株価暴落で始まる新年

新湾岸戦争 昔の学習効果
ジパング神話がよみがえる
円買い 円高

1/6  日本 株価暴落
1/9 イラン・アメリカ緊張の後退 円安 株価戻る

とは言え米株は最高値 バブル状態
近々暴落します 当然日本株も・・・
 


1/31/51/61/81/91/101/111/121/131/141/15・・・・・・
イラクイラク国民議会諸報道・・・
イランイスラム革命防衛隊ソレイマニハメネイ師イラン制裁・・・
 
 
 

 

1/3  火つけ人 トランプ大統領
イラン要人暗殺
自ら堂々と公表
バグダード国際空港攻撃事件
2020年1月3日にイラクのバグダード国際空港にて発生した武力による攻撃事件。イランのイスラム革命防衛隊の司令官ら8人が死亡。アメリカ合衆国が国外で要人を暗殺し、その実施状況を公表する事件としては、ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害、アブー・バクル・アル=バグダーディーの殺害など複数例がある。
2019年12月27日、キルクーク近郊のイラク軍基地を武装勢力がロケット弾で攻撃。アメリカの民間人1人が死亡、アメリカ兵4人とイラク治安部隊2人が負傷した。アメリカ側は、この攻撃をカタイブ・ヒズボラによるものとして非難。カタイブ・ヒズボラの拠点5カ所についてF-15で報復爆撃を行った。
2019年12月31日、アメリカ軍の攻撃を非難するシーア派の団体構成員らは、バグダード市内で数千人の抗議活動を展開。一部はアメリカ大使館前に集結して放火、侵入を試みるなどして暴徒化。大使館側の応戦などにより60人が負傷した。
マーク・エスパー国防長官は、これら攻撃の応酬をめぐりイラン(および影響下にあるヒズボラ)との関係は「一変した」と明言。場合によっては、イランへの先制攻撃もありうることを警告した。
攻撃
2020年1月3日、バグダード国際空港の貨物置場付近にてイスラム教シーア派の武装勢力の連合体、人民動員隊の車列がロケット弾3発による攻撃を受ける。2台の車両が炎上し、同乗していたカタイブ・ヒズボラの最高指導者(AFPの報道では人民動員隊副司令官)とされるアブ・マフディ・ムハンディス(Abu Mahdi al-Muhandis)とイラン革命防衛隊ゴドス部隊のガーセム・ソレイマーニー司令官が死亡した。アメリカ側は、無人攻撃機のMQ-9 リーパーを用いたとされる。ソレイマーニーは、レバノンもしくはシリアからバグダード国際空港に到着、車で移動を始めたところだった。
アメリカ
2020年1月3日、ドナルド・トランプ大統領は自らの指示でアメリカが攻撃を加えたことを発表。イスラム革命防衛隊の司令官について、「ソレイマーニーは、アメリカの米外交官や軍人に対して邪悪な攻撃を画策していたが、われわれはその現場を押さえ殺害した」、「我々は昨夜、戦争を止める措置を取った。戦争を始める措置ではない」と説明。
2020年1月4日、イラク国内の緊張を受けて第82空挺師団の増派を決定。この決定により、アメリカ軍の中東への派遣規模は最大3500人に達する。
2020年1月4日、トランプ米大統領は、ツイッターでイランがアメリカ人やアメリカの施設を攻撃した場合は、攻撃を受けることになると警告。対象施設として52カ所に標的を定めていると明らかにした。52という数字は、1979年に発生した大使館人質事件のアメリカ人の人質と同じ数としている。
イラン
イスラム革命防衛隊の指導者も兼ねるアリー・ハーメネイーは、3日間の服喪とともに報復を宣言。モハンマド・ジャヴァード・ザリーフ外相は、アメリカの国際テロ行為は非常に危険でばかげたものとツイッター上で非難、「アメリカの冒険主義がもたらすあらゆる結果の責任を負う」と警告した。ヒズボラは、ソレイマーニー司令官殺害の責任を負う者に対する処罰は、世界中のすべてのレジスタンス戦士の任務との声明を発表した。
2020年1月4日、イラク国内の各地でソレイマーニーの葬儀が行われた後、遺体は翌1月5日にイランのアフワズ空港へ輸送。同日午後、イラン国内の葬儀が始まった。  
米、イラン司令官を殺害 トランプ氏が命令 ハメネイ師は「報復」誓う 
米国防総省は、ドナルド・トランプ大統領の命令により、イラン革命防衛隊(IRGC)の精鋭部隊「コッズ部隊(Quds Force)」のガセム・ソレイマニ司令官を殺害したと発表した。
ソレイマニ司令官は、イラクの首都バグダッドの国際空港で3日未明に起きた攻撃で死亡した。イラクのイスラム教シーア派武装勢力の連合体「人民動員隊」が同司令官の死亡を発表した直後、トランプ氏はツイッターに星条旗の画像を投稿していた。
一方、米下院外交委員会のエリオット・エンゲル委員長によると、議会への事前通達はなかったという。
イランの最高指導者アリ・ハメネイ師は、3日間の服喪とともに「激しい報復」を宣言。モハンマドジャバド・ザリフ外相は、「ソレイマニ司令官を標的とし暗殺するという米国の国際テロ行為は、非常に危険でばかげた(緊張状態の)エスカレーション(段階的拡大)だ」とツイッター上で非難し、「米国はならず者的な冒険主義がもたらすあらゆる結果の責任を負う」と警告した。また、イラン学生通信(ISNA)は、最高安全保障委員会(SNSC)が緊急招集されたと伝えた。
人民動員隊やイラク治安筋によると3日夜半過ぎ、バグダッド空港に複数のロケット弾が撃ち込まれ、ソレイマニ司令官と、人民動員隊の事実上の指導者とみなされ米国にテロリスト指定されていたアブ・マフディ・ムハンディス副司令官ら少なくとも8人が死亡した。
バグダッドでは、米軍による親イラン派の強硬派組織「神の党旅団(カタイブ・ヒズボラ)」への空爆で戦闘員25人が死亡したことを受けて、人民動員隊の構成員と支持者らが米大使館を包囲する事件が起きたばかりだった。
国防総省は米東部時間2日、バグダッド空港への攻撃について「海外に展開する米国の人員を守るための断固たる防衛措置」だと説明。「ソレイマニ司令官はイラクで米国の外交官と軍人に対する攻撃計画を積極的に練っていた。ソレイマニ司令官と指揮下のコッズ部隊は、米軍と同盟軍の兵士数百人の死と、数千人以上の負傷に対して責任がある」と述べた。
革命防衛隊は、ソレイマニ司令官が「米国の攻撃により殉教した」と発表。革命防衛隊元トップでイランの主要な諮問・仲裁機関である公益判別会議のモフセン・レザイ議長は、「恐ろしい報復」を誓った。
米国務省は3日、「イラクとその周辺における緊張拡大を受け、在イラクの米国民に対し、イラクを直ちに出国するよう呼び掛ける」とツイッターに投稿した。  
 
 

1/5
高まる米・イラン緊張とトランプ政権の国際法違反
高まる緊張
新年早々世界は大変な事態に陥っている。米イランの軍事緊張が高まり、「第三次世界大戦か?」という懸念が世界を覆っている。
「イラン革命防衛隊の精鋭部隊「コッズ部隊」のトップ、カセム・ソレイマニ司令官が3日、イラク・バグダッドで米軍の空爆によって死亡した。米国防総省は、「大統領の指示」によって司令官を殺害したと認めた。ソレイマニ司令官は、イラン国内できわめて重要で人気の高い、英雄視される存在だった。米メディアによると、ソレイマニ将軍はイランが支持するイラクの民兵組織と共に車両でバグダッド国際空港を出ようとしたところ、貨物ターミナルの近くで、アメリカ軍のドローン空爆を受けた。」
国際的な批判を受け、イランからは報復の声が広がる中、米国トランプ政権の無法ぶりが際立っている。
「トランプ米大統領は4日、イランが米国人や米国の財産に攻撃を仕掛けた場合、米側は報復として「イランの52カ所を標的にする」とツイッターに投稿した。」
これが現職米国大統領のツイッターかと思うとぞっとする。
このような危険な軍事挑発で戦争の導火線に火をつけるような行為をなぜするのか?
そもそもの発端は?
報道では、中東の声として、ソレイマニ司令官を美化するものも目立つ。
しかし、ソレイマニ司令官らイラン革命防衛隊はイラク戦争後のイラクやシリアで極めて残忍な人権侵害に加担してきた事実が報告されている。決して美化されたり、礼賛されるべきではない。
今回の事態の発端として、昨年イラクとイランで始まった反政府デモと、イラン当局の動きがある。
2019年、政治変革を求めるデモが相次いで起きた。香港のデモ等が日本では注目されているが、ここでも若い世代が立ち上がった。ところが、イランでは治安部隊がデモ参加者に残虐な弾圧を続け、多数の死者を出した。
BBCニュースが弾圧についてまとめているが、革命防衛隊に向けられる視線はこのようなもので、イランは一枚岩ではない。
「中東におけるイランの活動をめぐり、不満があるのは明らかだ。革命防衛隊は中東各地で、民兵組織の武装や訓練、報酬の支払いに何十億ドルと費やしている。イランの国境を越えて敵と戦わなければ、敵はテヘランの路上にまでやってくるというのが、その大義名分だ。しかし、国内各地で抗議するイラン国民は、その資金は国内と国民の未来に使われるべきだったと主張する。」
そして、イラクのデモはこのようなものとして始まった。
「2019年10月、バグダッドのタハリール広場で始まった反政府デモは「10月革命」と呼ばれ、かつてないほどの規模に拡大している。非暴力を宣言し、現場に寝泊まりし、汚職撲滅、失業率と公共サービスの改善を叫ぶ若者たち。宗教宗派を超え、思い思いの形でデモに参加する老若男女。これまでとは全く違う市民の結集が起きている。しかし、治安部隊の武力鎮圧も激しさを増し、2か月間で死者400名以上、負傷者およそ2万人。首相の辞任が承認されても、デモ隊はすべての要求が満たされるまで継続すると発表。」
さかのぼると、2003年のイラク戦争後、米国はイラク統治のためにシーア派を利用しイランの介入を招いた。マリキ政権下では特に宗派間対立があおられ、シーア派民兵によるスンニ派住民殺害が相次ぎ、ISの台頭を招き、イラクは地獄のような戦争に入った。
この反省のもと、現政権は宗派間融和を模索しているが、イランの影響力は増している。アブドルマハディ首相が昨年11月に反政府デモへの対応について責任を取って辞任を表明、ところが親イラン勢力は自らの意向に沿った首相の擁立を掲げて大統領に迫ったようで、イラクのサレハ大統領は12月26日、親イラン派の国会勢力が推す人物を首相に指名することを拒否し、大統領を辞任する用意があると表明していた。
こうしたなか、ソレイマニ司令官は人々の怒りの矛先を米国に向けるようゲームチェンジを模索して画策していたとの報道もある。
トランプ政権による国際法違反
このように、イランや革命防衛隊の動きには非常に大きな問題があると指摘できる。しかし、だからと言って米国の軍事行動を正当化することは到底できない。
トランプ政権による殺害指示は明白な国際法違反である。
ポンぺオ国務長官は予想される「差し迫った脅威」から自国民を守るための行動だったとする。
しかし、予想される攻撃の前に先制攻撃するという米国の言い訳は、イラク戦争で持ち出された「先制的自衛権行使」だが、こうした主張をすべて認めれば国連憲章が許容する自衛権の範囲は際限なく恣意的に拡大解釈され、およそすべての戦争が正当化されることとなり、国際秩序は崩壊する。
殺害は国連憲章上正当化される「自衛権行使」に該当しない超法規的殺害であり、イラクの主権侵害にもあたる。
冒頭のトランプ発言だが、
「トランプ米大統領は4日、イランが米国人や米国の財産に攻撃を仕掛けた場合、米側は報復として「イランの52カ所を標的にする」とツイッターに投稿した。トランプ氏は標的の52カ所について、1979年にイランで起きた米大使館占拠事件で人質になった米国人の数だと説明。「イランおよびイラン文化にとって極めて高位かつ重要なもの」が標的に含まれ、攻撃が「非常に素早く激しい」ものになると予告した。」 という。
このような武力による威嚇はそもそも、
すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
とする国連憲章2条4項に明白に反している。
安保理常任理事国である超大国アメリカが、このような露骨な武力による威嚇を行い、危険な軍事挑発により平和的な国際秩序を破壊しようとする行為は到底許されない。
特に、「イランおよびイラン文化にとって極めて高位かつ重要な」施設への攻撃を予告しているが、軍事目標でない文化的施設の攻撃は、ジュネーブ条約で明確に禁止された攻撃であり、戦争犯罪に該当する。米国の大統領が戦争犯罪の遂行を予告するとは国際法違反も甚だしく、狂気の沙汰といえる。
第三次大戦に突入しないために
トランプ大統領は、大規模な戦争に発展しかねないこのような軍事挑発、武力による威嚇をこれ以上厳に慎むべきだ。
翻ればイラク戦争後にイラク統治のためにシーア派を利用しイランの介入を招いたのは米国であり、今の事態は中東を土足で踏みにじってきた外交政策のつけといえる。
2003年のイラク戦争後、中東の混乱は続き夥しい人命が奪われた。その反省もなく紛争の導火線に火をつけ地域を深刻な危機にさらす米国の行動は厳しい非難に値する。冒頭で述べた通り、中東情勢は極めて複雑であるが、洗練された思慮深い外交努力を行わず、脊髄反射レベルで、国際法を明確に無視して、西部劇のような感覚で、火に油を注ぐことがいかに危険であるか、重々考えるべきである。
戦争が始まれば、命を奪われるのは圧倒的に若い人たち、イラクとイランで幅広く非暴力の変化を求めて、未来に希望を作ろうとした若者たち、そして罪のない子どもたちである。
そして、ひとたびパンドラの箱が開かれれば、世界規模の第三次大戦にすら発展しかねない。
大統領の暴走で世界秩序が崩壊しかねない今、政権内と議会がブレーキをかけること、国際社会が一致して自制を求めることが必要だ。
日本政府はいまだコメントを出していないようであるが(1月5日午後2時現在)、このような事態にあって大変情けない。
日本は紛争回避のための姿勢を鮮明にすべきであり、軍事行動に抗議し、強く自制を求めるべきだ。
そして、自衛隊員の命を危険にさらし、憲法9条に反して日本が戦争に参加する危険をはらむ中東への自衛隊派遣は中止すべきである。 
 
 

 

1/6 東証大発会 暴落でスタート
東証大発会 全面安の展開
年明け最初の取引である大発会を迎えた6日の東京株式市場は、中東情勢の軍事的危機を警戒して全面安の展開となり、日経平均株価は大幅続落した。 急激な円高ドル安や原油高が株式市場を直撃し、平均株価の終値は前年末比451円安の2万3204円で、大発会の下げ幅としては戦後4番目を記録した。約1カ月ぶりの安値水準だった。
米国によるイラン司令官の殺害をきっかけに、米国とイランの軍事的対立が先鋭化。双方が激しい応酬を繰り広げ、市場に緊張が走った。  
イランのソレイマニ司令官とは?
アメリカの国防総省は1月2日夜(現地時間)、イランそして中東において最も強力な軍人の1人を殺害したことを公表した。
標的となったイランのカセム・ソレイマニ司令官の死は、アメリカとイラン国間の敵意を急激に高め、イランからの報復をほぼ保証することになる。
イランの最高司令官であったソレイマニ司令官とは何者なのか?そして彼の死がなぜ、中東にとって大きな変革をもたらすのか?以下に解説していく。
ソレイマニ司令官は、イラン革命防衛隊のエリート部隊「コッズ部隊」の司令官であった。イラン革命防衛隊は中東で高度な対外工作を行い、シーア派民兵のイラクでの訓練などを行なっている。2019年4月にアメリカのトランプ政府は、イラン革命防衛隊を「外国テロ組織」に指定した。ソレイマニ司令官はアメリカではテロリストとして見られているが、イランの保守派やアメリカやその同盟国に批判的な人々から支持されてる人物であった。また、彼の殺害に対し「報復」を誓ったイランの最高指導者アヤトラ・アリ・ハメネイ師とは、強い繋がりを持っていた。
ソレイマニ司令官は15年前に「コッズ部隊」の司令官となり、中東でイランの影響力を広げ、新たな民兵を訓練し武装させるなど、悪名を轟かせた。元アメリカ軍司令官であり元CIA長官でありデビット・ペトラウス氏はForeign Policyのインタビューでソレイマニ司令官について、イランが中東の「シーア派三日月地帯」と呼ばれるエリア(イランからイラク、シリア、レバノン南部までを含む)を制覇する計画においての「建築家」だと話した。「彼はイラクだけでも600人以上のアメリカ兵士、そして多くの連合軍やイラクの仲間や、シリアなどの他の国でも人々の命を奪った武器、爆発物、発射物、軍需物資の提供をした重要人物だ」と話した。
アメリカ軍は、イランによるアメリカへの攻撃を防ぐためにソレイマニ司令官を標的にした、と国防総省は声明で発表した。トランプ大統領はソレイマニ司令官がアメリカの外交官や軍を狙った攻撃を計画していたと非難しており、暗殺により阻止された、と話した。「ソレイマニはアメリカの外交官や軍関係者に邪悪な攻撃を間も無く実行しようと計画していたが、その途中で彼を捕まえ、殺害した」と話した。イランの要人を標的にし、アメリカがイランとの戦争を始めようとしているとの批判に対し、大統領はソレイマニ司令官の暗殺を擁護し、アメリカが地域でのイランの影響を覆そうとしているという主張をかわした。「昨夜アクションをとったのは、戦争を止めるためだ。始めるためではない」トランプ大統領はフロリダの別荘「マー・ア・ラゴ」から1月3日に話した。「イランの人々を深く尊敬している」と加え、「彼らはとても優れた人々で素晴らしい伝統があり、限りない可能性を秘めている。政権の変化を求めているわけではない」と話した。
アメリカが政府高官、特にイランの影響力のある軍人を直接標的にするということは、過去に前例がない。この暗殺は、アメリカがイランに対し、大胆かつ暴力的なアクションを取ることを厭わないことを示唆する。この新たな攻撃的な行動は中東を揺るがし、確実にワシントンD.C.とテヘランやイラク国家との関係に劇的に影響を与えると予測される。アメリカとイランは、両国ともイラクで存在感があり、バグダッドのイラク政府とISISとの戦いに協力している。専門家たちは、緊張の高まりがアメリカの国家安全を脅かし、これまでのアメリカの反テロ対策への成果を危機にさらしていると懸念する。一部の専門家は、ソレイマニ司令官の暗殺は、イランへの戦争行為だと話す。「主権国家に対する戦争行為という以外に、説明しようがない」Brookings Institutionで国際政策の副ディレクターをしているスザンヌ・マロニー氏は話した。
イランの最高指導者ハメネイ師が示したように、イランのアメリカの攻撃への何らかの反応が予測されている。どう行動に出るかはまだ明らかでなく、専門家たちは現在議論している。イランの外交政策などを統括する最高安全保障委員会は1月3日にハメネイ師と緊急会議を開き、アメリカの攻撃にどう返答するか決定を下したというが、同日に出された声明にアクションの詳細は述べられていなかった。「ソレイマニ司令官への犯罪的攻撃は、中東での最悪な戦略ミスであるとアメリカは自覚すべきであり、これによる責任を簡単には逃れられない」と委員会は声明を発表した。イラクやその他の中東地域や同盟国などにいるアメリカの軍関係者が、イランからの反撃の標的になりやすいが、専門家たちはイランは全面的に戦争になるような行動には出ないと見ている。しかし、ハフポストの国際シニア・ニュースリポーターのニック・ロビンス-アーリーによると、イランは反乱的な攻撃や親イラン派兵士や民間兵に頼る可能性がある。APによると、シリアやイラクには何万人ものイラン政府の代理武装勢力がいる一方、アメリカは同地域には比較的小規模な軍事的存在しかない。シンクタンクCentury Foundationのイラン専門家のディーナ・エスファンディアリー氏はこの戦略について、「非対称戦争(両交戦者間の軍事力、あるいは戦略または戦術が大幅に異なる戦争)」だとMic.comとのインタビューで話した。「イランは、全面的な従来の戦争だと勝てないとわかっており、それを始め、負けるようなことはしないでしょう。なぜならそれは、ソレイマニ司令官の死へ対する報復をしないよりもはるかに悲惨だからです」とエスファンディアリー氏は話した。「逆に何をするかというと、地域の代理武装勢力にイラク、レバノンやシリアで問題を起こさせるなどして、断固として非対称戦争を使い応戦してくるでしょう」
イランの反撃が予想される中、APによると、アメリカは約3000人の陸軍兵を中東に送ると発表。それは、先日700人の兵士をクウェートに配備したのに追加する形となった。
ゴルフしながら「イラン司令官殺害」決めたトランプ大統領
3日、アメリカ軍による空爆でイラン革命防衛隊の司令官が死亡した。トランプ大統領は「イランが報復したら52箇所の重要施設を迅速に強烈に攻撃する」と警告し、緊張が高まっている。国連のグテーレス事務総長が「新たな湾岸戦争につながる」と警告する事態だ。
殺害されたのはコッズ部隊のソレイマニ司令官(62)。イランでナンバー2とされ、次期大統領候補にも名前が挙がっていた人物だ。イラク、シリア、レバノンのイスラム教シーア派を指導し、アルカイダや「イスラム国」の掃討作戦で重要な役割を担ってきたが、その一方、イランが開発した無人機などをイラクのシーア派武装勢力に使用させることもあった。国際政治学者の高橋和夫さんは「アメリカにとってはテロの親玉」と話す。
トランプ大統領が下したソレイマニ司令官の殺害の決定は、アメリカの政権内にとっても想定外だったようだ。米国防総省は歴代大統領に非現実的な選択肢を示すことでほかの選択肢を受け入れやすくしてきたが、今回は「最も極端な選択肢」として「司令官殺害」を提示していて、まさかトランプ大統領がそれを選ぶとは想定していなかったというのだ。
トランプ大統領は、去年(2019年)6月に米軍の無人偵察機がイランに撃墜された際、作戦の10分前にイラン攻撃を中止した。その時「弱腰」と批判されたことをひどく気にしていたという。そして3日、ゴルフリゾートで司令官攻撃の最終承認をしたという。
石原良純「アメリカの大統領が他国の要人の暗殺を命じ、実際にやった。米軍首脳部も予想が付かないようなことをやる、想定を超えた人が大統領であることの怖さ。民主主義の行きつく先はここなのか。こうなると、次に何が起こるかは誰にも予想が付かない」
羽鳥慎一「歴代大統領が受け入れないような極端な選択肢を入れて置いたらそれを選択した。ゴルフ場で。これは今までとは違います」
山口真由「世界が彼のチキンゲームの上に乗っている、危険な賭けです。世界に対する踏み絵でもあります。日本はアメリカともイランとも近い。安倍総理も声明を出すと思いますが、アメリカとどのような距離感を取っていくのか、ひとつの踏み絵になります」
イラン、「ウラン濃縮を継続する」 核合意を順守しないと宣言
イランは5日、2015年にアメリカなど国際社会と結んだ核合意に伴うウラン濃縮について、今後は制限を順守しないと宣言した。
イランはこの日の閣議で、核合意放棄の第5弾の措置を決定。濃縮ウランの濃度や貯蔵量、研究・開発に関する制限を順守しないとする声明を発表した。
「イランは今後、同国の技術的ニーズをもとに、制限なしに核濃縮を継続するだろう」
一方で、イランが実際に核合意を離脱するのかについては言及していない。
イランは声明で、国際原子力機関(IAEA)と引き続き協力していく意向を示している。また、アメリカが対イラン制裁を解除すれば核合意を順守する用意があるという。
BBCのジョナサン・マーカス防衛外交担当編集委員は、アメリカによる経済制裁下では、イランが石油による財源を確保できないということを示していると見ている。
イラク・バグダッドで3日、イラン革命防衛隊のカセム・ソレイマニ司令官(62)が米軍の空爆によって死亡したことを受け、イラン国内は緊迫している。
バグダッドの報道によると、前日に続き5日夜にもバグダッドの米大使館を標的とした攻撃があった。ある情報筋はBBCに対し、同大使館の方角に向けて「間接照準射撃」が4度連続して発射されたと述べた。大使館に被害はなかったが、民間人数人が負傷したとの報道がある。
ドイツのアンゲラ・メルケル首相とフランスのエマニュエル・マクロン大統領、イギリスのボリス・ジョンソン首相は5日、イランに対し、核合意違反をやめるよう求める共同声明を発表した。
「我々には、同地域の緊張緩和と安定回復に寄与するために、あらゆる政府との協議を継続する用意がある」と、3首脳は呼びかけた。
共同声明に先立ちジョンソン首相は、「我々は(中略)我々全員の利益にとっての脅威だった」ソレイマニ司令官の死を「嘆き悲しんだりしない」と述べた。
ジョセップ・ボレルEU外務・安全保障政策上級代表は、核合意と、ソレイマニ司令官殺害をめぐる危機の緩和方法について協議するため、イランのムハンマド・ジャヴァド・ザリフ外相をベルギー・ブリュッセルに招待している。
ソレイマニ司令官の遺体は5日早朝、イラン南西部アフワズの空港に到着した。数千人のイラン国民が喪服姿で集まった。
イラン・イラク戦争での戦功でも国内で英雄視されていた司令官は7日、故郷のイラン中部ケルマンに埋葬されるという。
ソレイマニ司令官が死亡したイラクでは議会が5日、国内に駐留する外国部隊の撤退を求める決議を採択した。この決議に法的拘束力はない。
イラク国内には、アメリカが率いる国際有志連合による武装組織「イスラム国(IS)」掃討支援の一環として、米兵約5000人が駐留している。5日の決議直前、有志連合はイラク国内でのIS掃討作戦を一時中止した。
ドナルド・トランプ米大統領は、ソレイマニ司令官殺害にイランが報復すれば、米国は「迅速かつ完全にイランを攻撃する」と繰り返し警告している。
イランはかねて、自分たちの核開発計画は完全に平和的だと主張してきた。しかし、核兵器開発に使用している疑いが浮上したことから、国連安全保障理事会やアメリカ、欧州連合(EU)は2010年にイランに対して経済制裁を科した。
2015年の核合意は、対イラン制裁を解除する見返りに、イランの核開発計画を検証可能なものにするというもの。
核合意では、原子炉燃料だけでなく核兵器にも使用される濃縮ウランについて、イラン国内での濃縮率を3.67%までに留めることで、イランと国連安全保障常任理事国の米国、英国、フランス、中国、ロシアにドイツを加えた6カ国で合意した。またイランは、兵器級プルトニウムが製造できないよう重水施設に変更を加えることや、国際機関の視察を受け入れることに同意した。
2015年6月以前には、イラン国内には大量の濃縮ウランが貯蔵されていたほか、2万近い遠心分離機が存在していた。これは、当時のホワイトハウスの発表によると、核爆弾8〜10弾分を製造するには十分な量だった。
トランプ大統領は2018年5月、一方的に核合意を離脱した。トランプ氏は、イランの核開発計画に対して無期限の制限を課し、弾道ミサイル開発を中止するために、イランと新たな合意交渉をしたいとしてた。
しかしイランは米国側の求めを拒否。以降、核合意の履行を徐々に停止してきた。
核合意の意義いまこそ――
イラン核合意は、トランプ米政権が2018年5月に離脱してからというもの、生命維持装置をつけてなんとか生きながらえている状態だった。しかし今や、危篤状態に陥ったのかもしれない。
トランプ大統領は2016年大統領選の最中、そして就任後も、前任のバラク・オバマ氏が合意した核合意を「悪い合意」だと常に批判し続けた。しかし、合意を締結したアメリカ以外のすべての国(イギリス、フランス、ロシア、中国、ドイツ、EU)は、この合意には今でもメリットがあると考えている。
包括的共同作業計画(JCPOA)と呼ばれるこの合意は、イランの核開発計画を、一定期間ほとんど検証可能な形で制限した。しかし、その最大の意義は切迫する戦争の回避にあり、現在の危機下では特にその効力を発揮した。
核合意が締結される前は、イランの核開発活動をめぐる懸念が募っていたし、イスラエルが(あるいはイスラエルとアメリカが協力して)イラン国内の核施設を攻撃する可能性があった。それだけに、JCPOAの存在は現状できわめて重要な役割を果たしている。
アメリカが一方的に核合意を離脱して以降、イランはJCPOAの主な制約に違反を繰り返してきた。今では、すべての制約について順守を放棄しようとしているようだ。たとえば、ウランの濃縮率を20%に引き上げるだろうか。そうすればイランは、兵器級のウランをずっと早く手に入れられる。そしてイランは今後も、強化された国際査察を受け入れるだろうか。
我々はいま、トランプ政権が2018年5月にはっきり望んだ目的地にたどりついた。しかし、主要国はいずれも、イランの合意違反に心底不満を抱きつつも。ソレイマニ司令官殺害というトランプ氏の決定に衝撃を受けている。毀誉褒貶(きよほうへん)の多いこの決定は、アメリカとイランを再び戦争の瀬戸際に追い詰めてしまった。  
 
 
 

 

1/8 
米国とイランの対立による世界経済などへの影響 
この時点で、米国とイランの対立がどのような影響を及ぼすのかを予測するには、あまりに不透明要素が多いものの、ここまでの経緯から状況を確認してみたい。
米国はイラクの首都バグダッドで行った空爆で、イラン革命防衛隊の精鋭部隊「コッズ部隊」のガセム・ソレイマニ司令官を殺害した。
イランは3日間の喪に服した後、ソレイマニ司令官の復讐を行うと宣言していたが、それを実行に移した。イランがイラクの駐留米軍基地に十数発以上の弾道ミサイルを発射したのである。
これを受けての米国の対応が注目された。直接の軍事衝突の可能性もあったことから、8日の東京株式市場で日経平均は一時600円を超す下げとなり、ドル円は一時107円65銭まで下落した(円高進行)。
米国のトランプ大統領は大統領執務室にてテレビ演説を行うとのCNNなどの報道があり、重要な決定後になされることが多い執務室からの演説ということで、イランとの交戦が発表されるのではとの懸念が一時強まった。しかし、このテレビ演説はないと報じられた。
演説はなくてもトランプ大統領のツイートはあったようで、これによると、どうやらイランのミサイル攻撃による人的被害は抑えられていた模様。
さらにイランは、アメリカがさらなる報復をしなければ攻撃を停止する、と表明したとされる(NBC)。
これらの経緯をみると、米国政府はイランのミサイル攻撃による被害を確認し、その被害が抑えられていることも確認した上で、トランプ大統領の執務室からの演説はいったん中止したのではなかろうか。被害状況が確認できたため、トランプ氏はツイッターで、現状問題はないと投稿したとみられる。トランプ大統領は8日夜に声明を発表するとも報じられた。
イランは3日間の喪に服した後、ソレイマニ司令官の復讐を行うと宣言し、実際にイラクの駐留米軍基地へのミサイル攻撃を行った。しかし、ここで米国での人的被害が発生すれば、米国の全面対決の様相を強めることになる。このため、攻撃したという事実を重視し、最悪の事態は避けたとみることもできよう。
現状わかっているのは以上のこととなり、中東の地政学的リスクはかなり大きくなったものの、最悪の軍事衝突はお互い避けようとしているように思われる。ここで対決色を強めると、イスラエルも絡む上に、イランを支持するロシアや中国の動向にも影響を与えかねない。
今回のリスク回避の動きは、ひとまず一時的なものとみられる。不測の事態が発生しない限り、これにより原油価格が急騰したり、株価が急落したり、金利が大きく低下することは考えづらいのではなかろうか。市場も次第に落ち着きを取り戻してくるとみられ、これにより世界経済に与える影響も限られたものになるのではなかろうか。 
ハメネイ師「米に平手打ち」 強気姿勢、本音は衝突回避か―イラン
イランの最高指導者ハメネイ師は8日、首都テヘランで演説し、同日未明に行われたイラク国内の駐留米軍基地などへの弾道ミサイル攻撃について「米国に平手打ちを浴びせた」と述べ、強気の姿勢を示した。さらに「地域での米国の扇動的なプレゼンスを終わらせることが重要だ」と主張し、中東からの米軍全面撤退を求めて対決を続ける方針を改めて強調した。
イランでは、国内で英雄視されていた革命防衛隊コッズ部隊のソレイマニ司令官が米軍に殺害されたことを受け、対米報復を求める声が今後もやまない可能性が高い。イラン側は、今回の攻撃を「国連憲章に基づく自衛権の行使で、釣り合いの取れた措置だった」(ザリフ外相)と正当化している。
ただ、軍事力で勝る米国との本格的な武力衝突を回避したいのが本音とみられ、挑発と抑制のバランスを見極めながら今後の対応策を慎重に模索していくとみられる。
イラン・ハメネイ師、米軍の撤収要求「中東は米国の存在を容認しない」
イランの最高指導者ハメネイ師は8日、イラクに駐留する米軍に向けて実施したミサイル攻撃は米国への「平手打ち」だとし、米国は中東から軍を撤収すべきと主張した。
イランは8日未明、米軍が駐留するイラクのアル・アサド空軍基地に複数のロケット弾を発射した。この数時間前には、米軍の空爆によって殺害されたソレイマニ司令官の葬儀が行われ、軍や政府の高官が米国への報復を誓っていた。
ハメネイ師は演説で「今回のような軍事行動は十分でない。重要なのは、この地域における米国の不健全な存在を終わらせることだ」と述べ、ミサイル攻撃を米政府への「平手打ち」と表現した。
「この地域は米国の存在を容認することはない」とし、米軍の撤収をあらためて要求した。
2015年のイラン核合意を巡る米国との交渉再開の可能性も否定。「話し合いや、腰を据えた交渉は、(米国の)介入の始まり」と述べた。
ハメネイ師はさらに、米国はイスラエル支援のために、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラを排除しようとしていると主張した。
国内メディアによると、ロウハニ大統領は、米国はイラン革命防衛隊の精鋭「コッズ部隊」のソレイマニ司令官の「腕を切り落とした」かもしれないが、イランは報復として中東地域の米国の「足」を切り落とすと述べた。
ザリフ外相は、ミサイル攻撃は「正当な自衛」措置だと主張。「米政府はこれを、勘違いに基づき評価しないようすべきだ」と述べた。
また、イランのハタミ国防相は国営テレビに対し、イランによるイラクの米軍基地へのミサイル攻撃に米国が報復すればそれに見合った対応をとると表明した。
同相は、ソレイマニ司令官殺害を受けた今回の米軍基地攻撃について「われわれは短距離ミサイルを使用した。これがアメリカにとって忘れられない教訓となることを望む」と発言。「(米国の報復に対する)イランの反応は米国のやることに釣り合うものになるだろう」としたほか、「(トランプ米大統領は自らの)政権をテロリストの政府に変えてしまった」と付け加えた。
イラン ハメネイ師が演説「アメリカに平手打ちを食らわせた」
イランの最高指導者ハメネイ師は8日、首都テヘランでアメリカ軍に対する攻撃後初めて演説し、殺害されたソレイマニ司令官を「軍事面でも、政治面でも、勇敢で賢い人物だった」とたたえたうえで、アメリカに対する報復について「昨夜はアメリカに平手打ちを食らわせた」と述べました。
また「今回の軍事行動では十分ではない。この地域におけるアメリカの存在を消し去ることが重要だ」と述べ、アメリカ軍を中東地域から撤退させる必要があるという考えを示しました。
イランのロウハニ大統領は8日、首都テヘランで、アメリカ軍に対する攻撃のあと初めて行った閣議の中で演説を行いました。
イランのメディアによりますと、ロウハニ大統領は、アメリカ軍に殺害されたソレイマニ司令官について言及し「アメリカはソレイマニ司令官の手を切り落としたが、その結果、アメリカの足が、この地域から切り落とされることになる」と述べ、司令官を殺害したことの報いとして、アメリカ軍はこの地域から影響力を失うことになるという考えを強調しました。
今回の攻撃を受けてアメリカのトランプ大統領はツイッターで、これまでのところ大きな被害は出ていないという認識を示しましたが、イランのメディアは、攻撃でアメリカ側に死者が出て、深刻な打撃を与えたと伝え、今回の攻撃を巡って情報戦の様相も呈し始めています。
トランプ大統領は、攻撃のあとツイッターに「すべて順調だ。被害の状況を確認している。今のところ非常によい」と投稿して、現段階で大きな被害は出ていないという認識を示しました。
これに対し、イランの政府系通信社「ファルス通信」は革命防衛隊の情報筋の話として、今回の攻撃で「少なくとも80人のアメリカ兵が死亡し、およそ200人が負傷した」と伝えました。
またイランの国営放送も「アメリカのテロリスト80人が死亡した」と伝えていて、アメリカ側の情報と食い違いを見せており、情報戦の様相も呈し始めています。  
イラクの米軍基地に弾道ミサイル攻撃 イランが司令官殺害の報復と宣言
米国防総省は7日夜、イラク国内で米軍が駐留する少なくとも2カ所の空軍基地が、十数発の弾道ミサイルで攻撃されたと発表した。ドナルド・トランプ米大統領が「何もかも大丈夫だ!」とツイートする一方で、イランのジャヴァド・ザリフ外相は「我々はエスカレーションを望んでいない」とツイートした。
イラン命防衛隊は現地時間8日午前1時半(日本時間同7時半)ごろの攻撃について、トランプ氏の命令で3日にイラク・バグダッドでイラン革命防衛隊コッズ部隊のカセム・ソレイマニ司令官が殺害されたことへの報復だと宣言。「アメリカのテロ軍に基地を提供したすべてのアメリカの同盟国に警告する。イランに対する攻撃行為の出発点となるあらゆる領土は標的になる」と表明した。国営通信イラン・イスラム共和国放送(IRNA)が伝えた。
米国防総省によると、少なくともアル・アサドとアルビルの2カ所で、米兵の駐屯施設付近が攻撃を受けた。被害状況は明らかにされていない。
北大西洋条約機構(NATO)は8日午後、被害状況を検分した結果、イラクにおける締約国軍の間にイランの攻撃による「犠牲者はない」と発表した。
イラク軍によると、イランが発射した弾道ミサイルは計22発。アル・アサド基地を狙った17発のうちは2つは不発で、アルビル基地を狙った5発はいずれも有志連合軍の本部を狙っていたという。ロイター通信によると、イラク軍はイラク人の犠牲者はいないと話しているという。
これに対してイラン革命防衛隊のラメザン・シャリフ報道官は、自分たちのミサイルがアル・アサド基地の「35カ所」に当たったと表明。国営テレビで放送された集会で、「アメリカ人たちは急ぎ緊急集会を開いた。まずはトランプが演説すると言ったが、その直後に演説は中止すると発表した。我々の言い分を間違いなく受け取ったに違いない」と述べた。
トランプ大統領は攻撃の第一報から約4時間たった米東部時間7日午後9時45分ごろ、ツイッターで「何もかも大丈夫だ(All is well)! イランからイラクにある2つの軍事基地にミサイルが発射された。被害者と損傷の把握が進んでいる。これまでのところ、順調だ! 我々は世界のどこより最強で装備万全の軍隊を持つ! 私は明朝に発言する」と書いた。
これに先立ち国防総省は声明で、「7日午後5時半(米東部標準時)ごろ、イランはイラク国内のアメリカ軍や連合軍の施設に対して、十数発の弾道ミサイルを発射した」と発表した。「イラン国内から発射されたのは明らかで、アル・アサドとアルビルで、米軍と連合軍の人員が宿泊するイラク軍基地を標的にした」という。
国防総省はさらに、「我々は、初期の戦闘被害評価を行っている。イランの脅しや行動に対応してここ数日、国防総省は我々や強力国の人員を守るため、あらゆる適切な措置を講じてきた。どちらの基地も、イラン政権がこの地域の米軍や資産を攻撃するつもりだという兆候から、厳戒態勢を敷いていた。状況と対応を検討するにあたり、我々はこの地域におけるアメリカの人員と協力国と同盟国を守り防衛するため、あらゆる必要な措置をとる」と表明した。
アル・アサド基地は近年では過激派「イスラム国(IS)」掃討作戦の拠点となった同基地の駐屯施設には、約1500人の米軍を始め多国籍軍の兵士が宿泊している。
アルビル基地は現地部隊の訓練に使われており、米陸軍は昨年9月、「13カ国の軍関係者と民間人が計3600人以上」拠点としていると明らかにした。
トランプ大統領のツイートに先駆けて、イランのザリフ外相は8日早朝にツイッターで、「イランは国連憲章第51条にのっとり、相応の手段で自衛権を行使した。我々の市民や政府幹部に対する卑怯な武力攻撃が発せられた基地を、標的にした」と書いた。外相はその上で、「我々はエスカレーションや戦争を望んでいないが、あらゆる攻撃に対して自衛する」と主張した。
このツイートは、事態沈静化を呼びかけるイラン側のシグナルだと受け止められている。
BBCのジェレミー・ボウエン中東編集長は、ザリフ外相のツイートについて「区切りとなる線を引こうとしていたのだと思う。これが自分たちの最終的な行動で、国際法に沿ったものだと言おうとしていたのだろう。(中略)外相とイランは両国の軍事力の不均衡は重々承知している。それだけに、ボールをアメリカ側のコートに打ち込んで、アメリカに『事態をさらにエスカレートしたいのかどうかは、あとはそちら次第だ』と伝えようとしたのだと思う」と話した。
イランのハッサン・ロウハニ大統領は8日午後、イラン国営テレビで放送された演説で、夜間のミサイル攻撃はイランが「アメリカを前に後退しない」ことを示したと宣言した。
AFP通信によると、ロウハニ大統領は「もしアメリカが犯罪を犯せば(中略)断固たる反応があると知るべきだ」、「(アメリカが)賢明ならば、現時点でこれ以上の行動はとらないはずだ」と述べた。
イランの報道によると、大統領はこれに先立ち閣議で、米軍は中東から追い出されるという見通しを示した。ロウハニ氏はアメリカについて「お前たちはソレイマニの手を体から切り落とした。お前たちの足は、この地域から切り離される」と述べたという。
ロウハニ大統領はさらにツイッターで同日、「ソレイマニ将軍はイスラム国、アルヌスラ、アルカイダなどと英雄的に戦った。将軍がテロと戦わなければ、欧州各国の首都は今頃とんでもない危険にさらされていたはずだ。その彼の暗殺に対する我々の最終回答は、この地域からすべての米軍を追い出すことだ」と書いた。
また、イランの最高指導者アリ・ハメネイ師は同日、「世界の横暴な者たちと戦う準備はできている」と述べた。イラン革命の前触れとなった1978年のコム抗議を記念する集会で発言した。
ハメネイ師は、ソレイマニ将軍の「殉教は我々の革命の活力を世界に示した」と言い、米軍基地への攻撃について「昨夜は連中の顔を平手打ちしてやった」と強調。「対決という意味では、こうした軍事行動だけでは不十分だ。大事なのは、合衆国の腐敗した存在が終わることだ」と付け足した。集まっていた群衆は、「アメリカに死を」という合言葉を繰り返した。
BBCのフランク・ガードナー安全保障担当編集委員は、イラン首脳のこうした発言を受けて、「イランの究極的な目標は米軍を中東から追い出すことだ。なので、これでおしまいというわけにはいかないだろう」と指摘している。
ロイター通信の記者は8日、イラク・ドホーク郊外にできた陥没穴を視察する人たちの様子を撮影した。ドホークは、イランが同日未明に攻撃したと発表したアルビル空軍基地から約112キロ北西にある。
イラクのアデル・アブドルマフディ首相は攻撃について、8日午前零時を過ぎて間もなくイラクから警告を受けたと明らかにした。ソレイマニ将軍殺害への対応として、イランが攻撃を実施した、もしくは間もなく実施するという警告だったという。首相によると、イランは米軍の所在地のみを標的にすると連絡し、具体的な場所は明らかにしなかった。これと同時にイラク政府は米政府から、ミサイルがアンバール県のアル・アサド空軍基地とアルビル県のハリール空軍基地がミサイル攻撃を受けていると通知があったという。
その上でアブドルマフディ首相は、「あらゆる主権侵害や領土への攻撃を拒絶する」と強調。現在の危機は「壊滅的な全面戦争の危機」で、イラクと地域と世界全体を脅かしていると警告した。
一方で、イラクの強力な親イラン派武装勢力のカイス・アル・ハザリ司令官は、まずはイランがソレイマニ将軍の暗殺に対応した今、将軍と共に死亡したイラク武装勢力のアブ・マフディ・アル・ムハンディス副司令官の暗殺に対応しなくてはならないとツイートした。
攻撃を受けて、トランプ大統領が国民に対してテレビ演説をするのではないかと憶測があったが、ホワイトハウスは今晩の演説はないと表明した。
消息筋によると、大統領の側近たちが演説原稿を整えていたという。
米報道によると、7日深夜の時点でマイク・ポンペオ国務長官やマーク・エスパー国防長官、マイク・ペンス副大統領はすでにホワイトハウスを後にしたという。
米連邦航空局(FAA)は、アメリカの民間航空各社に対して、イラン、イラク、ペルシャ湾、オマーン湾の上空の飛行を禁止した。「今後も引き続き、国家安全保障当局と連携し、米航空各社や海外の民間航空当局と情報共有していく」とコメントを出した。
レバノンを拠点とするアル・マヤディーン・テレビによると、アル・アサド空軍基地への攻撃は、ソレイマニ司令官がイランの出身地に埋葬された数時間後に実施された。さらにその直後に、アルビルへの攻撃が行われたという。
イラン・ケルマンで行われたソレイマニ司令官の埋葬では、押し寄せた群衆が折り重なるように倒れ、少なくとも50人が死亡し、200人が負傷した。
このため、埋葬は予定から遅れて行われた。参列者が口々に「アメリカに死を」、「トランプに死を」と叫ぶなか、イラン政府幹部たちは、あらためて復讐の誓いを繰り返した。
イラン革命防衛隊のホセイン・サラミ総司令官は、「殉教者カセム・ソレイマニは死んだ今こそますます強力だ」と群衆を前に強調した。
ボリス・ジョンソン英首相はイランによる攻撃を非難すると共に、「ただちに事態の沈静化を追求する」よう呼びかけた。英下院で答弁した首相は、「イランはこのような無謀で危険な攻撃を繰り返すべきでない」と述べた。
さらに首相は、「我々が把握できる限り、アメリカ側に死者はなく、イギリスの人員にも負傷はなかった」とし、「中東におけるイギリスの国益保全のためできる限りのことをしている。英艦ディフェンダーとモントローズは厳戒態勢を敷き、ペルシャ湾の海上輸送を護衛する姿勢だ」と説明しした。
ドミニク・ラーブ英外相は、英米など連合国の部隊が駐屯していたイラク国内の基地をイランが攻撃したことを、英政府として非難するとコメント。「こうした無謀で危険な攻撃を繰り返すのをやめて、それよりも緊急に事態沈静化につとめるようイランに呼びかける」と強調した。
「中東における戦争はダエシュ(イスラム国への蔑称)やその他のテロ組織を利するだけだ」とラーブ外相は述べた。
フランスのジャン=イヴ・ル・ドリアン外相は、「フランスはあらためて(イスラム国に対する)連合の同盟国や協力国との連帯を示し、イラクの主権と安全保障を重視する姿勢を表明する」と述べた。さらに、「暴力の連鎖は終わらなくてはならない。フランスは断固として、緊張緩和に向けて働いていく。我々は全当事者に連絡と取り合い、自制と責任ある行動を促している」と強調した。
欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長は、欧州連合(EU)は、イラクとの核合意を救うため「あらゆる努力をいとわない」と述べ、中東における武器の使用中止を呼びかけた。
一方で、シリア外務省はイランと「全面的に連帯」していると表明し、「アメリカの脅しや攻撃を前にした」イランの自衛権を認めるとコメントした。国営シリア・アラブ通信が伝えた。
シリア外務省はさらに、「アメリカの無謀な政策や、その行動を決定する傲慢な物の考え方のせいで起きている事態の結果は、すべて米政権の責任だ」と批判した。
ロイター通信によると、アラブ首長国連邦(UAE)のスハイル・マズルーイ・エネルギー産業相は、「同盟国のアメリカと、隣国のイランの関係がまぎれもなくエスカレートした。中東での緊張悪化は最も望ましくないことだ」と話した。
イラクの米軍施設攻撃に先立ちトランプ大統領は、イラクに駐留する米軍の撤退はイラクにとって最悪の事態となると牽制(けんせい)していた。
イラク議会は5日、ソレイマニ司令官がバグダッドで殺害された事態を受け、駐留米軍の国外退去を求める決議を採択していた。
この後、米国防総省が撤退に応じるかのように思える、イラク首相宛の書簡が流出。米軍は、協議のための下書きが誤って送付されたものと説明している。
イラクには約5000人の米兵が駐留している。
英外務省はBBCに対して、「現地の状況を確認しようと急いでいる。我々が最優先するのは、イギリス人の安全だ」と話した。
ベン・ウォレス英外相はソレイマニ司令官の殺害を受けて、中東に配備する英海軍や軍ヘリコプターに臨戦態勢をとるよう指示したと説明していた。
以前から悪化を続けていたイランとアメリカの関係は、今月3日のソレイマニ司令官殺害によって一気に先鋭化した。
イラクの海外作戦展開を担当するコッズ部隊を長年指揮したソレイマニ将軍は、国内では国民的英雄として扱われていたものの、アメリカ政府は米兵数千人を死なせたテロリストと呼び、アメリカに対して「切迫した」攻撃を計画していたと殺害理由を説明した。
イランが「厳しい復讐(ふくしゅう)」を誓うと、トランプ大統領は「もしかすると不相応な形で」反撃に応えると発言。将軍は「化け物だった。もう化け物じゃない。死んだ」と非難し、「大きい攻撃を計画していた。こちらにとって悪い攻撃を。誰も文句を言える筋合いじゃないと思う」と述べていた。
イランは隣国イラクで様々なシーア派武装勢力を後押ししている。ソレイマニ司令官が殺害された際も、まさにそうした武装勢力の幹部と一緒だった。
その一方でイラクは、アメリカとも同盟関係にある。イスラム教スンニ派のISとの戦いを支援するため、数千人の米軍が今もイラク駐留を続けている。しかし、イラク政府はソレイマニ司令官の殺害について、アメリカの行為は両国間の合意を逸脱したものだと批判している。
イラクのアブドルマハディ首相も、米軍が首都バグダッドでソレイマニ司令官を殺害したことに反発し、「イラクの主権を傲慢に侵害し、国の尊厳をあからさまに攻撃した」と非難していた。 
イランで旅客機が墜落、対立との関係は不明
イランの首都テヘランで8日早朝、イマーム・ホメイニ空港を離陸した直後のウクライナ航空機が墜落した。イランの国営ファルス通信が発表した。
ウクライナ航空PS752便は午前6時12分(日本時間午前11時42分)、テヘランからウクライナの首都キーウ(キエフ)に向かって出発した。
このボーイング737型機には、乗客乗員170人以上が乗っていた。ウクライナのヴァディム・プリスタイコ外相は、犠牲者はイラン人82人、カナダ人63人、乗員9人全員を含むウクライナ人11人、スウェーデン人10人、アフガニスタン人4人、ドイツ人とイギリス人が各3人と伝えた。
イランとアメリカの対立に関係するかどうかは明らかになっていない。
在イランのウクライナ大使館は、墜落の原因はテロではなくエンジン不良だったと話している。
ウクライナ大使館は外務省のウェブサイトを通じ、「速報によると、墜落事故は技術的理由によるエンジン不良が原因。テロ攻撃の可能性は現時点で排除されている」と説明した。
また、オマーン訪問中のウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、予定を早めてキーウに戻ることにしたという。
一方で大統領は、正式な報告書が準備できるまでは「この惨事についての憶測や論拠のない説」に注意するよう呼びかけ、声明で「全ての乗員乗客の家族や友人にお悔やみ申し上げます」と述べた。
さらに、イラン政府の了解を得た上で、犠牲者の遺体をウクライナに帰還させるための特別機を派遣すると述べた。
ウクライナ航空は、テヘラン行きの便を全て欠航とした。また、墜落した旅客機は6日に点検・修理を終えたばかりだったと述べている。
現場には救援隊が派遣されたが、イランの赤新月社のトップは国営テレビで、生存者を見つけるのは「不可能」だと語った。
イランメディアによると、救援隊が墜落機のブラックボックスのうちの1つを発見したという。
航空安全の専門家トッド・カーティス氏はBBCの取材に対し、墜落機は2016年製造で、ウクライナ航空が新たなに購入したものだと説明した。
「墜落機は粉々になってしまっている。つまり、地上で大きな衝撃を受けたか、空中で何かが起きたと考えられる」とカーティス氏は指摘した。
「あらゆる状況から見て、この旅客機は正しく整備され、欧米の航空当局からも特段の問題はないとされていた。そのため、現時点では特定の原因を示すものは何もない」
また、今回の墜落の調査にはイランとウクライナのほか、アメリカやフランス当局も加わるだろうと述べた一方、イランとアメリカの対立が高まる中、各国がどのように協力するかは不透明だとしている。
「当局はまず、機内で何が起こったのかをまとめようとするだろう(中略)機体の状況や、搭載していた燃料に墜落の原因があったのかどうかを調べることになる」
「さらに、機体の外で何かが起こった可能性も否定できない。空中での衝突や、その他の要因が関係しているかもしれない」
今回墜落したボーイング737-800型機は、世界中で何千機もが運用されており、すでに数千万回航行している。カーティス氏によると、これまでに今回の墜落を含めて10件の事故が起きているという。
一方、ウクライナ航空にとっては、死者の出た墜落は今回が初めて。 
日本・イラン貿易、2019年は急減 : 米国の経済制裁が影を落とす
世界有数の産油国であるイランは、日本にとって重要な石油供給国だった。核開発疑惑による経済制裁などで輸入量は漸減していたが、2019年はさらに大きく落ち込んだ。
資源小国である日本は、中東の産油国と友好関係を築く努力を重ねてきた。世界第4位の原油埋蔵量、世界第1位の天然ガス埋蔵量を誇るイランも長年にわたって重要な石油供給国だった。しかし、核兵器開発疑惑による米国の対イラン経済制裁が、日本とイランの貿易関係にも影を落としている。
日本は2000年、推定埋蔵量260億バレルのアザデガン油田開発の優先交渉権を獲得した。「日の丸油田」として期待が高まったが、米国の反発を受けて交渉は難航。04年に日本側75%出資でイラン国営石油会社との契約締結にこぎ着けたものの、米国の対イラン制裁強化により対象企業に指定される恐れが高まったため、06年に権益を10%に縮小、さらに10年には完全撤退した。
日本とイランの貿易関係は、圧倒的な日本の輸入超で推移してきた。2018年の輸入額は3800億円で、ほとんどが原油などの鉱物性燃料。日本からの輸出は770億円で、自動車等の輸送機器や一般機械が中心。
イランは人口8000万人近い中東の大国で、潜在性のある巨大市場として欧州各国も注目している。2015年7月のイランと欧米など6カ国の核協議最終合意に伴う経済制裁の解除を受け、日本も停滞気味だった貿易の拡大を目指していたが、米トランプ大統領による合意破棄、経済制裁の再開によりイラン経済は苦しい状況に陥っている。さらに、2019年末の米軍によるイラン司令官殺害で緊張関係が高まっており、世界経済全体への影響も懸念されている。
日本の原油輸入量全体に占めるイラン産の割合は18年実績で4.2%まで縮小(石油統計)しているが、この地域で政治的・軍事的緊張感が高まることは、エネルギーの中東依存度が高い日本にとって危機的なことである。
日本・イラン関係の主な出来事
1929 - 在イラン公使館開設
1958 - パーレビ国王来日
1960 - 皇太子同妃殿下(現上皇・上皇后)イラン訪問
1978 - 福田赳夫首相イラン訪問
2000 - ハタミ大統領がイランの大統領として初来日(元首クラスの来日は1958年以来42年ぶり)、森喜朗首相と会談。日本が、アザデガン油田の優先交渉権を獲得
2004 - 国際石油開発とイラン国営石油会社がアザデガン油田の開発契約締結。総投資額20億ドルのうち日本側が75%出資
2006 - 国連安保理がイランに対しウラン濃縮停止要求と経済制裁警告決議。日本はアザデガン油田の権益を75%から10%に縮小
2008 - 福田康夫首相とアフマディネジャド大統領がローマで首脳会談 (首脳会談は2000年以来、8年ぶり)
2010 - 日本がアザデカン油田から完全撤退
2013 - 安倍晋三首相とロウハニ大統領がニューヨークで会談 (以後、ニューヨークでの首脳会談は6年連続で行われている)
2019 - 6月 安倍首相がイラン訪問、ロウハニ大統領、最高指導者ハメネイ師と会談 (首相のイラン訪問は1978年の福田赳夫氏以来41年ぶり)
2019 - 12/6 崩壊の瀬戸際にあるイラン核合意を巡り、イランと英仏独中露の5カ国が6日、ウィーンで政府高官レベルの協議を開いた。英仏独は核合意からの逸脱行為を続けるイランに合意の履行を強く要求。イランは履行の見返りとなる経済支援を受け取っていないと反論し、激しい応酬が繰り広げられた。最終的に英仏独はイランへの制裁再開などの強硬措置は見送り、双方は核合意維持に向けて今後も努力することで一致した。英仏独は協議後の声明で、核合意を「核不拡散のための重要な基盤」と強調した。イランの逸脱行為に「深刻・・・
2019 - 12/20 ロウハニ大統領来日 (2000年のハタミ大統領以来、19年ぶり)
2019 - 12/27 中東シーレーンを航行する船舶の安全確保に向けた情報収集のため、海上自衛隊の中東派遣を閣議決定 (20年2月派遣予定)
2019 - 12/29 米軍がイスラム教シーア派組織「カタイブ・ヒズボラ」の拠点5カ所を空爆
2020 - 1/3 イラン革命防衛隊ソレイマニ司令官が米軍の空爆により死亡
2020 - 1/8 イラン革命防衛隊がイラクの駐留米軍基地をミサイル攻撃
2020 - 1/8 トランプ大統領が「軍事力を行使したくはない」とイランへの報復を否定する演説  
 
  

 

1/9 円安 株価戻る
米国とイラン 腹のうちの手打ち
日本の株価 日常の取引の5-6割が海外投資家
戦争=金融不安 円の売り買いに直結
逆読み 戦争が遠のいた?
 
 
 1/9

 

イラン、報復後に米へ書簡 反撃なければ攻撃せず 
イラン革命防衛隊が8日にイラクの米軍駐留基地を弾道ミサイルで攻撃した直後、イラン政府がトランプ米政権に対して自制を求める書簡を送っていたことが8日、分かった。米国がイランに反撃しなければ、イランは対米攻撃を継続しないという内容で、米国に「理性的な行動」を要請していた。イラン政府筋が共同通信に明らかにした。
米国の利益代表部を務めるスイスを通じ米国に送付された。イランが、イラクの米軍駐留基地へのミサイル攻撃という武力行使で国際社会に衝撃を与える一方、米国との本格的な紛争勃発を回避しようと裏で働き掛けていた実態が明らかになった。
トランプ米大統領は8日の演説で、イランには軍事力を用いたくないとして反撃を否定。イランの書簡が米国の方針決定に影響を及ぼした可能性がありそうだ。
米大統領 反撃に言及せず イランとの衝突 回避の見方広がる
アメリカのトランプ大統領は、イランが司令官殺害の報復として、アメリカ軍の拠点を攻撃したことを受けて演説し、反撃には言及せずに、これ以上の事態の悪化は避けたいという姿勢を明確にしました。イランも国連の事務総長への書簡で同様の考えを示し、本格的な衝突はいったん回避できたという見方が広がっています。
アメリカのトランプ大統領は、イランが革命防衛隊のソレイマニ司令官殺害への報復として、隣国イラクのアメリカ軍の拠点を攻撃したことを受け8日、国民向けに演説しました。
このなかでトランプ大統領は、アメリカ兵らに死傷者はなく、被害は最小限に抑えられたと強調しました。そして「イランは今のところ矛を収めているようだ」と述べ、さらなる攻撃の可能性は低いという認識を示し、反撃には言及しませんでした。
さらに「アメリカは平和に身をささげる準備ができている」として、これ以上の事態の悪化は避けたいという姿勢を明確にしました。
また、イランのラバンチ国連大使は8日、国連のグテーレス事務総長に書簡を送り、攻撃は正当な自衛権の行使だと主張する一方、「イランは事態がさらに悪化したり、戦争になったりすることを求めない」として、イランとしても報復の応酬は望まないという考えを示しました。
アメリカとイランの双方が冷静な対応を示したことで、国際社会では本格的な衝突はいったん回避できたという見方が広がっています。
アメリカのエスパー国防長官と制服組トップのミリー統合参謀本部議長は、8日、国防総省で記者団の取材に応じ、イランが今回の攻撃で発射したのは16発の短距離弾道ミサイルで、イラン国内の3か所から発射されたと説明しました。
エスパー長官によりますと、このうち11発はアメリカ軍が駐留するイラク西部のアサド空軍基地に、1発は北部のアルビルの基地に着弾しましたが、4発は着弾しなかったということです。
攻撃ではアメリカ軍のヘリコプターや基地の誘導路、駐車場が被害を受けたものの、大きな損害は出なかったとしています。
また今回のミサイル攻撃では、事態のエスカレートを避けたいイランが、アメリカ軍に大規模な人的被害が出ないよう標的を慎重に選んだとの見方も出ていますが、ミリー議長は「攻撃は兵士を殺害することを意図したものだと見ている」と述べ、こうした見方を否定しました。
そのうえで、アメリカ兵らに死傷者が出なかったのは、アメリカ軍が早期にミサイルの発射を探知し、警報を発して避難させた対処能力の結果だと主張しました。
一方、ミリー議長はイランとつながりの深いイスラム教シーア派の武装組織からの攻撃の可能性について「非常に現実的だ」と述べ、今後、攻撃を仕掛けてくる危険があるとして、警戒を続ける方針を示しました。
イランのラバンチ国連大使は国連のグテーレス事務総長に書簡を送り、「イランは事態がさらに悪化したり、戦争になったりすることを求めない」として、イランとしてもアメリカとの軍事的衝突を避けたい立場を強調しました。
イランの国連代表部は8日、ツイッターでラバンチ国連大使がグテーレス事務総長に送った書簡を公表しました。
書簡では、まずイランがイラクのアメリカ軍の拠点をねらって弾道ミサイルを発射したことに関して、「イランは国連憲章51条が定める固有の自衛権に基づいて、ソレイマニ司令官に対する卑劣な攻撃を実行したイラクにあるアメリカ空軍の駐屯地に、計算された相応の攻撃を遂行した」として、正当な自衛権の行使だと主張しました。
そうえで「イランは事態がさらに悪化したり、戦争になったりすることを求めない」として、イランとしてもアメリカとの軍事的衝突を避けたいとする立場を強調しています。
アメリカのトランプ大統領は、演説でイランとの間で事態のさらなる悪化は望まない考えを示していて、イランとしてもこれに応じた形です。
アメリカのペンス副大統領は8日、出演したテレビ番組のインタビューで、「イラン政府が、つながりの深い武装組織に対して、アメリカの市民や標的への攻撃をしないよう呼びかけているという心強い情報を得ており、その呼びかけが続くことを願っている」と述べ、イランが武装組織に攻撃を控えるよう働きかけているという見方を示しました。
イランがアメリカ軍の拠点を攻撃したことに対し、アメリカのトランプ大統領が事態のさらなる悪化は避けたいという考えを示したことについて、国際社会からは、本格的な衝突はひとまず回避できたとして好意的な受け止めが広がっています。
アメリカのトランプ大統領は、8日午前(日本時間の9日未明)に、イランがアメリカ軍の拠点に対して攻撃を行ったことを受け国民向けに演説を行い、「われわれは強力な軍や装備品を持っているが、使いたくはない」などと述べ、事態の悪化は避けたいという考えを明確に示しました。
これについて国連の報道官は、「本格的な衝突から退くことを示したもので歓迎する」と述べ、アメリカとイランの衝突がひとまず回避できたとして、好意的に受け止めています。
またイギリスの有力紙「ガーディアン」も「短期的には衝突が避けられた」として評価しています。ただ「中東の代理勢力を通じたにらみ合いは続くだろう」として、イランが域内の民兵組織などを使ってアメリカに対抗する構図に変化はなく、長期的な対立が続くとしています。
一方、ロシアのプーチン大統領とトルコのエルドアン大統領は、トランプ大統領の演説に先立ち発表した共同声明で、中東地域の緊張緩和に向けて連携を強化する考えを示し、この地域での存在感を高めたいねらいがあるものとみられます。
トランプ氏、対イラン戦争回避の姿勢 基地攻撃で死者出ず
イランがイラクの米軍駐留基地をミサイルで攻撃したことを受けて、ドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領は8日、ホワイトハウス(White House)で演説し、攻撃により米国人やイラク人の死者は出ず、イランは「身を引いているようだ」と述べて、同国との戦争を回避する姿勢を示した。
トランプ氏は「わが国の兵士は全員無事であり、われわれの軍事基地における被害は最小限にとどまった。われらが偉大なる米軍は、何に対しても備えができている」と述べた。
また「イランは身を引いているようだ。これは全当事者にとって良いことであり、世界にとって非常に良いことだ。米国人やイラク人の命は失われなかった」と話した。
トランプ氏は、イランに対して直ちに「厳しい追加制裁」を科すと表明したが、7日のミサイル攻撃に対する報復の可能性については言及しなかった。
専門家らはイランのミサイル攻撃について、同国のガセム・ソレイマニ(Qasem Soleimani)司令官が米国の無人機攻撃によって殺害されたことに対する最初の本格的な対抗措置とみている。世界各国の首脳はそろって、この攻撃を非難した。
トランプ氏は、自身の経済政策により中東の石油への米国の依存度が低下し、中東での米政府の「戦略上の優先事項」が変わったと説明。「私はきょう、北大西洋条約機構(NATO)に対し、中東のプロセスへの関与を大幅に深めるよう要請する」と述べた。
また、世界の主要国に対し、米国に追従して2015年のイラン核合意から離脱するよう呼び掛けた。さらにイランに対しても直接の呼び掛けを行い、「米国は、平和を追求するすべての人々との和平を受け入れる用意がある」と述べた。 
イラン司令官の「標的殺害」で一線を超えたトランプ大統領
2020年の国際舞台は、トランプ政権による「標的殺害」(targeted killing)で幕が上がった。イランで英雄視されるスレイマニ革命防衛隊司令官が3日、隣国イラクの首都バグダッドで米軍によって殺害された。イランは8日、イラクの米軍基地にミサイルで報復攻撃、米イランの報復の応酬へ発展しかねない情勢だ。特定の個人を狙う標的殺害は、極めて限定的な攻撃と言われるが、今回の要人殺害は、どちらの指導者も望まない大きな紛争へエスカレートする様相を見せている。
米メディアによれば、トランプ大統領の指示を受け、米軍の無人機(ドローン)から発射された空対地ミサイルが、国際空港近くを走行していた車両に命中し、乗っていた司令官と、イラクの親イランのシーア派武装組織「人民動員隊」のムハンディス副司令官らが抹殺された。日本のメディアでは完全にスルーされているが、今回の殺害は、国家機関が安全保障上の脅威と見なす個人を特定・選別し、追跡して「狙い討ち」にする標的殺害の一種だ。スレイマニ司令官は、戦争で殺害されたのではない。無論、司法手続きを経たうえでの死刑で死んだのでもない。米国の安全保障にとって深刻な脅威と判断されたから名指しで殺害されたのだ。では、スレイマニ氏は、どんな脅威を米国に突き付けていたのか。国防総省の声明によれば、「スレイマニ司令官は、米国の外交官と軍人を攻撃する計画を積極的に進めていた」。しかし、攻撃の日時や場所など具体的な情報をつかんでいたわけではなさそうだ。それよりも、スレイマニ氏の反米ネットワークづくりの技がトランプ政権の目には脅威と映ったようだ。イラン革命防衛隊のなかでも対外工作活動を担う特殊部隊を率い、イラクやシリア、レバノン、イエメンなど近隣国のシーア派武装組織に武器や資金を供与したり、軍事訓練を施したりするなどして「代理勢力」を育成し、間接的に対米テロを支援してきた。彼のカリスマ性も相まって、各組織を強固につなぐ「接着剤」の役割を果たしてきた。要するに、代理勢力を背後で操る能力に関する限り、余人をもって代えがたい存在と見られた。彼がいなければ、「武装組織による米軍への攻撃はグーンと減る」(国務省当局者)とトランプ政権は踏んだのだ。
標的殺害は、一昔前ならば、米国でも暗殺と見なされた。1991年の湾岸戦争直前、デューガン空軍総司令官がイラクのフセイン大統領も標的に入っているなどと不用意な発言をしたため、暗殺を計画していると受け取られることを恐れた当時のチェイニー国防長官によって直ちに解任された。しかし、2001年に米国を襲った9・11同時多発テロで、標的殺害は暗殺から自衛攻撃に一変、その後の20年は、まさに「標的殺害の時代」と言ってもいいだろう。歴代の米政権は、差し迫った脅威の概念を拡大解釈し、具体的なテロ攻撃の確証がなくても、標的に対する先制・予防攻撃を自衛権の行使として容認するようになった(無論、米解釈に国際法上の疑義を唱える専門家は少なくない)。その結果、米軍とCIAは、イラク、シリア、リビア、パキスタン、アフガニスタン、イエメン、ソマリアなどでドローン攻撃を頻繁に行うようになった。2011年には、米軍特殊部隊が国際テロ組織アルカイダの首領で9・11を首謀したオサマ・ビンラーディンが米軍特殊部隊によって殺害された。昨年11月には、イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)の指導者バグダディに対する殺害作戦もあった。
ここで特記すべきは、どれも非国家のテロ集団のメンバーを狙った標的殺害に限定され、米軍が敵対国家の要人を公然と殺害したケースは見当たらない、ということだ。公然とは、米国政府が実行したことを隠さずに、堂々と認めるという意味だ。なぜ、トランプ大統領は今回、この一線を越え、イランの最高指導者ハメネイ師に次ぐ事実上ナンバー2の実力者を標的にしたのだろうか。昨年末、親イランの武装組織からロケット弾攻撃を受け、イラク国内で米国人が犠牲になると、一気に緊張が高まった。昨年6月にイランが米無人機を撃墜しても、9月にサウジアラビアの石油施設が攻撃された際も、米国はイラン犯行説を唱えつつ、報復攻撃をしなかった。そんなとき、米国がテロ組織と指定するイラン革命防衛隊のトップが、何の咎めもなく堂々と隣国を旅行していることを知り、「なめるな!」という衝動にかられたのではないか。いずれにせよ、標的殺害の決定に際し、エスカレーションのリスクを真剣に検討したとは思えない。スレイマニ氏を公然と殺害した結果、イランのナショナリズムに火がつき、指導部は対米強硬路線から引き下がれなくなってしまった。いまや革命防衛隊のシンパだけでなく、数百万人の国民が「報復」を叫んでいる。国際テロ組織の首領を殺害しても、反米感情は広がらなかったが、国家要人の場合、そうはいかない。この点をトランプ大統領は見誤ったのだと思う。さらに言えば、同じ標的殺害でも、CIAや地元勢力による影の非公然作戦ならば、イラン指導部の選択の幅は広がるだろう。国民には米国政府の仕業だと分からないため、ナショナリズムの拘束を受けなくて済むからだ。仮に、米国政府の責任と関与を問われたとしても、僅でも否定の余地を残せる。大勢の観衆が見ている「表舞台」で堂々と殺害するか、それとも、観衆からは見えない「舞台裏」で暗々裏に殺害するかで、イランの反応が異なることを考え抜いたとは思えない。
合理的に考えれば、米イランの直接戦争にエスカレートする可能性は低いだろう。とはいえ、米国の軍人や民間人が犠牲になれば、米軍はイランへの直接攻撃も辞さないだろう。米国の同盟国である日本も対岸の火事ではいられない。日本の商船が「闇討ち」に遭うかもしれない。昨年6月にホルムズ海峡近くで日本関係船舶が攻撃を受けたが、いまだに誰の仕業かはっきりしていない。  
イランから日本に連絡「事態エスカレートさせるつもりない」
イラン情勢の緊張が続く中、日本時間の8日夜、イラン政府から日本政府に対し、イラク駐留アメリカ軍へのミサイル攻撃によって報復措置は完了したとしたうえで、「事態をエスカレートさせるつもりはない」という意向が伝えられていたことが分かりました。
日本政府関係者によりますと、イランによるイラク駐留アメリカ軍へのミサイル攻撃で緊張が高まっていた日本時間の8日夜、イラン政府の高官から日本政府の高官に対し「報復措置は完了した。イラン側から事態をエスカレートさせるつもりはない」という連絡があったということです。
イラン情勢をめぐって、日本政府はすべての関係国に対し、緊張緩和のための外交努力を呼びかける姿勢を内外に示し、アメリカとイランの双方にも自制するよう働きかけを続けてきました。
安倍総理大臣としては、イラン側の意向を重視するとともに、同じく事態のさらなる悪化は避けたいとするトランプ大統領の演説も踏まえ、今週末から予定どおり中東3か国を訪問することにしたとみられます。  
トランプ米大統領、対イラン攻撃に否定的 全面衝突回避、制裁で幕引き
トランプ米大統領は8日、イランによる駐留米軍基地に対する弾道ミサイル攻撃を受けてホワイトハウスで国民向けに演説し、「軍事力を行使したくはない」とイランへの報復攻撃に否定的な考えを示した。一方で「即座に新たな経済制裁を科す」と表明した。
革命防衛隊コッズ部隊のソレイマニ司令官殺害で一気に緊張が高まった米イラン関係は、イランによるミサイル攻撃に発展した。だが、イランは米側に人的被害が出ないように配慮したとみられ、ザリフ外相も「緊張激化や戦争は望んでいない」と明言。米国としても全面衝突を回避するため、制裁で幕引きを図った形だ。
トランプ氏は「米国人に犠牲者はおらず、基地の損傷も最小限だった」と強調した。さらに「イランは攻撃を終えたようだ。全ての関係者や世界にとって良いことだ」と述べ、弾道ミサイルを使った今回の攻撃について直接的な非難を避けた。
また「ソレイマニを排除することでテロリストに強力なメッセージを送った」と米軍の作戦を正当化。イラン指導部と国民に対しては「自国の繁栄と他国との協調に基づく素晴らしい未来をつくってほしい」と呼び掛け、対話の意思を示した。  
「イランと真剣な交渉の準備ある」 米が国連に書簡
アメリカのケリー・クラフト国連大使は8日、国連安全保障理事会に書簡を送り、緊張関係が続くイランと「無条件で真剣な交渉に応じる用意がある」と伝えた。
書簡では、米軍がドローン攻撃で3日、イラン革命防衛隊のカセム・ソレイマニ将軍を殺害したことについて、自衛行為だったとして正当性を主張した。一方、将軍殺害の報復として、イラクにある米軍基地にミサイルを発射したイランも8日、ミサイル攻撃は自衛のための行動だったと、国連に書簡で伝えた。
米軍基地への攻撃は7日夜に実施。死者はなかった。
アメリカのクラフト大使は国連安保理への書簡で、同国が「国際平和と安全をさらなる危険にさらすことや、イラン政権による事態悪化を防ぐことを目的に」交渉する準備があると述べた。また、国連憲章第51条に基づき、ソレイマニ将軍の殺害は正当だと主張した。同条項では、自衛権行使の行動を起こした国に、国連安保理に「速やかに報告」するよう義務付けている。書簡ではさらに、アメリカは国民と国益の保護のため、「必要に応じて」中東で追加措置を取るとした。
一方、イランのマジド・タクト・ラヴァンチ国連大使は、アメリカが話し合いを提示したことについて「信じられない」と述べた。アメリカがイランに対し、厳しい経済制裁を続けていることをふまえた発言だ。イランも国連憲章第51条を挙げ、米軍基地の攻撃を正当化した。国連への書簡でラヴァンチ国連大使は、同国が「事態悪化や戦争を求めていない」と述べた。ミサイル攻撃については、「イラクにある米軍基地を狙い、計算され適度な軍事対応」を取ったと説明した。さらに、「作戦は正確で軍事上の標的を狙ったもので、付近で民間人や民間の財産を巻き込んだ被害はなかった」とした。イランの最高指導者アリ・ハメネイ師は、米軍基地へのミサイル攻撃について、「アメリカへの平手打ち」に過ぎないとし、アメリカを中東から追い出すと強調した。米軍によるソレイマニ将軍の殺害では、イランの支援を受けていたイラク軍兵士も死亡。イラクも復讐を表明している。一方、アメリカのマイク・ペンス副大統領は米CBSニュースに対し、イランが同盟国にアメリカの標的を攻撃しないよう要請したことを示す情報があると話した。米下院は9日、ドナルド・トランプ大統領が議会の特定の承認なしにイランを相手に開戦する権限を制限する、決議案を採決する予定。  
「イランは戦闘態勢から引く様子」とトランプ氏 追加制裁の方針示す 1/9
ドナルド・トランプ米大統領は8日午前11時半(日本時間9日午前1時半)、緊張が高まるイランとの関係についてホワイトハウスで記者団を前に声明を読み上げ、「イランは戦闘態勢から引く様子だ」と述べた。イランが同日未明にイラク国内2カ所の米軍基地をミサイル攻撃したことについては、アメリカ人やイラク人の人的被害はなく、わずかな損傷にとどまったと述べた。
トランプ氏はさらに、米政府としてただちにイランに経済・財政制裁を追加発動し、イランが「振る舞いを変える」まで継続すると述べた。
ホワイトハウスで、政権幹部や制服姿の軍幹部を従えて記者団の前に立ったトランプ氏は、「自分が大統領でいる限り、イランに決して核兵器を持たせない」と語り始めた。続けて、イランの攻撃による被害はなく、「イランは戦闘態勢から引く様子で、それは全ての当事者にとって、そして世界にとってとても良いことだ」と述べた。
トランプ氏は、米軍が3日にドローン攻撃でバグダッドで殺害したイラン革命防衛隊のカセム・ソレイマニ将軍のことを、テロ組織を支援し、中東各地で内戦を扇動し、多数の米兵を無残に殺害した、「最悪の残虐行為の責任者」だと非難。新しいアメリカ攻撃を計画していた「世界一のテロリスト」と呼び、「もっと前に終了させるべきだった」が、自分たちが「食い止めた」と述べた。
さらに、イランは「核兵器の野心を捨て、テロ支援をやめなくてはならない」と強調したほか、オバマ前政権などがイランと締結した核合意を「馬鹿げた」「欠陥だらけ」のものだと批判。オバマ前政権によるこの核合意のせいで、イランは今回の攻撃に使ったミサイルなどの資金を得たとも述べた。さらに、2018年5月に自らが一方的に離脱した核合意を、英・独・仏・露・中の各国はもう諦めるべきで、世界とイランのためにより良い合意を模索する必要があると強調した。
北大西洋条約機構(NATO)に、これまで以上に中東情勢に関わるよう求める方針も示した。
トランプ氏はさらに、自分の手腕により米経済がかつてなく強くなり、アメリカがエネルギー独立を実現したため、もはや中東の石油に依存していないと主張。また自分の政権によって米軍は刷新されて強力になり、今回の攻撃も被害を最小限に食い止めることができたと述べた。
その上でトランプ氏は、「アメリカの軍事力と経済力が最善の抑止力」だとして、「素晴らしい軍事力と装備を持つからと言って、その力を使う必要もないし、使いたいわけでもない」と強調した。
また、イランがいずれ世界の国々と協調して繁栄する、本来あるべき素晴らしい未来を実現するよう期待すると述べ、「合衆国は平和を求める全ての相手と、平和を受け入れる用意がある」と主張した。
米軍が3日未明にソレイマニ将軍を殺害すると、イランは「厳しい復讐(ふくしゅう)」を宣言。8日未明にイラクにある2つの米軍基地を弾道ミサイルで攻撃した。
これは「アメリカへの平手打ち」に過ぎないと、最高指導者アリ・ハメネイ師は言い、アメリカを中東から追い出すまで戦うと力説したものの、イランのジャヴィド・ザリフ外相は8日早朝にツイッターで、「イランは国連憲章第51条にのっとり、相応の手段で自衛権を行使した」と書いた。
外相はその上で、「我々はエスカレーション(事態悪化)や戦争を望んでいないが、あらゆる攻撃に対して自衛する」と主張。このツイートは、事態沈静化を呼びかけるイラン側のシグナルだと受け止められていた。
外相のツイートの後も、イランのハッサン・ロウハニ大統領がテレビ演説で「(アメリカが)賢明ならば、現時点でこれ以上の行動はとらないはずだ」と述べていた。
一方で、ソレイマニ将軍の葬儀にはイラン各地で大群衆が押し寄せ、大勢が「アメリカに死を」と唱えた。それだけに、イランの強硬派が今回のトランプ発言をどう受け止めるかが注目されると、BBCのフランク・ガードナー安全保障担当編集委員は話した。
トランプ氏は4日の時点では、もしイランの反撃でアメリカ人やアメリカ資産が被害を受けるようなことがあれば、イランの文化を含む「52の標的」を攻撃するとツイートした。その後も、「不相応な」反撃の可能性を示唆していた。
全て元通り……なのか?――
トランプ大統領の演説は奇妙な混合物だった。脅しと虚勢と、そして事態沈静化の意向が少々という。
とはいえ、イラン政府には追加経済制裁もピシャリと科した。「世界一のテロリスト」と呼ぶソレイマニ将軍の殺害は、自慢してみせた。
それでも要するにこの演説には、要点が3つあった。第一に、事態沈静化だ。イランのミサイル攻撃によるアメリカ人の犠牲者は出なかった。イランは「戦闘態勢から引く」ようだと言った。おそらく、配備されたミサイル発射部隊がそれぞれの基地に戻るという意味だろう。そしてトランプ氏は、米軍が即応するとは言わなかった。
二つ目は、核合意だ。米政府がとっくの昔に離脱した、2015年の「共同包括行動計画(JCPOA)」の締約各国に対して、あれはろくなものではないからもう諦めろと呼びかけた。
そして三つ目。アメリカがエネルギー独立を達成したと強調し、NATO諸国に「中東のプロセスにもっと関わる」よう呼びかけた。この発言は当然ながら、やはりアメリカは中東での役割にもうくたびれてしまったのだと、そういう意味だと受け止められる。そしてそれは、中東の同盟諸国もNATO加盟各国も、決して歓迎しない。
そういうわけで、この演説はいかにもトランプ的矛盾に満ちていた。イラン国民の明るい未来に多少触れたところで、新しい外交機軸の具体的展望などほとんど示していない。
つまり、米軍のドローン攻撃にイランのミサイル攻撃と立て続いた後のことの顛末(てんまつ)はどうやら、何もかも元通り……ということらしい。  
 
 

 

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イランとアメリカの緊張
イランとアメリカの緊張は、ガーセム・ソレイマーニー司令官がイラクのバグダッドでアメリカ軍によって殺害され、イランがイラクのアメリカ軍基地を攻撃した後に一層高まりました。イラン革命防衛隊コッズ部隊のガーセム・ソレイマーニー司令官は、最近のイランの地域的政治の重要人物でした。ソレイマーニー司令官は、アラブの春が始まった後にイランの国外作戦を指揮する最重要人物となりました。レバノン、シリア、イラク、イエメンで活躍したソレイマーニー司令官は、シーア派民兵の地域における衝突への参加を主導した人物でした。そのほか、ソレイマーニー司令官は、レバノンからイエメンまで、民兵を通じて権威を確立し、イランの内政において、精神的リーダーのハメネイ師やロウハニ大統領よりも、もっと高い人気を得ました。ソレイマーニー司令官の役割や責任を考えると、その死はイランを根底から揺るがす可能性があります。
ソレイマーニー司令官の殺害と、その直後にイランが与えた厳しい報復は、2020年に中東政治が波乱に満ちるであろうことを証明しているかのようです。イランとアメリカの緊張が、二国の直接的な戦争勃発を引き起こすかどうかはわかりませんが、双方の間で長い間続いているオブラートな戦いはさらに深化してしまうでしょう。イラン政府は、ソレイマーニー司令官の死後に復讐を誓い、その誓いを守ったことをすぐに示しました。長い間困難な日々を送っているイラン人社会も、テヘランの道々で復讐の誓いをともにしてスローガンを叫び続けています。バグダッドの道々からも、ソレイマーニー司令官とともに殺害されたムハンディス副長官の復讐を誓うスローガンが叫ばれています。さらに、新たに結成された大小の武装組織が、二人の復讐を誓う映像をシェアしました。イラク議会も、アメリカ軍兵士のイラクからの撤退を決定し、政府にその権限を付与しました。そもそも長い間内部衝突や政治的混乱に陥っているイラクがこの困難な過程をどう乗り越えるかは、大きな疑問です。イラク人は、イランとアメリカの緊張と競争のせいで、自分たちの国が廃墟と化したことを知っています。しかし、手立てがありません。「アメリカもイランもいない、独立したイラク」の思想を実現する魔法の方程式もありません。
イラン政府は、アメリカに対しどう報復するかに関し、緊急事態に開かれる上級国家安全評議会を招集しました。ハメネイ師も会議に同席しました。イラン国家は、シーア派においても力強いシンボルである赤い戦旗をモスクの丸屋根に掲げました。イラン政府は、また、イランは核計画に関する国際的な約束を果たさず、ウラン濃縮化を続けると発表し、アメリカに対し、非常に大きな報復をすると宣言しました。事実、その答えとしてイラクのアメリカ軍基地を攻撃しました。しかし、この報復が、ソレイマーニー司令官の殺害の見返りとなるかどうか明言することは、今のところ難しいです。アメリカがどんな見返りを与えるかが、この点で極めて重要です。
ソレイマーニー司令官の殺害により、中東の情勢は大きく変わったかのようです。すべての主体が、今後起きることを推測しようとしており、その推測により計算しています。現時点でトルコは、節度を守るよう呼びかけているほぼ唯一の国です。イスラエルは、ソレイマーニー司令官の殺害を大いに喜んでいます。サウジアラビアはそもそもソレイマーニー司令官を、手を血に染めた人物だと呼んでいました。今、サウジアラビアは一層喜んでいますが、イランの反応が自国に向くことを恐れています。湾岸地域の小国は不安に陥っています。国際社会も沈黙を守っています。返ってくる答えはとても脆弱です。アメリカは、戦争を覚悟しているようであるとともに、緊張を緩和してイランを再び対話の席につかせようとしています。戦争が起きるかはわかりませんが、2020年は中東にとって波乱の一年になるでしょう。 
米雇用者数、12月は予想下回る14.5万人増−平均時給の伸び鈍化 
昨年12月の米雇用統計では、労働市場の勢いが弱まったことが示唆された。雇用者数の伸びが鈍り市場予想も下回ったほか、前年同月比の平均時給も2018年半ば以来の低い増加率にとどまった。失業率は半世紀ぶりの低水準を維持した。
雇用者数については前月より小さな伸びを見込んだ市場予想におおむね沿っているとも言えるが、平均時給は失業率が示すほど労働市場がタイトでないことを示唆している。
ウェルズ・ファーゴのチーフエコノミスト代行、ジェイ・ブライソン氏は「賃金の伸びがなぜ加速しなかったのか、実に疑問だ」とコメント。「人々のインフレ期待が極めて低いままだという基本的な事実が一因かもしれない」とした上で、より広く捉えれば「労働市場は現時点で堅調を維持している」と述べた。
生産部門と非管理職の労働者の平均時給は12月に前年同月比3%増。10月には3.6%増と、10年ぶりの大きな伸びを記録していたが、急激に鈍った。
ただ、クドロー米国家経済会議(NEC)委員長はブルームバーグテレビジョンとのインタビューで、「生産部門とサービス部門の労働者の賃金増は、幹部クラスの賃金の伸びを依然として上回っている」と述べた。
2019年は下期に雇用の伸びが勢いを増したものの、年間では211万人増と、11年以来の低い伸びとなった。
「U6」は改善
12月雇用統計の明るい材料は、「U6」と呼ばれる不完全雇用率が6.7%に低下したこと。これは1994年にさかのぼるデータで最も低い水準。U6にはフルタイムでの雇用を望みながらもパートタイムの職に就いている労働者や、仕事に就きたいと考えているものの積極的に職探しをしていない人が含まれる。一部のアナリストは、この指標の方が実際の労働市場の状況をより正確に反映しているとみて注目している。
平均時給は前月比では0.1%増で、こちらも予想中央値(0.3%増)を下回った。労働参加率は63.2%で11月と同水準。
FSインベストメンツの米国担当チーフエコノミスト、ララ・レーム氏はブルームバーグテレビジョンで、今回の雇用統計は「米金融当局の動きを何ら変えるものではない」と指摘した。
非農業部門雇用者数の伸びは、前月分までの下方修正を受けて過去3カ月平均では18万4000人増と、昨年7月以来の低さとなった。12月の民間部門の雇用者数は13万9000人増。市場予想の中央値は15万3000人増だった。政府部門は6000人増。
製造業は1万2000人減少と、市場の増加予想に反してマイナスとなった。小売りは4万1000人増。教育・ヘルスケアは3万6000人増だった。 
米、対イラン制裁を強化 財務省が声明発表へ=トランプ氏
トランプ米大統領は9日、米軍が駐留するイラク基地にイランが複数のロケット弾を発射したことを受け、イランに対する制裁強化を実施したと述べた。ただ詳細は明らかにしなかった。
トランプ氏はホワイトハウスで記者団に対し、イランへの制裁強化について財務省に承認したところだとし、新たな制裁内容については財務省が声明を発表するとした。  
 
 

 

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NYダウ133ドル安、利益確定売りで 一時2万9000ドル超え
10日の米株式相場は3日ぶりに反落した。ダウ工業株30種平均は前日比133ドル13セント(0.5%)安の2万8823ドル77セントで終えた。来週から発表が本格化する米主要企業の決算への期待から買いが先行したが、前日に過去最高値を付けた後とあって目先の利益を確定する売りに押された。航空機のボーイングなど個別材料で下げた銘柄も相場の重荷となった。
ボーイングは2%近く下げ、1銘柄でダウ平均を43ドルあまり押し下げた。米監督当局である米連邦航空局(FAA)を「猿」などとからかった社内文書が公開され、墜落事故を起こして運航停止中の小型機「737MAX」の再承認が遅れるとの警戒感を誘った。アナリストが投資判断を引き下げた保険のトラベラーズも下げた。
12月の米雇用統計で非農業部門の雇用者数が前月比14万5000人増と市場予想ほど増えず、平均時給は前年同月比2.9%上昇と伸び率が前月から縮小した。米景気への強気な見方がやや後退し、米債券市場で長期金利が低下した。利ざや縮小の見方からJPモルガン・チェースなど金融株の売りを誘った。ダウ平均は取引終了にかけ下げ幅を広げ、一時は167ドル安となった。
朝方は買いが先行し、ダウ平均は取引時間中として初めて節目の2万9000ドルを超える場面があった。決算への期待などを背景に、最近の株高をけん引するハイテク株への買いが続いた。アップルやマイクロソフトなどは上場来高値を付けた。アナリストが強気な見方を示したエヌビディアなど半導体株の一角も上げた。
ナスダック総合株価指数は同24.565ポイント(0.3%)安の9178.861で終えた。 
EU、対イラン制裁再開見送り 核合意順守を再要請=外相会合
欧州連合(EU)外相は10日に開催した緊急会合で、イランに対する国連制裁再開を見送る一方、イランに対し核合意を順守するよう改めて求めた。
緊急会合は、米イランの対立が懸念される中で開催され、北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長も参加した。
ジョセップ・ボレル外交安全保障上級代表は会合後、記者団に対し「戦争を行う余裕はない。迅速な緊張緩和と最大限の自制を求める」と指摘。会合では緊張緩和に向け外交面を強化することで合意したと語った。ただ核合意の維持やイラクに対する支援強化以外の詳細については触れなかった。
ボレル代表は「イランが再び(核合意を)全面的に順守することを求める。イランの活動に対する監視・検証の継続については国際原子力機関(IAEA)に依拠する」と述べた。
外交筋によると、英独仏は2015年のイラン核合意の下での紛争解決手続きに着手することに合意しており、イランに対する国連制裁再開につながる可能性がある。ただ、イランが強硬的な反応を示すことを恐れ、二の足を踏んでいるという。
緊急会合前にはフランスのルドリアン外相が、イランが核合意を完全に放棄すれば、1─2年で核兵器を保有する可能性があると警告。また、ドイツのマース外相はブリュッセルで記者団に対し「核合意が将来も維持されることを望むが、それは核合意が順守された場合のみであり、イランによる順守を期待する」と述べた。
EU外相会合ではまた、イラク国内で過激派組織「イスラム国」(IS)と対立している米軍を中心とした連合軍が弱体化する可能性について懸念が示された。 
米国、対イラン制裁適用免除で旅客機墜落事故の調査を支援−財務長官
ムニューシン米財務長官は対イラン制裁の免除措置を適用し、テヘラン近郊で今週発生した旅客機墜落事故の調査に米国や他国が参加できるようにすると発表した。
ウクライナ国際航空が運航するボーイング「737ー800」型機は8日朝、テヘランの空港を離陸して数分後に墜落し、乗員乗客176人全員が死亡した。米国など複数の国がイランのミサイルによって撃墜されたとの見方を示す一方、イランは否定し、事故調査は難航や曲折が予想される。
イランは事故調査で米国を含む他国の支援を得るための国際協定を発動した。だが米国では調査参加が制裁違反に該当するとの懸念から参加の意思を留保していた。
ムニューシン氏は10日の記者会見で、「米財務省は事故調査の支援を円滑に進められるよう、米国や他国に対して制裁免除を適用する」と語った。
ポンペオ米国務長官はカナダや英国、オーストラリアなどと歩調を合わせる形で、ウクライナ機はイランの武装部隊が恐らく意図的ではなく発射したミサイルによって撃墜されたと主張した。
「旅客機はイランのミサイルで撃墜された公算が大きいと考えている。徹底した調査を行わせ、最終的な判断を下す」と述べた。
ウクライナのプリスタイコ外相は国際的な協力による調査を呼び掛け、同国は墜落原因について結論を出しておらず、イランは調査に協力していると語った。  
イラン、一転して認めるーウクライナ旅客機を誤って撃墜 
イランは8日墜落したウクライナ国際航空機について、米国と戦闘態勢にあった際に敵対的な標的と取り違え、誤って撃墜したと一転して認めた。当初は技術的問題が原因と主張していた。
この旅客機にはイラン人のほか、カナダ人が多く搭乗していたが、乗客乗員全員が死亡。イランが撃墜を認めた後、カナダのトルドー首相やウクライナのゼレンスキー大統領は非難、テヘランでも抗議活動が起きた。トランプ米大統領は11日、イラン市民による「抗議を注視しており、その勇気には感動を覚える」とツイートした。 
調査を実施したイラン革命防衛隊は声明で、ウクライナ国際航空752便は同防衛隊の基地付近を飛行中、「人的ミス」によって撃墜されたと説明した。同防衛隊の当局者が今後、墜落について国営メディアで詳しく説明するとした。また「犯人」を特定することも表明した。
イランのザリフ外相は墜落について「米国の冒険主義がもたらした、危機の中での人的ミス」だとツイッターに投稿した。
ボーイングの旅客機「737ー800」型機はテヘランの空港を離陸した直後に墜落し、乗客乗員176人全員が死亡した。イランは10日時点で、ミサイルによるウクライナ機撃墜を否定し、西側諸国による「心理戦」だと強く批判していた。
一方、英国のラーブ外相は、同国の駐イラン大使がイラン当局によって「短時間拘束」されたことを明らかにし、「根拠や説明なく、テヘランで我が国の大使が拘束されたことは甚だしい国際法違反だ」と非難する声明を出した。同大使は旅客機犠牲者の追悼式に参加後、3時間にわたって拘束されたと英紙テレグラフは伝えた。追悼式が抗議活動に発展したという。  
イラン政府、ウクライナ航空機を「人的ミス」で撃墜と認める 1/11
イラン政府は11日午前、首都テヘランで8日に墜落したウクライナ航空PS752便について、「人的ミス」によって「意図せず」して撃墜したことを認めた。墜落では乗客乗員176人全員が死亡した。8日未明にはイラン革命防衛隊が司令官殺害の報復としてイラク国内2カ所の米軍基地に多数の弾道ミサイルを発射していた。
イラン国営テレビはイラン軍の声明を読み上げ、ウクライナ航空機を誤ってミサイルで撃墜したと明らかにした。革命防衛隊の「機密上重要な軍施設」の近くを旅客機が飛行したため、「敵性標的」と誤認したという。
米軍との緊張関係が高まる中でイラン軍は「最高レベルの臨戦態勢」にあり、「そのような状況で、人的ミスのため、そして意図しない形で、旅客機を撃墜してしまった」と説明した。
軍は旅客機撃墜について謝罪し、将来的にこのような「ミス」を防ぐために防衛システムを刷新すると述べた。さらに、責任の所在を明確にし、責任者を訴追する方針を示した。
イランのハッサン・ロウハニ大統領はツイッターで、「軍の内部調査の結果、残念ながら、人的ミスによるミサイル射撃がウクライナ機の恐ろしい墜落と176人の罪のない人たちの死亡の原因となってしまった。このひどい悲劇と許されない過ちについて、(責任者を)特定し訴追するため、調査を継続する」と書いた。
イランのジャヴァド・ザリフ外相はツイッターで、被害者の遺族に謝罪し弔意を示しつつ、責任の一端はアメリカにあると批判。「アメリカの冒険主義が引き起こした危機の時に、人的ミスが起きて、この悲惨な事態につながった」と書いた。
ウクライナ航空機は8日午前6時12分(日本時間午前11時42分)、テヘランのイマーム・ホメイニ空港からウクライナの首都キーウ(キエフ)に向かって出発した直後に墜落した。
多数のイラン人やカナダ人、ウクライナ人、スウェーデン人、アフガニスタン人、ドイツ人、イギリス人が犠牲になった。15人が子どもだったという。
米紙ニューヨーク・タイムズが入手した動画には、テヘラン上空の夜空をミサイルが横切り、飛行機と接触して爆発する様子と思われる映像が映っていた。接触から約10秒後に大きな爆音が地上からも聞こえ、燃える機体はしばらく飛び続けた。
イランは当初、テヘランの国際空港を離陸した直後のウクライナ航空機が墜落したのは、自軍のミサイルが原因だという西側諸国の主張を退けていた。
しかし、西側各国の情報機関が、イラン関与の疑いを相次ぎ指摘。57人の犠牲者が出たカナダのジャスティン・トルドー首相は9日に記者会見し、イランが発射した地対空ミサイルが原因との見解を示した。イギリスのボリス・ジョンソン首相も「具体的な情報」があると同調し、徹底的な調査が必要だと述べていた。
9日には、シャベル機が墜落現場の残骸を取り除くテレビ映像が放送されたため、事故原因の重要な証拠が撤去されたのではと懸念が高まった。イランは完全な事故原因調査を約束し、ウクライナやカナダ、アメリカの航空当局の参加を要請した。
10日にはカナダのフランソワ=フィリップ・シャンパーニュ外相がイランに、「世界が注目している」と警告し、乗客乗員の遺族は「真実を求めている」と強調していた。
カナダのトルドー首相は、「国民的な悲劇」だと声明を発表。「被害者の遺族や大切な人たちのため、透明性と正義」を要求した。
ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、「イラン政府が責任者を裁判にかけるよう期待する」と述べた。
ウクライナ国際航空の幹部は、優秀な乗務員や航空機が原因であるはずなど最初からなかったとコメントした。
カナダには、イラン移民が大勢住んでいる。最新の連邦国勢調査では、イラン系の市民が約21万人いた。
そのほか、カナダはイランの大学院生や博士号取得後の研究生にとって人気の留学先だ。冬休みで帰省していた学生が多く、撃墜されたウクライナ航空機に乗っていたのは、そのためだ。
加えて、カナダとイランの間には直行便がない。そして、テヘラン発キーウ(キエフ)経由トロント行きの乗り継ぎは、最も安いルートのひとつのため、特に人気だった。
事態沈静化のための動き――
イランにとってきわめて重要なタイミングで、イランは重要な内容を認めた。
これほどの悲劇的な間違いについて責任を認めるのはきわめて異例なことだが、イランがいま直面する危機もきわめて異例だ。
イランは西側との新たな舌戦を防ぐため、そして相次ぐ悲劇に見舞われる自国民の怒りや悲しみの増大を防ぐため、この大惨事の責任を認めることにした。
イラン政府が事態の沈静化を図ったのは間違いない。
国内での反響や影響がどうなるかは、間もなく明らかになるかもしれない。イランの外相はすでに、「アメリカの冒険主義が引き起こした危機」が原因だと、責任の一端をアメリカに着せようとしている。
しかし、いったい誰があの時に、民間旅客機のテヘラン出発を許可したのだろう。それが何より疑問だ。イラン領空があれほどの非常事態にあった、あの時に。 
【米国株・国債・商品】株が反落、国債上昇−雇用統計に反応 
10日の米金融市場では株式が下げ、国債が上昇。12月の雇用統計は強弱まちまちな内容となった。
雇用者数が市場予想を下回り、平均時給の伸びが2018年半ば以来の低さとなったことを受け、S&P500種株価指数は3営業日ぶりに下落した。ただ、中東情勢が一定の落ち着きを見せたことから、同指数は週間ベースでは上昇を維持した。個別銘柄ではボーイングが下げ、ダウ工業株30種平均への重しとなった。雇用統計の賃金データでインフレ懸念が後退する中、米国債は上げ幅を拡大した。
S&P500種株価指数は前日比0.3%安の3265.35。ダウ平均は133.13ドル(0.5%)安の28823.77ドル。ナスダック総合指数は0.3%低下。ニューヨーク時間午後4時31分現在、米10年債利回りは4ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)低下の1.82%。
エドワード・ジョーンズの投資ストラテジスト、ネラ・リチャードソン氏は雇用統計について、「金融当局が政策を据え置き、経済は減速するという、統計発表前に皆が抱いていた見方とかなり整合している」とコメント。「どちらかと言えば、今回の統計は金融当局の姿勢をわずかに緩和的に傾けるもので、逆ではない」と語った。
ニューヨーク原油先物相場は続落。主要産油地域からの供給が地政学リスクの影響で乱れるとの懸念が現実化しなかったことから、週間ベースでは昨年7月以来の大幅安となった。ニューヨーク商業取引所(NYMEX)のウェスト・テキサス・インターミディエート(WTI)先物2月限は52セント(0.9%)安の1バレル=59.04ドルで終了。ロンドンICEの北海ブレント3月限は39セント安の64.98ドル。
ニューヨーク金先物相場は反発。朝方には米雇用統計が予想を下回ったことが買い材料となった。その後はトランプ米政権がイランに新たな制裁を科したことを受け、安全な逃避先としての金の需要が高まった。ニューヨーク商品取引所(COMEX)の金先物2月限は0.4%高の1オンス=1560.10ドルで終了。  
 
 

 

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イランで2日連続の反政府デモ 旅客機撃墜を受け 1/13
イラン政府がウクライナ航空機の撃墜を認めたことを受け、イランの首都テヘランなど数都市で11日夜に抗議デモが起こり、12日も続いた。撃墜では乗客乗員176人が全員死亡し、大半がイラン人だった。
イラン政府は当初、首都テヘランの近郊で8日に起きたウクライナ機墜落への関与を否定。アメリカとの緊張が高まる中、11日午前に一転、「意図せず」撃墜したと認めた。
これを受け同日夜、テヘランなど数都市で抗議デモが発生。最高指導者を批判する声が上がった。
デモ開始から2日目となった12日には、デモ参加者と治安部隊との間で衝突が発生し、治安部隊が催涙ガスを使ったと報じられた。
抗議デモには、警察の機動隊や、イランの精鋭部隊である革命防衛隊のメンバー、私服の治安当局職員らが多数出動した。
それでも、デモ参加者たちは抗議行動を継続。政府系のファルス通信は、テヘラン市内各地で最大計1000人が抗議デモに参加したと伝えた。
テヘランのシャヒード・ベヘシュティー大学では、多くの学生たちが、地面に描かれたアメリカとイスラエルの国旗を踏まないように歩いた。政府のプロパガンダへの拒否を象徴するもので、その様子は動画で確認できる。
ソーシャルメディアに投稿されたいくつかの動画では、デモ参加者たちが「政府は敵はアメリカだとうそをついている、私たちの敵はすぐここにいる」などと、反政府の声を上げているのがわかる。デモ参加者の多くは女性だ。
別の動画には、テヘランのアーザーディー広場でデモ参加者たちが手をたたいたり、声を張り上げたりしている様子が映っている。BBCペルシャ語によると、同広場では治安部隊が催涙ガスを発して、鎮圧に乗り出したという。
2つの大学の近くでは11日、市民らが集まり、犠牲者に追悼の意を表明した。夕方になって抗議デモへと変わり、当局は解散させようと催涙ガスを使ったとされる。
追悼集会は、国内の多くの新聞が取り上げた。記事には「恥を知れ」、「許されない」といった見出しがつけられた。
政府寄りの1紙は、「正直な」間違いの告白だとして政府を称えた。
12日にはテヘランで、アメリカによるドローン攻撃で殺害された、革命防衛隊のカセム・ソレイマニ司令官を支持し、アメリカとイギリスに抗議するデモもあった。
イランは8日未明、ソレイマニ氏殺害への報復として、イラクにある米軍2基地にミサイルを発射。それから間もなくして、イランからウクライナの首都キーウ(キエフ)に向けて離陸したウクライナ機が撃墜された。
アメリカのドナルド・トランプ大統領は12日、ツイッターで、「イラン指導者へ、抗議者たちを殺すな」と呼びかけた。
トランプ氏は、「イランではすでに何千人も殺害、投獄されていて、世界が見ている。さらに大事なことに、アメリカが見ている。インターネットを再び使えるようにし、記者を自由に歩かせろ! 偉大なイラン国民の殺害をやめろ!」とツイートした。
イギリスのドミニク・ラーブ外相は、ウクライナ機の犠牲者追悼集会に参加していたロブ・マケリー駐イラン英大使が拘束されたことに対し、「国際法の重大違反」として非難した。
マケリー氏は、参加者たちが声を上げ始めた時点で集会から去ったとし、デモには一切関わっていないと述べた。
一方、イラン外務省によると、同国政府は12日、マケリー氏を呼び出し、「違法な集会に参加するという異例の行動」だとして抗議した。
イランの英大使館前では同日、市民らがイギリス国旗を燃やして抗議した。 
イラン司令官殺害、揺れる根拠 米政権内で意見食い違い
トランプ米大統領が、イランのイスラム革命防衛隊のソレイマニ司令官を殺害した理由として、イランが4カ所の米大使館を攻撃する情報があったと述べたことについて、エスパー米国防長官は12日、出演した米CBSテレビの番組でそうした情報は把握していなかったことを明らかにした。政権内の意見の食い違いが浮かび上がった。
トランプ氏は10日、米FOXニュースのインタビューで、イランがイラクの首都バグダッドを含む4カ所の米大使館を標的に攻撃しようとしていたとして、「(脅威が)差し迫っていた」と主張していた。だが、エスパー氏は12日の発言で、在イラク米大使館への攻撃情報はあったとしつつ「4カ所の大使館については見ていない」としている。
トランプ政権は、米国とイランの緊張を極限にまで高めた米軍によるソレイマニ司令官殺害の理由として、「司令官が米国の外交官と軍人を攻撃する計画を進めていた」と主張する。ただ、国際法で自衛的措置と認められるために必要な「差し迫った脅威」については具体的な説明をしていないとして、野党・民主党などから批判が相次いでいた。 
 
 

 

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旅客機撃墜と反政府デモ イランにとって分岐点になるのか 1/14
ウクライナ国際航空機の墜落原因について何日も否定した後、イラン政府はついに人的ミスが原因だと認めた。
8日の墜落は、イランがイラク国内の米軍駐屯地に弾道ミサイルを相次いで発射した後に起きた。米軍施設攻撃は、イラン革命防衛隊幹部のカセム・ソレイマニ司令官殺害に対する報復だった。
イランによると、一触即発のこの緊迫状態のなか、防空システムの担当者がウクライナ航空PS752便を巡航ミサイルと勘違いして撃墜してしまったという。乗客乗員176人全員が死亡した。
イラン政府は当初、責任を否定した。しかし、アメリカやカナダの情報機関は間もなく、イランの地対空ミサイルが墜落の原因だという証拠を割り出した。これを機に、原因調査の進捗を公表するよう求める圧力が国際的に高まった。
当初の発表を訂正し、墜落について全面的に責任を認めたイラン政府の決定は、犠牲者が出たカナダ、イギリス、ドイツ、スウェーデンの各国政府を含め、国際社会から前向きに受け止められた。
イランが責任を認めたことは好ましい第一歩だと、最終的に解釈された。
しかし、カナダなど自国民が死亡した各国政府の関係者は、責任を認めた次にイランは建設的な行動をとるべきだと釘を刺した。これにはたとえば、原因調査過程の公表、遺体の送還、被害者への補償、確かな再発防止策の導入などが含まれる。
イランにとって対外的には、ウクライナ航空機の撃墜が事態の悪化につながる可能性は少なく、むしろ過去数カ月間の緊迫する状態を和らげる機会を提供するかもしれない。
しかし、この悲劇は国内的には、もっと深い余波を引き起こすかもしれない。
PS752便が墜落するほんの数日前、イラン国内はソレイマニ将軍の殺害を悲しむ何百万人もの市民が国内各地で葬列に参加。国民が異例なほどまとまり、団結していた。
この光景は、国外からの武力衝突の脅威を前にすれば、政治経済的に様々な立場のイラン国民も違いをいったん横において一致団結できるのだという、その可能性を示すものかと思われた。
しかし、PS752機の撃墜と、当局が当初は責任を否定したことから、国内の対立があらためて浮上し、以前より先鋭化する可能性もある。
責任を認めたことでこの大失態に対する国民の批判は多少は緩和するかもしれない。しかし、事実を明らかにせよと国際社会の圧力が高まるまで、政府や国内主流派は証拠を隠し責任を回避しようとしたではないかという見方は残るかもしれない。
この不信感によって、昨年11月に政府が石油価格の大幅な引き上げを承認したのを機に国内で相次いだ対立や世情不安が、あらためて再燃するだろう。石油価格値上げをきっかけにした国内デモと、それに対する政府の強硬姿勢により、少なくとも市民300人が死亡している。
真実を認めることは重要な第一歩だが、イラン国民は今回の事態の責任者を明確にし、訴追するよう強く求めるだろう。
国民はさらに、イランのエリートが墜落犠牲者をどう扱うのか注目するはずだ。墜落で死亡した人たちの葬儀が、ソレイマニ将軍の時と似たような国民的な追悼につながるのか、それともほとんど無視されるのかは、大きな試金石となる。
以前から続く経済への不満や、一部の社会的自由が制限されていることへの不満に加えて、ウクライナ機撃墜に関するこうした要求を、市民は政府につきつけるだろう。
イランでは2月21日に国会議員選挙が予定されている。旅客機撃墜による国内対立は一層の世情不安を呼ぶ可能性もある。加えて、欧米との緊迫は緩和はしたものの、決して終わっていはいない。
旅客機墜落から波及するさまざまな問題を政府と国内主流派がどう扱うか。これはイランにとって分岐点になり得る。イランが何をどう選択するかは、今後数カ月、あるいは数年間にわたり、イランの政治と社会に響き渡るだろう。 
英首相、イラン核合意は「トランプ協定にすべき」 
イギリスのボリス・ジョンソン首相は14日、BBCの単独インタビューで、2015年のイラン核合意を「トランプ(米大統領の)協定」に変更すべきだと話した。この発言について、核合意の継続を求める政府の方針と食い違っているとの指摘が出ている。アメリカとイランの緊張が高まる中、イランは5日、アメリカなど国際社会と結んだ包括的共同作業計画(JCPOA)に伴うウラン濃縮について、今後は制限を順守しないと宣言した。これに対しイギリスとフランス、ドイツは共同声明を発表し、イランに核合意を順守するよう要請。14日には、合意違反の解決に向けた「紛争解決メカニズム(DRM)」を発動している。ジョンソン首相はこの日のインタビューで、アメリカが2015年の核合意に「欠陥がある」としていることを認識していると説明。この合意以外にもイランの核開発を阻止する方法はあるし、こう述べた。「(核合意を)破棄するのなら代わりが必要だ。トランプ協定に取り替えよう」 アメリカは2018年にJCPOAを離脱。一方、イランは離脱については言及していない。
ドナルド・トランプ米大統領はかねて、JCPOAは過去最悪の協定だとしている。一方ジョンソン首相は今回のインタビューで、イギリスは協定に変更が加えられるまでは継続に尽力すると答えた。「アメリカの視点では、これは欠陥のある協定だ(中略)しかもオバマ前大統領が交渉したものだ」 「トランプ協定に取り替えよう、それが今必要なことだ。トランプ大統領は自他共に認めるすばらしい交渉人だ」 「協力してJCPOAを替え、トランプ協定に乗り換えよう」 BBCのローラ・クンスバーグ政治編集長によると、ジョンソン首相は現在の核合意はアメリカが合意できるものにする必要があると感じているという。
BBCのリアリティーチェック(ファクトチェック)チームによると、トランプ大統領は納得できる協定がどのようなものか明確にしていない。ただし、いくつかの要素については言及してきた。トランプ氏は、国際原子力機関(IAEA)がイラン全土の核施設に同国の認可なしで立ち入れるようにすべきだとしている。また、現行の合意はイランのミサイルプログラムや中東地域を脅かす行為、特に、シリアやイラク、イエメン、レバノンの武力組織に対する支援を禁止していないと非難。ウラン濃縮の制限を2025年以降に加除するというサンセット条項にも不満を示している。今後、アメリカが関与するイランとの各協定には、こうした要素が組み込まれるとみられる。
イギリスのドミニク・ラーブ外相は下院で、イランが「組織的に合意を順守していない」と非難した。一方で、核合意に参加しているイギリスと欧州各国は引き続き、合意の継続に尽力すると述べ、「合意を破棄するのではなく、DRMを通じて外交での解決を目指す」と述べた。最大野党・労働党のエミリー・ソーンベリー影の外相はこれに対し、ジョンソン首相とラーブ外相は「同じ立場には立っていない」と指摘した。ソーンベリー氏は、JCPOAを「トランプ協定」に取り替えるのがジョンソン政権の方針なのかと質問。「もしそうでないなら、なぜ首相はそんなことを言ったのか」と問いただした。
ラーブ氏はこれに、イギリスの立場は明確で、首相も核合意を支持していると返答した。「もちろん合意を維持したいと思うこともできるが、アメリカとイランを広義の和解に導こうという野心が必要だ。それが我々が求めている方針だ」 BBCのジョナサン・マーカス外交担当編集委員は、JCPOAは現在、アメリカとイランという最も重要な2カ国に破棄、あるいは破棄寸前とされ、忘れられている状態だと指摘した。その上で、DRMの発動は核合意破棄の始まりになるだろうと分析している。 
ドル・円は8カ月ぶり高値圏、米中通商協議に楽観的な見方−110円台 1/14
東京外国為替市場のドル・円相場は1ドル=110円台へ上昇し、一時約8カ月ぶりの高値を付けた。米中貿易協議を巡って第1段階の合意への署名を前に楽観的な見方が広がったことや米国が中国の為替操作国認定を解除したのを受け、リスク選好の流れとなった。
〇ドル・円は午後3時32分現在、前日比0.1%高の110円09銭。朝方に一時110円21銭と昨年5月23日以来の高値
〇ユーロ・ドル相場は0.1%高の1ユーロ=1.1142ドル、ユーロ・円相場は0.2%高の122円66銭、一時122円76銭と昨年7月1日以来の高値
市場関係者の見方
モルガン・スタンレーMUFG証券債券統括本部の加藤昭エグゼクティブディレクター
〇米国とイランの大規模な武力衝突の懸念が後退したことや米中通商協議での第1合意への署名が近づく中で米国が中国の為替操作国認定を解消したことなど「雪解け」の材料が相次ぎ、市場ではリスクオンの流れが強まっている
〇ドル・円も110円台にワンタッチではなく堅調な地合いが続き、目先は111円程度までじわりじわりと上値を試していくだろう。ただ、イラン政府とは別の不満分子が独自にテロを起こすなどの局地的なリスクには一定の注意は必要だ
みずほ証券の鈴木健吾チーフFXストラテジスト
〇109円台で長らく抑えられていた水準を抜けており、ポジション的にもそれほど重いとは思えない。米中、ブレグジットと世界経済を壊すかもしれないリスクが後退する中、最近3年間のレンジ105−115円の上半分が徐々に主戦場になっていく
〇目先心配なのは米株の調整。2018年は好決算が続く中で当時の史上最高値を断続的に抜き、決算一巡後2月にかけて大きく調整した。米株が調整に入る前にどこまで上がるか次第で、昨年5月21日の高値110円67銭から4月に付けた112円を目指す感じか
背景
〇ムニューシン米財務長官、年2回の米中対話再開を提案−関係者
〇米政府、中国の為替操作国認定を解除−貿易合意署名に先立ち
〇中国と米国、貿易協議で次の段階に進む決意−米商工会議所
〇日経平均株価は前日比175円高で取引を終了
 
 

 

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イラク アメリカ軍が駐留する基地に再びロケット弾
アメリカとイランの対立の舞台となっているイラクで14日、アメリカ軍が駐留する基地に再びロケット弾による攻撃がありました。基地内でけが人はいないということですが、イラクではアメリカによるイランの司令官殺害への報復とみられる攻撃が相次いでいて、再び緊張が高まりかねない状況が続いています。
イラク国防省によりますと14日、首都バグダッドの北のタージにあるアメリカ軍の部隊が駐留する基地に複数のロケット弾による攻撃がありました。
イラク国防省はこの攻撃によるけが人はいないと発表していますが、地元のメディアは一部のロケット弾が基地の外に着弾し、市民3人がけがをしたと伝えています。
イラクでは、アメリカによるイランの革命防衛隊、ソレイマニ司令官の殺害を受けてイランとつながりのある武装組織が報復を警告していて、今月8日のイランによる報復攻撃のあともアメリカ軍が駐留する基地などへの攻撃が相次いでいます。
今回の攻撃もイランの司令官殺害への報復とみられ、イラクを舞台にアメリカとイランの緊張が再び高まりかねない状況が続いています。  
茂木外相「中東の緊張緩和に向け 米も自制的な対応を」
茂木外務大臣は、アメリカでポンペイオ国務長官と会談し、中東地域の緊張緩和に向けて、アメリカ側にも自制的な対応が重要だという考えを示し、両外相は、事態の深刻化を回避し、外交努力を尽くしていくことが重要だという認識で一致しました。
茂木外務大臣は、日本時間の15日未明、訪問先のアメリカのサンフランシスコ郊外で、日米韓3か国の外相会合に出席しました。
会合では、北朝鮮の完全な非核化に向けて米朝協議の継続を支持するとともに、国連安保理決議に基づく制裁の緩和は時期尚早であり、決議を確実に履行していく重要性で一致し、今後も日米韓3か国が緊密に連携していくことを確認しました。
このあと茂木大臣は、ポンペイオ国務長官と個別に会談しました。
この中で、アメリカとイランの対立が続く中東情勢について「緊迫の度を高めていることを深く憂慮している。すべての関係者に緊張緩和のための外交努力を尽くすことを日本として求めており、アメリカの自制的な対応を評価している」と述べ、中東地域の緊張緩和と情勢の安定化に向けてアメリカ側にも自制的な対応が重要だという考えを示しました。
これに対し、ポンペイオ長官は「日本のこれまでの取り組みを評価している」と応じ、両氏は、事態の深刻化を回避し外交努力を尽くしていくことが重要だという認識で一致しました。
会談後、茂木大臣は「中東情勢について突っ込んだやり取りを行い、率直な意見交換ができた。粘り強い外交努力を継続したい」と述べました。  
日経平均終値2万4000円割れ 米中協議の楽観論後退
15日の東京株式市場で日経平均株価は4営業日ぶりに反落し、前日比108円59銭(0.45%)安の2万3916円58銭で終えた。米中貿易協議に対する楽観的な見方がやや後退し、利益確定売りが優勢だった。海外ヘッジファンド勢をはじめ短期志向の投資家が株価指数先物の売りに動き、現物株の重荷になった。半面、個人投資家などによる押し目買いは相場全体を支えた。
米ブルームバーグ通信が「米国は、発動済みの対中追加関税を大統領選後まで維持する」と伝えたのが売り材料視された。米中貿易協議の「第1段階」合意調印を15日に控え、早めに目先の利益を確定しようとする投資家が多かった。日経平均は前日に2万4000円の節目を終値で約1カ月ぶりに回復し、短期的な達成感も意識されやすかった。
香港や上海などアジア株が総じて軟調に推移したことも下押し要因となり、日経平均は午後に下げ幅をやや広げる場面があった。一方、投資余力のある個人は押し目買いに動きやすくなっているとの見方も多く、下値を一段と探る展開にはならなかった。
JPX日経インデックス400は4営業日ぶりに反落した。終値は前日比89.93ポイント(0.58%)安の1万5493.98だった。東証株価指数(TOPIX)も反落し、9.47ポイント(0.54%)安の1731.06で終えた。
東証1部の売買代金は概算で2兆168億円。売買高は11億2253万株だった。東証1部の値下がり銘柄数は1256と、全体の6割弱を占めた。値上がりは781、変わらずは122銘柄だった。  
 
  
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 



2020/1/3-
 
イラク

 

 
 
 
 
 
●イラク共和国

 

通称イラクは、中東の連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。
国名
日本語表記は、イラク共和国。通称、イラク。
イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。
1921年 - 1958年: イラク王国
1958年 - 2003年: イラク共和国(旧)
2004年 - 現在: イラク共和国(新)
歴史
メソポタミア
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。
メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。Qattara遺跡 (現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー) からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。
ペルシアの支配 「アケメネス朝」
ギリシャの支配 「マケドニア王国」「セレウコス朝」
ペルシアの支配 「アルサケス朝」「サーサーン朝」
イスラム帝国
西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。
8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。
10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラは、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。
モンゴル帝国
1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝 (イルハン朝、ティムール朝など) の勢力下に入った。
サファヴィー朝
16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。
en:Battle of DimDim (1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。
オスマン帝国
1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。
18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダード州とバスラ州、モースル州の3州として統治していた (オスマン帝国の行政区画)。
一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。
1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーとウィリアム・ダーシーとの間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権が結ばれた。1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会社(APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社 (TPC、イラク石油会社の前身) を立ち上げた。
イギリス帝国
第一次世界大戦では、クートの戦い (1915年12月7日 - 1916年4月29日) でクート・エル・アマラが陥落すると、イギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の1916年5月16日にイギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するというサイクス・ピコ協定を結んだ。
1917年に入るとイギリス軍は攻勢に転じ、3月11日にはバグダッドが陥落した。しかし戦闘は北部を中心としてその後も行われた。
   Occupied Enemy Territory Administration
1918年10月30日、オスマン帝国が降伏 (ムドロス休戦協定)。パリ講和会議 (1919年1月18日 - 1920年1月21日)。1919年4月、英仏間で石油に関するen:Long–Bérenger Oil Agreementを締結。サン・レモ会議 (1920年4月19日 - 4月26日) で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、San Remo Oil Agreementによってフランスはイラクでの25 %の石油利権を獲得した。トルコ革命 (1919年5月19日 - 1922年7月24日) が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、1920年6月にナジャフで反英暴動が勃発する中、8月10日にイギリスはセーヴル条約によりモースル (クルディスタン) を放棄させようとしたが、批准されなかった (モースル問題)。 1921年3月21日、ガートルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された (カイロ会議)。
   イギリス委任統治領メソポタミア
1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。en:Mahmud Barzanji revoltsでクルディスタン王国 (1922年 - 1924年) を一時的に樹立。1922年10月10日、en:Anglo-Iraqi Treaty (イラク側の批准は1924年)。1923年7月24日、ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日、ババ・グルグルでキルクーク油田を発見。1928年、イギリスとトルコが赤線協定を締結。1929年、イギリスがイラク石油会社 (IPC) を設立。1930年6月30日、en:Anglo-Iraqi Treaty (1930)でイラク石油会社の石油利権を改正。en:Ahmed Barzani revolt (1931年 - 1932年)。
   王政
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。一方、アングロ・ペルシャ石油とメロン財閥傘下のガルフ石油とが共同出資して1934年にクウェート石油を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。1941年4月1日、イラク・クーデターによりラシード・アリー・アル=ガイラーニーのクーデター政権が出来たが、5月のイラク戦役で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐。1943年、en:1943 Barzani revolt。1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニーがソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 (en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。1948年、en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)。5月15日、第一次中東戦争 (1948年 - 1949年) が勃発。1955年、中東条約機構 (METO) に加盟。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争 (1956年 - 1957年) が勃発。アブドルカリーム・カーシムら自由将校団 (イラク)が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。
   アラブ連邦
1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。
イラク共和国 (第一共和政)
   カーシム政権
1958年7月14日、自由将校団 (イラク)のクーデターによって倒され (7月14日革命)、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したモースル蜂起が勃発。3月24日、中東条約機構 (METO) を脱退。 1960年9月、カーシム首相がイラク石油会社 (IPC) の国有化を発表。1960年9月14日、バグダッドで石油輸出国機構(OPEC)結成。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。 6月25日、カーシムがクウェート併合に言及すると、7月1日にイギリス軍がen:Operation Vantageを発動し、独立を支援した。 9月11日、第一次クルド・イラク戦争 (1961年 - 1970年) が勃発した。
イラク共和国 (第二共和政)
   第1次バアス党政権 (アル=バクル政権)
1963年2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された (ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。
   アーリフ兄弟政権
1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発 (1963年11月イラククーデター)。 1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派としてナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。 6月、第三次中東戦争。
バアス党政権 (第三共和政)
   第2次バアス党政権 (アル=バクル政権)
1968年7月17日にバアス党政権が発足 (7月17日革命)、アフマド・ハサン・アル=バクルが大統領に就任した。 1970年3月11日、en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970でクルディスタン地域 (アルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県) を設置。石油を産出するニーナワー県とキルクーク県は含まれなかった。1972年にソビエト連邦と友好条約を締結。 1973年10月、第四次中東戦争に参戦。同年10月16日、イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動し、オイルショックが引き起こされた。 第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して第二次クルド・イラク戦争 (1974年 - 1975年) が勃発。ペシュメルガ等を含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いたサッダーム・フセインが実権を掌握した。
   サッダーム・フセイン政権
1979年7月16日にサッダームが大統領に就任した。1980年にイラン・イラク戦争が開戦して1988年まで続けられた。1990年8月にクウェート侵攻後、1991年に湾岸戦争となり敗北した。イラク武装解除問題 (1991年 - 2003年)。en:Curveball (informant)による大量破壊兵器情報。2003年3月、イラク戦争に敗れてサッダームも死亡し、バアス党政権体制は崩壊した。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「石油食料交換プログラム」が関与していた国連汚職問題が発覚した。
バアス党政権崩壊後
   連合国暫定当局(米英共同統治)
旧イラク共和国の滅亡後は、アメリカ・イギリスを中心とする連合国暫定当局(CPA)によって統治されることとなり(2003年4月21日 - 2004年6月28日)、正式な併合・編入こそ行われなかったものの実質的にアメリカ合衆国の海外領土に組み込まれた。イラク戦争終結後もスンニー・トライアングルで暫定当局に対する激しい抵抗があったが、2003年12月13日の赤い夜明け作戦ではサッダーム・フセインがダウルで拘束された。2004年4月、ファルージャの戦闘でCPA側が圧勝する。
   イラク暫定政権
2004年6月28日、暫定政権に主権が移譲された。同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事した。8月にはシーア派政治組織「サドル潮流」のムクタダー・サドル率いる民兵組織「マフディー軍」が影響力を高めた。暫定政権は国連安全保障理事会が採択した、イラク再建復興プロセスに基づいて、2005年1月30日にイラクで初めての暫定議会選挙を実施し、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。4月7日にジャラル・タラバニが初のクルド人大統領に就任。移行政府が4月28日に発足し、10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された。
新・イラク共和国(第四共和政)
   シーア派政権
2005年12月15日に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた (en:Iraqi parliamentary election)。2006年3月16日に議会が開会し、2006年4月22日にシーア派政党連合の統一イラク同盟 (UIA) がヌーリー・アル=マーリキーを首相に選出、5月20日に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足し、イラク共和国として再独立を果たした。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足である。2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑執行。2008年3月にはムクタダー・サドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり (バスラの戦い)、シーア派内部の対立が顕在化した。世俗派の政党連合「イラク国民運動」を構成するイラク合意戦線は2010年2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。これは、イラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関、民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためであるが、後に合意戦線は、ボイコットを撤回した。2010年3月7日に第2回議会選挙が行われた (en:Iraqi parliamentary election)。アッラーウィーの世俗会派イラク国民運動が第1党 (91議席) となり、マーリキー首相の法治国家連合は第2党となった (89議席)。しかし、マーリキーは、選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。その後司法判断が下され、「選挙結果は正当」となった。
   アメリカ軍撤退後
2010年8月19日までに駐留アメリカ軍戦闘部隊が撤退、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍も2011年末に撤退した。2010年11月に議会は、タラバニを大統領に、マーリキーを首相に、ヌジャイフィを国会議長に選出し、マーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して、12月に第二次マーリキー政権が発足した。2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりであった。2017年8月31日、ISILによって支配されていたイラク北部の都市タッル・アファルでの戦闘に勝利し解放を宣言。2017年12月9日、アバーディ首相は、ISILからイラク全土を解放したと発表した。

 

政治
2005年10月15日の国民投票で承認されたイラク憲法では、県と地域から構成された連邦国家と定義されているが、現在でもクルディスタン地域 (定義上では「自治区」ではなく「連邦構成体」が正しい) を除いて政府から自治権を移譲された県はないため、連邦制自体が全土で浸透していないという。
元首
国家元首の役割を果たすのは、共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、スンナ派 (スンニ派)、シーア派、クルド人から各1名ずつが立法府によって選ばれる。大統領は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。大統領宮殿位置は北緯33度17分03秒東経044度15分22秒に位置している。
行政
行政府の長である首相は、議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名 (首相・副首相を除く)。
立法
一院制で国民議会がある。任期4年で、定数は329(2018年現在)。第1回総選挙が2005年12月15日に行われた。第2回総選挙は2010年3月7日に行われた。 2010年現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り。
イラク国民運動‐91 (アッラーウィー元首相の世俗会派)
法治国家連合‐89 (マーリキー首相の会派)
イラク国民連合‐70 (ムクタダー・サドルらの会派)
クルディスタン愛国同盟‐43
イラク合意戦線‐6
イラク統一同盟‐4
司法
外交
イランとは、イラク戦争でバアス党政権が崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。また、同じシーア派ということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親イラン傾向が強まっている。
エジプトとは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。イラン・イラク戦争での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。
シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。レバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアのキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍に機甲部隊と特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アル=アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。
ヨルダンとは、イラン・イラク戦争および湾岸戦争でイラクを支持したため、両国の関係は強まった。1999年にアブドゥッラー2世が即位して以降も依然として良好である。
イスラエルとは、1948年、1967年、1973年の中東戦争に参戦し、強硬な態度を取った。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ (この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章 (Fez Initiative) にも支持を表明した。ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルで攻撃した。
軍事
2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。
クルド地方3県 (エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県 (ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県) 及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 (スンニ派) が治安維持に貢献しているとされる。
地理
イラクの地理について、国土の範囲、地形、地質構造、陸水、気候の順に説明する。
イラクの国土は東西870 km、南北920 kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にあり、シリア、ヨルダンとの国境 (北緯33度22分 東経38度47分) である。北端はトルコとの国境 (北緯37度23分 東経42度47分) で、クルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口 (北緯29度53分 東経48度39分)。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境 (北緯29度03分 東経46度25分) の一部である。
イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる2 本の大河、南側のユーフラテス川と北側のティグリス川である。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は高度1000 mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。2 本の大河周辺はメソポタミア平原が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のアルジャジーラ平原である。2 本の大河はクルナの南で合流し、シャットゥルアラブ川となる。クルナからは直線距離にして約160 km、川の長さにして190 km流れ下り、ペルシャ湾に達する。
ティグリス川の東は高度が上がり、イランのザグロス山脈に至る。バグダードと同緯度では400 mから500 m程度である。イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の尾根が国境線となっているからである。イラク最高峰のen:Cheekha Dar(3611 m)もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30 km四方にイラクで最も高い山々が見られる。 アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して地形を圧縮し、ペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈を形成した。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000 mに達する峰々が存在する。ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された原因も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、プレートテクトニクスで説明されている。ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200 kmにも伸びるハンマール湖が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ族 (沼沢地アラブ) と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと水牛を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は 1/10 程度まで縮小している。
イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるミル湖である。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジ (Wadi al-Ghadaf) など複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400 kmを上回り、4 本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジ (Wadi Hawran) であり、480 kmに達する。
イラクの気候は、ほぼ全土にわたり砂漠気候に分類される。ティグリス川の北岸から北はステップ気候、さらに地中海性気候に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、熱赤道が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50 度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30 度を上回ることは珍しい。一方、北部山岳地帯の冬は寒く、しばしば多量の降雪があり、甚大な洪水を引き起こす。
1921年に53.8 度の最高気温を記録したバスラは30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バグダードの平均気温は8.5 度 (1月)、34.2 度 (7月)。年降水量は僅かに140 mmである。
動物
砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物はレイヨウ、次いでガゼルである。肉食獣としては、ジャッカル、ハイエナ、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、トビネズミ、モグラ、ヤマアラシが分布する。
鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。ウズラ (水鳥でも捕食者でもない)、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、ワタリガラスが代表。
植物
ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer である。樹皮から分布される樹脂をアラビアガムとして利用するほか、香料として利用されている。聖書の創世記にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つハンニチバナ科の草、ヨーロッパ原産のムシトリナデシコが見られる。
ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、クコ、ハス、パピルス、ヨシが密生する。土手にはハンノキ、ポプラ、ヤナギも見られる。
ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。
地方行政区画
18の県 (「州」と呼ぶこともある) に分かれる。
1.バグダード県 - 県都バグダード
2.サラーフッディーン県 - 県都ティクリート
3.ディヤーラー県 - 県都バアクーバ (「バゥクーバ」とも)
4.ワーシト県 - 県都クート
5.マイサーン県 - 県都アマーラ
6.バスラ県 - 県都バスラ
7.ジーカール県 - 県都ナーシリーヤ
8.ムサンナー県 - 県都サマーワ
9.カーディーシーヤ県 - 県都ディーワーニーヤ
10.バービル県 - 県都ヒッラ
11.カルバラー県 - 県都カルバラー
12.ナジャフ県 - 県都ナジャフ
13.アンバール県 - 県都ラマーディー
14.ニーナワー県 - 県都モースル (「マウシル」とも)
15.ドホーク県 - 県都ドホーク
16.アルビール県 - 県都アルビール
17.キルクーク県 - 県都キルクーク
18.スレイマニヤ県 - 県都スレイマニヤ

 

経済
IMFの統計によると、2013年のGDPは2,293億ドルである。一人当たりのGDPは6,594ドルで、これは世界平均の60 %を超え隣国のイランやヨルダンを上回る水準であるが、産油国が多い中東ではやや低い数値である。
通貨はイラク戦争後のイラク暫定統治機構 (CPA) 統治下の2003年10月15日から導入されたイラク新ディナール(IQD)。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円。
イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。
1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスBPのもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。
第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50 %がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後ソ連に接近、南部最大のルメイラ油田がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。石油危機による原油高の追い風で1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長で当時のイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった。
1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。
1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとする暫定自由政府の要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。
   イラクの原油生産量、単位: 万トン
    1927年 - 4.5 (イラクにおける石油の発見)
    1930年 - 12.1
    1938年 - 429.8
    1940年 - 251.4
    1950年 - 658.4 (石油の利益の1/2がイラクに還元)
    1960年 - 4,746.7
    1970年 - 7,645.7
    1972年 - 7,112.5 (油田と付帯施設を国有化)
    1975年 - 11,116.8
    1986年 - 8265.0 (イラン・イラク戦争による被害)
    1990年 - 10,064.0
    1993年 - 3,230.0 (湾岸戦争による被害)
    1997年 - 5,650.0
    2003年 - 19,000.0 (イラク戦争終結時)
イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。
1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為 (湾岸戦争) で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。
1996年12月に国連の石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001〜2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。
農業
世界食糧計画 (WFP) の統計 (2003年) によると、イラクの農地は国土の13.8 %を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8 %という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。
農業従事者の割合は低く、全国民の2.2 %にあたる62 万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2 haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。
同2005年の統計によると、主要穀物では小麦 (220 万トン)、次いで大麦 (130 万トン) の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に、米の生産量は13 万トンと少ない。
野菜・果実ではトマト (100 万トン)、ぶどう (33 万トン) が顕著である。商品作物としてはナツメヤシ (87 万トン) が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6 %を占める。畜産業では、ヤギ (165万頭)、ウシ (150 万頭) が主力である。
ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000 年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバグダードのナツメヤシが有力。バスラには800 万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バグダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。
イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 (Khalaseh)、ハラウィ種 (Halawi)、カドラウィ種 (Khadrawi)、ザヒディ種 (Zahidi) である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバグダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。
工業
イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1 %から2 %に達する (2002年時点で1.6 %)。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。
製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。
エネルギー
原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。米国エネルギー省は埋蔵量の90 %が未開発で、掘られた石油井戸はまだ2,000 本に過ぎないと推定。 2009年時点の総発電量461億kWhの93 %は石油による火力発電でまかなっている。残りの7 %はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。
イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。
交通
イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200 km。旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。
イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。
バグダードとアナトリア半島中央南部のコンヤを結ぶイラク初の鉄道路線(バグダード鉄道)はドイツによって建設された。バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年に中華人民共和国から時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な青島四方機車車輛製の高速車両が導入された(バグダード=バスラ高速鉄道路線)。
一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台 (うち65万台が乗用車) に留まる。舗装道路の総延長距離も8400 kmに留まる。
貿易
イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9 %、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1 %であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。
輸出品目別では、原油83.9 %、石油 (原料) 8.0 %、食品5.0 %、石油化学製品1.0 %である。食品に分類されている品目はほとんどがデーツである。輸入品目別では、機械73.1 %、基礎的な工業製品16.1 %、食品5.0 %、化学工業製品1.0 %。
貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6 %、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6 %、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。
イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1 %と高かったにもかかわらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9 %と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。
国民
国連の統計によれば、住民はアラブ人が79 %、クルド人16 %、アッシリア人3 %、トルコマン人 (テュルク系) 2 %である。ユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。
   民族構成 (イラク)
    アラブ人 79%
    クルド人 16%
    アッシリア人 3%
    トルコマン人 2%
かつては、スーダンからの出稼ぎ労働者やパレスチナ難民も暮らしていたが、イラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが、国外に出国するか国内難民となっている。また、イラン革命を逃れたイラン人がイラク中部のキャンプ・アシュラーフと呼ばれる町に定住している。
イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。
マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。
南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。
また、アフリカ大陸にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。
言語
アラビア語、クルド語が公用語である。2004年のイラク憲法改正以来クルド語がアラビア語と共に正式な公用語に追加された。その他アルメニア語、アゼリー語や現代アラム語 (アッシリア語) なども少数ながら使われている。
書き言葉としてのアラビア語 (フスハー) は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからである。しかし、話し言葉としてのアラビア語 (アーンミーヤ) は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのはイラク方言である。ただし、イラク国内で共通語となっているバグダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。
教育
イラクにおける教育制度は、伝統的なコーランを学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、義務教育が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備課程を修了する必要がある。首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。
婚姻
通常は婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、西欧風に夫の姓に改姓する女性もいる。

 

宗教
   宗教構成 (イラク)
    イスラム教 (シーア派) 59.4 - 64.4 %
    イスラム教 (スンナ派) 31.7 - 36.6 %
    キリスト教諸派 0.8 %
    その他 0.2 %
イスラム教が国民の 99 %を占め、次いでキリスト教 0.8 %、ヒンドゥー教 、その他 (0.2 % 以下) である。イスラム教徒の内訳はシーア派 60 - 65 %、スンナ派 32 - 37 % である。
キリスト教(カトリック、東方正教会、アッシリア東方教会等)はアッシリア人と少数民族に限られている。1987年の時点では140万人(全体の8%)のキリスト教徒が暮らしていたが1990年代と、さらに2003年のフセイン政権崩壊以降とで多くが国を離れた。2010年の時点での人口比は0.8%と報告されている。
イスラム教シーア派
全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は預言者の後継者・最高指導者 (イマーム) が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要なイスマーイール派、ザイド派、十二イマーム派、ハワーリジュ派などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムとマシュハドである。
イスラム教スンナ派
スンナ派ではシャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。
8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ (Abu Hanifa、699年-767年) は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。
バスラのアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー (Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年) は、合理主義を標榜したムウタズィラ学派に属していたが、後に離れる。ムウタズィラ派がよくしていたカラーム (弁証) をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。
ガザーリー (Al-Ghazali、1058年-1111年) は、ペルシア人であったがバグダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。
イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル=バスリー (al-Hasan al-Basri、642年-728年) が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 (スーフィズム) につながっていった。
ヤズィード
ヤジーディー派はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書、新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。
キリスト教
1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会 (ネストリウス派) に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。
マンダ教(サービア教)
サービア教はコーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。マンダ教はそのサービア教と同一視されてきた。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において西洋・東洋に広く伝播したグノーシス主義が原型と考えられている。
ユダヤ教
ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。
文化
食文化
イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63 kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77 kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25 kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。
イスラム美術
細密画、アラビア書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地。
音楽
伝統的な楽器としてリュートに類似するウード、ヴァイオリンに類似するレバーブ、その他ツィターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。
ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では3世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、アル=ファーラービーによれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は紀元前2000年ごろのメソポタミア南部 (イラク) にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、マカームの演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においてもマグリブ地方において古形を見出す事が出来るが、伝承では9世紀にキンディー (あるいはズィリヤーブとも云う) によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い (正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦〜十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最低音弦は単弦となる)。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。
カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する撥弦楽器であり、弦の本数は様々だが、百本に達するもの等もある。
また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのバグダードはエジプトのカイロと並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、アッバース朝時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は千夜一夜物語にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム (マカーム・アル=イラーキー) と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。
民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、パスタなどが知られる。 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれるチャルメラ状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 またクルド人は独特の音楽を持つ。
現代のイラク人は西洋のロック、ヒップホップ、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。
世界遺産
イラクは、アメリカ合衆国、エジプトに次ぎ、1974年3月5日に世界遺産条約を受託している。1985年にバグダードの北西290 kmに位置する平原の都市遺跡ハトラ (ニーナワー県) が文化遺産に、2003年にはハトラの東南東50 kmにあるティグリス川に面した都市遺跡アッシュール (サラーフッディーン県) がやはり文化遺産に認定されている。
アレクサンドロス大王の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれたセレウコス朝シリアは紀元前3世紀、ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱すると、パルティア帝国の通商都市、宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国はサーサーン朝ペルシアを名乗る。
アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後、シュメールの南方に接していたアッカド帝国の都市となり、ウル第三王朝を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。アッシリアが成立すると、その版図となり、古アッシリア時代のシャムシ・アダド1世 (前1813年-前1781年在位) は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていたエンリル神殿を再建している。1000年の繁栄の後、新アッシリア王国のアッシュールナツィルパル2世はニムルドを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略した新バビロニア王国によって同614年に征服・破壊される。アッシリア自体も同612年に滅びている。その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。
アッシュールはドイツ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンのペルガモン博物館に展示・収蔵されている。
スポーツ
イラクではフセイン政権時代前はバスケットボールイラク代表やサッカーイラク代表などが国際試合を行っており、特にサッカーはアジア最強とも言われていたが、フセイン政権になり、特にウダイ・サッダーム・フセインがイラクオリンピック委員長に就任して以降、ウダイによる拷問により多数のスポーツ選手が殺害され、イラク国内においてスポーツ界に暗い影を落とした。また、スタジアムなどのスポーツ関連施設もフセイン政権下では公開処刑場と化していた。1990年代におけるスポーツ界でイラクが起こした著名な出来事と言えば、1994 FIFAワールドカップアジア最終予選・対日本戦において試合終了直前に引き分けに持ち込み、日本のワールドカップ初出場の夢を打ち砕いた「ドーハの悲劇」が挙げられる。やがてアメリカによりフセイン政権が崩壊すると、徐々にスポーツ界も復興し始め、サッカーイラク代表もアジアカップ2007で初めてとなるアジアの頂点を制し、アジア列強として再び力を取り戻しつつある。  
 
 
 
 

 

●イラク国民議会 
イラクの立法府。連邦議会と表記されることもある。
イギリス委任統治領メソポタミアであった1925年に憲法を制定し、両院制の議会を設置。1932年のイラク王国発足と共に正式に国会となった。下院は普通選挙、上院は国王による任命制であった。
1958年に発生した7月14日革命により王国が滅亡、議会も廃止された。
バアス党政権の下、1970年に新憲法が採択。国民議会が発足した。
2003年、イラク戦争の勃発とサッダーム・フセイン政権の追放により、2004年に暫定議会選挙を執行し、暫定国民議会が発足。
2005年、新憲法発足に伴い、一院制の国民議会が発足した。
任期、4年。定数、329人で、そのうち女性に83議席、マイノリティに9議席(キリスト教5、マンダ教・ヤズィーディー・シャバク・フェイリクルド1ずつ)割り当てられている。選挙、比例代表制。
イラク国民会議
イラクの政党連合。当初はアメリカの米中央情報局の支援によって結成されたサッダーム・フセイン政権に反対する亡命イラク人による反体制派組織として発足。発足当初の主な加盟組織は、イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI、イスラム主義)、イラク国民合意(INA、世俗主義)、立憲君主運動(CMM、イラク王位継承権主張者シャリーフ・アリー・イブン・アル=フセインの王党派)、ダアワ党、イラク共産党、クルディスタン民主党(KDP)、クルディスタン愛国同盟(PUK)等である。しかし、その後組織内部で分裂を引き起こしたために見限られ、その後は国防総省が後ろ盾となっていた。INC代表のアフマド・チャラビーは、アメリカのネオコン指導者の一人、国防政策委員会のリチャード・パールやポール・ウォルフォウィッツ元国防副長官とつながりがある。 
 
 
 
 

 

●諸報道
 2018
イラク総選挙、新会派が多数の議席獲得 2018/5/24
総選挙が5月12日に実施された。シーア派イスラム宗教指導者のムクタダ・サドル師がイラク共産党と組織した新会派「変革への行進(サーイルーン)」が第1会派となった 。
政権の汚職を追及する姿勢で大衆的支持を得て、シーア派の聖地を擁する中南部ナジャフ・カルバラーなどにとどまらず、大票田のバグダッドでも最大多数を獲得した。続いて、過激派掃討に貢献したシーア派民兵組織の指導者であるハディ・アミリ元運輸相が率いた「征服連合(ファス/ファタハ)」が第2会派に、ハイダル・アバディ現首相が率いた「勝利連合(ナスル)」は宗派・民族を超えた連携を唱え、スンニ派地域の北部ニナワ県で最大得票を得たが、第3会派にとどまった。
今回の選挙前の最大会派で、ヌーリ・マリキ前首相が率いる「法治国家連合」は、前述の会派分離などの影響もあって大きく議席を減らす結果となった。スンニ派の諸政党は勢力を結集できず、最大会派の「イラク決意連合」も議席を減らした。
クルディスタン地域の各政党については、クルディスタン民主党(KDP)は現状維持となったが、同党と2大政党と形成するクルディスタン愛国同盟(PUK)は議席を減らす見込み。PUK内では2017年に党創設者でイラク戦争後の初代大統領だったジャラル・タラバニ議長が逝去したのち、タラバニ派と現暫定議長派で内紛状態となっている。第3勢力の変革運動(ゴラン)も議席減、「新世代」などのクルド振興勢力も伸び悩んだ。
2017年末の過激派への勝利宣言後初めての国政選挙として注目されたものの、今回の投票率は44.5%と過去4回の総選挙で最低となった。現地複数の有権者の意見を集約すると、投票率が低いのは、長引く政情不安と深刻な汚職により、国民の政治不信が大きいことが主たる要因のようだ。
イラクでは多数の政治グループが林立しており、今回の選挙の結果、最大会派であっても329議席のうち54議席(16%)を見込むにすぎない。首相・閣僚を選出するための連立交渉は既に始まっており、会派指導者同士の会談が順次行われている。2010年の総選挙では、アッラーウィー元イラク暫定政府首相(現「ワタニーヤ」代表)が率いた世俗派連合「イラク国民運動」が最大会派を獲得したものの、シーア派主導グループにクルド系が協力し、マリキ連立政権が続投した経緯もある。今後の連立交渉の推移が注目される。
 2019
混迷深まるイラク、主要会派がアブドルマフディ政権を不支持 2019/11/1
市民による大規模な反政府デモが継続しているイラクで10月29日、議会第1会派を率いるイスラム教シーア派宗教指導者ムクタダ・サドル師が、第2会派を率いるシーア派民兵組織ハディ・アミリ司令官の協力を呼び掛けた上で、アデル・アブドルマフディ首相に対し、早期の選挙実施に応じなければ直ちに不信任の投票をすると書簡で通知した。議会の2大派閥である両陣営が一致すれば、政権運営への影響は避けられない見通しとなる。サドル師の派閥にある共産党議員をはじめとして、抗議のための議員辞職も相次いでおり、議会の混迷は深まっている。
10月1日から発生した反政府デモは、シーア派の宗教行事「アルバイーン(18、19日)」を挟んでいったん沈静化したものの、アブドルマフディ政権発足から1年となる10月25日にあらためて大規模なデモが呼び掛けられ、翌26日にはデモ隊が対応策を議論するため、再招集されたイラク国民議会のあるバグダッド中心部の「グリーン・ゾーン」内まで進入した。混乱はバグダッドのみならず全国に拡大しており、28日にはシーア派の聖地カルバラーで座り込みをしていたデモ隊への攻撃があり、多数の死傷者が出る事態になっている。AFP通信(10月31日付)の報道によると、デモ開始からの死者は250人以上、負傷者1万人以上と伝えられている。
抗議の多くは学生を含む若年層で、基本的な生活基盤や雇用の欠如、その背景にある行政機構の機能不全や政府の腐敗への不満が噴出した格好だ。市民に対する実弾を含む武力を行使しているのは治安部隊とみられるが、英紙「ガーディアン」やロイターによると、管轄する内務省は「どのように武力行使が行われたか調査する」との声明を出し、首相も「このような状況を続けることはできない」と調査を約束した。バルハム・サーレハ大統領も抗議参加者やメディアに対する武力行使を非難した。
経済面での影響も大きく、ロイター(10月30日付)は南部の主要港湾ウンム・カスル港がデモ隊による業務妨害で平時の2割程度の運用となり、さらに、30日に業務を完全に停止したと伝えている。11月1日からの開催が予定されていたイラク最大の見本市「バグダッド国際見本市」も、10日間の繰り延べが決まった。2017年12月に過激派組織との終戦が宣言されて以降、国内の治安情勢は相対的に回復していたが、今後の復興の進展が懸念される。
国連がイラクで事態収束に向けた声明を発表、政治刷新を求める 2019/11/25
国連のイラク派遣団は11月10日、イラクで市民による抗議デモが継続し多数の死傷者が出る事態となっていることを受け、問題解決に向けて声明を発表外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますした。声明では、イラク戦争後16年間にわたる「進歩の欠如」に対する市民の不満の鬱積(うっせき)が今回の騒乱の背景にあり、これ以上の問題先送りはより深刻な事態につながりかねない旨を指摘。市民・デモ隊の生命の保障と、憲法改正を含んだ政治システム改革の必要性をイラク政府に訴えた。これに連動して、米国大統領府も声明を発表、早急な選挙法改正と総選挙の実施を求めた。
イラク国会の主要会派は10月末、アデル・アブドルマフディ政権への批判を強め(2019年11月1日記事参照)、同首相も辞任の意向を示したと報じられたが、現在は各会派とも現政権を維持するかたちで事態の収束を図っている。シーア派の最高権威であるアリー・シスタニ師が国連派遣団との対話において、国連の声明を支持するとともに、現政権の対応能力についての懸念を表明したと報じられている(ロイター通信11月11日)。選挙日程の見通しは現状では立っておらず、選挙プロセス刷新の方向性も不透明だが、イラク政府は事態打開のために、早期の選挙実施を含めたロードマップを協議していることを、英国系の通信社ミドルイーストモニターが11月18日に伝えた。
経済面への影響としては、11月9日に業務を再開した南部の主要港湾のウンム・カスル港で18日、同港に通じる道路を再びデモ隊が妨害し、往来する車両の半数がブロックされる事態になったとロイター通信が伝えている。11月10日から後ろ倒しで開催が予定されていた同国最大の見本市「バグダッド国際見本市」は、情勢が回復しないことを理由に無期限の延期となっている。
イラク議会、アブドルマフディ首相の辞任を承認 反政府デモ拡大で 2019/12/2
2カ月にわたり反政府デモが続くイラクで1日、臨時議会が開かれ、アーディル・アブドルマフディ首相の辞任が承認された。アブドルマフディ氏の後任は未定。
イラクの現行法では、国会議員による首相の辞任の扱いについては明確な規定がない。しかしAP通信によると、1日の臨時議会では、議員らは最高裁の法的見解に基づいて判断を下した。
憲法に基づき、バルハム・サリフ大統領が新首相を指名することとなる。報道によると、アブドルマフディ政権は新政権が発足するまでの間、現在の地位にとどまるという。
今年10月に開始した反政府デモでは、首都バグダッドや他の複数都市で約400人が死亡、数千人が負傷している。イラク国民は雇用機会の拡大や、政治的腐敗の撲滅、そして公共サービスの改善を要求している。
デモ隊と治安当局との衝突は、バグダッドや南部ナジャフなどで1日も続いた。
辞任の背景
アブドルマフディ首相側は10月29日、イラク国内で影響力をもつシーア派聖職者トップからの求めに応じ、議会に辞表を提出する意向だと発表した。
大アーヤトッラー(シーヤ派高位の宗教学者、ウラマーに与えられる称号)のアリ・アル・スィスターニ氏は、デモ隊への武力行使を非難し、議員に対して政府への支持を撤回するよう求めた。
前日には40人以上が殺害され、反政府デモの開始以降、最悪の日となった。
警察官に死刑判決
デモ隊は1日、デモの犠牲者を悼むために黒い服に身を包み、南東部の港湾都市バスラの路上を占拠した。
これは、バグダッド南東部ワシト州でデモ参加者を殺害したとして、警察官1人に死刑判決が下されたという国内報道を受けての行動だった。報道によると、他の警察官1人にも7年の禁固刑が言い渡されたという。
報道内容が事実だとすると、2カ月におよぶ政情不安をめぐり警察官に死刑が宣告されるのは初めて。
ローマ教皇が非難
ローマ教皇フランシスコ1世は、イラクの治安部隊による殺傷能力の高い武器の使用を非難している。
毎週行われている日曜日の礼拝で、ローマ教皇は、イラクの状況を「懸念」し見守っており、「ここ数日間の抗議デモで、数十人の犠牲者を出した厳しい対抗措置があったことを知り、辛く思う」と述べた。来年、イラクを訪問する意向という。
実現しない改革への不満
イラクでは昨年10月末に、アーディル・アブドルマフディ政権が発足した。新首相は様々な改革を約束したものの、高い失業率や政府汚職の蔓延(まんえん)、不十分な公共サービスは改善されず、住民の不満は募る一方だった。
今年10月1日に、若者を中心としたデモが首都バグダッドで始まった。治安部隊がこれを強硬に取り締まると、抗議行動も激化して国内各地に広まった。
まず6日間にわたり続いた一連のデモでは、市民149人が死亡。アブドルマフディ首相は内閣改造や政府高官の減給を約束し、若者の失業率改善のための施策を発表した。
これに対して抗議者たちは、要求への対応が不十分だと反発し、10月末に抗議行動を再開した。治安当局が殺傷能力のある武器を使用して応戦したことから、デモは激化し、イラク全土へと拡大した。
当局は、デモ隊との衝突で、治安部隊十数人以上が死亡したとしている。
首相を辞任に追い込んだイラクの抗議運動の行方  2019/12/13
イラクの反政府デモは、10月1日に首都バグダードや南部地域で発生し、一時鎮静化したものの同月25日に再び活発化し、全国的な広がりをみせている。その責任をとるかたちで、10月29日、アブドゥルマフディ首相が辞意を表明し、12月1日に議会で承認された。議会は憲法に基づいて、サレハ大統領が次期首相の指名を行えるように候補者を調整しているが、国内勢力の利害対立から難航している。
当初、デモ抗議者の政府への要求は、失業の解消、インフラの整備、公共サービスの改善であった。しかしながら、運動の広がりとともに、中央と地方における腐敗した政治家と役人の退陣など、抗議運動の要求は政治構造改革に及ぶようになった。また、11月3日にデモへの参加者がシーア派の聖地のカルバラで、11月27日および12月1日にはナジャフでイラン領事館を襲撃するなど反イラン色が強まっている。
本稿では、こうしたイラクの抗議運動が政治構造改革に結びつくかについて検討する。 2003年以降、イラク戦争後の米国の占領下で急速に民主化が進められたイラクでは、各種の制度が構築された。その過程では、復興期の勢力均衡を図るため宗派、民族による政治的セクト主義が志向された。
今回の民衆の抗議運動は、このシステムの変革を促す方向性を示している。しかし、レバノンで10月19日より続く「宗派主義制度」への抗議運動に、既存の政治家たちが改革案を提示できないように、イラクでも既得権益者を改革に同意させることは厳しいといえよう。
復興プロセスで生まれた政治的セクト主義
サッダーム・フセイン大統領時代のイラクでは、同大統領に権限を集中させ、重要ポストに親族や地縁者(出生地ティクリートの出身者)を登用し、バアス党と軍を効果的に用いた統治体制が構築されていた。また、宗教的には少数派のスンニー派に属していた同大統領は、石油からの富をシーア派の有力者や部族長に分配することで、彼らを体制下に取り込んでいた。
フセイン体制はイラク戦争により崩壊し、2003年4月からイラクの占領統治を行った連合国暫定当局(Coalition Provisional Authority :CPA)は、1バアス党員の公職追放、2軍、警察、バアス党の下での治安組織の解体を実施した。このため、イラクの新統治体制は人材難の中でスタートせねばならず、フセイン政権時に国外に亡命していた人物たちが要職に就くことになった。
現在に続くイラクの政治的セクト主義は、このような状況のもと、イラク人の統治への関与の仕組みとしてCPAにより設置された構成員25名からなる「統治評議会」から始まっている。CPAのブレマー行政官は、同評議会の構成員を民族や宗派の人口比によって選定する制度設計を行った。これがきっかけとなり、イラク社会では、宗派や民族への帰属意識にもとづく政治対立が生まれた。その対立は、2004年6月にイラクが主権を回復して以降に実施された複数政党による制憲議会選挙(2005年1月)、憲法草案の国民投票(同年10月)、第1回国民議会選挙(同年12月)の過程で激化した。こうして宗派や民族にもとづく社会集団が政治勢力として固定化し、イラク社会は分極化していった。
一方で、社会統合が難しい状況において復興を進めるには、集団間の合意形成を図る必要がある。このため、政治的に、閣僚ポストは国民議会の議席の割合を、公務員人事や軍のポストは人口比に対して偏りが出ないよう配分がなされてきた。一方、そのことで、社会において不公平な富の分配、縁故主義、賄賂などが横行してきた。今回の民衆の抗議運動は、こうした不正・不公正の是正、さらには政治的セクト主義の改革を政府に迫るものである。
政治改革の困難さ
イラクの政治改革にはいくつもの難問があるが、ここでは主な3つの問題点を挙げておこう。第1は、憲法上、県レベルで住民の過半数の賛成があれば自治区を形成することが可能なことである。この制度によって、イラクでは北部3県によるクルド自治区が誕生した。それは、民主化の観点からは歓迎されるべきことではあるが、少数派の政治的発言力が強まったことで国家としての意思決定を難しくした。
第2も、意思決定に関わることであるが、サッダーム・フセインのような国家統合を図れるような人物が現在のイラクには存在しないことである。多数派であるシーア派の宗教界には、イラクの5つの聖廟の管理者として影響力を持つ大アヤトラのシスターニ師が存在し、今回の民衆の抗議運動を擁護する発言を行っている。しかし、イラクには同師の他に3人の大アヤトラがいるなど、絶対的な権威者とまでは言えない。また、シスターニ師はイランの故ホメイニ師のようにイスラム法学者による統治を提唱していないため、統治に関わることはない。
第3は、外国勢力の関与である。現在も約2000人の部隊の駐留を続けているアメリカは、イラク当局に対し早期の選挙と選挙制度改革の実施を要請し、デモ隊側に数百人もの死者を出した治安部隊による暴力を終わらせるよう呼び掛けた。また、11月23日にはペンス副大統領がクルド自治区を訪問し、自治政府のバルザニ議長に米国への協力に対する感謝と、今後も米国がクルド人を支援するというメッセージを伝えている。一方、イランは同国への亡命経験者の人的ネットワークを通して影響力を行使している。とりわけ、議会の第2会派である征服連合を率いるハディ・アル・アミリ氏との結びつきが強いとされている。例えば、新政権の樹立に向けて、イランの革命防衛隊の精鋭コッズ部隊のスレイマニ司令官がイラクを訪問し、政府関係者と協議を重ねている。その協議者の中には、イラク最大の議会会派サーイルーン(変革への行進)を率いているムクタダ・サドル師もいる。一方、アメリカ財務省は12月6日、イラクの抗議デモでの人権侵害を理由に、3人の民兵組織幹部に経済制裁をかけた。このアメリカの対応にはイラクへのイランの関与を阻止する狙いもある。アメリカとイランの対立がイラク情勢を一層不安定なものにする可能性も生まれている。
以上でみたように、イラクの民衆が求めている現行の政治的セクト主義の改革は難しいといえる。したがって、新首相が選出され、早期総選挙が実施されたとしても、イラク戦争後に形成された宗派・民族・部族による社会の分断化の解消には至らない可能性が大きい。この分断が続く限り、外国勢力の干渉も減少しない。そのことで、クルド自治区の独立やスンニー派の自治の要求が高まり、イラクの国家統合はより難しくなると考えられる。
 2020
イラク議会、米軍の駐留終了を政府に要請−イラン司令官殺害受け 2020/1/6
イラク議会は政府に対し、米軍の国内駐留を終わらせるよう求めた。米軍によるイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官殺害を受け、イラン側は中東域内の米軍兵士や基地への報復を宣言している。
イラクのアブドルマハディ首相は5日、ソレイマニ司令官殺害を受けて招集された臨時議会で演説。「イラクと米国の間では信頼感が揺らいでいる」とし、イラク政府の許可なしに国内で外国軍が行動を起こすことはあってはならないと述べた。
イランでは5日、数千人もの国民がソレイマニ司令官を追悼。「米国に死を」、「イスラエルに死を」と叫びながら街頭を練り歩いた。
アブドルマハディ首相は演説で、ソレイマニ司令官とは殺害された日の朝に会う予定だったと明かした。司令官はイランとサウジアラビアの緊張を緩和する方法を巡り、サウジからの書簡に対するイラン側の返答を携えていたという。
イランを後ろ盾とするイスラム教シーア派武装組織、ヒズボラをい率いるナスララ師は、対立は「新たな段階」に入ったとし、ソレイマニ司令官の死の代償として、域内における米軍の駐留を終わらせるべきだと述べた。
トルコ大国民議会のシェントプ議長、イランとイラクの議会議長と会談 2020/1/7
トルコ大国民議会のツイッターのアカウントから出された声明によると、シェントプ議長は、イラン議会のラリジャニ議長と電話会談した。会談で、最新の進捗が話し合われた。シェントプ議長は、イラク議会のムハンマド・アル・ハルブーシ議長とも電話会談した。会談で、最新の進捗と地域問題が話し合われた。
在イラク米軍「撤退」の文書出回る 「下書き」と釈明 2020/1/7
米軍がイランの精鋭部隊・革命防衛隊のソレイマニ司令官を殺害した問題で、現場となったイラクで反発が続いている。イラクの首相は6日、米軍の撤退に向けた協力を米側に要請した。米軍も、撤退を通知する文書が出回りながら後から否定するなど、混乱している。
イラクのアブドルマハディ首相は6日、米国のトゥーラ駐イラク大使と首相府で会談し、米軍を含む外国軍の撤退に向けた協力を求めたうえで、「イラクは戦争を防ぐための努力を惜しまない」と訴えた。イラクでは5日に緊急の国民議会(国会)が招集され、親イラン派の議員を中心に、政府に米軍の撤退を要求する決議が採択されている。
6日は、米軍側が駐留部隊を「イラクの国会と首相の要求に応じ、数日から数週間のうちに再配置する」という内容の文書も出回った。文書は6日付で、イラクに駐留する海兵隊の司令官名で出され、「イラク国外への退去」のためにヘリコプターの飛行が首都バグダッド周辺で増えるとした。また、「撤退を命じる主権的な決定に敬意を表する」とも記されていた。
ところが、直後にはエスパー米国防長官と米軍制服組トップのミリー統合参謀本部議長が国防総省で記者団に対し、「イラクを撤退するという決定はない」と否定。ミリー氏は文書が「下書き」だとしたうえ、出回ったことについては「純粋な間違いだった」と釈明した。
イラン・イラクが相次ぎ米国に対抗策 中東情勢はさらに緊張 2020/1/8
イラク国民議会は5日の特別会議で、米国など外国軍のイラク駐留の打ち切りに関する決議を採択した。同日、イラン政府もイラン核合意の履行を完全に停止することを宣言した。新華社が伝えた。
イラクとイランのこの決定は、イラクのシーア派武装組織への空爆、イラン高級将校・スレイマニの「ピンポイント排除」といった米国の一連の行為に対する報復だとアナリストは指摘する。米国はこれに強硬に対処する可能性が高く、中東情勢の緊張はさらに激化するだろう。
中国社会科学院西アジア・アフリカ研究所政治研究室の唐志超室長は「イラク議会が米軍の撤退を求める決議を採択したのは、事実上イランの側に立って米国に反対することを明確に表明したものであり、イラク戦争以来の米国の対イラク政策の完全な失敗を意味する。米軍はイラクで厄介な立場に置かれる。イラク国内の反米勢力も米軍追放・攻撃の合法性を得た」と指摘する。
イラン政府は5日、イラン核合意の第5段階、すなわち最終段階の履行停止を宣言した。合意の最後の重要な制限である「遠心分離器の数量制限」を放棄する。イラン政府は声明で、同国の核開発計画が今後いかなる制限も受けないことを表明した。
だが注目すべきは、イランが核合意に「死刑判決」を下さず、一定の余地を残したことだ。イランは核合意の履行停止を宣言すると同時に、国際原子力機関(IAEA)との協力継続も表明。さらに、制裁が解除され、イランの経済的利益が保障された場合には、核合意の約束を再び履行する用意があるとした。
中国国際問題研究院で中東問題を専門とする李国富氏は「イランのこの行動は1つには米国への警告であり、もう1つには引き続きイラン核合意を守るよう欧州を引き込むものだ」と考える。
イラク議会の米軍撤退要求に対して、トランプ米大統領は「イラク政府は米軍の長期駐留の費用を払う必要がある。さもなくば米軍は撤退しない」と脅した。また「たとえ今後米軍がイラクから撤退しても、米国はイラクに大規模な制裁を科す」と述べた。
イランの核合意履行停止宣言に対して、米政府はまだ姿勢を表明していないが、すでにその前からイランに対して十分に強硬な姿勢を取っている。トランプ氏は、イランが米側の人員や施設を襲撃した場合、イランの52の標的に対して凄まじい攻撃を行なうと警告した。
アナリストによると、米国とイランの対立は日増しに先鋭化しており、「代理」モデルから直接衝突へと次第に変化している。両国間の対立はイラクの安全と安定に影響を与えるだけでなく、中東地域の他の国々にも波及する恐れがある。
米国とイランの対立激化を受けて、欧州諸国は次々に仲裁に動いている。英仏首脳はトランプ氏と電話会談し、ドイツは速やかに対応策を打ち出すためにEU外相会議を前倒しで開催することを提案。EUもイランのザリーフ外相の訪問を招請した。
中国社会科学院欧州研究所国際関係研究室の趙晨室長は「欧州にできる事は非常に限られており、緊張を緩和することだけだ。EUが米国の外交政策を敢えて批判することはないため、たとえザリーフ外相の訪問に成功しても、実際の成果を得るのは難しい」とする。 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 



 
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●イラン・イスラム共和国

 

通称イランは、西アジア・中東に位置するイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。
2017年の国勢調査によると人口は約8千万人であり、その多さは世界で17位である。1,648,195 平方キロメートル(km2)の総面積は、中東で2番目に大きく、世界では17位である。北西にアルメニアとアゼルバイジャン、北にカスピ海、北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタンとパキスタン、南にペルシア湾とオマーン湾、西にトルコ、イラク(クルディスタン)と境を接する。また、ペルシア湾を挟んでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。同国はユーラシアと西アジアの中心に位置し、ホルムズ海峡に面するため、地政学的に重要な場所にある。首都であるテヘランは同国の最も大きな都市であり,経済と文化の中心地でもある。
1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。世界有数の石油の産出地でもある。
イランには文化的な遺産が多く存在し、ユネスコの世界遺産には22個登録されている。これはアジアでは3番目、世界では11番目に多い。多くの民族と言語が存在する多文化国家であり、主要な民族の構成はペルシア人(61%)、アゼルバイジャン人(35%)、クルド人(10%)、ロル族(6%)である。
国名
イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として知られていた。1935年3月21日、レザー・シャーは諸外国に対して公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られた。1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。
現在の正式名称はペルシア語で(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)。公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」または「イラン回教共和国」、通称イランであり、漢字表記では「伊蘭」とも当てた。
歴史
古代
イランの歴史時代は紀元前3000年頃の原エラム時代に始まる。アーリア人の到来以降、王朝が建設され、やがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興。紀元前550年にキュロス大王がメディア王国を滅ぼしてペルシアを征服し、さらにペルシアから諸国を征服して古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国を建国した。紀元前539年にバビロン捕囚にあったユダヤ人を解放するなど各地で善政を敷き、またゾロアスター教をその統治の理念とした。
アケメネス朝はマケドニア王国のアレクサンドロス大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされたが、まもなく大王が死去してディアドコイ戦争となり、帝国は三分割されてセレウコス朝(紀元前312年 - 紀元前63年)の支配下に入った。シリア戦争中には、紀元前247年にハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)が成立し、ローマ・シリア戦争でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反した。
パルティア滅亡後は226年に建国されたサーサーン朝が続いた。サーサーン朝は度々ローマ帝国と軍事衝突し、259年/260年にシャープール1世は親征してきたウァレリアヌス帝をエデッサの戦いで打ち破り、捕虜にしている。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させ、ローマ帝国やイスラム帝国に文化・政治体制などの面で影響を与えた。
イスラーム化
7世紀に入ると、サーサーン朝は東ローマ帝国のヘラクレイオス帝との紛争やメソポタミアの大洪水による国力低下を経て、アラビア半島に興ったイスラーム勢力のハーリド・イブン・アル=ワリードらが率いる軍勢により疲弊。636年のカーディスィーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いでイスラーム勢力に敗北を重ね、651年に最後の皇帝ヤズデギルド3世が死去したことを以て滅亡した。
イランの中世は、このイスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられた。873年に成立したイラン系のサーマーン朝下ではペルシア文学が栄え、10世紀に成立したイラン系のブワイフ朝はシーア派イスラームの十二イマーム派を国教とした最初の王朝となった。11世紀から12世紀にかけて発達したガズナ朝やセルジューク朝やホラズムシャー朝などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用し、ペルシア語を外交や行政の公用語としたため、この時代にはペルシア文学の散文が栄えた。
1220年に始まるモンゴル帝国の征服によりイランは荒廃した。モンゴル帝国がイスラーム化したフレグ・ウルスが滅亡した後、14世紀から15世紀にかけてイラン高原はティムール朝の支配下に置かれた。
サファヴィー朝期
1501年にサファヴィー教団の教主であったイスマーイール1世がタブリーズでサファヴィー朝を開いた。シーア派イスラームの十二イマーム派を国教に採用したイスマーイール1世は遊牧民のクズルバシュ軍団を率いて各地を征服した。また、レバノンやバーレーンから十二イマーム派のウラマー(イスラーム法学者)を招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進んだ。1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン帝国に奪われた。
第五代皇帝のアッバース1世はエスファハーンに遷都し、各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出した。1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれると、イギリス人のロバート・シャーリーの指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化された。
しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し、1638年にオスマン帝国の反撃で現在のイラク領域を失い、1639年のガスレ・シーリーン条約でオスマン朝との間の国境線が確定した。サファヴィー朝は1736年に滅亡し、その後は政治的混乱が続いた。
ガージャール朝期
1796年にテュルク系ガージャール族のアーガー・モハンマドが樹立したガージャール朝の時代に、ペルシアはイギリス、ロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった(グレート・ゲーム)。ナポレオン戦争の最中の1797年に第二代国王に即位したファトフ・アリー・シャーの下で、ガージャール朝ペルシアにはまず1800年にイギリスが接近したがロシア・ペルシア戦争(第一次ロシア・ペルシア戦争)にてロシア帝国に敗北した後はフランスがイギリスに替わってペルシアへの接近を進め、ゴレスターン条約(1813年)にてペルシアがロシアに対しグルジアやアゼルバイジャン北半(バクーなど)を割譲すると、これに危機感を抱いたイギリスが翌1814年に「英・イラン防衛同盟条約」を締結した。しかしながらこの条約はロシアとの戦争に際してのイギリスによるイランへの支援を保障するものではなく、1826年に勃発した第二次ロシア・ペルシア戦争でロシアと交戦した際には、イギリスによる支援はなく、敗北後、トルコマーンチャーイ条約(1828年)にてロシアに対しアルメニアを割譲、500万トマーン(約250万ポンド)の賠償金を支払い、在イランロシア帝国臣民への治外法権を認めさせられるなどのこの不平等条約によって本格的なイランの受難が始まった。こうした情況に危機感を抱いた、アーザルバイジャーン州総督のアッバース・ミールザー皇太子は工場設立や軍制改革などの近代化改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫した。1834年に国王に即位したモハンマド・シャーは失地回復のために1837年にアフガニスタンのヘラートへの遠征を強行したものの失敗し、1838年から1842年までの第一次アフガン戦争にてイギリスがアフガニスタンに苦戦した後、イギリスは難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、1841年にガージャール朝から最恵国待遇を得た。更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの国教たる十二イマーム派の権威を否定するセイイェド・アリー・モハンマドがバーブ教を開くなど内憂にも見舞われた。モハンマド・シャーの没後、1848年にナーセロッディーン・シャーが第四代国王に即位した直後にバーブ教徒の乱が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビールの下でオスマン帝国のタンジマートを範とした上からの改革が計画されたが、改革に反発する保守支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折した。ナーセロッディーン・シャーは1856年にヘラートの領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征はイギリスのイランへの宣戦布告を招き、敗戦とパリ条約によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた。
こうしてイギリスとロシアをはじめとする外国からの干渉と、内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で、19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及んだ。1872年のロイター利権のような大規模な民族資産のイギリスへの譲渡と、ロシアによる金融業への進出が進む一方、臣民の苦汁をよそに国王ナーセロッディーン・シャーは遊蕩を続けた。第二次アフガン戦争(1878年–1880年)では、ガンダマク条約(1879年)を締結したが、戦争の二期目に突入し、イギリス軍は撤退した。
このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、1890年に国王ナーセロッディーン・シャーがイギリス人のジェラルド・タルボトにタバコに関する利権を与えたことを契機として、翌1891年から十二イマーム派のウラマーの主導でタバコ・ボイコット運動が発生し、1892年1月4日に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功した。
第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが革命家レザー・ケルマーニーに暗殺された後、1896年にモザッファロッディーンが第五代ガージャール朝国王に即位した。だが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めたアターバケ・アアザムが留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかった。しかしながら1905年に日露戦争にて日本がロシアに勝利すると、この日本の勝利は議会制と大日本帝国憲法を有する立憲国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の専制に対する憲法の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の農作物の不作とコレラの発生などの社会不安を背景に、1905年12月の砂糖商人への鞭打ち事件を直接の契機として、イラン立憲革命が始まった。イラン人は国王に対して議会(majles)の開設を求め、これに気圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、10月7日にイラン初の国民議会(Majiles-e Shoura-ye Melli)が召集された。しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には労働者のストライキや農民の反乱、1907年にイランをそれぞれの勢力圏に分割する英露協商を結んだイギリスとロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、1911年にロシア帝国軍の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのであった。なお、この立憲革命の最中の1908年5月にマスジェド・ソレイマーンで油田が発見されている。
1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま1914年の第一次世界大戦勃発を迎えると、既にイギリス軍とロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更にオスマン帝国が侵攻してタブリーズを攻略され、イラン国内ではドイツ帝国の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて凶作やチフスによる死者が続出した。1917年10月にロシア大十月革命によってレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキが権力を握ると、新たに成立した労農ロシアはそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、不平等条約の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出した。これに危機感を抱いたイギリスは単独でのイラン支配を目指して1919年8月9日に「英国・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図った。この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日にミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリーによってギーラーン共和国が、6月24日に北部のタブリーズでアーザディスターン独立共和国の樹立が反英、革命の立場から宣言されたが、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、1921年2月21日に発生したイラン・コサック軍のレザー・ハーン大佐によるクーデターの後、同1921年4月にイギリス軍が、10月にソビエト赤軍がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは1925年10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出した。翌1926年4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、パフラヴィー朝が成立した。
パフラヴィー朝期
パフラヴィー朝成立後、1927年よりレザー・パフラヴィーは不平等条約破棄、軍備増強、民法、刑法、商法の西欧化、財政再建、近代的教育制度の導入、鉄道敷設、公衆衛生の拡充などの事業を進めたが、1931年に社会主義者、共産主義者を弾圧する「反共立法」を議会に通した後、1932年を境に独裁化を強め、また、ガージャール朝が欠いていた官僚制と軍事力を背景に1935年7月のゴーハルシャード・モスク事件や1936年の女性のヴェール着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し、反イスラーム的な統治を行った。なお、イスラームよりもイラン民族主義を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月にフェルドウスィー生誕1000周年記念祭が行われ、1935年に国号を正式にペルシアからイランへと変更している。1930年代後半にはナチス・ドイツに接近し、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、当初は中立を維持しようとしたが、1941年8月25日に連合国によってイラン進駐を被り、イラン軍は敗北し、イギリスとソ連によって領土を分割された。イラン進駐下では1941年9月16日にレザー・パフラヴィーが息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに帝位を譲位した他、親ソ派共産党のトゥーデ党が結成され、1943年11月30日に連合国の首脳が首都テヘランでテヘラン会談を開くなど、戦後イランを特徴づける舞台が整えられた。また、北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、1945年12月12日にアゼルバイジャン国民政府が、1946年1月22日にはクルド人によってマハーバード共和国が樹立されたが、両政権は共にアフマド・ガヴァーム首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合された。
モハンマド・モサッデク首相。1950年代初頭にイギリス系アングロ・イラニアン石油会社によって独占されていた石油の国有化を図ったが、イランによる石油国有化に反対する国際石油資本の意向を受けたイギリスとアメリカ合衆国、及び両国と結託した皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーによって1953年に失脚させられた。
1940年代に国民戦線を結成したモハンマド・モサッデク議員は、国民の圧倒的支持を集めて1951年4月に首相に就任した。モサッデグ首相はイギリス系アングロ・イラニアン石油会社から石油国有化を断行した(石油国有化運動)が、1953年8月19日にアメリカ中央情報局(CIA)とイギリス秘密情報部による周到な計画(アジャックス作戦、英: TPAJAX Project)によって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わった。
このモサッデグ首相追放事件によってパフラヴィー朝の皇帝(シャー)、モハンマド・レザー・パフラヴィーは自らへの権力集中に成功した。1957年にCIAとFBIとモサドの協力を得て国家情報治安機構(SAVAK)を創設し、この秘密警察SAVAKを用いて政敵や一般市民の市民的自由を抑圧したシャーは白色革命の名の下、米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推進し、大地主の勢力を削ぐために1962年に農地改革令を発した。特に1970年代後期に、シャーの支配は独裁の色合いを強めた。
イラン・イスラーム共和国
シャーの独裁的統治は1979年のイラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年のアメリカ大使館人質事件、革命の輸出政策、レバノンのヒズボッラー(ヒズボラ)、パレスチナのハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。
革命による混乱が続く1980年には隣国イラクのサッダーム・フセイン大統領がアルジェ合意を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発した。この破壊的な戦争はイラン・コントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ、1988年まで続いた。
国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。
2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。

 

政治
イランの政体は1979年以降の憲法(ガーヌーネ・アサースィー)の規定による立憲イスラーム共和制である。政治制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は、民主主義的に選挙によって選出される議員で構成されるもの、宗教的立場によって選出されるもの、あるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。
法学者の統治
イランの政治制度の特徴は、何といっても「法学者の統治」である。これは、イスラーム法学者の解釈するイスラームが絶対的なものであることを前提とし、現実にイスラーム法が実施されているかを監督・指揮する権限を、イスラーム法学者が持つことを保障する制度である。この制度は、シーア派イスラームならではの制度といってよい。イランはシーア派のなかでも「十二イマーム派」に属するが、一般にシーア派の教義では「イマーム」こそが預言者の後継者として、「イスラームの外面的・内面的要素を教徒に教え広める宗教的統率者」としての役割を担うとされている。シーア派はイジュティハードの権限を持つイスラーム法学者を一般大衆とは区別し、この解釈権を持つイスラーム法学者(モジュタヒド)に確固とした政治的・宗教的地位を与えている。モジュタヒドの最高位にあるのが、「マルジャエ・タグリード(模倣の源泉、大アーヤトッラー)」である。マルジャエ・タグリードはシーア派世界の最高権威であるが、ローマ教皇のように必ず1人と決まっているわけではなく、複数人のマルジャエ・タグリードが並立することがある。1978年から1979年のイラン・イスラーム革命によって、マルジャエ・タグリードの1人であったホメイニーがイランの最高指導者となり、宗教的のみならず、政治的にも最高の地位に就くこととなった。
選挙制度
イランでは立候補者の数が多い。2000年2月に行われた第6回国会選挙では、290名の定員に対し、7000人近くが立候補し、2001年の第8回大統領選挙では、840名が立候補した。
特に国会選挙では、投票の際、投票者が一名を選択するのではなく、その選挙区の定員数まで何人でも選定することができる。従ってテヘランのように30名もの定員がある選挙区では、2、3人しか選ばない者もいれば、30人まで列記して投票する者もいる。つまりどのような投票結果になるか予想しにくい制度であるばかりか、死票や票の偏りがおこりやすい。テヘランのような大都会では、投票が有名人に集中し、候補者は規定票を獲得できず、第2ラウンドへ持ち込まれるケースも多い。国会選挙の場合、投票総数の三分の一を獲得しなければ、たとえ定員数内の上位でも当選にはならない。そして、第2ラウンドの選挙になる。
しかし、こうしたやり方では選挙費用がかさむ上、第2、第3ラウンドとなれば選挙結果が決まるまで時間がかかりすぎ国会の空白期間が生じる。そのため、2000年1月上旬選挙法の改正が行われ、第一ラウンドの当選をこれまでの投票総数の3分の1から25%以上獲得すれば当選とし、第2ラウンドでは、従来通り投票総数の50パーセント獲得すれば当選というように改正された。
護憲評議会は、選挙の際に、立候補者の資格審査(選挙資格を満たしているか否か)を行なっている。
最高指導者
ヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)の概念はイランの政治体制を構成する上で重要な概念となっている。憲法の規定によると、最高指導者は「イラン・イスラーム共和国の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負う」とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。最高指導者は行政・司法・立法の三権の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。宣戦布告の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、イスラーム革命防衛隊(イスラム革命防衛隊、IRGC)総司令官の任免権をもち、監督者評議会を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。最高指導者(または最高指導会議)は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー。
大統領
大統領は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる行政府の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に監督者評議会による審査と承認が必要で、国民による直接普通選挙の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で閣僚評議会(閣議)が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。首相職は1989年の憲法改正により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。
議会(マジレス)
議会は「マジレセ・ショウラーイェ・エスラーミー Majles-e showrā-ye eslāmī」(イスラーム議会)といい、一院制である。立法府としての権能を持ち、立法のほか、条約の批准、国家予算の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては監督者評議会による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。日本語の報道では国会とも表記される。
専門家会議
専門家会議は国民の選挙によって選出される「善良で博識な」86人のイスラーム知識人から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は監督者評議会の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は最高指導者を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。
監督者評議会
監督者評議会は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーア(イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。
公益判別会議
公益判別会議は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。
司法府
最高司法権長は最高指導者によって任じられ、最高裁判所長官および検事総長を任じる。一般法廷が、通常の民事・刑事訴訟を扱い、国家安全保障にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決は確定判決で上訴できない。またイスラーム法学者特別法廷は法学者による犯罪を扱うが、事件に一般人が関与した場合の裁判もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。
人権問題
1979年のイラン・イスラーム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。
憲法では公式にシーア派イスラームの十二イマーム派を国教としており、他のイスラームの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、ゾロアスター教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラームの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による差別は容認されている。バハーイー教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる。また非ムスリム男性がムスリム女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「鞭打ち百回」であるなど、刑法にも差別規定が存在する。イスラームからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年にはレイプ被害を受けた16歳の少女が死刑(絞首刑)に処された。なお加害者は鞭打ちの刑で済んだ。
女性に対してはヒジャーブが強制されており、行動、性行為、恋愛などの自由も著しく制限されている。イラン革命前では欧米風の装束が男女ともに着用されていたが、現在では見られない。同性愛者に対しては、共和国憲法で正式に「ソドミー罪」を設けており、発覚した場合は死刑である。
刑罰においても、シャリーアに基づくハッド刑の中には人体切断や石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、また未成年者への死刑も行われている。
イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の議会・政府、国際機関、NGOや、隣国イラク国民からも人権侵害を指摘され、人権侵害の解消を求められている。
軍事
国軍として、陸軍、海軍、空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有している。
イランは核拡散防止条約(NPT)に加盟しているが、国際社会からイランの核開発問題が問題視されている。
準軍事組織
また、国軍とは別に、パースダーラーン省に所属する2つの準軍事組織保有している。1979年にイスラム革命の指導者ホメイニー師の命で設立された、志願民兵によって構成されている準軍事組織「バスィージ(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。
内務省法秩序警備軍:国家憲兵に相当。
イスラム革命防衛隊(パースダーラーン)
   ゴドス軍(Quds Force)
   バスィージ(Basij):民兵部隊

 

国際関係
イラン政府の対外政策の基本
2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は、全ての国家、国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである。
日本との政策
ロシアとの政策
北朝鮮との関係
シリアとの関係
シリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権である事に加え、イラン・イラク戦争ではシリア・バース党とイラク・バース党との対立も絡み、シーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した。イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、反スンニ派イスラム主義、国際的孤立化にあるなど利害が一致する点が多い。近年ではシリア内戦でイランがアサド政権を支援するなど、政治面の他、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。
サウジアラビアとの関係
近年ではイラク戦争やアラブの春の混乱で、イラク、シリア、エジプトなどの中東の有力国が国力を落とす中、相対的に中東におけるイランとサウジアラビアの影響力が拡大した。それぞれシーア派とスンナ派の盟主として、シリアやイエメンの内戦では異なる勢力を支援し事実上の代理戦争の様相を呈している他、両国の外交官の追放など対立が表面化している。
イランに対するアメリカ合衆国の政策
1953年 - 1978年のパフラヴィー政権時代は政権が事実上アメリカの傀儡であったため、アメリカとの関係は質量ともに重大だった。1979年4月のイスラム革命時に、革命政権がアメリカ政府に対して、パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の関係に変更し、パフラヴィーが私物化した財産をイランに返還し、パフラヴィー元皇帝の身柄をイランに引き渡すことを要求したが、カーター大統領はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。革命運動勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、1979年11月にアメリカ大使館を占拠し大使館員を人質にアメリカ政府に対する要求を継続した。カーター大統領は1980年4月にイランに対する国交断絶と経済制裁を実施した。イスラム革命時以後の歴代のアメリカ議会・政府は、イランを反米国家と認識し、イランに対する国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続している。アメリカ政府は1984年にレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定し、2020年現在まで指定を継続している。アメリカ政府は1995年にクリントン大統領が、アメリカ企業に対してイランとの貿易・投資・金融の禁止措置を実施した。アメリカ議会は1996年にイランとリビアの石油・ガス資源を開発する企業を制裁するイラン・リビア制裁法 を可決してクリントン大統領が署名して成立し、アメリカ議会は2001年と2006年にも制裁期間を延長する法案を可決し、ブッシュ大統領が署名して成立し、イランに対する制裁を継続中(リビアとは関係を修復し制裁は解除した)である。ブッシュ大統領は2002年の年頭教書でイランを悪の枢軸と表現して批判した。アメリカやイスラエルや国民の大部分がキリスト教徒である国は、イスラエルの打倒を主張するヒズボッラーやハマースをイスラム過激派と認識し、イランがヒズボッラーやハマースを支援していると指摘している。2008年1月、ブッシュ大統領は、クウェート、バーレーン、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、エジプトを訪問して、訪問諸国の政府に対して、イランをテロ支援国家と認識して、国際的なイラン包囲網への参加・協力を要請したが、いずれの訪問国の政府もイランとの友好関係の形成を推進中であり、ブッシュ大統領の要請に対して、いずれの訪問国の政府からも賛同・協力は得られなかった。
2009年のイランの反アフマディーネジャード派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパの財団・機関が関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し、アメリカ政府もイランの体制を壊す目的で工作していたと発表した。
日本の新聞でもアメリカ政府がイランの体制の根幹にゆさぶりをかける、という内容の記事が掲載されたことがあり、米『Newsweek』誌2010年2月3日号でもアメリカ政府関係者がこの頃のデモに関して、イランへの内政干渉を完全に肯定し、西欧化を押し付けようとする覇権主義的な発言をしている。2010年2月の革命31周年の際には、数千万人の体制派の国民が行進に参加したとされ(イランの国営プレステレビでもこのことが伝えられた)、長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたと最高指導者ハーメネイ師が述べている。
アメリカ合衆国に対するイランの主張
イラン政府はイスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまではアメリカに対して強硬な姿勢だったが、その後は、アリー・ハーメネイー師、ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領、モハンマド・ハータミー大統領、マフムード・アフマディーネジャード大統領などが、アメリカがイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している。ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日のアメリカに対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙で選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している。
核開発問題についてのイランと第三世界各国の認識
イラン政府は自国のこの事柄について、核エネルギーの生産を目指すもので、核兵器開発ではないと今までに一貫して表明してきており、アフマディネジャド大統領は「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対して明言している(『Newsweek』誌2009年10月7日号)。欧米のイランの核エネルギー開発は認められない、という論理は決して世界共通のものではない。新興国のトルコやブラジル、また、ベネズエラ、キューバ、エジプト、その他の非同盟諸国は「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示し、当然であるとして支持している。2009年10月27日のアフマディーネジャード大統領との会談の中で、トルコのエルドアン首相はイランの核(エネルギー)保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた。また、ブラジルのルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領は『Newsweek』誌2009年10月21日号でイランのウラン濃縮の権利を支持していることが報じられており、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は2006年7月のアフリカ連合(AU)首脳会議に招かれた際、イランの核開発について「平和利用のための核技術を発展させる権利がイランにないというのか。明らかにある」と断言している。非同盟諸国は2006年9月の首脳会議でイランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択し、会議の議長国キューバやエジプトもこれを支持している。
欧米での反イスラーム的行為に対するイランの立場、見解
2010年9月のイスラーム聖典『クルアーン』焼却事件はアメリカ・フロリダ州のキリスト教会の牧師が、同時多発テロ事件の9周年にあたる2010年9月11日を「国際クルアーン焼却デー」とし、『クルアーン』を焼却する計画を発表したことに始まる事件だが、ムスリム・非ムスリムを超えた広範な反発と国際世論の圧力を受けて中止された。しかし、この呼びかけに応えたようにアメリカ国民の一部が数冊の『クルアーン』を燃やし、ワシントンD.C.で警官に護衛される中で、また、アメリカ同時多発テロ事件で破壊されたニューヨークの世界貿易センタービルの跡地で数十冊の『クルアーン』を破り、それに火をつけた。これらの行為に対して、全世界で大規模な抗議運動が巻き起こった。
聖地イェルサレムでも同時期に似たような反イスラーム的行為が行われた。
このような事件に対して最高指導者アリー・ハーメネイーはメッセージのなかで、イスラーム教徒とキリスト教徒を対立させることが、この事件の真の首謀者の望みであるとし、「キリスト教会やキリスト教とは関係がなく、数名の雇われた人間の行動を、キリスト教徒全体のものと考えるべきではない」、「我々イスラーム教徒が、他の宗教の神聖に対して同じような行動に出ることはない。クルアーンが我々に教える事柄は、その対極にある」と表明した。
そして、この事件の真の計画、指示者について「アフガニスタン、イラク、パレスチナ、レバノン、パキスタンで、犯罪行為を伴ってきた、一連の流れを分析すれば、アメリカの政府と軍事・治安機構、イギリス政府、その他一部のヨーロッパ政府に最大の影響力を持つ、“シオニストの頭脳集団”であることに疑いの余地は残らない」、「(今回の事件は)この国の警察に守られる中で行われたものであり、何年も前から、(欧米での)イスラム恐怖症やイスラム排斥といった政策に取り組んできた(シオニスト頭脳集団)組織による計画的な行動であった」と述べ、今回のクルアーン焼却事件とそれ以前の欧米でのイスラーム恐怖症やイスラーム排斥の政策を主謀したのはこのシオニスト集団だとした。また、「このようなイスラムへの一連の敵対は、西側におけるイスラムの影響力が、いつにも増して高まっていることに起因する」とした。さらに同メッセージでアメリカ政府に対し、「この陰謀に関与していないとする自らの主張を証明するために、この大きな犯罪の真の実行者をふさわしい形で処罰すべきだ」と強調した。この事件に対し、インド領カシミール、アフガニスタンでも抗議デモが行われ、イランでは抗議のために多くの都市のバザールが9月15日を休業とした。
悪魔の詩事件
元ムスリム(イスラーム教徒)のサルマン・ラシュディが書いた1989年出版の『悪魔の詩』はイスラームの預言者ムハンマドについて扱っているが、その内容と、この人物が元ムスリムであったことから発表の後、各国のムスリムの大きな非難と反発を招いた。1991年7月に起きた日本の茨城県つくば市内で筑波大学助教授が何者かによって殺された事件(未解決)は、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。
地理
イランは北西にアゼルバイジャン(国境線の長さは432km。以下同様)、アルメニア(35 km)と国境を接する。北にはカスピ海に臨み、北東にはトルクメニスタン(992 km)がある。東にはパキスタン(909 km)とアフガニスタン(936 km)、西にはトルコ(499 km)とイラク(1,458 km)と接し、南にはペルシア湾とオマーン湾が広がる。面積は1,648,000 km2で、うち陸地面積が1,636,000 km2、水面積が12,000 km2であり、ほぼアラスカの面積に相当する。
イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が盆地や台地を互いに切り離している。イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちでザーグロス山脈やイランの最高峰ダマーヴァンド山(標高5,604m)を含むアルボルズ山脈がある。一方、イランの東半は塩分を含むキャビール砂漠のような無人に近い砂漠地帯が広がり、塩湖が点在する。
平野部はごくわずかで、大きなものはカスピ海沿岸平野とアルヴァンド川(シャットゥルアラブ川)河口部にあたるペルシア湾北端の平野だけである。その他小規模な平野部はペルシア湾、ホルムズ海峡、オマーン湾の沿岸部に点在する。イランは、いわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か国のうちの1つと考えられている。
気候
全般的には大陸性気候で標高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季はペルシャ湾沿岸部やオマーン湾沿岸部を除くとほぼ全域で寒さが厳しい。国土の大部分が砂漠気候あるいはステップ気候であるが、ラシュトに代表されるイラン北端部(カスピ海沿岸平野)は温暖湿潤気候に属し、冬季の気温は0℃前後まで下がるが、年間を通じて湿潤な気候であり、夏も29℃を上回ることは稀である。年間降水量は同平野東部で680mm、西部で1700mm以上となる。テヘランなどの内陸高地はステップ気候から砂漠気候に属し、冬季は寒く、最低気温は氷点下10度前後まで下がることもあり降雪もある。一方、夏季は乾燥していて暑く日中の気温は40度近くになる。ハマダーン、アルダビールやタブリーズなどのあるイラン西部の高地は、ステップ気候から亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、山岳地帯では豪雪となり厳しい季節となる。特に標高1,850mに位置するハマダーンでは最低気温が-30度に達することもある。イラン東部の中央盆地は乾燥しており、年間降水量は200mmに満たず、砂漠が広がる砂漠気候となる。特にパキスタンに近い南東部砂漠地帯の夏の平均気温は38℃にも達する酷暑地帯となる。ペルシア湾、オマーン湾沿岸のイラン南部では、冬は穏やかで、夏には温度・湿度ともに非常に高くなり平均気温は35℃前後と酷暑となる。年間降水量は135mmから355mmほどである。
地方行政区分
イランは31の州(オスターン)からなっている。
1.テヘラン / 2.ゴム / 3.マルキャズィー / 4.ガズヴィーン / 5.ギーラーン / 6.アルダビール / 7.ザンジャーン / 8.東アーザルバーイジャーン / 9.西アーザルバーイジャーン / 10.コルデスターン / 11.ハマダーン / 12.ケルマーンシャー / 13.イーラーム / 14.ロレスターン / 15.フーゼスターン / 16.チャハール=マハール・バフティヤーリー / 17.コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド / 18.ブーシェフル / 19.ファールス / 20.ホルモズガーン / 21.スィースターン・バルーチェスターン / 22.ケルマーン / 23.ヤズド / 24.エスファハーン / 25.セムナーン / 26.マーザンダラーン / 27.ゴレスターン / 28.北ホラーサーン / 29.ラザヴィー・ホラーサーン / 30.南ホラーサーン / 31.アルボルズ
主要都市
イランの人口上位5都市は以下の通り (都市圏の人口ではない)。
テヘラン: 7,160,094人(2006年)
マシュハド: 2,837,734人(2006年)
エスファハーン: 1,573,378人(2006年)
タブリーズ: 1,460,961人(2006年)
シーラーズ: 1,279,140人(2006年)

 

経済
IMFの統計によると、2013年のGDPは3,663億ドルであり、大阪府とほぼ同じ経済規模である。同年の一人当たりのGDPは4,750ドルである。
イランの経済は中央統制の国営イラン石油会社や国有大企業と、農村部の農業および小規模な商業、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済である。政府は以前から引き続いて市場化改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を自動車産業、航空宇宙産業、家電製造業、石油化学工業、核技術など他の部門に振り分け投資している。チャーバハール自由貿易地域、キーシュ島自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め、数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。現代イランの中産階級の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが、一方で高インフレ、高失業率が問題である。インフレ率は2007年度の平均で18.4%、2008年4月(イラン暦)には24.2%にまで達している。
イラン・イスラム革命は富の再分配も理念の一つとしていたが、実際には貧富の格差は大きい。縁故主義により経済的に成功したり、海外への留学を楽しんだりする高位聖職者や政府・軍高官の一族は「アガザデ」(高貴な生まれ)と呼ばれている。
財政赤字は慢性的問題で、これは食品、ガソリンなどを中心とする年総計約72億5000万ドルにものぼる莫大な政府補助金が原因の一つとなっている。これに対してアフマディーネジャード政権は、2010年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている。
イランはOPEC第2位の石油生産国で、2016年時点の生産量は200万バレル/日である。確認されている世界石油埋蔵量の10%を占める。また天然ガス埋蔵量でもロシアに続き世界第2位である。原油の輸出は貴重な外貨獲得手段であるとともに1996年の非常に堅調な原油価格は、イランの財政赤字を補完し、債務元利未払金の償還に充てられた。
農業については国家投資、生産自由化による活発化が目指され、外国に対する売り込み、マーケティングなどで輸出市場を開発し、全般的に改善された。ナツメヤシ、ピスタチオ、花卉など輸出用農業生産物の拡大、大規模灌漑計画により1990年代のイラン農業は、経済諸部門の中でも最も早い成長のあった分野である。一連の旱魃による踏み足局面もあるが、農業はいまだにイランで最大の雇用を持つ部門である。
イランはバイオテクノロジーと医薬品製造などにも力を入れている。主要貿易国はフランス、ドイツ、日本、イタリア、スペイン、ロシア、韓国、中国などである。1990年代後半からはシリア、インド、キューバ、ベネズエラ、南アフリカなど発展途上国との経済協力も進めている。また域内でもトルコとパキスタンとの通商を拡大させており、西アジア、中央アジアの市場統合のビジョンを共有している。
イラン人
イラン人とは、狭義にはイラン・イスラーム共和国の国民の呼称。歴史的には、中央アジアを含むペルシア語文化圏に居住し、イラン人とみなされている人々。1935年にイランが正式な国名であると宣言されるまでは、ギリシア語に由来するペルシア人の名称でよばれていた。
狭義のイラン人
イラン国民を構成するのは、多様な言語的・民族的・宗教的アイデンティティを持つ人々である。イラン系言語集団には、中央高原部に住み、ペルシア語あるいはその方言を母語とし、シーア派信徒である中核的イラン人(通常イラン人という時のイラン人)、クルド人、ロル族ならびにバフティヤーリー族、バルーチ人などである。テュルク系言語集団には、大集団のアゼリー(アゼルバイジャン人、一般には自他称ともトルコ人)、トルキャマーン(トルクメン人)、遊牧民のカシュカーイー、シャーサヴァン、アフシャールなど。南部のイラク国境にはアラビア語の話者集団がいる。宗教面では、国教の十二イマーム派の他に、スンナ派にはクルド人(シーア派信徒もいる)、バルーチ人、トルクメン人など、キリスト教徒(アルメニア人、東アラム語を母語とするアッシリア人など)、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が存在する。
広義のイラン人
ホラズム生まれのビールーニー、ブハラ生まれのブハーリー、その近郊生まれのイブン・スィーナー、また、トゥース生まれのアブー・ハーミド・ガザーリーは、もっぱらアラビア語で著述しているが、中央アジアを含むペルシア語文化圏生まれであるために、狭義のイラン人からは、イラン人であるとみなされている。その他、イラン・イスラーム革命後増大したイラン系アメリカ人(カルフォルニア州に約半数が集中し、ロサンゼルスは「テヘランゼルス」と俗称されることもある。二重国籍を所有する者も多い)、バーレーンやドバイに数世代連続して居住する、ペルシア語方言を母語とするファールス州南部出身者などもここに含めることができる。
人口
イランの人口は20世紀後半に劇的に増加し、2006年には7000万人に達した。しかし多くの研究では21世紀への世紀転換点には、人口増加率の抑制に成功し、ほぼ人口補充水準に到達した後、2050年頃に約1億人で安定するまで人口増加率は徐々に低下してゆくものと考えられている。人口密度は1平方キロメートルにつき約40人である。イランは2005年時点、約100万人の外国難民(主にアフガニスタン難民、ついでイラク難民)を受け入れており、世界で最も難民が多い国の一つである。政府の政策的および社会的要因により、イランは難民たちの本国帰還を目指している。逆にイラン・イスラーム革命後に海外に移住した人々(en:Iranian diaspora)が北アメリカ(イラン系アメリカ人、en:Iranian Americanやイラン系カナダ人、en:Iranian Canadian)、西ヨーロッパ(在イギリスイラン人、en:Iranians in the United Kingdom)、南アメリカ、日本(在日イラン人)などに約200万から300万人程度存在すると見積もられる。
民族
イランの民族はその使用言語と密接な関係にあり、次いで宗教が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。イランの公用語はインド・ヨーロッパ語族イラン語群のペルシア語で人口の約半数はこれを母語とするが、チュルク系のアゼルバイジャン語を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外のイラン語群の諸語やその他の言語を話す人びともいる。先述のように、それぞれの民族の定義や範囲、あるいはその人口や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住むエスニック・グループは主に次のようなものである。ペルシア人(ペルシア語を語る人びと: 51%)、アゼルバイジャン人(アゼルバイジャン語を語る人々: 25%)、ギーラキーおよびマーザンダラーニー(ギーラキー語、マーザンダラーニー語を語る人びと: 8%)、クルド人(7%)、アラブ人(4%)、バローチ(2%)、ロル(2%)、トルクメン(2%)、ガシュガーイー、アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、アッシリア人、タリシュ人、タート人、その他(1%)である。しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。
国際連合の統計によると、イランにおける識字率は79.1%であり、女性の非識字率は27.4%に達する。
言語
主要な言語は、ペルシア語、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、クルド語(ソラニー、クルマンジー、南部クルド語、ラーク語)、ロル語(北ロル語、バフティヤーリー語、南ロル語)、ギラキ語、マーザンダラーン語、バローチー語、アラビア語(アラビア語イラク方言、アラビア語湾岸方言)、トルクメン語、ドマーリー語(または、ドマリ語)、ガシュガーイー語、タリシュ語である。
宗教
大部分のイラン人はムスリムであり、その90%がシーア派十二イマーム派(国教)、9%がスンナ派(多くがトルクメン人、クルド人とアラブ人)である(詳細はイランのイスラームを参照)。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものにバハーイー教、ゾロアスター教(サーサーン朝時代の国教)、ユダヤ教、キリスト教諸派などがある。
このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され、公式に「保護」されているなどかつての「ズィンミー」に相当する。これら三宗教の信者は極端な迫害を受けることはないが、ヘイトスピーチや様々な社会的差別などを受けることもある。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれた者がそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる。
一方、バハーイー教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史がある。バハーイー教は19世紀半ば十二イマーム派シャイヒー派を背景に出現したバーブ教の系譜を継ぐもので、1979年の革命後には処刑や高等教育を受ける権利を否定されるなど厳しく迫害されている(これについてはバハーイー教の迫害およびイランの宗教的マイノリティー、イランにおける宗教的迫害を参照)。ホメイニー自身もたびたび、バハーイー教を「邪教」と断じて禁教令を擁護していた。歴史的にはマニによるマニ教もイラン起源とも言える。またマズダク教は弾圧されて姿を消した。
教育
2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は77%(男性:83.5%、女性:70.4%)であり、世銀発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっている。2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された。
主な高等教育機関としては、テヘラン大学(1934)、アミール・キャビール工科大学(1958)、アルザフラー大学(1964)、イスラーム自由大学(1982)、シャリーフ工科大学などの名が挙げられる。
   教育制度
イランの教育制度は次の四段階に分けられる。
1初等教育(小学校) / 学年暦の始め、メフル月一日に満6歳になっていれば入学できる。5年間の義務教育である。昔は小学児童の数が多すぎて、二部制、時には三部制の授業が行われたこともある。遊牧民のいる地域では、時々普通の黒テントではなく、白い丸型のテントが目につく。これは季節によって移動するテント学校である。
2進路指導教育(中学校) / ペルシア語の名称が指すように、進路指導期間である。11歳よりの3年間である。この3年間の学習の結果に基づき、次への進学段階で、理論教育と工学・技術・職業のどちらかのコースに分けられる。
3中等教育(高等学校) / 4年間。1992年より新制度が導入された。理論教育課程では、第一年度は人文科学科と実験・数学科とに分かれ、第二年次以降は前者はさらに1文化・文学専攻と2社会・経済専攻に、また、後者は1数学・物理専攻と2実験科学専攻に分かれる。この3年を修了した後に、4年目は大学進学準備過程(پیش دانشگاهی)に在籍する。一方、大学に進学しない技術・職業家庭では、工学、技術、農業の三専攻に分かれる。修了すると卒業証書(دیپلم)が与えられる。
4大学 / 全国共通試験(کنکور)を受けて、進学先・専攻が決まる。年に一度しか試験がないので、ある意味で、日本以上のきつい受験戦争がある。このため予備校が繁盛している。受からなければ、男子は兵役に就く。イラン・イラク戦争の殉教者が家族にいる場合は、優先的に入学が許可されている。ちなみに、私学・イスラーム自由大学と次に述べるパヤーメ・ヌールを除き、授業料は無料である。
   それ以外の教育機関
1パヤーメ・ヌール(光のメッセージという意味)は、通信教育大学で、イラン各地に140のセンターを持っている。学生数は約20万人であり、授業料は私学・イスラーム自由大学より安い。センターによっては、女学生が8割に達するところがある。外国在住の学生は、60名前後、なかには日本人もいる。
2私学・イスラーム自由大学(دانشگاه آزاده اسلامی)は、革命後に各地で開設され、イランの教育程度を上げるのに貢献している。また、出講すると高額の手当がもらえるので、他大学の教官にも人気がある。国立と異なり、ここは私学であるため授業料を取る。国立に受からなかった学生が進学することが多い。
3大学を除く学校の総称はアラビア語起源のマドラセ(مدرسه)である。外国語学校、コンピューター学校などの各種学校に当たるものはモアッセセ(مؤسسه)という。
そのほかに幼稚園(کودکستان)、障がい児と英才のための特別教育制度、中等教育を終えた人が2年間学ぶ教員養成講座、成人のための識字教育制度などがある。
   イランの教育スタイル
イランというより、中東教育全域の教育の特徴は、大学教育も含めて暗記教育である。「学ぶ・勉強する」は、درس خواندن、要するに、「声を出して教科書を読む」ことである。教科書に書いてあることをそのまま丸暗記する。これは大学生にも当てはまる。先生の講義を筆記し、それをそのまま一字一句暗記するのである。森田は、このようなイランの学校教育を「声の文化」が現れているとし、以下の三つの場面を根拠に挙げている。
1小学校での授業方法 / 現在のイランの公立小学校で行われている授業方法は、三つの段階に分かれている。一つの段階は、「教える」(درس دادن)で、二つ目の段階は「読む」(درس خواندن)であり、三つ目の段階は「問う」(درس پرسیدن)である。まず、「教える」段階では、教師は児童を指名し教科書を声に出して読ませる。読んでいる途中で、難しい言葉の解説を行ったり、分かりにくい表現について内容をわかりやすく説明したりする。とにかく、この段階では教科書に何が書かれているのかについて理解する段階である。その段階が終わると、次は「読む」段階である。これは、授業中にすることではなく、帰宅後に児童たちがそれぞれ行わなければならないことである。家に帰った児童は、それぞれ教科書を暗記するときに、家族の誰か、特に母親に手伝ってもらうケースが多い。というのも、イランの場合、教科書の暗記というのは、教科書の内容を文字で書けることを意味していない。あくまでも教科書を口頭でいえるようになることが重要なのである。日本の宿題は文字を書くことが多いため、家族がそれを手伝う必要はほとんどない。しかし、イランの場合、宿題をする時に教科書を見ながらこどもがきちんとその内容を一字一句間違えずにいえるかどうかをチェックする人が必要になる。第三段階の「問う」段階では、教科書の内容を暗記できているのかとか、教師がチェックするための問いである。教師は児童を指名し、教科書の内容について質問する。この質問の答えは、口頭で行われる。また、答える時、一つの単語を答えさせるようなことはない。教科書の2〜3行から成る一部分全体を口頭で一字一句そのままに答える必要がある。イランでは、このような、口頭で教科書の内容を素早く言えること、それが小学校で育成される能力となっている。
2私立男子中学校で行われた科学発表会 / 研究発表を行うにあたって、発表内容を全て暗記し、一人一人の訪問者に対して口頭で説明を行うという方法がとられていた。もし、このような発表会が日本であった場合に第一に考えられる方法は発表内容を全て大きな紙に書き壁に貼ることであっただろう。イランにおいて、研究内容を紙に書いて壁に貼るという習慣がないわけではない。しかし、そういった研究発表はあくまで個人的に行われるものであり、学校全体やグループを形成して行われるものではない。研究発表はあくまでも口頭で行われるのが普通である。
3イランにおける小学校一年生向けのペルシア語の教科書 / そこでは、文字教育よりも音声教育が優先していることがわかる。一年生の教科書の最初の数ページには、文字ではなく、絵だけが描かれている。最初の授業において教師はいきなりアルファベットの学習を始めることはない。授業の最初に教師は絵を見ながらペルシア語で絵に合わせた物語を語り、正しいペルシア語の発音の仕方などを教える。

 

文化
イランは文化、すなわち美術、音楽、建築、詩、哲学、思想、伝承などの長い歴史がある。イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。
イランのイスラーム化以降は、イスラームの信仰や戒律が文化全般に影響を及ぼしている。イスラームのシーア派を国教とするイラン革命後の現体制下では特にそれが強まり、法的な規制を伴っている。例えば書籍を販売するには、イスラムの価値観に合っているかが審査される。
食文化
米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる魚料理に、鳥・羊・牛などの他、ラクダ|駱駝等も用いる肉料理、野菜料理などは種類豊富。最もポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにするキャバーブである。野菜料理は煮込むものが多い。ペルシア料理研究家のナジュミーイェ・バートマーングリージー(Najmieh Batmanglij)は、自著『New Food of Life』で「イラン料理はペルシア絨緞同様に、色彩豊かでかつ複雑である。他の中東料理と共通する部分は多いが、もっとも洗練され、創意に富むといわれる」と述べている。
イラン革命以前は飲酒が盛んであり、現在でも密かに飲まれている。
文学
ペルシア文学は高く評価される。ペルシア語は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『ライラとマジュヌーン』のニザーミー、『ハーフェズ詩集』のハーフィズ、『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『シャー・ナーメ』のフィルダウスィー、『精神的マスナヴィー』のジャラール・ウッディーン・ルーミーらのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。
20世紀に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、ノーベル文学賞候補ともなったアフマド・シャームルーや、イラン初の女流詩人パルヴィーン・エーテサーミー、同じく女流詩人であり、口語詩の創造を追求したフォルーグ・ファッロフザードのような詩人が現れた。
小説においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの、『生き埋め』(1930年)、『盲目の梟』(1936年)などの傑作を残したサーデグ・ヘダーヤトが現れた。
哲学
イスラーム化以後、イラン世界ではイスラーム哲学が発達した。11世紀には中世哲学に強い影響を及ぼしたイブン・スィーナー(ラテン語ではアウィケンナ)や哲学者にしてスーフィーでもあったガザーリーが、17世紀には超越論的神智学を創始したモッラー・サドラーが活動した。
音楽
クラシック音楽においては新ロマン主義音楽作曲家として『ペルセポリス交響曲』などイラン文化を題材とした作品を書いたアンドレ・オッセンや、指揮者であり、ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設したアレクサンダー・ラハバリらの名が特筆される。
ポピュラー音楽に於いてはイラン・ポップと総称されるジャンルが存在する。ロックは禁止されているが、テヘランのロック・バンド Ahoora のアルバムはアメリカやヨーロッパでも発売されている。その他には、127、Hypernova、Angband、Kiosk、The_Yellow_Dogs_Band などのバンドや、Mohsen Namjoo、Agah Bahari、Kavus Torabi らのミュージシャンも国内外で広く活動をしている。
映画
イラン映画は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し、全世界的に評価されている。イランにおいて初の映画館が創設されたのは1904年と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画はアルダシール・イーラーニーによる『ロルの娘』(1932年)だった。イラン革命以前のモハンマド・レザー・パフラヴィーの治世下ではハリウッド映画やインド映画が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』(1958年)で白色革命下の矛盾を描いたファッルーフ・ガッファリーや、『牛』(1969年)でヴェネツィア国際映画祭作品賞を受賞したダールユーシュ・メフルジューイーのような社会派の映画人が活動した。
現代の著名な映画監督としては、『友だちのうちはどこ?』(1987年)、『ホームワーク』(1989年)のアッバース・キヤーロスタミー(アッバス・キアロスタミ)や、『サイレンス』(1998年)のモフセン・マフマルバーフ、『駆ける少年』のアミール・ナーデリー、『風の絨毯』のキャマール・タブリーズィー、『ハーフェズ ペルシャの詩』(2007年)のアボルファズル・ジャリリなどの名が挙げられる。アスガル・ファルハーディー監督の映画『別離』(2011年)は、ベルリン国際映画祭の金熊賞とアカデミー賞の外国語作品賞を受賞した。
婚姻
通常、婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、夫の姓を後ろに加える女性もいる。
スポーツ
イランの国技はレスリングであり、強豪国として知られる。2012年のロンドンオリンピックでは金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した。
イランではサッカーが盛んであり、イラン・サッカー協会は1920年に創設された。サッカーイラン代表はアジアの強豪として知られ、現在までに初出場となった1978年のアルゼンチン大会と、1998年のフランス大会、2006年のドイツ大会、2014年のブラジル大会、2018年のロシア大会と、5度のFIFAワールドカップに出場している。
通信とメディア
イランの新聞
イランで最初に出た新聞は、Mirza Saleh Shiraziを編集長とする、アフタル紙である。これは1833年に創刊された。1851年には官報としてVagha-ye Ettafaghiheh(臨時報という意味)が出ていることから、イランの新聞の歴史は古いことがわかる。1906年に憲法が発布され、民間新聞紙の発行もようやく多くなったが、そのなかで有力なものはSoor-e Israfili、Iran-e Now、Islah、Barq、Watanなどでイラン社会の改革に大きく寄与した。だが言論の自由はなお強く抑圧されていたため、多くの新聞は海外で発行されていた。例えばHikmat(エジプト)、Qanun(ロンドン)、Hablul-Matin(カルカッタ)、Sorayya(エジプト)、Murra Nasruddin(チフリス)、Irshad(バクー)などである。
第二次世界大戦中の1941年に連合国軍隊がイランに進駐、新聞の自由が大いに強調されたが、モサッデグ首相が失脚した1953年から、再び新聞への統制が強化された。1955年に成立した新聞法によれば、新聞雑誌の発行には内務省の許可を得なければならない。発行者は30歳以上のイラン人で、少なくとも3ヶ月以上続刊できるだけの資力を持っていなければならない。官公吏は芸術、文芸に関するもののほか、新聞雑誌を刊行することはできない。許可期間は6ヶ月で、各新聞は6ヶ月ごとに許可を更新する必要がある。反乱、放火、殺人を先導したり、軍事機密をもらしたりした場合のほか、反イスラーム的な記事を載せたり、王室を侮辱する記事を掲載した場合は、それぞれ6ヶ月以上2年以下の禁固刑に処せられる。また、宗教・民族の少数者を差別した記事を載せた場合の罰則もある。さらに厚生省が医薬の広告を厳重に監視している点も、イランの特色である。
通信社は1937年に外務省が設立したパールス通信があり、現在も政府管轄下にある。
新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『ハムシャフリー』であり、『イーラーン』、『ジャーメ・ジャム』、『アフバール』などが続き、夕刊紙で有力なのは『ケイハーン』、『エッテラーアート』などである。
エッテラーアート / イランではメジャーな新聞。刊行されている新聞のなかで最も歴史が古い。1871年創刊。エッテラーアートとは、ニュースの意味である。このエッテラーアートの英語版としてみなされているのが、1935年に創刊の『The Tehran Jounal』である。
ケイハーン / ケイハーンは大空または世界の意で、世界報ということろである。1943年に創刊された。エッテラーアートよりは野党よりの傾向がある。
その他にもテヘラン市役所で出版されているハムシャフリー、テヘランに本拠を置く英字新聞『テヘラン・タイムズ』等がある。
イランのラジオ
イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送(IRIB)に一元化されている。
イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。
また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。  
 
 
 
 

 

●イスラム革命防衛隊
イランの軍隊組織の一つ。イラン・イスラム革命後、旧帝政への忠誠心が未だ残っていると革命政権側から疑念を抱かれた国軍への平衡力として、アーヤトッラー・ホメイニーの命令により、1979年5月5日に創設された。革命防衛隊は国防省ではなく革命防衛隊省の統制下にあり、国軍とは別に独自の陸海空軍、情報部、特殊部隊(ゴドス軍、後述)、弾道ミサイル部隊等を有し、戦時には最大百万人単位で大量動員できる民兵部隊「バスィージ」も管轄している。さらに多数の系列企業を持っている(建設・不動産や石油事業を営む複合企業ハタム・アルアンビアなど)。
名称
イランでは、政府機関を頭字語や略称ではなく1単語の通称(当該組織の機能を示すものが一般的)で呼ぶ慣習があるため、広く一般大衆も含めて、革命防衛隊をSepâh と呼ぶ。Sepâhというのは、「兵士たち」を意味する古風な言い方で、現代ペルシア語では軍団規模の部隊を示すのにも用いられる。現代ペルシア語で国軍の方はArteshと呼ぶのが普通である。
Pâsdârânというのは、Pâsdârの複数形で、「守護者」といった意味である。Sepâhの構成員はPāsdārと呼ばれ、革命防衛隊の階級名もそれに因んだものとなっている。
「イスラム革命防衛隊」(Islamic Revolutionary Guard Corps)という名称の他に、イランの政府やメディアその他の人々は、革命防衛隊を指して一般的にSepāh-e Pâsdârân(守護者たちの軍)と呼ぶが、Pâsdârân-e Enghelâb (革命の守護者たち) や、より単純に Pâsdârân(守護者たち) と呼ぶこともよくある。イラン国民、特にディアスポラのイラン人の間では、「Pâsdârân」という名称を使うのは通常、革命防衛隊への敬意を込めた言い方である。
多くの外国政府や、英語圏のマスメディアは Iranian Revolutionary Guards (IRG)や、より単純にRevolutionary Guardsという用語を使う傾向がある。米国メディアでは、Iranian Revolutionary Guard Corps(イラン革命防衛隊)あるいはIslamic Revolutionary Guard Corps (IRGC)(イスラム革命防衛隊)が同じ意味の用語として使われている。米国政府の標準は Islamic Revolutionary Guard Corps(イスラム革命防衛隊)である一方、国連はIranian Revolutionary Guard Corps(イラン革命防衛隊)と呼んでいる。イギリスでは「Iranian Revolutionary Guard(IRG)」と呼ばれる。日本では「革命防衛隊」または「パスダラン」と呼ばれており、イラン・イラク戦争に関する資料やイラン近辺の事態を扱ったフィクションに使われている。
歴史
1979年2月1日、アーヤトッラーのルーホッラー・ホメイニー師がテヘランに帰還した後、イラン革命が成就した。その後、革命のために働いた種々の準軍事的組織を統合して新政府に忠誠を誓う単一の軍隊にまとめることと、革命以前シャーに忠誠を誓っていた従来の国軍は革命に抵抗する可能性があると当初考えられたため、国軍の影響力と戦力に対抗できるものとして機能させることを目的として、ホメイニー師が5月5日が発した制令により、バーザルガーン暫定政権の下で、革命防衛隊が設立された。 新しいイスラム政権の発足当初から、Pasdaran (Pasdaran-e Enghelab-e Islami) (イスラム革命の守護者たち)は忠実なる軍隊として機能した。イスラム共和国憲法は国軍(Artesh)にはイランの独立と領土保全の責任を与える一方、革命防衛隊には革命とその成果を守護する責任を与えている。
当初、革命防衛隊の任務は名前通り革命を防衛し、イスラムのシャリーアと道徳の日々の執行において支配者たるイスラム法学者を援助することとされ、法学者に直属する組織として計画された。
革命防衛隊を設立した理由は、もう一つあった。そもそも革命政権というものは、旧政権の堕落した部隊を借りるよりは、むしろ独自の武力を必要とする。革命政権発足当初に設置された革命機関の一つとして、革命防衛隊は革命を合法的なものとすることを援助し、新政権の基盤となる武力を提供した。更に、革命防衛隊の設立は、ホメイニー師が独自の武力組織を迅速に作り上げていることを大衆や国軍に知らしめる意義があった。12人の議員から成る革命会議は、3万人の隊員を指揮し、革命防衛隊総司令官には、アーヤトッラー・ラフティ、その参謀長には、ハーシェミー・ラフサンジャーニーとゴラームアリー・アフロウズが任命された。
こうして革命防衛隊は、政治面を担った復興改革運動(Crusade for Reconstruction)とともに、イランに新しい秩序をもたらした。
この控えめな始まりから、革命防衛隊は次第に勢力を拡大していった。やがて、その役目柄、警察との管轄争いになっていく。また、戦場では国軍と戦果を争うまでにもなった。 イラン・イラク戦争中の1986年には隊員数は35万人にまで膨れ上がり、海・空軍組織をも獲得し、国軍と並立した軍事組織として整えられた。
イラン・イラク戦争時の革命防衛隊の人海戦術攻撃はあまり知られていない。1982年にイラクのバスラ近郊で行なわれたラマダン作戦と呼ばれる、双方合わせて8万人が戦死し20万人が戦傷したこの戦闘では、欧米諸国の軍事援助を受けたイラクの近代兵器の前に、銃を手にした12-80歳までの戦闘訓練をほとんど受けたことのない民兵達を中心とする10万人の隊員が徒歩でイラクへの地雷原を越えて進み、化学兵器の攻撃を受けながら何の戦闘指揮も受けないまま突撃を行った末に次々と倒れ、結果約4万5,000人が捕虜となった。
革命防衛隊は国軍とは独立して運営されているが、そのイラン防衛における重要な役割や権限を鑑みて軍事力とみなされることが多い。革命防衛隊は陸軍、海軍、空軍を備えており、国軍の構造と相似形をなしている。しかしながら、革命防衛隊のみが持つ機能として、戦略ミサイル・ロケット部隊がある。
1997年以降、革命防衛隊総司令官であったヤフヤー・ラヒーム・サファヴィー(en:Yahya Rahim Safavi)は2007年8月に解任され、2007年9月1日にモハンマドアリー・ジャアファリーに引き継がれた。Safaviの解任によって、イランにおける権力構造は保守派が優位になった。国際報道における分析では、Safaviの解任はイランの国防戦略の変化の徴候とみなされたが、革命防衛隊の一般政策は総司令官が個人的に決めるものでもない。2019年4月21日には、ジャアファリーの後任としてホセイン・サラミが最高指導者アリー・ハーメネイーにより任命された。
任務
イスラム革命防衛隊の主な役割は国家安全保障にあり、法執行機関として国内の治安維持と国境警備を担当している。また、弾道ミサイル部隊も保有している。革命防衛隊の作戦は従来型の戦闘ではなく非対称型の戦闘方法に主眼を置いている。それには密輸やホルムズ海峡の掌握と抵抗作戦が含まれる。国軍とは異なったやり方で作戦を進めることで、より正統的な作戦方法をとる国軍とは補完的な関係にある。
革命防衛隊はイラン憲法第150条の下で、正式なイランの軍事組織として認められている。イランの軍事組織において、革命防衛隊は国軍(Artesh)とは別の組織として並立している。特にペルシア湾の海上では、核施設に対する攻撃に対するイラン側の対応は全て革命防衛隊が管轄すると考えられている。
規模
革命防衛隊は、その傘下に独自の陸軍、海軍、空軍、情報機関、特殊部隊を擁する統合軍であり、さらにバスィージという民兵部隊も指揮下に置いている。
革命防衛隊:約12万5,000人
   陸軍:約10万人
   空軍:4,000〜5,000人
   海軍:約2万人(うち海兵隊:5,000人)
      艦艇:フリゲート3隻、コルベット2隻、小型艇1,500艇ほど
   特殊作戦部隊(クアトアル・ゴドス):約1万5,000人
   民兵・義勇兵部隊「バスィージ」
      正規将兵:約9万人
      予備役将兵:約30万人
      戦時には1,100万人程度まで拡大できる余地がある。
(イランの国軍の規模)
総兵力:約42万人
   陸軍:約35万人
   海軍:約1万8,000人(含む海兵隊2,600人)
   空軍:約5万2,000人

 

編成と装備
装備については不明な部分が多いが、保有を伝えられる兵器は、イスラム革命前に親密な関係だった米国や欧州諸国製、反米に転じた革命後に関係を深めた旧ソ連・ロシア製、中国製、北朝鮮製、国産が混在している。
陸軍
数個機甲師団と十数個歩兵師団、いくつかの独立旅団。1つの独立空挺旅団。
小火器はH&K G3のライセンス生産品とコピー、中国製の56式自動歩槍を含むAK-47、CQ 311を主に使用。
海軍
沿岸戦闘艇部隊
   スウェーデン製ボガマール・マリン級高速パトロール艇x40艇以上
   中国製ホウドン級高速ミサイル艇x10艇
英国製フリゲートx3、米国製コルベットx2、掃海艇x5、輸送艦艇x13
米P-3F海洋哨戒機x5、電子戦機x3、掃海ヘリコプターRH-53Dx3、対潜ヘリコプターSH-3Dシーキングx約10
地対艦ミサイル部隊
   中国製HY-2ミサイル、YJ-7ミサイル多数
海兵隊:約5,000名
空軍
戦闘機部隊
   旧ソビエト連邦製 Su-25TM「フロッグフット」(Frogfoot)10機以上
   ブラジル製エンブラエル EMB-312 ターボプロップエンジン単発戦闘機「ツカーノ」(Tucano)40機程度
   中国製戦闘機「成都/瀋陽 殲撃七型(J-7)」(MiG-21のコピー)若干機
ヘリコプター部隊
   観測・軽攻撃ヘリコプター「Shahed 285」若干機
無人航空機部隊
航空機部隊を率いるハジザデ司令官は2016年10月1日、爆撃能力も持つ無人航空機サーエゲの量産に成功したと発表した。2011年に領空侵犯したアメリカ製無人偵察機RQ-170 センチネルをハッキングして鹵獲し、技術を転用したとしている。無人航空機部隊は、イランが軍事介入しているシリア内戦やシリアからの対イスラエル攻撃に実戦投入されている。
弾道ミサイル部隊
SRBM(短距離弾道ミサイル)1〜2個旅団、MRBM(中距離弾道ミサイル)2個旅団程度などを保有しているとみられる。
シャハーブ1(射程:300km、スカッドB 北朝鮮から購入)50〜300発保有
シャハーブ2(射程:500km、スカッドC 北朝鮮との共同制作)50〜150発保有
シャハーブ3(射程:1,300〜2,500km、北朝鮮のノドンからコピーで3,3A,3Bと複数のタイプがある)最大で48発保有
シャハーブ1と2で12〜18基の発射機、シャハーブ3用の発射機6基を保有していると思われる。これらの弾道ミサイルを先制攻撃や反撃から守る地下基地を各地に建設している。
2017年6月7日に首都テヘランで発生したテロ事件への報復として、革命防衛隊は6月18日、シリア北東部デリゾール県にある「テロリストの拠点」に弾道ミサイル6発を撃ち込んだ。攻撃はイラン西部のケルマンシャー州とクルディスタン州から、移動式発射台で行われた。新型ミサイル「ゾルファガール」(射程750km)と「ギヤーム」(射程800km)が投入された。「ゾルファガール」などによるシリア領内のイスラム教スンニ派武装組織への弾道ミサイル攻撃は2018年10月1日にも行われた。
ゴドス軍
国外での特殊作戦のために、イラン・イラク戦争中に特殊部隊、ゴドス軍(نیروی قدس、ニールーイェ・ゴドス、日本など国外では「コッズ部隊(Quds Force)」と表記されることが多い)を創設した。兵力は5千人から1万5千人と推定されている。司令官はガーセム・ソレイマーニー将軍。これは、非伝統的戦闘の役目を持つ特殊部隊で世界中の様々な軍事組織に支援や訓練や提供していることが知られている。
任務は、イランが支援する各国のイスラム教シーア派系武装組織(ヒズボラ、ハマース、イラクのシーア派民兵等)に対する軍事訓練や活動の調整、敵国(イスラエル、アメリカ、サウジアラビア、バアス党支配時代のイラク)に対する破壊工作、国外のイラン反体制派の排除である。元CIA工作員のロバート・ベアによれば、ゴドス軍の構成員は通信傍受を警戒して、電話などの通信機器では無く伝令を使って互いに交信しているとされる。西側の情報によれば、1979年〜1996年に70人以上の反体制活動家が暗殺された。著名なテロ行為の中には、元イラン首相シャープール・バフティヤール(1991年8月、パリ)と、クルディスタン民主党指導者サーディフ・シャラーフ=キンディ(1992年9月、ベルリン)の暗殺がある。
また日本でも無関係でなく、1988年に出版されたサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』に対し、ホメイニーがラシュディと出版に関わった者への死刑を宣告するファトワーを発した際、同書を邦訳した筑波大学助教授の五十嵐一が、1991年に大学の構内で何者かにより殺害される事件が発生した(悪魔の詩訳者殺人事件)。未解決のまま公訴時効となったものの、ゴドス軍による犯行であるとする説が提示されている。
ゴドス軍が最初に関与したと疑われているテロ活動は、1983年にレバノンの首都ベイルートで起きた米海兵隊宿舎爆破事件である。また、1994年にアルゼンチンのブエノスアイレスにあるユダヤ文化センター爆破テロや、1996年にサウジアラビアのフバルで起きた、アメリカ兵19人が死亡したフバルタワー爆破事件もゴドス軍の犯行若しくは支援があったと言われている。
2007年に発表された戦略国際問題研究所の報告書によれば、各国にあるイラン大使館にはゴドス軍のための特別かつ極秘の「部門」が設置されており、大使館職員との接触が禁止されているという。また駐在大使もゴドス軍がどういう活動をしているのか把握していないとされる。
イラク戦争ではイラク国内の反米勢力を支援した。2011年7月には、イラク駐留アメリカ軍のブキャナン報道官がイラクで活動するシーア派武装組織カターイブ・ヒズブッラーによる攻撃が、ゴドス軍が支援によって増加していると語った。2007年2月のインタビューで当時のジョージ・W・ブッシュ大統領もゴドス軍がイラク国内のテロ組織にIEDを供給したと主張していた。
また、アルカーイダとの関係も指摘されている。2001年に始まったアメリカ軍主導のアフガニスタン空爆以降、イランに逃亡したウサーマ・ビン・ラーディンの息子サアド等、アフガンから逃亡してきた複数のアル=カーイダ幹部と接触していたとされる。この際、サアドが同組織ナンバー2にあたるアイマン・ザワーヒリーとゴドス軍との間の交渉を仲介したとされる。
また、西側情報当局とアフガニスタン情報機関によれば、ターリバーン指導部が国際治安支援部隊との戦闘に備えるため、支援を求めてゴドス軍幹部と接触したと主張している。
イラン政府は革命防衛隊がアサド政権の支援のためシリア内戦に介入していることを認めており、ゴドス軍も派兵されているとの報道もある。シリアとイラクにまたがって活動するISILに対して、イラク側でのシーア派民兵の作戦にも関与している。イラク政府のアバディ首相は「スレイマニ氏との協力は秘密でも何でもない」と語っている。2015年10月7日には、シリア国内で活動中だったホセイン・ハメダニゴドス軍副司令官兼シリア派兵イラン軍司令官がISILからの攻撃を受け戦死している。
バスィージ
どちらかといえば伝統的な革命防衛隊の役割のために傘下に属する組織として、バスィージ軍(動員レジスタンス軍)があり、これは必要の時には100万人の兵力に及ぶ潜在力を持ったネットワークである。
イラン・イラク戦争時、兵員不足に悩まされたイランは、イスラム革命防衛隊の傘下で大量の義勇兵を前線に送り込んだ。同戦争における彼らの活躍を目にして、イラン指導部は、民兵部隊を制度化し、バスィージ(サーズマーネ・バスィージェ・モスタズアフィーン)を創設することに決めた。
バスィージは、軍事部隊と宗教宣伝部隊に2分される。軍事部隊は、地域的特徴で編成され、350〜420人ずつの800個までの大隊を含む。大隊は、志願制により12歳から60歳までの男性で編成される。婦人大隊(200人以下)も存在し、彼女らは、出版社、啓蒙及び慈善施設の重要ポストを占め、宗教宣伝部隊を構成している。
毎年11月26日、バスィージの総合軍事演習がイラン全土で行われている。この日、約150万人の参加者中から、軍事訓練、身体的発達、クルアーン及びホメイニーの教えの知識における数千人の優秀者が選抜され、バスィージのエリートに編入される。彼らは、教育センターで新しい民兵を教育し、マスコミで働き、外交使節団の構成下で国外に派遣され、外交団と民間勤務の緊急補充員となる。シリア騒乱でアサド政権を支援するイラン義勇兵の徴募・派遣もバスィージが担当している。
普段は市民として暮らすバスィージ隊員は、体制批判を監視する秘密警察としての側面も持つ。こうした情報提供者を含めると500万人規模という報道もある。またその強力な組織力・動員力故に、イランの選挙で保守派の票田ともなっている。
バスィージは国内外の脅威に対する防衛に参加できるものとされているが、2008年までには、それが選挙の際の投票人の動員にも使われ、そのような活動の間に改竄まで行ったとする主張もある。

 

影響力
政治
ホメイニ師は国家の軍事力は非政治的であるべきと主張していた。しかしながら、イラン憲法第150条において、革命防衛隊は「革命とその成果の守護者」であると定義しており、これは少なくとも部分的には政治的な意味合いを持つ任務である。したがって、ホメイニ師の元々の見方はこれまでも論争の対象となってきた。バスィージの支持者たちは政治化を論じていた一方、改革派、穏健派、およびハサン・ホメイニはそれに反対した。ラフサンジャニ大統領は、革命防衛隊の政治的な役割を抑えるため、軍事専門に特化して思想的な急進性は捨てるよう強制したが、改革派が最高指導者アリー・ハメネイ師を脅かした際には革命防衛隊は当然にハメネイ師側に付いた。革命防衛隊はアフマディネジャド大統領の下で強化され、2009年初め頃には民兵部隊バスィージの正式な指揮権を委譲された。
革命防衛隊は、特定の政党への支持や連携を明言していないが、イスラム・イラン建設者同盟(Alliance of Builders of Islamic Iran。またはAbadgaran)が革命防衛隊の政治的なフロント組織であると広く見なされている。この政党には近年(アフマディネジャドも含めて)革命防衛隊出身者が多く参加しており、革命防衛隊が資金援助を与えているとする報告もある。
イランのエリート集団として、革命防衛隊の構成員たちはイラン政界に影響力を持っている。アフマディネジャド大統領は1985年に革命防衛隊に入隊し、イラクのクルディスタンでの軍事作戦に出征した後、前線を離れて兵站業務を担当した経歴を持つ。アフマディネジャド政権の閣僚たちの大部分が革命防衛隊の復員軍人であった。 また、2004年のイラン議会議員の3分の1近くが「Pásdárán」(革命防衛隊員)であった。他にも、大使、市長、知事、高級官僚に任命された者もいる。しかしながら、革命防衛隊の復員軍人であるという身分が、単一の意見を意味するというものでもない。
経済活動
革命防衛隊の商業的活動への関与は、当初は復員軍人や退役将校たちの非公式な社会的ネットワークを通じて始まった。バニーサドル政権崩壊後、イランから逃れた多くの亡命者たちの資産を革命防衛隊の官憲が没収した。それが今では巨大な複合企業となり、イランのミサイル部隊や核計画を支配するだけでなく、ほぼ全ての経済分野に進出した数十億ドル規模の大財閥となっている。 この財閥は従属企業や信託の連鎖を通じて、イラン経済のおよそ1割から3分の1を支配していると見積もられている。
ロサンゼルス・タイムズは、革命防衛隊は数百以上の企業とつながりを持ち、そのビジネスや建設業などでの年間収入は120億ドルであると見積もっている。革命防衛隊はイランの石油・ガス・石油化学産業や主要インフラ計画などで数十億ドルの契約を与えられている。
米国は次に挙げる営利団体を名指しして、これらは革命防衛隊やそのリーダーたちによって支配されているとしている。
Khatam al-Anbia 建設本社。革命防衛隊の主たる土木部門にして、25000名の技師・社員を擁し、イランの軍事(7割)・非軍事(3割)のプロジェクトを請負うイランの大手建設企業で、2006年で70億ドル以上の価値がある。 / Oriental Oil Kish (石油、ガス事業) / Ghorb Nooh / Sahel Consultant Engineering / Ghorb Karbala / Sepasad Engineering Co. (掘削・トンネル工事) / Omran Sahel / Hara Company (掘削・トンネル工事) / Gharargahe Sazandegi Ghaem / Imensazen Consultant Engineers Institute (Khatam al-Anbiaの子会社) / Fater Engineering Institute (Khatam al-Anbiaの子会社)
2009年9月、イラン政府はイラン電信電話公社(Telecommunication Company of Iran)の株式の51%を、革命防衛隊と親密なMobin信託財団(Etemad-e-Mobin)に総額78億ドルで売却した。これはテヘラン証券取引所史上最高額の取引であった。革命防衛隊は自動車のBahman Groupの45%を保有しており、またKhatam al-Anbiaを通じて、イラン造船大手SADRAの多数派株主でもある。
また、重要な聖職者が支配する非政府の(表向きは)公益財団であるbonyadにも革命防衛隊は影響力を及ぼしている。 革命的財団のパターンは、シャーの時代の非合法の経済ネットワークのスタイルを模したものとなっている。 それらの発展は1990年代に始まり、次の10年で加速して、アフマディネジャド政権下で、有利な随意契約を多く獲得して更に加速した。革命防衛隊は、非公式ではあるが実効性のある影響力を次のような組織にも及ぼしている: Mostazafan 財団 (虐げられた者の財団、または Mostazafan 財団) / Bonyad Shahid va Omur-e Janbazan (殉教者たちと復員兵関連の財団)
分析
ワシントン近東政策研究所のMehdi Khalajiは、革命防衛隊は「現在の政治構造における背骨であり、イラン経済の主要プレイヤーである」と論じている。イランは革命当初の神政国家から、ビルマのような兵営国家(garrison state)に変化した。そこでは、軍が社会的、文化的、政治的、経済的生活を支配し、外敵から国を守るというよりは、むしろ国内の敵から政府を守るようになる。
米国の外交問題評議会のGreg Bruno と Jayshree Bajoria も同意して、革命防衛隊はその任務を大きく超えて拡大しており、今やイランの権力構造に根深く浸透した「社会力-軍事力-政治力-経済力」の複合体となっていると述べている。革命防衛隊の政治への関与は、イラン議会の290議席中の16パーセント以上を革命防衛隊が勝ち取った2004年以降、それまでにないほどに成長した。2008年3月の選挙中、革命防衛隊出身者が290議席中の182議席を獲得し、アフマディネジャドの権力強化に寄与した。
アフマディネジャド政権の閣僚の半分は革命防衛隊の退役将校で、それ以外にも革命防衛隊出身者が幾らか知事に任命された。
American Enterprise InstituteのAli Alfonehは「革命防衛隊の退役将校が入閣すること自体は初めてのことではなかったが、アフマディネジャド政権においては、それが閣僚中21名の内の9名を占めたという人数の点で、かつてない多さであった」と論じている。 更に、アフマディネジャドはラフサンジャニやハタミ支持者たちを知事職から追放し、そこに革命防衛隊出身者だけでなく、バスィージやイスラム共和国監獄管理庁出身者を補任した。
革命防衛隊のトップモハンマドアリー・ジャアファリー将軍は、革命防衛隊は「イスラム共和国に対する国内の脅威」に対応するため、組織改革を進めると発表した。ブルッキングス研究所のシニア・フェローで元CIA分析官のBruce Riedelは、そもそも革命防衛隊は反乱の脅威から政府を守るために作られたものだと論じている。
混乱した2009年の大統領選以降、革命防衛隊がどれほど強いのかについての論争が再燃した。Danielle Pletka と Ali Alfoneh は、イラン政府が後戻りできないほど軍事化されたとみる。スタンフォード大学のイラン研究のトップである Abbas Milani は、革命防衛隊の力は実際には最高指導者ハメネイ師の力をも凌駕していると考えている。ランド研究所非常勤シニア・フェローのFrederic Wehreyは、革命防衛隊は単一の意志の下に団結した保守主義者たちによる一枚岩の組織ではなく、むしろ派閥化された組織であり、仕える主人を打倒することはまずないと考えている。
テロ組織への支援
米国財務省は、イスラム革命防衛隊の支援を受けたことのある幾つかのテロ組織として、ヒズボラ、ハマス、パレスチナのイスラーム聖戦(PIJ)、パレスチナ解放人民戦線総司令部、タリバンなどを挙げている。
米国財務省の報告書では、テロ組織に支援を与えたとして、いずれも革命防衛隊の高級将校である Hushang Alladad、Hossein Musavi、Hasan Mortezavi、Mohammad Reza Zahedi の4人を名指ししている。Hushang Alladadは革命防衛隊の主計将校で、ヒズボラ、ハマス、PIJなどのテロ組織への財政支援を個人的に管理していたと指摘されている。Hossein Musavi将軍とHasan Mortevazi大佐はタリバンに対する財政的・物的支援を与えたと米国は主張している。革命防衛隊のレバノン地区司令官 Mohammad Reza Zahediはイランからヒズボラへの支援において重要な役割を果たしたと米国は主張している。米国財務省によると、Zahediはヒズボラおよびシリア情報機関との間の連絡将校の役割を果たしたほか、ヒズボラが関わった武器取引にも関与したとされる。
米国財務省の報告書では、更に続けて、革命防衛隊がテロ組織を支援する手法の詳細も述べている。それによると、「イラン政府は、その外交目標を達するために、イスラム革命防衛隊や、同隊に属するゴドス軍も使っている。諜報活動の隠蔽や、テロ組織・反乱組織への支援などを提供するための、表面上は合法的な活動を行っている。これらの活動にはイラク、アフガニスタン、レバノンに対する経済的投資、再建、その他の形での支援も含まれ、革命防衛隊およびイラン政府のために活動する、あるいはこれらを代表する、あるいはこれらが所有するか支配する会社や組織によって実施されている。」
米国によるテロ支援組織指定や制裁
2007年8月、ブッシュ政権が革命防衛隊を「テロ組織」に指定するか検討中と『ワシントン・ポスト』が報じた。同年10月25日、米政府は革命防衛隊のアルクッズ(エルサレム)部隊をテロ支援組織に指定した。この指定を受けると自動的に、アメリカは2001年9月23日制定の大統領令13224号に基づき「テロあるいはテロリストへの資金提供に関わったとされる個人および組織に対する海外取引の全面凍結措置」が実施された。
2018年10月16日には、アメリカ合衆国財務省がバスィージとその系列企業を経済制裁の対象に指定した。少年兵をシリア内戦に送り込んでいることなどを理由に挙げている。
2019年3月にも、ドナルド・トランプ政権がテロ組織指定を検討中と報じられ、同年4月8日に革命防衛隊のテロ組織指定が発表された(発効は4月15日付)。トランプ大統領は、革命防衛隊とビジネス取引をテロへの融資とみなす旨を声明した。これに対してイランも、中東を担当するアメリカ中央軍をテロ組織と指定した。
2020年1月3日には、トランプ大統領の指示を受けた米軍による攻撃で、イラクを訪れていた革命防衛隊のガーセム・ソレイマーニー司令官が殺害された。 
 
 
 
 

 

●ガーセム・ソレイマーニー
[1957 - 2020/1/3] イランの軍人。イスラム革命防衛隊の一部門で、イラン国外で特殊作戦に従事するゴドス部隊の司令官をつとめた。日本語メディアではガセム・ソレイマニとも表記されることがある。
少将。1957年3月11日、ケルマーン州ラーボル郡カナーテ・マレク村 出身。
従軍前
青年期は建築労働者として父の負債を返済するために働いた。1975年にケルマーン州の水道局の請負人として働いた。1979年にイスラム革命防衛隊に入隊した。
従軍後
入隊後、軍事訓練はほとんど受けないままに出世を重ね、軍人としてのキャリアの初期に西アーザルバーイジャーン州におけるクルド人独立勢力の鎮圧に参加した。 イラン・イラク戦争の際は戦場に加わり、指揮官として参加した。従軍後すぐにその勇敢さを認められ、20代で師団長となりほとんどの戦線に参加した。イラン・イラク戦争後の1990年代はケルマーン州のイラン革命防衛隊の司令官に就任し、軍事経験をいかして麻薬の密売阻止に成果をあげた。その後、2010年代にはアメリカ人大使暗殺未遂事件への関与やイラク軍がISILへ奪還作戦を行った際は現地入りし、地元民兵組織の作戦調整などを行っていた。
ソレイマーニーは米国のテロ関係者リストに記載されており、2007年以降米国民は同氏との経済活動を禁じられていた。欧州連合の公式ジャーナルが2011年6月24日に発表した制裁リストには、シリアのアサド政権に資金提供しているとされるシリアの不動産企業、投資ファンド、および2つの企業が記載されていた。リストにはサーデグ・マフスーリー、モハンマドアリー・ジャアファリー、ホセイン・タエブの名も記載されていた。
イラン・イラク戦争
1980年9月22日、当時のイラクのサッダーム・フセイン大統領がイランに侵攻した際、ガーセム・ソレイマーニーは、イランのイスラム革命防衛隊の中尉だった。しかし戦争の勃発とともに、敵陣地に潜入しての大胆な偵察作戦で名をはせた。それによって急速に昇進を果たし、30歳にして第41タサララ師団の司令官に任命された。
ケルマーン司令官
ソレイマーニーは1990年代、イラン南東部ケルマーンのイスラム革命防衛隊司令官を務めた。アフガニスタンと国境を接するこの地域を通じてトルコと欧州に向けて麻薬の密輸が横行した。1999年のテヘランの学生蜂起鎮圧後、ソレイマーニーら24人のイスラム革命防衛隊将校は、当時のモハンマド・ハータミー大統領に言論の自由の抑圧が軍に影響を与えたと懸念を表明する書簡を送った。
ゴドス部隊司令官
2000年、ソレイマーニーは革命防衛隊の特殊作戦部隊であるゴドス部隊司令官に任命された。ソレイマーニーは最高指導者アリー・ハーメネイーと度々会見するなど子飼い的立場にあり、海外でのテロ活動の全権を委ねられていたと見られている。
ソレイマーニーは2007年3月、国連安全保障理事会決議1747の対イラン制裁の対象者のリストに記載された。2007年、イスラム革命防衛隊のヤヒヤー・ラヒーム・サファヴィー司令官が退任する際、ソレイマーニーは後継司令官の有力候補の一人とされた。決議1747は2016年の国連安全保障理事会決議2231によって失効したものの、ソレイマーニーへの制裁は決議2231でも引き続き継続された。
2008年、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラ幹部だったイマード・ムグニーヤの死因を究明するイラン調査団を率いた。
シリア内戦におけるアサド支援
2011年、サウジアラビアのアーデル・ジュベイル 駐米大使(当時)暗殺未遂事件に関与した。欧州連合の公式ジャーナルは2011年6月24日、制裁対象のイスラム革命防衛隊の3人のメンバーが「シリア政権による国内の抗議行動の弾圧を支援するため、機器と支援物資を提供している」と指摘した。欧州連合の制裁リストに追加されたのは、革命防衛隊のソレイマーニー、モハンマドアリー・ジャアファリー両司令官と、革命防衛隊で情報担当のホセイン・タエブ副司令官であった。
対ISIL戦争と、イラクへの浸透
2015年3月2日、イラクのティクリートにおいて、イラク軍とシーア派民兵組織がティクリートを支配していた過激派組織ISILに対し部隊規模約3万人の大規模な奪還作戦を行った際は、ソレイマーニーがサラーフッディーン県に入り、イラク軍や民兵などの作戦の調整に当たったとイラクのメディアが報じていた]。
2016年5月、イラク軍が2014年よりISILにより支配されているファルージャの奪還作戦を開始した際もソレイマーニーが現地入りしていることが報道されていた。このISISとの戦争中にソレイマーニーはシーア派民兵の「人民動員隊(PMF)」を指揮下に置き、影響力を強めた。PMFはイラク政府に公認されるなどして勢力を拡大し、スンニ派地域で暴虐行為を行ったとされる。
2018年7月26日に「持っているすべてを破壊する」とドナルド・トランプ大統領を名指しで挑発していた。2019年10月にはバグダッドで大規模な反政府デモが勃発、イラン総領事館が放火されるなど反イラン的な動きが強まった。このデモ鎮圧にPMFも参加し、デモ隊に400名以上の死者を出した。
爆殺
2019年12月27日、イラクのシーア派・親イラン武装組織である「カターイブ・ヒズボッラー」がキルクークの米軍基地に攻撃を行い、軍属の米国人1人を殺害した。米軍は翌28日にカターイブ・ヒズボッラーの拠点を空爆した。これを受けて12月31日から在バグダッド米国大使館へのデモが発生。デモ隊は大使館の壁を放火したり、大使館内への侵入を試みたりするほど激化したが、このデモはPMF支持者が動員されたものだった。PMFはソレイマーニーの指揮下にあり、デモ隊によってアメリカ大使館が襲撃されたことにアメリカのトランプ大統領は激怒し、1月2日夕刻、ソレイマーニー殺害の命令を下した。
2020年1月3日、ソレイマーニーは車列でバグダード国際空港そばを走行中に米軍の無人攻撃機のMQ-9 リーパーによる攻撃を受け、カターイブ・ヒズボッラーの最高指導者であり、PMFの副司令官でもあったアブー・マフディー・アル=ムハンディスを含む4人とともに死亡した。遺体は原形をとどめないほどにひどく焼かれたものの、本人照合は彼が常日頃身に着けていた指輪により特定された。  
 
 
 
 

 

●アーヤトッラー・セイイェド・アリー・ホセイニー・ハーメネイー
[ 1939 - ] イラン・イスラム共和国の第2代最高指導者。第3代イラン・イスラム共和国大統領。日本ではハメネイ師と表記されることが多い。1979年のイラン・イスラム革命後、革命会議議員、国防次官、イスラム革命防衛隊司令官、大統領、最高国防会議議長を歴任した。1989年6月3日、イランの最高指導者に選出された。
宗教指導者
小学校卒業後、父に秘密で中学校に通った。その後の勉学は、まずマシュハドの王立神学校でイスラーム諸学、特にアラビア語に向けられた。1958年にイラクのナジャフに赴き、2年間神学を学んだ。その後、ゴム市に赴き、ホメイニーのもとで1964年までイスラーム法学を学んだ。
ハーメネイーは、ルーホッラー・ホメイニーの弟子かつ重要な同志であり、現在では大アーヤトッラーの称号を持つが、彼は最高指導者の地位につくまでは法学者として最高の位階にあったわけではないため(後述)、現在でも法学権威(模倣の源泉、マルジャエ・タクリード)として最良であると見なされているわけではない。
ハーメネイーは、イスラーム法の広い知識を有しているが、ゴム市の一部の活動家は、彼の権威を認めていない。この事実は、現政権の指導者の多くがゴム市の宗教学校出身であるのに対して、ハーメネイーはマシュハド市で宗教教育を受けたことに一因がある。
ハーメネイーは、マシュハドおよびゴム市の宗教学校の学生中に多くの支持者を有する。イスラム革命防衛隊、商人、聖職者の大多数も、彼の支持者である。
反帝政闘争
1962年、ホメイニーの呼びかけにより、ゴム市が蜂起した。この蜂起において、ハーメネイーは、ゴム市に滞在しつつ、マシュハド市の宗教・政治活動家と連絡を取った。蜂起は鎮圧され、その後、ハーメネイーは数回投獄された。
その後、ハーシェミー・ラフサンジャーニー等の別組織と協力して、反帝政秘密組織の再建に取り組んだ。この秘密組織は、イラン・イスラム革命で大きな役割を果たし、革命後はイスラーム共和党に再編された。
イラン革命
革命後、ハーメネイーは、革命会議議員、国防次官(法学者代表)、イスラム革命防衛隊司令官、テヘラン市の金曜礼拝導師、第1期マジュリス(議会)代議員、最高国防会議におけるホメイニーの顧問を歴任した。
1981年、モハンマド・アリー・ラジャーイー大統領の暗殺後、大統領に選出され、1985年に再選した。
1990年代
1989年6月にハーメネイーが最高指導者に選出されたのは、保守派の闘う法学者協会と改革派のハーシェミー・ラフサンジャーニーの利害の一致のためだった。彼は候補者の中で最も若く、当時大統領だったラフサンジャーニーは、改革推進において彼の協力を当てにしていた。一方、保守派の宗教・政治指導者は、余り権威のないハーメネイーが自分達の影響下に入るものと予想していた。そもそもホメイニーの後継者として指名されていたホセイン・アリー・モンタゼリーが失脚してから時間がなく、ハーメネイーの最高指導者への選出は既定の路線ではなかった。
モンタゼリー失脚時点では、憲法に最高指導者はマルジャエ・タクリード(大アーヤトッラー)でなければならないという規定が存在したが、モンタゼリーにかわる、大アーヤトッラーの地位をもつ好ましい後継者が見つからなかった(当時イラン国内に存在した大アーヤトッラーは、ホメイニー、モンタゼリーを除き全て体制中枢から距離を置いていた)ため、ホメイニーは大アーヤトッラーでなくとも最高指導者の地位に就けるように憲法第109条の改正を行い、親体制派の聖職者たちに対して道を開いた。
ホメイニーはシーア派十二イマーム派のイスラム法学者の位階の最高位、マルジャエ・タクリード(大アーヤトッラー)であったが、ハーメネイーは長くホッジャトル・エスラーム(位階の第三位)にすぎず、この時昇格してもなおアーヤトッラーであり、マルジャエ・タクリードには届いていない。当初、最高指導者はマルジャエ・タクリードでなければならないとされていたため、ハーメネイーの権威に傷が付くことになったのである。
最高指導者となったハーメネイーは、1997年まで、政治の舞台では保守派の味方についた。ハーメネイーは、1989年から1997年まで大統領だったラフサンジャーニーに目に見える支援を与えなかった。このことは、「専門家会議」を支配するコム出身の宗教活動家側からの非難を懸念したからだとされる。その外、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーと自分を対等と考え、彼に圧力を加えようとすらした。
1992年の議会選挙前日、闘う法学者協会の指導者、並びにラフサンジャーニーとの協議中、左派の勝利を許さないことが決定された。その結果、左派の活動家は、議席を得ることができなかった。議会の保守派は、強力な派閥を形成したが、ラフサンジャーニーの予想に反して、政府に協力しなかった。ハーメネイーは、保守派の圧力の下、サウジアラビアとの協力、対米関係の一部正常化、創作従事者党の創設等で、大統領を再三批判した。ハーメネイーとラフサンジャーニー間の不一致は、1997年の大統領選挙までに鮮明に現れた。ハーメネイーは、闘う法学者協会から立候補したアブドッラー・ナーテグ=ヌーリーの支持を明言し、ラフサンジャーニーは、モハンマド・ハータミーの勝利のため、闘う法学者協会の影響力低下に関するあらゆる措置を採った。
2千万人以上の国民が選出したハータミーの勝利は、ハーメネイーに自分の立場の再検討を余儀なくさせた。彼は、新大統領の方針が客観的に社会の要求に応えているとの結論を下した。保守派の宗教・政治運動支持者中には、国民中の人気の急激な低下によって引き起こされた重大な見解の相違が生じた。若干の権威ある宗教活動家、学生及びイスラム革命防衛隊の代表は、過激な保守派の政策に不満を示した。
1994年12月、マルジャエ・タクリード(大アーヤトッラー)であるモハンマド・アリー・アラキーが死去したのち、専門家会議 (イラン)はハーメネイーをマルジャエ・タクリードとして認めると宣言した。モハンマド・シーラーズィ、ホセイン・アリー・モンタゼリー、ハサン・タバータバーイー・ゴミーなど、何人かの反体制派およびイラン国外の大アーヤトッラー・アーヤトッラー達はハーメネイーを大アーヤトッラーとして認めることを拒否した。
また、政治経験は豊富であっても、法学における業績が乏しいハーメネイーを大アーヤトッラーとして認める慣例に反した決定にはイラン国内からの反発も強く、 ハーメネイーはみずから、12月18日には、イラン国内におけるマルジャエ・タクリードとしての役割を辞退する声明を発表した。
1999年後半、情報省職員による改革派政治家の暗殺が暴露されたが、その組織者の中には、ハーメネイーが信任する情報省次官もいた。1999年中盤までに、国内情勢は、危機的状況にまで悪化した。ハーメネイーは、ハータミー等と協議し、左派・右派を問わず過激派の出現を許さないことに決めた。彼は、法治主義、並びに憲法で規定された権利と自由の保障を志向した政府の方針への同意を表明した。
ハータミー政権との妥協の結果、デモ鎮圧時に職権を濫用した法秩序警備軍将校が刑事起訴され、情報相、司法権の長、貧民財団総裁等が解任された。その一方で、1999年-2000年中、20紙以上の新聞紙が閉鎖に追い込まれ、若干のジャーナリスト及び社会・政治活動家が処罰された。
ハーメネイーは、国際舞台でのハータミーの努力を支持した。彼は、ドイツ人企業家の釈放の指示を下し、イスラエルのためのスパイ行為で死刑判決を受けていたユダヤ系イラン人に対する判決を差し戻した。
ハータミー政権において、ハーメネイーは、行政権の政策を支持することで国民中の人気をつなぎとめ、他の権威ある宗教活動家からの圧力をかわすことに力を注いでいる。
2000年 - 2010年代
2009年6月13日に保守派に属するマフムード・アフマディーネジャードが圧倒的な勝利で大統領に再選されると、敗れた改革派候補で元首相のミール・ホセイン・ムーサヴィー陣営が不正選挙を主張し、選挙のやり直しを求め、支持者らによる大規模なデモ・暴動に発展した。ハーメネイーは2009年6月19日に金曜礼拝で「今、イランは冷静になることが必要だ」と演説し、イラン国民への自制の呼びかけと改革派のデモ終結を要求したが、それでも改革派市民によるデモ・騒乱は収まらなかった。今回の騒乱により、イスラム共和制をとるイランの現体制の権威が傷つくこととなった。
なお、ハーメネイーやイラン政府はこの事件の背後には欧米とは異なる新しい道を歩む現体制を転覆させようと再三イランを国際的、国内的に干渉している外国の影があると主張している。
2010年2月にハーメネイーは演説でこの選挙後の出来事は、一部の人々の誤った推測や無知から発生したとし、「(外国や共和国内部の体制の転覆を目論む)敵は、これらの出来事を利用することで、イランイスラム共和国を弱体化させようとしたが、これらの出来事は、体制の弱体化につながらなかったばかりか、これまで以上にイスラム体制が力をつける要因となった」と述べ、また、長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたとも述べている。
2010年1月にはイラン情報省海外担当次官が、大統領選挙後のデモの発生に何年も前からイランの政権の転覆を目的としてきたアメリカとヨーロッパの財団・機関などが関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し、この侵略的な体制転覆計画はアメリカ、イギリスの国家機関等がこれらの団体を使って行わせており、今までにかなり多くの予算が正式に割り当てられていると主張した。また、これらの団体は表面上諜報機関とはわからないように装って活動しているとしている。
人物
マシュハド市出身。彼の父、セイイェド・ジャワードはマシュハド在住の大アーヤトッラー(高位ウラマー)で、東アーザルバーイジャーン州ハーメネの出身でアゼルバイジャン人。母は、同じくマシュハドの著名なウラマーであるセイイェド・ハーシェム・ナジャファーバーディーの娘で、ヤズドの家系。
ペルシア語、アラビア語、アゼルバイジャン語、トルコ語、ロシア語を話し、英語も理解する。ペルシア文学と伝統的な民族音楽を趣味とする。原稿の準備なしに長時間演説できる雄弁家である。1981年に爆弾テロにあった後遺症で、右手が不自由である。弟のハーッジ・ハーメネイーは国会議員であり、改革派に属する。また、ハーメネ出身の改革派の政治家ミール・ホセイン・ムーサヴィーとは従兄弟の関係にある。  
 
 
 
 
イランは最高指導者が絶対権力 大統領は行政の長 2019/6
イランは1979年にパーレビ王政を打倒した革命が起きて以来、イスラム教シーア派の法学者による統治が続く。最高指導者は国政全般に最終決定権を持ち、絶大な権力を握る。大統領は国会や司法と並ぶ行政の長に過ぎず、軍に対する権限などはない。
現最高指導者のハメネイ師は初代のホメイニ師に次ぐ2代目。若くしてシーア派聖地コムの神学校でホメイニ師に学び、革命運動を指導した「革命第1世代」だ。革命防衛隊の司令官や大統領を歴任し、ホメイニ師死後の89年に最高指導者となった。
イスラムの価値観を重視する反米保守として国を率い、預言者ムハンマドの末裔(まつえい)であることを示す黒いターバンで頭部を覆う。
一方、現大統領ロウハニ師もコムで学んだ法学者だが、革命成立後に海外から帰国し、イラン・イラク戦争(80〜88年)に参加。穏健派の故ラフサンジャニ元大統領の側近で、改革派のハタミ元大統領時代の2003〜05年に核問題の交渉責任者となり、13年から大統領を務める。
ロウハニ師は白いターバンで頭部を覆っており、イスラム法学者としての位階では、最高位「大アヤトラ」のハメネイ師より低い。
ハメネイ師の権力の源泉の一つとされるのが、反米で保守強硬派の牙城とされる革命防衛隊だ。イラン・イラク戦争で勢力を拡大し、ハメネイ師の最高指導者就任後は経済活動も顕著になった。テヘランの政治評論家によると、傘下企業は国内の通信や石油化学、金融などの分野に幅広く進出。ハメネイ師の“蓄財”の基盤とみる海外メディアもある。
最高指導者の選出、罷免の権限は法学者で組織する専門家会議(定数88)が持つ。ただし、実際に罷免したことはない。
大統領は国民の直接選挙で選ばれる。今年に入り、政府の要職に保守強硬派が就く事例がみられ、80歳と高齢となったハメネイ師の後任を見据えた人事との指摘もある。 
 
 
 
 

 

●イランに対する制裁 
イランにおける深刻な人権侵害や核開発問題を受け、多数の国や多国籍企業がとっている措置。制裁は一般的に核兵器、ミサイル、特別な軍事技術などの軍事関連の輸出を禁止し、または、石油、天然ガス、石油化学製品に投資することも禁止している。加えて、イランの金融機関を国際的な取り引きから締め出している。1979年のイラン・イスラム革命以来、アメリカはイランに対する制裁措置をとってきた。イランの核開発問題を巡り、アメリカをはじめとする諸国および多国籍企業が制裁に協力をしている。
対イラン国連制裁
国際連合安全保障理事会決議として可決されたイランに対する制裁措置。
安全保障理事会の決議1696 / 2006年7月31日に可決された。 国連憲章の第7章を行使して、イランがウランの濃縮活動を中止するよう要請。
安全保障理事会の決議1737 / 2006年12月23日に可決された。核関連原料及び技術を禁止し、核開発計画に関係する個人や企業の資産を凍結。
安全保障理事会の決議1747 / 2007年3月24日に可決された。イランに対する武器輸出の停止、凍結資産を拡張。
安全保障理事会の決議1803 / 2008年3月3日に可決された。資産凍結を延長し、同盟国がイランの銀行活動を監視し、船舶や飛行機を検査し、また核開発計画に関係する個人を領土内で監視することを要請。
安全保障理事会の決議1835 / 2008年9月27日に可決された。
安全保障理事会の決議1929 / 2010年6月9日に可決された。弾道ミサイルに関する活動を禁止し、武器禁輸を強化し、核開発計画に関連する個人に渡航を禁止し、イスラム革命防衛隊 や Islamic Republic of Iran Shipping Lines の資産及び資金を凍結して、禁止された活動に関連するイラン船舶へのサービスを禁止し、イランの銀行の支店が、各国の領土に開店するのを禁止し、各国にある金融機関がイランに開店すること及び預金口座を開設することを禁止した。また、各国にイラン貨物を検査することを要請。
対イラン二国間制裁
オーストラリアはイランのミサイル、核開発計画に関係する個人や法人に対して金融制裁及び海外旅行を禁止している。また、武器輸出を禁止している。 カナダは特定のイラン人の資産と取引すること、武器輸出、原油の精製、イランの金融機関の設立、石油またはガス分野への投資、イランの銀行との取引、イラン政府の負債の購入を禁止している。その上、Islamic Republic of Iran Shipping Lines に船舶及びサービスの提供をすることを禁止している。しかしながら、 外務省の許可を得れば特別な場合に限り、禁止された活動または商取引が可能である。
欧州連合の規制により、外国貿易、金融サービス、エネルギー関連会社や技術 分野での、イランとの商取引が減少した。欧州連合はイラン及びイランの会社に保険を提供することを禁止した。2012年1月23日に、同年7月より、イラン産原油に制限を加えて、イラン中央銀行の資産を凍結することとした。翌月に、イランが先制の手段を講じて、イギリスやフランスへの原油輸出を停止した。しかしその両国はすでにイラン産原油への依存を大幅に減らしていた(ヨーロッパ全体でイランからの輸入を半減した)。数人のイランの政治家が、イラン産原油に今だ依存している国(ギリシャ、スペイン、イタリアなど)への販売停止を要求した。3月15日に、欧州連合は、ベルギー・ブリュッセルの国際銀行間通信協会(SWIFT)がイランの中央銀行を含む25のイランの銀行へのサービスを打ち切るよう、指示することを決定した。 その結果、イラン中央銀行に対する欧州連合の制裁がいっそう強められた。3月17日に国際銀行間通信協会のサービス供給が停止された.。それにも関わらず、イラン中央銀行を通じて合法的に取引することが今でも可能である。 2011年6月24日の欧州連合の公報によると、シリア政府の反政府運動の弾圧に関与しているとして イラン革命防衛隊の下記の3人に対して、個人制裁措置が取られた。
インドはイランの核開発計画に関連する品目、材料、設備あるいは技術などの輸出を禁止している。しかし、2012年には制裁の強化に反対した。インドの輸入原油の中でイラン産が12パーセントを占めているためである。2012年3月に、両国間の貿易を促進するために、イランへ代表団を派遣した。その結果両国は、2015年までに 貿易総額を250億ドル分増加すると発表した。さらに、イランに対する制裁措置を回避するため、インドが購入するイラン産原油をルピーで決済することに合意した。
イスラエルは敵国との関係を禁止する法案を成立させた。この法案により、イランとの商取引及び渡航が禁止され、国際制裁に違反した会社に対して罰金を課すことが可能になった 。
日本は一部のイランの銀行との取引を禁止し、イランのエネルギー分野への投資を禁止し、核開発計画に関係する個人や会社の資産を凍結した。2012年に、イランにとり第二の原油取引先である日本が、イランへの依存を減らすために「具体的な手段」をとることを発表した。2011年には、東日本大震災が起こったにも関わらず、イランからの輸入を20パーセントを減らした。 ロシアは安全保障理事会で過去4回の制裁決議を支持したものの、2012年4月から制裁強化に反対することを表明している 。
南アフリカ最大のイラン産原油の取引先がとイランとの商取引を停止し、サウジアラビアに代替の原油の供給を依頼した 。
韓国は126の個人や会社に制裁を加えた 。日本と韓国で、イランの原油輸出の26パーセントを占める 。2012年3月の国際エネルギー機関 (IEA:International Energy Agency)の調査報告によると、韓国が年初にイランの原油輸入を急増させた 。
スイスは武器及びイランの石油やガス分野に利用される製品の販売を禁止し、金融サービスに制限を加えた。
トルコはアメリカの外圧により、イラン産原油輸入の20パーセントを切り詰めた。
アメリカは武器販売を禁止し、ほぼ完全なイランとの経済活動の禁止を行っている。その中には、イランとの商取引を行う会社への制裁、イランからあらゆる製品の禁輸、イランの金融機関への制裁、イランの航空機産業との商取引の禁止が含まれている。イランと取引する場合は、財務省から特別な許可を必要としている。さらに、イラン人権蹂躪制裁規則によってイランの複数の高官を指名している。2012年2月にアメリカにあるイランの中央銀行、他の金融機関及びイラン政府の資産を凍結した 。アメリカの見解では、制裁はイラン政府の歳入の80パーセントを占めるエネルギー分野を標的にすべきである。そして、国際金融システムから孤立させることが必要であるとしている。
制裁の結果
制裁はイランの3520億ドルという、原油に依存した経済に影響を及ぼしている。イラン中央銀行の公報によると、原油輸出のシェアは減少の傾向にある。同時に経済成長にも影響が見られる。2012年3月までには、イランの生産が過去10年で最低の水準に低下し、今後さらに1980年代のイラン・イラク戦争以来のレベルまで低下すると見られている。イラン産の原油は割引価格で販売され 、欧米原油市場におけるイラン産原油の穴埋めはサウジアラビア産でまかなわれ、後者の生産が30年ぶりの水準となっている。
これまでのところイランに対する制裁は、イランが核開発計画を進めるために不可欠な材料及び設備を入手することを困難にしており、計画にとって重大な障害となっている。制裁の社会的、経済的な影響も大きい。例えば、2011年の秋頃から、イラン通貨の貨幣価値が下落し、イランを金融恐慌状態に陥れたとされている。欧州連合の原油輸入停止の直後、通貨がさらに10パーセント下落した。 一方、どの程度まで影響が与えられるのかはっきりとわからないという意見もある。制裁はイランの国民生活に影響を及ぼすのみで、専門家の中には核開発計画自体には効果的な影響を及ぼさないと主張しているものもおり、1970年代から核開発活動を行ってきた4カ国中3カ国は、制裁措置にも関わらず、核兵器開発を成功させたことを例にあげている。 もう一つの影響としては、イランによるホルムズ海峡の封鎖の示唆により、各国が代替の原油輸送経路を検討し始めたことがある。
結果として現在は中華人民共和国がイラン最大の貿易相手国となっている。アメリカは、ZTEなどの中華人民共和国の企業が、経済制裁に違反してイランとの貿易を行っているとして摘発および制裁を行っている。  
●イランに対する日本の経済制裁措置  
1 単独制裁措置
現在は講じられていません。
2 国連安保理決議による制裁措置(団体・個人に対する資産凍結等の措置以外)
国連安保理決議1737号 / 閣議了解『イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発に関連する資金の移転の防止及び貨物の輸入の禁止等の措置について』により、外為法に基づく以下の措置が講じられました。
○「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発」に寄与する目的で行われる資金の移転防止 。
※2016年1月22日をもって、解除。
○「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発」に関連する品目のイランからの調達禁止 。
※2016年1月22日をもって、解除。
国連安保理決議1747号 / 閣議了解『イランの拡散上機微な核活動等に関与する者の資産凍結及びイランからの武器の輸入の禁止等の措置について』により、外為法に基づく以下の措置が講じられました。
○イランからの武器及びその関連物資の調達禁止。
(ご参考) 本決議では、その「6」において、加盟国に対して、大型通常兵器についての輸出、技術提供、関連サービス・金融サービスの提供を「監視・抑制を要請する」とされています。
※2016年1月22日をもって、解除。
国連安保理決議1929号 / 閣議了解『イランの拡散上機微な核活動等に関与する者に対する資産凍結等、核技術等に関連するイランによる投資の禁止及びイランへの大型通常兵器等の供給等に関連する資金の移転の防止の措置について』により、外為法に基づく以下の措置が講じられました。
○本邦企業の株式等への、イラン関係者による投資に係る資本取引及び対内直接投資の原則禁止。
※2016年1月22日をもって、解除。
○「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発」に寄与する目的で行われる支払に加え、「イランへの大型通常兵器等の供給等に関連する活動」に寄与する目的で行われる支払(支払範囲はあらゆる外国向けとする)の許可制。
(ご参考) 本決議の「8」においては、国連安保理決議1747号の「6」から更に進み、「大型通常兵器及びその関連物資」について「提供等を防止することを決定」し、「その他武器及び関連物資」については「監視・抑制を要請する」としています。
※2016年1月22日をもって、解除。
国連安保理決議の履行に付随する措置 / 閣議了解『国際連合安全保障理事会決議第1929号の履行に付随する措置について』により、外為法に基づく以下の措置が講じられました。
○「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発に関与する者」として指定された個人の入国・通過禁止。
※2016年1月22日をもって、解除。
○化学・生物兵器関連の規制品目等のイランへの移転規制の厳格な実施。
○「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発に関連する活動」または「イランへの大型通常兵器等の供給等に関連する活動」に寄与する目的で行う取引又は行為について、貿易関係の外国向け支払及び、貿易関係・貿易関係外を問わずイランからの支払の受領の許可制。
※2016年1月22日をもって、解除。
○本邦からイランへ向けた支払及びイランから本邦へ向けた支払の受領等についての報告徴求。
※2016年1月22日をもって、解除。
○「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発に関連する活動」または「イランへの大型通常兵器等の供給等に関連する活動」に寄与する目的で行う取引又は行為に係る、本邦企業による保険等の引受の許可制。
※2016年1月22日をもって、解除。
○「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発に関連する活動」または「イランへの大型通常兵器等の供給等に関連する活動」に寄与する目的で、イラン関係者が発行した又は新たに発行する証券の本邦企業による仲介取引の許可制。
※2016年1月22日をもって、解除。
○イランの金融機関との新たなコルレス契約の締結自粛を要請。
※2016年1月22日をもって、解除。
○イランの金融機関の本邦における支店の設置及び子会社の設立等、並びに本邦の金融機関のイランにおける支店の設置及び子会社の設立等の禁止。
※2016年1月22日をもって、解除。
○本人確認義務等及び疑わしい取引の届出義務の履行徹底を要請。
※2016年1月22日をもって、解除。
○イラン向け輸出信用について、2年超の中長期については、新規の供与・引受を停止(短期については適切な引受条件を付して厳格な審査のもとで対応)。
※2016年1月22日をもって、解除。
○石油・ガス分野における新規投資の実質停止。
※2016年1月22日をもって、解除。
○産業界に対して、イラン取引への注意を喚起。
※2016年1月22日をもって、解除。
○石油・ガス分野に関連する事業者に対して、イランにおける探鉱開発や精製能力の増強等の新規プロジェクトについて厳に慎重な対応(既存契約に基づく取引について十分な注意)を要請。
※2016年1月22日をもって、解除。
閣議了解『イランの核問題に関する国際連合安全保障理事会決議第2231号に基づく措置の履行について』により、外為法に基づく以下の措置が講じられました。これまで累次に講じてきた国連安保理決議第1737号、第1747号、第1803号及び第1929号に基づく諸措置を解除するとともに、外為法による次の措置を、2016年1月22日から実施されることになりました。
○イラン関係者による本邦の核関連企業への投資禁止の措置
外務省告示(1月22日公布)により指定されたイランによる投資を禁止する措置の対象となる業種を営む本邦企業の株式等へのイラン関係者(注1)による投資に係る資本取引(注2)及び対内直接投資(注3)をそれぞれ許可制及び届出制(原則禁止)とする。
(注1)イラン国籍を有する自然人、イランの法律に基づいて設立された法人等 / (注2)10%未満の上場会社株式のイラン関係者への譲渡 / (注3)10%以上の上場会社株式及び非上場会社の株式等のイラン関係者による取得
○イランの核活動等及び大型通常兵器等に関連する活動に寄与する目的で行われる資金移転防止の措置
外務省告示(1月22日公布)により指定されたイランに対する資金移転の防止措置の対象となるイランの核活動等に関連する活動又は大型通常兵器等に関連する活動に寄与する目的で行われる本邦から外国へ向けた支払を許可制とする。
○原子力供給国グループ(NSG)ガイドラインの規制品目等のイランへの移転については、外為法に基づき、引き続き対応する。
3 国連安保理決議による、団体・個人に対する資産凍結等の措置
国連安保理決議1737号、1747号、1803号及び1929号 / 国連安保理決議1737号、1747号、1803号及び1929号を受け、「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発に関与する者」に対して、外為法に基づく資産凍結等の措置が講じられました。
※2016年1月22日をもって、解除。
国連安保理決議の履行に付随する措置 / 閣議了解『国際連合安全保障理事会決議第1929号の履行に付随する措置について』及び閣議了解『国際連合安全保障理事会決議第1929号の履行に付随する措置の対象の追加について』により、外為法に基づく以下の資産凍結等の措置が講じられました。
○「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発に寄与し得る団体(銀行以外)・個人」として指定される団体(銀行以外)・個人に対して、外為法に基づく資産凍結等の措置 を実施。
※2016年1月22日をもって、解除。
○「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発に寄与し得る銀行」として指定される銀行及び「イランの拡散上機微な核活動及び核兵器運搬手段の開発に関与する者」として指定される2銀行に対して、外為法による資産凍結等によるコルレス関係の停止措置 を実施。
※2016年1月22日をもって、解除。
閣議了解『イランの核問題に関する国際連合安全保障理事会決議第2231号に基づく措置の履行について』により、外為法に基づく以下の措置が講じられました。これまで累次に講じてきた国連安保理決議第1737号、第1747号、第1803号及び第1929号に基づく諸措置を解除するとともに、外為法による次の措置を、2016年1月22日から実施されることになりました。
○イランの核活動等に関与する者に対する資産凍結等の措置
外務省告示(1月22日公布)により指定された、『イランの拡散上機微な核活動・核兵器運搬手段開発に関与する者』に対する支払及び指定された者との間の資本取引(預金契約,信託契約及び金銭の貸付契約)等を、許可制とする。
※現在、61団体・23個人が指定されています。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

ハメネイ師、安倍首相への「伝言なき」メッセージ 2019/6/22
安倍晋三首相によるイラン訪問の最大の“見せ場”は、同国最高指導者、アリ・ハメネイ師(80)との会談にあった。高位イスラム法学者による統治体制をとるイランにあって、ハメネイ師は国政のあらゆる重大問題で最終決定権を持つからだ。
会談の焦点が、対イラン制裁圧力を強めるトランプ米政権との対話の可能性を探り、中東域内で高まる緊張の緩和につなげることにあったのは、言うまでもない。その点で、ハメネイ師の発言は、かなり興味深いものだった。
「あなた(安倍首相)の善意と真剣さに疑問を差しはさむ余地はありませんが、米大統領があなたに伝えたということに関していえば、トランプ(大統領)はメッセージを交換するに値する人物とは考えていません」
一見すると米イランの橋渡しを図る安倍首相の調停努力を拒絶しているかのようであり、「外交成果はなかった」「軽く扱われた」と揶揄する向きもあろう。だが、現時点でそう判断するのは早計だ。
そもそも今回の訪問は、イラン側の要請で実現した。西側諸国の首脳がハメネイ師と会談することそのものも極めて異例だ。
日本にとってイランは原油調達先として重要な地位を占めるが、イランにとって日本は、米国の同盟国でありながらイランとも友好関係にある最重要国の一つだ。駐日大使経験者が政務担当次官に就くなど、イラン外務省で日本は高い位置付けにある。
そんな日本の首相に会い、「託すべきメッセージはない」と伝えたことは、それ自体がひとつのメッセージだと考えるべきだろう。
イランは2015年、経済制裁の解除のため、核開発を大幅に制限することで米欧など6カ国と合意した。交渉を主導したのは穏健保守派のロウハニ大統領だったが、国内の反米強硬派から根強い反対論があったにもかかわらず、最終承認を与えたのは最高指導者だ。ハメネイ師もまた、大きな政治的リスクを背負っているのだ。
ところが、イラン側からみれば、米国で政権が代わった途端に合意を一方的にほごにされた上、核開発の完全放棄やミサイル開発の停止など主権や防衛に関わる要求まで突きつけられ、面目を潰された。
体制の頂点として無謬に近い存在であらねばならず、安易に米国との新たな交渉になど乗り出すわけにはいかない事情も理解してほしい−。ハメネイ師の発言には、こんな苦衷もにじんではいないか。
その意味で、日本側の「(ハメネイ師と)会うことが大事だった」(政府高官)という評価も、あながち強がりばかりともいえない。最高指導者の言葉や、表情から読み取ったニュアンスをも含めてトランプ氏へつぶさに伝えられるのは、世界で安倍首相だけなのだ。
ただ、イランの体制転換さえ主張する強硬派を抱えたトランプ政権が、容易に態度を軟化させるはずがないのもまた、当然である。