石破さん 野に下り新党を立ち上げてください

死んだ人間 担ぎだし
全派閥が最高顧問に迎える 寄り合い所帯 自民党
国民を忘れた 利権集団にしか見えません

もう一度 政治理念を思い出してください
時代の要請に応えてください
そのために  野に下り 新党を立ち上げてください

石破さんしかおりません
 


   

 
 
 
 

 

●6/17現在 安倍前首相の役職 
安倍前首相 自民党キングメーカー
菅政権    安倍前首相の傀儡政権
二階俊博   「自由で開かれたインド太平洋」議連 最高顧問
二階俊博   「自治会・町内会等を応援する会」議連 名誉顧問
岸田文雄   「新たな資本主義を創る議員連盟」 最高顧問
甘利明     「半導体戦略推進議連」 最高顧問
甘利明     「未来社会を創出するバッテリー等の基盤産業振興議員連盟」 最高顧問
逢沢一郎   「日豪国会議員連盟」 最高顧問
自民党有志  「国民皆歯科検診」議連 最高顧問
 
 
 
 

 

●石破氏誘う国民民主党の窮状 野党の首領に「今は無理でも将来は」 2019/6/12
自民党の石破茂元幹事長に対し、野党から合流を促す動きが出ている。特に国民民主党は深刻な支持率の低迷に悩むだけに、論戦力も知名度も高い石破氏はのどから手が出るほど欲しい存在だ。石破氏は離党を否定するが、過去には自民党を離れて新党結成に参画したこともある。政権交代を実現するには石破氏を含めた自民党の切り崩しが必須との指摘も多い。自民党内で孤立を深める石破氏に熱いまなざしが向けられている。
5月中旬、国民民主党の玉木雄一郎代表の後見人を自任する亀井静香元金融担当相は、東京・赤坂の行きつけの料亭「外松」で玉木氏と石破氏を引き合わせた。亀井氏は、自民党内で存在感が低下している石破氏に奮起を促したという。
亀井氏の持論は、石破氏を中心とする自民党のグループと玉木氏のグループを合流させ、自民党に対抗する勢力を作ることだ。亀井氏は2月24日付産経新聞のインタビューで、玉木氏に「首相指名選挙で石破氏に勝手に投票すれば自民党は割れる」という、政界再編を起こすための戦術を伝えたと明かす。
国民民主党に加わった元自由党代表の小沢一郎氏も5月14日のBS番組で、亀井氏の考えについて「一つの戦術としてはあり得る」と同調してみせた。
石破氏に共感を抱く旧民主党系議員は少なくない。 
 
 
 
 

 

●崩れたシナリオ…石破氏「いばらの道」 布石一転、手詰まりに 2020/9/6
自民党総裁選への挑戦が4度目となる石破茂元幹事長だが、かつてない孤立無援の戦いを余儀なくされている。歯に衣(きぬ)着せぬ物言いと「寝業」のできない性格が災いし、国会議員の確実な支持は、自身が率いる石破派(19人)のほか数人のみ。頼みとする世論人気も、地方出身、たたき上げをアピールする菅義偉官房長官の陰にかすみつつある。陣営は、「本番」と位置付ける来秋の総裁選につなぐ集票を、と必死だ。
5日午前、石破氏はTNCテレビ西日本(福岡市)の報道番組に生出演し、午後には東京にとんぼ返りした。寸暇を惜しんで九州入りしたのは、各地方県連が行う予備選での集票に照準を定めているからだ。
「勝ち馬に乗りたい心理はある」と菅氏優勢の現状を分析。その上で、菅氏が「継承する」とした第2次安倍政権の姿勢を「泣いている人の気持ちを十分にくんできたか」と批判した。この日も、石破節に陰りはなかった。
総裁選で涙をのむたびに、もろい党内基盤の強化が課題と言われてきた石破氏。安倍晋三首相の突然の辞任表明前は、来秋の総裁選で岸田文雄政調会長との頂上決戦を制するシナリオを描き、岸田氏と距離がある二階俊博幹事長、菅氏の信用を徐々に得ていく作戦だった。6月に二階氏に石破派パーティーの講師を依頼して秋波を送り、8月には二階、菅両氏と近い森山裕国対委員長と会食するなど布石は打っていた。
そこへ、想定外の総裁選が降って湧いた。
石破氏は派閥メンバーと出馬の是非を断続的に協議した。「党員投票はしないもようだ」「二階氏が菅氏擁立で動いている」…。自身にマイナスの情報が次々ともたらされ、一部幹部からは「惨敗したら二度と立候補できなくなる」と不戦論を進言された。かたや、主戦派は2015年の総裁選で立候補を見送り、好感度に陰りが出たことへの反省から「出馬をやめたら『逃げた』と言われる」とけしかけた。
前回総裁選で支援を得た参院竹下派の支持を取り付けられないか探る側近もいたが、時既に遅し。竹下派を含む主要派閥は菅氏支援に走りだしていた。開けぬ展望に、石破派内の結束はぐらついた。
8月31日。石破氏は出馬の決意を固める。連判状が派内に回った。背水の覚悟を示すため血判状を作ろう、との声も上がった。「今後、党内でどんな冷や飯を食わされようが、もう戦うしかない」。派の閣僚経験者はつぶやいた。
首相は周囲に「石破嫌い」を公言。後継を決めるこの総裁選でも、石破氏を勝たせない環境整備を最優先しているのは明らかだ。かつて首相在任中、石破氏から退陣を迫られたとされる麻生太郎氏も同じ姿勢。最大派閥・細田派の一人は「『石破だけは許さない』との声は多い」と証言する。なぜ、そうなのか−。
主な理由として指摘されるのが、閣僚や党幹部であっても遠慮なく批判する政治姿勢。第2次安倍政権では、森友、加計(かけ)学園や桜を見る会の問題などが報じられるたびに「説明すべきだ」と注文。党内から「また、後ろから鉄砲を撃っている」と白眼視された。
政界遊泳術も巧みでない。石破氏のために走り回った参院竹下派のベテランは前回総裁選後、一言も言葉を交わしていないと苦い表情。「次も出たいなら、会いに来るのが筋だろうに」
地方県連の予備選で首位を奪い、党内にあらためて「選挙の顔」となり得る存在感を誇示し、来年に勝負を懸けたい石破氏。テレビなどで露出を続けるが、「いばらの道」(派閥幹部)には変わりない。 
 
 
 
 

 

●「石破茂」派閥会長「電撃辞任」の真相 「新党立ち上げ」の可能性? 2020/10/24
世間はそんな俺たちを支持してくれていたはずが…
自民党の石破茂元幹事長は22日の石破派(水月会)の会合で、会長辞任を表明。政界では驚きをもって迎えられた。この異例の事態はなぜ起こったのか?
石破氏は9月の党総裁選に大敗した責任を取り、自身が率いる派閥の会長を辞任した。
「派閥のボスとは暴力団の組長と同じで、辞める=引退です。会長を退いてもヒラで居続けるっていうのは過去に例がないし、それはつまり“何となく次のチャンスを待つ”っていうことでしょうけれど、理解に苦しみますね」
と、自民党の閣僚経験者。ともあれ、この間の経緯を政治部デスクに解説してもらうと、
「今回の挑戦で4度目だったわけですが、派内では“勝ち目がなさすぎる”ということで出馬を踏みとどまるように進言する幹部がいました。それでも石破さんは“出ないなら支援してくれる人たちへの説明がつかない”などと言って出馬に突き進んでいきました」
結果は無残だった。
国会議員票と地方票の合計534のうち、国会議員票26、地方票42の計68にとどまり、菅義偉首相の377、岸田文雄前政調会長の89に遠く及ばず、最下位に沈んだ。
「石破さんは『次の首相』アンケートでは長らく首位に立ち、安倍さん(晋三前首相)らを圧倒していました。党内で反主流派という立ち位置で冷や飯を食い続けているけれど、世間はそんな俺たちを支持してくれている。だからチャンスはあるという計算があったのです」
石破氏らにとって誤算だったのは、安倍前首相の突然の退陣だった。
「それまで頼みとして会食などを重ねてきたはずの二階(俊博)幹事長が、『菅総裁・首相』へのレールを敷いてしまって、他派閥のボスも勝馬に乗れとばかりに、雪崩を打ちました」
アンチでい続けるのは苦しいから
「せめて総裁選で2位にでもなれば、石破が辞めるってことにはならなかったと思いますけどね」 と話すのは、自民党内の別派閥の幹部クラス。
「『アンチ安倍』路線でやってきて、安倍さんから“石破にだけは絶対に(首相・総裁を)やらせたくない”とまで言われて、その結果が菅さんだった。安倍さんからの禅譲を狙う岸田の人気がないことにあぐらをかいていた作戦ミスだよね」
「石破派は19人という小所帯で、つまり党内では人気がないんだから、普通は全方位外交で、みんなと仲良くなるもんでしょう。安倍さんっていう一番の敵にケンカを売るっていうのがどういう意味を持つか、しっかり見えてなかったんじゃないの? 結果論かもしれないけどさ」
「その安倍さんもいなくなって、今度は『アンチ菅』を続けても、『石破首相』の目はないし、冷や飯を食わされ続けている派閥の連中は他に逃げかねない。一旦矛は収めて、“仕事する”菅政権に協力する姿勢を見せて汗でもかけば、また展望はないわけではないって考えなのかもしれませんね」
「まぁ、前代未聞の事態ではあるけれど、アンチでい続けるのは苦しいから、判断としてはわからなくもないですよ」
石破派のあるメンバーも、「水月会は石破さんを中心にした会。石破さんが辞めると遠心力が働くといった意見もありましたが、それを止める人はあんまりいなかった。一度、会長を辞めないと、それこそ分裂ってことになっていたかもしれません。石破さん自身、引いた立場で客観的に物事を見つめる時間があってもいいのでは?」
石破さんも自棄になって…
新党立ち上げや野党との連携模索についてはどうなのか?
「石破さんもそこはもちろん検討してきました。ただ、それなりに大きな塊にならないと自民党とは闘えないという考えですね。だからと言って主義主張・政策の違う立憲民主とは組むことはできない」
「石破さん自身、一旦自民党が下野した時に離党して新進党立ち上げに参加し、その後に自民党に復党した経緯があります。あれから20年以上経つのに、自民党が一番苦しかった時に逃げ出したなどと非難され続けていて、その『失敗』は石破さんにとってもトラウマになっています」
だから、そう簡単に党を割るという行動には発展しないというわけだ。
最後に永田町関係者に聞くと、
「石破さんは否定していましたが、水月会、石破派の会長としては、もう自民党総裁を目指さない、正確には目指せないということでしょう。閣僚経験者ら中枢の3人が派を抜けたり、別の派閥へ移る動きを見せています」
「石破さんは総裁選後、メンバーそれぞれと食事をしながら今後のことについて話し合いをしてきました」
「その場では、“なんで出たんだ?”“あれだけ止めたじゃないか”“展望がない中でどう方針を示すんだ?”などと、かなりキツイことを言われたみたいです。表向きは殊勝な物言いをしていますが、石破さんも自棄になって“辞めてやるよ”ってなったと聞いています」 
 
 
 
 

 

●石破茂は、終わったのか 2020/11/11
自民党総裁選挙で敗れた元幹事長の石破茂が、みずから率いてきた派閥(水月会)の会長を辞任した。総裁選挙に挑戦すること4回。そして総理を目指し続けてきた男が、なぜ突然、身を引く決断をしたのか。石破は終わったのか。
突然の辞任表明
「石破、派閥の会長、辞めるってよ」10月22日の午前、ある関係者から私に衝撃的な情報が寄せられた。急いで議員会館の石破の事務所に駆けつけると、いきなり中から本人が姿を現した。私を自室に招き入れた石破は、椅子に腰をかけるなり、ふだん通りの口調で語った。「総裁選挙の責任をとって、派閥の会長を辞める。臨時国会の前にけじめをつけないといけないと思っていた」今思えば、あえてそういう雰囲気を見せていたのかもしれないが、その時の石破の表情に葛藤は感じられず、落ち着いた様子で重大な決断を語ってくれた。その後、昼に開かれた石破派の臨時総会で、石破は派閥の会長を辞任する意向を明らかにした。急な呼びかけだったため、派閥に所属する19人のメンバーが全員集まることができず、出席したのは15人ほどだった。「総裁選挙の責任をとることが、とるべき道だと考えた」石破の意向は、その場で了承された。
辞任決意させたのは「議員票」と「仲間の声」
「特に議員票がね。思ったより少なかった。それに尽きますな」辞任から2週間後、その理由を確かめたいと思い、再び訪ねてきた私に石破がそう明かした。石破が挑んだ過去の総裁選挙では、高い知名度を生かした地方票が強みだった。しかし今回は党員投票が見送られ、各都道府県連の代表による地方票は、菅の半数にも届かなかった。さらに国会議員票では菅の10%にも及ばず、総得票で3位に沈んだ。石破は、想像以上の菅の強さにショックを受けたという。「農業を継ぐことに疑問を持ち、ゼロから始めた人情あふれる、パンケーキ好きな令和おじさんというイメージが一瞬にして作られた。国民の世論ってこんなに変わるんだって思った」さらに辞任の決断を後押ししたのが、派閥の仲間の声だった。石破は総裁選挙の後、18人の所属議員一人一人と個別に会談し、今後の対応や派閥のあり方などについて意見を交わした。全員から意見を聞き終えるには、およそ2週間を要した。意見交換ではどんな声が多かったのか。石破に尋ねた。「『体制を見直そう。このままいっても展望は開けない』というのは、みんな共通していた。特に、当選回数が上の人たちは経験も豊かだし、より厳しい意見が多かった」実は、石破の盟友からも厳しい声が届いていた。
盟友は「グレートリセットを」と
石破の盟友である元農林水産大臣の山本有二は、総裁選挙では石破の選挙対策本部長を務めた。その山本が語気を強める。「厳しい言葉だけど、私から言わせれば『グレートリセット』なんですよ。その心は石破に対する愛情であり、尊敬。これを受け止めないと、石破に次はない」石破が総裁選挙で前政権からの転換として掲げた「グレートリセット」というキーワードを今回の辞任に当てはめた。山本は総裁選挙を振り返り、その内幕を明かした。「両院議員総会で決めるとなった時に、石破は絶対に選挙に出ちゃならんと。必ず負けて、その負け戦もひどいものとなり、石破という輝かしいイメージが変わる。変わったときには必ず政治生命に関わり、次の総裁選挙には出られませんよ。それでもいいですかと何度も聞いた」山本は今でも悔しさをにじませる。「私は総裁選挙の結果が予想できたが、石破は予想できなかった。山本有二という参謀がいたが、石破はその参謀の言うことを聞けなかった。選対本部長になったが、参謀の本部長ではなく、負け戦をマネージメントする本部長でしかなかった」石破も、愛読書である猪瀬直樹の著作を引き合いに、山本から直言されたことをはっきりと覚えている。「山本さんが総裁選挙が終わった後にかなり興奮して、『昭和16年夏の敗戦ってあんたいつも言っているじゃないか、負け戦しちゃいけないと言っていて、いったい何なんだこれは』とかなり激高していた」山本は、こう残念がる。「安倍さんがまさか辞めるとは思わなかった。来年9月の選挙であれば、確実に石破総理の誕生が見られた。時の運というものに石破は見放されていると思う」
「反菅政権」の立場は取りづらい?
安倍政権が長期化し、「安倍一強」とも称される政治状況が続く中、自民党内で対抗軸として、政権に異を唱えてきたのは石破だけだったと言ってもいい。「反安倍政権」の受け皿であることが石破の存在意義でもあった。しかし、安倍の突然の総理辞任で事情が変わった。石破は安倍と菅とでは、相手が違うという。「やはり安倍さんにしてみれば、常に私の存在ってのが目障りだったんだろうと思うね。でも、菅さんにはそういうものがあるとは思えないからね。『安倍政権を継承する』と言っても、別人格だから全く同じようにやるわけはない。だから距離感は当然違うでしょ」菅は、かつて石破が幹事長を務めていた際、幹事長代行を務めていた。それだけに「反菅政権」の立ち位置はとりづらいのではないかという見方もあった。山本は、安倍から菅へと政権が代わったことで派閥内の雰囲気も変わったという。「やっぱり安倍あっての石破だったんだよ。簡単にいうと、『大鵬と柏戸』、『巨人と阪神』ですよ。でもこの戦いが長すぎた、石破にとっては。時代に合ってなかった。これからも合わないんじゃないかという危機感ですよね」こうした事情の変化にあって、石破の脳裏にあったのは派閥議員の処遇だ。安倍政権のもとで、石破派は「非主流」であったがゆえに、去年の内閣改造では1人も入閣しない結果となるなど、人事面では冷遇されていると見られたこともあった。このままではみずからを支えてきた仲間が活躍の場を得られない状況が続くことになりはしないか。派内には、次の衆議院選挙で立候補をする選挙区が決まっていない議員がいるという事情もある。石破ははっきりは語らなかったが、辞任を決断した理由の1つに仲間の処遇への配慮があったことをにじませた。
「口先で申し訳ないというのは嫌だ」
石破は派閥の臨時総会での辞任を表明するにあたって、みずから事前に文案を作成した。演説や講演では資料を用意することがない石破にとって、極めて異例のことだ。「家内と前の晩ずっと話していたのは、どういう表現にするか。推敲に推敲を重ねて、午前3時くらいまでやった。その前も2日間は寝られなかったね。どういう表現なら、なるべく多くの人が得心するか。私に期待をかけてくれてた人たちの多くが得心する言い方とはなんだと、悩みましたね」派閥の会長を辞任するという選択について、石破は当時の心情を明かした。「口先で申し訳ないというのは嫌だ。議員を辞めるという選択も、私が水月会(石破派)を抜けるという選択も、水月会を解散するという選択もない。そうするとこれしかない」山本も石破の選択を評価している。「石破茂という素晴らしい男をドブに捨てたくはない。素晴らしい存在のままで、どういう片づけをするか。石破さん本人が名誉ある撤退、水月会の会長を辞めるという1つの結論だ」
石破派が「草刈り場」に?
石破の後任は、山本とともに派閥を支えてきた、元環境大臣の鴨下一郎を中心に調整が進められることになったが、3週間がたっても後任が決まっていない。こうした石破派の混乱ぶりに、党内の各派閥は熱い視線を送る。前政務調査会長の岸田文雄は、記者団に「派閥のメンバーとして迎え入れたい人材が大勢いる」と公言し、石破派内の情報収集を進める考えを示した。実際、所属議員らには、石破辞任の直後から会食に誘う電話が相次ぐなど、ほかの派閥からも石破派の議員を取り込もうと接触を図る動きが出始めている。このままでは、「石破派が“草刈り場”になりかねない」と、派閥の存続そのものを危ぶむ声も上がっている。
どうなる”石破総理プロジェクト”
石破派は、2015年9月の設立から石破が会長を務め、「石破茂を総理大臣にするためのプロジェクトチーム」と称されるように、ポスト安倍として石破をかつぐことが共通目標だった。石破は、派閥の臨時総会で「私が辞めても19人で一致結束してほしい」と強調したが、派閥の存続をめぐり声が上がるのは無理もない。石破派は、これからどうなるのか。山本は、石破のためにも派閥は無くした方が望ましいと言う。「やっぱり一旦リセットですよ。もしこのまま石破派を続けることになった場合、仲間に不満がたまったまま時間を費やしていく。そうするとどっかで爆発します。そういうガバナンスのきかない組織でずるずるいくよりはリセットしないといけない。石破プロジェクトあっての石破派だ。それがない以上、石破派の存在もなくなる、という論理だ」一方、派閥の存続を訴える声もある。党内の若手のホープと目される元法務大臣の山下貴司もその1人だ。「今までの延長線上でやるということはできない。でも、みんな政治家として魅力あるし、政策能力も高い。政策集団として立ち上げたわけだから、連携をとってお互いやっていきたいというのはある。政策の仕事人が、言いたいことをきちんと言う集団ってのは、これからの自民党に要るんじゃないかと思いますね」石破本人は、派閥の存続に強い願望を持ち、みずからもとどまる考えを示している。ただ、派閥の混乱ぶりは、自身の辞任が招いただけに複雑な心境をのぞかせた。「そんな簡単には収まるか。自民党の歴史だってみんなそうだよ。竹下派にしても、かつての三塚派や中曽根派だってそうだ。うちだけ1週間で収まりました、なんてあるわけないだろ。派閥といっても、結局は人間の集まりだからね」
「死んでません、まだ生きています」
とはいえ、石破派が「石破を総理にするためのプロジェクトチーム」であるならば、派閥の存続は、その所期の目的が残っているかどうかにかかっている。つまり、石破はもう総裁選挙に挑戦することはないのか、という点だ。石破の派閥会長辞任は、自民党内のほかの派閥でもさまざまな憶測を呼んだ。「会長を辞めたということは、もう総理・総裁の座はあきらめたということだろう」「石破茂はもう終わった」そんな声があちこちから聞こえてきた。実のところは、どうなのか。盟友である山本は、大きな挫折から再起した安倍を念頭に石破への期待を語った。「おれは実力者だってずっと思い続けても意味がない。『終わった』って言われないと、浮き上がれない。『終わった』っていう声が95%になった時に再生できるんですよ。そうじゃないと、『石破さん、あんた苦労したね』って誰も言ってくれないよ。一番に『諦めない』。二番に『グレートリセットで地の底にみずから落ちていく』。三に『時を待つ』」一方の山下は、石破の政治家としての進化に期待を寄せている。「引き続き言うべきことははっきり言う政治家であってほしい。そして、一皮むけたな、“新石破”になったなと思われるようになってもらいたい。若い連中と胸襟を開いて話して、若手の思いをしっかり受け止めて、『石破さんってやっぱりいいね』って思ってもらえるように、やってほしいですよね。1度目に辞任した時の安倍さんもそうだけど、これで終わったと思われることは、政治家にとって本当に厳しい。でも、石破茂という政治家は、必ず乗り越えてくれると思います」当の本人は今後の総裁選挙への対応をどう考えているのか。石破は一呼吸置いたものの、これまでと変わらず「またその質問か」という様子で、淡々と答えた。「『なりたい、なりたい』というものでもないが、本当に国が必要とする時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。もし仮に、何十分の一の確率か知らないけど、それが来たときに、(総裁選の立候補に必要な推薦人)20人をやっとかき集めて、『出るだけ出ました』では済まないってことだ。だから体制を立て直す、体制を見直すってそういうことじゃないのか」そして最後に「石破茂は死んだのか」という質問をぶつけた。石破は、こう答えた。「死んでいません。まだ生きています」 
 
 
 
 

 

●石破氏、安倍氏に不快感 ポスト菅を「決めるのは党員」 5/28
自民党の石破茂・元幹事長は28日、TBSのCS番組の収録で、安倍晋三前首相が月刊誌のインタビューで「ポスト菅」に4人の名前をあげたことについて、「決めるのは自民党員で前総理ではない」と不快感を示した。また、安倍氏の首相再々登板の可能性についても、7年8カ月続いた第2次安倍政権の検証が先だと否定的な考えを示した。
安倍氏はインタビューで、菅義偉首相の後任候補として茂木敏充外相、加藤勝信官房長官、下村博文政調会長、岸田文雄元外相の4人をあげた。一方、安倍氏と2度総裁選で争った石破氏には触れなかった。
石破氏は番組収録で、安倍氏の発言に不快感を示しつつ、「安倍さんがいろんな事情で(首相を)やめて、菅さんが厳しい中、(安倍氏の総裁任期の)残りの任期でやっている。それを支える気持ちがないはずがない」とも語った。
また、安倍氏の再々登板が取りざたされていることに「安倍政権8年の評価がまず先にあるべきだ」と指摘。「きちんと検証しないまま、『夢よもう一度』みたいな(ことでなく)、日本政治のあり方として別の道もあるんじゃないか」と述べた。
石破氏は昨年秋の党総裁選に敗北後、石破派(水月会)の会長を辞任。現在は菅政権を支える姿勢を示し、安倍政権時代のような表だった政権批判を控えている。次期総裁選への立候補の可能性についても明らかにしていない。
また、この日の収録では、2019年参院選の広島選挙区をめぐり、自民現職だった溝手顕正氏への一本化を求めた県連に対して、党本部が主導して河井案里氏を追加公認したことに言及。結果、溝手氏が落選したことをめぐり、石破氏は自身が幹事長だった13年参院選を振り返り、当時も溝手氏のほかに「もう1人(候補を)立てたいとの強い意向が安倍総裁からあった。リスクが大きすぎるので、私はできませんと申し上げた」と明かした。
そのうえで、19年参院選に2人の候補を立てた党本部の判断の検証が必要だとの考えを示した。 
 
 
 
 

 

●菅内閣支持29.3%、発足後最低 初の3割割れ― 7/16 
時事通信が9〜12日に実施した7月の世論調査で、菅内閣の支持率は前月比3.8ポイント減の29.3%で、不支持率は5.6ポイント増の49.8%となった。政権発足後、支持率が3割を切り「危険水域」とされる20%台に落ち込むのは初めて。逆に不支持率は最高となった。
支持率3割割れは「加計学園」問題で安倍政権が揺れていた2017年7月以来4年ぶり。
政府は今月8日、東京都に4回目の緊急事態宣言発令を決定し、酒類提供店に対する「圧力」問題も起きた。日常生活に制約が続く不満や五輪開催への懸念が支持率に影響したとみられる。菅内閣の従来の最低値は3度目の緊急事態宣言の期間延長、対象拡大が決まった5月の32.2%。
新型コロナウイルス感染拡大をめぐる政府対応は、「評価しない」が前月比4.0ポイント増の59.1%、「評価する」は同0.5ポイント減の22.7%。「どちらとも言えない・分からない」は18.2%だった。
菅義偉首相が感染対策の「切り札」と位置付けるワクチン接種の進捗(しんちょく)に関しては、「遅い」が71.5%と、「順調」の17.7%を大きく上回った。「どちらとも言えない・分からない」は10.8%。
内閣を支持する理由(複数回答)は、「他に適当な人がいない」が最多の12.1%。「首相を信頼する」7.8%、「首相の属する党を支持している」4.4%が続いた。支持しない理由(同)は「期待が持てない」27.7%、「リーダーシップがない」25.3%が双璧で、3番手は「政策が駄目」18.4%。
政党支持率は自民党が前月比1.4ポイント減の21.4%、公明党が同1.2ポイント減の2.5%。これに対し、立憲民主党は1.6ポイント増えて4.5%となった。3月の4.8%に次ぐ数値。以下、日本維新の会2.0%、共産党1.8%、国民民主党0.5%、れいわ新選組0.3%、社民党0.2%、嵐の党0.1%だった。「支持政党なし」は63.9%。
調査は全国の18歳以上の男女2000人を対象に個別面接方式で実施。有効回収率は62.9%。 
 
 
 
 

●都議選「12年前に似ている」 自民・石破氏 7/21
自民党の石破茂元幹事長は21日、TBSのCS番組収録で、先の東京都議選について「12年前に似ている感じがした」と振り返った。2009年の都議選で自民党は大敗し、その後の衆院選で政権転落した。
石破氏は東京五輪・パラリンピックの対応や「政治とカネ」の問題を挙げ、「都民の中に鬱屈(うっくつ)した思いがある」と強調した。
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

 
 
 
  
 

 

 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●水月会 
自由民主党の派閥。水月會とも書く。通称は、石破派。
安倍晋三の自民党総裁無投票再選が決まった、2015年9月8日の総裁選の翌日の9日、安倍内閣で地方創生担当大臣を務める石破茂は、自身が顧問を務める、派閥に所属しない議員でつくる「無派閥連絡会」を解散し、自身の派閥を結成する意向を表明、9月28日に「水月会」として発足させた。
派閥の名称は、知人の臨済宗全生庵の住職に依頼して付けられたもので、「水月道場に坐す」という禅語に由来しており、「水も月も無心に映すように、無私、無欲の高い境地から務めていく」、「無心で時代の要請に応える」という想いを込めたという。なお、水月とは軍陣で、水と月が相対するように、両軍が接近してにらみ合うことの意味もある。
参加メンバーについて、石破は幹事長時代には「脱派閥」を訴えていたため、党内からは言行不一致を指摘する声もあり、実際に、石破の側近とされる小此木八郎国会対策委員長代理は「石破氏を首相にしたい思いはあるが、派閥のイメージは似つかわしくない」として参加しないことを表明し、同じく側近とされる浜田靖一も参加を見送るなど、一部議員の不参加も招く中、衆参合わせて20人の議員が参加し、自民党で8番目、参加議員数では6番目の派閥となった。派閥の特徴として、他の7つの派閥は自民党発足時の派閥の流れを汲む一方、水月会は、新たに無派閥の議員を中心に構成される。
石破は派閥発足時の記者会見で、自身が大臣を務める安倍内閣を支えると同時に、安倍の任期2期6年の折り返しの段階から時間をかけて、「今後50年先、100年先を見据えて政策体系を構築し、行動し、国民と正面から向き合い議論し、共感と納得を得られる政策集団」を作りたいとする意向を示した上で、「私のようなものでも、仮に政権を担うのが望ましいということであれば、それを目指したい」として首相就任を目指す意欲を見せた。
2018年9月20日に行われた自民党総裁選挙で石破が立候補したが、現職の安倍晋三に敗れた。
2019年9月11日に発足した第4次安倍第2次改造内閣での石破派からの入閣はなかった。
2020年9月14日に実施された自民党総裁選挙に石破は4度目の出馬をし、選対本部長を会長代行の山本有二が務めた。結果は、内閣官房長官の菅義偉が有効投票数の534票のうちの377票を獲得し当選した。石破は、同じく両候補した政務調査会長の岸田文雄の89票に次ぐ68票で敗れた。9月16日に発足した菅義偉内閣では田村憲久が厚生労働大臣で入閣した。石破は4度にわたる総裁選敗北の責任を取って、10月22日、会長を辞任。石破は事務総長の鴨下一郎を後任に指名したが固辞され、石破の辞任から1ヶ月が過ぎても後任や派の方向性が決まらず例会も開けない状態が続いた。12月、会長職は空席のまま幹部による集団指導体制で派閥を存続させることを決めた。同会所属の山本有二は退会しない形の「休会届」を提出した。12月17日、4人の世話人が鴨下一郎、後藤田正純、福山守、冨樫博之に決まる。
2021年1月21日、石破茂の顧問就任と事務総長を務める鴨下一郎の代表世話人就任が決まる。
歴代会長​
2015年 - 2020年 石破茂 石破派
2020年 - 鴨下一郎 / 後藤田正純 / 福山守 / 冨樫博之 ※ 4人の「世話人」による集団指導体制
石破の会長辞任を機に、2020年12月、鴨下一郎・後藤田正純・冨樫博之・福山守の4人による世話人制となった。
衆議院議員​
石破茂(11回、鳥取1区) 鴨下一郎(9回、東京13区) 田村憲久(8回、三重1区) 後藤田正純(7回、徳島1区) 古川禎久(6回、宮崎3区) 赤沢亮正(5回、鳥取2区) 平将明(5回、東京4区) 齋藤健(4回、千葉7区) 門山宏哲(3回、千葉1区) 神山佐市(3回、埼玉7区) 田所嘉徳(3回、茨城1区) 冨樫博之(3回、秋田1区) 福山守(3回、比例四国) 八木哲也(3回、比例東海) 山下貴司(3回、岡山2区) (計15名)
会長代行を務めた山本有二は「休会届」を提出。
参議院議員​
舞立昇治(2回、鳥取県・島根県) (計1名)
かつて所属していた人物​
小坂憲次 2016年10月死去。
若狭勝 2017年、東京都議会議員選挙で小池百合子都知事が中心の地域政党「都民ファーストの会」を応援するために自民党に進退伺を提出した。これを受け緊急の幹部会を開き、若狭の退会を決めた。その後、同年7月に離党。
石崎徹 2019年3月26日に退会。その後、2020年10月に離党。
中西哲 2021年2月4日退会。
伊藤達也 2021年3月18日退会。 
水月
水と月。凌雲集(814)贈賓和尚〈嵯峨天皇〉「水月尋常冷二空性一、風雷未三敢動二安禅一」 〔盧仝‐風中琴詩〕。水面に映る月影。また、万物には実体がなく、空であることのたとえにも用いる。凌雲集(814)遊寺〈小野永見〉「水月非二真暁一、空花是偽春」 〔唐太宗‐大唐三蔵聖教序〕。軍陣で、敵、味方が接近して対すること。近世、「水」を「粋」に、「月」を「瓦智(がち)」に当てて、粋と野暮とを対比した語。また、「水」は遊女、「月」は客に当てるともいう。みぞおちのこと。曠野(1964)〈庄野潤三〉四「こうして右手の拳で水月を狙う」。
水と月。水面に映る月影。「江上の水月」「鏡花水月」。人体の急所の一。みずおち。軍陣で、水と月が相対するように、両軍が接近してにらみ合うこと。
・・・当(あて)、当身、当技(あてわざ)ともいう。人体の急所とされる天倒(てんとう)(頭頂部)、烏兎(うと)(みけん)、霞(かすみ)(こめかみ)、人中(じんちゆう)(鼻下)、水月(すいげつ)(みぞおち)、明星(みようじよう)(下腹部)、電光(でんこう)(右ひばら)、月影(げつえい)(左ひばら)、釣鐘(つりがね)(睾丸)、ひざ関節などを、こぶし、指先、ひじなどで突いたり、こぶし、手刀などで打ったり、ひざ、蹠頭(せきとう)、かかとなどでけったりして相手に苦痛をあたえ参らせる技である。現在は乱取(らんどり)(自由練習)や試合における勝敗が中心となり、投げ技と固め技だけが使われ、当身技は危険であるので禁じられているため、活用がおろそかになっている。・・・ 
 
 
 
 

 

●野に下る (やにくだる) 
官職に就いていたものが退いて民間生活にはいる。下野(げや)する。※明治十六年各政党盛衰記(1883)〈酒井忠誠〉「其官に在りしの日に於ては干渉を主義とし、野に下るや否や忽ち変じて自由を主義と為す」。
官職を離れて民間の生活に入る。下野(げや)する。「官を辞して―・る」。「野(や)」は民間の意。「のにくだる」とは読まない。
官職を辞して民間の人となることをいふ。
公職などを辞めて、体制から離れた立場になること。与党から野党になること。
「官」から「民」になるという意味で、主に選挙に落選した政治家がただの民間人になることをいう。「下野(げや)する」ともいう。つまり、「官」から「民」への移行は、ぬくぬくした暮らしができる家の中から、生活していくのも大変な野原に放り出されたイメージでとらえられているのである。なお、政権政党である「与党」にたてつく政党を「野党」というが、この場合の「野」は「民間」ではなく、「政権の側にない(ということは、民間も同然であるが)」という意味である。ところで、「野に下る」を「のにくだる」と読むと、どこか高台の家から野原にピクニックに行くために階段を下りていくといったほのぼのとしたイメージになるので、あくまで「やにくだる」と読まなければならない。 
 
 
 
 

 

●西郷、野に下る 
明治6(1873)年、政局内で急速に熱が高まった朝鮮問題。その是非を巡って意見はまっ二つに分かれます。朝鮮国へ談判に行き、問題を解決しようとする西郷隆盛を筆頭とした面々。(板垣退助・江藤新平・副島種臣・後藤象二郎) 一方、大久保利通ら(岩倉具視・木戸孝允・大隈重信・伊藤博文・大木喬任)は時期が早いとして真っ向から対立します。互いに相容れない西郷と大久保。しかしその2人の考えとは別にこの論議には数々の思惑が絡んでいました。中央集権官僚政治に反対している板垣退助は、これを機会に政府を開拓できないかと考えていました。また、江藤新平はこの機を逃さず薩長閥を潰し、法治国家を自らの手で作る野心を燃え上がらせていました。朝鮮問題は、日本国内における権力闘争に姿を変えていき、そして人々のさまざまな思惑が一つの時代の渦となり大きな政変へとつながって行くのです。
明治6(1873)年10月18日。「これはまさに天の助け以外の何ものでもありません!」 歓喜する伊藤博文は、病気で咳き込む木戸孝允を無理矢理連れ出して馬車で大久保邸へ急行します。ただ、三条実美が急病で倒れたとしても閣議で決まったこととは全く関係のないことです。木戸は、この難局を救えるのはキミしかいない、ともう一度参議になってほしいと言い出します。利通は、辞表を提出したばかりだし、と断ると辞表は目下受理されていないと伊藤。プライド高く不和もささやかれる木戸は日本を滅亡から救うためだ、と頭を下げます。
今日も西郷邸に入り込んで桐野たちの様子をうかがっている矢崎八郎太ですが、桐野はうすうす、彼の行動がおかしいと感づき始めます。もし行動を起こすことがあったら、自分もぜひ参加したいと野望を熱く語る矢崎でしたが、参加したいのなら仕事を命じる、と桐野は利通の様子を逐一報告するように言います。はあ……と戸惑いつつ去る矢崎。桐野は矢崎が立ち去ったのを見て、別府晋介に彼の後を追わせます。矢崎は、自分が別府に追われているのも知らずポリスの寮の中に入っていってしまいます。それで矢崎が密偵だったことが確実となったわけですが桐野は、しばらくは泳がせておくことにします。
利通は、岩倉に煮え湯を飲まされた立場ですが日本を助けるためには、ここは手を結ばざるを得ません。“憤怒の不動明王”たる隆盛を説得するのは難しくであれば病気だから表には出ないと居直る岩倉に利通は、もし協力しなかったら岩倉具視は不忠朝臣であったと末代まで語り継がせると脅します。岩倉は、猫なで声を出して利通の言う通りにすることを約束します。10月20日、宮内少輔の吉井友実を勅使として岩倉具視を三条の代理とする旨の勅語を得るのです。
10月21日、小網町の西郷邸を江藤が訪ね岩倉が三条の代理になったことを伝えます。隆盛は、あくまで閣議で決まったことは決まったことだと特に慌てた素振りはないのですが、江藤は、裏をかかれてはならないですぞと忠告。今から訪問する予定の板垣とともに明朝、岩倉邸に押しかける予定です。隆盛と一緒に江藤の話を聞いていた桐野は西郷小兵衛に、近衛兵も一緒に繰り出して岩倉邸を包囲すると言いますが、西郷は認めません。「おいは陸軍大将じゃ。そン大将の命令なく一兵でも動かせば、おはんを反乱の将とする」
10月22日・岩倉邸──。岩倉が「太政大臣代理」となったことは、隆盛にとっても有益なことであります。1日だけ待って!! と三条に懇願されて停滞している遣韓派遣の件の奏上を、果たせるようになるのです。岩倉は、自ら奏上はするが三条の意見に自らの考えも合わせて奏上しいずれがいいかと判断を仰ぐつもりのようです。当然、江藤はそれに真っ向から噛みつきます。「この岩倉具視の両目の黒いうちは勝手なことをしたいと思うてもそうはさせんわ!」その言葉が言い終わるか言い終わらないうちに隆盛が岩倉の前に立ちはだかり、睨みつけて去って行きます。桐野は、今日のところは見逃す、と言いつついつか首を刎ねる、と刀に手をかけて岩倉を脅しますが、今日の岩倉は気迫が違います。「そんなもンが恐くて一国の大臣は務まらんわい! 阿呆!」岩倉具視、よう気張りよったなぁ! 敵ながら岩倉を褒め称えた隆盛は翌朝、岩倉宛に辞表を提出します。
隆盛は、熊吉と猟に行ってしまいます。矢崎は隆盛の行先を千絵に聞きますが千絵も行先を知らないので何ともいいようがありません。根掘り葉掘り聞き出そうとしたその時、桐野が近づきます。「こン男は政府の密偵じゃ! 二度とこン屋敷に顔をだすンな!」自分だけならまだしも、御前さま(隆盛)も騙していたとは──。帰ってください、と気丈にも矢崎に言い放って奥に引っ込んだ千絵は、あまりの悲しさに泣きじゃくります。
その日の夜、隆盛は大久保邸を訪ねて鹿児島に帰ると伝えます。隆盛は、自分が東京に残れば、不平士族たちが隆盛の元に集まって騒ぎ出すと考えていますが、利通はその逆で、隆盛が鹿児島に帰ったならば東京から遠いので政府の力も届かないし、不平不満の輩が集まるとどうなるか分かりません。「東京には大久保利通がおれば大丈夫じゃ」後のことは宜しく、と隆盛は頭を下げます。しばらく隆盛を見つめていた利通ですが、堪忍袋の緒が遂に切れてしまったようです。もう知らん!!いつでん大事なときにおまんさぁは逃げてしもう! 子供より始末が悪か!「すまん」と更に頭を下げ、帰って行く隆盛です。
西郷従道は、隆盛からの助言もあって東京に残って利通のサポートに回ることになりました。一方、小兵衛は隆盛とともに鹿児島へ。せっかく揃った兄弟がばらばらになってしまいます。
隆盛は、“正義は勝つ”だなんて相変わらず思っているのでしょう。若い時分から全く揺るがず変わりない人です。利通は、変わったのはむしろ自分たちの方かもしれない、と考えます。
11月10日、隆盛は鹿児島に戻ってきました。 
 
 
 
 

 

●岡倉天心 日本近代絵画を創った描かぬ巨匠  
今日では「アジアは一つ」の言葉、あるいは茶道を通して日本文化を世界に広めた思想家として知られる、岡倉天心。しかし彼の最大の偉業は、二十世紀において世界的にも最たる芸術、「近代日本画」を創りあげたことである。「対象ではなく、空気を描け!」、この言葉のもと、大観、観山、春草ら多くの弟子たちが美の精神を受け継いでいった。
一八九八(明治三一)年十月、第一回の院展において横山大観の「屈原」が発表された。この作品は、描いた大観にとってだけでなく、近代日本画の分水嶺になった。画法、主題、さらにはそこに描き出された精神においても日本画は、この一作によってかつてとはまったく異なる地平へと進んだのである。
紀元前四世紀頃、古代中国戦国時代に屈原は生まれた。老荘思想の荘子が同時代人である。楚の懐王に仕えたが、失脚を繰り返した。彼は政治家であると共に、聖なる場所を訪ね歩いた漂泊の人でもあったとされている。『楚辞』の中核的な詩人として伝わるが、詳しい伝記的事実は分からない。最期は、汨羅という河に身を投げ自ら命を絶ったとされている。のちに大観は「屈原」にふれ、こう語っている。
「「屈原」ですが、あれは私の解釈が誤っていたかどうか知りませんが、あの頃の岡倉先生が、ちょうど屈原と同じような境遇にあったのではないかと思い、あの画題を選んだのです。(『大観画談』〔以下『画談』〕)」
逆風のなか独り進む「屈原」
「屈原」には、強い向かい風のなかに決意を秘めた形相をした男が描かれている。男は風の中を進もうとしているのだが、凝視していると、男がいるから風が巻き起こっているようにも見えてくる。この男こそが屈原で、大観は、日が翳り、砂埃舞う逆風のなか、独り進もうとする姿を、天心の今に重ね合わせた、というのである。
だが、逆境にあったのは天心だけではない。大観も天心に師事していた彼の仲間たちも状況は同じだった。職を失い、不安に苛まれていたのである。当時、彼らの画を買う者など、ほとんどいない。屈原は天心であると同時にその弟子たちであり、創設間もない日本美術院そのものでもあった。
この画が描かれた同じ年の三月、天心は、長年にわたって校長をつとめた東京美術学校(現在の東京芸術大学)を追われるように辞めていた。原因は、天心の弟子菱田春草の画「寡婦と孤児」の評価をめぐる意見の相違ということになっているが、それは引き金に過ぎない。天心の強烈な個性と指導力を疎ましいと感じる一群の人々が学校内部にいて、彼を放逐する機会を狙っていたのである。
学校を去るとき天心は、連座してはならないと周囲の人々に言明したが、結局、紆余曲折がありながら十七人の関係者が同じ道を選んだ。そのなかには橋本雅邦、大観、春草、下村観山などのちの近代日本画の土壌を形成する人々もいた。彼らは、学校で美を探求しながら、同時に天心が掲げる理想を共に実現することに誇りを感じていたのだった。このとき、天心は三十五歳、大観は三十歳だった。二人は文字通りの師弟だが、年齢はさほど離れていない。
試練はさらに天心に襲いかかっていた。この間に彼は、売却して、院の開設に充てるはずだった住居を火事で失っているのである。近隣の家が燃え、類焼したのだった。それでも彼は諦めることなく、日本だけでなく、海外からも資金を調達し、院の設立にこぎつける。ここにはじめて、日本初の民間の美術研究所が誕生した。同時に、在野の思想家岡倉天心が誕生したのだった。
東京美術学校を辞めた天心が、新しい機関を「日本美術院」と称したところには、もちろん彼の意志がある。東京を日本に変えたのは、一つの場所に拠点を置く学校ではなく、広く日本全土にむけて活動し、また、深くその歴史に根差すということを意味するのだろう。院の設立後、彼らは実際にそのように活動した。日本の伝統、文化に画題を求め、日本全土で展覧会を開いた。
「院」は、大学のあとに大学院があるように名づけられた、との説明が齋藤隆三の『日本美術院史』にあるのだが充分ではない。この共同体の実態は、あるいは修道院という言葉に見られるように、画法だけでなく精神を陶冶する方向に強く傾いていた。その姿勢は天心の没後、大観らによって日本美術院が復興されたときにより鮮明になる。大観らがまず行ったのは、天心をはじめ病に斃れた同志たちを院内に祀ることだった。儀礼的にではない。彼らは真剣に先だった者たちによる助力と守護を仰いだ。それを彼らは「天心霊社」と呼んだ。
また、天心がいう「美術」とは、今日でいう学問の領域、分野を指すのではない。彼らにとって「美」とは、人間を魅了してやまないが、ときに戦慄を呼び覚ます得体の知れない、しかし、美しいと嘆息させるものであり、「美術」とは、何ものかをこの世界に顕現させる「術」だった。「術」は、呪術という言葉があるように、もともと、人間を超えたものとの交わりを意味する。また「術」には、「道」で行う業という原意がある。
彼らにとって「美術」とは、美の道だった。日本美術院とは、志を同じくする者が集った美の修道の現場だった。「屈原」はそうした同志の心中をまざまざと表現していたのである。近藤啓太郎の『大観伝』には、この作品を描くにあたって大観が、「漢学の大家にも新進にも会って薀蓄をきわめ、『楚辞』を咀嚼してから、構図を練り、筆を下した」と述べられている。近藤は、大観がまず、詩の精神を体得するところから画作を始めることに注目している。しかし、近藤の作品からは、大観が誰に教示を仰いだかは分からない。その一人が島村抱月だった。大観が『画談』で、「屈原の辞賦を集めた『離騒』という本がありましょう、あれからとったもので、島村抱月さんのお宅へ『離騒』をもっていき、その講釈をきいて描きました」と語っている。
実現を試みた美の形而上学
「読売新聞」に抱月の「屈原論」の第一回が掲載されたのは、「屈原」が発表される年の五月、大観の画が現れる五ヵ月前である。抱月は屈原を、歴史に眠る過去の人物としてではなく、感情の人であり、いわば生ける詩人として描き出していた。「屈原」の制作を契機に抱月と大観の関係が出来たのではなかった。もともと抱月が天心のもとをしばしば訪れていたのだった。天心は抱月との交わりを好んだ、と大観は語っている。「屈原」をめぐって天心が興味深い発言を残している。ここにも抱月との交わりの影響があるのかもしれない。
「「屈原」もですな、是れまで顔色憔悴して沢畔に行吟して居るのとか又は世人皆濁れり我独り清めりと云う様なのは書いた人もありますが、全体屈原と云う人は、一方には国を憂えて非常に憤懣して居ると同時に一方には一種の哲学観を以って之を抑えて居た人である。即ち其の一身の中には確かにコンフリクティングエレメント〔conflicting element〕が存して居ったに違いない。其のコンフリクティングエレメントを描き出そうとしたのが即ち横山君の主眼だったんでしょう。」
「コンフリクティングエレメント」とは、相克する要素をいう。かつて屈原は、憔悴した敗北者として描かれてきた。また、脆弱なる純粋の徒として表現されることもあった。だが、天心が見ていた像はまったく異なる。彼はこの詩人に義憤に生き、矛盾を超克しようとする哲人の姿を見ていた。
先の一節は、「屈原」が描かれたとき、「国民新聞」の取材に応じて天心が語り、翌年の正月に掲載されたものだが、この時代の天心と大観の情況を、また、黎明期における日本美術院の精神を考えるとき、重要な意味を帯びてくる。彼らにとって美術とは、色彩や線、構図の力を通じて行われる哲学的な営みだったのである。誤解を恐れずにいえば、彼らが実現を試みたのは、美の形而上学だったといえる。
哲学が言語によって語られるというのは近代人の思いこみに過ぎない。「哲学」が真理を求める者がたどる道程であるとすれば、空海の真言密教における曼荼羅に象徴されるように仏教美術の伝統もまた、荘厳なる「哲学」の歴史だといえる。ここでの天心が「哲学観」というのもそうした意味だろう。東京美術学校時代に行われた「日本美術史」の講義で若き天心が同質の発言を残している。平安時代の初期とはすなわち「空海時代」だとすら言う。この認識は彼の生涯を貫いた。後年、東京帝国大学で行われた講義で天心は、芸術と宗教の関係にふれ、次のように語った。
「藝術の解釈は、藝術その物に在り、絵画彫刻は無量無遍の説法。愛賞者を虚心坦懐、その言える所を聴き、その言わんと欲する所を察し同化黙契するに在り。この心理的の作用は宗教の三昧を髣髴し、宗教事相の観念は、ある点において殆んど藝術三昧と称するを得べきものなり。藝術神聖の意味、けだしここに存す。」
画は、無音の言葉で宗教的秘儀を語っている、「絵画彫刻は無量無遍の説法」だと天心は観じている。ここに比喩などない。美にふれたものの心は、宗教的な「三昧」の境地にあることを髣髴させる。むしろ、宗教的経験は「殆んど藝術三昧」と称するべきものではないかとすらいうのである。天心にとって芸術は、姿を変えた宗教だった。そこには経典も、教祖も、儀礼もない。しかし、人間と超越との深い交わりがある。さらにいえば、もっとも純粋なかたちの宗教だったとすら言えるのかもしれない。
後年、こうした天心の発言を裏打ちするように、屈原あるいは空海、曼荼羅に伏在する形而上的な問題をつまびらかに語ったのが、哲学者井筒俊彦だった。これらの主題は、井筒の主著『意識と本質』の重要な問題になってゆく。天心、大観以降、少数の例外―白川静のような―を別にすれば、屈原という人格によって、歴史に投じられた哲学的な問いは、井筒俊彦の登場まで真剣に向き合われることはなかった。天心が指摘していた大観の「屈原」に潜んでいる哲学的問いも、充分に顧みられることなく見過されてきたのではなかったか。
画によって投じられた問いが、哲学者によって継承されるということはある。もちろん、逆の現象も起こり得る。分野間に架橋しながら問題が深化する、それは「分野」という「型」によって分断された現代世界に生きる者が背負っている宿命でもある。天心は「型」を嫌った。「型」とは「大海上に付された点」であり、事象を認識する上での便宜のために「設けられた偽りの神」(『東洋の理想』筆者訳)だといった。屈原論を書くにあたって井筒が、大観の「屈原」を見たかは分からない。井筒は、先の天心の一節を読んではいないだろう。これは天心の全集にも収められていない。しかし、屈原をめぐる井筒の言葉を読むと、なぜ大観が、この人物を主題に選んだのか、その理由がより鮮明になってくる。
屈原をめぐって井筒は、「世俗に対して一点の妥協も自らに許さぬ廉潔の士」、「純粋潔白な彼は、不義不正渦巻く俗世間において、自らを悲劇的実在としてのみ意識する」(『意識と本質』)と書いている。この詩人を井筒は、情念が人間の姿をして顕われた人物として理解する。屈原という人格に宿ったのは、義憤によって浮き彫りにされた悲しみの詩学ともいうべき形而上の問題だったというのである。さらに井筒は、屈原の詩的世界を論じながら、巫者―すなわちシャーマン―における多次元、多層的な意識の在り方をめぐって論を展開する。
屈原の時代、詩人であるとは同時に、巫者として生きることだった。大地からは歴史の声を聞き、人間の魂からは、語られない悲しみを汲み上げる。そして、ついに天からはその意思の伝達者として選ばれるに至る。それが屈原の境涯だった。このときこの詩人はすでに神々の通路となっている。
このとき、屈原とは一個の人格の呼び名であると共に、詩と哲学が未だ分かれなかった時代に生きた人間を象徴する名称でもある。詩は美を、哲学は真を象徴する。真と美は、一なる大いなるものを呼ぶ、二つの異名である。それは伝統的な叡知の姿でもあったが、天心における「美術」観の根底をなす認識でもあった。
一九〇二(明治三五)年、大観と春草は渡航費用を集めるために「真美会」という小さな頒布会組織を立ち上げたことがある。この名前も、彼らが画に何を見ていたかをはっきりと示している。
美術は、人間に真と美をもたらす、それは画家たちの思いこみではなかった。「屈原」は発表された翌年、広島で行われた院主催の展覧会で買われ、今日、厳島神社に奉納されている。『画談』で大観は、そのいきさつにふれ、こう語っている。「『屈原』は、いま宮島(厳島神社)にあります。自分で言ってはおかしいでしょうが、広島の人が買いまして、宝物として宮島に納めてあります」。
ここに大観の強い自負がないとはいわない。しかし、それに増して、後世の私たちが見なくてはならないのは、彼らが信じていた「美術」の力である。この画は、見る者を巫者である屈原が生きた彼方の世界へと導くというのである。さらに、この発言は、大観にとって天心が、美の道の師であると共にその時代に現れた巫者的存在だったことも物語っている。天心の言葉はときに、託宣のように聞こえた。
弟子たちに天心が何を語ったのか、それは弟子たちにしか実感できない響きをもっていた。大観は天心の語り口にふれ、こう話している。
「なにしろ、学問はあり、思想の遠大な人でしたが、そのお話になることはごく簡単で、霊感的と申しましょうか、常人の十語で言うものは、二語か三語ですませてしまわれるくらいでしたから、聞いている方がよほど頭が良くないと、何を言われたのかわからなかったでしょう。(『画談』)」
この事実を受け止めることは、記録として天心が何を語ったかの考証に勝るとも劣らずに重要なことではないだろうか。天心とその弟子たちの軌跡には、現代でいう実証に基づく方法だけではどうしてもよみがえってこない領域がある。
「いわゆる筆を持たない芸術家」
古典的世界の知識を習得することに留まらず、そこに流れる叡知を肌身で感じることから創作を始めるのは、大観だけでなく、天心とその弟子たちに共通してみられる態度だったといってよい。文学だけでなく、宗教、哲学、風俗を含む広義の意味での文化のなかにおいて有機的関係をもったときにこそ、美術はその役割を果すことができるというのが、彼らに共通した認識だった。それは天心と文学者たちとの交流にも表れている。
東京美術学校時代、天心のもとめによって森鷗外は、一八九一(明治二四)年に美術解剖学を講じている。さらに鷗外は一八九六(明治二九)年から三年間にわたって美学・美術史を講義している。夏目漱石と大観の関係も深い。関東大震災があるまで大観は、自らの画室に漱石の書をかけ、仕事をしていた。また、一九〇五(明治三八)年、ロンドンに赴いたとき大観は、三年ほど前に漱石が留学中に下宿していた場所を訪れている。天心の弟で、のちに英語学者になる岡倉由三郎は漱石の友人でもあった。ここに幸田露伴や高山樗牛の存在を加えることもできる。正宗白鳥も、招かれて茨城県五浦で天心と宴席を共にしたときのことを自伝的作品『文壇五十年』で述べている。
のちに改めてふれることになるだろうが、明治、大正期に活躍した文学者と天心とその弟子たちとの交わりは再考されてよい。それは明治における美術と文学の著しい接近の意味を考えることでもある。同質の出来事は、およそ五十年前のフランスで起こった。
『近代絵画』で小林秀雄は、フランス印象派の画家たちが誕生する土壌に詩人ボードレールの存在があったと指摘する。この詩人が語る「象徴の森」―すなわち眼に映る現象の奥の彼方にあるもう一つの世界―を印象派の画家たちは、それぞれの経験によって描きだしたというのである。その影響は深い。セザンヌに至ってはボードレールの「腐肉」と題する詩を、暗唱することすらできた。「象徴の森」をめぐって小林はこう書いている。
「伝統や約束の力を脱し、感情や思想の誘惑に抗し、純粋な意識をもって人生に臨めば、詩人は、彼の所謂人生という「象徴の森」を横切る筈である。それは彼(筆者注:ボードレール)に言わせれば、夜の如く或は光の如く、果しなく拡り、色も香も物の音も互に応え合う。こういう世界は、歴史的な或は社会的な凡ての約束を疑う極度に目覚めた意識の下に現れる。それは彼の言う「裸の心」が裸の対象に出会う点なのである。」
造られた情報、あるいは強いられた概念的思考から脱出し、「裸の心」で世界と向き合う。すると沈黙していた世界が、色、香、音によって語り始める。ボードレールはその出来事を「万物照応」と呼び、その世界を「象徴の森」と呼んだ。ここに天心の『茶の本』にある一節と重ね合わせてみる。単なる近似以上の、著しいまでの精神の共振を感じるだろう。
「美の霊手に触れる時、わが心琴の神秘の弦は目ざめ、われわれはこれに呼応して振動し、肉をおどらせ血をわかす。心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。名匠はわれわれの知らぬ調べを呼び起こす。長く忘れていた追憶はすべて新しい意味をもってかえって来る。恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬が、栄えばえと現われて来る。わが心は画家の絵の具を塗る画布である。その色素はわれわれの感情である。その濃淡の配合は、喜びの光であり悲しみの影である。われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。(村岡博訳)」
「美の霊手」との一語があるように、ここで語られているのは単なる芸術認識論ではない。美の秘儀である。「無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する」こと、ここに芸術家に託された役割がある。彼らによって呼び起こされた美の調べは、それにふれた者の心中にあって見出されていない人生の意味を告げ知らせるというのである。
あるとき天心は、空気を描くことはできないか、と語った、と大観は自伝(『大観自伝』)に述べている。さらに、『画談』では、天心が日ごろから語っていた「空気とか、光線とかの表現に、空刷毛を利用して一つの味わいを出すことに成功しました」とも語っている。この技法が、「屈原」においてすでに萌芽がみられる、線を用いず、色彩の濃淡によって描く方法であり、のちに「朦朧体」と呼ばれる。
この言葉は、大観、春草、観山など天心の近くにいた画家たちを象徴する表現にもなっているが、もともとは評者たちが批判を込めて用いたのだった。この一語が何を意味していたかを考えることによって、それを試みた画家たちの悲願を見出すことは難しい。批判者は、創作者の全貌を見ることはなく、また、眺める自分の眼を疑うことはない。それは、あたかもマルクスという人間の意味を、マルクス主義という、のちに出来上がった基準において判断するような愚かなことになる。
先の『茶の本』の一節からも充分に感じることができるように、天心が「空気」あるいは「光線」というのは、物理的な、計測可能な対象ではない。それは、「見えないもの」を意味した。不可視なものを描こうとした美の使徒、それが天心とその弟子たちだった。
思索と模索を繰り返し、「空刷毛を利用して一つの味わいを出すことに成功」したと大観が言ったとき、主語が省かれていたことにも注意したい。大観は彼個人の業績を語ったのではなかった。そこには春草、観山を含む自分たち天心の指導を受けた者たちの共同体が、という言葉が省略されている。
少なくとも大観はここで春草との協同を強く意識している。大観と天心の関係を考えることは、同時に大観と春草の関係に踏み入ることでもある。大観と春草は作風も異なり、性格も違う。大観は自らを火に、春草を氷になぞらえたことがある。それは相反するものではなく、互いになくてはならない存在であることが示されている。異なるというよりも真逆だった。だが、それゆえに互いにかけがえのない存在だった。日本美術院をめぐる状況が変わったときも、海外に行くときも、「食うや食わずの苦難の時代も、すべてみんな二人は一緒でした。ですから、なんでそんなに仲良くなったと訊ねられても、おたがいが好きなんですから、この点何とも申しあげられません」と大観は『画談』にいう。
印象派の画家たちを論じながら小林は、印象派の画家たちには当時の音楽の影響が強く流れ込んでいることも指摘している。天心の近くに接した齋藤隆三の『日本美術院史』によると、院では音曲を画に表現する「音曲画題」が試みられていたという。長唄、謡曲を聞き、その世界を画にしようとした。
大観やその周辺の画家たちにとって、「ボードレール」の存在だったのはもちろん、天心である。大観は天心を「いわゆる筆を持たない芸術家」だったと言い、こう続けた。「つまり、芸術の上に来るもの、芸術および芸術家を指導するお方だったのです。岡倉先生がなかったならば、今日の日本美術院もなかったでしょうし、もちろんわれわれもなかったでしょう」(『画談』)。
「芸術の上に来るもの」とは「美」そのものを指すのだろう。先にもふれたように「美術」あるいは「芸術」と天心がいうとき、「美」も「芸」もまた「術」も、きわめて動的な語感と共に用いられている。一八九〇(明治二三)年、東京美術学校が開校された翌年、二十九歳の天心は「日本美術史」の講義を次のような一節からはじめた。
「世人は歴史を目して過去の事蹟を編集したる記録、即ち死物となす。是れ大なる誤謬なり。歴史なるものは吾人の体中に存し、活動しつゝあるものなり。畢竟古人の泣きたる所、古人の笑ひたる所は、即ち今人の泣き、或は笑ふの源をなす。」
人々は、歴史を単なる過去の記録として扱うに過ぎない。彼らにとってそれは一個の「死物」である。だが、それは大きな誤りだと天心はいう。歴史は過ぎ去ったのではない。私たち一人一人のからだの中でまざまざと生きている。私たちが泣き、あるいは笑うことも、それは内なる「古人」の感情に由来する、というのである。創作するとは天心にとって内なる「古人」との協同の上にはじめて成り立つ営みだった。彼にとって「美術」とは人間を「古人」が「生きている」世界へ導く術だともいえる。
先の講義が行われてから二十年後、一九一〇(明治四三)年、東京帝国大学での、「泰東巧芸史」―東洋美術史のこと―と題する講座のときも天心は次のように語った。原文の筆記は、聴講者のノートで、片仮名と漢字混じりで記されている。ここでは読みやすさを考慮し、平仮名に書き換え、必要に応じて句読点を打つことにする。
「芸術は活物なり。その霊域は情をもって入るべく、智をもって近くべからず。もしそれこれを死物視し、分析解剖して科学的の解釈を試むる者は、徒らにその門牆を窺うに過ぎず。断じてその堂奥に上るを得ざるなり。一幅の名画に対すれば無意識の間に興趣自ずから来り騒心雲の如く巻舒し、情味花の如く開展す。」
芸術は活きている、と語る天心は、その世界を「霊域」と呼ぶ。知の力だけではその場所に近づくことはできない。科学的理性で、分析しようとする者は、その門前をうろついているに過ぎず、けっして秘められた領域に進むことはできない。一つの名画に向き合うとき、感動は雲のようにわき起こり、花が開くように自然に、「無意識」すなわち魂において充溢する、というのである。
天心の考えに従えば、活きているものを活きたまま、見る者の眼前にもたらすこと、それが芸術家の仕事になる。「美」とは天心にとって万物を生かす働きそのものだった。「美術」とはそれを世界に刻むことにほかならなかった。樹木を描くということは、樹木を在らしめている働きを写しとることだった。風と光もその一例である。彼にとって美術、あるいは芸術とは、生ける者が、不可視な、しかし、生けるものをわが身に宿す営みだった。「屈原」はそれが高次に実現された作品だったのである。 
 
 

 

 
 
 
 

 



2021/7