全国戦没者追悼式と靖国神社

全国戦没者追悼式 

象徴とは言え  天皇陛下のお気持ち 
理解しているのでしょうか
現職閣僚の靖国神社参拝
 
閣僚のあいだは 総理にならい
せいぜい 玉串料を納めるくらいにとどめては・・・
 


全国戦没者追悼式玉串国会議員の靖国神社参拝・・・
靖国神社問題 / 問題1問題2問題3問題4参拝問題緒話問題5問題6問題7・・・
 

 

●全国戦没者追悼式 
●天皇陛下おことば 戦没者追悼式 8/15
終戦からを76年を迎えた15日、全国戦没者追悼式が緊急事態宣言下で初めて行われた。
戦没者およそ310万人を悼む全国戦没者追悼式は15日午前、東京・千代田区の日本武道館で始まり、天皇皇后両陛下のご臨席のもと、菅首相や遺族らが参列した。
2021年は、新型コロナウイルスの感染拡大により、初めて緊急事態宣言下での開催となり、参列者は式典開始以来、最も少ないおよそ200人となっている。最年長遺族・長屋昭次さん(94)「コロナについては、参列にためらいはありました。だけどやっぱり、この追悼式には参列したかった」
会場では、感染防止対策が徹底され、例年行われる国歌斉唱は演奏のみとなっている。
そして、戦没者に黙とうがささげられ、天皇陛下がおことばを述べられた。
「本日『戦没者を追悼し平和を祈念する日』にあたり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。終戦以来76年、人々のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。私たちは今、新型コロナウイルス感染症の厳しい感染状況による新たな試練に直面していますが、私たち皆がなおいっそう心を1つにし、力を合わせてこの困難を乗り越え、今後とも人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います。ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省のうえに立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国のいっそうの発展を祈ります」

 

●天皇陛下おことば「戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」 8/15
全国戦没者追悼式が15日、東京・千代田区の日本武道館で行われた。終戦から76年を迎えたこの日、天皇陛下は「おことば」として「過去を顧み、深い反省の上にたって、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」との文言とともに、コロナ禍にも触れられ「力を合わせてこの困難を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います」と述べられた。
菅義偉首相は式辞で「我が国は、戦後一貫して、平和を重んじる国として歩んでまいりました。世界の誰もが、平和で、心豊かに暮らせる世の中を実現するため、力の限りを尽くしてまいりました。戦争の惨禍を、二度と繰り返さない、この信念をこれからも貫いてまいります」との決意を語った。
新型コロナウイルスの影響で、式典の規模は縮小され、遺族の参列者数は約200人となった。

 

●「新たな試練に直面」 陛下、おことばでコロナに言及 8/15
天皇、皇后両陛下は15日、日本武道館(東京都千代田区)で開かれた全国戦没者追悼式に出席した。天皇陛下は「おことば」で戦没者を悼むとともに、昨年に続きコロナ禍に言及。「私たち皆がなお一層心を一つにし、力を合わせてこの困難を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います」と述べた。
陛下は昨年の追悼式のおことばで新型コロナウイルスについて初めて公の場で触れ、「私たち皆が手を共に携えて、この困難な状況を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います」と語っていた。
今年は「厳しい感染状況による新たな試練に直面」しているとの認識を示した上で、「なお一層心を一つにし、力を合わせて」と強調して、コロナ禍を乗り越えていくことを呼びかけた。昨年は「手を共に携えて」という表現を使っていた。
上皇さまが2015年から用い、陛下も即位後の19年から述べている「深い反省」は、今年も盛り込んで「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬこと」を切に願うと述べた。
 

 

●戦没者追悼式、遺族は92人のみ 配偶者の参列途絶える 8/15
終戦から76年の15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。都内は新型コロナウイルスの緊急事態宣言中のため、参列者数を昨年以上に絞り、過去最少の185人となった。戦没者約310万人を悼み、平和の継承を誓った。
付き添いも含めて遺族92人のほか、天皇、皇后両陛下や首相らが参列した。正午の時報に合わせ、1分間の黙禱(もくとう)を戦没者に捧げた。
天皇陛下は「おことば」で昨年同様に「過去を顧み、深い反省」を盛り込み、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬこと」を切に願うと語った。コロナ禍についても「私たち皆がなお一層心を一つにし、力を合わせてこの困難を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います」と述べた。
菅義偉首相は式辞で、「今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません」と語り、「戦争の惨禍を、二度と繰り返さない、この信念をこれからも貫いてまいります」と不戦を誓った。
1993年の細川護熙氏以降、歴代の首相は式辞で、「深い反省」や「哀悼の意」などの言葉で近隣諸国への加害責任を述べてきたが、第2次安倍政権以降は言及されておらず、菅首相も触れなかった。
遺族代表で追悼の辞を述べたのは、兵庫県の柿原啓志さん(85)。父親の輝治さんが中国で戦病死した。
遺族の参列者数は近年は5千人前後だったが、新型コロナウイルスの感染が拡大した後の昨年も遺族の参列を絞り、193人だった。1963年から続く追悼式で、今回初めて戦没者の配偶者の参列がなかった。
今年は、東京都が宣言下という昨年になかった事態を受け、22府県が参列を断念し、参列できた遺族はさらに少なくなった。遺族の最年長は北海道の長屋昭次さん(94)で、最年少は東京の宇田川英吾さん(16)。
都内に来られない人たち向けに、厚生労働省は動画配信サイト「YouTube」で生配信する対応をとった。
会場では感染対策として座席の間隔を1メートル確保したほか、国歌斉唱は行わず、演奏のみにした。管楽器は使用しなかった。
天皇陛下のおことば
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来76年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
私たちは今、新型コロナウイルス感染症の厳しい感染状況による新たな試練に直面していますが、私たち皆がなお一層心を一つにし、力を合わせてこの困難を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います。
ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
 
 

 

●菅氏も加害責任に触れず 8.15式辞「安倍色」を踏襲 8/15
菅義偉首相は15日、東京・日本武道館であった全国戦没者追悼式に参列し、式辞を述べた。式辞では、安倍晋三前首相が昨年初めて用いた「積極的平和主義」の文言を使用する一方、戦争の「教訓」や近隣諸国への加害責任には今年も触れなかった。式辞の大半は前年と似通っており、「独自色」が見えにくい内容となった。
首相就任後、同追悼式への参列は初めて。天皇陛下の「おことば」に先立ち、首相が式辞を述べた。首相は戦没者への追悼などに触れた後、「我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組んでまいります」と語った。
「積極的平和主義」は2013年秋、安倍前首相が集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更に意欲を示し、国家安全保障戦略(NSS)を議論した有識者会議の中で浮上した用語。安倍前首相は、外交や安全保障戦略を語る際に用いてきており、菅首相は「安倍カラー」の言葉を継承した形だ。
一方、昨年の式辞では「歴史」の文言が消えたことが注目された。今年は「平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたもの」という一文で「歴史」が復活した。
近隣諸国への加害責任は第2次安倍政権に続いて言及がなかった。
1993年に細川護熙元首相が「アジア近隣諸国をはじめ、全世界すべての戦争犠牲者とその遺族に対し、国境を越えて謹んで哀悼の意を表する」と「加害責任」に触れた。それ以降、歴代首相は「あの戦いは、多くの国々、とりわけアジアの諸国民に対しても多くの苦しみと悲しみを与えた」(橋本龍太郎元首相)などの言葉で加害責任に触れてきたが、2013年以降、9年連続で言及されていない。
菅首相の式辞は文末の表現などを一部変えた以外は、昨年の式辞と多くの部分を踏襲した内容だった。
首相式辞
天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。
先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。
祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃(たお)れた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など、戦乱の渦に巻き込まれ犠牲となられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。
いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります。
我が国は、戦後一貫して、平和を重んじる国として歩んでまいりました。世界の誰もが、平和で、心豊かに暮らせる世の中を実現するため、力の限りを尽くしてまいりました。
戦争の惨禍を、二度と繰り返さない、この信念をこれからも貫いてまいります。我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組んでまいります。今なお、感染拡大が続く新型コロナウイルス感染症を克服し、一日も早く安心とにぎわいのある日常を取り戻し、そして、この国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。
終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。   令和3年8月15日   内閣総理大臣 菅義偉
 
 
 
 
  
 

 

 

 

●玉串
●玉串
玉籤とも書く。美称して太(ふと)玉串、八十(やそ)玉串などともいう。榊(さかき)の枝に紙の垂(しで)(四手)および麻(皇族のときは紅白の絹垂(きぬしで))をつけたもの。仏教儀礼における仏前での焼香(しょうこう)に対して、これは神前や祖霊に参拝するときに奉る(玉串奉奠(ほうてん))もので、神道(しんとう)儀礼の一特色である。なお、榊のない地方では、檜(ひ)や櫟(いちい)の枝などが用いられる。また、木札もしくは紙札に、神霊の移るものとして○○太玉串と書き、神符や守札のごとく、神社から授与されることもある。玉串の語義は、玉を取り付けた串、手向串(たむけぐし)、霊串(たまぐし)などの説があり、玉は美称とする説もある。玉串を奉奠する作法は、小枝のもとのほうを神前に向けて奉り、二礼・二拍手・一礼をする。
榊(さかき)の枝に紙垂(しで)という紙片をつけて、神前に捧げるもの。仏式の焼香にあたる行いのとき用います。→玉串を葉先が左になるように左手で下から右手で上から受け取ります。→玉串の柄を手前に回し、正面にかまえます。→葉先が右、柄が左になるように回し、さらに柄が霊前に向くように回します。→祭壇に両手で供えて、拝礼します。
《古くは「たまくし」とも》幣帛(へいはく)の一。サカキなど常緑樹の小枝に紙の幣(ぬさ)あるいは木綿(ゆう)をつけ神前に供えるもの。神霊の依ってくるものと考えられることもある。「―奉奠(ほうてん)」。前述に用いるサカキ。また、サカキの別名。「神風や―の葉を取りかはしうちとの宮に君をこそ祈れ」〈新古今・神祇〉。
太 (ふと) 玉串、八十 (やそ) 玉串ともいい、普通、さかきの枝に木綿 (ゆう。楮布) 、または垂 (しで。紙垂、四手) を掛けて神前に供するものをいう。幣帛 (へいはく) の一種。幣には財物、採物 (とりもの) 、祭壇の表示、呪力ある樹枝の4つの系統があり、玉串はこれらの機能の象徴と考えられる。
玉籤とも。神前拝礼に供えるサカキの小枝に紙・布の垂(しで)を付けた供物。語義については、玉を貫く串、手向(たむけ)串・霊(たま)串等の説がある。
玉籤(《日本書紀》)とも書く。榊(さかき)の枝に木綿(ゆう)または紙を切ってつくる紙垂(しで)をつけたもの。現在は紙垂か紅白の絹を用い、榊の代りに檜(ひのき)や櫟(いちい)を用いるところもある。神前に敬意を表し、神意を受けるために、祈念をこめてささげるもの。榊の葉表を上に、もとを神前に向けて案上に供える法と、葉表を神前に向け、もとを台(筒)にさしたててたてまつる方法とがあり、たてまつったら、二礼、二拍手、一礼の作法にて拝礼を行う。
…木串に紙や布帛を付けた御幣は、神に捧げる財物と依り代との二つの意味をもつ。後者は神霊を勧請する習俗が普及するにつれて一般化したもので、本来は手にとって動かす神霊の依り代であり、玉串などにより本来的姿をとどめており、紙の普及する以前の姿は削掛け等に認められる。 人の形を模した人形(ひとがた)も本来は神霊の表象で、神霊を送るために人形を作る習俗は道祖神祭り、疫病送り、虫送りなどの各種の行事にみられ、山車や屋台に作られる人形(にんぎよう)も神の送迎を示す形代が本来の姿であった。…
…これを神霊の依代にしたのが初めらしく、アイヌのイナウがその古形をとどめている。この削りかけがもとになって棒の先に紙の御幣をつけた玉串(たまぐし)と、造花がつくられるようになった。その造花は平安時代のころは絹を材料にし、のちにはさまざまな色に染めた紙を使うようになった。…

 

●玉串 1
[たまぐし・たまくし] 神道の神事において参拝者や神職が神前に捧げる紙垂(しで)や木綿(ゆう)をつけた榊の枝である。櫟(北海道)やガジュマル(沖縄県)の枝などを用いることもある。また、神宮大麻の祓い串のように参拝の証として持ち帰り、千度祓い万度祓いを行う例もある。
日本神話では、天照大神が岩戸隠れした際、玉や鏡などをつけた五百津真賢木(いほつのまさかき)をフトダマが捧げ持ったとの記述が、玉串の由来とされる。実際には、神霊の依代が玉串の由来とされる。「たまぐし」の語源については諸説ある。平田篤胤らは神話の記述のように玉をつけたから「玉串」だとし、本居宣長は「手向串」の意とする。「たま」は「魂」の意とする説もある。百人一首では「このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦、神の随に」(管公・菅原道真)と、紙垂や木綿を付けない紅葉を玉串とした様子が詠われている。
玉串の捧げ方​
玉串を神前に捧げて拝礼することを、玉串拝礼(たまぐしはいれい)、玉串奉奠(たまぐしほうてん)という。
玉串料​
神社に祈祷を依頼する際に納める金銭のことを、「初穂料」のほか「玉串料」と書くこともある。初穂料はお礼やお守りなどを受ける際の金銭にも使うが、玉串料は玉串の代わりに納める金銭という意味であるので、祈祷の依頼の際にのみ使う。また、神葬祭の不祝儀袋の表書きも玉串料(または御榊料)と書く。
諸話
「玉串」という地名が、大阪にある。天平勝宝6年(西暦754年)、河内の風水害をおさめるため、旧大和川上流より櫛笥が流された。そして、櫛笥の流れ着いた場所に玉串明宮(現在の津原神社)が建てられ、その周辺一帯を玉串と呼ぶようになったとされる。現在は東大阪市内の町名で、近鉄バス山本線の停留所など一部ではたまぐし読みとなっているが、地元小学校付近ではたまくし読みが定着しており、町名としては後者が正しい(河川 - 玉串川)。
「玉串」という神札(みしるし)を出雲大社が授与している。大榊に木綿垂をつけた玉串は霊体として信仰し、守護を頂ける存在でもあった。この玉串はやがて実物から紙に書かれ、御神号「大国主大神」が書き添えられ、これを包んで「御玉串」と称する「霊符」として授与されるようになった。近世になると、「板玉串」や「箱玉串」といった御神札に変化した。なお出雲大社では玉串は「魂」と「串」であり、神と人の魂を串で一つにするという意味もあるとしている。
天皇・皇族が用いる玉串は、次のような定めがある。榊の長さは二尺五寸で、曲がった枝は使用しない。葉先から五寸下に細長い紅色の絹布を結ぶ。その一寸下に白色の絹布を結ぶ。結び方は各一結びで、布は左右均一に垂らす。布長は二尺七寸で幅は四寸。榊の本を中奉書八ツ切で包み巻きし、その上下二ケ所を紙捻で結び切する。この玉串を玉串立に据える。

 

●玉串 2
玉串は神前にお供えするものとして、米・酒・魚・野菜・果物・塩・水等の神饌と同様の意味があると考えられています。しかし、神饌と異なる点は、玉串拝礼という形で自らの気持ちをこめて供え、お参りをするということです。勿論、神饌も注意して選び、心をこめてお供えをしますが、玉串は祭典の中で捧げて拝礼することから、格別な意味を有するものであることが分かります。
『神社祭式同行事作法解説』(神社本庁編)では玉串を捧げることを「玉串は神に敬意を表し、且つ神威を受けるために祈念をこめて捧げるものである」と説明されています。
玉串の由来は、神籬ひもろぎとも関連して『古事記』の天の岩戸あまのいわや隠れの神話に求められるものといわれています。すなわち天照大御神の岩戸隠れの際に、神々がおこなった祀りでは真榊に玉や鏡などをかけて、天照大御神の出御を仰いだことが記されています。
その語源には幾つかの説があり、本居もとおり宣長のりながは、その名称の由来を神前に手向けるため「手向串たむけぐし」とし、供物的な意味を有するものと解しています。また平田ひらた篤胤あつたねは、本来は木竹(串)に玉を着けたものであったために「玉串」と称したと述べています。このほか、六人部むとべ是香よしかは真榊が神霊の宿ります料として、「霊串たまぐし」の意があるなどとしています。
こうしたことから玉串は神籬と同様に神霊を迎える依代であり、また玉串を捧げて祈る人の気持ちがこめられることにより、祀られる神と祀る人との霊性を合わせる仲立ちとしての役割を果たす供物であるということができるのではないでしょうか。

 

●玉串 3
神式の葬儀・告別式で故人をお見送りする際には、玉串奉奠(たまぐしほうてん)と呼ばれる儀式を行います。仏式の葬儀での焼香にあたる玉串奉奠ですが、神式の葬儀・告別式に参加する機会は仏式と比べて多くはないため、正しい作法をご存知ない方も多いのではないでしょうか。
玉串とは
玉串(たまぐし)とは、榊・樫・杉などの木の枝に、紙垂(しで)や木綿(ゆう)を麻で結んで下げたもので、神道の神事において、参拝者や神職が神前に捧げます。玉串は、神前にお供えするものとして、米・酒・魚・野菜・果物・塩・水などと同様に重要な意味を持っています。
玉串には榊が使用することが一般的です。榊には神様が宿るとされており、神様への捧げものとして古くから用いられてきました。北海道では櫟(いちい)、沖縄県ではガジュマルを用いることもあります。玉串についている白いギザギザの紙を紙垂といいます。紙垂は、神社の注連縄(しめなわ)や神主が手にしている祓串(はらえぐし)や大麻(おおぬさ)にも用いられます。紙垂のギザギザは雷を表し、雨乞いをして豊作を祈るという意味と、雷により邪悪なものを祓うという二つの意味が込められています。
神式の葬儀・告別式、七五三やお宮参りの際に行う「玉串奉奠」では、この玉串を祭壇に捧げます。奉奠(ほうてん)は、謹んでお供えすることを意味し、玉串奉奠は神様に玉串を謹んでお供えするという意味を持ちます。
玉串の由来と役割
古事記の「天の岩戸開き」の場面において、神である布刀玉命(ふとだまのみこと)が、榊に玉や鏡などを付けて岩戸の前に捧げたことが玉串の由来であると考えられています。古くから、玉串は神霊の依代(よりしろ)と考えられてきました。依代とは、神霊が寄り付くもの、宿るものを意味します。神様の依代である玉串に祈りを込めて捧げることで、祀られている神様と祀る人との霊性を仲立ちするという役割を果たしています。 
 
 

 

 
 
 

 

●国会議員の靖国神社参拝
●西村経済再生相が靖国神社に参拝  8/13
15日の「終戦の日」を前に、西村経済再生担当大臣は13日午前、東京 九段の靖国神社に参拝しました。
西村経済再生担当大臣は13日午前8時ごろ、東京 九段の靖国神社に参拝しました。
参拝を終えたあと西村大臣は記者団に対し、私費で玉串料を納め「衆議院議員 西村康稔」と記帳したと説明し「ことしは終戦の日が日曜日で、混雑も考えられるので、きょう早朝に静かな中でお参りさせていただいた」と述べました。
そのうえで「祖国を思い、家族を案じつつ犠牲となられた英霊の安寧を心からお祈りした。二度と戦争の惨禍を起こさず、日本が戦後歩んできた平和国家の道をさらに進めることを改めてお誓い申し上げた」と述べました。
西村大臣は去年「終戦の日」の翌日に靖国神社に参拝しています。

 

●岸防衛相の靖国神社参拝に中国国防省が反発 8/14
岸信夫防衛大臣が靖国神社を参拝したことに対し、中国の国防省は13日、「強烈な不満と断固たる反対を示す」とする談話を発表し、強く反発しています。
岸防衛大臣は13日午後、東京・九段の靖国神社を参拝しました。岸大臣は防衛大臣就任前の去年8月にも参拝しています。これに対し、中国国防省の報道官は13日、談話を発表し、「強烈な不満と断固たる反対を示す」として日本側に抗議したと明らかにし、強く反発しました。
また、靖国神社には「戦争で重大な責任を負うA級戦犯が祀られている」と指摘した上で、「日本側が侵略の歴史を真剣に反省し、実際の行動でアジアの近隣諸国や国際社会の信用を得るよう求める」と主張しました。

 

●閣僚3人 終戦の日に靖国神社参拝 菅首相は私費で玉串料納める  8/15
「終戦の日」の15日、菅内閣の3人の閣僚が靖国神社に参拝しました。閣僚の参拝は2年連続で、13日参拝した閣僚も含めて、5人が参拝しました。一方、菅総理大臣は参拝せず、「自民党総裁・菅義偉」として、私費で玉串料を納めたということです。
「終戦の日」の15日、東京・九段の靖国神社には、萩生田文部科学大臣と、小泉環境大臣、井上万博担当大臣の3人の閣僚が参拝しました。
萩生田大臣と小泉大臣の2人は安倍内閣の閣僚だった去年の「終戦の日」にも、靖国神社に参拝しています。
参拝を終えたあと、萩生田大臣は、記者団に対し「先の大戦で尊い犠牲となられた先人の御霊(みたま)に、謹んで哀悼の誠をささげ、改めて恒久平和への誓いをしてきた」と述べました。
また、記者団が「現職閣僚の参拝に、中国や韓国が反発を強めているが」と質問したのに対し、萩生田大臣は「自国のために尊い犠牲となられた先人の皆さんに、尊崇の念を持ってお参りするのが自然な姿だと思うので、ご理解いただけると思う」と述べました。
一方、小泉大臣は、記者団の問いかけにはこたえませんでした。
また、井上大臣は「戦没者の皆様に哀悼の誠をささげ、これからしっかり平和を守っていくとお誓いした」と述べたうえで、閣僚による参拝について「私人としての参拝なので、とりわけ問題になるようなことはないと思う」と述べました。
菅内閣の閣僚では、13日、岸防衛大臣と西村経済再生担当大臣が靖国神社に参拝していて、15日の3人と合わせて5人の閣僚が参拝しました。
「終戦の日」に閣僚が靖国神社に参拝するのは、去年に続いて、2年連続となります。
一方、菅総理大臣は参拝せず、関係者によりますと、「自民党総裁・菅義偉」として、私費で玉串料を納めたということです。
菅内閣の閣僚が靖国神社に参拝したことや菅総理大臣が自民党総裁として私費で玉串料を納めたことについて、韓国外務省は報道官の論評を出しました。この中で「日本の過去の侵略戦争を美化し戦争犯罪者が合祀された靖国神社に日本政府の指導者たちが再び供え物を奉納し、参拝を繰り返したことについて、深い失望と遺憾の意を示す」としています。そのうえで「日本の責任ある人たちに歴史に対する謙虚な省察と真の反省を行動で示すことを求める。このような姿勢が基盤になるとき、未来志向的な両国関係を構築し周辺国の信頼を得ることができる」と主張しました。韓国外務省は13日には岸防衛大臣が靖国神社に参拝したことを受けて、ソウルにある日本大使館の幹部を呼んで抗議しています。
菅内閣の閣僚が靖国神社に参拝したことや、総理大臣が自民党総裁として私費で玉串料を納めたことについて、中国外務省は華春瑩報道官の声明を発表し、外交ルートを通じて日本側に厳正な抗議を行い、強い不満と断固とした反対を表明したことを明らかにしました。そのうえで「中国は日本が侵略の歴史を直視して反省するという約束を着実に守り、靖国神社など歴史問題における言動を慎み、軍国主義と完全に決別し、実際の行動でアジアの隣国と国際社会の信頼を得るよう求める」としています。

 

●小泉氏、萩生田氏が靖国神社参拝 昨年に続き終戦の日に 8/15
終戦の日の15日、小泉進次郎環境相と萩生田光一文部科学相、井上信治科学技術担当相が東京・九段北の靖国神社を参拝した。菅内閣の閣僚では13日に西村康稔経済再生相と岸信夫防衛相が参拝している。
一方、菅義偉首相は玉串料を納めたといい、首相周辺は「私人の立場で私費で奉納と聞いてる」と説明している。
参拝後、記者団の取材に応じた萩生田氏は、玉串料を私費で納め、「文部科学大臣、衆院議員、萩生田光一」と記帳したと説明。「先の大戦で尊い犠牲となられた先人の御霊に謹んで哀悼のまことを捧げ、改めて恒久平和への誓いをしてきた」と述べた。小泉氏は記者団の取材に応じなかった。萩生田氏と小泉氏は安倍内閣の閣僚だった昨年の終戦の日にも参拝している。
井上氏は記者団の取材に私費で玉串料を納め、「衆議院議員、井上信治と記帳した」と述べ、「しっかり平和を守っていくというお誓いをいたしました」と話した。
15日は鷲尾英一郎・外務副大臣も参拝し、記者団の取材に「個人としての参拝」と述べた。
靖国神社には太平洋戦争などの戦死者がまつられている。戦争当時の指導者で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で「A級戦犯」とされた14人が合祀(ごうし)されており、中国や韓国などが閣僚の参拝を問題視している。
終戦記念日に菅義偉首相が靖国神社に玉串料を納め、菅内閣の閣僚が相次いで参拝したことについて、韓国外交省は15日、「深い失望と遺憾の意を表する」とのコメントを発表した。同省は「日本の責任ある人々が、歴史に対する謙虚な省察と真の反省を行動で示すべきだ」と主張。そうした姿勢により、「未来志向的な韓日関係の構築や、周辺国の信頼を得ることができる」とした。
中国外務省は同日、「強烈な不満と断固たる反対」を示す華春瑩報道局長名の談話を発表し、日本側に厳正な申し入れを行ったとした。華氏は談話で、「靖国神社は日本軍国主義が起こした侵略戦争の象徴だ」とし、「日本側が侵略の歴史を正視し反省するという約束を守り、歴史をめぐる問題で言動を慎み、実際の行動でアジア諸国と国際社会の信頼を得るよう求める」などとした。
 

 

●安倍晋三前首相が靖国神社を参拝 萩生田文科相、小泉環境相も  8/15
萩生田光一文部科学相と小泉進次郎環境相、井上信治万博相は終戦の日の15日、東京・九段北の靖国神社を個別に参拝した。閣僚の靖国参拝は2年連続となる。菅義偉首相は午前、東京都内の千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れて献花した。その後、政府主催の全国戦没者追悼式に出席し、式辞を述べる。
自民党の安倍晋三前首相、高市早苗前総務相もそれぞれ参拝した。13日には岸信夫防衛相が参拝。靖国神社には極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯が合祀されているため中国、韓国は即座に批判した。西村康稔経済再生担当相も同日参った。
安倍氏は第2次政権在任中、8年連続で終戦の日の参拝を見送り、自民党総裁として私費で玉串料を奉納した。15日当日の閣僚参拝は2017年から3年間なく、昨年は萩生田、小泉両氏ら4閣僚が参拝した。
超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は15日、会長の尾辻秀久元参院副議長らが代表して参拝した。新型コロナウイルス禍のため議連そろっての参拝は昨年に続き見送った。
自民党の稲田朋美元防衛相、鷲尾英一郎外務副大臣らは個別に参った。

 

●井上万博相も靖国神社参拝 閣僚3人目 8/15
井上信治万博相は終戦の日の15日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。井上氏は参拝後、記者団に「戦没者の皆さまに哀悼の誠をささげるとともに、これからしっかり平和を守っていくというお誓いを申し上げた」と語った。
小泉進次郎環境相、萩生田光一文部科学相も同日、靖国神社をそれぞれ参拝しており、閣僚の参拝は3人となった。

 

●自民「保守団結の会」高鳥、高市氏ら靖国神社参拝 8/15
自民党保守系の有志議員でつくる「保守団結の会」の高鳥修一代表世話人や高市早苗前総務相らが終戦の日の15日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。高鳥氏は参拝後、記者団に「戦没者に心から敬意を表し、慰霊(みたま)の誠をささげるために参拝させていただいた」と述べた。
高市氏は「国家存続のために、また、大切な方々を守るために国策に殉じられた方々の御霊に尊敬の念をもって感謝の誠をささげた」と語った。高市氏は菅義偉首相の任期満了(9月30日)に伴う自民党総裁選に出馬する意向を示しているが、この日は記者団の質問に「きょうは、ご容赦ください」と述べるにとどめた。

 

●超党派議員連盟 新型コロナで靖国神社一斉参拝見送り 代表参拝  8/15
超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて「終戦の日」に合わせた一斉参拝を見送り、会長を務める自民党の尾辻 元参議院副議長らが代表して参拝しました。
議員連盟は例年、靖国神社の春と秋の例大祭に加え、8月15日の「終戦の日」に合わせて、メンバーがそろって参拝していますが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、去年の春は参拝そのものを取りやめ「終戦の日」以降は一斉参拝を控えています。
15日は、議員連盟の会長を務める自民党の尾辻 元参議院副議長と事務局長を務める水落 参議院議院運営委員長が代表して参拝しました。
参拝を終えた尾辻氏は記者団に対し「国難とも言える事態になっているので『 日本国をお見守りください』 と改めてお願いした。早く新型コロナウイルスがおさまって、また皆で一緒にお参りしたい」と述べました。 
 
 
 

 



2021/8
 
 
 

 

●靖国神社問題
靖国神社をめぐって議論の対象となる各種の問題を指す。「靖国問題」と略称することが多い。
靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ合衆国東インド艦隊の司令官ペリー来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。もとは幕末騒乱により死亡した志士の御霊を招魂し祭礼する一回性の儀式(招魂祭)として京都で実施されたものが定制化され、東京招魂社の設置となった経緯があり、一方で招魂の儀式そのものの神道上の教義問題や、どの御霊を招魂し合祀するかといった論点が当初からあり、靖国神社への再編改名の際には祭礼は靖国神社および陸海軍省が実施するものとされ、天皇は例大祭に勅使を参向させることが定制と取り決められた。 「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見がある一方、政教分離や、第二次世界大戦における日本の戦争行為について「侵略だったか自衛だったか」といった歴史認識、また同戦争において日本の行為によって損害を被った近隣諸国への配慮等といった観点から、政治家の参拝を問題視する意見がある。第二次世界大戦における日本の終戦の日である8月15日の参拝は戦争の戦没者を顕彰する意味合いがあるとされ、特に日本国内の左派や中韓の二国において議論が大きくなる。
小野田寛郎は、日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであった、としている。
他方、戦争被害を受けた中国や、日本による支配(韓国併合)を受けた韓国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に批判反発している(諸外国の反応の詳細については後述の#日本国外の見解を参照)。もっとも、1979年4月にA級戦犯の合祀が公になってから1985年7月までの6年4月間、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が首相就任中に計21回参拝をしているが、1985年8月に中曽根が参拝するまでは、非難はされていなかった。1985年の参拝に対しては、それに先立つ同年8月7日の朝日新聞が『靖国問題』を報道すると、一週間後の8月14日、中国共産党政府が史上初めて公式に靖国神社の参拝への非難を表明した。一方で、戦没者を慰霊追悼・顕彰するため、外国の要人も訪れている。
なお、戦没者を慰霊追悼・顕彰するための施設及びシンボルとする解釈が現在だけでなく戦前からも一般的だが、神社側としては「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」場所、および「日本の独立を誓う場所」との認識が正しいとのことである。

 

争点​
具体的な論点としては以下の6つにまとめられる。
1.信教の自由に関する問題 / 日本国憲法においては、第20条第1項において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と定められている。参拝を望むなら、たとえ大臣・官僚であっても国家権力によって靖国神社への参拝を禁止・制限することができないこと、また参拝を望まない人が国家によって靖国神社への参拝を強制されないこと、 両方の側面を含む。
2.政教分離に関する問題 / 靖国神社を国家による公的な慰霊施設として位置づけようとする運動があり、及びそれに付随して玉串奉納等の祭祀に関する寄付・奉納を政府・地方自治体が公的な支出によって行うことなどに関し、日本国憲法第20条が定める政教分離原則と抵触しないかとする問題。これを問題とする人々は、内閣総理大臣・国会議員・都道府県知事など公職にある者が公的に靖国神社に参拝することが、第20条第1項において禁止されている宗教団体に対する国家による特別の特権であると主張している。
3.歴史認識に関する問題 / 靖国神社は、戦死者を英霊としてあがめ、戦争自体を肯定的にとらえているのだから、そのような神社に、特に公的な立場にある人物が参拝することはつまり、同社の第二次世界大戦に対する歴史観を公的に追認することになる、として問題視する意見が存在する。そういった立場からは、日本の閣僚は同戦争における対戦国に配慮し靖国神社に対する参拝を禁止・制限あるいは自粛すべきとする主張がある。日本人が同戦争における戦争責任をどのように認識し、敗戦以前の日本の軍事的な行動に対していかなる歴史認識を持つことが適切であるか、という論点を中心に展開され、特に極東国際軍事裁判で戦争犯罪人として裁かれた人々の合祀が適切か否かの議論がある。対外的には、第二次世界大戦における交戦相手国である中国(中華民国)、また第二次世界大戦の開戦より数十年前に日本に併合されていた朝鮮半島諸国の国民に不快感を与え、外交的な摩擦も生むこともある靖国神社への参拝が適切かどうか、という論点を中心に展開される。なおこの中韓及び北朝鮮以外の国からは、首相や閣僚の靖国神社参拝に対して公式に批判を受けることはない。また、遊就館には歴史年表が掲示されているが、日本国憲法制定に関する記述(1946年11月3日公布、翌1947年5月3日施行)がなく、一方で“ポツダム宣言受諾拒否”が明記されている。
4.戦死者・戦没者慰霊の問題 / 特に十五年戦争における日本軍軍人・軍属の戦死者(戦病死者・戦傷死者を含む)を、国家としてどのように慰霊するのが適切であるか、という問題。戦後靖国神社が国家による慰霊施設から宗教団体として分離されたために日本には戦死軍人に対する公的な慰霊施設が存在しないが、靖国神社を戦前に近いかたちで国家管理して位置づける、あるいは慰霊のための新たな施設を整備するという意見がある。遺族の同意を得ないまま同社に合祀されることがあることにも異議が出ている。
5.A級戦犯に対する評価の使い分け / A級戦犯として靖国神社に合祀されるか合祀されないか差異は、死刑の執行・服役中の死亡・勾留中の死亡により、遺体として刑事施設から社会に戻ったか、恩赦による刑の執行終了・裁判の中止・不起訴処分により、生きて社会に戻ったかの差異だけである。起訴され(28名)有罪宣告された25名のうち生きて社会に戻ったA級戦犯から重光葵は衆議院議員に3回選出され鳩山一郎内閣で4回目の外務大臣まで務めており、また戦犯指名されたものの不起訴となった者のなかからは衆議院議員に5人が選出され、国務大臣に5人が任命され、内閣総理大臣に1人が選出されている。この中には在職中等の貢献により国家より受勲されたものが多数いる。これに対して刑の執行や拘置中の病死などにより死亡し、刑事施設から遺体として社会に戻された者に対しては日本政府と日本国民が永久に糾弾し続けるべき対象者と評価するべきであるのかどうか、評価の使い分けの基準は全く説明されていない。また、この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であって、これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの指摘がある。
6.宗教的合理性と神道儀軌に関する問題 / 死を確定させる儀礼とする説もある神社神道の遷霊では、木主・笏・鏡・幣串が用いられ、基本的には1柱ごとに諡を送って霊璽とすることが各派ほぼ共通の儀軌となっている。これに対して、戊辰戦争の戦没者を祀るに際しては霊璽簿を用い、諡を送らずに生前の名前をもって霊璽としたため、靖国神社は当初は招魂社として創建された。しかし、招魂社は招魂場(降霊場)であるために、後に「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」という政府側の要請で神社の格をとるに至った。しかし、この要請理由は宗教的合理性を転倒させた面があることは否めない。また、明治維新後に創建された他の神社も生前の名前を祭神の諡号としたため、神社神道を信仰する一般家庭でもそれに倣うケースが出始めた。この状況に危機感を募らせていた神社神道関係者は言論統制が解けた第2次世界大戦後に、そうした祭祀の方式は神社神道共通の基本的な儀軌に反するものであり、元々が合理性に欠けるものであるとする主張を行ったが、他の争点に掻き消されて『神葬祭 総合大事典』でも版を重ねるごとにトーン・ダウンしていった。いずれにしても、この争点は、朝日新聞だけではなく保守系の讀賣新聞などをも含んだマスコミと、靖国神社参拝派の政治家との間に起きた情念的とも言える争いのために、一般的にはほとんど知られていない。
政教分離​
靖国神社は大日本帝国時代の陸軍省・海軍省が共管し、戦争遂行の精神的支柱の一つであった国家神道の最重要の拠点であったため、終戦後直ちに廃絶の議論が起きた。このことについては日本を打ち破り占領した連合国においてもかねてから施設自体の棄却も視野に入れられていたが、GHQは早急に結論を下さず、まず1945年(昭和20年)12月15日に神道指令を発して国家神道を廃止すると共に靖国神社の国家護持を禁じ、神社と国家の間の政教分離を図った。また、翌1946年(昭和21年)に制定された宗教法人法に基づき、靖国神社は同年9月に宗教法人となったことで自ら国家護持体制からの離脱を明確にした。靖国神社の非国家的宗教施設への変化を受けて、GHQは1951年8月28日の指令で靖国神社の存続を認めた。
1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法第20条において下記のように信教の自由を保障し、政教分離原則を掲げている。
・信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
・何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
・国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
1951年(昭和26年)のサンフランシスコ平和条約締結・翌1952年(昭和27年)の発効によって連合国の占領が終わって日本は主権を回復し、連合国占領期間中は実質的に封印された状態となっていた靖国神社に関する議論は憲法の合憲・違憲を巡る問題へと移行し、主に上記第20条第1項および第3項に基づいた問題点が賛否両面から指摘されていくこととなる。なお、占領下の1949年(昭和24年)に出された国公立小中学校の靖国神社訪問などを禁じた文部事務次官通達について、2008年(平成20年)3月27日の参議院文教科学委員会で渡海紀三朗文部科学相は同通達が「既に失効している」と明言した。
靖国神社法案
靖国神社を国家護持による慰霊施設としようとする靖国神社法案が1969年(昭和44年)に議員立法案として自由民主党から提出されたことで神社の政教分離に関する議論が再燃した。これ以降、毎年の法案提出と廃案を繰り返した後、1973年(昭和48年)に提出された法案が審議凍結などを経て1974年(昭和49年)に衆議院で可決されたものの参議院では審議未了・廃案となる。これを最後とし法案上程が止むまで、靖国神社法案が靖国神社問題における政教分離の課題で最大のものとなった。
この後、政教分離原則に抵触するか否かの議論は、政府・地方自治体による靖国神社への公費支出を伴う玉串(または玉串料)奉納や、首相をはじめとする政府閣僚や地方自治体首長らの参拝に関するものへと焦点が移っていく。
靖国神社に反対する立場からは、靖国神社への参拝は政教分離に反するという見解が示されることがある。総理大臣が他の宗教法人、明治神宮や伊勢神宮に参拝しても、問題がないとは言えず、さらに、靖国神社への参拝は「A級戦犯合祀」の問題も絡んでいる。
信教の自由​
1889年、大日本帝国憲法第28条では「信教ノ自由」を記載したが、明治政府は神社神道を「国家の祭祀」であり宗教ではないとし、臣民の義務とした(いわゆる国家神道)。1891年、植村正久はキリスト教徒の靖国神社参拝問題を提起した。更に1931年、上智大生靖国神社参拝拒否事件が発生した。
1946年、靖国神社は宗教法人となり、1947年の日本国憲法第20条では信教の自由と政教分離原則が規定された。このため1964年以降の靖国神社法案は、国家護持の代わりに宗教色を薄める案となり、議論となった。
靖国問題に関する訴訟では、原告側の多くは玉串料の公費支出や、首相などの参拝、遺族側の意思に沿わない合祀、政府による合祀への協力などを、信教の自由や政教分離原則に対する侵害であると主張している。これに対して靖国神社側などは、社会一般に認められた範囲内であり合憲である、神社側にも宗教の自由があり国からの強制は受けない、合祀は遺族の不利益とは言えない、などと主張している。 これに対し司法は、遺族に無断での合祀が「耐え難い苦痛」と認めながらも、靖国神社側の宗教行為の自由や霊璽簿等の非公開を理由に、靖国神社側の行為は違法と言えないと棄却したが、合祀に国が協力した行為は政教分離原則違反で違憲であると判断している。 また日本では、信教の自由は、「何人に対しても」これを保障するとされているため、政治家であっても宗教および思想について制限を加えることができないとする考え方が一般的であり、司法判断においても私的参拝を憲法違反としたものはない。但し首相の靖国参拝について、これは公式参拝であり故に国民の宗教人格権を侵害していると裁判で争われた。その中で地裁・高裁レベルで公的参拝だと傍論で判断されているものはあるが、国民の宗教人格権の侵害については認めず、いずれの判決でも賠償請求を棄却している(詳しくは靖国問題に関する訴訟を参照)。
宗教性​
日本では、宗教性の有無に関して「参拝は宗教的行為ではなく、習俗的行為であるから政教分離原則には抵触しない」とする主張と、「参拝は宗教的行為であるから問題である」とする主張が対立している。玉串料などを公費で支出することについては最高裁に於いて違憲判決が確定している。 首相の公式参拝について、神道形式に則った参拝が「憲法20条との関係で違憲の疑いを否定できない」という認識は1980年(昭和55年)の政府見解でも確認されたが、後の1985年(昭和60年)中曽根康弘内閣当時に発足した「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」は「宗教色を薄めた独自の参拝形式をとる事により公式参拝は可能」と判断、その方法であれば「首相の参拝は宗教的意義を持たないと解釈できる」とし、「憲法が禁止する宗教的活動に該当しない」との政府見解が出された 。首相の参拝行為の宗教性について幾つかの裁判で争われている。最高裁では憲法判断は成されていないが、地裁・高裁では傍論において公的参拝において違憲という判断がされている。公的参拝が合憲という判断は司法のいずれのレベルに於いてもこれまでされたことはない。
公人における公私の区別​
公人においても公私を区別するべきだという論点がある。これは第66代総理であった三木武夫が1975年(昭和50年)8月15日、総理としては初めて終戦記念日に参拝した際に、私的参拝4条件(公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)による「私人」としての参拝を行った。これに対し靖国神社法案を断念した神社本庁および日本遺族会は、「英霊にこたえる会」を結成して、「首相や閣僚による公式参拝」を要請する運動を展開する。靖国神社に対して玉串料などを公費で支出した参拝は、第72代総理であった中曽根康弘による1985年(昭和60年)の参拝が訴訟の対象となり(後述)、1992年(平成4年)の2つの高等裁判所判決で憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝と認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされており、これ以降の議論は「私人」としての参拝が許容されるものであるかどうかを巡っての解釈の問題となっている。
「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という意見がある。これは、公人であっても人権的な観点から私人の側面を強調視するもので、「首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」という立場をとっている。「アメリカのように政教分離をうたっていながら、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてることは問題になったことは一度もない」ということも論拠の一つに挙げられている。
一方、「公用車を用い、側近・護衛官を従え、閣僚が連れ立って参拝し、職業欄に『内閣総理大臣』などと記帳するという行為は公人としてのそれであり、政教分離原則に抵触する」という意見がある。こちらは、実効的な観点を重く取り上げ、「首相が在職中に行う行為は私的であっても、多少の差はあれ、全て政治的実効性を持つため、私的参拝であっても靖国神社に実質的に利益を与えるものだ」として問題があるとしている。
第87 - 89代総理・小泉純一郎は、2001年(平成13年)8月13日の首相就任後最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」と述べた。これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされている。但し福岡地裁の判決後は私的参拝であると表明している。 小泉純一郎首相による参拝以降、参拝客が急増した現象についてはマスメディアの報道が大きく影響しているとの意見もある。

 

靖国問題に関する訴訟​
靖国問題を取り上げた主要な訴訟としては、玉串料公費支出訴訟、首相公式参拝訴訟、合祀取消訴訟などがある。
玉串料公費支出訴訟​
住民訴訟として争われた訴訟類型のものである。
   岩手県靖国神社訴訟
1979年(昭和54年)12月19日、岩手県議会が国に靖国神社公式参拝を実現するよう意見書を採択し、政府に陳情書を届けたことと、1962年(昭和37年)から靖国神社の要請で玉串料や献灯料を支出していたことは、政教分離原則に反するとして、その費用を返還するよう住民らが提訴した。1987年(昭和62年)3月5日、盛岡地方裁判所は合憲判決を示し、住民らの訴えを全面的に退けた。1991年(平成3年)1月10日、仙台高裁(糟谷忠男裁判長)は、判決主文にて住民側の控訴に対して被告の岩手県への公費返還請求を棄却したが、公式参拝・玉串料公費支出は違憲であるという傍論を示した。勝訴したが違憲とされた県は、違憲とする傍論が示されたのは不利益で、最高裁で判断を仰ぐ必要があるとして上告した。仙台高裁は不適法として却下した。県は高裁の決定を不服として特別抗告したが、最高裁第2小法廷は「抗告の理由がない」として棄却した。
   愛媛県の玉串料訴訟
愛媛県知事が靖国神社に対し玉串料を「戦没者の遺族の援護行政ために」毎年支出した事に対し、政教分離原則に反するとして、その費用を返還するよう住民らが求めた。1審の松山地方裁判所は違憲判決、2審の高松高等裁判所は「公金支出は社会的儀礼の範囲に収まる小額であり、遺族援護行政の一環であり宗教的活動に当たらない」として合憲判決を示した。しかし、1997年(平成9年)最高裁判所は政教分離原則の一つとなった目的効果基準により違憲判決を出し、確定した。
首相公式参拝訴訟​
国賠訴訟として争われた訴訟類型のものである。
   中曽根首相公式参拝訴訟​
中曽根康弘首相(当時)が1985年(昭和60年)8月15日に公式参拝したことに対する訴訟である。最高裁は、かかる公式参拝は憲法20条3項、同89条に違反する疑いがあるとしたが、本件公式参拝が憲法に違反するとしても、法律上、保護された具体的な権利ないし法益の侵害を受けたことはないし、また、慰謝料をもって救済すべき損害を被ったこともなく、損害賠償を求めることはできないとした。 中曽根は首相在任中に10回にわたり参拝しているが、1985年(昭和60年)8月14日に、正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しないとこれまでの政府統一見解を変更し、1985年(昭和60年)に閣僚とともに玉串料を公費から支出する首相公式参拝を行った。中曽根は1985年(昭和60年)8月15日以後は参拝をしていないが、その理由について翌1986年(昭和61年)8月14日の官房長官談話において、公式参拝が日本による戦争の惨禍を蒙った近隣諸国民の日本に対する不信を招くためとしている。中曽根は後に、自身の靖国参拝により中国共産党内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響が出そうだという示唆があり、「胡耀邦さんと私とは非常に仲が良かった。」「それで胡耀邦さんを守らなければいけないと思った。」と述べている。
   九州靖国神社公式参拝違憲訴訟
1992年(平成4年)2月28日、福岡高等裁判所は、九州靖国神社公式参拝違憲訴訟で、目的効果基準により公式参拝の継続が靖国神社への援助、助長、促進となり違憲と判示した。
   関西靖国公式参拝訴訟
1992年(平成4年)7月30日には、大阪高等裁判所が、関西靖国公式参拝訴訟で、公式参拝は一般人に与える効果、影響、社会通念から考えると宗教的活動に該当し、違憲の疑いありと判示した。
   小泉首相参拝訴訟​
小泉純一郎首相(当時)が2001年(平成13年)8月13日に秘書官同行の上公用車で靖国神社を訪れ「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳、献花代3万円を納め参拝した。この参拝に対する訴訟では地裁・高裁判決において公的参拝判断がなされた時に違憲判断がされたケースがあったが、傍論で述べられたものであり主文で原告敗訴としているので、政府はこのことを不満として上訴することができないと判断し、原告も上訴しなかった為判決は確定した(傍論#下級裁判所における「ねじれ判決」を参照のこと)。原告側が上告した裁判では、最高裁が憲法判断を避けたため、憲法判断がされることはなかった。地裁・高裁判決においても公的参拝が合憲だとされたケースはない。賠償請求についてはいずれも棄却されている。福岡地裁判決を受けた小泉首相は記者団の質問に「私的な参拝と言ってもいい」と語り、公私の区別をあえてあいまいにしてきた従来の姿勢を転換させた。
   福岡地方裁判所判決
2004年(平成16年)4月7日福岡地方裁判所(裁判長亀川清長)は原告の損害賠償請求を棄却した。しかし傍論において首相の参拝について政教分離に違反し違憲と述べた。総理大臣の公式参拝を傍論で違憲とする判断は1991年(平成3年)の仙台高裁判決に次いで二例目であった。2004年(平成16年)10月21日、福岡地裁判決が傍論において「参拝は違憲」としたことに対し、国民運動団体「英霊にこたえる会」(会長:堀江正夫元参院議員)が国会の裁判官訴追委員会に裁判を担当した3裁判官の罷免を求める訴追請求状6036通を提出した。請求状によれば、訴追理由について「判決は(形式上勝訴で控訴が封じられ)被告の憲法第32条『裁判を受ける権利』を奪うもので憲法違反」、「政治的目的で判決を書くことは越権行為。司法の中立性、独立を危うくした」としている(弾劾裁判も参照)。
   千葉地方裁判所判決
千葉県内の戦没者遺族や宗教家ら39人からなる原告は、この参拝は総理大臣の職務行為として行なわれており、政教分離を定めた憲法に違反すると主張。小泉首相と国に1人当たり10万円の損害賠償を求めていた。 2004年(平成16年)11月25日、千葉地方裁判所(裁判長:安藤裕子)は、参拝は公務と認定し、原告の慰謝料請求を棄却した。判決では、公用車や内閣総理大臣の肩書きを用いたりしているため、参拝は客観的に見て職務であると認定し、また公務員個人には国家賠償法における責任はないとした。また「信教の自由や、静かな宗教的な環境で信仰生活を送るという宗教的人格権を侵害された」として慰謝料の支払いを求めた原告側に対し、「信仰の具体的な強制、干渉や不利益な扱いを受けた事実はなく、信教の自由の侵害はない。宗教的人格権は法的に具体的に保護されたものではない」として退けた。
   東京高等裁判所判決
2005年(平成17年)9月29日、東京高等裁判所(浜野惺(しずか)裁判長)は1審の千葉地裁判決を支持、原告側控訴を棄却した。ただし1審千葉地裁判決は、首相の参拝を「職務行為」と認定したが、この2審判決では、参拝は小泉首相の「個人的な行為」と認定した。また、参拝は職務行為ではないため、原告側主張は前提を欠くとした。以下、判決理由。
1.神社本殿での拝礼は、個人的信条に基づく宗教上の行為、私的行為として首相個人が憲法20条1項で保障される信教の自由の範囲。故に礼拝行為が内閣総理大臣の職務行為とは言えない。
2.献花代は私費負担。献花一対を本殿に供えた行為は、私的宗教行為ないし個人の儀礼上の行為。いずれも個人の行為の域を出ず、首相の職務行為とは認められない。
3.「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳した行為は、個人の肩書を付したに過ぎない。
4.神社参拝の往復に公用車を用い、秘書官とSPを同行させた点。総理大臣の地位にある者が、公務完了前に私的行為を行う場合に必要な措置。これをもって一連の参拝行為を職務行為と評価することは困難。
5.1982年4月17日の閣議決定により、毎年8月15日が「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされ、2001年8月15日も全国戦没者追悼式が実施。しかし参拝は13日であり、政府追悼式と一体性を有さない。
   大阪高等裁判所判決(二次)
2005年(平成17年)9月30日、大阪高等裁判所(大谷正治裁判長)は小泉首相の参拝をめぐる訴訟としては高裁段階で初の違憲判断を示した。判決は、参拝は「総理大臣の職務としてなされたものと認めるのが相当」と判断。さらに、参拝は「極めて宗教的意義の深い行為」であったと認定し違憲と結論付けた。一方で、信教の自由などの権利が侵害されたとは言えないとして、賠償は認めなかった。原告は上告せず、判決は確定した。
遺族による合祀取消訴訟​
遺族による靖国神社合祀取消訴訟(霊璽簿等抹消訴訟)には以下などがある。
   大阪訴訟​
2006年8月、合祀された戦没者の遺族である浄土真宗本願寺派僧侶の菅原龍憲ら8名、およびカトリック司祭の西山俊彦が、靖国神社及び国に対して合祀取消と損害賠償を求めて訴訟した。菅原龍憲らは訴状で「敬愛追慕の情を基軸とする人格権」への侵害などを主張した。西山俊彦は「信教の自由」への侵害などを主張した。2010年12月、大阪高裁は菅原龍憲らによる控訴に対し、遺族に無断での合祀が「耐え難い苦痛」と認めながらも、靖国神社側の宗教行為の自由や霊璽簿等の非公開を理由に、靖国神社側の行為は違法と言えないと棄却したが、合祀に国が協力した行為は政教分離原則違反で違憲であると判決した。2011年11月、最高裁により確定した。
   沖縄訴訟​
合祀された戦没者の遺族5名が、靖国神社及び国に対して、合祀取消と損害賠償を求めて訴訟した。2010年10月、那覇地裁は原告の請求を棄却した。2011年9月、福岡高裁での控訴審では、原告が「合祀を受け入れがたいことは理解し得る」としつつも、「神社の教義や宗教的行為は、他者に対する強制や不利益の付与がない限り、信教の自由として保障される」と判示した。
   韓国人遺族による訴訟​
2011年7月、日本人軍人・軍属として徴用され戦死した韓国人遺族が合祀取消と損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は原告敗訴の判決を行った。また上記とは別の訴訟で、2011年11月、日本人軍人・軍属として徴用され戦死した韓国人遺族が合祀取消と損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は上告棄却(原告敗訴)の判決を行った。

 

天皇の親拝問題​
昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度(1945年11月20日臨時大招魂祭・1952年10月16日・1954年10月19日例大祭・1957年4月23日例大祭・1959年4月8日臨時大祭・1965年10月19日臨時大祭・1969年10月20日創立100年記念大祭・1975年)靖国神社に親拝したが、1975年(昭和50年)11月21日を最後に、親拝を行っていない。この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたからという仮説があったが具体的な物証は見つかっていなかった。しかし、宮内庁長官を務めた富田朝彦が1988年(昭和63年)に記した「富田メモ」、及び侍従の卜部亮吾による「卜部亮吾侍従日記」に、これに符合する記述が発見された。平成時代も天皇による親拝中止は続いていた。なお、例大祭の勅使参向と内廷以外の皇族の参拝は行われている。
戦後、歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していたが、1975年(昭和50年)8月、三木武夫首相は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言。同年を最後に天皇の親拝が行なわれなくなったのは、この三木の発言が原因であると言われていた。しかし、2006年になって「富田メモ」に、昭和天皇がA級戦犯の合祀を不快に思っていたと記されていたことがわかった。以下は該当部分。
「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ」
日本経済新聞社「富田メモ研究委員会」は「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。
他の資料として有名なものに卜部亮吾侍従日記がある。
・1988年4月28日の日記には「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」
・2001年7月31日の日記には「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」
・2001年8月15日の日記には「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」
と記述されている。
富田メモ以降、合祀問題を原因とする解釈が現在のところは有力ではないかとされる事が一般的には多い。また、徳川義寛侍従長の回顧録などによれば、昭和天皇や宮内庁は、松岡洋右(外交官)、広田弘毅(外交官)、白鳥敏夫(外交官)ら文人の合祀に疑問を呈しており、その中でも松岡洋右は「日米開戦の張本人」として特に問題視されている。
天皇が親拝を止めた原因をA級戦犯の合祀とする見解への反論も存在する。
櫻井よしこは、メモに「Pressの会見」と題がつけられ、富田と覚しき人物が「記者も申しておりました」と会見での記者の反応も書き記していることから、記者会見のメモだと思われるとし、メモ執筆当日の4月28日に昭和天皇が会見していない事実を挙げ、富田が書きとめた言葉の主が、昭和天皇ではない別人の可能性もあると主張している。また、『産経新聞』は、「昭和天皇がA級戦犯の何人かを批判されていたとの記述があったとしても、いわば断片情報のメモからだけで、合祀そのものを“不快”に感じておられたと断定するには疑問が残る」「合祀がご親拝とりやめの原因なら、その後も春秋例大祭に勅使が派遣され、現在に至っていることや、皇族方が参拝されていた事実を、どう説明するのか」という疑問を呈している。
昭和天皇の側近で、戦後「A級戦犯」に指定された木戸幸一元内大臣に対し昭和天皇が、「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」と述べたとの記述が『木戸日記』にあり、鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長だった迫水久常によれば、昭和天皇はポツダム宣言受諾に関する御前会議(8月9日〜10日)において、次のように発言した。
「わたしとしては、忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍びがたいことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽くした人であることを思うと堪えがたいことである。しかし、国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍びがたいことをも忍ばねばならぬと思う。」— 御前会議

 

合祀の問題​
日本人遺族の合祀への異議​
訴訟以外では1968年以降のプロテスタント牧師・角田三郎、および「キリスト教遺族の会」による「霊璽簿抹消要求」があるが、靖国神社は要求を拒否し、その際に池田良八権宮司が「天皇の意思により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意思にかかわりなく行われたのであるから抹消をすることはできない」と説明した。これは以後、同様の要求に対する靖国神社側の一貫した対応となった。
A級戦犯合祀問題​
第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において処刑された人々(特にA級戦犯)が、1978年(昭和53年)10月17日に国家の犠牲者『昭和殉難者』として合祀されている。
旧日本植民地出身の軍人軍属の合祀​
第二次大戦期に日本兵として戦った朝鮮人日本兵や台湾人日本兵(軍属を含む)も多数祀られているが、中には生存者が含まれていたり、遺族の一部からは反発も出ている。
2001年(平成13年)6月29日、韓国や台湾の元軍人軍属の一部遺族計252名が、日本に対し戦争で受けた被害として24億円余の賠償金を求めた裁判(原告敗訴)で、原告の内55人は「戦死した親族の靖国神社への合祀は自らの意思に反し、人格権の侵害である」として、合祀の取り消しを求めた。
2003年2月17日には、小泉靖国参拝・高砂義勇隊合祀反対訴訟の原告団長として高金素梅・台湾立法委員が代表となり訴訟を起こした(なお、合祀に対する台湾人内部の見解の相違については、台湾国内の微妙な政治的問題も相俟っているとの指摘もなされている)。
「親族の意に反した合祀は日本によるアジア侵略の象徴である」との批判がある一方、「英霊として日本人と分け隔てなく祀ることは日本だけでなく台湾や朝鮮の元軍人軍属への最大級の敬意の現れであり、日本の台湾や韓国における統治政策が欧州各国による東南アジア植民地政策とは一線を画していたことを示すものだ」とする意見もある。また、合祀しなかった場合、日本人は台湾・韓国人元軍人軍属を平等に扱わなかったと別の面で批判されるとの指摘もある。
旧幕府軍・西郷軍 合祀問題​
徳川康久宮司が、合祀は「無理」としながらも「向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」と発言したことを受けて、明治維新や西南戦争で賊軍とされた旧幕府軍や奥羽列藩同盟、西郷隆盛らの戦死者も立場は違えど国の為を思い命を落としたのだから靖国神社に合祀すべきであると亀井静香や石原慎太郎らが運動している。

 

問題解決への提案​
いわゆる靖国神社問題への解決案としては、多数の立場・観点から、多数の提案や議論が行われている。
靖国神社廃止案​
1945年10月13日、石橋湛山は『東洋経済新報社論』で「靖国神社廃止の議」を発表した。石橋は、靖国神社を「我が国に取っては大切な神社であった」としながらも、「我が国の国際的立場」、今後の祭祀祭典の実現可能性、国民の感情、「少なくとも満州事変以来軍官民の指導的責任の位地に居った者」の責任などを列挙し、靖国神社の廃止を主張した。
A級戦犯分祀案​
A級戦犯合祀に対しては、A級戦犯の国際的および国内的な扱い、靖国神社による合祀の妥当性、合祀取消としての「分祀」の可能性や是非、靖国神社側の自主的な対応の可能性、国から靖国神社への要求の可能性、などが議論となっている。
   A級戦犯の扱い
いわゆるA級戦犯は、極東国際軍事裁判で戦争犯罪人と判決確定し、その後日本政府はサンフランシスコ講和条約 を結び、その第11条において「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」とあり、国際的(日本を含む)には戦争犯罪人であることは確定している。その発効後1952年6月以降、条約の第11条に基づいて極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府と交渉し、国会決議等により服役中の受刑者に対する恩赦と刑の執行終了・釈放の合意を形成し、生存していたA級戦犯者10名を含め全員を恩赦により刑の執行を終了し釈放した。但し刑期満了者は恩赦・減刑のしようがなく、靖国神社に合祀されている14名のうち死刑により刑の執行が満了している者7名(うち松井はB級戦争犯罪として)、収監中に死亡した者7名については死亡により権利能力を喪失したため恩赦・減刑の対象にはなり得ない(恩赦・減刑とは無罪とすることと異なる為)。 1952年、恩給法改正では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、戦犯拘禁中の死者はすべて「法務死」とされた。1978年(昭和53年)秋、靖国神社にいわゆるA級戦犯が「昭和殉難者」として合祀された。翌1979年4月19日に新聞各紙が合祀を一斉に報道した。また2005年10月25日の衆議院において、当時の小泉内閣は、政府は第二次大戦終結後の極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷の判決により、A級・B級・C級の戦争犯罪人として有罪判決を受けた軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」と回答し、戦犯の名誉回復については「名誉」および「回復」の内容が明確ではないという理由で回答を避けた。 上記経緯の解釈として、以下を含めた議論が続いている。
・極東国際軍事裁判や判決は公正であったか。いずれにしても戦争責任は無いのか。
・サンフランシスコ講和条約は、裁判全体を受諾したのか、単に判決結果のみを受諾したのか。
・恩給法改正は、単なる遺族救済なのか、本人が名誉回復されたのか。
・昭和天皇はA級戦犯合祀に不快感を抱いたかどうか(富田メモの解釈)。
この国際的な意味での戦争犯罪人であることと、国内的には法務死とされていること、この齟齬が国内外でのA級戦犯合祀に対する認識の差になっている側面がある(但しA級戦犯であった者でもその後国内外で活躍した者もいる)。その側面の解決の方法として提案されているものである。
A級戦犯合祀を不当または不適当とする立場からは、「合祀取消」による現状復旧案として分祀または廃祀案がある。
   靖国神社の意見
靖国神社側はA級戦犯分祀案について「神道では分祀では分離できない、神はひとつになっており選別もできない」として、神道における分祀(分霊)とは、全国に同じ名前を冠する神社があちらこちらにあるように、ある神社から勧請されて同じ神霊をお分けする事であり、元の祭神と同一のものがまた別に出来上がること(いわゆるコピー)なので「分離」にはならない。また、一旦合祀した個々の神霊を遷すことはありえない。仮に全遺族が分祀に賛成しても分祀出来ないと答えている。
   他の意見
・1979年、春の例大祭で総理大臣大平正芳は参拝し、「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものに対する審判は歴史がいたすであろう」と答えた。
・戦後の靖国神社は一民間の宗教法人であり、どのような考え方で祭祀を行っても自由であり、国家や政治が介入して分祀を迫ることは、政教分離の原則に反しできない。1986年には神道政治連盟が分祀要請は憲法違反として抗議した。
・哲学者の高橋哲哉は靖国神社は他の神社と異なるし、分祀の拒否は「日本の神社神道の古来の伝統ではない」として、分祀は不可能ではなく、靖国神社と遺族がそれを了承すれば済むと主張している。ただし、高橋はA級戦犯の分祀は戦争責任問題を矮小化するものであり、A級戦犯をスケープゴートにすることは昭和天皇が免責された東京裁判と構図が瓜二つであるとも批判している。また高橋は、野中広務内閣官房長官(当時)が1999年8月に「誰かが戦争の責任を負わなくてはならない」という発言についても戦争責任問題を矮小化する発言であり、その場の状況に流されて発言したことは御都合主義として批判している。また毎日新聞は分祀とは「祀る対象から外す」ことであり、可能だと主張している。
・2006年に韓国の聯合ニュースは、仮にA級戦犯を外す事ができても、政治問題化が解消しないならば、意味が無いと主張した。
・2015年8月に、靖国神社は共同通信社の質問に対して「自衛官が戦死しても靖国神社に祀ることはしない」と回答した。
国立追悼施設の設置​
国家的な常設の戦没者追悼施設は必要だが、靖国神社では歴史的・宗教的・国際的などの問題があると考える立場からは、靖国神社に代わる国立の追悼施設を設置するという提案されており、それへの反対意見を含め、議論が存在している。
靖国神社は常設の施設であるが、戦後は一宗教法人であり、国立ではなく、神道の神社であり、戦前の国家神道や戦後のいわゆるA級戦犯合祀問題への議論が存在している。靖国神社を国家管理の施設に復活させる案として靖国神社法案が国会に提出されたが、宗教色を薄める内容への反対もあり廃案となった。A級戦犯の「分祀」は「不可能」として靖国神社が拒否している。
隣接する千鳥ケ淵戦没者墓苑は国立の無宗教形式の施設であるが、納められているのは引き取り手がない無名戦士の遺骨のみであり、戦死者全体を追悼・慰霊する場ではない。
1952年以降、全国戦没者追悼式が毎年開催され、特定の宗教によらない形で天皇、内閣総理大臣、衆参議長、最高裁判所長官なども出席している。対象は民間の空襲被災者なども含むが、常設の施設ではない。なお1964年は靖国神社で開催されたがスペースの問題もあり、以後は日本武道館で開催されている。
以上の現状を前提に、国が公式に戦士・戦没者を追悼する常設の施設が必要との立場からは、新たな国立追悼施設が必要との意見があり、その中には千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充案もある。なお国立追悼施設設置論は靖国神社廃止論ではない(そもそも民間の一宗教法人を国家が廃止するなど信教の自由上不可能である)。ただし現在、民間の一宗教法人である靖国神社に国家の公式の追悼・慰霊の役割を担わせることそのものは、津地鎮祭訴訟で示された目的効果基準に照らし政教分離の原則に反し憲法違反である(愛媛県靖国神社玉串料訴訟)。
公明党は「日本国民も外国要人も天皇陛下もわだかまりなく、心から戦没者を追悼できるような施設のあり方を検討してもいいのではないか」と「国立追悼施設」に賛成している。2001年、小泉純一郎政権時代に首相官邸において、戦没者追悼施設の在り方、必要性、既存施設との関係について議論するため「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が設けられ、2002年に報告書が出された。また2005年、超党派の議員連盟の国立追悼施設を考える会が発足した。
なお、他国の国立追悼施設にはアメリカ合衆国のアーリントン国立墓地他にイギリス連邦のコモンウェルス戦争墓地委員会、中華人民共和国の人民英雄紀念碑、韓国の国立ソウル顕忠院や戦争記念館 (韓国)、北朝鮮の愛国烈士陵、インドネシアのカリバタ英雄墓地などがある。
アメリカ合衆国のアーリントン国立墓地は南北戦争時に作られたが、北軍南軍双方の兵士が埋葬されている。国が決めた埋葬基準を満たした中での希望者が埋葬され、敷地内の教会はキリスト教だが、埋葬や慰霊・追悼の際には、キリスト教形式に限らずどの宗教形式でも、あるいは無宗教の形式でも、本人や遺族が自由に選択できる。一方、靖国神社は東京招魂社として戊辰戦争後に作られたが祀られているのは維新政府軍のみであり、幕軍側や旧士族の反乱(西南戦争など)の死者などは祀られていない。現在は民間の一宗教法人であり、国との公的関わりはなく、生前の本人の宗教信仰に関わりなく合祀されるが、合祀の形式は神道形式に限られる。その祀られる基準は靖国神社が定め、事前に遺族などに合祀の同意を求めず、遺族などが合祀を取り消しまたは合祀を求めてもそれには応じず、そういったことと無関係に勝手に祀るものである。
合祀されたA級戦犯14名の中でも広田弘毅の遺族・孫の弘太郎は「合意した覚えはない。今も靖国神社に祖父が祀られているとは考えていない」と話した。靖国に絡むこれらの思いは「広田家を代表する考え」としている。
2013年5月訪米時に安倍晋三首相が「日本人が靖国神社を参拝するのは米国人がアーリントン墓地を参拝するのと同じ」と『フォーリンアフェアーズ』紙に答えた。それに対し韓国の『中央日報』は「アーリントンが国民統合と和解の象徴なら、靖国は戦死者を顕彰する軍国主義の象徴にすぎない」として批判した。2013年10月3日、米国のジョン・ケリー国務長官とチャック・ヘーゲル国防長官は千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ、献花した。千鳥ヶ淵戦没者墓苑によると、この訪問は日本の招待ではなく米国側の意向であった。同行した米国防総省高官は記者団に対し、千鳥ヶ淵戦没者墓苑はアーリントン国立墓地に「最も近い存在」だと説明した。ケリーとヘーゲルは「日本の防衛相がアーリントン国立墓地で献花するのと同じように」戦没者に哀悼の意を示したと述べた。安倍が5月に訪米した際、靖国神社を米国のアーリントン国立墓地になぞらえたことに対する牽制とみられる。その後2013年12月に安倍が参拝すると菅官房長官は記者会見で「無宗教の国立追悼施設の建設構想については『国民に理解され、敬意を表されることが極めて大事なことだ。国民世論の動向を見極めながら慎重に検討することが大事だ』と述べ、現時点では取り組む考えがないことを示唆した」。また安倍も参院予算委員会で「多くのご遺族の方々がどう思われるかが大変大きな問題だ」と新施設に慎重姿勢を示した。また首相側近の萩生田光一総裁特別補佐は「新施設は決して無駄とは思わないが、靖国への思いとは異なる」と指摘した。公明党は2013年12月に安倍の参拝をうけて「どのような立場の人もわだかまりなく追悼できる施設」を提案した。
日本遺族会は「靖国神社に代わる新たな追悼施設は認めない」との立場で、設置不要派である。
元陸軍少尉・小野田寛郎は、「死んだら神さまになつて会おう」と約束した場所が靖国神社であり、戦後その靖国神社を国家が守らないことに対して、「国は私たちが死んだら靖国神社に祀ると約束しておいて、戦争に負けてしまったら、靖国など知らないというのは余りにも身勝手」という見解を示し、靖国神社とは全く別の追悼施設を作るというのは、「死んだ人間に対する裏切り」行為だと批判している。
霊璽簿​
靖国神社では、戦没者としていったん合祀されたものの後になって生存していることが明らかになった場合、祭神簿に「生存確認」との注釈を付けるにとどめ、霊璽簿は削除・訂正しない。この処置は、後に生存が確認された横井庄一や小野田寛郎、そして韓国など海外の生存者についても同様である。また、この毎日新聞記事によれば「死亡していない以上、もともと合祀されておらず、魂もここには来ていない」と靖国神社は説明している。
霊璽簿を一切変更せずただ名前を追加するのみという靖国神社の態度は、生存者だけでなく内外の遺族の削除要求に対しても一貫している。
   朝鮮戦争での殉職者合祀拒否問題
2006年(平成18年)9月2日付けの各紙報道によれば、朝鮮戦争中の1950年(昭和25年)10月に米軍の要請で北朝鮮元山市沖で掃海作業中、乗船していた掃海艇が機雷に触れ爆発、殉職した海上保安庁職員(当時21)の男性遺族(79)が、靖国神社合祀を申請していたが、神社側が合祀要請を拒否していたことが明らかになった。神社側は8月25日付回答書で「時代ごとの基準によって国が『戦没者』と認め、名前が判明した方をお祀りしてきた」「協議の結果、朝鮮戦争にあっては現在のところ合祀基準外」とした。海上保安庁は、日本国憲法が発効していたことから、遺族に口外を禁じ、事故記録も廃棄されたという。男性遺族は「戦後の『戦死者』第1号であり、神社には再考を求めたい」と話している。なお、この職員には、戦没者叙勲はされたものの、恩給は支給されていない。
特攻作戦に関与した海軍中枢部の将官のうち、終戦直後の8月15日に「オレも後から必ず行く」と言ってそれを実行した宇垣纏は、靖国神社に祀られていない。終戦直後に部下と共に特攻した(特別攻撃隊#日本海軍)行為が、停戦命令後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法31条に抵触するものであり、また、無駄に部下を道連れにしたことが非難されてもおり、部下も含め戦死者(あるいは受難者)とは認められていない。しかし、特攻作戦の命令を下した人物として自決により責任を取った、と評価する有識者の中からは、靖国神社に合祀すべきとの意見が出ている。そのため郷里である岡山県護国神社の境内には、彼と部下十七勇士の「菊水慰霊碑」が建立されている。
その他の問題点​
   神道における教義上の問題
戦後、折口信夫は、神道における人物神は、特に政治的な問題について、志を遂げることなく恨みを抱きながら亡くなった死者を慰めるために祀ったものであり(所謂御霊信仰を指す)、「護国の英雄」のように死後賞賛の対象となるような人物神を祭祀することは神道教学上問題がある、と述べている。ただし、実際には近代以前でも豊国大明神(豊臣秀吉)や東照大権現(徳川家康)のような例があるほか、明治以降には鍋島直正の佐嘉神社や山内一豊の山内神社など、恨みを抱いて亡くなったわけでもない古代以来幕末までの忠臣名将を祀る神社が各地に創建されている。
また哲学者の高橋哲哉は豊国大明神の廃祀や明治期の神仏分離などを挙げて、分祀や廃祀が出来ないとする靖国神社の見解に対して、日本の伝統的な日本神道のあり方に則れば可能であると主張している。
   祭神となる基準
戊辰戦争・明治維新の戦死者では新政府軍側のみが祭られ、賊軍とされた旧幕府軍(彰義隊や新撰組を含む)や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外。西南戦争においても政府軍側のみが祭られ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外(西郷軍戦死者・刑死者は鹿児島市の南洲神社に祀られている。)
軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者が対象で、戦闘に巻き込まれたり空襲で亡くなった文民・民間人は対象外。また、戦後のいわゆる東京裁判などの軍事法廷判決による刑死者と勾留・服役中に死亡した者が合祀され、合祀された者の中に文民が含まれている。なお、「軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者・戦犯裁判に於ける死者」であれば、民族差別・部落差別等の影響は一切無い。

 

日本における見解​
日本政府の見解​
日本政府は1951年連合国との講和条約(所謂「サンフランシスコ講和条約」)に署名し、その第11条において「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」とあり、日本国も含めて国際的には戦争犯罪者であることは確定している。その条約発効後、条約の第11条に基づいて、極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府と交渉して、服役中の受刑者に対する恩赦と刑の執行終了・釈放の合意を形成し、刑の満了者及び服役中に死亡した者を除いて全員を恩赦により刑の執行を終了し釈放した。日本の国会は、国内・国外の軍事裁判で戦犯として有罪判決を受けた者は、国内法では犯罪者ではないと決議した。
・1952年6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
・1952年12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
・1953年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
・1955年7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
・1956年(昭和31年)12月3日 - 逢澤寛・自由民主党衆議院議員が、「今度できるお墓」(1959年竣工の千鳥ケ淵戦没者墓苑)は全戦没者を対象とするものではないので政府として代表的慰霊施設との扱いはせず外国要人を招待しないよう要求する質問をして、小林英三厚生大臣がこれを受け入れている。
2005年10月25日の衆議院において、当時の小泉内閣は、政府は第二次大戦終結後の極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷の判決により、A級・B級・C級の戦争犯罪人として有罪判決を受けた軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」と回答し、戦犯の名誉回復については「名誉」および「回復」の内容が明確ではないという理由で回答を避けた。自らの参拝については「内閣総理大臣である小泉純一郎が参拝した」と公私の区別を曖昧にしていたが、福岡地裁判決を受けた小泉首相は記者団の質問に「私的な参拝と言ってもいい」と語り、公私の区別をあえてあいまいにしてきた従来の姿勢を転換させた。
政党の見解​
自由民主党 / 党としての公式見解は決まっていない。議員の中には賛成派も反対派もいる。過去に11人の首相と多数の閣僚が参拝している。
立憲民主党 / 党としての公式見解は決まっていない。過去に首相経験者や閣僚経験議員が参拝したことはない。
国民民主党 / 党としての公式見解は決まっていない。議員の中には賛成派も反対派もいる。過去に閣僚経験議員が1人参拝している。
公明党 / 党としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。閣僚が参拝したことはない。
日本共産党 / 党としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。
社会民主党 / 党としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。閣僚が参拝したことはない。
日本遺族会の見解​
2005年(平成17年)6月11日、日本遺族会会長で自由民主党の古賀誠ら幹部が、「首相の靖国神社参拝は有り難いが、近隣諸国への配慮、気配りが必要」との見解をまとめる。しかし、6月17日に遺族会会員から「方針転換し、参拝中止を求めるものではないか」と懸念の声が相次いだのを受け、「今後も総理大臣の靖国神社参拝継続を求め、靖国神社に代わる新たな追悼施設は認めない。A級戦犯の分祀は靖国神社自身の問題だ」とし、「総理は中韓両国首脳の理解を得るよう努力するべきだ。」という従来通りの方針を確認した。
経済界の見解​
関西経済同友会 / 2006年(平成18年)4月18日、関西経済同友会は、「歴史を知り、歴史を超え、歴史を創る」と題した提言を発表。いわゆる歴史認識問題は、中韓両政権が国内体制維持に反日感情を利用している一方、日本側は、政府高官を含め、日本人自身が歴史を知らず、生煮えの歴史対話となっていると指摘。日本は、中韓両国とのより良き関係構築の観点から毅然とした態度で外交交渉に臨むことが肝要と述べ、靖国神社問題に関しては、日中国交正常化の原則に則り、相互内政不干渉とすべきで、この点は日韓間でも同様であると述べた。
経済同友会の見解 / 2006年(平成18年)5月9日、経済同友会は、「今後の日中関係への提言」を発表。日中両国首脳の交流再開の障害に小泉首相の靖国参拝があると指摘し、参拝の再考を求めた。これに対し首相は「商売のことを考えて行ってくれるなという声もたくさんあったが、それと政治は別だとはっきり断っている」と述べた。公明党の神崎武法代表は10日、経済の現場に悪影響が出始めたとの危機感を表明したが、小泉首相は10日夜「日中間の経済関係は今までになく拡大しているし、交流も深まっている」と参拝による影響を明確に否定した。2005年度の日中の貿易額は七年連続で増加し、過去最高になっており、記録を更新中と伝えられた(2006年4月)矢先のことであった。
宗教界の見解​
神社本庁 / 2005年6月9日に発表した声明で、靖国神社は日本における戦没者慰霊の中心的施設であり、神社祭祀における「分祀」は「分離」とは異なり、首相は参拝すべきであり、いわゆる「A級戦犯」は国内法上の犯罪者ではなく、不公正な裁判であった、との見解を表明した。
新日本宗教団体連合会 / 信教の自由および政教分離原則の観点から、首相・閣僚の公式参拝に反対している。A級戦犯の合祀については、(一宗教法人としての)靖国神社の判断であるとして、問題視しないとしている。
全日本仏教会 / 公式・私的共に首相・閣僚の参拝に反対している。
日本キリスト教協議会 / プロテスタント各教派の連合組織である日本キリスト教協議会は、首相・閣僚の靖国神社参拝に反対する多くのパンフレットを出版しており、たびたび抗議声明を発表している。
真宗教団連合 / 浄土真宗の連合組織である真宗教団連合は、首相・閣僚の靖国神社参拝にたびたび抗議声明を発表している。
創価学会 / 日本国憲法第20条の政教分離原則に抵触する恐れがあるとして、首相の参拝に反対している。
幸福の科学 / 首相の参拝に賛成している。また、参拝に反対する中国や韓国の主張については、日本における信教の自由に対する侵害であるとしている。信者が参拝することにも肯定的である。
新聞社の見解​
読売新聞社 / 社としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。読売新聞グループ本社会長の渡邉恒雄は、「産経新聞以外の日本のメディアは戦争の責任と靖国神社等の問題について重要な共通認識をもっている」としている。渡邉自身、首相の靖国神社参拝には反対の立場を取っており、「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。すべての日本人はいずれも戦犯がどのような戦争の罪を犯したのかを知るべきである。」「今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力でそれを倒す」と述べている。
朝日新聞社 / 社としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。
毎日新聞社 / 社としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。
産経新聞社 / 社としての公式見解は、靖国神社に対する肯定派、靖国神社参拝は賛成派。『産経新聞』では、社説「主張」にて首相の靖国神社参拝(特に終戦の日の参拝)を強く要望しており、参拝しなかった歴代首相や参拝に否定的な政治家を批判している。2009年(平成21年)に麻生太郎首相が終戦記念日の参拝を見送ったことについても批判し、「再考を求めたい」と要望していた。同年8月31日におこなわれた第45回衆議院議員総選挙で自民党が大敗した際には、「麻生首相が靖国神社を終戦の日に参拝しなかったことへの国民の失望は大きかった」と論評した。また、国立追悼施設の建設に対しても反対の立場を取っている。

 

日本国外の見解​
アメリカ​
アメリカ合衆国は、2006年に靖国神社の遊就館に展示してあった太平洋戦争開戦までのアメリカの意図の解説文を下院外交委員会や当時のシーファー駐日大使が批判しており、この批判を受け神社側は遊就館の記述を一部修正するに至った。
2013年12月26日の安倍晋三首相による靖国神社参拝について、駐日アメリカ合衆国大使館は「日本は大切な同盟国であり友人である」と前置きし、「米国は日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させる行動を取ったことに失望している」、「日本と近隣諸国が地域の平和と安定の我々の共通の目標を推進する中での協力を促進するための建設的な方法を見つけることを期待している」、「首相が過去への反省を表明し、日本が平和に関与していくと再確認したことに注目する」とする声明を発表した。これを受けて朝日新聞は、米政府が日本の首相の靖国参拝を批判したのは異例であると報じた。国務省の報道官も駐日大使館と同内容の談話を発表した。その後、12月31日に国務省のハーフ副報道官は、会見で「失望」という言葉について質問され、「日本の指導者の行動で近隣諸国との関係が悪化しかねないことに対するもので、それ以上言うことはありません」と答え、これを受けてTBSニュースは、「失望した」という言葉は、靖国参拝そのものではなく、近隣諸国との関係悪化に懸念を表明したことを強調した、と報じた。同会見では他に、「日本の指導者が近隣諸国との関係を悪化させるような行動を取ったことに失望している」、「日本は大切な同盟国で様々な課題を解決する緊密なパートナー。これは変わらず、今後も日米で意見が異なることは話し合い続ける」と述べた。
TBSニュース(12月31日)は、「失望」という表現については、アメリカの一部の有識者から「戦没者の追悼方法を他の国がとやかく言うべきではない」という指摘が上がっているとしている。カート・キャンベル前国務次官補は2014年1月15日、戦略国際問題研究所における会合で安倍首相の靖国神社参拝について「アメリカの外交政策の助けにはならない。米・日・中・韓の間で緊張が高まっており新たな懸念をもたらす」と批判し、マイケル・グリーン元国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長は同会合で、参拝に「失望している」とした国務省の対応を「正しい反応だった」と指摘しつつ、「日米防衛協力のための指針の再改定といった日米間の課題が変化することはない。それらの課題は米国の国益でもある」と、参拝が日米関係に与える影響は限定的との認識も述べた。
米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は2014年1月23日、複数の米政府当局者の話として、安倍晋三首相が靖国神社参拝を繰り返さない保証を、米政府が日本政府に非公式に求めていると伝えた。日中、日韓関係がさらに悪化することを懸念しているとみられる。同紙によると、米政府は参拝後にワシントンと東京で開かれた日本側との「一連の会談」を通じ、近隣諸国をいら立たせるさらなる言動を首相は控えるよう要請。日米韓の連携を阻害している日韓関係の改善に向けて韓国に働きかけるよう促し、従軍慰安婦問題に対処することも求めた。さらに今後、過去の侵略と植民地支配に対する「おわび」を再確認することを検討するよう首相に求める考えだという。米国務省副報道官のハーフは23日の記者会見で、同紙の報道について問われ、「事実かどうか分からない」と述べた。
リチャード・アーミテージ元国務副長官は2014年2月27日首都ワシントンで開かれたシンポジウムで、安倍晋三首相の靖国神社参拝について「中国政府が喜んだはずだ」と述べ、中国の日本批判を結果的に後押しする形になったという意味で反対だと語った。ただ、参拝自体については「日本の指導者が国全体にとって何が最善かを考えて決めることだ」と話した。中国が「(第二次世界大戦後の国際秩序の基礎となった)カイロ宣言やポツダム宣言を受け入れていないのが日本だ」との批判を広めていると指摘。「中国政府は首相の靖国参拝を喜んだはずだ。なぜなら、彼らは参拝後、各国の外交担当者に電話をし『見た? 言った通りでしょ』と言うだけで良かったからだ。これが参拝への反対理由だ」と語った。また仮にA級戦犯が分祀されても中国は参拝を問題視し続けるとの見方を示した。
韓国の三大紙の中央日報は『在日大使館名義で「失望」という声明を出した2日後、沖縄県が普天間のアメリカ合衆国空軍基地を辺野古移転案を承認するとヘーゲル米国防長官は「日米安保同盟は強固であり、両国間のパートナーシップはさらに強まるだろう」という歓迎の声明を発表した。』ことを「失望」という声明は短い3つの文章だったのに対して、沖縄県の決定を歓迎するという声明はA4用紙1枚分の長い声明だったことに触れ、『 どの声明がより重要、または重要でないとは言わないが、米国にも「本音」と「建前」がある』 と過度にアメリカの「失望」声明に反応する人々を牽制した。 さらに中央日報は『「失望」声明に喜んだ人々は、安倍首相の日本を嫌うことを望んだがアメリカの国防長官は長い間の悩みだった普天間基地の移転問題が解決されると即座に「強い日米同盟」に言及した理由はアメリカ中心主義時代を脅かす中国に対抗するには、依然として安倍首相の日本を必要とするしかない。』としてアメリカ合衆国の本音を直視しなければならないと指摘した。
国連​
国際連合は、1946年の第1回から2012年の第67回までの国際連合総会において、日本に対して首相、国務大臣、衆議院や参議院の議長などの立法府や行政府の要人による、靖国神社参拝の禁止や自粛を決議として採択したことはなく、決議案が総会・安全保障理事会・経済社会理事会・人権理事会に提案されたことはない。
2013年12月26日の安倍晋三首相の靖国神社参拝を受けて、潘基文国連事務総長の報道官は27日安倍首相の靖国神社参拝について「過去に関する緊張が、今も(北東アジアの)地域を苦悩させていることは非常に遺憾だ」との声明を出した。声明は「事務総長は共有する歴史に関して、共通の認識と理解を持つよう一貫して促してきた」と指摘。事務総長が被害者の感情に敏感であることや、相互信頼を築くことの重要性を強調しているとして、指導者は「特別な責任」を負っていることを挙げた。
中華人民共和国​
中華人民共和国政府は、1979年4月にA級戦犯合祀が公になった時から1985年7月までの6年4月間、3人の首相が計21回参拝したことに対しては何の反応も示さなかったが、1985年8月の中曽根首相の参拝以後は、「A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝すること」は、中国に対する日本の侵略戦争を正当化することであり、絶対に容認しないという見解を表明し続けている。中国政府は国際的および国内的に「日本の侵略戦争の原因と責任は日本軍国主義にあり、日本国民には無い。しかし日本軍国主義は極東国際軍事裁判で除去された。」と説明している。また1972年の日中国交正常化の際の共同声明では「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」とも記載されている。このため中国から見て「日本軍国主義の責任者の象徴」であるA級戦犯を、現在の日本の行政の最高責任者である首相や行政府の幹部である閣僚が、「賞賛または称揚」することは「歴史問題」となるからである。
中華民国(台湾)​
当時日本領であった台湾では、台湾人日本兵高砂義勇隊への徴兵による戦死者の靖国への合祀に対し、一部で批判がある。台湾の政党関係者による靖国神社への参拝が政治問題化したこともある(台湾団結連盟靖国神社参拝事件)。
馬英九総統は、安倍晋三首相による2013年12月26日の靖国神社参拝が元慰安婦とされる女性たちの「傷口に塩をぬる」行為に当たるとして、「隣国の慰安婦が受けた迫害などの悲惨な歴史を少しも省みていない」、「日本政府の行為は大変遺憾だ」と非難した。
韓国​
韓国政府は「A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相や閣僚が参拝すること」を問題視している。ただし韓国の場合は、日韓併合から日本の降伏までの間は、日本に併合されていたため、日本の交戦相手国や戦勝国ではないと同時に、旧日本軍側としての募集や徴用の結果、靖国神社への合祀者が存在する。このため韓国および台湾では、「靖国神社合祀取り下げ訴訟」も発生している。なお、韓国政府は2006年、A級戦犯の分祀だけでは靖国問題の解決にはならないとの認識を政府方針として決定している。
シンガポール​
首相リー・シェンロンは 2005年5月に「同神社には(第2次大戦の)戦争犯罪人が祭られており、シンガポールを含む多くの国の人々に不幸な記憶を呼び起こす。戦犯をあがめる対象にすべきではない」、「悪い記憶を思い起こさせる。シンガポール人を含む多くの人にとって、靖国参拝は日本が戦時中に悪い事をしたという責任を受け入れていないことの表明、と受け取れる」と述べ、2001年8月には「日本が戦争責任の問題を片付けていない」、「戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社の性格から、小泉首相が過去の侵略を反省した談話を十三日に発表したにもかかわらず近隣国の反発が起きた」と批判している。上級相ゴー・チョクトンも2006年に「日本の指導者は靖国神社への参拝をやめ、戦没者を祭る別の方法を探るべきだ」と述べた。シンガポール外務省は小泉首相の2006年度の参拝を受けて、「小泉首相の靖国神社参拝を遺憾に思う。シンガポール政府は靖国問題に関する立場を繰り返し表明してきたが、それに変化はない」「東アジア域内で緊密な連携関係を築くという大局的な共通利益に助けとはならない」と批判した。
他方、リー・クァンユー元首相は「靖国問題は中国が心理的なプレッシャーをかけているだけで、日中友好の底流は変わらない」と述べている。
ロシア​
ロシア外務省公式代表のルカシェビッチ情報局長は、2013年12月26日の安倍晋三首相による靖国神社参拝について、「遺憾の意を呼び起こさざるをえない」というコメントを発表した。
また2013年12月30日、中国の王毅外相とロシアのラブロフ外相は電話会談し、安倍晋三首相による靖国神社参拝を共に批判した上で、歴史問題で共闘する方針を確認した。王は「安倍(首相)の行為は、世界の全ての平和を愛する国家と人民の警戒心を高めた」と述べ、参拝を批判。その上で「(中露両国は)反ファシスト戦争の勝利国として共に国際正義と戦後の国際秩序を守るべきだ」と述べ、歴史問題で共闘するよう呼び掛けた。それに対しラブロフは「靖国神社の問題ではロシアの立場は中国と完全に一致する」と応じ、日本に対し「誤った歴史観を正すよう促す」と主張した。
欧州連合(EU)​
EUの外務・安全保障政策上級代表(外相)・キャサリン・アシュトンの報道官は、2013年12月26日の安倍晋三首相による靖国神社参拝について「建設的ではない」と批判する声明を発表した。
   フランス
フランスのシラク大統領(当時)、参拝前の小泉総理大臣に「参拝すれば日本のアジアとの関係は難しくなり、世界の中で日本は孤立する危険がある。注意してほしい」と忠告。

 

その他​
国際危機グループは、2005年12月に報告書「北東アジアの紛争の底流」を提出し、「小泉首相の靖国神社参拝と右翼グループによる歴史解釈を修正する歴史教科書作成の試みは中韓両国の警戒心を刺激し、日本は第二次世界大戦での犯罪を反省していないとの感情を増幅させた」「ドイツと異なり、自国の歴史の継続的、批判的検証にほとんど関心を示していない」と批判している。
ホロコーストの記録保存や反ユダヤ主義の監視等を行っているユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米国ロサンゼルス)は、2013年12月の安倍首相の靖国神社参拝について同月26日、靖国神社参拝を「倫理に反している」と非難する声明をクーパー副所長が発表した。「戦没者を含め、亡くなった人を悼む権利は万人のものだが、戦争犯罪や人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々を一緒にしてはならない」と指摘した。北朝鮮情勢が緊迫しているなか安倍首相が参拝したことにも懸念を表明し、「安倍首相が目指してきた日米関係の強化や、アジア諸国と連携して地域を安定化させようという構想に打撃を与える」と批判した。
 
 

 

●「靖国神社参拝問題」の原点に立ち返る 2013
毎年夏になると、首相や閣僚の靖国神社参拝が国内政治や東アジア国際関係の焦点のひとつになる。しかし、靖国神社がどのようなところで、「参拝問題」とは何か、国内外で十分に理解されているのだろうか。
夏になると必ず話題になる「靖国神社」をめぐる問題。首相や閣僚による参拝の是非が、国内政治のみならず、外交、国際関係の上でも注目されている。
だが、そもそも靖国神社をめぐって何が問題なのか。実は日本でも単純に、東京裁判(極東国際軍事裁判)におけるA級戦犯が祀られている神社に首相や閣僚が参拝すると、それがさきの戦争を肯定しているように思われたり、軍国主義の復活のように思われるから、と漠然と感じているにすぎないことが少なくない。
では、靖国神社とはそもそもどういうところで、なぜA級戦犯がそこに合祀(ごうし)されているのだろうか。そして、それはどのような背景をもっているのだろう。実のところ、これらのことを問われたとき、明確に答えられる人は国内でも決して多くない。
他方、海外で靖国神社のことが話題になるとき、すでにある種のイメージが先行していることが少なくない。要するに日本軍国主義の象徴である、という印象である。だが、靖国神社に戦犯の位牌(いはい)や遺骨があると信じられていることもあるし、またこの神社が戦後は一宗教法人であるということが理解されていないことも少なくない。日本の対外侵略を否定することはできないにしても、靖国神社の話を海外でするとき、多くの誤解に出会うことも、また確かである。
国際問題としての靖国問題もまた同様だ。日本と中国の間でも、1978年のいわゆるA級戦犯合祀の後、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の各首相が参拝しても、1985年の中曽根首相の参拝までは全く問題とされなかった、ということも海外ではあまり知られていない。日本国内でもそれが日本のメディア報道を契機とするということが知られていても、なぜそれが後に歴史認識問題の象徴のようにされていくのか、十分に理解されているわけではない。
実のところ、靖国神社や靖国神社参拝問題をめぐるさまざまな誤解や認識の不足に対して、事実を示して「実証的に」理解する道筋を立てようとする動きもあった。例えば、国立国会図書館の行った「靖国神社問題資料集」の作成である。この資料集は、靖国神社をめぐる動向、あるいは問題に関わる「事実」を提示した貴重なものである。しかしながら、このような資料集が直ちに多くの日本国民に、あるいは海外のこの問題に関心のある人々に共有されて、共通認識が育まれるわけではなかろう。ひとつの、あるいは異なる社会集団の中で史料を共有して、一定の共通認識を育むことは決して容易ではない。
この特集は、こうした問題を踏まえ、靖国神社とはそもそもどのようなところで、「靖国神社参拝問題」とは何かということを、「そもそも論」に立ち返って見直すことを想定した。すべての角度から問題を扱うことはできないが、本特集では二つの論考を掲載する。ひとつは、近代日本における戦没者の慰霊のあり方、そしてそこにおける靖国神社の位置づけを論じた檜山幸夫氏の論考。今ひとつは、A級戦犯合祀の意味を問い直す、日暮吉延氏の論考である。また編集部作成の、この問題に関する基礎的なメモ(外国語版向け)も、掲載する。
これらの論考が論点のすべてを網羅するわけではないが、この問題の「そもそも」を問い直すきっかけになれば幸いである。
 
 

 

●歴史批判に臆せず日本のいまに自信を持て  2014
安倍晋三首相の靖国参拝に対する波紋が新年になっても収まらない。現職首相の公式参拝は二〇〇六年の小泉純一郎元首相以来となるが、反響の大きさはまるで違う。
小泉参拝に対し「日本の首相や政治家が決めることだ」と静観を装ったアメリカは今回、国務省が「DISAPPOINTMENT」の言葉で失望を表明し、国連事務総長やEU連合も批判声明を出した。
内外のメディアも「国家の指導者としての責務を果たした」とした産経新聞を除くとおおむね批判的、ワシントンポストは社説で「無用の紛争を挑発する危険な行為」とまで書いた。
靖国神社は国の守りに命を捧げた兵士を慰霊する場であり、国の指導者が頭を垂れるのは当然である。どのように祈りを捧げるかは、その国の文化であり、外国からとやかくいわれる筋合いはない。私自身も首相の靖国参拝に賛成である。
しかし、中国が経済的にも軍事的にも大きな力を付けた現在、小泉政権時代とは世界情勢が大きく異なる。
アジアへのリバランス(回帰)政策をとる米・オバマ政権が首相の靖国参拝に反対するのは、軍備拡張の格好の口実を中国に与え、東アジアの緊張が高まるのを懸念してのことだ。不測の事態に巻き込まれるのを避けたいというのが米国の本音である。
朴槿恵韓国大統領の「告げ口外交」を加速させ、アメリカが目指す日米韓三国による東アジアの安全保障を後退させる恐れもある。
加えてアメリカにとって悩ましいのは、安倍首相が掲げる「戦後レジームからの脱却」。戦後の国際秩序はアメリカが主導してつくった。
東条英機元首相らA級戦犯が合祀された靖国神社への公式参拝は、戦後の国際秩序の原点である東京裁判史観の否定にもつながり、「A級戦犯を祀った靖国神社に日本の首相が参拝するのを許していいのか」といった中国、韓国の問い掛けを無視するのは難しい。
安倍首相は参拝理由を「二度と戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるため」とするとともに、「各国には誤解があるので、今後、丁寧に説明し理解を求めていく」と語った。
恒久平和への誓いは、その通りであろう。しかし事を起こしてから説明しても、それは言い訳にしかならない。
付言すれば、中国や韓国は誤解等していない。歴史問題が日本を封じ込め、譲歩を引き出す外交上の切り札であることを承知しているからこそ執拗な日本批判を続けるのだ。今後も日本批判が止むことはない。
安倍首相には、こうした閉塞現状や中国の一方的な防空識別圏設定に、いま一つ煮え切らないアメリカへのイラ立ちがあるかもしれない。
しかし今回の参拝を結果的に見れば、靖国神社を「日本軍国主義のシンボル」とする中韓両国に無用な得点を与えたオウンゴールのような気さえする。拙速ではなかったかー。
私は一年前、本欄で「憲法を改正し普通の国になれ」と提言した。歴史攻撃に萎縮することなく、平和国家であり続けるためには、憲法を改正し「普通の国」になることが何よりも先決である。
日本の文化では、人は死ねば誰もが神様、仏様になる。誰が合祀されていようと関係ない。世界は日本が自由と民主主義を求める平和国家であることを広く認めている。
我々は「日本のいま」にもっと自信を持つべきである。政治・外交を意識した歴史認識批判に反発してナショナリズムを高揚させるのは得策ではない。靖国参拝も国としての必要な要件を整備した上で堂々と行うべきである。安倍首相には国のリーダーとして、もっと余裕を持っていただきたい。
 
 

 

●安倍首相の靖国神社参拝に対する抗議声明  2014
1 2013年12月26日、安倍首相は、現役の首相としては2006年以来7年ぶりに靖国神社に参拝した。報道によれば、安倍首相は、公用車で靖国神社に向かい、本殿に参拝し、「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳し、本殿前に首相名で供花したという。靖国神社への参拝は、政教分離原則(20条3項)に反する違憲行為であり、侵略戦争を美化し憲法の定める平和主義(前文、9条)を突き崩すという点で看過できない重大な問題がある。また、首相の憲法尊重擁護義務(99条)にも違反するものである。さらに、侵略戦争の反省の上にアジア諸国との平和・共生・繁栄の道を歩むという日本が求められている外交姿勢を否定するに等しい行為であり、アジア諸国との友好関係に決定的な亀裂を生じさせるものであって、到底許されるものではない。青年法律家協会弁護士学者合同部会は、今回の安倍首相の靖国参拝に対して、強く抗議する。
2 日本国憲法は、前述のとおり、政治と宗教との厳格な分離を定めているところ、この厳格な分離は、まさに戦争遂行に大きな役割を果たした靖国神社をはじめとする国家神道との結びつきを禁じることを主眼として定められた。したがって、靖国参拝については特に厳格に違憲性が判断されなければならない。これまでも小泉純一郎首相(当時)による靖国神社参拝の違憲性が争われた訴訟において福岡地裁は、「(靖国神社参拝は)憲法20条3項で禁止されている宗教的活動に当たり、同条項に反する憲法で禁止されている宗教活動に当たる」と明確に違憲であると判断し(2004年4月7日)、さらに大阪高裁でも同旨の判断が示されている(2005年9月30日)。今回の靖国参拝もまた厳然たる宗教活動に当たり、憲法の定める政教分離規定に違反するものである。
3 靖国神社には、日本の侵略戦争に駆り出されて命を落とした戦没者が「英霊」と称えられ、祭神として祀られている。祀られている日本人戦没者は誤った国策による被害者であるが、その一方でアジア太平洋諸国の人々にとっては侵略戦争を担った加害者でもある。ましてや、靖国神社には侵略戦争を指導したA級戦犯などの軍人らも神として祀られている。さらに、靖国神社は、戦前の軍国主義の精神的支柱であった国家神道の中心的宗教施設として、国民を戦争に動員する上で大きな役割を果たしたが、いまもなお靖国神社はこのことを何ら反省していないばかりか、境内の戦争博物館「遊就館」の展示に見られるとおり、「あの戦争は自衛戦争だった」として正当化している。参拝後の記者会見で、安倍首相は、「参拝の目的は不戦の誓いをするため」と述べている。しかし、前述した靖国神社の歴史的な役割と現在の歴史認識に照らしても、また自民党が発表した2014年運動方針から原案にあった「不戦の誓いと平和国家の理念を貫くことを決意し」との表現を削除したことからしても、この説明に何ら信憑性がないことは間違いない。
4 安倍首相は、従軍慰安婦の強制性はなかったなどと発言し、また、憲法9条の「改正」に強い意欲を見せて、周辺諸国を刺激してきた。さらに、今般、日本版NSC(国家安全保障会議)法、秘密保護法を制定し、武器輸出三原則を見直し、また、防衛大綱を改定して先制攻撃も可能となる方針を打ち出している。首相が靖国神社に参拝し、「国のための戦死」を美化するのは、集団的自衛権の行使容認によって自衛隊の海外恒久派兵が現実味を帯びてくる中で、自衛隊員の戦死を想定しつつ、再び日本国民のこころを支配し、戦争協力に動員しようとしているのではないかとの強い疑念を抱かせる。
5 今回の参拝に対しては、中国や韓国のみならず、アメリカやロシア、国連事務総長、東南アジア諸国、ヨーロッパ諸国からも批判や懸念の表明がなされている。憲法9条の改定や集団的自衛権の行使容認の地ならしであって、日本を外交的に孤立させ、東アジアの平和を脅かす今回の靖国神社参拝に対して、当部会は厳重に抗議するとともに、二度と靖国神社参拝という愚行を繰り返さないよう強く求める。
 
 

 

●靖国神社参拝問題・緒話 2006
●課題
ここ数年、小泉首相による靖国神社への参拝問題をめぐって、中国や韓国から批判が相次ぎ、国際問題化しています。今回の課題はこの首相の靖国参拝問題についてです。
靖国神社に神として祀られて(まつられて)いるのは、日本と天皇のために戦って戦死した軍人の霊です。戦死した軍人の名簿を靖国神社に登録し、彼らの勇敢さをたたえ、その魂を神として祀ることであの世からも日本を守ってもらうことを願うという性質を持った神社です。同じ性質の神社として全国に護国神社があり、靖国神社はその総本山という位置づけにあります。靖国神社や護国神社の考えでは、霊魂はあの世ではひとりひとりバラバラにあるのではなく、一体になっているとされるため、神社に霊魂を登録し、神として祀ることを「合祀(ごうし)」と言います。なお、この「祀る」というのは、あくまで儀式的行為で、実際に遺骨が神社に納められているわけではありません。
靖国神社の歴史は、明治期にはじまり、戊辰戦争で戦死した官軍の兵士を祀るために明治の新政府が建立した施設が母体となっています。その後、富国強兵政策の中で、戦死した兵士の栄誉をたたえるという役割が強化され、規模が拡大されるとともに陸海軍が直接、管理・運営する「官営の神社」という特殊な位置におかれました。そのため、第二次世界大戦後、靖国神社はしばしば日本の軍国主義の象徴と見なされるようになりました。GHQは当初、靖国神社を取りつぶす予定でいましたが、政府関係者や遺族から強い反対があったため、一宗教法人として政府とは切り離されるかたちで残ることになりました。ただし、歴代の宮司(ぐうじ・長である神官のこと)は、皇室の家系にある者や旧華族出身者が就任しており、また、靖国神社に合祀される人々の名簿の作成には、厚生労働省も関わっていると指摘されており、現在も政府との結びつきが強いといわれています。現在、靖国神社には、約250万柱(はしら)が祀られています。その多くは、太平洋戦争で戦死した兵士たちで、約230万柱にのぼります。近年、中国や韓国からの批判を受けて、A級戦犯についての分祀(ぶんし)が議論されていますが、靖国神社の教義では、いったん神として祀られた霊魂は分けたりすることのできないもので、分祀を政府に強要されるのは信教の自由への弾圧であると靖国神社側は主張しています。
首相の靖国参拝の問題点として、次の三点をあげることができます。まず、靖国神社の軍国主義的性質があります。戦前、靖国神社は軍部と一体化し、軍国主義の時代には、「戦死して靖国に祀られること」が日本国民にとっての最高の栄誉とされました。現在も靖国神社は戦死した軍人のみを神として祀っており、空襲や原爆の犠牲になった民間人は祀られていません。こういう軍国主義的な宗教法人に国が公的に関わることは、憲法の平和主義に反するというものです。ふたつめに、A級戦犯の合祀(ごうし)問題があります。A級戦犯は、極東国際軍事裁判で日本を軍国主義に導いたという判決を受けた人たちです。このようなA級戦犯をはじめとする日本の軍国化やアジア侵略を指導した人物までも神として祀っている神社に首相が参拝することは、近代史の中で日本が侵した戦争責任を否定することになります。実際、靖国神社の関係者は、度々、「日本の戦争はアジア侵略のためではなかったし、日本は悪くなかった」という発言をくり返しています。日本の侵略を受けた中国や韓国は、この戦争責任の問題をとりわけ重視しており、首相の靖国参拝をきびしく批判しています。そのため、首相が靖国参拝にこだわれば、アジアの中で日本が孤立していくことになります。三つめに「政教分離」の問題があります。首相が国を代表する立場で靖国神社を参拝するということは、靖国神社という特定の宗教法人を政府が支援することにつながります。このことは、憲法20条が定める信教の自由と政教分離の原則に違反するという批判がされており、しばしば裁判で争われています。
一方、首相の靖国参拝を支持する人たちには、「日本は悪くなかった」という靖国神社の主張に賛同する人から、靖国神社の考えには反対だが身内が祀られている神社に首相が参拝することを歓迎する人まで、様々な立場があります。ただ、そこに共通しているのは、国のために戦死した人たちについて、首相が参拝し追悼するのは、国を代表する立場にある者にとって当然の義務であるという考え方です。靖国神社にまつられているのは、ほとんどが一般の兵士たちです。「お国のために」戦うことが日本人のつとめとされた時代の中で、彼らは徴兵されて戦地へ行き、戦死した人たちです。いわば、彼らは時代や社会の犠牲者といえます。こうした人たちについて、首相は国を代表する立場で「公式に」参拝する義務があるというわけです。
あなたは、この問題について、どのように考えますか。また、どのようにするべきだと考えますか。現在、新聞各社の世論調査では、首相の靖国参拝について、賛成・反対はほぼ半々の状況です。資料の新聞記事にも目を通して、あなたの考えを根拠を示しながら書いてきてほしい。

 

●資料1 靖国神社のあゆみ
明治初期の1869年、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争での官軍側の戦死者を祀るために新政府によって東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)が創建された。これが靖国神社のもとになっている。その後、1879年に名前を靖国神社に改められ、天皇と日本のために戦い、戦死した軍人や軍属の魂を神として祀る施設とされた。この祀るという儀式には、たんに霊魂を慰めるというだけでなく、戦没者の魂を神として祀ることで、外国の侵略から天皇と日本を守ってもらうという意味が含まれている。靖国神社に祀られた戦没者の魂は畏敬の念を込めて「英霊(えいれい)」と呼ばれる。ただし、この「祀る」というのはあくまで神道の儀式的行為として戦没者の名前が神社に登録されることである。実際に遺骨が神社に納められているわけではないし、神社内に墓地が移されるわけでもない。他の戦没者と共にその魂が祀られることを「合祀(ごうし)」という。靖国神社には約250万柱もの魂が合祀されている。こうした戦没者の魂を祀る神社は、他にも日本各地に護国神社として創建され、靖国神社は各地の護国神社の中心地という役割をもっている。
戦前、日本政府は、神道が特定の宗教ではなく日本の伝統慣習であるとする立場をとっており、神道儀式や思想を積極的に政策や国家行事に取り入れる政策をすすめた。とりわけ、靖国神社は戦死した軍人を祀るという特殊な性質から、他の神社と異なり、陸軍と海軍によって直接、管理・運営された。昭和初期の軍国主義が高まった時代、天皇の臣民として天皇と国家のために命をささげることが務めとされ、その結果として靖国神社へ祀られることが最高の栄誉とされた。そうした中、大勢の若者たちは、靖国で再会すること誓い、出征していった。靖国神社に祀られている戦没者、約250万柱のうち、この時期の太平洋戦争と日中戦争による戦没者が約230万柱を占めている。
第二次世界大戦後、GHQは日本の占領政策として、軍国主義の除去と民主主義の定着を掲げる。戦前の政治権力と神道思想とが一体化した政策について、GHQは「国家神道」と呼び、この政策が日本のファシズムを強化する役割を果たしたと分析した。そして、政教分離が憲法20条に規定され、靖国神社を含む各地の神社は、政府の管轄から宗教法人へと改められた。GHQはとりわけ靖国神社を日本の国家神道と軍国主義の象徴と見なし、当初の計画では取りつぶす予定だったが、日本政府と遺族からの強い反発によって断念し、宗教法人として残ることになった。
靖国に祀られた戦没者の遺族で構成されている団体に日本遺族会がある。戦後間もない時期、この遺族会は平和主義的性質を持ち、再び戦争によって靖国に大勢の英霊が祀られる時代が来ないことを唱えていた。しかし、軍人恩給の給付をめぐって自民党との結びつきを深め、それにともなって遺族会の性質は変化し、しだいに軍国主義的性質を帯びるようになっていく。さらに、1978年にA級戦犯14柱が合祀され、その遺族が日本遺族会に加わったことで、こうした政治的立場が鮮明になる。現在、日本遺族会と靖国神社は、日中戦争と太平洋戦争は侵略戦争ではなく、戦争責任についてアジア諸国への謝罪は不必要とする立場をとっている。また、A級戦犯について、戦勝国による不当な裁判で裁かれ、処刑された戦争の犠牲者とする見解をとっている。日本遺族会は自民党タカ派の大きな支持団体となっており、小泉首相が靖国参拝にこだわるのも、自らの政治思想に基づくものではなく、日本遺族会の支持を集めるための政治的パフォーマンスではないかという指摘もされいる。また、靖国神社はしばしば右派知識人をまねいて講演会やシンポジウムを開催しており、きわめて政治色が強い。とりわけ、神社付属の軍事博物館である遊就館は、その展示内容が日本軍を賛美するもので、軍国主義的であると国内外から批判されている。
戦後の首相による靖国参拝は、1975年の三木首相からはじまる。ただし、三木首相は公的な立場ではなく、あくまで一私人としての参拝を強調した。玉串料を公費から支出しないというだけでなく、公用車を使わず公人としての肩書きも使わないことで、自らの参拝が憲法違反ではないことを主張した。しかしその後、歴代首相による靖国参拝は、しだいに公私の境目が不明瞭になっていき、玉串料さえ公費から出さなければ「私人としての参拝」とみなされるという見解が政府によって唱えられるようになっていった。明確に「内閣総理大臣」としての立場で靖国参拝をおこなったのは、中曽根首相による1985年8月15日の参拝で、公用車で靖国神社に赴き、拝殿において「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳し、国費から供花代三万円を支出した。中曽根首相は参拝後「内閣総理大臣の資格で参拝した。いわゆる公式参拝である」と明言し、国内外に大きな波紋を広げた。とりわけ中国からの強い反発をまねき、日中関係が悪化するという事態に発展した。2001年からはじまった小泉首相による靖国参拝は、中曽根首相の参拝以来のきわめて公的性質の強いもので、やはり、公用車で靖国神社に赴き、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳している。
小泉首相による靖国参拝をめぐっては、憲法の定めた政教分離原則への違反であるとする訴訟がおこされている。裁判所はこの問題について憲法判断を避ける傾向にあり、合憲なのか違憲なのかをあいまいなままにした玉虫色の判決が多い。その中で、2004年4月の福岡地裁の判決は、公式参拝であり違憲であるとする判断を出している。一方、合憲であるとする判決はまだない。

 

●資料2 首相の靖国参拝の何が問題なのか
1.憲法が定めた政教分離原則への違反にあたる。
憲法20条には次のように規定されている。
   信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
   2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
   3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
国による宗教活動の禁止、すなわち政治と宗教の分離は、次の二つの点から考えられる。国や地方公共団体が国民に特定宗教の教義を押しつけることは論外として、税金を使って特定宗教団体を支援することもまた、宗教間の平等を保つことができなくなり、人々の信教の自由が侵害されることになる。つまり、首相が公用車で靖国神社に乗り付け、大勢のSPを引き連れて参拝し、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳して参拝することは、日本政府が靖国神社という宗教団体を支援する行為にあたり、国民の信教の自由を侵害していることになる。もうひとつの問題としては、政治権力と宗教とが結びつくことで、権力が論理を超越した宗教的教義によって裏付けされ、人々の自由な言論を制限し、ファシズムを生みやすいということがあげられる。日本の近代には、天皇を「現人神」という神聖な存在とし、その権威と一体化した政府を絶対的なものとして国民に徹底させた歴史がある。この宗教性を帯びた権力のあり方が戦前の民主化を大きく阻害してきた。そのことを考えると、日本に民主主義を定着させていくためには、厳格に政治権力と宗教との分離をおこなうことが不可欠である。ただし、多くの神道の儀式は伝統慣習と地続きであり、どこからが宗教行為でどこまでが伝統慣習なのか、線引きが困難であるという問題がある。また、日本に天皇制が存続している限り、神道の祭司という宗教性を帯びた存在が同時に国民統合の象徴であることになり、厳格な政教分離は不可能という状況がある。
2.戦死した軍人と軍関係者のみを神として祀る靖国神社のあり方は平和主義を掲げる日本にふさわしくない。
靖国神社は、戦死した軍人を神として祀る神社である。戦前、靖国神社は陸海軍によって直接管理・運営される国営の神社だった。軍国主義の時代には、靖国に神として祀られることが日本人にとっての最高の栄誉とされた。そのため、戦後、靖国神社は戦前の軍国主義のシンボルと見なされた。このような神社は平和を願う場としてふさわしくないだけでなく、首相が国を代表する立場で参拝することは、軍国主義を賛美することにつながる。戦争の犠牲になった人々を追悼し、平和を願うためのものとするならば、そこには空襲や原爆で犠牲になった大勢の民間人も祀られていなければならないはずである。また、靖国神社は現在でもさかんに政治活動をおこなっており、そこでは近代史における日本のアジア侵略を否定する主張がなされ、日本軍の賛美する発言がなされている。このような靖国神社に首相が日本を代表する立場で参拝することは、日本の平和主義を損ねることになる。
3.A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝することは、日本の戦争責任を否定することになる。
1978年に靖国神社はA級戦犯を合祀した。A級戦犯は、極東国際軍事裁判で日本の軍国化に指導的役割を果たしたとされ、死刑、または無期懲役の判決を受けた者たちである。彼らは、「お国のために」と徴兵され、戦死した一般の兵士とはまったく立場が異なる。このようなA級戦犯をはじめとする日本の軍国化やアジア侵略を指導した人物までも神として祀っている神社に首相が参拝することは、近代史の中で日本が侵した戦争責任を否定することにつながる。日本の侵略を受けた中国や韓国は、この戦争責任の問題をとりわけ重視しており、首相の靖国参拝をきびしく批判している。そのため、首相が靖国参拝にこだわれば、アジアの中で日本が孤立していくことになる。極東国際軍事裁判は、第二次大戦の勝者である連合国軍が一方的に敗戦国日本を裁いた裁判として公正さに欠けるとしても、A級戦犯の戦争責任を否定することは、サンフランシスコ講和条約自体を否定することになる。このことは、アジア社会の中で日本が孤立することを意味するだけでなく、国連をはじめとした戦後の国際社会のあり方そのものを否定することになり、国際社会の中で日本は完全に孤立することになる。

 

●資料3 どうすればよいのか
・特定の宗教性を排した公的な施設をつくり、原爆や空襲の犠牲者もふくめて追悼する。
・靖国神社のA級戦犯を分祀し、首相の公式参拝を認める。
・現状のまま首相の靖国参拝を続ける。
・戦前のように靖国神社を国営の神社として、戦死者を追悼する。
・戦死者への追悼は個々人にまかせ、国が戦死者への参拝や追悼をやるべきではない。

 

●資料4 新聞各社の論調
・朝日・毎日 → A級戦犯が合祀されている限り、首相は靖国参拝をすべきではない。
・読売 → 靖国参拝に賛成だったが、2005年に渡辺恒雄社長がA級戦犯の合祀を批判し、反対の立場に。
・産経 → 首相の靖国参拝は、国を代表する立場にある者として当然のつとめ。靖国神社の主張にも賛同。

 

●資料5・新聞記事 靖国参拝の問題点は? 朝日新聞 2005/2/17
Q 靖国参拝の問題点は?
小泉首相が靖国(やすくに)神社に参拝するかどうか、少し前ニュースでやってました。そもそも何が問題となってるんですか。(朝日中学生ウイークリー「ニュース質問箱」から)
A 政教分離、A級戦犯めぐり意見対立
靖国神社は、東京都千代田区にあります。明治新政府と江戸幕府の旧勢力が争った戊辰(ぼしん)戦争での新政府側の死者の霊をなぐさめるため、1869年(明治2年)に東京招魂社としてつくられました。10年後に靖国神社と改称。1945年の第2次世界大戦の終戦まで、国家と神道が結びついた「国家神道」や、軍国主義の象徴とされてきました。戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)の指令で国家神道が廃止されてからは、宗教団体の一つとして存続しています。
では、なぜ首相の靖国神社参拝が問題なのでしょう。
1947年に施行された日本国憲法では、政治と宗教をわける「政教分離」を規定しています。小泉首相は、首相に就任した2001年から2004年まで毎年参拝。首相が宗教施設を参拝するのは、政教分離の原則に反するのではないかと批判されています。
もうひとつの問題は、靖国神社に「A級戦犯」がまつられていること。A級戦犯とは、終戦後、連合国が戦前・戦中の日本の政治・軍事指導者を裁いた「東京裁判」で、戦争の計画や実行など「平和に対する罪」があったとした人たちのことです。1978年から14人がまつられています。
日中戦争などを含めた15年にわたる戦争では、日本人約310万人はもとより、中国や朝鮮半島などアジア全体で2千万人以上が犠牲となりました。そのため中国や韓国は、A級戦犯をまつる神社への首相の参拝を非難しているのです。

 

●昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀 朝日新聞 2006/7/20
昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた。昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝。78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していなかった。A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。
メモは88年4月28日付。それによると、昭和天皇の発言として「私は 或(あ)る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、白取(原文のまま)までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記されている。これらの個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、66年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取ったが合祀していなかった筑波藤麿・靖国神社宮司を指しているとみられる。
メモではさらに、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」と続けられている。終戦直後当時の松平慶民・宮内大臣と、合祀に踏み切った、その長男の松平永芳・靖国神社宮司について触れられたとみられる。
昭和天皇は続けて「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた、と記されている。昭和天皇は戦後8回参拝したが、75年11月の参拝が最後で、78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝しなかった。靖国神社の広報課は20日、報道された内容について「コメントは差し控えたい」とだけ話した。
《「昭和天皇独白録」の出版にたずさわった作家半藤一利さんの話》メモや日記の一部を見ましたが、メモは手帳にびっしり張ってあった。天皇の目の前で書いたものかは分からないが、だいぶ時間がたってから書いたものではないことが分かる。昭和天皇の肉声に近いものだと思う。終戦直後の肉声として「独白録」があるが、最晩年の肉声として、本当に貴重な史料だ。後から勝手に作ったものではないと思う。
個人的な悪口などを言わない昭和天皇が、かなり強く、A級戦犯合祀(ごうし)に反対の意思を表明しているのに驚いた。昭和天皇が靖国神社に行かなくなったこととA級戦犯合祀が関係していることはこれまでも推測されてはいたが、それが裏付けられたということになる。私にとってはやっぱりという思いだが、「合祀とは関係ない」という主張をしてきた人にとってはショックだろう。
靖国神社への戦犯の合祀(ごうし)は1959年、まずBC級戦犯から始まった。A級戦犯は78年に合祀された。大きな国際問題になったのは、戦後40年目の85年。中曽根康弘首相(当時)が8月15日の終戦記念日に初めて公式参拝したことを受け、中国、韓国を始めとするアジア諸国から「侵略戦争を正当化している」という激しい批判が起こった。とりわけ、中国はA級戦犯の合祀を問題視した。結局、中曽根氏は関係悪化を防ぐために1回で参拝を打ち切った。だが、A級戦犯の合祀問題はその後も日中間を中心に続いている。
昭和天皇は、戦前は年2回程度、主に新たな戦死者を祭る臨時大祭の際に靖国に参拝していた。戦後も8回にわたって参拝の記録があるが、連合国軍総司令部が45年12月、神道への国の保護の中止などを命じた「神道指令」を出した後、占領が終わるまでの約6年半は一度も参拝しなかった。52年10月に参拝を再開するが、その後、75年11月を最後に参拝は途絶えた。今の天皇は89年の即位後、一度も参拝したことがない。
首相の靖国参拝を定着させることで、天皇「ご親拝」の復活に道を開きたいという考えの人たちもいる。
自民党内では、首相の靖国参拝が問題視されないよう、A級戦犯の分祀(ぶんし)が検討されてきた。いったん合祀された霊を分け、一部を別の場所に移すという考え方で、遺族側に自発的な合祀取り下げが打診されたこともあるが、動きは止まっている。靖国神社側も、「いったん神として祭った霊を分けることはできない」と拒んでいる。
ただ、分祀論は折に触れて浮上している。99年には小渕内閣の野中広務官房長官(当時)が靖国神社を宗教法人から特殊法人とする案とともに、分祀の検討を表明した。日本遺族会会長の古賀誠・元自民党幹事長も今年5月、A級戦犯の分祀を検討するよう提案。けじめをつけるため、兼務していた靖国神社の崇敬者総代を先月中旬に辞任している。
《靖国神社に合祀された東京裁判のA級戦犯14人》
【絞首刑】(肩書は戦時、以下同じ)
東条英機(陸軍大将、首相) / 板垣征四郎(陸軍大将) / 土肥原賢二(陸軍大将) / 松井石根(陸軍大将) / 木村兵太郎(陸軍大将) / 武藤章(陸軍中将) / 広田弘毅(首相、外相) 
【終身刑、獄死】
平沼騏一郎(首相) / 小磯国昭(陸軍大将、首相) / 白鳥敏夫(駐イタリア大使) / 梅津美治郎(陸軍大将)
【禁固20年、獄死】
東郷茂徳(外相)
【判決前に病死】
松岡洋右(外相) / 永野修身(海軍大将)

 

●首相靖国参拝、評価二分 若年層は肯定的 本社世論調査 朝日新聞 2004/4/20
小泉首相が靖国神社への参拝を続けていることを「良いことだ」と思うか、「やめるべきだ」と思うか。朝日新聞社の全国世論調査(17、18日実施)で聞いたところ、全体では「良い」「やめる」がともに約4割で並び、評価は二分された。40代や50代の働き盛りに「やめるべきだ」が目立つ一方、若年層では抵抗感が薄れているようだ。福岡地裁が違憲との判断を示した首相参拝は、年齢別や支持政党別に見ると、まだら模様の反応が浮かび上がった。  全体では「良いことだ」の42%に対し「やめるべきだ」が39%だった。40代が「良い」32%に対し「やめる」45%となるなど、50代を含めた働き盛り世代で否定的な見方が強い。
反対に、この世代をはさんだ若年層と高齢層は肯定的で、70歳以上では「良い」52%に対し「やめる」36%だった。20代もそれぞれ46%、36%となった。特に、20代の男性で「良い」が55%にのぼった。
支持政党別では、自民支持層は「良い」が59%と過半数を占めたものの、連立与党でも公明支持層は「やめる」59%と否定的だ。「やめる」は民主支持層で54%、共産55%、社民59%と野党各党の支持層でそろって多数を占めた。無党派層でも「やめる」40%、「良い」36%と否定的な見方が、わずかながら上回った。
小泉首相の靖国神社参拝を巡っては、01年にも「参拝に積極的に取り組んでほしいか」と尋ねている。「ほしい」は、同年7月には41%で「慎重に」の42%と並んでいた。だが、韓国や中国などの反発もあり、8月には「ほしい」26%、「慎重」65%と慎重論が強まった。 (04/20 06:20)
●首相の靖国神社参拝、賛否二分 本社世論調査 朝日新聞 2004/11/30
朝日新聞社が27、28の両日実施した全国世論調査(電話)によると、小泉首相の靖国神社参拝について、「続けた方がよい」が38%、「やめた方がよい」が39%で見方が割れた。参拝の継続を望む人の6割近くが、中国、韓国に配慮が「必要」と答え、首相に慎重な対応を求める世論もうかがえた。内閣支持率は39%で前回10月の38%から横ばい。不支持も43%で変わらなかった。
小泉首相は就任以来、毎年靖国神社に参拝し、中国や韓国は強く反発している。21日の日中首脳会談で中国の胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席は、関係改善のため参拝の中止を首相に求めた。こうした中国側の主張について「当然だ」と思う人は30%にとどまり、「そうは思わない」が57%を占めた。
その一方、首相の参拝については、継続か中止か、意見は真っ二つに分かれた。
30代、40代では「やめる」が「続ける」より多いが、20代と70歳以上では「続ける」が4割を超え、高めだ。
参拝を「続ける」と答えた人だけに参拝にあたって中国や韓国への何らかの配慮が必要かと聞くと、そのうちの57%(全体の22%)が「必要」と答えた。ただ20代では、中国や韓国への配慮が「必要だ」も3割と全体より高いのが目立った。
また中国側の参拝中止要求を「当然だとは思わない」層でも、首相の参拝には配慮が「必要」の方が多かった。
北朝鮮による拉致問題を巡っては、北朝鮮の対応を「評価しない」が89%に達した。今の日本政府の姿勢を「評価しない」も60%。政府の今後の対応としては、経済制裁など「強い態度で」が65%を占め、外交努力で「対話を深める」は26%だった。
政党支持率は、自民27%(前回30%)、民主17%(同21%)。自民、民主が支持を減らす一方、無党派層は前回40%から48%に増えた。
〈調査方法〉 27、28の両日、全国の有権者を対象にコンピューターで無作為に番号サンプルをつくる朝日RDD方式で電話調査した。対象者の選び方は無作為3段抽出法。有効回答は1885件、回答率は51%。
●靖国参拝「首相は中止を」49% 本社世論調査 朝日新聞 2005/5/31
靖国神社参拝問題などを巡り日中関係が悪化する中、朝日新聞社が28、29の両日実施した全国世論調査(電話)で、小泉首相の中国に対する姿勢を「評価しない」人が48%と半数近くを占め、「評価する」は35%にとどまった。首相の靖国神社参拝を「やめた方がよい」は49%とほぼ半数にのぼり、「続けた方がよい」の39%を上回った。一方、靖国参拝を問題視する中国の姿勢についても「理解できない」は51%に達し、「理解できる」は37%。日中関係について首相、中国双方に厳しい見方が示された。
内閣支持率は45%。今年1月調査で33%と発足以来最低を記録したが、その後、回復基調を維持。今回、04年9月の第2次小泉改造内閣発足後の水準まで戻った。
首相の中国に対する姿勢について、自民支持層では「評価する」53%、「評価しない」30%だが、首相に靖国神社参拝の自粛を求めている公明の支持層では「評価する」24%、「評価しない」58%で批判的な見方が強かった。
首相の靖国神社参拝については、4月の日中首脳会談後の緊急調査でも「やめた方がよい」が48%で、今回とほぼ同じだった。慎重な対応を求める意見は定着しつつあるようだ。
首相の靖国参拝を問題視する中国の姿勢については、「理解できない」が自民支持層で60%、民主支持層で53%、公明支持層で50%だったのに対し、共産、社民支持層では「理解できる」が6〜7割だった。
一方、日本の国連安保理常任理事国入り問題では、59%が「関心がある」と回答。常任理事国入りに「賛成」は56%、「反対」は17%で肯定的な見方が強い。
首相が「構造改革の本丸」と位置づける郵政民営化については「賛成」42%、「反対」30%だった。
●社説 靖国参拝 遺族におこたえしたい 朝日新聞 2005/6/5
朝日新聞が小泉首相の靖国神社参拝に反対していることについて、遺族の方や読者の皆さんから手紙やご指摘をいただいている。その中には、次のような意見も少なくない。
あの戦争で国のために命を落とした者を悼むことの、どこがいけないのか。首相が参拝するのは当然ではないか――。この問いかけについて、考えてみたい。
兵士として戦地に赴いた夫や父、子どもが亡くなる。その死を悲しみ、追悼するのは当然の営みだ。平和な戦後の世に暮らす私たちにとっても、それを共有するのは大切なことだと思う。
戦死した何百万もの人々の一人ひとりに家族があり、未来があった。それを思うと戦争の残酷さ、悲惨さを痛感させられる。靖国神社に参拝する遺族や国民の、肉親や友人らを悼む思いは自然な感情だろう。
しかし、命を落とした人々を追悼し、その犠牲に敬意を払うことと、戦争自体の評価や戦争指導者の責任問題とを混同するのは誤りだ。上官の命令に従わざるを得なかった兵士らと、戦争を計画し、決断した軍幹部や政治家の責任とは区別する必要がある。
靖国神社は78年、処刑された東条英機元首相らを含む14人のA級戦犯を合祀(ごうし)した。このことが戦死者の追悼の問題をいっそう複雑にしてしまった。
かつて陸海軍省に所管されていた靖国神社は、戦死者を悼むと同時に、戦死をほめたたえる、いわゆる顕彰の目的があった。戦意を高揚し、国民を戦争に動員するための役割を果たしてきた。
戦後、宗教法人になったが、戦争の正当化という基本的なメッセージは変わらない。自衛のためにやむを得なかった戦争であり、東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯は連合国に「ぬれぎぬ」を着せられたというのが神社の立場だ。
「朝日新聞は中国の反日に迎合しているのではないか」とのご指摘もいただいている。
だが、中国が問題にしているのは一般兵士の追悼ではなく、戦争指導者の追悼である。A級戦犯が合祀された靖国神社を、日本国を代表する首相が参拝するのが許せないというのだ。
侵略された被害国からのこの批判を、単純に「反日」と片づけるわけにはいかないと思う。
小泉首相は、将来の平和を祈念して参拝するのだという。しかし、そのことが日中や日韓の間の平和を乱しているとすれば、果たして靖国に祭られた犠牲者たちが、それを喜べるだろうか。
日本国民の幅広い層が納得でき、外国の賓客もためらうことなく表敬できる。そんな追悼の場所があれば、と願う。
02年、当時の福田官房長官の私的諮問機関は、戦没者を追悼する場として新たな無宗教の国立施設の建立を提言した。そんな施設こそ、首相が日本国民を代表して訪れ、哀悼の誠をささげる場にふさわしい。いま、改めてそう考える。

 

●首相の靖国参拝は違憲と判断、賠償請求は棄却 福岡地裁 朝日新聞 2004/4/7
小泉首相の就任後初めての靖国神社参拝が政教分離を定めた憲法に反するかどうかについて争われた訴訟の判決で、福岡地裁(亀川清長裁判長)は7日、「参拝は公的なもので、憲法で禁止された宗教的活動にあたる」と述べ、違憲と断じた。しかし「参拝で原告らの信教の自由を侵害したとはいえない」として、原告側の慰謝料請求は棄却した。
問題とされたのは、01年8月の参拝。小泉首相の靖国参拝の違憲性が問われた訴訟は福岡など全国6地裁で起こされた。判決は3件目で、初めての違憲判断となった。
この訴訟は九州・山口の市民ら211人が、首相と国に1人あたり10万円の損害賠償を求めた。原告側は控訴しない方向で検討中。原告側の請求そのものは棄却されたため、首相側の控訴は認められずに違憲判断を示した判決が確定する公算が大きくなっている。
判決はまず、(1)公用車を使用(2)秘書官を随行(3)「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳(4)名札をつけて献花(5)参拝後に「内閣総理大臣である小泉純一郎が参拝した」と述べた−−などから、首相の職務の執行と位置づけた。
続いて、従来の政教分離訴訟で判断基準とされてきた「目的効果基準」に基づいて、参拝の行われた場所、その行為に対する一般人の宗教的評価、行為者の意図・目的、一般人に与える効果・影響−−などを検討した。
その中で、参拝を「宗教とかかわり合いを持つことは否定できない」と性格付けし、「自民党や内閣からも強い反対意見があり、国民の間でも消極的意見が少なくなかった。一般人の意識では、参拝を単に戦没者の追悼行事と評価しているとはいえない」と指摘した。さらに「戦没者追悼場所としては必ずしも適切でない靖国神社を4回も参拝したことに照らせば、憲法上の問題があることを承知しつつ、あえて政治的意図に基づいて参拝を行った」と批判した。
そして、「参拝が神道の教義を広める宗教施設である靖国神社を援助、助長する効果をもたらした」ことも考えあわせ、「社会通念に従って客観的に判断すると、憲法で禁止される宗教的活動にあたる」と結論づけた。
憲法は、国のあらゆる宗教的活動を禁じている。目的効果基準は、この絶対的禁止を緩やかに解釈するために使われてきた面もあり、「極めてあいまいな基準」と批判が絶えなかった。今回の判決は、同じ基準を使いながらも、それを厳格に適用した。
●靖国参拝訴訟:憲法判断示さず、賠償請求を棄却 毎日新聞 2005/4/27
小泉純一郎首相や石原慎太郎東京都知事の靖国神社参拝に対し、東京都内の宗教関係者や旧日本軍の軍人・軍属として戦死した韓国人の遺族ら1048人が、違憲確認と1人3万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決が26日、東京地裁であった。柴田寛之裁判長は「訴えの利益がない」などと違憲確認の訴えを却下し門前払いとしたうえで、賠償請求を棄却した。憲法判断は示さなかった。原告側は控訴する。
◇福岡のみ「違憲」−−6地裁1審、出そろう
全国6地裁で起こされた靖国参拝訴訟はこれで1審判断が出そろったが、福岡地裁判決(04年4月)が「宗教的活動に当たる」として違憲と判断した以外は憲法判断をしなかった。
原告は、政教分離を定めた憲法に違反するなどと主張し違憲確認を求めた。東京地裁判決は「過去の事実についての確認を求める訴えは、法律に特別の規定がなければ原則として許されない」などとして却下し、憲法判断に踏み込まなかった。そのうえで、賠償や参拝差し止め請求について「参拝によって不利益な取り扱いや宗教上の規制をしたとは認められず、権利の侵害はない」と退けた。
一方で「靖国参拝により、日本が再び軍国主義の道を進み出したと懸念したり、憤りを感じるのも理解できなくはない」と原告の訴えに一定の理解を示した。
◇原告、声荒らげて「右傾化の表れ」
判決後に会見した原告らは怒りをあらわにした。
原告の一人で、判決のために来日した韓国太平洋戦争犠牲者遺族会会長、梁順任(ヤンスニム)さん(60)は「『日本の代表的な政治家が参拝しているのを黙って見ていたら日本が戦前に戻ってしまう』と恐れて原告になった。判決に少しは期待していたが、これは右傾化の表れだ」と声を荒らげた。
浄土真宗僧侶の蒲信一(かばしんいち)原告団長(51)は「仏教徒やキリスト教徒は平和な世界を求めているのに、靖国神社は暴力や戦争を美化している。判決は日本がたどった過去への道を再び開いた」と批判した。
弁護団は「参拝が違憲であることは小泉首相や石原都知事自身が認識している。2人の意識を下回る判決で、裁判所は違憲審査権を放棄している」との声明を出した。
◇「裁判にされる問題じゃない」−−小泉首相
判決について、小泉純一郎首相は26日夜、官邸で記者団から質問され、「別に裁判にされるような問題じゃないと思うんですけどね」と語った。
◇「極めて当然」−−石原都知事
また、石原慎太郎都知事は「靖国神社へは一人の日本人として戦没者への敬意と追悼の意を表すために参拝している。それを公的とか私的とか区別することには意味がなく、差し止めを求めること自体がおかしい。判決は極めて当然の判断と受け止めている」とのコメントを発表した。
◇靖国参拝違憲訴訟の状況◇
地裁    判決日   憲法判断 公務性
大阪1次  04・ 2・27   −−  公的
松山      04・ 3・16   −−  −−
福岡      04・ 4・ 7   違憲  公的
大阪2次   04・ 5・13   −−  私的
千葉      04・11・25   −−  公的
那覇      05・ 1・28   −−  −−
東京      05・ 4・26   −−  −−

※−−は判断せず。賠償請求はすべて棄却。福岡のみ確定

 

●国会議員80人が靖国参拝、現職閣僚はゼロ 春季例大祭 朝日新聞 2005/4/22
自民、民主両党などの超党派議員でつくる「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(瓦力会長、266人)の国会議員80人が22日朝、春季例大祭期間中の東京・九段の靖国神社に集団で参拝した。
参拝したのは自民党が古賀誠元幹事長、平沼赳夫前経産相ら78人、民主党は原口一博衆院議員ら2人。現職閣僚はいなかったが、西川公也内閣府副大臣と今津寛防衛庁副長官ほか、3人の政務官が参拝した。
参拝後、同会の藤井孝男会長代理が記者会見し、中国や韓国から小泉首相の靖国神社参拝が批判を受けていることについて、「戦時に亡くなった方の御霊を参拝するのは自然な姿。中韓など近隣諸国の皆さんにご理解いただけないのは非常に残念だ」と話した。
また、「今年はまだ小泉首相は参拝する、しないを言っていないが、ぜひしてほしい」として、会として今年も小泉首相が参拝することを期待する考えを示した。 
●靖国参拝:小泉首相演説、議員参拝で帳消しに 毎日新聞 2005/4/23
小泉純一郎首相が22日のアジア・アフリカ会議で行った日本の過去の侵略と植民地支配を謝罪した演説について、韓国のメディアや市民団体は、同じ日に日本の国会議員80人が靖国神社を参拝したことを指摘し、「口だけの謝罪で意味がない」とその真意をいぶかる見方が強い。参拝が演説の効果を帳消しにした格好だ。
ニュース専門テレビYTNは、首相演説と靖国参拝を二本立てで報じ、演説を「日中首脳会談を成功させるための方策」「国連安保理常任理事国入りに向け、アジア諸国の信頼獲得を意図している」と批判的に伝えた。
市民団体「太平洋戦争被害者補償推進協議会」の李煕子(イヒジャ)共同代表は「同じ日に政治家が集団参拝したこと自体、過去を反省するとは何か、まったく分かっていない証拠だ」と強く反発している。
与党・開かれたウリ党報道官は「(小泉首相)発言が、高まる反日の雰囲気を避けようとする小手先戦術でないことを望む」と論評を出した。

 

●王・中国大使:「反省を行動に」歴史問題で日本を批判 毎日新聞 2005/5/27
中国の王毅駐日大使は26日、東京都内で開かれたシンポジウムで日本の歴史認識問題について「口先のおわび、反省を実際の行動に結びつけてほしい。そうすれば中日関係は正常な発展の軌道に戻る」と述べた。小泉純一郎首相が4月のジャカルタでの演説で「反省とおわび」を表明しながら靖国神社参拝の意向を変えないことを批判するとともに、首相の靖国参拝問題が日中関係を悪化させているとの中国側の見解を強調したものだ。【平田崇浩】
●「靖国参拝は首相の責務」と自民・安倍氏 中国批判も 朝日新聞 2005/5/28
自民党の安倍晋三幹事長代理は28日、札幌市内での講演で、小泉首相の靖国神社参拝について「小泉首相がわが国のために命をささげた人たちのため、尊崇の念を表すために靖国神社をお参りするのは当然で、責務であると思う。次の首相も、その次の首相も、お参りに行っていただきたいと思う」と述べた。
中国の呉儀(ウー・イー)副首相が小泉首相との会談を直前にとりやめたことについても「日本が自分たちに気にくわないことをやっているからといって、首脳会談をいきなりキャンセルすることは、成熟した国が行う行為ではない。覇権主義的ではないかと思う」と批判した。

 

●靖国参拝、私的と強調 小泉首相 朝日新聞 2005/6/2
小泉首相は2日の衆院予算委員会で、靖国神社参拝について「首相の職務ではなく、私の信条から発する参拝に、他の国が干渉すべきでない。自分自身の判断で考える問題だ」と述べた。参拝を私的なものと位置付け、中国の意向に左右されずに参拝の継続を判断する考えを示したものだ。今年の参拝については、改めて「いつ行くかは適切に判断する」と語った。
岡田民主党代表は「A級戦犯を昭和の受難者として合祀(ごうし)している靖国神社に、首相は参拝すべきでない」と中止を求めたが、首相は「(A級戦犯を)戦争犯罪人だと認識している」としつつ「A級戦犯のために参拝しているのではない。多くの戦没者に敬意を表している」と答えた。
岡田氏は「アジア全体が、靖国問題をきっかけに日中関係がおかしくなる、と深刻に心配している」と指摘。日本の国連安保理常任理事国入りや北朝鮮の核・拉致問題に中国の協力を得にくくなり「国益が失われる」と追及した。首相は「時間をかけても日中友好論者だと理解していただけるよう努力したい」と、対話で問題解決をはかる考えを示した。  さらに岡田氏は「参拝に行かないと決めることも、相手を説得して考えを貫くこともしない。解決策を見つける責任がないなら首相をやめるべきだ」と退陣を迫った。首相は「中国が不快感を持っているからと言って、退陣せよという議論とどうして結びつくのか。退陣しなければならないとは考えていない」と否定した。
また、志位共産党委員長は「侵略戦争を正当化する靖国神社の戦争観に日本政府の公認というお墨付きを与える」と批判。首相は「私は戦争への痛切な反省を表明している。靖国神社を参拝することが靖国神社の考えを支持しているととらないでほしい」と反論した。
●靖国参拝問題:古賀・自民元幹事長「近隣国に配慮も」 毎日新聞 2005/6/3
自民党の古賀誠元幹事長(日本遺族会会長)は2日の堀内派総会で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題について「近隣諸国に『内政干渉だ』『けしからん』と言うだけでことが済むのか」と述べ、中国など近隣諸国に対する配慮も必要との認識を示した。古賀氏は遺族会の立場として「首相の靖国参拝を大きな目標に掲げている」と強調した上で「一番大切なことは心静かに休まること。日本の国の平和を願っているのが御祭神だ。近隣諸国には気配りも必要だろうし、思いやりも必要だ」と指摘した。
●靖国参拝問題:「小泉首相は中止を」中曽根元首相 毎日新聞 2005/6/4
中曽根康弘元首相は3日、東京都内で開かれた日韓国交正常化40周年記念の講演会で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に中韓両国が反発していることについて「(A級戦犯を)分祀(ぶんし)するのが一番いいが、時間がかかる。ならば参拝をやめるのも一つの立派な決断だ」と述べ、首相に参拝中止を促した。
中曽根氏は「個人の信念を貫くことも立派だが、そのことが国家全体の利益にどういう作用を及ぼしているかを考えるのも最高責任者の大事なポイントだ」と述べ、小泉首相の参拝継続が国益を損なう可能性を指摘したうえで「(参拝を)やめるということはやる以上に勇気を要する」と首相に決断を求めた。
中曽根氏は首相在任中の85年に靖国神社を初めて公式参拝したが、中国や韓国に配慮して翌86年からは参拝を中断した。
同じ講演会で韓国の金鍾泌(キムジョンピル)元首相は「靖国参拝問題に韓国、中国が何か言うと内政干渉だという人がいるが、内政干渉ではない」と指摘。「分祀をするか、参拝をとりやめるか。今の状態では韓国も中国も収まらない」と述べた。
●靖国神社 「A級戦犯の分祀は不可能」 朝日新聞 2005/6/5
日本・共同通信社の報道によると、小泉純一郎首相の靖国神社への参拝に対し、中国・韓国がA級戦犯の合祀を理由に反対していることと、一部与党の要人が「分祀」などを提案していることについて、宗教法人靖国神社は4日、A級戦犯を靖国神社と別に祭ることは不可能との認識を示した。
靖国神社が共同通信社の質問書に対し、従来の態度を維持する立場を、公式な見解として書面で表明したもの。分祀による靖国問題の困難には、大きな困難が存在することが浮き彫りになった形だ。
●社説 靖国参拝問題 国益のためにやめる勇気を 毎日新聞 2005/6/5
小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題が国内外で再燃している。首相は個人的信条の問題なので「他の国が干渉すべきでない」と参拝の姿勢を変えていない。一方で、私的信念を貫こうとするために、国益や国際協調の枠組みを損ないかねないという現実政治に直面している。
私たちはこれまで、A級戦犯が合祀(ごうし)されている神社に首相としての参拝は行うべきでないという主張をしてきた。
靖国問題をめぐっては、政界でも動きがでてきた。3日、中曽根康弘元首相が講演で「信念を貫くことも立派だが、国家全体の利益にどういう作用を及ぼしているかを考えるのも大事な点だ」と述べ、小泉首相に「勇気ある」参拝中止の決断を促した。
中曽根氏は戦後40年を期して、85年の終戦記念日に初めて公式参拝した首相だが、翌年「間違いだった」と言って取りやめている。参拝の難しさを身にしみて感じている先輩首相が「やめる勇気を」と忠告する言葉を小泉首相はどう受け止めたのだろうか。
河野洋平衆院議長も、歴代首相を集めて靖国問題を話し合い「慎重のうえにも慎重な対応が必要」との認識で一致した。自身の誕生日に1回だけ参拝し、その後周辺諸国の反発で中止した橋本龍太郎氏のほか、宮沢喜一、森喜朗氏らが顔をそろえた。
公明党の神崎武法代表は「自粛を求める。連立の基盤に悪い影響があるだろう」と語った。
衆院予算委の集中審議では、以前「総理大臣として行く」と言明していた小泉首相自身も「首相の職務としての参拝ではない」とトーンダウンし、A級戦犯については「戦争犯罪人とした(東京裁判を)日本は受諾している」などの認識を答弁している。しかし「心の問題は自分自身で考える問題だ」と中止要請ははねつけている。
首相は参拝理由を「心ならずも戦争に駆り出された」戦没者に敬意と感謝の意をささげるためと言う。この点は理解できる。しかし、神社には戦争を指導した責任者の霊も一緒にまつられている。この矛盾について、迷惑をこうむった国民にも近隣諸国にもどう説明するのか、小泉首相はいまだに答えていない。「こころ」の問題を持ち出し自己完結する態度は説明責任放棄に等しく、説得力をもたないのではないか。
戦後60年の総決算として、わが国が優先すべき「国益」の一つに国連安保理常任理事国入りがある。敗戦後、平和国家の道を歩んできた日本が常任理事国に入ることは、戦勝国による国際秩序から新しい国連へと移り変わるギアチェンジになるからだ。そのカギを握る周辺諸国との関係がギクシャクするのは、国益に何のプラスにもならない。
小泉首相もわかっているはずなのに、意地を張り通すのは首相として思慮に欠けると言わざるを得ない。己の信条を殺してでも国益を優先させた元首相たちの重い決断を、小泉首相もかみしめるときが来ている。
 
 
 

 

●靖国問題の再構成のために ─ 戦没者追悼とネーション ─ 2012/6
はじめに
今日日本の戦没者追悼は構造的な問題を抱えている。靖国神社論争、あるいは「靖国問題」という言葉自体が否応なしに喚起するのは、「戦没者を追悼すること」の政治性ないし党派性である。三土修平によると靖国問題とは「戦前に国家の施設であった靖国神社が戦後は民間の一宗教法人として存続することになった事実と、にもかかわらず同神社の公的復権を求める社会的勢力が存在する事実の結果として生じた諸問題の総体」である1)。
本研究の最終的な目的は、こうした「靖国問題」を解決へと導くための論理的枠組みを提示することである。そこで本稿の主題は靖国神社をめぐる社会・政治状況に異議を唱えてきた論者らの議論を批判的に検証し、その議論を発展的に継承することに置かれている。本稿においては、なぜ靖国神社が今日のような排外主義的、視野偏狭な性格を帯びるに至ったのかといった要因を実証することは行わない。むしろ本稿においては、戦没者の公的承認という営みと密接に関連する「ナショナリズム概念」とその限界および可能性についての考察を中心に行う。靖国問題が前景化する 70 年代以降、80 年代の中曽根首相、とりわけ 2000 年代の小泉首相による度重なる参拝が惹起した靖国神社をめぐる政治・社会的状況に対して、首相の靖国神社参拝に反対する勢力は推進派の性質を「ナショナリズム」と規定し、それを批判してきた。その文脈において「ナショナリズム」という用語は、歴史認識における独善性や排外主義的傾向を表すものとして、あるいは「軍国主義」や「ファシズム」といった概念の類語として扱われる、きわめて否定的なニュアンスを帯びた用語として用いられてきた。その上で、従来の批判は靖国神社を「ナショナリズム」拡散のための装置とみなして、「軍拡路線」や「排外主義」に「われわれ」を導くものであるが故に否定する / されるべきである、と主張してきた。一般にナショナリズム論を用いた反靖国論は、日本社会に残存する、克服すべきナショナリズムのひとつの症状として、靖国神社を批判の俎上にあげてきた。本稿は、そうした従来の靖国批判を踏まえた上で、批判と克服の対象であった「ナショナリズム」概念を、靖国神社とそれをとりまく政治・社会状況を批判するための思考枠組み(=思想)として再導入することを目指す。その理由は「ナショナリズム」にはアトム化し分断化された個人に、その個人が埋め込まれた社会への連帯感や責任意識を喚起しうるような、「連帯の契機」としての可能性があると考えるからである。加えて連帯の契機としてのナショナリズム、すなわちナショナルな思考枠組みはますます流動性を高めているグローバルな市場経済の現状に対するひとつの「抵抗の基盤」としての役割も十分に期待できる。また、「再導入」とあるのは、戦後初期においては「同胞」の戦没者の記憶とはとりもなおさず、大量死を招来した国家権力に対する厳しい批判の思想的な拠り所であったという歴史的経緯を踏まえてのことである。同胞への責任意識という意味でのナショナリズムに依拠した戦没者追悼と靖国批判は同世代に多くの戦没者を出した世代が活発に意見表明をしていた 80 年代頃まで見られた傾向であった。
本稿は従来の「ナショナリズムとしての靖国神社を批判する」という反靖国論の形態を反転させ「ナショナリズムから靖国神社を批判する」という新しい反靖国論を目指すものである。そうすることで、これまで「国家主義」や「軍国主義」といった概念との関連において文脈づけられてきたナショナリズム概念を、連帯の契機あるいは抵抗の基盤として可能性を積極的に見出したいからである。健全な戦没者追悼を構想できる否かは、私たちの社会における他者との共感と社会への責任意識に支えられたナショナルな想像力にかかっている。その意味で、靖国問題の解決とは今日の日本社会とこれからの日本社会の進む方向を占う上でのひとつの試金石であるとも言える。ナショナリズムの過剰が「正しく強い」日本の象徴としての「靖国神社」を招来したというよりも、むしろ、責任意識に裏打ちされたナショナルな意識の不足の帰結として、靖国問題を位置づけることができる。靖国問題は言うまでもなく、日本社会の内部から生まれた思想的な問題である。戦後日本社会における戦争体験の継承や戦没者に対する接し方あるいはその欠如と並行するように靖国問題は萌芽し展開してきた。
敗戦国であると同時に加害国である戦後日本における追悼のありかたを模索するという本稿の課題は、90 年代後半に思想家の高橋哲哉と文芸評論家の加藤典洋との間で交わされた著名な論争の延長上にある。近代日本の海外侵略による「アジアの死者」への十全な謝罪を優先させる高橋に対し、加藤は当の謝罪を行う「主体」が戦後日本において不在であり、「自国の死者」の追悼を通して「われわれ」という「主体」を立ち上げるべし、と論じた。本稿は高橋の歴史認識ならびに国家的戦没者追悼が孕む暴力性への批判を継承しつつ、加藤による「主体」問題すなわち「ネーション」という共同性の構築(あるいは再構築)という問題意識を共有しているという意味で、両者の狭間にあるといえる。両者の議論は対象的であり、後述するように、その対称性は両者の「ネーション」概念の違いに如実に現れている。高橋の国民国家論はそれ自体として完結しており精緻な論理に基づいている。にもかかわらず、それは靖国問題への処方箋としては社会的に無効であったのではなかろうか。本稿が提示するのは、つまり高橋による歴史的にも政治的にも的確な靖国批判の基盤をなしている高橋の「ネーション」概念が、高橋の議論から求心力を阻却してしまったのではないかというひとつの視座である。
最期に、本稿では、イギリスの政治思想家であるデヴィッド・ミラーの「ナショナリズム」論を参照しつつ、既存の「排他的で偏狭な」という枕詞を付されたナショナリズムとは異なる、新たなナショナリズム理解をもとに、靖国神社批判の再構成のための考察をおこなう。ミラーの議論は「ナショナルな」枠組みが社会正義の実現にむかって共同体を動機付ける際に、有効に機能しうることを示唆するものである。靖国神社は「日本」と呼称される地域における近代史の歩みとともにあった。戦前国家は、国家による戦争の死者ならびに遺族に対する公的承認を付与する戦没者の独占体制を、靖国神社を中心に形成した2)。ネーションとしての日本人は、戦死の意味づけを国家に委託する顕彰を通して形成されていった。靖国神社は、その意味で、国家の施設であると同時にネーションの想像力が強力に喚起される場であり、それは本質的に「ナショナル」な性質を帯びた施設である。本稿では、国家とネーションをつなぐ場にある戦没者追悼をいかに構成するのかといった事をまず引き受けるのは、当該ネーションであると考える。ミラーは戦争責任の世代間継承の存在を「義務の共同体 community of obligation」という概念を用いて例証している。それは先行世代の犯した罪に対して後続世代は主体的に関与しうるし、そのようにする道義的な責任ならびに権利を有することを示唆するものである。この概念は靖国神社をひとつの中心として展開する戦争責任および戦争体験の継承とったテーマ系に関しても有効な視点を与えてくれるものである。今日の社会とは歴史的に先行する社会によってある程度まで規定されたものであり、先行世代が生きた歴史・社会的条件の延長としての今日の生の様式がある。靖国神社をとりまく困難な状況に対し何かできることがあるとすれば、それは多様な戦争体験をいたずらに美化することなく、多様な主体が織りなす「われわれ」の経験としてありのままに受け止め、共感できようができまいがそれらを理解しようと努めることであろう。その過程がわれわれの社会の少しでも風通しの良いものへするために用いることのできる経験=知的資源をわれわれに与えるであろう。

 

第1章 靖国神社の性質と靖国論争(1980 年代までを中心に)
本章ではまず靖国神社の起源と、それが戦没者を追悼することでどのような役割を国家において果たしてきたのかについて整理する。その後戦後生まれの社会における台頭や、中曽根首相の靖国神社公式参拝などによって特徴づけられる 1980 年代の靖国問題が、どのように議論されてきたのかを、特に当時の新聞の投書等を中心に整理しながら、分析する。
1−1 国民国家の装置としての靖国神社
『靖国神社』を著した近代日本史家の大江志乃夫は次のような言葉を述べている。
靖国神社は、国家の宗教施設であり、国家の軍事施設であり、それゆえに国民統合のための政治的・イデオロギー的手段であった。戦争による犠牲者を国民にたいして悲劇であるとも悲惨であるとも感じさせることなく、むしろ逆に光栄であり名誉であると考えさせるようにしむけた施設が靖国神社であった3)。  
大江が喝破するように、靖国神社は「御国のために死んだ」戦没者を追悼する主体としてのネーションが生成する道のりの中心に位置していた。それはまた、本来は、理不尽で無意味で非英雄的であったかも知れない戦死を、国家/ネーションのための献身的な行為と解釈する機会をネーション4)に与える役割も担った。靖国神社は、日本国家による内外に対する戦争とともに発展し、その起源は戊辰戦争の際に没した新政府側の兵士を追悼するために、1867 年に建立された東京招魂社にある。その際旧幕府軍側の戦没兵士は埋葬されずに放置されていたことからも分かるとおり、起源における靖国神社は強い党派性を帯びた施設であった5)。そのような靖国神社が党派性を脱し、ナショナルな地位を獲得するのは、大江によれば日本社会が日清日露の対外戦争を経験した世紀転換期である6)。一般には、この日露戦争の時期に「英霊」という言葉も定着をみせはじめ、それによって戦死者の量的拡大に伴う没個性化の過程が始まったといわれている7)。
大江が言う「没個性化」とはすなわち、個々の戦没者が「英霊」という、均質で抽象的な集合に組み込まれていくことを示している。アンダーソンは、「想像の共同体としてのネーション」を象徴する施設として、「無名戦士の墓」を挙げている8)。靖国神社は厳密に言えば、そこに祭神として合祀されている「英霊」の氏名、所属、死地などを登録していることから、「無名戦士の墓」ではない。しかし大江が指摘したように、「英霊」という言葉によって「没個性化」された戦没者らの名前は、見えなくなってしまっている。その意味でも、靖国神社が果たした役割は「無名戦士の墓」と同様であると言うことができる。明治政府によって建立された靖国神社は、ナショナルな戦没者追悼施設としての国家的役割を付与され、類似した運命を共有する「想像の共同体としてのネーション」を再生産するために構築された近代的装置と位置付けることができる。
では「ナショナルな戦没者追悼施設」としての靖国神社が、戦没者を英霊として顕彰することで果たした役割とは一体何なのか。モッセはその記念碑的著書『英霊』において、第一次世界大戦期を中心としたドイツの戦没者追悼の営みを描いている。そこで戦没者を英霊として「顕彰」することに関して、以下のような指摘がある。
戦時中、とりわけ戦後には、国民国家の最高権力者たちが戦死者の埋葬と戦争記念事業を請け負った。慰藉の機能は、個人レベルにも公的レベルにも等しく作用した。だが記念されたのは、戦争の恐怖ではなく栄光であり、悲劇ではなく意義である9)。
モッセが述べているように、近代国家は戦没兵士らの遺族の精神的打撃を慰撫し、その喪失感を補填するために「尊い犠牲」として戦死を美化することで戦争体験を受容可能にする必要があった 10)。高橋哲也も、靖国神社にそうした役割が与えられていたことを指摘している。高橋によれば靖国神社は、遺族の恨み、喪失感からくる国家への怒りを回収し、最終的にはそれを感謝へと変容させるための施設である 11)。模範的国民としての戦没者=英霊を中心に紡がれる自己犠牲の物語は、ネーション単位での共感を創造し、「彼らに続かなければ」という形で自己犠牲を再生産していくのである 12)。以上のことから靖国神社は、戦没者を「英霊」として「顕彰」することを通じて、ネーションの形成ならびに統合のための中心施設となり、近代国家の総力戦遂行のために必要な軍国主義的文化を生成していく文化装置としての役割を果たしたのである。
1−2 靖国神社をめぐる論争−戦没者追悼と反軍国主義−
しかし靖国神社による戦没者の「追悼」は、「顕彰」に特化した国家主義的な側面のみをもっていたわけではない。赤澤史朗によれば、戦後の靖国神社における 1960 年代頃までの戦没者追悼は、二つの異なる要素からなっていた。つまり1国家/ネーションの犠牲となることに価値をおく「殉国」のベクトルと、2戦争の悲惨さや反戦思想にもつながる「平和」のベクトルである 13)。さらに赤澤は、1960 年代頃までの靖国神社にとっては、「殉国」と「平和」は併存するものであり、「世界平和」のために「英霊の御加護」を祈願する、といった態度をとることが可能であったと指摘している 14)。なぜなら戦争を体験した世代が支配的であった 1960 年代頃までの戦後社会では、人々は戦争で実際に失われた命がある、国家の命令で戦場に赴き戦死した者がいる、といった事実を直接の体験として「知っている」ため、戦争における「死者との共生感」や「死者への責任意識」に枠づけられる形で戦没者追悼の問題は社会一般に捕えられていたからである 15)。
しかし同時に 60 年代には、直接の戦争体験をもたない戦後世代のプレゼンスが高まってきた時期でもある。ここにきて、日本社会における平和祈願と戦没者への顕彰を矛盾なく両立させていた基盤が解体を見せ始める。小熊英二も、戦後世代が台頭するにつれ、戦没者追悼の行いそのものが「日本人意識の鼓吹」として批判されるようになったと指摘している 16)。具体的には、60 年代後半から 70 年代初めにかけて戦没者追悼は、年長世代の加害責任を追及する戦後世代と、戦争体験の決して抽象化されえない固有性に固執し、戦没者の記憶に依拠しつつ「軍国主義」「ファシズム」に抵抗しようとする戦中世代 17)の間の確執が生まれたのである。
こうした世代間のすれ違いを象徴する事件として、1969 年 5 月の「わだつみの像破壊事件」を挙げることができる 18)。わだつみの像破壊に共感をよせる学生は「戦中派は戦争での極限体験を語り、国家権力の力のもとに戦没した死者を悼み、“ 像 ” にたくして自己の “ 生きざま ” をみせるのだが、実際には、この三十年間に何をやったか」と啖呵をきっている 19)。戦後世代にとっての年長世代は、「被害者意識」に凝り固まりって、戦争を一部の戦争指導者におしつける倫理的逃避を行っているのであり、わだつみ像はその無責任の象徴として受け止められていたのである。一方で、元学徒兵でありシベリア抑留の体験もある「戦中派」の安田武は、破壊を主導した一部学生の「無知と無恥に絶望せざるをえない」という怒りのコメントを出している 20)。
両者のすれ違いから分かるように、敗戦から 30 年が経過した 60 年代後半の時点で、ネーションの想像力の源泉であった戦争体験の記憶という共通の母体は失われつつあった。個々の直接的な戦争体験の記憶に依拠した追悼は、記憶の希薄化と世代間での体験の有無によって、徐々に解体していく。
戦没者追悼の 戦没者追悼 60 年代から 70 年代にかけて見られた世代間の戦没者追悼に対する認識のズレは縮小することなく、1985 年の中曽根首相による靖国神社への「公式参拝」をひとつのピークとして、靖国神社/戦没者追悼を取り巻く状況は新しい局面を迎えることになるのである。
1−3−1 1980 年代の靖国神社をめぐる論争
先述の中曽根首相による靖国神社への「公式参拝」は、「戦後の総決算」の一環として行われた。「公式参拝」という、可視的で明確な問題提起が社会に投げかけられるのと並行して、新聞などでは「靖国問題とは何か」という特集が組まれ、参拝の是非を論ずる投書や論説も多く見られるようになった。実際に、新聞の投書欄・論説等で紹介された議論を以下にいくつか紹介する。
まず公式参拝を肯定・要求する意見である。以下に引用するのは、戦友を戦場で亡くした人物によって書かれた「散華した英霊/国家護持当然」と題された『朝日新聞』の投書である。
今、靖国の英霊は安らかであろうか。例祭が行われる度に閣議の公式参拝が議論され、うやむやのうちに時はながれた。国家護持は軍国主義の復活、戦争への道へつながる、など理屈をつけるのは自由だが、憶測も甚だしい。国のために散華した事実は動かせない。国のために生命をささげた英霊を、国を挙げて祭るのに躊躇の余地はない 21)。
この男性が求めている「追悼」を、戦死の顕彰や国家意識の高揚といった意図を持ったものとは言えないだろう。「靖国の英霊は安らかであろうか」と問う彼が求める「追悼」とは、「戦没者が安らに眠ること」なのかもしれない。彼にとっては、戦没者の声に耳を傾けることをせず、「理屈」だけで「軍国主義の復活」や「戦争への道」と騒ぎ立てるような議論はあまりに短絡的で、受け入れ難いものと認識されているのである。
参拝賛成を表明する二つ目の投書として、「戦時中に召集をうけ、いやではあったが、国のため、国民のためと信じ」戦場におもむき、「隣の戦友」は戦死したが自身は「紙一重で生き残った」と語る男性の主張を紹介する。
私は生き残ってきたのがむしろ不思議で、戦死していたのが当たり前という人間であった。従って、靖国神社にまつられていてもおかしくない立場にいる私が、今日までかくも国から白眼視していてきたかを思うと、くやしくてたまらなかったのである。(略)私は国のために亡くなった英霊に対し、国が感謝し、おわびすることは当然のこと、否、義務だと思う 22)。
こうした戦死に対する肯定的な承認を要求する主張は、けっして「国のためなら死んでもいい」という精神を積極的に肯定する議論とはいえない。確かにこの主張においては、戦没者追悼の責務を負う主体と定義されている「国」が、統治機構としての国家ないし政府を意味するのか、あるいはその構成主体としてのネーションを指しているのかが不明瞭である。しかしこの男性は、命をかけて戦場に赴いた代償として、戦友であった(あるいはそれは、彼自身でもあり得た)戦没者への公的な顧慮を「国」に求めていると解釈することができる。
次に公式参拝に対して、否定的な意見を紹介していく。8 月 15 日の公式参拝後間もない時期に、本章の冒頭で紹介した大江は『朝日新聞』において次のように語っている。
首相は靖国神社公式参拝という行動によって「誰が国に命を捧げるか」を国民に問い、滅私奉公を要求した。(略)靖国神社参拝はそこに至る手続きといい、当日の行動といい、戦後の一切を否定する意味を持つ 23)。
大江は国家の宗教施設であり、軍事施設ならびに「国民統合のための政治的、イデオロギー手段」であった靖国神社の歴史的性格をふまえながら、「公式参拝には、また戦前にもどるのでは、との不満を感じる」との感想を述べている 24)。
殉職自衛官の夫を、山口県護国神社に祀ったのは憲法違反であるとして、自衛官合祀訴拒否訴訟を争っていた中谷康子も、靖国神社への合祀は「死を誇ることに通じる」のであり、靖国神社は戦没者が被害者でもあると同時に加害者でもあったという事実を覆い隠し、「国のためなら死んでもいい、という精神づくりにつながる危険性」があるとの懸念を表明している 25)。同様に、『読売新聞』に掲載された戦争経験者の男性からの投書投においても、「靖国神社が再び若者をあおりたてる道具」として政治利用される事への反対意見が見られ、軍国主義への傾倒を危惧する文脈で靖国問題を語ることが一般的であったことが伺い知れる 26)。
最後に紹介するのは、非常招集をうけた夫を戦場でなくし、「戦争の未亡人」として讃えられ、今でも名目上は遺族会に属してはいるが、遺族会の方針には「納得できない」女性による投書である。彼女は、「戦後の総決算」と称して靖国神社への公式参拝の方向を固める中曽根首相に対して、次のような反対意見を述べている。
中曽根さん、ほっといて下さい。私は不安なのです。このムードは「戦争の危機」というものを大前提とする発想から形づくられているヒロイズムであることを、私は自分の実感として受け止めざるを得ないのです 27)。
この女性の「ほっといて下さい」という主張は、参拝賛成派の意見に見られたような積極的な形での戦没者の承認を求める主張とは、真っ向から対立しているように思われる。こうした賛成派と反対派の対立軸となっているのは、靖国神社の戦没者追悼が「軍国主義的なもの」であるか否かという判断の違いである。公式参拝を要求する賛成派の意見からは、自身の戦争体験に依拠しつつ、家族や戦友であった戦没者に対する正当な顧慮を純粋に希求していることが分かる。それゆえ、彼/彼女らの戦没者への想いと、「軍国主義的なもの」は直接的に関連するものとは認識されていないのである。
一方反対派は、歴史的に国家の戦没者追悼施設であった靖国神社による戦没者追悼を「英霊」として顕彰することを、過去の戦争を美化し、国家への献身を肯定する軍国主義的なものであると把握している。
真っ向から対立しているように思える両者の立場であるが、そこにはある共通する思いを見出すことができる。それは「死者に想いを馳せる」という行為であり、個々の具体的な戦没者の記憶に対する「固執」である。その「固執」とは、個々の戦没者が「英霊」といった抽象的な集合へと一般化されることを拒み続ける感情であるともいえるし、同時に既に抽象化され一般化された「英霊」から、個別の戦没者の体験を想起し続けることであるともいえる。「死者に想いを馳せる」という行為を「追悼」と呼ぶのであるとしたら、両者は靖国参拝賛成・反対論という新聞紙面上のレイアウトを超えた「追悼」の次元で通底していることが分かる。
1−3−2 戦争の記憶が希薄化した社会における追悼
80 年代の靖国問題を取り巻く状況は、前節でみたような首相の「公式参拝」の是非をめぐる議論の激化に加え、個別の戦争体験に依拠した形での戦争の記憶が希薄化する過程によっても特徴づけられていた。「1−2」で言及したように、そうした戦争の記憶の希薄化は、60 年代から 70 年代にかけてすでに見られた現象であった。本節ではそうした現象が 80 年代にはどのように受け取られ、また公式参拝にどのように作用したのかについても見ていく。戦争の直接的な記憶が後退したことによって、靖国神社を中心とした戦没者追悼の営みの主体が不在となり、「公式参拝」の是非をめぐる議論が形骸化した政治的ルーティンと化すような状況が生まれた。
例えば戦争の記憶の希薄化について作家の村上春樹は、『読売新聞』の文化欄において次のような雑感を語っている。
夏が来て、広島・長崎の原爆記念日が来て、終戦記念日が来て、サイレンがなり、黙祷があり、新聞は戦争の悲惨さを訴える。それがもう何十年も続いている。しかしそのような何十年もの日々がわれわれをどこに運んで来たか。結局は防衛費の GNP1% 枠の見直しであり、シー・レーン防衛であり、靖国神社の公式参拝である 28)。
村上は続けて、「戦争はもうこりごりだ」という比較的漠然とした認識にとどまった反戦意識が、加害状況の再発を防止するためにどれほどの効果を上げることができるか、と問うている 29)。ここで村上が示唆しているのは、靖国神社への首相参拝から距離を取り、被害と加害とが絡み合った自国の歴史に対しても「そのときはまだ生まれてませんでした―ピリオド」で済ませてしまう、当時から支配的になりつつあった態度に対する違和感である。そうした態度は、表面的なレベルでは反戦的であり反軍国主義的に見えるが、それが戦争体験総体への無関心の表れであるとしたら、それに「加害状況」の再生産を持続的に抑止する力を期待することはできないだろうと、村上は冷静に観察している 30)。
80 年代半ばにおいても、前節で述べた 60 年代以降見られる、個別の戦没者の記憶に依拠した靖国神社についての語りそのものが、直接の戦争体験を持たない世代の台頭ならびに社会における戦争の記憶の希薄化によって周辺化されるという状況は継続していた。そうした過去との心理的距離の広がりは、公式参拝実現の方向にプラスに作用したようである。
1980 年の鈴木内閣時に、閣僚の靖国神社への集団参拝が開始されたが、それに反対する社会党と労働組合を中心とする左派勢力は、翌年から隣接する千鳥ヶ淵戦没者墓苑で独自の慰霊集会を行っていた。しかし第一回集会(1981 年)には 1000 人ほど集まった参加者も、84 年の時点ではわずか 300 人と、減少の一途をたどっていた 31)。主催者側の官公労幹部は「組合員の大多数が戦争を知らない世代だから。ヤスクニは遠い世界ですよ」と『毎日新聞』のインタビューに答えている 32)。また、戦争体験の希薄化に伴う反靖国運動の停滞感は、従来の運動の推進母体であったキリスト教や仏教各派の動きの中にも見出すことができる 33)。
一方で社会における戦争体験の希薄化は、首相の靖国神社公式参拝の実現を目指していた日本遺族会などに、それを実現する「最後の機会」であるという焦燥感を与えた。事実遺族会は全国の組織を動員し、首相の公式参拝を求める「千万人の署名」と「三十七県千五百四十八市町村議会」での意見書を採択するなどして、公式参拝の実現を目指していた 34)。
靖国問題にとって、80 年代は戦争体験に依拠して死者への共感や責任意識に動機づけられた戦没者追悼が後退し、同時に「公式参拝」への是非をめぐる論争の激化により靖国神社が国家主義のシンボルとしての性格を強める時期である。赤澤が指摘するとおり、この時期において、靖国神社から、戦後以降に萌芽した戦没者を平和祈願の文脈で位置づける平和主義的な志向が後退し、それまでは併存していた戦没者を「国家への献身」によって評価するといった国家主義的な傾向が前景化する 35)。
1−3−3 「国際化」する靖国問題
60 年代の時点から既に進行していた、戦争の記憶の希薄化と合わせて、80 年代には靖国問題の性質を大きく変容させる新しい状況が生じていた。靖国問題が「国際的」な文脈の中に置かれたのである。このことにより、靖国問題には、「加害国である日本」は「被害者であるアジア」の視線を前にどのように追悼を行うのか、という新たな論点が生まれることになる。この「靖国問題の国際化」の直接的な背景としては、三つの象徴的な出来事がある。第一に、1978 年に行われ翌 79 年に社会的に周知のものとなった「A 級戦犯の合祀」、第二に、1982 年におきた、歴史教科書における「侵略」の用語が文部省による検定により削除され、それに対する中国・韓国政府による抗議が、その後の教科書検定の基準の変更につながった一連の「騒動」、第三にそうした状況の中で行なわれた 1985 年の中曽根首相による前述の「公式参拝」である。1982 年以降、外交上の論点として、戦争や植民地支配の「歴史認識」がとりわけ中国・韓国との間では一般化しており、その状況の中で行われた「公式参拝」には厳しい批判が加えられることになる。そのためもあってか、二度目の「公式参拝」の可能性が取り沙汰された 1986 年夏の新聞には、「近隣諸国への配慮」「靖国と国際社会」といった言葉が広くみられる 36)。歴史認識が問題となっていた中で、「公式参拝」が行われた結果、「A 級戦犯」の合祀など、靖国神社の性質が国際的な文脈で可視化されるに至った、というのが 80 年代以降の靖国問題の特徴である。
1985 年から 1986 年にかけて「公式参拝」をめぐる枠組みがほぼ出来上がり、その「枠組み自体は今日に至るまで変化していない。赤澤の整理 37)に従って要約するなら、その枠組みとは、四つの立場からなっている。第一に、政府の立場であり、それは参拝形式に配慮しつつ、近隣諸国との友好の意思を表明したうえでの「公式参拝」は合憲とみなすものである。第二は、「公式参拝」の実現を要求する靖国神社やその積極的な擁護者の立場であり、日本国家の戦争責任と「A 級戦犯」の責任を認めず、同時に政教分離原則の緩和を要求する、いわゆる「靖国派」の立場である。後述するように、こうした「靖国派」の立場は、国際的批判に対して「内政干渉」など強硬な姿勢をみせる排外主義的傾向の強い主張であるから、公式参拝に肯定的でありつつ外交的配慮を必要とされる政府との関係は微妙なものとなる。そこで第三の立場として、「A級戦犯分祀」論が生じるわけだが、当事者である靖国神社が「分祀」を受け入れる気配はない。そして第四の立場として、靖国神社とは別の国家的戦没者追悼施設の建設案が提案されているが、さまざまな立場からの反対により実現には至っていない、というものである。

 

第2章 2000 年代における靖国論の広がり−ナショナリズムを基軸に−
2001 年から 2006 年にかけての小泉首相による靖国神社への連続参拝の時期に、靖国問題は再度の盛り上がりをみせた。戦後 40 年を経過した時点で、戦争の記憶に依拠した反戦意識あるいは戦意高揚的な国家的儀式に対する批判意識というものは、ほぼその基盤を失っていたと思われる 38)。そしてそれから 20 年後の 2000 年代前半の靖国参拝騒動のとき、靖国批判の大勢をしめたのは、85 年の「公式参拝」以後の状況と同じく、「外国への配慮」を中心とした参拝批判であり、「A 級戦犯合祀」やその歴史的源泉である「極東軍事裁判」の評価などが、再び主要なテーマとして浮上してくることとなる。これらは大きくは、既存の歴史認識をめぐる論争としての靖国問題に加わった論点であるが、2000 年代前半の時期においては前章で見た 80年代までとは異なる、思想的なレベルでの反靖国論が生じた。それは戦没者追悼という国民国家の営みを、克服されるべき「ナショナリズム」の一形態として批判的検証の俎上に乗せるタイプの議論である。本章では、2000 年代に入り出現するナショナリズムと関連づけた反靖国論を、先行研究の整理と共に検証していく。
2−1 靖国問題の分節化
まず初めにこれまで靖国問題がどのように把握されてきたのか、靖国神社に批判的な反靖国派の論点を整理する。大別すればそれらは、
1.日本軍による侵略の「戦争責任」を重視する立場。この立場からすれば、戦没者を「英霊」として「顕彰(=褒め称えること)」する「靖国神社」を許容することはできない。
2.日本国憲法の「信教の自由」とそれを補完する「政教分離」原則を用いて、政権と靖国神社の共犯関係を問題視する立場。
3.国民国家を脱構築する議論の延長として、日本に残存する克服すべきナショナリズムの症状として靖国神社を批判の俎上にあげる議論
の三つに分類することができる。先述のように本章ではナショナリズムと関連づけられた靖国神社批判に着目することから3の立場を詳細に検証するが、まず1と2について以下に簡潔に整理しておく。
1の立場は、たとえばアジア太平洋戦争が近隣諸国の人々に与えた加害の歴史を重く見る傾向にある。過去の侵略に対する抗議の声は、無視することはできても、それを止めることはできないとこの立場は考えるのである。戦争には相手がある以上、意図的であるかそうでないに関わらず、生じせしめた被害に対する責任は法的/倫理的責任というが生じるのは当然のことであり、1の立場はそうした抗議の声に真摯に対応したものでもある。一方、「アジアの解放」や「欧米の帝国主義との対決」といった、自国の意図の純粋さの主張に固執する靖国神社ないしその支持基盤には、そうした視点がほとんど見られず、自国の戦没者を「英霊」として顕彰し、過去の戦争を美化している。1の立場はこうした靖国神社の歴史観と対立するものである。
2の政教分離を重視する立場は多くの場合、政府の靖国神社への積極的な関わりを批判するための政治的手段として機能してきた。具体的には、日本遺族会や自由民主党の議員が中心となって、靖国神社への国家的財政支援を可能とする法案を推進していた 1960 年代から 70年代にかけて、靖国神社への国家による財政支援をめざした国家護持法案や閣僚による参拝が論争を呼ぶなかで、政教分離に関する法廷闘争が各地で勃発した 39)。1980 年代の中曽根政権期においては、靖国神社への首相参拝の是非が大論争を巻き起こした。2000 年代には 80 年代の公式参拝騒動の再演ともいうべき形で、小泉首相の参拝をめぐっての訴訟が再度各地で頻発した 40)。
2−2 「靖国派」の論調
当節では、靖国神社の国家による財政的支援を要求したり、首相による「公式参拝」をもとめる社会勢力である「靖国派」の論調がどのような構成をもつのか、その特徴を 2007 年に刊行された『日本人なら知っておきたい國問題』41)などを中心に概観する。各論者によって隔たりはあるが、散見されるのは「大東亜戦争」の肯定的評価、残虐行為の否定ないしナチスと比較しての相対化 42)「政教分離」の厳格さへの違和感 、 43)「、A 級戦犯」ならびに「極東軍事裁判」の恣意性への批判、中国・韓国による内政干渉 44)、「戦後」によって「歪められた」歴史観ないし戦争観 45)というテーマであり、大半の論者に共通してみられる思想的特徴は、国家の「正しさ」を前提とするある種の国家主義的主張であり、そこから派生するのは、「正しい国家」への犠牲を賛美することで戦死を美化する傾向と、国家の「正しさ」への没入を阻害する外的要因に対する敵愾心である。ここでいう外的要因とは、典型的には「戦後教育・自虐史観」46)、「中国・韓国の内政干渉」、「左翼陣営の売国行為」47)、「知識人」48)、「マスコミの偏向報道」49)などがあげられよう。
ここで列記したもの以外でも、たとえば上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』で述べられている「歴史認識」に関する議論は、靖国派の論調を確認する上で参考になる。上坂は 1953 年の戦傷病者戦没遺族等援護法の改正以来「戦犯刑死者」も「法務死」と認定されるようになったことで、戦犯刑死者の遺族もその他の戦没者らの遺族と同等の補助を受ける法的地位を回復したことをもって、「戦犯の問題」は日本から「解決済みといってよい」と断言し、続けて
いまさら、正当な根拠もなく感覚的な言いがかりのみで、日本の参拝に対する姿勢を殊更にあげつらうのは、中国の日本に対するいわれなき蔑視、あるいは何らかの悪意に満ちた意図があると疑わざるを得ない 50)。
と中国からの「内政干渉」に不快感を表明している。上坂はまた、サンフランシスコ平和条約には、日本の独立後は「戦争裁判の判決について独立後に蒸し返さないこと」を含む数々の取決めを連合国と結び、日本はその取決めに従って戦犯の扱いを行ってきたが、「中華人民共和国、大韓民国。中華民国台湾はいずれも、(条約に)署名、批准」していないことを強調し、それらの国は「戦犯問題に関して発言する権利が与えられていない 51)」と主張するのである。これらの発言から読み取れるのは、上坂にとって戦没者追悼の問題とは国家間関係の文脈において理解されているという点であり、それに関連して、他国家の「悪意に満ちた意図」の中で、いかにして日本の「正当な」主張を行うかという「国家的」課題が戦没者追悼に仮託されているという点である。このように展開される靖国擁護論はネーションへの責任意識に依拠したナショナリズムというよりも、むしろ国家という統治機構の機能を強化することを目指す国家主義(ステイティズム)と呼称すべきものである 52)。その国家主義の視線が歴史に投影され、「英霊の国家的顕彰」という国家への無批判な信頼なしには成立しない権力行為を目指すにいたって今日の靖国擁護論のもっとも声高な部分は構成されているようである。
上坂をはじめとする靖国擁護論が国際関係における国家主義的主張を意識的に展開するのはひとつの立場でありうるが、日本の国家としての権力拡張の主張と戦没者追悼を真摯に執り行うべきとの主張は領域を異にするものである。自らをもって「保守主義」を自認し、上記のような靖国擁護論者とは明確な一線を画する佐伯啓史の言葉を借りるなら「実相においてあまり悲惨なひとつの現実」であるところの戦争を美化したり正当化することは、どのようなイデオロギーにもできないことなのである 53)。日本の近代史において「もっとも苦悩に満ちた時代の人々の生をある共感をもって想起 54)」しようという試みが戦没者追悼の意義である。「想起」という行為が想像力を媒介にした精神の営みである以上、追悼の主体は、統治機関である国家ではありえず、個人でありその集合である政治共同体である。そうであるならば国家の関わりはきわめて二次的であり限定的なものと論理的には位置付けられよう。連帯の契機としてのナショナリズムを再評価しようとする本稿は、こうした国家主義的主張とは鋭く対峙するものである。とはいえ、このような主張には困難が付きまとう。それには二つの原因が挙げられよう。第一は、ナショナリズムと国家主義はしばしば近似した概念として文脈づけられてきたという用語法にあり、これについは次節でのべる。第二に、戦没者追悼とりわけ靖国神社における追悼とは、その起源からして国家主義的性質を強くもつものであり、戦没者追悼から国家の要素を排除することは論理的に困難であるという歴史的事情である。この問題に関しては稿をあらためて考察を加えたいが、ネーションと国家が限りなく近接する追悼の場においては、両者の関係性によって追悼の性質は変容しうるであろうと考えられる。すなわちネーションが国家への抵抗力を失い、均一な被統治民として国家によって包摂されていた場合における追悼と、ネーションが主体的に戦没者の記憶を想起する場における追悼とは、反戦的あるいは好戦的といった相対的傾向においても大いに異なる様相を呈するのではないだろうか。
2−3−1 「ナショナリズム」はどう語られているか
ここからは反靖国論の三つ目の立場について詳細に見ていくこととする。この立場は、日本に残存する克服すべきナショナリズムの症状として、靖国神社を批判の俎上にあげようとするものである。このときの「ナショナリズム」概念が、どのような文脈でどういった意味で用いられているのかをまず確認しておきたい。朝日新聞取材班によって編まれた、靖国問題についての諸論点を網羅し、海外の日本研究者へのインタビュー記事もまじえた『戦争責任と追悼』という本がある。その第一章は「ナショナリズムに揺れる政治」と題され、以下のような書き出しで始まっている。
「歴史」をめぐって日本政治が揺れ続けている。小泉政権の後半、中国や韓国との外交関係がこれほど悪化したことはないといわれた。非難の応酬はお互いのナショナリズムをかき立て合い、そのとげとげしさはアジアを超えて世界から不安の視線を集めるに至った 55)
ここで言及される「ナショナリズム」とは、政治的混乱の要因、もしくは政治的未成熟の症状の一つとしてとらえられていることがうかがえる。また、「中国や韓国との外交関係」に言及されていることから、前節でのべたように国家主義との近似性においてナショナリズムが位置づけられていることも分かる。同書に掲載されているインタビュー記事の中でも、たとえばジョン・ダワーは極東軍事裁判が孕む問題に言及しつつ、「もっと日本に許された時間があり、すぐれた指導者がいれば、戦争責任の問題に取り組み、戦死者を悼むこととナショナリズムを区別できたかもしれません」と述べている 56)。ここでのダワーの用語法においては、どの国家/ネーションにとっても自然な行為である戦没者追悼と「ナショナリズム」とが、区別されるべきものとして把握されており、ナショナリズムとは回避されるべきものとして扱われている。おそらくここでの「ナショナリズム」とは靖国神社を念頭においたものであり、侵略戦争の過剰なまでの正当化や、自国民の戦死を美化しようとする思想傾向を「ナショナリズム」と表現しているのであろう。
また『勝者の裁き』の著者であるリチャード・マイニアは同様の文脈で、「死者を悼むことと排他的な愛国主義を区別することが大切なのです」と語っている 57)。ダワーの言うところの「ナショナリズム」がマイニアの場合は「排他的な愛国主義」と表現されているわけであるが、両者において「ナショナリズム」の概念は、排他性や偏狭性といった概念の類義語として限定的に用いられていることが分かる。
2−3−2 高橋哲哉の反靖国論
ダワーやマイニアが、国家/ネーションによる戦没者追悼に、排他的で偏狭なナショナリズムを見出し、それを批判するといった論理は、靖国神社批判の際には具体的にどのような形をとるのか、ここでは高橋哲哉の議論を参照しながら検証していく。同時に、ナショナリズムを批判することによる靖国神社批判が持つ限界についても指摘したい。
高橋哲哉は『国家と犠牲』において、国家とネーションが戦没者追悼を通して邂逅していく様子を丁寧にたどっている。高橋は、国家が戦没者の死を「尊い犠牲」の論理へと変容させ、それを国民の中に浸透させていくプロセスに対して、厳しい倫理的批判を展開している。「尊い犠牲」の論理とは、内外への甚大な被害を残した戦争のおぞましさ、戦場の悲惨さ、無残に死んでいった兵士たちの姿などの想像を絶した経験を、「敬意と感謝」の対象とすることで、戦争と戦死を「今日の繁栄と平和」のためには必要な犠牲であったと正当化し、処理するレトリックである 58)。そうした国家権力によるレトリックの受容を通して、「国民=ネーション」は形成されるという高橋の議論は、靖国神社を含むあらゆる戦没者追悼一般が民衆を制御するための統治装置であることを洞察したものであり、戦没者追悼の政治的側面への批判を構成するための土台となるものだ。しかし、高橋の議論は、一方で、戦没者追悼それ自体が内包するはずの、想起と内省の契機=可能性をも放棄してしまうもののように思えるのである。というのは、ネーション/共同体が紡ぐ物語やそこで共有された記憶には、その構成員に「犠牲」を強いた過去を自らの問題として引き受け、それに対し批判的に回顧しうる回路を提供するものであるからだ。そのことは、たとえば従軍学徒兵の手記を収録した『きけわだつみの声』やその関連作 59)を考えてみれば分かる。それは大正 12 年前後生まれの世代的に限定された集団の「ため息とも嘆きともつかぬくり言 60)」を述べたにすぎないものであるかもしれないが、同書は読者をしてあるリアリティをもって迫ってくる。同書をはじめとした戦争を扱った文学作品群 61)は、「日本の」軍隊という組織における個性の剥奪や権力への黙従、そして思考の断絶といった悲劇について、そして何より、そうした悲劇を生んだ時代状況が「日本人によって」選択されたという歴史の歩みについて多くを教えてくれる。戦没者の追悼は、その時代に生きた人間の心情の記録を継承し共有し、そうした犠牲を強いるような社会状況が再度発生することを抑止することに利するようなベクトルも内包しているのである。
次章では、高橋のネーションを含む政治共同体と戦没者追悼の関係性の把握とその特徴について、加藤典洋と高橋の間で起こった戦没者追悼をめぐる論争を軸足にとして、考察を加える。

 

第3章 靖国問題の再構成のために
これまでナショナリズムとは、国家意識と関連づけられるかたちで認識されてきた。そのため前章までで見たような、排他的で偏狭なナショナリズムを批判する形での靖国神社批判が支配的であった。しかし、ナショナリズムとはその概念の正確な用語法としては「ネーションを基軸に思考する意識の枠組み」として簡潔に把握しうるものでもある。その意識の枠組みとして定義されたナショナリズムは、社会から駆除され克服されるべきものというよりは、むしろ社会が抱える問題の解決にためには、積極的に駆動されうるものなのではないか。それは、戦没者追悼というきわめてナショナルな性格をもつ象徴的営みおいては、なおさらのことである。本章では、90 年代後半に前出の高橋哲哉と評論家の加藤典洋との間で交わされ戦没者追悼をめぐる論争を参照し、両者の「ネーション」概念の隔たりを指摘する。そうして抽出され「ネーション」概念を理論的に補強しうる政治思想家のミラーのナショナリズム論を経由し、靖国問題の再構成のための理論的提言を行う。
3−1 加藤・高橋論争−「ネーション」の位置づけをめぐって−
この節における主張は、高橋の議論は論理的水準においてきわめて正当でありながら、共同体の死者を想起し、記憶し、継承するといった行為がもつ連帯の契機をも見落としてしまったがゆえに説得力を失ってしまったのではないか、というものである。高橋は、「アジアへの謝罪を可能たらしむためにも、謝罪の主体としての国民のたちあげが謝罪に優先する」という加藤の命題を「国家の犠牲の論理」に対抗しようと試みる「国民の哀悼の論理」であると位置づけている 62)。高橋によると、加藤の「国民の哀悼の論理」とは侵略戦争に失敗した / 負けたという「悔恨」を共有することにより、戦没者たちの命をまず哀悼し、そのうえで主体としての「国民」を再創出する試みである。その問題点として高橋は「哀悼の共同体」が成立するために必要な「二重の排除」を挙げている。すなわち、「哀悼の共同体」からの「アジアの死せる他者」の排除、そして日本軍のよって敵視された人々が被る「日本国民」からの排除である 63)。ここで高橋が問題とする排除の問題は、反靖国の立場をとるテッサ・モーリス = スズキが指摘する 64)、ナショナルな戦没者追悼がもつ「われわれ / 彼ら」という境界設定効果の弊害を危惧するものといえる。
一方、高橋によって批判されている『敗戦後論』における、加藤の主張とは以下のようなものである。
自国の三百万の無意味な死者を無意味ゆえに深く追悼することが、そのまま二千万のアジアの他者たる死者の前にわたし達をたたせる、踏み込み板(スタートライン)になる。また、そういう死者への対し方が作り出されない限り、日本社会総体がアジアの死者に謝罪するという形は、論理的に、追及不可能である 65)。
加藤は、吉田満の『戦艦大和ノ最期』に、戦没者の美化や顕彰を経由せずに追悼する方法を示し、戦死を「無意味さゆえに、深く追悼すること」ことの実践可能性を示し、大岡昇平の『レイテ戦記』を用いて、自国の戦没者を追悼する行為が、とりもなおさず侵略の被害にあった「他者」へと至る道筋ともなりうることを示している 66)。加藤が参照する、大岡の『レイテ戦記』は、自分がその一員でもありえた「死んだ兵士たち」への哀悼から始められている。一人一人の兵士の名前、所属する部隊名、部隊の変遷、たどった足取りを執拗にたどった著作は、抽象的な集合体である「英霊」から「一人一人の兵士の死を奪回」することに成功している 67)。自身の所属した部隊が遭遇した事実を詳細に積み上げた著作が完成したのち大岡が抱いたのは、「結局一番ひどい目に会ったのは、フィリピン人ではないか」という感想であった。加藤が大岡の個々の戦死者を想起する試みに可能性を見出すのは、自国の兵士の死を想起する行為が、不可避的に、他者の存在と他者に与えた被害についての共感ないし謝罪へと繋がっていく回路を用意するからなのである。一見、閉鎖的な知的営みと見える、「われわれ」という限定された集団の歴史を引き受けることが、その実践においては、他者との遭遇というより開かれたものへ帰結するという可能性を、追悼の営みは内包しているのである。
高橋は政治的共同体による追悼という行為の権力性を警戒し、加藤は追悼という営みの不在が追悼の主体の喪失を招来していることを指摘する。両者の関心にはズレがあるため安易な比較はできないが、権力組織としての政治共同体が内包する暴力に敏感な高橋の「ネーション」概念と、政治共同体を構想することの可能性にかける加藤の「ネーション」概念には、大きな隔たりがあることは指摘できる。高橋にとっての「ネーション」とは統治機構としての国家にイデオロギー的に包摂されたスタティックな政治的実体として扱われる傾向があり、一方、加藤の「ネーション」概念はそれ自体が変容可能性にとんだダイナミックなものとして構想されていることである。
換言するなら、高橋の「ネーション」は統治機構としての国家によって、本来なら多様である人間がその多様性を剥奪され、支配を受容した結果として成立するような、均一で受動的な人間集団の単位を指すものである。それは歴史的事実として正確であるともいえるが、そうした権力の作用に対し自覚的であることと、その議論を演繹して「ナショナル」な単位での思考を放棄することは次元が異なるのではないか。
次節では「ネーション」を単位として思考が持ちうる統治機構に対する批判性の可能性ならびに社会正義の実現に人々を動機づける可能性について考察を進める。
3−2−1 デヴィッド・ミラーのナショナリズム論の概要
本稿ではナショナリズムを国家主義的なものではなく、ネーションを基軸にものを考える意識の枠組として捉えている。そこでまずナショナリズムを再考するために、ネーションとは何かということを考えていきたい。ミラーによると、ネーションという共同体は1共有された信条と相互へのコミットメントから成り立ち、2時間的な広がりをもち、3能動的な性格をおび、4ほかの共同体から区別される独特の公共文化をもっているものと定義されている 68)。 またナショナリズムとは、そうして定義された想像の共同体であるネーションを単位として、世界を分節化するような「思考の枠組み」であるということもできる 69)。つまり、もっとも広範な意味におけるナショナリズムとは、「われわれが○○人である」という自己意識が及ぶ範囲としての、特定のネーションを構成しているという意識のことであり、ネーションは「共通のもの」として意識される文化・言語・歴史を分かち持つ主体として、その構成員に想像される一種の政治共同体である。
ミラーによるネーションの定義で特徴的なのは、それを物理的ないし文化的特徴をもつ人々の集合体と見るのではなく、ネーションはその存在そのものが構成員の相互承認に基づく共同体である、と認識する点である 70)。ネーションそれ自体が動的な概念であるという認識は、次の二つの意味においてなされる。まず当該ネーションの性質の土台となるナショナル・アイデンティティは一定のものではありえない。なぜならナショナル・アイデンティティとは構成員の内省や、「外部」との接触を経て内からも外からも変容しつつ構成されるものであるからだ。次に「ネーション」が指し示す範囲、すなわち「運命共同体」としての想像が及ぶ範囲は可変的であり、そのネーションがおかれた歴史的文脈によってそれが及ぶ範囲は広がったり縮小したりする、という意味においてである。そうした伸縮自在なものとして定義されたネーションが、マイノリティの権利を抑圧する同化主義へと転化しない、という論理的保障は存在しない。現に実現している複数の集団の共存状態が、一転して、一方の一方に対する同化の直接的ないし間接的な強制へと転化するような事態は、「ナショナルな思考の枠組み」そのものが原因であるというより、むしろそうした集団がおかれた政治経済社会状況に因るものであろう。
3−2−2 ナショナル・アイデンティティとナショナルな歴史
ナショナルな共同体は「義務の共同体 community of obligation71)」であるが、過去との連続性の局面においては、それは祖先の営みを引き継ぎ、それを後続世代へと継承するという倫理的な責任意識を帯びた共同体と位置付けることができる。その責任意識とは加藤典洋が『敗戦後論』で明確にした、「侵略国の国民」のひとりとして、その「汚れ」を汚れのまま引き受け、継承するといった倫理的姿勢と通底するものだ 72)。もちろん継承の過程で、何が記憶され、何が忘却されるかといった取捨選択は起こりえるが、何が記憶されるべきで、何が忘却されるべきか、という規範的命令が「あらかじめ」決定されているわけではない。つまりナショナルな歴史は、そのネーションの構成員らによって個別に認識されながら、その形をつねに更新されていくものなのである。ナショナルな歴史とは、複数の歴史観が併存し、ときに合流し淘汰されていく中で、その暫定的な姿を見せる動的な過程である。その暫定的な歴史をどのように受容するか、あるいは拒否するかは、個々の構成員の判断に委ねられている。しかし靖国神社がコミットしている歴史観というのは、ある特定のネーション構成員らによって選定された、特定の時期の特定の記憶に過ぎない。それはナショナル・アイデンティティの土台となるナショナルな歴史を構成する一つの要素には成り得るが、それが単独でナショナルな歴史を代表しているということは主張しえない。
本稿がナショナリズムであるがゆえに靖国神社を批判する、という従来の反靖国論からは距離をとり、ネーション概念を用いて靖国神社を批判することの有効性を主張しうるのは、共通のネーションへの帰属意識とそれに付随する責任意識をもつ個人や下位集団が、それぞれの状況に適応しつつ構築していく動的な過程としてのナショナリズムが靖国神社の党派性と排他性を解除するのに有効であると考えるからである。
3−3−1 脱構築を経たナショナリズム
靖国神社の独善的な歴史観や、メディアで取り上げられる賛同者の言動は通常「ナショナリズム」という言葉で記述され、前章で見たような論理によって批判の対象にもなる。そのため「靖国神社のナショナリズム」と言う場合、それは「国家主義」と渾然一体となった思想であり、国家権力のもとに均一化されたネーションが包摂されている状態を理想とするものだ。近代国民国家の「業績」のひとつは、領土内に暮らす大多数の人間を、国家に包摂された均質な集団へと変容させたことである。その過程の近代日本における装置として靖国神社がある以上、国家主義と結びつけられたナショナリズムが、靖国神社を下支えしている状態は、ある意味においては当然であるともいえる。しかし、本稿の目的は、そうした歴史認識を受け止めた上で、戦没者追悼の問題を再構成することである。ここで再度ミラーの議論を参照したい。
ミラーの「ネーション」概念は、加藤のそれと同様に動的な概念であり、物質のように一定なものとは把握されておらず、むしろ常に更新されていく過程であるとして概念化されている 73)。ルナンはネーションを「日々の人民投票」に例え、その存在は構成員たちがそのネーションに帰属しているという共通の信念と、自分たちの生活を今後も共に継続したいという共有された願望に依存していると説いたが 74)、ここで注目すべきは、こうしたネーションは信念と願望に依拠しているという意味において、まさに「虚構」であるという点だ。ネーションが社会的に構築された「虚構」であると「認識する」からこそ、ネーションの構成員は、そのネーションの性質や自己理解や他ネーションやネーションを構成していない集団との関係といったものを、より好ましい方向に転換する政治的努力に参与する回路が開かれるのである。これを自らの可変性を自覚しつつ、共同体内および共同体間の関係性を調整する能力を持つ、という意味において「脱構築を経由したネーション概念」とみなすことができよう。もちろん、「脱構築を経たナショナリズム」が偏狭なナショナリズムの特質である排他性や暴力性を脱構築できるか、という真摯な問いは常に突き付けられるべきである。しかし、一方で政治共同体から排他性や暴力性といった問題を「あらかじめ」排除することは論理的に困難であろう。それらは第一義的には、共同体が置かれた政治経済的な文脈に依存する問題である。むしろ、肝心なのは、連帯の契機としてのナショナリズムが排他性や暴力性を「あらかじめ」内包していることを自覚することなのである。
3−3−2 ネーションの可能性
ここまでミラーの論を中心に、ネーションを構成するナショナル・アイデンティティとそれを規定する際に重要な役割を果たすナショナルな歴史が、どのように構成されているのかということを見てきた。するとやはりナショナリズムは、これまで靖国神社批判の際に展開されてきたような排外主義や歴史的視野偏狭性とは同一視できるものではないということがわかってきた。とりわけ靖国神社の付属施設である遊就館による、一方的ともいえる歴史の展示は、ミラーがいう意味でのナショナリズムと呼ばれるべきでさえない。本節では前節で見た脱構築を経たナショナリズムを土台にして出現するネーションの在り方と、そうしたネーションと靖国神社との関係について考察を加えていく。
脱構築を経たナショナリズムの原則の立場からすると、ネーションは他者との間のコミュニケーションによって常時変容を迫られるような実体である。ここでいう他者には空間的な他者と時間的他者がある。
ネーションにとっての空間的な他者とは、同時代の自ネーション以外に属す集団または個人、そして一切のネーションから排除された存在を指す。彼/彼女らは通常、「ネーションの構成員であるとは想像されることがない。しかし彼らはネーションにとって、必要不可欠な外部なのである。それは外部としての「彼ら」の存在が、内部としての「われわれ」意識を形成するための境界線を体現しているからではない。「彼ら」が「われわれ」にとって必要なのは、「彼ら」が「われわれ」の変容可能性を活性化させる存在だからである。ネーションが、「彼ら」とのコミュニケーションに対して開かれていることは、ネーションが自己刷新能力を発揮し、未来にわたって存続していくために必要なことなのはないか。
次に、ネーションにとっての時間的な他者とは、とりもなさず先行世代のことを指す。これは戦没者追悼との関連性がとりわけ高い概念である。そして戦没者追悼という営みの根幹をなすのは、戦争体験の継承である。それは個人レベルでの会話や、出版物・映画や演劇といったものの受容を通して実現される。
死者を想起する、戦没者に想いを馳せるという行為は、個人的でもありうるし、同時に共同体的ものになりうる。そして、ナショナルな次元にも到達しうる。そのナショナルな記憶のアリーナは、均一なものにはなりえない。なぜならそれぞれ異なる立場から語られる戦争像には、たとえ同じ時代を生きた人々の間でも大きな隔たりが生まれてしまうからである。戦地に赴いた者の中でも、派遣された地域とその時期によって、その体験には無視できない差異が生じるし、仮に同じ体験をした者であっても、敗戦後の社会での生き方によってはその戦争体験は変容を被るであろう。戦争体験の内実が、社会階層の差によっても大きく異なることは想像に難くない。また戦前の日本が植民地を持つ「帝国」であった事実を考えれば、ナショナルな歴史(「戦争体験の物語」)を構成するとされるネーションの範囲は明瞭ではなくなる。加えて戦争体験はジェンダーによっても大きく異なるはずである。
また、ナショナルな歴史は、均一な歴史解釈に収斂される必要はない。ナショナルな歴史という枠組みは多種多様で、時に矛盾しあい、時に重なり合う個々の体験が蠢きあう動的な空間として構想されるべきである。そのようなナショナルな歴史を構成する空間の片隅に靖国神社が位置づけられることを、本稿は希望する。
本稿が理想とするナショナルな次元での追悼は、あらゆる追悼と同じく空間的・時間的な他者とのコミュニケーションを通して構成されるものである。しかし現状の靖国神社はそうしたコミュニケーションからもっとも遠いところに位置すると言えるだろう。「靖国派」は日本の行った戦争の「正しさ」を強調する一方で、その他の国家の狡猾さや道徳性の欠如の事例を列挙する。このことが意味するのは、靖国神社はネーションのごく一部にしか承認されていない歴史観を表明し、さらにその歴史観を構成する際には「内政干渉」に象徴される言葉によって、他ネーションとのコミュニケーションの回路を絶ってしまっている、ということである。

 

おわりに
靖国問題が解決すべき深刻な問題であることは自明であるが、真に問うべきは靖国神社そのものではなしに、戦後社会がナショナルな戦没者追悼の場を、靖国神社しか持ちえなかったことではないだろうか。靖国神社による戦没者追悼の独占状態は、解除されていかねばならないだろう。そのためにも、批判の方法はより洗練される必要がある。
本稿は、靖国問題の再構成する試みの中で、「ネーション」概念を中心に従来の靖国批判のあり方を相対化する理論的考察を行い、より開かれた戦没者追悼のあり方を構想するための代替案を提出した。それは「ナショナリズムとしての靖国神社批判」から「ナショナリズムからの靖国神社批判」への批判形態の転換を促すというものだ。
第 2 章で見たように、2000 年代おいては、ナショナリズムに焦点をあてた形態の靖国批判が登場することになった。それらはナショナリズムとしての靖国神社を批判するものである。また、「ナショナリズムとしての靖国神社批判」としての高橋の議論は、政治共同体による戦没者追悼のもつ暴力性の深い洞察に依拠したものだった。そうした戦没者追悼の政治的側面を継承しつつ、靖国問題の批判をより効果的なものに再構成するためにも、第 3 章においては、高橋 - 加藤論争の「ネーション」概念や D・ミラーのナショナリズム論を参照することで、従来の国家主義と渾然一体となったナショナリズムとは別の、より開かれた形でのナショナリズムの可能性を提示した。またナショナルな歴史がどのように構成されているのかという考察を行い、ネーションとは他者とのコミュニケーションによって常時変容していくような過程であるという視座を得た。その視座からすると、ネーションを土台にして思考される意識の枠組みとしてのナショナリズムも、必然的に可変的で動的なプロセスとして考えることができるようになる。今日の靖国神社はナショナリズムを象徴するものとして認識されているにもかかわらず、その実態はネーションから孤立した状況にあることを指摘することができる。最後に、ナショナリズム論のさらなる精緻化、ネーションに限定されない政治共同体一般における追悼の問題についての論理的探究、を今後の課題として提示しておく。

 

 1) 三土修平『靖国問題の原点』日本評論社 2005年 p.3。
 2) 高橋哲哉『靖国問題』『国家と犠牲』日本放送出版会、2005年。
 3) 大江夫乃夫『靖国神社』岩波新書 1984年 p.190。
 4) ここでのネーションはベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」としての「国民」の意味。
 5) 靖国神社の起源における党派性を示した書物としては小島毅『靖国史観:幕末維新という深淵』ちくま新書、2007年。また村上重良は「天皇の敵の死には一顧をもあたえない」姿勢を「」「インヒューマン」と表現して厳しく批判している。村上重良『国家神道』岩波新書 1970年 p.186-187。
 6) 大江志乃夫、前掲書、p.128、赤澤史朗『靖国神社:せめぎあう戦没者追悼のゆくえ』岩波書店 2005年 p.18。
 7) 村上重良『慰霊と招魂』岩波新書 1974年 p.152。
 8) ベネディクト・アンダーソン著 白石隆、白石さや訳『(定本)想像の共同体:ナショナリズムの流行と起源』書籍工房早川 2007年 p.32。
 9) ジョージ・モッセ『英霊−創られた世界大戦の記憶』宮武美知子訳、パルケマイア叢書、2002年 p.12。
10) 高橋哲哉『国家と犠牲』日本放送出版協会 2005年 p.98。
11) 高橋、同上、p.98。
12) 同上、p.98。
13) 赤澤、前掲書、p.67-71。
14) 宮司の筑波藤麿が 1965年に靖国神社の月刊新聞『靖国』に書いたもの。赤澤、前掲書 p.135。
15) 赤澤、前掲書 p.161。
16) 小熊英二『民主と愛国』新曜社、2002年 p.572。
17) こうした心情は戦中派にひろく共有されていたものだが、知識人の中では、とりわけ竹内好、安田武、渡辺清などが明確に、戦争体験への固執と現状への批判を自覚的に結びつけた言論活動をしていた。
18) 星野芳郎『戦争と青春:きけわだつみの声の悲劇とは何か』(影書房、2006年)において、安田武とおなじく学徒兵世代に属する星野芳郎の「わだつみの像破壊擁護論」が展開されている。星野はわだつみの象は平和運動や「民族の悲劇」の象徴としては失効しており、慰霊の役割に徹するべきと主張しており、(同書 p.40)追悼に関しては世代内部でも意識に隔たりがあることを示している。
19) 「断絶と連続 30 年目の戦後」『朝日新聞』1974年8月14 日夕刊。
20) 安田武『不戦の誓い』山脈出版の会 1983年 p.97。
21) 『朝日新聞』1985年8月2日号(投書)。
22) 『朝日新聞』1985年8月15日号(投書)「英霊への感謝、人間なら当然」。
23) 大江志乃夫「公式参拝が意味するもの / 日本の戦争責任免責 / 安保条約も基礎失う」『朝日新聞』(東京版)夕刊 1985年8月20日号。
24) 「いまなぜ公式参拝 / 関係者識者に聞く」『朝日新聞』1985年8月1日号。
25) 同上記事。
26) 『読売新聞』1985年8月8日』号「首相のねらいは軍国主義の復活」(投書)。なお、この投書は、「激論コーナー」の表題のもとで、靖国参拝をめぐる「賛成 / 反対」を左右に配置した投書コーナーの一部を構成するものである。
27) 『朝日新聞』1985年8月15日号「おかしなムード、不安持つ遺族も」(投書)。
28) 村上春樹「力もちうるか疑問/ “ もういやだ ” 式反戦」『読売新聞』1985年8月16日号。
29) 同上記事。
30) 戦中派知識人である安田武は70年代の時点で「戦争体験に固執すること」の彼にとっての重要性と、後続世代への継承の困難について自覚的に語っている。
31) 「(特集)靖国参拝(中)草の根保守、高齢化の危機でフル回転の遺族会」『毎日新聞』1985年8月12日号。
32) 同上記事。
33) 同上記事。
34) 同上記事。
35) 赤澤、前掲書、p.199。
36) たとえば、『毎日新聞』1986年8月8日号社説「『靖国』と国際社会を考える」、同投書「靖国公式参拝、見送りは当然」、『読売新聞』1986年10月20日号、特集記事「八方ふさがり靖国問題 / 見送り続く首相参拝、難しい「A 級戦犯合祀」解決、隣国の反発配慮、“ 移霊 ” には神社側抵抗」、『朝日新聞』1986年8月14日号、社説「傷跡をうずかせる『戦犯』合祀」など。
37) 赤澤、前掲書、p.211-212。
38) この時期になると、新聞への投書は戦友、兄弟や配偶者から、戦没者の「子ども」やあるいは戦没者とは直接的つながりを持たない人からのものが中心を占める。
39) たとえば 1965年に提訴された「津地鎮祭訴訟」や 1973 年からの「山口県自衛官合祀訴訟」、1975年提訴の「箕面忠魂碑訴訟」、1981年提訴の岩手靖国違憲住民訴訟、82年愛媛県玉串料公金支出住民訴訟提起など。また中曽根首相の公式参拝を直接問題にしたものとして85年〜86年にかけての大阪、播磨、福岡での訴訟がある。
40) 2004年から06年にかけて、大阪、松山、福岡、千葉、那覇、東京、松山の地裁で違憲訴訟がたたかわれた。福岡地裁(2004年4月7日)と大阪高裁(2005年9月29日)は憲法判断にふみこみ、ともに首相の参拝に対し、その公的性格を認めたうえで、「違憲」と判断している。
41) 高森明勅編『日本人なら知っておきたい國問題』青林社、2007年。なお、この書籍は2006年10月に靖国神社で開かれた「第四回 青少年セミナー」における講演を文章化したものである。
42) 同上書、西尾幹二、p.96。
43) 同上書、百地章「戦没者の追悼と政教分離は矛盾するか」 p.102-122。
44) 同上書、大原康男 p.97、中西輝政「國にはじまる日本の再生」 p.209。
45) 同上書、中西、p.197。
46) 同上書、中森明勅「靖国問題解決への道」 p.228-229。
47) 同上書、百地、p.108。
48) 同上書、長谷川三千子「日本を覆う反国家の思想をどう払拭するか」 p.128-132。
49) 同上書、中西、p.208。
50) 上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』文春新書、2006年、p.132。
51) 同上書、p.184。
52) たとえば佐伯啓思『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書、p.171〜172 )では「ナショナリズ(国民主義)ムと「ステイティズム(国家主義)」の概念を区別することの必要性が説かれており、参考になる。
53) 佐伯啓思『日本の愛国心:序論的考察』NTT 出版、p.319。
54) 同上書、p.323。
55) 朝日新聞取材班『戦争責任と追悼:歴史と向き合う』朝日新聞社、2006年 p.15。
56) 同上書、p.84。
57) 同上書、p.71。
58) 高橋 前掲書、p.18。
59) 日本戦没学生記念会編『きけわだつみのこえ』(岩波書店、1982年=1995年)ならびに『第二集 きけわだつみのこえ』(岩波書店、2003年)
60) 星野芳郎、前掲書、p.30。
61) たとえば大西巨人『神聖喜劇』(ちくま文庫、1991年)や、水木しげる『ラバウル戦記』(ちくま文庫、1997年)、井上俊夫『初めて人を殺す:老日本兵の戦争論』(岩波現代文庫、2005年)など。
62) 高橋、前掲書、p.134。
63) 高橋、前掲書、p.135。
64) テッサ・モーリス=スズキ著 本橋哲也訳「靖国 記憶と記念の強迫に抗して―靖国公式参拝問題によせて」『世界』No.693 2001年10 月号。
65) 加藤典洋『敗戦後論』ちくま文庫、p.113。
66) 加藤、前掲書、p.94。
67) 同上。
68) David Miller、 On Nationality 、 New York : Oxford University Press 1995、 p.27.
69) Framework の語はアンダーソンがクレオール・ナショナリズムについて記述する際に用いている。(アンダーソン、前掲書、p.111。)
70) Miller、 op.cit.、 p.23.
71) Ibid.、 p.23.
72) 加藤典洋『敗戦後論』ちくま文庫 1994年=2005年、66 p.。加藤典洋は靖国問題がどうして解決しないのかという問に対し、戦後の「汚れ」である戦没者を追悼する主体としてのネーションが不在であるからである、という答えを提出した。
73) Ibid.、 p.134.
74) Ibid.、 p.23. 
 
 

 

●靖国神社参拝問題 −継続した議論が必要− 2002/8
今年も8月15日がやってきた。最近は毎年のように政治家が、特に閣僚が靖国神社に公式参拝するか、私的参拝するか、或いは、参拝しないのかが話題として取り上げられ報道される。昨年、注目を浴びた小泉純一郎首相は、15日午前、全国戦没者追悼式に先立って千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花したが、靖国神社には既に4月の春季例大祭に合わせて参拝している、との理由から今回は参拝を見送った。結局、15日に靖国神社を参拝した閣僚は、武部勤農水相、片山虎之助総務相、平沼赳夫経済産業相、中谷元防衛庁長官、村井仁国家公安委員長の5閣僚であった。
話題となっている閣僚の公式か、或いは、私的な参拝なのかに対して中谷長官は参拝後、記者団に「国務大臣中谷元が心を込めて日本人、人間として参拝した」と述べた。片山、平沼両大臣は公私の別や参拝形式などに関する記者団の問いには答えなかった。
超党派の衆参両院議員でつくる「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・瓦力元防衛庁長官)という会があるが、それに所属している議員達は、本人58人、代理119人が、総勢177人で参拝した。議員の会は自民、民主、自由、保守各党などの議員がメンバーであり、毎年、終戦記念日や春秋の例大祭の際に靖国神社への集団参拝を続けている。15日は自民党では森喜朗前首相、堀内光雄総務会長らが顔をそろえた。
そして、綿貫民輔衆院議長、倉田寛之参院議長、橋本龍太郎元首相らは、単独でそれぞれ参拝を済ませた。石原慎太郎都知事も参拝した。石原知事は平成12年に歴代都知事としては、初めて靖国神社に公式参拝し、以来、毎年参拝を続けている。
また、参道の特設テントでは、「英霊にこたえる会」(会長・堀江正夫元参院議員)と「日本会議」(会長・三好達前最高裁長官)が「戦没者追悼中央国民集会」を開き、約2000人が参加した。近年、盛んに議論されている靖国神社に代わる国立追悼施設建設構想に対して、参加者からは追悼施設建設構想への批判が相次いだ。結局、靖国神社には午前6時の開門とともに遺族、戦友、若者など幅広い年代の人たちが次々と参拝に訪れ、夕方になっても参拝者の列が途切れることはなかった。同神社のまとめによると、この日の参拝者は85、000人に達した。
実は、敗戦直後、靖国神社は存亡の危機にあった。なぜなら日本に進駐した連合国軍の大勢が、「靖国焼却すべし」という意見で占められていたからだ。そのような情勢下にあって、当時の駐日ローマ法王代表バチカン公使代理だったピッテル神父が、占領統治の最高司令官マッカーサーに、「戦勝国、敗戦国を問わず、いかなる国家も、その国家の為に死んだ人々に対して敬意をはらう権利と義務がある。もし靖国神社を焼き払うとすれば、その行為は米軍史上不名誉極まる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないに違いない。国家(日本)のために死んだ者は、全て靖国神社にその霊をまつられるべきとする」と強く進言した。これに加え、国民の血書嘆願もマッカーサーの元に数多く届き、進駐軍は考えを改めることとなった。
斯くして、今も存続している靖国神社であるが、なぜ参拝することが話題となるのか。その原因は色々あるが、しばしば指摘されるのが、A級戦犯が祀られているということである。だが、このA級戦犯に関する歴史を紐解くと、不可解な点に気が付く。極東国際軍事裁判所条例中には、裁判所が被告達を裁くための裁判管轄権を持つ犯罪として(a)「平和に対する罪」(b)「通例の戦争犯罪」(c)「人道に対する罪」の3つが規定された。しかし、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した当時、国際法上存在していた戦争犯罪は、俘虜虐待、民間人の殺害、財物の掠奪など、いわゆる「通例の戦争犯罪」だけであって、(a)の「平和に対する罪」と(c)の「人道に対する罪」は国際法上存在していなかった。つまり、条例中にかかる犯罪を規定することは、「法なき所に罪なく、法なき所に罰なし」とする「事後法の制定による裁判の施行を非」とする近代文明国共通の法理に反した行為であると考えられる。
また極東裁判における11名の裁判官の中には戦勝国から選出されているという不合理だけではなく、法廷に持ち出された事柄に対して事前に関与していたり、必要な言葉がわからなかったり、本来裁判官ではなかった者までいた。その中でただ一人国際法の専門家がいた。それがインドのラドハビノッド・パル博士である。
パル判事は、(a)「平和に対する罪」が1945年以前には存在しなかったとし、連合国が国際法を書き改め、それを遡及的に適用する権限はないと判断した。パル判事の意見書によれば「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うのは、戦敗者を即刻殺戮した者とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために、法律的な手続きを踏んでいるようなふりをするものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。」と述べ、つぎのように結論した。「戦争が合法であったか否かに関してとられる見解を付与するものではない。戦争に関するいろいろな国際法規は、戦敗国に属する個人に対しての勝者の権利と義務を定義し、規律している。それゆえ本官の判断では、現存する国際法の規則の域を越えて、犯罪に関して新定義を下し、その上でこの新定義に照らし、罪を犯したかどうかによって俘虜を処罰する事は、どんな戦勝国にとってもその有する権限の範囲外であると思う。」とした。
しかしながら、日本は、サンフランシスコ講和条約の第4章:政治及び経済条項(PORITICAL AND ECONOMIC CLAUSES)の第11条で日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾する、としている。従って、パル判事が指摘したように極東裁判が近代文明国共通の法理に反したものであったとしても、やはりA級戦犯は、それ以外の何者でもないと言うことになる。
毎年のように話題になる靖国神社参拝であるが、このままでは、総理大臣の参拝もままならず、天皇陛下の御親拝は更に難しく、日本に来られる外国元首にも足を運んで頂けない。この議論に加わることも出来ず、一番困惑しているのは靖国神社に祀られている250万の霊魂であろう。政府は、早急な改善策を考えなければいけないのではなかろうか。
以下は一つの改善策としての若干の私見である。第一に、戦後補償を全て完了する。太平洋戦争(大東亜戦争)に関係した国全てに日本国から、改めて戦後補償交渉を行う。目的は、二度と先の大戦について全ての事柄を外交問題にしない、させないため。原則、相手国の要求通りに満額を支払う。但し、日本国に対して債務を負っている国は、日本に対してそれを完済した後、日本国は責任を持って戦後補償を満額支払うこととする。また、債務不履行の国に対してはそこから差し引かれること。それにも増して、賠償額が多い場合は、日本国が責任を持って支払う。そして、日本国は完済された資金を新たに発生した戦後補償に充当すれば過剰な負担を新たに発生させることを防げるだろう。これによって、先の大戦のことは、今後一切、不問とすることを各国に約束させる。或いは、戦後補償条約の一項目に明記するのも一つの手段だと思われる。
第二に、戦後補償を終えた後に戦犯と呼ばれている人たちの名誉回復を国会にて行う。戦後半世紀が経ち“罪を憎んで人を憎まず”の精神で、名誉回復を行う。もちろん、これは戦争を肯定するものではなく、歴史に翻弄された人々の個人的な名誉を取り戻すことを目的とする。戦争そのものは罪だ、ということも首相が国会で、宣誓すること。これは、先の大戦だけでなく、日本国が今までに行った全ての戦争(例えば、日清戦争や日露戦争など)は罪深かった、と告白し、全ての国に謝罪すること。そして、過去に戦争経験のある世界中の国々の指導者たちにも反省を促す。刑罰を執行された人が、その後も犯罪者として扱われるのは、そもそもおかしい。刑期を全うした人は一個人として扱われるべきであり、社会はそれを受け入れる必要もあると思われる。
上記のことが容易ではないことは承知している。しかし、この問題は引き続き議論していかなければ、解決に向かわないのもまた事実である。既述したように政府は、早急に改善策を考えるべきである。新たな国立追悼施設建設構想などの案も出されているようではあるが、本当に慰霊をする気があるのであれば、先ずは、靖国問題を解決するべきではないだろうか。それが、日本のために死んでいった人達に対する感謝の気持ちであり、礼であると考える。そして、靖国問題が解決され、みんなが快く靖国神社を訪れることが出来るようになったとき、はじめて数百万の霊魂は報われるのではないだろうか。  
 
 

 

●首相の靖国参拝問題 2005
1) 05年4月に中国各地で起こった反日デモの真相
05年4月に中国各地で相次いだ反日デモに対し、日本のメディアでは中国政府に対する批判が噴出しました。政府関係者、政治家、評論家、有識者などがこぞって破壊行為に抗議し、謝罪を求める大合唱をとなえました。しかしそれらは、批判する前にまずデモの原因を見極める冷静さを欠き、軽率で感情的、偏狭なナショナリズムに満ちていました。
その後、デモを誘発したのは日本の国連安保理常任理事国入りに反対する米国発のネット署名運動であることが明らかになりました(毎日6/14/05)。小泉純一郎首相が常任理事国入りを目指して「わが国の果たしてきた役割は、常任理事国となるにふさわしい基盤となる」と国連総会でぶち上げた演説が米国における一連の反対運動をまきおこしたのです。それは04年9月21日のことで、国連創設60周年に合わせた安保理改革への提案でした。
最初に日本の常任理事国入りに反対する運動の中心になったのは、米国のNGO「世界抗日戦争史実擁護連合会」と、慰安婦問題を追求するワシントンの民間団体でした。反対の理由は「常任理事国になるなら、相応の責任を負わなければならないが、日本にその覚悟と資格があるのか、いまも戦争被害に苦しむ被害者をかかえる諸国との和解が実現していないではないか」でした。そして04年12月8日、ロサンゼルス、ソウル、東京など世界各地で日本の常任理事国入りに反対する「国際共同声明」が発表されたのです。05年2月末からはホームページ上で反対署名活動が開始されました。日本のメディアはこれを報道していません。
アナン国連事務総長が05年3月21日に行った失言、「安保理改革が実現した場合の新常任理事国の一つはもちろん日本である」がこの運動の火に油を注ぎました。3月22日には中国最大手で世界第5位のニュースサイトである「新浪網」が署名集めに参加しました。月に8700万人がアクセスするこのサイトの影響で、署名の数は1カ月で40万から一挙に100倍に増加したのです。さらに、中国外務省の劉建超・報道局副局長が3月24日の記者会見でこの署名運動に理解を示したことが報道されると、その翌日から中国各地で紙による署名活動へ、そして集会や大規模の反日デモに発展し、ついには一部が暴徒化した訳です。
2) 小泉首相の靖国参拝が日中問題の焦点となった経緯
日中首脳は、アジア・アフリカ会議がインドネシアのジャカルタで行われた機会をとらえ、05年4月23日に約50分の会談を行いました(日経4/24/05)。中国の胡錦濤国家首席は、歴史認識問題について「『侵略戦争への反省』を正しく認識し対処するため反省を実際の行動に移して欲しい」と暗に靖国参拝をひかえるように伝えました。ただ、し靖国神社参拝問題については「前回、APEC首脳会議(04年11月末)で会談したとき話した、この場でこういう具体的なことを話し合おうとは思わない」と述べています。これに対し小泉純一郎首相は直接回答せず、記者会見でも「自分の靖国神社参拝はかねて話している通り『適切に判断する』ことに変わりはない」と説明を避けました。前回の会談の時の記者会見では「靖国神社についてはどんな質問が出ても何も申し上げないことにした。日中問題は靖国問題だけではない」と言っています。一方、アジア・アフリカ会議の演説では95年の村山富市首相の談話を引用し「反省とお詫び」を表明しました。
事態を悪化させたのは、小泉純一郎首相が05年5月16日に衆院予算委員会で行った発言でした(日経5/17/05)。靖国神社参拝問題について「戦没者についてどのような追悼の仕方がいいかは他の国が干渉すべきではない。参拝していけないという理由が分らない」と述べて参拝自粛を求める中韓両国に反論したのです。また「いつ参拝に行くかは適切に判断する」を繰り返しました。さらに、第二次大戦のA級戦犯合祀と参拝の関係についても『「罪を憎んで人を憎まず」というのは中国の孔子の言葉だ。一個人のために参拝しているのではない』と言明しました。侵略戦争への反省については「二度と戦争しないという行動で反省を示してきた」と述べています。この問題に対する野党の対応に対して、「一部の外国の言い分を真に受け、外国の言い分を正しいと言って私の判断を批判している」と挑発しています。
一方、05年6月20日に韓国の青瓦台で行われた日韓首脳会談では、小泉純一郎首相は靖国神社参拝について「二度と戦争を繰り返してはならないという不戦の誓いから参拝している」と発言し、これに対し蘆武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は「首相がどう説明しても、私と我が国民には過去を正当化しているとしか理解できない」と批判しています(日経6/21/05)。
中国政府は、これら一連の発言によって小泉首相に強い不信感を抱き、愛知万博の中国関連行事などのために訪日していた呉儀副首相は小泉純一郎首相との会談を急遽キャンセルして帰国しました。中国外務省の孔泉報道局長は5月24日の定例記者会見で、呉儀副首相の突然の帰国の理由を次のように説明しています。「中国の人民が抗日戦争勝利60周年を祝っているときに、日本の指導者は中国人民の感情を顧みず、過去の歴史を反省するという約束も無視した」(日経5/25/05)。中国外務省は予定されていた日中外務次官級協議もキャンセルしました。
小泉純一郎首相は、靖国神社参拝を2年続きで1月に行っていましたが、05年にはこれを見送り、秋期例大祭の初日である10月17日に行いました。記者会見では「総理大臣である小泉純一郎が一人の国民として参拝する」と不可解な「私的参拝」を強調し、中国や韓国の批判に対しては「心の問題だから参拝しなさいとか参拝するなとか言われる問題じゃない。長い目で見れば中国も理解してくれると思う。戦没者に哀悼の誠をささげることは当然だということを説明していきたい。日中友好、日韓友好、アジア重視は変わらない」と述べています(日経10/18/05)。しかし、これでは中国側の発言に対する説明になっていません。
これ以後、中国政府は、町村信孝外相の訪中と日中外相会談を正式に拒否、11月18ー19日に韓国の釜山で行なわれたAPEC首脳会議の際にも日中首脳会談は行なわれませんでした。さらに、12月に予定されていたマレーシアでのASEAN閣僚会議(12月9ー11日)や東アジア首脳会議(12月14日)での個別会談、あるいは月末に予定されていた蘆武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の来日はすべてキャンセルされ、日中・日韓の交流は完全に停止したのです。
この間、日本政府などがG4(日本、ドイツ、インド、ブラジル)として共同提案していた国連安全保障理事会拡大の「枠組み決議案」は、中国だけでなく米国も反対して、05年9月12日までの会期内に採択されず、廃案になりました。米国発の抗議運動は成功したわけで、05年4月に中国各地で起こったような目立った反日行動は再発していません。
3) 中国政府は「なぜ靖国参拝に異議を唱えるのか」
中国の王毅駐日大使は標記の題をつけた一文を日本経済新聞に寄稿しています(日経11/14/05)。この寄稿を中心に、王毅駐日大使の説明を見出しをつけて分類して引用しますので注意深く考えてみて下さい。
ここ数年の中日関係は、日本の指導者の靖国神社参拝問題でずっとぎくしゃくしてきた。その理由は、靖国参拝問題が中日関係の根幹にかかわっているからである。
(1)歴史認識について中国が日本に求める基本的なコンセンサス
中国は日本との間で歴史認識を完全に一致させることを求めない。国が違うから、個々の歴史事件についてそれぞれ見方が異なることもあろうが、よりよい未来を切り開くため、かってのフランスとドイツと同じように、歴史と決別するためには、いくつか基本的なコンセンサスが必要になってくる。それは戦争の性格、戦争の責任とそれらに対する政府の立場に集約できる。
(2)これまで両国で形成されてきた基本的なコンセンサス
1972年の国交正常化以来、中日双方が努力をかさねて、そのコンセンサスが徐々に形成されつつあった。それは、対中戦争が侵略で、その責任は当時の軍の指導部が負うべき、日本国民も被害者、そして、日本政府がその過ちを反省し、中国側が賠償請求権を放棄するという内容であった。したがって、いわゆる歴史問題も解決の方向に着実に向かっていた。
(3)コンセンサスに逆行する日本指導者の靖国参拝
しかし、近年来その形成されつつあるコンセンサスが逆に崩れかかっている。その主な現れは、A級戦犯をまつっている靖国神社に対する日本指導者の参拝である。中国の立場は一貫している。当時の軍部が対中侵略の責任を負うべしという従来の立場から、A級戦犯をまつっている所を参拝することに、中国政府は反対せざるをえない。というのは、A級戦犯がまさに当時の軍部の象徴的存在である。そして、同じ立場から、日本国民も戦争の被害者だったので、日本の民衆が神社に行くことに異議を唱えない。また、B、C級戦犯についても、これまで外交問題にしたことはないし、今もない。要するに、A級戦犯をまつっている靖国神社に対する日本指導者の参拝は「加害者である日本は被害者である中国国民に対し過ちを反省する」というコンセンサスに全く逆行する行為であるから受け入れられない、といっているのであって、非常にクリアでよく理解できます。
(4)参拝中止を求めているのは首相、官房長官、外相の3人だけ
王毅駐日大使は、上の投稿に先立つ05年4月27日に自民党本部で講演し、85年に中曽根康弘首相が靖国神社を公式参拝して以来、「日本の顔である首相、官房長官、外相の3人は参拝を遠慮するという君子(紳士)協定ができた」との認識を示しました。そのうえで、「日本国民が靖国神社に行くことには何も言わない。政治家が行っても問題にしない。首相、官房長官、外相の3人だけは行かないでほしい」と述べ、小泉純一郎首相に参拝中止を求めたのです。(毎日新聞4/28/05)
つまり、中国政府は、日本政府の指導者の象徴として首相、官房長官、外相の3人を考えており、他の政府関係者や一般人の参拝に干渉する考えはないと言うのです。つまり、政府の指導者についても、A級戦犯の戦争責任についても、あくまで象徴的に考えているということです。この事実は「中国政府は日本に対していたずらに干渉する意図は持っていない」という考えを明示するものであり、外交的配慮としてよく納得できます。
(5)「首相の私的参拝」はあり得ない
私的参拝だと言われているが、一国の最高責任者である以上、その言動がおのずと国の立場を代表し、政治的性格をもつものである。外国の人々からみれば、どうしても一国民の行動とは思えない。国内向けの論理が、時々国際的に受け入れられないことがある。要するに、「首相は一国の最高責任者であり、その言動はおのずと国の立場を代表し政治的性格をもつのは常識であり、特に問題となっている行為が靖国神社参拝という特別なものであるからには私的参拝ということはあり得ない」、と言っているのであって、当然のことです。「私的参拝」論は国内的に通用するものでもありません。また中国政府が問題にしているのは、あくまで日本政府の責任者が、『「戦争の責任」は軍の指導者にあるとする両国のコンセンサス』を覆すような行為を新たに行うことであって、日本の宗教や文化に干渉する積もりはないし、常に謝罪をするよう求めているわけでもないのです。
4) 小泉純一郎首相の理解不可能な発言
この問題は、「VERITAS」(真理たれ)の倫理観(11.1.)をもち、「科学者の創造的思考」(1.6.)に従って人間の普遍的な哲学に従って、一人の人間として誠実に考えなければなりません。中国政府や韓国政府の発言はきわめて論理的で首尾一貫しており分りやすい。これに対する小泉純一郎首相の発言は、先方のいうことに誠実に答えておらず全く理解できません。私のように「愛国心」旺盛なものにとっては、自国を代表する首相のこのような言動は恥ずかしくて我慢できません。
「反省とお詫び」をすることを求められている訳ではない。「戦没者についてどのような追悼の仕方がいいか」が問われている訳ではない。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、罪を犯されたひとが罪を犯した人に対してその罪を許す言葉であって逆ではない。「二度と戦争しないという行動で反省を示す」ことが求められている訳ではない。「二度と戦争を繰り返してはならないという不戦の誓い」をすることが求められている訳ではない。「適切に判断する」という発言は適切の内容を説明しないかぎり意味がない。実に、求められているのは「何かをする」ことではなくて、「何かをしないこと」なのです。
「一国の首相が意味不明のことを繰り返す、それなら放っておいて小泉純一郎が首相の座を降りる06年の9月まで待とう、それまでは相手にする必要は無い。安保理常任理事国入りに賛成が得られなかったように、もともと日本の外交は東アジアで大きな指導力を持っていない。外交がストップしても経済活動に本質的な支障は無いのだから一向に急ぐ必要は無い」、中国や韓国がこう考えたとしても不思議ではありません。それはその通りでごく自然な反応だし、彼らの立場に立てば誰でもそうするでしょう。事実そうなりました。
5) 小泉純一郎首相には何か裏の事情があるのか
本人が説明しないのだから、彼の真意は想像するしかありません。我々としては、自分の国の首相であってみれば、小泉純一郎が意味不明のことばかり繰り返すはずはないと好意的に考えたい。そこで、日本の政治家や官僚がよく使う「本音」(隠されている何か裏の事情)が無いはずがないと考えるわけです。裏の事情として考えやすいのは「小泉純一郎が政治生命をかけて日本の構造改革に取り組むために犠牲にしている」事柄です。つまり、小泉純一郎の不可解な行動の背景に「限定合理性」(10.5.)が隠されているのではないか、と言うわけです。
それは、小泉純一郎が01年4月の自民党の総裁選で「終戦記念日には必ず靖国神社に参拝する」と日本遺族会の幹部に確約し、候補者の討論会でも公約したことです(毎日6/10/05)。特に、01年の総裁選には予備選が導入されて一般党員票が重要視され、当時の橋本派を敵に回して闘っていた小泉にとっては10万人超の党員を抱える日本遺族会の支持を取り付けることは重要だったでしょう。首相就任以前には靖国神社参拝について特別に目立った言動はなかったから、この見方には一理あります。小泉純一郎は国民的支持を得ており首相公選論を主張していた背景とも符合します。
もしそうなら、05衆院選で大勝したのだから靖国参拝も無くなるだろうと考えるのは自然です。事実、米コロンビア大教授のジェラルド・カーティスは「靖国神社に参拝しなければ国内一部勢力の強い批判にさらされるだろうが、選挙に圧勝した今こそ、批判に耐える環境は整った」と語っています(日経9/13/05)。この予想は見事に外れた訳ですから、上の推測は説明の一部ではあっても全部ではないでしょう。日本遺族会とは別に、小泉純一郎が気にするグループが存在するわけです。それは何でしょうか。
6) 私には理解できない世論の動向
私は、「日本人は、中国政府が説明して自粛を求めている首相の靖国参拝を正当化するいかなる言説も口にすべきではない」、と思います。理由は上で述べた通りです。ところが首相の靖国参拝の賛成対反対を問うた05年の全国世論調査の結果によると、賛成と反対のパーセンテージは、6月(41対50)、7月(39対51)、8月(46対38)、11月(50対46)のように拮抗しつつも賛成が反対を上回る傾向を示しています。
一方、『文芸春秋』の05年7月号には、各界を代表する(『文藝春秋』の編集部がそう考えているだけです)81人にあてた「小泉総理靖国参拝是か非か」のアンケートに対する理由を付けた回答が掲載されています。これを読むと、賛成が54対37で世論調査の結果を上回っています。もっと驚くことは、大学関係者と評論家の45人に限ってみると、賛成のパーセンテージはさらに増えて60対33となるのです。これはただ事ではないと思います。賛成する理由として付けられているコメントの中に説得力のあるものは皆無でした。何故日本人はこのような姿勢を示すのか、この疑問を問うことは大きな発見につながると思います。
ところで問題は、王毅駐日大使が述べている「これまで両国で形成されてきた基本的なコンセンサス」です。彼は礼節を重んじてさりげなく触れているだけですが、われわれは軽々しく見過ごすことはできません。中国政府は日中国交回復に際し日本側にたいする賠償請求権を放棄しました。一方では、B、C級戦犯の罪もゆるし全員の帰国も認めています。われわれが倫理を重んじる国民なら、中国の人々が、永年にわたる日本の侵略行為、日本軍の残虐行為に対する怨みをどのようにして乗り越えたのか、どうしてこのような寛容さや好意を示すことができるのか、これを徹底的に自問しなければなりません。
どうか中国の多数の犠牲者のことを、01年2月のハワイ沖の事故で亡くなった愛媛県立宇和島水産高校の実習生ら9人の犠牲と比べて考えて下さい。実習船「えひめ丸」は米原潜に不意に海中から衝突され沈没したのです。事故から5年後には宇和島水産高校とホノルルの公園の両方にある慰霊碑で追悼式が行なわれました。自分の不注意で事故を招いたワルド船長は来日して遺族に謝罪してまわりました。しかし家に入るのを拒んだ家族もいたのです。関係者にとってこの事件は悲劇以外のなにものでもありません。明確な意図をもって組織的に行なわれた他国からの侵略行為ではないのです。
すべての答えは「周恩来の遺訓」にありました。もし周恩来のような人物がアメリカの大統領になっていたら、9・11の同時テロ以後におこった戦争も、その戦争で大勢のアメリカ軍兵士が命を落とすこともなかったでしょう。実に周恩来は、アジアが誇るべき偉大な思想家です。全貌を明らかになったのは、保阪正康が抱いたある疑問からでした。次章では保阪正康の素晴しいし仕事について紹介します。 
 
 

 


旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 前10世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
平安時代 794年 – 1185年
   王朝国家 10世紀初頭 – 12世紀後期
   平氏政権 1167年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
   南北朝時代 1337年 – 1392年
   戦国時代 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 1573年 – 1603年
江戸時代 1603年 – 1868年
   鎖国 1639年 – 1854年
   幕末 1853年 – 1868年
明治時代 1868年 – 1912年
大正時代 1912年 – 1926年
昭和時代 1926年 – 1989年
   GHQ/SCAP占領下 1945年 – 1952年
平成時代 1989年 – 2019年
令和時代 2019年 –