番外編 
 
「かがやき507」ホームの先発列車 
 
 
猫へのお土産「手毬」 興味なし 


金沢駅 同窓会2015 トップへ戻る

石川県 / 加賀、能登
 
誰かもと織りそめつらむ賀よろこびを 加ふる国のきぬのたてぬき 道興  
加賀百万石 / 金沢市  
金沢は、加賀・能登・越前の三国を領した前田氏の城下町である。町の中央を犀川が流れる。  
○ 母恋し夕山桜峰の松 泉鏡花  
○ ふるさとは遠きにありて思ふもの そしてかなしく歌ふもの…… 室生犀星  
金沢市内の兼六園の中に金沢池がある。むかし芋掘藤五郎といふ男が、山で芋を掘るかたはら、ときどき砂金を掘ってゐた。その砂金を池で洗って取り出したことから金沢池の名がついた。藤五郎は、加賀介藤原吉信の末裔といふ。
   小景異情 室生犀星  {抒情小曲集} 
    白魚はさびしや  そのくろき瞳はなんといふ  
   なんといふしほらしさぞよ  そとにひる餉(げ)をしたたむる  
   わがよそよそしさと  かなしさと  
   ききともなやな雀しば啼けり  
       ふるさとは遠きにありて思ふもの  そして悲しくうたふもの  
       よしや  うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても  
       帰るところにあるまじや  ひとり都のゆふぐれに  
       ふるさとおもひ涙ぐむ  そのこころもて  
       遠きみやこにかへらばや  遠きみやこにかへらばや  
   銀の時計をうしなへる  こころかなしや  
   ちよろちよろ川の橋の上  橋にもたれて泣いてをり  
       わが霊のなかより  緑もえいで  
       なにごとしなけれど  懺悔の涙せきあぐる  
       しづかに土を掘りいでて  ざんげの涙せきあぐる  
   なににこがれて書くうたぞ  一時にひらくうめすもも  
   すももの蒼さ身にあびて  田舎暮しのやすらかさ  
   けふも母ぢやに叱られて  すもものしたに身をよせぬ  
       あんずよ  花着け  
       地ぞ早やに輝やけ  あんずよ花着け  
       あんずよ燃えよ  ああ あんずよ花着け
羽咋の海 珠洲の海 / 羽咋市、七尾市  
むかし大己貴命と少彦名命が能登国をめぐり、土地の多気倉長た け くらなが命と力を合せて能登の国作りをした。のち少彦名命の霊は神石にこめられて宿那彦神像石神社(七尾市黒崎町)にまつられ、大己貴命は気多けた神社(羽咋市)にまつられた。天平二〇年に越中守の大伴家持が陸路、志雄しをの里を通って、気多の神に詣でたときの歌がある。  
○ 志雄路しをぢからただ越え来れば羽咋はくひの 海朝凪したり船楫ふなかぢもがも 大伴家持  
付近には釈迢空師弟の墓所もある。  
○ 気多けたの村若葉黒ずむときに来て 遠海原の音を聞きをり 釈迢空  
○ 春畠に菜の葉荒すさびしほど過ぎて おもかげに師をさびしまんとす 折口春洋  
伊夜比盗_社大伴家持が能登の長浜の浦(七尾南湾)を訪れたときの歌。  
○ 珠洲すすの海に朝開きして漕ぎ来れば 長浜の浦に月照りにけり 大伴家持  
家持と長浜の長者の娘の子孫が小林家だといふ。  
七尾湾に浮かぶ能登島の伊夜比唐「やひめ神社の神(越後の弥彦の神の后神といふ)は、島の良材を以て船材を伐り出すことを教へた神といふ。  
○ とぶさ立て船木きるといふ能登の島 山今日見れば木立繁しも 大伴家持  
蝉折の笛 / 珠洲市 須須神社  
桓武平氏のうち高望たかもち王系の平清盛は、平氏としては傍流であったので、嫡流の高棟王系の時子を妻にして支配基盤を広げた。時子の弟の平時忠は、壇ノ浦の戦の後は、能登の大谷(珠洲市大谷町)への流罪となった。  
○ 白浪の打ち驚かす岩の上に 寝いらで松の幾夜経ぬらむ 平時忠  
ここへ都落ちの源義経が、安宅(あたか)の関を越えて船で着いた。義経は時忠の家に一泊し、船出のときには時忠の娘の蕨姫も同船した。船が須須の浦にさしかかると、海が大荒れとなった。義経は須須すすの神に祈って難をのがれることができたので、須須の神に蝉折せみをれの笛を奉納した。  
○ うきめをば藻塩とともにかきながし 悦びとなるすすの岬は 源義経  
この笛は鳥羽天皇が唐の国王から贈られたもので、源頼政や高倉天皇を経て義経の手に入り、須須神社に今も伝はる。平時忠の子孫が、能登の豪商時国ときくに家だといふ。時国家は、鎌倉から江戸時代にかけて多数の北前船を所有して貿易をなし、諸産業を多角経営して繁栄を極めた。  
福浦の腰巻地蔵 / 羽咋郡富来町  
北前船で賑はった能登の富来とぎ町、福浦の港には、遊女の街が栄えた。遊女のことを土地の言葉でゲンジョといった。むかし一人のゲンジョが、なじみの客との別れを惜しみ、少しでも長く港に留めるために、海辺の地蔵さまに腰巻を掛けた。すると海が荒れ、船は出帆をとりやめたといふ。腰巻地蔵といふ。  
○ 能登の福浦の腰巻地蔵は けさも船出をまたとめた 野口雨情  
久江の道閑 / 鹿島町久江  
寛文六年(1666)能登の久江くえ村に検地実施のおふれが出たとき、領主・長連頼の家臣・浦孫右衛門は隠し田を持ってゐた。発覚を恐れた孫右衛門は、百姓たちを扇動して検地中止の請願をさせようとしたが、人徳のある庄屋の道閑を代表に仕立てなければ、中止の請願など通るまいと考へた。煽られた百姓たちは道閑に頼みこみ、道閑はやむなく請願に動いた。しかし逆に騒動の首謀者として捕へられ、磔の刑に処せられた。  
○ 消えてゆくあとに形あり霜柱 道閑(辞世)  
のち、孫右衛門の一味は捕へられ、事件の真相が明らかにされたが、村へは検地による田の没収もなく、村人たちは「久江の道閑さま」と慕ひ尊敬しつづけたといふ。  
○ おいたはしや道閑さまは七十五村の身代はりに 臼すり唄  
白山信仰 / 白山比盗_社  
白山は養老元年(717) に僧泰澄による開基といはれ、平安時代の末ごろからは修験道の霊場として栄えたが、一向宗や曹洞宗の拡大により衰退した。麓の石川郡鶴来町の白山比唐オらやまひ め神社が、加賀国の一宮、白山本宮とされる。  
○ 君が行く越の白山しらねども ゆきのまにまに跡はたづねん 藤原兼輔  
近世以降、諸国の白山社は、養蚕と機織の神としての信仰も集めた。  
○ 誰かもと織りそめつらむ賀びを 加ふる国のきぬのたてぬき 道興  
篠原の実盛塚 / 加賀市篠原、小松市  
治承四年(1180)、木曽に挙兵した源義仲は、北陸路を制覇し、越中から京へ進軍しようとしてゐた。平家方の斎藤別当実盛は、老齢の身ではあったが、故郷の越前を守るべく、寿永二年(1183)加賀から越中へ入らうとした。だが、倶利迦羅くりから峠で義仲の軍の前に大敗し、加賀国篠原で手塚太郎と一騎打ちの末、討死した。その首が義仲に届けられると、義仲は実盛の首に間違ひないと思ったが、髪が黒いのを不審に思った。そこで近くの池で首を洗はせると、染めてゐた黒髪が白髪に変った。七十三才の老将の心構へに、源氏の武士たちは深い感銘を受けたといふ。実盛の兜は、多太ただ(八幡)神社(小松市)に納められたといふ。  
○ 無残やな兜の下のきりぎりす 芭蕉  
実盛は稲の切り株に足を取られて討たれたともいひ、それ以来実盛の霊は蝗いなごなどの害虫となって農民を悩ますので、西日本の虫送りの行事では実盛の霊も供養されてきた。  
諸歌  
○ 朝顔や釣瓶とられてもらひ水 千代女  
山中温泉は、行基が開いたといはれ、蓮如なども立ち寄ったといふ。  
○ 山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ 芭蕉  
 
加賀 / 加賀の国、現在の石川県。  
○ 波よする竹の泊のすずめ貝うれしき世にもあひにけるかな  
○ わけ入ればやがてさとりぞ現はるる月のかげしく雪のしら山  
「竹の泊」石川県江沼郡にあるといいます。  
「しら山」注解では「加賀」とあるも、越の白山だと思われます。石川県、富山県。福井県などにまたがる山で、越前の歌枕です。 
いぼとり石(いぼとりいし) / 石川県金沢市兼六町  
金沢一の観光名所である兼六園の南に隣接する金澤神社。その鳥居のそばにある放生池のほとりに、いぼとり石がある。駒札があるのでそれと判るが、なければただの庭石としか見えない。  
この石は元からこの地にあったわけではない。この石は、はじめ能登鹿島郡町屋村(現在の七尾市中島町屋)にあったが、前田家12代藩主夫人が兼六園の梅林近くに取り寄せ、さらに現在地へ移動させたものである。金澤神社によると、この町屋村には“いぼ池”という名の池があり、そこの石でこするとイボが取れるという言い伝えがあるらしい。  
このいぼとり石は一抱えほどの大きさで、表面が滑らかであり、本当にイボを取るためにこすり続けられているのではないかと思わせる雰囲気がある。それを裏付けるような話が、明治27年に出された『金沢市内独案内』という書籍に残されている。とある遊郭の女郎の陰部にイボが出来た。困り果てて、いぼとり石で一両回こすってみると、イボは跡形なく取れてしまったという。金澤神社周辺は、明治7年に兼六園が公園として開放されるまでは一般人が立ち入ることが禁じられていた場所であるので、この話が事実として成立するためには、明治以降に起こったとされなければならないはずである。つまりこのイボ取り信仰は明治期まで続いていたとみなしていいだろう。  
金澤神社 / 創建は寛政6年(1794年)。11代藩主・前田治脩(ハルナガ)が兼六園内に藩校を設立し、家祖である菅原道真を祀ったことから始まる。12代藩主・斉広の時に火難除けなどの神も合祀した。歴代藩主が兼六園散策の折りに藩内の安寧を祈願したとされる。兼六園開放までは、年2回の例祭の時に婦女子のみ参拝を許されていた。
金城麗澤(きんじょうれいたく) / 石川県金沢市兼六町  
兼六園に隣接する金澤神社のそば、大きな四阿風の建物がある。「金城麗澤」の額が掲げられており、屋根の天井には小さいながらも竜の絵が描かれている。そしてこの建物の下から滾々と水が湧き出ている。これが金沢の地名の由来となった金城麗澤である。  
金城麗澤は加賀藩12代藩主の前田斉広(なりなが)がこの地に竹沢御殿を建てた時に整備されたものであるが、水源地としては相当昔から湧いていたものであり、金沢のもう1つの発祥の伝説となる、芋掘り藤五郎とも大いに関係している。この水源こそが、藤五郎が掘った芋を洗った場所であり、大量の砂金が取れた場所であるとされている。それ故にこの地は「金洗い沢」と呼ばれるようになり、それが転じて金沢の名称となったとも言われている。  
芋掘り藤五郎 / 加賀国の山科に住んでいた藤五郎は、貧しくも山芋を掘って生計を立てていた。ある時、大和の長者の姫が観音菩薩のお告げによって藤五郎に嫁いできた。姫は砂金の入った袋を手渡して買い物を頼んだが、藤五郎はそれを鴨を捕るために投げつけて、結局手ぶらで帰ってきた。金のありがたみを知らない藤五郎に怒る姫に対して、藤五郎は芋を洗って砂金を見せた。姫はそれが金という価値あるものと教え、夫婦は大金持ちになったという。この物語は全国各地に散見できる伝説であり、金沢独自の伝承ではない。
伏見寺(ふしみじ) / 石川県金沢市寺町  
金沢の寺町寺院群の1つである。開基は芋掘り藤五郎とされ、藤五郎ゆかりの寺として有名である。  
芋掘り藤五郎は、奈良時代にこの地に住んでいたとされる伝説の人物であり、山芋掘りと生業としていた。ある時、初瀬の観音菩薩の夢告に従って、大和国の長者が姫を伴ってやって来て婿とした。貧しいながらも2人は仲良く暮らしていたが、姫の実家から送られてきた金を藤五郎は鳥を捕るために投げつけてしまう。金の価値を知らない藤五郎を嘆く姫であったが、藤五郎はそれが山芋を掘ればいくらでも出てくるものだと告げる。かくして2人は大量の砂金を手に入れ長者となったのである。また藤五郎が掘った芋を洗った沢を「金洗いの沢」と呼んだことから、この一帯を金沢と呼ぶようになったとも言われる。  
伏見寺は、信心深い藤五郎が集めた砂金を使って仏像を造って、自らが住んでいた山科の里に近い伏見に建立した寺である。さらにその仏像を開眼供養したのが行基であるため、現在でも行基山伏見寺としている。境内には芋掘り藤五郎の墓があり、堂内には平安前期の阿弥陀如来像が安置されている。
芋掘り藤五郎 / 石川県金沢市 
昔、加賀の国石川郡山科の里に、藤五郎という男が住んでいた。加賀の介藤原吉信公の子孫だと言うが、山芋を掘っては売る貧しいその日暮らしをしていた。 
ある日のこと、大和の国初瀬(長谷)の長者、生玉[いくたま]の方信[ほうしん]夫妻が、一人娘の和子[わご](和五)を連れて訪ねてきた。なんでも、和子は子宝に恵まれなかった方信夫妻が長谷寺の初瀬観音に祈願して授かった観音の申し子で、観音の夢告げがあったから、藤五郎と夫婦にならねばならないと言う。そして娘を押し付けて帰っていった。和子は財宝を沢山持参してきたが、藤五郎はそれをみな周りに配ってしまった。 
二人が夫婦になった後のある日、方信が砂金一袋(黄金)を贈ってきた。藤五郎はそれを持って買い物に出かけたが、途中で田を荒らす雁を見つけて砂金の袋を投げつけ、手ぶらで戻ってきた。それを知った和子が「あれは貴い黄金というものなのに」と呆れ嘆くと、藤五郎は「こんなものが尊いと言うなら、いつも掘る芋の根にいくらでも付いてくるから来てみろ」と言う。行ってみると本当に砂金だらけであったので、和子の喜んだことと言ったらなかった。こうして籐五郎夫婦は長者となった。 
枯れてしまって今は無いが、籐五郎が山芋を掘るとき鍬を掛けた松を鍬掛けの松と言う。また、砂金混じりの土の付いた芋を洗った沢を金洗いの沢と呼んだ。今の兼六公園の泉はその跡で、金沢の地名もここから起こったものである。 
参考文献 「正説・芋掘り籐五郎」「いまに語りつぐ日本民話集動物昔話」 
[芋掘長者]と呼ばれるパターン。運命の夫の職業が山芋掘り。百済の武王の「薯童伝説」でも有名。 芋掘長者系の財宝発見は、山芋を掘った土に砂金が混じっているもの、山芋や蕪を掘った穴から酒が湧くものなど、《植物を抜いた跡の穴から宝が出る》というものが多い。単に山芋を探して地面を掘ると黄金が出た、と語られることもある。 
金沢の地名由来伝説として知られた話で、「越登賀三州志」等に記述がある。金洗い沢には今も金城霊沢の碑が建っている。また、金沢市の伏見寺の重要文化財の金銅阿弥陀如来は、籐五郎が掘った金を自ら鋳造して作ったものだと言われ、同寺には籐五郎の墓まである。 
異伝には、籐五郎が地中から一寸八分の黄金の薬師如来像を掘り当てて奉納したというものもある。思えば「炭焼き小五郎」の般若姫の守り本尊は、海から漁師の網で引き揚げられた一寸八分の黄金の千手観音像だった。とはいえ、これは日本の伝説ではよく見るモチーフで、例えば道成寺縁起の髪長姫伝説でも、海女である姫の母が妖しく輝く海底に潜り、己の髪に絡んで引き揚げられた一寸八分の黄金仏を姫の守護仏にしたとある。ちなみに、漁師が宝(女神、神童)を引き揚げるというモチーフも、世界中の伝承で見られるものである。
妙慶寺(みょうけいじ) / 石川県金沢市野町  
金沢の寺町寺院群の一角にある妙慶寺は、前田利家の家臣であった松平氏に伴って越中から移転してきて現在に至るが、周辺で大火が起こっても類焼しないとされている。 5代住職の向誉上人が近江町市場を通りがかった時、人々が何かを取り囲んで騒いでいる。気になって覗くと、1羽のトンビを捕まえて殺そうとしている。聞くと売り物の魚を盗ったところを捕まえたのだという。憐れに思った上人は、人々に掛け合ってトンビを譲ってもらい逃がしてやったのである。  
その夜、上人の枕元に天狗が現れた。助けたトンビは実はその天狗が化身したものであり、命を助けてもらったお礼がしたいと言う。しかし上人は特に望むものはないと答える。そこで天狗はいつまでも寺が続くように守護しようと言って、八角形の板を取り出して鋭い爪で何かを刻み始めた。  
翌朝目覚めた上人は、枕元に八角形の板を見つけて、天狗が現れたのは夢ではないことを悟った。板の両面にはそれぞれ「大」と「小」の文字が刻まれていた。上人はそれを庫裏の柱に掛けて、大の月の時は「大」の面、小の月の時は「小」の面が表になるようにした。それ以降、妙慶寺は“天狗さんの寺”と呼ばれるようになり、火災に巻き込まれることはなくなくなった。そしてそれにあやかるように、金沢の町の商家などでは八角形の板を模した“大小暦板”を火難除けとして飾るようになったとされる。ちなみに実物の暦板は非公開、檀家のみ見ることが出来るとのこと。
岩井戸神社 猿鬼(いわいどじんじゃ さるおに) / 石川県鳳珠郡能登町当目  
岩井戸神社は別名「猿鬼の宮」と呼ばれる。旧柳田村の伝説として伝わる猿鬼を祀ったとされるためである。  
昔、このあたりで猿鬼という化け物が18匹の鬼を従えて、周辺の田畑を荒らし、娘を攫ったりと暴れ回っていた。かつて猿鬼は、大西山に住む善重郎という猿の手下であったが、棟梁の目を盗んで悪さを繰り返したので追い出され、いつしか化け物に変じたともいわれる。とにかく村人は猿鬼を大いに恐れ、隠れるように住んでいた。  
やがて猿鬼の悪行は神々の知るところとなり、神々の集まる出雲で相談がおこなわれた。最終的に能登のことは能登の神が処するということで、大将に一の宮・気多大社の気多大明神が、副将に三井の大幡神社の神杉姫が選ばれ、猿鬼退治が始まった。  
猿鬼は当目にある岩屋堂という洞窟に潜んでおり、そこを襲ったが、放たれる無数の矢をかわし、さらには手足や口を使って矢を受け止める始末。全く勝負にならなかった。神々は一旦引き揚げ、新たな策を考えた。すると「白布で身を隠し、筒矢を射よ」という声を聞いた。早速準備をすると、神杉姫が白布を使って洞窟の前で踊ってみせ、猿鬼たちはそれにつられて岩屋から出てきた。戦いが始まり。気多大明神が放った筒矢を猿鬼が受け止めると、筒の中に入っていた毒矢が飛び出して猿鬼の左目を突いた。慌てふためいて猿鬼はオオバコの汁で傷を洗うと、洞窟に逃げ込もうとした。それを追った神杉姫が名刀・鬼切丸で見事に猿鬼の首を刎ねて、神々が勝利したのである。  
岩井戸神社の境内には、猿鬼が隠れ住んでいたという岩屋堂が現存する。今は窪みのような穴が残っているだけだが、昔は海まで通じていたと言われ、海の荒れた時には洞窟からイカが出てきたという伝説も残る。また、この周辺には猿鬼との戦いの時の伝承が地名として残されており、「当目」は猿鬼の目に矢が刺さった所、「大箱」は猿鬼が目の治療をした所、「黒川」は猿鬼の首を刎ねた時の血が流れた所など、かなりの数のゆかりの地がある。
首洗池(くびあらいいけ) / 石川県加賀市柴山町  
寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家軍は、篠原の地で軍勢を立て直し、再び木曽義仲軍と矛を交えた。しかし木曽軍の勢いはとどまるところを知らず、敗走の憂き目となった。その中にあって、大将と思しき出で立ちで奮戦する平家の武者が一騎。それを見た義仲の家臣・手塚光盛が一騎打ちを申し入れると、武者は名乗りを敢えてせず挑み掛かってきた。だが、手塚によって討ち取られてしまったのである。  
首実検をおこなった義仲は、その武者が、自分が幼い頃に命を助けてくれた斎藤別当実盛であると認めた。しかしその髪は黒く、70を越えているはずの実盛とは思えなかった。そこで近臣の樋口兼光に尋ねると、かつて実盛は「年老いて戦に出る時は髪を黒く染めて、老人と侮られないようにしたい」と申していたという。そこで首を洗わせると、果たして髪は白くなり、実盛であると確かめられた。義仲は涙を流し、実盛の甲冑を多太神社に奉納したのである。  
篠原の古戦場には斎藤実盛にまつわる遺跡が点在する。実盛の首を洗ったとされる池も現存する。池のほとりには、首実検をする木曽義仲・樋口兼光・手塚光盛の中央に、実盛の兜が置かれた銅像が作られている。  
斎藤実盛 / 1111-1183。越前生まれの関東の武将。源義朝に属していたが、源義賢とも親交があったため、その遺児である義仲を助けて木曽に送り届けた。平治の乱より後は関東の有力武将として平家に属し、源頼朝の挙兵後も平維盛の後見として平家軍に従った。富士川の戦いで味方が戦わずして敗走したことを恥とし、故郷に近い篠原の合戦で討ち死にを覚悟して、手塚光盛に討たれる。実盛討ち死にの際、騎乗の馬が稲の切り株につまずいたとされ、その怨みから実盛は死んで後に稲を食い荒らす害虫となったという伝承がある。ウンカのことを実盛虫と呼ぶのは、このためだと言われる。  
手塚光盛 / 木曽義仲の家臣。粟津の戦いでは、最後まで義仲に従った騎馬武者の一人とされるが、戦死。漫画家の手塚治虫は、光盛の子孫であると称している。
実盛塚(さねもりづか) / 石川県加賀市篠原町  
倶利伽羅峠の戦いで惨敗した平家を木曽義仲がさらに痛撃を加えたのが、加賀国の篠原であった。この篠原の合戦で敗れた平家軍は京都に逃げ戻り、一月の後に木曽義仲は入京を果たすのである。  
この篠原の戦いでは、関東出身の平家方の武将が多く加わり討死している。とりわけ有名なのが斎藤別当実盛である。実盛は、かつて源氏に属していた頃、木曽義仲の父・源義賢が討ち取られた直後に義仲を匿って木曽へ送り届けた、いわば命の恩人であった。しかし、今は平家方の一介の武将として、地盤としていた関東を追われて北陸の戦陣に身を投じていた。既に73という老齢に達しており、この戦いを最期の一戦と覚悟していた実盛は、侍大将のみが着用できる錦の直垂を身につけ、さらに老齢であることを隠すために白髪頭を黒く染めて戦いを迎えた。  
味方が総崩れとなったところで実盛は殿を務め、手塚太郎光盛によって討ち取られる。最後まで名乗りを上げず、首実検の時になって初めて実盛であったことが分かったという。この老将の首級に、総大将の義仲は昔を思い出して涙したと伝えられる。  
斎藤実盛の討死した場所と言われるところには大きな塚が築かれている。応永21年(1414年)、北陸地方で布教をしていた時宗の14世遊行上人・太空が潮津道場(加賀市潮津町)で別事念仏会をおこなっている最中に白髪の老人が現れ、十念を授かるとすぐにその場から立ち去ってしまうという出来事があった。直後からその白髪の老人が斎藤別当実盛の幽霊だという噂が立ち、太空上人は実盛が討死した塚を訪れて回向をおこなったのである。それ以降、時宗の遊行上人が新しく代替わりすると必ず実盛塚を訪れて回向をおこなう風習が今も続くことになる。さらにこの幽霊の話は京都にまで伝わり(醍醐寺座主・満済の日記にも記載されている)、おそらくそれを伝え聞いたであろう世阿弥によって「実盛」という謡曲が作られとされる。  
斎藤実盛 / 1111-1183。越前の生まれ。武蔵国長井庄(現・埼玉県熊谷市)を本拠とする。源義賢に属し、義賢が源義平(義朝の長男、頼朝の長兄)に討たれた後に、遺児である義仲を木曽に送り届ける。平治の乱までは源氏に属するが、それ以降は関東における平氏の有力武将となる。頼朝挙兵後も平氏の武将として残り、富士川の戦い以降は平維盛に属して転戦。倶利伽羅峠の戦いを経て篠原の合戦で討死。  
謡曲「実盛」 / 世阿弥作。遊行上人が篠原で連日説法をしていると、老人が欠かさず現れる。しかし上人以外にはその姿が見えない。上人が老人に素性を尋ねると斎藤実盛の亡霊であり、成仏できないことを告げる。上人が回向を始めると、実盛の亡霊が現れ、首実検のこと、錦の直垂のこと、手塚太郎に討ち取られたことを語り、やがて消えていく。
須須神社(すずじんじゃ) / 石川県珠洲市三崎町  
三崎権現とも呼ばれ、能登半島の先端部分にほど近い場所にある。10代崇神天皇の御代に創建と伝えられ、東北鬼門日本海の守護神として海上交通の要衝の役割を果たしている。須須神社の奥宮のある山伏山は海上からのランドマークとして最適であり、信仰と共に航行の目標とされてきた。また平安時代には、海上で異変があれば直ちに狼煙が上げられ、都まですぐさま伝達される仕組みになっていたとも伝えられる(現在でも、半島の先端には「狼煙町」という地名が残る)。  
須須神社には「蝉折の笛」という名笛がある。鳥羽上皇の時代に宋の皇帝から贈られてきたと伝わる笛であるが、奉納したのは源義経とされる。  
兄の頼朝から追われ、奥州藤原氏を頼って落ち延びる際、義経一行は須須の沖合で時化に遭遇する。義経が神社に祈るとたちまち嵐が止んだので、船を岸に着けて参拝。お礼として蝉折の笛を奉納したという。その時、弁慶も「左」と銘が彫られた守り刀を奉納している。いずれも神社の宝物館に保管されているが、義経一行の奥州落ちのルートを考察する上で、非常に重要な物証となっている。
宗泉寺 ミズシの墓(そうせんじ みずしのはか) / 石川県羽咋郡志賀町堀松  
志賀町にある宗泉寺には「ミズシ」の墓と呼ばれるものが残されている。山門を入って本堂へ向かう途中の左手、とりたてて他に何もない場所に五輪塔の一部が置かれてあるが、墓であるという。「ミズシ」とは加賀・能登あたりで河童のことを指すが、この墓は近くにある淵端家の者が建てたと言われている。  
慶長年間(1596〜1615年)のこと、淵端家の主人が馬を米町川に連れて来て水浴びをさせていると、いきなり馬が走り出した。屋敷に戻ってきた馬を見ると、尻尾に一匹のミズシがしがみついていた。おそらく馬の尻子玉を取ろうとして失敗したのだろうと推察した主人は、ミズシを取り押さえると屋敷のタブの木に縛り付けて折檻をした。陸の上に引き揚げられたミズシは全く力が出せないために、「秘伝の薬の作り方を教えるから助けてくれ」と命乞いを始めた。主人は殺すつもりまではなかったので、願いを聞き入れて薬の調法を紙に書かせると、縄を解いて解放してやったという。  
その後、この薬を売り出したところ「ミズシのねり薬」ということで評判となって、家業が繁栄したという(疳薬として平成に入る頃までは売られていたと言われている)。またしばらくの間は、ミズシが川魚を魚籠に入れてタブの木に引っ掛けておいていったともいう。  
以前地図に「疳薬本舗」と表示のあった場所には、かつて薬店を営んでいた名残のある家があった。そしてその家の前には、現在でも注連縄の張られた古木がある。おそらくそれが河童を縛り付けたタブの木なのだろう。
動字石(どうじせき) / 石川県鹿島郡中能都町石動山  
石動(いするぎ)山は泰澄によって開山された、北陸では白山と並ぶ一大霊地であった。かつては衆徒3000人を抱える天平寺があり、幾度も戦火によって焼失したが、加賀藩の庇護の下で栄えていた。しかし明治の廃仏毀釈によって寺院は徹底的に破却され、今では伊須流岐比古神社が残されているだけである。現在は、国の史跡に指定され、寺院の発掘調査がおこなわれて整備が進んでいる。  
この石動山は、泰澄による開山以前から信仰の山であったとされる。その象徴が動字石である。この石は別名を「天漢石」と称し、天から降ってきた星が石と化したものであると伝えられる。この石が山に落ちてきた時に山全体が揺れ動いたことから「石動」という名が出来たともされている(泰澄が開山するまでは山が振動していたともされる)。神社の境内から少し離れた場所にあるが、石そのものが信仰の対象であることが分かるように祀られている。  
しかしながら科学的な調査によると、この動字石は隕石ではなく、安山岩であることが判明している。
モーゼの墓 / 石川県羽咋郡宝達志水町河原  
モーゼの墓は「モーゼパーク」の名前で、完全に観光地化している。この墓は、実は“三ツ子塚古墳”というれっきとした正式名称のある古墳である。この古墳は名前のごとく3つの墳墓が並んでいるが、その真ん中の一番大きな墳墓がモーゼの墓と目されているわけである(ちなみに残りの2つの墳墓は、妻である皇女と孫のものであるとされている)。問題の古墳の頂上へ行くと、(神人モーセロミユラス魂塚)と書かれた、古びた柱がぽつねんと立っている。  
モーゼが日本へ来たのは、あの『旧約聖書』の中に記載されている波瀾万丈の半生の後のことであり、シナイ山から天浮舟(UFOの一種?)に乗って、押水にある宝達山に降り立ったという。そして時の天皇に拝謁し、その姫をめとり、500余歳の長寿を全うしたという(あるいは、あの十戒を受けたのは宝達山であったという説まで出てくる)。  
このとんでもない説をブチ上げたのは、キリストの墓が日本にあると説いたのと同じ古文書『竹内文書』である。ただしキリストの墓と比べると証拠が明らかに少ない。モーゼが降り立ったという宝達山にある宝達神社に“菊の御紋”があったとか、終戦直後にアメリカ軍が調査に来たとか、近くから異常に大きな人間の骨が出てきたとか、とにかく未確認の情報は錯綜している。だが客観的な状況証拠はない。  
モーゼ / 『旧約聖書』の“出エジプト記”に登場する、古代イスラエルの指導者・預言者。神の啓示を受け、エジプトにいて虐待を受けていた多くのヘブライ人を「約束の地」へ導く使命を与えられる。そして退去の時、追ってくるエジプト軍に対して紅海を二つに割って渡り歩いて逃れる奇跡を起こす。その後放浪は続くが(餓え苦しむ時には天より“マナ”が降ってくる奇跡も)、シナイ山で神より「十戒」を授かる。そして「約束の地」に入ることなく120歳で没する。  
『竹内文書』 / 武内宿禰の孫にあたる平群真鳥が、25代武烈天皇の勅命を受けてまとめた文書とされ、真鳥の子孫を称する竹内巨麿が昭和3年に公開。神武天皇以前にも100代に及ぶ皇統があり世界を治めていた(宇宙生成よりも早くから存在したことになっている)、また歴史上に名を残す宗教指導者は全て日本で修行し、天皇に仕えたとする。キリストだけではなく、モーゼや釈迦も来日していることになっている。当然であるが、偽書として黙殺されている。 
舳倉島(へぐらじま) / 石川県輪島市  
能登半島の北端近く、輪島港の北方二〇‐二五キロの日本海上に七ななツ島がある。北部の大島・狩又かりまた島・竜島群と、南部の荒三子あらみこ島・烏帽子えぼし島・赤島・ 御厨みくりや島群に分かれる。森田柿園の『能登志徴』によると、古くは一つの島であったが波濤によって失われ、島根の巌石が七つ残ったという。さらに北方約二五キロ、北緯三七度五一分、東経一三六度五五分の位置に、ほぼ楕円形の舳倉島がある。周囲約七キロ、面積は一・一五平方キロ、面積に比して海抜が約三五‐六〇メートルと高い七ツ島と異なり、最高点は海抜一二・四メートルと低い。海岸線は複雑で、北岸と西岸は断崖が海に迫って板状節理を形成する。  
島の歴史は古く、弥生時代前期の深湾洞ふかわんどう遺跡や、古墳時代前期から平安時代にかけての製塩土器などを出土した舳倉島シラスナ遺跡がある。七ツ島・舳倉島近海は好漁場として知られ、タイ・ブリ・カツオ、海藻類、アワビ・サザエなどの漁獲物は輪島港に水揚げされる。  
越中守大伴家持が「沖つ島い行き渡りて潜かづくちふ鰒珠もが包みて遣らむ」(『万葉集』第一八)と詠んだ「沖つ島」は舳倉島のことであろう。『今昔物語集』巻二六第九には、加賀の人が猫ノ島に漂着して島の主のヘビを助け、来襲したムカデを退治した話が載り、「近来モ遥ニ来ル唐人ハ先、其島ニ寄テゾ、食物ヲ儲ケ、鮑・魚ナド取テ、ヤガテ其島ヨリ敦賀ニハ出ナル」と記される。また同書巻三一第二一に「能登ノ国ノ息ニ寝屋ト云フ島ナリ、其ノ島ニハ、河原ノ石ノ有様ニ、鮑ノ多ク有ナレバ、其ノ国ノ光ノ島ト云フ浦有リ、其ノ浦ニ住ム海人共モハ、其ノ鬼ノ寝屋ニ渡テゾ鮑ヲ取テ国ノ司ニハ弁ケル、(中略)亦其ヨリ彼ノ方ニ猫ノ島ト云フ島有ナリ」とあって、鬼ノ寝屋島とその沖合に猫ノ島があること、いずれもアワビ採りを業とする海士の漁場であったことなどが知られる。光ノ島は輪島港の西方にある光浦町と考えられるので、鬼ノ寝屋島は七ツ島、猫島は舳倉島にあたる。  
現在舳倉島は海士あま町に所属するが、江戸時代には七ツ島とともに名舟なぶね村が領有し、アワビのほか黒海苔・ワカメ・イゴなどを採集したり、網漁を行って島役銀を納めていた。とくに黒海苔は加賀藩への献上品で、村民は御下行米を与えられて冬季の二〇日程逗留したようである。島には萱葺の海苔干立小屋が建てられていた。ほかに七ツ島ではトド猟も盛んで、寛政四年(一七九二)のピーク時には三八二頭、油四五二樽(二斗入)を産している(名舟区有文書)。名舟村の七割(「三箇国高物成帳」加越能文庫)という高率年貢も、こうした両島での稼ぎがあったことによる。  
寛永年間(一六二四‐四四)のはじめ頃(一説には永禄年間)筑前宗像むなかた郡鐘崎かねざき(現在の福岡県玄海町)から海士が来住し、慶安二年(一六四九)鳳至ふげし町に居を定めた(現在の海士町)。江戸中期以降舳倉島付近での漁業権をめぐって、名舟村との間で争論が頻繁に起きた。はじめ一一八匁であった名舟村の島役は、寛永一一年から「あま舟入中ニ付而半役御捨免」とされた(「小物成万事指上帳」上梶文書)。海士町民は慶安元年(一六四八)から御菓子熨斗・長熨斗を御用鮑として藩へ上納している。やがて名舟村は舳倉島から撤退し、三月から九月まで海士町の海士が渡島して生活したという。島内には仮家百姓約一〇〇軒があった。七ツ島でも文化六年(一八〇九)から、八十八夜より二五日間は両村町同時猟業、二六日目から夏土用まで名舟村トド猟、その後は海士町猟とされた(名舟区有文書・『能登志徴』)。  
島の南西端近くに奥津比口ヘンに羊神社が鎮座する。一〇世紀に成立した『延喜式』神名帳に載る鳳至郡の同名社に比定され、祭神は田心姫命(明治神社明細帳)、市杵島姫命(宝暦四年拝殿棟札)など諸説ある。大伴家持が先の短歌とともに詠じた長歌に「珠洲の海人の沖つ御神に渡りて」とみえ、海士等の崇敬を受けてきた。神社に近い海岸のシラスナ遺跡からは、前掲の土器類のほか貝殻・魚骨、ウシを含む獣骨が採集されている。土器のなかに塗彩土器が比較的多いこと、内陸から運ばれたと考えられる牛骨が検出されたことなどから、同所で何らかの祭祀儀礼も行われた可能性がある。  
奥津比口ヘンに羊神社は江戸時代には名舟村民が護持していたと思われるが、鐘崎の海士が故郷の宗像大社の沖ノ島(現在の福岡県大島村)にみたて、宗像三神の一神である市杵島姫命を崇敬するようになったのであろう。  
一方、奥津比口ヘンに羊神社の祭神が宗像三神に含まれること、同じく式内辺津比口ヘンに羊へつひめ神社に比定される輪島港に近い重蔵じゅうぞう神社の祭神に、宗像三神の田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命があることに注目する考えがある。重蔵神社と奥津比口ヘンに羊神社を線で結び、線上の七ツ島を中津島即ち中津宮と考え、宗像神社の辺津宮(玄海町)、中津宮・沖津宮(以上大島村)の関係との類似性が指摘されている。『今昔物語集』の説話からもうかがわれるように、古代の早い時期に大陸との交流が盛んであった能登半島において、日本海を渡り、対岸に向かう航路の守護神としての位置を占めていたとも考えられる。 
牛首・風嵐(うしくび・かざらし) / 石川県石川郡白峰村  
加賀・越前・美濃の三国にまたがる霊峰白山はくさんは、「越中で立山、加賀では白山、駿河の富士山三国一じゃよ」と民謡に歌われる。白山信仰でも名高く、その名が示すように神々が座す白きたおやかな峰として知られ、その西麓に白山にちなんだ村名をもつ白峰しらみね村が広がっている。現在の石川郡白峰村の中心は、かつて東洋一のロックフィルダムとして偉容を誇った手取川てどりがわダムの貯水湖上流部に位置する大字白峰である。この地には、古くから牛首うしくび・風嵐かざらしという二つの村が成立していた。  
白山の開創には諸説あるが、「泰澄和尚伝記」によると、養老元年(七一七)「越の大徳」とよばれた泰澄が山頂に登り、神々を拝したのが開山と伝えられる。天長九年(八三二)には白山三馬場が開かれ、白山信仰の拠点となるが、白山の縁起である「白山之記」は「三ヶ馬場者、加賀馬場・越前馬場・美乃馬場ナリ、加賀ノ馬場ハ本馬場也」と記し、加賀馬場の優越性を強調している。これが「加賀の白山」とよばれる由縁である。馬場とは白山禅定道(登山道)の起点、すなわち里宮(遥拝所)の所在地のことで、加賀馬場は白山本宮・白山寺(現石川県鶴来町の白山比口へんに羊神社)、越前馬場は白山中宮平泉へいせん寺(現福井県勝山市)、美濃馬場は白山本地中宮長滝ちょうりゅう寺(現岐阜県白鳥町)であった。  
牛首・風嵐両村にも、泰澄にまつわる伝承がある。幕末の成立とされる白山麓十八ヶ村留帳(織田文書)によると、泰澄は養老元年に風嵐村を、同二年に牛首村を開いたとされ、古刹林西りんさい寺(現白峰村)の縁起などは、泰澄が白山麓に牛頭天王を祀る薬師堂を創立、同地を「牛頭」と称したとする。一方、浄光じょうこう寺(現白峰村)に伝わる「白山禅定本地垂迹之由来」は、同年泰澄が岩根いわね宮を建立、この地が風も嵐も激しかったので、風嵐と名付けられたとしている。さらに興味深いのは、天平宝字八年(七六四)の朝廷内のクーデターで敗れ、近江国三尾みお崎(現滋賀県高島町)で斬罪に処せられた(「続日本紀」同年九月一八日条)はずの恵美押勝が脱出に成功、越前の越知おち山で泰澄に出会って出家し、牛首に身を隠して林西寺を開いたという伝承である(林西寺縁起)。しかし牛首・風嵐の地は、白山本宮から尾添おぞう川に沿って登る加賀馬場禅定道、平泉寺から越前・加賀国境を経て手取川最上流部の市いちノ瀬せ(現白峰村)に至る越前馬場禅定道のルートからはずれており、泰澄との関連を強調する伝承は、むしろ白山争論において、自らの立場を有利に導こうとする意図のもとに生み出されたものかもしれない。  
白山信仰が盛んになるにつれ、禅定道の整備や山頂社殿の管理・修復などをめぐる対立が顕在化し、長期にわたる白山争論と江戸時代初期の白山麓十八ヶ村の成立を招くことになる。天文一二年(一五四三)平泉寺の寺衆と結んだ牛首・風嵐両村は、権現堂造営を行ったが、これは白山山上のものと思われる。これに対し、白山本宮長吏が異議を唱えたのに端を発し、争いは両村と尾添村(現石川県尾口村)との間の白山諸堂造営に関わる杣取(木材の伐採)権争いへと発展した。  
その一方で、加賀・越前の一向一揆を鎮圧した織田信長の家臣柴田勝家の手によって、手取川沿いの牛首・風嵐・島しま・下田原しもたわら(現白峰村)、深瀬ふかぜ・鴇とヶ谷たに・釜谷かまたに・五味島ごみしま・二口ふたくち・女原おなはら・瀬戸せと(現尾口村)、大日だいにち川上流部の新保しんぽ・須納谷すのだに・丸山まるやま・杖つえ・小原おはら(現石川県小松市)の十六ヶ村は、加賀国から越前国の所属へと変更された。江戸時代に入り、この十六ヶ村が親藩の越前福井藩領から幕府領福井藩預地へと推移したのに対し、尾添・荒谷あらたに(現尾口村)の二村は外様大名の加賀藩領となった。  
明暦元年(一六五五)加賀藩前田家の白山山上堂社建立発願により尾添村に杣取が命じられ、再び牛首・風嵐両村との争いが勃発し、加賀藩と福井藩との藩境争いに拡大していった。「白山争論記」は、「十六ヶ村之者を相催シ、弓・鉄砲を持、石倉をつき、はり番を置、加州より之建立ヲ妨可申由、理不尽之裁許ニ御座候」と、加賀藩が越前側の行為を幕府に訴えた様子を記している。争論はその後も決着せず、寛文八年(一六六八)幕府は前記十六ヶ村と尾添・荒谷の二村を収公することで、解決を図った。これが幕府直轄領の白山麓十八ヶ村の成立で、加賀藩は「加賀の白山」の名称を失うことになった。  
しかし争いは止まず、牛首・風嵐側は比叡山延暦寺・平泉寺と、尾添側は高野山金剛峯寺・白山寺との関係を強め、争論はたびたび繰り返された。寛保三年(一七四三)幕府は改めて裁定を下し、白山山頂の支配権をすべて平泉寺に与え、「加賀の白山」の呼称は名実ともに失われた。白山争論は、境界や寺社の利権などをめぐる問題が複雑に絡み合った争いであったが、実質的には杣取をめぐる村々の生活権に関わる問題でもあったといえよう。  
越前国所属の十六ヶ村は廃藩置県を経て、のち福井県所属となるが、石川県側の強い誘いによって、明治五年(一八七二)石川県能美のみ郡に越県編入され、再び「加賀の白山」が甦った。なお、白峰村が能美郡から現在所属の石川郡に編入されたのは、昭和二四年(一九四九)のことである。