「令和」 諸話

新元号の第一印象
なんとなく冷たい語感 響き 「令」が「冷」に
「和」を重んじ  「令」 に従う 昔を連想

自由で  暖かい世の中にしましょう
 


「令和」 / 説明和を以て貴しとなす国内報道感想海外報道異論・・・
過去の元号 / 明治大正昭和平成・・・
 

 

説明
●令和
日本で使用される予定の元号。「平成」の次で、日本最初の元号とされる「大化」から数えて248番目の元号となる見込みである。2019年に、皇室典範特例法の規定に基づく今上天皇の退位(4月30日)と皇太子徳仁親王の即位(5月1日)が予定されている。この皇位の継承を受けて、元号法の規定に基づき、5月1日に元号が「平成」から「令和」に改められる予定である。日本の憲政史上で初めて、天皇の退位による皇位の継承に伴って改元が行われる。
『万葉集』の巻五、梅花(うめのはな)の歌三十二首の序文(「梅花の歌三十二首并せて序」)を典拠とする。確認される限りにおいて初めて漢籍ではなく日本の古典から選定された。
グレゴリオ暦(西暦)2019年は、4月30日までが平成31年、5月1日0時からが令和元年になる予定で、2つの元号に跨る年となる。
改元
経緯
2019年(平成31年)4月30日の天皇退位と、翌5月1日の皇太子徳仁親王即位が決定した事による改元で、これは憲政史上初のことである。また、これまでの改元時とは異なり、コンピューター化が進んでおり新元号への対応準備の期間を確保する必要があることから、憲政史上初めて新元号が改元前に公表された。新元号は2019年(平成31年)4月1日に発表された。
元号の発表
2019年(平成31年)4月1日、総理大臣官邸にて「元号に関する懇談会」を9時30分から開催し、参加した有識者たち一人ひとりに意見を聞いた。10時8分に懇談会は約40分で終了した。参加した有識者は山中伸弥、林真理子、宮崎緑、寺田逸郎、榊原定征、鎌田薫、白石興二郎、上田良一、大久保好男である。
その後、10時20分頃から衆議院議長公邸にて衆議院と参議院の正副議長から意見を聴取。
総理大臣官邸にて11時頃から11時15分にかけて全閣僚会議が開催され、臨時閣議を経て、新元号の閣議決定となった。閣議決定後、山本信一郎宮内庁長官が皇居へ、西村泰彦宮内庁次長が東宮御所へ赴き報告を行った。
11時40分、予定より10分程遅れて菅義偉内閣官房長官が記者会見で新元号を発表した。
「 先ほど閣議で元号を改める政令および元号の呼び方に関する内閣告示が閣議決定をされました。新しい元号は、『令和』であります。 — 内閣官房長官 菅義偉 」
と言い、新元号「令和」を墨書した台紙(茂住修身書)を示す事により、発表を行った。
同日12時05分、安倍晋三内閣総理大臣が記者会見を行い、談話を発表した。「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味を込めたと説明。
同日、「元号を改める政令」(平成31年政令第143号)が今上天皇の允裁(いんさい)を受けた後、官報特別号外第9号によって公布され、2019年(令和元年)5月1日から施行される。
併せて、読み方は「れいわ」である旨、告示された(元号の読み方に関する告示・平成31年内閣告示第1号)。
典拠
出典は『万葉集』巻五の「梅花謌卅二首并序(梅花の歌 三十二首、并せて序)」にある一文。以下に、原文、書き下し文、現代日本語訳の一例、および、題詞を表す。
《原文》 于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。
《書き下し文》 時ときに、初春しよしゆんの令月れいげつにして、気き淑よく風かぜ和やはらぎ、梅うめは鏡前きやうぜんの粉こを披ひらき、蘭らんは珮後はいごの香かうを薫かをらす。
《現代日本語訳の一例》 時は初春しょしゅんの令月(※すなわち、何事をするにも良き月、めでたい月)、空気は美しく(※『初春』の『令月』を受けての解釈では、瑞祥ずいしょうの気配に満ち)、風は和やかで、梅は鏡の前の美人が白粉おしろいで装うように花咲き、蘭は身を飾る衣ころもに纏まとう香こうのように薫かおらせる。
《題詞》 梅花歌卅二首[并序] / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 <促>膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇 古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠
確認される限り、「令和」は日本の古典から初めて選定された元号である。ただし、この万葉集巻五、梅花の歌32首の序自体は、王羲之の蘭亭序および文選巻十五記載の張衡による「帰田賦」の句、
於是仲春令月時和氣C原隰鬱茂百草滋榮
を踏まえていることが新日本古典文学大系『萬葉集(一)』(岩波書店)の補注において指摘されている。
上野誠(万葉学者、奈良大学教授)によると、この詩が詠まれたのは、大伴旅人の大宰府の邸宅で催された「梅花の宴」だと言う。それは天平2年1月13日(ユリウス暦730年2月4日)に催され、大宰帥であった旅人の邸宅は、政庁(第二期)の北西にある坂本八幡宮(現・福岡県太宰府市、地図)付近と考えられている。
なお、平成改元時にも日本の古典を出典とする案はあったが、最終案に残らなかったとされている。  
●新元号「令和」は万葉集が出典 「梅花の歌」序文の現代語訳
新元号が「令和」に決まった。出典は、日本最古の歌集「万葉集」の「梅花の歌三十二首の序文」。どんな文章なのか。
<原文>
「 天平二年の正月の十三日に、師老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。
時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。
ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。 」
天平2年(730年)の正月の13日、歌人で武人の大伴旅人(おおとものたびと)の太宰府にある邸宅で開かれた梅花の宴の様子を綴ったものだ。「令」と「和」の文字が入った一文は、「初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる」という意味。季節が春に向かおうとしているのどかで麗らかな様子が描かれている。「新明解」で「令」を引くと、「きまり」や「おきて」以外に「よい」という意味がある。「和」には「おだやか」「のどか」のほかに「調子を合わせる」「日本(式)の」という意味がある。
<現代語訳>
「 天平2年の正月の13日、師老(大伴旅人・おおとものたびと)の邸宅(太宰府)に集まって宴会を行った。
折しも、初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。そればかりか、明け方の山の峰には雲が行き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋をさしかけたようであり、夕方の山洞には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳に閉じこめられながら林に飛び交っている。庭には春に生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋に来た雁が帰って行く。
そこで一同、天を屋根とし、地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって、胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。
ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭の歌を詠むがよい。 」
安倍晋三首相は、新元号「令和」に込めた意味について「悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込めた」と語っている。 
●新元号「令和」 典拠の万葉集序文は「宴席の情景を説明」
二松学舎大学の塩沢一平教授によりますと「令和」の典拠となった万葉集の序文というのは、あとに続く32首が詠まれた背景などを説明した文章です。
今回の序文のあとには当時、太宰府の長官だった大伴旅人の邸宅で開かれた宴席で、集まった32人が詠んだ梅にまつわるうたがつづられています。
典拠された序文は「春の初めの良い月にさわやかな風が柔らかく吹いている。その中で、梅の花が美しい女性が鏡の前でおしろいをつけているかのように白く美しく咲き、宴席は高貴な人が身につける香り袋の香りのように薫っている」という意味だということです。
歌人 岡野弘彦さん「初春のさわやかさ伝えている」
昭和天皇や皇太后さまから和歌の相談にも乗った歌人の岡野弘彦さんによりますと、新元号『令和』の典拠となった万葉集の序文は太宰府に派遣されていた大伴旅人の家で正月に宴会が開かれ、32首のうたが詠まれた時の状況が説明されたものだということです。
序文の内容は「正月の気分を表したもので、『初春の月はすがすがしく、空気は快い。風はやわらかい。梅の花は、鏡の前のおしろいのように白い花を開いていて、らんの花は、後ろにかぐわしい香りを漂わせている』という、初春のさわやかさを伝えている」ということです。
岡野さんは「万葉集のうたは、やまとことばで書かれているが、元号がやまとことばだと、長くなるので、漢文風の文章で書かれた序文から引用したことに今回の特色があるのだと思います」と話しています。
国文学専門家「『蘭亭序』『文選』参考か」
国文学が専門で万葉集を研究している明治大学の山崎健司教授によりますと、新しい元号、「令和」に使われた万葉集の第5巻の序文は中国の六朝時代の政治家で、書家として名高い王羲之の書「蘭亭序(らんていじょ)」や同時代の詩文集の「文選(もんぜん)」を参考にしたのではないかということです。
これについて山崎教授は「当時は中国の書物の言葉を使うことが教養のバロメーターだった。典拠となった作品を取り込むことで、その世界観も取り込むことが表現技法の1つだった」と話しています。
また、山崎教授は典拠となった序文について、「『気淑く(きよく)風和ぎ(かぜやわらぎ)』といったみやびな言葉が多く使われていて全体的に柔らかいイメージだ。これまでの元号は中国の書物が典拠で時代の理想などについて書かれていたが、それとは一線を画する」と話しています。
序文では当時の九州の役人がうたげを催し、集まった32人が梅の花について詠んだ背景などが説明されていますが、「一つのテーマについて個人が多様な考え方を持ちこれからの時代に向き合っていこうというメッセージがくみ取れるのではないか」と話しています。
さらに、「序文は漢籍を参考に作られているが、外来のものを吸収し、独自の新しいものを生み出すというのも、日本的でおもしろいと思う」と話しています。
日本の古典専門家「今回の元号選定 大変意義深い」
日本の古典に詳しい、国学院大学の中村啓信名誉教授は「令の字は画数が少なくよい意味が込められているが、あまりなじみのない言葉なので国民に親しまれて浸透していくことを願う。元号は将来的には広く使われている国語から選ばれるべきだと思うので、今回の選定はその第一歩として大変意義深い」と話していました。  
●【令】れい
T 1 おおせ。命令。ふれ。また、法令・条令。
  2 古代の中国で、一地方の長官。特に郡県制で県の長官をいう。
  3 =ぼうれい(坊令)
  4 =かれい(家令)1
  5 奈良時代、平準署の長官。平準令。
  6 鎌倉時代、政所(まんどころ)の次官。
  7 明治四年から同一九年までの府・県の長官。知事の旧称。県令。
  8 時候。時令。月令。
  9 ⇒りょう(令)
U〔語素〕(立派であるの意から) 人物を表わす語の上につけて、尊敬の気持ちを表わす。「令兄」「令嬢」「令夫人」など。  
【令兄】 他人の兄を敬っていう語。
【令閨】 他人の妻を敬っていう語。令室。
【令月】 めでたい月。すべて物事を行うのによい月。陰暦二月の異称。
【令厳】 (「厳」は厳父の意) 他人の父を敬っていう語。
【令史】 律令制の四等官の最下位。司・監・署等の主典(さかん)。
【令嗣】 他人のあととりを敬っていう語。
【令姉】 他人の姉を敬っていう語。
【令旨】 皇太子ならびに三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出される文書。後には親王・法親王・王・女院などの皇族から出される文書もいう。平安時代以降の令旨の様式は綸旨・御教書と同様に奉書形式で、書留文言に「令旨」の語が含まれることが多い。れいし。
【令慈】 (「慈」は「慈母」の意) 他人の母を敬っていう語。
【令室】 他人の妻を敬っていう語。令夫人。
【令書】 命令の文書。行政官庁が私人に対して、権利を制限したり、義務を課したりする場合に交付する文書。
【令嬢】 貴人の娘、また、他人の娘を敬っていう語。令愛。「社長令嬢」
【令状】 命令を記した書状。逮捕状・勾引状・勾留状・差押状など、裁判官または裁判所が発する書面で、人または物に対する強制処分を内容とするもの。
【令色】 (「令」は善の意、「色」は顔色の意) 人に気に入られるように、顔色をつくろい飾ること。「巧言令色」。容儀を正した顔つき。
【令辰】 (「令」は善の意。「辰」は時の意) めでたい時。すべて物事を行うのによい日。吉辰。
【令す】 〔他サ変〕卆れい・す〔他サ変〕命令する。申しつける。いいつける。*太平記‐二八「懐王堅く令(レイ)すらく」
【令政】 よい政治。善政。(「政」は家政の意) 他人の妻を敬っていう語。令室。令夫人。
【令婿】 他人のむこを敬っていう語。
【令尊】 (「尊」は「尊父」の略) 他人の父を敬っていう語。尊父。令厳。
【令達】 命令を伝達すること。また、その命令。
【令長】 長官。おさ。特に、祭事を主宰する人。中国で、漢の時代、県の長官。
【令堂】 他人の家を敬っていう語。(「堂」は「北堂」の略) 他人の母を敬っていう語。御母堂。令慈。
【令徳】 よい徳。美徳。善行。
【令扶】 家令と家扶。
【令夫人】 貴人の妻を敬っていう語。また、他人の妻を敬っていう語。令閨。令室。
【令聞】 よいきこえ。よい評判。ほまれ。
【令母】 他人の母を敬っていう語。
【令望】 よいほまれ。よい評判。他人の人望を敬っていう語。
【令名】 よい評判。名声。「令名が高い」。よい名。立派な名称。
【令誉】 ほまれ。よい評判。令聞。  
【命令】
1
上位の者から下位の者に言いつけること。その内容。 「―を下す」。国の行政機関が、法律の実施のため、または法律の委任によって、制定するおきて。
2
上位の者が下位の者に対して、あることを行うように言いつけること。また、その内容。「命令を下す」「命令に従う」「部下に命令する」「命令一下」。国の行政機関が制定する法の形式、および、その法の総称。法律を実施するため、または法律の委任によって制定される。政令・総理府令・省令など。「執行命令」。行政庁が特定の人に対して一定の義務を課する具体的な処分。訴訟法上、裁判官がその権限に属する事項について行う裁判。「略式命令」。コンピューターで、コマンドのこと。 

 

和を以て貴しとなす
●和を以て貴しとなす
和を以て貴しとなすとは、何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良いということ。
【注釈】 人々がお互いに仲良く、調和していくことが最も大事なことであるという教え。聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉。『礼記』には「礼は之和を以て貴しと為す」とある。「和」の精神とは、体裁だけ取り繕ったものではなく、自分にも人にも正直に、不満があればお互いにそれをぶつけ合い、理解し合うということが本質ではなかろうか。
【注意】 「和を以て尊しとなす」の表記は間違いではないが、原典に従うならば「尊し」は「貴し」である。
【例文】 「あなたの言い分もわかるが、相手の言い分にも聞き耳を立ててみてはどうか。お互いに認め合う気持ちを持ち、正しいところは正しい、間違いは間違いだと素直に認められるような議論をするべきだ。和を以て貴しとなすだよ」  
●「和を尊ぶ」の本来の意味
「和を尊ぶ」という言葉の本来の意味は、実は「角をたてずにみんな仲良く」ではありません。世の中には誤解している人が多いのですが、「和をもって貴しとなす」の意味は、「立場や価値観の違いは尊重した上で、共通の目標のために力を出し合う」ということなのです。「和」を大切にというのは、「みんなの価値観を全て同じにしよう」ということでは決してありません。
「 君子和而不同、小人同而不和  (孔子)
君子和して同さず 小人は同して和さず <訳> 君子(優れた人間)は協調はするが馴れ合いはしない。小人(くだらない人間)は馴れ合いはするが協調はしない。 」
孔子からですが、よく言われる「和」の本来の意味はこれです。価値観も性格も異なる人たちが、共通のより大きな目的のために協力する。これを「協調」や「調和」と呼びます。
マンガでいうなら、悪役側の城の地下室に閉じ込められた、ルパン三世と銭形警部が、城を脱出するまでに一時的に手を組む、これが「和」のスピリットです。共通の目的のために、立場や価値観の違いを超えて、警官と泥棒が協力する。これが「和」です。カッコイイ話です。ルパン三世が泥棒を辞めて警官になったり、銭形警部が警察をやめて泥棒になったりしたらおかしな世界になります。そういう「全員を同じにしよう」的な発想を「和の精神」と呼ぶことはできません。
聖徳太子の十七条憲法の条文も、実はあの有名な「和を以て貴しとなす」という言葉には続きがあります。以下は原文です。
「 一曰 以和為貴、無忤為宗 人皆有黨、亦少達者 是以或不順君父、乍違于隣里  然上和下睦、諧於論事 則事理自通、何事不成
<現代語訳> 人の和が大事だ、むやみにケンカすんな。人間はどこかカスなもの、まともな奴なんか滅多にいない親と子のケンカ、上司と部下のケンカ、近所のケンカ、いろいろあるよな上のものも下のものも、立場の違いを超えてケンカしないで対話をしていこうじゃないか、そうすれば、なにが本質なのかわかるし、なんでもできるようになるよ。 」
という感じです。実はこの条文は、フリートーキング(自由討議)もしくは立場を超えた対話の重要性という理想を問いているわけです。
たとえば、和というのは社長が自分の意見を独演会するだけの会議などを推奨しているわけではないのです。上のものも下のものも、右も左も活発に意見を交換しようじゃないか。そうすれば三人寄れば文殊の知恵的な感じでいいことがあるよという話になっています。
和の精神の本来の意味は、「みんなと一緒の強制」や「自己主張しない美徳」などでは決してありません。みんなが主張すべきは主張した上で、より大きな目標に向かって集合智を集めるというのが和の精神です。議会制民主主義の原型とでも言うべきグローバルに通用する発想が和の精神の根本なのです。
なお、20世紀の国会ではフリートーキング的な対話はほとんど行われなくなっています(国会中継で見られる議論は事前に官僚が調整済みの脚本を読むことが基本になっています)。だがしかし、日本型民主主義の原点は聖徳太子の十七条憲法(西暦604年)にあったのだ、と考えるとちょっとオモシロイと思います。  
●龢乃國 (わのくに) 〜龢[和]を尊ぶ心を育み、世界へ繋げる〜.
龢とは、聖徳太子が制定した「十七条憲法」の第一条にあることば
「龢(和)を以て貴しとなす(わをもってとうとしとなす)」の文章を記した時に使われた「龢」という字は、七世紀に使われた最古の文字です。文字を分解して見ると、稲があり「食」、屋根があり「場」、色んな人種や宗教の壁を越えて「心」を持って「人」が集うという意味があります。
日本の“個を尊重して、人を思いやる精神”は、私たちの日常にある“自然”や“心の四季と美”として以来脈々と流れています。
それを五感で感じ、表現できる人として「龢乃國」は、さまざまなアプローチを奏でてゆき、永続的で強い繋がりのある心の輪を世界へ紡いでゆきたいと思っております。 
「十七条憲法」の第一条原文
「 以龢為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上龢下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。 」
( 現代語訳 / 和を以て貴しと為し、私意をほしいままにして乱してはならない。人々は皆、私党を結んで相争い、党利に偏して公を忘れ、一族一党の利害を超越して真の利害を知る者は少ない。故に君や親を軽んじ、近隣郷里と相違う。然れども、上の者が和を以て下に接し、下の者が親しみを以て上に接して事を為さんと致せば、自ずから道理に通じて人情にかなうものである。どうして成らざる事があるだろうか。 )
●「和をもって尊しとなす」の本当の意味
「和をもって尊しとなす」は現代のビジネスの場でも格言や座右の銘、あるいは戒めとして紹介されることが多い言葉です。「仲良くするのは尊いことだ」という意味だとされますが、それは間違いで本当の意味は別にあるという意見も耳にします。「和をもって尊しとなす」の言葉について、原文に戻ってその意味を解説します。
「和をもって尊しとなす」とは?
「和をもって尊しとなす」は「わをもってとうとしとなす」または「わをもってたっとしとなす」と読みます。「和を以て貴しと為す」と書くこともあります。
「和をもって尊しとなす」は聖徳太子の十七条憲法の言葉
この言葉は聖徳太子が8世紀に制定したとされる「十七条憲法」の第一条の冒頭にある言葉です。
原文は「日本書紀」にある
原文は「日本書紀」の「十七条憲法」の記述にあります。日本書紀は漢文で書かれているため、十七条憲法も漢文で書かれています。十七条憲法の第一条の原文は次の通りです。
「 一曰。以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨亦少達者、是以、或不順君父乍違于隣里。然、上和下睦諧於論事則事理自通、何事不成。 」 『日本書紀』第二十二巻 推古天皇十二年
「ことわざ」として現代まで伝わったのは、この第一条冒頭の「以和爲貴」の部分となるのです。しかし実際は「以和爲貴、無忤爲宗。」までが対句として一文となり、現代語訳は次の通りです。
「 第一条 おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。 」
四字熟語では「以和為貴」だが続きがある
本来は「以和為貴、無忤為宗」が対句となって一文とすべきですが、ことわざとして伝わった部分は四字熟語として収まりのよい「以和為貴」となっています。
「和をもって尊しとなす」の意味は?
「和をなによりも大切なものとしなさい」という意味
「和をもって尊しとなす」のことわざの意味として一般的に用いられるのは「和をなによりも大切なものとしなさい」という意味です。この部分は「以和為貴」の部分の意味ですが、「無忤為宗」の部分も含めて「和をなによりも大切なものとして、争わないようにしなさい」という意味として表現されることが一般的です。
「和を以て貴しとなし、さからうことなきを宗となす」が一文
以上のことから、「和をもって尊しとなす」は「和を以て貴しとなし、さからうことなきを宗となす」の意味であると考えおくとよいでしょう。
「話し合いをすることが大切」という意味は一条全体の意味
また、「和をもって尊しとなす」は和を大切にしなさいというだけの意味ではなく、わだかまりなく話し合うことことが尊いことだ、という意味であるとする意見があります。実はこの意見も間違いではないといえます。とういうのは、先に挙げた一条の全文で述べられていることが、その意味なのです。第一条は「上も下も和らいで話し合いができれば、何事も成し遂げられないことはない」という言葉で終わっています。
「議論することが大切」という意味は十七条全体の意味
さらに、「和をもって尊しとなす」は「和の心で議論することが大切」という意味だという意見もあります。この意見も間違いではないのです。なぜなら、十七条憲法の十七条目の冒頭に書かれている「夫事不可獨斷、必與衆宜論」の意味が「大事なことは一人で決めず、みんなで議論して決めなさい」という意味であるからです。一条と十七条は対になっています。
「和をもって尊しとなす」は和を尊重する国のありかたを示す言葉
このような内容の十七条憲法とは、官僚や貴族に対しての規範を示し、和と仏教を尊ぶ思想で政治を行うことを宣言したものです。背景に神道・儒教・仏教・道教などさまざまな思想や宗教が習合されています。さらに、「以和為貴」は孔子の『論語』にある「和を貴しと為す」という言葉からの引用であるという説もあります。そのことから「和をもって尊しとなす」にはさまざまな解釈があり、「和」が示す思想的な意味についても議論されることがあります。そういった背景をふまえながらも、「和をもって尊しとなす」が現代まで語り継がれてきた言葉であることに、大きな意味があるといえるでしょう。
まとめ
「和をもって尊しとなす」はその原文が漢文の日本書紀に書かれた十七条憲法の言葉であることや、その憲法が書かれた背景などから、あまりに有名な言葉でありながら、さまざまな解釈がなされることわざでもあります。しかしその言葉の響きに素直に共感し、「和をなによりも大切なものとしなさい」というシンプルで奥の深い意味のことわざとして、末永く語り継がれてゆくことを期待したいと思います。 
●「十七条憲法」 「和の精神」とは何か
「聖徳太子」こと厩戸王により書かれたされる「十七条憲法」あるいは「憲法十七条」を振り返ってみたい(旧漢字は現在用いられている漢字に改めた)。
「一に曰く、和を以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」
この一文はあまりにも有名で、たとえば自由民主党の日本国憲法改正草案の前文に「和を尊び」という文言があるのは、「党内議論」の中で「和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である」という意見があったからである、と「日本国憲法改正草案Q&A(増補版)」にも書かれている。また、産経ニュースにも「和を以て貴しとなす憲法作ろう」という記事が載っている。一方、それに対しては批判的な意見(澤藤統一郎の憲法日記 » 憲法に、「和をもって貴しと為す」と書き込んではならない)もある。「和」を尊ぶことが、「忤ふること無き」、つまり、「上」に対して「下」が逆らってはいけない、という意味である、という解釈から、民主主義を成り立たせる上で大切な批判精神に反するものだ、というものである。
私は、批判的な見解を述べる澤藤氏と同様、護憲の立場の人間ではあるが、「十七条憲法」の「和の精神」については、やや異なる見解を持っている。
「一に曰く、和を以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」だけをいくら読んでも、「和」とは何か、それを「貴し」とするとは何か、「忤ふる」とは何か、ということを解釈することはできない。あまりに漠然とし過ぎているし、主語もないからである(他の条文には、主語がはっきりしているものも、そうでないものもある)。しかし、この「第一条」には続きがある。以下に引用する。
「人皆党有り、また達る者少なし。是を以て、或いは君父に順はず、乍いは隣里に違ふ。然れども、上和ぎ下睦びて、事を論ふことに諧ふときは、事理自づからに通ふ。何事か成らざらむと」
「十七条憲法」は、その17の条文すべて、「○曰→本文→説明」という形で書かれている。つまり、本文に当たる「和を以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」を理解するには、その先にある解説を読まなければ始まらない。大まかに言えば、次のような意味になるだろう。
「人というものには党派があって、賢い人は少ない。そのため、君主や父に従わなかったり、隣近所と争ったりすることがある。しかし、上が和いで、下が睦んで、物事を論じあうことができれば、物事は自ずからうまくいく。できないことなどあろうか」
澤藤氏が述べるように、君主に従わないことに批判的である。そういう意味では、確かに民主主義の憲法の前文にはそぐわないように見える。しかし、解説部分の続きを読めばわかる通り、「十七条憲法」で望まれているのは、「上和ぎ下睦びて、事を論ふ」ということである。何でも上の言うことを聞け、という話ではない。むしろ、「和」「睦」のもとに「論じよう」と言っているのである。
教科書などを読んでも、その「解説」部分が載っておらず、スローガンのような部分だけが載っている。これでは「和」が何なのかを考えることができない。
さて、仮に、本当に厩戸王がこの「憲法」を考えたとすれば、なぜ、そのような内容を冒頭に持ってきたのだろうか。この背景としては、6世紀末の相次ぐ政争を考えなければならないだろう。蘇我馬子を中心とする勢力と、穴穂部王、物部守屋、さらには崇峻天皇といった政敵との激しい殺し合いである。推古天皇の最愛の子である竹田王、舒明天皇の父である押坂彦人大兄王などは、その頃が没年であろうが、『日本書紀』には記されてもいない。何があったのだろうか。次の大王位をめぐって、あるいは仏教の受け入れをめぐって、派閥ごとの争いが激しく行われたことが想像される。(※崇峻朝に天皇号はなかった、推古・舒明朝に天皇号があった可能性は低い、と考えているが、便宜上、天皇と記した)
その反省、そして二度と悲劇を生まない、という決意がこの「憲法」なのだろう。派閥争い、それも武力を用いての争いに明け暮れるのではなく、「和」して「論」じ合えばうまくいくのだ、という発想である。仮に厩戸王が唱えた「和の精神」というものを新憲法に引用したいのであれば、「和」がいかなるものなのか、ということの考察をきちんと行うのはもちろんのこと、そのような背景を踏まえた上で引用するべきである。単に、響きの良い文言を一部切り取って「素晴らしい!」と言うのは、言葉の一部を切り取って「失言だ!」と言うのと似ている。「和」を新憲法で用いるのであれば、その言葉を冒頭に掲げるに至った反省の心や、「和」の先にある「論」の精神まで含めて用いなければならない。 
●「和を以て貴しとなす」
社会に合わせて生きることと、自分の個性を消してしまうことは、同義ではない。
発達障害のある人の思考は、二項対立的です。だから上記の全く別なことを、同義とみなしてしまいます。
社会に合わせて生きることは大切なことです。それぞれに違う者が寄り集まって、仲良く生きるには、譲歩や相互理解は不可欠です。
でも、そのためには、確固たる自我があることが大前提です。信念や感情や情緒、つまり自分らしさをしっかり持っていなければ、社会の空気に流され、自分を見失ってしまいます。
発達障害のある人は、この絶妙なバランスを理解し身に付けるのが、苦手な様です。
さらに追い打ちをかけるように、日本の社会では、和を尊ぶ という本来の意味から逸脱した規範のようなものが蔓延していて、こうした空気感が子どもたちの育ちの芽を摘んでいるように感じます。
周囲に合わせること、集団の調和を乱さないことが、和を尊ぶこととされ、どこか個人の意見が許されない空気感が蔓延しています。異質な発言をすれば、排除の空気が作られる。
そもそも聖徳太子の十七条憲法には、和を以て貴しと為すためには、「言を論う(あげつらう)こと」と書いてあります。つまり人の意見は、さまざまだから、人が集まればきちんと議論をしなさいということが書いてあります。なぜならば、人は徒党を組む傾向にあると、はっきりと書いてあります。多数派が少数派を排除する恐れをきちんと明記してあるのです。だから、自分と違う意見にきちんと耳を傾け、尊重する必要があると言っているのです。これが本来の、和を尊ぶ ということなのです。
決して同調圧力に屈することでも、自分らしさを押し殺すことでもないのです。
和(わ)を尊ぶと読まず、和(やわらぎ)を尊ぶと読めば、幾分本質的な意味に近づけるかもしれません。
社会全体が誤認識している中で、子どもが本質を見失って学んでしまうのは当たり前のことです。それは実に不幸なことです。
集団の調和を乱さないためには、人の顔色をうかがってでしか、自分の意見を持てないのです。
最終的に彼らは、自分自身が何を思っているのかすら分からない状態に陥ってしまいます。
子どもたち(ゆくゆくは大人になっていく)を導くのは大人です。
子どもは社会(大人たち)の影響を受けて育つのです。
社会に合わせて生きることは、社会を構成する一人一人が、自分の意見をしっかりと持ち、他者の意見に耳を傾け、尊重し合うことです。それは違いを恐れないことです。違いと違いが融合した時、新しい何かが生まれるのです。 
●和合
1
仲よくなること。親しみ合うこと。「夫婦和合の道」「家族が和合する」。男女が結ばれること。結婚すること。まぜ合わせること。調合。また、まじり合うこと。「かかる因縁は―するなり」〈愚管抄・三〉
2
うちとけて仲よくすること。 「家内の−することは/花間鶯 鉄腸」。結婚すること。男女が性のいとなみをすること。混ぜ合わせること。 「此を取りて−して父の王に奉る/今昔 2」。
3
二つ以上のものが結合し、とけあうこと。※勝鬘経義疏(611)一乗章「此法身則能与レ理和合、亦為二僧宝一」 〔韓詩外伝‐巻三〕。二つ以上のものを混ぜ合わせること。また、組んで一つにすること。※今昔(1120頃か)二「露許も瞋恚(しんい)を不(おこさ)ざる人の眼及骨髄を取て和合して付ば、王の御病は即ち(いえ)なむと」 〔墨子‐非攻中〕。男女が結婚すること。男女が性のいとなみをすること。※令義解(833)戸「謂。不二以レ礼交一為レ姧也。仮令。初不レ由二主婚一。和合姧通。後由二祖父母等一。已聴二婚娶一」 〔周礼疏‐地官・媒氏〕。うちとけて仲よくなること。また、夫婦が仲睦まじくなること。※明衡往来(11C中か)中末「就中筆是成二仏経書写之功徳一。為二男女和合之用物一」。※御伽草子・酒茶論(古典文庫所収)(室町末)「両ぢんの御大将ぶじにぞ和合したりけり」 〔荀子‐礼論〕。僧が法要の場に参集すること。※醍醐寺新要録(1620)「俊慶法印記云〈略〉但衆和合。欲レ作二何事至一、少し高唱レ式〈略〉享徳弍年〈癸酉〉季秋七日」。「わごうじん(和合神)」の略。〔西湖遊覧志余‐熙朝楽事〕。  
●和して同ぜず
1
和して同ぜずとは、人と協調はするが、道理に外れたようなことや、主体性を失うようなことはしないということ。
【注釈】 『論語・子路』で孔子が「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言ったのに基づく。君子は誰とでも調和するものだが、道理や信念を忘れてまで人に合わせるようなことは決してしないということ。「同ぜず」は「同せず」ともいう。
【出典】 『論語』子路
【注意】 上辺だけ同調する意味で使うのは誤り。誤用例 「納得がいかなくても、ここは自分を殺して仲良く振舞っておくべきだよ。和して同ぜずというだろう」
【類義】 君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
【対義】 同じて和せず
【例文】 「大事な友達であればあるほど、自分の意見ははっきり言いなさい。喧嘩や口論をしろと言っているのではなく、仲が良くても間違いは間違いと、はっきり言えることが大事だ。友達とは、和して同ぜずの関係でいられるように」
2
人と協調していくが、決してむやみに同調しないということで、人とのなごやかな人間関係には心掛けるが、その場かぎりに、無責任に賛成したりしないという意味です。
「論語・子路」のなかに出てくる文言で、「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」の前半部分を取ったものです。後半は、「つまらぬ人間は、やたらに人の意見に賛成するが、真に共感しているのではなく表面だけを合わせているのであり、友好関係は生まれない」ほどの意味でしょう。「付和雷同」(礼記・曲礼上)は「雷が鳴ると、それに応じて反射的に響く音のように、自分の定見もなく是非の判断もなく、賛成する」ということでほとんど同意義です。
「和」というのは、われわれ日本人が大切にしている美徳の一つです。「和気諸々」というのは、「気分のよい、ほんわかした雰囲気」のことであり、ことを荒立てずにうまく調和していくことでしょう。「和議」は「なかなおりの相談」ですから、大へん幅ひろく使える語句といえます。しかし、だれとも友好関係を保ちながら自分の主義主張を曲げないことはなかなか難しいことだと思います。
老子の思想が、融通無碍で自由に流れに従うのに、孔子の方は筋を通して、自分の説を曲げないというやや道徳臭のあることがこの格言のなかにもよく表れています。人間関係をよくすることをすすめながら、自説を曲げてはいけないと戒めているのです。世のなかに「清濁併呑む」ような生き方を実行している人も少なくないのです。こちらの方は、広く、どのような人とでも交際し、受入れるということです。「清濁併せる」は、いいかえれば、正しいものも邪なものも、また善人も悪人も区別しないことで孔子流では受け入れられない態度です。「史記・酷吏伝」に「清濁を制治す」というところからでたものですが、「清濁併呑む」の方はわが国で作られた成語であるとされております。
一般の会話で、「裃を脱いで話しましょう」「まあ、そう固ぐるしいことは言わずに……」「建て前論ですが……」などと、なんとか妥協を引き出そうとするのが、わが国社会の風土であり、パラダイムです。
このような社会的な基盤のなかで協調して暮らして行くためには、大筋で同意できさえすれば、「同ずる」こともやむを得ないといえましょう。倫理、道徳の退廃、ビジネスモラルの低下など、有識者にとっては嘆かわしい世相の中で我々は暮らしています。「節を曲げない」ということはいつの世にも難しいことでしょうが、現代社会でもおなじことがいえます。 
●和し (なごし).
1
なごやかである。穏やかである。「鶏の声など、さまざま―・うきこえたり」〈かげろふ・下〉。柔らかである。「高麗(こま)の紙の膚こまかに―・うなつかしきが」〈源・梅枝〉。
(にこし) やわらかい。荒々しくない。穏やかである。「毛の―・き物、毛の荒き物」〈祝詞・広瀬大忌祭〉。
2
なごやかである。おだやかである。 「にはとりの声などさまざま−・う聞こえたり/蜻蛉 下」。やわらかである。柔軟である。 「高麗こまの紙の、はだこまかに−・うなつかしきが/源氏 梅枝」。
3
穏やかである。和やかである。出典枕草子 日のいとうららかなるに「さばかりなごかりつる海とも見えずかし」[訳] あれほど穏やかであった海とも見えないよ。柔らかそうである。出典源氏物語 梅枝「高麗(こま)の紙の、はだ細かになごう懐かしきが」[訳] 高麗の紙で、きめが細かく柔らかそうで親しみやすい感じなのを。◇「なごう」はウ音便。  

 

国内報道
●「令和」
248番目の元号は「令和」
菅義偉官房長官は、首相官邸で記者会見し、新しい元号は「令和(れいわ)」と発表した。645年の「大化」から数えて、248番目の元号となる。元号を改める政令は、皇太子さまが新天皇に即位する5月1日に施行され、新元号が始まる。天皇退位に伴う改元は憲政史上初で、皇位継承に先立って元号が事前発表されるのも初めて。1989年1月に始まった「平成」は、あと1カ月で幕を閉じる。
典拠は万葉集、初の国書
菅義偉官房長官は首相官邸で記者会見し、新元号「令和(れいわ)」の典拠は「万葉集」と発表した。日本で記された国書に由来する元号は初めて。日本の元号は645年の「大化」以来、出典が確認されている限り、いずれも中国の儒教の経典「四書五経」など漢籍を典拠としてきた。安倍政権の支持基盤である保守派の間には、「古事記」や「日本書紀」など国書に由来した元号を期待する声があった。今回の改元にあたって政府は、国書を専門とする複数の学者にも考案を依頼。元号の原案を選ぶ前の段階の20案程度の中にも、国書に由来する案が含まれることがわかっていた。
発表の瞬間どよめき
東京・渋谷のスクランブル交差点は午前11時半ごろには、すし詰めの状態に。多くの人たちがビルの大型モニターを見つめるなか、新元号が発表された。「え? 発表された?」「れいわ?」。モニターにはすぐに映し出されず、スマートフォンのニュースを見た人たちが声を上げ、どよめきが起こった。
令和「次第に慣れていく?」
東京・渋谷のスクランブル交差点。東京都大田区の会社員、高田優さん(29)はスマートフォンのニュースで新元号を知り、「堅すぎますね。意味が分かりづらい。もっと親しみが持てる元号のほうがよかった。次第に慣れていくんでしょうけど」。平成元年生まれで、「自分が生まれた平成が終わってしまうのは寂しい。あっという間のように感じます」と話した。
「和にこだわりあったかも」
新元号「令和」の「和」について、NHKの特別番組で岩田明子解説委員が「想像ですが」とことわった上で解説。安倍晋三首相が色紙に書を求められた際に「和を以(もっ)て貴しとなす」と書いていると紹介し、「和という文字には、もしかするとこだわりがあったかもしれない」と述べた。
林真理子さん「万葉集ブーム、起こるのでは」
有識者懇談会のメンバーで小説家の林真理子さんは首相官邸で記者団の取材に応じ、新元号「令和」について「私どもの中でも非常に人気が高かったので、決まってうれしく思っている」と述べた。また万葉集が典拠となったことについて「私も作家の一人として、万葉集ブームが起こるんじゃないかと思ってとてもうれしい」と歓迎した。
山中教授「非常に美しい元号」
有識者懇談会のメンバーの山中伸弥・京大教授は首相官邸で記者団の取材に応じ、新元号「令和」について「非常に美しい、きれいな元号という最初の印象を持った」と述べた。「令」が元号に使われるのは初めてで「和」は昭和などに使われたことをあげて、「伝統を重んじると同時に新しいものにチャレンジしていく日本のこれからの姿に非常にぴったりの元号ではないか」と話した。また、情報の保秘のために部屋に入るにあたって携帯電話を預けたことを明かし、「ノーベル賞の選考委員も携帯預けておられるから」と理解を示した。
高千穂峰で新元号を揮毫
初代の神武天皇の生誕の地との伝説が残る宮崎県高原(たかはる)町の高千穂峰(1574メートル)山頂で、新元号「令和」を揮毫(きごう)する催しがあった。県内外から200人余りが登頂し、間近に迫る新時代の到来を祝った。「御代替わり奉祝 高千穂峰登山会」と題する催しは、町民有志が企画。寒波の到来で厳しい寒さの中、幼少期から習字が趣味という町職員の芝田和之さん(42)が横90センチ、長さ2メートルの白い布に筆をふるった。芝田さんはテレビの中継で新元号の文字を見ると太い筆で一気に書き上げた。「めっちゃ緊張しました」と言いつつ、書き上げると笑顔を見せた。
首相が会見「希望や花咲かせる時代に」
安倍晋三首相は正午すぎ、首相官邸で記者会見し、新元号「令和(れいわ)」について「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められている」と述べた。首相は新元号に込めた願いを「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込め、『令和』に決定した」と語った。1989年1月の平成への改元の際は、当時の小渕恵三官房長官が「平成」を発表し、竹下登首相の談話を読み上げた。今回は新元号は前例にならって菅義偉官房長官が発表したが、首相談話は首相自ら発表する方式に変更した。
台湾では「零核に似ている」
台湾のネット上では「令和」の中国語の発音が「零核」に似ていることから、「原発(核)ゼロを意味する」などの反応が掲示板に投稿されている。台湾当局の脱原発政策が社会的論争となっていることが影響しているとみられる。台湾では、地元テレビ局が日本の新元号の発表を生中継や速報で紹介した。
「令和」に改める政令公布
元号を「令和」に改める政令が官報に掲載され、公布された。「令和」が始まる日となる政令の施行日は、皇太子さまが天皇に即位する5月1日。
「令和元年に入社、おめでとう!」
資生堂は1日午後1時から、千葉県浦安市の東京ディズニーリゾートにある劇場で入社式を開いた。魚谷雅彦社長は新入社員851人に向けて、「令和元年、記念すべき年に入社、おめでとう!」と祝辞を述べた。
入江選手「僕は競泳代表初の平成生まれ」
競泳男子背泳ぎの2種目で日本記録を持つ入江陵介選手(29)は翌2日開幕の日本選手権に向けた練習後、「僕は競泳日本代表で初めての平成生まれだった。この先、新しい年号生まれの選手が代表に入るんだと思うと、不思議な感覚。来年は東京五輪。みんなで大きな花を咲かせられるよう、日本選手団一丸となってやっていきたい」。
森喜朗氏「夢と希望実現を」
2020年東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(81)は、この日に着任した職員の前であいさつした。新元号「令和」について「万葉集の一節から元号が定められたということであります。きょう、安倍総理大臣は『夢と希望を持って新しい日本の国を切り開いていくんだ』と、あいさつをしておられました。みなさんが組織委員会にお勤めになられたこの時期に、夢と希望、これを実現をさせて頂きたい」と述べた。
平成最後・令和最初のボール寄贈
日本野球機構(NPB)が「平成最後の試合」のウィニングボールと、「令和最初の試合」の第1球で投手が投げたボールを、野球殿堂博物館に寄贈することを発表。令和第1号本塁打の使用バットとともに、殿堂博物館で展示される予定。セ、パ両リーグの全試合で計12個のボールを収集するが、パは平成最後の日となる4月30日に試合がないため、29日の試合が対象となる。
首相「多くの有識者が令和を支持」
安倍晋三首相がテレビ朝日の番組に出演。「有識者全員の方々から、今回は国書から選ばれるべきだというご意見があり、多くの方々が令和を支持されたとうかがった」と新元号決定の過程を紹介。
自民・萩生田光一氏「違和感あったが…」
BSフジの番組に出演した自民党の萩生田光一幹事長代行は「今上天皇がご在位中に退位されるのは違和感があった。改元の1カ月前に新元号を国民に発表するってどうなるかと思っていた。だが、ちょうど春休みでしかも年度替わりで、桜の花に囲まれた中で国民がわくわくして、希望に胸を膨らませて今日の元号の発表になった」 
●新元号「令和」=出典は「万葉集」
政府は1日午前、「平成」に代わる新たな元号を「令和(れいわ)」と決定した。5月1日の皇太子さまの新天皇即位に合わせて元号が改まる。出典は日本最古の歌集である「万葉集」。元号の典拠が日本古典(国書)となるのは初めて。
菅義偉官房長官が記者会見で発表した。続いて安倍晋三首相も会見して談話を読み上げ、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」と説明。「日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継ぎ、日本人がそれぞれの花を大きく咲かせることができる日本でありたいとの願いを込めた」と語った。
政府によると、万葉集の「梅花(うめのはな)の歌」の「初春令月、気淑風和=初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ」から引用した。考案者は公表しない。首相は「国民に広く受け入れられ、生活に深く根ざすことを願う」と訴えた。新元号は645年の「大化」以来248番目。これまで日本の元号の由来は確認できる限り全て中国古典(漢籍)だった。今回、示された原案は六つで、国書由来と漢籍由来のものがそれぞれ複数示された。
今回は明治以降の憲政史上初めてとなる退位に伴う改元。国民生活への影響を最小限に抑えるとして、改元1カ月前の発表となった。30年余り続いた平成の時代は、4月30日の天皇陛下の退位とともに幕を閉じる。
この日、政府は午前9時半から首相官邸で、ノーベル医学生理学賞受賞の山中伸弥京都大教授や直木賞作家の林真理子氏ら有識者による「元号に関する懇談会」を開き、新元号原案を提示して意見を聴取。この後、国会近くの衆院議長公邸で衆参両院の正副議長からも意見を聴いた。
これを踏まえ、官邸での全閣僚会議で協議し、臨時閣議で新元号を定める政令を決定。政府は直後に宮内庁を通じ、陛下と皇太子さまに伝えた。政令は陛下の署名を受けて公布され、5月1日に施行。同日午前0時に元号が切り替わる。政府は新元号を、承認している195カ国と国際機関に通知した。
元号選定の手順は1989年の平成改元時を基本的に踏襲した。政府は3月14日、国文学、漢文学、日本史学、東洋史学を専門とする学者の中から複数人に新元号の考案を正式に依頼。(1)国民の理想としてふさわしい良い意味を持つ(2)漢字2字(3)書きやすい(4)読みやすい(5)過去の元号や天皇の死後の「おくり名」(追号)として使用されていない(6)俗用されていない−という条件で原案を絞り込んだ。  
●新元号は「令和(れいわ)」。出典は万葉集の「梅花の歌三十二首」
新しい元号が「令和(れいわ)」に決まった。菅義偉官房長官が4月1日、記者会見で発表した。
菅氏によると、新元号の出典は、日本最古の歌集「万葉集」の「梅花(うめのはな)の歌三十二首」。日本の古典に由来する元号は初めて。
新元号選定にあたり、以下の序文から引用したという。
「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す」
安倍晋三首相は談話で、「令和」という元号に込めた意味について、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」と述べた。
『万葉集』を典拠にした理由について、「1200年余り前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります」と説明。
「悠久の歴史と四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄をしっかりと次の時代に引き継いでいく」と語った。
4月30日で平成が終わり、5月1日から「令和」へ
新しい元号は、4月30日の天皇陛下が退位に伴い、新天皇が即位する5月1日午前0時に施行される。
1989年1月8日に始まった平成は、2019年4月30日をもって、30年113日の歴史に幕を閉じることになる。 
●新元号「令和(れいわ)」 出典は万葉集
政府は1日午前、「平成」に代わる新たな元号を「令和(れいわ)」に決定した。各界の有識者による「元号に関する懇談会」のメンバーと衆参両院の正副議長から意見を聴き、全閣僚会議で協議した上で、改元に関する政令を臨時閣議で決定。出典は万葉集。菅義偉官房長官が記者会見で発表した。天皇陛下が政令に署名され、同日中に公布される。新元号は、皇太子さまが新天皇に即位される5月1日午前0時に施行される。4月30日に退位する陛下は「上皇」となる。
今回は、明治以降では初の退位に伴う改元となる。1979年成立の元号法に基づく改元は2度目。システム改修など国民生活への影響を考慮し、新元号を事前に公表することになっていた。
安倍晋三首相も記者会見で談話を発表する。
政府は1日午前9時半過ぎから首相官邸で元号に関する懇談会を開催。複数の新元号案を示し、有識者らから意見を聴いた。その後、午前10時20分ごろから、衆院議長公邸で衆参両院の正副議長から意見を聴取。続いて首相官邸で全閣僚会議を開き、新元号案について協議したうえで1案を選び、新元号を定める政令を臨時閣議で決定した。
新元号選定手続きは、事前の複数案への絞り込みを含め、平成改元時をほぼ踏襲した。
絞り込みに向けては、まず首相が「若干名」の学識者に考案を委嘱。各学識者に対し、意味や典拠を付けた2〜5案の提出を求めた。回収した案は、(1)国民の理想としてふさわしい意味を持つ(2)漢字2字(3)書きやすい(4)読みやすい(5)過去に元号や天皇のおくり名で使用されていない(6)俗用されていない――の6条件に留意して、菅氏が絞り込みの整理を行った。
菅氏は国文学、漢文学、日本史、東洋史を専門とする学識者の中から複数の学識者に3月14日に考案を正式委嘱したことを明らかにしていた。
2016年8月、陛下は退位の意向が強くにじむビデオメッセージを公表。このメッセージを機に政府内や国会で議論が行われ、17年6月に退位を実現する特例法が成立した。同年12月、退位と即位の日程が閣議決定された。
日本の元号は645年の「大化」から始まったとされ、701年の「大宝」以降は1300年以上にわたって途切れることなく続いている。南北朝時代の並立元号も含めると、新元号は248個目の元号となる。元号は「国民の理想としてふさわしい意味を持つ」ことが求められ、典拠を確認できるこれまでの元号は、全て漢籍から引用されている。前回改元時には、平成のほか、「正化」「修文」が最終3案に残っていた。 
●新元号は「令和」、出典は万葉集
政府は1日午前、「平成」に代わる新元号を「令和(れいわ)」と決定した。菅義偉官房長官が記者会見で発表した。
菅氏は、新元号「令和」の出典は万葉集であることを明らかにした。中国ではなく日本の歌集から採用されたのは確認される限り、初めて。
新元号を記した政令は同日中の天皇陛下による署名・公布後、皇太子さまが新天皇に即位される5月1日午前0時に施行される。皇位継承前の公表は憲政史上初めてで、改元に伴う国民生活への影響を最小限にすることを重視した。645年の「大化」から数えて248番目の元号となる。
菅氏は、新元号「令和」について「国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざすよう努める」と述べた。
新元号の考案者については公表しないと説明した。理由について、本人が秘匿を希望している上、公表すれば特定の個人との結び付きが強調されるとした。新元号を除く元号原案についても、数を含めて公表しないと明らかにした。
菅氏の記者会見に続き、安倍晋三首相も正午ごろ記者会見し、新元号の意義を自ら国民に説明。安倍首相は会見で、新元号「令和」について「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ意味が込められている」と述べた。
宮内庁の西村泰彦次長は1日、新元号について天皇陛下には山本信一郎長官から、皇太子さまには西村次長から、それぞれ報告されたと明らかにした。
皇太子さまは「にこやかにお聞き届けいただいた」(西村次長)という。
天皇一代で元号一つを定める「一世一元」制が確立した明治以降は、天皇崩御に伴い改元した。今回は一代限りの譲位を可能とする皇室典範特例法に基づく。政府は譲位が天皇の政治関与を禁じた憲法に抵触しないよう平成改元時の元号選定手続きを原則踏襲した。
1日は菅氏の会見に先立ち、政府が各界有識者の懇談会で複数の原案を示し意見を求めた。原案は国文学、漢文学、日本史学、東洋史学の専門家が考案した候補名から絞り込んだ。衆参両院の正副議長に意見を聴き、全閣僚会議を経て臨時閣議で政令を決定した。

安倍首相は1日、新元号「令和」に関する談話を発表した。首相談話の全文は次の通り。
本日、元号を改める政令を閣議決定いたしました。
新しい元号は「令和」であります。
これは、万葉集にある「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして 気(き)淑(よ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ 梅(うめ)は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」との文言から引用したものであります。そして、この「令和」には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められております。
万葉集は、1200年余り前に編纂(へんさん)された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠(よ)んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。
悠久(ゆうきゅう)の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、「令和」に決定いたしました。
文化を育み、自然の美しさを愛(め)でることができる平和の日々に、心からの感謝の念を抱きながら、希望に満ちあふれた新しい時代を、国民の皆さまとともに切り拓(ひら)いていく。新元号の決定にあたり、その決意を新たにしております。
5月1日に皇太子殿下がご即位され、その日以降、この新しい元号が用いられることとなりますが、国民各位のご理解とご協力を賜りますようお願いいたします。政府としても、ほぼ200年ぶりとなる、歴史的な皇位の継承が恙(つつが)なく行われ、国民こぞって寿(ことほ)ぐことができるよう、その準備に万全を期してまいります。 
●新元号は「令和」(れいわ) 万葉集典拠、国書由来は初
菅義偉官房長官は1日午前11時40分ごろ、首相官邸で記者会見し、新しい元号は「令和(れいわ)」と発表した。典拠は奈良時代に完成した日本に現存する最古の歌集「万葉集」。日本で記された国書に由来する元号は確認できる限り初めてとなる。元号を改める政令は即日公布され、皇太子さまが新天皇に即位する5月1日に施行される。
天皇退位に伴う改元は憲政史上初めて。1989年1月に始まった「平成」は、残り1カ月で幕を閉じる。
万葉集にある歌の序文「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」(書き下し文)から二文字をとった。
新元号は645年の「大化」から数えて、248番目。「大化」から「平成」までは、確認されている限り中国の儒教の経典「四書五経」など漢籍を典拠としており、安倍政権の支持基盤である保守派の間には国書由来の元号を期待する声があった。安倍晋三首相は記者会見して典拠を万葉集とした理由について「我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書だ」と説明した。
元号の選定手続きは1日午前9時ごろから始まった。政府の要領に沿って、菅氏は横畠裕介・内閣法制局長官の意見を聴いたうえで、元号の原案として数案を選定した。午前9時半すぎから、ノーベル賞受賞者の山中伸弥京大教授ら、各界の有識者9人による「元号に関する懇談会」に原案を提示。元号候補とその典拠、意味などについて説明し、メンバーそれぞれから意見を聴いた。
菅氏は午前10時20分ごろから衆院議長公邸で、大島理森衆院議長ら衆参両院の正副議長の意見を聴取。その後、全閣僚会議を開き、新元号を記した元号を改める政令を臨時閣議で決定した。元号を改める政令は天皇陛下の署名・押印、官報掲載を経て、1日中に公布される。憲法は政令の公布について、天皇が内閣の助言と承認の下で行う国事行為の一つと定めている。
新元号の公表に先立ち首相官邸は、宮内庁を通じて天皇陛下と皇太子さまに閣議決定後に新元号を伝達した。政府は前回の改元でも、即位直後の天皇に「平成」を事前伝達している。
新しい元号をめぐって政府は、「平成」が始まって間もない時期から、国文、漢文、日本史、東洋史などの学者に元号の考案を水面下で依頼。今年3月14日付で正式な委嘱手続きをとった。政府は「元号に関する懇談会」に示した原案すべてについて、考案者を記した記録を公文書として残すが、当面は明らかにしない方針だ。
政府は元号について、国民の理想としてふさわしいようなよい意味▽漢字2字▽書きやすい▽読みやすい▽これまでに元号またはおくり名として用いられたものでない▽俗用されているものでない(広く一般に使われていない)――の六つの要件を定めている。
天皇陛下は4月30日に退位。5月1日に皇太子さまが即位し、新元号が始まる。天皇退位に伴う改元は、光格天皇の退位で「文化」から「文政」に改元された1818年以来、約200年ぶり。 
●安倍首相が談話 「令和」国書典拠の理由は
1日、平成にかわる新たな元号は「令和(れいわ)」と発表された。安倍首相は正午すぎ、「令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」などとする談話を発表した。
新しい元号の「令和」は、日本の『万葉集』の「初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」という一節から取られたもの。これまで247ある元号はすべて中国の古典からとられてきたが、今回、初めて、日本の古典から選ばれた。
安倍首相は歴史上初めて国書を典拠とする元号を決定したことについて、「特に万葉集は1200年あまり前の歌集ですが、一般庶民も含め地位や身分に関係なく幅広い人々の歌がおさめられ、その内容も当時の人々の暮らしや息遣いが感じられ、まさにわが国の豊かな国民文化を象徴する国書です。これは世界に誇るべきものであり、我が国の悠久の歴史、薫り高き文化、そして四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄はしっかりと次の世代にも引き継いでいくべきであると考えています」などと述べた。

安倍首相は1日、新しい元号が「令和」に決まったことを受けて、日本テレビの単独インタビューに応じた。新元号の考案を学者に正式に依頼した先月14日以降、「令和」を含む候補について菅官房長官から事前に報告されていたことを明らかにした。
安倍首相「(令和について)最初に「令和」を見たときにはですね、これは梅の花の歌三十ニ首の序文なんですが、あの序文にある厳しい冬を乗り越えて、春の訪れをつげるように梅の花がぱっと咲き誇る、この情景が目に浮かんできました」
安倍首相は最初に「令和」という元号案を見たときの印象をこう語った。
元号の候補は学者から集めた後、菅官房長官のもとで整理され、安倍首相に報告されたという。その際にはワープロ文書の形で示されたという。
安倍首相はまた、1日の一連の選考の中で、元号に関する有識者懇談会では「令和」を推す声が多かったとした一方、その後の全閣僚会議では様々な意見が出たことを明らかにした。
安倍首相「閣僚会議においてはさまざまな意見が出ました。個性豊かな人が多いですからね」
また「令和」の英語表記のイニシャルはRで統一したと明らかにした上で、すでに各国にも伝達したと述べた。 

 

感想
●新元号「令和」に決定 : 識者はこうみる
政府は1日、平成に変わる新たな元号を「令和(れいわ)」にすると発表した。現存する日本最古の歌集「万葉集」からの出典で、日本古典から採用したのは今回が初めて。市場関係者のコメントは以下の通り。
宮廷文化研究家(京都府教育庁文化財保護課)の吉野健一氏
ら行で始まる元号は過去一例しかなく、非常にやさしい音を持つ元号との第一印象だ。また元号で令という漢字は過去に使われたことがなく驚いたが、美しい月という意味の「令月」が出展とのことだ。従来の元号が中国の古典に依拠し、理想の状態や統治のあり方を示していた。これに対して、日本の古典・万葉集から採り、梅が咲いている宴との意味であるのは、非常に日本的だ。
東大史料編纂所教授 山本博文氏
日本の古典から採用するのであれば日本の独自性という意味で万葉集は良かった。従来の元号が政治的な理想や国家的な理想を示していたのに対し、良い感じ、雰囲気を意味する元号である点が新しい。「令」は漢文では「・・・させる」と言った使役動詞であるためこれまで元号に使われなかったが、日本語では「良い」「立派」という意味で、そこを重視したのだろう。
りそな銀行 チーフ・マーケット・ストラテジスト 黒瀬浩一氏
新元号の「令和」となった。「令」に前向きな意味があるということを知らなかった人も多いのではないか。今まで見向きされなかったものでも価値がある、ということを示したとも言える。新元号の選定条件に、1国民の理想としてふさわしい良い意味を持つ、2漢字2字、3書きやすい、4読みやすい、5過去の元号で使われていない、6俗用されていない、の6項目が挙げられていたが、このうち最も大事なのは1だ。「明治」は明るく治める。振り返ると、植民地とならずに文明開化で頑張ったという良いイメージもあるが、続く時代は大いに正す、「大正」となった。逆に言うと、明治時代には相当誤りもあったということの裏返しでもあったと思われる。産業が発展して良い時代に見えても、実は格差が拡大して庶民の不満が蓄積した。それを大いに正す方向が大正デモクラシーだった。この大正デモクラシーは実はポピュリズムと道床で、それが右傾化して「昭和」の時代で戦争に入っていった。戦争に負け、敗戦からの再建でバブル経済が生じ、そして迎えた「平成」。先日、天皇陛下が振り返られたように、近現代において初めて戦争を経験しない時代となったが、金融市場では長らくバブル崩壊の敗戦処理が続き、1人あたり国内総生産(GDP)や日本経済の国際的な地位も落ちた。「令和」には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味があるという。これから新元号と、それが持つ意味を、海外に向けて発信した方がいい。現在、米国をはじめ社会の分裂が深刻化してきているが、日本がどういう時代に向かうのか方向性を示せるからだ。今年、日本では、新天皇即位、G20サミット、アフリカ開発会議、ラグビー・ワールドカップなど国家的イベントが目白押しだ。来年には東京オリンピック・パラリンピックもある。改元とともに、海外へ日本の社会や文化をアピールする場として大いに生かしてもらいたい。
奈良大学文学部教授 上野誠氏
元号は新たな時代に入った。中国を起源とした中国の皇帝制度から生まれた制度が、日本の制度のなかで息づいた。万葉集にある「令月」は、良い月、という意味をもつ。典拠となった万葉集の序文そのものは九州大宰府で生まれた歌で、地域も広い。地方の文化、地方の時代になるということを表したのではないか。良い月に、天気も良く、しかも梅の花が咲き、すべてが素晴らしい、穏やかな時代になってほしいとの願いが込められている。
第一生命経済研究所 首席エコノミスト 熊野英生氏
「令和」は新しい印象。これから間違いなく人口減少社会となるが、小粒でもきらりと光る、厳しい中でも独自性を出していく、という方向性を示したと受け止めている。改元は一時的に需要を創出する効果がありそうだが、持続性があり範囲が広いと見込まれるのは、行事効果と記念日効果だ。皇室行事に併せて日本の歴史や文化が長時間紹介され、国民が歴史や伝統への関心を高めれば、間接的に日本文化を体感しやすい京都・奈良方面への国内旅行需要を喚起する。そうしたニーズを予想し、旅行会社やホテル・飲食店が事業拡大をするかもしれない。また、新元号がスタートするタイミングで結婚、あるいは婚姻届を出すという人が増える効果にも注目している。人生の記念として、シンボリックな行事と自分のイベントを重ねたいという心理が記念日効果を生む。ただ、経済効果はグロスとネットで考えなければならない。例えば10連休は、過去にとれなかった長期休暇を利用し、旅行でもしてみようと多くの消費者に思わせるだろう。旅行やレジャー、飲食やサービスなど特定分野の需要が伸びる可能性がある。一方、そこにお金をかけた分、衣料品や嗜好品など別の消費を削るかもしれない。消費性向がトータルで上がったかが重要だ。
京都産業大学 名誉教授 所功氏
万葉集から採られたのは意外な点もあるが、漢字を使って表現する日本の文化を示している。なかよく、やわらかくという意味であり、21世紀の日本、世界にとって大事な価値を示している。前向きな明るい未来が展望できる良い元号だ。
<社会学者・東洋大研究助手 鈴木洋仁氏>
日本の古典、万葉集から選らんだのは意外だが、初出の漢字「令」と頻出の漢字「和」を組み合わせたのは平成などを踏襲している。「和」は昭和の和であり、読み方も昭和と似ているため、昭和へのノスタルジーがあるのかなと感じる。護憲派の教授、川岸令和氏の名前と重なるが、政府として「令和」に護憲のイメージは付いていないと判断したと思われる。 
●新元号「令和」識者が感心 飯間浩明氏は「ら行」注目「新しい。心地よいサウンド」
政府は1日、「平成」に代わる新元号を「令和(れいわ)」と決定した。記者会見で菅義偉官房長官によって掲げられた、力強くしたためられた二文字。国語辞典編さん者の飯間浩明氏(51)はこの日、スポニチアネックスの取材に応じ「サウンドとして心地よい。国民にも親しまれる」との印象を語った。
「一言で言って、すごく新しい。発表された瞬間、“おっ、なるほど”と思った」という飯間氏。新しいと感じたのは「ら行」から始まること。
元々、古い日本語には「らりるれろ」がなく、ら行で始まる単語の多くは、「恋(れん)」「留(る)」などの音読みの漢語か、「レモン」「ラッキー」などカタカナ語なのだという。
その「ら行」を元号としたことに「これはすごく新しくて、サウンドとして心地よい。これだったら国民にも親しまれるんじゃないかと。伝統の中に新しさを取り入れ、これを考案した人はセンスがあるなと思いました」と感想を述べた。
また「万葉集」を出典としていることにも言及。日本最古の和歌集は万葉仮名で当て字を使っていることから「万葉集からはとらないだろう」と思っていたという。それでも、今回は正式な漢文で書かれている序文から引用したことに「序文をうまく使っている。そこに知恵を感じました」と感心した。
元号をつくる作業について「パズルを解くようなもの。様々な制約があった中、それをクリアしてパズルを解いた」とも。その上で「言いやすいし書きやすい。うまいなと思いましたし、うまく落ち着いた感じですね」と話した。 
●作家、浅田次郎さんが読む「令和」 「平和を尊重、和を尊ぶ」
平成9(1997)年に直木賞を受賞した作家の浅田次郎さん(67)
「万葉集」からとは意外だったが、序という漢文調の部分から取ったということは、従来と同じ流れと言っていいのではないか。「令」の字は考えていなかったが、なかなかユニーク。「令」には美しく清らか、尊重するという意味があり、平和を尊重し、引き続き和を尊ぶという二重の意味にとれる。明治で国威を広げ、大正でこのままの安定を願い、昭和ではいろいろと苦い記憶があり、平成でもう一度平らかになれと言い、次なる令和で、昭和の悲劇を忘れるなと戒めとして踏襲し平和を求める。こうして元号を並べその意味を眺めると、日本の近代史が読める。新元号は徹底的に平和でいきましょうよ、と言っているよう。発表されてみれば、いい元号だ。  
●「令」は「命令に従え」? ネット話題、専門家に聞いた
新元号の令和。「令」という文字の下の部分を、カタカナの「マ」のように書く場合もあるが、国語辞典編纂(へんさん)者の飯間浩明さんによれば、これもまた「正解」だという。
常用漢字表の解説では、字体や字形の細かな違いを許容しており、文化審議会国語分科会は2016年に指針をまとめている。ここでは、「令」についても、下の部分が「マ」になっている手書き例も示した。「手書き文字と印刷文字の表し方には、習慣の違いがあり、一方だけが正しいのではない」「字の細部に違いがあっても、その漢字の骨組みが同じであれば、誤っているとはみなされない」としている。飯間さんは、「菅官房長官が掲げた毛筆体の文字でも、『令』の最後の字画が、左側に少しはねている。でも、いいんです」。
また、インターネットでは、「令」の文字に「命じる」「いましめる」という意味もあることから、「命令に従え」という意味を連想するという意見もあるが、「令には『令夫人』『令兄』のように相手を立てたり、『令顔』のように美しさや素晴らしさを表したりする用法もある」と話す。 
●「令和」の令は「命令」の令? いえいえ、「令月」にはこんな良い意味が
2019年4月1日に発表された新元号「令和」。これを受け、ネット上では新元号の字から受ける印象について様々な議論が発生している。
ザっと見て目につくのは、「令和18年生まれだと『R18』になるじゃん!」と、「成人向け」を連想する書き込みで、ツイッターのトレンド欄にもさっそく「令和18年」が入る珍事に。ほかにも、「令和元年」を「R-1」と解釈し、「R-1ぐらんぷり」(フジテレビ系)や、はたまた乳飲料の「R-1」(奇しくもメーカーは「明治」)を連想したとの声も上がっている。
だが、そんな中で多く見受けられるのが、「令和」の「令」が「命令」の「令」を連想させるという声だ。
新元号について、ツイッターを見渡してみると、「民衆は逆らわず大人しくしていろと命令されているように感じました」といった、強制性を感じさせる元号であるとする声が、主に政権に批判的な層から上がっている。そこまできついものでなくとも、「なんか命令されてる感ある」という人はちらほらある。
また、著名人からも同様の意見が出た。奇しくもお笑い芸人のキートンさん(45)は、4月1日正午前に、「令って字が命令とか私はあまりいいイメージがないので、元号になってイメージが変わるといいですな」とツイートしている。
「万事をなすのによい月」という意味が
ただ、4月1日の菅義偉内閣官房長官による記者会見では「令和」の由来について、万葉集の「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ」から来ていることが説明された。その「令月」だが、広辞苑(第七版)によると、「万事をなすのによい月。めでたい月」との記述があり、命令とは関係のない、良い意味の言葉だということがわかる。
パッと見の意味とは裏腹な良い意味もある「令」。キートンさんが言う通り、5月1日の改元の日が、「令」の字に対する人々が抱く印象を大きく変える1日になるかもしれない。 
●新元号発表、中国人の感想
新元号が「令和」と発表された。典拠は日本最古の歌集「万葉集」で、梅の花の歌32首の序文から引用したものだという。安倍首相は「万葉集は豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書(日本の古典)」とし、新元号には「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」と説明した。
元号は645年の「大化」以来、これまで典拠が判明しているものはすべて中国の古典(漢籍)から取ったもので、多くが「四書五経」などに由来がある。それが今回は違った。
今回の発表に対して、中国の人々はどのように感じているのだろうか?
中国のSNSには、昨夜から「日本の新元号」に関するさまざまな憶測や期待が込められた投稿があり、発表された当日の午前11時40分過ぎ(中国時間の午前10時40分過ぎ)頃からも、大量の投稿があった。平日にも関わらず、中国国内にいても日本のメディアの動画を生中継で視聴している人がとても多かったようだ。
彼らは日本の新元号「令和」を率直にいってどう感じたのか、筆者の知人の範囲だが、ごく一部を紹介してみたい(投稿は中国語だが、筆者が日本語に翻訳した)。
「新年号は令和! おめでとうございます!」(30代女性)
「安倍首相の安の字は結局、使われなかったんですね。しかし、やはり安倍首相の政治的影響力を反映していると感じました」(50代男性)
「万葉集の序文から取ったというが、序文の部分は正式な漢文だと聞いたことがある」(50代男性)
「中国の漢籍から取ったのではないというけれど、中国の『黄帝内経』(中国最古の医学書)の『霊枢』の中に令和という言葉がある」(40代女性)
「中国の学者、張衡の詩にも令和に由来すると思われるものがあるが・・・・」(40代男性)
「予想ランキングの上位にあった『永和』ではなかったですね。もし『永和』だったら、台湾の有名な豆乳店、永和豆乳と同じ名前だったので、おもしろかった(笑)」(30代男性)
「平和にするということで、いい元号、中国語でもいい音の響きだと思う」(30代女性)
「初めて中国の古典から取らなかったといっているけれど、そもそも漢字を使っているわけだから、脱中国といってもやはり限界がありますね」(30代男性)
「梅の花は中国の国花です」(50代女性)
「中国語で発音したときの耳触りがいいので、とてもいいと思う」(40代男性)
「元号を一文字のイニシャルにするとRになる。やはり、安倍はR(right、右)ですね(笑)」(40代女性)
「Rは発音しにくい人が多いのではないでしょうか?中国人は巻き舌なのでRの音に慣れているけれど」(40代女性)
「早稲田大学の教授の名前から取ったらしいという書き込みがあるそうですが、本当ですか」(30代女性)
菅官房長官の発表からわずか1時間あまりの間だけに限っても、このように多くの投稿があり、中国人の関心の高さがうかがえた。ほぼリアルタイムで中国のマスメディアの報道も多かった。日本語がわかる人は日本語と中国語の両方でチェックして、かなり多くの情報を入手していて驚かされた。
よく知られているように、元号自体、そもそも中国由来のものだ。元号の発祥は前漢時代の「建元」が最初だといわれているが、中国は1911年、清朝の「宣統」(ラストエンペラーで有名な宣統帝溥儀の時代)を最後に、元号を廃止している。
元号は今では世界で日本にのみ残っているものだ。だからこそ、中国人にとっても“他人事”ではないくらい関心が高いのだろう。 
●新元号「令和」の感想
2019年4月1日に発表された新元号「令和」。平成の歴史も幕を下ろし、新しい時代が始まります。どんな元号になるかと心待ちにしていた方も多いと思いますが、新元号「令和」の発表に予想以上の反響が寄せられています。「なんかカッコいい」「良かった」という意見も見られるのですが、「がっかりした」という意見も多く挙がっています。今回はそんな新元号についてのみんなの感想を見てみましょう。
令和より平成の方が良かった
・まだ新元号に慣れていないので、平成の方がいいと思ってしまいます。新元号には「和」が使用されるような気がしていたので、違和感はありません。自分の生きた年数の中で、平成が長かったので親しみを感じ、また漢字も読み書きしやすいので平成の方がいいと思ってしまいます。
・令和は昭和の和が入っているから、なんだか古臭いという印象です。令というのはセンスがあってカッコイイ感じがするだけに、なんで和を入れたのかと残念です。これなら、まだ平成の方が良かったという感じです。新元号にするのなら、今まで使っていない漢字を入れたらよかったのにと思います。
・「和」の文字は、「平和」、日本の「和」として入ってほしかったし、入るだろうと思っていたので、よかったです。でも、「令」が意外で、ちょっとキョトンとしてしまいました。平成のときよりも、すこし古めかしい、堅苦しい感じにもなったかなと思います。欲言えば、古式ゆかしい感じでもありますけれど。次第に慣れていくと思います。
・「平和」という言葉に似ていて、響きはいいですが、「令」という漢字がどうもしっくり来ません。「命令」や「令状」という熟語のように「言いつけ」という意味を持っているからです。また、手書きの際の表記も2通りあって混乱を招きそうです。
・恐らく時間が経つにつれ慣れていくことかと思います。平成の際も当時の新元号を聞いた時は、「昭和の方が良かった」と子供心にそう思いました。簡単に言うと、まだしっくりとこない。慣れ親しんだ平成の方がしっくりとくる、という感じです。
・令和という響きに慣れそうにない。そもそも言いづらい気がするのは私だけ?平成の方が全然言いやすい。
・昭和も経験している世代ですが、昭和から平成への移行は抵抗ありませんでした。むしろ平成という新しい時代の訪れを心地よく感じました。でも令和はそんな感じがしませんね。どうもしっくりきません。
・昭和生まれ・平成生まれっていういい方はしっくりくるけど、令和生まれってなんか変な気がします。使っているうちになれるのでしょうか。
・令和の意味を話してたけどわかりづらかった。平成はわかりやすかったのに国語ができない自分にとってはちんぷんかんぷんだった。
・平成生まれなので、平成の方が好きです。令和が悪いというわけではないのですが、どうしても自分の生まれた時代に思い入れを持ってしまいます。できれば平成が終わってほしくなかったというのが本音です。
皇太子様(新天皇)のイメージに合わない
・れいは冷に通じて、冷たいイメージがある。最初がレの音は発音がしやすいとは言えない。新天皇は穏和、温厚、やさしいイメージなので令和は気の毒な気がする。慶和、京和などのほうがより良いと感じるが、既存の元号や地名などをチェックした結果かも知れないのでいたしかたない気もする。
響きがよくない
・「れい」という音が冷たくクールな感じがするし、「霊」や「零(ぜろ)」のネガティブな言葉も想像してしまう。印象としてはカクカクしていて、もう少しまろやかで温和な感じのものが良かったかなとは思う。だけども、現代的という点では、うなづける。
・「令」という漢字は、命令・緘口令・律令政治・勅令など、上から命ずるというイメージが強いし、またそういう意味を持った漢字です。総理から「万葉集からの引用で・・云々」という美しい説明は、お題目だけ耳障りの良いきれいな言葉を並べ立てて実は上からの命令に従っていれば平和でいられますよと、安倍一強を良い事に力で押し通してきた「安倍内閣」の政治体制を如実に表している、そして安倍内閣だから決定された、お題目の下に隠された真実をあらわしているような冷たい元号に感じました。
呼びにくい・言いにくい
・新しい元号なので呼びなれないのは当たり前なのですが、それでももうちょっと言いやすい候補がなかったのかなと感じます。それでもきっとすぐに慣れるのでしょう。
・平成とかぶるようなものにはならないと思ってはいたので、特に異論はないです。ただ発音については上げるのか下げるのか文字だけぱっと見てもよく分かりませんでした。響きが良いものが選ばれるのは予想の範囲内ではありましたが、発音は少し慣れるまで時間がかかると思います。
・大した教養もない身で恐縮ですが、初めに抱いた印象は、呼びづらそうな元号だなということでした。平成はしっくりきた印象だったのですが、新元号は元号っぽくない、という印象を受けました。しかし、言葉と漢字の持つ意味を知って、良い元号だと思いました。
・下の和という字が昭和ともかぶるしあまりいい印象ではないです。れいという読みかたもなにか冷たい印象を受けます。平和という言葉に似ている響ではありますが、冷戦の冷の字も連想させなくはないので、平穏な時代というよりは少しざわついた印象を受けました。
・なんか言いにくい感じがしますね。年寄りの意見としては、もうちょっと言いやすい元号の方がありがたかったです。
・他にでた候補の内容については発表を差し控えるって言ってたけど教えて欲しかった。もっと言いやすいのがあったと思うんだよね。
言葉にセンスを感じられない
・令和ってなんか学生でも考えそうな組み合わせ。馴染み易いのは大事だが、これはちょっと違うと思う。
・令和だとイニシャルがRになるからR18とか誤解を招くんじゃないかなって思いました。
・もっとおごそかな響きの元号になると思っていました。令和ってなんか狙いすぎな気がします。
・平成は言葉の意味を推し量れたが、令和はどうもすんなり意味が伝わってこない。それだけ平成ってよくできた年号なんだと思う。
・まず漢字の形に、硬さを感じました。それと「令」という字から「命令」のイメージを受けました、また「和」も昭和の「和」と同じなので、古臭さも感じました。響きとしては柔らかい印象も受けたのですが、やはり「れい」という響きにも冷たさを受け、前向きな印象が少ないと思います。
・現代的な印象があり、もう少し重たい印象のある漢字を使用してほしかったというのが正直な感想です。現代に受け入れられそうというのが感じられて、元号にそういうのはいらないような気がします。古臭くて、歴史や伝統が感じられるようなイメージにしてほしかったです。
・漢字の並びの印象が冷たく思えた。昭和の和と同じなので、せっかく平成で時代を新しくしたのに、おじさん達が考えて逆戻りさせた印象。令の字が命令をイメージさせて良い感じがしない。新しい時代を感じさせない。はっきり言ってダサい。
・レイという言葉の響きにどちらかというと終わりを感じる気がします。家庭内でももちろん話題には出ましたが、今までの集大成というかむしろ幕末の匂いがする古いイメージが浮かびます。個人的にも未来を感じる明るさを感じる年号が良かったです。
・万葉集からの出典らしいけど、その時点でなんか庶民から遠い。中継で聞いていた説明も結局意味わかんなかった。
そもそも年号いらない
・平成に変わる時はそんなに気にしなかったけど、今回の令和はちょっと違和感がある。伝統かもしれないけど、天皇交代で無理に年号を変えなくてもいいのでは。
・みんな年号が変わる事で騒ぎすぎでしょう。ビジネスシーンや一般の場では西暦で統一した方がいいのは明らか。元号という文化は大衆的でなく、部分的でいい。
・年号の存在意義がいまいちよく分かりません。例えば生年月日の書類記入や口頭確認の際、西暦か年号かでいつも迷います。その結果、西暦にすると「年号で」と言われてしまうことも多々あります。もちろん、その逆もまた然りです。西暦で統一すればこのような手間がかからず、計算もしやすいし何より分かりやすいのにと思います。今回の「令和」については、「昭和」と「和」の字が被っているし、どうもしっくりきません。
・色んな書類を作り変えたり、パソコンの入力システムを変更する必要があるので不便を感じています。年齢確認をする時も分からなくなりますし、必要性を感じません。発表が遅いせいで色んな書類の印刷が間に合わず混乱だけ生じていると思います。
・書類の書式変更が非常に面倒であるため、西暦を使うべきなのではないかと考える。また契約書には全て平成〇〇年との表記がされているため、いちいちこちらで計算をして、何年かということを考えるのが非常に手間である。
・仕事の資料の元号更新がマジでめんどくさい。どれだけの影響を与えているのか考えればすぐにわかるのに、なんで西暦制にしてくれないのか。年号は歴史マニアだけ使えばいいじゃんと思ってしまう。  

 

海外報道
●新元号、海外通信社も速報
日本政府が1日、「平成」に代わる新たな元号「令和」を発表したことを受け、海外通信社も相次いで速報を出した。
AFP通信は菅義偉官房長官の発表後に速報を配信し、「『令和』とは『調和』の文字を含む」と説明した。
ロイター通信は「皇太子さまが新天皇に即位される5月1日に始まる時代の元号は『令和』と名付けられた」と報道。「日本の和歌集、『万葉集』が出典」とも速報した。
また「日本で『元号』は硬貨やカレンダーなどで広く使用されている。西暦の使用も広がっているが、多くの日本人は元号か、二つの数え方をともに使っている」と説明した。  
●「ついに脱中国」=新元号決定で至急報も−各国反応
日本の新元号が初めて国文学を出典とする「令和」に決まったことについて、中国メディアは1日、「日本の新元号、ついに『脱中国』」と伝えた。共産党機関紙・人民日報系の環球時報電子版は「新元号の開始で日本の政治経済のムードが大きく変わるかもしれない」と報じた。
同紙は、過去の日本の元号の典拠は中国の古典だったが、今回は日本の「万葉集」から採用されたことなどを紹介した。新元号に対する中国メディアの関心は高く、多くのニュースサイトが決定直後に速報した。
一方、中国外務省の耿爽・副報道局長は1日の記者会見で新元号に関して「日本の内政の事柄であり、論評しない」と述べるにとどめた。
韓国の聯合ニュースなども「日本が年号(元号)制を導入して以降、中国古典ではなく日本古典から引用したのは初めて」と一斉に報道。朝鮮日報(電子版)は「安倍政権の支持基盤の保守派を意識した」と解説した。KBS放送は「元号変更はデータの不安定性や費用発生などの問題も伴う」と指摘した。
一方、ハガティ駐日米大使は、英語と日本語の両方で「『令和』でも日米パートナーシップを強化できることを楽しみにしています!」とツイート。米CNNは元号を「重要な道しるべ」であると表現した。
日本と同じく王室のある英国のBBC放送(電子版)は至急報を打ち、令和の意味を「秩序と調和」と伝えた。日本で元号は西暦と併用される年号であるとしながら、「元号は今後数十年の風潮を定める意図があり、日本人の日常生活において重要であり続ける」と説明した。  
●新元号「令和」、海外の反応
アメリカのブルームバーグ通信は新元号について、「命令の『令』に平和・あるいは調和の『和』で『Reiwa(れいわ)』と決まった。世界で最も古くから続く皇室の新天皇の即位を前に、新しい元号が決まった」と報じました。
イギリスのBBCも速報で、新元号が「Reiwa(れいわ)」だと伝え、「待望の新元号が、菅官房長官によって発表された」と報じています。
韓国の聯合ニュースは、菅官房長官の新元号発表会見の写真とともに報じています。 
●海外「素敵で綺麗な元号だ!」日本の新元号『令和』発表に海外興味津々
新元号「令和」の意味を、海外メディアはどう訳した?
新しい元号が「令和」に決まった。「令和」は、日本に現存する最古の歌集「万葉集」に由来する。菅義偉官房長官が新元号を発表した後、海外メディアも日本の元号が「Reiwa」になると伝えた。
海外メディアはReiwaをどう訳した? 各社異なる訳し方
安倍晋三首相は談話で、「令和」に込めた意味を「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」と述べた。
各メディアは、この元号の意味をどう訳したのだろうか?
BBCは、令和の「令」の字は「order(秩序)」や「command(命令)」、「和」の字は「peace(平和)」や「harmony(ハーモニー)」を意味する、と書いている。
一方、同じイギリスのメディアであるガーディアンは、新元号は「fortunate(幸運)」「auspicious(幸先の良い)」と「peace(平和)」「harmony(ハーモニー)」を意味する、と報じている。
アメリカの経済メディア、ウォール・ストリート・ジャーナルも、「令」は「auspicious(幸先の良い)」を意味し、「和」を「peace(平和)」と訳した。
さらにオーストラリアのABCニュースは、元号が令和に決まったが、それが何を意味するかはまだ明らかではないと、説明を控えている。 
●“令和”は「初の脱中国」 中国メディアが速報
新しい元号について中国メディアは発表と同時に速報し、関心の高さをうかがわせました。
中国共産党系の有力紙「環球時報」は、日本の新元号「令和」がこれまでの元号と異なり、中国の古典ではなく、万葉集に由来することから「初めての脱中国」という見出しで速報しました。そのうえで、「今回の選定では、日本の古典から選ぶべきという声が上がっていた」と指摘しています。一方で、今年に日本で開かれるG20首脳会議などを念頭に「安倍政権が新元号の元年をどのように過ごすかは次世代の内政・外交の路線方針と関わる」と注文を付けました。中国では「令和」という漢字が去年、アルコール類の商品名として商標登録されていて、登録を行った会社は「元号とは関係ない。代理で登録しただけで、申請者の詳しい情報は出せない」と話しています。 
●新元号は「令和」=中国メディアが速報、ネットも反応
2019年4月1日、「平成」の次の元号が「令和(れいわ)」に決まったことが、中国でも速報で報じられた。
菅義偉官房長官は午前11時半すぎの記者会見で、新元号は「令和」と発表した。環球時報は速報でこれを報じ、日本の万葉集が典拠とされたことも説明。また、中国版ツイッター・微博(ウェイボー)アカウント「視角_日本」は、「日本の新元号は『令和』!平成時代は最後のカウントダウンに突入。5月1日に日本は令和元年を迎える」などと紹介した。
これまで日本の元号は中国古典が典拠とされてきた。新元号が「令和」に決まったことに対し、中国のネットユーザーからは「なかなか、かっこいい元号だと思う」「これが今後何十年も続く日本の元号か。永遠にわれわれの記憶に存在するものだと考えると妙な気分」「中国古典が使われなかったなんて。『中国除去』成功だ」「改元は時代の交代を思わせる。平成最後の1カ月を大切に」「平和を命じる(命令する)ということだ」「日本で歴史的瞬間を見ることができた」「Rei!Wa!JUMPのデビューは?」などのコメントが寄せられている。 
●令和 「中国の痕跡を消すことはできない」
政府は1日、新たな元号を「令和」と決め、発表した。一方、中国共産党系の環球時報は1日、「『令和』は中国の痕跡を消すことはできない」とのタイトルで記事を配信した。
「万葉集」について、「中国の詩歌の題材や表現方法を参考にしている」などと指摘。さらに、識者の見解として、「『万葉集』には118首の梅に関する歌が収録されていて、中国の美意識の影響を受けているとみられる」と報じている。  

 

異論
●「令和」万葉集から由来をさらにさかのぼると?
4月1日に政府が発表した新元号「令和」は、日本最古の和歌集である「万葉集」の出典だという。しかし、中国の古典に詳しい一部ネットユーザーからは、中国の詩文集「文選」(もんぜん)までさらにさかのぼれるのではないかという声が上がっている。
万葉集巻五「梅花歌三十二首」には、詩歌の背景や趣旨を説明する「題詞」の中に「于時初春令月 氣淑風和」(時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ)という語句があり、「令和」はこれを出典としたとしている。
しかし、これと似た漢文が、万葉集(780年頃成立)以前の中国の詩文集「文選」(530年頃成立)にある。
文選巻十五に収められた、後漢の文学者であり科学者の張衡(ちょうこう)が詠んだ「帰田賦」には、「於是仲春令月 時和氣清」(これにおいて、仲春の令月、時は和し気は清む)とある。
「ブリタニカ国際大百科事典小項目事典」や「大辞林 第三版」によれば、「日本に早くから伝わり、日本文学に大きな影響を与えた」とあることから、梅花歌三十二首の題詞の著者が文選を参考にした可能性がある。
日本の元号は「平成」まで、出典が明らかなものについては全て中国の書物が典拠だとされている。
「令和」は初めて国書を典拠とする元号となったが、その源流にはやはり中国があるのかもしれない。この機に日本や中国の古典を読み解くのも面白そうだ。 
●新元号「令和」の出典『万葉集』の序文、ルーツは中国の『文選』と指摘も
安倍首相が語った「国書」へのこだわり
安倍晋三首相は4月1日の記者会見で『万葉集』について、「わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書」と紹介した。
新元号「令和」の意味については、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められております」と説明。
その上で、以下のように述べた。
「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく」
「厳しい寒さのあとに春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように一人一人の日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定いたしました」
質疑応答の中でも「我が国は歴史の大きな転換点を迎えていますが、いかに時代がうつろうとも日本には決して色あせることのない価値があると思います。今回はそうした思いの中で、歴史上初めて、国書を典拠とする元号を決定しました」と答えた。
安倍首相のこれらの言葉からは「国書」へのこだわりが垣間見える。
「万葉集」現存する日本最古の詩集
「万葉集」は20巻からなる現存する日本最古の歌集で、奈良時代(770年ごろ)に成立したとされる。
約4500首の和歌が収録され、恋愛を詠んだ相聞歌から死者を悼む挽歌、それ以外の雑歌などに分類。詠み人は天皇、皇族、貴族のみならず一般庶民や防人など幅広い人々の歌が収められている。
収められた和歌は全て「万葉仮名」で記されている。つまり、日本語の音を表すための当て字であり、漢字そのものには意味がない。これが『万葉集』の特徴の一つだ。
ただ、『万葉集』の中でも漢文で記されているものがある。それが今回の元号の引文元のような、それぞれの和歌の序文だ。
「令和」の引文元、なにが記されている?
新元号「令和」として引文されたのは、『万葉集』の「梅花(うめのはな)の歌」三十二首の序文だ。
「 天平二年正月十三日 師の老の宅に萃まりて宴会を申く。時に初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。」
天平2(730)年の正月、大伴旅人が開いた宴会の情景を記したもの。この宴会には32人が参会し、それぞれが梅の花にまつわる和歌を詠んだ。宴会を催した旅人は、編纂者の一人とされる大伴家持の父だ。
初春のよき月に、さわやかな空気のなか、風が柔らかく吹いている。梅の花はまるで白粉のよう…と、その美しさを描写している。
この序文について、岩波文庫の編集部が興味深い解説を紹介している。
「 新元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、新日本古典文学大系『萬葉集(一)』 … の補注に指摘されています。「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。 」
これによると、「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」の箇所について、『新日本古典文学大系「萬葉集(一)」』の補注では、中国の詩文集『文選』に収録されている詩、後漢の学者・張衡の「帰田賦」の一部を踏まえていると指摘されているという。
平安時代に愛読された『文選』
『文選』は中国の周〜梁まで、およそ1000年間にわたる100人以上の詩・散文800あまりを収録。梁の昭明太子が編纂し、中国の詩文の模範的なものとなった。
奈良・平安期の貴族にとって、漢文の素養は必須とされ、特に『文選』は基礎教養とされた。
『枕草子』では「書は文集、文選」、『徒然草』では「文は文選のあはれなる巻々、白氏文集」と記され、白居易の詩文集と並び称され、愛読された。どちらも平安文学にも大きな影響を及ぼした。元号の典拠としても、『文選』は過去25回登場している。
過去の優れた詩歌を自らの詩歌・文章に引用することは「引歌」という表現方法の一つだ。『万葉集』と『文選』の該当部分を漢文で見ると、よりわかりやすい。
「 「初春令月、気淑風和」(『万葉集』) 」
「 「仲春令月、時和気清」(『文選』) 」
確かに「令和」は、国書である『万葉集』が典拠とされた。だが、国書に記されている言葉のおおもとをたどれば、中国の古典に由来するものが多い。
今回の元号「令和」も、『文選』にルーツを持つ言葉であると同時に、『万葉集』ならではの独自の言葉の組み合わせを交えたものと言えよう。
国は異なれど、古の時代に生きる人々は「漢字」という同じ文字を用いて、恋の喜びや別れの悲しみ、自然の美しさを紡いできた。
『万葉集』で詠まれている梅の花。日本では奈良〜平安にかけて「花」といえば梅だった。
中国でも、国を代表する花として知られる。台湾がオリンピックなどに出場する際に名乗る「チャイニーズタイペイ」の旗は、梅の花があしらわれている。
国文学研究資料館長のロバート・キャンベル教授は朝日新聞(2019年3月19日朝刊)の取材に、こう話している。
「北東アジアは一つの漢字文化圏。元号の典拠が国書か漢籍かと対立的に見るべきではない」 
●令和の出典、漢籍の影響か 
初の「和風元号」の出典となった「万葉集」の「初春令月、気淑風和」との文言について、複数の漢学者らから、中国の詩文集「文選(もんぜん)」にある「仲春令月、時和気清」の句の影響を受けているとの指摘が出ている。
万葉集が8世紀末ごろの成立とされるのに対し、中国の美文をまとめた文選は6世紀に成立。7〜8世紀の遣隋使(けんずいし)・遣唐使が持ち帰ったとみられ、文章を作る上での最高の模範とされた。「仲春」の句は、1〜2世紀の文人政治家の張衡(ちょうこう)の作品。張衡は地震計の作製など科学者の先駆としても知られる。
万葉集と文選の当該部分は、初春と仲春と時期がやや違うが、「令月」との表現や、陽気の説明の「和」が一致する。
平安前期ごろまでに成立した日本書紀をはじめとする古典は、中国古典の表現を元にして書かれた部分が多いとされる。元号の出典にする場合、「中国の古典の表現を孫引きすることになる」との指摘が出ていた。だが、元号に詳しい所功・京都産業大名誉教授は「日本人は外国から取り入れたものを活用してきたわけで、単なるまねではなく、自分たちのものとして利用してきた」と評価する。
中国古典学の渡辺義浩・早稲田大教授は、文選の句について「意味は万葉集と基本的に同じ。文選は日本人が一番読んだ中国古典であり、それを元として万葉集の文ができていると考えるのが普通」と指摘する一方、「東アジアの知識人は皆読んでいた。ギリシャ、ローマの古典を欧州人が自分たちの古典というのと同じで、広い意味では日本の古典だ」と意義づける。
今回初めて漢籍から選ばれなかったことに注目が集まるが、中国哲学の宇野茂彦・中央大名誉教授は「日本の文化というのは漢籍に負うところが非常に多い。文化に国境は無い。漢籍を異国の文化だと思わないでほしい」と語る。
政府は「文選」が原典に当たるかなどについて評価は避けている。
今回の出典をどう評価するか。改元時に公家らが行った審議「難陳(なんちん)」で、中国古典だけでなく日本書紀も引用されたことがあったことを先月論文で初めて指摘した水上雅晴・中央大教授は「文選との類似性が考えられ、隠れた典拠にやはり漢籍があることになる」としつつ、「日本で1300年以上使い続けられている元号の典拠がはじめて国書になったのだから、画期的な年号と言える」と意義づける。
水上氏は、江戸時代末に「令徳」の元号案が出た際、「徳川に命令する」という意味にも読めることから幕府が撤回させたと指摘。令和について「和(日本)に命令する」とも読めるが、今回どんな議論がされたのか気になるという。
難陳の議論は、公家が多数の記録を残し、後世の参考にしてきた。今回の議論はどうだったのか。平成改元の記録未公開をどう考えるか。水上氏は「改元手続きについては、慌てて準備するのではなく、制度をきちんと整えることを考えるべきだ。『令和』改元からは、いつ公表するかは別問題として、細部に至るまでの記録をしっかり残してほしい」と要望した。 
●「令和」の元は中国の古典
新元号「令和」が決まり、出典は国書(日本で書かれた書物)の万葉集だと発表されました。「あれ?」と首をひねった人も多かったでしょう。和書と言いながら、出典とされる部分が大和言葉(やまとことば)ではなく漢文だったからです。狐につままれた気分でいると、午前11時41分の発表からわずか3時間余り後の午後2時55分に、「Twitter」で岩波文庫編集部のツイートが種明かしをしてくれました。
「 新元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、新日本古典文学大系『萬葉集(一)』 の補注に指摘されています。「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。」 」
なんのことはない、「初めて和書を出典とした」と言いながら、実は中国の代表的古典「文選」からの孫引きだったわけで、政府の説明は看板に偽りありです。「出典は文選だが、万葉集にも類似の文章がある」というのが実態で、万葉集を引き合いに出すにしても「文選と万葉集の二つが出典」と言い張るのがせいぜいでしょう。
私のブログ『新元号 和書出典なら伝統の破壊になる』(3月31日)から、関連する部分を再掲します。
「 「朝日新聞は『新元号、初めて日本の古典由来に? 漢籍とのダブル説も』(3月19日)という興味深い記事を出しています。この記事には『日本と中国両方の古典にルーツを持つ元号となる可能性も取りざたされている』と書かれています。元号にふさわしい良い意味を持つ言葉は、和書に掲載されていたとしても元々は漢籍から借用してきたケースが多いので、和書から持ってきても漢籍からの孫引きとなってしまうというわけです。」 」
まさに、この通りになったわけで、朝日新聞の予想が的中したというか、取材が的を射ていたといえそうです。
和歌集である万葉集は、歌の部分は大和言葉(やまとことば)で書かれていますが、令和の出典とされる序文は「どういう状況でこの歌が詠まれたか」を説明する解説で、まったくの漢文です。そして、日本で書かれた漢文が漢籍から表現を借用するのはごく一般的なことです。今風に言えば「パクリではなくリスペクト」で、読み手も「これは張衡の帰田賦だね」なんてニヤリとするわけです。
首をひねらざるを得ないのは、政府が文選の孫引きであることを伏せて「出典は万葉集」だと言い張る理由です。政府は元号案の作成を、国文学、漢文学、日本史学、東洋史学の4分野の複数の専門家に委嘱したとしています。これらの学者らが「原典は文選である」と気付かないことは100%あり得ません。
『文選』は中国の南北朝時代に編纂された詩集ですが、これはもう定番中の定番です。日本で言えば『古今和歌集』くらいメジャーで、高校の教科書に載っているレベルです。元号の出典としても、サンスポの記事『元号のトリビア(4)引用回数』(3月28日)によれば、書経(35回)、易経(27回)に次ぐベスト3(25回)に入っているそうです。有名どころでは、明治の前の元号「慶応」の出典も文選です。
元号案の作成にあたっては綿密な調査をするはずですが、今回は国文学者であれ漢文学者であれ、「ちょっと調べれば分かる」「調べなくても知っている」程度のことではないでしょうか。学者サイドは間違いなく、「文選にこのような表現があり、これを受けて万葉集にもこう書かれています」とか、あるいは「万葉集のこの文章は、文選から引用したものです」等と報告したはずです。
出典が万葉集だと言い張っている理由は良く分かりません。「史上初めて和書から引用した」というレガシーをつくりたかったのか、それとも朝日新聞に見抜かれたのが気に入らないのか…。しかし、素直に考えれば「令和」の出典は、明らかに文選です。
安倍首相は令和について、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められています」と語っていますが、少々こじつけっぽく思えます。この序文は「大伴旅人の邸宅で宴会を開いたが、季候が良くて風も爽やか、梅はきれいで蘭も香っている。景色も良くて風情もある。酒を飲んで気持ちが通じて、良い宴会だなあ。よし、この気分を表現するために、みんなで歌を詠もうぜ」という程度の文章ですから…。
どうも、安倍首相は今回の元号選定を、個人的なアピールの場と履き違えている気がしてなりません。元号は天皇陛下が定める国民共有の財産で、首相個人や特定内閣の私物ではないのですから、この一連の流れは、いささか見苦しいものでした。 
●文選 (もんぜん)
1
中国の詩文選集。六朝時代の梁の昭明太子の編。 60巻。中大通2 (530) 年頃成立。周から梁にいたる約 1000年間の詩文の選集で、収録された作者は 130人、作品は 760編にのぼる。賦、詩、騒に始り、弔文、祭文にいたる 39の文体に分類し、各文体内では作者の年代順に配列されている。編集方針は編者の序によれば、道徳、実用的観点よりも、芸術的観点から文学を評価して選んだもので、その結果として賦 56編、詩 435首が選ばれ、この2つで6割以上を占める。本書はその後、文学を志す人の必読の書として広く流布し、唐の李善の注をはじめ多くの注釈が出て、文選学 (選学) ができたほどで、日本にも早く伝わり王朝文学に大きな影響を与えた。
2
梁を建国した武帝の長子、昭明太子が編纂した全30巻の詩文集。歴代の名文・詩歌800余りを集めた。中国では文人の必読書。日本でも飛鳥、奈良時代以降、盛んに読まれた。
3
中国の詩文集。梁の昭明太子(蕭統(しょうとう))の編。6世紀前半に成立。周代から梁まで約千年間の代表的文学作品760編を37のジャンルに分けて収録。30巻であったが、唐の李善が注をつけて60巻とした。中国古代文学の主要資料で、日本にも天平以前に渡来、平安時代に「白氏文集」と並んで広く愛読された。
4
中国の詩賦のアンソロジー。六朝、梁の昭明太子蕭統(しょうとう)〔501-531〕の撰。30巻。古代の周から梁までの詩人、文章家約130人の作品800編を文体別、時代別に並べ、37の文体門に分類した。美文の模範として後世広く愛誦され、特に隋〜唐代に盛行。唐の李善の注、呂延祚(りょえんそ)の集めた五臣注、両者を合わせた六臣(りくしん)注などがある。日本では聖徳太子の〈憲法十七条〉に、さらに平安・中世文学に影響した。
5
中国の六朝の梁代に編まれた詞華集。編者は梁の武帝の長子、昭明太子蕭統(しようとう)。30巻。周から梁に至る代表的な詩文約800編を網羅する。こうした詩華集の編纂事業は3世紀末から始まり、六朝時代を通じてかなりの数に上る詩文の選集が編まれたが、《文選》はその集大成として現れ、唐以後の文学にも多大の影響を及ぼした。選択の基準は、経書、史書(ただし論賛は別)、諸子を除く詩文中から、深い内容と華麗な表現を備えた作品を取ることにあったと、昭明太子の序にはいう。
6
中国の詩文集。六〇巻(もと三〇巻)。南朝梁りようの昭明太子蕭統しようとう編。530年頃成立。周代から南北朝にいたる約1000年間の作家百数十人のすぐれた詩・賦・文章を、文体別・時代順に編集してあり、中国の文章美の基準を作ったものとして尊重された。日本にも早くから伝わり、日本文学に大きな影響を与えた。
7
中国、南朝梁(りょう)の昭明太子蕭統(しょうとう)が側近の文人たちの協力を得て編集した文章詩賦(ふ)のアンソロジー。800余の作品が37種の文体に分けられている。30巻。漢魏(かんぎ)以来文学創作が活発となり、作品数が増すにつれ、優れた作品の選集が求められるようになった。その集大成として現れたのが『文選』である。先行する他の選集は時代とともに滅んだ。『文選』が選択の対象としたのは、文章詩賦の類で、経書や諸子百家の書および史書などは原則的に除外され、また小説の類は無視されている。時代は春秋戦国の古代から当代の梁にまでまたがるが、当時現存の文人のものは含まれていない。選択の基準は、蕭統の序にみえる「事は沈思に出でて、義は翰藻(かんそう)に帰す」に集約される。内容ある美文が典型とされたのである。後世批判がないわけではないが、全体として漢魏六朝(りくちょう)の文学を具体的作品でみごとに体系づけている。所収の作品が第一級の資料であるばかりでなく、文学理論の書(『文心雕竜(ぶんしんちょうりょう)』など)と並んで六朝文学批評の大きな成果である。唐代科挙の試験に詩賦が課せられたこともあり、『文選』は創作の手本として重んじられた。唐の李善(りぜん)が注して30巻を60巻とし、その系統の清(しん)の胡克家(ここくか)の復刊したテキストが最良とされる。日本への伝来は古く、すでに「十七条憲法」(604)に本書からの引用が指摘されており、また『万葉集』の部立(ぶだて)も本書の体例をモデルにしているといわれる。さらに万葉の歌人をはじめ、奈良平安の文学には、漢詩文のジャンルのみならず、本書所収作品の影響がみられ、愛読されたことが知られる。そのほか貴重な古鈔本(こしょうほん)がいくつか伝えられており、江戸時代には和刻本も出版されている。
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中国の総集。三〇巻。梁の昭明太子蕭統(しょうとう)ら撰。六世紀前半に成立。唐の李善注本六〇巻が伝わる。周から梁に至る約千年間の美文の粋、約八〇〇編を文体別・時代順に並べたもの。文体のうち圧倒的に多い賦と詩には郊祀・遊覧・贈答・行旅など内容分類がされている。中国現存最古の選集。日本への伝来は古く、「白氏文集」とともに文集・文選と併称された。 
 
 
 
 
 
 
 

 

明治
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日本の元号の一つ。慶応の後で、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。
典拠 / 『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」より。「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に江戸時代だけで8回、計10回(「正長」「長享」「慶安」「承応」「天和」「正徳」「元文」「嘉永」「文久」「元治」改元時)候補として勘案されているが、通算11度目にして採用された。岩倉具視が松平慶永に命じ、菅原家から上がった佳なる勘文を籤にして、宮中賢所で天皇が自ら抽選した。聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まるという意味である。  
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由来 / 易経(えききょう)の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」が由来の出典元です。易経(えききょう)とは、ウィキペディアによると古代中国の書物であり、中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説くもので、儒家の経典として取り込まれているとのとです。
意味 / 意味としては、「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」ということです。易経(えききょう)の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」という漢文を日本語に読み換えると、「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」と読まれます。つまり、偉い人が多くの人に向けて政治をすれば天下はよくなるというなんとも明るいことを言っているのですね。
明治の時代感 / 1872年(明治5年)に太陽暦がようやく採用されています。→全体的に武家社会から文明開化と富国強兵という西洋に追いつけとばかりに近代化にしようと頑張っていた時代だったようですね。しかし富国ばかりだけでなく同時に、全国に2万余り小学校を設立して、現在の教育制度の礎をつくったのも明治ですね。
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「天下は明るい方に向かって治まる」…「明治」 
「明治」は、『易経』の「聖南面而聴天下、嚮明而治」を出典とし、「明」と「治」を組み合わせたものです。これは、「聖人が南を向いて政治を行えば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味です。また、もう一つの出典とされている『孔子家語』(『論語』に漏れた孔子一門の説話を収めたもの)の一節「長聡明、治五気」は、「成長してからは聡明で、万物の根本である木火土金水の五つの気を治めた」という意味になります。
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明治の由来にはいる前に元号についてご説明いたします。そもそも元号は、漢の武帝の時代の中国に生まれて、朝鮮、日本などへ渡ってきた年の数えかたです。日本で最初に用いたのは大化の改新で有名な「大化(たいか)」(六四五年)の元号ですが、中国や朝鮮ではすでになくなってしまい、日本だけがこの伝統を守っています。
「明治」の出典は『易経』の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとって名付けられました。明治改元にあたっては、学者の松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶応四年(明治元年)九月七日の夜、宮中賢所(かしどころ)において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました。
翌八日の一世一元※(天皇御一代に一つの元号とする制)の詔で「明治」と改元されたのです。
「明治」の意味は聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まる、と解されています。
※一世一元 明治以前までは年号が頻繁に変わっていましが、大阪の学者中井竹山が『草茅危言』(そうぼうきげん)で初めて頻繁に改元する従来の弊風を改めることを主張しました。また水戸の藤田幽谷の『建元論』にも記されています。幕末には、石原正明や広瀬淡窓も同じ考えを述べており、維新直後、岩倉具視の努力で実現しました。
参考に「大正」「昭和」「平成」の出典由来についても書いておきます。
「大正」 / 『易経』 / 「大亨は以って正天の道なり」 / 天が民の言葉を嘉納し、政(まつりごと)が正しく行われる。
「昭和」 / 『書経』 / 「百姓昭明、協和万邦」 / 国民の平和と世界の共存繁栄を願ったもの。
「平成」 / 『史記』 / 「内平かに外成る」 / 内外、天地とも平和が達成されるとの意味。『書経』 / 「地平かに天成る」
※昭和64年1月7日産経新聞
新元号制定は、元号法(54年成立)に基づき、「元号選定手続き」(同年閣議了承)に沿って進められた。首相の委嘱を受け国文学、中国文学、歴史などの学者が提出した候補名を小渕官房長官と味村法制局長官が整理検討して竹下首相に報告。さらに学識経験者ら国民代表や衆参両院の正副議長らの意見を聞いたうえ、臨時閣議で決めた。選定は
1.国民の理想としてふさわしい意味を持つ / 2.漢字二字 / 3.書きやすい / 4.読みやすい / 5.外国を含め過去に元号やおくり名として使われていない / 6.俗用されていない
の六つの基準で行われた。「へいせい」は史記および書経の「内平かに外成る(史記)地平かに天成る(書経)」からとられた。内外、天地とも平和が達成されるとの意味。
※『易経』 / 五経の一つ。儒家の重要な経典。宇宙の原理・万象の変化を陰陽二元をもって説き、人間道徳も陰陽消長して万物を生成する天道に従うべきだと説く。
※『書経』 / 五経の一つ。上は尭舜から下は秦の穆公(ぼくこう)にいたる政治史・政教を記した中国最古の経典。
※『五経』 / 中国の古典である経書のうちでも代表的な五つの書物。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいう。前漢の武帝の時代に、この五書を五経と名づけ、それを専攻する五経博士を置き、儒教を国教化したときに始まる。儒家の基本的教科書であった。
※『史記』 / 二十四史の一つ。黄帝から前漢の武帝までのことを記した紀伝体の史書。
 
 

 

大正
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日本の元号の一つ。明治の後で、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。
典拠 / 「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回(「元弘」「承応」「万治」「貞享」改元時)候補に上がったが、5回目で採用された。なお大正天皇実録によれば元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。  
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由来 / 易経(えききょう)の彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」が由来の出典元です。
意味 / 「その徳は剛直で、賢人を尊び、また篤実(とくじつ)なものが過度に健やかなものを抑止して、大いに正す」ということを意味しています。「大亨以正、天之道也」の漢文を日本語に読み換えると、「大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり」と読まれます。「亨(とほ)り」の意味は、「高いところに行く(出世する)、順調にすすむ」という意味とのことです。「大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり」はどんな意味なのか・・・「すべてとどこおりなく順調にはこび、正しさを得るのは、天道に合致している」つまり、世の中の徳が支障なくゆきわたり、政治が正しく行われるということを言っているとのことです。
大正の時代感 / わずか15年間に大正ロマンの耽美感や大正デモクラシー運動があり、また、モダンガールやモダンボーイなど大正モダンなる文化も生まれましたね。全体として、明治時代にないゆったり感と大衆感がありますね。しかし、悲しいことに、関東大震災が大正12年に発生しています。
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「すべてとどこおりなく順調に運び、正しさを得る」…「大正」
次の「大正」も、『易経』の「大亨以正、天之道也」を出典とし、「大」と「正」を組み合わせています。これは、「すべてとどこおりなく順調に運び、正しさを得る」という意味です。

 

昭和
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日本の元号の一つ。大正の後で、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。
典拠 / 昭和は、旧皇室典範と登極令による制度での最後の元号であり、1979年(昭和54年)の元号法制定の際、同法附則第2項により、「本則第1項の規定に基づき定められたもの」とされた。「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)による。漢学者・吉田増蔵の考案。「昭和」が元号の候補になったのはこれが最初である。なお、江戸時代に全く同一の出典で、明和の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省(現:宮内庁)作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。一方、内閣では「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。  
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由来 / 四書五経(ししょごきょう)の「百姓昭明、協和萬邦」が由来の出典元です。四書五経(ししょごきょう)とは、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称を言っています。四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」で、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」からなっていて、君子が国家や政治を治めるための教科書のようなものですね。
意味 / 国民の平和および世界各国の共存繁栄を願うという意味です。「百姓昭明、協和萬邦」の漢文を日本語に読み換えると、「百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す」と読まれます。ここでの百姓は、一般庶民ことを言っていて、「百姓昭明」とは、人々が徳を明らかにするという意味があり、萬邦(ばんぽう)とは、すべての国、つまり万国のこと言っています。これらをまとめと、国民の平和および世界各国の共存繁栄を願うという意味となるのです。
昭和の時代感 / 昭和は、戦前と戦後に分けられて、戦前は大日本帝国、戦後は平和な民主主義日本であり、激動の時代と平和主義に分けられます。戦前の時代は、普通選挙の実施など大正時代のデモクラシーという思想が大衆に徐々に広がりをみせていたが、1929年(昭和4年)に発生した世界恐慌が日本にも影響し、経済不況の中で打開策としてアジアという国外に進出を展開するようになり、帝国主義的な政治となっていきましたね。やがて、第二次世界大戦が勃発となり、広島と長崎に人類初の原爆投下を受けて終戦を迎えました。戦後の時代感は、GHQによる占領から始まり、アメリカの民主主義の徹底的に導入された。政治的な側面ばかりではなく、住居、食べ物、服装、音楽、映画など衣食住にアメリカンスタイルが浸透していきました。また、朝鮮特需がキッカケとなり産業経済が復興して、高度経済成長を築くことになり、戦後の経済成長は世界的にも驚かれる状況となったりました。昭和61年からは、バブル時代と言われる土地ころがしなる財テクブームとなりました。
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「国民の平和と世界の共存共栄を願う」…「昭和」
「昭和」は、『書経』の「百姓昭明、協和万邦」から、「昭」と「和」を組み合わせたものです。「国民の平和と世界の共存共栄を願う」という意味です。この時、 新元号の発表に先立って、『東京日々新聞』 は新元号を「光文」とする号外を発行しましたが、発表された新元号は「昭和」でした。この件は、今なお「世紀の誤報事件」と呼ばれていますので、御存知の方もおられるのではないでしょうか? ちなみに、「昭和」の元号が用いられた64年の歳月は、歴代の元号の中でも最長となっています。
●「万葉集の序文は九州大宰府で生まれた」 
昭和40-41年ごろ、駆け出しのセールスエンジニア、九州支店の営業のお手伝いに出張 (当時、九州だけは遠いので飛行機を利用)。
初めての出張のとき、仕事が早く終わり、支店長が太宰府天満宮に案内してくれました。当時、記憶では質素な神社でした。恥ずかしながら太宰府を理解してい ませんでした。
東京に帰り調べました。 大伴旅人ではなく、菅原道真の天満宮でした。
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」
お手伝いがうまくいき、定期的に博多に出張するようになりまた。支店長は喜んでくれ、最終日の打ち上げは、いつも中洲のキャバレーで大騒ぎ。そして夜中、ムーンライトで東京に朝帰り。若かった・・・その日も、ちゃんと仕事をしました。

大阪出張、昭和39年開通したばかりの新幹線、3-4分遅らせてしまった。
朝一番、田端からタクシーで東京駅、6時ちょっと前に着く。駅員3-4人の方々、大声で新幹線へ伝言リレー、「おひとり乗客が行きます」。私も一生懸命、走りました。

昭和42-43年ごろ、新宿東口にあった スタンドバー「ほさか」。
飲んで朝まで保坂さんと麻雀、会社、保坂さんと麻雀、会社、麻雀、会社、三泊三日のお遊びと仕事、何度か勤め上げました。
「ほさか」 新宿で懇意になった最初のお店。プライベートは新宿、ご接待は銀座。

おおらかで 楽しい時代・・・

 

平成
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日本の元号の一つ。昭和の後、令和の前で大化以降247番目の元号。今上天皇在位中から現在に至る。ここでは、グレゴリオ暦(西暦)の20世紀から21世紀にわたった平成時代についても記述する。1989年(昭和64年)1月7日に皇位が昭和天皇から今上天皇に継承され、翌1月8日に元号が平成に改められた。2019年(平成31年)に、皇室典範特例法に基づく天皇の退位(4月30日)と皇太子徳仁親王の即位(5月1日)が予定され、これに伴い平成は5月1日に令和に改められる。
典拠 / 新元号の発表時に小渕恵三が述べた「平成」の典拠は漢籍で、以下の通り。『史記』五帝本紀 帝舜 / 內平外成 (内平かに外成る) 『書経(偽古文尚書)』大禹謨 / 地平天成 (地平かに天成る) 。「平成」は「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味である。日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてであるが、「大成」(北周)や「成化」(明)など、外国の元号や13代成務天皇の諡号には使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号と言える。江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」が有り、出典も同じ『史記』と『書経』からとされている。なお、平成の決定の際には専門家から出典箇所が偽書の偽古文尚書であり、相応しくないとする意見もあった。 
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由来 / 『史記』五帝本紀の「内平外成」と『書経』大禹謨(偽書)の「地平天成」が由来の出典元です。『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書です。『書経』(しょきょう)は、中国古代の歴史書で、伝説の聖人である堯・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されています。
意味 / 国の内外、天地とも平和が達成されるという意味です。「内平外成」の漢文を日本語に読み換えると、「内平かに外成る」と読まれ、「地平天成」の漢文を日本語に読み換えると、「地平かに天成る」と読まれます。この二つの意味を統合すると、国の内外、天地とも平和が達成されるという意味になるのです。
平成の時代感 / よく平成と平安は、どことなく似ているといわれますね。戦後という思想も遠ざかり、民主主義は当たり前になり、個人主義が浸透した時代と思いますね。経済的には、バブルもはじけ、低成長は当たり前の認識となり、豊かさよりゆとりある社会を楽しむ感じがしましたね。同時に、1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災など天変地異と不安定な気候変動が目立つ時代でした。自然の驚異は忘れず生きることが大切であることが認識されましたような感じがします。
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「すべてとどこおりなく順調に運び、正しさを得る」…「平成」 
さて、いよいよ「平成」です。「平成」は、『書経』の「地平天成」と、歴史書である『史記』の「内平外成」を出典とし、「平」と「成」を組み合わせています。天地、内外ともに「平和が達成される」という意味です。先にも述べましたが、昨年の12月24日に、天皇陛下が記者会見の席上で述べた「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」という言葉は、この「平成」という元号に込められた願いが見事に達成されたことを示すものとして、誰の耳にも嬉しく届いたのではないでしょうか。
●大正、昭和、平成……
数か月ほど前に元号が変わるのはいつ頃になるかという話題で持ちきりとなりました。和暦として西暦とともに大切にされてきた元号、ベトナムや中国などでも使われたことはあったようですが現在に至るまで元号を使い続けているのは世界中で日本のみとなっています。日本書紀によると元号が使われ始めたのは645年の「大化」が始まりのようです。
さて、最初の元号と言われる「大化」から2017年の今日に至るまでの「平成」にはいくつ元号があったかご存知でしょうか。応仁や享保など、社会科でとにかくたくさん習った記憶があります。30?50?100以上?
さて、答えはなんと「平成」を含め247個あるそうです。ただ、南北朝時代において南朝年号・北朝年号を加算した場合の総数なので、南朝を基準とした場合は231個が総数とされています。社会科で元号が多いように薄々感じられてきたとはいえ、改めて知るとなかなかの数に圧倒されますね。元号の変わる基準が現在とは異なり天変地異や戦、占いなどで元号を変えるきっかけを得ていたために数年、または数ヶ月で元号が変わっていることでここまでの数となっているようです。現在の感覚で考えるとあまり頻繁に変わってしまうとこんがらがってしまいそうですね。
さて、それでは明治神宮による元号の解説より明治からの元号の由来をお話していきます。
まず明治の由来は五経の一つである易経より「聖人南面して天下を聴き、『明』に嚮ひて『治』む」という言葉からきています。これには「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味が込められています。
次に大正です。大正も明治と同じく易経より「『大』亨は以って『正』天の道なり」という言葉が由来となっています。意味は「天が民の言葉を嘉納し、政が正しく行われる」というものです。
そして64年と最も長い元号である昭和です。昭和も五経の一つである書経から「百姓『昭』明・協『和』万邦」という言葉が由来となっています。込められた意味は国民の平和と世界の共存・繁栄を願うものとなっています。
そして2017年現在まで続く平成です。史記からの「内『平』かに外『成』る」と書経からの「地『平』かに天『成』る」という言葉それぞれから平成と付けられました。「内外、天地ともに平和が達成される」との意味で、元号が重ねられるたびに平和を尊いものとする意味が強まっているように感じられます。
ちなみに明治は江戸時代から計10回も候補となってきたものの採用を見送られ続け、1868年で11回目にしてやっと元号となることができたというなんだか胸が熱くなるようなストーリーも持っています。
元号が変わるという状況に新たな風が吹き込んできた昨今、新元号の予想に勤しむ方々もいらっしゃいますね。有識者の方々が練りに練って考える元号は手帳やカレンダーにも記載される日本にしかない暦です。由来や込められた意味を汲み取って大切に時を過ごしていきたいですね。  
●日本人が「元号」を使い始めた理由
「元号」と「年号」は同じ意味
「元号と年号は何が違うのか?」という質問に、あなたは答えられるだろうか。
実は、基本的に「元号」と「年号」は同じ意味である。「年号」は、年数の上に良い漢字を複数冠して年を表す称号であり、本来「元号」も「年号」と言っていたのだが、改めた年号のはじめの年を、「昭和元年」「平成元年」のように、元という字を用いて表現するため、「年号」を「元号」とも言うようになったのである。
現在では、「明治」の改元で「一世一元の制」が導入され、昭和54年(1979年)の「元号法」の施行を経て「天皇一代につき、元号ひとつ」という方法が定まっている。
今の日本では「年号」と言うと、西暦のことを指すという方も少なくないだろう。実際に、「誕生日を年号から書いてください」と言われたとき、「1958年」と西暦で書く人もいれば、「昭和33年」と書く人もいるはずだ。私が教えている学生たちに書いてもらうと、「平成31年」よりも「2019年」と西暦で書く学生のほうが圧倒的に多かった。
そうなると不便なので、西暦も含めて指すときは一般的に「年号」でいいと思うが、漢字を冠する表記に限定するときには「元号」と使い分けたほうがわかりやすくなる。つまり、「年号」という範疇の中に「元号」があると理解して差し支えないだろう。
江戸時代の人は時間をどう考えていたか
今を生きる日本人は、「元号」を使うことに何の違和感も持たないが、たとえば江戸時代、地方に住む農民たちは朝廷が決めた「元号」など、知らないままの人がほとんどだったとみられている。当然ながら、西暦など知る由もないだろう。
では、どうやって当時の人たちは時間軸を考えていたのか。おそらく、干支(かんし)を活用することが多かったと考えられる。
干支は、十干(じっかん)(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(じゅうにし)(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を組み合わせて、ひと回りすると60(還暦)を数えるものだ。「甲子(きのえね)」や「丙午(ひのえうま)」に、「戊辰(ぼしん)」「壬申(じんしん)」などは、一度は聞いたことがあるだろう。
江戸時代の平均寿命は30〜40歳代だったとみられているため、干支のひと回りで60年とすると、数えやすかったのだろう。「丙午の年の生まれです」などという会話がされていたのかもしれない。
時代や地域によって時間の表し方は変わる
あるいは、江戸に住む町民などは、「今の将軍様になってから何年」などと言っていたかもしれないし、「あの冷夏で不作だった年から何年」とか「あの地震から何年」など、さまざまな言い方で時間を表していたことが考えられる。このように、西暦や元号が一般的になる以前は、時間の表し方は時代や地域によってまちまちだったようである。
こうした言い方は、「阪神タイガースの日本一から34年」とか「第二次世界大戦終戦から74年」など、現在でもよく耳にする。何を軸と捉えて時間を表すかは千差万別で、「元号」もまた、こうした捉え方のひとつにすぎないとも言えるだろう。
改元で「時間を操っていた」中国の皇帝
元号の歴史を紐解くと、その始まりは中国・漢の時代にさかのぼる。紀元前141年から紀元前87年まで皇帝の地位にあった武帝(ぶてい)が、即位の翌年(紀元前140年)を「建元(けんげん)元年」としたのが元号の最初であると、『漢書』(前漢について書かれた歴史書)に書かれている。
その武帝は皇帝になってから亡くなるまでの54年間に、11回も改元しているという。改元の理由は、さまざまな天変地異や、政局を転換したいときなどであったと考えられている。このように、改元することで時間を自由に操るのが皇帝の特権であったと言えるだろう。
特に唐の時代の中国は、中華思想が国の根幹となっていた。唐の皇帝が世界の中心であり、周辺のアジア諸国は中国に従っている国だという考え方である。
事実、朝貢外交と言い、中国に貢(みつぎ)を贈ることで自国の存在を認めてもらえるとして、邪馬台国の卑弥呼も魏(ぎ)に使いを出していたことは、あまりにも有名である。
卑弥呼の時代、倭国に元号はなかったので、卑弥呼は魏の元号を使っていたと考えられている。『魏志倭人伝』には「景初(けいしょ)3年」(239年)に、卑弥呼が魏に使いを送ったと記されている。卑弥呼が魏に出した文書にも、魏の元号である「景初」が使われていたのではないだろうか。
日本だけが独自の元号を使い始めた
このように、中国に朝貢している国々は、基本的に中国の元号を使わざるを得なかった。ただ、例外と言えるのが厩戸皇子(うまやどのみこ)(聖徳太子)とそのグループだ。彼は朝貢外交を快く思っていなかったとみえて、できるだけ対等を装うようにしていたようだ。
さらに日本は、表向きは中国に仕えているように振る舞っていたが、実際には、そうするつもりはなく、奈良時代からは独自の元号を次々と使うようになっていた。日本のこうした動きを、中国皇帝は面白く思っていなかったのではないだろうか。
たとえば、7世紀の朝鮮半島では高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国が分かれて戦っていた。やがて新羅が「白村江(はくすきのえ)の戦い」で百済と日本に勝利し、高句麗も滅ぼして、朝鮮半島を統一する。その新羅はかつては独自の元号を使っていたのだが、唐から「なぜ唐の元号を使わないのか?」と問い詰められてしまった。結局、新羅は忠告に従い、唐の年号を使うことになった。
その点、日本は島国で、中国とは海を隔てていたこともあり、すぐに襲われることもないと考えたのか、唐の年号を使わずに独自の元号を使い続けた。そういう意味では、中国の文化圏に入っている国の中でも、日本は例外だったのだ。
朝貢国として唐の元号を使わなければいけないという認識はあったと思うのだが、あえて使わなかったというのは、聖徳太子以来の自主独立の道を歩みたい、そういう国家としてのプライドがあったのではないだろうか。 

 



2019/4/1-