午後1時
即位礼正殿の儀 始まる
朝から降っていた雨が止む
雲の切れ間から青空が見える
虹を見る
万歳 万歳 万歳
即位礼当日賢所大前の儀・即位礼正殿の儀・平成・令和 即位の礼・即位の礼の変遷・明治・大正・昭和・平成・令和・諸話 祝賀御列の儀・・・ |
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●即位礼当日賢所大前の儀 | |
22日、天皇陛下は即位の礼の重要行事「即位礼正殿の儀」に臨まれます。皇居では朝から様々な儀式が続きます。
22日、皇居では即位に関連する3つの行事が行われます。午前中は皇室の祖先とされる天照大神を祭る賢所を参拝する「即位礼当日賢所大前の儀」があり、両陛下は白い伝統装束を着られます。午後1時からは5月から続く即位の行事のなかでも最も重要な儀式「即位礼正殿の儀」が宮殿・松の間で行われ、天皇陛下が即位を宣言するお言葉を述べられます。儀式には約180の国や地域などから参列が見込まれています。外国からの参列者は夜の「饗宴(きょうえん)の儀」にも招かれていて、両陛下は夜遅くまで食事やお茶をともにしてもてなしをされます。 |
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● 午前9時から「即位礼当日賢所大前の儀」が始まった。 陛下は皇位の印として歴代天皇に受け継がれた「三種の神器」のうち、「剣璽(けんじ)」と呼ばれる剣と勾玉(まがたま)を携えて皇居内の賢所を参拝し、天皇家の祖先とされる天照大神に22日、「即位礼正殿の儀」を行うことを報告される。 皇后・雅子さまも同様に、格式の高い白い装束姿で賢所を参拝された。 そして、午後1時からは即位の礼の中心的な儀式「即位礼正殿の儀」が宮殿・松の間で行われる。 180以上の国や機関などの代表者約2,000人が参列する中、陛下は「高御座(たかみくら)」に立ち、即位を国内外に宣言される。 皇后さまも十二単(ひとえ)姿でおすべらかしに髪を結い、「御帳台(みちょうだい)」に立たれ、皇族方も装束姿で立ち会われる。 ● 天皇陛下は22日午前、皇居・宮中三殿で、「即位礼正殿せいでんの儀」を行うことを報告する皇室行事「即位礼当日賢所大前かしこどころおおまえの儀」に臨まれた。 儀式は午前9時過ぎに始まり、陛下は神事服の「帛御袍はくのごほう」姿で回廊に姿を見せられた。皇位の証しである剣と璽じ(曲玉まがたま)を持つ侍従を従えた陛下は、皇祖・天照大神あまてらすおおみかみを祭る賢所の内陣に入って拝礼し、「御告文おつげぶみ」を大和言葉で読み上げられた。続いて、皇室の祖先を祭る皇霊殿こうれいでん、八百万やおよろずの神を祭る神殿を順に巡り、同様に報告された。 その後、皇后さまも白い伝統的な装束「五衣いつつぎぬ」「唐衣からごろも」「裳も」姿で賢所に入り、続いて皇霊殿、神殿を拝礼された。 「賢所大前の儀」のため、賢所に入る安倍首相(22日午前8時53分、皇居で)=代表撮影「賢所大前の儀」のため、賢所に入る安倍首相(22日午前8時53分、皇居で)=代表撮影 即位礼正殿の儀は午後1時から、皇居・宮殿で行われ、国内外の約2000人が参列する。午後7時過ぎからは宮殿で、外国賓客ら約400人を招いた「饗宴きょうえんの儀」が催される。 ● 天皇陛下は22日午前、皇居・宮中三殿で、「即位礼正殿(せいでん)の儀」を行うことを報告する皇室行事「即位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」に臨まれた。 儀式は午前9時過ぎに始まり、陛下は神事服の「帛御袍(はくのごほう)」姿で回廊に姿を見せられた。皇位の証しである剣と璽(じ)(曲玉(まがたま))を持つ侍従を従えた陛下は、皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る賢所の内陣に入って拝礼し、「御告文(おつげぶみ)」を大和言葉で読み上げられた。続いて、皇室の祖先を祭る皇霊殿(こうれいでん)、八百万(やおよろず)の神を祭る神殿を順に巡り、同様に報告された。 その後、皇后さまも白い伝統的な装束「五衣(いつつぎぬ)」「唐衣(からごろも)」「裳(も)」姿で賢所に入り、続いて皇霊殿、神殿を拝礼された。 即位礼正殿の儀は午後1時から、皇居・宮殿で行われ、国内外の約2000人が参列する。午後7時過ぎからは宮殿で、外国賓客ら約400人を招いた「饗宴(きょうえん)の儀」が催される。 |
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●即位礼正殿の儀 | |
即位の礼の中心となる、即位した天皇が日本国の内外に即位を宣明する儀式である。諸外国における戴冠式、即位式にあたり、皇居宮殿・正殿松の間で執り行われる。
天皇が自らの即位を国の内外に宣明する儀式であり、諸外国のいわゆる「戴冠式」や「即位式」に当たる。このため国内外から賓客が招かれ、特に国外においては国家元首あるいは首脳が参列する。 古来、大内裏内の大極殿、大内裏が廃絶して以降は京都御所内の紫宸殿で行われた。明治2年(1869年)の東京奠都を経た後も、1889年(明治22年)公布の旧皇室典範で『「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で行う』との規定により、大正天皇および昭和天皇の即位礼は京都行幸の上で「即位礼紫宸殿の儀(そくいれいししんでんのぎ)」として行われた。1947年の皇室典範改正では第二十四条に「皇位の継承があつたときは即位の礼を行う。」とあるのみでその斎行場所についての記述がなくなった。平成2年(1990年)11月12日の125代天皇・明仁の即位礼は東京・皇居で行われることになり、名称も「即位礼正殿の儀」と改められた。 当日はいずれも国民の休日となる(根拠法は、平成時は「即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律(平成二年法律第二十四号)」、令和時は「天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律(平成三十年法律第九十九号)」)。 ●装飾 天皇と皇后が昇る高御座と御帳台は通常は京都御所紫宸殿にあるが、即位礼を行うにあたりその都度解体して運搬され、松の間に設営される(松の間中央に高御座、正殿向かって右に御帳台)。 また、中庭には幡旗が立てられ、文官武官の装束を身につけた総理府(のちには内閣府)、宮内庁職員が「威儀物捧持者」として奉仕する。荒天の場合は中庭の装飾はせず、職員の配置も屋内へと変更される。 ●式次第 1.三権の長、皇族、天皇、皇后の順に正殿松の間に参入する。 2.天皇、皇后が高御座、御帳台に昇る。 3.参列者が鉦の合図により起立する。高御座、御帳台の帳が開けられる。 4.参列者が鼓の合図により敬礼する。 5.内閣総理大臣が高御座前に参進する。 6.天皇の「おことば」がある。 7.内閣総理大臣が寿詞を述べる。 8.内閣総理大臣が即位を祝して万歳を三唱する。参列者が唱和する。 9.万歳三唱後、北の丸公園で自衛隊による21発の皇礼砲が撃たれる。 10.内閣総理大臣が所定の位置に戻る。 11.参列者が鉦の合図により着席する。高御座、御帳台の帳が閉められる。 12.天皇、皇后が高御座、御帳台から降りる。 13.天皇、皇后、皇族、三権の長の順に退出する。 平成の儀式では、式中、成年男性皇族が高御座左側、成年女性皇族が御帳台右側に、侍立した。令和度は左側に皇嗣および秋篠宮家の成年皇族、右側に常陸宮正仁親王とその他の皇族が侍立した。三権の長は、紫宸殿の儀では中庭に並び、内閣総理大臣が正面の階段を上って登殿していたが、平成以降は4人とも正殿内、高御座左側のさらに後方に侍立する(正殿正面には引き続き階段が設置されるが、実際には使用されない)。 |
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●平成の即位礼正殿の儀
平成2年(1990年)11月12日、皇居正殿において行われた。 紫宸殿と正殿では部屋の構造が異なるため、高御座と御帳台との距離が従来より近くなった。そのため、両者の左右の階段を取り付けなかった。 また、紫宸殿の儀においては天皇は紫宸殿の後方から出御、高御座に昇った上で、参列者に姿を見せていた。今回は、正殿の構造に加え、外国賓客・国内要人等の主要な参列者が天皇皇后の姿にできるだけ直接接することができるように配慮したうえで天皇・皇后の動線を変更し、正殿梅の間前の廊下を経て出御することとした。 参列者の席は中庭を囲む豊明殿や長和殿などに設営されたが、人数分の座席が収まりきらないため、一部中庭にせり出して設営された。 ●装束 明治天皇の即位礼の際に礼服が廃止され、以来即位礼では和風の装束が着用されている。これを「御装束」と称する。 天皇(明仁):束帯黄櫨染御袍に立纓御冠を着用し、笏を持つ。 皇后(美智子):唐衣裳装束の着用。唐衣は白系統、表着は緑系統(皇后の料は、古くは赤色や青色の織物が多いが、後深草天皇即位の時、母后は白唐衣を用いた。また立后のときは唐衣と表着に白を用いるのが平安中期以降の慣例であり、これらを参照して大正以降即位の礼の皇后の料は白唐衣に緑系統の表着という組み合わせに固定化した)。髪型は御垂髪(おすべらかし)で平額を付ける。桧扇を持つ。 男性皇族(皇太子徳仁親王・秋篠宮文仁親王・常陸宮正仁親王・三笠宮崇仁親王・寛仁親王・高円宮憲仁親王):束帯黒色袍に垂纓冠を着用し、笏を持つ。皇嗣のみ黄丹御袍を着る。 女性皇族(文仁親王妃紀子・紀宮清子内親王・正仁親王妃華子・宣仁親王妃喜久子・崇仁親王妃百合子・寛仁親王妃信子・憲仁親王妃久子):唐衣裳装束。唐衣は紫。桧扇を持つ。 三権の長:洋装礼服(燕尾服)に勲章着用。昭和天皇の即位礼の際は田中義一内閣総理大臣は黒色袍の束帯であったが、平成の儀式では洋装が採用された。 威儀物奉持者:束帯緋色袍または黒色袍に垂纓冠または巻纓冠を着用。 ●即位の礼に参列した各国要人 国家元首級:70カ国 皇室・王室:20カ国 副大統領級:15カ国 首相級:20カ国 閣僚級:35カ国 ●天皇の「おことば」 さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。 このときに当り、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。 ●海部内閣総理大臣の寿詞 謹んで申し上げます。天皇陛下におかれましては、本日ここにめでたく即位礼正殿の儀を挙行され、即位を内外に宣明されました。一同こぞって心からお慶よろこび申し上げます。 ただいまは、天皇陛下から、いかなるときも国民と苦楽を共にされた昭和天皇の御み心を心とされ、常に国民の幸福を願われつつ、日本国憲法を遵守し、象徴としての責務を果たされるとのお考えと、我が国が一層発展し、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを願われるお気持ちとを伺い、改めて感銘を覚え、敬愛の念を深くいたしました。 私たち国民一同は、天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴と仰ぎ、心を新たに、世界に開かれ、活力に満ち、文化の薫り豊かな日本の建設と、世界の平和、人類福祉の増進とを目指して、最善の努力を尽くすことをお誓い申し上げます。ここに、平成の御代よの平安と天皇陛下の弥栄いやさかをお祈り申し上げ、お祝いの言葉といたします。 平成ニ年十一月十ニ日 内閣総理大臣 海部俊樹 |
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●令和の即位礼正殿の儀
2019年(令和元年)10月22日午後1時より、皇居正殿において挙行された。儀式は基本的に平成の例を踏襲する。 前回との主な変更点は以下。 当日は台風20号から変わった低気圧の影響による雨天のため、中庭の装飾を行わず、装束姿の宮内庁職員らを人数を減らした上で宮殿内に配置する。ただし、旛は予定通り掲げられる 。 参列者の座席について、平成時は一部中庭にせり出して設営していたが、荒天の場合を考慮してこれを設置せず、豊明殿、春秋の間、石橋の間及び中庭を取り囲む廊下に全座席を設営、これらの場所に多数設置された大小のモニターも活用することで、儀式の様子を把握できるようにした。 天皇・皇后の登壇の際の動線についても紫宸殿の儀の時のものに戻し、松の間の後方から出御することとした。なお、退出の際は平成度に倣って正殿竹の間を通る。皇族は平成度と同様に、正殿梅の間の前を経る動線になる 。 儀式の模様は、NHK(日本放送協会)をはじめとする全テレビ・ラジオ局で生放送された他、YouTube Liveの官邸公式アカウント、ニコニコ生放送(ニコニコニュース)などにてライブストリーミング配信も行われた。 ●招待した国・地域・機関 政府は、日本が国家として承認している195か国の元首などを招くことを決定した。参加した国、地域および機関は以下の通りである。 ●装束 平成の即位礼正殿の儀に準じるものの、高齢の皇族に洋装を認めるなど、例外措置が採られた。 1.天皇(徳仁):御束帯(黄櫨染御袍、立纓御冠) 2.皇后(雅子):御五衣・御唐衣(白を基調とした薄緑色の唐衣および紫色の表衣のの組み合わせ。白の唐衣は皇后のみが着用できる)・御裳 3.皇嗣(秋篠宮文仁親王):束帯(黄丹袍、垂纓冠、帯剣) 4.皇嗣妃(文仁親王妃紀子):五衣・唐衣・裳 5.親王:燕尾服(勲章着用) 6.親王妃、内親王、及び女王:五衣・唐衣(紫色の唐衣)・裳 7.宮内庁長官、宮内庁次長、侍従長、侍従次長、侍従、皇嗣職大夫、皇嗣職宮務官長、式部官長及び式部副長:束帯 8.女官長及び女官:五衣・唐衣・裳 9.威儀の者及び衛門:束帯(帯剣、弓) 10.威儀物捧持者、司鉦司鼓及び鉦鼓の係員:束帯 11.参列者 男子:燕尾服、モーニングコート、紋付羽織袴又はこれらに相当するもの 女子:ロングドレス、デイドレス、白襟紋付又はこれらに相当するもの・勲章着用 礼砲を行う陸上自衛官:甲武装 ●天皇の「おことば」 さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。 ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。 上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。 国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。 ●安倍内閣総理大臣の寿詞 謹んで申し上げます。 天皇陛下におかれましては、本日ここにめでたく「即位礼正殿の儀」を挙行され、即位を内外に宣明されました。一同こぞって心からお慶び申し上げます。 ただいま、天皇陛下から、上皇陛下の歩みに深く思いを致され、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、日本国憲法にのっとり、象徴としての責務を果たされるとのお考えと、我が国が一層発展し、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを願われるお気持ちを伺い、深く感銘を受けるとともに、敬愛の念を今一度新たにいたしました。 私たち国民一同は、天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴と仰ぎ、心を新たに、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を創り上げていくため、最善の努力を尽くしてまいります。 ここに、令和の代の平安と天皇陛下の弥栄をお祈り申し上げ、お祝いの言葉といたします。 令和元年十月ニ十ニ日 内閣総理大臣 安倍晋三 |
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●即位の礼 (または即位礼) | |
日本の天皇が践祚後、皇位を継承したことを国の内外に示す一連の国事行為たる儀式で、最高の皇室儀礼。中心儀式の即位礼正殿の儀は、諸外国における戴冠式、即位式にあたる。即位の礼後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われ、即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。 | |
●概要
皇嗣が新たに皇位に就くことを「即位」というが、古代では神へ寿詞(よごと)を奏上し、神璽を献納する事を中心とした、簡素なものであったが、平安時代に「皇位の継承」である「践祚(せんそ)」と「即位(そくい)」が別の儀式として行われるようになり、唐風の儀式が江戸時代まで続いた。即位にかかる儀式全般を即位儀礼というが、これは皇嗣が即位する「践祚の儀(せんそのぎ)」と、即位したことを内外に宣下する「即位の礼」に分かれる。 明治時代の1889年(明治12年)に制定された旧「皇室典範」に属する登極令によって儀式の内容が細かく規定されたが、1947年(昭和22年)に、同令は旧皇室典範と共に廃止となった為、現行の新「皇室典範」でも即位の礼を行う定めがあるにも拘らず、内容についての具体的規定は無い。そのため、大嘗祭をどの様に行うのか、昭和天皇の崩御前後から、様々な(政治・思想的)立場から論議が起きた。 明治維新による近代化以降の現代に至る、明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と、他の重要な「皇室慶弔行事」と同様に、即位の礼の挙行日は、その年限りの祝日となることが慣例となっている。大日本帝国憲法下で即位の礼を行った大正天皇と昭和天皇の時には勅令により、日本国憲法下で即位の礼を行った天皇明仁(現・上皇)の即位の礼の時は法律によって、祝日として定められた。以来、即位の礼は「剣璽等承継の儀」、「即位後朝見の儀」、「即位礼正殿の儀」、「祝賀御列の儀」、「饗宴の儀」の5つの儀式から構成され、これらは全て国事行為である。 ●即位の礼と憲法 大日本帝国憲法下において、「即位ノ礼」は登極令に基づいて挙行され、神事との区別も厳格に行われていなかった。日本国憲法下で初となる明仁の「即位の礼」は皇室典範に基づいて行われ、徳仁の即位の礼もこれに倣う。現在の即位の礼の一連の儀式は全て国事行為である。 国民の一部に、即位の礼への国費支出や即位の礼への都道府県知事や県議会議長の参列が憲法の政教分離原則の観点から違憲であるという意見がある。この政教分離の観点から、いくつかの憲法訴訟が起こされているが、訴えは全て斥けられている。これらの原告敗訴は、国費支出が原告に不利益を与えないという判断であったり、知事が参列することが政教分離の目的効果基準に照らして政教分離に反しないという判断によるものである 。 1977年(昭和52年)7月に最高裁大法廷で下された判決によると、「憲法の政教分離規定は国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである。」とあり、政府はこれを理由の一つとして即位の礼への国費支出を認めている 。 ただし、1995年(平成7年)の大阪高裁判例では「平成の即位の礼が既に終了しており、原告に不利益を与えない」との主旨で原告の訴えを斥けながらも、傍論において「平成の即位礼正殿の儀では、政府は、旙(ばん、装飾用の旗)から日本神話において天皇の権威の象徴とされるヤタガラスを取り除いたり、元来内閣総理大臣が正殿の階段の下の宮殿中庭から正殿・高御座の天皇を見上げて万歳三唱するところを、正殿内で万歳三唱するよう修正したりして政教分離、国民主権にも一定程度配慮した」と、政府の政教分離に対する配慮を認めたうえで「憲法違反の疑いは一概に否定できない」と指摘したこともある 。 2018年(平成30年)12月10日、原告241名が天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定による天皇明仁の退位と新天皇徳仁の即位に伴う「退位の礼」、「即位の礼」、「大嘗祭」などの実施が政教分離を定めた憲法の規定に違反するとして、国を相手取り公金支出の差し止めと損害賠償を求め、東京地裁に提訴した 。 |
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●儀式
日本国憲法施行後の「即位の礼」では、5つの儀式(国事行為)が行われる。ここでは儀式を概説する。 ●剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ) 皇位継承があった当日に行われる儀式。新天皇や男性皇族が宮殿正殿・松の間に入り、新帝の前に置かれた案(机)に三種の神器のうちの剣璽と御璽、国璽が安置され、新帝が剣璽に挟まれて退出する。大日本帝国憲法下での剣璽渡御の儀(けんじとぎょのぎ)にあたる。 ●即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ) 皇位継承当日か、後日行われる儀式。天皇が即位後初めて三権の長をはじめとする国民の代表者と会う。正殿松の間に天皇・皇后や皇族が入場し、天皇の「おことば」の後、内閣総理大臣の式辞がある。明治憲法下の践祚後朝見の儀(せんそごちょうけんのぎ)に相当する。 ●即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ) 天皇が即位を国の内外に宣明する、いわば即位の礼の中心といえる儀式で、戴冠式、即位式に相当し、各国元首、首脳らや国内の代表が参列する。皇位継承当日とは日を隔て行われる。宮殿正殿の松の間に高御座、御帳台が設置されて、それぞれ「御装束」に身を包んだ天皇・皇后が登り、諸皇族、三権の長が左右に控える。天皇の「おことば」があり、内閣総理大臣が祝辞である「寿詞」を読み上げ、万歳を三唱して参列者一同がこれを唱和する。 ●祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ) 即位礼正殿の儀終了後、天皇・皇后が皇居宮殿から赤坂御用地にある赤坂御所まで御料車でパレードする儀式。 ●饗宴の儀(きょうえんのぎ) 即位礼正殿の儀に参列した内外の賓客に対し、謝意を表してもてなすための宮中晩餐会。即位礼正殿の儀当日に始まり、宮殿豊明殿や長和殿にて数回開催される。 |
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●即位礼・大嘗祭後
●即位礼及び大嘗祭後神宮に親謁の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、神宮に天皇が拝礼する儀式 ●豊受大神宮(外宮)に親謁の儀 ●皇大神宮(内宮)に親謁の儀 ●即位礼及び大嘗祭後神武天皇山陵及び前四代の天皇山陵に親謁の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、神武天皇山陵及び前四代の天皇山陵に天皇が拝礼する儀式 ●茶会 --- 即位礼及び大嘗祭の後、京都に行幸啓の際、古来皇室に縁故の深い近畿地方の各界の代表等を招いて行われる茶会 ●即位礼及び大嘗祭後賢所に親謁の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、賢所に天皇が拝礼する儀式 ●即位礼及び大嘗祭後皇霊殿神殿に親謁の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、皇霊殿神殿に天皇が拝礼する儀式 ●即位礼及び大嘗祭後賢所御神楽の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、賢所に御神楽を奏する儀式 |
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●即位の礼の変遷
記紀に記される記録の限りでは、即位礼は元日に行われていたが、これは推古天皇の時代に隋帝国から暦法が輸入されたときに、大陸の歴代帝室の例に倣って正月即位が取り入れられるとともに、さかのぼってそれ以前の即位礼の日付も正月が与えられたのではないか、とされる 。 それ以前の即位礼は大嘗祭と一体をなしており、大嘗祭が冬至の日(太陽太陰暦で11月頃)に行われた翌日、新帝が祭で天照大神の霊威を得てから群臣の前に姿を現す形式であったとされる。この時点では、神祇伯が天神寿詞を奏上し、神器が献上されることにより皇位継承を内外に宣明した 。 その後、即位礼の時期が正月に繰り上げられ、大嘗祭に先んじておこなわれるようになった。記紀の記述によっても詳細な儀式次第は明らかでないが、まずはじめに神器が授受され、即日または後日、改めて「壇」に昇る式が行われた 。 儀式次第が詳細に記録された最初は朱鳥4年正月1日(690年2月14日)の持統天皇の即位礼である。この時は、以下の式次第である。 石上麻呂が大盾を樹てる。 神祇伯の中臣大島が天神寿詞を詠む。 忌部色夫知が神器の天叢雲剣と八咫鏡を奉った。 公卿百寮が羅列して八開手を打ち、拝礼する。 この時点では天神寿詞は大嘗祭と併せて2度詠まれていた。「養老律令」(720年)においても 「 凡そ践祚の日、中臣天神寿詞を奏し、忌部神璽の鏡剣を上る。 」とあり、寿詞の次に神器授受が行われていたことがわかる。 神器の授受は「剣璽渡御の儀」として即位式前(皇位継承直後)に行われることがあったが、天応元年(781年)の桓武天皇の皇位継承に際し、「即位」から日を置いて「大極殿に御して詔して」とあることから、事実上の践祚と即位の分離が行われるようになった。さらに延長8年(930年)の朱雀天皇の皇位継承に際して、明示的に「践祚」と「即位」が分離されるに至る。 「貞観儀式」(870年代)「江家次第」(11世紀)において、即位礼の式次第が以下の通り明示された。 天皇は高御座で杓を把って南面する。 命婦が御帳をかかげ、香をたく。 王公百官の拝舞、舞踏、拝舞、武官による万歳三唱 ここでは養老律令に定められていた剣璽渡御および天神寿詞が取り除かれ、また天子南面、礼服を着用するなど、大陸様式を取り入れた式次第になった。 ところが、平安時代中期になると、早くもこの形が崩れ、殿上の擬侍従(平安初期には親王がつとめたので上首を親王代とよび、次席と少納言の3人の構成で左右計6人)に内弁(上卿に相当)・外弁(一般参列者の公卿であるが、指名された者のみが立つ。殿上人以下の参列はなくなった。なお外弁の内の一人が宣命使となる。中世から近世にかけて外弁は大納言・中納言・参議各2名というのが一般的であった。)・典儀などの限られた公卿・官人しか即位式に参加せず、その役目を持たない公卿は大臣であっても、高御座の左右に設けられた幔の内側から「見物」している有様であった。 1016年(長和5年)2月7日に行われた後一条天皇の即位式の様子は、当時の朝廷の重鎮であった大納言・藤原実資の日記『小右記』に詳しく記されているが、それは実資が即位式の参加者ではなく、見物者として観察出来たことによるものであった。なお、摂政は平安時代後期(堀河天皇以後)以後には高御座の中層または下層、関白は高御座の後方東側(南側から見て右寄り)の北廂東幔内に束帯姿で(礼服でないのは正式な参列でないから)控える例であった(後一条天皇の摂政であった藤原道長もこの位置にいるため、初期の摂政も同様であった可能性が高い)。 儀典の会場は、平安時代を通じ、原則的に、朝堂院(八省院)の大極殿が用いられたが、大極殿焼損のため陽成天皇は豐楽殿を使用した。病気のため冷泉天皇は内裏の紫宸殿で即位し、大極殿焼失のため後三条天皇は太政官庁、安徳天皇は内裏の紫宸殿を用いた。大極殿は1176年(安元2年)の安元の大火以降廃絶したため、鎌倉時代より室町時代中期の後土御門天皇までのすべての天皇(ただし、京都にいなかった南朝の後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇は例外)は、太政官庁を使用した。後柏原天皇以降は太政官庁は再建されず、里内裏の紫宸殿を使用することとなり、明治天皇に至るまでこの場所で行われた。 中世以降(初例は後三条天皇とされているが、恒例となったのは後深草天皇以後とされる)には、即位灌頂と呼ばれる仏教様式の儀式も執り行われた。江戸時代後期まで、その様式は続けられた。 即位式は皇室行事の中でも最も重要な儀式の一つであるが、戦国時代の後柏原天皇の時期は皇室財政が逼迫しており、1500年(明応9年)に即位したにも拘らず、儀式を行えず、1521年(大永元年)、室町幕府などからの援助を元に、即位22年目にして即位礼を行った。直接のきっかけは幕府が二万疋を献じたことであるが、実際には文亀年間以来それまでに何度か幕府から献じられていた費用および、朝廷が本願寺などからの献金を得て準備した道具が蓄積しており、その費用だけで実施できたのではない。後奈良天皇は後柏原天皇即位の所用品が多く残されていたにもかかわらず、やはり費用不足で十年ほど即位が延引した。また、正親町天皇の時も皇室財政から即位礼費用の拠出は叶わず、毛利元就の援助を得て挙行した。しかし、多くの困難にもかかわらず、承久の乱のため短期間しか在位できなかった九条廃帝を除き、一代も欠かさずこの儀式は挙行されている。 なお、宮廷儀礼は平安時代より雑人(庶民)の見物の対象であったが、承久の乱後の四条天皇即位では庭上にも見物人が乱入し、これ以後も公家日記に、見物人のため儀式に支障をきたしていたことがうかがわれる記事が散見される。 後柏原天皇即位に際しても「雲霞の如く」見物人が集まったという。こうした伝統を受けて江戸時代には、切手札(観覧券のようなもの)を買うことで、一般庶民も京都御所での即位の儀式を見ることができた事が最近の研究により判明している。なお、後桜町天皇即位のとき、儀礼の役にあたらず、ただ出御した天皇のお見送りだけに参内した野宮定晴は、「武家奴隷(武士の下人)」や「雑人」が多くて一般の公家の多くが儀式を見物できなかったこと、にもかかわらず幕府の使者は非公式ながら紫宸殿に上げてもらって見物できたことに憤慨している。 明治維新以降は旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められた。御大礼(即位の礼)は引き続き京都で行われることとされ、大正天皇・昭和天皇の御大礼は引き続き京都御所において行われた。1947年(昭和22年)制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成、令和の即位の礼は東京で行われた。式次第については旧例が踏襲されたが、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。 儀式は皇室の祖神である天照大神と歴代の天皇へ期日を奉告することに始まり、皇居内の三殿への報告と、伊勢神宮へ勅使が遣わせられる。時期は登極令により春から秋とされ、先帝の崩御から1年間は服喪期間として即位の礼・大嘗祭は行われない。なお、この服喪期間を特に「諒闇」という。 即位の礼では最重要の儀式が「正殿の儀」であり、天皇は束帯、皇后は十二単に身を包む。天皇の束帯は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と言い、天皇以外は着用できない。正殿の儀にて使用される玉座は天皇のものを高御座(たかみくら)、皇后のものを御帳台(みちょうだい)と呼ぶ。造りは三層黒塗り継檀の上に八角形の屋根を置き、鳳凰・鏡等の装飾がある。高さ5.9メートル、幅6メートル、重さ8トンに及ぶ。 |
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●明治の即位の礼
第122代・明治天皇の即位の礼が行われた当時は、天保暦が用いられており、現在のグレゴリオ暦とは日付が異なるため、天保暦(グレゴリオ暦)の順番で記載する。 慶応2年12月25日(1867年1月30日)、第121代・孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応3年1月9日(1867年2月13日)に践祚して皇位を継承し、第122代天皇となった。当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、徳川慶喜による大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。 明治新政府は、翌年の慶応4年(明治元年/1868年)5月に新時代の到来を宣布するため、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命した。岩倉具視は亀井に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じた。新時代の象徴として、式典において地球儀を用い、皇威を世界に知らしめることを目的とした。孝明天皇即位に使用された高御座は安政元年(1854年)の内裏焼失によって失われていたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称した。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用された。庭に立てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗という榊がたてられた。 慶応4年8月17日(1868年10月2日)に、10日後の8月27日(1868年10月12日)に即位の礼を行うことを発表し、同月21日から関連儀式を執り行った。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし命日である同月26日に霊前で宣命を読み上げた翌日27日、即位の礼当日は、宣命使が宣命を読み上げ、参列者中、筆頭位の者が寿詞を読み、古歌を歌われた。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了した。 明治の大礼…総費用4万3800両 伊勢神宮へ勅使発遣の儀 慶応4年8月21日(1868年10月6日) 神武天皇陵・天智天皇陵・前三代天皇陵へ勅使発遣の儀 同年8月22日(同年10月7日) 紫宸殿・清涼殿御殿洗 同年8月23日(同年10月8日) 即位礼 同年8月27日(同年10月12日) なお、大嘗祭は明治4年11月17日(1871年12月28日)に東京で行われた。 |
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●大正の即位の礼
旧皇室典範・登極令制定後、初めての挙行となった第123代・大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられたが、貞明皇后は懐妊中であった(後に第四皇男子の澄宮崇仁親王を出産)ために欠席した。 この時に帝国議会上院の貴族院書記官長を務めていた柳田國男も大正天皇の御大礼に出仕しており、後に大嘗祭についての提言を残している。礼服は復活せず、束帯が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活し、その他、旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になっている。明治よりも神事性が後退したかわりに、賢所大前の儀が新たに制定され、即位の前提に神道があることを強調する儀式構成になった。男性の束帯は近世の故実を参照してあまり変更を加えず、女性の十二単は近世以前の資料によりつつも、松本真弦らが中心となって、新たに定められた。 大正の大礼…総予算853万8357円(当時の金額) 即位の礼 1915年(大正4年)11月10日 即位礼ノ勅語 「 朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ惟神ノ寶祚ヲ踐ミ爰ニ即位ノ禮ヲ行ヒ普ク爾臣民ニ誥ク 朕惟フニ皇祖皇宗國ヲ肇メ基ヲ建テ列聖統ヲ紹キ裕ヲ埀レ天壤無窮ノ神勅ニ依リテ萬世一系ノ帝位ヲ傳ヘ神器ヲ奉シテ八洲ニ臨ミ皇化ヲ宣ヘテ蒼生ヲ撫ス 爾臣民世世相繼キ忠實公ニ奉ス 義ハ則チ君臣ニシテ情ハ猶ホ父子ノコトク以テ萬邦無比ノ國體を成セリ 皇考維新ノ盛運ヲ啓キ開國ノ宏謨ヲ定メ祖訓ヲ紹述シテ不磨ノ大典ヲ布キ皇圖ヲ恢弘シテ曠古ノ偉業ヲ樹ツ 聖徳四表ニ光被シ仁擇□陬に霑洽ス 朕今丕績ヲ續キ遺範ニ遵ヒ内ハ邦基ヲ固クシテ永ク磐石ノ安キヲ圖リ外ハ國交ヲ敦クシテ共ニ和平ノ慶ニ頼ラムトス 朕カ祖宗ニ負フ所極メテ重シ 祖宗ノ神靈照鑑上ニ在リ 朕夙夜競業天職ヲ全クセムコトヲ期ス 朕ハ爾臣民ノ忠誠其ノ分ヲ守リ勵精其ノ業ニ從ヒ以テ皇運ヲ扶翼スルコトヲ知ル 庶幾クハ心ヲ同シクシ力ヲ戮セ倍々國光ヲ顯揚セムコトヲ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ 」 |
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●昭和の即位の礼
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御を受けて昭和天皇が践祚した。 1928年(昭和3年)11月6日、第124代・昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車(鳳輦)・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続いた。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていた。 11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱した。 天皇は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し、帰京した。帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。 即位礼ノ勅語 (※漢字は常用漢字に改めた。) 「 朕惟フニ我カ皇祖皇宗惟神ノ大道ニ遵ヒ天業ヲ経綸シ万世不易ノ丕基ヲ肇メ一系無窮ノ永祚ヲ伝ヘ以テ朕カ躬ニ逮ヘリ朕祖宗ノ威霊ニ頼リ敬ミテ大統ヲ承ケ恭シク神器ヲ奉シ茲ニ即位ノ礼ヲ行ヒ昭ニ爾有衆ニ誥ク 皇祖皇宗国ヲ建テ民ニ臨ムヤ国ヲ以テ家ト為シ民ヲ視ルコト子ノ如シ列聖相承ケテ仁恕ノ化下ニ洽ク兆民相率ヰテ敬忠ノ俗上ニ奉シ上下感孚シ君民体ヲ一ニス是レ我カ国体ノ精華ニシテ当ニ天地ト並ヒ存スヘキ所ナリ 皇祖考古今ニ鑑ミテ維新ノ鴻図ヲ闢キ中外ニ徴シテ立憲ノ遠猷ヲ敷キ文ヲ経トシ武ヲ緯トシ以テ曠世ノ大業ヲ建ツ皇考先朝ノ宏謨ヲ紹継シ中興ノ丕績ヲ恢弘シ以テ皇風ヲ宇内ニ宣フ朕寡薄ヲ以テ忝ク遺緒ヲ嗣キ祖宗ノ擁護ト億兆ノ翼戴トニ頼リ以テ天職ヲ治メ墜スコト無ク愆ツコト無カラムコトヲ庶幾フ 朕内ハ則チ教化ヲ醇厚ニシ愈民心ノ和会ヲ致シ益国運ノ隆昌ヲ進メムコトヲ念ヒ外ハ則チ国交ヲ親善ニシ永ク世界ノ平和ヲ保チ普ク人類ノ福祉ヲ益サム事ヲ冀フ爾有衆其レ心ヲ協ヘ力ヲ戮セ私ヲ忘レ公ニ奉シ以テ朕カ志ヲ弼成シ朕ヲシテ祖宗作述ノ遺烈ヲ揚ケ以テ祖宗神霊ノ降鑒ニ対フルコトヲ得シメヨ 」 ●日程 1928年(昭和3年) 1月17日 賢所に期日奉告の儀、皇霊殿・神殿に期日奉告の儀 11月6日 京都に行幸の儀 11月7日 賢所春興殿に渡御の儀 11月10日 皇霊殿・神殿に奉告の儀 同日 賢所大前の儀 同日 紫宸殿の儀 11月11日 賢所御神楽の儀 11月19日 伊勢に行幸 11月25日 明治天皇陵に親謁の儀 11月26日 東京に還幸の儀 11月27日 賢所・温明殿に還御の儀 11月30日 皇霊殿・神殿に親謁の儀 ●備考 先代の大正天皇の際と同様に、大礼記念の表彰として「大礼記念章」が制定された(昭和3年8月1日勅令第188号「大礼記念章制定ノ件」第1条)。授与対象は践祚の式(同第3条1号)並びに即位の大礼及び大嘗祭(同2号)に招かれた者、在所各地に於いて餐餌を賜った者(同3号)、大礼の事務及び伴う要務に関与した者(同4号)であった。 なお、現在の阪急京都本線の前身である新京阪鉄道と、近鉄京都線の前身である奈良電気鉄道は、この昭和天皇即位大典に間に合わせるようにして、それぞれ暫定開業している。 マスコミ関連では、1925年(大正14年)から開始されたラジオ放送で中継が実施されたが、行列を直視しながらの実況は禁止されていたので、音とスケジュールだけを頼りに実況した。紫宸殿での式典の際には、新聞などマスコミ関係者はすべて建礼門の外に締め出された。唯一、大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部が内部の様子を撮影しており、そのフィルムが後年公開された。 各新聞は京都で撮影された写真を東京の本社にファクシミリ(当時は「写真電送機」と呼んでいた)で送信し、その写真が掲載された号外をその日のうちに発行することができたという。これによって、日本製のファクシミリの技術が大きく進歩するきっかけとなった。 1929年(昭和4年)5月4日-5日、宮城内旧三の丸覆馬場及び済寧館において御大礼記念天覧武道大会が開催され、武道史上最大の催事となった。 |
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●平成の即位の礼
第125代天皇明仁の即位の礼・大嘗祭を巡る儀式は、1990年(平成2年)1月23日の期日奉告の儀から始まり、1年間に渉り関連行事が行われた。 政府は国事行為「即位の礼」として、新天皇が即位を内外に宣明する「即位礼正殿の儀」、新天皇・皇后のオープンカーパレードである「祝賀御列(おんれつ)の儀」、即位の礼の祝宴「饗宴の儀」の3儀式を行うことを決定した。 即位の礼にあたり、式典の警備・要人警護には先帝・昭和天皇の大喪の礼での3万2000人を大きく上回る3万7000人の皇宮護衛官、警察官が動員され徹底した検問などが行われた。この警備の特別予算は54億円に上ったとされる。高御座の輸送に当たっては、過激派テロリストによる妨害を防ぐため、陸上自衛隊のヘリコプター(CH-47J)で隠密に行われた 。 饗宴の儀は、宮殿豊明殿で11月12日から行われ、15日迄計7回、延べ3,500人の賓客が招かれた。 なお、平成2年(1990年)11月12日は「即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律」により休日とされたが、次代の令和の即位の礼(後述)とは異なり祝日扱いとはされなかった。 NHKが中継した「即位の礼・正殿の儀」(12時20分から1時間40分放送)は、平均視聴率31.9%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。 ●即位礼正殿の儀での「おことば」 「 さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。 このときに当り、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。 」 ●用語 賢所大前の儀及皇霊殿・神殿に奉告の儀 天皇が賢所・皇霊殿・神殿(合わせて宮中三殿と呼ぶ)に祀られている天照大神・天神地祇・歴代の天皇に即位の礼を行うことを告げる(神々に告げることを奉告という)儀式 ●斎田(さいでん) 大嘗祭の使用する新穀を作る田。田の選定は古代から亀卜(きぼく)により、京都以東以南の地方から選ばれる「悠紀田(ゆきでん)」と、京都以西以北の地方から選ばれる「主基田(すきでん)」の2つが定められる。 ●前四代天皇陵 上皇明仁の前四代天皇は孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇。 孝明天皇陵 後月輪東山陵(京都府京都市東山区今熊野字泉山) 明治天皇陵 伏見桃山陵(京都府京都市伏見区桃山町古城山) 大正天皇陵 多摩陵(東京都八王子市長房町) 昭和天皇陵 武蔵野陵(東京都八王子市長房町) ●即位の礼に参列した各国要人国家元首級:70カ国 皇室・王室:20カ国 副大統領級:15カ国 首相級:20カ国 閣僚級:35カ国 ●開催地 近代に入ってからの天皇3代の明治天皇・大正天皇・昭和天皇においても、正式な高御座が常設されている京都御所に於いて「即位の礼」が行われていた(※厳密にいえば、高御座は即位および大嘗祭後の節会だけのもので、近世には通常は紫宸殿には白い帳のかかった四角い御帳台−大正以降の即位礼で皇后が使用するものとは同名異物−が置かれていた。また戦前の古写真でも紫宸殿内に帳台がおかれた写真があり、高御座が常設されるようになったのは比較的近年のことのようである−といっても半世紀以上は経つが)。 1989年(平成元年)、上皇明仁の代には即位の礼・大嘗祭の開催地を巡り、「東京都」と「京都府」で議論となったが、最終的に東京都千代田区の皇居内で開催された。これには時代の変遷により止むを得なかった事情がある。前3代と異なり、平成の天皇即位の礼(即位礼正殿の儀)においては、一連の式典に外国の要人も多数参列し、京都に比べ東京のほうが警備がしやすく、かつその費用も抑えられた。当時はまだ関西国際空港が建設中で、京都迎賓館もなく、関西では要人の大規模な受け入れ態勢が十分には整っていなかったのである。 専門家による「伝統を守るべき」との主張もあり、京都側は京都商工会議所が懇談会を設置する等、京都での開催が多方面から主張された。また、平安京以来1000年余に渡り“天皇”の存在が当たり前だっただけに、京都近辺の市民の落胆ぶりは大きかったといわれる。そういった事情への配慮もあり、皇居での「即位の礼」関連行事をほぼ終え、三重県伊勢市の伊勢の神宮内宮や奈良県橿原市の神武天皇陵に親謁し、先帝四代の陵のうち京都府京都市にある孝明天皇陵(東山区)・明治天皇陵(伏見区)に親謁に伴い、同市上京区にある京都御所において各地方公共団体の首長や関西経済同友会など近畿の各種団体の代表、経済界の首脳陣らを招いて大規模な茶会が催された。 |
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●令和の即位の礼
第126代天皇徳仁は、2019年(令和元年)5月1日に即位した。これに先立つ2018年(平成30年)3月、政府は天皇退位特例法の成立を受けて、以下の5つの儀式を「第126代天皇」の国事行為たる即位の礼として指定した 。 1. 剣璽等承継の儀 2019年(令和元年)5月1日10時30分から10分程度〔宮殿 正殿〕 2. 即位後朝見の儀 同日11時10分から10分程度〔宮殿 正殿〕 3. 即位礼正殿の儀 2019年(令和元年)10月22日午後1時から〔宮殿〕 4. 饗宴の儀 10月22日、25日、29日、31日〔宮殿 豊明殿・長和殿〕 5. 祝賀御列の儀 11月10日午後3時から〔宮殿 - 赤坂御所〕〈予定〉 このほか、皇室行事として大嘗祭が11月14日から15日にかけて行われる。 「天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律(平成30年法律第99号)」により、即位の日である2019年(令和元年)5月1日と即位礼正殿の儀の行われる日である10月22日が祝日扱いの休日となる。祝日法により5月1日の前後、即ち4月30日と5月2日も国民の休日となるため、2019年(平成31年/令和元年)のゴールデンウィークは10連休となる企業・学校もあった。 儀式は平成の例を踏襲する方針であるが、雨天の場合中庭の装飾を行わないこと、また中庭の庭上参役者を減らして屋内に配置、天皇の出御の際の動線や参列者の座席について変更がある。ただし、旛は予定通り掲げられる 。 正殿の儀の模様はNHK(日本放送協会)及び民放各テレビ・ラジオ局にて生放送された他、YouTube Liveやニコニコ生放送などでライブストリーミング配信も行われた。 ●即位礼正殿の儀での「おことば」 「 さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。 ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。 上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。 国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。 」 ●招待した国・地域・機関 政府は、日本が国家として承認している195か国の元首などを招くことを決定した。 ●装束 即位礼正殿の儀天皇:御束帯(黄櫨染御袍) 皇后:御五衣・御唐衣・御裳 皇嗣:束帯(黄丹袍、帯剣) 皇嗣妃:五衣・唐衣・裳 親王:束帯(帯剣)(これにより難い場合には、燕尾服(勲章着用)とする。) 親王妃、内親王、及び女王:五衣・唐衣・裳(これにより難い場合には、ロングドレス(勲章着用)とする。) 宮内庁長官、宮内庁次長、侍従長、侍従次長、侍従、皇嗣職大夫、皇嗣職宮務官長、式部官長及び式部副長:束帯 女官長及び女官:五衣・唐衣・裳 威儀の者及び衛門:束帯(帯剣、弓) 威儀物捧持者、司鉦司鼓及び鉦鼓の係員:束帯 参列者 男子:燕尾服、モーニングコート、紋付羽織袴又はこれらに相当するもの 女子:ロングドレス、デイドレス、白襟紋付又はこれらに相当するもの・勲章着用 礼砲を行う陸上自衛官:甲武装 ●饗宴の儀 男子:燕尾服、モーニングコート、紋付羽織袴又はこれらに相当するもの 女子:ロングドレス、デイドレス、白襟紋付又はこれらに相当するもの・勲章着用 |
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●天皇陛下万歳
天皇陛下が国内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」の中で、安倍総理が敷居を踏みながら「天皇陛下万歳!」と叫んでいたことが大きな話題になっている。 また、その他の関係者は敷居を踏まないように退場したものの、安倍総理は退席時も敷居を踏みながらその場を後にしており、多くの国民から「礼儀知らず」「わざとか?」など、驚きや怒りの声が上がっている。 |
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●昭恵夫人また非常識露呈「饗宴の儀」に“訪問着”和服で出席 10/24
22日の「即位礼正殿の儀」でもお騒がせだった安倍昭恵・首相夫人。格式高い式典で、袖が広がったミニスカの“土偶”ドレスが周囲から浮きまくり、「ドレスコード違反では」と波紋を呼んでいる。実は昭恵夫人、批判を招いた例のドレスを過去にも着用。「着回し」していたことが分かり、ネット上で大炎上している。 SNSには、講演する夫の後ろで例のドレスを着て、笑みを浮かべた昭恵夫人の写真が複数、投稿されている。8月末に行われた「TICAD(アフリカ開発会議)7 総理・横浜市長共催歓迎レセプション」でのひとコマだ。これに、〈アフリカ開発会議の着回し!〉〈(即位の礼を)相当軽く考えてたんだろうな〉といったコメントが続出。レセプションは公式の場とはいえ、飲食を伴う一般的な歓迎会だ。普通のパーティーで着た服を格式高い即位の礼で着回したのだから驚くしかない。 祝宴「饗宴の儀」での昭恵夫人の和服もビミョーだった。「既婚女性の正装である紋入りの留め袖ではなく、準礼装の訪問着とみられる」(服飾業界関係者)といったレベル。ファッションデザイナーのドン小西氏は23日のTBS系「ゴゴスマ」で「旅館の仲居さんみたい」と論評していた。「着回し」といい「仲居さんルック」といい、やっぱり昭恵夫人は常識外れだ。 「式典で安倍首相は最も格式高いえんび服を着ていました。通常は夫の服の格に合わせ、洋装ならロングスカート、和装なら留め袖を着用するものです。今回のドレスは夫人によく似合っていますが、やはり丈が短すぎます。カジュアルなパーティーならOKですが、即位の礼での着用には違和感があります。着回しについては、『NG』ではありませんが、通常なら新調するものではないか。相当、お気に入りの一着なのかもしれません」(服飾史研究家の辻元よしふみ氏) 安倍首相は「その格好で出る気かよ……」と一言注意すべきだった。 |
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●偏った政治的発言を流すテレビ局の姿勢に違和感 10/26
「天皇陛下万歳」がなぜ悪い? 天皇陛下が国内外に即位を宣明される「即位礼正殿の儀」が22日、古式にのっとって厳かに執り行われた。リアルタイムのネット上では、皇族方の雅(みやび)やかで美しいお姿に加え、この日の「エンペラーウェザー」にも感嘆の声があふれた。 前日から降り続いていた雨が、正殿の儀が始まる午後1時前になると嘘のように止み、日が差して虹までかかるという、まさに神話かファンタジーかという奇跡。 儀式の場に出席した複数の知人の話では、この天候の急変には外国の賓客も驚きの表情を見せ、日頃さほど皇室に関心があるとは思われない野党議員も感激していたそうだ。 筆者は同時刻、皇居に近いホテルのラウンジにいたのだが、ガラス越しの景色が見る見るうちに変わって、ビルの間から澄んだ青空がのぞき、強く日が差したのには心底驚いた。 普段、霊的な力を感じたり信じたりはしない方だが、このときばかりは、天照大神の祝福、天皇の霊力を感じずにいられなかった。そして思わず、「天皇陛下万歳」とつぶやいた。 しかし、である。かくもめでたい日にさえ、嫌ごとを並べる人々がいる。 例えば、ジャーナリストの青木理氏は民放の番組で次のように言い放った。 「近代民主主義社会で世襲で身分を継承するのが、果たしていいのかという議論もある」「皇室絡みの行事となると、ついつい『おめでとうございます』『良かったですね』てなっちゃうんだけれど、憲法上問題が生じるような政教分離とかと常に裏腹」「今回行われる皇室外交では、日韓で何が起きるのかが最大の注目点」と、ファクトを無視した、まさに暴言のオンパレードだ。 紛れもない近代民主主義国である英国や、北欧諸国にも世襲の王室があるという事実は、どうやら青木氏の目に入らないらしい。しかも、191の国や地域から賓客を迎えるなかで、「日韓」を最重要と見るのは青木氏ら特定の人々だけだ。 かくも強烈に日本のナショナル・アイデンティティーを嫌悪し否定するような言説は今どき珍しい。が、発言者の青木氏よりもむしろ、これほど偏った政治的発言を、反対意見の並立なしに公共の電波で流すテレビ局の姿勢の方に強い違和感がある。 もう一つ、安倍晋三首相の「天皇陛下万歳」の発声にも、SNS上で一部弁護士らが批判の声を上げた。趣旨は「天皇陛下万歳」という個人崇拝の言葉は現代では死語であり、かつてこの言葉で多くの人が戦場に駆り出されたことを忘れてはならない、というところのようだ。 どうやらこの方々、「天皇陛下万歳」始まりの逸話もご存じなさそうなので、ここに紹介しておく。 始まりは明治22(1889)年、明治憲法発布の頃に遡(さかのぼ)る。アジア初の近代憲法発布という快挙に際し、東京帝国大学の学生らが特段の祝意を表そうと、明治天皇の馬車に向かって万歳三唱した。これが最初とされている。 当時のエリート学生たちの誇らしい気持ち、感激を、現代の法律家が共感できないとは、なんと情けないことか。しかも、この人たちは、現行憲法が「日本の象徴」とする天皇の健康と長寿を願う「万歳」すら止めさせたいのだ。なんと偏狭で冷酷な人たちなのか。 世界には、「God Save the Queen(神よ、女王を護り給え)」と国歌でうたう民主主義国もある。そのファクトを、ぜひ青木氏や一部法律家に知ってほしいものである。 |
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●「祝賀御列の儀」天皇皇后両陛下・即位祝賀パレード 11/10 | |
●即位祝賀パレード「祝賀御列の儀」
天皇陛下が皇后さまとともに広く国民に即位を披露し祝福を受けられるパレード「祝賀御列(しゅくがおんれつ)の儀」が10日午後、東京の都心部で行われました。 天皇皇后両陛下は午後3時前、皇居 宮殿の「南車寄」に姿を見せられました。 天皇陛下はえんび服に最高位の勲章、皇后さまはロングドレスにティアラという姿で、君が代の演奏のあと、オープンカーに乗り込まれました。 そして天皇陛下の即位を祝って作られた行進曲「令和」が演奏される中、宮殿を出発されました。 車列には秋篠宮ご夫妻や安倍総理大臣の車など18台の自動車と、白バイやサイドカー、合わせて46台が連なり、都心部のおよそ4.6キロのルートを時速10キロほどでゆっくりと進みました。 沿道にはおよそ11万9000人の人たちが詰めかけ、車列の通過に合わせて、両陛下の結婚を祝って作られた「新・祝典行進曲」が演奏されました。 沿道の人たちは歓声を上げたり小旗を振ったりして両陛下を祝福し、両陛下はにこやかな表情で休むことなく手を振ってこたえられていました。 両陛下は午後3時半すぎ、赤坂御所に到着され、儀式は30分余りで終了しました。 10日の「祝賀御列の儀」でことし5月から国事行為として行われてきた「即位の礼」は5つの儀式すべてが終わりました。 天皇陛下は今後も一世に一度の伝統儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」に臨むなど、来月4日まで即位に伴い皇室の行事として行われる一連の儀式に臨まれます。 皇居前広場で祝賀パレードを見た茨城県から訪れた女性は「皇后さまの姿を一目見せたいと思い、孫3人を連れてきました。平和な時代になってほしいと改めて思いました」と話していました。一緒に来た孫の女の子は「5時間待ちました。とてもきれいで、来たかいがありました」と話していました。 また埼玉県から訪れた70代の男性は「雅子さまが笑顔で元気な姿でいらして、とても安心しました」と話していました。 静岡県から訪れた20代の女性は「遠かったですが、少しだけお姿を拝見できうれしかったです。天気もよくてよかったです。いい時代になったなと改めて思いました」と話していました。 パレードについてインターネットのツイッターにもさまざまな感想や画像などが投稿されました。 このうちパレードの最中、沿道にいたとみられる人からは「天皇陛下、皇后陛下のお姿見えた!」などのコメントや画像が投稿された一方、「パレードで見えたのはスマホと人だけだった」とか「人混みで全く見えなかったけど雰囲気は満喫できた。天気も最高だったし」といったコメントが寄せられていました。 またパレードの中盤、皇后さまがハンカチを目元に当てるしぐさをされたことについて「いろいろ苦労をされてきたけど、それをお二人で乗り越えてこられたんだなぁと勝手に想像したらこちらまで涙出た」とか「これまできっと長い道のりだったんだろう」などと思いを寄せるツイートが投稿されたほか、「オープンカーで寒そうだけど大丈夫かな。かぜとか引かれなければいいけど」「寒いやろうしずっと笑顔で手を振り続ける両陛下、尊敬します」などと気遣うコメントも寄せられていました。 そしてパレードが終わると、「30分があっという間」とか「パレードが無事終わりほっとしました」など、無事を祝うコメントのほか、「みんな一斉にスマホを構えてる姿を見ると、時代の風物詩に見えなくもない」など、さまざまな感想も投稿されていました。 |
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●「祝賀御列の儀」華やかに、即位祝うパレード
さわやかな秋空の下、天皇陛下の即位を祝うパレードが午後3時から行われました。両陛下の晴れやかなお姿に沿道は歓声に包まれ、皇后さまが目をうるませる場面もありました。「即位の礼」最後の儀式となるパレード「祝賀御列の儀」。にこやかに手をふられる天皇皇后両陛下に、沿道につめかけた大勢の人が歓声をあげ、街は祝賀ムードに包まれました。 午前5時すぎ、日の出前であたりはまだ真っ暗闇ですが、皇居前の広場では多くの人たちが集まり、列を作っています。皇居前にずらりと並ぶ徹夜組の人々、その数はおよそ200人。 「並んだのは夜12時すぎですね」(女性) 「夜10時半です。もう80歳、過ぎてる」(女性) 早朝の皇居前を全力で走るのは、都内の高校2年生。 「並んでると思ったので、始発で来て、まだちょっと前の方だったので幸いでしたね」(都内の高校2年生) 車が好きで、初御披露目の御料車をなんとか撮影したいと駆けつけました。 街にはDJポリスも出動。全国から2万6000人の警察官が動員され、厳戒態勢に。駅の出入り口も一部閉鎖されました。観覧エリアに設置された所持品の検査場では、危険物はもちろん、大きな荷物や自撮り棒などの持ち込みも禁止です。 皇居前では“徹夜組”から順番に広場へ。ところが、入り口に人が殺到。混乱も起きました。 「ずるーい!入れてる」(早朝から並んでいる人) 「おかしいよ、そんな。私たちの方が先なんだから」(早朝から並んでいる人) 「ここから見るしかなくなっちゃったんですよ」(警察官) 「えー」(女性) 「もう入れない。ここで(見る)」(女性) そして午後3時。パレードは、皇居からお住まいの赤坂御所までおよそ4.6キロのルートです。皇居前にポジションをとった高校2年生は・・・。 「おめでとうございまーす。(Q.どうだった?)すごくきれいで。ティアラ姿の雅子さま、すごくきれいでした。朝早く並んだかいがありました」(都内の高校2年生) パレードの途中では、雅子さまが涙をぬぐわれるような仕草も。パレードは青山通りで青山1丁目を右折。正門前では、儀仗隊が着剣された銃を両手で持って体の正面に掲げる「捧げ銃」という最高位の敬礼をしています。それにも手を振って、天皇皇后両陛下がおこたえになっています。 天皇皇后両陛下は、即位を記念して作られた“令和”という曲で迎えられ、華やかなパレードはフィナーレを迎えました。 |
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●10/22 東京の天気 |
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即位礼正殿の儀 |
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