言霊

八百万の神々神道の世界巫女日本魂習俗に見られる宗教観「舞う神」考和歌の起源大鏡般若心経卑彌呼 と天照大神皇祖神「タカミムスビ」日本の美意識稲むらの蔭にて言葉日本将棋の起源
[追加] 言霊1言霊2日本人の宗教感情・・・
 

雑学の世界・補考   

当HP内の「言霊」関連情報をまとめたものです
 

【霊】(れい) たましい(魂) 「死者の霊を慰める」 人知ではかり知ることのできない力のあるもの。
【霊】(ち) 神や自然の霊の意で、神秘的な力を表す。「みずち(水霊)」「のずち(野霊)」「おろち(大蛇)」「やふねくくぢのみこと(屋船久久遅命)」など。
【霊・神】(み) 霊。神霊。「わたつみ」「やまつみ」
【霊】(りょう) たたりをなす生霊(いきりょう)・死霊など。怨霊。ろう。
【魂・霊・魄】(たま) (「たま(玉)」と同語源)「たましい(魂)」をいう。多く「みたま(御霊)」「おおみたま(大御霊)」の形で用い、また、「たまじわう(霊)」「たままつる(霊祭)」などの他、「にぎたま(和魂)」「ことだま(言霊)」「ひとだま(人魂)」などと熟して用いる。*古今‐四四八「空蝉のからは木ごとにとどむれどたまのゆくへをみぬぞかなしき」
魂合(あ)う 男と女など、魂がひとつに結ばれる。互いに思う心が一致する。*万葉‐三二七六「天地に思ひ足らはし玉相者(たまあはば)君来ますやと」
魂あり 物事をうまく処理していく技量がある。*十訓抄‐一「かれが小童にてあるを見るに、たまありげなりければ」
霊の夜殿(よどの) =霊殿(たまどの)
霊祭(まつ)る 死者の霊をまつる。魂まつりをする。
【霊】(ろう) 「りょう(霊)」の直音表記。*源氏‐葵「この御生霊、故父大臣の御らうなどといふ者あり」
【命】 (「い」は「息(いき)」、「ち」は「霊(ち)」の意か)人間や生物が生存するためのもとの力となるもの。生命。また、寿命。*古事記‐中・歌謡「伊能知(イノチ)の、全けむ人は」 生涯。一生。生きている間。*読・雨月物語‐貧福論「いのちのうちに富貴を得る事なし」 運命。天命。
【盂蘭盆】(うらぼん) (梵ullambana「倒懸」の音訳)陰暦七月一五日を中心に行なわれる仏事。祖先の霊を自宅に迎え供物をそなえ、経をあげる。現在では、一三日夜に迎え火をたいて霊を迎えいれ、一六日夜に送り火で霊を送る。もともと「盂蘭盆経」の記事に基づくもの。推古天皇一四年に行なわれ、聖武天皇天平五年からは宮中恒例の仏事となった。一方、民間の盆行事は仏教要素以外のものも多く、正月に対応する祖霊祭の要素が強い。盂蘭盆祭。盂蘭盆会。魂祭(たままつり)。精霊会。歓喜会。盂蘭盆供。盂蘭盆供会。おぼん。ぼん。《季・秋》
【盂蘭盆会】(うらぼんえ) =うらぼん(盂蘭盆)
【盂蘭盆経】(うらぼんきょう) 西晋の竺法護(じくほうご)訳の経典と伝えるが、インドに素材を求めた後代の中国偽経。一巻。目連が餓鬼道の母を救う孝行説話が中心で、盂蘭盆会の典拠になった経典。
【盂蘭盆斎】(うらぼんさい) 盂蘭盆に食事の供養をすること。転じて、祖先の霊に食物を供える風習。盂盆斎。
【新霊】(にいたま) 最近死んだ人の精霊。新盆を迎える霊魂。にいみたま。
【御霊・御魂】(みたま) 神の霊。人が死んで、その魂(たましい)の神となったものを尊んでいう。みすたま。霊威。おかげ。*万葉‐八八二「あが主(ぬし)の美多麻(ミタマ)賜ひて」 盂蘭盆(うらぼん)に先祖の霊に供える供物(くもつ)。
御霊のふゆ (「ふゆ」は「振(ふ)ゆ」、あるいは「殖(ふ)ゆ」の意という)神、または天皇の恩徳、加護、威力を敬っていう語。*日本紀竟宴和歌‐天慶六年「国むけし鋒(ほこ)のさきより伝へ来る美太末農扶由(ミタマノフユ)はけふそうれしき」
御霊の飯(めし) 年の暮か正月に仏壇または恵方棚(えほうだな)に供える飯。
【迎盆】(むかえぼん) 盂蘭盆(うらぼん)で、祖先の霊や亡者の霊を迎える行事。また、その行事を行う日。七月一三日。《季・秋》
【霊祭】 先祖の霊を迎えてまつるまつり。一般には盂蘭盆をいう。精霊会(しょうりょうえ)。神道で、霊前祭と墓前祭の総称。
【迎火】 盂蘭盆(うらぼん)の最初の日に、祖先の御霊や死者の霊を迎えるために門前や近くの川のほとりなどでたく火。むかいび。⇔送り火。貴人の葬礼のおり、棺を墓所まで先導するために照らす火。また、その役目の人。《季・秋》
【送火】 盂蘭盆(うらぼんの最終日に、迎えまつった祖先の霊を送るために門前などで焚く火。⇔迎え火。《季・秋》
【門火】(かどび) 葬式で死者を送り出す時に、門前にたく火。盂蘭盆(うらぼん)の時、死者の霊を送り迎えするため門前にたく火。迎え火。送り火。《季・秋》
【御霊祭】 年の暮から正月にかけて、また、盂蘭盆(うらぼん)に、先祖の霊をまねく祭り。
【新精霊】(にいじょうろ) 新霊(にいたま)のこと。また、特に九州南部で新盆の家をいう。
【中元】 三元の一つ。陰暦七月一五日の称。元来、中国の道教の説による習俗であったが、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と混同され、この日、半年生存の無事を祝うとともに、仏に物を供え、死者の霊の冥幅を祈る。《季・秋》
【三元】 上元(正月一五日)・中元(七月一五日)・下元(一〇月一五日)の総称。術数家で、六十甲子を九宮に配するとき、必ず一八〇年で元に帰るので、その第一甲子の六〇年を上元、次の六〇年を中元、次の六〇年を下元としたときの称。天・地・人の総称。三才。三極。
【御迎】(おむかえ) お盆に祖先の霊を迎えること。また、そのとき焚く火。臨終の時に仏が浄土に導くために迎えにくること。御来迎。*雑俳・蝶番「御迎がひょっとござろも白髪の身」
【棚飾】 棚に飾りつけをすること。主として盂蘭盆会(うらぼんえ)に、先祖の霊を迎えるために、仏壇前に作る霊棚(たまだな)の飾りつけ。
【魂祭・霊祭】(たままつり) 先祖の霊を招きまつるまつり。中世までは、年の暮にも行ったともいう(「徒然草」一九段)が、一般には盂蘭盆(うらぼん)に行われることとなった。八月中旬に行う地方もある。精霊祭(しょうりょうまつり)。《季・秋》
【高灯籠】(たかとうろう) (「たかどうろう」とも)人の死後七回忌まで、その霊を慰めるために、盂蘭盆会(うらぼんえ)のある七月に立てる高い灯籠。また、特に関東・東北で新盆の家が高い竿につけてともす灯籠。《季・秋》
【新精霊】(あらしょうりょう) 死後、はじめての盂蘭盆にまつられる死者の霊。また、それをまつる新盆(にいぼん)。あらぼとけ。
【新仏】(あらぼとけ) 死後、初めて盆にまつられる死者の霊。新精霊。
【新霊】(あらみたま) 死んでから、ふつう一年以内の死者の霊。新仏。
【精霊・聖霊】(しょうりょう) (「しょう」「りょう」は「精」「聖」、「霊」の呉音)仏語。死者の霊魂。せいれい。「しょうりょうまつり(精霊祭)」の略。「しょうりょうとんぼ(精霊蜻蛉)」の略。《季・秋》
【精霊会・聖霊会】 陰暦二月二二日、聖徳太子の忌日に、奈良の法隆寺、大阪の四天王寺などで行う法会。《季・春》 =精霊祭(しょうりょうまつり)
【精霊送・聖霊送】 盆の終わりの陰暦七月一六日頃、家に迎えた精霊(先祖の霊)を送り帰す儀式。送り火を焚いたり、わらや木で作った舟に供物などをのせて海や川に流したりする。
【精霊棚・聖霊棚】 盂蘭盆会(うらぼんえ)に、祖先の位牌を安置し、供え物をのせる棚。そこに先祖の霊を迎える。たまだな。《季・秋》
【精霊蜻蛉】(しょうりょうとんぼ) 精霊祭のころ現れるウスバキトンボ、キトンボなどのトンボの俗称。特にウスバキトンボをさすことが多い。しょうりょうえんば。しょうりょうやんま。《季・秋》
【精霊流・聖霊流】 盆の終わりの精霊送りの日に、供物などをわらや木でつくった舟にのせ、海や川に流す行事。灯籠を流す地方もある。《季・秋》
【精霊飛蝗】(しょうりょうばった) バッタ科の昆虫。雄は細形で体長約四センチメートル、雌はやや肥大し体長約八センチメートル。全体に緑色または灰褐色。頭部は円錐形にとがり、短い触角がある。雄はよく飛び、キチキチと音をたてるので俗に「きちきちばった」ともいう。各地の草むらで夏から秋にかけてみられる。
【精霊火・聖霊火】 盂蘭盆会のときにたく火。ふつう、迎え火・送り火をさす。《季・秋》
【精霊舟・聖霊舟】 精霊流しの船。盆舟。送船。《季・秋》
【精霊祭・聖霊祭】 陰暦七月一五日を中心とする先祖祭。盆。精霊会。盂蘭盆会(うらぼんえ)。たままつり。しょうりょう。《季・秋》
【精霊迎・聖霊迎】 盂蘭盆の初日に、迎え火をたいたり、墓参したりして、死者の霊魂を迎えること。普通は陰暦七月一三日に行うが、京都の六道珍皇寺では陰暦七月九、一〇日(現在は八月九、一〇日)に行う。《季・秋》
【精霊飯・聖霊飯】 盂蘭盆の行事。子どもたちが米や銭をもらい集め、戸外に臨時の竈(かまど)を設けて炊事をして食事をする。盆竈(ぼんがま)。辻飯(つじめし)。餓鬼飯。《季・秋》
【魑魅・霊】(すだま 「すたま」とも) (魑魅)山林、木石などに宿っているとされる精霊。ちみ。人の霊魂。たましい。
【木霊・木魂・谺】(こだま) (近世初めまでは「こたま」。木の霊の意) 樹木にやどる精霊。木精。山の神。(―する)(音声が山に当たって反響するのを山の霊が答えるものと考えたところから)声や音が物に反響して帰ってくること。また、その帰ってくる声や音。山びこ。
【霊鬼】(れいき) 死者の霊。精霊。特に死者の怨霊の悪鬼と化したもの。悪霊。
【迎鐘】(むかえがね) 精霊(しょうりょう)祭りのとき、死者の霊を冥土から迎えるためにつき鳴らす鐘。八月(陰暦七月)九日、一〇日、京都の六道参りに珍皇寺でつく鐘が特に有名。《季・秋》
【霊社】(れいしゃ) 霊験のあらたかな社。先祖の霊をまつる社。みたまや。霊廟。神道卜部(うらべ)家で、生人に授けるおくり名の下に添える語。
【御霊屋】(おたまや) 先祖の霊や貴人の霊をまつっておく殿堂。霊廟(れいびょう)。みたまや。
【寝廟】(しんびょう) 先祖の霊や貴人の霊をまつっておく殿堂。おたまや。
【霊府】(れいふ) たましいのやどる所。心。
【廟・L】(びょう) 死者の霊を安置する堂。また、皇族など高貴な人の霊をまつった殿堂。たまや。霊廟。宗廟。神社。やしろ。ほこら。王宮の正殿。王宮の前殿で政治を行うところ。朝廷。
【分霊】(ぶんれい) 一つの神社の祭神の霊を分けて他の神社の祭神とすること。また、その祭神。勧請。
【分霊社】(ぶんれいしゃ) 他の神社の祭神の霊を分けてまつってある神社。分社。
【若宮】(わかみや) 本宮の祭神の分霊を奉斎したもの。たとえば、本宮の応神天皇に対し仁徳天皇をまつる石清水八幡宮の若宮の類。はげしく祟る無縁の霊を斎(いわ)い込めるために、大きな神格の支配下においてまつり始めたもの。祠などにまつったりする。
【霊廟・霊L】(れいびょう) 先祖の霊をまつってある宮。みたまや。卒塔婆(そとば)。
【霊堂】(れいどう) 霊験あらたかな神仏をまつった堂。とうとい神仏の堂。貴人の霊をまつる堂。霊舎。霊屋。みたまや。
【霊殿】(れいでん) 神仏や先祖などの霊をまつった建物。霊廟。
【霊地】 神仏の霊験あらたかな地。神仏をまつってある神聖な地。また、神社や寺など。霊域。霊場。霊境。霊区。
【霊台】(れいだい) 天文、雲気、天候などを観測する台。魂のある所。心意の府。霊府。
【霊代】(れいだい) 神や死者の霊のしるしとしてまつるもの。みたましろ。たましろ。
【霊舎】(れいしゃ) 死者の霊をまつるところ。
【喪屋】(もや) 葬式まで、死体を安置しておく所。もがりのみや。あらき。*古事記‐上(兼永本訓)「喪屋(モヤ)を作りて」 死者の霊を慰めるため、墓所の近くにつくって、遺族が喪中を過ごす家。
【支社】 神社の分社。本社の霊を分けまつった神社。末社。
【廟所】(びょうしょ) 先祖や貴人の霊をまつってある所。廟堂。御廟。おたまや。墓所。墓。
【廟宇】(びょうう) 祖先や貴人の霊をまつる建物。みたまや。宗廟。また、神社。社殿。廟。
【帝廟】 天子の霊をまつったところ。天子のみたまや。
【大廟】 君主の祖先の霊をまつったみたまや。宗廟。伊勢神宮の社殿をいう。
【宗廟】 祖先の霊をまつった宮殿。祖先のみたまや。皇室の祖先をまつるみたまや。すなわち、伊勢神宮を敬っていう語。
【寝宮】(しんきゅう) 貴人の霊をまつった所。おたまや。廟。
【祠堂】(しどう) 死者の霊をまつる所。位牌をまつる堂。家の中や庭内などにしつらえる。また、寺院で檀家の位牌をまとめておさめる堂。持仏堂。たまや。位牌堂。ほこら。やしろ。
【願所】 祈願する神仏の霊所。願を立てて建立した寺。御願寺。
【御霊】(ごりょう) 霊魂の敬称。みたま。また、たたりをあらわすみたま。高貴な人、あるいは生前功績のあった人をまつる社。
【神】 宗教的・民俗的信仰の対象。世に禍福を降し、人に加護や罰を与える霊威。古代人が、天地万物に宿り、それを支配していると考えた存在。自然物や自然現象に神秘的な力を認めて畏怖(いふ)し、信仰の対象にしたもの。*万葉‐三六八二「天地(あめつち)の可未(カミ)を祈(こ)ひつつ我待たむ」 神話上の人格神。天皇、または天皇の祖先。死後に神社などにまつられた霊。また、その霊のまつられた所。神社。キリスト教で、宇宙と人間の造主であり、すべての生命と知恵と力との源である絶対者。雷。なるかみ。いかずち。人為を越えて、人間に危害を及ぼす恐ろしいもの。特に蛇や猛獣。他人の費用で妓楼に上り遊興する者。とりまき。転じて、素人の太鼓持。江戸がみ。
神掛(か)けて (神に誓っての意)自分の行動、言語、考え、判断などが確かであることを強調する時に用いる。ちかって。かならず。
神が手(て) 海神の手。海神の手中にあること。転じて、おそろしい荒海。
神ならぬ身 神でない、能力に限りのある、人間の身。凡夫の身。
神ならば神 ほんとうに神であるならば、霊験を現わし給え、と神に向かって呼びかけることば。
神の斎垣(いがき) 神社の神聖な垣。また、その垣に囲まれた所。神域。
神の男(おとこ) 神に仕える男。
神の少女(おとめ) 神である女。神性の女。神に仕える童女。
神の木(き) 神霊が宿っていると信じられている木。また、神社の境内などにある由緒ある木。神木(しんぼく)。
神の国(くに) 神がその基を開き、かつ守護する国。かみぐに。神国(しんこく)。かんのくに。ユダヤ教で、現在ではなく、終末時に現われる神の支配する国。イエス‐キリストの教えで、神の力と生命とがすべてを支配する国。
神の気(け) 神のたたり。また、そのために起こる病気。外に現われた神の力。神の威力。
神の子(こ) (王を天帝の子とする思想から)国王。イエス‐キリストの特別の呼び名。キリスト教で、イエス‐キリストによって、救われた人々。聖書で、超人的な存在、また、信仰深いイスラエルの呼び名ともされる。
神の言(ことば) キリスト教で、神の啓示の意。旧約聖書では、人間に対する神の意志、新約聖書では、イエス‐キリストおよびその弟子たちに対する神の語りかけを表わす。
神の僕(しもべ) キリスト教信者が自分自身をへりくだっていうことば。
神の正面仏(ほとけ)のま尻(しり) 神棚は正面の高い所に、仏壇は陰に設けるべきものだの意。
神の食薦(すごも) 神への供え物の下に敷くこも。竹をすだれのように編み、白い生絹を裏につけ、白い縁をとったもの。
神の園(その)[=園生(そのう)] 神社の境内。神苑(しんえん)。特に、「祇」の字を「かみ」と訓ずるところから、祇園の社(京都東山の八坂神社)をさす。
神の旅(たび) 陰暦一〇月に、諸国の神々が出雲国へ参集するために旅立つこと。また、その旅。《季・冬》
神の民(たみ) 神から選ばれた民の意で、ユダヤ民族の自称。天国の民の意で、キリスト教徒の自称。
神の使(つか)い[=つかわしめ] 神に所属して、神の命令を伝える使いであるといわれる動物。稲荷の狐、春日の鹿、八幡の鳩など。
神の司(つかさ) 神に奉仕する人。
神の綱(つな) (「綱」は、よりすがって頼りとするものの意)神の助け。神の加護。
神の門(と) 神霊のいる恐ろしい海峡。神が門(と)。神殿の入口。鳥居。
神の時(とき) 神々の時代。神代(かみよ)。神の御代(みよ)。
神の祝(はふ)り (「祝り」は、神をまつることを職とする人)神の祭祀をする人。神に仕える人。神主。神官。神職。
神の春(はる) 神を迎えためでたい正月。新年を祝っていう語。《季・新年》
神の日(ひ) 毎月、神を拝むことに決まっている日。特定の名称を持たない節日で、普通は、一日、一五日、二八日だが、地方によって違いがある。
神の火(ひ) 神が焼やすと考えられる火。不思議な火。神火(しんか)。神社で神事に用いた火。これで物を煮ると幸福を得るという信仰から、正月の七草がゆなどを煮る。神前に供えるあかり。灯明。
神の麓(ふもと) (山を神とみていう)山の麓。
神の神庫(ほくら)も梯(はしだて)のままに (高く近寄りがたい所でも、はしごをかければのぼれるの意から)どんなに困難なことでも、適切な手段を用いれば成し遂げることができるということ。
神の松(まつ) 正月に、神棚などに飾る松。
神の御面(みおも) (国土を神のお顔と見立てていう)国土の形勢。
神の御門(みかど) 神殿のご門。また、神殿。皇居。朝廷。
神の御衣(みけし) 神のお召しになる衣服。
神の御子(みこ) 神がお生ませになった子。神様の子。(天皇を神として)天皇の御子。皇子。一説に、薨去(こうきょ)して、神となった皇子。キリスト教で、イエス‐キリストのこと。
神の命(みこと) (「みこと」は「御言」)神のおことば。託宣。神託。神を敬っていう。神様。天皇を神として敬っていう。天子様。
神の御坂(みさか) (国境の坂に神霊を感じていう)神が支配する神聖な坂。神がおられるけわしい坂。*万葉‐四四〇二「ちはやふる賀美乃美佐賀(カミノミサカ)に幣(ぬさ)奉(まつ)り」
神の道(みち) 神が教え伝えた道。日本民族固有の祭祀。かんながらのみち。神道(しんとう)。キリスト教で、神の福音を説く教義。
神の御戸(みと) 神殿の戸。また、社殿。
神の御室(みむろ) 神様のおいでになる場所。神の降臨する神聖な木などをいう。一説に、神社。
神の宮(みや) 神の宮殿。また、神社。
神の宮居(みやい) 神社。神殿。
神の御奴(みやつこ) =神奴(かみやつこ)
神の宮寺(みやでら) 神社に付属している寺院。神宮寺(じんぐうじ)。
神の宮人(みやひと) 神、神社に奉仕する人。神官、巫女(みこ)など。(天皇を神として)天皇に仕える人。大宮人。
神の社(やしろ) 神社。
神の代(よ) =神代(かみよ)
神の世継(よつ)ぎ 神の世をお継ぎになる方。歴代の天皇。
神の留守(るす) 陰暦一〇月、諸国の神々がすべて出雲大社に集まるので、その鎮座の地を留守にするという俗信。《季・冬》
神は正直の頭(こうべ)に宿る 神は正直な人を守護し給う。正直の頭に神宿る。
神は非礼を受けず 神は礼にはずれた物は受納されない。正しくない目的で神をまつっても、神はその心をお受けにならない。
神は見通(みとお)し 神はどんな小さなことでも見ている。神はなんでもご存じであるから、ごまかすことはできない。
神も仏(ほとけ)もない 慈悲を垂れて下さる神も仏もないの意で、無慈悲、薄情なことのたとえ。血も涙もない。神も仏も眼中になく、ただそのものだけが大切であるの意で、大事にし、尊敬する対象がそれ以外にはないことをいう。
神を掛(か)ける 約束や、誓いのために、神を引き合いに出す。神に誓いを立てる。
【仏】 (「ほと」は梵buddha、さらに、それの漢訳「仏」の音の変化。「け」は「気(け)」か。「け」については、霊妙なものの意とするほか、目に見える形の意で、仏の形すなわち仏像の意が原義とする説もある)死者の霊。また、死んだ人。死人。「仏に成る」
仏の種(しゅ・たね) 死んだのち仏になるための善根・功徳を種子にたとえたもの。
仏の年越(としこ)し 正月になって初めて墓参をし、仏壇に供物を供える日。日は地方によって異なるが、死や仏教的な行事を忌んで、少しおくらせたもの。仏正月とも。
【閻魔・魔・焔魔】 (梵Yamaの音訳。「手綱」「抑制」「禁止」などの意。「遮止(しゃし)」「静息」など種々に訳し、また、死者の霊を捕縛する「縛」とも、平等に罪福を判定する意の「平等」とも訳す。また、古代インド神話では、兄妹の双生児であるところから「双」とも。また、Yama-rDjaの音訳、「閻魔羅社」「摩邏闍」などを略して「閻羅」「羅」などともする)仏語。死者の霊魂を支配し、生前の行ないを審判して、それにより賞罰を与えるという地獄の王。閻魔王。閻魔大王。閻魔羅。閻羅。閻羅王。*霊異記‐下・三五「死して魔の国に至る」
【餓鬼仏】(がきぼとけ) まつってくれる子孫をもたない者の霊。また、飢え死にした者の霊が、峠などで人に取りつくといわれるもの。無縁仏。
【水施餓鬼】(みずせがき) 水辺で行う仏事。経木を水に流し、亡霊の成仏を祈るもの。また、特に難産で死んだ女性の霊を成仏させるため、小川のほとりに四本の竹や板塔婆を立て、布を張って道行く人に水をかけてもらうもの。布の色があせるまで亡霊はうかばれないとする。流灌頂(ながれかんじょう)。
【化人】(けにん) 仏語。仏菩薩が、衆生を救うために、仮に人の姿となって現われたもの。化生(けしょう)の人。鬼神、畜生などが形をかえて、人間に変じたもの。ばけもの。死者の霊などが、生前の姿をこの世に現わしたもの。化生。
【蛇神】 蛇の霊力を恐れ、蛇を神とあがめたもの。また、蛇の霊を使う妖術。「へびがみつき(蛇神憑)」の略。
【蛇神遣】(‥つかひ) 蛇の霊による妖術を使うこと。また、その人。蛇持。
【蛇神憑】(へびがみつき) 蛇の霊にとりつかれたとされる一種の精神病。また、それにかかっている人。
【虞ル】(ぐふ) (「虞」は葬礼の後に霊をまつること。「ル」は祖先の霊廟にあわせまつること)埋葬を終えて帰り、その霊をまつること。また、死後の七日目ごとの法要もいう。
【千人供養】 千人の死者の霊を供養すること。
【千人塚】 戦場・刑場・災害地など、多数の死者をだした地に、その霊を弔うために作られた供養塚。万人塚。
【霊媒】(れいばい) 神霊や死者の霊がのりうつり、それらに代わって話などをすること。また、その人。霊界と現世の媒介者。巫女・口寄せの類。霊媒者。
【霊媒術】 霊媒者によって神霊や死者の霊を呼び出す術。神おろし。
【奇霊ぶ】(くしぶ) (形容詞「くし(奇)」の動詞化)霊妙に見える。不思議な様子である。*古語拾遺「是、太玉命、久志備(クシビ)所生(ませる)神」
【祖霊】(それい) 一般に先祖の霊。日本では個々の死者の霊が、三三年目などの弔上げを終わって個性を失い、祖霊一般に融合して霊質となったもの。
【祖先崇拝】 死者の霊が死後も存続するという考えから、家族、部族、民族の祖先の霊をあがめ祭ること。世界諸民族にみられ、日本にも古くからみられるが、近世以後は儒教などの影響のもとで発達した。
【魂極る・玉極る・霊極る】(たまきわる) 「命(いのち)」にかかる。「魂(たま)極る(命)」と解したところから生じたもの)魂がきわまる。命が終わる。*雑俳・広原海‐九「魂極る牲の羊の跡じさり」
【霊じわう】(たまじわう) (「じ」は「ち(霊)」で神霊の意。→ちわう)霊の力で守る、助ける。*万葉‐二六六一「霊治波布(たまヂハフ)神も」
【忠霊】 忠義のために命をおとした人の霊。英霊。
【忠霊塔】 戦死者の霊をまつった塔。
【弔う】(「とぶらう(弔)」の変化) 人の死をいたみ、その喪(も)にある人を慰める。くやみを述べる。弔問する。死者の霊を慰め冥福を祈る。法要をする。「祖先の霊を弔う」
【言霊】(ことだま) 古代、ことばにやどると信じられた霊力。発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられていた。上代の例には、外国に対して、独自の言語をもった国の自負のようなものがみられ、また、江戸時代末から近代には国粋主義的な発想の「言霊思想」がみられた。*万葉‐三二五四「しき島のやまとの国は事霊(ことだま)のたすくる国ぞ」 予祝の霊力を持った神の託宣。*堀河百首‐冬「こと玉のおぼつかなきに岡見すと梢ながらも年をこす哉」
言霊の幸(さき)わう国 ことばの霊の霊妙なはたらきにより、幸福の生ずる国。*万葉‐八九四「言霊能(ことだまノ)佐吉播布国(サキハフくに)と語り継ぎ言ひ継がひけり」
【言霊指南】(ことだまのしるべ) 江戸末期の語学書。二編三冊。黒沢翁満著。嘉永五〜安政三年刊。本居宣長・春庭の説を補訂しつつ、国語の活用、てにをは、係り結び、仮名遣いなどについて解説する。
【言霊派】 音義派の一つ。人の発する声に霊があり、その声を合わせて、種々の言語が作られると説くもの。中村孝道、高橋残夢などが、これに属する。
【直毘霊】(なおびのみたま) 江戸中期の国学書。一巻。本居宣長著。明和八年成立。宣長の神道説・国体観などの要旨を述べたもの。
【肉】 (霊に対して)肉体。生身のからだ。また、衣服や装飾をつけない裸の肉体や、性欲の対象としての肉体。キリスト教で、人間そのものをさす。霊に対していう。
【産石】(うぶいし) 出産直後の産飯(うぶめし)にそえる小石。川原、軒下の雨だれ跡や氏神の境内などで拾い、産神の霊をかたどったものと考え、赤子にあてがって霊を補強しようとする呪術信仰に基づく。のちには、赤子の歯や頭を丈夫にするためなどという。
【招魂】(しょうこん) 死者の霊魂を招き呼び、肉体に鎮めること。転じて、死者の霊を招いてまつること。死者をとむらうこと。生者の魂を招くこと。
【招魂祭】 死者の霊魂を招き寄せてとむらう式典。招魂社で行われた、祭祀された人々の霊をとむらった祭典。各地の護国神社で行われた。ふつう東京の靖国神社で行われた春季大祭(四月二一日〜二三日)、秋季大祭(一〇月一七日〜一九日)をいった。《季・春》
【招魂式】 死者の霊魂を鎮祭する時に行う神道の儀式。靖国神社、護国神社で新しく英霊を合祀する場合に臨時に行った儀式。
【招魂社】 靖国神社および護国神社の旧称。江戸末期から明治維新前後にかけて、国事に殉難した人士の霊魂をまつった各地の招魂場を改称したもの。靖国神社は、明治元年に京都の東山に殉難の諸士を合祀したのが前身で、翌年六月、東京九段坂上に仮神殿を造建して東京招魂社と改称、同一二年に現在名となった。また地方のものは、昭和一四年護国神社に改称された。
【招魂続魄】(しょうこんぞくはく) 病人などの魂魄をこの世にいつまでも留めて、死の世界へ行かないようにすること。
【山祇】(やまつみ) (後世は「やまづみ」とも。「つ」は「の」の意の格助詞。「山の霊(み)」の意)山の霊。山の神。山をつかさどる神霊。
【霊鷲山】(りょうじゅせん) (梵GィdhrakYォaparvataの訳。禿鷲の頂という山の意)古代インドのマガダ国の首都、王舎城の東北にあった山。釈迦が法華経や無量寿経などを説いた所として著名。山中に鷲が多いからとも、山形が鷲の頭に似るからともいわれる。耆闍崛山(ぎじゃくっせん)。鷲山(じゅせん)。鷲嶺。わしの山。
【喪祭】 喪に服することと祭祀をとり行うこと。葬礼の儀式。また、死者を葬ったあと、その霊をまつる祭。
【霊囿】(れいゆう) (「霊」は、神聖の意、「囿」は園内に一定の区域を定めて禽獣を養うところ)周の文王が禽獣を放し飼いにした園。
【釈奠・舎典】(せきてん) (「釈」も「奠」も置く意で、供物を神前にささげてまつること)中国で古代、先聖先師の霊をまつること。後漢以後は孔子およびその門人をまつることの専称。牛羊などのいけにえを供えず蔬菜(そさい)の類だけを供えてまつる場合は釈菜(せきさい)という。しゃくてん。さくてん。わが国で、二月および八月の上の丁(ひのと)に大学寮で孔子並びに十哲の像を掛けてまつった儀式。もし上の丁が日食・国忌・新年祭などに当たれば中の丁を用いた。廟拝ののち、饗宴があり、博士が出題・講論・賦詩などを行った。応仁の頃に廃絶したが、寛永一〇年林羅山が再興し、その後昌平黌や藩校でさかんに行われた。おきまつり。しゃくてん。さくてん。《季・春》
【聖霊】(せいれい) (英Holy Spiritの訳語)キリスト教で、父なる神、子なるキリストとともに三位(さんみ)一体をなし、その第三位を占めるもの。人間に宿り、神意の啓示を感じさせて精神活動を起こさせるもの。いにしえの聖人の霊。
【霊前】 死者の霊をまつった所の前。霊柩の前。「霊前にたむける」 神の御前。
【奇霊】(くしび) (動詞「くしぶ(奇霊)」の名詞化か)霊妙不思議なさま。*書紀‐大化二年八月(北野本訓)「万物の内に人是最も霊(クシヒなり)」
【霊祀】(れいし) 神霊または死者の霊をまつること。
【霊魂】 人だま。死者の霊が、夜などに、光を発して飛んだりころがったりするといわれるもの。
【霊魂信仰】 霊魂の存在を信じ、肉体を離れても存続し、生きている人間や事物に影響をおよぼすものとしてこれを崇拝すること。
【霊魂不滅】 人間の肉体は死滅しても、霊魂は肉体を離れて存続するということ。
【霊雲】(れいうん) 霊妙不可思議な雲。めでたいしるしの雲。瑞雲。
【霊位】 死者の霊につける名。また、それを書いた位牌。
【所変】(しょへん) 神仏または鬼、霊などが、この世に存在するものの形をかりて、人々の前に現れること。また、その姿。化現(けげん)。
【両墓制】 一人の死者に関して、死体を埋める埋め墓と、その霊をまつる詣り墓とをもつ墓制。
【植物崇拝】 特殊な樹木、森、草、草原に霊性が宿るとして、それを信仰崇拝すること。また、その祭儀。
【寄人】(よりびと) 生霊や死霊が降って寄りつく人。また、霊を寄りつかせるための小童。
【寄子】(よりこ) (「憑子」とも)物の怪(け)にとりつかれた人。また、修験者や、梓巫(あずさみこ)が生霊や死霊を招き寄せるとき、霊を一時的に宿らせるためにそばにいさせる人。よりまし。ものつき。
【山彦】 山の神。山の霊。また、山の妖怪。やまこ。
【八十禍津日神】(やそまがつひのかみ) (「まが」はわざわい、「つ」は「の」の意の格助詞、「ひ」は霊の意)伊邪那岐命が筑紫で禊をした時に生まれた神で、邪悪・禍害をつかさどる神。
【木主】(もくしゅ) 神または人を霊にかえてまつる木製のもの。みたましろ。位牌(いはい)。木でつくった像。木像。
【貴】(むち) (「む(身)ち(霊)」の意かという。また「むつ(睦)」の変化とも)神や人を敬っていう語。多くは「大日貴(おおひるめのむち)」「道主貴(みちぬしのむち)」のように、固有名詞の下に付けて用いられる。
【向ける】 神、霊などに供えものをささげて祈る。たむける。
【御影】(みかげ) (「み」は接頭語)神や貴人を敬い、その霊魂をいう語。神霊。みたま。*書紀‐敏達一〇年閏二月(前田本訓)「天地の諸の神及び天皇の霊(ミカケ別訓みたま)」
【守・護】 神仏などの加護があること。神仏などがわざわいを取り除き、幸運をもたらしてくれること。また、そのような神仏。守り神。守護神。「神の守り」 神仏の霊がこもり、人を加護するという札。また、それを入れる袋。守り札。おまもり。護符。守り袋。
【守札】 神仏の霊がこもり、人を加護すると信じられる札。社寺から授かり受け、身につけたり、門戸などに張ったりする。まもり。おふだ。
【歩障】(ほしょう) あからさまに内部をのぞかせないための移動用の屏障具。幔(まん)や几帳で周囲をかこい、柱を持たせて移動する大形のものと、外出者自身で持つ小形のものがある。大形のものは遷宮のとき、霊の移徙(わたまし)や葬礼の渡御具であり、小形のものは女子の物忌の外出用。
【憑依・馮依】(ひょうい) 霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。
【百日曾我】(ひゃくにちそが) 浄瑠璃。時代物。五段。近松門左衛門作。元禄一〇年大坂竹本座初演。先に上演された「団扇曾我(だんせんそが)」が、一〇〇日以上続演したための改題。曾我兄弟の討入り、虎・少将がうちわ売りに扮しての道行があり、兄弟の霊が裾野にまつられるまでを脚色。
【冤鬼】(えんき) 無実の罪で死んだ人の、恨みのこもった霊。
【亡魂】(ぼうこん) 死んだ人の霊。死人の魂。また、成仏できないで迷っている霊魂。幽霊。
【人魂】 遊離魂。死者の霊。ふつう青白く尾を引いて空中を飛ぶという。飛魄(ひはく)。火の玉。
【悪霊】(あくりょう) 人にたたりをする霊魂。死者の霊のほか、生者の魂、人間以外の霊的存在についてもいう。もののけ。怨霊(おんりょう)。
【怨霊】(おんりょう) うらみをもって、生きている者にわざわいを与える死霊、または生霊。
【彼岸会】(ひがんえ) 仏語。春分・秋分の日を中日として、その前後七日間にわたって行う法会。大同元年、崇道天皇(早良親王)の霊を慰めるために初めて行われた。《季・春》
【麓山祇・羽山津見】(はやまつみ) (「つ」は「の」の意、「み」は「み(霊)」)山のふもとをつかさどる神。〔古事記‐上〕
【八神】 天皇の身を守護するため、古くは八神殿に祭られ、現在も宮中三殿の一つである神殿に祭られている八柱の神の総称。神皇産霊(かみむすひ)・高皇産霊(たかみむすひ)・玉留魂(たまるむすひ)・生魂(いくむすひ)・足魂(たるむすひ)・大宮之売・御饌都(みけつ)・事代主の八神の称。
【白蔵主・伯蔵主】(はくぞうす) (「はくぞうず」とも)狂言「釣狐(つりぎつね)」の登場人物の名。猟師の殺生をやめさせるため、老狐が猟師の伯父の僧に化けたもの。一説に、永徳年間の頃、和泉国(大阪府南部)大鳥郡小林寺耕雲庵に住み、霊性をそなえる三匹の野狐を愛育して、常に身辺に飼っていたと伝えられる僧を素材にしたといわれる。
【拈華微笑】(ねんげみしょう) 仏語。釈迦が霊鷲山で弟子に説法しようとしたとき、梵王が金波羅華を献じた。釈迦は一言もいわず、ただその花をひねっただけなので、弟子たちはその意が解せなかったが、迦葉だけが、にっこりと笑った。それを見て釈迦は、仏法のすべてを迦葉に授けたという故事をいう。
【根国】(ねのくに) 日本古代の他界観の一つ。死者の霊が行くと考えた地下の世界、また海上彼方の世界。底の国。黄泉(よみ)。黄泉の国。ねのかたすくに。
【入魂】 神仏や霊を呼び入れること。また、あるものに魂(たましい)を入れること。
【日精】(にっせい) 太陽の精。太陽の霊。
【蚕霊揚】(こだまあげ) 長野県などで、その年の養蚕の終わったときの祝い。蚕の霊を送る意。棚揚げ。
【弔う】(とぶらう) (「とぶらう(訪)」からで、死者の霊をたずね慰める意)「とむらう(弔)」の古形。*伊勢‐一〇一「やんごとなき女のもとに、なくなりにけるをとぶらふやうにていひやりける」
【弔合戦】 死者の復讐をしてその霊を慰めるために、敵と戦うこと。また、その戦い。仇討ちの戦い。弔戦。
【追善合戦】 死者に代わってその恨みをはらし復讐(ふくしゅう)をして霊を慰めるために戦うこと。弔合戦(とむらいがっせん)。
【天国】 キリスト教で、信者の死後の霊を迎えると信じられる世界。神の国。「天国に召される」
【付物・憑物】(つきもの) (憑物)人にとりついてその人に災いをなすと信じられている動物などの霊。「憑物が落ちる」
【鎮魂】(ちんこん) 魂を落ち着かせ鎮めること。肉体から遊離しようとする魂や、肉体から遊離した魂を肉体に鎮めること。また、その術。広義には、活力を失った魂に活力を与えて再生する魂振(たまふり)をも含めていう。たましずめ。「ちんこんさい(鎮魂祭)」の略。死者の霊を慰め鎮めること。
【弔祭】(ちょうさい) 死者の霊をとむらいまつること。また、その儀式。
【合祭】(ごうさい) 二柱以上の神や霊などを一つの神社にまつること。合座。合祀。
【手向水】(たむけみず) 手向けとする水。神仏や死者の霊などに供える水。墓前に供える水。
【手向花】 手向けとする花。神仏や死者の霊などに供える花。
【手向草】(たむけぐさ) (「たむけくさ」とも)(「くさ」は種、料の意)手向けにする品物。神仏や死者の霊などに供える品。幣帛(へいはく)。ぬさ。「さくら(桜)」の異名。「まつ(松)」の異名。「すみれ(菫)」の異名。
【霊代】(たましろ) 人の霊の代わりとしてまつるもの。れいだい。
【退凡下乗】(たいぼんげじょう) 仏語。釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法したとき、摩訶陀(マガダ)国王頻婆沙羅(びんばしゃら)がこれを聞くために道を開いて、中間に建てたという二つの卒都婆。一つは下乗と記し、王はここから歩き、一つは退凡と記し、凡人をこれより内に入れなかったというもの。
【結草】(けっそう) (中国春秋時代、晋の魏顆(ぎか)が、父の死に際して、その妾を殉死させず、他に嫁がせたところ、秦との戦に、妾の父の霊が現われて、草を結び、敵将をつまずかせ、魏顆に手柄を立てさせたという「春秋左伝‐宣公一五年」の故事から)恩にむくいること。
【位】(い・ヰ) 死者の霊を数えるのに用いる。「英霊百位」
【血食】(けっしょく) (「血」は祭祀に供する犠牲(いけにえ)の血の意)いけにえの動物を供えて祖先の霊をまつること。子孫が続いて先祖の祭を絶やさないこと。*中華若木詩抄‐中「霊神の祠あり。いつも血食するぞ」
【造仏供養】 三宝や死者の霊などを供養するために仏像を造り、供物としてささげること。また、新しく仏像が造られたときにする法会。
【葬祭・喪祭】 葬式と祭祀。死者を葬ったあと、その霊をまつる祭。「冠婚葬祭」
【引導】(いんどう) 仏語。迷っている人々や霊を教えて仏道にはいらせること。死人を葬る前に、僧が、棺の前で、迷わずに悟りが開けるように、経文や法語をとなえること。また、その経文や法語。
【グノーシス】 (ギリシアgnRsis)知識の意。特に古代ギリシアの末期では、神秘的、直観的にとらえられた神の霊性の認識をいう。
【口寄】 神仙や死霊の言葉を霊媒に語らせること。行者や巫女が、第三者を霊媒に仕立てて、それに神仙や死者の霊を乗り移らせる場合と、行者や巫女が自ら霊媒となる場合がある。
【口寄巫女】 口寄せを職業とする巫女。かみおろし。いちこ。あずさみこ。みこ。
【靖献】(せいけん) (「書経‐微子」の「自靖、人自献二于先王一」から)臣下が義に安んじて、先王の霊に誠意をささげること。
【靖献遺言】 江戸前期の思想書。八巻。浅見絅斎著。貞享四年成立。寛延元年刊。楚の屈原ら、節義を失わなかった八人の中国人の遺文に略伝などを付し、日本の忠臣、義士の行状を付載する。尊皇思想の展開に影響を与えた。
【遺物崇拝】 祖先、死者、聖人の霊との交わりを求めて、その遺体や所持品を崇拝すること。
【神主】(しんしゅ) (古くは「じんしゅ」とも)ものの霊。ぬし。儒葬で死者の官位・姓名を書き祠堂に安置する霊牌。仏教の位牌にあたるもの。木主。神につかえる人。神官。神職。かんぬし。
【食初】(くいぞめ) 生後120日目の小児に、食事を作って食べさせる祝いの儀式。小さな椀に、30cm以上の箸で、実際には食べさせるまねだけをし、神棚や祖先の霊にその旨を報告し礼拝する。はしぞめ。はしたて。
【諸聖徒日】(しょせいとび) イエス‐キリストを信じて世を去ったすべての人を記念し、その霊のために平安を祈る日。一一月一日。万聖節。
【客神】 主祭神に対して他から迎えた神。外来神に新しい威力があるという信仰から、蕃神、流人、旅人などの霊をまつった例が多い。
【英霊】 (「英華秀霊」の気の集まっている人の意)すぐれた人。また、その魂。英才。*万葉‐三九七三「英霊星気、逸調過人」 死者の霊魂を尊敬していう語。明治以後は戦死者の霊をいうことが多い。英魂。
【春季皇霊祭】 毎年春分の日に、宮中の皇霊殿で、天皇が歴代の天皇・皇后などの霊を祀る祭儀。もと国家の祭日。今は「春分の日」として国民の祝日。《季・春》
【英魂】 すぐれた人のたましい。また、死者の霊をたたえていう語。英霊。
【秋季皇霊祭】 毎年秋分の日に、皇霊殿で、歴代の天皇、皇后、皇親などの霊をまつる祭儀。もと国家の祭日であった。
【神懸・神憑】(かみがかり) 神の霊が人に乗りうつること。また、その状態やそういう人。
【コリント書】 新約聖書中のコリント前書とコリント後書の総称。コリント前書は五四年頃、パウロがエペソからコリントに送ったもの。結婚、処女、霊の賜物、献金など具体的な問題に解決を与える。コリント後書は前書に対する反論に応じたもので、使徒の権威を強調し、反対者に反撃を加え、コリント人に対する強い愛を語る。
【御霊会】(ごりょうえ) 昔、死者の怨霊のたたりを恐れ、これをなだめるために行った祭。祇園会はその一つ。陰暦六月一四日、京都の八坂神社で行われた、疫病・災厄をはらうことをつかさどる祇園の神(素戔嗚尊)をまつる斎会(さいえ)。祇園御霊会。祇園祭。祇園会。
【御霊祭】 京都市上京区の御霊神社で神霊を和らげるために陰暦八月一八日に行った祭。現在では、五月一日から二〇日までに行われる。《季・秋》
【米福粟福】(こめぶくあわぶく) 昔話の一つ。米福・粟福の姉妹のうち、継子(ままこ)の姉娘は継母から事ごとに意地悪されるが、死んだ実母の霊や異腹の妹に助けられ幸福になるという話。
【告別式】 死者の霊に対して、親族、知人などの縁故者が別れを告げる儀式。
【皇霊】 歴代の天皇の霊。
【尊霊】 (「りょう」は「霊」の呉音)霊魂または亡霊を敬っていう語。みたま。そんれい。
【合祀・合祠】 二柱以上の神や霊をいっしょにして一つの神社にまつること。また、一神社の祭神を他の神社に合わせまつること。
【合祀祭】 合祀の時にとり行なわれる祭典。靖国神社で、戦死者、殉難者の霊を祭神として合祀する時に行なわれる臨時の大祭。
【梓巫・梓巫女】(あずさみこ) 梓の木で作った弓のつるをたたきながら、死者の霊を呼び寄せる口寄せ巫女。吉凶や失せ物判断をすることもある。みこ。いちこ。くちよせ。
【客】 霊(たま)祭などで、祭の場に来る死霊・霊魂。
【狐憑】(きつねつき) 狐の霊がとりついたといわれる一種の精神病。また、その人。きつね。
【義士祭】 四月一日から一か月間、東京芝高輪の泉岳寺で行なわれる、赤穂義士の霊をまつる催し。寺宝の展観などがある。ぎしまつり。《季・春》
【息衝竹】(いきつきだけ) 埋葬した時、土饅頭に突き立てる節を抜いた竹。蘇生したときの用意のためとか、死者と話をするためなどの説があり、供養として水をそそぎ入れたりする。霊の通路。息つき穴。
【雷】(いかずち) (「いか(厳)つ(=の)ち(霊)」の意)たけだけしく恐ろしいもの。魔物。*書紀‐神代上(水戸本訓)「上に八色(やくさ)の雷公(イカツチ)有り」 かみなり。なるかみ。かむとけ。*仏足石歌「伊加豆知(イカヅチ)の光の如き」
【影・景】 (「かげ(陰)」と同語源)死者の霊。魂。*源氏‐若菜上「亡き親のおもてを伏せ、かげをはづかしむるたぐひ」
【岳神】 山の神。特に、富士山の霊。富士山頂にまつられている浅間神社の神。
【仕上・仕揚】 (「仕」は当て字)(死後の作法のしめくくりの意とも、また、死者の霊を天にあげる意ともいう)死後三日目、七日目、四九日目などの忌日にいとなむ法事。忌中払。葬礼の後、手伝いの人々に饗応すること。
【取っ付く】 (「とりつく(取付)」の変化)身に病や霊などがつきまとう。不浄なものが身についてはなれない。「狐がとっつく」*滑・浮世床‐初「悪い病ひにとっつかれた」
【千早ぶ】(ちはやぶ) (「いちはやぶ」の変化。また、「ち」は「霊(ち)」で、「霊威あるさまである」の意とも)たけだけしく行う。勢い激しくふるまう。→ちはやぶる。*万葉‐一九九「千磐破(ちはやぶる)人を和(やは)せと」
【浮かぶ・泛かぶ】 (現在では、多く可能を表わす「うかばれる」の形でいう)死者の霊が迷いから抜け出てやすらかになる。成仏する。*山家集‐下「うかばん末をなほ思はなん」
【浮かばれる】 (「れる」は、もと可能の助動詞)死者の霊が迷いからぬけ出てやすらかになれる。成仏できる。
【孝】(きょう) (「孝」の呉音)親の追善供養をすること。また、死者の霊をとむらい喪に服すること。孝養。*宇津保‐俊蔭「三年のけうを送る」
【誄】(しのびごと) (「偲び言」の意。上代は「しのひこと」)死者を慕い、その霊に生前の功徳などを述べることば。死者に対する哀悼の辞。るい。るいし。*書紀‐敏達一四年八月(前田本訓)「馬子宿禰大臣刀(たち)を佩いて誄(シノヒコト)たてまつる」
【おりはやす】 「はやす」は「栄やす」で、良いものにする、効果あらしめるの意から、植物などを折って料理するの意か。一説に、「折って栄えあらしめる」で、すなわち植物を折って植物霊を分け、翌年の豊作を祈る意。*万葉‐三四〇六「上毛野(かみつけの)佐野の茎立(くくたち)乎里波夜志(ヲリハヤシ)吾は待たむゑ今年来ずとも」
【下ろす・降ろす・卸す】 神の霊を天から下界に呼びよせる。*米沢本沙石集‐一・四「大明神をおろしまゐらせて御託宣を仰ぐべし」
【浮かべる・泛かべる】 死者の霊が迷いから抜け出て安らかになるようにする。成仏させる。浮かばせる。
【後】(あと) (「跡(あと)」の意義が拡大したものという)人の死後。死後の霊。追善供養などもいう。*源氏‐明石「更にのちのあとの名をはぶくとても、たけき事もあらじ」
跡を弔(とむら・とぶら)う 死者の霊を慰める。追善のために法事を行なう。
【志す】 (「心指す」で、心がその方向へ向かうの意)死者の霊をとむらう。法要を行なう。多く「こころざす日」の形となる。*咄・醒睡笑‐一「けふは心ざす先祖の頼朝の日なり」
【現ずる】 神仏、霊魂やその霊験が現われる。示現する。*宇津保‐楼上上「石造りてうの薬師仏げむじ給ふとて、多くの人まうでたまふ」 神仏、霊などが霊験を現わす。*浜松中納言‐一「菩提寺といふ寺におはします仏、いみじうけんし給ふといふに、詣で給ひて」
万物の霊長 万物のなかで最も霊妙ですぐれたもの。すなわち、人間。人類。
食の御魂(みたま) 稲の穀霊を神格化したもの。のちに米、粟、麦、稷(きび)、豆などの五穀の神、主食をつかさどる神霊となる。伊勢の外宮の祭神豊宇気姫命の霊、また、稲荷の神の祭神ともいう。*書紀‐神代上「倉稲魂、此をは宇介能美埀磨(ウカノミタマ)と云ふ」
家の主(ぬし) その家に古くからすんでいて、霊があるといわれる、蛇、狐、狸などの動物。ぬし。
在天の霊(れい) 死者をまつる時などに、その霊魂をさしていう語。
わたつみ  (「つ」は「の」の意の格助詞。「海つ霊(み)」の意。後世は「わたづみ」「わだづみ」「わだつみ」とも) (海神)海の神。その地方地方の海、雨、水をつかさどるといわれる。海神。わたつみのかみ。海(わた)の神。*書紀‐神代上「少童、此れをば和多都美(ワタツミ)と云ふ」
酒の神(かみ) 酒の霊であり、また、酒をつかさどると信じられている神。日本の少彦名神、ギリシアのディオニソス(バッカス)、エジプトのオシリスなど。
亡き影(かげ) 死んだ人の面影。死者の霊。*源氏‐松風「親の御なきかげを恥づかしめむ事」 亡くなったあと。死んで霊魂となってしまっていること。*源氏‐浮舟「なきかげにうき名流さんことをこそ思へ」
暮れの魂祭(たままつり) 一二月末日に行なう先祖の霊をまつる行事。《季・冬》
七瀬の祓(はら)え[=禊(みそぎ)] 中古、朝廷で毎月または臨時に行われた行事。吉日を選んで、天皇のさまざまなわざわいを負わせた人形(ひとがた)を、七人の勅使に命じて、七か所の河海の岸に持たせて祓えをした。難波・農太・河俣・大島・佐久那・谷・辛崎でするのを大七瀬または七瀬といい、耳敏(みみと)川・川合・東滝・松崎・石影・西滝・大井川で行うのを霊所七瀬、川合(糺川)・一条通・土御門通・近衛通・中御門通・大炊御門通・二条末通でするのを加茂七瀬という。当時の公卿たちも朝廷にならって行い、鎌倉幕府も由比浜・金洗沢・固瀬川・六連・柚河・杜戸・江島で行った。《季・夏》
【杜鵑・時鳥・子規・郭公・不如帰】(ほととぎす) (鳴き声による名という)ホトトギス科の鳥。背面は灰褐色で、腹は白地に横斑がある。尾羽が長く、白斑が混じる。カッコウによく似るが、はるかに小さく、腹面の横斑は幅が広く、数が少ない。中国東北地方からヒマラヤにかけてと、インドネシアおよびマダガスカルに分布し、北方の鳥は南アジアで越冬する。日本には五月に各地に渡来し、八〜九月に南方へ去る。山林に単独ですみ、自分で巣は作らないでウグイスなどの巣に五〜八月頃産卵し、仮親に育てさせる。古来、春のウグイス、秋のカリとともに、夏の鳥として親しまれ、文学にも登場する。現代では、鳴き声が「テッペンカケタカ」「特許許可局」と聞こえるとされる。蜀王の霊の化した鳥とか、冥土との間を往来する鳥とか、種々の伝説や口碑も多い。あやめ鳥・いもせ鳥・うない鳥・さなえ鳥・しでの田おさ・たちばな鳥・たま迎え鳥・時つ鳥・夕かげ鳥など、異名も多く、当てられる文字も、ほかに杜宇・田鵑・沓乞・催帰・蜀魂・帝魂など多種類にのぼる。《季・夏》
【入内雀】(にゅうないすずめ) ハタオリドリ科の小鳥。大きさ、外形ともに雀に似ているが羽色は雌雄で異なる。雄の背面は栗色で、黒色縦斑があり、のどが黒い。雌の背面は灰褐色で、のどは黒くなく、顔に黄白色の眉斑(びはん)がある。多くは北海道以北で繁殖し、秋に各地の水田・池沼などに渡り、農作物に害を与える。和名は新嘗(にいなめ)で、その年に実った稲を人間より先に食べるところからとも、追放された藤原実方の霊が雀と化して宮中に帰り、台盤所の飯をついばんだところからの名ともいう。《季・秋》
【大会】(だいえ) 能楽の曲名。五番目物。各流。金春禅竹作という。天狗が、以前命を助けられた礼に僧の望みをかなえて、釈迦が霊鷲山で行った説法の様を現すが、怒った帝釈天が天下り、天狗をこらしめる。
【雲林】 謡曲。四番目物。観世、宝生、金剛、喜多流。在原業平の霊が「伊勢物語」の秘事を語るという筋。
【敦盛】 能楽。二番目物。各流。世阿弥作。平敦盛の菩提を弔うため、一の谷に来た蓮生(熊谷直実)の前へ敦盛の霊が現われる筋立て。
【井筒】 能楽。三番目物。観世、宝生、金春、金剛、喜多の各流。世阿弥作。「伊勢物語」によった井筒の女の恋物語。在原寺にもうでた旅僧は、紀有常の娘の霊が、業平の衣装を着て、井筒の回りで舞を舞いながら、その水に姿を映して昔を忍ぶ夢を見る。
【昭君】(しょうくん) 能楽の曲名。五番目物。各流。作者未詳。古名「王昭君」。漢王は、胡国との和平のために王昭君を胡王に送る。嘆いている昭君の老父母が昭君の形見の柳を鏡に映すと昭君の霊と胡王の霊が現れる。
【殺生石】 栃木県那須郡那須町の、那須岳の寄生火山御段山東腹にある溶岩。付近の硫気孔から有毒ガスが噴出して、そこに近づく蜂や蝶などの動物が多く死ぬ。伝説によれば、鳥羽天皇の寵姫玉藻前に化けた白狐が、安倍泰成に正体を見破られ、三浦義明に射止められて石と化したものを、後深草天皇のときに、玄翁(げんのう)和尚が杖で打って、石の霊を成仏させたという。能楽の曲名。五番目物。四番目物にも。各流。日吉佐阿弥作といわれる。玄翁道人が下野国の那須野で、狐の姿で現れた殺生石の石魂から、殺生石の由来を聞き供養するという筋。
【夕顔】 「源氏物語」第四帖の巻名。光源氏一七歳の夏、五条の宿りに夕顔を見いだし、八月、夕顔を伴って宿った六条のなにがしの院で、物の怪(け)のため、夕顔を急死させてしまうことを中心に、空蝉(うつせみ)の伊予下向や六条御息所との交渉にも触れる。「源氏物語」に登場する女性。初め頭中将に愛され玉鬘をもうけたが、本妻側のおどしによって行方を隠し、源氏に見いだされ、宿ったなにがしの院で物の怪に襲われて死ぬ。能楽の曲名。三番目物。観世・金剛・喜多流。作者未詳。「源氏物語」による。旅僧の夢の中に夕顔上の霊が現れて舞を舞い、僧の回向によって迷いが晴れたことを喜ぶ。
【求塚・処女塚】(もとめづか) (求塚)能楽の曲名。四番目物。観世・宝生・金剛・喜多流。観阿弥作。菟原処女の伝説を脚色。処女の霊が、男たちの亡霊や鴛鴦に責められる有様を語る。
【夢幻能】 能楽で主人公(シテ)を実在する人物でなく霊として登場させるもの。「高砂」「老松」「清経」「胡蝶」など。
【通盛】(みちもり) 謡曲の曲名。修羅物。各流。作者未詳。「平家物語」「源平盛衰記」による。僧が阿波の鳴門で平家一門の跡を弔っていると、老夫婦が来て、小宰相局が夫通盛の死を聞いて入水したことなどを語って姿を消す。やがて通盛夫婦の霊が現れて、当時の有様や通盛が討死したときのことを語る。
【修羅物】 能の分類の一つ。武将の霊を主人公(シテ)とし、激しい戦乱を素材とする。多くは修羅道におちた主人公が、その苦しみを語り、まねてみせ、脇僧に回向をたのむ形をとる。「八島」「忠度」「兼平」「通盛」など。五番立演能の二番に演じられるので二番目物ともいう。
【松山鏡】 能楽の曲名。五番目物。観世・金剛・喜多流。作者不詳。母の形見の鏡に映る自分の姿を母と思って追慕していた娘に鏡のいわれを教えてやる。そこに母の亡霊が現れ、娘の回向する功徳によって霊は成仏する。
【松風】能楽の曲名。三番目物。各流。古い能の「汐汲(しおくみ)」をもとにした観阿弥の原作を世阿弥が改作したという。女物の典型的作品。古名「松風村雨」。旅僧が須磨の浦を訪れ、潮汲車を引きながら塩屋にもどってきた二人の海女(あま)に宿を請う。僧が在原行平の古跡の松を弔ったことを語ると、二人は自分たちは行平に愛された松風・村雨という海女の霊だと語る。そのうちに松風は恋慕のあまり、行平の形見の烏帽子狩衣をつけて舞を舞う。
【舞働】(まいばたらき) (「まいはたらき」とも)能楽の舞事・囃子事(はやしごと)の一つ。笛を主にして大小の鼓と太鼓との伴奏によって、激しく早く舞うもの。能の竜神・鬼・天狗・勇将の霊などの舞や、狂言の福神の舞に用いる。はたらき。
【知章】(ともあきら) 能楽の曲名。二番目物。観世・金春・金剛・喜多流。世阿弥作と伝えられる。知章の霊が、自分が知盛の子で一ノ谷の合戦で討死したことや、最後の合戦のさまを旅の僧に語る。
【東北】(とうぼく) 能楽の曲名。三番目物。各流。世阿弥作。東北院で、梅の木の精と和泉式部の霊が、東国の僧に軒端の梅の故事と和歌の功徳などを語る。
【定家】 能楽の曲名。三番目物。各流。金春禅竹作と伝える。古名「定家葛(ていかかずら)」。旅僧が時雨に会い、そばの亭に雨やどりする。里の女が来て、藤原定家の時雨の亭だと教え、式子内親王の墓に案内して、内親王と深い契りを結んだ定家の執心が葛となって墓にからみついたと語り、自分こそ内親王であると告げて姿を消す。僧の法華経読誦によって内親王の霊が墓の中から現れ、成仏できたと喜ぶ。
【経政・経正】(つねまさ) 能楽の曲名。二番目物。各流。作者未詳。仁和寺御室(おむろ)御所の法親王は、寵愛していた平経政が一ノ谷の戦いで討たれたので、生前経政に貸し与えた琵琶の名器青山(せいざん)を仏前に供えて弔うと、経政の霊が現れて琵琶を奏し、修羅道の苦しみを再現する。「平家物語」による。
【天鼓】(てんこ) 天上に鳴るつづみ。雷鳴。かみなり。能楽の曲名。四番目物。各流。作者不詳。中国の少年楽人天鼓は、天から授けられた鼓(つづみ)を帝に召し上げられるのを拒み、呂水の江に沈められる。鼓が鳴らないので少年の父王伯に打たせると鼓は妙音を発する。帝が追善の管弦講を催すと、天鼓の霊が現れて鼓を打って舞をまう。
【田村】 能楽の曲名。二番目物。各流。作者未詳。清水寺に参詣した旅僧に、童子が、清水寺建立のいわれを語り、坂上田村麻呂の霊が鈴鹿山の鬼神を退治したときのありさまを語る。勝修羅(かちしゅら)の一つ。「今昔物語」による。
【恋重荷】(こいのおもに) 謡曲。四番目物。観世流。世阿弥作。古名「重荷」。庭守の老人の懸想を知った女御はこれをあきらめさせるため、重荷を持って庭を歩いたら姿を見せようと伝える。老人は喜んだが重荷を持てず落胆して死ぬ。のち亡霊となって現われ、女御の守りとなることを誓う。古曲「綾の太鼓」の改作。
【鵜飼】 能楽。五番目物。各流。榎並左衛門五郎作。世阿弥改作。旅僧が、殺生の罪で簀巻(すまき)にされた鵜使いの亡霊に会い、回向(えこう)を頼まれる。僧が鵜使いの霊を弔っていると閻魔(えんま)大王が現われ、亡者が成仏したことを告げる。
【忠度】(ただのり) 能楽の曲名。二番目物。各流。世阿弥作。古名「薩摩守」「短冊忠度」。もと藤原俊成に仕えたことのある僧が須磨の浦に宿った折、夢に忠度の霊が現れ、「千載集」に読み人知らずとして載せられた自分の歌に作者の名をつけてほしいと頼み、ついで一の谷の合戦での最期の模様を語る。
【現在能】 能楽で、主人公(シテ)を霊ではなく実在する人物として登場させるもの。「自然居士」「班女」「隅田川」など。
【須磨源氏】 能楽の曲名。五番目物。四番目物にも。観世・宝生・金剛・喜多流。世阿弥作か。古名「讚岐院」。日向国の神主が須磨の浦で、光源氏の霊に会い、その夜、夢の中に現れて早舞を舞う。
【清経】 謡曲。二番目物。修羅能物。各流。世阿弥作。豊前国柳ケ浦で、平家一門の運命をはかなんで自殺した平清経の遺髪を、家臣の淡津三郎(ワキ)が都に持ち帰り、清経の妻(ツレ)に渡す。嘆き悲しむ妻の枕辺に清経の霊(シテ)が現われ、敗戦の様や死後の修羅道の責め苦、また入水の時唱えた十念の功力で成仏できたことなどを語る。
【鍾馗】(しょうき) (中国、唐の開元年中、玄宗皇帝の夢に終南山の進士鍾馗があらわれ、魔を祓い、病気をなおしたという故事に基づく)中国で、疫病神を追いはらい、魔を除くと信ぜられた神。わが国では、その像を、五月五日の端午の節供ののぼりに描いたり、五月人形に作ったり、魔よけの人形にしたりする。その像は、目が大きく、頬からあごにかけて濃いひげをはやし、黒い衣冠をつけ、長ぐつをはき、右手に剣を抜き持ち、時に小鬼をつかむ。強い者の権化・象徴とされる。能楽の曲名。五番目物。各流。金春禅竹作ともいう。鍾馗の霊が、自分は進士に落第して自殺したが今は国土を守護しようと思うと語り、やがて真の姿を現して鬼神を退治し国土をしずめるという筋。
【玉葛・玉蔓・玉鬘】(たまかずら) (玉葛)能楽の曲名。四番目物。各流。金春禅竹作。旅僧が初瀬もうでに出かけ玉鬘の内侍の化身である女に出会う。僧が回向すると、夜、夢の中に玉鬘の霊が現れて、昔をざんげし妄執を晴らす。「源氏物語」による。
【源氏供養】 謡曲。三番目物。各流。作者未詳。石山寺参拝の法印に里の女が「源氏物語」の供養を頼み、自分が紫式部であることをほのめかして消える。やがて法印の夢の中に式部の霊が現われ、感謝の舞を舞う。
【熊坂】 能楽。五番目物。各流。金春禅竹作か。古名「幽霊熊坂」。都の僧が美濃国赤坂の里で一人の僧に会い、その庵室に案内されるが、やがて僧も庵室も消えて草むらとなる。その夜、都の僧が読経していると、熊坂長範の霊が現われて、金売り吉次を襲って牛若丸に殺された話をする。
【恋松原】 謡曲。四番目物。金剛流。作者不詳。若狭国気山(けやま)の深い雪の中で旅僧が、昔松原で男を待ちながら雪に埋もれて死んだという女の霊とその思いを寄せた男の霊に会い、その跡を弔って二人を成仏させる。廃曲。
【碁・棊・棋】 謡曲。旅僧が三条京極で空蝉の霊と軒端荻(のぎばのおぎ)の霊に会い、その碁を打つさまを見、昔物語を聞く。「源氏物語」による。金剛流のみに残る。
【兼平】 謡曲。二番目物。世阿弥作。今井兼平の霊が現われ、主君木曾義仲の最期の様子を語る。複式夢幻能。
【小林】 謡曲。山名氏清の一族だった僧が山城国八幡で山名の遺臣に出会ったところ、小林上野介の霊がその男にのり移り、内野で勇戦した時のさまを物語る。廃曲。
【女郎花】(おみなめし=おみなえし) 謡曲。四番目物。各流。作者未詳。古名「頼風」。小野頼風とその妻の霊が、邪淫の悪鬼に責められていることを語る筋。
【神有月・神在月】 (神無月には、日本中の神々が出雲大社に集まるという俗信から)出雲国での、陰暦一〇月の異称。かみあり。神月(かみづき)。謡曲。世阿弥作。勅使が出雲におもむいて、神代の神の霊の話を聞く。廃曲。《季・冬》
【玄上・玄象】 (「けん」は「玄」の漢音。「げんじょう」「げんしょう」とも)謡曲。五番目物。各流。観世流では玄象、他流では絃上。金剛弥五郎作か。渡唐して琵琶の奥儀をきわめようとする藤原師長の前に村上天皇と梨壺女御の霊が老夫婦の姿で現われ、琵琶と琴の名技を聞かせて、師長の渡唐を断念させる。
【二面・両面・双面】(ふたおもて) (双面)浄瑠璃・歌舞伎所作事の演出の一つ。二人の人物が同一姿で現れ、のち一方が亡霊の正体を現すというもの。能「二人静(ふたりしずか)」による。現存曲では、「両面月姿絵(ふたおもてつきのすがたえ)」がある。
【両面月姿絵】(ふたおもてつきのすがたえ) 常磐津。木村円夫作詞。岸沢古式部作曲。二世西川扇蔵振付。寛政一〇年江戸森田座初演。お組を恋する法界坊の霊と松若の許嫁野分姫の霊とが一つに合して、お組と同一姿で現れ、忍(しのぶ)売りに身をやつしたお組と松若を悩ます。
【痩男】 能面の一つ。生前殺生の罪で地獄に落ちて苦しみのため痩せ衰えた霊を表す男面。「阿漕(あこぎ)」「藤戸(ふじと)」などのシテに用いる。
【平太】(へいた) 能面の一つ。眉・髭が濃くはね上がり、上下の歯を持った男面。「八島」の義経、「田村」の坂上田村麻呂、「箙」の梶原景季など、勇ましい武将の霊が後ジテとして登場するときに用いられる。
【長恨歌】(ちょうごんか) 中国の詩編。七言古詩一二〇行、唐の白居易(楽天)作。玄宗皇帝が楊貴妃への愛に溺れて政を怠り、安禄山の乱をひき起こし、貴妃を失った深い悲しみをうたった詩。陳鴻の「長恨歌伝」を付したものがある。後代や日本文学への影響が大きい。箏曲。山田流。高井薄阿作詩。山田検校作曲。歌詞は玄宗の使者として方士が貴妃の霊に会う物語。
 
八百万の神々

事代主神  
ことしろぬしのかみ < 八重事代主命/積羽八重(つみはやえ)/事代主神/恵比寿大神/一言主神/八重言代主神/八重事代主神(やえことしろぬし)
*美保神社(島根県松江市)/今宮戎(いまみやえびす)神社(大阪市浪速区)/長田神社(神戸市長田区)/一言主神社/久伊豆神社/三嶋大社/大湊神社/その他恵比寿神が祀られる神社
*鴨都味波八重事代主命神社(奈良県)/美保神社(出雲)/三嶋大社(静岡県)/各地の恵比須神社・三島神社
海の神、託宣神、商業神
記紀神話で託宣神として活躍、一般には、豊漁、海上安全守護の神、またエビス信仰の福神として知られる。七福神のエビスが、大鯛を小脇に抱えた姿とされるのも、事代主神が釣り好き との神話からの連想による。事代主神は海から寄り来る神で、出雲の美保神社(島根県美保関町)の周辺地域の土着の神であった。はじめは地元の漁民や航海関係者から、豊漁をもたらす神、航海の安全を守護する神として信じられ、出雲の有力な神となった 。
出雲神話では、出雲国の支配者である大国主命の息子として国譲りの話に登場する。このとき、弟の建御名方神は最後まで抵抗し、敗れて信濃国に追われたが、事代主神はあっさりと国譲りを認めてしまう。このときの事代主神の役割は、託宣の神としてのものである。大国主命が息子に意見を求めることにしたことも、神意をうかがわせてその託宣を聞くという形を取ったもので、事代主神の託宣神としての役割が強調されている。この神話の中で重要な意味は、そうした託宣による返事が国譲りのあっさりとした承諾であるということだ 、国譲りは侵略でなく、正義の行いであることの証明か。大国主命の息子二人の行動は、事代主神が高天原の正当性を、建御名方神がその武力を象徴するという意味を持っている 。
神名は「事を知る」という意味で、もともと固有名詞でなく一種の役職名で、託宣を発する呪術の専門家(神懸かりする神主や巫女といった存在)に対する称号のようなもの。美保神社の祭神の事代主神も、託宣の神として信仰され、祭りの大きな特徴として一年神主(氏子が選ばれて神主をつとめる)が神懸かるという神事が行われる。
託宣神である事代主神は、神懸かりして神の意志を伝え巫女や神主が果たす機能の神格化といえる。託宣とは神の言葉を伝えることで、神の言葉は世の中の出来事を左右し、行為を 抑える霊力を持つ言霊である。そこから「事代」を「言(言霊)を司る」という意味にとらえ、日本古来の言霊信仰から生まれた神ともいえる。一説に言霊の神格化である一言主神と同一神ともいわれ、実際に同一神として祀る神社もある。
大禍津日神

 

おおまがつひ
死者の世界の穢れの神格化であり、人間の生活に災いをもたらす凶事をつかさどる神。神社の祭神として厄除けの守護神として信仰される。
黄泉の国からこの世に戻ってきたイザナギ神が、筑紫国日向の橋の小門の阿波岐原で、黄泉の国の穢れを洗い落とすために禊をする。その際、水中に洗い落とされた穢れから生まれたのがオオマガツヒ神。黄泉の国、死者の国から持ち帰った穢れから疫神が発生するという神話は、汚穢を洗い流す禊祓の儀式の由来を説明するものと解釈される。人間が不幸に見回れたり、寿命を持たずに病気で不意 に死ぬのは、黄泉の国の穢に起源するという信仰を表したものである。日本の神の多くは自然神であるが、別に、産霊(生命力)、言霊(言葉)、知恵、力といった観念や神の動きなどを神格化した神がいる、オオマガツヒ神はそうした神である。
「マガツ」とは吉凶の凶の観念を表すもので、世の中に凶事をもたらす原因となる穢れを支配する神ということになる。吉を表すのはナオヒで、イザナギ神が禊をして八十禍津日神とともにオオマガツヒ神が生まれ、その禍を正すために汚れの落ちた 体からカムナオヒノ神とオオナムヒノ神の2神が生まれている。禊祓の儀式が待つ「浄の観念」「不浄の観念」の両面を表したものと解釈できる。吉であるカムナオヒ神とオオナオヒ神が、善、正義、清浄、平安を象徴するのに対し、凶であるオオマガツヒ神は、悪、不正、汚穢、災厄を象徴する存在であると考え られる。もともとこの神は、単なる厄疫病ではなく、祝詞などの呪いの言葉と関係する神で、神祭りのとき神に対して間違った言葉を奉じると災厄をもたらす一種の言霊的な神霊だったという。正しく祀れば凶事の災厄から守護する力を発揮する ことになる。
足柄之坂本神  

 

あしがらのさかもと
倭建命が大和に帰る途中、足柄の坂本で殺した坂の神。
倭建命と弟橘比売命
相模を平定し走水海を渡ったとき、その海峡の神が波を起こし、船をぐるぐると廻されたので渡ることができなかった。その時、后の弟橘比売命が「私が御子の代わりになって、海の中に入りましょう。御子は遣わされた任務を果たして復命申してください」と言った。后が海に入ろうとするとき敷物を何枚も敷いてその上にお下りた。すると荒波は静かになって船は先に進むことができた。その時の后の歌
さねさし 相模の小野に 燃える火の 火中(ほなか)にたちて 問ひし君はも (相模の小野の燃える火の燃え広がる炎の中に立って、私のことを思って呼びかけてくださった君よ、ああ)
それから七日後に后の御櫛が海辺に流れ着いた、倭建命はその櫛を拾い御陵を作り収めた。
*書記では日本武尊が言霊の力を借り「これは小さな海だ。飛び越えてでも渡ることができよう」と言い、海神の怒りを買った。
*弟橘比売命入水後は、水路で上総から葦浦・玉浦を経由して竹水門(たかのみなと、多賀城付近)に上陸したという
*入水した弟橘比売命は海神の妻となった巫女であるといえる。
さらに進み、ことごとく荒れすさぶ蝦夷たちを平定し、山河の荒れすさぶ神たちを平定し、大和に帰る途中、足柄の坂本で食事をとっていた。その坂の神(足柄之坂本神)が白い鹿に姿を変えて傍らに立った。倭建命は食べかけの野蒜(のびる)の片端で打ちつけ、その目に命中させその場で打ち殺した。その坂の上に立って、三度ため息をついて「あづまはや(私の妻よ、ああ)」と言った。それで此の国を「阿豆麻(あずま)」という。その後、甲斐に越えて酒折宮(現甲府、酒折神社)、信濃国を越えて、科野之坂神(しなののさかのかみ)を平定し、尾張国の先に結婚の約束をした美夜受比売のもとに帰ってきた。
*書記では北上川の下流から常陸を経由し(足柄は経由していない)甲斐から信濃を経由し、碓井の坂で(碓氷峠)で三度ため息をついて「吾嬬(あづま)はや」といわれたという。書記では東山道を吾妻としているが、古事記では東海で吾妻としている。現に上野国に吾妻という地名があるがこれは書記に基づいた地名。  
 
神道の世界

 

(中略)
さて、神には「チハヤブル(千早ぶる)」という枕詞がつく。この意味を知るには、日本人の霊魂観について知らなければならない。現代における最高の神道テクストである鎌田氏編著の『神道用語の基礎知識』に沿って、説明したい。
霊魂を表す一音節の古語に、「チ」「ミ」「ヒ」などの言葉がある。「チ」という言葉を持つ神名は、火の神カグツチ、木の神ククノチ、草の神ノヅチ、雷の神タケミカヅチ、そして大蛇のヤマタノオロチなどを古典の中に見つけることができる。これらの神名は自然現象や自然物の霊格を表すが、チはそのような自然の中に潜む生命力や勢いを意味している。だから「チハヤブル」という神の枕詞は、神の霊威であるチが凄まじい勢いで活動するという意味で、「血」「乳」「力」などの言葉も同じように根源的な生命力や霊威を表す観念に基づいている。
「チ」の神よりも広い概念を持つのが「ミ」の神であり、海の神ワタツミや山の神ヤマツミという自然の神が代表的だ。
「ヒ」はより抽象的な霊力を表す語であり、マガツヒノカミ(禍津日神)やナオヒノカミ(直日神)などに見られる。宇宙に誕生した最初の神であるアメノミナカヌシ(天之御中主)と並んで「造化三神(ぞうかさんしん)」に数えられるのが、タカミムスビミ(高皇産霊尊)とカミムスヒ(神皇産霊尊)の二柱の神だが、いずれも「ムスヒ」という語が見られる。これは、一音節で霊力を表す「ヒ」に、自然に生成するという意味の「ムス」がついた言葉である。「産霊」という表記がそのまま示しているように、万物を創造する霊力であり、天地生成の根源的な霊力を意味する。
霊魂を意味する言葉には二音節のものもある。現代人にも理解されやすい「モノ」「タマ」「カミ」がそれだ。「カミ」については、すでに述べた。「モノ」は現代では物質のことであると思われているが、古くは霊魂を意味した。古代の氏族である物部氏の「物」は、この豪族が祭祀や軍事という神や人命を司る役割にあったことに由来する。
「モノより心」という言葉に代表されるように、物質と霊魂は正反対にあるものと現代の日本人は見ている。しかし、天地開闢(てんちかいびゃく)の神話には、日本の神々が自然物を創造したのではなく、天地の間にある物から神々は生まれてきている。したがってユダヤ・キリスト教のような霊魂と物質の二元論ではなく、いわゆる物にも霊性を見るという世界観なのだ。
平安時代になると、モノは「物の怪(け)」
という表現で、怨霊や死霊を意味するようになる。これも本来は邪悪なものではなかった「オニ」と同じように、神々よりも低いレベルの霊的存在と見られたわけである。この古代的なモノ感覚は、中世に広まった妖怪の観念を生むことになる。
モノやオニは邪悪な方面へと働き、人々に恐れられたが、「タマ」という表現は人間に恵みをもたらす霊格として使用された。タマには、振り動かされることによって活性化される生命力と、身体から遊離しようとする場合の二つのタイプがある。それぞれ「魂振り」「魂鎮(しず)め」の鎮魂の儀式によって、人の状態を良い方向に導こうとした。タマとは、人の身体にあって人を健全に生かしめ、幸いをもたらす霊魂なのである。また、「生霊(いきりょう)」という言葉があるように、普段と異なる精神状態のときには、人に死をもたらすことなくタマは身体から離れ出ることがあると考えられていた。
また、神や人の霊の作用として、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)の四つがあるとされる。和魂は静的調和、荒魂は動的活動、幸魂は幸いをもたらす働き、奇魂は霊妙な作用を讃えた名称である。それぞれ個別に奉納されることがあり、伊勢神宮内宮である荒祭宮にはアマテラスの荒魂が祀られ、大神(おおみわ)神社にはオオクニヌシ(大国主神)のもとに海の彼方から幸魂と奇魂がやってきて、三輪山に住むようになったことによる。タマが身体から離れようとすることがあるとされていたように、身体を離れた魂が別の場所で活動することがあると考えられていたのだ。
神道は、神々とともに人間の霊魂を探求する学問でもある。それは「心霊主義」と訳され、一九世紀にイギリスで盛んになったスピリチュアリズムが日本に入ってきたとき、その受け皿となったのが古神道や神道系の新宗教であったことが証明している。余談ながら、テレビや出版で大活躍している某霊能力者は、国学院の神道科出身であるという。
「チ」「ミ」「ヒ」などの古語が広大な世界へと拡張していく背景には、神道の「言霊(ことだま)思想」がある。これは、口に出した言葉が現実に何らかの影響を与える霊力を持っているとする考え方だ。つまり、音声としての言葉が現実化していくとされ、「祝詞(のりと)」を奏上する場合などは特に誤読のないように注意された。現在でも、結婚式の席における「別れる」とか「切れる」といった言葉や、受験のときに「落ちる」という言葉を使わないようにするのも、このような言霊の信仰に由来している。
それと関連して、自分の意思や感情を積極的に言葉に出すこと、つまり、言いたいことを言う行為は「言挙げ」として良くないものとされた。特にその言葉が自分の慢心によるものであった場合、悪い結果がもたらされるゆえにタブー視された。
たとえば『古事記』には、ヤマトタケルノミコト(倭建命)が伊吹山(いぶきやま)に登ったとき、山の神が白猪になって現れたが、ヤマトタケルが「これは山の神の使者であるから、今でなくとも帰りに殺そう」と言挙げして先に進んだところ、その神の祟りにあって苦しんだとある。神への信頼があれば、わざわざ言挙げする必要はなく、言挙げは神と人との一体感を冒すものである。このような考えが、日本を「言挙げせぬ国」としてきたのである。しかし、その「言挙げせぬ」伝統ゆえに、後から日本に伝来してきた仏教の経典に書かれた豊かな言語世界の前で劣勢に立たされた事実を忘れてはならないだろう。 
 
巫女

 

巫女の行いし呪術の目的と種類  
巫女は我国における呪術師の全部で無くして、僅にその一部分であることは既述した。従って、巫女の用いた呪術は、我国のそれの総てではなくして、是れ又その一部であることは、言うまでもない。それ故に、巫女の行うた巫術の目的にあっても、一般の呪術から見るときは、頗る局限されることとなるが、これは巫女史の立場から云えば、寧ろ当然の帰結であらねばならぬ。而して我国の固有呪法時代における巫女の呪術の目的は、大略左の如きものであったと考えられる。
第一 自然を制御し、又はこれを支配せんとせしこと。
第二 神(又は精霊)を善用又は悪用し、或は是等を征服せんとせしこと。
第三 霊魂を鎮め、或はこれを和めて、自己または宗族の保存を図りしこと。
第四 未来を識見して招福除災を企てしこと。
併しながら、目的と行動とは、分離することが困難である。換言すれば、是等の目的を遂行せんとする巫女の呪的所作は、巫女の職務として説明する方が便宜が多い。それ故に茲には、それと重複せぬ程度で解説し、その詳細は巫女の職務を既述する条に譲るとする。
第一の自然を制御し、又は支配せんとする目的の下に巫女の行った呪術は、私の知ってる限りでは、我国には実例も尠く、且つその態度も概して消極的であった。併しこれは言うまでもなく、我国の風土または気候の然らしめた結果である。勿論、我国にも、日ノ神、月ノ神、水ノ神、火ノ神、雨ノ神、風ノ神、土ノ神、木ノ神等の自然その物を信仰の対象とした神は古くから存し、更に国土の精霊と見るべき神御魂、高御魂、生魂、足魂、玉留魂等もあり、巫女は是等に対して呪術を以て、是等の神や精霊を通して制御し、又は支配し得るものと考えていたようであるが、その徴証を覓めて具体的に説明しようとすると、それが極めて稀薄なるに驚くのである。例えば、日ノ神(ここには太陽の意である)に対して「天の御陰、日の御陰」を恩頼(カガウ)ることを祈っているが、呪術を以て天日を曇らせたとか、晴れさせたとかいうものは、一つも発見されぬ。雨風ノ神(ここには風雨そのもの)に対しても、同じく順風滋雨を念ずるばかりで、呪術を以て風を吹かせ、雨を降らせたものは、全く見当らぬ。信濃の諏訪社に行われた「風の祝」の故事や、肥後の霜ノ宮に行われた「火焚きの神事」や、及び是等に類する神事も少くないが併しその目的は、悉く消極的であって、共に悪しき風の吹かぬように、恐ろしい霜の降らぬようにと祈るのみであって、これに反して積極的に、風よ強く吹け、霜よ多く降れと呪ったものは皆無である。
尤も、雩祭(アマゴイ)だけは積極的の呪術と見られるのであるが、これが我国に行われたのは「天武紀」が初見であって、それ以前のは寡見に入らず、然も天武紀の雩祭は、著しく支那の影響を受けているものと思われるので、茲に言う固有呪法時代の埒外に属するのである。勿論、私は文献に見えぬからとて、雩祭というが如き原始的で且つ呪術的の神事は、古代から行われていたものと考えるのではあるが、これは何処(どこ)まで言うても、考えるだけで、それ以上には、一歩も踏み出すことが出来ぬのである。「万葉集」に現われた「雨慎(アマツツ)み」の信仰は、猶お風や霜の如く、専ら霖雨を恐れ、豪雨を避ける態度であった。従って、火ノ神、木ノ神、水ノ神に対しても、恩恵に浴せんとする祈願的呪術は在ったけれども、これを左右せんとする支配的呪術は無かったようである。国土の精霊に対しても、又その如くであったと考えるので今は省略する。但し、巫女以外の公的呪術師が、自然を制御し、又は支配した痕跡は、極めて微弱ながらも存していたように思われる。が、これは本書の柵外に出るので、態と触れぬこととした。
第二の、神(又は精霊)を善用し、悪用し、或は是等を征服せんとした巫女の呪術に就いては、相当に多く存していたようである。一般の宗教学者が言うように、「神は理解されぬ以前に、先づ利用される」とある事実は、蓋し我国にも発見されることなのである。例えば「神武紀」の戌午の年夏四月に、神武帝が大和の孔舎衛坂に長髄彦と戦い、皇兄五瀬命流矢に傷き、王師全く進み戦うこと能わざりしときに、
天皇憂之、乃運神策於沖衿曰、今我是日神子孫、而向日征虜、此逆天道也。不若退還示弱礼祭神祇、背負日神之威、随影壓躡、如此則曾不血刃、虜必自敗(中略)。却至草香津、植盾而為雄誥焉。
とあるのは、畏きことながら神を利用して勝を制したものと拝察することが出来る。而して、「礼祭神祇」とか、「植盾為雄詰」とかあるのは、即ち「神業」であって、今から云えば呪術であって、然も此の呪術が巫女によって行われたことは疑いない(これに就いては、第七章の巫女と戦争の条を参照せられたい)。
而して神(精霊として)を悪用し、征服し、支配した呪術にあっては、「応神記」にある秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の兄弟の母の行える所作が、よくこれを説明している。曰く、
その兄なる子を恨みて、即ち伊豆志河の河島の節竹を取りて、八目の荒籠を作り、その河の石を取り、塩に合えて、その竹葉に裹み、詛言(トコヒイ)はしめけらく、此の竹葉の青むが如(ゴト)、此の竹葉の萎むが如、青み萎み、又此の塩の盈ち乾るが如(ゴト)盈ち乾よ、又此の石の沈むが如沈み臥せ。かく詛ひて、烟(カマド)の上に置かしめき。是を以て其の兄、八年の間干(カワ)き萎み病枯しき。故(カレ)その兄患ひ泣きて、その御祖(中山曰。母の意)に請へば、即ち其の詛戸(トコヒド)を返さしめき。ここに其の身本(モト)の如くに安平(タヒラ)ぎき。
とある。これは明白に神を悪用し、且つ神を征服し、支配する信仰を現わしたものであって、然もその母は家族的巫女たることを明白に示している。ただ、此の呪術に就いて考うべきことは、此の母なる者は、新羅より我国に投化せる天ノ日矛に由縁ある者なるがゆえに、此の呪術は我国固有のものか、それとも新羅より将来したものが、その何れであるかの点である。併しながら、現在の学問の程度では、両者の区別を截然と断定する手掛りが無いので、今は姑らく我国固有のものとして取り扱うこととした。
第三の、霊魂を鎮め、又は和(ナゴ)めて、自己の健康を保持増進し、又は宗族(ウカラヤカラ)の発展と幸福とを増加しようとした呪術は、我国においては太古から存していた。由来、宗教を生物心理学的に考察したクローレー(crawley)の学説として、赤松智城氏の紹介された所によると、宗教は生きんとする意志の活(はたら)きであって、此の意志は、第一は自己保存の衝動となり、これが二つに分れて、(A)防衛衝動と(B)営養衝動となり、第二は種族保存の衝動となり、これも二つに分れて、(A)生殖衝動と(B)血族養育衝動となると説いている〔一〕。此の観点に立脚して、我国古代の巫女、及び巫女の行いし呪術に就いて考説をすすめることは、極めて興味の多いことではあるが、ここには其の余裕を有していぬので差控えるとするも、兎にも角にも、我国の原始神道においても「天之益人」として生きんとする意志が、巫女を通じて、呪術の上に、多分に現れている事は、争うことの出来ぬ事実である。広義に言えば、巫女の行うた呪術は、悉く生きん(自己または宗族)が為の現れとも見られるのである。我国の古代人が、生活価値の本質として神を崇め、更に生活価値の表現として祭(その祭の基調は呪術的である)を重んじたのは、全く此の信仰に出発しているのである。猶お霊魂を鎮め和めた呪術の目的と作法とに就いては、第五章第三節の鎮魂祭の条を参照せられたい。
第四の未来を識見するとは、即ち卜占の呪術である。我国における卜占は、諾冊二尊が蛭子を儲けしとき「今吾が生めりし御子良(フサ)はず、猶天神の御所に白すべしと詔りたまひて、即ち共に参上りて、爾に天神の命以ちて、太占(フトマニ)に卜(ウラ)へて詔りたまひつらく」とあるように〔二〕、開闢の当時から存していたものであるが、此の太占は所謂鹿卜(鹿の肩骨を灼て占ふもの)であって、専ら中臣氏が掌り、鹿卜は後に亀卜と変り、中臣氏に代って卜部氏が勤めるようになったが、これは主として男覡の作業であった。「魏志」の倭人伝の一節にも、
其俗挙事行来有所云為、輙灼骨而卜、以占吉凶。
と見える如く、我が古代にあっては、殆ど事毎に太占を行うのを習礼としていたので、記・紀を始め、代々の記録にも、此の事例や作法が夥しきまでに載せてあるが、巫女が関係したことは、私の寡聞なる、纔に間接的の一例よりしか知らぬのである〔三〕。それでは巫女は一切の占術に関係せぬかと云えば、これは決して左様ではなく、種々なる占術を行うていたのである。今ここに固有時代に属するものを挙げると、その第一は琴占である。延暦の「皇大神宮儀式帳」六月条に、
以十五日夜亥時、第二御門仁御巫内人仁御琴給弖大御事(中山曰。大御命の意である)請祭弖云々。
とあるのが、それである。猶お巫女が神降ろしに呪具として琴を用いしこと、及び此の伊勢内宮の神降しの詳細に就いては、第五章第四節に述べる考えゆえ、参照を望む。第二は、片巫(志止々と称する鳥を以て占うもの)肱巫(米を用いて占うもの)であるが、これも後の機会に詳記することとして、今は保留する。
第三は、辻占(また夕占(ユウゲ)とも云う)とて、現今にもその名残りを留めているものであって、「万葉集」巻十一に「言霊(コトダマ)の八十の衢(チマタ)に夕占(ユウゲ)問ふ、占(ウラ)まさに告(ノ)れ妹(イモ)に逢はんよし」と載せ、此の外にも多くの証歌が載せてある。然るに、辻占の原義に就いては、従来の学者の間に少しも説明されていぬし、且つ此の事は後世の口寄巫女の守護神に交渉を有しているので、私の専攻する民俗学の上から略説する。由来、我が国では、溺死、焼死、縊死等の、所謂変死を遂げた者は、その凶霊が人に憑いて、病気を起させ、災厄を負わせるなど、頗る荒び疏(ウト)ぶので、是等の変死者の屍体は、普通の墓地に葬ることを許さず、屍体も洗わず、棺にも入れず、漸く簀巻か蓆包に(大抵はそのままで然も倒さま)にして、道の辻か、橋の袂に埋めるのを習俗と(琉球には十四五年前まで此の習俗があって路傍に埋め、現在でも変死者は普通の墓地へ葬らぬ)していた。これは、斯かる場所へ埋めれば、往来の人が絶えず池上を踏み固めるので、流石の凶霊も発散することが出来ぬからと考えた結果であった。而して此の凶霊が活(はたら)いて、行人の言を仮り占わせるものと信じたのが辻占の起原で、有名なる宇治の橋姫の伝説もこの思想から出たものである〔四〕。
更に辻占の作法も古くは厳かに守られていたもので、「万葉集」巻十一に「逢はなくに夕占を問ふと帑帛(ヌサ)に置く、吾が衣手は又ぞ継ぐべき」とあるのは、辻占を聴く者は自分の片袖を截って神へ供えたものである〔五〕。また後世の書物ではあるが「拾芥抄」第十九諸頌部に、問夕食歌とて、
フナトサヘ、ユウケノ神ニ、物トヘハ、道行人ヨ、ウラマサニセヨ。児女子云、持黄楊櫛、女三人、向三辻問之、又午歳女、午日問之云々。今案。三度誦此歌、作堺散米、鳴く櫛歯三度ノ後、堺内来人答ヲ、為ナシ内人ト、言語ヲ聞テハ推吉凶ヲ、云々。
とあるのも〔六〕、蓋し万葉頃の遺風を伝えたものであろう。而して後世になると、辻占を聴くは、性の男女を択ばぬようになったので、これを必ずしも巫女の所業の如く言うのは当らぬように思われるのであるが、併しその呪術の対象である岐神(フナドノカミ)が女性であり〔七〕、更に此の岐神を衢神(チマタノカミ)として斎きしものが巫女であることを知れば、元は巫女の所業と見るこそ却って穏当と信じられるのである。まだ此の外に、火占、飯占、歌占などは、共に巫女の行いしものと思うが、是等は後世に発生したものゆえ、其の時代において記述する。
猶お巫女と占術との関係に就いて一言すべきことは、前に述べた辻占にせよ、又後に記す火占、歌占にせよ、その発生当時にあっては、専ら巫女が此の事を行いしに相違ないが、その方法が極めて簡単である上に、呪力も尠く、且つ別段の修練も要せぬこととて、遂に巫女の手から離れて民衆の手に移ったものと考える。それと同時に太占(フトマニ)、石占なども、その発生期においては、或は巫女の手に在ったものが、時勢の推移と共に、巫女が男覡となり、女祝が男祝となり、女禰宜が男禰宜となったように、女性の手から男性の手に渡ったものとも考えられるのである。
〔註一〕前掲の「輓近宗教学の研究」に拠った。
〔註二〕「日本書紀」神代巻にある。
〔註三〕「釈日本紀」巻五(国史大系本)。
〔註四〕宇治の橋姫に就いては、種々なる伝説となって伝えられているが、私は辻祭の起原と同じく、変死者を橋畔に埋めた民俗に由来するものと考えている。
〔註五〕我国には「袖モギ」と称して、神を祭る折に片袖を截る民俗があった。これに就いては、拙著「土俗私考」に、各地の例を集めて論じたことがある。
〔註六〕「拾芥抄」は室町期に編纂されたものであるが、此の記事はずっと古いものと思う。猶お私の見たものは故実叢書本である。
〔註七〕岐ノ神が女性であるとは、鈴木重郷胤翁の「日本書紀伝」に詳しい考証がある。 
古代人の言霊信仰と其過程

 

言語が人類の間に発達して行くにつれ、人はこれに対して一種の威力を感ずるに至った。而して此の言語感情は、言語を善用するによって幸福を齎し、これを悪用するによって災禍を受けるものと考えさせるようになった。茲に言語の善悪が生じ、禁忌(タブー)が起り、善言は祝言または寿辞となり、悪語は忌詞となり、詛言となり、遂に言語には霊あるものと信ずる所謂言霊(コトダマ)信仰を生むようになったのである。
我が古代人が如何に言語に対して神経過敏であったか、それを証拠立てる史料は夥しきまでに存している。伊勢皇大神宮における忌詞や〔一〕、国造でありながら、用ゆべからざる言語を用いた為めに、極刑に行われんとした事件などは〔二〕、共にその一証として挙げることが出来る。殊に、民間においては、此の忌詞の禁忌(タブー)は、厳重に守られていたものと見えて、旅行の留守に遣ってならぬ忌詞とか、狩猟する折に用いるを避ける去り詞などが存し、殊に男女関係にあっては離れるとか切れるとか云う語を特に嫌ったものである。「万葉集」巻十三に、「菅の根の慇懃(ネモコロゴロ)に、吾が思へる妹によりては、言(コト)の禁(カミ)も無くありこそと、斎瓮を斎ひ掘り据ゑ、竹珠を間なく貫き垂り、天地の神祇(カミ)をぞ吾が祈(ノ)む、いとも術(スベ)なみ」とあるのは、即ちそれである。
言霊に関しては古くから説を立てた者が頗る多く、遂に原始神道を此の方面から説こうとする言霊学とも云うべきものの一派を出すようになったが、所詮は言語に霊があるものとする信仰に外ならぬのである〔三〕。而して此の言霊が文献に現われたものでは「万葉集」巻五の山上憶良の好去好来の長歌の一節に「神代より言伝(イヒツ)てけらく、空見(ソラミ)つ日本の国は、皇神の厳(イツク)しき国、言霊(コトダマ)の幸ふ国と、語り継ぎ言ひ継がひけり」とあるのや、同集巻十三に柿本人麿の長歌の反歌に「敷島の倭の国は、言霊(コトダマ)のたすくる国ぞ、まさきくありこそ」とあるのが、それである。併しながら、是等は一般的に、且つ消極的に、言霊の存在を信仰したまでであって、まだ此の言霊を呪術に利用すると云う積極的の思想は現われていないが、前に載せた同集第十一の「言霊の八十の衢に夕占問ふ、占まさに告(ノ)れ妹に逢はんよし」とあるのは、これを呪術に用いた一例であることは既記の如くである。而して斯く言霊信仰から導かれた当然の結果として、祝言と呪言との区別を生じ、前者は吉事に用いられ、後者は凶事に用いられるようになったのである。  
〔註一〕延暦の「皇大神宮儀式帳」は、仔細に内容を検討するとき、延暦よりは時代の降った頃の編纂と考えられるが、その詮索は本問に関係が少いので姑らく措くとするも、神宮の忌詞にあっては、「延喜式」にも載せてあることゆえ、先ず正しいものと見て差支ないようである。而してその忌詞は、「斎宮式」によれば、内七言、仏称中子、経称染紙、塔称阿良々岐、寺称瓦葺、僧称髪長、尼称女髪長、斎称片膳、外七言、死称奈保留、病称夜須美、哭称塩垂、血称阿世、打称撫、宍称菌、墓称壌、又別忌詞、堂称香燃、優婆塞称角筈とある。
〔註二〕「允恭紀」二年春二月の条に、闘鶏国造が皇后忍坂大中姫命がまだ入内せぬ以前に、マクナキの一語を発したために、昔日の罪を数えて死刑に行われんとし、国造の陳謝により、死を許し、姓を貶して、稲置としたことが載せてある。
〔註三〕言霊語学の発生や、沿革に就いて、茲に言うている余裕を有たぬが、雑誌「芸文」第十二年第三号に載せた佐藤鶴吉氏の「ことだま考」は、それ等に及んでいるので参照を望む。 
ノロヒ
伴信友翁は、ノロヒに定義を下して、「ノロヒとは怨みある人に禍を負ふせむと、深く一向に念(オモ)ひつめてものする所為と聞こゆ」となし、更にトゴヒとノロヒの区別を説いて「トゴヒは言霊によりてする術、ノロヒは言に云はず、念ひつめてものするなり」としている〔六〕。よく我が古代の呪術の本質を尽しているものと思う。而してノロヒの方法に就いては、「日本書紀」神代巻の一書に、
日神、新嘗きこしめす時に及至(イタ)りて、素戔嗚尊則ち新宮の御席の下に於て、陰に自ら送糞(クソマ)る。日神知ろしめさずして、径(タダ)に席の上に坐たまふ。是に由て日神体挙りて不平(ヤクサ)みたまふ。
とあるのに対し、「釈日本紀」巻七に公望の私記を引いて、
凡欲詛人之時、必有送糞其坐、若染其糞者、必有憂病、故日神染糞有病、若是古代之遺法也、今代人之欲詛人者、亦有放失者、倣此耳。
とあるのが、その徴証であるが〔七〕、如何にも原始的の呪法として納得されるのである。「神功紀」四十七年夏四月の条に、百済の使久氏等が、我国に来る途中にて、新羅に捕われし事を記して、
新羅人捕臣等、禁囹圄、経三月而欲殺、時久氏等向天而呪詛(ノロヒトコフ)之、新羅人怖其呪詛、而不殺。
とある。これは、言うまでもなく、百済のノロヒの事を記したものであるが、その方法なり、内容なりにおいては、古く我国と共通したものがあったので、かく載せたものと考えられるのである。 
カジリ
カジリと、トゴヒとは、殆んど同義のものであって、僅にその呪術の程度によって、差別するほどのものである。而して両者を形式の上より区分すれば、カジリの場合は、何か物実(モノザネ)を置き、それへ呪力を憑依せしめるものであるのに反して、トゴヒは既述の如く、専ら言霊の活用により呪術を行い、必ずしも物実を要さぬ点が両者の相違である。
「神武紀」戌午年秋九月の条に、
天皇悪之、是夜自祈而寝、夢有天神訓之曰、宜取天香山社中土、以造天平瓮八十枚、幷造厳瓮而敬天神地祇、亦為厳呪詛(イツノカシリ)、如此則虜自平伏(中略)。祭天神地祇、則於菟田川原朝原、譬如水沬而有所呪著(カジリツケ)也。
とあるのは、よくその事象を現わしている。而してカジリに就いて、伴信友翁は、
武蔵の或る田舎人、山伏の憑術行(ヨリワザシ)て、口よせと云ふ事をせる由を話せる詞に、憑(ヨリ)に立たる人に、生霊を「かじりつけて」云々。その「かじりつかれたる」人は云々といへり。又そが平常の詞に、人に対ひて只管に念ひ入たる事を言ふとて、かじりつきて云々すべいと云ひ、又た硬き物喰ふを「カジル」とも「カジリツク」とも云ひて、同詞の遣ひざまに言へり。思ひ合せて言の意を知るべし。
と説かれたのは、極めて要領を得たものである〔八〕。それから、「欽明紀」二十三年六月の条に、
是月或有譖馬飼首歌依(中略)。即収附廷尉、鞠問極切、馬飼首歌依乃揚言誓曰、虚也、非実、若是実者、必被天灾、遂困苦間伏地而死、死未経時、急灾於殿、収縛其子守石与中ョ氷、将投火中、呪曰、非吾手投、呪訖欲投火、守石之母祈請曰、投児火裏、火灾果臻、請付祝人使作神奴。
と見えている。此の記事には、文字の脱落が二ヶ所ほどあって、事由を解するに苦しむところがあるも、茲には歌依がカジリをしたと云うことだけが確実であれば、その他は姑らく措くとするも差支ないと考えたので、敢て抄録した次第である。 
言霊の神格化と巫女の位置

 

我国における一般的の呪術から言うと、太卜(フトマニ)は最も古き方法であって、然も最も重きものである。文献の示すところによれば、諾冊二尊もこれを行い、天照神の磐戸隠れにもこれを行い、天児屋根命が神事の宗源を司るというのも詮ずるに此の事が重大なる務めであった。人の世となり、鹿卜が亀卜と変り、児屋根命が卜部氏となっても、太卜の呪術的重要さは、依然として少しも渝るところがなかった。従って歴聖も大事のある毎にこれを行い、民間でも稀にはこれを行うことすら有った〔一〕。然るにこれほど重要なる太卜の呪術に、巫女が深い関係を有してゐぬのは抑々如何なる理由であろうか。
一、太卜が文献に記されるようになった頃は、覡男の勢力に巫女が圧倒された為めであるか。
二、それとも、太卜というが如き最高の呪術には、当初から巫女は交渉を有(モ)たぬのであろうか。
これに対する私の答えは、極めて簡単明瞭である。即ち巫女は初め太卜に関係し、然もこれが中心となっていたのであるが、世を代え時を経る内に、神道が固定し、呪術が洗練されて神事となり、覡男が巫女を排斥した結果として、遂にかかる文献を残したに過ぎぬと言うのである。而して私の此の答えは、太卜の主神である卜庭之神(ウラニハノカミ)──即ち太詔戸命(フトノリトノミコト)と、これに仕えた巫女の亀津比女命との考覈を試みれば、それで明白になり且つ確実になるものと信じている。
太卜を行うには、卜庭二神の太詔戸命と櫛真知命(クシマチノミコト)とを祭ることが、儀礼となっていた〔二〕。太詔戸命に就いては「釈日本紀」巻五(述義一)の太卜の条に左の如く載せてある。
太占(フトマニ)
私記曰。問○何是占哉○答。是卜之謂也。上古之時。未用亀甲。卜以鹿肩骨而用也。謂之フトマニ(中略)○亀兆伝曰。凡述亀誓。皇親神魯岐{○原/註略}神魯美命{○原/註略}荒振神者掃々平。石木草葉断其語。詔群神。吾皇御孫命者。豊葦原水穂国安平知食。天降事寄之時。誰神皇御孫尊朝之御食。夕之御食{○原/註略}長之御食。遠之御食之間{○原/註略}可仕奉。神問々賜之時。径天香山白真名鹿{一説云。白/真男鹿。}吾将仕奉。我之肩骨内抜々出。火成卜以問之。問給之時。已致火為。太詔戸(フトノリト)命進啓。{又按。持神女住天香山也。亀津比/女命。今称天津詔戸太詔戸命也。}白真鹿者。可知上国之事。何知地下之事。吾者能知上国地下天神地祇。況復人情憤悒。但手足容貌不同群神。故皇御孫命放天石座別八重雲天降坐。立御前下来也云々(国史大系本)。
此の記事を読んで、当然、導出される問題は、(一)太詔戸命とは如何なる神か、(二)太詔戸命と亀津比女との関係を如何に見るか、及び此の両神と太卜との交渉は如何なる物かと云う二点である。私はこれに就いて簡見を述べて見たいと思う。 
一 太詔戸命は言霊の神格化
私の父は大へんな平田篤胤翁の崇拝家であっただけに、草深い片田舎の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であった〔三〕。その父が生前に書き残して置いたものの中に「六月晦大祓」の祝詞の一節に「天つ菅麻(スガソ)を、本刈断(モトカリタ)ち末(スヱ)打切りて、天津祝詞(アマツノリト)の太祝詞事(フトノリトコト)を宣(ノ)れ、斯く宣らば天つ神は」云々とある「太祝詞」とは何の事か知るに由がないと云う意味が記してあった。私は深く此の事を記憶していて、爾来、本居・平田両翁の古典の研究を始め、伴信友、橘守部、鈴木重胤等の各先覚の著書を読む折には、必ず特に「太詔詞」の一句に注意を払って来たのであるけれども、私の不敏のためか、今に此の一句の正体を突き留めることが出来ぬのである。それでは、代々の先覚者には、此の事が充分に解釈されていたかと云うに、どうも左様ではなくして、多分こんな事だろう位の推し当ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位のものにしか過ぎぬのである。かく碩学宏聞の大家にあっても、正体を知ることの出来なかった太詔詞の一句、田舎親爺の父などに知れるべき筈のないのは、寧ろ当然と云うべきである。然らば、その太詔詞とは如何なる物であるか、先ず二三の用例を挙げるとする。
太詔詞の初見は「日本書紀」神代巻の一書に「使天児屋命掌其解除之太諄辞(フトノリトゴト)而宣之。」のそれで、祝詞では前掲の大祓の外にも散見しているが、重なるものを挙げれば「鎮火祭」には二ヶ所あって、前は「天下依(ヨザ)し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん」とあり、後は「和稲荒稲に至るまでに、横山のごと置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、称辞(タダヘコトヲ)竟へ奉らんと申す」とある。「道饗祭」には「神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉ると申す」とあり、「豊受宮神嘗祭」には「天照し坐す皇大神の大前に申し進(タテマツ)る、天津祝詞の太祝詞を、神主部物忌等諸(モロモロ)聞しめせと宣る」とあり、これも前に引用した「中臣寿詞」には「この玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るまで、天津祝詞の太詔詞言(フトノリトゴト)をもて宣れ」とあり、更に「万葉集」巻十七には「中臣の太祝詞言(フトノリトゴトイ)ひ祓ひ、贖(アダ)ふ命も誰がために汝(ナレ)」と載せてある。
而して是等の用例に現われたる太詔詞に対する諸先覚の考証を検討せんに、先ず賀茂真淵翁の説を略記すると「或人(中略)、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より伝われる言あるならん、と云へるはひがことなり」とて〔四〕大祓の外に別に太詔詞あることを云わず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れていぬのである。本居宣長翁は「太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の宣(ノル)此詞を指せるなり」として〔五〕、賀茂説を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うていぬ。然るに、平田篤胤翁に至っては、例の翁一流の臆断を以て、異説を試みている。
茲にその梗概を記すと、
太祝詞を天津神国津神の聞食せは、祓戸神等の受納給ひて罪穢を却ひ失ひ給う。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事乎宣礼とは何を宣る事とかせむ。
と言われたまでは卓見であるが、更に一歩をすすめて、太祝詞の正体は、
太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御伝へ坐るにて、祓戸神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天児屋命の宣給へる辞も、其なるべく所思ゆ。
とて〔六〕、遂に禊祓を太祝詞と断定したのである。鈴木重胤は平田説に示唆されて一段と発展し、伯家に伝りし大祓式に三種ノ祝詞あるを論拠として、遂に太詔詞は、
吐普加身衣身多女とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普は遠大(トホ)にて天地の底際(ソコヒ)の内を悉く取統て云なり、加身は神にて天上地下に至るまで感通らせる神を申せり、依身は能看(エミ)、多女は可給(タメ)と云ふ事にて(中略)。簡古にして能く六合を網羅(トリスベ)たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり(中略)。此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なるものなり、そは大祓の大祝詞に用ゐららるに祓給幣清給幣の語を添て申すを以て暁(サト)る可きなり云々。
と主張している〔七〕。鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、これを吐普加身云々を以て充当しようと企てられたのは、恰も平田翁がこれを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じことで、共に出典を欠いた臆説と見るべき外はないのである。
然らば太詔詞の正体はと云えば、これは永久に判然せぬものであると答えるのが尤も聡明なようである。恐らく此の神呪はこれを主掌している中臣家の口伝であったに相違ないゆえ、それが忘られた以上は永久に知る事の出来ぬものである。然るに、茲に想い起されることは、「類聚神祇本源」巻十五(此の書に就いては第一篇第二章に略述した)神道玄義篇の左の一節である。
問開天磐戸之時、有呪文歟如何、答呪文非一、秘訓唯多(中略)。又云而布瑠部由良由良止布瑠部文、此外呪文依為秘説不及悉勒、謂天神寿詞天津宮事者、皆天上神呪也。
問何故以解除詞称中臣祓哉、天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何。答以解除詞称中臣祓者、中臣氏行幸毎度奉献御麻之間有中臣祓之号云々。此外猶在秘説歟、凡謂濫觴、天児屋命{○原/註略}掌神事之宗源云々。奉天神寿詞、天村雲命者{○原/註略}捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天児屋命、天児屋命貽神術於奉仕累葉(中略)。次座仁面受秘訓莫伝外人、由縁異他相承厳明也、復次天祝太祝詞、是又有多説、此故聖徳太子奉詔撰定伊弉諾尊小戸橘之檍原解除、天児屋命解素戔鳴悪事神呪、皇孫尊降臨霊驛呪文、倭姫皇女下樋小河大祓、彼此明々也、共可以尋歟(続々群書類従「神祇部」本)。
此の記事に拠れば、太詔詞は全くの呪文であって、然もその呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名によって伝えられている事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手によって著作された此の種の文献を、決して無条件で受容れる者ではないが、兎に角に祝詞の本質が古く呪文であったこと、及び此の書の作られた南北朝頃には、まだ太詔詞なるものが存していたことなどを知るには、極めて重要なる暗示を与えるものと考えたので、かくは長々と引用した次第なのである。殊に注意しなければならぬことは、此の記事によれば、天児屋命は純然たる公的呪術師であって〔八〕、神事の宗源とは即ち呪術であることが明確に認識される点である。まだ太詔詞に就いては、記したいことが相当に残っているのであるが、それでは余りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戸命の正体に就いて筆路をすすめるとする。
伴信友翁は「太詔戸命と申すは、児屋命を称へたる一名なるべし(中略)。名に負ふ中臣の祖神に坐し、はた卜事行ふにも、神に向ひて、其の占問ふ状を祝詞する例なるにあはせて、卜庭に祭る時は、太詔戸命と称へ申せるにぞあるべき。」と考証されているが〔九〕、私に言わせると、是れは伴翁の千慮の一失であって、太詔戸命とは即ち太詔詞の言霊を神格したものと信じたいのである。畏友武田祐吉氏の研究によれば、
言霊信仰は、おのずから言語を人格神としてとり扱うに至るべきことを想像せしめる。その例として、辞代主神、一言主神の如き、言霊神ではないかと思われる。辞代主のしばしば託宣するは史伝に見ゆるところであり、一言主も亦「郷土研究」によれば〔一〇〕、よく託宣したことが見えている。善言も一言、まが言も一言と神徳を伝えたその神が、言霊の神であるべきことは想像せられ易い。
とあるのは至言であって〔一一〕、私は是等の辞代主、一言主に、更に太詔戸命を加えたいと思うのである。伴翁は太詔戸命と共に卜庭の神である櫛真知命は波々加ノ木の神格化であるとまで論究されていながら〔一二〕、何故に太詔戸命の太祝詞の神格化に言及せられなかったのであるか、私にはそれが合点されぬのである。所謂、智者の一失とは此の事であろう。前に引いた「亀兆伝」の太詔戸命の細註にも「持神女、住天香山也、亀津比女命、今称天津詔戸太詔戸命也。」となりと明記し、児屋命と別神である事を立証している〔一三〕。太詔戸命は言霊の神格化として考うべきである。 
二 太詔戸命と亀津比女命との関係
亀津比女命なる神名は、独り「亀兆伝」の細註に現れただけで、その他の神典古史には全く見えぬ神なるゆゑ、その正体を突きとめるに誠に手掛りが尠いのであるが、此の細註に神を持つ女、天ノ香山に住む、亀津比女命、今は太詔戸命と称するとある意味は、既に言霊の太詔詞が神格化されて太詔戸命となり、これに奉仕していた巫女を亀津比女命と称したのが、更に附会混糅されて亀津比女命は即ち太詔戸命であると考えられるようになったものと信ずるのである。而て斯かる例証は原始神道の信仰においては屡々逢着するところであって、少しも不思議とするに足らぬのである。
旁証として茲に一二挙げんに、原始神道の立場から云えば、畏くも天照神は日神に奉仕された最高の女性であって、決して日神その者ではなかったのである。それが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神徳が弥が上に向上されて来た結果は、天照神即日神という信仰となってしまったのである。更に豊受神にしたところが、「丹後国風土記」の逸文を徴証として稽えれば、豊受神は穀神に奉仕した女性であって、これも決して穀神その物ではなかったのである。それが伊勢の度会に遷座し、天照神の御饌神として神徳を張るようになったので、遂に豊受神即穀神とまで到達したのである。而して茲に併せ記すことは、頗る比倫を失う嫌いはあるが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子、酒見郎女の二神も、仁徳朝の掌酒であって、酒神その者ではなかったのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豊受神と同じ理由──その間に大小と高下との差違は勿論あるが、兎に角にこうした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、よく発見されることなのである。亀津比女と太詔戸命との関係も又それであって、始めは亀津比女は神を持てる女として太詔戸命に仕えていたのが、後には太詔戸命その者となってしまったのである。こう解釈してこそ両者の関係が会得されるのである。
亀津比女が巫女であった事は、改めて言うまでもないが、ただ問題として残されていることは、亀津比女の名が総てを語っているように、此の巫女は鹿卜が亀卜に変ってから太詔戸命に仕えた者か、それとも鹿卜の太古から仕えたものかと云う点である。巫女が鹿卜に与ったと云うことは、他の文献には見えていぬので、これを考証するに困難を感ずることではあるが、姑らく「亀兆伝」の記すところによれば、前掲の如く「天香山白真名鹿、吾将仕奉。我之肩骨内抜々出、火成卜以問之」とあるので、巫女は鹿卜時代からこれに交渉を有していたものと見て差支ないようである。後世の記録ではあるが、「続日本紀」宝亀三年十二月の壱岐国の卜部氏のことを記せる条に「壱岐郡人直玉主売」とあるのは、女性のように思われるので参考とすべきである。 
〔註一〕「万葉集」巻十四に「武蔵野に占(ウラ)へ肩灼き真実(マサデ)にも、告らぬ君が名卜(ウラ)に出にけり。」とあり、同巻に「大楉(オフシモト)この本山の真終極(マシバ)にも、告らぬ妹が名卜兆(カタ)に出でむかも」とあり、同巻十五雲連宅満の挽歌の一節にも「壱岐の海人の名手(ホツテ)の卜筮(ウラベ)を、肩灼きて行かむとするに」云々とある。是等は太卜の民間に行われたことを証明しているものである。
〔註二〕「本朝月令」に引ける弘仁神祇式に「卜御体、卜庭神祭二座」云々と見え、延喜四時祭式にも「卜御体卜庭神祭二座、御卜始終日祭之」と載せてある。而して此の二神は太詔戸命と櫛真知命であることは、本居翁の「古事記伝」及び伴翁の「卜正考」等に考証されている。
〔註三〕私の父は平田翁を崇拝の余り、控え屋敷へ平田翁外二翁を併せ祭った霊三柱神社という大きな社を建てて、朝夕奉仕した。従って神典古史も可なり読んでいて、郡中の神職連などは父の弟子分ともいうほどであった。私も此の父の庭訓で八九歳ごろから祝詞を読ませられたものである。拙著「日本民俗志」に收めた「男がお産の真似をする話」に載せた記事の一半は、私の体験と父の庭訓振りを書いたものである。
〔註四〕祝詞考(賀茂真淵全集本)。
〔註五〕「大祓後釈」巻下(本居宣長全集本)。
〔註六〕「天津祝詞考」及び「古史伝」に拠った。但し行文は専ら鈴木重胤翁の「祝詞講義」に要約したものに従うたのである。
〔註七〕鈴木重胤の「延喜式祝詞講義」巻十。
〔註八〕天児屋命が我国最高の公的呪術師である事を考えさせる記録は決して尠くないが、此の「類聚神祇本源」の記事は最も明確に其れを示している。勿論、僧侶の述作ではあるが、古伝説として見るときは、そこに他の記録の企て及ばざるものがある。ただ本書は一般の日本呪術史ではなし、更に日本巫覡史でもないので、ここには深くそれ等に論及せぬ事とした。
〔註九〕正卜考(伴信友全集本)。
〔註一〇〕郷土研究(第四巻第一号)にある柳田国男先生(誌上には川村杳樹の匿名となっている)の「一言主考」を指したのである。
〔註一一〕武田祐吉氏著の「神と神を祭る者との文学」から抄録した。猶お此の機会において、私は此の書を読んで種々有益なる高示に接した。謹んで武田氏に敬意を表す。
〔註一二〕「正卜考」のうちに収めた「波々加考」に拠る。
〔註一三〕伴翁は「亀兆伝」は後作であろうとの意を「正卜考」の中で述べている。或は後作であるかも知れぬが、ここには其の詮索は姑らく預り、釈紀の作られた頃には此種の信仰が事実として考えられていたのであるとして眺めたのである。 
 
王仁三郎の言う「日本魂」に還れ

 

国常立尊は、王仁三郎の筆を通じ、次のように説いている。
天地開闢の初めの世からの約束の時節が参りたから、愚図愚図致して居れんから、今の静まりて在る間に一日も早く身魂を磨いて居らんと、東の空から西の谷底へ天の火が降る事が出来致したら、俄(にわか)に栃麺棒を振ってアフンと致さなならぬようになるぞよ。それで一日も早く日本魂を磨けと申すのであるぞよ。
このように前置きし、真の日本魂とはどういうものかを朗々と説いている。
日本魂と申す物は、天地の先祖の神の精神と合わした心であるぞよ。至善至愛の大精神にして、何事にも心を配り行き届き、兇事に遭うとも大山の如く、ビクとも致さず、物質欲断ちて精神は最も安静な心であるぞよ。天を相手とし、凡人と争わず、天地万有山野海川を我の所有となし、春夏秋冬も昼も夜も暗も雨も風も雷も霜も雪も皆我が言霊の自由に為し得る魂であるぞよ。
如何なる災禍に遭うも艱苦を嘗めるも意に介せず、幸運に向かうも油断せず、生死一如にして昼夜の往来する如く、世事一切を惟神(かんながら)の大道に任せ、好みもなく恨みも為さず、義を重んじて心裏常に安静なる魂が日本魂であるぞよ。
常に心中長閑(のどか)にして、川水の流るるごとく、末に至るほど深くなりつつ自然に四海に達し、我意を起こさず、才智を頼らず、天の時に応じて神意に随って天下公共の為に活動し、万難を弛まず屈せず、無事にして善を行なうを日本魂と申すぞよ。(中略)
誠の日本魂のある人民は、其の意志(こころ)平素(つね)に内にのみ向い、自己(おのれ)の独り知る所を慎み、自己の力量才覚を人に知られん事を求めず、天地神明の道に従い交わり、神の代表となりて善言美辞を用い、光風霽月(せいげつ)の如き人格を具えて自然に光輝を放つ身魂であるぞよ。
心神常に空虚にして一点の私心無ければ、常永(とこしえ)に胸中に神国あり、何事も優れ勝りたる行動を好み、善者を喜びて友となし、劣り汚れたるを憐れみ且つ恵む、富貴を欲せず羨まず、貧賤を厭わず侮らず、只々天下の為に至善を尽くすのみに焦心す、是の至心至情は日本魂の発動であるぞよ。
天下修斎の大神業に参加するとも、決して慌てず騒がず、身魂常に洋々として大海の如く、天の空しうして鳥の飛ぶに任すが如く、海の広くして魚の踊るに従うが如き不動の神を常に養う、是れが神政成就の神業に奉仕する身魂の行動でなければならぬのであるぞよ。
凡人の見て善事と為す事にても神の法に照らして悪しき事は是れを為さず、凡人の見て悪と為す事にても神の誠の道に照らして善き事は勇みて之を遂行すべし。天意に従い大業を為さんとするものは、一疋(ぴき)の虫と雖も妄りに之を傷害せず、至仁至愛にして万有を保護し、世の乱に乗じて望を興さぬ至粋至純の精神を保つ、是れが誠の日本魂であるぞよ。
今度の二度目の天之岩戸開きの御用に立つ身魂は、是れ丈けの身魂の覚悟が無ければ到底終わりまで勤めると云う事は出来んから、毎度筆先で日本魂を磨いて下されと申して知らしてあるぞよ。(大正8年2月21日) 
 
習俗に見られる宗教観

 

習俗に見い出される日本人の宗教観について検討しておこう。
近代的ビルの屋上に祭られている鳥居、ここには近代合理主義としての科学信仰と、半ばアクセサリー化した非合理的なものの同居が見られる。また「死ねば仏」という、死者儀礼には祖霊信仰が影を宿している。
「穢れ」と「言霊」という神道的思想について、井沢元彦氏は「穢れと茶碗」において面白い考えを述べている。
氏によれば、日本人は他人が使った箸や茶碗をきたないと思うのは、「穢れ」の感覚によると言う。熱湯や洗剤でどんなに消毒してあっても、きたないと思うのである。受験生のいる家庭で「すべる」という言葉を使わないのも、言霊信仰によって、口に出したことは実現すると考えられていると指摘する。
そう言えば、テルテル坊主を軒先につるして、明日天気になあれ、と言葉をかけるのも無意識化された言霊信仰ともいえる。  
「穢れと茶碗」 評1
日本人はなぜ、自分の茶碗しか使わないのか
ここで、まず身近な物から考えてみたいと思います。一般的な日本の家庭では、食事の時に各人の使う箸と茶碗が決まっています。夫婦二人きりの家庭でも、あるいは子どもがたくさんいる家庭でも、箸と茶碗は個人の物が決まっているのが普通です。(中略)
ところが、たとえばヨーロッパでは、こんなことは絶対にありません。ナイフにせよフォークにせよ皿にせよ、みな同じ物を使います。形も同じだし、色も同じです。(中略)
一般に、欧米は個人主義の国と言われています。それに比べて日本は集団主義で、個性を尊重する機会が少ないとされています。ところが、食器に関しては、日本でははっきり個人の別が分かれているのに、逆にヨーロッパでは、分かれていないのです。
個人主義の強い欧米が個人の食器を持ち、日本人は共有するというなら話はわかりますが、話はまったく逆なのです。ですからこれはきわめて異常な現象です。
ところがさらによく観察してみますと、日本の家庭において個人の食器を決めているのは、いわゆる和食器だけです。洋食器、つまりカレーライスの皿やスープの皿については、欧米と同じで、個人ごとに特定していないことに気がつきます。これはまったく変な話です。どうして和食器に限り、個人の食器を決めなければいけないのでしょう。
たとえばこういうケースを考えてみます。たまたま娘の前に父親の茶碗が置かれていたとします。
では娘は、そのままその茶碗でご飯を食べようとするでしょうか。まずしません。では仮に、娘に対してその親が、その茶碗で食べるように命令したらどうでしょうう。よほど従順な娘ででもないかぎり、その命令は拒否するでしょう。
その場面をちょっと思い浮かべてください。その理由は何でしょう。どうして嫌なんだと親が尋ねたら、娘はどう答えるでしょう。
多分、こう答えるのではないですか。「汚ないから」。
この返事を、奇妙だと思う人は、あまりいないはずです。おそらくそういう答え方をする人が、多いと思います。しかしこれは、考えてみれば親の茶碗なのです。親の茶碗を汚いとは何ごとだと、中国あたりなら怒るかもしれませんが、日本ではそのような人はいません。もし仮に、そうした親がいたとして、では今度は私が自分の茶碗を出して、「これは私が10年間使っている茶碗です。ぜひこれでご飯を召し上がってください」といえば、拒否すると思います。無理強いすれば、怒りだすでしょう。つまりその人もまた、実は自分以外の食器は汚ないと思っているわけです。
日本人はなぜ、奇妙な民族か
はじめにも述べたように、日本人の物の考え方には、外国人と比べて、きわめて奇妙なところがあります。このことは、誰でもうすうすは感じていることに思います。しかし、正面きって、ではどこが変なのだ、どこが奇妙なのだと尋ねられても、なかなか答えられないでしょう。(中略)
それは、日本人が歴史的に物事を見ないからです。誤解を恐れずに言えば、日本人は、自分たちがどういう宗教、あるいは思想遍歴を辿って今日のような民族になったかということを、全然検証しようとしません。
それどころか、明治以降、宗教を軽視する傾向が強くなりました。(中略)アメリカ人にはアメリカ人の考え方、ロシア人にはロシア人の考え方、中国人には中国人の考え方がある。そしてそれらは、それぞれキリスト教、イスラム教、儒教といった宗教から、形成されてきたものなのです。ところが日本人だけは、そういう過去を把握することをしない。これはなぜでしょうか。
一つは、実はその日本人の信じている宗教、というよりも日本人がとらわれている原始的宗教感情の中に、「水に流す」という考え方があるためです。
つまり、すべて悪いことをは、水に流してしまえばいいと思っている。そのため、日本人は自分の成長してきた過程というものを、全然意識していないのです。しかし、それゆえにこそ、いまだに万葉時代の宗教感情にとらわれている面がある。その代表的なものが、実は「ケガレ」と「言霊」です。
こう言うと、「おれはそんなもの信じてないぞ」、あるいは「そんなものにとらわれていないぞ」という人があるかもしれませんが、私はそれは間違いだと思います。おそらく外国育ちの日本人ででもないかぎり、九九パーセントの日本人は、これに冒されている。悪い言い方をすれば、毒されていると言っていいでしょう。その「ケガレ」というものについて、少し説明します。
割り箸を使う唯一の国
割り箸という物があります。世界で割り箸、つまり一回で使い捨てる箸を使う国は、実は日本以外にはありません。箸文化圏というのがありまして、たとえば中国、韓国、あるいは台湾、香港。同じ箸文化圏であるはずなのに、ここらは一般的には洗い箸を使います。中国に旅行に行かれた方はよくご存知だと思いますが、一度使った箸をもう一度洗って、そしてまたきれいな袋などに入れて出すわけです。
もちろん最近では日本人系、あるいは日本の資本との合併レストランも増えていますので、そういうところでは割り箸を出すところもあります。しかしそれは、あくまでもその国の習慣が割り箸であるというのではなくて、日本人がそれを喜ぶからサービスとして出しているわけです。彼らの文明の中では、けっして割り箸という物は使いません。
割り箸というのは、一時、日本人のぜいたくの象徴のように言われました。環境破壊だ、こんな物を使うから、世界の森林資源がなくなるいだと。これは実は嘘です。なぜなら、割り箸というのはそもそも余材で作られるものであって、少なくともこれまでは、そのために森林資源を圧迫したりはしていないからです。
そしてこれはさらに重大なことですが、日本人がぜいたくになったから、割り箸を使うようになったのではない、ということです。
歴史的に見て、日本人が割り箸を使う習慣は、古代まで遡ります。ですから、経済の豊かさと視点では説明がつきません。つまり使い捨ては、日本人の物質的豊かさが生み出した浪費癖ではなくて、他の理由に基づくものなのです。
日本が今よりはるかに貧しかった時代。中国はもとより、朝鮮半島に比べてもどうしようもなく貧しかった時代から、日本人は使い捨てをしてきたのです。
したがって、今後割り箸の使い捨てをなくしたいと考えるなら、まず歴史を遡って、われわれがどうして使い捨てをするのか、その根底になる思想を把握して解明しなければだめなのです。解明もせずに、ただ使い捨ては浪費だからやめようと呼びかけても、なくなるはずはないのです。日本人の使い捨ては浪費ではない。いや、実態は浪費なんですけども、日本人はそれを絶対に浪費(経済的なぜいたく)とは思っていないのです。ではそれの根底にある思想は、いったい何なのでしょうか。
消毒や洗浄では、絶対に落ちない汚れ
ではこの汚ないということは、いったいどういうことなんでしょうか。当たり前のことを聞くなと言われるかもしれませんが、実は、わかっているようでわかっていないことです。そこで「汚ない」を、手元の辞書で引いてみます。『新選国語辞典』(小学館刊)によると、「一、汚れている。清潔でない。二、下品で不愉快だ。三、卑しい。醜い。四、不正だ。卑怯だ。五、けちだ。」となっています。もちろんここで言う「汚ない」は、どう考えても一です。「汚れている、清潔でない」ということです。下品だとか卑しいとか、卑怯だとかけちだではありません。
では、先ほどのシーンを、もう一度思い浮かべてください。父親が娘に対して、自分が使っている茶碗を出して、これでご飯を食べなさいと言った場合、娘は汚いと言って拒否します。
次に、ではその茶碗をかしてみろと言って、目の前で熱湯消毒をして、さまざまな消毒液を振りかけ、最終的に蒸留水で洗い紫外線でもかけて、いわゆる科学的には完璧な、それ以上はないというほどの消毒をして、さあどうぞと差し出したら、どうでしょう。あるいは私が、10年使った茶碗を、同じように消毒して差し出したらどうでしょうか。
それでも、何となく嫌だなと感じるのではないでしょうか。その何となく嫌という気分を分析すれば、やはりその底には、それでも汚ない、それだけ消毒したのはわかっているけれども、汚ないという感覚が残っていることに気がつくでしょう。問題はその感覚なのです。(中略)
仮に、ここにドイツ人やアメリカ人を連れてきたらどうでしょうか。それだけ消毒すれば、おそらくその人たちは、まったく抵抗なく使ってくれると思います。(中略)つまり日本人というのは、他の国の人が絶対に感じない汚れ、実体としてはまったくないはずの汚れを感じているのです。(中略)
ここに二膳、つまり二組の箸があるとします。一つは私が10年間使っている箸です。10年間毎食後ごとに使っている箸ですが、ただし完璧な消毒がしてある。
もう一つは、ただの割り箸です。出荷後そのままの形で、ただ紙袋に入っているだけの包装です。この二つのうち、あなたはどちらを選ぶでしょか。
日本人なら、おそらく割り箸のほうを選ぶはずです。(中略)科学的には、あくまで洗い箸のほうが、割り箸よりきれいなはずです。ところが日本人は、それとはまったく逆に、割り箸のほうがきれいと感じ、消毒されたはずの洗い箸を汚いと感じる。ですからやはりこれは、理屈抜きの感覚汚れであって、実体としての汚れではありません。
日本人における差別の根源とは
穢れというものの概念については、おわかりいただけたと思います。肝心なのは、穢れという概念は、科学的、理性的な概念ではなくて、宗教的概念であり、日本人の心の中に歴然としてある、ということです。
さて、ここから少し憂鬱な話題になりますが、日本人にはいわゆる部落差別という、世界に類のない差別があります。
ふつう世界で差別という場合、肌の色の違いとか、使っている言語の違いとか、そうしたものを基調にしているものなのですが、日本における部落差別というのは、まったく違います。差別される側が、差別する側と民族が異なるとか、目の色が違うとか、そうした要因は一切ないわけです。
こうした差別があってはいけないことはもちろんなのですが、私たちはその原因というものをやはり歴史的発展の中で探求していかなければならないと思います。歴史的に探求して、その理由を見きわめてこそ、今度はそれを克服することができるわけです。
たとえばハンセン氏病のような病気の場合、その原因が細菌のせいであり、それは完全に特効薬で克服できるということが明らかになると、差別もなくなりました。いたずらに恐れることなく、理性的に対応できるようになったからです。そうした意味からも、やはり差別の根源は何かということを、考えなければならないと思います。
日本における部落差別の根源は、もうおわかりのとおり、穢れの概念です。穢れは、科学的な概念ではありません。科学的に汚れなどないはずなのに、われわれはなんとなく汚いと感じる。これが穢れです。
日本人の差別というのは、ある意味で最も悪質なものなのです。というのは、白人が黒人を差別するとき、肌の色が黒いというような理由があります。もちろん、理由があれば差別していいということにはなりませんが、少なくともはっきりとした理由があるわけです。
ところが、日本においては、そうした理由はありません。だから外国から来た、特に牧師さんや神父さん、いわゆる宣教師の人は非常に不思議がります。「われわれ宣教師の側から見ても、差別する側とされる側の区別がまったくつかない。それなのに、なぜ日本人は差別するのか」と。
これが、科学で説明できない穢れという概念に基づくものであるということであれば、まずそこのところは理解できるかと思います。

更に著者は、日本人が昔から持っている独特の「穢れ」という概念を用いて、日本人の軍隊アレルギーについても詳細に分析している。その他「恨み」という「穢れ」は「禊(みそぎ)」によって落ちる。「禊」とは水に流す事「水に流しましょう」ということ・・・等々興味深い視点が満載だ。
穢れという感覚も、根っこは自他を過剰に区別することから発生している。人は心の安定のため、自他を区別、そして、排除し仲間を作る社会的生き物。その習性を変えることは難しい。ただ、確信をもっていえることは、多種多様な人々とふれあうことが絶対に必要だ。ふれあうことで、人は自分が持っていた差別感や偏見が、個性の違い程度のものだと、必ず気がつく。みんな”ふれあって”・・・。きっと、人生観がかわる・・・。  
「穢れと茶碗」 評2
どこの家庭でも大抵、箸と茶碗は各自用を持っている。父、母…自分のものが決まっている。例えば誰かの家に行った際、「これは父親のお茶碗とお箸だけど今日はいないから使って?」と言われたら自然と「イヤだ」と思う(現実には勧める人もまずいないだろうが)。どんなに消毒してあってもイヤな感じがある。衛生的に完璧だったとしても割り箸がいい。ナイフやフォークを各自用に使い分けている家庭はほぼ無いのに、個人使用の箸と茶碗に抱くこの不快感。
著者はこれが日本人独特の深層概念=穢れだと指摘した。「きれい・きたない」とは異なるものが無意識に存在しており、穢れは禊によって清められる。つまり「水に流す」という考えにつながるわけだが、これが日本でしか通用しない発想を生み出してきたと分析している。
日本人にとって死は穢れの世界であり(葬儀では塩で清める)、死につながるものは当然忌み嫌われた。死に結びつく血は不浄な側面を帯び、戦争自体を基本的に嫌い、それが軍隊嫌いに結びついているという日本文化の無自覚精神をあぶりだした。平和好きは結構だが、危機に対してきちんと対処できない民族の出来上がりというわけだ。確かに平安時代に直属の軍隊は廃止され、都の治安が乱れたときに設置された検非違使は「令外の官」(今でいえば法律外の公務員)であり、著者のいうように現在の自衛隊もまた軍隊という立場ではない。
著者の「現代に残る差別問題も、同じく穢れに関わる職業が一因になっており、軍隊嫌い(差別)と同根ではないのか?」という指摘はまさに盲点だ。反論や他の分析もあるだろうが、日本人の穢れ思想は今も生きており、絶対に無視できるものではない。むしろ直視すべき文化である。
「逆説の日本史」などで有名な著者が日本人の深層・本質に光を当てた本書は、日本人のまさにドーナツの穴(前々回の「現代帝王学講座」で記した“はっきりしない日本人の中心部分”の意味)を抉った。
領土問題など長年のツケが出てきた今こそ、改めて注目したい1冊だ。 
 
「舞う神」考 / 日韓民俗芸能比較研究(概要)

 

芸能から祭儀へ
本稿で用いる用語の概念を整理した上で、「祭儀から芸能へ」と言説を裏付ける事例として、「言霊信仰から祝詞へ」、「翁から神へ」について述べてから、最後には近代になって制作され広まった「浦安の舞」の民俗芸能化への路を辿ってみた。
祭儀から芸能へとう言説に対して芸能の祭儀化という過程を想定することができる。祭儀には複雑多様な所作が使われている。その構成要素が祭儀に効果を発揮するためには、それなりの意味付与が前提される。人間が普段用いている言葉を祭儀にも使われているが、普段の言葉そのままではない。その言葉に祭儀の要素として相応しい意味や価値を付与することによって、初めて力を発揮する祭儀の言葉になる。その一つが祝詞である。言霊信仰というのも、言葉が生まれる以前に言霊信仰があったわけではなく、言葉に価値や意味(力)を付与することによってこそ、はじめて言霊という思想が生じたと考えられる。
祭儀という複雑な様式が生まれる前には心理的な祈りがあり、単なる祈りに芸能的な要素が加わることによって祭儀へ発展していくという過程が想定できる。
その思想を最もよく現われているのが日本の能楽である。能勢朝次、林屋辰三郎などの先学は猿楽の根本を呪師の芸から捉えている。宗教的な祭儀から芸能への変遷という進化論的な立場をとっている。猿楽(さるごう)は散楽(さんがく)から由来したと云われている。散楽というのは周知のとおり、中国の散楽百戯に根拠をもつのである。中国の散楽百戯は滑稽的な物まねや、曲芸的なものを見せる所謂、見世物風の芸能であったのである。散楽は宗教性よりはむしろ娯楽的、見世物的なものであったが、日本に入って、日本の社会に応じて貴族社会から武士社会に変わりつつあった時代に沿って儀式化になるのである。日本の全国津々浦々に行なわれている所謂民俗芸能には古風な翁芸が見られる。一律的に言えないほどバリエーションが富む。又、人形浄瑠璃や、歌舞伎に採り入れて娯楽性を強調しながらも、初舞台や顔見世狂言などには儀式めいた三番叟が登場するのである。それを祭儀とは言えないとしても、儀式性が強調されているのは否定できない。そのような要素が取り込んだのは芸能の担い手(座)の思惑も働いたと思われるが、興行毎に繰り返すことによって、儀式化への道を歩んできたのである。地方の祭儀になると、翁三番叟が取り込まれ、祭儀の一部にもなってくる。祭儀と儀式を混同してはいけないが、単なる娯楽性のみを追求したわけではないのは確かである。
各芸能に式三番という仕組みが取り込まれている場合が多い。式三番は芸能の一部を儀式化させたものである。式三番は能の式三番に限らないが、芸能と祭儀、儀式という本質的なものを問われるに最も相応しい対象になると思われる。「祭儀から芸能へ」ではなく、その逆の「芸能から祭儀へ」という言説が成り立つのである。小論の最後には近代に入ったから制作された創作舞が民俗芸能化への過程を辿ってみた。「浦安の舞」は昭和一五年「紀元二千六百年奉祝式典」の一環として、当時内閣から依頼された多忠朝が作曲、振付して作った雅楽風の「女舞」である。雅楽というのも本来は中国大陸から伝えられたもので、最初から日本の試楽として定着したわけではない。それに試楽として、価値を付与し、それに相応しく編成したと思われる。また、周期的に反復することによって、儀式として定着されるようになったに違いない。「浦安の舞」は最初から儀式用として作られたが、激変する時代とともに一時は中止、廃止され、再び儀式化、祭儀化の路を歩みつつある。今日日本全国で多く見られる民俗芸能、神事芸能と称されるものには、時代的な偏差があるものの、「浦安の舞」が神事舞に定着する経路から、神事芸能の本質的な側面を照らし出してくれるだろう。 
 
和歌の起源  

 

今回の私の発表のテーマは、大き過ぎるように聞こえるかも知れません。しかし、私は和歌の起源の問題がいかに大きく、無尽蔵なものである事かをよく認識しているつもりです。今、日本の方々の前で、このようなテーマで発表するのは僣越かとは存じますが、私にとりまして一番興味深い点、日本文化の研究と、自分の文化経験から来る印象を重ねて、私の考えた事を述べさせて頂く機会を得て、まことに嬉しく思っております。

和歌の起源は各国の詩(ポエトリ)と同じように、大昔の神話と儀礼の時代に逆るのは云う迄もない事です。アリストテレスの言葉を借りて云うと、神話の世界は「光のように意味のエネルギーによって照らされています」。どんな文化においても、その世界がそれからの歴史、文学、エチケット等の主な文化的意識と、文化活動の源と成って来ると考えても差し支えありません。神話の世界は、どこでも構成上の類似した要素で成り立っていますが、神話の世界に源を持つ各国の文化は、それぞれ独特の姿と性格を持ち、そして、それは時代と事情の変化に応じて、前代の遺産、詩的思想、詞の転義的な使い方、昔から続く意味のエネルギーを変貌させながら、成長して行くと思われます。そして、文学もこの一般的な傾向に従って、文化の一部であり、その文化に一番ふさわしい、又は望ましいパターンを選んで、各自の営みを行なうと考えたいと思います。
ロシアの文化に属している私にとって、日本の和歌の歴史の最も珍しい特徴と云うのは、一体、そのポエトリの様々な性質が世代から世代へ、連続して伝えられてきた事です。又、その上で、フォクロア的古代歌謡や儀礼に伴う歌と和歌との多様なつながりが存在しているのも疑い無い事であると考えられます。そう云う事は一般に知られているし、多分、日本人にとって当前のことなので、あまり不思議とは思われないかも知れません。しかし、ロシアの詩は随分違った歴史を持っています。なぜかと云いますと、ロシアの詩はフォクロアの世界から文学の段階へ移動する経過が連続的と云うどころか、反対に、その形式、語彙、リズムと韻律までも根本的に変化して来ました。例を上げますと、ロシアの民謡の韻律は音節に基づいたものです。文学時代の始まりと共にロシアのポエトリはアレクサンダー詩の形式を借りて、抑揚格を持つ六つのシラブルのグループや12、又は13音節の句格をとり入れました。その新しい文学に属する詩が音節だけでなく、言葉の強弱のアクセントとの、両方に基づくように成り、更に、フォクロアの歌の特徴である、音楽的な性格をも失って行きました。フォクロアのメロスから文学のデクラメーションへの移行もまた、連続的でなく、質的に急転換して、行きました。それに対して、和歌は20世紀に入っても、歌の性格を保っています。ロシアの場合、民間伝承の歌と、文学の形式で記された詩の歴史は、二つに分けられ、違った道を辿るようになりました。その違いは、多分、和歌と自由詩との違いに等しいと云ってもよろしいでしょう。そういう理由で、私にとって和歌の古代世界とのつながりが本当に興味深く思われます。
私のこの説に対して、反論があるかも知れません。和歌の形成の過程も漢詩の影響の下に行なわれましたし、日本以外にも東洋の国々の古典的な詩は、多少、古代から近世まで、その主な性質を保持して来ました。ロシアのような、はっきりした折返点のない文学史は、日本文学以外にもあると云っても間違いありません。それはそうですけれども、私の考えでは、和歌の歴史の特長は次のようです。
1、和歌が外国文化の影響を受けた時期と、長い間孤立して発達して行った時期とがあった。
2、和歌の音節とジャンルの種類は比較的少なかったので、和歌の発達は外へ広がるのでなく、逆に、内包的になり、又、和歌の短歌としての形式にその内包性がより強化されて来ました。
そのために、和歌の細かい変化も明瞭になって来て、その上で、和歌は伝統的な日本の庭園のように、細やかな心配りの技巧を凝らした術を沢山考案して来ました。和歌は、フォクロアの世界からの多くの遺伝的要素を持ち、フォームとジャンルだけではなく、詩的な考え方も、語彙も、題も、度々「万葉集」の時代、又はその前の時代から伝わって来たものであると思われます。一般的に云えば、本歌取りと云う原則は日本文化のパターン、特異な彩りとなって、文学だけでなく、広く普遍的に観察出来る一つのカテゴリーとなると思われます。又、幸いな事に、以上の点の実例として文学以前の形から文学そのものへの過渡期の作品も現存しています。
以上の事柄を纏めて検討すると、古代の和歌の歴史は、ある程度、典型的、代表的な性格を持っており、和歌の動きと変化は文学理論上、外国の文学史の理解にも大きな役割を果しています。  

多くの場合、文学は最初の段階に、古代の神話的、儀礼的な機能と役割を相続し、その機能の大部分は文学的意識の枠の中で変わって行きます。神話的な意識の範囲で神話の世界と人間の世界は同じような本質を持つものとされています。最初の文学と人間の世界の関係は、質を変えて、同一性でなく、相似性と成って、認識論上、二重のメタフォアのように成って来ます。儀礼の際、唱える言葉は神とのコミユニケーションの方法の一つであり、自然と他界の力を動かす方法でありました。初期の和歌も度々他界に訴えかけます。
他方では、文字で記す文学の発成と共に、新しい、もう一つの世界が出来上がります。その第三の世界は文化の記憶の中に存在する全ての和歌を組み合わせたものです。全体としてこの世界も魔術的な力を持っていますので、単独の和歌はこの世界と人間の世界を連結する道具となってしまうと考えられます。
儀礼の際、歌も呪いの詞も、祝詞も人間を宇宙、他界と結びつけました。それと同じように、和歌はその第三の世界、即ち、総ての和歌の世界と連結する為に、様々な手段を作成します。例えば、すでに行われた事柄は前例として古代文、即ち、神話や、宣命、祝詞に度々出て来ます。神話的歴史の主人公は前例の言挙げなしにどんな事もする気がありませんでした。なぜかと云うと、そのような前例は形式的、法律的な根拠とされていたからです。本歌取りも純文学的な意義の外、文化論の意味で、そのような機能を持っていたと考えさせて頂きたいです。その外に、本歌取りと云うのは若干の和歌を一つのグループに組み合わせる手段の一つでした。もう一つの手段は一見では見えない方法です。これは「記紀」即ち、「古事記」や「日本書紀」とか「万葉集」には出て来ない分類ですが、文化、文学の記憶、想像の中に生きていて、聞き手の意識に自然に浮かぶ事柄と仮定させて頂きたいです。この方法は、つまり、同じ歌枕、枕詞等を使う和歌は想像的なグループとなって、和歌の、いわば、想像上の地図で一定の場所、地帯を形成すると思います。このような地帯は和歌の特殊な手段と歌詞、又、いわゆる和歌の心、題、歌詠みの名前等を軸として成り立っています。それでそう云う地帯はお互いに交叉し合って和歌の世界を組み立てています。
古代歌謡と和歌の機能の共通点は、この外にも様々です。今は文学論だけでなく、文化論上も重要な、一般的な点を選んで見たいと思います。その点を明らかにするために「古事記」「万葉集」、歌物語の文学を比較して見ましょう。
一体、「古事記」の中にどう云う場合に歌謡が書き込まれているかと云うと、求婚、結婚、男女紹介、旅行前、旅行中、死ぬ前、食事の前、秘密のメッセージを伝える際、本人たる事を証明する際、等です。これら全部が儀礼的である事は当然です。「万葉集」の編集者も和歌が詠まれた事情を十分に注意しており、歌物語の中にも散文の説明が歌をめぐって述べられています。「万葉集」と歌物語に和歌が詠まれている多くの場は「古事記」と同様である事に注目すべきでしょう。例が多いですが、ここに申し上げたいと思うのは次の通りです。
記紀歌謡にしても歌物語の和歌にしても古代韻文文学としての機能を持っています。つまり、和歌や古代歌謡は祝詞と同様に、直接話法の特別な形式です。コミュニケーションが不可能とか禁止されている状況にも使える情報の手段です。云い換えれば、特別な場合のメッセージのチャンネルです。例えば「大和物語」148段、蘆刈りの伝説詞章に、津の国の難波に住んでいた夫婦が貧乏になり、女は京に行って、貴族の妻となりました。ある日、前の夫に会いたいと思い、難波に祓えをしに行くと云って、旅に出ました。難波に残っていた前夫は前よりも貧乏に成って、蘆を背に負った姿で女の御輿の前に現われました。そう云う事情で、前の夫は、御輿に乗っている女に供の人の前で話しかける事が出来ませんでした。しかし、和歌を書き、供の人に頼んで、女に捧げました。又、「伊勢物語」では、襖の向う側にいる女に話しかける事は礼儀正しくないのですが、歌を詠む事は別で、許されています。
和歌と、散文の言葉の機能、力と可能性の違いは平安時代の文学自身も意識していました。その意識の現われはあらゆるテキストの中に発見出来ます。例えば、「大和物語」に韻文文学である歌と、散文=歌でないテキストとの違いは、はっきりと表現されています。第四段に「京のたよりあるに、近江の守、公忠の君の文をなむ、もてきたる。いとゆかしう、うれしうて、あけて見れば、よろづの事ども、かきもていきて、月日などかきておくの方にかくなん。たまくしげ二年会わぬ君が身をあけながらやはあらんと思ひし。これを見て、かぎりなくかなしくてなむ泣きける。四位にならぬよし、文のことばになくて、ただかくなんありけり」。また、第122段の終りに、「かへし、としこ、いかなれば、かつ■物を思ふらむ名残りもなくぞ我は悲しきとなむありけり。ことばもいと多くなむありけり」。歌と言葉との区別は「古事記」に遡って、崇神天皇記に、「是に大彦の命、異しと思ひて、馬を返して、童女に問ひて曰く、汝が言ひし事は、何の辞ぞと云ひき。対へて曰く、言はず。唯歌ひつるにこそ」と、あります。
有名なロシアの20世紀のフォマリスト派の一人、エイヘンバウム氏は詩と散文との関係を「間断なき丁寧な戦争」と名づけた事があります。その戦争は文学の始まりのころから行なわれていると云う事です。ちなみに申し上げますと、私の考えでは、その戦争の最も激しくて面白い戦いは「大和物語」において行なわれていました。文学の段階に入ってから初めて「大和物語」に歌物語におけるテキストが和歌だけでなく、筋道を物語る散文もテキストでありうる事を確認されています。そのため「大和物語」の作者はあらゆる手段を使っており、その歌物語は平安後期の偉大な文学作品の出現を準備した段階であったと思われます。今日は時間の関係で「大和物語」の事は省きます。古代歌謡と和歌の機能の比較に戻りますと、古代社会では歌そのものは一定の人間の印、標識、符号であって、人間の属している種族、社会における等級などを表わし、人の名前やその衣服の様に、取り除く事が出来ない性質を持っていました。例えば、「古事記」の神武天皇記の伊須氣余理比賣に求婚する場面で、仲人の大久目命が歌謡の形でその地位と権力の範囲を証言します。その場にふさわしい歌を歌ったからこそ、姫は結婚に承諾するわけです。歌物語においても和歌の力で、物語の筋道が方向を転換する場合が頻繁に起こります。又、人間のアイデンティティを確認する和歌も出ています。例えば、「「よをそむく苔の衣はただ一重かさねばつらしいざ二人ねむ」と云ひたるに、さらに少将なりけりと思ひて…」(「大和物語」)。
それで、神話的意識の名残りは色々な古典的和歌に生きていて、言葉(散文)と言霊の入っている歌の区別がその一つであり、和歌を人の独特な印として使う事も、その一つであると思われます。  

文学の世界に入ると、文化は前の機能と意味を変貌させて行きますので、神話的社会から続いて来た意味の中に、この文化に一番重要なことが文学の特徴にも成っています。日本文化は花の文化、植物の文化なので、植物は普遍的な、そして文化的なコード、暗号となって、「万葉集」の時代に入ると植物界は文学的な手段として、世界の普遍的な指標と分類の道具となります。住之江の松や、三室の杉等の神聖的な意味を持つ植物の名は空間の道標となり、季節による植物の変化は時間を計算する文学的方法となって来ます。又、時期の長さを意味する植物の名もあります。例えば、「いつ藻の花」は「何時(いつも)」に掛けて、「いつも来ませわが背子」と云う意味に使われています(「万葉集」)。
植物は神秘的な力を持ち、植物の根は地下の世界、黄泉の国に通じ、隠れている、見えない物に近づく可能性を秘めています。例えば、「万葉集」の「わが下心木の葉知るらむ」。その他、社会的、心理的状態の指標として若草、古草、夏草、「万葉集」の「君に似たる草と見しより…」、又、名のり、名のりそ、思ひ草、忘れ草、笑草等の詞は人間界の分類の制度を組立てています。
面白い事に、有名な山上憶良の旋頭歌は「萩の花尾花くずばな撫子の花女郎花又藤袴朝顔の花」はその構成で呪文のようです。少くとも、ロシア語に訳するなら、本当に神秘的な呪文となります。訳する事の出来る詞は「又」しかありませんので。日本の文化における植物と云うテーマは全く広く、無尽蔵なので、ここで全部を申上げる事が出来ません。止むを得ず、これでこのテーマは止めておきます。  

植物の問題に続いて、次に来る問題は視力です。視力と光、明るさは神話的世界では同意語であり、同じように、盲目と闇、又、不可視性(目に見えないこと)も同意語となります。視力は呪術的な力を持ち、伊邪那岐命・伊邪那美命は国生みの時に、「天の御柱と八尋殿を見立てたまひき」と云う事で、また、天皇たちが国見をする際に天皇は国土を視る事によって、混沌を防ぎ、国の安定と豊かさをもたらしています。「万葉集」の長歌に「わが大君…国見ればしも山見れば高く貴し川見ればさやけく清し…」とあります。視力は詞の呪術的な力と同様であります。また、祈年祭の祝詞にも「神魂、高御魂、生く魂、足魂……御名は白して、辭竟へまつらば、皇御孫の命の御世を手長の御世と、堅磐に常磐に齋ひまつり……四方の国を安国と平けく知らしめす…」とあります。視力と言霊はこの点でよく似ているものと思われます。
死んだ人、他界の人を見る事もタブーであり、伊邪那岐命と火遠理命は見てはいけないというタブーを犯して、妻を見たので不幸な事になったわけです。中世に見越し入道の伝説がありました。その伝説では、旅人がその入道を見ると、彼は背が大変高くなって、旅人に襲い掛かるおそろしい他界のものとなります。見越しと云う言葉の意味は深いです。伊邪那岐命と火遠理命と同じように、二つの世界の境界を越えて見る事を意味します。又、中世の屏風に描かれたその入道は一つ目で、それは元来の神話では盲目だった、と云うのは目に見えない存在だった折の痕跡で、他界に属する印です。視線の力で、ものを他界から人間の世界へ移動させ、変化させる可能性は文学の中にも名残りとして伝えられていると思います。視力でものを変貌させる事は文学では「見立て」となり、例えば、「万葉集」に、「照らす日を暗に見なして」「花と見らむ白雪」等があります。
和歌の世界における他界との関わりのもう一つは、私の考えでは、形見であると思います。形見は死んだ人や別れた人を思い出す手がかりであるようです。普通、形見は鏡、衣、衣の袖、櫛等で、そのすべては神話の世界で人の身代りとなるものであり、形見として使う事は当然と思われます。20世紀まで形見分けと云う習慣があり、死んだ人の服を親戚の中に配り、それは死んだ人の魂を配ると云う意味とされていました。形見を見ると、人の秘密を知る事が出来ます。形見を大事にし、時にはわざと将来のために形見を作る場合もありました。例えば、「会はむ日を形見にせよと手弱女の思ひみだれて縫へる衣ぞ」。そのような身に直接につける形見の他に、もっと珍しい、他界とつながっている形見の機能を果たす物があります。それはいなくなった人の視線が当たった場所であると思います。例えば、「わが宿の秋の萩咲く夕影に今の見てしか妹の姿を」(「万葉集」)。また、魔術的な力を持つ物も形見の役割を果す事が出来ます。そのような物は他界と人間の社会を結ぶ仲介物です。その中には植物(根によって下の世界と結ばれていますので)や、山(「万葉集」4367「筑波なをふりさけ見つつ妹はしぬはね」)、また、月や霞等があります。
文学において視力、視線の力は色々な風に表現されますが、ここではもう一つの場面について述べたいと思います。
旅行へ行く前に、無事で家へ帰るため、松の枝を結ぶ習慣がありました。私の考えでは、松の枝の外に、視力を使う場合もありました。例を上げますと、「万葉集」に「わが行く川の川隅の八十隅陥ちず万度かへりみしつつ」、あるいは、「この道の八十隅毎に万度かへりみすれど…」等です。八十隅に万度行なう顧みる動作の目的は、多分、無事で帰る事を祈る為であると思います。
帰ることのない旅なら、形見が正反対の機能で使われる場合もあります。例えば、斎宮が宮中から伊勢大神宮へ出発する日に、天皇は斎宮に「京の方ヘ赴きたまふな」と云って、いわゆる「別れの御櫛」を斎宮の額髪にで、請願となる天皇の言葉と共に、その櫛は永遠の別れのしるしとなりました。  

和歌の一番古い手法も神話と儀礼に直接に結びついています。これはよく知られている事で、その手法の具体的な起源に関しては、多様な日本文学者の意見が沢山あります。時々、その意見や解説は対立していると云う気がしますが、普通、そうのような手法は長い歴史を持っていて、様々な場合に用いられ、機能的に多様化して行きましたので、解説は各々手法の一定のニュアンス、場面、ある時期に重要であった機能に適応しています。今申し上げたいのは枕詞であり、その神話的機能についての文献が豊富であることです。例えば、次田潤氏によると、枕詞の発生は祝詞と結びつき、他の学者は枕詞が元々諺のタイプの地方の措辞と考えています。小西甚一氏の意見では、もともと長い表現で、言霊を動かす目的で歌の始めに置く挿入文でしたが、雅と云う中国文学のカテゴリの影響で短くなって来たと云う事です。又、ある学者は、枕詞はある時期、タブーとして取り扱われていたと考えています。
私にとって、枕詞の研究の出発点となったのは平安時代初期の歌論、後にも引用する藤原喜撰の「大和歌作式」です。この作式に喜撰の書いているのは次のようです。「凡詠■物神世異名在■此。和歌之人何不■知■此。如■先可■云也」。それから喜撰はその神世の物の名の目録を記載しています。この有名な喜撰の神世の詞の目録はその後の歌論の手本となり、源俊頼も彼の「俊頼髄脳」にちょっとした変化を加えて喜撰の目録を載せています。俊頼によると、その目録は古代の万物の別名です。すなわち、10世紀頃から枕詞と名付けたその慣用句は特別の性格を持っている詞とされて、この詞は神代に使われて、神聖的な例となり、魔術的な言霊を自然に持つ詞です。大まかに云えば、文化には言語が二つあると云う事が一般の現象です。例えば、古代ロシアではロシア語の外にいわゆる教会スラブ語があって、その詞は、古い西スラブ族の方言に基づく宗教語、聖書の言語、聖者の伝記の言語等でした。中世ヨーロッパでは地元の言葉の他に特別な機能を果すラテン語があって、あるマレーシアの民族文化には喜撰の目録と同じように、神の詞と人間の詞の分別があります。その神代の詞はグループに分けられていて、その目録は次の通りです。
若詠天時 あまのはらと云
又なかとみのと云也 若詠地時 しまのねと云
又あらがねと云
若詠日時 あかねさすと云 若詠月時 ひさかたと云
若詠海時 おしてるやと云 若詠湖時 にほてるやと云
若詠嶋時 まつねひと云 若詠礒時 ちかなみのと云
若詠浪時 ちりくらしと云 若詠海底時 わたつうみと云
若詠河時 はやたづのと云 若詠山時 あしびきと云
若詠野時 いもきのやと云 若詠岩時 よこねしまと云
若詠高峯時 あまそぎと云 若詠峯時 さちつねと云
若詠谷時 いはたねと云 若詠瀧時 しらとゆきと云
若詠神時 ちはやぶると云
又ひさしきものと云 若詠潮時 うろしまと云
若詠倭時 しきしまと云 若詠平城京時 あをによしと云
若詠臣時 かけなびくと云 若詠人時  ものゝふと云
若詠民時 いちゞゆきと云 若詠父時 たらちねと云
若詠母時 たらちめと云 若詠夫時 たまくらと云
若詠婦時 わかくさのと云 若詠夫婦時 たひのねと云
若詠男時 いはなびくと云
又せなと云 若詠女時 はしけやしと云
又わぎもこと云
若詠人形時 はらへぐさと云 若詠下人時 やまがつと云
若詠海人時 なみしなと云
又からあかにと云 若詠鏡時 ますみのいろと云
若詠髪時 むばたまと云 若詠心時 てゝのなかにと云
若詠念時 わくなみのと云 若詠枕時  しきたへのと云
若詠衣時 しろたへのと云 若詠歳時 あらたまのと云
若詠月時 しまほしのと云 若詠日時  いろかけと云…‥
この喜撰の目録は、疑いもなく、宇宙論であって、宇宙の主な要素や、その神代の名は二つずつグループに組 み合わせて、そのグループが44となります。又、詠まれるものも上の詞と下の詞二つずつグループを組み立てています。それは、天−地、日−月、海−湖、嶋−磯、浪−海底、河−山、野−岩、高峯−峯、谷−滝、神− 潮、倭−平城京、臣−人、男−女、海人−鏡、夜−夢、橋−旅、別−常、鴬−蛙、實−木、暁−京、蜘蛛−猿、雲−霧、雪−浅、新−和琴、等です。天地、男女、倭−平城京のような組合せは当然の事として聞えますが、海 人と鏡の結びつきは何でしょうか。本当に鏡が海人族の文化に関係があるかどうかは謎のままです。又、この目録によりますと、鴬と蛙の結びつきは、和歌にとって本体的なものであり、貫之の序より先にここで出て来ます。又、もう一つの謎めいた一対は神と潮で、海に関わっている神と云う意味でしょうが、どうしてこの目録に神として海の神だけが入っているのでしょうか。その目録は沢山の謎を含んでいます。
今その神代の詞に当って申上げたいと思うのは、神代の詞そのものの部分です。その記述的で、比喩的な慣用句は、一応、斎宮等に使われる忌み詞によく似ていて、その形式ではタブーみたいな表現です。けれども、タブーだったら、和歌にタブー視された詞は、その許されている代理の詞と並んでいる事は変ではないかと思われます。むしろ、そう云う慣用句と名前は癒着したパズルの部分ではないかと推定させていただきたいです。
パズルと云うと、申し上げたいと思うのは、所謂宇宙的パズルで、イニシエーション儀式の際使われるテキストと考えたいのです。そう云う文章は普通問答形式であり、その一番典型的な例はインドのヴェーダ系の Brahmodjaタイプのパズルで、謎の答えの順番は喜撰の目録のと同様に、天、地、日、月を始めとして、混沌から宇宙の成り立ちを反映しています。そう云うタイプのパズルは論理とか自分の判断力を使って解くタイプでなく、儀式に参加する人は、最初から答えを知っているはずです。知っているか知っていないかと云う事実は、イニシエーションの時に調べる事の一つで、参加者は文化のコードについて堪能であるかどうかを確認しています。「出雲風土記」の国引きの神話に豊富に出る枕詞の使い方は、その詞の特別な宇宙的力を示すもので、この扱い方の根拠の一つに成りうると思いますが、この扱い方は、無論、枕詞の起源、機能、歴史の場面の一つに過ぎません。続いて、申し上げたいと思う事は、文学世界に入ると単独の和歌だけでなく、作品の構成のレベルも神話的、儀礼的な意味を文学的な手段で表すようになって来ます。「万葉集」の題は多くの場合、「古事記」において和歌を発表する場に似ていて、境界的な事情の場面が多いです。それは男女関係、旅行の前や途中、食事(宴会)等です。同時に、勿論「万葉集」の中に歌を詠む、個人的、純文学的なきっかけもたくさん現われて来ます。
又は、「万葉集」に一見で見えない、隠されたレベルにも、儀礼と神話の世界と同様の、宇宙の統一性が再現されています。「万葉集」の第11と第12の巻を読んで見ると、その中に「物に寄せて思を陳ぶる歌」150首があります。その歌には題がなく、全部の歌が二つの部分から成り立っています。一つはいわゆる宇宙的で、歌人の周辺を描き、もう一つは歌読みの個人の情けと訴えを表わす、いわゆる叙情的な部分です。第12巻の中の、寄物として用いられる物の名を順に追って挙げると、大体次の通りです。(1)衣(きぬ)、衣(ころも)、紐、帯、(2)鏡、剣、刀、弓、絡桀(たたり)、…(細かい偏差は略します)、(3)橋、小舟、田、(4)日、月、天、日、夕、(5)山、(6)川、池、沼、江、波、滝、海、(7)雲、霧、霞、雨、(8)岩、(9)色々な植物 (42首)、(10)朝影、(11)貝、(12)鳥の種類、(13)動物=馬、鹿、(14)御鳥などです。
その巻には、前に申し上げましたように、題がありません。けれども、巻の大体が明確に整えられており、勿論、これは意識的にされた事であり、文学のかなり進歩したレベルを示しています。おおざっぱに云えば、物事を目録にするのは文化の一定の段階の特徴であり、有名なホメロスの船の列挙がその例の一つです。現代の見地から見ると論理を欠いている目録しかない事で、連想として、ルイス・ボルヘスのある短篇小説が思い出されます。ボルヘスは世界に存在している犬の目録を古代風にして、その中に大きい犬、小さい犬、走っている犬等、又は中国の紙に細い筆で描かれた犬も入っています。しかし、その時の目録は世界観を表わす方法であり、世界に意味をつける手段の一つとして、哲学的な思想の道具でした。では、一体、12巻の構成で表わす世界観はどう云う事でしょう。すぐ眼につくのは神話の世界の主な点です。他の古典文学のテキストに比べると、(1)衣組と(2)鏡、弓、刀等は「延喜式」の祝詞に数え上げられる、神に捧げる物の目録です。それは、例えば、「御衣は、明るたへ・照るたへ・和たへ・荒たへ」「進る神財は、御弓、御大刀、御鏡…」「ひめ神に御服備へ、金の麻笥・金の端…」等です。それで、その意味ではこのサイクルの始まりは神への供物の影像を表わし、神に訴える様で、王朝の祭を反映しています。その次は世界の組み立てを描いています。最初に出て来るのは高天原の日と月、天、それから天の下の世界、と云いますと、まづは水のレベルで、文字通り、水準で、(6)海、川等、それからあらゆる降水は上と下を結び付ける垂直線です。そして、(8)岩から始めて、土に出ると、植物、鳥、動物の世界が見えるように成ります。同時に、最後の部分は祭の際、神々に奉る馬、神の使いとしている鹿と眞鳥(白サギ)を含んでいる事も意味のある事と思われます。サイクルの最後の和歌は「思わぬを思ふといわば眞鳥住む卯名手の社の神し知らさむ」であって、全部のサイクルの誠意を示す宣言書のようです。それに、その150首の和歌の中に、神と云う詞はその最後の歌に初めて使われると云ってもよいかと思います。前に一回その詞が出て来ますが、その前後の詞は「神さびて巖に生ふる松」で、神としての神は、その最後の歌に初めて現れて、いわば、この卯名手の社の神は総てのサイクルの捧げ物の対象とされているのではないかと思われます。
さて、構成のレベルも神話的意識を現わす事が出来ると考えられます。 

次のテーマは和歌の起源の神話です。文学が自分の存在を自覚してから、自分の起源について考え始めます。それは当然で、早い段階の日本国家も自分の神話的起源を位置づけなければなりませんでした。そして、和歌の起源も神話風の説明を受け、神代に遡るように成ります。最初に和歌の起源の事情を記す文章は、多分、8-9世紀の歌学書、いわゆる和歌四式にあるはずです。和歌四式は漢文であり、中国の強い影響の下に書かれた作品です。然し、それにも関わらず、その中に地元、日本のメンタリティも、十分入っていると思います。中国文化なら文学の誕生が直接に、文と云う概念に結びつけられています。書かれた文字、占いの際、亀の甲羅に現われた文字、そのようなものが伝統的に文化の初めとされています。ある中国学研究者は仮定として云っているのですが、中国では言葉の成り立ちとプロト漢字、原始時代の漢字の成立が同時に行われていたそうです。ある学者は漢字の成立は言葉の発展を追い越していたと云う事まで云っていますが、それも、勿論、仮説に過ぎません。どうあろうとも、ともかく、日本文化の場合、文字でなく、聞こえる言葉が先であった事は明白であると思われます。中国で文は宇宙と共に発生します。和歌四式においての和歌の発生に対する観念はあくまでも神話的であり、具体的な神々と結び付けてあります。神話と云うものが一度限りに定められたものでなく、イデオロギーとともに変わって行きますので、その四式の中にも、そう云う変化を明瞭に見る事が出来ます。今知られている古代歌論の中で最初のものとされているのは藤原濱成の「歌経標式」で、772年頃の奈良時代後期の作品とされています。これは中国の影響が強く、和歌のスタイルや、歌病、押韻等の原則が設定されている歌論です。然し、影響と云うのはそっくりのコピーを意味するわけではなく、一見同じものでも、新しい文化に取り入れられて、その部分に成ってから、その文化においては、新しい要素と連結させるようになります。又はもっと発達した文化から何を選ぶかと云う選択そのものも、より若い文化の性格と姿によります。その姿の特徴こそ、選択を決める要因であると思われます。例えば、「歌経標式」の中に和歌の部分の区別と名前は中国風で、そのまゝ後世に伝わり、中世の歌学書にも現われます。1262年の「和歌伊呂波」にも和歌の句を頭、胸、腰、尾と表現しています。その詞は全体として、動物の像を組み立てるようです。そのような生物に近い姿は和歌と限らず、日本の古典文学に、それ以外にも出てくる考え方です。「出雲風土記」に「国之大體首震尾坤」があり、伝統的な読み下しは「くにのおおきかたちは、ひむがしをはじめとし、羊さるのかたををはりとす」とありますが、この読み下しは詳しい説明に似ています。ここに体、首と尾の意味は転義でなく、むしろ生き物の姿かたちを組み立てる言葉に近いと考えたいです。生物であるからこそ、ヤツカミヅオミツヌノ命は志羅紀の三崎に「国来--」と呼びかけて、国引きをしました。国の地方と島を生き物としている最初のテキストは「古事記」の国生みと思われます。「此の島は、身一つにして、面四つ有り。面毎に名有り。故、伊豫国は愛比賣と請ひ、讃岐国は飯依比古と請ひ、粟国は大宜都比賣と請ひ、土左国は建依別と請ふ」等です。御覧のように、この名前に男性と女性の区別がはっきりとされています。歌も生き物の一つとして、神々の創造です。したがって、中国から借りたものにも関わらず、文化の中に、いわば、重要な意味の彩り、あるいは、意味の連鎖となって来ます。
「歌経標式」と、次の三つの歌学書の権威は大きかったようです。式と云うタイトルの部分そのものも和歌四式の重要性を確認しています。これからの歌論は、大体、序、抄等と名づけますが、式なら法律全書みたいに聞こえるタイトルで、中世には「歌経標式」を濱成御言宣と云う事もありました。それで、和歌四式は最古の歌学書として、前例とされていて、その前例は神話的な性格を持っているのが当然であると思われます。
さて、その歌学書には最初に和歌を作った神の名前が上げられ、初めて、和歌の前例の事が設置されます。「歌経標式」は平安時代に、少なくとも二つの古写本として流布していました。一つは真本で、それから、平安後期にはこの真本を抄出した抄本とが共に用いられ、藤原清輔と俊成等が抄本を用いていて、定家と仙覚が真本を用いていました。
真本に、「臣濱成言。原夫歌者、所以感鬼神之幽情、慰夫人之戀心者也。……、韻者所以異於風俗之言語。長以遊之精神者也。故有龍女帰海天孫■於戀婦歌、味■昇天會者作稲威之詠。近代歌人雖長歌句、未知音韻」と書いてあり、抄本には「昔、自一橋之下男女定陰陽之義、八島之上山川分流岐の義。神明感猶寄詞於歌詠、精誡所應莫不資其謳吟。素盞烏尊之詠出編簡不朽。衣通比■之歌被管絃而猶存。」と書いてあります。さて、和歌の発生に関係がある神々の名は、纏めて云うと、伊邪那岐・伊邪那美、須佐之男、衣通姫、その他、龍女と天孫、云い換えれば、豊玉毘賣と火遠理命又は味■(味■高彦根の神)です。今迄に、その神々をめぐる神話の解釈がかなり多く、その解説と理論は時々矛盾しています。詳細は、省略したいと思いますが、珍しい事に、火遠理命を除いて、その神々の中で日向系と高天原系の神話の主な神は歌を詠んでいません。天照大御神、高御産日尊、邇邇藝尊は和歌を作りませんでした。多くの場合、前に申し上げた神の名と、その神の事を語る神話は、「記紀」の編集の前の時期にはあまり関係がなかったので、その神の所属は非常に曖昧です。仮定として、そういう分析の試みをしたいと思いますが、これは仮説に過ぎません。
大林太良氏の研究によると、伊邪那岐・伊邪那美はオセアニア系の神話の神々であり、須佐之男は出雲系、衣通姫は詠んだ和歌の内容から考えるすると、海人のような海と結びついている神と見てもよろしいようです。豊玉毘賣は海神の娘で、ワタツミは「新選姓氏録」によると、海人の先祖の神とされていました。海の王様の娘との結婚は、益田氏が書いているように、セレベスを源とする筋書きでありますのでアルタイ系の土着の神話ではないと思われます。その神話に天孫系の和歌が挿入されていますが、その理由は、多分、二つの違った神話のサイクルを結び付ける為かも知れません。それに、松前健氏の考えによると、火遠理命は元々隼人族の英雄でした。味■高彦根は大国主命の子で、出雲系の神ですが、記紀の編集の時に、大和系の神話の主人公となったと推測出来る可能性があります。
後世に和歌の神とされた住吉大明神は海神で、伊邪那岐の大祓いの時に産まれた三つの海神から成っていますので、三つの頭の竜神らしいと云う説もあります。竜神系の神話は、多分天皇族系ではないと思われます。そして、この一番最初に記された和歌の起源を物語る神話は天皇族の伝統でなく、稲作文化より、海運と、海産物に頼って生きる民族の伝統でありうるのではないかとの推測に達する事が出来ます。前に、神代の詞の目録にも神・潮と云う一対がありましたが、意味のない一対ではなさそうに思えます。
疑わしい推測から、また四式のテキストに戻りましょう。時代が変わると、初めの整えられた形式を持っている和歌の神話的作者も変わって行きます。
平安初期の藤原喜撰の「大和歌作式」へ移って見ましょう。喜撰も濱成と同じように、和歌の起源、と云うのは整理されていない古代歌謡から整えられた和歌の発生を一定の神に帰していますが、イデオロギーの変化と共にこの神は文殊師利菩薩となります。
文殊菩薩の選択は、疑いなく、偶然ではありえません。その菩薩の別名は梵語でManjughosaで、この言葉は「美しい声」と云う意味であって、もう一つの別名はVagisvara、と云うのは「言葉の主」であります。喜撰によると、「風聞、和歌自神御世傳而未定章句。隠人文殊現於聖徳御世撰字定三十一」です。その文章には濱成の取り上げた神の名は一つもありません。喜撰にとっては神代の和歌が未だ整えられていない、形式のないものであり、神代の歌は混沌の状態に近いと解釈してよいと思います。隠された菩薩が姿を現してからこそ、調和(ハーモニー)に達する可能性が出来たのです。
次の歌学書、孫姫の「和歌式」には衣通姫の名前しか出て来ません。和歌四式の最後の「石見女式」はきわめて興味深いテキストで、住吉大明神自身がその作者とされている事も珍しいですし、又、その歌学書に和歌の句、31の音節、各々、仏と神々に対応する制度が立てられていますが、今知られている「石見女式」のテキストは、多分、鎌倉時代末期の異文ですので、今はその歌論について申し上げない方が適当であると思われます。
尚、喜撰の「大和歌作式」から70年位経って、紀貫之の「古今和歌集」の序が現われました。この序文の中にも、御存知の様に、最初に歌を詠む神々の名前が出て来ますが、貫之の考え方は喜撰を無視して、和歌についての最初の歌学書と同じように、和歌の起源を菩薩でなく、神に帰しており、その神は下照姫と須佐之男の尊です。須佐之男は出雲系の神話に属していて、下照姫は大国主の娘でりて、出雲の女神と考えてよいでしょう。淑望の眞名序には下照姫の名前が出て来ませんが、須佐之男の後は「海童之女」と「天神之孫」が数え上げられています。注目すべき事に、貫之にとっては「みそもじあまりひともじ」が現われたのは「人のよとなりて、すさのをのみことよりぞ」と云うのです。「古事記」では神代が天之御中主から鵜葺草不合命までですが、10世紀のこの文人にとって神代は7代の神の時代に縮まっています。「古今集」では、初めて、和歌の起源が人間を連想させています。「古事記」に初めて人間が現われるのは出雲における須佐之男の神話の中です。そして、貫之が前の四式に出る神の中に須佐之男を選んだ理由は二つあると思います。第一には、神と並んで人間の役割を強調するためであり、第二には歌謡と和歌の一番強い伝統が天孫文化よりも、むしろ、大和国家の周辺文化の伝統から来るもので、須佐之男は「記紀」の中のあらゆる周辺文化の一番重要な神となっているわけです。歌は実際に出雲から由来しているか、海人族に遡るのかと云う問題はまだ確かに解決し難いと思います。しかし、四式によると、そのような可能性が全く無いとも云えないと思われます。
さて、今日、和歌と古代神話の世界のつながりを異なった場面を対象として検討する試みをして、和歌の起源に関して歴史的なアプローチと、神話的な考え方を少し取り上げてみました。
最後に申し上げたいと思うのは、古代の意識から、文学的、歴史的、個人的な意識に移り変わって来た日本文化は新しい性質を得て、中国の文化の影響を受けながらも、文学以前の時代からずっと神話の匂を持ち続けて来たと思われます。  
 
大鏡 (上)

 

(中略)
世継若(わか)う侍(はべ)りし時、このことのせめてあはれにかなしう侍(はべ)りしかば、大学(だいがく)の衆(しゆう)どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうの物(もの)調(てう)じて、うち具(ぐ)してまかりつつ、習ひとりて侍(はべ)りしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、皆こそ、忘れ侍(はべ)りにけれ。これはただ頗(すこぶ)る覚(おぼ)え侍(はべ)るなり』と言(い)へば、聞(き)く人々、『げにげに、いみじき好き者にも物(もの)し給(たま)ひけるかな。今の人は、さる心ありなむや』など、感じあへり。
《世継》『また、雨の降る日、うちながめ給(たま)ひて、
あめのしたかわけるほどのなければやきてし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき 
やがてかしこにて失(う)せ給(たま)へる、夜のうちに、この北野(きたの)にそこらの松を生(お)ほし給(たま)ひて、わたり住み給(たま)ふをこそは、ただ今の北野の宮と申(まう)して、現人神(あらひとがみ)に御座(おは)しますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめ給(たま)ふ。いとかしこくあがめ奉(たてまつ)り給(たま)ふめり。筑紫の御座(おは)しまし所は安楽寺(あんらくじ)と言(い)ひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などなさせ給(たま)ひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けて度々(たびたび)造らせ給(たま)ふに、円融院(ゑんゆうゐん)の御時のことなり、工(たくみ)ども、裏板(うらいた)どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出(い)でつつ、またの朝(あした)に参(まゐ)りて見るに、昨日の裏板に物(もの)のすすけて見ゆる所のありければ、梯(はし)に上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは 
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申(まう)すめりしか。かくて、このおとど、筑紫に御座(おは)しまして、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)二月二十五日に失(う)せ給(たま)ひしぞかし。御年五十九にて。
さて後(のち)七年ばかりありて、左大臣(さだいじん)時平(ときひら)のおとど、延喜(えんぎ)九年四月四日失(う)せ給(たま)ふ。御年三十九。大臣の位(くらゐ)にて十一年ぞ御座(おは)しける。本院(ほんゐん)の大臣と申(まう)す。この時平のおとどの御女(むすめ)の女御(にようご)も失(う)せ給(たま)ふ。御孫(まご)の春宮(とうぐう)も、一男八条(はちでう)の大将(だいしやう)保忠(やすただ)卿も失(う)せ給(たま)ひにきかし。この大将、八条に住み給(たま)へば、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ふほどいと遥かなるに、いかが思(おぼ)されけむ、冬は餅(もちひ)のいと大きなるをば一つ、小さきをば二つを焼きて、焼き石のやうに、御身にあてて持ち給(たま)へりけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副(くるまぞひ)に投げとらせ給(たま)ひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも、耳とどまりて人の思(おも)ひければこそ、かく言(い)ひ伝へためれ。この殿(との)ぞかし、病(やまひ)づきて、さまざま祈りし給(たま)ひ、薬師経(やくしきやう)の読経(どきやう)、枕上(まくらがみ)にてせさせ給(たま)ふに、「所謂(いはゆる)宮毘羅大将(くびらだいしやう)」とうちあげたるを、「我を『くびる』とよむなりけり」と思(おぼ)しけり。臆病(おくびやう)に、やがて絶(た)え入(い)り給(たま)へば、経の文といふ中にも、こはき物(もの)の怪(け)にとりこめられ給(たま)へる人に、げにあやしくはうちあげて侍(はべ)りかし。さるべきとはいひながら、物(もの)は折ふしの言霊(ことだま)も侍(はべ)ることなり。
その御弟(おとと)の敦忠(あつただ)の中納言も失(う)せ給(たま)ひにき。和歌の上手(じやうず)、菅絃(くわんげん)の道にもすぐれ給(たま)へりき。世にかくれ給(たま)ひて後(のち)、御遊びある折、博雅三位(ひろまさのさんみ)の、さはることありて参(まゐ)らざる時は、「今日の御遊びとどまりぬ」と、度々(たびたび)召(め)されて参(まゐ)るを見て、ふるき人々は、「世の末(すゑ)こそあはれなれ。敦忠の中納言のいますかりし折は、かかる道に、この三位、おほやけを始(はじ)め奉(たてまつ)りて、世の大事に思(おも)ひ侍(はべ)るべき物(もの)とこそ思(おも)はざりしか」とぞ宣(のたま)ひける。
先坊(せんばう)に御息所(みやすどころ)参(まゐ)り給(たま)ふこと、本院(ほんゐん)のおとどの御女(むすめ)具して三四人なり。本院のは、失(う)せ給(たま)ひにき。中将(ちゆうじやう)の御息所と聞(き)こえし、後(のち)は重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の親王の北の方にて、斎宮(さいぐう)の女御(にようご)の御母にて、そも失(う)せ給(たま)ひにき。いとやさしく御座(おは)せし。先坊を恋ひかなしび奉(たてまつ)り給(たま)ひ、大輔(たいふ)なむ、夢に見奉(たてまつ)りたると聞(き)きて、よみておくり給(たま)へる、
時の間も慰めつらむ君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき 
御返りごと、大輔、
恋しさの慰むべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば 
いま一人の御息所は、玄上(はるかみ)の宰相(さいしやう)の女にや。その後朝の使(つかひ)、敦忠(あつただ)の中納言、少将(せうしやう)にてし給(たま)ひける。宮失(う)せ給(たま)ひて後、この中納言には会(あ)ひ給(たま)へるを、かぎりなく思(おも)ひながら、いかが見給(たま)ひけむ、文範(ふみのり)の民部卿(みんぶきやう)の、播磨守(はりまのかみ)にて、殿(との)の家司(けいし)にて候(さぶら)はるるを、「我は命みじかき族(ぞう)なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞ会(あ)ひ給(たま)はむ」と宣(のたま)ひけるを、「あるまじきこと」といらへ給(たま)ひければ、「天(あま)がけりても見む。よにたがへ給(たま)はじ」など宣(のたま)ひけるが、誠(まこと)にさていまするぞかし。
ただ、この君たちの御中には、大納言(だいなごん)源昇(みなもとののぼる)の卿(きやう)の御女の腹の顕忠(あきただ)のおとどのみぞ、右大臣までなり給(たま)ふ。その位(くらゐ)にて六年御座(おは)せしかど、少し思(おぼ)すところやありけむ、出(い)でて歩(あり)き給(たま)ふにも、家内にも、大臣の作法(さほふ)をふるまひ給(たま)はず。御歩きの折は、おぼろけにて御前(ごぜん)つがひ給(たま)はず。まれまれも数少なくて、御車のしりにぞ候(さぶら)ひし。車副(くるまぞひ)四人つがはせ給(たま)はざりき。御先(みさき)も時々(ときどき)ほのかにぞ参(まゐ)りし。盥(たらひ)して御手すますことなかりき。寝殿(しんでん)の日隠(ひがくし)の間(ま)に棚(たな)をして、小桶(こをけ)に小杓(こひさご)して置かれたれば、仕丁(じちやう)、つとめてごとに、湯を持(も)て参(まゐ)りて入れければ、人してもかけさせ給(たま)はず、我(われ)出(い)で給(たま)ひて、御手づからぞすましける。御召物(めしもの)は、うるはしく御器(ごき)などにも参(まゐ)り据(す)ゑで、ただ御土器(かはらけ)にて、台などもなく、折敷(をしき)などにとり据ゑつつぞ参(まゐ)らせける。
倹約(けんやく)し給(たま)ひしに、さるべきことの折の御座と、御判所(はんしよ)とにぞ、大臣とは見え給(たま)ひし。かくもてなし給(たま)ひし故(け)にや、このおとどのみぞ、御族(ぞう)の中に、六十余りまで御座(おは)せし。四分一の家にて大饗(だいきやう)し給(たま)へる人なり。富小路(とみのこうぢ)の大臣と申(まう)す。
これよりほかの君達、皆三十余り、四十に過ぎ給(たま)はず。そのゆゑは、他(た)のことにあらず、この北野の御嘆きになむあるべき。
顕忠(あきただ)の大臣の御子、重輔(しげすけ)の右衛門佐(うゑもんのすけ)とて御座(おは)せしが御子なり、今の三井寺(みゐでら)の別当心誉僧都(べたうしんよそうづ)・山階寺(やましなでら)の権別当扶公(ごんのべたうふこう)僧都なり。この君達こそは物(もの)し給(たま)ふめれ。敦忠(あつただ)の中納言の御子あまた御座(おは)しける中に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)なにがし君(ぎみ)とかや申(ま)しし、その君出家(すけ)して往生(わうじやう)し給(たま)ひにき。その仏(ほとけ)の御子なり、石蔵(いはくら)の文慶(もんけい)僧都は。敦忠の御女子は枇杷(びは)の大納言(だいなごん)の北の方にて御座(おは)しきかし。あさましき悪事(あくじ)を申(まう)し行ひ給(たま)へりし罪により、このおとどの御末(すゑ)は御座(おは)せぬなり。さるは、大和魂(やまとだましひ)などは、いみじく御座(おは)しましたる物(もの)を。
延喜(えんぎ)の、世間の作法(さほふ)したためさせ給(たま)ひしかど、過差(くわさ)をばえしづめさせ給(たま)はざりしに、この殿(との)、制(せい)を破りたる御装束(さうぞく)の、ことのほかにめでたきをして、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひて、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふを、帝(みかど)、小蔀(こじとみ)より御覧(ごらん)じて、御気色(けしき)いとあしくならせ給(たま)ひて、職事(しきじ)を召(め)して、「世間の過差の制きびしき頃、左(ひだり)のおとどの一(いち)の人(ひと)といひながら、美麗(びれい)ことのほかにて参(まゐ)れる、便(びん)なきことなり。はやくまかり出(い)づべきよし仰(おほ)せよ」と仰(おほ)せられければ、承(うけたまは)る職事は、「いかなることにか」と怖(おそ)れ思(おも)ひけれど、参(まゐ)りて、わななくわななく、「しかじか」と申(まう)しければ、いみじくおどろき、かしこまり承(うけたまは)りて、御随身(みずいじん)の御先(みさき)参(まゐ)るも制し給(たま)ひて、急ぎまかり出(い)で給(たま)へば、御前(ごぜん)どもあやしと思(おも)ひけり。さて本院の御門(みかど)一月(ひとつき)ばかり鎖(さ)させて、御簾(みす)の外(と)にも出(い)で給(たま)はず、人などの参(まゐ)るにも、「勘当(かんだう)の重ければ」とて、会はせ給(たま)はざりしにこそ、世の過差はたひらぎたりしか。内々によく承(うけたまは)りしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝(みかど)と御心あはせさせ給(たま)へりけるとぞ。
物(もの)のをかしさをぞえ念ぜさせ給(たま)はざりける。笑ひたたせ給(たま)ひぬれば、頗(すこぶ)ることも乱れけるとか。北野と世をまつりごたせ給(たま)ふ間(あひだ)、非道(ひだう)なることを仰(おほ)せられければ、さすがにやむごとなくて、せちにし給(たま)ふことをいかがはと思(おぼ)して、「このおとどのし給(たま)ふことなれば、不便(ふびん)なりと見れど、いかがすべからむ」と嘆き給(たま)ひけるを、なにがしの史(し)が、「ことにも侍(はべ)らず。おのれ、かまへてかの御ことをとどめ侍(はべ)らむ」と申(まう)しければ、「いとあるまじきこと。いかにして」など宣(のたま)はせけるを、「ただ御覧ぜよ」とて、座につきて、こときびしく定めののしり給(たま)ふに、この史、文刺(ふんさし)に文(ふみ)挟(はさ)みて、いらなくふるまひて、このおとどに奉(たてまつ)るとて、いと高やかに鳴らして侍(はべ)りけるに、おとど文もえとらず、手わななきて、やがて笑ひて、「今日は術(ずち)なし。右(みぎ)のおとどにまかせ申(まう)す」とだに言(い)ひやり給(たま)はざりければ、それにこそ菅原(すがはら)のおとど、御心のままにまつりごち給(たま)ひけれ。
また、北野の、神にならせ給(たま)ひて、いとおそろしく神鳴(かみな)りひらめき、清涼殿(せいりやうでん)に落ちかかりぬと見えけるが、本院(ほんゐん)の大臣(おとど)、太刀(たち)を抜きさけて、「生(い)きてもわが次にこそ物(もの)し給(たま)ひしか。今日、神となり給(たま)へりとも、この世には、我に所置き給(たま)ふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりて宣(のたま)ひける。一度はしづまらせ給(たま)へりけりとぞ、世(よ)の人(ひと)、申(まう)し侍(はべ)りし。されど、それは、かの大臣(おとど)のいみじう御座(おは)するにはあらず、王威(わうゐ)のかぎりなく御座(おは)しますによりて、理非(りひ)を示させ給(たま)へるなり。

六十代 醍醐天皇 敦仁(あつひと)
次の帝(みかど)、醍醐(だいご)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、亭子(ていじ)太上法皇(だいじやうほふわう)の第一の皇子に御座(おは)します。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)胤子(いんし)と申(まう)しき。内大臣藤原(ふぢはらの)高藤(たかふぢ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、仁和元年乙巳(きのとみ)正月十八日に生まれ給(たま)ふ。寛平(くわんぴやう)五年四月十四日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年九歳。同七年正月十九日、十一歳にて御元服(げんぶく)。また同じ九年丁巳(ひのとみ)七月三日、位につかせ給(たま)ふ。御年十三。やがて今宵(こよひ)、夜(よる)の御殿(おとど)より、にはかに御かぶり奉(たてまつ)りて、さし出(い)で御座(おは)しましたりける。「御手づからわざ」と人の申(まう)すは、誠(まこと)にや。さて、世を保(たも)たせ給(たま)ふこと三十三年。この御時ぞかし、村上(むらかみ)か朱雀院(すざくゐん)かの生まれ御座(おは)しましたる御五十日(いか)の餅(もちひ)、殿上(てんじやう)に出(い)ださせ給(たま)へるに、伊衡(これひら)中将(ちゆうじやう)の和歌つかうまつり給(たま)へるは」とて、覚ゆめる。
《世継》『ひととせに今宵(こよひ)かぞふる今よりはももとせまでの月影を見む 
とよむぞかし。御返し、帝(みかど)のし御座(おは)しましけむかたじけなさよ。
いはひつる言霊(ことだま)ならばももとせの後(のち)もつきせぬ月をこそ見め
御集(ぎよしふ)など見給(たま)ふるこそ、いとなまめかしう、かくやうの方(かた)さへ御座(おは)しましける。 
 
般若心経の一節

 

故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多咒。
故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に。般若波羅蜜多の咒を説く。

「咒」は「呪」とも書き、サンスクリット語では「マントラ」といいます。「真言」と訳し、「真実のことば」のことです。「呪文」「おまじないのことば」というと、何かうさんくさい感じがしますが、インドでは「マントラ」ということばは仏教以前から使われていました。世界最古の宗教書といわれる「リグ・ヴェーダ」をはじめとする四つのヴェーダ聖典では、宗教的儀式に使われる「神歌」をマントラと呼びます。マントラの神秘力と一定の行作の効果によって必ず願いが達成されると信じられました。マントラ、すなわち「ことば」は神々をも支配する力をもつと考えられたのです。
日本語にも「言霊」ということばがあり、国語辞典を引いてみると「言葉にあると信じられた呪力」(「大辞林第二版」三省堂)と出ています。これは万葉の昔から日本人がいだいてきた一種の信仰といっていいと思いますが、現代でもことばにするとそれが実現するという考えをもっている人もおられるようです。
インド仏教の最終形態である密教では、特に仏・菩薩の力やはたらきを示す秘密のことばとして重要視します。同じような意味のことばに「陀羅尼」があります。サンスクリット語の「ダーラニー」の音写語で、「心にとどめて忘れないこと」という意味です。真言よりも長い句をいうことが多いようですが、教えの真髄で神秘的な力を有すると考えられています。「総持」とも訳されています。
マントラとダーラニーは真実そのものであり、意味を訳さずににそのまま口で唱えれば真実と合一できると考えられたのです。
「大神咒」は、サンスクリット本では「神」に当たることばはなく、「大いなる真言」となっています。玄奘は、「咒」には超人的な神のような力があると考えて、「大いなる」という意味を強調して「神」という語を入れたのでしょう。
「大明咒」の「明咒」あるいは「明」は、サンスクリット語の「ヴィドヤー」のことです。玄奘訳に先立つ鳩摩羅什(くまらじゅう)の翻訳は、「大明咒」をとって「摩訶般若波羅蜜大明呪経」としています。十二縁起の出発点、欲望・煩悩の原動力となる「無明」はこの「明」の反対概念です。
知識、学問の意味で、ヴェーダ聖典や悟りの智慧・悟りを意味する場合もあります。また、仏典では、特に神通力やさらに真言を意味します。つまり、「明」は知識や悟りの智慧を意味すると同時に超越的・神秘的な呪力をあらわします。
「無上咒」は、文字どおり「無上の真言」「この上ない真言」という意味です。
「無等等咒」は、「等しい真言に等しくない」というのですから、「般若波羅蜜多」に等しい真言に等しいものはないということで、「無比の真言」という意味です。
「虚」は、「なかみがない」「実がない」というような意味ですから、「不虚」「虚ならざる」というのは、絵空事や戯れ言ではなく、現実に影響を与える実質的な力がある、という意味になると思います。
すべての苦しみを取り除き、真実であり、実際の力があるがゆえに、般若波羅蜜は、超越的な大いなる真実のことばであり、大いなる智慧の真実の神秘的なことばであり、この上ない真実のことばであり、比べるもののない真実のことばだ、ということになります。  

アングリマーラと真言 / 「般若波羅蜜多の咒を説く」として、以下に具体的な真言が説かれます。「大神咒」「大明咒」「無上咒」「無等等咒」は、「般若波羅蜜多」をさすと同時に以下の具体的な真言を示すことになります。
ところがサンスクリット本では、上のように称讃された真言は「智慧の完成において説かれた」となっています。般若波羅蜜多において説かれたというのです。般若波羅蜜多が真言なのではなく般若波羅蜜多を行じているとき、「空」という真実を理解し、「空」にしたがって、「空」を実践する生活の中で唱える真言と理解すべきなのではないかと思います。
悟りに向かって修行する、つとめ精進するなかで理解し、納得し、うなずき、実践し、また理解・納得・うなずきがあり、再び実践し、また再度…、という不断の繰り返しのなかで、口に唱え、心にとどめて願いとしてたもつのが以下に説かれる真言なのです。
アングリマーラというお釈迦様の弟子がおりました。彼はもと「指鬘外道(しまんげどう)」と呼ばれた大悪人でした。人を殺してはその指を首飾りにしていたのです。お釈迦様に諭され弟子になりました。
このアングリマーラが道端で難産に苦しんでいる貧しい女性に出会います。どうすることもできず、あわてて帰ってきてお釈迦様に報告します。すると「私は今まで人を殺したことがない。この真実によってお産が無事にすむように、とその女性にいいなさい」といわれます。とんでもないとアグリマーラは驚きますが、戒を受け出家し、修行者として生まれ変わってから殺人を犯していないのだからこれは真実だ、とお釈迦様にいわれ、そのとおりにすると無事出産した、という話があります。
もちろんアングリマーラのことばに医療行為のような効果があるわけではありません。しかし、アングリマーラの真剣な切なる願い、祈りが通じたのでしょう。小さい子どもがころんで膝を打ったときに、母親が膝に手を当てて「痛いの痛いのとんでけー」とやると痛くなくなるということがあります。母親の愛情のこもったことばが子どもの心にとどき、痛さがやわらぐのでしょう。
真実のことばにはたしかに力があります。おまじないをしてもらうと、お金がもうかるとか、健康でいられるとかいう、いわゆる現世利益とは違う力がここにはあります。真言や陀羅尼は悟りというレヴェルまで引き上げられた、願い、祈り、誓願のことばです。
「般若波羅蜜多」や「掲帝 掲帝…」は、単なるおまじないでもなく、現世利益を願う呪術でもなく、悟りに向かって生活していくなかでの祈り・誓願ととらえるべきだと思います。 
 
「(卑彌呼)=(天照大神)説」の確からしさ 

 

さて、「(卑彌呼)=(天照大神)説」の確からしさについて、著者なりの結論を述べてみよう。
「《邪馬台国》九州説」と、「(卑彌呼)=(天照大神)説」とを結びつけ、ついでその《邪馬台国》またはその後継一族が東征して現在の天皇家の先祖になった――という説は、ほんとうにロマンにあふれており、なかなかの説得力がある。
《邪馬台国》が九州だという説も、距離を大幅に縮めて解釈すれば「魏志倭人伝」のとおりである。
(天照大神)の本名である大日靈女貴や天照大日靈女尊にしても、ヒミコ、ヒメコ、ピミコ・・・などと読めて、(卑彌呼)と共通している。
さらに「皆既日蝕」の件も迫力がある。
この説を踏み台にしたSF的な小説がたくさん書かれていることは、この説が日本人の心に響くものを持っているからであろう。
しかし、なんといっても考古学的な証拠に乏しいことが欠点である。
何人かの学者が九州の何カ所かの候補地を探訪して、ここに都をつくるのは困難だと直観した――と述べている。
また、《邪馬台国》の場所が一箇所に限定されず、人によってまちまちな意見が出されていることもいまいち信じがたい理由である。
「大和説」の場合には、多くの説のほとんどが現在の狭い意味での《大和》の地になるのだが、「九州説」では、まちまちなのである。
さらに、東征の結果が神武天皇なのか崇神天皇なのかあるいは(神功皇后)なのか、はたまた應神天皇なのかも、論ずる人によってまちまちである。
それから大もとに戻って、図4・3のような古い地図から考えた「魏志倭人伝」の解釈とも、結びつきにくいものである。
日蝕の問題にしても、計算が合っているとしてもその効果は意外に薄いのではないかと考えられる。
ちょっと天気が変だな――というていどで過ぎてしまうかもしれない。
(卑彌呼)の時代以後にも日蝕は何回もあったのだが、それで大騒乱が生じたという伝承は「記紀」にも他の史書にも見られない。
また「魏志倭人伝」の(卑彌呼)の死のところにも、天体変異の話はまったく無い。
したがって著者としては、この説はロマンとしては面白いし、われわれの想像をかき立ててくれるものではあるが、今後そうとうな考古学的証拠(科学的証拠)が出てこないと、にわかには信じがたい――と考えている。
吉野ヶ里遺跡や鏡の発掘ていどでは、大和にも同種のものがたくさんあるから、それだけでは科学的根拠にはならないであろう。
《大和》をはるかに上まわる新たな考古学的発見のみが、このロマンにあふれた説を支持するであろう。
もちろん、間接的な関係は、あってもおかしくない。
両者が別の事象だったとしても、伝説ができる過程で影響しあったことは、じゅうぶんに考えられるからである。
天橋立を参道とする《元伊勢籠神社》は、日本でもっとも重要な神社の一つです。
日本の古代史の謎を解くカギを握っている神社だといっても過言ではありますまい。
それは、(天照大神)のご神体「八咫鏡」を《大和》の土地の外に奉斎した最初の神社である(*1)――という事からも言えますし、(卑彌呼)の謎(および(饒速日命)の謎や(神功皇后)の謎)の解明につながると思われる「勘注系図/海部氏系図」(国宝)を伝世した神社であることからも言えるでしょう。
その《元伊勢籠神社》の宮司家は、天皇家についで日本でもっとも古い家系として知られており、現在の海部光彦宮司さまは、なんと第八十二代になられます。
その遠祖は記紀神話にまで溯り、出雲大社の千家さまと並ぶ驚くべき家系なのです。
その《元伊勢籠神社》の海部光彦宮司さまから、「卑弥呼と日本書紀」に対しまして、下のような心温まる推薦のお言葉を頂戴いたしましたので、ここにご紹介させていただきます。
(*1 現在の伊勢神宮よりも前に「八咫鏡」が祀られましたので、「元伊勢」を前につけて《元伊勢籠神社》と呼ばれます)
「邪馬台国論争の第二幕を先導する好著」元伊勢籠神社八十二代宮司 海部光彦
かつて日本古代史研究が国家的規制のはざまをさまよっていたが、終戦を契機としてそのタブーが漸く解放された。中でも新進豪腕の推理作家松本清張が、昭和三十年代に意欲作「陸行水行」をあらわして、その中で象牙の塔内に専断されていた邪馬台国論争を、今こそ天下のアマチュアに解放すべきであると、高々とのろしを打ちあげた。以来周知の如くこの論争は百家争鳴の観を呈し、功名心にはやるつわもの達が語呂あわせやパズルの謎解きに、フィクションと見紛うような手法をも加味して汗牛充棟の書をなしたのであるが、かえって邪馬台国論争はいよいよ八幡の藪知らずに迷いこんで、心ある人士の敬遠するところとなった。それから今日までいくそばくの月日を閲したであろうか。歴史解禁の終戦から六〇年近くもたった今、突如、光通信の権威で、工学博士の肩書を持つ在野の異色史家○○氏によって、「卑弥呼と日本書紀」と銘打った目のさめるような大著が公刊された。六〇〇頁二段組の重厚な本を開くと、この論争に必要なあらゆる基礎的な項目が極めてやさしい文章で整然と網羅され、読者はコンピューター論理できたえられた著者の、知のメモリーの玉手箱を次々にあけてゆくようなぞくぞくした興味で、つい読み進んでしまう魅力に満ちている。又今までの論争が、位置、所在論に終始していたのに、○○氏は邪馬台国の内面を神祭りの巫女名まで解析して、古代建国の意義論にまで踏みこんでいる。これ程の啓蒙的な力作が戦後の論争の早期に若し出ておれば、邪馬台国論争の流れはだいぶん変わっていたのではないかとさえ思われる。私自身、二千年余続いた家系で国宝史料を持つ身として、本書の出現に天意を感じ、平和ボケしたと云われる日本人の起死回生の妙薬の一つになる事を祈るものである。

たいへん有り難い推薦のお言葉でして、恐懼感激いたしました。また海部光彦さまは、貴重な数種類の文献をお送りくださったのみならず、《元伊勢籠神社》の社務所に「卑弥呼と日本書紀」を置いて頒布を図ってくださっておりまして、さらに感激です。過日、神道にお詳しい備中處士さまが《元伊勢籠神社》に参拝なさったおり、それをご覧になって驚かれたそうです。
「天の真名井の水とマナの言霊の神秘に就いて」元伊勢籠神社八十二代宮司 海部光彦
当神社の奥宮の境域は古来真名井原と呼ばれています。そこに悠遠の神代から豊受大神が海部宮司家の大氏神として祀られ、更に崇神朝には倭(やまと)から幽契(かくれたるちぎり)に依って天照大神がお遷りになって、両大神を同殿に祀って吉佐宮と称しました。
ヨサとは天吉葛(あめのよさずら)の省略で天然自生のひょうたんを意味し、これは神に水を捧げる器として古代には最も大事にされました。さてそのお水ですが、本宮に祀られている彦火明命(ひこほあかりのみこと)(天照大神の御孫で、海部宮司家の祖神)の御孫(三代目)である天叢雲命(あめのむらくものみこと)が、地上から天上の至高聖所である高天原に参い上がって、天祖のおつかいになる神水を琥珀(黄金)の鉢に入れて地上に降り、それを奥宮真名井原に湧く泉に和した(合わせた)のが天の真名井の水で、一に天地根源真名井の水とも呼ばれました。このように神秘に包まれているマナ井に、もう一つ逸してはならない伝承があります。それは天照大御神と御弟の須佐之男命が、高天原の天安河の最も聖域である即ち天の真名井を挟んで、誓(うけ)ひ(神の前で二者が物事の正邪を占う行為)を行い、真名井の息吹の狭霧――聖なる水気を媒介として皇統を嗣がれる五男三女神が誕生された事です。この五男神の内の最初の長男神の又ご長男が彦火明命に当たります。
こうして当神社の奥宮のある真名井原は、天上の聖域真名井の地上の雛形であると代々伝えられて来ました。全国に真名井の地名は十数カ所ありますが、伊勢神宮の故地としての真名井原の地名は当宮のみです。
そうして神代(最古代)から真名井原の祭祀を司って来たのは、誠に恐れ多い事ながら、天照大御神の血脈につながる海部(あまべ)宮司家が、現存最古の国宝海部氏系図に裏づけされるように、現代まで直系八十二代にわたってその伝統を守って参りました。
そて茲でマナ井信仰の頭の音である“マナ”について、世界的な流れを概観してみたいと思います。そもそも“マナ”とはメラネシアの土語で、「打ち勝つ」「勢力ある」などの意味で、未開社会の宗教における、非人格的な神秘的・超自然的力を指し、人間・霊魂・動植物・無生物にこもり、移転性と伝染性を特色としています。又マナはいかなる物にも固着せず、ほとんどあらゆる物に伝えられる性質を有し、それ自体としては非人格的でありながら、常にそれを支配する人格と結びついていると云われます。その範囲は南太平洋の島々で、パプア・ニューギニア、ソロモン諸島、ニューカレドニア等となっています。
次に“マナ”の最も有名な事例を眺めてみる事にします。それは今迄信仰の書として重んじられ、更に現下歴史書としても注目されて来ている、旧約聖書の出エジプト記第十六章に出ている“マナ”です。そこでは昔イスラエル民族を霊的指導者モーゼが率いて、荒野をさまよって民が飢えて時、天からマナと云う白い液状のものが降って飢えをしのいだと云う奇跡が語られています。
次にユダヤの三種の神器と云うものがあります。これに先立って我々大和民族にとって皇統のシンボルであり、根源の霊的遺伝子とされる三種の神器は、申すまでもなく「八咫鏡・八坂瓊勾玉・天叢雲剱」であります。一方イスラエルのそれは、「モーゼの十戒石・マナの壺・アロンの杖」の三種と云われます。この内、マナの壺に入っているマナは、当神社の奥宮真名井原に古代に湧いていた天の真名井の水の訓とたまたま同音であり、又飲料として、食物としての或る種の共通性があるかも知れません。
今より三〇年位前から、ユダヤの十部族の内の一部族が古代に日本列島に来ているのではないかと考える一団の熱心な考古者が増え始め、当神社にもその方々が沢山押し寄せ、真名井とマナとの発音の関連性に就いて随分質問されましたが、所詮偶然の一致と答える外はありませんでした。唯、日本の古代に於いて奈良の正倉院にオリエント(古代東方)の目もあやな工芸品がシルクロードを経て伝来していますように、日本の縄文時代末期から弥生時代にかけて、古代世界の優秀な文化が太陽崇拝と東方憧憬の大潮流に乗って、極東の小島日本に東遷し、或いは漂着したのではないでしょうか。当神社の至宝である、前漢(紀元前)と後漢(紀元直後)の伝世鏡二面(*2)は、黎明日本の活きた証拠と申してもよいかと存じます。何れにしても限りなく懐の深い日本古代の神秘は、物質ぼけと技術ぼけの日本と世界に対して、不世出の哲人アインシュタインが、・・・世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は感謝する。我々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを・・・との遺言が、雷の鳴り響くように、強く迫って来る日を確信するものであります。
(*2 この二面の古代鏡は、まさに奇跡の伝世鏡と言えます。紀元前の鏡そのものは、いくつかの遺跡から発掘されていて、日本列島が紀元前後から大陸と交流のあったことを示していますが、遺跡ではなく神社に代々大切に保存されてきたものは、他に類例が無いと思います。恐ろしいまでの長期にわたって同じ神社に奉斎されてきたのです。)  
 
本来の皇祖神・太陽神は「タカミムスビ」

 

伊勢のアマテル神が皇祖の太陽神となった経緯は以上の通りですが、天皇家の祖先神が太陽と無関係であったかというとそんなことはなく、古来より太陽神が祀られてきました。その神が「タカミムスヒ」です。これについては歴史学者の溝口睦子氏が著した『アマテラスの誕生』(岩波新書)で論証されていますので、以下概要を紹介します。
天皇家の本当の祖先神は、このタカミムスヒです。まずこのことから見て行きましょう。
『日本書紀』神代下第九段「天孫降臨」条本文に次の記述が見られます。
「皇祖(みおや)高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、特に、憐愛(うつくしび)を鍾(あつ)めて、崇め養(ひだ)したまふ」
我国の正史とされる『日本書紀』本文において、タカミムスヒは「皇祖」とされています。これは疑いようのない事実で、皇祖神はアマテラスではなくタカミムスヒなのです。タカミムスヒは、『古事記』においては「アメノミナカヌシ」「カミムスヒ」と共に造化三神の一柱として登場します。
そして『日本書紀』神武天皇即位前紀「神武東征」条には、こう記されています。
「昔我が天神(あまつかみ)、高皇産霊尊・大日霎尊、此の豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)を挙(こぞ)りて、我が天祖彦火瓊瓊杵尊(あまつみおやひこほのににぎのみこと)に授けたまへり」
ここでは、タカミムスヒがオオヒルメ(アマテラス)と共にニニギに国を授けた記されています。タカミムスヒが先に書かれていますから、序列から言うとアマテラスよりタカミムスヒの方が上位にあることは明らかです。
これに対して『古事記』では、天孫降臨の場面ではアマテラスが主神となっていますが、アマテラスが登場する八箇所の内、七箇所においてタカミムスヒの名前が併記されています。タカミムスヒの名を落とすことはできなかったことが見て取れ、この神にアマテラスと同等の権威が付与されていたことが判ります。
皇祖神がタカミムスヒであることは、宮廷の祭りである「月次祭(つきなみのまつり)」を見ても明らかです。この月次祭は古代より六月と一二月に行なわれていた国家的祭祀で、天皇親祭で執り行われました。「月次祭」ですから、かつては毎月行なわれていたのではないかと国学者の本居宣長は述べています。
月次祭は朝廷の百官が参集して行なわれ、天皇親祭のものとしては外に新嘗祭(にいなめさい)があるだけです。朝廷にとっていかに重要なお祭りであったかが窺われます。
月次祭で読み上げられる祝詞の冒頭の部分は、次の通りです。
高天原に神留り坐す皇睦神漏伎命・神漏弥命以て、天社国社と称辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、今年の六月の月次の幣帛を、〔十二月には今年の六月の月次の幣帛と云へ〕明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉りて、朝日の豊栄登に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。
大御巫の辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮売・御膳都神・辞代主と御名は白して、辞竟へ奉らくは、皇御孫命の御世を、手長の御世と、堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉るが故に、皇吾睦神漏伎命・神漏弥命と、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。
最初の「神漏伎命・神漏弥命」は「カムロギノミコト・カムロミノミコト」と読み、現代の神道ではタカミムスヒと天照大神と解釈されていますが、『古語拾遺』ではタカミムスヒとカミムスヒだとしています。前に見たように天照大神は比較的新しい神格ですから、ここはタカミムスヒとカミムスヒとするのが正しいと思われます。
重要なのは「皇睦神漏伎命」とされていることで、タカミムスヒが皇祖神として扱われていることが判ります。
そして、その次の段に出て来る「神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮売・御膳都神・辞代主」は、宮中の八神殿に祀られている神々です。溝口睦子氏は、『古語拾遺』の記述に従って「高御魂(タカミムスビ)」を先頭に持ってきて、これで皇祖神の論拠としていますが、これら宮中八神は神道学者の今泉定助氏が指摘している通り、鎮魂の諸階梯を示しているとするのが正しい見方です。つまり、境地を表すのに八つの神名を借りたまでの話で、これを実体のある神々と見るのは無理があります。その証拠に、「生魂・足魂・玉留魂」などという神は存在しません。
この月次祭祝詞の後半に、「辞別きて、伊勢に坐す天照大御神の大前に白さく」という言葉が出て来ますが、この件りは内容・形式とも他の箇所とは異なっており、後世に付加したのではないかと疑われています。天照大神が本来の皇祖神であればもっと初めの方に出てくる筈ですから、元々はなかったと見るのが正しいようです。
月次祭のような重要な祭祀が行なわれるときは、全国の有力社に幣帛(神への供物)が献じられました。その順番は、タカミムスヒなど宮中に祀られている神々が最初で、次に山城・大和など畿内にある社へ献じられ、その後で伊勢神宮へ奉幣されました。伊勢神宮がそれほど重視されていなかったことは明らかであり、タカミムスヒが皇祖神であったことがこうしたところにも現れています。
さて、タカミムスヒが太陽神であるかどうかですが、記紀においてアマテラスと共に登場することが多く、同じ性格の神であることを示しています。また、御神名自体が太陽神であることを表しています。
タカミムスヒの「タカ」と「ミ」は、それぞれ「高」と「御」という美称であり、「高く尊い」という意味です。するとこの神の本質は、「ムスヒ」にあることになります。ムスヒは「ムス」と「ヒ」に分れ、「ムス」は「ヒ」にかかる形容語で、「生成」「生産」を意味する言葉であろうと諸説一致しています。問題は「ヒ」の方です。
「ヒ」には、これを「霊力」と見る説と「日(太陽)」とする説の二つがあるとされています。溝口睦子氏は、両説を検討した上で「ヒ」=「太陽」説を支持しています。しかし我国の言霊では、「ヒ」は「日」であり「霊」でもありますから、どちらか一方に限定してしまうと言葉の持つ奥行きが失われてしまいます。太陽には万物を生成する力があり、古代の日本人はこれを「ヒ」という一言で表したのです。
古文献には、「天照高彌牟須比命」や「天照御魂神」といった御神名が見え、これらは「アマテル(アマテラス)タカミムスヒノミコト」「アマテルミムスヒノカミ」と読みます。「天照」は太陽や月にしか使われない形容語ですから、この点からも「ムスヒ」は太陽神であることが裏付けられます。
前にも出て来た日奉部(ひまつりべ)を中央で統括していたのが日奉連(ひまつりのむらじ)ですが、この氏族はタカミムスヒを先祖神としています。太陽を祀っていた氏族の祖先神はやはり太陽神ということになりましょう。天皇家は古来、皇祖のタカミムスヒを太陽神として祀ってきたのです。
このタカミムスヒは外来の神と考えられているようですが、我国のような形で祀られてきたケースは外にありませんから、独自の神格と見なしてよいでしょう。タカミムスヒは太陽神ですが、皇祖神なので人格神でもあります。異端とされる宮下文書(富士文献)では、タカミムスヒを始めとする造化三神は実在の人物とされています。恐らく太陽のように優れた霊格と人徳を備えていたのでしょう。
皇大神宮に参拝すると天照大神の和魂を拝むことになりますが、その実体ははっきりしません。『倭姫命世紀』が記すように月天子かもしれません。しかし皇祖神は本来タカミムスヒだったのですから、タカミムスヒに祈念してもきっと通じることでしょう。日本人はおおらかですから御祭神のことまで考えませんが、対象をはっきりとさせた方が祈願が通りやすいことも事実です。そういう場合は、太陽神であるタカミムスヒを意識してお祈りすればよいでしょう。  
 
重層化する日本の美意識  

 

日本という文化圏が存在するという前提のもとに考察した日本文化における美意識の特色についての試論(私論)です。日本の文化は、明瞭な地層(レイヤー)を成していて、かつ、その古いレイヤを現在まで連綿と良く残していると特徴づけています。
日本文化の成層性
岡倉天心は日本文化を海の波打ち際に喩えましたが、一般的に文化は、いずれの文化でも必ずといって良いほど、その歴史において他の文化との交流・融合あるいは衝突を経ながら、変遷を遂げてきているといえます。特に日本文化は、例えば中国文化など海外文化と積極的に交流した時代と、逆に交流を断ち国風文化を成熟させた時代(鎖国ということもこの中に含まれます。)の、大きく2つを両端として、その間を振り子のように振れながら、変遷を辿ってきたものと特徴づけることができると考えられます。
そして、そうした「振れ」(注)の中で、日本文化は、他の文化に比べて明瞭な地層=レイヤーを形成してきたといえます。これはあたかも日本の変化に富んだ四季によって、樹木の年輪が形成されることにも酷似しています。なお、もちろん、この文化の地層は、下層レイヤーほど時代が遡るわけですが、下層レイヤーほど、周囲の文化の影響を受けにくく、また、時間的にも変化しにくいレイヤーであることは容易に想像されます。
(注)ちなみに、「振れ」という大きな繰り返しの中に、相似的(フラクタル図形的)に「ゆらぎ」という小さな繰り返しが存在すると私は考えています。
また、この日本の文化のレイヤーは、古層が無くなったり、崩れたりせずに極めてくっきりとレイヤーになって残っており、かつ、あたかも崖の切り通しのように、いわば断層が表面にむき出しになって鮮やかに表れていると比喩できます。これに対し、欧米の地層は、古層の多くの部分が土壌流出してしまい、その上に新しいレイヤーだけが堆積している、または、古い地層が見えにくいという構造になっているというふうに対比することができると思います。なお、同様な趣旨の記述が以下の著作の中にありますので列挙してみました。
○ 小泉文夫氏著「歌謡曲の構造」/「日本人というのはアパートみたいにいくつもの層になって住んでいますけれども、第一階の人というか、いちばん古い層はポリネシアにいちばん近いですね。・・・そこへ後から騎馬民族だのなんだのといってユーラシアの連中が飛び込んでくる。・・・さらにその上に上海とか中国のどまん中から来た勢力が乗っています。そういうふうに、日本人の音楽文化だけ調べても、いちばん古いところは南方、その次は北方アジア、その次は中国、朝鮮の系統というようにいくつもの層が考えられるわけです。」
○ 佐藤良明氏著「J−POP進化論」では、「うた」のボディにおける「頭、胸、腹、腰」というアナロジーを用いてこのことを表象しています。
○ 司馬遼太郎氏は、「この国のかたち」(文春文庫)等においては、日本という国は古い文化を捨てずにそのまま残していることが多い、記録好きであるという趣旨のことを述べています。
○ 井沢元彦氏が「逆説の日本史」などの中で唱えている言説ですが、日本には「言霊」、「怨霊」や「けがれ」という考えが今も連綿と残っているというもので、このオカルティックとも思える観念によって日本の歴史は動かされてきたというもの。こういった観念も、原始社会に見られる古いタイプの信仰、迷信であって、日本には古い層がそのまま連綿として生き残っている証左の一例だと私は考えています。
○ 高階秀爾「日本美術を見る眼:東と西の出会い」/わが国においては、「革新」はつねに外部からやって来る。それは当然、異質な化学物質の接触のように、激しいエネルギーの燃焼と混乱をもたらすが、その動揺が収まって見れば、新しいものがひとつ「外から」加えられたという結果に終わる。もちろん、それによって「古いもの」が影響を受けないわけではない。しかし、蛹が蝶に変貌するように、古いものが新しいものに変貌したわけではない。古いものはやはり生き続けているのである。西欧においては、美術の歴史は様式の「発展史」として捉えることができるのに対し、日本においては、さまざまの型の「併列史」にならざるを得ないのは、おそらくそのためである。いささか乱暴な議論をすれば、ゴシック様式はロマネスク様式のなかから「発展」して生まれて来たものであるがゆえに、西欧世界がこぞってゴシック様式の大聖堂を建てていた時代には、すでにロマネスク様式は存在していない。しかし日本に唐様建築が「はいって」来た時、それは和様建築を亡ぼしてしまったわけではない。同様に、明治期になって「洋画」や「洋楽」がもたらされた時――一時的な混乱期は別として――日本画や邦楽が否定されたわけではない。むしろ、「洋画」の輸入によって「日本画」はその存在をいっそうはっきりさせたと言うべきであろう。そして現在でもなお、「洋画」と「日本画」、あるいは、「洋楽」と「邦楽」という「併列」が認められることは、改めて指摘するまでもない。
潜在古層の美意識の顕在化
さて、ここで、この地層に喩えた考え方を精神分析学の分野にアナロジックに敷衍・照射してみますと、C・G・ユングの集合的無意識理論と通底しているといえます。この理論によりますと、ある個人の精神の深層意識部分の地層は、最古層に生物としてのレイヤー、そのひとつ上に人類という種としてのレイヤー、更にその上に民族としてのレイヤー、その又上に郷土・地域としてのレイヤー、その上に家系としてのレイヤー、その上に幼児期のレイヤーというように層を形成しているとしているとしています。−−−なお、最古層のレイヤーの下に前世のレイヤーや人類の祖先のレイヤーが存在するというややオカルティックな亜説もあるようです。
ところで、精神分析学によれば、これら無意識のレイヤーが、ときどき意識レイヤーを攪乱することによって、神経症などが発症するのであるとしています。これをこんどはもう一度逆に文化の議論にアナロジカルに敷衍化してみますと、――特に岸田秀理論によれば――これら文化の古いレイヤーがときどき新しい文化レイヤーに対し反乱を起こし、国家という集団が神経症を発症するということに相似しているといえます。日本の歴史における外圧による開国と鎖国の繰り返しや、米国に対する極端な憎悪と媚びへつらいが交互に現れる分裂病理がこれで、欧州における典型例は、ヒトラーという古層の出現であるいえましょう。
また、精神分析学では、この無意識の反逆、つまり、神経症は、基本的には無意識の意識化によってしか克服できないとされていますので、これを文化の問題に照射すれば、我々は如何に自身の文化の古いレイヤーを意識化するか、言い替えれば、意識下に潜み無意識化している美意識を如何に意識化していくかということが最重要な課題なのではないかといえるわけです。
日本文化の古層の例(音楽)
さて次に、今日に至るまで連綿と脈々と引き継がれている日本文化の美意識の古層の具体例について、論考を進めてみます。
まず、音楽の分野で事例をあげれば、日本の場合、「さわり」のように濁った音を意識的に発生させて、それも楽音として用いたりします。これは、言ってみれば、漢方薬です。西洋医学系の薬剤においては、どの成分がどの病気・症状に有効なのかを論理的・実証的に分析・検証し、その結果として有効成分とされたものを純粋に抽出(又は化学的に合成)して処方することを特徴としています。
これに対し、漢方薬では、分子レベルまで有効成分を純粋化することはせず、ある薬草なりを基本的にはまるごと(厳密には煎じることによって抽出することが多い。)処方します。その中には様々な成分が含まれていますが、そのいちいちを有効かどうかまでは選別することはしないことと対比できます。ちなみに、これは未知なものは未知として留保しておくという不可知論的な仏教思想にも通底しているとも考えられます。
つまり、純粋化(さらには論理化)された音を楽音とする西洋音楽に対し、さわりに典型的にあるように雑音も含めた音に美意識を持つ東洋音楽とに対比できるわけです。このことは、秋の虫の音に情感を受ける日本人の美意識とも通底しているといえます。欧米人が鈴虫などの虫の音を聞いてもただの雑音としか聞こえないそうですが、これは、日本人と欧米人の右脳と左脳の使い分けの相違に由来しているとの説が大脳生理学の見解だと聞いています。日本人がさわりによる雑音的な音に美を感ずるのは、このことも深く関わっていると考えられ、また、佐野清彦氏が、「音の文化誌−東西比較文化考−」(平成3年7月、雄山閣出版)の中で触れていますが、食事のマナーにおいて、洋食が音を立てることが厳禁であるのに対し、日本食の場合、例えば、そば、お茶、せんべいの場合などのように、音をわざわざ立てたりすることもあることは、このことに関係していると考えられます。
なお、「はじめての音楽史」では、このような雑音を含む楽音に対する美意識は中国、韓国、インドまで広く東洋に見られ、特に虫の音に感興するのは南太平洋の諸島国民の感性にもみられるとしており、日本人の感性の雑種性及び南洋諸島文化との近似性を示唆しており、更に興味深いと思います。
日本文化の古層の例(美術など)
次に美術の分野に目を転じてみれば、陶芸においては、無釉焼締、灰釉、自然釉系(信楽、丹波、備前など)の陶器に美を感ずる美意識にも通底しているとも考えられます。自然釉の様々なオートマティズム的「景色」は欧米人にとって汚れ=雑音としか感じないと想像できます。欧米人や中国人が好むのは、きれいな模様が画かれている磁器系(伊万里、九谷など)です。なお、中国ではこの手の磁器系の出現により陶器系は完全に駆逐されてしまっています。
絵画の分野においても同様に、日本においては、いわゆる油絵に対して、日本画(ただし、単に技法として残っているきらいはありますが)が駆逐されずに連綿としてその伝統を残しています。これに対し、その源流である中国においては、既に漢画の技法は消滅してしまったということだそうです。
以上のように、焼き物における磁器から陶器、無釉焼締への変化を出川直樹氏は「やきもの鑑賞入門」(とんぼの本、新潮社)の中で、「驚くべき進化の逆行」と言っています。また、佐野清彦氏は、前述の著作の中で、さわりという機構を開発した三味線や、わざと雑音を増やすために太く進化した尺八をこの逆進化の事例として挙げています。私は、この逆進化=退行について、C・G・ユングの「創造的退行」という概念との通底性を考えずにはおれません。
更に、芸術以外の分野にも敷衍化してみると、仏教(密教)、社会体制(天皇制)についても同様のことがいえます。このように見てくると、文化という地層の重層化は、日本の文化の構造に通底している現象であると考えられるのです。
ちなみに、ここで、天心の比喩をもう一度引いて、日本列島を海外からの文化という波に洗われる波打ち際とするならば、その一番陸地側の際は青森県であると考えられます。そして、私は、その結実として、土方巽(正確には秋田県生まれ)、寺山修司、棟方志功、そして津軽三味線をあげたいと思います。彼らは、日本文化の最古層から直接出現したとも思えてならないのです。  
 
稲むらの蔭にて

 

河内瓢箪山へ辻占問ひに往く人は、堤の下や稲むらの蔭に潜んで、道行く人の言ひ棄てる言草に籠る、百千の言霊(コトダマ)を読まうとする。人を待ち構へ、遣り過し、或は立ち聴くに恰好な、木立ちや土手の無い平野に散在する稲むらの蔭は、限り無き歴史の視野を、我等の前に開いてくれる。此田畑の畔に立つ稲むらの組み方や大小形状については、地方--で尠からず相違があるらしいが、此と同時に、此物を呼ぶ名称も亦、至つてまちまちである。
○すゝき…………………大阪四周の農村・河内・大和・山城・紀伊日高
○すゞし…………………因幡気高郡
 すゞしぐろ……………同じ地方
 すゞぐろ………………同上
 すゞみ…………………美濃大垣・揖斐・尾張西部
○にえ……………………紀州熊野
 にお……………………信州全体・羽前荘内・陸前松島附近
 にご……………………信州諏訪
 のう(ノの長音)………周防熊毛郡
○ほづみ…………………阿波
 こづみ…………………熊本・薩摩・日向
 ぼと……………………摂津豊能郡熊野田附近
 ぼうど(長音)…………徳島附近の農村
 いなむらぼうと………同上
 ぼつち…………………武蔵野一帯の村々・磐城・岩代
○くま……………………因幡気高郡
○くろ(清音)……………備前
 ぐろ(濁音)……………阿波板野郡
 わらぐろ………………備前
○としやく………………長門萩
○じんと(?)……………河内九箇荘
○いなむら………………阿波其他
 いなぶら………………伊豆田方郡・遠州浜松辺・武蔵野一帯の地
此だけの貧弱な材料からでも、総括することのできるのは、各地の称呼の中には sus, nih 又は hot の語根を含むものゝ、最著しいことである。ほとは、即ほづみのみを落したものと見ることが出来る。
私どもの考へでは、今が稲むら生活の零落の底では無いか、と思はれる。雪国ならともかくも、場処ふさげの藁を納屋に蔵ひ込むよりは、凡、入用の分だけを取り入れた残りは、田の畔に積んで置くといふ、単に、都合上から始まつた風習に過ぎぬものと見くびられ、野鼠の隠れ里を供給するに甘んじてゐる様に見える。告朔の羊は、何れは亡びて行くべき宿世を負うて居る。而も、古くして尚、痕を曳くのは、本の意の忘却せられて後、新しい利用の逋(ニ)げ路を開くゆとりのあるものであつた為である。
蓋、水口祭(ミナクチマツ)りに招ぎ降した田の神は、秋の収穫の後、復更に、此を喚び迎へこれまでの労を犒うて、来年までは騰つて居て貰はねばならぬ。田の神上げもせずに、打ち棄てゝ置けば、直に、禍津日の本性を発揮せられたであらう。尤、次年の植ゑ附けまで山に還つて山の神となつてゐられる分は、差支へも無い理であるが、此は一旦標山(シメヤマ)に請ひ降した神が、更に平地の招代に牽かれ依るといふ思想の記念であるらしい。併し、其は山近い里の事で、山に遥かな平野の中の村々では、如何なる方法を採るかゞ考へものである。一郷一村の行事となれば、壇も飾り、梵天塚も築くであらうが、軒別に、さうした大為事は出来よう筈がない。而も其が、毎年の行事である。至極手軽な標山を拵へる方法が、講ぜられねばならぬ。私は、稲むらが此為に作り始められたものだ、と信じたい。
まづ、最初に、nih 一類の語から考へて見る。第一に思ひ当るのは、丹生(ニフ)である。「丹生のまそほの色に出でゝ」などいふ歌もあるが、此は略、万葉人の採り試みた民間用語に相違ない様である。山中の神に丹生神の多いのは、必しも、其出自が一処の丹生といふ地に在つた為と言はれぬとすれば、此を逆に、山中の丹生なる地が神降臨の場所であつた、とも言ひ得られる。江戸時代に発見せられた天野告門(アマノヽノリト)を読んだ人は、丹生津媛(ニフツヒメ)の杖を樹てたあちこちの標山が、皆丹生の名を持つてゐるのに、気が附いたことであらう。私には稲むらのにほが其にふで、標山のことであらう、といふ想像が、さして速断とも思はれぬ。唯、茲に一つの問題は、熊野でにえと呼ぶ方言である。此一つなら、丹生系に一括して説明するもよいが、見遁されぬのは、因幡でくまといふことで、くましろ又はくましねと贄(ニヘ)との間に、さしたる差別を立て得ぬ私には、茲にまた、別途の仮定に結び附く契機を得た様な気がする。即、にへ又はくまを以て、田の神に捧げる為に畔に積んだ供物と見ることである。併し、此点に附いては「髯籠の話」の続稿を発表する時まで、保留して置きたい事が多い。
那須さんの所謂郊村に育つた私は、稲の藁を積んだ稲むらを、何故すゝきと謂ふか、合点の行かなかつた子供の時に「薄(スヽキ)を積んだあるさかいや」と事も無げに、祖母が解説してくれたのを不得心であつた為か、未だに記憶してゐる。ともかくも、同じく禾本科植物の穂あるものを芒(スヽキ)と謂ふ事が出来るにしても、其は川村杳樹氏の所謂一本薄(ヒトモトスヽキ)の例から説明すべきもので、祖母の言の如き、簡単なる語原説は認め難い。田村吉永氏などは御承知であらうが、真土山(マツチヤマ)界隈の紀・和の村里で、水口祭(ミナクチマツ)りには、必、かりやすを立てるといふ風習は、稲穂も亦、一種のすゝき(清音)であつて、此に鈴木の字を宛てるのは、一の俗見であるらしいことを考へ合せると、何れも最初は、右の田の畔の稲塚に樹てた招代(ヲギシロ)から、転移した称呼であることを思はせるのである。
処が茲にまた、こづみといふ方言があつて、九州地方には可なり広く分布してゐるやうである。徳島育ちの伊原生の話に、阿波では一个処、此をほづみと謂ふ地方があつたことを記憶する、と云ふ。果して、其が事実ならば、彼のこづみも、木の積み物又は木屑などの義では無く、ほづみの転訛とも考へ得られる上に、切つても切れぬ穂積・鈴木二氏の関係に、又一つの結び玉を作る訣になる。尚、遠藤冬花氏の精査を煩したいと思ふ。
hot については、私は二つの考案を立てゝ見た。即、一つはそほどと、他の一つはぼんてんと関係があるのでは無いか、といふことである。そほどを案山子だとすることは通説であつて、彼の山田の久延毘古(クエビコ)を以て、案山子のことゝすれば、なるほど、足は往かねども天下のことを知る、といふ本文の擬人法にも叶ふ様であるが、仮に、こつくりさんの如き形体のものであるにしても、たかだか人造の鳥威しの類を些し、神聖化し過ぎた様な気がする。それかと言つて、国学以前から伝習して来た、俳諧者流の添水(ソウヅ)説も、頗、恠しいものである。
私の稲むらを以てそほどとし、或はそほどの依る処とする考へは、勿論、方言と古語との研究から、更に有力な加勢を得て来なければならぬものであるが、前掲の如くぼとと濁音になつて居るのは、頭音が脱落したものであることを暗示してゐる様でもある。またほとは、ほてから来たらしいといふ説も、標山には招代を樹てねばならぬ、といふ点から見て、一応提出するまでであるが、何れにせよ、後に必、力強い証拠が挙つて来さうな気がする。
くろは畔の稲塚だから言うたもので、必、畔塚と言ふ語の略に違ひがないと考へる。じんとととしやくとの二つに至つては、遺憾ながら、附会説をすらも持ち出すことが出来ぬ。
さて、若し幸にして、稲むらを標山(シメヤマ)とする想像が外(ハヅ)れて居なかつたとすれば、次に言ひ得るのは、更めて神上げの祭りをする為に請ひ降した神を、家に迎へる物忌みが、即、新嘗祭りの最肝要な部分であつた、と言ふ事である。神待ちの式のやかましいことは、誰(ダレ)ぞ。
此家の戸押(オソ)ぶる。新嘗(ニフナミ)に我が夫(セ)をやりて、斎ふ此戸を(巻14)鳰鳥(ニホドリ)の葛飾早稲(ワセ)を嘗(ニヘ)すとも、その愛(カナ)しきを、外(ト)に立てめやも(同)と言ふ名高い万葉集の東歌と、御祖神の宿を断つた富士の神の口実(常陸風土記)などに、其俤を留めてゐる。此等の東人の新嘗風習を踏み台にすれば、我々には垣間見をも許されて居らぬ悠紀(ユキ)・主基(スキ)の青柴垣に籠る神秘も、稍、窺はれる様な感じがする。新嘗・大嘗を通じて、皇祖神(スメロギ)との関係を主として説く従来の説は、どうも私の腑に落ちぬ。小むづかしい僚窓の下でひねくられた物語りよりも、民間の俗説の方が、どれだけ深い暗示を与へてくれるか知れぬのである。
大嘗をおほにへ・おほむべなど云ふに対して、新嘗がにひにへともにひむべとも云ふことの出来ぬ理由は、民間の新嘗に該当する朝廷の大嘗が、大新嘗といふ語から幾分の過程を経て来た為だ、と私は考へてゐる。
全体、万葉の東歌の中には、奈良の京では既に、忘れられてゐた古い語や語法を多く遺してゐる。此から考へると、にふなみといふ語を、新嘗といふ漢字の字義通りに説明する語原説も、まだまだ確乎不抜とは言はれぬ様に思ふ。「葛飾早稲をにへす」といふにへが、単に贄物(ニヘモノ)を献る、といふ今日の用語例と一致したもので無く、新嘗の行為全部を包容する動詞だとすれば、にふなみのにふは、新(ニヒ)の転音だといふばかりで、安心して居られなくなる。私は今は、にへなみ・にふなみ何れにしても、格のてにをはなる「の」と「いみ」との熟したもので、即、にふのいみ(忌)といふ語であるらしいことを附記して、考証の衣を著せられない、哀れな此小仮説をとぢめねばならぬ。 
 
言葉

 

名演説家として知られたウィンストン・チャーチルは「人に与えられたあらゆる能力のなかで、話術ほど重要な能力はない」と言った。欧米人のあいだでは「スピーチは命である」という考え方が徹底している。
スピーチをするときに一番大切なのは、最初の10秒間であるという。なぜなら、その10秒間で勝負がついてしまうからだ。気が散っている人や、興味を示さない人の心に食い込むのは、このときである。相手を集中させ、興味を引くのは、このときしかないのである。
箴言で知られるフランスの哲学者ラ・ロシュフーコーは、「話していて愉快になる人があまりにも少なすぎる理由は、みんな相手の話していることよりも、自分の話そうとしていることばかりを考えているから」と言った。
アメリカ大統領には多数のスピーチ・ライターがついていて演説のための原稿を練り上げ、繰り返し大統領にスピーチの練習をさせる。彼らは知っているのだ。たった5分間のスピーチが世界中の人々に、あるいは全社員にどれだけの影響を与えるかということを。
そもそも、政治や経営の世界において大切なことは「何を語るか」ではなく、「誰が語るか」である。ソフィアバンク代表の田坂広志氏によれば、経営者の究極の役割とは、力に満ちた言葉、すなわち「言霊」を語ることであるという。社員の心を励ます言葉。マネジャーの胸を打つ言葉。経営幹部の腹に響く言葉。顧客の気持ちを惹きつける言葉。そうした言霊の数々を語ることこそ、経営者の役割なのである。
「吾れ言を知る」と言った孟子は、その「言」を四つ挙げている。一つは、_辞(ひじ)。偏った言葉。概念的・論理的に自分の都合のいいようにつける理屈。二つ目は、淫辞。淫は物事に執念深く耽溺することで、何でもかんでも理屈をつけて押し通そうとすることである。三つ目は、邪辞。よこしまな言葉、よこしまな心からつける理屈。四つ目は、遁辞。逃げ口上である。つまり、これら四つの言葉は、リーダーとして決して言ってはならない言葉なのである。
では、何を言うべきか。それは、真実である。リーダーは第一線に出て、部下たちが間違った情報に引きずられないように、真実を語らなければならない。部下たちに適切な情報を与えないでおくと、リーダーが望むのとは正反対の方向へ彼らを導くことにもなる。
そして説得力のあるメッセージは、リーダーへの信頼の上に築かれる。信頼はリーダーに無条件に与えられるわけではない。それはリーダーが自ら勝ち取るものであり、頭を使い、心を込めて、語りかけ、実行してみせることによって手に入れるものなのだ。
信頼できるリーダーとは、組織の利害の最も良き体現者であることを身をもって示し、自分は部下たちへの奉仕者だと考える。そして、部下たちの成功を願って、彼らが必要とするものを与える。こうした上司は、自らの評価は部下の一人ひとり、あるいは部門全体が成し遂げた成果によって決まると知っている。だから、部下の一人ひとりや部門に対する厚い支援を惜しまないのである。
信頼できるリーダーのメッセージには説得力があると言われる。この説得力のレベルは、リーダー個人の資質にもよるが、そのリーダーが組織でどれほどの地位を占めているかにもよる。またそれは、組織の健康状態の指標でもある。組織の健康はリーダーの大切な資質の一つである「コミュニケーション力」からつくられるからである。リーダーが人々を引っ張っていく根本は、コミュニケーション力にあるのだ。
リーダーにふさわしいコミュニケーション力は、組織の価値観や文化に根ざしている。そして、社員、顧客、株主にメディアに至るまで組織に関わる人々にとって意義のあるメッセージから生み出される。それには、組織の理念と使命と変革への意志が込められていなければならない。リーダーのメッセージは、部下とのあいだに信頼関係を打ち立てるために発揮される。その内容には次の四つの要素が備わっている必要がある。
まず、意義である。人材、生産性、商品など、組織の現在と未来に関わる大きな課題について言及されていること。次に、価値観。組織の理念としてのビジョン、なすべき使命としてのミッション、それに文化が盛り込まれていること。三つ目は、首尾一貫性。言行が一致していること。そして四つ目は、メリハリ。一定の規則をもって語られることだ。
説得力のあるメッセージは、リーダーシップを発揮することで生み出される。それは、リーダー個人の資質だけでなく、組織の価値観を体現している。その組織がどれだけ開かれているか、まとまりがあるか、透明度が高いかなど、すなわち、組織文化・組織風土のあらわれでもある。
ドラッカーも言うように、リーダーのコミュニケーション力は、情報を伝えることよりも、ある組織文化のなかでの一体感、親近感を生み出すために役立つ。最後に、リーダーは部下に向けて、さまざまな場で繰り返しメッセージを語り、リーダーが何を期待し、組織が何を望み、それに対して部下は何をすべきかの理解を求めるべきだ。そうすれば、リーダーと部下たちは相互理解に基づいた連帯感をつくり上げ、相互信頼によって一丸となり、組織のゴールをめざすことができる。 
 
日本将棋の起源

 

日本将棋の起源とケガレ思想による将棋のマネーゲーム化
将棋(しょうぎ)とオセロというのは日本で最もポピュラーなボードゲーム(盤上遊戯)であり、子ども時代に誰でも一度は友人と勝負したことがあるゲームだと思いますが、将棋は特に古来から日本にある伝統のゲームという一般認識が持たれています。日本の将棋、中国の象棋(シャンチー)、西欧のチェスを合わせて世界三大将棋といいますが、それらの起源を遡ると古代インドで発明されたチャトランガという立体駒を用いたボードゲームに辿り着きます。韓国の将棋(チャンギ)やタイのマークルックといったチャトランガ起源のゲームもありますが、それらは基本的に相手の王を倒そうとする「戦争」をモチーフとしたボードゲームと見なされています。
基本的に将棋を指す場合には、「玉将(王将)」を自軍の頭領とする軍団をイメージし、「飛車(龍王)」や「角行(龍馬)」を武勇に優れた猛将、「金将」や「銀将」を王を補佐する側近の武将、「桂馬」を騎馬、「香車」を槍(飛び道具)、「歩兵」を足軽(雑兵)と見なす人が多いと思います。日本の将棋を、論理的な推測能力と棋譜の記憶能力を駆使した「戦争のバーチャルゲーム」と見なすのは一般的な認識ですが、将棋には「持ち駒(取った駒)の再利用」と「玉将を取らずに詰む(動けなくする)」という独創的なルールがあります。日本の将棋の特徴は、将棋の各駒に「象徴的な死」が存在せず、何度でも持ち駒として復活しもう一度ゲームに参加させることが出来るということです。チャトランガ起源の他のゲームにはこの「持ち駒の再利用のルール」は存在せず、相手に取られてしまった駒は「死」を迎えて二度と使うことが出来ません。
将棋の駒の名前を見ると「玉(宝玉)・金・銀・桂(肉桂,シナモン)・香(香料)」という仏教経典に登場する宝物・珍品の名称がつけられており、戦争ゲームとしての統一感を弱めようとしているとも取れるのですが、井沢元彦氏の「逆説の日本史8 室町文化と一揆の謎」の第四章「室町文化の光と影編」に興味深い将棋についての解説があります。井沢元彦氏は「倒した敵(相手の駒)」がゾンビのように蘇って「味方の兵士(持ち駒)」として再利用できる将棋は戦争ゲームではないという結論を出しており、日本の将棋は「戦争ゲーム」がケガレ思想と言霊思想によって「マネーゲーム(宝物取りゲーム)」に変質したものであるという仮説を提示しています。将棋の原型となるゲームがいつ日本に輸入されたのかについては定説がありませんが、遅くとも平安時代までには日本に将棋の原型となるゲームがもたらされ、室町時代末期(16世紀・戦国時代)頃に現在の持ち駒を再使用できる本将棋の形式が整えられたと考えられています。1696年に書かれた「諸象戯図式」では、天文期(1532年-1555年)に第105代・後奈良天皇(在位1526-1557)が藤原晴光(ふじわらのはるみつ)・伊勢貞孝(いせさだたか)に命令して、小将棋から酔象の駒を取り除いて現在の本将棋の原型が成立したとされています。
ケガレ思想というのは簡単に言えば流血と死穢(しえ)を徹底して嫌う思想であり、天皇が居住する京都(近畿)を最も清浄な場所としてそこから離れれば離れるほどケガレが強まるという考え方のことです。ケガレ思想は天皇を中心とする小中華主義と融合しながら、後世において種々様々な差別偏見の淵源となる弊害をもたらしましたが、古代日本の貴族階級(公家階級)において普遍的な世界観を構成していました。平安時代の藤原氏をはじめとする上級貴族たちは、京都から遠く離れた辺境の地に国司として赴くことを嫌い、遙任国司となって代官の受領(ずりょう)を任命地に赴かせましたが、それは文明の地を離れて生活が不便になるという理由だけではなくて、京都から離れれば離れるほど穢れの強い地に入るという宗教的な恐怖(偏見)を持っていたからです。貴族(皇族)から賜姓源氏・賜姓兵士として派生した武家が身分的に差別されたのも、敵を殺傷する戦闘行為によって死穢に触れるからですが、その忌避する武力によって朝廷の勢力圏(貴族の生活圏)が護られていたことを考えると嫌な仕事を他人に押し付ける身勝手な思想ではあります。
日本人は戦争や政争の敗者を手厚く葬って祭祀した歴史を持つ世界でも珍しい民族ですが、それは「敗者(死者)の怨念・憎悪」が死後にも残留して、自分たちに何らかの災厄や危険をもたらすという怨霊信仰を古代の日本人が深く信じていたからです。大国主命を祭祀した出雲大社や菅原道真を祀った太宰府天満宮、後醍醐天皇の霊を慰めた天竜寺など、日本には無念・遺恨を残して死んだ争いの敗者を祀った神社・寺院が相当多くありますが、ギリシアのポリスでもローマ帝国でも中華帝国でもイスラム帝国でも、戦った相手(敗者)を滅亡させた後に、死後の復讐(怨恨)を恐れて祭礼施設(宗教施設)を建設した事例などはまずありません。ヨーロッパの神話や伝説などで敗者の亡霊などが登場することは確かにありますが、各民族の支配層が持つ信仰として、人が死ぬ軍事活動(戦争)を完全に嫌悪して放棄するほどの死穢思想が根付いた地域は恐らく日本以外には無かったのではないかと思います。
そういった死のケガレを恐怖して遠ざけようとする思想的背景を考えると、井沢氏の仮定する「将棋のマネーゲーム化」は興味深い仮説に思えますが、それと対置する大内九段の仮説では南北朝時代の「寝返り・裏切りを当然とする風潮」が持ち駒の再利用のアイデアにつながったとしています。三国志や戦国時代のテレビゲームでも倒した敵方の武将を自軍の武将として再活用できるので、大内九段の寝返り(捕虜再利用)仮説にも現代的視点からは説得力を感じますが、日本古来の伝統的思想の系譜を踏まえると井沢氏のマネーゲーム化したとする仮説も想像力を刺激されて興味深いと思います。言霊思想との関連では「不吉な事柄を言葉にすればそれが現実になる」という意味で、王の死を忌避して将棋の駒の名前を財物化したということになるのですが、言霊(コトダマ)は現代日本においても縁起やジンクスとして「悪い未来を招き寄せるような言葉を言うべきではない(縁起でもない)」とする形で残っている部分があります。
最後に歩兵が成ると「と金」になりますが、なぜ、「と金」というのか「と金」とは何なのかについて実に明確な説明がなされておりなるほどと思われました。井沢氏の「と金説」は定説からすると異端なのだと思いますが、Wikipediaのと金の説明よりも個人的には説得力があるような感じを受けます。鍍金という言葉(呼び方)がいつから使われていたのかという問題もありますが、武具などのメッキ技術そのものは日本の古代から存在しています。
そういえば、将棋の歩が成って金将と同じ働きをするようになった時、なぜ「と金」というのか。それは「鍍金(ときん)」であろう。鍍金とは「金メッキ」のことである。では、当時の日本人にとって最も身近な「鍍金物」は何かといえば、それは仏像なのである。当時は木造仏の方が多かったから、科学的に厳密に言えば「金メッキ」ではなく、「金箔を押したもの」なのだが、古代に造られた仏像が本当の金メッキ(例・奈良の大仏)であったこともあり、当時の日本では「金のコーティング」のことをおしなべて「鍍金」と呼んでいたのである。
金ではないが金と同じ働きをするもの→鍍金という発想が出てくるのは、まさに僧侶と親しい貴族階級であって、武士ではない。そもそもこの時代の武士はそれほど文化的に成熟していない。そういう観点から見ても、やはり将棋は公家文化の精華と考えるのが最も妥当であろう。
Wikipediaの「将棋」の項目には、封建的思想・軍事的指向の強い競技や娯楽の排除を狙ったGHQが「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」という理由をつけて、将棋を廃止しようとしたという話が掲載されています。しかし、井沢氏のマネーゲーム化仮説を採用するとすれば、将棋は「象徴的な死者を出さないように工夫されたボードゲーム」ですから、GHQの日本の再軍事化を懸念する主張は的外れであったということになりそうです。 
 
言霊 1

 

言霊とは言葉に宿る神秘的な力として、言葉が持つ力、そしてその動きと流れを指します。
古来からわが国では「言=事」と考えられ「良き言の葉は良きものを招き、悪き言の葉は災いを招く」といった観念がありました。
もし私たちが言葉の霊的な部分、内に潜む神秘的な言葉の動きを理解できて、目的の言葉を発するだけでその言葉のまま実現できるとしたら、どうでしょう・・・。
かくしてこの「言霊の呪力」に心を奪われ、言霊の力を自在に使うべく、たくさんの神道家や霊術者が言霊の力の研究に没頭しました。
「言霊の幸(さき)わう国・言霊の扶(たす)くる国」(万葉集)
神国日本といわれたわが国を指し示して、「言霊の国」と形容するこの言葉は、現代においては完全にその形が消えうせてしまいましたが、本来言霊が持つ神秘な力は、古事記で伝えられる「国生みの神話」でも示しています。
「天地(あめつち)初めてひらけしとき、高天原に成れる神の名は・・・」
この世がまだ混沌とした宇宙においてわずかにその姿を現したとき、光とともに大いなる意思が動きました。我々人の祖神が生まれ出でるまでの大いなるものの意思が宇宙の、すべての源でありました。
大いなる宇宙の神は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の二柱の神に対し、「このただよへる国を修理り固め成せ」とおおせられました。
かくして両神は、宇宙神の言葉に従い、言葉に潜む力(言葉の本質とその力)である「言霊」をうけて、この国を作り成すのです。
このとき宇宙神から二柱の神に向って発せられた言葉が、この世で初めての「言霊」となります。
宇宙神の言葉は「このただよへる国を修理り固め成せ」でした。そしてその言葉を成就するための手段(方法)が「天の沼矛(あまのぬぼこ)」という事になります。言葉の本質、言葉に潜む力を理解できたからこそ、「天の沼矛」を手にして「国生みの事」を成就することが出来たのです。
「国生みの神話」古事記
太古、わが国ははまだ十分に成りととのわず、水に浮かんだ油のようでその様子はまるで海の中のクラゲのようにただよっていました。宇宙神は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の二柱の神に命じ、「このただよへる国を修理り固め成せ」とおおせられ、天の沼矛(あめのぬぼこ)という「ほこ」を授けられました。二柱の神は、天の浮橋にお立ちになり、この沼矛をさしおろして、海の水をコヲロコヲロと音をたててかきまわし矛を引き上げると矛の先からしたたりおちた塩水が固まって、「オノゴロ島」となりました。二柱の神はこの島に降られてちぎりを結ばれ、日本の国土をはじめ多くの神々をお生みになったのです。
「言霊と祝詞」
言霊の効果とは実際どのようなものなのでしょうか。「言霊の効果」を考えるにあたっては、「祝詞」を通らずには語れません。
言霊はなにも日本独自のものではありません。東洋西洋ともに言葉には精霊が宿りその精霊が振るう不思議な力が人々を幸にも不幸にも招くものと考えられていました。言語には超越した力が宿り、その力を神霊や精霊の力になぞらえ畏れ敬いう気持ちが「言霊」というものに通じたと考えます。
そういった言霊の観念は日本においては「祝詞」にこめられ、東洋においては「経文」にこめられ、西洋においては「聖書」にこめられ、後世に伝えられました。
祝詞の語源は「祝詞とは宣説言(のりときごと)の略で、神に申し上げる言葉」とするものや「神を招き奉る場合、一定の宣る場所を必要とすることで、その宣ることに必要な言葉が“のりとごと”と言い、祝詞の語源である」という説もあります。
最終はそういった言霊を口で発することによって、超越した神霊のエネルギーと相通じることを目的としました。
現在は神社が行うまつりや祈願の内容によって幾種類もの祝詞が奏上されますが、今のような言葉使いや奏上のリズムの基礎となったのは平安時代が起源の「延喜式祝詞」があげられます。大和言葉でできています。そして、言霊の髄が集約されたとする「大祓詞」は現代に伝わる祝詞の中で一番に注目されるもの、とされます。
大祓詞は年2回、6月30日と12月31日に国中の罪穢れを祓うべく毎年行われた朝廷の行事にさいし唱えられました。そして今でも様々な神事の前に唱えられる最も重要な祝詞として位置付けられ、人々がおかした罪穢れを祓い、天災や疾病を祓い、個人の心身や社会全体を浄化して弥栄(いやさか)をもたらす祝詞とされます。
祝詞に含まれる言霊の効力はおろか、祝詞を奏上する際に波が引き押し寄せかえすような響きを自然のうちに奏でられるこの祝詞は、躍動する言霊の力を肌で感じることが出来ます。
大祓詞に限らず、様々な祝詞を唱える際は、正しい言葉と正しい姿勢(心)で唱えることが大切なことです。何事にも目的をもつことは大切なことですが、祝詞を奏上する際も同じ事が言えます。
単なる言葉から、その言葉に超越した力をみなぎらせ神秘な力を宿し目的を成就するためには、「正しい心」がともないませんと、ただの言葉遊びに終始してしまいます。
また、「目的の言霊を繰り返し唱えることが言霊の効果を高めることになる」などと、ご指導される方も多く見受けますが、安に、一気に言葉の繰り返しを数千回数万回行おうとも、目的の祈願を成就できるなど、まったくそのような保証はありません。
「必死で唱えたのに何の効果もない」、と苦情を申し上げても、「それは祝詞の唱える回数がまだ足りないんだ」と、言われるのが関の山です。そのような事はぜひお止めください。何の意味もありません。
言霊一字一字に秘めた力、またいくつかの言霊が重なって現れる力、奏上をするときの空気と音階、これらが神妙に重なりあったとき、霊力と神力が渦を巻いて私たちの前に現われるのです。
私は、祝詞やお経などは、一度に短時間で回数を競って読みあげるものではないと考えます。一言一句を的確に大切にすること、己の声を己の耳でしっかりと聞きながら、時の変化も敏感に感じつつゆっくりと奏上します。そうすることで前出のそれとは比較にならないほどの鍛錬ができるのです。
ようは、時間を競うのではなく、長い期間をどれだけ続けられるかが最大の課題なのです。神様ごとは神様をお奉りする上で、すべてこの事が基本となります。
言霊を大切にして、意味あるものと理解して発する言葉は、日常の生活の中に上手く生きてきます。日常の生活に生かせる鍛錬を正しい気持ちと正しい環境で行うことが究極の目的であって、非常に大切なことなのです。
霊学秘法
かつて言霊を研究する人は「言霊学」として、古文書や古い文献などから、真の言霊の知識を得ようと努力しました。参考書によりますと、言霊学は江戸中期から盛んになり、近代においては「出口王仁三郎」の手によって広く世間に知られることとなったようです。
究極のところは、言葉が秘める神秘性を追求するにとどまらず、言霊の呪術の面にも大きく注目されることとなりました。言霊の呪力を習得できれば、人の悩みや病気の改善、そして神霊さえも意のままに操ることを目的とした呪術に思いを馳せたのでした。
下記はそういった「言霊学」によって編み出された霊学秘法です。
「神祗伯家秘伝 古神咒」
ト ホ カ ミ エ ミ タ メ
この八言は「五元の神」を拝し “ト”は水、“ホ”は火、“カミ”は木、“エミ”は金、“タメ”を土として、それぞれの働きを称えたものです。また、神道の最大関心事である「罪穢れを祓い清めたてまつる」ことへの秘法として伯家(はっけ)に秘伝として伝えられていました。ト・ホ・カ・ミ・エ・ミ・タ・メ で八音ですが、ト・ホ・カミ・エミ・タメ については五音となりうることが「大祓詞」の「天津祝詞の太祝詞事」に通じ、大祓詞の長い祝詞の秘詞に匹敵するものとされました。
「友清歓真 十事神咒奉唱」
ア マ テ ラ ス オ ホ ミ カ ミ
この神咒は十事あって、言うまでもなく「天照大神」の神名そのものです。この十事は奇しなるもので、何百回も何千回も奉唱すれば神徳を授かるとされます。ご神名そのものが言霊の天地の結晶を帯びたもので素直に清明の心で唱えると無量の福徳を授かるとされます。
「ヒフミの神歌」
ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のます あせえほれけ
この神歌は天照大神が天の岩戸に隠れましたとき「天鈿女命」が岩戸の前で楽しげに神舞を舞うときに謡われた歌です。清音で謡われるように構成されており、「神霊を慰め万の災いをして幸いに返さずということなし」といわれるもので、宇宙創造の原理を要約したものとの説もあるようです。この神歌は47の音で構成されますが私たちが使用する言葉の基礎たるもので、清音47柱の神が宿る「言霊宇宙」を形成するものとされます。また「ヒフミ神歌」は鎮魂帰神法に使われたり、言霊の訓練にも使われました。
「布瑠の言」
ひふみよいむなやここのたり ふるべ ゆらゆらとふるべ
物部氏の祖神「ニギハヤヒノミコト」が降臨する際に「タカミムスビノミコト」に授けたというのが「布瑠の言」です。この言霊には「十種神宝(とくさのかんたから)」を意味するものが含まれ、言霊の中で神宝を使うことで霊的な秘技を確立します。「旧事本紀」では「死者がよみがえる」とも記されています。

言霊はこういった秘技のほかに、「占い」にも使用されました。
神憑りに陥り、己の口から言霊を発し、物事の吉兆を予言するもの。また人との対面で、相手が発する言霊の霊的部分を察知し物事の吉凶を占い助言するもの。また占いに必要な言霊が記された道具を使って占うものなど、古来から様々な分野で言霊に秘める神秘な力を使用していました。 
 
言霊 2

 

一つ一つの言葉が持つ、凄まじい霊力の事である。人間の口から発せられる言葉の霊力のほか、文字で記された言葉や、人の心の中の思いが持つ霊力も、これに含まれる。
言霊とは、言葉の一つが持っている霊力・魔法の事である。その力は、核兵器を地球上から抹殺し、世界に平和をも齎せる程の凄まじい力を持っている。この魔法は、スターライトエクスプロージョンやマフーの様に、魔法に通じた魔道士や司祭でなくとも、一心にその事を念じさえすれば、誰でも唱える事が可能である。古くは、世界各地で言霊の姿を見ることができたが、キリスト教やイスラーム教などの新興宗教が、シャーマンやドルイドなどによる呪術系宗教を駆逐していくに従い、言霊教も駆逐されていき、現在、地球上でそのような力を操る事ができる迷…信心深い民族は未開地や僻地の、誰かさんのようなごく一部の民族に限られる。
日本での言霊
古の日本人は、万葉歌人の柿本人麻呂が「磯城島の大和の国は 言霊の助くる国ぞ 真幸くありこそ」(大意:我が日本は言霊の助ける国である)と万葉集でも詠んでいるように、日本は言霊の国である事を良く理解していた。しかし、現代日本人は、愚かにもその霊力について全く知識を持っていない。その為、「もし、日本が敵国の攻撃を受けた場合、自衛隊は超法規的行動を採らざるを得ない」と言った某防衛庁長官(当時)や、所謂「神の国発言」の蜃気楼首相(当時)、そして「同じ人間だから粛清されましたなんて在り得ない」と主張する地球市民の様に、自らの発した言霊の所為で自滅するという、悲劇を通り越して滑稽としか言いようのない人が後が立たない。
言霊の基礎
言霊の国 日本
前段で述べた様に、日本は言霊の国である。古代の話ではない。現在もそうである。 ある某国の学生は、現代でも受験前に「合格祈願」と絵馬に書いて神社に奉納する。そして、その様な学生の前では「滑る」「落ちる」は禁句である。何故か。それは、合格祈願と書いて祈れば受験に合格するからであり、滑る・落ちるなどと言えば、本当に受験に「滑」ってしまうからである。当然、合格祈願と書くだけで合格するなら誰も苦労しない、滑ると言ったら受験に滑る・・・そんな馬鹿な話があるか、その他大勢の国の人はそう考える。では日本人はどうなのか、言うまでもない事である。
神と人
言葉の力は神をも動かす。これが日本人の持つ力「言霊」である。日本人が豊作祈願などの神事やお祈りを神の前で行うのは、只の人でも一心に念ずれば、必ず天に思い(言霊)が通ずるからである。これに対して、自らの思いに報いてくれた神に感謝の意を示す行事が、秋祭りなどの神事である。一方キリスト教など、他の新興宗教でも、神の御厚情に感謝すると謂う発想はあるが、神に思いを託すと言う考えは毛頭ない。当然であろう。自らの手で生み出した人間どもの言葉など、造物主なるザ・クリエイターが聞く筈もないからである。
言霊と名前
ポピュラーネーム
キリスト圏やイスラーム圏では、ポピュラーネームと言うものがある。その国・民族でよく使われる名前の事である。例えば、マリアといえば、マケドニア王女のシスターであったり、三千院家の有能メイドであったりするし、サッダーム・フセインばかりが有名になっているが、中東史を習うと、「フセイン」はわんさか出て来る名前である。よく外国人が制作した映画にタローやハナコという名が散見されるのも、その制作者がハナコが所謂「マリア」だと思っているからである。実際の処どうなのかは言うまでもなく、タローと言う名前は、ウルトラマンタロウや麻生太郎・岡本太郎位な物であろう。
人名
言霊の国では、当然人名は「その人そのもの」であるから、滅多に人の名(特に本名)は口にしてはならない事になる(諱=忌み名)。その為、特に位の高い人の場合は称号で呼ぶのが一般的であった。例えば大王やヒミコ(日巫女・日御子)である。
名前がその人自体を指すのであれば、なるべく被らぬ様にせねばならない。実際、学校の同じクラスメート同士でも、あまり同姓や同名の人は見かけないものである。これは、横(同時代)だけでなく縦方向(違う時代)においても言う事ができる。キリスト圏なら、マリアという名は、ローマ帝国時代にも現代にもいるが、日本史において、戦国時代に織田信麻呂と謂う人や、この21世紀の日本に木村拓左エ門と言う名前は、せいぜい此処で見掛ける程度だろう。
次の一文は、万葉集第一巻の冒頭にある、雄略天皇の歌である。
天皇の御文歌 籠もよ み籠もよ ふくしもよ みぶくろ持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らせね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ いませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
(大意) 天皇の御歌 籠も 良い籠を持ち ふくしも 良いふくしを持って この岡で 菜を摘まれる乙女子よ ご身分は 名も明かされよ この大和は 悉く 私が 君臨している国だ 私の方こそ 告げよう 身分も名も 
懐古主義者が好みそうな牧歌的な歌が、一転して恐ろしい歌に感じられてきたであろう。これは「そこの乙女子よ、俺の女になれ」という歌なのである。
言霊の実例
忌み言葉
言霊のチカラは、その言葉の内容の良し悪しに関わらず発揮される。したがって、縁起でもない事を言うのは以ての外である。事実、2008年7月23日にUnNewsに掲載された「栗駒山の地形図が売上絶好調、増刷も決定。国土地理院長、喜び隠せず」との不謹慎も甚だしい記事が原因で、4時間後の24日0:26に東北地方で大地震が起こるという、ノストラダムスもビックリの事態となった。
し / 無論、し(死)という言葉は、口が裂けても言ってはならない。理解の深いホテルでは4号室は存在しないし、稀に4階のないビルもあるという。また、日本のとある病院では、(キリスト系なのに)13号室はあるが、4号室はない。
日本は負ける / 大東亜戦争の日本軍にしても、オリンピックの日本チーム(野球やサッカー)にしても、負けてから「負けるのは最初から判っていた」のなら、なぜ最初から言わないのか。勿論、言ったら本当に負けてしまうからである。その為に、試合(戦争)に勝ち進んでいる間は、「強いぞニッポン」といったベタベタの賞賛一色になり、負ると、今度は掌を返した様にバッシング一辺倒という事を、性懲りもなく繰り返している。日本人は、終わった事は(戦争にしろ、試合にしろ、受験にしろ)全て「水に流して」しまい、碌に歴史の教訓を学ばない。だから、こうなるのである。
お前はもう死んでいる / いわゆる「あたご事件」で、自衛艦Aに体当たりした某漁船乗組員の葬式が行われたのは、何と事故発生後1ヶ月近くも後の事であった。冷静に考えれば、1~2週間も見つからぬのであれば死亡と看做しても問題無い筈である。仮に若し彼らがその後に奇跡的に生還したとしても、決して死亡と看做した事を怒りはしないであろう。なのに何故そうしないか。勿論そんな事をしたら、本当に乗組員の方が死亡してしまうからである。
この2008年に発生した「あたご事件」は、怨霊信仰もそうであるが、日本に言霊信仰が脈々と受け継がれている事を印象付けさせるものであった。
言葉狩り
言葉自体が力が持つ。なのであれば、問題があるのなら、言葉自体を抹殺すれば良いのである。
敵国語 / 日本が鬼畜米英に負けたのは、ZERO戦なんか製造したからである。
えた・非人 / 言葉さえ無くせば、部落差別(同和問題)は解決するのである。現に、穢多や非人と言う字をワードで変換しても出て来ない。
弱い熱帯低気圧 / 1999年の丹沢での水難事故は、熱帯低気圧を弱い呼ばわりしたから起ったのである。もし強い熱帯低気圧と読んでいたとしても、事故が起っていたと云う発言は、とんでもない妄言である。
推薦言霊
世界平和・核廃絶・反戦・9条・護憲 / 某新聞も、社説でこう仰られている(1994年5月4日付)。「僕はいつも反戦を語る。一人ひとりが反戦を言う。そのネットワークを広げる。いや、仮令世界でたった1人でも、僕は反戦、反戦と言う。」反戦・平和と一心に唱えていれば何もせずとも、北の国からミサイルが飛んで来ても、西の国から侵略が起きても、日本は平和なのである。
打倒鬼畜米英・神州不滅 / 大政翼賛時代に、率先してこれらのスローガンを掲げていたのが、某新聞である。成程、この様な邪念を持った報道機関が在ったから、鬼畜米英に負けた訳である。裏では「僕はいつも反戦を語る。一人ひとりが反戦を言う。そのネットワークを広げる。いや、仮令世界でたった一人でも、僕は反戦、反戦と言」っていたのだから。
触れてはならない
有事法案 / 論議する事自体在ってはならぬと云うのは、反体制的な事は口に出してはいけないと言う戦時下の日本と変わらない気がするにも拘らず、民主主義を標榜する朝日新聞が反対しているのは、有事に付いて口に出すと、本当に「有事」が起ってしまうからである。
想定内 / これの対義語である「想定外」は東日本大震災を筆頭とする全ての激甚災害における政府の常套句である。大震災を見越した防災計画を当時の仕訳大臣は「100年に1度と云うのは全く発生しないのと同義」と一蹴。それから約2年後に1000年に1度発生するかのM9.0の大激震が発生し、爆発崩壊した福島第一原発からは現在も放射性物質がダダ漏れである。若し想定をしっかり行っていれば被害を減らせたのではという発言は、とんでもない妄言である(これで団塊世代や地球市民の、宿願にして生業である人生を賭けた革命ごっこが新たなステージに上ったのだから)。
コトダマイスト
日本人の多くが言霊の存在を蔑ろにする様になって久しいが、今でも脈々と言霊の力を守り続けている人達がある。それが、コトダマイズム(言霊主義)であり、コトダマイスト(言霊主義者)である。
ケンシロウ / 著名な言霊使いの一人。「お前はもう死んでいる」の一言で、多くの敵を抹殺した。
朝日新聞 / 「私たちは信じている、言葉のチカラを」。何処かで聞かれた事がないであろうか。そう、あの偉大な朝日新聞のスローガンである。
広辞苑 / 「仕事って、ことばで動かすものなんだ」。左派系出版社の重鎮 岩波書店が発行する「自称」日本最高峰の国語百科辞典の、2008年春のキャッチコピーである。ちなみに、第6版発行の際、特集記事を組んだ新聞があった。「中学生朝日」である。
日本社会党 / 「無所属・その他」クラスの存在感(社会民主党)に零落れて、なお大政党の様な態度を取る、空気を読まないにも程がある政党。流石は朝日新聞と同じ極左政党である。ご存知の様に、「護憲」と共に生存し「護憲」と共に滅びゆく、生ける屍である。
日本共産党 / いまだに共産主義を標榜する、西側諸国では唯一の政党。社民党と同じく「護憲」「9条」が党是である。
日本労働党 / パクス・シニカを標榜する現代版大政翼賛会。 
 
井沢説にみる日本人に独特の"宗教感情"

 

日本人の心の中には、「言霊」というものがあります。もちろんこれは宗教の話ではありません。しかし言霊というものは、霊というものがあるかないかではなく、多くの日本人が信じているものです。
明日は運動会だということでみんなで準備に盛り上がっているときに、誰かが「明日は雨が降るだろう」といったとしましょう。その時は、せっかくみんなが楽しみにしているのに水を差すいやなことを言う奴だ、という程度のものかもしれない。ところが、翌日本当にどしゃ降りの雨が思いがけなく降ったりすると、「おまえがあんな事を言ったからこんな天気になった」と冗談まじりにでも非難する者がたいてい出てくる。
しかし、考えてみると、「明日は雨が降るだろう」と発言することと、実際に雨が降るという自然現象の間には断じて因果関係はないですね。それなのに私たちの心の動きは、「誰かが縁起でもないことを言ったからそれが現実のものとなった」と思ってしまうんです。
このような日常的で些細なことだけならさして「実害」はないのですが、ことが戦争を決断するかどうかという、多数の国民の運命に関わる重大な国家的決定に際してこのような「言霊」信仰が作動すると、合理的、理性的な判断を抑え込んでしまうことになります。
アメリカとの戦争を始める前に、この戦争では勝ち目はないという判断を持っていた国家指導者は一人や二人にとどまりません。いや、ほとんどの人々は「日本は負ける」と思っていました。しかし、「日本はこの戦争に負けるかもしれない」という言葉を公然と口にすることはタブーだった。そんな不吉なことを言うこと自体が、敗戦という現実を招き寄せると考えられたからです。いや、敗戦を望んでいる者、とまでとられかねませんでした。
戦後の日本は一転して「平和主義国家」になります。
そうすると、今度は「平和、平和」と繰り返し叫ぶことで平和が実現すると思い込む風潮が一般的となりました。これもまた、言ったことは実現する、実現してほしくないことは決して口にしない、という「言霊信仰」の現われだったのです。
湾岸戦争のとき、この日本人の行動パターンは喜劇的なまでに露呈されます。作家の司馬遼太郎氏が「念仏平和主義」という誠に適切な表現を与えたのは、この風潮に対してでした。当時、世界中のマスコミが「開戦必至」と訴えていたのに対し、日本のマスコミだけがその「状況」を伝えていなかった、伝えること、報道すること、「言挙げ」をすることを避け、ひたすら平和的解決を訴えたのです。すでにそのような望みは絶望的となっていたにもかかわらず。
日本人の「念仏平和主義」は、井沢元彦氏の「言霊」論で明快に説明できます。それは冷静な現実分析を排し、「必勝の信念」を呼号し、それに酔った戦時中の国家指導者の行動原理とまったく同じ物でした。
だから日本では、「有事立法」ということができません。
確かに有事立法というものは、サヨクにいわせれば「国家総動員法」というものの連想でしょうけど、軍隊がすべてを仕切るというようなことに応用されてしまう可能性も無しとはいえない。その危険性は確かにあります。だが、本来の意味の有事立法というのは、例えば、総理大臣が死んだ、副総理も死んだ、じゃ、だれが日本国を代表するのか。あるいは日本の領空内に国籍不明機が侵入して国会議事堂に向かっている。どうやら、爆弾を積んでいるらしい。こういうとき、どうするのかをちゃんと決めておくということです。例えば、戦争なんかしないで無条件降伏すればいいじゃないかという人もいますけど、国会議事堂に爆弾が落ちて、閣僚全員が死んでしまったら、誰が日本国を代表するのか。そういうことも決めておかないと、無条件降伏すらできない。
こういうことを言って「有事立法」を考えよう、と公で口にすると、猛烈な非難がきます。
なぜ非難されるかというと、例えば日本国内に国籍不明機が侵入するなんていうことを言うと、さきほどの「日本は戦争に負ける」という発言と同じで、そういう事を望んでいる、と取られるからです。そんなことは議論する必要すらない、と。
勘違いしないで頂きたいのは、民主主義国家において、『非難すること』自体は自由だということです。異なる意見をぶつけ合い、双方の意見の内容について、それぞれの言い分を提示していく。そういった中で、様々な角度からの見方、意見を聞き、物事を決定していく、それが民主主義の基幹のひとつのはずです。
しかし、この場合は違います。有事立法制定の意見の内容についての非難、ではありません。有事立法制定についての意見そのものが非難されるのです。まさに、「そのような事は口にするものではない!」と。これではただの「意見の抹殺」です。
例えば日本がどこかの国に攻められる。そして占領される。そして「日本国憲法」が停止されるということは、歴史上を見れば、充分に考えられることです。するとそういうことがないようにはどうすればいいかというと、当たり前の話ですが、そのための軍隊を持っておくと。つまり憲法を護るための軍隊を持っておくということです。これは日本人以外は当然そう考えるから、みんなあるんですね。どこの国でもちゃんと憲法に規定された軍隊があります。永世中立国といわれるスイスにもあります。いや、むしろ自前のしっかりした軍隊があるからこそ、永世中立を掲げることが出来るのです。ところが日本人だけは、軍隊があると戦争を呼ぶんじゃないか。だからないほうがいい。しかしまったくないのも不安だから、軍隊とは呼ばずに「自衛隊」といおうと。内容でも変わっているのかというと、全然変わっていない。ただ、言葉でごまかしているだけです。
自衛隊は常識的に見れば、どこの国の誰が見ても、軍隊です。しかし、軍隊といわずに自衛隊といおうと。日本には軍隊はないんだと安心する。だけど自衛隊はある。それで安心する。こういう奇妙な言葉の上でのごまかしの二重構造の上に日本人は成り立っています。
雨が降るといえば雨が降る世界では、日本に軍隊はありませんといえば、無いんです。実際にはあっても、それはどう見ても軍隊じゃないかというものがあっても、言葉の上だけで打ち消しておけば、無いんです。そして、そのことによって安心する。
…言霊というものをある程度自覚しない限り、わけも分からず振り回されてしまう状態はこれからも続いてしまうでしょう。 
 

 

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