勝って剣豪の地位を不動にしても、武蔵はその夢を叶えることはできなかった。
そんなとき、豊臣方と徳川方の最終決戦となる大坂の陣が勃発したのだ。今度こそという思いを込めて、武蔵が参戦したとしても少しも不思議はない。
残念ながら、武蔵は大坂の陣でも大した戦功は立てられず、仕官することもできなかった。
その代わりというのも奇妙だが、数人の武将と知り合いになり、それ以降、まるで友人のようなつき合いをすることになるのである。
武蔵が昵懇(じっこん)となった大名たち
大坂の陣で武蔵が知り合った武将が誰なのか、確実なことがいえるわけではない。だが、それ以降の関係から考えて、小笠原忠真、本多忠政・忠刻親子らがいたと想像できる。
武蔵は大坂の陣に参戦するにあたって、徳川家康の生母・於大の方の実家にあたる福山藩主・水野勝成の麾下に属したという記録がある。この水野氏の紹介で、多くの武将と知り合えたのだろう。
剣豪としての武蔵はすでに立派な有名人だったから、多くの武将たちが武蔵と知り合いになるのを喜んだのである。
このつき合いが、大坂の陣後も長く続くことになる。
大坂の陣後の元和3年(1617年)、小笠原氏、本多氏は格上げされ、それぞれ播州明石10万石、姫路15万石に移封される。このころ、武蔵は小笠原家の客分として、一時期明石に滞在しているが、それというのも小笠原氏と昵懇の関係にあったからに他ならない。
武蔵の後半生には不明な部分が多いが、多少なりとも記録が残っているのは、こうした大名たちとのつき合いがあったからといっていい。
家老にまで出世した養子・伊織
武蔵は生涯に2人の少年を養子にしているが、これらの養子も、本多家、小笠原家と関係を持つことになる。
最初の養子は造酒之助(みきのすけ)といい、やがて本多家に出仕し、700石を賜るまでに出世している。しかし、寛永3年(1626)、本多忠刻が31才で死去したとき、その後を追って殉死してしまう。
次の養子は伊織といい、寛永3年15才で明石城主・小笠原忠真の近習として出仕し、驚くほどのスピードで出世した。
小笠原家は寛永9年には豊前国小倉15万石に転封されるが、このとき伊織は2500石を賜るのである。
武蔵のような剣豪が養子を迎えるとはいかにも奇妙だが、小笠原家の伊織が出世したことは、その後の武蔵の生涯にも影響を与えた。
明石を離れて後の武蔵の足跡はそのほとんどが謎に包まれている。そんな武蔵がやがて51才になったとき、伊織のいる小倉の小笠原家に寄寓し、そこで7年間を過ごすことになるからだ。
この期間、武蔵は小笠原家で格別の扱いを受けたようだ。藩主・忠真と昵懇の間柄である上に、養子の伊織が重臣となっていたのだから、それも当然だった。伊織は後に家老職にまで進み、4500石を得るまでになるのである。
意外性に満ちた武蔵の人生
このように武蔵の後半生を簡単に振り返っただけで、ただたんに強いだけの剣豪とは違う武蔵の姿が浮かんでくる。
武蔵が2人の養子を得たとか、多くの大名と昵懇だったとか、意外に感じる人が多いだろう。
剣豪・武蔵について語ろうとすると、どうしても強さばかりが強調されてしまう。だが、武蔵は決して単に強いというだけでは語り尽くせない剣豪なのだ。
武蔵が多くの武将たちとつき合えたのも、武蔵が剣豪だっただけでなく、相当な教養人として振る舞うことができたからだった。
「一芸は万能に通ず」と武蔵自身がいっているように、武蔵は絵画や書、木彫などの諸芸にも通じていた。
武蔵の実像に迫るには、こうした意外とも思える事実をひとつひとつ追っていく必要があるのだ。
第六話 宮本武蔵の謎
謎の多い武蔵の生涯
日本一人気の高い剣豪だけに、古くから膨大な量の文章が宮本武蔵について書かれてきた。もはや武蔵についてわからないことは何もないのではないかと思えるほどだ。
しかし、事実はそうではない。
宮本武蔵の生涯にはいまなお解き明かされていない謎が多いのだ。
確かに、武蔵について書かれた文章は膨大である。だが、その中にはけっして両立しないような記述もあり、何が真実なのかわからない場合も多いからだ。
有名な小説『宮本武蔵』の著者・吉川英治氏も『随筆宮本武蔵』の中で次のようにいっている。
「――私は、前にも、幾度か云っている。史実として、正確に信じてよい範囲の「宮本武蔵なる人の正伝」といったら、それはごく微量な文字しか遺っていないということを――である。それは、むかしの漢文体にでもしたら、僅々百行にも足りないもので尽きるであろう」と。
このことは、現在でも変わりがない。
では、宮本武蔵のどんな部分がいまなお謎とされているのだろう。
出生地は美作国か播磨国か?
武蔵の謎の中でも最も有名といえるのは、その出生地が美作国と播磨国という2つの土地にあることだ。
通説では、武蔵は美作国吉野郡讃甘村宮本(岡山県英田郡大原町宮本)の生まれとされている。
武蔵自身は『五輪書』の中で、「生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信」と書いている。にもかかわらず、美作説が通説となっているのはなぜだろう。
大きな理由は、讃甘村宮本は武蔵の父・武仁の住んでいた場所で、この土地に武蔵や武仁にまつわる伝承が数多く残されていることだ。
また、この地は播磨国に近く、武仁の支配地も美作国と播磨国にまたがるように存在していた。このため、自分の出生地が美作国か播磨国かということに、武蔵自身がこだわっていなかったろうと考えられるからだ。
とはいえ、武蔵自身が「生国播磨」といっている以上、播磨説にも根強い支持があるのは当然だ。
ただし、播磨説といっても一つではなく、播磨国印南郡河南庄米田村(兵庫県高砂市米田町)、播磨国佐用(兵庫県佐用郡佐用町平福)など諸説あり、それぞれに理由がある。米田村説の場合、武蔵の養子・伊織の家系に伝わる「宮本家由緒書」などを根拠とし、平福説では武蔵の実母の生家に残された「田住家系譜」などを根拠にしている。
こんなわけで、たとえ美作説が通説だとしても、播磨説を無視するわけにはいかないのである。
宮本武蔵玄信と宮本武蔵政名
出生地が複数あるのと同じように、宮本武蔵は複数いたのではないかという説もある。
しばしば取り上げられるのは、武道史研究家・綿谷雪氏の「二人武蔵」説だ。
それによると、現在は1人と考えられている武蔵は実は2人の人物が混同されたものだという。武蔵玄信と武蔵政名の2人である。
本来の武蔵は玄信の方で、播磨国の田原家に生まれた。田原家は新免家と同じく戦国時代の名家・赤松氏の流れを汲んでおり、この縁で武蔵は幼いときに美作国の新免家の養子となったのだという。
これに対し、政名は玄信の叔父・岡本満貞の孫にあたる。当初、小四郎政名を名乗り、後に宮本武蔵義貞を名乗った。この政名は玄信から円明流を学び、玄信と同様に各地を旅し、円明流を広める働きをした。また、政名自身にも玄信と混同されるような言動があっただろうと綿谷氏は推測している。
こんなわけで、古い時代から武蔵玄信と武蔵政名が混同され、同一人物として語られたというのだ。
しかし、これでは武蔵の謎がさらに深まってしまうような気がするが、どうだろうか。
遊女・雲井とのラブロマンス
武蔵の謎の中にはそのイメージとはまったく似つかわしくないものもある。
武蔵が一時期吉原の局女郎・雲井という女のもとに通っていたというのだ。
『異本洞房語園』(享保5年/1720年刊)という本に、およそ次のようなことが書かれている。
寛永14年(1637年)に島原の乱が起こったときも武蔵は雲井のもとにおり、その遊女屋から出陣した。このとき、武蔵は浅黄の緞子の裁付袴、雲井が整えてくれた紅鹿子の小袖を裏に付けた黒繻子の陣羽織という恰好だった。まわりには武蔵の出立を見物しようという遊女らが集まっていたが、武蔵はそのそれぞれに餞別の言葉を与え、馬に乗って出陣したという。
確かに、簡単に信じられる話ではない。
通説では武蔵は生涯女人を近づけなかったとされている。また、当時武蔵は54才で、養子・伊織が重臣となっていた小笠原藩に寄寓していたはずだからだ。
しかし、武蔵にもこんなラブロマンスがあったと考えるのは、武蔵のファンにとっても楽しいことなのに違いない。
正反対に分かれる武蔵の評価
武蔵に関する謎はこのほかにも数が多い。ここで、困るのはあまりに謎が多いため、武蔵に対する評価も分かれてしまうということだ。
一般的には、武蔵は日本一の剣豪であり、生涯をかけて剣の道を極めた求道者と理解されている。
だが、このような考えに反対する意見もある。ずいぶんと昔のことだが、昭和7年、直木賞にその名を残す直木三十五氏が菊池寛との論争の中で、武蔵を散々にけなしたことがある。
「武蔵は生涯に60回以上の勝負をして一度も負けなかったというが、それは当時江戸にいた超一流の剣豪と戦わなかったからだ。また、自分から生涯の勝負で一度も負けなかったなどと自慢するのは、品性が劣っているからだ」というのが直木氏の武蔵批判の核心である。
もちろん、日本人の多くにとって、武蔵は今後も日本一の剣豪であり続けるだろう。だが、そうであればなおさら、このような批判があることを記憶しておいてもいいだろう。
第七話 諸芸に通じた武蔵
高い評価を受ける武蔵の絵画
「大衆小説や講談の世界で、思いがけないほど華やかな英雄にまつりあげられたおかげで、二刀流などとは比較にもならない画人二天(武蔵)を知る人が少ないのは、一種の不幸というべきだ。今日の評価では寧ろ画人二天が先行して、剣士武蔵が追随すべきなのである」
これは、直木賞作家の今東光氏が「画人宮本武蔵」というエッセーの中で語っている言葉である。
剣豪としての武蔵しか知らない人にとって、あまりにも意外な評価といっていいはずだ。
だが、武蔵の画業を高く評価するのは、今東光氏だけではない。
日本初の体系的な美術史である『近代絵画史』(藤岡作太郎著、明治36年刊)にも、武蔵の時代の日本画壇に関して、次のような記述を見ることができる。
「……中にも殊に勝れたるは狩野山楽、海北友松なり。……そのほか、京に沼津乗昌あり、肥前に狩野宗俊、渡辺了慶あり、肥後に宮本二天(武蔵)あり、いづれも狩野もしくは海北に学んで名を成せるものなり。」
剣豪武蔵がいかに優れた画人であったか、これ以上語る必要はないだろう。
武蔵の画業を支えた教養の厚み
実をいえば、武蔵が残した芸術作品は画だけにとどまらない。
だが、ここではもう少し、武蔵の画業に注目して話を続けたい。現存するおよそ30〜40点の武蔵の画は、すべて水墨画だが、水墨画には画人の教養が現れるといわれているからだ。
一例として、武蔵の描いた達磨図を取り上げてみよう。
達磨は禅宗の始祖とされる6世紀の僧である。インドから中国にわたり、梁の武帝と対面したが意見が合わず、すぐに北魏に向かった。このとき達磨は一枚の蘆の葉に乗って揚子江を渡ったといわれている。北魏では達磨は嵩山少林寺という寺に入り、9年間も壁に向かって座禅をし続けたという。
武蔵はこの達磨を画題として好み、『正面達磨図』『面壁達磨図』『蘆葉達磨図』など4点を残している。
これだけ達磨図を描いた武蔵が、達磨のことを知っていたのは当然といえる。
こうして、武蔵の画から、剣豪武蔵が持っていた、意外ともいえる教養の厚みをうかがうこともできるのである。
達磨図に見る武蔵の精神世界
達磨図を描くことで、武蔵が仏教の根本原理である「空」を求めていた、といわれることもある。
禅僧が壁に向かって座禅をするのもこの原理を体得するためだからだ。
「空」を定義するのは難しいが、幸いにも武蔵自身が『五輪書』の「空の巻」で次のようにいっている。
「武士は兵法の道を確かに覚え、その他武芸をよくつとめ、武士の行う道、少しもくらからず、心のまよう所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよいの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべきなり」
武蔵は若き日に生死をかけた数多くの試合を体験した。その後も剣の道を極めるための努力を怠らなかった。
そんな武蔵が最終的に到達したのが、このような思想だったといっていいのではないだろうか。
晩年に数多くの芸術作品を残す
画業の他に、武蔵は歌、書、彫刻などにも優れた才能を発揮し、それぞれ高い評価を受けている。ここでは細かく取り上げないが、画業についての評価からも、武蔵が諸芸に通じていたことは容易に想像できるだろう。
ところで、これらの作品の多くは、武蔵が晩年になってから制作されたもののようだ。
武蔵は寛永17年(1640年)、57才のときに客分として、熊本細川藩に迎えられる。それから、62才で『五輪書』を書いて死去するまでの期間、武蔵は多彩な才能を十分に発揮したのだ。
武蔵の死後100年ほどたって書かれた伝記的書物『二天記』に、細川藩時代の武蔵について次のような記述がある。
「武蔵平居閑静にして、或は連歌、茶、書画、細工物等にて日月を過了す。」
細川藩時代は武蔵の生涯で最も平和で安定した時代だった。
こうした時代が持てたことは、武蔵にとっても幸せだったのではないだろうか。
兵法を以て描きし故に適意の作なり
不思議なのは武蔵がいつ、誰から、画、書、彫刻などを学んだかということだ。
若き日の武蔵は剣術一筋で、師について学ぶ余裕などなかったはずだからだ。
だが、これについては武蔵自身が『五輪書』の序文で次のように書いている。
「兵法の利にまかせて諸芸・諸能の道となせば、万事において、我に師匠なし」
また、次のような逸話もある。
細川藩時代のこと。あるとき、武蔵は主君の命によって、主君の面前で達磨図を画こうとし、うまくいかなかった。夜になって寝床の中であれこれと考え、ふと起き上がって画いたところ、思うようなものができあがった。そこで武蔵は門人にいった。
「わたしの画はいまだ刀術に及ばない。今日は主君の命で達磨を描こうとしたが、うまく描こうという思いがあったためにうまくいかなかった。いまは自分の兵法を応用して描いたので、思うようなものができたのだ」
やはり、剣の道を極めた武蔵だからこそ、諸芸に通じることもできたというべきなのだろう。
詩歌
『鉋屑集』(万治2年)
鑓梅のさきとをれかな春三月
あみだ笠やあのくたら〜〜春の雨
『到来集』(延宝4年)
明徳の比聖護院宮消息詞にて
兄弟のなど不快なるらん
梅と菊時分相違のはなざかり
月の明暮軍をぞする
楊貴妃の遊びはことも夥し
第八話 五輪書/地の巻
『五輪書』に見る剣豪人生の集大成
日本一の剣豪・宮本武蔵を語る以上、武蔵が晩年になって完成した『五輪書(ごりんのしょ)』を無視するわけにはいかない。
『五輪書』は、宮本武蔵自身による、宮本武蔵の兵法の集大成といえる書物だからだ。書物と書いたが、形態としては巻物であり、5巻に分かれている。
その第1巻にあたる、「地の巻」の冒頭に武蔵は次のように書いている。
「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初めて書物にあらわさんと思う。時に寛永二十年(1643年)十月上旬のころ、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前に向かい、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもって六十。(中略)今この書を作るといえども、仏法・儒道の古語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちいず、この一流の見たて、実の心をあらわす事、天道と観世音を鏡として、十月十日の夜寅の一てん(午前4時30分)に、筆をとって書初むるものなり」
これを読んだだけで、武蔵が相当な決意のもとに『五輪書』を書き始めたことがわかる。また、武蔵が死去するのは、それから19ヶ月後の正保2年(1645年)5月19日である。このことから、武蔵が最後の力を振り絞って『五輪書』に取り組んだことも想像できるはずだ。
よき理解者だった細川忠利の死
『五輪書』を書くにあたり、武蔵がこれほどまでの決意を固めたことについては、細川忠利の死が直接の原因になったといわれることが多い。
武蔵は、57才だった寛永17年(1640年)7月から、熊本に滞在するようになった。それまで、小倉小笠原藩にいた武蔵を、熊本藩主・細川忠利が招いたのである。
忠利と武蔵の関係がいつ始まったか、正確なところはわからない。だが、熊本に来てからの武蔵が、忠利と昵懇の関係だったことははっきりしている。
忠利は諸芸に通じた武蔵の聡明さを重んじ、しばしば政道に関することまで相談したと伝えられている。また、忠利は徳川将軍家の武芸師範・柳生宗矩に新陰流を学んだほどの武芸好きだった。
武蔵にしても、はじめて自分を理解してくれる主君に巡り会ったという思いがあったのだろう。寛永18年(1941年)2月には、武蔵は忠利の要請を受けて、『兵法三十五箇条』という二天一流の兵法書を書き上げている。
ところが、その翌月の3月、この忠利が56才で死去してしまうのである。
『五輪書』と『兵法三十五箇条』
自分よりも2才若い忠利の死は、武蔵を大いに落胆させると同時に、武蔵自身の人生が終わりに近いことも、意識させたのではないだろうか。
そんな武蔵が、生涯をかけて磨き上げた二天一流の集大成を思いついたとしても、少しも不思議はない。
幸いにも、武蔵はすでに忠利のために『兵法三十五箇条』を書き上げている。
これは、二天一流の兵法理論を35項目に分けて簡潔に解説した兵法書で、見事な技術指導書といえるものだ。
おそらく、武蔵はこの『兵法三十五箇条』をさらに発展させ、より充実した兵法書を書こうと考えたのだろう。『兵法三十五箇条』が『五輪書』の抜粋のように見えることからも、それはわかる。
そして、武蔵は決意した。熊本城下から10キロほど離れた金峰山麓に岩戸観音が安置された霊巌洞という洞窟がある。60才となった武蔵は、その洞窟にこもり、『五輪書』を書き始めたのである。
『五輪書』地・水・火・風・空の概略
こうして完成した『五輪書』は、テーマごとに、地・水・火・風・空の5巻に分けられている。
それぞれのテーマについては、「地の巻」の中で簡潔に説明されている。だいたい、次のような内容である。
地の巻―兵法の原論。二天一流の兵法観。
水の巻―1人で戦うための具体的剣技。
火の巻―1対1の勝負の駆け引き。集団で戦う合戦への応用。
風の巻―他流兵法の批判。二天一流の優位性の証明。
空の巻―結論として、空の境地の重要性。
ところで、第1巻目の「地の巻」の中に、全体の構成が簡潔に示されていることからもわかるように、武蔵の書き方は非常に懇切丁寧である。また、その内容は徹底して、勝つために必要な具体的な方法論の記述になっている。
武蔵はしばしば合理主義者だといわれるが、それはこのためといっていい。
「地の巻」が語る二天一流の原論
最後になったが、ここで改めて『五輪書』第1巻の「地の巻」を取り上げよう。
全体の序文や各巻の概略があるのでもわかるように、この巻は『五輪書』全体の導入部にあたる。そのテーマは兵法の原論及び二天一流の兵法観だが、これも『五輪書』全体の前提となるものである。
例えば「兵法に武具の利を知るという事」という項では、脇差し、太刀、長刀、槍など、各種の武器の利点と欠点を説明した後に次のように記されている。
「道具などは、一つだけを特別に好きになってはいけない。過ぎたるは及ばざるがごとしである。人まねをせず、自分の能力を考え、使わなければいけない」
こうしたことは、具体的な剣技以前に誰もが心しておかなければならない、兵法の前提といっていいだろう。
さらに、「地の巻」の最後には、二天一流を学ぶための心得として、「実直な、正しいことを思うこと」「道を鍛錬すること」など9ヶ条が上げられている。
こうして、前提となる事柄を十分に説明した後で、武蔵は「地の巻」を終え、「水の巻」へと筆を進めるのである。
『兵法三十五箇条』(抜粋)
一、此道二刀と名付事
此道二刀として太刀を二ツ持儀、左の手にさして心なし。
太刀を片手にて取ならはせん為なり。
片手にて持つ得、軍陣、馬上、川沿、細道、石原、人ごみ、かけはしり。
もし左に武道具持たる時、不如意に候へば、片手に取なり。
太刀を取候事、初はおもく覚れ共、後は自由に成候也。
たとへば、弓を射ならひては其力つよく、馬に乗得ては其力有。
凡下のわざ、水主はろかひを取て其力有、土民はすきくはを取て其力強し。
太刀も取習へば、力出来る物也。但強弱、人々の身に応じたる太刀を持べき物也。
第九話 『五輪書』「水の巻」
『五輪書』「水の巻」が語る武蔵の剣技
日本一の剣豪・宮本武蔵がその晩年に完成した二天一流の兵法書『五輪書』。この書はテーマごとに地・水・火・風・空と題された全5巻から成り、そのどれもが武蔵を知る上で不可欠のものとなっている。
とはいえ、『五輪書』の圧巻はどれかと問われたら、第2巻にあたる「水の巻」がそのひとつに数えられることは間違いない。
「水の巻」において、二天一流の基本的な心構え、姿勢、構え、太刀の動かし方など、剣術の戦いに勝つための技術的な事柄が、実践的、具体的に説明されているからだ。
武蔵は29歳にして、巌流島で佐々木小次郎に打ち勝つまでに、60回以上の試合をして一度も負けなかったという。だが、そのころの武蔵が実際にどのような剣技の使い手だったか、正確なことはわかっていない。
結局のところ、武蔵が最晩年に完成した『五輪書』の「水の巻」から推測するほかないのである。
では、武蔵は「水の巻」の中でどのような剣技を語っているのか。
習うのではなく自ら見出せという教え
「水の巻」をひもとくと、他の巻と同様、冒頭に前書きにあたる短い文章が置かれている。
前書きなどどうでもいいように思えるが、『五輪書』の場合、この前書きにこそ、武蔵の思想の中心があるのではないかと思えるほど、重要な事柄が語られている。
「水の巻」の前書きでは、武蔵は次のようなことをいっている。
「この巻に書かれたことを、ただ見るのではなく、ただ習うのではなく、自分自身が発見した事柄として、常にその身になって考え、工夫しなければいけない」
「水の巻」の内容は、二天一流の剣技を学ぶ上で確かに重要なものだが、それ以上に武蔵はこのことをいいたかったのではないかと思える。
というのも、武蔵自身がそのようにして剣技を身に付けたはずだからだ。誰かから学んだのではない。戦いと修行を通じ、自ら発見した。それが武蔵の剣技なのだ。
武蔵の剣技を学ぼうとする者たちもそうでなければならないと武蔵は考えたのだろう。そう断った後で、武蔵は「水の巻」を始めるのである。
戦いの場における平常心の重要性
そこで、「水の巻」の本文を見ると、戦いに臨む武蔵が何よりも重要視したのが、具体的な剣技というよりも心の問題であったことがわかる。
「水の巻」では本文の第一に、「兵法心持のこと」という表題がかかげられ、次のように語られている。
「兵法の道において、心の持ち方は平常と変わってはならない。平常のときも戦いのときも少しも変わらず、心を広く素直にし、緊張することもたるむこともなく、何かにこだわって心が偏らないようにし、しかも心が自由自在に働くように静かにゆるがせておかなければならない。」
命がけの戦いの場に臨んで、武蔵自身が実際にこんな心境になれたかどうか。だが、武蔵が仮にそのような心境に到達していたのだとすれば、武蔵はやはりものすごい剣豪だったのだと納得できる言葉といえる。
また、平常心とはどんな場合にも必要とされる重要なものだ。このような言葉が随所にちりばめられているところに、現在でも『五輪書』が愛読される理由があるに違いない。
五方の構えと有構無構の教え
武蔵が興した二天一流は二刀流の流派だが、武蔵自身は実際の戦いで二刀を用いたことはほとんどない。「水の巻」には、そんな武蔵らしさをほうふつとさせる教えもある。
「水の巻」では、五方の構えとして、上段、中段、下段、右脇構え、左脇構えの5種類が解説されている。これが、二天一流の基本的な構えというわけだ。ところが、これらの構えについて説明した後、武蔵は「有構無構の教えのこと」という項目を立て、次のようにいうのである。
「有構無構(構えがあって、構えがない)というのは、太刀を型にはまって構えるということはあってはならないということだ。五方の構えは、確かに構えということもできよう。大事なのは、太刀は敵の出方、場所、状況によって、敵を斬りよいように持つことなのだ。上段も少し下げれば中段になり、中段も少し下げれば下段になる。こんなわけで、構えはあって、構えなしというのである」
実際の勝負の中で、常に敵に勝つことを最優先した、現実主義者らしい教えといえよう。
千日の稽古を鍛、万日の稽古を錬という
「水の巻」は徹底して剣技を取り扱った巻であり、「有構無構の教えのこと」の後にも、二天一流の剣技の数々が解説されている。
とはいえ、どんな技能でもそれを本当に自分のものにするのは大変なことだ。それがどれほど大変なことか、おそらく、武蔵自身が一番よく知っていたのだろう。
「水の巻」の最後にあるまとめの段で、武蔵は次のようにいっている。
「千里の道も一歩ずつ進むのである。ゆっくりと時間をかけ、この道を修行することが武士の本分と考え、今日は昨日の自分に勝ち、明日は下手に勝ち、次は上手に勝つと思い、この書のとおりに実行し、少しもわき道にそれないように考えることである。」また、武蔵は「千日の稽古を鍛といい、万日の稽古を錬というのである」ともいっている。
生涯を剣一筋に貫いた剣豪・武蔵の姿が目に見えるような言葉ではないだろうか。
第十話 『五輪書』「火の巻」
不敗の武蔵を支えた「火の巻」の思想
地・水・火・風・空と題された全五巻からなる宮本武蔵の『五輪書』。
この『五輪書』の中で、前回取り上げた「水の巻」とともに圧巻のひとつに数えられる一巻に「火の巻」がある。
「水の巻」は、日本一の剣豪・宮本武蔵が二天一流の剣技を解説した一巻であり、そのことだけでも重要視されるのは当然だ。
しかし、「水の巻」の剣技だけで、武蔵は不敗神話を築くことができただろうか? 優れた剣技のほかにも、武蔵は勝つために必要な何かを持っていたのではないだろうか。
それは何か? それこそ、「火の巻」のテーマといっていいものだ。
いい方を変えれば、「水の巻」の背後にあって、それを支えるもの。それが、「火の巻」なのである。
「火の巻」で語られる剣豪・武蔵の真髄
では、武蔵は「火の巻」の中で何を語っているのか。
「火の巻」をひもとくと、前書きに続く最初の項目として、「場の次第ということ」という表題が掲げられ、次のようなことが書かれている。
「場所の良否を見分けることが大事である。位置を占めるのには太陽を背にし、もしそうできないときは太陽が右にくるようにすべきである。」
また、「戦いとなり、敵を追い回すときには、敵を自分の左のほうへ追い回す気持ちで、難所が敵の後ろへくるように、どうしても難所のほうへと追いかけることが大事である。」
この内容を見ただけで、「火の巻」において武蔵が何を語ろうとしたか、すぐにも理解できるだろう。
「火の巻」では、剣豪・武蔵の真髄ともいえる“戦略”が語られているのである。
名場面を思い出させる教えの数々
剣豪・武蔵の真髄が戦略にあったということは、「火の巻」を読み進めることで、さらにはっきりする。
たとえば、「むかつかせるということ」という項目がある。敵を動揺させることの重要性を説いたものだが、これを読んで巌流島の戦いを思い起こす人は多いはずだ。
29歳の武蔵が関門海峡に浮かぶ船島(巌流島)で佐々木小次郎と対戦したときのことだ。武蔵は約束の刻限に3時間も遅れて決闘の場に臨んでいる。さらに、勝負をはやる小次郎が鞘を投げ捨てるのを見るや、武蔵は叫ぶ。「小次郎、敗れたり。勝つ者がなぜ、鞘を捨てるのか」。
まさに、「むかつかせるということ」を実践し、剣を交える以前に勝負に勝ったといっていいのではないだろうか。
京都郊外の一乗寺下り松における、吉岡一門の者たちとの決闘を思い出させる「枕をおさえるということ」という教えもある。
このとき、吉岡一門の者たちは数十人で、決闘の名目人である吉岡又七郎を守っていた。
これに対し、21歳の武蔵は約束の刻限よりも早くからその場所で待ち伏せした。そして、敵が現れるや、吉岡勢の真っただ中に飛び込み、名目人・又七郎を切り捨てた。このため、吉岡勢は慌てふためき、まともに戦うことができなかったのだ。
「枕をおさえる」とは、先手を打って敵の動きを抑えることだが、このときの戦いにぴたりと当てはまるといえよう。
それだけに、「火の巻」の中にこそ、武蔵の真髄があると思えるのである。
何事にも動じない「いわおの身」とは?
「火の巻」には、一見すると戦略とは思えない、「いわお(巌)の身ということ」という教えもある。
この教えは、『五輪書』よりも早く完成された『兵法三十五箇条』にもあり、武蔵にとって非常に重要な思想だったといわれている。
どういう意味なのか? 次のような逸話が残っている。
細川忠利の後を継いで熊本藩主となった光尚(みつひさ)が、「いわおの身」とはどういう意味か武蔵に尋ねたときのことだ。
武蔵はすぐにも弟子の寺尾求馬之助(くめのすけ)を呼び、「君命により、切腹を申し付ける」といいわたした。これを聞いた求馬之助は顔色一つ変えず、「かしこまりました」と応え、切腹の準備に取り掛かった。
もちろん、光尚は大いに驚いて制止した。が、武蔵は平然として、「これがいわおの身でございます」と答えたという。
確かに、「火の巻」には数多くの戦略が語られている。だが、どんな戦略を立てようと、何事にも動じない「いわおの身」がなければ成就することはできまい。武蔵はそれをいいたかったのではないだろうか。
一対一の兵法を集団戦に応用する
ところで、「火の巻」で語られる戦略は、けっして一対一の戦いだけを前提としているのではない。
「二刀一流の兵法、戦のことを、火と見立て、戦勝負のことを火の巻として、この巻に書き表す。」また、「一人にして五人十人と戦い、確実に勝つ方法を知ることがわが兵法である。そうであれば、一人で十人に勝つことと、千人で万人に勝つことの間に、何の違いがあろうか」
「火の巻」冒頭の前書きで、武蔵ははっきりとこう断っている。
このことから、武蔵が「火の巻」の戦略を、集団戦でも応用できると考えていたことがわかる。
ここで、思い出されるのは、若き日の武蔵がいつかは武将になりたいと願っていたらしいことだ。
武蔵は十七歳で関が原の合戦に参戦し、次から次と命がけの戦いを繰り返した。名を上げることで有力大名に召抱えられ、武将となる道が開けるからだ。
とすれば、「火の巻」にはたんに武蔵の戦略が語られているだけではない。果たせなかった武蔵の夢までが語られている、といっていいのではないだろうか。
第十一話 『五輪書』「風の巻」「空の巻」
「風の巻」が語る他流批判の意味
武蔵が最晩年に完成した畢生の名作『五輪書』。
この『五輪書』の第四巻にあたる「風の巻」は、第三巻までの諸巻とは幾分違った趣を持っている。
すでに、本稿では『五輪書』の最初の三巻、「地の巻」「水の巻」「火の巻」を取り上げた。
これらの諸巻はまさしく兵法書といった内容だった。そこには、自らが興した二刀流(二天一流)の剣技や戦略について、具体的かつ懇切丁寧に語る武蔵の姿があった。
その武蔵が「風の巻」では、その多くの部分を他流の批判に割いているのだ。「風の巻」を読む読者の多くが、おやっ、と感じたとしても少しも不思議はないと思える。
だが、ここで注意したいのは、「風の巻」で語られる他流批判は、決して批判のための批判ではないということだ。
では、武蔵は「風の巻」で何を語ろうとしたのだろう。
剣術の本道を忘れた他流派への批判
「風の巻」を見ると、すぐにも、武蔵が他流派に対して徹底的に否定的な立場に立っていることがわかる。
「他の流派は、武芸によって生計を立てようとし、花やかでけばけばしい技巧をこらして売り物にしているので、兵法の正しい道ではない」
このように、すでに前書きの中で、武蔵は他流派を批判している。
本文に入っても、他流批判の調子に変わりはない。
まず、「他流に大きな太刀を持つこと」という項目がある。
これについて、武蔵は「わが流派から見れば、これは弱い流派だと判断する」と決め付ける。
「他流に太刀かずの多いこと」という項目もある。
ここでは、「数多くの太刀の使い方を人に教えるのは、兵法を売り物にしようという気持ちがあって、太刀の使い方を数多く知っているといって初心者を感心させるためだろう。兵法の嫌うところである」という。
このような言葉から、武蔵が他流派の剣技を苦々しい思いで見ていたことがわかる。
だが、武蔵が生きた時代は、数多くの剣術流派が生まれ、形式を整えていく時代と重なっている。
その意味で、武蔵の批判が時代に逆行するものであることも確かだ。
それでもなお、武蔵にはいわねばならないことがあったのだろうか。
批判を通して兵法の本質に迫る
「風の巻」を丁寧に読んでみると、ここで武蔵が語ろうとしたのは、批判を通してしか語れない、二天一流の本質なのではないかと思える。
一例として、「他流に大きな太刀を持つこと」という項目をさらに読み続けてみよう。
武蔵は、それを弱い流派だと決め付けたが、その後でこういっている。
「その理由は、この流派では太刀の長さを有利として、遠いところから敵に勝ちたいと思い、長い太刀を好むからである。」また、「兵法の道理を心得ないで、長い太刀に頼って遠くから勝とうとするのは心の弱い証拠であり、それだから弱い兵法というのである」と。
このようにいわれれば、誰でもそのとおりだと納得できるだろう。
そして、武蔵はさらに核心的なことを語る。
「昔から“大は小を兼ねる”という言葉もあるので、いたずらに長い太刀を嫌うのではない。長い太刀でなければと偏った心を嫌うのである」
ここまでくれば、武蔵の他流批判が、兵法の本質に関わることは明らかなのではないだろうか。
巻を追うごとに高まる『五輪書』の思想
もちろん、「風の巻」の他流批判がただの批判でないことは、武蔵自身もその前書きの中で断っている。
「他流の道を知らなくては、二天一流の道を確かにつかむことはできない」と。
しかし、その内容が他流批判であるために、「風の巻」に対する一般の評価は、「水の巻」や「火の巻」より劣るのではないかと思える。ここでは、あえてその見方を変えてみたい。
二天一流の剣技が語られた「水の巻」、戦略が語られた「火の巻」が重要なのはいうまでもない。だが、それはあくまでも二天一流の有形の部分といっていい。
二天一流の無形の部分、より本質的な部分について語ろうとしたとき、武蔵は他流派の批判を通して語るしかなかったのではないだろうか。
このように考えれば、地・水・火・風という、これまでに見てきた『五輪書』の四巻の流れも、ごく自然なものとして受け取れるはずだ。
武蔵は地・水・火・風と語りながら、その思想を高めてきたのである。
とすれば、『五輪書』の最後に置かれた「空の巻」が、武蔵が到達した最高の境地とされるのも、実に当然のことといえよう。
武蔵の到達点を示す「空の巻」の境地
『五輪書』の最後にある「空の巻」は、文字数が五百字ほどの短い文章である。文章の量だけで判断すれば、『五輪書』全体のあとがきといってもいいほどである。
だが、ここで語られた境地は、古くから武蔵の到達点として多くの人に認められている。
その境地とは、まさに「空」である。
武蔵は次のようにいっている。
「武士は、兵法の道を確実に覚え、そのほかの武芸にも励み、武士としての道を熟知し、心に迷いがなく、日々刻々に怠らず、心と意の二つの心を磨き、観と見の二つの目を磨き、少しも曇りなく、迷いの雲が晴れた状態を真実の空というのだと知らなければいけない」
これが、生涯に60回以上の勝負をし、死ぬまで剣の道に生きた男が、最後にたどり着いた境地である。
不思議なのは、剣聖剣豪といわれる人々の多くが、しばしば武蔵のいう「空」と類似した境地について語っているということだ。
この境地を、現代人が理解することは難しいかもしれない。
だが、優れた剣豪たちはみな、たとえどんなに孤立した人生を生きようと、どこかでつながっているといえるのかもしれない。  
 
宮本武蔵 7

 

1584年〜1645年
我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進
宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
家系
宮本武蔵の来歴は不詳で、父親は土豪武芸者の平田武仁ともその主君である新免無二ともいわれ、出生地は美作吉野郡讃甘村宮本(美作市今岡)とされ初の人名駅「宮本武蔵駅(智頭急行)」が建てられたが異説もある。新免無二は関ヶ原合戦の前に黒田官兵衛に仕官し九州戦争に参陣、16歳の武蔵も従軍した可能性がある。宮本武蔵は生涯妻帯せず子も生さなかったようで、二人の弟子を養子に取り仕官の道具とした。宮本三木之助は播磨明石藩10万石の世子本多忠刻(忠勝の嫡孫で千姫の婿)に近侍させたが忠刻の病死に伴い殉死、小笠原忠真(播磨明石藩10万石→豊前小倉藩15万石)に出仕させた宮本伊織は島原の乱の軍功などで4千石の筆頭家老に累進し子孫は幕末まで小倉藩士筆頭の地位を保った。伊織が手向山山頂に建立した武蔵の彰徳碑には「小倉碑文」が記され『武州伝来記』『二天記』など武蔵伝記物語の材料となった。
年譜
1584年 (詳細不明)土豪武芸者の平田武仁(または新免無二)の子として宮本武蔵が美作吉野郡讃甘村宮本にて出生、10歳のころ父と大喧嘩して家出し播磨佐用郡平福村の田住家(別所家臣)に再嫁した生母の率子を頼るが正蓮院へ預けられる
1596年 播磨を訪れた新当流の有馬喜兵衛が立合い相手を求める高札を掲げると13歳の宮本武蔵が応戦、武蔵は正蓮院住職に連れられ謝罪に赴くが居丈高な態度に激昂し喜兵衛を持上げて叩き付け棒で撲殺、白眼視された武蔵は平福村を去って流浪し已む無く兵法者の道を踏出す
1599年 流浪の宮本武蔵が但馬で兵法者の秋山某を斬殺
1600年 新免無二(宮本武蔵の父または主君)が黒田官兵衛に従い九州戦争に参陣(16歳の武蔵が従軍したとも)
1604年 (詳細不詳)剣術で立身を期す宮本武蔵が上洛し吉岡道場(鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流の一流)を挑発、洛北蓮台野で当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)に勝利し挑み来た弟の吉岡伝三郎を斬殺、吉岡一門100余名が5歳の吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を担ぎ報復に出るが武蔵は又七郎を殺し包囲を破って遁走(生き残った清十郎は道場を畳み家業の染物屋に専念したとも)、武蔵は剣豪を求めて諸国を巡歴し手段を選ばない流儀で勝利を重ね江戸に滞在したのち上方へ戻る(神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試す。奈良興福寺の宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの仕合は史実に無い。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否したいう)
1610年 富田勢源(中条流)仕込みの長大剣「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に剣名を馳せた佐々木小次郎が30余年続けた廻国修行を打切り豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招聘に応じて小倉城下に「巌流」兵法道場を開設、老いて名の高い小次郎は宮本武蔵に目を付けられ安穏な余生を妨げられる
1612年 [巖流島の決闘]豊前小倉藩の剣術師範で西国一円に剣名を馳せる佐々木小次郎(富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれた中条流随一の強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始)に宮本武蔵が挑戦し藩主細川忠興の許可を得て小倉沖舟島(巖流島)で対決、武蔵は二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(享年は60歳前か。手段を選ばぬ武蔵は約を違えて弟子を同行し倒した小次郎を共に打殺したとも)、巌流と佐々木小次郎の盛名は忽ち消えうせ(1776年に武蔵の伝記物語『二天記』が世に出て復活)後に細川家の後釜には武蔵が座る / 「巖流島の決闘」で佐々木小次郎を斃し13歳から29歳まで60余の真剣勝負に全勝を収めた宮本武蔵が血闘に終止符を打ち円明流の普及と仕官探しに専念し水野勝成(忠勝の嫡子)ら徳川譜代大名に接近を図る
1615年 宮本武蔵が先鋒大将水野勝成の客将として大坂陣に参戦、武蔵は徳川方諸大名と交流して円明流を普及させ本多忠刻(伊勢桑名藩10万石→播磨明石藩15万石の本多忠政の嫡子)に仕え養子の宮本三木之助を近侍させる
1617年 徳川幕府が悪所集約管理のため吉原遊廓を開設し(元吉原・日本橋人形町→後に浅草千束へ移転)盗賊「三甚内」の一人庄司甚内に吉原惣名主を世襲させる(吉原名主の並木源左衛門・山田三之丞が江戸滞在中の宮本武蔵に入門)
1624年 宮本武蔵が尾張藩に招かれ兵法指導、家老寺尾直政の要請で留まった弟子の竹村与右衛門が尾張藩・美濃高須藩に円明流を普及させる
1626年 播磨姫路藩15万石の本多忠政(忠勝の嫡子)の嫡子本多忠刻が早世し次弟の本多政朝が世子となる、忠刻に仕えた宮本三木之助(武蔵の養子)は殉死し宮本武蔵は養子の宮本伊織を播磨明石藩10万石の小笠原忠真へ出仕させる
1632年 播磨明石藩10万石の小笠原忠真が豊前小倉藩15万石へ加転封、2年後に宮本武蔵は本多家を辞して小笠原家の食客となる(養子の宮本伊織は小笠原家臣で知行2500石)
1637年 宮本武蔵が豊前小倉藩主小笠原忠真の軍監として島原の乱に出陣、軍功を挙げた養子の宮本伊織は2500石から4000石へ加増され筆頭家老となる(子孫は小倉藩家老を世襲)
1638年 宮本武蔵が豊前小倉藩を辞して肥後熊本藩54万石の細川忠利(忠興の後嗣・小笠原忠真の義兄弟)の食客となり翌年『兵法三十五箇条』を奉呈、熊本金峰山「霊巌洞」に籠り集大成の『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著す(養子の宮本伊織は小倉藩筆頭家老に留まり子孫は幕末まで繁栄)
1645年 我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した宮本武蔵が肥後熊本にて死去(享年61)、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保つ
交友
新免無二 / 主君または父
宮本三木之助 / 本多忠刻に従い殉死した武蔵養子
宮本伊織 / 小倉藩家老となった武蔵養子
竹村与右衛門 / 尾張藩に円明流を広めた門人
寺尾孫之允 / 熊本藩に円明流を広めた門人
寺尾求馬助 / 孫之允弟・熊本藩に円明流を広めた門人
並木源左衛門 / 門人・吉原名主
山田三之丞 / 門人・吉原名主
庄司甚内 / 吉原惣名主
夢想権之助 / 神道流杖術の開祖 
 
宮本武蔵の名言

 

名言 1 
空を道とし、道を空とみる。
(ここでいう「道」とは、武士としての道を意味すると思われ、「空」とは、「迷いのない心」「とらわれない心」の事。つまり「無欲、無心が事をなす」となります。)
神仏を敬い、神仏に頼らず。
(神仏に頼るのではなく、神仏の意にかなう心構え、生活姿勢が大切ということ。)
千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす。
武士といえば、常に死ができている者と自惚れているようだが、そんなものは出家、女、百姓とて同様だ。武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ。
構えあって構えなし。
打ち込む態勢をつくるのが先、剣はそれに従うものだ。
勝負とは、敵を先手、先手と打ち負かしていくことであり、構えるということは、敵の先手を待つ心にほかならない。「構える」などという後手は邪道なのである。
一生の間、欲心を思わず。
平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること。
われ事において後悔せず。
あれになろう、これになろうと焦るより、
富士のように黙って、自分を動かないものに作り上げろ。世間に媚びずに世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる。 
名言 2 
「世々の道をそむく事なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の1。
「身にたのしみをたくまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の2。
「よろずに依枯の心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の3。
「身をあさく思、世をふかく思ふ」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の4。
「一生の間よくしん(欲心)思わず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の5。
「我事において後悔をせず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の6。
「善悪に他をねたむ心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の7。
「いずれの道にもわかれをかなしまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の8。
「自他共にうらみかこつ心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の9。
「れんぼ(恋慕)の道思いよる心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の10。
「物毎にすきこのむ事なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の11。
「私宅においてのぞむ心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の12。
「身ひとつに美食をこのまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の13。
「末々代物なる古き道具を所持せず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の14。
「わが身にいたり物いみする事なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の15。
「兵具は格別、よの道具たしなまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の16。
「道においては死をいとわず思う」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の17。
「老身に財宝所領もちゆる心なし」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の18。
「仏神は貴し仏神をたのまず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の19。
「身を捨てても名利は捨てず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の20。
「常に兵法の道をはなれず」辞世の句・最後の言葉宮本武蔵『独行道』より。21箇条の21。
「観の目強く、見の目弱く、遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也」『五輪書 水之巻』より。
「一理に達すれば万法に通ず」「平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること」『五輪書』より。
「構えあって構えなし」『五輪書』より。
「勝負とは、敵を先手、先手と打ち負かしていくことであり、構えるということは、敵の先手を待つ心にほかならない。「構える」などという後手は邪道なのである」『五輪書』より。
「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす」『五輪書』より。
「空を道とし、道を空とみる」『五輪書 空之巻』より。
「武士といえば、常に死ができている者と自惚れているようだが、そんなものは出家、女、百姓とて同様だ。武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ」『五輪書』より。
「体の大きい者も小さい者も、 心をまっすぐにして、 自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である」『五輪書』より。  
 
五輪書 1

 

五輪書 勝負を決めるのは「平常身」 
「水の巻」より「兵法身なりの事」
○兵法の身なりの事
身のかゝり、顔をうつむかず、あふのかず、かたむかず、ひずまず、目をみださず、ひたひにしわをよせず、まゆあひにしわをよせて、目の玉うごかざるやうにして、またゝきをせぬやうにおもひて、目をすこしすくめるやうにして、うらやかに見ゆるかほ、鼻すぢ直にして、少しおとがひを出す心なり。
くびはうしろのすぢを直に、うなじに力をいれて、肩より惣身(そうみ)はひとしく覚え、両のかたをさげ、脊(せ)すぢをろくに、尻を出さず、ひざより足先まで力を入れて、腰のかゞまざるやうに腹をはり、くさびをしむるといひて、脇差(わきざし)のさやに腹をもたせて、帯のくつろがるやうに、くさびをしむるといふをしへあり。惣而(そうじて)兵法の身において、常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。能々(よくよく)吟味すべし。

体の姿勢は、顔はうつむかず、あおむかず、かたむかず、曲げず、目を動かさず、額にしわをよせず、眉の間にしわをよせ、目の玉を動かさないようにして、またたきをしないような気持で、目をやや細めるようにする。
おだやかに見える顔つきで、鼻すじはまっすぐにして、やや、おとがいを出す気持で、くびはうしろの筋をまっすぐにして、うなじに力を入れて、肩から全身は同じものと考える。
両肩を下げ、背すじをまっすぐにして、尻を出さず、ひざから足先まで力を入れて、腰がかがまぬように腹を出す。くさびをしめるといって、脇差のさやに腹をもたせて、帯がゆるまぬように、くさびをしめる教えがある。
すべて兵法にあっては、平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすることが大切である。よくよく研究しなければならぬ。
参考
○身のかゝりの事
身のなり、顔はうつむかず、余りあふのかず、肩はさゝず、ひづまず、胸を出さずして、腹を出し、こしをかゞめず、ひざをかためず、身を真向にして、はたばり広く見する物也。常住(じょうじゅう)兵法の身、兵法常の身と云事、能々吟味在るべし。
○目付の事
目を付ると云所、昔は色々在ることなれ共、今伝る処の目付は、大体顔に付るなり。目のおさめ様は、常の目よりもすこし細き様にして、うらやかに見る也。目の玉を不動、敵合近く共、いか程も、遠く見る目也。其目にて見れば、敵のわざは不及申、左右両脇迄も見ゆる也。観見(かんげん)二ツの見様、観の目つよく、見の目よわく見るべし。若(もし)又敵に知らすると云ふ目在り。意は目に付、心は不付物也。能々吟味有べし。
柳生宗矩が説く「平常心」
どんな武芸でも平常心ということが大切なのである。柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は『活人剣』下の中で、「常の心」をつぎのように説く。
常の心と云は、胸に何事をも残さず置かず、あとははらりはらりとすてて、胸が空虚になれば、常の心なり。
胸に何事ものこさず、跡を少しものこさないこと、それが常の心であると説く。常の心こそ、無心なのである。人の前で揮毫をたのまれたような場合、常の心がなく緊張すれば手が震えてくることや、大勢の人の前で話をすれば声が震えることがあるように、常の心を失うならば、どんなことでもできなくなるものである。禅では「平常心是道」というが、平素の心を失わないことが肝要である。
この平常心をもって一切のことをする人を、柳生宗矩は「名人」と呼んでいる。どんなことをしても、しようとする心を外にあらわすことなく、何事かをよくしようと思う心もないのが平常心なのである。修行が未熟なうちは、よい技をしよう、うまく動こうと思うからかえってできなくなる。
稽古をかさねてゆけば、よくしよう、うまくやろう、というような心は遠のいて、どんなことをしても、思わずして無心に、無思に、これを行なうことができるようになる。心に意識したり、執着したりすることがなく、自然に身体も手も足も動いてゆくとき、その名人の心は無心であり、平常心というのである。
兵法において技がきまるのは、無心のときでなければならない。無心というと、一切、心がないのではない。平常心を保つことが無心なのである。
兵法の勝負をするのでも弓を射るのでも、常の心でする必要がある。心がたかぶったり、邪心が起こったり、一ヵ所にとどまったりしたならばこれを行なうことができない。常の心で弓を射ること、常の心で兵法を行なうこと、この常の心を無心というのである。
動転した心、怒った心、勝負を争う心でやれば、兵法は失敗する。常の心、無心の心でやってこそ、真の技を無限に発揮することができるのである。
道者の心を鏡のように保つことが無心になることである。鏡はきれいな花を映しても、鏡自体の価値が増すものではなく不動であり、きたない犬の糞を映しても、鏡自体の価値が減ずるものでもない。どんなものを映しても、鏡はそれを映しながらも自らをかえることはない。鏡こそ真の不動智であり、無心である。
宮本武蔵の「平常身」
無心というと心がないのではない。あっても動揺しないことなのである。鏡のような心が無心であり、それはそのまま平常心なのである。
合気道の技を行なう場合も、この無心の境地が大切である。どこまでも動揺することなく、一つに固まることなく、流れるように動いて動かぬ心を持たなければならない。それはまた柳生新陰流の剣法の極意とも通ずるものなのである。
無心とは身体全体にひろがりわたった気であるが、無心を体得した人を道者という。道者とは胸に何ごともない人である。胸に何ごともなく無心になりきっているけれども、どんなことも成すことができる人のことである。無心の境地とは鏡が常に澄みわたって、何の形も映さず、しかも鏡の前に向ったものの形はどんな物でも明らかに映すことができるようなものである。道者の胸の内こそまさしく鏡の如きものでなければならない。この無心の相(すがた)を別の言葉で平常心ともいう。
柳生宗矩は沢庵(たくあん)から禅の指導を受けていたため、平常心というものを禅の立場から説いたが、武蔵の『五輪書』の平常心は平常心ではなくて、平常身であることに注意しなければならない。
平常心が観念的であるのに対し、平常身は具体的である。「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする」ことが一番大切であると武蔵はいうのである。戦いの場において常の身を保つには、朝鍛夕錬の修行によって身を鍛えあげておかなければならないのである。身が感じ、身が思うようにならなければ武蔵のいうことは分からぬ。 
五輪書 「勝つ」とはどのようなことか 
「地の巻」より「夫れ兵法といふ事、武家の法なり」
兵法というものは武家のおきてである。将たるものはとくにこの兵法をおこない、兵卒もまたこの兵法の道を知る必要がある。今の世の中で兵法の道を確実に体験しているという武士はほとんどない。
まず道があらわれているのは、仏法では人を救う道があり、また儒道には文の道を正すものがあり、医者には諸病をなおす道がある。あるいは歌人は和歌の道を教え、あるいは茶人や弓道者、そのほかのさまざまな芸能者などがあり、それぞれ思い思いに稽古し、心にまかせてたしなんでいる。ところが、兵法の道をたしなむ人は稀にしかいないのである。
まず武士は文武二道といって、文と武の二つの道をたしなむことが大切である。たといこの道に才能がなくとも、武士たるものは自分の能力に応じて兵法を修行することに努めるべきである。
だいたい武士の信念を考えてみると、武士は平常からいかに立派に死ぬかというふうに思われている。死を覚悟することにおいては武士ばかりではなく、出家であっても、女であっても、百姓以下に至るまで、義理を知り、恥を思い、死ぬところを決心することは少しもかわりがないのである。
武士が兵法をおこなう道はどんなことにおいても人に勝つということが根本であり、あるいは一人の敵との斬合いに勝ち、あるいは数人との集団の戦に勝ち、主君のため、わが身のため名をあげ、身を立てようと思うことである。これは兵法の功徳なのである。
また世の中にたとい兵法の道を習っても、実戦には役にたたないという考えもあるであろう。その点については何時でも実際に役にたつように稽古を重ね、あらゆることについても役にたつように教えること、これこそが兵法の真の道である。
宇宙の気と個の気がひとつになる境地
人に勝つ死を覚悟することは武士だけではない。僧も百姓も女性ですら死を覚悟することはできる。武士たるものが他の一般の人々と異なるのは、一体何であるのか。
武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐる、所を本とし、云云
と武蔵が言うように、武士が武芸をたしなむのはどんなこと、どんな場合においても人に勝おっことを根本とするからである。武士の兵法においては敗けることは許されない。敗けることはそのまま死に直結する。死と生か紙一皮において対しているのが武士の闘いである。
だからこそどんな場合においても絶対に勝たなければならない。理由の如何を問わず勝たなければならないのである。
武蔵はそれを具体的に、
或は一身の切合に勝ち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ。是、兵法の徳をもつてなり。
と言う。兵法者が勝つことにはさまざまな場合がある。一人対一人の斬合いの場合もある。あるいは数人との戦闘の場合もある。一人が数人に勝ることは武蔵が自らの死闘を通じて得た教訓なのであった。それは個が衆に勝つということなのである。
個の力は無限に延ばすことができる。個の力を錬磨することによって個は個ではなくなる。個は無限の力を備えた個となってゆく。このような個は天地一杯に充満する個となる。
哲学者が個即全とか、一即多などというのは頭で考えたざれごとにすぎない。個は身心の錬磨によって宇宙に遍満する個となる。それは宇宙の気と個の気が一つになるからである。この点をとらえて『五輪書』は「数人の戦に勝ち」というのである。
見えざる敵に対する
主君のため、我が身のために名声をあげ、身を立てるのが兵法の功徳であるというのは、武蔵が世間一般の武芸者に対して言うのである。この『五輪書』はわが兵法を世に伝える目的で書かれているために、世間一般の武芸者に共感を得る必要もあろう。
武蔵自身もこのほとんどの人生が兵法によって名をあげ、禄を得ること、すなわち仕官して立身出世することに己れの全存在をかけたのである。この自分の情念をかくすことなく、ここに淡々と記したまでのことなのである。
しかし晩年になると名声をあげ立身するという願いはまったくなかった。名声をあげる必要なしと悟った武蔵はおそらく武芸者からの真剣勝負を避けたこともあったにちがいない。勝負を避ける時、世間の人々は武蔵は臆病風に吹かれているというであろう。
しかし武蔵の晩年は世評をまったく無視した。無視したということもなかった。どんなに悪口を言われてもまったく自らの心を動かすことはなかった。万理一空の自由無礙なる境地に達した武蔵にとっては悪口とか評判とかの世界をまったく超脱していた。
しかし世間一般の通念からここでは名をあげ身を立てることができるのも兵法の功徳である、と言ったにすぎなかった。人に勝つことは己れに勝つことである。それに勝つことは己れの欲心を無にすることである。真に勝つことを極めるのは人生の至極の道理に挑戦することなのである。
これに挑戦することを志した者は、まず一日の初めに端坐正念し、今日一日を勝ち抜くための精神の構えをしっかりと確立する必要がある。見えざる敵に対してはっしと打つ気魄をまず朝の精神の構えとする必要がある。  
五輪書 極意は「枕をおさえる」!? 
「火の巻」より「敵のさせないようにする」こと
「枕をおさえる」とは、「頭を上げさせない」ということである。兵法、勝負の道においては、相手に自分をひきまわされ、後手にまわることはよくない。何としても敵を思いのままにひきまわしたいものである。
したがって相手もそのように思い、自分もその気があるわけであるが、相手の出方を察知することができなくては、先手をとることはできない。
兵法において、敵が打つのを止め、突くのをおさえ、組み付いてくるところをもぐようにひきはなしなどすることである。
枕をおさえるというのは、自分が兵法の要諦を心得て敵に向いあうとき、敵がどんなことでも思う意図を、事前に見破って、敵が打とうとするならば、「うつ」の「う」という字の最初でくいとめ出鼻をくじき、その後をさせないという意味であり、それが「枕をおさめる」ということである。
たとえば敵がかかろうとすれば、「か」の字でくいとめ、とぼうとすれば「と」の字でくいとめ、きろうとすれば「き」の字の最初でおさえていくことで、皆な同じことである。
敵が自分にわざをしかけてきたとき、之役に立たないことは敵のなすままにまかせ、肝腎のことをおさえて、敵にさせないようにするのが、兵法においてとくに重要である。
これも、敵のすることを、おさえよう、おさえようと思うのは後手である。まず、こちらはどんなことでも兵法の道にまかせて技を行いながら、敵もわざをなそうとする、その出鼻をおさえ、敵のどんな企図も一切役にたたないようにし、敵を自由に引き廻すことこそ、真の兵法の達人であるということができる。
これはただ鍛錬の結果なのである。枕をおさえるということを、よくよく調べなければならぬ。
とにかく、先手に廻れ!
何ごとも先手を打つということが大切である。後手に廻ったならばおくれをとることは人生の勝負においてもしばしば見られることである。「機先を制す」という言葉があるが、兵法だけでなくどんな仕事をする場合にも先手に廻ることは必要なのである。
禅宗の問答などにもこれと似たような例はいくつもある。たとえば『臨済録』には、つぎのようなやりとりがある。
「上堂。云く、赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんじん)有り。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に、僧有り、出でて問ふ、如何なるか是れ無位の真人。師、禅牀(ぜんじょう)を下つて把住(はじゅう)して云く、道へ道へ。其の僧擬議す。師托開して云く、無位の真人是れ什麼(なん)の乾屎橛(かんしけつ)ぞ、といつて便ち方丈に帰る。」
この内容はどういうことかというと、上堂して臨済が言った。「この赤肉団上に一無位の真人がいて、常にお前たちの面門を出たり入ったりしている。まだこの真人を見届けていない者は、さあ看よ!さあ看よ!」と。
その時、ひとりの僧が進み出て問うた。「その無位の真人とは、いったい何者ですか」と。臨済はいきなり席を下りて、僧の胸倉をつかまえ、「さあ言え!さあ言え!」とやった。その僧は擬議した。
臨済は僧を突き放して「これでは無位の真人もかわいた糞同然ではないか」と言って、そのまま居間に帰ってしまった。このやりとりには一瞬の停滞なく、臨済はまさしく先手、先手をとったのである。  
 
五輪書 2

 

武蔵の武士道 
兵法の道、二天一流と号し数年鍛錬の事、初而はじめて書物に顕さんと思ひ、時に寛永二十年十月上旬の比ころ、九州肥後の地岩戸山に上り天を拝し観音を礼し仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもって六十。
我若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初而勝負をす。其のあひて、新当流有間喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝つ。廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者に会ひ数度の勝負をけつすといへども勝利を得ざるといふ事なし。其後国々所々に至り、諸流の兵法者に行合ひ六十余度迄勝負をなすといへども、一度も其利をうしなはず。其程歳十三より廿八、九までの事也。
我三十を越えて跡をおもひみるに、兵法至極してかつにはあらず。おのづから道の器用有りて天理をはなれざる故か、又は他法の兵法不足なる所にや。其後なおもふかき道理を得んと朝鍛夕錬してみれば、おのずから兵法の道にあふ事、我五十歳の比也。其より以来は尋ね入るべき道なくして光陰を送る。兵法の利にまかせて諸芸諸能の道を学べば万事において我に師匠なし。今此書を作るといへども、仏法儒道の古語をもからず、軍記軍法の古きことをももちひず、此一流の見たて実まことの心を顕す事、天道と観世音を鏡として十月十日の夜寅の一てんに筆をとって書初むるもの也。

私の兵法の道を「二天一流」と号し、数年鍛錬してきたことを初めて書物に著そうと思い、寛永20年(1643年)10月上旬の頃、九州肥後は岩戸山に登り、天を拝んで観音に礼拝し仏前に向かって、生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、歳はつもって60。
私は若い頃から兵法の道を歩み、13歳のときに初めて勝負をした。その相手は新当流の有間喜兵衛という武芸者に勝ち、16歳の時に但馬の国の秋山という力の強い者に打ち勝った。21歳の時に都に上り、天下の武芸者に会い数度の勝負をしたが、勝利を得なかったということはなかった。その後、諸国を回り様々な流儀の武芸者に会って60余回も勝負を行ったが、一度も不覚をとらなかった。それは13歳から29歳の間のことである。
30を越えて自分の足跡を振り返ってみると、兵法を極めていたから勝ったのではない。生まれつき兵法に才能があって天の理にかなっていたためか、それとも他の兵法が不十分なのか。その後さらに深い道理を掴もうとして朝鍛夕錬してみたところ、自然と兵法の道を体得したのは50歳の頃だった。それ以来、極める芸もないまま時を過ごした。兵法で諸芸諸能の道を学んだので、あらゆることにおいて私に師匠はいない。今、この書を書くといっても、仏法・儒教・道教の言葉は借りず、軍記軍法の故事も使わず、この二天一流の考え方とその本当の意味を、天道と観世音を鏡として10月10日の夜、寅の一てん(午前4時30分)に筆を執って書き始めたのである。
地の巻の冒頭では、やや自慢げな自己紹介・五輪書執筆に至った経緯が記されている。生涯60余の決闘を行い、一度たりとも敗れなかったというエピソードもこの部分に記されている。このページの目的は武蔵の足跡を探ることではないので、このあたりは簡単に紹介するにとどめる。ちなみに、一時期話題になった「武蔵の生誕地はどこか?」については、「生国播磨の武士」と記されている。しかし、播磨のどこなのかまでは書いていない。冒頭部分だけを読むと、自惚れたお爺さんが、疑わしい自慢話を書き始めるのかと思う人もいるかもしれないが、ついでにその先も読んでほしい。冒頭部分があながち伊達ではないことが、きっと理解できるだろう。

夫それ兵法といふ事、武家の法なり。将たる者はとりわき此法をおこなひ、卒たるものも此道を知るべき事也。今世の中に兵法の道慥たしかにわきまへたるといふ武士なし。先まづ道を顕はして有るは仏法として人をたすくる道、又儒道として文の道を糺し、医者といひて諸病を治する道、或は歌道者とて和歌の道ををしへ、或は数寄者弓法者、其外諸芸諸能までも、思いゝゝに稽古し、心々に好くもの也。兵法の道にはすく人まれ也。武士は文武二道といひて二つの道を嗜む事、是道也。縦たとひ此道ぶきようなりとも武士たるものはおのれおのれが分際程は兵の法をば、つとむべき事なり。大形おおかた武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。死する道においては武士斗ばかりに限らず、出家にても、女にても、百姓已下に至る迄、義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひきる事は、其差別なきもの也。武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐるゝ所を本もととし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ、是れ兵法の徳をもつてなり。又世の中に兵法の道を習ひても実の時の役にはたつまじきとおもふ心あるべし。其儀においては、何時にても役にたつやうに稽古し、万事に至り役にたつやうにをしゆる事、是兵法の実の道也 。

兵法とは武家のおきてである。大将たる者は特にこの法を実践し、兵卒もこの法を知るべきである。今の世の中に、兵法の道を確実にわきまえているという武士はいない。まず、その道をあらわしてあるのは、仏法では人を助ける道があり、儒道(儒者)には学問の道を正す道があり、医者にはあらゆる病を治す道があり、あるいは歌人は和歌を教える道、あるいは数寄物(茶人)・弓道家その他様々な芸能者までも思い思いに稽古し、心に任せてたしなんでいる人はいる。が、兵法の道をたしなむ人はまれである。まず、武士は『文武二道(文武両道と同義)』といって、二つの道をたしなむこと、これが武士の道である。(文武両道の)道に不器用であるとしても、武士たる者は己の分際(ぶんざい:能力)に相応するぐらいには、兵法を鍛錬するべきである。だいたい武士の信念を考えてみると、武士は普段からいかに立派に死ぬかというように思われているようだ。が、死ぬという道は武士に限ったものではない。出家(僧?)、女、百姓にいたるまで、義理を知り、恥を思い、死場所を決めることに差はないのである。武士が歩む兵法の道とは、何事においても人より優れることが本(根本)であり、一対一の斬りあいに勝ち、数人との戦いに勝ち、主君のため、自分のため名をあげようと思うことである。これが兵法の功徳である。また、世の中には兵法を習っても実際の役には立たないとう考えもあるだろう。それについては、何時でも役に立つように稽古して、何事にも役立つように教えること。これこそ兵法の真の道なのである。
五輪書の第一巻「地の巻」の最初の方で、武士が心がけなければならないことを説いている。武蔵というと「無敵の二刀流剣豪」というイメージが強いが、その一方で彼は優れた水墨画も残しており、その分野の文化人としてもかなりの業績を残しているらしい。現代で言うならば、武士は「武道(スポーツなど運動も含む)」を鍛錬するだけではダメ、勉強もしなければならない、といったところだろうか。
そうはいっても、文武両道の道を実践するのは難しい事で、一部の人間にしかできないものだ、と思う人もいるだろう。しかし、不器用であったとしても、自分の能力にふさわしい力をつけるように、鍛錬するべきである、と書いている。武士は、才能を言い訳にして鍛錬を怠ってはならないのである。一生懸命に努力することを、武蔵は最初の心構えとして記述した。この基本的な精神は現代でも十分通用するものだと思われる。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉がある。これは江戸時代の武士が書いた「葉隠」という書物に出てくる言葉である。ここはこの言葉に込められた真意を考えるページではないので、紹介するだけにとどめるが、「潔く死ぬことこそ武士の道である」というのは、昔も現代でも一般的に認識されていたようである。しかし、武蔵はこのことについては否定的な見方をしている。「死ぬという道は武士に限ったものではない」のである。この文の続きでは「出家(お坊さんのこと?)、女、百姓に至るまで、義理を知り、恥を思い、死場所を決めるのに差はないものだ」と書いている。つまり「死」は武士の専売特許ではないのである。武士道とは死ぬことではない、というなら武士道とは何なのか。武蔵は「どんなことでも、人より優れていることが根本である」と書いている。また、この続きには「平和な時代に武術など習っても意味がないし、出世の役には立たないと思うこともあるが、いつでも役立つような稽古をして、いろいろなことに際して役立つように教えることこそ、兵法の実の道である」と書いている。兵法はただの鍛錬ではなく、実際に役に立つような稽古をして実践することなのだ、というのである。武蔵の言う武士道とは、戦いに限らず何事においても、主君のため、自分のために勝つことが第一であり、勝利を得るために役立つ手段が、武蔵の言う兵法なのだろう。この実践主義的な教えを第一としている武道は、他にはあまりないのではないだろうか。
興味深いことに、武蔵は自分が説く武士道を大工に例えて説明している。
兵法の道、大工にたとへたる事
大将は大工の統領として天下のかねをわきまへ、其国のかねを糺し、其家のかねを知る事、統領の道也。大工の統領は堂塔伽藍のすみがねを覚え宮殿楼閣のさしづを知り、人々をつかひ家を取立つる事、大工の統領も武家の統領も同じ事也。家を立つるに木くばりをする事、直にして節もなく見つきのよきをおもての柱とし、少しふしありとも直にしてつよきをうらの柱とし、たとひ少しよわくともふしなき木のみざまよきをば、敷居、鴨居、戸障子とそれぞれにつかひ、ふしありともゆがみたりともつよき木をば、其家のつよみつよみを見わけてよく吟味してつかふにおいては、其家久敷ひさしくくづれがたし。又材木のうちにしても、ふしおおくゆがみてよわきをば、あししろともなし、後には薪ともなすべき也。統領において大工をつかふ事、其上中下を知り、或はとこまはり、或は戸障子、或は敷居、鴨居、天井已下、それゞゝにつかひて、あしきにはねだをはらせ、猶悪しきにはくさびをけづらせ、人をみわけてつかへば、其はか行て、手際よきもの也。果敢はかの行き、手ぎはよきといふ所、物毎をゆるさざる事、たいゆう知る事、気の上中下を知る事、いさみを付るといふ事、むたいを知るといふ事、かようの事ども、統領の心持に有る事也。兵法の利かくのごとし。

大将は大工の頭領として、天下の尺度をわきまえて、国家の尺度を正し、我が家の尺度を知ることが、統領たる者の道である。大工の統領は堂塔伽藍の尺度を覚えて宮殿楼閣の図面を読み取り、人々を使って家を建てることでは、大工の統領も武家の統領も同じである。家を建てるときに木材の割り振りをするとき、真っ直ぐで節が無く見目のいいものを表の柱にし、少し節があっても真っ直ぐで強いものを裏の柱とし、少し弱くても節が無く見た目がよいものは敷居、鴨居、障子と、それぞれに使い、少し節があって歪んでいても強い木をその家の強度を見分けてよく吟味して使えば、家はなかなか崩れないものである。また、節が多くて歪んでいて弱い木材でも足場として使い、後で薪にでもするとよい。統領が大工を使うことは、その腕前の上中下をわきまえ、床廻り、戸障子、敷居、鴨居、天井などそれぞれに応じて使い、下手な者には根太(床板)をはらせ、もっと下手な者には楔を削らせるなど、人を見分けて使えば仕事は手際よくすすむものである。仕事の能率がよいこと、手際がよいこと、物事に手を抜かないこと、大切なところを知ること、士気の上中下を知ること、励まし勇気を与えること、無理なことを知ること、これらのことは統領の心得にあるものである。兵法の理も、このようなものである。
兵法の道
士卒たるものは大工にして、手づから其道具をとぎ、色々のせめ道具をこしらへ、大工の箱に入れて持ち、統領云付くる所をうけ、柱がようりょうをもてうのにてけづり、とこ、たなをもかんなにてけづり、すかし物、ほり物をもして、よくかねを糺し、すみゝゝめんどう迄も手ぎはよくしたつる所、大工の法也。大工のわざ、手にかけて能くしおぼえ、すみがねをよくしれば、後は頭領となる物也。大工のたしなみ、よくきるる道具を持ち、透々にとぐ事肝要也。其道具をとつて、みづし、書棚、机卓、又はあんどん、まないた、鍋のふた迄も達者にする所、大工の専也。士卒たるもの、このごとく也。能々よくよく吟味有るべし。(後略)

士卒は大工である。自分で自分の道具をとぎ、様々な金具のたがを作って大工箱に入れて持ち、頭領の言いつけに従って柱、梁を手斧で削り、床棚を鉋で削り、透かし物、彫り物も寸法をただして、手のかかる隅々まで手際よく仕上げることが、大工のやり方である。仕事を自分の手で行って覚え、尺度をわきまえれば、後に頭領になる者である。大工の心得は、よく切れる道具を持ち、ひまをみてはよく磨くことが肝要である。その道具で厨子、書棚、机、行灯、まな板、鍋のふたまでも立派に仕上げるのは大工だからこそである。士卒たるものもまた、このようなものである。よく吟味すべきである。
「兵法の道」とは何かを記した後は、より具体的に「大工の道」に例えて解説している。大将は大工の頭領のようなもので、全体を把握して人を使うことを、兵卒は頭領の指示に従い、自分の道具を常によく磨いて小物までも立派にしあげることを、責務としている。「おのれおのれが分際程は兵の法をば、つとむべき事なり」と前述したのと同様に、大工は自分の仕事道具を常に使える状態にしておくのと同じように、武士も常に研鑽して、自分の仕事(たとえ小さな仕事でも)を立派に果たすことが大切だというのである。
ちなみに、五輪書が書かれてから200年以上後に、海外で同じような例えが使われている有名な小説が書かれた。イギリスの名探偵「シャーロック・ホームズ」である。シャーロック・ホームズシリーズの第一作は「緋色の研究」という長編で、助手として有名なワトソンとホームズが出会い、二人で挑んだ最初の事件の話である。この話の中で、ホームズはワトソンにこういう内容のことを言っている。
「人間の頭脳というものは、元来空っぽの屋根裏部屋みたいなもので、好きな道具だけしまっておくようにできている。平凡な人は役に立たないガラクタも詰め込んでしまって、役に立つ知識は押し出されてしまうか、他のものとごちゃまぜになってどこにあるのかわからなくなってしまう。しかし、熟練した職人は頭脳の屋根裏部屋に何を詰め込むかに細心の注意を払う。自分の仕事に役立つ道具しか入れず、大きな仕分けをつけて、もっとも完全な形に整備しておくのである。」
筆者のコナン・ドイルが五輪書を読んでいたかどうかはわからないが、実によく似た例えであり、優れた仕事をこなす人間の特徴を的確にとらえていると思う。
兵法に武具の利を知ると云ふ事
戦武具の利をわきまゆるに、いづれの道具にてもをりにふれ時にしたがひ、出合ふもの也。・・(中略)・・道具以下にも、かたわけてすく事あるべからず。あまりたる事はたらぬと同じ事也。人まねをせず共、我身に随ひ、武道具は手にあふやうに有るべし。将卒共に物にすき、物をきらふ事悪しし。工夫肝要也。

武具の利点を考えてみると、どの武器でも折にふれ状況にしたがって利用するものである。・・(中略)・・道具についても、偏って好むことがあってはならない。必要以上に持ちすぎることは、足りないことと同じである。人まねをしなくても、自分の身にしたがって、武具は手に合うようにするべきである。大将・士卒ともに、好き嫌いがあってはならない。工夫が肝要である。
刀に限らず、様々な武器をよく知れと教える武蔵は、まさに勝負のプロといえるだろう。戦いに「勝つ」ことを目的とするならば、そのために必要な武器を選り好みしてはならないのである。その場に応じて、最も有利な武器を使うことが、勝利を得るための基本なのだろう。刀は、侍が常に持っている武器である。そのため、刀は武士の象徴ともなった。自然と、常に携帯している刀で戦うことを考えるものだが、武蔵は刀と言う武器にこだわりがない。その理由はやはり、「勝つ」ことが一番の目標だからではないだろうか。
巻末
右一流の兵法の道、朝なゝゝ夕なゝゝ勤めおこなふによりて、おのづら広き心になつて、多分一分の兵法として世に伝ふる所、初而書顕はす事、地水火風空、是五巻也。我兵法を学ばんと思ふ人は道をおこなふ法あり。
第一によこしまになき事をおもふ所
第二に道の鍛錬する所
第三に諸芸にさはる所
第四に諸職の道を知る事
第五に物事の損徳をわきまゆる事
第六に諸事目利を仕覚ゆる事
第七に目に見えぬ所をさとつてしる事
第八にわづかなる事にも気を付くる事
第九に役にたたぬ事をせざる事
大形如此おおかたかくのごとき理を心にかけて兵法の道鍛錬すべき也。此道に限りて、直なる所を広く見たてざれば、兵法の達者とは成りがたし。此法を学び得ては一身にして二十三十の敵にもまくべき道にあらず。先づ気に兵法をたえさず、直なる道を勤めては、手にても打勝ち、目に見る事も人にかち、又鍛錬をもつて惣体自由そうたいやわらかなれば、身にても人に勝ち、又此道に慣れたる心なれば、心をもつても人に勝ち、此所に至りてはいかにとして人にまくる道あらんや。又大きなる兵法にしては、善人を持事にかち、人数をつかふ事にかち、身をただしくおこなふ道にかち、国を治むる事にかち、民をやしなふ事にかち、世の例法 をおこなひかち、いづれの道においても人にまけざる所をしりて、身をたすけ名をたすくる所、是兵法の道也。
正保二年五月十二日   新免武蔵
寛文七年二月五日    寺尾夢世勝延
   山本源介殿

右の一流の兵法の道を朝に夕に鍛錬することで、自然と広い心になって、多人数対多人数、一対一の兵法として後世に伝えることを初めて書き表したのが、地水火風空の五巻である。兵法を学ぼうと思う人には、兵法を学ぶ掟がある。
第一 実直な正しい道を思うこと
第二 鍛錬すること
第三 様々な芸にふれること
第四 様々な職能を知ること
第五 物事の損得を知ること
第六 様々な事を見分ける力を養うこと
第七 目に見えないところを悟ること
第八 ちょっとしたことにも気をつけること
第九 役に立たないことはしないこと
だいたいこのようなことを心がけて、兵法の道を鍛錬すべきである。この道に限っては、広い視野に立って真実を見極めなければ兵法の達人にはなりがたい。これを会得すれば、一人でも20、30の敵にも負けないのである。まず、気持ちに兵法を忘れず、正しく一生懸命鍛錬すれば、まず手でも人に勝ち、見る目においても人に勝つことができる。鍛錬の結果、体が自由自在になれば体でも人に勝ち、この道に心が慣れれば心でも人に勝つことができるのである。兵法を学んでこの境地にたどりついた時は、すべてにおいて人に負けることはありえない。また、集団の兵法では、有能な人を仲間に持つことで勝り、多くの人数を使うことに勝り、わが身を正すことで勝ち、国を治めることでも勝ち、民を養うことでも勝ち、世の秩序を保つことができる。何事においても人に負けないことを知って、身を助け名誉を守ることこそ、兵法の道である。
地の巻の最後には、兵法を学ぶ上での掟を説明している。第一については、よく聞く基本的なことである。第二も鍛錬するのは当然の心構えだろう。第三、四、六については、前述されているように武士は文武両道であるべきなので、重要なことである。第五の「物事の損得を知ること」についてはよくわからないが、第九「役に立たないことはしないこと」とほぼ同義なのだろうか?様々なことに、ふれて見て知って・・ということは大切だが、何もかもをめくら滅法にやるのではなく、得なこと、言い換えれば、役に立つこと、をやれと言っているように思われる。
第七、八は鋭い意見だが、これを心がけるのはかなり難しいと思われる。目に見えないことを信じること、その存在を知るということは、簡単ではない。目に見えないということは、そのものの存在をはっきりと確認できないということであり、はっきりと確認できないものを信じるのは危険なことである。しかし、目に見えるものだけが真実ではない。目に見えないことを悟るというのは、大切なことだろう。「ちょっとしたことにも気をつける」というが、ちょっとしたことには気付きにくいし、気付いたとしても見過ごしてしまうのが大半だろう。しかし、こういう「ちょっとしたこと」が重要なことの一端を表しているということは、よくあることである。この辺の武蔵の指摘は鋭い。
そして、最後は兵法の道を会得することができれば、あらゆる面で人に勝つことができる、と武蔵はおおげさではないかと思うぐらいに力説している。
以上、地の巻の概要を記してきたが、ここからわかることは、武蔵の兵法とは「勝つ」ことが最終目標なのである。忠誠や孝行という内容の言葉はほとんど出てこない。意外だと思うかもしれないが、武蔵が歩んできた人生を考えれば、そんなに不思議なものでもないと思われる。武蔵の前半生は、戦国時代が終わりを告げ、江戸時代という安定期に入る頃に流行した武者修行の人生だった。武者修行というといい響きがするが、実際には商人や富裕農民の用心棒などの仕事を請け負い、武術の腕をみがきながら仕官先を求める浪人者がほとんどだったと言われている。こういう浪人者が仕官のくちにありつくためには、実力はもちろん、自分の強さを誇る宣伝が必要だった。有名無名、数多くの決闘も行われたようだが、これの一番の目的は勝利で得られる名声である。しかし、この武者修行は死と背中合わせの道であった。決闘で敗れるということは、死を意味していた。死までいたらなくても、重傷を負ったことで武芸をあきらめねばならない体になることもあっただろう。武蔵が歩んだ前半生は、そういう世界であった。目的のためには、何よりも勝たなければならなかったのである。実際、五輪書にの冒頭には、上記のように60余度の決闘で一度も不覚をとらなかったことを誇らしく書いているのである。
このように考えると、武蔵が説く兵法は武芸者としての道であり、一般に思われている武士道とはちょっと違うもののようにも思えるが、そんなことはない。そもそも、侍・武士の本分は「戦うこと」であった。平安時代から、武蔵が生きた戦国時代の終わりまで、侍は戦うことを職業とする「戦士」としての役割が大きかったのである。戦士として戦に出る以上、目標は当然「勝つこと」である。戦で勝つことが、侍の仕事であった。これと同様に、武蔵が行ってきた数々の決闘のほとんどは、命を賭けた真剣勝負だったと思われる。負けることは、己の死を意味するのである。そういう修羅場を潜り抜け、戦うことに徹してきた武蔵にとって、勝つことに力点が置かれるのは自然なことであり、それと同時に武蔵の人生は強い侍の姿の一面そのものであったと思われる。勝つことだけが侍の全てではないと思うが、武蔵の武士道は、侍の戦士としての心構えを的確に捉え、現代でも通用する理を見出しているのではないだろうか。
これだけ勝つことにこだわると、勝つためなら卑怯なことでも何をしてもよい、と思うかもしれない。しかし、それはちと早とちりではないだろうか。勝つこと以外に強調されていることに「自分自身を守ること」「主君のために勝つこと」が記されていた。つまり、どんなに忠誠心を抱き、世のため人のため、と励んでいたとしても、負けてしまっては意味が無い。だからこそ、勝たねばならない、と言っているのではないだろうか。命のやりとりを何度も交わしてきた武蔵らしい人生訓だと思う。
以下、水・火・風・空と勝利を掴むための武蔵の教えは続くが、武士道についての話は、この地の巻にほぼ集約されている。
「侍心得」として扱う内容は以上であるが、勝利のための武蔵の教えを、いくつか紹介していく。この中には、侍の心得として重要なこともいくつか含まれていることもあり、その内容は実に興味深い。  
地の巻 
此兵法の書、五巻に仕立つる事
五つの道をわかち、一まき々々にして其利を知らしめんが為に、地水火風空として五巻に書顕はすなり。
地の巻においては、兵法の道の大躰だいたい、我が一流の見立、剣術一通りにしてはまことの道を得がたし。大きなる所よりちひさき所を知り、浅きより深きに至る。直なる道の地形を引きならすによつて、初を地の巻と名付くる也。
第二、水の巻。水を本として、心を水になる也。水は方円のうつはものに随ひ、一てきとなりさうかいとなる。水に碧潭へきたんの色あり、きよき所をもちひて、一流のことを此巻に書顕はす也。剣術一通の理、さだかに見わけ、一人の敵に自由に勝つ時は世界の人に皆勝つ所也。人に勝つといふ心は千万の敵にも同意なり。将たるものゝ兵法、ちひさきを大になす事、尺のかたをもつて大仏をたつるに同じ。か様の義、こまやかには書分けがたし。一をもつて万と知ること、兵法の利也。一流の事、此水の巻に書きしるす也。
第三、火の巻。此まきに戦ひの事を書記す也。火は大小となり、けやけき心なるによつて、合戦の事を書く也。合戦の道、一人と一人との戦ひも万と万とのたたかひも同じ道なり。心を大きくなる事になし、心をちひさくなして、よく吟味して見るべし。大きなる所は見えやすし、ちひさき所は見えがたし。其仔細、大人数の事は即坐にもとをりがたし。一人の事は心一つにてかはる事はやきによつて、ちひさき所しる事得がたし。能く吟味有るべし。此火の巻の事、はやき間の事なるによつて、日々に手馴れ、常のごとくおもひ、心のかはらぬ所、兵法の肝要也。然るによつて、戦勝負の所を火の巻に書顕はす也。
第四、風の巻。此巻を風の巻としるす事、我一流の事にはあらず、世中の兵法、其流々の事を書きのする所也。風といふにおいては、むかしの風、今の風、その家々の風などとあれば、世間の兵法、其流々のしわざをさだかに書顕はす、是風也。他の事をよく知らずしては、自らのわきまへ成りがたし。道々事々をおこなふに、外道といふ心あり。日々に其道を勤むるといふとも、心のそむけば、其身はよき道とおもふとも、直ぐなる所より見れば、実の道にはあらず。実の道を極めざれば、少しの心のゆがみに付けて後には大きにゆがむもの也。吟味すべし。他の兵法、剣術ばかりと世に思ふ事、尤もっとも也。我兵法の利わざにおいても、各別の義也。世間の兵法をしらしめんために、風の巻として他流の事を書顕はす也。
第五、空の巻。此巻空を書顕はす事、空と云出すよりしては、何をか奥といひ、何をか口といはん。道理を得ては道理をはなれ、兵法の道におのれと自由ありて、おのれと奇特を得、時にあひてはひやうしを知り、おのづから打ち、おのづからあたる、是みな空の道也。おのれと実の道に入る事を、空の巻にして書とゞむるもの也。

五つの道を分類して一巻一巻にして、その利を知らしめるために「地水火風空」の五巻として著したのである。
第一 地の巻
兵法の道の概要、二天一流の考え方を説いている。剣術だけでは真の剣の道を会得することは難しい。大きいところから小さいところを知り、浅いところから深いところに至る。真っ直ぐな道を地面に描くという意味で、最初を「地の巻」と名づけた。
第二 水の巻
水を手本として心を水にするのである。水は角・円という器の形に従って形を変え、一滴にもなり、大海ともなる。水には青々とすんだ色がある。その清らかなところを使って、我が一流のことをこの巻に書き表したのである。剣術一般の理を確かに見分け、一人の敵に自在に勝つときは、世界中の人に勝つことができる。一人に勝つという心構えは、千万の敵に対しても同じである。大将たるもの兵法は、小さいものを大きいものにすることは、一尺の型によって大仏を建てることと同じである。このようなことは細かく書き分けるのは難しい。一を知って万を知ることが兵法の道理である。我が一流のことは、この水の巻に書き記す。
第三 火の巻
この巻に戦いのことを書き記す。火は大きくも小さくもなる、きわだった勢いを持っているので、合戦の事を書く。合戦の道は、一対一の戦いも万人と万人の戦も同じである。心を大きくしたり注意をはらったりしてよく吟味して読むべきである。大きいところは見えやすいが、小さいところは見えにくい。というのは多人数の時にはすぐには通用しない。一人のことは、自分の心一つで変わるのが早いので、小さいところはかえってわかりにくい。よくよく吟味すべきである。この火の巻の内容は一瞬のことなので、毎日習熟して、いつものことと思って、心が変わらないようにすることが、兵法では肝要である。そういうわけで、戦い勝負のことを「火の巻」に書き表す。
第四 風の巻
この巻を風の巻としたのは、我が一流のことではなく、世間の兵法のことを書いたものである。風というのは、昔風、今風、家風などのように世間の兵法の技を確かに書き表す、これが風の巻である。他の事をよく知らなければ、自分のことをわきまえるのは難しい。何事をするにも外道ということがある。日々、この道に励むといっても、心が背いていては、自分ではよいと思っていても、正しいところから見れば真の道ではない。真の道をわきまえないと最初は少しの歪みでも後になると格別のものになってしまう。よく吟味すべきである。世間の兵法は剣術のことばかりだと思われているが、もっともなことである。世間の兵法を知らしめるために、風の巻として他流のことを書き表す。
第五 空の巻
この巻を空ということは、何が奥義とで、何が初歩でもない。道理を会得しては離れ、兵法の道に自然と自由があって、自然と人並みすぐれた技量を持ち、時が来れば拍子を知り、自然と敵を打ち、自然と相対する。これが空の道である。自然と真実の道に入ることを空の巻として、書きとどめる。
ここでは、五輪書の構成とその内容を紹介している。地・水・火・風・空と、自然現象で自分の流儀を表現しているのが興味深い。
兵法の拍子の事
物毎につけ拍子は有るものなれども、とりわき兵法の拍子、鍛錬なくては及びがたき所也。世の中の拍子あらはれて有る事、乱舞の道、れい人管弦の拍子など、是みなよくあふ所のろくなる拍子なり。武芸の道にわたつて、弓を射、鉄炮を放ち、馬に乗る事迄も、拍子調子はあり。
・・(中略)・・道々につけて拍子の相違有る事也。物毎のさかゆる拍子、おとろふる拍子、能々分別すべし。兵法の拍子において様々有る事也。先づ合ふ拍子をしつてちがふ拍子をわきまへ、大小遅速の拍子の中にもあたる拍子をしり、間の拍子をしり、背く拍子をしる事、兵法の専也。此そむく拍子わきまへ得ずしては、兵法たしかならざる事也。兵法の戦に、其敵々の拍子をしり、敵のおもひよらざる拍子をもつて、空の拍子を知恵の拍子より発して勝つ所也。いづれの巻にも、拍子の事を専ら書記す也。其書付の吟味をして能々鍛錬有るべきもの也。

どんなものでも拍子はあるものであるが、特に兵法の拍子は鍛錬しなければ身につかない。世の中の拍子で、人の目で見ることができるのは、「乱舞(舞か?)」の道である。伶人(れいじん:楽器の演奏者。特に、雅楽の演奏者を指す。)の管弦の拍子など、これらはみな拍子が合うことで、正しくなる拍子である。武芸の道では、弓を射ること、鉄砲を撃つこと、馬に乗ることにまで拍子がある。・・(中略)・・
あらゆる道において、拍子の相違はあるものである。栄える拍子、衰える拍子など、よくよく分別すべきである。兵法の拍子でも様々ある。まず、合う拍子を知って違う拍子が何なのかをわきまえ、大小遅速の拍子の中にも、合った拍子があることを知り、間の拍子を知り、背く拍子をわきまえるのが、兵法の第一とすべきことである。特に、背く拍子をわきまえなければ、兵法は確固としたものにはならないのである。戦では敵の拍子を知り、敵の想像もつかない拍子をもって、空の拍子を知恵の拍子から出して勝つのである。どの巻にも、もっぱら拍子のことを書き記す。その書付を吟味して鍛錬すべきである。
武蔵が言うには、世の中には色々な事に「拍子」がある。特に、目で見えるのが舞であり、楽器演奏だと言うのである。つまり、「拍子」とは、現代語で言うと「リズム・調子」のようなものだろうか。武蔵の武士道の第一「勝つ事」には、この「拍子」をわきまえ、自在に操れることが目指すところの一つになっている。具体的な例は後に個々に表現されている。  
水の巻 
兵法二天一流の心、水を本として、利方の法をおこなふによつて水の巻として、一流の太刀筋、此書に書顕はすもの也。此道いづれもこまやかに心の儘にはかきわけがたし。縦ひことばはつづかざるといふとも、利はおのづからきこゆべし。此書にかきつけたる所、一ことゝゝ、一字々々にして思案すべし。大形におもひては、道のちがふ事多かるべし。兵法の利において、一人と一人との勝負のやうに書付けたるなりとも、万人と万人との合戦の利に心得、大きに見たつる所肝要也。此道にかぎつて、少しなり共、道を見ちがへ、道のまよひありては悪道へ落つるもの也。此書付ばかりを見て、兵法の道には及ぬ事にあらず。此書にかき付たるを我身にとつて書付くを、見るとおもはずならふとおもはず、にせ物にせずして、則ち我心より見出したる利にして、常に其身になつて能々工夫すべし。

兵法二天一流の心は、水を手本として利益のある方法を実践するので、これを水の巻として太刀筋をこの書に書き表すものである。この道すべてを細かく心のままに書くのは難しいが、たとえ言葉が続かなくても、その利は自然と理解できるだろう。この書に書いたこと、一言一言、一字一字、深く考えなければならない。いい加減に思っていては、道を間違えることが多いだろう。一対一のように書いたことも、万人と万人の合戦のように見立てて大きく見ることが肝要である。この道では、少しでも道を見誤り、迷うところがあると道をはずしてしまうのである。この書付を見てばかりいては、兵法の真髄には及ばない。この書に書き付けたことを自分にとっての書付と考え、「見る」と思わず「習う」と思わず、真似しないで、自分が見出した利であるように、常に自分の身になって工夫すべきである。
武蔵の二天一流の技は水が手本だと書いている。水は千変万化。容器によって形が変わるし、自然界の川や海もその形は一定ではない。つまり、不定形なのである。そのためか、書物で完全に書き表すことはできないと、ことわっているのである。この本を読んで兵法を身につけようとしている読者にとっては、何とも頼りない台詞。言葉足らずのところは自然と理解できるだろう、と読者に任せてしまっている。ここだけ読むと「完璧には書けないから、あとは自分でなんとかしてね。」と、放任している無責任な書物のように見えるが、これこそが二天一流が「水」を手本とする理由だと思われる。
つまり、二天一流にはある一定の決まった形、というものを持たないので、この技を書物に完全に表現することはできないのだろう。書き表すことができない部分(変化する部分)は、自分で見つけていくしかない。「教えてもらった」ものではなく、自分自身で発見したものでなければ、役立たせることはできない。だからこそ、書いてあることを一字一句考えなければならない、と教えているのではないだろうか。
兵法の心持のこと
兵法の道において心の持やうは、常の心に替る事なかれ。常にも兵法の時にも、少しもかはらずして心を広く直にして、きつくひつぱらず少しもたるまず、心のかたよらぬやうに心をまん中におきて心を静かにゆるがせて、其ゆるぎの刹那もゆるぎやまぬやうに能々吟味すべし。・・・ (中略)
心を直にして、我身のひいきをせざるやうに心をもつ事肝要也。心の内にごらず、広くしてひろき所へ智恵を置くべき也。智恵も心もひたとみがく事専也。智恵をとぎ天下の利非をわきまへ、物毎の善悪をしり、よろづの芸能、其道其道をわたり、世間の人にすこしもだまされざるやうにして後、兵法の智恵となる心也。・・・ (後略)

兵法の道において、心の持ち方は「平常心」以外であってはならない。普段も戦いの時も少しも変化しないで心を広くまっすぐにし、緊張しずぎず、少しもゆるまず、偏りがないように心を真ん中に置いて静かにゆるがせて、ゆるぎの刹那(ほんの一瞬)でもゆるぎが止まらないように、よくよく吟味すべきである。・・・(中略)
心を真っ直ぐにして自分自身をひいきに見ないようにするのが肝要である。心の中は濁らないで広くして、物事を考えねばならない。智恵も心も熱心に磨くことが大切である。智恵をみがき、天下の正・不正をわきまえて、物事の善悪を知り、様々な芸能それぞれの道を体験し、世間の人に少しもだまされないようになってから、兵法の智恵が成り立つのである。
大舞台に立つ時、多くの人は緊張するものである。緊張しすぎて、普段通りの実力が発揮できずに失敗してしまったという経験は誰にでもあることだろう。そういう時こそ「平常心」が大切であると、武蔵も書いている。ただし、武蔵が言う「平常心」とは、日常生活の時の心ではなく、まさに「水」のように変化に富み、一定の形をとらずに動き続ける「水」の心なのである。この巻の冒頭では、二天一流の技は水を手本としている、と書かれているが、「技」だけでなく「心」も水を手本としているのである。水の心をもって勉学に励み、智恵を磨いて初めて、兵法の智恵、言い換えれるならば、勝利のための智恵、を身につけることができるのである。
兵法の眼付と云う事
目の付けやうは大きに広く付くる也。観見の二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。敵の太刀をしり、聊いささかも敵の太刀を見ずといふ事、兵法の大事也。工夫有るべし。此眼付、ちひさき兵法にも、大なる兵法にも同じ事也。目の玉うごかずして両わきを見ること肝要也。かやうの事、いそがしき時、俄にはわきまへがたし。此書付を覚え、常住此目付になりて、何事にも目付のかはらざる所、能々吟味あるべきもの也。

目の配り方は、大きく広く見るようにする。「観」「見」の二つがあり、「観」の目は強く、「見」の目は弱く、遠い所をはっきりと見て、身近な所をはなして見ることが、兵法の上で最も大切である。敵の太刀筋を知るが、太刀筋にとらわれないということが、大事である。工夫しなければならない。これらの目付けは、個人の戦いにも、大人数の合戦でも同様である。目の玉を動かさずに両脇を見ることが肝要である。このことは、せわしいときに突然できるものではない。この書付を覚えて、常にこの目付になって、何事においても眼付が変わらないようにすること。よくよく吟味すべきものである。
「木を見て森を見ず」という言葉がある。森を構成する要素の一つである木にこだわりすぎるあまり、森という全体の姿が見えなくなることをいう。武蔵が言う「観」の目と「見」の目も似たような意味のようだ。ある特定のものを見るのではなく、それとなく全体を見る。「目の玉動かずして両脇を見ること肝要なり」とあるが、確かにこれは難しい。日ごろから練習することが大事だと、武蔵は書いている。
太刀の持様の事
・・(前略)・・惣而そうじて、太刀にても手にても、ゐつくといふ事をきらふ。ゐつくはしぬる手也。ゐつかざるはいきる手也。能々心得べきもの也。

全体的に、太刀でも手でも「居着く(固着する)」という事を嫌うものである。「居着く」は死の手である。「居着かざる」は生の手である。よく心に刻んでおくべきものである。
前半部分は太刀の持ち方についての説明が書かれている。現代剣道と同じように、親指人差し指は軽く、小指薬指でしっかり締めるように持つ、と記されている。一般的な「水」の教えについて再度記されているのがこの後半部分だ。武蔵は、何かにとらわれすぎるということを「死の手」、とらわれ過ぎないことを「生の手」と表現し、ここでも不定形の姿を強調している。何かにとらわれすぎると固くなる。固くなると柔軟性を欠き、状況の変化に対応できなくなる。これは、戦の場に限ったことではないだろう。
有構無構のをしへの事
有構無構といふは、元来太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。され共、五方に置く事あればかまへともなるべし。太刀は敵の縁により、所により、けいきにしたがひ、何れの方に置きたりとも、其敵きりよきやうに持つ心也。上段も時に随ひ、少しさがる心なれば中段となり、中段を利により少しあぐれば上段となる。下段もをりにふれ、少しあぐれば中段となる。両脇の構もくらゐにより少し中へ出せば中段下段共なる心也。然るによつて構はありて構はなきといふ利也。先づ太刀をとつては、いづれにしてなりとも敵をきるといふ心也。若し敵のきる太刀を受くる、はる、あたる、ねばる、さはるなどいふ事あれども、みな敵をきる縁なりと心得べし。うくると思ひ、はると思ひ、あたるとおもひ、ねばるとおもひ、さはるとおもふによつて、きる事不足なるべし。何事もきる縁と思ふ事肝要也。能々吟味すべし。兵法大きにして、人数だてといふも構也。みな合戦に勝つ縁なり。ゐつくといふ事悪しし。能々工夫すべし。

有構無構とは、太刀を形にはまって構えてはあってはならない、ということである。しかし、刀を五種類にむけることは「構え」ということもできるだろう。太刀は敵の出方をきっかけとして、場所、戦況に応じて、どう構えてあっても敵を切り易いように構えるのである。上段も、少し下げれば中段になり、中段を少し上げれば上段になる。下段も状況によって少し上げれば中段になる。両脇の構えも、位置によって少し中へずらせば中段・下段になるのである。こういうわけで、構えとはあってないものである、という理になる。まず、太刀をとることはどのようにしてでも敵を斬ることが重要である。敵の斬撃を受ける、張る、当る、ねばる、さわるということがあっても、これらはすべて敵を切るきっかけと心得るべきである。受けよう、張ろう、当ろう、ねばろう、さわろうと思っていると、斬ることができなくなる。何事も斬るきっかけと思うことが肝要である。よく吟味すべきである。合戦では、兵の配置と陣形が構に当る。すべて合戦に勝つきっかけである。きまった形にとらわれるということが悪いのである。よくよく吟味せよ。
ここでいっていることは、手段が目的へと形骸化してしまうことへの戒め、である。そもそも、刀を使うことの目的は、敵を斬り勝利することにある。構えとは勝つための手段であって、構えること自体が目的ではない。この前の章で、武蔵は基本の5種類の構え(上段・中段・下段・左脇・右脇)を挙げているが、これらはすべて勝つための手段である。「構えること」が重要なのでなはい。極端に言えば、敵を斬りやすい構えなら何でもいいのである。その時々の戦況に合わせて、構えも変化させる(やはり、水を手本としている)ことが重要なのである。本来の目的は何なのか?そしてそのための手段は何なのか?そのあたりをよくわきまえなければならないのである。
たけくらべといふ事
たけくらべといふは、いづれにても敵へ入込む時、我身のちぢまざるやうにして、足をものべ、こしをものべ、くびをものべてつよく入り、敵のかほとかほとならべ、身のたけをくらぶるに、くらべかつと思ふほどたけ高くなつて、強く入る所、肝心也。能々工夫有るべし。

たけくらべとはどんな場合でも敵に身をよせる時、自分の体が萎縮してしまわないように、足も伸ばし、腰ものばし、首ものばして強く入るのである。敵の顔と自分の顔を並べ、背丈を比べて、自分が勝っていると思うぐらい、丈を高くして強く入ることが肝要である。よくよく工夫すべきである。
戦いの場では自分も相手も、迫り来る死の恐怖を少なからず感じるものである。ましてや、二人の間合いが詰まって刃物がすぐそばにある状態では、恐れのあまり腰がひけて体が萎縮してしまうのも自然なことだろう。しかし、それではいけない、というのがこの「たけくらべ」ということである。相手の懐に入るときは、自分が萎縮してしまわないように、自分の方が勝っているという気持ちで飛び込んで行かねばならないのである。「地の巻」で強調されていた自分の「拍子」を、自分で乱してしまわないようにすることが大切なのである。
身のあたりといふ事
身のあたりは、敵のきはへ入こみて、身にて敵にあたる心也。少し我顔をそばめ我左の肩を出し、敵のむねにあたる也。我身をいかほどもつよくなりあたる事、いきあふ拍子にて、はずむ心に入るべし。此入る事、入りならひ得ては敵二間も三間もはげのくほどつよきもの也。敵死入るほどもあたる也。能々鍛錬あるべし 。

身のあたり(体当たり)とは、敵のすぐそばへ入り込んで体で敵にあたることである。少し自分の顔をそむけて、左肩を出して敵の胸に当るのである。自分の身をとにかく強く当てるのである。勢いをつけはずむような気持ちで入りこまねばならない。これを習得すれば、敵を2間も3間もはねとばすほど強いものである。敵が死ぬほど当ることもできる。よくよく鍛錬すべきである。
様々な打撃を記す中で、ひとつ変わった技がこの「体当たり」である。実践的な兵法を教える武蔵は、剣術のみならず体術もその技に加えているのである。体当たりを教えるところを見ると、実戦慣れしている武蔵の横顔が見えるような気がする。
心むねをさすといふ事
心をさすといふは、戦のうちに、うへつまりわきつまりたる所などにて、きる事いづれもなりがたき時、敵をつく事、敵のうつ太刀をはづす心は、我太刀のむねを直に敵に見せて、太刀さきゆがまざるやうに引とりて敵のむねをつく事也。若し我くたびれたる時か、亦は刀のきれざる時などに、此儀もつぱらもちゆる心なり。能々分別すべし。

「心(心臓)をさす」というのは戦いにおいて、上が狭く脇も狭くなっている所などで斬ることも懐に入ることもできない時に、敵を突く事である。敵の太刀を外す心得は、太刀のみねを真っ直ぐに敵に見せて、太刀先がゆがまないように引いておいて敵の胸を突くのである。自分がくたびれた時、刀が斬れない時などに、もっぱらこの技を用いるのである。よくよくわきまえねばならない。
刀というのは「斬る」ことを主眼に置いているが、刺突もできるように作られている。刀が本来の機能を果たせない時でも使えるのが突き技もなのである。「斬る」だけでなく「突く」こともわきまえておかねばならない。
多敵のくらゐの事
多敵のくらゐといふは、一身にして大勢とたゝかふ時の事也。我が刀わきざしをぬきて左右へひろく太刀を横にすててかまゆる也。敵は四方よりかゝるとも一方へおひまはす心也。敵かゝるくらゐ、前後を見わけて先へすすむものに、はやくゆきあひ、大きに目をつけて敵打出すくらゐを得て、右の太刀も左の太刀も一度にふりちがへて、待つ事悪しし。はやく両脇のくらゐにかまへ、敵の出でたる所をつよくきりこみ、おつくづして、其儘又敵の出でたる方へかかり、ふりくづす心也。いかにもして敵をひとへにうをつなぎにおひなす心にしかけて、敵のかさなると見えば、其儘間をすかさず、強くはらひこむべし。敵あひこむ所、ひたとおひまはしぬれば、はかのゆきがたし。又敵の出するかたかたと思へば、待つ心ありて、はかゆきがたし。敵の敵の拍子をうけて、くづるゝ所をしり、勝つ事也。折々あひ手を余多よせ、おひこみつけて其心を得れば、一人の敵も十二十の敵も心安き事也。能く稽古して吟味有るべき也。

多敵のくらいというのは、一人で大勢の敵と戦う時のことである。自分の刀・脇差をぬいて左右へ広く脇に下げて構えるのである。敵は四方からかかってきても、一方へ追い回す気持ちで戦うのである。敵がかかってくる位置を見分けて先に来る者と戦い、全体に目をつけて敵が攻めてくる位置を知って、右の太刀も左の太刀も一度に振りちがえて斬るのである。そのまま待っているのは悪い。早く両脇に構えて敵がかかってきたところに強く切り込んで、押し崩し、そのまま敵出てきた方向にかかってふり崩していくのである。なんとしても間髪を入れずに強く払い込まなければならない。そのまま敵が出てきた方へかかっていくのである。なんとかして、敵を魚つなぎに追うようにして、敵が重なるのを見たらそのまますかさず強く払い込むべきである。敵がかたまっている所をひたおしにするのははかがいかない。また、敵が出てきたところを打とうとすれば、待つ心になってはかゆきがたい。敵の拍子を受けて、崩れるところを知って勝つのである。折に触れて相手をたくさん引き寄せて追い込み、その核心を得れば一人の敵も十人二十人の敵でも冷静に対処できるのである。よく稽古して吟味すべきである。
一人で大勢の敵と戦うことについて記されているのが、この「多敵のくらい」である。時代劇などで、一騎当千の主人公が大勢の敵を次々と打ち倒すシーンは実に爽快である。武蔵は、戦況をよく見て、敵を一方に追い込み「魚つなぎ」にして敵が重なったところ(つまり一列になったところ)で、強く斬り込めと書いている。現実生活でこういう状況にでくわすむ事はあまりないと思うが、数多くの困難な問題に直面することはあるだろう。そういう時でも、問題の優先順位をつけて一つずつ処理していけば状況を打開できるのかもしれない。
巻末
右書付くる所、一流の剣術、大形此巻に記し置く事也。兵法太刀を取りて人に勝つ所を覚ゆるは、先づ五つのおもてを以て五法の構をしり、太刀の道を覚えて惣躰自由そうたいやわらかになり、心のきゝ出でて道の拍子をしり、おのれと太刀も手さへて身も足も心の儘にほどけたる時に随ひ、一人にかち二人にかち、兵法の善悪をしる程になり、此一書の内を一ケ条一ケ条と稽古して敵とたたかひ、次第々々に道の利を得て、不断たえず心に懸け、いそぐ心なくして、折々手にふれては徳を覚え、いづれの人とも打合ひ、其心をしつて、千里の道もひと足宛ずつはこぶなり。緩々と思ひ、此法をおこなふ事、武士のやくなりと心得て、けふはきのふの我にかち、あすは下手にかち、後は上手に勝つとおもひ、此書物のごとくにして、少しもわきの道へ心のゆかざるやうに思うべし。縦ひ何程の敵に打かちても、ならひにそむくことにおいては、実の道にあるべからず。此利心にうかべては、一身を以て数十人にも勝つ心のわきまへあるべし。然る上は、剣術の智力にて大分一分の兵法をも得道すべし。千日の稽古を鍛とし万日の稽古を錬とす。能々吟味有るべきもの也。

右に書き付けたことは、二天一流の剣術をおおかた記したものである。兵法において、太刀を取って人に勝つことを会得するには、まず五つの基本型で五方の構えを知り、太刀の使い方を覚えて体全体が柔軟になり、心のはたらきが機敏となり、兵法の拍子を理解し、自然と太刀も手さばきも体も足も心のままに思いのままに動くようになる。それにともなって一人に勝ち二人に勝ち、兵法の善悪を知るほどになって、この書の一カ条一カ条を稽古して敵と戦い次第次第に兵法の利を会得して、常に心がけ、焦ることなく折にふれて戦ってはこつを覚えて、誰とでも打ち合い、相手の心を知るのである。千里の道も一歩ずつ進むのである。ゆっくりと考え、兵法を鍛錬することを武士の務めと心得、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下手なものに勝ち、後は自分より上手に勝つと思って、この書物のようにして少しもわき道へ心がそれないようにすべきである。たとえどれほどの敵に打ち勝っても、習ったことに背いていては本当の兵法の道ではない。この理を心に浮かべたなら、一身で数十人相手でも勝つ心がわかるはずである。そうなれば、剣術の知力で、多人数、1対1の兵法をも会得できるだろう。千日の稽古を「鍛」とし、万日の稽古を「錬」とする。よくよく吟味すべきである。
地の巻でも述べられていたように、人よりも優れた者になるには、普段の稽古が大切であり、そしてそれこそが武士の務めなのである。武蔵が言う武士道は、鍛錬の連続なのである。  
火の巻 
くづれを知るといふ事
崩といふ事は物毎ある物也。其家のくづるる、身のくづるる、敵のくづるる事も、時のあたりて、拍子ちがひになりてくづるる所也。大分の兵法にしても、敵のくづるる拍子を得て其間をぬかさぬやうに追ひたつる事肝要也。くづるる所のいきをぬかしては、たてかへす所有るべし。又一分の兵法にも、戦ふ内に敵の拍子ちがひてくづれめのつくもの也。其ほどを油断すれば、又たちかへり、新敷あたらしくなりてはかゆかざる所也。其くづれめにつき、敵のかほたてなほさざるやうに、たしかに追ひかくる所肝要也。追懸くるは直につよき心也。敵たてかへさざるように打ちはなすもの也。打ちはなすといふ事、能々分別有るべし。はなれざればしだるき心有り。工夫すべきもの也。

崩れということは、何事にもあるものである。家が崩れる、身が崩れる、敵が崩れるのも、その時にあたって拍子が狂って崩れるのである。多人数の戦においても、敵が崩れる拍子をつかんでその時をはずさないように追い立てることが肝要である。崩れた時を逃すと、敵が盛り返すこともあるだろう。また、一対一の兵法においても、戦っているうちに敵の拍子の崩れが目に見えるものである。そこで油断すると、また立ち直って新たな拍子になってどうにもならなくなるのである。敵の崩れが目についた時、立て直されないように追い討ちをかけるのが肝要である。追いかけるのは一気に強くうつことである。敵が立ち直れないように打ちはなすのである。打ちはなすという事はよく理解しなければならない。打ちはなさなければ、ぐずぐずしがちになる。工夫すべきことである。
敵が隙を見せたら、その隙が消えないうちに攻撃を加える、ということは勝負の世界ではごく普通のことである。戦の時はなおさらであろう。敵が拍子を崩した時こそが、攻撃を加えるべき時であるので、敵の拍子が崩れる時を的確に掴むようにしなければならないのである。攻撃の機会を見逃して次を待つ、というのは二流三流のやり方である、という台詞を聞いたことがあるが、確かにその通りではないだろうか?
敵になるといふ事
敵になるといふは、我身を敵になり替へて思ふべきといふ所也。世中をみるに、ぬすみなどして家の内へ取籠るやうなるものをも、敵をつよく思ひなすもの也。敵になりておもへば、世中の人を皆相手とし、にげこみてせんかたなき心なり。取籠るものは雉子也、打果しに入る人は鷹也。能々工夫あるべし。大きなる兵法にしても、敵をいへばつよく思ひて、大事にかくるもの也。よき人数を持ち、兵法の道理を能く知り、敵に勝つといふ所をよくうけては、気遣いすべき道にあらず。一分の兵法も、敵になりておもふべし。兵法よく心得て、道理つよく、其道達者なるものにあひては、必ずまくると思ふ所也。能々吟味すべし。

敵になる、ということは、自分が敵の身になって考えることである。世の中を見ると、たとえば盗賊などが家に立てこもっているのを、非常に強い敵のように考えてしまうものである。敵の身になって考えれば、世の中の人を皆敵に回し、逃げ込んでどうにもならない、進退窮まった気持ちである。立てこもっている人は雉であり、討ち取りに入り込む人は鷹である。よく考えなければならない。大人数の戦においても、敵は強いものと考えて大事をとってかかるものである。しかし、十分な人数を持ち、兵法の道理をよく知っており、敵に勝つところをよく心得ているのなら、心配すべきことではない。一対一の戦いも、敵になって考えるべきである。兵法をよく心得て、剣理に明るく、武道に優れているものに遭っては、必ず負けると思うものである。よくよく工夫すべきである。
「相手の身になって考えてみなさい」という言葉は、子供のいじめや悪戯を注意する親や教師がよくいう台詞だが、兵法においても実に大切なことである。敵の身になることができれば、敵の拍子がわかるだろう。敵の拍子がつかむことができれば、有利に戦いを進めて勝利することができるだろう。勝負の世界に限らず、よくある対人関係問題も、「敵になる」ことで道が開けるかもしれない。
さんかいのかはりといふ事
山海の心といふは、敵我たたかひのうちに、同じ事を度々する事悪しき所也。同じ事二度は是非に及ばず、三度するにあらず。敵にわざをしかくるに、一度にてもちひずば、今一つもせきかけて、其利に及ばず、各別替りたる事をほつとしかけ、それにもはかゆかずば、亦各別の事をしかくべし。然るによつて、敵山と思はば海としかけ、海と思はば山としかくる心、兵法の道也。能々吟味有るべき事也。

山海の心というものは、敵との戦いの中で同じ事を何度も繰り返すことは悪い、ということである。同じ事を二度するのは仕方ないが、三度してはならない。敵に技を仕掛ける時に、一度で成功しないときはもう一度仕掛けても効果はない。まったく違ったやり方をしかけそれでもうまくいかなければ、さらにまた別の方法をしかけるのである。このように、もし敵が山と思うなら海、もし海と思うなら山と、意表をつくことが兵法の道である。よくよく吟味すべきことである。
効果のないことを繰り返すな、という教えはよく胸に刻んでおかねばならないだろう。効果が上がらないことを何度も繰り返すことは地の巻巻末の9つの教えの最後「役にたたぬ事をせざる事」にかかるものである。例え以前にその方法で成功したとしても、今回も同じやり方でうまくいくとは限らない。その時に応じて変えていかねばならない、という教えは他の書物でもたびたび見かけるものである。
そとうごしゆといふ事
鼠頭午首そとうごしゅといふは、敵と戦のうちに、互にこまかなる所を思ひ合はせて、もつるる心になる時、兵法の道をつねに鼠頭午首そとうごしゆとおもひて、いかにもこまかなるうちに、俄に大きなる心にして大小にかはる事、兵法一つの心だて也。平生へいぜい人の心も、そとうごしゆと思ふべき所、武士の肝心也。兵法大分小分にしても、此心をはなるべからず。此事能々可有吟味者也このことよくよくぎんみあるべきものなり。

鼠頭午首というのは、敵との戦いの最中にお互いに細かいところばかり気をとられてもつれ合う状況になった時、兵法の道を常に鼠頭午首鼠頭午首と思って、細かな心からたちまち大きな心になって、大きく小さく変わる事が、兵法の一つの心がけである。平生から、鼠頭午首を心がけることが、武士にとって肝心なことである。合戦にしても、一対一の戦いにしても、この心から離れてはならない。よくよく吟味すべきである。
戦いの最中でも、相手のわずかな変化を見逃さないように細心の注意を払うことは大事なことであるが、気にしすぎると細かいところばかりにとらわれてしまう。細心さと同時に大胆さも持ち合わせなければならないのである。武蔵も書いているが、この事は戦という状況に限ったものではなく、普段から心がけておくべきことだろう。  
空の巻 
二刀一流の兵法の道、空の巻として書顕はす事、空といふ心は、物毎のなき所、しれざる事を空と見たつる也。勿論空はなきなり。ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也。世の中においてあしく見れば、物をわきまへざる所を空と見る所、実の空にはあらず、皆まよふ心なり。此兵法の道においても、武士として道をおこなふに、士の法をしらざる所、空にはあらずして色々まよひありて、せんかたなき所を空といふなれども、是実の空にはあらざる也。武士は兵法の道をたしかに覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらかず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなくまよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也。実の道をしらざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれはたしかなる道とおもひ、よき事とおもへども、心の直道じきどうよりして、世の大かねにあはせて見る時は、其身其身の心のひいき、其目其目のひづみによって、実の道にはそむく物也。其心をしつて直なる所を本とし、実の心を道として兵法を広くおこなひ、ただしく明らかに大きなる所をおもひとつて空を道とし、道を空と見る所也。
空は有善無悪、智は有也、利は有也、道は有也、心は空也。

二刀一流の兵法の道を、空の巻として書き表した。空という心は、物事がない所、知ることができない事を空と見るのである。もちろん、空とは何もないことである。ものがあることを知って、ないこと知る、これが空である。世間一般の軽薄な見方では、物事の道理をわきまえないこと空としているが、真の空ではなく、すべて迷いの心である。この兵法の道においても、武士として道を歩んでいくのに、武士の掟を知らず、空になれずにいろいろ迷いがあってどうしようもないことを空と言うけれども、これは正しい空ではない。武士は兵法をしっかりと身につけ、その他の武芸もよく練習し、武士が進む道は少しも暗くなく、心が迷うこともなく、常に怠らず、心と意の二つを磨いて、観と見の二つの眼をとぎすまして、少しも曇りのない迷いの雲が晴れたところこそ、正しい空だと考えるべきである。正しいことを知らない間は、仏法に頼ることなく、世間一般に頼ることもなく、個人個人では正しい道と思って、よいことだと思っても、正しい道から世の中の大きな物差し(規準)に照らし合わせると、自身の気持ちのひいき、自身の目のひづみのために、正しい道にそむいているものである。この道理をわきまえてまっすぐな所を根本とし、正しい心を道として兵法を幅広く鍛錬し、正しく明らかで大きな所をつかんで、空を道とし、道を空とみるのである。
空には善のみがあり悪はない。兵法の智、兵法の利、兵法の道を備えることで、その心は空の域に達するのである。
武蔵が言う「空」とは、悟りを開いた境地とも言い換えることができるだろうか。真に優れた剣士は、頭で考えずとも体が自然に動くという。武蔵はその人生の後半になって、その境地にたどり着くことができたのだろう。
拙者なども、人生を悟ったかのような感覚を覚えるが、独りよがりに過ぎないことに気付いたことはいくつかある。武蔵が言うことは、言葉として、理論として理解することはできても、それを体感することはまだできないし、体感できる時が来るかどうかもわからない。ただ一つ言えることは、鍛錬しなければ絶対にわからない、ということである。武蔵が言う「空の心」は、頭の中で組み立てられた理論だけで成り立っているものではないのである。武蔵がこれまで語ってきた兵法は全て、いかにして現実に役立てるか、ということである。実際に体を動かして探りえたものなのである。空の心は、頭よりも体の方がわかりやすいものなのかもしれない。 
 
「五輪書」 3 技の解説

 

宮本武蔵の兵法の集大成である五輪書も、ビジネス戦略や精神修養の意味では読まれていますが、真の古武道の書としては現在、理解出来る人は少ないと思われます。その理由は、ここに書かれている身体の使い方が、西洋式の体操に慣れた現代人には分からなくなっているからです。著者は、書に書かれている技を分かりやすく解説しようと試みます。武蔵の簡単に書かれた文章からその身体法、敵への対処法を再構成するために、ヒントとなったのが、現在に多くの古い技を残している尾張柳生新陰流の研究でした。と言っても日本人はまだ古い記憶を持っています。お盆で踊る踊りにも、古武道の基本である「ナンバ」の身体法が残っているのです。
はじめに
今までの一般的な訳から脱却して、古武道としての教え、考え方を武蔵に傾倒することなく、客観的に解説していきたいと考えています。
また、身体勢法として多くの技を現在に残している、尾張柳生新陰流と対比させながら、分析も行います。二天一流と新陰流の剣理は、双子の様に似ている事が分かります。これは元々古武道というものが底流にて同じものであったのか、それぞれの創出者が同じ境地に至ったためか、今となっては不明です。
五輪書は、地・水・火・風・空 の五巻で構成されています。奥付によると正保二年(1645)五月十二日、一番弟子の寺尾孫之丞信正に与えた口伝書です。武蔵はその一週間後、五月十九日に六十二歳に没します。
地之巻 兵法者の平生の心構え
水之巻 二天一流の技の基礎
火之巻 兵法の駆け引き、利を得ること
風之巻 他流派の癖、弱点を知る事
空之巻 二天一流の境地
本著では、二天一流の斬り合いの方法を記述した『水之巻』を徹底的に解説しようと試みています。
まず(原文)、(現代語訳)の順序に各節を説明します。必要に応じて(解説)を記しました。 
水之巻 

兵法二天一流の心、水を本として、利方の法を行ふにより水の巻として、一流の太刀筋、此書に書顕すものなり。此道何れも細やかに心の侭には書分がたし。たとひことばは続かざると云ふとも、利は自から聞ゆべし。此書に書つけたる処、一ことゝゝ、一字々々にて思案すべし。大方におもひては、道のちがふことおおかるべし。兵法の利におゐて、一人一人との勝負のやうに書付たる所なり共、万人と万人との合戦の理に心得、大きに見立るところ肝要なり。此道に限って、少しなりとも、道を見違へ、道の迷ひありては、悪道におつるものなり。此書付ばかりを見て、兵法の道には及ぶ事にあらず。此書に書付たるを、我身に取つての書付と心得、見ると思はず習ふと思はず、贋物にせずして、即ち我心より見出したる利にして、常に其身になつて、能々工夫すべし。

兵法二天一流の心、水の様に変幻自在を本意として、兵法の理法を追求することにより『水の巻』を編む。
当流(二天一流)の太刀筋を、この書に書き表す。ただしあらゆることを細やかには書く事は出来ない。例え私の言葉は完全ではないと言えども、修行のうちに当流の理法は自ずと体得出来るだろう。
この書に書き付けた事は、一言一言、一字一字思案して欲しい。適当に考えては勘違いをすることが多い。
兵法の理法において一対一の勝負の様に書いたところもあるが、万と万の戦いにも通じると心得て、大勢を見誤らないことが重要である。
兵法は、少しの見誤りも道を違えることとなり、さらに迷ってしまえば完全に誤った方向に向かってしまうだろう。
この書を見ても兵法を会得することにはならない。書いてある事を自分のための書き付けと思い、完全に自分のものにして、自身が見いだした理法として、私と同じ境地に立って、よくよく工夫をして欲しい。  
第一節 
兵法心持の事
兵法の道において、心の持様は、常の心にかはる事なかれ。常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にし、きつくひっぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心を直中に置て、心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那も、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。静かなるときも心は静かならず、如何に疾き時も心は少もはやからず、心は体につれず、体は心につれず、心に用心して、身には用心をせず、心の足らぬことなくして、心を少しも余らせず、上の心はよわくとも、底の心をつよく、心を人に見分けられざるやうにして、小身なるものは心に大き成事を残らず知り、大身なるものは心に小きことをよく知りて、大身も小身も、心を直にして、我身の贔弱をせざる様に心持ち肝要なり。心のうち濁らず、広くして、ひろき処へ智恵を置べきなり。智恵も心もひたと研くこと専らなり。智恵を磨ぎ天下の理非をわきまへ、物事の善悪を知り、万の芸能、其の道々をわたり、世間の人に少しもだまされざる様にして後、兵法の智恵と成る心なり。兵法の智恵に於て、取分けちがふ事ある物なり。戦の場万事せわしき時なりとも、兵法の道理を極め動きなき心、能々吟味すべし。

兵法の道において、心の持ち方は常に平常心である。平時も戦う時も少しも変わることなく、心を広く素直に持ち、緊張せず弛ませず、執着しないように心を落ち着かせ、静かに働かせ、その働きの一瞬も止まることがないよう、よくよく心得よ。
まわりが静かであっても、それに釣られてはならない。せわしない時は動じてはならない。心は身体に惑わされてはならない。身体も心に影響されてはならない。心に用心をし、身体には用心をしない。
心の働きに不足、余りが無いようにし、外見の心は弱く見せても内心は強く、人に心を見透かされないようにして、身体が小さい人は心を大きく持ち、身体が大きい人は細やかな心持ちを忘れず、身体の条件に関わらず心を素直にして、楽な方に流れないように心掛けることが肝要だ。
心を濁らせず広く持ち、自在に知恵を出す。知恵も心も一心に磨くことを心掛けよ。知恵を磨き、物事の善悪を知り、色々な芸能、技術を知り、世間の嘘を見破れるようになって後、ようやく兵法の知恵が得られる。兵法の知恵はそれらの知恵を凌駕しているものだ。いくさの場で戦況がせわしくなった時でも、兵法の道理を極めて動じない心を持つ事。よくよく考えて欲しい。  
第二節
兵法の身なりの事
身のかかり、顔はうつむかず、仰のかず、かたむかず、ひずまず、目をみださず、額にしわをよせず、眉あいに皺をよせて目の玉動かざるやうにして、瞬きをせぬやうにおもひて、目を少しすくめるやうにして、うらやかに見るるかを、鼻すじ直にして、少しおとがいを出す心なり。首は後ろの筋を直に、うなじに力を入て、肩より惣身はひとしく覚え、両の肩をさげ、脊筋をろくに、尻をいださず、膝より足の先まで力を入て、腰の屈まざる様に腹をはり、楔をしむると云て、脇差の鞘に腹をもたせ、帯のくつろがざるやうに、くさびをしむると云ふ教へあり。総て兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり。よくゝゝ吟味すべし。

敵と向かう時、顔は俯かせず、上げ過ぎず、斜めにせず、歪ませず、目をきょろきょろさせず、顔を顰めず、眉に力を入れて目玉を動かさず、瞬またたきを抑えて、遠くを見るような目で、落ち着いて眺め、鼻筋を通す様に真っ直ぐ立ち、少し顎あごを出す感じにする。
首筋を伸ばし、うなじに力を入れ、肩から全身に気を回し、両肩は自然に垂らし、背筋をぴんとし、尻を突き出さずに、膝から下に力を充実させ、腰が屈まないように腹に力を入れ、楔くさびを絞めると言われるところの脇差しの鞘に腹を押しつける感じで、帯が緩まないようにするという古来の教えに従え。
全てに於いて、兵法をやるからにはこの身勢を常に保つことが大事だ。よく考えて工夫すべし。
(解説)
これは敵と相対した時の『身体のありかた』を教えていることはすぐ分かりますが、現代人にとってこの姿勢を取れる人は希ではないでしょうか?
居合をやっている人や礼法を習っている人の身のこなしに似ているとは思いますが、首の後ろを張って『少しおとがい(顎)を出し』ている人は少ないと思います。
顎を出すのは新陰流でいわれる『位を取る』姿に通じると思われ、相手と戦う前から見下ろし、心の中では既に勝っている状態になることを示します。新陰流ではこれを『先々の先』の位と言います。
首の後ろに力を入れ、両肩を自然に下げ、背筋を伸ばすが尻を出さず、というのは今の私たちでは非常に難しい格好です。現代のアスリートなら胸を張り胸筋に力を入れ、尻を突き出しますよね。これが西欧流の正しい『直立』ですが、日本の古武道では違うのです。
ここで教えられた通りに立つと、肩はどちらかというと前方に垂れます。手に何も持っていないと、胸をあまり張らず普通に立つ格好ですが、刀を両手で前に下げた時は胸を張ると窮屈になります。そこで胸はあまり張らずに自然に肩が前に垂れます(垂らします)。そして肩の関節を肩胛骨から独立させて伸ばせるようになると、刀を振る時の円が大きくなり、遠い間合いから打ち込むことが可能になるわけです。
『くさびをしむる』というのは、脇差しを『楔』に例えて、腹を張って腰を落ち着かせるということの様に思えます。臍下丹田に力を入れろということは昔から言われてますが、どういうことでしょうか?
私の解釈では、背骨の最下部の『仙骨』の下(尾てい骨側)を前方に丸める様に力を入れることと考えます。そうすると、尻は突き出ずに却って引っ込みます。
これは相撲を取る時に、相手を押し倒す腰の入れ方と同じです。腰を反らしていると、押される力に上体が対抗出来ません。刀を持って、片足を大きく踏み込んで斬り込む瞬間もこの腰を保てと武蔵は教えています。ここでは詳しく書きませんが、この習いの通り、踏み込む時、後ろの脚は真っ直ぐに踏ん張らなくてはなりません。刀と刀で押し合いをする時に、後ろ足の膝が曲がったままだと、この姿勢を貫くことが難しくなります。
仙骨を張ったまま動くことの重要さは、斬り合いの基本となります。この巻の他の部分にも出てきますが、斬り込む時に『腰から動く』ことが肝要なので、このように教えるのです。
腕だけで刀を振ることと身体が前のめりになることを禁習とするための、一つの身体矯正法と言えるでしょう。仙骨に力が入ってないと『へっぴり腰』になります。
腕だけで刀を振ったり、へっぴり腰になったりすると、相手を刀のもの打ち(刀の切っ先から9センチぐらい手前のところ)で打った時、最大の破壊力は生まれません。どこかしら不十分な攻撃になります。不十分な攻撃ということは、自分を危険に晒すことと同じです。
不十分な動作は自由度が大きく、その分、正しい姿勢が崩れやすくなります。崩れると、次の瞬間に身体が『居着く』(両脚の体重移動が自由に出来なくなる、など)可能性が高くなります。つまり、相手の反撃に晒された時、動けず斬られる危険性が高くなります。
またこの節で驚くのは、この背を伸ばして立つことは、戦国時代の腰を十分落として構える『沈なる構え』ではないということです。
歴史上、現代剣道の様に真っ直ぐ立った姿勢で構えることは、柳生新陰流第三世の、柳生兵庫助(天正7年(1579年)〜 慶安3年(1650年))が始めたと言われています。彼が仕えた尾張徳川家で、それまでの構えを変革した体勢なのです。武蔵が『五輪書』を書き始めたのが寛永二十年(1643)と言われるので、この二人が生きた時代は丁度同じ頃です。吉川英治が、武蔵が兵庫助と邂逅するエピソードを書いていますが、あながち架空とは言えなくなりました。ひょっとすると、お互いに研鑽し合い、似た様な結論に至ったのかも知れません・・・
このように人間の身体を正しく使うことを伝えるために、文章を以てしても難しいということは、古今の真理であります。どの流派の伝書を見ても、一文にて全てを述べる事はしておらず好習(良い習い)・禁習(悪い習い)の『一言』が横串を刺すように色々な箇所で述べられます。確かに私も一つの技の解説を試みる時に、付随する全てを述べるとポイントがぶれてしまうというジレンマに陥ります。五輪書も、各論を通してその『横串』が有機的に刺さっているために、全文を総じて見ないと駄目な分けです。
武蔵も『この書のみに従え修行せよ。出ないと間違った方向にいくぞ』ということを強調しており、『五輪書』の全体を一貫して身につけないと、彼が『到達』した技は伝えられないと考えていたに違いありません。  
第三節
兵法の眼付と云ふ事
眼の付け様は、大きに広く付るなり。観見の二つあり、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり。敵の太刀を知り、聊いささかも敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事なり。工夫あるべし。此眼付、小さき兵法にも、大なる兵法にも同じ事なり。目の玉動かずして、両脇を見ること肝要なり。か様のこと、急がしき時、俄にわきまへがたし。此書付を覚え、常住此眼付になりて、何事にも眼付のかはらざる処、能々吟味有べきものなり。

兵法には、敵に対して目付めつけということがある。それは、視野を大きく広く見ることである。
目付には、観かんと見けんの二つの目付がある。観は心で見て、見は眼まなこで見る事である。
兵法では、心で察知するということを重要視して、実際に目で見ることはその次ぎにし、近いところも遠いところも同様に感じなくてはならない。
敵の太刀の振られようを察知し、それをいちいち見なくとも良いようにすることが重要だ。工夫せよ。
この目付の重要さは一対一でも多数同志(あるいは一対多数)の戦いでも同様だ。目玉を動かさないで両脇を見るようにせよ。これは戦況がせわしくなると出来なくなる。よってこの書き付けを覚えておいて、常にこの目付を取り、どんな状況でもそれを忘れてはならない。よくよく吟味せよ。
(解説)
目付とは流派により色々な教えがあります。武蔵自身も『風之巻』にて他流派の目付を述べていますが、二天一流に於いては、
(1)目を動かさず、全体を見る
(2)全体の観察から相手の刀を見なくとも、その動きを察知する
と教えています。
新陰流では、第二世柳生石舟斎と第三世柳生兵庫助とでは少し教え方が変わりますが、武蔵が言う全く同じ言葉『観見の目付』を教えています。新陰流の目の付けようとしては、拳、目、顔などになります。しかし敵に勝つ方法に流派による違いがあるはずは無く、『観見の目付』で敵の心の動きを察知し、先を取る、と言うのが、両流派の考えの本質です。
武蔵も水之巻の序文で、自分の言葉では言い尽くせないことがある、と書いており、実は我々もこれを肝に銘じて読む事が肝要であります。
この節の原文をその通りに実行しても、本当に敵の心が読めるとは思えません。相手の心を読むためにはその表情、力のいれどころ、目線の先、刀の構え方、足の位置など、一所懸命に目で情報を得なければなりません。
ここでは、そういう作業を一見で終了して、相手の次の動作を察知し、先を取れと言っているのです。私はさらに、それを一瞬で終わらせ、すぐさま敵の隙を打てと解釈します。原文ではよく分からないですが、時間的な余裕はない筈です。相手の刀を見なくとも済むようにせよ、とはこれらのもろもろを一言で集約した教条と思われます。
また『遠き所を近きに見て云々』という文がありますが、私は簡単に『近いところも遠いところも同様に感じ』と訳しました。しかし遠くの風景を近くと同じように感じるということでは勿論ないでしょう。再び新陰流にヒントを求めると、相手の打ってくる動作に、刀の切っ先を前にした状態から打ってくる場合と、切っ先を後ろにした状態から打ってくる場合の対処が口伝書にあります。つまり我にその刀が当たるまでの時間と刃筋が異なります。新陰流ではそれを自分と敵の『拍子』として考え対処するのでありますが、多分、武蔵の言いたい事もそんなところかなと思います。勿論、遠近は同じでは無いはずですが、『拍子』を取る事、あるいは『先』を取る事に関しては同じ心持ちであると言ったところでしょうか。訳不能の箇所であります。
さらに武蔵は全く言葉を残していない本質があります。何でしょう?
読者が敵を前にして、この節の教えを実行しようとしています。想像して下さい。
真剣を持って殺し合いをする時に、相手の刀を見ないで済むほどに心静かになれるものでしょうか?刀をぶら下げていた時代は現代と違って斬断された身体を見る事が多かったと思いますが、あなたが次にはそれが自分か敵に起こるのだということを想像出来なかったら、それは空想力の欠如というものです。
この武道書を読み切るには、武士としての『勇』を持っていなければ意味がないのです。
武蔵やその弟子達のレベルは、私たちが図り知る事が出来ないほどの戦闘意欲の高みにあったでしょう。
『敵の振り下ろす白刃の前にずいと踏み込んで行くほどの勇気と度胸がなければ、この書を読むほどの意味はない』とは言い過ぎでしょうか?  
第四節
太刀の持様の事
太刀のとりやうは大ゆび人指ひとさしを浮ける心にもち、丈高指(中指)はしめずゆるまず、くすし指小指をしむる心にして持つ也。手の内にはくつろぎの有る事あ(悪)しし。敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし。敵を切時も手のうちに変りなく、手のすくまざるやうに持べし。若し敵の太刀をはる事、受る事、あたる事、おさゆる事ありとも、大ゆび人さし指ばかりを少し替わる心にして、兎にも角にも、きると思ひて太刀を取るべし。ためしものなどきる時の手の内も、兵法にしてきる時の手の内も、人を切るといふ手の内に替わる事なし、総じて、太刀にても、手にても、いつくと云事を嫌ふ。いつくはしぬる手なり。いつかざるはいきる手也。能く心得べきもの也。

刀を持つ時は、親指と人差し指を浮かす気持ちで持ち、中指は絞めすぎたり緩めすぎたりしないようにして、薬指と小指で絞めるように持つ。
手の内(この持ち方)には隙間があってはならない。敵を必ず殺すんだという気持ちで刀を持て。敵を斬り殺す時もこの手の内をそのまま保ち、手の一所に力が入りすぎるなどあってはならない。
もし敵の刀を『張る』時、受ける時、当てる時、抑える時でも、親指人差し指に少し力を入れる事があるが、とにかく、そのまま斬るんだと決めて刀を持て。
試し切りをする時でもこの兵法で斬る時でも、人を斬るというこの手の内は同じなのだ。
基本的に、刀にも、手にも、『居着く』ということが無いようにせよ。居着くと攻撃をさばけず死に至り、居着かず自由に刀を振れれば死地に生を見いだせる。良く心得よ。
(解説)
原文で出てくる『てのうち』という言葉は、柳生新陰流でも同じ言葉を使い、刀の持ち方のこと、ということをお知らせしておきます。訳して驚きましたが、全く同じことを教えているようです。
この節では、2つのことを教えています。
(1) 『手の内うち』と呼ばれる刀の持ち方。
(2) 斬る時の心の持ち方と、『居着く』という禁習やってはいけないこと。
まず(1)から。
刀の握り方は親指と人差し指を浮かせ、中指は軽く押さえ、薬指・小指でしっかりと刀の柄を巻くように押さえる。
剣道か居合をやっておられる読者で、真剣か居合刀を持っていらっしゃる方は、刀を抜いて中段に構えて見て下さい。両手ともこのように握っておられる方はどれほどいるでしょうか?
ゴルフをやっておられる方は、クラブの持ち方に似ている、と思われるかも知れません。
また、武蔵も全てを言い表しているわけではありませんので、武蔵が『常識』と考えていることは実はここには書いてないのです。武蔵と雖も、人間です、完全ではありません。ここは他の古武道に伝わっている『常識』を加味して説明します。
私はここで記述されている『手の内』の形は、ゴルフの握り方を両手の間隔を空けて、刀の柄つかを持った形に非常に近い、と考えてます。
上から見ると、親指と人差し指は丸くなって柄から少し浮き、酒のお猪口を持つような形になってます。落語家が酒を飲む振りをする、あの指の形です。
ゴルフの初心者用の教本によると、その親指と人差し指の付け根は鋭い角度でえぐれて、その『口』の筋は右手なら左の肩の方を指すようになっています。これはゴルフクラブのグリップが丸く細いので手首を絞り込むためですが、刀を握る場合は、そこまで搾ると振りにくくなります。両手首がほんの少し反るぐらいで自然に刀を握ります。
手首がほんの少し外側に反ることで、斬った瞬間、肘を伸ばして、肘・手首から体重を乗せることが出来ます。
(2)ではその手の内をそのまま、敵を斬り殺す時に使えと教えています。
試し切りをするときも、戦う時も、手の内は変えてはならないということです。
次ぎに『居着く』とはどんなことでしょうか。
よく巻き藁を切って稽古している場面を見ますが、敵を斬るために練習しているとは思えないことがあります。切る前に弾みを付けたり、手首を使ったり(古武道では『くねり打ち』と呼ばれている脇道の一つ)、力を妙に抜いたりです。
うまく切った後、『残心ざんしん』という心身の状況に入りますが、もしも、相手が死にきれず、再び挑み掛かられたらどうでしょう?簡単に斬り殺されてしまっては稽古する意味はありません。
相手の反撃にたちまち対処出来ない状況に身体があれば、戦闘で生き抜くことは難しく、これを武蔵は『居着く』と言っているのです。攻撃する時は一心に攻撃を行わなければなりませんが、一旦動作を停止した時に勝負の分かれ道が訪れます。
『居着く』とは、身体のどこかに力み・たるみがあって、次の瞬間に攻撃された時、すぐに正しい動作が出来ない状況を意味しています。これは足腰の状態も関係しますが、この節では、武蔵は手の内に関して言っています。
居着かないためには、相手を真っ二つにし、刀をさらにめり込ましている時でさえ、武蔵は手の内を握った時と同じにしておけと教えています。常人では出来そうも無いですが。
ここで大切なのは、全編に一貫して教えている『平常心』という観念です。
平常心を以て、『兵法の身なりの事』で出てきた姿勢、そしてこの節で教えた『手の内』を常に保つこと。
よくよく読者の御工夫の成果を祈ります。でも辻斬りはしないでくださいね。
よってくだんの如くなり。  
第五節
足づかいの事
足のはこびやうの事、爪先を少しうけてきびすを強くふむべし。足づかいは、ことによりて大小遅速はありとも常にあゆむが如し。足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三つ、嫌ふ足なり。此道の大事にいはく、陰陽の足と云ふことあり。是れ肝要なり。陰陽の足とは、片足ばかり動かさぬ物なり。きる時、引時、受る時までも、陰陽とて右左ゝゝとふむ足なり。返すゞゝ、片足ふむことあるべからず。能々吟味すべきものなり。

足の運びかたは、爪先を少し浮かせて踵を強く踏むこと。足使いは時に応じて大きく・小さく・遅く・早くするが、常に普通に歩く様にする。
飛ぶ、足を浮かせる、腰を落として踏みつける、の三つはやってはいけない。
兵法の大切なことに『陰陽の足』という教えがある。これは当流(二天一流のこと)にとっても重要なことだ。
陰陽の足使いとは、片足だけを動かしてはならないということだ。
斬る時、引く時、刀を受ける時でも、陰陽の両極を交互に渡る様に、右左右左と踏んでいく。何度も言うようだが、どちらかの片足だけ中心にして、スキップを踏むような足運びをしてはならない。良く吟味して欲しい。
(解説)
これを読んで、現代剣道とは大分違うなと思われた読者は多いと思います。
現代剣道の足運びは、主に右足を前に出して踏み込み、引き、防ぎます。後ろ足はつま先立ってます。踏み換えて稽古することはまずありません。却って滑稽に見えるかも知れません。
現代剣道で、武蔵が教えるような足の使い方が有効なのか私には分かりません。剣道家で『五輪書』を読まれた方のご意見を聞いてみたいと思います。それとも『足を踏み換えていたらスピードが落ちて打ち込まれるさ。これは昔の教えだよ』、と言うことかも知れません。
一般の人が読むと、身体の動かし方としては意味が分からず、ここは飛ばしてしまう方が多いのではないでしょうか。
古武道と現代剣道の決定的な違いがこの節で明らかになりました。
要約した次の三点は全く現代剣道の動きと違います。
(1)決して飛び跳ねたりせず、普通に歩む様にする。
(2)爪先だってはいけない。両足とも指を上げるようにして、足の裏(踵)で床を踏んでいなければならない。
(3)斬る時、引く時などは、足を交互に踏み換えてつかう。
大正・昭和期の柳生新陰流の第二十世宗家、柳生厳長先生が『剣道八講』という著書で、現代剣道を批判している部分がありますが、その理由の一つがまさにこの違いであります。
それに講談や映画によると、武蔵は巌流島で飛び上がって佐々木小次郎の頭を撃ったんじゃないか!
これを読むと嘘っぱちの様ですね。大体、砂浜で飛び上がるなど出来ないと思いますが・・・
どうして古武道は、この様な『どん亀』の様な動きを重視するのか?
理由は、真剣の『重さ』と『刃の向き』にあると私は考えています。そして、何を『勝ち』とするかという、勝負の本質の違いでもあると。
真剣の重さと刃の向きに関して、私の経験を例にお話ししましょう。
私も剣道をやっていましたが、いつも小説やテレビに出てくる剣豪に憧れていました。
ある日、真剣と同じ重さ・長さを持つ居合刀(模造刀)を手に入れて、素振りをしました。竹刀と違って、刀は重く、重心の重さが手先に掛かります。自己流でも正しく振れれば、ひょうと空気を切る音がすると考えました。
慎重に刀の切る方向に刃先を合わせようとますが、有効な切り方をするには慣れが必要です。失敗する方が多かった。
身体を鍛えればいつか、映画の剣豪のように、真剣も竹刀のようにびゅんびゅんと振れる様になる、と思ってました。
ところが、練習を続けていくうちに腕の筋肉が痛み出し、手首も壊してしまいました。
何がいけなかったのか?
私は悩みましたが、古武道の研究をし始めてから大分時間が経って、その原因が分かってきました。
真剣を剣道でやるように、手首を使って振ろうとしていたのです。
重い真剣を宙に飛んでひゅうと振り、相手を倒す。こんな幻想を持って刀を振ったのが間違いでした。
いくら練習しても、うまく当たればご覧じろ。手首を使った振り方は、刀がどこで止まるか分からず、刃が斬るものに正しく垂直に当たっているかも時の運です。
自分が格好良く切り抜いても、相手がすばやく、避けられていたら、・・・次の瞬間、私の首は飛んでいるでしょう。なにせ、刀の重さで手首は曲がり、身体が泳いで、へっぴり腰になっているはずですから。
たとえ話が長くなりましたが、真剣を以てその『斬るという使命』を成就させるには、武蔵は前述の三点を守れないと、駄目だと言っているのです。
『足を踏み換える』なんて、想像出来ないぞ、とおおかたの人は考えると思いますが、それを積極的に実践している古武道の流派が一つだけ現在に残ってます。
この著作の最初から引き合いに出している柳生新陰流です。
実は、『五輪書』を読んでいて思ったのですが、武蔵が書いている要点は、新陰流の伝書にあることと殆ど同じなのです。まるで交流があったようにです。
これは一道を突き詰めていけば、真理は同じなのだということなのかも知れません。
あるいは、仮説ですが、元来、古武道は基本的な身勢法は同じだったのかも知れません。
『足を踏み換える』を文章で説明するのは至難の技ですが、挑戦してみましょう。
(1)刀を真っ直ぐに振る時は、どちらの足を先にして踏み換えても良いでしょう。
(2)刀を左右に振る時に始めて踏み替えの習いが需要になります。
(3)刀を右上から左下に振る時は『右足』を踏み込みます。
左上から右下に振る場合は『左足』を踏み込みます。
これは『ナンバ』と呼ばれる日本特有の身のこなし方です。
(4)よって連続して打ち込む時は、右上から打ち込む時は右足で踏み込み、刀を引き上げて今度は左足を踏み込んで、左上から斬り込みます。
『ナンバ』を剣の振り方の基本と考えると、『足を踏み換える』のは当然の刀の操り方となります。驚くことに、武蔵はこれをわざわざ『五輪書』に書いているのです。姿勢、刀の持ち方という『基本』も書いている。これは一体、何を意味するか、重く受けとめなくてはなりません。
先ほど、巌流島での小次郎との戦いを笑い話の様に書いてしまいましたが、特に砂浜で現代剣道の様に右足だけ軸足を置く事は危険のように感じます。爪先立った後ろ足で、砂を蹴れるとは思いません。前に打突した後、伸びきった前後の足では攻撃は止まります。逆に、足の指を上に反らせて足の裏で砂を踏めば、腰を安定させて戦う事が出来ます。
武蔵は他の節で、戦う時は路面がどういう風になっているか分からない。だから、飛んだりせず、安定した踏み方を行え、とも教えています。
この様に、古武道の伝書というものは要点があちこちに散らばっているのが普通で、全体をじっくりと学ばないと見落としがあるのです。
これを書いている時、武蔵の頭には、あの巌流島の砂浜での戦いの思い出が浮かんでいたのかも知れませんね。
思うに、ここで述べられていることは、本来ならば口伝されるべき『極意』の一部です。
武蔵が始めてそれを弟子のために文書化してくれたので、新陰流という実践的古武道との共通性も分かりました。歴史的文書です。
付つけたり
(古文書で使う追加の意味)
まだ、ナンバと斬り合いの本質の関係が分かっていない読者がいらっしゃると思います。
簡単に説明してみます。
刀を右肩上から左下に切り下ろす『袈裟切り』をするとしましょう。ナンバの要領では切り下ろす時、右足を踏み込みます。この時、左足を踏み込んで見るとどうでしょう?
身体を捻らなければ左下に切り下ろす事は出来ません。就中なかんずく、左足を切りそうではないでしょうか?
少し新陰流の説明にかたぶいてしまいますが、右袈裟切りを行う時は、新陰流では肩、腰、足を同じ方向に回して踏み込みます。これが斬り合いを行う時、身体の回転をフルに使って刀の重さと性能を十分に引き出す唯一の方法だからです。
二天一流は両刀使いなので、大刀は右片手で切り下ろさねばなりません。この時、このナンバを積極的に行わなければ、効果的な斬撃は決して生まれないでしょう。  
 
『五輪書』に見る兵法思想 4

 

宮本武蔵は、『五輪書』(ごりんのしょ)や吉川英治の小説『宮本武蔵』が多くの言語に翻訳されており、海外でも有名である。しかし小説や映画、漫画などで描かれる真剣勝負に生きた浪人・剣豪のイメージは、武蔵没後130年に書かれた伝記(※1)によるフィクションである。それに対して学問的な研究で明らかになった武蔵の実像をまず紹介する。そして武蔵の思想を『五輪書』の5巻の内容に即して論じる。
宮本武蔵は、若い時に剣術論を著し、それを2度作り変えて最晩年に『五輪書』を著した。大名に宛てた自筆の書状2通と、彼が描いたことが確かな十数点の水墨画、自作の木刀や刀の鍔(つば)などが遺(のこ)っている。養子や弟子が記した資料や彼が関係した諸藩の史料もあるので、それらを総合した研究によって、武蔵の生涯はほぼ明らかになっている。
武蔵は1582年に生まれ、1645年に没した。日本各地で合戦が続いた後、全国統一される時代に生まれ、江戸幕府が確立する時代に没した。その人生は4つの時期に分けられる。それは、日本社会の急激な変動とも連動しているので、時代と合わせて示すと以下のようになる。
T.20歳までの修練期。日本社会が統一されて近世的な秩序が形成される時代。
U.21歳で上京後、29歳までの武者修行期。関が原合戦後、徳川幕府が誕生したが、前政権の勢力との間で不穏な時代。
V.30歳から59歳まで、大名の客分で兵法の道理を追求した時期。この時期に養子の伊織は藩の家老になる。大坂の陣で合戦が終結して、幕藩体制が確立する時代。
W.60歳以後、最晩年に人生を総括し『五輪書』を書いた。合戦を知らない若い将軍や大名に世代交代した時代。
武蔵は自らを「生国播磨の武士」と『五輪書』で名乗る。養子の伊織が残した資料によると、姫路城近くの播磨の武士の家に生まれたが、統一過程で敗れた家だったので、少年期に岡山の武士・宮本無二斎の養子となった。「天下無双」の名を室町将軍から賜った武芸者の無二斎の下で、少年期から剣術を鍛錬し、13歳で初めて勝負して名のある武芸者に勝った。
1600年の関が原合戦の後、21歳で都に上って天下の兵法者と勝負して勝ったという。調べてみると、武蔵は24歳の時に28カ条の剣術書『兵道鏡』を著し、「天下一」を称して円明流を樹立していた。その後武蔵は全国に武者修行して、29歳までに行った60度以上の命がけの勝負に全て勝ったという。最後の勝負が有名な小次郎との勝負だが、約束の時間に遅れたというのは作り話で、無人島で同時に会して、三尺余の長い刀を遣(つか)う小次郎を、それを上回る長さの大木刀で打ち倒したようだ。
武蔵は30歳を超えてから「なおも深き道理」を追求して、50歳の頃に道に達したと『五輪書』に書く。この間のことを調べてみると、34歳となる1615年、大坂夏の陣に徳川方の大名の下で参陣した記録がある。2年後、姫路城に入った姫路藩の客分となる。家臣ではなく、客分としての自由を持ち、藩主の嫡男などに剣術を指導していた。この時期から剣術の理論を追求し、水墨画も描き始めた。
宮本武蔵の描いた水墨画「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」(和泉市久保惣記念美術館蔵)。『五輪書』の中で、武蔵は書画などの諸芸に関わることも兵法を鍛錬する手段であると述べている
宮本武蔵の描いた水墨画「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」。重要文化財(和泉市久保惣記念美術館蔵)。『五輪書』の中で、武蔵は書画などの諸芸に関わることも兵法を鍛錬する手段であると述べている
9年後、藩主の嫡男が病死したので、かつて城下町を建設するのに協力した隣の明石藩に養子の伊織を仕えさせ、武蔵もこの藩の客分となった。伊織は5年後に20歳で藩の家老になるが、養父の武蔵の功績も合わせての出世と思われる。翌年、明石藩が九州の小倉へ領地替えとなり、武蔵たちも移住した。5年後、九州島原で起こった大規模な反乱に九州の諸藩が鎮圧に動員されたが、伊織は小倉藩の軍勢の司令官として活躍し、後に藩の筆頭家老となる。
1640年、武蔵は59歳で九州の熊本藩の客分となる。翌年藩主に35カ条の剣術書を呈上したが、翌月藩主は没した。2年後、武蔵は若い藩主や家老などのために『五輪書』を書き始め、1年半後、死の1週間前に完成させた。『五輪書』は、武蔵が生涯をかけて摑(つか)んだ、剣術鍛錬を核とした武士の生き方を説いた書である。
『五輪書』では、兵法の道を地・水・火・風・空の5巻(五輪)に分けて体系的に論じている。
「地の巻」は、武士の道の大枠を示す。
武士には個々の武士と万人を統率する大将がいる。剣術の鍛練で戦い方を知り、合戦にも通じるように考えよ。いかなるところでも役立つように稽古せよ。武士は常時二刀を差しており、合戦で戦うことも考えて、二刀を持って稽古すればよい。剣だけでなく、鑓(やり)・長刀(なぎなた)、弓、鉄砲の特性を知って有効に戦え。大将は部下の力量を判断して適材適所に配置せよ。武士の道を行うには、邪(よこしま)なことを思わず、鍛錬することが根本。諸芸にふれて視野を広げ、諸職の道を知って社会のあり様を知るが、諸事の損得を弁(わきま)え、主体的に判断せよ。目に見えぬ所を考え、わずかなことにも気をつけよ。役に立たぬことはせず、自分の道の鍛練に専念せよ。これらは、全ての道の追求に通じる教えであろう。
「水の巻」は、核となる剣術の理論を述べる。
まず術の基礎として、心の持ち方、身構え、目付きを論じるが、隙なく即座に動けるよう日常生活から鍛練せよ。太刀は上・中・下段、左脇、右脇の五方の構えがあるが、敵を切りやすいように構えよ。太刀は構えから最も振りやすく切ることができる「太刀の道」を追求せよ。その感覚を磨くために五方の構えからの形を稽古せよ。決められたやり方の稽古ではなく、その都度敵を最も切りやすく構え、より良い太刀の道の感覚を研ぎ澄ませよ。「今日は昨日の我に勝ち、明日は下手に勝ち、後は上手に勝つ」と思い、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とすべし」。より良い技を目指して日々稽古し、それを何十年と積み重ねていくことが鍛錬なのである。
「火の巻」は、戦い方の理論を書く。
まず戦う場の光線の方向や足場、障害物などを見て取り、それらの条件を自分には有利に、敵には不利になるようにして戦う。敵を知って、強い所を発揮させず、弱い所を攻める。敵の技を抑えるが、敵が打とうとするところを見抜いて敵が打てば打ち返せる構えをして、敵に打ち出させない。敵を動かし逆を取って崩していく。心理的にも敵をいらいらさせ、惑わせ、動揺させて、敵に崩れが見えた一瞬に攻めて勝つ。大勢と戦う時も自分から動いて主導権を握り、敵が重なるところを切る。2度通用しなければ3度目は攻めを変える。細心にして大胆に攻め、最後まで油断せず勝ち切れ。
「風の巻」は、他流の誤りを批判し、正しい道理を確認する。
いつでも通用する理を追求せよ。構えや稽古の外形にとらわれず、その都度の敵に対して最も有効な構えをし、太刀の道に即して遣う。秘伝を否定し、決まった教え方にとらわれず、学ぶ者が理解し体得しやすいように教えよ。学ぶ者の理解力を考えて、正しい道を教えて、その者の癖や思い込みを捨てさせ、その者自身がおのずと武士の真の生き方となり、疑いない心にするのが自分の教え方である。
「空の巻」は、道の修練の仕方と究極のあり様を示す。
さまざまな誤りも、思い込みによるので、「空」を思い取って常に己を見つめ直すことが大事である。常により良い技を求めて、技とともに身も心も鍛練を続けていけば、やがて少しの曇りもなく迷いの晴れたる所に達する。それこそ「実(まこと)の空」である。
武蔵は、若い時期に命懸けの実戦勝負に勝ち抜いたが、より普遍的な道理を追求して、全てのことに対し無駄なく、合理的なあり様を絶えず追求していた。道を極めた果てに後世に遺した『五輪書』は、具体的な稽古の心得に基づきつつ、武士としての真の生き方を示し、400年近くたった今日でも普遍的な武道の真髄を伝えている。  
 
五輪書 5

 

万里一空である。「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬る」という心を題に、「乾坤をそのまま庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め」と綴った。天地の外に住むというのが武蔵らしいところで、修行者としてどこか他所に目を向ける気概がある。空じているといえばたしかにそうであるが、その空を目の端に捉える余裕がある。
よく武蔵の兵法を「命がけの実利主義」ということがある。小林秀雄などもそういう感想を書いていた。けれども『五輪書』を読むかぎりは、そういう逼迫したものは感じない。むしろ武蔵は、武芸者はどちらかといえば大工に似たもので、達者でいるにはたとえば大工のように「留あはする事」をよく吟味するのだと綴った。これは留め打ちに通じる。またしきりに「ひやうし」という。拍子である。拍子に背くのが一番まずいことで、そのために拍子をこそ鍛練しなさいという。「さかゆる拍子」「おとろふる拍子」、さらに「あたる拍子」「間の拍子」「背く拍子」があるのだから、それによっておのずから打ち、おのずから当たる。それに尽きるというのだ。
こういう武蔵の言いっぷりは奥義を極めた者が秘伝を語るときの自信に満ちていて、坂口安吾のような者には我慢がならない訳知りに映るらしい。たしかにたいしてうまくない芸人の芸談にそういうことを感じることも少なくないが、『五輪書』に関しては、読めばそんな気持ちはめったにおこらない。安吾にしておそらくは吉川英治の作品武蔵から派生した感想か、『五輪書』を読んでいないかであろう。
武蔵が『五輪書』を綴りはじめたのは60歳のときで、それから2年後に筆をおき、すべてを了解したようにその2ヵ月後に死んだ。熊本雲巌寺近くの霊巌洞でのことである。60歳で綴っている武人の文章に訳知りは当たらない。
武蔵は慶長17年(1612)、29歳のころに豊前の船島で巌流佐々木小次郎と対決したのち、いったんは小倉藩にいたのだが、その後は杳としてその姿を消した。一説には、明石藩主の小笠原忠真に招かれて客分となり、明石の町割を進言したとも、そのころ養子として伊織を迎えて円明流を編み出したとも、小倉に赴いたのはその伊織だったともいわれる。また一説には、武蔵は尾張の柳生家に厄介になったとも、いっとき江戸に下って小河久太夫や遊女雲井と交わったのち、寛永14年には島原の乱の帷幕に参じたともいう。ともかくも細川忠利五十四万石の熊本の地に現れたのは、寛永17年(1640)の8月のこと、巌流島の決闘から28年もたってからのことである。そのあいだ、何をしていたかは実はまったくわからない。それからはまるで禅僧めいて、宮本二天として絵筆をもつ日々のほうが多い。《闘鶏図》《蘆雁図》など、さすがに気韻生動の呼吸をもっている。
五輪の書とは、地水火風空の“五輪五大”にあてはめて武芸兵法の心得を綴ったもので、地の巻から順々に空の巻に進んでいく。最後に「独行道」を書いたのが死の数日前だった。それが万里一空の心境である。これを三十五ヵ条の覚書にまとめて、忠利に奉呈した。
武芸書だから剣法の実技について書いてあるかというと、これがあまりない。むしろ心得ばかりであり、ときに禅書と見まちがう。それでは武芸に関係のないことばかりかというとそうではなくて、ほとんどの文章が武芸の構えや用意や気分にふれている。この、就いて離れ、放して突き、離れて着くところそこが武蔵なのである。
少しわかりやすく紹介してみる。
水の巻でいえば、まず太刀の持ちかたがある。これはぼくが九段高校で湯野正憲師に剣道を習っていたころ(九段では剣道は正課に入っていた)、「宮本武蔵はこんなふうに剣を持った」と説明され、試してみたがまったくできなかった。どういう持ちかたかというと、親指と人差し指を浮かすように持ち、中指は締めず、薬指と小指を締める。これをやってみると、薬指と小指を締めるのはちょっと稽古をすればできるのだが、そうすると親指にも力が入る。親指と人差し指がなかなか柔らかく浮いてはくれない。武蔵はそれでは「しぬる手」になると戒めた。おまけに中指の使いかたがわからない。
足づかいでは、爪先を少し浮かせて、踵を強く踏むのがよく、どんなばあいも「あゆむがごとし」を重視する。飛足・浮足・踏足は絶対に避けなさいとも書いた。これも容易ではない。立ち会いの試合をしてみればすぐわかってくるのだが、どうしても打ち込みの気分に入ったとたんに飛足が出る。だいたい爪先を少し浮かせたままでは打ち込めない。また、少し間合いがとれない対峙が続くと、踏足になる。
それでもなんとかこういうことができたとして、太刀を振るにあたっては「太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかひて振りがたし」と言うのだが、これがまったくできない。太刀をはやく振るなと言われても、相手に斬りこむときにどうしてもはやくなる。が、それはいけないというのが、会得できない。「振りよいように静かに振りなさい」というけれど、その意味はわかっても手につかない。やってみると、そういうことが伝わってくるのだ。
それでも、ぼくには武蔵の真似すらできないにもかかわらず、うっかりするとそのような気分が少しだけ擦過するときがある。そのときの感想をいうと、ふいに胸が大きく開いていることが実感できるのである。爪先を浮かし、親指が少し離れ、ああこのときかとおもって振り下ろすと、それまで知らなかった胸がちょっと開くのだ。
が、ここまでは準備である。ぼくはまったくお手上げだが、武芸者によっては素振りで練習できなくもない。けれども、剣法には相手がいる。太刀をうまく持てたとしても、相手が何をするかがわからなければ何もできない。しかも武蔵の時代は日本刀の真剣だ。そうとうな恐怖だったろう。
ところが武蔵は、相手のことを知るにはその先端だけを知れと言う。真剣の先端である。そこに「先」という言葉が出てくる。
火の巻にいう「三つの先」は、まず「懸の先」がある。これはこちらから懸かるときのことで、懸かる直前の思いきりを重視する。思いきりは「思いを切る」ことである。「待の先」は相手が懸かってきたときに引いてのちに打つ。相手の拍子を外すのだが、その外した瞬間にむこうの拍子がなくなる前にこれを引き取っている。そこがすさまじい。
最後の「躰々の先」はこれらが互いに交じる。組み合わさる。組み合わさるのだが、そこに「枕をおさゆる」ということがある。これはすこぶる興味深く、武蔵の独得の言いかたでは「うつの“うの字”のかしらをおさへ、かかるの“かの字”をおさへ、きるといふ“きの字”をおさゆる」というふうになる。「う」と「か」と「き」のドアタマを衝くわけだ。相手が飛ぼうとすれば、その「と」の字のところで決着をつけるわけで、これがいわゆる「気ざし」ということになる。このとき喝と突いて、咄と打つ。武蔵はそれを「喝咄といふ事」といった。喝咄とはいかにも武蔵らしい。
ともかくわれわれ凡人にはとうていできそうもないようなことばかりだが、そういうふうに自信がないときは、「角にさわる」「まぶるる」「かげを動かす」ということをしなさいとも勧める。そういう用意周到がある。
角にさわるのは相手の動きや技の角を確かめることである。まぶるるのはそのためいささか相手と押し合ってみることだ。かげを動かすのは相手の心が読めないので、あえてこちらの強引を見せることにあたっている。とくに相手の「角」を感じなさいというのがなかなかだ。たしかに人の心の動きというものには角がある。
こんなぐあいに『五輪書』は絶妙の間合いの話が次々にあらわれて目を奪うのであるが、とりわけ「縁のあたり」「場の次第」「けいきを知る」「渡をこす」が絶妙である。
(一)「縁のあたり」とは、簡単にいえばどこでも打ちやすいところを打ってよいという心得で、それだけなら何のこともなさそうなのだが、それが相手と自分の「縁」で決まるというところ、それもその縁が感じられれば、その縁の「あたり」を打てというのが恐ろしい。
(二)「場の次第」は場を背負ってしまえということで、実際の果たし合いではその時刻の日光を背負うことも入ってくる。さかんに時代劇の剣士たちがやってみせることだが、背負うのは太陽だけではなく、本当は場そのものの大きさと小ささなのだ。
(三)「けいき」は景気である。その場、その人の景気の盛んなさま、景気の衰えのさまによって兵法が変わっていくことをいう。ぼくも景気については『花鳥風月の科学』に「景気の誕生」という副題をつけたように、景気というものは日々の感覚の先端が感じとるべきもので、なにも経済企画庁や「日経新聞」のデータや噂に頼ることではないと思ってきた。景気は近くに落ちている。武芸においてもその景気をつねに見て、手足の先に感じていることが大事だというのだ。剣は景気なり、なのである。
しかしおそらく、『五輪書』で最も絶妙なのは「渡をこす」である。たとえば海を渡るには“瀬戸”を越えたかどうかという一線があり、四十里五十里の道にも度を越せたかどうかということがある。
これは長きも短きも同じことで、その「渡」を越したかどうかを体や心でわかるべきなのである。武蔵は人生にも「渡」があって、その「渡」が近いことを全力で知るべきだと言っている。それがまた短い試合の中にも外にもあって、その僅かな瞬間にやってくる「渡」にむかって全力の技が集まっていく。そう、言うのである。
なるほどわれわれにもつねに“瀬戸際”というものがある。ところがその瀬戸が近づいてくるところがわからない。たいていは急に瀬戸際がくる。武芸にはその瀬戸をはやくから知る方法がある。『五輪書』というもの、一言でいうなら、この瀬戸際をこそ問うていた。  
 
五輪書 6

 

宮本武蔵の著した兵法書。武蔵の代表的な著作であり、剣術の奥義をまとめたといわれる。寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本県熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆されたとされる。自筆本である原本は焼失したと伝えられる。写本は細川家本を始め、楠家旧蔵本・九州大学本・丸岡家本・狩野文庫本、底本不明の『劍道祕要』収録などがある。自筆本が現存せず写本間での相違も多いことや、武蔵の時代よりも後の価値観に基づく記述が多いこと、さらに同時代の文献に武蔵が五輪書を書いたと傍証できるものがないことなどから、武蔵の死後に弟子が創作したという説もある。
書名の由来は密教の五輪(五大)からで、それになぞらえて「地・水・火・風・空」の五巻に分かれる。
○ 地の巻 / 自らの流を二天一流と名付けたこと、これまでの生涯、兵法のあらましが書かれている。「まっすぐな道を地面に書く」ということになぞらえて、「地の巻」とされている。
○ 水の巻 / 二天一流での心の持ち方、太刀の持ち方や構えなど、実際の剣術に関することが書かれている。「二天一流の水を手本とする」剣さばき、体さばきを例えて、「水の巻」とされている。
○ 火の巻 / 戦いのことについて書かれている。個人対個人、集団対集団の戦いも同じであるとし、戦いにおいての心構えなどが書かれている。戦いのことを火の勢いに見立て、「火の巻」とされている。
○ 風の巻 / 他の流派について書かれている。「風」というのは、昔風、今風、それぞれの家風などのこととされている。
○ 空の巻 / 兵法の本質としての「空」について書かれている。
「風の巻」における他流派批判
○ 長太刀を用いる流派に対しては、接近戦に不向きであり、狭い場所では不利となり、何より長い得物に頼ろうとする心がよくないと記す。
○ 短太刀を用いる流派に対しては、常に後手となり、先手を取れず、相手が多数の場合、通用せず、敵に振り回されると記す。
○ 太刀を強く振る(剛の剣の)流派に対しては、相手の太刀を強く打てば、こちらの体勢も崩れる上、太刀が折れてしまうことがあると指摘する。
○ 妙な足使い(変わった足捌き)をする流派に対しては、飛び跳ねたりしていたら、出足が遅れ、先手を取られる上、場所によっては動きが制限されると指摘する。
○ 構え方に固執する流派に対しては、構えは基本的には守りであり、後手となる。敵を混乱させるためにも構えは柔軟であるべきと記す。
○ 奥義や秘伝書を有する流派に対しては、真剣の斬り合いにおいて、初歩と奥義の技を使い分けたりはしないとし、当人の技量に応じて指導すべきと記す。
これらの他流派批判をすることにより、二天一流の有用性を説いている。  
 
二天一流

 

二天一流 1
近世剣術の一流派。流祖は宮本武蔵玄信(むさしげんしん)(1584―1645)。武蔵は初め流名を円明(えんめい)流と称し、晩年は二刀一流を号したが、その没後20年を経た1666年(寛文6)ころ、道統を継いだ寺尾求馬助信行(てらおくめのすけのぶゆき)(1621―88)によって、師の法号二天道楽居士(にてんどうらくこじ)にちなみ、二天一流と改めた。この流が技法上、大小二刀を基本とする意義について、『兵法三十五箇条』の冒頭に「左の手にさして心なし、太刀(たち)を片手にて取ならはせん為(ため)なり」と述べ、『五輪書(ごりんのしょ)』には、「二刀と云(いい)出す所、武士は将卒ともにぢきに二刀を付(つく)る役なり、……此(この)二つの利を知らしめんため二刀一流と云なり」と述べている。武蔵はあまり門人をとらなかったが、慶長(けいちょう)年間(1596〜1615)円明流と称したころの門人としては、尾張(おわり)(名古屋)円明流の祖で讃岐(さぬき)の人、竹村与右衛門頼角(たけむらよえもんよりすみ)、鉄人実手(てつじんじって)流を始めた姫路の人、青木城右衛門金家(じょうえもんかねいえ)、江戸滞留中の門人、石川主税清宣(ちからきよのぶ)らがある。また武蔵終焉(しゅうえん)の地である肥後熊本における二天一流の正式相伝者は、同藩士寺尾孫之丞信正(まごのじょうのぶまさ)(のち夢世勝信(ゆめよかつのぶ))とその弟求馬助信行、古橋惣左衛門良政(ふるはしそうざえもんよしまさ)の3人であったが、孫之丞は家職の御鉄砲頭(1050石)に専心し、古橋は江戸へ出たため、求馬助が道統を継いだ。求馬助のち藤兵衛には6人の男子があり、なかでも四男信盛(のぶもり)は名手で、新免辨助(しんめんべんすけ)を称したが、1701年(元禄14)45歳で惜しくも死去した。寺尾の門流はその後、熊本藩を中心に、福岡、佐賀など北九州諸藩に広がりをみせた。
二天一流 2
流祖・新免玄信(宮本武蔵) が、晩年に熊本市に位置する霊巌洞(れいがんどう)で完成させた兵法である。その理念は著書『五輪書』に著されている。二天流、武蔵流などとも呼ばれた。
宮本武蔵の父・新免無二(當理流関係の文献には宮本無二之助藤原一真・宮本無二斎藤原一真)は、實手・二刀流などを含む當理流の使い手だったが、武蔵はそれを発展させ流名を円明流に改めたという。晩年、伝えていた一刀、二刀、實手など多くの形を捨て、右手に大太刀、左手に小太刀の二刀を用いる五つのおもて「五方」の五本にまとめ上げ、その兵法理念を『五輪書』に書き表した。『五輪書』では流名は二刀一流・二天一流の二つが用いられているが最終的には二天一流になったと考えられる。後世には、二天流・武蔵流の名も用いられている。
武蔵晩年の弟子には細川家家老である松井寄之などがいるが、武蔵死後、二天一流は、『五輪書』を相伝された寺尾孫之允勝信と、その弟で病床の武蔵の世話をしていた寺尾求馬助信行を中心に伝えられた。
『武公伝』(細川家家老で八代城主松井家の二天一流師範が著した武蔵伝記。宝暦5年(1755年)豊田正脩編)には、「士水云、武公肥後にての門弟、太守初め、長岡式部寄之、澤村右衛門友好、其の外御家中御側外様及び陪臣軽士に至り、千余人なり」と書かれている。
寺尾孫之允の弟子には『五輪書』を相伝した浦上十兵衛(慶安4年・1651年)、柴任三左衛門(承応2年・1653年)、山本源介(寛文7年・1667年)、槙島甚介(寛文8年・1668年)がおり、『武公伝』は他に相伝の弟子として井上角兵衛、中山平右衛門、提沢兵衛永衛、この他弟子余多ありとしている。重臣の松井直之、山名十左衛門も高弟としている。
寺尾求馬助の四男である信盛は武蔵の再来と噂されるほどの技量で、父・求馬助から武蔵の後継者とされ、新免姓を継承し新免弁助信盛を名乗り今日まで伝わる二天一流の稽古体系を完成させ、求馬助の三男である寺尾藤次玄高と藤次の子・志方半兵衛之経の系、さらに信森から相伝を受けていた村上平内正雄の系に分派する。
村上平内正雄の系は正雄の子である村上平内正勝・八郎右衛門正之兄弟にそれぞれ伝えられ、寺尾孫之允の弟子筋も門下に加わり発展していく。また、寺尾藤次の子、志方半兵衛之経は『二天一流相伝記』を著し弁助信盛から半兵衛之経へと相伝した。また村上正勝・正之から相伝を受けた野田一渓種信は、寺尾藤次の弟子筋からも学び、志方・村上両師範家の教えを統合した。
なお、寺尾孫之允の弟子筋の中には細川家の外に二天一流を伝えた者もいる。中でも柴任三左衛門は福岡藩黒田家家臣の吉田太郎右衛門に伝え、実連の弟子である立花峯均が武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』を著すなど福岡でも二天一流は盛んに行われた。
熊本における二天一流は、志方系と村上正勝系・正之系、村上家から別れた野田系の四つの新免信盛の流れを伝える師範家に加え、寺尾求馬助の六男の寺尾郷右衛門勝行からの系を伝えているとする楊心流柔術師範家の山東家を加えた五師範家が藩に公認され、幕末まで伝えられた。
また、福岡藩の二天一流は江戸後期に越後に伝播し、各地で相伝されたが、明治時代頃に絶えたと思われる。 現在、野田家と山東家の流れと称するものが各地に伝えられている。
流儀歌
乾坤(けんこん)を其侭(そのまま)庭に見る時は、我は天地の外にこそ住め
二天一流 3
二天一流(にてんいちりゅう)は流祖・新免武蔵藤原玄信(宮本武蔵) が、晩年に熊本で完成させた兵法である。その理念は著書『五輪書』に著されている。
宮本武蔵の父・新免無二(當理流関係の文献には宮本無二之助藤原一真・宮本無二斎藤原一真)は、實手・二刀流などを含む當理流の使い手だったが、武蔵はそれを発展させ流名を円明流に改めたという。晩年、伝えていた一刀、二刀、實手など多くの形を捨て、右手に大太刀、左手に小太刀の二刀を用いる五つのおもて「五方」の五本にまとめ上げ、その兵法理念を『五輪書』に書き表した。『五輪書』では流名は二刀一流・二天一流の二つが用いられているが最終的には二天一流になったと考えられる。後世には、二天流・武蔵流の名も用いられている。
武蔵晩年の弟子には細川家家老である松井寄之などがいるが、武蔵死後、二天一流は、『五輪書』を相伝された寺尾孫之允勝信と、その弟で病床の武蔵の世話をしていた寺尾求馬助信行を中心に伝えられた。
『武公伝』(細川家家老で八代城主松井家の二天一流師範が著した武蔵伝記。宝暦5年(1755年)豊田正脩編)には、「士水云、武公肥後にての門弟、太守初め、長岡式部寄之、澤村右衛門友好、其の外御家中御側外様及び陪臣軽士に至り、千余人なり」と書かれている。
寺尾孫之允の弟子には『五輪書』を相伝した浦上十兵衛(慶安4年・1651年)、柴任三左衛門(承応2年・1653年)、山本源介(寛文7年・ 1667年)、槙島甚介(寛文8年・1668年)がおり、『武公伝』は他に相伝の弟子として井上角兵衛、中山平右衛門、提沢兵衛永衛、この他弟子余多ありとしている。重臣の松井直之、山名十左衛門も高弟としている。
寺尾求馬助の四男である信盛は武蔵の再来と噂されるほどの技量で、父・求馬助から武蔵の後継者とされ、新免姓を継承し新免弁助信盛を名乗り今日まで伝わる二天一流の稽古体系を完成させた。だが、信盛が後継者を指名せずに若くして急死したため、求馬助の三男である寺尾藤次玄高と藤次の子・志方半兵衛之経の系と、信森から相伝を受けていた村上平内正雄の系に分裂する。
村上平内正雄の系は正雄の子である村上平内正勝・八郎右衛門正之兄弟にそれぞれ伝えられ、寺尾孫之允の弟子筋も門下に加わり発展していく。それに対し、寺尾藤次の子、志方半兵衛之経は『二天一流相伝記』を著し弁助信盛から半兵衛之経へと続く相伝のみの正当性を主張した。また村上正勝・正之から相伝を受けた野田一渓種信は、寺尾藤次の弟子筋からも学び、技に違いが生じていた志方・村上両師範家の教えから武蔵本来の二天一流を研究し新たな師範家を創設した。
なお、寺尾孫之允の弟子筋の中には細川家の外に二天一流を伝えた者もいる。中でも柴任三左衛門は福岡藩黒田家臣の吉田太郎右衛門に伝え、実連の弟子である立花峯均が武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』を著すなど福岡でも二天一流は盛んに行われた。(福岡藩では二天流と呼ばれた)
熊本における二天一流は、志方系と村上正勝系・正之系、村上家から別れた野田系の四つの新免信盛の流れを伝える師範家に加え、寺尾求馬助の六男の寺尾郷右衛門勝行からの系を伝えているとする楊心流柔術師範家の山東家を加えた五師範家が藩に公認され、幕末まで伝えられた。 現在、野田家と山東家の流れと称するものが各地に伝えられている。  
 
円明流時代の高弟 1 青木城右衛門

 

青木城右衛門
(あおき じょうえもん、生没年不詳) 江戸時代前期の剣術家。別名、青木金家ともいわれ、号は鉄人斎。通称は常右衛門。
河内国に生まれ、剣豪宮本武蔵の門人となり、二刀流を学んだ。 江戸に出て一派を開き、青木流、のちに鉄人流と称した。 江戸において8900余人もの弟子を抱えていたと云われる。  
真の実力
駆け引き上手で腕力にものをいわせた剣で相手を打ち倒す。我々が武蔵という人を思い浮かべる時、どうしてもこのイメージがつきまとう。
このコーナーで何度となくアンチ武蔵派としてご登場願っている直木三十五もこの点を執拗に批判しているが、次の逸話はまた武蔵の別の一面を覗かせるものだ。
養子で小倉藩の家老であった伊織の口利きで小笠原家の客分として仕えていた頃だから、五十代の前半であろう。ある時武蔵の元に、藩内屈指の兵法者・青木条右衛門なる者が自分の技を見てほしいと申し出た。一通り青木の立ち居振る舞いを見た武蔵は、
「貴殿ほどの腕前であれば、どこへ行っても指南できるであろう」
と珍しくベタ褒めした。滅多に他人を賞賛しない武蔵に褒められたのだから、青木もさぞかし気分が良かったであろう。心躍る中帰ろうとした際、その木刀は何かと尋ねられた。見ればそれには、紅の腕貫(木刀を落とさないための、腕に通す紐)がついている。更に褒められるであろうと思ったのかもしれない。青木は、これは諸国を巡って試合を臨まれた時に使うものですと得意気に語った。
次の瞬間、顔色を変えた武蔵はたわけたことを申すなと一喝した。
「わしがどこでも指南できると申したのは、あくまでも子供相手であればという意味じゃ!それを何を勘違いして、試合だなどとたわけたことを!」
ちょうど小笠原家の家臣の家で饗応を受けていた時なので、そばにいたそこの家の小姓を呼び寄せて前髪に飯粒をのせるや太刀を一閃させた。そして指ですくい取った飯粒をよく見よと示した。真っ二つに見事に切られていた。
「わしはこれほどの腕前を持ちながらも、滅多なことでは試合などはせん。ましてや、貴様のような未熟者が命を賭けた試合をしようなどと片腹痛い!」
と更に大喝した。それも二度も三度も実演してみせて言い放ったというのだから、大人げないといえば大人げない。しかし同時にこれは、武蔵が到達した剣の真理というものを実に明快に示した話といえる。
武蔵自身が述懐しているように、その生涯における試合の大半が巌流島の決闘を行った二十八歳までに集約されている。初陣が十三歳の時だから、実に濃密な十五年間を過ごしたことになる。
中には一乗寺下り松の決闘のように己の命を完全に担保にした一種無謀な試合さえも経験している。そのような血煙にまみれた青春期を過ごした身なればこそ、勝つことの難しさをしばしば痛感したであろう。
己が実際に身を置いて何度となく死を覚悟した世界である。それを軽い気持ちで、試合を臨まれたら立ち合うつもりなどと言われたのでは、ふざけるなと激怒もしたかっただろう。
三十歳以降の武蔵が、数えるほどしか試合をしてないのは(少なくとも以前のような殺し合いそのものを行っていない)年齢による腕の衰えだと指摘するむきもある。確かに技術は別にして、若い頃の怖いもの知らずのモチベーションを維持できたかとなるといささか疑問だ。
しかし、命を張った試合はこれ以上は無益だという心境に到達したとするなら、武蔵のこの逸話は納得できる。
無論、武蔵が塚原卜伝、上泉伊勢守信綱、伊藤一刀斎、そして生涯ライバル視したと思われる柳生但馬守宗矩のような悟りの心境にまで達したかとなればこれもまた疑問だ。
実際彼には、その晩年期においても悟りとは無縁と思える人間臭い逸話がいくつもある。もっとも、逆に言えば武蔵が他の剣豪、剣聖と呼ばれた人たちよりも遥かに知名度の高さを保っていったのはどこまでも人間臭かった一面においてではあるまいか。
ただ少なくとも、剣における武蔵はどこまでもストイックで名人と呼ばれるだけの境地に達していたと見てよかろう。  
武蔵伝説 前髪に乗せた飯粒を切る
小笠原家の家臣の島村十左衛門の邸で、武藏は饗応を受けていた。そこに弟子の青木条右衛門が訪ねてきたので、どれくらい上達したか見てやろう、ということになった。その技を見た武藏は「これなら、どこへ行っても指南ができる」と上機嫌だった。青木条右衛門は大いに悦び、その場を退こうとしたところ、武藏が条右衛門の木剣に付いていた赤い袋を見つけて「それは何か」と問うた。条右衛門は「これは、仕合のときのお守りです」と答えた。すると、それまで上機嫌だった武藏は急に怒り出し、条右衛門を怒鳴りつけた。
「先刻、どこへ行っても指南できると申したのは、幼年の者に教えるには良し、と言ったまでのこと。仕合を望む者があれば、早々に立ち去るがよい。そのような未熟な腕では仕合なんぞすべきではない。」
そして、武藏は、島村十左衛門から小姓と飯粒を所望し、その飯粒を小姓の前髪の結び目につけ、小姓に「あれに立っておられよ」と命じた。武藏は太刀を抜くと上段から打ち込み飯粒を真っ二つにした。武藏は三度まで同じことをやってみせ、条右衛門に「どうじゃ、これくらいの腕でも、敵には勝ちがたいものである。汝らが仕合とは以っての他である。」と言った。
人の家で何すんねん。島村十左衛門にしてみれば迷惑な話しである。未熟者に対して、この諭し方は効果はないだろう。これを見て「わぁ、すごい。」と思うだけだ。真似されたら危険である。  
 
円明流時代の高弟 2 石川左京

 

播磨姫路藩道場の稽古
――元和3年(1617)、豊臣と徳川で争った天下を定める最後の戦、大坂夏の陣から2年の歳月がたった。
前年御罷みまかった徳川家康はこの年、東照大権現の神号をうけ、日光に東照宮ができ徳川の天下を脅かす勢力はもはや無くなった。
――播磨・姫路藩剣術道場。
藩主、本多忠政と、客人の仮面の男が見守るなか、日に焼けたざんばら髪の中年の6尺(180cm)はあろうかという大男が、五人の木刀を持った剣士たちに囲まれている。
日に焼けた男は、虎のような眼光を放ち竹刀を構える。
長太刀の青木粂右衛門が、日に焼けた男に対峙する。
「師匠、参りますぞ! 」
師匠と呼ばれた日に焼けた男は静かに頷いた。
転瞬、粂右衛門は、腰に構えた木刀を抜刀し、真横に切り払う。
「甘い! 」
日に焼けた男は、粂右衛門の木刀をかわして、ぐっ、ぐっと間合いを詰めて「えいっ!」と面をたたく。
「粂よ、長太刀は接近戦に不向き、こちらから一歩、間合いを詰めてしまえばこちらのものよ。次、左京参れ! 」
短太刀の石川左京が、木刀を不動の構え。
「待ちの剣か、ならば、こちらから行くまでよ! 」
日に焼けた男は、石川左京へ竹刀を烈火のごとく打ち込む。
じりっ、じりっと、道場の壁際へ追い詰められる右京。
「どうした、左京! 剣を放たぬのか? ならば……」
「参りました! 」日に焼けた男が、石川左京の面打ちを放つと同時に負けを悟った。
「左京の短太刀は、粂右衛門の長太刀とは逆に常に後手を踏む。先手をこちらがとってしまえば他愛もない。その剣は、多勢には通ぜず! 次、与右衛門!」
構えた槍の頭を布で被った竹村与右衛門。弟子の中では、日に焼けた男より年長である。
「ヤーッ! 」
鋭い突きが日に焼けた男に打ち込まれる。
「武蔵殿、刀ではなく槍の攻撃ならばどうさばかれるかな? 」
「まだまだ! 槍の切っ先を、竹刀でさばいた武蔵。力を込めた剛の剣では一打放てば体勢が崩れる。ようは、崩れた腹を狙うまでよ!」
と、武蔵は竹村与右衛門の槍を払って腹をたたく。
「次、伊織! 」
まだ顔に幼さを残す青年剣士、伊織は、左右にステップを踏み武蔵を撹乱する戦法に出た。
「ほう、宍戸梅軒の戦法か、面白い。だが……」
武蔵、伊織へ見せの面うちを放つ。それを防いだ伊織へ抜き胴を放つ。
武蔵の足元へ崩れる伊織。
「妙な足使いは、確かに一度目には相手の意表をついて有効だ。だが、左右、前後へ動くのに体勢を整えねばならず、出足が遅れて先手がとられてしまう。場所の制限がある道場では不自由だ。次、三木之助参れ! 」
武蔵と全く瓜二つの構えの三木之助。
「さすがワシが見込んだ宮本三木之助だ一分の隙もないわ」
宮本三木之助が、じりっ、じりっと武蔵を追い込む。武蔵、ニヤリと、突然、先程の伊織よろしくトトンと真横へ跳ぶ。
キリッと構えを合わせる三木之助。
武蔵、接近し、はたまた離れて、一撃、また、一撃と三木之助へくれる。
見事に受けきる三木之助。
武蔵、じわじわと連続攻撃が早くなる。防ぐのがやっとの三木之助の構えが崩れる。間髪入れず一撃を放つ。
「構えに固執すれば、それを崩して突くまで、我が円明流に死角なし! 」
武蔵が竹刀を下ろしつた刹那。
背面から仮面の剣士が真剣を武蔵へ振り下ろす。
武蔵、背面のままひらりかわして、仮面へ面の一撃!
「奥義、秘伝の必殺の一撃も、当人の剣技が未熟なれば、秘剣に値せず! 」
武蔵、仮面の男へ止めを刺そうとにじり寄る。
「待たれよ!宮本武蔵殿、座興にござる」
主座で、稽古を見守っていた本多忠政が、武蔵へ待ったをかける。
武蔵、
「たとえ座興とはいえ、真剣でこの宮本武蔵へ向かった者はタダではおきませぬ!えい!」
と、竹刀で仮面を割ると若い青年武士が現れた。
直ぐ様、若い武士ひれ伏すように、身をただした。
「感服致しました、宮本武蔵殿。力量を試すためとはいえ、真剣での一太刀失礼致しました。それがし、明石藩主、小笠原忠真にござる」
「して明石藩主の小笠原殿が、宮本武蔵になんのご用か」
上座で見守っていた姫路藩主、本多忠政が、
「武蔵! 若い我家の婿殿が萎縮しておるではないか、それぐらいにしておいてはくれまいか、居並ぶ面前で忠真も恥をかくと腹を召さねばならまいてな」
武蔵、小笠原忠真へ向き直って、
「失礼いたした小笠原殿。この武蔵が未熟で御座った許されよ」
平伏せんばかりの小笠原忠真、
「宮本武蔵殿、いや、武蔵師匠と呼ばせて下され。是非ともそれがしの明石領内にて国造りの一助にお知恵を拝借いたしたい」
「小笠原殿、この武蔵に家来になれと? 」
「忠真、武蔵殿の剣風に惚れ申した。是非とも我藩の剣術指南へお迎えいたしたい」
「ありがたきお言葉なれど、武蔵、いまだ剣術の極みを目指す流浪の身お断り致す」
主座の本多忠政が助け船を出す。
「そう申すな武蔵よ、大名が浪人へ頭を下げる忠真の心を汲んでくれ。なにもお主の剣術の邪魔をいたそうと言うのではない。稽古の合間に忠真へ知恵を貸して欲しいのだ。どうだ、武蔵。明石へ行ってくれんか?」
天下に聞こえた徳川四天王、徳川家康の陣中にこの人ありと謡われた本多平八郎忠勝の血を受け継ぐ徳川きっての譜代大名、本多忠政が武蔵へ頭を下げた。
二人の大名が一介の浪人、武蔵に頭をたれた。
「この武蔵にいかほどの価値があるかは知れぬれど、小笠原殿、本多殿の誠意にこの武蔵の力を存分につこうて下され。武蔵、存分に命をかけましょうぞ」  
宮本武蔵 仕官活動
「我、三十を超えて思いみるに、兵法至極して勝つにはあらず。自ずから道の器用ありて天理を離れざるゆえか、または他流の兵法不足なるところにや。その後、なおも深き道理を得んと、朝夕鍛錬してみれば、自ずから兵法の道にあうこと、我、五十歳の頃なり」
これは『五輪書』の序文の一節ですが、史上に名高い「巌流島の決闘」を終えてからのち、武蔵は、自分の強さについて、深い疑問を抱きはじめたようです。
「確かに、俺はこれまで多くの相手に勝利してきた。しかし、それが本当に”強い”ということなのだろうか。単に、相手が弱かっただけのことではないのか。では、”武”の究極とは、一体どのようなものなのか」
武蔵は、幾度となくそんな自問自答を繰り返したに違いありません。人間的に成長し、絵画や彫刻に打ち込むようになったのも、おそらくこの頃からでしょう。
『二天記』によれば、「巌流島の決闘」の2年後、武蔵は「大坂冬夏の陣」に参戦。浪人であった武蔵は西軍に加わったものと思われますが、敗走したためか、その内容を含め、その後の足跡についてもプツリと途絶えてしまいます。しかし、この頃になると武蔵の剣名も全国に鳴り響いていたようで、第三者的史料に武蔵の名がちらほらと登場するようになります。
それによれば、「大坂の陣」後、武蔵は元和二年(1616)あたりから、姫路十五万石城主・本多美濃守忠政の客分となって、藩士らに剣術を教えていたようです。やがて、忠政の娘婿・小笠原忠真が、明石に移封されて築城することになったため、忠政がこれを援助。武者修行中、築城技術を身につけていた武蔵は、忠政の家臣・石川左京とともに、明石に派遣されることになるのでした。明石に到着した武蔵は、城下町の掘割や町割り、丹堀などの縄張りを手伝い、さらには明石城・三の丸の曲輪を、泉水や築山、樹木、花園、茶亭などで囲み、外から曲輪内部が見えないような工夫を凝らしました。これを見た藩主・小笠原忠真は大いに喜び、「さすがは当主一代の兵法者」と、武蔵を褒め称えたといいます。
その後も、武蔵は十年あまり西国を中心に活動し、おもに流派の拡大と門弟の育成につとめていましたが、寛永二年(1625)、四十二歳になった武蔵は、急遽、江戸城へ招かれます。
姫路城主・本多忠政を通じて知り合った、朱子学者・林羅山の勧めにより、将軍・徳川家光の御前で兵法を試みさせようと、上覧の機会が与えられたのでした。
当然、この機会をうまく運べば、将軍家兵法指南役の地位を得ることができます。
既に徳川家には、柳生新陰流の柳生但馬守宗矩と、小野派一刀流の小野次郎右衛門忠明とが指南役になっていましたが、優れた指南役は何人いても構わないのです。
武蔵にしてみれば、まさに願ってもない好機だったわけですが、いざ江戸城を訪れたものの、武蔵は家光との対面はおろか、上覧の機会も与えられず帰されてしまうのでした。
一体、何があったというのでしょうか
『丹治峰均筆記』(1727)によれば、対面にのぞんで家光は、傍らの柳生宗矩に「武蔵という人物をどう思うか?」と尋ねたといいます。
このとき宗矩は、「はい、兵法は上手でございますが、髪は伸ばし放題、異相の剣客でありまして、将軍家の指南たるべき者ではありません」と答え、この一言により、武蔵が直参になる道は閉ざされてしまうのでした。しかし、わざわざ江戸城に招いておいて、そのまま帰すわけにもいかない。
そこで、老中一同が相談の結果、「武蔵は絵の心得があるというから、一筆描かせてみよう」ということになり、一室をもうけて二曲一双の屏風を差し出すと、武蔵はこれに「日の出に鶴」の絵を描いて立ち去った、というのです。
後に老中が宗矩に、「なぜ宮本殿のお取立てを妨害したのか」と問うと、宗矩は、「武蔵は大坂の陣で、城の浪人軍に加わり、徳川に敵対したものですぞ!」と、答えたともいいます。
『丹治峰均筆記』は、”二天一流”伝承者の話を丹治峰均がまとめたものですが、これは武蔵の死後、80年あまりも時を経てから記されたものなので、真偽のほどはわかりません。しかし、将軍家の指南役ともなれば、やはりそれ相応の身なりや経歴が問われるのは当然のことでしょう。
有名な武蔵の肖像画を見ても、その異様な風貌は、ある程度窺い知ることができます。
目はいわゆる猫眼ともいえるもので、細くつり上がり、瞳は琥珀色。眉間にシワを寄せ、高く隆起した頬骨は、表情にいっそうの険しさと厳めしさを加えています。また、面立ちもさることながら、、平生風呂にも入らず、髪は櫛けずらず、髷も結わぬ総髪で着衣も汚れたまま。そこで汚れが目立たぬよう、普段はビロード両面仕立ての衣服を着ていた。それだけに、身分ある人は彼に近寄らなかった、と『渡辺幸庵対話』にもあります。やはり、人から嫌遠されるだけの要素が武蔵にはあったのでしょう。
失望した武蔵は江戸をあとにすると、今度は江戸で知り合った尾張藩士・大道寺玄蕃を頼って、徳川御三家の一つである、尾張藩に向かいました。寛永四年(1627)、武蔵四十四歳のときのことです。  
 
円明流時代の高弟 3 竹村与右衛門 (竹村頼角)

 

竹村与右衛門 1
1614〜1615年に、徳川家(江戸幕府)と豊臣家との間で行われた合戦「大阪の陣」で、武蔵は徳川側の水野勝成の客将として活躍した。
その後、明石で神道夢想流開祖・夢想権之助と試合を行う。
1624年、尾張藩家老・寺尾直政が円明流(武蔵が興した二刀流の最初の名)の指導を要請すると、武蔵は弟子の竹村与右衛門を推薦し、これがもとで尾張藩に円明流が伝えられ、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆することになる。
竹村与右衛門 2
宮本武蔵の三番目の養子として、竹村与右衛門という者がいました。与右衛門の素性については、さまざまな説があり、晩年の養子で、尾張の徳川家に武蔵に代わって出向いたらしいが、熊本の細川家の家臣だったとか、讃岐(香川県)の生まれだとか、実は武蔵の義兄(?)であるとか、養父同様謎だらけの人物です。
ところで、この与右衛門、武蔵の養子なのに、なぜ宮本姓でないのか? 実は「渡辺幸庵対話」という本によると、武蔵自身が竹村と名乗っていたとある。渡辺幸庵とは、武蔵と同じ天正10年(1582)生まれで、─天正10年誕生説は、宮本家の系図によるが─しかし、武蔵の寿命の倍以上、実に130歳まで生きた超後期高齢者。死の2年前、加賀百万石の前田侯が、家来の杉木三之丞を派遣して、幸庵老人に自分史を語らせたのが、「渡辺幸庵対話」です。「史籍集覧」の16巻(だったかな?)に載っていて、市立図書館レベルなら、置いてあるはずですから、お読みになってください。
「対話」の中で、幸庵老人は、武蔵を「竹村武蔵」と呼んでいますが、これが新免や宮本とは別の、武蔵の使用した苗字なのか?それとも、幸庵の記憶違いかが問題です。たぶん後者だと思うのは、「対話」には武蔵のエピソードのほかに、与右衛門本人に関する記事もあります。たとえば、彼は手裏剣の名人でもあり、川を流れる桃に手裏剣を投げ、種を貫通したという、中に桃太郎がいたら即死という腕前ですが、幸庵はこの与右衛門をよく知っていたのではないか? 人間が130年も生きられるはずはないという常識論を無視するとしても、老人の履歴で怪しいのは、鎖国を無視して、大陸に渡ること40年以上という点です。この年月を差し引いたのが、幸庵の本当の年齢だとすれば、彼は武蔵を知らず、与右衛門の養父という認識しか持っていなかった。それなら、竹村与右衛門の養父だから、竹村姓と思うのは当然でしょう。武蔵の養子といえば、伊織のほかに、三木之助(造酒之助)がいましたが、彼も宮本を名乗っていました。しかし、与右衛門はあくまで竹村姓らしい。養子=義理の親子関係といっても、苗字が同じとは限らない。つまり、家を相続させるための養子ではなかったのでしょう。
以上の話から、確実なことがひとつあります。それは幸庵を訪ねてきた杉木三之丞は宮本武蔵を知らなかった。もし知っていたら、「ご老体、ただいまの竹村武蔵とは、有名な宮本武蔵殿のことではござらぬか?」と尋ねたに決まっているからです。武蔵死後すでに60年以上、しかも武蔵は九州では名士だが、全国的な知名度はいまひとつで、知らないのも無理はないと言うべきか? 杉木三之丞の無知ぶりを笑うべきか? 恐らく前者でありましょう。  
円明流
宮本武蔵玄信が二天一流創始以前に開いた武術流派。二天一流と異なり投剣(脇差や短刀を投げる手裏剣術)などの剣術以外の武術も多岐に含んでいた。幕末まで、尾張藩、岡崎藩、龍野藩などで伝えられた。 鳥取藩で伝承された武蔵円明流と、本項の円明流とは技法や形が大きく異なっていたことが、伝書等の比較で判明している。
尾張藩に伝承された系統
尾張藩での円明流は、武蔵の弟子の青木金家(鉄人)が伝えた系統と、武蔵が寛永元年(1624年)に尾張に立ち寄った際に教え、武蔵が尾張を去った後、養子の竹村頼角(竹村与右衛門)によって伝えられた系統がある。
竹村頼角の系統は、武蔵が尾張を去った後、尾張藩士の寺尾直正が教えを請うたので、武蔵は養子の竹村頼角を尾張藩に推薦したことにより伝わったものである。 林資龍(武蔵にも学んだ)や八田智義が竹村より印可を受けた。また、青木の弟子の山田盛次に学んだ彦坂忠重も竹村に弟子入りした。
八田智義は柳生新陰流で使われている袋竹刀を使って指導したという。これ以降、尾張系の円明流は稽古に袋竹刀を使うようになった。八田より印可を受けた左右田邦俊は門弟千人に及び、尾張藩では円明流が藩の主要な剣術流派の一つになるほど盛んとなった。
左右田邦俊が、武蔵の百回忌の1744年(延享元年)に建立した「新免武蔵守玄信之碑」が、現在も愛知県名古屋市南区の笠覆寺に残っている。
尾張藩の支藩の高須藩には、竹村頼角の弟子の久野角兵衛と左右田邦俊の弟子の菅谷興政の2系統で伝わった。
左右田家は尾張藩の円明流師範家となったが、邦俊の4代後の左右田邦淑が追放となり左右田家は断絶したので、邦淑の弟子の市川長之が円明流を継承し、市川家が円明流師範家となった。市川家は貫流槍術師範家でもあったため、これ以降、市川家では貫流槍術と円明流剣術が併伝されるようになった。
現在、貫流槍術に伝えられている剣術「とのもの太刀」に円明流の技が残っているほか、尾張柳生の一部の道場で市川家の系統の円明流も伝承されている。
これとは別に、宮本武蔵が尾張滞在中に伝えたとされる正統尾張円明流を復元する団体もある。
龍野藩に伝承された系統
龍野藩での円明流は、武蔵が龍野城下の円光寺に滞在した際に教えたことに始まる。この際、円光寺住職の弟の多田頼祐や龍野藩家老の脇坂玄蕃が武蔵より円明流の教えを受け、龍野藩では幕末まで円明流が盛んとなった。
多田頼祐の養子の多田祐久は、頼祐の弟子の三浦延貞より円明流と水野流居合を学んだ後、武蔵の弟子の柴任重矩より二天一流も学び、これを採り入れた多田円明流を開いた。その後、祐久は広島藩に仕官した。祐久が広島藩に仕官したことにより、多田家は広島藩の剣術師範家のひとつとなった。  
高須藩の武芸 −圓明流剣術−   
圓明流剣術とは
圓明流剣術は、剣聖宮本武蔵が起こした二刀流剣術の流派の一つとされている。熊本藩、尾張藩などに伝来し、高須藩には、尾張藩に客分として讃岐から来た竹村与右衛門頼角に学んだ久野角兵衛の系統と竹村与右衛門頼角の孫弟子の左右田邦俊武助邦俊の二系統があった。
高須藩の師範
久野角兵衛
尾張藩円明流居合術師範竹村与右衛門頼角の弟子。尾張藩士角田半平次に円明流の奥義を伝える。天和二年二月廿八日他所より馬廻に召出される。元禄十三年九月久野角兵衛の若党と中間が喧嘩したため近所に迷惑を懸けたとして立退いたが、立退は主の奉公を軽んじた行為として改易された。翌年許され再び前の宛行(三十石)で馬廻に帰番となった。元禄十五年九月廿九日江戸に於いて没す。
左右田武助邦俊
尾張藩士。『武芸旧話』に「円明流左右田武助藤原邦俊は、はじめ九平易重と号し、後武助邦俊と改む。元和元年酉の年、十八歳にて八田九郎右衛門知義に従いて、武蔵流の兵法を学び、貞享年間鈴木主殿組の騎馬同心へ入て、知行高百五十石を賜り、元禄八年三十二歳にて知義より目録をうけ、宝永元年十一月四十一にて印可を請、同七月寅年師範をはじめ、貞享十四年己酉年五月十二日六十六才にて卒す。水哉院直道円入と号。」とある。
高須藩とのかかわりとしては、笠寺にある『新免武蔵玄信碑』に、
「(前略)左右田邦俊少小有志干刀法従知義学之頗臻其妙諸州弟子日満其門忝授其術於高須羽林家往来濃州蒙其眷遇有矣天下以刀法自負者一見其手段無不嘆息敬服實中興之達者也 其子孫門人等傳業不懈是歳延享紀元甲子當新免先生百忌以故門人等相議冩其遺像且建一石以記其事傳之不朽(後略)」 とあって高須に来て藩士に教授したことが知れる。蓬左文庫に左右田易重の著作「兵法忘備譜」がある。
菅谷九右衛門興政
左右田武助邦俊の系統のうち、高須藩士菅谷九右衛門興政が、免許皆伝となっている。菅谷九右衛門は諱興政、通称を初め伝九郎のち九右衛門と言った。宝永五年六月廿日徒に召出され、御勝手目付、徒目付、賄頭、台所頭を歴任する。
『武芸師家旧話』に載る逸話に
「菅谷九右衛門と云は、高須衆也。猪谷流剣術切合を学び、許可を得たり。或時、其叔父左右田邦俊武助邦俊の方へ行て、門弟の稽古を見て、菅谷九右衛門云様、「扨々和らか成り御流なか」と云。武助何共取合ず。九右衛門又云けるは、猪谷流にてもみ付けば、其躰には参るまじと云、武助曰、「和らかにさへあれば、強き敵にはいつにても勝事安し」と云。九右衛門又申様「私も猪谷流の印可を請候者ゆへ、立合見申さん」と云ければ、武助さらば参るべしとて、女竹の短きを二本持て出たり。九右衛門は大木刀にて立合しに、武助円曲つけながら、九右衛門を座敷の縁の下へ追込しかば、九右衛門あやまりながら、今一本と望む。武助又円曲にてゆきしが、九右衛門いかん共仕方なき内に、胸先を蹴られ倒れしかば、其時武助笑て、強き太刀筋かなと云ながら座敷へ上りしに、九右衛門恐れ入て、猪谷流を絶門し、武助の弟子と成、後に免許を請し也。此事、九右衛門が石碑にも書載せ有とぞ」というのがある。なお、この石碑は、高須の昌運寺に現存している。寛保三年二月二日没する。
野村健之進
実名琢、通称健之進。野村逸平治の子。御旗之者台所人定仕埋として召出される。嘉永三年四月二十五日制剛流柔術、圓明流居合術の印可之巻相伝、流儀奥義皆伝のため特に五斗の加増をうけている。同心等に圓明流居合術を指南する。また、第十四代藩主義生の柔術師範を勤めた。明治三年文武館(旧日新堂)において柔術師範を勤める。明治六年西駒野村鴻漸南校の校長を勤める。  
明石城の桜
翌日――。
「養父上ちちうえ、戻りましたぞ」
武蔵と別れた数日で、見違えるほど精悍な若武者になった三木之助が、魔封じの刀、了解りょうかいをたずさえて帰って来た。
「三木之助、姫路では一歩、剣の境地へ踏み込めたようだの? 」
「この三木之助、命のやり取りを潜って、剣禅一如の目が開きもうした」
ウムと眉間へシワをよせ思案顔で頷く武蔵が、
「帰った所を早速だが……」
武蔵は三木之助へ傍へ手招きして密談でもするように額をつき合わせた。
「実はな昨夜、キリシタンのカタリナお純と申す者から訴えがあっての親兄きょうだい裏切りの密告をうけたのだ」
「魔道の者たちはやはりキリシタンでございましたか」
「突然だが、これから4日後の満月の夜、ワシは明石湊沖合いの明石ジョアン全澄てるずみが篭こもる弁財船へ打ち込みをかける。一方で、三木之助! お主は明石城へ夜討ちをかける明石内記から城を衛る大将として小笠原忠真殿と謀はかって城中の精鋭と門弟を引き連れキリシタンの反乱を討伐とうばつするのだ」
麗らかな青年剣士であった三木之助が、姫路へ参って半月で精悍な男になって帰って来たのだ。武蔵は、宮本家の跡継ぎ、果ては姫路藩15万石の世継よつぎ、本多忠刻ほんだただときの付き小性として責任ある家老になる日も来るやも知れぬと考えると、三木之助は、若くはあるが、一軍を率いる大将の目覚ましい器量の成長を遂げる三木之助をおいて他にないと思えた。
「三木之助、此度こたびの大将を任せてもよいな」
武蔵は愛刀、和泉守藤原兼重2尺7寸を了解りょうかいと交換で三木之助へ託した。
「今宵は桜も綺麗だ養親子おやこ、門弟一同に築城中の明石城へ繰り出して戦の前の宴を開こうではないか」
――明石城。
武蔵一党は、言葉へ出さずに、まるで城攻めでもするように侵入経路に成りうる、桜並木の内掘り、表門を潜り城郭を辿って行く。武蔵は三木之助にも伊織にも別段物を言わず静かに辿って行く。
城郭を廻って後背に面した剛の池を埋め尽くす千本桜――。
「武蔵、やって居るか、わたしも宴へ混ぜてくれまいか? 」
と、二人の供連れの網笠の侍が武蔵の宴へ声を掛けた。
武蔵が振り返ると、さっと網笠のつばをあげ顔を見せる。
「これは!? 小笠原の殿では御座らぬか」
「お忍びじゃ、無礼講で席へ混ぜてくれ」
徳川の天下太平の世になって降って湧いたような4日後の戦を前に男たちは気持ちが高ぶっている。
三木之助、伊織、この間の道場破りの傷も癒えた円明流3羽烏さんばからす始め30人に及ぶ一門が桜の大木の下宴をひらく。
青木粂衛門が隣の石川左京へ盃を交わす。
諸肌脱いだ竹村与右衛門は、酔っぱらい、大盃と槍を振るって黒田節だ。
「酒は呑め飲め 呑むならば 日本一ひのもといちのこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の明石節」
竹村与右衛門の黒田節を明石節へ当て変えた心意気に、青年城主の小笠原忠真も酒も呑めないのに呑み干し顔を赤らめて武蔵へ訊ねた。
「武蔵よ、ワシは命のやり取りは真っ平じゃ。たとえ御禁制のキリシタンの反乱だとて、言って聞かせて刀を納めるならば、命は救ってやりたいと思っておる……甘いか? 」
「たとえ心の主が違ったとて人は人、同じ飯も食えば、同じ言葉を話、同じ赤い血を流します。救える命ならば救いましょう」
武蔵の言葉に曇った表情を快晴する小笠原忠真。
「ならば! ……」
小笠原忠真がキリシタン救済の手立てを紡ごうと顔をほころばせた時、武蔵は眉間へシワをよせ首を振る。
「だが、キリシタンの救済はなりませぬ。心の主が違えば、それだけで彼らは、日本ひのもとの教えである聖徳太子の和の精神すら捨て去り、主デウス以外の教えを悪としてすべて捨て去り争います。これは戦国の一向一揆の本願寺の信徒と同じ狂信者です」
「ではワシはどうすればよいのだ? 」
「徳川の太平の世の不安の種、逆らうキリシタンは皆殺ししか御座りますまい」
「それしかないのか? 」
「恐らく団結したキリシタンの多くの者は、信仰を捨て去り、神君徳川家康を拝みますまい。命を掛けて歯向かうのみ」
小笠原忠真は瞑目して、来る日のキリシタンの哀れをしばし祈ってやる。活眼した忠真は、意を決して、
「天下太平のため、我らは鬼になろうぞ! 皆、力を貸してくれるな?」
と、並々と注がれた大盃の酒をグッグと飲み干す。フラッと倒れそうになる忠真の脇を抱え支えたのは、武蔵でも三木之助でもなく、すべてを飲み込んで傍らで見ていた、まだ幼さを残す伊織であった。
後年の話だが、この宮本伊織は、小笠原忠真へ近習として仕官し、弱冠20歳にして藩政を取り仕切る執政となる。だが、それはまた別の話。  
 
宮本武蔵・諸話 1

 

宮本武蔵って強かった? 
剣術の話でなはく、個人の感想ですので、ああ、こういう見方もあるのだなぁ、と、そういう視点でお読みください。講座というよりも、エッセイということになります。
すこし前に直木賞の話をしました。直木賞、正式には直木三十五賞です。
この直木三十五、最初の筆名は直木三十一だったそうです。で、翌年には直木三十二になり、更に翌年直木三十三になり、結局三十五で止まりました。ちょっとシニカルでひねくれたところがあります。
この人の代表作は何なんでしょうか? 有名なものは、無いのではないでしょうか?
強いて言うなら、小説ではないのですが、彼の作品で一番有名なのは、ことによると、「宮本武蔵非名人説」かもしれません。
直木三十五は、宮本武蔵のことを、「あんなやつは、名人でもなんでもない」と痛烈に批判しました。
試合の刻限にわざと遅れてきて、相手をイラつかせ勝ちを取る卑怯な男。自らの売名のためには、幼い子供の命も平気で奪う残忍な男。全く風呂に入らず、それを自慢げに吹聴する不潔な男。さらに自分一度も実戦で二刀を抜いたことないのに、二刀流だなどと自称する男。60回以上も試合をしたと自慢している割には、当時の本当に強い剣豪とは一切戦っていない臆病者。
と、まあ、直木三十五が主張していない項目もあるかもしれませんが、上記のような言い分です。
これに対して菊池寛が反論。そこへ吉川英治も加わって大論争を繰り広げます。
「幕末に、あれほど多くの剣士たちが真剣で斬り合ったにも拘わらず、一人として二刀流の遣い手はいなかったではないか」
「いやいや、それほど武蔵の技術が卓越していたのだ」
と、武術を齧ったことのあるひとなら、失笑してしまうような不毛な論争が続きました。
こんなことで論争するのなら、いっそ菊池寛が二天一流を修行し、直木三十五が『剣聖』とあがめる上泉信綱の「新陰流」を稽古して、ガチで戦えば良かったのですが、この武蔵論争では、そういう方向ではなく、「剣豪とはどういうものか」という論点に準拠しての大論争でした。
やがて、この論争は菊池寛が終局宣言をし、結論の出ぬまま幕を閉じます。
こののち、吉川英治がひとつの答えとして、新聞紙上に『宮本武蔵』の連載を開始し、菊池寛は直木三十五の没後、彼を記念して『直木三十五賞』を提案します。
論争自体は不毛でしたが、名作『宮本武蔵』と日本最大の文学賞『直木賞』を生み出したのだから、意味はあったのかも知れません。
さて、で、宮本武蔵ですが、彼、本当に強かったのでしょうか?
もうひとつ。彼が強くなかったとして、では一体誰が強かったのでしょうか?
よく語られる「昔の剣豪で一番強かったのは誰だ?」という、答えの出ない論争。ここにも関わってきます。
むかし私の職場にいた、格闘技大好きな男子は、『武蔵』と『示現流』を別格に扱っていました。実戦的なイメージがあるのかも知れません。
マンガやアニメ、ゲームでは北辰一刀流が登場することが多いですね。
あと、剣道・剣術系の方たちにとっては、小野派一刀流は一流ブランドです。これを読んでいる人のほとんどが、「は? 小野派一刀流ってなに?」って印象だと思いますが、実は日本を代表する剣術の流派です。
剣豪で最強だったのは誰か?という論争は、結局は現存する流派やその技をみて語ることになります。
しかし、宮本武蔵の強さについて、世間一般の論拠は、かなりいい加減な物になります。
宮本武蔵といえば、日本ではもとより、海外でも最強の剣豪というイメージのある武士です。
二刀流を使い、『五輪書ごりんのしょ』を書き、巌流島で佐々木小次郎と対決して勝った男です。
が、上記三件。歴史的に証明されているものが、ひとつだけだと聞いたら、あなたは驚きますか?
まず、武蔵が実戦で二刀を使ったという記録はひとつもありません。
『五輪書』は確かに書きました。
そして、巌流島での佐々木小次郎との決闘。史実としては、極めて怪しいのです。最大の謎は、佐々木小次郎という人物が実在したかどうか? ここから、宮本武蔵という人間が、「何人かいたのではないか?」という仮説すら生まれてしまいました。
まあ、この辺りのお話は剣術講座から外れてしまいますので、ご紹介だけとしておきます。が、これ以降、宮本武蔵と書かれていたら、『五輪書』の作者ということにしておいてください。それが果たして、どの武蔵なのか?とか、佐々木小次郎と決闘した人なのか?ということは、置いておきます。
宮本武蔵は、謎が多いです。理由はそれだけ研究されているからだと言えるでしょう。シェークスピアと状況は似ています。
そしてそれを極めてややこしくしているのは、芝居や小説の、「虚構の武蔵」です。
宮本武蔵は、生涯に六十余度の試合をしたと自称しています。そして、一度も遅れを取らず、とも語っています。
彼が剣豪というイメージは、江戸時代に芝居の演目となっていたことから、当時から民衆の間にあったものだと言えます。ただし、当時の芝居の武蔵は紅顔の美少年で、親の仇である老人・佐々木小次郎を倒すという仇討ち物でした。
そして、昭和になると、今度は吉川英治の『宮本武蔵』の影響が強くなります。近年なら、それを原作としたコミックの『バガボンド』でしょうか。
いずれも、創作であり、フィクションです。
よって、そこに語られるエピソードは虚構であり、本位田又八もお通さんも架空の人物です、ことによると佐々木小次郎ですら。
ところが逆に、柳生石舟斎、夢想権之介、鐘巻自斎、伊藤一刀斎は実在の人物です。
剣豪というものが、とかくフィクションの影響を受けやすい存在だとしても、武蔵はその傾向が特に強いです。というより、実際の武蔵とフィクションの武蔵が混同され、どちらかというとフィクションの武蔵の方が有名です。
これが、土方歳三ならば、『燃えよ、剣』の土方歳三と史実の土方歳三は別であると、みなさん大人の対応をしてくれるところですが、宮本武蔵に関しては、なぜかそれがない。
ということで、以下に、比較的史実に近い様な気がする武蔵のエビソードを紹介しようかと思います。

武蔵が小倉にいたとき、青木条右衛門という男が尋ねてきて、兵法を見せた。
武蔵は機嫌よく「どこで指南しても恥ずかしくない」と褒めた。
が、ふと見ると、青木がもつ袋の中にある木刀に、赤い腕貫がついている。
「それはなんだ?」と武蔵が問うと、
「これは試合を申し込まれたときに、つかう木刀です」と青木は答えた。
とたんに武蔵は不機嫌になり、
「このたわけ者が。さきほど褒めたのは、子供の指南ならどこに出しても恥ずかしくないと言っただけだ。おまえなんぞは、試合をするべきではない」
そして、児小姓を呼び、その前髪に飯粒をひとつつけ、刀を抜いて上段から斬り下ろし、飯粒のみを両断して、髪は一本も斬らなかったという。
「これくらい出来ても、試合で勝つのは難しい。お前ごときが試合なんぞとは、もっての他である」
と青木を追い返したそうである。

これが宮本武蔵のエピソードとして伝えられている物語です。吉川英治の創作ではないお話なんですが、たぶんほとんどの人が「ん?」と思うことでしょう。
まず木刀の腕貫、いわゆるストラップですね、をつけていてなんで問題があるのか? そして、最初はべた褒めしておいて、急に子供へ指南する程度の腕前と、けちょんけちょんに貶けなすのか?
また、後半の、飯粒だけ斬って、髪の毛は一本も切らないというのは、本当なのか?
疑問ばかりがのこるエピソードです。
木刀の腕貫は、武術をやっている人なら、なんとなく悪い印象を抱く行為であるとは感じると思いますが、果たしてその感覚が江戸時代初期でも通用するのか?
そして、それに対しての武蔵の過剰な反応。
少なくとも、宮本武蔵、人格者ではありません。上泉信綱のような、現代人が話を聞いても感服してしまう高尚な話はできません。
また、武人としての態度も、塚原卜伝のような、現代人すら納得させる明確さがありません。
天才は人格が破綻しているものだと言うのなら、その破綻っぷりは小野忠明に遠く及びません。
中途半端で、嫌味です。
また著書の中では、「自分は風呂に入ったことが無い」とか「女性の色香に惑わされたことが無い」とか、変な自慢ばかりしています。そのうえで「生涯に60回以上の勝負をして、一度も後れを取らず」とか言われても、信じ難いです。
有名な「五輪書ごりんのしょ」では、火の巻で「岩尾の心」というものを説いています。何事にも動じない心です。
でも、もし、女性の色香に惑わされたことのない人間なら、わざわざ岩尾の心なんて記述する必要はないですね。生まれた時から、出来ているはずですから。
「五輪書」に関しては、他の武芸書とはずいぶん記されている内容が違います。
現代人にも明確で、分かりやすく、応用範囲が広いです。これは名著といえます。が、もしかしてここで説かれている技術論は、当時の武芸者は当たり前に分かっていた「常識」だったのではないでしょうか?
宮本武蔵は、なぜそんな、初心者向けともとれる武芸書を残したのでしょう。そして本文中には何度も何度も「よくよく鍛錬すべし」との記述があります。
これは一体誰宛てに記した書物なのでしょうか?
そして、技。
飯粒だけを両断して、髪の毛は一本も切らない。これ本当の話でしょうか?
これについては、私見ですが、本当だと思います。
信じがたいですが、修練を積んだ人間の技術は、ときとして信じがたいレベルまで達するものです。
時代は戦国時代。リアルな侍や野盗が跋扈する時代です。
ファミコン世代の少年たちのゲーム能力が今の視点で見れば驚異的であったのと同じで、当時の少年たちの剣戟の能力は、現代人の想像を超えたものだったでしょう。
畢竟、武蔵の強さは、現代人の想像の埒外であろうと思います。おそらく、私たちの感覚として、「信じられないくらい強かった」のではないかと思います。
ただし、当時の武芸者としては、中の上くらいだったのではないでしょうか? そんなに強くなかったのではないかなー、と勝手に考えています。
つまり、それくらい、当時の武術家たちの技は高レベルで、それはもう私たちの常識からは逸脱した、信じられないくらいの強さだった。そして武蔵は、その中では普通か、すこし上だった。
と、推測するのです。まあ、これは、完全に、私の想像なんですが。  
宮本武蔵に勝った男 
武蔵、敗れたり!
宮本武蔵は、著書「五輪書」(ごりんのしょ)の中で、生涯60数試合に及ぶ真剣勝負で負けたことがないと述べていることでも知られています。
そんな稀代の剣豪に土を付けたと言われているのは、長さ4尺(約120cm)ほどの棒を自在に操る「杖術」(じょうじゅつ)という聞きなれない武術の使い手でした。それが夢想権之助。
のちに日本最大の杖術の流派となる「神道夢想流杖術」(しんとうむそうりゅうじょうじゅつ)を創設した人物です。
杖術の伝書には、このような言葉が記されています。
「突けば槍(やり) 払えば薙刀(なぎなた) 持たば太刀(たち) 杖はかくにも外れざりけり」
すなわち、樫の木でできた棒は、あるときは槍に、またあるときは薙刀に、さらには太刀の役目も果たすなど、使い手の意思によって、様々な武器へと変化するのです。そのため、相手は槍、薙刀、太刀の使い手と勝負をしている感覚に陥るでしょう。
武蔵は2振の日本刀(刀剣)を自在に使いこなす「二刀流」の使い手でしたが、権之助の杖術は、1本の杖をまるで3種類の武器を持っているかのように扱う「三刀流」とも言うべきもの。武蔵の二刀流よりも、さらに上を行っていたのかもしれません。
この戦いについては、引き分けだったという言い伝えもあります。
しかし、武蔵が勝ったという伝承は見当たりません。このことから考えても、権之助と武蔵の試合は、武蔵にとって非常に厳しいものであったということは確かでしょう。
打倒・武蔵への道
権之助にとって、打倒・武蔵は宿願でもありました。
出発点は剣術の試合において、武蔵の前に一敗地にまみれたこと。両者が最初に相まみえたのは、播州・明石。
当時「神道流」を極め、「一の太刀」(いちのたち)の奥義を修得したほどの腕前を誇っていた権之助は、開始当初から積極的に攻め手を繰り出すなど、稀代の剣豪と対峙しても臆するところはありません。
しかし、「二天一流」(にてんいちりゅう:武蔵が完成させた兵法)の防御技「十字留」(じゅうじどめ)の前に、前へ進むことも後ろに退くこともできなくなり、最後は眉間を打たれて敗北するという完敗でした。
「天下一の無法者」これが権之助に対する武蔵の評価でした。
仏教の修行を行なうなど、剣術だけでなく自らの心も鍛えたことで、日本屈指の兵法者となった武蔵。その目に映る権之助には、若く勢いがあり、剣術の技量にも見るべきものはあるものの、心の部分にある弱さが見て取れたのかもしれません。
天下の剣豪に自信を打ち砕かれた若き剣士は、強さを求めて武者修行の旅に出ます。目的はただひとつ、打倒・武蔵。諸国を巡って修行を重ねる権之助の旅は、数年間に及び、ついに「運命の地」へとたどり着きました。
それが「筑前国」(ちくぜんのくに:現在の福岡県)の「宝満山」(ほうまんざん)にある「竈門神社」(かまどじんじゃ)です。
丸木をもって水月を知れ
宝満山で参籠(さんろう:祈願のため、寺社などに一定期間籠ること)して1ヵ月余。
ついに、「そのとき」が訪れます。ある夜、就寝した権之助の夢の中に童子が現れ、こう言ったのです。
「丸木をもって水月を知れ」
この言葉は、丸木(丸い木の棒)で「水月」(すいげつ:みぞおちの周辺)と呼ばれている急所を狙いなさいという啓示でした。
これを受けた権之助は、長さ4尺2寸1分(約128cm)、直径8分(約2.4cm)の直杖を手に、武蔵の十字留を打ち破るべく試行錯誤を繰り返します。そうしてたどり着いた結論が、直杖を槍、薙刀、太刀として変幻自在に操ること。権之助が「武芸百般」(ぶげいひゃっぱん:あらゆる武芸のこと)に通じていたことから、これらの動きを組み合わせて新たな武術を創り出したのです。
杖術のターゲットは剣術ただひとつ。
剣術を含めたあらゆる武術の技術を組み合わせて相手の剣を封じる、まさに剣術殺しの武術でした。その象徴が杖で相手の日本刀(刀剣)の「棟」を滑らせるようにして攻撃を加えたり、日本刀(刀剣)を握る相手の手を打ち付けたりする技術です。
剣術家にとって、このような攻撃を受けることはまさに想定外の事態。権之助自身が剣術の達人でもあり、剣術を使う相手が、どのようなことをされたら嫌なのかを知り尽くしていたからこそ浮かんだ発想だと言えるでしょう。
裏を返せば、このような「裏技」的な物を繰り出してでも武蔵に勝ちたいという、権之助の執念の表れでもあったのです。
杖術の本質
武蔵と「佐々木小次郎」の「巌流島の戦い」(がんりゅうじまのたたかい)においては、武蔵が小次郎を撲殺したと言われていますが、権之助と武蔵の再戦では、両者が負傷するという事態にはならなかったと言われています。
実は、ここにこそ杖術の本質があったのかもしれません。
「痕(きず)付けず人をこらしていましむる、教えは杖の外(ほか)にやはある」
杖術の伝書に記されている言葉にもそれが表れています。
すなわち杖術において目指すところは、真剣勝負であっても相手を殺傷することなく制圧すること。積極的に攻撃を仕掛けるのではなく、相手の出方に自在に対応して技を繰り出す「後の先」(ごのせん)こそが極意なのです。
それは稽古にも表れています。杖術においては、攻撃と防御を組み合わせた形(かた)を反復して習得すること。相手を打ちのめすのではなく、相手の攻撃を防御して対応するための技を磨く点で、杖術は「形武道」(かたぶどう)に分類することができます。変幻自在、多種多様な技を繰り出すという技術面と、人を決して傷付けないという精神面の融合こそが杖術の本質。
そして形稽古は、創始者の夢想権之助以来、受け継がれてきた技を再現するための大切な手段。これを反復継続して身に付けたとき、技術だけでなく相手を傷付けずに勝つという杖術の精神性も継承することができるのです。
現代に受け継がれる杖術
打倒・武蔵という大願を成就した権之助は、そののち、「筑前国」の「黒田藩」(福岡藩)に迎えられ、門外不出の武術として藩士たちに伝承されました。
なかでも重宝された技術が日本刀(刀剣)を手にして暴れている相手を取り押さえる「捕手」(とりて)。相手を傷付けることなく制圧するという杖術の極意はこのような場面でこそ、存在感を発揮していたのです。
このエッセンスはその後、警察官必須の体術である「逮捕術」にも取り入れられ、現代にも脈々と受け継がれています。
現在、杖術はその一部の技術について、「剣道」と融合した「杖道」(じょうどう)に形を変え、「全日本剣道連盟」の傘下で、老若男女を問わず広く普及しています。
他方、権之助を開祖とする神道夢想流杖術についても、「古武道」(こぶどう:明治維新以前から行なわれていた伝統的な武術)として存続。演武などを通して往時の姿を垣間見ることができます。武蔵に勝った男の技と精神は、時代を超え、現代に受け継がれているのです。  
巌流島の真実 宮本武蔵 
「巌流島」は誰でも知っていますが、それが関門海峡にあるとは知らない人も多いでしょう。ましてや、なぜ「巌流島」という名か?その由来などぜんぜん知らない・・・のが一般的でしょうね。
「巌流島」という名前は、武蔵の時代への想像旅行の鍵かもしれないと思うようになりました。今回は、そんなお話を。
私は歴史学者ではなくコンテンツメーカーなので、史料追求は他にお任せして、状況証拠からその時の様子をできるだけ想像してみることにしました。すると、その時の宮本武蔵の辛く悔しい気持ちがありありと感じられたのです。
地元は決闘後、完全に小次郎びいきだった
「巌流」とは小次郎の流派名「岩流」から来ていることは、宮本武蔵に興味のある人ならご存知でしょう。つまり小次郎の名を冠した俗称が「巌流島」で、正式な地名は昔も今も「舟島」なのです。
この決闘、地元は完全に小次郎びいきでした。そうでないと負けた「岩流」の名で島を呼ばないでしょう。例えば、全米オープンテニスで大阪ナオミが勝った会場が、翌日から世間では「セリーナコート」と呼ばれているようなもの!?ですから…
関門海峡は小次郎の地元であり、武蔵にとってはアウェーだったのです。
そして、恐らく地元では「武蔵は卑怯な勝ち方をした」と評判だったと考えられます。
「宮本武蔵は卑怯」の噂が地元で広がっていた
関門時間旅行の取材で、舟島に最も近い下関の彦島地区で古老に聴いた話では、武蔵はズルいという「昔話」が脈々と彦島に伝わっているんだとか。
その話とは、小次郎は約束通り一人で行ったのに、武蔵は弟子を連れ大勢で小次郎をなぶり殺した…という話です。
また、1984年原田夢果史さんの本で知られるようになった「沼田家記」という書物にも、武蔵が弟子を連れて…の話とその後日談が出てきます。大勢の弟子に小次郎を討たせた武蔵を小次郎の弟子が怒って追いかけてきた、それを当時細川藩の支城だった門司城城代(細川藩家老)の沼田延元が保護して大分にいた武蔵の養父の元に鉄砲隊付で護送したという話です。
「沼田家記」の記述は本当か?武蔵は残念な剣豪なのか?
「沼田家記」はその名の通り、沼田家の子孫が先祖を称えた記録で、宮本武蔵のことは客観的に書いてあるのでは…という見方から、この説は注目されるようになります。昨一般の人のブログや研究者でさえ、これを根拠に武蔵は残念な剣豪だったのかも〜などと書いているものが見られます。
でも、果たしてそうでしょうか?
そう書く人は、武蔵の書いた五輪書や独行道などをよく読んだのか、武蔵の描いた絵をちゃんと見たことがあるのか、お聞きしてみたい。
武蔵の性質・信条・癖などを考えれば、小次郎との決闘を大勢の弟子との団体戦で戦うとはとても考えられません。
「沼田家記」は、巌流島の決闘から60年も後に、沼田の子孫が熊本で書いたものです。
門司城に逃れてきた武蔵を保護して・・・は沼田本人の話で沼田家に伝わったかもしれませんが、なぜ逃れてきたかについては、おそらく「当時地元に広がっていた噂話(昔話)」を元に書いたのではないでしょうか。私はそう考えています。
決闘の島が「岩流」の名で呼ばれ、自分が卑怯者扱いなのを武蔵は知っていた
宮本武蔵の息子(養子)の宮本伊織が、武蔵の死後9年目(承応3年|1654年)に小倉の手向山(たむけやま)に建てた巨大石碑には、父宮本武蔵の生涯が記されています。こちらは、武蔵や小次郎が生きていた時代を直接知る人がたくさんいる、しかも地元小倉に建ったもの。
ここに書いてある内容を元に、その後100年以上経って熊本の弟子によって書かれたのが「武公伝」や「二天記」で、さらにそれを元に創作されたのが吉川英治の小説「宮本武蔵」です。つまり小倉碑文はすべての物語の大元なのです。
ここに、巌流島の決闘のことが出てきます。
「岩流という兵法者と勝負して武蔵が勝ち、以降舟島を俗に岩流嶋と呼ぶ」
と、島の呼び名が変わったことがわざわざ書いてあるのです。
考えてみてください。小倉碑文は浮世絵にも観光名所として書かれたほど公共の場所の碑ですから、島の俗名など不要なら書かぬでしょう。つまり、建てられた当時から「岩流島」といったほうが一般の人に分かりやすかったということです。「え、舟島?どこ?あー!巌流島のことね〜」と。
しかもさらに、「両雄同時に相会し」 つまり二人は同時に舟島に来た、ともわざわざ書いてある。
いくら巨大とはいっても限られた石碑のスペースを使ってわざわざ書くんですから、当時広まっていた武蔵は遅れてきたという噂を、息子の伊織がハッキリと否定するために書いたと考えられるのではないでしょうか。
ところでなぜ小倉の山の上にこんな武蔵の顕彰碑が建っているのか?それは、武蔵の息子の宮本伊織が、細川家の次に小倉藩に入った小笠原家の筆頭家老を務めていたからです。そして親の武蔵も伊織について50歳の頃に小倉にやってきます。
なぜ宮本武蔵の息子の伊織が小笠原藩の筆頭家老なのか…長くなるので詳しくは割愛しますが、武蔵が巌流島で勝ったからでは全くありません。伊織を小笠原家に仕官させたのはもちろん武蔵ですが、伊織自身が極めて優秀だったからこそ出世をし、そして幕命によってたまたま小笠原家が小倉に移ることになったのです。
とにかく、あの小次郎との決闘からおよそ20年経って、武蔵は偶然に偶然が重なって再び関門海峡を越えて小倉にやって来ることになった。そこで、あの島が「岩流」の名で呼ばれ、嫌な噂が広がっていることを知ったはずです。
小倉や門司の民、海峡対岸 下関の民は、少し昔に岩流先生を卑怯な方法で倒したあの武蔵が小倉に入った…、どんなひどい奴かとうわさしたのではないでしょうか。宮本武蔵のアウェー感は半端なかったことでしょう。いったいどんな気持ちだったのでしょうか?
悪い噂に折れず、ぶれず、相手にもせず、武蔵が示した最高の回答とは?
宮本武蔵の強さは、自分を信じ抜くメンタルの強さにあります。武蔵の心は折れません。ブレもしません。ただじっと耐え、鍛錬が続く日々。
そこに、江戸時代最後の大きな戦「島原の乱」が起きます。制圧に九州各藩があたり、50歳を越えていた老兵武蔵も小笠原家の前線で活躍したことが知られています。家老・宮本伊織は小笠原軍の侍大将として活躍し、戦後その活躍から20代の筆頭家老へと大出世します。
そして武蔵はその後すぐ、伊織をはじめ家族・友人がたくさんいる小倉を一人離れ、熊本へ細川藩の客分として出向くんですね。そこで二天一流の弟子を育て、最後に五輪書や独行道といった優れた著作を残して亡くなります。
「五輪書」の冒頭は、武蔵が自分の半生を語るところから始まります。そこにいくつか具体的な決闘の記述が見られるものの、「巌流島」のことは一言もありません。伊織の小倉碑文ではあれだけ印象的に書かれた兵法者 岩流との戦いを、武蔵が忘れていたり軽く考えているとは思えず、嫌な思い出なので敢えて書いていないのでしょう。
関門海峡の舟島を「巌流島」と呼び、卑怯なヤツだの残念な剣豪だのといわれる噂を無視しながら、宮本武蔵が残した最高の回答が「五輪書」であり「独行道」なのではないでしょうか。そして「仰天実相円満兵法逝去不絶」という最後の言葉です。
誰がなんと言おうと、大した肩書きが無くとも、大した俸禄でなくとも、自分の人生に対する自信と満足感に溢れています。
そして特筆すべきは、そんなある意味「自分勝手」「空気読まず」「アウトロー」な宮本武蔵が、家族にも弟子にも大いに愛されたこと。宮本武蔵の生涯、知れば知るほど心揺さぶられる人でありました。  
宮本武蔵の巌流島の決闘、最後は集団リンチに終わった? 
剣豪同士の決闘として名高い「巌流島の決闘」といえば、宮本武蔵と佐々木小次郎が一対一で相対している場面を思い浮かべることだろう。ところが実際には、勝利した宮本武蔵側が、卑怯な手段で佐々木小次郎を絶命させていたという。『ざんねんな日本史』(小学館新書)を上梓した歴史作家の島崎晋氏が、その知られざる顔を紹介する。
巌流島は、関門海峡に浮かぶ小さな無人島でありながら、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行なった場所として知られている。
宮本武蔵は生涯に六〇余度の立ち合いをしながら、一度も負けたことのない天才武芸者。対する佐々木小次郎は豊前国小倉で兵法と剣術を教えていた人物で、長い大太刀を愛用した。
一般に流布する話では、武蔵は小次郎から平常心を奪おうと約束の時間よりかなり遅れて登場し、武器には舟の櫓を削った、小次郎の大太刀より長い木刀を用い、わずか一撃で小次郎を絶命させた、という。
だが、これには後世の創作がかなり入っており、武蔵の養子となった宮本伊織が残した文書には、武蔵は遅刻などしておらず、巌流島には小次郎と同時刻に到着したと記されている。
さらに注目すべきは、小倉藩の家老で門司城代(城主の代理)でもあった沼田延元の家人が著わした『沼田家記』という記録である。
これによれば、小次郎は一対一の勝負という約定を守り、単身で来ていたが、武蔵の側では数人の弟子がひそかに島に渡り、物陰から決闘の様子を注視していた。武蔵は小次郎の命まで奪いはしなかったが、武蔵の弟子たちは蘇生した小次郎にわっと襲いかかり、とどめを刺した。それを知った小次郎の弟子たちが仇を討とうと大挙して島へ渡ったところ、武蔵は門司城に逃げ込み、沼田延元に身柄の保護を求めて助かったという。
剣豪同士の決闘が、最後は集団リンチに終わってしまったというのだが、果たして真相や如何に。  
宮本武蔵の庭 本松寺庭園 
日蓮宗本松寺 兵庫県明石市
庭園様式 枯池式枯山水庭園
作庭時代 江戸時代前期(伝宮本武蔵作庭)
人丸山の西坂を登っていくと右手に日蓮宗「法栄山本松寺」、続いて鎮守「妙見宮」がある。本松寺は又の名を「谷の妙見」「萩の寺」とも呼ばれ正面に古びた石階段、巨石の御首題碑、山門と続く。本道を正面に番神堂、納骨堂(もと鐘楼堂)、庫裏が並ぶ。
本松寺は慶長元年(1596)に豊臣秀吉の家臣藤井与次兵衛(新右衛門)勝介が林崎の船上城下に建立した。当初は「本正寺」といい、審理院日甫聖人である。慶安四年(1651)の松平忠国(明石藩主)の国印状には、「本正寺」に八石六斗と畑一反二畝を贈ったとあり、貞享三年(1686)には松平直明が「本松寺」に同高を贈った記録もあり、この頃寺名が変わったようである。
元和三年(1617)小笠原忠政が信州松本から明石に移封され、現明石城の築城、それに伴い、町の中心も明石川以東へ移った。当山も有力な檀徒の尽力により、元禄四年(1691)に現在の地に移転した。この地はかつて全久山東長寺跡で、その後三乗寺、更に清水寺が入り、移転当時は空き寺になっていた。古文書に「大蔵谷の分、空寺・・・・・」とあり、今も東の谷を東長寺谷といわれるのはその名残である。
庭園は本堂を背に庫裏書院に面した枯池式枯山水庭園である。もと離れ座敷が西方にあり、庭は書院や離れ座敷を視点にした作庭である。
浅い枯池を穿ち、軽い築山を東西二箇所に築いている。そして谷を渓谷にして枯流れとし、切石橋が架かる。また二つの築山には、それぞれ大小の二つの枯滝を大滝・小滝として組み、大滝には水分石を池中に据えている。池泉は瓢箪型で、降雨の時のみ水が溜まるという枯池である。手前に出島があるが、亀出島である。護岸は池が浅いために一段の護岸石組を組んでいる。石橋は自然石が架かるがもとは櫟の橋であった。 全体的に見て、石組は小振りであるが、平面構成を重視し、視点による変化をもたせたまとまりの良い作庭といえる。
作者は、宮本武蔵と伝えられている。他に武蔵作庭と伝わるのは、旧明石藩下にある福聚院、円珠院、雲晴寺・明石公園で、そのうち福聚院・円珠院には、本庭と池泉の形、大小二滝からなることなど共通する所が多く、同じ作者の可能性が高い。 雲晴寺は平成十六年の本堂再建築の再に、庭園跡が出土し、移築中である。また、明石公園は位置は変わったが平成十五年復元された。
武蔵は、元和四年築城の始まった明石に来て小笠原家の客分となる。この時に、明石城下の町割りとともに樹木屋敷の作庭をしたことは文献上間違いなく、同時に寺院の作庭にも当った可能性は高く、そうした面からも貴重な一庭と考えられる。  
 
宮本武蔵・諸話 2

 

1
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
2
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
3
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
4
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
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塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
6
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
7
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
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柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
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柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
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丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
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本多氏は、藤原氏北家兼通流を称する三河の土豪で徳川(松平)最古参の「安祥七譜代」(酒井・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村)に数えられる。江戸時代には大名13家・旗本45家を輩出し葵紋の使用を唯一許される譜代屈指の大族となった。6系統のうち本多正信・正純(弥八郎家)が初期幕政を牛耳ったが宇都宮城釣天井事件で没落、家康に遠ざけられた本多忠勝の子孫(平八郎家)が最も繁栄し本多宗家と目された。松平清康・広忠に仕えた本多忠高は、嫡子忠勝出生の翌年織田信秀との合戦で戦死し(今川軍は三河安祥城を攻略し織田信広を確保、人質交換で織田から家康を奪回)、忠勝は叔父の本多忠真に養育された(忠真は三方ヶ原の戦いで戦死)。少年期より家康に仕えた本多忠勝は、12歳の初陣以来武功を重ね武田信玄・豊臣秀吉も羨む勇将となり、関ヶ原勝利に伴い徳川家臣では井伊直政(家康の養女婿)の近江佐和山藩18万石に次ぐ伊勢桑名藩10万石および上総大多喜藩5万石を獲得、本多宗家の家督と桑名藩は嫡子忠政に・大多喜藩は次男忠朝に継がせた。長女小松姫を嫁がせた真田信之は、関ヶ原の戦いで真田昌幸・幸村(父・弟)と喧嘩別れして徳川に与し昌幸領に3万石を加増され信濃上田藩9万5千石を立藩(後に松代藩13万石へ移封)、舅の本多忠勝は昌幸・幸村の助命嘆願を周旋した。次女は武田勝頼の猛攻から長篠城を守った奥平信昌の嫡子家昌に嫁がせている。本多忠政は嫡子忠刻が千姫(徳川秀忠の娘)を娶り逆玉の輿で播磨姫路藩15万石へ栄転、忠刻早世のため次男政朝が本家を継ぎ、分家した三男忠義は陸奥白河藩12万石に封じられた。本多忠勝の子孫は忠政・忠朝の両系統から6大名家を輩出したが零細化し幕末には本家の三河岡崎藩5万石と播磨山崎藩1万石のみとなった。
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細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。 
 
 
 
■佐々木小次郎

 

    ? - 1612
佐々木小次郎 1

 

( ? - 慶長17年(1612)) 安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。剣号として岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)を名乗ったと言われる。ただし、名前については不明な点が多い。宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。
伝承における生涯
出身については、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説がある他、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)と記されており、秘剣「燕返し」は福井にある一乗滝で身につけたとされている。生年は天正もしくは永禄年間とされる。
中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。初め、安芸国の毛利氏に仕える。武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「岩流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。
1612年(慶長17年)、宮本武蔵と九州小倉の「舟島」で決闘に敗れ死んだ。当時の年齢は、武蔵は29歳。小次郎は出生年が不明のため定かではないが、武蔵よりも40歳程年上だったといわれている。
「巖流島の決闘」
武蔵と決闘した「舟島」は「巖流島」と名を変えられ、この勝負はのちに「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった。吉川英治の小説『宮本武蔵』では、「武蔵が決闘にわざと遅れた」となっているが、これは『武公伝』に材を採った吉川の創作である。
武蔵の養子である宮本伊織が、武蔵の死後9年目に建立した小倉の顕彰碑「小倉碑文」(1654年)によると、「岩流」は「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刃の一撃」でこれを倒したとある。このときの武蔵の必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」と表現されている。また碑文には「両雄同時に相会し」とあり、武蔵は遅刻していない。
ただし、豊前国の細川家小倉藩家老、門司城代の沼田延元の家人が記した沼田延元の生誕から死去までを記した一代記である『沼田家記』(1672年完成)によると、武蔵は「小次郎」なる岩流の使い手との決闘の際、一対一の約束に反して弟子四人を引き連れ巌流島に渡り、決闘では武蔵は小次郎を仕留めることができず、小次郎はしばらく後に息を吹き返し、その後武蔵の弟子らに撲殺されたとある。小次郎の弟子らは決闘の真相を知り、反感を抱いて武蔵を襲撃するが、武蔵は門司城に逃げ込み、城代沼田の助けにより武蔵は無事落ち延びたとあり、武蔵をかくまったという沼田延元の美談の一つとして武蔵のエピソードが紹介されている。決闘に至った理由も、弟子らが互いの師の優劣で揉めたことが発端と記されており、門人らの争いが一連の騒動を引き起こしたとされている。
関係者がすべて死去した後に書かれた武蔵の伝記『二天記』(1776年)の本文では「岩流小次郎」、注釈では「佐々木小次郎」という名になっており、この決闘で刃長3尺余(約1メートル)の野太刀「備前長光(びぜんながみつ)」を使用、武蔵は滞在先の問屋で貰った艫を削った大きめの木刀を使い、これを破ったとある。
熊沢淡庵の『武将感状記』では、武蔵は細川忠利に仕えて京から小倉に赴く途中で「岸流」もしくは「岩流」(併記)から挑戦を受け、下関での決闘を約したとなっている。こちらでは、武蔵は乗っていた船の棹師からもらった櫂を二つに割り、手許を削って二尺五寸の長い木刀と、一尺八寸の短い木刀を拵えたとある。
古川古松軒の『西遊雑記』(1783年)では、一対一の約束を「宮本武蔵の介」が破って門人数人を連れて舟島に渡ったのを見た浦人たちが「佐々木岩龍」もしくは「岸龍」をとどめたが、「武士が約束を破るは恥辱」とこれに一人で挑む。しかし武蔵には4人の門人が加勢していて、ついに岩龍は討たれてしまう。浦人たちは岩龍の義心に感じてこの舟島に墓を作り冥福を祈り、それ以来ここを「岩龍島」と呼ぶようになった、とある。
なお、決闘で使用した剣は、『江海風帆草』(1704年)では「青江」、『本朝武芸小伝』(1714年)では「物干ざほ(ざお)」(自ら名付けたものと書かれる)とされ、大抵は「三尺」「三尺余」と説明される。
姓名について
「小倉碑文」には、小次郎の名は「岩流(巖流)」としか書かれておらず、前述の『沼田家記』には「小次郎」(初出)とのみ書かれるなど、文献によって姓名にばらつきがある。「佐々木小次郎」が揃うのは、武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』の注釈(本文では「岩流小次郎」で、名乗りなのか剣号なのか不明)である。より古い史料には佐々木姓は見られず、『二天記』が準拠した『武公伝』(1755年)では「巌流小次良」「巌流小次郎」となっている。
魚住孝至は『宮本武蔵』で、佐々木姓は『二天記』の40年前、1737年に上演された狂言の『敵討巖流島』に登場する「佐々木巖流」から名を採ったものであろうと推察している。なお、1746年上演の浄瑠璃『花筏巌流島』には「佐々木巌流」、1774年の浄瑠璃『花襷会稽褐布染』には「佐崎巌流」が登場するなど、『二天記』が書かれる頃には「ささき」姓が広まっていた。
姓は佐々木の他に『丹治峯均筆記』(1727年)では「津田」と記され、黒田藩の重臣である小河家の文書には「渡辺」と記されている。また、『江海風帆草』の「上田宗入」、『岩流剣術秘書』の「多田市郎」など、「佐々木」でも「小次郎」でもない姓名も知られている。
没年齢について
死没日を慶長17年4月13日とする通説は、『二天記』における決闘の日付に基づいている。『二天記』には巖流島での決闘時の年齢は18歳であったと記されているが、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはなく、巖流が18歳で流派を立てたという記述を書き改めたものらしい。また生前の勢源と出会うには、決闘時に最低でも50歳以上、直弟子であれば相当の老人と考えられ、「七」の誤記ではないかとも言われている。鐘捲自斎の弟子であったとすればそれほどの老齢ではないにせよ、宮本武蔵よりは年長であった可能性が高い。70歳をすでに越えていたという説もある。
小次郎にまつわる名所
九州小倉の浜辺には、1950年に村上元三の『佐々木小次郎』が完成した記念に「小次郎の碑」が建てられている。
吉川英治の小説『宮本武蔵』では、現山口県の「錦帯橋」を、小次郎が「燕返し」を編み出した場所としている。実際にはこの橋は「巖流島の決闘」の60年後に作られたもので、その「燕返し」は「虎切」と呼ばれる剣法の型であり、すべて吉川の創作である。
1956年の東宝映画『宮本武蔵完結編 決闘巖流島』では、稲垣浩監督は静岡県南伊豆の今井浜にコンクリートの岩を仮設して「巖流島の決闘」を撮った。この人造岩は観光課の要望でそのまま残され、その後観光地となっていた。
山口県岩国市の「吉香公園」や、福井県の「一乗滝」には小次郎の銅像、山口県阿武町大字福田には小次郎のものと伝承される墓がある。  
 
佐々木小次郎 2

 

安土桃山時代から江戸時代に実在したんじゃないかな?と思われている剣豪である。生没年不明(生没年不詳)であり、講談では巌流島の決闘で敗北し落命したことが有名であるがそもそも宮本武蔵の生涯そのものが講談の影響もあって色々と演出されており、真相は不明である。
一般的な講談、小説での佐々木小次郎
中条流の遣い手で、若年ながら天才的な美剣士。のちに自らの流派を「巌流」と命名した。空を飛ぶ燕を三尺の刀身の大太刀(長刀)で斬り落とす業を得意として「燕返し」と命名。江戸時代に細川家立会いの元、後の大剣豪宮本武蔵と天下一の座を賭けた決闘を舟島で行う。
ところが武蔵さんは時間にルーズであり約束の時刻になっても現れない。ずーっと待って待ってイライラしてしまった為に平常心を無くした小次郎さんは、武蔵が現れるやいなや背負った大太刀を抜いてその鞘を投げ捨てる。その様子を見た武蔵は「小次郎敗れたり!」と叫ぶ。武蔵の屁理屈としては勝つ積りならば帰る時に太刀を納める鞘が必要。それを捨てたのは勝つ積りが無いからだ。ということであった。
常識的に考えてあとで拾うに決まってるのだが、短気な小次郎はカッカしてしまい本来の技量が出せなくなった。 SNKのゲームでいうならば挑発で気力ゲージが減少して秘剣燕返しの威力が減少した状態である。
此れに対し、武蔵は「やっぱり剣はリーチだよねー!♪」とばかりに、船の櫂をけずってトンでもなく長い木刀を持参。ジリジリとお互いに間合いを計って勝負は一閃。
太陽を背にして武蔵は跳びあがり小次郎の目を眩ませる。対して小次郎は海に足を踏み入れ袴を濡らし、機動力を失った状態で此れを迎え討つ。
小次郎は燕返しで武蔵の鉢巻を切り落すも致命傷を与えることは出来ずに、武蔵の櫂の長木刀を眉間に受けて倒れる。暫く倒れたままの小次郎であったが、半身を起こしライフゲージ1ドットで最後の超必殺技の真燕返し?逆袈裟斬りを繰り出すも一寸の見切りで武蔵は此れを避わし、小次郎に非情のダウン攻撃。
巌流 佐々木小次郎は落命する。周辺住民は小次郎を哀れみ、以後、舟島を巌流島と呼ぶこととなった。また、武蔵はこれに懲りたのか、以後、命を賭けた真剣勝負を辞める(でも出世したいから合戦には出陣している)。
歴史学上の佐々木小次郎とは?
明確な情報はなにも無いのが実情である。
伝承の一つによれば小次郎は身長175cm程の巨漢であり、別段、美青年ではなかったともいう。
剣の腕前についても不明。小次郎が修行したのは中条流、ないし漫画喧嘩商売で有名な富田流であるという。師匠は鐘捲自斎(鐘巻自斎)という弟子の伊藤一刀斎に負けたある意味悲劇の剣豪説と(漫画バガボンドはこの説を採用)富田流開祖の富田勢源の二説が主流である。ちなみに富田勢源は室町時代〜戦国時代の剣豪であり、もし小次郎が彼の弟子であるならば、巌流島の時点で若くても60歳前後ということとなる。
陸軍戸山学校で軍刀剣術師範をしその後、抜刀道という武道で実際に日本刀で物を斬ることに拘った剣士、中村泰三郎は著書の中で「武蔵が長い木刀を櫂を削って作ったことは不自然」と指摘しつつ、「巌流島での決闘時 小次郎の年齢は70歳と言い切っている」が、こっちは本当に何の根拠もない。戦時中に朝鮮人捕虜を43人斬首したという鬼のような剣士だったというのでご神託でもあったのかもしれない・・。
どうでもいいが、ビートたけしは昔、巌流島の決闘の詳細が不明なことをネタに「夜中に小次郎達が穴掘っていたら、何かにぶつかって見たら隣りで武蔵も弟子と一緒に穴掘っていたりしてなぁ〜」と罠(落とし穴)の仕掛け合いを笑い話にしていた。実際、兵法家というのはそういうものである。
何故 大太刀(長刀)の遣い手なのか?
どの話においても、小次郎は一貫して大太刀の遣い手だったと語り継がれている。
上記の勢源が師匠だった説の付属として、当時戦闘の主流であった槍や薙刀、大太刀などのロングリーチの武器を制する目的で、勢源が修練する小太刀術の稽古相手に高弟の小次郎が選ばれ、勢源と組太刀をしている内に大太刀術が得意となった…というものがある。が、まともに戦ったばあい長物相手に小太刀で勝つのはほぼ不可能であり、勢源がその程度の事を知らなかったはずはないので、相当に無理がある。
まあ中条流は小太刀術のみの流派ではないので(当然だが小太刀しか使えない武芸者など使い物にならない)、小次郎が勢源門下であろうがなかろうが、大太刀の遣い手だった可能性はあるだろう。
後に、武家諸法度が江戸幕府によって制定され、武士が帯刀する刀は二尺三寸五分までとなり、小次郎のような大太刀を持ち歩くのは違法となった。といっても農民所有の槍や長刀が大量に現存しているため、抜け道はかなりあったようだ。
現在の人気作品での佐々木小次郎
漫画『バガボンド』の佐々木小次郎は聾唖という斬新な設定が採用され「あ〜」「うー」「あうあ〜」といった『サザエさん』のイクラちゃん並みの台詞しか喋れないが、天才美青年剣士という従来のお約束は守られている。どうでもいいが、作者の井上雄彦は小次郎が武蔵に負けたら本作を終わりにすると明言している。何か勘違いしていないか?
Fateシリーズではよりお約束の天才美青年剣士でキザという性格で登場する。しかし実際は「佐々木小次郎ってこんな人でしょ?」みたいな人々の精神が引き寄せた、江戸時代の無名の剣士である。他の英霊と違って魔力も何もない日本刀しか持っていないのだが、剣技はセイバーよりも上であり、修行によって魔法の域まで高められた「次元空間を無視した三つの太刀筋を同時に繰り出す秘剣燕返しを宝具として操る最強のKYとして存在していた。おまけにアニメ版以降では、中の人が大方の予想と期待と微かな恐れ通りに、ロケット団になる。MAD制作はほどほどにね。
戦国無双シリーズでは、2作目に武蔵が登場したのを受け、シナリオに絡むNPCとして参戦を果たした。NPCながら、武蔵のシナリオの専用ムービーでの活躍と出番はかなりのもので、多分、武蔵よりインパクトが強かった。っていうか、巌流島の決闘がムービー処理だ! その後、エンパイアーズではゲームシステムの都合もあって操作可能に。しかし、この時点ではモーションは他のキャラクターのものを流用してつぎはぎしたもので済まされてしまった。ガニマタそして日本刀らしくない剣の振り と、ここまでインパクトの割りに微妙な扱いだった小次郎だったが、2の拡張ソフト猛将伝で遂に固有のモーションを引っ提げてPC化を果たす。それまでの鬱憤を晴らすかのように、長めのリーチ、早めの攻撃速度、そこそこの攻撃力、使い勝手のいい固有技、近距離から中距離まで敵をハメられる無双奥義、と突出こそしてはいないものの、高水準で纏まったキャラクター性能を発揮。ぶっちゃけ、武蔵より使い勝手はいいと思う。……だが、3では武蔵共々リストラ。出番なしとなったのであった。やはり、天下獲りに剣豪風情が入り込む余地はないのか!? 巫女さんとか魔法少女はいるけどね。  
 
佐々木小次郎の人物像 3

 

宮本武蔵と佐々木小次郎。恐らく、この二人の名を知らないという方はそれほど多くないでしょう。江戸時代初期の伝説的な剣豪として名を馳せた二人は巌流島で果たし合い、宮本武蔵の勝利で戦いの幕は閉じたと伝わっています。
上記の伝説から、一般的には「グッドルーザー」として名を残している小次郎ですが、その生涯についてはとにかく謎が多いことでも知られています。さらに、生涯に謎が多いどころか、小次郎の実在に関しても確たる証拠は残されていないのです。そこで、この記事では小次郎の生涯を検証するとともに「実在の人物か否か」という点に関しても考えていきたいと思います。
出身地や家系も諸説あり定かではない
まず、小次郎の出自に関してはハッキリしたことが分かっておらず、様々な説が乱立する状態となっています。
豊前国(現在の福岡県)の豪族佐々木氏の生まれであるため佐々木姓を名乗っているという説。
越前国(現在の福井県)に生まれて一乗谷のほど近くで「燕返し」の修行を行なったという説。
周防国(現在の山口県)岩国に生まれたという説などが存在します。
残念ながらこれらの説を決定づける証拠が見つかっていないので出自を確定させることはできませんが、どの説にも共通しているのは「剣豪として諸国を歴遊した」という点です。幼少より剣を好んだという小次郎は、中条流という流派の富田勢源という人物、もしくは勢源の弟子鐘捲自斎(かねまきじさい)に剣を習ったとされ、そこで得た剣術をベースに諸国を回る中で秘剣・燕返しを会得したというのが通説になっています。ただ、宮本武蔵と出会うまでの生涯はほとんどが謎に包まれているため、小次郎の実在が疑われるのも納得といったところです。
毛利家や細川家に仕えて剣術を指南した?
秘剣を大成させた小次郎は、「三本の矢」でよく知られる毛利家に仕えていたと伝わっています。しかし、戦国が終わるころには何らかの事情で毛利家を離れ、再び諸国歴遊の旅に出たということです。
その後、小倉藩の細川忠興に見出されたことで剣術指南役として過ごすことになります。しかし、毛利家や細川家に伝わる信ぴょう性の高い史料上には小次郎の名が登場せず、ここでも小次郎の実在を証明することはできません。史実かどうかはともかく小次郎が小倉藩で剣術指南をしていると、当時60代の彼に挑戦を申し出る若者が現れます。若者の名は宮本武蔵であり、生涯において無敗を誇る若き剣豪として知られていました。
巌流島で宮本武蔵に敗れ、命を落とす
巌流島の戦いが勃発したのは慶長17年(1612年)とされ、言い伝えによれば実に30歳近く歳の離れた剣豪二人が果たしあったということになります。なお、巌流島の様子を伝える石碑に記載されている内容から「宮本武蔵が遅刻して小次郎の精神を乱した」というのは後世の後付けと考えられています。小次郎は長尺の剣を使いこなす個性派として知られており、その丈は実に3尺(90p前後)と伝わっています。一方、宮本武蔵は木刀を使用したと記録されており、剣術家としてもタイプの異なる二人が相対したことになります。
戦いそのものは、宮本武蔵による「雷光すらも遅く見えるような」一撃によって早々に決着がついたとされており、小次郎は即死したというのが言い伝えです。こうして小次郎を打倒した宮本武蔵は剣豪として名を轟かせ、剣術の指南や剣術書の執筆で活躍していきました。また、剣術だけでなく芸術面でも才覚を発揮し、いくつかの水彩画が現代まで伝わっています。
結局、佐々木小次郎の名前はどうして広まったのか
ここまでの生涯を整理していくと小次郎の生涯はほとんど全てが謎に包まれており、現代に残されている史料からは実在を証明することさえできません。しかし、そういった現状にもかかわらず小次郎の名は日本人に深く浸透しており、宮本武蔵ほどではないにせよ一定の人気を得ています。
この理由としては、まず第一に「宮本武蔵とその弟子による宣伝」が大きく影響していると考えられます。宮本武蔵に関しては実在が確認できるので、彼が自身の功績を世に広めるために「佐々木小次郎」という架空の剣豪を作り出したという見方もできます。実際、宮本武蔵やその弟子たちは巌流島の出来事を様々な書物や石碑に書き残しており、剣豪宮本武蔵にとって一種の「セルフプロデュース」であった可能性は決して低くありません。この仮説が真実かどうかは分かりませんが、宮本武蔵の名とともに広まっていった小次郎という存在は、しだいに創作物の中で存在感を発揮していきます。
ちなみに、現代で小次郎が著名になる大きなキッカケとして考えられているのが、大人気歴史小説家の吉川英治が昭和初期に執筆した『宮本武蔵』という小説です。この小説は戦前・戦後を通じて人気を博し、我々がよく知る宮本武蔵や佐々木小次郎のイメージを確立させたと考えられています。 
 
佐々木小次郎の生誕 豊前添田説 4

 

宮本武蔵との「巌流島の決闘」で知られる佐々木小次郎。近年、あの小次郎が実はここ豊前添田の出身であった! という説がクローズアップされています。佐々木小次郎という歴史的剣豪の足跡を辿りながら、添田町の知られざる歴史の真実に迫ります。 ( 福岡県田川郡添田町大字添田 )
時は慶長年間。細川藩小倉時代に、小次郎が「剣術師範」として重用されていた?!
剣豪・佐々木小次郎といえば、歴史ファンや“レキジョ”ならずとも、老若男女にあまねく知られた存在。宮本武蔵との巌流島の決闘(1612年)は特に有名で、映画やテレビの時代劇にもしばしば登場しています。「越前出身だ」「いや長州岩国だ」と、諸説飛び交う小次郎の出身地論争に大きな一石を投じたのも、実はこうしたテレビドラマの1本。平成15年のNHK大河ドラマ「宮本武蔵」において、佐々木小次郎豊前添田出身説が放映されたのです。このドラマに大きな衝撃を受けたのが、添田町文化財専門委員長を務める梶谷敏明さん。「長年、添田町の郷土史を勉強してきた私にとっても、この説は驚くべき発見でした。放映後、私は各地の史料にあたり、小次郎が細川藩小倉時代に剣術師範として重用されていたことをはじめ、豊前・豊後・筑前で活躍していたという多くの記述を発見。“小次郎は添田出身である”と自信をもって主張できるようになりました」。梶谷さんはこうした検証結果を「彦山・岩石城と佐々木小次郎」と題した書籍にまとめ、講演活動も精力的に行っています。さて、小次郎添田出身を匂わせる膨大な史料の中でも、梶谷さんが特に注目したのが「沼田家記」。細川藩家老で門司城代であった沼田延元が残した記録を、子孫が寛文12年(1672年)にまとめたものです。そこには、あの巌流島の決闘にまつわる驚くべき記述がありました。
小次郎の命を奪ったのは、宮本武蔵ではなかった?!
「小次郎、敗れたり!」というセリフの後、武蔵に斬られた小次郎が波打ち際で絶命…巌流島の決闘といえば、時代劇でおなじみのあのシーンを思い出す人も多いでしょう。ところが驚くなかれ、小次郎を死に至らしめたのは、実は武蔵以外の人物だった!と、「沼田家記」に記されているのです。梶谷さんの解説を聞きましょう。「沼田家記によれば、試合前の取り決めで双方共に弟子は一人も連れてこないことになっていたのに、約束どおり弟子は一人もこなかった小次郎側に対して、武蔵の弟子たちは来て隠れていた。そして試合後、小次郎は蘇生したが、武蔵の弟子達が集まって撲殺してしまった… まさに驚くべき記述です」注目すべきは、試合後に沼田延元が武蔵を、鉄砲隊の護衛までつけて豊後まで送ったという記述です。武蔵は当時、義父である宮本無二之助が逗留していた豊前に来て、延元が城代を務めていた門司で二刀兵法の師範となっていました。一方、小次郎は小倉藩の剣術師範という要職にありました。その小次郎が非業の死を遂げた!報せを聞いた佐々木門下生たちが武蔵討伐に動き出した矢先、延元がいち早く武蔵を逃がした、というわけです。「この延元の武蔵に対する取扱いは明らかに不自然。当時の細川藩に何らかの事情があったのでしょう」と梶谷さん。実はこの“何らかの事情”こそ、小次郎添田出身説の根幹にほかなりません。
JR添田駅付近からも見える岩石山と、小次郎を結ぶ数奇な歴史の糸。
英彦山が添田のシンボルなら、気軽に登れる身近な山として町民に親しまれているのが、岩石(がんじゃく)山。標高454メートルの山頂に立つと、眼下に添田町の全景が広がります。この山頂の直下にあるのが、岩石城址。古くから伝わる修験道の聖地です。天正15年(1587年)、宇都宮鎮房が起こした豊前国一揆では、呼応した武将のひとり、佐々木雅樂頭種次が一族七百余人とともに、この岩石城に立てこもりました。この佐々木一族こそ、小次郎を生んだ家系であるというのが、佐々木小次郎添田出身説の根拠です。「もともと佐々木一族は、副田庄(添田)の土豪であり、鎮圧されたとは言え、細川藩も、簡単に支配できる状況ではなかったと考えられます」と梶谷さんは背景を説明します。隠然たる力を持つ佐々木一族を懐柔するための策として、細川藩も初めは小次郎を容認。しかし藩の支配体制を磐石にするためには、剣術の試合にかこつけてでも、小次郎を排除する必要があった――というのです。厳流島の決闘において延元が護衛をつけてまで武蔵を保護したのは、武蔵の勝利を確定させ、佐々木一族への支配強化を図ることが目的であった。そう考えれば、武蔵が後年、巌流島の決闘について多くを語らなかった理由も説明できます。なお武蔵の名誉のために付け加えると、武蔵は試合に隠された陰の狙いを一切知らずに決闘に臨んだといわれています。「小次郎は彦山の山伏から兵法を学び、自分の一族が支配していた岩石城にちなんで、自らの兵法を“岩流”と命名したと言われています。このことは天明2年(1782年)の佐々木巌流兵法伝書(英彦山高田家文書)などで伺い知ることができます」と梶谷さん。武蔵に敗れはしたものの、彦山・岩石城で修行した優れた剣の求道者・小次郎への眼差しは、深い畏敬、尊敬に加えて、郷土の誇りにつながる親しみの念に満ちています。こんど岩石山に登ったときには、ぜひ「この絶景を小次郎も見ていたのか…」と、思いを馳せてみてください。自分とは何の関係もないと思っていた歴史的剣豪の名が、ぐっと身近に感じられることでしょう。  
 
佐々木小次郎 豊前添田説 5

 

佐々木小次郎の出身については諸説ありますが、熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』の記述による越前国(福井県)出身説、吉川英治の小説「宮本武蔵」の岩国出身説が一般的です。しかし、平成15年のNHK大河ドラマ「宮本武蔵」において、佐々木小次郎豊前添田説が放映されました。
私は添田町の郷土史を勉強していた者として恥ずかしいことに、この説について全く知りませんでした。放映後に、私は各地の色々な史料にあたり、佐々木小次郎が細川藩小倉時代に、豊前・豊後・筑前で、活躍していたという多くの記述を見つけることができました。
これらの史料により、私は佐々木小次郎が添田出身であると自信をもって主張できるようになりました。 
特に、細川藩家老で門司城代であった沼田延元が残した記録を子孫がまとめた「沼田家記」での、巌流島の決闘は剣豪としての戦いではなく、武蔵側が策略を行ったという記述により、この説の論拠を深めることができました。
「沼田家記」は、細川藩家老の沼田延元の事歴を主に、子孫が寛文12年(1672年)にまとめたものですが、ここで延元が門司城代でのときの記述を読んでみます。
「沼田家記」
読み下し文
一 延元様門司に御座成され候時或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越二刀兵法之師を仕候 其比小次郎と申者岩流の兵法を仕是も師を仕候 双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究 豊前と長門之間ひく島後に巌流島と云ふに出合 双方共に弟子一人も不参筈に相定 試合を仕候処 小次郎被打殺候
小次郎は如兼弟子一人も不参候 武蔵弟子共参り隠れ居申候
其後に小次郎蘇生致候得共 彼弟子共参合 後にて打殺申候
此段小倉へ相聞へ 小次郎弟子ども致一味 是非とも武蔵を打果と大勢彼島へ参申候 依之武蔵難遁門司に遁来 延元様を偏に奉願候に付御請合被成 則城中へ被召置候に付 武蔵無恙運を開申候 其後武蔵を豊後へ被送遣候 石井三之丞と申馬乗に 鉄砲之共ども御附被成 道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候
要約
延元様が門司におられる時、ある年、宮本武蔵玄信が豊前へ来て、二刀兵法の師範となった。その頃、小次郎と申す者が岩流の兵法をつかい、これも師範をしていた。双方の弟子達が兵法の優劣を申し立て、武蔵小次郎が兵法の試合することに決まり、豊前と長門の間のひく島 後に巌流島と言う で出合った。双方共に弟子は一人も連れてこないことに決まり、試合をしたところ、小次郎は打ち殺されてしまった。
小次郎は約束どおり、弟子は一人もこなかったが、武蔵の弟子達は来て隠れていた。 その後、小次郎は蘇生したが、武蔵の弟子達が集まって後で打ち殺してしまった。
このことが小倉へ伝えられ、小次郎の弟子達は一団となって、是非とも武蔵を討ち果たそうと大勢で島へ押し渡った。このため、武蔵は難を逃れるため門司へ逃げて来て、延元様にひたすらお願いするので、引き受け、城中へ召しかかえ置いたので武蔵は無事に運を開くことができた。
その後、武蔵を豊後へ送りつかわし、石井三之丞と申す馬乗りに鉄砲の者どもを付けて道を警護し無事に豊後へ送り届け、武蔵を無二斎というものに渡したということであった。

このように、沼田家記では、小次郎は武蔵との決闘で絶命したのではなく、蘇生した後に、武蔵の弟子達によって殺されたという驚くべき内容が書かれています。
そしてもう一つ問題となるのは、延元が武蔵に鉄砲の護衛までつけて豊後まで送ったという記述です。延元の武蔵に対する取扱いは、明らかに不自然で、当時の細川藩に何らかの事情があったのではないかと推測することができます。
ここで、当時の細川藩の状況を考えてみますと、藩主の細川忠興は、関ケ原の戦いで、家康側につき、その功績により、豊前国の所領を与えられました。
しかし、忠興が慶長7年(1602年)に小倉城へ入る前、天正15年(1587年)に豊前国一揆が起こっています。これは、豊前の宇都宮鎮房が首謀となって起こしたものですが、この一揆に呼応した者の中に、添田の岩石城に一族七百余人とともに立てこもった佐々木雅樂頭種次がいました。
この一揆は、すぐに鎮圧されましたが、元々、佐々木一族は、副田庄(添田)の土豪であり、鎮圧されたとは言え、細川藩も、簡単に支配できる状況ではなかったと考えられます。
私は、沼田家記での小次郎が藩内で剣術の師をしていたとの記述は、細川藩が佐々木一族を懐柔するための策として、初めは小次郎を容認していましたが、藩の支配体制を磐石にするためには、小次郎を排除する必要があり、厳流島の決闘において延元が護衛をつけてまで武蔵を保護したのは、武蔵の勝利を確定させ、佐々木一族への支配強化を図ることが目的であったのではないかと考えています。
また、小次郎の「岩流」については、佐々木一族は、元々、彦山と深い関わりがあり、小次郎は彦山の山伏から兵法を学び、自分の一族が支配していた岩石城から「岩流」と命名したと言われており、天明2年(1782年)の佐々木巌流兵法伝書(英彦山高田家文書)などで伺い知ることができます
こうした史料から、私は、小次郎が、豊前添田の佐々木一族の出身であり、巌流島の決闘において武蔵に敗れはしましたが、彦山・岩石城で修行した優れた剣の求道者であったと考えています。  
 
佐々木小次郎 6

 

佐々木小次郎(ささきこじろう)は安土桃山時代に誕生し江戸時代前期までを生きた剣術家です。
誕生時期:1558〜1592年
死亡時期:1612年4月13日
佐々木小次郎の誕生日などは不明
佐々木小次郎の誕生日などは不明で天正もしくは永禄年間(1558〜1592年)に誕生したと推測されています。
佐々木小次郎の生誕場所については2つ説があります。
一つの説は豊前国田川郡副田庄(現・福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説です。
また熊本藩の豊田景英が編纂した「二天記」では、誕生した地は越前国宇坂庄浄教寺村(現・福井県福井市浄教寺町)で秘剣”燕返し”は福井県にある一乗滝で身に着けたと記されています。
「燕返し」を創案
中条流富田勢源(とだせいげん)もしくは富田勢源門下の鐘捲流(かねまきりゅう)の鐘捲自斎の弟子だったとされています。戦国時代が終わったころには、安芸(現・広島)の毛利氏に仕えます。
武者修行のために諸国をめぐり歩いたのち「燕返し」の剣法を創案します。燕返しとは、ある方向に打ち込んだ刀の刃先をすぐに反転させて斬る技です。ツバメのように素早く身を、 反転させることからきているとされています。
佐々木小次郎、巌流と称する
のちに佐々木小次郎は岩流(巌流)と呼ばれる流派を創始します。流名が巌流であることから、佐々木小次郎は巌流とも呼ばれています。
さらに豊前小倉藩藩主の細川忠興に仕えて、小倉藩の剣術師範となります。
佐々木小次郎と宮本武蔵
1612年、佐々木小次郎は当時29歳の剣豪・宮本武蔵に挑戦します。
このときの佐々木小次郎の年齢は60歳近くだったそうです。
佐々木小次郎と宮本武蔵は山口県下関市の「舟島」で決闘します。
小倉碑文には、二人の決闘が次のように書かれています。
佐々木小次郎は「三尺の白刃」を手にして決闘を挑み、宮本武蔵は「木刀の一撃」でこれを倒した
また、この時の宮本武蔵の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」と記されています。これは電光が遅く思えるほどの速さと表現。
また、宮本武蔵が戦略で決闘に遅刻したという話も有名ですが これも碑文に「両雄同時に相会し」とありおそらく後の時代の創作と考えられます。
佐々木小次郎と宮本武蔵が決闘をした「舟島」は「巌流島」と名を改められます。
この勝負はのちに「巌流島の決闘」と呼ばれ、有名になりました。
佐々木小次郎の最期
1612年4月13日巌流島とも呼ばれる船島で宮本武蔵との決闘で敗れて佐々木小次郎は亡くなりました。
即死だったと言われています。
「佐々木」という姓も謎
実は、佐々木小次郎の謎は多くて”佐々木”という姓も確かではないのです。宮本武蔵の養子である宮本伊織が記した小倉碑文においては、佐々木小次郎のことを「岩流(巌流)」としか書いていないのです。
”佐々木”という記録が残っているのは宮本武蔵の死後100年以上後の1776年に作成された「二天記」が初めてです。他の史料でも”小次郎”という記載のみで”佐々木”という姓についても謎が残ったままというわけです。  
 
佐々木小次郎 7  
1555年〜1612年
中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
年譜
1555年 (詳細不明)佐々木小次郎が越前宇坂庄浄教寺村にて出生
1560年 眼病で視力が低下し隠居した富田勢源(中条流当主は弟の富田景政・越前朝倉氏家臣)が神道流兵法者(梅津某)の挑戦を断り切れず斎藤義龍の招きに応じて美濃稲葉山城下で立合い、勢源は小太刀の名手だが40cm足らずの薪を手に「眠り猫」の態で対すると瞬時に相手の二の腕と頭を叩き割る神業で圧勝、「無刀」を追求する勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせ更に研鑽を積む
1573年 長大剣で富田勢源の相手を務め奇形剣士となった18歳の佐々木小次郎が新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流と家督を承継)に秘剣「燕返し」でまさかの勝利、師と門弟の恨みを買った小次郎は越前一条谷を出奔し1m近い愛刀備前長光(「物干し竿」と称される)を背に諸国を巡歴し次々と兵法者を薙倒して西国一円に剣名を馳せる
1610年 富田勢源(中条流)仕込みの長大剣「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に剣名を馳せた佐々木小次郎が30余年続けた廻国修行を打切り豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招聘に応じて小倉城下に「巌流」兵法道場を開設、老いて名の高い小次郎は宮本武蔵に目を付けられ安穏な余生を妨げられる
1612年 [巖流島の決闘]豊前小倉藩の剣術師範で西国一円に剣名を馳せる佐々木小次郎(富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれた中条流随一の強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始)に宮本武蔵が挑戦し藩主細川忠興の許可を得て小倉沖舟島(巖流島)で対決、武蔵は二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(享年は60歳前か。手段を選ばぬ武蔵は約を違えて弟子を同行し倒した小次郎を共に打殺したとも)、巌流と佐々木小次郎の盛名は忽ち消えうせ(1776年に武蔵の伝記物語『二天記』が世に出て復活)後に細川家の後釜には武蔵が座る
交友
中条兵庫頭長秀 / 中条流創始者
富田勢源 / 中条流継承者(富田流)
富田景政 / 中条流と富田家を継いだ勢源弟
富田重政 / 名人越後・加賀前田利家で1万3千石の知行を得た景政養嗣子
戸田一刀斎 / 景政高弟で伊東一刀斎・柳生宗厳の師
山崎左近将監 / 富田一族・山崎流開祖
長谷川宗喜 / 景政高弟・長谷川開祖
富田一放 / 伊東一刀斎が初仕合で斃した富田重政高弟
小野忠明(神子上典膳) / 徳川秀忠の兵法指南役に採用された一刀流継承者
小野忠常 / (小野派)一刀流を継いだ忠明後嗣  
 
佐々木小次郎は実在したのか

 

室町から江戸時代初期に活躍した二人の剣豪は、巌流島でその決着をつけた。この決闘で宮本武蔵が勝ったことは有名だが、敗れた佐々木小次郎についてはあまりに資料が少ない。「燕返し」を会得して、この戦いに臨んだ佐々木小次郎とはどのような人物だったのだろうか?その資料の少なさから実在したのかも疑問視されている。
出生の謎
まず、この男については不明な部分が多い。多すぎる。
出身については、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説がある他、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)と記されており、秘剣「燕返し」は福井にある一乗滝で身につけたとされている。生年は天正もしくは永禄年間とされる。
名前についても、号(別名)は岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)となっているが、詳細は不明な点も多い。
また、「小倉碑文」には、小次郎の名は「岩流(巖流)」としか書かれていない。小倉碑文(こくらひぶん)は、宮本武蔵の養子・宮本伊織が武蔵の菩提を弔うために、承応3年(1654年)に豊前国小倉藩手向山山頂に建立した、自然石に刻まれた碑文のことである。
文書に「佐々木」の姓が登場するのは、武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』が初めてで、それまでに佐々木の姓は記録になく、『二天記』が準拠した『武公伝』には「小次郎」とあるのみである。そもそも『二天記』が宮本武蔵の伝記であるため、佐々木小次郎も武蔵の物語の登場人物として書かれているだけだ。
燕返し
小次郎の剣術は、中条流(ちゅうじょうりゅう)、あるいは鐘捲流(かねまきりゅう)と言われ、初め、安芸国の毛利氏に仕えた。
その後は武者修業のため諸国を遍歴。越前国(福井県)に立ち寄った際に、一条滝で会得した技が秘剣「燕返し」だといわれている。また、先の『二天記』では、小次郎の出身は越前国となっており、そのためここで技を磨いたという説もある。
燕返しがどのような技であったか、その詳細がわかる資料はないが、有力なのは「虎切り」という剣術がモチーフになったのではないかといわれている。大太刀という刀身の長さが三尺(約90cm)以上の太刀を用い、相手の間合いの外で振り下ろす。そこで相手は間合いに入ってくるので、振り下ろした刀を瞬時に返して切り上げるというものだ。当時の防具は「上からの打撃・斬撃」には十分に考慮された形だったが、下からの攻撃には無防備だった。
この技は、ただでさえ長くて重い太刀を、瞬時に切り上げるだけの腕力が必要であり、そのことから小次郎がいかに腕利きの剣客だったかがわかる。なお、技の名前についてはその動きが燕が地面を掠め飛ぶ様を連想させるから付けられたものと思われる。
後に「岩流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。
巌流島の戦い
1612年(慶長17年)、この「岩流」は剣豪宮本武蔵に挑戦。
武蔵と九州小倉の「舟島」で決闘したことは有名である。前出の「小倉碑文」によれば、「岩流」は「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刀の一撃」でこれを倒したとある。
このときの武蔵の必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し(電光が遅く思えるほどの速さ)」と表現されている。また碑文には「両雄同時に相会し」とあり、武蔵は遅刻していない。
また武蔵の伝記である『二天記』では、「岩流」は「佐々木小次郎」という名になっており、この決闘で刃長3尺余(約1メートル)の野太刀「備前長船長光(びぜんおさふねながみつ)」、通称「物干し竿」を使用、武蔵は櫂を削った2尺5寸と1尺8寸の木刀2本を使い、これを破ったとある。
一説には武蔵は事前に小次郎の剣術を知っていたともいわれ、相手の大太刀が振り下ろされた瞬間を狙って木刀を振り落とした。小次郎の燕返しは刀を返してこそ完成するので、それすらさせなかった武蔵の剣術を讃えている。
武蔵と決闘した「舟島」は「巖流島」と名を変えられ、この勝負はのちに「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった。
創作においての小次郎
小次郎の名は、没後になって大きく広まった。
武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』を始めとして、歌舞伎の『敵討巖流島』に登場する「佐々木巖流」、さらにその名を日本中に広く知らしめたのは吉川英治の小説『宮本武蔵』である。この小説は1935年から1939年まで朝日新聞に連載されたものだが、今の我々が知るエピソードのほとんどがこの作品に描かれていた。
吉川英治原作の小説「宮本武蔵」では、小次郎は、元服前の少年のような前髪立を残した美青年として描かれているが、この決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で佐々木小次郎が60歳近くだったといわれている。また、燕返しという秘剣そのものもこの小説以外では見受けられず、これも実は吉川の創作だった。
実は、吉川英治原作の「宮本武蔵」が世に出るまで、小次郎は歌舞伎に登場する荒唐無稽な冒険を行った架空の人物という評価もあり、さらには歌舞伎の題材も武蔵の敵討ちの相手が小次郎とされた。
この演目が流行った江戸中期は、敵討を題材にした歌舞伎の演目や小説などに人気があった。そのため、内容も創作で敵討ちの決闘にされたのである。なお、この時期は、歌舞伎で演じられる忠臣蔵が人気だった時期と重なる。
佐々木小次郎は実在したのか?
『二天記』には巖流島での決闘時の年齢は18歳であったと記されているが、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはなく、巖流が18歳で流派を立てたという記述を書き改めたものである。そのため、没年齢も不明である。
その名前すら、歌舞伎などの「佐々木」姓と、『二天記』の「小次郎」という名から佐々木小次郎という名になったようで、統一性もない。
わかったのは、小次郎にまつわる話のほとんどが吉川英治の小説に書かれたものだということである。小説「宮本武蔵」を執筆するにあたり、吉川英治は、武蔵に関する多くの資料を集めて執筆した。
しかし、小次郎に関する資料は漢文数行分しか資料がないといっている。
ヒーローにはライバルが必要だ。そのライバルとして創られたのが佐々木小次郎であり、そのヒントは『二天記』や歌舞伎の演目などが用いられた。佐々木小次郎という人物はフィクションのなかの人物だったようだ。
最後に
当時、佐々木小次郎のモデルとなった人物が存在していた可能性はある。
歴史の中には実在の人物をモチーフにして、後世の歴史家や小説家が「話を盛って」広めたケースは多い。
その意味では、佐々木小次郎というライバルは、宮本武蔵の引き立て役として成功を収めたということだろう。  
 
佐々木小次郎・諸話 1

 

武蔵と小次郎
宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したのは慶長17年(1612年)4月13日のこと。約束の時から遅れること2時間、武蔵は櫂の木刀をひっさげ素足で船から降り立った。小次郎は待ち疲れていた。小次郎はいらだち、刀を抜き放ち、鞘を海中に投げ捨てた。武蔵が近づくとともに、刀を真っ向に振り立て、眉間めがけて打ちおろした。同時に武蔵も櫂の木刀を打った。その木刀が小次郎の額にあたり、たちどころに倒れた。小次郎の打った刀は、その切先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ、鉢巻は二つになって落ちた。武蔵は倒れた小次郎を見つめ、また木刀を振り上げて打とうとする瞬間、小次郎が刀を横にはらった。武蔵の袴の裾を三寸ばかり切り裂いた。が、武蔵の打ちおろした木刀は、小次郎の脇腹、横骨を打ち折った。小次郎は気絶し、口鼻から血を流した。武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい、死活をうかがい、一礼して立ち去った。
小次郎の唇に、微かな笑みが浮かんだ。そして、まだ見開いたままの小次郎の両目から、急に、生きている光が失せていった。激しい声を上げて、新之丞が泣き出した。ギラギラと光る海を、武蔵の小舟は、東へ向かって流れを変えた潮に乗り、下関のほうへ、ひた走るように影を小さくしていった。
この巌流島での決闘、実は武蔵の自著には一行の記述もありません。吉岡一門を倒して京を去ったあと、武蔵の消息は熊本での晩年まで途絶え、史実にも欠けます。小説などに書かれた決闘の場面は武蔵の養子、伊織が刻ませた小倉碑文や豊田景英が著した二天記などからたどったものです。
巌流島
元々は小倉藩の領土で小倉側では向島、下関側では舟島と呼ばれていました。現在は下関市に属しており、正式名称を船島といいます。小次郎の流派「巌流」から名を取り巌流島と呼ばれるようになりました。
現在、巌流島は無人島ですが昭和48年までは島民が住んでおり、コミュニティを形成していました。ピーク時の昭和30年には50軒近い家屋が軒を連ね生活をしていました。今は公園整備化され武蔵、小次郎のモニュメントや巌流島文学碑・決闘の地木碑などがあり、観光客が訪れる場所となっています。

巌流島の決闘は、江戸時代にかかれた文書「二天記」によると慶長17年(1612年)とされています。しかし、諸説あって実際にいつ行われたは解っていません。また、巌流島で宮本武蔵と戦った人物についても名前も様々で、しかもその記録も後世に書かれたものばかりです。そのため、佐々木小次郎という人物が実在したかどうかも疑われています。  
佐々木小次郎の墓
山口県の北部にある阿武町には、佐々木小次郎の墓とされるお墓があります。
巌流島の決闘に敗れた後、妻が遺髪を持ってこの地を訪れ、正法寺で尼となって佐々木小次郎の冥福を祈るための建てたものとされています。
なお、今、この墓があるのは、阿武町の太用寺です。
佐々木小次郎が実在した証拠になるか解りませんが、歴史ファンが訪れる場所の1つだそうです。
太用寺 / 山口県阿武郡阿武町福田上 
燕返し
今から四百年もむかし、越前の国(えちぜんのくに→福井県)の一乗谷(いちじょうだに)に城をかまえる、朝倉義景(あさくらよしかげ)という殿さまの家臣に、富田勢源(とみたせいげん)という、飛び抜けた剣術を持つ侍がいました。
勢源(せいげん)は、『中条流(なかじょうりゅう)』という剣法をあみ出して、その強さは北陸中(ほくりくじゅう)に知れ渡っていました。
その勢源が最も得意としていたのは、『小太刀』という短い剣を使う剣法です。
ある日の事、勢源の元に、小次郎と名乗る子どもが弟子入りにやってきました。
「強くなりたいです。弟子にしてください」
一見すると小次郎はひ弱そうな子どもだったので、勢源は弟子入りを断りました。
ですが、「お願いです。強くなりたいのです。弟子にしてください」と、断っても断っても弟子入りをお願いするので、ついに根負けした勢源は、小次郎を道場の小間使いとして使うことにしました。
小間使いとして働くようになった小次郎は、少しでも時間を見つけると、とても熱心に修業をして、十六才になる頃には道場一の剣術使いになっていたのです。
それからは名も佐々木小次郎と改め、勢源がいない時は、勢源の代わりとして道場を任されるようにもなりました。こうして願い通りに強くなった小次郎ですが、師匠の勢源には、まだまだ勝つ事が出来ません。
「一体どうすれば、師匠を抜く事が出来るのだ?」
悩んだ小次郎は、ふと、洗濯物を干す物干し竿を見て思いつきました。
「師匠には小太刀を教えてもらったが、同じ小太刀では師匠に一日の長があるため、抜く事は出来ない。しかし、刀を長くすれば」
こうして小次郎は小太刀を捨てて、長い刀を持つようになったのですが、簡単に使いこなせる物ではありません。
師匠の勢源からも、「剣でもっとも重要な物は早さだ。その様に長い刀では、早く振る事は出来まい」と、言われましたが、小次郎はあきらめません。
毎日毎日、長い刀で練習を重ね、ついには腰に差せないほどの長い刀を使いこなせるようになったのです。ですが、まだ師匠には勝てません。
ある時、小次郎は近くの一乗滝で流れる水を見ていました。
するとそこへツバメが飛んできて、空を切って一回転すると空へと舞い上がりました。
「飛んでいるツバメは、どんな剣の達人でも斬る事が出来ないと言うが、もしツバメを斬る事が出来れば、わたしは師匠を抜く事が出来るかもしれん」
こうして小次郎は、毎日滝へ出かけては、ツバメにいどみ続け、ついにツバメを斬りおとすと技をあみ出したのです。
そして、その技で師匠に勝つ事が出来た小次郎は、長い剣を使う剣法を『厳流(がんりゅう)』、ツバメを斬りおとした奥義を『ツバメ返し』と名付け、さらに剣術を磨く為に、諸国へ武者修業に出かけたのです。
これは、宮本武蔵と戦う数年前の事です。  
 
佐々木小次郎・諸話 2

 

1
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して西国一円に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
2
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
3
宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
4
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
5
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
6
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
7
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
8
柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
9
柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
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丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
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朝倉氏は、平安時代から武士団を形成して栄えた日下部氏の一流で、本貫地の但馬国養父郡朝倉から名字を採り、越前朝倉氏は南北朝時代に越前へ移住し守護斯波氏に仕えた朝倉広景に始まる。斯波氏は足利将軍家に次ぐ三管領(他は細川・畠山)の名門で、越前・尾張・遠江などの守護を世襲した。斯波氏の重臣に朝倉・織田・甲斐の三家があり、朝倉は越前・織田は尾張の守護代を世襲するうち次第に斯波氏を圧迫して実権を掌握した。応仁の乱が起ると、朝倉孝景(英林)は守護代甲斐常治と共に斯波義敏を追い落とし、甲斐氏も追放して越前守護の座を掴み一乗谷城に拠って戦国大名となった。孝景(英林)の家督は嫡流の氏景・貞景・孝景(宗淳)へ受け継がれたが、いずれも幼少の後嗣を残して早世したため、孝景(英林)の八男で武勇の誉れ高い朝倉宗滴が死ぬまで事実上の当主として君臨した。朝倉宗滴は、越前内戦や応仁の乱で武功を挙げ兄孝景(英林)の政権奪取を支えた敦賀郡司朝倉景冬の娘を妻に迎え、その与党となったが、景冬の嫡子景豊が当主貞景に謀反を起すと寝返って討伐軍に加わり、武功により敦賀郡司職を得た。朝倉宗滴には一児があったが、廃嫡して僧籍に入れ(京都大徳寺住職となった蒲庵古渓といわれる)、貞景の四男景紀を養嗣子とした。豊臣秀吉も織田信長の四男秀勝を養子に迎えて忠誠を顕示しているが、賢明な宗滴は実力者故にお家騒動回避を優先したのかも知れない。朝倉氏は目立って一族の反乱が多い家で、孝景(英林)の五男元景は上述の景豊に加担し、孝景(宗淳)の弟景高も謀反の末に逃亡している。朝倉宗滴没後、孝景(宗淳)の嫡子義景が名実共に朝倉家当主となったが、一族や家臣の内紛が噴出して屋台骨が傾き、陪臣(尾張守護代織田氏の家臣)と見下し続けた織田信長に敗れて根絶やしにされた。徳川幕府の旗本に朝倉氏があるが、家祖の在重は景高の子であるという。
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浅井氏は、藤原北家閑院流を称する近江の土豪(小谷城主)で北近江守護京極氏に仕えたが、京極騒乱で台頭した浅井亮政が浅見氏らを切従え京極高延を傀儡化して北近江を掌握、南近江守護の六角定頼に圧迫されたが越前の朝倉宗滴に助けられ領国支配を固めた。嫡子の浅井久政は軟弱で、家督相続に逆らう田屋明政(亮政の婿養子)が京極高延を担ぎ反乱、久政は六角義賢(定頼の嫡子)に臣従し越前朝倉氏に助勢を乞うて保身を図った。父の弱腰を見兼ねた嫡子の浅井長政と家臣団はクーデターで家督を奪い六角氏に手切れを通告、攻め寄せた六角軍を撃退し(野良田の戦い)、畿内へ浸出した織田信長と同盟を結び「近国無双の美人」と賞された市を娶って茶々・初・江の三姉妹を生し(信長は少年期に同母妹の市を犯したため「たわけ」と呼ばれたとも)、三好三人衆に通じて敵対する六角義賢を信長と共に滅ぼした。信長が朝倉義景を攻めると浅井長政・久政は反旗を翻したが、金ヶ崎の退き口で挟撃の好機を逃し姉川の戦いで大敗、信長包囲網を結成し抵抗するも近江領を守る豊臣秀吉・竹中半兵衛を攻め破れず、頼みの武田信玄が急死すると直ちに小谷城を攻められ越前一乗谷城の朝倉氏諸共に滅ぼされた。浅井の男系は絶たれ市は再嫁した柴田勝家に殉じたが、女児は数奇な運命を辿った。茶々(淀殿)は、柴田勝家・市を滅ぼし伯父織田信長の天下を奪った豊臣秀吉の側室となり嫡子豊臣秀頼を産んで事実上の当主となったが、無謀にも徳川家康に挑戦し秀頼と豊臣家を破滅へ導いた。初は信長・秀吉に拾われた京極高次に嫁ぎ、江は徳川秀忠(家康の後嗣)に入輿して3代将軍家光を産み、庶女のくすは松の丸殿の侍女・刑部卿局は千姫の乳母で淀殿の側近となった。なお京極高次は、高延の弟高吉の子で人質として信長に仕え、秀吉側室の松の丸殿(妹)・淀殿(従妹)の七光りで出世した「蛍大名」の分際で関ヶ原で東軍に属し若狭小浜藩9万2千石に大出世、嫡子京極忠高は初姫(秀忠の四女)を娶り松江藩26万4千石へ躍進したが無嗣没により讃岐丸亀藩6万石へ減転封となった。淀殿は生家浅井氏の旧主である京極氏出身の松の丸殿を敵視し側室筆頭を争った。
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細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
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毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。  
 
 
 
塚原卜伝

 

   1489−1571
塚原卜伝 1

 

   生誕 延徳元年(1489年)
   死没 元亀2年2月11日(1571年3月6日)
   改名 朝孝(幼名)→高幹→卜伝(号)
   別名 新右衛門、土佐守、土佐入道(通称)
   戒名 宝剣高珍居士
   墓所 茨城県鹿嶋市須賀の梅香寺
日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。
鹿島神宮の神官で大掾氏の一族・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢、よしかわあきかた)の次男として常陸国鹿島(現・鹿嶋市宮中)に生まれる。幼名は朝孝(ともたか)。時期は不明だが後に、覚賢の剣友塚原安幹(塚原新右衛門安幹、しんえもんやすもと)の養子となる。同時に諱を高幹(たかもと)とし、新右衛門高幹と改めた。塚原氏の本姓は平氏で、鹿島氏の分家である。のちに、土佐守(とさのかみ)、または土佐入道とも称した。卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)を由来とする。
実父・覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」も養父の安幹から伝授されたという(松本から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したとする説もある)。やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。卜伝の弟子である加藤信俊の孫の手による『卜伝遺訓抄』の後書によると、その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられている。よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。卜伝は、諸国を武者修行したが、その行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせて、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったと伝えられる。
弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹(道無)、斎藤伝鬼房(勝秀)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、将軍にもなった足利義輝、足利義昭や伊勢国司北畠具教、武田家軍師山本勘助にも剣術を指南したという。また、足利義輝、北畠具教の両者には奥義である「一之太刀」を伝授したとされている。
上記の通り「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により後世に剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。著名な逸話のひとつで勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、『甲陽軍鑑』に伝わる「無手勝流」がある。この中で、卜伝は琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑んでくる。彼はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って彼を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、剣士と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せるのだが、水深が足の立つ程になるやいなや、剣士は船を飛び降り島へ急ごうとする。しかし卜伝はそのままなにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまったという。
若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが(月岡芳年の錦絵などで知られる)、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は全くの作り話である。
晩年は郷里で過ごし、『鹿島史』によれば卜伝は元亀2年(1571年)2月11日に死去したとされる。83歳没。『天真正伝新当流兵法伝脉』では鹿島沼尾郷田野(現鹿嶋市沼尾)の松岡則方の家で死去としている。墓は豊郷村須賀塚原(須賀村、現・鹿嶋市須賀)の梅香寺にあったされるが同寺は焼失し、墓のみが現存している。法号を宝険高珍居士(ほうけんこうちんこじ)。位牌は墓地近くの真言宗長吉寺にある。
門下
雲林院松軒・諸岡一羽・真壁氏幹・成田長泰・斎藤伝鬼房・松岡則方(兵庫助)・足利義輝・北畠具教・細川幽斎・今川氏真・林崎甚助・上泉信綱・山本勘助  
 
塚原卜伝 2

 

「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」という平和思想を貫いた剣豪が戦国時代におりました。(活人剣)
その名を「塚原卜伝」といいます。下剋上、裏切り、謀反、暗殺、と生き残るためには手段を選ばない時代、戦国時代に人を殺す剣ではなく、人を活かす剣を貫いた剣豪が塚原卜伝でした。塚原卜伝のもとには、多くの著名な弟子がおりました。特に、後の室町幕府の13代将軍、足利義輝や、武田信玄の軍師、山本勘助や、戦国大名、北畠具教などがおりました。そして、一子相伝の奥義、「一之太刀」を編み出し、鹿島新当流を創始した、戦国時代きっての剣聖、塚原卜伝。
塚原卜伝の強さの源(鹿島古流と香取神道流)
生まれが「鹿島の太刀」を受け継ぐ、関東茨城、鹿島神宮の神官、卜部氏吉川覚賢の次男として1489年生を受けます。
当時は吉川朝孝(塚原卜伝)という名前でした。
そこで鹿島古流といわれる剣を学び、その後養子に行った先の塚原家で香取神道流を学びます。
塚原家で元服し塚原高幹と名前を変えます。
鹿島古流と香取神道流の2つの神の剣が混じり合い、新たな剣が高幹の中に育ったのでしょう!
まさにハイブリット効果です!これが塚原卜伝の強さの源でしょう!
強さに磨きをかけ!(初の武者修行)
その後、17歳で武者修行に出かけます!
京都清水寺ではじめての真剣勝負を行ったのを皮切りにガンガン修行を続けるのです。
この時は主に京都周辺を修行して回りました。
室町幕府の力が弱まり、京都付近も混乱していた頃です。戦場も37回経験しました。
この修業で更に強さに磨きがかかることになりますが、、それは苦悩の修行でもありました。
その苦悩が塚原卜伝の最強の奥義を生み出すきっかけになったとも言えますが、次に、その奥義である一之太刀がどのように生まれたかを見て見ましょう。
塚原卜伝の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」
奥義一之太刀の誕生
若き日の塚原高幹(卜伝)は、17歳から10年以上行った武者修行で多くの闘いを経験し、無敗を誇る戦績をあげてきました。
その時の戦績は?
真剣勝負は19回行い、37度の戦の場に立ち合い、いずれも一度のしくじりもなし。
木刀での立ち合いは数百度に渡り無傷。
傷を負ったのは矢で負った6箇所のみ。
1対1の勝負は212戦無敗。
と、堂々たる結果です。恐ろしく強いです。
病んだ塚原高幹(卜伝)鹿島に帰る
しかし、それは返せば多くの人を殺めたことと同意義でした。
また、戦場で多くの死者を目の前で見る事が多かったは、心をすり減らしていきました。
そんな命のやり取りを10年以上続け、経験した塚原高幹(卜伝)は、精神的に相当病んでいました。
そう、この頃は、「活人剣」ではなく、ただの「殺人剣」でした。
もう、修行を続けることも出来ず、病んだ心のまま、鹿島に帰るのでした。
ただ人を殺めるだけの剣にうんざりしたのでしょう。
武神タケミカヅチへの祈りの修行の末に
強すぎるがゆえか、剣の活かし方の方向性を見失い、病んだ心で修行から帰ってきた塚原高幹(卜伝)を見かねた父親達が、
鹿島城の家老で剣の使い手の松本政信に塚原高幹(卜伝)を託すことにしたのです。
すると、松本は高幹(卜伝)に神社に籠もって修行をすることを勧めたのです。
その修業とは、鹿島の神、武神タケミカヅチに祈りながら、剣修行を行うことで、なんと、1000日にもおよぶ過酷な修行となったのです。
武神タケミカヅチは、最強でありながらその力に頼らず、話し合いで問題を解決するタイプの神でした。要するに、殺意を持っている相手から、殺意を奪う、ということをやってのける神だったのです。これは難しいですねえ。
その過酷な修行を高幹(卜伝)は耐え抜き、ある日霊夢を介して武神タケミカヅチから「一之太刀」を授かるに至ります。
この一之太刀こそ、人を殺めず、人を活かす剣。国に平和をもたらす剣。人から殺意を奪う剣。だったのです!
鹿島新当流の誕生そして卜伝へ
そして、奥義を授かるのと同じく、お告げを受けたのでした。それは、「気持ちを改めて、新たに再出発せよ」というお告げです。
奥義を得た塚原高幹(卜伝)は、そのお告げにより、「鹿島新当流」を創始し、
さらに、自らの名前を塚原卜伝(卜部の剣を伝えるという意味)に改名します。
ここに、ただの殺人剣の強さではない、「活人剣」の最強剣豪、塚原卜伝が誕生するのです!
活人剣を活かして2回目の武者修行へ
塚原卜伝となった後の武者修行は、西日本から九州へと足を踏み入れました。
ただ剣の強さだけではない。人の心を読めるようにならなければってところです。
人を活かす剣の追求を行ったのでしょう。
2回目武者修行の逸話
その勝ち方には変化が生じていました。事前に切る部位を告げてから斬ることが出来る長刀の名人、梶原長門との戦いでは咄嗟に小刀に持ち替え、脇腹を一刀に斬り伏せたり、片手切りの名手に対して、片手切りを卜伝が恐れていると思わせ、相手を油断させて、斬ったりと内容が熟練してきています。心理戦、駆け引きなどに磨きをかけていく修行の旅でした。
一方、卜伝と戦いたくて仕方ない相手に対して、さらーと島に置き去りにして、戦わずして勝ったケーズもあります。これを「 無勝手流」と名付けてました。若かりし日には考えられなかった対応です!
しかし10年程修行している間に実父が亡くなってしまい、また鹿島に帰ることとなります。
塚原城主として妻を娶る
帰ると、塚原城の城主となり、妻を娶り、弟子たちを育てるといった地に足をつけた生活をおくるようになります。実に45歳ではじめての結婚です。晩婚!しかも奥さんの妙さんは20歳!二回りも違う、超歳の差結婚でした 。
三度目の修行
しかし10年後の55歳頃、まだ30歳の妻に先立たれてしまいます。相当悲しまれたことでしょう。その後、卜伝は一生独身で過ごします。
思うところがあり、塚原城主の座を養子に譲り、出家し、三度目の修行にでます。三度目の修業は、著名な方に剣術や奥義を伝えていく修行でした。自ら武神のお告げにより授けられた新当流そして奥義一之太刀を広めていきたいという気持ちが最大の修行にでた理由だったと思います。
それでは次に三度目の修行で塚原卜伝が剣術を伝えた弟子達について触れてみたいと思います。
塚原卜伝の弟子達
足利義輝
剣豪将軍として知られた足利13代将軍です。有名な逸話に、松永久秀や三好三人衆やに二条城にて攻められた時、義輝は、様々な名刀を畳に突き刺し、その刀達を駆使して最後まで奮闘したと言われています。塚原卜伝の技術がなければ、もっと早く亡くなっていたでしょう。なんと言っても一ノ太刀を伝授されている実力派折り紙付き!そして、義輝の辞世の句、「五月雨や 露か涙か 不如帰 わが名を上げよ 天のうえまで」も違ったものになっていたのかなと思います。二番目に伊勢の国司、北畠具教に2年ほど教えます。
北畠具教
伊勢を治める国司の北畠具教に、塚原卜伝2年間、みっちり、マンツーマンで教えていたのでしょうね。そして奥義一之太刀を伝授したのです。北畠も相当の力量の持ち主だったのでしょう。人を殺めずに勝てれば最高!北畠具教は、剣豪たちとの交流も多く、塚原卜伝以外にも、柳生宗厳や上泉信綱などの一流の剣豪たちとも接点があったのですが、織田家の刺客により命を落とします。その織田家の刺客に刺される前、敵兵を19人切り倒し、100人に手傷を負わせたという伝説が残っています。これも、塚原卜伝の教えが良いのでしょう!
山本勘助
そして塚原卜伝は、当時勢い盛んな武田信玄が治める甲斐の国(山梨)に到着します。戦国最強に成長していく武田家なら新当流が広まるだろう!という考えがあったのでしょうか?当主の武田信玄に剣を披露し、軍師山本勘助に剣術指南をしたのです。キツツキ戦法で知られる勘助は、しっかりと技を会得ししたかな?
雲林院松軒
著名ではないですが、塚原卜伝の一番弟子で、卜伝より皆伝書を受けています。天下に5人いない卜伝流儀の兵法者です。織田信長の三男の兵法指南役などをしていた実績も持ちます。

他にも著名なところで行くと、今川義元の子今川氏真、細川忠興の父細川幽斎、塚原卜伝と同じく剣豪上泉信綱、居合の祖林崎甚助などそうそうたるメンバーがいます。
塚原卜伝の逸話
先を予想する事が大事
ある時塚原卜伝の弟子が馬の後ろを歩いていました。すると急に馬がはねて弟子が蹴られそうになります。咄嗟に反応し、馬に蹴られることを避けると周りの民衆は、その対応を称賛しました。
しかし、師匠の卜伝は違った評価を下します。「なんで、最初から、馬から離れて歩かなかったんだ!」と。「先を読んで、危ないことを避けることこそ大事だ」と。「リスクを全く考えていないじゃないか!」となるほど、先を読んでリスクを防ぐ行動こそ大事であって、これが戦わずして勝つことにつながると考えていたのです。
トラップを見破れるか?
塚原卜伝には3人の養子がいました。そして家督を3人のうち誰に継がすか、テストをしてみようとなりました。襖を開けると木枕が落ちてくるトラップを仕掛けてその反応をしてみることにしたのです。一番目三男は、落ちてくる木枕を真っ二つに切って入ってきました。自分の身は自分の剣にて守る!といった感じですね。二番目次男は、落ちてくる木枕から身を引き、木枕であることを確認してから部屋に入りました。どんなトラップがあるかわからない戦国時代、有事に慎重た対応することは大事なことです!三番目長男は、3人の中でも一味違いました。すでに部屋に入る前からこのトラップを見破っていたのです。木枕を外して難なく部屋に入ってきたのでした。落ち着いていますね!すべてお見通しって感じです。
塚原卜伝は三人のうち、トラップをはじめに見破った長男に家督を譲ることを決めたのでした。
卜伝の剣の真髄は、先を読んで無用な戦いを避けるところにあったんじゃないでしょうか?故に、生涯無敗の実績を残すことができたんだと思います!現在でも学ぶところが大いにありますね!

生涯無敗を誇った剣聖塚原卜伝の生涯と逸話、弟子たちや奥義について見てきました。実のところ、奥義「一之太刀」とは、先を読んで無用な戦いを避けながら、常に先手で対応していくことでした。これは、今も取り入れられる教訓ですよね。そして、弟子たちも本当に著名でした。戦国時代に多大な影響を与えたことを考えると、その存在は大きすぎます。今でも鹿島新当流は鹿島の地で引き継がれているとのことです。  
 
塚原卜伝 3

 

塚原卜伝(新当流)
延徳元年(1489)−元亀2年(1571)
塚原卜伝は、伝説によれば、17歳のときに京の清水寺ではじめて真剣勝負をして以来、真剣での試合が19度、戦場に出たことが37度あり、木刀を使っての試合にいたっては百度におよぶといわれ、その間に矢傷を6ケ所受けたほかは無傷であり、討ち取った敵は212人にも及ぶと伝えられる。室町時代に名を馳せた日本武道史上屈指の剣豪である。
武の聖地・鹿島が生んだ天才
卜伝は、鹿島神宮を中心とした特異な剣の文化が生み出した天才である。鹿島神宮は、皇紀元年に創建された武神タケミカヅチを祀る社であり、現在まで変わることなく武の聖地として信仰を集めている。仁徳天皇の頃(5世紀前半)に国摩真人(くになづのまひと)という人が鹿島神宮のご神域に祭壇を築いて日夜祈祷した結果、神妙剣という極意を授かった。以後この技術を、吉川家を中心とした鹿島神宮の神官たちが伝えてきた。これを鹿島の太刀といい、時代が下がるにつれ鹿島上古流、鹿島中古流とその名称を変えてきた。
卜伝は、延徳元年(1489)、鹿島の太刀を代々継承してきた吉川の家に次男として生まれる。幼名を朝孝(ともたか)といい、父である覚賢(あきかた)から家伝の鹿島中古流を仕込まれる。吉川家は、武術を伝える家柄であると同時に鹿島神宮の卜部職であった。卜部とは、卜占(占い)を専門とする神職のことである。毎年正月14日の歳山祭(としやまさい)で亀卜(亀の甲羅を焼き、できた裂け目で吉凶を占う)により得られた結果は、「鹿島の事触(ことぶ)れ」として全国に伝えられた。つまり卜伝は、血筋が呪術的であるといってよい。後に実家の卜部の字をとって、卜伝と称した。10歳の頃、乞われて塚原城主であった塚原土佐守安幹(やすもと)のもとに養子に行き、元服後に塚原新右衛門高幹(たかもと)と名を改めている。養父である塚原土佐守は香取神宮に縁の深い天真正伝香取神道流の流祖である飯篠長威斎家直の高弟であり、卜伝に香取神道流を伝授した。卜伝は、幼少より実父と養父から鹿島の太刀と香取の太刀の2つの流儀を教え込まれ、若くから抜群の剣技をもって頭角をあらわすことになる。
卜伝の修行と秘剣「一(ひとつ)の太刀」
卜伝は、生涯で10年以上にもわたる廻国修行を3回も行っている。彼の戦場での武勇伝のほとんどが、1回目の廻国修行(永正2年(1505)−永正15年(1518)頃)のことであったと言われている。卜伝は、1回目の廻国修行から帰郷するや、参籠修行に入る。これは鹿島神宮のご神域に籠りきって武神タケミカヅチに祈りながら剣の修行をするもので、一千日にもおよぶ過酷な修行であった。多くの命のやり取りを経験し、精神的に大きな痛手を負って帰郷した卜伝をみかね、師である松本備前守政信がこの参籠修行をすすめたと伝えられている。卜伝はこの参籠修行により、霊夢を介して武神タケミカヅチから「一の太刀」の極意を授かる。以後、卜伝の剣技を伝える流派を新当流と称している。
「一の太刀」は唯授一人(ゆいじゅいちにん)(他流派でいう一子相伝)の奥儀であり、一説によると伊勢の国司であった北畠具教(とものり)に伝えたと言われている。卜伝には彦四郎幹重(みきしげ)という養子があったが、「一の太刀」は既に北畠に伝授しており、唯授一人のため直接教えるわけにはいかないので、北畠から伝授してもらうように申し渡したとも伝えられるが、諸説あり史実はわからない。他にも、将軍足利義輝や徳川家康の師であった鹿島の松岡兵庫助則方に「一の太刀」を伝えたという説もあるがこれも定かでない。いずれにせよ現在には伝えられておらず、早くに失伝したものと思われる。
卜伝の逸話
卜伝には逸話が多い。これが史実であるかどうかは疑わしいものが多いが、いくつか紹介しておきたい。有名なものとして、狭い部屋の中でいきなり斬りつけられた際3尺の大刀では用に立たないことを瞬時に判断して、とっさに腰の小刀を抜いて相手のわき腹を刺して倒した話がある。さらに、飛燕や雉、鴨などを自在に薙ぎ斬り、事前に斬る部位を告げてから人を斬ることもできるという長刀の名人、梶原長門(ながと)との試合で、刃渡り1尺4寸の小長刀の柄を切り落とし、間髪を入れずに踏み込んで一刀で斬り伏せた話がある。他にも片手斬りの名人との試合に際し、事前に「片手斬りは卑怯であるから止めるように」との使いを再三出し、卜伝が恐れていると思わせて相手の慢心をさそい、その心理作戦によって相手を斬った話などがある。以上の3つの話は、2回目の廻国修行(大永2年(1522)−天文2年(1533)頃)の時の話であるという。他には、琵琶湖を渡す船の中で試合することになった相手を離れ小島に誘い、先に島に降りた相手を置き去りにして戦わずして勝った「無手勝流(むてかつりゅう)」の話なども有名である。3回目の廻国修行(弘治2年(1556)−永禄9年(1566)頃)では、大鷹3羽に乗り換えの馬3匹をひかせ、大勢の門人を引き連れて諸国を廻るという派手な演出もしたようである。
卜伝の後半生
若い頃には華々しい武勇伝を持つ卜伝であるが、歳を重ねるにつれ徐々に命のやり取りをするような試合を控えていったようである。2回目の廻国修行から帰国後に塚原城主となった卜伝は、45歳で妻を娶るが10年ほどで死別する。弘治2年(1556)頃であったと思われるが、卜伝は塚原城主の地位を養子である彦四郎に譲り、禅に帰依して剃髪し入道となる。鹿島神宮の神職の家に生まれた卜伝が晩年入道になるという、当時の神仏習合の様子がよく見てとれる。
卜伝は、元亀2年(1571)、83歳の長寿をまっとうし、弟子である松岡兵庫助の家で亡くなっている。 
 
塚原卜伝 4

 

略歴
塚原卜伝(1489−1571)は戦国時代の剣豪、兵法家。剣聖と呼ばれる。
応仁・文明の乱(1467〜1477)から22年、延徳元年(1489)2月に常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)に生まれる。
元亀2年(1571)2月11日死去。83歳。なお、生没年については諸説ある。
鹿島新当流(新当流、卜伝流、墳原(つかはら)卜伝流など)の始祖。卜伝の伝記は巷説が多く、生没年に諸説あることからも明らかでない。
同時代に生きた剣聖・上泉伊勢守信綱とは接点があるが、具体的にどのような接点だったかが錯綜している。
説によっては上泉信綱が卜伝の弟子であったり、卜伝が上泉信綱の弟子であったりする。
不思議なことに、二人の剣聖の直接の接点に関する記述や、試合の様子などがない。
家柄
鹿島神宮祠官・卜部 (うらべ) 覚賢(吉川左京覚賢(よしかわさきょうあきかた)ともいう)の次男。塚原安幹の養子。初め朝孝、のち高幹(たかもと)。通称、新右衛門。
父・覚賢から家伝の鹿島中古流、養父・塚原安幹(やすもと)から飯篠長威斎(いいざさちょういさい)の天真正伝香取神道流を学ぶ。
鹿島神宮に参じて「一の太刀(ひとつのたち、いちのたち)」を考案し、鹿島新当流(新当流、卜伝流、墳原(つかはら)卜伝流など)を開いた。
『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、「一の太刀」は当時の鹿島を代表する剣士で鹿島城の家老でもある松本備前守政信(まつもとびぜんのかみまさのぶ)の奥義とされ、養父・安幹から伝授されたという。松本備前守政信から直接学んだという説もある。
実家の卜部氏は鹿島神宮に仕える家柄であり、「鹿島の太刀(たち)」という古くからの剣法を継承する家柄であった。
また、常陸大掾氏・鹿島家の四宿老の一つで、鹿島城の家老もつとめる家柄でもあった。
第1回目の廻国修行
卜伝は、初名を朝孝(ともたか)といい、時期は不明だが、塚原城の塚原土佐守安幹(とさのかみやすもと)(塚原新右衛門安幹、しんうえもんやすもと)の家に養子に行った。塚原氏の本姓は平氏で、鹿島氏の分家である。元服して塚原新右衛門高幹(しんうえもんたかもと)(新左衛門尉(しんざえもんのじょう)という説もあり)と名乗った。
永正2年(1505)に16歳で第1回目の廻国修行に出て行く。
卜伝の弟子である加藤信俊による『卜伝遺訓抄』の後書によると、17歳のときに京都の清水寺付近で最初の真剣勝負をして相手を打ち負かした。以来、五畿七道、つまりは全国を廻って修行をしたようだ。
第1回目の廻国修行は15年に及び「真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず。木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」とされる。有名な真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。
鹿島に戻る
永正15年(1518)頃、鹿島へと戻り、松本備前守政信に師事したようだ。
松本備前守政信は高幹に千日間の鹿島神宮への参籠をすすめ、修行に励んで鹿島の大神より「心を新しくして事に当れ」との神示を頂き悟りを開いた。
こののち、ト部の伝統の剣を伝えるという意味で卜伝(ぼくでん)を号したと考えられる。卜伝斎(ぼくでんさい)ともいい、土佐入道と称した。
永正9年(1512)ころから鹿島一族の内訌が激化し、大永3年(1523)高天原の合戦となり、卜伝も奮戦して高名の首21ほかの戦功をあげた。
第2回目の廻国修行
ト伝は松本備前守政信のすすめで同年・大永3年(1523)に第2回目の廻国修行に出る。
2回目の際には、西日本から九州の大宰府や、山陰地方へも訪れたのではないかと思われるが、道程が不明である。
再び鹿島に戻る
修業中に実父の死が伝えられ、10年程で修業を終え、天文元年(1532)頃に鹿島に戻る。
塚原城の城主となり、天文2年頃、妻・妙(たえ)を娶り、10年ほどは、治政と弟子の育成に力を注いだ。
第3回目の廻国修行
天文13年(1544)に妻が病で亡くなると、ト伝は養子・彦四郎幹重(みきしげ)(彦四郎幹秀(ひこしろうもとひで)とも)に城主の地位を譲り、弘治3年(1557)第3回の廻国修業に出る。
70歳近いト伝は、自分が完成した「一の太刀」を伝えるべく、足利13代将軍・足利義輝(よしてる)や15代将軍・足利義昭、北畠具教(とものり)、細川藤孝(ふじたか)らに剣を教えたといわれる。
足利義輝と北畠具教には「一の太刀」を伝授したとされる。「一の太刀」は現在の鹿嶋には伝わっていない。
北畠具教はト伝を敬愛し、屋敷跡、塚原という広大な土地、塚原公園、塚原橋、塚原観音など、ト伝の名を伝えるものが現在でも残っている。
伊勢を離れたト伝は甲斐国で武田信玄に剣技を披露し、信玄を始め武将たちに指導したらしい。山本勘助、原美濃守、海野能登守などが弟子となっている。
この時の逸話として、『甲陽軍鑑』には、行列は80人の門人を引き連れたもので、大鷹3羽を据えさせ、馬三頭を引かせて豪壮なものであったと伝えられる。
甲斐を辞したト伝は下野の唐沢城主・佐野修理太夫昌綱(しゅりだゆうまさつな)の館に滞在し、5人の子のうち上3人に剣を教えた。二男・天徳寺了伯、三男・祐願寺は武芸者として世に知られるようになる。
鹿島へ戻る途中、ト伝は江戸崎の弟子・諸岡一羽(もろおかいっぱ)の家にも立ち寄った。諸岡一羽の他の弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)、真壁氏幹(道無)、斎藤伝鬼房(勝秀)らがいる。
こうして第3回目の廻国修行が永禄9年(1566)頃に終わる。
晩年
それから5年程、『鹿島史』によれば元亀2年(1571)2月11日に83歳で生涯を終えた。
『天真正伝新当流兵法伝脉』によれば、高弟・松岡兵庫助則方(まつおかひょうごのすけのりかた)の屋敷でだったという。
法号は宝剣高珍居士(ほうけんこうちんこじ)。墓は旧塚原城に近い梅香寺(ばいこうじ)跡にある。位牌は墓地近くの真言宗長吉寺にある。
松岡兵庫助は、慶長8年(1603)ころ、徳川家康の招きで江戸に出府し、秘伝の一の太刀を伝授して感賞を受けた。そして、新当流の正統を保持すべきの黒印状を与えられた。
松岡兵庫助の高弟として、甲頭刑部少輔(かぶとぎょうぶしょうゆう)と多田右馬助(うまのすけ)が有名。
お墓の場所
茨城県鹿嶋市須賀。
無手勝流
有名な逸話に「無手勝流」がある。『甲陽軍鑑』に書かれているもので、卜伝が琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知った剣士が決闘を挑んでくるときの話。
卜伝はのらりくらりとかわそうとするが、若い剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、調子に乗って罵倒した。
周囲への迷惑を気にした卜伝は、若い剣士に船を降りて決闘を受けることを告げ、二人で小舟に乗り移った。
小舟が小島に近づくと、若い剣士は船を飛び降りて、島ヘ上がってしまう。だが、それを見た卜伝はなにくわぬ様子で、櫂を漕いで島から離れてしまった。
若い剣士は取り残されたことに気づき、わめくが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言ったという。勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出される。
宮本武蔵
若い頃の宮本武蔵が、食事中の卜伝に勝負を挑んで斬り込んだ。
卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話がある。
これは、フィクションである。二人は同時代人ではない。  
 
塚原卜伝 5

 

1489年〜1571年
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。 
家系
塚原卜伝の生家である卜部吉川氏は卜占を以って鹿島神宮に仕えた社人で、常陸を支配した大掾氏(鹿島城3万石)の庶流鹿島氏(鹿島神宮の神官)に仕えた。卜部呼常は東国七流(鹿島七流)の名剣士で、嫡子の卜部覚賢は大掾景幹の家老を勤めるかたわら屋敷内に吉川道場を開き多くの門弟を育成した。覚賢には双子の二児があり長子の常賢が卜部家を継ぎ次男の朝孝(塚原卜伝)は鹿島分家で塚原城主(所領は3〜4千石)の塚原安幹に入嗣した。塚原安幹も天真正伝香取神道流の飯篠長威斎家直から組太刀と槍術を学んだ兵法者で、卜伝は実家の吉川道場で学びつつ養父の薫陶を受けた(15歳で元服し塚原高幹を名乗る)。武者修行に出て室町将軍に仕えた塚原卜伝は、44歳で漸く安幹の娘を娶ったが新妻は間もなく病死し塚原一族から幹重を養子に迎え後を継がせた。 
年譜
1489年 常陸鹿島神宮の神官で鹿島城3万石の大掾景幹の家老を勤める卜部(吉川)覚賢の次男に朝孝(塚原卜伝)が出生、双児の兄常賢が跡継ぎとなり朝孝は塚原城主塚原安幹(所領は3〜4千石)の養嗣子(娘の許婚)に出される
1505年 実父の卜部覚賢・養父の塚原安幹から天真正伝香取神道流を学んだ16歳の塚原卜伝(高幹)が常陸から京都へ武者修行に出立、落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立ち合いで名を挙げ11代将軍足利義澄に出仕、義澄の下で大内義興・細川高国、12代将軍足利義晴(義澄の嫡子)の下で細川晴元・三好元長と戦った卜伝は生涯37度の合戦・19度の真剣勝負で無敗を通し大将首12と端武者首16・合計212人の首級を挙げながら一度も刀傷を負わず
1518年 足利義晴(11代将軍足利義澄の嫡子)家臣の塚原高幹が京都政局に見切りをつけ常陸鹿島へ帰国、松本尚勝の世話で鹿島神宮に千日参籠し秘剣「一つの太刀」の境地に達し名を塚原卜伝に改める(生家の卜部氏に因む)
1523年 秘剣「一つの太刀」の真髄に達した塚原卜伝が再び廻国修行に出立、武蔵川越城下で小薙刀の名人梶原長門と立ち合い一瞬の差で斬殺、京都で12代将軍足利義晴に帰参し小太刀を教える
1533年 伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始
1533年 塚原卜伝が常陸鹿島へ帰国、44歳で漸く塚原安幹の娘を娶り家督を継ぐが新妻が病死したため塚原一族から幹重を養子に迎え嗣子とする
1556年 67歳の塚原卜伝が養子の幹重に家督を譲って剃髪出家し13代将軍足利義輝を援けるため三たび上洛、近江で亡命生活を送る義輝に小太刀を指南し2年後の京都帰還に際して新当流の印可と秘剣「一つの太刀」を授与、卜伝は退いて大徳寺に参禅したあと京都を去って諸国を旅し伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を歴訪、義輝が三好三人衆に襲われ斬死すると京都相国寺の牌所を詣で10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国
1565年 [永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が三好長慶の死を機に自立を図る二条御所の将軍足利義輝を襲撃(松永久秀は消極的あるいは不関与説もあり)、塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪将軍義輝は刀を換えつつ奮戦するが斬死(享年30)、義輝の生母慶寿院は殉死し弟の鹿苑寺周ロは殺されるが一乗院覚慶(足利義昭)は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、三好長慶の養嗣子義継を擁する三好三人衆が専横を強める松永久秀と断交し争乱に発展
1566年 塚原卜伝が10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国、家政は養子の塚原幹重に任せ吉川道場で兵法を教えながら歌を詠む悠々自適の余生を過ごす(和歌集『卜伝百首』が現存) / 箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)
1569年 織田信長の滝川一益軍団が伊勢に侵攻、三男信孝を神戸氏・弟信包を長野氏の当主に据え、伊勢国司(飛騨姉小路・土佐一条と並ぶ三国司)北畠具教の大河内城を攻囲・恭順させて次男信雄を養嗣子に据え名門北畠家と伊勢国を奪取(北畠具教は塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪であったが、1576年三瀬の変で一族と共に殺戮された)〜信長近侍の蒲生氏郷が初陣し介添役無しで首級を挙げる活躍、信長は自ら烏帽子親となって岐阜城で氏郷を元服させ、娘の冬姫を妻に与え近江日野城への帰還を許す
1571年 秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37度・真剣勝負19度に無敗で212人を斃し上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝えた塚原卜伝が故郷の常陸鹿島にて死去(享年82)、創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれる  
交友
卜部呼常 / 鹿島七流を伝えた常陸大掾重臣
卜部覚賢 / 実父・呼常嫡子
卜部常賢 / 覚賢嫡子
塚原安幹 / 養父・常陸大掾重臣で神道流師範
塚原幹重 / 養嗣子
大掾景幹 / 主君
大掾清幹 / 佐竹・北条に滅ぼされた大掾当主
飯篠長威斎家直 / 天真正伝香取神道流・道術兵法の創始者
根岸兎角之助 / 塚原卜伝高弟(微塵流)
斎藤伝鬼坊 / 塚原卜伝高弟(天道流)  
 
塚原卜伝 6

 

塚原卜伝とは
塚原卜伝は戦国時代の剣士。京都で起きた大動乱・応仁の乱が終わったころ、鹿島神宮の神官・吉川家の次男として生まれました。(西暦1489年)
幼いころは、父から与えられた朝孝ともたかという名前。吉川家は鹿島の太刀を受け継ぐ家系で朝孝の父は大人しい兄よりも朝孝に剣を継がせたいと考えていたようです。
しかし、父は生まれてすぐに剣友で塚原城の殿様塚原安幹と朝孝を養子に出す約束をしました。長男への期待と次男の将来を考えてのことだったのでしょう。
それにより朝孝は6歳で塚原家の養子となりました。

卜伝が養子となった塚原氏の本姓は平氏。卜伝の家系(吉川家)が家老を務める鹿島氏の分家です。
幼少期
卜伝の強さは才能ではなく経歴にもあります。
生まれ育った吉川家は鹿島の太刀(鹿島古流)を受け継ぐ家系。幼いころから剣術の達人である父に鍛えられてきました。そして養子先の塚原家は香取の太刀(天真正伝香取神道流)を受け継ぐ家系。やはり、達人の義父から猛烈な訓練で鍛えられたといいます。
武者修行
卜伝は17歳の元服(成人)のあと、名前を高幹たかもとと改め、武者修行のため鹿嶋を離れます。(いわゆる鹿嶋立ち)
卜伝が初めて真剣勝負をしたのは、鹿島立ちから1年後。京都の清水でした。卜伝百首によれば、それから生涯39度の合戦、19回の真剣勝負を行いましたが、一度も負傷しませんでした。
その後の足取りははっきりしませんが、諸国を巡って修業を続け、30歳の頃(25〜26歳とも)に区切りをつけて鹿嶋へ帰還。そして、自らの殺人剣を見直し、人を活かすために使えないかと考え出すのです。
戦国時代なので剣の封印はできませんでしたが、卜伝は望めば殿様になれます。生活のために剣をとる必要はなかったので、そうした考えに至ったのだと思います。また、卜伝にはもともと神道や仏教への信仰があるので殺生を望まなかったのでしょう。
活人剣への目覚めは鹿島神宮の神官の家に生まれたことも関係あると思います。鹿島神宮のご祭神はタケミカヅチ。最強の神でありながら、力に頼らずに話し合いで解決してきました。それを知っている卜伝は剣よりも和によって戦いを無くそうとしたのではないでしょうか。
奥義の会得
鹿島に戻ったあと、卜伝は自分の剣を見つめ直すため鹿島神宮に1000日こもりました。そこで悟りを開き、進むべき剣の道を決めたといいます。
修業を重ねて奥義を会得し、流派・新当流しんとうりゅうを開きます。卜伝という名前は、この後に名乗り始めました。元服のあとは塚原高幹たかもとですが、それとは別に剣名を卜伝としたのです。
新当流とは「心を新しくして、事にあたれ!」修行の末に聞いた神の声が由来とされています。
物語はもっとありますが、とてもご紹介しきれません。これより詳しくは小説やテレビドラマをご覧ください。卜伝が船の上で興奮する武士を退けたり、教え子たちに争いを避ける道を説くエピソードなど、知れば知るほど好きになりますよ。
剣を伝えた者たち
卜伝は生涯3回の旅に出ています。そして最後の旅では、自分の剣を積極的に伝えています。卜伝が剣を伝えた中には、将軍足利義輝あしかが よしてる!後に将軍となった足利義昭よしあき、伊勢の国司だった北畠具教きたばたけ とものり。
他にも今川氏真や武田信玄の家臣たちにも教えたと云われます。
卜伝の名乗り
塚原卜伝。変わった名前ですよね。実は卜伝の名前はいろいろと面白い想像ができます。
幼いころの『朝孝』は吉川家の父から与えられました。元服したあとは塚原 新右衛門しんえもん 高幹たかもとに改めるのですが、幹という字は塚原家の父・安幹やすもとから受け継いでいます。『ともたか』から『たかもと』は吉川の父からもらった名前も意識していますよね。
その後は卜伝と名乗ります。卜は『うら』とも読みます。これは吉川家の本姓が『卜部うらべ』であることに由来。卜部家の剣を伝える。だから卜伝。

新右衛門は安幹の実の子どもで早くに亡くなった新右衛門 安義やすよしの名乗りと同じ。もし、安義が生きていたら卜伝は後継ぎとして塚原家に来なかったはずですが。。。
塚原卜伝の墓
卜伝のゆかりはあまり残っていないのですが、鹿嶋市内にお墓があります。墓石と略歴の紹介がある簡素なものですが、大切にしたい場所です。
2つ並んだお墓は卜伝と妙たえ夫人。卜伝は45歳のときに25歳年下の夫人と結婚。結婚生活は11年ほど。夫人は早くに亡くなってしまいました。その後、卜伝は再婚せず生涯独身でした。
卜伝は享年83歳。最後の旅から帰ってきたあとは塚原城のそばに小さな家を立てて慎ましく隠居。菩提寺は梅香寺でしたが、焼失してしまったのでお墓だけ残っています。
卜伝の墓から歩いて5分ほどの長吉寺。こちらには卜伝夫婦の位牌が安置されています。もともとお墓のある梅香寺にあったと思いますが、なんらかに理由で移されたのでしょう。  
 
塚原卜伝 7

 

天真正伝香取神道流
日本武道の源流「天真正伝香取神道流」は飯篠長威斎家直を流祖として、下総の国香取の地に伝承する武道である。家直公は六十余歳にして香取大神に壱千日の大願をたて斉戒沐浴、兵法に励み百錬千鍛を重ね粉骨の修行の後、香取大神より神書一巻を授けられたと伝えられ、その後、連綿と続き、現在宗家二十代目飯篠快貞に至っている。
その間、有名な門流には上泉伊勢守、塚原土佐守及び卜傳、松本備前守、諸岡一羽斎、秀吉の軍師竹中半兵衛、奥州仙台家老片倉小十郎(白石城主)、幕府旗本には中台信太郎、松本直一郎、伊庭軍兵衛ら、また諸藩の代々指南家等々枚挙にいとまがない。
剣術、居合、柔術、棒術、槍術、薙刀術、手裏剣術等に加えて、築城、風水、忍術等も伝承されている総合武術である。
卜伝流(新当流)
塚原卜伝が開祖。天真正伝香取神道流を修め、鹿島新当流(卜伝流)を開きました。
その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられている。
若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、彼はとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが(月岡芳年の錦絵などで知られる)、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は史実ではない。
逸話
卜伝の弟子の一人が、馬の後ろを歩いていた時、急に馬が跳ねて蹴られそうになりました。弟子はとっさに身をかわして避けると民衆は、卜伝の弟子を褒め称えます。しかし卜伝の評価は違っていました。馬ははねるものということを忘れ、うかつにもそのそばを通った弟子が悪い。はじめから馬を大きく避けて通ってこそ、わが弟子である。
卜伝には三人の養子がいました。家督を譲るために三人の息子の心がけを試します。鴨居の上に木枕を置き、襖を開けると木枕が落ちるような仕掛けをしました。三男は落ちてきた木枕を真二つに切って、入ってきた。次男は木枕が落ちてくるとさっと退き、刀の柄に手をかけ、落ちてきた物が木枕であることを確認して入ってきた。長男・彦四郎は仕掛けを見破ると、木枕を取り除いて部屋に入ってきました。これを見た卜伝は長男・彦四郎に家督を譲ることに決めたといいます。いくら強いからといって、真剣勝負では何が起きるかわかりません。偶然でも負けることがあります。
卜伝は琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑んでくる。彼はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って彼を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、剣士と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せるのだが、水深が足の立つ程になるやいなや、剣士は船を飛び降り島へ急ごうとする。しかし卜伝はそのままなにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまったという。
一の太刀
塚原卜伝は鹿島神宮に千日参詣し、最後の日に神託を得て一太刀の妙理を悟った。この神託に新當の字義があったので流派の名前が新當流になった。
卜伝は、一ツの太刀、一ツの位、一太刀の3段を極意とした。
卜伝は諸国修行の後、将軍の足利義輝と足利義昭に一太刀を伝え、北畠具教と武田信玄に秘術を説いた。
足利義輝は、室町幕府第13代将軍。室町幕府の第13代将軍であり、上泉 信綱・塚原卜伝から剣を学んだ剣豪将軍として知られる。 
 
塚原卜伝・諸話 1

 

伝説
弟子・孫弟子たちが次々に流派を広げていった
卜伝は延徳元年(1489年)、現在の茨城県鹿島市で代々剣術の先生をやっていた家に生まれました。
父は卜部覚賢。後に塚原土佐守安幹の養子となります。
卜伝は才能と良い環境に恵まれ、十代後半の頃には既に剣豪として知られていたようで。その中で戦に参加したこともあれば、行く先々で教えを請われたこともあり、当時にしてはかなり広い範囲で逸話を残しています。
おそらく一つの家に仕えるのではなく、あくまで剣豪として生きていたからこそバリエーションに富んだエピソードが生まれたのでしょうね。
新選組の天然理心流も卜伝の一派になる!?
弟子たちは大きく二つのグループに分かれます。といっても弟子同士の面識があったのはごく一部でしょう。
まず一つは、後に自らもまた剣術の流派を興した人々です。例えば、諸岡一羽(いっぱ)が一羽流を興し、さらにその弟子がまた新たな流派を創設していったりしています。
卜伝が「剣聖」と呼ばれるのは、後世に語り伝えられた実力や人格などに加えて、「師匠の師匠の師匠(ry)なんだからエライ人に決まってんだろ!」といった遠い存在に対する尊崇の念からというのもあるんでしょうね。
ちなみに、新撰組局長・近藤勇が会得したと言われている”天然理心流”も卜伝の流派・鹿島神道流や一羽流の流れを組むとされることがあります。
卜伝の孫弟子の孫弟子みたいな見方ができるかもしれません。ややこしいな。
将軍様や名門武家など名だたる武将たち
そして弟子グループのもう一つは、戦国武将たちです。
「剣豪将軍」こと足利義輝、ミスターチートこと細川幽斎(藤孝)、家が滅びても妻LOVEで生き残った今川氏真、はたまた北畠具教など、錚々たるメンバーが名を連ねています。
武家の名門ばかりですね。どちらもはっきりした記録がなく「ホントに弟子?」という人もいるのですが、まあそれだけ尊敬されていたということですね。
個人的には、義輝がああいう死に方をしているので、これを聞いたお師匠様の卜伝が何を思ったかとかものすごく興味があります。小説とかでありそうですね。
また、剣の道を極めた人にはままあることですが、卜伝は「戦わずして勝つ」ことも重視していました。
「被害を最小限にして勝つ」ともいえますかね。これを示す有名なエピソードとして、象徴的なものがあります。
これが無手勝流だ!
あるとき卜伝が琵琶湖を渡る船に乗り、相客と話していたところ勝負を持ちかけられました。
卜伝は面倒だったのか早く目的地に行きたかったのか、なかなか受けようとはしません。しかし相手がしつこいので彼も折れ、「そこまで言うなら一本だけ」ということで別の船に移って近くの小島に向かいました。
相手はあの塚原卜伝と勝負ができるということでwktkdkdk 足がつくところまで来たと見るや否や、さっそく降り立ちました。
と、卜伝はここで予想だにしない行動に出ます。
なんと、相手を一人残してそのまま船を再び漕ぎ出していったのです。呆然とする相手を尻目に、彼は「これが無手勝流だ! ハーッハッハッハッハ!!」(意訳)と呵呵大笑して去っていったとか。確かにその通りだけど……。
相手はその後誰かに助けてもらえたんですかね。助からなかったらその場で怨霊になっててもおかしくないですけど、琵琶湖にそういう話はあるんでしょうか。
怪談はいくつかあるらしいですが、この件が関係あるのかどうかまで確かめる度胸がありませんでしたスイマセン。ご存知の方はこっそり教えてくださいませ。
鍋蓋対決:武蔵は卜伝の死後に生まれてます
また、卜伝と勝負というと宮本武蔵との逸話も有名ですね。
「武蔵が卜伝の食事中に乱入して切りかかったが、卜伝は鍋の蓋で防御して応じた」
というものです。アンタはド○クエの主人公かとかいろいろツッコミたくなりますが、そもそもこの話には重大なミスがあります。
上記の通り、卜伝は信長の時代に亡くなっています。が、武蔵は天正十二年(1584年)頃、つまり本能寺の変の後に生まれたといわれているので、会えるはずがないのです。
まぁこの話自体が江戸時代あたりに出てきたものらしいので、当時の剣術ファンが「卜伝と武蔵だったらこういうことできんじゃね!?」「なにそれかっこいい!!」「さすが剣聖!俺達にできないことを(ry」みたいな感じで盛り上がって大ウケした結果、現代まで知られるようになったんでしょうねえ。
……まとめると、日本人の遺伝子は400年前から着々と受け継がれているということになるのでしょうか。なるほどわからん。
剣豪ということで、当たり前といえば当たり前に物騒な話が多いのですが、死に方もそうかと思いきやそうでもありません。
親族の家で穏やかに息を引き取ったそうです。
これが武将であれば不本意と感じたかもしれませんけども、彼はあくまで剣豪です。畳の上で死ねて良かったと思っていたかもしれません。  
逸話
塚原卜伝は常陸の国(現在の茨城県)の鹿島で生まれた剣豪です。父の名は吉川左京覚賢(よしかわさきょうあきたか)で、卜部氏でありました。この卜部氏というのは、鹿島神宮に使えていた神官でした。そしてこの卜部氏は、古くから鹿島の土地に伝わる『鹿島の太刀』という剣法を受け継いでいる家柄だったのです。
そしてさらには、鹿島城の家老も務めていた上に、正等寺という寺で座主家(ざすけ・僧侶等を束ねていた家)としても繋がりがありました。
卜伝は吉川家の次男として生まれ、幼名を朝孝といいました。六歳ごろに塚原土佐守安幹(つかはらとさのかみやすもと)のところへと養子に出されます。一六歳になると、朝孝は初めての剣術修行の旅に出ました。朝孝は元服を済ませた後に、名を『塚原新右衛門高幹(つかはらしんうえもんたかもと)』と改めます。
その後十五年に渡って、高幹は沢山の勝負を経験して実力を付けていきます。その修行の際には、真剣で試合をしたのが十九回。三十七回戦いの場で戦っています。一度としてしくじる事もなく、傷ができたのも矢で負った六か所のみ。一対一で戦い二百十二人を負かしたと言われています。
様々な地域を回っての修行は京都近辺で行っており、戦場において人の死について触れることが多かったので、心的に辛くなり修行を打ち止めにして、故郷である鹿島に帰ったのでした。
高幹はあまりにも荒んでしまいました。父親たちは心配して鹿島きっての剣の使い手であり、鹿島城の家老も担っていた松本政信に高幹を託す事にしたのです。
高幹は鹿島神宮に千日間参籠(祈願のために籠ること)をすることになりました。この参籠によって、高幹は気持ちを落ち着け、自身の剣とも、鍛錬をしながら向き合う事ができたのです。その後に『気持ちを改めて新たに再出発をせよ』という鹿島の大神からのお告げを受けた高幹は、自分の号を“卜部の剣を伝える”という意味で『卜伝』としたのでした。
その後は西日本から九州の辺りまでを剣の修行で回ったと言います。この間に実の父が亡くなりますが、その事をきっかけに十年ほどの修行を切り上げて鹿島に戻りました。
それからは塚原城の城主となります。妙という女性と結婚して、城を守り弟子たちを育てることに尽力しました。
その十年後に妻・妙が亡くなると、卜伝は養子である彦四郎幹重(みきしげ)に塚原城・城主という立場を譲り、七十歳近くの年齢にして、再び修行の旅に出ます。
“国に平和を与えてくれる剣”と言われる、自らが作りあげた『一の太刀』を広めようと、当時の将軍足利義輝などに剣の手ほどきをしています。その後、伊勢国司であった北畠具教に二年ほど教え、『一の太刀』を与えました。卜伝はまた旅を続けますが、美濃の国や信濃の国を通り、甲斐の国に辿りつきます。甲斐では、剣を武田信玄に見せ、信玄らにも指導をしたのでした。山本勘助らも指導を受けたといいます。
甲斐の地を後にした卜伝は、下野の国(栃木)の唐沢城・城主の下で子どもらに剣術を教えました。その中でも、次男や三男は後に武芸者として知られました。卜伝は常陸の鹿島に帰りますが、八十三歳で亡くなりました。
様々な地域を旅しながら剣の腕を磨き、人にも伝えていった卜伝。その剣は人々の和を願ってのものでした。そして後に『剣聖』と言われるようになったのです。

卜伝の弟子の一人が、馬の後ろを歩いていた時、急に馬が跳ねて蹴られそうになりました。弟子はとっさに身をかわして避けると民衆は、卜伝の弟子を褒め称えます。
しかし卜伝の評価は違っていました。馬ははねるものということを忘れ、うかつにもそのそばを通った弟子が悪い。はじめから馬を大きく避けて通ってこそ、わが弟子である。卜伝の重んずることは「戦わずして勝つ」ことです。無用のリスクは背負ないことが名人の条件であると考えていたようです。
卜伝には三人の養子がいました。家督を譲るために三人の息子の心がけを試します。鴨居の上に木枕を置き、襖を開けると木枕が落ちるような仕掛けをしました。
三男は落ちてきた木枕を真二つに切って、入ってきた。
次男は木枕が落ちてくるとさっと退き、刀の柄に手をかけ、落ちてきた物が木枕であることを確認して入ってきた。
長男・彦四郎は仕掛けを見破ると、木枕を取り除いて部屋に入ってきました。
これを見た卜伝は長男・彦四郎に家督を譲ることに決めたといいます。
いくら強いからといって、真剣勝負では何が起きるかわかりません。偶然でも負けることがあります。
卜伝の無敗の秘訣は先を見越して、しなくてもいい無益な戦いをしなかったからではないでしょうか?  
 
塚原卜伝・諸話 2

 

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古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
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上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
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柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
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柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
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柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
6
丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
7
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
8
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
9
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
10
宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
11
佐竹氏は、清和源氏を興した源頼義の三男新羅三郎義光(嫡流八幡太郎義家の弟)の子孫で、義光の孫昌義が住地の常陸久慈郡佐竹郷から名字を採った。甲斐源氏とは同族で佐竹義重は武田信玄と義光嫡流論争をしたという。平安末期の佐竹氏は常陸北部七郡を支配し常陸平氏大掾氏と並ぶ大族であったが、鎌倉時代は執権北条氏や国人衆に所領を奪われ逼塞、室町時代に入ると早々に足利尊氏に帰服し常陸守護職と鎌倉公方の重鎮「関東八屋形」(佐竹・宇都宮・小田・小山・那須・結城・千葉・長沼)の格式を得た。11代佐竹義盛で嫡流が途絶え関東管領上杉氏から婿養子を迎えたことから同族間抗争が起り(山入の乱)国人勢力との鍔迫り合いが続いたが、15代佐竹義舜が山入氏を滅ぼして常陸北部を掌握し、孫の17代佐竹義昭は武力に婚姻政策も駆使して諸豪を圧伏した(次男資家に那須氏を継がせ、娘は宇都宮広綱・岩城親隆に入輿)。義昭の死に伴い小田・結城・白河結城・那須氏が北条氏康の旗下に属して反攻に出たが嫡子の佐竹義重は上杉謙信の力添えで撃退し継室の実家大掾氏も従えて常陸を制圧、南奥羽へ手を伸ばした。佐竹義重は、伊達晴宗の娘を娶って五児を生し、次男義広は会津黒川城主蘆名氏の当主に押込んだが伊達政宗に敗退、三男貞隆は岩城氏・四男宣隆は多賀谷氏の当主に据えた。嫡子の佐竹義宣は、義重の反対に背いて石田三成・上杉景勝に内応し関ヶ原合戦後に常陸水戸藩54万石から秋田久保田藩20万石へ減転封された。義宣は那須・多賀谷・蘆名氏の娘などを娶り二児を生したがいずれも夭逝、末弟の義直を嗣子とするも江戸城饗応で居眠りしたため廃嫡勘当し、亀田藩主岩城吉隆改め佐竹義隆(貞隆の嫡子)を2代藩主に据えた(岩城家は宣隆が承継)。佐竹家は幕末まで封土を保ち明治維新後は佐竹四家(東西南北家)と共に華族に列し今日でも有力者を輩出する東北屈指の名門である。
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佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
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足利氏は清和源氏の一流で、八幡太郎義家の四男義国の次男義康を家祖とし本貫の下野足利荘から名字を採った。源頼朝は義家の嫡子悪源太義親、新田氏は義国の長男義重の裔である。頼朝の鎌倉将軍家は3代で滅びたが、足利氏は執権北条氏と密接な血縁を結んで源氏筆頭の家勢を保ち、元寇以来不満を募らせる武士団に押された足利尊氏が建武の新政を成功に導き、武士社会の現実を無視した後醍醐天皇を追放して室町幕府を開いた。尊氏が気前良く大封を配ったため支配基盤は脆弱で、南北朝合一を果し相国寺から天皇位を狙った3代将軍足利義満をピークに将軍権力は弱体化、復権を図った6代足利義教は赤松満祐に弑殺され(嘉吉の乱)、無気力な8代足利義政は悪妻日野富子の尻に敷かれ後継争いから応仁の大乱が勃発、9代足利義尚は古河公方足利成氏や南近江守護六角高頼の反逆を掣肘できず、群雄割拠する戦国時代に突入した。「半将軍」と称された管領細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立するが(明応の政変)養子3人の家督争いで暗殺され(永正の錯乱)、周防の大内義興が挙兵上洛し将軍義澄と細川澄元・三好之長の阿波勢を追放して義稙を将軍に復位させた。義興は船岡山合戦に勝利したが領国を尼子経久に侵され帰国、細川高国は六角定頼と同盟して三好之長を討ち寝返った将軍義稙を追放して足利義晴を12代将軍に擁立し(等持院の戦い)播磨の浦上村宗を誘って阿波勢を迎撃するが逆に討取られた(大物崩れ)。細川晴元は反逆した将軍義晴を追放し(嫡子足利義輝が近江で13代将軍を承継)一向一揆を扇動して権臣の三好元長を滅ぼすが、嫡子の三好長慶が報復を果し三好政権を樹立した。隠忍帰順した将軍義輝は諸侯に通じて三好政権打倒を図るが三好三人衆・松永久秀に襲われ斬死(永禄の変)、14代将軍足利義栄は入京叶わず病没し、尾張・美濃を征した織田信長が流浪の足利義昭を15代将軍に奉じ「天下布武」に乗出した。将軍義昭は信長を裏切って包囲網に加担するが武田信玄の急逝で夢破れ室町幕府は235年の幕を閉じた。足利将軍家は断絶したが、鎌倉公方系の足利国朝が下野喜連川藩を立藩し幕末まで存続した。
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足利義輝は、抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡する。12代室町将軍足利義晴の嫡子で、1546年10歳のとき亡命先の近江坂本で将軍位を譲られたが、敵対する管領細川晴元に追われては近江の六角定頼に匿われる無頼生活が続いた。1549年江口の戦いで主君晴元を破った三好長慶が幕政を握ると、足利義晴・義輝は細川晴元に担がれ長慶に抵抗したが、六角定頼の死で勢力を削がれ近江朽木へ退避、1558年京都奪回を試みるも阿波勢の来援で撃破され降伏して5年ぶりに京都へ戻った(北白川の戦い)。傀儡将軍も確保し幕政を牛耳った三好長慶は摂津・阿波を拠点に畿内・四国10ヵ国を制圧したが、剛毅な将軍足利義輝は抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達稙宗・最上義光・武田信玄・上杉謙信・織田信長・斉藤義龍・北条氏政・毛利元就・尼子晴久・大友宗麟・島津貴久らと関係を築き三好政権打倒を目論んだ。宿敵三好長慶の運命は弟の十河一存の病死で一気に暗転、1562年河内の畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢を誘って蜂起すると、和睦工作で窮地を凌ぐも弟の三好実休が戦死し三好家中では戦功著しい松永久秀が台頭(久米田の戦い)、翌年嫡子三好義興に続き細川晴元・細川氏綱も死んで大義名分の管領を喪い、謀反の嫌疑で弟の安宅冬康を誅殺した直後に長慶自身も病没した。足利義輝には好機が到来したが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に先手を打たれ二条御所を急襲されて討死(永禄の変)、三好氏を倒しても誰かに担がれるほか無かったが見事な死様で武門の棟梁の矜持を示した。足利義輝には嗣子が無く、三弟の周ロは殺されたが次弟の足利義昭は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、幕臣の細川藤孝・明智光秀の斡旋工作が実り3年後に織田信長に担がれ最後の室町将軍となる。信長の上洛軍に三好三人衆も六角義賢も蹴散らされ、松永久秀は帰順するも後に謀反して滅ぼされた。
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足利義昭は、横死した剣豪将軍足利義輝の弟で、「天下布武」を目指す織田信長に担がれるも裏切って自滅した室町幕府最後の将軍、旧臣明智光秀が信長を討ったが天下は豊臣秀吉が奪いその庇護下で天寿を全うした。12代将軍足利義晴の次男で興福寺一乗院門跡となり28歳まで僧侶覚慶であった。1565年兄義輝を弑殺した三好三人衆・松永久秀に捕えられたが三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は足利将軍家の家督を宣言し還俗して足利義昭を名乗り、南近江守護六角義賢が献上した矢島御所に拠って上杉謙信ら諸侯に上洛を促すが、三好氏に圧迫されて逃亡し若狭武田氏を経て越前朝倉氏に身を寄せた。1568年朝倉義景に失望した足利義昭が新参の明智光秀の手引きで尾張の織田信長へ鞍替えすると、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ六角・三好を一掃し入洛して義昭を15代室町将軍に擁立した。義昭は帰順した仇敵松永久秀の処刑を望んだが謝辞された。翌年三好勢が本圀寺に仮寓する義昭を襲うが岐阜城から戻った信長が一蹴、信長は豪壮な二条御所を造営し将軍の権威付けに努めるが、「幕府再興」に有頂天の足利義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが逆に『殿中御掟』を突きつけられ傀儡将軍の増長を掣肘された。1571年石山合戦勃発で信長包囲網が結成されると、将軍足利義昭はあっさり恩人を裏切り「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・六角・延暦寺に内通し仇敵の松永・三好へも決起を呼掛け武田信玄・上杉謙信・毛利輝元には上洛を懇請した。翌年戦国最強の武田軍が三方ヶ原合戦で徳川家康を撃破し京都に迫ると、松永久秀の呼応に逸る足利義昭は勇み足で挙兵したが信玄急死で目論みが崩れ宇治槇島城を攻囲され降伏、明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣にも見限られ、1573年京都を追放され室町幕府は滅亡した。前将軍足利義昭は、毛利輝元に匿われ備後鞆から打倒信長・幕府再興を訴えたが相手にされず、1588年天下人豊臣秀吉に召出され正式に将軍職辞任を表明、没落大名の文芸サロン御伽衆に加えられ9年後に大坂で病没した。
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細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
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細川藤孝は、没落した和泉上守護家の当主で常に勝者に属し肥後熊本藩54万石の開祖となった政界浮遊の達人である。将軍足利義晴・細川晴元に従い三好長慶に所領を奪われた細川元常の死後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に将軍家を支え、足利義輝弑逆後は弟の足利義昭を救出して若狭武田氏・越前朝倉氏を頼り、1568年新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し幕府再興に働いた。が、1571年将軍義昭が恩人を裏切り信長包囲網に加担、1573年武田信玄上洛の尻馬に乗って挙兵に及ぶと細川藤孝は明智光秀・荒木村重と共に義昭を見限って信長に臣従し、京都長岡と勝竜寺城を与えられ岩成友通討伐に参陣した。遅れて降伏した三淵藤英・秋豪父子は信長に誅殺された。細川藤孝は、上司明智光秀の娘ガラシャを嫡子忠興の妻に迎え、光秀の旗下で畿内平定戦から丹波攻略、松永久秀討伐と東奔西走、1579年波多野秀治・赤井直正を滅ぼし丹波平定が成ると光秀は近江坂本に丹波を加増され、若狭計略を担当した藤孝は若狭守護一色義道を討ち丹後南半11万石を与えられ宮津城に入った。1582年本能寺の変が勃発、光秀に出陣を促された細川藤孝は剃髪隠居して家督を忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)ガラシャを幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は豊臣秀吉に敗れ滅亡(山崎の戦い)、藤孝は早速秀吉に帰順し娘婿の一色義定を討って丹後を平定し清洲会議で加増を受けた。耄碌した秀吉が千利休・豊臣秀次を殺すと両人に近い細川忠興は切腹も取沙汰されたが徳川家康に救われ、秀吉没後直ちに家康に帰服し丹後12万石に豊後杵築6万石を加増された。1600年関ヶ原の戦いが起ると、大坂屋敷のガラシャは石田三成に襲われ自害、忠興は弔い合戦で武功を挙げ豊前中津39万9千石へ加転封となった。丹後田辺城の細川藤孝は西軍に囲まれ討死を覚悟したが、歌道「古今伝授」伝承者の死を惜しむ弟子達が奔走し後陽成天皇の勅命により降伏、戦後救出され京都で悠々自適の余生を送った。細川家は忠興の後嗣忠利の代に肥後熊本54万石へ加転封となり現代の細川護熙まで繁栄を続ける。
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三好氏は、鎌倉時代に阿波守護となった阿波小笠原氏(信濃源氏)の末裔で、鎌倉時代初期に阿波三好郡に土着した小笠原長経より三好を名乗り、室町時代に四国探題格で四国全部の守護に就いた細川家に随従し阿波守護代を世襲した。智勇兼備と謳われた三好之長は、管領細川政元暗殺後のお家騒動(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)で主君細川澄元を擁して畿内に進出したが、大内義興・細川高国・六角定頼に敗れ嫡子長秀と共に自害に追込まれた。長秀の嫡子三好元長は、細川高国を討って復讐を果したが、澄元の嫡子細川晴元と対立、晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ切腹、内臓を天井に投げつける壮絶死を遂げた。之長敗死の翌年に生れた元長の嫡子三好長慶は、仇敵細川晴元に帰参して実力を養い、木沢長政・三好政長を討って晴元と将軍足利義輝を追放し室町幕府の実権を掌握した(三好政権)。三好長慶の覇業を支えたのは、弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らの一門衆であったが、一存の病死に続いて実休が戦死し、嫡子三好義興も22歳で早世、冬康は謀反を疑い誅殺してしまった。長慶が男児無く死ぬと、一存の嫡子三好義継が後を継いだが、一門の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀(長慶の家宰で娘婿)の勢力争いにより三好政権は内部崩壊、織田信長の畿内侵攻で三好三人衆は容易く掃討され、義継と松永久秀は信長に降伏するも後に謀反し滅ぼされた。三好の嫡流は途絶えたが、元長の末弟三好善行の子為三と一門の三好政勝の子孫が徳川幕臣として家名を残した。三好実休の子で十河一存の養子に入った十河存保は、長宗我部元親に敗れるも秀吉に仕え讃岐十河3万石の大名に復活したが、秀吉の九州征伐に従い島津家久に敗れ討死(戸次川の戦い)、遺児十河存英は三好政康ら三好残党と共に大坂夏の陣で戦死した。
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三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。
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六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。
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大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。  
 

 

 
 
 
上泉信綱

 

  1508? - 1577
上泉信綱 1

 

永正5年〈1508〉? - 天正5年〈1577) 戦国時代の日本の兵法家で武将。一時期の武家官位名を添えた「上泉 伊勢守( − いせのかみ)」の名でもよく知られる(武家官位としての伊勢守)。上泉氏の本貫地の出身で、出生地は上野国勢多郡桂萱郷上泉村(現・群馬県前橋市上泉町内)あるいはその近傍とされる。生年は推測、没年は天正10年(1582年)など諸説ある。
剣聖と讃えられる剣豪の一人で、新陰流の祖。
同時代史料上の上泉信綱
『言継卿記』の大胡武蔵守
上泉信綱は、戦国時代の史料上には、山科言継の日記『言継卿記』に、永禄12年(1569年)1月15日 - 元亀2年(1571年)7月21日まで32回みえている。「大胡武蔵守」として多く現れ、「上泉武蔵守(信綱)」などとある。伊勢守とはみえない。
『言継卿記』によると、永禄12年1月15日、卜部兼興の子・長松丸の訴状に「叔母舅」の大胡武蔵守としてみられる。以後、武蔵守は言継を訪問するようになる。ただし5月16日から元亀元年(1570年)5月22日までは年始の挨拶1回のみである。元亀元年5月23日には言継は軍配を上泉武蔵守信綱から伝授された。6月28日信綱は従四位下に叙せられたことを言継に語っている。また武蔵守が兵法を披露するのは元亀元年8月10日の梨本宮門跡と19日の太秦真珠院での2回のみである。 元亀2年3月には武蔵守は近日在国するとあり、7月2日に武蔵守が大和国から上京している。7月21日、信綱は京を去り故郷へ向かうことを言継に伝え、言継から下野国結城氏への紹介状を得ている。
その他の古文書
○長野氏の軍制を記した「上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録(永禄元戊午年正月廿九日改軍評定到着帳)」(『箕輪町誌』収録)には、勢多郡上泉の住人の「上泉伊勢守時則」が下柴砦の主としてみえる。これを『桂萱村誌』(桂萱地区自治会連合会桂萱村誌刊行委員会、2006年)は諱が違うものの信綱が長野氏に仕えたのは間違いないとする。
○上泉伊勢守が門弟・丸目蔵人佐とともに将軍・足利義輝に兵法を披露し、それに対する義輝からの感状が、熊本県の丸目家に所蔵される。永禄7年(1564年)のものと言われるが、年次の記載は無く実際のところは不詳。少なくとも永禄8年5月19日(1565年)の義輝討死以前と推測される。ただし、感状自体の真偽について考証を要すると指摘されている。
○永禄8年(1565年)4月、柳生宗厳に与えた印可状(現・柳生延春所蔵)が存在している。
○永禄8年8月付で、宝蔵院胤栄への印可状(現・柳生宗久所蔵)が伝来する
○丸目蔵人佐に対し、永禄10年(1567年)2月に与えた目録と、同年5月に与えた印可状が残る。
これらの印可状・目録の中で信綱は「上泉伊勢守藤原信綱」と記されている。尾張柳生の『兵法由来覚』には、「上泉伊勢守後、武蔵守と改申候」と記されている(『前橋市史 第一巻』 p.981.比較的信用できる資料としている)。
伝承や後世史料にみえる上泉伊勢守
上野国は赤城山麓の川原浜(上野国勢多郡川原浜。現在の群馬県前橋市河原浜町、明治22年の勢多郡大胡村河原浜、明治初期の南勢多郡河原浜村)に所在した大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ、大胡城の西南2里に位置した桂萱郷上泉村(現・前橋市上泉町内)に住んだ上泉氏の出身。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流・神道流・念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して」新陰流を大成した。
信綱は箕輪城の長野氏に仕えた。長野氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後宗治、疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わる。
嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続したと伝える。
剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる(『桂萱村誌』)。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。 一方子孫と伝える上泉氏も独自の家伝を持っている(後述)。
信綱の誕生と出自
名字は「大胡(おおご)」。通称の姓は「上泉」で、読みは「かみいずみ(歴史的仮名遣:かみいづみ)」もしくは「こういずみ(歴史的仮名遣:こういづみ)」。居城のあった現在の前橋市上泉町の「上泉」の読みは「かみいずみ(歴史的仮名遣:かみいづみ)」。
名は、『言継卿記』では大胡武蔵守または上泉武蔵守信綱。『武芸流派大事典』によると、自弁当流(神影正兵法備具兵神宜武士道居合)の伝書に秀長とあり(綿谷によれば初名)、次に秀綱、永禄8 - 9年から信綱だとする。『関八州古戦録』では金刺秀綱。伊勢守、のち武蔵守を名乗った。
上野国は赤城山麓の上泉(現在の群馬県前橋市上泉町)で生まれたと伝えられるが、異伝は上泉城を生誕地とする。生年は史料が無く、不明。尾張柳生家の柳生厳長は『正伝新陰流』(1957年)で永正5年(1508年)としている。
父は、『武芸流派大事典』や『国史大辞典』など通説によると大胡武蔵守秀継とされる。ただし異説もあり、『撃剣叢談』(三上元龍、1790年)では憲綱、上泉家伝来の系譜では上泉武蔵守義綱とある。
なお通説では大胡氏の一族とされるが、子孫という上泉家の家伝では一色氏の一族が大胡氏の名跡を継ぎ上泉氏の祖となったと伝える。
剣の師について
陰流、神道流、念流を学んだという信綱であるが、その師については諸説ある。
陰流
愛洲移香斎(久忠)を師とする説と、移香斎の子・元香斎小七郎(猿飛陰流)を師とする2説がある。
愛洲小七郎説 / 下川潮は『剣道の発達』(大日本武徳会、1925年)で小七郎説をとる。また、久忠の子孫・平沢氏の記録「平澤家傳」(「平澤家伝記」)には信綱に陰流を伝承した記述はない。疋田豊五郎が発行した伝書は全て、愛洲移香ー>愛洲小七郎ー>上泉武蔵守ー>疋田豊五郎となっている。
愛洲移香斎(久忠)説 / 尾張柳生家の柳生厳長は『正伝新陰流』にて移香斎説をとる。今村嘉雄は『図説日本剣豪史』で『正伝新陰流』の見解に賛同する。
神道流
松本備前守を師とする説とこれ以外を挙げる説がある。
松本備前守説 / 「武術流祖録」(天保14年)では、松本備前守政元に師事したという。天真正伝香取神道流宗家・飯篠家では代々飯篠家直の高弟である松本備前守に信綱が師事したと伝承する。太田亮は『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会、1934年)で松本尚勝に師事したとする。ただし太田は愛洲氏について指摘しない。武術史研究家・綿谷雪や直心影流15代山田次朗吉によると、直心影流などの伝書にみえる「杉本備前守」は「杉本」が「松本」の誤字であって「松本備前守」を意味するとされている。
杉本備前守政元説 / 直心影流18代石垣安造は著書『直心影流極意伝開』(新樹社、1992年)で、武術流祖録の内容は直心影流の兵法伝記からの写しであり、姓だけを勝手に杉本から松本にすり替えて改変したもので、「杉本」が「松本」の誤字ではなく、元禄の初めから現在まで直心影流は「松本備前守」ではなく「杉本備前守政元」が流祖であると主張している。
師の名を不記載 / 今村嘉雄は『図説日本剣豪史』では、信綱は念阿弥慈恩を流祖とする念流の流伝を学び、さらに飯篠長威斎の流伝になる神道流を修めたとし、師の名は挙げない。『正伝新陰流』では、備前守の信憑は飯篠宗家の記録が唯一だとし、ただ長威より50 - 60年代後代の人とあるだけでは、極めてあいまいだと論考している。
箕輪長野氏家臣時代
『撃剣叢談』によると、1555年(天文24年)北条氏康の大胡城攻撃に会い開城したという。その後、長野業正とその子長野業盛に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらったという。長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、それを惜しんだ信玄(諱は晴信)の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が『甲陽軍鑑』にある。
諸国流浪と剣術指南
江戸時代の『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』などによると、箕輪落城後、新陰流を普及させるため門弟と共に諸国流浪の旅に出るという。同行の門弟について、『本朝武芸小伝』は神後伊豆守・疋田文五郎など、『柳生家文書』では疋田分五郎と鈴木意伯が従ったとされる。
諸国流浪の年代は、『本朝武芸小伝』によると永禄6年(1563年)上洛という。『甲陽軍鑑』には古河公方・足利義氏に招かれたと書かれるが、真偽は不明。『武功雑記』には、信綱は上洛の帰途に山本勘助に会い、同行していた弟子・疋田が勘助と対戦してこれを破ったとある。ただし疋田の動向・勘助の没年などからフィクションらしいとされる。
「兵法由来覚」では、信綱一行は本国を出たのち伊勢神宮へ向かい、そこで柳生のことを聞き大和へ赴いたとする。年次の記載は無い。一方『正伝新陰流』では、京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いてそこへ向かい、胤栄と柳生宗厳と出会いこれを下したとする。永禄6年のことという。
永禄8年には柳生宗厳・胤栄に印可状を与え、永禄10年には目録を丸目蔵人佐に与えた。「兵法由来覚」では疋田景兼・香坂要も免状を受けたとする。
なお、確かな同時代史料である山科言継の日記『言継卿記』にある上洛期間は永禄12年1月15日 - 元亀2年7月21日までである。元亀2年7月21日に京を去り故郷へ向かったとある。
箕輪城落城年の問題
長野氏の本拠箕輪城落城の年次は落城に関する古文書が無く、後代の戦記物『箕輪軍記』『箕輪記』『上州治乱記』『関八州古戦録』『甲陽軍鑑』などに記載された永禄6年落城説が通説であった。しかし、近年の研究により、同時代史料である『長年寺古文書』(高崎市榛名町)にある永禄9年(1566年)に落城した説が有力となった。このため、永禄6年から信綱が諸国を往来していたという伝承や印可状・目録が問題となっている。永禄7年・永禄8年は武田氏侵攻により、長野氏側の諸城(倉賀野城、松井田城、安中城など)が防衛戦、落城していった年であり、この時期に長野家臣と伝来する信綱が主君の元を離れるのは不自然のためである。『新修高崎市史』では永禄9年の落城後に諸国流浪をしたのではとしている。
没年
その最期についても諸説ある。『関八州古戦録』、『上野国志』によれば天正5年に大和の柳生谷で亡くなり墓があるとする。ただし柳生には墓でなく芳徳寺に供養塔「柳眼塔」がある。
『武芸流派大事典』では、『橋林寺古文書』及び『西林寺過去帳』によって天正5年と書くが、疑う点も多いとする。まず『西林寺過去帳』には論争があり、没年を天正5年1月16日(1577年)とする『西林寺過去帳』だが、これは寺にある天正5年の開基墓が信綱の墓碑とする説に基づいている。しかし開基墓の解釈には異論があり、嫡男である上泉秀胤の供養碑という説(天正5年1月22日(1577年または天正4年(1576年))に信綱が西林寺を開基し信綱の十三回忌法要を行なったという『武芸流派大事典』所収の口伝に基づく)もある。『定本大和柳生一族』(今村嘉雄、1994年)では、天正5年に信綱が西林寺を開基し秀胤の十三回忌法要を行ったとして、没年を天正5年以後とする。
また気楽流伝書には天正5年4月18日とある。
子孫の上泉家による異伝
信綱の子孫と伝える上泉氏は、上泉文書といわれる古文書などを所蔵し、新陰流などが伝える伝承とは異なる独自の伝承を伝える。前橋市上泉町の「上泉伊勢守顕彰・生誕500年祭実行委員会」はこの上泉家伝承を採用しており、上泉家伝承に基づく内容の「剣聖 上泉伊勢守生誕五百年記念碑」を上泉町で2008年に建設したり、シンポジウム・講演会を行うなど活動している。前橋市役所も広報でこの伝承を紹介する。ただし「上泉文書」は一部を除き書籍に採録されておらず、その真偽などについても考証されていない。
諸田政治は、この上泉家の伝承から、松本備前守より天真正伝香取神道流(神道流)を、愛洲久忠(上泉氏伝承では「三好日向」表記)より陰流を修めたとする。なお信綱曽祖父義秀は中条流・念流・京流の達人であり、祖父・時秀はそれに加えて香取神道流を飯篠長威斎に師事、父義綱も松本から天真正伝香取神道流(神道流)を、愛洲久忠から陰流を学んだとし、先祖代々から諸流を修めていたともしている。
加来耕三も同様に上泉文書を閲覧し、諸田説と同じ主張を述べている。また『新陰流軍学『訓閲集』:上泉信綱伝』も、上記の上泉家伝承に基づいて解説する。
信綱没年についても異なる伝承が伝わる。上泉家の口伝書や上杉家の記録によると、天正10年小田原にて没したという。『西林寺過去帳』に関しては諸田が嫡子供養墓説をとっている。
その他
前橋市上泉町の諏訪神社で行われる上泉獅子舞(承和年間の創始と伝)には、上泉信綱も奉納したと伝わっている。
門下
免状を信綱から与えられたのは、疋田景兼・柳生石舟斎・丸目蔵人佐・香坂要だという。また信綱の息子(名前不詳)も大形を伝えられたという。
疋田景兼・鈴木意伯(神後宗治)・柳生石舟斎・丸目蔵人佐・上泉孫四郎(「兵法由来覚」によると信綱の孫、父も弟子だが名は不詳という)・駒川国吉・奥山休賀斎・野中新蔵成常・宝蔵院胤栄  
 
上泉信綱 2

 

上州の小領主上泉氏
ここでは剣聖上泉信綱の誕生から、山内上杉家の重鎮・上野箕輪城主長野業正に属した一国人衆としての彼に少し触れてみることにします。
剣聖誕生
彼は永正五(1508)年に武蔵守義綱(憲綱とも)の二男として、上野大胡城の出城のひとつである同国桂萱郷上泉城に生まれた。この上泉城は現在の群馬県前橋市にある。元服までは源五郎を名乗り、のち秀綱・信綱と称するようになるが、当面秀綱の名で書き進めていくことにする。この永正五年という年の各国の情勢を見てみると、近畿では流浪していた前将軍義稙が細川高国・畠山尚順らに迎えられて泉州堺に入り、ほどなく前将軍義澄を近江に追い出した上、七月一日付で将軍位に還補され、義澄は将軍職を解かれるという事が起きている。また甲斐では武田信虎が叔父の大井信恵父子らと甲斐守護職に絡む同族争いを起こしている。同年生まれの武将としては足利晴氏・小山高朝・蒲生賢秀らがおり、大内義隆・里見義堯(1507年生)らも秀綱と同世代の武将である。
さて上泉家と剣術との関わりであるが、彼の祖父時秀は天真正伝香取神道流の飯篠長威斎家直や陰流の祖愛洲移香斎久忠に、父義綱は長威斎門下で鹿島新当流の祖松本備前守また愛洲移香斎について修行をしたという記録がある。そして秀綱も、父と同じ松本備前守に入門して修行に励み、十七歳の若さで天真正伝神道流の奥義を授けられた。
享禄三(1530)年、秀綱23歳の時のこと、祖父時秀が永眠する直前に愛洲移香斎が上泉城を訪れた。おそらくこの時移香斎は秀綱と立ち会い、その非凡な才能を見て取り、我が陰流を継ぐに足りる人物と思い極めたに違いない。この後どういう稽古があったかは定かではないが、翌年移香斎は秀綱に陰流の伝書・秘巻・太刀一腰など全てを伝え、飄然と歴史から姿を消した。このあたり、後に武州小金原で一刀流の祖・伊東一刀斎が、兄弟子善鬼との決闘に勝った御子神典膳(後の小野忠明)に全てを伝えたのち姿を消したのとよく似ている。余談だが、この享禄三年1月には、後に秀綱とも関わってくる人物が越後春日山城に生まれている。幼名を虎千代といい、父は長尾為景、母は古志長尾顕吉の娘・虎御前。後に合戦の神とまで言われた戦国の巨星・上杉謙信である。
ともあれ、ここに秀綱は陰流正統を愛洲移香斎久忠から受け継いだ。享禄四(1531)年のことである。
秀綱と小田原北条氏
さてそのころ関東の情勢は動きつつあった。もともと大胡城つまり秀綱の本家筋は扇谷上杉家の傘下にあったらしいが、扇谷上杉朝興が北条氏綱に江戸城を奪取されて以来、ついに奪回を果たせず天文六(1537)年四月に死去した際に扇谷上杉家(13歳の朝定が家督を嗣いだ)を見限って江戸へ移り、北条氏の傘下に入ったという。ただ大胡城は一族の者が守り、依然として扇谷上杉氏に属していたというので、上泉義綱・秀綱がその指揮を執り家中の統制を行っていたのかもしれない。
そして天文14(1545)年9月、山内上杉憲政は扇谷上杉朝定とともに東国勢六万五千を率いて北条方の勇将北条綱成の守る武蔵河越城を包囲する。程なく古河公方足利晴氏も一万五千の軍を率いてこれに合流、計8万の大軍で河越城を囲み北条氏康に宣戦布告するという事件が起きる。これに対して翌年4月、北条氏康は河越城救援に向け小田原を発し、武蔵三ツ木に布陣した。軍勢はわずか八千。しかし4月20日、信じられないことが起こった。氏康が上杉憲政・朝定・足利晴氏連合軍を謀略により油断させておいて突如夜襲をかけ撃破、扇谷上杉朝定は戦死(享年22歳)、憲政は上野平井城に、晴氏は古河に奔るという結末を迎えたのである。これを世に「河越夜戦」と呼び、戦国三大奇襲戦の一つとして後世に語り継がれてゆくことになる。
秀綱は享禄元(1528)年に妻を娶っているが、その妻というのが大森式部少輔泰頼の娘という。この泰頼はかつて小田原城主であり、明応四(1495)年に北条早雲の謀略により城を奪われたという大森実頼・藤頼親子の子孫である。そしてこの妻は秀胤を生んだものの早世したため、秀綱は後妻を持つことになるのだが、その後妻というのがなんと先述の勇将北条綱成の娘なのである。
上州の小領主上泉氏
この河越夜戦以来、山内上杉家の声望は地に墜ち、関東は本格的な北条氏康の侵攻にさらされることになる。小領主たちは争って氏康の傘下に馳せ参じ、上杉家はもはや風前の灯火であった。しかし、この情勢の中でも一貫して斜陽の上杉憲政を支え続けた名将がいた。箕輪城主・長野業正である。秀綱はこの長野業正に属して活躍した。長野家の勇将藤井豊後守友忠や白川満勝らと並び「長野十六槍」の一人に挙げられ、さらに「上野一本槍」の栄えある称号を得ていることからも、上杉憲政の麾下として活躍したことは事実であろう。では、その敵である小田原北条氏との関係はどうなったのであろうか。
ここに戦国の小領主としてのどうにもならない哀しさがある。秀綱個人の思惑はともかく、家臣や領民を戦乱から守るため他の国人衆とも歩調を合わせ、「今日は上杉、明日は北条」といった、悪く言えば「恥も外聞もない日和見的進退」をせざるを得なかったであろうことは想像に難くない。事実、関東の国人衆はのちに上杉謙信と北条氏康・氏政の間で離合を繰り返すのである。そしてこういうことを繰り返すうち、秀綱は強い厭世観を持ったのではないかと思われる。箕輪落城・長野家滅亡を機に、秀綱が地位も領土も棄てて一武芸者として生きる道を選んだ最大の要因は、戦国の世そのものだったような気がしてならない。
初の上洛と箕輪落城
ここでは山内上杉家の名将長野業正の没後、遺児業盛を助けてきた上泉信綱が、箕輪城落城・業盛自刃を機に郷里を出て廻国修行に出たいきさつをご紹介します。
初の上洛と憲政の出国
天文年間に秀綱が上洛したとする記録がある。詳しい日時は明らかでないが、その目的は新陰流の伝播弘流の為ではなく、曾祖父一色義直と一族の追善供養のためであったという。そして彼は途中小田原に立ち寄り北条氏康に新陰流の妙技を披露、感じ入った氏康や北条綱成が入門したのみならず、ここで綱成の娘を後妻として娶るのである。さらに嫡子秀胤が北条家に仕えることになり、秀綱はしばらく小田原に留まったという(「上泉家文書」による)。しかし、これは後の秀綱の行動を思えば、やや腑に落ちないところがある。ただ、秀胤はその後北条氏に従い、国府台合戦で戦死していることを思えば、なるほどとも思えるのだが。ともあれすでにその剣の実力は関東一円に広く知れ渡っていた秀綱だけに、氏康の人柄を自身の目で確かめたかったのかも知れない。そして、氏康はたとえそれがわかっていても、秀綱を純然たる「武芸者」として歓待するくらいの腹芸は出来る武将である。
京に到着した秀綱は、当時の超一級知識人と初の対面をすることになる。『言継卿記』で名高い高位の公家・権大納言山科言継である。言継は秀綱と気が合ったらしく、以来たびたび彼の日記に秀綱の名が見られるようになる。また、この道中で後に神影流を創始する奥山孫次郎公重(休賀斎)や、真新陰流の祖となった小笠原源信斎長治らが秀綱の門下となったという。
時は流れて天文二十(1551)年。まず甲斐では2月12日に武田晴信が除髪して信玄を名乗り、尾張では3月3日に織田信秀が末森城で病歿(享年42歳)、信長が家督を嗣いだ。そして3月10日、北条氏康が動いた。上野平井城の上杉憲政攻撃に向け三万騎を率いて小田原を出陣したのである。上杉憲政は長野業正・太田資正を率いて神流川で迎え撃ったが、所詮は多勢に無勢、敗走して平井城に逃げ込んだ。諸方に救援の命を飛ばすが、誰一人加勢には現れず、ついに平井城と11歳の嫡子の竜若丸をも棄てて、越後の長尾景虎を頼って落ちていった。後にこの竜若丸は、北条氏康の手により小田原で斬首されたという。
長野業正の死と箕輪落城
越後に落ちていった憲政を快く迎えた長尾景虎は、その要請を受けてこれ以後何度も関東に出陣することになる。大胡城はまさにその渦中にあり、北条方に落ちたかと思うとまた景虎が取り戻す、といった具合であった。そしてこの上州動乱につけ込んで、侵略の意を露わにした武将がいた。甲斐の武田信玄である。しかし、その前に頑として立ちはだかったのが、箕輪城に一万余の精兵を持つ名将長野業正であった。業正は長尾景虎と連絡を取りつつ、信玄の東進を阻止し続けた。そして「上州の黄班」(黄班は虎の意)と呼ばれるにふさわしく、その死に至るまでついに信玄の侵入を許さなかった。このとき秀綱は業正のもとで活躍、「長野十六槍」の筆頭と讃えられる働きをするのである。
しかし永禄四(1561)年11月22日、業正は病没した。この直前の9月には、戦国史上に名高い第四次川中島合戦が武田信玄と上杉謙信の間で行われている。長野家ではこれを隠し続けてきたが、やがて周囲の知るところとなり、満を持して信玄は出陣してきた。二万の兵で箕輪城を包囲し、信玄は総攻撃をかけた。秀綱はこの時箕輪城にあって最後まで奮戦したが、余りにも兵力が違いすぎた。やがて勇将藤井友忠も戦死、最期を悟った業正の子業盛は城門を開き、果敢に討って出た。馬場信房の陣になだれ込み、敵18騎を斬って落とした上で引き返し、辞世の句をしたためて自刃したという。享年19歳であった。
さて秀綱はどうしたか。これには二説あり、一つは神後伊豆守・疋田文五郎らを従えて正に武田陣に突入しようとしたところ、信玄の本陣より特使穴山信君が馬を飛ばしてきたというもの。もう一つは桐生城の桐生直綱を頼って箕輪城を退去し、そこへ秀綱の居所をキャッチした信玄のもとから特使穴山信君が駆けつけてきたというものである。この稿ではそれはどちらでもよい。要は秀綱がこれを受けて武田信玄のもとへ伺候したという事実が重要なのである。
廻国修行へ
秀綱は要請を受け信玄のもとへ伺候した。信玄は、箕輪城主長野業正の指揮下にあって数年来武田軍に煮え湯を飲ませてきた秀綱にもかかわらず、破格の厚遇をしたという。しかし彼はもはや信玄に仕官をする気はなかった。たとえ相手が北条氏康や上杉謙信であったとしても、秀綱は仕官しなかったであろう。彼は信玄に、仕官する気はないこと、廻国修行の旅に出て我が剣術流派を広めたいことを告げた。信玄は初め渋っていたが、秀綱の決意が固いことを知ると「他家に仕官しない」という条件と引き替えにこれを許し、秀綱はそれを約束して厚く礼を述べた。そして信玄は彼に、自分の名の一字「信」を与えて「信綱」と名乗らせたという。これは見方によると「旅立ちへの餞け」とも取れるし、「他家への楔(くさび)」とも取れるのだが、ここは名将信玄のこと、前者であると解したい。ここに秀綱は広く知られている「上泉伊勢守信綱」と改名し、晴れて自由の身となって神後伊豆守宗治・疋田文五郎景兼を供に従え、念願の廻国修行へと旅立つ。そして彼は信玄との約束を終生守り、二度と他家に仕官することはなかった。したがって、今後は彼を「信綱」の名で書くことにする。
エピソード
ここでは自由の身となった信綱が、伊勢の北畠具教のもとに向かう途中に遭遇したと思われる有名なエピソードをご紹介します。
一路、伊勢へ
廻国修行に出た信綱一行が京に至るまでにとった道筋にも二説ある。中山道を経由したというものと、東海道を経由したとするものである。ここでは先に述べた小田原北条氏との関わりからも、東海道を経由したものとして話を進めていくことにする。小田原に立ち寄った信綱は、氏康や綱成らと再開したであろう。永禄六(1563)年のことだったという。小田原を出た信綱一行は、当然の事ながら、今川・松平領を通過することになるが、この年は桶狭間の戦いで今川家から独立し、前年織田信長と同盟を結んだ松平元康が、長男信康と信長の娘徳姫との婚約も済ませて家康と改名、三河平定に向け始動した年である。こういう中、信綱らは一路伊勢へと向かった。京へ上る前にどうしても会っておきたい人物がいたのである。その人の名を北畠具教という。
具教は代々伊勢国司を務めた名族北畠晴具の子で、伊勢国司北畠家最後の当主となる。この年の7月(9月とも)には父晴具が享年61歳で歿しており、ちょうど家督を嗣いだ頃である。また彼は塚原卜伝門下の剣豪大名として名高く、卜伝から「唯授一人」とされる新当流秘伝の太刀「一の太刀」の奥義を伝授されている。しかもト伝が死に際して、嫡男彦四郎に「北畠卿より伝授を受けよ」と遺言したとも伝えられているので、剣技はもとより人格も相当立派な大名であったと思われる。また、彼は「剣豪将軍」と呼ばれた十三代将軍足利義輝とも交わりがあったと伝えられており、享禄元(1528)年生まれの彼はこの時36歳、ちょうど「武芸者」としても脂の乗っている時期であった。
味わい深いエピソード
さて、伊勢へ向かう前に信綱に一つの非常に有名な味わい深いエピソードがある。もともと信綱にはエピソードが少なく、こういった類のものはこれ一つかもしれない。ご存じの方も多いと思うが、紹介しておくことにする。
尾張あたりのとある村にさしかかったとき、その村では大騒ぎをしていた。疋田文五郎が村人に事情を尋ねたところ、悪事を働いた浪人者を村人が捕らえようとした途端に、村の幼い子供を人質に取って小屋に立て籠もってしまい、近づこうとすると子供を刺し殺そうとする。子供を人質に取られた両親は狂ったように泣き叫ぶばかり、さてどうしたものかと困り果てているという。これを聞いた信綱は一瞬表情を曇らせたが、「よしよし、私が取り戻してあげよう」と、たまたま居合わせた僧に袈裟を借り受け、念の入ったことに頭髪まで綺麗に剃ってしまった。文五郎や神後伊豆も、お師匠は一体何をするのかと思いきや、信綱は村人に握り飯を二つこしらえさせ、それを持って浪人者の籠もる小屋へと向かった。この後のやりとりは次のような感じではなかったろうか。

浪人者は破れかぶれになっていた。信綱が小屋に近づくと、
「来るな!そこから一歩でも近づくと子供の命はないぞ」
と叫び、子供の喉元に白刃を突きつけて威嚇する。
「なにを怯えておる、わしは見てのごとく通りすがりの僧じゃ。ほれ、握り飯を持って参った」
「うるさい!何だかんだと言っても俺を捕らえに来たのであろうが」
「そうではない。ただ、その子に罪はない。握り飯を食わせてやってはもらえぬか」
昨日来、飯を一粒も食っていなかった浪人者はさすがに空腹を思い出したのであろう、信綱にこう言った。ただし、子供の喉には白刃を突きつけたままであるが。
「よし、ならばその握り飯を抛り投げろ。それ以上近づいたら子供の命はないぞ」
「わかったわかった。二つ進ぜるほどに、必ず子供に一つは食わせてくだされや」
あまりの空腹と信綱の人柄から、やや態度を軟化させた浪人者は、子供を相変わらず抱きかかえたまま戸口に姿を見せた。
「では抛りますぞ、ちゃんと受けなされや」
信綱は一つの握り飯を浪人者に向かって抛り投げた。そして間、髪を入れず二個目の握り飯をも抛り投げた。浪人者は子供を左手に抱え、右手でその喉元に白刃を突きつけていたのだが、一個目の握り飯は子供を抱えた左手を使って器用に受けた。しかし、続いて投げられた二個目を受け取る際、思わず右手の刀を投げ捨ててこれを受けたのだが、これこそ信綱の思うつぼであった。
浪人者が刀を手放した一瞬の隙を突いた信綱は、あっという間に飛びかかって彼を組み伏せてしまった。

村人達の喜びは非常なものであった。信綱に袈裟を貸し与えた僧もこれにはいたく感じ入り、そのまま袈裟を信綱に贈ったという。なお、この浪人者がその後どうなったかは知らない。
北畠具教との出会い
伊勢に入った信綱一行は、早速「太ノ御所」と呼ばれる北畠具教の居館に向かった。ここではじめて両者は会話を交わすのだが、具教は天文二十三(1554)年にすでに従三位権中納言に叙せられており、本来なら国を棄てた信綱程度の身分ではとうてい不可能だったであろう。しかし「剣術」という武芸が、身分の差を超えて両者の出会いの場を作らしめた。
二人は剣術談義に花を咲かせたであろう。そして、その時の信綱の顔はきっと輝いていたに違いない。信綱は20歳年下の具教に余すところなく自分の剣技を披露した。具教も相当な遣い手である。信綱の技が尋常でないことを即座に見抜き、感心するとともに「ぜひ会ってみられよ」と、大和にいる二人の人物を紹介した。宝蔵院胤栄と柳生宗厳である。宝蔵院胤栄は奈良興福寺の塔頭(たっちゅう)宝蔵院に籍を置く覚禅坊と呼ばれる荒法師で槍術に優れ、後に宝蔵院流槍術の祖となる人物である。一方、柳生宗厳は中条流・新当流の遣い手で、当時「畿内随一」と評判の剣豪武将であった。この柳生宗厳との出会いが後に新陰流を大きく飛翔させることになるのだが、この時点では信綱にはそんなことは知るよしもない。
柳生宗厳との出会い
ここでは大和へやってきた信綱一行が宝蔵院胤栄・柳生宗厳と出会い、やがて宗厳の人品を認めた信綱が新陰流の道統を継がせるに至ったいきさつをご紹介します。
宝蔵院胤栄との出会い
伊勢を後にした信綱一行は、まず宝蔵院胤栄を訪ねるべく大和にやって来た。胤栄は丁重に彼をもてなし、やがて立ち会い、ということになった。胤栄は槍を手に、信綱は袋韜(ふくろしない)を手に向き合った。この信綱の持つ「袋韜」なるものは彼の発案によるもので、竹をいくつかに裂いたものを数本束ね合わせ、なめし革で固めたものという。当時は立ち会いにおいては木刀を使用するのが一般的で、ややもすれば相手を不具の身にしたり、最悪の場合死に至らしめることも多かった。そこで信綱は門人達が打ち合って落命したりせぬよう、またそれを気にせず思い切って打ち合いが出来るよう、これを発明したと伝えられている。つまり、信綱は現代の剣道における竹刀の発明者ということになる。
勝負はあっけなくついた。後に宝蔵院流の祖といわれ、独自に十文字鎌槍を発明したと伝えられる荒法師胤栄ほどの遣い手が、ほとんど何もできないままに信綱の袋韜に詰められたという。胤栄は聞きしにまさる上手と感服して即座に信綱に入門を請い、さらに使いの者を剣友柳生宗厳のもとへ書状を持たせて呼びに走らせた。胤栄からの書を受け取った柳生宗厳は、「運命の立ち会い」となる宝蔵院道場へと向かう。
柳生宗厳との出会い
さて、宝蔵院道場に到着した宗厳は、早速丁寧な口調で立ち会いを所望した。しかし、返ってきた答えは宗厳をまさかと疑わせるものであった。「ではまずこの疋田文五郎と立ち会いなされ」。一瞬宗厳は耳を疑ったに違いない。「畿内随一」とその実力を評価されている自分に対して、弟子を立ち会わせるとは・・・。内心面白いはずはなかったろうが、それを怺えて宗厳は承知した。しかし・・・ 勝負はこれまたあっけなかった。宗厳と向かい合った疋田文五郎が「それは悪しゅうござる」と言うたびに一本ずつ取られ、三本中三本とも彼の完敗であったという。弟子に敗れた者がその師匠に挑むなど、当時では考えられないことであったらしいが、宗厳は信綱に立ち会いを求め、信綱も快く許したという。
宝蔵院胤栄ひとりを傍らに、信綱と宗厳の間で三日三晩の試合が行われたという。そして試合を終えた宗厳は信綱に入門を請い、一行を柳生の郷へ招待した。信綱は請われるままに柳生の郷へ向かい、その美しい郷の佇まいが非常に気に入ったようだ。加えて柳生家は宗厳の父家厳をはじめ一族総出で歓待に尽くしたという。
柳生の郷が気に入って居着いた信綱は、惜しげもなくその技を柳生一族に伝授した。特に宗厳には厳しく教導し、そのまま柳生の郷で永禄七(1564)年の正月を迎える。しかし戦国の世は非常であった。信綱のもとにひとつの悲報が舞い込んできた。それは正月七日、北条氏康が下総国府台で里見義弘・太田資正連合軍を撃破した際、信綱の子秀胤が戦死したことを知らせるものであった。信綱は柳生一族にこのことを悟られたくなかったのか、宗厳に宿題を残して柳生の地を去る。その宿題とは「無刀取り」、つまり身に寸鉄も帯びずに敵を圧倒して勝利を収める方法を考えよという難題である。宗厳はかしこまってこれを受け、信綱は疋田文五郎を柳生に留め、神後伊豆をつれて旅立っていった。
軍法軍配天下一
信綱は関東方面へは戻らず、京へと上っていった。おそらくまずは山科言継を訪問したのではないか。そして京に滞在中に、その存在を耳にした将軍足利義輝からの招待状が届く。彼は正に天にも昇る気持ちではなかったろうか。悪く言えば、評判の実力とはいえ、片田舎の一剣豪の武芸が、将軍家の目に留まるのである。弘流を目指す彼にはこの上ない栄誉であった。おそらくこの蔭には北畠具教や山科言継らの後押しもあったことだろうが、それはともあれ、永禄七(1564)年6月18日、彼は晴舞台である京都二条御所へと参上した。
この時の上覧演武の際、信綱の打太刀を務めたのは神後伊豆ではなく、25歳の青年剣士であった。名を丸目蔵人佐長恵という。彼は肥後相良家の家臣で、当時九州一の兵法者と言われた天草伊豆守に剣を学び、その技量は師を凌ぐと言われたほどの麒麟児である。彼は上洛時に信綱の世評を聞きつけ、立ち会いを所望したのだが、結果は宗厳らと同じであった。いとも簡単にあしらわれ、その場で入門を請うたという。信綱もこの青年のひたむきさを可愛がったようで、だからこそ神後伊豆を差し置いて上覧演武の相手に選んだのであろう。結果は大成功であった。感服した義輝から「兵法新陰、軍法軍配天下一」の栄えある称号を賜ったのである。そして信綱の推挙により、打太刀には選ばれなかった神後伊豆もまた、将軍義輝の兵法師範として取り立てられたのだ。この時期が信綱の人生の中でも、最も充実した時期であったろうと思われる。
剣聖上泉信綱の終焉
見事「無刀取り」の難題を解決した柳生宗厳に流派の印可状を与え、二人の弟子たちとも別れ、万感の想いを胸に故郷へと向かった剣聖信綱の晩年をご紹介します。
「無刀取り」の完成
永禄八(1565)年4月、信綱は鈴木意伯と名乗る供一人を従えて大和柳生の郷に戻って来た。また別の門人かと思うと、そうではない。この鈴木意伯こそ、神後伊豆守宗治その人なのである。鈴木というのは彼の母方の姓という。しかしこの稿では今まで通り神後伊豆の名をもって書くことにする。宗厳と久々に対面した信綱は、請われるままに二人きりで道場に籠もり、彼が格段の進歩を遂げたことを悟った。信綱の感激は大きかった。「もはや我らの及ぶところではない」とまで称賛し、直ちに新陰流の印可状を与えたという。
しかし翌五月、またもや悲報がもたらされた。将軍義輝が松永久秀らによって暗殺されたのである。信綱はどんな想いをしたであろう。程なく彼は京に戻り、しばらく記録が途絶えているが、京のどこかにいたようだ。そして元亀元(1570)年6月27日、今度は彼は神後伊豆を打太刀に、正親町天皇の御前で武術としては初めての天覧演武の栄に浴し、さらに従四位下武蔵守に叙せられたのである。
剣聖上泉信綱の終焉
元亀二(1571)年七月、信綱は京を去り故郷上州へと旅立つ。時に信綱64歳のことであった。そこからの足取りは不明だが、天正五(1577)年上泉の地に戻り、下総国府台合戦にて戦死した息子秀胤の13回忌の法要を行ったという記録があるという。その後彼は後妻(北条綱成の娘)との間にもうけた二人の子有綱・行綱が兵法師範をもって仕えている小田原北条家へと向かったようだ。そして天正十(1582)年。ついに不世出の剣聖・新陰流祖上泉武蔵守信綱は、相模小田原でその前半生は波乱に明け暮れた上州の一小領主として、後半生は高名な武芸者としての生涯を閉じた。享年75歳であった(一説に天正五年正月十六日、70歳で死去ともいう)。
彼は地上から消えたが、その流派新陰流は実に多士済々の剣豪を輩出、数多の派生流派を誕生させ、その道統は現在に至るまでなお生き続けている。
弟子たちのその後
ところで、神後伊豆や疋田文五郎はその後どういう生涯を送ったのであろうか。簡単に付記しておくことにする。
神後伊豆守宗治
彼の没年時ははっきりしていない。一時関白豊臣秀次の兵法師範を務めたのは確かであるが、その後尾張徳川家に仕えたとも、出羽秋田佐竹家に仕えたともいう。
疋田文五郎景兼
彼は信綱と別れた後、丹後宮津の細川幽斎、次いで幽斎の子で豊前中津に転封された忠興に仕えた。その後肥前唐津の寺沢広高を経て、豊臣秀頼の大坂城で彼は終焉を迎える。慶長十(1605)年9月30日歿。享年79歳という。  
 
上泉信綱 3

 

「人は天地の塵ぞ。塵なればこそのいのちを思いきわめ、塵なればこその重さを知れ。 塵となりつくして天地に呼吸せよ。」 池波正太郎「剣の天地」より
上泉信綱は上野国に、大胡城主・秀継の次男として生を受けたとされています。幼名を秀長と言い、その後秀綱と改めました。そして、長男が夭折したため、信綱が家督を継ぐこととなりました。
箕輪城主である長野家の家老であり、新陰流を創った人物で、剣豪としてはとても有名で『剣聖』とも言われています。武蔵野の武士としてのしきたりとして『念流』を教わり、その後常陸の鹿島に行き、十代にして天真正伝香取神道流を収めました。愛洲久忠が創始した『陰流』を収め、二十歳を過ぎて、久忠の子である宗通より『陰流』の秘術を与えられたと言われています。
信綱の『陰流』においての師匠というのは、愛洲久忠であるか、久忠の子・宗通なのかという二つの説があります。その年には、伊勢守を名乗り上泉にとっての主な城である大胡城の主になりました。上泉家は関東管領であった上杉家に仕えています。しかし、上杉家も上杉憲政の代には勢いもなくなっていたため、上杉家に隣接している武田家や北条家の勢いが増してきました。
上杉憲政が北条氏康に攻められたのが1551年でした。上野平井城を翌年には出ていくことになり、越後にいた、後の上杉謙信に関東管領の職と上杉という姓を譲渡し、守ってもらったのでした。
上杉謙信は、攻められた領地を取り返すために関東へと兵を出しました。上杉氏と北条氏の戦に、さらに武田家も加わったので、混乱を極めます。信綱の上野国の辺りも戦争の渦の中に入っていきました。
憲政がいなくなってからも、上杉家の家来たちは、上杉家再興のために北条・武田の軍と戦い続けました。その真ん中に立ったのが、上野の箕輪城城主・長野業正だったのです。
その戦では、信綱も長野家や上杉家の軍勢として北条や武田と戦って戦功をあげました。このことで、『長野家一六本の槍』や『上野国一本槍』といった感状を受けています。
業正が亡くなって息子が継いだ後は、信綱も懸命に戦うも、ついに箕輪城は落ちました。城を去ったのち、信綱は武田信玄と会います。その際に、信玄は信綱を良い条件で雇い入れるという話しをしたのですが、「修行の旅をしながら新陰流を広めたい」という事をいって、信綱は断ります。さらに、この時には信玄の“信”の字をいただいて、『信綱』という名に改めたのでした。
旅先の伊勢では、北畠具教と知り合い、宝蔵院胤栄や柳生宗厳に引き合わせてくれたのでした。彼らと立ち会うと、信綱には及びませんでした。信綱の没年に関しても定かではありませんが、1577年に柳生の地で亡くなったとされています。
上泉信綱の弟子たち
疋田景兼、神後宗治、奥山公重、丸目長恵、柳生宗厳、松田清栄、野中成常、駒川国吉など、多くの弟子たちから様々な流派が生まれ、400年経った今でも受け継がれています。  

上泉伊勢守信綱 4

 

新陰流 上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)
日本の戦国時代の多くの著名の流派(柳生新陰流・宝蔵院・タイ捨流など)の元となった剣豪です。
関東上野の国(群馬県)に生まれた戦国時代の武将であり、兵法者だった上泉信綱は「無刀取り」の考えを編み出したり、「袋竹刀」を発明したり、剣の神様と言われる「剣聖」の称号をほしいままにした男でした。
「新陰流」上泉信綱は柳生新陰流の師匠
江戸時代、徳川将軍家の剣術指南役を仰せつかったのは柳生新陰流でした。そして柳生新陰流の創始者、柳生石舟斎の師匠はなんと上泉信綱なのです!そのエピソードをご紹介しましょう。
柳生石舟斎との出会い
当時33歳の血気にはやる剣豪だった柳生石舟斎は、奈良の宝蔵院で、55歳の上泉信綱に試合を申し込みます。「俺が倒してやるぜ!」と意気込む石舟斎でしたが、信綱どころか、弟子の疋田にも勝てず、3日間を費やしますが勝てず、己の未熟さを痛感します。「つ、強い!」そして上泉信綱の弟子に入門することになるのです。
「無刀取り」
その後、師匠の上泉信綱は弟子の柳生石舟斎に「無刀取り」の極意を授け、石舟斎は見事「無刀取り」を完成させます。この「無刀取り」は石舟斎が徳川家康の前で披露して、それがきっかけで将軍家剣術指南役になっていくのでした。
無刀取りとは刀を使わず(持っていないときでも)に刀を持っている相手に勝つという剣術のことです。
二つの意味があり、一つ目は文字通り刀を持つ相手に素手でも刀を奪う技術のこと(柔術に近い)。真剣白刃取りはこの分類。二つ目は相手を油断させて相手の懐に潜り込み刀を奪うといった心理戦に近い技。上泉信綱は、剣豪将軍足利義輝から、会話の流れの中から将軍の刀を奪うことに成功しています。
新陰流の真の極意とは?
これまで見たように、戦いの勝ち方としては、相手をめった切りにして、完全制圧するやり方ではなく、あくまで、最小限の労力で出来れば、命を落とさずに、血を流さずに勝ち切る!といえるでしょう!新当流の塚原卜伝に似ていますが、「活人剣」(人を活かす剣)です!人を活かす極意があったからこそ、コ川300年、その後、明治大正昭和平成と受け継がれる事ができたんだと思います!
足利義輝から「兵法者天下一」と!
上泉信綱は、足利義輝将軍(剣豪将軍)の前で剣術を披露し、「兵法者天下一」の感状を受けたことがあります。この披露の際、打太刀(倒れる役)を勤めたのが、弟子で後タイ捨流を創始する丸目長恵です。将軍家になにか縁があるのでしょう。新陰流とは、帝王に必要な要素を持ち合わせていた「剣」だと言えますね!
ちなみにコ川家剣術指南役はもう一つの流派も存在しました。小野派一刀流です。創始者は伊藤一刀斎。幕末に坂本龍馬も学び、千葉周作が開いた北辰一刀流につながる流派です。
小野派一刀流は、将軍家に柳生新陰流ほど、重用されませんでした。剣の強さだけを見れば小野派一刀流は相当の強さを誇るのですが、相手を倒すこと専門の剣。そして稽古用の剣は真剣。剣の哲学なども総合的に見ると、平和な江戸時代では、柳生新陰流に軍配が上がるのでしょう。
新陰流誕生まで
上泉信綱は1508年、上州(群馬県)の上泉城に生まれます。隣の国鹿島に生まれたもうひとりの「剣聖」塚原卜伝の19年後ですね。
そして、兵法三大源流と呼ばれる「念流、神道流、陰流」を学び、特に陰流から奇妙を抽出し「新陰流」を創始します。
師匠は神道流は松本備前守(塚原卜伝と同じ師匠)に学び、陰流は始祖愛州移香斎に学び、生まれ持った才能も活かしながらかなり厳しい修行を行い新陰流を編み出します。
塚原卜伝のように、お告げがあったわけではなさそうですが、相当な鍛錬をされていたと見受けられます。
武将としての上泉信綱
上州の国の上泉城でその領地を治めていた信綱(当時は秀綱)は、若かりし頃は、むしろ武将として活躍をしていました。西上野国を治めていた、箕輪城主である名将、長野業政のもと「上野国一本槍」と言われるほど活躍をしていましたが、業正の死後、武田信玄の猛攻に破れ、主君の長野家は滅亡します。
「剣を持ってしても勝てぬか!」
秀綱から信綱へ
長野氏との戦いを通じて、上泉の活躍を知った武田信玄は、どうにかして上泉を部下にしようと三顧の礼を施しましたが、上泉は「自ら編み出した剣「新陰流」を全国に広めたい!」と断り、剣術を広めるたびに出るのです。その時武田信玄の「信」の字をもらい、「上泉信綱」と改名しています。
諸国へ剣術指南
この楽しい旅の途中に様々な人々と出会っていきます。上泉信綱50代の頃です。まず、後の武田信玄の軍師となる山本勘助と会い弟子の疋田が勘助を退けます!(時代的に無理がありますので、(すでに勘助が死んでいる年?)創作と言われていますが、対面があったらワクワクします!
その後、もうひとりの「剣聖」塚原卜伝から奥義「一之太刀」を授けられた伊勢の国司、北畠具教の「太の御所」に立ち寄ります。その御所には当時たくさんの武辺者が集まっていて、そこで、柳生石舟斎を上泉信綱は知ることになるのです!
場所を法相宗の大本山、宝蔵院に移し柳生石舟斎と対決をします。結果は前述の通り、上泉信綱の圧勝。さらに宝蔵院の武辺僧侶で槍の使い手の宝蔵院胤栄も破ります。此のことで、二人の当時すでに有名だった名手を破り、弟子にしたことで、上泉信綱の名が知れ渡ります。
天皇の前で天覧演舞
さらに上泉信綱は天皇の御前で演舞を行い、感嘆された天皇から御前机を拝領します。そして足利将軍からは「天下一」の感状を貰うなど、確実に自分の剣の名を売りまくっていますね!
晩年
最終的に旅の成果として、柳生石舟斎、宝蔵院胤栄、丸目長恵、香坂要、疋田昌兼に免状を渡したとされています!その後、関東の結城家(秀忠の次男結城秀康が婿に行った家。)への紹介状が当時一級の文化人「山科言継」から出され、京都を去り、関東へ向かいます。足跡はそこで途絶えます。
上泉信綱の逸話
袋竹刀
剣術の稽古と言えば、木刀が主流でした。しかし、木刀では、気をつけても死傷者が出てしまいます。そこで、竹を割ってそれを束ねて作った「袋竹刀」というものを開発します。これにより、稽古による怪我や事故がなくなりました。今の剣道で使用する「竹刀」の原型です。
七人の侍のモデル
映画「七人の侍」に出てくるエピソードのモデルになったお話です。そのお話はこうです。
ある村に荒くれ者がいて、村の子供を人質に小屋に立てこもりました。そんな状況に信綱は遭遇します。
さあ、見て見ぬふりはできないと、一策を講じます。
これはかつて武田信玄と戦った戦を思い出すなあって思ったかどうかはわかりませんが、とにかく、「無刀取り」の精神でなんとか解決しようと立ち上がります。
身なりを僧侶の出で立ちの袈裟に着替え、食料(おにぎり)を持って荒くれ者に話しかけます。「子供もお前さんもお腹空いてきているんじゃないか?まずはおにぎりを持ってきたから食べな!」って感じで促してみました。
すると、荒くれ者は素直に食料を受け取りに出てきました。そこを信綱、きっちりと抑えて、誰一人として怪我や死人出さずに子供を助け、荒くれ者を捕まえることができたのです。

多くの剣豪、流派を世に送り出し、「無刀取り」という奥義を編み出し、袋竹刀を開発し、日本の剣術の発展に多大な影響を与えた人だったことがよーく分かりました。映画のモデルになったことも影響力の大きさを表しています。「剣聖」そして伝説へ!  
 
『言継卿記』に見える上泉信綱 5

 

戦国期の兵法者の伝記があいまいなのは、史料不足による。多くは後世に作られた伝説を書き留めたような代物しかない。その中で、上泉信綱だけは、同時代人である山科言継の日記の中に三十回以上登場するという、きわめて恵まれた存在である。しかしながら、これまで必ずしも十分にこれを読み解いてはいないように思われる。私もまた完全にそれを出来るような能力がある訳ではないが、信綱の伝記研究のためのノートを作成してみようと思う。
『言継卿記』に上泉信綱が(多くは大胡武蔵守の名で)登場する三十二日分は『前橋市史』が網羅している(第1巻九七六〜八頁)が、以下その箇所を刊本(国書刊行会版第四巻)と照合し、以後の引用のための記号を付けておく(例えば永禄十二年正月十五日条はA1のようである)。
「 永禄十二年(A) 1正月十五日(三〇二頁) 2十六日(三〇三頁) 3二月二日(三〇七頁) 4四月二十八日(三二九頁) 5二十九日(同) 6五月七日(三三一頁)7十一日(三三二頁) 8十五日(同)
永禄十三年=元亀元年(B) 1正月五日(三七四頁) 2五月二十三日(四一七頁)3二十六日(四一八頁) 4六月二十六日(四二五頁) 5二十八日(四二六頁) 6七月七日(四二八頁) 7九日(四二九頁) 8十五日(四三一頁) 9十七日(同) 10十九日(四三二頁) 11八月十日(四三七頁) 12十八日(四三八頁) 13十九日(四三九頁) 14二十日(同) 15二十一日(同) 16十月十七日(四五二頁) 17二十二日(四五三頁) 18十一月三日(四五六頁) 19二十四日(四五九頁)
元亀二年(C)1正月二日(四六八頁) 2三月三日(四八二頁) 3九日(四八三頁)4七月三日(五〇八頁) 5二十一日(五一四頁) 」
この三十二回の内には単に「来談」したとか「礼者」の一人として挙げられているような箇所もある(A7・8、B1・4・6・7・8・9・15・16・19、C1)が、そうした箇所も信綱の動向を知る上で重要な手掛かりになるであろう。
1 出会い
言継の日記にはじめて「大胡武蔵守」の名が登場するのは、永禄十二年正月十五日である。但し、この時には本人は姿を見せない。耆婆宮内大輔が持込んできた平野神社の騒動、神主卜部兼興を子の長松丸が訴えた事件で、長松丸の訴状に添え状を認めたのが「叔母舅」である大胡武蔵守だった。平野神社の騒動の内容はあまりよくわからない。長松丸の訴状では「父卜兼興犯気時之儀、社頭如無之間、可有改易」との趣旨だった(A1)。「犯」は「狂」の誤りかとも考えられるが(刊本の校訂者)、兼興も後に復権しているようだから(元亀二年十一月二日条)それほど重い意味でなく、「気に入らないと社務を放棄する」程度、気に入らないことがあって髪を剃ってしまった(剃髪の事実は二十一日の項にある)ことを言っているのかも知れない。ともかくも父は不適格なので交代させてほしいという子の言い分である。言継は翌日に大典侍局に訴状・添え状の披露を依頼し(A2)、二十一日には回答を得ている。それによれば「兼興曲事之段、非一事之条、可改易」と訴えの趣旨は認められたが、長松丸についても「父髪そる之間、神職に如何」と思われるので「尚以御思案可被仰出」ということだったので、言継は先例もあろうから吉田(兼右)にお尋ねになるように、と申し入れている。
そんな経緯でこの騒動が無事おさまり、二月二日には長松丸が耆婆宮内大輔・大胡武蔵守とともに挨拶に来て、言継は三人と同道して吉田兼右を訪ねている(A3)。どうやら信綱と言継はこれが初対面であるらしい。もちろん、これ以前の日記に名が見えないというだけでそう考えている訳ではない。四月になってまた吉田方へ同道してほしいと考えた信綱は、耆婆宮内大輔を通じて内々願っている(A4)。身分の違いはともかくも、親しく付き合ってからなら、直接頼むであろう。そうしなかった点から、この時点では両者はさほど親しくなかったことを推測するのである。幸か不幸か、四月二十八日に兼右は不在(A4)、翌日も同道するが不在(A5)、五月七日に出かけた時もいなかった(A6)が、こうして何度も供をしているうちに親しみがわいてきたものと思われる。五月七日には兼右不在を知ったあと、上乗院から知恩院へと連れまわるまでになっている。
「来談」の記事が見られるのはその後(A7・8)。もちろん対等な友人関係ではないが、大して用事がなくてもやって来るだけの親しさが生じたのであろう。
2 軍敗伝授と四品勅許
永禄十二年五月十六日から翌元亀元年五月二十二日までの一年間、『言継卿記』に信綱の記事は、年頭のあいさつに来たというだけの一箇所しかない(B1)。この間信綱が何をしていたかは不明である。そして五月二十三日、いきなり重要な記事になる(B2)。
「 上泉武蔵守信綱来。軍敗取向総捲等、令相伝之。勧一盞。中御門・雲松軒相伴了。一巻写之。又調子占一巻写之。各将棋双六等有之。 」
これによれば、山科言継は軍敗(軍配)を上泉信綱から伝授されている。軍配とは戦陣における占呪の術で、のちの兵学の母体になるものである(小和田哲男『軍師・参謀』など参照)。岡本半助宣就が信綱の子秀胤(または孫の義郷)から受け継いでその系統が後世に伝えられたと言うが、信綱以降の話の真偽はこの際措いておこう。当面重要なのはそのような占呪の術を信綱が言継に伝えたということである。五月二十六日にも言継と息子の言経(『言継卿記』には倉部と書かれている)が伝授を受けている(B3)。  そして、一月ほどの空白を経て六月二十六日に来談した(B4)信綱は、翌々日には「四品勅許忝」いと言継に語っている。この間六月二十七日に従四位下に叙せられたということで、信綱伝の中でも最も重要な出来事である。しかしながら、これを正親町天皇に剣技を披露して云々というのは、どうも信用できない。というのは、後述する言継から結城晴朝にあてた紹介状(C5)には「公方以下悉兵法軍敗被相伝」とはあるが、天覧のことには触れられていない。もし事実があれば、きっと書いたと思うのである。もちろんなかったのだと断定はできないが、怪しいと思っていたほうがよかろう。
また、この叙位を山科言継の尽力によるとするのも如何か。事実としてそういうことがあれば、やはり日記の中から伺えそうに思われるが、そういう記事はない。もちろん大納言である言継がなんら関係しなかったとも思われないが、特別な関与はなく、なればこそ信綱も特別に謝礼の品々など持参せず(平野神社一件では錫を持って礼に来たことが書かれている…A3)、会話の中で触れたにとどまったのであろう。むしろ上の紹介状に見えるように、在京中の信綱の業績の最大のものが「公方以下」に「兵法軍敗」を伝授したことだとすれば、足利義昭あたりから話は出たと考えた方が自然であろう。室町幕府の先例として、弓馬の師範を勤めた小笠原氏が将軍の近臣だったこと(二木謙一『中世武家儀礼の研究』一九六頁)を思えば、義昭が信綱を側近として待遇しようとしても不思議はない。それに大館氏の所伝では(必ずしも事実といえないとしても)近習の中でも申次衆には四品になっているものがあり(大館尚氏「長享二年以来申次記」)、信綱の叙位がその例に倣ったものと考えられる。
仮定の上に仮定を重ねるようだが、可能性の指摘という意味で付言しておく。信綱の叙位があったとされる六月二十七日は、姉川合戦の当日である。まさに当日になったのは偶然としても、その時期を狙っているのには意味がないだろうか。すでに信長と義昭の間には不協和音が聞こえている。義昭が自分の直属家臣団の強化を目指し、信長が多忙で細かいことを気にしていられない時に行動を起こしたと考えるのは如何…。あくまでも可能性の問題ではある。
3 兵法披露
四位になった信綱は、七月中には五回も来談している(B6〜10)。特に最後の七月十九日には二人の公家に調子占まで教えている。意外なことに、ここまで剣術に関する記事は一度もない。『言継卿記』中、信綱が「兵法」=剣術をしたという記録はこの年の八月に二回あるだけである。しかも、いずれも京の町中ではなかった。
ともかくも、その二回を見てみよう。元亀元年八月五日、明後日勅使とともに比叡山に登るように、と烏丸光宣の使者が伝えて来た。老齢といい、供の不足といい、一度は断るものの、重ねての使者に登山を決意する。七日に登山して、十日に下山することになるのだが、その最終日、言継は梨本宮門跡へ暇乞いに訪れた。そこへ、千秋刑部少輔と大胡武蔵守が参り「へいはう被御覧了」(B11)というのである。千秋は幕府奉公衆の家柄らしく、一説には塚原卜伝の門人(諸田政治『剣聖上泉信綱詳伝』)という。この二人がなぜここに現われたかは分らないが、後述の真珠院のケースから考えれば言継が連れていった可能性もありそうではある。
二回目は、太秦の真珠院でのことになる。八月十六日、月見の宴のために太秦真珠院にでかけた言継は二晩泊った。十八日には大勢客がやってきて、その中には千秋刑部少輔・大胡武蔵守・鈴木(これは信綱門人の神後伊豆守の変名鈴木意伯だという…諸田前掲書)らがいた(B12)。大勢を引き連れて葉室へでかけた言継、その晩は葉室に泊り、翌日帰京するがその途中でもう一度真珠院に立ち寄った。そこで「千秋、大胡、鈴木等兵法有之、各見物了」(B13)というのである。
もちろんこの二回以外に剣術の実演をしなかったとは言えない。たまたま言継が記録をしたのがここだけだったというだけの事かも知れない。しかし、上述の義昭と信長の不協和を考えると、姉川合戦後の比叡山にキナ臭いものを感じないでもない。いずれにしても、結論を出すには材料が不足している。
4 信綱の身辺と帰郷
その後元亀元年中の記事からはあまり知れるところがない。十月二十二日には山城の一揆に際して奉公衆や木下秀吉が出陣したことを語っている(B17)。両者に直接関係ない談話の内容が知られるのはここだけであるが、政治問題にも話題が及ぶような交際であったことは確認できる。十一月三日には信綱が転宿したことが告げられているが(B18)、具体的な宿所はわからない(諸田前掲書は西福寺としている)。
年改まって、元亀二年になると信綱の身辺も少し慌ただしくなってきたようである。正月二日には年始に来たようだが(C1)、三月には二度にわたって薬を貰っている(C23)。その時の話で「近日在国」する予定だ(C2)ということだったが、七月二日には大和から再上洛している(C4)ところから見れば、その「国」とは大和であったらしい。この時点で信綱が拠点としているのは柳生但馬守宗厳(石舟斎)の所である。しかし、その大和が不穏なのだ。大和を支配していたのは松永弾正久秀であるが、この時期に武田信玄に通じた久秀は信長を裏切って、宿敵・三好三人衆と協同した。義昭はまだ態度を鮮明にしてはいないが、実質的には反信長の盟主であろう。松永と三好一族、そして筒井氏と柳生宗厳の関係があまりはっきりしないが、ともかくも複雑な様相になっていったことは間違いない。信綱が七月二十一日に関東にもどるために言継に別れを告げに来る(C5)のは、そのような状況下でのことである。政治的なごたごたに巻き込まれるのを避けたと見るべきであろう。
言継は別れに臨んで親王筆の短冊二枚を与えている。さらに、信綱の乞いに応じて「下野国結城方」への書状を渡した。これは引用しておこう。
「 雖未申通候、幸便之間令啓候。仍上泉武蔵守被上洛、公方以下悉兵法軍敗被相伝、無比類発名之事候。又貴殿拙者同流一家之儀候間、無御等閑候者可満足候。尚委曲武州可有演説候也。恐々謹言。
七月二十二日                    言継裏判
結城殿 」
手紙の相手の結城晴朝はいうまでもなく関東下総の名族である。京都における信綱の活躍はこの手紙に詳しい。が、重要なことはそれだけではない。関東は信綱の出身地である。言継よりもはるかに豊富な人脈があってもよさそうなのに、信綱はこの紹介状をねだっているのだ。つまり、この当時信綱は関東に戻っても身のおきどころのない状態だったのであり、それにも拘らず京都を去らねばならぬほどの情勢だったのだ。
その後の信綱の消息は知られていない。
 
『言継卿記』 (ときつぐきょうき)
戦国期の公家、山科言継の日記。1527年(大永7年)から1576年(天正4年)の50年に渡って書かれているが、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能、戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料。一年分をまとめて冊子にして、表紙の扉の表には甲子・土用入など注意を要する日付を列記し、扉の裏には天皇の年齢と「御哀日」、自身の家族の年齢と「衰日」を列記している。なお山科言継は上泉信綱と親しく来訪の記録がある。また、言継は医療にも精通しており、彼自身が治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も残されており、現存する日本で最古のまとまった診療録であるとも言われている。
山科言継 (やましなときつぐ)
戦国時代の公卿。権大納言・山科言綱の子。官位は正二位・権大納言、贈従一位。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
山科家は藤原北家四条家の分家であり、羽林家の家格であったが戦国期には他の公家と同様不振の時代を迎えていた。天文17年(1548年)には室町幕府によって代々の家領であった山科荘が事実上横領される(天文17年5月25日)という事態に遭遇している。そのような時代の中で言継は家業である有職故実や笙、製薬のみならず、和歌(三条西公条の門下)、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六などの多彩な才能の持ち主であった。だが、彼の持った最大の特技は「人脈作り」であった。
言継は山科言綱の子であると言っても正室(中御門宣胤の子)ではなく、女嬬(宮中に仕える身分の低い女性)の生んだ子が唯一の男子と言うことで後継ぎに立てられた経緯の持ち主で、阿末(下級女房)の世界を知って育ってきたことが、彼の人物形成(幅広い人脈形成や朝廷の庶務への関心)につながった可能性がある。
朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭として、後奈良・正親町両天皇下で逼迫した財政の建て直しを図ることになる。当時の朝廷財政の収入の中で最大のものは諸大名からの献金であった。言継はその献金獲得のために各地を奔走することになった。
既に天文2年(1533年)に歌舞音曲を扱う楽奉行として、尾張国の織田信秀を訪問して、信秀や平手政秀以下の家臣団に和歌や蹴鞠の伝授を行って人脈を深め、後に天皇の即位式に対する信秀からの献金獲得の基盤作りを行った。弘治2年(1556年)には義理の叔母にあたる寿桂尼・今川義元親子を訪ねて駿河国を訪問し、献金の確約を得た。永禄9年(1566年)には結城氏重臣の水谷正村に働きかけて禁裏御料所回復に成功し、その謝礼に正村の従五位下・伊勢守への任官を推挙している。
天文17年(1548年)、室町幕府13代将軍・足利義輝が言継の家領である山科郷を押領する事件が発生し、言継は当時義輝の伯父として近江坂本にて後見にあたっていた前関白・近衛稙家に善処を求め、稙家の計らいで命令が取り消され、言継は坂本を訪れて稙家夫妻及び慶寿院(稙家妹・義輝生母)に薬を献上し、2年後には朝廷から幕府に対して山科家領の年貢納入の阻止を禁じる女房奉書が発給されている(『言継卿記』天文21年10月3日条)。
医業を内職としており、近隣の庶民から依頼を受けると診療を行い、内服薬や火傷の塗薬を調合して与えている。室町の小山という薬種屋から麝香・竜脳・蜜などを購入し、二条の茜屋からは茜の根を買いいれている。言継邸には中国人の薬売りも訪れていた。 このように医療に携わっていたが、天文22年(1553年)9月に言継の四人の子どものうち、阿子という子どもが食中毒にかかった時に、自らはなんの手当てもせずに、専門の医師に頼っていることから、言継の医師としての知識はそんなに専門的ではなかったといえる。
永禄の変後には、室町幕府14代将軍・足利義栄の将軍宣下の使者となるが、その当日に義栄の対抗馬である足利義昭からも正式な元服の実施と官位昇進要請の使者が来るという事件があったが、言継はこの事態に困惑しつつも臆せずこの要請を受ける返事をした後に仕度をして義栄のいる摂津国に向かっている(なお、昇進要請はその後却下され、元服の方も義昭が独自に行っている)。後に義昭が織田信長に擁されて上洛した際に、義昭は前将軍義栄就任の責任者の処分を朝廷に要求した。言継は使者を務めた自分がその一番の責任者に挙げられると考えて自宅に謹慎していたものの、義昭からは先の仲介を理由に不問とされ、代わりに将軍宣下の儀の手伝いを要請され、信長の家臣・村井貞勝らに装束に関する指導を行っている。
晩年には山科家では初めて権大納言(1569年)に昇進し、織田信長との交渉役としても活躍した。信長もこの年に二条城築城視察の帰りに山科邸を訪問している。
著書としては自撰歌集『言継卿集』(『拾翠愚草抄』(1527年 - 1541年)と『権大納言言継卿集』(1562年 - 1574年)から成り立つ)と日記『言継卿記』がある。特に後者は大永7年(1527年)から天正4年(1576年)にかけての50年の長期にわたって記されており、当時の公家や戦国大名たちや上泉信綱などの動向が詳細に記されているだけでなく、彼自身が治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も残されており、現存する日本で最古のまとまった診療録であるとも言われている。
死後300年以上経た大正4年(1915年)11月に、朝廷の財政と対外交渉にあたって朝廷の存続に尽くした功績をもって従一位という破格の贈位が行われた。  
 
上泉伊勢守信綱 6

 

「剣聖」と呼ばれる新陰流を興した関東(上野国)の武人
現代につながる流派の祖
上泉伊勢守信綱(かみいずみ・いせのかみ・のぶつな)は黒澤明監督の「七人の侍」の島田勘兵衛のモデルとして知られる。有名な逸話が映画で使われている。
諸国遍歴の旅の途中。立ち寄った尾張の村で、浪人が子供を人質に民家に立て籠もった。それを見た上泉伊勢守信綱は、頭を剃り、袈裟を借り、僧侶の格好をした。そして、相手を油断させて、一瞬の隙を見て子供を助け出した。(尾張一の宮の妙興寺の門前だったという説もあるようだ。)
この逸話だけでは「剣聖」と呼ばれた理由が分からないが、とにかく弟子がすごい。錚々たる剣豪が上泉伊勢守信綱を師と仰いでいる。そして、上泉伊勢守信綱を祖とする「新陰流」は現代につながる流派として、受け継がれていく。
略歴
生誕
生没年は不詳である。戦国時代の武人。永正5年(1508年)頃 – 天正5年(1577年)頃。(没年は天正元年(1573年)や天正10年(1582年)などの説もある)
読みは「かみいずみ」または「こういずみ」。居城のあった前橋市上泉町は「かみいずみ」。「言継卿記」には大胡武蔵守または上泉武蔵守信綱で出ている。伊勢守は通称で、正親町天皇(おおぎまちてんのう)からの受領名は武蔵守。
永正5年(1508年)頃。上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の上泉もしくは上泉城で生まれたとされる。
通説では父は大胡城主・大胡武蔵守秀継。大胡氏の出で、上泉は通称ということになる。
大胡氏は藤原秀郷を祖とする家柄。藤原秀郷は平将門を討伐した武将として知られ、秀郷の子孫は部門の家柄として栄えた。秀郷流の家柄は、清和源氏、桓武平氏の流れと同じく武門の名門に連なることになる。
ただし、上泉家伝来の系譜では父は上泉武蔵守義綱とされ、一色氏の一族が大胡氏の名跡を継ぎ、上泉氏の祖となったと伝えられる。祖父は時秀。祖父、父共に武芸を好んでいた。父の代に、陰流の愛洲移香斎が上泉城に立ち寄ったと伝わっている。また、父は常陸の鹿島で松本備前守政信の指導を受けたらしい。
名は秀長⇒秀綱⇒信綱(永禄8年または9年から)。また、伊勢守⇒武蔵守と変わっていったようだ。
幼少のころのことは分かっていないらしい。
剣術修行
十代の前半から半ばころに兵法修のため、鹿島(現在の茨城県)に行っている。永正17年(1520年)13歳の時という。修行は鹿島と、その近くの香取(現在の千葉県)で行った。
現在の群馬県の前橋から、茨城県の鹿島、千葉県の香取は遠い。
どのような旅をしたのかわからないが、旧道を通ったのだとしたら、栃木県の南部までは東山道で行き、そこから茨城へ抜ける道を歩いていったのだろうか。
また、鹿島と香取は地図上では近いが、間には利根川があり、ちょうど川幅が広くなっているところのため、簡単な往来ができるところでもない。
実際に見に行ってみると、上泉信綱がいかに大変な修行をしたのかが分かる気がする。
さて、これ以前から鹿島及び近くの香取は兵法が盛んだったようだ。鹿島には塚原卜伝が、香取には飯篠長威斉家直がいる。
流派
上泉信綱は陰流、神道流、念流を学んだとされる。
修行の地の一つである香取といえば、天真正伝香取神道流(通称:神道流)が有名である。飯篠長威斎家直が興した流派で、上泉信綱の時代は飯篠長威斎家直の高弟・松本備前守政信が存命だった。この松本備前守に師事したとされている。他の説としては松本尚勝に師事したというのもあるようだ。
松本備前守政信から「鹿島の太刀」を学び、4年後に、松本備前守政信が鹿島家の内紛で戦死する前に、天真正伝香取神道流の奥義を授かった。
塚原卜伝に教わった可能性もあるが、不明。また、他に念流を学んだとされるが、誰に学んだのかが分かっていない。念流は念阿弥慈恩を流祖とする。念阿弥慈恩は福島出身とされ、東国(=関東)に良い弟子がいたようなので、その流れで学んだのだろうか。
陰流は愛洲移香斎(久忠)から学んだという。鹿島から日向(宮崎)の鵜戸神宮に愛洲移香斎を訪ねて弟子入りしたという。晩年、愛洲移香斎は鵜戸神宮の神職を務めていたといわれている。愛洲移香斎は伊勢(現在の三重)出身とされ、西国方面での足跡がある。本当に九州まで行ったのかは不明である。
一説には、移香斎の子・愛洲元香斎小七郎(猿飛陰流)に学んだという。いずれにしても陰流の直系から学んだようだ。ちなみに、上泉信綱の弟子・疋田豊五郎によると、愛洲元香斎から学んだことになっている。
のちに、上泉信綱が興した流派が新陰流と呼ばれるようになるので、陰流の影響が大きいのは間違いない。24歳の時に奥義を授かっている。愛洲移香斎に教えを受けたとしたら、80歳を超える老齢だったと思われる。
こうした兵法修行がどれくらい続いたのか、連続だったのか、断続的だったのかすらわからないが、一定の区切りをつけて戻っている。
「中古、念流、新当流またまた陰流あり、その他は計るに耐えず。予は諸流の奥義を究め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す」
武将として
時代が飛ぶ。故郷に戻ったあと、大胡城主となり、長野業正に使えている。
天文24年(1555年)。上泉信綱は40代になっている。この年に北条氏康の大胡城攻撃に会い開城したとされる。その後、上泉の地に蟄居したという。
また、弘治3年(1557)武田軍が長野氏の箕輪城を攻めた際は、長野氏側の将として「上泉伊勢守」の名がある。前述との期間がさほどないが、蟄居が解けたのだろうか。
上泉信綱は長野業正と子・長野業盛に仕えた。当時、西には武田信玄、南には北条氏康がいるという、ある意味最悪の状況だったが、長野業正は奮戦した。
上泉信綱は長野の16人の槍と称えられ、安中城主の安中広盛を一騎打ちで討ち取り、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらっている。
だが、長野業正死後の永禄9年(1566)に武田信玄の猛攻にあい、箕輪が落城。長野家はついに滅ぶ。
滅ぶ際に、武田信玄は上泉信綱を臣下に加えようとしたが、上泉信綱は仕官を断った。
これまでに修行してきた剣術に磨きをかけ、「新陰流」を打ち立てていたので、これを機に兵法修行をしたいと言って、諸国遍歴の旅に出ることになった。
惜しんだ武田信玄は、諱(信玄の諱は晴信)の一部を与えて、この時に信綱になったという逸話がある。
もしくは、他家へ仕官しないことを条件に諸国遍歴をゆるし、諱を与えたともいう。名に晴信の「信」があれば、他家では遠慮するだろう、ということである。
ただ、上記の武田信玄との逸話は少々怪しいらしい。
というのも、上泉信綱は永禄7年(1564)には上洛したと考えられ、箕輪落城の永禄9年(1566)には西国に赴いている。
上泉信綱はこの時点では当主の座を息子に譲っていたのかもしれない。年齢的に何の不思議もない。嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続した。
剣術家として
仕官を断った上泉信綱は、諸国遍歴の旅に出る。出立は永禄6年(1563年)、60歳のころである。
おそらく、この時点で「新陰流」は出来上がっていたようだ。というのも、諸国遍歴には当初から弟子を連れているからである。
のちに、剣聖と謳われるようになるが、諸国遍歴の旅に出てからは逸話が多い。
多くの流派の祖とされ、後世の剣術界に多大な影響を与えた。様々な伝承も各流派に伝わっている。そうしたことの一つに、袋竹刀の発明が上泉信綱によるものというものだ。
諸国遍歴の旅には、神後伊豆守宗治(=鈴木意伯)、疋田文五郎景兼(虎伯)らの弟子と出立したようだ。
のちに、弟子となるのが、丸目蔵人佐長恵(タイ捨流)、奥山休賀斎公重(奥山新影流)で、上記2人と合わせて四天王と呼ばれているようだ。
他の有名な弟子(いやむしろこちらのほうが有名だと思うが)として、柳生宗厳、宝蔵院胤栄がいる。
旅の道程は分かっていない。逸話の類から外れないが、面白い逸話が多い。そして、最期の様子も分かっていない。謎に包まれた人生であった。
諸国遍歴の中で、剣豪大名として名高い北畠具教を訪ねている。北畠具教は塚原卜伝から「一の太刀」を許されている。ここでは、疋田文五郎景兼が北畠家の家臣と立ち合い、いずれも圧勝した。
その後、北畠具教の紹介で奈良の宝蔵院に向かった。ここで宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)が弟子になっている。宝蔵院胤栄は、興福寺の宝蔵院の主で、宝蔵院流槍術を創設した。十文字鎌槍を用いる流派だ。
宝蔵院胤栄が柳生宗厳を呼び寄せ、疋田文五郎景兼が相手したが、あっさり疋田文五郎景兼に負けたという。それでも柳生宗厳はめげずに、上泉伊勢守信綱との試合を臨み、3日間に3度試合が行われ、ことごとく負けたという。
この後、請われて柳生の里に向かったようで、柳生で3年間滞在したという。疋田文五郎景兼が柳生家に留まり、上泉信綱は諸国遍歴の旅を続けたとされる。
一説には、永禄7年(1564年)嫡子の秀胤が戦死したとの悲報を受け、柳生の里を離れたというが、これも時間軸が合わない。この辺りは不明だとしか言いようがない。
上洛もしている。旅の道程が分からないので、上洛は何回しているのかが分からない。早い時期の上洛時に丸目蔵人佐長恵を弟子としたようだ。
この丸目蔵人佐長恵とともに、永禄7年(1564)剣豪将軍・足利義輝に謁見し、感状をもらっている。嫡子・秀胤の戦死の悲報を受け、公卿の山科言継を頼ったあとの話とされる。
永禄8年(1565)には柳生の里に戻っている。この年に、柳生宗厳と宝蔵院胤栄に印可状を与えている。
この時の逸話になると思われるが、上泉信綱が再び柳生の里を訪れた時、柳生宗厳の兵法が上泉信綱を凌駕していたので、上泉信綱が柳生宗厳を師と呼んだという逸話があるが、柳生新陰流への権威づけのための作り話だろう。
元亀元年(1570)、正親町天皇の御前で剣術を披見している。正親町天皇から天下随一と称され、従四位下に叙任され「武蔵守」を賜っている。この時、足利義輝の時と同様に、丸目蔵人佐長恵と剣術披露を行った。
この後、山科言継に暇乞いし、故郷への上泉への帰国を決意したという。
晩年はわかっていない。
後北条氏に招かれ、天正10年小田原にて没したともいい、それよりも前の天正5年に大和の柳生谷で亡くなったともされる。
史料
永禄8年(1565年)4月。柳生宗厳に印可状(現・柳生延春所蔵)。同年8月付で、宝蔵院胤栄に印可状(現・柳生宗久所蔵)。
永禄10年(1567年)2月。丸目蔵人佐に目録と、同年5月に印可状。「上泉伊勢守藤原信綱」と記されている。
永禄12年1月15日 – 元亀2年7月21日。上洛期間。山科言継の日記「言継卿記」。
元亀2年7月21日。京を去り故郷へ向かった。
諸国遍歴時の逸話
諸国遍歴時の逸話として、疋田文五郎景兼(虎伯)とともに三河牛久保(愛知県豊川市)に訪れた際に、山本勘助と立ち合った。
立ち会ったのは疋田文五郎景兼で、最初は疋田文五郎景兼が勝ち、次に山本勘助が勝ったが、最初の敗戦だけを喧伝されたため、勘助は面目を失って牛久保の地を離れたという。
山本勘助は永禄四年(1561)に死亡しているとされ、時期が合わない。そもそも、山本勘助については、いわゆる軍師「山本勘助」の実在が怪しい。  
 
上泉信綱 (伊勢守) 7

 

1508年〜1577年
愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極める
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
家系
上泉氏は、赤城山麓大胡城の大胡氏(信濃下諏訪神社の社家金刺氏の分家、俵藤太秀郷とも)の一門で上野桂萱郷上泉を領し関東管領山内上杉氏に仕えた。室町幕府四職家(丹後・伊勢・志摩の守護)の一色義直が孫の義秀を遣わして親族の大胡家を再興したうえ、大胡城の西の備えに上泉城を築き義秀を留めて上泉姓を名乗らせたとも伝える。上泉義秀は中条流・念流・京八流を修めた剣豪で(応仁の乱で戦死)、嫡子の上泉時秀は常陸の飯篠長威斎家直に天真正伝香取神道流を習得、嫡子の上泉義綱は長威斎の高弟松本備前守のもとで剣技を磨いた。3代続いた上泉城の道場は飯篠道場と並ぶ東国兵法のメッカとなり、祖父時秀から伊勢守を襲名した4代目の上泉信綱は東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが、伊勢より来訪した愛洲移香斎久忠に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言して工夫研鑽を重ね新陰流へ発展させた。主君の長野業正が没すると上泉信綱は嫡子の秀胤に家督を譲り、長野業盛(業正の後嗣)を滅ぼした武田信玄に一旦出仕するが新陰流普及を志し出奔した。上泉秀胤は北条氏康に属して保身を図ったが国府台合戦で戦死、嫡子の上泉泰綱は豊臣秀吉の小田原征伐・北条氏滅亡で浪人し関ヶ原の戦い直前に上杉景勝に拾われ直江兼続に属したが慶長出羽合戦の長谷堂城の戦いで戦死、娘婿の上泉秀富(実父は上杉家重臣の志駄義秀)が家督を継ぎ剣豪上泉家は米沢藩士として命脈を保った。
交友
上泉時秀 / 上野上泉城主
上泉秀継 / 父・時秀嫡子
上泉秀胤 / 嫡子
上泉泰綱 / 上杉景勝に仕えた秀胤嫡子
愛洲移香斎久忠 / 陰流創始者
愛洲小七郎宗通 / 猿飛陰流を興した久忠嫡子
疋田景兼 / 上泉伊勢守門人で疋田流の祖
神後伊豆守宗治 / 上泉伊勢守門人で神後流の祖
丸目蔵人長恵 / 上泉伊勢守門人でタイ捨流の祖
奥山休賀斎公重 / 上泉伊勢守門人で神影流(真新陰流)の祖・徳川家康の師 
 
新陰流

 

1
今回は、剣術史において実質的に三大源流の一つとなる、新陰流しんかげりゅうが創始される話です。
剣術史上で新陰流がなぜ重要なのか。それは現在の剣道で使われている竹刀の原型となる、シナイ(現代では一般的に袋竹刀ふくろしないと言われる)を使うようになった最初の流派ということです。新陰流と創始者上泉信綱かみいずみのぶつな(この項では秀綱ひでつなと表記します)がいなければ、剣道も存在していないわけです。実際は、念流ねんりゅうも新當流しんとうりゅうも、どの流派も存在しないと剣道には至りませんけども、まぁ、おおざっぱに言えばそれくらい重要な流派ということです。
新陰流の創始者、上泉伊勢守秀綱かみいずみいせのかみひでつな(こういずみとも)、のちに武蔵守信綱むさしのかみのぶつなは、上野国の大胡おおご氏一族で上泉城主でした。(この項では秀綱と名乗っていた時代の記載が主ですので、以下秀綱と表記します。)
生年は不明のようですが、一般的に「正傳新陰流」にある、著者柳生厳長が推定した永正えいしょう5年(1508)とされる事が多いようです。秀綱は若年より兵法・軍学を学びました。江戸時代の記録では新当流を松本備前守に学んだとも塚原卜伝に学んだともされています※1。
新陰流伝書の一つ、燕飛えんぴの巻の序文に、
「上古流じょうこりゅう、中古念流ちゅうこのねんりゅう、新當流、またまたま陰流かげのりゅうあり」
とあるため、念流も学んだとされている事が多いようです。
これらの流派を修めたのち、陰流と出会い、陰流から「奇妙※2」を見出して新陰流を創始したとされています。また、学問や紙漉や薬学※3などにも堪能だったようです。新陰流の技の段階の一つ、三学さんがくは禅語より命名されているため、(当時のそれなりの位の武士としては珍しくないでしょうが)文学的素養もあったようです。
ちなみに、燕飛の巻の文章(上古流中古念流云々や懸待表裏など)は新當流の伝書の文章と酷似しているため、上泉秀綱が新當流を学んだというのは事実だと思われます。
では陰流を誰から学んだのでしょうか。
「正伝新陰流」では、14、5歳でまず新當流と念流を学び、その後鹿島住の陰流の開祖、愛洲移香あいすいこう(1452-1538)から陰流を学んだび、22歳で全て学び終えた、としています。秀綱が15歳頃から学んだとして移香は70歳ほどの頃でしょうか。ただ、秀綱の弟子で、甥とも言われている疋田豊五郎ひきたぶんごろうが残した伝書では、秀綱の師は移香の子、愛洲小七郎あいすこしちろうとなっています。
愛洲小七郎※4は愛洲移香の晩年、永正16年(1519)に生まれました。秀綱の生年を通説の永正5年(1508)年とすると、秀綱より10歳以上年下です。常識的に考えれば、剣聖と言われる上泉秀綱の師としては、やはり老齢の達人である愛洲移香の方がふさわしいと考えられるのでしょう。近年放送された上泉信綱のドラマでも、若い秀綱が老齢の愛洲移香より学んでいました。有名な「剣聖上泉信綱詳伝」や「正伝新陰流」などでは、小七郎の名が疋田系でしか見られない事から、傍流の伝承で事実ではなく、愛洲移香が師であるとしています。
では小七郎から学んだ場合はどうでしょうか。愛洲家子孫の平沢家に伝わった平沢家伝記によると、小七郎は兵法修行で関東に至り、弘治こうじ初年(1555年頃、36歳)に常州(茨城県)に住んだ。とあります。平沢家伝記によれば愛洲移香は関東へ移動した形跡が無いことから、小七郎は父移香が死んだ後に回国修行に出たのでしょう。小七郎が常州に住んだ頃、上泉秀綱は居城の上泉城が落城し、この後箕輪みのわ城の長野氏に仕える事になります。とすると、学んだ時期は2パターン考えられます。
1.関東回国修行中の小七郎に学んだ(小七郎20代、秀綱30代)
2.上泉城落城から箕輪城に仕えるまでの間(小七郎が常州に住居を定めた30歳頃。秀綱40歳頃。愛洲氏の研究家、中世古詳道なかせこしょうどう先生は上泉城落城後ではないかとしています。)
1と2、どちらにしろ秀綱は30代〜40代で、おそらく新當流と念流を学び、すでに一流の兵法家だったと思います。時代は数十年後になりますが、示現流じげんりゅう開祖東郷重位とうごうちゅういと善吉和尚ぜんきちおしょうとの話を思い出します。東郷重位は27歳、すでにタイ捨流しゃりゅうの使い手です。それに対して善吉和尚は23歳程でした。善吉和尚の剣技に感銘を受けた重位は、年齢差にも関わらず善吉和尚の弟子となりっています。現代でも一流の師範が他流に入門して、年下の師匠につく事はあります。その話のような雰囲気だったのではないでしょうか。
師匠が愛洲移香、小七郎のどちらだったのか、また、全く別の人物から学んだのか、実際のところはわかりません。あくまで私個人としての考えですけども、愛洲小七郎だったのではないか?という気がしています。
さきほど例にあげた燕飛えんぴの巻に次のようにあります。
「上古流じょうこのりゅう、中古念流ちゅうこのねんりゅう、新當流しんとうりゅう、またまた陰流かげのりゅうあり。その他は計るにたえず。予は諸流の奥源を究め、陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す」
つまり、諸流の奥源を究めたが、陰流から別の奇妙(優れたもの)を抽出したと言っています。10代の時に2、3年で諸流を学び、10代後半から20代前半に陰流の老達人に学んだ人物が書いた文章というより、既に成人した一流の兵法者が、陰流に出会ってそれまで学んだ流派に無かった奇妙を見出した、という話の方が通りが良いように感じます。(まぁあくまで印象論に過ぎません)
なんにしろ、陰流を学んだ上泉秀綱は、修行工夫を重ねて新陰流しんかげりゅうを創始することになります。上泉秀綱と新陰流が剣術・剣道の歴史でひときわ大きく名を遺した理由、それはシナイを作り出した事です。
シナイは撓・品柄・革刀などなど色々な字であらわされますが、よく撓しなる事からシナイと呼ばれるようになったそうです。竹の先を数〜十数片に途中まで割り、元は割らずにしておき、革や布の袋に入れて制作します。竹の割り方、袋の作り方など流派によって工夫されていて、柔らかくてよく撓るものから、分厚い竹を少し四つに割っただけの固いものまで、様々です。また、割った竹片を数本から十数本を袋に詰めて作るようなものもありました。このシナイの一種が現在剣道で使用されている竹刀です。剣道の竹刀が一般化したため、昔のシナイを現在では袋竹刀ふくろしないと呼ぶようになりました。
上泉秀綱がシナイを考案するまで、兵法(剣術)の稽古は木刀でおこなわれるのが普通でした。木刀は真剣や刃引はびきの刀で稽古するより安全とはいえ、固い木ですので、実際に打てば良くて打撲、悪くて骨折やそれ以上の怪我のおそれもあります。必然的に当てないか、軽く当てる稽古になりますし、怪我をせず本気で打ちあう事は出来ませんでした。永禄えいろくより以前の話となりますが、冨田流小太刀とだりゅうこだちの名人、冨田勢源とだせいげんの逸話に、試合の際に棒に袋をかぶせている例があるので、怪我させない工夫はさらに昔からあったと思われます。ですが、割竹に革袋をかぶせ、本気で打っても大怪我をせずに打てるシナイの登場は剣術における革命だったと思われます。シナイは江戸時代初期には全国的に使われるようになっていたようですが、タイ捨流を創始した丸目蔵人佐まるめくらんどのすけ(1540-1629)は、晩年弟子に
「上泉師に出会うまでシナイを見たことがなかった」
と語っているところを見ると、やはり上泉秀綱が考案した可能性が高いのだと思われます。
シナイの発明によって木刀に比べてはるかに安全に、実際に力を込めて打ち込む事や、互いに打ちあう試合的な稽古を安全におこなえるようになりました。おそらく木刀でのみ稽古していた流派に比べて、圧倒的に多く経験を積めるようになったと思われます。
上泉信綱が上洛した際、弟子となった柳生新左衛門やぎゅうしんざえもん(のちの石舟斎せきしゅうさい)や丸目蔵人佐まるめくらんどのすけのどちらも、信綱もしくは弟子の疋田豊五郎と試合をして圧倒されています。柳生も丸目も当時一般的な流派を修めていた、一流の兵法者でした。ですが上泉信綱や高弟たちにはかなわなかったようです。(このあたりの話は疋田豊五郎が主役となっている、岩明均の漫画、「剣の舞」で描かれています。)
話を戻します。
上泉秀綱は新陰流を創始したのち、箕輪みのわ城主長野業政ながのなりまさに仕え、武将として活躍します。また、その時期に甥の疋田豊五郎や長野配下の神後伊豆守じんごいずのかみ(鈴木意伯すずきいはくとも)などの弟子を育てていたようです。ちょうどその頃、鹿島の新當流の達人、塚原卜伝つかはらぼくでんが上洛し、足利将軍や北畠俱教きたばたけとものり、雲林院弥四郎うじいやしろうなど、機内の武士たちに新當流を広め、関東に戻ってきました。おそらく上泉秀綱も塚原卜伝の上洛や、その活躍についての噂を耳にしていたのではないでしょうか。この後言及する上泉信綱の上洛ですが、そのルートは塚原卜伝をなぞっているという説もあります。
さて、上泉信綱の上洛です。
一般的には箕輪城落城後、武田信玄からの仕官の誘いを断り、兵法弘流のために上洛したとされています。信玄はその時、他の武将に仕えない事と信の字を与え信綱のぶつなと名乗る事を命じたと言われています。ですが、箕輪城落城は永禄えいろく9年(1566)であり、すでに信綱(秀綱)が上洛した後の話になりますので、武田信玄との逸話も含めて、おそらく後世に想像された話なのではないでしょうか。実際は長野が没し、長野氏が劣勢になりつつあった永禄6年(1563)頃、上泉信綱は上洛を決意し、高弟とともに旅立ったのだと思われます。大胡一族は京都に親戚がいたため、上洛しても何とかなるとの算段もあったようです。
長野家が劣勢になるのを見て、自分の残りの人生は兵法弘流のために生きると考えたとすると、なんだか主君を見限っているようで、ちょっと剣聖のイメージとはズレてしまいますけども、戦国時代の武士としては普通だったのかもしれません。

※1 塚原卜伝が上泉信綱(秀綱)の弟子だ、とされているものまであります。
※2 この奇妙は陰流の一手猿廻えんかいから見出したとも、この奇妙が尾張柳生家でいう転まろばしだとも言われています。
※3 日記では兵法(剣術)や軍配(いわゆる兵法・軍楽)以外に、愛洲薬方や紙漉きを伝授している。
※4 のちに愛洲元香斎宗通あいすげんこうさいむねみちと名乗ります。永禄7年(1564)に常陸の佐竹義重に仕えることになり、後に愛洲家は所領の平澤の名前を名乗るようになります。佐竹家が秋田へ転封になる際に秋田に移住、今も子孫は秋田にいらっしゃるようです。
2
前回書いたように、上泉信綱かみいずみのぶつな(今回以降は信綱表記とします)は高弟を伴い上洛しました。記録に残っているのは疋田豊五郎ひきたぶんごろうと鈴木意伯すずきいはくの二名です。
疋田豊五郎は天文てんぶん6年(1537)に信綱の甥(姉の子)として産まれたとされています。おそらく少年時代より信綱に師事して兵法を学んでいたのだと思われます。永禄6年に上洛したとすると、その時26歳です。豊五郎の活躍は、戦国末期から江戸初期になるので、今回は簡単な紹介に留めておきます。永禄3年(1560)の「関東幕注文」に大胡おおご氏と並んで引田伊勢守ひきたいせのかみの名前があるため、この一族なのではないか?と思われます。
鈴木意伯、神後伊豆守じんごいずのかみとも吉田小伯よしだこはくともあり、同一人物かどうか不明なところもあります。江戸時代から詳細は不明だったようですが、安倍立剣道あべりゅうけんどうの伝書「鎬言集こうげんしゅう」によると、信綱門下で次回話題にします丸目蔵人佐まるめくらんどのすけと並ぶ実力があり、京で指南していたが早くに亡くなった、そうです。
上泉信綱の門下では、柳生・丸目・疋田・神後(鈴木、吉田とも)の四名が傑出していたとされ、現在でも新陰流の四天王などと言われる事があります。
1、上洛途中で柳生やぎゅうと宝蔵院ほうぞういんを弟子にすること。
信綱は上洛途中、今の奈良県で柳生宗厳やぎゅうむねとし(※1)・宝蔵院胤栄ほうぞういんいんえい・松田織部之助まつだきおりべのすけなどの地域の有力者を弟子としました。この時、柳生宗厳は上泉信綱に三度挑み、三度破れたとも、最後には無刀の技で信綱に太刀を取り上げられたとも言われています。(また、信綱は勝負を辞退し、変わりに弟子の豊五郎と勝負させた、という話もあります。これは岩明均「剣の舞」のラストシーンに採用されていました)ともかく、こっぴどく破れ、実力差を痛感した宗厳は信綱に入門します。これが永禄6年(1563)頃とされています。その後、京に向かうため弟子の疋田豊五郎を柳生に留め置き、指導にあたらせたという話があります。この時、柳生宗厳は36歳、宝蔵院胤栄は40歳です。(ちなみに上泉信綱は55歳、疋田豊五郎は26歳、神後伊豆守は年齢不明) 柳生宗厳と宝蔵院胤栄はその2年後、印可を得ています。
信綱についての確かな一次史料として、言継卿記ときつぐきょうきや国賢卿記くにたかきょうき(※2)などの永禄12年(1569)〜元亀げんき2年(1572)の記述があります。それには信綱は鈴木とともに登場し、疋田の名はありません。また、後述しますが、疋田は永禄9年(1566)に伊勢雲林院いせうじいの雲林院弥四郎うじいやしろうに入門しています。ですので、疋田が信綱に同行せず、柳生で指導にあたっていた、というのは可能性が高そうな話です。
柳生一族は、江戸初期の剣術を語る上では省く事が出来ない存在ですが、この時点ではまだ地方の豪族、新陰流の一高弟にすぎません。活躍するのは関ヶ原以降になってからです。
2、柳生と疋田、それから雲林院の関係
先ほど書いたように、疋田豊五郎は塚原卜伝つかはらぼくでんの弟子、雲林院弥四郎うじいやしろう(別名を工藤弥四郎)に永禄9年に誓紙せいし(※3)を出して新当流兵法しんとうりゅうひょうほうに入門しています。雲林院弥四郎は伊勢の雲林院城主(現在の三重県津市雲林院)の一族だそうで、塚原卜伝が上洛途中、北畠具教きたばたけとものりなどに教えていた時期に入門し、免許を得ています。
雲林院は槍の達人として有名で、江戸時代幕臣たちが稽古した真當流槍兵法しんとうりゅうやりへいほうという流派の開祖となっています。疋田豊五郎はおそらく鹿島新當流の槍や薙刀を学ぼうと思ったのではないかと思います。疋田豊五郎は後に新陰之流槍しんかげのりゅうやりという名前で、鹿島新當流そっくりの内容の槍術を教えていたりします。この槍術、のちに疋田豊五郎の弟子、猪多伊折佐いのだいおりのすけが改良し疋田流槍術ひきたりゅうそうじゅつとして大成します。この槍術は日本各地に広まりました。
また、雲林院弥四郎の息子(この人も弥四郎と名乗っています)は柳生家の門弟となっていますから、雲林院・柳生・疋田の三者にはつながりがあったのだと思います。
柳生と疋田の関係ですが、柳生宗厳の嫡男新次郎(宗矩むねのりの兄)は疋田豊五郎から免状を貰っています。他に村山作右衛門むらやまさくえもんなど柳生宗厳と疋田豊五郎の両名から学んでいる人物もいました。後世の記録になりますが、有名な柳生十兵衛やぎゅうじゅうべえがその著書「月之抄つきのしょう」で疋田豊五郎の技として、扇団せんだんの打や紅葉観念こうようかんねんについて語っている部分があります。これらの記録から想像するに、疋田豊五郎が他の兄弟弟子たちと比べても柳生宗厳と付き合いが深かったのは間違いないと思われます。
3、神後伊豆守と無刀
上泉信綱の上洛中の逸話については、様々な逸話が語られています。有名なのは近江坂本おうみさかもとで子供を人質に籠もった犯罪者を捕えた話です。信綱は旅の僧から袈裟を借りて僧の格好をし、握り飯を渡す様に見せかけ、油断した相手を素手で捕えた、というものです。これは有名な無刀むとうとも絡めてよく知られている話です。映画七人の侍でこの逸話がほぼそのまま使われています。
この時僧から借りた袈裟は、感心した僧から信綱に授けられたそうです。上記の話は武芸小傳ぶげいしょうでん(※4)に書かれているもので、藝州の浅野綱長に仕えた三谷正直(※5)が語ったものとあります。この袈裟は後に高弟の神後伊豆守(鈴木意伯)に授けられたとされています。この逸話が事実かどうかわかりませんが、神後伊豆守系の流派では事実とされていたようです。
また、尾張柳生に伝わる話としては、また別の話があります。尾州明光寺に信綱が滞在している時に、背後から切り掛かってきた乱心者の太刀のムネを両手で捕り、引き倒して踏み抑えた、という話です。この話を信綱は柳生宗厳に語り、無刀を完成を依頼して別れたとされています。
無刀、一般的に真剣白刃捕しんけんしらはどりや無刀取むとうどりの名前で知られ、創作作品や一部空手の演武では刃を両手で挟むような技で知られています。まぁ、刀を両手で挟む技は単なる一発芸みたいなものですから置いておくとして、実際の無刀はそういった荒唐無稽なものではありませんでした。
また、柳生石舟斎によって完成した、という説が一般的です。
ですが、実際のところ、上泉信綱と鈴木が無刀を稽古している記録(※6)があり、中條流ちゅうじょうりゅうにも既に無刀の技(※7)がありました。第5話 室町時代で書いたところでもありますが、襲われた際に敵の太刀を奪い取って撃退した細川勝元ほそかわかつもとの例などもあり、それほど特殊な技術というわけではありません。また、この頃には捕手とりて・腰廻こしのまわり・小具足こぐそくなどと言われている、刀を鞘に納めた状態、帯刀たいとうでの武術や、短刀や小脇差を使った組討くみうちの武術の流派が発生し始めています。(この種類の武術は非常に重要なので、また別に話します) 柳生と無刀の話は、剣術的な意味で、さらに高度なレベルで無刀を完成させた、と認識するのが良いのではないかと思われます。

※1 なお、柳生と新陰流については「やる夫で学ぶ柳生一族」という名作がWEB上にあります。柳生一族や新陰流の歴史に興味がある方は読まれる事をお勧めします。
※2 言継卿記、公家の山科言継が戦国時代50年近くにわたって書かれた日記。国賢卿記、同じく公家の船橋国賢の日記。(こちらはなんらかの論文に引用されていたのですが、コピーしか持っていないため、出所が不明、いま確認中です)
※3 誓紙は武芸では入門や免許などの時に師へ提出するもので、最後まで稽古を続けること、師の指示に従うこと、他人と争わないこと、などを誓い、違反した場合は全国の神々の神罰が下るという形式で書かれます。
※4 武芸小伝 天道流の日夏繁高が正徳4年(1714)に出版した、全国の武芸流派について記載した書です。武芸小伝の影響はこの後に出版される武芸関係の書籍、武術の伝書における記述に大きな影響を与えました。現代の諸流派の記述もこの書籍の記述を元にしているものがまだまだあります。ただし、日夏個人が知りえた情報を元にしているため、九州や四国、中部、東北などの流派の記述はあまりありません。(日夏は関西、江戸、あとは一部東北に関係があるとか)
※5 新陰流から一旦流剣術を編み出した剣術の達人だそうです。神後伊豆守とその弟子について詳しく語っているので、神後伊豆守の新陰流の使い手だったのかもしれませんが、広島の古文書類は原爆で失われたものが多いため、不詳です。
※6 三術みじゅつという名称で、身を低くして敵の大太刀おおだちに向かって駆け、敵の腕を取り背後に回り込む。または敵の腕を担ぐ、もしくは面を打つ、というような、敵の身際に寄って組討になるシンプルな技だったようです。
※7 国賢卿記 元亀二年七月十一日に上武・鈴木来、兵法格位真砂(妙?)無刀迄遣了との記述があります。上武が上泉武蔵守(信綱)、鈴木は鈴木意伯(神後伊豆守)、信綱と鈴木が来て自分(國賢)と稽古をした、真妙剣しんみょうけんと無刀まで稽古が終わった、ではないかと思います。
3
前回、言及した言継卿記ときつぐきょうきや国賢卿記くにたかきょうきを見ると、上洛した上泉信綱かみいずみのぶつなは色々な公家や武家の自宅を訪れ、兵法ひょうほうや軍配ぐんばい、さらには紙漉かみすきなどを教えたり(※1)、披露していたようです。本当に多才な人物ですね。
個人的にはどうやって生計を立てていたのだろう?という点が不思議ですが、なんだかんだと色々な収入があったのかもしれません。印可いんかを与える事で謝礼などを貰っていたのでしょうか。
それはともかく、入門側の記録が残っています。まぁ、かなり後に記録されたものなので、どこまで信頼性があるのかわかりませんが、貴重な記録です。
4、丸目蔵人佐まるめくらんどのすけの入門
信綱が上洛した後、上泉信綱の高名を聞いた武士、丸目蔵人佐長恵まるめくらんどのすけながよしが上京し信綱に入門します。この時の話が安倍立剣道あべりゅうけんどう(※2)の伝書でんしょ「鎬言集こうげんしゅう」に書かれています。その前に丸目蔵人佐についてですが、丸目は天文9年(1540)、肥後国の八代やつしろに生まれ、16歳で初陣、その後天草あまくさの天草伊豆守に寄寓、兵法修業したとされています(ちなみに丸目は若い頃はキリシタンだったとか)。この時、有馬流ありまりゅう、門井流かどいりゅう、松本流、岡野流、新當流しんとうりゅう(※3)を学んだようです。有馬流、門井流、松本流の三つは共に新當流の一派ですし、岡野流も小神野流おかのりゅうだとするとこれも新當流の一派ですので、丸目が新陰流以前に学んだ流派は新当流だったと考えて良さそうです。
「鎬言集」によると、信綱に兵法を学んだ将軍義輝よしてる公は、諸国に信綱と勝負できるものはいないか?とお触れを出したとあります(信じられませんけど)。丸目はそれを聞いてでは勝負しよう、と思い上洛します。ちなみに海上を行くと海賊に襲われるので陸路を僧の恰好をし存覚と名乗って旅をしました。この時の年月日は不明ですが、永禄7年に足利将軍の前で丸目と信綱が兵法上覧しているところを見ると、永禄えいろく6年か7年、丸目が二十代前半の事だと思われます。(※4)
上洛した丸目はさっそく信綱の自宅に押しかけ、
「九州より丸目蔵人佐というもの弟子の望みありて来る!」
と言ったところ、信綱も九州の丸目という上手がいる事を知っていたため、
「(あなたは高名なので)弟子になるには及ばない」
「もしどうしてもというなら先ず仕合しあいをしましょう」
と言ってシナイを取り出した、とあります。(当然、前回説明した撓、今でいう袋竹刀です)
この時、丸目蔵人佐ははじめてシナイを見たそうです。シナイを見た丸目が試しにシナイを振ってみたところ、木刀ぼくとうと違いよくしなります。
丸目は
「これでは勝負がわからない」
と言います。信綱は
「いやいや、互いに怪我をしないのが一番です。ですが、やってみればかならず一方が負けるのはわかります」
と答えます。
丸目も納得し、二人で縁側に出てさっそく仕合をはじめました。
まず丸目がするすると進み出て、ぱっと真向を打ちました。ですが信綱はさっとそれを外して逆に丸目の頭上をびしっと打ちました。
丸目は「今一度」というと、信綱は「何度でもどうぞ」と答えます。
丸目は次はぱっと素早く飛びかかって打ちかかりましたが、信綱は先ほどと同じように外してまた同じ所を打ちました。打たれたその時、丸目は焦って「今一度」とも言わずに続けて打ちかかります。突然のことだったので、信綱もとっさに足を上げ蹴飛ばし、丸目を縁側から庭に突き落としました。
転げ落ちた丸目もこの即座の対応に驚き、
「先生こそ天下の名人である」
その場で平伏し弟子になった、という話です。
この話自体は、丸目蔵人佐の直弟子じきのでし二名から学んだ、安倍立剣道あべりゅうけんどうの開祖安倍頼任あべよりとうが語った事を、弟子が書きとめた「鎬言集こうげんしゅう」という書物に書かれています。ただし、書かれたのは丸目蔵人の没後、かなり時間もたっているので創作や推測も入ってはいそうです。
それでも、シナイに対する評価や、信綱と丸目の仕合の様子など、戦国時代の雰囲気が感じられます。
入門ののち、足利義輝あしかがよしてるへ上泉信綱かみいずみのぶつなが兵法上覧ひょうほうじょうらんした際、丸目は打太刀うちたち(※5)をし、将軍より感状を得、その感状が現在でも丸目家に残っています。(ただし、真筆であるかどうか、要研究である、というのが研究者の意見だとか)
丸目蔵人は一度帰郷し、再度上洛した永禄10年、信綱より印可を得ます。この時、丸目は弟子を何人か連れて上洛しており、彼らも信綱より指導を受けたという話があります。
この後、丸目蔵人佐と弟子たちが九州に新影流しんかげりゅう(九州の古い史料は影の字になっています)を、タイ捨流を創始してからはタイ捨流を広めていきます。その中には薩摩の秘剣・剛剣として知られている示現流じげんりゅうの開祖、東郷重位とうごうちゅういもいました。
5、信綱の帰郷
信綱は永禄6年(1563)頃から元亀げんき2年(1572)までの10年近くを機内で過ごしました。関わった人物、柳生・松田・宝蔵院ほうぞういんは地方の有力者で、京都で関連のあった山科言継やましなときつぐ・船橋国賢ふなばしくうにたかなどは貴族です。丸目蔵人佐も地方ではそれなりの立場の武士でした。この期間の京都は永禄8年(1565)足利義輝が殺害される永禄の変、永禄12年(1569)に織田信長の上洛などもあり、方々で合戦があり安定している時代ではありません。ですが、最初に述べたように色々な相手に兵法(剣術や軍配ぐんばい)を含む様々な芸能を教授や披露していた形跡が見られます。塚原卜伝つかはらぼくでんの弟子を見てもわかりますが、戦国時代、当時の兵法を学ぶ階層は、やはり乱世でもそれなりに余裕のある地位の人間だったようです。
これは個人的な意見ですが、すくなくとも戦国時代の兵法・剣術というのは、学問や芸能の一種であり、合戦のための兵卒の技や、低い身分のものが自衛や戦闘のために学ぶものではなかったのだと思います。(ただし、後世と違い、暴力・闘争が身分を問わず非常に身近だった時代ですから、単なる趣味・習い事としてだけではなく、実用性が求められていたのは間違いないと思います)
元亀げんき2年(1572)に信綱は山科言継から下野国しもつけのくに結城方ゆうきがたへの書状(信綱から公方等みな軍配を学んだ、という紹介状)を受け取り、関東へ帰って行きます。この後の足取りは不明ですが、天正てんしょう5年(1577)亡くなったというのが通説です。ですが、信綱と親交のあった山科言継が編集に参加した「歴名土代」には天正てんしょう元年(1573)卒とあるので、おそらく関東に戻ってほどなく亡くなったのだと思われます。
上泉が帰郷した2年後、元亀げんき4年(1574)に織田信長が将軍、足利義昭あしかがよしあきを追放、室町幕府はここで滅亡した形になります。この後は織田・豊臣秀吉・徳川家康の政権が登場する安土あづち・桃山時代ももやまじだいとなります。
この安土桃山時代に名を残す人々は、外他流とだりゅう(一刀流いっとうりゅう)の外他とだ一刀斎いっとうさい(伊藤一刀斎)とその弟子、小野次郎右衛門おのじろうえもん(御子神典膳みこがみてんぜん)・古藤田勘解由ことうだかげゆ。冨田流小太刀とだりゅうこだちの冨田越後守とだえちごのかみ・長谷川宗喜はせがわそうき。天流てんりゅうの斎藤傳輝坊さいとうでんきぼう。新当流しんとうりゅうの師岡一羽もろおかいっぱ・穴澤浄見あなざわじょうけん。そして、今回名前を挙げた上泉信綱の弟子たち(柳生石舟斎やぎゅうせきしゅうさい・タイ捨流の丸目蔵人佐・疋田豊五郎ひきたぶんごろう・宝蔵院胤栄ほうぞういんいんえい)などになります。
時代小説等に興味がある人には見覚えのある、またはお馴染みの有名剣豪たちだと思います。

※1 軍配ぐんばいは今でいう軍隊に関連した兵法ひょうほう、軍学ぐんがくです。ただ、現代イメージする兵法と違い、多分に呪術的な内容を含みます。
※2 安倍頼任あべよりとう(一鎬士、1624-1693)が丸目蔵人佐のタイ捨流しゃりゅうから創始した流派。日本の武道史上最初に剣道を名乗った流派とされています。江戸時代には福岡黒田藩ふくおかくろだはんの主流剣術の一つで、維新後も道場が残っていました。剣道十段の斎村五郎さいむらごろうも少年時代にこの流儀の道場で剣を学んでいます。話によると昭和末か平成頃まで経験者がいたとか。
※3 有馬流は第8話で言及した松本備前守まつもとびぜんのかみの弟子、有馬大和守ありまやまとのかみの流派。門井流は新當流開祖飯篠長威斎の弟子、門井主悦かどいもんどの流派、松本流は松本備前守の流派です。岡野流はおそらく松本備前守の弟子の小神野おかの氏の流派だと思われます。有馬流の極意は無一剣むいちけん、門井流の極意は三段仕合さんだんのしあい、松本流の極意は一足詰いっそくのつめだと安倍立あべりゅうやタイ捨流しゃりゅうの伝書に書かれています。また、丸目はこれらの技の返し技も教えています。一足詰は現代のタイ捨流の形名にもありますね。
※4 日本武道全集で「相良文書」の丸目が19歳頃、永禄えいろく元年に上洛し信綱に入門したとあるのは、信綱上洛の永禄6年との食い違いがあると指摘されています。
※5 打太刀(うちたち、うちだち)は剣術や剣道で一般的に使われる用語で、兵法の技を演じる際(稽古する際)の敵役の側のこと。  
 
上泉信綱・諸話 1

 

塚原卜傳「一の太刀」伝承に就いて
塚原卜傳「一の太刀」に就いて「勢州軍記」に次の如く説明しています。(本朝武芸小伝の記述は勢州軍記引きです。)『夫れ兵法の剣術、近来常陸国住人飯篠入道長威、天真の伝を受け初めて一流を立つ。彼の卜伝は長威の「四伝」を継ぐ。最も秘術を兼ね新に復其の術を立てて名を世間に得たる者なり。
然るに、卜傳諸国修行して常州に帰り、最後の時其の家督を立てんと欲し、三子の心を察せんが為に木枕をもって「のれん」の上に置き、先ず嫡子を召す。嫡子見越しの術を以って之を見付け木枕を取って座に入る。又、前の如くに次男を召す。二男「のれん」を開きし時、木枕落つ。飛び去って手を刀に掛け慎みて座に入る。又、前の如くにして三男を召す。三男「のれん」を開きし時木枕落つ。忽ちに刀を抜き之を宙に斬りて座に入る。
卜傳怒りて曰く「汝ら木枕を見て驚くことなんぞや」と。嫡子彦四郎予て之を知りて心を動かざるに感じて家督を譲りて曰く「但し、一の太刀は唯一人に授くるのみなり。我、之を伊勢の国司に伝う。汝住きて之を習え。」と遂に死し畢んぬ。其の後塚原彦四郎勢州に上り国司に問いて曰く、「我父相伝の一の太刀、その相違を見んと欲す。と、具教卿謀りなるを知らずして之を見せ給うと云々。」と有り』卜傳の唯一人授免許皆伝は伊勢国国司北畠具教卿に授けたので卜傳の継子塚原彦四郎と云えども父子相伝を授かる事が出来なかった。
その為、常陸国鹿島から延々数百里の道のりを賭して伊勢国司多芸の御所に出向いたとあります。
具教卿対して塚原彦四郎は一計を謀って、遂に「一の太刀」の奥義を得たとしています。現代の武道史でも大略この逸話を紹介しています。しかし今回の「雲林院うじい弥四郎光秀宛塚原卜傳免許皆伝書」が 発見され、どうやら「一の太刀」授かったのは伊勢国司の北畠具教卿ではなく同じ伊勢国でも隣の安 濃郡に蟠踞した雲林院うじい城城主雲林院弥四郎光秀である事が解ったのです。
塚原卜傳が来勢する経緯は「上洛の途中」等との考察が北畠 具教卿の逸話から出て来そうです。しかし、塚原卜傳の雲林院うじい弥四郎光秀への允許状の日付は天文二十三年二月 吉日となっています。永正の中頃雲林院うじい氏の惣領・長野氏が代官職を務めていた奄芸郡の禁裏御料所「栗真荘」 を巡って、北畠氏守護代愛洲氏と激しい戦闘が永正十年九月から永正の終わり迄断続的に続きました。特に永正十年九月の戦 闘では長野氏・雲林院氏側は三百人から四百人は討ち死にしたと記録されています。(守光公記・ お湯殿の上の日記)
大打撃を被った兵力の建て直しに、従来、村から徴発された物を運んだりする夫丸や中間、あらしこ等と呼ばれていた非戦闘用員を塚原卜傳を招いて教練させたのではないかと思われます。
此等夫丸・中間・あらしこを戦闘に初めて用いたのが後北条 氏(北条早雲・氏綱・氏康)でした。
関東ではよそ者であった伊勢新九郎長氏・氏綱は関八州の武士団との死闘を休む間もなく繰り広げました。
激しい戦闘で消耗する兵力の補充が勝負を決します。武士団以外から兵力の補充を計ったのが後北条氏の勝因の一つでした。 塚原卜傳の逸話には北畠具教卿の他には将軍義輝・義昭に兵法を指南したとの伝承があります。しかし将軍義輝は在京日数より 避難先での執務が長かった程で別名「流浪将軍」とも呼ばれています。将軍義輝に兵法を講じたと云う上泉信綱の場合、信綱は一色義春の裔であり将軍の近臣に一族の一色氏が仕えていましたから将軍に就いての情報を知る恩恵に浴する事が出来ました。
無位無官の塚原卜傳が将軍義輝の居所を知って上覧を仰ぐ事は不可能です。義昭に至っては将軍宣下の日付が永禄十一年二月です ので卜傳が没する直前でもあり常陸の鹿島から京迄百里以上の道のりは流石の卜傳にも不可能であったに違いありません。此れ等、 無茶な作り話は、後世の卜傳の弟子達が宮本武蔵との「鍋蓋なべぶた対決話」と同様に創り出されたのでしょう。 (塚原卜傳「一の太刀」が「雲林院うじい弥四郎宛免許皆伝書」に含まれたか否かの考証は新當流允可状の章にあり。) 『塚原卜傳が将軍義輝に「一の太刀」を伝授したのではないか』と云う伝説が起った理由の一つとして、永禄八年五月十九日三好・松永氏の義輝弑逆事件があります。 三好・松永の一万を超える軍勢が、将軍御所へ乱入したのが午前八時で、義輝の自害が午前十一時と伝えられていますので、一万 の大軍を相手に将軍の奉公衆等親衛隊は数百人を以って3時間余り持ちこたえたことになります。奉公衆・親衛隊の中に一色淡路守や御末衆疋田弥四郎の名が見えます。
三好・松永の一万を超える大軍に怯まず、すさまじい奮戦であった 事から将軍義輝は「一の太刀」の使い手ではとの俗説が生まれたようです。しかし万を超える大軍を相手に 如何に使い手であろうとも宮本武蔵が天草・島原の乱で 「石にあたり、すねたちかねる」重傷を負った例を 持ち出すまでもなく衆寡敵せずでこの事件での真の功労者は奉公衆や御末衆の多くが 「ある流儀を伝授されていた手練の者達」で、将軍義輝を警護していたと見るのが妥当ではないかと思われます。ある流儀とは?云う までもなく愛洲移香斎久忠の「影流」です。
何故か?次に述べる理由に依って明らかになります。室町幕府が永亨五年に明朝と締結した 条約に依りますと、遣明貿易は「十年一貢・船三隻・乗員二百名・貿易品の中の刀剣は三千把以下。」との取り決めでしたが宝徳三年の 発遣だけでも日本刀は九千五百振りが輸出されています。天文十六年迄、公式の記録だけでも約二十万振り以上が輸出されていた事が判 っています。時の明朝の皇帝は「日本刀」の「刀法」の指導者、即ち「刀法の師範」の発遣を要請してきており文明十六年度の遣明船で 紫禁城に赴いたのが伊勢愛洲氏の愛洲移香斎久忠です。皇帝成化帝の御前で披露演武されたのが「影流」です。成化帝の近衛兵「静旗隊」「粛旗隊」の正式刀法に採用された事は中華人民共和国北京故宮博物館の史料で明らかです。
当然明朝に採用された「影流」が室町幕府内の奉公衆達に伝授された事は当然でしょう。
遣明貿易は朝貢貿易であり、足利将軍が明朝に派遣した「刀法指南」に就いて日本国 内では「採用していない」等と云う事態はあり得ないからです。将軍義輝の奉公衆の中には、伊勢愛洲氏と係わりの深い伊勢・疋田氏や関氏が務めて居り、将軍の警護をしていた事も有力な証の一つでしょう。
上泉信綱の「武蔵守」「四品」の経緯
「武蔵守」及び「四品」の勅許以前の上泉信綱の官途及び官位は亨禄二年(1529)家督を継いだ折、従五位下伊勢守に叙任されたとする説が有力のようです。戦国大名の多くが勅許された「修理大夫」(三好長慶・上杉朝興・相良義陽・大友義鑑・島津忠兼等)や「左京大夫」(武田信虎・北条氏綱・大内義長・三好義継・徳川家康等)と云う官途は、本来の業務の観点からは「虚飾の官」と云われ、業務の実態が伴っていないのに対し、国司系の官途である周防介・筑前守・伊予介や幕府政所執事伊勢氏が踏襲した伊勢守等は、形式的な名誉称号ではない事に注目すべきです。戦国大名が家臣達に官途や受領の斡旋は主従間の絆を強める為に重要な務めでした。関東幕注文が成立した永禄三年前後箕輪城主の長野業政よりも、仕えている上泉信綱(秀綱)の方が官位官途が上位であったと云う主客転倒あり得ない矛盾を今迄一度として検証されて来ませんでした。
永禄十一年の官途、永禄十三年六月廿七日従四位下の勅許は従来「正親町天皇剣を好まさせたまひ信綱の剣名が叡聞に達し、召されてその技を禁庭に於いて天覧あらせられ四品を勅許せられた。」として官途官位の勅許の理由とされて来ました。しかし、これら武道史家の論考は間違っています。叙位官途はあくまで先例に倣います。それでは、上泉信綱(大胡武蔵守)は如何なる先例に倣って「武蔵守」の官途や「四品」を勅許されたのでしょうか?当時、「武蔵守」の官途は将軍拝賀や判始等将軍宣下の際「幕府の特別な儀礼に対して奏聞される。」が慣例です。
第十二代足利義晴は将軍任官時、管領家・細川高国に「武蔵守」の官途を直接奏聞されて実現しました。
永禄十一年五月の足利義昭の将軍宣下の際に上泉信綱が「武蔵守」を賜ったのはこの先例に倣って新将軍義昭の直接天皇への奏聞で実現されたと思われます。義昭の将軍宣下までの経緯は永禄八年五月実兄の足利義輝が松永久秀等に依って弑された事から始まります。松永久秀の手に依って幽閉されていた覚慶(義昭)は、永禄八年七月幽所を脱出、永禄九年二月還俗して義秋と名乗り、永禄十一年四月朝倉義景の拠城越前一乗谷で元服し名を義昭と改めます。朝倉氏の力を以ってでは上洛は叶わず織田信長を頼ることになります。永禄十一年(1568)信長は岐阜の立正寺に義昭を迎え、九月七日上洛を開始します。
途中近江箕作城の六角氏を滅ぼし、洛中の三好三人衆を蹴散らし、十月十八日には義昭は征夷大将軍に任じられます。新将軍義昭は後日織田信長への感状で信長を「御父」と最高の呼称を使っています。
本来であれば十月十八日の将軍宣下の際「武蔵守」の官途は織田信長へ勅許されるのが論功行賞から妥当と考えられますが信長は平氏を名乗って居り、義昭の下風に立つ事を拒否し「弾正忠」のままでした。それ故、「大胡藤原」信綱が「源」信綱に改姓し源武蔵守信綱として勅許されたのです。勅許される理由には上泉信綱は前将軍義輝の近臣一色藤長等の血脈に依り義昭の将軍宣下にも深く係わって居り、上泉信綱が松永久秀麾下の柳生宗厳を永禄八年四月に訪れる前に既に都に上って居り、幕府の中枢内で活動していた事がうかがえます。従来の上泉信綱等主従一行が浪々の身で「武蔵守」や「四品」の勅許があったような奇想天外な伝承は全くの仮想の作り話である事が解ります。上泉信綱の上洛の経緯について「甲陽軍艦」「関八州古戦録」等は長野業盛の箕輪城が武田信玄の侵攻に依って落城した永禄六年の頃と伝えられてきました。
その折、武田信玄が「上泉信綱に仕官を要請した。」とされ、上泉信綱は固辞し、武田信玄の偏諱「信」だけを頂戴し「上泉秀綱」から「上泉信綱」に改めて諸国遍歴に赴くとしています。しかし、近年の正史の研究では、第一に、武田信玄の箕輪城侵攻で箕輪城が陥落するのは永禄九年九月二十九日である事が明らかになりました。(浦野文書長年寺古書筆録)また、上泉秀綱を「上泉信綱」に改名した年代は柳生の荘で永禄八年氏四月に続き柳生宗厳へ影目録を授与した永禄九年五月の署名からで箕輪城落城の砌の伝承とは全く関係ないことも判明します。第二に、従来の上泉信綱主従一行が浪々の身になって東海道から伊勢の北畠具教卿の紹介を取って近畿諸国を武者修行したと云う伝承は上泉信綱の官位・官途の考察でも全くの奇想天外な作り話である事が解ります。関東幕注文では白井衆の上泉大炊助、厩橋衆の長野藤九郎・同彦七良・引田伊勢守・大胡とあり上泉信綱の名は全く記載されていません。上泉信綱の「伊勢守」「従五位」の官位官途から考えられる事は、文明十一年から文明十六年頃まで伊勢国守護職であった先祖一色義春の縁を辿って永禄の初め、将軍義輝の近臣幕府中枢で活躍しない限り「伊勢守」の官途「従五位」の任官はあり得ないからです。
上泉信綱上洛の経緯
上泉信綱(大胡武蔵守)は永正の始め、上野国箕輪城城主長野業政麾下(関東幕注文では上泉大炊助は白井衆に大胡氏は厩橋衆に名が見える)大胡城主大胡秀継の二男として生まれ(上泉系図)、生没年月は大和柳生家文書が永正五年とし歴名土代では天正元年で諸説粉々です。上泉信綱の上洛の経緯について「甲陽軍艦」「関八州古戦録」「箕輪軍記」等は長野業盛の箕輪城が武田信玄の侵攻に依って落城した永禄六年と伝え、其の際、 武田信玄は上泉信綱に仕官を要請しましたが上泉信綱はこれを固辞し武田信玄の偏諱「信」を頂戴し、それまでの「上泉秀綱」を「上泉信綱」に改めたとする説が現代に至るまで武道史上伝えられてきました。
しかし、近年の正史の研究で武田信玄の箕輪城侵攻に依って城が陥落するのは永禄九年九月二十九日である事が「浦野文書」や「長年寺古書筆録」で明らかにされ、上泉信綱が箕輪城陥落前に上野国を離れた事は 確実となりました。柳生宗厳が永禄八年新陰流印可状を上泉信綱から伝授された経緯を柳生厳長翁は柳生記録や「甲陽軍艦」「関八州古戦録」「勢州軍記」等を参考にして次の如く論述されています。
『永禄六年夏秋の頃か上泉伊勢守は道を東海道を過ぎて伊勢路にとり、伊勢の国司、当時俗に「太の御所」と呼ばれたる北畠氏の第を訪れた。国司北畠具教は後年天正四年塚原卜傳の弟子となり終にその「一の太刀」を伝えて天下に喧伝されし仁であって当時其の麾下には武芸者雲の如しと云われていた。伊勢守はこれに立ち寄って兵法者を要めるに、一人として対応するものなく、茲に大和国神戸(かんべ)の庄小柳生城主柳生但馬守宗厳の名を示され、この柳生を置いて他になかろうという。伊勢守はそこで紹介を得て南都(奈良)の宝蔵坊に伺う。宝蔵院流槍術の宗師である胤栄は急使を以て柳生谷へその旨を伝える。但馬守時に三十七歳、この年正月松永久秀の麾下に入り、多武峯の戦いに武功を立て、壮心勃々たる折柄であり、報を得て直ちに奈良に立越えて伊勢守を礼を以って出迎えられたとある。此処に於いて但馬守、伊勢守と試合するに第一日一度戦って敗れ、二たび戦ってまた敗れる。更に三日三度敗るるに及んだ。
遂に節を屈して伊勢守に帰依し、慇懃、その教えを乞うた。廻国の途中なる師を柳生の居城に懇請し、爾後半年の間その教えを受けて二六時中新陰流の工夫に精進した。当時、伊勢守の随伴として氏の甥とも一説に伝えられる弟子疋田豊五郎景勝がいた。また老弟鈴木意伯(虎伯)があったが、茲に伊勢守は一時暇を遣わし、廻国修行の上、別に一流を立てん事を訓した。云々、斯して再来を約して柳生谷を発足して中国、西国の遊に就いた。永禄八年四月再び伊勢守が柳生谷を訪れるに及び終に一国一人に限られる印可状を柳生但馬守宗厳に与えられ新陰流の正統を相承した。永禄九年五月には影目録四巻を贈呈されているが、この目録の署名は「上泉秀綱」から「上泉信綱」に改名している。』以上が柳生厳長翁が「剣道八講」等で説かれ、大略現代の武道史の記述も翁の論考に沿っています。当小論では翻って永禄八年前後の大和国柳生の郷の情勢に就いて垣間見る事から始めます。柳生の郷は永禄当時「小揚生郷」と呼ばれていましたが、その小揚生郷で柳生氏が春日社の荘官として名を見出せるのは有名な「柳生徳政記念碑」の正長年間では未だ見出せなくて、芳徳寺の柳生家墓地の五輪塔の没年を示す文明三年頃かと思われます。
天文十年(1541)十一月「多聞院日記」に「笠置山城の木沢長政を襲ったのは簧河と小柳生らしい。」と記録され小柳生が柳生美作守家厳(宗厳の父)を指していると云われています。「柳生系図」等に依ると、柳生家厳は三好長慶に従って度々戦功を挙げたと記録され、筒井順昭と三好長慶の和解後柳生家厳は筒井順慶にも協力しています。しかし永禄二年(1559)三好長慶の家臣松永久秀が入国するといち早く松永 久秀を迎え筒井順慶から離れています。松永久秀は奈良多聞山に築城して大和国を席巻し、他に山城堺を制圧しています。柳生氏が松永久秀麾下であった事は松永久秀の柳生宗厳宛て蚕卯紙の礼状などで明らかです。永禄六年松永久秀は白土(大和郡山市)と上笠間(室生村)の替地として添下郡秋篠(奈良市)を柳生新介(新次朗から新介へ、更に新左衛門尉と改称)に与えています。
上泉信綱が疋田豊五郎等数人の弟子を引き連れて柳生の館を再度訪れたのは、三好義継・松永久秀等が将軍義輝弑逆の一か月前の永禄八年四月と云う、只ならぬ不穏な空気が漂う真最中の頃でした。
翌年永禄九年五月上泉信綱が柳生宗厳に与えた「影目録」の署名は「上泉秀綱」から「上泉信綱」に改名しています。上野国を出立する以前「武田信玄からの任官を強要されましたが固辞し、信玄の偏諱をその時賜った。」との説が現在まで定説として伝わって来ましたが今回の論考で誤りである事が明らかになりました。
永禄十一年織田信長が上洛の折、松永久秀の麾下で、細川藤孝、和田惟政、佐久間信盛等の嚮導を為したとありますが織田信長上洛後、柳生宗厳は柳生街道高畠で重傷を負っています(一説には落馬)。
しかも織田信長は松永久秀を陪臣としてしか扱わなかった為、柳生宗厳はその陪臣として扱われます。
この様 な状況下で文禄三年五月徳川家康に取り立てられる迄、東山中に雌伏していました。柳生家伝承で「疋田豊五郎は永禄六年上泉信綱師より暇をつかわされた。」とありますが、実は柳生宗厳自身が重傷を負い小柳生を離れて、東山中に雌伏していた時期でもあったのです。
柳生氏の再生の契機は柳生家伝承で係わりを極端に否定いるその疋田豊五郎が兵法指南している豊臣秀次から100石を給せられたのに始まります。  
柳生家が疋田豊五郎との係わりを忌避する最大の理由は柳生家が神君家康公の大名として取り立てられて、豊臣家の兵法御指南であった疋田豊五郎との関係はどうしても消し去る必要があった為だと思われます。  
 
上泉信綱・諸話 2

 

1
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
2
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
3
柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
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柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
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丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
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塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
7
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
8
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
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佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
10
宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
11
長野業正は、上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を防ぎ切った箕輪城の勇将、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡した。関東公方足利氏と山内・扇谷の両上杉家が長期内紛で衰退するなか、長享の乱・永正の乱を制した越後長尾氏が台頭し長尾為景は越後守護上杉房能を弑殺し攻め寄せた関東管領山内上杉顕定(房能の実兄)も討殺、関東では今川・北条が扇谷上杉領を侵食し群雄割拠する戦国下克上に突入した。山内上杉家に仕える長野業正は、長享の乱で降した扇谷上杉朝良の娘を娶り12人もの女児を次々土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を扶植、1527年長尾為景に靡いた惣社長尾顕景・白井長尾景誠を降し両守護代家に傀儡当主を据えて西上野を掌握した。1546年関東管領上杉憲政が上杉朝定・古河公方足利晴氏と同盟し圧倒的大軍で北条氏康を攻めるが「地黄八幡」北条綱成の「日本三大奇襲」に遭い致命的敗北、古河公方は北条の傀儡に堕し朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡、憲政は命からがら上野平井城へ落延びるも山内上杉家は没落した(河越夜戦)。長野業正は、嫡子吉業を河越夜戦で喪いながら国人の結束を固めて西上野を堅持し、憲政を保護し山内上杉氏の家督を譲られた上杉謙信(為景の後嗣)に臣従、1552年「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止めた。1557年川中島の戦いで対峙する謙信の後方撹乱を期す武田信玄が西上野侵攻を開始、長野業正は上野国人を糾合して迎え撃ち、足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍を務めて鮮やかな退却戦を演じ、箕輪城に籠ると夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し謙信の来援を得て防衛に成功、信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と慨嘆させた。長野業正は老骨に鞭打って西上野を守り抜いたが寿命には勝てず1561年70歳で病没、信玄は「これで上野を手に入れたも同然」と直ちに猛攻を仕掛け柱石を喪った上杉勢は瓦解、後嗣の長野業盛は謙信の助勢を得て奮闘したが1566年箕輪城陥落と共に上野長野氏は滅亡した。
12
長野氏は、平城皇孫で『伊勢物語』主人公の在原業平の後裔を称した古豪で領地の上野群馬郡長野郷から名字を採ったとされる。上野を領有した関東管領山内上杉氏と守護代長尾氏(白井長尾家・総社長尾家)に仕えて西上野の土豪「箕輪衆」を束ね、長尾景春の乱で長野為兼・立河原の戦いで長野房兼が戦死し衰退したが、山内上杉顕定の執事で箕輪城に拠った長野業尚と嫡子の憲業が関東公方足利氏・山内と扇谷の両上杉家・越後と上野の長尾家の内紛(享徳の乱・長享の乱・永正の乱)に乗じて盛返した。憲業の嫡子長野業正は、扇谷上杉朝良の娘を娶り12人の娘を土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を伸ばし、惣社長尾顕景・白井長尾景誠(嫡子吉業の舅)を滅ぼして西上野を掌握し河越夜戦で吉業を喪いつつも支配を堅持、山内上杉憲政を保護した上杉謙信に臣従し老骨に鞭打って死ぬまで武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ切った。が、自らの死が上杉方諸豪の動揺を招き「これで上野を手に入れたも同然」と勇んだ信玄は直ちに2万の大軍を率い上野へ侵攻、後を継いだ次男の長野業盛は謙信の来援を得て撃退するが次第に追詰められた。鷹留城主長野業氏(業正の庶兄か)が戦死し、厩橋城主長野方業(業正の叔父)も滅ぼされ、遂に箕輪城陥落となり業盛は自害し上野長野氏は滅亡した。業正庶子の長野伝蔵(業実)が生母の縁故を頼って井伊直政に仕え知行4千石の重臣となり、井伊直弼の謀臣長野主膳はその子孫とする説があるが信憑性は乏しい。
13
長尾氏は、坂東八平氏の一流を称する鎌倉時代以来の古豪で、関東管領山内上杉氏に属して繁栄し、上野・武蔵守護代の長尾景仲は主家を宰領したが子の長尾景春が反乱を起し没落した。越後守護代の長尾氏は三条・上田・古志の三家に別れ、扇谷上杉朝良を降し長享の乱を制した三条長尾能景が越後の実権を掌握したが、越中般若野の戦いで一向一揆に討たれた。嫡子の長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の実兄)の二君を討って越後を牛耳り、傀儡守護の上杉定実に妹を嫁がせ、高梨政盛の娘を娶って四児をもうけた。後を継いだ嫡子の長尾晴景は弱腰を侮られ守護上杉定実を担ぐ国人衆が蜂起、弟の景康・景房が反乱の渦中に落命した。側室(青岩院)腹の末弟長尾景虎(上杉謙信)は、13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破し、家臣・国人衆に推されて兄晴景から家督を奪い、上田長尾政景と揚北衆を降して(後に謀殺)越後平定を果し、北条氏康に追われた上杉憲政から関東管領・山内上杉氏の名跡を継いだ。毘沙門天と飯縄権現を崇拝した上杉謙信は生涯女犯戒を貫いて子を生さず(童貞説あり)後継を定めず急逝、4人の養子のうち上杉景虎(北条氏康の実子)と上杉景勝(謙信の姉仙桃院と長尾政景の子)の壮絶な家督争いが起り(御館の乱)、武田勝頼に臣従し妹菊姫(信玄の娘)を妻に迎えた景勝が勝利したが最強上杉軍は弱体化した。上杉景勝は、謙信遺臣(三条長尾系)を排斥し直江兼続ら上田衆を極端に優遇したため新発田重家の乱を招来、織田信長の猛攻に晒され封前の灯火となったが本能寺の変に救われ、養子の義真を人質に出して豊臣秀吉に臣従し会津120万石・五大老に栄進したが、石田三成と通謀した直江兼続が関ヶ原合戦の戦端を開き(会津征伐)、改易は免れるも出羽米沢藩30万石に大減封された。景勝没後は一子上杉定勝が米沢藩を継いだが、その一子上杉綱勝に後嗣が無く上杉氏は断絶、吉良上野介義央(忠臣蔵の敵役)の幼児綱憲を末期養子に迎え家を保った。15万石に減封された米沢藩は日本屈指の貧乏藩と揶揄されたが名君上杉鷹山の藩政改革で汚名を返上した。
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長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。
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上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。
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太田道灌は、江戸城を拠点に東奔西走し古河公方足利成氏を降して関東管領上杉氏に勝利をもたらしたが(享徳の乱)、下克上を恐れる主君に謀殺された戦国初期関東の最高実力者である。中国古典を渉猟して兵法に精通し、30余度の合戦で獅子奮迅の活躍、「山内上杉家が武蔵・上野両国を支配できるのは、私の功である」との自認に値する大功を立てたが、「狡兎死して走狗煮らる」の諺を地で行ってしまった。下克上の時勢が熟す数十年後に登場していれば、主家上杉氏を追落として関東に覇を唱え、同年生の北条早雲を退けたかも知れない。関東管領上杉氏は、山内・扇谷・犬懸・宅間の四家に分れたが、山内家が関東管領を独占し他の三家は分家的存在となった。1416年上杉禅秀の乱を機に上杉氏と鎌倉公方足利氏の対立抗争が激化、1438年将軍足利義教を味方に付けた上杉憲実が足利持氏を討ち鎌倉公方は一旦滅亡するも(永享の乱)、上杉氏が持氏の末子成氏を擁立して鎌倉公方を再興した。が、1454年傀儡の立場を潔しとしない足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺、将軍足利義政の支持を得た上杉氏は成氏勢を下総古河へ押しやり(古河公方)、関東諸豪は真二つに割れ利根川を挟んで対峙し30年に及ぶ大乱へ発展(享徳の乱)、将軍義政は成氏への対抗馬に弟足利政知を送り込むも鎌倉入りを阻まれて伊豆堀越に留まった(堀越公方)。父太田資清から扇谷上杉家家宰を継いだ太田道灌は、武蔵国に河越城・江戸城・岩槻城・五十子陣を築いて防衛体制を敷き、関東管領山内上杉房顕に主君扇谷上杉政真まで合戦で喪いながらも死闘を征し、長尾景春の反乱を討ち平げて、1483年上杉氏勝利で関東大乱を終息させた(都鄙合体)。が、太田道灌の活躍で主家扇谷家の権勢が関東管領山内家を凌駕し両上杉家の対立抗争が勃発、そして3年後太田道灌は権勢を妬む主君扇谷上杉定正に謀殺された。柱石を失った関東諸豪は再び動揺し山内・扇谷の両陣営に別れ再び争乱に突入(長享の乱)、両上杉家は共倒れの途を辿り道灌末期の「当家滅亡」の叫びどおり60年を経て漁夫の利をさらった後北条氏に滅ぼされた。
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佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
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武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。
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武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。
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「武田二十四将」は今なお有名だ。山本勘助は、諸国巡礼の末に52歳で武田信玄に仕官し足軽大将に抜擢された。容貌醜悪で片足が不自由だが、諸国情勢や兵法・築城術に通じ、信玄に恨みを含む諏訪御料人の側室採用、北信濃攻略などに大功があったが、第4次川中島の戦いで上杉謙信に啄木鳥戦法を見破られ戦死した。江戸時代に甲州流軍学を広めた小幡勘兵衛の『甲陽軍鑑』で一躍有名軍師となったが、その雛形は勘助の子が作ったもので、実際は軽格と見る向きが強い。ただ、二十四将中で門外漢は山本勘助のみであり、浪々の身から破格の昇進を遂げた事実は動かない。同じ謀略系では真田幸隆がいる。信玄に属して合戦で奪われた所領を回復、戸石城攻略で大功を挙げ、巧みなゲリラ戦術は子の真田昌幸・孫の真田信繁(真田幸村)へ受継がれた。猛者揃いの武田軍でも「武田四天王」馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信・山県昌景は別格だが、最強は山県昌景だろう。140センチ足らずの小兵で口蓋裂の醜貌ながら、常に先陣を疾駆し「赤備え」と恐れられた。「赤備え」の元祖は昌景の兄飯富虎昌、信虎追放劇に加担した宿老だが、武田義信の傅役故に謀反疑惑に連座し処刑された。長篠の戦いで山県昌景が戦死した後、「赤備え」は井伊直政と真田幸村が踏襲した。高坂昌信も強いが、少年期は信玄の寵童であったという。板垣信方は、信虎追放以来の腹心で、享楽に耽る武田信玄を諌め、北信濃方面軍司令官の大役を担ったが、上田原の戦いで緒戦の勝利に油断し前線で首実験中に村上義清に襲撃され落命した。長篠の戦い後、武田勝頼の求心力は衰え、最期は譜代重臣にも見捨てられた。小山田信茂は、信玄の従弟で家中屈指の大族だったが、織田信長の甲州征伐で逃亡する武田勝頼の保護を拒み滅亡に追いやった。戦後信長に降伏するが、余りの不忠を咎められ処刑。穴山信君は、武田一族の名門だが、従兄弟の勝頼と対立し長篠の戦いで戦線離脱、甲州征伐では織田方に内通し本領安堵のうえ武田宗家を継承した。が、徳川家康と堺見物中に本能寺の変が勃発、木津川河畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命した。
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北条早雲(伊勢新九郎長氏・伊勢盛時)は、衰亡する室町将軍を見限り40歳過ぎで関東に下向、甥今川氏親の駿河守護擁立で今川家の重臣となり、関東公方足利家・関東管領上杉家の内紛に乗じて伊豆・相模二国と小田原を奪取、関東の覇者後北条氏の礎を築いた戦国下克上の先駆者である。続く北条氏綱・氏康が関東全域を切り従えたが、北条氏政・氏直が豊臣秀吉の小田原征伐に屈し後北条氏は5代で滅亡した。北条早雲は、室町将軍家の重臣伊勢氏の出自で将軍足利義政や義視・義尚に近侍したとされるが、前半生に目立つ事跡はない。40歳を過ぎた頃、妹北川殿が嫁いだ駿河守護今川義忠が戦死し家督争いが発生、調停に乗り込んだ早雲は扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退け甥龍王丸(今川氏親)の擁立に成功、戦功により興国寺城を与えられ60歳にして一国一城の主となり、後嗣無く死去した伊豆韮山城主の養子に入って鎌倉幕府執権北条氏の名跡を継いだ。1491年、室町将軍家・両上杉家と古河公方の和解で宙に浮いた堀越公方の足利政知が亡くなると、北条早雲は戦乱で守衛が手薄となった堀越御所を急襲し後継者足利茶々丸を追放し、寛容な帰服受入れと減税で土豪と領民を靡かせて伊豆支配を確立、東国戦国時代の端緒といわれる快挙を成遂げた。1494年、明応の政変で兄茶々丸を憎悪する足利義澄が将軍に就任すると、北条早雲は三浦氏の内紛に乗じて新井城に籠る茶々丸を攻め滅ぼし、翌年には東方に鞍を返して扇谷上杉方の大森藤頼を騙し討ちして小田原城を奪取、関東制覇の拠点を打ち立てた。その後の北条早雲は、今川家・扇谷上杉家の被官として各地に転戦しつつ、伊豆・相模の戦国大名として独立を果し領国経営に勤しんだ。機略縦横で連戦連勝だったが、今川軍の総大将を務めた三河攻めでは徳川家康の曽祖父松平長親に唯一といえる黒星を喫している。茶々丸征伐の盟友で相模三浦氏の旧領を継いだ三浦義同を族滅して後顧の憂いを絶ち、優秀な嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城で88歳の大往生を遂げた。早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれた。
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戦国時代の先駆け北条早雲には多くの伝説がある。一説によると、応仁の乱に嫌気がさした足利義視は一時伊勢に隠退したが、随従した北条早雲は義視の帰京後も伊勢に留まり、同地で意気投合した仲間6人(御由緒六家;荒木兵庫・多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・大道寺太郎・在竹兵衛)と盟約し関八州制覇を志して共に駿河今川家に乗り込み、早雲が城持ちになると盟友達は家老として一軍を率い後北条氏の覇業を支えたという。伊豆征服直後の正月二日「一匹の子鼠が杉の大木二本をかじり倒すと、鼠は虎に化した」初夢をみた北条早雲が「子年の早雲が両上杉を倒して関東を征する瑞夢」と喜んだ話も伝わる。所領と兵力を持たない今川家の謀臣が伊豆・相模二国を征するまでに謀略を駆使したのは事実だろう。一説には、伊豆を征服し関東に野心を研ぐ北条早雲は小田原城を望んだが、城主で扇谷上杉家重臣の大森氏頼は一筋縄ではいかない人物で、油断を誘おうと手厚い贈物を遣わして懇親を申し込むも逆に警戒され撥ね付けられた。北条早雲は冒険を避けて堀越公方足利茶々丸追討に専念したが、茶々丸を滅ぼした頃に運よく大森氏頼が病没し子の大森藤頼が立った。それでも早雲はすぐには攻めず、再びせっせと贈物をして若い藤頼を篭絡し攻守同盟まで結ぶに至り、扇谷上杉氏当主定正の落馬死の機に満を持して腰を上げた。使者を小田原に遣って「狩りのため勢子を箱根山に入れたい」と申入れると、油断しきった大森藤頼は機嫌よく了承、勢子に化けた軍勢をまんまと越境させ、日没を待って千頭の牛の角に松明を結びつけ小田原城を急襲、周章狼狽した大森藤頼は命からがら逃げ落ちた。小田原を得た早雲は再び猫被りに戻り、しおらしくも扇谷上杉氏への帰順を願い出て報復をかわし、以後は伊豆・相模の領国経営に専念して上杉氏打倒と関東制覇の夢は子孫に託した。領国からの盲人追放に擬して他国にスパイを送り込んだという話も伝わる。一方、富国強兵の現実的要請からであろうが、占領地の豪族や領民には大いに仁政を施し歓迎をもって迎えられたという。
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北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。
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北条氏康の政治力は祖父早雲譲りで戦国時代随一といわれる。領国拡大よりも統治に重きを置き、無理な外征を控えて戦費を抑え他国より低い税負担を実現した。北条領を引き継いだ徳川家康は税率引上げに苦労し、忍者の風魔小太郎(江戸幕府創設直後に処刑)や鳶沢甚内(幕府に帰順し目明し兼古着商支配役を世襲)など北条家遺臣が成した盗賊団の跳梁にも手を焼いた。義戦の名の下に実益乏しい外征に明け暮れ重い戦費負担を強いた上杉謙信とは好対照で、局地戦では敵わなかったものの、家臣と領民の支持が長期持久戦を可能にし広い領土を保つことができた。豊臣政権の太閤検地に先駆けで領内の検地を徹底し度量衡も統一、検地即ち隠田摘発は農民の反発を買うものだが、徴税体制強化の代わりに減税の恩恵を施した。中間搾取排除で領民の負担を減らしつつ一極支配体制を固め、目安箱を設置し、凶作や飢饉の際には柔軟に税の減免を施して酷いときには徳政令を施行、それでも領主層=家臣団や豪商を手懐け得たのは政治力の成せる業であった。北条氏康は、城下町小田原の都市開発にも鮮やかな手腕を見せた。街区や上水道(小田原早川上水)を整備し、全国から商人・職人を呼び寄せて商工業を振興、文化人・芸人を招聘して活気も演出し、清掃にも気を配り、西の山口と並び称される東国最大の都市を築き上げた。戦国期の城郭は、松永久秀の信貴山城や斎藤道三の稲葉山城に代表される山城から経済活動に有利な平城へ移り、末期には堀と防塁で城下を囲い込む巨大要塞(総構え)へ発展したが、小田原城はその画期を為す傑作であり、攻低守高の時代にあって難攻不落を誇った。海外貿易と重商主義を成功させ兵農分離まで到達した織田信長ほど派手ではないが、北条氏康の政治手腕は封建領主としては抜群で領民にとっては最も有難い名君であった。  
 

 

 
 
 
伊藤一刀斎 (伊藤一刀斎景久)

 

   1550/1560? - 1628/1632/1653?
伊東一刀斎 1

 

(生没年不詳) 戦国時代から江戸初期にかけての剣客。名字は伊藤とも。江戸時代に隆盛した一刀流剣術の祖であるが、自身が「一刀流」を称したことはなかったという。諱は景久、前名、前原弥五郎。弟子に小野善鬼、古藤田俊直、神子上吉明ら。
一刀斎の経歴は異説が多く、どれが正しいか拠り所がない。生没年は、1550年(天文19年)生年説、1560年(永禄3年)生年し1628年(寛永5年)没説、また1632年(寛永9年)に90余歳で没説、1560年(永禄3年)8月5日 (旧暦)に生まれ1653年(承応2年)6月20日 (旧暦)に94歳で没説がある。出身地は、一般には伊豆国伊東の人であり、出身地から伊東姓を名乗ったといわれている。(ただし、伊東には伊東一刀斎についての伝承、伝説等は一切伝わっていない)しかし、「瓶割刀」の逸話によれば、一刀斎は伊豆大島の出身で、14歳のときに格子一枚にすがって三島に泳ぎ着き、三島神社で富田一放と試合して勝ち、神主から宝刀を与えられた。この刀で盗賊7人を斬り殺し、最後の1人が大瓶に隠れたところを瓶ごと二つに斬ったという。ほかに、『一刀流傳書』によれば西国生まれとし、山田次朗吉によれば古藤田一刀流の伝書に近江堅田生まれの記述があるという。『絵本英雄美談』によれば加賀金沢か、越前敦賀生まれで、敦賀城主大谷吉継の剣の師だったが、大谷が関ヶ原の戦いで戦死したために浪人し、下総小金原(現在の松戸市小金付近か)に隠棲して死去したともいう。また、終焉地についても丹波篠山説もある。
一刀斎の師と剣術の極意
『一刀流極意』(笹森順造)によると「高上金剛刀を極意とし英名を走せていた中条流の達人鐘捲自斎通宗を江戸に訪ね、就いて自斎から中条流の小太刀や自斎の工夫になる中太刀を学んだ。弥五郎(一刀斎)は日夜一心不乱に鍛錬の功を積んだので(中略)自斎は深く感心して自流の極意、奥秘の刀たる妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の五点を悉く弥五郎に授けた」という。ほかにも、自ら編み出した極意として、愛人に欺かれて刺客に寝込みを襲われ、逆襲したときに生まれたという秘太刀「払捨刀」、他に刃引・相小太刀・越身、鶴岡八幡宮に参籠して無意識のうちに敵を斬り、悟りを得たという「夢想剣」などがある(溝口派一刀流伝書、他流伝書)。「景久師、回國他流戰三十三なりと、没日は七日なりと。年號つまびらかならず」(『一刀流歴代略』)とあるようにその後一刀斎は諸国を遍歴し、勝負すること33度、ただの一度も敗れなかったという。
現存する伝真田信繁写本『源家訓閲集』に収録の「夢想剣心法書」には、1595年(文禄4年)7月のもので署名が「外田一刀斎他二名」とある。外田一刀斎とは鐘捲自斎の別名でもあり、自斎も経歴のよくわからない人物である。したがって、出身地など両者の事績が重なっている可能性もあると考えられる。一方、柳生氏の記録『玉栄拾遺』の注記には、一刀斎の師は「山崎盛玄」とされている。「名人越後」と称された富田重政(富田流)の弟(兄とも)に山崎左近将監景成があり、剣名が高かった。あるいはこの山崎景成が「山崎盛玄」である可能性もある。
唐人との試合
天正年間、相模三浦三崎に戸田一刀斎が諸国武者修行の途次に立ち寄り、多くの入門者があったとされる。このとき、北条氏の家臣、古藤田俊直(古藤田一刀流、または外他一刀流、唯心一刀流の祖)を高弟としていることから、この戸田一刀斎は伊東一刀斎に間違いなさそうである。1578年(天正6年)、三浦三崎に唐人が来航したときに十官という中国刀術の名人がいて、一刀斎は扇一本で木刀を持った十官と試合し、勝ったといわれる。
一刀流の相伝
『一刀流口傳書』、『撃剣叢談』によれば、一刀斎は弟子の善鬼(姓不詳。なお一刀斎との出会いを描いた『耳袋』写本では船頭とあり名は記述されていない。小野姓とするのは俗説)と神子上典膳に下総国小金原(現千葉県松戸市小金原付近。なお『雜話筆記』では濃州桔梗ガ原(乗鞍岳北)とする)で勝負させ、勝った典膳に一刀流秘伝を相伝した。典膳は後に一刀斎に徳川家康へ推薦され1593年(文禄2年)に徳川秀忠に200石で仕えた小野忠明(小野次郎右衛門)である。一刀流は、小野忠明の後、子の小野忠常の小野派一刀流、忠明の弟(次子とも)の伊藤典膳忠也(『剣術系図』彰考館本の注に修行時代兄の前の名前神子神典膳と名乗ったとされる)の伊藤派一刀流(忠也派とも)に分かれ、以後も多くの道統が生まれた。  
 
伊藤一刀斎 2

 

今回は一刀流の始祖、伊藤一刀斎です。伊藤一刀斎景久(いとういっとうさいかげひさ※伊東とも )1550年〜1653年※生没は諸説あります。この一刀斎も出生などに謎が多い人物です。
一刀斎は伊藤弥左衛門友家の子として、天文19年(1550年)伊豆大島で生まれたとされています。幼名は前原弥五郎と称していたそうです。生まれつき身体能力が高く骨格逞しく、力も人より優れて強かったといわれています。伊豆大島という土地柄の為8歳の頃より漁をし育ったそうです。
本当なのかはわかりませんが14歳の時に伊豆大島から格子にすがって三島(現静岡県三島市)まで泳いでわたったといわれています。そして三島神社の床下で起居していたそうです。そんな一刀斎の様子を地元の人々は天狗が島から舞い降りてきたと噂していたそうです。
そんな折、一刀斎は三島に富田流の富田越後守重政の門人の富田一放という剣術者がいるという事を聞きつけ勝負を所望しました。派手やかないでたちの富田一放と全身ボロをまとった一刀斎が対決し14歳の一刀斎が富田一放に勝利しました
これを見ていた三島神社の祠官、織部が感心し神社に伝わる瓶割刀を一刀斎に授けました。この瓶割刀にも色々と逸話があり、抜身を縄でつるしておいた所縄が切れ下にあった酒瓶を真っ二つにしたという話や盗賊7人を斬り殺し最後の1人が大瓶に隠れたところを瓶ごと二つに斬ったという話などがあります。
この瓶割刀は代々一刀流宗家に伝えられていたといわれています。その後、一刀斎は武道高名の師を求め、江戸に出て中条流の達人として知られていた鐘捲自斎の門弟となります。鐘捲自斎の門弟となった一刀斎はその素質を発揮したようで、小太刀、中太刀の秘術を学び入門して数年で誰もかなうものがいなくなったいわれています。そして全てを学んだと悟った一刀斎は鐘捲自斎の下を離れて旅立とうとしました。
しかし師の鐘捲自斎はそれ咎めましたが、一刀斎と木刀で立ち会った鐘捲自斎は一本も打ち込む事ができませんでした。鐘捲自斎が不思議に思っていると一刀斎は「我を打たんとする師の心が我が心にうつるのみ」と答えたそうです。
そんな中で剣心一如(剣は人なり、剣は心なりといわれるように剣は心によって動くものであり、剣と心は源が一つで繋がっている。したがって正しい剣の修行をすれば正しい心を磨く結果になる。という教えです)の妙を悟ったといわれています。
これを一心刀と称して自らの流派を一刀流とし、号を一刀斎としました。生涯居住をかまえず、旅籠に泊まっては「天下一剣術之名人伊藤一刀斎」札を掲げ、生涯で真剣勝負33回、凶敵を倒すこと57人、木刀で打ち伏せること62人という超人的な記録をもった人物でした。
逸話ですが一刀斎が編み出した技に「秘太刀 払捨刀」という技があるそうですがその技が完成したのは愛人に欺かれて(他に好きな男ができたが一刀斎が別れを拒み別れてくれなかったからだとも)刺客に寝込みを襲われた際とっさに生まれた技だとい事です…色々な意味で只者ではないです。
その後、一刀斎は弟子のは善鬼と神子上典膳(みこがみてんぜん)の二人に下総国で真剣勝負をさせ「勝った者に一刀流を相伝する」としました。その勝負に勝ち残った神子上典膳に一刀流を継承させ、一刀斎の瓶割刀を与えたといわれています。
後に神子上典膳は小野忠明(小野次郎右衛門)と名を改め、柳生宗矩と共に徳川将軍家剣術指南役として召し抱えらる様になります。一刀流は小野忠明の後に忠明の弟(実子ともいわれています)である伊藤忠也の伊藤派一刀流と、忠明の三男の小野忠常の系統とに分かれました。
それを区別するために小野家の系統を継いだ忠常の流派が小野派一刀流と呼ばれるようになりました。その後も小野派一刀流には多くの有能な門弟たちが現れ分派していきます。有名な分派では中西派一刀流や北辰一刀流などがあります。
この有名な流派の源流となった一刀流ですが、やはり一番の功績は一刀斎の剣心一如の悟りが大きかったのではないかと思います。自分自身でも幾度となく真剣勝負の立会いをした一刀斎ですが戦いの中に身をおきながらも、剣は心によって動くものであり、剣と心は源が一つで繋がっている。
だからこそ正しい剣の修行をすれば正しい心を磨く結果になるという考えに至ったことが後の剣術界を牽引していく一派を作る源になったのだと考えます。この剣心一如は現在の剣道でも剣の修練は人間形成の道であるという教えにもあるように数百年経っても変わらず教えられています。人間の想いや教えというものが繋がることで歴史は紡がれていくのだという事を改めて実感しました。 
 
伊藤一刀斎 3 長遠山常楽寺

 

実戦派将軍家兵法指南役・小野忠明
2代将軍徳川秀忠、3代家光の兵法指南役を務めた柳生宗矩には、ライバルがいました。
一刀流の小野次郎右衛門忠明<ただあき>です。文禄2(1593)年、29歳の時に江戸へ出て、徳川家康に召し抱えられました。200石をたまわり、家康の子秀忠の兵法指南役となります。元の名を神子上(御子神)典膳<みこがみてんぜん>といいました。なにか、こちらの方がチャンバラ小説の主人公みたいでカッコいいのですが、確かに将軍に剣術を教える師匠にしては、重みに欠けるような気もします・・・。
忠明は、合戦の現場でも活躍しています。慶長5(1600)年に秀忠が真田昌幸・信繁(幸村)父子の籠る信州上田城を攻めた時も、奮戦目覚ましく中山照守・辻久吉・鎮目惟明・戸田光正・斎藤信吉・朝倉宣正とともに上田七本槍の1人に数えられています。ただし関ヶ原の前哨戦であるこの戦いは、まんまと真田の謀略にはまった秀忠軍が足止めを食らい、関ヶ原に遅参する原因となってしまいました。忠明も軍令違反の罪で、一時真田信之にお預けの身となります。信之は真田昌幸の嫡男ですが、父や弟と袂を分かって徳川方についていました。
軍令違反とは言っても、主君に忠義を尽くした結果であることには違いなく、復帰した後は加増を重ね、600石を領するまでになりました。しかし性格が直情径行で、妥協や要領良く振る舞うことを嫌った忠明は、対人関係で衝突を起こすことが少なくありませんでした。将軍相手の稽古でも手加減せずに立ち合ったので、次第に疎んじられるようになったといいます。そしてついに、元和元(1615)年の大坂夏の陣で、同僚の旗本たちとの間に諍いを起こし、閉門を命じられることになります。
のちに許されましたが、もう人間関係のゴタゴタにはうんざりしてしまったのか、家督を子の忠常<ただつね>に譲り、知行地の下総<しもうさ>国埴生<はぶ>郡寺台村(千葉県成田市)に隠棲してしまいました。そこで晩年を過ごし、寛永5(1628)年11月7日に64歳で亡くなります。遺体は同地の永興寺に葬られましたが、小野家は幕臣なので、歴代の職場は当然江戸、すなわち今の東京です。柳生家の墓が所領地である奈良・柳生の芳徳寺以外に練馬の広徳寺にもあるように、忠明や忠常の墓も、新宿の長遠山常楽寺にあります。
常楽寺は都営大江戸線の牛込柳町駅西口を出てすぐ右で、大きなマンションと入口を接しています。立札一つなく、他の墓塔たちに紛れるように立つ墓碑の正面には、中央に忠明の師である一刀流流祖伊藤一刀斎、その右側に忠明、左側に忠常の戒名と俗名が刻まれています。そしてこの墓碑の右隣には、忠明の子孫で11代将軍徳川家斉<いえなり>に仕え、家伝の剣技をことごとく台覧するという栄誉に預かった小野忠喜<ただよし>の墓が立っています。つまり、忠喜が流祖と祖先を供養するために造ったのが、忠明ら3者連名の墓なのでしょう。
ちなみに一刀流には古藤田一刀流・水戸一刀流・溝口一刀流など諸派があり、小野家に代々伝わるものを小野派一刀流といいます。ところが資料によって、小野派一刀流の祖を忠明とするものと忠常とするものがあります。これは、忠明を一刀流の正統者とし、忠常以降を小野派とする考え方があるためです。
忠明が一刀斎から道統を受け継ぐに当たっては、血なまぐさいエピソードが残っています。
一刀斎には忠明(当時は神子上典膳)のほかに、もう1人小野善鬼<ぜんき>という高弟がいました。一刀斎はあろうことか典膳と善鬼に真剣勝負をさせ、勝った方に一刀流を継がせると言い出したのです。
善鬼はもと船頭でした。足場の不安定な船の上で櫓を漕ぐ生活が、善鬼の腕や足腰を鍛え上げたのでしょう、腕力に物を言わせた太刀筋は凄まじいものがありました。気性も荒く、言動は粗暴だったそうです。
さて、2人の果し合いですが、伎倆は互角、相手の手の内を知り尽くした者同士です。どちらも容易に仕掛けることができません。長い睨み合いの末、一刀斎は一端、勝負を中断させました。
その場にピーンと張り詰めていた空気が緩んだ直後、信じ難いことが起こります。なんと善鬼が、流派の後継者に与えられる秘伝書を掴み取り、逃走してしまったのです。後を追った典膳は、荒屋の庭先に置かれていた瓶の中に隠れた善鬼を見つけて瓶ごと叩き斬り、即死させてしまいました。
卑怯な振る舞いをしたとはいえ、善鬼とて一刀斎にとっては手塩にかけて育てた愛弟子です。一刀斎は善鬼の妄執を弔うべく小野姓を名乗るよう、典膳に求めたといいます。ただしこれは作り話のようで、幕府が編集した武家系図集である『寛政重修諸家譜』には、家康の命で母方の姓を名乗ったのだと記されています。
小説なのですが、ひろむしがおもしろいと思ったのは、峰隆一郎氏が『剣鬼、疾走す』などで書いた説(?)です。それによると、実は小野忠明は神子上典膳ではなく小野善鬼で、一介の船頭だった善鬼が、氏素性のはっきりした武士である典膳になりすまして、徳川に仕えたというものです。突拍子もない話ではありますが、忠明がのちに見せる狷介な性格が、言い伝えられる善鬼の言動と相通じるものがあるような気がして、妙に納得してしまいました。
いずれにせよ、ほとんど人を斬ったことのない柳生宗矩と違って、小野忠明が戦いの場数を踏んだ実力派ファイターであったことは確かでしょう。それだけに、彼には真偽はともかく、剣豪らしいエピソードが豊富です。徳川家に仕えるきっかけについても、宗矩がらみの面白いものがあります。
小野忠明vs柳生宗矩
2人の将軍家兵法指南役、小野忠明と柳生宗矩は、ほぼ同じ時期に徳川家に仕官しています。先に仕えたのは忠明で、文禄2(1593)年のことです。宗矩はその翌年で、忠明の方が1年先輩になります。
忠明の就職経緯については、いくつかのエピソードが伝わっています。
たとえば、師の伊藤一刀斎景久<かげひさ>が徳川秀忠の剣術師範にスカウトされた時、諸国武者修行を続けることを望んで、代わりに忠明を推薦したというものです。これは、宗矩が父石舟斎の代わりに徳川家に仕えたのとよく似ていて、いかにもありそうな話です。ただ、これに激怒した兄弟子の小野善鬼と命をかけて決闘するという、前回の日記で書いた尋常でない話が付いてくることになるのですが・・・。
また、こんなのもあります。江戸近郊の村で、剣術使いが人を殺して民家に立て籠りました。家康は、甲州流兵学者の小幡勘兵衛景憲<おばたかんべえかげのり>を検使として派遣し、忠明に賊を倒すことを命じます。忠明は勝負が始まるやたちまち相手の両腕を斬り落として勝ちを収めました。勘兵衛の報告を聞いた家康は、忠明の働きを賞し、旗本に取り立てたというのです。ちなみに小幡景憲は、後に忠明から免許を授かり、神子上一刀流を創始しています。
極めつけの話としては、宗矩と忠明の直接対決のエピソードがあります!
江戸に出た忠明は、宗矩に勝負を挑むために、柳生邸に乗り込みました。大小を取り上げられた忠明に対して、宗矩は真剣を抜き放ち、「わが道場は、並みの道場ではない。将軍家指南役である。それを知って試合を挑んでくる者は、手討ちにすることになっている」と言いました。周囲を見回した忠明は、一寸八尺ばかり(約55センチ)の薪の燃えさしが落ちているのを見つけ、それを取り上げて立ち合いました。
宗矩は汗を流しつつ忠明に斬りかかりますが、その刃先は忠明の衣服に触れることさえできません。それどころか顔から衣服にかけて、燃えさしの炭をさんざんなすり付けられてしまいました。宗矩が偉かったのは、そこで弟子たちを使ってよってたかって忠明を斬り殺すというような卑劣なマネをしなかったことです。忠明の腕に心から感服した宗矩は、彼をその場で待たせたまま登城します。そして大久保彦左衛門に会って、忠明を将軍家で召し抱えるよう推挙したといいます。
最初に書いたように、徳川家に仕えたのは忠明の方が先なので、このエピソードは当然、真っ赤な嘘です。そうは言っても、忠明自身にも柳生には負けぬという自負があったのでしょう、宗矩の子どもたちの剣術修行法について、上から目線のアドバイスをしたと伝えられています。
どのようなアドバイスかというと、忠明は宗矩に対して次のように言いました。
「ご子息たちが上達するよい方法がある。罪人のうちから腕の立つ者をもらい受けて真剣を持たせ、これを相手にして斬り捨てさせることだ」
乱暴ではありますが、実戦派の忠明らしい言い分です。それに対して宗矩は、「いかにも、いかにも」と頷きはしたものの、当然のことながら実行には移しませんでした。将軍家指南役の子どもに、そのような人斬り稽古をさせられるはずもありません。それでも、その場では忠明を立てて否定しないあたり、世知に長けた宗矩らしい、大人の対応といえましょう。
立身出世という面では、大名にまでなった宗矩に遠く及ばなかった忠明ですが、剣術としての一刀流は、なかなかの隆盛を誇ることになります。息子の忠常が受け継いだ小野派一刀流、忠明の弟伊藤典膳忠也<てんぜんただなり>を祖とする忠也派一刀流などに分派して諸国に広まり、江戸時代の終わりには、その流れを汲む北辰一刀流が風雲急を告げる歴史の舞台で活躍、あるいは暗躍したキーパーソンを多く輩出しています。
新撰組の隊士でしたが、それぞれの事情から隊を離れて悲劇の最期を遂げた山南敬介・伊東甲子太郎・藤堂平助、新撰組の母体となった浪士組の募集に応じて京に上るも、近藤勇らと対立して袂を分ち、江戸に戻った後、幕府見廻組に暗殺された尊王攘夷の志士清河八郎、桜田門外の変で大老井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門、変を起こした水戸浪士たちに精神的な影響を与えた海保帆平<かいほはんぺい>、西郷隆盛に直談判して勝海舟との会談を実現、江戸無血開城への道を開いた山岡鉄舟、もはや説明不要の幕末一番人気のヒーロー坂本龍馬など、その人材たるやまさに綺羅星の如くです。
それに引きかえ、幕末維新史において柳生新陰流の名を、少なくともひろむしは聞いたことがありません。
忠明は徳川家康に一刀流の極意を尋ねられた時、それは相手を一刀のもとに斃すことにあり、他流派のような定まった型などない、と答えています。いつ命の危険にさらされるかわからない動乱の中では、剣禅一如を目指し、心法に重きを置く柳生新陰流よりも、実戦至上主義の一刀流の方が、時代のニーズに合っていたのでしょう。結果的に、広く世に広まった一刀流は、現代剣道のルーツと言われています。
では、そもそも一刀流の創始者伊藤一刀斎とはどのような人物だったのでしょうか?
剣鬼・伊藤一刀斎
現代剣道のルーツといわれる一刀流ですが、その流祖伊藤一刀斎景久<いとういっとうさいかげひさ>の生涯は、謎に包まれています。
まず、その生国がはっきりとしません。伊豆大島(東京都)をはじめ、伊豆国伊東(静岡県)、近江国堅田(滋賀県)、加賀国金沢(石川県)、越前国敦賀(福井県)などいくつもの説があります。生年も天文19(1550)年とも永禄3(1560)年ともいわれます。さらに名字も、伊藤ではなく伊東とするものもあります。もともとの名は、前原弥五郎といいました。
生来たくましい肉体を持ち、腕力があるばかりでなく敏捷性にも優れていたそうですから、もともと剣の天分に恵まれた人だったのでしょう。14歳の時に大島を出たといいますが、その手段が凄い。なんと板1枚を抱えて海に飛び込み、それにすがり、泳いで三島(静岡県)に渡ったと伝えられています。三島大社の床下に起居していた一刀斎は、富田一放<とだいっぽう>という刀術者と試合をしました。一撃で一放を倒した一刀斎に、立会人を務めた同社の神官織部<おりべ>が瓶割刀<かめわりとう>を授けました。この刀は同社に奉納されていたもので、抜身のまま天井の梁に括りつけてあったのが、縄が切れて落ちた時、下にあった酒瓶をまっ二つに割ったといいます。一刀流の宝刀とされ、代々宗家に受け継がれました。
その後江戸へ出て、中条流から鐘捲<かねまき>流を創始した鐘捲自斎<じさい>の門人となります。5年もたたずに、門弟の中で一刀斎に敵う者は1人もいなくなってしまいました。「私は御流儀の妙所を会得しましたので、お暇をいただきます」そう自斎に言いましたが、そんな短期間で妙境に達することができるはずがないと認めなかったので、ならば証明するまでと、直に木刀を取って立ち合うこととなりました。
結果、3度立ち合い、3度とも一刀斎の勝利に終わります。自斎が理由を尋ねると一刀斎は、「先生が私を打とうとすると、それが私の心に映るのです。私は、ただそれに応じただけです」と答えました。鐘捲自斎も達人といわれた剣客です。それを相手に、「あんたの打つ手は、すべて見え見えですよ」と言っているのですから、驚くべき天才ぶりです。感心した自斎は、自流の極意をことごとく一刀斎に授け、快く彼を送り出しました。円満退社というわけです。この時授けられた5つの極意─妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣<こんじちょうおうけん>・独妙剣はそのまま一刀流の極意となり、全ての一刀流の技はここから発生したといわれています。
一刀斎はさらに外他<とだ>道宗から判官流を学びましたが、ここでもすぐに奥秘を悟り、道宗のもとを去っています。それからは諸国を遍歴して、数多の武芸者と勝負を重ねていきます。その戦歴たるや、凄まじいものがあります。真剣勝負33回、殺した相手57人、木刀で打ち倒した者62人と伝えられています。敗れて門人となった者に、唯心一刀流の祖古藤田勘解由左衛門俊直<ことうだかげゆざえもんとしなお>、そして小野善鬼、小野次郎右衛門忠明らがいます。
剣名高い一刀斎は、織田信長や徳川家康にスカウトされたこともありました。しかし、旅から旅への自由な生活を愛し、誰にも仕えることなく流浪の生活を続けました。老齢に至り、兄弟子小野善鬼に勝って一刀流継承者となった忠明に伝書と瓶割刀を授けると、飄然といずこかへ立ち去りました。以後、忠明は2度と一刀斎と会うことはありませんでした。その晩年は不明です。一説では94歳まで生きたといいますが、彼ほどの天才が、その後エピソードらしいエピソードを何も残していないのは奇異な感じがします。
7月1日の日記で紹介した、小野忠明=小野善鬼説を取る峰隆一郎氏の小説では、神子上典膳<みこがみてんぜん>と組んで善鬼を亡き者にしようとした一刀斎は、善鬼の返り討ちにあって決闘地である下総国(千葉県)小金ヶ原<こがねがはら>で命を落としたのだとしています。
これは峰氏の創作ですが、それなりに説得力があります。従来の説でも、一刀斎は立会人とは名ばかりで、典膳の助太刀同様の働きをして、2人がかりで善鬼を討ち果たしたというものがあります。さらに、典膳が一刀斎を殺したという伝承まであるのです。
一刀斎は望みどおり、お気に入りの典膳を後継者にすることに成功したものの、この時の死闘が老いの身にこたえ、それからほどなくして亡くなったのではないでしょうか。戦いで深手を負ったのかもしれませんし、優秀な弟子の1人を騙まし討ちにしたことに対する良心の呵責も、一刀斎の老いた肉体を蝕んだのかもしれません。あるいは秘密を守るために、典膳が唯一の証人である師をも葬り去ったと考えるのは、うがち過ぎでしょうか?
流派の未来を典膳に託し、思い残すことのなくなった一刀斎は、剣の道を志して以来駆け抜けてきた修羅の道からようやく抜け出し、穏やかな安らぎの中で最後の日々を送ったというのが、本当のところだったのかもしれません。
亡くなった場所も定かでない一刀斎が、どこに葬られたのかはわかりません。常楽寺にある墓は小野派一刀流の継承者が、後世になって流祖の遺徳を偲ぶために建立したものです。今度また訪れることがあったら、稀代の剣豪がその人生の終着点においてどのような境地に達したのか、その魂に問いかけてみたいと思います。  
 
伊藤一刀斎 4

 

日本の古流剣術を語る上で、この人を語らずして誰を語るのか。
一刀流の流祖、伊藤一刀斎景久である。最強の剣術家では必ず名前が挙がる、日本剣道史の中でも大物中の大物である。仕合数 三十三回、そのうち真剣勝負 七回 全てに勝っている。
個人的に感じていることだが、剣術で古流と言うと 新陰流 のイメージが強い。全国的な活動状況を見ている限り新陰流 は各地に支部などがあり、現代で最も認知度の高い古流剣術流派であると感じている。
しかし現代剣道の視点から見ると、その辺りの事情はガラリと変わってくる。現代剣道にもっとも色濃く影響を与えた流派と言うことであれば、他の流派の追随を許さず ぶっちぎり感 があるのがこの一刀流である。半身の姿勢が少なく、基本形は向身で型が構成されていて、刀を両手で握り、自分の真正面の相手を斬る。一刀を操ると言った観点からは最も日本剣術らしい流派と言える。
一刀流は江戸時代を通じて、将軍家の剣術指南役であり、もう一つの指南役で実力的には衰えていった柳生新陰流(江戸柳生)とは異なり、幕末まで実力を保持した。その実力の武術談も多い。
しかし、これ程、実力、知名度ともに抜群の流派でありながら 伊藤刀斎景久 と言う人の出生で確かなものない。一般的には伊豆大島の人で 弥五郎(幼名 左五郎) と言うのが通説であろうか。しかし他にも、近江堅田の人であるとか、西国の人であるとか、筑紫の人であるなど、諸説あるようである。14歳の時、大島から戸板につかまって泳いで三島に泳ぎ着いたと有る。14歳で冨田一放と言うものと仕合をして勝っている。
まず訪れたのが、三嶋大社、伊豆国一の宮である。
小説などによると、景久が下働きをしていたなどと言う話を読んだことがありますが定かではりません。しかし、三嶋大社、小田原と言った一円には縁が深い土地であったと思われます。
一刀流と言えば瓶割刀である。諸説の中に以下のような逸話がある。
景久は三嶋大社の神官、織部から宝蔵にあった刀を授けられた。その夜、織部の宅に強盗7人が押し入りますが、その7人を景久がことごとく斬り倒した。その中の一人が瓶の中に隠れたが、瓶ごと一刀両断にした。
瓶割刀が瓶割刀といわれる由縁の一つです。
三嶋大社を去った後は本格的な修業時代に入ったと思われます。
景久は中条流系の鐘巻自斎の弟子であるとされます。
一刀流はそもそも5本の型しかないと言った話を友人から聞いたことがあります。五点の事だと思われます。その後の、小野派、唯心などを見ても単純に五本だけだったとは言いがたいですが、大基本はこの五本のようです。
この五点を鐘巻自斎から習得したようです。このときの逸話が面白い、少し砕けた感じで書くと
景久:師匠、おいら剣術分かっちゃったよ。
自斎:おめーなにいってやがる、少しだけ修業しただけで、剣術極めただと
景久:だって分かっちゃったもんは、しかたないでしょ
自斎:お前性根を叩きなおしてやるから、ちょっと来い、稽古つけてやる
しかし、自斎は全く持って景久にはかないませんでした。
自斎:おめー大したやつだな、一体何がどうして、そんなんになった。
景久:だって師匠、脚が痒い時に、頭掻くバカはいないでしょ、剣術だって同じでしょ
自斎:おめーはやっぱり、大したやつだ、おめーには全部教えてやるよ、全部
逸話によると、こんな感じだと思います。
しかし、景久にも以外に人間臭い話があります。酒をしこたま飲んで、妾と蚊帳の中で寝ていたところ、妾に手引きされ、蚊帳を落とされ斬られかけた事があるらしいです。酒を飲んで愛人と寝ているなんて、隙だらけです。蚊帳を落とされた中にいてはひとたまりもありませんが、運よく敵の刀をもぎ取りました。刀さえ手にすれば怖いものなしです。この窮地を何とか切り抜けたらしいです。そんな時に習得した業が捨仏刀と呼ばれるものです。
このような、面目ないことがあったこともあり、非常に反省したそうです。
景久の逸話で好きなものに以下の話があります。当時、北条家は中国と貿易をしており、三浦三崎には中国からの貿易船が来ていたらしいです。その中に、十官と言う中国剣術の大名人が同船していたようです。十官の腕たるや凄まじいもので、誰も敵うもの無し。しかし、景久だけは そんな大したことないんでないの となり、勝負となります。十官は長木刀、景久は何故か扇子。しかし、激しさ、派手さたるや、この世の物とは思えなかった十官も景久の扇子に押し込まれます。景久は最後には扇子さえも捨てて勝ったようです。
さて史跡めぐりに戻ります。
場所は変わり、鶴岡八幡宮である。
雨が降った後でもあり、多少霞が掛かり何とも厳かである。
鶴岡八幡宮と言えば、景久が夢想剣を編み出した場所でもある。剣道五百年史によると 祈願を籠むること七日、夢に奇術を得たので夢想剣と名ずけ とある。wikiによると 鶴岡八幡宮に参籠して無意識のうちに敵を斬り、悟りを得たという「夢想剣」などがある(溝口派一刀流伝書、他流伝書)とされている。坂東武者の心の拠り所でもある、一度は参拝したいものである。
鶴岡八幡宮は昔は、神仏習合で両方が祀られた場所でした。(鶴岡八幡宮寺)一般的には神宮寺と呼ばれます。明治の廃仏稀釈にて神社となりました。その破壊は凄まじいものだったらしいです。いまや八幡宮の八の字は平和の使者、ハトで形取られています。剣術もそうですが、人をあやめるだけの業ではなく、心を収める業として、自分を律するということも大切にしていきたいものです。
景久の墓は都内にあります。
一つ目は、新宿区原町の常楽寺である。
もう一つも同じ都内ですが少し離れます。京急、新馬場から歩いても10分ほどの場所にある、天妙国寺です。この墓石が伊藤一刀斎景久の墓とされています。しかし日本武芸小伝によるとこの墓は三世、伊藤典膳忠也の墓であるとあります。
景久は、承応二年六月二十日に94歳でなくなったとあります。晩年、丹波笹山で僧になったとか、下総小金ケ原で没したなどの説があるが定かではない。
常楽寺 (新宿区原町)
顕本法華宗の寺院。長遠山常楽寺は慶長法難に依り耳鼻そぎの惨刑にあわれた常楽院日経上人が、江戸の布教の根本道場として日本橋小伝馬町に大伽藍を建立されたが、徳川幕府に破却。
元和元年(1615年)、浅草に常楽寺を復興し、歴代先師が法灯を継承、江戸三カ寺としての威容を誇っていましたが、市区改正に伴い大正9年に現在の新宿、牛込の地に移転しました。
天妙国寺 (品川区南品川)
顕本法華宗・鳳凰山天妙国寺は、弘安8年(1285年)、日蓮大聖人の直弟子である天目上人により創建されました。各時代、地域の有力者に保護され、15世紀半ばには品川湊の豪商だった鈴木道胤親子が17年の歳月をかけて七堂伽藍を建設。天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入る際に宿泊し、翌年10石の寺領を受けました。寺所蔵の『御三代成之覚』には、初代徳川家康が1回、二代徳川秀忠が2回、三代徳川家光が44回、将軍家の宿泊が記録されています。
寺社参詣図『紙本着色妙国寺絵図』(東京都指定文化財)、品川の歴史を記した『妙国寺文書』(東京都有形文化財古文書)、『日什筆曼荼羅』(品川区指定文化財)など、貴重な絵画、古文書が寺宝として伝わっています。境内には、浪花節中興の祖 桃中軒雲右衛門(1873〜1916)、剣の達人 伊藤一刀斎(?一説に1560〜1628) 等のお墓があります。
毎年10月中旬の「御会式」では、19時頃から品川宿の入口・八ツ山踏切付近より品川中から集められた万灯が東海道を賑やかに練り歩き、天妙国寺本堂にてお題目を唱え参拝を行います。一般参拝客も鐘をつくことができる大晦日の「除夜の鐘」には、毎年多くの参拝客が訪れます。  
 
伊藤一刀斎 5

 

伊東一刀斎は、戦国時代から江戸時代に活躍した剣の使い手です。
一刀斎に関しては、生年月日などについて様々言われていますが、定かではありません。
生没年については、1550年から1628年(もしくは1632年没)や、1560年から1653年とも言われています。いずれにしても、長生きしたことがわかります。
伊豆の伊東出身であり、名前はこの伊東の地から取ったといいます。とは言え、伊東の地には、伊東一刀斎に関係する事柄が残っておらず、伝わっていません。
さらに、一刀斎は、伊豆大島の生まれで、彼が愛用していたという瓶割刀の伝説が残っています。
格子ひとつのみで泳ぎ三島に辿り着き、三島の地で彼は富田一放という人物と戦い勝利を収めたので、神主から由緒ある刀を授けられたといいます。その刀を手に、盗賊を成敗していて、残る一人が大きな瓶の陰に潜んだところを、その刀で瓶もろとも斬り伏せたのでした。
また、西の地方の出であり、一刀斎の門人である古藤田勘解由左衛門唯心(ことうだかげゆざえもんゆいしん)が起こした『唯心一刀流』に伝えられているところによると、近江は堅田の出身だともされています。
他にも、北陸の金沢や敦賀の出身であるとしている記述もあります。敦賀城の城主であった大谷吉継に剣術を教えていたけれど、関ヶ原の戦いで吉継が亡くなると浪人となり、下総(現在の千葉県)で余生を過ごし、亡くなったという説があります。
鐘捲流剣術の創始者である鐘捲自斎(かねまきじざい)通宗を訪ね、その下で小太刀や中太刀などを学びました。一刀斎がとても良く学び稽古に励むので、舌を巻いた自斎は、一刀斎に自らの流儀の秘訣を教え、『妙剣』や『絶妙剣』などの5つの秘伝の刀を授けたのでした。
それ以外にも、『払捨剣』や鶴岡八幡宮に参った際に、無意識のうちに人を斬り、それがきっかけで生まれたという『夢想剣』などの剣術などを一刀斎に与えています。
その後の一刀斎は、様々な地域を廻って歩きますが、33回戦ったうちで、敗れたことはなかったのです。
ちなみに、『夢想剣心法書』というのがあります。その中で書かれている名前が『外田一刀斎』とありますが、この名は自斎のまたの名でもあるのです。そういったことから、自斎という人もその経歴などが定かではないので、一刀斎と生まれた土地などが混同している可能性もあります。
柳生氏の記録である『玉栄拾遺』によれば、一刀斎の師匠というのは『山崎盛玄』であるとしています。『山崎左近将監景成』という、「名人越後」と呼ばれた剣の達人がいました。彼が『山崎盛玄』なのだとも考えられます。
一刀斎の作りあげた『一刀流』という剣術は、江戸時代において栄えて広まりました。それでも、自分でその剣術を『一刀流』とは呼ばなかったのです。  
 
伊藤一刀斎 (景久) 6

 

1560年〜1628年
14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士
伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
年譜
1560年 前原弥五郎(伊東一刀斎景久)が伊豆伊東にて出生(他に近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で少年期に泳いで脱出し手石島を経て三島へ辿り着いたという伝説もある)
1574年 14歳の前原弥五郎(伊東一刀斎景久)が三島神社で富田一放(富田重政の高弟)に挑み勝利し神主から宝刀「瓶割刀」を授かる、江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(鐘捲自斎。柳生宗厳にも教授した富田景政高弟)に入門
1578年 自ら「体用の間」を体得した伊東一刀斎景久が師匠の戸田一刀斎(鐘捲自斎)に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「妙剣」「絶妙剣」「真剣」「金翅鳥王剣」「独妙剣」を授受、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達す(一刀流創始)
1589年 安房の里見義康が北条氏政へ転じた土岐為頼の上総万喜城を攻撃するが敗退、土岐家を辞した神子上典膳(小野忠明)は伊東一刀斎景久と立合い薪一本であしらわれ入門
1593年 [小金ヶ原の決闘]伊東一刀斎景久に命じられた小野善鬼と神子上典膳が流儀相伝を賭け真剣勝負し勝った典膳が一刀流を相伝(唯授一人)、徳川家康に招聘された一刀斎は忽然と消息を絶ち代わりに推挙した典膳が200石で召抱えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任(典膳は小野忠明へ改名)、武芸一筋の忠明は将軍秀忠に嫌われるが一刀流は幕末まで柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇る(明治維新後の剣道主査会の5人のうち2人は北辰一刀流・1人は小野派一刀流の系統、小野派と中西派を継いだと称する山岡鉄舟は一刀正伝無刀流を興す)
1600年 小野忠明(伊東一刀斎景久の一刀流相伝者)が徳川秀忠に従い真田昌幸の籠る信濃上田城攻めで奮闘し「上田の七本槍」に数えられるも軍令違反により蟄居処分、1年後に召し返され200石から600石へ加増される
1616年 大坂陣に諸道具奉行として従軍した小野忠明(伊東一刀斎景久の一刀流相伝者)が同僚を誹謗したことを将軍徳川秀忠に咎められ閉門に処される(のち赦免されるが直情径行の忠明は秀忠に遠ざけられ生涯600石に留まる)
1628年 14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った伊東一刀斎景久が死去(享年68)
交友
中条兵庫頭長秀 / 中条流創始者
富田勢源 / 中条流継承者(富田流)
富田景政 / 中条流と富田家を継いだ勢源弟
富田重政 / 名人越後・加賀前田利家で1万3千石の知行を得た景政養嗣子
戸田一刀斎 / 景政高弟で伊東一刀斎・柳生宗厳の師
山崎左近将監 / 富田一族・山崎流開祖
長谷川宗喜 / 景政高弟・長谷川開祖
富田一放 / 伊東一刀斎が初仕合で斃した富田重政高弟
佐々木小次郎 / 勢源門人で巌流を興すが宮本武蔵に敗北
小野忠明(神子上典膳) / 徳川秀忠の兵法指南役に採用された一刀流継承者 
 
一刀斎先生剣法書

 

要旨
剣道の技術に関する名辞は、非常に難解であり、円滑な技術指導の障害となることも考えられる。しかし、それは、剣道のもつ身体観や技術観などの文化的特性のあらわれととらえることができる。そこで、剣道技術指導書の先行形態である近世の武芸伝書を取り上げ、技術に関する名辞を考察することによって、剣道の文化的特性を明らかにすることを目的とした。
本稿では、一刀流の伝書である『一刀斎先生剣法書』取り上げたが、それは、一刀流が現代剣道の源流の一つに数えられるためである。ただ、流祖伊藤一刀斎みずからが書いた伝書というものは現在伝わらず、一刀流を理解するためには、その門人達の伝書によるしかないのである。そこで、一刀斎の門人古藤田俊直を祖とする唯心一刀流の伝書『一刀斎先生剣法書』を現代語訳し、技術に関する名辞をスポーツ教育の視点から考察することにした。その結果、従来から使用されている「事理」、「水月」、「残心」、「威勢」の意味内容が明らかになった。なお、今回の考察は、全16章のうち5章までである。
はじめに
伊藤一刀斎景久を開祖とする一刀流が、近代剣道の成立に甚大な影響を及ぼすことは周知の事実である。しかし、一刀流の剣法理論の検討は、一刀斎の生の言葉≠伝えた口伝の書などが現存しないためか、それほど活発に行われているとはいえない。したがって近代剣道における一刀流の影響の研究は、一刀流の剣法理論の確認という本質的かつ基礎的な作業を欠くゆえに、いったい一刀流剣法理論の何が近代剣道に伝わり、何が伝わらなかったのか、その点の検証に着手するための第一段階にも至っていないというのが現状であろう。この現状を打開するためには、一刀流の剣法理論を伝書によって的確に把握すること−それも一刀斎の在世時により近い時期に執筆された伝書によって把握すること−が必要不可欠の作業となろう。そこで本稿では、一刀斎の門人古藤田勘解由左衛門俊直を祖とする古藤田家の伝書で、寛文四年(1664)に成立した『一刀斎先生剣法書』を取り上げ、これを現代語訳し随時これに補説を加えることにする。この作業は、前述の通り、一刀流の剣法理論を把握するための第一歩という意味を有する。
作業を進めるについては、凡例に記した通り、役割の分担を行った。すなわち『一刀斎先生剣法書』は古典籍であり、これを古典作品として厳密に解釈することを長尾が中心となって行い、その作業を踏まえてスポーツ教育に有用とされるマイネル(Kurt Meinel)のスポーツ運動学の視点から、技術に関する伝書中の名辞の意味内容を検討し、補説を施すことを竹田が中心となって行った。長尾の作業は現在の古典学の成果を活用して、この伝書を正しく読み解かんとするものであり、竹田の作業はスポーツ運動学の視点から江戸時代の伝書に説かれた技術に関する名辞の意味内容を解釈するものであり、ともに一つの試みとして、ここに提示するものである。
凡例
◎ 訳注の底本には、今村嘉雄『日本武道大系』第二巻・剣術(2)(同朋舎、1982)に収録された、京都鈴鹿家所蔵本『一刀斎先生剣法書』を用いた。但し、句読点は適宜に改めた箇所がある。また、参考資料として杉浦正森『唯心一刀流太刀之巻』を用いたが、これも『日本武道大系』第二巻所収のテキストに拠る。ちなみに『一刀斎先生剣法書』は寛文四年(1664)に、『唯心一刀流太刀之巻』は天明三年(1783)に稿成ったものである。
◎ 本書は16章から成るが、これを適宜に段落に分かち、そこに語注、現代語訳、そして必要に応じて補説を加えた。
◎ 語注は長尾が担当し、補説は竹田が担当した。現代語訳は両者で検討、吟味した上、ここに掲出した。なお、抄訳ではあるが、本書の現代語訳を試みたものに、吉田豊『武道秘伝書』(徳間書店、1968)があり、適宜に参照した。
第1章
(1)
夫れ当流剣術の要は事(わざ)1)也。事を行ふは、理2)也。故に先づ事の修行を本として、強弱・軽重・進退の所作を能く我が心躰に是を得て、而る後其事敵に因て転化3)する所の理を能く明らめ知るべし。たとへ事に功ありと云ども、理を明に知らずんば勝利を得がたし。又理を明に知たりと云ども、事に習熟の功なきもの、何を以てか勝つ事を得んや。事と理とは、車の両輪・鳥の両翅のごとし。
【語注】
1)事…底本は「わざ」と訓む。一般に「技術」と解されることが多いが、本稿ではスポーツ運動学における用語「技術」との混同を避けるため、敢えて「技」と訳しておく。
2)理…「事」に対比するならば「ことわり」と訓むべきであろう。ものごとを行うための道理、正しい理論。真理。「事」と「理」とが不即不離の関係にあることを説くのは、仏教の影響であろう。例えば、中村元・福永光司等編『岩波仏教辞典』(岩波書店、1989)では「事」を「個別的具体的な事象・現象」、「理」を「普遍的な絶対・平等の真理・理法」と定義し、「華厳宗では、〈事〉と〈理〉とは融通無礙の関係であると説き……普遍的な〈理〉と個別的な〈事〉とが一体不可分であることを強調し、〈事理〉もしくは〈理事〉の語は中国華厳宗の教理を代表する言葉の一つとなった」(p455)と解説する。仏教にいう事理と、本書にいう事理とはその意味するところは異なるが、事と理とが不即不離の関係にあるという発想は一致する。加えて、北宋の程願(1033〜1107)がこうした華厳宗の思想に影響され、“事理一致”を説いたことも筆者の念頭にあったかもしれない。ただし、本書が直接的に典拠としたのは、沢庵宗彭『不動智神妙録』であろう。『不動智神妙録』は寛永15年(1638)頃に執筆され、柳生宗矩に与えられたものであるが、写本の形で世に流布し、本書の筆者もその一本を披見したものと考えられる。この『不動智神妙録』(日本武道学大系第九巻)の中で沢庵は「理を知りても事の自由に働かねばならず候。身に持つ太刀の取まはし能く候ても、理の極り候所の闇く候ては相成まじく候。事理の二つは車の輪の如くなるべく候」(p64)という。文辞が似通うことから見て、本書の筆者がこの沢庵の言に影響を受けたことが明らかに看取されよう。
3)転化…うつりかわる。変化しつつ推移する。ここでは敵の動きに応じて変化することと解した。この発想は、古くは中国兵家の書『三略』などに見えるもので、おそらく「天地神明にして、物と推移し、変動常無し。敵に因て転化し、事の先と為らず、動かば輒ち随ふ」(『三略』上略)などとあることを念頭に置こう。
【現代語訳】
そもそも当流派の肝心な点は技にある。技をつかう(ために必要である)のは正しい道理である。そのため先ず第一に技の修得を基本として、強弱・軽重・進退などの動作を十分に自己の身体に会得して、そこではじめてその会得した技が敵に応じて変化するという道理を明確に理解すべきである。たとえ技に習熟するという長所があったとしても、道理を明確に理解していなければ勝利を手に入れることは難しい。また道理を明確に理解していたとしても、技に習熟していないものは、どうして勝つことができようか(到底できはしない)。技と道理とは、車の二つの車輪や鳥の二つの羽のような(不即不離の)ものである。
【補説】
「事」は、「技術」ととらえられがちであるが、「技術」の概念規定は混乱し、統一が待たれるとの指摘もある1)。そこで、本論では、マイネルの理論に従い、スポーツ技術2)を合目的的で経済的な運動課題解決の仕方であり、個人によって伝播され、公共性をもつものであるととらえる。この視点から解釈すると、ここで示される「事」は、習熟の位相3)をもち、練習対象としての目標運動であり、「技術」ではなく、課題解決のために遂行された運動経過や運動形態、あるいは「技」と理解できよう。また、「理」は、「技」の道理と考えることができるが、この「技」は、最高に習熟した運動経過や運動形態としての「技」であり、これを構成する理論と理解できる。
1)技術の概念規定については、以下のように述べられている。
「これらの技術の内容をベネットは、次のようにまとめている。
1個人的な運動習熟としての技術
2指導内容として、一定領域の技能法則の総和としての技術
・・・(中略)・・・クーローも述べているように、概念規定に関してはかなり厳密な考察がなされているドイツ語圏においてさえ、技術という用語に対して多様な見解が示されており、その統一が待たれるところである。」(金子明友、朝岡正雄編著(1990):運動学講義、大修館書店、p68)
2)スポーツ技術は、マイネルの理論によれば以下のように解釈されている。
「スポーツ技術は、ある一定のスポーツ課題をもっともよく解決していくために、実践の中で発生し、検証された仕方であると解される。その解決の仕方は、合理的でなければならない。つまり、それは、現行の競技規則の枠内で、合目的な、できるだけ経済的な仕方によって高いスポーツの達成を獲得するものでなければならない。」(クルト・マイネル著、金子明友訳(1981):マイネル・スポーツ運動学、大修館書店、p261)
「用具、施設、ルール、戦術選手の能力といった、スポーツの達成を規定しているあらゆる要因を考慮して、特定の課題解決に現在のところ最も合目的的だと判断された、ある具体的な運動の仕方。・・・(中略)・・・さらに、ある個人によって、実際に行われた運動経過それ自体は運動習熟といわれる。ある運動経過がある個人によってどれほど合目的的、経済的に行われようとも、それ自体は他人に伝播されない限り、その人とともに消え去ってしまう運命にある。個人的に実現されたあるすばらしい運動習熟が他の人に伝播され、そこに個人的特殊条件によって左右されない、一定の公共性をもった運動形態が認められたときに、はじめて運動技術が問題になる。この意味の運動技術は、「図式技術」といわれ、それは客観的に定義された行為目標、理想型としてのモデルという機能をもった運動形態と解されて、運動学習においてその習得がめざされる。」(運動学講義、p257)
3)習熟の位相は、マイネルの理論によれば以下のように解釈されている。
「位相は、できるようになるのにかならず通り抜けなければならない運動学習の道程や発展段階を一般的に特徴づけているのである。・・・(中略)・・・新しい運動の習得は、一般的に、3つの特徴的な位相、あるいは発展段階を通過するものであり、それらは位相の主な内容に従って、次のように表される。
位相A:粗形態における基礎経過の獲得:運動の粗協調
位相B:修正、洗練、分化:運動の精協調
位相C:定着と変化条件への適応:運動の安定化」(マイネル・スポーツ運動学、pp.374−75)
(2)
事は外にして、是形也。理は内にして、是心也。事理習熟の功を得るものは、是を心に得、是を手に応ずる1)也。其至に及んでは2)、事理一物にして内外の差別なし。事は即ち理也、理は即ち事也。事の外に理もなく、理を離れて事もなし。然れば術を学ぶ者、事一片に止りて理の正邪を知らず、或は著3)して事の得失を知らざること、是れ偏4)也。事理偏著する則は、敵に因て転化する事能はざる者也と。
【語注】
1)手に応ずる…手の動きにしたがう。手の動くままに技を出す。通常、技が熟練することを比喩する。
2)其至るに及んでは…その極みに達する。この場合、「事理習熟」の究極に達すること。なお、この表現は四書の一、『中庸』第十二章の「其の至るに及んでは、聖人と雖も亦た知らざる所有り」を踏まえるか。
3)著…「着」に同じ。物事に執着する意であるが、ここでは道理にばかり執着すること。仏教用語では、心が物事にとらわれて離れないことをいい、愛著・著心などのように用いる。
4)偏…一方に傾くこと。仏教では、一方に固執した偏った見解を「偏執見」「偏見」という。『唯心一刀流太刀之巻』には「事理、中和を要す」とあり、「偏せず倚せず是を中と云。時に中するを和と云」(p271)と説明する。また、『不動智神妙録』においても「心を一所に置けば、偏に落ると云ふなり。偏とは一方に片付きたる事を云ふなり」(同前、p68)とあり、「偏」を戒める。
【現代語訳】
技は外面的なものであって、これは形である。道理は内面的なものであって、これは心である。技と道理とに習熟することができた者は、これ(=道理)を心に修得して、これ(=技)を手に応用して(技に熟練して)いるのである。その(技と道理とに習熟する)極みに達した場合には、技と道理とは一つのものであって内面、外面の区別はなくなる。(この場合)技は、とりもなおさず道理であり、道理は、とりもなおさず技である。技以外のところに道理もなく、道理から離れたところに技もない。そうであるので剣術を学ぶ者が、技だけにとどまって道理の善し悪しを理解しなかったり、あるいは心にだけ執着して技の可否を理解しない場合、これは偏りということになる。技や道理に偏ったり、あるいは執着したりすれば、敵に応じて変化することができない者となってしまうと(先師一刀斎はいわれた)。
(3)
故に当伝の剣術は、先師一刀斎より以来、事理不偏1)を主要として、剣心不異2)に至る所の伝授を秘所とす。予3)、当流の末葉として此術を学ぶと云へども、愚才不功にして其妙所を知らず。雖然弟子の執心黙止がたきに因て、伝来事理の大方を改て一紙に是を記す。実に管を以て天を窺ふ4)が如く、後見の嘲を求るに似たり。
【語注】
1)事理不偏…技術、道理のいずれにも偏らないこと。前節において「事理偏著」することを戒めることに通ずる。前述の通り、『唯心一刀流太刀之巻』においては「事理要中和」(p271)と説明する。
2)剣心不異…「剣」を剣を操作するための技術、「心」を道理と考え、技術と道理とを一致させることと解する。前節にいう「事理一物」の境地がこれに当たるか。後出、第2章(3)の「構心に不異之位」項をあわせ参照されたい。
3)予…謙譲の意を含む一人称。この書を記した古藤田弥兵衛俊定を指す。本書の識語には伊藤一刀斎景久、古藤田勘解由左衛門俊直、古藤田仁右衛門俊重、古藤田弥兵衛俊定とあり、これは一刀流の極意が一刀斎から古藤田家へ、俊直−俊重−俊定と引き継がれたことを示す。この古藤田家に継承された一刀流(唯心一刀流)は、神子上典膳忠明(のちに小野氏を称す)から伊藤典膳忠也(忠也派)、小野次郎右衛門忠常(小野派)へと展開する一刀流とは別系統である。ちなみに『唯心一刀流太刀之巻』の筆者である杉浦正森の父正備と叔父正景は、俊定の愛弟子であった。
4)管を以て天を窺ふ…管の小さな穴から天空をのぞき見るという意から、自己の見聞の狭いことをいう。管見。
【現代語訳】
したがって当流派の剣術は、先師一刀斎以来、事理不偏ということを要点として、剣心不異に到達するための伝授を秘伝としている。私は、当流派に連なる者としてこの剣術を学んでいるが、愚かで何の長所もなく、まだその妙所も理解していない。そのような状態ではあるが弟子たちが熱心に教えを求める気持ちを捨て置くこともできず、よって伝来の事理のあらましを改めてここに書き記したのである。まことに、細い管の穴から天空を見るかのような狭い見解であり、後世これを見る人の嘲笑を進んで求めているようなものである。
【補説】
「事理一物」、「事理不偏」、「剣心不異」は、課題遂行の運動経過(事=形=外)と最高習熟の運動経過や運動形態を構成する理論(理=心=内)が一致することを示している。これは、心と体の一体、あるいは心身一如を意味するものであり、ここに一刀斎の技の習練や技の捉え方の理念がうかがえる。
また、「理」を意識しながら習熟した運動形態を習得しようとすることが運動学習であると捉えると、「事理一物」は、運動学習の最終の習熟段階である運動の自動化1)がなされた段階を意味しているといえる。
1)運動の自動化は、マイネルの理論では、「ある運動を行なうとき、特別な注意をその運動遂行のために払わなくてもできるようになることを自動化と呼ぶ。」(マイネル・スポーツ運動学、p.470)とし、具体的には、「それらの動きは大きなスピード、安定さ、精確さで特徴づけられ、流れるようで、滑らかであり、まさに軽々と、何の苦もなく、あたりまえのように見えるものである。運動をするときにかならず費やされるはずのたいへんな労力や努力はその動きにはみとめられない。運動が行われていくうちの空間・時間関係の一種の定常性や規則性はそれほど機械的な精確さではないのに、しばしば機械的精確さの印象をよび起こすのである。運動する者の注意はもう運動経過や手足の操作の個々に対しては向けられずに、今度は他の目標に、たとえば、運動の結果や球技ならその戦術に、競技する相手などに集中されるようになる。その注意は新しい課題に対して自由に開かれているのである。」と示されている。(マイネル・スポーツ運動学、pp.401−402)
第2章
(1)
構は、天・中・地・陰・陽の五形1)也。各其一に五の変有り。古伝2)に、構を陰陽の二つに定而、躰中の剣、剣中の躰と云ふは是也。陰の構に陽の変あり、陽の構に陰の変あり。故に其構に得失無し。何れにても手に得、心に応ずる構を以て是を用ふべし。
【語注】
1)五形…現在いうところの天・地・人・陰・陽の構えであろう。よって、天は「火」の構えで上段、地は「土」の構えで下段、人は「水」の構えで中段、陰は「木」の構えで八相、陽は「金」の構えで脇構え、ということになる。中国の五行説に則るため「五行」の構えともいう。なお、『唯心一刀流太刀之巻』においては、これを「五形之位」とし、「陰」「車」「青巌」「下段」「八相」の五つの構えであるとする。このうち「車」は、柳生宗矩『兵法家伝書』にも「初手を車輪と云。是は太刀の構也。まはるを以て、車と名付たり。脇構也」(渡辺一郎校注:日本思想大系61 近世藝道論、岩波書店、1972、p303。以下、引用は同書に拠る)とある通り、脇構えである。わかりづらいのは「陰」であり、「構て立たる所の形は陽の姿なれども、上にあるものは下りて陰の理也」(pp277)と解説があるので、上段の構えを指すと解するべきか。
2)古伝…不詳。ここにいう「躰中の剣、剣中の躰」とは、躰中の剣を陰、剣中の躰を陽と解釈し、身体と剣とが一体化する状態、つまり陰と陽とが二つながらに備わる状態をいうものと考えられる。したがって、ここでの陰陽は五形のそれとは異なり、八相、脇構えを指すものではない。
【現代語訳】
構えには、天・中・地・陰・陽の五種の形がある。そのそれぞれに(天・中・地・陰・陽の)五種の変化がある。古伝において、構えを陰陽の二つに定めて、それを体中の剣、剣中の体というのがこれである。陰の構えに陽の変化があり、陽の構えに陰の変化がある。したがってその構え自体に善し悪しはないのである。どの構えでも修得しておき、(折々の)心にかなった構えを用いるべきである。
【補説】
剣道における「構え」は、対人運動における複雑な攻撃・防御の運動が即座にできるための姿勢であり、また、潜勢運動1)が行われる運動の局面である。
1)潜勢運動は、マイネルの理論では以下のように解釈されている。
「運動想像力を通して、心的生起のなかで体験される運動経過。運動はあたかも自分でやっているかのように体験される。実際に運動を遂行しなくとも、それを実際にやっているときと同じ状態でとらえた運動が潜勢運動である。」(運動学講義、pp.275−276)
(2)
伝に専ら用ふと云ふ構なし。其用捨は己にあり。構を以て利せんと欲する者は、外実にして内必ず虚す。是を以、構に心取らるゝと云ふなり。内外虚実1)の差別なきを、当流に無形の構2)と云ふ。誤て心を構にとらるゝ者は、合ふ時は即勝つと云へども、不合時は忽ち負く。必勝は構にあらず、事理の正しきに在り。
【語注】
1)虚実…「虚」は空虚なさま。「実」はその逆。ここでは前者を充実するさま、後者をからっぽなさまと解釈してもよかろう。『孫子』に虚実篇がある通り、兵法において重要視される概念の一。次項、「無形の構」とともに『孫子』の影響を強く受ける。
2)無形の構…『孫子』虚実篇に、「兵を形するの極みは無形に至る。無形なれば則ち深あたはかかたど
間も窺ふこと能はず、智者も謀ること能はず。……夫れ兵の形は水に象る。水の形は高きを避けて下きに趨き、兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵に常勢無く、水に常形無く、能く敵に因りて変化し、勝を取る者、之を神と謂ふ」とあり、孫子は兵には決まった陣形(常形)はなく、水が土地の形によって流れてゆくように敵に応じて変幻自在であるべきをいう。この孫子の思想が「無形の構」に反映されることは明らかであろう。なお、『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝には、「以構合敵之事(構えを以て敵に合する事)」として以下のように説明する。「構を以て敵の所作に合向ふ事利也。……構を以て敵に合すると云ども、其構に着する事なかれ。然ども合して合せざる心持と見るも亦非也。合して合する心なければ、其合する所の術空虚に落着すべし。合すれば合し、離るれば離れたるまでにて、敢て其合離の所作に心を止むべからずと云義なり」。(p287)構えに執着することを戒め、敵に応じて変化すべきことを説く点において趣旨は同様である。
【現代語訳】
秘伝として、そればかりを用いるという構えはない。その取捨選択は自分にあるのだ。構えで勝利を得たいと思う者は、外面的には充実していても内面的には必ずやからっぽとなる。そこでこれを、構えに心を取られているというのである。内面と外面、虚と実の区別がない心境(の構え)を、当流派においては無形の構えという。間違って心を構えにとられてしまった者は、(その構えがその場に)合った時には勝つのだけれども、合わない時には忽ち負けてしまう。必勝(を期す)は構えにはなく、事理の(理解の)正しさにあるのだ。
【補説】
「構え」に心をとられているということは、構える者の意識が、「構え」における手足の操作の個々に対して向けられ、それによって、運動の結果や対戦する相手などに集中されない情況である。「無形の構え」は、このような注意が、心身両面に向けられ充実した状態を指すものであり、運動の自動化がなされている状態を示すものといえる。
(3)
雖然、構は千変万化1)の本2)、強弱軽重の体3)なり。故に無形の構を能く鍛錬すべし。陰の構にあらず、陽の構にあらず、其形ありと云ども、心其構に止らざるを無形の構と云也。構心に不異之位4)と云ふは、無形之全体也。千変万化の事は、物に応じて形を現ず。是れ其全体無形なるが故也。
【語注】
1)千変万化…変化極まりないこと。
2)本…本体。みなもと。次項の「体」に対応し、「千変万化の本」「強弱軽重の体」の二句が対を成している。
3)体…前項「本」に同じ。本書では、からだの意の場合は「躰」字を用いることが多い。
4)構心に不異之位…『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝の「構心不異之事」では、「かまへ、心、一致して、異形のあやつり無くして疑はざる処也。畢竟、構は我心よりなす所也。構心一物と成て転ぜられざる処なり」(pp287−288)と解説する。また別の箇所では「剣躰心三の物の虚と実とを正し、勝つ所と負る所の得失を明らむる」(「単刀直入の事」p292)ことを主張しており、これは現在いうところの気剣体の一致に通ずる。なお『不動智神妙録』においても心が何かにとらわれることを戒めており、「心を何処に置かうぞ。敵の身の働に心を置けば敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思ふ所に心を置けば敵を切らんと思ふ所に心を取らるるなり。我太刀に心を置けば我太刀に心を取らるるなり。我切られじと思ふ所に心を置けば切られじと思ふ所に心を取らるるなり。人の構に心を置けば人の構に心を取らるるなり。兎角心の置所はないと言ふ」(同前、p67)と説明する。
【現代語訳】
そうはいっても、構は千変万化のみなもとであり、(そして)強弱・軽重のみなもとである。したがって無形の構えをよくよく鍛錬すべきである。陰の構えでもなく、陽の構えでもなく、その形はあっても、心をその構えにとどめない状態を無形の構えというのである。構えと心とが一致する位というのが、無形の構の完全な状態である。(構えが)千変万化するのは、物に応じて(構えの)形が現れてくるからである。こうしたこと(=千変万化)が起こるのは(構え自体が)まったく無形であるためである。
【補説】
「無形の構え」は、「千変万化」に対応できるという。このことは自動化された運動の特徴1)である。
1)運動の自動化の特徴は、マイネルの理論では以下のように述べられている。
「・・・(中略)・・・その運動が高度の自動化に達してくると、スキーヤーやスキージャンパーはゲレンデを常に“目のなか”に入れ、ボクサーは相手を、ボールプレイヤーは情況の全体を、ピアニストや速記タイピストは鍵盤全体を目に入れるのである。」(マイネル・スポーツ運動学、p402)
「第一には、空間的、時間的、力動的経過形態の定常性の増大であり、第二には、思考過程による障害を含めた外的内的環境からの妨害作用に対する安定さである」(マイネル・スポーツ運動学、pp400−401)
「このことと密接な関係をもつのは、運動操作の視覚上のコントロールが運動覚によるコントロールへと部分的に移動してくることである。適切かつ正当に世間でいわれているような表現“血となり肉となる”ように、運動は移り変わっていくのである。」(マイネル・スポーツ運動学、p401)
第3章
(1)
術は、負る所と勝ざる所1)を知るべし。負る所と云ふは、先づ勝つ所なり。勝ざる所と云ふは、敵の能く守る所也。其負る所は我に有、勝たざる所敵に有。妄りに勝たんと欲する者は、其負る所を知らず。負ける所を勝たんと欲する者は、敵の勝つ所を知らざるが故也。
【語注】
1)負る所と勝ざる所…自分に要因があって相手に負けている点と相手がすぐれるために自分が勝てない点。
【現代語訳】
剣術においては、負ける所と勝てない所というのを理解すべきである。負ける所というのは、まず勝てる(と思う)所にある。勝てない所というのは、敵が十分に守りをなしている所にある。その負ける理由は自己にあり、勝てない理由は敵側にある。むやみに勝ちたいと願う者は、自分が負ける理由を理解していない。負けている所がありながら勝ちたいと願う者がいるのは、(その者が)敵の勝っている所を理解していないからである。
【補説】
他者観察1)と自己観察2)の重要性を示している。観察においては、敵と運動共感3)しながら自己と他者の両者の運動習熟の程度や戦術4)を理解するのである。
1)他者観察は、マイネルの理論では以下のように解釈されている。
「外容器、とりわけ視覚によって他者の運動経過を外から観察する方法は、スポーツにおいてよく用いられる。一般に、これは他者観察と呼ばれる。」(運動学講義、pp158−159)
また、他者観察は、スポーツ指導場面に重要な印象分析の前提となる分析法であり、「印象分析は他者観察の不可欠な前提となる分析法で、運動現象のなかに現れている諸徴表をとらえ、さらに精密な分析研究のための前提を導き出す重要な手段であり、それは即座の印象分析(たとえば運動中の)と後での(たとえばフィルムやビデオから)に区別される。」(運動学講義、pp158−159)と示されている。
2)自己観察はマイネルの理論では以下のように解釈される。
「とくに運動分析器は、その受容器が筋肉、腱、関節内にあり、内からの運動感覚に関する直接の体験情報を得ることを可能にしている。このように、運動分析器は運動に関する内からの情報(運動覚情報)を得るうえで大切な役割を果たしている。この内からの運動観察が自己観察と呼ばれる。」(運動学講義、pp159−160)
3)運動共感は、マイネルの理論では以下のように解釈されている。
「他人の運動を見ていてそれに共感することである。いわば、他者観察の結果の自己観察化である。すなわち、自分の運動を運動分析器によって対象化することはできるが、他人の行う運動を見ていて、その運動映像のなかに自分を投入させ、自己観察としてその運動覚を自分のものとして感じ取ることが運動共感である。」(マイネル・スポーツ運動学、pp453−454)
4)戦術あるいは戦術力は、マイネルの理論では以下のように解釈されている。
「スポーツにおける戦術は、行動の結果を考慮して、最も合目的的に目的を達成する方法を意味する。・・・(中略)・・・戦術能力は、スポーツの競技力を規定する構成要因のひとつであり、その成否は、プレイヤーの心的・身体的能力、運動習熟、そのときどきの心理的状態によって大きく左右される。」(運動学講義、p275)
「Taktisches Denken の訳語。試合前に戦術上の行動の仕方を計画していく能力、ならびに、たえず変化する複雑な試合条件のもとで自分の戦術の構想を実現していく能力をTaktisches Denken、つまり戦術力という。このTaktisches Denken の基礎になっているのは、幅広い技能と情況を適切に判断することによって、正確かつ弾力的に戦術図式を適応していくことである。」(マイネル・スポーツ運動学、p463)
(2)
我勝たざれば不負、我負ざれば不勝。故に十分の勝に十分の負あり、十分の負に十分の勝あり。勝て負る処を知り、負て勝つ所を知るは、術の達者なり。我が事理を正し1)、彼が事理を察し、敵に因て転化すべし。孫子2)曰、知彼知己、百戦不殆。不知彼而知己者、一勝一負。不知彼不知己者、毎戦必敗。
【語注】
1)事理を正し…『唯心一刀流太刀之巻』では「蓋事者随流、変動無常、因敵転化、不為事先、動而輒随、故事理正則為全勝(蓋し事は流れに随ひ、変動して常無く、敵に因りて転化し、事を先に為さず、動けば輒ち随ふ。故に事理正なれば則ち全勝を為す)」(p272)と説明する。
2)孫子…『孫子』謀攻篇に典拠するが、通行するテキストは最後の句を「毎戦必殆」に作る。
【現代語訳】
勝つことがなければ負けることもない、負けることがなければ勝つこともない。したがって十分の勝利(の背後)に十分の敗北(の要因が)あり、十分の敗北(の背後)に十分の勝利(の要因が)ある。勝って(自分が敵に)負けている所を理解し、負けて(自分が敵に)勝っている所を理解する者は、剣術の達人である。自己の事理を正しく修得し、敵の事理を推察し、敵に応じて変化すべきである。孫子もこういっている。「相手のことを理解し自分のことも理解していれば、百回戦っても危ういことはない。相手のことを理解しておらず自分のことのみ理解するものは、勝ったり負けたりする。相手のことも理解せず自分のことも理解しないものは、戦うごとに必ず敗れる」と。
【補説】
このような記述は、運動学における、技術や戦術や戦略1)とはいえないが、これらが形成されるための戦術・戦略の哲学、あるいは戦術・戦略の精神、さらには戦う上での心構えと位置づけられる。
1)戦略については、以下のように解釈される。
スポーツにおける戦略は、行為の結果を考慮して、最も合目的的に目標を達成する仕方を意味している。戦略は、相対的に長時間にわたる、あるいは長期間にわたる行為の計画にかかわるという点で戦術から区別される。計画が問題になる行為の抽象化のレベルにしたがって、「国家の戦略」、「チームの戦略」、「シーズンの戦略」、「トーナメントの戦略」、「ゲームの戦略」などが区別される。(運動学講義、p276)
第4章
(1)
威1)は節2)に臨んで変ぜず。其備正明にして、事理3)に転ぜられざる全体4)を威と云。動ぜずして敵を制するは、威也。是を不転の位5)と云。すでに動じて敵を制するは勢6)なり。是を転化の位7)と云。威は静にして千変を具し、勢は動じて万化に応ず。故に威を以て敵に合し、勢を以て敵に勝者也。
【語注】
1)威…『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「剣躰備勢之事」では、「威は内に備はる所」と解説し、先師(古藤田俊定)の作と伝えられる歌「威と云は峨々たる山の岨づたひ恐をなして過りわづらふ」を引用する(p289)。俊定は「威」を、高く聳え立った山の難路を行くことに喩え、「威」は難路が人を通行させる前から怖じ気づかせるような、自然な威圧感であるという。
2)節…時、折。ここでは敵に相対した時、折の意。
3)事理に転ぜられざる…事理へと転化することができないもの、事理とは別個のものの意に解した。
4)全体…ここでの文脈上、「体」と同義と解し、本体・本質の意と考えた。後出、「無為の全体」も同様。
5)不転の位…敵に応じて変化しない位。敵に左右されない位。
6)勢…同じく『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「剣躰備勢之事」では、「勢は外に発する所なり」と解説し、やはり俊定の伝歌「勢は唯水の上なる浮瓢さし引く手にぞ随ぞする」を引用する(p289)。「勢」を水に浮かんだ瓢箪に喩え、「勢」は瓢箪が人の差し招く手にしたがって水面を動くような順応性であるという。
7)転化の位…敵に応じて変化する位。
【現代語訳】
威というものは、敵に相対した時に臨んでも変化しない。その備えが正しく明確であって、事理に転化することができないという本質(を有するもの)を威という。動くことなく敵を制するものは、威(の作用)である。こういう状態を不転の位という。すでに動いて敵を制するものは、勢(の作用)である。こういう状態を転化の位という。威は静であって千変をそなえており、勢は動であって万化に対応する。したがって威で敵に向かい、勢で敵に勝つのである。
(2)
威と勢とは二にして一なり、一にして二つなり。威に勢あり、勢に威あり。不転は無為の全体1)、其威十方2)に通貫して恐るゝに敵もなく、疑ふに我もなし。不求とも威は自ら我に備り、勢は自ら其威に有り。
【語注】
1)無為の全体…「無為」は、何もしないこと。人為を加えないこと。ここでは、道家の主張する「無為自然」に通ずるものと考えた。例えば、『老子』第48章に「無為にして為さざる無し」とあるように、道家では人為を加えない無為の状態に達することが、逆になし得ないことがないほどの無限の可能性を有することを説く。また、しばしば剣道家の理想の境地として説かれる「木鶏」(『荘子』達生篇)の故事にも通ずるであろう。
2)十方…東・西・南・北の四方に、乾(北西)・坤(南西)・艮(北東)・巽(南東)の四隅と上・下を合わせた総称。自己を取り巻く全ての方向。転じて自己を取り巻く世界、宇宙をいう。
【現代語訳】
威と勢とは二つでありながら一つのものであり、一でありながら二つのものである。威(の中)に勢があり、勢(の中)に威がある。敵に応じて変化しないとは、無為自然であることを本体としており、その(作用として発せられる)威が十方にゆきわたっている状態であって、恐るべき敵もなく、疑うべき自己もない(状態である)。自分から求めることもなく威は自然と自分にそなわっており、勢は自然とその威(の中)にある(という状態である)。
【補説】
「威勢」は対人技能に関わる記述である。「威」とは、相手に与える自然な威圧感である。しかし、「威」は「事理」の習練によって習得されると説明されるものではない。一方、「勢」は敵のどんな動きに対しても対応できる、自動化された運動経過であり、「事理」の習練によって習得された運動経過、敵の運動に即座に対応できる技である。この「勢」の働きによって「威」が生ずると理解される。つまり、「威」とは、「勢」の習練の結果としてにじみでた人間性、あるいは風格、気位といったものであろう。したがって、この「威」と「勢」はそれぞれ別個に存在するものではないといえる。
第5章
(1)
移(左より右へうつる意也。1))とは、月の水に移るがごとし。是を捧心捧心とは、心の物に付くの意也。敵と我と立会に、過不足なく程よくすゝむ意なり。の位2)と云。着くの事也。写3)とは、水の月を写すが如し。是を残心4)の位と云。離るの事也。理を以て是を示す時は、水月の伝授5)と云事にて、是を伝ふる時は、移写と云也。
【語注】
1)移…移動する。ここでは、月が水面に移動する。
2)捧心の位…本文の注にある通り、心を物に向けること。「捧」は本来、ささげもつ意を表すが、ここでは「心にささげもつ」意から転じて、心を物に向け注視する意で用いるものであろう。月が自己の姿を水面に移動させるように、相手の心に自己の心を移動させ、密着させた状態である(文中の「移」の状態)。よって、「捧心」は、「着くの事」と説明される。なお、この捧心、残心、水月については柳生新陰流においても伝授があり、特に「捧心」に関しては『兵法家伝書』下巻「捧心の心持の事」に、「捧心と云は、心を捧るとよむ字也。敵の心は、太刀をにぎつたる手にさゝげてゐるなり。敵のにぎつたる拳の、いまだうごかざる所をそのまゝうつ也。……手に心をさゝげて、いまだうごかぬ所をはやうてとなり」(同前、pp332−333)とある。つまり、柳生新陰流では、相手の未発のところを見極める心持を「捧心」と説くのであり、これは本書が「着く」という言葉で説明しようとする内容とほぼ同様と思われる。
3)写…水面が月を写している状態。相手に左右されず無心に相手を写す状態であるので、無心に修得した技術で相手を攻撃することに通ずる。
4)残心…心にのこっている状態。水面が無心に月の姿を写しているような状態であり(文中の「写」の状態)、これは無心に写すがゆえに相手(=月)の存在にこだわらず離れた状態(文中の「離るの事」)となる。してみると、「残心」の語は近代剣道で用いられる意とはやや異なることが理解される。一方、小野派一刀流の伝書『一刀流兵法仮字書』(今村嘉雄『日本武道大系』第二巻所収)「残心之事」では、「心を残と云は、唯きをひ過たる処なく、勝べき所にて左右なく勝事也。雖然(然りと雖も)一発不留と云時、勝所に及ては、一足も不留心(心を留めず)、不残(残さず)万心すてて一心不乱也。残心と教しは、只稽古の内、兵法たかぶり、りきみ出来、 競過るに依て、残心と仕えり。其知を得て勝べき所には、必残心不可有(有るべからず)」(p137)と説明する。よって、小野派の解釈では、残心とは攻撃すべき所を一心不乱に心を残さず攻めることとなり、本書の説く「残心」とは内容がやや異なる。しかしながら、攻撃の際の心得として「残心」の語が用いられる点は軌を一にする。ちなみに『兵法家伝書』上巻「残心の事」では、「口伝すべし」と記し、これが師匠からの口伝でなければ理解できないことをいう。ただし柳生十兵衛三厳『月之抄』では「残心」を、「勝たりとも打はづしたりとも、とりたりとも、ひくにも掛るにも、身にても、少も目付に油断なく心を残し置事、第一也」(『日本武道大系』第一巻所収。166)と説明しており、近代剣道にいう「残心」はこの柳生新陰流の解釈に従い、一刀流の解釈とは異なることがわかる。
5)水月の伝授…本書の解釈とは異なるが、小野派の伝書『一刀流兵法仮字書』は「水月の事」として、「敵をただ打と思ふな身をまもれしぜんにもるはしづがやの月」という和歌を引いて以下のように解説する。「或は賤といへども、己が菴漏ると思はねども、事不足してふく(=葺く)故に、月は一天にあれども、自然に影もる也。其如く、敵を討たんと思はねども、己が一身をよくまもりぬれば、悪き処を知ずして己と勝理也。手前の守る事を忘、敵を討たんと思ひ、心躰少々さはぎぬる時は負大ひなるべし」(p137)。これを笹森順造氏は、「手前が不如意であるから、随分努力して屋根を葺いても、事が不充分で葺くから月が寝屋にもさし込む。身を充分に守っていると隙間もないが、ただ相手を打とう打とうと思うて自然に己れの守りが不足し隙が出ると、そこを打たれる。月が清く静かで心が明鏡止水のようであると、相手の姿やそのたくらみは、月の光の中の斑点も悉く見えるように手に取るように写るものである。わが心に写ると手に写り手から刀に写り、相手の隙を一刀のもとに制することができる。心が濁つて波立ち騒ぐと写つても歪んで正体を捉え難い。心に雲がかかると、どんなに破れた屋根のように相手に隙があつても、月影がささないように、敵状がわからず打込み得ない。却つて自ら大敗を喫することになる。
清く静かな心を養うと相手に少しでも隙があると、それが心の明鏡に写つて打てるようになる。これが水月の教である」(『一刀流極意』、体育とスポーツ出版社、1986年重版。pp450−451)と説明する。一方、柳生新陰流においても「水月」の譬喩は用いられ、例えば『兵法家伝書』下巻「水月付其影の事」では、「敵と我との間に、凡何尺あれば、敵の太刀我身にあたらぬと云つもりありて、その尺をへだてゝ兵法をつかふ。此尺のうちへ踏入、ぬすみこみ、敵に近付を、月の水に影をさすにたとへて、水月と云也。心に水月の場を、立あはぬ以前におもひまふけて立あふべし」(p325)と解説する。よって、柳生新陰流にいう「水月」は、水面が月を写すように敵の姿を自己に投影し、敵との間合いを見切って攻めるということになる。敵との間合いを説くに「水月」の譬喩を用いることは共通するが、唯心一刀流は敵をありのままに捉えることを、水がありのままに月を写す喩えで表現するが、柳生新陰流の方は敵の姿を主体的に自らに投影して間合いを見切ることを、水月の譬喩で表現しており、両者の「水月」の意味するところの相違が看て取れよう。また柳生新陰流は心の持ち様を譬喩して「心は水の中の月に似たり」(『兵法家伝書』下巻。p329)というが、これは神妙剣の座を水に喩え、自己の心を月に喩え、月が水に姿をうつすように自己の心を神妙剣へとうつしてゆくべきを説くものである。
【現代語訳】
移とは(左から右へ移動するという意味であるが)、これは月が水面に(その姿を)移動させるようなものである。これを捧心(捧心とは心が物につく意であり、敵との立ち合いにおいて過不足なく進む意である)の位という。(これは相手の心に)着いた状態である。写とは、水面が月を写すようなものである。これを残心の位という。(これは相手から)離れた状態である。道理でこれを示す際には、水月の伝授という比喩があり、(技術で)これを伝える際には、移・写というのである。
(2)
眼を以て見る所を目付1)と云、理を以て守る所を移と云、事を以て攻るを写と云なり。水月に遠近の差別なし2)。若し遠近を攻んと欲する者は、却而移を失す。是を移に心を取らるゝと云ふ也。心は水月之不変に至り、事は敵に因て捧残の宜しきを用ふる時は、不勝と云事なし。月無心にして水に移り、水無心にして月を写す。内に邪念をなさずば、事能く外に正し。○語に曰、「一月一切之現水、一切之水摂一月3)」。
【語注】
1)目付、移…『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「移目付之事」では、「眼を以て見るを目付、心を以て見るを移と云」(p288)と定義する。これに従えば、「移」は心の働きによるものであり、敵に対して未発のところを衝くための心構えと解することができる。そのことを『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「移無遠近之事」では、「いまだ一剣を提ざる以前、構・形あらはれざる先に移りたる所也」(p288)と解説する。
2)水月に遠近の差別なし…水面と月との間合いには、遠いとか近いとかの区別はないこと。つまり、両者の間合いが近いから月が水面にうつり、遠いから水面にはうつらないというような距離の遠近に、水面と月との関係は左右されないことをいう。これは剣でいえば、敵との距離の遠近に左右されず、その間合いに応じて移動すべきことを説くものであり、『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「移無遠近之事」においても、「遠きは遠きに随ひ、近きは近きに随て移る事」(p288)を主張する。
3)一月一切之現水、一切之水摂一月…唐、永嘉玄覚禅師『證道歌』に、「一性円通一切性、一法偏含一切法。一月普現一切水、一切水月一月摂(一性は円く一切の性に通じ、一法は偏く一切の法を含む。一月は普く一切の水に現し、一切の水月は一月を摂す)」とあるを踏まえる。この『證道歌』では、一つの性情があらゆる性情に通じ、一つの法があらゆる法を内に含むこと、つまり一事が万事がに通ずることを比喩して水月のたとえを用いる。
『證道歌』は禅の悟りを歌唱のスタイルにしたもので、日本の禅林においても愛好された。なお本章で示された事理、水月の譬喩の関係を略記すれば次のようになろう。

      移(月が水面に移動するように敵の心に自己の心を移動させる)
事――守る 着くの事(敵の心に自己の心を密着させた状態。心で相手を見る)
      捧心の位(道理で守備する)

      写(水面が月を写すように自己のうちに敵の姿をありのままに写す)
事――攻る 離るの事(敵の存在を自己に投影しつつも敵から離れた、無心の状態)
      残心の位(技術で攻撃する)

理――水月の伝授、水月之不変(月が水にうつり、水が月をうつすような相関関係を理解し、
   「移」「写」を敵に応じて用いること)

【現代語訳】
目を用いて見ることを目付といい、道理を用いて守ることを移といい、技術を用いて攻めることを写というのである。水と月との間合いに遠い、近いの区別はない。もし(間合いの)遠近によって相手を攻めようとする者は、逆に移ということを失ってしまう。このことを移に心を取られてしまった状態というのである。心は、水と月とが不変の関係にある、その境地に至り、技は敵に応じて捧心・残心、いずれか良い方を用いる時には、勝てないということはない。月は無心に(その姿を)水面に移動させ、水面は無心に月の姿を写し出す。内面において邪念をなすことがなければ、技は外面において正しいものとなり得る。○(『證道歌』の)言葉に次のようにいう、「一つの月は全ての水面に現われ、全ての水は一つの月を内にとりこむ」と。
【補説】
ここでは、「移」、「写」、「棒心」、「残心」、「水月」という対人技能に関わる理論が示される。
「移」は、心を物につけるという意味で、「棒心」といい、敵の状態を観察することであり、防御の際の心境である。具体的には、現代剣道の応じ技の発現につながるものである。「写」は、無心に相手の姿を自己の中に写すという意味であり、「残心」といい、相手を攻撃することであり、攻撃の際の心境である。具体的には現代剣道の仕掛け技の発現につながるものである。
「水月」とは、技術指導上の用語である「移」と「写」についての寓話的な解説であり、これらの「理」を示す用語である。
「残心」は、現代の剣道の世界でもよく使用される言葉であるが、この「残心」は、「棒心」と対になる言葉で、水面が月を写すように、自己の心の中に相手の姿を残すという意味である。この使用法は、現代剣道で使用される意味と異なるといえる。この点については、今後の課題としたい。 
第6章
(1)
理は事よりも先に立、躰1)は剣2)よりも先んずる、是れ術の病気也。他に向て其事理を求むるが故也。臨機応変の事は、思量を以て転化するには非ず。自然の理を以て、不思とも変じ、不量とも応ずる者也。故に我に応ずる彼一理3)を敬して、思慮分別を不発、一心不乱に勝利を不疑、能く本分の正位4)に認得すべし。此法を学ぶ者、一心の修行如此なり。
【語注】
1)躰…ここでは、身体、もしくは身体能力の意と解する。後出(3)節の割注では、「体は気に依て動き、気は心の向所にしたがふ。故に心変ずれば気変じ、気変ずれば体へんず」と説明する。なお、唯心一刀流では「剣前体後」「剣体和合」を重視する。『唯心一刀流太刀之巻』「剣前体後之事」では、「体あれば剣あり、剣あれば術あり。或はそれ剣を専にして体を忘れ、或は体を専にして剣を忘るるあり。夫体は、剣より先立ときは、剣何を以てか人を害せんや。大将軍、諸勢より以前に出て討死する如し。将なきときは士卒、何を以て利すべきや。故に剣前体後の利を弁へ知るべし」(p288)という。体を大将軍に、剣をその軍勢に喩え、体が剣に優先することを大将軍が軍勢より前に出て討ち死にしてしまうようなものであると説き、剣が体に優先することを主張する。また「剣躰和合」については、同じく『唯心一刀流太刀之巻』に「よき所作は、剣と体と思ひ合たる様に外よりも見ゆる者也。剣躰和合して肉身の如にして、血脉運動する如きの心持也。又足の指より太刀先まで血気行はれたる如く成ほどに、剣体、釣合、心持面白し」(p291)とある。剣と体とが自己の肉体の内で和合し、その和合による心機の充実が血流にのって足の指から太刀までゆきわたるような状態は、第1章で説かれた「剣心不異」の状態を解説するものといえよう。
2)剣…ここでは、剣を操作するための技術、もしくはその働きの意と解する。前項、『唯心一刀流太刀之巻』「剣前体後之事」において、「体あれば剣あり、剣あれば術あり」(同前)といい、身体能力と剣、剣と術とが密接な関係にあることを説く。これは身体能力なくして剣は成り立たぬこと、術なくして剣は成り立たぬことを説くものとも解することができよう。ちなみに、吉田豊『武道秘伝書』では「剣」を、「剣の働き」と解している(p121)。
3)彼一理…吉田豊『武道秘伝書』に用いるテクストは、「我に応ずる所の理」に作り(p120)、吉田は「自分自身のうちに備わるこの働き」と解釈する。
4)本分の正位…「本分」は、自己が本来あるべきところ。「正位」は、正当な位置。よって、ここでは自己が本来あるべき正しい位置と解する。
【現代語訳】
道理を技よりも優先させ、身体能力を剣の操作術よりも優先させること、これは剣術における病気のようなものである。(ここで道理を技よりも優先させ、身体能力を剣の操作術よりも優先させることを病気というのは)他の点(=剣術の本質から離れた点)において技や道理を追求するようになるからである。(相手に向かって)臨機応変に技をくりだすことは、思慮や予想でもって(相手に対して)変化しているわけではない。自然の道理でもって、考えずとも変化し、予想せずとも応戦するものである。だから自己に応戦してくる相手の道理をも尊重しつつ、思慮分別を起こさず、一心不乱に勝利を疑わず、(こうした心境を)充分に自己が本来あるべき正しい位置として認識すべきである。この唯心一刀流を学ばんとする者の、心の修行はこのようなものである。
【補説】
1この部分の解釈であるが、湯浅晃は『武道伝書を読む』(日本武道館、2001)の中で、「理即ち心がわざ(事)より、また体が剣より先に発現すること、これは剣術にとっては病気であるといっています。なぜならそれは、勝つための手段を相手にもとめるからだといいます。「相手に勝ちたい」、「こうして勝ちたい」という意識が作為的に働き、そしてその意識が表面に現れることを戒めています。」(p115)としている。しかし、ここでは「理」を「心」と解釈せず、道理ととるべきである。そして、「他に向かひて」は、相手に向かうのではなく、剣術の本質以外の他のものに向かうと解釈されるべきであろう。
2金子明友が、『わざの伝承』(明和出版、2002)の中で、「伝承するに値するようなわざが初めて成立するときには、才能に恵まれた人がたえざる工夫とたゆまざる修練を経て、私の運動感覚能力を動員して、カンをとらえ、コツをつかみ、ついにわざとして結晶化させているのだ。そこに、いわば個人的な私の所産として、私の運動のかたちが立ち現れる。」(p40)と示すように、わざは、運動の実践によって、個人的な所産として形成されるものであり、道理を優先させて形成されるものではない。
3道理をわざより優先させてはならないという指摘は、マイネルの『スポーツ運動学』(金子明友訳、大修館書店、1981)の中にも見られる。「たしかに現在使われている走り高跳び技術のなかには、力学の立場からもっと合目的的な技術が存在するであろうし、他のすべての諸要因をまったく考えに入れなければ、その技術で最高の記録が得られるかもしれない。しかし、力学的にもっとも目的的な解決の仕方がただちにその個人にもっとも目的的な解決の仕方になるものではない!選手の個人的な能力、とくに必要な筋力やスピードをきわめて適切なやり方ですべての動きに協調させる能力が、同時に力学的にもっとも目的的な解決の仕方と一致するなら、その選手は高い記録を出すことができるであろう。」(p264)
4身体能力を剣の操作より優先することについて、マイネルは、『スポーツ運動学』の中で、「スポーツ技術はスポーツの大きな達成をねらって、合理的な、すなわち合目的的な、経済的な仕方と解される。実践の場で発達し、検証され、現在のところ周知のスポーツ技術は、一般的拘束性も個人条件としての特性も内包しているから、一般的拘束性だけをもつとはいえない。技術の個人的変形は模倣されてはいけない。」(p268)と示している。個人の体格や運動能力が尊重されてわざを形成するものではないということである。
(2)
高上に至ては、一心不乱と云沙汰もなく、一理敬する差別もなく、内外打成一片1)にして、善もなく悪もなし。千刀万剣を唯一つ心に具足2)し、十方に通貫して転変自在なり。是一心の修行を以て伝授を離れ、別伝の位に至る所也。
【語注】
1)打成一片…一つにする。『碧巌録』第6則に「長短好悪を打成一片にす」とある。
2)具足…欠くことなく充分に備えていること。具備満足に同じ。
【現代語訳】
高い位に至ると、一心不乱ということもなく、(相手の)道理を尊重するという(自他の)区別もなく、自他が一体となって、善もなく悪もない(状態である)。千刀万剣(あらゆる剣)を唯一つの自己の心にそなえ持ち、あらゆる方面に通じて変幻自在である。この状態は心の修行であっても伝授からは離れたものであり、別伝の位ともいうべきものである。
(3)
事にて理を先立てざる習と云は、水月1)を守りて能く邪気を不生(生ぜざれば)、千変は其一より転ず。一は無形の全体2)なり。譬ば水の如し。水に常の形なし、故に能く方円の器に随ふ3)。而して躰を先立ざる習は、剣前体後の伝授也。此術は、其刃を以て利を成すの法也。故に剣あれば事あり、事あれば理あり。心は事の本也、体は剣の元也体は気に依て動き、気は心の向所にしたがふ。故に心変ずれば気変じ、気変ずれば体へんず。。
【語注】
1)水月…第5章を参照のこと。
2)無形の全体…「無形」とは、千変万化して一つに固定しない状態をいう。こうした状態ゆえに決まった形がない、いわゆる「無形」の状態となる。「全体」は、全体を構成する本質と解釈する。
3)方円の器に随ふ…定まった形がないゆえに、水は四角い容器に入れれば四角くなり、丸い容器に入れれば丸くなるという意。ここでは相手や場合に応じて、臨機応変に対応すべきことの比喩に用いる。もともとは社会が為政者に左右されることの比喩であり、例えば『韓非子』外儲説・左上には「孔子曰く、人君為る者は猶ほ盂のごときなり。民は猶ほ水のごときなり。盂方ならば水方に、盂圜ならば水圜なりと」と用いられている。
【現代語訳】
技より道理を優先させないことを習うには、水月の伝授を守り充分に邪気を起こさぬようにすれば、様々の変化はその一点より起こるものである。その一点は無形であることを全体の本質とする。喩えれば水のようなものである。水には決まった形というものがない、だから四角や丸の容器の形に応じ(て形を変え)ることができるのである。そして身体能力を(剣の操作術よりも)優先させないことを学習するには、剣前体後の伝授がある。(そもそも)この剣術というものは、刃でもって勝利を得ようとする法である。よって剣があれば技があり、技があれば道理がある。心は技のおおもとであり、身体能力は剣の操作術のおおもとである。(身体は内なる気に応じて動き、気は心の向かう所に応ずる。だから心が変化すれば気も変化し、気が変化すれば身体も変化する。)
【補説】
ここでは、一貫して、剣前体後の重要性を説いている。前述のとおり、身体能力を重視し、剣の操作を軽視することは、道理に則した技を遂行することはできないということである。この点については、マイネルが、『スポーツ運動学』の中で、「どんなスポーツ技術においても、遂行上の二次的な特徴(変形)が現れる。その特徴は選手の身長、筋力、体質や四肢のプロポーション、体重によって、また、神経系の類型(気質)によって、協調の能力や反応スピードなどによって、個人的に条件づけられている。これらの個人に条件づけられた運動遂行上の特徴は、決して一般妥当性を要求できるものでもなく、したがって一般的に拘束する力をもつものではない。」(p263)と示していることからも窺える。
(4)
其本裏に有て末表に有るを実と云ふは、是順1)也。末裏に有て本表にあるを虚と云、是逆也。実は必勝の位、虚は位不定の勝也。利2)、事より先んずる時、事何を以てか変に応ぜん。体、剣よりも先んずる時、剣何としてか人を害せん。故に能く其本を正して、而して其末を治むべきものなり。剣体本末を正に至る3)事は、事理修行の功にあり。
【語注】
1)順…本と末が本来あるべき通りの状態であること。「本末相順(本末相順ふ)」ともいい、「本末転倒」の逆の状態。「本」と「末」の解釈については、『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝中の「応有本末之事(応に本末有るべきの事)」(p289)が参考となる。本は内也。心也。理也。末は外也。形也。事也。或は細に云ふ時は、事の上にても手もとの所作、手さきの所作等の品々あり。本を以て来るときは、本を制し、末を以て来るときは、末を制す。是応ずる事、本末によりて時の宜きに随ふ也。然りと云ども本を以て来るに末を以て制し、末を以て来るとき本を以て制する事もあるべし。是又時に応じ、節に制する事理なり。以上から考えるに、「本」は身体の内側にある心の働き、あるいは道理と解釈すべきであり、「末」は外側にあらわれた形、あるいは技、所作と解釈すべきであろう。
2)利…これを文脈上、「理」の意と解した。
3)剣体本末を正に至る…これも文脈上、「剣体本末の正に至る」の意と解した。吉田豊『武道秘伝書』に用いるテクストは「剣体本来の正きに至る」とする(p121)。
【現代語訳】
本(=心、道理)が裏にあって末(=形、技)が表にある状態を実というが、これは順(の状態)である。末が裏にあって本が表にある状態を虚といい、これは逆(の状態)である。実(の状態)は必ず勝利をおさめる位であり、虚(の状態)は位が定まっていない(偶然の)勝利である。道理を技よりも優先する時、技で、どうやって(相手の)変化に応ずることができよう。身体能力を剣の操作術よりも優先する時、剣で、どうやって人を殺すことができよう。よって充分に本を正して、そして末を修得すべきものである。剣体(の先後)本末(の表裏)の正しい理念を知るまでに至ることは、技と道理の修行の効果いかんにかかっている。
第7章
事の外にあらはるゝ者は、外に応じて1)其内を利し、事を内にもつ者は、内に随て2)其外を内外結果位
理で守る事で攻める勝利残
理で攻める事で守る勝利残
理で攻める事で攻める敗北は表面化する不残
理で守る事で守る敗北は内面化する不残
勝べし。内外の縁に因て、其好む所に応じ、其悪む所に随ふ。其虚実を能く見て、本を攻めて末を勝、或は末を攻めて本を勝ち、或は本末3)ともに攻て本末ともに勝つ。故に事を以て是を攻る時は、利4)是を守り、利を以て是を攻る時は、事是を守る。内外専ら攻る時は、 過表に有。内外全く守る時は、過裏にあり。攻る時は是れ守る所あるが故也。守るも亦攻る利有るが故也。故に攻るも攻るにあらず。攻ざれば勝利を得ず。守るも守るにあらず。守らざれば勝利なし。是を残不残の伝授5)と云。皆事之雖為行(皆な事の行たりと雖も)、本を能く正さずんば、末何ぞよろしからん。本末ともに能く正しき者は、千変自由にして万化心に不求(求めず)とも、節に当て自ら変化宜し。
【語注】
1)応じて…適応する。
2)随て…随順する意と解し、1の「応じて」と同意と解釈する。
3)本末…第6章(4)の【語注】の1で触れた通り、「本」は自己の内側にある心、あるいは心の働きと解し、「末」は自己の外側にあらわれた形、技と解する。
4)利…文脈上、この一文の「利」は全て「理」の意と解した。「理」は道理というよりは、ここでは、心の働き、もしくは心と解釈した。
5)残不残の伝授…内外、事理、攻守との関係は下表のようになろう。
【現代語訳】
技が外部にあらわれている者は、その外部(の技)に適応してその内側にうまく作用させ、技を内部にもつ者は、その内部(の技)に適応してその外部にうまく作用させるべきである。内外の関係によって、その得意な所に適応し、その不得意な所に適応する。その虚実を充分に見極めて、(相手の)本(=心)を攻めて末(=技)において勝ち、あるいは(相手の)末を攻めて本において勝ち、あるいは本末ともに攻て本末どちらにおいても勝つ。よって技で相手を攻める時は、道理(=心)で自己を守り、道理で相手を攻める時は、技で自己を守るのである。内外どちらにおいても攻める時、失敗は表面に生ずる。内外どちらも守る時、失敗は内面に生ずる。攻る時(ということが生ずるの)は、守る所があるからなのだ。守る(ということが生ずるの)もまた攻める道理(=心)があるからなのだ。よって攻めることも、ただ攻めるのではない。(守る所があって必然的に)攻めるのでなければ勝利を得ることはないのである。守ることも、ただ守るのではない。(攻める所があって必然的に)守るのでなければ勝利はないのである。これを残不残の伝授というのである。こうしたこと全ては技における修行ではあるが、本(=心)を充分に正さなければ、末(=技)がどうしてよいことがあろうか。本末どちらも充分に正しい者は、どんな変化に対しても自由であり、あらゆる変化(に対応すること)を心の中で求めなくても、それぞれの場合に応じて自然と変化がうまくゆくのである。
【補説】
「本を能く正さずんば、末何ぞよろしからん。」と述べる一方で「利、事より先んずる時、事何を以てか変に応ぜん。」と述べている。「理」と「事」の両方重要であるが、とくに事(技)であるということなのであろうが、このような難渋な表現がこの伝書の特徴であり、解釈を困難なものとしている。
第8章
(1)
事に利1)を持を先を守ると云。利に事を持を後を守ると云。先に止まる時は後に利なく、後に止る時は先に利なし。事理先後に不止( 止らざる)を術の要害2)とす。故に先後は敵にあり、我是を守るにあらず。先後一事の伝授3)と云者、全く先に不有(有らず)、後にあらず。先なる時は後も是に兼ぬ。又後なる時は先是に備る。強弱軽重、 諸の所作、何れも同じ。
【語注】
1)利…前章と同じく、「理」の意と解する。
2)要害…本来、人体の急所をいうが、ここでは!大切なポイント"の意。
3)先後一事の伝授…「先」と「後」とが一つ事であるという教え。『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝中の「先後不止之事」が同様のことをいう(p287)。先にも後にも止らざる也。先後は敵にあり。我是を求るに非ず。全先にあらず、後にあらず。先なるときは後にも是に兼、後なるときは先是に具る。一にして而も二也。二にして而も一也。「先後」に関しては、後出の第9、10章に詳しい。それぞれの意味はとりあえず、現在の剣道において用いられる意味と同様に、「先」は、相手の先手を取る意、「後」は後手に回って受けてたつ意と解釈した。
【現代語訳】
技に道理が備わる状態を「先」を守るという。道理に技が備わる状態を「後」を守るという。「先」ばかりに止まっている時は「後」にうまく働かず、「後」にばかり止っている時は「先」にうまく働かない。事理、先後(の、どちらか一方)に止らない状態を、剣術では要点とする。だから先手を取るか、後手に回って受けてたつかは敵側(の問題)であって、自分からこのどちらかを選ぶものではない。先後一事の伝授というは、ひたすら先手を取るというのでもなく、ひたすら後手に回って受けてたつというのでもない。先手を取った時には後手に回って受けてたつことも内に兼ね、また後手に回って受けてたつ時は先手を取ることも内に備えているのである。強弱や軽重など、他のいろいろな動作に関しても、どれも同じことがいえる。
【補説】
現在の剣道指導書では、技を仕掛け技と応じ技と大きく分類している。仕掛け技が「先」であり、応じ技が「後」ととらえられる。さらに、「先後一事の伝授」は、現代剣道でいわれる「懸待一致」、「攻防一致」と同意である。「先」(懸、攻)の中にもいつ相手が打ってきても対応できる「後」(待、防)の備えが必要であるし、「後」(待、防)であっても、常に「先」(懸、攻)の気持ちで相手を圧倒し、相手に自由に技をださせないようにしなければ、技は成就しないのである。
(2)
其事一にして二也、二つにして又一つなり。天にあるかと見れば、忽ち地に発し、地に発するかと見れば、端的天に在り。静なる事山の如く、動き至ては電光石火も及びがたし1)。是一心先後に不止(止らざる)が故に、一理万事に通じ応ずるもの也。雖然(然りと雖も)、事は自己の心身に能く得たる所ある者也。故に先の事を得たる者は専ら先を守て利を得、後の事を得たる者は専ら後を用て利を得る者也。強弱軽重の所作、何れも然也。
【語注】
1)静なる事山の如く…武田信玄が軍旗に書いたことで有名な『孫子』軍争篇の「風林火山」の一節に因む。『孫子』の文章には、「動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆(いなずま)の如し」とある。なお「電光石火」は、いなずまの光と石を打って出る火花とをいい、動作・行動の迅速なことを喩える。
【現代語訳】
(先手、後手という)事は一つであって二つであり、二つであってまた一つである。天にあるかと見れば、たちまちのうちに地から発し、地に発するかと見れば、まさしく天にある。静かであることは山のようであり、動く段になると電光石火も追いつかぬほど素早いのである。これは心が「先」「後」に止らないために、万事に道理が通じていて(敵に)応ずることができるからである。そうはいっても、技は自己の心身に深く修得した得意な所があるものである。だから「先」の技を得意とする者はひたすら「先」を守って利点を得、「後」の技を得意とする者はひたすら「後」によって利点を得るのである。強弱や軽重の動作については、どれも同じことがいえる。
【補説】
「先」と「後」のどちらかに偏ってはならずといいながら、「先」の得意な者は、「先」を尊重し、「後」の得意な者は、「後」を尊重するようにと説いている。この伝書の特徴をここに読み取ることができる。それは、理想的な剣術の技は、「先」あるいは「後」と固定されるものではないという主張である。また、「先」か「後」いずれかの得意を伸ばせば、見かけ上偏っているとは思えても、そこから「理」を得ることができるということであろう。この点について、マイネルの『スポーツ運動学』では、「レスター・ステーアスあるいはユーリー・イリヤソフのような比較的上背のない選手は振り上げ脚を必要なスピードでさばくことができるので、かなり伸ばして振り上げているのである。これに対して、2"04の上背をもつワルター・ダビス(記録2"12)にとっては、約20〜25!も長いその脚の振り上げは、膝を少し曲げたほうが必要なスピードを得られるのである。」(p263)と示されており、この場合「先」「後」に関わる記述ではないが、人それぞれの適性にあわせた技術を使うべきだと指摘している。
(3)
理を以て観之(之を観れ)ば、偏たりと云ども、其事能く身心に得る者は、外に求める利1)なし。他に向て是を不求(求めざれ)ば、一心、其所作に転ぜず。是則ち先後不止の道理に叶ふ者也。能く術に達する者は、先に止りても先に奪はれず、後を守ても後にとられず、事を守りても心其事に染らず、理に著しても事利に取れず、形有かと欲すれば全く形無く、形なきかと見れば正に形あり。是を邪正一如の位2)と云也。
【語注】
1)利…ここも前章と同様に、「理」の意と解する。
2)邪正一如の位…正しくないこと(=邪)と正しいこと(=正)が一つになること。本節の内容からすれば、「先に止り」「後を守て」「事を守り」「理に著して」というような状態は「偏」であって、正しくない状態といえる。しかし術の達者ともなると、「先」に止っても「先」に(心を)奪われることはなく、「後」を守っても「後」に(心を)とらわれることもない。技をしっかり守ってはいても心はその技に染らず、道理に執着してはいても事理にとらわれることはない。これが邪正一如の位ということになる。
【現代語訳】
(事理という)道理でもって考えるならば、偏りといえるが、技を充分に心身に修得する者は、外に道理を求める必要はない。外にこれ(=道理)を求めないのであれば、心をその動作に転化する必要もない。この場合は先後不止の道理にかなっているのである。充分に剣術に達した者は、「先」に止っても「先」に(心を)奪われることはなく、「後」を守っても「後」に(心を)とらわれることもない。技をしっかり守ってはいても心はその技に染らず、道理に執着してはいても事理にとらわれることはない。形が有るかと思えば全く形は無く、形が無いかと見れば正に形がある。これを邪正一如の位というのである。
(4)
理を離れて勝つを、術の達者と云也。蓋し究竟窮極、不存軌則1)と云。是を心に得、是を手に応ずるものは、心は心、事は事、我は我、敵は敵、何に向て何をか求め何をか捨ん。一事の秘伝2)と云も、一事の位に至るべき道なり。至ては、誰か其道を守らん。若し守て是を学ぶ者は、未至(未だ至らざる)が故也。雖然未至(然りと雖も未だ至らざる)者は、不学(学ばざれ)ば不能至事(事に至る能はず)。故に一事の秘伝を以て、先後不止の道理を示す者なり。
【語注】
1)究竟窮極、不存軌則…「究竟窮極」は、仏教にいう、究極の境地の意。ちなみに究極の悟りを「究竟覚」、その悟りに達した位を「究竟位」という。なお、この一句は禅宗において尊重される書、三祖僧!『信心銘』を出典とする。
2)一事の秘伝…「先」と「後」とが二つであって一つであるというように、二つの要素が二つでありながらも一つであるという教え。
【現代語訳】
道理から離れて勝つ者を、術の達人というのである。おそらく、(『信心銘』が)究極の境地は規則にあるのではないという(のが、これであろう)。こうしたことを心に理解し、こうしたことを術に応用するものは、心は心と、技は技と、自己は自己と、敵は敵と(認識しているので)、何に向かって何を求め、何を捨るというのか(いや何も求めず、捨てもしない)。一事の秘伝というものがあるが、これは一事の位に至るための道である。(一事の位に)到達すれば、誰が(到達するための)道を守るであろうか(いや守りはしない)。もし(到達するための道を)守り学ぶ者がいたとすれば、(その者は)まだ(一事の位に)到達していないためである。そうはいいながらも一事の位に到達しない者は、学ぼうとしないので一事の位に到達することができないのである。だから一事の秘伝でもって、先後不止の道理を示すのである。
第9章
先に体・用1)の二つ有り業に発するを体といひ、心に用ふるを用といふ。。其備不変にして無事を以て攻むるを体の先と云、既に其位変じて処に随て形を現ずるを用の先と云。伝に曰、体の先は体を以て攻め用を以て守る。是敵の利2)を奪て其備を破り、合するを以て攻む。其利を表とし其事を裏とする也。用の先は、用を以て攻め体を以て守る。是敵の備を破て其事を奪ひ、離するを以て攻む。其事を表とし其利を裏とする也。若し体用攻守の事理を知らず、妄りに乗じて勝たんと欲する者は、首を延て討れ、手を出して斬らるゝに同じ。能く鍛錬すべし。
【語注】
1)体・用…割注にある通り、技にあらわすことを「体」、心をめぐらすことを「用」と理解する。ただし、一般に用いられる「体」は本体・実体の意であり、「用」は作用・働きの意とする。禅林では「用」を!ゆう"と読みならわし、!大機大用(並はずれた作用)"なる成語も知られる。こうした禅林の体・用の概念を持ち込んだ柳生新影流は、その伝書『兵法家伝書』(渡辺一郎注:日本思想体系61 近世藝道論、岩波書店、1972、p337)活人剣下において、以下のように説明する。大機大用。用を用とよむべし。物の躰用の時、用とよむべし。物ごとに躰用と云事あり。躰があれば、用がある物也。たとへば、弓は躰也、ひくぞ、いるぞ、あたるぞと云は弓の用也。燈は躰也、ひかりは用也。水は躰也、うるほひは水の用也。梅は躰也、香ぞ、色ぞと云は用也。刀は躰也、きる、つくは用也。この説明に明らかな通り、新影流の体用論は禅の影響下に形成され、なおかつ一般的な体用の解釈である、本体と作用という理解を示すことが見て取れる。しかし、本書の体用論はこれとは大きく異なる。
2)利…「事」と対応させていることから考えて、ここも前章と同様に「理」の意と解し得る。本章では!心≠ニ訳しておく。
【現代語訳】
先手をとるには「体」と「用」の二つがある(割注:技にあらわすことを体といい、心をめぐらすことを用という)。自分の備えはそのまま変えず、作為なく攻めることを「体」の先といい、自分の位置を変えつつ状況によって形として現すことを「用」の先という。伝書にいう、「体」の先は「体」で攻め、「用」で守る。これは敵の心を奪って(こちらに利用し)、その守備を破り、相手と向き合う状態で攻めるのである。(この場合は、敵の)心を表とし(て攻め)、(自己の)技は裏とするのである。「用」の先は、「用」で攻め、「体」で守る。これは敵の守備を破り、その技を奪って(こちらに利用し)、相手と離れた状態で攻めるのである。(この場合は、敵の)技を表とし(て攻め)、(自己の)心は裏とするのである。もし体用、攻守の技と道理とを知らないで、むやみに攻めて勝ちたいと思う者は、自分から首を伸ばして討たれ、手を出して斬られるのと同じである。よく鍛錬すべきである。
第10章
(1)
後は、敵の体と用とを利する二つ也利は自然の勢を云。敵、体を以て利せんと欲せば、其志す所に随て其用を可殺(殺す可し)。用を以て勝んと欲せば、其現ずる所に応じて其体を破るべし1)。来て残る者を末2)に応じ、不残者(残らざる者)を本に随ひ、本動じて末静なる者を其本を利し、本正しくして末乱るゝ者を残して是に応じ、本末倶に動ずる者は其過を殺し、本末共に静なる者は其誤り3)を利すべし。雖然(然りと雖も)其形4)に随て其色を追へば、奪るゝに利あり。事理、其先に奪るゝ時は後に利なし。
【語注】
1)敵、体を以て…吉田豊『武道秘伝書』に用いるテキストは、この一文が大きく異なる。すなわち、「敵、体を以て利せんと欲せば、其現ずる所に応じて其体を破るべし」(p125)となっており、本稿の底本にある「其志す所に随て其用を可殺。用を以て勝んと欲せば」という文章を欠いている。
2)末…後出の「本」と対になる概念である。第6章(4)の【語注】の1を参照。
3)誤り…失敗、誤謬の意であるが、ここでは、本心、技ともに動揺しない完全な状態が何かのミスで、ほころんでしまうことをいうものと解した。
4)形…後出の「色」と同義として用いられることが多いが、本書では区別して用いる。「形」は形あるもの、形態の意で、ここでは攻撃する形態、守備する形態などの意味を表し、「色」は形に現れる形相、表情の意で、ここでは攻撃の形態が示す動作、守備の形態が示す動作などの意を表すと解した。
【現代語訳】
後手に回って受けてたつには、相手の「体」と「用」とを自然の勢いとして利用する二つ方法がある(割注:利とは自然の勢いをいう)。相手が、「体」で優位に立とうとしていれば、その思う所に応じて(心の動きである、その相手の)「用」を殺すべきである。(相手が)「用」で勝とうとしていれば、その外に現れた所に応じて(目に見える技である、その相手の)「体」を破るべきである。仕掛かって来て(余力を)残す者に対しては技で応じ、残さぬ者に対しては心で応じ、本心が動じていながら技が動じない者に対しては、その本心(の動揺)を利用し、本心が正しくありながら技が乱れる者に対しては、余力を残してこれ(=技の乱れ)に応じ、本心、技のどちらも動揺する者はその欠点を殺し、本心、技のどちらも動揺せず静かな者に対しては、そのほころびが生じて来るのを待って利用するほかない。そうはいっても、相手が掛かって来る、その形態に応じ相手の動作ばかりを追いかけていれば、(相手に「先」を)奪われるという(相手の)有利となる。事理ともに、相手の「先」によって奪われる状況では「後」に有利な点はない。
(2)
故に我が伝の後は、其形に向て其色を殺す者也。向・殺の二つは、一体一用の事也。向を以て殺し、殺を以て向ふ者也。剣刀の発当の強弱、剣勢1)本末2)の備、剣躰前後の口伝3)、其得失は皆事の修行より剣心不異4)の全体に至て、臨機応変の事自在也。此理微妙にして伝て是に示しがたく、学んで是に至りがたし。実に以心伝心5)の妙理也。其寒温を自知する者6)は、先師一刀斎の骨髄に符節を合するが如し7)。
【語注】
1)剣勢…第4章の威勢、及び『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「剣躰備勢之事」(p288−289)を参照のこと。
2)本末…第6章の、特に(4)の「剣体本末」を参照のこと。
3)剣躰前後の口伝…第6章、参照のこと。
4)剣心不異…第1章の(3)、及び第2章(3)の「構心に不異之位」を参照のこと。
5)以心伝心…禅において重要視される概念で、言葉や経典などによらず、師匠の心からと弟子の心へと真理を伝えるという意。
6)寒温を自知する…寒い季節から暑い季節へと移り変わる、その自然の理を自得する者と解した。
7)符節を合するが如し…割り符を合わせるかのように、二つのものがぴったりと合うこと。『孟子』離婁・下に「志を得て中国に行ふは、符節を合するが若し」とある。
【現代語訳】
だから我が流派の伝としての「後」は、相手の(攻撃の)形態に対してその動作を封じるというものである。相手に対する!向"、相手の動作を封ずる!殺"の二つは、前者が(技術関連の)「体」の技、後者が(精神的な面の)「用」の技なのである。相手に対して相手の動作を封じ、相手の動作を封じて相手に対するのである。太刀の抜きつけの強弱、斬りつけの強弱、剣勢・本末の備え、剣躰前後の口伝、それらの成功・失敗はすべて技の修行によるものであり、それが太刀の操作法と心とが一体となる剣心不異の教えという全きところに到達することで、臨機応変の技が自由自在に出るようになるのである。この道理は微妙なもので伝えてここに示すこともできず、学んでここに至ることもできない。実に以心伝心の妙理である。季節の寒温の道理を自得する者は、先師一刀斎の真髄にぴったりかなうものである。
【補説】
現代剣道では、「先々の先」、「先」、「後の先」の三つの先がいわれる。本書の内容を、それに照らし合わせると、「体の先」は、「先々の先」、「用の先」は、「後の先」にあたる。また、「先」は伝書における「後」にあたると考えられる。 
第11章
(1)
勝負の要は、間なり。我利せんと欲するは、渠1)も利せんと欲す。我往んとすれば、渠又来る。勝負の肝要、此間にあり。故に我伝の間積りと云ふは、位、拍子2)に乗ずるを以て間3)と云也。敵に向て、其間に一毛を不容(容れず)、其危亡を不顧(顧みず)、速に其利に乗じて殺活の当的能奪4)の本位に可至(至るべき)者也。若し一心の間に止る則は変を失す。我心、間に拘ざる時は、間は明白にして其位に在り。故に心に間を止めず、間に心を止めず、能く水月の位5)に至るべき者也。無理無事の一位を水月の本心と云也。故に求れば、是水月にあらず。一心清静にして曇りなき則は、万方6)皆水月なり。不至(至らず)と云所なし。
【語注】
1)渠…三人称の代名詞。「彼」に同じ。
2)拍子…杉浦正森『唯心一刀流太刀之巻』中の「剣、体、色、勢、拍子之事」の条では、「拍子には品々あり。諸家に沙汰する如く、拍子、無拍子と云。又無拍子の拍子と云。或は不合の拍子などと云。亦離るる拍子と云。是皆自他ともに巧者の上の説なり。諸説のあしきに非ず。されども当流に近く説ときは、畢竟自然の威勢、天然の拍子なり」(p290)と説明する。よって、拍子は剣や体の修練によって得られる自然な威勢、あるいはそのような威勢によって生ずる、その人独自の自然な調子・リズムと解釈できよう。
3)間…本書にいう「間」は、現在いうところの相手との距離、つまり間合い≠フ意だけではなく、俗に間がよい、わるいというような、いわゆる調子∞タイミング≠フ意をも含むようである。そのため「間」を説明するに際して、拍子(リズム)という言葉が用いられるのであろう。しかし本書では「間積り(間のとり方)」に拍子が必要な要素であることをいいはしても、それよりも位が大切であることを主張する。なお吉田豊『武道秘伝書』では、この箇所を「わが流儀における間とは、互いの力関係、戦いのリズム、テンポを有利に変えてゆくことをその内容としている」(p128)とし、本稿の解釈とは異なる立場を採る。ただし、「間」を単純に間合い≠フ意としない点は本稿と軌を一にし、吉田が〔解説〕で「ここにいう間とは、単なる距離間隔のことではない。敵とわれとの空間的、時間的関係すべてが含まれている」(同前)と述べることは参考となる。
4)当的能奪…「当的」は、「的に当たる」と訓読し、相手を的として、それに向かう意。『唯心一刀流太刀之巻』中の「先後当的之事」(p289)によれば、自己を敵の的とし、敵を自己の的とするという、相手と縁を切らぬ敵対関係にある状態をいう。加えて、「而も的をはなれて自由をなす。爰をさして殺活の一的とも云べし」とも述べており、以上から考えるに本書のいう「殺活の当的」は、的に向かいながらも、その状態から離れた自由な境地と解される。「能奪」は、やや解し難い。文脈からすれば「与奪」の意と考えられる。
5)水月の位…本書第五章に詳しい。また第六章にも若干の言及がある。
6)万方…万国、万民、あらゆる道・方法など、いくつかの意味があるが、ここでは全てにおいて≠フ意と解した。
【現代語訳】
勝負のポイントは、間にある。自分が利を得ようとすれば、相手もまた利を得ようとする。自分が(打って)ゆこうとすれば、相手もまた(打って)来る。勝負の大切なポイントは、この間というものにある。よってわが流派の間というものは、位が拍子にまさった状態をもって間というのである。敵に向かって、その間に一毛をも入れず、その危険をも顧みず、すぐさま利点に乗じ、相手に応じて生かすも殺すも自由な位に至るのである。もしも心が間にとらわれる時は変化はできない。自らの心が間にこだわらない時は、間は明白なものとして、その(あるべき正当な)位にあるのである。よって心に間をとどめず、間に心をとどめず、水月の位に至ることができるようにすべきである。道理もなく技もないという位を水月の本心というのである。だから(そこに到達したいと)求めるのであれば、それは水月(の位)ではない。心が清らかに静かに、曇り一つない時は、すべてがみな水月である。(そうなると)たどりつけない所はないのである。
【補説】
ここでは、剣道の技において重要な概念である「間」1)、「拍子」2)、「位」3)について述べられている。いずれも多くの伝書に登場する語句であるが、今後一層の概念の明確化が望まれるものである。
1)「間」は多くの武芸伝書で指摘される重要な概念である。財団法人全日本剣道連盟編『剣道和英辞典』(2001)では、「間」を「物と物のあいだ、事と事のあいだ、時間と時間のあいだなどのこと。時間や空間を意識させる重要かつ特殊な概念およびそれを表現することば。剣道において「間」といった場合は、どちらかといえば時間意識でとらえ、「間合い」といった場合は、空間・距離意識でとらえているというように一応区別している。さらに、それらの時間的・空間的な間を適切にはかったり、つくったりすることを「間積もり」という。」(同前、p59)とし、「間合い」を「相手との空間的距離。相手とのへだたり。間合いのとり方は相手との関係により微妙であり、かつ大事なものである。」(同前)としている。「間」と「間合い」は区別されていることがわかるが、ここで使用される「間」は、時間的意識と空間・距離意識を内包するものであるといえる。
2)「拍子」は、「竹刀や体さばきなどの動きの流れやリズム。また、相手と呼吸を合わせたり外したりするなど、相手と自分の気持ちのかけあいをいう場合もある。」(同前、p35)と示される。スポーツ運動学では類似概念として運動リズムという概念がある。運動リズムは、「運動リズムとはある運動の力動的構造であり、すなわち、ひとつの運動の根底に横たわっている緊張と解緊の周期的交替と理解する。……投げることや跳ぶことにも緊張と解緊の特徴的交替が示されるのである。運動リズムはしばしば視覚的に、聴覚的にきわめてはっきりととらえられる現象として出現するものである。」(クルト・マイネル著、金子明友訳(1981):マイネル・スポーツ運動学、大修館書店、p168)と示されるものである。呼吸なども身体における緊張と解緊の周期的交替ととらえれば、運動リズムと拍子は非常に近い概念といえる。
3)「位」は、「ものの等級や優劣。人格と実力を兼ね備えた度合い。相手と対峙したときに生ずる精神面や技術面の格差。この位は稽古を積むことによって得られた自信から自然に高められていくものである。」(同前、p57)と示されている。「間積もり」においては、「拍子」よりも「位」が優先するということは、「拍子」が技術的な習熟を意味するのに対し、「位」は技術的・精神的習熟の等級を意味するものであり、修練による相手に動じない心の持ちようとか、技への自信などの精神的充実が関与することに因るものといえる。
(2)
古語曰、遠不慮則必在近憂1)(遠きを慮らざれば則ち必ず近き憂ひ在り)と。故に間に遠近の差別なく、其間を不守、其変を不待、人に致されずして疾く其位を取るは、当伝の一的2)也。若それ血気に乗じて無二落着する3)者は、我が刃を以て独り身を害するが如し。
【語注】
1)遠不慮則必在近憂…『論語』衛霊公篇の「無遠慮、必有近憂(遠き慮り無ければ、必ず近き憂ひ有り)」にちなむ。先々までの配慮がなければ、必ずや身近で心配事が起こるという意味。ここでは備えあれば憂えなし≠フ意で用いる。
2)的…ここでは、目的あるいは目指すところの意と解した。
3)無二落着する…吉田豊『武道秘伝書』の用いるテクストは、この箇所を「無に落差する」と記し(p127)、吉田は「この心得を忘れる」と解釈する。本稿では京都鈴鹿家所蔵本の記す通り「無二落着」として理解し、ひたすらに解決しようとする≠フ意と解釈する。
【現代語訳】
古語にいう、「先々までの配慮がなければ、必ずや身近で心配事が起こる」と。よって間に遠近の区別はなく、相手との間こだわるのでなく、相手の変化を待つのでなく、人に仕掛けられる前に素早く(あるべき正当な)位に立つことは、当流派の一つの目指すところである。もしも血気にはやることで、ひたすらに解決しようとする者は、自分の刃で自分の身を傷つけるようなものである。
第12章
敵の事を以て我事とし、敵の理を以て我利1)とす。是鸚鵡の位2)と云なり。強を強く、 弱を弱く、撃つ者を撃ち3)、突く者を突く。千変の利、何れも如此(此の如し)。是を敵の事に向ふと云也。強を弱く、 弱を強、打つ者を請け、請る者をばはづす。万化の利、何れも如此(此の如し)。是を敵の理に随ふと云也。実を以て来る者には実を以て向ひ、虚を以て来る者には虚を以て随ひ、敵能して能せざる事を示す時は、我も又能して不能(能せざる)事を示す者也。
【語注】
1)利…ここでは「理」の意と解する。吉田豊『武道秘伝書』の用いるテクストは、「敵の利を以て我利とす」に作る。
2)鸚鵡の位…いわゆる鸚鵡返し≠フ位である。本書では、この鸚鵡返しにも二つがあるといい、一つは敵の技に同じ技で向き合う、いわゆる相の技≠ナあり、もう一つは敵の道理にしたがってその裏をかく、いわゆる応じ技≠ナある。
3)撃つ者を撃ち…吉田豊『武道秘伝書』の用いるテクストは、これ以降、文辞が大きく異なるので、参照されたい(p129)。
【現代語訳】
敵の(用いる)技を自分の技として用い、敵の(用いる)道理を自分の道理として用いる。これを鸚鵡の位というのである。(敵が)強く来る際には強く、弱く来る際には弱く、撃ちかかって来る者には撃ちこみ、突いて来る者には突く。千変の利とは、すべてこのようなものである。これを敵の技に向き合う(鸚鵡の位)というのである。(敵が)強く来る際には弱く、弱く来る際には強く、打ちかかって来る者を受け、受けようとする者の裏をかく。万化の利とは、すべてこのようなものである。これを敵の道理にしたがう(鸚鵡の位)というのである。実を以てかかって来る者には実で以て向い、虚を以てかかって来る者には虚で以て応じ、敵が十分に力がありながらも力がないように見せかける時は、自分もまた力があっても力がないように見せかけるのである。
【補説】
敵に対する対応の運動様相を論じたものである。対応には千変の利と万化の利の二通りがあり、千変の利とは、敵と同じ対応であり、万化の利とは敵と反する対応であると示している。このような対応の運動を鸚鵡とたとえることは指導言語として非常にわかりやすく、運動の円滑な遂行につながるのではないか。
第13章
(1)
術は、実1)を備て虚に変じ、虚を示して実に転ず。敵に向ふ時、愚にして先づ負るは謀の利也。誠に兵者詭道也と孫子2)も云り。故に一偏に是を心得る者は、敵に因て転化する事能はざる者なり。一剣一理を主とする3)則は、一心不変の位に備る。是を思無邪4)と云。前に書するが如く5)、術の至極也。是を単刀と云なり。単刀は敵の無形無色を討ち、事理未発已然6)を全く勝つ、事の高上也。されば、太公7)の曰、兵勝術、密察敵人機、速乗其利亦疾打其不意(兵勝の術、密に敵人の機を察し、速かに其の利に乗じ亦た疾かに其の不意を打つ)と。
【語注】
1)実…「実」と「虚」については、第6章の第4節などで定義がなされる。参照されたい。
2)孫子…『孫子』始計篇の言葉。
3)一剣一理を主とする…我が剣・理を恃んで、一心不乱にかかることをいう。『唯心一刀流太刀之巻』中の「主一剣一理之事」(p291)は、「我に応ずる所の一術を主とし、余念なく思慮分別を起さず、一心不乱にして勝を疑はざるを主一無適と云ふ也」と説明する。
4)思無邪…『論語』為政篇の言葉。
5)前に書するが如く…第2章の第3節にいう「無形の構」あたりを指すか。
6)已然…「以前」の意と解す。
7)太公…祖父、あるいは父をいう。祖父であれば古藤田勘解由左衛門俊直を指し、父であれば古藤田仁右衛門俊重を指す。
【現代語訳】
術は、実の状態にありながら虚の状態に変化し、虚の状態を示しておいて実の状態に変化する。敵に向かった時に、愚かにふるまって先ず負けることが、計略においては利を生じさせることもある。たしかに「兵法は人をあざむくことである」と孫子が述べた通りである。よって一つに偏ったものとして是(=兵法)を心得る者は、敵に応じて変化することができない者である。一つの剣、一つの理を主とする際には、一心不変の位が身に備わる。これを「心に邪な気持ちがない」状態という。前に書いた通り、(この状態が)術の最高到達点である。これを単刀というのである。単刀とは、敵が形も色もなさぬ状態を討ち、事理も未だ発せざる以前を(攻めて)完全な勝利を得るという、技の最高のものである。そうであるので、太公はいわれた、「兵法として勝つための術は、密かに敵の動きの機を察し、すばやく有利に乗じ、また敵の不意を打つことである」と。
【補説】
剣道の世界では、古来に使用されながら現代では使用されなくなったり、意味が違って使用されたりする語句がある。単刀もそのような語句であろう。敵の未発を打つという意味の単刀は、「相手と相対し勝敗を争うとき、相手の起こりをいちはやく機微の間に認めて、直ちに打ち込み、機先を制することをいう。」(財団法人全日本剣道連盟編(2001):剣道和英辞典、p63)と示される現代剣道における「先々の先」を意味するものといえる。
(2)
当流の剣法を学ぶ者は、此理を能く観じ、其法を学び修行する則は、術の高下によらず自己相応の道理を得る者也。たとへ事に功ありといえども、心実1)の理なきものは勝利を得がたし。事不功たりといへども、心実を以て是を学ぶものは、勝利を得る事、何の疑かあらん。誠に此術は、士の一芸、勇者の具足2)なり。故に我其実を撰で之を伝ふ。学ぶ者、謹んで是を秘するは、士の実なり。目前の事を山のあなたと示すは、術の掟なり。
【語注】
1)心実…心に真心を有する。あるいは、真心。
2)具足…甲冑。
【現代語訳】
当流の剣法を学ぶ者は、この理屈をよく考え、その技法を学んで修行すれば、術の高い低いに関係なく自己相応の道理を手に入れることができる。たとえ技においてすぐれていても、真心という道理を持たぬものは勝利を手に入れることはできない。技がすぐれていなくとも、真心で是(=剣法)を学ぶ者が、勝利を手に入れることに、何の疑いがあろうか。ほんとうにこの(当流の)術は、武士の一芸、勇者の具足のようなものである。よって私は真心のある者を選んで、これ(=当流の術)を伝えている。学ぶ者が、これ(=当流の術)をつつしみ隠すのは、武士としての真心である。目前の事であっても山のむこうだと人に示す(ように秘して表に出さぬ)のは、術を学ぶ際の掟である。
【補説】
真心は剣術を学ぶための心構えとしての精神性であり、剣術の稽古を通して得られる精神性ではなく、技術学習において望まれるべき精神性といえる。
第14章
事の利と云は、我一を以て敵の二に応ずる所也。譬ば打ちて請け1)、外して切る、是れ一を以て二に応ずる事也。請けて打ち、外して切るは、一は一、二は二に応ずる事也。一を以て二に応ずる時は必勝つ。一を一、二を二に応ずる時は或は勝ち或は負く。一を二と行く時は忽ち負る者なり。強弱・軽重・順逆・遅速・進退、何れも千刀万剣の事、其得失邪正は茲にあり。能是を考へ修行すべし。
【語注】
1)請け…受ける意。ここでは相手の技を受ける動作をいう。本書では、この受ける動作と外す動作とを合わせて応ずる≠ニ表現する。
【現代語訳】
技における優位性というのは、自分の一手で相手の二手に応ずるところにある。たとえば打ちつつ受け、外しつつ切ること、これは一手で相手の二手に応ずることである。受けてから打ち、外してから切るのでは、一手に一手で、二手に二手に応ずることである。一手で二手に応ずる時には、必ず勝つものである。一手に一手で、二手に二手に応ずる時には、勝ったり負けたりする。(相手の)一手に対して(自分が)二手で攻めて行く時には、すぐさま負けてしまうものである。(技の)強弱・軽重・順逆・遅速・進退など、どれも千刀万剣の(修練の後に身につく)事であり、その成功・不成功、是非はこの点(=技における優位性をしること)にある。十分にこの点を考えつつ修行すべきである。
【補説】
相手の二手に対して、一手という記述は、二つの運動が局面融合1)され一つの運動として認識されるものであり、運動の先取り2)がなされた運動と理解される。また、ここでいう相手の二手を一手で応ずる代表的なわざが、相手が打撃してくるわざを打ち落としながら打撃する「打ち落とし」のわざであろう。
1)局面融合は以下のとおり示されている。「局面融合ということは、異なった種類の運動をスムーズに結合するのに、すなわち組合せ運動系にとって、基本的意義をもつものである。……一般に、2つの独立した運動技能をスムーズに結合させることは、終末局面と準備局面が中間局面に融合していくことに基づいているのを認めるものである。」(クルト・マイネル著、金子明友訳(1981):マイネル・スポーツ運動学、大修館書店、p164)
2)運動の先取りは以下のとおり示されている。「先取りというのは、次につづく運動課題をめざして先行する運動局面あるいは運動経過全体がモルフォロギー的に同調を示すことである。その変容は運動の全体構造のなかにはっきりと現われるものであり、それらは客観的に明らかに確認できるものである。」(同前、p230)
第15章
(1)
剣刀に長短の分ち是有り。我長なる時は、体を以て利を写し1)、我短なる時は、体を以て利に移る2)。長短、 等則は、移写其機に因て変化すべし。雖然、渠と我と事理平等にして其得失を考ふるに、長は短を利するに過ぎず、其短は長を打に過ぎざれば不及。是其形に一得備るが故也。事は形を以て本とする利あり。故に其形に一得を備る者は、事の変化行ひ易し。変化行ひ易き時は、其利も亦自ら正し。雖然、長短は自己の手に応じ心に得るを以て是を用て可也。故に我伝に、剣刀の長短寸尺に定法なし。長は雖為利、我に応ぜざれば是を用ても全く利なし。短は不及の利たりと云ども、我是を得る時は却て利あり。故に長にして短を不欺、短にして長に不奪を、長短一味の伝授3)と云也。
【語注】
1)写し…ここでは「敵の姿をありのままに写して攻める」の意と解する。第5章の「写」の項を参照されたい。なお現代語訳では煩瑣となるので、攻める≠ニだけ訳した。
2)移る…「敵の心に自己の心を移動させるようにして守る」の意と解する。同じく第5章の「移」の項を参照のこと。これも現代語訳では守る≠ニだけ訳した。
3)長短一味の伝授…ここと同じく、『唯心一刀流太刀之巻』事理之口伝「長短一味之事」においても、「長にして短を欺かず、短にして長に奪はれざるを、長短一味の事理を知ると云」(p291)と説明する。
【現代語訳】
(勝負に用いる)刀剣には長短の区別がある。わが刀剣が(敵より)長い時は、体でもって有利に攻め、わが刀剣が(敵より)短い時は、体でもって有利な守りにまわる。長短が(敵と)等しい時には、攻守は臨機応変に行うべきである。そうはいっても、敵と自分とが技も道理も等しく同じと(仮定)して互いの損得を考えるに、長い刀剣は短い刀剣を制する利があるに過ぎず、短い刀剣は長い刀剣に打ちかかるしかないとすれば(距離的に)届かない。これは、刀剣の形態にそれぞれ取り得が備わるからである。技は刀剣の形態を根本とするという道理がある。よって形態に取り得が備わるものは、(その形態を利用して)技の変化を行い易い。変化を行い易い時には、その(技の)道理もまた自然と正しいのである。しかしながら、刀剣の長短は自分自身の腕にふさわしく心にかなうことで、はじめてこれを用て自分に適しているといえる。だからわが流派においては、刀剣の長短の寸法に定まった法はない。長い刀剣は利があるとはいっても、自分自身にふさわしくなければ、これを用いても全く利点はない。短い刀剣は(敵に)届かないのが道理だとしても、自分自身がこれを心得ている時には逆に利点がある。したがって長い刀剣でも短い刀剣をしのぐことができず、短い刀剣でも長い刀剣にやられないという境地を、長短一味の伝授というのである。
(2)
然るを剣刀の長短に拘り、或は其刀を撰む心、其器に拘る時は術の本心を失ふ。我心に吹毛の利剣1)を帯する者、何で刀剣に拘らんや。たとゑ利剣を提ても、肉をきらざれば是鈍刀也。鈍刀を提ても、骨を砕くときは、是則利剣也。一心清静の刃を能く磨く時は、提る処の刀剣は即吹毛の剣也。是本来具足の一刀2)は、刹那も心身を離るゝ事無く、時に順つて殺活自在也。夫れ長は勝ち、短は負く。長短等くば一度は勝ち、一度は負く。不足には勝ち、不及に負け、相対には或は勝ち、或は負く。是理の順也。
【語注】
1)吹毛の利剣…吹きかけた毛髪すら両断するほどの切れ味の剣。名刀。『碧巖録』第百則に見える語句。
2)本来具足の一刀…自然と、心中に具わった一刀≠フ意と解した。具足は、ここでは充分に具わった状態の意。
【現代語訳】
そうであるのに刀剣の長短にこだわり、あるいは刀剣(の善し悪し)を選ぼうとする気持ちで、道具にこだわる時には剣術の本心を失ってしまう。自分の心の中に切れ味のよい名刀を帯びている者は、どうして刀剣にこだわる必要があろう。たとえ名刀を持っていても、それで肉を切らないのであれば、これは鈍刀と同じである。鈍刀を持っていても、それで骨を砕くときには、これは名刀と同じである。心中に清浄の刃を充分に磨くならば、持っている刀剣は、すぐさま吹毛の名刀ともなる。この自然と、心中に具わった一刀は、一瞬たりとも心身から離れることはなく、時に応じて殺活自在(に用いることができるの)である。(しかしながら)そもそも長い刀剣では勝つ(ことが多く)、短い刀剣では負ける(ことが多い)。(互いに刀剣の)長短が同じであれば勝ったり負けたりする。(相手の力が自分よりも)足りない場合には勝ち、(自分の力が相手に)及ばぬ場合には負け、(互いの力が)等しい場合には勝ったり負けたりする。これは順当な道理である。
(3)
然るを己が分限を知らず、我堅固にして他を害せんと欲せば、是非道なり。勝負の根元は自然の理にして、是非全く計り難し。不思(思はざる)に勝、不量(量らざる)に負く。勝つべきに却て負、負くべきに全く勝ち、或は倶に死し或は倶に生ず。善にて亦不善、悪は悪にして亦悪にあらず。何に向て勝事を楽み、何れに向て負くる所を悲まんや。人間無常の習、其得失は唯天道自然の妙理也。故に敵に向ふの時、勝負の是非を念はず、一心生と死を放れて、命は天運に任せ、義を守て臆せざる時は、十万1)に敵なし。敵なき時は何を以てか負けん。千刀一刀、万剣一剣の秘密2)也。能く是を知るは智也。能く是を行ふは勇也。智と勇と術と相兼る者を、当流剣法の明達と是を云なり。
【語注】
1)十万…ここでは文意から、これを「十方」の誤りと解した。
2)千刀一刀、万剣一剣の秘密…千刀万剣の修練によって体得された一撃の極意と解する。つまり敵に対しつつも勝負の勝敗を思わず、ひたすら生と死から離れ、命運は天に任せたような心境は、千刀万剣の修練によって培われるという極意。
【現代語訳】
それなのに自分の限度を理解せず、かたくなに敵を殺したいと願うならば、これは非道である。勝負の根元は自然の理であって、(勝負の)勝敗は全く計り難い。思いもせず勝つこともあり、予想もせず負けることもある。勝つはずなのに、かえって負けることもあり、負けるはずなのに完全に勝つこともあり、あるいはどちらとも死に、あるいはどちらとも生きのこることもある。善であっても善ではないこともあり、悪は悪でありつつも悪ではないこともある。何に対して勝つことを喜び、何に対して負けることを悲しむというのか。人間無常のしきたり、その損得はただ天道の自然な妙理である。だから敵に向う時には、勝負の勝敗を思わず、ひたすら生と死から離れ、命は天運に任せて、正義を守て臆病にならない時には、どこにも敵はない。敵がいない時に、どうして負けることがあろうか。これは千刀一刀、万剣一剣の秘密である。充分にこれを知るのは智である。充分にこれを行ふのは勇である。智と勇と術とを兼ね備える者を、当流剣法の明達というのである。
【補説】
刀は長短どちらが有利かという問題から、道理を心得る「長短一味の伝授」が説かれ、また順当な道理(長い方が有利)に対し、それを超えた天道に即した「千刀一刀万剣一剣の秘密」や「剣法の明達」が説かれている。このように現実的な運動の課題解決について、人間の内面の営みである精神性まで論が深化されるところにこの流派の特徴が看取される。
第16章
渠と我と分て、不思(思はざる)に来り、不量(量らざる)に去り、待つ処に不来(来らず)、行く処はふせぐ。我、如此なれば渠も亦同じ。其不思所を打ち、其不量所に応ず。其変無窮にして、其化常なし。自然の妙理を得て万機に応ず。是を事の勝負と云也。渠と我と一心一躰にして、我思ふ所を渠も思ひ、我量る処を渠も量り、動寂又唯一物にして、鏡に向て影をうつすが如し。茲に至りて、勝べき事もなく知るべきこともなし。若し勝んと欲せば即負け、不勝ば又負る所なし。自然の理と云も、当然の事と云も不然。事理の有無を滅却せずんば、誰か是に勝たん。不勝は是術の本心にあらず。故に術を放捨して別伝の高上に至らば、何ぞ対する敵あらんや。若茲に来て向はんとせば自ら殺し、向て不来者は自滅すべし。是殺人刀、活人剣1)。
【語注】
1)殺人刀、活人剣…もともと『碧巖録』等に見える禅語であり、「宗師家が学人に接する場合に、奪って許さない手段が殺人刀、与えて容れる手段が活人剣である」(『禅学大辞典』)などと説明される。禅語であった、この概念を剣法上の重要なキーワードとしたのは柳生新陰流であろう。周知の通り、柳生新陰流の伝書『兵法家伝書』の上巻は「殺人刀」、下巻は「活人剣」と名付けられている。その由来について、『兵法家伝書』は「此巻上下を、殺人刀、活人剣と名付けたる心は、人をころす刀、却而人をいかすつるぎと也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治めむ為に、殺人刀を用ゐて、已に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや。こゝを以て名付くる所也」(p119)と説明する。
【現代語訳】
相手と自分とを分けて(考えて)も、考えもしないところで懸かって来たり、予想もしないところで引いたり、待ちうけているところに懸かって来なかったり、攻め懸かって行くところはふせごうとする。自分がこうであれば、相手もまた同様なのである。相手の考えもしないところを打ち、予想もしないところに反応する。その変化は尽きることなく、またその変化には定った法則もない。自然の妙理を体得してあらゆる機会に反応すべきである。これを技における勝負というのである。相手と自分とが一心一体となり、自分の考えるところを相手も考え、自分が予想するところを相手も予想し、動も静もただ一つの物ととらえ、鏡に向て姿をうつすかのように(相手をうつすように)する。この境地に至ると、勝たねばならぬことも考えねばならぬこともない。(それでも)もし勝とうと願えば、すぐさま負け、勝とうとせねば負けることもない。(こうした境地を)自然の道理ということも、当然の技術(の結果)ということも当たっていない。事とか理とかの存在を滅却するのでなければ、誰が勝てるであろうか(いや、誰もが負ける)。(しかしながら)負けることは剣術の本意とすることではない。だから剣術(の技術的な面)を捨てて別伝の高上(の境地)に至ったならば、どうしてかなう敵があろうか(いや、誰もかないはしない)。もしこの境地に至った者に立ち向かって攻め懸かろうとすれば、これは自らを殺すことになり、立ち向かって攻め懸かってこない者でも自滅するであろう。これを殺人刀、活人剣というのである。
まとめ
現代の剣道指導書の先行形態と考えられる「一刀斎先生剣法書」を現代訳し、その技術に関する名辞の意味・内容をマイネルのスポーツ運動学の視点から考察し、以下のことが明らかになった。
1.事」は、狭義には、技術ではなく、課題遂行の運動経過や運動形態を示すものである。
2.理」は、最高の習熟を示す運動経過や運動形態を構成する理論である。そして、「水月」のように、剣道の世界に限定されない一般的な比喩で寓話的に示されるものである。
3.事理不偏」とは、運動の自動化を意味するものである。
4.残心」は、敵の姿を自己に映すという意味であり、現代の意味と異なるものである。
5.威勢」は、「威」の中に「勢」があり、「勢」の中に「威」があるという関係である。また、「威勢」は道家の説く無為自然≠フ思想を伏在させている。
6.「理(道理)」を「事(技)」よりも優先させてはならず、「体(身体能力)」を「剣(剣の操作術)」よりも優先させてはならない。つまり理論、身体能力を極めて偏重することは剣法上、敗北につながるのである。
7.「事」で攻め「理」で守る時と「事」で守り「理」で攻める時とは勝利し、この状態を「残」という。「事」「理」ともに攻める時と「事」「理」ともに守る時とは敗北し、この状態を「不残」という。つまり攻守のバランスが取れた状態を「残」といい、取れない状態を「不残」という。
8.「先」と「後」とは二つでありながら一つである。また「先」「後」は臨機応変なものであり、どちらか一方にとらわれてはいけない。また、「先」「後」いづれを取るかは、相手の動きによって臨機応変に決めるものである。
9.「先」「後」に、それぞれ「体」「用」の区別がある。
10.勝負におけるポイントは間≠ノある。この間には距離という意味とタイミングという意味との二つがこめられているが、勝負の際にこの間にばかりこだわっていると、かえって負けることとなる。
11.鸚鵡の位という技には、相手の技に同じ技で向き合う技――例えば、面には面、小手には小手など――と、相手の技の裏をかく技――例えば面には抜き胴、小手には抜き面など――との二種がある。
12.邪心なく、自分にふさわしい一つの剣技、一つの道理を修めることで一心不変の位に到達することができる。
13.刀剣の長短にこだわるべきではなく、特に定まった寸法もない。心中に鋭い刀を秘めている者は、どんな刀でも相手を斬ることができる。  
 
伊藤一刀斎・諸話

 

1
中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
2
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
3
古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
4
塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3〜4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
5
上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。  
6
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
7
柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
8
柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
9
丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
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宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
 

 

 
 
 
柳生宗厳・柳生石舟斎宗厳 (やぎゅうせきしゅうさいむねよし)

 

   1527−1606
柳生宗厳 1

 

   生誕 / 大永7年(1527年)
   死没 / 慶長11年4月19日(1606年5月25日)
   別名 / 石舟斎(新介、新次郎、新左衛門、右衛門)
   戒名 / 芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士
   墓所 / 芳徳寺
   主君 / 筒井順慶、松永久秀
   氏族 / 柳生氏
   父母 / 父:柳生家厳
   兄弟 / 松吟庵
   妻 / 奥原助豊娘・鍋(春桃御前)
   子 / 厳勝、久斎、徳斎、宗章、宗矩
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。新陰流の兵法家。柳生家厳の子。百官名は但馬守。諱は宗厳。通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。入道してからは石舟斎と号した。子に柳生厳勝(柳生利厳の父)、柳生宗矩、柳生宗章ほか。
生涯
出生から筒井氏臣従
代々柳生庄(奈良市柳生町)を領する柳生氏当主・柳生家厳の嫡男として生まれる。生年について、柳生家累代の家譜『玉栄拾遺』で 大永7年(1527年)とあり、『寛政重修諸家譜』もそれに準ずる。一方で宗厳自身の記述として、慶長11年(1606年)2月に発行した目録で「生年七拾八歳」と記しており、そこから逆算して享禄2年(1529年)を生年とする説もある。
宗厳が生まれた当時、大和は争乱が続き、柳生家は木沢長政に味方して筒井氏や二木氏らと戦った。しかし長政が河内太平寺の戦いで敗死すると、筒井順昭によって長政の残党は次々と攻略されていき、天文13年(1544年)宗厳17歳の時に、柳生家の本拠地である柳生城も順昭の攻撃を受けた。同時代の日記『多聞院日記』によると、この時の筒井側は総勢一万にものぼったといい、3日に渡る攻撃の末に柳生城は落城した。
父・家厳は筒井氏に臣従して家名存続を図り、 年次不詳ながら筒井順慶の家老向井専千代達から所領を安堵されている。宗厳も筒井氏の家臣として父と共に戦場で働き、吐山(奈良市)で行われた合戦では「比類無き働きを果たして負傷した」として順慶から感状を得た。  
三好政権下
永禄2年(1559年)宗厳32歳の時、畿内を支配する三好長慶の重臣・松永久秀が大和に侵攻し、筒井氏の本拠筒井城を攻めて筒井順慶を敗走させ、大和を支配下におく。 柳生家は久秀侵攻直前の永禄2年7月には筒井氏より引き留め工作として、白土(奈良県郡山市)を与えられているが、久秀侵攻を機に筒井氏に離反して松永氏に与する。
永禄5年(1563年)3月には当主・長慶の弟三好実休の戦死を機に、久秀の仕える三好氏は一時苦境に陥っているが、その間久秀からは宗厳が離反しないよう、軍事情勢を続けざまに伝えるなど励ましの書状を受けている。
柳生家には宗厳宛て以外にも、久秀が家臣に宛てた指示書や、長慶の重臣に宛てて大和の戦況を報告した書状が残ることから、この時期の宗厳は久秀の側近となり、取次ぎとして久秀の書状を三好家中枢へ伝える使者を務めていたと見られる。永禄6年(1564年)に長慶の嫡男・ 三好義興が病床に臥した際には、三好家次期当主の危篤という機密情報の取次も任され、書面にも記されていない主君の考えも伝えるなど、久秀にとって最も気を許せる家臣として扱われている。
永禄6年(1563年)正月二十七日、多武峰の戦いに参戦する。この戦いは久秀方の敗北で終わるが、宗厳は「鎗を働かれ数輩」の首級を挙げたとして、戦後久秀から「後口比類無き御働き、いよいよ戦功をぬきんでらるべき事」と称賛されている。 このとき宗厳は、敵の箕輪与一に拳を射られて窮地に陥っているが、家臣の松田源次郎・鳥居相模某が与一を倒して危機を脱した。源次郎はこの戦いで討ち死しにしたが、宗厳は生涯その恩を忘れず、後に源次郎の長子(同源次郎)に新陰流の印可状を与えた際には、父源次郎の武功を「比類なき働き」「討ち死にの段更に忘れ置かず候」と讃えている。
同年6月には久秀からの直状で、筒井氏より得た白土の替地として秋篠分(奈良市)を与えられ、主従関係を強化されている。
新陰流入門
永禄6年(1563年)宗厳36歳の時、新陰流流祖として名高い兵法家・上泉信綱とその門弟の一行が、上洛の途上に奈良を訪れたことを知り、面会して試合を申し込む。
柳生家では宗厳はこの時すでに一角の兵法家であったと伝えられ、江戸柳生家の家譜『玉栄拾遺』では戸田一刀斎に 富田流を学んで奥義「獅子の洞入」を修めたとあり、尾張柳生三代・柳生厳延が書いた『柳生新陰流縁起』では神取新十郎に新当流を学んで五畿内外で名を知られていたとある。
宗厳の曾孫・柳生利方はこの試合の様子を『新陰流兵法由来』に残しており、宗厳は信綱との試合を望んだものの、信綱は先に弟子の鈴木意伯と立ち合うようにいい、宗厳は「さらば」と何度か試合したが、自分より二寸短い竹刀を操る意伯に惨敗したとしている。ただし、この試合の内容には異説もあり、江戸時代中期に著された『武功雑記』では同じく信綱の弟子の疋田豊五郎と立ち合って三度敗れたとし、利方の子孫である柳生厳長は『正伝新陰流』で宗厳の相手を務めたのは信綱本人であるとしている。
いずれにしろ宗厳は信綱が編み出した新陰流に完敗したことで、己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。
翌永禄7年(1564年)、信綱は「無刀取り」の公案を宗厳に託して柳生庄を離れ、当初の目的だった京にのぼる。永禄8年4月に再び信綱が意伯と共に柳生庄を訪れると、宗厳は信綱に自ら工夫した無刀取りを披露して信綱より『一国一人印可』を授かり、さらに翌永禄9年(1565年)には三度柳生庄を訪れた信綱より『新影流目録』を与えられたという。
三好氏内乱
永禄7年(1564年)三好家当主・長慶が死去して若き三好義継が跡を継ぐと、宗厳が仕える松永久秀と三好家の重臣・三好三人衆等との間に対立が生じ、やがて三好家中を二分した争いになる。当主・義継を擁立した三人衆は、大和の国人に多数派工作を仕掛け、宗厳の元主家である筒井順慶等も三人衆と結ぶなど久秀は孤立するが、宗厳は久秀方に留まった。
久秀と三人衆の戦いは久秀の劣勢で推移するが、永禄10年(1567年)2月、三好家当主・三好義継が三人衆への不満から出奔し、久秀に味方したことで久秀は復活を遂げる。
膠着する戦況を打開するため、久秀が当時急速に台頭してきた織田信長の上洛を画策すると、宗厳もこれに協力し、同年の8月21日には信長からの書状で、自身の通路安全のために三木の女房を早く返すため奔走するように指示され、続く28日には信長の重臣佐久間信盛から、信長の上洛が延引していることについて弁明を受けとっている。
この頃の宗厳は松永氏の弱体化によって、与力として半ば独立する状態となっていたと見られ、信長から直接書状を受け取るだけでなく、久秀の嫡男・松永久通を取次として久秀の主君である三好義継から直接感状を受けている。
同年12月、信長より「自分(信長)は間もなく 足利義昭に従い上洛する。自分は必ず久秀親子を見放さないので、久秀親子と連携するように」と命じる書状を受ける。この書状は同じ内容のものが興福寺在陣衆、岡因播守、多田四郎、瓶原七人衆中、椿井一郎にも送られており、このうち興福寺在陣衆宛ては柳生家に保管されている。このことから、この頃の宗厳は久秀の軍事的基盤の一人として、興福寺に陣取る軍勢を率いていたと見られる。
信長上洛から久秀滅亡
信長が上洛し、松永久秀が信長より送られた援軍と協力して大和の平定を進めると、宗厳も嫡男・柳生厳勝と共に織田家の宿将・柴田勝家に見え、大和の国人・十市氏と協力するよう命じられるなど織田家と連携している。
元亀二年(1572年)8月4日、松永久秀の指揮の下、筒井順慶が守る辰市城を攻める。この戦いで久秀方は「大和国始まって以来」(『多聞院日記』)と言われるほどの大敗を喫し、久秀の一族や多くの重臣が討ち死にした。 『多聞院日記』によるとこの合戦で手負いを負った者の中には宗厳の嫡男・厳勝(「柳生息」)もおり、その傷が原因となって厳勝は生涯柳生庄に引きこもっていたとされる。
同年10月、久秀が山城南部を攻めて奈良を留守にすると、宗厳は久通の命を受けて東国へ使僧を遣わし、伊賀衆への調略や大阪本願寺と伊勢長島一向一揆との交渉にあたった。
元亀2年(1573年)4月、主君・松永久秀と三好義継は織田信長との対決姿勢を示し、信長は筒井順慶と結んで久秀と対決した。信長に反抗する勢力には足利義昭等も加わり(信長包囲網)一時は信長を圧倒するも、やがて劣勢となり元亀3年に義継は居城を攻められて自害し、久秀は降伏して信長に臣従した。
この間の宗厳の動向は明らかではないものの、天正2年頃には 本願寺の下妻頼興から、当時信長に攻められて籠城していた伊勢の長島(長島一向一揆)と大阪の本願寺との取次ぎを依頼されており、松永久秀の配下にあって、信長と対立する本願寺と通じていた形跡もある。
天正5年(1577年)宗厳50歳の時、久秀は信貴山城に立て籠もって再び信長との対決姿勢を示し、同年10月に織田軍の攻撃を受けて天守に火をかけ自害した。
豊臣政権下での没落
久秀の没後、代わって大和の支配者となった筒井氏には従わず、柳生庄に逼塞して新陰流の研鑽に励んだとされる。
天正7年頃には、京の貴族・近衛前久へ「表裏疎意無く」奉公することを希望して誓紙を提出したことが前久の書状で明らかになっている。前久は正月22日付の上野信孝に宛てた書状で、この宗厳の申し出について「感悦の至り」と感想を記しているが、前久は信長が死去した天正10年(1582年)以降京を離れていた期間があり、臣従がいつ頃まで続いたかは定かではない。
天正13年 (1585年)、天下を統一した豊臣秀吉の命で国替えが行われ、大和の支配者が筒井氏から秀吉の実弟 豊臣秀長に代わる。『藩翰譜』には年次不詳ながら、秀長の統治下において「柳生の庄隠田の科に処せられて、累代の所領没収」されたとあり、本領を失った柳生家は大いに困窮したとされる。一方で天正13年11月9日に、近江愛智群百石を与える内容の差出人不明の知行文目録を授かっており、『玉栄拾遺』の編者は、この頃の宗厳が当時近江周辺を領有していた関白・豊臣秀次に仕えていたものと推測する。
文禄2年(1592年)宗厳66歳の時、剃髪・入道して石舟斎と名乗る。
家康入門
文禄3年(1594年)5月、豊前国の大名・黒田長政の取成しで京都鷹が峰、御小屋で徳川家康に招かれ、家康本人を相手に無刀取りの術技を示す。家康はその場で宗厳に入門の誓詞を提出し、二百石の俸禄を給した。家康は宗厳に自らの側で出仕するように求めたともいうが、宗厳は固辞し、同行していた五男の柳生宗矩を推挙した。
この頃宗厳は、後に関ケ原の戦いで西軍の大将として家康と争う毛利輝元にも兵法を教授しており、文禄4年(1595年)以降に複数の目録を与えている。 兵法を通じて徳川家と毛利家から援助を受けるようになっても柳生家は困窮していたと見られ、文禄4年7月には旅先から妻に宛てて、自分が死んだら茶道具を売り払っての葬式代に当てるようにと遺言状を送っている。
徳川家に宗矩を仕えさせつつ輝元にも兵法を指南する状況は慶長3年の豊臣秀吉没後もしばらく続き、 慶長4年2月には輝元に対し、皆伝印可として起誓文を提出している。起誓文ではこれまでの数年間に渡る輝元からの「扶助」について礼を述べ「兵法之極意傳を少しも残らず相伝したこと」を記すと共に、「兵法」だけに限らず「表裏別心のない」ことを自ら誓っており、関ケ原の戦い前年のこの時点での宗厳はむしろ毛利寄りという意見もある。
関ケ原の戦いから死没
慶長5年(1596年)7月、上杉景勝討伐の途上で石田三成の挙兵の報を受けた家康は、宗厳宛ての書状を宗矩に託して柳生庄にかえし、筒井順斎と協力して大和の豪族を集めて石田方を牽制するように命じた。 宗厳は宗矩と協力して家康の命を果たしたと見られ、同年9月13日に家康の元に戻った宗矩は、家康に無事工作を終えたことを報告している(『徳川実紀』)。 宗矩は関ケ原の戦いの本戦に家康の本陣で参戦し、徳川方が勝利すると、これらの功績を認められて、没収されていた柳生庄の本領二千石を与えられた。
慶長8年(1603年)、熊本藩主・加藤清正の要請に応えて、戦傷を負って隠居していた長子・厳勝の子の柳生利厳を加藤家に仕官させる。宗厳は旅立つ利厳に『新陰流兵法目録事』を与えると共に、利厳の気性を案じ、利厳が死罪に相当する罪を犯しても3度までは許すように清正に願い出たという。 しかし利厳は、出仕後1年足らずで同僚と争った末にこれを斬り、加藤家を致仕して廻国修行の旅に出た。
翌年の慶長9年(1604年)、旅先の利厳に皆伝印可状を送り、利厳が柳生庄に帰還した際には、自筆の目録『没慈味手段口伝書』に大太刀一振りと上泉信綱から与えられた印可状・目録の一切を併せて授与した。
慶長11年(1606年)4月19日に柳生庄にて死去。享年80。法名は「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」。奈良市の中宮寺に葬られるが、後に宗矩が柳生家の菩提寺として芳徳寺を開基したため、芳徳寺に墓所がある。
没後
宗厳の死後、家督を継いだ宗矩は二代将軍・秀忠および三代将軍家光に新陰流を伝授し、その門弟も剣術指南役として諸藩に採用されて、宗厳の流れをくむ新陰流は「天下一の柳生」と称されるほどの隆盛を誇った。宗矩は大目付も務めるなど幕政にも関与して加増を重ね、総石高一万二千石に達して柳生藩を立藩するに至る。
一方宗厳の孫・利厳は御三家尾張徳川家初代当主・徳川義直に仕えて兵法を伝授し、尾張徳川家御流儀としての新陰流の地位を確立した。その後も尾張藩では代々新陰流は特別の格式を以て遇され、現代にいたるまで連綿と新陰流を伝えている。
人物・逸話
医師の曲直瀬道三と親交があり、道三が宗厳と梅窓の両人を相手に健康管理のあり方を問答形式で語った『養生物語』がある。
宗厳の門下
印可状・目録・入門の誓紙が現存する門下
当主自身が門下に入門している家、及び当主
   徳川将軍家  : 徳川家康(文禄3年入門)
   長州藩毛利家 : 毛利輝元(慶長4年印可)
   浅尾藩蒔田家: 蒔田権佐(慶長7年印可)
大名家に仕えた門弟
   徳川将軍家 : 三好新右衛門尉(文禄4年印可)、金春七郎(慶長11年印可)…金春流63世宗家
   熊本藩加藤家→尾張藩尾張家:柳生利厳(慶長9年印可)
その他の門下
   三好左衛門尉(天正9年印可)
   松田源次郎(慶長9年印可)…柳生家家臣
   柳生厳勝(慶長11年印可)
印可状・目録が現存していない門下
大名家に仕えた門弟
   徳川将軍家 : 柳生宗矩(柳生藩初代藩主)
   岡山藩小早川家→ 米子藩中村家 : 柳生宗章
   紀州藩紀州家: 村田与三
   長州藩毛利家→ 黒田家福岡藩: 柳生(大野)松衛門…有地新影流流祖
   土佐藩山内家 : 小栗正信…小栗流流祖
その他の門下
   柳生新次郎厳秀
   村上清右衛門…戸田三太刀流開祖
   福野七郎右衛門正勝…良移心当流流祖
   伊岐遠江守直利…伊岐流槍術流祖
   伊藤善斎…香取流流祖
   佐々木茂左衛門
   大石佐左衛門正縄
   高野善右衛門重綱  
 
柳生宗厳 2

 

柳生宗厳は戦国時代の新陰流の剣法を継いだ兵法家です。
父は柳生家厳で大和の国は添上郡柳生郷の豪族でした。宗厳は新介という幼名で、新左衛門と呼ばれていました。
宗厳は香取新十郎に新当流の剣術を学び、宝蔵院胤栄には槍術をそれぞれに学びます。
多武峰(とうのみね・現在の奈良にある、とある山やその付近にある寺の事)にいた僧侶らとの戦に、宗厳は父と共に松永久秀の勢に加わり、名を上げました。その年には、上泉信綱という新陰流の兵法家と会ったことにより、信綱やその弟子とも試合をしますが、負けてしまいます。
宗厳は信綱の門下となり、1565年になると新陰流の免許皆伝となりました。さらに次の年には、奥義というものを授けられました。その後には、「無刀取り(自らは刀を持たずにして相手に勝つという戦法)」を編み出し、大名たちが教えを受けたと言います。筒井 順慶に仕えていましたが、後に織田信長に仕えました。
柳生村に帰る途中の道で、馬から落ちてしまい大けがをしてしまうという、惨事もありました。更に1571年には、宗厳の嫡男である厳勝が辰市合戦において、鉄砲の弾に当たってしまった事で重症を負い、剣が扱えない状態になってしまいました。
1573年以降になると、病気になったという理由で職を辞し、柳生村にて隠居生活を送りました。石舟斎と名乗り出家したのが1593年です。
松永久秀が信長に対して謀反を企てた折には、その影響を受けないために筒井 順慶にも属しませんでした。反対に、順慶と争っていた十市遠長の側に付くなど、独立の立場を取っていたと『多聞院日記』には記されています。
翌年に京都に徳川家康によって呼ばれ、五男である宗矩と共に無刀取りを披露しました。それを見た家康から、宗厳は剣術を教えるために勤めるように言われますが、既に高齢だったために断りました。その代わりに、宗厳の息子である宗矩が五百石で雇われたのでした。
家康に新陰流を教え、それからというもの、柳生家は徳川家に兵法を教えるという役割を担っていくのです。そして、剣において大きく有名な家系となりました。
1600に起きた関ヶ原の戦いでは、宗厳は家康に命じられて畿内の動向を調査し、家康に報告しました。
1606年には、柳生村の地において、八十年の人生に幕を下ろしたのです。宗矩はというと、段々と出世していき、将軍師範役兼大目付にまでなり、一万二千五百石を頂戴したのでした。
柳生宗厳の名言
○ うつすとも水は思はず、うつるとも月は思はず、さる沢の池。
誰が見ていようと 見ていまいと、映る月も 映す水も、何ら変わりなく 何らの意志も動いておらず、しかも、その あるがままな自然こそ、即、われわれの日常でなければいけない。
○ 一文は無文の師、他流に勝つべきにあらず。きのふの我に今日は勝つべし
自分の心と向き合い、昨日の自分に勝てるように日々向上する大切さを説いています。 
 
柳生宗厳 (石舟斎) 3

 

1527年〜1606年
大和柳生の庄2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田発覚で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖
柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
家系
柳生氏は、菅原道真の末裔を称する大和添上郡柳生郷の土豪で、元は春日大社の社人であったが大和を支配した興福寺の傘下に入り、山城・伊賀と隣接する隠れ里に在したことから諜報力と武芸が発達し小領主ながら独特の存在感を現した。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)に反抗するが長政が三好長慶に討たれ降伏、順昭没後は松永久秀(三好権臣)に転じ大和攻略の先棒を担いだ。長慶の死で孤立した久秀は三好勢・筒井順慶(順昭の嫡子)に攻囲されたが織田信長に臣従して局面を打開、久秀を支え柳生の庄2千石を保った家厳は順慶の織田家帰順を機に家督を嫡子宗厳に譲り隠遁した。柳生七郎左衛門(家厳の弟)は、京八流・中条流・神道流を学び柳生家に兵法を興した剣客で松永久秀とも懇意であった(実は名物「平蜘蛛」を譲受けたとも)。七郎左衛門に「当家の宝」と賞された柳生宗厳は、不惑に至って上泉伊勢守信綱に師事し並居る高弟を差置いて一国一人の印可を授かり新陰流正統を受継いだ。豊臣秀長の太閤検地で隠田を摘発され柳生家は全所領を失い一家は離散したが、柳生宗厳が徳川家康に「無刀取り」を披露したことで運が拓け居合わせた五男の柳生宗矩が200石で召抱えられた。長子の柳生厳勝は合戦で不具となったが、宗厳は厳勝次男の利厳の素質を愛し手元に置いて新陰流を授けた。宗厳四男の柳生宗章は小早川秀秋に仕官、小早川家改易に伴い伯耆米子藩に転じるがお家騒動に捲込まれ討死した。大和で西軍大名の諜報蒐集に任じ関ヶ原合戦でも活躍した柳生但馬守宗矩は大和柳生2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に栄進、柳生新陰流は将軍家お家流とされ、大坂陣では秀忠を襲った敵兵7人を瞬時に斬殺、3代将軍徳川家光にも重用され大和柳生藩1万石(のち1万2500石)の大名となった(江戸柳生)。嫡子の柳生十兵衞三厳は剣名を馳せたが早世、三男の柳生宗冬が後を継ぎ柳生藩は幕末まで続いた。柳生兵庫守利厳は(妻は島左近の娘)、加藤清正に仕官するが同僚を斬殺し逐電、流浪10余年を経て尾張藩主徳川義直に仕官し子孫は兵法指南役を世襲した(尾張柳生)。
年譜
1527年 筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)の被官で大和柳生城主(所領は2千石ほど)の柳生家厳の嫡子に柳生宗厳が出生
1536年 河内守護畠山氏の被官で飯盛山城城主の木沢長政が信貴山城を築き大和攻略を開始、大和国侍は筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)率いる対抗派と柳生家厳・宗厳父子ら帰順派に分れ抗争を繰広げる
1550年 筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)が太平寺の戦いで三好長慶に討たれた木沢長政の残党を次々攻略し柳生家厳・宗厳父子ら国侍衆を降して大和を平定するが病を苦に比叡山へ出奔し死去、2歳の嫡子筒井順慶が後を継ぐが大和は再び国侍衆が割拠する情勢となり三好政権・松永久秀に支配圏を脅かされる(「元の木阿弥」の故事成句あり)
1559年 三好長慶が河内の内紛に介入し畠山高政を守護に復位させ叛逆した守護代安見宗房を大和へ追放、長慶から大和侵攻を託された松永久秀は河内国境に信貴山城(日本初の天守閣城郭)を築き柳生家厳・宗厳父子ら国侍を引入れて筒井氏勢力(当主は12歳の順慶)を攻略
1566年 箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)
1567年 [東大寺大仏殿の戦い]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に三好康長・安宅信康・篠原長房・池田勝正ら三好家重臣と大和の筒井順慶が加勢し将軍足利義栄からも討伐令を出された松永久秀が大和多聞山城に孤立(柳生家厳・宗厳父子は久秀方で参戦)、畠山高政・安見宗房・根来衆と同盟し挽回を図るも堺を落とされ逃亡するが、三好家当主義継の寝返りを誘って盛り返し三人衆が陣取る東大寺を夜襲で撃退(東大寺大仏殿は失火で全焼し大仏は首が焼落、奇しくも10年後の同日10月10日に松永久秀は自爆死)、順慶とゲリラ戦術に手を焼いた久秀は局面打開のため織田信長に名物茶器「九十九髪茄子」を献じて帰服、信長は久秀に大和一国・義継に河内半国の切取り次第を許す
1571年 上泉伊勢守信綱が京都を退去し上野上泉へ帰国、柳生宗厳に一国一人の印可を授けて新陰流正統を託し併せて「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」を公案として課す / 松永久秀から大和筒井城を奪還した筒井順慶が明智光秀(妻の義兄)・佐久間信盛の斡旋により織田信長に臣従し久秀と小競り合いを繰返しつつ光秀の与力として信長の天下統一戦に従う、久秀方で活躍し柳生の庄(所領は2千石ほど)を保った柳生家厳は嫡子の柳生宗厳に家督を譲り隠遁
1574年 14歳の前原弥五郎(伊東一刀斎景久)が三島神社で富田一放(富田重政の高弟)に挑み勝利し神主から宝刀「瓶割刀」を授かる、江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(鐘捲自斎。柳生宗厳にも教授した富田景政高弟)に入門
1577年 愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀も導入して「剣術諸流の原始」「剣聖」と謳われた上泉伊勢守信綱が死去(享年69)、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され新陰流は将軍家お家流となり隆盛を極める(信綱嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝に拾われ子孫は米沢藩士として命脈を保つ) / 松永久秀滅亡により筒井順慶が大和の支配者となるが柳生宗厳は十市遠長ら国侍と結んで半独立体制を保つ
1585年 柳生石舟斎宗厳の父柳生家厳が死去 / 大和郡山城100万石に入封した羽柴(豊臣)秀長が太閤検地を実施、柳生の庄を治める柳生宗厳は隠田摘発により全所領(2千石ほど)を没収され石舟斎(浮かばぬ船)と号す(柳生を去り京都で近衛前久に寄食したとも)、子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求めて出奔し宗厳は資質の優れた利厳(厳勝の次男)を手元に留め新陰流を授ける
1587年 肥後人吉城主相良頼房が島津氏を見限り豊臣秀吉に帰順して本領安堵(投降に働いた執政の深水長智は秀吉の信任を得て豊臣直臣にスカウトされるが固辞)、薩摩大口城敗戦の罪で致仕された丸目蔵人長恵は17年ぶりに帰参を赦され兵法指南役(117石)に就任し長恵のタイ捨流は相良家のみならず東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及(上泉信綱の新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる)
1594年 兵法大名の徳川家康が浪人中の柳生石舟斎宗厳を洛北鷹ヶ峯の居宅に招き試技、67歳の宗厳は素手で家康の木剣をもぎとって「無刀取り」の奥義を披露し(師の上泉伊勢守信綱から与えられた公案)感服した家康は宗厳の代わりに随行していた末子の柳生宗矩を200石で召抱える、宗矩は関ヶ原合戦後に旧領柳生の庄2千石を回復し将軍徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万石を立藩(江戸柳生)、宗厳嫡孫の柳生利厳も尾張徳川家の兵法指南役となり(尾張柳生)、柳生新陰流は将軍家お家流として隆盛を極める)
1601年 大和で西軍大名の諜報蒐集に任じ関ヶ原合戦でも活躍した柳生宗矩(宗厳の末子)が旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任、同役の小野忠明(小野派一刀流)は当時最強の剣豪ながら無骨で強弱に固執する余り秀忠に嫌われ退けられる / [天下二分の誓約](年次不祥)上泉伊勢守信綱の門下筆頭を自負する丸目蔵人長恵(肥後相良藩士)が新陰流正嫡を称し将軍家兵法指南役に就いた柳生宗矩(宗厳の末子)に張合い決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と謝辞し徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い鉄砲で射殺したとも伝えられる)、長恵は娘婿の八左衛門にタイ捨流と家督を譲って隠居し球磨郡切原野(錦町)で開墾に勤しむ
1603年 小早川秀秋に仕えた柳生宗章(宗厳の四男)が主家改易に伴い出奔、伯耆米子藩の執政家老横田村詮に招かれ客将となるが権勢を妬む藩主中村一忠が村詮を誅殺、宗章は横田一族に加勢し藩兵18名を斬るが力尽きて壮絶死を遂げる / 柳生利厳(宗厳の長子厳勝の次男)が肥後熊本藩主の加藤清正に仕官するが間もなく同僚を斬殺し逐電、大和柳生の庄に帰省した際に柳生石舟斎宗厳より新陰流の印可を授かる
1604年 (詳細不詳)剣術で立身を期す宮本武蔵が上洛し吉岡道場(鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流の一流)を挑発、洛北蓮台野で当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)に勝利し挑み来た弟の吉岡伝三郎を斬殺、吉岡一門100余名が5歳の吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を担ぎ報復に出るが武蔵は又七郎を殺し包囲を破って遁走(生き残った清十郎は道場を畳み家業の染物屋に専念したとも)、武蔵は剣豪を求めて諸国を巡歴し手段を選ばない流儀で勝利を重ね江戸に滞在したのち上方へ戻る(神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試す。奈良興福寺の宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの仕合は史実に無い。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否したいう)
1606年 大和柳生の庄2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を承継し、隠田発覚で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」開祖の柳生石舟斎宗厳が死去(享年79)
交友
柳生家厳 / 大和柳生の庄領主
柳生七郎左衛門 / 家厳弟・剣術の師
柳生厳勝 / 合戦で不具となった宗厳長子
柳生兵庫守利厳 / 厳勝次男・尾張徳川家の兵法指南役に採用された尾張柳生の祖
柳生宗章 / 宗厳四男・伯耆米子藩主中村一忠に仕官するがお家騒動で壮絶死
柳生但馬守宗矩 / 将軍徳川家光の兵法指南役に採用され柳生藩主となった宗厳末子・江戸柳生の祖
柳生十兵衞三厳 / 天衣無縫の宗矩長子
柳生宗冬 / 大名に復帰した宗矩三男
筒井順昭 / 大和を掌握した興福寺衆徒
筒井順慶 / 順昭嫡子  
 
柳生氏 4

 

柳生氏といえば、石舟斎宗巌、但馬守宗矩など剣豪を輩出した剣の一族として知られる。そもそも柳生氏が名字とした柳生は大和国添上郡の一郷で、四方を山に囲まれた南北に細長い大和国最北端に位置する山里である。「柳生」は、楊生、夜岐布、夜支布、養父などとも書かれ、いずれも「やぎう」と読む。
柳生氏の登場
古代の柳生郷のことは明らかではないが、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によれば、仁和元年(885)に大柳生庄・坂原庄・邑地庄・小柳生庄の神戸四箇郷が関白藤原基経の所領となったとある。以後、藤原氏の荘園となっていたが、長暦二年(1038)、宇治関白頼道が四箇郷を藤原氏の氏神である春日神社に社領として寄進した。そして、大柳生庄は右京利平、坂原庄は左京基経、邑地庄は修理包平、小柳生庄は大膳永家をそれぞれ荘官に任じて神領を奉行させた。このなかの小柳生がのちの柳生で、永家の末がこの地を領し、庄名をとって柳生と名乗ったという。ちなみに、大膳永家の本姓は菅原氏であったと伝えられる。
やがて、神戸四箇郷は管理者である荘官に押領され、荘官たちはそれぞれ武士化していったようだ。しかし、大膳永家以後の柳生氏代々の動向はようとして知れない。柳生氏が歴史の表舞台に登場するのは、大膳永家より数代を経た播磨守永珍(ながよし)のときであった。
元弘三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうと計画をめぐらしたが発覚、京都から笠置山に潜行して幕府打倒の檄を発した。いわゆる元弘の乱で、この乱に際して播磨守永珍と弟の笠置寺衆徒中坊源専は、天皇の檄に応じて笠置山に馳せ参じた。中坊源専は笠置山の南一の木戸の将として幕府軍を迎え撃ち、播磨守永珍は柳生に拠って奈良方面から押し寄せる幕府軍に備えた。
戦いは柳生兄弟の奮戦もむなしく、天皇方の敗北となり、笠置山は灰燼に帰し、捕えられた天皇は隠岐に流された。柳生一族は柳生の地を没収され、没落の運命となった。それから三年、隠岐から脱出した後醍醐天皇により幕府は倒れ、建武の新政が開始された。ここに、柳生の地は笠置山の戦功によって中坊源専が賜り、源専はこれを兄永珍に譲った。かくして、柳生氏はふたたび柳生を領して、戦国時代には興ケ原の興ケ原氏、丹生の丹生氏、邑地の吉岡氏らとともに北和の豪族に成長した。とはいえ、その間における柳生氏の歴史は必ずしも明確ではない。
大和の戦乱
大和国の中心をなす奈良盆地は国中(くになか)と呼ばれ、中世を通じて守護は置かれず、代わって興福寺が守護的な立場にあって一大勢力をなしていた。そのため、国中地方では、興福寺の寺僧である衆徒(しゅと)と、春日大社の神人(じにん)である国民が武士として成長していった。衆徒の代表としては筒井氏・古市氏らが知られ、神人では越智氏・十市氏らが代表格であった。
南北朝の争乱期、興福寺の両門跡である一乗院と大乗院が南北に分裂して勢力を弱め、それが衆徒・国民の勢力を強めることになった。そして、越智氏が南朝方武士の中心勢力に位置し、筒井氏が北朝方武士の中心勢力として、大和国の南北朝の抗争は推移したのである。やがて、南北朝の争乱が終熄して、室町幕府体制が確立されたのちも、越智氏と筒井氏を軸に大和の争乱は続いた。永享元年(1429)、「大和永享の乱」が勃発し、戦乱のなかで越智氏が没落。さらに筒井氏に内部抗争が起り、それに幕府、河内守護の畠山氏らの介入があって、大和の武士たちは離合集散を繰り返しながら抗争を続けた。
そのような大和争乱のなかで、山城と大和の境に位置する柳生を所領とする柳生氏も安閑とはしていられなかったと思われる。系図によれば、柳生新六郎光家が細川高国に属したとあるが、年代的に疑問が残るものである。とはいえ、応仁の乱後の戦乱のなかで、柳生氏も幕府内の権力闘争と無縁ではなかったことをうかがわせている。
十六世紀になると、下剋上の横行もあって将軍の権威は凋落し室町幕府体制は大きく動揺していた。柳生氏の動向が明確にあらわれてくるのは、そのような政情下におけるなかで、光家の孫にあたる美作守家巌の代であった。天文五年(1536)、河内半国・山城下五郡守護代を兼ねる木沢左京亮長政が、大和乱入を目論み信貴山に城を構えた。このとき柳生家巌は木沢左京亮に属して、伊賀の仁木氏、大和の筒井氏らと戦った。
やがて木沢左京亮は、管領細川晴元、三好長慶らと対立するようになり、天文十一年、河内大平寺の戦いに敗れて滅亡した。その後、三好氏の与党であった筒井順昭が大和の木沢残党を攻略しはじめた。天文十二年、須川の簀川氏を滅ぼした順昭は、翌年、一万余の軍勢をもって柳生に攻め寄せた。戦いは小柳生合戦と呼ばれ、家巌・宗巌父子の奮戦で攻防は三日間に及んだが、衆寡敵せず小柳生城は落ち柳生家巌は筒井氏に降った。
戦乱に翻弄される
柳生氏が筒井氏に従属していたころ、幕府体制は有名無実化し、三好長慶が畿内を押えて幕政を牛耳っていた。永禄二年(1559)、長慶から大和方面の軍事を委任された松永久秀が大和に進攻、信貴山城を修築してこれに拠り、筒井氏ら大和の国衆を攻撃した。この情勢の変化に対して、柳生家巌と宗巌の父子は筒井氏から離れて松永氏に与した。大和の支配に乗り出した久秀は、井戸・万歳・沢の諸氏を破り、永禄六年には多武峰を攻略し、大和国衆を圧倒した。
その間、多武峰合戦に出陣した柳生宗巌は、傷を負いながらも奮戦、敵味方も舌を巻く活躍を示し久秀から感状を受けている。この戦いにおける勇猛ぶりによって、柳生宗巌の武名は畿内に鳴り響いた。ちょうど、そのようなおり宗巌は、新陰流祖の上泉伊勢守秀綱と出会うことになるのである。すでに宗巌は新当流の名手として知られた存在であったが、秀綱の弟子疋田文五郎と立ち会い完璧に敗北した。以後、秀綱に弟子の礼をとり新陰流の教えを受け、永禄八年、「一国一人の印可状」を授けられるまでに精進した。
一方、宗巌が新陰流兵法の研鑽につとめていた頃、三好長慶が河内飯盛山城で没し、柳生氏を取巻く情勢も大きな変化をみせていた。長慶の死後、甥で養子の義継が三好氏を継ぐと、松永久秀が家宰として義継を支え、宗巌も三好義継に仕えた。永禄八年、久秀は三好三人衆と結んで将軍足利義輝を殺害、同十年には反久秀勢力である筒井順慶、袂を分かった三好三人衆らと戦い東大寺大仏殿を焼き払った。翌十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀は信長に臣属し、興福寺、筒井氏らの勢力駆逐に奔走した。
この間、宗巌は久秀に属し、細川藤孝、柴田勝家らが率いる織田軍の大和進攻に際しては、久秀の推挙を受けた宗巌がその先導をつとめている。その後、宗巌は信長に招かれて京都に上り将軍義昭に仕え、但馬守に任じられた。しかし、松永久秀との関係も保持し、元亀二年(1571)久秀が大和辰市において筒井順慶と戦ったとき、宗巌は久秀に味方して奮戦した。戦いは久秀方の敗北となり、『多聞院日記』から宗巌の嫡男新次郎巌勝が負傷したことが知られる。辰市合戦後、筒井順慶は明智光秀を通じて織田信長に降り、大和の戦乱も一応の終熄をみせた。
天正元年(1573)、将軍足利義昭が信長打倒の兵を挙げたが、あっけなく敗れて降伏、義昭は追放されて室町幕府は滅亡した。ほどなく、世の無常を感じたのか、あるいは期するところがあったのか、宗巌は柳生の地に帰り、以後二十年間にわたって柳生に隠棲して世に出ることはなかった。一説に、宗巌は信長に接近しようとしたが、信長は柳生一族を顧みることが少なかったため失望した宗巌は柳生に隠遁したのだという。
柳生氏、近世へ
天正十年、本能寺の変によって織田信長が死去し、信長の部将であった豊臣秀吉が天下人として大きく台頭した。秀吉も信長と同様に柳生氏を取り立てることはなかった。信長・秀吉たちは戦略気質の人物であり、剣術のような個人的技術を用いることはなかった。そこに、柳生氏における不幸があったのであろう。
そして、天正十三年の太閤検地によって宗巌は隠田を摘発され、所領没収の憂き目となった。もっとも、豊臣秀次から百石の扶持を受け、一家離散にまで落ちることはなかったようだ。柳生氏系図によれば、宗巌には嫡男新次郎巌勝をはじめとして五男六女があった。嫡男巌勝は辰市合戦の負傷がもとで不具となり、二男久斎、三男徳斎は出家し、四男の五郎右衛門は小早川氏に仕えてのちに戦死、五男が近世柳生氏の祖となる又右衛門宗矩である。
文禄三年(1594)、石舟斎宗厳は家康の召しに応じて、自得の剣法を示して賞せられた。家康は宗巌に誓詞を差し出し、兵法師範として直ちに仕えるようにいった。しかし、宗巌は老齢の故をもって辞退し、従えていった又右衛門宗矩を出仕させるとみずからは柳生に帰った。これが、柳生氏が剣をもって世に出るきっかけとなった。
慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に際して、柳生に帰った宗矩は三成方の情報を探って東軍へ送るなど、石田方の後方牽制に活躍した。戦後、それらの功によって柳生旧領二千石を回復、翌年には千石を加増されて三千石を領する徳川旗本となった。さらに徳川秀忠の兵法師範となり、柳生新陰流は徳川家の御流として天下の剣となったのである。
かくして、宗矩は但馬守に任じられ、二代将軍となった秀忠に新陰流を伝授し、大坂の陣にも軍功があり、剣法のみならず、行政的手腕を発揮して寛永九年(1632)惣目付(大目付)の職についた。その後も累進を重ねて、ついに小さいながらも一万二千五百石の大名柳生家の基礎を築いた。宗矩のあとは嫡男の十兵衛が継ぎ、ついで二男の宗冬、三男の友矩が継いで子孫は明治維新に至った。ところで、宗矩の嫡男十兵衛は諸国武者修業に出て情報収集につとめたとか、隻眼であったとかいわれるが多分に後世の創作であるようだ。
江戸時代、柳生氏は江戸と尾張の二流に分かれた。幕府に仕えた宗矩の流れを江戸柳生といい、宗矩の兄新次郎の 二男で尾張徳川家に仕えた利厳の流れを尾張柳生氏と称された。祖父石舟斎宗巌の薫陶を受けた利厳は新陰流三世の 印可を与えられ、その技倆は宗矩を凌ぐものがあったといわれている。利厳ははじめ加藤清正に仕えたが、 のち尾張義直の招きに応じて尾張柳生氏の祖となったものである。利厳の子厳包も剣の天才で、晩年に名乗った 連也斎の名で知られる。

柳生氏が名字とした柳生は大和国添上郡の一郷で、四方を山に囲まれた南北に細長い大和国最北端に位置する 山里である。柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によれば、仁和元年(885)に大柳生庄・坂原庄・邑地庄・小柳生庄の 神戸四箇郷が関白藤原基経の所領となった。長暦二年(1038)、宇治関白頼道が四箇郷を藤原氏の氏神である 春日神社に社領として寄進した。そして、大柳生庄は右京利平、坂原庄は左京基経、邑地庄は修理包平、 小柳生庄は大膳永家をそれぞれ荘官に任じて神領を奉行させたとある。このなかの小柳生がのちの柳生で、永家の末が この地を領し、庄名をとって柳生と名乗ったという。ちなみに、大膳永家の本姓は菅原氏であったと伝えられる。
柳生氏が歴史の表舞台に登場するのは、大膳永家より数代を経た播磨守永珍(ながよし)のときであった。 元弘三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうと計画をめぐらしたが発覚、京都から笠置山に潜行して幕府打倒の 檄を発した。播磨守永珍と弟の笠置寺衆徒中坊源専は、天皇の檄に応じて笠置山に馳せ参じた。建武の新政が開始される と、柳生の地は中坊源専が賜り、源専はこれを兄永珍に譲った。戦国時代には興ケ原の興ケ原氏、丹生の丹生氏、 邑地の吉岡氏らとともに北和の豪族に成長した。とはいえ、その間における柳生氏の歴史は必ずしも明確ではない。
柳生氏の家紋はといえば、「地楡(吾亦紅=われもこう)に雀」と「二階笠」、副紋に「雪持ち笹」を用いた。 いずれも珍しい家紋で、とくに「地楡に雀」は数ある日本の家紋のなかでも柳生家ただ一氏のみが使用しているもので ある。地楡はバラ科の植物で、「ちゆ」とも呼ばれ、吾亦紅、吾木香とも書かれる。秋に暗紅色の可憐な花をつけ、 「われもこうありたい」というはかない思いをこめて名づけられたという。根は生薬でタンニンを含み、 止血剤として用いられ漢方薬の原料ともなっている。何故、柳生家が地楡に雀を用い出したのかは不明であるが、 地楡のもつ止血剤としての効果が有り難がられた結果かも知れない。一方、二階笠の方は津和野の大名坂崎出羽守直盛から譲られた ものだという。

坂崎出羽守は、元和元年(1615)の大坂夏の陣で、炎に包まれ落城寸前の大坂城から徳川家康の孫娘千姫を救出した 人物として知られる。俗説では、家康は千姫を救出したものには千姫を与えると約束していたが、直盛に対してそれを 履行しなかった。  この家康の虚言に怒った直盛は千姫の輿入れ行列を襲おうとしたというのが、「千姫事件」というがもとより信じられ ない。一説にいうところの、直盛が千姫と京都の公家との縁談をまとめたのに対して、幕府は本多忠刻との話を 進めたので、怒った直盛が千姫の行列を襲おうとしたとする方が話としては頷ける。いずれにしても、坂崎直盛は幕府に 対して武士の一分を通そうとしたものであろうが、幕府に対する謀叛とされたのも仕方がなかった。
この千姫事件に際して、幕府は直盛のもとに柳生宗矩を遣わして、その説得にあたらせた。宗矩の武士らしい説得に 感じた直盛は、その説得を受け入れると自刃して果てた(異説もある)。このとき、直盛は宗矩の労に謝して 「二枚笠」の紋を贈ったのだという。以後、柳生家は二枚笠を紋として用いるようになったと伝えている。
ところで、柳生氏の場合、本姓菅原氏といいながら梅鉢紋を用いた形跡はない。中世における「家」と「紋」の関係を 考えたとき、柳生氏の出自は果たして菅原氏なのか?という疑問が生じてくる。しかし、菅原氏から分かれたという 中坊氏は梅紋を用いており、柳生氏も梅紋をもちいた時代があったのかも知れない。  
 
柳生新陰流

 

歴史
1 創始からの新陰流
およそ五百年前の戦国時代、上州(群馬県)に生まれた上泉伊勢守藤原秀綱(のち信綱)は、若くして刀、槍などの諸流の武術に通じていました。中でも愛洲移香斎から陰流を学び、その後新たに「転」(まろばし)という考え方に目覚め工夫を重ねて新陰流を拓きました。
当時、大和にいた柳生石舟斎宗厳は新当流の遣手で五畿内随一といわれた兵法者でありました。伊勢守は京に上る途上、伊勢国司北畠具教卿の紹介で興福寺の子院である宝蔵院において、宝蔵院胤栄を立会人として石舟斎と会いました。石舟斎は上泉伊勢守と立合いましたが足下にも及ばず、直ちに流祖の弟子となり新陰流を究めます。その後無刀の位について開眼した石舟斎は、伊勢守から正統第二世の印可を授けられました。
石舟斎は五男・宗矩と共に徳川家康公に新陰流を上覧に供しました。その縁で、宗矩は家康公に仕えることになり二代将軍秀忠公、三代将軍家光公の兵法師範となりました。このことによって新陰流の名は天下に知られることとなりました。宗矩は「江戸柳生」の開祖となりましたが、宗矩の曾孫・俊方以降は他家からの養子が家督を継ぎ、石舟斎以降の柳生家の血筋は惜しくも絶えてしまいました。
一方、利厳は石舟斎の長男である厳勝の次男として生まれました。利厳の兄久三郎は朝鮮で討死し、利厳は嫡孫となりました。彼は幼いころから、資質、兵法ともに祖父石舟斎に瓜二つと言われ、児孫の中で最も石舟斎に愛されたと伝えられています。祖父の膝下で兵法を修練し、正統第三世の相伝を授けられました。後に、利厳は尾張初代藩主徳川義直公の兵法師範となり、居を尾張に移し、「尾張柳生」の礎を築きました。元和偃武(げんなえんぶ)の時代に適応した「直立(つったつ)たる身の位」を考案した利厳は、その子連也厳包とともに新陰流の術理を発展させました。
利厳は義直公に道統を譲りその後を継いだ厳包から尾張徳川家二代藩主光友公へと、その後も三代藩主綱誠公が宗家を継承したように明治維新を迎えるまで腕の立つ7人の藩主(うち1人は世子)と11人の尾張柳生家当主により新陰流は受け継がれてきました。
2 近代以降の柳生新陰流
明治九年廃刀令とともに斯業は頽廃しましたが、第十九世柳生厳周は家伝新陰流の純粋相伝を念として、一門孤立の道業に力をあわせ、家人子弟を養成して明治年間を通じて道業を続けました。
大正二年、厳周は師範補助厳長と共に宮内省済寧館へ出仕しました。これは明治天皇による新陰流の永遠保存の御旨によるものでした。残念ながら大正十年十二月に至り主管皇宮警察規綱の改革によって、御保存の道業は廃絶しました。
第二十世厳長は、東京を拠点にして、在京の一族、柳生房義・一義父子によって建てられた道場「碧榕館」やその閉館後に尾張柳生家によって建てられた「金剛館」にて、新陰流の普及に努め、近衛供奉将校団師範、武徳会全国各府県中央講習会講師などを歴任しました。
「碧榕館」は神奈川県鎌倉市の円覚寺に寄付され、現在「居士林」(こじりん)と呼称を改め在家信者のための坐禅道場となっています。
戦災によって兵庫助利厳以来の名古屋の屋敷と道場は焼失し、その活動すら危ぶまれた時期もありました。昭和三十年、最高裁長官石田和外氏はじめ諸氏の支援のもとに東京柳生会が発足し、厳長は活動を再開しました。さらに厳長は新陰流の歴史や理論を後世に残すべく『正傳・新陰流』(講談社・島津書房復刻)を著しました。
昭和四十一年、第二十一世の延春厳道が柳生会を継承し、昭和四十四年、柳生会東京月例会にて厳長の後を受け継ぎ第一講道を再開しました。そして、東京、名古屋、大阪などを中心に柳生会の教場をひろげました。
柳生家に伝わった新陰流という意味を明確にするため、昭和六十三年四月より「新陰流」ではなく「柳生新陰流」という呼称を使い始めました。
平成一九年五月に延春厳道が逝去し、第二十二世耕一厳信が尾張柳生家第十六代当主となりました。
特徴
第五世連也厳包による図案の柳生鍔に「天地人転」とあります。これは当流の神髄を示す言葉である、「性自然」、「転」、「真実の人」の3つを意味しています。
「性自然」とは、自然の活(はたら)きに従うことで、私心なく身体全体でのびのびと刀を使うことです。心身一如、刀身一致とも表現されます。その本(もと)の考え方は、性の自然に循(したが)えば、物事に適切に対応できるということで、「本来の自己」で刀を使うことによって、どのような状況下であっても適切に対応できるという「神妙剣」に通じる考え方です。
「転」を表す言葉が、流祖の遺した『燕飛の巻』に記載されています。「懸・待・表・裏は一隅を守らず、敵に随って転変して、一重の手段を施すこと、恰も風を見て帆を使い、兎を見て鷹を放つが如し」です。斬合いにおいては、懸かる、待つ、表から攻める、裏から攻めるの四通りの対応があります。これはどの方法にも固執せずにその状況に応じて柔軟に最適な手段を用いるという考え方を意味しています。「転」を使うには、心身ともに先入観を持たない「無形の位」を本体とし、千変万化する相手を明らかに観ることが必要とされます。敵をすくませて力尽くで敵を倒す「殺人刀」ではなく、敵を働かせその働きに随って無理なく勝つという「活人剣」に通じます。
「真実の人」は、流祖が石舟斎に授けた一国一人印可状に記載された言葉です。それは私心のない、誠の人であることを意味します。印可状には「其の上の儀は真実之人に寄るべき候」とあります。これは斬合いの極意は「真実の人」にのみ伝えることができることを示しているのです。流祖の命を踏まえ、石舟斎は「兵法に五常(仁義礼智信)の心無き人に斬合極意伝えゆるすな」と『兵法百歌』の中に遺し、当流を学ぶ者に対して厳しい指針を与えています。
また石舟斎は、柳生家憲の中で「一文は無文の師、他流勝つべきにあらず、昨日の我に今日は勝つべし」と述べて、当流を学ぶ者に対しての行為の指針を与えました。自分の知らない事は知っている人から謙虚に学び、他流と勝負を争わず、ひたすらに自分自身の向上に日々努めよ、と言っています。
柳生新陰流道統
嫡流
柳生石舟斎に始まる”剣の柳生”の流れは、「江戸柳生家」と「尾張柳生家」の二つに分かれます。
「江戸柳生家」の開祖は、石舟斎の五男である柳生但馬守宗矩で、徳川家三代の将軍につかえ、後には柳生藩の大名となりました。ドラマや小説で有名な柳生十兵衛は、宗矩の嫡男となります。
もう一方の「尾張柳生家」の開祖は柳生兵庫助利厳です。兵庫助利厳は新陰流道統を継いだ後、尾張藩国家老で犬山城主であった成瀬隼人正正成公の推挙によって徳川家康公より尾張徳川家初代藩主である義直公の兵法師範に命じられました。
新陰流道統は柳生石舟斎の嫡流である「尾張柳生家」に継承され今日に至っています。
「世」と「代」
現在、柳生新陰流の正統なる道統は第二十二世で、柳生石舟斎から数えて第十六代尾張柳生家当主の柳生耕一厳信が継承しています。
「世」とは印可の相伝を他姓の人物が受け継いだ者を含めて数えたものです。「代」とは嫡流(血統)の一子相伝をいいます。
文献
『新陰流截相口伝書事』
『新陰流截相口伝書事』は、流祖上泉伊勢守信綱の口伝を整理して体系化し、孫の柳生兵助長厳(後の兵庫助利厳)へ慶長八年(1603年)に伝授した目録であります。上泉流祖の兵法の考え方及び刀法を具体的に示したものです。
石舟斎宗厳は永禄八年(1565)四月に印可を許され、翌九年五月には、『影目録』  燕飛(一巻) 参学(一巻) 九箇(一巻) 七太刀(一巻)、の計四巻を相伝し、新陰流正統第二世を継承しました。
『没滋味手段口伝書』
慶長九年(1604年)八月、宗厳は後継者を利厳と認め、自己一代の工夫公案である『没滋味手段口伝書』(没滋味とは何の味わいも無い、即ち争闘私意の無い心の意)を記しました。
この後さらに一年間秘蔵の後、極意三箇条を追記した上、『新陰流兵法目録事』、『新陰流截合口伝書事』とともにこれらを兵庫助利厳へと相伝しました。
兵助長厳が正統第三世を継承したのは、宗厳七十七歳、兵助二十八歳を迎えた慶長十年(1605年)六月のことです。
『始終不捨書』
元和六年(1620年)九月、尾張権大納言義利公(徳川義利、後の義直。尾張徳川家初代藩主)は新陰流正統第四世を継承しました。その際、第三世柳生兵庫助利厳は、他の目録、口伝書と共に自己一代の工夫公案の書として『始終不捨書』を進上しました。
この書は、流祖上泉伊勢守信綱、第二世柳生石舟斎の時代の刀法である介者剣術(甲冑をつけての剣術)を明らかにしました。更に、甲冑をつけない素肌剣術が求められた「元和偃武(げんなえんぶ)」という新たな時代に即した新しい兵法術理の極意を確立した、一大改革の書です。
「沈なる身の兵法」から平常服のままのより自由な剣法である「直立(つったつ)たる身の兵法」への移行は必然とも言えますが、日本の全剣術史における一大改革であったことに間違いはなく、第三世兵庫助利厳の偉業であります。
『新陰流兵法目録』(連也口伝書)
新陰流正統第五世となった、柳生連也厳包が12、3歳の頃に書いたものとされる口伝書です。
流祖から石舟斎までの昔の教えを「本云」「本曰」とし、師父利厳が解説した新時代に即した今の教えを「厳曰」と記し、簡潔に伝述しています。新陰流兵法目録全四巻の各条目の全てに、初めて全口伝書を付記しました。不世出の天才兵法家と云われた連也は、こういった分野でも才能の一端をあらわしていました。
連也はこの口伝書を作成しても生涯他人に開示することはなく、そのまま封印をして第八世を継ぐ甥の厳延に渡しました。「この厳封を開くものは、摩利支尊天の神罰を蒙りて、瞑目となる可し」と表書きされた密書は、厳延より三世後、正統第十一世柳生厳春までついにあかされることはありませんでした。
厳春はそのとき非常な信念をもって厳封を解いたと伝えられています。しかし、その事により得た一大光明が今日まで活かされています。
柳生制剛流抜刀
歴史
室町時代末期に、流祖水早長左衛門信正が僧の制剛からその抜刀を学んだとされています。流祖は柔術、居合術の達人で、その高弟である梶原源左衛門直景はこの技を尾張藩に伝えました。さらに新陰流兵法補佐として活躍した長岡房英は、制剛流抜刀術の奥義を究めました。次代房成がその術理を大成しました。
制剛流抜刀は柳生厳周、厳長によって練り直され、柳生制剛流抜刀として、延春厳道、耕一厳信へと相伝され、今日に至っています。
廃刀令以降武士道の象徴であった、いわゆる腰間の一刀の存在が日常の生活から姿を消して140年余りとなります。兵法の稽古で使用する、当流独特の「ふくろ竹刀」の本(もと)となる日本刀の扱いを通して、兵法において大事な「位-心の充実が身体に現れた心身の有り様-」を練るために兵法と共に抜刀を稽古しています。
所縁の地
芳徳寺(奈良県柳生の里)
・石舟斎の館のあとに柳生宗矩が先祖を弔うために臨済宗大徳寺派の芳徳寺を建立しました。
・永禄八年四月(1565年)、柳生石舟斎宗厳(むねとし)は流祖上泉伊勢守信綱より無刀の工夫を認められ一国一人の印可状を授けられました。平成二十七年六月、印可状相伝四百五十年祭として、柳生会の全体合宿を柳生の里にて行いました。流祖の兄弟弟子でもあった宝蔵院胤栄を流祖とする宝蔵院流槍術の方々にもご参加いただいて、芳徳寺での法要の後、正木坂剣禅道場にて奉納演武を行いました。
白林寺(愛知県名古屋市)
・元和元年、犬山城城主、成瀬正成公の推挙により徳川家康公から任じられ、家康公の九男で初代尾張藩主徳川義直公の兵法師範となりました。正成公の菩提寺であった臨済宗妙心寺派白林寺が尾張に居を定めて以降、尾張柳生家の菩提所となりました。
麟祥院(京都府右京区)
・慶安元年(1648年)、第三世柳生利厳は臨済宗妙心寺派総本山妙心寺の塔頭である麟祥院内の柳庵へ隠居しました。霊峰禅師のもとで参禅し余生を過ごし当院で亡くなりました。院内に葬られています。
・第五世を継いだ柳生連也厳包は、兄柳生利方の立会のもと同院にて道統を父より継承しました。厳包は遺言により墓を作ることを禁じましたが、その事績を刻した大きな位牌が当院に納められ祭られています。
妙興寺(愛知県一宮市)
・永禄六年頃、流祖が京都に向かう途上、臨済宗妙心寺派の妙興寺付近の村で、賊が子供を人質に取って小屋に籠もり村民が困っている場面に遭遇しました。流祖が、風体を僧に改め無刀にて賊を押さえ子供を解放したという逸話が残っています。黒澤明監督の七人の侍に出てくるシーンの元となった話です。
・同寺には尾張柳生家開祖利厳が寄進し表装し直した絹本着色十六羅漢図と道仏二教諸尊図があり、また当流第六世宗家である尾張藩第二代藩主光友公が寄進した鐘楼があるなど、当流と大変ご縁の深い名刹です。
清浄寺(愛知県名古屋市)
・名古屋市内矢場町にある第五世連也厳包旧宅跡に当流第六世尾張第二代藩主の徳川光友公が徳川家累代の祈願所として浄土宗の清浄寺を創建されました。
・連也は、広大な敷地内に庭園のある屋敷を建て生涯独身を通して兵法に研鑽しました。また、農州関伝の刀匠、伊藤肥後守秦光代に刀を鍛造させ、刀装としての「柳生拵え」「柳生鍔」を工夫公案したり、屋敷内に窯を築き茶碗や茶入れを焼かせるなど風雅の道を嗜みました。
西林寺(群馬県前橋市)
・流祖上泉伊勢守の居所があった上泉町の上泉家菩提所である曹洞宗の寺院です。流祖または子息秀胤のものであると言われているお墓があります。
・地元の人々により平成二十八年から剣聖上泉伊勢守を顕彰する流祖祭が開催され、同寺にて法要、武者行列の後、流祖銅像と流祖生誕の地と記した石碑の前で碑前祭が行われています。
三條かの記念館・米沢恒武館(山形県米沢市)
・流祖の子息である上泉秀胤は北条方について里見氏と戦い千葉の国府台にて戦死しました。残された流祖の孫の泰綱と一族郎等は上杉家に仕え米沢に移り住みました。関ヶ原の役では、西軍の上杉家は東軍の最上家と戦い、上泉一統は長谷堂の戦いで壮絶な最後を遂げました。
春日大社(奈良県奈良市)
・春日大社は約1250年前、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、比売神(ヒメガミ)の四柱を御祭神として建立されました。本殿前の林檎の庭には林檎の木に向かい合って樹齢千年以上の大杉がそびえ立ち、前に立つ者にその歴史を語りかけています。
・柳生家の歴代の記録をまとめた『玉栄拾遺』に次のような内容の記述があります。天岩戸が分かれて一つが和州に飛来し、その地を神戸岩と呼ぶようになった。その辺りには大柳生庄・塚原庄・戸馳庄・小柳生庄の四箇庄が有り、およそ千年前に藤原頼通がそれらを春日社の神料の地として寄付しました。時は下って大和国士六党は春日大明神を主として奉仕しました。天文七年(1538年)十一月二十七日に若宮祭礼執行願主人頭役之事として、六党の内の散在党に属した柳生の名前があります。
北畠神社(三重県津市)
・北畠神社は、北畠顕能公、北畠親房公、北畠顕家公を御祭神とします。境内の留魂社は北畠具教卿他を御祭神とします。流祖は上京の途上、伊勢国司北畠具教卿を訪ね、新当流の遣手でその腕前が近郷に知られていた柳生石舟斎を紹介されました。
・奈良の興福寺の子院である宝蔵院において宝蔵院胤栄立会いのもと石舟斎は流祖と立合いましたが、流祖の使う兵法の足下にも及ばす直ちに入門しました。胤栄もまた流祖に入門し、石舟斎と兄弟弟子となりました。その後、石舟斎は新陰流を継承し、宝蔵院胤栄は宝蔵院流槍術を創始しました。新陰流は尾張藩の御流儀となり、宝蔵院流槍術は広く各藩において学ばれました。
尾陽神社(愛知県名古屋市)
・尾陽神社は、尾張藩初代藩主徳川義直公と最後の藩主第十七代徳川慶勝公を御祭神として、明治四十三年に建立されました。
・江戸期には尾張柳生家の当主と共に7人の藩主(尾張藩主世子1人を含む)が当流の宗家を継承しました。義直公は新陰流第四世を慶勝公は第十八世宗家を務められました。
・第三世柳生利厳が元和元年に義直公の兵法師範となり尾張の地に居を定め、四百年目にあたる平成二十七年に奉納演武を行いました。
足助神社(愛知県豊田市)
・元弘の戦い(1331年)で、後醍醐天皇が笠置山に身を移された時、柳生石舟斎宗厳(むねとし)より六代前の柳生播磨守永珍(ながよし)は一族郎党270名を引き連れて笠置山に馳せ参じ、足助次郎重範公を総大将として幕府方と戦いました。重範公が御祭神として足助神社に祭られています。
・重範公は笠置山陥落後斬首されましたが、重範公の娘が二条家に仕え生まれた子息が、犬山城の成瀬氏の祖と言われています。尾張柳生の開祖となる柳生利厳は、成瀬正成公による徳川家康公への推挙によって尾張初代藩主徳川義直公の兵法師範となったという繋がりがあります。
・足助神社例祭・重範祭では、足助神社宮司と笠置山の笠置寺住職により敵味方将兵を弔っています。当流は、ご縁により御祭神である重範公へ平成二十七年から奉納演武を行っています。  
 
新陰柳生流形成期に見られる勢法

 

1 はじめに
武道や芸道においては、その流派の流儀が「かた」(注1)として表わされることで、門弟はその「かた」を通しその流派の流儀性を知ることができる。つまり、「かた」は流派とそれに携わる人とを繋ぐ橋渡的な働きをしているということがいえる。
ところで、こうした「かた」は歴史の経過のなかで自然に培われてきたものと、ある特定の人物によって創造されたものとがあろう。いずれにしろ、その「かた」が客体化されなければ次世に受け継がれることはないため、ここに伝授者は、「かた」を「型」として伝承する必要性がでてくるのである。
しかし、「型」がそのままで被伝授者に継承されるかというとそうではなく、そこには「型」から発現された「形」が「型」にフィードバックされる際逆に「型」が影響を受けたり、あるいは「型」自身が何らかの要因で変容するなど現実ではなかなかスムースに継承されないことが予想できる。
筆者はこの様な見地から、近世における剣術の「かた」について関心を持ち研究を進めてきている。そのなかでも、特に尾張藩の新陰柳生流に注目して、その「勢法(かた)」(注2)の変容を考察しているが、これは近世の多くの武術諸流派が、時代と共に付加的に発展、展開してきたのに対し、尾張柳生家という家を中心に発展を遂げた、芸道でいう家元的展開を示す特異な流派として位置付けられているためである(注3)。
新陰柳生流はその系譜を時代の推移と共に、介者剣術期、素肌剣術期、中興期の三期に分類できる1)も今回、そのうち、新陰柳生流の形成期にもあたる介者剣術期(上泉秀綱、柳生宗厳)を取り挙げ、この時期の勢法について考察しようとしたところ、流祖である上泉秀綱の勢法と柳生宗厳の勢法とでは、目録上差異を認めることができた。本来ならば、流祖上泉の新陰流を、被伝授者の宗厳はそのままの形で継承することが要求されたはずである。しかし、差異が生じた背景を察すると、宗厳は継承後、上泉秀綱の新陰流に柳生としての独自性を付加させたものと考えられるのである。
そこで、本研究ではこの介者剣術期において、上泉秀綱から柳生宗厳に継承される際の勢法の変容について考察し、柳生の独自性について明らかにすることにする。また、それを基に「かた」の継承形態の問題についても触れることにする。
2 介者剣術期の勢法
ここでは、上泉秀綱、柳生宗厳の勢法を取り挙げ、新陰柳生流の基点とも言うべきこの時期の勢法を明らかにする。なお、上泉の新陰流は近世流派の三源流と称される陰流、新当流、念流を基にして創設されたものであるが(注4)、それらの影響に関しては、主題から離れるため特に取り挙げて考察はしない。また史料に関しては、基本的に当時著された伝書類を用いることにするが、場合によってはそれらを補完するため、近世中・後期、あるいはそれ以降のものも援用することにする。
(1) 上泉秀綱の勢法
上泉秀綱は上州の出身で、永正五年(1508)義綱の次男として出生した。天正十年(1582)享年75歳で没するまで剣一筋に生き、その間、北条家兵法師範、古河公方兵法師範などの役職にもついている2`そういった剣豪としての上泉の名声が広まった背景には、彼が開流した新陰流の存在があると思われる。その開流時期に関しては天文三年(1534)説と天文十一年(1542)説とがあるが3)、いずれにしろ戦国時代の混乱の最中に、己の生きる術を託して開眼したのであろう。
さて、この上泉の新陰流の勢法に関して調査を進めると、その勢法が記されている書物が限られてくることがわかる。柳生延春氏も、
現在上泉信綱(秀綱のこと)の真筆と認められる古目録はこの『影目録』四巻と永禄十年二月丸目蔵人佐あての目録一巻ではないかと思う。4) ()内筆者
と述べており、現時点では、直筆の目録はこの二点のみということがいえよう。
なお、『影目録』は、永禄九年(1566)に上泉が柳生宗厳に授けたものであり、その構成は第一が「燕飛」の巻、第二が「七太刀」の巻、第三が「参学」の巻、第四が「九箇」の巻で、その内容は、書伝と太刀姿が画かれてある絵目録とが合わさったものである5)。
この『影目録』には、上泉が考案した太刀がそれぞれの巻に記されている。
一燕飛一
燕飛 猿廻 山影 月陰 浦波 浮舟 獅子奮迅 山霞
一七太刀一
鋸地獅子 天関 容髪 籠手 地軸明月之風 燕礪
一参学一
一刀両段 斬釘戴鉄 半開半向 右旋左転 左旋右転 長短一味
一九ケ之太刀一
必勝 逆風 十太刀 花木 腱眼 大詰 小詰 八重垣 村雲'
上泉の新陰流には、以上のような太刀が存在していたが、宗厳に授けてから二年後の永禄十年(1567)、上泉が丸目蔵人に与えた目録には次のようなことが記されている。
殺人刀太刀、活人剣太刀、此の両剣は我家の至要也。何を優と為し何を劣りとなすか。双剣と謂うべし。空に碕って飛ぶ。学者軽々しくこれを用うること莫れ6)。
ここに「殺人刀」「活人剣」という名称が見られるが、これは太刀名なのか、否かという問題がある。それは、一般的には禅語を比喩的に用いたもので、新陰柳生流の理念を象徴的に示したものと解釈されている。しかし、永禄八年(1565)に上泉から胤栄に宛て送られた印可状を見ると、
向後に於て惣べて之を望む方々御座候はば誓詞を以て九箇迄御指南尤に候。殺人刀活人剣の事は真実の仁に寄る可く候7)。
と記され、「九箇」の勢法(つまり『影目録』に記されている勢法)までは一般の人に教授することが許され、「殺人刀」「活人剣」の二太刀は、技術的にも人間的にも優れた人にしか指南が許されなかったことがわかる。っまり、この印可状や先の目録から、上泉の時期には『影目録』の四つの勢法の他に、「殺人刀」「活人剣」の二太刀が技法としても存在していたと考えられるのである。
なお、近世中期頃に新陰柳生流の兵法師範役を務めた長岡房成(1763〜1838)が著わした『刀金録・勢法篇』には、その「古来相伝之転勢上中下三段」の項に、
此上泉子所撰也8)
と記されている。このことから、当時上泉は、自ら著してはいないが「転(まろばし)」という勢法(太刀数は九本)をも考案していたと推則できる。
(2) 柳生宗厳の勢法
柳生宗厳は、永禄八年(1565)に上泉秀綱から印可を受け、新陰流を継承した。その後、宗厳はいくつかの戦に出陣し、その技量を発揮してはいるが、戦乱の世の醜悪さ、あるいは戦闘方式の転換などを目の当たりにし、武将への道を捨て、師匠である上泉が歩んできた兵法家としての道を選び、その道で精進しようと心に決めている9)。
そのような背景のもと、宗厳の勢法は、彼が歩んだ時代と共に、二つに区分することができる。一つは兵法家としての道を歩み始めた頃の天正九年(1581)以前のもの、もう一つは徳川家康との謁見を境にさらに心技の工夫が成され、新陰流に宗厳の独自性が加わってきた慶長元年(1596)以降のものである。
まず天正九年以前のものであるが、ここに見られる勢法は未分化のもので、体系化されていない。それは、宗厳が上泉から印可を受けた後、独自のものに消化していく一過程の勢法として捉えられる。この時期の目録には天正七年並びに八年に、宗厳から三好左衛門慰に送られたものがある。その七年の目録には、次のような太刀が記されている10)。
円太刀 向上 極意 人取手 居合分
また八年の目録には、『切合廿七ケ条之事』として、太刀名と共に次のような事が記されている11)。
 序
一右旋 左転 臥切事
一すり巻入事 小詰 村雲
一く、り切事 こし切事付調子切事
 披
一とうぼう
一折甲
一切合太刀
 急
一陰陽向上上構
一伺我か身をはなされる太刀上・中・下先三寸
 十文字一調子の事
一懸 待 表裏三ッ
なお、宗厳が天正九年に再度印可を更新した際の目録を見ると、ここに初めて「極意無刀」という名称を標榜していることがわかる12)。
つぎに、後者の慶長元年以降の目録に記されている勢法であるが、ここには元年の宗厳の署名のみのもの、六年の宗厳から武田家に送られたもの(書伝と絵目録)、八年の宗厳から長厳(後の柳生利厳、1579-1650)に与えられたものとがある13)。これら三つの目録に共通している勢法をまとめると次のようになる。
 三学円太刀
一刀両段 斬釘裁鉄 半開半向 右旋左転 長短一味
 九箇
必勝 逆風 十太刀 和卜 腱径 小詰 大詰 八重垣 村雲
 天狗抄太刀数八ッ
 (奥義太刀)
添戴乱裁 無二剣 活人剣 向上 極意 神妙剣 八箇必勝
 二十七ケ条戴相
序 上段三 中段三 下段三
破 折甲二 刀捧三 打合四
急 上段三 中段三 下段三
「奥義太刀」は太刀名のみが記されている。また『刀金録・勢法篇』によれば、「天狗抄」は愛洲移香が選出した太刀と記されている。なお、個々に若干異なる個所をまとめると、次のようになる。
・慶長元年の目録には「奥義太刀」の最後の太刀である「八箇必勝」が記されていない14)。
・同目録の「二十七箇条裁相」における「破」の太刀内容が「折甲二打合四刀捧三」となっている15)。
・慶長六年の絵目録には、「天狗抄」の個々の太刀名が「風眼房」等の陰語が使われている16)。また、宗厳自身目録に著してはいないが、『刀金録・勢法篇』によれば、彼が考案した勢法として「奪刀法(無刀取のこと)」が記されている17もこの勢法は新陰柳生流の極意とされているため、書伝しなかったものと考えられる。
3 介者剣術期の勢法の展開
(1) 勢法の変容。
柳生宗厳が上泉秀綱から新陰流の相伝を受けたのが永禄八年(ユ565)、その宗厳が孫の利厳に印可を授けたのが慶長八年(1603)である。したがって、尾張新陰柳生流の基盤はこの38年の間に形成されたことになる。
そこで、上泉の新陰流を継承した宗厳が新陰柳生流として大成していく過程で、どのような勢法の展開があったのかを考察してみたい。それにあたって、ここでは宗厳の時期に1 継承された勢法、2 付加された勢法、3 削除された勢法、の三っの視点から考察を進めていくことにする。
1 継承された勢法.
上泉と宗厳の勢法を比較した場合、彼らの目録の書面上から、継承されたと判断できるものは「参学」「九箇」である。また宗厳より後の被伝授者が著した伝書から、宗厳も継承していたと推察できるものに、「燕飛」「天狗抄」「転」がある。
「参学」の場合、宗厳は一旦「円太刀」という名称を用いているが、その後「参」を「三」に変え、さらに先の「円太刀」と合成させ「三学円太刀」としている。つまり、「参学」→ 「円太刀」→ 「三学円太刀」と移り変わっていることがわかる。しかし、その個々の太刀名はそのまま継承している(注5)。
「九箇」の場合、その太刀の名称が一部変更されている。上泉は五番目の太刀名を「腱眼」としているのに対し、宗厳は「腱径」と「眼」を「径」に換えている。この太刀は後に「捷径」とも書かれるが、他の太刀がそのまま受け継がれてきたのに対して、この太刀のみが名称変更しているのは興味深いところである(注6)。
「燕飛」は上泉秀綱が著した『影目録」の最初に記されている勢法であるが、何故か宗厳はこの勢法を書伝することをしなかった。この形式はその後も続き、代々の後継者もそれに従っていたが、長岡房成がその『刀金録・勢法篇』や『新陰流兵法口伝書外伝』に再び記載している18もその内容を見ると、房成の時期は第五世の柳生厳包(1625一1694)の使い方を用いていることがわかるが(注7)、このことは裏を返すと、上泉が考案した「燕飛」の勢法が口伝によって代々受け継がれていったことを証明することになろう。なお、上泉の『影目録』に記されている「燕飛」の太刀と「刀金録・勢法篇』にある太刀を比較すると、若干の差異を認めることができるが、それに関してはここでは詳しく触れないことにする(注8)。
「天狗抄」は、宗厳の目録で初めてその名称が記されるが、『刀金録・勢法篇』によれば、この勢法は愛洲移香が創作したものであることがわかる(注9)。したがって、当然上泉の時期にも存在していたはずであるが、書物からはそれを確証することは今のところできない。しかし、上泉の門弟である西一頓の流派の目録を見ると、同じく「天狗抄」の名称と陰語の太刀名、太刀画が見られることから、やはり上泉の時期に存在していた勢法ということがいえよう(注10)。
最後の「転」は、上泉の時期はもとより代々の後継者もこれを書伝していない。初めて書伝したのは、中興の祖の一人である第十一世柳生厳春(1741-1808)で、その『陰流書』にその名称が見られる。また『刀金録・勢法篇』で、この勢法が上泉によって考案されたものであることが記されている。このように、中興期の柳生厳春の頃まで「転」が書伝されなかった背景には、それが新陰柳生流の極意の太刀の一っに位置付けられているからであり(注11)、相伝が許された者のみに口伝という形式で伝授されていったためと考えられる。
2 付加された勢法
ここに属す勢法には、「奥義太刀」「二十七個条戴相」並びに「奪刀法」がある。
「奥義太刀」という名称は、『刀金録・勢法篇』で初めて書面に記されるようになったもので、それまでは宗厳のスタイルである、「天狗抄」の名称の後に「奥義太刀」の個々の太刀名のみを記載するといった形式が用いられていた。これは、この勢法の性質上、部上者に秘するためと思われる。柳生厳長『正伝新陰流』にも
石舟斎はこうして、題名や太刀名を秘して書き載せない範例を示し19)
と記述されており、代々の後継者はこの形式を堅守していったものと考えられる。
「二十七箇条戴相」の勢法であるが、厳春が著した『陰流書』には、先の「奥義太刀」の太刀の一つである「八箇必勝」と共に次のように記されている。
二十七ケ条戴相・八ケ必勝ハ宗厳ヨリ不レ用レ之20)
つまり、宗厳の目録に見られる「二十七箇条戴相」は、宗厳一代限りの勢法ということが言え、後の者はこれを継承しなかったと考えられる。
「奪刀法」に関しては、慶長元年以降の目録にその存在を示唆するような記述は見られないが、天正七年の目録に、「人取手」という名称を見ることができる。『刀金録・勢法篇』の「奪刀法」の項には、
此上泉子老後使宗厳作者也21)
と記され、宗厳は永禄八年上泉から新陰流の印可を受けた後「無刀取」の修行を重ね、一旦は「人取手」という段階に達したが、さらに研究を重ね、勢法としての「奪刀法」に至ったものと考えられる。なお、同じく天正七年の目録には「居合分」という名称も見られる。当時宗厳は新当流の居合にも秀でており、その居合を基にした太刀とも考えられる。「居合分」は『剣道・抜刀術一流の歴史』に、
一流抜刀術には新当流居合の極意をも含み、一中略一無刀の道には、居合に就ての玄妙が具備されている22)
と記載されていることからも、先の「人取手」と合わせて「奪刀法」に至る一過程の太刀として見ることもできる。しかし、現在その太刀がいかなるものであったかを明らかにする資料がないため、そのいずれとも判断しかねるのが現状である。
3 削除された勢法
上泉の新陰流には存在するが、宗厳の新陰柳生流には存在しない勢法として「七太刀」「殺人刀」「活人剣」がある。
「七太刀」は、新陰流の源流の一っである新当流の「七太刀」の影響を受けて考案された勢法と思われるが、多分に陰語的色彩が濃いため、新当流のそれと直接的な比較ができない(注12)。上泉の「七太刀」は「影目録』のうちの一巻をなし、絵目録にもなっているものであるが、宗厳の目録や、タイ捨流の目録などを見ても、これを示唆するような名称は見られない。なお、柳生延春氏によればこの「七太刀」は尾張柳生家に代々継承されており、その勢法は今日でも現存しているとのことである、この「七太刀」の一部を資料として掲載しておくので、参照されたい。
「殺人刀」「活人剣」も同様に継承されている形跡はない。なお、「殺人刀」「活人剣」は上泉の新陰流では極意の太刀であったことと、「刀金録・勢法篇」の「古来相伝之奥義太刀」の項に、
此平宗厳増補干上泉子所秘23)
とあり、その太刀名のなかに「活人剣」といった名称も見られることから、あるいは宗厳自身が「奥義太刀」を構築する際に、「殺人刀」「活人剣」をそのなかに取り入れた可能性も考えられる。
(2) 「無刀取」について 
日で明らかにしたように、上泉の新陰流から宗厳の新陰柳生流に移行するに際し、その勢法は付加、削除されるなど変容をきたしていることがわかった。ここでは、そのなかの特に宗厳が考案したとされる「無刀取」にっいて考察することにする。
宗厳が相伝を受けた年は、足利十三代将軍義輝が三好義継、松永久秀等によって謀殺された年でもあり、世は下剋上の風潮に伴う治安の乱れた状況にあった。宗厳自身も、印可を受けた翌年の永禄九年(1566)、松永軍に加担して戦場に赴いており、まさに戦国乱世の渦中にいたのである。
このような戦乱の治まらない世の中において、宗厳の兵法というものは当然実戦色の濃いものであり、それに伴う勢法も実戦を想定した使い方をしていた。宗厳の時期の「三学円太刀」は、現在では「古式の勢法」として受け継がれているが、これは介者剣術期特有の「沈なる身」構えで使われている(注13も後年、第三世柳生利厳の時期になると勢法も改変され、甲冑の装着を想定した使い方から「直立たる身」構えという素肌剣術期特有のものに変わっていくが、宗厳の時期は社会的な影響もあり、勢法も全般的に介者期的な使い方が主流であったものと考えられる。
しかし、このような実戦的な勢法が用いられていた一方で、宗厳は真の兵法とは何かということを考え、技術に伴う「心の道」の確立を成し遂げようとしている。それは、上泉の新陰流の根底に流れる「活人剣」思想に通ずるものであるが、この理念は上泉から印可を受けると同時に、宗厳に伝えられている。永禄九年の宗厳宛の目録の前書きを見ると、そこには、
随敵転変施一重手段恰如見風使帆見兎放鷹以懸為懸以待為待者常事也懸非懸待非待懸者意在待待者意在懸牡丹花下睡猫児学者透得此句可識若又向上人来則更施不伝妙24)
と記されており、ここには技法を支える部分で単なる殺活のレベルを超えようとする、高尚な理念を窺うことができるのである。
そのような理念を受け継いだ宗厳は、それを単に理念に留めず、真の兵法を追求するために具現化させようと試みた。その結果として実現したのが「無刀取」なのである。この「無刀取」は上泉が宗厳に与えた課題であり、従来はこの完成を受けて、上泉が永禄八年(1565)に「一国一人」の印可を与えたとされていたが、渡辺氏は、天正九年(1581)に三好左衛門尉に対する再度の印可更新の際、初めて「極意無刀」を標榜していることを挙げ、永禄八年の「無刀取」完成説の訂正を指摘している25)。つまり、永禄八年から天正九年までの期間が、「無刀取」を完成させるために費やされた期間、いいかえれば、上泉の果たせなかった心的物分の克服に費やされた修行期間であったといえよう。そして、この期間中に上泉の新陰流に宗厳の独自性が加味され、柳生としての新陰流が確立されていったといえよう。
この「極意無刀」は、後に勢法が集大成されるなかで、「印可の太刀」として技法としての勢法の一つに位置付けられ、「奪刀法」という名称に変わる。この「奪刀法」は三っから成り立ち、それぞれ「無刀勢」「手刀勢」「無手勢」と名付けられるが、もちろん宗厳はこれらを目録に載せることはせず、『刀金録・勢法篇』で初めて名称と使い方が記されるようになる。その『刀金録・勢法篇』によれば、この「奪刀法」は「転」の極意と記されている26もこの「転」は上泉が考案した勢法の一つであるが、これは一尺三寸の副刀(小太刀)を用いたもので、計九本から成り立っている。したがって「無刀取」が完成する過程には、上泉の「転」をステップとした「太刀→ 小太刀→無刀」という図式が成り立ち、さらに勢法という観点からすれば、「奥義太刀」の「八箇必勝」が二尺の太刀を用いて「転」と同様の使い方をすることからも、「(「奥義太刀」の)八箇必勝→転→奪刀法」といった順序で作られていったことがわかる27)。
4 介者剣術期の「かた」の継承形態(おわりにかえて)
上泉秀綱の新陰流を継承した柳生宗厳は、「無刀取」の考案を中心に心法的な部分を展開させ、勢法に関しても柳生の新陰流として体系化させている。ここでは、拙稿『尾張藩新陰柳生流の展開とその変容』28)で筆者が提示した「かた」の継承に関する三っのスタイルを基に、介者剣術期の勢法の変容を解説してみたい。
まず三っのスタイルであるが、それぞれ下記のような構造を呈している29)。
なお、図のそれぞれの左側は鋳型としての「かた」を表し、右側はそこから発現された、現象としての「かた」を表している。若干の補足をするならば、図Aの場合、その関係が諸々の要因によって影響を受けることがなく、時系列的にもこの状態が維持されている。図Bの場合、「型」から発現された「形」が何らかの影響を受けて変容をきたしたもので、この場合は特に社会的な影響が問題とされる。図Cの場合、「型」自身が影響を受けて変容するもので、この場合は被伝授者の内的な影響が問題とされる。
介者剣術期の新陰柳生流は、上泉から宗厳へと時代が推移するにつれ、その勢法は付加、削除などされ、目録上からの変容は窺えるが、継承された勢法に関してはそのまま受け継がれている・したがって、継承された勢法に関しては図Aのような継承形態が見られ、新陰流全体からすれば、「無刀取」など宗厳の独自性が加味され、柳生としての新陰流が確立されていることからも、図Cのような形態が窺える。
このことは、宗厳が上泉の新陰流の「かた」をそのまま継承していないことを示すが、「無刀取」を考案した宗厳の兵法に対する考え方などからすると、そこには単に上泉の勢法を憧憬、追求しているのではなく、上泉が希求した理念を追求している感が窺える。したがって、現象としての「形」が時代と共に変化し、それに伴って基の「型」が変容しても、その進む方向は上泉が希求した理念に向かっているものと考えられる。
なお、この時期の勢法を知るための資料は、現在のところその数も少なく、まだまだ未知のところが多い。全体像をより明らかにすることを今後の課題とすると共に、「かた」の変容をもたらした要因について、更に詳細に考察を進めていきたいと考えている。

(注1)武道においては「形」「型」などの言葉が使われるが、これらを総称して示す場合に、「かた」と表現することにする。なお、「型」の場合は鋳型としての基になるもの、「形」はその「型」から現象として発現されたもの、として捉えている。
(注2)新陰柳生流においては、「勢法」と書き表し「かた」と読ませている。また、「太刀」と書いても「かた」と読ませている。
(注3)西山松之助『家元の研究』(吉川弘文館、1982年、277頁)によれば、武術諸流では家において連続せず、非連続の連続という形式をとるが、柳生家は例外としている。
(注4)渡辺一郎「兵法伝書形成についての一試論」(『近世芸道論」、岩波書店、1972年、647頁)には、近世諸流派の三源流として念流、新当流、陰流が挙げられている。
(注5)上泉秀綱の『影目録』には、「右旋左転」の項に「左旋右転」とも記されている。
(注6)「捷」の文字は、長岡房成の『刀金録・勢法篇』から用いられ、それ以前は「腱」の文字が用いられていた。
(注7)渡辺忠成編『新陰流兵法古式勢法之研究・続』(新陰流兵法転会出版部、46頁)に、「当今ノ使ヒ方ハ連也翁使ヒ方ナリ」とある。
(注8)『影目録』の「燕飛」の巻には、「獅子奮迅」と「山霞」の二太刀が「浮舟」の後に記されており、計八つの太刀から成り立っているが、『刀金録・勢法篇』には、「浮舟」までの六つの太刀のみ記されている。
(注9)『刀金録・勢法篇』の「古来相伝之天狗抄」の項には、「此亦愛洲子所撰乎」と記されている。
(注10)西一頓に伝えられた新陰流の「天狗抄」目録にも、やはり太刀名は陰語で記されている・したがって、「花車」「明身」等の名称で記されるようになったのは、宗厳以降とも考えられる・
(注11)柳生厳長「正伝新陰流』(大日本雄弁会講談社、1974年、284頁)に、「流祖が極意とした古来相伝の太刀」と記されている。
(注12)新当流の「七太刀」には、「晴眼払・巻返・巻所・高霞・風躰・磯波」がある。
(注13)『史料柳生新陰流』上巻(新人物往来社、1967年、179頁)の「位五大事」によれば、介者剣術期の構えの特徴として「一、敵拳二吾肩可.成.同事二、吾肩成_気一重身_事三、こふしに身つれ、拳をさける事四、身のか、り先なるひさに身をもたせさけさる事五、我か左のひちをか、む事不。可。有之事」と記されている。
引用文献
1)拙稿「柳生新陰流の勢法に関する研究」、武道学研究第19巻第2号、1986年、6頁.
2)諸田政治『剣聖上泉信綱詳伝』、換乎堂、1974年、59頁参照.
3)「同上』、116頁.
4)柳生延春「新陰流兵法』第191講道、柳生会、1975年、14頁.
5)『同上』参照二
6)「同上』18頁.
7)今村嘉雄『柳生一族』、新人物往来社、1971年、83頁.
8)拙稿「尾張藩新陰柳生流の勢法について」、『日本武道学研究』、島津書房、1988年、213頁.
9)渡辺一郎「兵法伝書形成についての一試論」、「近世芸道論』、岩波書店、1972年、649頁参照、
10)「同上』650頁.
11)今村嘉雄『史料柳生新陰流』上巻、新人物往来社、1967年、180頁.
12)『前掲書』(9)、651頁.
13)『前掲書』(11)、182〜219頁、
14)『同上』、182頁.
15)『同上』、182頁.
16)「同上』、203〜210頁.
17)『前掲書』(8)、216〜218頁.
18)渡辺忠成編『新陰流兵法古式勢法之研究・続』、新陰流兵法転会出版部、46〜63頁.
19)柳生厳長『正伝新陰流』、大日本雄弁会講談社、1947年、283頁.
20)『前掲書』(8)、215頁.
21)『前掲書』(8)、217頁.
22)金剛館編『剣道・抜刀術一流の歴史』、金剛館柳生会蔵版、1921年、18頁、
23)「前掲書』(8)、215頁.
24)「前掲書』(19)、252〜253頁.
25)「前掲書』(9)、651頁.
26)『前掲書』(8)、217頁.
27)『同上』、226頁参照.
28)拙稿『尾張藩新陰柳生流の展開とその変容』、筑波大学大学院体育研究科修士論文、1988年.
29)「同上』267〜268頁.  
 
柳生宗厳・諸話 1

 

柳生宗厳・物語
慶長十一年(1606年)4月19日、柳生新陰流の開祖として知られる柳生宗厳が80歳でこの世を去りました。柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)・・・柳生宗矩(むねのり)のお父さんです。
柳生美作守家厳(みまさかのかみいえよし)の嫡男として生まれた宗厳・・・通称を新介または新左衛門と言い、晩年に石舟斎と号します。
嫡男として順調に一家の主となった宗厳ですが、この頃の柳生家は、かなりの弱小豪族・・・そのために、戦国の世では、その時々で、次々と主君を変え、生き抜いていかねばなりませんでした。
しかも、なかなか良い主君にも恵まれず、長い時間不遇の日々を味わうのですが、そんな中でも剣術の修行にはげみ、その腕だけは磨き続けます。
新当流や戸田(冨田)流などの極意を次々と身につけ、やがて剣豪として、その名は知られていく事になるのですが、やはり、武将として活躍する場はありませんでした。
そして宗厳:35歳・・・永禄六年(1563年)夏、奈良に済む宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)なる人物から、「今、ウチの宝蔵院に、上泉信綱(かみいずみのぶつな)っちゅーカリスマ剣豪が滞在中やよって、ちょいと指導してもろたらどうや?」との知らせが届きます。上泉信綱とは、あの天下の武田信玄に落とされた上野(こうずけ・群馬県)箕輪城を、主君・長野業盛(なりもり)を補佐して、最後まで抵抗した人物・・・
その後、信玄からの「家臣にならないか?」の誘いを断って武者修行の旅に出、途中途中で念流・蔭流・神道流などの流派を習得し、それらを統合した独自の流派=新陰流を起し、いまや剣聖の名をほしいままにする有名人だったのです。
早速、宝蔵院へと向かう宗厳・・・しかし、「相手をしてほしい」と願い出る宗厳を、信綱は、まったく取り合ってくれません。
何度も食い下がるうち、「ならば、疋田がお相手をする」と・・・
この疋田とは、疋田景兼(ひきたかげかね)(9月30日参照>>)と言って、彼もまた箕輪城で信玄と戦った仲間・・・やはり、落城後に信綱とともに武者修行に出て、現在はその高弟という立場だったのです。
「俺かて、近畿一の腕前やねんゾ!ナメやがって」と、少々おかんむりの宗厳・・・
信綱の態度に腹わたが煮え繰り返りながらも、木刀の剣先に意識を集中し、景兼を真正面に見据えて構えます。
「柳生君!その構えで、ええんか?」景兼がポツリ・・・
宗厳、静かにうなづいて、立会いは始まりました。
・・・と言うが早いか、アッと言う間に1本取られ、ナニクソと向かっていって、あっさり2本目・・・ものの見事にヤラれてしまいます。
しかし、宗厳にも、自称・近畿一のプライドがあります。
トップの信綱との立ち合いなしに、おめおめと帰れません。
さらに、何度も何度も、信綱との立ち合いを懇願する宗厳・・・「ならば、ひと勝負するか〜」と、信綱が重い腰をあげ、やっと相手をしてくれる事に・・・
ところが、なんと、今度は素手で、なんなく木刀を奪い取られ、あっさりと目の前に突きつけられてしまいました。
新陰流・秘剣=無刀取りでした。
このワザに感動した宗厳・・・その場で、信綱に弟子入り、彼らを柳生の里に招いて、本格的に新陰流を学びはじめたのです。
それは、もう、休む事なく毎日・・・
やがて、新陰流のすべてを伝授された宗厳は、信綱から印可状(いんかじょう)を授与され、「今後は、おのれ独自の無刀取りを編み出すように」との課題を与えられ、それを最後に信綱らは、柳生を去りました。
その後、大和(奈良)国内を二分しての戦いとなった松永久秀VS筒井順慶との合戦では久秀の配下として奮戦しますが、40歳の時には馬から落ちて宗厳自身が重傷を負ったり、さらに、その五年後には、長男とともに出陣した合戦で、息子が銃弾に倒れ、以後、不自由な暮らしを強いられるほどの重傷を負ってしまうという不幸続きの日々・・・さらに、主君としていた久秀は織田信長に滅ぼされてしまいます。
久秀亡き後、大和の国は、その敵対の相手であった順慶のものとなりますが、それまでの経緯もあり、宗厳は、順慶の配下となる事はありませんでした。
そんなこんなの文禄三年(1594年)4月・・・宗厳は、やっと世に出る幸運に恵まれます。
誰かの家臣となって、合戦で武功を挙げる事はなくとも、さすがに数々の流派を身に着けて、その剣豪としての名声は高まっていましたから、「一度、その腕前を見たい」と、京都に滞在中の徳川家康からのお声がかかったのです。
長男は、上記の通り、もはや剣術は不可能・・・次男・三男は出家し、四男は浪々中であった宗厳は、手元にいた五男の又右衛門宗矩(またえもんむねのり)を従えて、家康に謁見します。
「自ら相手をする!」と、張り切る家康・・・
『玉栄拾遺(ぎょくえいしゅうい)』によれば、「神君(家康)・・・木刀を持ちたまい 宗厳これを執るべしと上意あり すなわち公(宗厳) 無刀にて執ちたまう そのとき神君 うしろへ倒れたまわんとし 上手なり 向後 師たるべしとの上意・・・」
あの日、宗厳自身が信綱にしてやられた無刀取り・・・それを見事にアレンジして、新たな無刀取りを完成させ、あの時の信綱同様、家康の刀を、あっという間に素手で取り上げ、家康をスッテンコロリンさせたわけです。
大喜びの家康は、すぐに宗厳と師弟の誓約書を交わします。
そして、当然、剣術指南役を命じるのですが、宗厳は、この時、すでに68歳・・・高齢を理由に指南役を辞退し、代わりに、ともに連れていた息子・宗矩を推薦したのです。
こうして、柳生一族は大きな一歩を踏み出したのでした。  
 
柳生宗厳・諸話 2

 

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柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に