絶滅危惧種「野党」

絶滅危惧種  野党 消滅
小選挙区制 
政治環境に負けました

利益誘導できません
支持者が限られてしまいます
票がとれません
消滅加速
 


絶滅危惧種
 
 
 

 

●小選挙区制 
小選挙区制
1選挙区ごとに1名のみを選出する選挙制度である。
議会などの2人以上の人員を要する機関を構成するとき、定員と同数の選挙区を区分けし、1選挙区毎に1人の当選者を選ぶ選挙制度の総称である。現代の日本では、選挙方法に単記非移譲式投票を用いた単純小選挙区制を指すことが多い。
性質
1選挙区につき1人しか当選できないため、区割りとの相関が低い意見の対立は、議会に持ち込まれにくく、多数代表の性質が強くなる。一方、各選挙区は別々に分かれて選挙を行うため、区割りとの相関が高い意見対立は再現されやすく、少数代表の性質が強い。いずれにせよ、選挙候補者は二大政党に所属していたほうが選挙で当選する可能性は高くなる。したがって、特定地域の支持者を背景に政界に新規参入しようと欲する候補者は、対立候補者が二大政党の片方から既に立候補していた場合には、政策・主張の差異があろうが無かろうが、もう片方からの立候補を検討する必要に迫られる。その結果として政策論争がないがしろにされる懸念が生じる。
区割りとの相関が低い問題については、議員の間に根深い対立がないので、審議は速やかに完了し、満場一致で議決が下る場合もある。また、同じく多数代表の選挙方法で選ばれる政府と同調しやすく、政府と議会の対立で国政が麻痺する可能性が低い。
区割りとの相関が高い問題については、議員の間に根深い対立が生まれ、審議は平行線に陥りやすく、多数決で決着をつけざるを得ない場合が多い。
有権者は選挙区間の移動が容易ではないので、単純な戦略投票に晒されても、比例代表の性質を持ちにくい。このため、ゲリマンダーが行われるなど選挙区の区割りが適切でないと、議会での勢力比と有権者での勢力比が一致せず、直接選挙(大統領制や首相公選制など)で選ばれた政府と対立する可能性が高くなる(ねじれ現象)。
小規模政党の国政からの排除
ある特定の政治問題で独特なスタンスをとる小規模政党が選挙区で苦戦を強いられ、政治的に少数派の意見が国政に反映されにくい。ジェフリー・サックスは小選挙区制度では二大政党制になりやすく、小規模政党は踏み潰される(trampled)ことになると論じている。
単純小選挙区制特有の性質
単純小選挙区制では、選挙方法に単記非移譲式を用いているため、デュヴェルジェの法則が働く。このため、有権者は二大政党(と、有権者自身が予想する)の候補者以外の選択肢を表明しにくくなる。
単純小選挙区制において政党の議席数は、政党の得票率に対して三次関数の議席数になることが知られ、これは「三乗法則」と呼ばれる。2005年5月に行われたイギリス下院議員選挙では、与党・労働党の得票率が35%、野党第一党・保守党の得票率が32%と、両党の得票率の差は僅か3%にすぎなかったが、獲得議席数では159議席もの差がついた。
利点と欠点
利点
選挙のたびに政権を選択して、強力で安定した政権をつくれること
デュヴェルジェの法則の効果により二大政党制を作りやすいので、不満であれば選挙民は最大野党に投票して政権交代を起こしやすくなるので、与党は真剣にならざるを得ないこと
欠点
候補者が僅差で当選、あるいは落選した候補者の票が多数を占める選挙区では、多くの死票が発生する。日本では1996年の衆議院議員選挙で小選挙区比例代表並立制が導入されて以降、2012年までの6回のうち3回で死票が5割を超えている。2012年衆議院議員選挙の死票率は53%であり、死票率が70%を超えた選挙区が2ヶ所、60%を超えた選挙区が76ヶ所あった。
各政党の得票率と実際の議席占有率との乖離。例えば、単純小選挙区制の2005年のイギリスの下院総選挙では、第一党となった労働党(得票率35.2%で355議席)と第二党の保守党(得票率32.4%で198議席)の得票率の差が2.8%しかなかったのにも関らず、獲得議席数では157議席も差が出ている。比例代表と並立である日本では2005年の衆院選、2012年の衆院選、2014年の衆院選における自民党、2009年の衆院選における民主党は、いずれも4割台の得票率で7割から8割の議席を獲得している。
地元選挙区への利益誘導。
日本の小選挙区制
参議院選挙の1人区の選挙区(半数改選のため全体としては定数2人)も小選挙区とも表現されることがある。
国政の他、都道府県議会選挙においては、定数1の選挙区、すなわち事実上の小選挙区制選挙で議員を選出する地域が多い。これは、同選挙の区割りが市・郡単位を基準に定められるが、その都道府県内での有権者数の比重が小さく、総定数の中から1人しか割り当てられない地域が多いためである。
歴史
日本の衆議院においては、まず1890年の衆院選から1898年の衆院選において小選挙区制が採用された(一部完全連記制の2人区があるが、特定政党の議席独占が起こりやすいため単記式の中選挙区制とは異なる)。
1902年の衆院選から1917年の衆院選まで、大選挙区制が導入されていた。
原敬内閣による選挙法改正で再度導入され、1920年の衆院選と1924年の衆院選は小選挙区制が実施された。
1928年の衆院選から1993年の衆院選までは中選挙区制が導入されていた。
ただし、第二次世界大戦後の1953年にアメリカ合衆国から日本へ施政権が返還された鹿児島県奄美群島では、歴史的経緯から奄美群島選挙区が1人区として設置され、事実上の小選挙区として存在した。この奄美群島選挙区は将来鹿児島県第3区へ統合するまでの暫定措置とされたが、1954年の補欠選挙で初めて議員を選出し、一票の格差を解消するための定数是正措置により1992年に消滅(鹿児島県第1区へ統合)するまで存続した(1990年の衆院選が最後の選挙)。
この間、1956年に第3次鳩山内閣が単純小選挙区制を、1973年に第2次田中角栄内閣が小選挙区比例代表並立制をそれぞれ衆議院に導入しようという計画を立てたが、大政党に有利である、選挙区の区割りがいびつであり恣意的である、などと批判された。特に区割りに関しては、1810年代のアメリカにおける事例、マサチューセッツ州知事エルブリッジ・ゲリーがサラマンダーの形をした自党に有利な選挙区をつくりゲリマンダーと呼ばれた故事をもじって、ハトマンダー(第3次鳩山内閣)・カクマンダー(第2次田中角栄内閣)と揶揄された。このような批判と、政権自体の求心力の低下により、両内閣とも導入を断念した。
また、日本の小選挙区制のモデルケースと目された奄美群島区で選挙がしばしば過熱し、選挙違反者の大量発生が続いた事も、小選挙区反対論の根拠となった(いわゆる保徳戦争)。
1980年代後半、中選挙区制の欠陥が指摘されると再び小選挙区制導入の論議がなされた。リクルート事件後の1991年、海部俊樹内閣および自民党執行部は小選挙区300、比例代表171の小選挙区比例代表並立制導入を企図するが、小泉純一郎らが反対を表明し推進派の責任者だった羽田孜に猛反発するなど党内調整が難航し、導入は見送られ、内閣は総辞職した(海部おろし)。
その後1994年の公職選挙法改正で衆議院選挙において小選挙区比例代表並立制(小選挙区300、比例代表200)が導入され、1996年の衆院選から実施された。
制度への批判
日本共産党は制度の根本的欠陥として第一党が4割台の得票で7〜8割もの議席を占め、得票率と獲得議席数に著しい乖離を生み出す点や死票が過半数にのぼっている点などを挙げており、小選挙区制では一票の格差を是正することは不可能だと指摘。民意を反映する比例代表を中心とした制度への改革を主張している。
社会民主党は制度の問題点として得票率と議席率の乖離、死票の増大、一票の格差の拡大、少数党に不利などの点をあげており、比例得票数を議席配分の中心に据えた選挙制度への改革を目指すとしている。
公明党代表の山口那津男は「イギリスを見ても分かるように、単純小選挙区制で民意を集約するのはもう無理だ。世界の流れは民意をいかに正しく反映する選挙制度にするかだ」と述べている。
元東京都知事の石原慎太郎は定例会見の場で「小選挙区を採用したことが絶対に間違いですよ。健全な民主主義や健全な政治家は生まれてこない。どんどん政治家が小­さくなっちゃった。今はみんなロボットみたいでどれもこれも顔は違うけど言っていることは同じだわ。寂しい国になっちゃったね」と小選挙区制度を批判し制度自体を否定した。また1994年の小選挙区制導入の際に総務会で、小選挙区制に最初から最後まで反対したのは私と野中広務だけだったと述べた。
元政治家の田村耕太郎は「日本において階級や民族など二大政党が争う対立軸はない。候補者は理念や政策が異なっても当選するために大政党の公認を受け、万人受けするばらまき政策を掲げる。選挙区事情で政界再編も起きにくい」と指摘している。
東京工業大学名誉教授の田中善一郎は「小選挙区は保革対立の時代には適した制度であるが、現在のように国民が多様な意見を持つ状況では、国民の選択を無理やり二者択一に導く道具と化し、二党のどちらかに投票した瞬間に民意は歪められる」と指摘している。
衆議院小選挙区の区割り方法
衆議院の小選挙区区割り法式は、まず衆議院議員選挙区画定審議会にて審議される。
選挙区割りは国民の一票の格差を決定し、政治家の当落を左右する重要な問題である。衆議院小選挙区については国勢調査の結果をもとに10年ごとに衆議院議員選挙区画定審議会が審議して内閣総理大臣に勧告し、総理大臣は問題がなければそれを採用して国会に提出し審議に付される。審議会の委員は国会同意人事であり両院の同意を得た国会議員以外の識者7人が総理大臣に任命される。
区割りするときは「一票の格差を2倍未満にする」「大都市を除き、市区町村を分割しない」「飛地をつくらない」などの方針のもとで地勢や交通を考慮して決定される。しかしながら第43回衆議院議員総選挙(2003年)では9つの選挙区で一票の格差が2倍を超えた。また有権者数の調整のため、一部の市区では選挙区が分割されている(詳細は選挙区が分割されている市区町村を参照)。
1区は都道府県庁がある選挙区(政令指定都市の場合は都道府県庁がある区の選挙区)に割り当てられている。
市町村合併による境界の変更があっても選挙区割りが自動的に変更されることは無い。いわゆる平成の大合併の進展により2003年から2007年3月末にかけて各地で大規模な市町村合併が行われたが、2009年8月1日現在で唯一の例外を除いて区割りは2002年に改正された当時のままである。そのため2005年9月11日に行われた第44回衆議院議員総選挙では新潟市が4つの選挙区にまたがったのを筆頭に全国で35市町が本来分割されている市区に加えて複数の選挙区にまたがることとなった(現在分割されている選挙区は平成の大合併により選挙区が分割された市区町村を参照)(公職選挙法13条3項本文)。
ただし市町村合併によらない市区町村の境界変更の場合には新たに所属する市区町村の選挙区に変更となり、新たに所属する市区町村が属する選挙区が2以上ある場合には、総務大臣が属する選挙区を決定する(公職選挙法13条3項ただし書、4項、同法施行令2条1項)。
唯一の例外は2005年2月13日に長野県から岐阜県中津川市に編入された旧山口村の区域である。2005年6月29日に公布された「公職選挙法の一部を改正する法律」によってそれまで所属していた長野4区から岐阜5区に所属が変更され、同時に比例代表区の北陸信越ブロックと東海ブロックの境界線も新しい県境に合わせて変更された。
2009年の一票の格差をめぐる裁判における最高裁判所大法廷判決では、2.30倍の格差は「違憲状態」であり、都道府県にまず1議席を割り当てる「1人別枠方式」が「格差を生む主要な原因」になっているとして、速やかな廃止を求める内容が言い渡された。
東京都と愛知県は小選挙区制が導入以来人口が急増したにも関わらず選挙区は増えていなかったり、2002年区割り変更で17から18へ小選挙区を増やした神奈川県はその後19小選挙区の大阪府の人口を抜いたにも関わらず小選挙区数は矛盾していることには反映されていない。  

 

選挙制度改革後の自民党 2013/11
本論文は、1994年の選挙制度改革によって自民党の組織や行動に変化は見られたのか、簡潔に説明する。そのためには、かつて用いられてきた中選挙区制が自民党に及ぼしてきた影響を明らかにした上で、小選挙区比例代表並立制が自民党をどのように変えるのか、そのロジックと実際を検証しなければならない。
以下では、まず、新旧の選挙制度の違いを説明する。ついで、選挙制度改革の前後における自民党の組織と行動を比較検討する。結論から述べると、党が選挙の中心となり、総裁の影響力も拡大したが、選挙区レベルの活動はいまだに候補者個人に依存しているといえる。
中選挙区制と小選挙区比例代表並立制の違い
1994年に公職選挙法が改正され、衆議院の選挙制度は小選挙区比例代表並立制に変更された。それまで用いられていた制度は、中選挙区制といわれるものであった。日本の議院内閣制においては、衆議院と参議院が国会を構成するが、憲法は衆議院の優越を定めている。従って、衆議院の選挙制度は日本政治を理解する上で極めて重要なポイントといえる。
まず、中選挙区制のメカニズムについて説明しよう。この制度はいわゆる「単記非委譲投票制(single non-transferable vote, SNTV)」の一種であり、日本では一つの選挙区から3〜5人の議員を選出する制度を指す。130の選挙区が日本全国にあり、合計511人の衆議院議員が選ばれていた(中選挙区制最後の1993年総選挙)。有権者は複数の候補者から誰か一人に投票し、候補者は得票順に議席を獲得する。有権者はもっとも好ましいと思う候補者に一票を投じるのみであり、候補者の好みの順序を示す必要はない。従って、候補者間で得票の調整は行われなかった。
中選挙区制に代わって導入された小選挙区制では、一つの選挙区から一人の議員を選出する。有権者は候補者の名前を一人だけ投票用紙に記入し、もっとも多くの票を得た候補者が議席を獲得する。300の小選挙区が存在するので、全体では300人の議員が選ばれることになる。比例代表制では、有権者が政党名を投票用紙に記入し、各党は獲得した票に応じて議席を得る。政党に与えられた議席は、原則として政党が事前に用意しておいた「名簿」の順位に従って候補者に割り当てられるが、小選挙区と重複して立候補した候補者の場合はその限りではない。全国は11のブロックに分割され、全体では180人の議員が選ばれる(2000年の改正前は200人)。政党はそれぞれのブロックに名簿を用意する。小選挙区制も比例代表制もオーソドックスなものであるが、両者の組み合わせ方に日本の独自性がある(その詳細は紙幅の都合で省略する)。
中選挙区制と自民党
中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が選出されるため、過半数の議席の獲得を目指す政党は同じ選挙区に何人も候補者を擁立しなければならなかった。その結果、自民党は下記のような困難に直面した。
まず、その選挙区における自民党支持の強さを考慮に入れて、最適な数の候補者を公認しなければならない。候補者が多すぎると、彼らは共倒れになるであろう。反対に候補者が少なすぎると、獲得できるはずの議席を諦めることになる。従って、何人まで候補者を擁立するのかという公認戦略は、自民党にとって常に悩みの種であった。
また、選挙区における自民党支持を計算した上で、最適な数の候補者を公認できたとしても、それで終わりではない。有権者は党ではなくて候補者に投票するのであり、中選挙区制には候補者間の得票調整の仕組みはない。自民党支持者の票が特定の候補者に集中すると、そのほかの候補者は当選に必要な票を獲得できず、他の政党の候補者に負けてしまうのである。従って、自民党の候補者は均等に得票しなくてはならない。こうした選挙区における「票割り」は、選挙戦略上、極めて重要であった。
国政レベルにおける自民党は、何人かの指導的な政治家を中心とする議員集団、すなわち「派閥」に分裂していた。派閥の存在理由の一つは中選挙区制にある。選挙区において競合している自民党の候補者たちは、それぞれ派閥のリーダーから支援を受けていた。派閥のリーダーは候補者のために公認を獲得し、政治資金や役職の世話をする代わりに、総裁選挙の際には彼らの支持を求めたのである。自民党は支持者の数に見合った最適な数の候補者を擁立しなければならなかったが、候補者間の競争が派閥間の競争と連動したことにより、公認戦略はいつも難しいものとなった。
「後援会」と「族議員」による候補者すみ分け
選挙戦略上は自民党支持者の票が特定の候補に集中しないよう、票割りしなければならないことを述べたが、候補者たちは地域的ないし政策的にすみ分けながら、自らの選挙地盤を形成することで、この課題に対応した。地域的なすみ分けが「後援会」であり、政策的なすみ分けが「族議員」である。
後援会とは、特定の政治家を応援する人々の集まりといった意味であるが、現実には政治家が有権者を囲い込むためにさまざまな便益を提供しなければならず、莫大な費用がかかることになった。後援会の組織のされ方はさまざまである。国会議員と有権者が結びつくこともあったし、国会議員を支持する地方議員が後援会の幹部となり(系列関係という)、それを媒介に国会議員と有権者が結びつくこともあった。また、後援会は選挙区における特定の地域を重点的に組織する場合もあったし、年齢や性別、特定産業の従事者、そのほか団体のメンバーなどを組織することもあった。いかなる方法であれ、自民党候補者たちは個人的な「選挙マシーン」を形成し、選挙区内の異なる支持者を組織することにより、中選挙区制における票割りの要請を満たしてきたといえる。
選挙区における自民党候補者間の差別化競争は、国政(政府および国会、党本部)レベルでは「族議員」現象となってあらわれた。族議員とは、特定の政策領域について専門知識と人脈を蓄えることにより、政策過程に影響を及ぼす議員のことである(農業や商工業、建設業などが人気のある政策分野であった)。自民党の政務調査会は政策領域ごとに部会という下位組織を持っており、議員たちは各部会に所属することで、自らの政策的な専門性を高めていった。
つまり、中選挙区制における自民党候補者間の票割りの必要性は、中央においては政務調査会、地方においては後援会の組織原理となっていたのである。
リクルート事件を機に高まった政治改革の動き
1988年に発覚したリクルート事件を契機として、自民党に対する国民の批判が大いに盛り上がり、超党派的な政治改革運動に結実していった。その際、批判のやり玉に挙がったのが中選挙区制である。すでに説明したように、自民党政治が腐敗するのは選挙制度に原因があり、個人的な選挙区サービスではなく、政党の政策中心の選挙運動を実現するような選挙制度に変更すべきと考えられた。また、中選挙区制においては、自民党のような候補者間のすみ分けメカニズムを持たない野党が結集するのは困難であり、政権交代が起こらない原因の一つとみなされた。小選挙区制はこれらの問題を解決する格好の処方箋と期待されたのである。
紆余曲折の末、1994年に小選挙区比例代表並立制が導入された。自民党は大政党に有利な小選挙区制のみの採用を主張していたが、少数政党の支持を取り付けるため、彼らに有利な比例代表制と組み合わされた制度となった。
小選挙区比例代表並立制と自民党
新しい選挙制度の下で、自民党の組織はどのように変わると考えられたのであろうか。かつての中選挙区制が自民党に課していた条件の変化として考えると、分かりやすい。小選挙区制においては、一つの選挙区から選出される議員は一人であるから、同じ政党から複数の候補者が出馬するという事態はあり得ない。つまり、同一政党内の競争が発生しなくなることにより、自民党の公認戦略はシンプルなものになり、選挙戦略も大きく変わるはずである。
公認戦略と選挙戦略の変化
まずは公認戦略であるが、かつてのように、選挙区内の自民党支持者に見合った最適な数の候補者を予想しなければならない、という複雑さは不要となった。他党との関係において、もっとも勝てそうな候補者を擁立すればよいだけである。むしろ強調すべきことは、党の公認が持つ重要性の変化である。中選挙区制においては、党の公認が得られなかった保守系の無所属候補者でも当選すれば、自民党に入ることを許された。一方、小選挙区制における当選者は一人だけであり、公認を得ずに出馬すること自体、党の分裂を招き、公認候補者を危機に陥れる反党行為となる。従って、党の公認の重みは格段に大きくなり、公認権を握る党執行部の権力が増大すると考えられる。
次に選挙戦略であるが、中選挙区制における票割りはもう必要なくなった。その結果、後援会や族議員による差別化も必要なくなり、選挙は候補者個人の選挙キャンペーンから政党の政策や党首のイメージが中心となるものへと変わると期待されたのである。個人的な選挙キャンペーンを実施する必要がなくなれば、金のかかる後援会を維持しなくてもよくなり、政治腐敗を根絶できるはずである。また、候補者個人の後援会から党の地方組織に活動の重心が移るだけではなく、族議員のような個人的な政策活動から党の政策づくりに関心が集まることにもなるであろう。
小泉「郵政選挙」では党公認が議員生命を左右
こうした制度変化の影響は、2005年の衆議院議員総選挙における自民党の公認戦略に見て取ることができる。当時の首相であり、自民党総裁の小泉純一郎は国営であった郵便局の民営化を主張していたが、郵便局の支援を受ける族議員の激しい抵抗に直面していた。自民党執行部が所属議員に党議拘束をかけたにもかかわらず、国会に提出された郵政民営化法案には反対者が続出し、参議院では否決された。
そのため、小泉首相は衆議院を解散し、郵政民営化を選挙の最大の争点とした。その際、自民党執行部は法案に反対した議員に党の公認を与えず、党の公認候補者を新たに擁立した。選挙の結果、自民党は大勝利を収め、党から追放された反対派の多くが議席を失い、辛うじて議席を確保した者も困難な状況に追い込まれることになった。
この事例は公認の重要性にとどまらず、総裁がその気になれば、議員の政治生命を左右できることを明らかにした典型的な事例といえる。
政党公約と党首イメージ重視の選挙戦略へ
選挙戦略については、どうであろうか。もっとも大きな変化は、政党の公約が重要となったことである。ただし、この変化はもう一つの大政党である民主党からもたらされた。2003年の衆議院議員総選挙に際して、民主党は「マニフェスト」を掲げることにより、党を前面に押し出した選挙運動を開始した。それにつられるように、自民党を含む他の政党も党の政策を掲載したパンフレットを作成して、配布するようになった。自民党や民主党のパンフレットを見ると、党首の写真が大きく掲載されているなど、党首のイメージが重視されていることも特徴である。その後の国政選挙においても、政党の公約は非常に重要な選挙運動の手段となっている。
その一方で、選挙制度改革によって政党の地方組織の充実が予想されたが、これは期待外れであった。依然として、候補者個人の後援会が選挙区レベルの活動では中心的な役割を果たしている。無党派層の増大に象徴されるように、政党に対する有権者の忠誠心の低下が背景にあると考えられる。選挙制度は政党中心の公認戦略や選挙戦略を求めるものであり、政治家はそれに適応せざるを得ないが、有権者の対応はそれに追いついていないともいえよう。また、後援会の幹部である地方議員を選出する選挙制度には変更がなく、衆議院の選挙制度改革の影響力には限界があることも指摘しておかねばならない。
党内権力関係の変化
選挙制度改革は、二つのルートを経て、党内権力関係にも影響を及ぼす。一つは派閥の弱体化、もう一つは総裁の重要化である。派閥の存在理由の一つは、中選挙区における自民党候補者同士の競争にあった。小選挙区制の導入によって自民党の候補者が一人に絞られ、党内の選挙競争が起こらなくなると、選挙区での候補者間の対立関係を利用して、派閥の結束を図ることはできなくなった。こうした派閥の求心力の低下は、派閥の人事機能や政治資金の集配機能の低下を招き、それが派閥の魅力をさらに損なうと考えられる。
かつて、首相は派閥のリーダーからの推薦に基づいて閣僚を選任していた。自民党の場合、議員の昇進は当選回数に基づいており、大臣となるためには5回の当選回数が必要とされていたが、有資格者の中から誰を選んで、どのポストに就けるかは、派閥のリーダーの推薦がものをいった。しかし、選挙制度改革以降は派閥の影響力が低下し、小泉首相が派閥の推薦を無視して人事を行ったことは有名である。また、選挙制度改革と同時に行われた政治資金規正法の改正や政党助成法の導入により、政治資金の集配が政党を経由するものへと変わっていった。こうした制度改革も派閥の資金力を削ぎ、その役割を低下させることに寄与したといえる。結局、若手を中心に派閥に属さない議員が激増した。
派閥が衰退する一方、相対的に影響力を拡大したのは総裁である。その選ばれ方も大きく変わると予想される。かつての自民党における総裁選びは派閥を中心とするものであった。1978年の総裁選挙から一般の党員も参加する事例がたびたび見られるようになったが、一般党員は後援会を通じて、党の地方組織を構成する地方議員たちは系列関係を通じて、それぞれ特定の国会議員による動員の対象となっていた。その国会議員は所属する派閥のリーダーの意向に従っていたから、一般党員や地方議員も派閥中心の総裁選びに巻き込まれていたといえる。
小選挙区制の導入によって、党首が選挙の帰趨に影響を及ぼすようになるなら、総裁選びに対する一般党員や地方議員の意識も変わるはずである。かつては誰が総裁であっても大して変わらないと思われていたが、新選挙制度の下では誰が総裁になるのかによって、選挙の結果は大きく左右される可能性がある。有権者の支持を得られそうな人物の方が好ましいため、党員による投票で人気を証明することが候補者に求められるようになる。また、中選挙区制の廃止によって、系列間の競争関係が失われ、国会議員と地方議員のつながりは緊密なものではなくなる。後援会を通じた動員はかつてほどの効果を失い、党員や地方議員の自立的な投票判断を可能にするはずである。
上記の予想は事実によって裏付けられるのであろうか。2000年代以降の自民党総裁選挙における顕著な変化は、党員投票を伴う事例の増加である。総裁が任期途中で辞任する場合、規定上は党員投票を実施しなくてもよかった。1980年代や90年代までは、この規定どおりに運用されてきたが、転換点となったのが、2001年4月の総裁選挙である。
森喜朗総裁は任期途中での辞任であったが、各地の地方組織が自主的に党員投票を実施し、党本部もそれを認めざるを得なくなった。その結果、誕生したのが小泉純一郎総裁である。選挙区のローカルな利益を擁護する国会議員に対して、小泉が厳しく接してきた理由の一つとして、日本全国の党員から支持を獲得して総裁に選ばれたという経緯があることを無視できない。
その後、毎回、党員投票が実施されるようになり、派閥中心であった総裁選挙における党員や地方議員の役割が大きくなった。また、小泉のように派閥の支持を十分に得られなくても、党員の支持を当てにして立候補する者が増え、候補者のタイプも変化したといえる。
結論
本論文では、小選挙区比例代表並立制が自民党をどう変えると考えられたのか、実際にどう変わったのか、かつての中選挙区制と比較しつつ検証した。結論としては、選挙制度改革には政党中心の選挙を促進し、総裁の影響力を拡大する効果があり、実際に派閥は衰退しているといえる。しかし、制度の十分な活用は政治家次第であり、有権者の政党離れが地方における組織化を妨げている可能性も無視できないのである。 

 

小選挙区制は「大間違い」か 2014/11
河野洋平元衆院議長が、「大きな間違いを私は犯しました」と告白した。
てっきり、平成5年8月に閣議決定もせずに発表した慰安婦に関する「河野官房長官談話」への懺悔(ざんげ)かと思いきや、さにあらず。
衆院への小選挙区比例代表並立制導入に大きな役割を果たしたことに対してだった。
河野談話発表前に、自民党は衆院選に敗れ、下野が決まっていた。日本人を20年以上にもわたって苦しめることになった軽はずみな決断こそ悔い改めてもらいたいが、今回はそれが主題ではない。
6年1月、自民党総裁だった河野氏は、政治生命をかけて小選挙区制導入と政治資金規正法改正を迫る細川護煕首相と未明まで会談。自民党内にも反対論が残る中、最後は小選挙区の議席数を300に増やすことを条件に受け入れた。このとき2人が会談していた国会議事堂に、雪がしんしんと降り続いていたのを今でも鮮明に覚えている。難産の末に導入された小選挙区制を、当事者の一人が20年後に否定してしまうとは、何とも皮肉な話である。
ベテラン議員の中には、(1)小選挙区制は、得票率の増減が議席数に極端に反映してしまう(2)党本部の権限が強まり、中堅・若手は従順な議員がほとんどになった−などとして、中選挙区制への復帰を訴えている者も少なくない。
では、5年まで戦後長らく続いた中選挙区制の実態はどうだったか。1選挙区で原則3〜5人の当選者を決める中選挙区制は、「死票」が少ないというメリットがある半面、見過ごせない重大な欠陥があった。
一つの政党が単独過半数を占めようとすれば、多くの選挙区で複数の候補者を擁立しなければならない。好むと好まざるとにかかわらず、同士打ちをせざるを得なくなり、ともすれば、選挙運動にどれだけカネをかけられるか、公共事業をどれだけ分捕ってこられるか、が当落の分岐点になった。つまり、金権政治の温床になっていたのである。
観劇、うちわ、熊手などなど、今でも「政治とカネ」の問題は尽きないが、その昔、派閥のドンや幹部たちが湯水のように選挙のために投じた金額に比べれば、ケタが1桁も2桁も少ない(政治家のスケールもその分、小さくなったのは否めないが)。
得票数トップしか当選できない小選挙区制が、二大政党制を指向するのは当然で、だからこそ政権交代が容易にできる。
言い換えれば、候補者の個人的魅力よりも党員数、政策提言ができる党組織の有無、候補者の発掘力など、総合的な「政党力」を問われる制度なのである。
中選挙区制時代と比べると選挙戦はクリーンになり、公約も現実離れしたモノが減り、政権交代も実現するなど格段に良くなった。もし間違いがあったとすれば、民主党があまりにも未熟だったがゆえに、政権交代に悪いイメージがついてしまった点である。それにしても謝らなくてもいいことを謝り、本当に懺悔せねばならないことには頬かぶりする河野氏が、首相になれなくて本当に良かった、としみじみと思う。 

 

望ましい選挙制度とは何か 2015/1
得票率48%で76%の議席を得る
2014年末の総選挙は、自民党の圧勝劇で幕を閉じた。「大義なき解散」「争点なき選挙」「熱狂なき大勝」……意味の見出しにくかった今回の選挙を評して、さまざまな形容がなされた。とりわけクローズアップされたのが、52.7%という戦後最低の投票率と、48%の得票率(295小選挙区の有効得票総数に占める自民党候補全員の総得票)で76%の議席を占有できる(自民党は295小選挙区で223の議席を獲得)という小選挙区制の“マジック”だった。いいかえると、自民党は、小選挙区に投票した人の、2人に1人弱の得票で、じつに衆議院の4分の3の議席を得たことになる。
小選挙区制は一選挙区から一人を選ぶ方式のため、自民党が優勢の選挙区では、野党に投票してもそれは「死に票」となってしまい、正確な民意が反映されにくいという特色がある。
この得票率と議席占有率の乖離は、すでに2005年9月、小泉首相のもとでおこなわれた「郵政選挙」で指摘されていた。郵政民営化に賛成した自民・公明の候補者が小選挙区で49%の得票率にとどまったのに対し、議席占有率はやはり75%。人気の追い風も受けて286議席を獲得する大勝だった。
小選挙区制はいつ、なぜ生まれたのか
戦後、中選挙区制に代わって小選挙区制(小選挙区比例代表並立制)が導入されたのは、1994年、細川首相のときである。
これをさかのぼる数年前、リクルート事件(1989年)をきっかけに、政財官の癒着が社会問題化し、政治改革が叫ばれていた。このとき、「政治腐敗の元凶は中選挙区制にある」として、日本の選挙制度を小選挙区制に変えるべきだと主張したのが、当時、自民党の実力者であり、竹下派に属していた小沢一郎氏(現・生活の党代表)である。小沢氏は、中選挙区制を守ろうとする議員を守旧派と呼び、党内を二分する議論を巻き起こした。しかし小沢氏が主導した政治改革法案が成立に至らなかったため、野党から提出された宮沢内閣不信任案に賛成。この結果、不信任案が可決され、1993年、解散総選挙に突入する。
小沢氏は解散直後に自民党を離党、新生党を立ち上げた。自民党はこのときの選挙で下野、7党1会派が結集した非自民・細川政権が誕生する。政権の立役者であり、イギリスのような議会政治を定着させるには「政権交代可能な二大政党が必要」が持論の小沢氏の意をくみ、細川首相と、当時自民党総裁だった河野洋平氏が会談、小選挙区制の導入が決まった。
小選挙区制は二大政党制を生みやすいとされるが、そう指摘したのはフランスの政治学者モーリス・デュヴェルジェである。たとえば1議席を争う小選挙区では、第3党以下は淘汰されてしまい、第1党か第2党の候補者ばかりが当選する。有権者のほうも、当選可能性の低い候補者には投票しなくなるため、結果的に二大政党に収斂していくという(デュヴェルジェの法則)。
河野洋平氏の「謝罪」
2014年11月25日、憲政会館で行われた故・土井たか子氏(元社会党委員長・元衆院議長)のお別れ会で、河野洋平氏は次のような謝罪の言葉を述べた。
「(私は土井さんに)謝らなければならない大きな間違いをした。細川さんと2人で最後に政治改革、選挙制度を右にするか左にするか、決めようという会談の最中、議長公邸にあなたは(私たち2人を)呼ばれた。直接的な言葉ではなかったけれども、『ここで変なことをしてはいけない。この問題はできるだけ慎重にやらなくてはいけませんよ』といわれた。あなたは小選挙区に対して非常な警戒心を持たれていた。しかし社会全体の動きはさまざまな議論をすべて飲み込んで最終段階になだれ込んだ。私はその流れの中で小選挙区制を選択してしまった。今日の日本の政治、劣化が指摘される、あるいは信用ができるかできないかという議論まである。そうした一つの原因が小選挙区制にあるかもしれない」
当時、河野総裁、細川首相ともに、本音では「穏健な多党制」を志向していたという。
「一強多弱」は歪な1党優位
1994年の小選挙区制の導入以後、これまで7回(1996年、2000年、2003年、2005年、2009年、2012年、2014年)の総選挙を経験したが、2009年までは導入時の狙いどおり、ほぼ二大政党制が定着しつつあったといってよい。実際、2009年には政権交代が実現した。しかし、直近2回の総選挙(2012年、2014年)はまったく逆で、かつてと同じ自民党一党支配の構図だった。
この2回の選挙が二大政党制の瓦解を意味するとすれば、その責任は、ひとえに野党第一党である民主党にあるといって過言ではない。民主党は2012年の選挙の前から消費税増税をめぐって分裂、維新の会、未来の党(代表・小沢一郎)、減税日本を誕生させ、離党組は、みんなの党にも合流した。続く選挙に惨敗、小政党を生み出す引き金となった。「一強多弱」状況の出現である。
2014年の総選挙の1年近く前に、一橋大学の中北浩爾教授は、こうした状況について次のように指摘していた。〈「デュヴェルジェの法則」は、あらゆる条件の下で働くわけではない。野党の結集が難しく、現在のように「一強多弱」であれば、小選挙区制は、二大政党が切磋琢磨する二大政党制ではなく、最大政党に過剰な議席を与える歪な一党優位政党制をもたらす〉(「世界」2014年2月号)。はたして中北教授の推論どおりになった。
日本に二大政党がなじまない理由
小選挙区制が生み出すとされる二大政党制については、これまでも多くの識者から危惧する声があがっていた。2009年の政権交代(民主党政権誕生)を受けて、佐伯啓思・京都大学教授(当時)は、「二大政党政治がイギリスとアメリカで発展したのは、これらの国の歴史的な条件によるところが大きい。イギリスの保守党と自由党の対立は、貴族や郷紳(地方に住む紳士)らの上層階級と新興ブルジョア階級の対立を反映し、20世紀の保守党と労働党の対立も階級利害を反映したものであった。アメリカの場合には、建国の精神を、白人(とくにアングロ・サクソン系)かつプロテスタントのもつ自主独立の個人主義や自由主義と宗教精神に求める考えと、アメリカのアイデンティティを多様な民族や人種を包括した移民国家に求め、それを統合するリベラル・デモクラティックな共同体ととらえる考え方の二つがある。共和党は前者に傾き、民主党は後者に傾く。では、日本ではそのような条件があるのか。むろん、答えはノーであって、日本はイギリス的階級社会でもなければ、アメリカのように理念において二つのアイデンティティが対立する国家でもない」(『日本の論点2010』より)と述べた。日本のような対立構造をもたない同質的な社会には、そもそも二大政党制はなじまないというのである。
選挙制度改革は進むか
小選挙区比例代表並立制を改め、中選挙区制に戻す、比例代表制を中心に据える、小選挙区と連用制の混合型にする、など、さまざまな選挙制度が議論されてきたが、いまだに民主党では、政権交代を容易にするとして小選挙区制を維持すべきという声が強い。与野党ともに、「国会議員自らが身を切る努力を」と、比例部分を縮小する定数削減には合意(民主党=80減、自民党=30減)こそしたものの(2012年12月の党首討論)、選挙制度自体の改革については、その後なんの動きも見せなかった。
ようやく「衆議院選挙制度に関する調査会」(衆議院議長の諮問機関。佐々木毅・元東大総長を座長に有識者15人)が設置されたのは、2014年7月。現行の小選挙区比例代表並立制に対する評価や諸外国との比較、「一票の格差」の是正などが検討される予定だが、これまでに4回開かれた会合で論じられたのは「一票の格差」問題のみ。12月24日、新しく衆院議長に選出された町村信孝氏は、答申が出たあかつきには尊重するよう各党に求めた。ただ、調査会の佐々木座長はかつて小選挙区比例代表並立制導入の際の提唱者の一人でもあり、選挙制度についての議論がどれほど深まるかは定かではない。  
日本に合うのは小選挙区制か、中選挙区制か 2015/5
5月7日に、イギリスで総選挙が行われた。選挙前の下馬評では、これまで二大政党と呼ばれた保守党と労働党のどちらも単独では過半数の議席が取れず、政党政治の母国ともいわれるイギリスで二大政党制が終焉するのではないか、と噂された。
しかし、保守党が単独過半数の議席を得る選挙結果となった。二大政党のうち一方が連立政権でなく単独政権を樹立する意味では、二大政党制は維持された。とはいえ、中小政党が得票率を伸ばした。二大政党が今後、イギリスの有権者の民意をうまく汲み取れないなら、中小政党の二大政党制に対する挑戦を受け続けることになりそうだ。
イギリスの選挙制度は長年小選挙区制で、各選挙区で唯一の当選者になるには、小政党の候補者では難しく、保守党か労働党の二大政党のどちらかの候補者でなければならないとみられていた。だから、小選挙区制は二大政党制の源とみられていた。
確かに、小選挙区制は大政党には有利だ。
しかし、小選挙区制では、他の候補者より1票でも上回れば当選者となる。つまり、単純多数決投票である。だから、小政党の候補者でも民意をつかめば当選者になれる。
そして、それなりの数の選挙区で小政党の候補者が当選できれば、二大政党のどちらも過半数の議席が取れないという事態も起こりうる。二大政党がうまく民意を汲み取れなければ、こうした事態が起きても不思議ではない。今次総選挙で第3党となったスコットランド民族党の躍進も、スコットランドの選挙区にて辛勝で獲得した議席によるもので、単純多数決投票による小選挙区制のなせる業である。
このイギリスの総選挙の結果を見て、小選挙区制をどう評価すればよいだろうか。小選挙区制は、うまく民意を汲み取れないからよくない選挙制度とみる人は多いだろう。しかしそれは早計だ。
小選挙区制に批判的な論者は、小選挙区制に代わるよい選挙制度として、比例代表制や中選挙区制を挙げる。しかし、比例代表制や中選挙区制には、大きな欠点がある。それは、選挙によって「勝者」を決めきれないことである。
政治は、税制をはじめとして財政にまつわる重要な意思決定をする。政治は、単に意見を聴くだけではいけないし、賛否の議論を交わすだけでもいけない。政治は、意見の違いを乗り越えてものごとをひとつに決めなければならない。つまり、公正な投票で「勝者」をひとつに決めなければならない。これを欠いては、政治の機能を果たしたことにならない。
この観点からいえば、比例代表制や中選挙区制の最大の欠点は、投票で「勝者」を決めない選挙制度であることだ。比例代表制も中選挙区制も、各選挙区で、最も多く「支持」を集めた候補者(ないしは政党)という「勝者」だけが当選者となるという仕組みではない。
だから、少数派の意見を汲み取ることができて中小政党がそれなりの議席を持つようになる半面、最も多く「支持」を集めた「勝者」は不明瞭になり、政策の意思決定をあいまいにしてしまう(ここでいう「支持」の含意は後述する)。
なぜならば、与党を形成するには、異なる意見を持つ勢力(政党や派閥)をより多く結集させなければならないが、そのために唯一の明確な方針ではなく、多様な意見を妥協した方針にせざるを得ないからである。財政運営において、あいまいな意思決定が引き起こす重大な弊害は、八方美人式に財政支出をばらまいたり、コミットメントが不可欠な財政健全化を遅らせることである。
その点、小選挙区制は「勝者」を必ず決める仕組みとなっている。繰り返すが、政治は、ただ意見を聞くだけとか、議論を深めるだけではダメで、ひとつの決定を下さなければならない。小選挙区制は、その意味でひとつの決定を下す選挙制度である。
小選挙区制を批判する論者は、しばしば想定している前提として、一回の選挙があたかも最終決戦(一度決まればそれを覆せない)であるかのように捉えている。
しかし、小選挙区制による選挙は、数年に1度繰り返し行われる。小選挙区制の下では、自分が望む政党や候補者が、勝つときもあれば負けるときもあって、でも長期間かけてみれば、それなりに自分が望む政策は実行してくれた、と多くの国民が思えることで、「勝者」を決める小選挙区制の利点が生きる。もし負けたときは臥薪嘗胆でも、勝ったときには自らが支持する政策を思う存分実行してもらって、その成果を享受する、というメリハリの利いた政策環境が実現する。
日本でかつてあった中選挙区制時代の発想、つまり自分が望む政党や候補者は一応当選するが、全ての主張が通るわけではなく、多少不満も持ちつつ妥協してほどほどの政策が緩慢に実行されるというのが通常、という発想では、政策の成果をうまく享受できない。
そうはいっても、小選挙区制の最大の欠点は、よく知られているように、選挙で少数派の意見がうまく汲み取れないことである。「勝者」をきちんと決めつつ、少数意見も適切に汲み取れる方法はないか。
実は、政治学だけでなく、政治の経済学といえる公共選択論の研究によって、「勝者」の決め方をもっと工夫する余地があることが明らかになっている。
そもそも、現行の小選挙制度は、単純多数決投票で行われている。投票者は、自らが最も好む(1位)候補者ひとりにしか投票できない。だから、最も好む候補者(ないし政党)と2番目に好む候補者とはあまり大差なく好んでいる有権者がいれば、1票しかないからその気持ちを現行の投票制度はうまく汲み取れない。
また、上位3つの候補者(政党)までは当選しても許容できるが、他の候補者(政党)は許容できない、という認識をおぼろげながら抱く有権者も、現行の投票制度ではその気持ちをうまく表せない。
ならば、1度の投票で有権者の好み(選好)に関する情報をもっと集約する努力を払ってもよいだろう。有権者の選好について、今の制度のように最も好む候補者しか聞かないのは支障がある。
これは、イギリス国民も気がついていて、2011年5月に、最も好む候補者だけでなく、候補者を好む順位を付けて投票する「優先順位付き連記投票制」への変更の是非を問う国民投票を行った。しかし、約7割が反対して現行制度が存続することとなった。やはり、候補者を明確に順位付けするのは難しいだろう。
そこで順位付けがあいまいな有権者でも適応できるようにする投票制度に、「是認投票」である。是認投票とは、各有権者が当選しても構わないと思う(是認する)候補者を何人でも投票できることとし、開票段階で最多得票の候補者を当選とする制度である。
現実にある制度との対比でみれば、わが国の最高裁判所裁判官国民審査で「×」をつけるものの逆で、是認する候補者のみに「○」をつける投票制度、といえる。国民審査で何人でも「×」をつけてよいのと同様、是認投票では何人でも「○」をつけてよい。
こうすれば、最も好む候補者と2番目に好む候補者があまり大差なく好んでいる有権者も、上位3つの候補者までは当選しても許容できるが他の候補者は許容できないという認識を抱く有権者も、是認投票でうまく選好を表明できる。
ITが発達した現代なら、今や電子投票の実用化も視野に入ってきた時代で、開票の手間はずいぶん省けるようになろう。「民意」をよりよく汲み取る選挙制度にするには、こうした工夫が必要だ。
是認投票による小選挙区制ならば、今の投票制度よりもっと民意を反映できる。最も好む候補者という意味ではなく、この人なら当選しても許容できるという意味での「支持」を集めた候補者がひとり当選すれば、「勝者」を決めつつ少数意見も今の制度よりずっと反映できる。
是認投票の他の選挙制度と比較した利点は、井堀利宏・土居丈朗『日本政治の経済分析』でさらに言及しているので参照されたい。ちなみに、この本は、「年齢別選挙区」を1998年に初めて提言した書でもある。 

 

自民党の「派閥」はなぜ求心力を失ったのか 2017/5
自由民主党(自民党)は結党以来38年間にわたり政権を担い、2度「下野」(野党に転落)したが、2012年に政権復帰。現在は一強状態にある。本格的な政権交代の荒波を乗り越えた結果、その強靭さは以前より増しているようにも見える。
拙著でも指摘しているが、私たちは新聞やテレビ、あるいはインターネットなどを通じて、自民党に関するかなりの量の情報を得ている。ところが、そのほとんどは政局にかかわるもの。どうしても断片的な性格を免れない。派閥、総裁選挙、政策決定プロセス、国政選挙、友好団体、地方組織と個人後援会など、分析する観点は多様だ。
その1つとして、自民党の現状を正確に理解するために知っておきたいテーマが、自民党における「派閥」の存在だ。
一般的にいって派閥とは、政党の内部に存在し、その主導権をめぐって競合する集団を意味する。豊富な政治的資源や影響力を持つ領袖がメンバーに対して保護と便益を与える代わりに、メンバーが領袖に対して支持や助力を提供する。重要な機能は、1総裁選挙での候補者の擁立と支援、2国政選挙の候補者擁立と支援、3政治資金の調達と提供、4政府・国会・党のポスト配分の4つである。
かつて派閥は自民党政治の代名詞だったが、現在は求心力を失ってしまっている。この10年余りで無派閥議員は増加。1980年代でも1割程度はいたが、近年は3割前後にまで達している。
減退する派閥の資金力
現在、派閥が求心力を失っている大きな理由は、資金力の減退にある。豊富な政治資金がなければ、メンバーに対して選挙の際、あるいは日常的に十分な援助をすることができないし、メンバー相互の親睦を深める機会も貧弱なものになってしまう。手狭な事務所で我慢しなければならず、職員の数も削減を余儀なくされる。それどころか、派閥の活動にあたって、メンバーに負担を強いる機会も増える。いまや派閥に加入することは、必ずしも金銭的に魅力的ではなくなった。
もっとも、派閥の全盛期である1980年代半ばでも、国会議員は所属派閥に政治資金を全面的に依存していたわけではない。大臣経験者は原則として自前の資金調達を求められたし、若手議員でも派閥からの資金援助は多くとも収入の1〜2割にすぎなかった。それゆえ派閥の役割は、直接的な資金援助よりも、むしろ一種の信用供与、すなわちパーティ券の販売や企業献金の開拓などで使用できる派閥の資金ネットワークへのアクセス権の提供にあったといわれる。
とはいえ、その当時、派閥は夏(6月)に氷代、冬(12月)にモチ代として年2回、それぞれ200万〜400万円をメンバーに配っていた。党からも氷代およびモチ代が幹事長の手渡しで配布されたが、ほぼ同額あるいは若干少ない200万〜300万円であった。また、国政選挙の際には、党が公認料として全員に1000万円ずつ供給したが、派閥も最低でも同額の資金援助を行っていたという。そのほか、派閥の幹部からの個別的な資金提供も、一定程度存在していた。
現在の政治資金を正確に把握することは極めて困難であるが、平成研究会、宏池会(こうちかい)、清和会といった派閥の政治団体の2015年の政治資金収支報告書によると、氷代とモチ代はそれぞれ50万〜100万円であり、その前年を見ると、総選挙の際の資金援助は100万〜200万円である。これは各派閥の関係者に行ったインタビューの内容とも符合している。派閥からメンバーへの資金援助が、少なくとも1980年代に比べると、大きく減少していることは疑いない。
所属する派閥への支出について見ると、会費は一律に月額5万円、年額でいうと60万円だ。また、派閥が開催する政治資金パーティ券の販売も求められる。ある派閥では、当選1回は50万円、2回以上は100万円、閣僚経験者は200万円が努力目標であり、それを超える分については寄付金として還付するというインセンティブを設けているという。当選1回で100万円、副大臣が130万円というところもあれば、おおむね200万〜300万円、最高ランクで700万円という派閥もあると聞く。
総じて見るならば、派閥との政治資金のやり取りは、若手議員で収支が若干のプラス、もしくは均衡、中堅・有力議員になると負担のほうが多くなるようだ。少なくとも政治資金上、派閥への加入に大きなメリットがあるとはいえない。たとえば、武井俊輔衆議院議員は、こう語っている。「私は理念や伝統に魅(ひ)かれて宏池会に入っているのであって、カネだけで言ったら、ほぼトントンというのが実感です。だから入会しない人もいるのだと思う。入らないと資金が回らないのなら、みんな派閥に入りますよ」。
派閥の政治団体の収支報告書を見ると、春季に開催する政治資金パーティに全面的に依存していることがわかる。2015年の清和会の収入2億5073万円の70.7%、平成研の収入1億4233万円の76.1%、宏池会の収入1億9416万円の75.3%が、パーティ収入である(繰越金を除く)。1枚2万円のパーティ券を政治資金収支報告書に記載される20万円を超えて購入する企業や団体は少なく、派閥は収入源の確保に四苦八苦している。
政治資金制度改革のインパクト
派閥の集金力の減退の主たる原因は、政治改革にある。細川護煕政権の下で1994年、政党本位の政治を目指して、小選挙区制の導入を柱とする選挙制度改革が行われるとともに、政治資金制度改革が実施された。
内容は多岐にわたるが、重要なポイントの第1は、国家財政から政党に資金援助を行う政党助成制度の導入である。国会議員5人以上といった要件を満たす政党に対して、国民1人当たり250円、総額約309億円を、議員数と得票数に応じて配分する制度であった。当初、当該政党の前年の収入総額の3分の2が交付額の上限として設定されていたが、翌年の政党助成法の改正で「3分の2条項」は撤廃された。共産党を除く各政党は政党交付金への依存を深め、その配分権を有する党執行部の権力が増大した。
第2は、政党(およびその政治資金団体)以外への企業・団体献金の禁止である。その結果、派閥がつくっていた政治団体は、企業・団体献金を受け取ることができなくなり、大きな打撃を被った。例外的に政治家個人の資金管理団体は、5年間に限って年間50万円以内の企業・団体献金が認められたが、これも1999年の政治資金規正法の改正で禁止された。政党支部を通じて政治家個人が企業・団体献金を受け取る抜け穴もあるが、派閥の資金集めには大きな足かせとなった。
第3は、政治資金の透明化である。政党・政治資金団体以外の政治団体への献金の公開基準が、それまでの年間100万円超から5万円超へと引き下げられた。政治資金パーティについても、同一の者による同一のパーティ券の購入の公開基準が100万円超から20万円超へと変更された。子会社や複数の政治団体を用いるといった抜け穴はあるが、企業・団体はさまざまな理由から名前を公表されることを嫌うし、これを口実に購入額を限定しようとするため、派閥にとって大きな制約となっている。
実際、各派閥の集金力は、1994年の政治改革を境に急激に減少した。1980年代後半には年間20億円を超えることもあった派閥の収入総額は、5億円を超えることがなくなった。もちろん、1991年のバブル崩壊後に平成不況が長期化したことや、1993年の自民党の下野なども、無視しえない要因として作用したはずである。ただ、政治資金制度改革を抜きにして、1990年代半ばの派閥の集金力の低下、その後の低迷を説明することはできない。
派閥の資金力の衰えの背景として、もう1つ注目すべきは、自民党から各派閥への資金配分の消滅である。ほとんど知られていないが、1990年の総選挙対策として、当時の小沢一郎幹事長が実施したことをきっかけに、党から派閥への資金援助が始まり、1992年には総額で約31億円、1993年には約40億円が所属議員数に応じて派閥に渡された。政権からの転落などを受けて1994年には4億5000万円にとどまったが、その後も党から派閥への資金援助が継続した。
1994年の政治改革で政党助成制度が設けられたが、その資金が派閥に回れば、政党本位の政治は有名無実になる。しかし、自民党から各派閥への資金配分は、小泉純一郎内閣の際に大きく削減され、再度の下野を受けて2010年に最終的に廃止された。自民党は派閥経由をやめ、その分を所属議員への直接交付に切り替えたのである。このことは派閥が衰退した結果であるとともに、それを促進する原因にもなった。政治資金の面でも、自民党は派閥連合政党から脱却してきたといえる。
歴史をもう少しひもとけば、1980年代半ばに最盛期を迎えた自民党の派閥政治は、その後、衰退していくことになる。その最大のきっかけとなったのが、1988年に発覚し、世論の強い批判を浴びたリクルート事件であった。
政治改革と派閥数の増加
中選挙区制の下、同士討ちを余儀なくされる自民党の候補者は、党の組織や政策に頼った選挙運動を展開できないので、個人後援会を作り、「党中党」たる派閥に庇護を求め、利益誘導政治に走る。それが金権腐敗の根源である以上、政治家の倫理を問うよりも、中選挙区制を廃止して、小選挙区制を導入しなければならない。リクルート事件を契機として、このような認識が党内外で高まり、小選挙区制の導入を中核とする政治改革の動きが開始された。
なかでも自民党幹事長を務めた小沢は、単なる腐敗防止を超えて、政治的リーダーシップの強化という観点から政治改革の必要性を説いた。すなわち、中選挙区制ゆえに、自民党は派閥連合政党にとどまっており、総裁の権力が制約されている。しかも、1980年代に入って総主流派体制が生まれ、派閥間の競争も失われてしまった。したがって、小選挙区制を導入することで、政権交代の可能性を高め、政治的競争性を取り戻すとともに、党首を中心とする執行部の権力を強化し、政党本位の政治を実現しなければならない。
こうした目的を持つ政治改革は、小沢ら羽田派などが自民党から離れ、細川を首相とする非自民連立政権が樹立されることで、1994年に実現した。ほかにも中選挙区制を単記制から連記制に手直しする案や、小選挙区比例代表併用制や連用制などが唱えられたが、最終的に導入されたのは、小選挙区300、比例代表200の小選挙区比例代表並立制であった。比例代表との並立制といっても小選挙区制を中心とするものであり、2000年には比例代表の定数が20削減され、小選挙区制としての性格が一層強められた。
中選挙区制が廃止されたことで、派閥は変化を余儀なくされた。最も目に見えやすい変化は、派閥数の増加である。1970年代末に自民党の派閥の数がほぼ5つに集約されたのは、総裁予備選挙の実施に加え、1つの選挙区から3〜5人の議員を選出する中選挙区制と関係していた。中選挙区制の下、自民党の公認候補は最大で5人になるが、互いに競合するため、別々の派閥に所属する。そして、選挙区レベルの5人の候補者の競合は、総裁選挙を媒介として、全国レベルで三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘を領袖とする5大派閥への収斂を生み出したのである。
しかし、1996年に小選挙区比例代表並立制の下で初めて総選挙が実施されて以降、新たな派閥の結成が進んだ。1998年から翌年にかけて、政策科学研究所(旧渡辺派)を離脱した山崎拓グループが近未来政治研究会(近未来研)、宏池会(宮沢派)から分かれた河野洋平グループが大勇会、清和会(三塚派)を脱退した亀井静香グループが旧渡辺派の残留組と合流して志帥会をそれぞれ結成した。これらの派閥は、その後も消滅せず、派閥の数が7に増加した。2000年には「加藤の乱」の結果、宏池会がさらに2つに分裂した。
その後も中選挙区制の廃止に伴う派閥の求心力の減退が進行する。2005年の小泉首相による郵政選挙を契機に無派閥議員が急速に増加した。さらに、2015年には、石破茂を領袖とする水月会が、無派閥議員を集めて結成された。既存の派閥の分裂ではなく、まったく新たな派閥が生まれたのは、1979年に中川一郎率いる自由革新同友会が結成されて以来のことであった。他の派閥との重複加入を認めて派閥を名乗っていない有隣会を除いても、現在、8つの派閥が乱立している。
派閥選挙の後退
派閥数の増加や無派閥議員の増大にみられる派閥の求心力の低下は、中選挙区制から小選挙区制に変わった結果、同士討ちがなくなり、派閥が衆議院議員選挙に関与する度合いを減少させたことを一因としている。中選挙区制の下で、同士討ちを余儀なくされる候補者は、同一選挙区に所属議員がいない派閥に支援を求め、他方、派閥も内部の結束を乱さないため、メンバーがいない選挙区に候補者を擁立し、総裁選挙に向けて勢力を拡張しようと努めた。自民党の衆議院議員選挙は、派閥選挙だったのである。
派閥の候補者に対する支援の第1は、党の公認の獲得であった。公示前には派閥の助力を得て後援会づくりが進められる。公示後も無所属候補に派閥が実質的な援助を与えることは可能であり、当選すれば自民党の追加公認という道も開かれていた。しかし、公認候補になると、選挙資金の援助や友好団体の応援といった便宜が党から与えられるし、非公認になれば、派閥としても党則上、公然と支援することが難しくなる。だからこそ、かつて派閥は公示の直前、党の公認の獲得をめぐって争ったのである。
ところが、現在では、候補者が党の公認を取り付けるうえで、派閥が役割を果たすことはほとんどない。小選挙区比例代表並立制の導入後も10年ほどは、候補者間の調整がつかず、1人が小選挙区、もう1人が比例代表に単独で立候補し、次の選挙で入れ替わるコスタリカ方式がかなり残っていた。しかし、コスタリカ方式の解消が進むと、候補者が別々の派閥の支援を受けて公認を争うことが、めったになくなった。その結果、派閥という要素は、党の公認の決定に際して重要性を失っていった。
そのことは、公認の決定プロセスの変化にも示される。自民党本部の選対関係者によると、2000年代の半ばまでは、各派閥が選挙対策小委員会に委員を送り出しており、選挙対策本部で公認候補を決める際には、そこで事前に派閥間の調整が行われ、了承するという手続きが踏まれていた。いまでも多くの派閥が選挙対策委員会の副委員長にメンバーを送り込んでいるが、かつてのような派閥間の調整メカニズムはなくなり、選対副委員長の役割も派閥の代表から選対委員長の補佐に変化してきているという。
党の公認なくして当選することが困難に
他方、小選挙区制の導入により、各候補者にとって党の公認は決定的に重要化した。当選に必要な得票率が中選挙区制よりも上昇したため、党の公認なくして当選することが困難になったからである。また、中選挙区制下のように、無所属で立候補したうえで党の公認候補を破って当選し、追加公認を得るという道もほぼ失われた。その結果、党執行部が持つ公認権は強化され、「加藤の乱」や郵政選挙の際には、造反を抑え込むうえで大きな効果を発揮した。なお、拘束名簿式の比例代表制も、党執行部の公認権を強くする。
中選挙区制での派閥の候補者に対する支援の第2は、選挙運動への応援である。各派閥はそれぞれ独自に選対を設置し、知名度が高い幹部やメンバーを応援弁士として派遣したり、衆議院議員選挙であれば参議院議員、参議院議員選挙であれば衆議院議員の秘書を手伝いのために送り込んだりした。応援弁士は、選挙前にも国政報告会などの際に派遣されるが、浮動票の獲得とともに、陣営を引き締める効果を持つ。派閥は、接戦の選挙区に重点的に支援を行うことで、自派のメンバーを増やそうとした。
現在でも、選挙に際して派閥選対が設置される。ところが、各派閥の関係者は一様に、応援弁士の派遣について、派閥も行っているとはいえ、党本部が中心的な役割を果たすようになったと語る。かつては派閥が芸能人を応援で送り込むこともあったが、いまではほとんど聞かれなくなった。秘書の派遣も少なくなっている。このように派閥の活動量が低下した大きな原因は、資金力の減少にある。
派閥の候補者に対する支援の第3は、資金面での援助であるが、これも同じく重要性を低下させている。総じて、国政選挙で派閥の役割が後退していることは間違いない。  
衆院選の基礎知識 2017/10
衆議院の定員は?
衆議院に現在の選挙制度「小選挙区比例代表並立制」が導入されたのは平成6年。当初は、定員が1の小選挙区を全国で300設置し、さらに全国を11のブロックに分けて行われる比例代表で200人を選出しました。
その後、いわゆる1票の格差の是正を目指して、これまで3回の定員の見直しが行われ、ことしの公職選挙法の改正で、小選挙区は全国で289となったほか、比例代表の定員も全国で176となりました。このうち小選挙区で区割りが見直されたのは合わせて97に上り、これまでで最も大きな規模の見直しとなりました。
この結果、今回の衆議院選挙で選ばれる議員の数は465となり、戦後、最も少なくなります。
ポイントとなる議席数は
衆議院の定員が削減され、今回の衆院選で争われる議席数は465。どんな数字がポイントとなるのでしょうか。
233
過半数となる議席数です。安倍首相は「過半数を維持できれば政権を継続する」と表明しており、自民・公明の与党でこの議席数に到達できるかがポイントです。
310
議席の3分の2を意味します。憲法改正の発議には「総議員の3分の2以上」の議席が必要なことから、自民・公明の与党でこの数を占めるのか、あるいは憲法改正に前向きな希望や維新などを加えた勢力でこの数に達するのかが焦点のひとつです。
244,261
前者は「安定多数」、後者は「絶対安定多数」と呼ばれる議席数で、与党側が安定した政権運営行うためにポイントとなる議席数です。与党が安定多数の244議席を占めると、衆議院のすべての常任委員会で委員長を出したうえで、野党側と同数の委員を確保できます。さらに絶対安定多数の261に達すると、すべての常任委員会で委員長を出したうえで、全委員会で過半数の委員を確保できます。
衆院選の仕組み 復活当選とは?
衆議院選挙では、有権者は選挙区と比例代表で、それぞれ投票することができます。
選挙区では、その選挙区に立候補している人の名前を書きます。小選挙区の定員は必ず1人なので、法定得票数を上回った人のうちで最も得票の多かった人が当選となります。
一方の比例代表は、政党や政治団体ごとの得票数に応じて議席が配分される制度です。衆議院の場合、有権者は政党名を書いて投票します。
衆議院では、小選挙区と比例代表のどちらにも立候補する「重複立候補」が認められています。重複立候補した人は、小選挙区で当選できなくても、所属する政党が比例代表で議席を獲得した場合、当選できることがあります。当選者は、事前に政党が選挙管理委員会に提出した名簿の順番で決まりますが、小選挙区と重複立候補した人が複数いる場合は、同じ順位にそれらの候補者を並べることができます。
同じ順位の中から当選者を決める場合は、小選挙区における「惜敗率」という考え方を用います。たとえば、ある政党の名簿1位に3人の候補が並んでいて、その政党の比例代表での獲得議席が1だった場合は、小選挙区の惜敗率が最も高かった人が当選することができます。惜敗率は同じ政党の同じ順位の候補者の中で比較されるため、惜敗率が90%でも当選できない人や、逆に50%でも当選できる人がでてくることがあります。小選挙区で当選できなかった人が当選した場合、「復活当選」と呼ぶこともあります。
これまでの投票率は
現在の選挙制度で行われた衆院選は7回。投票率を比較すると、最も投票率が高かったのは第45回の69.28%、逆に最も低かったのは前回(第47回)の52.66%でした。
前回の投票率を都道府県別にみますと、最も高かったのは島根県の59.24%、最も低かったのは青森県の(※)46.83%でした。その前(第46回)の選挙の投票率と比べると全体では6.66ポイント低下しており、特に福井県、石川県、和歌山県、徳島県では10ポイント以上も低下しました。
投票率の向上を目指して、投票時間の延長や期日前投票の導入などの施策がとられてきましたが、有権者の半数近くが投票に行かなかった前回の投票率は、普通選挙が実施されるようになった戦後の選挙を通じても最低となっていて、今回の選挙で投票率が回復するかも注目されています。
任期は4年 しかしほとんどは解散で選挙に
衆議院議員の任期は4年ですが、戦後、任期満了で選挙が行われたのは昭和51年(第34回)の1度きりで、ほかはすべて、衆議院が解散されたことに伴って総選挙が行われています。
衆議院の解散について、憲法では第7条で「天皇の国事行為」と規定しているほか、第69条で「衆議院で内閣不信任決議案が可決、または内閣信任決議案が否決されたときには、衆議院の解散か内閣総辞職のいずれかを行う」と決められていますが、事実上はその時の総理大臣が解散の判断を行ってきたことから、総理大臣の「専権事項」と呼ばれることもあります。
また、解散は国会の開会中にしか行えませんが、今回のように国会が召集された日に総理大臣が演説をしないまま衆議院を解散したケースは戦後3回ありました。政治家の不祥事が相次ぐ中で行われた佐藤栄作内閣のいわゆる「黒い霧解散」(昭和41年)、衆参同日選挙を実施するために行われた中曽根康弘内閣のいわゆる「死んだふり解散」(昭和61年)、そして、衆議院選挙に小選挙区が導入されたあとに行われた橋本龍太郎内閣のいわゆる「小選挙区解散」(平成8年)です。
18歳や19歳 初めての衆院選
衆議院で総理大臣に選ばれた人が政権を担うことになることから、衆議院選挙は「政権選択選挙」とも呼ばれます。去年の公職選挙法の改正で有権者の年齢が18歳以上に引き下げられたため、今回は18歳や19歳の有権者が投票する初めての衆議院選挙です。
法律では、投票日当日に満18歳であれば投票できるとされていて、今回の衆議院選挙に投票できるのは、1999年(平成11年)10月23日生まれの人までとなります。投票日と同じ10月22日生まれの人まででは?と考えがちですが、法律では誕生日の前日に年齢を1つ加算することが決まっていますので、今回であれば23日生まれの人まで、となるのです。  
 
 
 
 

 

 
 
 

 

●野党消滅 
野党消滅の背景とは? 2013/7
一方、野党議員の仕事とは一体何だろうか?基本的には与党自民党や政府の提出する政策にいちゃもんを付ける事位ではないのか?「そういう事しか出来ない野党に最早存在理由はない」というのが、今回の自民党圧勝が示す民意ではないのか?
参院選が終わって一週間が経過した。そして、世の中は落ち着きを取り戻しつつある。自民党の圧勝は予め予想された事であったが、選挙結果を受けての民主党を筆頭にした野党の混迷、混乱ぶりは、目を覆いたくなるような惨状である。きっと、「馬糞の川流れ」とはこういう状態をいうのであろう。民主党については理解出来る。民主党政権下、失われた3年3か月に対する国民の怒りは今尚深い。それにも拘わらず、民主党凋落のA級戦犯たる鳩山、菅元首相にはその自覚、反省が見受けられず相変わらず愚行を続けている。国民が眉を顰め、愛想を尽かすのも当然である。
とはいえ、折角定着しかけた二大政党制のスキームが振り出しに戻ってしまう事を惜しむ声があるのも今一方の事実である。自民党一党独裁の副作用として、今後傲慢になり暴走するのでは? と心配する声もある。戦前のナチズム、ファシズムを参照し、日本の民主主義の将来に対し警鐘を乱打する識者もいる。ついては、参院選が終わって一週間が経過したこの時期に野党消滅の背景を考えてみる事にした。
「決められない政治」の長いトンネル、「決断出来る政治」への期待
「決められない政治」という言葉が新聞紙上で使われ始めたのは、2008年の春先からと記憶している。前年の参院選で自民党が大敗し、衆参の多数派が異なる捻れ国会になっていたからである。結果、重要な案件が何一つ決まらず、日本の政治は漂流した。問題は、日本が漂流しようがしまいが世界は斟酌してくれない事である。隣国中国は領土的野心を隠そうともせず「尖閣」を舞台に武力を背景とした威嚇と挑発を繰り返した。一方、韓国は日本固有の領土である「竹島」への実効支配を誇示すると共に、日本軍による強制連行の事実が証明されていないにも拘わらず「従軍慰安婦」問題の持ち出しと共に謝罪をしつこく要求している。その背後にあるのは、1965年締結の日韓基本条約で一切の対日請求権を放棄している事実を無視し、これを蒸し返そうとするものである。
日本国民がこの状況に危機感を持ったのは当然の結果であり、同様、「決められない政治」から「決断出来る政治」への刷新を決断するに至ったのも極めて自然である。早いもので、既に二年半以上も前になるが、私はファシズムの影を執筆した。新春早々の時期に不似合いなタイトルでもあるし、余り賛同を得る事はないだろうと予想していた。しかしながら、予想に違い日本を代表する大企業に勤める友人達や、起業し経営者となった友人達から「共鳴」のサインを受け取った。そうなのである!この時点で既に日本国民は「決められない政治」への不満をマグマの如く溜め込み、「決断出来る政治」への転換に日本の将来を見出そうとしていたに違いない。
巧みな自民党の選挙戦略
先ず、自民党は昨年末の衆議院選挙を自民党の政権担当能力を全面に押し出し、民主党の無能さにほとほと愛想を尽かせていた国民の支持を得る事に成功した。結果、選挙に大勝し、政権は民主党から自民党に移行した。第二次安倍政権の誕生である。民主党時代に毀損した対米関係を復活させ、安全保障を確固たるものにし、国民を安心させた。そして、その日米同盟を基軸としてアジア、中東との外交も実りあるものにしている。
一方、アベノミクスと称される経済政策については毀誉褒貶があるものの、株価は野田政権末期の日経平均比較二倍程度に値上がりしている。この実績を背景に今回の参議院選挙では衆参の捻れを解消する事で「決断出来る政治」を確立し、日本が再び世界のリーダーに返り咲く事を訴えたのである。一方、これに対し民主党含め野党は中身の伴う具体的な政策を主張する事が出来なかった。自民党圧勝は選挙日以前に充分予測出来たし、国民の期待が「決断出来る政治」に集約された現状では、野党は政府、政権与党にいちゃもんを付けるだけの、邪魔者、迷惑な存在に過ぎず、消滅に向かう以外の道はないという取り敢えずの結論となる。
問われるのは野党の存在理由
政権与党の議員であれ、野党議員であれ議員報酬に差別はない。住居となる議員宿舎、執務の場となる議員会館の部屋も平等に割り当てられる。しかしながら、担当する業務は与野党で大きく異なる。与党であれば、政府省庁の大臣、副大臣、政務官といった、所謂政務三役に任命される可能性が高い。仮にそうなれば、現実に省庁の舵取りを任される事になる。省庁に役職を得る事が出来なかった場合は「党務」に就く事となる。衆参の捻れが解消し、「決断出来る政治」となった今であれば党で決めた政策は間違いなく実行される事となる。与党議員であれば、仕事は大変かも知れないが、本人の心掛けと頑張り次第では政治のダイナミズムのど真ん中でプレイし続ける事が可能である。当然、「経験」、「実績」、「能力」を積み増して行く事となる。
一方、野党議員の仕事とは一体何だろうか?基本的には与党自民党や政府の提出する政策にいちゃもんを付ける事位ではないのか?より具体的に言えば、国会でのタイミングの良い野次、テレビ受けする気の利いたコメント、更には、昔、菅元首相が厚労省大臣の時カイワレ大根をむしゃむしゃ食べた様な、テレビカメラの前での一発芸、瞬間芸という事になる。「政策」、「法案」に関与する事がない分この手の「パフォーマンス」でお茶を濁すしかない。高度成長に支えられた55年体制であれば、こういうお遊びも許容されたかも知れないが、「そういう事しか出来ない野党に最早存在理由はない」というのが、今回の自民党圧勝が示す民意ではないのか?
官高政低はこれからも続く
民主党が存亡の危機にある事は衆目の一致する所であろう。しかしながら、一体何が民主党をここまで追い詰めたのか? 党執行部を含め民主党議員は理解出来ていない様に見受けられる。これこそが、民主党が民主党たる所以かも知れないが。選挙に勝つための方便程度で留めておけば問題なかったのであろうが、「政治主導」を身の程知らずに現実に進めてしまった事が原因だと思う。これでは、官僚は面白いはずがなく、臍を曲げ、それなら「民主党の先生方でやって下さい」という話になり、「政策立案」も「法案作成」もちっとも進まず、結果、政治は停滞してしまった。これが、「失われた3年3か月」の本質だと思う。
国会議員の仕事は勿論「政策立案」と「法案作成」である。しかしながら、戦後長きに渡り国政を担って来た自民党はこれらの仕事を官僚に丸投げし、手柄はちゃっかり横取りして来た。勿論、官僚が動かねば政治が止まってしまうので官僚の面子、利益に配慮したのは当然である。国民は民主党による「失われた3年3か月」を通じ、しっかり政治の舞台裏を理解してしまった訳である。「政治主導」が如何に日本では非現実的なのかも理解している。従って、独裁体制を確立した自民党に国民が希望するのは、官僚を上手に使い熟し、政治を正しい方向に進める事である。「政治」は官僚に担がれた御神輿といっても良いかも知れない。仮にそうであれば、軽くて、大人しい方が担ぎ易い。御神輿に野党の座る場所がなくなるのも止むを得ない。
国民は今政治に何を期待しているのか? 野党に何が出来るのか?
確かに難しい質問である。10人に聞けば10通りの回答があるだろう。同様、100人に聞けば100通りの回答という事になる。政治の役目は異なる国民の意見、要望を斟酌し全体最適の政策を立案する事である。私が政府に今何を望むか?は日本の進むべき道とは?で説明の通りである。そして、特筆すべきは末尾の「2013年を財政再建元年とすべきである。自民党議員は既に説明した様に「政策立案」や「法案作成」といった仕事は官僚に丸投げしている。それでは何をしているのか?というと、基本的には「利益誘導」だと思う。「補助金」や「公共事業」の名目で選挙区地元企業に一円でも多く金を落とす。自分を応援してくれる特定の企業や業界に便宜を図る。そして、その見返りとして票を得て来た訳である。「地盤」、「看板」、「鞄」は選挙区地元企業や自分を支援してくれる業界、企業に対し御用聞き業務を熟す事で維持されている訳である。
問題は、政府に最早ばら撒く金がなく、一刻も早く財政規律回帰に舵を切らねばならない日本の財政状況である。従って、政治の目的は従来(55年体制)のバラマキから、国民、業界、地域への負担のお願い、痛みを分かち合う事の説明とお願いに取って代られる。解り易い例を二件参照する。先ずはTPPである。ウルグアイラウンドの時は6兆円強が補助金として国内農業に供与された訳だが、TPPではとてもではないがそんな金額が出るとは思えない。一方、輸入関税だが、米の778%を筆頭に国内農業団体の主張が通るとは同様思えない。結果、政府は国内農業団体に対し少額の補助金で輸入減税をお願いする事になる。一方、読んでいて気持ちが滅入るが生活保護費の引き下げも、貧困層に理解を求めつつ必ず実行せねばならない。
今少しマクロに言えば、一般会計予算で歳出金額が突出する「社会保障費」と「地方交付税交付金」には何としても大鉈を振るわねばならない。TPPに関連しての国内農業同様、高齢者、地方行政に歳出削減によって生じる痛みを引き受けて貰わねばならない。更には、10%への消費増税を早期に確定し、更なる増税を進めなければならない。消費増税は勿論不人気な政策であり、出来る事なら誰もやりたがらないのは当然である。しかしながら、衆参の捻れを解消した安倍政権は何としてもこれをやり遂げなければならない。さて、政治のミッションが明らかになったとして何か野党に期待出来るだろうか? 私は全く期待していない。何時まで経っても「正義」の仮面を被って、「TPP反対」、「国内農業を守れ」、「生活保護費引き下げ反対」、「高齢者を守れ」、「荒廃する地方」とか、後先を考える事無く、相変わらず無責任に連呼し続けるのだと思う。
結局の所、野党は何の役にも立たず、国民が安倍政権の今後の一挙手一動に眼を光らせ、細くて長い茨の道を財政再建という出口に向かって歩かせていくしかないのだと思う。「二大政党制は現在の日本の財政状況では時期尚早であり、財政再建後のお楽しみに取っておくのが無難だと思う。 

 

民共共闘で民進党は消滅する! 2016/7
共産党に乗っ取られる恐怖
次の参院選は、民進党の存亡をかけた戦いになるのではないか。
夏の参院選で、共産党が香川県を除いて自党の候補を降ろした結果、全野党が推す統一候補を支持する体制が出来上がった。これまで一貫して「共産党」のゼッケンを着けて走っていた同党が、今回はゼッケンはいらないと言い出した思惑は何なのか。
安倍政権の支持率は「新安保法」の成立時に10%ほど下がったが、あとは持ち直して常時、45〜50%の支持を保っている。一方の民進党は旧民主党時代から10%台に届かず、維新が合流したのちも10%台の低調さである。『日経新聞』が5月2日付で報じた世論調査だと、「7月の参院選で投票したい政党」は自民が44%で3月調査から8ポイント上昇。民進党は2ポイント上昇したが15%にとどまった。
6年前、2010年の参院1人区は自民の21勝8敗、3年前は29勝2敗と自民党が圧勝しており、1人区の大勝は比例票に結び付いてくる。共産党の志位和夫委員長はこのままでは3年前、6年前と同じ自民優勢に終わる、ここで捨て身になって歯車を止めなければ永久に政権交代は困難になる、と判断したのだろう。
志位氏は民進党の岡田克也代表に、選挙に向けて「国民連合政府」をつくって共闘すると申し入れた。岡田氏も当初は乗り気を見せたが、党に持ち帰ると強い反発を受けた。その最たる批判が、前原誠司元代表の「シロアリとは組めない」という激烈な言葉だった。
シロアリは建物の土台を食う。共産党と組むといずれ共産党に乗っ取られるという恐怖感は、旧民主党はもちろん、旧社会党ももっていたはずの共通の恐怖感だ。このため、共産党は選挙戦のほとんどすべてを独自で戦ってきた。
当選の見込みのない選挙区でも「共産党」の候補者を立てるから、1回の選挙で合計1億円の供託金を没収されるのが常だった。参院の1選挙区で2万〜9万票を出し、その票を集めて比例で3から5議席を得るというのが共産党の戦略だった。
岡田代表が志位委員長の国民連合政府構想を断ると、志位氏があらためて打った手は「新安保法廃止」の1点だけの合意でいい、というものだった。連立政府をつくって「新安保法」を廃止してから、のちに政策を協議するなどという政府ができるわけがない。共産党がいうほど「新安保法」が悪いのか、という反発も民進党内から出てくるだろう。
共産党の投げかけた影響を見て、志位氏は「野党統一候補を黙って推す」という“無償援助”方式を打ち出した。仮に統一候補方式が成功すると、3年前の選挙で自民党が29勝した選挙区のうち、宮城県では42万票対51万票になって逆転する。栃木県でも37万票対40万票。山梨県でも14万票対23万票になる。山形、新潟、長野、三重も逆転の様相になる。たしかに足し算では逆転だが、「共産党が加わるならオレは反対側に入れる」という票も相当に出るだろう。このため共産党はいっさい表に顔を出さない、といっている。実際に前面に出て運動するのは共産党が操る学生団体シールズなど。この芝居はうまくいくのか。
自社対立の時代、共産党は社会党にしがみついていた。社会党が自民党の側に歩み寄るのを防ぐために、事あるごとに政策共闘を唱えた。時に共産党の了承なしに事を運べば、社会党が堕落したように見えたものだ。
その社会党は村山富市委員長時代に「社民党」と改名したが、衆院議員は最盛期の144議席から2議席に落ちた。今回、参院の改選は2人だが、ゼロに落ちる可能性がある。社会党は共産党に密着して左派を吸収された感がある。右派は自民党に叩き潰されて党は潰滅、残党は民主党に吸収された。
政治がうまくいかない元凶は連立政権だ
いま起こっている政界の様相は、かつての自社対立が自公対民共と形を変えて再現されているようだ。本質は自公対民共の新型55年体制の再現と見てよい。
自民党は今回の参院選で3年前の51に6議席上積みして57議席を取れば、非改選組と合わせて122議席になる。自民にとっては参院で過半数を握ることになり、政策の心棒を公明に振り回されなくて済むようになる。
新安保法では、集団的自衛権の権利があるだけでなく「行使」もできるとした。自衛権に「独自」と「集団」があるのは国際常識。集団的自衛権があれば行使できるのは当然だ。国連憲章にも書いてある。アジアの現状を見れば1年前と現在では様変わりで、よくぞ新安保法を成立させておいたものだと思う。ところが1年前、与党の公明党は新安保法に徹底して背を向けた。防衛や財政、税制について、30議席の政党が300議席の大与党の鼻づらを引き回したのでは、国民が大政党を選んだ意味がない。自民党の悲願は「自民党はどうしてもやりたいことは単独でもできる」力を得ることだ。公明と組んでいるからといって憲法改正が前進するわけではないから、自民単独政権で十分だ。
公明党と連立しているばかりに、新安保関連法に含まれた集団的自衛権行使の三要件などはまったく不可解。不必要な制限を加えすぎた。
イタリアの政治は戦後一貫して連立政権を続けた結果、無責任政治に堕し、救い難い様相になっている。時に連立の組み合わせさえ決定できず、大統領が議員でもない30代の学者に内閣を丸投げしている始末だ。私は1960年代にローマに駐在して以来、イタリア政治をフォローしているが、政治がうまくいかない元凶は連立政権だと断言していい。失政に責任を取る政党がないのが問題なのである。
イタリアで冷戦終了まで政権を担当してきたのはキリスト教民主党、社会党、民社党、共和党などで、議席の51%を押さえていた。これは共産党を閣外に締め出すためで、共和党は3%程度の議席しかないのに「入閣の条件」として「共和党の首相を出すこと」と言い出し、結局、共和党首相が実現したことがある。3%の議席しかない党が言い出せることは高が知れているし、失敗しても閣内から共和党を追い出すわけにはいかない。51%のワクが壊れてしまうからだ。
われわれは自公政権を普通の現象として見ているが、連立にはつねに欠点、弱点があることを見逃さないほうがいい。
自公に対立して民進・共産の軸が浮上してきた。小選挙区制度は二大政党制を指向する制度だが、日本では約4割の議席に比例制が導入されたため、小政党が残ることになった。比例制を残したのは公明、共産をいきなりゼロにするわけにはいかないという政治配慮が働いたからだ。日本の小選挙区比例代表並立制も時に連立政権を余儀なくされるが、失敗作というつもりはまったくない。与野党の緩衝材としての機能を発揮することがあるからだ。
日本社会党がこの新選挙制度導入とともに消滅したのは、常時、社共共闘を続けてシロアリに食われてしまったからだというほかない。
60年代末、ローマで「社会主義インターナショナル」の大会があり、日本からは社会党と民社党が招聘された。大会が終わったあと議長(オーストリア人)が記者席に来て「日本人記者か」と念を押し、「日本では社会党が共産党と共闘しているそうだが、本当か」と尋ねる。「本当だ」と答えたところ「本国に帰って、社会党に共産党と組むことは社会主義インターの原則に反する。除名することになる、と伝えてくれ」というのだ。
前原氏のシロアリ論はまさに、国際常識だった。民進党はそのシロアリと結んで、旧社会党の轍を踏もうとしているように思える。社会主義インターが「共産党との共闘を禁じていた」真意を当時の日本人は知らなかった。各国の共産党は、ソ連(現ロシア)から国際共産主義(コミンテルン)の綱領とカネをもらってスタートした暗い歴史がある。
“結社”から“政党”に変身したイタリア共産党
日本では、徳田球一氏がソ連から綱領とカネをもらってコミンテルン日本支部を設立した。要するにソ連の共産党の「日本支部」だったわけだ。のちに議長となる野坂参三氏は、ソ連に同志を密告したことが判明して日本共産党を除名された。共産党としてはソ連との関係がバレたから除名せざるをえなかったのだろう。
イタリアでは共産党はソ連から、民社党はアメリカからカネが注ぎ込まれているといわれていた。社会主義インターが共産党排除を鮮明にしていたのは、欧州では共産党はソ連のヒモ付きという常識が定着していたからだ。
イタリア政界の連立体制は50年ごろから冷戦が終わるまで続いた。この間、イタリア共産党は30〜33%の議席を維持した。連立政権の目的は、第二党に躍進した共産党を絶対に政権に入れないとの一点にあった。イタリア共産党はソ連とは別の「独自の道」を強調したが、歴代代表はロシアに行って夏季休暇を過ごしていた。“ソ連との仲”を疑われるのは当然だった。
ところが89年にベルリンの壁が壊され、91年には米ソ冷戦が終結する。こういう事態を迎えると、共産党排除の連立を続ける意味がなくなる。連立政党は政権を共有しているあいだにラジオ局の分配から公社、公団の利権を分け合うことまでやりたい放題。腐敗は極に達していた。日本なら、金権腐敗の田中角栄政権が40年も続いた状況だった。ちなみに冷戦後、政界再編が行なわれるが、戦後を背負った光栄ある「キリスト教民主党」は雲散霧消してしまう。
イタリア共産党は冷戦の終焉を予感して、ベルリンの壁が壊されるころ「共産党」の看板を変えて「左翼民主党」と名を変える。これは共産党と名乗っているかぎりはソ連との暗い過去を清算できないからだ。何十年もお預けにされた政権に就きたい、と党全体が熱望したのだろう。党名変更とともに共産党の“原理”ともいわれた党首独裁もやめ、党首を党員投票で選ぶ革命的変革を行なった。続いて民主集中制という党独自の独裁方式をやめた。さらに政策は党員の多数決で決めることになった。一言でいうと“結社”から“政党”に変身したのである。
この点、日本共産党は政党を名乗っているが実態は「古い共産党」そのものだ。宮本顕治時代、日本共産党が“開かれた党”になるというので、立川公会堂の大会に取材に行ったことがある。あらゆる議案に対する賛否は最右端に座った代議員が署名簿を左端の席まで回して採決する。むき出しで回すのだから、「反対」と書いたら誰が書いたかひと目でわかる。これを民主集中制というが、世間の常識では“強要”とか“独裁”というのではないか。
イタリア共産党は共産党の原理を捨てて、結社から政党に踏み出し、天下を獲った。
志位委員長が党名を変えない理由
イタリアは、それまで上下両院とも選挙は比例代表制で行なわれていた。この結果、小党でも議席を取るから政党数は50を超えていた。冷戦が終わってイタリアがすぐ着手したのが選挙制度の改正である。共産党に天下を獲られても困ることはない。政権の交代こそが政治を活性化させるという共通認識で、1993年に日本もイタリアも選挙制度改革に乗り出した。
両国が採ったのが小選挙区比例代表並立制。同じ時期に私は選挙制度審議会に参画していて、イタリアから視察団が来たというので話をしたのだが、相手の認識や制度が日本で検討中のものとまったく同じだったのには驚いた。腐敗を脱するには政権交代が不可欠。そのためには二大政党を指向する小選挙区制度がベスト。双方がまったく同じ考えだった。
イタリアでは94年、新制度による総選挙が行なわれ、シルヴィオ・ベルルスコーニ氏率いる右派が政権を獲ったが、汚職で1年で潰れ、ランベルト・ディーニ氏率いる非政治家内閣が引き継ぎ、96年には早くも2回目の選挙をすることになった。これに備えて左翼民主党(旧共産党)が考案したのが「オリーブの木」方式である。
これは左派系の8政党が集まって「オリーブの木」を結成、勝った場合は政権に参加するというものだ。96年選挙では戦術が見事に実を結んで「オリーブの木」が政権を獲った。第一党である左翼民主党書記長のマッシモ・ダレマは「旧共産党系」が前面に立たないほうが支持されると見て、経済学者で旧キリスト教民主党系のロマーノ・プローディ氏を首相に担いだ。政権が2年たったところで首相はダレマに代わる。旧共産党系は代人を立てて政権を獲り、その直後に素手で政権を握った格好だった。
ところが左翼民主党と名乗ると旧共産党系の人脈が薄まって、民主集中制時代のような統制が取れなくなる。経歴や系統不明の人物が集合してきて左翼民主党は完全に変質してしまう。そこで左翼民主党は98年、解散し名称を「左翼民主主義者」と変えた。旧共産党が党名を変更して誕生した左翼民主党は7年間で命脈が尽き、かつての共産党とは似ても似つかぬ左派集団になる。イタリアのケースではっきりしたのは、共産党が民主集中制の原理を外すと、いずれはタダの政党になってしまうことだ。
イタリアの政界事情について、日本共産党内にも専門家がいる。志位委員長は、政権を獲るつもりなら党名を「変えたらどうか」としばしばいわれてきた。志位氏がつねに「変えない」と答えてきたのは、変えればいずれ“赤の他人”に党を乗っ取られるとわかっているからなのだろう。
こういう裏事情を知ってか知らずか、小沢一郎氏は全野党を糾合しようとしてオリーブの木方式を提唱している。目下のところ民進、共産、社民、生活の四党の集結までこぎ着けたが、民進党は小沢氏の主導を拒否している。民主党時代、230議席の政党を60議席台に落とした主犯が野党再編の主役に戻ることはありえないだろう。
いまの民進党では永久に連合に隷属する
共産党は3年前、2013年の参院選で、比例で515万票(得票率9・7%)を集め、選挙区3、比例5の8議席を獲得した。今回、志位委員長が掲げた目標は「比例代表850万票、得票率15%以上」というものだ。共産党が躍進しつつあることは間違いないが、この党はどの党をかじって太りつつあるのか。
すでに減ってしまったのは社民党で、参院2、衆院2議席まで落ちた。党内に宿命のような左右対立を抱えて自滅していったようなものだ。今回も吉田忠智党首が民進党との合併を提唱して、党内からも民進党からも拒絶された。あえて自滅の道を選択しているかのごとくである。共産党が新たな同志を増やそうとすれば、民進党の左派に狙いをつけるしかない。
じつは民進党の弱点は、民主党時代から党内に左右対立を抱えていることだった。対立の主軸は「安保問題」で、最左翼は「平和は憲法9条があるだけで守れる」という信者たち。右派は自民党保守派と変わらない。前原誠司元代表、細野豪志元政調会長、長島昭久元防衛副大臣らは基本的に「新安保法」に賛成だったのではないか。
党内に旧社民党系がいるかぎり、対立の種は消えるはずがなく、党の一体感は保たれない。旧社会党系が少数とはいえ党内に隠然たる勢力を保っていられるのは、彼らが連合から支持されているからだ。
かつて前原代表は党の三原則の一つとして「連合から若干の距離を置く」と宣言して、大反発を招いた。以来、民主党内では連合批判はタブー視されている。連合は選挙のたびに紐付き候補を立て、今回は12人。こういう業界代表が党内に存在するのは日本政界の特質だ。イタリアにも産業別組合があるが、支持政党はそれぞれ別だ。いまの姿では民進党は永久に連合に隷属することになる。
共産党も“共産党系組合”を抱えているが、組合に党が振り回されることはない。
参院選の共産党の戦術は、選挙区は香川県と複数区、あとは比例区で稼ぐというもの。目標どおりに850万票を取れば、3年前の選挙区3、比例5の8議席は獲得するだろう。最近の地方選挙でも、共産党は宮城県議選では議席を4から8に倍増させた。
それにしても選挙区で候補者を全部降ろす、という戦術は民進党に麻薬のように効いてくるだろう。これまでは負けるとわかっても、存在感を示すために立候補させるというのが共産党の基本だった。今回は選挙区を全部降ろすというのである。その戦術転換の動機は何なのか。それは政界再編の大きな流れを見ているからではないのか。
民進党が政権政党並みに大きくなり、かつての民主党政権並みになると、かじることが困難になる。民進党は選挙区に2万〜9万人の隠れ共産党員の票があると思うと、共産党と喧嘩したり、ことさら対立しなくなるのではないか。自民党議員が3万人の創価学会票に支えられているのと同じだ。
他党や組合の支持は、個人票が少ない候補者ほど影響を与える。
かつて民主党は連合の力を恐れて盾つかない結果、連合に牛耳られることになった。自民党と公明党はまったく思想の違う政党で、とくに国防問題をめぐる対立は絶えない。公明党の反論は、その路線では「婦人部がもたない」というのが常だ。婦人部は公明路線を左右するほど大きな勢力をもっているが、国防を考えるにあたって議論の中心は「恐ろしい」とか「周辺国はどう思うか」といった思惑でしかない。
自民党のなかにも公明党と付き合って「防衛は大丈夫か」という声が多いが、公明批判はタブーなのである。
民共連立路線は、共産党の側に損をする部分は何もない。自公政権の支持率はそこそこ高いから、残りを民共で分け取りするかたちになるはずだ。通常、政党が合併するとロケットのような発射熱を発するものだが、民進党は珍しく冷めている。
橋下徹と民進党保守派の合体論
民進党が再起して政権を獲るにふさわしい政党になるきっかけは次の参院選だろう。自民党の議席が伸びて、民共の側がどのような配分になるかが、将来判断のポイントだ。共産党が議席を増やすか、得票数が目標の850万票に達すれば、志位戦術は大成功となる。
この場合、民進党は現有議席を守った程度では大敗。55年体制を清算する決心で党を変革しなければ、社民党、民主党の轍を踏むだろう。連合こそ社会党、社民党を食い潰し、民主党をかじってきた元凶だと見定めるべきだ。
民共共闘のキャッチフレーズは「新安保法の廃止」だが、共産党の自衛隊観は「自衛隊は違憲だが自衛戦争はする」という。こんないい加減な政党があるか。自衛隊と憲法について悩んだことはまったくないのだ。一方の民進党は民主党時代から安保政策に悩み抜き、党内で大喧嘩もやってきた。こういう場合、悩みがなく、教養のない側が強い。社会主義インターが民社党はOKだが、社会党はダメと峻拒してきた理由も、共産党と結ぶ社会党は共産陣営に属すると分類、断定してきたからだ。
岡田代表は民共共存を続けても共産は政権党にはなれず、いずれは共産は民進の肥やしになると思っているのだろう。これに対して保守派は、共産と縁を切ったほうがまとまりのよい政党になり、いずれ政権を展望することになると一段、先を見ているようだ。
国民の政治常識のなかから共産党無害論は出てこない。国際共産主義の歴史があり、社会の基本である自衛隊の格付けが不明だからだ。憲法改正時、全き非武装論を説く吉田茂首相に対して野坂参三氏(共産党議長)は「国防軍のない国家などありえない」と食い下がった。これが政治の常識であって、現実には自衛隊をもつに至った。共産党は「違憲の自衛隊」と片付けて、一方で新安保関連法廃止で野党を結集しようという。オリーブの木並みに政権を獲得し、新安保法を廃止したあと、さて「われわれは何をやるのか」と相談するのは、さながら“革命”の手法だ。オリーブの木に参画した政党は皆、それぞれの政策を掲げ、新政権は共通の政策から実行に着手した。
共産党に担がれた民進党が政権党に成長するとはとうてい考えられない。かといって、この民共路線で民進党が衆参両院の選挙区で共産党から229万の票をもらうのが常習となれば、当選第一主義に陥るだろう。かつての社共共闘はいつの間にか共産党のみが生き残った。
民共共闘が定着すれば民進党の消滅ということになるのは必至だ。当初、岡田代表は疑うことなく共産党の支持申し入れを喜んでいた。党内の反発に驚いていた風情だが、岡田氏には共産党恐怖症がないようだ。
一般国民は55年体制時代の社共対立がどうなったか、民共体制が55年体制の再来だと悟っているだろう。かといって自民党がさらに太る余地はない。自民党ではない保守党、違った保守党を待望するだろう。橋下徹氏(前大阪市長)が起こした「維新」がブームとなったのは、維新を新しい保守と見たからだ。この待望論はまったく消滅していない。安倍晋三氏の総裁任期が終わるころには、橋下待望論が噴き出してくるのではないか。そのときは民進党の保守派との合体論が飛び出してくるはずだ。 

 

衆院選前に野党がたった1日で消滅 2017/10
間近に迫った衆院選を、小説家・高村薫さんはどう見るのか。インタビューで聞いた。

今回の総選挙をメディアは3極が争う構図と報じていますが、違います。小池百合子代表が自民との連立に言及した時点で、希望は完全に「第2自民党」になった。選挙協力する維新は、元々官邸と極めて近い関係にある。自公プラス希望・維新は右派、そして、瓦解した民進から希望に合流しなかった立憲民主は枝野幸男代表を除き明確に左派です。中道がない2極構図になった。私も含めて有権者の概ね半分は、政治的には穏健な中道のはずですが、その人たちが票を投じる先がない。
小池さんはとことん権力ゲームが性に合っているのでしょう。いろんな政党を渡り歩いて権力ゲームの中に手を突っ込んで、機敏に先端に躍り出てきた。一方で、政治は自分のステージを上げるための道具であって、ポジションをつかんだ後に具体的に何をしようという信念は感じられない。原発ゼロなのに再稼働OKとか、花粉症をゼロにするとか選挙公約も意味不明です。都知事就任後も、五輪施設の見直しや、築地市場移転問題では築地も豊洲も生かすと言ってみたり、掲げた公約は中途半端。極めつきは、築地と豊洲併存の検討記録が残っていないことを、公約でもある情報公開方針と矛盾すると追及されると、政策決定者たる自分は人工知能だから文書が不存在なのだと言い募った。
私が有権者の政治意識で気になるのは、すぐに忘れてしまうことです。昨夏の都知事選で大きく下がった自民党の支持率は、9月には持ち直した。森友・加計問題も、野党が求める臨時国会召集の要求を2カ月放置し、ようやく召集したと思ったら冒頭解散。この間、これからは丁寧に説明すると頭を下げた安倍晋三首相は、結局それもしなかったのに、支持率が40%台に回復してしまう。
私は一有権者として政治家の重大な発言はわりに覚えています。だから小池さんが核武装も検討に値すると発言したことも、防衛大臣時代に喜々として自民党の安保観を代弁していたことも、靖国神社に参拝を続けてきたことも覚えている。最近とても驚いたのは、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送らなかったことです。タカ派で知られた石原慎太郎氏でさえ毎年してきたし、歴代都知事は全員が行ってきたことです。
有権者で今の生活に大満足という人がいるでしょうか。好景気の実感は全くないし、非正規雇用者は特に長時間労働を強いられているし、大金かけて塾に行き倒さないといい学校に進めないような教育格差の拡大。富の再分配がきちんと行われず、経済政策も日銀の金融政策任せ。新エネルギー政策を本気で推進したらすごい産業構造の改革が起こるはずなのに、グズグズと原子力になし崩しに戻す。沖縄に強いてきた米軍基地負担問題だって、本来は返還から総括して経緯を理解したうえで議論しなければいけないのに、争点にすらなっていない。暮らしも社会も全て政治のせいで傷んでいるのに、有権者が「不透明だね」という情緒的な疑問で終わらせている。
私が選挙権を得て四十数年になりますが、今回は間違いなく最低の選挙です。仮にどんな結果が出ても、改憲勢力の大連立でしょう。かつて派閥の均衡のうえにハト派からタカ派までが共存し、長期政権を築いた自民党はマシだったんだなと、振り返ればしみじみと思います。
小選挙区制がその派閥政治を壊し、風頼みで選挙結果が左右され、本来政治家の資質のない人が当選しては問題を起こす繰り返し。揚げ句の果てに5年前まで政権政党だった野党第1党が、たった一日で消滅するマンガみたいなこと、まともな国では起きませんよ。行政府の長である首相が自分を立法府の長と平気で間違えたり、捜査機関も裁判所も政府にベッタリのこの国は、そもそも三権分立が機能していない。有権者はもっと怒らなきゃいけないんですよ。 

 

野党はなぜ弱い? 2018/4
財務省の事務次官のセクハラ報道問題、森友学園や加計学園をめぐる問題、自衛隊の日報問題など、野党にとっては、「攻めどころ満載」な状況が続いています。2009年の「歴史的な政権交代」から、まもなく9年。「安倍1強」とも言われる政治状況のもと、野党は「政権を退陣に追い込む」最大のチャンスが訪れていると意気込んでいます。しかし、政府与党に決定的な一手を打ち込めるかというと、そうとも言えないのが現状です。それはなぜか。一方で、こうした現状を打開するため、ばらばらになった野党勢力をもう一度まとめようという動きも出ています。果たして実を結ぶのか。探ってみました。
黒い霧解散!?
「通常国会が終わるタイミングで、疑惑の払拭を図るための『黒い霧解散』のような可能性が高まってきた」。4月17日の記者会見で、希望の党の玉木代表が語った政局観です。
昭和41年、さまざまな政治問題が相次ぐ中、当時の佐藤栄作内閣が行った、いわゆる「黒い霧解散」をあげて、安倍総理大臣が、局面の打開を図るため、6月20日の通常国会の会期末までに衆議院の解散・総選挙に踏み切るのではないかという見立てです。去年の衆議院選挙で、自民党が圧勝し「安倍1強」の政治情勢が続く中、私たちが、野党の国会議員から、「解散を迫っていく」という言葉を聞いたのは、財務省の改ざん疑惑が浮上してから間もない3月上旬のことでした。
それ以降、報道のトップにあげられるような問題が相次ぎ、野党の国会議員らは、4月上旬に国会内で集会を開き、「安倍総理大臣には政権を担う資格はない」と、約120人が気勢を上げました。
ただ、国会の勢力図は、自民・公明の与党が、衆議院で3分の2の議席を上回っており、参議院でも過半数を占める一方、野党は、第1党の立憲民主党が60人あまりと、自民党の最大派閥を下回る規模で、数の上では圧倒的に劣勢です。追及の見せ場である、国会の主導権は、自民党に握られているのが現状です。
「ヒアリング」という新戦法
こうした中、野党が1つの武器として活用しているのが、「野党6党合同ヒアリング」です。問題が発覚した省庁の幹部に直接質問をぶつける野党のヒアリングは、去年の衆議院選挙での民進党分裂を受けて、各党ごとに行われることが多かったのですが、「政府を追及するにしても、野党はばらばらだ」といった指摘もありました。そこで、立憲民主党、希望の党、民進党、共産党、自由党、社民党の野党6党が足並みをそろえて、国会の委員会などとは別に政府側をただす舞台を設けました。
「全面テレビ公開で、公開リンチのようにやる」などと発言した厚生労働副大臣が、陳謝し発言を撤回したこともありましたが、それだけ政府内にも、連日、関係省庁が厳しい質問を浴びせられる様子が報じられる状況に危機感もあったのだと思います。合同ヒアリングは、現在、「森友学園」、「加計学園」、「セクハラ」など7つのテーマで行われており、開催回数もすでに70回を超えています。ただ、与党側からは、政府を追及するにしても議事録が残る委員会などで行うのが筋だといった批判や国会審議が形骸化しているといった懸念も出ています。
しかしその内実は…
合同ヒアリングなどでは、足並みを揃えている野党6党ですが、肝心の国会戦術では、野党分裂の影響が出ています。
端的に表れているのが、各委員会での質問時間です。国会は、政党を基盤にした会派の議員数によって運営が行われますが、各委員会での質問時間も、原則、所属議員の数に応じて、各会派に振り分けられます。民進党が3つに分裂したことで、それぞれの持ち時間が短くなってしまい、同じテーマを追及するにしても、質問の重複が見られるなど、連携が不十分ではないかという指摘が聞かれるようになりました。
野党どうしで主導権争い?
背景には、野党間での主導権争い、つまり与党とどう対峙していくかという国会戦術をめぐる激しい駆け引きがあります。去年の衆議院選挙での民進党の分裂によって、衆議院では立憲民主党、参議院では民進党が、それぞれ野党第1党になっています。つまり、野党は衆参で第1党が異なる「ねじれ」が起きているのです。
2枚の写真を見比べてみます。
3月に行われた野党6党の幹事長・書記局長会談です。野党第1党の立憲民主党の福山幹事長が、野党6党を代表する立場で中央に座っています。第2党の希望の党、第3党の民進党の幹事長が、それぞれ両隣に位置しています。
一方、テレビ中継も多く、花形といってもいい参議院予算委員会の理事会です。中央に座る予算委員長の向かって左隣に座るのは、野党側の筆頭理事を務める民進党の川合孝典氏です。予算委員会の開催やテーマなどは、与党と野党の筆頭理事が直接交渉しながら、委員長が判断し、実質的に決められていきます。立憲民主党の蓮舫氏の姿も見えますが、参議院の議席数は民進党、共産党、日本維新の会より少ないため、理事会では、委員長の許可がなければ発言権のない「オブザーバー」として、出席しているに過ぎません。つまり、参議院の予算委員会の攻防は、民進党が中心となっているのです。
さらに言えば、立憲民主党の福山幹事長自身が参議院議員であることに加え、「オブザーバー」の蓮舫氏も発信力があり、参議院を舞台とした与野党の攻防では、メディアの取材でも、両氏が野党を代表して発言する場面が少なくありません。参議院の民進党幹部は、「立憲民主党とは、まともに話をしていないし、その気にもならない」と不満を漏らすなど、身内だった野党内でさや当てが繰り広げられているという実態があるのです。
再び新党構想が
こうした現状を打開しようと、3月から、再び新党構想が加速しています。来年の参議院選挙をにらんだ、最大の支持団体である連合の意向も強く反映されています。民進党が、立憲民主党や希望の党などに新党結成を呼びかけた結果、立憲民主党は拒否しましたが、希望の党の執行部は、「待ってました」とばかりに呼応しました。
野党側が連携して政府・与党を激しく追及しているタイミングで、「水を差す動きだ」といった冷ややかな見方もあるなか、なぜ新党協議を進めるのか、そして、その後の展開はどうなるのか。民進党と希望の党の代表に改めて聞きました。
民進 大塚代表「このタイミングしかない」
「(迷いは)ない。これだけ安倍政権の横暴さや、官僚組織の劣化が明らかになってきた中で、『新しい受け皿となり得る政党が必要ではないか』と決意を示すのは、このタイミングしかない。世の中が静かで、国民の怒りが沸騰していない中で、『受け皿になります』と言って旗を掲げても、『何で今?』と言われる。『役割を終えた』と指摘されざるを得ない政党は店じまいして、新たな芽を出させて頂きたいので、『こういう考え方のもとに参集してくれる人は、どうぞ集まって下さい』ということなんです」
野党の直近の民意は、立憲民主党では?「直近の民意は確かに立憲民主党が相対的優位を得たわけだけど、いわゆる無党派層が40%いるわけですから。かつての民主党のように、政権交代した2009年には、自民党支持層もかなり流れた訳で、そういう風にならないと、大きな政権選択を国民が出来ない。立憲民主党は頑張っていると思うが、その意味では、もう少し寛容さを持ったほうがいい感じがしますね、この半年を見ていると」
希望 玉木代表「貪欲に数を追う」
なぜ新党?「どうしても去年の衆議院選挙の際のわだかまりがあってね。希望の党を立ち上げた皆さんと、もっと言えば、小池百合子さんと民進党から加わった方々で、生まれの違う人たちが混在していることで、なかなか大きな塊になれず、いったん整理していくこともどこかでやらないといけない。当時、小池さんの人気が非常にあった中、結果として『排除の論理』もあり、立憲民主党という政党が新たに生まれ、ひとつにまとめていこうとする動きが、かえって分断を生んでしまったのは、明らかに当初の期待とは違う結果になっている。政治は結果なので、成功しなかった総括をせざるを得ないし、国民に混乱と失望を与えてしまったことは、深く反省し、おわびもしなければいけない」
新党の見据える先は?「2009年の政権交代を経験し、『国民の皆さんが大きな失望を感じたことを受け止めないといけない』という人も多いし、去年の衆議院選挙で希望の党に合流し、『考え方が変節した』と批判を受けた人もたくさんいる。われわれ野党も違いを言い始めると、いくらでも細分化する。それをまとめていくことがどれだけできるのか。『安倍政権より、よりよい政権が作れるんだ』、『そのために何としても政権を奪取するんだ』と、いい意味での執着、貪欲(どんよく)さが必要。『数合わせはだめだ』と言うが、民主主義は過半数を取った者がものを決めていいというルールの以上は、数を追わないといけない。貪欲に」
野党はどこへ向かうのか?
この原稿を執筆しているさなか、大塚・玉木両代表は、安全保障やエネルギー政策などの基本政策で合意した上で、新党の名称は、「国民民主党」とすることを発表しました。そして、今後新党を速やかに発足させるため、それぞれの党内手続きを進めることにしています。
1.4+0.3=?
4月のNHKの世論調査での民進党と希望の党の支持率です。「新しい党なのだから、支持率はゼロからでもいい」 両党の執行部からは、強気な意見も聞かれますが、「新党の支持率は、それぞれを足した数字以下になりかねない」と自虐的な声もささやかれています。
さまざまな問題の噴出による「安倍1強」といわれる政治情勢の変化は、再び野党再編の動きを誘発させている側面があります。一方で、各種の世論調査を見ると、野党の支持率は上がっておらず、有権者は冷静に現在の情勢を見ているように感じます。大きな勢力を作ることはひとつの手段ですが、「政権批判の受け皿」になれるかどうかは、有権者に期待を寄せていいと思わせる、具体的な日本の将来像を示すことが出来るかにかかっていると思います。 

 

野党共闘に未来はあるか? 安倍政府は政党政治崩壊の産物 2019/2
消滅政党乗り越える力こそ
衆参同時解散を自民党がちらつかせたり、慌てたように野党が合従連衡をくり広げたり、永田町界隈がにわかにざわついている。春の統一地方選を経て7月には参院選が控えるなかで、弱体化が著しい野党に助けられる形で自公政府は胡座をかき、一方の「多弱」の側も支持率ゼロコンマ数パーセント同士が存在感をアピールするために合併してみたり、何ともしれない様相を呈している。「安倍一強」などといわれてきた国会の体たらくについて、巷で批判世論は鬱積している。しかし、いざ選挙になると受け皿になり得る政党が見当たらない−−。この選択肢の乏しさが強烈な政治不信とも相まって低投票率となり、もっけの幸いで自公が勝ち抜けるパターンが常態化している。政党政治が窒息しているといっても過言でない状況について、記者座談会で分析した。

A 目下、衆参同時解散を自民党が臭わせ、それに対して野党側がドタバタしている印象だ。国民民主党と小沢一郎率いる自由党が合併の動きを見せ、そこに維新の代表だった橋下徹を担ぎ上げる可能性が取り沙汰されたり、はたまた立憲民主党の枝野と小沢(自由党)の確執で野党共闘も一枚岩でないとか、共産を排除するかしないか等等、生き残り戦略を巡って各党ともに必死な様子が伝わってくる。
この野党共闘こそが安倍政治を覆す唯一無二の方法なのだという調子で、とくに野党の支持者界隈では口にする人も多いわけだが、本当にそうだろうか? もともと支持基盤がスカスカの消滅政党が安倍批判でダンゴになったところで、果たしてどれだけ有権者を組織する実力をもっているのか甚だ疑問だ。政治が全般として劣化しているもとで、手の問題として目先のみを考えるのではなく、もっと根本的な問題を真面目に考えないといけない。
B NHKが出した直近の政党支持率調査を見てみると、自民党37・1%、立憲民主党5・7%、公明党3・3%、共産党3・1%、維新1・2%、国民民主党0・6%、社民党0・4%、自由党0・2%、特になし41・5%なのだそうだ。このなかで国民民主と自由党が合併しても、その支持率の合計はわずか0・8%に過ぎない。いわゆる野党をすべて合計しても自公には及ばないことになる。
政党支持率と議席数は直結したものではないが、まともな対抗勢力として見なされ、有権者から支持を得ている政党がいない現実を認識しなければ始まらない。安倍晋三をはじめとした大臣たちの国会答弁であるとか、モリカケ騒動、統計偽装にいたるまで、いまやデタラメきわまりない政治が跋扈(ばっこ)している。一方でこのような低俗な政治状況を打開していくような気迫を持った、そして実力を備えた政党が存在しないから延延と続いている関係でもある。それほどまでに野党の解体が進んでいる。
C 野党側の弱さについて指摘すると、特に革新系といわれる陣営のなかから「安倍自民党を利するのか」などといって大きな声を出して怒る人もいるが、そんな短絡的な話ではない。この国のなかで自民党を凌駕(りょうが)する政党がいないから安倍政府のようなものがのさばっているというのは、誰の目にも明らかな事実だからだ。野党についても「どうしようもない連中だな…」と思っている有権者が多いから支持が集まらないのだ。消滅政党と化していることにはそれなりの理由があるのに、「支持してくれない有権者がけしからん!」「投票に行かない意識の低い有権者のせいだ!」などといっているようでは救いようがない。
D いざ選挙となれば自民党の実際の支持率、すなわち全有権者のなかで占める得票率は比例で17%、選挙区でも公明の支援を受けてせいぜい25%程度だ。しかし、小選挙区のテクニックで「一強」となって国会を独占する仕組みになっている。選挙に行かない人人が46%と最大勢力を占め、残りの54%のなかで17%なり25%、すなわち一等賞を獲ったら「一強」ができあがる。まず第一に46%が排除されることによって成り立っているし、政治不信に味をしめた構造といってもいい。
この46%、政治不信で遠のいている有権者や国民に働きかけ、心を動かすような政党が出てこない限り、自公政府を吹き飛ばすことはできない。選挙に行く54%の枠組みのなかだけで足し算引き算をしているようなことで、なにが政治かという話だ。政治不信の根源に迫り、この解決も含めて政治運動の未来をこじ開けていかないことには展望にならない。すぐにどうこうなる代物ではないにしても、世界的には下から人と人をつないで、既存の政治構造を揺るがすような動きが顕在化している。日本社会といっても、共通の土壌があるように思えてならない。噴き上がっていないだけだ。
民主党解党が意味すること  誰がやっても米国や大企業の番頭役
B 前回の衆院選は非常に謀略じみたものだった。モリカケ騒動でボロボロだった安倍自民党は支持基盤としても随分崩れた結果になった。しかし、民主党が自爆的な分裂劇をくり広げたのに助けられて議席だけは独占した。あの選挙でやられたのは、野党殲滅作戦だった。にわか仕立ての劇場型で小池百合子率いる希望の党がつくられ、まるで反自民のような装いをしながら民主党の右派がそこに合流し、代表の前原誠司みずからが民主党をぶっ壊す挙に及んだ。地方の民主党陣営などは、希望の党の公認をもらうか立憲民主に行くかで最後まで踏み絵を迫られたり大混乱だった。自民党にとっては「敵なし」の選挙戦みたいなものだ。
C 民主党といっても自民党と同じように対米従属構造のもとで米日独占資本に飼い慣らされた政党だったが、野田佳彦がみずから自民党に大政奉還したり、もともとが第二次安倍政府誕生の生みの親だ。前原や細野による民主党解体もその性根が暴露された過程にすぎない。一方で、切り捨てられそうになった民主党の残党が、世論に突き上げられる形で立憲民主党を結成し、反自民の受け皿として首の皮をつないだ。希望の党の性質はすぐに見透かされて、最近では都民ファーストとか小池百合子など存在感すらないが、あのようにメディアを動員してショック・ドクトリンのような形で扇動していく。自民と希望による保守二大政党で政治的安定をつくり出そうとしたが、不完全燃焼に終わって今に至っている。古くはみんなの党とかもあったが、改革派を売りにした希望や維新のように、反自民もどきのにわか政党を立ち上げて、何が何だかわからないような状況をつくって目先をフェイクしていくのが近年の特徴だ。自民党が崩れそうになると、その受け皿を用意するかのように自称「改革派」政党が出てくる。自民党への批判の強さを支配の側もわかっているのだ。
A その後の元民主党の国会議員たちの漂流っぷりがすごい。国民民主党と自由党といっても、元をたどればみんな民主党所属だった面面の合従連衡であり、今さら何をしているのだろうかと思わせるものがある。民主党(民進党)を解体して希望の党と合流した勢力が国民民主党に名前を変え、一方で枝野らが立憲民主党を立ち上げた。民主、民進、希望、国民民主、立憲民主と名称がグチャグチャに入り乱れ、誰がどっちに行ったのか有権者にとってはわかりにくい。そのなかで、どちらの党にも居場所がなくなった元党首の岡田克也、総理経験者である野田佳彦、維新から合流した江田憲司、安住淳といった面面は無所属の会を宿り木にして、最近になって立憲民主党会派に合流するなどといっている。そして、民主党幹事長だった細野豪志にいたっては、自民党・二階派の特別会員に入会するのだという。呆れるような話だが、政治的理念とか矜持など二の次で、恥ずかし気もなく自民党の軍門に降っていくのだ。
B 裏切り者たちの哀れな末路だ。こうした民主党の残党たちに今さら熱烈な支持や期待が集まるかというと、既に終わった政治家として烙印を押された印象の方が強い。反自民の票によって与党ポストを得ながら、結局のところやることはまったく同じで、消費税増税やTPP、原発再稼働、米軍再編など経団連やアメリカの要求を丸呑みばかりして有権者の期待を裏切った。そして、自民党を喜ばせる形で大政奉還し、みずから党を解党していったのだ。反自民世論があまりにも強いから、財界も容認する形でワンポイント・リリーフの任を引き継いだというだけだった。
A 鳩山の頃は東アジア共同体構想を打ち出したり、辺野古新基地建設でも県外移設を唱えたりしたが、アメリカからの圧力で叩きつぶされた。陸山会事件で小沢も追い出され、菅直人や野田佳彦の番になるとアメリカや財界の番頭役そのものだった。どの政党が政権を握ろうと、首相官邸や官僚機構は対米従属の鎖につながれてアメリカのいいなりであるし、財界に奉仕する道具と化すことを見せつけた。福島事故後の「直ちに影響はありません」(枝野)とか、原発ゼロをアメリカに叱られて反故にしたり、一連の過程で誰を守り誰のために機能している政府なのか性根が暴露された。かつて社会党が村山内閣誕生で自民党にとり込まれて壊滅していったが、似たようなものだ。
正面の自民党が腐敗堕落して力を失っているのと同時に、いわゆる野党といっても同じように信頼を失い、現在のような政治不信をつくり出していることについてメスを入れないわけにはいかない。相互依存、相互浸透によってともに劣化している。そして安倍晋三みたいなものが大きな顔をして、議会制民主主義とか三権分立などそっちのけでも為政者としての地位に居座り続ける。終いには官僚が公文書改ざんや統計偽装まで手を染める始末だ。いまや建前の世界すら投げ捨てて、統治機構全体が腐敗堕落の道を転落しているかのようだ。
C 55年体制では社会党が最大野党として存在感を持っていたが、そのDNAを引き継いだ社民党はいまや国政政党としても消滅の危機に瀕している。連合などを母体とした民主党も社会党の残党たちをとり込む形で構成されたが、これまた解党だ。連合といっても、もともと総評解体のためにつくられた組織で、資本に飼い慣らされた労働貴族どもが労働運動を完全にぶっ潰してしまった。いまや企業組合もいいところだ。この「労働者の組合」を標榜する汚れ勢力が労働運動を抑える桎梏(しっこく)となり、支配の一翼を担っていることについても今日的な特徴がある。労働者階級vs資本家階級などといっていたが、いまや大企業の代弁者に成り下がってしまい、一定の発言権やポジションだけは与えられて飼い慣らされている関係だ。そして、民主党で与党利権にありついて有頂天になっていたのだ。55年体制はいわば右と左の二刀流支配だった。その変質型で、自民vs民主みたいに扱ってきたが、基本的に自民党も民主党も支配の代理人争いをしていただけだ。だから対米従属には抗わず、大企業天国を保障するという点で自民党と政策上も同じものになるのだ。
剥がれ落ちた支配の欺瞞
A 選挙は近いのかもしれない。他に対抗軸がない状況のなかで、野党共闘に命運を託すかのような空気もある。それは反自民で安倍晋三の暴走政治をどうにかしたいという思いの受け皿にはなるかも知れないが、それ以上の力にはなり得ないのも現実だ。消滅政党の寄せ集めに未来はあるのか? どれだけの有権者が期待を抱くのか? だ。既存の政党政治が劣化衰退し、自民党も野党も力を失っているなかで、その限定された選択肢のなかから誰を支持しますか? と問われても半数の有権者がしらけてそっぽを向く。この状態に終止符を打たなければどうしようもない。
C 最近おこなわれた下関市議選が象徴的だったが、41陣営もいながら6割の有権者に無視され、しかし組織票依存なものだから低投票率(当選ラインが下がる)に大喜びして下位当選していく者が後を絶たなかった。国政そっくりではないかというのが実感だ。低投票率依存体質が染みついて、みんなして堕落しているような選挙模様だった。そして議会そのものの質が低下したもとで、現職は軒並み得票を減らして青ざめている。有権者は相当に意識が鋭いし、「投票に行かない有権者は意識が低い」などという代物ではない。むしろ逆で、政党なり候補者の質低下が著しいだけであって、大半の有権者がこうした現状に怒っているのが現実だ。
D 投票率が70〜80%台のような選挙であれば、自民党と公明党の25%など楽勝でたたきのめす選挙になるのに、これらが寝た子を起こさない低投票率選挙の上にあだ花を咲かせている。そして、幻滅している有権者の心を獲得するような力量もなく、そのような政策を打ち出すわけでもない者が、合従連衡に汲汲としている。何と志の低いことかと思う。政党政治の崩壊状況をあらわしている。対米従属のもとで戦後74年が経ったが、主権を投げ出して何事もアメリカに追随してきた政治の末路にも見える。重要な特徴は、右・左を使った支配の欺瞞が剥がれ落ちていることだ。
A 歴代の総理大臣といっても、宗主国であるアメリカに認められなければ続けることができない関係は大方のものが薄薄感じているわけで、現状では何も考えずに暴走する反知性主義者が使いやすいというだけに過ぎない。ポツダム宣言を読んだことがないとか、総理大臣が自分のことを立法府の長と思い込んでいるとか、そんなことは関係ないのだ。そして、自衛隊が米軍の下請として地球の裏側までかり出されたり、東アジアにおいてイスラエルみたいに狂犬的な振る舞いをして隣国と喧嘩腰外交をくり広げたり、アベノミクスによって打ち出の小槌のようにカネをばらまいて多国籍資本を喜ばせたり、ろくでもない状況が続いている。少子化がひどく外国人労働者がいなければ社会が成り立たないというが、国の未来を本気で心配していないから、なるべくしてこのような衰退社会になっているのだ。
B 前回衆院選では謀略じみた選挙構造のなかで、そうはいっても主権者たる国民が自民&希望による国会独占を許さず、さしあたり立憲民主を担ぎ上げて意志を突きつけたような結果だった。枝野とか立憲の善し悪しなど抜きにして、別に打ち合わせした訳でもないのに下から勝手にうねりをつくっていった。政治不信がすさまじいなかで、はけ口を求めているからだ。
既存の政党が力を失い、欺瞞力も失って消滅の過程にあるが、このさい消滅する者は勝手に消滅していけば良い。自民党が安倍晋三のもとで自壊するのも時間の問題だ。それら桎梏となってきた存在が淘汰されたもとで、国民的な力によって本物の政党をつくっていくような努力、全国津津浦浦の力をつないでいくような運動が必要だ。人と人をつないで、政治を動かしていく勢力が登場していく情勢だと思う。
A スペインやイタリア、フランス、アメリカをはじめとした先進国で、新しい政治運動が台頭しているが、どこでも下から地域コミュニティーの力をつないで、大衆そのものが動き出しているのが特徴だ。日本国内に情報がほとんど伝わってこず、なかなかその変化について捉える機会が乏しいが、それらが国境をこえて影響しあいながら力を増している。米ソ二極構造が崩壊し、むき出しの新自由主義政策がくり広げられるなかで、このもとでは生きていけないという極限の矛盾を反映して大衆闘争が広がっている。既存の政治勢力の枠外から台頭しているもので、新しい質を備えたものだ。多国籍資本による横暴なる支配に対抗して、まともに人間が人間として生きていける世の中にせよ、という要求だ。与えられた選択肢に絶望して、幻滅するというのではなく、ならばみんなでつくっていこうという力が強まっている。旧態依然とした支配の枠組みがぐらついているということだ。日本の窒息した政治状況と重ねても、なにか示唆しているものがある。 
 

 

 
 
 

 



2019/5
 
 
 

 

●絶滅危惧種 
絶滅の危機にある生物種のことである。
絶滅危惧種の定義の詳細は「現在の状態をもたらした圧迫要因が引き続き作用するならば、その存続は困難なもの」とされている。
広義には「絶滅のおそれのある種」と呼ばれ、レッドリストで「絶滅危惧I類」「絶滅危惧IA類」「絶滅危惧IB類」カテゴリーのいずれかに分類された生物種のことをいう。
狭義には、IUCNレッドリストのEndangeredカテゴリーの訳語として用いられることもある。また、日本の環境庁(現・環境省)が1991年に発表したレッドリストでは「絶滅危惧種」というカテゴリー名が使用されていた。
絶滅危惧種の選定と保全活動に関する現状と課題
生物のある種が絶滅すること自体は、地球の生命の歴史においては無数に起きてきた事象である。 しかし、人間の経済活動がかつてないほど増大した現代では、人間活動が生物環境に与える影響は無視できないほど大きく、それによる種の絶滅も発生してきている。野生生物の絶滅は、これからの社会のあり方にも深く影響すると考えられている。
このような絶滅を防ぐためには、生息環境の保全や、場合によっては人間の直接介入(保護活動)などが必要とされることがある。
保全活動の前提として、どの種が絶滅の危機にあるのか、どの程度の危機なのか、また危機の原因はなにか、などを知る必要があり、生物種の絶滅危険程度のアセスメントが行われる。
アセスメントは地球規模で行われるものと、国や地域ごとに行われるものがある。 前者では国際自然保護連合 (IUCN) により、アセスメントとレッドリスト作成が行われている。また、後者では日本においては環境省がアセスメントを実施し、定期的にレッドリスト・レッドデータブックを公表している。ただし、クジラ類の哺乳類や海水魚、海棲の軟体動物は水産庁が担当する為、対象外となっている。トドなどの鰭脚類の哺乳類は環境省と水産庁の両方で管理されるが、評価基準が異なる。これらの事実から日本には完全にまとまった形のレッドデータブック及びレッドリストは、いまだに存在しないとする見方もある。
また、1990年代から各都道府県でも学識経験者・地元有識者の意見や生息調査に基づいて、レッドデータブックが作成・刊行されている。種の選定にあたっての現地調査の正確性や客観性に左右される、評価規準と生息実態との乖離・都道府県ごとの評価規準の不統一・レッドリストの定期的な見直し・保全地域の選定・保全計画の策定等について課題が指摘されている。
名称について
「絶滅危惧種」という名称をつけるにあたり、当初は「絶滅危険種」「瀕滅種」などの名称も候補にあがっていた。「惧」の文字が当時常用漢字でなかったことから、「絶滅危ぐ種」との表記も見られた。  
 
 

 

●国内希少野生動植物一覧 (2016年11月現在). 
鳥類
オガサワラオオコウモリ/ マダラシマゲンゴロウ/ コヘラナレン/ シジュウカラガン/ アマミノクロウサギ/ ヨナグニマルバネクワガタ/ ホソバコウシュンシダ/ エトピリカ
爬虫類
オキナワマルバネクワガタ/ アマミデンダ/ ウミガラス/ クロイワトカゲモドキ/ ウケジママルバネクワガタ/ ムニンツツジ/ アマミヤマシギ/ マダラトカゲモドキ/ クスイキボシハナノミ/ ウラジロヒカゲツツジ/ カラフトアオアシシギ/ オビトカゲモドキ/ キムネキボシハナノミ/ ヤドリコケモモ/ コウノトリ/ イヘヤトカゲモドキ/ オガサワラキボシハナノミ/ ヤクシマリンドウ/ トキ/ クメトカゲモドキ/ オガサワラモンハナノミ/ ナガミカズラ/ キンバト/ ミヤコカナヘビ/ ヤンバルテナガコガネ/ シマカコソウ/ アカガシラカラスバト/ キクザトサワヘビ/ イシガキニイニイ/ ヒモスギラン/ ヨナクニカラスバト
両生類
オガサワラシジミ/ ヒメヨウラクヒバ/ オオタカ/ ホルストガエル/ ゴマシジミ本州中部亜種/ ムニンノボタン/ イヌワシ/ オットンガエル/ アサマシジミ北海道亜種/ シモツケコウホネ/ オガサワラノスリ/ ナミエガエル/ ゴイシツバメシジミ/ キバナシュスラン/ オジロワシ/ オキナワイシカワガエル/ ウスイロヒョウモンモドキ/ コウシュンシュスラン/ オオワシ/ アマミイシカワガエル/ ヒョウモンモドキ/ アサヒエビネ/ カンムリワシ/ アベサンショウウオ/ アカハネバッタ/ ホシツルラン/ クマタカ/ アマクササンショウウオ/ オガサワラトンボ/ オオスズムシラン/ シマハヤブサ/ オオスミサンショウウオ/ オガサワラアオイトトンボ/ タカオオオスズムシラン/ ハヤブサ/ ソボサンショウウオ/ ハナダカトンボ/ チョウセンキバナアツモリソウ/ ライチョウ/ ツクバハコネサンショウウオ/ ベッコウトンボ/ ホテイアツモリ/ タンチョウ/ イボイモリ
陸産貝類
レブンアツモリソウ/ ヤンバルクイナ
魚類
アニジマカタマイマイ/ アツモリソウ/ オガサワラカワラヒワ/ アユモドキ/ コガネカタマイマイ/ オキナワセッコク/ ハハジマメグロ/ イタセンパラ/ チチジマカタマイマイ/ ヒメクリソラン/ アカヒゲ/ スイゲンゼニタナゴ/ ヒシカタマイマイ/ コゴメキノエラン/ ホントウアカヒゲ/ ミヤコタナゴ/ ヒメカタマイマイ/ ナンバンカモメラン/ ウスアカヒゲ
昆虫類
フタオビカタマイマイ/ シマホザキラン/ オオセッカ/ オガサワラナガタマムシ/ アナカタマイマイ/ ヒメカクラン/ オオトラツグミ/ シラフオガサワラナガタマムシ/ オトメカタマイマイ/ クニガミトンボソウ/ ヤイロチョウ/ オガサワラムツボシタマムシ父島列島亜種/ カタマイマイ/ イリオモテトンボソウ/ チシマウガラス/ オガサワラムツボシタマムシ母島亜種/ アケボノカタマイマイ/ ハガクレナガミラン/ オーストンオオアカゲラ/ ツヤヒメマルタマムシ/ ヌノメカタマイマイ/ ミソボシラン/ ミユビゲラ/ ツマベニタマムシ父島・母島列島亜種/ キノボリカタマイマイ/ リュウキュウキジノオ/ ノグチゲラ/ オガサワラハンミョウ/ コハクアナカタマイマイ/ タイヨウフウトウカズラ/ アホウドリ/ フサヒゲルリカミキリ/ ミスジカタマイマイ/ コバトベラ/ ワシミミズク/ オガサワラトビイロカミキリ
植物
ハナシノブ/ シマフクロウ/ オガサワラトラカミキリ/ サキシマハブカズラ/ カッコソウ
哺乳類
オガサワラキイロトラカミキリ/ ヒメハブカズラ/ キタダケソウ/ ケナガネズミ/ オガサワラモモブトコバネカミキリ/ マキノシダ/ ヤエヤマヒメウツギ/ オキナワトゲネズミ/ フタモンアメイロカミキリ父島列島亜種/ フササジラン/ ウチダシクロキ/ アマミトゲネズミ/ オガサワライカリモントラカミキリ/ ヒメタニワタリ/ コモチナナバケシダ/ トクノシマトゲネズミ/ ヤシャゲンゴロウ/ ヤクシマタニイヌワラビ/ ナガバウスバシダ/ ツシマヤマネコ/ マルコガタノゲンゴロウ/ シマヤワラシダ/ シマキンレイカ/ イリオモテヤマネコ/ フチトリゲンゴロウ/ ホソバシケチシダ/ ウラジロコムラサキ/ ダイトウオオコウモリ/ シャープゲンゴロウモドキ/ アオイガワラビ/ (175種:亜種含む)  
 
 

 

●世界の絶滅危機種2万5,821種に 2017年版レッドリスト発表される 2017/12 
2017年12月5日、IUCN(国際自然保護連合)は東京で、最新版の「レッドリスト(絶滅のおそれのある野生生物のリスト)」を発表しました。この最新版のリストで、絶滅のおそれが高いとされる3つのランク(CR、EN、VU)に記載された野生生物は、2万5,821種。この中には、野生のイネや、温暖化の影響が心配されるシロフクロウなどが含まれています。WWFジャパンも、東京での発表記者会見にパネリストとして参加。絶滅危機種の増加が、環境問題の深刻化に対する警鐘であることをあらためて訴えました。
絶滅のおそれのある世界の野生生物が2万5,821種に
IUCN(国際自然保護連合)が毎年更新している、絶滅のおそれのある世界の野生生物のリスト「レッドリスト」。
かつては赤い表紙の報告書にまとめられ、出版されていましたが、現在はオンライン上のデータベースに集積されており、誰でも検索することが可能になっています。
今回の最新版のリストでは、9万1,523種の動植物や菌類などを評価し、そのうち2万5,821種を、特に絶滅のおそれの高い「絶滅危機種(CR、EN、VUの3ランク)」として掲載しました。
これは、2016年9月時点の2万3,928種を大幅に上回る結果です。
新たに加えられた野生生物を代表する例としては、野生のイネ(5種)、そして同じく野生のヤムイモ類(17種)があります。
これらの野生植物は、イネやムギ、作物としてのヤムイモなど、世界中で利用され、食を支えている農作物の原種となった植物ですが、少なからぬ種について、野生の状態での存続が危ぶまれています。
危機の主な原因は、森林伐採や都市の拡大、農地や牧場の開発など。
この発表にあたりIUCNは、穀物や野菜の原種にあたるこうした野生の植物が、作物としてのイネやムギ、ヤムイモなどに、遺伝子的な多様性を与え、干ばつや病害虫への抵抗性をもたらす貴重な存在であることを指摘。
また世界経済に年間1兆1500億ドルに相当する価値を提供しており、これが今後さらに拡大していく可能性を訴えました。
注目される「食」そして「地球温暖化」
この「食」をめぐる視点の背景には、地球温暖化による世界的な気候の変動問題がありあます。
今後、干ばつや大雨、塩害など、異常気象による影響さらに増加し、それまでその地域で育っていた作物が育ちにくくなった時、こうした環境変化に対し、より耐性や適応力を持った作物が求められることになります。
そうした作物に新しい可能性を拓くためには、きわめて多様性に富んだ野生の植物に頼るほかありません。
食に通じる野生植物の危機は、そのまま人類の危機にも通じる問題といえます。
地球温暖化については、他にも直接的な影響を受けている野生生物が、今回あらたに絶滅危機種のリストに加えられました。
たとえば、オーストラリア西部に生息する有袋類ニシリングテイルポッサムの一種(Pseudocheirus occidentalis)は、この10年間で個体数が8割も減少し、一気に絶滅の危機が高まりました。原因は、主食である野生のミントが異常乾燥により減少したこと。
この他にも、都市開発や、外来生物のアカギツネ、ノネコなどの影響も受けていると考えられています。
さらに、これまでは絶滅のおそれが指摘されてこなかったシロフクロウも、今回絶滅危機種として「VU(Vulnerable:危急種)」にランクされました。
北極圏に生息するシロフクロウはレミング(ネズミの一種)を主食とする猛禽類ですが、近年の温暖化によってレミングの発生に変化が生じ、減少が指摘されているためです。
レッドリストに掲載される野生生物の中には、今も多く開発や狩猟、採集などによる脅威を受けている種が含まれています。
それに加え、地球温暖化や「食」と関連した視点で、レッドリストが注目され、危機が指摘さるようになったことは、近年の地球環境の悪化とその状況を示す、新しい変化といえるでしょう。
今後も求められる調査研究への支援と保全活動の拡充
これらの他にも、最新版のレッドリストには、従来は絶滅の粋が指摘されてこなかった野生生物が、いくつも加えられることになりました。特に、野生のイネのように、調査がなかなかできなかった分類群の生物までが評価の対象となり、レッドリストが充実したことは、大きな進展です。
今回この植物群、および日本の南西諸島の爬虫類の調査研究を実現させたのは、トヨタ自動車が世界の生物多様性保全活動の一環として行なっている、5年間におよぶIUCNへの支援でした。
同社は、2017年12月5日に東京のフォーリン・プレスセンターで行なわれた、最新版レッドリストの発表記者会見およびパネルディスカッション「THE ROAD AEHAD:トヨタIUCN絶滅危惧種レッドリスト」にもパネリストとして参加。
この記者会見には、国内外数十社のメディアが参加し、IUCN生物多様性保全局長のジェーン・スマート博士および、IUCNレッドリスト部門長のクレイグ・ヒルトンテイラー氏より、レッドリストの更新版について説明がありました。
また、コメンテーターとして参加をされた環境省自然環境計画課長の奥田直久氏、IUCN日本委員会会長の渡辺綱男氏、そしてトヨタ自動車株式会社環境部担当部長の饗場崇夫氏からは、今回のレッドリスト掲載種の増加が、食料安全保障へも大きな脅威になることや、島嶼地域に生息する固有種が、外来生物や外的な環境変化の影響を強く受けやすい問題を指摘しました。
そして、IUCNと同じくトヨタ自動車とパートナーシップを結び、アジアの生物多様性保全プロジェクトに継続的な支援を受けているWWFジャパンの東梅貞義自然保護室長も、パネリストとして登壇。
レッドリストのデータを活用し、WWFジャパンは、水田に住む絶滅の恐れの高い魚類などと農業との共生を目指し、新たな保全活動に着手したことについて発表しました。
どのような種が、どのような問題によって絶滅の恐れに瀕しているのか示すレッドリストのデータは、分析し、活用することで、効果的なプロジェクトの遂行につながります。
さらに、レッドリストのデータが示す課題を共通認識として、企業や消費者、政府など多様な人々と協力し、行動変革を促すことが、資源の持続可能な利用や生態系の保全に重要な要素であることを説明しました。
この記者会見の中で、ヒルトンテイラー氏は、「化石の記録によると現在の種の絶滅の速さが、自然に種が絶滅する速さのおよそ1万倍のスピードである」ことを強調。
野生生物を絶滅に追いやる、大きな脅威である持続可能でない自然資源の利用や、生息環境の破壊、そして気候変動などの問題を、実効性のある対策と行動で解決していくかが重要であることを訴えました。
レッドリストは、悪化の一途をたどり、さまざまな社会問題、経済問題の原因にもなっている、地球規模の環境問題の実情を示す、生命のバロメーターです。国境を越えた協力のもと、調査研究を進めつつ、絶滅危機の回避を目指した取り組みの充実が、求められています。