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雑学の世界・補考


     1500  1600  1700  1800
『東方見聞録』マルコポーロ                                            
『書簡』ザビエル                                            
『東洋遍歴記』ピント                                            
『日本巡察記』ヴァリニャーノ                                            
『日本見聞録』ロドリゴ                                            
『金銀島探検報告』ビスカイノ                                            
『日本大王国志』カロン                                            
『江戸参府旅行日記』ケンペル                                            
『ベーリングの大探検』ワクセル                                            
『江戸参府随行記』ツュンベリー                                            
『日本幽囚記』ゴロヴニン                                            
『江戸参府紀行』シーボルト                                            
『フリゲート艦パルラダ号』                                            
『日本遠征記』ペリー                                            
『日本滞在期』ハリス                                            
『長崎海軍伝習所』カッテンディーケ                                            
『大君の都』オールコック                                            
『一外交官の見た明治維新』サトウ                                            
『シュリーマン旅行記 清国・日本』                                            
                                             
『東方見聞録』 マルコ・ポーロ

 
『東方見聞録』 1
マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。
原題は不明である。日本(および韓国)においては一般的に『東方見聞録』という名で知られているが、他国では『世界の記述』("La Description du Monde"、"Le Devisement du monde")、『驚異の書』("Livre des Merveilles")などとも呼ばれる。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』("Il Milione"、100万)というタイトルが有名である。諸説あるが、マルコ・ポーロがアジアで見たものの数をいつも「100万」と表現したからとも、100万の嘘が書かれているからとも、マルコ・ポーロの姓"Emilione"に由来するともいう。英語圏やスペイン語圏、中国語圏などでは『マルコ・ポーロ旅行記』("The Travels of Marco Polo"、"Los viajes de Marco Polo"、"馬可・波羅游記")の名でも知られる。
1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発した。1295年に始まったピサとジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという。
内容
東方見聞録は4冊の本からなり、以下のような内容が記述されている。
1冊目 - 中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで遭遇したことについて。
2冊目 - 中国とクビライの宮廷について。
3冊目 - ジパング(日本)・インド・スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域について。
4冊目 - モンゴルにおける戦争と、ロシアなどの極北地域について。
黄金の国ジパング
日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu)として紹介したという点で特によく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。なお、「ジパング」は日本の英名である「ジャパン」(Japan)の語源である。日本国(中国語でジーベングォ)に由来する。
東方見聞録によると、「ジパングは、カタイ(中国北部)(書籍によっては、マンジ(中国南部)と書かれているものもある)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。 また、ジパングには、偶像を崇拝する者(仏教徒)と、そうでない者とがおり、外見がよいこと、また、礼儀正しく穏やかであること、葬儀は火葬か土葬であり、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う習慣がある。」といった記述がある。「莫大な金を産出し」というのは奥州の金産地を指し、「宮殿や民家は黄金でできている」というのは中尊寺金色堂についての話を聞いたものであるとの説もある。
東インド諸島〜インドに関する記述
ジャワ島については、甚だ裕福な島であり、胡椒、ナツメグ、ジャコウ、ガンショウ、バンウコン、クベバ、クローブなど、世界中の香料がここで生産され、極めて多くの船舶と商人がこの島を目指し、大量の商品を仕入れて巨利を得ていると述べられている。 スマトラ島については、キャラ、ガンショウ、その他、ヨーロッパまではもたらされない高価な香料を生産しており、北西部に位置するランブリ王国については、「樟脳、その他の香料を豊富に生産している」と述べられている。 インドについては、「胡椒、シナモン、生姜」またボンベイの近くで生産されていたとされる「褐色の香木」への言及があり、アラビア商人と中国商人とが盛んな取引を見せるマイバール沿岸地帯随一のコイラム港の解説がある。このあたりは、ブラジルスオウ材、インディゴ、胡椒の生産地であり、胡椒木の栽培法、インディゴの凝縮法が詳しく述べられている。当時のインドに存在していたとされるマーバール王国については、胡椒、生姜を大量に産出し、シナモンその他の香料も豊富で医療品の材料になったタービットやインド産各種のナッツ類も出回っており、世界に類を見ない極上品である様々な亜麻布、他にも貴重な物資があふれていると述べられている。 このような記述は、マルコ・ポーロが、こうした東洋との交易における、最も貴重な物質についての知識を蓄えていたことを示していると考えられる。
中国についての記述
中国国内において興味が引かれるであろう建造物や日常生活に関する事象ついては、沈黙している部分が多い。例えば、万里の長城の記述、若い娘の足を堅く縛る纏足、鵜飼の漁の話、印刷術や中国の文字、中国茶、茶店の話が全く述べられておらず、儒教や道教についてのコメントもない。しかし、道教については、「先生」という呼称で道教の修道僧の話が短いながら述べられている。これはマルコ・ポーロが、モンゴルの支配層と極めて強い一体感を持っていたことによる、支配下にある一般民衆の文化もしくは慣習に無関心であったこと、もしくは実際は、中国へ赴いていなかったのではないかという理由が考えられる。
流布
当時のヨーロッパの人々からすると、マルコ・ポーロの言っていた内容はにわかに信じ難く、彼は嘘つき呼ばわりされたのであるが、その後多くの言語に翻訳され、手写本として世に広まっていく。後の大航海時代に大きな影響を与え、またアジアに関する貴重な資料として重宝された。探検家のクリストファー・コロンブスも、1438年から1485年頃に出版された1冊を持っており、書き込みは計366箇所にも亘っており、このことからアジアの富に多大な興味があったと考えられる。
祖本となる系統本は早くから散逸し、各地に断片的写本として流布しており、完全な形で残っていない。こうした写本は、現在138種が確認されている。
影響
1300年頃マルコ・ポーロが本書で「モンゴル帝国」を紹介したように、イブン・バットゥータやルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホも東方の情報を伝えた。
1355年にはイブン・バットゥータの口述をイブン・ジュザイー(英語版)が筆記した「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」でマリーン朝に、ジョチ・ウルス・トゥグルク朝(インド)・サムドラ・パサイ王国(スマトラ)・シュリーヴィジャヤ王国(マラッカ)・マジャパヒト王国(ジャワ)・元(首都の大都、当時世界最大の貿易港の一つ泉州)を紹介した。イブン・バットゥータの翻訳がヨーロッパにもたらされたのは19世紀になってからである。
1406年にはルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホが「ティムール紀行(スペイン語版)」で、モンゴル帝国の後継国家のひとつ「ティムール朝」を紹介した。しかし、1396年に十字軍とオスマン帝国の間で行われたニコポリスの戦いの影響から、同じイスラム国家であるティムールに対するヨーロッパ社会の反応は冷めたもので、東方見聞録に対するような熱狂は起こらなかった。
この後も東方見聞録こそが大航海時代の探検家にとって、アジアを目指す原動力として機能し、コロンブス・コルテス、マゼランらがヨーロッパの白人世界に富をもたらすことになった。
16世紀初頭には、ポルトガル人トメ・ピレス(英語版)が、マラッカに滞在していた時に見聞した情報をまとめた『東方諸国記(ポルトガル語版)』を著した。  
 
マルコ・ポーロ

 

(伊: Marco Polo、1254-1324) ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)を口述した冒険家でもある。
商取引を父ニッコロー・ポーロ(イタリア語版)と叔父マッフェーオ・ポーロ(英語版)に学んだ。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して3人の子供に恵まれた。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会(イタリア語版)に埋葬された。
彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロの世界図が作成された。またクリストファー・コロンブスなど多くの人物に刺激を与えた。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やマルコポーロヒツジ(英語版)にも使われ、彼の生涯をテーマにした小説や映画なども製作された。
幼少時
マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測である。その中で最も引用される情報は1254年生まれというものである。 生誕地は一般にヴェネツィア共和国だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれている。 生家は代々続く商家で、彼の父親ニコーロは中東貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつあった。 ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着いた。 政変が起こると予測した彼らは、1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった。『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、クビライとも謁見しているという。 この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された。マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わったが、ラテン語を履修する機会は持てなかった。

1269年、ニコーロとマフィオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。そして1271年後半に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。一行が富と宝を得て戻ってきたのは24年後の1295年、全行程15,000kmの旅であった。
彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた。数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサであった。しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまった。この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』 (The Travels of Marco Polo) として有名になり、中国、インド、日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらした。マルコは1299年8月に釈放され、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷「contrada San Giovanni Crisostomo」に戻れた。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はヴェネツィアを離れなかった。1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれた。
死去
1323年、病気になったマルコ・ポーロは枕も上がらなくなった。翌年1月8日、医師の努力も空しく死期が迫ったマルコは財産分与を認め、亡くなった。遺言の公認を聖プロコロ教会の司祭ジョバンニ・ジュスティニアーニから得た妻と娘たちは正式に共同遺言執行者 (en) となった。遺言に基づいて教会も一部の地権を受け、さらに多くの遺産分与をサン・ロレンツォ教会に行なって遺体を埋葬された。 また、遺言にはマルコがアジアから連れてきたタタール人の奴隷を解放するよう指示されていた]。
マルコは残りの遺産についても、個人や宗教団体、彼が属したギルドや組織などへの配分を決めていた。さらに、彼は義理の姉妹が負っていた300リラの借金や、サン・ジョバンニ修道院、聖ドミニコ修道会のサン・パウロ教会または托鉢修道士 (en) のベンヴェヌートら聖職者が持つ負債の肩代わりもした。ジョバンニ・ジュスティニアーニには公証人役への報酬、また信者からとして200ソリドゥスが贈られた。マルコの署名は無かったが、「signum manus」の規則が適用され有効なものとされた遺言状は、日付が1324年1月9日になっていた。規則により遺言状に触れる者は遺言者だけと決められていたため、マルコの没日は9日ではないかとの疑問も生じたが、当時の1日は日没で日付が変わっていたため、現在で言う8日深夜であった可能性もある。
マルコ・ポーロの旅
マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ、140種類を超える写本間にも有意な差が見られる。初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年にドイツ語で初めて活字化され、1488年にはラテン語およびイタリア語で出版された。しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、ヘンリー・ユールによる英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがある。同じ英語翻訳でもA.C.ムールとポール・ペリオが訳し1938年に出版された本では、1932年にトレド大聖堂で発見されたラテン語本を元にしているが、他の版よりも5割も長い。 このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られている。印刷機(en)の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多い。これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われている。
内容
本は、ニコーロとマフィオがキプチャク・ハン国のベルケ王子が住むボルガール (en)へ向かう旅の記述から始まる。1年後、彼らはウケク (en) に行き、さらにブハラへ向かった。そこでレバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがないクビライと面会する機会を設けた。 これは1266年に大都(現在の北京)で実現した。クビライは兄弟を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げ、またローマの教皇や教会についても聞いた。兄弟が質問に答えるとクビライは、リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた教皇に宛てた書簡を託した。さらにクリスム(Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプの油)も持ってくるよう求めた。
ローマ教会では1268年にクレメンス4世が没して以来、使徒座空位にあり、クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。ニコーロとマフェオはテオバルド・ヴィスコンティ、次いでエジプト駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにした。彼らがヴェネツィアに着いたのは1269年もしくは1270年であり、ここで当時16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになった。
次期教皇はなかなか決まらず、1271年にニコーロとマフィオそしてマルコの3人はクビライへの説明のために旅に出発した。彼らが小アルメニアのライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いた。彼らに、2人の宣教師ニコロ・ディ・ヴィツェンツァとグリエルモ・ディ・トリボリが同行することになったが、宣教師らは旅の困難さに直面し早々に逃亡してしまう。
マルコ一行はまずアッコまで船で往き、ペルシャのホルモズガーン州でラクダに乗り換えた。彼らは船で中国まで行きたかったが当地の船は航海に適さず、パミール高原やゴビ砂漠を越える陸路でクビライの夏の都・上都(現在の張家口市近郊)を目指した。ヴェネツィアを出て3年半後、21歳前後まで成長したマルコを含む一行は目的地に到着し、カーンは彼らを歓迎した。マルコらが到着した正確な日付は不明だが、研究者によると1271年から1275年の間だと見なされている。 宮廷にて、一行はエルサレムから持参した神聖なる油と、教皇からの手紙をクビライに渡した。
一行は元の政治官に任命され、マルコは中国南西部の雲南や蘇州・楊州で徴税実務に就いたり、また使節として帝国の南部や東部、また南の遠方やビルマ、スリランカやチャンパ王国(現在のベトナム)など各所を訪れ、それを記録した。 マルコはイタリア語の他に、フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語の4言語に通じ、一行はクビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていたこともあり、マルコの役人登用は不自然ではない。
17年間中国に滞在した マルコら一行は元の政治腐敗を危惧し、中国を去りたいという申し出をしたがクビライは認めなかった。 しかし彼らは、もしクビライが亡くなれば重用された自分たちは政敵に狙われ無事にヨーロッパに戻れなくなるのでは、と危惧していた。1292年、イル・ハン国のアルグン・ハンの妃に内定したコカチンを迎えに来た使節団が、ハイドゥの乱のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらに同行を求めた。この許可を得た一行は同年に泉州市から14隻のジャンク船団を組んで南へ出航した。彼らはシンガポールに寄港し、スマトラ島では5ヶ月風待ちして過ごし、セイロン島を経由してインド南岸を通過し、マラバールや アラビア海を通って1293年2月頃にオルムス(Ormus, ホルムズとも)に至った。2年間にわたる船旅は決して平穏ではなく、水夫を除くと600人いた乗組員は到着時には18人にまで減ったが、コカチンやマルコら3人は無事に生き残った。 オルムスに到着し行われた結婚の祝賀会が終わると、マルコらは出発し、陸路で山を超え黒海の現在ではトラブゾンに当たる港へ向かった。 マルコらがヴェネツィアに戻ったのは1295年、通算24年間の旅を終えた。
評価
マルコには『イル・ミリオーネ(Il Milione、百万男)』というあだ名がついていた。『東方見聞録』でルスティケロは「それらはすべて賢明にして尊敬すべきヴェニスの市民、《ミリオーネ》と称せられたマルコ・ポーロ氏が親しく自ら目睹したところを、彼の語るがままに記述したものである。」と述べている。このあだ名の由来には諸説あるがはっきりしたことは分からない。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたという説、またそれを大風呂敷だとして当時の人がからかい、そのように呼んだという説、またアジアから持ち帰った商品によって「百万長者」になったことを表すという説などがある。
大英図書館中国部主任のフランシス・ウッドは『東方見聞録』には実在した中国風俗の多くが紹介されていないことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示し、彼は黒海近辺で収集した情報を語ったと推測している。
日本のモンゴル史学者の杉山正明はマルコ・ポーロの実在そのものに疑問を投げかけている。その理由として、『東方見聞録』の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げている。但しモンゴル宮廷についての記述が他の資料と一致する、つまり宮廷内に出入りした人物で無いと描けないということから、マルコ・ポーロらしき人がいたことは否定していない。
2010年1月イランのハミード・バガーイー文化遺産観光庁長官は、国際シルクロード・シンポジウムにてマルコ・ポーロの旅には西洋が東洋の情報を収集して対抗するための諜報活動という側面があったという説を述べた。これは、単に交易の道だけに止まらないシルクロードが持つ機能を端的に表現したもので、この道が古来から文化や社会的な交流を生む場であり、マルコの旅を例に挙げて示したものである。
1981年から1990年まで発行された1000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されていた。
影響
黄金の国ジパング
マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、自らは渡航しなかったが 日本のことをジパング (Zipangu)の名でヨーロッパに初めて紹介した。バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介している。1274年、1281年の元寇についても触れているが、史実を反映した部分もあれば、元軍が日本の首都である京都まで攻め込んだという記述や日本兵が武器にしていた奇跡の石など、空想的な箇所もある。
「黄金の国」伝説は、奥州平泉の中尊寺金色堂についての話や遣唐使時代の留学生の持参金および日宋貿易の日本側支払いに金が使われていた事によって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられる。また、イスラム社会にはやはり黄金の国を指す「ワクワク伝説」があり、これも倭国「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられる。
日本では、偶像崇拝(仏教)が信仰されていることや、埋葬の風習などに触れているが、これはジパングと周辺の島々について概説的に述べられており、その範囲は中国の南北地域から東南アジアおよびインドまでに及ぶ。また、これらはフリーセックス的な性風俗ともども十字軍遠征以来ヨーロッパ人が持っていた「富」および「グロテスク」という言葉で彩られるアジア観の典型をなぞったものと考えられる。
当時の日中貿易は杭州を拠点に行われていた。しかし1500海里という表現は泉州から九州北部までの距離と符合し、ここからマルコは日本の情報を泉州で得たと想像される。「ジパング」の呼称も中国南部の「日本国」の発音「ji-pen-quo」が由来と思われる点がこれを裏付ける。この泉州は一方でインド航路の起点でもあり、マルコの日本情報はイスラム商人らから聞いたものである可能性が高い。
ユーラシア情報
マルコ・ポーロは旅の往復路や元の使節として訪れた土地の情報を多く記録し、『東方見聞録』は元代の中国に止まらず東方世界の情報を豊富に含み、近代以前のユーラシア大陸の姿を現在に伝える。 それらは異文化の風習を記した単なる見聞に止まらず、重さや寸法または貨幣などの単位、道路や橋などの交通、さらには言語等にも及び、それは社会科学や民俗学的観察に比される。 その中で、マルコはアジアの「富と繁栄」を多く伝えた。世界最大の海港と称賛した泉州や杭州の繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市計画の整然さや庭園なども美しさを記している。また、ヨーロッパには無かった紙幣に驚き、クビライを「錬金術師」と評した。 なお、彼は元の成立をプレスター・ジョンと関連づけた記述を残している。
往路ではシルクロードを通り、伝えた中央アジアの情報について探険家のスヴェン・ヘディンは、その正確さに感嘆した。1271年にパミール高原(かつてはImeon山と呼ばれた)を通過した際に見た大柄なヒツジについても詳細な報告を残しており、この羊には彼の名を取りマルコポーロヒツジとの名称がついた。
復路の船旅についても、南海航路の詳細や東南アジアやインドなどの地方やイスラム文化等の詳細を伝え、さらに中国やアラブの船の構造についても詳細を記した。 1292年にインドを通った時の記録には、聖トマスの墓が当地にあると記している。 また、イスラムの楽器についても記録した。
マルコは宝石の産地を初めて具体的にヨーロッパに知らせた。セイロン島では良質なルビーやサファイアが採れ、またコロマンデル海岸の川では雨の後でダイヤモンドが拾えるが、渓谷に登って採掘するには毒蛇を避けねばならないと記した。
世界観への影響
『東方見聞録』は、中世におけるヨーロッパ人のアジア観に変化を与えた、キリスト教的世界観である普遍史はエルサレムを世界の中心とするマッパ・ムンディで図案化されてきたが、マルコ・ポーロの報告はパクス・モンゴリカの成立によるアジアの新情報ともども変更を迫られた。イシドールスの『語源』以来ヨーロッパ人が持っていた怪物や化け物的人類が闊歩する遠方アジア観「化物世界史」の誤りを数多く指摘した。
マルコ・ポーロ以降も極東の島・日本はまだ見ぬ憧憬の国であり、様々な形で想像され、世界地図に反映されることになった。
マルコの報告が大航海時代を開く端緒のひとつになったという考えもある。1453年に作成されたフラ・マウロの地図en:Fra Mauro mapに対して、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ(en)は以下のコメントを寄せている。
「この羊皮紙に描かれたすばらしい世界地図は、宇宙誌を学ぼうとする者に偉大なる光を与えたもう僧院のひとつである(ムラーノのサン・ミッシェル、カマルドレセ)修道院の聖歌隊席の横にある大きな飾り棚に見ることができる。克明に写され描かれた至上の美しさといにしえの知を伝える海図と世界地図は、最も高貴なる伝達者マルコ・ポーロとその父がキャセイ(中国)より伝えしものである。 」
持ち帰ったもの
マルコ・ポーロは中国で、住民が細長い食べ物を茹でている光景を見た。この料理の作り方を教わったマルコはイタリアに伝え、これが発達してパスタになったという説がある。この説によると、「スパゲッティ」(Spaghetti)とはマルコに同行していた船乗りの名が由来だという。 別な俗説では、マルコ一行のある船員と恋仲になった中国娘が、帰国の途に就く男との別れに悲しむ余り倒れ、その時に持っていたパンの生地を平らに潰してしまった。この生地がやがて乾いてミェヌ(麺)状になったというものもある。ただし、これには否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われる。
陶磁器も持ち帰った。中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいたが、マルコは製造工程も見聞している。しかし、これは西欧での陶磁器製造には結びつかなかった。
方位磁石もまた、マルコが中国から持ち帰った一品である。これは羅針盤へ発展し、大航海時代を支える道具となった。
中国を目指した他の人々
マルコ・ポーロ以前にヨーロッパ人が中国を旅した他の例にはプラノ・カルピニがいる。しかし、彼の旅行の詳細は一般に広く知られることは無く、この点からマルコが先陣を切ったと思われている。クリストファー・コロンブスはマルコが描写した極東の情報に強く影響を受け、航海に乗り出す動機となった。コロンブスが所蔵した『東方見聞録』が残っており、ここには彼の手書き注釈が加えられている。ベント・デ・ゴイスも「東洋で君臨するキリスト教の王」についてマルコが口述した部分に影響され、中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をした。彼は王国を見つけられなかったが、1605年には万里の長城に至り、マテオ・リッチ(1552年 - 1610年)が呼んだ「China」が、「Cathay」と同一の国家を指していることを立証した。

マルコ・ポーロ『世界の記述』における「ジパング」 1

 

I. 序
日本では『東方見聞録』(1)というタイトルで知られているマルコ・ポーロ Marco Polo の『世界の記述』(2)は、西洋世界に日本の存在を伝えた最初の文献である。本論では、十三世紀末に書かれたこのあまりに有名な「旅行記」の日本に関する記述を、中世の知的伝統の中で蓄積された東洋のイメージと照らし合わせて読解することで、マルコ・ポーロの記述の戦略的性格とその語りの機能について検討する。
本論に入る前にまず簡単にこのテクストの成立について確認しておこう。『世界の記述』の序文によると、マルコ・ポーロは1271年後半に父と伯父とともに旅立ち、1295年にベネチアに帰国している。『世界の記述』はマルコの帰国後間もなく、十三世紀末に口述筆記された。他の大半の中世の作品同様、『世界の記述』もマルコ・ポーロあるいは作品の口述筆記者であるとされるルスティケッロ・ダ・ピーサRustichello da Pisaの手による手写本は残っていない。十四世紀初頭に制作されたイタリア語がかったフランス語で書かれたF写本(Paris, BnF fr. 1116)がオリジナルのテクストに最も近いテクストを提供していると考えられている。ポーロのこの作品は十四世紀中にラテン語をはじめとする各国語に訳され、この作品を記録する写本は140以上確認されている。このうちフランス語の写本は、断片だけのものを含め、18写本が現存している。フランス語写本のうち最も古いものは十四世紀前半に制作され、この写本の祖本はF写本と同じものであると考えられている。
フランス語写本を底本とするエディションのうち、十四世紀前半に制作されたB1写本(Londres, BL Royal 19 D.1)に基づくフィリップ・メナールのエディションが今後フランス語版の『世界の記述』の決定版となることは確かだが、現在全六巻のうち三巻目までしか刊行されていない(3)。このため本論ではバデルが校訂したB4写本(Paris, BnF fr. 5469)に基づくLivre de poche版を引用の際の典拠とした(4)。B4写本は十五世紀半ばの写本で同系統の写本の中では最も完全な記述のテクストを提供している。
II. 史実から伝説へ:「ジパング」の記述の背景
日本(=ジパング)についての記述はバデルのエディションでは、158、159、160(5)の三章に渡っている。ただし160章の見出しは、この版では「カタイとマンジの偶像崇拝のやり方についてここで語る」となっていて「ジパング(このテクストではフランス語読みでシパンギュSypangu)」は見出しの中に含まれていない。しかし各章の見出しは写本によって異同が多く、160章の内容を読めば、この章が日本を含む東・南シナ海の広大な海域に散らばる島々の風俗の描写に充てられていることは明らかである。
日本に関する三章はインドとその周辺地域を扱う部分の最初におかれている。この部分ではポーロが帰国の際に採った、中国からインドを経てペルシャに至る海上ルート上の国と地域の描写に充てられている。
『世界の記述』冒頭で、この書物にはポーロ自身が見た物事だけでなく、他人からの伝聞情報も記述されていることが記されている(6)。ポーロが日本に行っていないことは160章で明示されており(7)、したがって『世界の記述』の日本についての記述は専ら伝聞によるものである。
この三章において「シパンギュ」がどのように書かれているかについて確認しておこう。他の多くの地域の記述同様、マルコ・ポーロは地理、民族、宗教についての簡潔な描写から始める。
「シパンギュは東方の海上にある孤島で、大陸からは1500海里の距離にあります。シパンギュは極めて巨大な島です。住民の肌は白く、美しい姿形をしています。シパンギュ島民は偶像崇拝教徒で、住民自らによって島を統治しております。」
1500海里の距離(約2500km)は、モンゴル軍が上陸を試みた九州北部と、当時の中国の国際貿易港でインド航路への基点となったサイトン(泉州)との距離にほぼ相当する。泉州はポーロがインドに向けて旅立った町でもあった。ただし当時の日中貿易の中国の拠点は、泉州から北に600キロのところにある杭州に限られていた。元冠の際にモンゴル軍が日本に向けて出港したのも杭州である(8)。1500海里という距離が、泉州と九州北部間の距離と符号するという事実は、ポーロが日本についての情報を泉州滞在中に収集したことを示唆している。この推定は「ジパング」という呼称が、当時の中国南部方言での日本国(ji-pen-quo)の発音に由来していると考えられることとも符号する。マルコ・ポーロが『世界の記述』で使っているサイトンという泉州の名称はこの町を貿易活動の拠点としたイスラム商人の間で主に使われていた呼称であることから、ポーロは日本についての情報をイスラム商人から得ていた可能性が高い。
引き続いてマルコ・ポーロはこの島の豊かさについて語り始める。ジパング黄金伝説の始まりである。
「そして量ることができはないほど大量の金をこの島の住民は持っていることを言っておきます。[…]これまでこの島から金を持ち出そうとするものはいませんでした。というのも大陸から遠く離れた場所にあったため、この島に行った大陸の商人はほとんどいなかったからです。[…]この島には非常に大きな宮殿があり、その宮殿は、我々の国の教会が鉛で覆われているようなやり方で、純金で覆われていることを、お知りおき下さい。[…]それだけではありません。この宮殿の床とあらゆる部屋は大きな純金の板でできていて、その金の厚さは指二本分ほどもあるのです。[…]島の住民は宝石を大量に持っていますし、真珠もたくさん持っています。赤い真珠で非常に貴重で、その価値は白い真珠に匹敵します。」
これらの黄金と富に関する記述の内容は明らかに誇張されたものである。十三世紀末当時において日本が世界有数の金産国であったという事実はない。この日本の黄金伝説のソースとして、遣隋使以降日本の中国使節はその滞在費用として砂金を持ってきたこと、中尊寺の金色堂の様子が誇張されて中国に伝わったこと、当時の日中貿易で日本は中国に対して大幅な赤字の状態だったので代金の支払いのため日本から中国にほぼ一方的に砂金や水銀の流入があったこと等の歴史的事実を挙げ、これらを核に日本の黄金伝説が形成されたのではないかという仮説も提示されている(9)。
またイスラム世界では九世紀以来「ワクワク」と呼ばれる黄金の国の伝説が流布していた。「ワクワク」は、日本を示す中国語の名称、「Wa-quo(倭国)」に由来すると考えられている。ポーロがおそらく日本に関する情報の大半を収集した大貿易港、泉州は当時のイスラム商人の貿易基地でもあった。『世界の記述』の黄金伝説は、中国・イスラム商人の想像力によって作り上げられた日本の黄金幻想を反映したものである可能性が高い。
黄金伝説に引き続き、モンゴル軍の日本への侵攻の様子が描写される。モンゴルは1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二回に渡って日本を侵攻しているが、ポーロのここでの記述はその内容から二回目の遠征、弘安の役について書かれたものだと考えられている(11)。『世界の記述』158章に記されている逸話、モンゴル軍兵士が九州沖合の島に置き去りにされたことは、元の史料でも日本の史料でも確認できる。
第159章でも引き続きモンゴル軍と日本軍の戦いについての描写が続く。この章では、小島に置き去りにされたモンゴル兵の日本の首都攻略の様子、首都の攻防戦とモンゴル軍の降伏、戦いから逃げた将軍の処刑、日本の兵士が持っていた奇跡の力を持つ石の逸話が語られている。史実とほぼ矛盾しない前章の記述とは異なり、159章で語られる逸話はほとんどすべて対応する史実のないロマネスクな内容である。
160章はジパング島とその周辺の島々の宗教と風俗について割かれている。
「さてお知りおきください、カタイ(中国北部)、マンジ(中国南部)およびインドの島々で崇拝されている偶像はみな同じ外観を持っています。頭部が牛である偶像神や、頭部が豚、犬、羊あるいは別の動物をかたどったものもございます。それに頭部に四つの顔を持つ神像や、本来あるべき頭に加え、両肩に二つの頭を乗せた三つの頭を持つ神像もあるのです。さらに四本の腕を持つものもあれば、十本あるいは千本の腕を持つ神像もありますが、千本の腕を持つ神像は他の像よりもさらに熱心に信仰されております。」
ポーロはまずこれらの地域で信仰の対象となっている仏像のグロテスクな形態の説明から始めている。他の箇所同様、ポーロは仏教もしくはラマ教を「偶像崇拝」の宗教と呼ぶ。ここでの描写は千手観音や多面観音像を想起させるが、牛や豚や馬の頭部を持つ動物神の描写は仏像よりむしろ当時のインドネシア諸島でも信仰されていたヒンズー教の神像を連想させる。
宗教の説明が終わると、ポーロはこれらの島々で行われている人肉食(カニバリズム)の報告を行う。
「ただ私がしっかりと言っておきたいのは次のことです。この島あるいは他の島々の人々は皆、捕まえた敵の身代金が払われない場合、敵を捕らえた者は親類や友人を呼び集めると、みんなで敵を取り押さえ、殺して、料理した後で、大きな宴会を開いてそれを食べてしまうのです。彼らにとって人肉はこの世で一番のご馳走なのです。」
人肉食の風習の紹介のあと、マルコ・ポーロは「シナ海」(この名称で彼が示す海域は、実際のところ、彼が考えているよりはるかに広大な北太平洋一帯である)の産物について列挙し、この章を終える。以上がマルコ・ポーロの『世界の記述』の中の「ジパング」記述の概要である。
III. 「真実」と「虚構」:東洋記述にみられる語りの戦略
これらの「ジパング」についての記述を、西洋中世の東洋表象の伝統に照らした上で検討してみよう。
まず日本の黄金伝説だが、このソースについては愛宕氏を始めとする東洋史学者が指摘しているように、いくつかの歴史的事実を核に形成されてきた可能性を否定することはできない。しかし実際のところ、マルコ・ポーロの描く日本の富の描写は、中世ヨーロッパで書かれてきた物語、百科事典的著作の中に繰り返し出てくる東洋の豊かさというトポスをなぞっているに過ぎないとも言える。十字軍遠征を背景に十二世紀後半に偽造され、その後のヨーロッパ人によるアジアのイメージ形成に重大な影響あたえた『司祭ヨハネスの手紙』にある司祭の国の宝石の豊かさの描写と、マルコ・ポーロのジパングの黄金の描写の間には本質的な違いはない(12)。「豊かさ」の列挙は東洋を表象するトポスとして多くの中世の作品でなじみの記述であり、ポーロの『世界の記述』の中でもジパングに限らず、このような「富」の描写は、大カーンの都をはじめ、至るところで繰り返されているのである。
ポーロが160章で報告している人肉食の習慣も、東洋世界の描写の付随する慣習的記号の一つに過ぎない。『世界の記述』では、160章以外にも、四ヶ所でポーロは人肉食について報告している(13)。
十三世紀後半に書かれたブルネット・ラティーニBrunetto Latiniの百科事典、『宝典』のインドに関する章では、東方世界への富の描写につづいて、人肉食の描写がみられ、されにはアジアに住む怪物の姿が描写されている。
「インドの外側には二つの島があります。エリル島とアルジット島です。これらの島には巨大な鉱床があり、地面全体が金銀でできていると考える人もいます。
そして御知りおきください、インドおよびその外側の国には、極めて多様な人種が存在するのです。魚だけを食べて生きている人種や、老齢や病気で死んでしまう前に父親を殺し、さらにはそれを食べてしまう人種もいます。これが彼らにとっては大きな哀悼を示すやり方なのです。ナイル川上流に住む人種には足が逆の向きについている、つまり足の裏が上にあって、その指が八本ある人種も住んでいます。また犬の頭を持つ人種や頭がない人種もいます。頭がない人種の場合、その目は両肩についているのです。別の人種は一つ目の一本足で、走るのにたいそう難儀します。八年を越える寿命はないのに、五年の間、身ごもる女もいます。インドに生えている木には葉が生えていません。」
上記引用にあるラティーニのインドの記述は、古代のプリニウス以来の東方世界の記述の伝統に由来する。こうした幻想的東洋世界のイメージは中世の百科事典的著作だけでなく、実際に東洋を訪れたポーロの記述にも大きな影響を与えている。さらには十四世紀後半に既存の書物の記述をつぎはぎして架空の東方旅行記を記したマンデヴィルMandevilleの著作では、古代以来の東方に関する幻想的な民族誌的知識はさらに増幅されている(15)。
結局のところ当時の西洋世界の人間にとって、人間が住むのはキリスト教圏だけであり、それ以外の世界には、人間とは見なしがたい異教徒や、犬頭人、一つ目巨人、頭がなく目が胸についた怪物などが群棲していることになっていたのである。こうした東方についての幻想的イメージは中世だけでなく、その後の時代にも引き継がれる。アメリカ大陸を発見したコロンブスもまたこうした幻想的な東洋のイメージとは無縁でなかった。つまり、大航海時代の人間の多くは、自分で直接見聞した範囲内の土地には人間が住むことを確認したけれども、それ以外の土地には化け物の住む可能性を信じ続けたのである。
中世の西洋人が東方世界に対して抱いた最初の幻想は、豊かな富あふれる世界である。司祭ヨハネスの手紙の中にある、インドにある彼の王国の豊かさの詳細な描写は、こうした伝統的な東方世界のイメージの典型例を示している。そしてさらに東洋は西洋世界と異なる風俗・生活習慣を持つ人々が住まう世界として描かれた。西洋のキリスト教会のモラルとは無縁である東洋は野蛮な奇習の土地でもあった。数ある中世の東方世界記述の中でも(中世に限ったことではないが)、頻繁に報告されるのは食人の風習と性に関する風俗(それもフリー・セックスに関わる幻想)である。ポーロのテクストでも中国辺境の三つの地方で、旅人に妻や娘を家の主人が供する性風俗が記録されている(16)。
こうした東洋にかかわる幻想的記述のステレオタイプは、当時の西洋世界にとってどういう意味・機能を持っていたのだろうか。
中世の西洋人にとって、「富」と「グロテスク」は東洋世界の描写に不可欠な記号だった。こうした記号的描写によってもたらされる類型的なエキゾティスムこそ、当時のヨーロッパ人にとって東方世界の「現実性」réalitéを感じさせるものだったのである。
十三世紀後半から十四世紀前半にかけての強大なモンゴル帝国の成立によってユーラシア大陸に「モンゴルの平和」Pax Mongorianaが到来し、古代以来途絶えていた東西交通が復活した。この期間にモンゴルを訪れた教会人や商人によって、彼らが自分の目で観察した東方世界の報告が数編書き残されている。しかし彼らの観察眼は、古代以来のリブレスクな知的伝統から完全に逃れることはできず、彼らの東方記述は例外なく真と偽、可能と不可能、現実と幻想が同じ次元でいりまじったものになっている。ポーロの『世界の記述』も同様である。この種の幻想的な「驚異」は、東方世界の報告を真実らしくするためには不可欠なものとなっていたのである。当然東方世界の探検者はこうした驚異に関する情報には敏感であったに違いない。
商人であったマルコ・ポーロは極めて冷静な東方世界の観察者ではあったが、中世の伝統の中で形作られてきた幻想的な東洋のイメージから完全に自由だったわけではない。極東の島国「ジパング」のような彼が実際に訪問したわけではない辺境の地域は、こうした東洋に関する古典的な驚異を配置するにはふさわしい場所だったに違いない。
一世紀の大プリニウスの『博物誌』以来、七世紀のセビリアのイシドルスの『語源』を経て、十三世紀のボーヴェのヴァンサンの『世界の鏡』、ブルネット・ラティーニの『宝典』などに至る百科全書的な知の伝統の中で、東洋に関する知識は中世を通じて継承・蓄積されてきた。十二世紀後半以降に相次いで書かれた百科事典的著作では、東方世界に関する記述が増大する傾向にあるのは示唆的である。十三世紀はじめのピエール・ド・ボーヴェの『世界図』は、ホノリウスの著作の翻訳であるが、東洋に関する章は、ソリヌスなど他の著作からも情報を補足することで、ホノリウスの原著より詳細なものになっている。ブルネット・ラティーニの『宝典』の第一の書の第四部は「世界図」に当てられているが、その大半はアジアの描写で占められている。
実際のところ、ポーロの『世界の記述』はその日本語訳タイトルである『東方見聞録』が連想させるような「旅行記」ではない。「序文」の部分を除いて、ポーロ自身のことが語られるのはほんのわずかな場所にすぎず、それもただ単に報告されている事柄の証言者であることを強調する役割でしかない。この著作の本質的性格は、「旅行記」というよりはむしろ、大プリニウスの『博物誌』以来続く中世の百科事典的伝統の延長線上にあるものなのである。
こうした西洋のリブレスクな知的伝統の中でイメージされた東洋は、基本的には地理的な実体ではなく、歴史的・文化的な概念であり、象徴である。「オリエント」は西洋のアイデンティティ確立のための対概念に過ぎない。西洋の世界の対概念としての東洋に関する記述が十二世紀以降、特に充実してきた事実は、この時期の西洋社会の政治・経済面での急速な発展、知的成熟、十字軍などによるイスラム世界との軍事的接触などを挙げることで説明できるだろう。
ヨーロッパは、異文化=他者を「東洋」として意識化することで「西洋」を規定した。十二世紀以降の東洋世界像の再構築は、ヨーロッパの知的自我の確立の一プロセスをなしていたのである。この目的がゆえ、東洋世界は西洋世界にはない驚異の数々を持っていなければならなかったし、ヨーロッパ世界とは異なる世界でなければならなかったのである。
こうした観点から考えると、マルコ・ポーロの『世界の記述』の文体は興味深い。彼の「乾いた」素っ気ない文体は、旅行記というよりはむしろ地誌を我々に連想させるが、こうした「乾いた」文体の選択は、東方世界がマルコや同時代の読者にとって、外側から観察される対象であることを示唆しているように思えるからである。私がこの「旅行記」を読んで奇妙に感じるのは、ポーロは十七年間の長きにわたって中国に滞在したのにも関わらず、記述の中では彼は常に観察者でとどまっていることである。
この著作の序文では、『世界の記述』はマルコ自身が語ったものを、別人が口述筆記したものであることが明らかにされている。
「この本は、ポーロ氏はジェノバの牢獄に投獄されていたおりに、ルスティケッロ・ダ・ピーサ氏に理路整然とした形で書き取らせたものです。ルスティケッロ氏もまたキリストの託身から1298年目の年に、ポーロ氏と同じ牢獄に投獄されていたのでした。」
ポーロが口述したとき、東洋の描写のための約束事はすでに確立していた。ポーロの口述筆記者であるルスティケッロ・ダ・ピーサは、作品の文体選択、構成についてかなり積極的なかたちで関与していたと私は考えている。散文アーサー王物語群の編纂の経験もある職業作家だったルスティケッロ・ダ・ピーサは、単なる口述筆記者ではなかったはずだ。おそらく職業的著述家であったルスティケッロが時代の聴衆の要求に応えるべく、伝統に則ったかたちで、ポーロの話を再構成したのだ。
マルコ・ポーロの『世界の記述』は極めて実証的で冷静な観察に基づく報告をたくさん含んでいるが、その記述の本質は中世の文学伝統の中で蓄積された東方の描写から遠い位置にあるわけではない。しかし数多く含まれる幻想的で不正確な記述にもかかわらず、いやむしろそうした驚異についての記述が含まれているからこそ、ポーロの日本についての記述は、当時期待されていたその文学的機能を完全に果たすことができたのである。
IV. 東方幻想の継承とその実現
ジャン=ポール・ルーは著作の中で「ヨーロッパ中で読まれたマルコ・ポーロのジパングについての記述は、彼の中国についての記述以上に人々を熱狂させた(17)」と記している。またテクストの校訂者であるバデルはその序文で、コロンブスはラテン語版の『世界の記述』の熱心な読者であり、中国とジパングについての記述に想像を膨らませたことが彼の「アメリカ発見」につながったと記している(18)。
ジパングの「黄金伝説」はおそらく十八世紀になってもまだ存続していた。トレブーの百科辞典の日本についての項目には以下のような興味深い記述が含まれている。
「しかし日本諸島でもっとも重要なのは、金と銀の鉱山である。さらに大きな真珠もここで大量に産出される。日本の真珠は赤い色をしており、白い真珠と同じくらい珍重されている。」
金銀の鉱山のみならず、赤い真珠にまでこの項目は言及している。トレブーはこの項目を書くにあたってあたかもポーロの記述を参照したかのようである。
東洋の富に関する記述は伝統的でありふれた文学的トポスに過ぎない。それではなぜ日本の黄金伝説が特に彼らの関心をひいたのだろうか。
それはおそらく日本が東アジアの辺境にあるという地理的条件ゆえである。この地理的条件ゆえ、ジバングの伝説はヨーロッパ人をかくも魅了し続けることができたのだ。日本が発見されるのは1543年、マルコ・ポーロの著作が世に出てからおよそ250年後の話である。ジパングの黄金伝説は中世の西欧世界の想像力が生み出した東洋にまつわるありふれた神話の一つにすぎない。しかしこの神話はヨーロッパに対する日本の地理的条件によって東方世界についての他の類似記述より大きなリアリティを有するようになり、それゆえ大航海時代における新世界発見のモチベーションのひとつとなりえたのである。
新世界およびアジア、アフリカの土地が「発見」される過程で、ヨーロッパがアジアに対する軍事的・知的優越を認識したとき、中世以来の東方世界についての幻想的な民族誌的知識の集積は、ヨーロッパによる他方の世界の支配、東方の未開人への差別的処遇を「科学的」あるいは「倫理的」に正当化する役割を果たしたに違いない。そうした知識の源泉となった百科全書的著作やマルコ・ポーロの『世界の記述』のような地誌的旅行記の記述は、現代のわれわれから見ると荒唐無稽な記述が含まれているにせよ、当時の西欧世界の人間にとっては古代以来の知的伝統に基づく正統的な「学問」的著述であるとみなされていたからである。
ヨーロッパ人はアメリカ大陸を発見し、そこで中世以来の百科事典等に描かれた「怪物」と遭遇し、彼らをインディアンと呼んだ。そしてヨーロッパ人は莫大な金銀の鉱山もその土地で発見するのである。表現上の誇張はあるにせよ、十六世紀のスペイン司教のラス・カサスが告発するようなインディオに対する数々の残虐な行為(19)、あるいはアフリカの黒人奴隷の悲劇は、古代・中世以来の知的伝統によって形成されてきた「キリスト教圏ヨーロッパ対その他の世界」という歪んだ二項対立の世界観によって正当化される余地があったからこそ可能だったのではないだろうか。つまり西欧の人々の間には、非キリスト教圏の世界に住む人間たちを、「良き未開人」bon sauvageという肯定的神話のもとでとらえられるような観方もあった一方、古代以来の幻想的な東方地誌学に基づき「怪物」の類いであるという観方も広く受け入れられていたように思える。そしてサイードの『オリエンタリズム』以降のポスト・コロニアル研究の流れの中で強調されているように、この二項対立の世界観は十六世紀以降も現代に至るまで、より潜在的で根強いかたちでわれわれと関わりを持ち続けている。
ヨーロッパは新大陸だけでなく、アフリカとアジアにも、植民地を獲得し、近代以降の西洋の繁栄はこれらの植民地をもとに築かれた。東洋の富に関する神話はすでに想像上のものではなくなった。東洋の富に関する神話はその後の歴史で、西洋による東洋の搾取という形で実現していったのである。
もしポーロのささやかで誤謬に満ちたジパングに関する寓話的記述が、後の世界史に大きな影響を行使するきっかけとなったのならば、私はそこに歴史の皮肉を見ずにはいられない。

( 1) 代表的な翻訳を記す。愛宕松男訳注、『完訳 東方見聞録』、平凡社(平凡社ライブラリー)、2000年[東洋文庫版、1971年に基づく再版]。青木富太郎訳、『マルコ・ポーロ東方見聞録』、社会思想社、1969年。青木一夫訳、『マルコ・ポーロ東方見聞録』、校倉書房、1960年。
( 2) 写本によってタイトルは異なる。この論文では引用の際の典拠としたバデルのエディションでのタイトル(BADEL (Pierre-Yves), éd. et trad., Marco Polo. La Description du monde, Paris, Livre de Poche, 1998)に従った。
( 3) MÉNARD (Philippe), dir., Marco Polo. Le Devisement du monde, Genève, Droz, 2001-.
( 4) BADEL, op. cit.
( 5) BADEL, ibid., p. 378-389.
( 6) Voir ibid., p. 50.「学識高く、生まれもよいベネチア市民、マルコ・ポーロは、自身でこれら物事(訳者注:世界の驚異)を見たゆえに、語るのです。彼が見ていない物事もこの本には書かれておりますが、それらは誓って信頼できる方からポーロ氏が聞いた話となっています。それに私たちは、私たちの本が正しく真実でいささかの嘘も含まれないように、見たことは見たままに、聞いたことは聞いたままにお伝えするつもりです」(訳は筆者による。以下同).
( 7)「これらの土地は非常に遠くにあり、マルコ氏はそこに行っておりません」。
( 8) 愛宕松男訳注、前掲書、187-188頁。
( 9) 愛宕、同書、188頁。
(10) 宮崎正勝、『ジパング伝説』(中央公論新社、2000年)、138頁。同書第四章(119-176頁)では、当時のイスラム世界における「ワクワク伝説」の形成の背景について解説されている。
(11) 愛宕、前掲書、189頁。
(12) 「(我が王国に)これから挙げるような宝石の数々が大量にあることは本当です。地上にこれ以上価値のあるものは存在しないほど立派で驚くべき宝石であります。価値の高いエメラルド、その名が知れ渡っている本物の碧玉、輝きまばゆいザクロ石、トパーズを我々は大量に持っています。純粋な貴橄欖(かんらん)石に、大量のめのうに緑柱石、紫水晶に赤縞めのう、その他に無数の上質の宝石も。」
(13) 「そしてお知りおきいただきたいことは、この地方[=現在の福建省付近]の住民はあらゆる肉を食べるということ、そしてとりわけ人間の肉を好んで食べるのです。それも自然死ではない死に方をした人間の肉を。殺された者がいると、彼らはたいそう喜んでその屍肉を求め食べます。というのも人間の屍肉を彼らは非常に上質の肉であるとみなしているからでございます。」 「悪天候のためこの島[=スマトラ島]にマルコ・ポーロ氏が滞在した五ヶ月の間に、船の乗員たちは地面に降りると、彼らが滞在するところに木の城塞と要塞を築きました。獣のような島の食人種を恐れたからです。」 「(ダグロイアン島では)死人が出ると、人々は死人を料理し、すべての親戚が集まってきて、その屍肉料理を食べます。」 「ここでお話するのは、このアンガナン島の人間は犬のような頭を持っていて、その歯も目も犬そっくりであるということです。[...]この島の住民で興味深いことは、彼らは捕まえた人間をすべて、それが同種族人でない限り、食べてしまうことです。」
(14) BRUNETTO LATINI, Trésor, éd. PAUPHILET (Albert), in Jeux et Sapience du Moyen Âge, Paris, Gallimard, 1951, p.767-768.
(15) マンデヴィル/福井秀加, 和田章監訳;大手前女子大学英文学研究会[訳]、『マンデヴィルの旅』(東京、英宝社、1997年)。
(16) BADEL, op. cit., chap.LVIII, chap.CXV, CXVI.
(17) ROUX (Jean-Paul), Les Explorateurs au Moyen Âge, Paris, Fayard, 1985, p. 25
(18) BADEL, op.cit., p. 17.
(19) ラス・カサス/染田秀藤訳、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(東京、岩波書店、1976年)[原著:LAS CASAS (Bartolome de), Brevisima relacion de la destruccion de las Indias, 1552]。  
 
東方見聞録 2

 

ヴェネツィアの父と伯父とマルコ・ポーロ。なぜにこの交易商人の3人だけが13世紀の大モンゴル時代のあの危険と交易と戦乱のユーラシアとアジアを越えて二度にわたるフビライ・ハーンとの親しい接触をなしとげられたのだろうか。いまなおその謎はまったく解明されていない。しかし『東方見聞録』の写本群が、それまでのアジア中心世界を100年後に蘇らせ、次の100年でヨーロッパ中心に変えたことだけは、残念ながらはっきりしている。ぼくはあえてマルコ・ポーロの肩をもって、むしろ13世紀のアジア世界にずっと遊んでいたい。
わが愛するイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』は、旅を了えた中年のマルコ・ポーロが大旅行の思い出を記しているのではなく、若いマルコがフビライ・ハーンの求めに応じて、いましがたの数年数カ月にわたって見聞してきたばかりの“ユーラシアン・アジアもどき”に点在していた都市を、ほやほやの口吻で次から次へと語っていくというスタイルになっている。
だから、この作品の舞台はフビライ・ハーン(クビライ・カーン)の大都(いまの北京)の宮廷の謁見の間で、マルコがフビライの前で親しく話しあっている最中であるという設定なのだ。いかにもカルヴィーノだ。ところが、その話というのがまことにとんでもないもので、たとえば、これといった特徴がないのに記憶に残る都市ツォーラ、理想的な金属とガラスでできた都市フェードラ、波打つ高原に無数に集落をちりばめている都市エウトロピア、峨々たる峡谷の懸崖にあたかもクモの巣のように張り渡された都市オッタヴィア、竹馬のように雲の上に飛び出た都市エウドッシア、消滅を恐れるあまり同じ都市模型を地下につくった都市エウサピア‥‥といった55もの幻想都市が、まるでそのサワリだけを歌うカンツォーネのように語られるのだ。しかもこの都市の名前、みんな女性の名前になっている。カルヴィーノがなぜこんなデタラメな見聞記をマルコ・ポーロに語らせたかというに(それがカルヴィーノのいつもの趣味とはいえ)、この天才作家は、「どんな想像力も都市か書物になるために結像を求めるものだ」と言いたかったからだ。それゆえ、そこにそういう物語がありさえすれば、英傑フビライ・ハーンその人ですらその世界の物語を聞いて、それで世界を征服したかと思える世界書物の点景になりうるわけなのだ。
なぜカルヴィーノが嘘八百の幻想都市の見聞を、わざわざマルコ・ポーロに語らせたかについては、それなりの歴史的な理由もある。実は、マルコ・ポーロが24年に及んだ大旅行から帰って人々にその土産話を吹聴したときも、獄中で『東方見聞録』を口述してそれがヴェネツィアで刊行されたときも、世間はその大半をとんでもないホラ話として受け取り、互いに笑いあったものだった。気の毒にもそのころのマルコは、仲間たちから「イル・ミリオーネ」と徒名されていた。これはイタリア語で「百万」という意味で、いつも百万もの嘘っぱちを言っているという徒名だった。植木等ではないが、百万男の嘘っぱちの無責任男、それがマルコ・ポーロに下された当時の容赦ない判定だったのである。しかし、いったい誰がその物語を判定できるのか。それも世界物語を世界書物にしたという、その物語を判定しうるのか? そこでカルヴィーノは、「ときに物語というものは、そのようにすべてが嘘八百になる。まして世界物語というものはね」と言ってみせたのだ。そして「だったらみなさん、私が語る見聞録はどんなふうに思うのかね」と書いてみせたのが、マルコに代わってのカルヴィーノ得意の20世紀社会の噂にしか生きられない読者への挑戦で、それが『見えない都市』というとんでもない作品になったわけだった。この挑戦の意図をカルヴィーノに代わって弁論すれば、(1)そもそも「都市と書物とは同じものだった」、(2)「マルコ・ポーロの体験と想像こそ未来に向かって重なっている」ということだろう。付け加えれば、(3)「ヒストリーはストーリーでしか生まれない」である。
さて、実際の『東方見聞録』のほうは、当時のヨーロッパ人の誰もがなしえなかった13世紀のアジア(およびユーラシアの一部)を記した気宇壮大な旅行記である。読めばすぐわかるように、そうとうに驚くべきものだ。内容はマルコが口述したから原題では「マルコ・ポーロの旅行記」となっているが、大旅行は“ポーロ一族の旅行”というべきもので、序章には、父ニコロとその弟の叔父マテオとがすでにシルクロード越えをしてフビライ・ハーンの宮廷にまで至った出来事のあらましが述べられている。そのうえで、本文紀行の記述に入っていくのだが、その書きっぷりは、ときに地理的、ときに詳細、ときに印象のみ、ときに何かを引用したかのように、ときに冗長、どきに経済核心的、ときにイスラーム賛歌というふうに、刻々と続いている。
大旅行は、1度目がヴェネツィアの交易商人だったニコロ(ニッコロ・ポーロ)とマテオ(マッフェオ・ポーロ)の兄弟が、1253年にコンスタンティノープルに旅立ったところから始まる。この1253年という年は、ちょうど第7回十字軍が敢行されていた時期で、ヴェネツィアが十字軍に武器と食糧を供給して富をきずきはじめていた時期になる。13世紀のヴェネツィアがどういう海洋貿易型の都市国家だったかということは、世界経済史を語るうえでも、ライバルのジェノヴァとの比較をしておくうえでも、きわめて重要なことなのだが、いまはとりあえず、「フラテルナ」とよばれた家族商会が活躍し、「コンメンダ」あるいは「コッレンガツァ」というパートナー投資組合のような協業性が発達しつつあったということだけを、強調しておくことにする。
もうひとつ、ポーロ家にとって重要で、したがってヨーロッパとアジアの交流史としてもはなはだ重要なことは、二人が旅立ったこの年の1年後の1254年におこった。ニコロの子のマルコ・ポーロがヴェネツィアで生まれ、まもなく母が病没したことである。すなわちマルコは、父ニコロがコンスタンティノープルに出発したのちに生まれ、その父が待てど暮らせど帰ってこなかったということなのだ。それというのも、ニコロとマテオはコンスタンティノープルで商売がうまくいったのか、そこで約6年間も滞在し、あげくにそのままモンゴル人の支配する土地へと向かっていったのだ。これが1260年前後のことで、その1260年前後が実は大モンゴル帝国の歴史にとっても結節点になっていることも、あれこれ説明したいのだが、それをするのはちょっとやそっとですまないので、のちにまわすことにする。ともかくもこうして、ニコロとマルコの父と子は、世界家族史上でもきわめて稀なことに、ユーラシアをまたいで“異様な隔離”を受けたわけである。一説には、ポーロ家はクリミア半島のソルダイアの海港に屋敷をもっていて、そこを拠点に動いていたともいう。それでも異国に6年もいたのだから、きっとそろそろヴェネツィアに戻る気もあったのだろうが、そのとき運悪くコンスタンティノープル国境付近でイスラーム勢力とのあいだの争いがおこった。ベルケ・ハーンの黄金軍団とペルシアのイル・ハーンの宮廷を拠点とするフレグとのあいだの争いである(これが1260年前後の大モンゴル帝国の歴史にとっての結節点を示すひとつの事件なのだが、その説明は省略する)。そこで兄弟は、やむなく東へ、東へと動いていったようなのだ。ヴェネツィアの交易商人にとっては、戦争は「儲けるか、避けるか」、その二つにひとつだった。当時の戦争といえば、コンスタンティノープルのビザンティン帝国とイスラーム諸国との、そして十字軍とムスリム勢力との戦争をいう。そこで、ポーロたちはこれを東に向って避けることにした。しかし、その「東へ、東へ」がついにはポーロ一族の未曾有の大旅行のセレンディピティになったのである。そしてヴェネツィアに残されて育った少年マルコの夢を幼児のころより、東方の果てに募らせたのだ。
ニコロとマテオの東方旅行はむろん商売の旅である。当時の交易商人の多くは街道で塩や毛皮や奴隷を主要商品として交換することにしていたはずだが、ポーロ家は村落やイスラーム都市に入り込み、金や宝石や香辛料を交易するのが得意だったようだ。そのほうが陸地を動きまわる商人にとって軽くて捌きやすかったからだろうが、ポーロ兄弟が金や宝石や香辛料を交易していたこととイスラーム経済と肌で接したことには、その後のヨーロッパ人がこの旅行記が語る“東方”の異国を訪れたくなるキラキラとした要素がはらんでいた。かくてポーロ兄弟は東へ向ってベルケ・ハーンが支配するモンゴル帝国の一隅に入っていく。現在のアストラハンのあたりだ。領民たちが夏のあいだに放牧をさせていた。さらにヴォルガ川に近いキャラバン・サライに進むと、そこではモンゴル人の遊牧テントが点々といくつも見られた。ベルケ・ハーンは兄弟をもてなしたため、二人は仕入れた宝石を2倍以上で売ることができた。
1年後、兄弟は現在のウズベキスタンにあたる都のブハラに行っている。ブハラの市場では陶磁器・象牙・絨毯・絹・貴金属・香辛料があふれかえっていた。兄弟はここでなんと3年にわたって商売をする。まったくムスリムを恐れていない。ブハラで知られる商人になっていた兄弟は、あるときベルケ・ハーンの族長の一人から「偉大なるフビライ・ハーンに会いにいかないか」と誘われた。フビライ・ハーンは1260年に大ハーンに選ばれていたのだが、すでにさしもの大モンゴル帝国もこのころは翳りが見えていて、大ハーンはフビライ一人になっていた。その大ハーンがまだ“ラテン人”を一度も見ていないのでぜひとも会いたいと言っているという。聞けば聞くほど、フビライの国には富が唸っていそうだった。二人はよろこび勇んでアジアの果てに挑むことにした。こうして1264年、ポーロ兄弟が中国は元のシャンドゥ(上都)の宮殿でフビライ・ハーンに謁見することになったのである。ヴェネツィア出発からざっと11年がたっていた。
一方、父には会ったこともなく、母もいないマルコのほうは、ヴェネツィアで活発な少年に育っていたようだ。
『東方見聞録』にもその他の史料にも、意図的なのかやむをえなくそうなったのかはわからないが、少年時代のマルコのことはほとんど書いていないので、その実情はまったく知られていない。けれどもおそらくは、少年マルコは元気にカナル・グランデ(大運河)で船を漕ぎ、読み書きや計算の技能を身につけ、祝日にはギルドの行列に加わり、キリスト教会で祈りを捧げ、統治者ドージェ(総督)が赤い船で金の指輪を海に投げてヴェネツィアの栄光を誓っていた儀式に見とれていただろうことなどが、憶測できる。
上都に入ったニコロとマテオはフビライ・ハーンにかなり気にいられたようだ。ハンバリク(大都)の新しい宮殿にも招じ入られ、結局、2年の日々をおくる。ようやくヴェネツィアに戻ることになったとき、フビライは二人に特別のパイザ(牌符)を与え、兄弟が立ち寄る先での安全と食糧を約束した。かなりの厚遇だ。パイザは通行証で、モンゴル独自のジャムチ(駅伝)のパスポートになる。二人が貰ったパイザは特別の金の牌符だったようで、フビライ・ハーンの紋章が刻まれていた。フビライはまた二人にローマ教皇宛の親書をあずけていた。こうしてやっと二人の帰路が始まるのだが、これがまた山越え、谷越え、砂漠と嵐を越えてのこと、ゆうに3年を要した。二人は地中海近くの港町アッコンに着いたところで、教皇クレメンス4世が亡くなったことを知り、これでは親書も渡せないと判断して、そのままローマには行かずにヴェネツィアに戻ることにした。これが1269年のことである。マルコは早くも15歳になっていたことになる。この1269年は日本の事情でいえば、その前年にフビライ・ハーンの使者が太宰府に来着して、国書を北条時宗に渡した年にあたる。時宗はこれを突き返し、それから5年後に文永の蒙古襲来が、その7年後に弘安の蒙古襲来がおこる、というふうになっていく。ということは、わがポーロ一族はそのちょうど十数年のあいだ、アジア・アフラジアを横断し、中国を縦断しつづけていたことになる。黄金のジパングは遠かったのだ。
ところで、フビライ・ハーンはニコロとマテオにとんでもない要求もしていた。親書を渡したら、ついては教皇その人をハンバリク(大都)まで連れてこい、それがダメならキリスト教の聖職者たち100人を連れてこい、待っているぞよというのだ。そのほか、エルサレムで燃えつづけているランプの聖油もほしいと言った。実はフビライの母がネストリウス派のキリスト教徒だった。フビライ自身は仏教徒でもあるのだが、イスラームのシャリーア・コンプライアンスが社会に適用されるのを許容するような、そういう宗教的寛容の持ち主だったので、ことのほか西洋キリスト教社会がどういうものかを、知りたがっていたらしい。そういうフビライからの要求を無視するわけにはいかない。商人は約束を守ってこそ富に近づける。ところが教皇クレメンス4世は亡くなり、次の教皇もなかなか決まらない。ニコロたちは近しいピアチェンツァのテオバルト様が教皇になってくれれば、ひょっとするとフビライ・ハーンの難題に何かいい手を思いついてくれるのではないかと予想したのだが、2年をすぎてもはっきりしないので、ついに意を決し、テオバルトその他の手紙などを携えて、ふたたび大都に向けて旅立つことにした。
1271年、かくしてニコロ・ポーロ、マテオ・ポーロ、そして17歳のマルコ・ポーロの3人がヴェネツィアを出航する。この年はフビライが「元朝」を宣言した年にあたる。いよいよマルコ・ポーロの世界物語の開幕だ。まずは、アッコンからエルサレムに赴き、聖墳墓教会の聖油を手に入れることにした。次に、ふたたびアッコンに到着したところで、テオバルトがやっと教皇に選出され新たにグレゴリウス10世になったことが知らされた。幸先のいいスタートだった。そこで新教皇の親書をもらい、さらに修道士2人を付けてもらい、一行は胸ときめかせて、一路バグダードをめざした。『東方見聞録』はここからがやっと第1章である。それまでは序章になっている。ちなみに教皇が同行させた修道士はこの段階でぶるぶる脅えて、帰ってしまったとある。都市国家の商人は宗教者よりずっと勇敢だったのである。
このあとポーロ一行が通ったルートはだいたいは前半が中東ルート、後半はシルクロードに近い。ざっと紹介すると、最初はヴェネツィア出航に始まって、アドリア海と地中海をわたり、エルサレム→アッコン→小アルメニア→バグダードに入る。ここまでで、マルコはテュルコマニア(今のアルメニア)の絨毯に目を見張り、カフカス山脈の付近でキリスト教・ユダヤ教・イスラーム・仏教などが混在しているのを感じて、びっくりしている。フビライの宗教的寛容がこんなところまで及んでいるのに驚いているのだ。ついで、進路を南にとってクルディスタンからアララト山あたりを過ぎる。ここはノアの洪水伝説があったところで、マルコもそのことに触れているのだが、「方舟を探しには行かなかった」などと訳知りに語っている。「黒い油」の噂もこのへんで聞いた。バクーの油井のことであろう。ここからいまのイラクのモスルをへてバグダード(バウダック)に入った。マルコはここをローマと較べ、その最大にして最美な宮殿都市に感嘆し、学芸・技術から絨毯・宝石にいたる繁栄に感心している。バグダードからは古代ペルシアの領域をななめに下って、バスラ→サヴァ→ケルマン→ホルムズと来て、これでペルシア湾の付け根の港に着く。ケルマンはイル・ハーンの国である。ホルムズには鉄の釘を一本も使っていないダウ船というアラブの船が停泊していた。
ホルムズから今のアフガニスタンを通り抜け、いよいよ西域シルクロードに向かう。途中、パミール高原のあたりでマルコは病気にかかり、ぐずぐずと1年近くを静養している。「谷で病気になったら山に入って治すのだ」という、その地の習慣に従ったらしい。マルコは元気になって、この土地の女が世界で一番美しいと言えるほどになった。
西域シルクロードの旅は、ヒンドゥークシュ山脈からカシミールへ、途中にサマルカンドを遠望しつつカシュガル→ホータン→ロプノールからゴビ砂漠に挑むという未曾有のコースである。ホータンに着いたのが1274年、そこで翡翠が完売できたと言っている。この年はリヨンの公会議で教皇選出の基準が決まり、トマス・アクィナスが没している。ロプは「動く砂漠」の都として(また「沈んだ楼蘭」の都として)著名だが、マルコの一行はこれから渡るゴビ砂漠を前に、ここで気持ちを整えるかのようにしばらく休息をしている。ついでは不毛の荒地に向かっての騎行一カ月、ようやくゴビを渡りきったところで、ヴェネツィアを発ってすでに3年が過ぎていた。それでもそこにフビライ・ハーンの命令によって護衛と迎えの兵士が待ちかまえ、一行を丁重に扱ってくれたことに感動して、一行の意気は倍加する。国境の兵士が宮廷にマルコ一行が砂漠をわたっていることを知らせておいたらしいのだ。かくて1275年3月、ニコロ、マテオ、マルコはフビライの上都の宮殿に初の“ラテン人”として入った。
当時のモンゴル帝国は、4つのハン国になっている。ロシア地方のキプチャク・ハン国、ペルシア地域のイル・ハン国、中央アジアのチャガタイ・ハン国、そして東方のフビライ・ハーンによる元である。元は正式には大元国(大元大モンゴル・ウルス)という。これらの4国でフビライ(忽必烈)が唯一の大ハーンで、そのフビライの領土といったら東は朝鮮半島、北はバイカル湖、西はチベット、南はビルマに及んでいた。宮都は以前の金の都であった中都から大都(トルコ語読みでハンバリク)に移し、ちょうど大建設の真っ最中である。国字としてのパスパ文字も開発されていた。中国史上、新たに国都をつくるのはほとんど非漢民族の王朝であるが、めったに一から造都するのではなく、以前の都市の改造改築にとどまっていた。それがフビライでは、冬の都である大都を古代の理想にもとづいて造営しつつあった。郭守敬らの設計だった。それに夏の都の上都(シャンドゥ)を加え、これを3本の幹線と1本のバイパスで結んだ。上都は広大な庭園に包まれていて、宮殿は巨大なゲル(テント)でできていた。詳しくは陳高華の『元の大都』(中公新書)や杉山正明の『クビライの挑戦』(講談社学術文庫)などを読まれたい。
マルコたちが上都に迎えられたとき、フビライは60歳になっていた。巨大なゲルのまわりには300羽のハヤブサと数えきれない猟犬が飼われていた。12月になると冬の大都に宰相の座が移った。『東方見聞録』には、宮殿がおびただしい彫刻や絵画で飾られ、皇后や私妾たちの部屋が用意されていて、4人の皇后にそれぞれ1万人ほどの召使と300人の侍女がいたなどと書かれている。マルコは、大都の人の多さ、町並みの豪勢、金銀職人から仕立て屋や陶磁器職人たちの多さにも目をまるくしている。ヨーロッパ人が初めて見た大モンゴル帝国の元の中枢部であった。しかし、ポーロ一族はこの異郷の首脳たちにすこぶる好意をもたれたようだ。若いマルコはたちまちこの国の習慣と言葉を習熟したらしく、すぐにフビライのお気にいりになっている。そこでフビライはマルコに領内の情報収集活動をさせることにした。むろんこのお達しは受けざるをえない。よく「マルコ・ポーロはスパイに仕立てられた」という説明があるのだが、『東方見聞録』を読むかぎりはスパイというより、一種の情報文化人類学的な調査活動だったように思われる。マルコが北方中国に出掛けた折りは、その土地で死者が火葬されないうちは、家族や親戚の者たちが遺体の前にテーブルを置き、食べ物や飲み物を山のように積んでときに6カ月ものあいだこれを見守り、腐敗をふせぐために棺には樟脳や香辛料をたっぷり入れているといった報告をしている。宿曜占星術がどのように使われているかという報告もある。
1280年前後には中国の南方や、さらにはチャンパ(ヴェトナム)やビルマ地方に調査に行っている。とくに天上の都市キンサイ(杭州)についてのマルコの驚嘆は、いささか紋切り型ではあるけれど、大いに賛辞を惜しまないものになっている。水都ヴェネツィアと比較しても美しく、いやそれ以上に周囲が160キロもあって石橋が1万を越えているにもかかわらず、その下を大きな船が行き交っていること、職人が1万2000戸の家に住んでいて、一戸あたりに少なくとも12人が働いていること、すべての道路が石畳になっていて下水溝が完備していること、共同浴場が3000カ所にあって住民が月に3回は沐浴していることなど、あれこれ書いている。マルコは1285年にはザイトゥン港からジャンク船に乗りこんで、ジャワからスマトラのバスマ王国に入った。そこで一角獣(ユニコーン)を見たというのだが、これはどうやらアジア・サイだったと考えられている。またスマトラからはさらに船で時をかけて大きな島に行ったとなっているのは、おそらくセイロン(スリランカ)だろうと想定されている。ここでは巨大な神像や、島の王族たちが持っていたこぶしほどもあるルビーを見聞している。フビライからの御用命だったとはいえ、マルコはさらにインドにまで渡って平気の平座なのである。なんという世界病であることか。
こうしてマルコたちは17年間をフビライのもとで仕え、情報活動や交易活動をするにいたったのだ。さすがにそろそろヴェネツィアに帰りたくなっていたが、いっこうにフビライは許可しなかった。しかしもしもフビライが急に亡くなってその恩寵が切れれば、マルコたちを妬む連中からたちまち殺されるかもしれないことも予想できた。そういう時代だ。なんとか帰還のきっかけをつかもうとしていたところへ、フビライの従兄弟の息子で、イル・ハン国を治めていたアルグンの妻のボルガナが病没し、そのあとをフビライに頼んでくるという知らせが入った。フビライはそれなら自分の王女の17歳のコカチン姫をアルグンに嫁がせようと決めるのだが、その道中があまりに危険なので、そこでマルコたちにその助っ人を頼むことにした。そのままヴェネツィアへの帰還を許したのではなく、また大都に戻ってくることを約束させ、金のパイザ(牌符)を与え、おそらく2年はかかるだろう旅程にふさわしい船団も用意して、コカチン姫と3人を送り出したのである。この計画はマルコたちが画策して下準備をしたことでもあったので、一行は意気揚々、4本マストの13隻の船とともにザイトゥン港を出た。船員も250人がいた。2カ月にわたって南シナ海を航海し、ヴェトナム、ジャワを越え、さらにアンダマン諸島を北西に進み、ベンガル湾を横切ってスリランカを経ると、今度はインド沿岸をまわってインド洋を航行してホルムズに到着した。やはり2年がかかった。ほんとうだかどうかはわからないが、すでに船員のほとんどが嵐や事故や病気や海賊襲来で死んでいた。それでもマルコたちと姫とはイル・ハン国に向かえたのだが、そこではすでにアルグン王が亡くなっていたことを知らされる。あまりに多くの予定が狂ってきたため、一行がさてこの先をどうしたものかととまどっているところへ、フビライ・ハーンの死が伝わってきた。79歳である。ここでマルコたちはふっ切れる。ついにヴェネツィアへの帰途につくことになる。数カ月の旅ののち、ヴェネツィアには24年ぶりに戻った。1295年だった。マルコ・ポーロは39歳になっていた。
その後のマルコのことは、またまたよくわからない。しかし1298年のこと、ジェノヴァとヴェネツィアが地中海の交易路をめぐって激越な交戦に入ることになったとき、マルコがヴェネツィアのガレー船を指揮したことでジェノヴァ軍に捕縛され、投獄されたのである。このジェノヴァの獄中に、ピサのルスティケッロという男が同房していた。ルスティケッロ(イタリア語読みならルスカティーノ)の正体はまだ歴史学が十分に証してはいないのだが、どうもアーサー王伝説の簡略版の『メリアドゥス』の著者だったようで、マルコはこの男にポーロ家の大旅行の物語を語り始めることにしたのだった。いったいどのくらいの月日の獄中語りがあったのはわかっていないけれど、こうしてマルコとルスティケッロによって『東方見聞録』が“共同執筆”されたことになる。バーバラ・ヴェーアの推理では、マルコ・ポーロがヴェネティア方言あるいはフランコ・ヴェネティアンで下書きをしたテキストを、ルスティケッロがフランス語ないしはフランコ・イタリアンの騎士道物語ふうに仕立てていったのではないかということになっている。いや、マルコは口述だけだったという説もあるし、もっと根本的な疑問を提出している研究者たちもいる。それは意外にも「マルコ・ポーロは中国に行っていなかった」というものだ。元朝の側の記録に、まったくマルコたちの記録が残っていないというのが最大の理由だ。ハーバート・フランクは「それにしても、どうもいまだ結論が出ない」と告白し、中国学者のフランシス・ウッドはマルコ・ポーロのモンゴル情報と中国情報は別の情報源のものからにちがいないと断言した。ぼくには、そのあたりのことはさっぱり見当がつかないが、獄中から釈放されたマルコがその後、『東方見聞録』を公開したところ、そこへ「嘘八百だろう」という噂が巻きおこったというのは、ほんとうのようだ。それでもマルコはひるまず交易商人を続け、ドナータ・バドエールという裕福な女性と結婚して3人の娘をもうけると、1324年で70歳で亡くなった。臨終のとき、友人たちが「あの本の内容は事実ではないと白状したほうがいい」と進言したのだが、マルコは次のように答えたとも伝わっている、「私はこの目で見たことの半分も語っていないんだよ」。そう、この言葉こそがイタロ・カルヴィーノをして『見えない都市』を書かせたのである。
はたして『東方見聞録』がどこまでホンモノの旅行記であるのか、まだまだ結論は出ていない。ぼくも念のためフランシス・ウッドの話題本『マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか』(草思社)を読んでみたけれど、その否定性にも、あまり説得力を感じなかった。むしろ中世史研究者のジョン・ラーナーの『マルコ・ポーロと世界の発見』(法政大学出版局)の精緻な検討が、マルコ・ポーロ以前と以降のアジア旅行に関する比較をして、しょせん当時の旅行記というものを歴史の証言かどうかに目くじらをたてて議論することに限界があるのではないかという見解を披露していることに、好感がもてた。どうやら多くの研究者たちは、イタロ・カルヴィーノが退(しりぞ)けた「世界書物への反発」に終始していると言わざるをえないのだ。
ともかくも、ぼくはニコロ・ポーロ、マテオ・ポーロ、およびマルコ・ポーロの2度にわたる旅程のルート、および帰還のルートをおおむね信用することにした。途中、いささか曖昧な記述があったり、誰かからの見聞をまぜこんでいたとしても、目をつぶる。いや、あのような世界旅行の物語を編集しえたことこそが、そのまま快挙なのである。なにしろ話は13世紀の世界旅行であって、こんな「世界」をヨーロッパ人はまったく知らなかったのだ。エンリケ航海王子の兄弟やクリストファー・コロンブスたちが、フラ・マロウやトスカネリの地図と『東方見聞録』に夢中になって、当時は漠然と「インド」とよばれていたアジアという「世界」に150年以上もたって探検に出掛けたのは、まさに『東方見聞録』が「ヨーロッパが来たるべき世界が最もほしくなった世界」をみごとに叙述し、いっさいの想像力をかきたてていたという正真正銘の証しなのである。それは黄金のジパングの記述がでたらめであっても、やはり世界にジパングの夢をもたらしたことに変わりないことと同断だ。そして、それよりなにより、このあとでもあきらかにしていくつもりだが、13・14世紀における世界の経済社会文化はその大半をイスラームが仕切り、先頭を切っていたにもかかわらず、それをフェルナン・ブローデルとエマニュエル・ウォーラスティーンの研究以降は、世界経済システムは15世紀に確立し、それが資本主義の大いなる原型となり、そのまま世界経済はその世界システムにもとづいて肥大していったというふうに解釈してきたこと、そのことをこの『東方見聞録』が逆襲しうることのほうに、ぼくは加担したいのだ。世界の経済社会が15世紀や16世紀ではなくて、マルコ・ポーロが訪れた国々の13世紀にすでに確立されていたということ、このことこそは、何がどうであれ、できるだけ早くに納得されなければならないことなのだ。

(1)とりあげたのは平凡社ライブラリーの『東方見聞録』だが、これはもともとは東洋文庫で1970年に初版が出ていたもので、両者はまったく訂正も加筆もされていない。平凡社ライブラリーになって、新たな解説すら付いていないのは平凡社にしては手抜きである。というよりも、もともと愛宕松男の訳業が、たとえば同じ東洋文庫の『アラビアン・ナイト』をめぐっての前嶋信次のすばらしい自己検証にくらべて、あまりにも質素すぎたのである。これはマルコ・ポーロのファンの一人として、今後の改善や充実を望みたい。
(2)とはいえ、『東方見聞録』については日本の研究者たちは全般にみんな腰が引けてきた。たとえば岩村忍の『マルコ・ポーロ』(岩波新書)は、ぼくなども最初に読んだマルコ・ポーロ入門書であって、きっと誰もがそのように読んだだろうと思えるのだが、この一冊をあとに日本では陳舜臣の『小説マルコ・ポーロ』(文春文庫)をのぞいて、ほとんど“マルコ・ポーロもの”が出ていないのだ。これはどうしたことだろう。たとえばオリエンタリズムの詳細を日本で初めて解読してみせた名著『幻想の東洋』(青土社・ちくま学芸文庫)の彌永信美ほどの人が、いつかマルコ・ポーロにとりくんでほしいものなのだ。ちなみに翻訳ものもめっぽう少なくて、ジョン・ラーナーやフランシス・ウッドのもののほか、ヘンリー・ハート『ヴェネツィアの冒険家 マルコ・ポーロ伝』(新評論)があるばかり。ごくごくやさしい入門書には、マイケル・ヤマシタ他の『再見マルコ・ポーロ「東方見聞録」』(日経ナショナルジオグラフッィク社)、ニック・マカーティの『マルコ・ポーロ』(BL出版)がある程度だろうか。
(3)イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』(河出書房新社)は、ほかに池澤夏樹の「個人編集・世界文学全集」(河出書房新社)に、キシュの『庭、灰』とともにやはり米川良夫訳が入っている。なおフビライ・ハーンの元や大都については、直接には上記にも示したように陳高華の『元の大都』(中公新書)や杉山正明の『クビライの挑戦』(講談社学術文庫)が参考になるが、これはモンゴル大帝国史を俯瞰するなかで読んだほうがいいので、いずれそちらの読書案内をしたいと思う。とりあえずは杉山正明の『モンゴル帝国の興亡』上下(講談社現代新書)などを参考にするといいだろう。
(4)ところで、13世紀のマルコ・ポーロ以前の“ラテン人”で、ユーラシアを渡ってアジアに到達した者がいなかったのかというと、そうでもない。実は13世紀以前のヨーロッパには「プレスター・ジョン」の噂が吹き荒れていて、これが“タルタル王”だともくされ、大モンゴル一族とその強大な王たちの情報をなんとか入手しようというもくろみが、何度が試みられていた。そこでベネディクト会の修道士マシュー・パリスはタルタル族(タタール)についての『大年代記』を著わし、ドミニコ会の修道士ロンジュモー・アンドレはアルメニアのタブリーズまで行って、そこからペルシア語の書状を中央アジアのカラコルムにいたチンギス・ハーンのもとに届けようとしたりした。フランチェスコ会の修道士ジョヴァンニ・カルピネはスラブの方へ赴いてヴォルガ河畔のバトゥ・カーンの黄金軍団駐屯地にまで行っている。もう一人、フランチェスコ会の修道士のギョーム・ド・ルブルークもバトゥ・カーンの黄金軍団を訪ね、「プレスター・ジョン」の正体を見きわめ、“サラセン人”や“タタール人”の猛威の実情を報告もした。
とういうわけで、それなりに「東方」に向った者たちはいるにはいたのだが、これらはとうていニコロ・マテオ・マルコのポーロ一族の大旅行には及ぶべくもなく、とくに東アジアと東南アジアを同時に見聞したとなると、これはやっぱり空前の勇敢というべきなのである。 
 
東方見聞録「黄金の国・ジパング」 2

 

かのマルコ・ポーロの口述を書きまとめた『東方見聞録』の中には、日本に関する有名な『黄金の国・ジパング』に関する記述があります。
「ジパングは東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では、金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。
この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根をふくように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計りきれないほどである。床も二ドワの厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。」
1 「ジパング」とは実際はどこだったのでしょう?
近年、この「ジパング」について、フィリピンやカンボジア・アンコールワットなどの説が取りざたされているようですが、「ジパング」はやはり日本と考えてよいでしょう。その理由は、マルコ・ポーロが仕えた元王朝時代(1271-1368年)に起こった「元寇」について、「黄金の国・ジパング」の項に続いて『東方見聞録』に詳しく書かれていますが、その記述も、ほぼ正確に主要部分を伝えているからです。 「元寇」とは、マルコ・ポーロが元王朝に仕えていた時代(1271-1295年)に、当時の元王朝のフビライ・ハン(1215-1294年)が、日本の鎌倉時代(1192-1333年)中期に起こした二度にわたる侵攻を指します。1度目は、1274 年の文永の役(ぶんえいのえき)、2度目が1281年の弘安の役(こうあんのえき)です。特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規の規模で、主に九州北部が戦場となったのでした。
2 なぜ、元王朝フビライ・ハンは当時の日本が黄金の国だと知っていたのでしょうか?
それは、平安時代(794-1192 年)中期から鎌倉時代中期の10世紀から13世紀にかけて日本と中国の宋朝(960-1279 年)の間で行われた日宋貿易にその理由を垣間見ることが出来るでしょう。まずは、中国の元の時代に編纂された正史(二十四史)の一つ『宋史・日本国伝』の中に書かれているのです。そこには、「東の奥州に黄金を産し、西の別島(対馬)に白銀を出だし、以って貢賦と為す」との記述があり、当時の宋にとって、日本の奥州から黄金を産出するのだと考えられていたことが分かります。当時、奥州とは藤原の平泉であり、宋とは密接な関係にあったのでした。その関係は、いうまでもなく奥州で産出された砂金によって築かれたといって良いでしょう。そしてそれを媒介したのが、日宋貿易の立役者であった平氏だったのです。砂金とは、砂状に細粒化した自然金のことを指します。山腹に露出した金鉱脈が流水で洗われ下流の川岸の砂礫の間に沈殿します。大がかりな選鉱施設が不要で採取方法が簡単であることから、古くから個人単位での採取が行われてきたのです。
日宋貿易で威力を発揮したのは、なんといってもみちのくの砂金でした。その金は、都の寺院・仏像の荘厳に大量に費やされたほかに、宋にも運ばれたのでした。その証左として、『源平盛衰記』(巻第十一)に興味深い記述があります。平清盛の嫡男で、奥州を知行していた平重盛のもとに、気仙郡から1300両の砂金が進呈されたのですが、重盛は、筑紫(福岡県)にいた妙典という名の唐人に、そのうちの100両の金を贈っていわく、「1200両の金を中国に持ち帰り、200両は阿育王山の僧侶に、1000両は、皇帝に献上して阿育王山に自分の菩提を弔う小堂の建立を願って欲しい」と依頼したのでした。
その旨を知った宋の皇帝は、重盛の深い志に感銘を受けて、御堂を建て、500町の供米田を寄進したと言われています。つまり、宋時代には、既に当時の日本が、大量の金を産出する国であることが認識されていたのです。
3 どこで、それほどの金を産出したのでしょうか?
砂金を産出する気仙郡とは、三陸海岸岩手県南部の旧気仙郡(大船渡市、陸前高田市、住田町)のほか、宮城県北部の旧本吉郡(気仙沼市、南三陸町)を含む、一大金山地帯のことです。そこでは、現在も多くの砂金採取や坑道堀の跡が残っています。
4 誰が、奥州で採れた砂金を京都まで運んだのでしょうか?
平安時代末期には、奥州で産出した金を京で商うことを生業とした商人がいたようです。『平治物語』『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』などに登場する伝説的人物で、その名も、金売吉次(かねうりきちじ)と呼ばれていました。その起源を遡ると、奈良時代、仏教に帰依した聖武天皇が、災害や疫病の続く世をなんとか救いたいと願い、奈良に東大寺と大仏を建立したのでしたが、大仏の表面を覆う金が足りなかったため、全国に鉱物技師を派遣して探したところ、奥州で有力な金山が見つかったとの報せが入り、大喜びしたという話が伝わっているのです。それが宮城県北部の涌谷(わくや)町近辺であり、周辺の北上山地やら、海側の三陸、気仙沼まで、金を続々と産出するようになったのです。 実際、この周辺地域には「金」がついた金山町、金成町、金崋山などの地名が多いのです。金売吉次は、いつも袋に詰めた砂金を大量に持って京都に商売に向かったといいます。
5 東方見聞録に書かれていた「黄金の宮殿」とはどこを指したのでしょう?
これにあたる建造物は、平泉の「金色堂」と言って間違いないでしょう。今までの時代背景からしても明白でしょう。京都の金閣寺のことでは?と考える人もいるかもしれませんが、マルコ・ポーロの時代からさらに100年も後のこと(1398年建立)で、時代が全く合わないのです。
黄金の国・ジパング伝説が世界に与えた影響
この奥州・平泉に起因する「黄金の国・ジパング」伝説は、陸のシルクロード、そして海のシルクロードを通じて、イタリアに伝わっていきました。そして、その後のヨーロッパにおいて、マルコ・ポーロの「東方見聞録」は意外な影響を与えたのです。
この「黄金の国・ジパング」伝説は、ヨーロッパの冒険家の本能をくすぐり、ジパング到達の夢を膨らませたのです。マルコ・ポーロの時代から約200年後の1492年に、ジェノヴァ生まれのコロンブスは、スペインのバロス港から西廻りにインディオスを目指して、大西洋へ向かったのです。
その目的は、とりもなおさず、インディオス=アジアであると信じて、豊かな金と香辛料を求めるための航海だったのであり、その裏付けとなり、コロンブスを荒波に船出させたのは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」だったのです。その第一回の航海の日誌には、黄金の記述が多数あり、実に8回も「ジパング」について言及されているのです。コロンブスがアメリカ大陸を発見し、大航海時代の幕開けとなったことは、世界史の観点からも大きな出来事だと言えるでしょう。 
 
黄金の国ジパングは日本ではない・諸話

 

1 黄金の国ジパングはでたらめ
書き残すことの必要性について考察したいと思います。
これまで高木兼寛(栄養学)、北里柴三郎(細菌学)、荻野久作(排卵日の発見)、高峰譲吉(アドレナリンの発見)など、日本人学者について書いてきました。これらの方々に共通するのは論文を西洋言語(英語、ドイツ語)で書いていることです。西洋言語で書かないと世界には広まりません。
当たり前ですが、日本語で書かれた論文や教科書を読む西洋人はきわめて少ないです。「入唐求法巡礼行記:にっとうぐほうじゅんれいこうき」を知っている方は少ないでしょう。これは円仁(後の慈覚大師、伝教大師=最澄の一番弟子です。東北地方の有名なお寺:平泉の中尊寺・毛越寺、松島町の瑞巌寺、山形市の立石寺(山寺)の開祖は全て円仁が開祖です)が、遣唐使で唐の国で仏教を学んだ時に書き残した旅行記です(838年から9年間の記録)。
円仁が実際に行って見て感じたことを書いていますから、資料としては一級資料です。しかし、世上有名なのはマルコポーロの「東方見聞録」です。
「黄金の国ジパング」はでたらめなのに
「東方見聞録」は1300年の頃のアジアの見聞録です。日本の部分が有名ですが(黄金の国ジパング!)、日本に関する記述はすべて「でたらめ」です。行ったことも見たこともない国「ジパング」のことを適当に書いているのです。ちなみに、なぜ「ジパング」かというと、元の時代の中国語では「日本国」を「ジーベングォ」と発音していたからです。現代の北京語では「リ゛ー ベン グゥォ」と読むそうです。この「ジパング」がJAPANの元になっているのですね。
閑話休題、中国に関する部分もかなり怪しく、万里の長城や纏足、印刷術や中国の文字について何も書かれていませんので、実際に中国に行ったかどうかも怪しまれています。
しかし、しつこいようですが知られているのはこちらです。
元は古いフランス語で書かれていました。その後、イタリア語やヨーローッパ諸語に翻訳されたので、世界中に広まりました。コロンブス自身の書き込みのある「東方見聞録」が残っています。「黄金にあふれたジパング」を夢見た人も多かったでしょう。
一方、「入唐求法巡礼行記」は今もほとんどの方は知らないと思います。それは漢文で書かれていた事や、長く門外不出だったからです。平安時代、鎌倉時代までは結構有名だったようです。
明治16年に東寺観智院で写本が発見されます。漢文ですから、なかなか広まりませんでした。しかし、今は世界中で読めるようになりました。それは駐日大使をつとめたライシャワーのおかげです。
ライシャワーはフランスに留学していたとき、指導教授から、この「入唐求法巡礼行記」の研究を進められ、英訳しています。そのおかげで今は英語でも読めます。800年頃の中国(唐の時代)の記録として世界的に評価されていますが、東方見聞録ほど広く知られているわけではありません。ちなみにライシャワーは港区白金生まれです(宣教師の子息だった)。
それはさておき、要するに、西洋言語にして書き残さないとなかなか世界には広がらないといういい見本だと思っています。(注:ライシャワーさんは、日本の医療を変えてもいます。彼が駐日アメリカ大使時代、精神を患った人に大腿部を刺され、輸血を受けます。輸血後に肝炎になり終生苦しめられました。当時、輸血は売血によるものがほとんどでしたがこの事件を契機に献血が広まりました。)
なにも書き残さないよりは書き残したほうが良い
しかし、なにも書き残さないよりは書き残したほうが良いという例をここに挙げます。
埼玉県行田市にある埼玉県立さきたま史跡の博物館に展示してある全長75cmの「鉄剣」のことです。通称、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」、金の象嵌で字が彫られています。 この剣には、「其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加」と書かれてあります。多分「其の児たかりあま?、其の児の名は?? 加利獲居」と読めます。
この剣は431年(推定)に制作されていますが、現代にも通ずる漢字で先祖の名前を書き残しています。それが1600年を経ても読めるのですからすごい話です。この剣を見ていると時間がたつのを忘れてしまいます。
ちなみに、この「漢字」の発見はいわゆる“セレンディピティ”です。1968年に発見されていたのですが、この剣は錆びており、ただの「錆びた剣」として10年間、倉庫の中で放置されていました。しかし、一度この剣のレントゲンを撮ってみようと考えた研究員がいました。レントゲンを撮ったら「漢字」が浮かび上がり「錆」を落としたらこのきれいな金象嵌の文字が現れたのですね。レントゲンを撮ってなかったら今でも「錆びた剣」としてそのままになっていたかもしれません。
今は当然、「国宝」です。この漢字が記された剣があるおかげで、少なくとも1600年前、埼玉県行田市辺りには漢字が伝来し、使われていたことがわかります。書き残すことの重要性がよく分かる一例です。
論文を書いてもそれを理解する頭がないと?
話は全く変わります。日本で初めてノーベル賞をもらったのは湯川秀樹です。彼は若い頃全く論文を書かず、指導教官にこっぴどく怒られています。そのため、その指導教官とは生涯疎遠になります。かなり怒られたのですね。でも、怒られたおかげで英文論文(注:日本で発行されている英文雑誌に掲載、それを世界中の物理学者に送っています。送らなければ、ノーベル賞は貰えなかったと思います。英文雑誌とはいえ、日本の雑誌ですから誰も読まなかったでしょう)を書いて、後にノーベル賞を授賞したのですから恨む理由など無いと思いますが、よほど怒られたのでしょう。
その指導教官は八木秀次です。阪大時代に湯川秀樹の指導教授だったのです。
八木と言っても知らない方が多いかと思いますが、日本を含めて世界中ほとんどの家の屋根に八木が考案した「八木アンテナ」が立っています(した)。日本人としては少し誇らしいですね。デジタル放送がメインになるまでは世界中の屋根にこのアンテナが立っている事と思います。魚の骨に似たアンテナです。八木は東北大学時代にこのアンテナを考案し、このアンテナに関する英文論文!や世界特許!を出しています。
日本では評価されなかったのですが欧米では評価されます。しかし日本軍のレーダーには採用されず!英米のレーダーに採用され、そのために日本軍は大変な目にあっていたのは有名な話です。英米のレーダーの性能は「八木アンテナ」によって飛躍的に高まったのです。日本人が発明したこのアンテナを有効利用したのが英米軍だったのは実に情けない話です。原子爆弾の先端にもこの八木アンテナがついています。スミソニアン博物館に行けば原爆の模型があり、このアンテナがついているのを見ることが出来ます。要するに、論文を書いてもそれを理解する頭がないとダメという悪しき見本ですね。
論文や文章を残すことは必要ですが、嘘はいけません
千円札の肖像で有名な野口英世は、その生涯で約200本の英文医学論文を書き残しています。
だから、世界的にも知られていたのですが、30数年前、Isabel Rosanoff Plesset というアメリカの研究者が「Noguchi and His Patrons」という本を書いて野口の論文のほとんどが間違っていたことを示しています。日本語にも翻訳されています。読むと「アメリカでの野口英世の現在の評価」がわかり、千円札を見ると一寸複雑な気分になります。何れにせよ科学ですから仕方がありません。
論文を書き残すことは必要ですが、「嘘」や「ごまかし」で塗り固められた論文は後にきちんと断罪されます。「背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか? ウイリアム・ブロード (著), ニコラス・ウェイド (著)」という本があり、この本には野口英世も出てきますが、実に多くの科学者が「論文捏造」をしてきたかわかります。それもこれも「論文を書かないと業績にならない」「論文を書いて歴史に名を残そう」などと考えるからこういう捏造論文が出てくるのだと思います。論文や文章を残すことは必要ですが、嘘はいけませんね。
参考文献をいくつか挙げます。
インターネットが普及して色々な論文が読めるようになっていますが、何故か日本人が書いた歴史的論文を読むことは容易ではありません。あまり紹介されていないからです。伝記は沢山書かれているのですが、論文、原典の紹介はあまりというかほとんどなされていません。読むのが面倒、読んでもわからない?どうせ読まないだろう。そういう理由で紹介されていないなら残念です。
コールタールをウサギの耳に塗って世界で初めて発がん実験に成功したドイツ語で書かれた山極、市川論文も見つけられませんでした(世界中で使われている癌の教科書には必ず引用されています)。
北里柴三郎記念館や野口英世記念館のHPからも、彼らの論文は読めません。もうとっくに著作権も切れています。是非、論文をPDFファイルにして広く知らしめた方が良いだろうと思っています。
ちなみに高木兼寛先生の論文は東京慈恵会医科大学のリポジトリーから読むことが出来ます。
欧米では論文は元より、西欧語で書かれた古い本も依頼電子出版形式で安価に読めます。
参考文献5の「医学の古典をインターネットで読もう」には、インターネットで読める古典的、基本的医学西欧語論文が沢山紹介されています。日本も見習うべきです。あの先生はこういう風に偉かったとかこういう生涯だったとか、そういう伝記に私はあまり興味がありません。論文の方を読みたいです。 
2 黄金の島「ジパング」実はフィリピン
マルコ・ポーロの「東方見聞録」に登場することで知られる「ジパング」。欧州の人々のあこがれを集めた黄金の島は日本だとされてきたが、実はフィリピンだったのでは……。古文書や古地図をもとに、こんな新説が現れた。これまでの常識を覆す説で、専門家の間でも賛否の声が交錯している。
新説はスペイン在住の的場節子さんが8月に出版した著書『ジパングと日本』で唱えている。03年に国学院大に提出した博士論文が下敷きだ。
中央アジアや中国を旅したマルコ・ポーロは、その経験を1298年にイタリアのジェノバで口述、それが「東方見聞録」とされている。14世紀以降、欧州の様々な言語に翻訳された。
写本は150点ほど残っているが、「ジパング」という地名は当初、登場しない。的場さんの調べでは、黄金島の表記は様々だったが音はチャンパグやツィパングが目立つ。日本での定番とされる東洋文庫(平凡社)も「チパング」だ。
「ジパング」という音が史料に登場するのは17世紀初め。ポルトガル人イエズス会士のロドリゲスが「日本教会史」の中で、「日本国」の中国語読みの「Jepuencoe」や「Jiponcoe」が転じてZipanguとなったもので、見聞録の黄金島は日本だと主張。的場さんは、この考えがイエズス会歴史家に継承され、西洋で「ジパング=日本」が定着、日本に輸入されたと分析する。
ロドリゲスの「黄金島=日本」説の根拠の一つは、見聞録のモンゴル海軍の記事。大船団が暴風で難破したと記されていて、これが元寇を指すというのだ。だが、史実や実情と合わない点も多い。
的場さんは「モンゴル海軍の遠征はほかにもあり、見聞録は東南アジア遠征の記録では」と指摘する。
では、見聞録の黄金島とはどこなのか。
的場さんは、スペインやポルトガル、イタリアの図書館、修道会などを回り、大航海時代の多数の文書や地図を10年がかりで集めて読み解いた。16世紀のものが中心で、シャンパグなどの名前で黄金島はたびたび登場するが、位置的には熱帯になっていた。
特にスペインが手中にしたフィリピンについては、どこで金が取れるかなどの黄金情報があふれていた。一方日本では金がとれるのかなどの情報は見あたらない。地図を見ると日本はかなり北にあり、島ではなく半島との認識もあったこともわかり、「ジパング」はフィリピンを中心とした多島海地域を指したとの考えに的場さんは至った。
この的場さんの考えに、五野井隆史・東京大名誉教授(日本キリスト教史)は「日本を間違って描いたのではなく、日本ではない場所を紹介したと考えたほうが理解しやすい」と賛同の姿勢。シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア・仏国立高等研究院教授(東アジア史)も「黄金島は本当に日本なの、との疑問は欧州でも以前からあるが、それならどこなのかとの素直な問いに、初めて一つの答えが示された」と評価する。
一方、杉山正明・京都大教授(モンゴル史)は「見聞録の成立は13世紀末ではなく14世紀後半で、マルコ・ポーロの名で多くの人の経験や物語が盛り込まれた。内容に矛盾があるのはそのため」と考えている。
的場説には、「確かにジャワ島遠征の記事が混入している可能性があるが、骨格は弘安の役と合致しており、黄金島が日本であるのは間違いない」と反論。フィリピンを黄金島とする地図や文書については「大航海時代、日本では金がとれなくなっており、新たな黄金島が登場した」と見る。
的場さんは「私の考えではなく、日本で知られていない史料を公開するのが出版の狙い」と話している。
わき起こった論争は簡単には収まりそうにないが、「常識とされる歴史知識が、いかに検証されないまま使われてきたかを教えてくれる」(五野井さん)ことは専門家の間でも異論はないようだ。 
3 マルコ・ポーロが語る黄金の国ジパングは日本ではなかった
日本を英語でジャパン(JAPAN)というが、その語源となったと言われているのが、13世紀のイタリアの旅行家マルコ・ポーロがアジア諸国を旅したことを記した「東方見聞録」に登場する黄金の国ジパングだといわれています。しかし、最近の研究ではそれは間違いだったかもしれないという説があるのです……
そもそも「東方見聞録」は1271年に、17歳のマルコが父のニコーロと叔父のマフィオとアジアへ旅をし、24年後の1925年、マルコたち一行は財産を築いて故郷に戻ってきました。飛行機も長距離列車もない時代に旅したその距離はなんと、15、000q!! 彼が帰国した3年後の1928年、故郷のヴェネツィアはジョノヴァと戦争をはじめてしまい、マルコは志願兵となって参戦。しかし、ジェノヴァ軍に捕まってしまいます。数ヶ月の牢獄生活中に、同じ牢にいた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサにアジア諸国の旅を口述して筆記してもらいました。このピサは、マルコの話の他に自分の知り得るアジアの知識をマルコに無許可につけ加えたともいいます。ヨーロッパの人々は当時誰も行ったことのないインド、中国、日本などのアジア諸国のことを書いた旅行記「東方見聞録」 (The Travels of Marco Polo) に夢中になり、ベストセラーになりました。マルコ・ポーロは1299年に牢獄から解放され、ヴェネツィアに帰り、豪商の一人として有名になりました。
しかしですね……「東方見聞録」を綿密に調べた歴史学者によると、どうにも記述に間違いが多いことが目につくのです。ここでは日本について書かれたことにクローズアップします。マルコ・ポーロ自体は日本へ行っていないので、伝え聞いた話です。
ジパングは「東の彼方、大陸から1500マイルの大洋にある」と記述されています。1500マイルとは約2400キロです。では、実際の日本と大陸の距離とは?一番近い一番近い対馬から約50qで、晴れて空気の澄んだ日だと、対馬から韓国が見えるというくらい近いです。夜にはプサンの夜景が見えるそうです。福岡市からだと250qくらい。山口県からだと300q未満くらい。これでは東方見聞録の記録とずいぶん違いますね……
ほかにも、ジパングには「王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島」があり、「日本は黄金の豊富な国なので,皇帝の宮殿は屋根も床もすべて黄金でできている」、みごとな宝石、赤い真珠などの財宝があったと描写されています。これは時代的に奥州平泉の中尊寺金色堂のことだと考えられています。宝石はヒスイなどでしょうか?真珠の養殖はもっとのちの話です。
ジパングの風習として、偶像崇拝があります。これは、仏教のことでしょう。
さらに「自分たちの仲間ではない人間を捕虜にした場合、殺して料理して、みんなでその肉を食べる。彼らは人肉が他のどの肉よりも美味いと考えている」と、食人の風習があったとあります。戦った相手の首を斬る野蛮な風習はありましたが、さすがに食人は……もっと南方の島の話のようです。
マルコは中国、当時はモンゴルに支配された元のクビライに、豊富な知識を買われて元の役人に登用されたと書いてあります。元寇(1274年、1281年)についての記述もあり、史実に近いこともあれば、元軍が日本の首都・京都まで進撃した記述がありますが、史実では元軍は博多で戦い、一日で撤退しています。さらに日本の兵は奇跡の石を武器にしていたなどとファンタジックな描写もあります。
マルコが日本について聞いた相手はどうも、イスラム人のようであり、イスラム国では「ワクワク伝説」という黄金伝説があって、これは倭国わこくをさすのではないかと考える学者がいます。どうも、ジパングはイスラムや中国がいだく遠方の幻想世界、神仙の住まう国というイメージがつきまとっているようですね。
さらに「ジパングの海域には7448個の島々がある」とあり、「島々では高価な香木、黒胡椒、白胡椒が豊富に採れる」と書かれていて、これらの事から赤道付近の東南アジアの島のことではないかと言われています。なかでも可能性の高い島がボルネオ島だそうです。と、いってもジパングの記述にすべて当てはまるわけではないですが、ジパング日本説よりも可能性が高いようです。
あのコロンブスも東方見聞録の黄金の国ジパングに憧れて、アジアへ行く西廻り航海を着想しました。まあ、東の彼方の黄金の国ジパングは発見できなかったけど、新大陸アメリカを発見することはできましたね。
コロンブスというと、アメリカを発見した偉人という印象がありますよね。しかし、その目的は植民地であり、スペイン軍に従わないインディアンを虐殺なんてしています……コロンブスは日本にこなくて幸いです。 
 
ジパング諸話

 

1 ジパング(Zipangu)
中世・近世ヨーロッパの地誌に現れていた東方の島国、日本のことである。
語源については、「日本国」を中世の中国語で発音した音が語源とされ、ヨーロッパにはマルコ・ポーロが Cipangu(あるいはChipangu)として最初に紹介したと言われる。なお10世紀頃から地理学者イブン・フルダーズ=ビフ Ibn Khurdādh-Bih などをはじめアラビア語・ペルシア語の地理書において、後のジパングにあたると思われる金山を有する島(国)、ワークワーク(الواقواق al‐Wāqwāq, 倭国か)について都度都度言及されている。
現代の多くの言語で日本を意味する Japan(英語「ジャパン」、ドイツ語「ヤーパン」)/Japon, Japón(フランス語「ジャポン」、スペイン語「ハポン」)/Giappone(イタリア語「ジャッポーネ」)/Yaponiya, Япония(ウズベク語「ヤポニヤ」、ロシア語「イポーニヤ」) などの言葉は、一般にジパングが語源とされるが、ポルトガルが到達した16世紀頃の東南アジアで日本のことを中国語からの借用語で Japang と呼んでいたことに由来するという説など、様々な異説もある。現代ポルトガル語での日本の呼称はJapão(ジャポン)である。
日本ではマルコ・ポーロが紹介した事実が非常によく知られており、日本の一種の別名としてとらえられている。
マルコ・ポーロの伝えたジパング
マルコ・ポーロの『東方見聞録』は、以下のように伝えている。
ジパングは、カタイ(中国大陸)の東の海上1500マイルに位置する独立した島国であり、莫大な金を産出すること、また、王の宮殿は金できており、人々は礼儀正しく穏やかであることや、埋葬の方法は火葬か土葬で、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う風習がある、といった記述がみられる 。
モンゴルのクビライがジパングを征服するため軍を送ったが、暴風で船団が壊滅した。生き残り、島に取り残された兵士たちは、ジパングの兵士たちが留守にした隙にジパングの都を占領して抵抗したが、この国で暮らすことを認める条件で和睦して、ジパングに住み着いたという話である。
愛宕松男に依れば、ジャワ島付近の諸島と同じように、ジパング諸島の「偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその捕虜が身代金を支払えなければ、彼らはその友人・親戚のすべてに『どうかおいで下さい。わが家でいっしょに会食しましょう』と招待状を発し、かの捕虜を殺して――むろんそれを料理してであるが――皆でその肉を会食する。彼等は人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである。。」との記述があるという。
「ジパング」の綴りは『東方見聞録』の写本・刊本によって一定せず、平凡社東洋文庫版(愛宕松男訳)の底本であるアルド・リッチ英訳本では Chipangu 、フランス国立図書館 fr. 1116 写本(14世紀、イタリア語がかった中世フランス語)では Cipngu、グレゴワール本(14世紀、標準フランス語)では Sypangu 、ゼラダ本(1470年頃、ラテン語)では Çipingu 、ラムージオ本(en:Giovanni Battista Ramusio)(1559年、イタリア語)では Zipangu となっている。愛宕訳ではリッチ英訳本に基づいて「チパング」と訳している。
マルコ・ポーロが伝え聞いたジパングの話は、平安時代末期に奥州藤原氏によって平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の中尊寺金色堂がモデルになっているとされる。当時の奥州は莫大な金を産出し、これらの財力が奥州藤原氏の栄華の源泉となった。 マルコポーロが元王朝に仕えていた13世紀頃、奥州地方の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていたとされ、そこからこの金色堂の話が伝わったものとされる。
モンゴル帝国時代の「ジパング」
モンゴル帝国時代、大元朝時代の「日本観」についてであるが、大元朝後期に中書右丞相トクトらによって編纂された『宋史』「日本伝」では、「その地東西南北、各々数千里なり。西南は海に至り、東北隅は隔つるに大山を以てす。山外は即ち毛人(蝦夷か)の国なり」とした上で、雍熙元年(984年)に入宋した日本人僧の「然の伝えたところとして、「天御中主」(天御中主尊)から「彦瀲尊」(彦波瀲武盧茲草葺不合尊)までの約23世、「神武天皇」から「守平天皇」(円融天皇)までの約64世を列記し、「国中に五経の書および仏経、『白居易集』七十巻あり、並びに中国より得たり」「土は五穀によろしくして麦少なし」「糸蚕を産し、多く絹を織る、(その布地は)薄緻愛すべし」「四時(春夏秋冬)の寒暑は、大いに中国に類す」と記し、「東の奥洲」で黄金を産出し、対馬のことと思われる「西の別島は白銀を出だし」などと記している。日本の地理などの情報は全体的にほぼ正確に伝えているが、「犀・象多し」など事実と異なった記述も一部ある 。
また、『集史』「クビライ・カアン紀」によると、東南方、「環海中、女直と高麗(جورجه و كولى Jūrja wa Kūlī)地方沿岸近くに大島があり、それはジマングー(جمنكو‎ Jimangū?)という名前である。(女直や高麗の地域から)400ファルサング(約 2,000 km)離れている」とあり、女直、高麗などから東南海上の彼方に大元朝に敵対する地域として「日本国」の音写とおぼしき「جمنكو j-m-n-k-w」と呼ばれる大島についての記述がある 。
異説
地理学者イドリースィーの1154年製作の世界地図。上が南方向となっており、南方全体から東方にかけてをアフリカ大陸が覆う。地図の左端、アフリカ大陸東端に金泥で描かれた山があり、「ワークワーク」(الواق واق al‐Wāq‐Wāq)と書かれている。
上記のごとく、マルコ・ポーロのジパングが日本のことを指すという見方が現在一般的であるが、異説もある。
中世の日本はむしろ金の輸入国であり、黄金島伝説と矛盾する。
マルコ・ポーロの記述やその他の黄金島伝説ではツィパングの場所として(緯度的にも気候的にも)明らかに熱帯を想定しており、実際の日本(温帯に属する)の位置とはかなり異なる。
元が遠征に失敗した国は日本以外にも多数存在する。
などの理由から、ジパングと日本を結びつけたのは16世紀の宣教師の誤解であるとする説もある。またジパングの語源としても、元が遠征した東南アジアの小国家群を示す「諸蕃国」(ツィァパングォ)の訛りであるとする。またイスラーム世界(アラビア語・ペルシア語圏)に伝わった日本の旧称「倭國」に由来するといわれる「ワークワーク(الواقواق al‐Wāqwāq)」ないし「ワクワーク(الوقواق al‐Waqwāq)」は金山を有する土地として知られているが、「ワクワク」に類する地名はアラビア語・ペルシア語による地理書や地図においてアフリカや東南アジアによく見られる地名でもあり、日本のことを指したものではないとする説もある。 
2 ジパングの由来
なぜ「日本」は英語で「Japan(ジャパン)」と呼ばれているのでしょうか
マルコ・ポーロが東方見聞録の中で「Zipangu(ジパング)」として紹介したことにより、日本が西洋に広く知られるようになったというのは周知の通りで、「Japan」はこの「Zipangu」に由来することは容易に想像できますが、「Zipangu」と「にほん」にはまだかなりの隔たりがありますね(因みにマルコ・ポーロはイタリア(ヴェネチア)の人ですが、現在はイタリア語では日本のことを「Giappone(ジャポン)」と言います)。マルコ・ポーロは実際に日本に来たわけではなく、中国(元の時代)の人のから日本のことを伝え聞いたに過ぎません。当然国名は中国語読みだったわけです。現在、中国の標準語(北京で使われている中国語)では「日本」は「ジーベン」と発音されます。「日」が「ジツ」という音読みを持っていることを考えれば納得ですね。今から700年も前のことで、しかも元はモンゴル系の国なので、マルコ・ポーロの聞いた発音はこれとは違っただろうと思われますが、いずれにしても「Zipangu」に近いものだったのでしょう。
「Japan」の由来が分かると、今度はなぜ「中国」は「China(チャイナ)」なのか、という疑問が湧いてきます。当然中国は日本より以前から西洋に知られていたわけで、その名は紀元前の国名「秦[中国統一B.C.221-B.C.206]」に由来します。フランス語では「Chine」と綴って「シン」と発音します。「シナ」という俗称もここから来ていて、「シナ」の東の海が「東シナ海」、「インド」と「シナ」の間にある地域が「インドシナ」というわけです。話はそれますが、フランス語で英語の「Chinese(チャイニーズ=中国の)」にあたる単語は「Chinois(シノワ)」と言います。最近この名をつけているレストランが増えてきたので聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。料理の好きな人ならばご存知のように、この単語にはもう一つ「瀘し器」の意味もあります。これはこの瀘し器が円錐形をしていて、中国人のかぶっている笠に形が似ているからだとか(でも日本人にとっては中国というよりはベトナムの笠といったほうがピンと来ますね)。英語ではこの瀘し器のことを「China cap」と呼びます(「hat」のような気もするけど「cap」なんですね)。因みに香港の航空会社「Cathay Pacific(キャセイ・パシフィック)」の「Cathay」も「中国」の意味ですが、こちらはかつての「契丹[916-1125]」王朝に由来します。 
3 「黄金の国ジパング」日本の金鉱山の歴史を辿る
「黄金の国ジパング」と言う言葉を聞いたことがあると思います。これはマルコポーロの「東方見聞録」で日本のことを表現した言葉です。「金の国日本」ということになりますが、マルコポーロが生きていたのは13世紀の末です。そんな時に日本にたくさん金鉱があったのでしょうか。日本の金採掘はどのような状況で、現在の採掘量はどのくらいなのでしょうか。今回は、日本の金鉱山に焦点を当て、その歴史を辿ってみたいと思います。
「黄金の国ジパング」とは
日本を「黄金の国」と呼んだマルコポーロ。このマルコポーロのことを冒険家と思う人も多いかもしれませんが、彼は実際にはイタリアの貿易商人でした。イタリアのベニスに住んでいて、最初は少年の頃に父親と叔父に連れられて、東方、つまりトルコ、モンゴル、中国方面を旅しながら、自国の物を売り、反対に自国で売れそうなものを買い集め持ち帰りました。2回目には青年になったときに自分で再度東方の旅に出ました。マルコポーロは「東方」には2回も行きましたが、日本には行ったことがなかったのです。「黄金の国ジパング」は、中国人から聞いた話に基づいて、想像を絡めながら執筆したものです。「東方見聞録」の中で、マルコポールは、「ジパングは大量の金を産出し、宮殿などの建物は金でできている」と書いていますが、この金でできた宮殿とは平安時代の1124年に建てられた中尊寺金色堂だと言われています。では、この金色堂で使われていた金はどこから来たのでしょうか。
「中尊寺金色堂」の金箔
昔日本にあった金鉱山では、佐渡島の金鉱山がもっとも大きなものですが、佐渡金山が始まったのは1601年ですから、中尊寺金色堂に使われた金はそれよりも450年以上も前に存在していたことになります。一説では、金色堂で使われた金は朝鮮半島を通って、大陸から持ち込まれたと言われていますが、金についての記録を見てみると、奈良時代に宮城県あたりで、約13kgの金を朝廷に献上したという記録が残っています。実際、当時東北地方には、いくつかの金山がありました。岩手県気仙沼には、玉山(たまやま)金山や茂倉金山という金山があって、中尊寺金色堂に使われた金は、これらの金山から集められたという説が有力です。その後、これらの金山は衰退し1671年に廃山になっています。
「中尊寺金色堂」の金の持つ意味
中尊寺金色堂は、当時「奥州」と呼ばれていた東北地方の統制者だった藤原清衡が建てたものです。金箔をふんだんに使っているため、藤原清衡が自身の豪華絢爛ぶりを誇示するために建てたのではと思われがちですが、実際には、それまでの戦乱の世界を憂い、今後そのような禍がなく平和が続くようにとの願いの下に建てられたと言われています。「金」が放つ柔らかい光が人の心を静めると考えたのでしょう。残念なことには、藤原清衡も源頼朝に倒されてしまい、また、度重なる火災や戦乱により中尊寺の建物は破壊されてしまいましたが、この金色堂だけは覆堂と呼ばれる周りに造られたもう一つの建物により長い間保護されました。これも「金」ゆえの特権なのでしょうか。ただし、現在の金色堂は復元されたものです。
佐渡金山の発見と発展
17世紀の東北地方の金山の廃山と前後して有名になったのが、佐渡金山です。佐渡金山は、1601年に山師により発見されましたが、閉鎖になったのが、1989年ですから、約390年の歴史を持っていることになります。この期間、何度も衰退・閉山の危機に晒されましたが、様々な試みを通して新しい採掘方法を開発し、あきらめなかったことが、佐渡金山の長い歴史につながったと言えます。佐渡金山は、発見直後、徳永家康の命令により幕府の直轄領に置かれ、金の本格的な採掘が始まりましたが、この時は最も簡単な方法である露天掘りにより採掘しました。当時、佐渡金山の最盛期で産出された金は年間400kgでした。佐渡金山での金の採掘は江戸時代の終わりごろまで続き、その約270年間にトータル41トンの金を産出しました。これが徳川幕府の財政を支える大きな収入源になりました。
新しい技術の導入
佐渡金山は江戸の花形金山でしたが、江戸時代の終わりごろから、徐々に衰退の兆しを見せ始めました。そのため、徳川に替わり新しく政権を握った明治政府は、1869年に、西洋の技術を取り入れることにしました。導入した技術の主なものは、西洋式選鉱場と竪坑でした。新しい技術の導入により佐渡金山は、産出量を増やすことができましたが、政府は金本位制による貨幣制度を導入したかったため、金の増産を望み、更に採掘技術を進めようとしました。この目的のために取り入れたのが、北沢浮遊選鉱場の建設と大間港の整備でした。これにはドイツから新しい技術を導入しました。
佐渡金山の衰退と現状
1896年、佐渡金山は、三菱合資会社に払い下げられ、機械化により採掘が行われるようになりました。これにより、明治後期の産出量を江戸最盛期の年間400kgまで戻すことができるようにました。佐渡金山の三菱による操業はその後93年間続きましたが、金の埋蔵量は年々減り衰退を止めることができず1989年に閉鎖を余儀なくされました。その後日本にあった他の金鉱山も徐々に衰退・閉山し、現在残っている主な金山は、鹿児島県にある菱刈金山と串木野金山だけになってしまいました。佐渡金山は、1601年に金脈が発見されてから1989年に閉鎖されるまでの約390年間で金78トンを産出し、まさに日本の有数な金鉱山だったと言えます。特に採掘施設の発展の過程が素晴らしかったため、閉山後は、「史跡佐渡金山」として保存され、ゴールデン佐渡社により運営され一般に公開されています。また、「世界遺産」への登録の申請もしており、登録に向かって様々なキャンペーンが展開されています。
現在の日本の金の採掘量や埋蔵量
前出の通り、現在では鹿児島県にある菱刈金山と串木野金山のみとなっており、既に現在で半分以上採掘されていると言われております。ココでは金だけでは無く銀も採掘されます。推定埋蔵量は2箇所合わせて約260トン。1985年以降、毎年7トン程の金の採掘をしているのを考えると、あと3〜40年で掘り尽くしてしまうのではないでしょうか。金鉱山以外では、日本近海の金鉱床が発見されていますが、技術的な事や莫大なコストの問題で2016年現在では、採算の取れる採掘までは至っておりません。またそれとは別に都市鉱山と言うのがあります。いわゆる家電製品などに使われている金の総称なのですが、これは日本だけで約7000トン、世界の金の埋蔵量の15%前後と言われています。ただコレも同じく回収コストの問題もあり、金のリサイクルのメイン事業に至るまでは来ていないと言えますが、過去の歴史を鑑みると日本人は幾多の技術革新を経て金の採掘を行ってきたと言えますので、近い将来都市鉱山や海の下の金鉱床も利用可能になるのではないでしょうか。
「ジパング」を振り返って
「黄金の国ジパング」と呼ばれた日本。世界的に見ればその金の産出量は、小さなものだったかもしれません。けれども、「金」は様々なものを動かす大きな力として、日本の歴史形成の大事な一役を買ってきたのです。 
4 黄金の国ジパング / 平泉発展へ 東アジアと大船渡
日本最初の金
日本で初めて金が産出されたのは、奈良時代の天平21(西暦749)年、陸奥国小田郡、現在の宮城県遠田郡涌谷町であり、当時の陸奥国主から朝廷へ黄金900両(約13kg)を献上したのが始まりとされる。
折りしも、聖武天皇が東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)の鋳造を開始していた(天平9年)。大仏に塗る金の調達に難儀していた頃であり、陸奥国からの金産出の知らせは、天皇を大いに喜ばせ、年号を「天平感宝」と改めたほどであった。そして、万葉の歌人大伴家持は、「すめろぎ(天皇)の御代栄えむと東なる みちのくの山に くがね(黄金)花咲く」と詠んでいる。
これ以降、みちのくの山々に黄金の花が咲くように、北上高地で次々と砂金鉱床が発見され、その最たる一大産金地が、平泉の東方に位置する三陸沿岸の気仙郡一帯であった。
奥州平泉における藤原氏の栄華
岩手県南部、人口約8500の平泉町。この地には皆金色で覆われた中尊寺金色堂をはじめ、奥州藤原氏の栄華を偲ばせる遺産・遺構が多数存在する。
現在、この「平泉の文化遺産」はユネスコの世界遺産登録へと脚光を浴びている。ここで、平泉を造り上げた奥州藤原氏100年の歴史についてふれたい。
源平の争いが絶えなかった平安時代末期。前九年の役、後三年の役など幾多の戦乱や悲劇を経て、最終的に北東北の支配者となった初代藤原清衡は、壮大にして平和な都市平泉の原形をつくり、奥州藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。
その中心が中尊寺金色堂である。清衡は、落慶法要の席で「争いのない仏国土を造りたい」という趣旨の中尊寺建立供養願文を読み上げ、平泉にこの世の極楽浄土をつくることをめざした。
その後、二代目藤原基衡は、毛越寺を造営するなど、父清衡が描いた浄土思想を中心として平泉の町づくりに努力した。なお、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、毛越寺はわが国では他に例がないほど立派だと記されている。
三代目藤原秀衡は、無量光院を造営。この頃は奥州藤原氏の絶頂期で、東北一円に支配が及び、京都に次いで、人口約12万の日本第二の巨大都市平泉が完成したともいわれる。
やがて、平和を願う平泉にも、歴史の濁流が容赦なく押し寄せる。源氏の棟梁源頼朝とその弟である義経との対立に端を発した源氏と奥州藤原氏との戦乱の結果、四代目藤原泰衡は討ち取られ、1189年、奥州藤原氏は滅亡。約100年間続いた平泉の隆盛に歴史の幕が降ろされることになる。
平泉の黄金文化と東アジア
ここで平泉の黄金文化の発展と東アジアとのつながりをひも解いてみたい。
皆金色と豪華さで観る者を圧倒する中尊寺金色堂。ここに、8世紀から16世紀まで日本の一大産金地であった気仙郡一帯の金が使用されていたことが、東北地方の歴史学の権威である東北大学名誉教授の高橋富男氏により証明されている。金は、盛浦、現在の大船渡港などから海路石巻を経て、北上川を北上して平泉へ届けられたとされている。
中尊寺金色堂には、金のほか、夜光貝を使った螺鈿やアフリカゾウの象牙など、国内に存在しない装飾品も多く、また、平泉では、中国の宋の陶磁器が出土していることから、当時の国際港であった十三湊(青森県西部)などを拠点とした外国との交易が確立されていたものと推測される。
そして、この豪華絢爛たる輝きが、後世の世界史に大きな影響を与えることになる。
黄金の国ジパングと大航海時代
マルコ= ポーロの「東方見聞録」は、翻訳本の中では、当時、聖書に次ぐ大ベストセラーであった。その中に、「ジパングは、東海にある大きな島で、大陸から2400kmの距離にある。・・(略)・・宮殿の屋根は全部黄金でふかれており、道路の舗装路や宮殿の床は4cmの厚さの純金を敷き詰めている。・・(略)・・」と記されており、まさに、この「宮殿」のモデルが中尊寺金色堂であったといわれている。
後世、この「黄金の国ジパング」伝説が、時の冒険家たちの夢を駆り立て、大航海時代へと突入する。そして、冒険家たちのめざすその先は、平泉の中尊寺金色堂であり、莫大な金を産出していた気仙郡一帯であった。
コロンブスがめざしたのは気仙郡の大船渡
マルコ= ポーロの「東方見聞録」から約200年後の1492年、サンタマリア号でスペインのパロス港を出港したコロンブスは、「新大陸」発見の偉業を成し遂げることになるが、実は、コロンブスの本当の目的は、黄金の国ジパング、つまり日本の豊富な金をめざしていたとされている。突き詰めれば、その金の産出地である三陸沿岸の気仙郡、大船渡であった。
それから120年後の1612年、時は、江戸時代初期。後に「ビスカイノ金銀島探検報告」を著したスペインの商人セバスティアン= ビスカイノが伊達政宗の庇護のもと、大船渡港を探索している。このことは、数年後の支倉常長らの慶長遣欧使節団の派遣へと発展することになるが、このとき、伊達政宗は、天然の良港大船渡港を国際港に位置づけ、外国との交易を行う計画であったとされている。
見果てぬ夢の実現 〜結びに〜
コロンブスは、ジパングに辿りつくことはできなかった。しかし、後世の人たちが、彼の夢を継承し、サンタマリア号を復元して、大船渡港入港を達成した。実に「新大陸」発見から500年後の1992年のことである。この偉業を称え、コロンブスがサンタマリア号で出港したスペインのパロス市と大船渡市との間で姉妹都市締結の調印が実現している。
平泉の黄金文化、大航海時代を導いた黄金の国ジパング・・・。歴史上の重要な分岐点で光彩を放ったのが、気仙の黄金であった。産金地気仙郡に残る金山の遺構、我々気仙・大船渡の誇りと気風が、今も息づいている。 
 
マルコ・ポーロの「ジパング」黄金伝説

 

モンゴル帝国の遠征に必要だったマルコ・ポーロの情報
モンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・ハン(在位1260年〜1294年)は、イタリアよりシルクロードを渡ってやってきた冒険家のマルコ・ポーロを情報収集のできる人材として重宝しました。
モンゴル軍の遠征を支えるためには、正確な情報に基づいた敵の分析、作戦の戦略が必要だったからです。
戦いを有利にさせる為の軍の戦略として、外国人の情報提供者の確保にも力を入れていました。
「(モンゴル帝国軍の)実戦においても先鋒隊がさらに前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵襲に備えるなど、きわめて情報収集に力がいれられる。また、中央アジア遠征ではあらかじめモンゴルに帰服していた中央アジア出身のムスリム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われて東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役を務めていたことがわかっている。」
モンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハンにマルコ・ポーロが日本の存在を伝えていた!
シルクロードを渡って来日した人達は古の日本の姿を見てどう思ったのでしょうか。
ジパング(日本)の存在を西洋に伝えた最初の文献は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」です。
マルコ・ポーロは1254年、ヴェネチア共和国の代々商人の家に生まれました。
当時父親は中東貿易ですでに成功していましたが、母親はマルコ・ポーロがまだ10代の頃、一行の東方への旅の途中で亡くなりました。
成長したマルコ・ポーロはヴェネチア商人になり、冒険家としても有名になりました。
「東方見聞録」はマルコ・ポーロが44歳、1298年頃に伝承としてつくられました。
そこに書かれた詳細な情報はモンゴル帝国だけでなく、13世紀〜14世紀のヨーロッパに大きな影響をもたらしました。
そしてその文中で、「豊かな黄金の国としての日本の存在」を西洋に紹介し、後の16世紀のポルトガル(鉄砲伝来)やフランシスコ・ザビエルの来日などに影響しました。
マルコ・ポーロ一行、シルクロードを越えモンゴル帝国にたどり着く!
時は13世紀、ヴェネチア共和国(現イタリアのヴェネチア)。
マルコ・ポーロが育ったヴェネチア共和国は、東地中海貿易が栄えた海洋国家でした。
当時のシルクロードの貿易*では東方の絹、西方のコショウ等が主に取引されました。
特にコショウは貴重で金と同重量で交換されたことからヴェネチア商人に「天国の種子」と呼ばれました。
その他、オリーブオイル、ワイン、綿、羊毛皮類、インディゴ(染料)、武具、木材、奴隷なども盛んに取引されてました。
まさにヴェネチア共和国は、東と西の貿易地点でした。
ヴェネチア共和国は、7世紀末から1797年ナポレオンに降伏するまで、約1000年存続した史上最長の国家としても有名です。
さて時は1271年、当時15歳だったマルコ・ポーロは、ヴェネチア商人の父ニッコロー・ポーロと叔父マッフェーオ・ポーロとともにアジアのシルクロードに向けて出発しました。
父ニッコロー・ポーロは中東貿易で成功し、財を成していました。
その財を宝石に変え、マルコ・ポーロ一行は東を目指し旅立ちました。
文献による、マルコ・ポーロ一行の経由地 (現在の地名)です。
「アークル (アークル、ハイファ北東、イスラエル) エルサレム (エルサレム、イスラエル) ライアス (イスケンデルン、トルコ) カエサリア (カイセリ、トルコ) エルズルム (エルズルム、トルコ) 
トリス (タブリーズ、イラン) カズヴィン (ガズヴィーン、イラン) ヤズド (ヤズド、イラン) ケルマン (ケルマーン、イラン) コルモス (バンダレ・アッバース、イラン) 
サプルガン (シバルガン、アフガニスタン) バルク (バルフ、アフガニスタン)
ホータン (ホータン、中国) チャルチャン (チェルチェン、中国) 敦煌 (敦煌、中国) 寧夏 (インチョワン、中国) シャンドゥ・上都 (内モンゴルにあった元の夏の首都、中国) ハンバリク・大都 (北京、中国) ヤンジュウ (揚州、中国) スージュウ (蘇州、中国) キンサイ (杭州、中国) ザイトゥン (泉州、中国)
ビンディン (ダナン、ベトナム)
ファーレック
コイルム (コーラム、インド) タナ (ムンバイ北方、インド)
トレビゾンド (トラブゾン、トルコ) コンスタンチノープル (イスタンブール、トルコ)」
マルコ・ポーロたちは陸路をとり中央アジアを越えて、ついに1275年、未知の国、元、モンゴル帝国へたどりつきました。
モンゴル帝国第5代皇帝フビライ・ハンの支配
マルコ・ポーロ一行が到着する前、1271年にモンゴル帝国の第5代皇帝フビライ・ハンは南宋を滅ぼし、中国全土を支配し、都を大都(北京)に遷し国号を「元」と改めました。
フビライ・ハンは情報収集や外交にも大変力を入れており、マルコ・ポーロをとても気に入りました。
モンゴルの宮廷に迎え入れ、ハンのもとに留まるよう、マルコ・ポーロ一行を元の政治官に任命しました。
モンゴル軍の遠征支えるためには、敵側の正確な情報に基づいた分析、作戦の戦略が必要でした。
そういう点においても、マルコ・ポーロたちが持ち込んだ生きた情報はモンゴル遠征におけるあらかじめの情報として重要でした。
マルコ・ポーロ一行にとっても未知の東方の情報がつかめるので非常にメリットがあったと思われます。
一行は約17年間、モンゴルにとどまり宮廷に仕えました。
モンゴル帝国の「元寇」の目的は日本の黄金狙い
大陸を支配していたモンゴル帝国は、13世紀の終わりに日本にも戦い「元寇(蒙古襲来)」を挑みにきています。
フビライ・ハンが日本へ関心を抱いたのは、高麗人やマルコ・ポーロより日本の富*を聞かされ興味をもったからだそうです。
元寇の1回目を「文永の役」(1274年)、2回目を「弘安の役」(1281年)と呼びます。
マルコ・ポーロたちは弘安の役の頃にはフビライ・ハンに仕えていました。
「東方見聞録」の中で日本はこう記されています。
「大陸から1500マイル(約2,250km)離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も2ドワ(約4cm)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。」
2回目も弘安の役において日本に派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であったと言われています。
マルコ・ポーロのアドバイスだったのかもしれません。
しかし2度の元寇は失敗し日本が勝利します。
マルコ・ポーロは17年間も仕えたのにも関わらず、当時の元の史料にマルコ・ポーロの名が登場していません。
その理由として「東方見聞録」の中で、「外国人を重用したことを公にするわけにはいかないのですべての資料にマルコの名を記さなかった」と書かれているそうです。
もしかしたらマルコ・ポーロはスパイだったのかもしれないとも一部で言われています。
最終的にモンゴル帝国は当時の世界人口の半数以上を統治し、人類史上最大規模の世界帝国となりました。
マルコ・ポーロが体験したモンゴルは、ちょうど最大規模時から晩年のモンゴル帝国でした。
モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カン
マルコ・ポーロを重宝したフビライ・ハンはモンゴル帝国第5代皇帝であり、1206年にモンゴル帝国を建国した初代皇帝チンギス・カンの孫です。
チンギス・カンは大小様々に分かれて抗争していた遊牧民部族をまとめ、イランや東ヨーロッパまで征服しモンゴル帝国の基盤を築きました。
現モンゴル国において、チンギス・カンは神格化され今でも国家創建の英雄として称えられています。
「東方見聞録」によると、チンギス・カンやその一族の埋葬地は重要機密とされ、チンギス・カンの遺体を運ぶ隊列を見たものは秘密保持のため殺されたそうです。
これはチンギス・カンが死ぬ間際に、自分の死が敵国に知られると攻めてこられる可能性があるから死をふせておくようにという遺言を残したそうです。
ちなみに、2004年、英国オクスフォード大学の遺伝学研究チームは興味深い発表をしました。
DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であると。
ケンブリッジ サンガー研究所のカーシム・アユブ博士らは世界の3200万人がチンギス・カンの遺伝子を引き継いでいると結論づけています。
「東方見聞録」の執筆はモンゴル帝国から帰国しヴェネチアで
シルクロードを渡ったマルコ・ポーロ達はモンゴル帝国に約17年間とどまり、1295年にヴェネチアに戻りました。
全行程15、000kmの壮大な旅だったと言われています。
彼らの帰国後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァとの戦いが始まりました。
マルコ・ポーロも従軍しましたが、ジェノヴァ側に捕らえられました。
1298年、数ヶ月の収監中に彼は旅の詳細を口述し、投獄中の職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサがそれを書き起こしました。
その時、ピサが本人自身が聞きかじった逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えたと言われ「東方見聞録」の情報の正確性に疑問視されている一因となっています。
しかしながら、「東方見聞録」の未知の情報は、時の権力者を魅了し後世まで重宝されたといいます。
4冊の本からなる「東方見聞録」は以下のような内容が記述されています。
1冊目 :主に中東から中央アジアで遭遇した話
2冊目:中国に到着後からクビライの宮廷についての話
3冊目:ジパング(日本)、インド、スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域についての話
4冊目:モンゴル帝国、ロシアなどの極北地域について戦争の話など
マルコ・ポーロによって、日本は黄金の国としてヨーロッパに知れ渡りました。
黄金の国伝説、ジパング
マルコ・ポーロの「東方見聞録」によると、「中国のさらに東のはずれにある小さな島国ジパングは建物も、山も、川も、何もかもが黄金で出来ている。」
「シパンギュは東方の海上にある孤島で、大陸からは1500海里の距離にある。
シパンギュは極めて巨大な島です。住民の肌は白く、美しい姿形をしている。
シパ ンギュ島民は偶像崇拝教徒で、住民自らによって島を統治している。」
つまりマルコ•ポーロの記述によるジパングとは、
「カタイ(中国大陸)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国」
「莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている」
財宝や黄金は本当にあったのでしょうか。
黄金伝説の正体は「中尊寺 金色堂」?!
マルコ・ポーロによるジパングの記述の「黄金」とは何を指しているのでしょうか。
日本で初めて金が産出されたのは天平時代、749年(天平21年)頃とされています。
天平時代は、7世紀終わり頃から8世紀の中頃までをいいます。
「宮殿や民家は黄金でできている」
どうもこれは、平安時代末期、奥州藤原氏によって平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の「中尊寺金色堂(下記写真)」がモデルになっているようです。
12世紀、当時の日本、奥州では莫大な金を産出していました。
それは奥州藤原氏の財力・栄華の源泉でした。
奥州平泉は現在の岩手県平泉町にあたります。
1105年、奥州藤原氏初代清衡公によって中尊寺の造立に着手されました。
清衡公は釈迦如来により説かれた仏教を尊び、平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしました。
そうした極楽浄土を具体的に表現したのが金色堂です。
金色堂はその名のとおり、木の瓦がのった屋根から壁、床から天井、内外共に全て「総金箔貼り」です。
当時の工芸技術が集約されている豪華絢爛な建築です。
内外に金箔の押された「皆金色(かいこんじき)」と呼ばれる金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってきた白く光る夜光貝の細工を用いた螺鈿細工です。
そして日本では珍しい象牙や華やかな宝石によって見事に飾られています。
このような豪華な造りのお堂は世界で一つだけで、堂そのものが美術品です。
須弥檀の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天という珍しい仏像構成となっています。
こうした藤原清衡公が思い描いた極楽浄土、まばゆいばかりの輝きが「黄金の国、ジパング」という伝説をつくったのでしょう。
金色堂中央壇の高欄の角材の辺の部分に線状に切った象牙が使われてあり、それはアジアゾウの牙では無くアフリカゾウの牙と鑑定されています。
このアフリカゾウの牙は、シルクロードを経て遠くアフリカ大陸から日本に輸入されたものと考えられます。
当時の奥州藤原氏の財力と勢力の広さを窺い知ることができます。
平泉の地は藤原氏保護のもと、豊かさと平和を基盤に、壮麗な仏教美術*等がおよそ100年近く繁栄しました。
黄金の平泉文化
奥州藤原氏が都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立した所以は、その莫大な経済力の背景があったということと、兄弟・親子の激しい戦いや殺戮を反省し、戦没者への追善の思いがありました。
造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されています。
その願いの実現には金銀をふんだんに使いました。
「紺紙金銀字交書一切経」(写真上)は、紺色に染めた紙にお経の文句が一行ごとに金字と銀字で交互に書写されています。
金と銀ですので、大変豪華な写経の文字です。
このお経が最初に納められたお寺が平泉の中尊寺と考えられ、通称の名前で「中尊寺経」とも呼ばれています。
「紺紙金銀字交書一切経」とは:
「一切経というのは、経(きょう=仏さまの教えを書いたもの)・律(りつ=信者が守るべき規則)・論(ろん=仏さまの教えを解釈〈かいしゃく〉したもの)など仏教の書物(経典〈きょうてん〉)を集大成(しゅうたいせい)したもので、一セット5400巻近い経典から成り立っています。
全部を書写するのに必要な紙の枚数は約九万枚と考えられますが、それを紺紙に金と銀で書写するとなれば、莫大(ばくだい)なお金と時間、そして人手が必要となります。
このような大事業をおこし、それを行ったのが初代藤原清衡(1056-1128)でした。
実際に書写事業がはじめられたのは、永久(えいきゅう)5年(1117)2月からと考えられますが、9年後の天治(てんじ)3年(1126)3月には完成を見ています。」
金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められています。
金箔の棺、中尊寺の4つのミイラ
金色堂にあるヒバ材でつくらた棺より3体のミイラとミイラ化した首が見つかりました。
棺の内外に金箔が押されていいます。
その金箔は、金色堂の建物自体に使用された金箔と同様、遺体の聖性、清浄性を保つ象徴的意味があると見なされています。
これらの遺体は
• 初代:藤原清衡
• 第2代:藤原基衡
• 第3代:藤原秀衡
• 第4代:藤原泰衡(首級)
藤原家4代にわたった遺体です。
藤原親子同士の戦いで、負けた藤原泰衡の首は切られ祀られました。
泰衡の首の損傷のあとより、八寸釘(約24cm)を使用して釘打ちの刑に処せられたと言われています。
泰衡の首桶からは約100個の蓮の種子が発見され、泰衡没後811年後の2000年にこの種子の発芽に成功しました。
現在では「中尊寺蓮」として栽培されています。
ミイラはエジプトのようになんらかの人口的な保存処置をしミイラにしたのか、自然にミイラになったのが諸説ありました。
1950年3月に、人類学者で東北帝国大学名誉教授だった故長谷部言人を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」によって調査されました。
調査をした結果、故鈴木尚教授(当時、東京大学理学部人類学教室助教授)と故長谷部言人教授は、これらのミイラは人工的ではなく自然にできたミイラだと推定しました。
反対説も唱えられています。
ミイラは人工的につくられたという説を唱えているのは、日本の法医学の草分けで科学捜査の研究に寄与した古畑種基東大名誉教授です。
「古畑種基は人工加工説を唱えている。遺体には内蔵や脳漿が全く無く腹部は湾曲状に切られ、後頭部には穴が開いていた。
裂け目にはネズミの歯形が付いていたが、木棺3個とも後頭部と肛門にあたる底板に穴が開けられており、その穴の切り口は綺麗で汚物が流出した痕跡はなかった。
また、男性生殖器は切除されており、加工の痕跡は歴然であるとした。」
日本人僧の最後の遣唐使、円仁
もともと中尊寺は850年、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師「円仁」によって開かれました。
円仁とは、9世紀の日本人僧で天台宗•最澄に師事し、比叡山興隆の基礎を確立するとともに、遣唐使として晩年の唐に渡り、中国の社会・風習についても記述しました。
その時の旅行記が「入唐求法巡礼行記」で、晩唐の歴史研究の史料として高く評価され、一部ではマルコ・ポーロの記述より勝るとも言われています。
モンゴル帝国に伝わった黄金伝説
マルコ・ポーロがモンゴル帝国のフビライ・ハンに仕えていた13世紀頃、奥州地方の豪族、安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていました。
この中国交易から豪華絢爛な「金色堂」の話が漏れ伝わったとも言われています。
また別説では日本の豊かな稲作、秋の実りの風景を「黄金(金色)」と表現したものではないかという話もあります。
いずれにせよ、東の果てにある国日本に対しての憧れがあったのでしょう。
「東方見聞録」はアジアに関する貴重な資料として、15世紀〜17世紀半ばまで続いた「大航海時代」のヨーロッパ人にも多大な影響を与えました。
イタリアの探検家、クリストファー・コロンブスも、1438年から1485年頃に出版された「東方見聞録」を持ち、計366箇所も書き込みをしていました。
このことからアジアの富や黄金に興味があったと考えられています。
東の果てにある国、憧れの対象の国、日本。
私たちは過去から受け継いだものづくりの文化、財産、正しい歴史を継承していかなければなりません。  
 
大航海時代の駿府の家康

 

国際外交をリードした家康
15世紀の中頃、世界随一の実力を持ったスペインやポルトガルが、新世界へ向かって小さな船と限られた技術を駆使して、イベリア半島の先端から大海原に船出した。こうして地理上の発見が相次ぎ、大航海時代の幕が切って落とされた。その先駆けがコロンブスのアメリカ大陸の発見(1492)や、バスコ・ダ・ガマのインド航路の発見(1494 )である。
この大航海時代(Golden Age of Exploration)の波紋が日本に押し寄せたのは、コロンブスのアメリカ発見から半世紀後の天文12年(1543)である。このときポルトガル人は、日本の九州種子島に上陸して鉄砲を伝えた。徳川家康はその前年、三河で生まれたばかりであった。
種子島に鉄砲を伝えられると、刀を作る優秀な技術を持った日本人は、たちまち模造品を作り、鉄砲はたちまち国内に広がった。戦術も一変し、天正3年(1575)の織田・徳川連合軍が武田勝頼軍を愛知県の長篠(豊川の上流)で撃破したのも、鉄砲の威力だった。鉄砲伝来からわずかに32年後のことである。
鉄砲の次がキリスト教だ。フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは、天文18年(1549)、家康が7歳のときであり、大村純忠や大友義鎮ら九州地方の戦国大名たちが入信した。キリスト教も鉄砲と同様、すばやく日本全国に広まった。以後、日本人の物の考え方や行動も、新しい宗教によって大きく変わった。こうした環境で育った徳川家康は、やがて大航海時代の日本の主役となり、駿府大御所時代に多彩な外交を展開することになる。
幼少年期を今川家の人質として過ごした家康は、織田信長や豊臣秀吉が果たし得なかった天下統一を為し遂げ慶長8年(1603)に江戸幕府を樹立した。その2年後息子秀忠を二代将軍に据えた家康は、駿府を大御所としてから際立った国際外交を活発に開始した。この駿府時代から日本が本格的国際外交をはじめ、ヨーロッパやアジア諸地域を巻き込んで行った。駿府にはヨーロッパ、東南アジア諸地域、東南アジア諸地域朝鮮などから多くの人物が去来し、駿府が重要な国際外交の舞台となった。
そんな駿府から、海外に雄飛した一人に山田長政もいた。山田長政はシャム国(現在のタイ)のソンタム国王に仕え、彼の活動はオランダ人のハンフリートの記録十七世紀に於ける「タイ国革命史話」にも詳しく記されている。一つだけ付け加えて置くと、山田長政がシャムの王様ソンタムに信頼され、軍事顧問となって軍隊を統率していたことは、駿府で徳川家康に仕えて外交顧問となったウイリアム・アダムズに酷似していることである。
家康の駿府大御所時代は、年数から言えばたかだか10年足らずであった。ところがその中身は極めて密度の濃い時代である。具体的にはオランダ・イギリス・スペインの各国王使節が駿府を訪れ、現代の国際外交活動のようにダイナミックであった。この時代(17世紀)の国際外交は、想像を越えたおとぎ話の世界にも匹敵してロマンに満ちている。前述したウイリアム・アダムズ(日本に初めて来たイギリス人)は、「ガリバー旅行記」のモデルともなっていた。
黄金の国ジパングの王様・徳川家康
この時代西洋から見た日本は、島国と言うよりは絶海の孤島として映る幻の空白地域である。彼らは日本を「黄金の国」(ジパング)と呼び、南極や北極と同様に極東と見なして地球上の謎の空白地帯であった。
そんな日本を紹介したのが、マルコ・ポーロの「東方見聞録」だ。東方見聞録ヨーロッパの人々は、黄金の国を探すため先を争って大航海の旅に出た。冒険者たちの終着点は、当然日本であり、日本を支配していた徳川家康の町「駿府」が彼らにとってはジパングの首都だった。マルコ・ポーロは「東方見聞録」でジパングの何を語ってヨーロッパ人に刺激を与えたのか、その本から見てみよう。
「さて、私たちはインドの土地を説明することになった。そこで私はまずジパングの大きな島から始めよう。東方にあるこの島は、マンジ(Mangy)の海岸から1,500マイルの大海中にあり、非常に大きい。住人は色白で、ほどよい背の高さである。彼らは偶像崇拝者であり、彼ら自身の国王を持っており、他国の王に従属していない。そこには莫大な黄金があるが、国王はやすやす黄金を島外へ持ち出すことを許さない。それ故、そこへはほとんど商人が行かないし、同じように、他所の船もまれにしか行かない。その島の国王は大宮殿を所有している。その建物は、私たちの教会が鉛で覆われているように、すべて純金で覆われている。宮殿の窓は金で飾られ、細工が施されている。広間や多くの部屋の床には、黄金の板が敷かれ、その厚さは指二本ほどである。そこには小粒の真珠が豊富にあり、丸くて肉厚で、赤味がかり、値段や価値の点で、白い真珠よりもまさっている。その上に、大量の真珠や宝石がある。このようにジパング島は驚くほど豊かである」と記述し、また次のような恐ろしい記述もある。
「ジパングの住人は外国人を捕らえた場合、もし金銭で身受けされるならば、金銭と交換に彼らを解放する。もし身代金に値する代金が得られない場合は、捕虜を殺し料理して食べてしまう。そしてこの席には親戚や友人を招待し、彼らはそのような肉を非常に喜んで食べる。彼らは、人肉が他の肉よりもすぐれ、はるかに味がよいといっている」(マルコ・ポーロの「東方見聞録」)。
「東方見聞録」に記されたジパング(日本)の情報は、ヨーロッパ人に「日本=黄金の島」として伝えられた。その影響は計り知れない程に幻惑と魅力と謎に満ちていた。実は、「東方見聞録」の黄金伝説以外にも、古代ギリシヤやローマ時代にも東洋に黄金の国があるという伝説があった。その黄金伝説が、具体的な形となって「東方見聞録」で紹介されたのがジパングである。
ジパングを求めて
ジパング(日本)を探すため、1492年(家康が生まれる50年余り前)コロンブスはスペインのフェルナンド国王とイサベル女王を説得し第一回の航海に乗り出した。ヨーロッパ人は未だに地中海世界に留まっていたが、遠い海(大西洋)に向かって行動を開始した。コロンブスがその第一歩を踏み出した。コロンブスが大西洋を横切り、最初に到着した場所はカリブ海の一孤島(注)であった。ところが彼は最後まで「自分は日本(ジパング)の近くに到達した」と頑なに信じたままこの世を去っている。しかしスペインの宮廷にいたイタリア人ピエトロは、地球の大きさから推してもコロンブスがアジアに到着するはずがないと、ローマ教皇に書き送っているのが当時の地球観といえるだろう。
(注)コロンブスが最初に到着した島は、現在のキューバ近くの西インド諸島の一つサン・サルバドル島であった。
コロンブスの探検によって、それまでヨーロッパ世界で地の果として軽視されていたイベリア半島の先端のリスボンの港と日本の駿府はこの時から宿命的に繋がっていたことになる。この間には広大なる新世界(南北アメリカ大陸)と更に世界最大の太平洋があった。それでもヨーロッパの冒険者たちの船出は休むことなく続いた。アメリカ大陸を横切り、太平洋を越えてジパング探しは続いた。地理上の発見も相次ぎ、中米メキシコのマヤやアステカ文化それに南米ペルーのインカ帝国との遭遇もあった。これらの背後には、「黄金の国ジパング」を探すという飽くなき夢があったからと言える。
1519年(日本暦で永正16年)メキシコのアステカ王国を滅ぼしたスペインは、この地域を「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」と呼びスペイン副王をここに置いた。この年は今川義元が生まれた年にあたる。ヌエバ・エスパーニャとは、現在のメキシコである。大御所時代には、「ノビスパン」とか「濃毘数般」また「能比須蛮」などと呼ばれ、家康外交文書もこのように記していた。家康がメキシコとの貿易振興のため、使節をこの国に派遣したのが慶長15年であった。
アダムズに建造させた船スペイン人の日本進出は、メキシコ東海岸のアカプルコとマニラを結ぶ赤道海流を利用しての太平洋航路でつながっていた。家康はなぜか、このメキシコとの貿易に深い関心を示していた。こうした経緯から家康は、アダムズに建造させた船(120トンの小帆船)で慶長15年(1610)太平洋横断に成功した。これが「大御所メキシコ使節」(注)である。日本人が日本人によって造船された船で、太平洋を横断したのはこの時が初めてである。ところが大御所時代の研究が遅れているため、こうした事実はあまり知られていない。
このときの使節が再び駿府に帰国したのは、翌年の慶長16年(1611)であった。「駿府政事録」は次のように記している。
慶長十六年八月廿日
「長崎所司長谷川左兵衛尉藤廣着府大明南蛮異域之商船八十余艘来朝則快為商売之旨言上ス」
慶長十六年九月廿日
「南蛮世界ノ図屏風有御覧而及異国々之御沙汰」
慶長十六年九月廿二日
「去年京都ノ町人田中勝介、後藤少三郎ニ而望渡海ヲ、今夏帰朝ス、数色之羅紗並ニ葡萄酒持来件ノ紫羅紗其一也。海路八九千里ト云々。」
(注)家康はこの船に商人田中勝介以下二十二人をメキシコに渡航させた。このとき鉱山の精錬法をはじめ、スペインの先端技術を駿府に持ち帰ったともつたえられているが定かではない。
「駿府政事録」(慶長16年)8月16日の項に、「長崎所司長谷川左兵衛尉藤廣着府大明南蛮異域之商船八十余艘来朝則快為商売之旨言上ス」(長崎所司の長谷川左兵衛尉藤廣が駿府に来て、大御所に大明国や南蛮その他の異境の商船が八十艘余り日本に来て大変快く商売に精を出していることを言上す)とあり、日本にはたくさんの外国船が長崎方面に来航していることが理解できる。
皇帝と呼ばれた駿府の家康
家康は、将軍職を退いて駿府城に移った。単なる「隠居生活」をしていたと考えたらそれは大きな誤解である。それは、徳川幕府の実力と威信を世間に見せつけるための「幕府の作戦」であった。家康は駿府城を舞台として、徳川幕府の延命作戦を練り実行した。強力な頭脳集団(シンクタンク)と、具体的作戦を実行する行動集団(ドウタンク)からなる強力な「大御所スタッフ」を配置して任務を忠実に遂行させたのである。
諸外国の使節から皇帝と呼ばれた大御所家康を、「隠居」と見ていた外国人は一人もいない。むしろ駿府城で睨みをきかせ、二代将軍秀忠よりも強い権力を持ちながら諸大名や公家をも統制下に置いた。こうした駿府の家康を、諸外国の使節や宣教師それに商人たちは「皇帝・日本皇帝・日本国王・内府様(だいふさま)・大御所・閣下・大皇帝・殿下・上様・天下殿・日本国大君・将軍・大将軍・国王・大王」などと様々に呼んでいる。家康の言動は国内ばかりか、国外に対しても影響を与えた。家康の国際的外交の広がりは、ヨーロッパや東南アジア諸地域に加え、太平洋の彼方のメキシコにまで広がっていた。「駿府大御所時代」の出来事やその実態は、残念ながら現在の私たちの住む静岡の街角からはとても実感として伝わってこない。しかし、ひとたび海外の古記録や宣教師の古記録に目をやると、想像を絶する大きなスケールで大御所時代が光り輝いているから不思議である。
大航海時代を意識した町造り
家康は駿府を大御所の地と決めると、想像を絶する発想で「城」と「城下町」の壮大な計画を持っていた。それは、「大航海時代」を意識した都市計画(設計)で、外国船(ガレオン船)が長崎や平戸だけでなく、ここ駿府城下にも投錨できるよう港を建設することである。家康は「駿府」に大船を接岸させ、ここを日本の国際的外交の拠点にしようと考えた。
このことについては、ウイリアム・アダムズの記録を辿っていくと興味ある指摘と一致する。それは、従来の港(長崎や平戸)よりも、イギリス人のためには関東や浦賀あるいは駿府が候補地になっていたと思われる点である。スペイン人やポルトガル人と競合させない方が得策と考えて関東や東海を意識したことが記されている。また、平戸や長崎では江戸や駿府に来るのには遠くて不便であった。
そのためアダムズは、「国王陛下の城に近い日本の東部、つまり北緯35度10分辺りが良い」と考えイギリス国王の使節セーリスにも商館の設置場所をこちらに薦めていた。江戸の町は北緯36度にあることから、自分の領地のある三浦半島逸見をアダムズは視野に入れていたことになる。駿府では安倍川の脅威によって、家康の計画が変更となったからである。しかし、江尻(清水)ということもアダムズの記録には出てこないのが気にかかる。
家康が夢見た幻の駿府城と駿府城下町とはだいたいこんな計画であったと考えられる。それは安倍川を大改修し、運河で駿府城と城下を結び天守閣の真下にヨーロッパ諸国からの船を着岸させるといった壮大なものであった。それが、幻の「川辺を拠点とした城と城下町の建設構想」であったらしい。しかしながら、安倍川の流れは時として「暴れ水」となり、実現不可能ということで現在の場所となったのが大方の経緯と想像できる。
確かに、大御所時代の諸外国からの外交使節の記録をのぞいて見ても、日本の政治と外交はこの駿府を中心としてシフトしていた。すると「川辺計画」も実現しなかったとはいえ、アダムズや家康の指摘は示唆に富んでいた。アダムズの記録をもう一度正確にみてみよう。
「日本の東部、北緯三十五度十分で、ここに国王陛下の城があります。もし我が国の船がオランダ人のいる平戸に来れば、そこは幕府から二百三十リーグ(一リーグは四・八キロ)も離れており、その間の道は退屈で不潔です。江戸の町は北緯三十六度にあり、この地の東側はいくつかの最良の港があります。沿岸は開けていて、本土から二分の一マイル沖まで浅瀬や岩は一切ありません。
もし船が東のほうの海岸に来れば、私を訪ねてきてください。私は日本語で按針様と呼ばれております。この名前で、私は沿岸の全ての人々に知られております。本土に近付いても心配は全くありません。なぜならあなた方をどこでも好きな場所につれていってくれる水先案内の小帆船がありますから。船がここに来たとき、あなた方の会社の働く人々と混じって、私も皆様の満足のいくようお仕えできることを切望しております」 。
家康の外交文書を作成したソテロ
宣教師ソテロ家康の外交に関与したソテロに大きな仕事が待っていた。慶長14年スペインに帰国するはずのドン・ロドリゴの船が、上総国(千葉県)御宿で難破した。船を失ったスペイン人一行は、家康がアダムズに造船させた船で帰国することとなった。このとき家康がロドリゴに持参させた日本語とスペイン語の協定文の作成は、ソテロが行うことになった。ドン・ロドリゴは、ソテロが作成する文書はスペイン国王に有利なように作成させ、また家康の機嫌を損なうことのないように家康に見せる日本語を用意した。
ソテロは両者を意識し作文した。彼はその文書を伏見の教会で作成した。協定案文ができると、ソテロはそれを慶長15年1月21日に駿府城に持参し家康に見せている。あらかじめドン・ロドリゴと検討した協定文(八項目)は実に細目が多かった。内容は次のようなものである。
1.スペインに関東の港を提供し、江戸に教会を建て宣教師の滞在を許可する
2.スペイン船の安全と厚遇
3.安くスペインに食料を提供する
4.マニラとメキシコの交易を開いたら、スペインの大使を駐留させ居館を与え、随員や司祭を保護し教会を提供し厚遇する
5.精錬技術者のことは、難しいが百名ないし二百名を可能かどうか国王に奏請する。しかし、スペインが発見した場合は半分はスペインの分け前とする
6.キリスト教徒の鉱夫のために司祭を置いてミサを行うこと
7.スペインと交誼を結ぶことは、世界最大の君主と結ぶことを意味する。そのため、オランダ人は追放すること
8.日本の港はことごとく測量する、またスペイン船に被害があったら厚遇すること
以上の条目を明記した書付三通をドン・ロドリゴに携帯させ、スペイン国王と協議した上で二年以内に家康に回答する条件であった。すべてはスペイン国王の決裁を要するとして、ドン・ロドリゴは慎重に対処した。
駿府城で、1609年12月20日伏見においてと原文はなっているが、これは駿府城の間違いである。ソテロの文章は駿府城で家康に提示されると、大御所の役人たちがこれを協議した。どのように最終的になったかわからないが、外交文書をソテロが再び伏見に持ち帰った。それは伏見の教会(ロス・アンヘレス教会)に居たフランシスコ会管区長アロンソ・ムーニョに再度協定文書を確認させ、スペイン語と日本語訳が偽りでないことを添書きしてもらうためである。
アロンソ・ムーニョも、このころソテロと同様に日本語に精通していた。そのため家康が、ソテロの訳文が正しいことをムーニョに確認させる手筈であった。ムーニョも大御所家康の周辺で外交事務に関わった一人である。ところが徳川家康がスペイン国王に宛てた協定文の日本語の原文は日本には伝わっていない。鎖国によって破棄されたのかもしれないが、幸いスペインに残るスペイン語の内容によると、スペイン国王宛ての内容はスペイン側に有利に書かれ、家康への内容は日本側に有利に書かれているという。中でもオランダ人の追放や国内の港湾測量などについてはスペイン国王に有利に書かれていた。
アロンソ・ムーニョはソテロの文書に間違いないことを家康に証明した。いい加減と言えばいい加減である。この外交文書は、ソテロ自身がフェリーペ三世国王の側近レルマ公に届ける予定であった。ところがドン・ロドリゴらがアダムズの船で帰国する際、突然ムーニョを帰国させた。実はドン・ロドリゴは敏腕で小ざかしく動くソテロを嫌っており、スペイン国王に彼を近づけたくなかったためらしい。
さて、出来上がった家康の外交文書は以下の通り(これは協定文ではなく国書である)。 「日本の天下人源家康は、スペインのレルマ公が本状を国王陛下に示されんことを乞う。前ルソン総督は、ヌエバ・エスパーニャの船が日本に来航する件を交渉したが、これは適切であると認められた。それ故日本の如何なる地にその船が到着してもこれを歓迎し、何らの危害も加えず、一切の恩恵と厚遇を与えられるであろう。その他の委細は使節であるこのフライ・ルイス・ソテロが取り扱うであろう。慶長十四年十二月二十八日」 。
ウイリアム・アダムズ
エリザベス朝時代のイギリス
大御所家康の国際外交を支えた人物にウィリアム・アダムズがいた。家康がアダムズと出会うことがなかったら、家康の国際外交は大きく変質していたに違いない。日本とオランダとの国交は慶長14年(1609)のオランダ国王使節の来日に始まる。このきっかけを作ったのはアダムズだ。また日本とイギリス両国の橋渡しをしたのも彼であり、最初のオランダやイギリス外交にアダムズが果たした役割は大きい。ここでは日本に初めて来たイギリス人ウイリアム・アダムズが来日し、家康とかかわった経緯から見てみよう。
彼の出生の記録が、ロンドンから東に約50キロ離れたケント州ジリンガムのマリー・マグダリーン教区教会に残されている。アダムズは1564年9月24日この町で生まれた。シェイクスピアと同じ年の誕生である。16世紀のイギリスは、女帝エリザベスが即位し(1558年)、イギリスの産業や貿易が盛んになり、イギリス海軍が光り輝いたエリザベス朝時代である。イギリスが大英帝国へと進む栄光へのスタートの時代であった。エリザベス女王は、オランダの独立を支援しスペインに反発を深めたため、これに反発したスペインは1588年世界に誇る無敵艦隊をイギリスに進撃させた。
イギリスがこの無敵艦隊を撃破したことによって、イギリスやオランダがスペインの制海権を奪い世界進出に躍り出た。アダムズの生まれたこの時代は、イギリスが世界的規模で世界中に動き出し、スペインとポルトガルに代わって世界に羽ばたいた時代であった。そんなころにアダムズは、リーフデ号で日本に向かった。
家康、アダムズを召喚
リーフデ号は波間に揺れ動く無人船か、それとも幽霊船のようであったという。見慣れぬリーフデ号の漂着は、たちまち噂となって広がり家康の耳にも届くことになる。家康は、早速アダムズを大坂城に呼び寄せ、航海の様子や来日の目的などをいろいろ聞き質(ただ)した。家康にしてみれば、関ヶ原の戦いの間際の忙しいときでもあった。
スペイン人やポルトガル人は、厄介なイギリス人とオランダ人がこのとき初めて来日したことに焦った。イギリスとオランダは、彼らの敵国だったからである。英語やオランダ語を話すものがいないため、結局家康はスペイン人やポルトガル人たちに通訳させた。彼らは正しく通訳するどころか、アダムズたちを海賊としてただちに処罰ないし処刑するよう家康をたきつける始末であった。この結果アダムズは、囚人たちの獄舎に投獄されさんざんな目にあったという。
家康はスペイン人たちの姑息な通訳で、真実が覆い隠されていることを見抜かないはずがなく、正しく通訳することを厳命し再度アダムズに聞き質した。こうして、前後3回アダムズを召喚すると、アダムズの話に興味を示し、家康は彼を解放したばかりか、リーフデ号を堺に呼び寄せ関東にまで回航させた。このとき家康は意外なところに注目した。リーフデ号の積み荷である。500挺の火縄銃、5,000発の砲弾、300発の連鎖弾、それに5,000ポンドの火薬などみな家康の目に止まった。どれも世界最新鋭の軍備を備えていたことを家康は見逃さなかった。
この時期は日本を二分して争う関ヶ原の合戦の前夜だけに、やすやすとスペイン人やポルトガル人の口車にそそのかされて、アダムズを手放すほど単純な家康ではない。家康は関ヶ原の合戦のとき、リーフデ号の先端兵器を活用したという記述もある。アダムズとの会見で家康は、彼の人格と能力を見抜いた。彼がそれまでのスペイン人やポルトガル人とは異なる人種であることや、オランダやイギリスとの外交や貿易の重要性もすでに視野に入れアダムズと接した。
家康の目的はアダムズを徳川政権の枠組みに取り入れ、外交・貿易・技術などの顧問として厚遇し彼のノウハウを生かすことにあった。当時のパイロットと言えば、今日のスペースシャトルの船長に相当する能力の持ち主だ。
アダムズ、造船に着手
家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府で大御所政治を展開する以前からアダムズを積極的に利用した。アダムズは相模国三浦郡逸見(横須賀市)に250石の領地を与えられ、名前も「三浦按針」(按針とは水先案内の意味)を名乗った。アダムズは伊東の海岸で日本最初の洋式船(ガレオン船)を造船させた、その船が立派に完成したためその論功行賞として領地を与えられたものと考えられる。
洋式船の建造は主にリーフデ号の生き残りの一人、ピーター・ヤンツ(オランダ人)が腕前を発揮して完成させた。ヤンツは造船の心得があり、アダムズ自身も造船の作業をしていたことも幸いしたのだろう。造船作業には家康お抱えの船奉行向井将監ら十数名の日本人も参加した。こうして日本最初の80トンの洋式船は完成した。無事進水に成功したことに家康は大変喜び、乗船して江戸湾の浅草川口(現在の隅田川下流)まで船を浮かべて江戸市民に見物させたというから家康も大喜びであったことがわかる
その後に120トンの船も造られた。これも出来栄えは上等で、家康は再び大坂と江戸のあいだを実習航海させている。この船がその後スペイン人のフィリピン総督ドン・ロドリゴをメキシコ西海岸アカプルコメキシコ西海岸アカプルコまで送り届けた船である。家康の狙いはヨーロッパに遅れを取ることなく、自力で航海技術や造船技術を習得することにあった。この造船を契機として日本の造船技術は向上した。それが慶長18年(1613)伊達政宗が幕府の船大工とともに造船した「サン・ファン・デ・バウティスタ号」(日本名不明)の造船で、幕府の造船技術を世界的水準にまで押し上げる基礎となっていたようである。この船は支倉常長の慶長遺欧使節団を乗せた。その後も太平洋を往復した。アダムズの造船に続く本格的西洋船で、スペインのシマンカス文書館の記録によると500トンあったという。スペイン人もこの船には驚き、世界に誇るガレオン船となんら遜色のない立派な出来栄えであったというから家康の力の入れようがわかる。
破格の待遇を受けたアダムズ
アダムズが破格の待遇を受けていたことは、彼が本国に送った書簡の中で次のように述べていることからもわかる。「私は現在皇帝(駿府の家康のこと)のために奉仕し、日々の勤めを果たしているので、彼は私に知行を賜った。それはちょうど英国の大侯にも比すべき、八十人から九十人ほどの農民が私の奴隷か従僕のように私に隷属しているのである。このような支配的地位は、この国ではこれまで外国人に対して与えられたことがなかった。神は私の大きな災厄の後にこれを与えて下さったのである」(「日本に最初に来たイギリス人」より)。
オランダ国王使節が江戸に参府した際、逸見の按針屋敷に宿泊した。そのときの記録にも、「彼(アダムズ)は、この国の領主や王侯たちも、とうてい受けることがないほどの厚遇を皇帝から受けている。彼はすこぶる元気で、また経験に富み、きわめて実直な男だからである。彼はしばしば皇帝(駿府の家康)と言葉を交えるし、いつでもその前に近づくことができる。これほど寵遇をうけている人はごく少ない」とあり、一様にびっくりしていた。アダムズを顧問としたことによって、家康はそれまで以上に遠い海の彼方の国々へと視野を拡大していく。スペインが誇る無敵艦隊がイギリスに敗れたことで世界の権力地図が大きく塗り替えられたことや、イギリスやオランダが新たに東洋を目指して進出していること、それにキリスト教にもカトリックだけでなくプロテスタントの存在があることなど、当時の世界情勢をかなり正確に理解していた。
外国人の大御所詣で - オランダ国王使節の来日まで
国王使節、駿府へ
駿府を舞台にはじまった日蘭の外交と貿易交渉が成立するには、リーフデ号の遭難(1600年)事件にまで話を戻さなければならない。オランダ船籍のリーフデ号は、悲惨な航海の末、豊後国臼杵の海岸(大分県)に漂着した。生存者は船長ヤコブ・クワケルナック、航海長アダムズ、乗員のサントフォールト、それにヤン・ヨースチンなど24名である。
クワケルナック、アダムズ、ヤン・ヨースチン等は、家康が彼らを日本に留め帰国を許されなかった。ところが5年後の1605年、クワケルナックとサントフォールトだけは帰国を許された。平戸城主の新造船で、彼らは東南アジアのパタニ経由で帰国した。帰国に際し家康は、日本がオランダと交易を希望していることを告げる親書を与えた。
4年後の1609年7月1日(慶長14年5月30日)、三隻のオランダ船が平戸に入港した。家康が待っていたオランダ国王使節の来日であった。この船には、リーフデ号の乗組員の一人、サントフォールトが通訳として乗船していた。オランダが、幕府公式の外交記録(「異国日記」)に記載されたのはこの時からである。
使節の中心人物は、アブラハム・ファン・デン・ブルックとニコラース・ポイクである。同年7月27日(和暦6月26日)、平戸を出発して駿府城に皇帝家康を訪問した。オランダ使節は、共和国連邦総督オランニェ公の親書と家康への献上の品を携えて駿府へ向かった。駿府城で締結された日蘭外交交渉によって、家康は正式に平戸にオランダ商館の設置を許した。
これがヨーロッパの国としては、日本がはじめて行った外交交渉の記念すべき第一歩である。ところが日本の記録には、その内容を詳しく記したものが少ないため、不正確な記述が後を絶たなかった。あるとすれば、ニコラース・ポイクが東インド会社に復命した記録が残されているはずであったが、それさえも行方不明であった。
ニコラース・ポイクの記録は、幸いドイツのカールスルーエのバーデン地方図書館に唯一写本として現存することがわかった。これこそ日蘭関係の間の空白を補う貴重な記録だ。正式名は、最初のオランダ遣日使節ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」と題するもので、オランダ国立中央文書館第一部長ルーロフス博士によって明らかとなり、東京大学史料編纂所海外史料部(当時)の金井圓教授らのグループが翻訳したものである。
ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」から
「駿府旅行記」の全文は、金井圓氏が「日蘭交渉史の研究」(思文閣)に紹介した。旅行記の書き出し部分だけ紹介したい。この前文から、大航海時代に家康が諸外国から注目されていたことが理解できる。 金井圓訳ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」前文より
「一六〇九年(慶長十四年)ニフォン、すなわちJAPON(日本)の強大な皇帝(mogende keyser)のもとへの連合会社(generaele compe)の使節としてのロッテルダム出身のニコラース・ポイク氏(Sr.Nicolaes Puyck)により、マヨケ(Mayoque)の地方すなわちセルニガウオ(Sernigauo)の町へ向けて行われた旅行の記録(「駿府旅行記」」。
こうした書き出しで、一行は駿府城に徳川家康を訪問し、アダムズとも出会った。一行の目的は、駿府城の徳川家康に謁見することであり、江戸の将軍秀忠には拝謁していないところをみると、家康が絶大なる権力を持って日本を動かしていたことがわかり、またそれが「駿府大御所政治」の実態とも思える。
「駿府旅行記」の中では、大御所の外交顧問として活躍したアダムズのことが「スヒップ船の舵者」と呼ばれ登場する。ニコラースは、アダムズをこう述べた。
「その者(アダムズ)が、良い暮しをしている男であり、しかも皇帝のもとで大きな尊敬を得、かつ親密な関係にあるからである」(本文)と、アダムズに注目した。さらに、オランダ人が徳川家康との貿易を有利に運ぶためには、アダムズの関心を買う必要を述べている。そのためニコラースたちは、「この舵者を利用することを許されなくてはならない」などといいながらも、徳川家康や本多正純らは逆にアダムズに手綱をつけているためそれは難しいなどと言っている。
オランダ使節は、アダムズの心を捕らえることに腐心したようだ。そんなことからオランダ人たちは、駿府城内でもこれからはじめる商売よりも、アダムズ獲得に火花を散らしていたことが伺える。それだけアダムズは、家康とも近く、彼らが本格的に交易するためにもアダムズの協力を無視できなかったのである。
オランダが日本に使節を派遣したのは、家康がオランダとの交易を希望したためである。これを受けてオランダ国王オラニエ公は、特使アブラハム・フアン・デン・ブルックに親書を持たせ駿府城に家康を訪問した。しかし貿易が優先なのか、親書の交換が優先なのか、この点は今日の外交と違ってかなりルーズであった。政治と商売が渾然としていたためである。
貿易はニコラース・ポイクが担当し、アブラハムやジャックス・ベックなどは外交官のような形で駿府城に家康を訪問した。このためニコラース・ポイクは、アブラハムらのことはあまり記していない。オランダ国宛家康外交朱印状〔複製〕とにかくヨーロッパの国とはじめての交渉は駿府城が舞台であった。無事に駿府城でアブラハムと家康の間で国書が交換されると、彼らは家康の外交文書を携えて帰国した。このとき家康がオランダ国王に贈った外交文書が、今でもハーグ国立公文書館に国宝の扱いで厳重に保存されている。
こうしてオランダは日本に商館を置くことになった。しかしオランダ商館は、最初の数年間は利益を得ることも少なく、また日本からの輸出品もさほど魅力ある物があるわけでもなかった。日本からの輸出品は銀や東南アジア向けの小麦や米、それに武器の類いも含まれていた。オランダが家康の許可を得ていたとしても、それ以前から日本に来ていたポルトガル人やスペイン人たちが、オランダ人の前に立ちはだかっていたためである。また中国人もオランダにとっては強力なライバルであった。そのためにも、なおさらアダムズを味方にしたいのは当然だ。
オランダ人たちは日本からの商品を考えた。それは既存の品物だけでなく、すでにある日本の商品に付加価値を付けることだった。そのために彼らは、日本の漆工芸品にヨーロッパ人好みの絵を描かせたり、蒔絵の図柄も工夫して日本の職人を巻き込んで商品開発をしていた。
その後日本が鎖国状態に入ると、逆にオランダ人はヨーロッパでも一番早く日本と正式に交易を締結した国であると主張し、先の家康の外交朱印状を振りかざし長崎の出島貿易の利権を獲得することができた。それは家康没後ではあったが、オランダにとっては大きな家康からの贈物となったわけである。この意味からも、ハーグ国立公文書館の家康文書が国宝として扱われている理由が理解できる。
外国人の大御所詣で - イギリス国王使節、駿府へ
ジョン・セーリスの来日
イギリス国王使節〔駿府城内で家康に謁見風景〕
イギリスから国王使節が初めて来日したのは慶長18年(1613)のことで、オランダ国王使節の来日から4年後のことである。イギリスとの通商交渉にも、ウィリアム・アダムズが深くかかわっていた。アダムズにしてみれば、オランダばかり支援していたわけではない。彼は自分の身の上に起こった出来事を書簡にまとめ、イギリスに送っていた。その手紙には、皇帝家康がイギリスとの貿易を望んでいることも書きイギリスが日本と交易することを薦めた。
アダムズの手紙は、イギリス国王使節ジョン・セーリスの手元に届くことになる。イギリスでは日本の皇帝のもとで活躍するアダムズの噂が広まり、アダムズの情報をいち速く受理したのがイギリスの東インド会社である。会社の幹部らは、アダムズの助言と応援に期待し日本との取り引きを開始することを決定し、使節を日本に派遣した(「日本に来た最初のイギリス人」)。
イギリス東インド会社艦隊司令官ジョン・セーリスは、国王ジェームズ一世から徳川家康にあてた書簡を持って来日した。日本出発に先立ちセーリスは、東インド会社の幹部から「日本到着後は、全力をあげて安全かつ貿易至便な港を探し出し、生地、鉛、鉄、ならびに、貴殿の視察上もっとも販売可能と思われる我が国の製品を売り込むべし」という特命を受けた。その中には、アダムズは大切な人物なので丁重に接し、帰国の意志があったら特等室を与えて必要な便宜を彼に提供するよう命ぜられていた。
セーリス自身もジャワ島のバンタムでアダムズの手紙を受け取った。書簡は1611年10月23日付で、アダムズが平戸からイギリス人にあてた長文の書簡と思われる。アダムズは日本から出帆する同僚の船舶には、機会あるごとに自分の書簡がイギリスに届くよう託していたと思われる。それが祖国に届き、ついにイギリス国王を動かしたことになる。
セーリスの率いたクローブ号は、こうした経緯から1613年6月12日、イギリス船としては初めて平戸に入港した。「アビラ・ヒロンの日本王国記」には、その時の様子を次のように記している。
「イギリス国王からは、昨年の1613年に、この王国(日本)の国王(家康)への使節を乗せたまことに美しい船が来航した」(「日本王国記」)。スペイン商人である彼にとって、イギリスは敵国である。そのイギリス船を、まことに美しい船が来航したと賛美していることは、明らかにイギリスが日の出の勢いで大航海時代に加わり、スペインやポルトガルに代わって台頭してきたことを暗示した言葉だった。
平戸に入港したセーリスは、平戸藩主松浦鎮信(しげのぶ)を船に招待した。松浦氏は、楽器を奏でる婦人たちを引き連れ、クローブ号に意気揚々と乗り込んで来たという。城主たちはワインやビールで大歓迎されると、約2時間あまり船内のパーティーを楽しんだ。セーリスの日記には、このことも細かく記されている。帰りがけに一行は土産を貰った。そのときセーリスは、イギリス国王の親書を松浦氏に見せようとしたが、松浦氏はアダムズが到着するまでそれを見ることを断った。
セーリスの見た東海道
「道は驚くほど平坦で、それが山に出会うところでは、通路が切り開いてある。この道は全国の主要道路で、大部分は砂か砂利の道である。それがリーグ(一里)に区分され、各リーグの終わりごとに路の両側に一つずつ丘があって、その丘の上には一本のみごとな松木が、東屋の形にまるく手入れをしてある。こんな目標が終わりまで道中に設けてある。それは貸馬車屋とか、貸馬をするものなどが人に不当の賃銭を払わせないためである。その賃銭は一リーグにつき約三ペンスである。街道は往来が非常に多く、いっぱいの人だ。所々、諸君は耕地や、田舎家や、村落や、また往々大都市や、淡水の河の渡し場や、多くのホトケサン、すなわち仏に出会う。これは彼らの殿堂で、小森の中やもっとも景色の良いところに位置し、全国の美観となるものである。そこを番する僧侶が住んでいるのは、昔このイギリスにおいて教団僧が居を占めていたのとほぼ同じである。(中略)この駿河の都市は、郊外いっさいを含んだロンドンの大きさほど十分ある。手工業者は都市の外部及び周辺に住んでいる。なぜならば、上流の者が都市の内部に住んで、職人にはぜひ付き物である、ガタガタの騒音に悩まされまいとするからである」(「セーリス日本渡航記」)。
ジェームズ一世の親書をめぐって
国王ジェームズ一世の親書を携えたジョン・セーリス一行が駿府に到着すると、皇帝徳川家康に献上品を持って謁見した。このときトラブルが発生した。セーリスは国王ジェームズ一世から預かった大切な書簡を、自分で皇帝に手渡すことを主張したからである。ところが日本の慣例ではそのような作法はない。アダムズも聞き入れなかった。結局イギリス人が秘書官と呼んだ本多正純が家康に手渡すことで落着した。これにはセーリスはかなり不満であった。
国王の書簡は当然英文である。これをアダムズが平仮名で日本語に訳し、それを金地院崇伝が見事な和漢混交の文体として家康に上覧させた。「金地院崇伝の異国日記」によると、セーリスの国書奉呈についてこう記されている。
「慶長一八年丑八月四日、インカラテイラ国王の使者、駿府城に於いて申し上げる。王より音信色々進上也。この国よりは初めての使者也。奉書臘紙、ハバ弐尺タテ一尺五寸、三方に縁に絵あり、三つ折、二つ折り返して、紙にて釘綴じのようにして、蝋印あり。文言は南蛮字にて、読まれず故、按針に仮名に書かせ候」。ジェームズ国王の親書の現物はイギリス大英博物館に現存している。もちろんそれは本物の写しである。
駿府城での語らい
駿府城で皇帝家康に拝謁すると、家康はアダムズやセーリスに質問を浴びせている。たとえば、「イギリス商館の設置場所はどこにするのか」についてアダムズは、「私は、種々談話の後、日本にイギリス商館を置く件について述べた。皇帝はそれはどこに置くのかとの質問があったので、それは皇帝の居城(駿府)または国王(秀忠将軍)の居城(江戸城)からあまり遠くない場所を考えていると答えると、皇帝は大いにそれを聞いて喜んだ」。
次に家康の関心事であった「北方航路」の探検のことに話がはずんだ。家康はこれがセーリス来日の本当の目的であろうと考えていたようである。アダムズは、イギリス国王は依然としてその航路発見のためにお金を費やすことは惜しんでいないと家康に伝えると、家康はその航路が存在すればそれは本当に短い航路で日本とイギリスは結ばれるのかと重ねて尋ねた。家康も夢中になり、世界地図を持って来させると、アダムズはその地図を使ってイギリスと日本の距離がはるかに短いことを説明した。家康は逆に、アダムズに対して「日本の北には蝦夷や松前の島があることを知っているか」と質問した。
アダムスの日本地図アダムズは、その地域(現北海道)についてはいかなる地図にも地球儀にも記述はないし、また見たこともない、しかし東インド会社がその探検を望むならば、船を派遣させ、名誉ある探検に参加できればうれしいと家康に説明した。家康は、もしアダムズが蝦夷や松前にでかける場合には、その土地には有力な家臣がいるので探検する前に30日間ばかりその土地の住民と友好を結び、その探検に協力をさせる考えのあることをアダムズに告げた。するとアダムズは、「私の想像では、ここは辺境の地であるので憶測としては、北方航路はさらに奥地に発見されるかも知れない」と夢のある返事をしている(「アダムズの書簡」より)。
イギリス国王への親書
ジョン・セーリスは家康から、正式に商館設置の許可と貿易を許す旨の特許状を受理した。アダムズの勧めもあって、それから一行は将軍秀忠に拝謁することになる。将軍秀忠の歓迎は大変なもので、セーリスはとても満足した模様であった。セーリスは商館設置の許可状を、将軍秀忠に拝謁する以前にすでに受理していた。ということは、家康がすべての采配を握っていたことがこの事実からも明らかである。江戸に将軍を訪問したのは9月19日のことであった。
イギリス国王への国書の押印は、家康の名によって発給されていた。このとき家康がイギリス国王に贈った国書は、現在イギリスのオックスフォード大学日本研究図書館に保存されている。
「日本国の源家康は、イガラテイラ(イギリス)の国王に謹んでご返事いたします。長く困難な海路を航海してきた船の使者からお便りを確かに受け取り、その文面から陛下の政府が正道を御守りになっていることと拝察いたしました。またさまざまなお土産も頂き、大変嬉しく思っております。我が国との友好を深め、お互いに商船を往来させようというご提案に賛成いたします。両国は、潮と雲により、何千里も隔てられていながら、実は密接な間柄になりました。我が国の産物をささやかながら別表のとおりお送りして、お礼の証としたいと思います。時節柄、お身体お大切に。慶長十八年(一六一三年十月四日)」(「日本に来た最初のイギリス人」より)。
歴史上の「日英交渉」は、こうして駿府を舞台に調印された。その功績は、一人アダムズに負うところが大きかった。
外国人の大御所詣で - サン・フランシスコ号の座礁からスペイン国王使節、駿府へ
ドン・ロドリゴの漂着
スペインはコロンブスの新大陸の発見を機に、16世紀にはフェリーペ二世のもとで積極的に海外に進出した。本国以外にもイタリア・ネーデルランド(オランダ)・新大陸と広大な領土を有す世界の最強の国となった。さらに太平洋を越え、マニラ(フィリピン)を占領しアジア進出の拠点とした。そのスペインから大物が来日したのは、1611年(慶長16年)である。きっかけは、この2年前にスペイン領フィリピンの臨時総督であったドン・ロドリゴを乗せた船が、メキシコに帰国する途中で難破し、思いがけなく日本に漂着したからである。
1609年7月25日にマニラのカビテ港を三隻の船が出帆した。三隻の船はメキシコに直接帰る予定であった。途中で暴風雨に遭い、ドン・ロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号は現在の千葉県御宿町の沖(北緯35.5度)で難破し、サンタ・アナ号は豊後の海岸に漂着した。サン・アントニオ号だけはそのままアカプルコまで航海を続けた。日本の暦では慶長14年9月のことである。サン・フランシスコ号は、1,000トンもある当時としては巨大な船であったため、難破で約50名(56名とも)が溺死し370人は浮遊物につかまり助かったという。
ドン・ロドリゴ日本見聞録船はマニラからの財宝を大量に載せたまま海底に沈没した。サン・フランシスコ号の積み荷は、宝の山のように散乱し拾い尽くせないほどの品物が安房・上総・常陸・下総辺りの海岸に流れ着いた。江戸にこの噂が広まると、大勢が出掛けて拾い集めたため幕府は高札を立てて漂着物の略奪を禁止した(「慶長見聞集」)。
乗組員たちは、最初難破したその場所が日本とは知らず無人島と思ったという。ところが水田を発見したり、土地の人々と出会ってようやくここが日本であることを知った。ドン・ロドリゴはこのときの様子を次のように記している。
「溺死者五十人に達し、我等は神の御慈悲により救われた者は、ある者は材木にある者は板によって逃れ、その他は船尾の一部の残存するものに留まり陸地に達した。陸に達した者の多くは裸で、航海士によればここは日本ではなく無人島か、また洋中の何処であるか知る者はなかったので、水夫二名に命じて上陸して土地を探検させると、すぐ稲田を発見したため、これによって食料品の保証を得たが、島の住民次第では武器もなく防御の手段もなく我々の生命の安全も難しい」(「ドン・ロドリゴ日本見聞録」)。
ここが日本と分かって安心した一行は、衣服や食料も住民から惜しみなく与えられ、飢えをしのぐことができた。(この事件の記念碑が、御宿の海岸に建てられ、日本とメキシコ友好の碑となっている。エチェベリア・メキシコ大統領もここを訪れている)。 大多喜城主は、駿府の家康に使者を派遣し彼らの扱いについて沙汰を待った。
ドン・ロドリゴ、家康に謁見
家康は一行を駿府城に丁重に連れてくるよう命じた。ドン・ロドリゴ一行は、駿府城に来るまでの東海道の至るところで、外国人の珍しさから見物対象となって、群衆に悩まされた。彼の書物に「市街を通行すること頗(すこぶ)る困難なりき」と記し、いずこもごったがえして動きが取れなかった模様である。途中で一行は江戸城の将軍秀忠を表敬訪問した。ドン・ロドリゴは、江戸城や江戸の街の見事なことに驚愕したばかりか、日本の家は外観はスペインの方が見事だが、家の内部は日本の方がはるかに美しく、しかも清潔だと記している。
駿府城には江戸城を訪問した4日後に到着した。ドン・ロドリゴこそ、家康が以前から会いたがっていたスペインの要人であった。メキシコ西海岸のアカプルコとフィリピンのマニラは、太平洋航路(スペイン人は秘密のルートと呼んだ)でつながっていたことを知っていた大御所家康は、太平洋のはるか彼方のメキシコとの貿易に関心を寄せていた。
ドン・ロドリゴは、家康の要求を知りながらも日本を通り過ぎようとしたわけであった。それが遭難事件によって、図らずも家康と会わなければならない運命となってしまった。
駿府に到着したドン・ロドリゴは、家康に接するための作法などを教えられていよいよ対面することとなった。通訳はイエズス会のファン・ポロタという。通訳を介してドン・ロドリゴは、「予は最近まで、世界中で最も強大なスペイン国王の代表者であった」(「ドン・ロドリゴ日本渡航記」)といい、家康を威嚇(いかく)したと彼の記録に記されている。まず、彼の手記から見てみよう。
「皇帝(家康)はとても大きな部屋にいて、その建物の精巧なことは言語に尽くせず、その中央より向こうに階段があり、そこを上がりきると黄金の綱があった。部屋の両側に沿ってその端、即ち皇帝の居る場所より約四歩の所に(ロドリゴたちは)進んだ。その高さ一・六メートルにして多数の小さな戸があった。家臣等は時々皇帝に招かれこの戸より出入りした」。家康のことについては、「彼は六十歳(正しくは六十七歳)の中背の老人で、尊敬すべく愉快な容貌をしており、太子(秀忠)のように色が黒くなく、また彼より肥満していた。私は、あらかじめ、握手を求めたり手に接吻しないようにと注意を受けていたので、椅子のところに行くと最敬礼をした。彼はそれまで容貌を変えなかったが、少し頭を下げ私に対して大いに好意を示して微笑し、手を挙げて着座せよという合図をした」(「ドン・ロドリゴ日本渡航記」)とある。
ドン・ロドリゴの日本観
ここでドン・ロドリゴの日本観を見てみよう。「皇帝(家康)は世界の裕福な君主の一人で、その宮殿(駿府城)に蔵する金銀は数千万の価ありと伝えられ、諸都市は人口が多く清潔で秩序正しく、ヨーロッパにおいてもそれと比較すべきものを見出すことは困難である。江戸の市政はローマの政治と競うことができ、街路は幅広く長い直線でスペインに優り、何人も踏んだことがないほど清潔である。そこのパンは世界中で最良といっても過言ではない。風土はスペインに似ており、米、麦が多く、狩猟・漁獲物など欠けるものがなく、すべてスペインに優りその量も多い。銀の鉱脈が多く、日本人は銀の精錬技術に熟していないにもかかわらず驚くべきほど産出する。(日本国内で)採取する金もまたその質がひじょうに良く、それで貨幣を造っている。(中略)もしこの野蛮人の間に、(我らの主なる)神が欠けておらず、また、(この国が)我らの国王陛下に従っているならば、私は故郷を捨ててもこの地(日本)を選びたい」(「慶長遺欧使節」)。
ドン・ロドリゴは、1636年に81歳で他界した。その一生は大航海時代の中で輝かしい生き方をした勇気ある人物であったという。
スペイン国王使節ビスカイノ、駿府へ
アダムズ造船の船がメキシコに渡ってから約1年後の慶長16年(1611)スペイン国王フェリーペ三世は、駿府の家康のところにセバスチャン・ビスカイノ大使を正式に外交官として派遣した。ドン・ロドリゴらが日本の船を借り、彼らが無事に帰国できたお礼のためというのが表向きの目的である。探検家でもあったビスカイノは、アカプルコから日本に来る航海で、通常のマニラ経由を選ばず、アカプルコから直接太平洋を横断して関東の浦賀の港に直行し人々を驚かせた。(この時に船はアダムズ造船の船ではなく、アカプルコの極東艦隊の船であった)
田中勝介と22名の日本人も帰国した。ビスカイノの本当の来日の目的は別にあった。それは日本近海にあると伝えられていた「金銀島」の発見や、スペインが将来日本を侵略するために、日本の島や港として使える場所を測量をすることであった。慶長16年5月12日(1611年6月22日)、江戸で将軍秀忠にビスカイノは謁見した。その後の7月4日に駿府に到着し、翌日に家康に謁見した。
ビスカイノと家康との会見は友好的なものであった。ところがこの時期は、キリシタン問題が重大な局面を迎えていた。そのため家康のスペイン人に対する態度は日々冷却していく最中でもあった。ビスカイノが日本に失望してゆく様子を彼の著書「ビスカイノ金銀島探検報告」に書かれている。その前に、家康との会見の様子から見てみよう。
ビスカイノ、家康に謁見
キリシタン問題が不安な要素を持っていたときだけに、ビスカイノ一行が駿府に到着したときには、駿府の信者たちはとても喜んでこれを迎えている。ビスカイノと一緒に帰国した田中勝介もキリシタンの一人で、洗礼名をドン・フランシスコ・デ・ベラスコと名乗った。彼は一足先に駿府に戻り、メキシコからの帰国報告を家康に行った。ビスカイノ一行が駿府城に家康を訪問したのはその直後である。ビスカイノはこのとき、「日本諸国諸州の皇帝閣下」と題する国王の書簡を家康に手渡した。まずビスカイノの記録から見てみよう。
「十時頃、大なる駿河の市(駿府)に着きたり。到着する前、既に貴族となり殿の寵を有するドン・フランシスコ・デ・ベラスコ(田中勝介)が多数の供を連れ、宮中の他の貴族一人と共に大使を出迎へたり。我等は宮殿(駿府城)より遠からざる甚だ好き家屋に宿泊せり。皇帝は直ちに使者を遣わして大使に歓迎の辞を述べ、長途旅行の疲労を休むべく、またその来着を喜び、書記官(本多正純)をして後に通知せしむ旨を大使へしめしたり」(同書)。
重文・スペイン南蛮時計彼の記録によると、田中勝介がビスカイノを迎えるために、駿府の街外れに出向き一行を大歓迎したことが記されている。また、駿府城が優れた名城であると指摘し、駿府城の広さはメキシコ市の住宅地全部の二倍以上だと記した。このことは、おそらく、現在のメキシコ市の中心部にある「ソカロ広場周辺」から想像したものだろうか。 家康との接見の儀式が整うと、彼らは駿府城内の御殿に向かった。ビスカイノは、たくさんの品々を家康に献上した。日本側の記録によれば、時計 ・カッパ上下・反物・ブドウ酒(白ヘレスと赤ブドウ酒)・鷹具・靴・金筋・南蛮絵である(「方物到来目録」)。このときの時計とは、あとで述べる家康の時計で久能山東照宮に現存しているものである。
また南蛮絵とは、国王フェリーペ三世と王妃ならびに皇太子の肖像画三枚で、家康はこの絵をじっと眺めたという。ところがこの南蛮絵は現存していない。面白いことに本多正純は、献上物の「受取状」を発行している。外国人から一切の品物を受け取らなかった本多正純は、このときだけは珍しくビスカイノから「ガラス製品」と「石鹸」をもらい大変喜んで何度も何度もお礼をいって受け取った。フェリーぺ三世しかし彼は、「これは自分がもらうのではなく、大御所様に使用してもらう」と述べたためビスカイノも感心した。
そこでビスカイノは、「彼は潔白且忠実にその職に尽し、君なる国王に仕えて怠ることなく、その扱う所の事務につき、常に偽なく陳述す」(同書)と感銘深く記した。
一方の家康の重臣である後藤庄三郎については対照的である。彼に品を出すと「羅紗その他の品を贈りしが、この人は躊躇することなくこれを受納せり」(同書)と記している。このほかにも後藤庄三郎は、彼がイギリス使節が来たときにも土産を遠慮なくもらっており、同様なことをイギリス王使節のジョン・セーリスも記録していた。後藤庄三郎が欲深なことが、396年以上も経った今でも記録に残ってしまったことになる。
スペイン外交の終焉
ビスカイノは、「事の始は良好なりしが、終は宜しからざりき」(同書)ともいい、また「日本人は世界における最も劣悪な国民」(同書)と厳しい非難を浴びせた。このため慶長17年7月22日付のスペインとの通商に関する書簡は形式的で実態のないものに終わった。ビスカイノは、オランダ人たちが家康の心を引くため贈物攻勢をかけて機嫌を取っていることや、アダムズの中傷も記している。そのためか、家康の面前で再び疑惑を晴らそうと試みるが、弁明の機会すら与えられなかった。結局ビスカイノは、1613年、伊達政宗が支倉常長とソテロを「慶長遺欧使節」としてメキシコに派遣した機会に同じ船で帰国した。
ビスカイノの後にも、スペインからは二人目の大使ディエゴ・デ・サンタを駿府城の家康に派遣したが会見すら実現できずに帰国した。 
 

 

 
フランシスコ・ザビエル 書簡

 

 
フランシスコ・ザビエル
フランシスコ・デ・ザビエル (スペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506-1552) ナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。生家のハビエル城はフランスとの国境に近い北スペインのナバラ王国のハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe〉+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風訛りである。フランシスコの姓はこの町に由来する。この姓はChavierやXabierreなどとも綴られることもある。Xavierはポルトガル語であり、発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで、発音はシャビエルであったと推定される。 現代スペイン語ではJavierであり、発音はハビエル。かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。「サヴェーリョ」がより近い)という呼び名を用いていた。 現在はおもに「ザビエル」が用いられるほか、ザビエルにゆかりのある山口県では「サビエル」と呼ばれる(例: 山口サビエル記念聖堂、サビエル高等学校)。
青年期まで
1506年頃4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれ、地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタという名前であった。父はナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。
1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにフランス出身の若きピエール・ファーヴルと同室になる。のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラ大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。これが「モンマルトルの誓い」であり、イエズス会の創立である。この時のミサは、当時唯一司祭となっていたファーブルが執り行った。一同はローマ教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられたので、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。
東洋への出発
当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスとともにポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに1541年4月7日にリスボンを出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月にマラッカ、さらに1546年1月にはモルッカ諸島に赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人であった。
日本へ
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
一行は明の上川島(英語版)(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。
1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。 ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。
1550年(天文19年)8月、ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行った。同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し平戸を出立。11月上旬に周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い、同年12月17日に周防を立つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。
失意の京滞在 山口での宣教
1551(天文20年)年1月、日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。
ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による室町幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった。ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだといわれる。
これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。
また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師ロレンソ了斎となった。
豊後国での宣教
ザビエルは、豊後国府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約600人を超えていたといわれる)。1551年9月、ザビエルは豊後国に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、宗麟の保護を受けて宣教を行った(これがのちの大友氏瓦解の遠因のひとつとなっている)。また、豊後に眼鏡を伝来させた。
再びインドへ
日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にしていた。そして一旦インドに戻ることを決意。11月15日、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。1552年2月15日、ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。
中国布教への志しと終焉、死後列聖まで
1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳であった。
遺骸は石灰を詰めて納棺し海岸に埋葬された。1553年2月マラッカに移送。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走した。この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移された。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されている。棺の開帳は10年に1度。
右腕下膊は、1614年にローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断された。この時本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしり、これをもって「奇跡」とされた。以後、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されている。そしてこの右腕は1949年(ザビエル来朝400年記念)および1999年(同450年記念)に日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示された。
なお右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。
ザビエルは1619年10月25日に教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日に盟友イグナチオ・ロヨラとともに教皇グレゴリウス15世によって列聖された。
ザビエルと日本人
日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」と高評価を与えている。
ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた衆道(同性愛又は男色)が日本において公然と行われていたことであった。
布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる(インカルチュレーションも参照)。
幕末に滞日したオランダ人医師ポンペはその著書の中で、「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」と言ったザビエルの物語は広く西洋で知られており、これがアメリカ合衆国政府をしてペリー率いるアメリカ艦隊の日本遠征を決心させる原因となったのは明らかである、と述べている。
ザビエルの名を戴くカトリック教会・団体
日本国内の教会
山口サビエル記念聖堂山口サビエル記念聖堂(山口県山口市)
平戸ザビエル記念教会(長崎県平戸市)※教会の保護者は大天使聖ミカエル
鹿児島カテドラルザビエル教会(鹿児島県鹿児島市) 
このほか、日本国内にはザビエルを教会の保護者(保護聖人)として名を戴く聖堂(教会)が33ある。
日本国内の団体
聖ザベリオ宣教会(日本管区・大阪府泉佐野市)
郡山ザベリオ学園小学校・中学校(福島県郡山市)
会津若松ザベリオ学園小学校・中学校・高等学校(福島県会津若松市)
サビエル高等学校(山口県山陽小野田市)
日本国外の教会
スペイン サン・フランシスコ・ハビエル教会(スペイン語版)(カセレス) / サン・フランシスコ・ハビエル教会(スペイン語版)(マドリード州ピント)
フランス サン・フランソワ・グザヴィエ教会(フランス語版)(パリ) - 教会の前に同名の地下鉄の駅がある。
中華人民共和国 董家渡聖フランシスコ・ザビエル教会(上海市黄浦区) / 聖フランシスコ・ザビエル教会(マカオ特別行政区)
フィリピン 聖フランシスコ・ザビエル教会(バタンガス州Nasugbu)
マレーシア 聖フランシスコ・ザビエル教会(マラッカ)
シンガポール 聖フランシスコ・ザビエル教会(英語版)
アメリカ 聖フランシスコ・ザビエル聖堂(英語版)(アイオワ州ダイアーズビル) / サン・ハビエル・デル・バック伝道教会(英語版)(アリゾナ州ツーソン近郊) - 1699年にキノ神父によって設立。
ザビエルゆかりの聖堂、遺物所在地など
日本国内
カトリック神田教会(東京都千代田区)、関町教会(東京都練馬区)、上記の山口サビエル記念聖堂および鹿児島カテドラルザビエル教会には、ザビエルの遺骨が安置されている。
カトリック関口教会(東京都文京区) - ザビエルの胸像型の聖遺物容器が展示されている。
大分トラピスト修道院展示室(大分県速見郡日出町) - 2008年イエズス会ローマ本部より聖フランシスコ・ザビエル右腕の小片(皮膚)が寄贈された。展示室内に常時顕示されている。
日本国外
ザビエル城付属聖堂(スペイン・ナバラ州) - ザビエルの出身地。※「ザビエル」は彼以前からの地名(上記「人名について」参照)。
ボン・ジェズ教会(インド・ゴア) - ザビエルの遺体が安置されている。
ジェズ教会(イタリア・ローマ) - ザビエルの遺体の一部が安置されている。
聖ヨセフ修道院および聖堂(中華人民共和国・マカオ特別行政区) - ザビエルの上腕部の遺骨が安置されている。
ザビエルの銅像・記念碑等
鹿児島県
ザビエル来鹿記念碑(鹿児島市) - 元は記念教会だったが太平洋戦争中に空襲で焼失。1949年(昭和24年)、ザビエル来航400年を記念して教会の廃材を使用し設置。奥にはザビエルの胸像がある。市電「高見馬場」または「天文館通」電停下車、鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かいの「ザビエル公園」内。 ザビエル、ヤジロウ、ベルナルドの銅像 - ザビエル来航450周年を記念して、1999年(平成11年)にザビエル公園内に設置。
ザビエル上陸記念碑(鹿児島市) - ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年(昭和53年)に設置。かつてこの公園(新祇園之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。実際の上陸地は旧祇園之洲よりもさらに内陸の、稲荷川河口付近であったと考えられる。市バス「祇園之洲公園」バス停下車。
ザビエル会見記念碑(日置市) - 1949年、ザビエル来航400年を記念して、ザビエル一行が島津貴久に謁見したとされる伊集院一宇治城跡に設置。JR伊集院駅下車、または鹿児島市から車で約30分。
長崎県
ザビエル来航記念碑(平戸市) - 1949年、ザビエル来日400年を記念して崎方公園内に建立(ザビエルの平戸訪問は1550年)。
ザビエル記念像(平戸市) - ザビエルの平戸来航を記念して、カトリック平戸教会(現:平戸ザビエル記念教会)前に1971年(昭和46年)建立。これ以降、同教会は「聖フランシスコ・ザビエル記念教会」の通称で呼ばれるようになり、現在は名称も「平戸ザビエル記念教会」に改められている。
このほか、長崎市の日本二十六聖人記念館に『ザヴィエル像』(フレスコ、1966年長谷川路可作)がある。(ザビエル自身は、現在の長崎市を訪れたことはない。)
山口県
聖サビエル記念公園(山口市) - 日本最初の教会跡地にある記念公園。サビエル記念碑も設置されている。また、毎年12月には「日本のクリスマスは山口から」フェスタが開催されている(1997年スタート)。JR上山口駅または日赤口バス停で下車。
「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の碑(下関市) - 唐戸市場そばにある。1550年11月頃にザビエルが下関に上陸したことを記念している。
大阪府
ザビエル公園(堺市堺区) - 堺の豪商日比屋了慶が邸宅の一部をザビエルに提供した。現在、その場所にある戎公園は、サビエルの功績を顕彰する碑が建てられたことから通称「ザビエル公園」と呼ばれている。
大分県
聖フランシスコ・ザビエル像(大分市大手町) - ザビエルの来航を記念して遊歩公園内に建立。左手に十字架を持ち、右手を掲げたザビエルの像で、彫刻家佐藤忠良による1969年(昭和44年)の作品である。背後には、世界地図のレリーフにザビエルのヨーロッパから日本にいたる航路を描き込んだモニュメントも設置されている。JR大分駅から徒歩約10分。
聖フランシスコ・ザビエル像(大分市要町) - 2015年(平成27年)2月21日にオープンした大分駅府内中央口(北口)駅前広場に、南蛮世界地図を挟んで大友宗麟公像と向き合う形で建立されている。
ザビエルを描いた美術作品
『フランシスコ・ザビエル肖像』(重要文化財)
彼の福者認定(1619年)または列聖(1622年)以降に日本で作成されたと推定される。作者は不明で、落款の壷印(狩野派を示す)と「漁夫」(ペトロを示す)の署名から狩野派の絵師ペトロ狩野(狩野源助)とする説があるが確証はない。大阪府茨木市の隠れキリシタンであった東藤嗣宅に伝わる「開けずの櫃」から1920年に発見された。発見時のモノクロ写真から、保存学者の神庭信幸は、掛け軸だったのが額縁入りに仕立て直されたほか、制作時に使われた真鍮が変色して黒っぽかった頭光が、発見後に黄色に描き足されたと推測している。現在神戸市立博物館蔵。
この頭頂部を刈り取った髪型(トンスラ)の肖像が日本人に大変よく知られている。
その他日本国内
『臨終の聖フランシスコ=ザビエル』、『聖ザビエル日本布教図』(日本画、1949年長谷川路可作) 鹿児島カテドラル ザビエル教会内。
日本国外
日本聖殉教者教会(チヴィタヴェッキア、イタリア) - 『聖フランシスコ・ザビエル』(フレスコ天井画、1954年長谷川路可作)
ウルバノ大学(ローマ) - 『聖ザヴェリオ』(フレスコ、1956年長谷川路可作)
ザビエルにちなんだ修行
聖フランシスコ・ザビエルに対する9日修行がある。3月4日から12日まで行う。9日にわたる修行の形式の起こりは、イエズス・キリストが昇天ののち9日で聖霊降臨したことにある。特に聖人ザビエルに対する祈祷の起源は、イタリアの17世紀の神父フランシスコ・マストリリが発起したことにある。30歳のとき聖母マリアの祝典の際に重傷を負った神父が蘇生する際、ザビエルが旅人の姿で現れ、東洋での宣教を説いたことに基づく。神父は時の教皇ウルバヌス8世の許可を受けてインドのゴア、マカオ、マニラを経て1637年(寛永14年)に来日するにいたった。なお、3月12日は聖ザビエル及び聖イグナチオ・デ・ロヨラの列聖日にも当たる。
ザビエルが守護聖人とされている国・地域
ザビエルはカトリック教会によって日本、インド、インドネシア、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、モンゴル、中華民国や東インド諸島のほか、以下の都市や地域の守護聖人とされている。
その他
ザビエルの兄ミゲルの子孫であるルイス・フォンテスは、ザビエルが日本からパリに送った手紙を少年期に読んで感動し、母国スペインの神学校を卒業後に来日して教師になり、日本に帰化して泉類治と名乗って、宇部市のチャペル付きブライダル施設で司祭として活動をしている。
ザビエルは、下野国足利庄五箇郷村(現・栃木県足利市)にあった学校、「足利学校」を「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、高く評価した。
大友義鎮は、のちに「最初に出会った司祭の名前だから」という理由でフランシスコの洗礼名を選んでいる。
ザビエルの布教計画は、後のイエズス会のそれとは一線を画すものであった。
ザビエルは日本人をヨーロッパに派遣し、キリスト教会の実情とヨーロッパ社会を知らせ、同時にヨーロッパ人に日本人のことを知らせようとした。しかし後続のフランシスコ・カブラルは日本人が外国語を学ぶことを許さなかったし、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが「日本巡察記」に「日本人にキリスト教も仏教と同じくいろいろな宗派に分かれていると知られると布教に悪影響を及ぼす恐れがある」と記したように、ヨーロッパの宗教は統一されていると教えていた。
同僚を通じてスペイン国王に「日本を占領することを企てないように」と進言した。
堺にポルトガル商館を建て、自分がそこの代理人になってもいい、と書簡で書き送った。
 
フランシスコ・ザビエル 2

 

1506年4月7日、スペイン バスク地方ナヴァーラ王国、ザビエル城で裕福で敬虔な貴族領主の5人の末子として出生。6才の時父を亡くし兄弟も家を出たため孤独な少年期を過ごす。彼の生涯は孤独と劣等感との闘いであった。彼の篤い信仰と神への信頼は強く困難に立ち向かう精神力は持っていた。情熱と喜びをもって旅を続けることが出来たのは幼少期の経験からきたものである。
イエズス会設立者(7人)の内の一人、パリ大学時代に知り合った最良の友人であり、教師でもあった15才年上のイグナチオ・ロヨラから非常に大きな感化をうけた。彼の計画した宣教会をつくるという考えに同調して7人の仲間と1534年(27才)パリ郊外のモンマルトルの丘にあった教会で誓願をたてイエズス会を結成した。1540年教皇から正式に認められ宣教任務を受けると、ポルトガル王の支配する植民地での布教へ向けてリスボンから出航した。1542年(35才)困難を乗り越えてカメリーノ神父、フランシス・マシーニャスを伴いインドのゴアへたどり着いた。ここは当時のポルトガル王国のアジアでキリスト教徒の住む大きな都市として発展し、既に人口は30万に及び東洋での貿易とキリスト教拡大に大きな力を持っていた。
行く先々で住民の風習に習い彼らの中で暮らすなかで宣教した。この10年の間に何千人も改宗させた。さらにザビエルがマラッカで知り合った日本人ヤジローから日本のことを聞きそこへ行きたいとの思いを強く抱く。そしてトルレス神父、フェルナンデス修道士、ヤジローとともにマラッカを船出しモルッカ、モロタイ島を経て日本の鹿児島へ上陸したのは1549年8月15日(42才)であった。この日は丁度被昇天の祝い日にあたり、ザビエルは日本を聖母マリアに奉げた。
鹿児島では島津氏の保護を受け1年ほど滞在したのち平戸、山口をへて京に向った。ザビエルは都に上り天皇から宣教の許可を得、そこを拠点にキリスト教をひろめることが大きな夢であった。しかし荒廃した都では天皇に会うこと叶わず失望し10日あまりの滞在後都を後に引返した。余儀なく当初の計画を変更し、平戸を経由し山口に行き大内義隆から住まいを与えられ布教を始めた。山口では特に上級武士の多くが改宗し、その彼らから協力を得て布教は順調に進んだ。その間700名ほどに洗礼を授けた。
ザビエルがもたらしたキリスト教によって、日本人は唯一絶対なる神の存在、倫理観、霊魂の救いと永遠の生命と云う全く違う価値観と出会った。
ザビエルは日本での滞在中その文化が中国から大きな影響を受けていることを悟り中国行きを考え始めていた。1551年9月ポルトガル船が行き来する豊後(大分)に行く。在日期間2年3カ月の後、準備を整えるため日本を去りいったんゴアまで引き返した後再び中国へ向かおうとするが、外国へのすべての門戸が閉ざされていた中国本土へは上陸が許されず広東の上川島(サンシャン島)に上陸、機会を覗ううち急病にかかり急ごしらえの貧しい小屋で看病を受けるうち1552年12月3日46才で亡くなった。死後遺体は一旦埋葬されるが腐敗することなく残り最終的にゴアへ運ばれた。インドでのイエズス会宣教の中心地であるゴアで新しくボン・ジェズ聖堂がつくられるとそこに安置された。
一人の人間が、1542年5月ゴア出発から1552年12月サンシャンで死すまでの10年間にこれほどの大洋を渡り国々を訪れ、多くの信徒(彼が受洗したもの総数ざっと3万人)をつくったのは全く驚愕に値する偉業であり、神が彼をしてなしたもうた奇跡である。さらにザビエルの人格と知識、宣教師の使命感と広範な行動力によって、その影響力は彼の歩んだ地域全体に及んだ。彼に起った主な奇跡は列聖書類に列挙されているが、 彼はキリスト教の歴史上で最も偉大な宣教師と看做されている。
1622年3月イグナチオと共に教皇グレゴリウス15世から列聖された。
ザビエルの布教史
1506年 4月7日 スペイン バスク地方のナヴァーラ王国 ザビエル城で出生。
1525年 (19才) 初期教育を終えるとパリ大学へ入るためパリへ向かう。
1528年 (22才) 哲学の修士号を得て、4年間教鞭をとりさらに2年間神学を学ぶ。その間イグナチオ・ロヨラに出会う。
1534年 8月 (28才) ロヨラを初め7人の同志とモンマルトルの誓いをたてイエズス会を創設した。
1536年 11月 (30才) 仲間とパリをたちベニスへ、一緒にパレスチナへ向う計画は実現せず。
1537年 6月 (31才) 教皇からイエズス会の修道会として認可を得るためローマへ。教皇パウルス3世は会の認可を与えた。
1537年 6月24日 (31才) ヴェネツィアに赴きアルベの司教から司祭叙階を受けた。
1538年 (32才) イエズス会の正式な承認を教皇から得るためローマへ。承認を得てインドへ出発するまで同会の事務責任者となる。
1539年 (33才) 教皇は正式にイエズス会を承認する。東洋への最初の宣教師として派遣を命じられる。
1540年 3月16日 (34才) ローマ出発 6月にリスボンに着く。ここに9カ月滞在。
1541年 4月7日 (35才) インドへ向けて宣教へ出港 途中のモザンビークで半年過ごす。
1542年 5月6日 (36才) ゴアへ到着。5ヶ月間その地の習慣に従い生活し宣教を始める。
1542年 10月 (36才) インド南端で活動。さらに3年間はインド西部で布教。セイロンへも行く。
1545年 春 (39才) マラッカへ向かい3か月布教。
1546年 1月 (39才) マラッカをたちモルッカ諸島へ、1年半宣教。
1547年 6月 (41才) 再びマラッカへ、ここで日本人ヤジローに会う。日本宣教の念を強く持つ。
1548年 (42才) 後続の宣教師がゴアへ着くと彼らをインド中心地へ派遣。
1549年 6月 (43才) 修道士フアン・フェルナンデス、司祭コスモ・デ・トルレス、ゴアで洗礼を受けたヤジロー(洗礼名パブロ・デ・サンタ・フェ)の3人を伴い日本へ向け出港する。
1549年 8月15日 (43才) 宣教師ザビエル、トルレス、フェルナンデス、ヤジロー鹿児島上陸。 
1550年 8月 (44才) トルレス、フェルナンデスを伴い鹿児島をたち都を目指す。
1550年 12月 (44才) 都に到着。政情不安のため期待した成果えられず。
1551年 (45才) 都を離れ平戸、山口でも伝道する。ゴア目指して豊後から日本をあとにする。トルレスとフェルナンデス修道士は日本に留まる。
1552年 初め (45才) ゴア着、中国への旅の準備に取りかかる。
1552年 秋 (46才) 4月ゴアをたち中国を目前に入国許可が下りずサンシャン島へ上陸急病にかかる。
1552年 12月3日 (46才) 急ごしらえの小屋の中で息を引き取る。
ザビエルの遺体
臨終に立ち会ったのは改宗した中国人アントニーでゴアから同行していた。彼は簡素な葬儀を仕切り、後に遺体を引き取りに来るかもしれないと思い目印を置いて埋葬した。乗って来た船、サンタ・クルス号は翌年の2月までサンシャン島に留まる。船が同島を去るときアントニーは船長に、3か月埋葬されているが遺体の状態を検視されるでしょうかと聞いた。一人の水夫が見たところは棺は石灰で満たされていたが遺体は全く腐敗していない。マラッカへの移送が決定すると棺を乗せ出港し、1553年3月22日マラッカに着、そこで岩に墓穴を掘り土を充たして埋葬された。5か月後ザビエルの友人が夜中に掘り起したところ全く完全な状態を保っていた。これは奇跡だ考えられ、このことがゴアまで聞こえると遺体はゴアに移されることになった。1554年3月16日ゴア着、聖パウロ学院まで行列しそこで3日間展示された。
1605年ゴアにボン・ジェズ教会が建てられると銀の棺に納められた遺体はそこに移され現在も聖堂内に安置されている。
右腕は1614年イエズス会総長の命で、セバスティアン・ゴンザレスにより切断された。死後60年も経過しているにも係わらず血が滴り落ち「奇跡」に違いないと思われた。この右腕はローマのジェズ教会に安置されている。そして1949年(ザビエル伝道400年記念)と1999年(450年記念)の2回、日本キリスト教布教の恩人で保護聖人である国 日本へ運ばれ展示された。
ザビエルの遺体検証
総督ドン・アルフォンソ・デ・ノローニャは遺骸の公式の医学的検証を命じた。コスマス・サラヴィア博士とアンブロージオ・リベイロ博士、大教区長、さらにアントニオ・ディアス修道士が検証した。コスマス・サラヴィア博士は次のように報告している。私は手で遺骸の四肢を押さえてみた。特に腹部に注意した。腸は正常な位置にある。何の防腐処置もされず人工物も使われていない。心臓に近い左胸の傷を観察し、会の二人に傷に指を入れて見るよう言った。血の付いた指を抜き臭いをかぐと何の異常もなかった。手足と他の部分も完全で肉で覆われ、医学的見解によってもフランシスコが1年半も前に死に1年間土の中にあったとは思えなかった。
アンブロージオ・リベイロ博士は次のように報告した。私は自分の指で足から膝まであらゆる部分を触ってみた。どの部分の肉も完全で本来の皮膚で覆われ腐敗もせずしっとりしていた。膝より少し上の左足外側は指の長さの切り傷あるいは怪我があり何かにぶつけたような跡であった。傷全体の周りには何筋かの血が垂れてじくじくして黒くなっていた。心臓に近い左側には小さな穴が開き何かが刺さったようだ。指を差し込むと空洞だった。ただ、遺骸が墓に長い間入っていたため腸のある部分かと思われる僅かなものが乾いたように思われた。顔を遺体に近付けても死体の臭いはなかった。頭部は中国式の模様織りの枕に乗せてあり首の下に足にあるのと同じような色があせて黒く変色したような血のしみのようなものが付いていた。
アントニオ・ディアス修道士はこのように記録している。遺骸を見に来た他のものに手と足それに脚と腕の一部のみを見せた。司祭たちと修道士たちが別の布に包んだ。確かにそれは素晴らしい甘い香りを放っていた。私は自分の手を胃の上に置いてみると窪んではいなかった。死後も内臓は抜き取られなかった。凝固した血の様なものが、柔らかく滑らかで赤みがかっていい匂いのものだった。
上記の双方の記録は日付が1556年で2年半以上検査後である。サライヴァの一番目は1556年11月18日付け、二番目は1556年12月1日付けである。1613年遺骸はイエズス会の本館へ移された。
ザビエルはイグナチオ・ロヨラと共に1622年列聖された。それ以来ザビエルは聖フランシスコ・ザビエルとなりゴアの守護聖人となった。列聖後彼の遺骸は教会の北の翼廊へ移され、霊廟が建設されると現在の場所に安置されている。それはゴアの職人が作った銀の棺に置かれ永久に展示された。三段の台座は1680年に作られ1698年に聖別された。遺骸は絶えず信心深いイエズス会員によって管理され展示されている。
1614年にはイエズス会総長の命によって右腕は切断されローマのイエズス会本部へ運ばれた。 
 
聖フランシスコ・ザビエルの足跡と平戸でのキリスト教の芽生え

 

平戸での2年3か月の布教活動
長崎県の北西部に位置する平戸の歴史は、イエズス会宣教師、聖フランシスコ・ザビエル(ハビエル、1506 – 1552年)が1550年夏に平戸に上陸したことによって大きな歴史的な転機を迎えた。日本ではあまりにも有名なスペイン人ザビエルは1549年、鹿児島に上陸し、やがて平戸を拠点に、日本国内での布教活動を展開した。ザビエルの日本での布教活動は条件付ながら2年3か月に及んだ。
ザビエルは鹿児島で約100人の日本人をキリスト教に改宗させ、キリストの教えと仏教の考え方に共通するものがあることを見出していたと言われている。しかし、1550年6月に平戸にポルトガル船が寄港したと聞いたザビエルは、同年9月にはコスメ・デ・トーレス神父と宣教師フアン・フェルナンデスとともに平戸に移住した。
このため、鹿児島での布教活動は日本初のキリシタンとなったアンジロウ(ヤジロウ、後にはパオロ・デ・サンタフェとしても知られる)に委ねられた。実は、ザビエルの日本上陸のきっけとなったのが、アンジロウだった。ザビエルとアンジロウは、当時の国際交易の重要な要塞都市であったマラッカ(マレーシア)で出会った。アンジロウの生涯について信頼できる資料や証拠はないが、薩摩(鹿児島)で殺人を犯してポルトガル船で海外に逃亡していたと言われている。マラッカでザビエルと出会った後、1549年に鹿児島に戻った。
山口で500人以上を改宗させたザビエル
ザビエルは平戸でのわずか20日間の布教活動で、鹿児島における1年間の布教活動より多くの信者を獲得した。1551年1月には平戸に日本初の教会が建築されたが、その遺構は現在、復元された「オランダ商館」に近い平戸崎方公園に残されている。
さらに、ザビエルは1550年10月、天皇への謁見を願い出て、日本全土での布教活動の許可を求めるために京都に向かった。そのことは、ザビエルの布教活動がうまくいっていたことを示している。ザビエルは宣教師のフェルナンデス、ベルナルドとともに山口経由で京都に入ったが、戦国時代の混乱と戦禍で京都は荒廃、天皇の権威も失墜しており、失望して山口に戻った。この間、平戸での布教活動はコスメ・デ・トーレス神父に任された。
ザビエルは、山口で“空き寺”を与えられ、数か月間の布教活動を許された。歴史資料によれば、1551年3月から半年間で、500人以上の日本人をキリスト教に改宗させたという。この間、ザビエルは同年4月に3度目となる平戸を訪問しているが、それは日本で最初の教会の建設と関連してのことだった。
インドから中国へ、最後は中国で病死
しかし、ザビエルは1551年9月、豊後(大分県)にポルトガル船が寄港すると、インドにおけるイエズス会の布教活動について情報を得るために豊後に向かった。ザビエルは報告を聞くと、「インドの方が日本よりも自分の存在を必要としている」と知り、そのままポルトガル船でインドに渡ってしまう。
ザビエルの日本滞在はそれで終わるが、インド入りしたザビエルは、「中国文化が日本に大きな影響を与えている」として、今度はインドから中国での布教を決意する。しかし、ザビエルは1552年9月に中国の上川島に到着したものの、中国への入境は思うようにいかず、体力、精神ともに消耗し、同年12月3日、上川島で病気のため死去した。46歳だった。
ザビエルとともに日本に来た宣教師らの何人かはその後も日本での普及活動を続けたが、ほどなくしてポルトガル人、スペイン人、キリシタン日本人への迫害、処刑というカトリック教徒の殉教の歴史が始まる。
平戸での殉死した日本初の司祭「セバスティアン・キムラ」
しかし、日本では仏教の影響力が強く、キリスト教の布教活動は壁に突き当たる。やがて、危険な宗教として敵視され、キリシタン信者は迫害された。日本における最初の殉教者は「マリアお仙」という平戸の女性キリシタンである。彼女は、十字架を拝んではいけないという夫の命に従わず、1559年に処刑された。
平戸の殉教者で最もよく知られているのは、日本初の司祭(パードレ)になったセバスティアン・キムラ(1565−1622年)だ。木村家は、ザビエルが1550年に平戸に上陸したとき、時の領主である松浦隆信の命令により自宅でザビエルの面倒を見ている。ザビエルは、鹿児島にいた当時に翻訳した聖書(抜粋)によって、木村家の当主に強い影響を与えた。ザビエルが平戸で洗礼したキリシタン100人の中でも最も早く洗礼を受けのが木村であり、アントニオという洗礼名を授かった。
アントニオ・キムラの子孫は、その後、長崎におけるキリシタンの歴史と密接に関係して行く。アントニオの孫のセバスティアンは1565年生まれで早くして洗礼を受け、12歳で仏教の小僧と同様の仕事をするカトリック司祭の助手になった。
イエズス会は布教を開始した当初、日本人を司祭に任命することに“後ろ向き”であった。しかし、1580年頃から、布教活動に現地人を加えることの重要性を理解した。セバスティアン・キムラは1585年に、19歳でイエズス会に入会した。
豊臣秀吉がバテレン追放令
しかし、豊臣秀吉は1587年7月24日に『伴天連追放令』を発令した。このため、日本におけるキリスト教普及活動は困難に直面し、京都などにいた多くのイエズス会宣教師は、平戸やインドに移らざるを得なかった。長崎にはキリシタン信者が圧倒的に多く、当地の権力者もキリシタン大名となるなど寛容だったことから、長崎や、平戸では追放令の実施を何年か遅らせることができた。
そうした環境の中で、セバスティアン・キムラは宣教師たちが避難した島原、天草などで勉学を続け、1595年に日本人として初めてマカオにあるイエズス会修道所で哲学、神学を学ぶことになった。
1600年、天下分け目の関ケ原の戦いで徳川家康が勝利すると、セバスティアン・キムラは平和が戻ったとしてマカオから長崎に戻った。その後、主に天草や豊後で活躍し、1年後の1601年9月、36歳の時に司祭に任命された。
逮捕のきっかけは女中の密告
彼の司祭としての最初の任地はまさに平戸の河内浦であった。しかし、1614年にはキリスト教の迫害が激しくなり多くの宣教師が国外に追放された。日本人信者により秘密裏に布教活動は続けられたが、1621年6月29日、セバスティアンは朝鮮から奴隷として連れて来られた女中に裏切られた。密告すれば自由が得られると思い込んだ女中がセバスティアンを取締り当局に訴えた。セバスチャン・キムラは他の信者とともに捕えられ、彼らは1622年9月西坂の丘で打ち首や生きたまま焼かれて殉死した。
日本の隠れキリシタンは1865年3月にフランス人司教・ベルナール・プティジャンに再発見されたが、日本で再びキリスト教が布教するのは1871年 まで待たなくてはならなかった。
存在感を示す教会群−「平戸ザビエル記念協会」
キリスト教禁止が明治政府によって正式に解除されたのは1873年だった。しかし、その後数十年間、起伏に富む地形の平戸にカトリック教会が建設されることはなかった。イエズス会も20世紀初めころまで布教のために日本に戻って来ることもなかった。
現在、長崎県には全体で約130の教会が存在するが、その内かなりの数が平戸にある。山林の風景の中で、坂を登りきり、急なカーブを曲がりきらないと見えてこないような場所に立つ教会もある。
その平戸でもっとも有名なのが「平戸ザビエル記念教会」で、1931年に建設された。もともとは、現在「愛の園保育園」のある場所に1913年にカトリック教会としての仮聖堂が建てられたが、献堂40周年の1971年に、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂の脇に建立されたことから「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」とも呼ばれるようになった。2004年に正式名を現在の平戸ザビエル記念教会と改めた。教会の塔は平戸の多くの通りから見えるが、最も有名な景観は光明寺と瑞雲寺の間に塔がそびえている景観である。
現存する最古の教会「宝亀教会」
平戸に現存する最古の教会は「宝亀教会」で、建設は1898年。さらに古い1891年建設の上神崎教会があったが、2014年に建て直しされた。宝亀教会の起源は、1878年に信者たちが現在の場所の西にある京崎地区に最初の御堂を建設したことにある。その後、1898年に現在の赤レンガのファサードと木材の側面壁という日本でも唯一のスタイルの教会が建設された。2003年には長崎県指定有形文化財に指定され、2010年には宝亀地区が国の重要文化的景観に選定され宝亀教会はその重要構成要素となった。
鉄川与助による「カトリック山田教会」と「紐差(ひもさし)教会堂」
平戸の教会で注目されるのは、宗教関連建築の名高い建築家である鉄川与助が1912年に設計・建築した生月島の「カトリック山田教会」だ。生月島は隠れキリシタンの地として知られる。250年間の隠れキリシタンによる信仰もあって、長崎ではいまだに隠れキリシタン独特のスタイルを信奉する人達をもいる。
「紐差(ひもさし)教会堂」も、同じく鉄川与助が1929年に西欧ロマネスク様式を真似て建築した。1945年に原爆で破壊され長崎の浦上天主堂が再建されるまで、長い間、日本最大規模の教会だった。その白いファサードは、紐差の山に近づくとあちこちからかいま見ることができる。鉄川は教会内部に花を題材とした装飾をいろいろと施しているが、これは彼の建築ではよく見られもので、仏教の影響を受けたものと考えられるている。
この他の興味深い教会には、1962年に学校の木造体育館の中に建築された「木ヶ津教会」がある。この教会は小規模で目立たないが、その内部には、長崎の原爆の被爆者で日本のキリスト教現代史の重要人物である故永井隆博士の描いた14枚の絵画『十字架の道行』が飾られている。
平戸は長崎市と並び、建築分野では日本でもっともキリスト教の影響が大きな場所だ。中でも平戸の14の教会は特に歴史的に重要で、「隠れキリシタン再発見」150周年を記念して2015年から同地域のキリスト教・カトリック観光奨励コースに含められた。  
 
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事

 

フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)8月15日に鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えたポルトガルの宣教師である。
大正8年(1919)に大阪の茨木市の山奥にある千提寺の民家から、教科書でおなじみの聖フランシスコ・ザビエル画像が発見されたことは以前このブログの「隠れ切支丹の里」という記事で書いたことがある。
こんな肖像画が出てきたのだから、ザビエルがこんな山奥にも来て布教していたのかと錯覚してしまうのだが、それはあり得ないことである。
この地域にキリスト教が拡がったのは、切支丹大名として有名な高山右近が高槻城主であった時代なのだが、右近が生まれたのが天文21年頃(1552)で、ザビエルが日本を去った翌年の事である。布教の許可もない中で、この山奥にザビエルが足跡を残すことはありえないことなのだ。この画像は江戸時代の初期に描かれたものと考えられている。
ところでザビエルが日本に滞在した期間は思いのほか短い。
ザビエルが日本を去ったのは天文20年(1551)11月15日で、日本に滞在したのはわずか2年3ヶ月のことだった。
この短い期間で、日本語を学びながら仏教国の日本でこれだけキリスト教を広めたことは凄いことだと思う。
岩波文庫の「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」に、ザビエルが日本に滞在した時の記録が残されている。これ読むと、当時の日本での布教の様子や、当時の日本人をザビエルがどう観察していたかがわかって興味深い。
ザビエルは1549年11月5日付のゴアのイエズス会の会友宛の書簡で、鹿児島に上陸して二ヶ月半の段階で、日本人をこう観察している。
「…今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識る事の出来た日本のことを、貴兄らに報告したい。先ず第一に、私達が今までの接触によって識ることのできた限りに於ては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者はないと考えられる。日本人は総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は、特に強烈で、彼等にとっては、名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。…」と、日本人の優秀さを絶賛している。
キリスト教を布教するためには、日本人の仏教への信仰をとり崩していかなければならないのだが、ザビエルは当時の仏教の僧侶について、次のように記している。
「私は、一般の住民は、彼らが坊さんと呼ぶ僧侶よりは、悪習に染むこと少なく、理性に従うのを識った。坊さんは、自然が憎む罪を犯すことを好み、又それを自ら認め、否定しない。此のような坊さんの罪は、周知のことであり、また広く行われる習慣になっている故、男女、老若の区別なく、皆これを別に異ともせず、今更嫌悪する者もない。」
「自らが坊さんでない者は、私達が、この憎むべき悪習を、断固として罪だと主張する時、私達の言葉を喜んで聞く。かかる悪習が如何に非道であるか、又それが、如何に神の掟に反するものであるかを、強調する時、人々は皆私達に賛成する。…」
と、この時期の僧侶には戒律を破り堕落している者が少なからずいて、そのことを一般民衆に話すと一般民衆は喜んで聞いたと書いている。
またザビエルは、この日本でキリスト教布教する意気込みと、この布教が成功する可能性が高いことを次のように述べている。
「(僧侶も民衆も)皆、喜んで私と親しくなる。人々が非常に驚くのは私達が此の国民に神のことを告げ、救霊はイエズス・キリストを信ずるにあることを教えんがためにのみ、遥々六千レグア*の波濤を蹴立てて、ポルトガルから来朝したという事実である。私達の来朝は、神の命令に依ることだと私達は説明している。」(*1レグア=約6km)
「私がこれらのことを凡てお知らせするのは、諸兄から我らの主たる神に感謝して頂きたいためであり、更に島国日本は、私達の聖なる信仰の弘布に、非常に優れた条件を具備していることを報告したいからである。若し私達が日本語に堪能であるならば、多数の者が、キリストへの聖教に帰信するようになることは、絶対に疑いをいれない。」
と、日本語さえ習得すればキリスト教を日本に広める事ができると書き、その上で、
「貴兄等は、準備をしていただきたい。二年も経過しないうちに、貴兄等の一団を、日本に招くことは、有り得ることだからである。謙遜の徳を身につけるように、励んで頂きたい。…」
と、二年以内にキリスト教を広めていく自信があることを伝えているのだが、ザビエルはこの手紙を書いた丁度2年後に日本を去っているのだ。これはどう解釈すればいいのだろうか。
ザビエルにとって、この後の布教活動で満足な結果が出せたのだろうか、出せなかったのだろうか。
ザビエル(画像)はゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船に乗ってゴアを出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。そして翌月には薩摩の守護大名・島津貴久(画像)に謁見し、キリスト教宣教の許可を得ている。
前回紹介した書簡ではザビエルが日本の布教が成功することを確信していたような文章であったのは、わずか1ヶ月で薩摩の布教許可が得られたことで自信を深めたものだと考えられるが、その後島津貴久はキリスト教を禁止してしまう。
ザビエルは薩摩がキリスト教を禁止した経緯をこう書いている。この書簡の中のパウロと言う人物はヤジロウのことである。
「…私達は前にも言った通り、先づパウロの故郷に着いた。この国は鹿児島という。パウロが同胞の人々に熱心に語り聞かせたお陰で、殆ど百名にも及ぶ日本人が洗礼を受けた。もし坊さんが邪魔をしなかったら、他の凡ての住民も、信者となったに違いないのである。」
「私達は一年以上もこの地方にいた。…坊さんはこの領主に迫り、若し領民が神の教に服することを許されるならば。領主は神社仏閣や、それに所属する土地や山林を、みな失うようになるだろうと言った。何故かと言えば、神の教は、彼らの教とは正反対であるし、領民が信者となると古来から祖師に捧げられてきた尊敬が、消失するからだという。こうして遂に坊さんは、領主の説得に成功し、その領内に於て、キリスト教に帰依する者は、死罪に処すという規定を作らせた。また領主は、その通りに、誰も信者になってはならぬと命令した。」
「…日本人は特に賢明であり、理性的な国民である。それで彼らが全部信者にならないのは、領主に対する怖れの結果であって、神の教が真理であることの解らないためでもなく、また自分の宗旨の間違っていることに気のつかないためでもない。」
かくしてザビエル一行は一年間活動した鹿児島を去り、1550年8月に肥前平戸に入って宣教活動を行った。そこではわずか二か月で住民の数百名が信者になったので、ここの信者の世話をトーレス神父に託して、別の地域を目指すこととした。
周防山口では大名・大内義隆にも謁見したがその時はさしたる成果がなく、次に都である京都に進んで、インド総督とゴアの司教の親書をもって、全国での宣教の許可を得るために、御奈良天皇に謁見しようと試みたがそれは叶わなかった。
当時の京都は応仁の乱以降打ち続いた戦乱の結果多くが破壊されており、布教する環境にないと判断して、一行は再び山口に入る。
山口でザビエルは、天皇に捧呈しようと用意していた親書のほか、珍しい西洋の文物の献上品を用意して、再び大内義隆(画像)に謁見したという。
大内義隆は大層喜び、お礼のしるしとして金銀をザビエル一行に差し出したが、これをザビエルは受け取らずにキリスト教の布教の許可を願い出たという。
「…私達は、そのもっとも渇望している唯一つのことを願い出た。即ち、私達がこの領内に於て、神の教を公に宣布することと、領主の民の中に、信者になることを望む者があった場合には、自由に信者になれることを、私達に許可して頂きたいというのである。これに就いては、領主は、凡ゆる好意を持って私達に許可を与えた。それから、町の諸所に、領主の名の記された布令を掲出させた。それには、領内に於て神の教の説かれることは、領主の喜びとするところであり、信者になることは、各人の自由たるべきことと書かれていた。同時に領主は、一つの寺院を私たちの住居として与えた。…」
大内義隆がザビエル一行に与えた寺は、当時すでに廃寺となっていた大道寺という寺だそうだが、ザビエルはこの寺で毎日二度の説教を行い、約二か月の宣教で洗礼を受けて信徒となった者は約500人にものぼったそうである。
山口の布教が順調に進んでいる中で、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話があり、豊後の大名である大友義鎮(後の大友宗麟:画像)からザビエルに会いたいとの書状が届き、1551年9月にザビエルは山口の宣教をトーレス神父に託して自分は豊後に向かう。豊後に於いてもキリスト教は宗麟の保護を受けて広まっていった。
岩波文庫の解説によると、ザビエルの2年半日本滞在の間での洗礼者は千名には及ばなかったという。(鹿児島100-150名、市来15-20名、平戸180名、山口に向かう途中で3名、山口500-600名、豊後30-50名)
ザビエルはインドのトラヴァンコル地方に於いては1ヶ月に1万人の信者を作った実績がある。日本での成果はザビエルが当初思い描いていた数字には大きく届かなかったはずだ。
ザビエルは日本全土の布教のためには、日本の文化に大きな影響を与えてきた中国での宣教が不可欠だと考えた。ザビエルは、こう書いている。
「…シナに行くつもりだ。何故なら、これが日本とシナとに於て、我が主の大いなる奉仕になるだろうと思うからである。というのは、シナ人が神の掟を受入れたと識るなら、日本人は自分の宗旨に対する信仰を、間もなく、失ってしまうだろうと考えられるからである。私は、我がイエズス会の努力によって、シナ人も、日本人も、偶像を捨て去り、神であり全人類の救主なるイエズス・キリストを拝するようになるという、大きな希望を持っている。」
1551年11月15日にポルトガル船で日本を離れ、一旦ゴアに帰り自分の代わりに日本で宣教するメンバーの人選をして、自らは中国に向かおうとしたがマラッカで中国への渡航を妨害され、ようやく三州島に着くも、そこでは中国入国の手助けをする船は約束した日には現れなかった。
ザビエルはそこで熱病に罹り、中国本土で布教の夢が果たせぬまま、1552年12月3日に、イエズスの聖名を呼び奉りつつ息絶えたという。
なぜザビエルのような優秀な宣教師をもってしても、日本の布教が遅々として進まなかったのか。当時の日本人はザビエルの話を理解しつつもどうしても納得できないところがあったのではないか。
私は、ザビエル書簡の中でこの部分に注目したい。
「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼らの悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或いは施與、或いは祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。」
「この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの処へは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私は彼等の満足のいくまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しのようのないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなってくる。」
当時の日本人が、キリスト教を受け入れがたいと思った重要なポイントがこの辺にあったのではないだろうか。自分の祖先がキリスト教を信じていなかったという理由でみんな地獄へ落ちると言われては、自分の祖先を大切に思う日本人の大半が入信できなかったことは私には当然のことのように思える。
もしザビエルが健康な状態で無事に中国に辿り着き、中国でキリスト教の布教に尽力してある程度の成功を収める事ができたとしよう。その場合にザビエルが再び日本に戻ってキリスト教の布教に成功できたかどうか。 
 
フランシスコ・ザビエルからの手紙

 

1
ここに紹介するヨーロッパのイエズス会員に宛てた手紙は、ザビエルの暖かい人柄、仲間に対する愛、誠実さを物語っているでしょう。
「あなたがたを決して忘れず、絶えず特別に思い起こすために、私の大きな心の平安となるために、親愛なる兄弟たちよ、私にくださった手紙から、あなたがたの署名を切り取って、それを私の盛式修道誓願文といっしょにして、肌身離さず持っていることをお知らせします。あなたがたの名前を身につけていることで、私にこれほどの慰めが与えられるように、神がお取り計らいになったのですから、私はまず第一に主なる神に感謝を捧げ、あなたがた、私の仲間たちに心から感謝申し上げます。やがて私たちはこの地上の生活よりももっと大きな慰めを受けるあの世で再び会うので、これ以上何も言いません。
                アンボンより   1546年5月10日
          あなたがたの小さな兄弟であり、子である、フランシスコ 」
2
この手紙には、ザビエルの日本人に対する高い評価、またザビエルがとらえた日本人の特質、特に名誉を重んじることについて、率直に表現されています。
「日本についてこの地で私たちが経験によって知りえたことを、あなたたちにお知らせします。
第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人々は今までに発見された国民の中で、最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。
彼らは、キリスト教の諸地方の人びとが決して持っていないと思われる特質を持っています。それは武士たちがいかに貧しくても、武士以外の人びとがどれほど裕福であっても、たいへん貧しい武士が金持ちと同じように尊敬されていますし、たいへん貧しい武士は、どんなに大きな富を与えられても、武士以外の階級の者とは結婚しません。低い階級の者と結婚すれば、自分の名誉を失うと考えているからです。すなわち、名誉は富よりもずっと大切なものとされているのです。他人との交際はたいへん礼儀正しく、武具を大切にし、たいへん信頼して、武士も低い階級の人たちもすべてが、刀と脇差とをいつも持っています。
日本人は侮辱されたり、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人びとではありません。また武士はすべて、その地の領主につかえることを大切にし、領主によく臣従しています。彼らが臣従しているのは、もし反対のことをすれば罰を受けるから、というよりも、臣従しなければ自分の名誉を失うことになると考えているためだと思います。
人びとは賭博を一切しません。賭博をする人たちは他人の物を欲しがるので、そのあげく盗人になると考え、たいへん不名誉なことだと思っているからです。」
3
ここに紹介する手紙から、ザビエルが宣教する際に見いだしていた、日本人の宗教性・道徳観をうかがい知ることができます。
「〔日本人は〕宣誓はほとんどしません。そして宣誓する時は、太陽に向かってします。大部分の人は読み書きができますので、祈りや教理を短時間に学ぶのにたいそう役立ちます。彼らは一人の妻しか持ちません。この地方では盗人は少なく、また盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。盗みの悪習をたいへん憎んでいます。彼らはたいへん善良な人びとで、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です。
彼らはたいへん喜んで神のことを聞きます。特にそれを理解した時には、たいへんな喜びようです。過去の生活においていろいろな地方を見てきた限りでは、それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、盗みについてこれほどまでに節操のある人びとを見たことがありません。
彼らは獣の像をした偶像を拝みません。大部分の人たちは大昔の人を信仰しています。私が理解しているところでは、哲学者のように生活した人びと(釈迦や阿弥陀)です。彼らの多くは太陽を拝み(日本古来の神道)、他の人たちは月(須佐之男命)を拝みます。
彼らは道理にかなったことを聞くのを喜びます。彼らのうちで行なわれている悪習や罪について、理由を挙げてそれが悪であることを示しますと、道理にかなったことをすべきであると考えます。」
4
この手紙は、ザビエルが当時の日本人の食生活を見て、感心し、学んだことを伝えています。現代の日本に生きる私たちにとっても、学ぶところがあるのではないでしょうか。
「神は私たちをこの国に導いて、大きな恵みを与えてくださいました。この国では土地が肥えていないので、身体のために贅沢なものを食べようとしても、豊かな暮らしはできません。〔日本では〕飼っている〔家畜〕を殺したり食べたりせず、時どき魚を食べ、少量ですが米と麦とを食べています。彼らが食べる野菜はたくさんあり、少しですが幾種類かの果物もあります。この地の人びとは不思議なほど健康で、老人たちがたくさんいます。たとえ満足ではないとしても、自然のままに、わずかな食物で生きてゆけるものだということが、日本人の生活を見ているとよく分かります。私たちはこの地できわめて健康に暮らしています。願わくは神の思し召しによって、霊魂も健やかでありますことを。」
5
この手紙は、ザビエルが日本で最初に、本格的に宣教を始めることになった、山口での第一歩について伝えています。
「福音を宣べ伝えるためには、都は平和でないことが分かりましたので、再び山口に戻り、持ってきたインド総督と司教の親書と、親善のしるしとして持参した贈り物を、山口候に捧げました。この領主は贈り物や親書を受けてたいそう喜ばれました。領主は私たちにたくさんの物を差し出し、金や銀をいっぱい与えようとされましたが、私たちは何も受け取ろうとしませんでした。それで、もし私たちに何か贈り物をしたいとお思いならば、領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む者たちが信者となる許可を与えていただくこと以外に何も望まないと申し上げました。領主は大きな愛情を持って私たちにこの許可を与えてくださり、領内で神の教えを説くことは領主の喜びとするところであり、信者になりたいと望む者には信者になる許可を与えると書き、領主の名を記して街頭におふれを出すことを命じられました。
領主はこれと同時に、学院のような一つの寺院を私たちが住むようにと与えてくださいました。私たちはこの寺院に住むことになり、普通、毎日二回説教しましたが、神の教えの説教を聞きに大勢の人たちがやってきました。そして説教のあとで、いつも長時間にわたって討論しました。質問に答えたり説教したりで、絶えず多忙でした。この説教には大勢の僧侶、尼僧、武士やその他たくさんの人が来ました。家の中はほとんどいつも人がいっぱいで、入りきれない場合がたびたびありました。彼らは私たちにたくさん質問しましたので、私たちはその答えによって彼らが信じている聖人たちの教えは偽りであり、神の教えこそ真理であることを理解させました。幾日間も質問と答弁が続きました。そして幾日か経った後、信者になる人が出始めました。説教においても、討論においても、最も激しく敵対した人たちが一番最初に信者になりました。」
6
この手紙には、ザビエルが山口で宣教し、瞬く間にキリスト教が広がっていった時の様子が描かれています。
「〔日本人には〕地獄に落ちた者になんの救いもないのはたいへん悪いことと思われ、神の教え〔キリスト教〕より、彼らの宗派の方がずっと慈悲に富んでいると言います。このような大切な質問のすべてについて、主なる神の恩恵の助けによって、罪の償いができると説明し、こうして彼等は満足しました。神の慈しみを深く説明するに当たって、日本人はより理性に従う人々であり、これは今まで出会った御信者には決して見られなかったことだと思いました。
〔日本人たちは〕好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問には限りがありません。また彼らの質問に私たちが答えたことを彼等は互いに質問しあったり、話したりして尽きることがありません。彼らは地球が丸いことを知りませんでしたし、太陽の軌道についても知りませんでした。彼等はこれらのことやその他、たとえば流星、稲妻、降雨や雪など、これに類したことについて質問しました。それらの質問に答え、よく説明しましたところ、たいへん満足して喜び、私たちを学識のあるものだと思ったようです。そのことは私たちの話を信じるために少しは役立っています。
彼等は・・〔略〕・・私たちが日本へ来てからは、自分たちの教えを議論するのをやめ、神の教えについて議論しました。このような大きな町で、すべての家で神の教えについて議論していることは、信じられないほどです。〔略〕
この山口の町で二ヶ月が過ぎ、さまざまな質問を経たのち、500人前後の人達が洗礼を受け、そして今も神の恩恵によって日々洗礼を受けています。大勢の人達がボンズやその宗派の欺瞞を私たちに知らせてくれました。もしも信者たちがいなかったら、日本の偶像崇拝の実体をつかむことはできなかったでしょう。信者になった人たちは非常に深い愛情をもって私たちに接してくれます。彼らこそ真実な意味でキリスト信者であると信じてください。」
7
この手紙では、日本で宣教するイエズス会員にザビエルが求める資質が示されています。
「〔日本では〕さまざまな苦労に〔耐えてゆかねばならない〕ので、年老いた人に適した土地ではありませんし、また〔実社会で〕大いに経験を積んだ者でない限り、若い人には不向きです。なぜなら、他の人びとの霊的な助けとなる代わりに自分自身が滅びてしまうからです。日本の地にはさまざまな罪があって、それに陥る危険があります。〔日本人の行為を〕とがめる〔神父を〕日本人はよく観察していますので、〔神父の〕ごくわずかな〔欠点〕がつまずきとなります。私はこれらのことについてシモン神父、もしも彼が不在の時にはコインブラの院長にあてて詳しく書きます。
もしもあなたがコインブラへ命令して、日本へ派遣を希望する会員たちはまずローマに行って〔あなたに会わ〕なければならないと決めてくださるならば、私にとって大きな喜びとなるでしょう。スペイン語かポルトガル語を知っているフランドル人やドイツ人は日本へ〔派遣するのに〕適していると思います。なぜなら、彼らは身体的ないろいろな苦労に耐えることができますし、また坂東の酷寒をも耐え忍べるからです。スペインやイタリアの学院にはこのような人達がたくさんいると思いますし、またスペインやイタリアで説教するためには言葉が不充分であっても、日本へ行けばたくさんの成果を挙げることができます。」
8
ザビエルが鹿児島からゴアのイエズス会員に向けて書いたこの手紙では、神への奉仕のために諸徳を身につけ、心に霊的なことを味わうことの大切さを説明しています。
「この地方に来る人たちは、能力の限界を十分に試されるだろうということを信じてください。このために、諸徳を身に備えようとどれほど努力しても足りるものではありません。私がこのように言うのは、神に奉仕することは苦労が多いものであるとか、主の軛は負いやすい(マタイ11・3)ものではないなどと言いたいからではありません。なぜなら、もしも人びとが神を探し求めるために必要な手段を取り入れ身につけるならば、神への奉仕はたいへん大きな心地よさと平安とを見出すことができます。また、自分に打ち克つのに、どれほど嫌悪の情を感じるとしても、誘惑に負けぬように努力しなければ、いかに多くの精神的な喜びと満足とを失うかが分かってさえいれば、その嫌悪の情をすべて克服して前進するのは、いともたやすいことでしょう。精神力の弱い人たちは、いつもこの誘惑に負けて、神の全善を知ることができず、苦労の多い生活の中で安心することができません。なぜなら、心のうちに霊的なことを味わうことなしにこの世で生活することは、それは生きるということではなく、死の連続なのですから。」
9
1549年に書かれた以下の二つの手紙には、宣教するにあたって、周囲の人びとにどのような態度で接したら良いか、助言が与えられています。前者はホルムズ(ペルシャ)に向けて出発するバルゼオ神父に宛てて、後者はインドにいるアントニオ・ゴメスに宛てて書いたものです。
「もしもあなたが厳粛で悲痛な顔つきをしていれば、多くの人たちは恐れをなして、あなたに相談することをやめてしまうでしょうから、重苦しく、いかめしい顔をしないで、快活な態度ですべての人たちと交際しなさい。それで、あなたと話をする人たちが恐れを感じたりしないように、愛想良く親切で、特に叱責する場合は、愛情と慈しみをもってするようにしなさい。」
「アントニオ・ゴメスよ、あなたはフランシスコ会やドミニコ会の聖なる修道者に神の愛と友愛、そして人間的な温かい愛情をもって接し、また彼らすべてに愛情を傾けるようにお願いいたします。彼らに対し、つまずきになるようなことがないように気をつけなさい。〔心の内に〕深い謙遜を持って、それをいつも実行するように努め、そして時々彼らを訪問し、あなたが彼らを愛していることを彼らにわかってもらえるようにし、〔他人の〕不和を喜び、好んで〔陰口をきく〕人びとに、あなたがすべての人を愛していることが分かってもらうようにすることを私は望んでいます。
何よりも私があなたにお願いすることは、あなたがすべての人から愛されるようにしていただきたいことです。人びとがあなたがたのうちに深い謙遜があり、あなたがたが互いに愛し合っていることを認めるならば、それはきわめてたやすいことです。できうる限り、そうしてもらいたいとお願いします。そして学院の責任者が兄弟たちに命令することを望むよりも、彼らからより多く愛されるように努めてください。あなたがた全員が準備していてください。もしも日本でインドよりももっと大きな成果をあげることができる状態であると私が判断すれば、すぐにあなたがた全員に手紙を書いて、私がいるところへあなたがたのうちから、大勢の人が来るように最初に知らせますから。」
10
この手紙でザビエルは、神から信仰、希望、信頼の賜物をいただくために、恐怖心をなくす手段として、自分自身に打ち克つ努力の必要性を説いています。
「私は幾度も考えたことですが、イエズス会の学識ある多くの人びとがこの地方に来て、少なからず危険の伴う航海の深刻な苦難を体験すべきであると思います。多くの船が失われてゆく明らかに危険の〔伴う航海を〕あえてすることは、神を試みることであると思われるかもしれません。しかし私たちはそうとは考えません。なぜなら、私たちイエズス会員は学識を信頼するのではなく、主なる神を信頼して〔各自の心のうちに〕住んでおられる聖霊の導きに従うべきだからです。そうでなければ非常に大きな苦労をすることになります。私はいつも目の当たりに聖なるイグナチオ神父を見ながら、〔真実の〕イエズス会員になろうとする者は、自分自身に打ち克ち、神への信仰と希望、信頼を持つ者に妨げとなる恐怖心をなくすために、その手段をとる努力をしなければならないとしばしば聞かされた言葉を思い起こし、考えています。信仰、希望、信頼のすべては神の賜物ですけれど、その賜物は主なる神の思し召す者、通常の場合には、自分自身に打ち克つ努力をして、その手段をとる者にお与えになります。」
11
親戚、友人、知人のない宣教地に赴き、神の敵に囲まれながら生きることについて、ザビエルは次のような手紙を書いています。
「神は私たちにこの未信者たちが住む地方へお導きくださって、私たちが自分をおろそかにしないために、たいへん大きな、そして意義深い恵みを与えてくださいました。なぜなら、ここには親戚も友人も知己もなく、またキリスト教の信心もなく、すべては天と地を創造なさった御者の敵で、すべては偶像崇拝者で、キリストの敵ばかり、神のほかには信頼し希望をおくことのできるものは、何一つとしてないのです。ですから、私たちは、信仰と希望と信頼のすべてを、信仰がないために神の敵になっている人間にではなく、主なるキリストにおかざるをえません。
私たちの創造主、救い主、主なる御者を認めている他の国々では、父、母、親戚、友人や知己の愛情、また祖国愛、健康な時にも、病気に際しても、この世で生活するのに必要なものを補ってくれる現世的な富や、霊的な友人たちがいますから、被造物である人間には、神のみに頼ることをおろそかにする原因となり、信仰の妨げとなります。とりわけ私たちが神に希望を託さずにいられないのは、私たちを霊的に助けてくれる人物が(ここには)いないことです。それゆえ、神を知らない人ばかりの異境におりますと、被造物には神への愛とキリスト教の信仰が全く欠けていますから、彼らは私たちに信仰、希望と信頼のすべてを強制し、助けて、神の全善に頼らざるをえないように仕向けるのです。(こうして)神は大きな恵みを私たちに与えてくださっています。」
12
ザビエルは、自分の個人的な慰めについて語ることはめったにありませんでしたが、1544年にコーチンから出した次の手紙は例外的で貴重なものと言えます。
「異教徒の間にいる人々に神が語りかけられ、キリストの信仰に回心させられることは大きな慰めであり、もしこの世に喜びがあるとすれば、このことがそうなのでしょう。私はこのようなキリスト教信者の一人が次のように言うのを何度も聞いたことがあります。『おお主よ、もう充分です!どうぞこの世でこんなに多くの慰めを与えないでください!あなたはその限りない善さと憐れみから慰めをくださっていますから、私をあなたの聖なる栄光にあずからせてください。あなたが被造物にこれほど内的に語りかけてくださった後で、あなたを見ないで生きることはたいへん苦しいことだからです』」  
 
サビエルの書簡

 

サビエルの見た日本と日本人
1. 日本に行く前に
1548年1月20日(コーチン)
このマラッカの町にいた時、私が大変信頼しているポルトガル商人たちが、重大な情報をもたらしました。それは、つい最近発見された日本と呼ぶたいへん大きな島についてのことです。彼らの考えでは、その島で私たちの信仰を広めれば、日本人はインドの異教徒には見られないほど旺盛な知識欲があるので、インドのどの地域よりも、ずっと良い成果が挙がるだろうとのことです。
1548年1月20日(コーチン)
「日本人は」まず初めに私にいろいろと質問し、私が答えたことと、私にどれほどの知識があるかを観察するだろう。とくに私の生活「態度」が私の話していることと一致しているかどうかを見るだろう。そして、もし私が二つのこと、「すなわち」彼らの質問に良く答えて満足させ、また私の生活態度にとがむべきことをみいださなっかたら、半年ぐらい私を試して見た後で、領主(島津貴久)や貴族(武士)たち、また一般の人々も、キリスト信者になるかどうかを考え判断するだろうと言いました。日本人は理性よってのみ導かれる人々であるとのことです。
1549年1月14日(コーチン)
ゴアの聖信学院には私が帰ってきた時に、1548年にマラッカから来た若い日本人が3人います。彼らは日本についてさまざまな情報を提供してくれます。また彼らはよい習慣を身につけ、才能豊かで、とくにパウロは優れ、あなたにポルトガル語で手紙を書きました。パウロは8ヶ月でポルトガル語を読み、書き、話すことを覚えました。今黙想をしています。「黙想は」彼らを良く助け、内心深く信仰が染み入ると思います。
1549年1月14日(コーチン)
私を助けてくださる主なるイエズス・キリストにおける大きな希望を抱いて、まず日本の国王に会い、次に学問が行われている諸大学へ行く決心です。
2. 日本に行っている間
1549年11月5日(鹿児島)
この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒の間では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほどの名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士もそうでない人々も、貧しいことを不名誉だとは思っていません。
1549年11月5日(鹿児島)
「日本人は」侮辱されたり、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人々ではありません。武士以外の人たちは武士をたいへん尊敬し、また武士はすべて、その地の領主に仕えることを大切にし、領主によく臣従しています。人々は賭博を一切しません。たいへん不名誉なことだと思っているからです。宣誓はほとんどしません、宣誓する時は、太陽に向かってします。
1549年11月5日(鹿児島)
大部分の人は読み書きが出来ますので、祈りや教理を短時間に学ぶのにたいそう役立ちます。彼らは一.人の妻しか持ちません。この地方では盗人は少なく、また盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。盗みの悪習をたいへん憎んでいます。彼らはたいへん善良な人々で、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です。
1549年11月5日(鹿児島)
彼らはたいへん喜んで神のことを聞きます。とくにそれを理解した時にはたいへんな喜びようです。過去の生活においていろいろな地方を見てきた限りでは、それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、盗みについてこれほど節操のある人々を見たことがありません。
1549年11月5日(鹿児島)
彼らは獣の像をした偶像を拝みません。大部分の人たちは大昔の人を信仰しています、、私が理解しているところでは、哲学者のように生活した人序(釈迦や阿弥陀)です。彼らの多くは太陽を拝み(日本古来の神道)、他の人たちは月(須佐之男命)を拝みます。彼らは道理にかなったことを聞くのを喜びます。彼らのうちで行われている悪習や罪について、理由を挙げてそれが悪であることを示しますと、道理にかなったことをすべきであると考えます。
1549年11月5日(鹿児島)
神は私たちをこの国に導いて、大きな恵みを与えて下さいました。この国では土地が肥えていないので、身体のためにぜいたくなものを食べようとしても、豊かな暮らしはできません。「日本では」飼っている「家畜」を殺したり食べたりせず、時々魚を食べ、少量ですが米と麦とを食べています。彼らが食べる野菜はたくさんあり、少しですが幾種類かの果物もあります。この地の人々は不思議なほど健康で、老人たちがたくさんいます。たとえ満足ではないとしても自然のままに、わずかな食物で生きてゆけるものだということが、日本人の生活を見ているとよく分かります。
3. 日本を去ってから
1552年1月29日(コーチン)
この日本はたいへん大きな島々から成り立っている国です。全国にわたって一つの言葉しかありませんから、日本語を習うのはあまり難しいことではありません。日本の島々は8.9年前にポルトガルによって発見されたものです。
1552年1月29日(コーチン)
日本人は、武器を使うことと馬に乗ることにかけては、自分たちよりも優れている国民は他にないと思っています。「そして」他国人全てを軽蔑しています。武器を尊重し、非常に大切にし、よい武器を持っていることが何よりも自慢で、それに金と銀の飾りを施します。彼らは家にいる時も外出する時も、つねに大刀と小刀とを持っていて、寝ている時には枕元に置いています。
1552年1月29日(コーチン)
私はこれほどまでに武器を大切にする人たちを、いまだかつて見たことがありません。弓術は非常に優れています。この国には馬がいますが「彼らは」徒で戦っています。彼らはお互いに礼儀正しくしていますが、外国人を軽蔑していますので、「私たち外国人に対しては」彼らどうしのようには礼儀正しくしません。
1552年1月29日(コーチン)
財産のすべては衣服と武器と家臣を扶持するために用い、財産を蓄えようとしません。非常に好戦的な国民で、いつも戦をして、もっとも武力の強い者が支配権を握るのです。一人の国王を戴いていますけれど、150年以上にわたって彼に従いません。このために、彼らのあいだで絶えず戦っているのです。
1552年1月29日(コーチン)
それぞれ異なった教義を持つ9つの宗派があって、男も女もめいめい自分の意志に従って好きな宗派を選び、誰も他人にある宗派から他の宗派に改宗するように強制されることはありません。それで、」つの家で夫はある宗派に属し、妻は他の宗派に、そして子供たちは別の宗派こ帰依する場合もあります。このようなことは彼らのあいだでは別に不思議なことではありません。なぜなら、一人びとり自分の意志に従って宗派を選ぶことは「まったく自由だからです」。
1552年1月29日(コーチン)
「日本人たちは」好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問は限りがありません。また彼らの質問に私たちが答えたことを彼らは互いに質問しあったり、話したりしあって尽きることがありません。彼らは地球が円いことを知りませんでしたし、太陽の軌道についても知りませんでした。彼らはこれらのことやその他、例えば流星、稲妻、降雨や雪、そのほかこれに類したことについて質問しました。それらの質問に私たちが答え、よく説明しましたところ、たいへん満足して喜び、私たちを学識のある者だと思ったようです。そのことは私たちの話を信じるために少しは役立っています。
1552年1月29日(コーチン)
彼らはその宗派のうちでどれがもっとも優れているかをいつも議論していました。私たちが日本へ来てからは、自分たちの教えを議論するのをやめ、神の教えを議論しました。このような大きな町で、すべての家で神の教えについて議論していることは、信じられないほどです。私たちに対する質問の数々についても、書き尽くすことができません。
1552年1月29日(コーチン)
ボンズも世俗の人も、日本人は全部数珠で祈っています。珠の数は180以上です。祈るときには自分が属する宗派の創始者の名を珠ごとに唱えます。ある人は数珠を何回も繰って祈るほど熱心ですが、他の人たちは少ししか祈りません。
1552年1月29日(コーチン)
日本の人々は慎み深く、また才能があり、知識欲が旺盛で、道理に従い、またその他さまざまな優れた資質がありますから、彼らの中で大きな成果を挙げられないことは「絶対に」ありません。ですから主なる神において日本での大きな成果を期待しています。数々の労苦は光彩を放ち、またその光が永遠に輝き続けますように。
サビエルの見た山口
1552年1月29日(コーチン)
ファン・フェルナンデス、「鹿児島で信者になったベルナルド」と私は日本「で最強」の領主(大内義隆。1507〜51年)がいる山口と呼ばれる地へ行きました。この町には1万人以上の人々が住み、家はすべて木造です。この町では武士やそれ以外の人々多数が私たちの説教する教えがどんな内容のものか、知りたがっていました。そこで私は幾日間にもわたって街頭に立ち、毎日二度、持って来た本を朗読し、読んだ本に合わせながら、いくらか話をすることにしました。
1552年1月29日(コーチン)
「山口で」信者になった人は少数でした。活動の成果が挙がらないのを見て、私たちはミヤコと呼ばれる全日本の首都へ行く決心をしました。「平戸から京都へは」2ヶ月間の旅程でした。私たちが通った所でたくさんの戦があったために、途中でいろいろな危険に遭いました。ミヤコ地方のひどい寒さや、途中で出会ったたくさんの盗人のことについては、ここでははなしません。
1552年1月29日(コーチン)
山口の領主から領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む者たちが信者となる許可をいただくこと以外何も望まないと申し上げました。領主は大きな愛情を持って私たちにこの許可を与えて下さり、領内で神の教えを説くことは領主の喜びとするところであり、信者になりたいと望む者には信者になる許可を与えると書き、領主の名を記して街頭に布令を出すことを命じられました。
1552年1月29日(コーチン)
学院のような一宇の寺院を私たちが住むようにと与えてくださいました。私たちはこの寺院に住むことになり、普通、毎日二回説教しましたが、神の教えの説教を聞きに大勢の人たちがやって来ました。そして説教の後で、いつも長時間にわたって討論しました。質問に答えたり説教したりで、絶えず多忙でした。この説教には大勢の僧侶、尼僧、武士やその他たくさんの人がいっぱいで、入りきれない場合がたびたびありました。
1552年1月29日(コーチン)
彼らは私たちにたくさん質問しましたので、私たちは、神の教えこそ真理であることを理解させました。幾日間も質問と答弁が続きました。そして幾日かたった後、信者になる人たちが出始めました。説教においても、討論においても、もっとも激しく敵対した人たちが一番最初に信者になりました。
1552年1月29日(コーチン)
この山口の町で2ヶ月が過ぎ、さまざまな質問を経たのち、500人前後の人たちが洗礼を受け、そして今も神の恩恵によって日々洗礼を受けています。
1552年1月29日(コーチン)
信者になった人たちは非常に深い愛情を持って私たちに接してくれます。彼らこそ真実な意味でキリスト信者であると信じて下さい。
1552年1月29日(コーチン)
この町には私たちにたいへん好意を寄せて下さる高貴な方(内藤某)がおられます。とくに奥方は神の教えを広めるために、出来る限りあらゆる援助を与えて下さいました。しかし神の教えが善いものであることをいつも認めながら、決して信者になろうとしません。なぜなら、「今まで」自分の費用でたくさんの寺院を建立し、またボンズの生活費を負担していますので、阿弥陀に願って夫も妻もこの世の生活で悪から守られ、来世では阿弥陀のいる極楽へ導いてもらえると信じきって「満足」しているからです。
1552年4月8日(ゴア)
私はボンズをポルトガルへ送って、日本人がどれほど才能があり、知性に富み、鋭敏であるかをあなた方に知ってもらいたいと思い、彼らの宗派の中で学識のある二人のボンズを日本から連れて来たかったのですが、彼らは衣食に困らなし、また上流階級の人でしたので、来ることを望まなかったのです。
サビエルの信仰・希望・愛
1546年5月10日(アンボン)
私が「モロタイ島」へ行くことをやめさせることができないと分かると、解毒剤をいっぱい私に下さいました。私は彼らの愛情と善意とに感謝しながらも、恐れては降りませんし、私の希望のすべてを神にのみおいています。神への信頼を失いたくありませんでした。それで、これほどの愛情と涙とをもって私に与えられた解毒剤を受け取らず、彼らの祈りのなかでいつも私を臣だして祈って下さることだけをお願いしました。祈りこそ毒に対抗できる最も確かな薬ですから。
1546年5月10日(アンボン)
試練の場合、神の御言葉の真の意味を理解できるのは、学識の深さによるものではなく、主なる神が無限のご慈悲をあたえてくださる人だけが、具体的な事柄のなかで、神がお望みになっていることを理解するにいたるものです。このような場合に私たちの肉体がどれほど弱く、病気にかかっているのも同然だと知るにいたるのです。
1546年5月10日(アンボン)
主なる神はこの危険のうちで、私たちをお試しになり、もしも私たちが自分の力に頼り、被造物に信頼をおいているあいだは、私たちがどれほど小さいものであるかを分からせようとなさいました。そして、このようなはかない希望から離れ、自分を信頼せずに、すべてのことについて創造主に希望を託し、創造主への愛によって危険を受けようとする時に、「神の」御手のうちにあって私たちの力を発揮できるものであることを分からせて下さいました。
1546年5月10日(アンボン)
創造主への愛のみにより危険を受ける者は、危険のさなかにあっても疑うことなく、創造主に従うものであると悟り、死の恐怖の時にあっても大きな慰めを明らかに感じるものです。
1549年11月5日(鹿児島)
この深い謙遜からのみ、神へのより大きな信仰、希望、信頼と愛が、そして隣人への愛が、「心のうちに」増してくるのです。なぜなら、自分自身への不信頼から真実な神への信頼が生まれるからです。そしてこの道によって、内心からの謙遜を得られるでしょう。真の謙遜はいずこにおいても必要ですけれど、この日本においては、あなた方が考えているよりももっと必要とされております。
1549年11月5日(鹿児島)
私はある人を知っています(サビエル自身についていっている)。神はこの人に大きな恵みをお与えになったので、彼は幾度も経験した危険のさなかにおいても平穏な時にも、希望と信頼とのすべてを神に託しています。このことから得られた霊的な利益を書き記すとすれば、大変長くなるでしょう。
サビエルの旅
1542年9月20日(ゴア)
非常に長い航海の苦痛、たくさんの霊的な病への配慮、自分白身の務めを果たしきれないのに、「赤道直下の暑気に加えて」無風地帯に住んでいることなどは非常な苦しみでありますけれど、これは「イエズス・キリストのために、喜んで」忍ばなければならない苦しみである〔と思えば」、心地よい喜びとなり、非常に大きな慰めの泉となります。
1546年5月10日(アンボン)
モロタイ島は非常に危険な土地柄で、人々は陰険も笹だしく、食物や飲物のなかに毒を入れます。このためモロタイの地には信者の世話する者がなく、見捨てられてしまいました。私はモロタイ島の信者に教理を教えねばならず、島民の救霊のために誰かが洗礼を授けなければならないので、また隣人の霊的生命を救うために私の身体的生命をなげうっ必要があると思って、モロタイ島へ行くことを決意しました。
1552年1月29日(コーチン)
コスメ・デ・トーレス神父とファン・フェルナンデスと私とが一緒に山口の町にいた時に、非常に有力な領主である豊後候から、一隻のポルトガル船が豊後の港(洲1の浜)に着き、あることについて私と話したいので、(府内、現在の大分市へ)来てほしいとの手紙が届きました。私は「豊後の領主が」信者になることを望んでいるかどうかを見極めるため、またポルトガル人に会うために(9月中旬)豊後へ行きました。山口にはコスメ・デ・トーレス神父とファン・フェルナンデスとを、すでに「洗礼を受けて」信仰を持っている信者たちとともに残しました。
1552年1月29日(コーチン)
「豊後の」領主は私をたいそう歓待し、また私はその地に到着したポルトガル人たちと話して大いに慰められました。
1552年1月29日(コーチン)
私は豊後から山口へは行かずに、ポルトガル人の船で、インドへ帰ることに決め妻した、、それはインドにいる兄弟たちに会って慰めを得るため、また日本で必要なイエズス会の神父たちを派遣するため、さらにまた、日本の地で不足している必需品をインドから送るためです。
1552年1月29日(コーチン)
私は肉体的にはたいへん元気で日本から帰って来ましたが、精根は尽き果ててしまいました。しかし、主なる神の慈しみに希望し奉り、また主なる神のご死去とご受難の無限のご功徳に希望を託し、きわめて困難な中国への渡航のために私に恩恵をお与えくださるように願っております。私の頭はすでに白髪でおおわれてしまいましたが、体力に関する限り、これまでに経験しなかったほど「の充実感に」満たされています。
ヨーロッパの仲間へ
1546年5月10日(アンボン)
イエズス会員として十分な学識や能力に恵まれていない者であっても、もしもこちらの人びととともに生き、ともに死ぬ覚悟で来る人であればこの地方のために有り余るほどの知識と能力をもっていることになります。
1548年1月20日(コーチン)
聖なるイエズス会について話しはじめますと、心楽しい会話をやめることができませんし、書き尽くすこともできません。しかし、私の意のままに続けようとしても、船が出帆を急いでいますから、書き終えねばなりません。この手紙で書き終えるにあたって、「もしもいつの日か、イエズスの聖名の会を私が忘れることがあるとすれぼ、「私の右の手はきかなくなるがよい」とすべてのイエズス会員に告白する以外に良い言葉を知りません。
1552年1月20日(コーチン)
神は聖なるご慈愛により、苦難に満ちたこの世において、私たちを聖なるイエズス会に結ばせて下さいましたので、この世においては、神への愛のために、互いに遠く離れて生活しておりましても、天国における栄光のイエズス会で私たちを緒ばせて下さいますように主なる神にお願い申しあげます。
1552年1月20日(コーチン)
神は聖なるご慈愛により、苦難に満ちたこの世において、私たちを聖なるイエズス会に結ばせて下さいましたので、この世においては、神への愛のために、互いに遠く離れて生活しておりましても、天国における栄光のイエズス会で私たちを緒ばせて下さいますように主なる神にお願い申しあげます。
1549年6月22日(マラッカ)
私たちは幾度も考えたことですが、イエズス会の学識のある多くの人々が、この地方に来て、少なからず危険の伴う航海の深刻な皆難を体験すべきであると思います。多くの船が失われてゆく明らかに危険の「伴う航海を」あえてすることは、神を試みることであると思われるかもしれません。しかし、私たちはそうは考えません。なぜなら、私たちイエズス会員は学識を信頼するのではなく、主なる神を信頼して「各自の心のうちに」住んでおられる聖霊の導きに従うべきだからです。そうでなければ、非常に大きな苦労をすることになります。
1552年4月7日(ゴア)
親愛なる兄弟よ、実社会で試練を受けた人を派遺して下さい。実社会で「いろいろな」迫害に遭い、神の慈しみによって勝利を収めた人を送って下さるよう特にお願いしたいのです。迫害を受けた経験のない人たちには、大きな仕事を任せることは出来ませんから。
1552年4月9日(ゴア)
日本へ行かなければならない神父には、二つのことが必要です。実社会においてよく試練され、迫害を経験した人たちで、自分自身について内心の認識を「持っている者でなければなりません」。なぜなら、日本においては、ヨーロッパではたぶん受けたことのないような大きな迫害を受けねばならないからです。同本は寒いところで、衣服はほとんどありません。寝台がありませんから、寝台の上に寝られません。食料も豊かではありません。日本人は外国人を軽蔑し、とくに神のことがよく分かるまでは、神の教えを説くためにやって来た人を「軽蔑します」。
1552年4月9日(ゴア)
日本人はいろいろと質問をしてきますので、それに答えるための学識も必要です。神父たちは博学でなければなりませんし、また討論の中で日本人の矛盾をとらえるために弁証法を心得ていれば役に立つでしょう。「また」日本人は、天体の運行、日蝕、月の満ち欠けなどについて知るのをたいへん喜びますし、雨、雪や雹、雷、稲光、彗星やその他の自然現象がどうして起こるか「を知ることに興味を持っていますので」天体の者現象についてある程度知っていなければなりません。
サビエル宣教
1542年1月1日(モザンビーク)
私たちにとって、大きな慰めとなり希望を与えてくれることのひとつは、私たちにはイエズス・キリストの信仰を宣教するために必要なものすべてが欠けているにとを、自分白身で完全に認識できるように主なる神が恩恵をあたえてくださっていることです。
1544年11月10日(マナパル)
私にとって生きているのは苦痛であり、神の教えと信仰を証すために死ぬ方がましであると思います。こんなにひどい神への侮辱を見ながらそれを矯め直すことができないでいるのですから。あなたも知っているように、これほど神を侮辱する人たちを抑えつけなかったこと以外には何も後悔しません。
1549年4月初旬(ゴア)
自分で悟ったことを他の人に伝えることで勇気づけられ、実践するようになります。
1549年4月中旬(ゴア)
私は「死んだ本ではなく生きている生活の実態から学びとる」この規則によって、いつも大切なことを見つけてきました。
1549年4月中旬(ゴア)
私は「難しく」書かれた本を時々読むことが悪いと言っているのではありません。しかし、それよりも、隣人や罪人を救うための手段を、聖書によって根拠づけられる権威を探すために、生きている書物を読むことが大切であると言っているのです。この書例には聖書や聖人たちの模範に基づいたこの世の悪習「がどんなものであるか」を語っています。
1549年6月22日(マラッカ)
私たちとともに日本へ行く兄弟、同伴者である日本人たちが私に話すところによると、もしも私たちが肉や魚を食べるのを見れば、日本人僧侶にはつまずきとなるだろうとのことです。私たちは誰にもつまずきを与えないように、絶対に肉食をしない覚悟で渡航します。
1549年11月5日(鹿児島)
主なる神は私たちが短い期間に「日本話を」覚えるならば、きっとお喜び下さるでしょう。私たちはすでに日本話が好きになりはじめ、40日間で、神の十戒を説明できるくらいは覚えました。私がこのように詳しく報告しますのは、あなた方全員に神に感謝を捧げていただきたいからです。
1549年11月5日(鹿児島)
神は、いかに多くの奉仕を捧げるとしても、奉仕そのものよりも、人々が自身を捧げ、神への愛とその栄光のためにだけ、全生涯を捧げようとする謙遜に満ちた善良な心を、重んじられるのだということをつねに思い起こして下さい。
1549年11月5日(鹿児島)
私たちが神の聖なる信仰を広めるためにこの日本へ来て、神にいくらかでも奉仕するのだと考えていましたけれど、私たちがより深い信仰、希望と信頼を神に持つため、これを妨げる被造物への愛着を断ち切るために、計り知れない大きな恵みをもって、私たちを日本へ導いてくださったのです。今私は「このことを」神の全善によって、明らかに認識し、感得いたしました。
1549年11月5日(鹿児島)
神は信頼する人たちを欺くことなく、むしろ人々が懇願し、望むよりももっと寛大に「お恵みを」お与えくださるものであることを、今あなたがたは「真剣に」考えて下さい。
1549年11月5同(鹿児島)
大天使聖ミカエルの祝日(9月29日)にこの地の領主と会談しました。領主は大変丁重にもてなしてくださり、キリスト教の教理が書かれている本を大切にするように言われました。そしてもしも、イエズス・キリストの教えが真理であり、良いものであれば、悪魔はたいへん苦しむであろうと言われました、数日後、その臣下たちにキリスト信者になりたい者はすべて信者になって良いと評可を与えました。私がこれほど大きな喜びの報告をこの書簡の最後に書いておりますのは、あなた方に心から喜んでいただき、主なる神に感謝を捧げていただきたいからです。
1549年11月5日(鹿児島)
この冬(1549年)は信仰箇条の説明書を日本語に「訳し」、たくさん印刷したいので、多忙であろうと思われます。日本では主だった人たちすベてが読み書きを知っていますし、私たちは全国を回ることが出来ませんので、各地方へ私たちの信仰を広めるため「に印刷するの」です。
1552年1月29日(コーチン)
主なる神は日本人「の救霊に働くこと」によって、わたし白身の限りない惨めさを深く認識する恵みを、あたえてくださったのですから、日本の人たちにどれほど感謝しなければならないか、書き尽くすことはできません。なぜなら、日本において数々の労苦や危険にさらされて自分自身を見つめるまでは、私自身が自分の内心の外にいて自分の中に「どれほど」たくさんの悪がひそんでいたか、認識していなかったからです。
宣教仲間への忠告
1542年9月20日(ゴア)
聖職者は聖書を読み、教える仕事をしながら、読んだことを実行することによって、インドの人びとの心を動かし、神への愛と隣人の救いのために働くようにしなければなりません。なぜなら、人の心を動かすのは、話よりも行いですから。
1544年3月14日(マナバル)
悪い子供に対して善い父親がするようにしていただきたいと切に願っています。たくさんの悪事を見て、あなた白身を疲れさせないようにしてください。なぜなら、神はご白身に対してたいへんな侮辱をする人々を殺すことがおできなのに、殺されませんし、彼らが生きてゆくために必要な物を奪い取ってしまうことが山来るのに、そうはなさらず、そのまま見捨てることもなさらないからです。
1544年3月14日(マナバル)
あなたは自分が考えているよりももっと大きな成果を挙げているのですから、あなた白身を疲れさせないようにして下さい。またもしもしたいと思うことを全部できないとしても、今していることで満足して下さい。あなたのせいではないのですから。
1544年3月20日(マナパル)
霊的に(又、精神的に)弱い人々については、たとえ現在の時点で良くはないとしても、いつかは良くなることを期待して忍耐強く努力し、その負っている荷を軽くしてやることが大切なのだと承知して下さい。
1544年4月8日(マナパル)
健康に注意しなさい。健康であれば、主なる神にたくさんの奉仕をすることができますから。
1544年5月14日(トウテイコリン)
たくさんの仕事があってそのすべてを処理できない時でも、できるだけのことをして心に平安を保っことです。少しゆとりを持ちたいと思っても、さし迫っているたくさんの仕事を放っておくわけには行かず、全力をあげて主なる神への奉仕にいそしむ立場にいるあなたは、どうぞ主なる神に感謝して下さい。
1548年2月(マナパル)
あなたがたにいくたびもお願いすることは、あなた方が訪れるところ、滞在するところ「どこでも」人びとから愛されるように努力したほしいのです。霊的な働きをし、愛情のこもった話し方で誰からも愛されるようにし、嫌われたりすることのないようにしなさい。
1549年1月12日(コーチン)
宣教師は、諸徳を備えていなければなりません。すなわち、従順、謙遜、堅忍不抜、忍耐、隣人愛、そして、罪に陥る数々の機会に負けない堅固な貞潔の徳、また健余な判断力がなければなりません。幾多の苦労を耐え忍んでいくゆくためには体力も必要です。必要なのは堅固な貞潔、謙遜、すなわち、傲慢な態度が少しもない人物です。
1549年4月初旬(ゴア)
謙遜の徳を身につけ進歩するために、低い仕事や卑しい仕事をいつも喜んで引き受けなさい。
1549年4月初旬(ゴア)
一日に二度、あるいは少なくとも一度、特別究明をすることをやめないように注意しなさい。また他人とのことよりも自分の良心について、とくによく考えながら生活しなさい。自分白身に善良でなくて、どうして他の人たちに善くすることができるでしょうか。
1549年4月初旬(ゴア)
もしも時間に余裕があれば、(自分の)ことよりも人を助けるために人々と話すようにしなさい。すべてにわたって個人的なことのために全体のことを決しておろそかにしてはなりません。
1549年4月初旬(ゴア)
もしもなたが厳粛で悲痛な顔着きをしていれば、多くの人たちは恐れをなして、あなたに相談することをやめてしまうでしょうから、重苦しく、いかめしい顔をしないで、快活な態皮ですべての人たちと交際しなさい。それであなたと話をする人たちが恐れを感じたりしないように、愛想よく親切で、とくに叱責する場合は、愛情と慈しみをもってするようにしなさい。
1549年4月初旬(ゴア)
すべてに越えて、あなたの霊的生活を、あなた自身が大切にするようにお願いします。あなたがイエズス会の会員であることを意識していただきたいのです。このように恵識することによって、ホルムズで他のすべてのことが神への奉仕に役に立つものとなります。そちらに滞在していろいろ経験すれば、経験があなたに教えてくれます。経験はすべての母ですから。
1549年6月20日(マラッカ)
何よりも私があなたにお願いすることは、あなたがすべての人から愛されるようにしていただきたいことです。
1549年6月23日(マラッカ)
すべてのことについて自分自身を克服することに務め、つねに自分の欲求や傾きを否定し、もっとも、忌、み嫌い、逃れたいと一題、うことを耐え忍び、受け入れるように努力しなさい。またすべてのことにおいてへりくだり、謙遜となるように努力しなさい。
1549年6月23日(マラッカ)
「イエズス会は」高ぶる人気負った人、自分の判断や名誉に固執する人々には「耐えきれません」。なぜなら、そのような人たちは誰とも一緒に働くことが出来ないからです。
1549年11月5日(鹿児島)
あなた力にお願いすることは、すべてにおいて、自分の能力や知識、あるいは、人々の好意ある評判に依拠「して、それにもとづいて判断」するのではなく、「すべての思いと行いとを」神「への信頼」にもとづかせるようにしてください。「あなたがたがすべてを神にお任せするならば」精神的にも肉体的にも「これから」遭遇する大きな苦難のすべてに対して備えができているものと私は考えております。なぜなら、謙遜な人々、とくに小さなこと、つまらないことにさえもあたかも明らかな鏡に映したように、自分の弱点「と醜さ」を見てとり、よりいっそう謙遜になる者を神は高きに上げ、力づけて下さるからです。
1549年11月5日(鹿児島)
主「イエズス」が仰せられた「たとえ全世界を手に人れても、自分の魂を失ったならば、何の益になろうか」(マタイ16・26)というみ言葉を、いつも心に留めておいていただきたい。
1549年11月5日(鹿児島)
あなたがたが「互いに」真実の愛情を持ち、心のうちに苦々しい感情が起こる二とのないように心から願っています。
1552年2月29日(ゴア)
もしも人々があなたの心のうちに深い謙遜があることを認めるならば、反感をもつこともないでしょう。まず初めこ、まったくつまらない労働やつつましい仕事を一生懸命やりなさい。これによって人々と親しくなり、そして人々の好意を受ければ、あなたの行動をいつも善いほうへと解釈してくれるようになるでしょう。
1552年2月29日(ゴア)
忘れないでいただきたいのは、進歩しなければ後退するということです。
1552年3月22日(ゴア)
イエズス会があなたを必要とするよりももっとあなた自身がイエズス会を必要としていることを考えあわせ、私たちの会において謙遜に生活するようにしなさい。このことをいつも川心し、あなた自身を決して忘れないようにしなさい。なぜなら自分白身のことを忘れるような人は、他の人たちを救うことなどできるはずがないからです。
1552年4月6日(ゴア)
まず第一に、あなた白身を「いつも心にとめて」注意していただきたい。あなたもご存知のように、聖書には「自分に対して厳しすぎる者が、どうして他人に対して親切ができようか」(シラ書14.5)と言っています。
1552年4月6日(ゴア)
イエズス会が必要とするのは、少数で善良な人ですから、大勢の人を入会させないようにしてください。なぜなら、善良でない大勢の人よりも少数で善良な人のほうがよりよい「結果を」もたらし、よく働けるようになることはご覧の「とおり」です。イエズス会では偉大なことをする勇気のある人、才能のある人でなければ必要ではありませんから、才能のない人や気弱な人、役に立たない人は決してイエズス会に入会させてはいけません。
1552年4月6〜14日(ゴア)
怒りに任せて誰をも叱責しないようによく注意しなさい。なぜなら、世間の人たちに絶対よい結果を与えないからです。人間はきわめて不完全ですから、このような叱責を受けると、すべての人々は熱心さのあまり叱るのではなく、叱責する人の性格のせいだと考えるものです。
1552年7月22日(シンガポール)
あなたが「ご自分の」健康と生活に注意していただきたいと切に願っております。またあなたの友であると言いながら「実際にはそうではない」たくさんの人々がおりますので、時の経地につれてさまざま「に変化する」ことを正しく判断し、川心深く対処していただきたいと「切にねがっております」。
1552年10月25日(サンチャン)
私があなたにも、すべての会員にも願っておりますことは、「神が」あなたがたを通じて行われることよりも、神があなたがたを通じて行いたいと思われても「あなたがたが従わないために」やめてしまわれることについて、もっと真剣に考えて欲しいのです。もしあなたがたがそのとおりにしてくださればたいへん嬉しく思います。
生き方
1542年9月20日(ゴア)
主なるキリストの十字架を喜んで負う人びとは、このようなさまざまな苦しみのなかに心の安らぎを感じるもので、この苦しみから逃げたり、苦労なしに生活すれば、生き甲斐を感じられなくなるものと私は信じています。
1542年9月20日(ゴア)
キリストを知っていながら、もしも自分の意見や執着心に従うために、キリストを捨てて生活するとすれば、死ぬ「よりもひどい」心の苦しみのなかで生活しなければならないことでしょう。これに等しい苦しみは他にありません。
1542年9月20日(ゴア)
自分が愛着することに逆らって、イエズス・キリストのほかには自分の利益を求めず、日々死ぬことによって「霊的に」生きることは、どれほど人きな慰めでしょう。
1549年4月初旬(ゴア)
この乱れた世にあって賢明に振る舞い、あなた自身のことを心がけて生活し、神と共に生きることを楽しみ、自分自身をよりいっそう深く知るようにしなさい。
1549年4月初旬(ゴア)
必要なものを誰からも受けないことは大切なことです。なぜなら、他人から物をもらうとその人の虜になってしまいます。
1549年4月初旬(ゴア)
贈り物を受け取らないよりも、人からの好意を受け取る態度を示すほうが、人びとの模範になります。
1552年4月6〜14日(ゴア)
夫であれ、妻であれ、彼らがあなたに言うことをすべて信じてはいけません。どちらのせいであるにせよ、双方の言い分を聞き、どちらか片一方に味方する態度を見せてはなりません。なぜなら、このような場合、たとえ片方がもう一方よりも責任が大きいとしても、つねに双方に責任があるものです。そして過失のある側の告解を時間をかけて聞いてあげなさい。私がこのように言うのは、このようにすればたやすく和解でき、つまずきを避けることができるからです。
1552年11月12日(サンチャン)
私たちは十字架の苦難から逃れて、自由の身となるよりも、ひたすら神の愛を「求めて」捕らわれの身になるほうがよりよいと考え、慰めを感じております。
ザビエルの友人
生い立ち
父母・兄・姉
父ファン・デ・ハッスは、ボロニア大学で法学博士号を取り、ナバラ国王の側近として重要な役目を果たしていましたが、スペイン軍によってナバラ王国が滅ぼされた1515年、心労のために亡くなりました。母マリア・デ・アスピルクエタは、ナバラ王国では最も位の高い貴族の出身で、結婚の時父からもらい受けた、サビエル城を、留守がちだった主人と息子たちに代わって守りました。パリに旅立ったサビエルに再び会うこともなく1529年7月に亡くなりました。長姉マグダレナは修道女となり、次姉のアンナは結婚しました。2人の兄ミゲルとファンは軍人としてナバラ王国復興につとめました。
ロヨラの聖イグナチオ−サビエルの師(1491−1556)
スペイン、バスク地方の貴族出身で13人兄弟の末っ子として誕生。パンプローナ市の士官としてフランス軍と戦った際に重傷を負い、ロヨラ城で療養生活に入りました。その病床で読んだ聖人伝に感動し、軍人生活を捨てて神と共に歩む決心をしました。念願のエルサレム巡礼を果たして帰国後にパリ大学の学生となり、サビエルに出会い、その世俗への野心から回心させました。1534年8月15日パリのモンマルトルで仲間と共に神の栄光と万人の救いのために働くことを誓い。1540年イエズス会の偉大な創立者となりました。
日本への旅の仲間
アヴァン船長
ポルトガル船に代わって、サビエル一行をジャンク船で日本まで送りとどけることを引き受けた中国人の船長。アヴァンとは「海賊」という意味のあだ名。1549年6月24日マラッカを出航。航海中、嵐のために娘が海に落ちて死に、占いによって、これを同じ日に溺死寸前で助かった中国人従僕の身代わりと信じ、サビエル一行と対立しました。中国越冬を企てたりしましたが1549年8月15日被昇天の大祝日に鹿児島に到着しました。
コスメ・デ・トルレス(1510−1570)
スペインのセビリアの宣教師でサビエルと共に来日し、山口で受洗者を二千人まで増やし、大道寺の聖堂の建立などに成果をあげましたが、大内氏の滅亡に先立って本拠を豊後(大分県)に移しました。離日後、サビエルは彼に日本布教を託しました。豊後では大友宗麟の助力助言を得、神父、修道士を指揮して島原、五島、長崎、畿内(京都、大阪、奈良周辺)などを東奔西走し、日本布教の基礎を据えました。大村純忠にも洗礼を授けました。天草の志岐で死ぬ。
フェルナンデス・ジョアン(1525−1567)
スペインのコルドバ生まれのイエズス会修道士(イルマン)。修練中インドに渡航し、ゴアでサビエルと会い、日本への随行を希望して日本語を修学、1549年サビエル、トルレスと共に鹿児島に到着。平戸、山口、後府内、横瀬浦を経て平戸に戻り、博多、にも布教。日本語に巧みなため、宗教書の翻訳、文法書、辞書の編集などにも多くの業績を残しました。平戸で死ぬ。
最初の弟子
パウロ・ヤジロウ(アンジロウ)
日本人最初のキリシタン、鹿児島で生まれ、誤って人を殺したことから海外に脱出。マラッカでサビエルに出会ったことが、サビエルの日本布教のきっかけとなりました。1548年5月インドのゴアの司教から洗礼を受けました。1549年サビエルと鹿児島に帰り、布教に貢献し、歴史上の役割を果たしました。サビエルが日本を離れた以後はっきりしませんが、中国の海岸沿いで死すとされています。
ロレンソ(1526−1592)
日本でのサビエルの受洗者中、最も重要な人物で、もとは肥前白石(平戸)の盲目の琵琶法師。醜い容貌ながら知力弁舌は抜群で、イエズス会の修道士になって説教師兼通訳として宣教師を助けました。高山右近父子等を受洗に導いたことは有名で、織田信長、豊臣秀吉との外交折衝も巧みにこなしました。当時の布教地で足跡の及ばぬ地はなく、特に五畿内(京都、大阪、奈良周辺)での布教の基礎を固めることに多大な貢献をしました。晩年は長崎で布教活動につとめ死ぬ。
ベルナルドとマテオ
ベルナルドは1549年鹿児島で洗礼を受け、平戸、山口、都への旅をサビエルと共にし、インドのゴアに渡った。さらに日本からの最初の留学生としてポルトガルのコインブラ大学に学びました。卒業後ローマへ行きイエズス会の神学生となりましたが、コインブラに戻り病死しました。マテオは山口の人で同じくサビエルに同行した留学生ですがゴアの学院に着いてからわずか数ヶ月で病死しました。いずれも志を遂げられなかったことが惜しまれますが、いちはやく、邦人聖職者養成に取りかかったサビエルの判断力と、行動力は、日本の教会の行く末にまで思いをめぐらしていたサビエルならではのものといえましょう。
日本での保護者
島津貴久(1514−1571)
戦国時代の薩摩・大隈の戦国大名で、通訳者ヤジロウの斡旋で、1549年9月29日(大天使ミカエルの祝日)にサビエルは、謁見を許され、キリスト教を布教する事の許可を得ます。これは島津貴久に目論見があったからです。その目論見とは、ポルトガルの船を平戸や府内から鹿児島に寄港させるということでした。この布教を許された期間に、サビエルはおよそ150人の人たちに洗礼を授けました。 しかし、島津貴久の目論見は、余り功を奏すことがなく、また、僧侶たちの反発が非常に激しくなり、反乱さえも起こすほどの勢いになったために、後に布教を禁止してしまいました。貴久自身は、サビエルに好意的な態度で接したと伝えられています。サビエルは、鹿児島についてほぼ1年後に鹿児島を後にしています。
松浦隆信(道可)(1529−1599)
1550年当時平戸の戦国大名であり、南蛮貿易を開始して鉄砲や大砲を蓄え、貿易により富を築いたと言われています。1550年8月に鹿児島を後にしたサビエルは、平戸に戻りました。この時、松浦隆信は、サビエルを丁重に迎え、キリスト教の布教の許可を与えています。サビエルのこの地の滞在は、わずか2ヶ月でしたが、100人くらいの求道者に洗礼を授けています。平戸滞在2ヵ月後にトルレス神父を残して、京都へ旅立ちました。
大内義隆 (1507−1551)
サビエルは、京都に向かう途中で山口に寄り(1550年11月)ました。この時、大内義隆との謁見しましたが、謁見の際の服装は非常に質素で、話す内容も非常に難解な話に終始し、失敗に終わりました。そして、宣教の許可を貰う事はできませんでした。しかし、2度目の山口の訪問の際(1551年4月)再度、謁見する機会を与えられた時は、1度目の失敗に学んだサビエルは、日本のしきたりに従った礼を持って大内義隆に謁見しました。その礼節に大内義隆は気を良くして、山口でのキリスト教の伝道を許し、それを誰も妨げないように公示を出しました。更に、大道寺という荒れ寺をサビエルたちに与えました。この大道寺こそ、日本で最初のキリスト教の教会となりました。この山口滞在時期には、サビエルは数度大内義隆に謁見し、大名と側近者などとも友情関係を築いたようです。
内藤興盛 (1495−1554)
サビエルは2回にわたり山口を訪れています(1550年11月と1551年4月)。その際に、大内義隆との謁見を斡旋したのが、内藤興盛です。内藤興盛は、大内義隆の重臣を勤めたが、武人であるよりは教養が高く、文化人として信望が厚かったようです。彼は、熱心な仏教徒でしたが、サビエルが2回目に山口を訪れた(1551年4月)数年後に妻と子供二人と共に信者になりました。 大内義隆との謁見は、1度目は失敗に終わりました。しかし、1度目の失敗に学んだサビエルは、日本のしきたりに従った礼を持って大内義隆に謁見しました。
日比屋了珪(日比谷了慶)と小西隆佐(?−1592年)
1550年11月に山口に到着したが、この時は大内義隆の保護を得られず、12月に再び京都へ出立しています。岩国から海路で堺へ着きました。この堺では、堺の有力な商人が、豪商と言われた日比屋了珪(生没不詳)宛ての紹介状を書いてくれました。日比屋了珪はサビエルの保護者となりました。日比屋了珪のことについてはよく分かっていませんが、1564年に受洗し、霊名をディオゴとしました。(この情報は、女子パウロ会の日本キリシタン物語からの抜粋です)。日比屋了珪は、小西隆佐に紹介状を書き、京都での滞在の手助けをしました。小西隆佐も、堺の豪商として、豊臣秀吉に仕えていました。小西行正の子供として生まれ(生誕は不明)、1565年にルイス・フロイスに教えを乞い、京都で最初にキリシタンになった一人で、霊名をジョウチンと名乗りました。正室もキリシタンで小西マグダレーナといわれています。サビエルは、了珪の邸宅の一部を借りて活動を行ったのですが、現在、その場所は、「ザビエル公園」(大阪府堺市)となっているそうです。
大友義鎮(後の宗麟)(1530〜1587)
サビエルは、山口滞在中の1551年8月末にポルトガルの船が府内(大分)に着いたという知らせを聞き、山口を離れることにしました。入れ替わりにトーレス神父が山口教会で活動するために平戸から来ました。平戸から来る時に豊後の大友義鎮とポルトガル船の船長ドゥアルテ・ダ・シルヴァからの手紙を携えてきました。その内容は、可能なかぎり早く府内(大分)を訪れるようにという要請が書いてありました。サビエルは、山口を直ちに出発して府内に行きました。そこで、謁見を許されたのが、当時22歳の大友義鎮でした。義鎮は、サビエルの礼儀正しい態度、親切な態度に感銘を受け、領内でのキリスト教を伝道をすることを許可しました。そして、27年後に洗礼を受けます。サビエルへの敬意のしるしに霊名を「フランシスコ」としました。キリシタン大名として知られています。
サビエルから始まった信仰の証
二十六聖人
 豊臣秀吉は島津征討完了後、「バテレン追放令」を発しました。宣教師たちの慎重な対応により小康状態が保たれていましたが、土佐(高知県)の浦戸で難破したサン・フェリーペ号の事件がきっかけとなり、秀吉は1596年12月8日京都、大阪の宣教師と信者を捕らえるよう命じ、彼らは長崎まで歩かされたうえ、西坂で1597年2月5日、はりつけによる殉教を遂げました。捕らえられた26名は、フランシスコ会の宣教師6名(スペイン人4人、メキシコ1人、ゴアのインド人1名、)イエズス会士は3名、信徒17名(内3人は子供)。日本の最初の殉教者として特別に尊敬され毎年2月5日盛大に記念されます。殉教した長崎の西坂で記念館と祈念碑が建てられています。
熊谷元直とダミアン
熊谷元直は毛利の姻戚で、山口では最も身分の高い切支丹でした。しつこく信仰をすてるように迫られましたが、死を覚悟して応じず、1605年8月15日、その予想の通り、毛利輝元の命によって、萩の邸を突如囲まれて、妻子一党十二人が殺されました。県下最初の殉教者です。
ダミアンは堺出身の盲目の琵琶法師で信仰熱心で意志が強く、そのうえ教理にくわしかったことから、神父不在の山口教会で信徒の世話を託されていました。自身の運命を感じ取った彼は風呂に入り晴れ着を着て逮捕を待ちました。毛利輝元の命により1605年8月18日、山口の湯田一本松の刑場で斬首の後、遺体は寸断され川に捨てられました。その一部は長崎に送られたと伝えられます。
ペトロ・パウロ・ナヴァロ(1560−1622)
イタリア人の神父で、伊予(愛媛県)に入った最初の宣教師。1598年に山口を訪れ、同地で4年間働き、周防、長門で多数の人々を信仰に導きました。毛利輝元の命で山口を去り、豊後(大分県)で12年間活動。宣教師追放令後も潜伏し布教活動を続けましたが。1621年12月に有馬で捕らえられ、1622年11月1日島原で火刑に処せられました。
石田アマドール・アントニオ・ピント(1570−1632)
日本205福者の一人。島原の生まれ。1611年、マカオで勉強してから司祭に叙階され、広島で宣教に従事しました。バテレン追放令後もひそかに中国地方で司牧を続けましたが、広島で逮捕され雲仙地獄での硫黄責めで苦しめられ、1632年9月3日長崎西坂で火刑に処せられ殉教しました。
その遺産を受け継いだ指導者
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539−1606)
イタリア出身のイエズス会巡察師として来日し、日本の風習への適応を強調し、日本事情に即した布教方針を確立しました。邦人聖職者の養成を重視して、一層の強化充実に努めるいっぽう、大友、有馬、大村の切支丹大名による遣欧少年使節を実現して布教地日本を西欧人の目に触れさせ、布教への協力を引き出そうとしました。また、日本に活字印刷機をもたらし、布教発展に寄与したばかりか、日本の古典まで印刷刊行し、一般文化にも貢献しました。日本を去ってからマカオに行き、中国伝道に尽力、内地に入る希望を持っていましたが、1606年1月20日マカオで死ぬ。
リッチ・マテオ(利瑪竇、1552−1610)
上川で病死したサビエルは、中国でキリストの教えを伝えることが出来ませんでした。このサビエルの夢を実現させたのがマテオ・リッチというイタリア人の宣教師です。1558年にマカオに到着し、1601年ついに北京に入ることが出来ました。リッチの書物によって韓国にキリスト教が入り、さらに鎖国時代の日本にも西洋の数学天文学が入りました。
受け継がれた信仰の光は消えず
浦上四番崩れ (4番目の迫害)
長崎の大浦天主堂は、開国後外国人のためのものとして、1865年、フランス人宣教師によって建立されました。しかし、堂内では宣教師と浦上キリシタンが出会い、キリシタンたちはここを拠点に公然と宗教活動を行うようになりました。1867年、幕府はキリシタンたちを捕らえて投獄、明治維新を経て新政府は、3400余名を全員西国諸藩に預ける処置を下しました。、萩に301名と津和野に153名が預けられました。これに対して諸外国が抗議を行い、1873年、政府はやむなく釈放を決めましたが、諸藩に預けられている間の拷問で664名が殉教を遂げました。
ヴィリオン神父(1843−1932)
幕末に来日したパリミッション会の宣教師、1889年山口にに赴任して、山口、津和野、地福、萩の教会を創立し、1924年まで力を尽くしました。その上、大道寺跡を推定して祈念碑を建立。また、長崎の浦上崩れに殉じた萩や津和野の乙女峠の信徒を顕彰しほか、「日本聖人鮮血遺書」など多くの著書をもって殉教者を語り、布教と共に信仰心の昂揚に務めました。  
 
キリシタンの歴史を辿る / 復活期の史料『平戸御水帳』

 

はじめに
2013年の米『タイム(TIME)』誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー(今年の人)」に輝いた教皇フランシスコ、その言動に世界中が注目している。
2014年1月15日、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの32回目の一般謁見が行われた。この中で教皇は、1月8日から開始した「秘跡」に関する連続講話の2回目として、再度「洗礼の秘跡」について、日本のキリスト教共同体の歴史を例にとり解説された。教皇は、洗礼の重要性を説明し、弾圧に耐えたキリシタンの歴史を「信徒の模範」と讃えた(以下、カトリック中央協議会のWebページ「教皇フランシスコの2014年1月15日の一般謁見演説」より)。
「神の民にとっての洗礼の重要性に関して、日本のキリスト教共同体の歴史は模範となります。彼らは17世紀の初めに厳しい迫害に耐えました。多くの殉教者が生まれました。聖職者は追放され、何千人もの信者が殺害されました。日本には一人の司祭も残りませんでした。全員が追放されたからです。そのため共同体は、非合法状態へと退き、密かに信仰と祈りを守りました。子どもが生まれると、父または母がその子に洗礼を授けました。特別な場合に、すべての信者が洗礼を授けることができるからです。約250年後、宣教師が日本に戻り、数万人のキリスト信者が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。彼らは洗礼の恵みによって生き伸びたのです。神の民は信仰を伝え、自分の子どもたちに洗礼を授けながら、前進します。このことは偉大です。日本のキリスト教共同体は、隠れていたにもかかわらず、強い共同体的精神を保ちました。洗礼が彼らをキリストのうちに一つのからだとしたからです。彼らは孤立し、隠れていましたが、つねに神の民の一員でした。教会の一員でした。わたしたちはこの歴史から多くのことを学ぶことができるのです」。
今年度、南山大学図書館カトリック文庫では、古い洗礼台帳を購入した。史料そのものに書名は付いておらず、その内容から『平戸御水帳』(「御水帳」については後段で詳述)と呼ぶことにする。今回の紹介では、史料そのものの分析と併せて、キリシタンとその歴史、潜伏キリシタンの地である長崎、その中でも平戸、そして史料に登場する当時の宣教師たちについて考察することとした。当時のキリシタンに思いをはせ、この洗礼台帳『平戸御水帳』を紹介していきたい。
第1章 日本におけるキリスト教の歴史 : 特に長崎、平戸を中心にして
平戸市は、長崎県北西部に位置し、平戸(ひらど)島、生月(いきつき)島、度(たく)島、的山(あづち)大島等にまたがる区域である。地理的に外国船が寄港しやすいことから、江戸時代には貿易港として栄えた。ポルトガルやオランダ等との南蛮貿易はキリスト教の布教を抜きには語れない。貿易と布教の歴史が凝縮されている地域が平戸である。
1. 室町〜安土桃山時代
1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来、1550年にポルトガル商船が平戸に入港し、その船長ペレイラの求めでザビエルが平戸を訪れた。第25代藩主松浦隆信(まつら たかのぶ)はザビエルを厚遇し、領内の布教を許可したことから、約1カ月の布教で100人余に洗礼を授けた。しかし、ザビエルは日本の中心地への布教を考えていたので、コスメ・デ・トルレスを平戸に残し、周防(現在の山口県)から京都へ向かう。周防に滞在した1551年、ザビエルは、大名であった大内義隆から、宿舎を兼ねた説教所として、廃寺になっていた大道寺を与えられた。これが日本最初の教会と言われる。
平戸ではトルレス、バルダザール・ダ・カーゴ、フェルナンデス、ルイス・アルメイダ、ガスパル・ピレラ等の宣教師が布教を続けた。カーゴ神父が、松浦家の一族である籠手田安経(こてだ やすつね)に洗礼を授けたことから、生月、度島、根獅子(ねしこ)の領民の多くがキリスト教に改宗した。
ポルトガルは宣教師の布教を前提に貿易を行うとしていたが、仏教徒との対立、領主の勧商禁教策、日本とポルトガル商人同士の暴動事件(宮の前事件:1561年)の発生等で、状況は悪化していた。領主隆信自身は改宗しなかったが、ポルトガルと貿易の継続を望んでいたため、1564年勝尾岳東麓に東洋風天主堂「天門寺」を建て宣教者たちを常駐させた。しかし、これは功を奏せず、結果的にポルトガル船は、貿易で対立していた大村藩へ移動した。
第26代藩主松浦鎮信(まつら しげのぶ)の子久信は、初のキリシタン大名大村純忠の五女松東院(しょうとういん)メンシアを妻に迎えた。これは政略結婚であり、メンシアは、南蛮貿易を巡って対立していた松浦藩と大村藩の和睦の要として利用されたのであった。しかし、夫の久信の死後、父鎮信が返り咲き、キリシタン弾圧を強行、引き続き鎮信の死後は、洗礼を受けていないメンシアの二男信清が、キリシタン弾圧を続行した。メンシアは、隆信(祖父)と鎮信(父)から何度迫られても棄教しなかった強い信仰心の持ち主だったため、幕府に呼び出され、江戸下谷の広徳寺に隠棲させられることになった。
1587年に秀吉の禁教令が出され、1612年家康の禁教令、1616年秀忠の禁教令と続く中、藩主鎮信が度島のキリシタンを全て処刑、1599年に籠手田一族を生月から追放した。その結果、1600年には平戸にキリシタンは表面上いなくなり、この後は潜伏して信仰を続けることになる。
潜伏キリシタンは、自宅に神棚、仏壇等を置きながら、人目につかない納戸にキリストやマリア等(納戸神)を祀って密かにキリスト教を信仰していた。禁教令が解けた明治以降も一部の信者はこの形の信仰を続けていた。
2. 江戸時代
1609年、後に家康に仕えるウィリアム・アダムズ(三浦按針)が平戸に来て以来、オランダ商館やイギリス商館が設置された。その一方で、生月のキリシタンに対する処罰などの弾圧は続いていた。1622年に、ジョアン坂本左衛門、ダミアン出口、ジョアン次郎右衛門が、平戸本島と生月島の間の無人島中江之島で殉教、カミロ・コンスタンツ神父は田平で火刑になった。
1640年に幕府は「宗門改役」を置き、信仰の調査によるキリシタンの摘発を行った。これを全ての藩に広めることとし、1645年には松浦藩にも置かれた。非常に古い資料であるが、『平戸学術調査報告』の中の「平戸切支丹関係文献資料」に「元禄二巳年肥前平戸領古切支丹之類族存命帳 松浦壱岐守」の記載が写してあり、名前と処罰内容が書かれている。「切支丹本人 新兵衛 斬罪」「次郎右衛門妻 切支丹本人 沈殺」等である。また、収容する牢屋の不足から、大村(大村郡崩れ:1657年)や長崎で捕えられたキリシタンが平戸へ送られ、そのほとんどが斬罪された。囚人の出身地、名前、性別、年齢、処罰の方法が記録されている「大村より参候囚人覚」「平戸へ参候者之覚」「大村牢内御預古切支丹存命並死亡帳」等の資料によれば、両親は20代から30代、子供は1歳から10代が多く、高齢者には60代の者もいた。10歳に満たない子供が多数処罰されており、その悲惨さが伝わってくる。また、踏み絵による取り調べは、踏み絵そのものが失われたことで途絶えていたが、新たに長崎から取り寄せて、再度実施された。こうしてキリシタンへの弾圧は強まり、1644年、最後まで国内に生き残っていた、ただ一人のイエズス会宣教師小西マンショも大阪で殉教した。これ以来、1859年にパリ外国宣教会のジラール神父が再来日するまで、日本には宣教師は不在となる。
3. 江戸後期〜明治時代
1858年、日本は西洋諸国の求めに応じて門戸を開くようになった。翌1859年パリ外国宣教会のジラール神父が開国後初めて横浜に上陸し、1863年同じくパリ外国宣教会のフューレ神父、プティジャン神父が長崎に入る。フューレ神父の設計で始められた大浦天主堂の建設をプティジャン神父が引き継ぎ、天主堂を完成させ初代主任司祭となった。1865年3月17日、大浦天主堂を訪ねた約15名の浦上の潜伏キリシタンをプティジャン神父が発見。この劇的な出会いが「信徒発見」と呼ばれている。翌年プティジャン神父は再宣教後初の日本司教となり、これを機に長崎を中心に潜伏キリシタンが次々と発見されて、神父と密に連絡をとりあうこととなった。
しかし、1868年に明治政府となっても禁教令は継続された。新政府が国民への方針を示した「五榜の掲示」(高札)の第三札に「切支丹・邪宗門厳禁」がある。その後1873年になり、ようやく明治政府が制度としての禁教令を廃止し、1889年の大日本国憲法第28条「信教上の自由権」および1899年の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」でやっとキリスト教が公認された。
今回入手した洗礼台帳『平戸御水帳』の、著名な神父の名前と共に書かれている受洗者の名前を見ると、禁教の暗く長い歴史を経てやっと光を見ることができた人々の喜びが伝わってくるようで感慨深い。
第2章 いわゆる「キリシタン」とは
1.「 キリシタン」の呼称・表記について
キリシタン(ポルトガル語:christã)は、日本の戦国時代から江戸、さらには明治の初めごろまで使われていた言葉(口語)である。そして、厳しい禁教下にもかかわらずキリシタンの信仰活動を維持した人たちの呼称は、一般に流布している「隠れキリシタン」のほかに論者によっていくつかある。ただし、彼ら自身はみずからをそうは呼ばない。これは外部の研究者から与えられた名前にすぎず、当事者のなかには不快感すら示す人もいるという。キリシタンのことは外部には隠してきたため、第三者が聞いてすぐにそれとわかるような呼び方はしなかった。自称を用いることができれば問題はないのであるが、地区によってそれぞれ異なっているため、包括的な外部からの呼称が必要となってくる。
大橋幸泰氏は、「キリシタン」と一口にいっても、その呼称は固定していたのではなく、それを使用する人びとのその対象に対する評価や意識を反映していると考えられると言う(『潜伏キリシタン』p.17)。隠れるように活動していたことは事実なので、江戸時代のキリシタンを“隠れキリシタン”と呼ぶことが直ちに誤りだとはいえないが、明治時代以降、禁教が解除されたにもかかわらず、隠れるように活動していた近現代のキリシタン継承者との差異を意識するため、江戸時代のキリシタンを「潜伏キリシタン」と呼ぶことにしたいと述べている(『同書』p.15)。
宮崎賢太郎氏も、キリシタン禁教令が出されていた江戸時代の信徒を「潜伏キリシタン」、1873年禁教令が撤廃された後も潜伏時代の信仰形態を続けている人々を「カクレキリシタン」と呼んで区別している(『カクレキリシタンの実像』p.40)。「現在、内部者にも外部者にも一般的に用いられているのが『カクレ(隠れ)キリシタン』という名称です。この名称は外部者が勝手につけたもので、けっして最適な名前とはいえませんが、今となっては一定の市民権を得ており、他によりふさわしい呼び方も見当たらない現状では、この呼称を用いるのも致し方ありません」(『同書』p.43)。また、表記については「ポルトガル語のキリシタン(christã)に漢字を当てた『切支丹』は江戸時代において用いられた歴史的当て字であり、明治以降のカクレキリシタンには不適切です。漢字の『隠れ』は表意文字であり、今でも隠れているという誤った印象を与え続けかねません。欧語の『キリシタン』は片仮名で、『かくれ』は平仮名書きして、『かくれキリシタン』と平仮名と片仮名をつなげて一語を作るのもまた不自然です。現在、隠れてもいなければキリスト教徒とも見なすことのできない彼らの信仰のあり方に即して表記するならば、表意文字でない音のみを示す片仮名の『カクレキリシタン』という表記法が最善といえるでしょう」と述べている(『同書』p.44)。
2.「 キリシタン」の見方について
呼称に加え、キリシタンをキリスト教徒とみなすかどうかについても議論の分かれるところである。宗教はある意味では普遍ではない。仏教であれ、キリスト教であれ日本に伝来された時から、時代とともに変化し融合してきた。キリスト教も衝突しつつ日本の風土・文化に融合し、仏教や神道など他の宗教とも融合した。
イタリア国立パビア大学アニバレ・ザンバルビエリ教授(Prof. Annibale Zambarbieri)は、次のように述べている。「今の『キリシタン』をキリスト教徒とみなすか否かについては議論が分かれる。仏教や神道の影響を受けているとされるためだ。だが、私は彼らを『古いキリスト教徒』と呼ぶべきだと考える。地域の文化と混じり合うことはしばしば起きる。法王でさえ、彼らを信徒の模範として語った。彼らをキリスト教徒とみなさない理由はない」(『朝日新聞』2014.3.26)。
他方で、カクレキリシタンはキリスト教とは異なるひとつの土着の民族宗教であると明確に認識しなければならないという議論もある。前出の宮崎氏は、その理由を次のように述べる。「カクレキリシタンにとって大切なのは、先祖が伝えてきたものを、たとえ意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことなのです。それがキリスト教の神に対してというのではなく、先祖に対する子孫としての最大の務めと考えていることから、カクレはキリスト教徒ではなく祖先崇拝教徒と呼んだほうが実態にふさわしいのです」(『前掲書』p.11)。
かれらは、キリスト教徒という意識がないため、明治以後宣教師が村社会のなかに入り教会が建設されるようになっても必ずしも「カトリック」に改宗するわけではなかった。むしろそうでない場合が多かった。大橋氏は、宗教形態としてはおもに、次の三つのパターンに分かれていったという。すなわち、その宣教師の指導のもとに入って教会帰属のキリスト教徒になる場合と、それに違和感を覚えてあくまで先祖伝来のキリシタン信仰を継続しようとする場合と、地域の神仏信仰のほうに身を寄せる場合である。また、宮崎氏は、カクレキリシタンをやめた後、仏教徒となる人が約8割、神道が約2割弱程度で、新宗教という人もいくらかいるが、カトリックは1%もいないだろうと分析する。
第3章 史料『 平戸御水帳』について
1. 史料『平戸御水帳』について
『平戸御水帳』は、市販されたものではなく、冒頭でも述べたとおり標題がある訳でもないので、あくまでも版心(柱)の記載事項から借用した仮題である。「御水帳」とは、いわば洗礼台帳であり、キリシタンの潜伏時代以来の洗礼を御水と言ったことに由来する。本史料は、平戸島における、1878(明治11)年7月28日から1884(明治17)年9月7日までのほぼ6年間、約70名の授洗記録である。
形態としては、縦39.4cm×横14.6cm、和紙の袋綴じ、四つ目綴じ(四針目。綴じ側に四つ孔が穿いたもの)、全182丁の和装本である。長崎出身であり、日本における近代活版印刷の祖とも言われる、本木昌造が鋳造した金属活字(2号活字)による印刷と思われる。ただし、柱の「平戸」の文字だけは木活字であり、各教会で使用できるよう配慮されたものであろう。それゆえ、長崎近辺の古い教会には同様の御水帳が眠っている可能性は容易に想像できる。表紙あとの遊び紙には「弐百板(枚)ひらど」と読める鉛筆による走り書きがあり、木活字部分を「平戸」としたものを200枚印刷したことの証左ともなっている。そして11行の罫があり、必要事項を記入する様式となっているが(37丁目まで記入)、「御出世以来一千八百七十△年△月△日」(△はスペース、以下同じ)と印字されていること、この手の活版印刷は1877年以降のものしか知られていないことから、自ずと1877〜1878年に印刷されたものであると推測できる。
背には「タザキ△シン」、その下に「ヒボサシ△シン」(消線あり)と墨書きされている。「タザキ(タサキ)」は田崎、「ヒボサシ」は紐差(現地では“ヒモサシ”より“ヒボサシ”に近い発音をするらしい)と考えて間違いなかろう。1878年にペルー神父が来島して田崎に仮聖堂を建て、1885年にラゲ神父が近くの紐差に移転させて布教の中心に据えた事実と符合する(詳細は次章)。しかし「シン」については明らかではない。単に信者の意味の頭文字「信(シン)」なのか、それとも1873年の禁教令撤廃以降も潜伏時代の信仰形態を維持し続けた「旧(ふる)キリシタン(カクレキリシタン)」に対して、カトリックに復帰した「新(シン)(復活キリシタン)」なのか(生月島ではカトリックのことを「新方」(しんかた)と表現することもあるという)、あるいは2冊目という意味の「新(シン)」なのか、はたまた別の意味があるのか、定かではない。
2. 本史料の印刷・記入事項について
続いて、印刷・記入されている事柄について詳しく見ていきたい。なお、旧字体表記は新字体に改めた。まず1丁目1行目には、前述の「御出世以来一千八百七十△年△月△日」とあり、その下の欄には「死去」とあって、亡くなった場合の日付等が書き込めるスペースが設けられている。本来はこの上欄に記入日を、後述の授洗日記入欄にその日付を、それぞれ記載する様式だと思われるが、実際には前者はほとんど空欄で、後者の日付が代用されている。次の2行目から4行目にかけては上下2枠に分けられ、上段には右から「実父の名△歳△所△」「実の婚姻の人」「実母の名△歳△所△」とあり、10行目に記入する「児」の実の両親名を記載する様式となっている。さらに、「実の婚姻の人」の下には線が引かれて「此の両人の」とあって、下段4行の「実父の名△所△」「実母の名△所△」「実父の名△所△」「実母の名△所△」につながっており、「児」の父方・母方双方の祖父母の名および所在を書き入れるようになっている。そのあと6行目には「子に御水又仕方を授けた神父の名△一千八百△年△月△日」、7行目には「子に御水を授けた水方の名△所△」、その下欄に「はつこむによ△」、8行目には「抱親の名△所△」(記入欄として印刷されている訳ではないが、「所」を記入した下に、「年○○」と年齢を記載している例がいくつも見られる)、その下欄に「こんひるまさん△」とある。9行目には「帳方の名△所△」、その下欄に「つまの名△帳面の号△番」とあり、10行目には「児の名△」、その下欄に「子の生所△」、「誕生△月△日」と続いている。つまり、「児(子)の」両親はもとより、祖父母、結婚した場合の「つま」(配偶者)、「つま」が記載されている丁箇所まで判別できる仕組みになっており、少なくとも三代以上にわたる系譜を知ることができる。このことは、比較的現存数が多い宗門人別改帳では辿り得ず、それだけでも本史料の重要性が垣間見える。そのあと11行目には、「番△」という記載順番号記入欄があり、その下に「御水帳△」(このスペースには「児の名」が見出しのごとく再度記載されている)、「平戸」と印刷されている。また、袋綴じであるから裏面は全くの左右反対となっている。
印刷面には聞き慣れないことばがいくつか見受けられるが、名称は地方により様々であるものの、おおむね次のように考えられている。すなわち、「帳方」とは、神をお守りし、行事を執行する役であり、「(御)水方」とは、洗礼を授ける役である。「抱(き)親」は「聞役」などとも言い、行事の補佐・連絡・会計係とされている。出生の際の役割としては、「抱親」がその子を預かり、「水方」を訪ね洗礼を受けて「霊名(霊魂の名)」をいただき、「帳方」がこれらを司る、という流れである。「帳方」の“帳”とは狭義には「日繰帳(ひぐりちょう)」と呼ばれる教会暦を指す。そして、この教会暦に基づき行われ、神への公式礼拝である典礼は、神と人間とが出会い、相対する場としてどの宗教にも存在するが、それゆえ各宗教の本質が現れる。カトリック教会でも共同的な各種典礼を必須のものとしている。しかし、典礼の本来の担い手である聖職者は潜伏期には不在であったため、どうしてもその代役が必要となる。それこそが「帳方」であり「水方」である。本史料は復活時の台帳であるから、ほとんどの「神父」欄に記入があって「水方」には無い。なお、生月・平戸地方には「お帳」が無く、「土用中寄り(どよなかより)」という大集会を毎年開いて役職を決定するようであったが、典礼に重きが置かれていることに変わりは無い。また「はつこむによ」は「初聖体拝領」のことであり、「こんひるまさん」は「堅信」のことである。
総じて、カトリックへの復帰を促すためであろうか、潜伏時代のキリシタンのことばを尊重してそのまま用いているところに、カトリック教会側からの寄り添う思いが感じられる。
3. 他の「御水帳」との比較について
現存が確認されている御水帳を示せば、1馬渡島(まだらしま)(佐賀県北部玄界灘)2伊王島(長崎市長崎港外)[長崎県立図書館所蔵]3長崎市蔭ノ尾(かげのお)4五島青方郷大曽(あおかたごうおおそ)[立教大学海老沢有道文庫所蔵]5長崎市大平6褥(しとね)(北松浦地方)7瀬戸脇(五島)8生月島(平戸島の北西)、のものとなる。本学が入手した史料は、少なくとも24とは印刷様式が異なり、17と似ている。実際、木活字部分(本学史料の「平戸」部分)以外は同じ印刷面のように見受けられ、「平戸」の代わりに1は「馬渡島」、7は「五島」と印字されている。さらに4は、『五島青方村天主堂御水帳』としてWebページ上にて全文のPDFファイルが公開されているので、ある程度の比較は可能である。縦35.3cm×横15.2cm、1873年までに刊行されたプティジャン神父ゆかりのプティジャン版と同じ唐紙を用いた和装、石版刷りで、本学の『平戸御水帳』よりも古版である。1872〜1876年頃に印刷されたとされ、1877年9月10日から15日というわずか1週間ほどの間に292名分が記録(100名分を一綴として300名分を1冊に合綴)されている。そして両者の圧倒的な情報量の違いと記録された期間の大きな違いに驚かされる。『平戸御水帳』の受洗者は、1815年生(68歳)の女性と思しき記載もあるが、ほとんどは新生児もしくは幼少の者であるのに比べて、五島のそれは幼児と成人がほぼ同数である。平戸のものは基本的に出生のたびに記入されたものであり、本史料とは別に成人の授洗記録が存在するのかもしれない。五島の方は、過去10余年の受洗者を幼児、成人を問わず短期間に記録したものである。さらに細かく見ていくと、例えば『五島青方村天主堂御水帳』には「霊魂の名」(霊名)と「肉身の名」(俗名)とが明確に区別されているが、『平戸御水帳』はそうではない。また後者に「はつこむによ」「こんひるまさん」というキリシタンの伝統語が見られるのに対して、古版の前者には無い。一時期、カトリックへの復帰をやや強引に進めたとされる点の反省を踏まえた結果であろうか。その一方で、後者にのみ「子に御水又仕方を授けた神父の名」の欄が見えるのは、配慮すべきところは配慮し、押さえるべきところは押さえるという工夫とも受け取れる。
一般的に五島・外海(そとめ)・長崎系と生月・平戸系の2系統に分類されるキリシタンのうち、8以外は五島・外海・長崎系であることに鑑みると、数少ない生月・平戸系の史料がひとつ増えたことは大きな意義があると思われる。生月・平戸系とひとくくりにされるが、生月と平戸とでは大きく異なる点があるので――かつて平戸の御水帳が東京の古書市場に現われたが、一葉ずつのバラであった――、その意味でも、唯一まとまったかたちの平戸のものとして、本学の『平戸御水帳』は貴重である。
4. 今後に期待される研究について
平戸島は土着の信徒もあれば移住者もあったが、その後カトリックに改宗したグループと根獅子のようにカクレキリシタンとして潜伏時代の信仰形態を維持し続けたグループとに分けられる。どちらかと言えば、生月島側(西側)はカクレキリシタンとなった人々が多く、田崎、紐差など(東側)はカトリックへ復帰した割合が多かったようである。これに関連して、カクレキリシタンの、平戸島と上五島(五島列島北東部)とのつながりについて、以前は知られていなかったが近年確認されることとなった。この事実追認と考証において本史料が役立つ可能性もある。
『平戸御水帳』は、記載人数は少ないものの、受洗者本人のみならず「帳方」「水方」「抱親」などの名前を丹念に見て比較すれば、復活時代のカトリック教会の勢力を把握する一助となるだけでなく、人物の確認、さらには受洗年齢や家族関係から婚姻関係や信徒の移動まで、多岐にわたる当時の状況を詳細に知ることができる。他の御水帳と突合わせて調査することで、より詳しい実態が掴めることは言うまでもない。また、明治初期の庶民生活に関する基礎史料としてだけでなく、カトリック教史、民俗学あるいは宗教社会学等々、広範囲な研究にとって有益な史料となり得るであろう。
第4章 『平戸御水帳』に登場する神父たち
『平戸御水帳』(以下、『御水帳』と記す)に名前が記されているのは、ぺルー神父、ソーレ神父、ラゲ神父、ボンヌ神父、フェリエ神父、マタラ神父の6人の神父たち。いずれもパリ外国宣教会の神父である。パリ外国宣教会は、17世紀中頃、海外宣教地で教会を設立し、現地人司祭を育成することを目的に設立されたフランスのカトリック宣教会である。同会は1844年に那覇に上陸したフォルカード神父を先駆けに日本のカトリック宣教にむけて活動を開始し、1859年フランスの外交使節団の通訳として江戸に入った。かつてのイエズス会の活動にはポルトガル国家の支援があったように、パリ外国宣教会の後楯としては、日本との通商を望むフランス政府やフランス軍の姿が見え隠れしていた。明治時代は、日本におけるパリ外国宣教会の活動が本格的に展開し始めた黄金時代であり、1870年代から1900年代初頭にかけて、同会から150名もの若い宣教師が来日し、日本のカトリック教会の礎を築いたとされている。
1. ペルー神父(PELU, Albert-Charles)
6人の神父の中で、最初に来日したのは、ペルー神父で、1872年24歳の時である。1870年に司祭に叙階され、翌年パリ外国宣教会に入会するとすぐに来日し、最初は新潟で宣教活動を始める。1873年にキリシタン禁制の高札が撤去され、浦上のキリシタンが釈放され帰還すると、プティジャン神父から外海・黒島・平戸島、馬渡島の広大な教区の運営を任され、1878年に平戸の田崎に教会堂と司祭館を建てた。『御水帳』の日付は1878年7月28日より始まっている。洗礼を授けた神父の名前の欄に「アルペルツァ ペルサマ」と記されており、まさにこの頃のことである。Webページに掲載されている堂崎天主堂100周年(2008年)のオリビエ・シュガレ師記念講演『下五島で活躍した宣教師』の中では、ペルー神父は次のように語られている。
「文字通り動く宣教師で、いつもじっとしておられない、いつもあちこち走り回って動いていた。彼は本当に頑健な体の持ち主で非常に優れた組織力の持ち主であり、勇敢な船乗りでもあった。彼は海の巡回宣教を日本の歴史の中で初めて行った。巡回の宣教、いつも船に乗って島から島へ、ずっと回っていたわけです。1892年、彼は五島列島全体の責任を任せられて教会の組織化と運営の合理化に力を入れた。せっかちで、彼が何か決めたら皆動かないといけない。強引に人を指導するため文句を言う人もいたようです。しかし教会の立て直しは緊急課題であったためあの頃にはこのような強引さが必要だったかもしれません。ペルー神父は教会をたくさん建て、1908年堂崎の教会を完成させた。彼はこの教会を非常に自慢しており、世界一番の教会だといっていたそうです」。
1900年代に入ると、五島に次々と教会を設計・指導した。長崎県を中心に多くに教会建築を手がけた棟梁である鉄川与助の若き日に、アーチ断面を水平に押し出した天井様式を特徴とするリブ・ヴォールト工法と幾何学を指導した人物としても知られている。
1848年フランスのサルト・フレネーシュルサルトに生まれる/1870年(22歳)司祭に叙階/1871年(23歳)パリ外国宣教会に入会/1872年(24歳)来日/1918年(70歳)逝去、長崎浦上宣教師墓地に眠る
2. ソーレ神父(SAURET, Michel)
ソーレ神父は、生涯にわたって、福岡県の筑後今村と久留米を中心に宣教活動を行った。来日直後はプティジャン神父より日本語を学び、しばらくの間他の神父と共に平戸に行き、平戸からさらに近隣の島にも巡回していたようである。『御水帳』に記載された日付は1880年6月16日および17日の2日間のみ。今村に赴任する直前のことだろうか。『御水帳』には、「みきるそーれ」「ソーレサマ」と記されている。ソーレ神父が平戸から移った今村の地は、長い迫害をくぐり抜け明治までキリシタン信仰を守り続けてきた歴史的にも興味深い土地柄であったようだ。「当時の神父は二代目ソーレ神父だが、初代コール神父と同じく、まるで開拓民のような暮らしだった。宿舎もなく、貧しい農民の家にともに住み、田畑を耕し、農民食を食べ、今村人になりきっての伝道であった。特にソーレ神父は九年近くもこのような今村で暮らしている。今村の人たちが次々と洗礼を受け、後を絶たなかったというのも、このような神父と村人たちの血の通った深い結びつきがあってのことと思われる」(「カトリック愛苦会修道会の歴史的研究T草創期」)。このような活動の中で、今村の村民を集団洗礼に導き、1881年には聖堂を完成させる。その後、久留米に移ったソーレ神父は、復活キリシタンの再教育に力を注ぐ一方で、医療の心得をいかし、「斯道院」と名付けた診療所を開設し、ごく僅かな治療費で貧しい信者の治療にあたっていたらしい。また故国フランスから西洋草花の種子を取り寄せ、地元の園芸家に分け与えたり、トマトや白菜の種を分け与えて栽培法を伝授したりと、久留米特産の基にも貢献したようだ。さらにはソーレ神父が著し、日本語に訳された『万物之本原』(1889年)、『人類之本原 上・下』(1892年)は、その久留米の地で出版され、今なお国立国会図書館に所蔵されている。『万物之本原』は第一節「地球ノ始メハ流動体ナリシ事」で始まり、第十六節「生類自生論ノ事 」で終わっている。ソーレ神父は様々な方面に通じる多彩な人物であったようだ。
1850年フランスのオーヴェルニュ・サンジェルヴェに生まれる/1876年(26際)司祭に叙階、来日/1878年(28歳)パリ外国宣教会に入会/1917年(67歳)逝去、久留米カトリック墓地に眠る
3. ラゲ神父(RAGUET, Emile)
6人の神父の中で、ラゲ神父はただひとり、ベルギー出身である。新約聖書のラゲ訳と仏和大辞典の著者として、後世に名前が知られている神父である。第七高等学校造士館の教授ら日本人同志との協力でできた聖書は、その翻訳の確実さと優れた文体と文脈により、今もなお、高く評価されている。ラゲ神父は1882年頃ペルー神父の後任として黒島、平戸、馬渡の責任者となった。ペルー神父が田崎に建てた教会堂を、1885年に交通の便のよい紐差に移転し、現在に続く紐差教会を発足させた。『御水帳』には1883年の日付で「ダゲサマ」「だげさま」「ラゲサマ」などと記されている。1889年に大日本帝国憲法が発布され、信教の自由が明文化されると福岡、大分、宮崎、鹿児島などに根拠地をつくり、九州に組織的な布教を進めた。『カトリック大辞典』によると「来朝して以来ラゲは毎日を仏和辞典編纂準備に没頭した。しばしば未信者に講演をしたので、正確な或る程度美しい日本語を話せるやうになった。当時の名演説家の言廻しや調子を数多く暗誦するやうに努め、それらを必要な機会に用ふることを心得ていゐた」とある。堪能な日本語をいかして、講演会を開き、場所を借りて人を集め、教えを説き、福岡での3年の間に36名に洗礼を授けたという。宮崎を経て、鹿児島に移ると、「四十歳をこえたラゲ神父は、布教と司牧、建築と翻訳、修道女の指導、まさに八面六ぴのはたらき、外的激務のうちに、内的生活をきらめかした時期である」(『ラゲ神父の面影』p.464)とあり、さらに多忙な日々を送る。1915年には前任者の神父から引き継いだキリシタンの聖地、浦上の地に天主堂を完成させて66歳で引退。人生の最期は、自ら養い育てた修道女たちの手厚い看護の末、永遠の眠りについた。
1854年ベルギーのブレーヌ・ル・コントに生まれる/1877年(23歳)パリ外国宣教会に入会/1879年(25歳)司祭に叙階、来日/1929年(75歳)逝去、東京府中カトリック墓地に眠る
4. ボンヌ神父(BONNE, Francois)
コール神父の後任としてソーレ神父が今村で布教を始めたのと同じ頃、ボンヌ神父は、同じくコール神父の後任として天草で布教活動を始めている。ボンヌ神父は布教活動中に激しい肋膜炎にかかり、これは全快せずに生涯にわたって神父の健康に影響を及ぼしたとされている。そのためか、天草での布教について記された資料はほとんど見られない。『御水帳』には、1880年10月28日の日付で名前が記録されているだけである。天草を中心に布教しているなかで、周辺の地域にも足を運んでいたのだろうか。『福岡教区50年の歩み』には、1880年10月7日に、ボンヌ神父が馬渡島で洗礼を授けた記録が残されている。1882年にプティジャン神父によって新設された長崎神学校の校長に若くして任命された後、29年間の長きにわたって校長の職にあり、浦川和三郎(後の仙台司教)、脇田浅五郎(後の横浜司教)、松岡孫四郎(後の名古屋司教)など、後の日本のカトリック教会を支える日本人神父たちを育て上げた。「復活して間もない日本教会に、期待され、また有為な働き手として歓迎された邦人神父たちのほとんどは、ボンヌ校長の薫陶を大なり小なり受けた人たちであり、その人格と識見の素晴しさは、皆が均しく認め、尊敬していたところである。また、堂々たる体躯の持主であったが、それに相応して度量も広く、新神父たちからは、クザン司教以上に、おそれられていた」(『福音伝道者の苗床』p.51)とある。ちなみに、松岡孫四郎司教は第2代南山学園理事長(理事長職:1942−1948)であり、1964年5月の山里キャンパス(現名古屋キャンパス)の創設時には、カトリック名古屋教区の司教として祝別式、落成式を執り行った人物である。ボンヌ神父は1910年に第3代東京大司教に任命されたが、1911年に以前からの病気が再発し、それから1年もたたずに亡くなっている。
1855年フランスのサヴォワ・サン=クリストフに生まれる/1879年(24歳)司祭に叙階/1880年(25歳)来日/1912年(57歳)逝去、青山霊園外人墓地に眠る
5. フェリエ神父(FERRIE, Joseph-Bernard)
フェリエ神父は最初のペルー神父から遅れること9年、1881年1月15日に来日した。『御水帳』には、来日直後の1881年10月29日の日付で、「ジョゼフ・ベルナルド・ヘレイエ」と一度だけ名前が記されている。来日後は天草に赴任し、困苦欠乏の中で、多数に洗礼を授けたとされている。鹿児島に赴く途中に、皿山(鹿児島県)で島原の乱の落人集落の約90名に洗礼を授け教会を建設、薩摩宣教の基礎を築いた。1891年、「フェリエ神父は、鹿児島で洗礼を受けたと云う一人の貧しい大工から大島の住民がカトリック教を知ろうと望んでいる事を告げられ大島行きを頼まれ」、「鹿児島より、木曽川丸でカトリック宣教師として初めて奄美の福音宣教のため来島、・・・10日間滞在して福音を述べるフェリエ神父の講演に名瀬の殆どの住民が参集し多大の影響を与える」(『カトリック奄美100年』p.53)と始まる奄美大島における宣教により、1916年には信者数は全島で3,000名に達し、フェリエ神父の名は「奄美大島の使途」として知られることになる。また、奄美大島の昆虫や植物を採集し、この地域の昆虫相の解明にも貢献。フェリエ神父の名に由来する「フェリエベニボシカミキリ」という美しい虫が、奄美市指定希少野生動物に指定されている。
1856年フランスのアビロン・ガラゼに生まれる/1877年(21歳)パリ外国宣教会に入会/1880年(24歳)司祭に叙階/1881年(25歳)来日/1919年(63歳)逝去、熊本天主教墓地に眠る
6. マタラ神父(MATRAT, Jean-Francois)
マタラ神父は、フェリエ神父と同い年。ほぼ同時期に来日し、黒島・平戸地区で布教にあたり、平戸を代表する教会の数々を建てた。「八丁櫓をしたてた6尋ばかりの舟に屋根を張った御用船とよばれる舟で、神父様は巡回してまわられた。移住者たちにとって、ラゲ神父様、マタラ神父様は頼れる唯一の指導者であり、一ヶ月に3、4回入港する御用船をたのしみに待ったという」(『上神崎100年史』p.44)とある。『御水帳』には1882年から1884年にかけて「マタラサマ」「まてるさま」などの名前が、ラゲ神父の名前と交互にみられる。ラゲ神父の助任司祭として活動していた頃だろうか。ペルー神父が田崎に建て、ラゲ神父が紐差に移した聖堂は、各所から多数の信徒が訪れ、すぐに手狭となり、1887年にマタラ神父が木造の教会堂を建てる。生涯にわたって平戸に留まり、地元の人とともに布教を行い、死に際しては、愛する田崎の地に埋葬されることを望んだと言われている。マタラ神父の葬儀は、若い時に彼を指導したラゲ神父が執り行った。紐差教会には参列者が入りきらず、木ヶ津湾を見渡す丘の中腹にある墓地まで1,200人が追随し、信者たちが教会から1時間かけて歩いたと伝えられている。その墓碑の傍らには「日本での40年の宣教は偉大であった / 88年たっても慕われ続けている / 心から感謝しています / マタラ神父様に、そしてフランスに。/ 紐差教会歴代の主任司祭」と刻まれている。
1856年フランスのロワール・ファルネイに生まれる/1878年(22歳)パリ外国宣教会に入会/1881年(25歳)司祭に叙階、来日/1921年(65歳)逝去、田崎の墓地に眠る
7. 神父たちの生涯を振り返って
『日本の教会の宣教の光と影』には、当時来日したパリ外国宣教会の神父たちについて、次のように記されている。「司祭になり、旅立ちの時が来ると、仲間と親戚に囲まれて、殉教を賞賛するようなロマンチックな出立式の歌を歌い、祖国に帰らないつもりで、親や兄弟と別れを告げ、長い船旅に出ます。一番遠い国、日本なら、二、三ヶ月後に上陸し、一、二年間、先輩の指導の下に日本語を学ぶ(まだ当時は日本語学校がありませんでしたので)と同時に、宣教の心構えを身につけます。その後、日本人の伝道師とペアーを組んで、任命された地で巡回宣教を始めます。家庭訪問をしたり、カトリック要理を教え、求道者に暗記させます。宣教師として養成するのにふさわしい子がいれば、小神学校を紹介します。その他、土地を買い取って聖堂を建て、場合によっては福祉施設(特に孤児院)を創設し、あるいは死んで行く人(特に老人と子供)に洗礼を授けることによって、天国に送り出します。宣教師たちは比較的に短い一生を全うし、憧れの天国にすべての望みを託して死んでいきます。こうして、おわかりのとおり、明治時代に来た宣教師たちは、例外的に貴族出身の人もいましたが、ほとんどは農村出身で、エリートを対象に知的な活動をするよりも、家庭を中心にした司牧宣教に力を入れていましたし、大きな髭をもって、強い印象を与えていたでしょう。しかも目の奥にやさしさが感じられ、身近で、大変慕われていたような気がします」。
6人の神父たちの写真を見てみると、皆、司祭服に包まれ、立派な髭がたくわえられた顔は深い信仰に支えられてやさしく微笑み、同じような雰囲気を醸し出している。しかしながら、それぞれの人生は故郷を遠く離れて一人ひとり歩む道であり、険しく厳しいものだったろうと想像するに難くない。このたび本学図書館の所蔵資料となった『御水帳』に記された名前から、その道のりの一端を知ることができたことは私たちにとっても大きな喜びである。
おわりに
1865年3月17日大浦天主堂に於ける「信徒発見」から来年(2015年)で150周年となる。今、日本のキリシタンが改めて脚光を浴びている。バチカン図書館で発見されたキリシタン関連資料(約1万点)が国際研究プロジェクトのもとで整理、デジタル化、公開されれば、各分野での研究が一層進むであろう。バチカン図書館と日本の研究機関との交流も深まる。また、今年「世界文化遺産」登録候補として推薦された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が2016年に登録されれば、「人類共通の貴重な財産」として保護すべきものと世界的に認定され、国内外での認知度もさらに高くなるであろう。研究者やキリスト教関係者のみならず一般の人々の関心も高まり、現地を訪れる人々も増えことが予想される。南山大学図書館カトリック文庫もこれらの研究や文化交流に貢献できれば幸いである。  
 
キリシタン神社 / 日本独自の宗教施設

 

10年くらい前に、私はキリシタン神社の歴史と現状について調べたいと思い立ちました。「キリシタン神社」とは通常の神社とは異なり、キリシタンを御神体として祀っている神社のことです。片岡弥吉氏によれば、「キリシタンたる人を祀る神社は、日本に三ヵ所ある」といいます。その三ヵ所は、長崎市下黒崎町の枯松神社、長崎市の桑姫神社、伊豆大島のおたいね大明神です。宮崎賢太郎氏は、片岡説に自らの見解を加え、五島列島若松の山神神社と有福の頭子神社もキリシタン神社にあたるとして、合わせて五ヵ所をキリシタン神社と認めています。しかし、私の調査では、キリシタン神社の総数は八ヵ所になります。この八ヵ所のキリシタン神社を自分の目で観察、確認したとき、私は驚きを隠せませんでした。
日本の潜伏キリシタンたちは二百数十年という長期間にわたり、厳しい弾圧と迫害とに耐えて、自分たちの信仰を守り続けてきました。彼らの子孫はキリスト教が解禁された明治以後、もう隠れる必要はなくなったにもかかわらず、あえて「隠れ」というスタンスを選び、昔の潜伏キリシタンの信仰スタイルをそのまま継承することにしました。キリシタン神社を定義すれば、「キリシタンを祀っている神社」ということになり、これはとりもなおさず、「キリシタンに関わりのある神社」という意味です。これは「キリシタン神社」について考える時、最も本質的かつ重要な概念といえます。
ご存知のように、キリスト教の本来の教えによれば、いかに偉大なキリシタンといえども「祭神」には成り得ません。しかし、日本的風習がそこに入り込み、故人となった人徳の優れたキリシタンたちは人々に崇敬され、いつまでも慕われた結果、彼らのお墓が大切に祀られ、それが「キリシタン神社」を生み出したものと思われます。先祖への尊敬を表すために、当時としてはそれが最も適切な手段であったのでしょう。
さらに、他の重要なこととしては、キリシタン神社について考察する時、一般的にはそれが文化として存在するものと解釈するのですが、神道ともカトリックとも違う要素を含んでいることを見逃すべきではありません。形式面だけを見れば、キリシタン神社の概観はカトリックのイメージとはおよそ結びつかないものであり、むしろ通常の神社に酷似しています。しかし、人々が神社に似せたモニュメントを建立した真意はカモフラージュにあり、通常の「神社」の興りとは似ても似つかないものです。また、キリシタン神社はカトリック教会の聖堂とも全く異なる場所です。カトリック教会の場合、人々は自由に聖堂の中に入って祈ります(典礼行為)。しかし、キリシタン神社の場合、人々は外に立って、神社に向かって礼拝します。
結論として「キリシタン神社」はキリシタンの足跡を残す日本独自の宗教施設であるということです。特に、長崎県に現存するキリシタン神社の重要性は、それらが特定の聖地、精神的拠り所であるだけでなく、地域社会と信仰との融合点なのです。キリシタン神社の祭礼によって宗教的調和が構築されるに至りました。必然的に異宗教間の対話という新たな価値を生み、それは日本人の特性、日常的には神社崇拝などとはほとんど無縁に過ごしているが、何かの折には神社神道のお世話にならないと、なんとなく落ち着きと安らぎが得られないという日本人の精神史のありようを規定していったのではないかと推測します。  
 
聖書に触れた人々

 

森永製菓の創立者 森永太一郎
「キリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たりたまえり。」第一テモテ1章15節  
「義は国を高くし、罪は民をはずかしむ」箴言14章34節
聖書の有名な御言葉は101回をもって、先週終了とさせていただきました。記録によりますと、第一回は2005年10月18日の婦人聖研からでしたから、まる6年続いてお話ししたわけです。そこで今度は、聖書の御言葉に強く影響を受けたり、座右の銘としたりした有名な人々を取り上げつつ、聖書の御言葉をお分けしたいと思います。「え、あの人がこんな御言葉を」などと言う驚きがあるのではなないでしょうか。第一回目は、森永製菓の創立者「森永太一郎」です。
森永太一郎(1865-1937)は、佐賀県伊万里で一番の豪商の家に生まれました。しかし、6歳の時に父が死に、母は再婚し、彼は親戚の間を転々とする生活となりました。そのような幼少時代のため、12歳になっても字が読めず、その後、母方の伯母にあたる山崎家の養子となり、学問を修めることができました。19歳で上京し陶器商に勤め、20歳で結婚しました。彼は家族のためにアメリカでも日本の陶器を売ろうと単身で渡米しますが、全く売れず計画は失敗してしまいました。
失敗したまま日本に帰ることも出来ず、ある公園のベンチに暗い思いで座っていたとき、とても上品な感じの婦人からキャンディを頂きました。とたんに太一郎は、洋菓子職人になろうと決心ました。しかし当時は人種差別が強い時代であり、苦労の多いアメリカ生活でした。下男をしながら数軒の家を転々としつつ生活していたある時、オークランドの老夫妻の家に雇われました。そのことが太一郎を変えることになったのです。その老夫婦はクリスチャンで、太一郎を差別することなく家族のように受け入れてくれたのです。その老夫婦の人格に触れ、彼は教会に導かれ、洗礼を受けることになったのです。
すると太一郎は菓子職人になる夢を捨て、キリスト教の伝道者になる夢を抱いて帰国しました。彼は日本に帰ると、即座に親族や兄弟に伝道しました。しかしそのような太一郎を見て、人々は「太一郎はアメリカで頭がおかしくなった」と反対しました。育ててくれた岩崎家からも離縁されてしまいました。彼は伝道者になることにも失望し、再度アメリカに渡り、洋菓子作りの学びを続けました。そして帰国後、マシュマロを作って販売すると、それが大当たりとなりました。それらのお菓子をガラス張りのリヤカーに積んで販売して回りました。そのリヤカーの上には「キリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たりたまえり。」(第一テモテ1章15節)。「義は国を高くし、罪は民をはずかしむ」(箴言14章34節)との聖書の言葉が書かれた看板が掲げられていました。そのような彼を町の人たちは「ヤソのお菓子屋さん」と呼ぶようになりました。
やがてあの有名なミルクキャラメルが販売されると、日本中で大ヒットとなりました。昭和の人ならば一度は食べたことのあるキャラメルでしょう。しかし商売の成功と同時に、信仰の面は一時停滞した時があったようです。その信仰も、奥さんの死を契機に復活しました。彼は川のほとりで泣きながら再献身を誓いました。その復活した信仰を証明するようなエピソードがあります。それは1923年の関東大震災の時でした。かれは被災者にお菓子を無料配布したのです。すると森永の幹部達はそれに反対しました。その反対に対して、太一郎は「これは神様とお客様へのお返しだ」と配り続けたのでした。
やがて社長を退いて会長となってからは、全国の教会を伝道講演して回りました。その時の講演題は、判で押したように「我は罪人の頭なり」であったと言います。ちなみに森永のエンジェルマークのTMは、彼の頭文字と言われています。
人は不幸な人生が過去にあっても、恨む必要などありません。神様の導きを信じれば人生は素晴らしい。一時的に信仰が停滞していた時期があつた等と、悩む必要もありません。これからの人生が大切なのです。森永太一郎氏にとって、最初に掲げた御言葉と不信仰が回復して掲げた御言葉が同じであっても、意味においては全くちがったものとなっていたと思います。私達も人生の様々な体験を通して御言葉の深みを知ろうではありませんか。  
ライオンの創立者 小林富次郎
今年の3月18日、日本最古の映像フィルムが国の重要文化財に指定されました。それは「ライオン」の創立者、小林富次郎(西暦1852-1910・ 嘉永5年〜明治43年)の葬儀のフィルムです。神田柳原にあったライオンの前しん「小林富次郎商店」から、告別式の会場になった東京基督教青年会館(YMCA)まで、二頭立ての馬車を中心に歩いていく葬列の様子が約7分間映っています。歯磨や石鹸の製造販売で名の知れた株式会社ライオンの創始者小林富次郎は、とても熱心なクリスチャンでした。「法衣を着た実業家」とか「そろばんを抱いた宗教家」とも言われていた程です。彼は現在の埼玉県さいたま市中央区の出身です。
小林富次郎がキリスト教に出会ったのは36歳の時でした。彼が神戸に住んでいた時のことです。ある劇場でキリスト教の演説会があり、彼は友人を誘って出席しました。すると この演説会を妨害しようとする若者たちが騒ぎ出し、場内は一時騒然となったのです。そこに柔道の教師をしているクリスチャンの大男が控え室から出てきました。きっと腕ずくで暴徒をつまみ出すのではと思って見ていました。ところが、その大男がひたすら頭を下げて「お願いです。静かにして下さい」と懇願し出したのです。これを見て富次郎は深く感動し、熱心に教会に通うようになりました。そしてついに洗礼を受けることになったのです。
その後、富次郎は実業家の道を歩き出しました。全財産をはたいてフランス製の機械を導入し、宮城県石巻に大規模なマッチ製造工場の事業をするために準備を始めました。ところが洪水が起こって、準備した全ての原料と工場の機械を失ってしまいました。彼が途方に暮れ、絶望して北上川に身を投げようとした時、稲妻のように彼の中に御言葉が光ったと言うのです。それは神戸の長田牧師が葉書で彼に贈ってくれた聖書の言葉でした。そこには「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:11) と記されていました。その御言葉によって富次郎は自殺を思い止まり、勇気を奮い起こし、東京の神田に石鹸やマッチの原料の取次店を作ったのです。そして牧師から聞いた歯磨き粉の製造方法をヒントに、これを研究して1893年3月に発売しました。彼は慈善活動にも力を入れ「慈善券付き歯磨」を販売し、岡山孤児院(石井十次)などの施設開設に資金的援助をし続けました。
御言葉は、それを信じる人がどんな窮地にあっても希望と勇気を与える力があります。もし小林富次郎があの北上川に身投げしようとした時、この御言葉がひらめかなかったら、小林富次郎もなかったし、現在のライオングループもなかったことになるのです。彼は59歳でこの世を去りました。
私達もつらい時や苦しい時には、この御言葉を読んで神様からの励ましを頂きましょう。
余談ですが、ライオンと言う社名は、当時洗剤関係にキリンとか象とかという動物の名前が使われていたので、動物の中の王様と言ったらやはりライオンだろうということで、百獣の王ライオンをマークにしたということです。 
ユダヤ人を救った外交官 杉原千畝
杉原千畝(すぎはら ちうね)は、第二次世界大戦を経験したユダヤ人達にとって忘れることのできない日本人です。いまや彼の名前が着けられた道がイスラエルにあるほどなのです。第二次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人大虐殺を逃れようとして難民となったユダヤ人の命を救ったのが、杉原千畝なのです。その数は六千人に及びます。その時、杉原千畝はバルト三国の一つ、リトアニアの首都カウナスの日本領事館で代理領事をしていました。 
ナチス・ドイツのヒットラーがユダヤ人狩りを続けていました。1940年7月27日の朝、千畝は物凄い数の人々の声に驚いて目を覚ましました。その声は、ポーランドから歩いて逃げてきたユダヤ人難民の声だったのです。彼らの願いは、ソ連を通り日本を経由して第三国へ移住するための、日本通過ビザの発給を求めてのことでした。既にオランダもフランスもドイツに破れ、逃れる道はシベリアから日本を経由して他国に逃げる道しかなかったのです。
杉原千畝は、さっそく外務省に電報を打って、日本入国許可のビザの発行可否を問い合わせました。しかしそれに対する返事は非常にも「否」でした。当時日本は、イタリヤ・ドイツとの三国同盟を結ぼうとしている時でした。同盟国のドイツの気に食わない事はしたくないと言うのが本音だったのです。迫り来るユダヤ人達の悲痛な姿を見て千畝は悩みました。日本人として国の命令に従うべきか、日本の命令を無視してでも人々の命を守るべきか苦悩しました。彼はついに決断しました。独断でビザに署名し発行することを選んだのです。その時千畝は「ビザを出さなかったら神に背くことだ。私は自分の責任においてビザを発行する」と言ったといわれています。彼は若いころにロシア正教の洗礼を受けたクリスチャンでした。
8月1日、ついにビザ発行の言葉を聞いた瞬間、ユダヤ人たちは抱き合い、躍り上がって喜んだとのことです。8月3日ソ連軍がリトアニアを併合し、外国領事館の退去命令が出されます。杉原は退去期限ぎりぎりまで、朝から晩まで一日中ビザを書き続けました。ついに用紙も無くなり、ついには周りの紙切れに書きました。不眠不休で書いたそうです。9月1日早朝、ついに杉原はリトアニアを離れなければならない時が来ました。彼がベルリン行きの国際列車に乗っても、大勢のユダヤ人が駅のホームまで押し寄せて来ていたと言います。杉原は窓から身を乗り出してビザを書きました。そのビザに救われたユダヤ人は6.000人以上と言われています。1940年10月6日から翌1941年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されています。
終戦後、千畝は日本に帰国しましたが、外務省を退職させられます。彼は黙って外務省を去っていきました。ビザを書いてから28年が経った1968年8月のある日、突然イスラエル大使館から杉原のもとに電話がかかってきました。参事官ニシュリが「会いたい」と言ってきました。杉原が行ってみると、彼は一枚のボロボロになった紙切れを見せて、「あなたが書いて下さったこのビザのお陰で、私は救われたのです。私はあの時、領事館であなたと交渉した5人のうちの一人、ニシュリです」と言ったのです。さらに翌年の1969年、杉原はイスラエルに招待されました。彼を迎えたのは宗教大臣バルハフテイツクでした。彼も杉原に救われた一人だったのです。1985年、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」を授賞しました。
このことが新聞やテレビで報道され騒がれ始めましたが、彼はただ一言「当然のことをしただけです」と謙遜に語りました。
ルカ17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。  
作曲家 滝廉太郎
作曲家の滝廉太郎がクリスチャンであったことは、日本のクリスチャン達の中でさえ知られていないことが多いのではないでしょうか。しかし彼は間違いなく、明治期のクリスチャンでありました。今日は「クリスチャン滝廉太郎」をクローズアップしてお話ししましょう。
彼は15歳で東京音学学校(現・東京芸大)に入学し、1898年(明治31年)本科を首席で卒業しました。その後、研究科に進み、翌年音楽学校嘱託となります。彼にピアノを教えたのは、ロシア人ケーベル博士で、東京帝国大学で哲学を教えるとともに、ピアニストでもあり、彼のピアノの指導はチャイコフスキーだったといいます。東京音楽学校でも教えていました。そこで、滝廉太郎は彼からピアノを学んだのです。 滝廉太郎は1900年10月7日、つまり東京音楽学校の生徒の時代に、当時麹町にあった博愛教会の元田作之進牧師により洗礼を受けました。廉太郎を博愛教会に導いたのは、東京音楽学校の同級生高木チカという女性でした。「日本聖公会」博愛教会は、世田谷の砧に移り、名前も変わって「聖愛教会」という名前で現在も存在しています。
滝廉太郎の曲で私達に親しみの深い曲のひとつは『荒城の月』でしょう。この曲の歌詞は土井晩翠(つちい ばんすい)によって書かれました。土井晩翠はクリスチャンではありませんでしたが、夫人と娘はクリスチャンでした。東京音楽学校が「中学唱歌」のための曲を懸賞募集しました。それに応募した滝廉太郎作曲の『荒城の月』や『箱根八里』『豊大閣』が入賞しました。その時の賞金は1曲5円で、合計15円を得たと言われています。滝廉太郎はその時代、教会で青年会の副部長をし、礼拝の時にはオルガンで賛美歌の伴奏をしていたそうです。
作曲者の滝廉太郎と作詞者の土井晩翠の『荒城の月』にはちょっとした繋がりがあるようです。前にも話しましたが、土井晩翠はクリスチャンではありませんでしたが、奥さんと娘さんが熱烈なクリスチャンでした。晩翠の娘、照子は27歳の時に結核で亡くなりました。臨終の時に、照子は自分のことで悲しんでいる父に、テニスンの詩を読んでもらったそうです。その詩の言葉を通して、彼女は父に「お父様、私の死を悲しまないでください。私は天国でイエス様にお会いします。そして、そこでお父様のために祈り続けます」と言いたかったのではないかと、大塚野百合氏は著書に書いています。晩翠の歌詞は無常観のみでなく、この世には変わらないものがあると言うことを、『荒城の月』の歌詞の中に書いています。 (注 なお彼の苗字はもともと「つちい」と読むのだが、頻繁に「どい」と誤読されるため、1934年に自ら「どい」と改名することを宣言した。)
滝廉太郎はその後、ドイツのライプチヒ王立音楽院に留学しました。しかし二ヶ月後に肺結核を発病してしまいました。1902(明治35)年の11 月下旬に日本に帰国し、大分の父母のもとで療養しました。しかし1903年6月、彼は23歳10ヶ月という若さで召されました。墓地は大分市内の臨済宗万寿寺境内にあります。肺を病んで終わったことで、葬儀は近親者のみで行われました。しかし参列者の中に、聖公会宣教師ブリベ夫妻の姿が見えたといわれています。
日本の歌の中で、荒城の月は不動の位置を保っている有名な曲です。またそのメロディはロシア正教において認められました。ロシア正教会の修道院の礼拝にふさわしいとされ、修道院は「荒城の月」を聖歌に加えたのです。彼はクリスチャンになってからの生涯が数年だったせいか、一曲の賛美歌も作曲して残してはいません。また彼のクリスチャンとしての記録も、その教会が焼失してしまったので失ってしまいました。また家族が教会員でなかったために、お墓もお寺に作られました。そのようなことが重なって、彼のクリスチャンとしての部分は、歴史から埋もれてしまったように思います。しかしロシアの教会が、彼のメロディは礼拝にふさわしい調べであると、再び彼を教会の祝福の流れに引き戻したのです。彼の感銘を受けた聖書の言葉が何であったのかも、分からなくなっています。
ですから今日は私が彼の生涯を調べながら心に浮かんできた聖書の言葉を、クリスチャン滝廉太郎にまつわる言葉として記させて頂きます。
「 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:38
クリスチャン滝廉太郎の心の奥底からもキリストの生ける水が流れ始め、日本人である私達の心のメロディとなっているだけでなく、ロシアの教会の中にもクリスチャン滝廉太郎のメロディが祈りの歌となって流れ続けています。日本のクリスチャンは滝廉太郎を誇るべきだと思います。  
雨にも負けずのモデルか? 藤宗次郎
宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩は、あまりにも有名です。宮沢賢治はその詩の中で「そういう者に私はなりたい」と記しています。そのモデルとなった人物が今日の斉藤宗次郎だと言われています。それは宮沢賢治と交流があった人物の中で、彼がこの詩の内容に最も近い生活をした人だからでしょう。しかしその真偽の程は私にはわかりません。ただ私も、斉藤宗次郎がこの詩の中の人物に最も近い人物であるという実感を持っています。
斉藤宗次郎は1877年、岩手県花巻で禅宗の寺の三男として生まれました。やがて彼は小学校の教師となり、国粋主義的な思想の持ち主でありました。しかし内村鑑三の本に出会い感動し、聖書を読むようになりました。その後1900年の冬、23歳の時に洗礼を受け、花巻で初めてのクリスチャンになりました。斉藤宗次郎が洗礼を受けたのは、12月の雪の降り積もった寒い朝の6時でした。洗礼の場所になった豊沢川の橋の上には、大勢の人が見物にやって来ました。基督教が「耶蘇(やそ)教」「国賊(こくぞく)」と迫害を受けていた時代だったからです。
(注)「耶蘇」とは中国語で「イエス」と読む字です。日本語聖書がなかった時代、日本人は漢文聖書を読みました。そして「耶蘇=イエス」を「ヤソ」と読んだのです。それが当時はキリスト教への軽蔑語として使われました。
洗礼を受けた斉藤宗次郎に対して、花巻の人々は冷たくあたりました。親からさえも勘当され、生家に立ち入るのを禁止されました。また彼の長女の愛子ちゃんは、学校で耶蘇の子供と呼ばれ腹をけられ、腹膜炎を起こして看病のかいもなく数日後に死亡しました。たった9歳の少女でした。人々に何も悪いことをしたわけではないのに、斉藤家族は迫害されたのです。宗次郎はまた、日露戦争に反対したということで岩手県教育会から追放され、小学校教師の職を追われてしまいました。
教職を追われた後、彼は新聞配達をして生活しました。彼は新聞を配りながら、一軒ごと家の前で立ち止まり、その家の祝福を祈りました。朝3時から夜9時まで働き、その後の夜の時間は聖書を読み、祈る時としました。そのような厳しい生活の結果、ついに結核にかかり幾度も喀血たといいます。しかし不思議と体は支えられ、そのような生活が20年も続きました。朝の新聞配達の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをして道をつけました。小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走って届けました。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けたのです。新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。
そのような生活の中でも、宮沢賢治と農学校での親しい交流がありました。新聞配達も20年という年月になる頃、内村鑑三の要請を受けて、宗次郎は東京に出る決心をしました。宗次郎は自分を見送ってくれる人は一人もいないだろうと思いつつ駅に向かいました。ところがその駅には、花巻の人達が大勢見送りに来ていたのです。その中には町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、 神社の神主や僧侶までもいました。さらに一般の人たち、生徒たちも来て駅じゅう人々でごったがえしていたというのです。人々は宗次郎がふだんからしてくれていたことを見ていたのです。東京に来て花巻から届いた最初の手紙は、宮沢賢治からのものであったといいます。
斉藤宗次郎は、内村鑑三を師と仰いでいました。当時、内村鑑三を師と慕う人は多数いたのです。しかしまた内村鑑三に師事しながら、彼のもとを離れていった人々も多くありました。内村鑑三は、「聖書の研究」という著の中で「弟子をもつの不幸」という文を書いています。そのような中で、斉藤宗次郎は内村鑑三の臨終に立ち会い、最後まで弟子であり続けた人でした。彼は内村鑑三の死後、内村鑑三の著作を出版することに全力を注ぎました。斉藤宗次郎が宮沢賢治から手紙を受け取った5年後に、「雨にも負けず」の詩が書かれたことが分かっています。この詩は宮沢賢治が病床で書いた詩であり、遺稿と言われているものです。彼の死後、彼のカバンから発見された手帳に書かれていました。
この詩のモデルが斉藤宗次郎であると言うことの決定的証拠はありません。しかし宮沢賢治の周りにいた人物で、この詩の人物にぴったりと当てはまるのは斉藤宗次郎であることも事実です。真偽は別にしても私達は、斉藤宗次郎の生涯から、聖書の「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」(ロマ 12:14) の言葉が聞こえてきます。宮沢賢治は「雨にも負けず」の詩の最後に、「そういう者に私もなりたい」と記しました。イエス様の教えを生き抜いた斉藤宗次郎の生涯に学んで、私達も「そういう者に私もなりたい」と主の前に祈ろうではありませんか。
「雨にも負けず」  宮沢賢治 作
雨にも負けず、風にも負けず、
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、
決して怒らず、いつも静かに笑っている。
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり、そして怒らず
野原の松の林の陰の小さな藁ぶきの小屋にいて、
東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、
南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、
日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、
苦にもされず そういう者に私はなりたい  
 

 

白洋舎の創立者 五十嵐健治
白洋舎という有名なクリーニングの会社がありますが、その創立者は五十嵐健治と言う人です。この会社こそ、日本で初めてドライクリーニングを行なった会社です。彼は1877年3月14日新潟県の県会議員の子として生まれました。しかし8ヶ月で両親は離婚し、5歳で五十嵐家の養子となりました。彼は波乱万丈の生涯でしたが、その中でイエス様に出会ってクリスチャンとなり、それからの生涯は、最期まで熱心なクリスチャンとして活躍されました。
五十嵐健治の青年期 彼は一攫千金を夢見て16歳で家を出て、各地を放浪して歩きました。そんな中、上毛孤児院(現、上毛愛隣社)の創立者クリスチャンの宮内文作氏に出会い「貧しい者たちにも食事が与えられるように」「親のない子をお守りください」との祈りに感動しました。しかし信仰はまだ芽生えることはありませんでした。1894年に日清戦争が勃発すると、17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して朝鮮半島に従軍します。さらに1895年のロシア ・フランス・ドイツによる三国干渉(清国に遼東半島を返せとせまった)の際には、ロシアに復讐するために北海道からシベリアへの渡航を企てます。ロシア潜入の準備に北海道に渡った健治でしたが、ある人に騙され北海道の原始林開拓の通称タコ部屋(監視付)に送り込まれ、重労動を強いられることになってしまいました。
キリストとの出会い ある朝そのタコ部屋から健治は寝巻一枚で脱走し、18里(約70キロ)の山道を逃げに逃げて小樽まで来ました。しかし彼は人生に絶望して小樽の海で自殺まで考えました。そのような状態で愛用聖書入った小樽の旅人宿で、一人の商人クリスチャンである中島佐一郎氏と出会いました。その宿での中島氏との信仰問答を通して、健治はキリストを信じました。すぐに彼は小樽の町の井戸端で、中島佐一郎氏によって洗礼を受けクリスチャンになりました。健治は、「私は洗礼を受けてから朝起きると先ず神に『今日一日を導いてください』と祈りました。何かあると神に『このことはなすべきでしょうか、なさざるべきでしょうか』と相談しました。」と言っています。
白洋舎の創立 その後、彼は牧師になることを願って上京します。しかし神学校に入ることが出来ず、三井呉服店(現在の三越)に入り、三越の宮内省係となりました。しかしこの仕事では日曜日の礼拝が守られぬと、退社してしまいます。その後1906年(明治39)に白洋舎を創立しました。しかし当時、洗濯屋は人の汚れた着物を扱う職業として低く見られていました。彼は「人の汚れたものを綺麗にしてお返しする、これこそキリスト教徒の仕事にふさわしい」と言って起業したと言われています。その経営方針の第一に「どこまでも信仰を土台として経営すること」を掲げました。翌年、独力で日本初の水を使わないドライクリーニング開発に成功しました。また工場内にも会堂を建て、様々な機会をとらえて社員に福音を伝えました。 
五十嵐健治の晩年 1941年に太平洋戦争が起ると社長の座を譲り、残りの生涯をキリスト教の伝道に費やしました。1956年には、病床にあった堀田綾子(後の三浦綾子)を尋ねています。後に三浦綾子は五十嵐健治の生涯を「夕あり朝あり」と言う題で書いています。1957年頃にはクリーニング業者福音協力会を起しました。五十嵐健治自身が書いた自伝『恩寵の木漏れ日』の中で、かつて白洋舎が危機にさらされた重大事件があったことが書き残されています。社員のMさんという人物が自分の処遇を不満とし、新たなクリーニング店を開業したことに始まります。その時、Mさんは白洋舎の従業員を煽動して、お得意先から預かった洗濯物をわざと破損したり、納期を遅らせたりして、白洋舎の信用を失わせたというのです。その上で、Mさんの新しい店にそのお得意さんを引きつけ、協力した白洋舎の従業員を新しい店に雇い入れることをしたのです。白洋舎の工場はほとんど休止状態に陥りました。当時社長であった五十嵐健治は、憎悪と復讐心で気が狂わんばかりになったといいます。しかし礼拝で祈っていると、イエス・キリストの十字架があざやかに映し出されたのです。「自ら復讐するな、仇を報ゆるは我にあり」「神もしわれらの味方ならば、誰かわれらに敵せんや」という言葉でした。五十嵐さんは何度も何度もこの聖書の言葉を思いめぐらしました。そして神様に信頼する道を選ぶことを決意したのです。一方、反逆したMさんの新しい店は、仲間割れを起こしたあげくに火災を起こし、預かった洗濯物を多数消失して、閉店に追い込まれました。それらの事があった後にMさんは「これも神様の罰であると思ってお詫びを申し上げます」と五十嵐さんに謝罪したと言います。彼の生涯は波乱万丈でした。しかしキリストに捕えられ、キリストと共に生きた素晴らしい人生でありました。私達も彼の竹を割ったような信仰に学ぼうではありませんか。  
野口英世博士
野口英世博士は福島県の生まれです。私も福島県の生まれですが、彼がクリスチャンだったとは全く知りませんでした。今日はそのクリスチャン野口英世のことをお話しいたしましょう。
1876年(明治9年11月)に野口英世(清作)は父・野口佐代助と、母・シカの長男として生まれました。しかし父の佐代助は、酒と博打が好きであまり働きませんでした。 清作が1歳の時でした。母親が裏の畑で仕事をしている時、寝ていたはずの清作が起き出して、火のある囲炉裏に右手を入れてしまったのです。その結果、右手の指が握った形で全部くっついてしまいました。母親は、清作がこのようになったのは自分のせいだと罪責を感じ、「手が利かないのでこの子には農業は出来ない、この子には学問しかない」と、清作を学校に通わせました。当時は小学校にも全員が行けるわけではなかった時代です。貧しい家の子で学校に行っていたのは清作一人でした。その為に母親は働き尽くめで、生活を支えました。そのような母親の姿を見て、清作は猛勉強をしました。清作は、やけどでいじめに遭うことがありました。ある時はその様な自分を悲しみ、指をナイフで切り離そうとした事があったといいます。しかし15歳の時でした。学校の先生や級友が集めてくれたお金で、左手の手術を受け成功したのです。成功したと言っても自由に動くようになったわけではありませんでした。
そのような時、彼の村に牧師の藤生金六が英語塾を開きました。1894年のことです。清作もその英語塾に通うようになりました。そして18歳の4月7日に、キリストを信じ洗礼を受けました。その教会の二人目の洗礼者として、当時の洗礼帳に野口清作の名が記され、今も残っています。その教会は現在の日本基督教団若松栄町教会です。当時、清作はクリスマスの手伝いや、日曜学校のカードを配る奉仕を熱心にしていたという話が伝わっています。彼は医学の道を目指していました。自分の手を手術した医学の力に感動したからです。まず自分の手を手術してくれた医院に住み込みで修業しました。そして1896年(明治29年)19歳の時に医師の資格を修得するために上京を決意しました。その時自分の家の柱に「志を得ざれば、再び此地を踏まず」と刻みました。そこから強い決心の程が読み取れます。東北本線の駅まで40kmの道を歩いて行ったそうです。
東京に来た清作は、いじめに遭いながらも猛烈に勉強し、僅か一年で一回の試験で合格しました。1897年の清作20歳の時です。その後、順天堂医院に勤務。さらに北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務しました。その年22歳で英世と改名しました。23歳でアメリカに渡りました。そこで、フィラデルフィアに住んでいた熱心なクリスチャンのモリス夫妻と出会いました。この夫妻は、日本人留学生の面倒を熱心に見ておられる方で、明治のクリスチャン青年達の内村鑑三、新渡戸稲造、津田梅子らも大変お世話になった夫妻です。人種を越え親切にして下さるクリスチャンの姿を、モリス夫妻の姿から学んだのではないでしょうか。彼はペンシルベニア大学医学部、ロックフェラー医学研究所研究員、細菌学者として、数々の論文を発表し有名になっていきました。ノーベル生理学医学賞候補に3度も選ばれる程でした。そのような時、南米に黄熱病がはやりました。黄熱病は蚊によってウィルスが体の中に入り、高い熱が発生し体が黄色く変色し、やがて死亡する病気でした。野口英世はその黄熱病研究の為に南米のエクアドルに行きました。そこに行ったわずか9日目に、病原体を発見するという偉業を成し遂げました。その後、メキシコ、ペルー、ブラジルへと黄熱病の研究の為に渡りました。
南米で終息した黄熱病は、次にアフリカで猛威を振るうようになりました。野口英世はアフリカ行きを決意します。しかしその時に体調を崩していた彼に、多くの友人がアフリカ行きを反対しました。そのとき野口英世は「人間は、どこで死んでも同じです」という言葉を残して、アフリカのガーナへと向かったのです。そして研究のさなかの翌年、彼自身が黄熱病にかかり、53才で召されました。
1928年のことです。彼の遺体はアメリカに運ばれ葬られました。この時代に伝染病で死んだ者の遺体が、国外に運ばれ葬られることは考えられませんでした。しかし彼の遺体は、アメリカの強い要請によってアメリカに運ばれたのです。彼は日本の誇りであっただけでなく、アメリカの誇りでもあったことが解かります。彼は自分の人生を振り返って「自分が手の火傷をしなかったら、今の自分はなかっただろう」と言っていたそうです。彼の生涯は、青年時にイエス様に出会ったことに裏打ちされているように思います。私は彼の心を表わす聖書の言葉として、次の言葉を記しておきたいと思います。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)  
知的障害児教育の母 石井筆子
人物による婦人聖書研究を開始して8回目になります。今まで7回は男性を取り上げました。日本 のクリスチャンには男性だけでなく、女性にも多くの素晴らしい人がいます。知的障害児教育の創始者となった石井筆子(文久元年(1861年)4月27日〜昭和19年(1944年)1月24 日もそのひとりです。その働きは「滝野川学園」となって続いています。この人は、クリスチャンとして「世の光。地の塩」となって日本の近代化に大きく貢献した人です。その美しい生涯を知って頂きたいと思います。
石井筆子の幼少と勉学 石井筆子は備前国大村藩士の渡辺清・ゲン夫婦の長女として生まれました。現在の岡山県あたりでしょうか。父親は幕末から明治維新にかけての志士で、後に明治政府から男爵にの称号を与えられた人です。非常に裕福で、明治時代においても位の高い家でした。筆子さんは明治4年11歳の時に上京し、翌5年に開設された東京女学校に入学しました。彼女は英語、フランス語、オランダ語が堪能だったと言われています。
石井筆子の留学と結婚 明治13年、皇后の命により、石井筆子は津田梅子や山川捨松らと共に、日本初の女子海外留学生としてヨロッパに渡り、約2年間留学しました。その留学中に「日本女性には教育が必要」と確信するに至りました。日本は男性優位時代であり、女性の教育と言っても「良妻賢母教育」と言うものしかなかったばかりか、むしろ女性が教育を受けることに対して否定的社会だったのです。明治18年に帰国後、津田梅子と共に開いた華族女学校の教授となりました。またその容姿の美しさから、舞踏会等では鹿鳴館の花と言われるほどの華やかな出発でした。その後、明治17年に親の決めたいいなづけと結婚し、その2年後の25歳の時に待望の長女が与えられました。幸せを祈り幸子と命名しました。しかしその長女が知的障害児だったのです。その頃に筆子は子供と一緒に洗礼をうけました。また次女も三女も体が弱く、次女は間もなく死んでしまいました。また夫までも35歳で死んでしまいました。夫も体が弱かったのです。彼女は31歳で未亡人となってしまいました。
石井筆子の障害児教育の目覚め その頃、愛知県と岐阜県にわたって大地震が起こりました。死者7千人、倒壊家屋28万戸の大惨事となりました。するとその大地震に乗じて、孤児となった少女を女郎部屋に売り払う者がいるという噂が起こりました。その震災孤児を救う為に活動していたのがクリスチャンの石井亮一でした。彼は親を失った少女達を集め、親代わりとなって育てていたのです。筆子はその働きに共鳴し、その活動に協力するようになりました。そのようなある時、石井亮一から障害児教育を打ち明けられました。震災孤児の中に一人、知的障害児童いたからでした。筆子には「自分には知的障害児が二人いる」ことを初めて打ち明けました。すると亮一は「私にその子を預けて貰えませんか」と言ったのです。
石井筆子の障害児教育と絶望 その後、知的障害で身体も弱かった三女も7歳で死んでしまいました。筆子は知的障害のある長女と二人だけとなってしまいました。筆子は知的障害のある子を守ろうと、必死で亮一の働きを手伝いました。そして筆子はその亮一と42歳で再婚し、ますます施設の活動に力をこめて行きました。しかし1920年3月24日のことでした。施設に大火災が起り、生徒6人が焼死してしまったのです。それは生徒の火遊びによる火事でした。燃え尽きてしまった施設を前に石井亮一は「神は私達を見放されたのだ、この試練に耐えるだけの信仰の力は私にはない」と叫び、二人は絶望してしまいました。
石井筆子と施設の復活 二人が燃え尽きた施設を前に絶望したその時でした。その時の新聞に施設の焼失の記事が載ったのです。新聞にこの記事が出ると、全国から多くの寄付や励ましの手紙が寄せられてきました。そのことによって、半年後に財団法人の認可を受けて施設の再開が出来たのです。それでも戦争中は「国に役立たないものに食わせるものはない」と言われて差別され、配給の食料を後回しにされたこともありました。戦争も終わりの時期1944年1月24日、石井筆子は82歳で数人の職員に見守られる中、この世を去ったのです。告別式には一人の血縁者もなかったそうです。しかしその一生は、障害児達を愛したクリスチャン石井筆子の素晴らしい生涯でした。次に記す聖書の言葉は、夫の石井亮一のものですが、筆子も同じ使命に生きたクリスチャンですので、筆子の言葉として記します。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」 第一コリント13章4節〜7節
石井筆子らの創立した知的障害児教育施設は、社会福祉法人滝野川学園として、その信仰から湧き出た創立の精神を受け継ぎ大きくなって現代に続いています。
私達も、石井筆子らが目指した差別のない社会を作り続けて行きましょう。  
エリザベス・サンダーズ・ホームの母 澤田美喜
今日は終戦後の日本において、2000人以上の混血孤児の母となった澤田美喜さんを紹介したいと思います。その生涯はまさに孤児達を救う為に、神様に鷲づかみにされたような生涯でした。
澤田美喜は1901年9月19日、三菱財閥の三代目当主・岩崎久弥の長女として生まれました。三菱財閥の創立者・岩崎弥太郎の孫です。彼女の生まれた家は、東京の本郷にありました。当時岩崎家は、全国に多くの所有地を持っていました。かつては駒込の六義園も岩崎家の所有でした。美喜は、御殿のような本郷の家で何不自由のない生活をして育ちました。その家は現在「旧岩崎邸園」となっています。美喜がキリスト教に最初に触れたのは、病気療養のために大磯の別荘にいた時でした。ある夜、お付きの看護師の聖書を読む声が聞こえたのです。その聖書の言葉は「汝の敵を愛せよ」と言う箇所でした。その聖書の言葉が美喜の心を捕え、キリストへと導いたのです。
しかし岩崎家の祖母は、美喜がキリスト教への関心を強く持ったのを警戒して、通っていた学校も友人から聖書をもらったことから、退学させてしまうほどだったのです。(現在の御茶ノ水女子大学の付属高校でした。)美喜が21歳になった時、外交官であった澤田廉三との縁談が起こりました。美喜は、彼の家族がクリスチャンということで結婚を決意しました。それからは大手を振って教会に通うようになりました。美喜は4人の子にも恵まれ、外交官の妻として各国を夫と一緒に渡り歩きました。1931年から2年間ほどイギリスにいた時のことでした。ある老人から勧められて「ドクター・バーナードス・ホーム」という孤児院を訪問しました。その時、彼女は強い衝撃を受けました。そこには孤児と言う暗さがみじんもなく、教会も学校もあり、子供達が明るく生活しているのを見たからです。美喜は、しばらくそのホームでボランティアをさせてもらいました。
イギリスの衝撃から約14年後のことでした。日本は戦争に敗れ、進駐してきた米軍が多くいました。米軍が進駐してその10ヵ月後、混血孤児が捨てられる事件が多発するようになりました。米兵と日本人女性の間に生まれた混血児たちでした。ある時のこと、澤田美喜が汽車で旅行していました。汽車の網棚は、闇などの物資でいっぱいでした。その中のひとつ風呂敷包みが、彼女の膝に落ちてきたのです。それが警察に見つかり、闇物資の疑いをかけられ、開けるよう命じられました。仕方なくしぶしぶ開けると、黒い肌の赤ちゃんの死体がその中から出て来たのです。それを見て警察も周りの乗客も、この子は美喜本人の子ではないかと疑ってかかりました。ようやく自分の子ではないことを知ってもらいましたが、その時美喜は「お前が一時であってもこの子の母親とされたなら、どうして日本国中のこうした子供達の母親となってやれないのか・・・」と神様の声を聞いたと言うのです。美喜は、私はこのような孤児たちを助けなければならないと使命を感じました。夫もそのことを理解してくれたといいます。
美喜の心に、あの大磯の地をその子たちのための土地にしたいという思いが湧き上がりました。しかしその土地は、戦後の財閥解体令よって没収され、進駐軍の物になっていました。米軍に日参して頼み込むと、それなら返しても良いが条件がある!400万で買い取ること。そして、買い取った土地はその後三代にわたって三菱の名義にしてはならないと言うものでした。美喜は自分の家の全てを売り、どうにか買い戻すことが出来ました。しかし建物のお金はありませんでした。その時イギリス人女性のエリザベス・サンダースさんが召され、その遺産をホームに捧げるようにしてあったのです。思わぬ捧げ物がホームの最初の献金となりました。その事を感謝して、ホームの名前も彼女の名前エリザベス・サンダース・ホームにしたのです。その他にも友人達の献金で、孤児院を開始することが出来ました。その時、彼女は46歳でした。
その後も、ホームがスムーズに運営されたわけではありません。日本人からは敵の血を引く子をなぜ育てるのかと言われ、アメリカ側からは「混血孤児達の救済は反米運動につながる」と圧力がかかりました。ある時は、ホームの解散をGHQの将校たちが強く迫ってきました。その時美喜は「一度捨てられた子供を、もう一度捨てろというのか!」と抗議したと言います。そのような苦労の中で貫かれた混血孤児を助ける働きは、ついには2000人以上の子供達を育て上げたのです。まさに信仰の力です。澤田美喜は1980年5月12日、スペインの旅行中に78歳の齢をもって召されて、その生涯を閉じ主のもとへと引き上げられて逝きました。
私達は澤田美喜の大きな働きを知ると同時に、差別と言う人間として最も恥ずべきことを身の回りから無くして行くことに心がけましょう。
今日は澤田美喜の生涯を調べていて私の心に浮かんだ聖書の御言葉を挙げておきます。
「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」   ヤコブ 1:27  
山崎製パンの創業者 飯島藤十郎
飯島藤十郎 (1910年11月7日〜1989年12月4日) は山崎製パン創業者です。なぜ飯島製パンではなく山崎製パンなのでしょうか。それは彼がパンの会社を設立しようとした時、他にもパンに関わる仕事をしていたために飯島名義では許可がもらえず、妹の嫁ぎ先が山崎だったので義弟の姓・山崎で許可を取ったという経緯があったようです。こうしてパン作りが始まりましたが、彼はまだその時クリスチャンではありませんでした。その彼がどのようにしてクリスチャンとなり、どのように生きたかをお話しいたします。
彼はパンの会社を興す前の一時期、新宿中村屋で奉公人として働いていました。そこの社長がクリスチャン事業家の相馬愛蔵でした。相馬愛蔵は、内村鑑三と交流があったクリスチャンでした。飯島藤十郎は洗礼こそ受けていませんでしたが、その相馬愛蔵の影響を強く受けていました。山崎製パンの創業時代は、リヤカーにパンを積んで町を歩きながら売っていたそうです。そのリヤカーの荷台には、パンと一緒に「神は愛なり〜ヨハネの福音書」という看板が掲げられていました。
最初順調だった経営がしばらくして問題が起こりました。籐十郎と弟の一郎の間に、経営方針を巡って激しい対立が起こったといいます。藤十郎の長男が間に入って、なんとか調整しようとしましたがうまくいかず、息子(現社長)までが父と意見の相違で対立してしまう事態になってしまいました。収拾がつかなくなって、それを何とかしようと決心して、その方法として三人で話し合い、三人揃って洗礼を受けたのが飯島藤十郎の洗礼を受けたきっかけでした。その一件落着となった洗礼後の11日目のことでした。主力工場の武蔵野工場が全焼するという大事件が起こってしまったのです。しかしクリスチャンとなっていた彼らは「この時、私たちは『火災は、あまりにも事業本位で仕事を進めてきたことに対する神の戒めだ、これからは神の御心にかなう会社に生まれ変わります』と祈りを捧げました」と現社長の飯島延浩氏が言っています。
父籐十郎の後を継いで社長となった長男の飯島延浩氏も、熱心なクリスチャンです。父と家族が一緒に暮らしていた社長生家の三鷹の土地300坪を教会に寄付しました。その土地には現在教会が建っています。その教会に、毎週現社長の飯島延浩氏が、自宅のある千葉県市川市から三鷹市の教会まで毎週通っています。そればかりでなく、自ら聖書の勉強会を開いて人々を教えています。現在、山崎製パンは日本の輸入小麦の10%を使うと言われ、年商9000億円以上の製パン業会社と言われています。
洗礼を受けたばかりの飯島藤十郎一族に武蔵野工場全焼の火事が起こったように、クリスチャンだからと言って困難に遭わないとは限りません。そのような時にクリスチャンであることの素晴らしいことは、人のせいにしないで神様の前に祈りの時を持てることです。そして新しい心で再出発できること、これは本当のクリスチャンにしか出来ないことです。
どのような時にも、神様の愛がその事をなさったのだと信じることが出来る人は何と幸いでしょう。
今日の御言葉は、飯島藤十郎が掲げていた御言葉ヨハネ3章16節の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」を掲げさせて頂きます。  
 

 

新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵
相馬愛蔵と言えば、この間お話ししました山崎製パンの創業者 飯島藤十郎氏が大きな影響を受けた方です。相馬愛蔵の生涯は、1870年(明治3年)10月25日に信濃国安曇郡白金村(現安曇野市穂高)の農家の三男として始まりました。しかし父は愛蔵が生れた翌年に他界し、母親も愛蔵が6歳の時に亡くなるという不幸にあっています。そういう意味では、親の愛情の必要な時に親がいないという寂しい幼少期を過ごしたと思われます。その相馬愛蔵が新宿中村屋の創業者となるのです。しかし彼は中村屋の創業者と言うだけで偉大なのではありません。創業者であると同時にクリスチャンとして、日本の文化にも多大な影響を与えた人物として偉大なのです。
彼は学業においては数学が得意であったそうです。しかし英語が苦手で、地元の学校を3年で中退してしまいました。その後上京して、20年9月に東京専門学校(現早稲田大学)に入学しました。その17歳の頃、愛蔵は友人に誘われて、牛込市ケ谷の牛込教会へ行くようになりました。そして洗礼を受けクリスチャンとなりました。東京専門学校の卒業後は、人に雇われることを嫌って北海道の札幌農学校へと進み、養蚕学を学びました。
札幌農学校で養蚕を学を学び、一時は北海道で養蚕(ようさん)を夢見るも断念し帰郷しました。故郷で明治24年(1891年)に、蚕種製造を始め、『蚕種製造論』を著しました。22歳の愛蔵は、明治24年12月20日に東穂高禁酒会を創立。最初は11人の出発でしたが、みるみるメンバーが増えていったといいます。また明治27年(1894年)、村に芸妓を置く計画に反対し、廃娼運動も行ないました。さらにはこの時代に、孤児院基金募集のため仙台へ出掛け、仙台藩士の娘でありクリスチャンの星良と知り合い1898年に結婚しました。その式場は牛込市ケ谷の牛込教会でした。その後、故郷において奥様の健康が損なわれ、療養のため上京することになったのです。後に奥様は恩師から付けて頂いた黒光(こっこう)とのペンネームで名のるようになりました。
東京に出て来た愛蔵一家は、明治34年(1901年)東大赤門前のパン屋、本郷中村屋を買い取り、パンの製造を始めました。明治37年(1904年)には、日本で初めてクリームパンを発売しました。さらに明治40年(1907年)に新宿に移転した後、商売は大繁盛するにいたりました。さらに中村屋は日本で初めてインド式カレーライスを販売し、大人気となって行きました。
クリスチャンとしての相馬愛蔵はパン屋としてさることながら、日本文化への大きな寄与もあります。愛蔵は店の裏にアトリエをつくり、多くの芸術家に使わせていました。彫刻家の荻原碌(ろくざん)、画家の中村彝(つね)、彫刻家の中原悌二郎、彫刻家の戸張狐雁など多くの芸術家達です。1915年にインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースがイギリス官憲に追われ日本に亡命して来ましたが、一時日本政府にも追われていた彼をかくまったのが愛蔵一家でした。そのほかにもロシアの無政府主義の盲人詩人のエロシェンコをかくまうなど、自分の身の安全を顧みずに人道的な立場に立って行動したのです。後にボースは相馬夫妻の長女と結婚。大正12年、日本国籍を取得しました。ボースの指導によって中村屋のインドカレーが誕生したのです。
愛蔵の人間愛はさらに続きます。1923年(大正12年)9月1日関東大震災が襲った時でした。中村屋は幸運にも被災は免れました。震災に乗じて全ての食料が軒並み値上がりしました。そうすると愛蔵は、パンや菓子を普段よりも1割ほど安くして販売しました。彼は商人の義務として、中村屋の社員一同毎晩徹夜でパンなどの製造を続けたといいます。平素のお客様本位の考えが、彼を自然とそうさせたのです。その時は『奉仕パン』『地震饅頭』などと名前を付け販売していたそうです。そのような姿勢にお客さんたちが感動し、震災後は大きく売り上げが伸びたといいます。
このようなエピソードもあります。1927年3月に昭和金融恐慌が起こり、銀行に取り付け騒ぎが発生しました。その時、取引先の安田銀行に預金を確保しようとする人の列が出来たそうです。すると愛蔵は部下に金庫の有り金を全て持たせてかけつけさせ、「中村屋ですがお預け!」と大声を出させることによって、群衆のパニックを収めたといいます。相馬愛蔵の愛した聖書の言葉も今では知ることが出来ません。しかしその生涯からは次の御言葉が聞こえてくるようです。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカ6:38
相馬愛蔵は、多くを得て多くを与えた人であると思います。私達の人生もこの人のようでありたいですね。  
母にもまさる母 井深八重
ハンセン病患者達から「母にもまさる母」と慕われた井深八重は、22歳まで最高の学問を与えられた女性でした。彼女は同志社女学校を卒業し、英語教師として長崎県立女学校へ赴任するほどの前途有望な女性でした。しかしその井深八重の人生が思いもよらぬ方向へと急激に動き出すことになるのです。それは神様の彼女に対する御計画でした。
井深八重は、1897(明治30)年10月23日 台湾の台北市で生れました。 彼女の家は旧会津藩家老からの家柄で、国会議員にまでなった井深彦三郎の娘でした。明治学院学長だった父方の叔父、井深梶之助の家に預けられ、英才教育を施されました。1918(大正7)年、同志社女学校英文科卒業と同時に、同年の4月に長崎県高等女学校の英語教師として採用されました。彼女の人生は、順風満帆で計画どおりに進むかに見えました。しかし教師となって約一年後、その事件は起こりました。
その頃すでに井深八重には縁談もありました。そのような年のことです。彼女の体にポツポツと斑点が出て来たのです。医師は診察した後、本人には病名を告げませんでした。その病名は家族に伝えられ、彼女は世間に隠れるようにして神奈川県の神山復生病院に隔離され、そこで病名はハンセン病であると知らされたのでした。彼女は絶望的な状況に陥りました。しかし彼女の病状は、病院の中では比較的軽い方でした。その病院には当時看護師が一人もいなかったため、軽度の患者が重度の患者のお世話をすることが義務となっており、井深八重も重度の人達のお世話をするようなりました。入院から一年が経った頃、彼女の症状は悪化しないばかりか、きれいな肌にさえなって来ました。そのような事から、親戚が開いている病院で診察して頂いたところ、なんと彼女の病気はハンセン病ではなく、一時的な皮膚病だったのです。つまりハンセン病との診断は誤診だったのです。
井深八重が入院していた病院の医師は、フランス人でレゼー神父というお方でした。レゼー神父は「あなたが、ハンセン病でないということがわかった以上、あなたを此処におく理由がなくなりました。どうぞ今後の事は良く考えて、自分の人生を生きて行って下さい。」と言いました。「もし日本が嫌ならばフランスへ行ってはどうか。私の家族があなたを迎えてくれるでしょう」とまで言って下さいました。それはこの時代はまだハンセン病に対する強い差別があり、そこで働く人にまで差別があったからです。しかし井深八重からは予想も出来ない返事が返ってきました。それは「私は看護師の勉強をして資格をとり、この病院の看護師になります」というものでした。彼女は、その病院に医者はレゼー神父ひとり、看護師は皆無で、レゼー神父が必死になって治療をしている姿をずっと見ていたのです。井深八重はその後4年間東京の看護学校で学び、1923年に看護の資格を所得し、病院に戻ってきました。そのことにより彼女は病院初の看護師となったのです。ハンセン病患者にだけではなく、そこで働く人への差別が激しかった時代に、彼女はためらうことなく飛び込んできたのです。
井深八重がクリスチャンになった時のことをお話しましょう。それは絶望しているハンセン病院でのことでした。日曜日に礼拝があり、井深八重も神父から礼拝にさそわれていました。礼拝の時間になると、レゼー神父のもとに礼拝の為に患者さん達が集まってきました。礼拝が始まると、不幸のどん底にいると思われる患者さん達が、讃美歌を歌い、祈りの中では「神様、心からあなたに感謝します」と感謝までしているのを見たのです。八重は驚いて、礼拝のあと神父に「どうして彼らは感謝出来るのですか」と聞きました。すると神父は「彼女達はイエス様を心から信じているので、苦しみと絶望の中にあっても、喜びと感謝をもって生きていくことができるのです。」と言いました。そして彼女は「私もあの人達のようになりたい」と信仰を告白し、洗礼を受けてクリスチャンになりました。
井深八重の生涯の働きは「神山復生病院」での看護師としての働きでした。ついに社会から、彼女の患者達への献身的な看護が認められ、1961(昭和36)年に、看護師たちの最高の賞である「ナイチンゲール記章」を受賞しました。日本からは天皇より黄綬褒章が授与されました。その他にも新聞社からの賞など多数ありました。でも井深八重は患者達から「母にもまさる母、八重さん」と呼ばれるのが一番の賞だったでしょう。井深八重が座右の銘としていた聖書の言葉は「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」ヨハネ12章24節でした。彼女は1989年(平成元年)に天に召されました。92歳の生涯でした。彼女の墓には「一粒の麦」と刻まれています。私達も、彼女の生涯を通してこの御言葉を見つめ直して、実行できる人になりましょう。 
天国を求めた高山右近
日本のキリスト教の草創期に燦然と輝くクリスチャンの一人に、高山右近を挙げなければならないでしょう。彼は戦国の世にその生を受け、クリスチャン高山右近としてその人生を駆け抜けました。その壮絶な人生を知ることは、現代に生きる私達クリスチャンにとっても大きなチャレンジとなるでしょう。高山右近は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国の世に生きたクリスチャン武将です。 (天文21年(1552年)〜慶長20年(1614年)享年63才)
右近の父、高山友照はキリスト教が大嫌いでした。  しかし友照は宣教師と論争しているうちに、キリストの教えに感動しクリスチャンとなりました。その高山友照の子が高山右近でした。右近も父の信仰にならって、12歳で洗礼を受けてクリスチャンになりました。その後、高槻城の城主であった父が隠居し、そのあとを継いで高山右近が城主となりました。それは1573年のことで、右近が21歳の時でした。父の友照は、その後キリスト教伝道に専念するようになりました。
織田信長は高山右近に「開城かそれともキリスト教徒皆殺しか」と迫りました。時は織田信長の時代でした。織田信長の支配下にいた摂津守護・荒木村重が、寝返って毛利方につきました。その間に立って和解させようとしたのが高山右近でした。しかしそれが織田信長の不信をかうことになり、高山右近の高槻城は信長軍に包囲されてしまいました。そして信長が城の明け渡しを要求し「開城しなければキリシタンを皆殺しにし、教会を焼き討ちする」と告げてきました。右近は信長にキリシタン保護の約束をとりつけて高槻城を開渡しました。その結果、信長は彼を信頼するようになり、引き続いて右近が高槻城に住むことを認めました。またキリスト教に対しても好意政策をとるようになりました。この間に右近は伝道を活発化しました。右近は領内には20にも及ぶ教会を建て、神学校も作りました。
高山右近は、キリスト教信仰に基づいて理想国を作ろうとしました。右近は、キリスト教精神にのっとり国造りに全力を注ぎました。また領主とは思えない程の謙遜を示しました。ある時、領内の貧しい民が死んだ時のことです。その棺を担ぎ、そのお墓を自ら掘ったと言われています。このような死者の葬りの準備などは、当時差別された人々の仕事でした。領主がそれをすることなど考えられないことでした。それを見た家臣たちも感激し、率先して一緒に墓を掘ったと言われています。 このようにして、彼の領土内のクリスチャン人口は8割にも達しました。右近はこの頃、茶の湯においても千利休に師事し、利休の7哲と言われ、利休高弟の一人となったと言われています。利休自身クリスチャンであった可能性があり、茶室の狭い入り口、つまりにじり口は聖書の「狭い門から入れ」からヒントを得たとも言われています。
豊臣秀吉が高山右近に迫ったバテレン追放令(1587年) 時は豊臣秀吉が支配する世になりました。秀吉は、高山右近に明石への領地替えを命じます。1585年のことでした。明石においても、右近はキリスト教の布教に力を入れました。しかしその2年後の1587年、秀吉はバテレン(宣教師)追放令を出しました。右近にも使者を送り「キリスト教を捨てるように」と迫りました。しかし右近は「予はキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。どうしても捨てよとの仰せならば、領地、並びに明石の所領を関白殿下(秀吉)に返上する。」と返上してしまいました。その後は加賀の前田家に匿われることになりました。秀吉も、高山右近が領地を信仰の為に返上してくるとは思いもよらなかったと言われています。
徳川幕府が高山右近に迫ったキリスト教禁教令 時は移り変わり、徳川家康の時代になりました。徳川幕府になってからキリスト教への迫害は厳しさを増して来ました。右近を匿っていた前田家も、彼を思って「形だけでいいから棄教せよ」と棄教を迫りました。しかし、右近は棄教することはありませんでした。彼は既に殉教を覚悟していたのです。徳川幕府は彼を捕らえて、フィリピンのマニラへ追放を決定しました。その船には追放された宣教師たち約100人も乗っていました。約一ヶ月にわたるその船旅は、死者も出る程の過酷な旅だったそうです。
高山右近はマニラで天国へ マニラに着くと、高山右近は体調を崩し天に召されて行きました。慶長20年(1614年)のことです。63才の生涯でした。彼はクリスチャン大名として激動する戦国の世に生まれ、クリスチャンとして生きた壮絶な人生でした。一夫一婦制を守り、生涯側室を置くことはありませんでした。また人間はみな神様の前に平等なのだと、死者を葬る準備まで自ら率先して行ないました。彼は信仰を守る為ならば、領土さえも返上してしまいました。彼の心はどこにあったのでしょう。彼の生涯を通して聞こえてくる聖書の言葉があります。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)
私達も高山右近のように、真っ直ぐに信仰に生きる人となりましょう。 
日本のヨセフ おたあ・ジュリア
前回は戦国の世に生まれ、クリスチャンとして壮絶な人生を生きた高山右近について話しましたが、その時代に重なるようにして、クリスチャン生涯を生きた「日本のヨセフ」ともいうべき「おたあ・ジュリア」という女性がいました。日本のヨセフと命名したのは、この人のことを調べていて私の心に浮かび上がってきた人物が、旧約聖書のヨセフであったことによるものです。実は「おたあ」とは朝鮮名です。「ジュリア」は彼女の洗礼名です。
豊臣秀吉は、1592〜93年に朝鮮出兵(朝鮮侵略)を行ないました。その時、現在の北朝鮮の平壌近郊で、両親が日本人に殺され、身寄りをなくした朝鮮の少女を見つけました。キリシタン大名の小西行長が不憫に思い連れ帰り、養女として行長の奥さんに育てさせました。連れて来られた時はわずか5歳だったと言われています。この幼女は後に洗礼を受け「おたあ・ジュリア」と呼ばれるようになりました。やがて豊臣の世が終わり、徳川の世となる頃、彼女は大人となり絶世の美女となったのです。この頃、ジュリアは徳川の大奥の侍女として家康に仕えていました。家康はどこに行くにもジュリアを同伴させました。そして家康から何度も側室になるよう求められますが、彼女は断り続けたそうです。
このように徳川の時代も、最初の頃はキリスト教に対して寛容であったようです。その中でジュリアは一日の仕事を終えると祈り、聖書を読んでは同じ仲間達を信仰に導いていたと言います。しかし1612年(慶長17年)のこと突然、家康はキリシタン禁教令を出し、ジュリアも投獄されてしまうのです。投獄中にジュリアは信仰を捨てるよう迫られました。しかし「信仰を捨てるよりも死を選ぶ」と宣教師に手紙を書いています。
家康は、改宗に応じないジュリアを1612年に伊豆大島に流刑としました。その一ヶ月後、南方の新島に異動させ、さらには神津島へと島流しにしました。そのような度重なる島流しは、家康のジュリアに対して棄教による赦免の姿勢と、それに対してジュリアの拒否という図式が浮かび上がってきます。家康はジュリアの美しさに未練があったのでしょう。ジュリアは3つの島に流されました。しかし、どの島においても不平を言わず、その島の人々や同じ流刑にあった人々に徹底して仕えました。小西行長は、和泉国堺で薬を扱う商家の次男として生まれた、キリシタン大名でした。ジュリアは行長の影響で、薬草の知識を深めたと言われています。ジュリアはその薬草の知識を用いて病気の人々に献身的に奉仕したと言われています。その結果、禁教時における島にもかかわらず、多くの人々がジュリアを通してクリスチャンになったのです。ジュリアのことは、日本に来たマウチス・コーロス宣教師の1613年1月12日の報告書に詳しく報告されているそうです。
現代は不平の多い時代です。私達はこの「おたあ・ジュリア」から、学ばなければなりません。両親を日本人によって殺され、日本に五歳で連れて来られ、挙句の果てには島流しにされたのです。信仰さえ捨てれば、家康の側室になることさえ出来たのです。家康は何度もそのチャンスを彼女に与えたようです。しかし彼女は信仰の道を選択したのです。そればかりか不平ひとつ言わず、流されて行った島々で人々に仕えたのです。その生き方は、旧約聖書に出てくるエジプトに奴隷として売られて行ったあのヨセフをほうふつとさせるものでした。最後の地となった神津島には彼女の墓があり、5月には今も日韓のクリスチャン達によって、合同の慰霊祭「ジュリア祭」が行なわれています。私達も自分の不運に嘆くのではなく、置かれた場所で感謝して神様にお仕えしましょう。
ヨセフが自分の生涯を振り返って、自分を奴隷として売った兄弟達を前にして言った言葉を今日の御言葉としてあげておきます。
「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」 創世記45章8節 
不良少年更生の父 留岡幸助
留岡幸助(とめおかこうすけ)は、明治元年まであと5年の1864年に、吉田万吉とトメの間に6人兄弟の次男として生まれました。生まれて間もなく幸助は、豪商だった米屋の留岡家に養子として出されました。そこで、武士の子供も町人の子供も一緒に学ぶ寺子屋に通い始めました。ある日の帰り道のことです。武士の子供と口論になり、木刀でひどく撲りつけられました。その時、幸助は相手の手首に噛みついて、相手に怪我をさせてしまったのです。その結果、幸助の父はその武士の屋敷に出入りすることを禁じられ、商いに支障を来たすことになってしまいました。怒った父は、幸助を激しく殴りつけました。そして寺子屋の学校を退学させられ、「商人になるようにと」無理強いされました。そのようなことで嫌気が差し、幸助は家出してしまうのです。
キリスト教の「人間はみな平等」との教えに触れ、彼は感動しました。当時はまだ士農工商という階級がしっかりと守られ、幸助は商人の養子でしたから当時の社会の最下層にいました。身分の低い家の彼は、よく武士の子達からいじめを受けていたのです。そのような時代に「人間は皆平等」と説く牧師の話を聞いて、深く感動しました。そして彼は18歳で洗礼を受け、クリスチャンとなったのです。彼は牧師になるために、1885年同志社の神学課程に入学し、その学校の創立者である新島襄の教えを受けました。彼は同志社卒業後の1888年、福知山で教会の牧師となりました。その後1891年、北海道に渡り刑務所の教誨師となります。その時北海道で見たのは、受刑者達のあまりにも過酷な姿でした。網走で受刑者達が重労働を強いられ、死者が続出しました。そして死体は粗末に埋められるだけだったのです。網走刑務所には中央道路工事のため、明治23年1200人もの囚人が送り込まれました。手作業で原生林に道を作るのです。工事中も囚人の逃亡を防ぐために、二人ずつ鉄の鎖でつながれ、鉄球まで付けられたそうです。栄養失調や怪我などで死亡者が続出しました。囚人たちは人間としての扱いを受けていなかったのです。
1894年から1897年にかけてアメリカに留学。彼は理想的監獄の在り方を学ぶために、アメリカに留学しました。そしてコンコールド感化監獄やエルマイラ感化監獄でなどで建学を積みました。彼は留学を終えて帰国後、監獄改善よりもアメリカの福祉を取り入れて、感化教育の活動に力を入れました。まず東京の巣鴨に家庭学校を設立します。次に北海道に男子だけの家庭学校を作りました。広大な農場をもってその教育の場としました。しかし資金においては、いつも苦労の連続だったといいます。
幼いころの家庭教育が大切という思想で、北海道に家庭学校を作る。彼は多くの囚人を見る中で、犯罪の芽は幼少期に発することを知り、幼い頃の家庭教育が大切と気付きました。さらにルソーの著書「エミール」に書かれた『子供を育てるには大自然の中が一番』という説に感銘を受け、北海道に家庭学校を作りました。広大な敷地に農場を作り、罪を犯した子供達と農作業をしながら更生を促したのです。幸助のこの様な働きに献身していったのは、彼の不幸な生い立ちと、聖書の真理に触れたことにあったと思われます。そして神様が彼にこの仕事を与えられたのです。彼の生涯は映画にもなっています。
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)         
 

 

台湾人に尊敬されている人 八田與一
八田與一(はったよいち)は、1886年石川県に生まれました。日本ではその名があまり知られていませんが、台湾においてはとても有名な日本人なのです。彼がクリスチャンであったかどうかは両論あり定かではありません。しかし「聖書に触れた人々」という、この婦人聖研のタイトルからは決して遠く離れている人物ではありません。
私は台湾に7回ほど行っていると思います。今年も行ってきました。台湾の歴史を見ますと、今までに数回他国の支配を受けた歴史を持っています。16世紀初頭、オランダの植民地になってから、明朝、清朝、イギリス、日本と外国の支配を受けました。日本の支配は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)の終戦まで50年に及んだのです。支配された国民は、支配した者への憎悪が続くのが常です。しかし台湾は今もなお親日派が多数なのです。その理由は、日本の台湾支配時代に八田與一さんのような日本人が台湾で活躍したからに他ならないのです。
さて八田與一さんですが、彼は広井勇から土木工学を学びました。広田勇と言えば、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾らと共に札幌農学校の二期生として学んだクリスチャンです。つまり札幌農学校(現在の北海道大学)の学生達による二期生として、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らと共に「イエスを信じる者の契約」に署名しているのです。その署名には、一期生と二期生合わせて31名が署名しています。広井勇は、クリスチャンとして土木工学の道に進みました。後にアメリカやドイツに留学し、東京帝国大学(現在の東大)の教授として働きました。彼自身「もし工学が唯に人生を煩雑(はんざつ)にするのみのものならば、何の意味もない。工学によって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間にとどめ、人をして静かに人生を思惟(しい)せしめ、反省せしめ、神に帰る余裕を与えないものであるならば、われらの工学は全く意味を見出すことはできない」と記しています。少なくとも八田與一は、熱心なクリスチャン土木工学博士の広井勇の弟子なのです。彼は広井教授から土木工学を学びました。
台湾を日本が統治していた時代、台南の北方に塩害で農作には全く適さない荒れ地が広がっていました。塩害でトウモロコシすら育たない土地でした。八田與一は、24歳の時(1910年)その台湾に行きました。そして28歳からその荒れ地を農作地にするために、ダムの建造に取り掛かりました。そして10年の歳月を要し、ダムが完成したのです。そのことにより、ダムの水を利用してその一帯は一変し、台湾随一の大農業地帯となったのです。人々は八田與一の献身的な働きに感動しました。
農民たちは八田與一の功績をたたえて、昭和5年に銅像を作る計画を立てました。しかし彼は嫌がったと言います。それを無理やり説き伏せて、銅像の型作りのために来てもらったそうです。八田は1942年(昭和17年)、第二次世界大戦で徴兵され、フィリピンに向かう途中、アメリカ軍の潜水艦の攻撃により戦死しました。戦争が終わって、蒋介石が中国から台湾に逃げてくると、人々は銅像を蒋介石から隠して保管し続けたと言います。1981年(昭和56年)その銅像は隠しておいた所から出されて、農民たちによって再度建てられました。さらに2001年には現地の人々によって、ダムの放水口のすぐ近くに素晴らしい「八田與一記念室」が完成しました。2011年5月8日には彼の住居が復元され、記念公園がオープンしました。烏山頭水庫入り口から公園に続く道路は「八田路」と改名されたそうです。私は台湾に何度も行っていますが、台南に行ったのは今年が初めてでした。しかしこのダムには行くことができませんでした。是非機会を作って、行ってみたいと思っています。
台湾人は日本人が大好きです。それは日本が台湾を統治した時代であるにも関わらず、台湾のために命をかけて土木事業を行なった八田與一さんのような人がいたからだと思います。日本ではあまり馴染みのない人ですが、私達はこの様な人が台湾と日本の現代に至る架け橋となっていることを覚えておきましょう。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くしました。
彼がクリスチャンであったかどうかは定かではありません。しかし彼の生涯には、クリスチャンの恩師、広田勇を通して、聖書の真理である「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ 6:38)という御言葉が流れていたと思われます。
今日の聖研の御言葉として「与えなさい、そうすれば与えられます」という御言葉を心に刻んでおきましょう。 
福澤諭吉とその家族
福沢諭吉と言えば慶応義塾大学の創立者として有名であり、現一万円札に肖像画としても有名です。また彼の言葉としては、彼の著書「学問のすすめ」の中に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が有名でしょう。福沢諭吉はクリスチャンであった事実はなく、むしろキリスト教に対しての排撃者としての方が有名かもしれません。しかし私は数年に亘って慶応大学生達への聖書研究会に、毎週一度三田校舎に通ったことがありますが、中央口を登りきった左側の林の中に、教会と見間違う建造物があるのを奇異に感じていました。それは福沢諭吉が建てた演説会堂なのですが、明らかに教会の礼拝堂の影響を受けたであろうと思えるものでした。それからしばらくして、今度は慶応義塾日吉校には教会があるということを知りました。そのようなことから、福沢諭吉とキリスト教という関心が強まってきました。
福沢諭吉は、最初キリスト教を排撃する立場にあった。彼は、天保5年(1835年1月10日)現・大阪府大阪市に生まれました。まだキリスト教禁教の時代です。彼は最初幕府の方針に沿った思想を持ち、キリスト教に対して反対の立場を取っていました。キリスト教伝道者の内村鑑三からは「宗教の大敵」と呼ばれた程でした。最初はそうであったのだと思われます。 
福沢諭吉と宣教師たちの交流 しかしその福沢諭吉が39歳頃から晩年に至るまで、宣教師達との強い交流があったことも明らかになっています。特に英国国教会宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーとの交流は、深く強いものがありました。彼は、構内にあった福沢家の隣に西洋風の牧師館を建ててあげ、彼を住まわせました。そして自分の子供達の家庭教師となって頂いたのです。その交流は強く、お互いにいつでも行き来できるようにと、両家の間には「友の橋」という名の橋が架けられた程なのです。福沢諭吉と宣教師との交流は、ショー宣教師だけにとどまらず、彼の生涯で交流のあった宣教師は19名にも及ぶことが分かっています。
福沢諭吉の周りのキリスト教 そのような福沢諭吉と宣教師達の交流の中で、彼の家族達はキリスト教に触れていきました。姉の中上川婉(えん)も、クリスチャンになりました。末姉の服部鐘も、熱心なクリスチャンになりました。さらに福沢諭吉の長男の太一郎も、クリスチャンとなりました。三女清岡俊(とし)も、クリスチャンになりました。四女の志立滝も、クリスチャンになったのです。特に志立滝は、東京YWCAの会長を20年間も務める熱心なクリスチャンでした。その関係か日吉キャンパス関係には、YMCAの教会があるのです。福沢諭吉は、最初キリスト教排撃論者と言われていましたが、姉達も子ども達もクリスチャンになったのです。さらには慶応義塾の敷地内のショー宣教師館では、明治8年に8人の青年が洗礼を受けました。宣教師ショーといえば、あの長野県軽井沢の名を世界中に有名にした宣教師でもあります。
福沢諭吉の3回にわたる海外視察 第一回目は、25歳の安政6年(1859年)咸臨丸でアメリカに行きました。この咸臨丸には勝海舟も乗っていました。第二回目は、27歳の文久2年(1862年)に英艦・オーディン号で欧州各国へ視察に行きました。福澤も通訳者としてこれに同行したのです。第三回目は、32歳の慶応3年(1867年)に再度アメリカへ行きました。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪問しました。その船には熱心なクリスチャン津田仙も同乗していました。これらのことから、福沢諭吉はキリスト教に否応なく触れていったに違いありません。欧州視察の途中にでは、イギリス聖書協会出版の聖書を一冊ずつプレゼントされたといいます。しかし当時の幕府はキリスト教をまだ禁教としていたため、一行は驚きあわてて、イギリス聖書協会に聖書を返却したといわれています。やがてキリスト教の禁教令が解かれ、福沢諭吉もキリスト教に対して柔軟な姿勢を持つようになったというのが事実のようです。その柔らかくなった福沢諭吉が宣教師達と交流を持つようになり、その寛容の上に、彼の家族達がクリスチャンになっていったのです。
今日の御言葉は「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」マタ 10:42 をあげておきしょう。 
林歌子の生涯
日本の歴史は、自然と現代まで流れて来たと思ってはなりません。特に古い考え方から、現代の日本となる過程においては、多くの人々の血と涙の戦いがあったのです。歴史を変えた人々と言うと、女性達の働きが取り上げられることはあまりありませんでした。しかし日本の歴史を変えた人々の中には、多くの女性達もいたのです。今日はその女性の一人、林歌子の生涯を掘り起こしてお話し致します。
林歌子は、元治元年(1864年)福井県大野市の大野藩士の家に生まれました。藩士の家と言っても下級武士の家だったそうで、経済的にはそう豊かではなかったようです。歌子は、まだ3歳の時に母を失ってしまいました。その後は、義理の母に育てられました。父親は歌子をことのほか可愛がり、歌子がやがて学者になるようにと、貧しいながらも学問に進むようにと教育を与えました。歌子も父の願い通りに福井女子師範学校に進み、師範学校を卒業し、16歳で小学校教師となりました。その後20歳で結婚し一児をもうけましたが、すぐに離婚してしまいました。その後すぐに愛児も失い、失意の中に上京しました。そこで牧師ウィリアムズと出会い、彼の話によって「人権尊重の思想」に触れて、まさに目から鱗が落ちる体験をしました。また歌子は立教女学院教師となり、さらにキリスト教に接し洗礼を受け、クリスチャンとなりました。
歌子は礼拝に通っていた東京神田教会で、信仰の友となる小橋勝之助・実之助兄弟と出会いました。そしてその二人の兄弟の熱い夢に心が動かされました。その夢とは、小橋の故郷に孤児院を創るという夢でした。当時、貧しさゆえに親から捨てられる子供たちがいたのです。林歌子はその小橋兄弟の要請を受けて、明治25年(1892)に、兵庫県の矢野村に行って、孤児院「博愛社」を助けました。「立教女学院教師」の立場を投げうって、孤児達の為に働く仕事を始めるという歌子に、父親は猛烈に反対しました。しかしその決意は変わらず、矢野村で「博愛社」の活動を続けました。しかしまわりの人々からは変人扱いされ、何か隠された思惑があるのだろうと噂を立てられました。その村の小橋兄弟の実家からも反対され、活動は困難を極めました。そのような中で、小橋勝之助が病死してしまいました。間もなく矢野村での活動に終止をうって、大阪に出ました。そこで昼間は畑仕事をし、夜は夜学の教員をして孤児達を育てる活動を開始しました。そして明治32年(1899)大阪の淀川区に博愛社を設立し、多くの孤児達を育てました。
大阪の博愛社の活動が軌道に乗ってきた頃、小橋実之介に嫁さんを迎えました。その夫婦に博愛社をゆだねて歌子は渡米しました。明治38年(1905)のことです。そのアメリカで、歌子はキリスト教の「万国矯風会大会」に参加し、愕然とするのです。それは、アメリカの女性達と日本の女性達の立場が全く異なっていたからです。日本の婦人の立場は、「子供の時は父親に従え、結婚したら夫に従え、歳をとったら子供に従え」と言うものだったからです。夫のどんな暴力にも耐えて従うというのが、当時の女性の姿でした。そのような古い日本の女性観に怒りを感じました。また当時は、政府承認の遊郭が日本中にあり、女性達は親の借金の為にそこに売られたりしたのです。女性はそのような仕打ちを受け、男達は遊郭で遊び、何人もの妾を持つことが男の甲斐性のように言われていた時代なのです。そのような男中心の社会で、女性達はじっと我慢を強いられるような状況に、歌子は納得できませんでした。そのように女性が我慢するしかないのは、女性達に経済力がないからだと考えました。そのような女性達に経済力をつけるために「大阪婦人ホーム」を作り、夫の暴力や、遊郭から逃げてきた女性達をかくまい、職業訓練を与え、職業斡旋まで行ないました。
また歌子は「大阪矯風会」設立しました。そして遊郭廃止運動を開始しました。明治42年7月31日の事です。大阪北部地区に大火がありました。その大火はその地域にあった「曽根崎遊郭」を全焼したのです。その数日後、林歌子は遊郭再建反対運動を立ち上げました。その公演には1000人、2000人と聴衆が集まりました。歌子は売春の非人間性と遊郭業者の非道ぶりを徹底して訴え、人々の共感を得ました。その甲斐もあって、その年の9月1日、ついに大阪府知事は曽根崎遊郭の廃止を発表したのです。歌子達は運動の勝利を喜びました。しかし、裏ではその代替地として、大阪市西成区の「飛田新地」に遊郭が作られることになっていたのです。林歌子達は再び反対運動を展開しました。そして多くの人々の賛同を得たのです。今度も勝利するかに見えました。しかし大阪府知事は遊郭建設を認可し、直ちに辞職してしましました。逃げたのです。その土地は、曽根崎遊郭の三倍もありました。完成直後も、林歌子達はハンドマイクをもって「遊郭ハンタイ、絶対ハンタイ」と叫び、遊郭の周りを回りました。しかしその声は、華やかな遊郭にむなしく響くばかりでした。
林歌子は「飛田新地遊郭反対運動」が失敗に終わったのは、大阪府の議員に遊郭の利権者が多数いたことに原因があると知りました。これではいくら反対運動をしても、どんなに市民の署名を集めても、無駄であることがわかりました。この事を打破するためには、男だけの議会では解決が出来ない事を痛感し、自分達女性が政治と関わらなければならない事に気付きました。そこで今までの戦略を変え、婦人参政権獲得運動へと向かったのです。「遊郭」の「郭」とは高い塀に囲まれた場所を意味する文字で、その文字通りに遊郭は遊女達が逃げられないように、高い塀で囲まれ、厳重な門が設けられ監視されていたのです。そこに入ったら最後、決してそこから出られなかったのです。大正12年に起こった関東大震災の時、東京にあった吉原遊郭の遊女達は、大火に追われて弁天池に飛び込み490人が溺死しました。遊女達が逃げるのを防ぐために、遊郭の門を閉じてしまったからです。また、吉原遊郭の近くの浄閑寺は、投げ込み寺と呼ばれていました。死んだ遊女達が裸で投げ入れられたからです。1664年から遊郭廃止までに、2万人以上の人達が投げ込まれました。遊女達の平均寿命は21.7才であったと言われています。そのことから見ても、そこでの生活は心身共に想像を絶するものであったと思います。
その遊女達は、自分から欲して遊女になった人は一人もいません。貧しい東北の農家からの出身者が多かったのです。借金などで、親に売られてきた人達なのです。そこでひたすら管理され、男のお客を取らなければなりませんでした。なんと残酷なことでしょう。その遊郭での売買春は、昭和32年(1957)まで認められていました。遊郭は政府公認の売春の町だったのです。それは、遠い昔の話ではありません。今からわずか50年あまり前のことであり、戦後12年も続いていたのです。貧しさゆえに孤児にされた子供達の救済と、貧しさゆえに遊郭に売られて来た女性達の救済のために、そして女性達の地位向上のために、命を懸けた女性がいたのです。その人の名が林歌子だったと言うことを覚えておきましょう。そしてそのように林歌子の心に熱い愛を与えたのは、20歳の時に信じたイエス・キリストなのだということも覚えておきましょう。林歌子の自筆で「涙と汗」という字があります。それにちなんで、今日の御言葉はローマ書12章15節の「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」にしましょう。 
会津っぽ 新島八重の生涯
福島県人が会津の人の気質を表わす言葉に「会津っぽ」という言葉があります。それは会津人の一徹さ、頑固さ、一度決めたら揺るがない、そのような気質を一言で表わす言葉です。最近、にわかに新島八重の人気が高まってきました。2013年の大河ドラマの主人公に選ばれたからです。時は江戸末期となった頃の1845年、会津藩の砲術師範、山本権八(ごんぱち)・佐久夫妻の子として、会津若松市に生を受けます。八重は、やがて同志社大学創立者の新島襄と結婚し、新島八重となります。しかし新島襄と結婚する前の事ですが、あの白虎隊で有名な戊辰戦争に、何と男として戦いに加わっていたのです。その新島八重はやがてクリスチャンとなりました。その生涯は会津魂に貫かれた波乱万丈の人生でした。
10数年前、私達夫婦は会津を訪ねたことがあります。そこには、会津の武士の子供達を教育した学校がありました。その子供達への当時の訓戒が残っていました。「女・子供の言うことを聞いてはなりませぬ。」等と言う、現代人がギョッとするような言葉もありました。そのような訓戒の終わりだったと思いますが「ならぬことはならぬものです」とありました。「問答無用。やっていけない事はやっていけないのだ」とでも訳すべきでしょうか。これが会津魂です。そのような風土に八重は生まれたのです。
八重が9歳の頃、1853年アメリカの軍艦「黒船」が開港を迫って浦賀に来ました。そのような激変する日本の1865年(慶応元年)、19歳か20歳の時に川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)と結婚しましたが、その三年後に離婚しています。その時は戊辰戦争真っ只中でした。1867年大政奉還が行なわれ、江戸城を徳川が明け渡すという日本史の大激変が起こりました。しかし会津藩は最後まで徳川幕府に着き、次の年に戊辰戦争を起こして新政府軍と戦いました。その戊辰戦争には、女性も子供も新政府軍と戦いました。女性は薙刀で戦うのが普通でしたが、山本八重は髪を切り、男装し刀を差し、スペンサー銃を手に戦ったのです。しかし、少年達で編制された白虎隊も飯盛山で自害し、会津藩はついに新政府軍に敗れました。戦いに敗れた山本八重が、城を去る時に詠んだという歌があります。「あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れしみ空に残す月影」。戦いに敗れて城を去る八重の無念な思いがこもっています。徳川幕府に仕える幕臣として、最後まで自分を変えないで戦った、それが会津魂を表わしています。
山本八重は失意の中に生き残った家族と共に、京都にいる兄の山本覚馬を頼り、明治4年に京都へと向かいました。八重は、兄の影響で今度は勉学に一生懸命励みました。特に西洋の思想を学ぼうと、英語の学びに力を注いだのです。その英語の学びの為に行っていた医療宣教師ゴードンの家で、最愛の人・新島襄と出会ました。ゴードン宣教師は新島襄がアメリカで学んだ神学校、アーモストカレッジの先輩だったのです。新島襄は、まだ日本が鎖国であった時、日本から密出国してアメリカ留学に行った人です。彼は聖書の創世記を読んで感動し、天地万物の創造者である神を日本の若者達に教えたいとの思いに満ちて帰ってきました。襄と八重は魅かれ合っていきました。明治8年10月15日八重は新島襄と婚約しました。そして翌年の明治9年1月2日京都で洗礼を受け、最初の人となりました。そして洗礼式の翌日に、デビス宣教師の司式で結婚式を挙げました。襄32歳、八重30歳でした。この二人が、京都初のプロテスタントのキリスト教式で結婚式を挙げた人となったのです。二人は力を合わせ、京都の仏教会の猛反対の中、同志社を設立しました。八重の兄、山本覚馬はそのために6000坪の土地を提供しました。
その新島襄も明治23年1月23日、八重に「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」と最期の言葉を残して、47歳の生涯を終えたのでした。わずか14年の結婚生活でした。八重は襄の死後、また新しい分野へと乗り出しました。日本赤十字社の社員となったのです。そして日清戦争が起こると、従軍看護士となって救護活動を開始しました。また日露戦争が起こると、すぐに従軍看護士として活動しました。58歳の頃でした。
また、同志社の学生達を愛し、社会活動も活発にしていました。しかし昭和7年7月15日のこと、急性胆嚢炎がもとで八重は87歳の生涯を終え、天に召されたのでした。このとき八重は全ての財産を同志社に寄付しました。新島襄は、男勝りの八重をクリスチャンとして心から愛おしみ、また八重も新島襄の下でクリスチャンとして会津魂を貫き通した生涯を生きたのでした。会津の武士の子を育てる訓戒の中に、前に話した「ならぬことはならぬものです」という会津人の一徹さを表す言葉があります。それはクリスチャン魂ともそのまま寄り添う言葉でもあります。そこで今日は、U歴代 34:2の「彼は主の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。」という御言葉をあげておきたいと思います。まっすぐな生き方を八重の生き方と共に、しっかりと心に止めようではありませんか。 
ノリタケの創業者 森村市左衛門
天保10年(1839.12.2)10月27日〜大正8年(1919)9月11日 (6代目)森村市左衛門と聞いて、わかる人は少ないのでしょう。しかし彼の起こした企業名の、ノリタケ、TOTO、日本碍子・INAXなどの社名を聞いて知らない人は少ないでしょう。さらにその起業者である森村市左衛門が熱心なクリスチャンであったということは、クリスチャン達にもあまり知られていないのではないではないでしょうか。私は陶器のオールドノリタケが大好きです。大好きですが、それをひとつも持ってはいません。その理由は高額だからです。でもパソコンなどでオールドノリタケの美しい絵皿などを見ては「何と美しいのだろう」とうっとりしていました。そのノリタケの創業者がクリスチャンであったとは。さて、今日はその森村市左衛門の事をお話し致しましよう。
彼がクリスチャンとしてあまり知られていない理由の一つは、彼がクリスチャンになったのが、召される僅か2年前のことであったからかもしれません。彼は好地由太郎という巡回伝道者の話を好んで聴き、洗礼を受けました。77歳頃のことです。
クリスチャンになる以前の森村市左衛門は、出家を考えたほどの仏教徒だったといわれています。彼は様々な企業を設立し、それで得た多額な利益を用いて、日本の社会に貢献すべく活躍していました。慶応大学校舎建築の為にも、日本女子大学校舎建築の為にも、多額の寄付を行ないました。特に彼は、当時遅れていた女子教育に協力し、多額の寄付をしたようです。ただ企業家として利益を追求するだけでなく、社会貢献を大きな目的としていたようです。
彼は、陶磁器の貿易で海外と接し、アメリカでも販売しました。真偽のほどはわかりませんが、その時のひとつのエピソードが伝わっています。それによると、彼がニューヨーク支店へ出張した時のことでした。そこの支店を視察中に、薄暗い地下室で一生懸命働いている青年社員がいました。荷造りや発送の仕事を一生懸命しているのです。それから一年後、またその支店を訪れると同じ地下室で、その青年社員が同じ仕事を熱心にしていました。感心してその青年社員に話しかけてみると、京都の同志社大卒のクリスチャン青年であることがわかりました。どんな仕事も進んでやるという模範的な青年社員でした。それまで森村社長は仏教の信者でしたが、この青年社員の仕事振りに感動して教会に通うようになったといいます。およそ70歳の時でした。そして77歳の時に洗礼を受け、クリスチャンとなりました。
森村市左衛門は、クリスチャンになってからひたすら伝道活動をしました。日本基督教団西千葉教会の記録には「1918年(大正7年)1月。前年の東京湾台風によって倒壊した建築中の新会堂の献堂式。新渡戸稲造、森村市左衛門、内村鑑三各師、講演」と記されています。またホーリネス教団の創立者である中田重次らと伝道して各地を回りました。そして短いクリスチャン生涯でしたが、世の成功を収めた者がクリスチャンとなり伝道者となったと言うことは、日本のキリスト教史にとって、とても価値のあることであったと思います。人生の目的を追求した森村市左衛門の人生の完成に、キリスト教があったのです。イエス様の言葉に「しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハ 3:21)と言う言葉があります。森村市左衛門の真理を求めた人生の先で、光であられるイエス様に到達したのです。誰でも真理を求め続ける人は、イエス様に到達するのです。そういう意味で今日の御言葉として記します。 
 

 

パイオニアの創立者 松本望氏
松本望は、音響で有名な株式会社パイオニアの創立者です。彼は、1905年(明治38)松本勇治牧師の次男として神戸で生まれました。今日は、そのパイオニアの創立者松本望の生涯をお話し致しましょう。
松本望の生涯を話すにあたって、彼の父親である松本勇治のことを抜きに話すことはできません。彼の父親の生れた時の名字は片柳でした。つまり彼は栃木の片柳家に生まれたのですが、本家の松本家に子供がいなかった為に養子となり、松本姓になったのです。彼は函館商業卒業後、貿易商を夢みてアメリカに渡りました。そこで熱烈なクリスチャン松岡洋右(後の外務大臣)に会いました。その強い影響を受け、聖書の研究に没入し、クリスチャンとなりました。貿易商になるどころか熱心な牧師になった彼は、アメリカにおいても伝道に命をかけました。その後、養父の家がある栃木に帰ってきましたが、即座に養父から「耶蘇バカ」と反対され勘当されてしまいました。それでも栃木で伝道しました。その時の生活は貧しかったようです。その後、役場の書記をしていた菊池ケイという女性を見染め結婚しました。その新婚旅行でさえ徒歩による伝道旅行だったそうです。その「耶蘇バカ夫婦」の次男として、松本望が生まれました。「私は父の信仰をそのまま受け継いだ」ということを松本望が自ら書いています。
松本望が生まれた時 (明治38年5月)には、家族は神戸市三ノ宮に移っていました。神戸に移り住んでからは松本牧師の家はそんなに貧しい状態ではなくなったようです。しかし父勇治は、子供達に「幼いときから勤労の精神を養っておかねばならない」と、小学3年生の頃から新聞配達、夜は床屋の見習い、牛乳配達と仕事をするように申し渡したと言います。しかも家の入口には「牛乳配達所」と看板を掲げて、仕事の責任を教えたそうです。やがて望青年はラジオの製作会社に入社し、10年務めました。彼の趣味は、自分手製のラジオで神戸港に入港している外国船からの無線傍受でした。松本望の幼少から青年期は、父の松本勇治牧師の影響が大きかったようです。松本勇治牧師が洗礼を授けた人達の中には、やがて聖書学者となる黒田幸吉や東大総長となる矢内原忠雄がいました。そういう意味でも、日本のキリスト教歴史にも大きく貢献した人物なのです。
ラジオ製作会社に勤めて10年目ぐらいの時なのでしょうか。あるキリスト教関係の団体から「あなたの人柄を見込んで、独立資金を援助しましょう」という話が来ました。彼は独立を決意しました。会社名を「福音電機製作所」と命名し独立しました。昭和12年のことです。福音とは「キリストのよき知らせ」のことであり、私は音を通して世に貢献するという決意が込められていました。さらに昭和14年東京に進出し、音羽に「福音電機製作所」の看板を掲げました。しかし奥さんが機械のコイールを巻くという家内工業的なものでした。昭和22年には、さらに会社は拡大を続け「福音電機製作所」の名前を変え「福音電気会社」となりました。さらに発展を続け、昭和36年に社名を現代の「パイオニア株式会社」と命名しました。
パイオニアの社名のように、松本望は音の分野の開拓者であることを社訓のひとつとしています。そのことを現すエピソードが残っています。パイオニアがレーザーディスクを世界に先んじて作った時でした。最初その製品は全くと言っていいほど売れなかったそうです。その時の松本望は、弱気になっていた社長や社員に「全くの新製品なのだから、売れなくて当たり前だ。あわてるな!」と言って励ましたと言うのです。今やレーザーディスクの無い家を探すのが難しい程になっていますね。松本望は1994年7月15日、83歳の天寿を全うして召天しました。松本望は、父親のつけてくれた名前がとても気に入っていたようです。「いつも名前の望がどんな時にも一筋の希望を与えた」と言っています。また松本家の墓標には『されど、われわれの国籍は、天にあり』という聖書の御言が刻まれています。
今日の御言は、松本望の名に入っている聖書の御言「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヨハ 15:7)をあげておきましょう。この御言のように、どんな時にも希望を持って生きましょう。 
犯罪者から伝道者になった人 好地由太郎
聖書に触れた人々NO20で、ノリタケ、TOTO、日本碍子・INAXの創業者、森村市左衛門(6代目)の話をしました。彼は晩年に好地由太郎という巡回伝道者の説教を喜んで聞いて、その人から洗礼を受けクリスチャンになったのでした。その好地由太郎こそキリストを信じて重罪犯から伝道者になったという驚くべき変化を体験した人なのです。
好地由太郎(こうちよしたろう)の幼少時 好地由太郎は、慶応元年(1865)5月15日に上総国君津郡(千葉県君津市)金田村に大村八平の三男として生まれました。由太郎の他に兄が2人、姉が1人いました。しかし明治7年(1874)父と母は別れてしまいました。母と由太郎は、住む家も無く物置同然の小屋で雨露をしのぐ生活をしました。その母とも10歳の時に死別してしまいました。育ててくれる人もなく、父親の残していた借金のために同じ村の農家に引き取られ、労働力として4年もの間、奴隷のように働かされました。
好地由太郎の犯罪 14歳になると好地由太郎は上京し、父親を捜しました。父親を探し出すと、父親は荷物船を所有して貨物の運搬業を営んでいました。その父を手伝い働きました。また父親と別れた時、父親に連れられて行った実姉の家も見つけ出し、同居することになりました。父親が死ぬと、姉の夫で新聞記者・好地重兵衛(芝教会役員)の養子となりました。好地由太郎は都会の悪にだんだんと染まって行き、店の金を持ち逃げしたりして職を転々としました。そして最悪の犯罪を起こしてしまうのです。それは明治15年(1882)18歳の時でした。彼は日本橋蛎殻町の店に雇われたのですが、そこの女主人を強姦し放火したのです。彼は強姦と放火と殺人の罪を犯したのです。牢獄の中でも犯罪者達に恐れられ牢名主となって、房内の囚人全体を仕切りました。
好地由太郎のキリスト教との出会い。彼のいる刑務所に一人の青年が入って来ました。牢名主の好地由太郎は、新参者への当然な習慣として「娑婆でどんな事をしてここに来たのか」と聞きました。しかし青年は「私は何もしていません」と言うばかりでした。何もしないでここに来るはずがないと、囚人みんなで青年を袋叩きにました。すると青年は「私は死んでも天国に行くから良いが、あなたがたは地獄に行くから可哀想だ」というではありませんか。騒ぎを聞きつけて看守が入って来て、青年を連れ出しました。その時、好地由太郎は彼の袖をつかみ「どうすれば君のような心になれるのかと」と聞きました。すると「キリスト教の聖書を読みなさい」と一言残して出ていきました。実はこの青年は路傍伝道をしていたところ、警察にやめるように注意されたのですが聞き従わなかったので逮捕され、間違って重犯罪者の房に入れられてしまったのです。そのことが分かり、20分か30分の後に釈放されています。その青年の言葉が気になり、好地由太郎は姉に頼んで聖書を差し入れてもらいました。しかし好地由太郎は、文字が読めなかったのです。自然と聖書から遠ざかってしまいました。
くりかえした脱獄と脱獄計画 彼は死刑の日を待つ身でした。後に無期懲役に減刑されたにも関わらず脱獄を繰り返し、逮捕されては刑務所に逆戻りしました。そのような北海道の刑務所暮らしの中で、不思議な同じ夢を三度もみました。明治2年(1889)1月2日の夜のことでした。子供達が現れて「若者よこの本を食せよ」と語りかけました。しかし彼は文字が読めず、その聖書が読めなかったのです。
文字の勉強と聖書の暗記 彼は文字の勉強をして聖書を読もうと決心しました。すると囚人達の彼に対する迫害が多くなってきました。それでもなんとしても聖書を読もうと勉強を続けました。ついに誰にも邪魔されないように、独房入りを願ったのでした。ついに3年間でほぼ新約聖書を暗記してしまいました。さらに4年間の独房生活で、旧約聖書もほぼ暗記してしまいました。しかし彼には無期懲役に加えて、脱獄等の罪の9年までもある身だったのです。さらに減刑があったようで、出獄の時がやってきました。明治37年(1904)のことです。彼は釈放されました。彼は釈放後、キリスト教伝道者の中田重次らと共に、各地を伝道して回りました。たくさんの人達が彼の伝道によって救われました。その中の一人がノリタケの創業者、森村市左衛門です。彼は好地由太郎のファンでした。洗礼は好地由太郎先生にして頂くと決めて、洗礼を授けて頂いたほどです。 
神様は、文字の読めなかった好地由太郎に聖書を与え、文字を教え、多くの人々の伝道者としました。彼の伝道によって、学者や実業家に至るまで多くの人々が救いに導かれたのです。極悪人・好地由太郎が、聖人・好地由太郎になったのです。人間的に見れば害にしかならないように見える人でも、イエス様は神の人とすることが出来るのです。イエス様の人間を作り変えるお働きは今も続いています。ミッションバラバなどの存在がその良い例でしょう。
今日の話に相応しい聖書の言葉を挙げておきます。
マタイ 3:9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 
日本人最初の聖書の翻訳者 ヤジロウ
今年も、婦人聖研では聖書に触れた人々をお話ししていきたいと思います。さて、キリスト教を日本に最初に伝えたのがフランシスコ・ザビエルであることは、学校の歴史教科書で誰もが習ったことです。しかし、そのザビエルから最初に洗礼を受けた日本人については、あまり知られていません。その人はヤジロウ(矢次郎)と言う人です。彼はインドのゴアで、ザビエルから洗礼を受けました。今日はこの人のことを取り上げてお話ししましょう。私達が持っている日本語訳の聖書にも、歴史があります。フランシスコ・ザビエルが持ってきたであろうヤジロウ訳の「マタイの福音書」こそ、日本語の最初の聖書でした。彼はインドのゴアで日本人のヤジロウという青年に出会い、日本伝道の決意をしました。そして1549年(天文18年)に、マタイの福音書をもって鹿児島に上陸したのです。
ヤジロウは薩摩(鹿児島県)の出身です。その彼がなぜインドにいたのでしょうか。彼の日本での職業は商人でした。日本の士農工商という身分制度の中では、一番身分が低い立場でした。彼は、仕事上のトラブルから仲間と喧嘩となり、その人を殺してしまったのです。殺人という罪を犯してしまった者は、刑罰として死刑になる可能性がありました。そこで彼は、家族と家来を連れてインドへと逃亡したのです。
ヤジロウとザビエルは、1547年の12月にマラッカで出会いました。翌年の1548年5月20日にヤジロウは、家族と家来全員でザビエルから洗礼を受けたのです。その日はペンテコステの日でした。ところはインドのゴア市の大聖堂でした。その後ヤジロウは、ゴアの聖パウロ学院でキリスト神学を学びました。ザビエルはヤジロウにキリスト教を伝え、ヤジロウからは日本の様子を聞きました。その事によって、ザビエルは日本伝道を決意したのです。ヤジロウはザビエルの要請によって和訳聖書の翻訳に協力しました。そうして翻訳されたのは「マタイの福音書」等の部分的なものでした。しかしそのマタイの福音書が、ザビエルの日本伝道に大きく貢献したことは間違いありません。ヤジロウもザビエルと共に帰国し、故郷の薩摩に上陸しました。逃亡から僅か三年後のことでした。ザビエルの日本滞在はわずか2年3カ月でした。しかしその伝道の発展は目覚ましく、山口ではわずか5ヶ月間で500人の信者を得るという驚異的な成果を見たのでした。この様な目覚ましい伝道に、ヤジロウ訳の聖書がどれほど力を発揮したかは計り知れないものだったでしょう。残念なことにヤジロウの訳したその日本語訳聖書は、現在は断片すらも残っておりません。どこかで発見されて欲しいものです。
日本人最初のクリスチャンは、殺人犯のヤジロウという逃亡者であり、最初の日本語聖書「マタイの福音書」の翻訳者も、ヤジロウという人の訳であったことを知りました。その逃亡犯がキリストの福音によって救われ、帰国の危険を顧みず日本人の救いの為に、ザビエルと共に帰国する決意に至ったことを考えると、人間に及ぼすキリストの福音の力は驚くばかりです。ヤジロウは命を顧みず、ザビエルと共に日本伝道に燃えたのです。
ヤジロウの生涯を学び「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ 15:10)の御言が浮かんできました。ヤジロウはキリストの救いに触れた時に、命の為に逃げ回るという逃亡生活に終止符を打ち、命よりも大切なものに命をかけたのです。私達もクリスチャン・ヤジロウに学びましょう。 
ジョン万次郎
昨年の11月に、四国の土佐清水に聖会の奉仕の為に訪れました。その土佐清水には、わが教団の名物竹中通雄牧師がいます。その牧師は、よく郷土の歴史を知っている方で、聖会会場に向かう車の中で行きも帰りも四国や土佐清水の歴史を話して下さいました。四国は坂本竜馬の出身地でもあり、日本の近代化にはなくてはならない人々がたくさん出た所だからです。竜馬があまりにも有名な人物だったために、その陰に隠れてしまっているのがジョン万次郎です。近代日本の夜明けを語るのに、彼のことを話さないわけにはいきません。
中浜万次郎は、土佐清水市中浜の貧しい漁師の家に、文政10年(1827年)の 1月1日に2男3女の次男として生まれました。9歳の時に父親を亡くし、14歳の時には出稼ぎに行っていました。故郷から徒歩一週間もかかる高知の宇佐で漁師として働き、家を支えていたのです。それは、1841年1月5日のことでした。仲間と一緒に足摺岬でアジ、サバの漁中に船が漂流し、万次郎達は遭難してしまったのです。数日間漂流した後、無人島(鳥島)に漂着しました。その島で143日間、過酷な生活をすることになりました。しかしその近くまでクジラを求めてきたアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に発見され、救助されました。
しかし、鎖国であった当時のことです。アメリカの船は日本に近寄れずに、万次郎達は帰国することはできませんでした。彼らはやむなくアメリカへと向かいました。仲間は途中のハワイで降りましたが、万次郎はアメリカ本土へと向かいました。ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を大変気に入って、自分の家のあるマサチューセッツ州のフェアヘーブンに連れて行きました。船長は、万次郎を船名にちなんでジョン・マンと名付けました。アメリカで万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、アメリカで学校教育を受けることになりました。日本では寺子屋にさえ行ったことがなく、当時の漁師が皆そうだったように無学でした。しかし彼はアメリカの学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術を学びました。しかも主席に近い成績だったと言います。ジョン万次郎は、アメリカの教会で洗礼を受けクリスチャンとなりました。その後一時は、捕鯨船に乗ってクジラ漁にも出たことがあります。
しかし彼の心には、募る思いがありました。それは日本への思いであり、故郷土佐清水中浜への思いでした。彼はその旅費を作るために、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアへ移り、金鉱山で働き資金を得ました。それで船を購入し、日本へ向かったのです。途中ハワイに寄り、仲間達と一緒に船に乗り込み日本を目指しました。嘉永4年(1851年)のことです。万次郎達は、薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に上陸しました。その後、沖縄・薩摩藩・長崎奉行所などで長期に渡って取り調べを受けることになりました。その取り調べの資料を用いて、河田小龍によりまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。この書を通して坂本龍馬や多くの幕末志士達がアメリカの様子を知り、海外に目が開かれていったに違いないと言われています。その後スパイの嫌疑がはれて、高知城下の藩校「教授館」の教授になりました。その教授館で岩崎弥太郎等が彼から直接指導を受けたのです。嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港、幕府に条約締結を迫り、ついに同年3月3日、日米和親条約が締結されることとなります。
時代は万延元年(1860年)となり、幕府は日米修好通商条約の締結の為に、アメリカに海外使節団を送りました。万次郎はその通訳として任命されました。その軍艦咸臨丸には、勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物が乗っていたのです。勝海舟は、咸臨丸の艦長でした。しかし酷い船酔いに苦しみ、実質的には万次郎が艦長であったと竹中師は言っていました。アメリカで航海術を学んでいた彼ですからそうだったのではと思います。アメリカに着いた勝海舟や福澤諭吉は、礼儀正しく日本式に頭を下げて挨拶しました。しかし万次郎は、握手とハグで挨拶しました。それを見て勝海舟や福沢諭吉達が「漁民の分際で生意気だ」と、機嫌を悪くしたとのエピソードもあります。時は明治となり、明治政府の命を受け万次郎は開成学校(現東京大学)教師となり、明治3年には教授となりました。しかしその後、彼は世の中の表舞台には出ることなく、71才の生涯を東京で終えました。彼の生涯のある時期には、板垣退助と一緒に四国の村を、万次郎は聖書の話をして、板垣退助は自由民権運動の話をして回ったそうです。 
ジョン万次郎がいなかったならば、坂本竜馬も、勝海舟も、福沢諭吉も、板垣退助も、岩崎弥太郎も歴史的な人物となりえなかったかも知れません。ひいては鎖国を続けて来た日本の夜明けはなかったかもしれません。彼こそ日本の最初の国際人でとなった人でした。遭難と漂流という苦難で始まったジョン万次郎の数奇な人生。しかし近代日本の夜明けの為に、土佐清水の漁師にすぎない万次郎を神様が用いられたのです。
創世記には、自分の兄弟達にエジプトに奴隷として売られるという悲劇的な人が出てきます。エジプトで総理大臣にまでなったヨセフです。数奇な人生をたどりました。しかし彼は後に自分を売った兄弟達と会った時に「私を遣わしたのはあなたがたではなく、実に神なのです。」(創45章8節)と言いました。神様の計画を知ったのです。
私達にも、自分の意に反するような数奇さが人生にはあるのです。しかし神様がそうして下さったと知ることの出来る人は幸いです。私達も神様の計画を感じる人生を生きようではありませんか。 
祖国を失った音吉と和訳聖書
聖書に触れた人々について、3回にわたって海外でクリスチャンになった人々のことを話しました。ひとりは、殺人の罪を犯して海外逃亡したヤジロウでした。彼は1547年の12月に、マラッカで中国伝道を目指していたザビエルに会い、翌年に洗礼を受けました。ヤジロウから日本の状況を聞いたザビエルは、日本伝道を夢見てヤジロウの協力によって和訳のマタイの福音書を完成しました。ザビエルは、それを持って1549年(天文18年)鹿児島に上陸したのです。その時、ヤジロウも一緒でした。
次に話したのが江戸から明治に変わろうとする時代1841年1月5日に、足摺岬でのアジ・サバ漁中に漂流民となってアメリカに渡り、洗礼を受けた漁師ジョン万次郎でした。さらに外国でクリスチャンになった人物で忘れてならない人は、現存する最古の日本語訳聖書翻訳に貢献した岩吉・久吉・音吉の船乗り達のことです。彼らもまた、1832(天保3)年10月11日の航海中に船が操縦不能となり、漂流民となってアメリカに流れ着いた人達でした。
当時、大阪から江戸へ船で物資を輸送することが盛んでした。音吉らの乗る千石船「宝順丸」も、14名の船員を乗せて江戸に向けて出港しました。積み荷は米と陶器類でした。しかし途中で嵐に遭い、舵を失い操縦不能となってしまいました。太平洋を14ヶ月も漂流し、アメリカの西海岸の北方(カナダとの国境付近、フラッタリー岬付近)に漂着しました。漂着した時には、岩吉・久吉・音吉の3人になってしまいました。みな漂流中の船中で病死してしまったのです。そこはインディアンの居住区であり、彼らは原住民の奴隷となってしまいました。そこで1年間程過ごすうち、積み荷の陶器がアメリカで出回り始め、日本の陶器が評判になりました。その事がきっかけで、音吉達の漂着のうわさがハドソン湾会社の支配人のイギリス人ジョン・マクラフリンの耳に入りました。彼は、この人達を助け送り届けることによって、日本との通商の道も開けるのではないかと考えました。彼ら日本人をインディアンの奴隷から救い出し、その地の学校に入学させ、英語とキリスト教を学ばせました。
その後、日本との通商の道を切り開くため日本へと向かいました。まずワシントン州からハワイを経て、イギリスのロンドンへと向かいました。イギリス政府と日本政府との通商の許可を得ようとしたのだと思います。しかし当時のイギリス政府は、日本との交渉に熱心ではありませんでした。やむなくマカオに音吉達を送りました。音吉達にとって、日本を出てから既に三年が経っていました。
彼らは、マカオでドイツ生まれの宣教師、カール・ギュツラフに会いました。ギュツラフは日本の宣教を目指しており、日本語の聖書が必要でした。そのために音吉達は、ヨハネの福音書の翻訳を手伝うことになりました。翻訳している一年の間に、九州の難破船からの4人も送られてきて合流しました。ついに1837年7月30日漂流してから5年ぶりに、音吉達を乗せたモリソン号が江戸湾の浦賀港に近づいたのです。すると幕府軍による問答無用の砲撃を受け、上陸が出来ませんでした。そこでモリソン号は、鹿児島湾に回り上陸しようとしました。しかしそこでも砲撃を受け、上陸できずに祖国を諦め上海へと引き返しました。その後、音吉は結婚して家庭を持ちました。音吉の生涯はそこで終わるわけではありません。1849年には、通訳として中国人(リン・アトウ)と名乗り、イギリスマリナー号で浦賀に上陸しています。また1854年には、日英和親条約締結のためイギリスのスターリング艦隊の通訳として長崎へきました。 
さて彼らの翻訳したヨハネの福音書ですが、翻訳完成の23年後つまり1859年に、プロテスタントの宣教師ヘボンが、その聖書を持って宣教の為に上陸しました。音吉達の協力によって、初めて翻訳された「ヨハネの福音書」を持ってきたのです。このヘボンこそ「ヘボン式ローマ字」を考案した人です。
音吉達の話に戻りますが、彼らは懐かしい日本に帰って来たのに、自分の国の日本からは大砲によって追い返されました。日本の国籍を失ったのです。しかし彼らには、聖書の教える国籍がありました。その御言葉を心に留めましょう。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリ 3:20)。
私達にも天に本当の国籍があるのです。そのことを忘れず、天国を目指しましょう。そこには、大歓迎してくださる神様がおられるからです。 
 

 

殉教者日本二十六聖人の中の二人
長崎には殉教したキリシタン時代の26聖人の像があります。この時代のクリスチャンに、この様な偉大な信仰者たちがいたことを、私は驚きと共に日本人クリスチャンとしての誇りさえ感じました。今日は長崎で殉教した26聖人についてお話致しましょう。
1549年(天文18年)に、フランシスコ・ザビエルによってキリスト信仰が日本に伝えられました。それから48年後、この事件が起こりました。時は西暦1597年2月5日のことです。豊臣秀吉の命令によって、長崎で26人のクリスチャンが処刑されました。日本の最高権力者の命令によってキリシタンが処刑されたのは、初めてのことでした。豊臣秀吉は、宣教師はもちろん国内のすべてのキリシタンを処刑するように命じました。ところが、いざキリシタンの名簿を作り始めると、キリシタンのあまりの数の多さに驚きました。当時のキリシタン人口は30万人を超えていたのです。ちなみにその当時の日本の人口は2000万人くらいでしたから、その人口から見て30万のクリスチャン人口は相当な数だったのです。秀吉は方法を変えました。宣教師と日本人信者を何人か捕らえて処刑し、他の信徒達への見せしめにし、信仰を捨てさせようとしたのです。
豊臣秀吉は、最初キリスト教の伝道を容認していました。しかし突然、禁教へと豹変しました。ついに1596年(慶長元年)12月8日「キリシタン逮捕令」を出しました。その逮捕令によって、京都で24名のキリシタンが逮捕されました。逮捕の目的である人々への見せしめのために、鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛車に乗せられ、引き回わされました。人々はその姿をこぞって見学しました。その後24人は京都から堺・大阪へ、そして長崎の処刑場まで歩かされ、沿道の人々の目にさらされました。人々に「キリスト教を信じたら、お前達も同じ目にあうぞ」という恐怖を植え付けようとしたのです。
しかし殉教者は24人でなく26人でなかったでしょうか。京都で捕えられたのは確かに24人でした。あとの2人は逮捕された人ではなく、途中で自分から願い出て殉教者の隊列に加わった人なのです。ペトロ助四郎とフランシスコ吉の2人でした。フランシスコ吉は、7ヵ月前に洗礼を受けたばかりの大工でした。彼らは約一カ月以上素足で歩かされ、処刑場の長崎にたどり着きました。季節は12月〜2月の真冬でした。そして2月5日に、長崎の西坂の丘で次々に処刑されたのです。その丘には十字架が26本一列に立てられたと言われています。その日は、キリシタンたちの処刑の様子を見ようと多くの人々が集まりました。その中には大の見せしめのために、鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛車に乗せられ、引き回わされました。人々はその姿をこぞって見学しました。その後24人は京都から堺・大阪へ、そして長崎の処刑場まで歩かされ、沿道の人々の目にさらされました。人々に「キリスト教を信じたら、お前達も同じ目にあうぞ」という恐怖を植え付けようとしたのです。その中には大勢のクリスチャンもいました。クリスチャン達は、ある者は賛美歌を歌い、ある者は聖書の言葉を語りながら殺戮されていったと言われています。その時の殉教者は、日本人20名、スペイン人5名、ポルトガル人1名の合計26名でした。
その後も長崎の西坂の丘は、キリシタン処刑の地として続きました。そこで殺害されたクリスチャンは約600人と言われています。まさにキリストの十字架が立てられたゴルゴタの丘のようです。日本のゴルゴタの丘と言うことが出来るでしょう。今そこには(長崎県長崎市西坂町7–8)、26聖人の碑が立てられています。私はまだそこに行ったことはないのですが、そこと五島列島は是非行ってみたい所です。それにしてもこの事件で衝撃的なのは、26人が信仰のゆえに殺害されたことは勿論のこと、捕らえられていなかった二人が、自分から願い出て殺害される隊列に加わったということです。同じ神様を信じていながら、24人の人達は耳も鼻もそぎ落とされ見せしめの為に人々にさらされているのに、自分だけが難を逃れているのが許せなかったのでしょう。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(1コリ12:26) と言う聖書の言葉が浮かんできます。それともう1ヶ所「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙2:10)を今日の御言葉としてあげておきます。 私達は「あの人に躓いた」とか、「あの人と気が合わない」などと言って信仰に躓くことがあります。何と小さな信仰でしょう。私達の先輩である日本人クリスチャン達にも、信仰を捨てるよりも死を選んだ偉大な人達がいたのだと言うことを誇りに思いましょう。そして私達もその信仰に習って、強い信仰者になりましょう。 
細川ガラシャ夫人の一途な信仰
細川ガラシャは、1563(永禄6年)明智光秀の三女として生まれました。名は玉といいました。ガラシャの父は織田信長に仕えていましたが、1582年突然、信長に反旗を翻し、信長が宿泊していた本能寺を襲撃しました。その結果、信長はそこで自殺に追い込まれました。それが「本能寺の変」と言われる事件です。その後、明智光秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との山崎の合戦で敗れ戦死すると、その一族も衰退していきました。一方ガラシャは、父の光秀が織田信長に謀反を起こす前、つまり信長に仕えていた時、信長の勧めによって戦国武将の勝龍寺城主細川(ほそかわ)藤(ふじ)孝(たか)の長男、細川(ほそかわ)忠(ただ)興(おき)と結婚しました。ガラシャが16歳の時でした。
主君を本能寺で自殺に追い込んだ明智光秀の娘ガラシャは、丹後(兵庫県北東部)の山奥に幽閉されてしまいました。2年後に豊臣秀吉に赦され、細川忠興家に帰ったのですが、忠興に監禁同然の生活を強いられ、外部との接触を禁止されてしまいました。そのような中で、どのようにしてガラシャはクリスチャンになることが出来たのでしょうか。ガラシャがクリスチャンになるきっかけになったのは、千利休の茶室が一役買っているのではないかと言われています。それは、千利休に選ばれた7哲と言われた7人の弟子の中に、熱心なクリスチャンがいたのです。それは切支丹大名で有名な高山右近でした。また細川忠興もその7人の中の一人だったのです。おそらく高山右近の何らかの影響があったのではないかと言われています。またガラシャにはマリヤという侍女頭がいました。マリヤはクリスチャンで、そのマリヤという名は洗礼名でした。その影響が強くあったと思われます。
ガラシャは監禁同然の生活が続く中、意を決して教会に行ったことがあります。それは1587年のことでした。それは、夫の忠興が秀吉の九州征伐に伴って出陣していた時で夫が留守だったのです。彼女は密かに裏門から出て教会に行きました。初めて教会に行ったその日、教会ではちょうど復活祭の礼拝が行なわれていました。ガラシャは「自分は二度と教会に来られないから、今日洗礼を授けてほしい」と願いました。しかし洗礼は認められませんでした。素性を明かさず洗礼を願い出たガラシャに、教会は洗礼を授けるのをためらったようです。ガラシャが教会に行けたのは、その時一回限りでした。しかし侍女達には、理由を作っては外出させ、教会に行かせました。帰って来た侍女達に教会で聞いた話を、今度はガラシャが聞くという方法で、信仰を培って行ったようです。ガラシャが侍女達を教会に行かせた結果、侍女達16名が洗礼を受けてクリスチャンになりました。ガラシャは、その侍女達と屋敷で神に祈りを捧げていたといいます。
ガラシャが教会に初めて行ったその1587年、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出されました。 ガラシャは、宣教師が帰国する前に洗礼を授けてほしいと侍女を通じて願い続けました。しかし、もはや宣教師がガラシャに洗礼を授ける状況ではなくなっていました。宣教師は一案を講じました。それは、ガラシャの侍女の一人に洗礼の仕方を教えたのです。ガラシャはその侍女から洗礼を受けたのです。その時の洗礼名が「ガラシャ」でした。その意味はスペイン語の”gracia”あるいはラテン語の”gratia”であり「恵み」という言葉でした。この頃、先週話した26聖人が長崎で殉教しているのです。
そのようなガラシャにも、この世での最期を迎える時が迫っていました。夫が東軍の徳川方につき、上杉討伐のため戦いに出ている時でした。その隙に敵である西軍の石田三成が細川屋敷を取り囲み、そこにいたガラシャを人質に取ろうとしました。ガラシャは自害しようと決意しますが、自害は神の御心に反するという宣教師の教えに従い、家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて果てたのです。その時、辞世の句としてガラシャが詠んだ「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」という歌があります。何と覚悟に満ちた美しい言葉でしょう。その後、家老の小笠原秀清はガラシャの体が残らないように、屋敷に爆薬を使って火を放ちました。 聖書には女性の名で呼ばれている書が二冊あります。ルツ記とエステル記です。ガラシャの生涯を見て旧約聖書のエステルを思い起こしました。エステルはユダヤ人を虐殺から救うために立ち上がります。その時のエステルの決意が、エステル記4章16節に「私は死ななければならないのでしたら死にます」と記されています。ユダヤ人を虐殺から救うために、信仰によって命をかけた女性なのです。ガラシャも、エステルのように信仰を一途に求め生きたクリスチャンでした。私達も細川ガラシャにならって、信仰に一途さを持ちましょう。 
貧しい人々と共に 賀川豊彦
賀川 豊彦(かがわ とよひこ)1888年7月10日(明治21年)−1960年4月23日(昭和35年)は、大正・昭和におけるキリスト教社会主義運動家でした。彼は海の運送業を営む家に生まれるも、幼少の時に父母とは死別してしまいました。5歳の時に、姉と共に徳島の本家に引き取られました。しかしその本家も、彼が15歳の時に破産してしまい、今度は叔父の森六兵衛の家に引き取られました。彼の幼少期は、そのように大変な体験の時代でありました。
彼は、徳島中学校時代の1904年(明治37年)、日本基督教会徳島教会にて南長老ミッションのH・W・マヤス宣教師より洗礼を受けてクリスチャンとなりました。この頃、様々な本を読みキリスト教社会主義に強く共感しました。またある時はトルストイの反戦論に共鳴し、軍事訓練サボタージュ事件を起こした事もありました。その後、彼はキリスト教の伝道者になろうと、明治学院高等部神学予科と神戸神学校へと進みました。
クリスチャンとしての社会活動を開始するきっかけとなったのは、神戸神学校の時代に「イエス様の精神を発揮してみたい」と神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始したことに始まります。1911(明治44年)に神戸神学校を卒業し、翌年の1912(大正元年)にその新川のスラム街で、一膳飯屋「天国屋」を開業しました。それもその町の人々を助けるためでした。まもなく女工のハルとスラムで出会い、1913年(大正2年)に神戸の教会で簡素な結婚式を挙げました。その結婚式にはスラムの人々を招待し、御馳走をふるまいました。また集まったスラムの人々に、新妻ハルを「私はみなさんの女中をお嫁にもらいました。あなたがたの家がお産や病気で手が足らなくて困った時には、いつでも頼みに来てください。喜んで参ります。」と言ったそうです。
彼は1914年(大正3年)に渡米し、プリストン大学・プリストン神学校に学びました。1919年(大正8年)日本基督教会で牧師の資格を得ました。その次の年1920年に、自伝的小説『死線を越えて』を出版しました。それがベストセラーとなり、賀川豊彦の名を世間に広めるきっかけとなりました。その時の本の印税は全て社会運動のために充てました。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(現在のコープこうべ)を設立し、生活協同組合運動にも取り組んだのです。生協は今日本中に広まっています。
彼はさらに日本農民運動にも取り組みました。1922年(大正11年)に日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組みました。組合は急速に発展し、3年後の1925年(大正14年)末には、組合員数はあっという間に7万人を超えた程でした。その運動は地主から小作人を守るための組合活動でした。
また1923年(大正12年)に関東大震災が起こると、急きょ関東に移って救済活動を行ない、被災者の救済とその子供達を集めて世話をしました。その事がきっかけとなって、社会福祉法人「雲柱社」が創立されました。その法人名になった雲柱とは、イスラエルがエジプトの奴隷から解放されて祖国イスラエルに荒野を通って帰ってくる時、神様が昼は雲の柱、夜は火の柱となって守って下さったという聖書の記事から取られたものです。雲柱社は現在、障害児・障害者支援施設。保育施設。子ども家庭支援センター。児童館・学童クラブなど数多くの施設を運営して、賀川豊彦の意思を実践しています。賀川豊彦の生涯は、キリスト者として貧しい人達に愛と情熱を注いだ生涯でした。ここには書くことが出来なかった彼の働きは、まだまだ多くあるのです。賀川豊彦の生涯を見て、心に浮かんだ聖書の言葉は「へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。(箴言16章19節)です。私達も賀川豊彦先生にならって、貧しい者や弱い者への配慮を忘れないようにしましょう。 
慶長遣欧使節団
今年と来年にかけて日本とスペインは、2010年9月の日本スペイン首脳会談における合意を踏まえ、「日本スペイン交流400周年事業」を行なうことになっています。それは今年が慶長遣欧使節団派遣からちょうど400周年に当たるからです。400年前の1613年は伊達政宗の時代です。その年の10月28日、仙台藩内で造った木帆船の「サン・フアン・バウティスタ号」(洗礼者聖ヨハネという意味)が、宮城県牡鹿郡月ノ浦を出帆しました。それは伊達政宗の命による慶長遣欧使節団でした。団長は支倉常長(はせくら つねなが)。案内役はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロでした。総勢180名の大人数でした。目指すは、スペイン領のメキシコを経由してスペインとローマです。
伊達政宗が「慶長遣欧使節団」を遣わした目的は何だったのでしょうか。その目的は、スペイン国王に会い、当時スペイン領であったメキシコとの直接貿易の許可を得るためでした。またローマ法王に会い、仙台領内での布教のために宣教師の派遣をお願いするためでした。それは策略でもあったという説もあります。その策略とは、伊達政宗がスペインと手を組んで、徳川の支配から独立し欧州国を作ろうと考えていたという説です。当時徳川幕府も、メキシコとの貿易を望んでいました。ですから伊達政宗は、表向きは幕府公認の行動として使節団派遣を送ったのです。しかし事態は急変しました。彼らが3ヶ月後にメキシコに着いた頃には、日本で家康は切支丹禁教令を布いたのです。
日本における切支丹弾圧が開始されたことに起因してか、多くの日本人はメキシコに留まりました。メキシコからスペインまで行った人は僅か30名程にすぎませんでした。メキシコを出てスペインに着いた使節団は、スペインの国を挙げての大歓迎を受けました。スペインにとっても、黄金の国とのうわさの日本と交易することは願ってもないことだったのです。1615年2月17日、団長の常長は、王立女子修道院付属教会において、スペイン国王やフランス王妃たちの列席のもと、洗礼を受けました。またローマ教皇パウロ五世にも会いました。その時の伊達政宗からの親書が、今バチカンにあります。そのローマ訪問の時に、8名の日本人にローマの市公民権が授与されました。
しかし、日本の状況はキリスト教弾圧へと向かっていました。それがスペインにも伝わると、大歓迎だったスペインの熱が冷め始めました。また日本はどうも黄金の国ではないらしいと言う情報も伝わり、通商条約も成立しませんでした。スペインに行った日本人武士たちも、祖国でキリスト教弾圧が始まったことを知らされ、帰国を断念する者も起こりました。幕府の方針に押されて、伊達政宗の率いる仙台藩も、常長の帰国直前に領内にキリシタン禁令を出しました。仙台藩領内でも、1624年にはカルバリオ神父(ポルトガル人宣教師)と仙台のキリシタンが捕えられ処刑されました。広瀬川での水責めによる殉教でした。宣教師を呼ぶために使節団を派遣した政宗も、幕府には従わざるをえない状態となったのです。
1620年9月 常長ら使節団は、同航してくれた宣教師ルイス ソテロをマニラに残し、船便で帰国しました。帰国したのち仙台藩においても冷たく扱われ、2年後には52歳で死去ました。その後、ルイス ソテロ宣教師はマニラから薩摩に密入国しましたが、見つかり逮捕されてしまいました。そして2年後の1624年火炙りの刑が宣告され殉教しました。使節団の中にいたクリスチャンの数名は、キリスト教迫害に舵を切った祖国を捨て、スペインに留まることを決意しました。おそらく6〜8名だったと言われています。スペインには「私は慶長遣欧使節団の子孫」と名乗っている人々の住む村があります。その人達は名字を「ハポン=日本」と呼び、現在約830名がいます。その村では昔から日本式の稲作を行なっています。スペイン人は、出身地を苗字にすることがよくあります。たとえば画家のエル・グレコの名前は、ギリシャ人と言う意味です。そのような習慣で慶長遣欧使節団の子孫として「ハポン=日本」という名前の人がいてもおかしくはないのです。徳川家康も伊達政宗も、自分の領土と繁栄を守るために必死でした。そのためのスペインとの交易交渉でした。しかし両方とも今は過去の人となりました。今日は「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」(Tヨハ 2章17節)という御言を心に留めましょう。徳川家康も伊達政宗も、巨大な力を背景にしてキリスト教徒を迫害しましたが、しかし徳川幕府は倒れ、伊達政宗の権力も現在は微塵も見当たりません。しかし日本においてキリストの教会は、今も生き続けています。最後にもう一つ御言を挙げておきましょう。それは「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(Uコリント4章8〜9節)という御言です。私達一人ひとりは弱いように見えますが、神様を信じる者は実は強いのです。たとえ「倒されても滅びない」のです。 
キリストと農業のために生きた津田仙
津田仙は、天保8年(1837年)に佐倉藩士(千葉県佐倉市)小島家に生まれました。嘉永4年(1851年)元服して桜井家の養子となりました。14歳の時でした。さらに文久元年(1861年)に24歳で津田家の「初子」と結婚し、婿養子となり津田姓となりました。彼は幕府の命令によって様々な学問を学び、語学に長けていました。慶応3年(1867年)には、アメリカへ軍艦引取り交渉のために、通訳として派遣された程です。その時、かの福澤諭吉らも一緒でした。
明治8年(1875年)1月には、米国メソジスト教会のジュリアス・ソーバー宣教師により、妻の初子と共に洗礼を受け、クリスチャンとなりました。津田仙は日本の農学者であり、学農社の創立者であり、青山学院大学の創立に関わり、筑波大学付属盲学校の設立に関わりました。当時は同志社大学の新島襄、東京帝国大学の中村正直らと共に、キリスト教界の三傑と言われたそうです。
津田仙の農学者としての働きは、近代日本の農業に大きな影響を与えました。福澤諭吉らと共に渡米した時、彼は西洋農法に強い感銘を受けて帰国しました。さらには明治6年(1873年)に、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席した時、オランダ人の農学者、ダニエル・ホイブレイクの考えに深く共感しました。そして彼は、日本を西洋式の農業にしようと活躍しました。またウイーン万博から持ち帰ったニセアカシヤの種を発芽させ、その苗を明治8年(1875年)に東京の大手町に植えました。これが東京初の街路樹となりました。また明治9年(1876年)には、アメリカ産のトウモロコシの種を、日本の農家に通信販売を始めました。それが日本での通信販売の最初と言われています。
クリスチャンとしての津田仙の働きは、日本の農業を変えるために設立した農業学校の学農社において、日曜学校を開校し、日曜学校の教師にフルベッキ―(宣教師・法学者・神学者・聖書翻訳者・教育者)やクリスチャンで農学者でもあった内村鑑三を招いたりして、学生達にキリスト教を土台とした教育を授けました。彼はミッションスクールの設立にも協力し、盲人の教育にも力を注ぎました。日本最初の公害問題と言われている足尾銅山の鉱毒問題の田中正造を助け、農民運動にも力を注ぎました。
その他にも彼の活動はたくさんありますが、時間の都合上ここまでにしておきましょう。津田仙には、津田塾大学の創立者である娘の梅子がいます。この人もまた素晴らしい働きをしたクリスチャンで、1871年に僅か6歳で渡米留学しました。翌1872年には、自ら申し出てアメリカでクリスチャンになりました。1882年に18歳で日本に帰国し、皇族立の女学校の教師となりましたが、当時の日本の女子に対する考え方に失望し、再度渡米し学問を積みました。その後、激変する明治の日本において、女性の近代化教育が急務であるとの大きな夢をもって帰国し、「女子英学塾」を設立しました。それが津田塾大学となりました。まさに親子に亘るキリスト者としての働きでした。
津田仙は明治41年(1908年)、東海道本線の車内で脳出血のため召されました。71歳でした。青山学院講堂で行なわれた告別式には、内村鑑三や新渡戸稲造の姿もありました。
津田仙の生涯には「日本で最初の・・・」と言う言葉が幾つもつけられる偉大な生涯でした。その生涯にふさわしい御言葉として、伝道の書11章6節の「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」を上げておきたいと思います。 
井上伊之助と愛
私達の教会のホームページの中には、歴史の中に埋もれていたクリスチャン達を掘り起こした「聖書に触れた人々」というブログがあります。そこにはすでに三十人の人達の名が挙げられています。最近、さらにそこに是非加えるべき人の名が浮かび上がってきました。その人の名は「井上伊之助」(明治十五年〜昭和四十一年)という人物です。彼は高知県の出身ですが、一九〇〇年ごろ、立身出世を願って東京に出て来ました。その東京で内村鑑三の著書を読み、一九〇三年には中田重治から洗礼を受けました。更には伝道者になるために、東洋宣教会の聖書学校に入りました。その二年生の時です。彼の父親が、台湾の花蓮港で樟脳造りの作業中、原住民タイヤル族の襲撃を受け殺されてしまいました。私もタイヤル族の村には七回ほど伝道に行きましたが、非常に勇猛で誇り高い民族です。そのような中、伊之助は聖書学校卒業後、千葉県の佐倉市で伝道しました。しかし一九〇九年の夏のことでした。銚子の犬吠埼で徹夜の祈りをしていると、主から「台湾伝道に行くように」と召命を受けたのです。彼はさっそくその準備に取り掛かりました。その準備とは、伊豆の下田にあった開業医のもとで八カ月間、医学を学ぶというものでした。すでに家族を持っていた伊之助でしたが、単身台湾に渡り原住民伝道を開始したのです。事もあろうに、自分の父親を殺したタイヤル族への伝道です。原住民の居住地に入るには、つい最近まで地元警察の許可書がなければ入っていくことが出来ないような危険地帯でした。神様は、父親を殺したタイヤル族への伝道を伊之助に命じられたのです。「目には目を、歯には歯を」という言葉が旧約聖書にあります。それは復讐の勧めではなく、現代の法律につながっている対等法的な考えです。つまり目を突かれたら、仕返しは最大限、目を突き返すまでにしなさい。歯を折られたら、最大限でも歯を折り返すまでにしなさい。それを越えて命まで取ってはならないという教えです。これが現代の「行なった罪の重さに応じて処罰の量を決める」という法律になっているのです。しかしイエス様はさらに 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」(マタイ五章三八〜三九節)と教えられました。更に「しかし、わたしはあなたがたに言います。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(五章四十四節)と教えられました。伊之助は、イエス様にその実践に遣わされたのです。伊之助が原住民の村に行く直前にも、原住民に日本人が殺されました。伊之助がそのころ書いた物の中に「・・・我も死んだと人に言われん」とあるそうです。死の覚悟で、山深い原住民の村に入って行ったのです。彼は正式な医 者ではありませんでした。僅か八か月、開業医のもとで見習いをしただけの人でした。しかし現地において少しずつ経験を積み、技術も身に着けていきました。ついには、原住民の地域のただ一人の医師として信頼を勝ち取っていったのです。ある時な どは、原住民の家に招かれてそこに泊まることさえありました。ついに、家族を台湾に呼び寄せて活動を続けました。しかし三人の子供たちは、風土病に感染し命を失ってしまいました。しかし伊之助は、原住民の診察を止めずに活動を続けました。ついに、台湾から一九三〇年(昭和三年)に正式な医師免許が与えられました。丁度その年に、原住民による日本人襲撃事件(霧社事件)が起きました。それは、タイヤル族の三百人が起こした抗日反乱事件でした。その時に殺された日本人は、一三四名にも及びました。それは、長期にわたる日本の支配と、その中での原住民達への不当な扱いと搾取が原因でした。その後、原住民の抗日運動は、原住民側の多くの犠牲者を出して鎮圧されました。鎮圧された抗日原住民は、川中島に強制移住させられましたが、そこで原住民にマラリヤが蔓延。そこに駆けつけて治療したのが伊之助でした。そのことが、原住民の中で伊之助が神のように崇められるきっかけになりました。彼は伝道者として台湾に来ましたが、政府によってキリスト教の伝道は許されず、ただ原住民の病気を見るだけの医療活動しか出来ませんでした。彼は戦後、中国国民党によって台湾を追われ、日本に帰国します。台湾に渡って三十年ほどの活動でした。彼の台湾での活動は、本来の目的であるキリスト教の伝道には失敗したかに見えました。しかし伊之助の帰国直後に、大規模な原住民のリバイバル(大勢の人達が一気にキリスト教徒となること)が起こったのです。父親を殺された井上伊之助が、仇に向かって仇で返さずに、キリストの言葉に従い、仇に向かって「愛」で返した生涯が結 んだ実なのです。今も台湾原住民は、日本人に対して非常に友好的です。私も何度も山地のタイヤル族の村々を尋ねましたが、そこには日本文化が根づいていました。最初の訪問の時でしたか、村に近づくとなんと「東京音頭」が流れ、中には浴衣姿で踊っている人までいるではありませんか。まさに井上伊之助の魂と、キリストの愛が原住民の中に生きているのを感じました。キリスト教の伝道は許されないという不自由な中にあっても、キリストの愛を原住民に示し続けた愛の実践者、井上伊之助を決して忘れてはなりません。彼は帰国後、八十四歳で主に召されました。
(注)この文中には「原住民」という言葉が多数使われていますが、この呼び名は原住民自らが選んだ呼び名です。「先住民」ですと、昔はいたが今はいないという響きがあるので、彼らは誇りの為に原住民という言葉を選んだのです。
 
駿府キリシタンの光と影

 

駿府から始まったキリシタン信徒迫害
「キリシタンを迫害する悪皇帝(徳川家康)に相当の報を与え給え。何となれば、彼の政治を行ふ間は善き事を行なふの望みなきが故なり」(「ビスカイノ金銀島探検報告」)このように、スペイン人にうらまれた家康の駿府大御所時代の記録は、残念ながら国内にはあまり存在しない。しかし生死を賭けて来日したキリシタン宣教師らの記録は、海外に数多く残されていることが最近の研究でわかってきた。それらの記録から、「駿府のキリシタン」を取り巻く当時の環境から見てみよう。
駿府にキリシタンの信仰がいつ入って来たかは明らかではない。慶長2年(1597)ごろからはすでに始まっており、駿府市街と安倍川付近に南蛮寺(教会)17世紀の駿府教会地図が2カ所あったといわれている。慶長17年(1612)の「日本全国布教分布図」(山川出版「日本史」所収)によると、駿府の教会設立は江戸より早いことがわかる。駿府におけるキリスト教の布教は、当然それ以前であることは明白だが、資料に登場するのは、慶長12年(1607)閏4月にイエズス会の宣教師パジェス一行が駿府城で家康に拝謁したとき、駿府と江戸での布教を願い出たのが最初である。(「パジェス日本邪蘇教史」)。
しかしこれより先、すでにフランシスコ派のアンジェリスが駿府で開教しており、1カ月に240名余の信者が洗礼を受けていた記録もあるという。
こうした時期に、先に述べたスペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノが来日し、駿府城で家康に謁見した。皇帝家康と無事に謁見が済むと、ビスカイノは宿に帰った。遠い異国から来たビスカイノに会うために、キリシタン信者たちだけでなく家康の息子(義直・頼直・頼房)らをはじめ多くが訪れた。連日、異国の話を聞きに来る者が大勢いたという。それは慶長16年(1611)のことで、このとき、駿府のキリシタン信徒たちの熱狂的な歓迎を受けたことが彼の記録に次のように記されている。
「我々は旅館に帰りしが、同所に皇帝の宮中の婢妾女官と称する方可なるジュリアといふキリシタン、大使を訪問し、ミサ聖祭に列せん為め待ちいたり。この婦人を歓待し硝子の玩具その他の品を与へしが、影像珠数その他信心の品に心を寄せたり。彼女は善きキリシタンなりと伝へられしが、その態度これを証明すと思はれたり。(駿府の)日本人のキリシタン多数、大使に面会し、またミサ聖祭に列席し教師等に接して慰安を得ん為めに来り。彼等より好遇せられしこと、及び他の人々が我等の正教の事を聞き、此処に述べず。この事は実に嘆賞すべきことなりき」(「ビスカイノ金銀島探検報告」)。
大奥の侍女でキリシタン信者であるジュリアがビスカイノに、「ミサに同席させて欲しい」旨を願い出たのである。駿府は、この時点では信者にとっても平和な信仰の地でもあったが、やがて迫害の嵐が吹き荒れる前夜でもあった。
岡本大八事件とキリシタン弾圧
徳川家康の「キリシタン禁教令」は、慶長18年(1613)に発布された。正式名は、「伴天連追放之令」という。初めは、駿府より幕府直轄領に布告され禁止されたものであった。京都の教会を破壊させたのもこの時期と一致している。発端は、本多正純の寄力であった洗礼名パウロと呼ばれた岡本大八が、肥前のキリシタン大名有馬晴信を欺くために、大御所家康の朱印状を偽造したことが発覚したことによる。大八は慶長17年(1612)3月、駿府市街を引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられる前に、拷問に耐えかねて駿府の主なキリシタン信者の名前を白状したため、このときに多くの関係者が捕えられている。有馬晴信も、同年5月に家康の命によって処罰された(「当代記」)。
原主水の銅像〔カトリック静岡教会前〕キリシタン信者の実態調査の命令を受けた駿府町奉行彦坂九兵衛が、さっそく取り調べると、家康の周辺に多くのキリシタンが取り巻いていることが露見した。その中には、家康の鉄砲隊長原主水もいた。のちに捕らえられた原主水は江戸に引き回され、元和9年(1623)12月4日の朝にキリシタン50人とともに処刑された。このとき、諸大名を前にして処刑したのは彼らに対する見せしめのためであった。フランシスコ・ガルベス神父やアンジェリス神父も同時に処刑されたが、彼らの遺骸が信者によって一晩でどこかへ運び去られたことは有名な話である。
アビラ・ヒロンの「日本王国記」から
アビラ・ヒロンは、「日本王国記」の中でキリシタン信徒および宣教師が、徳川家康によってどんなに迫害されたかを記し、ウィリアム・アダムズによって始まったと、次のように厳しく指摘している。「この王国(日本)で難破した船の水先案内であったイギリス人が造った小帆船で、一六一〇年、ドン・ロドリゴはメヒコ(メキシコ)に向け出船した。このイギリス人はアダムズといい、われらの主とキリシタン宗徒たちに不利になるでたらめごとを国王(家康)に告げ口して、われわれをひどい目に合わせたのである」(「日本王国記」)。
アビラ・ヒロンのほかにも、駿府でのキリシタンの平和な時代や、あるいはそれから一転し、迫害へ進んだ事実を目撃した外国人は大勢いた。やがてこの弾圧が、幕府直轄領だけでなく全国的に広がっていったのが翌年慶長18年(1613)であった。このときの「伴天連追放之令」は、金地院崇伝の手によって江戸で一夜のあいだに起草されたものである。
大奥の侍女・ジュリアの信仰と追放
ジュリアのことをアビラ・ヒロンはこう記した。「(駿府城)大奥の侍女ジュリアも追放し、僅かの漁夫しか住まない無人の島、八丈の島に送った。ジュリアは今ではその島で厳しい労働と貧困に耐えている」。駿府城大奥の侍女として仕えたキリシタンの女性の消息を、いち早くキャッチしていたのには驚く。
ジュリアの出生は明らかでない。秀吉の命令で朝鮮に出兵したキリシタン大名小西行長が、戦乱で苦しむ朝鮮貴族の少女(絶世の美女という)を養女として日本に連れて帰ったとする説が有力だ。この少女がどうして大奥の侍女として、特に駿府城内で生活することになったのかは謎である。おそらく関ケ原の合戦で亡びた小西家の養女であったことから、何らかの縁で駿府城大奥の侍女となった可能性は高い。
「日本キリシタン殉教史」もジュリアのことをこう報告している。ジュリアが外国人の記録に初めて登場したのは、ジョアン・ロドリゲスの「日本年報」であった。それによると、「公方様(徳川家康)の大奥に仕えている侍女の中に数人のキリシタンが居て、前にアグスチノ津の守殿(小西摂津守行長)の夫人に仕えていた高麗生まれの人がその中にいる。彼女の信心と熱意とは、たびたびそれを抑制させねばならないほどで、多くの修道女に劣らないものである。(中略)高徳のこの女性は、昼間は、大奥の仕事で忙しく異教徒たちの中にいるので、夜の大部分を霊的読書と信心に励んでいる。(中略)そのため、誰にも知られないようにうまく隠した小さな礼拝堂を持っている。(中略)またたびたび知人を訪問するという口実で許可を得て、教会に来て告白し聖体を拝領する……うら若い女性で、あのような環境の中で、「茨の中のバラ」(讃美歌)のように純潔で、自分の霊魂を損なうよりも命を捨てる決意を固めている」。
この史料からすれば、ジュリアの出自はやはり朝鮮とみて良いであろう。アロンソ・ムーニョも彼女のことをマニラ管区長にこう報告した。「皇帝の宮廷(駿府城)にいる一女性は、キリシタンたちの間でドーニャ・ジュリアと呼ばれ、信仰深く、慈悲の模範になっている。貧しいキリシタンたちを訪ねては多くの人々に食物を施している。たびたび教会に来て熱心に聖体を拝領している。迫害が始まったことを知ると、教会に来て告解と聖体拝領をした。遺言書や必要な準備をし、所持品を貧しいキリシタンに分け与えた。将軍(家康のことか)が欲求のまま呼び出して侍らせる妾ではないかと思われたので、神父は、はじめ聖体を授けようとしなかった。(するとジュリアは)「もしそんなことがあったら、私はそこから容易に逃げ出せます。それができないようだったら死を選びます」と言ったという。この女性は大奥にあって常にキリシタンとしての態度と、信心を保ち、われわれが同宿を必要としているのを知ると、自分が養子にしていた十二歳の少年を同宿として教会に行かせた」(「日本キリシタン殉教史」)。
家康も当然ジュリアが信者であることを知っていた。キリシタン信者の迫害が駿府で始まった時も、家康は彼女を殺さなかった。とかく言われていることは、改宗させて自分の側室にしようとしていたという説もある。余談だが駿府城内の情報や秘密が、宣教師のあいだに広がって国外に流れた可能性もある。事実宣教師たちも、布教と称しては多くの人々に近づき、また城内の者や出入りの商人を入信させては家康の周辺でスパイ行為をさせていたとしても不思議ではない。
こうなると家康も、もはやキリシタン信者を野放しにしておけない。(このころ駿府城内では、原因不明の出火が続いていたが、キリシタンとの関係はわからない)。
大奥の侍女ジュリアも、このころに駿府の町にある教会に通いビスカイノやソテロなど多くの宣教師とも会っている。慶長18年(1613)のキリシタン禁令によって、ジュリアは最初は大島に島流しとなり、さらに伊豆の孤島(神津島)に流された。慶長19年(1614)のキリシタン年報には、セバスチャン・ウィエイラの記録として、ジュリアが神津島に送られた様子が伝えられている。ウィエイラが果たしてジュリアが流された場所まで連絡を取ることができたかどうかは疑問だ。
ウィエイラの記録は殉教を美化した創作という説もある。また「日本殉教者一覧」の中にジュリアの名前はない。彼女がキリシタン信者として処罰されたのではなく、流刑の罪状を「スパイ容疑」として島流しとなったという説もある。巷間では、ジュリアに心を寄せていた家康が、島流しならいずれ改心して駿府に帰って来ることを期待したとする見方である。ところがジュリアは神津島で、心安らかな信仰生活を続けてそこで亡くなった。
イギリス国王使節の見た、駿河の迫害
慶長18年(1613)12月に発布された「伴天連(ばてれん)追放之令」は、キリシタンに決定的な打撃を与えた。この年来日したイギリス国王使節ジョン・セーリスは、駿府郊外の安倍川でむごたらしいキリシタン信者の死体の山を目撃し、その様子をこう記した。
「予らが、ある都市に近づくと、磔殺(たくさつ)された者の死体と十字架とがあるのを見た。なぜならば、磔殺は、ここでは大多数の罪人に対する普通の刑罰であるからである。皇帝の宮廷のある駿府近くに来たとき、予らは処刑されたたくさんの首をのせた断頭台を見た。その傍らには、たくさんの十字架と、なおその上に縛りつけたままの罪人の死体とがあり、また仕置きの後、刀の切れ味を試すために幾度も切られた他の死骸の片々もあった。駿府に入るには、是非その脇をとおらねばならないので、これはみな予らにもっとも不快な通路となった」(「セーリス日本渡航記」村上堅固訳)。
セーリスによると、家康は元来キリシタンは嫌いであった。それ以上にキリシタン大名たちがスペイン国王の勢力と呼応して、徳川幕府に対抗することを何よりも警戒していたと見た。家康はキリシタン信者の迫害を駿府から始めた。陰惨な弾圧と迫害が繰り返され、駿府町奉行彦坂九兵衛らが先頭に立って次々と新しい拷問のやり方が考案された。なかでも「駿河の責め苦」といいう宙釣り状態にした拷問はとくに恐れられていたという。
キリシタン信者の埋葬を許さず、火刑(火あぶり)にした。また埋葬した信者は墓から掘り出して海に捨てたこともあった。家康のキリシタン弾圧は、ローマの皇帝ネロよりも残忍であったかもしれない。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
『東洋遍歴記』 メンデス・ピント

 

 
フェルナン・メンデス・ピント 1
ポルトガル人冒険家、著述家(1509-1583)。かれの業績は死後の1614年に刊行された『遍歴記』 で知られる。ただしこの書物に記載された内容が真実であるかどうか定かではない。確実なのは1537年にリスボンを発ち、1539年にマレー半島のマラッカに行き、現在の東南アジアを見て回り、富を蓄え、中国方面への貿易商を生業としており日本にも渡来していること、1551年フランシスコ・ザビエルに日本に教会を設立する為の資金を提供したこと、その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドのゴアまで戻っていたが、1554年にザビエルのいまだ腐っていなかった(といわれている)遺体を目にして、回心しイエズス会に入会、1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡ったが、日本でイエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り同じ年にリスボンへ戻ったことなどである。『遍歴記』年代は記されていないが、おそらく1544年あるいは1545年に鉄砲を日本に初めて伝えた人物の一人とされている。しかし、ピントが日本に来たのは1540年代後半か1550年代であることが明らかになっており、鉄砲伝来に関しては不確かである 。
ピントはポルトガルの東アジアにおける植民地主義に対して、キリスト教の布教に見せかけたものとして鋭い評価を『遍歴記』の中で行っている。これは、後世においては一般的な見方となるが、当時においては斬新な見方であったといえる 。
ただし『遍歴記』自体は「13回生け捕られ、17回売り飛ばされた」など、現実としてとらえるには無理があるような記述もあり、古くから嘘つき呼ばわりされた。たとえば、ポルトガル語のだじゃれ遊びには、ピントの名前を、"Fernão, Mentes? Minto!"、(「フェルナン、嘘をついたか? 嘘をついたよ!」)としたものがあり、イギリスの劇作家、ウィリアム・コンクリーブの喜劇Love for Loveには "Ferdinand Mendez Pinto was but a type of thee, thou liar of the first magnitude." (「フェルディナンド・メンデズ・ピントはおまえのようなやつの事で、おまえは第一級の嘘つきだ」)などという記述も登場する。
フェルナン・メンデス・ピントはモンテモル・オ・ヴェリョで1509年(1510年とも)に生まれたと見られている。貧乏な家であり、少なくとも2人の兄弟と、二人の姉妹がいた。なお、ピントをユダヤ人で、マラーノ(新キリスト教徒)とする説もある。ピント一族はもとスペインのマドリッド近郊のピント村出身で、のち迫害をうけ、ポルトガル、モロッコ、カナリア諸島に移住したという。 彼の男兄弟のアルベロは1551年にはマラッカにおり、別の書簡ではピントの兄弟の一人はマラッカで殉教している。また、1557年にはコーチンに裕福な従兄弟フランシスコ・ガルシア・デ・ヴァルガスがいた。
1521年にはリスボンでポルトガル王ジョアン2世の息子でモンテモル・オ・ヴェリョの領主でもあったジョルジ公の元で奉公していたが、2年後、フランシスコ・デ・ファリアに奉公するため、セトゥーバルに向けて出航したが、フランスの海賊船に襲われてアレンテジョの海岸まで連れ去られ放置された。
遍歴
ピントの旅は大まかに3つに分けることができる。最初の旅はポルトガルから西インド海岸のポルトガル植民地への旅であり紅海やアフリカ、ペルシア湾などの地域をめぐっている。その次の旅は、インドに渡った後にマラッカに移り今度はスマトラやシャム、中国、ビルマ、中国、日本などをめぐる旅である。そして、ヨーロッパへ戻る旅である。『遍歴記』の記述の信憑性には疑問があるが、以下ではピントの『遍歴記』にそって話をする。
インドへの旅
ピントの旅行は1537年3月11日のリスボン出航から始まる。その後、ポルトガル領モザンビークに寄港。9月5日にはボンベイの北西にある要塞島であり、さかのぼる事2年前にポルトガルに占領されたばかりのディーウに到着。ピントの記録によれば、このときディーウは東洋における貿易を独占し続けるため、ポルトガル勢力を退けようとしたオスマン帝国スルタン・スレイマン1世の統治を受けていたとされる。
この際、ムスリムの貿易船を襲い、その船員から得た儲け話に魅了され、紅海への偵察隊に加わり再び航海に出た。途中、ピントの言うプレステ・ジョアン(ダウィット2世)の母であるエチオピアのヘレナ(エレニ)によって山中に雇われていたポルトガル人傭兵隊に伝言を伝える為、エチオピアに停泊した。その後、エチオピアの港町マッサワを発った所で、オスマン帝国のガレー船を包囲したが、逆に敗北し、アラビアの南西にあるモカ(アル・ムハ)まで運ばれ、奴隷として売り飛ばされた。ピントはギリシア人ムスリムに買い取られ、残酷に当たられたため何度か自殺を試みたが、そのうち、ナツメヤシと交換でユダヤ人の手に渡された。
そのユダヤ人はピントを連れてオルムス(ホルモズ)へ連れて行き、ポルトガル人の要塞司令官とポルトガル王の命令で来ていた総督によってお金が支払われ引き渡された。
ピントはインドへの旅が自由になった後、ポルトガル植民地であり、オスマン帝国によって陸路が封鎖された後、海路における香辛料貿易を完全に掌握したポルトガル海軍基地のあるゴアに向けて旅立つことになったが、ピントの意に反し、ダブル港に停泊していたオスマン船を拿捕するか破壊する事になった。この後オスマン船との海戦がアラビア海で行われ、その勝利の後、ピントはゴアへ向かった。
マラッカと東アジア地域
1539年以降はピントはマラッカに渡っている。マラッカの司令官であるペロ・デ・ファリアは、東方の未だポルトガルが発見していない地域と外交関係を持とうと、ピントを外交使節として用いた。
マラッカにおける初期の彼の仕事はほとんどが、スマトラ島にある小さな諸王国との交流で、これらの諸王国はアシェン(アチェ王国)と宗教的に対立しておりこれを回避しようとポルトガルと友好関係を結んだものとピントは『遍歴記』に書いている。ピントはこの仕事の合間に、私的な貿易を行い富を増やしたが、仲間達が国王の利益に反する貿易を行っていたのを尻目に、ピントは国王に対しての献金は取っておいた。
パタニ王国
ピントはシャム(アユタヤ王国、現・タイ王国)に囚われているポルトガル人の解放交渉に当たるべく、当時朝貢国であったマレー半島東岸のパタネ王国(パタニ王国、現・タイ、パッターニー)にいくことになる。このとき、シャム近海で貿易活動を行っていた船乗りと一緒に旅立ったが途中で、ムスリムの海賊に襲われ、金目のものを盗まれた。この後、この海賊を追って航海していくうちにアントニオ・デ・ファリアを中心に自ら海賊行為を行うようになった。なおこの、アントニオ・デ・ファリアと言う人物はポルトガルの文学において高名なアンチ・ヒーローと言われる 。
ピントは海賊として1ヶ月過ごした後、トンキン湾や南シナ海においてでも海賊行為をおこない、ピントによればさらに北方まで達し中国や李氏朝鮮を訪れ中国皇帝の陵墓を暴き略奪したという。
そのうちピントはついに難破して、中国人の手に落ち、裁判にかけられ万里長城における強制労働を命じられた。その後、ピント達はタルタリア(タタール)の中国への侵略の際に連れ去られた。ピントやその仲間は砦を攻撃する方法をタタール人に教え、代わりに自由を勝ち取り、外交使節がコーチシナに行く際に、一緒についていくように王に命ぜられた。
この旅の途中ポルトガル人の一行は、ピントが「教皇のような」と表現するヨーロッパ人が未だ見たことのない人物に会っているが、これはダライ・ラマの事かも知れない。広州付近に来たとき、ピントはタタール人の旅行ののろさに苛立って、ピントと2人の仲間は、中国人の率いる海賊船に乗り込んで旅を続けたが、海が荒れて日本に流れ着き、イリヤ・デ・タニシュマつまり種子島に着いた。ピントはこれにより、ヨーロッパ人で最初に日本に入国したと主張した。
日本
数年後、『遍歴記』の前後関係から察するに1544あるいは45年ごろと推測されるが、ピントは日本へ初の渡航をおこない、火縄銃を日本に持ち込んだ。(ただし、鉄砲伝来は種子島氏の鉄砲記によると1543年9月23日とされる。)
この鉄砲伝来は当時内戦状態(戦国時代)にあった日本において急速に普及し、日本の軍事に大きな影響を与えた。ピントはこの後、中国のリャンポー(寧波)に到着したが、その地で、ポルトガル人貿易商達に日本の話をすると、商人達は日本との貿易に関心を持ち、ピントはこの商人達と日本へ向かうこととなった。しかし、ピント達はその航海で難破し、レキオ・グランデすなわち大琉球(現・沖縄島)にたどり着いたが、持っていた交易品によって海賊と思われ、処刑されそうになるが、ある身分の高い女性の取りなしで釈放された。
1549年に鹿児島を発つ際には何らかの理由で追われていたアンジェロともう1人の日本人をマラッカに連れて行きフランシスコ・ザビエルに引き合わせ、キリスト教に改宗させた。(ただし、ザビエルの伝記によると、ヤジロウと会ったのは1547年12月。)この後ザビエルはヤジロウらと共に1549年8月15日に日本に渡りカトリックを日本に伝えた。1551年にピントはザビエルに再会し共同で布教活動を行った。
ピントは1554年、ポルトガルに帰ろうとするが、その前に、ゴアでイエズス会に蓄えた財産を寄付し、入会し、修道士となった。このときにザビエルの遺体をゴアで目撃している。
日本への最後の旅
1554年、大友義鎮からの手紙がゴアに届き、その内容は洗礼を受けたいので宣教師をよこして欲しいとの旨のものであった。ピントは他の聖職者らと日本に同行することになる。このときの訪問では豊後国の大友氏との外交が樹立されたが、大友家の諸事情により義鎮の改宗には失敗した。ただし、この22年後には義鎮は改宗した。
この日本へ1554年〜1556年の旅では、ピントはザビエルの後継者と共にポルトガルの正式な外交使節として豊後国の大名に派遣された。しかし、理由は不明であるが、1557年ピントはイエズス会を脱会する。日本におけるイエズス会の脱会者はピントが初めてであると記録されている。
マルタバン
ピントが最初にマラッカに戻った時には、ペロ・デ・ファリアがおり、彼の命を受けてマルタバン(現・ミャンマー、モッタマ)に外交使節として赴いた。しかし、その時マルタバンはブラマ(ビルマ)と戦争中で、ピントはマルタバンの王を裏切りブラマ王の側に付いたポルトガル人傭兵隊のキャンプに逃げ込む。しかし、そこでポルトガル人に裏切られ、ブラマ王の官吏の捕虜となり今のカラミニャム(現:ラオス・ルアンパバーン)に連れて行かれるが、ビルマがサヴァディ(現・ミャンマー・サンドウェ)を攻撃した際に、どさくさに紛れて逃げ出し、ゴアに向かった。
ジャワ
ゴアに戻ったピントはまた再びペロ・デ・ファリアに出会った。ペロはジャワに中国に売りに行く為の胡椒をピントに買いに行かせた。ジャワのバンタ港(現・インドネシア、バンタム)で40人のポルトガル人の傭兵隊に加わり、デマ王がパルサバンを攻略するのを手伝うが、デマ王が小姓に殺されたのでデマに戻った。
その後、デマでは内乱が起こったので他のポルトガル人と共に逃げたが、シャム湾で倭寇に遭遇し、ジャワに帰らざるを得なくなった。ジャワの近海で船が大破、乗組員同士で殺し合いが起こり、逃げるに逃げ出せず食糧不足で人肉食まで行ったという。その後ジャワ人に自分をマラッカに連れて行って売り払ってくれと言って、奴隷として自らを売った。
その後、ピントはセレブレ人(現・インドネシア・スラウェシ島の原住民)に売られ、その後カラパ(現・インドネシア、ジャカルタ)の王に売り渡され、その王によって、ジャワの元いたところまで送り返された。
ピントは再びジャワを発ち、パタネとシャム行きの船に、知り合いに運賃を払ってもらって乗り込んだ。シャムのオディア(現・タイ、アユタヤ)の王(チャイラーチャー)はシアマイ(現・タイ、チエンマイ)を攻めようと、ポルトガル人を傭兵として雇った。これにより、ピントもシアマイに遠征に行き、勝って帰ってきたが、オディアの国王の王妃(シースダーチャン)が夫の留守中の浮気がばれるのを恐れて国王を毒殺した。その後この妃は自分の息子をも殺し、愛人(ウォーラウォンサー)を王位につけたが、この王も殺された。この政情不安につけ込んだブラマ王(タビンシュエーティー)はアユタヤに攻め入る。
この戦争の記述が本当にピント本人のものかあるいは伝聞によるものなのか不明であるが、ピントの『遍歴記』はこの時代の西洋人によるビルマの一番詳細な史料である。
帰国
1558年9月22日ピントは帰国する。このときピントはイエズス会との書簡が発行されたことによって、すでに西洋世界では名を知られた人物となっていた。その後、ピントは今までの国王への奉仕に対する報償を要求したがピントが死ぬ数ヶ月前まで与えられなかった。
『遍歴記』
1558年の帰国後ピントはマリア・コレイア・デ・ボレットと結婚し、少なくとも二人の娘をもうけたといわれるが、詳しいことは分かっていない。1562年にアルマダの近くにあるプラガルに隠居し農場を経営する傍ら、1569年ごろから書き始めたものと言われている。この本は生前は刊行されず、1583年の彼の死から31年を経て1614年に刊行された。
なお、完全な題名は以下の通りである。
『我々西洋では少ししかあるいはまったく知られていないシナ王国、タタール、通常シャムと言われるソルナウ王国、カラミニャム王国、ペグー王国、マルタバン王国そして東洋の多くの王国とその主達について見聞きした多くの珍しい事、そして、彼や他の人物達、双方に生じた多くの特異な出来事の記録、そして、いくつかのことやその最後には東洋の地で唯一の光であり輝きであり、かの地におけるイエズス会の総長である聖職者フランシスコ・ザビエルの死について簡単な事項について語られたフェルナン・メンデス・ピントの遍歴記。』
なお、出版された本は原稿と同じ内容というわけではなく、ある文は消されており、他は「修正」されている。ピントが積極的にイエズス会に参加していた事が指摘されているにもかかわらず、イエズス会に言及した箇所が削除されており、これは注目する必要がある。
史実性
『遍歴記』の内容は、おそらく彼の記憶に基づく事実によって書かれたものと思われ、必ずしも正確な史料とは言えない。しかし。ヨーロッパ人がアジアに与えた影響、ポルトガル人の東洋における行動を現実的に分析し、記述しているといえる。
一番、疑問が投げかけられているのは、ピントが最初に日本に銃を紹介したと主張している部分である。このような主張はさておき、ピントが日本に降り立った人物であるということに対してはほとんど議論がない。つまり、後世の著述家による記録よりは『遍歴記』はある程度正確なものといえる。
また別の信憑性に関する議論では、彼がジャワでムスリムと戦ったという記述についてである。これは様々な歴史家が分析を行ったが、オランダの歴史学者P. A. Tieleは1880年に、ピント自身はこの戦いに参加しておらず、彼が他人から得た情報で書いた物と推定した。しかし同時に、Tieleはその時代のジャワに関する情報が少ないことから、ピントの記録の重要性は認めている。つまり、ピント著述の正確性に疑問があるとしても、その時代を語る唯一の情報と言うこともある。大英帝国の官僚として東南アジアに20年滞在した現代人モーリス・コリスは、ピントの記録はすべてが信頼できるものではないが、16世紀のヨーロッパで一番完成度の高いアジアの記録であり、基本的な出来事などに関する記述は大まかに信頼できるものとしている。
文学性
この『遍歴記』はアントニオ・サライウヴァというポルトガル人文化史学者によって文学作品として大きく評価され、史実性の議論はともかく、文学としてとらえられる事もある。たとえばアントニオ・デ・ファリアに関する記述はピカレスク小説のようなものと見ることもでき、『遍歴記』に記される現地に住むアジア人から発せられる言葉はポルトガルに対して皮肉めいており、一種の風刺本と見ることもできる。 
 
フェルナォン・メンデス・ピント 2

 

フェルナォン・メンデス・ピント(1510 (?)-1583)は、1510年頃にモンテモール・オ・ヴェーリョに生まれ、「10歳か12歳くらいまでモンテモール・オ・ヴァーリョの村にあった父の貧相な家で極貧の生活を送り…」と述懐しているとおり、そこで幼少期を過ごした。その後時をおかずピントは叔父を介してリスボンへ移り、王ドン・ジョアンII世の息子ジョルジュ公に奉公することとなる。執務室付であった最初の2年を含むジョルジュ公の下での5年の奉仕は、その仕事ぶりが認められ、実際の生活は困窮であったのに反し、ピント家の社会的な境遇を高めることとなった。その後、理由は定かではないが、ピントは1523年にはセトゥーバルに居を移すこととなる。セトゥーバルへ出航中、海賊船に襲撃され、アレンテージョの海岸まで連れ去られる災難にみまわれる。セトゥーバルでは貴族フランシスコ・デ・ファリアに奉仕することとなった。
1537年、27歳のとき、成功を求めてインドへ出航する。東洋でのピントの長期の滞在について「知られている」ことは、ピント本人により伝えられた事柄だけであり、そのことを他の史実に照らして確認することは今となってはほとんど適わない。
20年に亘ってポルトガル人が航海した世界中の航路を巡り、紅海遠征に出航し、オスマントルコとの海戦に出兵した。
捕らえられたピントはギリシア人に買い取られ、さらにはこのギリシア人によりユダヤ人へ売り渡された。このユダヤ人によりオルムスへ連れて行かれたピントは、そこにいた総督などのポルトガル人たちにより身請けられ、囚われの身から解放された。その後、ピントは司令官ペドロ・デ・ファリアに付き従いマカオへ渡り、そこで21年に亘り変転怒涛の冒険と発見をすることとなる。ビルマ、シャム(タイ王国)、スンダ列島、モルッカ諸島、中国、日本を巡り、あたらしい世界を「発見」し、時には召使、商人、時には兵士、果ては海賊にまでなった。ピント曰く、「13回生け捕られ、17回売り飛ばされた」。
1539年、マラッカ隊長の業務に従事することになり、隊長の名の下で同地域の領主との外交交流を樹立することとなる。3年後の1542年、他のポルトガル人とともに初来日する。
1553年、ピントは日本でフランシスコ・ザビエルに出会い、彼の力強さと人柄に魅かれイエズス会に入信し、同地域におけるイエズス会の布教に尽力することになる。日本は、間違いなく、ピントの足跡がはっきりと残っている国のひとつである。イエズス会への入信はピントの人柄に大きな変化をもたらした。かれは自身の奴隷のすべてを解放し、自分の財産を貧者とゴアのイエズス会に分配した。ただし、「一般信徒」としての布教は、1557年、東洋遍歴を終えることを決めた年までだった。この決心は、ピントがイエズス会の修道士そして副王ドン・アフォンソ・デ・ノローニャの使節として1554年に豊後領主の下へ派遣されたことに起因するとされる。イエズス会宣教師のふるまい、イエズス会そのものへの失望は大きく、ピントは1557年、イエズス会を脱会する。
フランシスコ・バレット元インド総督府の支援によりポルトガルへの帰国したピントは、祖国のために自分がいかに奉仕したかを証明する資料をそろえ、報奨の権利を得るが、一度としてそれを受けとることはなかった。1558年、アルマーダのヴァーレ・ド・ロザルの農園に居を構え、そこで1570年から1578年のあいだに、ほかに類を見ない作品『東洋遍歴記』を執筆する。だが、この作品が日の目を見ることとなるのはピントの死後、1614年のことであった。『東洋遍歴記』は、ピントのすべての偉業、冒険さらには苦難を詳細に報告する途方も無い旅行記であり、その内容は、新奇かつ稀有なものである。ピントはこの作品にインド、中国、ビルマ、シャム(タイ王国)そして日本といった遠く離れ、当時は未知であった土地の地理を詳細にあらわし、これら東洋の国々の慣習、信条そして文化伝承を伝えた。ピントは、その作品に史実として疑わしいところが多い著述家かつ冒険家であるとされている。ピントと同時代の人間にはほとんど信用されず、そのためピントの名を「フェルナォン、お前は嘘をついたか(メンテスmentes)?嘘をついたよ(ミントminto)」と揶揄して呼ぶ向きもあり、現在もこの呼称は有名である。
さまざまな歴史家の意見によれば、『遍歴記』の印刷版はピントが当初執筆したものと完全には一致しておらず、作品の一部は削除されたり修正されたりしている。とりわけ、イエズス会に関する言及がまったくなされていないことは奇妙である。それは、当時、イエズス会が東洋においてもっとも活動的な宗教組織のひとつであったことを考えればなおさらである。また加えて、ピントとイエズス会とのあいだに関係があったとする信憑性のある多くの指摘もある。
『東洋遍歴記』はピントの記憶を頼りに書かれており、多くの言説が信憑性の乏しいものであるとされる。だが、『東洋遍歴記』はヨーロッパの人々にとって未知であった東洋文明をきわめて生き生きと、写実的に記録するとともに、とりわけ、東洋にいるポルトガル人の活動についての写実的な考察をおこなった。
『東洋遍歴記』は、これらの人々のふるまい、態度、生活様式に関する実証であり、それゆえに、資料としての計り知れない価値を有しているのである。
フェルナォン・メンデス・ピントはプラガルに所有する農園で1583年7月8日に逝去した。
『東洋遍歴記』 出版年:1614年

『東洋遍歴記』は、ポルトガル文学のなかでもっとも翻訳され、知られている旅行記である。ピントの死後30年経った1614年にペドロ・クラスベークノ印刷機で印刷され出版された。『遍歴記』は、1570年から1578年のあいだに、アルマーダのヴァーレ・デ・ロザルにおいて書かれたとされ、作品のなかでは歴史とファンタジーが混在し、時として、どこで始まりとどこで終わるのかがわからないことがある。伝記的要素と信憑性があり説得力のあるフィクションとが結びつきており、ピントは当時のヨーロッパ人に東洋の慣習と東洋におけるポルトガル人の活動の興味深い証言とが書かれたそれまで見たことのないような面白いルポタージュを提供してくれる。
『東洋遍歴記』を書くに至った動機をピントは三つ挙げている。それは、自分の子供たちにどんな仕事をしたのかを教えること(自伝的機能)、希望を見出せない者たちや困難を抱えた者たちを鼓舞すること(精神的機能)、神に感謝する(宗教的機能)の三つである。だが、『東洋遍歴記』の226章を読むと、ピントにはつねに東洋の地や海にいる多くのポルトガル人の態度への皮肉めいた印象があることがわかる。
この作品のもっとも注意を引くところは、その風変わりな内容である。ピントは、インド、中国、日本の詳細な地理学を−画家だと言われる−を描写し、法律、慣習、道徳、祭り、商い、司法、戦い、葬式等の民族誌学を叙述している。同様に、特筆すべきことは、海洋帝国ポルトガルの瓦解と腐敗を予見していることである。
ポルトガルの散文文学が近代の門をたたいたのは、『東洋遍歴記』であると言われる。じじつ、自然主義的性質、口語体、類まれな可視性はポルトガル文学のロマン主義を開いた作家アルメイダ・ガレットの『故郷紀行Viagens na Minha Terra』に実現されることとなるあらたな文学的方向を示している。
作品について
『東洋遍歴記』はピントが自分の両親の貧相な家から旅立つところからはじまり、その物語は21年後のリスボンへの帰郷まで続く。その物語は、カラベラ船でリスボンからセトゥーバルへ向かう際、ポルトガルの海賊船に捕らえられ強奪され、ポルトガル海岸付近を通過するエピソードから話が広がっていく。のちにピントはインドへ旅立ち、マラバール海岸おいて一連の冒険をすることとなる。それが本当のことなのかピントの想像上の産物にすぎないのかを知る由もないが、のちにアビシニアにおける過去を語っている。ペロ・デ・ファリア司令官に随行しゴアからマラッカへ行き、外交使節、商人、海賊など次々と職を変え、頻繁に出入りしながらも、マラッカに居を構えることとなる。
ピントは、シャム(タイ王国)、カンボジア、コーチシナ、日本でも商業活動をおこなっている。後年、アントーニオ・ファリアに随行しアジアのさまざまな海岸やシナ海にある島々へ出航し、そこで類まれな冒険、たとえば、中国皇帝の陵墓の略奪をおこなっていることについて読者をひきつける語り口で述懐している。
アジアの都市や文明についての叙述と平行してピントは数多くの東洋の地域の民族誌学的様相を備えるファンタジーを書いた。実際、『東洋遍歴記』には海難伝承を、就く、海や「発見された」土地に生きる男たちが遭遇する困難を正確かつ感動的に書きあらわされている。
「シナ海海岸で暴力と強奪を為す」状況を告発している事が示すように、ピントはポルトガル人の威厳を持たない態度を確固たる態度を以って非難している。ジャシント・ド・プラド・コエーリョは「この真実と義憤はわれわれの精神の表現者の一人としてピントを連ねさせる。ピントは、歴史にたいする卑劣な行為を告発し、ポルトガルが非道を黙認しないことを示したのだ」と述べる。
『東洋遍歴記』は「具体的な表現」をその特徴とし、戦いと航海に関する数多くの言及がある。だが、この作品の面白さは、作者の「地域色を豊かなものとし」、「その土着色の強い話し方を再現している」努力にある。 
 
『東洋遍歴記』 メンデス・ピント 1

 

フェルナンド・メンデス・ピント (Fernado Mendes Pinto, 1509?~1583) はポルトガルの商人で、1537年頃からインドを手始めにアジア・アフリカを広く遍歴し、日本を四度訪れた。1551年の三度目の訪日時にフランシスコ・ザビエルと親交を結んだが、その時には相当な財産を蓄えていた。1554年4月に四度目の訪日のためゴアを発ったが、途中マラッカでイエズス会の修道士になった。1556年7月に九州に着き、11月に離日したが、この間にピントはイエズス会を脱会した。1558年にポルトガルに戻り、1578年頃『遍歴記』を書いた。
その寺院というのはすこぶる壮麗・豪華で、彼らの司祭に当たる坊主たちは私たちを手厚く迎えてくれた。この日本の人々はみな生来大変に親切で愛想がいいからである。
したがって、ゼイモトが善意と友情から、また、先に述べたように、ナウタキンから受けた礼遇・恩顧の幾分かに応えるために贈ったわずか一挺の鉄砲が因で、この国は鉄砲に満ちあふれ、どんな寒村でも少なくとも百挺の鉄砲の出ないような村や部落はなく、立派な町や村では何千挺という単位で語られているのである。このことから、この国民がどんな人たちか、生来どんなに武事を好んでいるかがわかるであろう。
そしてこれら日本人というのは世界のどの国民よりも名誉心が強いので、彼は、自分の前に生ずるいかなる不都合も意に介さず、自分の意図を万事において遂行しようと決心した。
この日本人というのは、そのあたりの他のどの異教徒よりも道理に従うものだ、と私が何度も言うのを読者諸氏は聞いてきたのではあるが、坊主たちは他の人々よりも多くのことを知っているという生来の自負心と自惚れのために、一旦自分の言ったことを否定したり、自分の信用に関する議論で他人に譲ることは、たとえそのために千回その生命を危険に曝そうとも、名誉を損なうものと見なすのである。
それは、彼らがそのあたりの他の異教徒よりも元々優れた理解力を持っていることは否定し難い人々だからで、したがって、彼らを信仰へ改宗させるためにに注がれる努力は、コモリンやセイロンのシンガラ人よりは、この人々における方が、より大きな実りを結び、したがって、より効果的であろうと思われる。 
 
『東洋遍歴記』 メンデス・ピント 2

 

フェルナン・メンデス・ピント(Fernão Mendes Pinto, 1509?-1583)は、ポルトガルの旅行家である。1537 年頃東インドに渡航し、マラッカで貿易商人となり、中国やアジア諸国を遍歴し、日本にも数回来航した。
本書の内容のうち、我が国に関する部分はピントらによる所謂「日本発見」の部分と、豊後王国(大分県・大友領のこと)に関する部分、さらに琉球に関する部分である。「日本発見」について、ピントは中国のランパカウ(浪白澳)から彼を含む3 人のポルトガル人が中国の海賊船に乗って航行中、暴風雨にあい、20 日余の漂流ののちタニシュマ(種子島)に着き、ここで領主ナウタキン(種子島時尭)に歓迎され、また3 人の中のディオゴ・ゼイモトが鉄砲を贈ってその製法と使用法を領主に教えた、と本書に記述し、これがヨーロッパ人による初めての日本渡航であると主張している。この問題に関しては、ポルトガル人の種子島漂着の年次を含めて、多くの人々によって考察されてきたが、未だ実証されておらず、現在ではむしろピントが事実をねじ曲げたものと解されている。また、ピントは自分がアンジロウをザビエルに紹介したとしているが、こちらも事実ではない。しかし、ピントが本書で1544(天文13)年、1546(天文15)年、1551(天文20)年、1556(弘治2)年の計4 回日本に渡航したとしていることは確実と見られており、この間の1551 年にはフランシスコ・ザビエルにも面会し、彼とマラッカまで同船している。本書の後半部分ではザビエルについての記述が多く見られ、ピント自身がザビエルの葬儀を見てイエズス会に加入したとも述べられている。実際に彼は同会の修道士として1556 年に来日したが、間もなく脱会し離日している。
本書はピントの晩年に書かれたもので、彼の若き日の東洋放浪について記憶をたどって纏められ、初版は1614 年に刊行された。細かな部分については誤りも多く、前述のようにピント自身の曲筆もあって史料としての限界はあるが、ポルトガル人の東洋植民史や初期の日葡交渉史を研究する上で意義のある書物と言えよう。  
 
ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易

 

はじめに 
十五世紀末にアジア海域に登場したポルトガル人は、一五二年にマラッカを占拠、数年後には中国沿海にも来航した。彼らが日本に到達するのはその約三十年後である。ところがポルトガル人の日本「発見」の年については、一五四二年と一五四三年の両説があり、決着をみていない。ポルトガル人の日本初来航に関する日欧の基本史料とされてきたのは、南浦文之「鉄灼記」と、アントニオ・ガルヴァン『新旧発見記』である。前者は天文十二 (一五四三)年に、後者は一五四二 (天文十一)年にポルトガル人が日本に到達したと記すため、日欧関係史や銃砲史の研究者による論争が続けられてきたのである。
一八九二年の坪井九馬三「鉄砲伝来考」では、「鉄砲記」と『新旧発見記』を紹介したうえで、「鉄砲記」によりポルトガル人の種子島来航を一五四三年とした。その後、日本ではおおむね一五四三年説が普及し、教科書や年表類でも「鉄砲伝来」の年は一五四三年とし、一五四二年説を附記することが多い。しかしポルトガル人初来航=鉄砲伝来に関する専論では、明確に一五四三年説をとる論者は意外に少なく、戦後では有馬成甫氏の著書が目につく程度である。幸田成友氏・洞富雄氏などは、四二年・四三年の両説を併記して断定を避けている。
これに対し、ポルトガル人の日本初来航を一五四二年とする論者は少なくない。早くは岡本良知氏が四二年説をより妥当とし、ついで李献嘩氏も「鉄胞記」 における年次の矛盾を指摘して、ポルトガル人の日本初来を四二年とした。近年では、清水紘一氏が「鉄胞記」には史実の混錯があるとして四二年説を主張した。さらに最近では、村井章介氏・関周一氏が、東アジア海域史の立場から鉄砲伝来を再検討し、ポルトガル人は王直のジャンクにより四二年に種子島に到達したと結論している。また所荘吉氏・的場節子氏も、ポルトガル人の初来航は四二年であったと説くが、彼らが種子島に鉄砲を伝えたのは翌四三年であったとする。総じて近年の日本の研究では、ポルトガル人の日本初来航を一五四二年とする見解が主流となりつつあるといえよう。このほか宇田川武久氏は、種子島に最初に鉄砲が伝来したという「鉄胞記」の記事自体に疑問を呈し、鉄砲はポルトガル人よりもむしろ倭冠的勢力によって、多様な経路から伝来したと論じている。
一方欧米では、伝統的に一五四二年説が一般的であった。しかし一九四六年、ゲオルグ・シュールハンマー氏は、『発見記』の記事は琉球漂着を日本漂着と誤伝したものであるとして、ポルトガル人の日本初来航は「鉄胞記」に記す一五四三年であると論じた。この説は欧米でひろく受容され、C・R・ボクサー氏、ドナルド・F・ラッチジョセフ・ニーダムなどが、いずれも一五四三年説を採用している。しかし最新刊のケネス・チエース氏の著書では、近年の日本の研究に基づき、一五四二年説をとっている。
このようにポルトガル人の日本初来航の年については、百十年あまりにわたって論争が続きながら決着をみていない。近年では一五四二年説が有力になりつつあるが、なお史料解釈上の疑問点も多く残されている。一連の論争の過程では、多くの新史料が紹介され、最近では村井孝介氏などの研究を通じて、ポルトガル人来航をめぐる東アジア海域の全体状況も明らかにされつつある。しかし一方で、諸史料を全体として整合的に定置する作業は、なお十分とはいえないようだ。このため本稿では、先行研究の成果をできるだけ包括的に検討し、そこで提示された日本・西欧・中国などの諸史料を再解釈して、一五四〇年代前半の東アジア海域交易の展開という文脈上に定置することを試みたい。こうした検討は単に西欧人の日本「発見」 の年代考証という問題にとどまらず、ポルトガル人の日本来航を、東アジア海域における「交易の時代」 の序幕という大状況のなかに位置づけるうえでも、有効かつ必要と考えられるのである。
なお行論の過程で、多岐多様な先行研究の論点を、逐一本文で紹介・検討したのではあまりに繁雑である。そこで本文では特に重要な問題を中心に議論を進め、その他の個別的な論点はなるべく註において検討することにしたい。なお筆者はポルトガル語・スペイン語を解さないため、両国語の史料は、和訳または英訳により利用したことをお断りしておきたい。 
一 ふたつの日本側史料  「鉄胞記」と 『種子島家譜』 

 

ポルトガル人の日本初来航に関する日本側の基本史料は、文之玄昌(号は南浦) の「鉄抱記」 である。文之玄昌は、江戸初期に薩摩藩のブレーンとして重用された禅僧であった。慶長十一(一六〇六)年、彼は種子島久時の依頼を受けて「鉄砲記」を代作し、のちこれを『南浦文集』 に収めた。久時は鉄砲伝来の当事者であった時亮の子であり、「鉄胞記」でも、時亮の鉄砲伝来に関する功績が顕彰され、種子島から全国に鉄砲が普及したことが強調されている。以下、その主要部分を書き下しにより引用しよう。
【史料A】文之玄昌「鉄抱記」 (『南浦文集』巻一)
天文発卯(十二年)秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船あり。何れの国より来るかを知らず。船客は百余人、その形は類せず、その語は通ぜず、見る者は以って奇怪となす。その中に大明の儒生一人、五峯と名のる者あり。今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶ま五峯に遇い、杖を以って沙上に書きて云く、「船中の客、何れの国の人なるかを知らず。何ぞその形の異なるや」と。五峯は即ち書きて云く、「これは西南蛮種の雪胡なり。粗ぽ君臣の義を知ると維も、未だ礼貌のその中にあるを知らず。この故に、その飲むや杯飲して杯もてせず、その食らうや手食して箸もてせず。徒だ嗜欲のその情に償うを知りて、文字のその理を通ずるを知らざるなり。所謂「雪胡一処に到れば鞭ち止まる」というは、これその種なり。その有する所を以って、その無き所に易うるのみ。怪しむべき者に非ず」と。ここに於いて織部丞は又た書きて云く、「ここを去ること十又三里にして、一津あり。津を赤尾木と名づく。我が由りて頼むところの宗子、世々居る所の地なり。津の口に数千戸あり。戸は富み家は昌え、南商北酉の往還すること織るが如し。今は船をここに繋ぐと錐も、要津の深くして且つ漣たぎるの愈れるに若ず」と。これを我が祖父の恵時と老父の時亮に告ぐ。時亮は即ちに扁艇数十をしてこれを撃かせ、二十七日己亥に至りて、船を赤尾木津に入らしむ。……(中略)……
貿胡の長二人あり、盲和郎秒針と日い、一を士部朴か針僻部如と日う。手に一物を携う。長きこと二三尺、その体たるや、中は通じ外は直にして、重きを以って質となす。その中は常に通ずと錐も、その底は密塞するを要す。その傍に一穴あり、火を通ずるの路なり。形象は物の比倫すべきなし。その用たるや、妙薬をその中に入れて、添うるに小団鉛を以ってす。先ず一小白を岸畔に置き、親ら一物を手にして、その身を修め、その日を妙にして、その一穴より火を放てば、則ち立ちどころに中らざるはなし。……(中略)……時堯はその価の高くして及び難きを言わず、蛮種の二鉄砲を求めて、以って家珍となす。その妙薬の持節・和合の法は、小臣の篠川小四郎をしてこれを学ばしむ。時亮は朝に磨き有に拝め、勤めて己まず。響の殆ど庶きは、ここに於いて百発百中、一として失するなし。……(中略)……
時堯は把玩の余り、鉄匠数人をして、その形象を熟視せしめ、月鍛季錬し、新たにこれを製らんと欲す。その形制は頗るこれに似たりと錐も、その底のこれを塞ぐ所以を知らず。その翌年、蛮種の貫胡、復た我が島の熊野の一浦に来る。浦を熊野と名づくるは、また小鷹山・小天竺の比いなり。頁胡の中、幸いに一人の鉄匠あり。時亮は以って天の授くる所となし、即ち金兵衛尉措定なる者をして、その底の塞ぐ所を学ばしむ。漸く時月を経て、その巻いてこれを蔵むることを知る。ここに於いて、歳余にして新たに数十の鉄抱を製る。
……(後略)……
以上の要点を整理すると、次のようになる。
(1)天文十二(一五四三)年八月二十五日(太陽暦では九月二十三日)、種子島に百余人の異形の船客を乗せた大船が来航した。
(2)船客のなかに明人の儒生「五峯」がおり、筆談により彼らが「西南蛮種の頁胡」 であることを告げた。
(3)種子島時亮は要胡の長である「牟良叔舎」と 「喜利志多情孟太」から鉄砲を入手し、家臣に模造を命じた。
(4)翌天文十三(一五四四)年、「蛮種の要胡」が再来航し、銃底を塞ぐ技術を伝授した。これにより一年余りで数十挺の鉄砲を製造した。
さらに省略部分では、紀州根来寺の僧兵が鉄砲を求めて種子島を訪れ、時亮が求めに応じて鉄砲を贈り、操作法を伝授したこと、種子島に滞在していた堺の商人が、鉄砲の製法を畿内にも伝えたことなどが記されている。
なお 「鉄胞記」とほぼ共通する内容の関連史料として、『種子島家譜』 (文化二=一八〇五年成立) がある。その原型は、やはり種子島久時の命により編纂された 『種子島譜』、(延宝五=一六七七年成立) であった。鉄砲伝来の記事は、十三代恵時 (時亮の父) と、十四代時亮の項にみえるが、ここではより詳細な前者の記事を紹介しよう。
(天文十二年)八月廿五日、西村浦に一大船漂来せり。何れの国より来るかを知らず。その人、形は類せず、語は通ぜず、見る者は以って奇怪となす。西村の宰に西村織部丞時貫なる者あり、杖を以って沙上に書きて云く、「船客は何れの国の人なるかを知らずや」と。大明の儒生五峯なる者有り、書きて云く、「これは南蛮種の貫人なり。怪しむ可き者に非ず」と。即ちに時貫は人を遣わして恵時に告ぐ。恵時は群臣に命じ、軽舟をしてこれを卸かしめ、廿七日に船を赤尾木津に入らしむ。雪胡の長二人あり、盲牟良叔舎と日い、言責利志多陀孟太と日う。共に手に一物を携う。その体たるや比倫すべきなく、その用たるや奇なり妙なり。名づけて繊胞と日う、恵時・時亮は見て以て兵器の甲なりとなし、蛮種の鉄胞二を求め、家珍となせり。繊匠をしてこれを製らしむるに、形象は頗るこれに似ると錐も、未だ尽くさざる所あり。
(天文十三年)今春、南蛮船熊野浦に漂来す。船客中に一人の繊匠あり、恵時・時亮は以て天の授くる所となし、即ち金兵衛清定なる者を遣わして繊胞を製ることを学ばしむ。暮年にして新たに数十の繊抱を製り、世に流布せり。
「鉄砲記」と共通する修辞表現も多く、『種子島家譜』の編纂時に「鉄胞記」を参照したことは疑いない。ただし『家譜』では、西村織部丞の名を「時貫」、二度目の南蛮船来航の季節を「今春」と明記するなど、「鉄砲記」にない記載もみられる。延宝年間に『種子島譜』を編纂した際には、「御当家の旧記と、遍く聞説する所を以て、更互に演揮してこれを記録」したとされ、おそらく「鉄胞記」と『家譜』双方の史料源となった、種子島家の古記録が存在したのだろう。「鉄胞記」の成立はポルトガル人の来航から六十年あまり後であり、同時代的史料とはいえない。しかし天文十二年の鉄砲伝来を詳記するその内容は、種子島氏に伝わる首時代的記録に基づく可能性が高いのである。  
二 ふたつのヨーロッパ側史料  『新旧発見記』と『東洋遍歴記』 

 

ポルトガル人が一五四二年に日本を「発見」したという説は、ポルトガル人アントニオ・ガルヴァンの『新旧発見記』(以下『発見記』と略称)に由来する。ガルヴァンは一五二七年からアジア海域で活動し、一五三六年から一五四〇年まではモルツカ諸島の総督の任にあった。ポルトガルに帰国後は国王のジョアン三世に冷遇され、一五五七年にリスボンの王立病院で没した。彼は帰国後の生活を、古今の発見航海の記録を編纂することに費やし、その遺稿は彼の友人によって、一五六三年に出版された。これが当室ざ計(論述の普)、つまり『新旧発見記』である。『発見記』は二部からなり、第一部ではギリシア・ローマ以来の地理的発見の歴史が、第二部では一四九二年のコロンブスのアメリカ発見から一五五三年にいたる、スペイン・ポルトガルの発見航海が、年代記風に記録されている。ポルトガルのアジア経営の最前線にあった人物による、古今の地理的発見を概観した書物として重要であるが、彼が帰国してからの記述は、間接的な伝聞に基づいていることに注意しなければならない。
『発見記』 における日本「発見」記事の全文は、次のとおりである。
一五四二年、ディオゴ・デ・フレイタスがシャム国ドドラ市(アユタヤ)に一船のカピタンとしていた時、その船から三人のポルトガル人が、l膿のジャンクに乗って脱走しシナに向かった。その名をアントニオ・
デ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショトという。北方三十度あまりに位置するリヤンポー(舟山列島の双嶼)に入港しょうと航行したところ、後ろから激しい暴風雨が襲来し、彼らを陸から隔ててしまった。こうして数日、東の方三十二度の位置にひとつの島を見た。これが人々がジャポンエスと称し、古書にその財宝について語り伝えるジバンガスのようであった。そしてこの諸島は黄金・銀、その他の財宝を有する。
一六一二年に出版されたディオゴ・デ・コウト(DiOgO de COutO)の『アジア史』第五編でも、『発見記』 の日本発見記事を敷術して継承している。さらに一六二〇年以降に執筆された、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』では、ガルヴァンの記事が種子島への鉄砲伝来と結びつけられた。すなわち「アントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、およびアントニオ・ペイショットが、一五四二年に、シャムからシナへ一隻のジャンクで出かけた。……彼らは不意に暴風雨に襲われた。‥‥‥それから数日後に、日本諸島の問に流された。…‥・この船は薩摩の海上にある一つの島で種子島と呼ばれるところに入港した。そのところでポルトガル人たちは鉄砲の用法を教えたので、その用法がそこから日本中に広まった」というのである。『日本教会史』以降、三人のポルトガル人がシャムから中国に向かう途中、種子島に漂着し鉄砲を伝えたという説は、現在にいたるまで(特に日本では)一般化している。
しかし 『発見記』 と「鉄胞記」 の記述を比較対照してみると、一致しない部分がきわめて多い。
(1)『発見記』では三人のポルトガル人が日本に漂着したとするが、「鉄砲記」では百余人の南蛮人が来航したと記し、「頁胡の長」 二人の名を挙げる。
(2)『発見記』では暴風雨により日本に漂着したと記すが、「鉄砲記」の描写では、暴風雨による漂着という様子はうかがえない 。
(3)『発見記』ではポルトガル人の漂着地を北緯三十二度とするが、「鉄炬記」が来航地とする種子島南端は、北緯三十度二十分に当たる。
(4) 「鉄砲記」 に詳述されている鉄砲伝来に関する記事が、『発見記』 には一切ない。
こうした相違にもかかわらず、「鉄砲記」と『発見記』が、同一事件の記録とみなされてきた主要な根拠は、両ムラ、ンヤクシャ史料に現れる人名の一部が一致するとされたためであった。すなわち牟長叔舎はフランシスコ (ゼイモト) の、(菩利志多)佗孟太は(アントニオ)ダ・モッタの音訳とみなされてきたのである。しかし、牟良叔舎を Francisco の音訳とするのはかなり疑わしい。他方、俺孟太はたしかに da Mota と読める。しかしC・R・ボクサー氏によれば、「ポルトガルにおけるモッタとは、(イギリスにおける) ロビンソンやスミスのようなもの」であり、こうした一般的な姓から同一人物とみなすことは難しいという。(喜利志多)佗孟太はアントニオ・ダ・モッタとは同姓の別人(おそらくクリストヴァン・ダ・モッタ)である可能性も高いのである。とすれば、結局のところ「鉄灼記」と『発見記』 にはほとんど共通点がないことになる。
「鉄胞記」と内容的に共通するヨーロッパ史料は、むしろフエルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』(以下、『遍歴記』と略称)であろう。ピントはポルトガル人の冒険商人で、一五三七年にアジアへ渡航し、一五三九年から一五四三年まではマラッカを拠点に東南アジア各地で活動したようだ。C・R・ボクサー氏は、ピントは一五四一年から四三年にかけてはビルマに滞在し、四三年にゴアからマラッカにいたり、四四年には中国沿岸を経て日本に渡航したと推定している。一五四六年に薩摩に来航したジョルジェ・アルヴァレスにも同行したという。一五五一年、三度目に日本を訪れた際にフランシスコ・ザビエルと知り合い、山口の教会建設のための資金を提供した。一五五四年にはイエズス会に入信、五六年にゴア総督の使節として豊後を訪れたが、同年にイエズス会を離れ、一五五八年にポルトガルに帰った。帰国後は一五八三年に没するまで、自伝的な冒険旅行記である『遍歴記』の執筆に専念した。『遍歴記』の原稿は一五六九年頃にほぼ書き上げられ、没後の一六一四年に出版された。
『遍歴記』はいちおうピントの自伝的冒険記の体裁をとっているものの、実際には事実とフィクションが混交し、極端な誇張や年月の混乱にみち、しばしば他人の事績や伝聞を自らの経験として語っており、歴史史料としてはきわめて厄介である。ただし彼が最初期に日本を訪れたポルトガル人の一人であったことは間違いなく、日本に関する記述には、他の史料に照らして信用すべき内容も少なくない。『遍歴記』では、ピント自身を含む三人のポルトガル人が種子島に来航し鉄砲を伝えたと記すが、上述のように一五四二〜四三年には彼はビルマにいた可能性が高く、信じがたい。そもそも『遍歴記』 では、ピントらの種子島来航の年月も明記されておらず、前後関係からはいちおう一五四五年となるが、『遍歴記』の年月自体が矛盾に満ちているので、鉄砲伝来の年次を考証する手がかりにはならない。
ピントが長々と語る鉄砲伝来の顛末をごく簡略に要約すると、次のようになる。
メンデス・ピント、ディオゴ・ゼイモト、クリストヴァン・ボラリョの三人のポルトガル人は、中国人海賊のジャンクに同乗して広東近海の浪自演(ランバカウ)を出航したが、暴風雨により漂流し、種子島に漂着した。島の前面に投錨したところ、島の住民が船を寄せてきたので、交易の希望を告げた。住民は停泊すべき港を指示したので、辟船に導かれて、大きな集落のある港に入った。すると種子島の領主ナウトキンが銀を詰めた箱を携えて到来し、ポルトガル人を上陸させ、商品を交易し歓待した。ある日、ゼイモトが鉄砲で狩猟をするのを見て、ナウトキンは強い関心を示す。ゼイモトはナウトキンに鉄砲を贈り、その製法を伝授した。ナウトキンは鉄砲の練習に励むとともに、家臣に鉄砲を製造させ、ポルトガル人が五か月半後に種子島を出航したときには、六百挺以上の鉄砲が造られていた。
領主の名ナウトキンは、種子島時亮の初名である直時を指すといわれる。五ケ月半で六百挺もの鉄砲が造られたといった、ピント一流の誇張もあるが、1種子島到着後、辟に引かれ領主の居住地に入港し交易。2領主の前で鉄砲を射撃し、関心を持った領主に鉄砲を贈る。3領主は鉄砲の練習に励み、家臣に鉄砲を模造させる、という大筋は、「鉄砲記」とほとんど共通している。ピントは一五四四年には実際に日本に渡航したと考えられ、当時の航路からみて種子島を訪れた可能性が強い。彼は直前に起きたポルトガル人の種子島来航と鉄砲伝来について詳しく知りうる立場にあり、『遍歴記』ではその情報を自身の経験のように記したのだろう。薩摩とポルトガルでまったく別々に執筆された「鉄砲記」と『遍歴記』の大筋がほぼ一致することから、両者の記述は基本的に実際の事件を踏まえているとみてよいだろう。逆にいえば、ガルヴァンの『発見記』では、日本について漠然と「金銀に富む」と記すだけで、鉄砲伝来などの具体的記述が一切ないのは奇妙に思われる。
『発見記』 の記事と鉄砲伝来を結びつけたのは、上述のようにロドリゲス 『日本教会史』 であった。ロドリゲスは同時に、ピント『遍歴記』 の記事が虚構に満ち信頼できないことも強調しているが、その背景にはイエズス会とピントの複雑な関係がある。ピントは一五五四年にイエズス会に入会して多額の財政的貢献をしたが、二年後に脱会したため、彼の事績はイエズス会の記録からすべて抹消されてしまった。ところが一六一四年に、ピント自身が日本発見と鉄砲伝来の当事者であったと説く『遍歴記』が出版されたため、イエズス会士のロドリゲスはこれを否定するためにも、『発見記』の日本発見記事と、種子島への鉄砲伝来を結びつけたのであろう。しかし史料自体を検討するかぎり、「鉄砲記」と『遍歴記』 の大筋は共通するのに対し、「鉄胞記」と『発見記』 の内容はほとんど一致せず、『発見記』と鉄砲伝来とを結びつける積極的な根拠は見いだせないのである。 
三 ふたつのフレイタス情報   『新旧発見記』 とエスカランテ報告 

 

ガルヴァン『発見記』の日本発見記事と関連して、従来から注目されてきた史料に、スペイン人ガルシア・デ・エスカランテ・アルヴアラードが、一五四八年にメキシコ副王に送った報告書がある。このエスカランテ報告には、ポルトガル人ディオゴ・デ・フレイタスから得た情報が含まれる。『発見記』 でも、フレイタスの船から脱走した三人のポルトガル人が日本を発見したと述べており、エスカランテ報告と 『発見記』 の内容は不可分の関係にある。
一五四二年、メキシコ副王は新大陸とアジアを結ぶ航路の開拓をめざし、ルイ・ロペス・デ・ヴィリヤロボス率いる艦隊を派遣した。エスカランテはこの艦隊の商人頭であった。ヴィラロボス艦隊は一五四三年二月にミンダナオ島に到着、セレベス島を経て一五四四年三月にモルツカ諸島の中心地ティドレ島にいたった。この年、ディオゴ・デ・フレイタスの弟であるジョルダン・デ・フレイタスが、ティドレ島の隣のテルテナ島の守備隊長に任命され、十月に兄とともにテルテナ島に到着した。ジョルダンはヴィラロボス艦隊のティドレ停泊を認め、十二月にはヴィラロボスと会談している。エスカランテが兄のディオゴから情報を得たのもこのころであろう。しかし一五四五年、モルツカ総督はヴィラロボス艦隊の停泊を認めた合意を破棄し、艦隊はメキシコへ帰還する航路を探索したが成功せず、十一月にポルトガルに投降した。この艦隊の乗組員はポルトガルに送還され、一五四八年八月にリスボンに到着した。エスカランテはリスボンで艦隊の遠征記録を報告書にまとめ、メキシコ副王に送ったのである。
ここでは岸野久氏の訳により、フレイタス情報の主要部分を紹介しょう。
大陸にあり、マラッカとテナと呼ばれるところの間にある−−−の 彼﹇フレイタス﹈がシャン (シャム) −町に船を留めていた時、そこへレキオ人たちのジャンクがT隻やってきた。彼はこれらの人々と大いに話を交わした。……(中略)……彼﹇フレイタス﹈は、彼らレキオ人と非常によい友人となり、そこを去ったが、レキオ人は自分の国がどこにあるかを彼に言おうとしなかったのである。
またこのようなことも起った。彼﹇フレイタス﹈ と一緒にそこ ﹇シャム﹈ にいた中の、ポルトガル人二人がテナ沿岸で商売しようと一隻のジャンクで向かったが、彼らは暴風雨にあってレキオスのある島へ漂着した。そこで彼らはその島々の国王から手厚いもてなしを受けた。それは、シャンで交際したことのある﹇レキオ人の﹈友人たちのとりなしによるものであった。彼らは食料を提供され立ち去った。
これらの人々が﹇レキオ人の﹈礼儀正しさや富を目撃したことから、他のポルトガル商人たちもテナのジャンクに乗って再びそこへ行った。彼らはチナ沿岸を東に航海し、さきの島に着いたが、今回は上陸を許されず、持参した商品とその値段の覚書を提出すべきこと、及び代金は直ちに支払われることが申し渡された。ポルトガル人たちはそのとおり提供したので、支払いをすべて銀で受け取り、食料を与えられ、退去を命じられた。
フレイタス情報の要点は次のとおりである。
(1)フレイタスの船がシャムに停泊していた時、レキオ(琉球)人たちが二肢のジャンクで来航し、ポルトガル人と交友をもった。
(2)その後、フレイタスの船にいた二人のポルトガル人が、ジャンクで中国沿岸に向かったが、暴風雨によりレキオス (琉球) に漂着した。
(3)ポルトガル人はシャムで友人となったレキオ人の仲介により、国王に厚遇され、食料を支給され帰航した。
(4)その後、別のポルトガル商人もジャンクで琉球に渡航したが、上陸を許されず、海上で商品と銀を交易し、退去を命じられた。
エスカランテ報告には、二回の琉球渡航の年を記していないが、フレイタスは一五四四年はじめにはシャムを出帆し、マラッカを経てテルテナ島に渡航しているので、第一回目の航海は一五四二年、第二回目の航海は一五四三年と考えられる。エスカランテ報告と、ガルヴァン『発見記』の記事は、「シャムにいたプレイタスの艦船から、ポルトガル人がジャンクに乗って中国沿岸に渡航しょうとしたが、暴風雨にあい未知の土地に漂着した」とが共通しており、同一の事件を伝えていることは疑いない。両者の相違点は次の二つで いう基本的なストーリーある。1『発見記』がポルトガル人の数を三名として、各自の姓名を挙げているが、エスカランテ報告ではポルトガル人の数を二人とし、姓名を記さない。2『発見記』では漂流した地を北緯三十二度の日本とするが、エスカランテ報告ではレキオス (琉球) とする。
エスカランテ報告と『発見記』を比較すれば、一般的にいって前者がはるかに根本的な一次史料である。エスカランテは事件直後の一五四四年末ごろ、フレイタス自身から直接話を聞いて報告書に記している。これに対しガルヴァンは一五四二年当時、すでにリスボンに帰還しており、日本発見の記事は間接的な伝聞に基づいている。とすれば、『発見記』の記事は、実はエスカランテ報告に述べる琉球到達の記事を、誤って(または故意に)日本発見と伝えたもの、という可能性が浮上してくる。そのことを最初に指摘したG・シュールハンマー氏は、次のように結論している。1一五四二年にポルトガル人が到達したのは、『発見記』に記す日本ではなく、エスカランテ報告に記す琉球である。2翌四三年にもポルトガル人はふたたび琉球に渡航した(エスカランテ報告)。3四三年にはポルトガル人が種子島にも来航し、鉄砲を伝えた (「鉄胞記」)。
しかし日本の研究者には、『発見記』の日本漂着記事を琉球漂着の誤伝とみるシュールハンマー説はほとんど受け入れられていない。特にポルトガル人の来航を一五四二年とみなす場合は、シュールハンマー説とは逆に、エスカランテ報告にいうレキオス発見は、実は日本(種子島)発見を意味すると考えなければならない。その論拠として、これまで次の二点が想定されてきた。
(1)エスカランテ報告にいうレキオスは、実は種子島を指す。
(2)エスカランテ報告では政治的理由から日本発見について記さなかった。
ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易
まず(1)の場合は、西欧人にとって琉球と日本の境界は明確でなく、また琉球王国の支配は奄美諸島にまで及んでいたので、その北方の種子島もレキオスとみなされたと考える。そしてエスカランテ報告に記す一五四二年・四三年のレキオス渡航は、実は「鉄砲記」に記すポルトガル人の種子島初来航と、翌年の再来航を示すと考えるのである。ただしその場合、エスカランテ報告には鉄砲伝来を示唆する内容がまったくないという問題点がある。くわえてエスカランテ報告では、レキオスに再渡航したポルトガル人は「上陸を許されず、退去を命じられた」とし、「鉄胞記」では、種子島に再来航したポルトガル人が、銃底をふさぐ技術を伝えたと記すことも矛盾する。
エスカランテ報告のフレイタス情報全体を検討すれば、やはりレキオスは種子島ではなく、琉球王国を指すと考えざるを得ない。エスカランテ報告によれば、レキオスに漂流したポルトガル人は、シャム滞在中に友人となったレキオ人のとりなしにより、国王に厚遇されたという。種子島の住民がシャムに渡航したとは考えられず、このレキオ人は明らかに琉球王国から来航したはずである。『歴代宝案』によれば、琉球国王尚清は、嘉靖十九(一五四〇)年に一般の貿易船(正使毛是以下、乗員百四十一名) を、翌嘉靖二十(一五四一)年にも一腰の貿易船(正使頁満度以下、乗員百五十三名) をシャムに派遣している。フレイタスが「レキオ人たちのジャンクが一隻やってきた」と述べるのは、一五四〇年の貿易船を指す可能性が高く、その乗員がポルトガル人と交友をもったのであろう。彼らは一五四〇年末に琉球を出航し、四一年初頭にはアユタヤに入港したと思われる。アユタヤ滞在中にポルトガル人と知り合い、四一年夏の季節風で琉球に戻ったに違いない。そして四二年に旧知のボルトガル人が琉球に漂着した際、国王と彼らを仲介したのである。
なおエスカランテ報告では、四三年に再渡航したポルトガル人が、上陸を許されず退去を命じられた理由はわからない。しかし四三年の琉球王国には、彼らの入港を認められない事情があった。明朝の『世宗実録』 によれば、これより先、樟州人の陳貴らが密貿易のため琉球に渡航し、潮州の海船と争って殺傷事件を起こした。琉球王府は陳貴らを監禁し商品を没収したが、陳貴らは脱走をはかって捕縛され、その際に多くの仲間が殺された。福建からこの事件の報告を受けた朝廷では、陳貴らは密貿易により厳罰に処すが、琉球が彼ちの密貿易を許したうえ、商品を没収し、監禁・殺害したことはきわめて不遜であり、今後は「軽々しく中国の商民と交通貿易するを得ず」と戒告すべきである、との結論に達した。嘉靖帝もこれを裁可し、一五四二年五月、琉球が今後も密貿易を放任すれば「即ちにその朝貢を絶つ」という厳しい勅旨を下したのである。この勅旨は、年末までには琉球に伝達されたであろう。このため一五四三年には、琉球王府は中国船との貿易にきわめて慎重にならざるを得なかった。この年に琉球に来航したポルトガル人は、華人のジャンクに同乗しているので、入港して貿易すれば嘉靖帝の勅旨に抵触することになる。このため海上に停泊して貿易することは黙認されたものの、入港は許されず、退去が命じられたと考えられるのである。
つづいて仮説(2)を検討してみよう。この場合、エスカランテが政治的理由により、ポルトガル人の種子島漂着を、故意にレキオス漂着として報告したと想定する。スペインとポルトガルは一四九四年のトルデシーリヤス条約によって勢力範囲を二分したが、その後もアジア東部では両国の分界線が確定せず、勢力圏をめぐる競合が続いていた。スペイン艦隊の一員であったエスカランテは、ポルトガル人が日本を発見したと報告して、日本に対する優先権を認めることを避けようとした。そこでエスカランテは、意図的にポルトガル人の漂着地を種子島ではなく「レキオス」とした、というのである。
しかしこの仮説を実証的に裏付ける史料的根拠があるわけではなく、あくまでも状況証拠による推測の域を出るものではない。さらにエスカランテ報告は、一方ではポルトガル人が最初にレキオス (琉球) を「発見」したことを明示する内容になっている。もしエスカランテにポルトガル人の新領土発見を隠す意図があったとすれば、なぜあえて琉球発見を明記したのか理解しがたい。一五一〇年代に、トメ・ビレスがマラッカで遭遇した琉球人について詳しく紹介して以来、琉球の存在はむしろ日本以上によく知られていた。『発見記』の著者ガルヴァンも、ポルトガルに帰国後、カタリナ女王にあてた書簡で次のように述べている。「スマトラからモルツカ (諸島) へは横断して四百レグアはありません。……シナへも同じくらいの里程です。琉球にはそれよりやや多くなります。……また (メェバ・エスパーニャの) フエルナン・コルテス侯、および新たに来任した副王のドン・アントニオ・デ・メンドーサは、シナ・レケオス・モルツカに遣わし、また他の新たな世界を発見するために、ガレオンその他の多数の船の一船隊を作ることを命じました」。メキシコ副王メンドーサが派遣した艦隊とは、エスカランテが参加したヴィラロボス艦隊をさすが、レキオス発見はその主要な使命の一つだったという。さらにいえば、エスカランテ報告書は『発見記』 のような公開を前提とした著作ではなく、メキシコ副王にあてた内部報告書である。この種の報告書で、あえてまったく虚構の報告をする必然性があったとは考えにくいのではないか。
また逆に、ポルトガル人のフレイタスはスペイン人のエスカランテに対して、日本発見の事実を隠して語らなかった、と想定する論者もいる。しかしこの仮説も、フレイタスにポルトガル人の新発見を隠す意図があったならば、なぜ琉球発見をあえて語ったのか、という疑問を避けられない。またポルトガル人の日本発見を伝えれば、むしろポルトガルの日本に対する優先権を主張することにもなり、フレイタスにそれを隠す必然性があったかどうかも疑わしい。フレイタス情報に日本発見の記事がないのは、要するに琉球への漂着者が彼の部下だったのに対し、種子島への渡航者とは特に関係がなく、彼はそのことを語る立場になかったからではないだろうか。
なお上記のガルヴァン書簡では、中国と琉球について言及しながら、日本についてはまったく触れておらず、彼が日本について十分な情報を持っていたとは考えにくい。さらに 『発見記』 では、ポルトガル人の日本発見を記した直後に、次のような記事が続いている。
同じく一五四二年、メェバ・エスパーニャ副王のアントニオ・デ・メンドーサは、艦長と水先案内人を、か
シエラネヴァダってコルテスが訪れたエンガノ岬を発見するため派遣した。彼らは北緯四十度にある雪の山、まで航海した。そこで彼らは、商品を積んだ (複数の)船に出会ったが、その舶先にはアルカトラズと呼ばれるある種の鳥や、他の鳥の金銀でできた像が、意匠か装飾としてつけられ、帆桁は金で、舶先は銀で塗られていた。それらは日本もしくは中国から来たようであった。彼らが言うには、それらの国には三十日以内で航海できるという。
カリフォルニアのシエラネヴァダ山脈付近に、日本や中国の貿易船が来航したという荒唐無稽な説には、北アメリカと東アジアの距離が実際よりかなり近く考えられていたという背景がある。いずれにせよ、『発見記』の日本関係記事には、このような不確実な風聞も含まれていることに注意しなければならない。
モルツカでフレイタスから直接に得た情報に基づくエスカランテ報告と、ガルヴァンがリスボンで間接的に得た伝聞に基づく『発見記』 の史料価値を比べれば、一般的にみて前者の信頼性がはるかに高い。くわえて『発見記』の内容は具体性に乏しく、「鉄砲記」とほとんど一致しないうえ、漂着地を北緯三十二度とするなどの疑問点もある。一方エスカランテ報告のレキオスは明らかに琉球王国を指しており、また政治的理由から日本発見を隠した可能性も低いとすれば、やはりシュールハンマー説のように、一五四二年にポルトガル人が漂着したのは、日本(種子島) ではなく琉球であり、四三年には別のポルトガル人が種子島に渡航して鉄砲を伝えた、と考えるのが妥当ではないだろうか。 
四 ポルトガル人の種子島来航と鉄砲伝来の状況 

 

『発見記』 の日本漂着の記事が、琉球漂着の誤伝であったとすれば、通説的なポルトガル人目本来航の状況自体も再検討する必要がある。「ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲を伝えた」という旧来のイメージに対し、近年では、「王直のジャンク船にポルトガル人が同乗し、種子島に漂着した」という、王直に代表される華人海商の役割を強調する見方が有力である。これは「華人のジャンクに乗ったポルトガル人が日本に漂着した」(『発見記』)、「明人の儒生五峯(=王直)が南蛮船に乗っていた」 (「鉄胞記」)という記述を組みあわせたものだが、『発見記』の記事が種子島漂着を示すものでないとすれば、「ジャンクに乗ったポルトガル人の漂着」という見解にもいくぶん検討の余地がありそうだ。
まず圭直と鉄砲伝来との関係について。いうまでもなく「五峯」は後期倭冠のリーダーであった王直の号である。「鉄胞記」を執筆した南浦文之が、中国海商の代名詞ともいえる五峯の名を拝借した、という可能性も完全には否定できない。しかし一五四三年当時の王直の活動状況からみて、たしかに彼がポルトガル人とともに来日しても不思議ではない。
従来は『日本一鑑』 に、王直は「乙巳歳(嘉靖二十四=一五四五年) に於いて日本に往市し、始めて博多津の倭、助才門等三人を誘いて双嶼に来市す」とあることから、四三年に五峯=王直が種子島に来たとする「鉄砲記」との矛盾が指摘されていた。しかし村井孝介氏が明快に論証するように、王直は一五四〇年代前半から日本にも来航していたと考えられる。『筆海図編』 には「嘉靖十九 (一五四〇)年、時に海禁は尚お弛し。(王)直は葉宗満等と広東に之き、巨艦を造り、将に硝黄・純綿等の違禁物を帯びて、日本・遅羅・西洋等の国に抵り、往来して互市すること五・六年、富を致すこと砦られず。夷人大いにこれに信服し、称して五峯船主と為す」とあり、王直は一五四〇年ごろから、広東を拠点に東南アジアや日本を結ぶ密貿易を展開し、「五峯船主」で通っていたという。西洋(東南アジア西部) の中心港はマラッカやパタニであり、王直は広東・シャム・マラッカ・パタニなどでしばしばポルトガル人と接触したであろう。その後王直は四四年に双嶼の密貿易集団に参入し、四五年には九州に渡航して、その帰途に博多の助才門らを双嶼に引き入れ、四六年にも来日して、日本−双嶼の密貿易を展閲したのである。「鉄胞記」 の記録を信じるかぎり、「五峯」は王直を指すとみてよいだろう。
それではポルトガル人は華人のジャンクに乗って、種子島に来航したのだろうか。『発見記』では、三名のポルトガル人が華人のジャンクで日本に漂着したと説くが、「鉄砲記」では、「船客は百余人、その形は類せず、その語は通ぜず」とあり、百余人の船客は日本人と似た華人ではなく、ポルトガル人や東南アジア人だったように読める。誇張や文飾があったとしても、「頁胡の長」である牟良叔舎と喜利志多佗孟大のほかにも、かなり多くのポルトガル人や東南アジア人が乗っていた可能性がある。一方で船種については、「西村の小浦に一大船あり。何れの国より来るかを知らず」とあるだけで、ポルトガルのナウ船か中国のジャンクか判然としない。ただしポルトガル人が一五一三・一四年に中国に初渡航した際には、マラッカで現地のジャンクをチャータ1しており、一五一七年に広東から琉球発見に向かった際も、ジャンクに乗り華人の水先案内人を雇っている。またエスカランテ報告によれば、一五四二・四三年に琉球に渡航したポルトガル商人も、華人ジャンクを利用していた。さらに一五四四年から連年のように九州に来航した西欧人も、マラッカ・アユタヤ・パタニなどの東南アジアの港市から、華人海商のジャンクによって渡航している。すでに天文九(一五四〇) には、種子島に明船が来航しており、四三年の時点で華人海商は種子島への航路を把握していたであろう。こうした状況からみて、やはりポルトガル商人は華人海商のジャンクに同乗し、華人の水先案内人に導かれて種子島に渡航したとのではないか。むろん王直がそのジャンクの船主であった可能性も高い。
それではこのジャンクは「暴風雨で種子島に漂着」したのだろうか。『発見記』ではポルトガル人が暴風雨により漂流し、偶然に日本を発見したとするが、「鉄砲記」には暴風雨による漂着をうかがわせる描写はまったくない。東南アジアや華南から南西諸島を北上すれば、まず種子島・屋久島などに到着する。また「鉄砲記」に南蛮船の来着地とする種子島南端の西村浦は平坦な砂浜が続き、南方海上から種子島に着岸するにはもっとも適当な地点である。南方から黒潮ルートに乗って日本をめざした場合、まず種子島南端に着岸するのは自然であり、「鉄砲記」の描写からみて、ポルトガル人は暴風雨により漂着したのではなく、はじめから種子島をめざして来航したと考えるべきであろう。
なお王直に代表される華人海商が、ポルトガル人初来日に重要な役割を果たしたことは疑いないが、近年ではさらに、日本に鉄砲を伝えた主体はポルトガル人ではなく、むしろ華人密貿易者が東南アジア式の鉄砲を日本に伝えたという説も提唱されている。その主たる論拠は次の二点である。1一五四〇年代の朝鮮史料に、福建から日本に渡航する密貿易者が、日本に「火胞」を伝えたという記事がある。2日本式火縄銃の形式が、ヨーロッパ式よりも東南アジアのマラッカ式火縄銃に近い。しかしまず1についていえば、関周一氏が指摘するように、朝鮮史料に見える「火砲」とは、火縄銃ではなく伝統的な中国式の火器を指していると考えられる。
また2についても、ポルトガル商人が私用ないし商品として、東南アジアで現地調達した火縄銃を種子島に伝えたとしても不思議ではない。的場節子氏によれば、種子島伝来銃は銃床が頬付け式で、火ばさみが銃口側に倒れる瞬発式火縄銃であり、西欧で十六世紀前半に開発された鳥類狩猟用の火縄銃と特徴が一致するという。的場氏はマラッカ方面で密林での狩猟用にこの種の火縄銃の現地生産が行われ、ポルトガル人がそれを種子島に持ち込んだと推定している。『東洋遍歴記』でも、種子島でポルトガル人が鉄砲で野鳥を狩猟するのを見て、領主が強い関心を示し、その操作と製造法を習ったと述べており、種子島に伝わった火縄銃が狩猟用であった可能性をうかがわせる。
なお『日本一鑑』には、「手銃。初めは仏郎機国に出づ。(仏郎機)国の商人、始めて教え、種島の夷の作る所となる。次いで則ち棒津﹇坊津﹈・平戸・豊後・和泉等の処も、通じてこれを作る」という記事がある。日本・中国・ポルトガルで別々に成立した、「鉄灼記」・『日本一鑑』・『東洋遍歴記』が、いずれもポルトガル人がもたらした鉄砲が、種子島で模造され日本各地へ普及するという、共通するストーリーを伝えているのは偶然ではありえない。また関周一氏が述べるように、天文二十二 (一五五三)年ころ、近衛植家が島津氏を介して、種子島時亮に「南蛮人直令相伝」 の火薬調合法を幕府に伝えるよう依頼しているのも、ポルトガル人が伝えた最初期の鉄砲技術が種子島から畿内に伝えられたことを示している。その後は種子島以外からも別系統の火縄銃が伝来したであろうが、一五四三年に種子島に来航したポルトガル商人が、東南アジアで現地生産された火縄銃を、最初に日本に伝えたことは疑いないだろう。 
五 大友氏の遣明船派遣と種子島 

 

「鉄砲記」の後半部分は、種子島に伝わった鉄砲が、畿内や関東に伝播するプロセスを主題とする。その最後では、種子島を出帆した遣明船が伊豆に漂着したことにより、鉄砲が関東に伝わったと述べている。しかしこの部分には、「鉄砲記」前半部分との間に年代の矛盾があり、それが鉄砲伝来を一五四二年とする説の有力な論拠とされてきた。ここではこの問題を再検討するとともに、問題の遣明船をめぐる諸史料を整理検討して、鉄砲伝来当時の種子島をめぐる海域交易について展望してみたい。
「鉄胞記」によれば、種子島時尭は一五四三年に来航したポルトガル人から鉄砲を入手し、翌一五四四年に再来航したポルトガル人から銃底を塞ぐ技術を伝授され、その後一年あまりで数十挺の鉄砲を製造したという。したがって数十挺の鉄砲が完成したのは、早くとも一五四五年初頭ということになる。ところが「鉄砲記」の後半には、「新貢三大船」 の種子島出航をめぐる次のような記事がある。
我嘗てこれを古老に聞けり。日く、天文壬寅(十一年・一五四二)・発卯(十二年・一五四三) の交、新貢の三大船、将に南のかた大明国に遊ばんとす。:…・船を我が小嶋(種子島) に賎し、既にして天の時を待ちて麿(ともづな)を解き模を斉え、洋を望みて若に向かう。不幸にして狂風は海を推げ、怒涛は雪を捲き、坤軸もまた折けんと欲す。呼、時か命か。一の貢船は椿傾き概堆けて烏有と化し去る。二の貢船は漸くにして大明国の寧波府に達す。三の貢船は乗ることを得ずして我が小嶋に回る。翌年、再びその繚を解いて、南遊の志を遂げ、海貸・蛮珍を飽載して、将に我が朝に帰らんとす。大洋の中、異風忽ち起こって西東を知らず。船は遂に瓢蕩して、東海道伊豆州に達る。州人はその貸を掠め取りて、商客はまたその所を失う。船中に我が僕臣の松下五郎三郎なる者あり。手に鉄炬を携え、既に発してその鵠に中らざることなし。州人は見てこれを奇とし、窺伺・倣慕して、多くこれを学ぶ者あり。玄より以降、関東八州より、率土の演に埜ぶまで、伝えてこれを習わざることなし。
この記事の要点は次の通りである。
(1)一五四二〜四三年、新たに三彼の遣明船派遣が準備され、種子島を出帆した。しかし暴風雨により一責船は沈没、二貢船は寧波に到着したが、三貢船は種子島に引き返した。
(2)翌一五四四年、三貢船は種子島を再出航し、中国で貿易を行って帰航したが、暴風雨により伊豆に漂着した。そこで乗員の松下五郎三郎が住人に鉄砲を伝え、関東にも鉄砲が普及した。
つまり「鉄胞記」は前半で、(T)ポルトガル人が一五四三年に初来航、四四年に再来航し、四五年初頭までに鉄砲の模造に成功したと記す。ところが後半では、(U)一五四四年に種子島を出航した三吉船に、松下五郎三郎が鉄砲を持って乗船していたことになる。したがって(T)か(U)のどちらかの年が誤っていると考えなければならない。もしポルトガル人の初来航を、(T)に記す一五四三年でなく一五四二年であるとすれば、この矛盾は解消する。その場合ポルトガル人の再来航は四三年、鉄砲の模造成功は四四年初めになり、四四年の初夏に出帆したであろう三買船に、松下五郎三郎が鉄砲を持って乗船することは可能になる、というわけである。
この説では「鉄胞記」 のうち、(T)ポルトガル人初来航の年を一年前に修正し、(U)遣明船出帆の年との矛盾を解消するわけだが、当然ながら、(U)遣明船出帆の年を一年後に修正し、(T)ポルトガル人初来航の年との矛盾を解消する、ということも可能である。そして結論から言えば、関連史料の記述からみて、年の誤りは(T)部分ではなく、(U)部分にあると考えられるのである。
まず『種子島家譜』 には、次のような記事がある
天文十三 (一五四四)年甲辰。‥…・四月十四日、渡唐船二合船と号す解纜す。
天文十四 (一五四五) 年乙巳六月十四日、二合船帰朝す。
また『筆海図編』に、嘉靖二十三 (一五四四)年六月、「夷船一隻、使憎寿光等一百五十八人、貢と称す」とあるのも、二貢船(『種子島家譜』では二合船)の寧波到着を指すに違いない。つまり三膿の遣明船のうち、二貢船は一五四四年四月に種子島を出帆し、六月に寧波に到着、翌四五年の六月に種子島に帰着したのである。従って三艘遣明の船が四一一一年に種子島を出帆し、うち二貢船だけが寧波に到着したとする「鉄砲記」 (V)の記事とは一致しない。
ただし寧波に到着した二貢船の朝貢貿易は認められなかった。日本の朝貢は十年一回が定例であり、前回の遣使から五年しかたっておらず、かつ日本国王の表文もないことから、明朝は朝貢を許さなかったのである。この二貢船はその後も寧波近海の双嶼附近にとどまって密貿易を行ったようだ。『箸海図編』に「甲申(嘉靖二十三=一五四四年)自り歳凶にして、双嶼の貨は塗るに、日本の貢便通ま至り、海商は遂に貨を販る」とあるのは、二貢船の双嶼入港を指すに違いない。さらに『世宗実録』嘉靖二十四(一五四五)年四月突巳条には、日本使節の朝貢を許さず帰国を命じたにもかかわらず、「各夷は中国の財物を噂み、相い貿易して、歳余に延ぶに去るを肯ぜず」とあり、二貢船は翌一五四五年の四月まで双嶼に留まっていた。その後ようやく双嶼を出港し、同年六月に種子島に帰着したのである。なお二貢船の帰航に際しては、四四年から双嶼の密貿易集団に参入していた王直が、警護のため哨戒船を率いて同行している。
したがって二貢船の種子島出帆は一五四四年四月、帰着は四五年とみるべきであり、「鉄胞記」(H) の「天文壬寅(一五四二)・突卯(一五四三) の交、新貢の三大船、将に南のかた大明国に遊ばんとす」は、「天文突卯・甲辰(十三=一五四四年) の交」の誤りと考えなければならない。とすれば三貴船が種子島を再出航したのは、二貢船出航の翌年である一五四五年となり、四五年初頭に完成した鉄砲を持って乗り込むのは十分可能になる。「鉄胞記」の (H)部分は、文頭に「我嘗てこれを古老に聞けり」とあるように、古老の伝承に基づいており、種子島家の古記録に基づくと思われる(T)部分よりも、年代の誤りは生じやすいだろう。さらに「三貢船に乗った松下五郎三郎が関東に鉄砲を伝えた」という、(V)部分の主題自体にも疑問が残る。三頁船が漂着した伊豆は後北条氏の領国であるが、宇田川武久氏によれば、後北条氏による鉄砲使用が確認 されるのは一五六〇年以降で、西日本の諸大名はもとより、甲斐の武田氏に比べてもかなり遅れていた。一五四〇年代に伊豆から関東へ鉄砲が広まったとは考えがたいのである。
さて上記の諸史料では、一五四四年に種子島を出帆した遣明船の派遣主体は不明だが、村井章介氏は、ピントの 『遍歴記』 から次のような興味深い一節を紹介している。
さまざまな気晴らしに日を過ごしながら、私たちがのんびりと満ち足りて、この種 子 島に滞在すること二十三日経った時、この港に豊後王国から、多数の商人の乗っている一隻の船が着いた。彼らは上陸すると、習慣になっている進物を携えてすぐにナウタキンを訪問した。……[ナウタキンは] 私たちをそばに呼び、少し離れたところにいた通訳に合図して、彼を通じて言った。「我が友人よ、今渡された、余の主君であり、かつおじである豊後王のこの手紙を読むのを是非聞いて貰いたい……」。
村井氏はこの記事にいう、「豊後から来た、多数の商人の乗った船」こそが、問題の遣明船ではないかと推定している。前述のように、ピントは一五四四年に種子島を訪れたと思われ、おそらく彼が種子島滞在中に豊後から来航した遣明船を実見し、そのことを『遍歴記』 に盛り込んだのだろう。
またこの当時、大友氏が幕府から勘合を入手していたことからも、遣明船の派遣主体が大友氏であったことが推定できる。橋本雄氏が明らかにしたように、大友氏はすでに文亀三 (一五〇三)年に将軍足利義澄から弘治勘合を入手していた。ただし遣明船の派遣にはいたらず、その間に大永三 (一五二三)年の寧波争貢事件を経て、大内氏が細川氏を対明貿易から排除し、天文六 (一五三七)年には独占的に遣明船を派遣した。ところが天文十一(一五四二)年、大内氏は日本国王の書契を偽造して、朝鮮国王に対し、「好濫の臣」が弘治勘合を盗みだして遣明船派遣を図っていると告げ、このことを朝鮮から明朝に伝達してほしいと依頼している。大内氏としては対明貿易の独占を維持するため、大友氏がさきに入手した弘治勘合を利用して遣明船を派遣する前に、機先を制してこの書契を送ったのだろう。ただし朝鮮政府はこの要請を断っており、大友氏は四三年から対明貿易の準備を進め、四四年には三鰹の遣明船が種子島を出帆したのである。
幕府から勘合を入手し、遣明船を送ったのは大友氏だけではなかった。『日本一鑑』には、次のような一連の記事がある。
(1)嘉靖甲辰 (二十三年=一五四四)、夷憎寿光等、一百五十人来貢す。期に及ばざるを以て、これを却く。
(2)嘉靖乙巳(二十四年=一五四五)、夷属の肥後国、勘合を夷王宮に請うを得、僧の脚球を遣わして来貢す。期に及ばざるを以て、これを却く。
(3)嘉靖丙午(二十五年=一五四六)、夷属の豊後国利史源義鑑、勘合を夷王宮に請うを得、僧の梁清等を遣わして来貢す。期に及ばざるを以て、これを却く。
すなわち(1)一五四四年に寿光ら百五十人が来貢した後も、(2)翌四五年には肥後国が、(3)四六年には豊後の大友義鑑が、それぞれ幕府から勘合を得て朝貢したが、いずれも十年一回の朝貢という定例に違反しているため、入貢を認めなかったという。(1)はいうまでもなく、四四年に種子島を出帆した大友氏の二貢船を指す。(2)四五年の肥後国の朝貢船は、相良氏が派遣したと推定されている。そして(3)四六年の大友義鑑の朝貢船こそが、「鉄砲記」に記す「三貢船」だったのではないか。この三貢船は四五年の夏には寧波近海に着いたと思われるが、おそらく寧波には相良氏の遣明船が先に入港していたのであろう。もし寧波で鉢合わせになれば、寧波争貢事件の二の舞である。そこで三貢船はしばらく双嶼あたりで密貿易に従事し、翌四六年に寧波に入港したのではないだろうか。
周知のように、応仁の乱以降、従来の博多−寧波ルートを押さえた大内氏と、堺−土佐−南九州−寧波という南海路による細川氏が、朝貢貿易の実権をめぐって激しく競合した。寧波争貢事件によって細川氏が排除されると、朝貢貿易の実権は大内氏の独占に帰したが、その間隙を縫って、大友氏や相良氏などが勘合を獲得して朝貢を図ったのである。そして大友氏が対明貿易のルートとしたのが、豊後から日向灘を南下して南九州にいたり、種子島から寧波に渡る航路であった。このルートは、豊後から瀬戸内海を経て堺にもつながる。さらに種子島氏と琉球王国の間には貿易船の往来があり、大友氏は種子島氏を通じて琉球や東南アジアの産品の入手も図っていた。特に種子島時亮と大友義鎮(宗鱗、義鑑の子) の政治的関係は密接であり、時亮は豊後を訪れて義鎮と会見し、義鎮の庶子を養子に迎えようとしたこともあった。これに対し、大内氏も対明貿易用の南海産品を調達する必要もあって、日向南部の主要港を押さえた豊州島津家と結んで琉球との通行を図った。一五四二年には、大内氏は琉球王国に対し、那覇に来港した種子島氏の貿易船を拘留し、種子島氏を琉球貿易から排除することを要請している。
種子島は中国東南沿岸から琉球や南西諸島を北上し、南九州から土佐を経て畿内に到る黒潮ルートの本流(南海路)と、日向灘から豊後に北上し、瀬戸内海を経て畿内にいたるその分流との結節点に位置していた。種子島氏はこの両ルートを利用して、琉球・堺・紀州・豊後などの活発な交易や人的交流を展開しており、種子島に伝来した鉄砲技術も、このルートによって普及していったのである。「鉄砲記」が、種子島に来訪した紀州根来寺の僧兵や堺の商人によって、鉄砲が畿内に普及したと説くのは、南海路による鉄砲技術の移転を示している。また種子島時亮が大友義鎮に「南蛮小銃筒」を贈り、義鎮も室町将軍家に「南蛮鉄砲」や「石火矢井種子島筒」を献上しているのは、豊後ルートによる政治的関係を通じた鉄砲普及の例である。
黒潮ルートによって日本をめざした華人やポルトガル人が、まず種子島に来航したのも自然なことであった。一五四三年に種子島に来航したポルトガル人は、おそらく秋冬の季節風で東南アジア方面に帰り、日本「発見」のニュースをもたらしたはずである。これを受けて、翌四四年には西欧人が次々と日本に渡航した。種子島に再来航したポルトガル人には、メンデス・ピントも含まれていた可能性がある。またスペイン商人のベロ・ディアスも、一五四四年に中国沿岸から日本に渡航し、翌四五年末にはテルテナ島でエスカランテに日本情報を提供した。エスカランテ報告書に収められたディアス情報には、ポルトガル人がパタニに住む華人のジャンクで日本に渡航し、ある港で百般以上の華人ジャンクに襲撃されたが、火砲と銃でそれを撃退した、という事件が伝えられている。
ディアスはこの事件が起こった港を明記していないが、大隅半島の禰寝氏の庶流である池端清本が、天文十三(一五四四) 年十一月に作成した譲与文書には、清本の嫡孫が 「小祢寝港に於いて唐人南蛮人と戦える時、手火矢(火縄銃)に中りて討死」したという附記があり。ディアスの伝える事件は、大隅半島東南の小根占港で起こったことがわかる。小根占港は禰寝氏の拠点であり、薩摩の山川とともに九州最南端の主要港であった。百般以上の華人ジャンクという数には誇張があるにしても、相当数の華人密貿易者が、南西諸島や種子島を経て、南九州に来航していたことは疑いない。ディアスによれば、この年には別のポルトガル人も琉球を経て日本に来航したという。さらに翌一五四五年には、やはり華人ジャンクに同乗して、ポルトガル商人ジョルジェ・デ・ファリヤらが豊後府内に入港した。一五四〇年代に来日した華人やポルトガル人が、まず活動の舞台としたのも、種子島から薩摩・大隅・日向を経て豊後に到る、九州東南沿岸だったのである。  
結語 − 東アジア「交易の時代」 の序幕

 

ここではまず、本稿で検討したポルトガル人の日本初来航の経過を、関連する東アジア海域の諸状況も交えて、あらためて簡略に整理しておこう (年月は太陰暦による)。
一五四〇年 (天文九・嘉靖十九年) (六月)種子島に明船来航 (『種子島家譜』)。王直、広東・東南アジアで密貿易開始 (『箸海図編』)。(年末)琉球、シャムに貿易船派遣 (『歴代宝案』)。
一五四一年 (天文十・嘉靖二十年) (年末)琉球、シャムに貿易船派遣。
一五四二年(天文十一・嘉靖二十一年) フレイタス船のポルトガル人二名、シャムから中国に渡航する途中、暴風雨により琉球に漂着(エスカランテ報告)。(八月)明朝、琉球に対し華人との密貿易を厳禁(『世宗実録』)。
一五四三年(天文十二・嘉靖二十二年) ポルトガル人、琉球に再渡航するが、上陸を許されず退去(エスカランテ報告)。(四月)大内氏の偽使、朝鮮に勘合盗難を明朝に伝達することを依頼(『中宗実録』)。(八月)ポルトガル人と明人五峯(=王直)ら、種子島の西村浦に来航、鉄砲を伝える。種子島時亮、鉄砲の模造を命じるが完成せず (「鉄胞記」)。
一五四四年(天文十三・嘉靖二十三年)(春)ポルトガル人、種子島に再渡航、銃底を塞ぐ技術を伝授(「鉄胞 記」)。(四月)大友氏の遣明船、種子島を出帆、二貢船は寧波に到着、三貢船は種子島に戻る(「鉄胞記」)。(八月)二貢船、朝貢貿易を拒否され、双峡で密貿易(『世宗実録』)。王直、双嶼の密貿易集団に参入(『箋海図編』)。
一五四五年(天文十四・嘉靖二十四年)(年初)種子島で数十挺の鉄砲を製造(「鉄砲記」)。(六月)二貢船、 種子島に帰着(『種子島家譜』)、王直、二貢船に同行して来日(『筆海図編』)、帰途、博多の助才門らを双嶼に引き込む (『日本一鑑』)。三貢船、種子島を出帆(「鉄胞記」)、双嶼附近に停泊して密貿易。
一五四六年(天文十五・嘉靖二十五年) 三貢船、寧波での朝貢貿易を拒否され(『日本一鑑』)、帰航の途中、暴風雨により伊豆に漂着(「鉄砲記」)。王直、連年来日して密貿易を展開(『日本一鑑』)。
このように整理してみると、ポルトガル人の日本来航が、東アジア海域での華人密貿易の展開と連動していたことがあらためて確認できる。ポルトガル人は、明朝との公式貿易開始に失敗し、一五二二年に広州湾から駆逐されてからは、樟州近海でわずかに密貿易を続けていた。一五四〇年代に彼らを大規模な密貿易に引き込んだのが、許棟兄弟や王直などの徽州人の密貿易集団であった。まず一五四〇年に、許兄弟がマラッカやパタニから、ポルトガル人を漸江沿岸での密貿易に引き入れた。王直や葉宗満らのグループも、やはり四〇年から広東と東南アジアを結ぶ密貿易を開始しており、シャムやマラッカなどではポルトガル人とも接触したはずである。そして四三年には、許棟兄弟が双嶼を根拠地と定め、そこにポルトガル人を引き入れた。同じ年に、ポルトガル人が明人五峯(王直)とともに種子島に来航したのである。四四年には、王直も双嶼の密貿易集団に参入して、許棟のもとで密貿易の経理責任者となり、許棟も日本に渡航して密貿易を行った。そして四五年、王直は大友氏の朝貢船の帰航に同行して再来日し、双嶼への帰途、博多の助才門らを密貿易に誘い込んだのである。
一五四〇年代前半には、王直や許棟などの徽州グループのほかにも、相当数の華人密貿易者が日本に渡航して(洲) いた。まず一五四〇年、種子島に明船が来航したのを皮切りに、翌四一年には、豊後の神宮寺浦に乗員二百八十名の明船が絹織物を舶載して来航した。四二年には、明の密貿易者八十名が豊前に漂着し、平戸にも明船が入港したという。そして種子島にポルトガル人が来航した四三年には、日向の諸港でも、「唐船十七腹入来故、異国ノ珍物数不知、滴々大ニキワイケリ」といわれ、豊後にも五腹の明船が入港した。おそらく薩摩や大隅などに渡航した明船はいっそう多かっただろう。このように多数の明船が、南九州に陸続と渡航していたのであり、そのうちの (おそらく王直が所有する)一般に、ポルトガル商人が同乗して種子島に到達したのであろう。
ついで一五四四年には、福建泉州から日本に密貿易に向かった百余名の明人が、朝鮮に漂着し、薩摩半島の阿久根にも明船二腹が入港した。また前述のように、この年には小根占にも多数のジャンクが入港し、ポルトガル人襲撃事件を起こしている。翌四五年にも、日本に密貿易に向かった何艘もの明船が朝鮮に漂着し、天草にも明船が入港している。こうした密貿易ブームの動因はいうまでもなく日本銀産出の急増である。一五三〇年代から石見銀山などの銀産量が急増すると、まず大量の銀が朝鮮に輸出され、遼東方面から明朝へも流入した。さらに一五四〇年代に入ると、中国海商が日本銀を求めて密貿易にのりだす。そして日本銀と中国・東南アジア産品密貿易センターとなったのが双嶼であった。
双嶼での密貿易は、嘉靖五 (一五二六)年に福建人によって始められたが、当初は福建の密貿易者が、漸江方面に設けた一基地だったのだろう。嘉靖十八(一五三九)年にいたり、福建人海商が「西番人」 (東南アジア人?)を双嶼に引き入れ、翌四〇年には、許棟兄弟の手引きでマラッカやパタニのポル下ガル人も寄港をはじめた。そして四三年には許棟がポルトガル人とともに本拠を双嶼に定め、四四年には大友氏の遣明船も寄港したことにより、双嶼は中国・東南アジア・ポルトガル・日本海商が集結する密貿易拠点となる。同時にその主導権は、福建の密貿易者から、許棟・王直などの徴州グループに移った。そして四五年には、王直が日本人を博多から双嶼に誘引し、華人密貿易者を中心に、ポルトガル人・日本人・東南アジア人を巻き込んだ、双嶼−九州−東南アジアを結ぶ三角貿易が形成された。ポルトガル人の日本来航は、まさに一五四〇年代前半の東アジア海域における、「交易の時代」 の序幕という全体状況の一環だったのである。

双嶼 (そうしょ)
○ …16世紀の倭寇の構成員は、日本人は10〜20%にすぎず、大部分は中国の浙江・福建地方の密貿易者で、当時東アジアに進出してきたポルトガル人もこれに加わった。密貿易者群の根拠地は、浙江の双嶼(そうしよ)(ポルトガル人はリャンポーといった)と瀝港(列港)(れつこう)であるが、この地が明の官憲の攻撃をうけて掃討されると、密貿易者たちは海寇集団に一転した。首領には王直や徐海らがいた。…
○ …文字の初見は404年の高句麗広開土王碑文にあるものだが、豊臣秀吉の朝鮮出兵も20世紀の日中戦争もひとしく倭寇の文字であらわされた。時期、地域、構成員などを規準につけられた倭寇の称呼には、〈高麗時代の倭寇〉〈朝鮮初期の倭寇〉〈麗末鮮初の倭寇〉〈元代の倭寇〉〈明代の倭寇〉〈嘉靖の大倭寇〉〈万暦の倭寇〉〈二十世紀的倭寇〉〈朝鮮半島の倭寇〉〈山東の倭寇〉〈中国大陸沿岸の倭寇〉〈浙江の倭寇〉〈杭州湾の倭寇〉〈双嶼(そうしよ)の倭寇〉〈瀝港(れつこう)の倭寇〉〈台湾の倭寇〉〈ルソン島の倭寇〉〈南洋の倭寇〉〈シナ人の倭寇〉〈朝鮮人の倭寇〉〈ポルトガル人の倭寇〉〈王直一党の倭寇〉〈徐海一党の倭寇〉〈林鳳一味の倭寇〉などがある。以上の倭寇のうち、最も規模が大きくまた最も広範囲に活動したのは14〜15世紀の倭寇と16世紀の倭寇である。…  
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
『日本巡察記』 ヴァリニャーノ

 

 
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
(ヴァリニャーニ、Alessandro Valignano / Valignani、1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。
イエズス会入会まで
1539年、イタリアのキエーティで名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、キエーティの司教をつとめた関係でヴァリニャーノ家と親交のあった教皇パウルス4世に引き立てられてローマで働くことになった。パウルス4世の後継者ピウス4世もヴャリニャーノの才能を評価し、より重要な任務につかせようとした。ヴァリニャーノはこれに応えて聖職者となることを決意し、パドヴァ大学で神学を学ぶと1566年にイエズス会に入会した。入会後に哲学を深めるため、ローマ学院で学んだが、この時の学友に後のイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ (Claudio Acquaviva) がいた。
1570年、誓願を宣立し、司祭に叙階される。1571年から修練院で教えていたが、教え子の中には後に中国宣教で有名になるマテオ・リッチらがいた。1573年、総長エヴェラルド・メルクリアン(エヴラール・メルキュリアン) (Everard Mercurian) の名代として広大な東洋地域を回る東インド管区の巡察師に大抜擢された。イタリア出身のヴァリニャーノが巡察師という重要なポストに選ばれたのは、当時のイエズス会内の2大勢力であったスペイン・ポルトガルの影響による弊害を緩和するためであったといわれている。彼は1574年3月21日にリスボンを出発し、同年9月にゴアに到着。管区全体をくまなく視察した。インドの視察を終えたヴァリニャーノは1577年9月にゴアを経つと同年10月19日マラッカに入った。
マカオから日本へ
ヴァリニャーノは1578年9月、ポルトガルが居留地を確保していたマカオに到着したが、同地のイエズス会員のだれ一人として中国本土定住が果たせなかったことを知った。彼はイエズス会員が中国に定住し、宣教活動をするためにまず何より中国語を習得することが大切であると考えた。彼はゴアにあった東インド管区本部の上司に手紙を書き、この任務にふさわしい人物としてベルナルディーノ・デ・フェラリス(Bernardino de Ferraris)の派遣を願ったが、フェラリスはコーチのイエズス会修道院の院長として多忙をきわめていたため、代わりにミケーレ・ルッジェーリ (Michele Ruggieri) が派遣されることになった。
ヴァリニャーノは1579年7月、到着したルッジェーリと入れ替わるように日本へ出発した。ヴァリニャーノの指示にしたがってルッジェーリは中国語の学習に取り組み、この任務にふさわしい人材としてマテオ・リッチのマカオへの派遣をヴァリニャーノに依頼、ヴァリニャーノがゴアに派遣を要請したことでリッチがマカオに送られ、ルッジェーリとリッチの二人は1582年8月7日から共同で宣教事業に取り組んだ。
日本訪問
ヴァリニャーノが当時の東インド管区の東端に位置する日本(口ノ津港)にたどり着いたのは1579年(天正7年)7月25日のことであった。この最初の滞在は1582年(天正10年)まで続く。
ヴァリニャーノは日本におけるイエズス会の宣教方針として、後に「適応主義」と呼ばれる方法をとった。それはヨーロッパのキリスト教の習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法であった。彼のやり方はあくまでヨーロッパのやり方を押し通すフランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会の方法論の逆を行くもので、ヴァリニャーノはこれを理由としてイエズス会以外の修道会が日本での宣教を行うことを阻止しようとし、後のイエズス会と托鉢修道会の対立につながる。
1581年(天正9年)、イエズス会員のための宣教のガイドライン、『Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone(日本の風習と流儀に関する注意と助言)』を執筆した。その中で、彼はまず宣教師たちが日本社会のヒエラルキーの中でどう位置づけられるかをはっきりと示した。彼はイエズス会員たちが日本社会でふるまうとき、社会的地位において同等であると見なす高位の僧侶たちのふるまいにならうべきであると考えた。当時の日本社会はヒエラルキーにしたがって服装、食事から振る舞いまで全てが細かく規定されていたのである。具体的にはイエズス会員たちは、高位の僧侶たちのように良い食事を取り、長崎市中を歩く時も彼らにならって従者を従えて歩いた。このようなやり方が「贅沢」であるとして日本のイエズス会員たちはヨーロッパで非難された。そのような非難は托鉢修道会からだけでなく、イエズス会内部でも行われた。
ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見している。1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている。
また、この最初の来日では、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることを見抜き、激しく対立。1582年にカブラルを日本から去らせた。ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。それは1580年(天正8年)に肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)に設立された小神学校(セミナリヨ)、1581年に豊後府内(現:大分県大分市)に設けられた大神学校(コレジオ)、そして1580年に豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)であった。また、日本布教における財政システムの問題点を修正し、天正遣欧少年使節の企画を発案した。これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。1582年、ヴァリニャーノはインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。
再来日と晩年
1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。
1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されたが、その後天主堂の焼失・荒廃により地下聖堂ごと所在不明となった。しかし1990年から1995年の発掘により発見され、現在は博物館として観光用に整備されている。

日本巡察記 1

 

日本人について
ヴァリニャーノの経歴 「イタリア出身のイエズス会司祭で、三たび巡察師として来日し、布教事業に指導的役割を果たした。ナポリ王国のキエーティ市の貴族として生まれ、イエズス会員となったが、総長はその非凡の能力を認め、自らの名代ともいうべき巡察師に任命して東インドに派遣した。インドやマカオで仕事を終えてのち、1579年(天正7)に初めて日本に赴き、織田信長からも歓迎され、天正(てんしょう)遣欧少年使節行を立案し実施。90年には帰国する少年使節を伴い、インド副王の使節として来日。この際、一行にヨーロッパから活字印刷機を携えさせ、わが国で最初の活版印刷が始められた(キリシタン版の刊行)。98年(慶長3)から1603年(慶長8)まで3度目の滞日。06年1月20日、マカオで病没した。カトリック教会史上の偉人の1人。 」
そして、『日本巡察記』がどういうものかといえば、「信長・秀吉時代の日本に東洋巡察使として4回来日した著者が、イエズス会本部に書き送った機密報告書。」とあるように、日本にキリスト教を布教するためにはどうしたらいいのか、極東の地においてキリスト教国を作り上げるにはいかにすればいいのかを、イエズス会教師の最高監督者が本国に送った書である。
したがって、「第二十七章 日本における多額の経費、及びそれをまかなう方法。当布教を前進させるに必要な収入」とか「条二十五章 条件が充たされたならば、日本をインドから独立した管区にすべきこと」とか「第十九章日本の上長がその統轄に優れた効果を挙げる為に一般に採るべき方法」などといった、日本をキリスト教国にするための具体的な方策が書かれている。つまりアジアや南米でみられたようなキリスト教による統括・支配(植民地)を日本でも行うための報告書だといってもいいだろう。
その人物が日本人の特性について書いている。それが、すこぶる面白い。
ローマカトリックの内部の文書であるから、日本人に媚びる必要などなく、第三者的目線で書かれていると言ってもいいだろうが(無論、多少の誇張はあるだろうが)、これが面白いほど、日本人をベタ褒めしているのだ。
日本人とは何か、それを考える意味でも重要だと思うので、引いていきます。
■「第一章 日本の風習、性格、その他の記述
わがイエズス会が日本において現在所有し、将来所有すべき、修院、学院、およびその統轄方法を述べるに先立ち、日本における種々の風習や性格について概説する必要があろうと思う。 ……。 (日本人は)人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我らヨーロッパ人よりも優れている。国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供たちは我らの学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供たちよりも、はるかに容易に、かつ短期間に我らの言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我らヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。…(米しか作られない)したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。ただし彼らの間では、貧困は恥辱とは考えられてはいないし、ある場合には、彼らは貧しくとも清潔にして丁重に待遇されるので、貧苦は他人の目につかないのである。貴人は大いに尊敬され、一般にはその身分と地位に従って多数の従者を伴っている。
日本人の家屋は、板や藁で覆われた木造で、はなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である。屋内にはどこにもコルクのような畳が敷かれているので、きわめて清潔であり、調和が保てれいる。日本人は、全世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民であると思われる。すなわち、彼らは侮辱的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない。したがって、もっとも下級の職人や農夫と語る時でも彼らは礼節を尽くさなければならない。さもなくば、彼らはその無礼な言葉を堪え忍ぶことができず、その職から得られる収入にもかかわらず、その職を放棄するか、さらに不利であっても別の職に就いてしまう。 ・・・(中略)・・・日本人はきわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由を堪え忍ぶ。それは、もっとも身分の高い貴人の場合も同様である。が、幼少の時から、これらあらゆる苦しみを甘受するような習慣づけて育てられるからでしょう。 ・・・(中略) ・・・彼らは信じられないほど忍耐強く、その不幸を堪え忍ぶ。きわめて強大な国王なり領主が、その所有するものをことごとく失って、自国から追放され、はなはだしい惨めさと貧困を堪え忍びながら、あたかも何も失わなかったかのように平静に安穏な生活を営んでいるのにたびたび接することもある。この忍耐力の大部分は、日本では環境の変化が常に生じていることに起因していると思われる。実に日本ほど運命の変転の激しいところは世界中にはないのである。ここでは、何か事があるたびに、取るに足りない人物が権力ある領主となり、逆に強大な人物が家を失い没落してしまう。既述のように、かような現象は、彼らの間ではきわめて通常のことであるから、人々は常にその覚悟をもって生活しているのであり、ひとたび(逆境に)当面すると、当然予期していたもののようにこれに堪えるのである。また彼らは、感情を表すことにははなはだ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑制しているので、怒りを発することは稀である。したがって彼らのもとでは、他国の人々のように、街路においても、自宅においても、声をあげて人と争うことがない。なぜなら、夫と妻、親と子、主人と使用人は争うことをせず、表面は平静を装って、書状を認(したた)めるか、あるいは洗練された言葉で話合うからである。それ故、その国から追放されたり、殺されたり、家から放逐されても、平然とした態度でこれを甘んじるのである。換言すれば、互いにははなはだ残忍な敵であっても、相互に明るい表情をもって、慣習となっている儀礼を絶対に放棄しない。この点について生じることは吾人には理解できぬし、信じられないばかりである。それは極端であり、誰かに復讐し、彼を殺害しようと決意すると、その仇敵に対してそれまでよりも深い愛情と親睦さを示し、共に笑い共に喜び、状況を窺い、相手がもっとも油断したときに、剃刀のように鋭利で、非常に重い刀に手をかけ、次のような方法で斬りつける。通常は、一撃か二撃で相手を倒し、何事もなかったかのような態度で冷静に平然とふたたび刀を鞘に収め、動揺するでなく、言葉を発するでなく、感情に走って怒りの表情を示しはしない。このような次第であるから、いかなる者も柔和で忍耐強く、秀でた性格を有するように見えるのであり、この点において、日本人が他の人々より優秀であることは否定し得ないところである。彼らは交際において、はなはだ用意周到であり、思慮深い。ヨーロッパ人と異なり、彼らは悲嘆や不平、あるいは窮状を語っても、感情に走らない。すなわち、人を訪ねた時に相手に不愉快なことを言うべきではないと心に期しているので、決して自分の苦労や不幸や悲嘆を口にしない。その理由は、彼らはあらゆる苦しみに堪えることができるし、逆境にあっても大いなる勇気を示すことを信条としているので、苦悩を能うる限り胸中にしまっておくからである。誰かに逢ったり訪問したりする時、彼らは常に強い勇気と明快な表情を示し、自らの苦労について一言も触れないか、あるいは何も感ぜず、少しも気にかけていないかのような態度で、ただ一言それに触れて、あとは一笑に付してしまうだけである。
一切の悪口を嫌悪するので、それを口にしないし、自分たちの主君や領主に対しては不満を抱かず、天候、その他のことを語り、訪問した先方を喜ばせると思われること以外には言及しない。同様の理由から、相談事において感情に走らない為に、重要な問題については、直接面と向かっては話さず、すべて書面によるか、あるいは第三者を通じて行うことが日本での一般の習慣となっている。これは両親と子供、主君と家臣の間はもとより、夫婦の間さえ行われているほどである。それは、憤怒や反駁、異議の生じる恐れがある場合には、第三者を通じて話し合うことが思慮深いと考えられているからである。かくて日本人の間には、よく一致と平穏が保たれる。子供の間にさえ、聞き苦しい言葉は口に出されないし、我らのもとで見られるように、平手や拳で殴り合って争うということはない。きわめて儀礼的な言葉をもって話し合い、子供とは思えない重厚な、大人のような理性と冷静さと落ち着いた(態度)が保たれ、相互に敬意を失うことがない。これはほとんど信じられないほど極端である。服装、食事、その他の仕事のすべてにおいてきわめて清潔であり、美しく調和が保たれており、ことごとくの日本人がまるで同一の学校で教育を受けたかのように見受けられる。次に述べるように、日本人は他のことでは我らに劣るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の点で我らを凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。 」
前にも引いたフランソワ・カロンにも子供のことが書かれていたが、子供の時からすでに日本人的大人であったようだ。これはほかの欧州人の日本人の一貫した見方だ。それに、感情に走らない忍耐強さがある一方で、激しい感情も持っている(復讐のところ)など、和辻哲郎の日本人の「しめやかな激情」の説明に似ていると思う。
過去記事 「和辻哲郎「風土」から。 第2回目 日本人特有の性格「しめやかな激情」」
日本人の美点と欠点
■「 (日本人に関する箇所の抜粋)
徳操と学問に必要な能力について語るならば、私は日本人以上に優れた能力のある人々のあることを知らない。日本人は自ら、感情を抑制し、愛情深く、穏和で思慮があり、彼らの事物をよく考慮し、特に慎み深く、厳粛で、外面的教養に心を配り、飢餓や寒気によく堪え、厳しい環境に対してよく修練を積んでいると表明している。国王や大領主でさえも、このことを自ら誇りとしている。彼らは財産の喪失や迫害に際しても忍耐強く、不平や悲嘆を表わさず、それらの場合はもとより、死に際しても偉大で強い勇気と精神を示す。これらは、徳操に対しても、いかに優れた傾向を有するかを示すものであり、東洋の他国民の場合とは異なり、人々が神の御教えに召される時に授け給うごとく、神の御恩寵が日本人の上に下されることは疑い容れない。上述のすべての点において、真実の精神が彼らの心の中に宿るならば、彼らは彼らよりも優れた素質を有すると言いうる。なぜなら、彼らは大いなる努力を必要とするからである。
学問に関しては、ラテン語は彼らにとってきわめて新しく、文がまったく反対であることと、我らの用語と最初の要素(となるもの)の名称が日本語に欠けている為に、我らは非常に敏感で、賢明で遠慮深く、かつよく学ぶことは驚嘆するばかりである。子供でも大人のように三、四時間もその席から離れないで勉強している……(後略)(第十七章)
日本人は我等の聖なる信仰を受け入れる能力があるばかりでなく、我等の科学知識をも容易に受理することができる。(第六章) 」
織田・豊臣時代に日本を訪れたヴァリニャーノは、そこに住まう人々の優秀さに驚嘆した。他のアジアの国々や欧州の国々と決定的に違うのは、底辺の人達であっても、強い向学心を持ち、それに耐えうる高い精神性を備えていた点にある。明治維新でいち早く近代化を成し得たのは、日本人がこうした特性を古代から綿々と持ち続けてきたからだと、こういう文献を読むと分かる。
さて、そんなヴァリニャーノが、日本人の欠点というものを挙げている。それが第二章にある。
■「第二章 日本人の他の新奇な風習
……私が見たあらゆる諸国民の中では、彼らはもっとも道理に従い、道理を容易に納得する国民である。これにより、日本人がいかに良い素質を備え、秀でた天性を有しているかが判るのである。(中略)彼らは真に思慮と道理に従うから、他の国の人々の間に見られるような節度を越えた憎悪や貧欲を持たないのである。
[ と書きながら、続いて欠点を挙げている。まとめると5つ。]
第一の悪は、色欲上の罪に耽ることである。
第二の悪は、主君に対してほとんど忠誠心を欠いていることである。
第三の悪は、異教徒の教義で生活していること。
第四の悪は、残忍であること。間引きなど。
第五の悪は、飲酒と、祝祭、饗宴に耽溺することである。 」
となる。
当時の日本はまだまだ戦国時代であったので各地で戦があり、残忍な場面に出くわしたのであろうと思われる。そういった箇所を例を挙げて説明している。そして、第三の悪では、当時の堕落した仏教を批難し、異教の教義に染まっている民衆を痛烈に批判している。
また庶民に対しては性欲や酒など欲望に溺れやすい点を挙げている。まあ厳格なカトリック教徒だから余計そう見えるだろうが……。ただ、色欲、酒といったものに、いまの日本人が特に寛容であるのは同じだろう。「第五の悪」という説明に、「その為には多くの時間を消費し、幾晩も夜を徹する。この饗宴には、各種の音楽や演劇を伴うが、これらはすべて日本の宗教を日本人に教えた人々が考案したもののように思われる。この飲酒や類似の饗宴、過食は、常に他の多くの堕落を伴うので、これによって日本人の優秀な天性ははなはだしく損なわれている。」とあった。現代日本人の宴席や花見や祭りにそのまま当てはまっているようで面白い。
思わず、過去記事「草薙剛のあの事件」を思い出してしまった。
また日本語について褒めている記述もある。
「日本人の風習に関する消息については、以上で十分であろう。これに関しては述べるべきことがあまりにも多く、わずかな紙数をもってしては尽くすことができない。この儀礼や風習を教える彼らの書籍は無数にあって、それが驚くほど優雅に、散文や韻文をもって書かれている。このことから日本人の天稟(てんぴん:天性、天資)の才能や理解力がいかに大いなるものであるかが解るのである。
(日本語は)きわめて優雅であり豊富であって、話すのと書くのと説教するのとでは、それぞれ言葉が異なるし、貴人と話す場合と下賤者と話す場合では言葉を異にする。このような多様性は、漢字の上にも無数にあって、書くことを学ぶのは不可能であるし、人に見せられるような書物を著すことができるようになることは、我らの何ぴとにも不可能である。 」
当時の宣教師となれば、現代の最高の知識人であり、ヴァリニャーノほどの人物となればノーベル賞級のインテリだと言ってよいだろう。そんな人物から見て日本人とその文化がこれほど優れていたというのだから、やはりスゴイのだろう。では今の日本人がスゴイのかといえば、それはまた別の話だが、そういう資質をもともと日本人は持っているということではないのか……。
日本に魅入られた宣教師たち
本書においてヴァリニャーノが日本人を絶賛し、他の諸外国民よりも抜きん出た存在であるといった記述は、全編を通じて書かれている。それでは、ある程度まとまっている第六章「当布教事業の重要性、及び日本における現在、また将来の大成果」から引いてみましょう。
「日本におけるこの(布教)事業が、東洋の全地方、及び発見されたあらゆる地方において、もっとも重要であり、もっとも有益であることは、多くの理由から疑い容れない。
第一に、日本は既述のように六十六ヵ国から成る広大な地方で、その全土には、きわめて礼儀正しく深い思慮と理解力があり、道理に従う白色人(日本人)が住んでいるのであり、経験によって知りうるように、大いなる成果が期待される。
第二の理由は、東洋のあらゆる人々の中で、日本人のみは道理を納得し、自らの意志で(霊魂の)救済を希望し、キリスト教徒になろうとするのであるが、東洋の他の人々は、すべてむなしい人間的な考慮や利益の為に我らの信仰を受け入れようとするのが常であることは、従来吾人が見てきたところである。日本人は我らの教義を他国人よりはるかに良く受け入れ、教義や秘蹟を受ける能力を短期間に備え、改宗した時は、その偶像崇拝の非を完全に悟るが、東洋の他の人々はみなこれと反対である。
第三の理由は、日本では東洋の他の地方とは異なり、身分の低い下層の人達がキリスト教徒になるのみにならず、武士や身分の高い領主並びに国王さえも同じように我らの聖なる信仰を進んで受け入れる。したがって、日本における成果は比較するものがないほど、大きく容易で価値がある。
第四の理由は、日本人はその天性として、宗教にきわめて関心が深く、これを尊重し、司祭に対して非常に従順であるが、これは日本のあらゆる諸宗派の仏僧を高い地位に置き、その数もはなはだ多く、仏僧らが日本でもっとも良い生活をしていることによっても理解される。日本人が、数多の人々に対してこのようにしているとするならば、真実と教えを受け、超自然的な道理、恩寵、慈愛に授けられている我らに対して、いっそう秀でた態度をとることは疑いの余地がなく、それはすでに我らが改宗した人々について見聞した通りである。
第五の理由は、(従来)キリスト教徒を新たに作り始めた土地では、必要な人手や費用が獲得されたのであるから、日本全国において、聖なる福音と改宗への扉が開かれている(と言えること)である。
司祭たちはその希望する所に住み、思いのままに我らの主の教えを説くことができる。すなわち、自分たちの宗派を保護しようとする仏僧や異教徒らの反対や迫害が決してないわけではないが、我らの主なる神に召し出され、その道を歩むように定められた人々もいるからである。かくして、イエズス会が知られた今日、司祭たちが布教し、定着しようと希望した土地でキリスト教徒を作らないところは日本中のどこにもない。これは東洋の他ではみられぬことである。
第六の理由は、日本人は我らの聖なる信仰を受け入れる能力があるばかりでなく、我らの科学知識をも容易に受理することができる。もっとも重要なことは、彼らが聖職者となって修道会で聖浄な生活をなす能力を十分に備えていることであって、これは短期間に我らが経験で知ったことである。その上また十分注目さるべきは、宣教師となった後は、他の日本人から深い尊敬の念をもって見られることであり、この点は東洋の他のいずれの国においてもまったく反対である。
第七の理由は、人々は道理を重んじてこれに従い、またすべての者は同一の言語を有するので、キリスト教徒になった後は、他のいかなる国におけるよりも、これを育てることが容易である。我らの国民の間に住むよりも、日本人のもとで生活することを比べようもないほどに喜ぶ。それは、日本人のもとでは、自分達の働きに成果を直ちに挙げることができるのに、他国のもとでは、その粗野な性質や、劣った天性の為に、一生涯苦労し続けても、真の効果はほとんど得られないし、得られたとしても、はなはだ遅々としているからである。すなわち、両者の間には、理性ある高尚な人々の中で生活するのと、獣類のように低級な人々の中で生活するのと同じくらい大きな差異が見出されるからである。 」
面映いくらいだが、ヴァリニャーノは別にこれを日本人に媚びへつらって書いているわけではない。彼の最終目的は、イエズス会主導による日本のキリスト教国化にある。日本人は優秀な民族であり、キリスト教(彼ら宣教師が思っている最高の教義=教養)を理解し修得するのは容易いであろうと考えたのであった。そして日本を東洋のキリスト教布教の拠点にしようと彼は思い至ったのだ。
拠点となるからには、その土地の住民が、高い教養を身につけた欧州人(ローマカトリックの教皇たちや、出資者である国王やパトロン)のお眼鏡にかなったものでなければならない。彼らから見て、決してアジア周辺諸国のような野蛮人や土人の類であってはならかったのだ。これは人種差別といった話ではない。現代に例えれば海外進出を図る企業が、それに見合うような国を探すようなものだ。その企業にとって必要なのは大きな利益を得られる国。イエズス会にとって必要なのは布教活動を進めるにあたって得られる大きな成果だ。日本はそれに値する国であった。だがヴァリニャーノにはそれだけではなかった。布教のため諸外国を巡り、多くの民族を見聞した彼であったが、その中でも理性ある高尚な日本人に知ると、たちまち魅入られてしまったのだ。
また、同じような構想を立て、本国に報告した宣教師が同時代いた。それがオルガンティーノだ。彼もまた日本に魅了された一人だった。
オルガンティーノの経歴 「イエズス会士。イタリアのカスト・ディ・バルサビアに生まれ、1556年フェラーラでイエズス会司祭となった。70年(元亀1)6月天草(熊本県)の志岐(しき)に上陸し、同年布教のために京都へ派遣、以後30年以上にわたって京都で活動を続け宇留岸伴天連(ウルガンバテレン)と愛称され親しまれた。織田信長の厚遇を受け、安土(あづち)に土地を得てセミナリオ(小神学校)と司祭館を建て、京都にも南蛮(なんばん)寺(教会)を建築した。日本人の優秀さを認め、日本文化への順応主義を唱え、布教長カブラルと対立した。1605年(慶長10)長崎のコレジオ(大神学校)に移り、09年4月22日、長崎に没した。 」
同書の解題にオルガンティーノの手紙も記載されていたので、これも併せて引いておく。オルガンティーノがフェラーロに宛てた手紙(1577年9月20日付)
「日本人は全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同よりはるかに優っている。我らの主なる神が何を人類に伝え給うかを見たいと思う者は、日本へ来さえすればよい。彼らと交際する方法を知っている者は、彼らを己れの欲するように動かすことができる。それに反し、彼らを正しく把握する方法が解らぬ者は大いに困惑するのである。この国民には、怒りを外に現すことは極度に嫌われる。彼らはそのような人を「キミジカイ」、すなわち我らの言葉で「小心者」と呼ぶ。理性に基づいて行動せぬ者を、彼らは馬鹿者と見なし、日本語で「スマンヒト」、すなわち「澄まぬ人」と称する。彼らほど賢明、無知、邪見を判断する能力を持っている者はないように思われる。彼らは不必要なことは外に現さず、はなはだ忍耐強く大度ある国民で、悔悛にいそしみ、信心、また外的な礼儀に傾くこと多大で、交際においてははなはだ丁重である。彼らは受けた好意に対し、同等の価の感謝をもって報いる極端な習慣を持っている。だが自尊心と大いなることへの欲求は、自らを(超自然的に)昴めるという点で彼らを盲目にする。また彼らは宴会に耽り、自己陶酔を恥としない。なぜなら通常この際、彼らは悪事をなさず、彼らの耳には余り好く聞こえず、快くもない音楽を、ある種の楽器で演奏する。彼らは詩句を作り、はなはだ優美な判じ物を作り、彼らの間におけるように喜劇を演ずる。彼らはきわめて新奇なことを喜ぶ。もし当都地方にエチオピアの奴隷が来るなら、そして彼を見せるために監督がついて来るなら、人はみな彼を見るために金を払うであろうから、その男は短期間に金持ちとなるであろう。
彼らの言葉はひじょうに優美であるが、各人の地位に応じて幾多の異なった表現があるため、学習することはかなり難しい。それらは幾つかの韻を有するが、我らのうちまったく正しく発音できる者は僅かである。
彼らは互いに大いに賞賛し合う。そして通常何ぴとも無愛想な言葉で他人を侮辱しはしない。
彼らは鞭で人を罰することをせず、もし誰か召使いが主人の耐えられないほどの悪事を働く時は、彼は前もって彼らの憎悪や激昂の徴を現すことなく彼を殺してしまう。なぜならば、召使いは嫌疑をかけられると、先に主人を殺すからである。
結局、彼らは、よく知っている者には喜んで交際できる国民であり、我らの聖なる信仰を受け入れようと努力する者を喜ばせるのである」
1577年9月29日付け、イエズス会総長メルクリアン宛書簡
「(前略)
私たちは当都全域の改宗に大いなる期待を寄せており、尊師が私たちのもとへ幾名かの良き人々を派遣して援助されることを望んでいる。なぜなら都こそは、日本においてヨーロッパのローマに当たり、科学、見識、文明はさらに高尚である。尊師、願わくば彼らを野蛮人と見なし給うことなかれ。信仰のことはともかくとして、我らは彼らより顕著に劣っているのである。私は国語を解し始めてより、かくも世界的に聡明で明敏な人々はないと考えるに至った。ひとたび日本人がキリストに従うならば、日本の教会に優る教会はないであろうと思われる。経験により、我らは儀式によってデウスの礼拝を高揚せしめることができれば、日本人は幾百万と改宗するであろう。もし我らが多数の聖歌隊と共にオルガンその他の楽器を有すれば、僅か一年で、都及び堺のすべてを改宗するに至ることはなんら疑いがない。そしてそれらは全日本の二大主要都市であり、その住民が改宗すれば、その他の都市はすべて追随し、私共は支那における計画も立てられようと思う……。 」
1577年10月15日付け、手紙
「私たちが多数の宣教師を持つならば、10年以内に全日本人はキリスト教徒となるであろう。四旬節以来六ヶ月間に、八千人以上の成人に洗礼が授けられた。この国民は野蛮でないことを御記憶下さい。なぜなら信仰のことは別として、私たちは互いに賢明に見えるが、彼らと比較するとはなはだ野蛮であると思う。私は真実のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる。したがって、尊師、願わくは、ヨーロッパで役に立たないと思われる人が私たちのもとで役に立つと想像されること無きように。当地では憂鬱な構想や、架空の執着や、予言や奇蹟に耽る僭越な精神はことに不必要なのである。私たちに必要なのは、大度と慎重さと、聖なる服従に大いに愛着を感ずる人なのである。(後略) ・・・」
この当時の日本人はどれだけ優れていたのか、驚嘆せずにいられないのは現代日本人の方ではなかろうか。
さてさて、彼らイエズス会宣教師たちは、日本をキリスト教国化するために尽力し、熱意をもって本国へ具申した。しかし、それは夢想に終わる。日本は結局、キリスト教国になることはなかった。無論、主因は、秀吉、家康、徳川将軍ら日本の権力者がキリスト教を廃止したことによる。だが、日本人側にキリスト教(的支配)を受け入れない素地があったのだ。それは権力者によるキリスト教廃止というくびきから解かれた明治維新後も大戦後も、キリスト教が広まることはなかったことを見ても分かる。
実は、その理由をヴァリニャーノはここで書いているのだ。
「この国は外国人が支配できる国ではない」
ヴァリニャーノと同時期に日本に来ていたフロイスは「日本史」を書き記した。いまではフロイスの方が有名人となっているが、ヴァリニャーノの方が上官である。本書の解題に分かりやすい説明があった。
『過去の外的事象を詳細を極めて描写することはフロイスがもっとも得意とするところであり、ヴァリニァーノは事物の内面を深く洞察して、将来を企画することをもっとも長所とした。』
フロイスの「日本史」は、当時の日本の事件・人物について事細かく書かれたものであり、いうなれば彼は「新聞記者」「ジャーナリスト」だったといえよう。
一方、ヴァリニャーノの「日本巡察記」は、イエズス会主導のもとでいかに日本をキリスト教化するかを説いた、「企画書」「プランナー」的な書であるといえる。
それは、目次を見れば良く分かるだろう。「第十六章 日本人修道士、及び同宿と、我等ヨーロッパ人宣教師の間に統一を維持するための十分な注意と方法」とか「第二十八章 日本においてキリスト教徒の領主が司祭や教会を維持できない理由と原因」とかいったもので、どのようにすれば日本をキリスト教化(それによる支配)できるか、その方策が細かく繰り返し述べられている。またこの報告がローマカトリック本部のみならず、国王や貴族などパトロン・出資者に向けられていることからおカネに関する記述も多い。「第二十七章 日本における多額の経費、及びそれをまかなう方法。当布教を前進させるに必要な収入」とか「第二十九章 収入を補わなければ日本が陥る大いなる危険、及び収入不足のために失われる成果」といった収支に関わることも多く書かれている。
そして、この報告書は事業推進のものなのに、読めば読むほど、「日本のキリスト教化無理じゃね」と思えてくるから不思議だ。
本書を大雑把にまとめると、日本人は優秀である→キリスト教を理解する能力がある→有能なキリスト教徒を増やせる→日本を東洋のキリスト教布教の拠点にする→カネと人を派遣すべき、という趣旨となっている。
ヴァリニァーノ「日本諸事要録」(一五八〇年ころ)の記述
「支那人は別として、全アジアでもっとも有能で良く教育された国民であり、天賦の才能があるから、教育すれば総じて科学の多くのヨーロッパ人以上に覚えるであろう」
「…とにかく改宗後、インド人と日本人の間には大きい相違がある。すなわち、インドでは各個人は改宗に際して自らの利益を求めた。インドにおける布教活動が通常把握したものは、黒人と無能者であった。したがって彼らはその後、前進し良きキリスト教徒となることが、はなはだ困難である。日本の新しいキリスト教徒の大群衆は、キリスト教の信仰をその領主の強制によって受け入れたのであるが、彼らは教えられたことを良く知っており、良く教育されており、才能があり、外的礼拝を非常に愛好するから、まったく喜んで教会へ説教を聞きに来る。…」
だが、一方ではこういう危険性があることを何度も強く言っている。
簡単に要約してみる。
1 日本人は優秀であるが、ヨーロッパ人とは全く違う思考をもっていて、『日本人は自分たちの風習や儀礼に深くなじんでいるから、彼らはたとえ世界が破滅しようともその日常の態度なり方式を一片すら棄て去りはせぬであろう。(第三章)』とあるように、ヨーロッパ人の風習に馴染もうとはしないだろう、という。日本人は誇り高い人種であるので、土人や野蛮人のように鞭や恫喝で無理やりにキリスト教徒にするということは無理である。この点は何度も書かれている。
2 しかも、『日本人の習慣、食事、対応、言語その他の諸件の相違、また自然の感情においてさえ存在する相違、特に日本人は、彼らが風習を重んじて、これを固執し、ヨーロッパ人がこれに慣れることは非常に困難である。』とあるように、ヨーロッパ人宣教師も日本人化することできない。
3 よって、教会の布教には日本人の聖職者を育てる必要があり、その者たちを彼らの上長に据えることになる。しかしこれには大きな危険を伴う。彼ら日本人の独自の考えで、キリスト教を別のものに作り変えることになるのではないかと懸念している。(また、この上長には領主の類縁などがなれば、権力を持ち、ヨーロッパ人宣教師以上の力を持ってしまうことも危険視している)
4 『日本の風習に合わせて教会を作る他ないが、これはきわめて困難であり、危険であって、大きな誤りを犯しやすい。(第七章)』
仏教や儒教が日本に渡来して広まったが、それは本国にあったものとは全く違ったものになった。つまり何でも日本風にアレンジしてしまうのだ。(これは宗教に限らず、日本は文化も技術も日本独特のものに加工するという特色があるからだ。)
ヴァリニャーノは、キリスト教もそうなるのではないかと恐れた。キリスト教宗派での争いもある中、違う教義のものが布教してしまうことはイエズス会にとっては大変都合が悪いし、キリスト教(植民地)的支配をしていく上でも日本人的独自のキリスト教が生まれてしまうことは統轄の障害になってしまう。日本人が優秀であるがゆえに、逆に懸念されることだった。
それは、以下の一文によく表れている。
「日本は外国人が支配していく基礎を作れるような国家ではない。日本人はそれを耐え忍ぶほど無気力でも無知でもないから、外国人は、日本においていかなる支配権も管轄権も有しないし、将来とも持つこともできない。したがって日本人を教育した後に、日本の協会の統轄を彼ら(日本人)に委ねること以外には考えるべきではない。その為には、彼らに前進する道を与える唯一の修道会があれば十分である。このことは、我らの心を日本人の心に合致させることが大いに困難であることによって、明白に認められ証明されるのである。この困難の原因は、あらゆることにおいて見出される矛盾性である。彼らはこの(種々の)反対の(諸現象)の中に固く腰を据えていて、いかなる点においても、我らの方に向かって順応しようとせず、逆に彼らの方があらゆる点で彼らに順応しなければならぬのである。これは我らにとってはなはだしく苦痛であるが、もし我らが順応しなければ、信用を失い、なんらの成果も収めることができない。(第九章) 」
また解題にはこんな文章もある。
「日本の政治形態は、「世界中でもっとも奇抜な、あるいはより適切に言えば世界中に類似のないもの」であり、日本文化は、「武術を基盤とする封建文化」だと述べている。
1579年12月2日付け書簡において、日本を征服しようとするヨーロッパ植民勢力のあらゆる試みは、「軍事的には不可能」であり、「経済的には利益がない」と総長に報告している。 」
ヴァリニャーノは、日本のキリスト教国化を進めるよう本部に上申しながらも、心の内では、これは成功しないだろうと思っていたのではないだろうか。もちろん、政治的なこと(日本側のキリスト教廃止)や、経済的な面、人材的不足、本国からの遠距離など諸々の諸条件はあっただろう。しかし、日本をキリスト教国化して、ヨーロッパ人の支配下に置くことが出来ない理由は、ヴァリニャーノ自身が列挙した日本人の優秀さにあったのではないか、そう思えてならない。
キリスト教宣教師が最初に乗り込んで布教し、その国の文化を欧州化し、軍事あるいは経済で植民地化するという通常パターンが日本には通じなかった。なぜ通じなかったのか?ヴァリニャーノやオルガンティーノが指摘したように、日本人は、土人や野蛮人といった低能民族(どこの国とはいわないが)ではないからだ。高い文化性と強い精神性を持つ国は、他国からの支配を受けることはない。ヴァリニャーノは、当時の日本を見て、こう確信していた。450年近く前の日本は確かにそうだったに違いない。そう、信長や秀吉といった日本史上でも指折りの傑物を目の当りにすれば、欧州人でもそう思ったに違いない。
では現代の日本は?優秀なリーダーはどこにいる。当時のインテリ欧州人を驚嘆させた高尚な日本人はどこに行ったのだろうか。嘆いてばかりでは仕方ない。自信を持つためにヴァリニャーノの言葉をもう一度書いておきましょう。
「日本は外国人が支配していく基礎を作れるような国家ではない。日本人はそれを耐え忍ぶほど無気力でも無知でもないから、外国人は、日本においていかなる支配権も管轄権も有しないし、将来とも持つこともできない。
日本を征服しようとするヨーロッパ植民勢力のあらゆる試みは、軍事的には不可能・・・」  
 
日本巡察記 2

 

本書は長らくイエズス会機密文書として眠っていたが、1954年に初めて出版された。
人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。
国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。
牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。ただし彼等の間では、貧困は恥辱とは考えられていないし、ある場合には、彼等は貧しくとも清潔にして鄭重に待遇されるので、貧苦は他人の目につかないのである。
日本人の家屋は、板や藁で覆われた木造で、はなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である。屋内にはどこもコルクのような畳が敷かれているので、きわめて清潔であり、調和が保たれている。
日本人は、全世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民であると思われる。すなわち、彼等は侮蔑的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない。したがって、もっとも下級の職人や農夫と語る時でも我等は礼節を尽くさねばならない。
しかして国王及び領主は、各自の国を能うる限り拡大し、また防禦しようと努めるので、彼等の間には通常戦争が行なわれるが、一統治権のもとにある人々は、相互の間では平穏に暮らしており、我等ヨーロッパにおけるよりもはるかに生活は安寧である。それは彼等の間には、ヨーロッパにおいて習慣となっているような多くの闘争や殺傷がなく、自分の下僕か家臣でない者を殺傷すれば死刑に処されるからである。
日本人はきわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由を堪え忍ぶ。それは、もっとも身分の高い貴人の場合も同様であるが、幼少の時から、これらあらゆる苦しみを甘受するよう習慣づけて育てられるからである。
また彼等は、感情を表すことにははなはだ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑制しているので、怒りを発することは稀である。
次に述べるように、日本人は他のことでは我等に劣るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の点で我等を凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。
彼等の間には、罵倒、呪詛、悪口、非難、侮辱の言葉がなく、また戦争、借用者、海賊の名目をもってなされる場合を除けば、盗みは行なわれず、(窃盗)行為はひどく憎悪され、厳罰に処せられる。
だが彼らに見受けられる第一の悪は色欲上の罪に耽ることであり、これは異教徒には常に見出されるものである。……最悪の罪悪は、この色欲の中でもっとも堕落したものであって、これを口にするには堪えない。彼等はそれを重大なことと考えていないから、若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠蔽しようとはしない。
この国民の第二の悪い点は、その主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。主君の敵方と結託して、都合の良い機会に主君に対し反逆し、自らが主君となる。反転して再びその味方となるかと思うと、さらにまた新たな状況に応じて謀反するという始末であるが、これによって彼等は名誉を失いはしない。
日本人の第三の悪は、異教徒の間には常に一般的なものであるが、彼等は偽りの教義の中で生活し、欺瞞と虚構に満ちており、嘘を言ったり陰険に偽り装うことを怪しまないことである。……既述のように、もしこの思慮深さが道理の限度を超えないならば、日本人のこの性格から、幾多の徳が生まれるであろう。だが日本人はこれを制御することを知らぬから、思慮は悪意となり、その心の中を知るのに、はなはだ困難を感じるほど陰険となる。そして外部に表われた言葉では、胸中で考え企てていることを絶対に知ることはできない。
第四の性格は、はなはだ残忍に、軽々しく人間を殺すことである。些細なことで家臣を殺害し、人間の首を斬り、胴体を二つに断ち切ることは、まるで豚を殺すがごとくであり、これを重大なこととは考えていない。だから自分の刀剣がいかに鋭利であるかを試す目的だけで、自分に危険がない場合には、不運にも出くわした人間を真っ二つに斬る者も多い。……もっとも残忍で自然の秩序に反するのは、しばしば母親が子供を殺すことであり、流産させる為に、薬を腹中に呑みこんだり、あるいは生んだ後に(赤子の)首に足をのせて窒息させたりする。
日本人の第五の悪は、飲酒と、祝祭、饗宴に耽溺することである。その為には多くの時間を消費し、幾晩も夜を徹する。この饗宴には、各種の音楽や演劇が伴うが、これらはすべて日本の宗教を日本人に教えた人々が考案したもののように思われる。この飲酒や類似の饗宴、過食は、常に他の多くの堕落を伴うので、これによって日本人の優秀な天性がはなはだしく損なわれている。
彼等のことごとくは、ある一つの言語を話すが、これは知られている諸言語の中でもっとも優秀で、もっとも優雅、かつ豊富なものである。その理由は、我等のラテン語よりも(語彙が)豊富で、思想をよく表現する(言語だ)からである。
上述のすべての点において、真実の精神が彼等の心の中に宿るならば、彼等は我等よりも優れた素質を有すると言いうる。なぜなら、彼等が天性として有するものに我等が到達する為には、我等は大いなる努力を必要とするからである。
彼等は生来その性格は萎縮的で隠蔽的であるから、心を触れ合おうという気持を起こさせ、納得せしめることが必要である。なぜならば、信仰や真実で堅固な徳操に到達する為、及び心の曇りを除いて不快や誘惑を退ける為には、日本人の天性であり、習性となっているこの萎縮的性癖ほど大きい障害はないからである。
したがってこの報告書の中でたびたび言及したように、我等が習慣や性格のまったく反対である外国人であり、また政治上の統治という問題には触れず、それによって彼等を援助するようなことはまったく無く、かえって既述のように大きい不幸が惹起しているにもかかわらず、我等が日本に居住することを日本人が認めているのは驚嘆に値する。これにより、日本人がいかに道理に従う人々であるかが判明する。  
 
日本巡察記 3

 

戦国時代の日本で布教活動をしていたイタリア人宣教師ヴァリニャーノが本国のイエズス会に向けて書いた報告書。ヴァリニャーノさんは、織田信長といっしょに登場するルイス・フロイスの上司であり、伊東マンショや千々石ミゲルを使節として送り出した人。ちなみに、ルイス・フロイスの書いた報告書(「日本史」)を、ヴァリニャーノは「長い」と却下したとかなんとか・・・
イタリア人宣教師が戦国時代の日本や日本人をどう思ったのかというのはとても興味深くおもしろいが、宣教師なので当然宗教についてもコメントしていて、それもまたおもしろい。
第三章 日本人の宗教とその諸宗派・・・(前略)・・・釈迦は、野心が強く、賢明で邪悪な哲学的な土民である。彼は来世のことに就いてはほとんど無智であったから、現世に於いて地位を得、その名を挙げようとし、浄らかで厳しい苦行の生活を装い、・・・(後略)
この釈迦は、非常に多くの書物を記した。正確に言えば、その弟子達が、彼が民衆に説いた教義をそれ等の書物に記したのである。これ等書物は、我等の間の聖書のように、彼等の間に極めて多大の信頼と権威を遺した。だが釈迦は賢明であったので、自ら企図するところを最もよく達成する為に、その教義を種々に解釈できるように説いた。
キリスト教の宣教師というと、独善的で強引なイメージ(偏見・・・)がありますが、「いかに日本人のやることなすことが奇怪であろうとも、日本では我々が外国人なのだから、彼らの風習に従わなければならない」とか、「これこれの点においては我々ヨーロッパ人より優れている」とかいうような、未開な野蛮人の蒙を啓きに来た人とは思えない発言が多々ある。
日本人は他のことでは我等に劣るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の点で我等を凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。(第一章 日本の風習・性格、その他の記述)
ヴァリニャーノさんは冷静で公平で立派な人だ!と思う一方、彼が会った日本人たちは現代人と違ってよほどすばらしい人たちだったのだろうかとも思った。
司祭たちが、弁明して、「日本人(のあなた方)は、私達が異なった風習の中で育ち、日本人の礼法を知らなことを考慮すべきだ」と述べた時に、日本人が度々私に答えたところであるが−彼等は次のように語る。
「このことに就いては、あなた方に同情するし、一年や二年なら我慢するが、幾年も経っているのであるから我慢できない。何故なら、あなた方が日本の風習や礼儀を覚えないのは、それを覚えようともしないし、それがあなた方の気に入らないからである。それは私達に対する侮辱であり、道理にも反する。何故なら、あなた方が日本に来て、その数も少ない以上は、日本の風習に従うべきであり、私達は日本の礼式をやめることはできないし、あなた方の風習に従うべきでもない。あるいはまた、あなた方が日本の風習を覚えないのが、あなた方にその知力と能力が欠けている為であるならば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けたりあなた方を師とすべきではない。」(第23章 日本における司祭が修院の内外で守るべき方法)
ぐうの音も出ない感じです。よくよく考えると、彼が会った日本人は、織田信長、大友宗麟、高山右近などの戦国大名たちなわけで、そりゃあ立派に違いない。
「日本人と会うときは、清潔を保ち、感情をあらわにしない重厚で威厳のある態度が必要だ、日本人の風習に従って礼をつくしつくされねば笑われ、馬鹿にされ、軽蔑され、布教に差し支える」というようなことを口をすっぱくして言うので、当時の宣教師は不潔で怒りっぽく軽薄だったのか?ということも疑問だ。カトリックは荘厳な様式美のイメージがあるから・・・
私は、司祭たちの信頼や威厳を失わせるようなこと、思慮や教養、礼儀に欠けた軽率な人間と思われること、人格を下げるような下品なこと、すなわち豚や山羊を飼育し、自ら食べる為に−これは日本人がはなはだしく嫌うことです−殺した牛の皮を売却すること、手に釣竿を持ち、下着で村々を歩くこと、釣針で川で魚を釣りながら時間を浪費すること、その他日本でよく行われる多くの軽率な行動をすることを禁止いたしました。(付録 日本の風習に順応することに関する1586年12月20日付、コチン発信、ヴァリニャーノ書簡)  
 
天正遣欧使節

 

派遣の背景事情
当時の宣教師達間で、日本での布教方針が対立していたと云う。まず、日本人観に於いて食い違っており、ザビエルは日本ないし日本人賛美する親日的な見解を持っていた。イタリア人オルガンティーノも「日本人は、全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同に遥かに優っている」と述べており親日的であった。
これに対して、ポルトガル人カブラルは、「私は、日本人ほど放漫で、貪欲で、不安定で、偽装的な国民を見たことがない」と述べ反日的であった。若くして来日し、豊臣秀吉から家康の時代にかけて政治レベルでの通訳を務めたポルトガル人通事ロドリゲスは、「元来、日本人は、ヨーロッパから来たものに比べて、天武の才に乏しく、徳を全うする能力に欠けるところがある」と反日的であった。イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡は、どの宣教師の事を述べているのか不明であるが、「彼は日本人を下等な人間と呼び、『しょせんお前たちは日本人なのだ』と言うのが常だった」と記している。
その背景には、日本での布教が思わしく進展しないことにあった。そういう事情で、ヴァリニャーノは、押し付けるのではなく、日本人的感覚、習慣に順応しながら布教を進める方針を打ち出すことになった。更に、日本のクリスチャンのうち時代を担う逸材をローマのバチカンに招待し、その信仰体験、西欧見聞を布教に活かせしめようとする計画を抱くようになった。 ヴァリニャーノは、「日本巡察記」の中で次のように記している。
「日本の子供たちの理解力はヨーロッパの子供たちより優れている。彼らには我々の教義を理解する十分な能力がある」。
1583.12.12日(グレゴリオ暦)、ヴァリニャーノは、ゴアで、ヌーノ・ロドリゲス師に使節をヨーロッパへ連れて行くことになった事情の指令書を書き上げている。これは機密文書で最も信憑性が高い。原文はローマのイエズス会文書館に現存している。その使節の企てについて以下のように述べている。
「少年たちが、ポルトガルとローマにおける旅行中に追求すべき目標は二つある。その一は、世俗的にも精神的にも、日本が必要とする救援の手段を獲得することであり、他の一は、日本人に対し、キリスト教の栄光と偉大さ、この教えを信仰する君主と諸侯の威厳、われらの諸国王ならびに諸都市の広大にして富裕なること、さらにわれらの宗教がその間享受する名誉と権威を知らしめることである。
しかしてこれら日本人少年たちは、帰国の後、目撃証人として、また有資格者として、自らの見聞を(同朋たちに)語り得るであろう。かくてこそ、われわれの諸事(万般)にふさわしい信用と権威を日本人(の間)に示し得るのである。事実日本人は今までそれらを見たことがなく、それゆえ今なおそれを信じ得ず、彼らのうち多くの者は従来何も解らぬまま、われら(司祭)は母国では貧しく身分も低い者で、それがために天国のことを説くを口実として、日本で財をなすために来ていると考えているが、かくて(こそ)彼らは司祭たちが日本に赴く目的が何たるかを理解するに至るのである。(右)第一の成果を収めるために必要と思われるのは、少年たちを(ポルトガル国王)陛下、(ローマ)教皇聖下、枢機卿、その他の諸侯に知らしめることである。すなわち(これら高貴の方々が)、少年たちを(その目)で眺め、(実際に)遇することにより、彼ら(少年ら)がいかに優れたものであるかを認識され、(在日)司祭たちが彼ら(日本人)のことについて報じたことが偽りではないことを知らされ、日本(での布教事業)を援助しようと心動かされるに至ることが期待されるのである。そのためには、当該使節(少年ら)は、豊後と有馬の(二人の)国王、ならびにドン・バルトロメウ(大村純忠)から派遣された高貴な身分ある人たちであること、彼らは(上記の)諸王の金(箔)の文箱に入れて持参していること(を人々に知らさねばならない)。またそれがためには、これらの少年たちが(十分それにふさわしい)威厳を備え、そのように(一同から)遇されていることが肝要である。なぜなら(そのようにすれば)彼ら諸貴顕の心をいっそう動かすであろうと思われるからである。だがそれは今の状態では少年たちを高貴な身分の者にふさわしく処遇するよう心得おかるべきである。第二の成果を収めるためには、少年たちが、上記諸貴顕から好遇され、恩恵に浴し、それらの方々の偉大さ、ならびに諸都市の華麗さと富裕、さらにわれわれの宗教がそれらすべての上に有する威信について理解するようにする必要がある。そのためには、国王陛下の宮廷や、ポルトガル、ローマ、その他少年たちが通過する大部分の都市において、大建築、教会、宮殿、庭園、銀製品とか豪華な聖具室といったもの、その他、教化の糧となるような諸物など、高貴で偉大なものばかりを見せ、それに反する概念を抱かせるようなものをいっさい見させてはならない」。
「イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡」は次のように記している。
「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一遇の機会である」。
天正遣欧使節
1582(天正10).2月、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の3人の九州のキリシタン大名が、伊東マンショら4人の少年をローマ教皇のもとに使節として送った。これを「天正遣欧使節」と云う。
この前の経緯を記しておく。織田信長が天下を統一した頃の1580年、日本で最初の西洋式中等教育機関「有馬のセミナリヨ」が、日野江城下に創立された。有馬のセミナリヨでは外国人教師が教べんを取り、ラテン語などの語学教育、宗教、地理学などルネサンス期の西洋の学問が、日本で初めて組織的に教えられていた。
織田信長の晩年のころ、イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した。バリニャーノは、1582(天正10).正月、長崎から離日する直前に、ローマ法王に日本人クリスチャンを紹介して、日本でのキリスト教布教の支援を教皇から得ること、かつ、日本での布教実績を教皇にアピールすることにあった。援助を引き出し、日本布教の財源にすると共に帰国した日本人自身にヨーロッパの「素晴らしさ・偉大さ」を語らせ布教活動を有利に進めようとした。こうして、日本人の若者をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを企画した。「ヴァリニャーノが日本布教事業のために考案した企画」。
ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。
「第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたい」。
1580年、日野江城主有馬晴信はイエズス会の巡察師アレッサンドロ・バリニャーノの教育構想に協力して、日本で初めてのヨーロッパの中等教育機関「有馬のセミナリヨ」を城下に設置した。島原半島の当時の有馬は日本一豪華な教会が建ち、外国人宣教師や海外の商人たちが闊歩する国際交流の最先端の地の一つであった。開校当時は12〜18歳の生徒22名であったが、最大時には130名もの少年たちが、ラテン語、ポルトガル語、日本語や古典の他、音楽、美術、地理学、体育など当時の日本人が想像もできなかったルネサンスを彷彿させるような教育が行われていた。
天正遣欧少年使節として日本で初めてヨーロッパに旅立った4少年は有馬のセミナリヨの卒業生であった。彼らはいずれも14〜16歳の少年であった。正使に大友宗麟の名代として日向伊東氏出身の伊東マンショ、有馬晴信・大村純忠の名代として有馬領千々石(ちぢわ)出身で、有馬晴信の従弟で大村純忠の甥の千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアン(現 西海市出身)、原マルチノ(現 波佐見町出身)が選ばれた。他に付き添いとしてコンスタンチーノ・ドラード、アグスチーノという日本人少年がいた。ローマまでの指導者としてメスキータ神父が同行することになった。
正使 / 伊東マンショ / 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
正使 / 千々石ミゲル / 大村純忠の名代。純忠の甥。後に棄教。
副使 / 中浦ジュリアン / 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。
副使 / 原マルティノ / 後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
千々石ミゲルの「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著)は次のように記している。
「多くの人が長い航海の危険、困難、疑いのない死を示し、我々の心に強い恐怖を植え付けました。しかし我々日本人はヨーロッパの土地から遠く離れたこの島に住んでいてこれらの人々のことを知りません。ぜひともヨーロッパに行ってみたいのです」。
長崎港を出港した少年たちはマカオ、ゴア、喜望峰を迂回してセント・エレナ島に寄港のあと、1584.8月ポルトガルの首都リスボンへ到着した。千々石ミゲルの「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著)は次のように記している。
「私たちは非常に苦しみ、五臓六腑も吐き出されるのではないかと思いました。しかしヴァリニャーノ様が絶えず優しい言葉で我々を元気づけて下さり、意気消沈することはありませんでした」。
当時のポルトガルはスペイン王のフェリペ2世が兼ねていたので、スペインのマドリードに行った。フェリペ2世に謁見を賜り、その援助によって地中海を渡って、イタリアへ向かった。イタリアのトスカナ大公国で大歓迎を受けた。フィレンツェを経由していよいよローマに向った。少年たちの高い知性と礼儀正しさは、アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚嘆させ、その噂は全ヨーロッパへと広がっていった。
1585.3月、3年がかりでローマに着き、3.22日、ローマ教皇グレゴリウス13世にローマ法王庁の「帝王の間」において最高の待遇をもって謁見を受けた。使節は、ローマ教皇に信長からもらった安土城絵屏風を贈っている。美しい衣装を付け、大小の刀を腰に、ふさのある帽子をかぶった純真華麗なマンショたちの姿や堂々とした言動は国々の人々に好印象を与えた。ローマ市民からも大歓迎を受け、5.11日、ローマ市民会より使節にローマ市民権授与決定を受け、ローマの市民権証書を授けられローマ市民権を与えられた。
ローマイエズス会ガスパール・ゴンサルヴェス神父は次のように演説している。
「教皇猊下。知られざる土地・日本は確かに存在します。そしてそこには、ここに見る通り我々にも劣らぬ優れた人々が暮らしています。そして彼らは世界の果てなる日本からはるばる旅をし、猊下のもとにひざまずいたのであります。今日この日、猊下はその目でこの果実を見、その手でこれに触れることができるのです」。
教皇の急逝後、グレゴリオ13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式にも出席した。以後、ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問している。少年たちは語学、古典、科学など、さまざまな教養を猛勉強によって吸収していった。
2003年、ポーランド・クラクフ市のヤギウェオ大学図書館で、銀板のガラスフレームの中に挟まれた文書が発見された。旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節がラテン語と日本語で、「諸人よ、デウスを誉め奉るべし。諸人よ、天の御主は計り給うなり」と記されていた。「ローマ教皇に謁見した時にポーランド人司教が天正遣欧使節の若者たちの誰かに書いてもらったと推測されている」。使節の知性の高さを如何なく立証する新史料となった。
現在は非公開とのことである。しかしこれは奇妙なことになる。「天正遣欧使節」の若者が書いたとされる聖書の一節は、キリスト教のそれではなくユダヤ教の教義の一節を記していることになる。なぜなら、キリスト教の一説であればイエスの珠玉の言葉を記すのが普通であろう。それを何故に「天正遣欧使節」は、「旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節」を記したのか。謎である。
1586.4、リスボンを出発、帰路につく。マカオに着いたところで、日本から豊臣秀吉が伴天連追放令(1587)を発したとの報に接し、一行はインド副王の使節という資格で日本入国を許可され、1590.7.21日(天正18・6)、一行は長崎に帰着した。日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である。厳しい現実が待ち受けていたが、1591.3月、聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏した。
使節団は、西洋の様々な利器を持ち帰っていた。中でも、西洋式活版印のグーテンベルグ印刷機は日本のそれまでの印刷技術を超えており日本における印刷文化に大きく貢献した。ローマ字や和文で綴られた「ドチリーナ・キリシタン」(1592)、「日葡辞書」、「伊曽保物語」など「キリシタン版」と呼ばれる多くの印刷物が刊行された。
1591.7.25日、正副四使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、天草の修練院でイエズス会に入る。キリスト教弾圧が厳しく活動の場はなかった。伊東マンショは司祭となるも、1612年、長崎のコレジオで病死している。千々石ミゲルは主君の大村喜前とともに棄教した。その後、千々石清左衛門と名乗り、家庭を持ったと伝えられる。他の3名は司祭になったが運命を暗転させられている。原マルティノも司祭となるがマカオに追放され、1629年、同地で昇天した。コンスタンチーノ・ドラードはマルティノと一緒にマカオへ追放されるも司祭となり、晩年はセミナリオの院長に就任。1620年、同地で亡くなる。中浦ジュリアンはキリシタン迫害が厳しくなる日本に潜伏。キリシタンたちの面倒を見ていたがついに捕らえられ、1633年、長崎で刑を受け穴吊りの刑により殉教。アグスチーノは他の5人と違い、イエズス会に入らなかったため、記録はもちろん噂のようなものも残っていない。 
    天正遣欧少年使節
    千々石ミゲル
 
宣教師が見た日本

 

一 はじめに
天文一八年(一五四九年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが他の二人の宣教師トルレス、フェルナンデス、日本人アンジローらと鹿児島に上陸、日本でのキリスト教の布教が始った。日本人がはじめて西洋の思想に接したときである。すでに種子島に鉄砲が伝えられ、一六世紀の半ばは、日本人が西洋文化に直に触れたときである。
日本の国際化を考えるとき、日本が外国の文化に大きく洗われる時期を、次の三つに分けると、一回目が奈良・平安時代のとき、二回目が戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン時代、そして三回目が幕末から明治にかけての文明開化の時代になる。本稿であつかうのは二回目のキリシタン時代である。他の二つの国際化は、一回目が中国の文化を取り入れようとした国際化であり、三回目は西洋の文化を取り入れようとした国際化で、いずれも外国の文化が日本の文化より優れていて、それを学び取ろうとした国際化であった。それに対して、この初めての西洋文化との出会いは、あえて言えば、対等の立場で接触したときといえ、これが他の国際化にはない特徴といえるのではないか。
この時代の日本社会は大混乱期にあった。今、手元にある『日本史地図』(吉川弘文館)で「守護大名の抗争」時と「豊臣秀吉の統一」時での大名の配置を見比べると、その顔ぶれはほとんど一新されている。戦乱と飢餓、天災に繰り返し襲われた当時の日本の社会は、その基盤、枠組みが大きく揺さぶられた。その時代を象徴する言葉である「下克上」は、下が上に克つということであるけれど、言い換えれば古い権威が新しい権威にとって変わるということであり、伝統的なものが当世風なものに移り変わるということである。こうした変化が見られるのは、政治の世界だけでなく、文学、芸能の世界に至るまで社会のあらゆる分野で見られた。
宗教の世界も、唐文化の担い手である公家が信仰する天台宗、神道に対して宋文化の担い手である武家が信仰する禅宗、庶民の一向宗、町衆の法華宗が新旧対立の構図を見せていた。そこに来世の救いを説くキリスト教が伝来した。日常的に死と向かい合って暮らしていた武士や農民、その他の人々にとってキリスト教が西洋の宗教といっても、縁遠いものには思えなかったろう。
この時代に来日した宣教師たちが日本で何を見たのか、何に興味を寄せたのか、また日本人が何を考え、どう対応したのかなどについて、宣教師フロイスの書いた『日本史』(全十二巻)を中心に考えてみたい。ルイス・フロイスは一五三二年に生まれ、九七年に長崎で六五才でなくなっている。彼は六三年(永禄六年)に来日し、滞在中に見聞きしたことを、そのなかにはザビエル来日以来のことを含めて、四九年(天文十八年)から九三年(文禄二年)までのことを記録している。
二 宣教師と日本人
日本での布教はどのように行われ、信者を獲得していったのか。フロイスの『日本史』(第六巻)に、鹿児島滞在中のザビエル一行の苦労が書かれている。一番の問題はやり言葉の問題である。「ただちに信仰の最初の基礎づくりを開始したが(日本)語の知識がないため非常な不自由を忍んだ」とある。それでも少しばかり判る日本語で質問に答えたりして説教を開始し、幾人かの人々に洗礼を授け始めている。
その後、周防国の山口に赴いたとき、そこでの街頭の説法の様子が記されている。「修道士がまず(翻訳した)書物から世界の創造(に関する箇条)を読んだ。そして彼はそれを読み終えると、ついで人々に向かい、日本人はことに次の三つの点で何という大きい悪事を行っていることかと大声で説いた」と。その三点というのは、悪魔を祈っていること、男色という忌まわしい罪にふけっていること、そして堕胎のことである。男色と堕胎についてはたびたび『日本史』のなかで日本人の忌まわしい罪として指摘されている。はたして、こうした辻説法でどれほどの人が、キリスト教に興味を持ったのか分からない。ザビエルの命令によって日本で異教徒にキリシタンの教理を教えた方法はつぎの通りという。
引用が長くなるので主な項目だけ紹介すると、まず世界万物の創造主の存在、世界に初めがあり永遠でないこと、太陽や月は神でないこと、霊魂は不滅であることを証明する。ここで日本人からの疑問に答え、自らが信じている宗旨との違いを判らせたのち、三位一体の玄義、世界の創造、ルシフェルの堕落、アダムの罪、デウスの御子の現世への御出現、聖なる御苦難、御死去、御復活、御昇天、十字架の玄義の力、最後の審判、地獄の懲罰と天国に迎えられた人々の幸福について説明する。デウスの掟の十戒、異教的儀式の忌避、主の教えの遵守、自分の罪の悔悟を説いたあと、最初の秘蹟(洗礼のこと)の必要さとその玄義を説いて、以上を理解したうえで洗礼を授ける(第三巻)。
洗礼を授けるまでに、これだけのことを説明しなければならない。『同』(第八巻)には、「誰かがキリシタンになる時には、まず七日間連続して(キリシタン宗門の)説教を聴聞します。次に、生じた疑問を述べ、それらに対して説教師が与える回答を伺います。もしそれでキリシタン(宗門)のことが理解できましたら洗礼を受けるのです」ともある。また、『同』(第七巻)には、アルメイダ修道士が禅僧を相手にして、「七日間非常に苦労しましたが、彼らは霊魂が不滅であることを認めようとはしませんでした」という話がある。『邪教大意』という書にはキリシタン宗の法を説くのに「ひそかに法の要領を説くこと一週間」とある。こうしたことから通常、洗礼までの説法には、おおよそ一週間がかかったとみられる。その一方で、わずか一日半のうち三度説教を聞いただけで洗礼を授けるよう願った、という例も語られている(『同』(第六巻))。
宣教師が日蝕や月蝕、天体の運行などの説明をすると、彼らは深く尊敬され、それをきっかけにして都でキリシタンになった人もいた。(『同』(第三巻))。また同じ都にいた清水リアンという人は、天体の運行を知りたがり、司祭は彼の疑惑を解いた。それによってデウスの教えを聞くようになってキリシタンになった(『同』(第四巻))。あるいは、高山右近が、前田利家に仕えて天体現象に興味を持つ貴人にロドリゲスを引き合わせ、日蝕や中日(昼夜平分時)などの天体現象を話し、続いて万物の創造主、霊魂の不滅性についても説明すると、この貴人は満足し、キリシタンになることを約束したという(『同』(第五巻))。このような科学的知識に基づく話題から相手の信頼を勝ち取り、改宗させていくという例も多かったようだ。宣教師たちは日本人の好奇心の旺盛さに驚いている。
あるいは奇跡まがいのことから簡単に改宗してしまう例もある。伊佐早でのこととして、娘の病気を治すのに仏僧に多額の金を払い、医者にも払ったが、助けにならなかった。たまたまそこにいたリアンという教名のキリシタンが、父親に、デウスにキリシタンになると約束すれば娘は助かると、保証したところ、翌日娘が元気になった。父親も娘も他の家族全員がキリシタンになったという(『同』(第一〇巻))。逆の話として、平戸の母親が仏僧たちに幾多の施しを行っても、その甲斐なく娘は亡くなってしまった。これをきっかけに仏僧たちとの付き合いを絶ち、彼女は一家そろってキリシタンになってしまった(『同』(第九巻))。あるいは司祭の持つ聖水を飲んで病気が治ったことをきっかけに改宗するなど、呪術、迷信の類でキリシタンになる話は多い。
このようなきっかけで改宗した人は、また棄教するのも早い。『同』(第一〇巻)の高来での布教にふれたところで、キリシタンの有馬義貞が亡くなり仏僧たちのキリシタンへの迫害がひどくなり、大勢のキリシタンが棄教してしまったが、その理由を次のように述べている。「彼らはほんの数ヶ月前に洗礼を受けたばかりであり、信仰がまだしっかり根を下ろしていない新しく弱々しい人たちで、デウスのことについてもまだ何もしかと判っていなかった。というのは、受洗者の数が多かったから、当時は、教理を教わった人たちがどれほど十分にそれを理解しているかを吟味する時間的余裕はなかったからである」と。
少し時代が下がるが、一六一九年に来日した宣教師コリャードが日本人キリシタンの告解を記録した『懺悔録』に、「一五年前に洗礼を受けたけれども、それは深い考えもなしに他人並みに受けただけで、これまでキリシタンの教えについて十分な理解がないまま生活してきた」、という告解が載せられている。このような人たちが少なからずいたことは想像できよう。
宣教師にとってみれば、右に述べたような辻説法とか村単位に説法を続け、信者を獲得していくことは宣教師の数も少なく、効率が悪かった。宣教師の数は、一五八二年にイエズス会員は八四ないし八五名、一五九〇年に同会員の数は一四〇人、うち司祭が四七人、修道士が九三人しかいなかった(『同』第一一巻)。
このように効率が悪いと思っていたことは、『同』(第九巻)の次の文から理解できる。「アルメイダ修道士は、新しい土地でデウスの教えを弘めるのに、下層の民衆の間から始めることがどんなにまったく不適当であるかということを豊後における(宗門の)発展から経験的に教えられていたので、彼はまず最初に殿をキリシタンにできるか窺ってみることにした」。アルメイダ修道士が考えたように、宣教師たちは、国主や領主を改宗させる、あるいはキリシタンの理解者にし一気にそこの領民をキリシタンにするという方針を採り、布教活動をおこなっている。フロイスが織田信長に会い美濃から都に戻ったとき(一五六九年)、豊後にいる司祭たちにあてた手紙に以下のようにある。「人々のもとで成果を収め、効果的に(彼ら)の霊魂の改宗のために努めるためには、(中略)まずこの国を統治する国王、諸侯、大身たちの寵を獲得し、それにより、聖福音の説教者が、いかに(彼らから)愛情、尊敬、信望を享受しているかを一同に確認させ判らせるようにすることがもっとも効果的な手段の一つなのです」(『同』第四巻)。
あるいは、大村純忠が領民の改宗を進めようとするとき、フロイスは次のようにも述べている。「身分の高い人たちがひとたび改宗するならば、その他の民衆の(改宗に)はもはや何の支障も生じないからであった」(『同』第九巻)。
そこで、国主や領主といった人々をキリシタンにするために、宣教師が説いたのが、経済的、軍事的な利益であった。例えば、日本で最初のキリシタン大名といわれる大村純忠の場合、横瀬浦にポルトガル船を入港させることを条件に、次のような説得が彼(殿)になされたことが第六巻に記されている。「殿はキリシタンになり、自領でデウスの教えを説くことを許すべきで、そうすることにより、殿には精神的にも物質的にも大きい利益があろう」と。あるいは第九巻に述べられている次のフロイスの見解は、はっきりとその辺の事情を説明するものであろう。「(略)我らの主なるデウスのもとに導くために(我らの同僚たち)が彼らのもとに入り込むには、まず彼らが世俗的な関心(すなわち南蛮貿易という)興味と希望に心を惹かれる(ようにする)ことが必要であった」。軍事的な利益という例では、大友宗麟が硝石の輸入を独占しようとしたことや、ポルトガル人から大砲を入手したことなどが、挙げられる(『同』第七巻)。
とはいっても、宣教師の思うようにならなかった領主もいた。天草の栖本殿は家臣に次のように伝えたという。「予は(略)キリシタンになるとはいえ、予の家臣たちの何びともキリシタンになる義務はないことを知るべきである。なぜならば、宗旨を変えて一つを捨て他を受け入れるといった行為は自発的になすべきであって、予の説得などは必要としないからである。だが汝らにただ一つ注文しておきたいことがある。それは心して(キリシタン宗門の)説教を聴聞し、その後で従来信じていた宗旨と比較してみることだ」(『同』第一一巻)。
このように布教が進められるなかで、一つ指摘しておきたいことがある。人々の改宗の背景には、一向宗とキリスト教の類似も無視できない、ということである。ヴァリニャーノは『日本巡察記』のなかで一向宗とキリスト教の類似性を以下のように指摘している。
日本人の最大の歓心を得て、自らの宗派がもっとも多く迎えられる為に、彼等(仏僧)は、阿弥陀や釈迦が、人々に対していかに大いなる慈愛を示したかを強調し、(人間の)救済は容易なことであるとし、いかに罪を犯そうとも、阿弥陀や釈迦の名を唱え、その功徳を確信しさえすれば、その罪はことごとく浄められる。したがってその他の贖罪(行為)等はなんらする必要がない。それは阿弥陀や釈迦が人間の為におこなった贖罪を侮辱することになると説いている。これはまさしく(マルティン・)ルーテルの説と同じである。
ヴァリニャーノのほかにも、一向宗とキリシタンの共通性を言った人がいる。豊臣秀吉である。『日本史』(第一巻)に、天正一五年、伴天連追放令を出しとき、秀吉は司祭たちに「憎悪と憤怒を持って」次のように言ったとある。「(略)奴らは一面、一向宗(徒)に似ているが、予は奴らのほうがより危険であり有害であると考える」。その理由は、「一向宗は百姓や下賤のものの間に留まるが、(中略)奴ら(伴天連)は、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようと活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である」。
一向宗は、阿弥陀仏を信仰して極楽往生を願う。キリスト教は、イエス・キリストを信仰して魂の救済を願う。この信仰の構造が似ているせいで、一向宗徒にすれば改宗は、阿弥陀仏をイエス・キリストに置き換えるだけのように思えたのではないか。そう考えれば、この時代の日本にはキリスト教を受け入れる素地があったといえるのではないだろうか。
一方、こうした世俗的な利益からキリシタンになるのではなく、教義を理解し、純粋に宗教的な理由から改宗した大名もいた。大友宗麟がキリシタンになるまでに時間がかかった理由を修道士に話している。「(予は)日本の宗教の完全さ、その奥義と知識を、どこまで究め得るか(試み)、あますところなく(それらについて)知りたいとの願いを有したからである。ところで禅宗の教えは、他のすべての(日本の)宗派の論法(の基本)をなすものであるから、(禅宗)をよく弁えれば、いうまでもなく他のすべて(の日本の宗派)について言われていることを知ることができる。(中略)禅宗の奥義に立ち入れば立ち入るほど奥義らしいものはなくなって、底の浅さが見出された(略)」ので、受洗したいと思ったという。そして大友宗麟は土持に移り住むに当たって、そこにキリシタンの教えに基づく理想郷を作ろうとまでした。彼は宣教師カブラルにこう述べた。「(略)豊後から三〇〇名だけ家臣を伴うが、彼らは全てキリシタンでなくてはならない。そしてそこに新たに築かれる都市は、(略)新しい法律と制度によって統治されねばならず、(略)兄弟的な愛と一致(のうち)に生きねばならない」(『同』第七巻)。天正六年(一五七八年)宗麟は洗礼をうけ、彼が乗った土持に向かう船には、「赤い十字架を描き白緞子の金の縁取りを施した四角い旗を掲げた」とある(同)。
キリシタン大名の蒲生氏郷は異教徒の家臣に対し、教理(カテキズモ)から説き始め、(日本の)神仏は何ら(崇拝するに価)せぬものであること、(神とては)御一方デウス様がいますのみであること、霊魂は不滅であること、およびその他これに類したことを語った」(第一二巻)。
フロイスは、自らが「(キリシタンの)教理を実に深く学びかつ実行していたので、日本人修道士のうち、誰一人として彼に優る者はなかった」(第一巻)と語る高山右近について、彼が秀吉から棄教を迫られたときの対応を次のように記している。「(略)キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の(霊魂の)救済と引き替えることはしない。よって私の身柄、封禄、領地については、殿が気に召すように取り計らわれたい」(同)、と返事して棄教を拒否し、領地を失っても信仰に生きる道を選んだ。小西行長をはじめ他のキリシタン大名が口を濁して秀吉に従う態度を見せたと想像されるなかで、この右近の信仰は特筆すべきものと思われる。
ところで信長がカミになろうとした話は有名である。それは日本の神道の神でもなく仏教の仏でもなく、おそらくキリスト教のデウスに代わるカミのことであっただろうと思われる。フロイスが第五巻に記した信長のカミに対する考え、行動をみてみよう。
・(信長は)神や仏に一片の信心すら持ち合わせないばかりか、仏僧らの苛酷な敵であり、迫害者をもって任じ、その治世中、多数の重立った寺院を破壊し、大勢の仏僧を殺戮し、なお毎日多くの酷い仕打ちを加え、彼らに接することを欲せずに迫害を続けるので、(略)
・仏僧たちが言うことは皆偽りで、来世に関しては伴天連たちの言うことだけが真実と思われると常に話していた。
・彼にはデウスを認めるというもっとも大切なものが欠けていた。
・自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、(略)彼自身が地上で礼拝されることを望み、(略)信長以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うに至った。
・全身に燃え上がったこの悪魔的傲慢さから、突如としてナブコドノゾールの無謀さと不遜に出ることを決め、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。そしてこの冒瀆的な欲望を実現すべく、自邸に近く城から離れた円い山の上に一寺を建立することを命じ(略)
・信長は、予自らが神体である、と言っていた。
・信長は、(略)デウスにのみ捧げられるべき祭祀と礼拝を横領するほどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので(略)
・この哀れな人物が、なお己に立ち帰り、なんらかの仕方で、デウスを天地の絶対主として認めることができるようにするためであったが、彼が陥っている闇はあまりに根深く(略)悟りの目を開かせるに足りなかったのである。
・現世のみならず天においても自らを支配するものはいないと考えていた信長も(略)
信長は造物主(ゼウス)を超えた、あるいはそれに取って代わる存在になろうと考えたのであろう。それだから、それに気づいたフロイスは「冒瀆的な」という言葉を使ってこの信長の考えを強く非難したのだろう。ほぼ同時代に生きた、元キリシタンである不干斎ハビアンの書いた『破提宇子』という反キリシタン書の一節に「然ラバジョゼイフヲ父トシ、サンタ‐マリアヲ母トシテ、提宇子ノ本尊ゼズ‐キリシトモ誕生ト云ウ時ハ是コソ人間ノタヾ中ヨ、此方ニハ人ヲ天地ノ主トハセズト云ウ事也」とある。キリスト教では人を神としないといながら、人間を両親として生まれてきたイエス・キリストは人ではないのか、という批判である。人の子が神になれるならば、自分が神になれぬわけはあるまい、と信長は思ったのではないだろうか。そこにキリスト教の影響はなかったのだろうか。ナブコドノゾールは、その注にあるように紀元前六世紀のバビロニア王であるが、ネブカドネザル二世の名のほうが馴染みがある。彼は、ユダ王国を攻め滅ぼしエルサレム宮殿を破壊し、ユダヤの民をバビロンに連れ去る、いわゆるバビロン捕囚を行った王である。比叡山を焼き払い仏教を弾圧した信長は、まさに「日本のナブコドノゾール」と呼ばれるのに最も相応しい人物といえよう。
他方、秀吉が神になろうとしたとき、フロイスはどうみていたのか、やはり第五巻から拾い出してみよう。
・この悪魔のような暴君(秀吉)の希望することは、己を日本の偶像に祭り上げることで、そうすることによって自らの記憶を永久に(地上に)留め(得ると考えています)。
・彼は、今一人の天照大神になろうとし、(まさしく)その偶像崇拝の筆頭(に置かれること)を欲しているからです。
・彼は生前(すでに、神として)礼拝されることを望んでいます。
・太閤様は、自らの名を後世に伝えることを望み、まるでデウスのように崇められることを希望して、(略)
以後は神(略)の列に加えられ、シンハチマン、すなわち新しい八幡と称されることを望みました(第二巻付録「フランシスコ・パシオ師の「太閤秀吉の臨終」についての報告)。
秀吉はあくまで神道の神、新たな八幡大菩薩になろうとしていた。フロイスにとってみれば、それは異教の神であるから、神になろうとすること自体は問題にはならなかったからこそ、信長に対するような非難めいた言葉は使われなかった、と考えられる。古来、日本で神になれるのは、限られていた。「古代における人霊祭祀には制限があり、人霊が神霊に昇格することはほとんどなかった。(略)人霊祭祀は、御霊信仰と天神信仰など、怨霊を鎮めるために祀る形式に限られている。これを大きく転換させたのが吉田兼倶である」(『日本神道史』)。怨霊となる人以外、人が神になることはなかった。それを可能としたのが「吉田神道の創見であり、豊臣秀吉の豊国大明神、徳川家康の東照大権現の創祀にも影響を与えた」(『同』)。
キリスト教が伝来したこの時代に、信長、秀吉が神になろうとしたことは偶然ではないであろう。特に信長の場合にはキリスト教が何らかの役割を果たしていると思われる。
三 宣教師と茶の湯
フロイスの『日本史』の中で茶の湯にふれたところはあまり多くはない。天正一〇年(一五八二年)の本能寺の変で信長の所有する四二の茶の道具が全て灰燼に帰したこと(第五巻)、秀吉の大阪城内にある茶の湯の器や純金製の組み立て茶屋の話など道具の話(第一巻)のほか、日本の建築のすばらしさに触れて、堺でアルメイダ修道士が見た茶室の美しさ、そこで繰り広げられる清潔で秩序整然とした宴席のすばらしさに驚いた次第を書いている(第三巻)。フロイスが茶に関係したことにふれるときは、大体が外見的なことに限られ、その内面性にまで筆が向かうことはないようである。
しかし別の宣教師ジョアン・ロドリーゲスは違って、茶の湯の内面性に関心を寄せている。世俗的な面ではなく聖的な面、いいかえれば宗教的な側面に目を向けていると思われる。彼はフロイスより少し後の時代、一五七七年頃から一六一〇年までの間、日本で布教活動に携わった。日本語が得意で、秀吉や家康とイエズス会との外交折衝の任に当たったりもした。また彼の編纂した語学書『日本大文典』全三巻は当時の日本語の実態を知る貴重な書物となっている。
彼は、マカオに戻ってから、遣欧少年使節の一人である原マルティーノの協力の下、一六二二年に『日本教会史』を著した。そこで彼は茶について四章を割いて述べている。ロドリーゲスは「特に都Miyako や堺Sacay では、この道に丹精をこめて、その習練に専心していた人が多くおり」として、彼らが、「東山殿 Figaxiyamadono の古い様式を部分的に改めて、この茶の湯chanoyu の様式をますます完成してゆき、その結果、現在流行している数寄suky と呼ばれる別の様式を作り上げた。」と、茶の湯の歴史に簡単に触れた後、その内面性について次のように説明する。
ところでこの数寄suky という芸道は禅宗Jenxos と言う宗派に属する孤独の哲人たちにならって、この芸道において最もすぐれた人々によって創り出された、孤独な宗教の一様式であり、この芸道に打ちこんでいる人々にかかわる事柄のすべてにわたって、良い習慣をつくり、節制を保つことをめざしていた。
このように禅と茶の湯の関係を指摘したものの、以下のように付け加えている。
たとえこの道において前述の禅宗Jenxos の宗派を模倣したとはいえ、その宗派に特有ないかなる迷信をも、また宗儀や儀式をもとらなかった。なぜなら、この点についてはそれから一切採り入れないで、ただ隠遁的孤独、公的な交渉の雑事から身をひくことだけを模倣し、また、不熱心、無気力、優柔で女々しいことを去り、万事において意思の果断と敏速さを模倣した。
三畳の茶室という小空間である別世界にはいり、「隠遁的孤独」を経て清々しく爽やかな気分になることは、日常的に戦乱に明け暮れし常に死と隣り合わせに暮らしていた武士にとっては、必要なことであったろうし、万事において「意思の果断さと敏速さ」は武士が身に付けなければならない最低の条件であっただろう。
そして堺において市中の山居xichu no sankio と呼ばれる「都市そのものの中の隠退所」が登場するいきさつを述べて、「外面に現れる外観よりも、実質においてすぐれて」いることを示そうとする数寄の説明をする。さらに足利将軍から信長・秀吉に繋がるいわゆる大名数寄と、村田珠光にはじまり千利休が完成した侘数寄の違いについてもふれている。
ついでながら、唐物荘厳という言葉に象徴されるように高価な掛軸、絵画、茶道具にこだわる大名数寄と、心敬の歌論である「冷え」の美意識に源を持つ侘びをめざした侘茶は全く別物といえ、大名数寄を世俗的なものと侘数寄を聖的なものと、捉えれば、のちに秀吉と利休が対立するのは当然のことであったといえるであろう。
最後の四番目にあたる章は「第三五章 数寄がめざしている目的とそれに伴う効用について」で、数寄の不可欠な三つの要素を挙げている。それは第一が「最上の清潔さ」、第二に「田舎風の孤独と飾り気のなさ」、そして第三に「自然な調和と一致、隠れた微妙な性質に関する知識、および学問」というふうで、まさに茶の湯の真髄である和敬静寂を述べている。
このようにロドリーゲスは茶の湯の精神を正しく理解し、宗教家としてその宗教的な側面を見逃すことはなく、おそらく、そこにキリスト教と共通するものを感じていたのだと思われる。茶室は静かで清々しく、落着いた明るさに包まれた小空間は、キリスト教会の持つ雰囲気に相通ずるものを感じさせていたのだろう。そこは瞑想をするのに適した場所であった。この章の最後は、高山右近のことで結ばれている。以下に引用する。
従って高山ジュストTakayama Justo ―(中略)― はこの芸道で日本における第一人者であり、そのように厚く尊敬されていて、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄suky が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった、とよくいっていたが、われわれもそれを時折彼から聞いたのである。それ故、デウスにすがるために一つの肖像をかの小家に置いて、そこに閉じこもったが、そこでは、彼の身に着けていた習慣によって、デウスにすがるために落着いて隠退することができたと語っていた。
利休七哲というのは利休の七人の高弟を指す言い方であるが、その七人は、蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、芝山監物、瀬田掃部、牧村利貞、古田織部である。いずれも武将であり、高山、蒲生、牧村はキリシタンであった。利休の高弟であった人たちが武士であり、多くがキリシタンであったのは、単に偶然ではなく、利休の侘茶に共感できる面を見出したからであろう。ロドリーゲスが記している高山右近の語ったことが、それを証明している。
四 宣教師と食べ物
この当時の日本人はいったい何を食べていたのか。『安土桃山時代の公家と京都 西洞院時慶の日記に見る世相』に「時慶と公家の食生活」としてまとめられているので、それから紹介しよう。なお、西洞院時慶は天文二十一年(一五五二)に生まれた。永禄七年(一五六四)従五位下に叙され寛永元年(一六二四)に参議で致任という経歴を持つ。その間に彼の身の回りに起きた事どもを書き綴った日記が『時慶卿記』とよばれる。
彼の食生活は結構、多彩だ。米飯の類は蓮飯、糯米の上に蓮の葉をのせて蒸し、盆にこれを蓮の葉に盛って仏前に供えたり、知己に配ったりするもので、それの贈答記事がある。餅類では、道明寺だんご、桜餅、つばき餅、饅頭では薄皮饅頭がある。麦、強飯(赤飯)、鮒ずしも登場する。酒類では、南蛮酒、麹酒、ミリン酒、白酒などである。南蛮酒はワインのことなのか不明だ。
野菜の類では、熟瓜(真桑瓜)、白瓜、茄子、款冬(ふき)、苣(ちしゃ、レタスの一種)、つくねいも、慈姑(くわい)、独活、ニラなど。魚類では、鯨、マナ鰹、鯱(しゃち)、鰤(ぶり)、鯛、鱈、鱸(すずき)、鱧(はも)、鮭、鰯糟漬などで、これらの魚は贈答品としても良く使われている。淡水魚では、鮎、鮒、鯉など。そのほかの海産物としては、海老、烏賊、海鼠、牡蠣、栄螺(さざえ)、そして焼蛤もある。
鳥類では、鴨、雁、雉、雲雀などで、雲雀は身近な鳥料理であったという。これに対して高級料理であったのが鶴。青鷺、鶉、鳩、橿鳥(かしわどり)。そのほかに兎が薬用とはいえ挙げられているほか、蛙も食している。
時慶は公家であるから、当時の日本人の食生活の代表例にはならないといわれるかもしれない。そこで一般庶民は何を食べていたのか。それは宣教師フロイスが、『ヨーロッパ文化と日本文化』に書き残してくれている。フロイスは自分たちヨーロッパ人と日本人の食事と飲酒の仕方を比較しており、そこで日本人の様々な食べ物を取り上げている。
彼が書いた順に紹介すると、塩を入れずに煮た米、汁(これがないと食事ができない、とある)、生で食べる魚(焼いた魚、煮た魚より一層よろこぶ、とある)、胡瓜などの果物、塩漬けの葡萄、冷たい水に漬け、極めて長い素麺、この素麺に使う薬味として芥子や唐辛、野犬や鶴、大猿、猫、生の海藻、焼いた鱒、味噌、魚の腐敗した臓物(ししびしおのこと、いわゆる塩辛)、猪の肉(薄く切って生で食べる)など、となる。
現代のわれわれが食べない犬や猿、鶴などがあって、美味な食材として喜ばれていたのだろうかと思う。そもそも日本人が肉を食べないというのは、天武天皇の時代に出された肉食禁止令によるものと思われる。日本書紀天武天皇四年四月一七日の条に「且莫食牛馬犬猨鶏之宍」(宍は肉のこと)とある。この当時も犬を食べる習慣があったことが分かるが、「日本人は古来牛馬は耕作を助ける恩獣として、また鶏は天照大神のお使いに鶏があったというので食わなかった。(江馬)」と『日本教会史』の注にもあるように、牛馬だけでなく鶏も禁止の対象になっており、フロイスは上掲書で、日本人は「僅かに子どもたちを喜ばせるために雄鶏を飼うに過ぎない」と書いている。犬の肉を食べる風習については万里小路時房の『建内記』にも書かれている。
フロイスの『日本史』(第七巻)に、大友宗麟が洗礼を受けた翌日の盛大な宴会の席に、「日頃の習慣に従って獣の肉が供された」とある。また『太平記』(巻三七)には、佐々木道誉が都から落ちるとき、攻め入ってくる楠正儀に「鳥・兎・雉・白鳥、三竿に懸け並べ、三石入りばかりなる大筒に酒をたたえ」と、肉を三本の竿に懸けて酒も用意しておいていく話がある。
キリシタンと言わずポルトガル人(南蛮人)と付き合う日本人の間では、牛の肉を食べることも行われていたらしい。犬の肉を食べられる人が牛の肉は食べられないということはなかったろう。
日本にいる動物と鳥について宣教師のジョアン・ロドリーゲスは次のように記録している。
牝牛が沢山いて、それで耕地を耕し、(中略)一頭だけで耕す。時には土地を耕すのに、牡馬か牝馬かを使う。(中略)家畜では、ただ犬が狩猟のために飼われ、鶏や鴨や家鴨を飼うのはただ娯楽のためであって食用にするためではない。(中略)もっとも、舟や商船で日本に行くポルトガル人との商取引でポルトガル人に売るために、これらの家畜を飼っている。また、すでにこの地の多くの者がこれらのものを食っているのであって、ポルトガル人と取引するために諸地方から集まって来る商人や、一部の領主その他の者が薬だとか珍しい物だとかいう口実の下に食っている。だから、この国では、われわれが牛や家畜、さらに人肉さえも食うといって、われわれの面上に罵詈雑言を投げかけていた最初の頃ほどには、われわれは恐ろしく忌まわしいものではなくなっている。(『日本教会史』)
牛肉を食べたという例はこれだけでない。やはり同書の注に次のように紹介されているが、宣教師ガスパール・ヴィレーラの書簡(一五五七年一〇月二九日付)によると、
豊後の府内で復活祭の翌日、約四百人のキリシタンを食事に招待したが、牝牛一頭を買い求めておき、その肉を米に入れてたいて出したところ、皆の者が食べて非常に満足したという。(土井)
とある。もう一例を挙げると、「秀吉の小田原征伐のとき、高山右近が蒲生氏郷や細川忠興に牛肉を食べさせた(細川家御家譜)」そうである(『日本史』第五巻、注)。宣教師が牛馬を食べることを、秀吉は伴天連追放令の第二条に挙げ、耕作用の牛は、百姓の道具として存在する。それを食することは、大切な助力を奪うことになる、と言って肉食を非難したはずが、第五巻によると、日本人が非常に嫌悪している卵や牛肉料理が日本人の間でとても望まれており、「太閤様までがそれらの食物を好んでいます」とある。
日本人が肉食民族でないというのは一体いつ頃のことを言うのか。犬や鳥の肉を食べ、うまいとなると牛肉も食す。日本人は立派な肉食民族ではないのか。
もともと肉食民族である宣教師にとっては日本の食生活は馴染みにくいものであったろう。ザビエルと一緒に日本に来た宣教師コスモ・デ・トルレスは、ザビエルが一五五一年に帰ったあとも、山口に残り布教活動を続け一五五六年、山口から府内に移った。そこで会ったメストレ・ペルショール師に次のように語ったという。
「山口に残留して六年間その地に居住しました。(その間)トルレスは、いかなる種類の肉もパンも鮮魚も口にせず、日本風に調理された米―それはひどい味で、はなはだしい空腹時か必要に迫られてやっと食べられるようなものであります―と、塩漬けの魚と野菜だけで生きていたのです。(以下略)」(『日本史』第六巻)。
ヨーロッパ人にとって遠い日本に来て、牛肉は懐かしい食べ物であったであろう。しかし日本人はそれを嫌った。牛を食べることが布教の妨げになるならと、後に、イエズス会巡察師であるヴァリニャーノは在日宣教師の肉食を長崎など特定区域に限り、ほとんど全面的に禁じているぐらいだが(第六巻の注)、肉食を嫌った日本人は、彼ら宣教師たちは人肉まで食べる、と悪口を投げつけた。そうした例をいくつか『日本史』から拾い上げてみよう。 
島原の布教に対し、仏僧は次のように批判したという。「殿はどうしてあんなに邪悪極悪の輩を領内にとどめておいてよかろうか。彼らは、人(肉)を食い、その行く先々の地はたちまち破壊されてしまうのだ(以下略)」(第九巻)。あるいは、秀吉の伴天連追放令が出されて山口から宣教師が退去したとき、かれらの家に残された窯から「人肉を焼いた匂いがする。(中略)人肉を食べたに違いない」(第一一巻)と言われた話、「伴天連たちが子供を捕らえて食べてしまった、と仏僧が批難」(第四巻)したという物騒な話など、島原、山口、都と宣教師のいるところでは必ずこの悪口が言われたことが分かる。なかでも都で宣教師が、内裏に都在住の許可を求めたときの回答は強烈だ。内裏は、「まず第一に必要なことは、(中略)伴天連たちは人間を食べぬということを日本の偶像に誓うことである(以下略)」と答えたということである(第四巻)。
それでは、こうした人肉食という恐ろしい悪口を宣教師に浴びせた日本人は、人肉を食べなかったのかと言えば、そうではなかった。天正九年(一五八一年)、秀吉が鳥取城を兵糧攻めにしたとき、城内で飢えた人々が人肉を食べた話が『信長公記』にある。異常時とはいえ、この戦乱に明け暮れた時代に生きている人にとっては、それほど恐ろしい話ではなかった。それだからこそこういう話が悪口になりえたのだろう。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「チバング諸島の偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、(中略)かの捕虜を殺して(略)皆でその肉を会食する。彼等は人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである」とある。洋の東西を問わず、お互いに相手のことがよく分からないときの悪口は、似たようなものになるのが面白い。
教会のミサで欠かせないのはパンとぶどう酒である。当時の宣教師はこれをどのように手配していたのだろうか。パンについては『日本史』のなかにいくつか記述が見られる。天正一〇年(一五八二年)、ヴァリニャーノが遣欧少年使節を連れて日本を発った後の有馬での話に、「(略)メリケン粉で聖体パンがいろいろ考えて作られ(以下略)」(第一〇巻)とある。言うまでもなく、メリケン粉とは小麦粉のこと。また前述の山口の残された家の窯はパンを焼いた窯である。「台所の近くには以前時々パンを焼いた窯があった」(第一一巻)とある。また次の記述もある。「そこには司祭たちが横瀬浦から携えて来た衣服や食料品が入っていた。それらの品々はポルトガル人が翌年シナから定期船が来るまで司祭たちがそこでその年を過ごせるようにと、彼らに与えた施し物であった」(第九巻)。食料品の中には当然、パンがあっただろう。パンは焼きあがったパンの形で定期船で届けられる場合のほか、右の引用のように窯で焼いているわけだから、小麦粉の形でもたらされる場合もありえた。さらに日本で収穫された小麦から小麦粉をつくりパンを焼いた可能性もある。「米や小麦の貯蔵室」(第一一巻)、「司祭館が必要とした菜園に水をやることができた」(第九巻)などの記述を読むと、宣教師たちは自ら小麦を育てて、小麦粉を手にし、パンを焼いていたかもしれないと思われるが、分からない。
パンが海外から持ち込まれ、貯蔵されたものが必要に応じて使われたように思われるケースが、次の例だ。「ゴンサルヴェス師は、その他の果物など(中略)大変な御馳走だとして私たちのところに二個のパンを持って来てくれましたが、それは誰も割ることができないほど堅く、また重いもので、ひどくかびだらけで食べることができませんでした」(第一〇巻)。
イエズス会は言うまでもなく修道会の一つである。生活に必要なものは出来る限り自給していたはずである。そう考えるとパンを、小麦を育てて作っていたかもしれない。ではぶどう酒はどうであったろうか。修道会とワインの関係について『ワインと修道院』の著者デズモンド・スアードは次のように言っている。
修道会のワインづくりと蒸留酒づくりに対する貢献が、正しく評価されることはほとんどない。蛮族の侵入がローマ帝国を破壊したとき、ブドウ栽培やワインづくりを救ったのは、修道士たちであった。また、暗黒時代を通して、ブドウの質を徐々に、忍耐をもって改良するだけの安全性と資力を確保しえたのは彼らだけであった。(中略)
どの時代であれ、ブドウの栽培が可能な地域にあるときには、修道院は近くにブドウ畑を所有し、栽培を行っていたと確信してもよいだろう。
それでは日本でも栽培していたと確信してよいだろうか。宣教師のジョアン・ロドリーゲスは「シナにも日本にもさらにこの東方には葡萄園がなく、葡萄の実で造った酒もない」(『日本教会史』)という。しかし、日本の野生の植物を説明する箇所で、次のように述べている。「叢林には野生の黒い葡萄の一種があるが、日本人はそれを食べていなかった。もしそれから葡萄酒を造るならば、味にしても発酵の工合にしても、やはり真の野生の葡萄である。また、ローマにおいてこの地に関してみとめられた情報によれば、エウロッパから来る葡萄酒の不足から――これはすでに起こったことであるが――野生のものから造った葡萄酒で弥撤(ミサ)をあげてよいとの判断が下されたのである」(同書)。つまり日本の野生の葡萄からできた葡萄酒をミサに使えるとなれば、日本でワインを造ったのではないかと想像されるが、果たしてできたのか、できなかったのか、これも不明である。
フロイスの『日本史』には次のような話が見られるだけである。ミサ用のぶどう酒について、「この品は、ポルトガルからインドに、インドからシナ(マカオ)へ、そしてマカオから日本にもたらされた」(第一一巻)とあるのと、「司祭は、(中略)ビスケットと塩漬けのマンゴーと少量のぶどう酒で満足していた」(第一〇巻)とあるぐらいで、ワインは貴重品であったろうということと、宣教師たちが日常の生活でワインを飲んでいたことが分かるだけある。貴重品だけに贈り物として使われた話がある(第五巻)。秀吉が博多でフスタ船を見学したときに、帰りにポルトガルの葡萄酒を(土産物として)持ち帰るように言われたことが、記されてもいる(第一巻)。
日本人もワインを飲んでいたのではないかと、思われるのが、すでに紹介した『時慶卿記』に出てくる。時代は少し下るが、元和元年(一六一五年)七月十五日に弥兵衛が南蛮酒を双瓶持参したという記事があるそうだ。
五 宣教師と贈り物
宣教師が日本の社会をみて強く感じたことの一つが、他人の家を訪れるときに贈り物を持参する習慣である。現代でもわれわれが人を訪問するときに何を贈ればよいか頭を悩ます問題で、すでにこのときに手ぶらで人を訪ねないという風習が出来上がっていた。
ヴァリニャーノは第一次の日本巡察を終えインドに戻る直前の一五八一年、日本で布教を進める上で、イエズス会士が心得ておくべき日本の習俗と気質についてまとめた『日本イエズス会士礼法指針』という小冊子を著している。
「日本の習俗と気質に関する注意と助言」と題して七章に分けて記している。その第六章に「使者、または敬意を払う資格のあるその他の人を迎える際にとるべき方法並びに行わなければならない宴会と贈物について」で日本での贈物の習慣について詳しく述べている。その内容をまとめて紹介する。
贈物の種類については、食べ物か、反物か、その他これに類似したものである、としてそれぞれの注意点を述べていく。食べ物は五段階に等級を分けている。一番低いものは、魚とか果物とかいったある種の肴と一緒に四つの瓶の酒、ないし一本の徳利の酒を送ることである。以下、順に四番目までのいわば詰め合わせセットの説明をしている。そして最高級のものは、南蛮のある種の貯蔵食料ないし食べ物であるという。現代と同じで舶来ものが高級なわけである。五等級に分けられた品々は、相手の地位に応じて送るべきだとしている。地位の高い屋形や大領主に贈るときは、彼らに好意を懐かせ、打ち解けさせるために、その人たちの好むもの、信長並びに豊後の王にしているように、南蛮風の何かを贈るのだ、としている。次いで反物の場合では、相手の地位や依頼する用件に応じて贈物の等級を決めろという。そのときも絹の反物や白木綿、陶磁器などの商品と見られるものは贈るなとか、贈物の品数とか、こまごまと注意点を述べている。
では実際、宣教師が誰にどのような贈物をしたのか、フロイスの『日本史』でみてみよう。
山口で布教の許可を得ようとして、ザビエルが大内義隆に送った品々は、精巧に作られた時を告げる時計、三つの砲身を有する高価な燧石の鉄砲、緞子、非常に美しい結晶ガラス、鏡、眼鏡などの一三品目、いずれもこの地方にはない珍しいものばかりである。国主は非常な満足の意を表し、布教の許可は得られた(第六巻)。
大村純忠が宣教師トルレスの家を食事に訪れた際、都にいるヴィレラから彼に送られた金扇を贈っている。この扇にはJESUSの銘とその上に十字架と三本の釘がついていた。純忠がこの銘の意味を聞いたとある(第六巻)。またトルレスが、ポルトガルの総司令官が純忠の改宗を喜んでいることを彼に知らせるために、総司令官に贈らせた物は、金塗りの寝台、琥珀織りの敷布団、ビロードの座布団、ベンガル絹の寝台カバー、ポルトガルの葡萄酒入りの大きい網瓶、愛玩用の子犬などであった。本来はこれらの品々のうち一品か二品を送る予定だったのが、全てを贈ってしまったという(第七巻)。度島の教会が焼けたとき、焼け残った日本の殿たちへの贈物には、国王ドン・ジョアン三世の食器類であった非常に高価なガラス器が半樽分あった(第九巻)。
豊後国主の使者とともにインド副王のもとに赴いて、国主にあてた高価なエスペラ砲を携えてフランシスコ・ペレイラは来ている(第九巻)。
巡察師ヴァリニャーノは、竜造寺氏との戦いで有馬鎮純が困難に陥ったとき、食料、いくらかの銀、鉛と硝石を提供した。イエズス会が国内の戦でキリシタンの側の援助をした例である。またコエリョは有馬鎮純を激励しようと、教皇グレゴリオ一三世が送り届けてきた、金と七宝の最良の聖遺物入れの一つを、聖堂でしかるべき儀式とともに与えている(第一〇巻)。
フロイスが都で信長の許に伺候したとき(一五六九年)の贈物は、非常に大きいヨーロッパの鏡、美しい孔雀の尾、黒いビロードの帽子、ベンガル産の籐杖で、いずれも日本にはない品であった。しかし信長は贈物のうち三つを返し、帽子だけを受け取った。このとき信長はフロイスと直接話すことはなかった。その理由を信長は次のように述べたという。「(略)実は予は、この教えを説くために幾千里もの遠国からはるばる日本に来た異国人をどのようにして迎えてよいか判らなかったからであり、(略)世人は、予自身もキリシタンになることを希望していると考えるかも知れぬと案じたからである」(第四巻)。
都での滞在を許可するという信長の允許状のお礼の際、精巧な小さい目覚まし時計を携行し、信長に見せたところ大いに感嘆し、献上するという申し出には、「予は非常に喜んで受け取りたいが、(受け取っても)予の手元では動かし続けることはむつかしく、駄目になってしまうだろうから、頂戴しないのだ」と言ったそうである(同)。
司祭(フロイス)が公方様を訪問するとき、持参できるものがなかったので、蝋燭の美しい一束を彼に進呈することにした。それは日本にない品だったからだという。しかし引見されないので、和田惟政の勧めで、信長に見せたあの小さな目覚まし時計をとって来させて、公方様に見せると、その説明にお前に召されたという(同)。
フロイスの手元にある、珍しい玩具、撚糸布、緞子、シナやインドからもたらされた他のそうした品々のなかから、いくつかを和田惟政に贈ると、彼は自分には必要ないから、他のだれそれに贈ればいいと教示したという。カブラルから和田惟政に、金の紐がついた緋のビロード帽が贈られ、彼はこの帽子に合わせて作った鉄兜のうえに付け加えていたそうである(同)。元亀四年(一五七三年)、信長と足利義昭の争いの際、フロイスは信長の陣営に小西立佐を通じて、塗金の円楯を献上した。日本では珍奇で、重宝なものであったので信長の満足は格別だったとある。その後、やはり立佐を通じて一瓶の金平糖を贈ったところ、信長は円楯以上の満足を示したという(同)。また信長は地球儀を前にして、司祭のオルガンティーノとロレンソ修道士とキリシタンの掟や彼らの航海について、話しを聞き、彼らの勇気に感嘆の色を見せたという(第五巻)。
ヴァリニャーノが信長を訪問した際(一五八一年)、日本では珍品の金の装飾を施した濃紅色のビロードの椅子を信長に贈る。都での馬揃えのとき、信長はそれを四人に担がせて自分の前を歩かせ、馬から下りて一度、これに座った。それからヴァリニャーノは安土を訪ね、そこを去るとき、信長は屏風を記念に贈った。これは天皇から望まれても譲らなかったほどの信長お気に入りの屏風であった。それは一五八五年、遣欧少年使節から教皇グレゴリオ一三世に献呈された(同)。
天正一四年(一五八六年)、司祭のコエリョが秀吉に謁見する前に関白夫人らに多くのものを贈っているが、ただ一つ、関白夫人へはシナの刺繍した短袴(サーロ)を贈っていることが判る(第一巻)。翌年のフロイスの秀吉への贈物のうち、二本の大きくて太いインド産の伽羅木が気に入られている。九州征伐の際、肥後八代でコエリョとポルトガル人らが謁見したときの贈物は、生糸、絹撚糸、黄金塗りの器物等である(同)。秀吉が、博多でフスタ船から降りる際に、秀吉の帽子があまり上等でないので、コエリョは、金色の紐がつき、ダマスコ織で黄色のビロードの新しい帽子を贈呈した(同)。喜んでさっそく着帽して帰ったというが、そのあとに伴天連追放令が出るとは夢にも思わなかったろう。
天正十九年(一五九一年)にヴァリニャーノはインド副王の使者という資格で、ローマから帰国した遣欧少年使節とともに秀吉に謁見する。このときのヴァリニャーノの通訳を勤めたのが前出のジョアン・ロドリーゲスである。ここで、少年使節が持っていたものは、地図、航海図、地球儀、観象儀、時計、珍しい書籍、少年使節の衣服(教皇からの贈物)である。そして四人の少年使節による楽器の演奏が行われた。楽器はクラヴォ(チェンバロ)、アルバ(ハープ)、ラウデ(リュート)、ラヴェキーニア(ヴァイオリン)で、演奏された曲の一つは「皇帝の歌」という(第二巻の注)。インド副王からの贈物は、ミラノ製の白色の甲冑、すべて銀で一部塗金したすこぶる立派な飾り具付の衝剣、日本では珍稀な鉄砲、トゥラサード、日本では初めて見られる油絵の掛布、アラビア馬、馬具、非常に美しい野戦用の天幕であった。このような遠国からの新奇な贈物に秀吉は絶大な喜悦の程を示したとある(第二巻)。
この頃(一五九三年頃)、ポルトガルの衣類を身に着けるのが流行った。多くの諸侯は、種々のカーバの軍装、肩掛けマント、襞衿衣、半ズボン、縁なし帽などを持っていた。秀吉が都に向かって名護屋を発つとき、名護屋にいる人々は市と政庁を挙げて、ポルトガル風の衣装をまとって彼に随伴したという(第五巻)。
贈物関連の件を列記してきたが、信長や秀吉という大権力者に贈るものであるから、ほとんどが南蛮ものである。南蛮ファッションが流行したそうであるが、ビロード製の赤や、黄色、黒の帽子が好まれたようで、日本にない珍しいものが喜ばれたのは、今と変わらない。
六 おわりに
フロイスは、『日本史』を「(老)関白殿が命じた幾つかのこと 一五九三年」を最終章にして、記述を終えている。その後の日本で起こったキリシタン弾圧に遭遇することなく亡くなったことは、彼にとっては幸せなことであったといえよう。慶長一九年(一六一四年)、日本人キリシタンの数は約三七万人と推定される(『日本キリスト教史』)。当時の人口を約一二〇〇万人とすれば(『人口から読む日本の歴史』)、キリシタンの比率はおおよそ三%になる。現在(平成一九年)は、キリスト教系の信者数が二一四万人強、その比率は約一・七%である(文化庁『宗教年鑑・平成二〇年版)。人口比で現在の二倍弱という布教成果を挙げていた。しかしキリシタン弾圧により多くの人々が棄教し、一部の人は隠れキリシタンとなり、日本の社会からキリスト教は姿を消した。
フロイスをはじめとして日本に来た宣教師たちが眼にした当時の日本人は、現代の日本人によく似ていた。既述のようにポルトガルのファッションが好まれた。キリシタンでないのにロザリオや十字架を欲しがり、ローマ字入りの印章を用いたりして、南蛮文化がもてはやされたという。秀吉(老関白殿)が南蛮の衣服を好んだことは良く知られている。人を訪ねるときには贈物を欠かさず、特に南蛮渡来の珍しい品は珍重され、喜ばれた。一部の人であるけれど牛肉をうまいと食べていたのは、明治初期に牛肉を使ったすき焼きが人気を集め、文明開花の象徴になったことを思い起こさせる。もちろん、このような風俗も弾圧とともに日本の社会から消え去ったことは言うまでもない。
この時代の日本人の国際化を考えるとき、「珍しさ」という言葉が一つのキーワードになるだろう。異国の珍しいことに非常な興味、関心を見せる。宣教師は、ルネッサンスを経たヨーロッパで教育を受けた人々でもあった。合理主義的な考えを持ち、地球が丸いということを理解している人々であった。布教の際、自然科学の知識をもとに彼らが行った天体の運行や自然現象の説明は、当時の日本人を驚かせ感嘆させた。しかし、その説明は珍奇な話であったから、多くの人が聞きたがり、宣教師を質問攻めにしたのであって、恐らく、その内容については表面的な受け止めに終わり、彼らの説明の背後にある科学的なものの見方にまでは、理解が及んでいなかったと思われる。
珍しいから関心を寄せるというのは、逆の言い方をすれば、珍しくなくなれば関心が無くなり、次の珍しいものに関心が移るということになる。
一度消え去ったキリスト教をはじめとする西洋文化と、日本人が本格的な付き合いを再開するのは、フロイスの『日本史』の記述が終ったときからほぼ二七〇年後のこととなる。それから現代まで続く西洋文明の摂取についてみるとき、「珍しさ」が依然キーワードになるものなのかどうか、それはあらためて考えてみたい。 
 
天正少年使節 信仰と政治に翻弄された少年たちの生涯

 

天正少年使節(天正遣欧少年使節)
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年(伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)を中心とした使節団で、日本でのキリスト教布教の支援をローマ教皇から得ることを目的としていた。しかし、出立から8年後、帰国した彼らを待っていたのは、豊臣秀吉による伴天連追放令だった………
信長お気に入りの男・ヴァリニャーノ
天正9年(1581)の『イエズス会日本年報』に信長が安土城の屏風を描かせたという記録がある。
「約1年前日本の最も著名な画工(狩野永徳)に命じて、新京(安土)と其城(そのしろ)の絵を少しも実際と相違なく、湖水(琵琶湖)諸邸宅その他一切を有りのままに描かせた。(中略)完全な作品であり、著名な画工が非常に努力して絵を描いたものである故、信長は大いに満足してこれを珍重した」
狩野永徳に描かせたこの屏風はみごとな出来栄えであったらしく、これを見るために大名や京・堺の人々が続々と安土城を訪れたという。また、朝廷からは、是非ほしいと所望されたが、信長は献上しなかった。そして、誰にもわたさなかったこの屏風を、信長は、イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノにあたえた。
日本に来たヴァリニャーノは、真夜中に床につき、午前3時には床を離れて働きはじめるという旺盛な布教活動をつづけた。若いころ刃物で女性を傷つけたことがあり、以来、厳格に禁欲的な信仰の徒として生きていた。神の存在など信じていたとは思われない信長とは対照的な人物である。
が、信長は、この軀の大きな5歳年下のヴァリニャーノに対して好感を抱いていた気配である。世俗的になりすぎていた日本の仏僧への反発が強かったこともあるが、それ以上に初対面以来ヴァリニャーノの潔癖な生き方に共感と親密感を抱いたように感じられる。
というのも、信長はヴァリニャーノに安土城下にセミナリヨ(小神学校・初等教育機関)と修道院を設立する許可を快くあたえた。その設立に高山右近が協力して開校すると、生徒がたちまちのうちに25名集まった(『日本史』フロイス)といわれる。
また、ヴァリニャーノが日本を離れるときがちょうどお盆で、信長は安土城天守閣を色とりどりの提灯で飾りつけ、松明を持った群衆を整然とならばせておいて城と城下町の灯火をすべて消させ、真の闇をつくり、一斉に火を点じて光のページェントを行った。それはみごとに美しく「司祭、神学校の子供たちが寛ぎながら(神学校の)窓から(祭りの)火を眺めた」という。
セミナリヨは安土城の天守閣のそれとおなじ青い瓦で葺かれた3階建てで、すでに肥前の島原半島に建てられていた有馬晴信の日野江城下(長崎県南島原市北有馬町)のセミナリヨと同じ様式の建物で有馬と同じ規約と規則で運営され、同じ時間割で授業が行われた。
長崎から車で橘湾(千々石湾)に沿って走って愛野、千々石を経て小浜に向かい、さらに海沿いの道を南下して加津佐、口之津へ。
口之津はなんの変哲もない漁港だが、そこはヴァリニャーノが上陸し、日本布教の方針を定めた「口之津会議」が開かれ、南蛮船が往来した国際的なウォーターフロントであったことを知る人は少ない。また、湿地帯や田圃の残る口之津の唐人町がかつて港としてにぎわったことを知る者はさらに少ないだろう。
だが、ここからすぐ近くの、口之津と同じような小さな漁港である加津佐で、日本ではじめての活版印刷が行われ、異国の珍奇な品物やパードレ(神父)が南蛮船で往来していた。
口之津から右手に湯島(談合島)を眺めながら海岸道路を島原市方面に向かうと、間もなく原城である。整備されて公園になっている城跡から眺望できる有明海と天草は美しい。
原城には天草四郎を首領とするキリシタン大名の残党、信徒、女子供など3万7000人が籠城した。寛永14年(1637)の島原の乱である。陸からは幕府軍、海からはオランダの艦船に攻撃され、全員が虐殺された。
原城跡から有馬の日野江城跡へ行く。
北有馬の農家の脇から細い道をのぼって行くと、戦国時代の石畳がそのまま残っていて、やがて畑に出る。僅かだが石垣が残っている。典型的な平山城の跡である。
城主・有馬晴信の居館は、華麗なものであった。
「広間の長さは20バーラ、幅10バーラ(1バーラは84センチ)であった。(中略)床はえんじ色のビロウドの縁をつけた畳がしきつめてあった。天井は白いヒノキで何の飾りもなく、紙のすべり戸(襖)には金色やひどく薄い青色を使って、何千という薔薇の花やまるで本物のような遠景の山。冬をあらわしたものでは、雪をかぶった山脈(中略)池には幾羽かの鴨が泳ぎ、手もとにやってくるほど馴れていた」
いまではこうした栄華の痕跡は残されてはいないが、ここは日本におけるキリスト教史を考えると、きわめて画期的な出来事があった場所なのである。それは、ヴァリニャーノがこの日野江城の城下にもセミナリヨを建てていたということである。
先に述べた通り、このセミナリヨで、生徒たちは次のような時間割に従って学んだ。
   起床と祈り    4時半
   ミサ         5時〜6時
   独習        6時〜7時半
   宿題        7時半〜9時
   食事・休養    9時〜11時
   日本語の読み書き 11時〜2時
   音楽        2時〜3時
   ラテン語      3時〜4時半
   夕食・休養    5時〜7時
   復習        7時〜8時
   反省と就寝    8時〜
高度な学問がまだ幼さを残した少年たちに教えられたのである。16世紀に、すでに彼等はラテン語を話し、オルガンやギターを演奏し、哲学まで論じあっていた。
選ばれた4人の少年
ヴァリニャーノはローマに使節を派遣する計画をたてた。天正少年使節である。
   伊東マンショ(13歳=出発時・以下同じ)
   千々石(ちぢわ)ミゲル(13歳)
   中浦ジュリアン(14歳)
   原マルチノ(13歳)
この4人の少年たちがリスボン港を守るベレンの塔の美しいたたずまいを目にしたのは天正12年(1584)8月10日のことであった。
少年たちは水の流れをさかのぼる船の甲板に立って、目の前に横たわっているヨーロッパの風景を見つめながら、2年半の歳月を思い出さずにはいられなかっただろう。それは、ただの長い海の旅ではなく、神を求める旅であった。日本語のうまいディオゴ・メスキータ神父に引率されていたし、ラテン語もかなり勉強していた。闘志も意欲もあったし、あつい信仰心もあった。しかし、帆柱よりも高い波、焙るような日ざしの下の、油凪に凪いだ海、赤痢、岩礁、風、すべてが凶暴な敵であった。たとえばサルガッソ海では33名の乗組員が病に倒れて亡くなった。旅は神を求める旅であると同時に、皮膚が死とじかに触れあっている旅でもあった。
ポルトガルに到着した少年たちは、イエズス会の取りはからいでリスボンの教会や、美しいシントラの城を訪れ、仮装舞踏会に招かれた。
エヴォラの大聖堂では、マンショとミゲルがパイプオルガンを弾いた。
荘厳なミサと晩餐会、テージョ川の舟遊び、貴族の館で催される歓迎の式典、祈りと石畳を蹴って走る馬車の馬の蹄鉄の音。彼等はグアダルペを訪れ、国境を越えてトレドへ。トレドからマドリッド。マドリッドでは国王フェリペU世に謁見し、駐ローマ・オリバレス大使宛ての「提供さるべきあらゆる事どもに援助せんことを卿に依嘱す」という最大級の礼をつくした親書を得ることもできた。
やがて、スペインの明るい港町アリカンテから5000トンの軍艦でイタリアに向かった少年たちは、天正13年(1585)3月1日にリヴォルノの港に到着した。
4人は下船すると、ひざまずいてイタリアの土に額を近づけた。あこがれのローマに近づいたからである。
ピサ、フィレンツェ、シエナを経由したところで少年たちは教皇グレゴリオ13世から遣わされた約300名の騎兵に迎えられ、彼等に護衛されてビテルボを通過し、カプラロラに着いた。
そして、3月22日の夕刻、ローマに着いてイエズス会本部(ジェス教会・修道院)で旅装を解いた。日本の長崎の大波止を出発してから、実に3年1か月が経っていた。
現代の私たちにはそこはイタリアの首都にすぎないが、少年たちにとっては「至聖の都」であった。
翌23日、少年たちは衣装を整えた。
「使節は各々、臍の辺りまで下がった緊束した有袖短外套を上に羽織り、上部より足にいたるまで皺がよった襞のある寛闊な長袴をはき、これを臍の辺りで堅く結んでいる。この服は、繊細な絹糸をもって織りなし、巧妙な技芸による絹製品で、数多の色で花鳥を現したり、金糸をもって織り出した花枝は、まるで生きているようであり、綺羅を点じ、巧妙を極め、おそらく我が国人の中、何ぴともこのような妙工を想像し得る者はないであろう。なお使節は湾曲した剣と小刀を腰に帯び、頭上には美しい紋飾りの帽子をかぶっている」
その姿は、ヨーロッパ人の目には奇妙に映じたようだ。事実「この衣服は大して立派とは言い得ず、道化役者の服に似ている」と思った者もいた。しかし、そのいでたちで少年たちはバチカンの丘へ向かった。
使節団の経路
1582年(天正10年) 2月20日 長崎港を出港。
      3月 9日 マカオ着。ゴア行きの船に乗換え、風待ちのため滞在。
1583年 12月20日 マラッカを経てゴアに着。
1584年 8月10日 リスボンに到着。サン・ロッケ教会に宿泊。
           リスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿に宮殿で接見。
      11月25日 スペインへ入りマドリードで国王フェリペ2世の歓待を受ける。
1585年 3月 1日 地中海マヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、
           トスカーナ大公国に入る。
      3月 2日 午後1時にピサに到着。
           ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世に謁見。
           その晩、舞踏会に参加。ピサでは斜塔や大聖堂を訪れる。
      3月 6日 サン・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会で聖ステファノ騎士団見学。
           灰の水曜日にあたりトスカーナ大公とともにミサで灰の塗付を受ける。
      3月 7日 フィレンツェに到着。ヴェッキオ宮殿に宿泊。
      3月11日 フィレンツェ近郊にあるプラトリーノの別荘ヴィッラ・デミドフに滞在。
      3月23日 ローマに行き教皇グレゴリウス13世に謁見。
           ローマ市民権を与えられる。
      5月 1日 グレゴリウス13世の後任のシクストゥス5世の戴冠式に出席。
      6月 3日 ローマを出発。ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどを訪問。
1586年 4月13日 リスボンを出発。日本への帰路につく。
1587年 5月29日 ゴアに到着し待受けていた ヴァリニャーノ に再会。
           原マルティノはコレジオで演説をする。
           この年国内で5月に大村純忠、6月には大友宗麟が相次いで死去。
           7月秀吉のバテレン追放令発布とキリスト教に逆風が吹き始める。
1590年 7月21日 使節団帰国。長崎に帰港。
1591年(天正19年) 3月 3日 特別に許可され聚楽第で秀吉と謁見。
           西洋で学んだ ジョスカン・デ・プレの曲 を演奏する。
天正遣欧使節の帰国後の4人
日本人キリシタンのリーダーとして、大勢の信者を導く責任を背負いつつ、秀吉、家康ら権力者による苛烈な弾圧に向き合い続けることになる。途中で不運にも病死する者(伊東マンショ)、教団から去る者(千々石ミゲル)、海外に避難する者(原マルチノ)、最期まで残り続ける者(中浦ジュリアン)、4人の遣欧少年使節たちはその後の人生をひたむきに生きた姿を番組は語ってくれた。
伊東マンショ (1569頃 - 1612)
伊東マンショは大友宗麟の縁戚にあたり、遣欧使節では大友宗麟の名代として主席正使をつとめた。帰国後の天正19年(1591)、マンショら4人は聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたため、それを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593)他の3人と共にイエズス会に入会した。
慶長6年(1601)には神学の高等課程を学ぶため、原マルティノ、中浦ジュリアンとともにマカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。彼らが目指したのは「司祭」になることだった。キリスト教では、罪を犯した信者が天国に行くには、自分の犯した罪を告白し、「許しの秘蹟」を受けなければならない。司祭になれば、キリストになり代わって許しの言葉を与える権限を持ち、「許しの秘蹟」をおこなうことができる。慶長13年(1608)、3人はそろって司祭に叙階された。
マンショは小倉を拠点に活動していたが、慶長16年(1611)に領主・細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移った。長崎のコレジオで教えていたが、慶長17年(1612)11月13日、43歳で長崎にて病死した。
伊東マンショの肖像画がミラノのトリヴルツィオ財団に残っている。遣欧使節は天正13年(1585)にヴェネツィア共和国を訪問している。その折、共和国元老院が4人の肖像画をヤコポ・ティントレットに発注した。その息子のドメニコ・ティントレット(1560〜1635)が完成させたものがこの肖像画とみられている。昨年5月、東京国立博物館で世界で初めて公開された。
千々石ミゲル (1569 - 1633)
本名は千々石紀員(ちぢわのりかず)といった。肥前国領主千々石直員の子で、大村純忠の甥、大村喜前(よしあき)及び有馬晴信の従兄弟にあたる。天正8年(1580)にポルトガル船司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として洗礼を受け、千々石ミゲルの洗礼名を名乗る。これを契機に、有馬のセミナリヨ(イエズス会の神学校)で神学教育を受け始める。
遣欧使節の正使としてローマから帰国後、司祭叙任を受けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続け、文禄2年(1593)に他の3人と共にイエズス会に入会した。だが千々石は次第に神学への熱意を失ってか、勉学が振るわなくなり、また元より病弱であったために司祭教育の前提であったマカオ留学も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。
慶長6年(1601)、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、伯父の後を継いだ従兄弟の大村喜前が大村藩を立藩すると、藩士として召し出される。大村藩からは伊木力(いきりき、現在の諫早市多良見地区の一部)に600石の領地を与えられる。
千々石は棄教を検討していた大村喜前の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししている。そのため、親キリシタン派からも裏切り者として命を狙われた。彼の晩年は現在も謎に包まれているが、領内で隠棲したものと考えられる。寛永10年(1633)死去。平成15年(2003)、伊木力にて、ミゲルの息子・千々石玄蕃によって立てられた石碑が発見され、それが「ミゲルの墓」ではないかと言われている。
原マルチノ (1569 - 2629)
大村領波佐見出身で、4人の少年の中では最年小だった。両親共にキリスト教徒であり、司祭を志して、有馬のセミナリヨに入った。帰国して、聚楽第で他の3人と秀吉に謁見した後、司祭になる勉強を続けるべく天正19年(1591)に天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593)、他の3人と共にイエズス会に入会した。
慶長6年(1601)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った。慶長13年(1608)長崎で司祭となり、布教活動を行うが、徳川幕府の禁教令によりマカオに脱出。慶長19年(1614)、江戸幕府によるキリシタン追放令を受けて11月7日マカオにむかって出発した。
マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行い、マンショ小西やペトロ岐部らがローマを目指した際には援助した。寛永6年(1629)10月23日、マカオで病死。遺骸は(正面のファサードのみ残る)マカオの大聖堂の地下に生涯の師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。
中浦ジュリアン(1568頃 - 1633)
肥前国中浦の領主・中浦甚五郎の子で、司祭を志して有馬のセミナリヨに学んでいたとき、イエズス会の巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノに見いだされ、天正遣欧使節の副使に選ばれた。ローマへ向かった使節たちはローマ教皇・グレゴリウス13世と謁見したが、ジュリアンだけは高熱のために公式の謁見式には臨めなかった。しかし「教皇様に会えば熱もたちどころに治る」と教皇への目通りを切望するジュリアンの願いを聞いたある貴人の計らいで、ジュリアンのみが教皇と非公式の面会を果たした。
帰国後の天正19年(1591)、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593)7月25日、他の3人とともにイエズス会に入会した。慶長6年(1601)マカオで神学を学び、慶長9年(1604)長崎に戻る。慶長13年(1608)、司祭となる。
慶長19年(1614)の江戸幕府によるキリシタン追放令の発布時は、殉教覚悟で地下に潜伏することを選び、九州を回りながら、迫害に苦しむキリシタンたちを慰めていた。二十数年にわたって地下活動を続けていたジュリアンであったが、寛永9年(1632)ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られた。そして翌寛永10年(1633)10月18日、イエズス会のクリストヴァン・フェレイラ神父らとともに穴吊るしの刑に処せられた。
最初に死んだのは中浦ジュリアンで、穴吊るしにされて4日目の10月21日であった。65歳没。役人に対し毅然として「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と最期に言い残したといわれている。
フェレイラ神父は穴吊るしの刑に耐え切れず棄教して沢野忠庵を名乗り、日本人妻を娶った。以後は他の棄教した聖職者、いわゆる転びバテレンとともにキリシタン取締りに当たった。
 
日本初のグーテンべルク印刷機の歴史的意義

 

1 .グーテンべルク印刷機とは
ドイツで誕生したグーテンベルク印刷機は、1586年に天正遣欧使節団の帰国船にその一台が乗せられて、4 年後、印刷機は日本に荷揚げされた。これは日本に伝来した初めての西洋式印刷機である。
1398年、ヨハネス・ゲンスフライッシュ・グーテンベルクはドイツの古い貴族の家に生まれた。当時、ドイツでは写本による出版を盛んに行っていたが、彼は活字印刷の発明に努力していて、金属製の鋳型やそれに適する油性インクの製作に取り組んでいた。そしてライン地方で用いられた葡萄搾り機にヒントを得て、平圧式印刷機を発明した。グーテンベルクの印刷技術そのものは1440年前後には、かなりいい線までいっていたようである。その後、金属活版印刷術はドイツ国内、そして全ヨーロッパに広まった。初期の印刷機開発者たちはグーテンベルクをはじめ、すべて写本時代のぺんがき手写体文字にそっくりのゴシック体を用いていたが、グーテンベルクの弟子であるニコラス・ジャンソンはベネチアン系ローマン体を発明した。その後(1494年頃)、アルダス・マヌチウスにより、斜めに傾いたイタリック体という書体が発明された。
本章では、日本に持ち込まれたグーテンべルク印刷機を研究対象とし、その購入の背景、日本に到着するまでの過程、そして売却されたところまでの状況を考察する。
2 .グーテンべルク印刷機と天正遣欧使節団
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539−1606)はイタリア人で、1566年にイエズス会に入会した。1573年、彼は東洋地域を回る東インド管区の巡察師に選ばれた。1579年7 月25日に布教状況を視察するため、ヴァリニャーノは日本に到着し、1582年2 月20日にその使命を果たして離日した。これはヴァリニャーノの1 回目の日本巡察であった。この1 回目の大きな成果として、日本の使節団がローマに派遣されることになった。この派遣は日本史上において初めてのヨーロッパ訪問である。
使節団は合わせて10人ぐらいで、使節の中心は4 人の少年であった。その4 人は伊東マンショ(14歳・正使)、千々石ミゲル(13歳・正使)、中浦ジュリアン(14歳・副使)、原マルティノ(12歳・副使)である。4 人とも有馬のセミナリヨで学習し、キリシタン大名の大友宗麟、大村純衷、有馬晴信の親族の出身として使節に選ばれた。使節4 人のことを簡単に表1 でまとめている。
(表1)
 氏名 出身地 没年 没地
 伊東マンショ 日向 1612年 長崎
 千々石ミゲル 千々石 1606年 棄教
 中浦ジュリアン 彼杵 1633年 長崎
 原マルティノ 波佐見 1629年 マカオ
そして、随員は次の通りである。
(表2)
 ジョルジェ・ロヨラ修道士 使節の教育係、日本人。
 コンスタンチノ・ドラード 印刷技術習得要員、日本人少年。
 アグスチーノ 印刷技術習得要員、日本人少年。
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアにとどまる。
 ヌーノ・ロドリゲス神父 ヴァリニャーノの後をついで一行に従う。
 ディオゴ・メスキータ神父 通訳、イエズス会員。
 ロレンソ・メシア神父
 オリヴィエーロ修道士
1582年2 月20日に天正遣欧使節団はヴァリニャーノ神父と一緒に長崎を出帆したが、1583年11月、一行はインドのゴアに到着した後、ヴァリニャーノは仕事でゴアに留まることになった。そしてディオゴ・メスキータ神父がヴァリニャーノに少年使節の案内を命じられた。
ヴァリニャーノは、日本のコレジヨやセミナリヨには教科書の印刷が必要であると感じ、使節団の派遣とともに印刷機の購入もすでに計画していた。しかし、ゴアに滞在にすることになったため、印刷機の件も使節団と一緒にメスキータ神父に任せた。1584年12月25日、ヴァリニャーノはゴアからメスキータ神父に手紙を送り、印刷機を購入することを命じた。加えて、片仮名と、若干の漢字の字母を造ることを依頼した。その手紙の内容は次の通りである。
「 日本の片仮名と、仮名と一緒に普通用いられる若干の漢字を注文するという考えをまだ持っていられると思います。フランドル地方に、これらの文字を送って注文すれば、容易にできると思います。日本でそれは非常に価値のあることです。難しい本を片仮名で書くことはできなくても、字母があれば、たくさんのものを印刷することができます。それは女子供や、一般民衆のため有益ですが、教会にとっても大いに役立ちます。神父様がこのことを忘れでないなら私はそれらの字母をポルトガルで手に入れて持って来て下さるように希望します。ポルトガルで入手できなければ、フランドル地方で造らせて下さい。その場合、片仮名の写し四、五通と、仮名に混ぜて普通用いられる若干の漢字を世話係の神父様に言付けていただきたいと思います。」
なお、1586年12月22日付のヴァリニャーノ宛ての手紙によると、使節に随行した日本人たちがポルトガルで活字の原型製作の技術を学んでいることが分かる。日本人たちとはおそらく使節の随員のジョルジェ・ロヨラ修道士、コンスタンチノ・ドラード、アグスチーノの3 人のことであろう。彼らは出発前の四ヵ月余りの期間を利用して、ポルトガルのリスボンで活字印刷の技術を学んだ。3 人の中には、特にコンスタンチノ・ドラードはキリシタン版と終始行動を共にした優秀な技術者として名高い。
1586年4 月12日に、遣欧使節団はリスボンを出航し、帰路についた。その船にはメスキータ神父が購入したグーテンべルク印刷機が1 台乗せられていた。
3 .ゴアやマカオにおけるグーテンべルク印刷機
1586年9 月1 日に、遣欧使節団一行はモザンビークに入港、翌年3 月15日に同港をあとにし、5 月29日にゴアに到着した。そこで使節団はヴァリニャーノと再会した。6 月4 日に、原マルティノは皆を代表して、ヴァリニャーノへの感謝も兼ねて、ラテン語でヨーロッパでの旅に関する報告を演説した。その演説原稿はリスボンで購入したグーテンべルク印刷機によって、印刷されたものであり、印刷名義人はコンスタンチノ・ドラードであった。これが日本人の名によって印刷された最初の活版本であると言われている。
ゴアにいる間に、コンスタンチノ・ドラードたちはイルマン・ジョアン・バウティスタという人について技術を勉強し、これによって彼らの印刷技術が一層上がった。
1588年4 月22日に、ヴァリニャーノと使節たちはゴアを出帆し、マラッカを経て、8 月11日に、マカオに到着した。しかし、豊臣秀吉が宣教師の追放令を出したため、使節団はマカオで、約2 年間(1588‒1590)滞在しなければならなかった。その間に、グーテンべルク印刷機によって2 種の本が印刷された。それは『キリスト子弟の教育』(1588)と『遣欧使節対話録』(1590)である。この2 冊はいずれもローマン体のラテン文である。
(表3)
 『キリスト子弟の教育』 ジョアン・ボニファチオが著したものである。ヴァリニャーノに日本のセミナリオの教材として選定された。
 『遣欧使節対話録』 作者はヴァリニャーノである。ラテン語訳はドゥアルテ・デ・サンデによって完成した。ロヨラ修道士はその邦訳を手がけていたらしい。一千部刊行された。
遣欧使節団が持ち込んだ、マカオに滞留したこのグーテンべルク印刷機に関する記述は中国印刷史の研究の中にもある。
「 その2 年間でヨーロッパから運んできたグーテンべルク印刷機がマカオで3 、4 冊の本を印刷した。印刷作業の担当者は日本人である。しかし、これらの本の中には、漢字がまだ使用されていない。このグーテンべルク印刷機は中国に西洋の印刷術と接する機会を与えたが、中国人はこのチャンスを逃して、西洋の印刷術とこの出会いはその影響があまり広がっていないようである。」
このように、マカオに置かれた時、グーテンべルク印刷機に使える漢字の金属活字はまだ製造されていないことが分かる。西洋の印刷技術は中国の印刷術に全く影響を与えなかったのである。なお、残念なことは、1589年9 月16日、印刷技術を学んできた随員のジョルジェ・ロヨラ修道士は病気のためマカオで客死した。彼はその後の日本でのキリシタン版の印刷に貢献できなかったことになる。
4 .グーテンべルク印刷機と天草コレジヨ
1590年6 月23日に、ヴァリニャーノと使節たちはマカオを出帆、同年7 月21日ごろ、使節の帰国船は長崎に入港した。グーテンべルク印刷機も長崎に陸揚げされたけれども、梱包されたまま肥前有馬領の加津佐に送られて、そこにあったコレジヨに据えられた。
1590年8 月13日に、加津佐においてイエズス会総協議会が開催された。協議会では、使節団が持ってきたグーテンべルク印刷機を使い、ローマ字本や国字本を出版することが決議された。加津佐に置かれていた間に、グーテンべルク印刷機により、1 冊の本が出版された。それは『サントスの御作業(諸聖者の御作業)』である。
『サントスの御作業(諸聖者の御作業)』(1591年、ローマン体)は日本語に翻訳されたローマ字綴りの聖人物語である。これは日本の国土で最初の西洋印刷機による金属活字本であり、また洋書翻訳本の嚆矢ともなっている。
加津佐に置かれてから1 年後、イエズス会の潜伏や教育機関の隠匿が秀吉に発覚する恐れがあるので、1591年7 月、天草の領主であるジョアン天草久種の同意を得たうえで、コレジヨは天草の河内浦に移転された。グーテンべルク印刷機はコレジヨの開設と同時にコレジヨの傍らの印刷所に持ち込まれた。少年使節の4 人も天草コレジヨに来て、勉強を続けた。
天草のコレジヨは1591年から1597年にかけて七年間活動し、当時日本においてはただ一つの最高学府であったといわれる。なお、この7 年間、コレジヨの印刷所でグーテンべルク印刷機を使用して出版された本は教科書、辞書や信仰のための本など47種がある。その発行部数は平均1500部、多いときは3000部を数えたと言われている。これらの出版物はその後「キリシタン版天草本」と名づけられ、現在所蔵のある完本として12種が残されている。
(表4)
 ヒデスの導師 1592年刊。国文欧字金属活字本。
 ばうちずもの授けよう 1592年刊。国文国字金属活字本。
 どちりな・きりしたん 1592年刊。国文欧字金属活字本。
 平家物語 1592年刊。国文欧字金属活字本。
 金句集 1593年刊。国文欧字金属活字本。
 伊曾保物語(イソポのファブラス) 1593年刊。国文欧字金属活字本。
 ラテン文典 1594年刊。国文欧字金属活字本。
 ラ=ポ=日対訳辞書(羅葡日対訳辞典) 1595年刊。羅葡日文欧字金属活字本。
 コンチンツス・ムンチ(コンテンプッス・ムンジ) 1596年刊。国文欧字金属活字本。
 精神鍛錬(心霊修業) 1596年刊。ラテン語欧字金属活字本。
 精神修養の提要(精神修養綱要)(コンベンジウム スピリッツチュアル ドチリナ)
       1596年。ラテン文欧字金属活字本。
 マヌアリヌ・ナバラのコンペンジィム(マヌアリヌ・ナバラのコンペンヂィム)
       1597年。ラテン文欧字金属活字本。
そして、以上の印刷物と深く関係して言わねばならぬことは、当時天草コレジヨ印刷所で活躍していた印刷技術者たちの存在であろう。現段階で確認できるのは、主に使節団の随員のコンスタンチノ・ドラード、イタリヤ人のバァティスタ・ぺシェ、日本人のペドロ・竹庵の3 人である。3 人はそれぞれ印刷技能師、欧文印刷技師、日本印刷技術者として天草での印刷出版を支えてきた。この3 人について紹介しておこう。
コンスタンチノ・ドラードは1567年諫早生まれ、長崎出発のときは数え年で16歳であった。ポルトガルで印刷術を勉強し、日本に帰国してから、1595年10月4 日、イエズス会に入会して修道士になった。1614年家康の禁教令で宣教師は追放され、印刷所も閉鎖されたとき、印刷機と一緒にマカオへ追放された。そして1616年から18年までの間に神父になったことが知られている。この人は日本最初の印刷術伝習者としてヨーロッパに行き、記念すべき最初の印刷機と一緒に日本に帰り、そしてまたその印刷機と共に追放されるという運命の人であった。1618年、マカオのセミナリヨの院長になっているが、その後まもなく死んだらしい。
バァティスタ・ぺシェはイタリア人で1556年頃カンタサロに生まれたという。1580年イエズス会修道士となった。少年使節たちが帰国の途についたときに同行し、ゴアでロドリゲス神父について印刷術を勉強した。そして加津佐、天草、長崎と印刷歴は続く。更に「日本耶蘇会目録」に「イルマン・ペトロは日本文字の印刷係と見え、1593年のカタログには日本文書及び活字印刷に就き、イルマン・ジョアン・パブチスタの補助とあって、国字印刷に関係が深かったことを示している。要するに、バァティスタ・ぺシェは欧文も日本文も担当したことが考えられる。
ペドロ・竹庵は1566年頃口ノ津に生まれ、1583年イエズス会に入った。1614年マカオに去り、1623年11月28日同地で死んだ。彼は1591年から1599年まで国字体の印刷係であった。
なお、印刷技術の面においては、天草でイタリック体が製作され、盛んに使われていたことも言及しなければならないことである。1594年、印刷技術師たちの努力の下で、イタリック体の欧文型の鋳造が成功した。同年刊行された『ラテン文典』はすでにイタリック体で印刷されたと言われている。このことに関して、同年10月20日付の長崎発会長宛ての書翰には次のような記述が見られる。
本年は印刷機械の設備やらイタリック文字の製造に追われ、印刷はほとんど進捗しておりません。かかる状態にあっても我々にとってはその必要性は大変なものであります。日本人は今まで父型や母型の製造には全然経験を持ち合わせて居らぬとはいえ、この方面に器用な日本人は短期間に、しかも六ドウカドを超えざる僅少の出費で、印刷に必要なる全てのイタリック文字を製作してくれました。かくして、目下ポルトガル語と日本語で説明を付したマヌエル・アルバレスのラテン文典を印刷中であります。印刷完了次第、如何に美しい文字を作り出したか、御高覧に供したくて、会長様宛てに御送り申し上げます。」
周知の如き、西洋の印刷技術が東アジアに伝来した初期、西洋の印刷機に使える漢字の活字などの製造は容易ではない。それゆえに、前述の12冊の中には、『ばうちずもの授けよう』は西洋の印刷技術による刊行された最初の国文国字金属活字本であることに注意すべきである。しかも、『ばうちずもの授けよう』は草書体の平仮名と漢字で綴ったものである。しかし、果たして正しいものだったか。
前述のように、ヴァリニャーノは少年使節と随行したメスキータ神父に日本語の片仮名、仮名や若干の漢字を注文し、日本に持ち帰ることを頼んだ。これに関して、片岡彌吉は「印刷文化の発祥」(1963)において「メスキータは金属活字の字母を造る代わりに木活字を作らせたのであろう。(中略)ところが、楷書体片仮名印刷は、当時の日本人の好みや習慣に合わなかったようである。ヴァリニャーノがそれを注文したのは、無数といってよいほどの漢字の字母を作ることの困難から、そうした便宜上的手段に過ぎなかったと思われる」と述べている。また片岡はローマ字の本が金属活字で印刷されるとともに、当時の日本人好みと習慣にあう草書漢字と平仮名を用いた本が、木活字で印刷され始めたと考えている。しかし、新井トシが形態についての研究を通じて、キリシタン版の大活字(漢字や仮名−筆者)も、やがて1599年頃長崎本に現れてくる小活字と同様に金属活字に違いないことを論証したのである。このように、2 人の結論が分かれているが、詳しくは次節で述べる。
5 .グーテンべルク印刷機と長崎
1597年、グーテンベルク印刷機は長崎に移転され、そこで約14年間の長期にわたって、キリシタン版の出版に使用された。そして地名にちなんで、これらのキリシタン版は長崎本とも言う。現在所蔵されているのは次の15種である。
(表5)
 サルヴァトール・ムンジ 1598年刊。国文国字金属活字本。
 落葉集 1598年刊。国文国字金属活字本。
 ぎゃどぺかとる 1599年刊。国文国字金属活字本。
 倭漢朗詠集巻の上 1600年刊。国文国字金属活字本。
 ドチリナ・キリシタン 1600年刊。国語ローマ字金属活字本。
 どちりな・きりしたん 1600年刊。国文国字金属活字本。
 おらしよの翻訳 1600年刊。国文国字金属活字本。
 コンフェソールム 1603年刊。ラテン語欧字金属活字本。
 日葡辞典 1603‒04年刊。日葡欧字金属活字本。
 日本文典 1604‒08年刊。日葡欧字金属活字本。
 サカラメンタ提要 1605年刊。羅・葡・日 欧字金属活字本。
 スピリツアル修行(珠冠のまるある) 1607年刊。国語欧字金属活字本。
 フロスクリ 1610年刊。フランス語欧字金属活字本。
 ひですの経 1611年刊。国文国字金属活字本。
 太平記抜書 刊行年、刊行地未詳。国文国字金属活字本。
前節の続きであるが、天草版と比べて、長崎版の中には国字本が多くある。これらの国字本には金属活字を使用しているのかどうかが問題点である。これに関して、『長崎印刷百年史』には次のように述べている。天草で欧字本の黄金期を迎えたと言えよう。だが、国字本はまだ2 種にすぎない。それも木活字で、平仮名を主にしたものであった。画期的な意義をもつ国字本の出現は、長崎移転まで待たねばならなかったのである。つまり、国文活字の鋳造は初めて長崎で実現したのである。なお、『長崎印刷百年史』の記述によると、長崎で出版した漢字仮名交じりの宗門書『サルヴァトール・ムンジ』がキリシタン版最初の国文金属活字であるのが分かる。
以上のように、グーテンベルク印刷機に使える国字の活字がいつごろ鋳造されたのか、また最初の国字金属活字本は天草で現れたのか、それとも長崎で出現したのかはこれまでの先行研究ではまだ明らかにしていない問題である。しかし、グーテンベルク印刷機に使える漢字や仮名の金属活字が確実に鋳造されたことは事実であろう。
6 .グーテンべルク印刷機の終焉
1611年になると、徳川幕府はキリシタンの布教を一層厳しく禁じ、グーテンベルク印刷機による天草での出版はおよそ1612年までに停止となった。1614年に、徳川家康が大追放令を発令したため、イエズス会本部やグーテンベルク印刷機、そして印刷技術者までもがマカオに追放された。これで天正末期の1591年から20余年にわたったキリシタン版の印刷事業は完全に途絶えた。このように、グーテンベルク印刷機は1586年に天正使節団の帰国船に載せられてリスボンを出航してから、ゴア、カカオ、加津佐、天草、長崎を転々と移動しながら、結局マカオに送られたことになった。
このグーテンベルク印刷機を使用して刊行されたキリシタン本は、『長崎印刷百年史』によれば一説には50種とも言われる。現在、数葉の断片まで含めて、その伝本が見られるのは30種となっている。宗門書、辞典、文典、文学など多方面にわたるがこれを活字別に見ると、欧字本18種、国字本12種であると述べている。しかしそれぞれの数字は確定的なものとは言えない。そして、グーテンベルク印刷機による欧字本は言うまでもないが、12種の国字本の中には漢字や仮名の金属活字を使用して、刊行されたものは必ずあると述べた。しかし、印刷機がマカオに送られたことにつれ、漢字や仮名の金属活字を鋳造する西欧式技術もその跡を完全に断ってしまった。その後、日本は西洋印刷機との再会は1848年のことであり、即ち234年の歳月を待たなければならなかった。この長い間に日本では金属活字への動きを見せることもなく、ただただ盛んな木版文化期だったのである。
グーテンベルク印刷機はマカオに送られてから、更に6 年間を経った。その6 年間、グーテンベルク印刷機による印刷や出版はあるかどうかはあまり研究されていないようであるが、しかし、印刷機に使える金属の漢字活字は現れなかったであろう。中国では最初の漢字体の洋式鉛活字の使用例は1814年に出版し始めたモリソンの『英華字典』だと言われている。1620年頃になると、グーテンベルク印刷機はフィリピンのAugustinian Canons に転売され、一応一つの使命を終えた。
以上のように、結局グーテンベルク印刷機は日本の印刷技術にも中国の印刷技術にもあまり影響を与えずに風のように消えた。ただしこの印刷機によって、数十冊の貴重な本が残された。これらの本は東西印刷術の交流の証となり、当時の異文化交流の一風景を未だに物語っている。
 

 

 
 

 

 
『日本見聞録』 ドン・ロドリゴ

 

 
ドン・ロドリゴ(スペイン)
16〜17世紀に入った世界は大航海時代を迎えます。
コロンブスのアメリカ大陸発見などの華々しい事件の陰に、嵐に襲われ、岩に座礁し難破する船も多かったようです。
1609年(慶長14)、房州安房国岩井田村に嵐によってバラバラになって漂着したスペイン船サン・フランシスコ号もそのうちの一隻でした。
陸に上がったものの何処とも知れず絶望の淵へ追いやられた彼らに、やがて暖かい救援の手がさしのべられます。
裸同然で疲れ切った彼らを岩井田村の人々が発見し、村へ案内しました。
船に乗っていたフィリピン臨時総督のドン・ロドリゴ(スペイン)は見聞記の中で、この村はこの島で最も貧しいだけでなく、日本中で最もさびしく貧しい村と思えた。
なぜなら、住民はたった300人しかいないうえ、大多喜の殿様に隷属しているからであると記しています。
しかし、遭難者は同情されるほど貧しい村でしたが、村人は献身的に彼らを助けました。
とりわけ婦人たちは涙を流して同情し、少ない衣料の中から綿入れを彼らに与えました。
ロドリゴは、その情は婦人たちの夫にも通じたからだろう。
男たちからも私や他の者たちに食べ物やいろいろなものを惜しむことなく分け与えてくれたと言っています。
事件は藩主に知らされ、藩主を通して江戸へも伝えられます。
ロドリゴ一行はその後江戸へ向かい将軍秀忠に会い、駿府で家康とも会い、家康の援助で当初の目的地であったアカプルコへ無事帰りつくことになります。
ロドリゴは建設途中の活気あふれる江戸を見たせいか、それとも37日間世話になった岩井田村の温かい思い出があったせいか、こう書いています。
日本人というのはとにかく素晴らしいレベルをもっている。
日本を武力によって制圧することは困難であり不可能である。
日本は住民が多い。しかも勇敢である。死を恐れない。 
 
日本見聞録 1

 

スペインのフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロが執筆した書物。江戸時代初期に遭難して日本に漂着した際の見聞をまとめたものである。
1609年(慶長14年)9月、ロドリゴ・デ・ビベロが帰国のためフィリピンからヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコへ向かう途中、遭難して日本に漂着し、約1年間日本に滞在することになった際の記録である。1857年に初めて公刊された。日本では、『大日本史料』第12編第6冊(慶長14年9月条、658-677頁)と第7冊(慶長15年5月4日条、231-241頁)に原文と村上直次郎による抄訳が抄録されたのち、1929年、村上による完訳が、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』と題して公刊されている。
「万世一系」論
16-17世紀のヨーロッパ人も、中国人と同様、日本人の万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた。『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子は、この日付を初めて定式化した。その日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。
『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、日本人について以下のように記述されている。
「彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。 」
当時の天皇は後水尾天皇である。神武天皇に始まる皇統譜によれば、後水尾天皇はまさしく108代目である。 
 
スペイン人、ドン・ロドリゴの見た駿府城と家康 2

 

ロドリゴは自著「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で貴重な大御所時代の駿府城のことを次のように書いている。
「私は約束の時間に宿舎を出でて、駿府城の第一門に到達したが、そこは(江戸の)太子の門のようには見るべき物は多くない。また家も立派ではない。しかし江戸城内の建物が立派でなければ、ここは立派に見えたであろう。太子はいろんな点で威厳を備ふることが多いが、諸門の守兵及び濠や城壁については江戸も駿府城もあまり相違はない。この帝国は相続によらず、武力によってこれを獲得するために、皇帝の前任者の中には不慮の死に遭った人もいる。皇帝(家康)は、年老いて死を恐れるが故に息子の太子よりも大勢の兵士と武器を備え用心して生活している。この城も江戸城と同じく三つの堅固なる門がある。ここも江戸同様に兵士を備えている。しかしその数は江戸より多い。これらの三つの門を過ぎると宮殿に入る。特に私が注意をひかれたのは、人々の衣服や徽章(きしょう)が、部屋ごとに違っていたことである。
私たちが皇帝の手前の一室に着いた時、書記官が2人出てきた。彼らは日本において最も権威があり皇帝から尊重されている者であり、彼らの随員の数によってそのことを示していた。そこで何人が先に座るべきか暫く譲りあった後、彼らは私たちに上席に座るよう案内した。こうして二人の中で、年長であろう者が長々と挨拶し、私たちが日本の国王のもとに来たことをねぎらい祝ってくれ、私の苦労が慰安され救済された。彼等は大臣としてこの国の最も重要な事務を処理する役人であり、今回の私の事件について望むことがあったら述べるよう言われた。(中略)
皇帝は大変大きな部屋におり、その部屋の精巧なることは言語に尽くされず、その中央より向に階段があって、これを上り終れば黄金の綱がある。部屋の両側に添ってその端、つまり皇帝のいる場所より約四歩の所に達する。その高さ2バラ(1メートル67センチ)であり、多くの小さな戸(襖のこと)がある。家臣たちは時々皇帝に招かれ、この戸より出入りする。彼らは皆ひざまずいて手は床上(畳)に置き、全く沈黙して皇帝に尊敬を表していた。彼ら貴族の両側には、20名の家臣がおり彼ら一同と、皇帝の側に接近できる書記官等は、カルソンのとても長く40センチ余り床上を引きずる物(長袴のこと)を着用していた。このため足を露すことはない。(中略)皇帝は青色の天鳶絨の椅子に座り、その左方約六歩の所に私のために予めこれと異なる椅子が用意されていた。
皇帝の衣服は、青色の光沢のある織物に銀を以て多くの星や半月が刺繍されており、腰には剣を帯し、頭には帽子または他の冠物はなく、髪を組んで色紐で結んでいた。皇帝の歳は60歳くらいで中背の老人であり、尊敬すべき愉快なる容貌で秀忠公より肥満していた」と記したのが、ロドリゴの駿府城と家康自身のその時の風貌を伝えた唯一の史料である。
彼が見た駿府城は、特に内部(謁見の間)の見事な装飾に注目しているここと、さらに警護の兵士が多かったことも知ることができる。この記録は、駿府城内部の御殿を知る数少ない史料の一つでもある。  
 
新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ 3

 

ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーサ(Rodrigo de Vivero y Aberrucia)
通称ドン・ロドリゴ(Don Rodrigo)はヌエバ・エスパーニャ(新スペイン。江戸での呼称はノビスパン。現メキシコ)第2代副王ルイス・デ・ベラスコの甥にあたり、1564年にヌエバ・エスパーニャ、現在のメキシコのプエブラ州テカマチャルコ市に生まれる。母は前夫の広大な領地を引き継いだメルチョーラ・デ・アルベーサ。
12歳になるとスペイン貴族の父ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコはロドリゴを当時のスペイン国王フィリペ2世の第4夫人アナ王妃付の小姓としてスペイン本国へ送り出した。
1584年にロドリゴはヌエバ・エスパーニャに戻り1595年6月にサン・フアン・デ・ウルア要塞の城番、1599年3月にヌエバ・ビスカヤ(フィリピン北部。16世紀の頃よりフィリピンはスペインの植民地となりヌエバ・エスパーニャ副王領として1571年マニラに総督府が置かれた)総督、1600年3月にタスコ鉱山町長官に任じられた。
サン・フランシスコ号の日本漂着
1608年に未着任の総督府長官ドン・フアン・デ・シルバに代わり、44歳のドン・ロドリゴが臨時総督府長官となった。ヌエバ・エスパーニャのアカプルコを出発(1608.3/15)し、三ヵ月後にマニラの南にあるカピテに入港。(6/15着任) 前年マニラで暴動を起こして捕縛されていた日本人達の処罰について、ロドリゴは調査の上で200人の処刑を取下げて追放処分、明らかに海賊行為を行っていた犯人は投獄した。徳川家康宛に暴動者の日本への強制送還と暴動再発防止のための渡航制限(日本から年4艘)を通達をすると返事に異議申立は無かった。翌年ロドリゴは任地での勤めを終え(1609.4)カピテ港から約千tの大型ガレオン船「サン・フランシスコ号」で随伴船の「サン・アントニオ号」「サンタ・アナ号」と共に帰途につくが、出発が遅れて(7/25)航海中に台風の季節となりフィリピン海から東の北西太平洋上で嵐に逢って難航してしまう(8/10)
サンタアナ号は豊後(大分県)白杵港に避難(9/20)、サンアントニオ号は無事にアカプルコへ帰国できた。
慶長14年9月5日(ロドリゴの記述は1609.9/30)夜10時、サンフランシスコ号は33度の計測地(実際は35度。彼らの海図では浦賀にあたる)で座礁。寒い海上で身動きが取れないまま帆船は破損していき、ロドリゴ達は命からがら陸地に泳ぎ着いた。カトリック教徒の日本人同行者に、海辺にいた者との通訳を頼み、漂着地がオンダキ(大多喜/おおたき)藩領のユバンダ(岩和田/いわわだ。現御宿町)であると教わり、海図が間違っていたことに気付かされた。日本漂着は……13年前(慶長元年8月、1596.10)豊臣政権下のに同じように長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の治める土佐国浦戸(高知県高知市浦戸)に漂着したスペイン船サン・フェリペ号は元親に一度は保護されたものの、日本を害するようなキリシタンの弾圧を推し進めていた秀吉が派遣した奉行に積荷を没収され、残留した宣教師が翌年処刑された不幸な事件があり一行は不安であったが、ロドリゴは今の最高権力者がマニラから公式書簡を交わした徳川家にあることを頼み思っていた。
海岸から粗末な道を通り1レグア(4〜6Km。古いスペインでは約4.19m)先の集落を訪れると、乗船員と同じ数程しか住民が居ない小さな村であったが、村民達は遭難者達に心から同情して惜しみなく食物を差し出し綿入りの着物を貸し与えた。乗船者373名のうち56名は溺死し、生存者は317名であった。
村人に救出され、凍死寸前の者は──火に当て急に体温を上げると心臓への負担で死にかねないという海辺の村人の知恵で──村の女達が人肌で温めたという話も伝わっている。上陸地の田尻海岸をはじめ岩和田の浜は殆どが崖のような岩肌の下にあり「岩和田の村人達の食事は主食の米の他は殆ど大根や茄子等の野菜で、魚は時々だった。この海岸では漁獲は用意ではない」旨をロドリゴは記している。
大多喜城主本多忠朝の厚遇
岩和田を領する大多喜城に異国船漂着の知らせが届くと、城主本多忠朝は、外国人の無断入国が許されない時世において一行の処遇を慎重に扱うためにまずは岩和田の浜に家来を視察に出した。豊臣政権時に比べればキリスト教の弾圧は緩められたものの、徳川も寛容とは言えない。江戸幕府に睨まれればお家取り潰しも有り得るため城内での会議では、一行を全て切り捨てる意見が強かった。しかし忠朝は視察が戻るまでは首を縦には振らなかった。そしてロドリゴ達は礼儀正しく、財宝一式流され苦境にあるとの報告を受けた忠朝は、速やかに一行を付近の寺に預けさせ、厚遇するようはからう一方、異国人が無闇に他所へは行かないように命じた。心から温情をよせつつも拙速な行動に出ず適切な処置をとったのだった。
ロドリゴ達が滞在した三嶽山普賢院大宮寺の場所は不明だが、大宮神社付近と推測されている。大宮寺は文永6年(1269)創建といわれ、修験道聖護院の配下であった。大宮神社は日本武尊の東征の折に大物主命を勧請したものと伝わっている。元禄12年(1699)に火災により大宮神社は白髪台に移され、その後も度々類焼し嘉永元年(1848)4月7日に現在の東山に遷座した。現社殿は昭和24年に新築された。
数日後に忠朝は威儀堂々と300人余りの武装した家臣を率いて大宮寺を訪れた。 (この時の南蛮船検使は柳田平兵衛、小鹿主馬、山本忠右衛門、大原惣右衛門) 領主の忠朝を村人達は深い土下座で迎えたが、西洋人のロドリゴは立って敬礼した。忠朝は馬から降りて、自らロドリゴへと近づく。そして、ロドリコの手をとり、接吻をした。村々を領する城主としてはうら若い28歳の忠朝は、ロドリコも「マドリッド市で最も宮中の礼に慣れた者がするような返答」と感嘆するほど完璧に洋式の作法を心得ていたのだ。着席する際も信頼の証にロドリコを左(刀で切りかかりにくい上座)に座らせ細やかな心配りにを見せた。
金糸と絹糸で刺繍を施された見事な緞子(どんす。別色の経糸と緯糸で模様を織った高級織物)の着物4着、刀一口り、地産果物、日本酒、彼らが好む乳を出す牛一頭や鶏数羽までもを贈り、そして江戸幕府への報告を約束し、村に滞在中の乗船員一同の食事も支給された。幕府へは、アントン・ペケニョ(Anton Pequeno)少将とファン・セビコス(Juan Sevicos)船長に書簡を持たせて派遣し、20日以内で迅速に手続きを済ませ秀忠の使者と共に戻った。
大多喜城での歓待
10月13日に江戸へ向かうロドリゴ一行が大多喜の町(『日本見聞録』に人口1万〜1万2千人と記している)の宿に着くと城主忠朝の使者が訪れ、町よりも高い所にある大多喜城へ招かれた。城は堅固な構えで、城兵は礼儀正しくロドリゴを屋敷に案内し、忠朝も20人程の家来と共に屋敷の入口で出迎えた。城主の屋敷の金銀と美しい装飾の部屋の数々を見学し、暖かい歓待を受ける。夕食の時間になると、忠朝は日本で親しい客人にする風習通りにロドリゴのための初めの一皿を持参した。肉、魚、果物他様々な美味が供される。そして忠朝は旅立つロドリゴのために、立派な馬を一頭与えた。
忠朝の温情は自分の領地に居る間だけではなく、この先ロドリゴと再会するまでの六ヶ月間、忠朝は絶えずロドリゴに書簡を送って親しみ続けた。
大多喜に逗留して10日目に、家康の外交顧問である英国人航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針/みうらあんじん。慶長5年リーフデ号漂着時より家康に召抱えられた)から通行証と朱印状を受け取る。家康と秀吉名義の朱印状は以下のことが命じられていた。
○ 海岸に漂着した積荷は全てロドリゴのものとする。
○ ロドリコは将軍徳川秀忠の江戸城と、大御所家康の住む駿府城へ行き謁見すること。
○ 城への道中の領主は歓待し旅程に必要な物資を提供すること。
慣例通りに漂着物を将軍のものとする所を、その貯蔵庫の鍵をロドリコ達に渡して事実上保管物を受取るというはからいとなった。当初の忠朝の指示が家康の意に適っていた明断であったと知らされたロドリゴは、両者に今後の日本とスペインの友好的な外交の可能性を見出した。一方、鍵を渡されたセビコス船長は難破で失った積荷の盗難を疑い、長時間かけての返却により後のマニラでの売却値が半減したことで、損害を日本側の責任としてスペイン王に訴えることになる……
江戸にてロドリゴは将軍徳川秀忠に謁見する
忠朝から馬が送られ、江戸への道中はスペイン国王の使者として歓迎され快適であった。江戸に着くと地位の高い武士達に招きを受けたが、将軍が宿を用意していたので断った。夕方5時に宿につくまで交通整理の人員が必要になるほど人だかりができて休めず、将軍の側近に頼んで宿の門に衛兵を立たせて無断進入不可の禁令の札を掲げて貰う。江戸は人口15万、物価が低く小額で愉快な生活が得られ、市街は美しく清潔で家は木造、二階建ても多く、欧州に比べて外部より内装に美点をおいている等、詳細に江戸風俗や豪華絢爛な江戸城の様子が記されている。
江戸に到着して2日後に将軍は海軍司令官(船手方向井兵庫頭正綱)を通して部下が2度訪れる。午後4時頃に江戸城へ向かい、将軍秀忠に謁見した。ロドリゴが秀忠の手に接吻する間は同行者は控えさせ、ロゴリゴ一人が部屋に通された。秀忠は色黒だが容姿は良く、微笑してロドリゴを励まし、日本に居る間の面倒を見るとして安心させ、また航海と帆船について尋ねた。ロドリゴが駿河行きの許可を願うと、大御所(家康)や道中各所への連絡のため、出発は4日後とした。駿河までは西洋と同じく村々があり、街道は両側に植えられた松並木が心地よい日陰をつくり、2本の樹を植えた小山(一里塚)が正確な距離を示し、絶えず人が行き交っていた。5日後に駿河に着くまでの道中は将軍の連絡が行き届き行く先々で手厚いもてなしを受けた。
駿河にてロドリゴは大御所徳川家康に謁見する
駿河は人口12万で街は江戸並に美しいとは言えなくても気候はとても良い。ここでも見物人に囲まれ難儀したが、宿に着くと家康の家臣が12枚の着物を贈り物として携えて来て、宿泊中も菓子や果物を提供した。6日間滞在し、翌日2時にようやくお目通りとなった。(1609.10/29) 上座を勧められ、家臣から謁見についての長い説明を受け、家臣は大御所に伺いに行く。江戸城ので将軍に謁見した時と違いロドリゴは大御所に触れることは許されず、同行者も大御所の見える場所でひざまずくよう命じられた。家康は60歳程に見え秀忠のように色黒でなく、中背で肥えていて温雅であった。励ましの言葉をかけ帽子を脱ぐよう勧め、感激したロドリゴは家康の手にキスをし感謝の意を示した。
翌日ロドリゴはコウセクンドノ(上野介殿。本多正純)の屋敷を訪れ、日本語に訳した嘆願書を進上した。
1.日本国内の耶蘇教徒を保護し教会堂の自由使用を妨げないこと
2.日本はスペイン国王ドン・フェリペ(フェリペ3世)との親和を保続すべきこと
3.オランダ人は海賊まがいなことをしフェリペ王の敵なので日本から追放すべきこと
翌日10時に上野介殿が贈り物を携え宿に訪れ、嘆願書に対して大御所は宣教師の迫害はせずスペインとの友好も続けるが、オランダ人には渡来免許を既に与えてあるので変更はし難いとの返答を伝えた。そしてアダムスに作らせた西洋船の一艘をロドリゴ達を乗せてヌエバ・エスパーニャに渡航させるので、帰国後にフェリペ王に折り返し銀山技師50人を日本へ派遣して貰えるよう、ロドリゴに仲介を求めた。ロドリゴ自身はサン・フランシスコ号と共に遭難し豊後(大分県)に停泊中の随伴船サンタ・アナ号が乗船出来ない状態なら日本船を利用するとし、西へ向かった。
ロドリゴは京都・大坂を経て九州へ
大御所の保護のもとで快適な旅をしミアコ(都。京都)に立ち寄る。ロドリゴは馬で人口は34万人の大都市街を一周し、所司代の板倉伊賀守勝重の世話になり見聞する。京市中には5千の大きな寺社があり遊里の妓婦の類が5万人になると聞く。3日間かけて万広寺大仏殿や三十三間堂等の名所を見て歩く。太閤(豊臣秀吉)を祀る豊国神社では(生前にキリスト教を弾圧し)地獄に落ちている魂を祀ることに違和感を感じている。
11月24日(1609.12/20)付けで大御所からの鉱夫派遣依頼についての提案──
新スペイン副王に許可を伺うにあたり
○ 銀山を採掘し精錬した鉱石の半分を鉱夫に与え、残りの更に半分をフェリペ王のものとする。各鉱山で聖祭が出来るよう司祭を置く。大使にスペイン人の司法権を与える。
○ オランダ人の日本追放の再検討及びフェリペ王の日本来航時の保護
○ フェリペ王がマニラへ行く際の人員派遣と必要物資の現地価格(関税無し)での提供やそのための事務所や礼拝所の設置許可、関東にスペイン船用の港を開港、駐在者の日本国内での歓待──の協定案を書状にし、パードレのルイス・ソテロに伝達を託した。
28日(12/24)クリスマスイブに伏見のフランシスコ会(カトリックの修道会)のパードレ(司祭)ヌエストラ・セニョラ・デ・ロス・アンヘレスの住院に泊まり教徒達とミサに参加。伏見を後にし、淀川を下って1日で人口20万の大坂に到着。ヌエストラ・セニョラ・デ・ラ・コンセプションの住院に寄宿。大坂からフネア(船)で十数日かけて豊後へ向かう。
12月12日、ロドリゴが豊後滞在中に肥前島原(長崎)のキリシタン大名有馬晴信──2年前に晴信の朱印船の乗組員がポルトガル貿易船マードレ・デ・デウス号の船員と起こした騒動をマカオ総司令官アンドレ・ペソアが鎮圧し日本側に多数の死傷者を出した──が長崎に入港した因縁のデウス号を包囲した。乗船していたペソアは捕われる前にデウス号を爆沈させ自殺に至るという貿易上深刻な事件が起きた。まだ日本での役目を終えていないと考えたロドリゴは、補修後にマニラへ出航するサンタアナ号には同乗を取止めた。日本に批判的なセビコス船長はマニラへ発った。(1610.5/17)
ロドリゴは駿府へ戻り浦賀から帰国する
ロドリゴは再び駿府に戻り、家康の招きを受けて数ヶ月滞在した。ルイス・ソテロに託した協定案についてはオランダ人追放と銀の報酬以外は家康の承認を得られた。フェリペ王と副王に贈り物と親書を携えて派遣する使者はロゴリゴがアロンソ・ムニョスを推薦し、彼に出航の許可証が渡された。
慶長15年6月13日(1610.8/1)ドン・ロドリゴ一行は、アダムスが建造した和製ガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸。120t)で浦賀からヌエバ・エスパーニャへ向けて出航した。家康からは金貨4千ドゥカドが貸与され、按針丸はアカプルコで売却し代金を日本人乗船者の帰国費用にあてるという厚遇を命じられた。この船には京都の御用金匠後藤庄三郎の仲介で京商人田中勝助・朱屋隆成・山田助左衛門他21名の日本人も同乗し、これが日本とメキシコの交通発祥の契機となったと言われている。 一行はマタンチェル(現メキシコ西海岸のナヤリット州サンブラス)を経て(10/27)、アカプルコ港に着いた(11/13)。
余話 / セビコスの日本批判とビスカイノの来日
一方、サンフランシスコ号のセビコス船長は、マニラに着くと日本との友好批判を国王に訴える書簡を出している(1610.6/20)
難破船の漂着物の倉庫の鍵を預かったが、流された財貨は長期間受取れず(ゼビコスは日本人の盗難に遭ったとも主張)売った時には価格が下がってしまい50万ペソの損害で、日本人が難破したサンフランシスコ号の全ての財貨を略奪したものとして大御所に使者を送って訴え、将軍に財貨の返還要求を認められたものの、難破から35日も返されなかったのは日本人の道徳心の欠如である。日本人は宗教の信仰が薄く、宗派争いもしない。専制政治で領民は厳しい生活と立場を強いられること。日本人は勇敢だが両国で海戦になれば航海・造船技術に勝るスペインが勝つ予想。長崎でのポルトガル船焼討事件や、フィリピンでの暴動等日本人の異国に対する悪事等を書き連ねた。
慶長15年11月に使者ムニョスがマドリッドに着き、家康と秀忠の贈り物と書簡を王に捧げた。この時の会議では毎年一隻の商船アカプルコから浦賀へ渡航させることが決議れたがメキシコ総督府は日本貿易に反対し使者を拘留しスペイン本国に再考を求めた。慶長16年2月上旬(1611.3)遭難者達の返礼としてセバスチャン・ビスカイノを大使とする一行がアカプルコを出航し4月29日(6/10)浦賀に入港。ラシャやビロード、葡萄酒等を買入れた日本商人たちも帰国した。ビスカイノは将軍と大御所の許可を得て貿易に先駆け海岸の測量を行い測量図を寄贈した。
慶長17年8月21日(1612.9/16)に帰航するも暴風雨に逢い浦賀に入港する。しかし幕府は不信感をもち──オランダ人からビスカイノの日本近海の金銀島調査隠匿の密告や、カトリック教圏との取引を危険視する英国人アダムスの進言を受けたともされる──ビスカイノの新しい船の建造支援を断った。
※ポルトガル・スペインはカトリック、オランダやイングランドはプロテスタント
この年の3月21日、2年前のポルトガル船爆沈事件に関わる有馬晴信の監視役であったキシリタンの岡本大八(おかもとだいはち。本多正純の家臣)が朱印状の偽造の罪で処刑され、晴信の余罪も発覚した。大八は晴信のようなキリシタン大名と宣教師による領内寺社の抑圧について自白し、幕府はキリシタン大名に対しキリスト教の禁教令を発した。
翌年ビスカイノは仙台藩の藩主伊達政宗の新造船に応じサン・ファン・バウティスタ号で政宗の家臣支倉常長ら遣欧使節(けんおうしせつ。慶長18年派遣)と同乗して月ノ浦(現石巻市)を出航(1613.10/28)し、三ヵ月後アカプルコに到着(1614.1)した。
元和元年(1615)アカプリコから欧州へ向かう政宗の船に、ムニョスの件の使節も同乗したが、日本で強まるキリスト教排斥の影響で親書からは貿易の件は取り消されていた。その後も諸交渉は捗らないまま、日本は鎖国に至る。

1620年ロドリゴはパナマ総督に任命され、1627年3月29日にはバジェ・デ・オリサバ伯爵の称号を授かる。
1635年スペイン王により正式に日本との国交断絶が発せられた。
失意もあってかロドリゴはその翌年の1636年にベラクルス州オリサバにて72歳で亡くなり、遺書により故郷テカマチャルコの聖フランシスコ修道院に眠る。
日本との交易協定は叶わなかったが、ロドリゴは日本の様子を『日本見聞録(La Relación Japón)』として詳らかに書き残している。
明治時代になって欧米を歴訪した岩倉具視等がスペイン船遭難の話を聞き、それが日墨交流の契機となったことが日本でも知られるようになった。
明治21年(1888)11月30日、日本とメキシコは日墨修好通商条約を締結。メキシコにとってアジアの国との初めての条約であり、日本は欧米列強国(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オランダ)と不平等条約を結んでいた中でアジア以外の国との初の平等条約となった。
明治30年(1897)3月24日元外務大臣榎本武揚はメキシコに36人の殖民団を送る。資金難で数ヵ月に解散となったが、残留した移民は苦心しながら後のメキシコ移住者の基礎を作った。 
 
ロドリゴの日本見聞録 4

 

1609年10月2日にロドリゴは家康と駿府城本丸で正式面談、その翌日翌々日(3,4日)は本多正純と交渉、5日にはおそらくもう一度家康と非公式面談、そして6日付けで家康は「シルバ新マニラ総督宛返信」とノバイスパニアに向かうことを前提に「(ロドリゴ乗船予定の)エスケルラ船長宛chapa」を発行した、とみます。家康は、本多正純を通じ、イスパニア本国との直接貿易・銀鉱山開発協力要請、そしてノバイスパニア渡航に必要なら按針製作の洋船をロドリゴに与えること、を約束したのだとみます。
そしてロドリゴはこの後、京都大坂を経由して豊後臼杵に寄留のサンタアナ号の状況確認に向かいます。
ロドリゴが提案した「銀鉱山開発協力」は以下の条件です、強気ですが、家康は場合によってはそれでも良いとほのめかし実現を優先急がせたようです。
1)水銀(アマルガム)法を知らず金銀の生産性が低かったため、家康は50人のイスパニア鉱山技師派遣を要請、
2)ロドリゴは、新規分ないし増産分の、半分をその鉱山技師らに、1/4をフェリペ3世に、1/4を家康に、配分することを条件とし、かつ、
3)そのためのイスパニア官吏の派遣と彼らのための伴天連派遣、を要求。
ロドリゴは自分でも強気(冒険的)の条件と書いていますが、家康はNOとはいわず、実際やってみて状況を見てから承認するといったらしい。ロドリゴはこれだけで百万ドゥカド規模でイスパニア国庫を潤すと豪語。
さらにロドリゴは「イスパニア帝国のマラッカ・フィリピン用軍船商船の日本での建造と武器火薬食料工具類の提供」を有償で要求。交易に加えて以上の業務のために、イスパニア軍長官や大使の派遣、「大使館」の提供、そして彼らの宗教の自由と独自警察司法権の要求、もした。
結果「オランダ人追放のこと以外は家康はすべてOKした」とロドリゴは書いています。
キリスト教については在留イスパニア人のための伴天連は当然とし、また布教についても「日本には35の宗教宗派がある、2つ3つ増えてもどうということはない」と家康が言ったのも事実らしいし、ロドリゴは「この皇帝が生存していれば布教が続けられたことは確実」とまでいいます、何か感ずるものがあったのでしょう。
そして、
その交渉に向かうため120トンの洋船按針丸の提供と必要装備のため4000ドゥカドを与える、さらに按針丸は新大陸到着次第売却し必要資金に充ててもよい、ロドリゴに任せる、と家康といったらしい。
対して、ロドリゴは、船については豊後の僚船サンタナ号を見たうえで決するといって豊後臼杵に向かいます。その間、関係者で上記に関わる協定書案(条約と言っていいレベルですが)を作り、これはスペイン側に現伝しているらしい。
さてこういう状況下、
10月6日付で、「シルバ新マニラ総督には気のないありきたりの返書」、ロドリゴにはノバイスパニアへサンタアナ号でも按針丸でも可能な船なら何でもいい早く行けという思いで「エスケルラ船長宛chapa」を再発行した、と読みます。
シルバ新マニラ総督宛返信
日本国 源家康 回章(返信)
呂宋国太守(シルバ総督)へ、
お手紙拝受、渡海も無事に、例年の如く数種の土産も届いた。長話も不要、お目にかかっている思いで、四海一家と思う者同士の交情浅からず、疎かに思うことはない。詳細は船長(モリナ)に言付けた。意を尽くせぬが。
慶長14年己酉(1609年)10月6日(和暦)
この時のマニラからの国書は見当たらない、マニラからの進物リストだけは上野介から元佶崇伝が受け取ったが、と「外蕃通書」の注記にあります。進物もさしたるものではなく家康が好きといった葡萄酒2壺がご愛敬です。先方国書は相変わらずで目新しいこともなく紛失する程度の代物、上記返書も広間にて即席で作ったと崇伝はいっている通りありきたりの定型で気合が入ったものではありません。
むしろ注目すべきは、3通発行したというchapaです。

一呂宋船ノバイスパニアへ渡海に当たっては、逆風に遭いいずれの港に入ろうとも、厚遇し相違ないよう保護援助せよ。
慶長14年己酉10月6日
御朱印
セレラ・ジュアン・エスケラ船長宛
ノバイスパニアへ行くべきエスケルラ船長名ほか2船長宛に3通発行した、と明記しています。なんやかやで3隻に分かれて渡海することもありうると、ロドリゴが主張して新たに入手した(朱印状というよりここは)chapaです。再度逆風で押し流され、東北や蝦夷地に緊急避難することを想定している、と読むべきです。
実はこの他2種、エスケルラ船長宛に出したらしい文書が現伝します。

呂宋国商船、至濃毘須蛮国渡海之時、或遭賊船或漂逆風、到日本国裏、則以此書之印、可遁災害者也。聊莫渉猶余、不備。
慶長十四初(判ではないでしょう)冬中浣
御朱印
加比丹、世連郎壽安恵須気羅
[訳]
ルソン国の商船、ノビイスパニアに向かい渡海中、海賊船に遭遇したり逆風に漂流したりして、日本国内に漂着した場合、この書の朱印は災害を逃れるためのものである。聊かも猶予してはならない。十分ではないが。
慶長14年10月中旬(或いは5日か)
御朱印
船長、セレラ・ジュアン・エスケルラ(宛)
もう一度よく見ると、これは正式に発行した文書でなく崇伝あたりの没原稿、でしょう。「商船ではなく官船だ、日本の海域で海賊など出ないはずで穏やかでない、この印で災害を逃れるなどお札じゃない、読み手は日本人だ、わけのわからん漢字でなくひらがなでよかろう」と家康・正純が言って、先の3通は坊主ではなく祐筆某に書かせた、そして発行した、国内向制令の文体、です。崇伝は悔しくて?没原稿だが記録に残した、そんなところでしょう。
もう一通は「慶長年録」にあるらしく、江戸の本多正信名で、同日付です。

今度、到上総国、令着岸船中輩、水主梶取不残、彼加比丹任下知、呂宋江相具可有渡海候、若於難渋者、可及言上候、恐々謹言。
慶長十四年(現伝文は六と)十月六日
本多佐渡守正信、印
世連郎春安恵須気羅(宛)
[訳]
このたび、上総の国に着岸させた船の乗組員、船主や荷舵取り以下残らず、彼の船長エスケルラに命じてルソンへ全員帰国のため渡海させるものだ。何か困ったことが起きれば、(徳川幕府に)言上せよ、(対処する)。恐々謹言。
1609年10月6日
(執政=筆頭老中)本多正信、印
(船長)セレラ・ジュアン・エスケルラ(宛)
ロドリゴは江戸駿府臼杵と日本で交渉を続けていますが、
難破乗組員の大多数3百数十人は上総に残っていたわけで回収できた貨物と共に、マニラに引き返せというのが、ロドリゴ・エスケルラらの指示でした。これを踏まえ、マニラ帰国組のために江戸で正信が用意した、いわば「マニラ新総督宛の(かれら乗組員のための)赦免状」です。確かに難破遭難したのだ、ロドリゴら一部はノバイスパニアに向かう予定だが、その他のものは徳川幕府として帰国を命じた、だから、彼らにはなんら罪科はなく、もし文句があるなら徳川幕府に言ってこいという趣旨です。恐々謹言、とは船長宛ではおかしくむしろマニラ総督への手紙という気持ちでしょう。
この3百数十人は、別に船を立て(スポンサーは後藤庄三郎か鍋島か?)1610年3月に長崎を発ち無事にマニラに帰国できたようです。エスケルラは司令長官格でロドリゴと共に行動したらしく、このマニラ帰国の船長名はフワン・セビコス、とあります(大日本史料第12編の6、657頁以下)。日付は、これが正式に決定されたのが10月6日駿府での家康・ロドリゴ間合意の一環、だからでしょう。また江戸の本多正信名なのは上総やその長崎移送は(駿府ではなく)江戸管轄ということでしょう。
なお付言、
この年1609年はポルトガル・スペインの妨害を撥ね退けて日本との通商開始を企図したオランダ東インド会社船2隻が到来、わずか3か月前の7月には蘭船来日歓迎のchapaを初めて出した(後述)、かつ、上記通り、イスパニア本国との通商交渉もロドリゴのお陰で一挙に進展したわけで、マニラ総督定期船など輝きを失って見えたでしょう。1609年は西回りでオランダと、東回りで新大陸・イスパニア本国と「直接ヨーロッパと交渉の道」が見えた、家康にとって記念すべき年だったはずです。
回り道ついでにここで、難破・江戸・駿府、そして家康との交渉を終えてホッとしたはずの、
ロドリゴの日本旅行をもう少し追っておきます。ロドリゴという人は、当時の他の宣教師・軍人商人・冒険野郎とは一線を画し、育ちのいいインテリ、ヨーロッパも新大陸も東アジアも知っている、その観察は鷹揚で公平、鋭く面白く、「日本と日本人」を語るに落とせない貴重な記録を残してくれた、と思うからです。
時代は家康の晩年1609年、秀頼淀君は大坂城に頑としています、平和の中にも緊張感は続いています、のちの江戸時代の風景とは全く異なり、非公認ながら伴天連は結構いて日本キリシタンは史上最高数、国際貿易も(朝鮮以外)大きく展開し史上最盛期でしょう。他方で、士や土建やは余剰で江戸や駿府や地方都市がどんどん整備されていく、人々は専制下で貧しかったにも関わらず、安土桃山風が残り、清潔で活動的に思われます。
ロドリゴは駿府から京都に向かいます。1609年10月(和暦)です。
ロドリゴ 駿府から京都に向かう
駿府より都まで80レグワ(≒里、4km)、道は平坦で快適だ。
途中数本の水の多い川があったが、一方から他方に曳船で渡った。船は大変大きく旅客の馬も自由に乗れる。旅行者は多いが、途中無人の地で野営する必要などなく泊まるところは必ずある。前述通り(東海道は)1レグワの1/4とて無住の地はない。これほど広大で交通盛んなのに街路や家屋の清潔な町々は世界の外のいずれにもないことは確実だ。この地の旅行は甚だ快適で至る所飲食物多くほとんど無料で提供する。旅館にも事前予告して食物の準備を命ずる必要はない、何となれば日中いつでも求め望むものが得られるからだ。
・・私(らの場合加えて)皇帝家康の命令があったので途中各地の領主や代官は大いに接待饗応してくれた。
・・ある日の午後、都に入った。都は世界でも有名だが、なるほど道理だ。広大な平野にあって住民はかつて80万を超えたこともあるが、いまは30万〜40万という。それでも世界最大の都市だ。その周壁?が10レグワ、朝7時から晩6時まで歩いてみたが家並は続いていた。
曳船で水量多い大川は渡ったといいます。朝鮮使には浮橋(臨時に、舟を並べ板を張り馬や行列を通した)ですが、ここは曳船といい馬も乗れた、といいます。江戸時代の渡河は歩いて・肩車で・輿でなどと聞きますが、
この当時は朝鮮役以来まだ大きな船も多くまた身分高い人の往来も多かったからでしょう、曳船が発達していたようです。
都の人口は大坂・江戸・駿府そして地方都市が整備され減ったのでしょう、それでも3,40万人、ぐるりと一日歩いてみても家並みが途絶えることはなかった、のは事実とみます。
天皇について
内裏(dayre)すなわち王(roy=天皇)はここ都に住んでいる。天皇は日本創始から直系継承するが、日本人は天皇を見ず語ることをしない、以て威厳ありとなす。常に引籠り、日本の統治は権利・理屈としては天皇に属すが、数年前太閤様(秀吉)が武力で諸侯や領主たちを服従せしめて以降はただ名のみの存在となった。
天皇は日本の大官、皇帝(家康)に至るまで称号を授与し任官する、このため毎年決まった日に諸人皆官位はそれを表する身なりで来集する。天皇はまた最高の司祭(神官)で坊主(神官神主の間違いでしょう)という偶像崇拝(ここも間違い)の統領ゆえに彼らに位階を与える。家康は任官するときはやむないがそれ以外の時は来て服従することはない。ただ諸儀式のときは皇帝も内裏に大いなる尊敬を示し天皇に上席を譲る。これ以外に天皇に与えるものは少なく生活していくに足る分を与えるだけだ。(それでも)その住まいは壮麗で江戸や駿府の宮廷に匹敵する。
天皇は都の政治にさえ関与しない。門内内裏を支配するだけだ。
都には、皇帝家康の任命する副王(京都所司代板倉伊豆守勝重)がいる。伏見・堺・大坂など大きな都市が近くにあるがこれらは管轄しない。淀川など運河の範囲内だが、副王は大国の領主と同じで皇帝と同じ権限で都の政治を行う。ただし所司代が外に出ることはなく6人の執政を置いてこの地を治めさせている。
天皇には結局、ロドリゴも会えていません、というより、朝鮮使に対すると同様、家康・江戸幕府は会わせていません。上記も半分は会わせない理由であり半分は
当時の幕府やインテリの天皇位置づけの説明です。それをそのままロドリゴは記録している、と読むべきでしょう。他の部分では西暦より663年(実は660年)古い、60年前まで日本人は中国人以外外国人を知らなかったし書籍儀式なども中国の影響大だから、天皇の祖先は支那の一王、とも記します。要は、神主の親玉で隠れていることで権威を維持し、政治的実権は皆無、任官が唯一の政治的仕事という了解です。
当時の京のようす
京所司代板倉勝重は大いに私を歓待し、イスパニアについて多くの質問をしお返しに↑↓を教えてくれた、といいます。
都には神々の宮5千はある(寺社仏閣の数、神仏を分けて説明した節はありません)、当局が指定した特別区域だけで娼婦は5万いる。
太閤様(秀吉)の墓所・その大仏(方広寺)・三十三間堂を案内させたがこの3か所をみるだけで3日間を費やした。
大仏と称する金属の偶像は世界7大奇観といっていい。ことごとく青銅ででき予想外に大きかった。同行の最も長身のものに命じ大仏に上らせ掌の上でその右親指を両腕で抱えさせたがなお2パルモ(40センチ)足りなかった。まだ建設途中で大工以下10万人が働いており悪魔は皇帝(というより秀頼)の富を消費させている。
太閤の墓所は有名でかつ壮麗だが人の遺骨を崇拝するためとは悲しむべきことだ。この堂の入り口は坂道で400歩、両側に3歩おきに高さ5パラ(40センチ)石灯篭をたて燈明をともし夜も明るい。この参道の終端に第一の階段があり上ると堂がある、堂の手前には女坊主(太閤の妾達か)の僧院があり彼らも祭司として勤行に参加するが他とは隔離されている。
正門は磨いて金銀を飾り構造は巧みで、内部はそれ以上だ、堂の中には頗る大きな柱が並び、柱の間には合唱所(祈祷所?)があって格子や椅子があることは他の大寺院と同じだ。坊主や補助員が一定の時間に読経する。私は聖教に反すると思ったから読経は聞かなかったが、所司代の案内役は私らのことを告げたらしく、補助員4名が私らを出迎えた。彼らの服装は大きな襞がある以外トレドの司祭のものと変わらず、上が広がった頭巾をかぶっていた。彼らは活発に我らと会話し、進んで内部を見せてくれた。多数の灯篭がならびダソダルーベの聖母と似ているがその灯明は(太閤墓所の)3分の一に及ばない。それ以上に驚いたのは、堂内の多数の人の非常な敬虔と沈黙だ(敬虔と沈黙については、他の箇所で、キリスト教徒以上、キリスト教徒は見習うべきだとまで言います)。その奥に、鉄網・銀網・金網で囲まれた蝋燭台が並び太閤遺骨箱がありこれは何人も見れない。人々はみな平伏したが、私にはウソの信心にしか見えず逆に彼らには(私たちは突っ立っており)尊崇の薄さを見たに違いない。
よって早々に立ち去りそのあと、彼らは墓所付属の寺院(方広寺)・林・庭園を案内してくれた。これまたアランスエスの離宮庭園に人工の点では劣るが自然なこと快活なことでは勝っている。高い廊下から下を眺めたが、人が言うには、昼夜人のたえることはなく、彼らの聖水や数珠で釈迦ないし阿弥陀を祈るという。日本には神仏35の宗派があり、霊魂の不滅は信じず多数の神があるとなし四元(五元?)を尊ぶ、何人もこれ(宗教)につき強圧はを加える者はない、という。(キリスト教に対しては)坊主らは団結して伴天連追放を皇帝(家康)に請願し理屈を説いたが、家康は日本に宗派はいくつあるかと聞き彼らは35と答えたので「35あるなら36になって妨げなかろう、あってもいいではないか」といった、と聞いた。
2時間滞在し、さらに1ブロック半隔てた尼院に案内された(当時の高台寺か?)。尼は青と白の絹の法衣、青い紗で頭を覆っていた。尼衣というより晴れ着にふさわしい。長老の尼は大きな部屋にでて私を引見し食事酒で饗応した。彼女が先に杯をあげ同席した10〜12人の尼たちも続いた。次いで鈴を持ち舞を披露し半時間以上に及んだ。私の方から辞退せねばもっと続いたに違いない。
この日はこれで宿舎に引き上げた。
方広寺は秀吉の発願、木製漆膠だったため1596年慶長伏見地震で崩壊、秀吉死後は秀頼が再建、1609年のロドリゴ訪問時には上記通り立派な青銅大仏が完成していたようです。大仏殿は1602年焼けたままで裸だった可能性がある。高さは6丈3尺(19m)で奈良の大仏(5丈)をしのいだと伝わる。豊臣家に散財させるだけさせて開眼直前に家康は方広寺梵鐘銘に難癖をつけ(1614年)大坂の陣から豊臣滅亡へと導いた。この時期は秀吉お墓・大仏・そして秀吉ゆかりの女たちの尼寺等が集中してあったらしくまた人々が次々詣でる京都の新名所だったようです。
キリスト教会
・・都にはコンパニヤ(イエズス会)、サンドミンゴ、サンフランシスコ、三派の僧院がある。住院や会堂は露出することなく、その前面には家があり民家のように見えるけれども、大きな成果を上げており、既に多数のキリスト教徒がいる。
私たちは、降誕祭の前夜(洋暦12月24日、和暦慶長14年11月28日)京を出て伏見に向かった。かつて(秀吉家康の)宮廷があったところだが現皇帝(家康)はこれを駿府に移した。・・私たちはサンフランシスコ派のパードレらの住院に寄宿し、降誕祭の夜は多数の教徒が来集し聖式に参列し祝するのみて、大いに歓喜した。しかも彼らはほとんど皆修業を積んだ修道士のように非常な熱心と涙をもって聖餐を受けた。
淀川を下って大坂に入った。
大坂でも、サンフランシスコ派パードレの住院に寄宿した。この地にはまたコンパニヤおよびサンドミンゴ派の宣教師がいる。
大坂は日本で最も繁盛している都市だろう、人口は20万、海水がその家屋に波打ち、海陸の賜物は潤沢だ。家屋は2階屋が通常で構造は巧みだ。
東国ではキリスト教がさほどではなかったようですが、京から西は各地に古くからのイエズス会、新興のサンドミンゴ、サンフランシスコの宣教師たちがいて布教を継続しそれなりの成果を上げていたようです。家康も結局南方・海外交渉には、通訳代わりに宣教師たちを使わざるをえす、黙認していたことがよく分かります。
大坂から豊後臼杵へ
大坂からこの国の船で豊後に向かった、船はセビーヤ河の川船とほとんど同じ。12〜15日の船旅だが陸沿いにすすみ夜は陸に上がって休むので、船が難破することは殆どない。
豊後について数日後、長崎でのマカオ船焚焼事件(1610年1月10日=慶長14年12月16日)を聞いた。(この事件についてロドリゴとパードレ・ソテロが共同して家康のために協力したとロドリゴは書いています)
ドンロドリゴ艦隊3隻のうち臼杵に避難していた帆船サンタ・アナ号は、臼杵にあり、ドンロドリゴの到着を待っており、彼を乗せてノバイスパニアに帰る予定だったと想像します。しかし、ロドリゴはああでもないこうでもないといって結局乗船せず、駿府・江戸にもどり、家康からもらった按針丸で30名の日本人を伴ってノバイスパニアに向かいます。これが1610年日本船太平洋横断の初めて、船も三浦按針指導によりますが日本人の手になった日本製です、操船も主要なところはロドリゴ部下たちですが技術習得目的の日本人操船者もいたろうと想像します。
ドンロドリゴは臼杵にあって何を思ったのか、彼自身相矛盾するいくつかの記録を残しています。真相はこれらを踏まえ想像するしかありません。

見聞録でロドリゴは帆船サンタアナ号船長(セバスチャン・デ・アギラル)は、私に船を提供したが、船は陸上に乗り上げて三日間あったことかつ(本来)老朽船で安全ではなかった。(私は家康の命でイスパニアとの条約を進めるという重要任務があったため、趣旨)これを受けず、サンタアナ号には修繕させて、ノバイスパニアに先行出発するよう命じた。
[アギラル船長からドンロドリゴ宛1610年4月26日(洋暦)中須浦(博多中州ないし山口県中須?)からの手紙によれば]
ドンロドリゴのようなイスパニア国王の重臣を残しては去れないこと、船長室を提供すること、それでも乗船しないなら自分のために免責状を欲しいことなど、を書き、
対して、ロドリゴは、自分のために他の乗客の迷惑をかけたくない事、オランダ人退去の問題で家康の許に戻る必要があること、船長の好意に感謝しロドリゴが日本に残るのは自分の意志であって船長に責任はないことなど、返事している(同日臼杵発返信)、ようです。
こうして、修理を終えたサンタアナ号は、ロドリゴを乗せずに、1610年5月17日(和暦3月24日)に臼杵を出帆し、10月7日にはアカプルコに入港、無事新大陸に帰任しています。
おそらくはロドリゴに付き従っていた随員の一部もこの船で新大陸に渡ったものとみられます。
しかし最も重要と思われるのは、ロドリゴがグズグズしている(場合によっては日本に数年居続けるつもりさえあったと読みますが)のを知った家康は、ロドリゴとは別に、家康が信頼するルイス・ソテロ(サンフランスシコ会フラーレ、1603年マニラ総督使節の一員で来日、そのまま日本で布教)を使者とし按針号に必要な外人船員を配して、京商人立青や田中勝介ら30数名をイスパニアに派遣することを決定したことをロドリゴが知ったため、と思われます。ロドリゴは自分が中心になりロドリゴが信頼するムニョス(1609年のマニラ総督使節の一員として来日、そのまま滞日)を日本の使者としてノバイスパニア・イスパニア派遣団を構成するつもりだったとみられますが、動きの遅いロドリゴを牽制したのが家康の意図だったと読みます。
いくつも状況証拠はあります。ロドリゴは自分が家康と交渉し各教派のパードレ・フラーレを動員し翻訳していた条約案の日付が慶長15年1月9日付、家康のイスパニア本国レルマ公(フェリペ3世の宰相)宛書簡の日付が慶長14年12月28日付け、であり、これに先立ち、12月27日(1610年1月21日洋暦)ソテロは駿府家康に召されイスパニア行きを命ぜられ同時に船の準備を後藤庄三郎に命じています。レルマ公宛書簡は日本人らしくきわめて簡便ですが詳細は使者ソテロに委ねる↓と家康は明記していますから、家康は主導権をロドリゴに委ねることを警戒したとみて間違いありません。
ドンロドリゴとしては、家康を甘く見て主導権を握ったつもりでテレンコ京大阪見物しながら臼杵に向かったわけですが、おそらくは京都所司代の板倉勝重あたりがその様子を家康に報告、そうならばということで、家康は上記対抗措置を講じた、とみます。
驚いたのはドンロドリゴでしょう、しかも、この情報は家康やムニョスから得た節はなく、長崎経由で知ったらしい。急ぎ家康と再調整する必要を感じた、家康宛にロドリゴは書簡を出します。
ロドリゴ書簡 1610年3月8日付け、駿府の(皇帝)家康宛、ドンロドリゴ、豊後(臼杵?)より
長崎からの知らせで、殿下(家康)が江戸に係留の船(按針丸)をノバイスパニアに派遣することを決定され、これを操船するため航海士ポラニョスや水夫たちに命令されたことを知った。
私は、当地のサンタアナ号に乗船しようとしたが、同船は大きく安全快適だが、
殿下の家臣が新イスパニアで歓待されることを保証する責任が(私に)あると感じ、また、尊敬され威信ある乗組員無しでは疑惑を招く恐れがある。殿下(家康)の名によって彼の地に赴く者に対し、ノバイスパニア総督以下妥当な接遇をなさせるために、特に必要だと思うから、私が同船(按針丸)に乗って殿下のために尽くしたい、そして日本で私に与えられた名誉と厚遇に報いたい。再度駿府江戸に戻るは苦労だけれども・・。
また私が統領として乗船すれば、(随行あるいはサンタアナ号の熟練船員たちも加わり)航海士や水夫たちも迷うことなく航路直帰できよう。
私は従者ひとりを先発させてこのことを(家康に)報ず。
よって当該船(按針丸)は私が乗り込む前に出帆することがないように、4月20日前後には(江戸に)到着しようから、この旨殿下より厳命願いたい。
我等の主、殿下を守り領国の繁栄させることを祈る。
[ これに対し、後藤庄三郎からの返信 ]
後藤庄三郎 返信
後藤庄三郎からロドリゴ宛
貴下の書状に接し、貴下が皇帝(家康)の船(按針丸)に便乗せんと欲することを知り、陛下(家康)は大いに喜ばれ、貴下が駿府に上ることを命令した。
また貴下にはソテロが同船には便乗しないことを承知されたい。
同船(按針丸)渡航のために必要なものは、貴下が臼杵より持参されたし、その選別はお任せする。
なお同船には日本人30人まで日本から乗船させる。もしその余地がないならば、貴下選別にお任せする。
日付は不詳ですが、この家康の意向を確認したうえでロドリゴはサンタアナ号を出航させた、勿論サンタアナ号からは必要な装備備品あるいは熟練船員を譲り受けて、ロドリゴらは駿府・江戸に向かった、とみていい、でしょう。
ソテロとムニョスの関係はよく分かりません。ソテロが家康の意向、ムニョスがロドリゴの意向だったことは疑いません。ソテロは病気になったからムニョス一人がロドリゴと共に発ったとも伝わりますが、もう少し事情があったのではないか?。
5月4日付け秀忠のレルマ公宛書簡です。
秀忠からレルマ公へ
日本国征夷大将軍 源秀忠
ゑすはんや国主とうけい・てい・れるま閣下
のひすはんやより至本邦商船、可令渡海之由、前呂宋国主被申贈候、日域之地、雖為何之津湊、着岸之儀不可有異儀候。随而鎧五領相送之、委曲伴天連ふらい・あろんそ・むにょす、ふらい・るいす・そてろ可申候也。
慶長十五年五月四日  秀忠印
[訳]
日本国征夷大将軍 源秀忠
イスパニア国主 Doque de Lerma(ドケ・デ・レルマ)閣下
ノバイスパニアから本邦に商船を渡海させる予定と、前マニラ総督が言ってくれている。
日域の地、何処の港であれ着岸した際には、間違いなく保護援助する。
証として鎧五領を送る。
詳細は、フライ・アロンゾ・ムニョス、フライ・ルイス・ソテロに述べさせる。
慶長15年5月4日(和暦、1610年6月24日) 秀忠印
ちなみに、上述の、家康がこれに先立って前年12月28日付けイスパニア国レルマ公宛書簡は以下の通り、ここではソテロの名があるだけでムニョスには言及ありません。

ゑすはんや、とふけ・てい・れるま、申給へ
のひすはんやより日本へ黒船可被渡由、前呂宋国主被申越候、於日本、何之湊へ雖着岸、少も疎意在之間敷候、委細伴てれ、ふらい・るいす・そてろ可申候也。
慶長十四年十二月二十八日
家康朱印
[訳]
(イスパニア国王に)Doque de Lerma(ドケ・デ・レルマ)から(家康のために)申し上げ給え、
ノバイスパニアから日本へ黒船を渡海させる予定と、前マニラ総督が言っている。
日本の何処の港であれ着岸した際には疎かにすることなく保護援助する。
詳細は、フライ・ルイス・ソテロに述べさせる。
慶長14年12月28日(和暦、1610年1月22日)
家康朱印
家康信では使者としてソテロの名だけ、秀忠信ではムニョス・ソテロ両者となっています。ここがこの間の修正のポイントです。・・文体はすっきりしメッセージも必要最小限です、いずれも事大坊主崇伝の文章ではなく、正信か祐筆の手、でしょう。ムニョス・ソテロのみならず沢山の伴天連・フラーレが翻訳に当たっていて間違いなさそうですから、これで十分ということです。
こうして、ロドリゴは部下の最小限熟練乗組員と共に、使者ムニョスと日本商人立青・田中勝介ら30人を乗せて、120トンの按針丸(改名してサン・ビエナ・ベンツーラ号)によって太平洋を越えます。1610年8月1日(慶長15年6月13日和暦)江戸(浅草川=隅田川)を発ち10月27日(和暦9月11日)カリフォリニアのマタンチェル港に到達、11月13日アカプルコ港に帰還した。  
 
家康のマニラ総督との交信

 

家康がいつマニラ総督との交渉を始めたか、現伝資料によるかぎり、秀吉死後1年半後、関ケ原戦の半年前の1600年(慶長5年)早々、といっていい。フランシスコ会の「ヘロニモ・デ・ヘスース」(ジェロニモ・デ・ジェズス・デ・カストロ、Jerónimo de Jesús de Castro)を起用します。
ヘスースは朝鮮役最中の1594年に来日、長崎や京都で布教するが、1597年秀吉による二十六聖人殉教事件の後、マニラへ追放。が1598年密かに再来日、秀吉の死後は徳川家康に接近し、1599年には江戸に教会建設を認められ、同時に家康によるマニラとの関係修復・貿易拡大の意向を受け、1600年早々には長崎からマニラに渡ったようです。この時期、島津や加藤清正らも呂宋(マニラ)や明(福建軍閥)とそれぞれ交渉を進めている節があり、他方大坂には秀頼を囲んで三成らが厳然と侍っているわけで、家康も大老として以上に一有力諸侯としての行動だった可能性が強い。それもあってでしょう、ヘスースにどんな書面を持たせ交渉させたかの記録は残っていないようです。
ヘスースは、関ケ原戦のあと、1601年には「マニラ総督書簡」をもって平戸に帰国、5月29日(洋暦)伏見城で家康に報告。マニラ総督信の内容も未発見?のようですが、家康の意に沿うものだったのでしょう、ヘスースは褒美として家康から修道院用地を貰っています(ヴァリニャーノ記録○○)。
この後10月付(和暦)で、家康はその覇権確立に自信があったのでしょう、タイトルなしの個人名=「源家康」名でマニラ総督宛返信した、その記録は残っています。(近藤重蔵「外蕃通書」現代語訳)
家康 マニラ総督へ返信
日本国、源家康、呂宋国(マニラ総督)ドン・フランシスコ・テーリヨ、足下に回章(返事)する。
旧年(過去数年)、貴国海辺において大明および我が国の悪徒や海賊がいたが、刑すべきは刑した。明人は異域の民だからこれを刑するには及ばず、今や本国に帰っていったが、ちゃんと明本国で誅罰されたと聞いている。本邦の方では、去年(1600年)兇徒が反逆をなしたが(関ケ原戦)、わずか一か月でこれを残すところなく誅戮した。
故に(東アジアは)海陸安静、国家康寧、だ。
本朝(我が国)から出発する商船といえとも、そのすべてを用いるべきではなく、その来意(通商なのか海賊なのか、徳川かそうでないか)に従うべきだ。
今後、本邦の船で貴地に到るものは、この書に押してある朱印をもって、信じていいものだと証表する。この朱印以外のものには(通商を)許可しないよう。
わが国は(マニラとの通交は当然として)ノバイスパニア(メキシコ、米新大陸)との通商を欲する。(が、太平洋横断は)海路困難で貴国の協力案内がなければ難しいので、船や船員を時に応じ使わせてほしい。
貴国の進物は納受した、遠路ありがたい、寒さが募る中、ご自愛あれ。
御朱印(家康の)
慶長6年壬丑(1601年)冬10月 日
家康は、明朝鮮での戦争も国内の関ケ原戦も、倭寇の悪徒海賊だったように語ります*。前代の秀吉は倭寇の親玉だった、明側共犯者たる沈惟敬や石星は明で処刑済、小西行長石田三成安国寺らは去年自分が誅殺した、といわんばかりです。そしてここに御朱印(豊臣時代と違う家康の御朱印)の再開を通告しています。このころマニラ側には、海賊か通商かわからない多数の倭船が押し寄せていたということでしょう。
○村上直次郎さんは、かなりローカルな海賊をイメージされていますが、おそらくそうではなく、朝鮮役末期(1597,98年)には明水軍が福建浙江でも動員され朝鮮に派遣されますがこれが戦中戦後あぶれてマニラ海域等にも出没するのだ(もちろん倭の水軍もですが)と想像します。なお近藤重蔵も村上さんも「明人・・今帰于本国」の「今」を「令」と校訂され家康の使役と読まれますが、これもその必要はなく、原文通り「今」でよく「(朝鮮役が終わって明軍も朝鮮からも海上からも自主的に)今や引上げ本国に帰っていった」と読めばいいことと考えます、細かいですが念のため。
家康はこの時点ですでに米新大陸との貿易に言及しています。家康の眼は東アジアだけでなく新大陸をも見ていることは注目すべきです。これについては後述します。
上記家康信と共にマニラ総督に送られたとみられる長崎代官「寺沢広高信」も現伝します。
長崎代官寺沢広高 信
(上記は)内府閣下(Senior Dayfo=家康この時内大臣、ちなみに秀頼は右大臣である)が、昨年(1600年)付の(へスースが持ち届けた)貴信に答えるために、本年したためた一書だ。
これまで日本からの貴地への船が甚だ多いがこれは閣下(マニラ総督)の欲するところでないというが、自分(寺沢)はその理由を知りたい。
もし貴地に赴く船を特定せよという趣旨ならば、これを指定し皇帝の免許状を交付して渡航させることにする。この場合、免許状を持たない船の入港は禁止されよ。
内府閣下(家康)はこれまでも閣下(マニラ総督)に書簡を送られる毎に、必ずノバイスパニア通商の協力を求めたが、一度も返事をもらっていないことを遺憾としている。閣下から返事があれば大いに喜ぶだろう。また(マニラと新大陸の間の日本で寄留すれば)港湾や海上の賊難を防ぐにも役立つだろう。
内府閣下の6年(慶長6年=1601年)10月6日
閣下(マニラ総督)自分(寺沢)に返事されよ。
(発信)肥前国守 寺沢広高
家康を内府とよび、家康はこれまでも何回もマニラ総督宛に通商要請をしたが返事がない、といいます。これまでは、マニラ総督にとって、家康は日本各地の諸侯商人と同じレベルに見えたということでしょう。関ケ原に勝ったので、家康は(豊臣系で長崎代官として国際的にも知られる)寺沢の権威を借りて添え状を書かせた、寺沢の立場では秀頼は右大臣としてまだ内大臣の上にいるわけですから、内府というこれまでなかった書き方で対応した、というところでしょう。ただし内府の6年とこれまた初見の年号を使っています。
さらに家康の打ち手は重厚で、同日付けで、ルソンの難破船乗員に船をつけて返還し、家康の厚意と力を実証します、こちらは「本多正信」名の書簡です。
(上記「外蕃通書」つづき。)
今度上総国大滝に漂流着岸せしめた船の乗組員全員を、住まいは不明だが、船長(カピタン)にルソン(呂宋)に召し具して渡海するよう命じた。もし難渋することがあれば申し出るよう。恐々謹言。
慶長6年(元和2年とあるものを近藤重蔵守重がこの年に校訂)10月6日
(発)本多佐渡守正信、印
(宛)世連郎壽庵安恵須気羅(セレラジュアンエスケラ?=船長、船主)
呂宋の難船者と判断してパスポート・ビザを与えたわけです、隅田川に係留していた唐船を与えて帰還させたといいますから大変政治的で手厚い保護です。・・近藤の校訂が正しいと思うが、上記、寺沢広高信と同日なのは注目していい、家康の支配が西は長崎から東は上総にまで及んでいることを問わず語りに示します。また寺沢広高と本多正信が並んでいるのも興味深い所で、まさに外交業務はこの豊臣時代からの寺沢から家康子飼いの正信正純父子に引き継がれていく。寺沢は肥前国守だが、能吏だったようで朝鮮役も関ヶ原戦も生き延び「長崎代官」を文禄元年(1592年)から慶長7年(1602年)まで務めます。なお、このカピタンはイスパニア人ではなくポルトガル人だったらしい(上記伴天連ヘススも同様)が、1604年には日本に還ってきてまた大儲けしたらしい。
上記の家康信・寺沢信も案外このカピタンがマニラ総督に持ち届けたものかもしれません、当然出航前には同郷同境遇のへスースともよく話した上でのことでしょう。なお書状の日付1601年10月6日(和暦)はへスースが京都で客死した命日でもあるらしく、へスースを悼みその功績を称える思いかもしれません。
前掲の「慶長6年壬丑(1601年)冬10月 日の家康のマニラ総督宛」に対する返信とみられるものがあります。
マニラ総督アクニヤから内府家康宛、1602年6月1日付け(洋暦)
マニラ総督アクニヤから家康へ
(フェリペ3世)国王の命により当ルソンを治める(マニラ総督)ドン・ペドロ・デ・アクニヤ(Don Pedro de Acuna)は本年当地マニラに赴任し閣下(内府家康)の書簡に接した。
1) 閣下が先年当海域を騒擾した日本人・支那人を駆逐処罰したことを聞き満足している。善を賞め悪を罰するのは正道賢明で平和に生きる君主の務め、閣下に期待する。
だが最近も日本船数隻がルソン諸島に襲来し他の船を捕獲し被害を与えた、深く悲しんでいる。これが(家康)閣下の意を受け許可を得たものとは信じない。偉大な君主はこのような下劣な悪事をなさず臣民にも許さないからである。よって、わが艦隊がこれを捕捉すればこれを罰し閣下の手間を省く、もしそうならない場合は閣下が犯人を捜索し処罰し他への戒めとされたい。
2) 日本から当諸島にくる船は、時風期ごとに3隻、毎年6隻と定め、これに閣下の「朱印」を下付されよ。自分(アクニヤ総督)もまた貴地に赴く商船に「渡航許可証」を与える。
こうして閣下が言う通りに船を識別し、当地に来た(朱印)商船は助け厚遇し迫害せず財産を奪われることはない。貴地に赴くイスパニア人にも同様の待遇を望む。
3) 閣下の書簡および前任者の言により、閣下がノバイスパニア(メキシコ、米新大陸)と通商を開くことを望まれていることは承知している。前任者はすでにメキシコ総督を説き国王にこれを奏上することに尽力したと聞いたが、自分(アクニア)はイスパニア人と日本人が親交を増しまた閣下の希望実現のために再びこれを上申する。
4) 閣下が、その地(日本)のパードレ(伴天連)等を厚遇されていることを伝聞し深謝する。彼らは神に仕え謙譲敬虔善行の徒であり、我等はこれを尊崇する。よって閣下がますます彼らを寵愛し必要な援助をあたえることを懇請する。
5) 閣下が、当地の船が(ノバイスパニアへの)航行途上に関東に渡航寄留するよう望んでいることを、パードレらも自分に告げた。よって自分は(関東の港の事前調査のため)船を派遣することを決定した。閣下が早急に(使者としてマニラに来たパードレらの)その帰航を命ぜられたい。
6) またパードレらから、オランダ人数名が、貴地に来航し留まっていることを聞いた。オランダ人はわが国王の臣民だが、悪辣で騒擾を好み謀反海賊を業としている。貴地に来たのも土地港湾を探検し略奪のためだ。閣下が十分警戒され、また彼らを捕縛し最初の船便で当地マニラに送致されたい。
7) 本船に託して鏡その他イスパニアの進物を贈る。閣下への好情の証として納受されよ。もし当地に望まれるものあれば、連絡されよ、喜んで周旋する。神の加護が閣下にあるように。
ドン・ペドロ・デ・アクニヤ
以上、マニラ総督が代わり関ケ原のあとなので家康の権威をようやく認めたのでしょう、内府家康を「皇帝」とよび「年6隻の朱印船」を認めますが、マニラからも「総督許可証」船を通告、がこちらには隻数制限はありません。「ノバイスパニア(北米新大陸)への通商」については本国国王につなぐと時間稼ぎし、「江戸関東への船の派遣」はパードレ帰航と港湾調査を理由に了承します。問題は「伴天連の扱い」で、家康はヘスースが死にその弟子たちをこの機にマニラに使者代わりに追いやった節がありますが、マニラ総督は逆手にとって非イエズス会(マカオ)の伴天連を送る好機とみたらしくフランシスコ・ドミニコ・アウグスチンのマニラ系伴天連を送り込みます。さらにはパードレから聞いたとして「オランダ人」(三浦按針やヤンヨーステンらのことです)については追放を要求します。
アクニヤ・マニラ総督は同じ日付1602年6月1日付で、寺沢広高にも返信しています。
アクニヤ・マニラ総督 寺沢広高に返信
言葉では、「家康の要求には尽く応ずる」といいながらも、実際には
1.家康の朱印船は認めるが、当分、一シーズン3隻で年合計6隻に限定する。
2.フランシスコ・ドミニコ・アウグスチン諸派のパードレ(伴天連)を送る。
この2点を家康とは別に重ねて「長崎奉行寺沢」にも確認通知する一方的なものです。なぜ日本船が多いのを嫌うのかという寺沢の質問には全く答えず無視しています。
家康は前記事アクニヤ総督信を受け取ってすぐに返書を送ったようです。1602年8月(和暦)付け
家康 返書
日本国 源家康(より)、
呂宋国大守(マニラ総督アクニヤ)麾下へ、
遠方からのお手紙に感謝し回答する。
貴国の情勢の説明、さらに鏡など5種の進物をもらい、お眼にかからず言葉を聞いたこともないが、四海一家(地球は狭い)との思いをなすものの交情であり感慨にたえない。
我が国が新大陸ノバスパンと商船を往来させたいというのは、必ずしも我が国のためだけではない。貴邦の人がかつて曰うに「日本東国の関東はまさに止宿するにいいところだ。すなわち、ルソンの船が(ノバスパンに向かう時も)風難を避け関東を経て再出発すればいいことだ、両国(ルソンとノバスパン、あるいは日本とスペイン帝国)にとって都合がよく喜ぶべきことだ、云々」と。ゆえに、貴国ルソンがノバスパンに連絡して(スペイン本国の承認を得るよう)吉報を心待ちにする。
蓋し、当方も貴邦の要望に応じて、本邦より出る海賊船の輩は悉く誅殺する。この旨、域内中、遠島辺境に至るまで厳命徹底する。
またもし貴地に行って暴虐をなすものがあれば(貴方にて)殺戮されて問題ない。本朝の商人で家康朱印を持つものでも非理をなす者は国政に用いるわけにはいかず、その名字を記し連絡いただければその後はその者は渡海させない。
粗品だが本邦武器を別紙目録通り贈呈する、寸忱(=寸志、お金?)別表にしその他のこととともに使者に言付けた。不備(十分でないが)。
慶長第7龍集壬寅8月 日
(発)家康 印
あまり意味のあるメッセージはなく、むしろ「交情作四海一家思者、不勝感荷」が言いたかっただけ:この辺は家康は確かに信長秀吉の大きな気概を継承した人、彼らを越えて四海太平洋の先を相手にしているとの家康らしからぬ自負を感じさせます。詳細は使者に多くを託したのでしょう、これが誰でどういう話をさせたかはもう歴史の闇の中です。
なお、「年号呼称」や「先方への呼び掛け」には西笑承兌あたりが迷った様子の途中経過が見えます、微笑ましいとも事大的愚かさともみます。マニラ側は自国語分は一貫して西暦(AD)・発信者は自署名を使います、今に変わりません。いわゆる「治外法権」関連、近代明治日本外交が苦労する点ですが、絶対王権の暴力と戦った欧州他国王の代理人騎士貴族だから発生し必要だった「外交官特権」であって現代は差別悪用されるマイナスのほうが大きく、この辺は家康の考え方あたりが今や当たり前、という気がします。また、家康自身はずっと「日本国 源家康」と個人名裸で通しているのが今や好感が持てます。
更にわずか一か月後1602年9月(和暦)追っかけて家康は信を送っています。
家康 信
日本国 源家康、謹啓、
呂宋国主足下、
今こちらは壬寅の歳の秋、
貴国マニラの商船がノバスパン(メキシコ、新大陸)に赴く途上、海上風波で遭難、本邦土佐州の海浜に到った*。
ここ数年貴国と隣交を修め遠盟を結びつつあるが、今だ、幸い寡人(自分家康)が国を執った折柄、旅寓商人も船中資財も何ら強奪され大損害受けること無く、(ほぼ無事に済んだのだ。)彼らはかつての(サンフェリペ号)事件の二の舞を畏れて、偶々順風が吹いたので慌てて帰り去ったが、その内数人は上陸し貴邦の産物を寄贈してくれた。その厚意に報いるためにも、
今後はノバイスパンへの航路途中であれ、海賊や逆風で遭難したとえ帆柱が傾き楫(かじ)が砕けようとも我が国に到れば安心安全なること、改めて全日本に厳命することとする。
貴国商人が自分にいうに「毎年、ノバスパンに往来する船は8隻だ。日本国内で(マニラはじめ外国)商船が到る処災害を逃れ(救助協力をえられる)との印書を発行してくれれば呂宋にとっても百世の宝となる。」と。
自分家康は殊に遠方の人を愛憐し土民の賊心から禦(まも)る為、(朱印とは?)別に押印した印書**を8通裁定した。この印書を持てば我が国内津々浦々の町村で安心して休息寄留できるものだ。疑うなかれ。貴国の商人は、縷々説明しなくとも、我が国の(純朴丁重な良き)国風を享受できることになる。
不宣(意を尽くせぬが)。
慶長7稔(=年、1602年)歳舎壬寅秋9月 日
家康印、
偶々この年、マニラからノバスパンにむかうエスプリツ・サント号*が土佐で難船したらしい。秀吉時代のサンフェリペ号事件が思い出されたのでしょう、最大級の援助厚意を示し、かつ、年間8隻はあるというマニラ=ノバスパン間通商船の日本立ち寄りを申し出、そのため日本での「寄留保護証明書」8通を発行し早速これをアクニヤ総督に送ったというわけです。
○ エスプリツ・サント号遭難:1602年7月にマニラ出航、メキシコに向かったが、途中暴風に遭い船体を損傷、荷物の多くは海中投棄した。日本に寄って船体修理食料補充を決意し進路を転じ、9月24日土佐清水港に入港。土佐の山内一豊は長宗我部に代わり掛川から転じたばかりの土佐新米大名で、司令官ウリョの弟や船長ら5人に生糸他進物を持ち家康を訪問するよう助言し、同時に、同船監視を強め港口に材木を投ずるなどして出航を妨げたらしい。恐れ焦ったエスプリ・サント号は10月14日和船と戦闘し港口を強行突破、11月18日マニラに還帰。戦闘の際イスパニア人1、黒奴1死亡、負傷6。山内は人質捕虜となったイスパニア人ら40余名を家康の許に送り顛末を報告した。家康は直ちに彼らを解放し上記手紙と使者と共に日本商船に便乗させマニラに送還したらしい。家康が上記通りわずか1か月後の9月付け(和暦)で重ねてアクニア総督宛に出状した事情がよく分かる・・。
○ 「寄留保護証明書」=chapa:家康がアクニア総督に1602年9月に送ったもの。1603年7月同総督からスペイン国王への報告書にその内容がある、その趣旨は
1) 天候不良や避難のため、外国船はいつでも日本の港に入ることができる。何国船であれその所有物積載物商品を強奪されることはない。
2) その港に滞在することを欲しない場合、その便宜に従い、他の港・都市に移り、その商品を売りまた食料等必要物資買い付けできる。
3) 外国人は日本国内のどこにでも好みに応じて居住できる。ただしその教えを広布することは厳禁する。
慶長7年9月の日付と朱印があったという、これを「chapa」と称し、アクニヤ総督は家康から6通受け取ったとスペイン国王に報告している。大変好意的な内容ですが、キリスト教布教禁止は、この時期でも家康ははっきり主張しています。
家康にしてみれば(家康だけでなく有力諸侯や商人もこの時点では同様ですが)、明朝鮮と直接公的貿易はできなくとも、マカオやマニラやさらに南方との貿易はできている(当時の日本輸入品は生糸絹織物など中国産品が主流でこうした第三国仲介貿易を通して事実上ルートは確保できていた)わけで、家康の関心は「マニラはじめ南方貿易は朱印状によるその独占」とむしろもう一つ先「マニラ=ノバイスパン(北米新大陸)間の通商関与やノバスパン直接貿易」に向かっています。・・しかも以下の諸情報からして家康の企図はそこそこ実現できていたことも間違いなさそうです。
アクニヤ・マニラ総督は早速、前記事の家康の書信と措置を受け入れ、1602年末には関東での港湾調査要員と数人の伴天連を使者名目で派遣した、とみます。以下の1603年(慶長8年正月)秀忠信はこれを証拠付けます。
秀忠 信
日本国大納言源秀忠より、奉復(=お返事する)
呂宋国主(=アクニア・マニラ総督)麾下、へ。
お手紙繰り返し拝見、お土産深謝。万里の波濤山雲を越えて来られた「僧侶」(=パードレ=伴天連)をねぎらう。伴天連から直接遠方の政情を聞きその風俗に親しみ、珍しい産品には深く感銘した。
わが国の国政は内大臣(=内府、父たる家康)が進退を決している。重ねて云うには及ばないが、
貴国とは交盟を結んだことは自分(=家康の後継者で大納言たる秀忠)もまた十分承知している。
今後、商船の往来に当たっては、陸海、遠近問わず、(マニラとの交易船はもちろん、マニラ=ノバイスパニアの交易船の寄留についてもchapa通り、ちゃんと保護する)、疑うなかれ。
粗末なものだが土産として鎧揃い3領を寄贈する、時は春だが残寒厳しい、お国の為にもご自愛あれ。
慶長8年(1603年)、星輯癸卯正月 日
秀忠、印
家康も伴天連を好んでいないことはchapaの最後の文章でも明らかですが、これを分かった上で、伴天連を(寺沢への通告通り)派遣してきた。が同時に、関東での港湾調査やノバスパン貿易関与に進展があったのでしょう。まあ、だから、伴天連派遣への不愉快感を示すため家康本人ではなく秀忠から返事させた、内容は(マニラないしスペイン帝国との)交盟の確認とchapaの有効性(日本での保護)の強調だけで、ここがポイントだったことははっきりします。また家康としては、秀忠が後継者であることを海外に示し、かつ、秀忠にも海外事情を直接勉強把握させその意見も聞いてみたかったのでしょう、秀忠に(も)面談させ、秀忠から返信させたのだ、とみます。なお、家康の将軍任官はこの翌月2月、秀忠は1605年です、この父子の間で政権を継承することはこの時点で既定だったこともよく見えます。
この後は、家康と秀忠が相次いで将軍職に就きその威令は全国にいきわたり、朱印船による南方貿易(=徳川家による管制・徳川の利益の極大化)は順調に回り、かつ、chapaによるマニラ=関東(浦賀以外駿河清水・伊東・江戸両国あたりにも港があった節あり)間交易も軌道に乗った、とみます。ただし、問題は2点残った、一つは伴天連布教の問題、もう一つは、(マニラの航海士や水夫の協力を得ての)徳川家による自前のノバイスパニア貿易、これにスペイン皇帝の許可が下りずなかなか実現しないこと、です。
1604年7月、キリスト教を説いたアクイヤ総督の家康宛書信です。極めて宗教的内容で、おそらく家康のキリスト教嫌いから日本での布教が難航したマニラ系伴天連たちが困り果て総督に口添えを依頼したのだとみます。
アクイヤ総督から家康へ
呂宋国王 ドン・ペドロ・デ・アクニヤ、謹沐頓首、
日本みやこ(名高)の国王陛下(=家康)へ
お返事をいただいてから随分たつ(昔)、感謝申す。
薩摩にいるサントドミンゴ派(山厨羅明敖寺)のパードレ(巴礼)によれば、
都に往って天皇(←聖上?家康)に謁見すると称して(都へ行ったが)、サントドミンゴ派とは別の(マニラ系)パードレが既に都で布教していること、その(人々の?他)人となり聡敏で道を得て美しいことをなすのを好んでいることを知った、といっている。
この教え(キリスト教カソリック)は本国カステリア(干系蝋氏=イスパニア)でも聖なるものと尊崇しており、その無極至尊を名付けてデウス(←寮氏、神)という。すなわち、天地万物の主で卑しい人間が邪を棄て正に帰り暗を破り明を崇える(よう導く)、また昇天の大道、を教えるものだ。イスパニアでは皇帝から諸官長、士庶民に至るまでこれを敬い讃えている。
かくして彼らパードレたちは、貴国(日本)にあって、世間俗世界の金玉を玩好することを否定し欲望を止めさせ、人の霊魂の不滅と昇天を説き永遠の命の幸を教える者たちだ。
陛下(=家康)に直接お目にかかり善を嘉し邪悪を覆すこと(をお伝えしたと聞くが)、こうした教えを敬遠し廃棄されることの無きよう、すなわち、自分(アクニア)からも伏して敢えて忘れることなきようお願いする。
(サントドミンゴ派)以外のパードレたちも貴国に住みここ数年、善の心で布教している。貴国の人民もすでに良く識っている所だ。海空を遠く隔てる(マニラからだ)が、自ら特にこの点を書状にしたため、伏してお願いする。自分が(一人の教徒として、神を)強く讃え敬う気持ちに勝てないからである。
西土1604年7(柒)月28(廿/念、八/捌)日、
ドン・ペドロ・デ・アクニヤ、再頓首
アクニヤ総督自身が敬虔なカソリックだったのでしょう。恐ろしく謙譲丁寧です。当時のカソリックの根本を直接家康に伝えたかった、家康がおそらくあこがれるスペイン帝国はまさにカトリックの帝国、そしてノバイスパニアとの直接交易にはそのカソリックの皇帝や諸官長の許可が必要という家康の状況を踏まえて、口添えしています。カソリックのこと以外なにも話していない、しかも久しぶりの手紙だといっていますから、それほどに気合を込めたものです。・・しかし言葉というものは残念です、こんな変な漢文でどこまで通じたものか、家康は厳しく拒絶したようです。
家康の返信
(1605年家康からアクニヤ総督宛、日付不詳)
総督閣下の書翰2通(漢文とスペイン語の両方があったらしい)と進物を受けとった。なかに葡萄酒があったのは大いにうれしかった。
閣下は、先年(日本からマニラへの朱印船を)6隻といったが昨年(1604年)は追加(←又*)4隻を要請され了承した。がこれにアントニヨの1隻を算入することは好まないところだ。彼(アントニヨ)が自分(家康)の命(朱印?)を待たずに勝手に出航したことは自分を侮辱するものだ。閣下がマニラから日本に派遣する船について自分(閣下自身)の承諾なしではできないことと同じだ。
なお、閣下はマニラから来日している諸宗派について縷々説明され多々希望されていることは承知しているが、自分家康はこれを許さない。
なぜなら、わが国は、神国Xincocoと称し偶像Ydolosは先祖より今に至るまで大いに尊敬しているものだ。自分家康がひとりこれに背き、これを破壊することなどできない。これゆえに、日本では決して貴地の教えを説き広布してはならない。
閣下もし日本国および家康と交誼を保ちたいなら、自分家康が欲することをなし欲さざることは決してなさぬことだ。
また邪悪な日本人で貴地に何年も滞在後に帰ってくるものが多いと聞く。これは自分家康の好まないことだ。だから閣下が許可派遣するマニラ船にこうした日本人を乗り込ませないようにして欲しい。
諸事、思慮を用い自分家康の嫌悪を受けないよう務めてほしい。
○ 通説はこの後のマニラへの朱印状が年4通しか記録されていないことから年6隻が1604年以降4隻に削減されたとよみ、アントニオを1604年以降数年家康朱印状を得た安当仁カルセスに比定されるようですが、より矛盾が少ないrac流文脈読みからして敢えて上記訳のように読んでおきます。なお疑問は残りますが・・。
キリスト教より葡萄酒歓迎ということです。ですが、マニラ総督も諦めることなく、この時期も交易船誘致のためにはキリスト教受け入れも辞さないという、島津薩摩(サントドミンゴ派)や松浦平戸(アウグスト派)を送り続けおそらく京屋大坂の商人たちもそういうノリでもあったのでしょう、キリスト教は人々の間に広がります。家康もマニラ総督には強く言ったもののこうした抜け道があることに気づいたのでしょう、黙認をつづけますので、江戸の町さえ教会が増えたといいます。
マニラ貿易もキリスト教と抱き合わせです。朱印状(海外における安全保証)やchapa(国内における外国船の安全保証)による徳川管制独占を試みますが事はそう簡単ではなかったようで、マニラ総督も島津や平戸他へ伴天連と合わせ交易船派遣を継続していたようです。
マニラでの日本人の数も増える一方だったようで、日本人との摩擦も強まります。1603年の支那人騒擾の時は日本人500人がマニラ総督に協力し鎮圧したといいますが、1606年、1607年、1608年、1609年と毎年のように日本人騒擾が起きその日本人規模は1500人、といいます。伴天連の調停で治まったり(1607年)、マニライスパニア軍に鎮圧されたり(1608年)、支那人と日本人が一緒に暴動を起こしたり(1609年)といいます。この間日本人の勢力が増し他方でマニラ総督府は現地人抵抗の高まり(ホロやマラッカテレナテでの征服戦争継続)・英蘭との対立の中で徐々に力をおとしていく過程での一現象です。
総督アクニヤはこうした中で病死(1606年6月)、後任のドン・ロドリコ・デ・ベベーロ・イ・バエルッサ(Don Rodrigo de Vivero y Aberrucia)が1608年6月、ノバイスパニアからマニラ臨時総督として転任してきます。
新任のドン・ロドリゴ・デ・ビベーロは着任早々、1608年6月家康・秀忠に書簡を送っています。騒乱日本人追放と朱印船は4隻に限定するとの内容です。
ドン・ロドリゴ・デ・ビベーロから家康・秀忠へ
当国呂宋守護(臨時総督)としてイスパニア本国帝王の命令により今度渡海着任した。前々より当総督に懇情をいただいたことを承知しており、今後も我ら総督府に同様に願いたい。たとえ海雲山を遠く隔てようと心中は(相通じており)ますます緊密に連絡(申談)させてほしい。
さて、自分が参着したところ、ここ数年当地では逗留の日本人徒者ともが騒ぎを起こし(困るので)、該当のものどもに一人も残さず帰国を命じた。
しかし、毎年渡海の商人客人は心がけの悪い人達ではないので援助協力を続ける(朱印船の確認)。今後とも問題ない(と信じる)。
当方から例年のごとく黒船を渡海させる、関東に乗り入れるよう航海長(安子=按針)に命じたが、海路意のままにならぬこともあり、日本すべて(家康の)国なので、どの港に入ることになっても構わないとも言ってある(chapaの趣旨の確認)。
また貴国に居住のフラテ(=アウグス・ドミンゴ・フランシスのマニラ系伴天連)には前々の如く哀憫下さるよう、お願いする。
ささやかな進物を目録通り、寸志として。恐惶謹言。
慶長13年(1608年)5月27日(おそらく和暦)
どん・ろちりこ・て・びへいろ、 朱蝋に押印 かつ自署名
謹上、
日本国御主、太御所様
日本人騒擾者に帰国を命じた、と伝えています(事実は牢獄から解放して強制送還したらしい)。秀忠宛にも同日付けほぼ同内容の書簡を出しており(同201コマ中央)、そちらには騒乱日本人には言及無いが、日本からの(家康秀忠)朱印船は「4隻限る」と明記あり、また、フラテ・「伴天連」(並べて書けばこちらはイエズス会マカオ系)両方に哀憫を、とあります。日本人騒擾者の帰国命令とは、ビベーロ臨時総督赴任前でアクイヤ前総督死後の1607年のことですが、この時点で、ドンロドリゴが追認し家康秀忠にも正式に通告したわけです。
なお、年号は慶長と和暦をつかい、署名はひらがなで、朱印を真似て朱蝋押印らしく、漢文も日本人にわかり易いものになっています。ロドリゴという人の率直さであり、かつ総督府の10年近い家康とのコミュの賜物でしょう。
家康は1608年8月6日(和暦)付けドンロドリゴ臨時総督宛返信します。
家康 返書
日本国 源家康、返書。マニラ(臨時)総督宛、
お手紙じっくり拝見。書面にあるようにイスパニア(スペイン帝国)本土からマニラ総督に無事ご赴任とは、珍重、お祝いする。
前々通り(マニラ総督府を)決して粗略にしない。しかも今年は相模浦川(浦賀)に着船した、悦びにたえない。
そもそも貴国は、上下安寧、人民相親しみ、諸国がその恩恵をありがたがる国だが、わが国も法を重視し正義をなす(?)ので、悪逆賊徒はいない。したがい本邦のもので貴地にて無道をなすものは悉く誅戮されてよい。
また渡海した船長や乗組員のことも安心されよ。
貴方土産目録通り納受した、厚意深謝。我が国進物別紙通り(太刀2柄、具足2領)。その他のことは追って。取り急ぎ。
慶長13年(1608年)8月6日  御朱印
家康返信は学校元佶が書き、秀忠名分は崇伝が書いたらしい、
秀忠が8月18日駿府にきて家康がチェックしてた上で秀忠名で出状したとか。どうでしょう、伴天連問題が引っかかりアクイヤ前総督も亡くなってやや止まっていたイスパニア本国との交渉が進むかもという期待が表れています。
秀忠 返書
日本国征夷大将軍源秀忠 呈報(返書)、
呂宋国主 麾下
お手紙繰り返し拝見。
さて黒船一隻海上順風を得て日ならず相模浦川(浦賀)に無事入港したことは祝着、
わが国の風俗は、道に素直を心としもし不正直な者がればこれを戒め刑罰する、
ゆえに市場も交易も相広がり公平そのものだから、心配は不要だ。
先年(昨年?)の来船も海路風静かで本邦の指図に従って(多くの商品をもって)帰国していった。うまくいって大変結構だ。今後ともますます粗略に扱い事ない、商船が年々往来して絶えず、自国他国ともに繁栄する、幸いなことだ。
土産目録通り領納した、当方の粗品(鎧5領、長刀5柄)を別幅通り進呈する。
心にかかっていることは山のようにあるが、すべて船長に事付けた。循時珍嗇(お返事お待ちする?)
慶長13年8月24日(=仲秋念四日)
マニラで日本人勢力を増し騒乱を起こしているのを承知で、家康秀忠父子はひたすら日本人の正直さを強調し平和的な「貿易の振興」強く希望しています。先年も(関東へ)来船あったというのですからマニラ=関東間の交易はこのころ続いていたとみます、1607年朝鮮第一回回答兼刷還使、慶暹らが駿河湾で見た南蛮船=黒船とは前年のマニラからの関東宛定期船だったのでしょう。なお工芸品としても見事なのでしょうが父子で鎧太刀長刀を送っているのは武家政権であることを他方で忘れるな、の心でもありましょう。
追って連絡するとか、詳細船長に事付けたとか、ありますが、この後執政本多正信名で、ルソンでの暴力沙汰を(日本側でも制札で)禁じたとか、日本は治安がいいから安心して商船を送り続けよとか(chapaの確認)、マニラ総督府宛手紙を出しています。秀吉のように恫喝は一切なく、ひたすら徳川管制(管理統制)の下での交易促進を言います。
翌年1609年には家康の呂宋国主宛書簡が見られます。
家康 呂宋国主へ
日本国 源家康、報章
呂宋国主 麾下、
来書喜んで拝見。
本邦の人らがマニラ周辺で非法を行っている旨、確かに聞いた。(日本でも厳罰という法律)制書をお渡しするのでその趣旨で刑罰されるよう任せる、平和安寧が第一だ。
貴国の総督が(臨時のドン・ロドリゴから正式総督ドン・ファン・デ・シルバ=Don Juan de Silvaに、1609年4月着任交代)長くマニラに逗留されるよし、結構なことだ。
例年通り、黒船関東に派遣来着あった、また詳しい話も(この時の使者格は在マニラのルイス西宋真というマニラ商人らしい7月7日に駿河家康を訪問、かな平文(翻訳文?)を失却したといったらしい。本多正純・後藤庄三郎・学校元佶ら同席)聞き承知した。
伴天連の居住の件は粗略に扱わない(安心されよ)。
引き続き連絡を密に。
慶長14年(1609年)7月吉日(蓂)  御朱印
マニラの日本人騒乱はやまず、マニラ総督府で処罰していいと家康は一任しています。フラテ伴天連については居住は粗略にしないといいます(が布教は困るの立場は一貫しています)。が新総督はノバイスパニアとの直接交易の話をしなかったようで、ならこのまま進展はないな、と家康秀忠らは思ったはずです。
このとき、英人三浦按針や蘭人ヤンヨーステンは家康・秀忠の周辺にいたはず、どう思ったものか。なお三浦按針は家康の命で、リーフデ号(300トン)を解体、模して伊東のドッグで80トン(1604年)120トン(1607年)と洋船建造に成功しています。
マニラ発の商船に対して、いつでも関東に寄留してよい、安全保証する、水食糧は提供する、といい続けた家康chapaですが、マニラ=関東間交易は実現したものの(マニラからの黒船は年1隻か、日本からの朱印船で関東からでたものもあったでしょうが)、マニラ=ノバイスパニア間商船についてはその寄留さえ順調でなかったらしい。サンフェリペ号(1596年)やエスプリツサント号(1602年)のように「海難漂着」が記録に残るだけです。家康の夢はあくまで、関東(日本)=ノバイスパニア(新大陸、さらに欧州)との直接交易だったはずですが、それには遠く及びません。
マニラ臨時総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロのノバイスパニアへの帰任時も関東に寄留することは想定せず、1609年7月一挙にアカプルコに向かった。ところが暴風雨に巻き込まれ難破、ロドリゴ乗船の船は房総夷隅にたどり着き、自ら上陸し江戸秀忠・駿河家康に面談、その強い意向を重ねて受けて、関東=ノバイスパニア交易実現に尽力します。ロドリゴの力で、一挙に本国イスパニアとの条約締結話に進みますが、おそらくマニラの既得権益商人らの妨害の故、といってよいでしょう、結局は潰えます。そして家康も死に話は再度伊達支倉の手で継続挑戦されるわけですが・・、
以下、またまた遠回りで趣味的ですが、伊達支倉ほどに有名ではないこの家康ロドリゴ物語のうち、まずは、「1609年夏ロドリゴの冒険譚」をメモっておきます。ドンロドリゴはのちに本国伯爵となる名門、神とフェリペ三世への忠誠が継続できるなら自分は江戸に住みたいとまでいっています。
第一に注目していいのは、ドン・ロドリゴ旗艦サンフランシスコ号のみが難破し「上総夷隅」に流れ着いたことです、船団の2隻のうちサンタアナ号は遠く豊後臼杵に避難入港、もう一隻のサンアントニオ号は航海を続け無事ノバイスパニアに着いています。この時期日本へ漂着したサンフェリペ号もエスプリツサント号も土佐なのに対し、ドンロドリゴのサンフランシスコ号に限って房総に着いたのは奇異といえば奇異です。
この時ドミンゴは難破により200万(ドゥカド、個人としてもダイヤやルビーなど10万)の富と乗員50人を失っており決して故意とは思えませんし本人は専ら海図の誤り(日本を南寄りに誤解)を言いますが、それでも万一避難するなら家康のいる関東へという意識がどこかにあったような気がします。サンフランシスコ号は1000トン大型船で船は座礁して壊れ助かって夷隅岩和田に上陸できたのは370名といいます。
帰りの船についてもやや奇異です。僚船サンタアナ号が臼杵に係留し(chapaを提示し保護厚遇されたようです)船を失った艦隊トップのドンロドリゴの乗船を待っているのですがロドリゴは臼杵までいきながらこれには乗らず、家康が提供してくれた三浦按針製作の洋船120トンをもらってこれで太平洋を渡り帰ります。臼杵からはサンタアナ号も無事ノバイスパニアに戻っており、ここも奇異といえば奇異なのです。
ドン・ロドリゴ・デ・ビベロは当時のノバイスパニア副王の息子とか甥とか、イスパニア本国で教育を受け黄金期のフェリペ2世3世の宮廷に出入りしながらも冒険心の故でしょう父か叔父が副王のノバイスパニアに赴く、そして前任アクイヤの病死で臨時総督として急遽マニラに赴任したわけですが正式後任がすぐきて、結局マニラにあるのは1年程度(1608年6月〜1609年7月)。むしろ漂着しその身分が家康に知れ厚遇されて日本にあること1年近く(1609年9月〜1610年8月、洋暦)です、
マニラに1年、日本に1年というのがドンロドリゴの東アジアでの体験です。当時世界最強のスペイン帝国名門の坊ちゃんで年齢は40そこそこ、怖いものなし好奇心旺盛、どうにもこの人は当時の日本、とりわけ家康秀忠のピカピカの江戸駿河やその新大陸外交、を西洋の眼で見て語るために生まれてきた人ではないか、と思うほどです。
上総夷隅岩和田に上陸した、前マニラ(臨時)総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロは、上陸地から、江戸までは40レグワ(≒里)、江戸から家康のいる駿河まで40レグワ、駿河から京・大坂は100レグワと知ります。当時はchapaの考え方ですから、船の乗組員は丁重に保護されその回収された積荷は厳重に保管され、その鍵はドンロドリゴに渡された、といいます。やがてドンロドリゴはその身分が知られ秀忠の江戸そして家康の駿河を訪問するよう命ぜられこれに応じます。積み荷の鍵は船長に託し然るべくマニラの荷主に返還するよう指示したうえで、30名程度の乗員を引き連れて、江戸へ向かいます。
当時の徳川政府は外交慣れしていますから、各派伴天連たち、ヤンヨーステンはオランダ人ですから接触していないようですが、英人三浦按針はかなり早くにロドリゴと接触した節があります(48日目に英人航海士来訪と)、もちろん、崇伝・元佶・本多正信正純父子・後藤庄三郎(金座銀座の)らも、総動員されたようです。
江戸入りあったりから前掲「ドンロドリゴ日本見聞録」
新生江戸の街のようす
江戸入りまでも沿線各地で歓待優遇された・・江戸入りの日は多数の高官が来たり宿の提供を申し出てくれたがすでに将軍秀忠の命で宿舎は決まっていた。午後5時、外国人を珍しがって出迎える多数の人々の間を宿舎に到着した。到着後8日間は身分有るものが訪れ面談したが平民でも食事の提供などひっきりなしで瞬時も休息できず、ついに接待役は門に番兵を置き私の許可なしには誰も入れないとの高札を出したほどだった。
江戸は人口15万で、他の大都市ほど大きくはないが、海水がその岸をうち、市の中央に水豊かな川が流れ相当大きな船でもこの川に入る。ただし水深が浅いので帆船は入れない。川は分岐して多くの市街を通過し食料の大部分はこの水路によって容易に搬送される。食料の値段は甚だ安く男一人一日半レアルでたっぷり食える。パン(Pan)は果物と同じく日本人常食ではないが、この町で作るパンは世界中で最良といっていい、ただパンを買うものは少ないので値段は殆ど無料に等しい。
この江戸の街はローマに匹敵する。市街は互いに優劣なく皆一様に幅広くまた長く真っ直ぐなのはイスパニアの市街に勝る。家は木造で2階建てもある。外観はわれら(イスパニア)に劣るが、内部の美しさははるかに勝る。また街路は清潔で本当に人が歩くのかと思うほどである。市街は皆門(木戸)があり人と職によって住み分けている。大工なら大工ばかりの街で他職は住まない。履物街、鍛冶(鉄工作)町、縫物屋街、商家街、銀金商街、などで各一画を占有する。
雁・鴨・鶴など猟鳥や家禽(鶏うずら)など沢山の鳥類を売る一画もある。またウサギ・イノシシ・鹿など猟獣も売っている。また魚市場もある、見物せよと言われて訪問したが、海と川の両方の各種が、鮮魚・干し魚・塩魚があり、また大釜には生魚多数あり、買う人の望むにまかせこれらを売っている。魚売りは多いので時に街頭に出て廉売している。青物および果実もまた各々区があり、見る価値がある。そしてその多種、大量、また清潔に陳列されており、買うものの嗜欲を増進する。
旅館ばかりの街が数街あり、馬の賃貸をなす街(馬喰町)あり、旅人は2レグワ(里)ごとに馬を更える習慣(伝馬)で馬の数も甚だ多く旅人が来ると馬を引いてみせるのでどの馬を選ぶか戸惑うほどである。娼婦街は常に街外れにある。
諸侯高官は他の住民とは違う区画に住む。彼らの屋敷は門の上部に紋章を書き外部は金を塗る、中には2万ドカド以上の門がある。
市政は判官(複数)によりその上に長官がいる。各街には出入りに二つの木戸があるが、その町の適任者が名誉ある長=判官となり、民事刑事訴訟事件は一切彼らが処理する。重大事案や困難案件に限り長官に報告し処理を仰ぐ。上官下僚ともに身贔屓しないことをが第一とし判決は正当公平だ。
市街は夜木戸を閉じる、昼夜番兵がいる、犯罪があると木戸は閉じられ罪人はその街内で留められ刑罰されるわけだ。
以上は、江戸市と太子秀忠(皇帝家康、太子秀忠とロドリゴは書いている)宮廷についてだが、諸都市も同様だ。大多数の街は海に面するので魚類が豊富で、肉は猟でとったもの以外は、その教えに背くとして肉食しない。
太子は江戸市内にサンフランシスコ派のフライ僧院を公許しているが国内唯一の例外で、その他はすべて民家の名義で(教会があるだけで)公然たる会堂は一つもない。
以上が江戸の街の様子です、ロドリゴはこの時だけでなくのちにも滞在しますから、まあ正確でしょう。家康秀忠肝いりの新都市です。今よりずっとよく見えます。何より男一日半レアルで食っていけるといいますから、レアル=16分の1エスクード(金貨)の半分、rac試算では現在の300円程度の感覚です(金1匁=1万円、の32分の1)。都市計画され大名屋敷から商家民家まで何もかも新築のはずで清潔だったといいます。築地市場はいまも外人観光名所ですが最初からそうだったようでロドリゴも案内され見せられた(このころは日本橋魚河岸か?)といっています。驚くポイント=多種多様・清潔・場外も今に同じです。
○ この頃、国際貿易銀で、クルザート=ドゥカド=エスクード=銀1両(中国も日本も)=銀10匁(37.5g)=金貨1枚=金1匁≒今の1万円とracは読んできています。大体のところ、信長から秀忠までこのようによんでいい。
江戸城の様子と秀忠との面談
江戸到着2日後に秀忠表敬に城に入った。城および当日の諸侯から兵に至るまで強大だった。大手門から秀忠の居室まで実に2万の人がいた。いずれも俸給を受け各種の任務に就いている役人や兵だ。
外堀の石垣は大きな方形の切り石を石灰その他のものを用いず積み上げたものでその幅は広く所々に大砲を発する穴(狭間)がある、ただし大砲の数は多くない。石垣の下は堀で川水が流れ入る。大手門へはつり橋がありその構造は私が見た最も精巧なものだ。諸門は堅固だが私のために開かれ銃を構えて兵が2列で迎えたが千人はいた。
第2の大門に至ったがわがテンプレン(畳壁)に似た塀がある(白漆喰塀か)。大手門から3百歩だった。ここには長槍4百人の隊がいた。第3の門の石垣は高さ4パラ(3.3m)、銃門が並ぶ、ここには長刀部隊3百人が並んでいた。これら兵の家は3つの門の空き地にあり庭園があり市内を望める窓がある。
第3の門から宮殿となる。一方に厩舎があり2百頭の馬がいた、飼育宜しく肥えていた、イスパニアのように調教者がいれば完璧だ。馬は皆尻を壁に頭を入り口に向け2筋の鎖で繋げていた、これは後ろ足でける危険を避けるためだ。他方に武器庫あり、黄金づくりの鎧鞍や長槍短槍銃刀など10万人分備える。
宮殿の部屋は床も壁も天井も裸ではなく、床には畳(わが莚より良い)を敷き畳の隅は金の織物に花を刺繍した天鵞絨等の飾りあり、方形で机のように並べ合わす精巧なものだ。壁は木と板で金銀絵具で狩猟の絵があり、天井も同じで木地を見ることはできない。第一室でも外国人はこれ以上のものはないと思うが2室、3室と中に進むほどますます巧妙美麗である。各室で多数の高官諸侯が迎えてくれたが、聞いたところでは彼らの権限身分に定めがあり一定の場所があって私を次々と迎え奥に導いた。
1607年朝鮮使慶暹は三重の石垣は建設途上といっていましたがロドリゴの1609年には出来上がっていたようです。石垣の中は親藩譜代の大名たちが住み外様はその外と住みわけも進んだのでしょう。儀仗兵も門を進むごとに武器の種類は違ったといいます。10万の武器とは多すぎる気もしますが、この時期は諸大名から取り上げ江戸城武器庫に集約していたのかもしれません。
堀は東国諸侯に掘らせ城作りは西国諸侯に総動員掛けて作らせたといいます。このころの人は城作り都市づくりに慣れており仕事が早い、今の東京中央の基本を形作るすべてを僅か3,4年で完成したようです。このころには続けて駿府城の大工事もやっています。その後各地方城下町の整備が進むわけで今も同じです(戦争をやめて)土建工事をやっていると日本人は景気がいいように感じ続けたはずです。
江戸城の様子と秀忠との面談(続き)
太子秀忠は大広間で私を待ち受けていた、大広間は3つの段差(階段?)があるが、秀忠は上段の6,8歩先に、畳の上に緋色の天鵞絨に金刺繍の毛氈の上に座し着物は緑色と紅色で、二本の刀をさしていた。色紐で髪を結わえていた。
歳は35(実は31らしい)、色黒で容貌はよく丈高い。
執政は私の同伴者は中段に留まらしめ執政と自分のみ室に入り私を着席させた。その席は太子と同じ上段にあった。彼の左4歩の近さだった。(ロドリゴは「左が日本では上席」と強調し、自分が上席だったと示唆します。ただ日本は謙譲の礼法で「席を譲り合う」と最初から強調してもいます。次の「帽子云々」もそうでしょう。)
太子は私に帽子を被るべしといい、通訳を通して、相知るを喜ぶが遭難には哀愁し痛心しまた身分高き者は自分の責任でない不幸を悲しむべきでないといい、今は彼の領国にいるのだから何事も望むとおりにするから安心せよといった。私は感謝し精一杯よい挨拶を返した。航海および帆船に質問があり半時間私を引き留めた。最後に父なる皇帝(家康)に赴く許可を求めた、かれは翌日は無理だが四日後の出発を認めた、その間通知し接待の準備を命ずるためという。
お城のみならず秀忠のたたずまいも江戸というより安土桃山風です。ドンロドリゴは難破漂着者に過ぎませんが、前年からマニラ総督として家康秀忠と書簡を交わす中であり、自分はスペイン国王に近い身分高きものと漂着最初から巧みに主張し自分にふさわしい礼法を示唆したうえでの上記待遇です。家康と秀忠の関係もよく承知、繰り返しますが、ロドリゴという人はどうにも日本(人)にはマニラ時代から!興味津々、そして気に入ったとしか思えず、家康秀忠の意を汲んでイスパニアとの交易の話を一挙に積極的に進めます。ただし外交話は秀忠はせず、すべて駿府家康です。
4日後江戸を発ち家康の駿府に向かった。途中箱根越えや富士山や駿河湾を見たはずですがロドリゴは自然風景には一切触れません。この間の記事は2点だけ。
駿府に向かう
一つは、江戸から大阪まで、「人家がなかったの(無住の地)は1レグワ(里)の4分の1もなかった」、人通りは絶えず通行中頭を上げれば必ず人の往来があり我がイスパニアの町村と同様多数だった、と記します。
もう一つは「一里塚」。道の両側には松の並木があり、快適な木陰を作り通行者は太陽に苦しめられることは甚だまれだった、さらに里程を人に聞く必要がないように1レグワ(里)ごとに小山と二本の木が置かれていた、一レグワが街中に当たるときは家屋を破壊してこの一里塚が設けられるほど徹底したものだった、と書きます。(慶長9年1604年に日本橋から、36町=一里、1町=100間(6尺)ごとに一里塚制度を開始、ロドリゴのころは家屋が壊されて一里塚になったところもはっきり残っていたのでしょう。)
朝鮮使はまだ富士を愛で駿河湾の風光を賞しますから日本人に近いですがそれでもやはり制度風俗政治を語るウェートが高い。そして、ロドリゴになると自然描写は殆どなく、制度風俗人事社会政治経済ばかりで味気ないほどです。
そして自然より「制度社会をよくできていると賛美する」ことは当時の慶暹・ロドリゴ共通です。
5日間旅して駿河に到着、太子秀忠の予告により各所にて大いに歓待された。
「もしこの野蛮人(日本人)の間に、神デウスがありイスパニア国王の臣下たらば、私は故郷を棄ててこの地を選ぶ」とまで言っています。

駿府市(静岡市)は人口12万、市街・家屋は江戸に劣るが寺社は多い。私は市内の旅館に案内された。外国人は珍しく群衆は騒がしく追従してくるものが多かった。
皇帝家康から、難破で衣類がよかろうと衣類12枚(金及び絹地、各種の花多数のデザイン、日本の着物)、果実(梨はイスパニア最大のものの2倍とか)や糖菓が届いた。家康に会う前に宮廷で6日間イスパニアやその宮廷他につき質問を受け、ようやく家康と面談した。
宮殿や建物は江戸ほどではないが、諸門・堀・石垣・兵は江戸城にそれほど違わなかった。
この帝国(日本)は相続によらず圧制および武力によりこれを獲得する。前任者に不慮の死にあったもの(信長)あり前任秀吉の子は一大名格に落ちたり、が当然で、家康は秀忠に多数の兵と武器を与え用心しつつその相続を万全たらしめている。
(僧形とは書かずそれまでの登場人物たちとは身なりの違う、お付の多い)二人の書記官(閑室元佶と金地院崇伝でしょう)が登場、席の譲り合いのあと私は上座にあり、格上の方(元佶)が長い演説、歓迎・遭難慰謝のあと重要な事務を担当し外交上の要請をしたいといった。私は慎重を要すると考え通訳によく聞いて正確に訳すよう念押しした。そして自分は遭難者に過ぎないが、個人貴族として遇するか、また本来そういう特命を受けたわけでないがイスパニア国王臣下代表として遇するか、と選択を示したところ、二人の書記官は家康と相談するといって半時間ほどいなくなった。その間隣の2室の品々を観覧して過ごした。
そして家康はなるほどそれなら直接会ってみようということにしたようです。ドン・ロドリゴ・デ・ビベロを招き入れます。
ここでも、手に接吻するしない(秀忠も家康も気味悪がった気配はありますが尊敬の証と知って秀忠は受け家康は安全のため何人も近づけないとなお断ったようです)、帽子を被る被らない(西洋貴族の当然の権利だが日本で非礼と知り彼は脱帽を受ける)、席の同格かどうか、などの議論と配慮(相互尊敬・相互謙譲・合理道理・簡素美的)があったようですが、もちろん家康は前年の彼からの書信に限って慶長年号用いビベーロの名をひらがなで書き朱蝋押印してきた男であったことをも思い出した(数字まで難字を用いる事大愚劣な漢学通訳坊主たちとは違う好奇しなやか合理の精神を)でしょう、

家康は日本においてかつて行われたることのない名誉の待遇を与えるから喜んではいるように伝え、私は広間に進んだ。
・・家康は緑の天鵞絨の丸い椅子に着座し、金繍のタビー織と緑の絹の広き衣服を着て(青い光沢ある織物に銀で多数の星と半月を刺繍した衣服、との異文もある、おそらくロドリゴは家康には少なくとも2度あっています)腰に日本の刀を帯び、頭髪は悉く束ね、歳70余の肥満の堂々たる老人。その席より6,8歩のところにもう一つ椅子があった。・・私は相当な敬礼を行いその椅子に進み起立していたら、家康は着座し帽子を被るよう合図した暫く私を眺めたうえで2回手招きをし・・
(秀忠と同様に)会えてうれしい、遭難に同情し、しかし武士は海上の不幸に気を挫くべからず、要請があれば何でも応じよう、といったので、これに答えて私が起立すると、再び着座するよう命じた。
・・私は家康に求めることが3つあるといい*・・
1) フライ(スペイン系伴天連)・コンパニア(イエズス会伴天連)を虐待せず自由に福音を陳べさせてほしいこと、
2) オランダの海賊ども(ヨーステンらのことではなくこの年6月平戸入港の蘭船2隻のことらしい)の追放、
3) イスパニア皇帝との親交平和が継続するならばマニラからの船を引き続き厚遇すること、
と述べた。家康はよく聴取したうえで、追って回答すると答えた。
なおこの後、一人の殿が進んできて平伏し(のちに2万ドカドの価値があると分かったが)金の延べ棒を乗せた数個の台を(家康に)すすめた。一言もなく下がった。
私の船の船長フワン・エスケルラも同様に(家康に)進物を贈呈し、帰っていった。
更にそのあとに、マニラ(現総督ドン・ファン・デ・シルバ=Don Juan de Silva)**からの進物が、その使者パードレ・フライ・アロン・ムニョスから披露されたが、これまた発言はなかった。
なお家康・ロドリゴ周辺には長袴(足を見せないためと書く)正装の諸侯高官が20名ほど両側にいた、と書きます。
[ 2日後に上野介本多正純がやってきて先の3つについて回答してきた。]
1) 伴天連たちの国内にあるを許し何人も彼らを迫害してはならない、
2) オランダ人は盗賊海賊とは知らず、2年間は居留を許したので、2年後には追放する、
3) イスパニア帝王との親交は持続することは甚だ宜しい、その臣民が往来するなら大いに恩恵を与えよう、さらに(その尽力のため)私が必要なものは何なりと申し出るように。
以上のうち3)は超重要です、マニラとは朱印状やchapaで交易関係にすでにあり、むしろ主題は、ノバイスパニアをも超えて一挙にイスパニア本国との友好交易になっています。微妙な言い方・記録でよくわかりませんが、家康は前マニラ総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロからこれを言わせることに成功したようです。1)2)については事実上ゼロ回答です。
要は家康と前マニラ総督ロドリゴの間ではイスパニア本国との直接友好交易樹立に合意したといっていい。1609年10月5日(和暦)前後とみます。
○ この3点は、この数日かけて本多正純を挟んで行われた可能性もありますが、整理して書けば上記通り(本人に異文あり)。このほか重要なことに銀鉱山開発と按針作120トン洋船提供他があります。
○ 混乱しますが、実は、新マニラ総督のドンファン・デ・シルバの正式使節(船長ジュアン・バプチスタ・モリナが総督書簡進物を進上、ムニョスはこの一員として来日したがおそらくロドリゴに近かったのでしょう、以後ロドリゴといっしょに動く)が、10月2日(和暦)家康に表敬訪問しています。この年はそれまでの関東着ではなく松浦=平戸に入港しており、家康として不愉快だった節があります。よって、関東に好意的なロドリゴ・ビベロを主賓格としモリナら正式使節を軽くあしらったと読みます。ロドリゴが家康に会ったのもおそらく10月2日と思いますが、家康の意図としてはロドリゴをイスパニア本国代表格で迎え在駿府の諸侯らにも披露した、また2万ドカドの金を(家康にロドリゴの前で)進上した金持ちの「殿」とは(記録上は何もありませんが)、イスパニアの窓口役(権)として伊達政宗で、政宗が手をあげこれを家康が認知したのだ、とよみます。(方角からしても熱意からしても、蝦夷は松前、琉球は島津、朝鮮は宗、同様にイスパニアは伊達、という感覚でしょう)
 
日本とメキシコの交流

 

1609年の遭遇
日本と現在のメキシコ、この二つの国の歴史は古くからひとつに絡み合っていたように思われる。二つの国を隔てる広大な 海には激しい海流が流れ、その潮流に翻弄されて二つの国は出会い、建国史の違いや言葉の障壁を超越して両国は交流を始め た。
日本とメキシコ(1521年に先住民のアステカ帝国がエルナン・コルテスに征服されてからスペインの植民地となり、ヌエバ ・エスパーニャNueva España(New Spain)副王領と呼ばれていたが1821年に独立する)の両国の遭遇は、サン・フェリペ・デ ・ヘスス(メキシコの聖人で1597年長崎西坂の丘で礫刑に処せられた26聖人の一人)の日本到着時と同じように、人々の熱意 だけでなく神の摂理、風と海流の力、数々の命運が重なって起こったとも言える。遭遇の背景には、1565年ごろからメキシコ のアカプルコ港とやはりスペイン領であったフィリピンのマニラ港を往来していたガレオン船の一隻が1609年、日本近海まで 航行してきたとき、悪天候にみまわれ正規の航路をはずれて日本の海岸に漂着した事件があった。
江戸幕府開府以前から徳川家康は、早くからスペインと通商関係を結びたいと願っていた。そのため、1599年にはフィリピ ン・ルソン島総督に次の書簡をフランシスコ会修道士ヘロニモ・デ・ヘススを介して送っていた。
「いつの日かスペインの商船が我が国に定期的に寄港するようになれば欣快至極であります」。これに対してフィリピン臨 時総督のロドリゴ・デ・ビベロ1 (ヌエバ・エスパーニャ副王領第2代副王ルイス・デ・ベラスコの甥の子)は1608年、家康 につぎの返書を送っている。
「私がルソン島の総督として着任した時、貴殿がかねてより両国間に友好関係を構築したいとの希望を抱いていることを前 任者から聞いておりました。このたび、当地から日本に派遣する船の船長に私の親書を携行させますから、その者を然るべく 接遇されますように請願します」。
この件についてメキシコ人歴史学者ミゲル・レオン・ポルティージャは、Diario de Chimalpahinというナワトル語(メキ シコ先住民に話されていた言語)で書かれた史料を部分的にスペイン語に訳している著作のなかで、「この手紙のやり取りは 、日本とメキシコの経済連携協定(EPAは2005年締結)への最初の協議をしているようだ」と書いている2。

そんな両国関係は思いがけない方向へと進んだ。一年後の1609年、次期総督と交代するため召還命令を受けたロドリゴ・デ ・ビベロは、三隻からなる船団の旗艦サンフランシスコ号に乗船していた。しかし、マニラを出帆してアカプルコに向う途中 この船は日本近海で難破し、現在の千葉県御宿町の海岸に漂着した。幸い乗組員は地元住民に救助され、373人のうち317人の 命が救われて千葉県の大多喜城に招かれた。この事件は現在考えても目をみはるような海難救助である3。ロドリゴ・デ・ビ ベロは、幕府の外国船到来に対する当時の政策から推察して一時は乗組員全員の死罪を覚悟していたが、上総大多喜藩本多忠 朝藩主の取り次ぎで将軍秀忠に拝謁する。その報告を受けた家康はすでに将軍職は秀忠に譲っていたものの実質的な権限を握 っていたので、ロドリゴ・デ・ビベロとその同行者たちを駿府まで招き歓待したにとどまらず、日本とスペインとの間で交易 をはじめる協議の機会とした。その内容は、メキシコから日本へ50人の水銀アマルガム精錬法に熟達した鉱山技士を派遣する ことを要請し、その見返りとして、日本で発掘された未精錬の銀の半分をメキシコに提供するという寛大な申し出であった。 当時はまだ、水銀アマルガム精錬法は実用化されていなかったが、メキシコやペルーではすでにこの効率的な精錬法は主流と なっていたからである。さらに、江戸でスペイン船籍の船舶を修理し燃料と食料補給のための寄港を許可すること。また、ス ペイン船は日本の港に白由に寄港することを認め、かつ、輸入関税免除で積荷を販売できること。日本国内ではスペイン人に 信教の自由を認め、国内でキリスト教の布教活動も容認すること。そのうえ国内でスペイン人が起訴され訴訟に持ち込まれた 場合の裁判権を保障すること(治外法権)。しかし、家康はロドリゴ・デ・ビベロと協議しているとき、唯一先方の提案を拒 絶したことがあった。オランダ人を日本から追放するという要求であった。その背景には周知のとおり、当時ヨーロッパでカ トリック教国スペインと対抗するプロテスタント教国のオランダやイギリス、フランスなどの存在が顕著で、それらの国は経 済的にも政治的にもスペインとヨーロッパの覇権をかけて競合していた事情があった。日本にとってオランダは交易相手国で キリスト教の布教を目的としない日本への接近策をとっていた。この国には幕府が鎖国政策をとったあとも、船舶の入港と長 崎の出島に限定して特定のオランダ人居留は許容されていた。かくして協議の末、家康とロドリゴ・デ・ビベロは二国間協定 締結に合意し、その協定書の写しはスペイン本国に異なったルートを使って送付された。結果的に協定書は、当時ヨーロッパ を席巻していたプロテスタント教国とカトリック教国の政治的な対立が激化していたことと、日本からの送付されてくる報告 書で知るスペイン各修道会の布教策をめぐる対立を憂慮してスペインはついに協定書を批准しなかった。同時に、日本との通 商活動はすでにフィリピン経由で維持していると判断したとも言える。当時のスペイン国王フェリペ三世は日本と協定を結ぶ 第一の目的は「極東の島国、日本でキリスト教(カトリック教)を布教することだ」と述べていた。この説をとなえるのは、 メキシコ人歴史家のガブリエル・サイードである。幕府にとり、キリスト教は仏教と相容れない宗教だと判断していた。では マニラに滞在中から当時の日本の政策について最新情報を得られる立場にあったロドリゴ・デ・ビベロは、本国政府の意向と 異なりどのような理由で、あえて副王領の利益追求を優先しようと協定書を結ぼうと協議したのか、そんな疑問を投げかけた のはスペイン人歴史学者フアン・ヒルである4。植民地での主要な運営は宗主国が派遣する官僚(ペニンスラール)がその任 務を担当していた。その実態に抵抗して植民地生まれのスペイン人、クリオージョ(スペイン人の両親の子であるが出生地が 植民地であるとの理由で特権階級から除外されていた)は独自の経済運営を推進しようと画策していた背景があった。そのた めロドリゴ・デ・ビベロは日本と植民地メキシコとの直接交易を画策していたのかもしれない。1810年に始まるクリオージョ 階級が中核となったスペインから独立戦争では二つの階層の対立は峻烈極まった。こんな両者の確執を考慮すれば、本国の意 向と異なった政策をあえて画策したのかもしれない。さらに加えて、ロドリゴ・デ・ビベロが乗船していた旗艦と他の二隻が 日本近海で正規の航路をはずれて難破した原因は、本国から遅延してマニラに着任したフアン・デ・シルバ総督が任命した当 時70歳のファン・エスケラ艦隊司令官の航海技術に問題があったからだと本国政府の決定を批判している。その懸念はロドリ ゴ・デ・ビベロがすでにマニラ出航以前から抱いていたことまで報告書に記している。一方、旗艦の船長であったセビーコス は、ロドリゴ・デ・ビベロが主張していたスペインと日本が積極的に交易を開始すべきだとする根拠に同意せず、協定書締結 に消極的であったと独自の見解をロドリゴ・デ・ビベロと異なる書簡送付ルートで本国に報告していた。立場が異なると協定 書にまつわる判断も左右されていた。

一方、家康は帰還する船を失くしたロドリゴ・デ・ビベロー行のためにアカプルコに戻る船の建造を準備させていた。マニ ラを出帆した同じ船団の他の僚船二隻のうちサン・アントニオ号は、航路を逸れずにアカプルコに直行し、サンタアナ号は豊 後(現在の大分県)臼杵に漂着したが修理したあと自力で帰還している。一行のための新造船は、イギリス人ウィリアム・ア ダムスが日本で設計した二隻のうちの一隻であった。彼は1600年にオランダの東洋派遣艦隊の航海士としてオランダ船に乗り 合わせたがその船は豊後に漂着した。その後大坂でアダムスを引見した家康は彼の造船技術と知性を高く評価していた。これ にまつわるエピソードはいくつかの文学作品に描かれているが(ジェームズ・クラベル『将軍』など)、史実は小説よりもっ と複雑なようである。かくして、幕府に公認されて太平洋を初めて横断した日本船籍の船舶はブエナベントゥーラ号(スペイ ン語で幸運という意味)と命名され、イギリス人の設計で浦賀から出帆しアカプルコを目的港とした船であった。したたかな 家康は一隻の難破船の乗組員を救助した機会を巧みに利用してスペインと日本の直接貿易を企て、さらに一行の船には、当時 日本人が熟知していなかった太平洋航路を習得させるために船乗りと商人など日本人21人を乗船させている。その日本人一行 のなかに京都の町人田中勝介なるものが乗船していたが、『慶長年録』によれば田中は水銀を売買していた朱屋隆清と名乗る 人物と同一視する説もある5。朱屋とは水銀などを扱う商人をさした。太平洋航路を学びとろうとする船乗りや水銀技師から 成る「日本人調査隊」が、ロドリゴ・デ・ビベロとともに副王領のアカプルコ港に向けて派遣されたことになる。ロドリゴ・ デ・ビベロは遭難した翌年1610年にメキシコヘ到着した。協定書はついに締結されないままとなり、19世紀になるとメキシコ はスペインから独立を達成し、日本は明治時代をむかえることになった。
ロドリゴ・デ・ビベロは副王領に帰還すると、その後は順調に官吏の道を昇進していった。また、遭難から帰国を待つ間に 日本国内を旅行し、日本と日本人の印象を綴った「日本見聞記」を出版した6。南蛮時代を物語る著作は多くあるが、この見 聞記は格別な位置を占めるかもしれない。というのは著者はスペイン人であるが(ロドリゴ・デ・ビベロ(1564-1636)はメキ シコ市で生まれてオリサバ市で亡くなったクリオージョ)、ルイス・フロイスのように日本に滞在していた宣教師のような教 会関係者ではなく、スペイン政府高官であった7。当然、宣教師とは異なる冷徹な視点で日本を観察したのだろう。スペイン の植民地であったメキシコと日本の通商航海協定締結を模索して日本の事情を西洋に伝える報告書を刊行したことになる。
ロドリゴ・デ・ビベロの日本近海での海難事故は、さらに、1611年、副王領から徳川幕府に派遣された特派使節セバスティ アン・ビスカイーノの来訪へとつながった。一行はロドリゴ・デ・ビベロが副王領に帰還できたことへの謝辞を伝達する目的 であったとされているが、ビスカイーノが日本滞在中、日本領土の沿海を測量して不審な探索をしたことは、オランダなどか ら国際法違反であり偵察行為だと厳しい非難を招いた8。しかしながら、セバスティアン・ビスカイーノがアカプルコから乗 船してきた船で日本へ帰国できたのは前述した田中勝介一行である。ところがビスカイーノが乗船してきた副王領で建造した 船は、日本到着のあと大破してしまったため、一行は仙台藩が月の浦港から1613年に支倉常長慶長遣欧使節を派遣したサンフ アン・バブティスタ号に便乗して帰還している9。こんな奇遇な歴史の連鎖が徳川幕府開府時期にあった。
1841年の出来事
人間の好奇心は大きな力を引き出すものだ。数々の苦難をのり越え海流の力を借りて、二つの国は1609年に結びついたとこ れまで述べてきた。300人以上の当時スペイン植民地であったメキシコ人乗組員を乗せた船は、日本近辺で難破したが日本人 に助けられた。その後、記録にこそとどめないが日本海や太平洋で予想外の航路を航海した船舶があったのかもしれない。 1609年から230年ほど経過した1841年に13人の日本人乗組員を乗せた日本の船が太平洋上で難破した記録がある。鎖国時代の 事件である。その和船は4ヶ月間太平洋上を漂流したあと、アカプルコに向かう一隻のスペイン海賊船エンサーヨ丸(スペイ ン人2人とフィリピン人20人が乗船)に救助されるが、この船上で日本人乗組員は約60日間にわたり奴隷のような労働を強要 されたあと、ついに、乗組員はメキシコ領バハ・カリフォルニア半島沿岸付近の海上で解放される出来事があった。13人のう ち7人はカボ・サンルーカスに、2人はサンホセ・デル・カボに、そして残り4人はグァイマスに漂着した。この日本船は神戸 港を出帆した永住丸(永寿丸もしくは栄寿丸との表記もある)である。岩手県宮古に寄港してそこで積荷の酒や砂糖、木綿を 商いしようとしていたのだが、13人は図らずも太平洋を横断してしまった。

こんどは日本人が、独立国メキシコの領土で太平洋沿岸に面した港で救助され介護されたことになる。13人のうち4人はマ サトランに辿り着き、別の3人はメキシコからチリのバルパライソに向かった者もいた。一行のなかに不明者は1名いたが、 21歳の永住丸船長井上善助をはじめとする5人は、メキシコに2〜3年滞在したあとフィリピン経由で1844年に日本に帰り着い ている。5人は帰国後、奉行所に引見され漂流記やメキシコでの滞在の模様と現地のメキシコ人との体験談を供述した10。そ こからさまざまな記録が生まれている。京都外国語大学付属図書館はこの事件に関する稀觀書の蒐集と関連書籍の蔵書数が 豊富であるため注目されているが、ここでは紙幅の制限からすべてを紹介できない。そのうち日本の絵師が乗組員の陳述する 報告をもとにした空想に富んだ色彩豊かな図像を和紙に描いた、1844年刊の出直之[筆]による「北亜墨利加図巻」は圧巻で ある11。こうして幸いにも今日、私たちは興味深い乗組員の経験した様子とその逸話を推しはかれる。永住丸船員の一人太 吉という者が語った「墨是可新話」は11編からなる逸話で、その一部はスペイン語に訳されている。これらの記録は250年間 の鎖国日本を研究するもう一つの資料ではないだろうか12。本年2月24日に、メキシコ合衆国下院議事堂内で日墨交流400周年 記念式典が挙行されたが、その機会に在メキシコ日本国大使館の要請を受けた本学付属図書館は、つぎの稀覯書を海外展示 した。出展したものは出直之筆『北亜墨利加図巻』天保15年(1844年)、『漂流人善助聞書』弘化2年頃(1845年)、靄湖漁曳撰 『海外異聞』嘉永7年(1854年)で、これらは報道メディアを通じて現地で大きな反響を呼んだことは記念式典に招かれた一人 として筆者は伝えておきたい 。
1874年金星観測隊来日
時代は明治に移った。明治7年(1874年)にメキシコ金星観測隊が横浜に来日している。当時の天文学では地球と太陽の距 離は正確に知られておらず、この年は太陽面を経過する金星を観測することでその距離を測定し、太陽系の規模も判明できる 重要な天体観測年であった14。そのため、イギリス、イタリア、フランス、ロシア、アメリカ合衆国などは最適の観測地をも とめて、日本各地に観測隊を派遣してきたのである。メキシコの天文学者フランシスコ・ディアス・コバルビアスを隊長とす る5人編成のメキシコ金星観測隊も、首都メキシコを発ちベラクルス、ハバナ、ニューヨーク、サンフランシスコを経由して、 太平洋を横断して横浜港に到着した。横浜郊外の二ヶ所に観測基地を設営した。外国人居留地内の「山手丘陵地基地」とディ アス・コバルビアスが居住した「野毛山基地」で、明治政府は観測隊に電信用回線の敷設などの便宜を供与したため、神戸と 長崎で観測していたアメリカ隊やフランス隊と通信連絡も可能であった。観測結果の成果はパリで1875年にいち早く発表し、 1876年にメキシコ国立天文台が創設されたと言われている。
そのころのメキシコの歴史を簡潔にいえば、1876年からメキシコ革命が勃発する1910年までの長期間にわたって独裁制を しく軍人ポルフィリオ・ディアスがまもなく権力を掌握しようとする時期であった。15年間にわたるベニート・フアレス大統 領政権の時代のあとにセバスティアン・レルド・デ・テハダが大統領に就任した頃であった15。観測記録の刊行に引き続き、 翌年76年に観測隊長ディアス・コバルビアスは『メキシコ天体観測隊の日本訪問』をメキシコで出版する16。1978年にロペス ・ポルティージョ大統領が本学を訪問した機会に、大学付属図書館は当時でもメキシコで入手するのが困難であった原著の復 刻版500部を作成して、日本とメキシコ両国の関係機関や研究者に贈呈している。ノーベル賞顕彰記制作者ケルスティン・テ ィニ・ミウラ女史の手になった復刻版特別装丁本の一冊は大統領に贈呈された。また、同書の日本語翻訳本『ディアス・コバ ルビアス日本旅行記』は、欧米を代表する著名な人物、たとえば、ギメ、ゴンチャローフ、ホジソン、シュリーマン、グラン ト将軍など明治日本を訪問した著名人訪問記録叢書シリーズのなかで、ラテンアメリカからの来訪者としてデイアス・コバル ビアスが含まれたこともこの機会に記しておきたい。
科学者として日本で天体観測し、明治日本の政治、社会、経済について意見を述べ、同著で将来メキシコが日本と外交・通 商関係を結ぶ可能性を示唆している。メキシコが独立を達成したあと、近代化政策の策定は専らヨーロッパ諸国を参考にして この国の外交政策に対し、今後はアジア諸国とも外交交渉を始めるべきだと訪日経験から主張している。この提言こそ、数年 後にメキシコが日本と国交樹立をめざして全方位外交政策を採りはじめる伏線となった。一方、横浜滞在中は体調をくずして 観測活動にほとんど従事できなかった観測隊記録担当係のフランシスコ・ブルネスは、日本の風俗習慣や東京近郊の街を散策 して、ディアス・コバルビアスと異なる視点から日本観察記を著述した『北半球一万一千レグアス歴訪の印象』を1875年に刊 行している。デイアス・コバルビアスより冷徹に、日本と日本人について論評している点は私たちの興味を引くところとなっ ている17。
5人のメキシコ人観測隊員のなかに写真係りとしてアグスティン・バローソが来日していた。観測隊が日本に滞在中に明治 政府から通詞として派遣された屋須弘平は、そのとき写真技術を隊員から学ぶ機会に恵まれた。屋須は観測終了後も隊長の ディアス・コバルビアスに同行してパリ経由でメキシコに渡っている。ディアス・コバルビアスが帰国後グアテマラ公使に 任命されたとき屋須も随行して同国を訪れた。同氏と別れたあとはグアテマラの古都、アンティグア市でメキシコ人から学ん だ写真技術を駆使し同地に写真館を開業している18。現在でもアンティグア市を訪問すると歴史資料館で屋須弘平が撮影した 800点以上のガラス版写真原版が残されているので、筆者も同国を訪間したときに整理保存されている実物の原版を見る機会 があった。明治7年にメキシコ金星観測隊は日本を訪問したが、観測隊にまつわるこんな逸話もあり、屋須弘平はアンティグ ア市の貴重な歴史写真を撮影して現在に伝えるような貢献をした。
1888年日墨修好通商航海条約締結
日本とメキシコがまだ国交樹立をしていなかった1883年1月、在アメリカ合衆国日本国臨時公使高平小五郎と在アメリカ合 衆国メキシコ公使マティアス・ロメロはワシントンで日墨修好通商航海条約締結にむけて会談していた。それまで日本が列強 と締結していた条約では国際法上の一般原則を遵守するとともに、相手国政府は対日条約で優遇条項を強いていた。メキシコ 政府はこうした条項を要求しない日墨間の平等関係を前提としていたので、日本政府はそれまで列強と締結した不平等条約の 改正と、それを破棄する交渉過程で先例として役立つだろうと考えていた。メキシコにとっては対アジア外交政策の拡大を意 味し、それまでの欧米偏重外交政策を改善してポルフィリオ・ディアス大統領が外交政策を転換していく時期でもあった。同 条約の締結は日本の主権の行使そのものであった。時の外務大臣は大隈重信である。5年におよぶ会談や交渉、決裂や再協議 をへて1888年11月30日、マティアス・ロメロ公使と陸奥宗光公使がワシントンで「墨西哥合衆国修好通商条約」(当時の日本 側資料による表記)を締結した。
1892年にはメキシコ・シティに日本国領事館が開設され、一方、前年の1891年には横浜にメキシコ領事館が設置されて、 のちに東京に公使館が開設されている。第二次世界大戦が終結し、1952年に現在の在日本メキシコ大使館が設置された19。
2009年の回想
日本とメキシコの国民が接触した経緯を語るには、19世紀の段階で日本は人口過密国と考えられていた狭隘な国であった ことも忘れてはならない。そのため海外への移民政策も推進され、メキシコヘは「榎本殖民団」が1897年に結成されて35名が グアテマラとの国境に近いチアパス州に派遣されている。入植者が現地の気象条件についての情報に疎く、移民の就労適応力 の不足、亜熱帯地域での農耕作業の経験不足などからこの移民政策は失敗した。この移民政策については多くの著作があるが 、このたび榎本殖民について日本語とスペイン語の二つの言語で、上野久著『メキシコ榎本殖民』を底本した漫画本が刊行さ れたのでより多くの人に榎本殖民について理解を促す機会が生まれるだろう20。榎本殖民団のなかには現地に留まった人と、 メキシコ各地に分散して二世や三世として活躍している人たちを確認できることはまさしく、日墨交渉史の一端を回想させる ようである21。同時に、メキシコに魅了されてこの国へやって来た日本人もいる。画家の北川民次、劇作家の佐野碩などはメ キシコでその分野の文化運動を展開した。ユカタン州メリダ市で活躍した黄熱病研究の先駆者、野口英世博士は学術分野で高 く評価されている。そのほか両国には音楽や文学、スポーツなどの交流、交換留学生協定も1972年に締結されている。2005年 に両国政府は新たな国際情勢と経済状況に対応するために日墨経済連携協定(EPA)を締結した。このようにして両国は地理的 条件、文化遺産、固有の資質を生かしこれまで出会いを重ねてきた。 
 
 

 

 
『金銀島探検報告』 セバスティアン・ビスカイノ  

 

 
セバスティアン・ビスカイノ 1
(1548-1624) スペインの探検家。スペインのウエルバに生まれる。1583年にヌエバ・エスパーニャに渡り、1586年から1589年まではマニラ・ガレオンの貿易商人としてフィリピンとヌエバ・エスパーニャの間を往復した。
カリフォルニア探検
1593年、カリフォルニア湾西岸での真珠採取の権利がビスカイノに譲渡された。ビスカイノは3隻の船でバハ・カリフォルニアのラパスまで航行することに成功した。現代のラパスという名前もビスカイノが与えたものである(エルナン・コルテスはサンタクルスと呼んでいた)。ビスカイノはラパスに植民しようとしたが、補給の問題、モラルの低下、火災の発生によって、すぐに撤退することになった。
1601年、ヌエバ・エスパーニャ副王のモンテレイ伯爵は、ビスカイノを第二の探検の長に任命した。今回の探検の目的は、マニラからアカプルコへ帰るスペインのマニラガレオン船のために、アルタ・カリフォルニアの地に安全な港を探すことにあった。また、60年前にフアン・ロドリゲス・カブリリョが探索したカリフォルニアの海岸線を詳細な地図に描くことも要求されていた。1602年5月5日、ビスカイノは3隻の船でアカプルコを出発した。旗艦の名はサンディエゴであり、ほかの2隻の名はサントマスとトレスレイェスであった。
11月10日、ビスカイノはサンディエゴ湾にはいり、その地を命名した。チャンネル諸島のサンタバーバラ島やポイント・コンセプション、サンタ・ルシア山脈、ポイント・ロボス、カーメル川、そしてモントレー湾などの重要な地名はビスカイノの命名に由来する。このため、1542年にカブリリョがつけた名称のいくつかは消え去ることになった。
トレスレイェスの船長であったマルティン・デ・アギラルはビスカイノと別れてさらに北上し、現在のオレゴン州のブランコ岬か、あるいはクーズ湾まで到達した可能性がある。
ビスカイノの航行の結果、モントレーにスペイン人を植民させようという騒ぎがおきたが、間もなくモンテレイ伯爵がペルー副王に転任し、後任者がモントレーに興味をもたなかったため、植民地化にはさらに167年間待たなければならなかった。植民地化のための探検を1607年に行う計画が1606年に許可されたが、延期の後、1608年に放棄された。
日本との関係
1611年(慶長16年)、2年前にフィリピン前総督ドン・ロドリゴ一行(サン・フランシスコ号)が、帰還のためアカプルコへ向けての航海中台風に遭い上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜で難破し救助された事への答礼使として、ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣され、「サン・フランシスコ」で来日した。なおこの人選は、ヨーロッパの鉱山技術に興味があった徳川家康の要請に沿ったもので、同時にエスパーニャ側にも日本の金や銀に興味があったことによるとされ、日本近海にあると言われていた「金銀島」の調査も兼ねていた。
3月22日にヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコを発ち、6月10日浦賀に入港、6月22日に江戸城で徳川秀忠に謁見し、8月27日に駿府城で家康に謁見する。しかし第一に通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教であり、友好については合意したものの、具体的な合意は得られなかった。
家康から日本沿岸の測量についての許可は得られ、11月8日に仙台に着き、11月10日に伊達政宗に謁見、11月27日から奥州沿岸の測量を始める。12月2日、気仙郡越喜来村(現大船渡市)沖を航海中に慶長三陸地震の大津波に遭遇したが、海上にいたため被害はなかった。次いで南下し九州沿岸まで測量を行った。
日本沿岸の測量を終え、1612年(慶長17年)9月16日に家康、秀忠の返書を受け取り、ヌエバ・エスパーニャへの帰途につく。帰途金銀島を探すが発見できず、11月14日暴風雨に遭遇「サンフランシスコ2世号」が破損し浦賀に戻る。
乗船を失ったため、ヌエバ・エスパーニャへ帰るための船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが、日本側の外交政策の変更もあって断わられ、1613年(慶長18年)にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗し帰国した。
仙台城のことを以下のように評した。
「城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワを距てて数レグワの海岸を望むべし」
『金銀島探検報告』
ビスカイノが1614年にヌエバ・エスパーニャ副王に提出した金銀島探検航海の報告書で、1867年に初めて公刊された。正確にはビスカイノ本人の著作ではなく、スペインの歴史学者フアン・ヒル(スペイン語版)は、大部分は書記アロンソ・ガスコン・デ・カルドナ、末尾の部分は書記フランシスコ・ゴルディーリョの執筆と推定している。以下の日本語訳がある。 
金銀島探検
金や銀が豊富に産出されるという、伝説上の「金島」・「銀島」を探し求めて航海・探検に赴くこと。主として近世以前のヨーロッパ人が、アジアに目標を定め、幾度も来訪していた。
伝説の発祥は古代インドとも言われ、1世紀のローマ帝国の地理書には、インダス川の東方に金島・銀島が存在すると記されている。また、金島を「ジャバ・デビバ」とも呼び、現在のジャワ島やスマトラ島にあたると考えられていた。その説は中国に逆輸出され、当時スマトラ島に栄えていた貿易国家・シュリーヴィジャヤ(室利仏逝)がその地にあたると考えられていた。義浄が同国を「金洲」と称したのもその影響とされる。
だが、同地との交流が盛んになり、地勢や鉱産資源が明らかになると、シュリーヴィジャヤを金銀島と見なす考えは衰え、替わりに9世紀のアラビアの地理書に記載される金島・ワクワクの存在が喧伝されるようになる。これは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』の刊行により、倭国・すなわち日本のことだと考えられるようになった(「黄金の島」・ジパング。だが、マルコ・ポーロ自身も日本の実情を把握した上で書いたものであるかは疑問とされている)。
16世紀にポルトガル人が日本に来訪し、実際には金の産出量がそれほどでもないことを知る。そこで石見銀山など、豊富な銀鉱山を有する日本は「銀島」であり、東方の太平洋上に、別に「金島」が存在するという考えが登場するようになった。更に日本が鎖国の体勢に入って貿易が困難となると、別の「銀島」を探す風潮が生まれた。
1612年にスペインのセバスティアン・ビスカイノ、1639年にオランダのマティス・クアスト(英語版)とアベル・タスマン、1643年に同じくオランダのマルチン・ゲルリッツエン・フリースとヘンドリック・スハープ(オランダ語版)、1787年にフランスのラ・ペルーズ伯、1803年にロシアのクルーゼンシュテルンなどが太平洋航海を行って金銀島の捜索を行っているが、太平洋の地理的状況が明らかとなった19世紀初頭には伝説の域に過ぎないと考えられるようになった。  
 
新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノ 2

 

日米交流に関しては、セバスチャン・ビスカイノについて次のような情報を付け加える必要がある。
ビスカイノとカリフォルニア沿岸探検
ビスカイノが使節に任じられ日本に来る、およそ9年も前の話である。ビスカイノは3艘の船団を組んで、1602年5月5日、アカプルコで2年も準備したカリフォルニア沿岸の探検・調査に出発した。その目的は、アカプルコから太平洋岸を北上し、主要な入り江や岬、陸地の目標を測量し、航海方法を記述し、木材や水、バラスト石のある場所を特定し、風向を計測し、太陽高度を測定し緯度を計測し、主要な場所に地名を付け、カリフォルニア沿岸の航海地図を作成することであった。おそらく、当時重要だったルソン島(現フィリピン)マニラから新スペイン(現メキシコ)への航路情報としても、領土拡張としても必要だったのだろう。
アカプルコから北上するにしたがって、エンセナダを命名し、サン・ディエゴを命名し、サンタ・バーバラを命名し、モントレーを命名した。これらの地は現在でも良く知られた、現メキシコやアメリカ合衆国カリフォルニア州の湾や港町になっている。更に北進し、サンフランシスコの北300kmほどにある、メンドシノ岬辺りまで到達している。ビスカイノはモントレーやサン・ディエゴを入植地として強く推奨したが、当時最も重要だった太平洋を渡りルソン島マニラからアカプルコに向かうガレオン船航路沿いにあっても、アカプルコから3300kmとあまりにも北にあり、入植に多大な費用がかかりすぎるためか、その後長くスペインから忘れられた存在だった。もっとも1609年頃には、モントレーがガレオン船寄港地として入植地建設の第1候補だったが、対費用効果の観点から、下に書く「金銀島」探検が優先されたようだ。その後1769年、やっとサン・ディエゴに新スペインの砦と伝道所ができ、1771年、モントレーにも砦と伝道所ができ、その後マニラからのガレオン船も帰港したようだが、ビスカイノの探検から167年も後のことである。
ビスカイノの日本沿岸測量と、「金銀島」探検
前ページのごとく、1609(慶長14)年、ルソン島の前総督、ドン・ロドリゴがルソン島から新スペインに帰国する途中船が難破して日本で救助され、徳川家康から帰国資金と三浦按針(ウィリアム・アダムス)の建造した120トンの外洋船・サン・ブエナ・ベンチュラ号(按針丸)の提供を受け、翌年無事新スペインに帰国できた。セバスチャン・ビスカイノは新スペイン総督サリナス候の命で、日本の救助活動への答礼と、ロドリゴが提供を受けた帰国資金を返却するため、1611年3月22日アカプルコを出発し、6月11日浦賀に入港した。この船には、1610年に家康がドン・ロドリゴに随伴させ、新スペインに派遣した22人の日本人使者たちも乗り組み帰国できた。
ビスカイノはこの答礼使節という目的のほかに、スペイン王から新スペイン総督に命じられた、ルソン島から新スペインへ向かう航海ルートで重要地点にあたる日本沿岸の測量と、噂になっている日本の東にあるという 「金銀島」の発見をも命じられていた。
当時スペインが成功させていたルソン島から太平洋を渡り新スペインのアカプルコまでの定期航路は、日本近海で少なくとも北緯30度以北へ、出来たら40度辺りまでにも出来るだけ北上し、貿易風を受けて東進し、メンドシノ岬あたりで北米大陸を認めるや、一気に東南に進路を取り北米大陸沿いにアカプルコへ向かうものだった。これはまた、とりもなおさずルソン島からアカプルコへの航海で、太平洋を渡る大圏航路に近いものだが、ドン・ロドリゴの日本沿岸での遭難に見るように、日本近海の測量は重要になっていた。それと同時に金銀島探検は、モントレーでの入植地建設より優先度の高い大きな目的だった。家康や秀忠は、約束どおり援助資金を返却し、日本人一行を送り返したスペイン王や新スペイン総督の要求を入れ、ビスカイノに沿岸測量を許可している。ビスカイノは浦賀から奥州まで沿岸を測量し、引き返し長崎までも測量した。
三陸沿岸を測量中の1611年12月2日(慶長16年10月28日)、ビスカイノ一行の測量隊は越喜来(おきらい)の村に着いた。現在の岩手県大船渡市三陸町越喜来である。この入り江、越喜来湾に近づくと、村人達がみな山に逃げて行くのを見た。ビスカイノ一行を恐れて逃げるのかと不審に思っていたとき、突然4m.にも及ぶ津波が押し寄せた。三陸地震によるものだった。ビスカイノによれば三回も高波が来たという。この津波は三陸沿岸や北海道東岸に来襲し、伊達藩内で溺死者1,783人、南部・津軽の海岸でも人馬の溺死は3千余り、北海道の南東岸ではアイヌの溺死者が多かったという。
日本の太平洋岸の沿岸測量を終え、やがてアカプルコへの帰りの航海の途中での宝島発見に出航したビスカイノはしかし、「金銀島」を発見できず、嵐で船は壊れ、仕方なくやっと浦賀に帰り着いた。ビスカイノは船を造るために家康の援助を願おうとしたが、フランシスコ派宣教師の妨害に遭い、ついに願いが家康まで届かなかった。滞在費は底をつき、帰る船もないビスカイノに救いの手を差し伸べたのが、新スペインと通商を望んでいる伊達政宗だった。政宗は「伊達丸」即ち、ガレオン船・サン・ファン・バウティスタ号を建造し、支倉常長を新スペイン経由スペインに送り、スペイン国王フェリペ三世から通商の許可を得る目的だった。ビスカイノもまた一緒に、このサン・ファン・バウティスタ号でメキシコ、即ち新スペインに送られたのだ。しかし野心家で日本語のできるスペイン宣教師、ルイス・ソテロの影がちらつき、伊達政宗の命でソテロが長官兼船長に就任し、ビスカイノは一人の船客という待遇だった。
この日本のすぐ近くにあり金銀が大量に産出すると噂される宝島の発見は、スペインのみならずオランダも、1639年から数次に渡りバタビヤから探検隊を出している。特に幕府が嘉永6(1853)年にまとめた外交史料 『通航一覧』にも、こんなオランダ船の1艘(筆者注:ブレスケンス号と言われる)が寛永20(1643)年に陸奥国南部浦に来て、10人が水を取りに上陸し盛岡藩に捕まったがオランダ人と分かり、出島の商館長、カピタン・エンサヽキ(筆者注:エルセラック・Jan van Elseracq / Eserack)に引き渡された記録が載っている。それほどこの金銀島の発見は、当時熱く血を沸き立たせる探検だったようだ。
ビスカイノが命名した、カリフォルニアと日本の「サン・ディエゴ」
前述のごとく、ビスカイノが日本に新スペインの使節として来る以前に、カリフォルニア沿岸をアカプルコから北に探検し、港や補給基地に最適な湾を発見し、「サン・ディエゴ」と命名した。この地は現在、アメリカ合衆国カリフォルニア州サン・ディエゴ市である。ここはしかし、ビスカイノの探検以前に、カブリヨ船長によって「サン・ミグエル」とすでに命名されていたので、後世の歴史家の中にはビスカイノの命名に異議を唱える人もいる。しかし、ビスカイノによって命名されたサン・ディエゴがその後ずっと使われている。
ビスカイノはまた日本で、徳川家康の許可を得て太平洋沿岸を測量し、奥州沿岸の水浜(宮城県石巻市雄勝町水浜)の地は良港になるという報告を伊達政宗に提出し、「サン・ディエゴ」と命名した。この他にもこの近辺で良港になりそうな地を、サン・アントン、サント・トーマス、サント・ドミンゴ、レグスなどと命名し、夫々政宗に報告している。このようにしてビスカイノは、太平洋を挟んだ日本とアメリカの両岸に「サン・ディエゴ」の地名をつけた人物である。もちろん、現在の日本には、もうこの地名はない。  
 
400年前に津波を見たスペイン人 1

 

3月11日、東日本を襲った巨大地震、その後に発生した津波は、東北地方の多くの人々をのみ込み、想像をはるかに超えた爪痕を残していった。
2006年に死去した作家吉村昭の記録文学『三陸海岸大津波』(文藝春秋)が東日本大震災以降、増刷を重ねているという。明治29年、昭和8年、そして昭和35年に三陸沿岸を襲った大津波を題材にした作品だ。しかし、三陸はもっと以前から津波に襲われていた。今から400年前の1611年12月2日、越喜来(おつきらい、現岩手県大船渡市)一帯を大津波が襲っている記録が残されており、それを初代スペイン大使として来日していたセバスティアン・ビスカイノが海上から目撃し、それを自らの記録に残しているのである。
セバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaino)は、1551年にスペインのウエルバ(Huelva)州の州都ウエルバで呱々の声をあげている。1567年にポルトガルの反乱鎮圧の戦に参加した後、ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)に渡り、1586 年から89年まではフィリピンに滞在する。その後、バハ・カリフォルニアの探検に従事した後、1604年にはメキシコからフィリピンに渡航するスペイン艦隊の司令官に任ぜられる。
スペインと日本の出会いはフランシスコ・ザビエルの来日(1549年)に遡るとされるが、両国の間で最初の外交交渉が交わされたのは、1609年のことである。日本は徳川家康の時代、スペインはその植民地を中南米を越えてフィリピンにまで拡張していた。1609年7月25日にフィリピンを出港して、メキシコへの帰国途上にあった臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロ乗船の帆船サン・フランシスコ号は暴風雨のため、9月30日に上総国の岩和田に漂着・難破した。ビベロをはじめ多数の乗員は村人に救助され、ビベロは江戸城で徳川秀忠と、また駿府では家康と謁見し、これがスペインと日本の最初の外交交渉へと展開することになる。
その後、ビベロ一行は、1610年8月1日、ウイリアム・アダムス建造のサン・ブエナベントゥラ号で帰国すると、ヌエバ・エスパニャ第11代副王ドン・ルイス・デ・ベラスコは、ビベロ一行の救助と送還に対する答礼使を、日本近海にあると古くから伝えられていた「金と銀に富んだ島々」の測定を兼ねて派遣することになり、初代スペイン大使としてビスカイノが送り出された。1611年3月22日のことである。
ビスカイノは1611年6月22日に秀忠と、同7月4日には家康に謁見している。そして両者への謁見の間の6月24日、ビスカイノは江戸で伊達政宗と邂逅しており、これが東北訪問の契機となったのである。
ビスカイノの報告によれば、11月8日に仙台に着き、まず政宗を訪れて歓待される。正宗の厚遇を得て、15日から仙台藩の沿岸の測量を開始し、20日間ほどかけて現在の仙台湾、石巻湾、牡鹿半島、雄勝湾、気仙沼湾、そして越喜来まで北上している。
ビスカイノは12月2日に越喜来において大地震と大津波に遭遇したことを記録に残している。それは慶長16年10月28日に陸奥で起こった大地震と大津波のことであり、伊達藩における溺死者は5千人を数えたと伝えられる。
その日のビスカイノの報告は次の通りである。
「金曜日(12月2日)我等は越喜来の村に着きたり。又一の入江を有すれども用をなさず。此処に着く前住民は男も又女も村を捨てて山に逃げ行くのを見たり。是まで他の村々に於いては住民我等を見ん為め海岸に出でしが故に、我等は之を異とし、我等より遁れんとするものと考え待つべしと呼びしが、忽ち其原因は此地に於て一時間継続せし大地震の為め海水は一ピカ(3メートル89センチ)余の高さをなして其堺を超え、異常なる力を以て流出し、村を侵し、家および藁の山は水上に流れ、甚しき混乱を生じたり。海水は此間に三回進退し、土人は其財産を救う能はず、多数の人命を失ひたり。此海岸の水難に依り多数の人溺死し、財産を失ひたることは後に之を述ぶべし。此事は午後五時に起りしが我等は其時海上に在りて激動を感じ、又波濤會流して我等は海中に呑まるべしと考えたり。我等に追随せし舟二艘は沖にて海波に襲はれ、沈没せり。神陛下は我等を此難より救い給ひしが、事終わりて我等は村に着き逃かれたる家に於て厚遇を受けたり。」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)
幸い、ビスカイノ一行は海上にいたおかげで命びろいし、その夜は津波の被害をまぬかれた家に宿泊している。
ところで、伊達政宗はスペイン人との出会いから、メキシコとの直接通商交易に関心を抱き、1613年、日本最初の通商外交を展開するべく、正使のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロと副使の支倉常長とから成る「使節団」をメキシコ経由でスペインに送り出した。同年10月28日、ソテロと支倉に加えて150名の日本人を乗せた「サン・フアン・バウティスタ号」はメキシコに向けて宮城県牡鹿郡月の浦を出帆した。ビスカイノもこの船に便乗してメキシコに帰り、1615年にアカプルコで死亡したといわれる。
月の浦のある石巻市は、1971年にチヴィタ・ヴェキア市と姉妹都市協定を結んだ。市民レベルでの交流が始まり、同市のカラマッタ広場に支倉常長像が建立される中で、サン・フアン・バウティスタ号の復元事業が開始し、同船の復元後の1997年には月の浦に宮城県慶長使節船ミュージアム(通称サン・フアン館)が開館する。同船はサン・フアン館のドックに係留された。2009年までの入館者は130万人を超えたといわれる。
今回の地震と津波によって、ドックは壊滅したが、木造船は幸い一部の損傷だけで救われたという。2013年はサン・フアン・バウティスタ号が使節団を乗せて宮城県を出帆してから400年目の記念の年に当たる。昨年は625頁に及ぶ浩瀚な『仙台市史 特別編8 慶長遣欧州使節』が刊行され、2年後には400周年記念祭が予定されている。サン・フアン・バウティスタ号が東北復興のシンボルとなることを祈りたい。  
 
慶長三陸地震と金銀島 2

 

今から402年前、1611年(慶長16年)の今日12月2日、M8.1の慶長三陸地震が発生した。この地震によって岩手県大船渡などを最高20メートルの津波が襲い、現在の岩手県から宮城県沿岸部では数千人の命が失われた。この慶長三陸地震による大津波を目撃した一人の外国人の話を。その男の名は「セバスチャン・ビスカイノ」スペイン人。
スペインの領有するフィリピンの前総督ドン・ロドリゴが航海中に台風で遭難、上総国(現千葉県)で救助された答礼使として日本に派遣されたが、「答礼使」なんて建前。実は、国王フェリペ3世の命を受けて、『伝説の金銀島』を探しにきたのだ。ヨーロッパでは、すでに紀元1〜2世紀頃から、ギリシャやローマの地理書に「インド洋に金や銀がうなる島がある」と記述され、人々のあくなき欲望を刺激していた。
15世紀になると、マルコ・ポーロの「東方見聞録」で「黄金の島ジバング」として日本は一躍、西洋世界で有名になる。
大航海時代が生まれたのも、半分はこの「黄金島伝説」のおかげだ。その後、「日本の東海上北緯29〜30度に金島、33〜34度に銀島がある」とかなんとか、さまざまな説が流布されて、ビスカイノも「日本の端から150レグア(約840キロ)にある銀島を探索しろ」との命令書を携えていた。ところがそもそも日本の正確な地図がないから、「日本の端から840キロ」と言われてもどこだか分からない。(だとすれば、そもそも『840キロ』という最初の情報そのものが怪しいということになるはずだが) そこで、ビスカイノの重要な使命の一つとして、「日本東海岸の測量」というのがあった。
ビスカイノは徳川家康に謁見して、「航海中の避難場所」とか、「地図の写しは幕府にあげます」とか、調子の良いことを言って、測量作業のOKを取り付け、伊達政宗が領有する三陸海岸へと一路向かうのだった。そしてビスカイノは慶長13年の12月2日、越喜来(おきらい 現岩手県大船渡市)に上陸しようとする船上で、慶長三陸地震の津波に遭遇する。
その時の様子が、ビスカイノの「金銀島探検報告」に記載されている。その要旨を現代語訳風の意訳で……。
「越喜来の入江に入ったが、上陸する前に、男も女も村を捨てて山に逃げていく。これまで他の村では、村人がみんな自分たちを見物するために海岸に出てきたので『変だなあ?』と思った。自分たちから逃げようとしているのだと思って、『ちょっと待ってくれよ!』と呼び止めたが、みんなが逃げているのは、1時間も続いている大地震のためで、海水は1ピカ(3メートル89センチ)あまりの高さで陸との境界を越え、村に流れ込んでいる。家やわらの山は流され、津波は3回襲い、多くの人が溺死した……」
まるで「これはネタか!」と思うほどに、何とも「間抜けな探検家」だが、ビスカイノは大船渡市で測量のための北上を終え、反転して九州沿岸までの測量を行なっている。大船渡市の北緯は39度あたり。それより北には「金銀島はない」という判断だったのだろう。
当然ながら、ビスカイノは「金銀島」を発見することはできない。
だが一方で、ビスカイノらと会って、伊達政宗の中の「海外交易熱」は一気に高まり、ビスカイノと一刻も早い面談を求めていた。
「自ら船を造り、イスパニア(スペイン)国王に進物を贈り、領内でキリスト教を説く宣教師を求めたい」
「下心満々で日本に来たのに、なんだか先方がスペイン熱に盛り上がっている…」
ビスカイノは本心でどう思ったのだろうか?
結局、ビスカイノは翌年にいとまごいをして、帰国の途につく。
帰途でも金銀島を探すが、見つからず、その上、嵐にあって自身の船「サンフランシスコ2世号」は大破、浦賀に舞い戻るはめに。
幕府に「帰国するための船の建造費を用立ててほしい」とお願いするが、幕府はこれを拒絶。
よくよく「ツイてない探検家」だが、最後にラッキーがめぐってきた。
「海外交易熱」に取り憑かれた伊達政宗が支倉常長ら慶長遣欧使節団の派遣を決めた。
船の建造にビスカイノが協力したのは言うまでもない。
結局、ビスカイノは遣欧使節団のサン・ファン・バウティスタ号に同乗して、メキシコ・アカプルコまで送ってもらう。
最後まで「ラテン系な探検家」だった。  
 
スペイン外交と浦賀湊

 

はじめに
近世初頭の関東浦賀湊は、徳川家康の外交政策により東国一の国際貿易港として開かれ、船奉行向井政綱や英人ウイリアム・アダムスのもと、スペイン・オランダ・イギリス人が在留し、我々の想像を遥かに越えた賑わいを見せていた。家康が、未だ公権を確立していない当時、江戸城に近い浦賀を貿易港とすることは、極めて重要な意味を持つものであった。
この頃の日本の貿易商人は、誰ひとり記録を残す者はいなかったが、スペイン・ポルトガルの在日宣教師が、驚くほど詳細に日本の情報を本国に報告している。彼らの記録をそのまま事実として捉える訳にはいかないが、浦賀外交を検証していくためには、彼らの記録と断片的な日本側史料を、丹念に照合していかねば、探求できないのが実状である。
これらの事情を踏まえ、家康が浦賀湊の開港を志向・意図したものは奈辺にあったのか、何故、ウイリアム・アダムスを外交顧問に抱えたのか、そして船奉行向井氏が、どう浦賀貿易に関わったのか述べてみたい。
スペイン人鉱夫招聘の要請
徳川家康は、豊臣秀吉の没後、僅か三か月後の慶長三年(一五九八)十一月、秀吉時代から貿易交渉の経験を持つ、フランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジエズスを招き、浦賀湊にスペイン商船を寄港させるよう交渉した。家康の交渉は、単なる貿易を目的とするものではなく、西班牙(イ スパニヤ)式の造船技師、および鉱山技師の招聘にあった。
この頃、我が国の金銀山の採掘に用いていた金銀製錬法は、たいへん不能率な灰吹法であり、みすみす損失を招いていたが、スペインが、メキシコやペルー(共にスペイン領)で用いていたアマルガム法(混汞法)は、水銀を接触させて金銀を回収する画期的な方法であり、これによりメキシコは多量の金銀を得ていた。家康は経済政策を進めていく上で、この新技術を導入することは極めて重要であった。
造船技術にしても、我が国の大船といえば、秀吉が九鬼水軍に造らせた安宅船くらいであり、これなどは、とても太平洋の荒波に耐える代物ではなかった。それに引きかえスペイン国は、大海原の航海に耐える大型帆船の建造技術を持ち、それは主としてスペイン領マニラで建造されていた。日本国が、東アジアの国々と通商していくためには、大船の造船技術の導入もまた、急務であった。そのため関東布教を黙認した。それは、スペインが商売と布教が一体化した理念を持つ国であったからである。
しかし、ジエズスは、造船・鉱山技師の派遣は自分の権限外であり、本国スペインおよびメキシコ総督の許可を得ねばならぬと回答したのである。
三浦按針の重用
家康の対スペイン交渉の最大のネックは、言語である。家康のブレーンには、事実上の外交担当の老中本多正信や、金座頭の後藤庄三郎がいたが、ラテン語が通じる側近はなく、交渉は遅々として進展しなかった。このような情勢下に、奇しくも家康の面前に現われたのがウイリアム・アダムスである。彼は、大型帆船の造船技術を持ち、航海が堪能で、西洋の政情のみならず、天文学・幾何学・地理学に通じ、イスパニヤ語・ラテン語にも通じた。家康にとって、正に「救いの星」であったに相違ない。
日本史上、為政者が外国人を側近として抱えた例がない中、アダムス(以下三浦按針と記す)を外交顧問として寵遇し、江戸邸のほか、浦賀湊に屋敷を与え、浦賀に近い逸見(へみ)にも屋敷を与えたのは、イギリス・オランダ貿易のためではなく、対スペイン交渉のためである。逸見の采地二二〇石は、その職務を遂行していくための報酬である。でなければ、同じ外交顧問として雇用したヤン・ヨーステンのように、江戸邸のみ与えれば、用は足りたはずであるから。
朱印船制度の創設
この頃の日本人は、東アジアへ自由に渡航し、ヨーロッパ人もまた日本への出入りは自由であった。このような私貿易船は、一見、理想的にも見えるが、彼ら日本人は、八幡大菩薩の船旗を立てて渡航し、利益を得られないと沿岸を略奪し、八幡船と呼ばれ恐れられていた。
徳川家康は、マニラで非義を作る八幡船が後を絶たない報告を受け、フィリピン総督の要請により、慶長六年正月、公貿易船であることを区別するため、マニラ渡海の朱印状を発給した。これが家康の朱印船制度の創設である。つまり、家康の朱印船制度は、対スペイン交渉が契機となって創設されたものであった。 
スペイン船漂着
当時、マニラからメキシコへ向かうガレオン船の出航は、六月下旬に吹き始める初期の南西風に乗って日本近海を東進し、太平洋貿易の拠点アカプルコ港へ向かうのが常であった。しかし、少しでも出航が遅れると、台風に遭遇する危険が甚だ多く、土佐清水港や浦戸港・豊後の港などに漂着したものであった。
マニラからメキシコに赴くスペイン船の関東漂着は、二回ある。一回目は慶長六年八月、上総大多喜浦に漂着したセレラ・ジュアン・エスケラであり(『慶長見聞集』)、二回目は慶長十四年九月、上総岩和田沖で難破した元フィリピン総督ドン・ロドリコ・デ・ビベロである(『増訂異国日記抄』)。
とりわけ、ビベロに対しては、未だ実現していない鉱夫招聘の交渉船として送還させている。このとき、家康が、ビベロらの帰国のため提供した船舶は、二回とも、三浦按針が家康のために建造した洋式小帆船である。家康は、初めて手に入れた太平洋を渡る船を、スペイン鉱夫招聘の交渉のために提供したのである。
本国に送還させたエスケラ、およびビベロの返礼大使は、二回とも家康の要請により浦賀湊に入港している。その浦賀貿易を管轄していたのは船奉行向井政綱・忠勝父子であり、返礼大使が浦賀に着岸する都度、仰せを受けて接待し、自らも商売に携わっていたのである。
三浦按針のマニラ渡海
浦賀湊は慶長九年(一六〇四)、マニラのスペイン商船が入港して以来、毎年、入港し通商が行われていた。しかし、その一方、慶長十一年ポルトガル顧問会議では、マニラが日本と通商することを阻止しようとする提案が出された。この重大問題を解決するため、宣教師ベアト・ルイス・ソテーロは、役立つ交渉人として三浦按針をマニラへ送る案を示唆した。その結果、三浦按針は慶長十三年五月、マニラにおいてフィリピン総督ビベロと会見している(『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』)。総督ビベロは、三浦按針と会見の結果、獄中にあった八幡船の徒者を残らず日本に帰国させ、八幡船問題に終止符を打ち、浦賀貿易を再開することを決し五月二七日、家康に書簡をしたためた。この五月二七日は西暦七月九日にあたり、『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』にある「同年七月九日、家康及び秀忠に書状を認めた」という記述と、日付がピタリと一致する(『増訂異国日記抄』)。
…当所数年逗留之日本人徒者共候而 所之騒ニ罷成候之間 当年者壹人も不相残帰国之儀申付候 …如例年今年も黒船差渡候、則到関東可乗入之旨 安子申付候 併海路不任雅意候へは 日域中者、皆以御国之儀候之間 何所へ成共 風次第可入津之由申付候、此加飛丹同船中者共 御馳走奉仰候…
ビベロは、アクニヤの後を受けてフィリピン総督に就任した旨を述べ、数年来、逗留の日本人徒者を一人残らず帰国させること、以後、紛争が再発せぬことを望むこと、貴国からの商船は毎年四隻に限ること、そして「関東」(浦賀湊)に入港すべき旨「安子」に申付け、「加飛丹」(船長)以下の饗応を求めたのである。右の家康宛の書状「安子」(Ange)は按針のことで、「加飛丹」(蘭語 Capitao)は船長のことである。
このときのサン・イルデフォンソ号の船長は、ファン・ヒルにより(4)、ファン・バウティスタ・デ・モリナで、按針=航海士はファン・バウティスタ・ノレと確定している。ファン・ヒルは、「安子」は単なる航海士のノレとしているが、右の書翰を、はじめて刊行した外交官C・A・レラは、「安子」は、職名の按針=航海士ではなく、三浦按針を指していると推測しており、筆者も、C・A・レラと同意見である。
その理由として、当時、外交文書を掌っていた以心崇伝が翻訳した書翰を通覧すると、航海士=按針を「安子」と翻訳した書翰は、この一通のみであること。ファン・ヒルは、『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』にいう三浦按針のマニラ渡海説について、何ら検証しておらず、家康の使者は誰なのかについても、一切、言及していない。総督ビベロは、船長モリナを「この船と使節の長に定めた」のであり、この日本行きのイルデフォンソ号には、マニラに渡海した家康の使者も同船していたはずであり、総督ビベロが関東入港を指示した「安子」は、船長モリナの指揮下にある単なる職名の按針=航海士ではなく、人名の三浦按針と考えられる。
三浦按針を指した言葉は『異国日記抄』(一五六頁)に「アンジ」、異国御朱印帳の慶長十一年十月十日付、家康のパタニ商館長宛の通行許可証に「安仁」とあり、またセーリスの『日本渡航記』(一〇四頁)には、「アンジ(Ange)」は、土地で、そう呼ばれるアダムス君のことだと記されている。
こうして、豊臣秀吉時代から、フィリピンの近海で恐れられていた八幡船の存在に終止符が打たれた。三浦按針が重用されたのは、もともとスペインとの通商確立のためであり、彼が、外交顧問としてその本領を発揮したのは、正にこのときであろう。
浦賀フランシスコ修道院の建立
慶長十三年七月、浦賀湊における通商が円滑に行われるよう、浦賀住民がスペイン人に対して狼藉を禁ずる高札が立てられた(「御制法」六)。
三浦之内浦賀之津
対呂宋商船狼藉之儀 堅被停止之訖 若於違背之輩者速可処厳科之旨 依仰下知如件
慶長十三年七月日   対馬守(安藤重信)
               大炊助(土井利勝)
また同年、浦賀にフランシスコ修道院が創設された。高札にしても、修道院の創設にしても、三浦按針がマニラで総督ビベロと会見した際、ビべロが求めた必須の条件であったろう。レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史上巻』一六〇八年条に、「…同年、江戸と伏見の修道院が再興された。フランシスコ会の人々は、江戸から十二リュー距った関東の小港浦河(浦賀)に、更にもう一箇所、修道院を建てた…」と記し、「哀れでみすぼらしい」とあるから、僅かに宗教的な趣を漂わせた簡素な建物であったとみられる。おそらく貿易代理店としての役割も兼ねたと推測される。
修道士たちは、浦賀に祈りのための一画を貰い受け、修業生活をしながら布教に励み、その一方、貿易における通訳や商品売買に携わっていたのである。これらフランシスコ会への優遇は、家康の理解に基づくものではなく、鉱山技師招聘の実現のための、やむを得ぬ措置であったことは言うまでもない。
こうして、キリスト教の伝道は、江戸と浦賀のフランシスコ修道院を中心に活発に行われ、街道に沿って広がっていったのである。
オランダ・イギリス通商の成立
イギリス・オランダとの通商は、家康の働きかけによって成立したのではない。両国の東印度会社の使節が日本に派遣され、三浦按針の斡旋により成立した、いわば受け身であり、しかも、オランダとの通商成立は三浦按針の来日から九年後であり、イギリスとのそれは十三年も経てからである。
家康が、浦賀を、単なる貿易港とする目論見であったとすれば、布教が伴う旧教国スペイン国との通商は止め、三浦按針を介し、直ちに、布教をしない理想的なイギリス・オランダ貿易に切り替えたはずである。しかも、家康の力を以ってすれば、浦賀に両国の商館を置くことなど容易であったはずなのに、平戸に両商館を設置する希望を容易に認め、商船の浦賀入港さえ指定していない。浦賀には、僅かに三浦按針の面目を保ち、平戸イギリス商館の浦賀支店が置かれただけであった。
向井氏と渡海朱印状
メキシコ総督は、元フィリピン総督ビべロらを送還した返礼大使として、セバスチャン・ビスカイノを浦賀に派遣した。ビスカイノが浦賀湊に着岸したのは慶長十六年四月で、彼らは「フネアスの司令官」(船奉行向井政綱)、および「司法官と称する其地のトノ」(三浦郡代官頭三代・長谷川長重)に迎えられた(『ビスカイノ金銀島探検報告』)。ビスカイノが関東に滞在中、常に、彼に付き添って必需品を調達し、江戸・駿府に同行したのは向井将監忠勝であった。ビスカイノは向井忠勝を評し「…船舶司令官向井将監殿の手を経て、前期の指令を受くる交渉に着手せり。此人は大なる好意を以て、一切の請願を援助し、直ちに我等の希望を皇太子(秀忠)に通じたれば、皇太子は直ちに国務会議に命じて、司令官が其旅行の為め、要求する所の指令を迅速に与えへしめたり…」と書き残している(『ビスカイノ金銀島探検報告』)。
渡海朱印状というのは、申請すれば誰でも下付されるものではなく、将軍側近の仲介を要した。浦賀湊を出入する商船に発給される朱印状は、常に向井氏の手を経て渡されていた(『増訂異国日記抄』)。向井氏は、彼らに便宜をはかる都度、何らかの報酬を得ていたのであり(『本光国師日記』四巻)、それはスペイン人に限らず、オランダ・イギリス人も同様であり、両国の商館長日記にみるように、彼らは、元和年間まで毎年、向井父子に献上品を贈っている。長崎平戸においても、その土地の領主への贈物は日常的に行われており、非公式ながらも、彼らが外国で商売をしていく上で、強いられた慣行であったのである。
向井忠勝の評価
大使ビスカイノは、関東に滞在中、船奉行向井政綱・忠勝父子と行動を共にすることが多かった。彼は向井父子をよく観察していて、二人に接した感懐をこう記している。
… 将監(向井忠勝)殿の皇太子(秀忠)より寵遇を受くることは非常にして、我等が同市(江戸)に着きし以来、皇太子が狩、猟、其他の為めに外出する時、彼はそばに従はざることなく、当国の貴族などより大に羨望せらる。特に人質として当宮廷に在る王侯の子息及び孫達は、彼の祖父及び先祖の事蹟、身分賤しかりし事、其他を暴露せり。此の信仰なき国民の間に、嫉妬の盛なるを見るは嘆かはしきことなり。然れども、彼は大なる思慮ありて善く之を忍び、或人々に対しては、彼の父並びに彼が、忠誠を以て皇帝並に皇太子に尽したる所は、與へられたる名誉に相当せりと言へり。彼等向井父子は、武器を手にして己の力を以て獲得したるが故に、大にこれを大切に思へり…(『ビスカイノ金銀島探検報告』)
イギリス商館長リチャード・コックスは元和二年(一六一六)九月、将軍秀忠から新通商許可証を給わり、三浦按針の案内で三浦三崎の向井政綱邸(現在の最福寺の地)を表敬訪問した際、向井忠勝の三崎の新邸(現在の三浦市役所の地)を見学し、「この人は、我々が日本に有する最良の友人の一人である」と述べている(『イギリス商館長日記』)。向井忠勝は、コックスからも深い信頼を受けていたことが判る。
向井忠勝と浦賀貿易
向井忠勝は、ビベロが浦賀湊に滞在中、ビベロに随行していた某スペイン商人に日本商品を託し、その売上金を以てスペイン商品を購入し、浦賀に送るよう依頼したことがあった。ところが、これが不履行に終わり大使ビスカイノに訴えた。ビスカイノは、浦賀在住の宣教師や自分たちの待遇は、全く向井氏の掌中にあるので、七百ペソに相当する布地および羅紗を以て弁済したという(『ビスカイノ金銀島探検報告』)。
また、こんなこともあった。西国から多くの商人が浦賀にやって来て、商品売買が盛んに行われていた。そこへ、用人と称する二人の「将軍の買物掛」がやって来て、スペイン商品を買い付けると流言したため、誰も商品を購入する者はなく売れ残った。そこでビスカイノは二人を呼び、ならば将軍の朱印状を見せよと言うと、両人は平伏し、将軍とは無関係であることを白状したという。
この用人が何者なのか不詳だが、ビスカイノは、以後、それまでスムースであった向井忠勝との間に障阻が生じたと述べているから、おそらく向井氏の手の者であろう。このような「将軍の買物掛」という先買特権の行使は、秀吉時代から行われ、家康・秀忠の時代に限ってみえる役職である。慶長十八年のイギリスに対する通商許可証には「船中之荷物之儀ハ 用次第目録ニ而 可召寄事」と書かれ、将軍が優先的に購入できるシステムになっていた。島津家の記録『旧記雑録後編』にも、明船が入港した場合は急ぎ注進し、珍品があれば、その旨を通知するよう指示したことがみえる。イギリスの場合は、特に三浦按針との関係もあって将軍の買上品が多かったようである。
向井忠勝は浦賀貿易の統括者として、イギリス平戸商館長リチャード・コックスと三雲屋との仲を調停し、三雲屋に未払い勘定を清算させ、コックスに贈物をさせ和解させたこともあった(『イギリス商館長日記』)。向井忠勝は、浦賀貿易に関し、トラブルの仲裁にもあたっていたのである。
ビスカイノの金銀島探検
ビスカイノが、メキシコ総督の大使として、その使命を帯びたものは、日本列島の東海岸にあるとされた金銀島の発見である。十三世紀末、マルコ・ポーロが『東方見聞録』に、日本を「黄金の国ジパング」と書いたことは周知の通りであるが、日本が黄金の国ではないことが明らかとなっても、この噂は久しく消えることはなかった。実際、日本では銀が多量に採掘されていたからである。
金銀島にまつわる話が『イギリス商館長日記』にみえる。それには元和二年(一六一六)九月、向井忠勝は三浦按針に向かって、北方に金銀鉱山の富んだ島があり、将軍がその島を征服しようと企てていると聞く、ついては報酬を出すから、水先案内を務めたらどうかと申し出ると、三浦按針は、目下、イギリス商館に雇われる身であるから、任務を捨てて、そこへ行く訳にはいかぬと拒絶したという。この話が事実であれば、向井忠勝もビスカイノのように、日本の北方に金銀島があると本気で信じていたことになる。ところが、三浦按針やコックスの観測では、そんなものはないと理解していたようである。
ビスカイノは向井政綱の取次により、貿易のためと称し日本東西の沿岸測量の朱印状を得ると、慶長十六年(一六一一)九月、江戸を発し、陸奥越喜来から南下しながら測量し、さらに長崎に至り、約半年間で日本沿岸の測量を終え、慶長十七年六月、浦賀湊に戻り、家康・秀忠に海図を一面ずつ進呈した⑻。次いで、船舶を修理し食料を積込むと、これ幸いと、帰国を装って浦賀を出帆し、測量図に従って金銀島の探検に向かうのである。
もとより架空の金銀島を発見できるはずはない。ビスカイノは、再三の暴風雨に遭遇し、船舶は破壊し、止むを得ず浦賀湊に戻り、帰国のための大船建造の援助を家康に請うた。時あたかも、ポルトガル船に関わる岡本大八事件によるキリシタンへの不安が褪めやらぬ、慶長十七年十月であった。ここに至って、家康は、日本沿岸の測量は貿易のためではなく、金銀島探検のためであった事実を知ることになる。
ビスカイノが帰国の術を失ったとき、その頼ったところは初代仙台藩主の伊達政宗である。ビスカイノは奥州の海岸を測量した際、政宗がメキシコと直接通商を開きたいと述べたことを想い起し、政宗に船匠を貸与することを条件に大型帆船の建造を勧め、これが結実し、政宗領内にキリスト教布教を認める条件で遣欧使節船派遣に至るのである。
伊達政宗遣欧船と向井将監
伊達政宗が遣欧使節船の建造を決意したのは、将軍秀忠の使節ソテーロが乗った秀忠の遣欧船サン・セバスチャン号が浦賀湊を出帆し、浦賀水道で擱坐した話をソテーロから聞いたときである。この秀忠船は、ビスカイノの勧めにより、向井忠勝の公儀大工をして伊東で建造させた船で、ビスカイノが浦賀湊を出帆する際、その僚船として出港する予定であったが、造期が遅れて出帆し、その上、積荷過剰のため座礁してしまったのである。
向井忠勝は政宗の要請に応じ、慶長十八年三月、公儀大工の与十郎と水手頭の鹿之助・城之助を派遣し、産物の紅花および菱喰(水草を食べる水鳥)三羽を進呈する用意がある旨を伝えた(「伊達貞山治家記録」)。向井忠勝が政宗の相談にのったのは、ビスカイノの依頼もあったと思われる。
だが、当時、公儀大工といっても、大船の造船技術は未熟であった。浦賀には、後北条氏時代から伊勢水軍出身の船大工がいて、彼らは三浦按針が伊豆で建造した洋式帆船に二度も携わり、秀忠船の建造にも携わり、また日本側が買い取って浦賀湊に放置されていた、ビスカイノの洋式大船サン・フランシスコ号二世の構造を具に見分し、学んだであろう。しかし、秀忠船が浦賀水道で擱座したことにみるように、大型船の建造技術にしても、航海技術にしても、未熟と言わざるを得ない。このことはリチャード・コックスや三浦按針らが口を揃えて言うところである⑾。日本人は、新技術を速やかに学び取り、それを模倣し、改良を加える能力は優れていたが、スペイン人はそれを日本人に伝えることは消極的であり、言語の不通も伴って、細かい部分において学び取ることは、勤勉な日本人であっても、至難の業であったに相違ない。したがって、ビスカイノが政宗と協議して交わした契約書にみるように⑿、すべての指揮権はビスカイノにあり、向井氏の公儀大工はその名を連ねるだけで、造船・艤装の重要な部分を担ったのは、ビスカイノが伴った船匠であり、造船費用から仙台までの旅費、荷物運送費、アカプルコに到着するまでのスペイン人航海士や船員の俸給・食糧などは、すべて政宗の負担という契約であった。こうして、政宗船は牡鹿郡月浦港で建造された。
政宗船の積荷は、政宗・加飛丹の荷物のほか、向井忠勝から商品二、三百梱、世上から四、五百梱が積まれた(『政宗君記録引証記』)。向井忠勝は政宗船に便乗し、家人に日本商品を託し送り込んだ。慶長十八年八月一日には、三浦按針から猩々皮(舶来の毛織物)の合羽一領が献上され、出帆直前の九月六日、向井忠勝から、航海安全を祈る書状および祈祷札が届けられている(『政宗君記録引証記』)。向井忠勝が自ら奥州へ赴いた形跡はないが、政宗遣欧船の件で、終始、指導的立場にあったことは確かである。『古談筆乗』によると、
「自将軍秀忠 有種々土産贈所附船頭焉。支倉六右衛門、横沢将監使とし、艤于牡鹿月浦出也。」
と述べている。秀忠の遣欧船が江戸湾口で座礁した事実をみれば、秀忠が、政宗遣欧船に船頭を付けることはあったかもしれない。
こうして、政宗船はサンファン・バウティスタ号と命名され、九月十五日、奥州月浦港をメキシコのアカプルコへ向け出航した。乗組員は大使ビスカイノをはじめ、政宗の使節支倉六右衛門長経および宣教師ソテーロ、船長の横沢将監吉久、仙台藩士今泉令史ほか五人、雑役九右衛門ほか六人、南蛮人四〇人、将監忠勝の家人一〇名ほど、商人五〇名、外人四〇余名、総じて一八〇余名が乗り込んでいた。
支倉六右衛門が、マニラでジャンク船を新造し、浦賀湊を経由して奥州月浦港に帰国したのは、元和六年(一六二〇)八月である(『伊達貞山治家記録』二八)。それは、奇しくも伊達政宗が禁教の態度を明確にし、公然と禁教の制札を掲げる二日前であった。支倉六右衛門の欧州における七年余の輝かしい事績は、禁教政策の下に消された空しい帰国であった。主君政宗の名誉ある使者として渡海したにも関らず、唯々哀れという外はない。
因みに、支倉六右衛門の実名は『寛政重修諸家譜』に「常長」と記しているが、彼自身がイスパニヤ国王やイルマ公に宛てた書翰、およびベニスの大統領に宛てた正式な書簡には、すべて「長経」と自署されているとおり⒁、「常長」という名は、後世、書き替えた名である。
大使カタリーナ追放と三浦按針
大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ一行が、政宗船サンファン・バウティスタ号に乗り「浦川(浦賀)」に着岸したのは、元和元年(一六一五)閏六月二一日である。政宗船の二度目の太平洋横断である。ときに大坂城落城から間もない頃で、カタリーナは、さぞ歓迎されるであろうと踏んでいたが、全く当て外れであった。カタリーナ自身の報告によれば、禁教により二か月もの間、向井忠勝の監視の下で、浦賀の甚だ悪い家に押し込められ、江戸・駿府へ行くことも許されず、この間、信用すべき通訳もないまま、空しく謁見の機会を待っていたと述べている。
向井忠勝の注進により、カタリーナ来日の報に接した家康は、元和元年八月四日大坂を発し、二三日、駿府に戻り、平戸にいる三浦按針に駿府に来るよう指令を出している⒃。日本広しと雖も、カタリーナに国外退去を通告し、政令の趣旨を正確に伝えられる者は三浦按針しかいなかった。カタリーナは、三浦按針を介し国書と献上品を携え、家康の下に赴き国書を提出したが、このときカタリーナが齎したフェリペ三世の書簡には、家康がビスカイノと条約を結んだ鉱夫派遣のことは、一切、触れられておらず、ただ宣教師の優遇を願うのみであった。もはや、家康は一言も発しようとはしなかった(17)。
カタリーナは、再び立ち戻ることのないよう強い布告を受け、元和二年八月、政宗船に乗り逃げるように浦賀湊を出帆した(『日本耶蘇教史』)。これが浦賀からメキシコへ向かう最後の貿易船となった。こうして、マニラ―浦賀―メキシコ間の交易ルートは絶たれ、浦賀外交はスペイン人鉱山技師の招聘を実現することなく、訣別を迎えたのである。
向井忠勝の委託貿易
向井忠勝は、カタリーナらが浦賀を出帆する直前、委託貿易を試み、一年前から入牢していた宣教師ディエゴ・デ・サン・フランシスコの釈放を請い、これが赦された。ディエゴという人物は一六一五年四月、加藤嘉明の訴えにより捕えられ、以来、獄中にあった(『日本切支丹宗門史』上)。巷では、本多正信・正純父子が中心となって全国のキリシタン取締りが行われる中、向井忠勝はメキシコ貿易の巨利にひかれ、カタリーナ追放に便乗して家人をディエゴに託し、最後の貿易船となろう政宗船に、日本商品を積み込んだのである。メキシコに着したディエゴは、副王グワダシャラに対し、向井忠勝との約束について、「…日本の役人向井将監の有利な商業上の遠征を導いたために、イスパニヤが当然、受くべき極刑の免除を請うた…」と奏上したという(『日本切支丹宗門史』中)。
船の出帆を聞いた伊達政宗は元和二年七月、メキシコ総督に宛て書簡をしたため、船長横沢将監に託した。その内容は、先年、政宗遣欧船を渡海させた際、ソテーロより、政宗船をメキシコに渡すよう堅く申入れがあったので、カタリーナらを国外追放する序でに、同船を渡すというもので、「自今已後ハ、季々渡海させ可申候」とあるから(18)政宗は、厳しいキリシタン弾圧下にありながら、なおメキシコに滞在する支倉六右衛門に期待を持ち、再び、メキシコから領内に政宗船を渡海させる夢を膨らませていたことが判る。
メキシコに渡った政宗船は、メキシコ政府の要望により、元和五年、日本人の反対を押し切って廉価をもって買い取られた。
向井忠勝のキリスト教観
「ディエゴ・デ・サン・フランシスコ報告・書簡集」の中に⒇、向井忠勝がディエゴに語った一節がある。忠勝は「…我が一子息をバードレ・ソテーロにお頼みした。その子供は洗礼を受けて死去したが、私がキリシタンにならないのは、この迫害のためである。しかし、真の神を望み、貴殿の教えをその真の神の教えだと信じている。もしも機会があるならば、身を危険にさらすことなく、私もキリシタンになりたい。しかし、今は生命や領地を失わないために、敢えてキリシタンにはなり得ない…」と述べている。
死去した一人の子息とは殉教をいうのであろう。ソテーロという人物は、家康が、貿易のために宣教師の入国を黙認していることなどはサラサラ熟知していて、家康・秀忠をはじめ、幕府の要職にある側近らと巧妙に接し、その周到な態度は人を畏服させたといわれる。そのソテーロが、まず向井氏を入信させることに懸命であったことは想像に難くない。だが、家康が布教を嫌っていることを、ソテーロ以上に熟知していたのは忠勝であり、その忠勝がキリスト教の信奉者であったとは思えない。一子を洗礼させたのは商売目的ではなかったか。生命や領地を失わなければ「私もキリシタンになりたい」という忠勝の言は、家人に託したメキシコ貿易が、ディエゴの口添えにより成功へ導くためのリップサービスと解されるのである。
いずれにしても、このディエゴの報告書は向井忠勝のキリスト教観を窺えるもので、自身がキリシタンではなかったことを明言した、唯一の史料である。
貿易制限令と浦賀湊の閉鎖
家康は浦賀開港を実現させ、十七年という長きに亘ってスペイン人鉱夫の招聘を要請したにもかかわらず、ついに実現には至らなかった。フィリピン総督は、造船技術を日本に伝えることについては、全く受け入れる意思はなかった。なぜならば、これまでフィリピンが日本からの襲撃を受けずに済んだのは、日本がマニラに来襲するような大船の建造技術がなかったからであり、その技術を伝えれば、それに乗って攻めて来いというのと同じである。また新金銀製錬法を伝え、日本に国富を齎(もたら)すような行為など、しようはずはない。この事実をみれば、たとい家康が余命を長くしたとしても、貿易港としての浦賀の生命は、早かれ、遅かれ、同じ道を辿ったであろう。
家康の死から、僅か四か月後の元和二年(一六一六)八月、二代秀忠は海禁政策の強化を露わにし、中国船以外の外国船の来航地を長崎・平戸に限定し、貿易関係者に普く通達し、三浦按針も平戸へ移住を余儀なくされた。これにより、光を放ってきた国際貿易港浦賀の生命は絶たれたのである。
まとめ
家康の浦賀外交を振り返ってみると、浦賀湊へ商船誘致を行ったのは、一貫してスペイン系商船のみであり、おのずと、焦点はスペイン一国に当てられていたことが浮上する。すなわち、当時、画期的な金銀製錬法アマルガム法の導入が、浦賀開港の眼目であったことである。家康はマニラからの要請に応え、日本商船の数を限定し「法律」を定めたが、この法律こそ、家康の公貿易船の証としての朱印船制度の創設である。つまり家康の朱印制度の発祥は浦賀外交にあったといえる。
家康は、秀吉時代から長崎に入港していたポルトガル船を浦賀に招くことは一切なく、イギリス・オランダ商船に対しても、浦賀入港を強要することはなかった。浦賀を単なる国際貿易港とすることが目的であったとすれば、三浦按針を遣って、布教が伴わないイギリス・オランダとの通商に、速やかに切り替えたはずである。
しかし、そうはせず、毎年、派遣されるスペイン人宣教師を黙認し、三浦按針をマニラに渡海させ、中断していたスペイン船の入港を再開し、さらに、スペイン貿易がスムースにいくよう、浦賀住民の濫妨狼藉を禁止する高札を立て、浦賀にフランシスコ修道院の地まで提供した。禁教令発布により、カタリーナに国外退去を通告し政令の趣旨を伝えたのは三浦按針であり、これらの事実をみれば、三浦按針は対スペイン交渉のため重用したと考えてよい。
家康は、スペイン国との親交に力を注ぐ余り、常に宣教師の布教に注意を払い、禁教令は、時には厳しく、時には緩められ慎重に操られてきた。秀吉のごとき強い弾圧を与えなかったのは、スペイン人鉱夫派遣に期待し、政治資金を確保することを優先したからであり、この浦賀外交に家康の鉱山業に対する鋭意を垣間見ることができる。
対スペイン交渉は、その当初から両国の目的に大きなズレがあり、家康の粘り強い交渉にもかかわらず、最後まで折り合うことはなかった。貿易港としての浦賀の生命は、家康の死により、僅か一〇数年で終焉を迎えたが、浦賀を舞台としたメキシコ交渉の失敗が大きな要因となって、鎖国へと導いたことは確かである。
 
 

 

 
『日本大王国志』 フランソア・カロン

 

 
フランソワ・カロン 1
(1600 -1673) オランダに亡命したフランスのユグノー教徒。オランダ東インド会社に30年以上勤務し、最終的にはバタヴィア商務総監(植民地総督の次席)にまで昇進した。後にはフランス東インド会社の長官(1667–1673)を務めた。しばしば、日本に渡来した最初のフランス人とされる。確かに当時南ネーデルラントに属したブリュッセル生まれのフランス系の亡命ユグノー教徒であるが、実際にはフランス国民となったのは、後にフランス東インド会社の社長になることを受諾したときである 。
日本で
通訳
カロンは、料理人として1619年に平戸のオランダ商館に着任した。その後、1641年まで20年以上滞在することとなる。この間に江口十左衛門の姉と結婚し、6人の子供をもうけている。1626年には商館助手に昇進した。日本人と結婚したこともあり、日本語に熟達した。1627年に台湾行政長官のピーテル・ノイツが来日し、台湾での貿易に関して将軍徳川家光に拝謁を求めた際には、通訳として参府している。当時江戸にオランダ語通詞はおらず、ポルトガル語を経由して意思疎通を図っていたが、日本語が話せるカロンは非常に重宝された。結局末次平蔵の妨害により拝謁は実現せず、ノイツは成果無く台湾に戻ることになるが、その際にカロンも同行した。その後、ノイツと平蔵の問題はタイオワン事件へと発展し、平戸商館は4年間閉鎖されたが、ノイツを日本に人質として渡すことで交易は再開された。カロンはこの解決のためにバタヴィアと日本を往復している。
次席
1633年4月9日には次席(ヘルト)となり、1636年2月には館長代理となったが、この年にノイツの釈放に成功している。またこの年に、バタヴィア商務総監のフィリプス・ルカスから日本の事情に関する31問の質問に回答する形で『日本大王国志』を執筆した。当初出版を予定したものではなかったが、1645年に東インド会社の社史の付録として出版され、1661年にはカロン自らが校正した上で単行本として出版された。
1637年9月、長崎奉行榊原職直に対して、日蘭が同盟してマカオ、マニラ、基隆を攻撃することを提案した。その後まもなく長崎代官の末次茂貞(末次平蔵の息子)から、商館長のニコラス・クーケバッケルに対し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛の要請があった。これに対し、オランダ側はスヒップ船4隻とヤハト船2隻を派遣することとした。しかしながら、翌年に島原の乱が発生したこともあり、フィリピン遠征は実現しなかった 。
商館長
1639年2月12日にはクーケバッケルの後を受けて商館長となった。1627年に続き、1633年、1635年、1636年、1639年、1640年、1641年に江戸に参府している。
島原の乱の後、1639年にポルトガル船の入港が禁止されたが(第5次鎖国令)、それに先立ち幕府はカロンに対してポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している 。
1640年、通商再開を願って来日したポルトガル人が全員死罪となった。これを知ったカロンはオランダに対しても厳しい運命が待っているであろうことを予想した。その予想通り、同年に大目付井上政重と長崎奉行柘植正時が平戸に派遣され、カロンに倉庫の破壊を命じた。理由は、1638年に建設された商館の倉庫に西暦が彫られているというものであった。カロンがこの命令に異議を唱えた場合、カロンをその場で殺害し、平戸オランダ商館は熊本・島原・柳河諸藩により攻撃が加えられることとなっていた。この行為は将軍家光の専断によるものであり、必ずしも幕府全体の意向ではなかった。しかし、滞在20年を超えるカロンは日本の現状を理解しており、命令に従って倉庫を破壊した。
この後、ポルトガル人が追放されて空いていた出島にオランダ商館は移された。カロンのこの対応に感謝する意味もあって、その後井上政重は、オランダ人のために便宜をはかるようになった。
1641年2月10日、商館長の職をマクシミリアン・ル・メールに委ね、2月12日には家族と共にバタヴィアに向けて平戸を出帆した。
カロンが商館長を務めていたときに、商館員のハンス・アンドリースが日本人既婚女性と密通し、両名とも死罪になる事件が発生している。また、幕府の依頼により、部下の鋳物師であるハンス・ヴォルフガング・ブラウンに臼砲の製造を行なわせている(島原の乱の際に、当時の技術では炸裂弾が使えないカノン砲(初速が速いため、対応可能な信管が無かった)があまり役に立たず、幕府は炸裂弾の使用が可能な臼砲(カノン砲より低初速)に目をつけた)。
オランダへの帰国
一端バタヴィアに向かったカロンは、そこでオランダへ向かう船を待った。その間に東インド会社の評議会の一員に選ばれている。1641年12月13日、カロンは商船隊の司令官としてオランダへ向け出帆した。
アジアでの新たな任務
セイロン遠征
会社はカロンの功績に対し、1500ギルダーの株を与えることで報いた。1643年にはアジアでの新たな任務が与えられた。1月25日にオランダを出発し、7月23日にバタヴィアに到着した。到着前にバタヴィアにいたカロンの妻の江口氏は死亡していた。カロンは妻との間にできた6人の子女を「正規の」子女とする手続きを行い、3年後に認められた。
1643年9月、カロンはオリファント号に乗り組み、1700人の遠征隊(内陸兵950人)を率いて、セイロン島のポルトガル軍を攻めるためバタヴィアを出発した。12月20日にセイロンに到着。1月8日からネボンゴ(英語版)の砦近くに上陸し、翌日攻撃を開始した。戦闘は1日で終わりカロンは勝利した。カロンは占領した砦を補強し、守備隊450人を残して4月にバタヴィアに戻った。11月には休戦条約が結ばれ、オランダはセイロンのシナモン産地の割譲を受けた。
台湾行政長官
1644年には台湾行政長官に任命され、7月5日バタヴィアを出発8月10日にはゼーランディア城に着任した。到着後すぐに病気にかかったため、しばらく前任者のル・メールが次席としてカロンを補佐した。1646年まで同地での東インド会社の最高位にあった 。
この間に、カロンは米、砂糖、インディゴ生産の改善、硫黄の採掘、中国の海賊との取引の緩和を行った。1644年には4隻、45年には7隻の貿易船を日本に送り出している。
カロンは1641年から43年までのオランダ滞在時に25歳年下のコンスタンチヤ・バウデーンと知り合っていた。前妻の死亡後、カロンは独身となっていたが、1644年9月に代理人を立ててハーグでコンスタンチヤとの結婚式を行った。1645年6月、コンスタンチヤは姉のスザンヌと共に台湾に到着した。スザンヌはそこでフレデリック・コイエットと結婚している。
カロンはそこでコンスタンチヤに贅沢をさせたようで、それもあってバタヴィアに呼び戻された。
バタヴィア商務総監
バタヴィアに戻ったカロンは、1647年3月9日に植民地総督(Gouverneurs-generaal)の次席にあたる商務総監(Directeur-generaal)の地位についた。1649年、ブレスケンス号事件解決の謝礼を述べるため、日本に特使を派遣することが決まった。このとき、カロンは特使一行に砲術士官のユリアン・スヘーデルと外科医カスパル・シャムベルゲルを加えた。スヘーデルは臼砲の射撃を披露し、その指導は軍学者の北条氏長によって「攻城 阿蘭陀由里安牟相伝」にまとめられた。シャムベルゲルは多くの日本人を治療し、後にカスパル流外科術の祖と見なされるようになった。両人は日本人から非常に歓迎されたが、これは日本人が何を好むかを熟知していたカロンの功績と言える。
1651年、私貿易を行ったとの訴訟を受け、オランダに召喚されたが、勝訴して名誉を保って会社を退職することが出来た。
フランス東インド会社
1664年、フランスの財務総監であったジャン=バティスト・コルベールはルイ14世にフランス東インド会社の設立を進言した。コルベールはカロンに対し、新たに設立された会社の指導的役割を担うよう働きかけ、1665年にカロンはその長官に就任した。これはオランダから見れば反逆行為であり、カロンは故郷への立ち入りを禁止された。
マダガスカル
1664年、カロンはまずマダガスカルに向かった。そこに植民地を設立することはできなかったものの、ブルボン島とイル=ド=フランス島(現在のレユニオンとモーリシャス)に港を建設した。17世紀後半になって、フランスは東海岸に貿易港を建設した。
日本
カロンは日本との貿易も計画したが、他のフランス人と意見が対立し、結局は実現しなかった。しかしながら、この情報は日本のオランダ商館にも伝わり、1667年のオランダ風説書で幕府にも報告されている。
インド
カロンは1669年にインドのスーラトに支店を開設し、さらにペルシア出身のアルメニア商人マルカラ・アヴァンチンツ(英語版)をゴールコンダ王国に派遣して1669年にマチリーパトナムにも支店を開設した。この功績に対し、ルイ14世はカロンを聖ミカエル騎士団(英語版)の一員とした。1668年から1672年まではポンディシェリで長官(Commissaire)を務めた。1673年、フランス東インド会社は、最終的にポンディシェリを貿易の中心地と定めた。
1672年、カロンはセイロンのフランス軍を助け、戦略的に重要な港湾であるトリンコマリーとチェンナイ周辺に位置するマイラーップール(英語版)のサン・トメ要塞(英語版)(São Tomé)を占領した。しかしながら、この軍事的成功は短期間に終わり、カロンがヨーロッパに戻るために出発した後、フランス軍はセイロンから駆逐された 。
1673年4月5日、カロンの乗船していた船はヨーロッパに戻る途中ポルトガル沖で沈没し、カロンも死亡した。  
 
フランソワ・カロン 2

 

 平戸商館長、台湾総督を務めた「国際人」
17世紀前半、東アジアの海では実に多様な出自の人々が行きかっていた。日本や中国の貿易商人は両国の交易ばかりでなく東南アジアにまで進出してそれぞれ拠点をつくっていた。大航海時代を切り開いたポルトガルとスペインの冒険商人や宣教師は中国や日本の門戸を開く。ヨーロッパの新興勢力オランダとイギリスも東アジア交易への参入を図って追いかけてきた。宗教的情熱、一獲千金を夢見る男たちの野心、未知なる世界への憧れ──様々な思惑が交錯する群像の中、オランダの平戸商館長や台湾総督を務めることになるフランソワ・カロン(François Caron、1600〜1673)の姿もあった。
カロンは『日本大王国志』により日本事情をヨーロッパへ伝えている。これは、バタビア商務総監フィリップス・ルカスの質問に対して1636年にカロンが回答したもので、幸田成友による翻訳が平凡社・東洋文庫に収録されている。同書には幸田の筆になる「フランソア・カロンの生涯」も収録されており、これはポルトガルやオランダの海洋交易史で著名なイギリスの歴史学者Charles Ralph Boxer(1904〜2000)の研究に依拠して執筆されたものである。
カロンを「初めて来日したフランス人」と称する人もいるが、事情はなかなか複雑だ。なにしろ、国籍や国境といった近代的観念のまだなかった時代のことなのだから。
1600年、フランソワ・カロンはブリュッセルに生まれた。両親はフランスの新教徒(ユグノー)で、間もなくオランダへ移る。カトリックのプロテスタント弾圧により苛烈な宗教戦争の渦中にあったフランスでは、1598年にアンリ4世が出したナントの勅令でようやく混乱に終止符が打たれたばかりの時期であった。
成長したカロンは1619年に料理人手伝いとしてオランダ東インド会社の船に乗り込み、オランダ商館のある平戸へやって来た。契約終了によるのか、脱走したのかはよく分からないが、いったんオランダ商館を離れ、日本人女性と結婚、1622年には長男ダニエルが生まれている。日本人の中に混じって暮らしながら、流暢な日本語を身につけた。
1626年2月からオランダ商館の助手に採用されたが、翌1627年、台湾総督ピーテル・ヌイツの来日が彼の人生にとって大きな転機となる。当時、オランダは台湾での徴税をめぐって日本の長崎商人と貿易摩擦を起こしていた。ヌイツ総督は将軍と直接交渉するために江戸へ向かい、日本語に堪能なカロンが通訳として同行した。結局、ヌイツは将軍への拝謁がかなわず、失意と怒りを抱えて台湾へ戻る。今後も日本人と交渉を行う上で役立つと思われたのだろうか、カロンも台湾までついていった。
そして1628年に有名な濱田弥兵衛事件が起こる。長崎商人・末次平蔵の意向を受けて台湾へ来航した濱田弥兵衛の一行をヌイツ総督は報復のため抑留した。濱田は帰国の許可を求めてゼーランディア城まで直談判に来たところ、それでもヌイツは許可を出さないため、しびれを切らして飛びかかり、ねじ伏せた。こともあろうに、ヌイツは自らの城内で人質にとられるという大失態を犯してしまった。このとき、濱田とヌイツの間で通訳をしたのがカロンである。
事件解決のための人質交換にあたり、カロンは平戸へ戻る。日本貿易はオランダにとって最大の利益源であったため、東インド会社としては日本との紛争は望ましくない。責任を問われたヌイツは総督を解任されたばかりか、身柄を日本側へ引き渡された。その後、日本事情を熟知したカロンは幕府と粘り強く交渉を行い、ようやくヌイツの釈放に成功する。カロンは幕府の要路へ盛んに贈り物攻勢を仕掛けたが、とりわけ1636年の日光東照宮造営にあたって贈呈した銀製の大燭台を将軍家光が気に入ったことが決め手になったと言われる。こうしたカロンの功績は評価され、1638年には平戸商館長に昇格した。
その頃、キリスト教禁止政策にもかかわらずカトリックの宣教師の密入国が絶えなかったため、江戸幕府は1639年にポルトガル人の追放を決定した(こうした背景にはカロンたちオランダ側の画策もあった)。ただ、オランダはカトリックのイエズス会とは違って布教はしないとアピールしていたものの、幕府からすれば同じキリスト教徒であることへの疑念は消えない。キリシタン弾圧に辣腕をふるった大目付・井上政重(彼も元はキリシタンだったと言われる)が平戸を訪れ、カロンに対して商館倉庫の破壊を命じた。建物に記された西暦の年号がキリスト教に由来するというのが理由である。実はこのとき、井上は近くに手勢を潜ませており、カロンが拒絶すれば攻撃するつもりであった。ところが、案に相違して、カロンが慇懃な態度で快諾したため、井上は驚き、かつ喜び、むしろカロンに対して便宜を図ってやるようになる。日本人の思考方法を理解した上で対応したことが危機回避につながった。
その後、ポルトガル人が退去して空き地となっていた長崎の出島へオランダ商館は移転する。幕府からは商館長の一年交代も求められていたため、カロンは1641年2月に日本を去り、オランダ東インド会社の拠点であるバタビアへ向かった。
カロンは東インド会社の出世頭で、大金持ちになっていた。そこに目を付けたオランダ貴族から若い娘をもらって結婚する。コンスタンチヤという少女だった。日本人妻とは死別したのか、それとも置き去りにしたのか、そのあたりはよく分からない。なお、コンスタンチヤの姉もこの時に同じ船でバタビアまで来航して結婚したのだが、その相手となったフレデリック・コイエット(Fredrik Coyet、1615年頃〜1687)はスウェーデン人で、最後の台湾総督となった。彼は鄭成功の攻撃を防ぎきれずに降伏したため、後に責任を問われることになる。
1644年の夏、カロンは台湾総督となった。すでに1642年には台湾北部の基隆や淡水に拠点を築いていたスペイン人が駆逐され、オランダによる台湾支配が安定し始めていた頃である。カロンは内政に力を入れた。台湾原住民族統治のために地方会議を開催し、これについて幸田成友は次のように記している。
「カロンは会社の支配に服せる七三社の長老を集めて地方議会を開いた。蘭人はこの議会において、各社の頭目を任命し、会社の徽章を彫った銀金具の杖を与えてその司法権を象徴し、政府の指令は六、七種の土語を以てこの議会に報告すること、頭目は伝道師または校長より宗教教育を受け、会堂の諸儀式に出席すること、彼らは社毎に集会を催して諸事を議定し、また自己の意見を台湾長官に上申し得ること、税は将来鹿皮を以て納めること、支那人を社中に住居せしめざること、然れども彼らが従来土人に供給した貨物については、将来差支なきよう取計らうこと、頭目は互に相和し、争闘または首狩を行なわざること等の規約を示し、地方議会を設けた所以は自由に彼らの不平を訴え、忌憚なく彼らの意見を陳述せしめるにありと告げ、会衆一同厚くその趣旨を奉じ、違背せざるべき旨を誓った。」(『日本大王国志』36ページ)
1646年にカロンはバタビアへ呼び戻され、翌1647年にはバタビア商務総監へ出世した。東インド会社ではバタビア総督に次ぐナンバー・ツーの地位である。ところが、己の才覚で自らの道を切り開いてきた独立独歩のカロンは、ヨーロッパから来た働かない自由市民よりも、機敏に働く華僑系移民の方を重用したため、自由市民からの不満が募っていた。そうした不人気のためであろうか、汚職疑惑を繰り返し突かれたため、1651年にオランダ本国へ召還された。そして不遇をかこつ中、長年勤めてきた東インド会社を退職する。
そうしたカロンに目を付けたのがフランスである。当時はルイ14世の時代で、財務総監コルベールは東インド会社を設立して人材を探しているところであった。カロンはコルベールからの招聘を受けると早速パリへと移住、フランスの東アジア進出のためのプランを献策してインドへ赴いた。すでに老境に差し掛かっていたにもかかわらず自ら戦場にも立つなど旺盛な活動力を示したが、同僚の讒言に遭う。フランス本国へ戻る途次、リスボン港で船が沈没してしまい、73歳の生涯をここに終えた。
カロンと台湾の因縁は次の世代にも続いている。彼が日本人女性との間に平戸でもうけた長男ダニエルは1643年に神学生としてライデン大学へ進んだ。その後、一兵士となってバタビアへ来るなど紆余曲折を経るが、1658年に志願して伝道師として台湾へ渡る。当時、台湾のオランダ政権は原住民族への布教による統治の安定を意図しており、ダニエルも蕭壟(スーラン)社の教会学校の副校長になる予定だったらしい。ところが、鄭成功の攻撃を受けたゼーランディア城は1661年に降伏し、オランダ人は殺害されるか追放された。ダニエル・カロンの消息もそのまま途絶えてしまった。あるいは、非業の死を遂げたのかもしれない。  
 
『日本大王国志』

 

フランソワ・カロンが執筆した書物。1620年〜1640年に平戸のオランダ商館に勤務したカロンが、1636年にバタヴィア商務総監のフィリプス・ルカスの質問に対した回答が元になっている。
カロンは、料理人として1619年に平戸のオランダ商館に着任した。その直後に、日本人女性と結婚し、6人の子供をもうけ、日本語に熟達した。1627年には、通訳として参府している。1626年には商館助手に昇進し、1633年4月9日には次席(ヘルト)となり、1636年2月には館長代理となった。
館長代理時代、バタヴィア商務総監のフィリプス・ルカスから日本の事情に関する報告を書くように要請されたが、一般的記事を書くことは断り、1636年にルカスの質問31問に回答する形で執筆された。カロンは本書が出版されることを想定していなかったが、1645年に『オランダ東インド会社の創建ならびに発展誌』の巻末に添付され、翌年には再版が出版された。さらに1661年にはカロン自身が校正を加え、さらに挿絵を付け加えた上で1661年に単行本として出版された。
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著者フランソワ・カロンの出身について詳しいことはわからないが、 彼の名前などからみて、 おそらくフランス系の人であったと思われる。 カロンは最初調理員手伝いとしてオランダ東インド会社にやとわれ、 1619年 (元和5) に日本に渡航して以来引続き20年余り滞在し、 1639年には平戸商館長に任命されている。 彼は長期間にわたった日本生活で、 言語はもとより広く風俗・国情に精通していた。 本書は1636年にバタビア支社に提出した報告にもとづくものであるが、 オランダ人による最初の日本紹介となった。 内容は地理・歴史・政治・宗教など多方面にわたっているが、 1630年代のいわゆる寛永鎖国成立期の頃の日本記事として、 興味深い著作となっている。
子供の教育
第十九問 子供の教育
彼らは子供を注意深くまた柔和に養育する。たとえ終夜喧しく泣いたり叫んだりしても、打擲(ちょうちゃく、意味:なぐること)することはほとんど、あるいは決して無い。辛抱と柔和を以て宥め、打擲したり、悪口したりする気を起こさない。子供の理解はまだ発達していない。理解力は習慣と年齢によって生じるものなるを以て、柔和と良教育とを以て誘導せねばならぬというのが彼らの解釈である。七・八・九・十・十一及び十二歳の子供が賢くかつ温和であるのは驚くべき程で、彼らの知識・言語・対応は(老人の如く)、和蘭(オランダ、注1)では殆ど見られない。丈夫に成長したといっても、七・八・九歳以下の小児は学校へ行かない。この年輩で修学してはならぬという理由で、従って彼らの一群は生徒ではなく、遊戯友達の集会で、これが教育に代わり、彼らは野生的にまた元気一杯になる。学校へ行く年齢に達すると、徐々に読書を始めるが、決して強制的でなく、習字もまた楽しんで習い、嫌々ながら無理にするのではない。常に名誉欲をうえ付け、名誉に関しては他に勝るべしと激励し、短時間に多くを学び、これによって本人及び一族の名誉を高めた他の子供の実例を挙げる。この方法により彼らは鞭撻の苦痛がもたらすよりも、更に多くを学ぶのである。(以下略)
注1 オランダではほとんど見られない。日本の小児の天国であるとは、オランダ人のみならず、ヨーロッパ人の一致して言うところである。 
 

 

 
『江戸参府旅行日記』 ケンペル

 

 
エンゲルベルト・ケンペル
(1651-1716) ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。出島の三学者の一人。
現ノルトライン=ヴェストファーレン州のレムゴーに牧師の息子として生まれる。ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている。この2つの経験が、後に平和や安定的秩序を求めるケンペルの精神に繋がったと考えられる。故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルク、リューベック、ダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた。
1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王カール11世がロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とペルシアのサファヴィー朝に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになった。ケンペルの地球を半周する大旅行はここに始まる。
1683年10月2日、使節団はストックホルムを出発し、モスクワを経由して同年11月7日にアストラハンに到着。カスピ海を船で渡ってシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月を過ごす。ケンペルは、この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になった。さらに南下を続けてペルシアに入り、翌年3月24日に首都イスファハンに到着した。ケンペルは使節団と共にイランで20か月を過ごし、さらに見聞を広めてペルシアやオスマン帝国の風俗、行政組織についての記録を残す。彼はまた、最初にペルセポリスの遺跡について記録したヨーロッパ人の一人でもある。
日本
その頃、ちょうどバンダール・アッバースにオランダの艦隊が入港していた。ケンペルは、その機会を捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務した。その後、東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた時に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうしてケンペルはシャム(タイ)を経由して日本に渡る。1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在した。1691年(元禄4年)と1692年(元禄5年)に連続して、江戸参府を経験し将軍・徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳・今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した。
帰国後
1692年、離日してバタヴィアに戻り、1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還した。オランダのライデン大学で学んで優秀な成績を収め医学博士号を取得。故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、近くのデトモルトに居館を持つ伯爵の侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかった。1700年には30歳も年下の女性と結婚したが仲がうまくいかず、彼の悩みを増やした。
1712年、ようやく『廻国奇観』(Amoenitates Exoticae)と題する本の出版にこぎつけた。この本についてケンペルは前文の中で、「想像で書いた事は一つもない。ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」と宣言している。この本の大部分はペルシアについて書かれており、日本の記述は一部のみであった。『廻国奇観』の執筆と同時期に『日本誌』の草稿である「今日の日本」(Heutiges Japan)の執筆にも取り組んでいたが、1716年11月2日、ケンペルはその出版を見ることなく死去した。故郷レムゴーには彼を顕彰してその名を冠したギムナジウムがある。
『日本誌』
ケンペルの遺品の多くは遺族により、3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた。1727年、遺稿を英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』(The History of Japan)は、フランス語、オランダ語にも訳された。ドイツでは啓蒙思想家ドーム(英語版)が甥ヨハン・ヘルマンによって書かれた草稿を見つけ、1777‐79年にドイツ語版(Geschichte und Beschreibung von Japan)を出版した。『日本誌』は、特にフランス語版(Histoire naturelle, civile, et ecclestiastique de I'empire du Japon)が出版されたことと、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニスムに繋がってゆく。学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きている化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること約140年後に日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響を与えた。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している。
ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。また、『日本誌』のオランダ語第二版(De Beschryving Van Japan 1733年)を底本として、志筑忠雄は享和元年(1801年)にこの付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、「鎖国論」と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した。
また、1727年の英訳に所収された「シャム王国誌」(A Description of The Kingdom of Siam)は、同時代のタイに関する記録としては珍しく「非カトリック・非フランス的」な視点から描かれており、タイの歴史に関する貴重な情報源となっている。
スローンが購入したケンペルの収集品は大部分が大英博物館に所蔵されている。一方ドイツに残っていた膨大な蔵書類は差し押さえにあい、散逸してしまった。ただし彼のメモや書類はデトモルトに現存する。その原稿の校訂は最近も行われており、『日本誌』は彼の遺稿と英語の初版とではかなりの違いがあることが分かっている。ヴォルフガング・ミヒェル (Wolfgang MICHEL)が中心となって、2001年に原典批判版「今日の日本」(Heutiges Japan)が初めて発表された。この原典批判版を皮切りとしたケンペル全集は全6巻(7冊)刊行された。
今井正による日本語訳はドーム版を底本としており、ケンペルの草稿とは所々でかなり異なっている。よって現在のケンペル研究は、原典批判版をはじめとするケンペル全集や、大英図書館に所蔵された各種ケンペル史料に基づくのが、世界的なスタンダードとなっている。
『日本誌』
エンゲルベルト・ケンペル(エンゲルベアト・ケンプファー)が執筆した書物。17世紀末に日本に渡った際、日本での見聞をまとめたものである。エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。
彼の遺品の多くは遺族により、3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた。1727年、遺稿を英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』(The History of Japan)は、フランス語、オランダ語にも訳された。ドイツの啓蒙思想家ドーム(英語版)が、甥ヨハン・ヘルマンによって書かれた草稿を見つけ、1777‐79年にドイツ語版(Geschichte und Beschreibung von Japan)を出版した。『日本誌』は、特にフランス語版(Histoire naturelle, civile, et ecclesiastique de I'empire du Japon)が出版されたことと、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニスムに繋がってゆく。学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きている化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること約140年後に日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響を与えた。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している。
ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。また、『日本誌』のオランダ語版(De Beschryving Van Japan)を底本として、志筑忠雄は享和元年(1801)にこの付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、『鎖国論』と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した。なお、欧州において、オランダ東インド会社は、1799年に同社を解散するまで、時には日本列島の一部を時には全島を同社のチェーンランド(英;a land chain、蘭;een Land keten)として宣伝していたことが知られている。
また、1727年の英訳に所収された『シャム王国誌』(A Description of The Kingdom of Siam)は同時代のタイに関する記録としては珍しく「非カトリック・非フランス的」な視点から書かれており、タイの歴史に関する貴重な情報源となっている。
スローンが購入したケンペルの収集品は大部分が大英博物館に所蔵されている。一方ドイツに残っていた膨大な蔵書類は差し押さえにあい、散逸してしまった。ただし彼のメモや書類はデトモルトに現存する。その原稿の校訂は最近も行われており、『日本誌』は彼の遺稿と英語の初版とではかなりの違いがあることが分かっている。2001年に彼が残したオリジナル版が初めて発表された。故郷レムゴーには彼を顕彰してその名を冠したギムナジウムがある。
日本語訳としては、今井正編訳『日本誌 日本の歴史と紀行』(上下2巻)が1973年に霞ケ関出版より刊行され、その後、1989年に改訂増補版(上下2巻)、2001年に新版(7分冊)が刊行されている。ただし、これはドーム版に基づいて翻訳されたものであり、ケンペル自筆原稿と内容が異なる。現在では、ヴォルフガング・ミヒェルが中心となって2001年に発表した原典批判版『今日の日本』(Heutiges Japan)、それに加えてケンペル全集や、大英図書館に所蔵された各種ケンペル史料に基づいて研究を進めていくのが、世界的なケンペル研究のスタンダードとなっている。
皇統への言及
16-17世紀に日本を訪れたヨーロッパ人は、「万世一系の皇統とその異例の古さというセオリーを受け入れていた」。江戸時代、『日本書紀』研究者たちは、神武天皇が王朝を創建した年の計算を行っていた。この神話的な日本建国の年代を、ヨーロッパ人たちは西暦に計算しなおして報告していたが、『日本誌』はそれを明治時代に制定された神武天皇即位紀元と同一の紀元前660年とした最初期の例である。『日本誌』では以下のように説明している。
「三番目かつ現在の日本の君主制、すなわち「王代人皇」ないし「祭祀者的世襲皇帝」は、キリスト前660年に始まり、それは中国の皇帝恵王、中国語の発音ではフイワン(周王朝の第17代皇帝である)の治世17年のことである。この時からキリスト紀元1693年まで、すべて同じ一族の114人の皇帝たちが継続して日本の帝位についている。彼らは自分たちが、日本国の最も神聖な創建者である天照大神の一族の最も古い支族であること、そしてその長男の直系であり代々そうである事を極めて重んじている。 」
続いて、「日本で書かれ刊行された2つの年代記を参照して」、歴代天皇の名前と略伝を列記している。ケンペルは天地創造がキリスト紀元前4000年頃の出来事だという計算が信頼されていた時代の人であり、これを古代史の年代計算の妥当性の基準にしていた。『日本誌』の中では、日本のさる歴史家が中国の帝王伏羲の統治開始年をキリスト紀元前21106年と算出していることに触れ、それを棄却しつつ、上記の基準すなわち神による天地創造の以降とされた諸王朝の年代設定には寛容であった。  
 
「江戸参府旅行日記」 ケンペル 1

 

エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempferはドイツの医者・博物学者で、元禄3年(1690年)に来日しています。翌元禄4年と更に5年の2度、商館長に随行して江戸に訪れており、「江戸参府旅行日記」はその際の道中を記録した日記です。なお、道中の様子の記述が詳しいのは初回の往路(第11章「浜松から将軍の居城のある江戸までの旅」)ですので、今回は専らそちらを参照しています。
※Kaempferをドイツ語の音になるべく忠実に記そうとすれば、「ケンプファー」とでも表記することになるのでしょうが、やはりドイツ語特有の「pf」が発音しにくいからか、トゥーンベリの場合と違ってあまり原音に忠実にという動きはない様ですね。ここでも箱根の「ケンペル=バーニー祭」などで広まった「ケンペル」の表記でいきます。なお、「ae」をウムラウト(ä)で表記するものも見かけましたが、ドイツ語のWikipediaのサイトでも絵の画題以外は「Kaempfer」で通していますので、ここではこちらを採用しておきます。
ケンペルはこの日記を西暦(グレゴリオ暦)で記していますので、ここでもそれに従います。これによると、1691年2月13日(和暦では元禄4年正月16日)に出発した一行は1ヶ月近く経った3月10日(同2月11日)に江尻を出発、次の宿泊地である三島へと向かいます。途中吉原を過ぎて元吉原で昼食を摂っていますが、その部分に次の様な記述が見られます。なお、以下引用文中の〔〕は訳者による補注です。

半里に及ぶ砂地に点在している元吉原という貧弱な村は、約三〇〇戸から成り、吉原から半里の所にある。われわれはそこで昼食をとったが、子供たちが、群をなして馬や駕籠に近づいて来て、いつも前方二〇歩か三〇歩の所で、面白いとんぼ返りをしながら、輪を描いて駆け回り、施し物をもらおうとしたので、われわれは子供たちに小銭をたくさん投げてやった。彼らが砂の中でぶつかり合って倒れ、あわてて銭をつかもうとする様子は大へん面白かった。吉原には、小銭を投げてこの貧乏な子供たちを喜ばせるために、いつもたくさん紐に通した銭の束が用意してあった。子供たちは旅行者が幾らかでも小銭を投げてやるまで、時には半里もついて来る。小銭は三グロッシェン貨幣〔昔のドイツの小銀貨で、約三〇分の一ターラー。一ターラーは約二マルク〕の大きさをし、一ヘラー〔昔の銅貨〕に相当する真鍮の平らな硬貨で、真ん中に穴があいていて、そこに紐を通し、馬に結びつけて持って行くことができるのである。

「その7 藤沢〜茅ヶ崎の砂丘と東海道に補足」で、砂丘地帯の茅ヶ崎で子供が旅人の前で宙返りを見せて小遣い稼ぎをしている様子を紹介し、その際にトゥーンベリが吉原と三島の間で子どもたちの宙返りを見たことを記していることを付記しました。このケンペルの記述はそのトゥーンベリの記述とほぼ同じですね。但し、ケンペルの江戸行きはトゥーンベリより85年前ですから、その頃から吉原付近の砂丘地帯で子どもたちの宙返りが既に行われていたことがわかります。一行が対応を心得ていることから、こうした小遣い稼ぎが元禄の頃には既に常態化していたこともわかりますね。
他方、茅ヶ崎周辺ではケンペルは

川を渡って一時間半、いわば砂漠のような地帯(町屋・南湖なんこ・小和田こわだの村々があって、そこの住民たちは街道筋で暮しの道を求めていた)を通って、四谷よつやという大きな村に達した。
※ルビは原文ママですが、これがケンペルの記述をそのまま写したものかどうかは不明です。現在の「茅ヶ崎市南湖」は「なんご」と濁って発音します。

としか記していませんので、恐らくこちらでは子供たちの宙返りを見ることはなかったのでしょう。ほぼ同時期に出版された「東海道分間絵図」で「子供中がへりいたし/申候」と書かれていたり、その様子を菱川師宣が絵に描いたのも専ら茅ヶ崎・牡丹餅茶屋の付近の方だけで、元吉原付近にはその様な表現は一切見られません。こうなると、何故茅ヶ崎の方でだけこの様な様子を特記したのか、遠近道印おちこちどういんらの意図がますます掴み難くなってきます。
翌日、一行は三島から箱根を越えて小田原へと向かいます。トゥーンベリはここで多数の植物標本を採集し、その際に「ハコネサンショウウオ」の標本を入手したことは以前紹介しました。ケンペルの場合はその様な標本採取の目的は持っていませんでしたが、それでも道中で目にした風物を出来るだけ記録しようという意志は持っていた様です。

今日は、小田原の町まで八里の道を箱根の山地を越え、地図に記しておいた幾つかの村村を通って行く。午前中の四里は山の登り道で、そこここにアシやカヤなどが茂った不毛の土地を越えて行った。…山の一番高い所の路傍に境界を示す長い石の標柱が見えた。これは小田原藩領の始まりを示し、同時に伊豆と相模の国境である。ここからわれわれは方向を変えて再び苦労して山を下り、約一〇町すなわち一時間後に峠村とうげむらに着いたが、一般には山の名をとって箱根と呼ばれている。われわれは今日の旅程の半ばを終えて、ここで昼食をとった。地形やその他いろいろの状況、特にすぐ近くにある山の湖は、この土地に大へん特色をもたせているので、私はこのことを少し詳しく述べねばならない。村そのものは約二五〇戸の貧しい家々から成り、大部分は長く弓なりに曲った町筋をなしていて、高い山地の上の、いわば空中にあるような上述の湖の東南岸にある。けれどもこの湖は、ほかの険しい山々に取囲まれているので、氾濫はんらんすることも、流れ出ることもない(山々の間になおひときわ高くそびえ立つ富士の山が、ここからは西北西よりは少し北寄りに見えた)。この湖の広さは東から西まで約半里、南から北まではたっぷり一里はある。私が聞いたところによると、北岸の近くで、金を多量に含んだ鉱石が掘り出されるということである。東岸には先のとがった高い双子ふたご山がそびえ、その麓には元箱根の村があり、これと峠村の間に塔ヶ島がある。湖岸は山地で荒れているために、この湖は恐らく周囲を歩くことはできないので、向う岸ヘ行こうと思う者は、小さい舟を使うしかない。湖水でいろいろな種類の魚類がとれるが、そのうちで名前が言えたのは、サケとニシンだけであった〔恐らくヤマメとウグイかと思われる〕。この湖の成因は確かに地震によるもので、そのために昔この土地が陥没したのである。その証拠として、人々は数え切れない杉の木のことを挙げている。深い湖底には珍しいほどの太さの木が生えていて、藩主の指示や意見で潜水して引きあげ運び出される。そのうえ日本ではこの種の木が〔この箱根ほど〕丈が高く、まっすぐで、見事に、そしてこんなにたくさんある所はほかにない。ここにはハエも蚊もいないから、夏は静養していてもこれらに妨げられることはないが、冬ここに滞在するのは全く快適ではない。外気は非常に寒く、重苦しくガスが立ちこめ、体によくないので、外国人は健康をそこなわずに長期間辛抱することは恐らくできない。前のオランダ東インド会社の氏、フォン・カンプホイゼン氏は、自分は、ほかでもないこの土地のせいで体を悪くした、と私にはっきりと言っていた。

少々長くなりましたが、ここでのケンペルの興味は動植物よりもむしろ地形や地質に向いている様に見えます。金については伝聞としていますので裏がどの程度あるかわかりません(「風土記稿」でも芦ノ湖の項にその様な記載は見えません)が、芦ノ湖底から産出される神代杉の話には地形の成立との関連で注目しているのが目を引きます。
なお、「ヤマメ」を「Google翻訳」で翻訳するとしっかり「Salmon」と表示されます。まぁ、ヤマメは本来サクラマスが海に下らなくなったものを指しますので、確かに類縁ではあるのですが、ケンペルが「サケ」と書いたのはその点ではあながち外れていないというべきなのかも知れません。一方淡水魚の「ウグイ」を海水魚のニシンと見立ててしまったのは、その姿が似て見えたからでしょうか。もっとも、付き添いの通詞がその様に翻訳して伝えた可能性もありそうです。「名前が言えたのも」というのも、地元の漁師がウグイやヤマメ以外の魚についても和名を答えているにも拘らず、通詞がそれをオランダ語に翻訳することが出来なかった事情を指しているのかも知れません。
また、夏場に蚊帳が要らないというのは箱根の夏場の気候を言い表す際に良く言われることですが、これも地元の人から伝え聞いたのでしょう。他方、ケンペル一行の江戸参府も春まだ遠い時期に行われていた訳ですが、箱根の寒さは少々身に沁みていたのかも知れません。前任者からここで酷い目に遭ったとケンペルに言い聞かせているのは、あるいはその時の江戸参府はもっと寒い時期に行われたからだったのかも知れません。
さて、箱根宿を出発して関所を越え、小田原へと下る途上には、ケンペルは次の様なことを書いています。

この土地の草は、医師が特に薬効があると考えて採集するが、これらの中にはアディアントゥム(Adiantum)あるいはヴィーナスの髪という濃い紅色を帯びた黒色の、つやのある茎くきや葉脈のあるものが、たくさん見つかる。他の地方の普通のものより、ずっと効くと思われている。それゆえ家庭薬として貯えておくために、この山を越えて旅する人のうちで、誰一人それを採らないで通り過ぎてしまう者はない。この薬にはほかのものと比べられないすぐれた特性があるので、世間ではハコネグサと呼んでいる。

「箱根草」については、「新編相模国風土記稿」の各郡の産物で「石長生」として紹介されていました。ここでは「元祿の頃紅毛人江戸に來れる時、當所にて此草をとり、婦人產前後に用ゐて、殊に効ある由いへり、」と記していますが、当の「元禄の紅毛人」の医師のひとりであるケンペルがこの様に記しているとなると、それ以前から既に薬効が世間に知られていたものということになり、この記述をどの様に解すべきか、難しくなってきます。
品川宿手前の鈴ヶ森付近で、同地の海苔について触れています。

(四)鈴ヶ森。前の村から一里半の所にある小さな漁村で、そこでわれわれは休息のためしばらく足をとめた。神奈川から江戸までの海底は沼のようで、全く深くない。それで干潮時には水はすっかりひいてしまう所がたくさんある。特にこの村の近くでは、潮のひいた後に残った二枚貝や巻貝や海草などが食用として採れるので、この村は潮干狩りで有名である。私は海苔のりを作っているのを見た。集めてきた貝には二種類の海草が一面に生えていて、一方は緑色で細く、もう一方は少し赤味を帯びていて幅が広い。両方とも貝殻からはぎ取り、別々に分け、それを水桶に入れ、きれいな水をかけてよく洗う。それから緑の方のものは木の板にのせ、大きな包丁で、タバコを刻むように非常に細かく刻み、もう一度水洗いして二フィート四方の木製の篩ふるいの中に満たし、何度も上から水をかけると、海草は互いにしっかりとくっついてしまう。次にそれをアシで作った簾すだれすなわち一種の櫛くし状をしたものの上にあけ、両手でそっと押え、最後に日にあてて乾かす。あまり多くない赤い方の海草は、細かく刻まずに同じような方法で処理し、菓子のような形に仕上げ、乾いたら包装して売りに出すのである。

ケンペル自身が「見た」と書いているので、少なくとも海苔を干している様子は見えたのでしょう。以前も書いた様にこの付近では東海道が海に非常に近い位置を進みますので、ケンペル一行が乗る駕籠の中からでも海苔を干す様子は十分見える位置にあったと思います。
しかし、江戸参府の途上である以上長時間滞在して見学できる状況ではなかったことを考えると、この製造過程をどこまでケンペル自身の目で観察して書けたのかは少々疑問が残ります。この製造方法については通詞経由で聞き書きしているのかも知れないという気もします。また、2フィートというと60cmほどの大きさになりますから、今よりは縦横とも2倍以上の大きさの漉き海苔だったことになります。この一連の製法の記述については裏を取りたいところですが、ケンペルの記述通りなら、元が紙漉きにヒントを得たと言われているだけに、当時の漉き海苔のサイズも紙漉きのサイズと同等だったのかも知れません。もっとも、大きければそれだけ乾燥に時間が掛かったり均質化し難いなど製法上の課題もありそうですし、運搬や調理の際の扱いやすさなどを考えると、早晩このサイズも見直されて縮小されていったのだろうとは思います。
とはいえ、元禄4年(1691年)の江戸行きの途上で同地で海苔を漉いて干しているのをケンペルが目撃しているということは、浅草付近で始まったとされるこの製法が、既にこの頃には品川界隈に伝わっていたことを示していると言えそうです。元禄10年(1697年)刊の「本朝食鑑」(人見必大著)にも「浅草苔ノリ」の項で

苔はあたかも紙を拆すき帛を製つくって水中に投じたさまに似て、浪に泛うかび流れに漂っている。浦人は岸から竹竿を投げ、繫かけて採とり、これを筩おけに入れる。それから児女が箸に掛け、葦箔あしのすだれに攤ひろげて晒乾さらしほす。

と記し、続いて品川付近で製される海苔についても触れていますので、その点は裏付けがあると言えそうです。
もっとも、人見必大の品川の海苔の評価は

生の時は蒼色、乾いた後は紫蒼色のものを上とする。浅草・葛西の苔がこれである。それで、世間ではこの地の苔を賞美している。品川の苔は、生時なまのときも乾後かわいてからも淡うす青黒く、略麁あらくて密でない。それで味もやはり美よくない。甘苔は相州・豆州の海浜に多くある。これも同一の物である。稍やや品川苔に似て紫赤色、やはり粗で密ではない。源頼朝公が毎つねに京城みやこに献上していたのはこれである。

と、あまり芳しいものではありませんでした。品質を上げるだけのノウハウが、元禄の頃の大森ではまだ十分ではなかったのかも知れません。もちろん、「新編武蔵風土記稿」の品川宿」の項に

土產海苔 當所より大森麴谷村邊迄の間海中に生ぜり、其内南品川及獵師町にて採るものを上品とす、味殊に美なり、故に近里の人或は品川海苔と呼で賞翫す、淺草海苔と呼は淺草茶屋町の商四郎左衞門と云ものゝ祖、葛西中川沖の海苔を採淺草にて製せし故なり、其後此邊にて採始めしに、稀なる上品なれば今は淺草にては製せぬ、其地にて鬻けるものも皆當所より出せる物なれど、古名を存して多く淺草海苔と呼り、

と記している様に、後にはこちらが浅草にとって代わる様になります。その過程では必大が記す様な製法上の課題も、時代が下るにつれて克服されて行ったのでしょう。
ところで、「藤沢市資料集」にケンペルの「旅行日記」が採録されなかった理由ですが、あるいはケンペルの鎌倉についての記述をどう扱って良いか判断し切れなかったからなのかも知れません。翻訳者もこの部分を大いに戸惑いながら訳していったことが、間に〔〕で挿入された注から読み取れる様に思います。

四谷(引用者注:藤沢宿西方の、大山道との分岐点)の海から真南に一里離れて鎌倉という悪名の高い盗賊島がある(これは「枕まくらまたはクッション(Kissen)という意味である)〔カとマクラと分けてこのような誤解を生じたものか〕〈英訳本ではこれを「海岸」(Küste)とした〉。この島は見たところ小さく、円形で周囲は一里を越えない。そのうえ樹木が生い茂り、平らであるがかなり高いので、ずっと遠くから見える。この島は不興をこうむった大名たちを追放する場所として使われる〔このような事実はない〕。一度このクッションに坐るようになった者は、一生涯その上で過ごさねばならない。島の岸は八丈島のように岩が多く、急勾配になっているので、登ったり下りたりすることはできない。そこへ送られる人々やその他の必需品は小舟に乗せ、起重機を使って巻き上げ、空になった容器はまた下におろされる〔八丈島の記述と混同したものか〕。四谷の先一里にある藤沢で、われわれは昼食をする宿合に立寄ったが、いつもの宿はいっぱいだったので、他の宿に移った。

御覧の通り明らかな誤解に終始しており、流刑島として記述されていることから、確かに翻訳者の指摘通り八丈島、あるいは同様に江戸時代に流刑島であった新島にいじまなどの話と混線した可能性は高そうです。「見たところ小さく、円形で周囲は一里を越えない」というのは江の島のことを言っているのでしょうか。ちょっと混線度合いが酷くてケンペルが本当は何処の話をしたかったのかを特定するのも困難な程です。
「旅行日記」中で鎌倉について具体的に記述しているのはここだけですが、地名として現れるのは次の章で江戸前の海について書いているところで、

幕府直轄の五つの自由商業都市のうち、江戸は第一の都市で、将軍の住居地である。大規模な御殿があり、また諸国の大名の家族が住んでいるので、全国で最大かつ最重要の都市である。この都市は武蔵国の、(私の観測の結果では)北緯三五度五三分〈英訳本では三二分〉の広大で果てしもない平野にある。町に続いている長い海湾には魚介類がたくさんいる。その海湾の右手には鎌倉や伊豆の国が、左手には、上総かずさと安房あわがあり、海底が沼土のようで非常に浅いから、荷物を運ぶ船は、町から一、二時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。町のくぼんだ海岸線は半月形になっていて、日本人の語るところによると、この湾は長さが七里、幅が五里、周囲は二〇里である。

と、東京湾の続きに相模湾岸の地名が出て来るように書いており、やはりこの辺りの情報は正確には伝えられていなかったことが窺えます。
とは言え、藤沢到着前の箱根権現の記述では同社に伝わる宝物を9点も記載しており(同書163~164ページ)、江戸参府の途上でわざわざ参詣に立ち寄ったと思えない同社についてこの様な情報をケンペルが持っているということから考えると、恐らくは通詞を経由して沿道の風物についてかなりの知識を得ていたのではないかと思われます。その同じ「旅行日記」で、それより遥かに多彩な知識が通詞からもたらされ得たであろう鎌倉について、何故この様な混乱した話だけが記されることになってしまったのか、他の箇所の記述の精度をどう評価するかにもかかってくる気掛かりな問題ではあります。
もっとも、ケンペルの記述の中にはこうした情報を提供する側だった通詞との関係が必ずしも良好ではなかったことを窺わせる一節もあります。大坂に数日滞在後、京都に向けて出発する手筈を整える中で、馬の調達でトラブルになったことが記録されています。

江戸旅行に必要な馬が数頭足りなかったので、われわれは休んでいるより仕方なかった。われわれは、たくさんの馬を要求した通詞たちと、そのことで激しい口論をした末に、およそ四〇頭の馬と四一人の人足を雇った。もし自分勝手な通詞たちが、たくさんの品物やそれに類するものをあつらえ、しかも、われわれの名義を使い、またわれわれの費用で持ってゆかなければ、実際、毎年もっと少ない費用で旅行することができたであろう。夕方われわれは年取った通詞を奉行の所へやった。われわれのために別れの挨拶を行なわせたのだが、彼は奉行から道中恙無くという言葉を受けただけでなく、頼んでおいた通行手形をもらってもどって来た。

この辺りの事情については、ケンペルは第1章で次の様に記しています。

通詞つうじについては、上級および下級の者〔大おお通詞と小こ通詞〕のうちから(それについては前巻で述べたように)おのおの一人が、しかも前年に幕府とわれわれの間で仲介者の役を果たし、なお同僚の中で毎年年番(Nimban)を動めた者がわれわれに配属される。今回はこれら二人のほかに、もう一人の見習い〔稽古けいこ通詞〕が付けられた。これは見聞や体験を通じて早くから将来の職務に習熟させるためである。彼らはめいめい従僕を連れてゆくが、それは仕事をさせるためであり、また見栄のためでもある。付添検使〔原文では奉行〕と大通詞とは、自分が望むだけの下僕を連れ、他の者は、自分の懐具合や地位に応じて、一人ないし二人〈英訳本では、二人ないし三人〉を伴う。オラングのカピタンは下僕を二人連れてゆくことができたが、他のオランダ人は各自一人だけであった。普通、通詞たちはこの機会に、たとえオランダ語ができなくても、自分の気に入りの若者を推薦する。
長崎奉行や通詞の特別な許可や任命によって、わが社〔オランダ東インド会社〕の費用を使って、何の役にも立たずにこの旅行について来る他の多くの人々については、触れずにおきたい。しかし、これらすべての旅行の同伴者は、出発前のしばらくの間、出島のわれわれを訪ね、少しはわれわれと顔見知りになることが許されている。彼らのうちには、われわれともっと親しく自由に過ごそうという決意を持った勇気のある人々がいたが、各人が他の者の密告者となる倒の誓約があって、一方の者の他方に対する懸念から、彼らはわれわれにもっと親切な態度で接することが許されないのである。
さて次には荷物運搬人と馬匹を手配しなければならない。これは旅行の輜重しちょうの世話役で会計係の責任者として、大通詞が行なうが、万事がその手配で非常にうまくいっているので、検使の意にかなえば、旅行は一分も違わずに始められるし、さらに迅速な出発が妨げられることがないように、余分の人足や馬匹も用意してある。

通詞の世代交代なども考えれば見習いを常時付き添わせること自体は必要なことではあったでしょうが、その様な必要業務に直接携わらない随行員の分まで、江戸への往復の必要経費を東インド会社側が負担していたとあれば、不満が募るのは仕方がない面はあったでしょう。この大通詞の指図で一行が停滞したりすることに対して、不満を書いている箇所は他にも幾つか見当たります。
また、こうした状況からは見習いなど通訳としてのスキルが必ずしも十分ではない人間が同行していたことが窺えます。特に通詞の中でも技術の高そうな大通詞は、彼らの江戸参府に際しての宿舎等もろもろの手配まで担当していましたから、四六時中ケンペル一行に道中案内をしているだけの時間的余裕はなかったと思われ、その様な役目がより低位の通詞に振り向けられることになったとしてもおかしくありません。こうした状況が、ケンペルが沿道で直接見たもの以外について、通詞経由で仕入れた情報を混乱させたという可能性はひとつ考えて良さそうです。
もっとも、何をどう伝え損ねれば鎌倉が「悪名高い盗賊島」に化けてしまうのかまではわかりませんが…。「鎌倉」の名が「旅行日記」中に出て来るのはあと1箇所、最初に日本の道中で見られた風俗などについて概略を書いているところで、比丘尼について紹介している箇所です。

さらにわれわれは、街道でその他いろいろな乞食こじき、大部分は若くて頭をきれいに剃そった人たちがいっぱいいるのを見かける。…これらの剃髪ていはつした人々のうちには、比丘尼びくに(Bicku-ni)と呼ばれる若い女性の教団がある。これは鎌倉や京都の尼寺の支配下にあって、その庇護ひごを受けているので、彼女たちはそれらの寺や伊勢と熊野の寺に所得の中から幾らかを毎年寄進しなければならない。彼女たちは熊野やその近国に最も多くいるので、仏教の方の尼僧と区別するために、熊野比丘尼と呼ばれている。

ここでケンペルが鎌倉の尼寺の存在について触れている訳ですから、当然これについても何かしらの情報を彼が得ている筈です。こことの整合性に気付けていれば鎌倉について何か誤認があることに目を向けるチャンスもあったと思うのですが、残念ながらそこまでは至らず鎌倉が「盗賊島」のまま据え置かれる結果になってしまった様です。
まぁ、ケンペル一行は2回の江戸参府の帰途で経由している京都では数日間滞在し、智恩院、清水寺、方広寺、三十三間堂などを見物していっているのに対し、鎌倉は東海道の途上にはないためにわざわざ立ち寄ることもなかったため、こうした情報の齟齬を是正する機会がなかったということもあるでしょう。これは以降のオランダ商館の江戸参府でも同様だったと思われ、トゥーンベリの「江戸参府随行記」やシーボルトの「江戸参府紀行」でも、探してみた限りでは鎌倉に関する記述は見当たりません。トゥーンベリは

我々が進んできた道は、ケンペルの時代の使節が通った道とはんの二、三の場所で異なっているだけであった。

と記していることから、明らかにケンペルの「旅行日記」を読んでおり、この奇妙な「盗賊島」についての記述も目にしていた筈ではありますが…。
通詞とのやり取りの齟齬が原因で生じたと考えられるこの様な誤解は、ケンペルの「旅行日記」には他にも少なからず見られます。例えば、江戸からの帰路途上、箱根では

われわれはこの宿舎から、昼の体みをとる箱根まで駕籠に乗って行った。ここから遠くない所に、元箱根という土地があって、そこで権現神(Kongin kami)が戦いに敗れたということである〔この記述は何をいうのか不明〕。

と記しています。翻訳者は意味不明と注釈していますが、想像力を逞しくするならば、これは恐らく、源頼朝が石橋山の戦いに敗れたあと、箱根権現別当が助けたことを記す「吾妻鑑」の記事が、大きく曲がって伝わったのではないかという気がします。  
 
ケンペルの旅日記 2

 

鎖国の江戸時代に西洋人で、不自由ながらわが国を旅行できたのは、長崎出島に居留していたオランダ商館の人たちである。彼らの残したもっとも古い旅日記はエンゲルベルト・ケンペルのもの。元禄四年(1691)に長崎から江戸幕府への参府のもの。この旅では同僚のヘンリッヒ・フォン・ビューテンヘムと一緒だった。二回目の参府旅行は翌元禄五年(1692)でコルネリウス・アウトホルンに随行した。この二度の日本国内旅行で、感じたこと、見聞したことを彼は克明に記録に残した。彼らは同じ行程で長崎−江戸の間を往復し、東海道の鈴鹿峠−亀山−庄野−石薬師宿の亀山藩領を四回も通過した。一人の外国人が見た元禄時代の日本の様子、彼の日記からそれをつぶさに知ることができる。
参府とは幕府将軍に恭順の意を示す世俗的制度、源頼朝の時代から断続しながら行われたという。旅行には代表の商館長と数名の書記、医者と一群の日本人の護衛がつく。この護衛の真の目的は道中で禁止されているキリスト教の十字架、聖画像、聖書などを、こっそり住民に手渡さないか。外国の品物を日本人に売ったりしないか、または誰かが逃亡して住民の中でキリシタン伝道をしないか…。など一行の行動を監視する役目である。ケンペルらは出発に先立ち、違法行為をしない、旅行中の見聞をすべて報告する旨、血判の誓約書を長崎奉行に提出した。旅行には江戸の将軍、閣僚および江戸、大阪、京都の幕府高官に贈る膨大な贈答品。そして付き添いの奉行並、槍持ち、与力、町役人、大通詞と稽古通詞、護衛、荷物運搬人と馬匹。これだけで参勤交代の中級大名クラスの規模になってしまった。
そして元禄四年(1691)二月十三日、ケンペルたちは長崎を出発した。彼らの行程は長崎−佐賀−小倉と陸路、そこから船で下関に渡り、あとは瀬戸内海を港伝いに大阪へ。大阪に上陸すると大阪城の奉行に挨拶し、陸路で天皇のおわす京都に入る。ケンペルの見た京都の印象は
「京は天皇が住むことから都と呼ばれている。町は山城国の平野にあり、南北の長さが四分の三ドイツマイル。東西の幅は約半マイルである。町は藪と湧き水の多い山に囲まれ、町の東の地区には山地が迫り、そこには沢山の美しい神社仏閣が建っている。市内には三つの川が流れる。最も大きいのは大津の湖水に源を発し、ほかの二つは北の山岳に源を発している。町の中ほどで合流すると、そこが三条大橋という二百歩ほどはある長い橋が架かっている。町の北側には天皇の住む内裏があり、家族や廷臣と住んでいる。西側は石で方形に築かれた二条城がある。この城は内乱のとき身の安全をはかるため、将軍が京都にきたときにここに滞在するのが常である」
さらに商店や手工業の店が連なる中心地の賑わいの様子、神社仏閣の建築物の数と信者の数など、実に詳細な記述がされている。
こうしてケンペルの一行は京都を出て近江に入ったのが元禄四年(1691)三月三日である。
「われわれは、今日非常に多くの男女に出会った。大抵は歩いていたが、馬に乗っている人も少しはあった。時には一頭の馬に二、三人も乗っているのを見かけた。これらの人はみな伊勢参りに出掛けたり、そこから帰ってくる人々である。彼らはしつこく我われに旅費をせがんだ。彼らの被っている日除け笠には、自分の生国や名前、巡礼地が書いてあった。それは彼らが途中で万一災難に出会ったときに知らせるためである。帰途にある者は、日笠の端に免罪の御札を付け、もう一方の端にも紙を巻いた小さな藁束をつけている。…土山宿に泊まる」
元禄四年にすでに伊勢参りは庶民の間に広がっており、彼らの旅の様子がわかる。しかしケンペルに旅費をせがんだというのは、喜捨をすることで功徳を授かるという教えからの行為、だがあまりにもくどいのでうんざり、彼の誤解ももっともである。
菅笠に書かれた名前そして結ばれた御札など、つい最近までの伊勢参りの様子とかわらない。
「三月四日、日曜日。我われは旅館から駕籠に乗って険しい鈴鹿の山地を越えた。曲がりくねった骨の折れる二里の道を坂下の村まで担がれていった。この山岳地帯の所々には泥炭地の不毛の土地だが、そんなところにも幾つかの貧しい小さい村がある。彼らは行き来する旅人相手に生活をする。」
鈴鹿の険を越える様子。八町二十七曲がりといわれる鈴鹿峠道、これは箱根越えと並ぶ東海道の険である。そして山間の貧しい村村は、陽当たりも少なく農耕地も少ない。街道の旅人相手の荷物運びや土産売り、あるいは宿食堂の手伝い、あるいは小銭をせびるなどして生計を立てている。
「廻り階段を下りるように、我われは急勾配の山峡を通り山地を下っていった。その途中から道が分かれ、幅の広い石段が近くにある高い山に続いていた。この山は旅人にとっていわば一種のバロメーターのような役割を果たす。彼らはその山頂に登っていく霧や、峰を覆った雲を見て天気を予測し、それによって旅行を決めるからである」
この記述は三子山のこと。旅人や伊勢の海の漁師が、この山にかかる雲や霧を見て天候判断したというが、ケンペルも土地の人から聞いてちゃんと書いている。三子山の頂に至る石段はいまも残っている。この山には古代人の磐座遺跡がある。
「山中の街道わきに寺院があり、その近くに黄金の仏像を祀る堂がある。二人の僧が仏前で読経していた…。山麓にあるもう一つの社の前まで十五分かかったが、そこには金張りの獅子が置いてあり、その近くに二、三人の神官がいて、旅行者に何か神聖な物を授け、これに接吻させ、それで報酬を得ている。」
黄金の仏像の寺がはっきりしない。ケンペルの記憶違いだろうか。しかしつぎの金張りの獅子の神社は片山神社に違いない。この当時は神主が二、三人もいて賑わっている。いまは無住で火災にもあった。
「坂下村の手前に硬い岩石に刻んだ堂がある。岩屋清滝観音というが、そこではお祈りしている僧侶もいなかった。また他の人々もいなかった。坂下村は約百戸で旅館が沢山あり、大変豊かで伊勢国の最初の村で快適な土地を占めている。」
岩屋清滝観音は砂岩質の巨大な岩に三体の仏像が刻まれ、清冽な滝がいまも流れている。いつも心が洗われる自然の溢れる環境だ。宿場には百戸の家が並び、街道一と言われる大きな旅籠の本陣、大竹屋、小竹屋などがあって、非常に殷賑を極めている。
「ここに開け放しになっているお堂があり、いろんな病気や災難を防ぐのに用いる薄い板切れが用意されている」
このお堂もはっきりしないが、法安寺だろうと推測する学者もいる。
「沓掛という小さな村に着いた。ここでは焼栗と煮たトコロの根を売っていた。」
トコロはこの沓掛あたりの名物。のちに筆捨山を正面に見える鈴鹿川の対岸に藤ノ木茶屋が出来た。この茶屋のトコロ料理が名物になり、司馬江漢や太田蜀山人らも賞味している。ケンペルはまた帰途の日記に
「沓掛村では、盛んにイチジクを売っている。」
とも書いてる。トコロのほかイチジクも名産だったのか…、いまもイチジクは沓掛周辺で沢山見かけられる。
「関の地蔵に着いた。約四百戸の村。ほとんど至るところで皮を剥いたアシから作った松明、草鞋、菅笠その他が作られ、子供たちはそれを持って街道で売る。買ってくれとしきりにせがむので旅行者は迷惑である」
アシとは竹のこと。松明も火縄のことで関宿の名物の竹細工物である。
子供や女たちが旅人にうるさくつきまとって押し売りしている。
これは江戸中期−末期の旅日記にも同じ記述がある、あまりにも押し売りがひどかったらしい。
「われわれは関で昼食をとったが、まだ四里進んだだけなので、六里先の四日市に日のあるうちに着くため、間もなくここを出発した。この関の地蔵から聖地の伊勢へ道が南に通じていて、ここから十三里離れている。一里はこの地方では一時間の行程である。なお京都から三十里ある。」
彼らは早朝に近江土山を出発、関で昼食をとりつぎの宿泊を四日市で宿泊とした。当時としては旅人の標準的な行程、関から伊勢神宮までの距離も合っている。
「我われは亀山に着いた。町は平坦な丘陵の上にあり、私が見渡した限りでは、石垣と門と番所のある整然とした町である。その南側には荒く築き上げた城壁と櫓のある、かなり堅固な城がそびえ立っていた。狭い通りはこの土地の地形のために曲がりくねっているので、我われが第二の番所を通って郊外の外れに行き着くまで、ほとんど一時間を費やしてしまった。」
彼は帰途と翌年の旅でも
「亀山は大きな豊かな町、二つの平な丘の上にあり、真ん中に小さな谷が通っていた。門が一つと土塁と石垣があったが、曲がった肘のようになった道には、郊外の町々の家を除き約二千戸の家があり、街道のそばには堀や土塁や石垣をめぐらした城がある。」
と書いている。亀山の町の入り口に当たる市ケ坂に京口門があり、番所があった。歌川広重の「東海道五十三次、亀山雪晴」にも描かれている。ケンペルもこの門を潜って町に入ったのだろう。そして池の端から見える荒い石垣の上に多門櫓。そして美しい天守閣をもつ胡蝶城と云われた亀山城が彼方に見える。この当時の城主は板倉重冬である。曲がりくねった亀山の町の通り、それはいまも基本的な町並みは同じであろう。
第二の番所とは渋倉町の江戸口門のことかも知れない。いまの亀山の通りとあまり変わりのない風景である。
「一里ほど進み、庄野という大きな村の少し手前の森ノ茶屋という小さな村で、我われは俄か雨に襲われ、一里あまりを家の軒にくっついて雨を避けて進んだ。ここからまた伊勢へ行く道が分かれているが、これは主として東国や北国の人々が利用する」
記述にある庄野の手前の森ノ茶屋は鈴鹿市国府町にあった。ここで雨にあい街道沿いの家々の軒先伝いに進んでいった。
「その後、我われが立ち寄った多くの村々のうち、庄野、石薬師、杖衝、追分、日永がおもな村で、どれも二百戸をくだらず、四日市の手前、半里のところにある最後の日永村は、戸数も二百以上あり、川の向こうにも同じ村の家があった。」
関宿を出発してから四日市までの街道筋の町や村、その多くが二百戸程度の小集落だという。
「我われが今日通った旅路の大部分は、山の多い不毛の土地で、耕作に適した土地はわずかであったが、杖衝坂から四日市までの二、三里の土地は九州肥前のような平坦で肥沃な稲田であった」
いまは山地や丘陵地も開発され、畠や住宅地に変貌しているが、ケンペルの当時は、濃い緑に覆われた山地が多く、開拓が進んでいなかったのだろう。南国の長崎や肥前の沃野をみているので、この地は痩せて貧しい土地と思ったようだ。
杖衝坂は昔、日本武尊が伊吹山の荒ぶる神にやられ、やっと杖を衝いてこの坂を登った。また芭蕉はこの坂を下りるとき落馬した急坂。
坂の上に「坂上」という苗字の家が多く、坂を下ると「坂下」性の家が多い。不思議な坂である。坂を下りきると平野が広がる。いまは市街地になっているが、つい最近までは広い田圃だった。
「宿舎の前で、我われは内裏(京都御所)から急いで帰る将軍の使者が通り過ぎるのに出会った。彼は京都から江戸までを一週間以内に行けるよう、一日の旅程を早くする命令を下していた。彼は立派な人物であった。供揃いは二挺の乗り物、何人かの槍持ち、鞍を置いた一頭の愛馬、馬上の七人の家来と徒歩の従僕から成っていた。」
ケンペルが遭遇したのは吉良上野介義央の行列である。彼は高家筆頭の役職で公家、天皇家と接触し交渉する立場、このときも何らかの用で京都から帰る途中だった。彼が播州赤穂浪士に討たれるのはこの十年後である。
「四日市は千戸以上もある。大きな町である。南の海の入り江に臨み、たくさんのよい旅館があって、他国からの旅行者は、望み通りのもてなしを受けることができる。それは住民たちが特に旅館業を漁業とで暮しを立てているからである。」
「我われが今日道中で出会った巡礼者のうち、絹の着物を着飾り美しく化粧した女性がいるのを見た。珍しくまた不思議な気がした。彼女は盲目の老人を連れていて、その男のために物乞いをしていた。何人かのうら若い比丘尼も旅行者に物乞いし、幾つかの歌を唄って聞かせ、彼らを楽しませようと努めていた。また望まれれば、その旅人の慰みの相手もする。」
ケンペルが旅の途中で出あった美しい比丘尼、よほど印象に残ったらしく、女性の素性などを細かく聞きだして記した。
「彼女は山伏の娘である。上品で小奇麗な身形をして歩き、仏門の生活に身を捧げていることを示す剃った頭を、黒い絹の布で覆い、軽い旅行笠をかぶって太陽の暑さを避けている。彼女からは貧乏とか厚顔とか、軽薄さを思わせるものを、何一つ認めることはできなかった。むしろ礼儀正しく、のびのびした女性で、容姿そのものからも、この地方で出合った中で、もっとも美しい女性であった。」
ケンペルの心をこれほどまで捉えたとは…。よほどすごい美人だったのだろう。
彼らの一行は翌朝、四日市を出発、桑名七里の渡しから海路で名古屋熱田の宮の渡しに向かった。東海道を下って江戸には三月十日着、江戸城で将軍に拝謁したのは三月十九日であった。このとき将軍から直接下問されたのは
「オランダはバタビヤからどれほど離れているか」
「長崎からバタビヤまではどれくらいあるか」
「内科と外科の病気のうちで何が一番重く、危険だと思っているか?」
「中国の医者が数百年来行ってきたように、その方らもまた長寿の薬を探し求めているのではいか」
「人間は高齢になるまでどうしたら健康を保てるか」
など、大変好奇心あふれる質問をしている。そして最新の西洋医学についても質問し、その医薬品を手に入れてほしいとも注文している。
彼らはオランダの踊りや歌も披露したり、絵を描かされたり、衣服を脱いで説明したり。食事をしながら十一時から午後三時まで謁見が続いた。若い将軍と幕府老中たちは、日本に一般庶民と同じくよほど知識欲に飢えていたようだと、ケンペルは書き残している。
彼らは元禄四(1691)年四月五日江戸を出発、長崎への帰途についた。
 
江戸参府旅行日記 ケンペル 3

 

エンゲルベルト・ケンペルの通称『日本誌』を齊藤信が翻訳したもの。ケンペルは1651(慶安四)年ドイツのレムゴー生まれ。オランダ東インド会社の船医として来日したときに見聞した日本の様子が書かれている。その細かいことといったらハンパねえ。解説のケンペル略伝を読むとわかるが(ケンペルwikipedia)ケンペルは勉強家で凝り性で蒐集家で博学、医師である一方博物学者としての顔を持つことからも、その人並み外れた観察眼の鋭さ緻密さを推察できようってもん。読み始めたら面白くて暫し夢中になったが、その記述が詳細になればなるほど専門的になるわけで、例えば船の造りなんぞ読んでも理解できましぇんから、興味のあるところだけを読んだ。第五章の「街道で生計を立てている人々」に書かれている、お伊勢参りの旅をする人々の様子が面白い。

この国の街道には毎日信じられないほどの人間がいる。ケンペルは七つの主要な街道のうち一番主要な東海道を四度も通ったから、その体験からそれを立証できると。ひとつには人口が多いこと、また一つには諸外国と違い日本人は非常によく旅行をするのが原因であると。
大名行列のヘンな歩き方
尻絡げをして褌一丁で下半身を露わにしている姿には笑ってしまう。
近侍や、飾りの付いた槍・日傘雨傘・箱などの担い手が、人々のたくさん住んでいる街筋を通ったり、他の行列のそばを進んだりする時の馬鹿げた歩き方=一歩踏み出すごとに足がほとんど尻届くまで上げ、そして同時に一方の腕をずっと前の方へ突き出すので、まるで空中を泳いでいるように見える。彼らは飾り槍や笠や日傘を二、三回あちこちに動かし、挾箱も肩の上で踊っている。
乗物をかつぐ人は袖口に紐を通して結び、両腕をむき出しにしていた。彼らはある時は乗物を肩でかつぎ、ある時は頭の上の方に高く上げた一方の手にのせ、もう一方の腕は手のひらを水平にして伸ばし、そのうえ狭い歩幅で歩いたり、膝をこわばらせたりして、こっけいな恐ろしさを装ったり用心深い振りをしたりする。
伊勢街道?の物乞い
「檀那様、お伊勢参りの者に路銀を一文お恵み下さい」←ひっきりなしで鬱陶しい。
非行をして罰を受ける前に親の許可なく伊勢へ詣で免罪符をゲットして罪を免れようとする少年もいる。
銭がなくて沢山の人が野宿をしているし、ときには路傍に病み疲れて死んいるのを見ることもある。
一年の大部分をこの街道で物乞いをして過ごす者もいる。
滑稽なやり方で物乞旅行をして伊勢参りをしたり、人々の目を引き容易に金銭を集めることを得意とする者もある。こういう目的のためには通常四人の男がひと組になり、公家の家来のような白麻の装束を身にまとって、二人はゆっくりと祭壇のように設えた屋台を運び、一人はドラ声で歌い、一人は見物に布施を求める。こうして夏の間中旅をして過ごす。
巡礼など
巡礼も方々で見かける。二、三人ずつの組で日本全国あちこちにある三三の寺へ参る。彼らは哀調を込めて戸ごとに観音経を読み、時にはヴァイオリンやツィターを弾くドイツの放浪者のように、楽器を奏でるが、旅行者に布施を求める様な事はしない。服装の記述有。このような信心深い巡礼旅行は多くの人々の気に入っているので、彼らは生涯をこうして過す。
冬でも陰部に藁の房だけを巻きつけて隠している裸の人によく行き合うのは、なんとも奇妙。こうした人々は両親や親友や自分自身の損ねた健康などをこうして治そうとして、寺や仏像にお参りする誓いを立てたのであり、布施を求めず、いつも一人であまり休むこともなく歩き続ける。
街道でその他いろいろな乞食、大部分は若くて頭をきれいに剃った人たちがいっぱいいるのを見かける。聖徳太子と物部守屋対立の話有。太子は守屋に味方する者と区別するため仏教に帰依した全ての男性に頭の半分を剃るように命じ、あわれな子供にも僧侶の様に頭をすっかり剃るようにさせた。それで頭を剃った彼らに物乞いする自由を与えたのであって、この時採り入れた風習が受け継がれて今日に至っている。
熊野比丘尼
これら剃髪した人々の内に比丘尼と呼ばれる若い女性の教団がある。鎌倉や京都の尼寺の支配下にあるので毎年寄進しなければならない。熊野に多くいるので、仏教の方の尼僧と区別するために熊野比丘尼と呼ばれている。
彼女たちは、ほとんどが、われわれが日本を旅行していて姿を見たうちで最も美しい女性である。
善良で魅力的に見えるこれらの貧しく若い女たちは、大した苦労もせずに尼として物乞いする許可を受け、旅行者から思うままに魅惑的な容姿で大変うまく布施をまきあげるすべを身に付けている。
物乞いして歩く山伏は、娘にこの職業をやらせ、また恐らくは比丘尼を自分の妻にする。彼女たちの多くは娼家で躾けられ、そこで年季を終えてから自由の身となり、青春時代の残りを旅で過ごす。
彼女たちは二人または三人がひと組となり、毎日自分の住まいから一、二里の所に出掛け、駕籠や馬に乗って通り過ぎる身分の高い人々を待っている。一人一人相手の所へ近づいて野良の歌をうたい、銭離れのよい人を見つければ、何時間も供をして相手を楽しませる。
この女たちには出家らしさも貧しさも感じられない。なぜなら剃った頭には黒い絹の頭巾を被り、一般の人と同じ着物をこざっぱりと着こなし、手には手甲をはめ、普通は幅の広い日笠をかぶって、おしろいを塗った顔を外気から守っている。短い旅行杖をついているのでロマンティックな羊飼いの女を思い起こさせる。その言葉遣いや身振りには厚かましさも卑屈さも陰険さも気取った風も全然なく、むしろ率直ではあるが幾らか恥じらうことも忘れてはいない。
しかしこの物乞い女たちは、国の風習や宗派の慣例にそむいて(注:英訳本では「この国の風習であるということを口実にして」とあるそうです)、慎み深さということを大して気にも留めず、公けの街道で気前の良い旅行者に自分の胸を差し出す。それゆえ尼僧の様に頭を丸めていても、軽薄で淫らな女性の仲間から彼女たちを除外するわけにはゆかない。
山伏たちが作っているもう一つの托鉢の教団のこと
元来は山の兵士を意味する山武士であり、彼らはいつも太刀を携えているからである。頭髪を剃っておらず、山に登って己の身に難行苦行を与える。
寺の功徳と清浄について誇らしげな表情で(英訳本:強いしわがれ声で)短い法話をし、金剛杖を鳴らすのは話の核心を強調するためで、祈祷代わりの法話の結びに法螺貝を鳴らす。彼らは子供たちにも同じように教団の法衣を着せ頭を剃らせるが、旅行者にとっては道中まとわりつかれて厄介な存在である。
山伏は至る所で比丘尼の群れに混ざってミツバチの大群のように旅行者の周りに集まり、一緒に歌をうたい法螺貝を吹き鳴らし、熱弁をふるい、大声で叫ぶので、うるさくてほとんど聞き取れない。
人々はこの山伏をお祓いや予言に、また未来のことを占うほか、迷信や魔法のために利用するが、寺の用事や世話には決して使わない。
その他の物乞い
外見上は立派な年輩の男たちがあって、出家や仏僧のように頭を剃り法衣をまとっているので、喜捨を受けるのに都合がよい。蛇腹状の法華経を捧げ持ち、ほんとは何が書いてあるかわからないのだけど一部を暗誦していて、まるで読み上げているかのように聞こえる。それで聴衆から沢山の布施を期待している。
施餓鬼
小川のほとりに座っているのは施餓鬼といって死んだ人の霊に対し儀式を行っている。こういう僧は、死んだ人の姓名の書いてある小さい経木を何かの文句を唱えながら煉獄の火を冷ますためにハナシキミの枝に水をつけて洗い清めるが、死者のためのミサに当たる。通りすがりの人々のうちで小川に入って身を清めようとする者は、僧の為に広げてある蓆の上に一個の銭を投げてやるが、僧がそれに対して感謝の念を面上に表さないのは、彼が練達で信心深いからいわば受けるのが当然だということであり、また身分の高い物乞いの場合には、礼を述べる習慣がないからである。施餓鬼の法式を習い覚えた者は、誰でもそれを行うことは自由である。
身分の低い物乞い
物乞いのいろいろな種類のうち最も身分の低い大部分の者は、一人一人ほとんど至る所の路傍で蓆を敷いて坐り、絶えず哀れっぽい声で、なんまんだあを唱えたりしている。これは南無阿弥陀仏を短くしたもので、彼らが死んだ人の霊をとりなす者として阿弥陀に呼びかける時に使う短縮形なのである。彼らは同時に自分の前に置いてある幅の広い臼の形をした小さい鐘を木槌で叩くのであるが、それは鐘の音がよく阿弥陀の耳に届き、通りすがりの旅人にも聞こえる、と信じているからである。
特殊な物乞いの音楽
八打鐘(はっちょうかね)つまり八つの鐘の音楽と呼ばれるもの。道中でこれに行き逢ったが大変珍しいものである。一人の少年が木製の軛(くびきwikipedia)を持ち、その上に一本の綱が付いていて、それを首にかけ、その綱には八つの音色のちがった平らな鐘がそれぞれ一本ずつ特別な紐に付けてある。少年はその軛とともに驚くほどの速さでぐるぐると回るので、両腕で支えている軛は鐘と一緒に水平にあがり、また互いに広くひろがる。少年は回転しながら二本の槌で鐘を打ち鳴らし、粗野なメロディを奏でる。彼の傍に座っている他の二人の仲間がその間に大小の太鼓を打つと、また格別の音が出る。人々は気に入ったことを彼らに示そうとして、幾ばくかの銭を前に投げてやる。
宿場の娼婦・ケンペルは不愉快である
村や町にある大小の旅館・茶屋・小料理屋などには淫らな女たちがいる。彼女たちは昼ごろになると着替え、おしろいを塗って家の前の廊下の所から絶えず旅行者を眺め、一方の女はここで、一方の女はあそこで甘ったるい声を出してせり合い、上っていくように呼び寄せ、彼らの耳元でしきりに喋るのである。
こういう点では何軒もの旅館が並んでいる宿場は特にひどく、例えば近くに並んでいる二つの村、赤坂(愛知県宝飯〔ほい〕郡)と御油(ごゆ・豊川市内)はほとんど旅館ばかりが並んでいて、その家にも三人から七人までの女がいる。それで冗談に、日本の遊女の蔵とか共同の研磨機という異名をちょうだいしたのである。この賤しい女たちと交わりを結ばずにここを通り過ぎる日本人はまれなので、そのため記念の印をちょうだいして我が家に帰る人がよくあって、それで大変腹が立つのである。
カロンが日本についての記述の中で、美しい日本女性の名誉を弁護して(生粋の日本婦人である貞節な彼の妻に対する尊敬の念からと察せられるが)、幾つかの都市の特許を受けた公娼を除けば、こういうやり方で生計を立てることが日本で行われていることを否定しているのは、言い過ぎというものである。日本ではすべての公共の旅館はまた公けの娼家であることは、むしろ否定すべくもない。
一方の宿に客が多過ぎる場合には、他の宿の主人は自分の所の女中(娼婦)を喜んで向こうに貸してやるが、彼らはそれで確実な儲けがあるからである。こうしたことは何も新しいことではなく、すでに古えからの習慣であった。
征夷大将軍で最初の世俗的な皇帝(将軍のこと)源頼朝が、すでに数世紀も前にこれを始めたのである。すなわち彼の兵士たちが長い飽き飽きする遠征の旅路でいら立たず、このようにどこにも見出される女たちを求め、己れの欲求を満たすことができるように、これを認めたのである。だから中国人が日本の国を中国の売春宿と呼んだのは不当ではない。なぜなら中国では娼家と売春とは厳罰を課してこれを禁止しているからである。だから若い中国人は情欲をさまし銭を捨てに、よく日本にやってくるのである。
安倍晴明
(安倍晴明の発見した旅行の凶日の表が挙げられている。何月は何日と何日、という具合。旅に出るのはこの日を避けよ、という意)、この人の父は天皇の息子で安倍保名といい、母は狐であった。保名に命を助けて貰い感謝した狐は保名の前に娘の姿で現れ、その類ない美しさに魅せられた保名は愛情がつのり、自分の妻とした。この女がすばらしく賢い予言の霊力をもつ息子(安倍晴明)を産んだのである。彼女は永い間、夫に気づかれなかったが、とうとう尾がはえ、やがて段々とほかの部分にも毛が生じ、終いには全身が前の姿にもどってしまった。
しかしながら、この晴明は、単に天体の運行や影響からここに挙げた表を作ったばかりではなく、神秘的な努力によってある語句を考え出し、それを歌で表した。災難を防ぐ手段としてこの歌を唱えると、不吉の日の悪い影響を無力にすることができる。そのためこの歌は、主人から命令されれば、この表を目安にすることは許されず、旅に出なければならない哀れな召使や下僕に安心感を与えるのである。その歌は次の通りである。
さだめえし旅立つ日取り良し悪しは 思い立つ日を吉日とせん
大坂
大坂の町は非常に人口が多く、いざという時に防備に役立つ八万の男子がいる。町は有利な土地柄のために、水陸両路を利用して最大の商業が営まれ、それゆえ裕福な市民や、あらゆる種類の工芸家や、製造業者が住んでいる。住民が大変多いにもかかわらず、この土地は非常に物価が安く生活しやすいと同時に、贅沢をしたり、官能的な娯楽をするのに必要なものは何でもある。それゆえ日本人は、大坂をあらゆる歓楽に事欠かない都市だという。
公の劇場でも小屋掛けでも毎日芝居が見られる。商人や香具師が露店を出して大声で客を呼び、奇形児や異国の動物や、芸を仕込んだ動物など珍しいものを少しでも持っている人は、他の地方からここに集まって、銭をとって芸や珍品を見せるのである。
将軍に献上するヒクイドリが長崎奉行の入国審査で拒否され産地に戻されたことがあったが、このとき、ある金持ちの収集家が、許可が得られればその鳥を千両で買い取りたい、大坂では一年も経たぬうちに、その鳥で倍儲かることは確実だと言いきっていた。この大坂では暇な時間をいろいろな娯楽で過ごすことができるので、町には旅行中のたくさんの余所者が逗留しているのは、そういうわけでなんの不思議もない。
品川
品川と江戸は京都と伏見のように続いている。従って本当の(江戸の)郊外の町と思われ、鈴ヶ森の半里の辺りから始まる。品川の手前には刑場があって、通り過ぎる旅行者はそれを目にして、むかつくような気持ちになる。人間の首や手足を切った胴体が、死んだ家畜の腐肉の間に混って横たわっていた。やせた大きな犬が飢えて大口を開け、腐った人間の体を食いまわっていた。なおほかに、たくさんの犬やカラスが、食卓が空いたら腹いっぱい食べようと、いつもそばで待っていた。  
一筋の流れる小川が、この郊外の品川という名になったのである。 
 
「江戸参府旅行日記」 ケンペル 4

 

オランダ人の参府旅行準備
・・・ポルトガル人がそのころこうした儀式(江戸参府)にやむを得ずに従ったように、今またわがオランダ東インド会社の代表たる商館長もそれに従っている。彼は一名ないし二名の書記と一名の外科医をこの旅行に伴うことができるが、そればかりでなく身分や官位の異なる一群の日本人に護衛されるのである。これらの日本人は長崎奉行の支配下にあり、奉行がその役を任命する。このことは、将軍に謁見を願う者に敬意を表するかのようにみえるが、実際この護衛の裏にある意図は全く別で、スパイや捕虜の場合と同じようなものなのである。つまりこれによって、道中でこの国の人々と疑わしい交渉や関係が結ばれないこと、また万一にも十字架・聖画像・聖遺物あるいはその他キリスト教に何らかの関係があるものを、こっそり彼らの手に渡させないこと、外国の物やキリスト教の国々から珍しい品物を持込んで、日本人に売ったり贈ったりしないように、さらに誰かがひそかに逃れて、キリスト教の伝道あるいはそのほかの有害な騒動を国内で起こすために、身を隠したりしないように、防止しようというのである。・・・・
再度私はこういう参府旅行に加わる楽しみを持った。最初は1691(元禄四)年で、ヘンリッヒ・フォン・ビューテンヘム氏と一緒であった。彼は正直で気立てがよく思慮深い人で、日本人の流儀や言葉によく通じていた。そして特に賢明で自分の名誉とオランダ国民の名誉を保持していた。もう一度はその翌年で現バタビア総督の弟コルネリウス・アウトホルン氏に随行した。彼は博識で世故にたけ数カ国語に通じており、その生来の愛想の良さによって、疑念を抱いている日本人にうまく取り入っていたので、それによって会社の利益を非常にあげたのである。・・・
この旅行の準備には次に挙げることが必要である。まず最初に将軍とその閣老および江戸・京都・大阪にいる数人の高官に対する、一定の金額の進物を選ぶことから始まる。次にこれらの進物を分け、どれを誰に贈るかを決め、それから革の袋か行李に入れ、注意深く菰(こも)で包むが、それは贈物が旅行中こわれないためであり、最後に封印をする。贈物の選択は長崎奉行が行い、幕府に喜んで受取ってもらえそうなものの中から決める。彼らはそれらの品を早い時期に商館長を通じて注文するか、あるいは現に倉庫の中にあるものを取出す。・・・
こういう時に若干の珍しい人目をひく品物が、将軍に対する贈物としてヨーロッパから輸入されるが、このことに関する厳しい判定者である奉行が、これを評価しないようなことが本当によく起こるのである。例えば私の時にも最新の発明に係る真鍮製の二台の消防ポンプがそうであった。彼らはそれを実験し、さらに原型を写しとってしまってから、将軍への贈物として受入れようともせず、返上してよこした。またバタビアから進物として持ってきた火喰鳥にも同じようなことがあった。この鳥が大食で利口でないことを知って、将軍に対する贈物としては不向であるとした。
さて、こういうようなわけで贈物の選択と準備に幾ばくかの時日を費やすと、それらの品は他のすべての旅行の必需品と一緒に船に積み込まれ三、四週間かかって海を渡り、(日本島[本州のこと]のはずれにある)下関という小さな町まで先に運び、陸路を行くわれわれの到着を待っている。・・・
(旅行の装備の説明部分)
次は従僕や馬が使う一種の履物のことで、藁で編み藁縄で足にくくりつける。これは日本では全然用いられていないわが方の蹄鉄の代わりになるものである。石があったり滑りやすい道では藁靴[草鞋]はじきにすり切れるので、たびたび新しいのととり替える。・・・
また日本人は旅行中ダブダブのズボンをはいている。それは、ふくらはぎを覆う所で狭くなってさがり、両側が裂けている。それは彼らの長い上衣[着物]をズボンの中にすっかり入れるためで、そうしないと馬に乗ったり歩いたりする時に、上衣が邪魔になるからであろう。このズホンの上に彼らはまた短い外套[羽織]を着る。ある者は長靴下の代わりに幅の広い帯[脚絆]を、ふくらはぎの所に付ける。普通の従者、特に乗物をかついだり槍を持ったりする者はズボンをはかず、いちだんと敏捷に行動できるように、上衣をはしょい裾を帯にはさんでいるので、彼らの下半身は露になっているが、このことを彼らは少しも恥ずかしがらない。
われわれヨーロッパの者は手袋をはめずに外出することは滅多にないが、同じように日本人は男女とも礼儀上扇子を持ってゆく。旅行中彼らは、その上に里程や宿屋や日用品の値段などが印刷してある扇子の一種を持ってゆく。・・・人々がこの国において旅行の準備をするやり方は、こういったところである。・・・・  
元禄時代のオランダ人の旅行
われわれが宿に着くと(道にいる腕白小僧たちが叫び声をあげるので、少しもゆったりした気分になれず)与力に導かれて家の中を通り、われわれの部屋に行くのだが、そこでは小さな裏庭に出ること以外は何一つ許されず、同心たちは田畑や裏通りの見える窓や、そこに通じる戸口などすべてのものに鍵をかけさせ、釘付けにさせる。彼らに言わせれば、盗賊から守るためというのであるが、腹をさぐれば、われわれを盗賊や逃亡者のように見張るためなのである。それでも帰りの旅行の時には、われわれはようやく信用を得たので、こうした彼らの用心は目に見えて少なくなったのに気付いた。検使は、その部屋がどの部分にあっても、われわれの部屋に次ぐ良い部屋を使う。与力・通詞および同心たちは、われわれの一番近くにある次の間をとるが、その目的はわれわれを見張っていて、従僕やよその者が、彼らの知らないうちに、または許しを受けずに、われわれの所に立寄るのを妨げるためである。・・・・
われわれが割当てられた部屋に入ると、宿の主人は、すぐに家族のうちの主立った男たちを連れて姿を見せ、めいめい薄茶をいれた茶碗を持ち、体を非常に低く折曲げ、胸の中からしぼり出したような丁重な声で、アー・アー・アーと言いながら、それを階級順に次々に差出す。主人たちが着ている礼服や腰にさしている短刀は、客が泊っている間は家の中でも脱いだり、とったりはしない。その次には、喫煙具が運ばれる。・・・同時に折板や漆塗りの平らな盆に肴が載せてある。すなわち焼菓子、国内産のイチジクやクルミなどの果実、暖かいまんじゅう、米から作った菓子など、また塩水で煮たいろいろな種類の根菜類とか砂糖菓子といったようなもので、これらは最初に検使の所に、次にわれわれの部屋に出される。
日本人の客に対する給仕は女中が行う。彼女たちは客の所にすべての必要なものを運び、食事時には酒や茶をつぎ、食べ物を出したりし、そうすることで近づきになるための道を拓くのである。オランダ人の場合にはこのような給仕はなく、それだけでなく旅館の主人や番頭たちでさえ、茶を持って来た後は部屋に入ることは全く禁止されており、せいぜい部屋の引戸の前まで来ることが許されているくらいである。というのは、われわれの連れて来た従僕がなんでも必要なことをしてくれるし、われわれに加勢してくれるからである。・・・
同行の日本人は旅行中、毎日三度食事をするが、さらに間食もする。まだ夜明け前、日本人は起き上がって着物を着るとすぐに、従って出発の前に一回目の食事をし、昼にはほかの旅館で二回目を、そして床に就く前に三回目の食事をとるが、それについてはすでに述べたように、日本人のために国内風に調理され大へんおいしい。彼らは食事のあと酒を飲みながら歌をうたったり、あるいは(花札は禁止されているので)ほかの遊びや、順々に謎かけをして暇をつぶすが、そのとき間違ったり負けたりすると、一杯飲まなければならない。これに反してオランダ人は、食事を静かに食べなければならない。オランダ人は自分たちに付いて来た日本人の料理人にヨーロッパ風に調理させ、食卓に運ばせるが、時にはそのほかに宿の主人から日本の料理を出させたり、またヨーロッパのブドウ酒と一緒に、国内産の暖かい米の酒をたっぷりつがせることもある。その他の点ではオランダ人は気分転換に昼間は中庭に出たり、気が向けば夜分に入浴したりするほかには、一歩も外へ出ることは許されず、暇つぶしのために従僕どもの所へ行くことさえできない。・・・
我々の一行が宿舎を立つ場合に、宿の主人には二人の通詞が立会って支払いがなされ、小さな盆の上に載せた金貨(小判)が、われわれの使節(商館長)から主人に渡される。主人は両手と膝をついて恐る恐る這いつくばって進み、地面につくほど額を下げ盆に手をかけ、しきりに例のアー・アー・アーといううめき声を出して礼をのべる。主人は他のオランダ人にも同じやり方で礼を述べようとするが、通詞にさえぎられて思いとどまり、再び四つんばいで引き下がる。昼食をとる旅館では小判二枚を払うが、夕食をとり一泊する所では三枚を支払う。客が宿舎を出る時に、自分のいた部屋の床を急いで従者に掃除させたり、塵を払わせたりするのは、昔からの礼儀であり、感謝のしるしである。・・・・
旅館の主人らの礼儀正しい応対から、日本人の礼儀正しさが推定される。旅行中、突然の訪問の折りにわれわれが気付いたのであるが、世界中のいかなる国民でも、礼儀という点で日本人にまさるものはない。のみならず彼らの行状は、身分の低い百姓から最も身分の高い大名に至るまで大へん礼儀正しいので、われわれは国全体を礼儀作法を教える高等学校と呼んでもよかろう。そして彼らは才気があり、好奇心が強い人たちで、すべて異国の品物を大へん大事にするから、もし許されることなら、われわれを外来者として大切にするだろうと思う。 
将軍[綱吉]に謁見
3月29日木曜日
われわれは呼ばれて、二つの立派な門で閉ざされた枡形を通り、それから一方の門を出た所から幾つかの石段をあがって本丸に案内された。そこから御殿の正面までは、ほんの数歩の距離で、そこに武装した兵士が警備し、役人や近習などがたくさんいた。われわれはなお二段ほど登って御殿に入り、玄関の右手の一番近い部屋に入った。この部屋は、謁見のため将軍や老中などの前に呼び出される者の普通の控えの間で、金張りの柱や壁や襖でみごとに飾り立てられ、また襖を閉めた時には、それに続く右手の家具部屋の、かなり高い所にある欄間を通してほんのわずかな光がさすだけで、大変暗かった。われわれがここでたっぷり一時間ばかり坐っていると、その間に将軍はいつもの座所に着いた。二人の宗門改めと攝津守とが、わが公使つまりカピタンを迎えにやって来た。それから彼を謁見の間に案内して行ったが、われわれはそこに残っていた。彼が謁見の間に入って行ったと思われた時に、間髪を入れず、オランダ・カピタンという大へん大きな声がした。それは彼が近づいて敬意を表わす合図で、それに応じて彼は、献上品がきちんと並べてある場所と、将軍の高い座所との間で、命じられた通りひざまずき、頭を畳にすりつけ手足で這うように進み出て、一言もいわずに全くザリガニと同じように再び引き下がった。いろいろと面倒な手数をかけて準備した拝謁の一切の儀式は、こういうあっけないものであった。
毎年大名たちが行う謁見も同じような経過で、名前を呼ばれ、恭しく敬意を表し、また後ずさりして引下がるのである。謁見の広間は、モンタヌスが想像し紹介していたのとは、ずっと違っていた。ここには高くなった玉座も、そこへ登ってゆく階段も、たれ下がっているゴブランの壁掛けもなく、玉座と広間すなわちその建物に用いてあるという立派な円柱も見当たらない。けれども、すべてが実際に美しく、大へん貴重なものであることは事実である。・・・・
100枚の畳が敷いてある謁見の間は、一方の側が小さな中庭に向って開いていて、そこから光が入る。反対側には同じ中庭に面して二つの部屋が続いていて、最初の部屋はかなり広く、幕府の高官の座所で、比較的小さい大名や公使や使節に謁見する所である。しかし、最後のもう一つの部屋は、大広間よりは狭く、奥深く一段高くなっている。そこはちょうど部屋のすみで、数枚の畳が敷いてある高くなった所に将軍が、体の下に両足を組んで坐っていたが、その姿がよく見られないのは、十分な光がそこまで届かなかったし、また謁見があまりに速く行われ、われわれは頭を下げたまま伺候し、自分の頭をあげて将軍を見ることが許されぬまま、再び引下がらなければならないからである。
広間のはずれや廊下に整然と坐って、老中・若年寄・側衆その他の高官たちが静かに居並ぶ様は、この拝謁に少なからず重みを添えている。昔は拝謁の時、カピタン一人が出頭し、それから二、三日後に彼は面前で法規が読まれるのを拝聴し、オランダ国民の名においてそれを守ることを約束すれば十分で、老中から再び長崎に帰ることが許されたのである。しかし現在、つまりこの20年来は、使節と一緒にやって来たオランダ人たちを、最初の拝謁の後で再び御殿のずっと奥に招じ入れ、娯楽や見物の目的で、将軍の夫人や、そのために招かれている一族の姫や、そのほか大奥の女たちの前に、連れ出すのである。その時、将軍は女たちと一緒に簾の後ろに隠れていたが、老中や拝謁に陪席を命じられた他の高官は、見える所に坐っていた。・・・・
われわれが見物されることになっている部屋に重臣が到着するまで、半時間ほどここで待たされてから、幾つかの薄暗い廊下を通って連れて行かれた。・・・・われわれの所からそんなに離れていない右側の御簾の後ろには、将軍が夫人と共に坐っていた。私が将軍の命令で少しばかり踊っていた間に、御簾が動いて小さなすき間から、私はその夫人の顔を二、三回見たのであるが、ヨーロッパ人のような黒い瞳をした、若々しい褐色がかった円みのある美しい顔立ちであった。・・・
われわれの前方、畳で四枚ばかり離れた、同じように御簾の後ろには、将軍一族の姫たちや、その他大奥の女性たちが招かれて集まっていた。この御簾の合せ目やすき間には紙を挿し込んであり、楽々とのぞけるように、彼女たちは時々そこを開いた。・・・将軍はわれわれに外套、つまり礼装を脱がせ、われわれの顔をよく見ることができるように、上体を起して坐ることを命じた。しかし将軍が要求したことはこれだけではなくて、本当の猿芝居をすることに、われわれは同意せざるを得なかったが、私にはもうすべてのことを思い出すことさえできない。
われわれはある時は立ち上がってあちこちと歩かねばならなかったし、ある時は互いに挨拶し、それから踊ったり、跳ねたり、酔払いの真似をしたり、つかえつかえ日本語を話したり、絵を描き、オランダ語やドイツ語を読んだり、歌をうたったり、外套を着たり脱いだり等々で、私はその時ドイツの恋の歌をうたった。しかし、わが長官の威信が傷付けられてはならないと、高官たちが気付いたので、カピタンは跳ねたりしないで済んだ。しかも彼は真面目で敏感な性格でもあったから、そういうことをやったところで、全くうまくは行かなかったであろう。もちろん先方には少しの悪意もないのだが、絶えず不当な要求に応じながら、二時間にわたり、こういうようにして見物されたのである。それが終ると、坊主たちがわれわれ一人一人の前に日本食の小さな膳を運んできたが、その膳にはナイフとフォークの代わりに、一対の短い棒[箸]が添えてあった。 
各奉行屋敷への訪問
もう午後3時であった。・・・今日にも贈物を携えて、老中と若年寄を儀礼的に訪問しなければならなかった。そこでわれわれは将軍の御殿を離れ、大番所にいた主立った人々に、通り過ぎる時挨拶をし、歩きつづけた。贈物は、一つもわれわれの目につかなかったから、すでにわれわれが行く前に、めいめいの屋敷に書記役が持参し、たぶん特別な部屋に置いてあるのだろう。・・・どの屋敷へ行ってもわれわれは書記役に丁重に迎えられ、短時間なので当然のことであるが、挽茶や煙草や菓子を出してもてなされた。われわれが通された部屋の簾や障子の後ろは、女性の見物人でいっぱいだった。もしわれわれが彼女たちにおどけたしぐさを少しでもやって見せたら、好奇心が強いから、大へん喜んで見物したであろう。しかし備後守の屋敷と、城内の北側にある一番若年の参政官[側用人柳沢出羽守吉保。当時33歳]の屋敷以外では、彼女たちは当てがはずれたであろう。備後守の屋敷では少しばかりダンスをお目にかけ、出羽守の所ではわれわれ一人一人が歌をお聞かせした。・・・
3月30日金曜日
われわれは朝早く、他の役人すなわち二人の江戸町奉行、三人の寺社奉行、外国人や舶来品を監視する二人の宗門改めのところに、われわれの贈物を届けるため、馬で出かけた。その贈物は同じように日本人の書記役が、台に載せてあらかじめ指定された謁見の間にきちんと並べておくのである。・・・一人または二人の家来の案内で幾つかの部屋を通りぬけ、四方八方どこの場所も見物人でぎっしりと詰っている謁見の間に連れて行かれた。席につくと煙草や挽茶が出された。それから間もなく用人か書記役が一人、時には同僚と一緒に出て来て、主人の名において挨拶を受けた。いつもわれわれは目に見えぬ婦人たちの視野の中にあるようになっていた。いろいろな焼菓子や砂糖漬の菓子をわれわれの前に出して、婦人たちのお気に召すように、われわれを引留めようとした。
二人の宗門改めの奉行は、一人は西南で、もう一人は東北と、一里ほど離れたかなり遠い所に住んでいた。われわれが大へん彼らの愛顧をこうむっていたかのように、大仰な出迎えを受けた。すなわち10人ないし20人の武装した堂々たる服装の侍が、頑丈な棒を横に伸ばして町筋に立ちふさがり、詰めかけた群衆を前へ出ないように抑えていた。
われわれが家に入った時の出迎えは、他家の場合と同様であった。われわれは次第に中に進み、一番奥の部屋まで案内された。それはわれわれも、また見物するために姿を見せた婦人たちも、奥へ行くほど妨げられることもなく、また知らない人々の殺到からなるべく遠のいていられるからである。この部屋には襖の代わりに、二間ないしはそれ以上の長さにわたって、われわれの向いに格子柄の簾が下がっていて、化粧した婦人たちが、招かれた女友達や知合いと一緒に、目の前に坐ったり立ったりしていたので、もう坐る席もないくらいであった。われわれが坐り終わると、七人のよい服装をした立派な家来が喫煙具一式を持って来た。次に漆塗りの盆にのせた焼菓子の皿と、それから同じように一切れ一切れを小皿に並べた焼魚、最後には卵焼や殻をむいたゆで卵も出された。そしてその間に燗をした古くて強い酒をすすめられた。
こうして一時間か一時間半が過ぎると、われわれは歌をうたい、次いでダンスをするように言われた。しかしダンスの方は勘弁してもらった。最初の奉行の所では、火酒の代わりに甘い梅酒を、もう一人の奉行の所では、一切れの混ぜ物の入ったパンのようなものを冷たい褐色の汁に浸け、すったカラシと二、三個の大根を添えて出し、最後に柑橘類に砂糖をふりかけた特別な一皿と挽茶を出した。それからわれわれは暇を告げ、夕方5時には再び宿舎にもどった。
3月31日土曜日
朝10時にわれわれは三人の長崎奉行を訪ねるため、馬で出かけた。けれども三人のうち江戸にいたのは一人だけで、他の両人は長崎に行っていたが、向うで彼らもまた定めの贈物をすでに受取っていた。けれどもさし当り、各奉行の所になお一本の赤ブドウ酒を持って行った。江戸にいた摂津守は、大勢の随員を連れて家の前でわれわれを出迎えた。彼は静かに立ち止り、通詞に近くに寄るように言い、「私の所に来て下さって、しばらくお休みいただくのは、大へん嬉しいことです」と、われわれに伝えるように命じた。彼の一人の弟(義弟か?)はわれわれを特に厚くもてなし、身分の高い人々や友人たちと一緒に、大へん丁重な言葉を交わしてわれわれの相手をつとめた。彼はわれわれに庭の散歩や、他の遊びをしきりにすすめたので、まるで江戸の親しい友人の所にいるようで、長崎奉行に呼ばれているような気がしなかった。暖かい食物と濃い茶が出された。
・・・・われわれはここに二時間ほどいて、それから主殿様の屋敷に行った。ここで一番奥の良い部屋に通され、両側にあるかなり幅広い簾の近くに寄るように、二度も頼まれた。その後ろには、これまでどこでもいなかったほど大勢の婦人たちが坐っていた。彼女たちはわれわれの衣服やカピタンの剣や指輪やパイプなどの品々を、珍しげに、しかも礼儀を忘れずに丁重に眺め、すべての品を簾の間や下から渡させた。不在の奉行の名代としてわれわれを出迎えた者も、その他われわれの周囲や近くに居合わせた人々も、大へん分け隔てない態度を示したので、われわれは彼らの好意的なたびたびの乾杯にもあまり困惑することもなかった。われわれ一同は満足している証拠として、一つずつ歌を聞かせた。出された膳を見ると、料理はすべて十分に心を惹きつけるものばかりであった。 
二度目の江戸参府
4月21日
・・・われわれはぬれた靴下や靴をとりかえて、[本丸]御殿に入った。カピタン一人が将軍の座所の前に進み出て、献上品を捧呈したのは12時で、それが終るとすぐにわれわれのいる控えの間に戻ってきた。(長崎奉行の)十兵衛様は、それからわれわれも一緒に拝謁するように言い、献上品が並べてあった左手の広間の所を回って、・・・・拝謁が行われる広間のすぐ近くにある長い次の間に入った。・・・
われわれが坐りきりで長時間待っていて疲れるといけないので、他の廊下にさがらせ、そこで気楽に時を過ごすことができるようにしてくれ、終いには近くにある庭が見えるように戸をあけてくれた。そこで休んでいる間に、身分の高いたくさんの若い人々が現れ、われわれを見て挨拶したが、大へん親しみがこもっていた。宗門改めの奉行はわれわれに、金の輪を見せてくれたが、それには日本の十二の干支のついた磁石がはめこんであったし、またヨーロッパの紋章やその他いろいろな物を見せた。われわれがもとめられて、これらの品について説明しようとしたちょうどその時に、将軍に呼ばれた。・・・・
左には六人の老中・若年寄が、右の廊下には側衆が座に着き、その右手の御簾の向うに将軍が二人の婦人と一緒におられた。その前の所に実力者の側用人備後様が座を占めていた。彼は将軍の名において、よくぞ来られたと挨拶し、それから、正座しなさい、外套を脱ぎなさい、と言い、われわれの氏名や年齢を言わせ、立ちなさい、そこらを歩いてみなさい、向きを変えなさい、舞ってみなさい、などと命令し、特に私には歌え、と言った。われわれは互いにお辞儀をしたり、叱り合ったり、怒ったり、客に何かを勧めたり、いろいろの会話をやらされた。それからわれわれ二人を親友とか、親子とかいうことにし、互いに別れを惜しんだり、訪ねて来たり、互いに出会う二人の友人のしぐさをしたりした。また、一人の男が妻と別れる場面を演じたり、子供を甘やかしたり、腕に抱いたりする真似をした。
その他われわれに向っていろいろな質問が行われた。すなわち私に対しては、其方はどんな職業についているのか、また特に、其方はこれまでに重病を治したことがあるか、と聞かれた。これに対して私は、捕虜と同じような状態にある長崎では、治したことはありませんが、日本以外の所ではあります、と答えた。さらに、われわれの家のことを、また習慣は違っているのか、と尋ねられた。私は、はいと答えた。其方どもの所では葬儀はどのように致すのか。答え。遺体を墓場へ運んでいく日で、それ以外の日には葬儀は行いません。
其方どもの皇子[国王のつもりか]の地位はいかなるものか。バタビアにいる総督は皇子より身分が低く、その下に立っているのか、それとも彼ひとりで国を治めているのか、と聞かれた。其方どもは、ポルトガル人が持っていたような聖像を持ってはいないのか。答え、持っておりません。オランダや他のヨーロッパの国々にも、雷が鳴ったり、地震で揺れたりするのか。落雷が家を焼き、人々を殺すことがあるのか。われわれはものを読むように答えなければならなかった。それから私はたくさんの膏薬の名前を挙げねばならなかった。
またもう一度その後で一緒にダンスをした。それからカピタンは子供のことやその名前を聞かれ、またオランダは長崎からどれくらい離れているか、など尋ねられた。将軍はその時左手の襖を開け、新鮮な空気が入るようにさせた。さて、われわれは帽子を脱ぎ、鬘(かつら)をとったり、また言葉を交わしながら、15分ばかりあちこち歩き回らねばならなかった。私が美しい将軍の御台所の方を何回も見た時に、将軍は日本語で、其方どもは御台の方をじっと見ておるが、その座所を承知しているに相違あるまい、と言われ、それからすぐに、われわれの向いに集まっていた他の婦人たちの方へ席を移された。それで私は御簾の所からもう少し近くに行かされ、鬘をもう一度とり、飛んだり跳ねたり、一緒にダンスしたり、歩き回ったりした。
またカピタンと私に、備後の年は幾つか当ててみよ、と言われ、カピタンは50歳、私は45歳とお答えしたら、みながどっと笑った[備後守は実際には57歳であった]。さらに、われわれは夫が妻に対してどういう風にするのかを、わかりやすくやってみせねばならなかったが、その際不意に接吻してみせたので、婦人たちの所で少なからず笑いが起こった。それから、われわれはまたしても飛び回ったり、最後には身分の低い人が高い人に対する、また王に対するヨーロッパ人の敬意の表し方をやって見せねばならなかった。私は歌をうたうことを求められ、いろいろの歌のうちから二つを歌い終ると、みなからそれ相応の喝采を受けた。
それからわれわれは外套を脱ぎ、次々と将軍に近づいて、ヨーロッパの王の前でするように、てきぱきと別れの挨拶をした。そうすると、みなの顔に楽しげな満足な様子が浮かんだので、われわれはそれを見届けてから、退出の許可を得た。すでに四時であった。われわれは三時間半もここにいたわけである。われわれは宗門改めと十兵衛に暇を告げ、さっき入った時と同じように、二人に案内されて御殿を出ると、備後守の邸に赴き、そこで大層結構なもてなしを受けた。やっとわれわれが宿にもどったのは、日の沈むころであった。 
 
江戸時代、街道を行く旅人のトイレ

 

昔の旅人がどれぐらいの速度で歩いていたかとか、この宿場はどんな所だったのかとか、そんなことは意外と簡単に調べることが出来るんですが、用を足すなどという日常的で当たり前のことは、誰も記録に残していない。広重の浮世絵「東海道五十三次」など見たって、トイレや用を足してるところなんか描かれていませんしね。だから、この調べごとが、結構、厄介なんですよ。
ところが、ところがです。これが当たり前でない人たちがいた。全く異なった文化圏に放り込まれた、あるいは自ら好んでやってきた人たちがいた……「外国人」あるいは「異邦人」と呼ばれる人たちです。彼らは、好奇心満々で、日本人の一挙手一投足に目を光らせました。そして、それを紀行文に書き残したんです。ケンペルしかり、ツンベリーしかり、シーボルトまたしかりです。今ならブログにでも書くんでしょうが……彼らは、それらのことを「江戸参府旅行日記」「江戸参府随行記」「江戸参府紀行」などの日記に書き残した訳です。どれをとっても、彼らのびっくりしたこと、困ったこと、感動したことが、生き生きと書かれています。勿論、旅先のトイレのことや、雨上がりの後のぬかるんだ街道を誰が整備したかまで、事細かに書いているんです。日本人の旅人にとっては、日常的なことで気にかけないことも、彼らにとってはサプライズなことだったのでしょうね。
まずケンペルの「江戸参府旅行日記」を見てみましょう。彼は東海道の状況を、「木陰となる松の木が街道の両脇に狭い間隔で真っ直ぐに植えられてあり、降雨時のための排水口がつくられ、雨水は、低い畑地に流れ込むようになっており、みごとな土堤が築かれている」と、街道の状況を描写しています。このため、「雨天続きの時はぬかるんでいる」が、「普段は、旅行者は良い道を歩くことが出来る」ということも観察し記録ています。また、参勤交代などで、身分の高い人が通る場合は、街道は直前にほうきで掃除され、両側には数日前から砂が運ばれ小さい山がつくられます。万一、到着時に雨が降ったとき、この砂を散布し道を渇かすためだそうです。そればかりではありません。二、三里ごとに路傍に木葉葺きの小屋をつくり、その近くの目立たない側道との間を垣で仕切ります。その小屋は、大名や身分の高い人たちが、休憩したり用便したりするためのものだと言います。
そして、これら道路整備やトイレ小屋の設置を誰がやっているかというと、近在の百姓たちだというわけ。百姓たちは、ボランティアでなく、自分たちの利益につながるとして、この整備をしているとも言います。まず、道路の清掃は、毎日落ちてくる松葉や松かさなど、焚き物として利用され、薪の不足を補い、ところかまわず落とされる馬糞は、百姓の子供が馬のすぐ後を追いかけ、まだ温もりのあるうちにかき集め、自分の畑に運んでいきます。すり切れ捨てられた人馬の草鞋は拾い集められ、ゴミとともに焼かれ、灰=カリ肥料として使われるのだそうです。
ツンベリーは、このことを、より具体的な記事として書いています(「江戸参府随行記」斉藤信訳)。「ここでも他のいくつかの場所でも、街道では子供や老人が、旅の馬が落とす糞をせっせと入念に集めていた。彼らは、柄の先に付けた匙のような貝殻で、かがみこまないで器用に集めていた。そして拾い上げた馬糞は、左手に持った籠のなかに入れた」と……。
さて、大名や高貴な人たちのトイレが、農民たちの手で、二、三里ごとに設けられていることは分かった。では一般庶民のトイレはどうだったのでしょう。ケンペルは、そういった庶民のトイレも百姓たちが自費でつくっていたと言います。それも競って、自分のつくったトイレを旅人に使ってもらおうとしたようです。特に女性用のトイレを小綺麗につくり、女性が安心して入れるトイレづくりを目指しました。女性が安心して使えるようなトイレは、利用者が増えるということらしいのです。当時の旅人の糞尿は、大切な肥料になります。旅人たちは、少なくとも自分たち百姓よりうまいものを食っている。ということは肥料としても価値が高いと言うことになるわけ。この糞尿を少しでも多く集め、灰などと混ぜ合わせて肥料にするという次第です。
しかし、トイレは小綺麗でいいのですが、それを集めて蓄える肥溜めまでは、百姓たちも気がまわらなかったようです。ケンペルは、百姓たちのことを「欲得ずくで不潔なものを利用する」と評し、「田畑や村の便所のそばの、地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。百姓たちが毎日食べる大根の腐ったにおい(タクアンのことか?)がさらに加わるので、新しい道がわれわれの目を楽しませるのに、これとは反対に鼻の方は不快を感ぜずに入られないことを、ご想像いただきたい」と、冗談混じりに訴えています。
これがツンベリーになると、もっと悲惨です。彼は、肥溜めを「穴」と称し、「その穴には農夫が根気よくせっせと集めた糞尿が蓄えられている。農夫は自分の耕地を肥沃にするためにそれを使う。しかしその多くは通行人が吐き気を催すような堪え難い悪臭を発する」と、その臭いに苦しめられ、「鼻に詰め物をしたり、香水を振りまいても、まったく無駄なくらい強烈である」と、ため息をもらしています。
トイレに対する疑問は解決しましたが、話まで臭くなってきてしまいました。
気分直しに、庶民が東海道五十三次を、どのようにして旅したのかを、最後に見ておくことにしましょう。まずは、どんな格好で旅をしていたのかということから。
旅装
1.武士の場合=菅笠(すげがさ)、紋付羽織または野羽織(のばおり)、野袴(のばかま)、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、足袋、草鞋履き。刀には柄袋(つかぶくろ)を掛け、荷物は挟箱(はさみばこ)に入れて家来に担がせた。
2.町人男子の場合=菅笠、着物(歩きやすいように裾をからげます)、手甲、股引(ももひき)、脚絆、足袋、草鞋履き、荷物は平行李(ひらごうり)や風呂敷に入れて振り分け荷物にし、肩に掛けます。道中差(どうちゅうざし)は慣れた人だけが腰に差して歩きました。
3,一般的な男性の携帯荷物=着物、手ぬぐい、股引、脚絆、足袋、甲掛け、下帯、扇、矢立、鼻紙、財布、道中案内書、日記帳、巾着、指刀、耳かき、風呂敷、薬、針、糸、結髪道具、煙草道具、提灯、ろうそく、合羽、平行李、綱三本(宿で塗れた手ぬぐいを干すのに使うそうです)。
4,町人女子=菅笠、着物、着物の上には上っ張りを着ます。着流しの着物の裾はからげます。手甲、脚絆、白足袋、結い付けの草履。
旅の日数
1.徒歩=一日の歩行距離は、男子で平均10里(39.27km)、女子や老人で8里(31.42km)。晴天で川留(雨による増水で渡河禁止になること)なしと仮定して、江戸〜京都間を、男の場合で、13泊14日の旅程が一般的。この旅程での宿泊地は、戸塚、小田原、三島、蒲原、岡部、日坂、浜松、赤坂、宮(熱田)、四日市、亀山、土山、草津が一般的。
江戸と京都間の距離は、126里6町(約496km)になるので、一日の歩行距離は35.4kmとなり、これって結構速い! 僕の場合、朝夕の散歩と日常の歩きで、少ないときで6km、よく歩いたと思うときで10km程度。勿論、比べられはしないが、10km歩いたときなど、脚がだるいと感じるから、昔の旅人というのは、健脚ぞろいだったのかも。
2.駕籠(かご)=全旅程を駕籠というのは考えられないが、早駕籠といって、宿場の人足が、駕籠に急使を乗せて、宿場宿場を引き継ぎながら昼夜兼行で走るというのがある。勿論、公用に限られる訳だが、最高記録は、江戸から赤穂までの170里(約668km)を四日半で走ったというもの。赤穂の名が出て察しがつくように、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の江戸城内刃傷事件を知らせる早飛脚である。 
 
風待ち湊

 

伍代夏子の「風待ち湊」のカセットを買った。NHK「コメディー・お江戸でござる」のオリジナル・ソングである。初めて聞いたときから気に入った。特に出だしのメロディーに哀愁が隠っているのが良い。しかしカセットを買う気にさせたのは、それだけではない。歌詞が良かったのである。舞台は江戸時代の瀬戸内海に浮かぶ小島の遊郭で、女郎の悲恋を唄う。演歌の見せ場の一つは、義理人情恩義で縛られた、ままならぬ人生を唄うときであるが、法制上も慣習上も道義上も自由平等になって、殆どが縛られぬ人生を謳歌できる今日では、その舞台は一段と狭まってしまった。だから舞台を江戸時代に取ったのは賢明である。
私が風待ち湊の遊郭に注意しだしたのは、NHKドラマ早坂暁脚本「花へんろ−風の昭和日記」を見てからであった。その主舞台は伊予北条で、長い間その町を迂回する国道の脇に「花へんろの町−北条」と書いた大きな看板が立っていた。ドラマは主役桃井かおりの名演技でたいそうな評判を取った。昭和60年頃から3シリーズが放映された。その第1シリーズの中で、おこうという沖合の島の遊郭を足抜けした女郎が町を裸足で逃げてくるシーンがある。島の遊郭は、瀬戸内海を行き交う帆船の風待ち湊として繁盛していたが、漸く機械船が増え陰りが見え始めていたと言う設定だった。昭和の初めである。おこうは町の靴屋の義侠心にもかかわらず、年季が明けていないと云う理由で、結局島のやくざに連れ戻される。
「風待ち湊」の、音戸の瀬戸が東に望める遊郭も、「花へんろ」の沖合の島の遊郭も実は所在を確定できない。渡辺憲司著「江戸遊里盛衰記」によると、この近隣の大崎下島には御手洗という大遊女町があった。人口の2割が遊女だったという。御手洗は歴史に名を留めたが、中小の船宿町も遊女を多数抱えていた筈である。ただ町としては恥部に属する話であるので、語り部の死と共に、その歴史は大半は闇に埋もれてしまったであろう。女郎を船に配達するルーム・サービスのようなシステムがあって、そのお女郎舟を訛っておチョロ舟と言ったと「花へんろ」では語っていた。画面では、それが佐渡ヶ島の海女が使うような独り乗りのたらい舟だったが、「江戸遊里盛衰記」ではちゃんとした漕ぎ手の付いた和船であった。「花へんろ」の作者は伊予出身だそうだから、モデルがあったとすれば、沖合の島とは御手洗と別個の存在だったのだろう。
御手洗はケンペルの「江戸参府旅行日記」に初めて記録されたと「江戸遊里盛衰記」が指摘している。彼は1692年3月9日に第2回江戸参府旅行の往路で立ち寄り、娼婦2人をのせたおチョロ舟を見ている。彼はヨーロッパに比べて日本では旅する人の数がたいそう多いと感嘆している。だけど日本の旅日記には、島の遊女町の記録など残らなかった。どこにでも当たり前にある風景だからであろう。外国人の記録には、今では当たり前でなくなった当時の当たり前の風俗が、しっかり書き連ねてあって貴重である。ことに第5章は売春の慣習をも纏めていて面白い。旅籠、茶屋、小料理屋などに淫らな女が待機している様を描写している。旅人の慰みの相手もする比丘尼の話も出ている。長崎の丸山遊郭は、彼が丸山を遊郭の代名詞と誤解したほどインターナショナルな歓楽街で、中国人の渡楼も多かったらしく、中国人が日本の国を中国の売春宿と呼んでいることを紹介している。中国人が、何かと尊大ぶって他国を見下ろす姿勢を示したがるのは、この頃も同じであったらしい。おかげで古来は日本になかった性病が丸山から発信された。
鎖国で厳しく密貿易を取り締まる一方で、長崎に外国との窓口を開いておく。不義密通は云うに及ばず、男女の交際まで御法度なのに、公娼私娼は居るところにはいる。非人、部落民を拵えて農工商の闘争意欲を萎えさせる。守る方も攻める方も、1ヶ所逃げ道あるいは抜け道になる弱点を作り、相手をそこに誘導して殲滅を計ろうとする。これらの話はどこか互いに似ている。統治に合戦に、わが国でしばしば使われた伝統の戦略である。名を捨てて実を取るときには、用心せねばならぬ戦略である。 
 
音戸の瀬戸 (おんどのせと) 1  
広島県呉市にある本州と倉橋島の間に存在する海峡のことである。この瀬戸とは海峡を意味する。瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路、平清盛が開削したという伝説、風光明媚な観光地として知られている。
隠渡
音戸という地名の由来の一つに「隠渡」がある。これはこの海峡を干潮時に歩いて渡ることができたことから隠渡と呼ぶようになったという。伝承によれば音戸には、奈良時代には人が住んでいたと伝えられている。当時海岸はすべて砂浜で、警固屋と幅3尺(約0.9m)の砂州でつながっていた。その付近の集落を“隠れて渡る”から隠渡あるいは隠戸と呼んだ。そしてここを通行していた大阪商人が書きやすいようにと隠渡・隠戸から音戸を用いだしたのがこの名の始まりであるという。その他にも、平家の落人が渡ったことから、あるいは海賊が渡ったことから、呼ばれだしたという伝承もある。瀬戸内海を横切る主要航路は、朝廷によって難波津から大宰府を繋ぐものとして整備された。古来の倉橋島南側の倉橋町は「長門島」と呼ばれその主要航路で”潮待ちの港”が存在し、更に遣唐使船がこの島で作られたと推察されているほど古来から造船の島であった。音戸北側に渡子という地名があり、これは7世紀から9世紀に交通の要所の置かれた公設渡船の“渡し守“に由来することから、古来からこの海峡には渡船があったと推定されている。つまり、遅くとも奈良時代には倉橋島の南を通るルート、そして北であるこの海峡を通るルートが成立していたと考えられている。
清盛伝説
戦前の県史跡「伝清盛塚」。伝承では1184年(元暦元年)建立されたと言われている。中の宝篋印塔は高さ2.05mで室町時代の作なのは確定している。塚内のクロマツは「音戸の清盛松」と呼ばれ、伝承では枯死したものを1719年(享保4年)植え替えたと言われている。現在は護岸と接しているが、かつてはこのように独立した小島であった。
□伝承
この海峡で有名なのは永万元年(1165年)旧暦7月10日に完成した平清盛が開削したとする伝説である。この海峡はつながっていて、開削するに至った理由は、厳島神社参詣航路の整備として、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など諸説言われている。
「 この地に着いた時、短気な清盛は倉橋島を大回りするのをバカバカしく思いここを開削すると下知した。家臣は人力では無理ですと答えた。清盛は「なに人力に及ばすとや、天魔をも駆るべく、鬼神をも役すべし、天下何物か人力に依りて成らざるものあらんや、いでいで清盛が見事切り開いて見すべきぞ」と工事を決行した。」
亀山神社が代拝し、後に清盛により厳島神社とともに再建されたという。工事には連日数千人規模で行われ莫大な費用を要した。工事は思ったように進まなかった。
「 工事はあと少しで完成しようとしていたが、日は沈み観音山の影に隠れた。そこで清盛は山の小岩の上に立ち金扇を広げ「かえせ、もどせ」と叫ぶと日は再び昇った。これで工事は完成した。沈む夕日を呼び戻し、1日で開削したとする伝説もある。・・・清盛の日招き伝説・・・清盛は厳島神社の巫女に恋慕していた。巫女は神社繁栄のため清盛に、瀬戸を開削したら意に従う、と思わせぶりな返答をした。清盛は完成にこぎつけたが、巫女は体を大蛇に変えこの瀬戸を逃げた。清盛は舟で追ったが逆潮で進まなかった。怒った清盛は船の舳先に立って海を睨みつけると潮の流れが変わり船を進めた。 ・・・清盛のにらみ潮伝説」
工事安全祈願のために人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈めたと言われ、その地に石塔を建立、これが清盛塚である。音戸とはこの清盛の御塔が由来とも言われている。他にも、警固屋(けごや)はこの工事の際に飯炊き小屋=食小屋が置かれたことから、音戸町引地は小淵を掘削土で埋めた場所、と言われている。
清盛は1181年(治承5年)に死ぬが、日招きが災いしたとも言われている。
□真偽
この話は古くから真偽は疑われている。大きな要因として、当時の朝廷の記録および清盛の記録にこの工事のことが全く記されていないためである。
清盛が安芸守であったこと、厳島神社を造営したこと、大輪田泊(現神戸港)や瀬戸内の航路を整備した事実があり、この海峡両岸一帯の荘園“安摩荘”は清盛の弟である平頼盛が領主であったことから、この海峡に清盛の何らかの影響があった可能性は高い。記録がないのは、源氏による鎌倉幕府が成立して以降平氏の歴史が消去されていったためと推察されている。地元呉市ではこの伝説は事実として語られている。
一方で、偽説であるとする根拠はいくつかある。上記の通り、地理学的に考察するとそもそもつながっていなかったとする説がある。日本全国に点在する日招き伝説の起源は劉安『淮南子』内の説話で、そこから広まったことが定説となっている。にらみ潮も『淮南子』の中に同じような話がある。人柱の代わりに小石に一切経を書いたという伝承は、『平家物語』では経が島のことである。
文献で見ると、1389年(康応元年)今川貞世『鹿苑院殿厳島詣記』にはこの海峡を通過した情景は書かれているが清盛のことは一切書かれておらず、現在もこの地に残る清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であることから、この伝説が単なる作り話であるならば室町ごろに成立したものと考えられている。時代が下ると、1580年(天正8年)厳島神社神官棚守房顕『房顕覚書』に「清盛福原ヨリ月詣テ在、音渡瀬戸其砌被掘」、安土桃山時代に書かれた平佐就言『輝元公御上洛日記』には「清盛ノ石塔」が書かれている。この話が広く流布したのは江戸時代後期のことで、評判の悪かった清盛が儒学者によって再評価される流れとなったことと寺社参詣の旅行ブームの中でのことである。中国山地壬生の花田植にこの伝説の田植え歌があることからかなり広い範囲で伝播していたことがわかっている。この地の地名起源と清盛(平家)伝説とが結びついた話はこうした中で文化人や地元民が創作したものと推定されている。ただ近代では、清盛伝説は大衆文化での人気題材にはならなかったこと、代わって軍人など新たなヒーローが好まれたことなどから、この伝説は全国には伝播しなかった。
中世の勢力
中世、瀬戸内海の島々は荘園化が進められ、畿内に租税が船で運ばれていった。航路の難所では、航行の安全を確保するとして水先人が登場しそして警固料(通行料)を取るようになった。これが警固衆(水軍)の起こりである。
南北朝時代、警固屋は警固屋氏が支配し、周辺の豪族とで呉衆と呼ばれた連合組織を形成していた。呉衆は周防守護大内氏の傘下にあり大内水軍として各地を転戦している 。ただ『芸藩通志』には警固屋の城は宮原隼人の居城であると示されていることから、警固屋氏は没落したことになる。
『鹿苑院殿厳島詣記』には、音戸の瀬戸に入った足利義満の前に大内氏傘下多賀谷氏の某が来て大内義弘が遅参している理由を義満に弁明したことが書かれている。
一方で倉橋島北側の音戸町は当時「波多見島」と呼ばれ、矢野城(現広島市安芸区)を根城とした大内氏傘下野間氏が支配し、瀬戸城(あるいは波多見城)をその拠点とした。1421年(応永28年)野間氏は竹原小早川氏と縁組を結び、嫁がせた娘の扶養料として一代限りの期限付きで島を譲渡した。のちに野間氏は援助の見返りとして小早川氏に島を永久譲渡した。上記の清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であること、塚がある地は建立当時友好関係にあった野間氏と小早川氏に関係する縄張りであることから、その建立に2者が関わっていると推定されている。
1466年(文正元年)小早川氏は乃美氏に波多見島を守らせ瀬戸城主とし、乃美氏は瀬戸姓を名乗るようになる。同年、野間氏は約定を破り波多見島へ出兵、これにより小早川氏との対立が明確なものとなった。2者は共に大内氏傘下の関係にあり、2者の対立を大内氏が治めたが、応仁の乱のどさくさに紛れ野間氏は出兵し瀬戸城を占拠する。小早川氏が奪い返した後、大内氏はこの紛争に介入し波多見島は2者による分割統治という妥協案を飲ませた。
1523年(大永3年)大内氏と対立していた出雲尼子氏が安芸に侵攻してくると、再び野間氏と小早川氏との抗争が活発化した。1525年(大永5年)小早川氏の瀬戸賢勝(乃美賢勝)が野間氏を呉から追い出し、これ以降波多見島は小早川水軍の拠点の一つとなった。
伝承によると、清盛塚の周りの石垣は小早川隆景が整備したと言われており、そのことを記した碑が塚内に建っている。
近代
近代に入ると、旧海軍により呉鎮守府設置が決まると軍港として大きく発展した。近代において、この地は軍港の南側の入口であり、舟場であり漁師町であり、商家の土蔵や料理屋が並び賑やかな港町を形成していた。そして呉鎮や当時東洋最大規模となった呉海軍工廠が置かれた呉市へ、倉橋島の住民は出稼ぎに出るためここを渡船している。昭和初期、倉橋島の北側である渡子島村では2割が交通業(渡船の操船など)に従事していた記録が残る。
また、警固屋の南側にある標高218mの高烏山には、1901年(明治34年)軍港を守る目的として旧陸軍により呉要塞(広島湾要塞)「高烏砲台」が設置された。のちに旧海軍に移管され、28センチ榴弾砲6門が装備された。呉軍港空襲の最終局面では、航行が難しくなった旧海軍の艦艇が浮き砲台として周辺海域に配置され、アメリカ軍はそれを目標に攻撃している。
文化
音戸の舟唄
日本の著名な舟唄の一つ。いつごろからか船頭の舟唄が作られた。江戸時代には歌われていたとされ、渡船の近代化により歌われなくなっていったが、昭和30年代に高山訓昌が編曲したものが今日の音戸の舟唄となり、昭和39年保存会を設立し、歌い継がれている。
   船頭可愛や音戸の瀬戸は 一丈五尺の艪がしわる
   船頭可愛いと沖行く船に 瀬戸の女郎衆が袖濡らす
   泣いてくれるな出船の時にゃ 沖で艪櫂の手が渋る
   浮いた鴎の夫婦の仲を 情け知らずの伝馬船
   安芸の宮島廻れば七里 浦は七浦七恵比寿
   ここは音戸の瀬戸清盛塚の 岩に渦潮ドンとぶち当たる
音戸清盛祭
5年あるいは6年に1度旧暦3月3日に開催。清盛を偲んで行われていた念仏踊りが祭りの起こりと言われている。これが天保年間(1830年から1844年)に時代行列へと変わった。現存最古の記録は天保5年(1834年)旧暦7月16日・17日に行われたものになる。戦後のことである1952年から開催費用が原因でしばらく休止し、1979年呉市無形文化財に指定、1991年に祭りとして復活した。太鼓を鳴らしながら、毛槍の”投げ奴”、開削工事者に扮した”瀬堀”、大名の所持品を運ぶ”挟箱”、道中奴や道化踊りを交えた約500人が音戸の瀬戸沿いの道をねり歩く。
文学
今川貞世は1389年(康応元年)『鹿苑院殿厳島詣記』にて一句詠んでいる。
   船玉の ぬさも取あへず おち滝つ 早きしほせを 過にける哉
頼山陽は漢詩を残している。これは現在、おんど観光文化会館うずしおに掲げられている。
   舟宿暗門 憶曾随家君泊此 今十一年矣
    篷窓月暗樹如烟
    拍岸波声驚客眠
    黙数浮沈十年事
    平公塔下両維船
吉川英治は『新・平家物語』を書くにあたり当地を取材に訪れ、瀬戸を見おろす丘に立ち一言残している。 音戸の瀬戸公園にこれが吉川直筆で書かれている「吉川英治石碑」が建立されている。
   君よ 今昔之感 如何
山口誓子の方は句集『青銅』の中にあるもので、現在の音戸の瀬戸公園付近から対岸の倉橋島を見て詠んだ。山口の弟子にあたる橋本多佳子のものは呉港を見て詠んだもの。共に音戸の瀬戸公園に句碑が建立されている。
   天耕の 峯に達して 峯を越す — 山口誓子
   寒港を 見るや軍港 下敷に — 橋本多佳子
葛原繁歌碑も音戸の瀬戸公園に建立されている。
   夕空のもともろともにしづまれり瀬戸に見さくるにし東の海
   瀬戸いでて落ちあふ潮は夕凪の海にうごきて渦ひろげゆく 
 
平清盛公と音戸の瀬戸 2  
音戸の瀬戸
急流と渦潮で名高い音戸の瀬戸に架かる真紅のアーチ式の大橋が、山の緑、海と空の青さに浮かぶ風光明媚なこの地の本土側の丘に、「吉川英治文学碑」が瀬戸を見下すように建てられている。
吉川氏が「新平家物語」の史跡取材のため音戸の瀬戸を訪れ、今から800年余り前、全盛を誇り、この瀬戸を切り開いたという平清盛公を偲び対岸の清盛塚に向かって、清盛クン、どおかね、「君よ、今昔の感如何」と言われたのを記念して碑が建立された。
“船頭いや音戸の瀬戸で、一丈五尺の櫓がしわる“の名句で歌われ親しまれている広島県呉市音戸町「音戸の瀬戸」は、幅が狭く、そのため潮の流れが早く、岩礁があり、ゴーゴーと渦巻き、瀬戸内海交通の難所の一つである。
「音戸の瀬戸」は、その昔、平清盛公が開削したと言い伝えられている。
平正盛(清盛も祖父)忠盛(父)が瀬戸内海の海賊追討などをして、平氏は、瀬戸内海に深い関係をもつようになり、殊に1146年(久安3年)清盛公、安芸守に任ぜられ、以後十年間国司として、安芸の国との関係を持ち続ける。 これを機会として、安芸国宮島に鎮座する厳島神社への信仰がはじまる。
厳島神社は、祖父以来関係が深い瀬戸内海の霊島である。 安芸寺時代の清盛は、軍事力、財政力は有しつつも、中央政界で伸びていなかった。 そこで、清盛公が霊験あらたかな厳島神社に今後の栄達、繁栄を祈願するようになったと思われる。
かくて、清盛公は熱心に厳島神社を崇拝し、華麗なる社殿を建立し平家の氏神として敬い数回参詣している。 清盛公の音戸の瀬戸開削と厳島詣との関係の一考を要す。
音戸の瀬戸開削のことを、厳島神社に残る「史徴墨宝考証」のなかに「清盛音戸をして芸海の航路を便にし厳島詣に託して促す」と記している。
「日招き」伝説
1164年(長寛ニ)清盛公は音戸の瀬戸開削工事に着手(壮年説、安芸守説もあり)し、竣工まで十ヶ月を要して、さすがの難工事も完成の日戸なった翌、永久元年七月十六日引き潮を見はからって作業が行なわれることになった。
この時を期して是が非でも完成させねがならず、清盛公の激励、役人、人夫の血のにじむような努力が続けられたが、すでに夕日は西の空に傾き、長い夏の太陽の光りも、はや、足もとも暗くなりはじめた。
今ひと時の陽があればと、さすがに権勢を誇る清盛公もいらだち、遂に立ち上がり、急ぎ日迎山の岩頭に立ち、今や西に沈まんとする真赤な太陽に向い、右手に金扇をかざし、日輪をさし招き「返せ、戻せ」とさけんだ。 すると不思議なことに日輪はまい戻った。 「それ、陽はあるぞ。」と必死の努力により、ついに音戸の瀬戸の開削工事は見事に成就した。
ときに清盛公、四十ハ歳であったと伝えられている。
この伝説にもとづき、昭和四十ニ年瀬戸内開削八百年を記念して、当時の英姿をゆかりの地、本土側の日迎山高烏山銅像を建立してその偉徳を偲ぶ。
清盛
音戸の瀬戸開削の恩人清盛公は、当時、このような難工事には人柱をたてて工事の完成を祈願していたが、人命を尊び、人柱の擬製に代えて一切経の経文一字一石、心をこめて書いた経石を沈めて工事を完成させた。
清盛公の死後、1184年(元暦元)村民は、この地に清盛公の功績をたたえ、塚として石塔(宝篋印塔)を建てた。 これが、「清盛塚」である。
塚の中央に高さ2mの古色蒼然たる宝篋印塔が一基あり、その側に枝ぶりも見事な「清盛松」がその影を美しく瀬戸の渦潮にうつしている。
「芸藩通志」に『相伝ふ(略)の口に石をたたみて、上に石塔を建つ世に相国(清盛)の塚といふ』とあり。
念仏踊
清盛公の死後、村民たちは瀬戸開削の大事業を仰ぎ、その功徳を慕い、日毎、夕日に映える(日招岩)を眺めては、しばしば哀愁にひたっていた。
その頃、たそがれ時になると「日招岩」の辺から、数羽の白鷺が翔び来てば、ゴーゴーと渦巻く瀬戸にあわれな鳴声を流していた。 村人はこの姿を見ればみるほど、いたたましく哀傷の念にうたれていた。
ある日、お寺の僧がその様子を見て「日蓮が母を追慕した古事にしたがって供養せよ」と論した。
このことについて、「芸藩通志」の中の遊長門島記に『七月二十七日の孟蘭盆の節、楷子を舟のようにして、瀬戸掘切の時、人夫を激励のために打ち出した太鼓の音頭拍子に合わせて念仏を唱え、月明かり夜を踊あかすようになった』と記され、これが「念仏踊」である。
清盛祭
「念仏踊」からはじまった「清盛祭」はいつの頃か、「大名行列」を行うようになった。 藩で不用となった参勤交代の道具を払い下げてもらい、「百万石の格式」を誇る大名行列となった。
旧暦三月三日(一年中で潮が最も干く)瀬戸掘切のために際、人夫激励のために打ちならしたという太鼓を合図に「大名行列」がつづく。 勇壮な手やり投げの「道中奴」、お籠や馬も登場す。 見事な芸を見せる「草鞋とり」などの行列が延々五百米、五百数十人にのぼり、華麗な行列絵巻が繰り広げられた。
この行列には、清盛公瀬戸開削にまつわる出し物が特色で、この際の模擬として、歌に合わせて土砂を掘ったり運ぶ動作をして道中を練り歩く「瀬掘り」また、清盛公、瀬戸検聞の折御座舟(おふね)に乗った時のことを模擬した「おふね」を造り、ゆっくりとした調子で打つ太鼓の音に合わせて、独特の節で古老が美声で歌う。
この祭典は明治中頃まで大体毎年執行されたが多大な経費を要するので隔年になったり四年に一度になるなどして、戦時中は中断され戦後昭和二十七に復活し、その後三回行われた。
最後に思うことは瀬戸開削を指揮したのは清盛公であるが、開削の功は、これに従事した名もない多くの人々の尊い血と汗の結晶であったことを忘れてはならない。
なお、瀬戸開削の伝説や文献は書かれているが、平氏が敗者の故か敗者の故か歴史事実となっていないのが惜しまれる。  
 
『ベーリングの大探検』 S・ワクセル

 

 
ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング 1
(1681-1741) デンマーク生まれのロシア帝国の航海士、探検家。1725年から1730年まで、また1733年から1741年まで、2回のカムチャツカ探検を率いて、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを確認した。また、アラスカに到達し、アリューシャン列島(アレウト諸島)の一部を発見した。ベーリングの名にちなんだものに、ベーリング海、ベーリング海峡、ベーリング島、ベーリング地峡などがある。
1681年、デンマークのホーセンスに生まれる。1703年にアムステルダムの学校を卒業し、東インドへの旅の後、同年、ロシア海軍に入隊。大北方戦争ではバルチック艦隊の一員として戦った。1710年から1712年にかけて大尉としてアゾフ艦隊に所属し、オスマン帝国と戦う。1712年より再びバルト艦隊に所属。ロシア人女性と結婚した後、1715年に一度故郷に戻るが、以後、再び故郷を訪れることはなかった。
最初の探検
1725年1月、ピョートル大帝の命令により、カムチャツカ、オホーツクへの探険隊を率いてサンクトペテルブルクを出発。陸路でシベリアを横断した後、1727年1月にオホーツクに到着する。そこで冬を越した後、カムチャツカ半島に渡り、1728年夏までに聖ガヴリール号を建造。
1728年夏、カムチャツカ半島東岸から北に向けて出発し、その途上で、カラギン湾、カラギン島、クレスタ湾、アナディル湾、聖ラヴレンチイ島などを発見する。船はそのまま北上し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸とのあいだの海峡(ベーリング海峡)を通過してチュクチ海に入った。アジアとアメリカが陸続きではないことを確認する任務を果たした一行はそこで引き返す。
1729年、一行はカムチャツカ半島の南部を回り、カムチャツカ湾、アヴァチャ湾を発見。それから、オホーツクを経由して、1730年夏、ベーリングは重い病気に冒されながらもペテルブルクに帰還した。
2度目の探検
1733年、ベーリングはアレクセイ・チリコフとともに、アメリカ大陸北部沿岸の調査のために2度目の探検に出発。千島列島の地図の作成と日本への海路の探索の任務を受けたマルティン・シュパンベルクも一緒であった。
1734年、トボリスクからヤクーツクへ出発。探検の準備のため、ヤクーツクに3年間留まった。1740年秋、オホーツクより、2隻の船、聖ピョートル号(聖ペトロ号)と聖パーヴェル号(聖パウロ号)に乗ってカムチャツカ半島東岸に向かう。探検隊はアヴァチャ湾の奥にキャンプを設営し、冬を越した。この場所が現在のペトロパヴロフスク・カムチャツキーである。
1741年6月4日、ベーリングの率いる聖ピョートル号と、チリコフの率いる聖パーヴェル号がアメリカ大陸を目指してカムチャツカを出発。1741年6月20日、深い霧と嵐のために2隻の船はお互いを見失った。7月17日、聖ピョートル号はアラスカ南岸に到達。一方、聖パーヴェル号は今日のアラスカ州最南部、アレキサンダー諸島にたどり着いていた。
聖ピョートル号はさらに南西に向かい、アリューシャン列島の一部の島々を発見。1741年8月末、アリューシャン列島の一部を成す、現在のシュマージン諸島の島の一つに上陸。そこで一週間を過ごし、土地の住民のアレウト人とはじめて遭遇する。また、壊血病で命を落とした船員シュマギンを島に葬る。船員の名にちなんで、ベーリングはその島をシュマギン島(シュマージン島)と名づけた。
1741年9月6日、船はアリューシャン列島を離れて西に向かうが、嵐に遭い、漂流の末、11月にコマンドル諸島の無人島にたどり着く。そこで越冬するが、その間に多くの船員が壊血病で次々と亡くなり、続いてベーリング自身も1741年12月6日に息を引き取った。このときの様子は、探検に加わっていたドイツ人の医師であり博物学者のゲオルク・ヴィルヘルム・シュテラーが記録に残している。後に、この島はベーリング島と名づけられた。
生き残った船員たちは、大破した聖ピョートル号の残骸で小型の船をつくって脱出し、1742年8月26日にペトロパヴロフスク・カムチャツキーにたどり着いた。結局、聖ピョートル号に乗り組んだ77人の探検隊員のうち、ペテルブルクに生還したのは45人であった。
1991年8月、ロシア・デンマーク合同調査団によってベーリングと5人の船員の墓が発見された。遺体はモスクワに移されて検査され、その結果、死因が壊血病ではなかった可能性がしめされている。また遺骨から推定されるところでは、体つきは頑健で背が高く、顔の輪郭は角張っており、広く流布しているベーリングの肖像画に見られる丸顔とは大きく異なっている。それらの肖像画はベーリングの叔父で作家のヴィトゥス・ペデーセン・ベーリング (Vitus Pedersen Bering) をモデルとしている可能性が考えられている。
その後、翌1992年9月に彼らの遺骨はベーリング島に再埋葬された。
網地島
宮城県石巻市の沖合いに浮かぶ島。牡鹿半島の先端近く、半島の南の沖にある。同じくらいの大きさの島として、北西近くに田代島、東にやや離れて金華山がある。本土側にある鮎川との関係が強く、1889年の町村制施行以後は同じ自治体(牡鹿町および石巻市)に属してきた。島には、北側の網地と南側の長渡(ふたわたし)の2つの集落があり、昔からライバル意識が強く、現在でもその傾向は幾分残っている。田代島と同じく、猫が多く住む島でもある。三陸復興国立公園に指定されている。
歴史
江戸時代は仙台藩領の一部で、金華山、半島先端部とともに牡鹿郡の浜方十八成組という地区に属し、網地浜、長渡浜という二つの漁村に分けられた。浜は漁村の意で、現代的には網地村・長渡村となるべきところ、当時は浜という単位で呼んでいた。
住民は漁に出るかたわら、畑を作って農業にも従事したが、食糧を自給するには足りず、外から買い入れていたと推定される。それもあって、天保の大飢饉のような時期に食糧の買い入れが途絶すると、悲惨な人口減少をきたした。
また江戸時代には浪入田金山があって採掘された。隣の田代島とともに流刑地でもあった。重罪人が流された江島に対し、網地島と田代島は近流に処せられたものが流された。気候が温暖で地形がなだらか、農業にも漁業にも適した土地であったので、罪人の中には、仙台から妻子を呼び寄せて、そのまま土着した者もいたという。
1739年(元文4年)6月20日、網地島付近にティン・スパンベアが率いるロシア帝国の第2次北太平洋大探検隊が来航する(元文の黒船)。ベーリング海峡の語源となったヴィトゥス・ベーリングが遣わした隊であり、ヨーロッパ大陸からベーリング海峡、千島列島を経て日本との通商ルートを開拓するために来航したものであった。この探検隊は、10日ほどを過ごして付近の測量などを行った。網地島の白浜海水浴場には、ベーリングの銅像が建立されている。
元文の黒船
日本の江戸時代中頃の元文4年(1739年)夏、牡鹿半島、房総半島、および伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航した事件である。アメリカ合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に114年先立つ、いわゆる「鎖国」期における、江戸幕府とロシア帝国との初めての接触であった。
ロシアの東方伸張とベーリング探検隊
ロシア帝国は16世紀末のロマノフ朝成立前後から、盛んに東方への勢力伸張を図り、シベリア以東方面へ進出した。ピョートル大帝は日本へも大いに関心を持ち、1695年にカムチャツカに漂流した日本人伝兵衛に謁見を許し、1705年には首都サンクトペテルブルクに日本語学校を開設して、伝兵衛をその教師とした。またピョートルの命によりデンマーク出身でロシア海軍大尉ヴィトゥス・ベーリング率いる探検隊が組織され、ピョートル没後の1727年にオホーツクに到着、翌年夏カムチャツカ半島から北上し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸との間の海峡(ベーリング海峡)を通過して、陸続きではないことを確認するなどの成果を挙げていた。
1733年にはベーリングは第二次探検隊を組織。北平(北京)経由で日本へ交通路を開くための地図を作成する計画を立案する。日本への航路の探検および日本の調査のため、分遣隊長として同じくデンマーク出身のマルティン・シュパンベルクを任命した。
1738年6月18日(日本では元文3年5月13日)シュパンベルクはミハイル号、ナデジダ号、ガブリイル号の3隻150人から成る船団でオホーツクから出港したが、食糧不足により、いったん8月17日にカムチャツカ半島西岸のボリシェレツクへ引き返した。翌年改めて日本への探検を主目的とした第二次航海が行われることになり、1隻を追加して5月21日(日本では元文4年4月25日)にボリシェレツクを出港。南へ進路を取り、4日後には千島列島(クリル諸島)を通過。その後も南下を継続するが、6月14日に濃霧によりガブリイル号が船団から離れ、またウォールトン大尉率いるナデジダ号も何らかの理由によって別行動をとることになる。
日本側の異国船対策
寛永年間のいわゆる「鎖国体制」の完成により、長崎・対馬・薩摩・松前の「四つの口」を通じて行う明(後に清)・オランダ・李氏朝鮮・琉球との交渉を例外として、日本は外国と通交することはなくなり、日本人・外国人ともに出入国に厳しい制限が設けられた。当初は必ずしも永続的な法制として整備された訳ではないが、鎖国開始以来約1世紀を経た18世紀前半には、体制の常態化により「鎖国=祖法」観が形成され、異国情勢に関する情報もオランダ風説書等、江戸幕府上層部のみが得る限られたもののみとなっていた。18世紀初頭に来日したイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチを審問した新井白石の『西洋紀聞』もほとんど流布することはなかった。
しかし、紀州藩主から8代将軍に就任し享保の改革を行った徳川吉宗は、異国情報にも大きな関心を持ち、また実学を尊重する気風から、漢訳洋書の輸入禁止を緩和して、西洋情報の入手を積極的に行った。これが後に蘭学の発展に繋がっている。一方、日本近海に出没する異国船に関しては、享保2年12月1日(1718年1月2日)に黒田宣政(福岡藩主)・小笠原忠雄(小倉藩主)・毛利元矩(長府藩主)に領海内での異国船を追捕したことを賞し、引きつづき警戒を続けるよう命じ、同月末には異国船と日本商人との密貿易を断固阻止するよう命ずるなど、異国船追捕の方針を採った。土井利実(唐津藩主)・松平忠雄(島原藩主)・松浦篤信(平戸藩主)など他の北部九州諸藩にも同様の通達を行っていた。
元文の黒船来航
元文4年5月19日(ロシア暦1739年6月18日)、仙台藩領の陸奥国気仙沼で異国船の目撃情報があった。さらに4日後の23日に牡鹿半島沖の仙台湾に浮かぶ網地島にも2隻の異国船が出現した。これが上記のシュパンベルク船隊である。25日にははぐれていたガブリイル号と合流し、亘理荒浜で3隻が目撃されている。また同日には仙台藩領から遠く離れた幕府直轄地安房国天津村(現千葉県鴨川市)にも異国船が現れた。これは別行動をとっていたナデジダ号であった。ロシア船員はそれぞれ上陸し、住民との間で銀貨と野菜や魚、タバコなどを交換した。同月28日には伊豆国下田でも異国船が目撃された。その後ロシア船団は北緯33度30分まで南下し(紀伊半島潮岬に該当する)、ボリシェレツクへ帰投した。別働隊のウォールトン船も8月21日(日本では7月21日)にオホーツクへ到着。シュパンベルク隊による日本探検はひとまず終了した。この間の両国接触に関しては、ロシア側の航海日誌に詳細な記述が残され、また日本側の史料としては当時の雑説をまとめた『元文世説雑録』に収められている。
日本側では来航した異国船に対して、従来吉宗が定めていた強硬手段をとらず、まずその正体を探ることを優先した。幕府は異国船が去った後、現地住民が船員から入手した銀貨・紙札(トランプのカード)を長崎出島のカピタン(オランダ商館長)に照会した。その結果、紙札は賭け事に用いるカルタであること、および銀貨がロシア帝国の通貨であることが確認され、先の黒船がロシアによるものであることが判明した。これが日本政府がロシア帝国の存在を公的に認識した初例であり、後の嘉永年間にそれまでの外交文書をまとめた書である『通航一覧』(林健・復斎兄弟などの編纂)では「魯西亜国の事、我国において初めて聞こえしは元文四年乙未、房州奥州の瀕海へムスコウビヤ(モスクワ)の船往来し、土民へ銀銭を与へしを以て初とすべきか」とある。
その後の日露関係
元文の黒船騒動で初めての接触を経た日露両国であったが、その後樺太(サハリン)・千島のアイヌ居住地をロシア側の商人・海軍がじわじわとその勢力を伸張していった。1753年には日本語学校の日本人教授を大幅に増やしてイルクーツクに移転。これらの動きは蝦夷地(北海道)アイヌに影響を持っていた松前藩の警戒を招いた。しかし、蝦夷地収益の独占を図る松前藩は、道外や和人地からの蝦夷地への訪問を制限しており、日本人にとって蝦夷・ロシアに関する知識は極めて限られたものとなった。このような中、仙台藩の藩医工藤平助がロシア研究書である『赤蝦夷風説考』を著述(赤蝦夷はロシア人のこと)。時の政治改革を主導していた田沼意次も関心を抱き、蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田沼が失脚したため、尻すぼみとなった。1793年のエカチェリーナ2世の時代には、日本人漂流者でロシアで保護されていた大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のため、アダム・ラクスマンの使節が根室に来航したが、田沼の後政権を握った松平定信らは漂流民の受け取りのみで通商は頑なに拒否して長崎回航を指示したため、ラクスマンはそのままオホーツクへ帰港した。その後も1804年にニコライ・レザノフが同様に漂流者津太夫ら4名の送還のため長崎へ来航したのち、樺太と択捉島を襲撃する事件、1811年にはゴローニン事件が起きるなど正式な国交がないまま両国は緊張を続けた。1853年の米国による嘉永の黒船来航と同時期にエフィム・プチャーチン率いるロシア使節が日本へ来航。交渉の末、1855年日露和親条約が締結され、ようやく国交が成立する。1858年の日露修好通商条約、1875年の樺太・千島交換条約により、両国関係はようやく安定することとなった。
セミョーン・イワノヴィチ・デジニョフ
(1605-1673) ロシア帝国の探検家。1648年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア大陸の東端となる岬を回航して、アジアとアラスカが陸続きでないことを発見した。これは、ヴィトゥス・ベーリングの探検に約一世紀先立つものであった。
シベリアや北極海沿岸での交易
デジニョフの生涯については1638年から1671年の間の功績しか知られておらず明らかでない部分も多いが、17世紀初頭に北ロシアの河港・ヴェリキイ・ウスチュグの農家に生まれたと伝記作者らは結論づけている。当時ロシアの北部に生まれて野心を持ったポモールの人々同様、彼も富を求めてシベリアに向かい、トボリスクとエニセイスクで働き、1638年にエニセイスクからさらに東のヤクーツクへ向かった。ヤクーツクを拠点とした20年間はデジニョフにとって厳しい時期であり、先住民から毛皮を取り立てながら北極圏の大河流域を休みなく旅する生活を送り、何度も先住民に襲われた。
1641年には15人を率いてヤナ川流域で毛皮を集めてヤクーツクに生還し、1642年にはスタドゥヒン(Семён Ива́нович Стадухин)らとともにインディギルカ川流域で税として毛皮を取り立てる旅に出た。3年にわたる任務でスタドゥヒンらはヤクーツクに戻ったが、デジニョフはそのままインディギルカ川を下り北極海に出てコリマ川河口に至った。
北極海航海
1647年、デジニョフと同じく北ロシア(現在のアルハンゲリスク州ホルモゴルイ)出身でヤクーツクを拠点とする商人フェドット・アレクセイエフ(フェドット・アレクシーヴ)・ポポフ(Попов, Федот Алексеевич)は、コリマ川河口から北極海沿いに東へ向かう航海を組織した。前年の1646年、イグナチェフ(Семён Ива́нович Игнатьев)という人物がコリマ川河口周辺の航海を行いセイウチのキバやクジラのヒゲなどの貴重な品を持ち帰っていたため、さらに東へ向かいこれらの産品を持ち帰ることを意図していた。この時デジニョフはポポフに誘われ、鉱夫や先住民からの税の取り立てを行うためにポポフの航海に同行した。彼らの目的地はおそらくはるか東のアナディリ川だったと考えられるが、海氷が行く手を阻み航海途中で引き返すことになった。
デジニョフやポポフはあきらめず、翌1648年も同じ航路に挑戦した。彼らは90人から105人ほどの探検隊を組み7隻の船に分乗してアナディリ川を目指した。彼らは10週間の航海の後にアナディリ川河口にたどり着いた。これはアジア大陸の東端を周り、ベーリング海峡を南北に通過したことを意味する。フェドット・アレクシーヴの航海の足取りは現在でも判明しているが、航海中のデジニョフの役割は記録に残っていない。デジニョフはアナディリ川を遡りアナディルスキー・オストログ(アナディリ砦)を築き地図を作製した。同年、デジニョフはアジア大陸先端の北岸に沿って航海し、アジアとアラスカの間の「アニアン海峡」(当時アジア大陸とアメリカ大陸の間にあると想像された海峡で、北西航路や北東航路などヨーロッパからアジアへの最短航路を構成すると考えられていた)を発見したと記録に残した。彼は海岸沿いにチュクチ半島を回航し、古代の地図作者が想像した伝説の「タビンの岬」(Tabin Promontorium)の詳細を記録している。またチュクチ人("Ostrova zubatykh")の住む二つの島を記録しているが、これはベーリング海峡中央に浮かぶダイオミード諸島を構成する二つの島と考えられる。彼はチュクチの人々("zubatiye")について、下唇をセイウチの牙のかけらや石や骨で飾ることを記録している。一方でポポフはこの年の秋にアナディリ湾沿岸で没している。デジニョフがどの港に戻ったかは不明である。彼は1664年にコサック隊長の称号を受けた。
晩年と業績再発見
1670年、ヤクーツクの領主ボルヤティンスキー公爵はデジニョフにモスクワへ向かいクロテンの毛皮や書類を運ぶ任務を与えた。デジニョフは1年5カ月をかけてモスクワへ到着した。彼は当時60歳を超え、辺境での生活で負った古傷と長年の疲労のため健康を害しており、1673年にモスクワで没した。
これらの探検の報告は長い間公文書館に埋もれており、19世紀の末に再発見された。これを受けてロシア地理学会はユーラシア大陸東端の岬をデジニョフ岬と名付けるよう請願を行った。
デジニョフの生涯や探検についてはなお明らかでない部分が多い。彼は探検の途中でアラスカに達しアメリカ大陸の西端を発見した可能性や、そこに砦を築いた可能性すらもあるが、それを行ったのはデジニョフより後のロシアの探検家とする見方が多い。  
 
ベーリング 2

 

17世紀前半、ロシアのピョートル1世の命令でシベリア探検を行う。ベーリング海峡に達した。
ピョートル1世がベーリングにシベリア奥地の探検を命じたのは、科学者ライプニッツとの約束があったからであった。ライプニッツは1713年、ピルモントでピョートル1世と生活を共にし、アジア大陸とアメリカ大陸がつながっているのかどうかの疑問を解決できるのは皇帝をおいていない、と進言してた。その約束を思い出したピョートル大帝は、死の3週間前にシベリア奥地探検を命じる署名をした。
第1次カムチャツカ探検
隊長に選ばれたベーリングはデンマーク生まれで海員となりインド航海などで名を挙げ、皇帝によってロシア海軍に採用されていた。1725年2月ペテルブルグを出発、3年以上の日時をかけてニジネ・カムチャツカに着き、そこで探検船聖ガブリール号を建造し、1728年8月15日に北緯67度18分に達し船首を南に転じた。ベーリングはこれで海峡の存在は明らかになったと考えたが、アメリカ大陸を確認することなく帰路に着き、1730年3月1日にペテルブルグに帰還した。
第2次カムチャツカ探検
第1次探検では海峡を発見したが、アメリカ大陸を確認することができなかったので、再度探検隊を派遣することとなり、再びベーリングが指揮を執ることになり、他に多数の学者が同行、学術探検隊の様相を呈した。第2次探検隊は当時のロシアの総力を挙げたもので大北方探検と言われ、600人が参加し、1733〜43年の10年間を要する大事業であった。その任務の一つには、カムチャツカから日本までの距離を測定することも含まれていた。
1733年、第2次探検隊はペテルブルクを出発、ヤクーツクに補給基地を設けるなどの準備をしながら3年すごし、37年にオホーツク海に面したオホーツクに到達、そこで探検用の船舶の建造にさらに3年を要し、ようやく1740年、2隻の探検船が出航した。嵐のオホーツク海を横断してカムチャツカ半島南端をまわり、良港を見つけてペトロパブロフスクと命名して越冬した。当時、カムチャツカ半島の対岸には「ガマの陸地」あるいは「エゾ」と言われる陸地があるという説があったので、それを確かめるべく、東方の大海に乗り出したが、陸地は見つからなかった。途中濃霧のため二隻は離れ離れになり、ベーリングの乗った船はさらに北東に進んだところ、7月16日に陸地を発見し、はるかかなたに「高い山」がみえた。現在の北米の最高のセント・エリアス山である。
探検隊のアラスカ上陸
1741年7月20日に上陸したのは現在のアラスカの南岸にあるカヤク島であった。60歳を過ぎていたベーリング自身は陸地を発見しただけで満足し上陸せず、すぐ引き返すことを命じたが、同行した学者のステラーは強硬に上陸を主張し、数人の士官とともに上陸し、原住民の生活の痕跡を見つけたが、ベーリングから短時間の上陸しか認められていなかったので、やむなく原住民と接触することをあきらめ、船にかえった。ともかくもこれが、ロシアの探検隊が北米大陸、アラスカに上陸した第一歩だった。年老いて体調の思わしくなかったベーリングは帰還を急がせた。しかし台風に襲われ、また病人のつぎつぎと出て高校が難しくなり、途中の無人島に上陸した。現在のアリューシャン列島のいずれかの島であったが、どこかは判らない。ベーリングも上陸したが、すでに体力を消耗しており、12月8日に死亡した。探検隊はその後も嵐に悩まされながらペトロパブロフスクに帰還し、1743年にペテルスブルクに戻った。<加藤九祚『シベリアに憑かれた人々』岩波新書 P.31-101>
砂に埋もれて死んだベーリング
アリューシャン列島の無人島で死んだベーリングの最後は、先任士官のワクセルが次のように伝えている。
(引用)隊長ベーリングは12月8日に死亡した。彼の遺骸は板にしばりつけられ、土に埋められた。他の死亡者はすべて板なしで葬られた。隊長ベーリングの最後の悲惨な状況については記述するにしのびない。彼の体の半分は、その生涯の最後の日にすでに半分埋められていた。言うまでもなく、こうした状態における彼を援助する方法はあったが、土中に深くかくされた体の部分は暖かいが、表面に出ている部分はひどく冷たいと言って、助けを望まなかった。彼は、ひとりだけ別に小さな砂の穴――地下小屋に横たわっていた。その穴の壁からは絶えず砂が少しずつくずれ落ち、穴を半分ほども埋めていた。彼は穴の中央にねていたので、体の半分が砂に埋まることになったのである。
ベーリングの墓は正確には不明である。後にロシア領アメリカ会社によって、彼の墓と推定される場所に木の十字架が立てられ、1944年コンクリートの基台と金属製の十字架に代えられた。  
 
ベーリング探検隊と元文の黒船 1

 

1738年、ロシア第二次ベーリング探検隊日本分遣隊が、陸奥・安房に上陸して立ち去るという事件がありました。仙台藩においては出陣するまでの大騒動となり、現在日本において「元文の黒船」と呼ばれています。
江戸時代の日本はいわゆる鎖国状態でしたが、日本近海は多くの外国船が航行していました。長大な沿岸線を持つ日本列島ですので、全域を鎖で閉じれるわけもなく、あちこちで偶発的にも意図的にも外国船との違法な交流が行われていたものと思います。しかし違法行為を公の記録に残すわけもないため、知りたくても日本の文献からはなかなか交流の記録が見つけられません。
そんな中にあって、日本側の史料も見つけやすく、外国船側も国家の任務を帯びて日本に接近しているので、文献や航海日誌などから時期や場所が特定しやすい「元文の黒船」について調べてみました。日本側と外国船側の史料を対比してみるにはとてもいい事例ですので、どのように記述が違うか対比してみたいと思います。
「元文の黒船」事件を、第二次ベーリング探検隊日本分遣隊を派遣したロシア側の概況と、日本における「元文の黒船」騒動の詳細に分けて書きたいと思います。とりあえず、今回はロシアが日本に探検隊を派遣した経緯について書きます。
第一次ベーリング探検隊
モンゴルの支配から独立したロシアは、ヨーロッパとアジアの境であるウラル山脈を越えて東へと進み、17世紀中ごろには極東沿海州に到達していました。
世界中の海が探検され世界地図が作成されつつあった17〜18世紀において、唯一未確認の空白地帯であった北太平洋地域まで進出したロシアに、ヨーロッパの学者たちは地図上の空白地域の探検調査を期待しました。
微分積分法で有名な哲学者ライプニッツなどは再三にわたって、ロシア高官へ探検調査の必要性を説いています。その期待に応えるかたちで、ピョートル大帝は「北平洋から中国・インドへいたるルートの発見」を目的とした探検隊組織の勅命を下しました。
探検隊の隊長はベーリング海峡の名にもなったデンマーク人ベーリングでした。ベーリングは目的としていたアジアとアメリカを隔てる海峡(ベーリング海峡)を通過していましたが、それを確認することができる地点まで到達できなかったのでそのことに気付かず、新たな探検計画を提出しました。
第二次ベーリング探検隊
ベーリングの新たな探検計画は、ロシアの国家プロジェクト「大北方探検」の一部に組み込まれました。「学術探検」「第二次カムチャッカ探検」ともいわれる「大北方探検」は、それまでのヨーロッパ諸国が組織したいかなる調査隊と比較しても類のない大規模なもので「白海のアルハンゲリスクからユーラシア大陸北辺沿岸を経て極東地域、日本に到るまでの広範囲な地域を、学際的(博物・天文・地理・動物・歴史など)に研究する」というものでした。この「大北方探検」の海路の探検隊として、第二次ベーリング探検隊は組織されました。
探検隊はアメリカ沿岸調査隊、日本分遣隊、シベリア北岸調査隊に分けられていました。ちなみにアメリカ沿岸調査隊がベーリングの本隊であり、べーリングも含む多くの死亡者を出しながらもアメリカ大陸に到達してアラスカ・アリューシャン列島の探検調査に成功しました。
日本分遣隊
1733年、日本分遣隊隊長にはシパンベルグが就任し、
◾ 千島列島を南下して日本への航路を発見すること。
◾ 日本に到達しその政府と港湾施設を研究し、住民と友好親善し交易を試みること。
◾ カムチャッカにて日本人漂流民がいる場合はこれを日本へ送還し親睦の証とすること。
が、任務とされました。日本分遣隊は1734年にオホーツクへ到着。そこで三年をかけ三隻の船をつくり探検準備を整えました。北方領土付近まで南下する予行演習ともいえる航海を行い、1738年カムチャッカ半島西岸の港へ入港しました。ここで一隻の船を加えて日本分遣隊は四隻からなる探検隊となりました。
1739年5月上旬、カムチャッカ半島西岸を出発した日本分遣隊は、一隻がはぐれてしまいましたが、三隻と一隻で個別に日本を目指し南下しました。6月下旬には、三隻が宮城県沖に、一隻が房総沖、伊豆沖、紀伊半島沖に到達することになります。
ながながと書かせて頂きましたが、ロシアはヨーロッパにおける地理的空白地帯解消の欲求と自国の極東経営のため、大規模な探検調査を計画し実行しました。その調査隊の一部が日本に来た「元文の黒船」になります。ロシア艦隊の担い手は、艦隊長のベーリング(デンマーク人)をはじめほとんどが外国人でした。まだ未成熟であったロシアに独力で大探検をおこなう力がなかったことがわかります。しかしロシアはこの時期を経て大国へと移行していきます。 
 
ベーリング物語 2

 

デンマーク生まれのロシアの探検家・航海家ベーリング船長は2度にわたって極東シベリア海域の探検隊の指揮をとり、1728年ベーリング海峡の西端デジネフ岬を回航、アジアとアメリカの間が海で隔てられていることを発見し、1741年の第2回目の探検航海ではアラスカを視認・上陸。その後、病に倒れて、コマンドル諸島の無人島で亡くなり、ベーリング島と名付けられたその島に葬られました。
ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング (1681/8/12〜1741/12/19)
   Vitus Jonassen Bering
   大北方探検隊(ベーリング探検隊)隊長
   ロシア帝国海軍大尉
   デンマーク人 ホルセンス生、ベーリング島:60才没
ベーリング船長はデンマークのユトランド半島の町ホルセンス(Horsens Jutland Denmark)で子だくさんの家に生まれ、兄弟達と同じように、早くから海に出ました。アムステルダムで勉学したという説もありますが、東インド航路の帆船で働きました。ちょうどその頃、ロシアはピョートル大帝がスウェーデンと大北方戦争(1700-21)を戦っており、1703年22才でロシア海軍に士官(sublieutenant 少尉)で入隊し、バルチック艦隊の所属となってスウェーデン海軍と戦いました。1710〜1712年の間は大尉(Captain)でアゾフ艦隊(Azov Sea Fleet)に転属して、オスマン帝国との戦い(Russo-Turkish War)のタガンログ(Taganrog)の戦いとプルート川の戦い(Pruth River Campaign 1710-1711)に従軍しました。1712年に再びバルチック艦隊に転属になりました。1715年にベーリング大尉がコペンハーゲンでブルロ号を購入してクロンシュタット軍港に運んだことや、アルハゲリンスク港で建造されたセロフィル号をノルウェイに回航させたことなどがドルゴスキー公爵の目にとまって、ピョートル大帝に手紙で報告されていました。
1721年に大北方戦争がロシアの勝利で終結すると、ロシアはニシュタット条約(Treaty of Nystad 1721/9/10)でバルチック海のへの進出を果たし海港を確保(覇権を取得)して、多くの軍人が昇進しましたが、ベーリング大尉には昇進の沙汰がありませんでしたので、ロシア人女性アンナ・マトヴェエヴナ夫人と子供を連れて、一度故郷に戻ろうと思って、1724/8/7に国境通過の許可を取り付けました。ところが故郷を離れて20年以上も経て、何の縁故もないので今更どうしょうもないと考え直して、ロシア海軍に復帰できるように運動しました。大北方戦争で活躍したノーム・セニャーヴィン提督(Naum Akimovich Senyavin 1738-1727、セニャーヴィン提督の大叔父)などの支持をとりつけ、バルチック艦隊に復帰し、43才(1724/8/14)で大尉(1等大尉)に任官して分遣艦隊司令官(captain-commander)に任命されました。1725/1月にピョートル大帝はシベリアとアメリカの関係を明瞭にするための探検隊を組織し、44才のベーリングを隊長に任命し、アジアと新大陸くとの関係を明らかにし、ホーマンの地図にある北方へ伸びている陸地「ガマの陸地」(Joao-da-Gama-Land)が不明な新大陸アメリカなのかどうかを調査することを命じました。ベーリングはピョートル大帝没後に重臣アプラクシンの手によって、2/3頃に極東シベリア探検命令書を受領しました。
・ピョートル大帝の極東シベリア探検命令書
 (皇帝の自書といわれている)1725/1/18署名
(1)カムチャッカまたはその地域で1〜2隻の甲板を有する船を造ること。
(2)その船で北方へ伸びている陸地沿いに航海すること。その陸地はアメリカの一部と考えられる。
(3)その陸地がアメリカに接続する地点、あるいはヨーロッパ領の植民都市まで航海せよ。もしヨーロッパの船に出会えば、彼らからその海岸の名称を聞き、それを書きとめ、自らも上陸してさらに詳しい情報を入手し、地図に書き込んで帰還すること。
■第1回探検航海
第1回航海はセミョン・デジニョフ船長の航海から80年後の1725年から1730年にかけて、ベーリング隊長がオホーツク(Okhotsk)、カムチャツカ(Kamchatsk)への遠征探険隊を指揮して、サンクト・ぺテルブルグ(レニングラード)を出発。1万kmの悪路を陸路でヨーロッパからシベリアを横断した後、オホーツクまでの旅はレナ川(Lena 4,400km)と支流アルダン川(Aldan 2,273km)を通ってジュグジュル山脈(Mt.Dzhugdzhur 最高地点:トプコ山(Tonko)1,906m)を越え、約19ヵ月後の1726/10/1に太平洋への出口オホーツク海々岸オホーツクに辿り着き、そこで越冬しました。そこで遠征隊はカムチャッカを目指すべく、ホーツク港で建造中のシーチク(Shitik 10mx4mくり抜いた太い丸太の両側に側板張の無甲板平底船)2隻を仕上げて、フォルトゥーナ号(Fortuna boat-shitik=フォーチュン:Fortune)と名付け、カムチャッカ半島西岸のポルシュレック(Bolsheretky 集落14戸)へ海路で到達。そこから陸路で半島を900kmも川沿いに横断してニジニ・カムチャッカ(Yujin-Kamchatsky 集落50戸)に到達。そこでサンクト(聖)ガヴリール号(Sviatoy Gavriil)を建造。1728/7/14にベーリング船長はサンクト・ガヴリール号に乗船して、第1回の探検航海に出帆。デジニョフ船長とは逆向きに、1728年夏にカムチャツカ半島東岸から北に向けて出帆し「ガマの陸地」の発見を目指しました。その途上でアナディル湾、8/10にサンクト・ラヴレンチイ島(St. Lavrentij island=現在のセントローレンス島)などを発見。船はそのまま北上し、1728/8/14にはロシア名「デジネフ岬」(東岬)を回航後にチュクチ海(Chukchi Sea)に突入して、アジア大陸が終焉している(海峡となっている)と信じ、デジニョフ船長が確認していた海峡中央部の島もベーリング船長が、1728/8/16に再発見してダイオミード諸島(Diomede Islands)と名づけました。また荒涼と凍結する未知の海岸での越冬を避けるため「北緯67度18分」の地点で引き返して、1729年一行はカムチャツカ湾に帰港・越冬。翌年夏にカムチャツカ半島の南端のロパトカ岬(Cape Lopatka)を回り、オホーツクを経由して、1730/3月にベーリング船長は重い病気に冒されながらもサンクト・ペテルブルグに帰還しました。東方の陸地の存在を確認することなく帰路に着いたので、その結果が不十分で勇気に欠けるとの非難を受けました。1732年には再度の探検を要請しました。
第1回探検隊の主な参加者
・海軍大尉ヴィトゥス・ベーリング隊長(総司令官)
・海軍中尉アレクセイ・チリコフ副隊長(副司令官)
・海軍中尉マルティン・シュパンベルグ (Martin Spangberg ?-1761)技師長(造船・操船術)、デンマーク生
・海軍少尉候補生ピョートル・チャプリン (midshipman Piotr Chaplin)1725/1/25出発〜1730/3/1帰還
・ツングース族 (Tungus、シベリアで現地徴発の犬ソリ隊)〜途中で逃亡
・カムチャダル族 (Kamchadal、シベリアで現地徴発の犬ソリ隊)〜途中で逃亡、など
第1回探検航海(1725-1730)
1725年
01/18、ベーリング船長が極東カムチャッカ探検隊々長に任命される。その後、チリコフ中尉が副隊長に指名され、シュパンベルグ中尉が技師長(造船・操船術)に指名される。
01/25、チリコフ中尉とチャプリン候補生とが25人と資材をサンクト・ペテルスブルグから先発。
02/14、ベーリング隊長とシュパンベルグ中尉など5人がヴォログダ州ヴォログダ(Vologda)でチリコフ隊に合流、そこからオホーツク港まで9000kmを陸路踏破することになる。
馬車は西シベリアのチュメニ州トポリスク(Tobolsk Tyumen)迄、現地調達不可資材は大砲、弾丸、弾薬、帆、柵具、錨、鎖造船用の釘など馬車33台分、マコスキー棚柵からエニセイ川河畔エニセイスク(Yeniseysk)迄の運搬に馬160頭をチャプリン候補生が発注して馬匹の荷駄(@80kg)とし、雪上は橇(@100kg)を人が引く。
1726年 バイカル湖北のイルクーツク着
06/01、ベーリングがサハ国(Sakha Republic)のレナ川河畔ヤクーツク(Yakutsk)着。
10/01、ハバロフスク地方オホーツク(集落10戸)に到着、宿営用の小屋を建設。
10/18、ヤクーツクから送られた663頭の荷駄の内、396頭の荷駄がオホーツクに着く(他は途中で喪失)。
1927年
01/31、主力資材運搬のシュパンベルグ隊がホーツクに到着、食料不足で徴発のツングース族は犬を連れて途中逃亡、ホーツク港で建造中のシーチク(平底船10mx4m)2隻を発見、完成、進水させて1隻をフォルトゥーナ号(フォーチュン)と命名。
06/30、シュパンベルグ中尉がフォルトゥーナ号ともう1隻で資材食料をカムチャッカ半島西岸のポリシャヤ川(Bolshaya 297km)河口のポルシュレック(Bolsherechye)へ海路輸送。
07/03、ベーリング船長がフォルトゥーナ号ともう1隻で資材食料をポルシュレックへ海路輸送。
09/03、副長のチリコフ中尉隊も合流して、全隊員がポルシュレックに到着、船が小さいので、ベーリング隊長はカムチャッカ南端のロパトカ岬の回航を採用せず、陸路900kmを横断、東岸のニジニ・カムチャッカへ踏破、行程は氷結前にポリシャヤ川を遡上後、最上流から犬橇で分水嶺を越え、カムチャッカ川(758km)を東へ下る、夜間は雪洞でブルガ吹雪を避けて野営、カムチャダル族は賃金無し同然の上に、狩はできず、犬全滅で大被害で逃亡。
1728年
03/11、ペテルスブルグから3年以上かかって、ニジニ・カムチャッカ到達
04/04、小型帆船コッチのサンクト・ガブリール号の建造を始める(Saint Gabriel、長さ18.3m 幅6.1m 吃水下2.3m)。
06/09、サンクト・ガブリール号が進水、40人分の食料1年分を船積み
07/14、ベーリング、チリコフ、シュパンベルグ、チャプリンら士官など44人で、ニジニ・カムチャッカを出帆、北へ航海、ホーマン地図にある「ガマの陸地」は不明のまま航海を続行、カラギン湾(Karaginsky Gulf)沖を航行カラギン島(Karaginskiy Island)沖を航行、カムチャッカ半島東岸と同島の間の海峡を後にリュトケ船長が探検、リュトケ海峡と命名。
07/29、当時知られていたアジア最東端のアナディル川河口(Anadyr River)沖を航海、アナディル湾(Anadyr bay)沖を航行、クレスタ湾(Kresta Bay)沖を航行。
08/10、聖ローレンスの日にセントローレンス島(St. Lawrence Island)を発見・命名。
08/14、ロシア名デジニョフ岬(East Cape)を回航、(ベーリング海峡を突破)34日間の航海で2377kmを帆走、チュクチ海へ突入 デジニョフ東岬と氷海。
08/15、士官会議でシュパンベルグ中尉は「今日を限度で帰還」と主張、副長のチリコフ中尉は「北極海のコリマ川(Kolyma 2,129km)河口行き」を提案するも、濃霧の中で、ベーリング司令官は海峡となっていることを信じて安全策の採用を決定。
08/16、濃霧の中で、”北緯67度18分”から南へ転舵、帰路につく。そこが後にベーリング海峡と命名される、ロシア正教タルソスの聖ディオメデス祝日(英:聖ダイオミード、8/16)に1648年のデジニョフ報告によるダイオミード諸島(Diomede Islands)を再発見、命名。
09/01、カムチャッカ川河口に帰港、ニジニ・カムチャッカで越冬。
1729年
07/23、オホーツク着、イルクーツク着。
08/29、ヤクーツク着。
1730年
03/01、ペテルスブルグに帰着
04月、海軍省に詳細な探検報告書を提出。元老院が濃霧で”アラスカを視認”していないとして、探検の不十分さを非難しました。
第1回探検の行程
陸路:ペテルスブルグ〜ヴォログダ州〜チュメニ州〜タタールスタン国〜クラスノヤルスク地方〜イルクーツク州〜サハ国〜ハバロフスク地方オホーツク到着
航海:オホーツク出帆〜カムチャッカ半島西岸ポルシュレック〜
陸路:カムチャッカを横断〜東岸ニジニ・カムチャッカ到着、探検船2隻を建造
航海:ニジニ・カムチャッカ出帆〜カラギン湾〜アナディル湾〜クレスタ湾〜セントローレンス島〜デジニョフ岬〜ベーリング海峡〜チュクチ海〜ベーリング海峡〜ダイオミード諸島〜ニジニ・カムチャッカ帰港〜オホーツクへ航海
帰路:オホーツク〜ヤクーツク〜イルクーツク〜ペテルスブルグに帰着
■第2回探検航海
第2回カムチャツカ探検(大北方探検)は1733〜1743年にかけて行われました。隊長ベーリング船長と副隊長チリコフ船長は2隻の帆船でアメリカ大陸を目指しましたが、2隻は嵐ではぐれ別行動をとり、サンクト・ピョートル号のベーリング船長達はアラスカ南岸を視認した最初のヨーロッパ人となり、サンクト・パーヴェル号のチリコフ船長達はアラスカ南岸に上陸した最初のヨーロッパ人となりました。チリコフ船長はロシアに帰還するも、ベーリング船長は途中で帰らぬ人となりました。
1733年にロシア政府は多くの専門家を動員した大規模な第2次カムチャッカ遠征隊(大北方探検隊1733-1742)を編制し、隊長(総司令官)にベーリング船長を指名しました。ベーリング船長は北平(北京)経由で日本へ交通路を開くための地図を作成する計画を立案していたともいわれています。1733/4月にベーリング船長は副隊長のチリコフ船長と、日本クリル探検支隊(日本とクリル列島(Kuril Islands 千島列島)への海路探索の地図作成)の任務を受けたマルティン・シュパンベルク達と共に、ロシアとアメリカ大陸北部沿岸の調査のために2度目の探検にぺテルブルグを出発。ベーリング船長は心を許せない士官、手に負えない人夫達、命令を聞かない科学者の集団を抱えてのシベリア横断で悪夢のような3年間を過ごしたと伝えられています。1741/6月にオホーツクで建造した2隻の船隊、サンクト・ピョートル号(聖ペトロ号)とサンクト・パーヴェル号(聖パウロ号)を指揮してオホーツク港を出帆し、海路でカムチャッカ半島東岸に向いました。1740年にベーリング探検隊はカムチャツカ半島の太平洋岸を調査し、アバチャ湾(Avacha Bay)に到達・発見しました。そのアバチャ湾奥に上陸した所を、その時の2隻の探検調査帆船サンクト・ピョ−トル号(Saint Peter:聖使徒ペトロ号(Saint Peter the Apostle):スヴャトーイ・アポーストル・ピョートル)と僚船サンクト・パーヴェル号(Saint Paul:聖使徒パウロ号(Paul the Apostle):スヴャトーイ・アポーストル・パーヴェル)に因み、”ペトロバブロフスク”(Petropavlovsk)と名付けました。それが現在のペトロパブロフスク・カムチャツキーの起源になりました。
1741/7/4にベーリング船長の率いる2隻の船隊、サンクト・ピョートル号と、チリコフ船長の率いる僚船サンクト・パーヴェル号がアメリカ大陸を目指してペトロバブロフスクを出帆。