日露交渉 お金・時間の無駄遣い

歌の文句 「三歩進んで 二歩下がる」ですが
一歩進んで 五歩も十歩も後戻り

成果を焦る安倍首相  足元を見透かされる
「北方四島 ロシアの領土です」

もう開き直りましょう
「判りました 四島あげます」 交渉終了
 


北方領土
 

 

 
 
四島の見えそうな所に 大型高級リゾート開発
元島民の皆さん 残り時間は僅か 
無償でリゾート永住 生活費は年金で支給
( 予算 2016/12 ロシアご希望の経済支援3000億円相当 税金 )
結果 一般観光客も増加 リゾート運営で新しい仕事・産業 地域の活性化
 
 

 

 

●日ロ首脳 共同記者発表要旨 1
安倍晋三首相とプーチン・ロシア大統領が22日に行った共同記者発表の要旨は次の通り。
平和条約締結交渉
首相 具体的交渉が外相間で開始され、率直かつ真剣な議論が行われたことを歓迎した。2月中、例えばミュンヘン安全保障会議の際に次回交渉を行うとともに、(外務次官級の)首脳特別代表間の交渉も行い、さらに前進させるよう指示した。相互に受け入れ可能な解決策を見いだすための共同作業を、私とプーチン氏のリーダーシップの下で力強く進めていく。
大統領 シンガポールの会談では1956年の日ソ共同宣言を基礎に交渉することで合意した。宣言は平和条約締結を規定しており、われわれは条約に署名することへの関心を再度確認した。強調するが、双方に受け入れ可能な解決に向け、今後、辛抱強さを要する作業が待っている。(合意事項は)ロシアと日本双方の国民にとって受け入れ可能でなければならず、両国の世論の支持を得なければならない。
共同経済活動
首相 早期実現のため、共同作業を着実かつ迅速に進展させるよう関係者に指示した。
大統領 努力を続けることで合意した。
元島民墓参
首相 北方四島の元島民の墓参りのための人道的措置は、平和条約締結に向けた両国国民間の信頼醸成に大きな役割を果たしている。航空機墓参をこの夏にも実施することで合意した。
経済協力
首相 昨年のロシアからの訪日者数は過去最高となり、約10万人ずつがお互いの国を訪問している。2023年には互いの訪問者数をそれぞれ少なくとも20万人まで倍増させる目標を掲げた。観光はもとより地方交流や大学交流などさまざまな交流を増やす。
大統領 目に見える成果があるが、まだ質的な前進が見られない。今後数年間に日ロ間の貿易高を1.5倍に、少なくとも300億ドルを目指そうという認識で一致した。
外交・安全保障協力
首相 信頼を深めるため、本年も防衛当局間や国境警備当局間で交流を進める。北朝鮮問題でも連携していく。  

 

●日露首脳会談 共同記者発表要旨 2
モスクワで22日午後(日本時間同日夜)に始まった日露首脳会談と会談後の共同記者発表の要旨は次の通り。
平和条約締結問題
安倍晋三首相 じっくりと時間をかけ、胸襟を開いて話し合った。戦後70年以上残された課題の解決は容易ではないが、やり遂げなければならない。
プーチン大統領 この問題に多くの時間を割いた。両国の多面的関係の発展により、両国国民が受け入れ可能な解決策を見いだせる。
両首脳 1956(昭和31)年の日ソ共同宣言を基礎とした平和条約締結交渉を加速させる方針で一致。北方領土問題で相互に受け入れ可能な解決策を見いだすための共同作業を両首脳のリーダーシップの下、力強く進める決意を確認。2月にドイツ・ミュンヘンで開かれる国際会議で、外相間の交渉を前進させるよう指示。
日露関係
首相 両国において、さらなる飛躍の年となるよう努力したい。
プーチン氏 会談が定期的になってきて、積極的に意見交換することができてうれしい。
経済・貿易
首相 2023年には両国の年間訪問者数をそれぞれ約10万人から倍増させ、計40万人とする目標を提示。
プーチン氏 今後数年間で両国の貿易高を1・5倍の年300億ドル(約3兆3千億円)規模に引き上げることを提案。
両首脳 北方四島での共同経済活動の早期実現に向け、共同作業を適切かつ迅速に進展させるよう関係者に指示。
人道的措置
両首脳 北方領土への元島民の航空機墓参を今年夏にも実施する方針で合意。
北朝鮮問題
両首脳 北東アジアの平和と安定という目的を共有し、連携を確認。 

 

●日露首脳会談
1月22日,安倍総理大臣とプーチン大統領が通算25回目の日露首脳会談を実施(テタテを約50分,少人数会合を約1時間,拡大会合兼夕食会を約1時間10分)。
1 平和条約締結問題
平和条約締結問題
両首脳は,胸襟を開いて率直な意見交換を行った。先週第1回目の交渉を行った両外相の報告を聞き,シンガポールでの合意を踏まえた具体的な交渉が開始され,率直かつ真剣な議論が行われたことを歓迎。その上で,2月中に,例えばミュンヘン安保会議の際に外相間の次回の交渉を行うとともに,首脳特別代表間の交渉も行い,交渉を更に前進させるよう指示した。
北方四島における共同経済活動
両首脳は,早期実現のために共同作業を着実かつ迅速に進展させるよう,事務方に指示することで一致。
元島民のための人道的措置
本年の航空機墓参を夏にも実施することで一致。
2 幅広い分野での二国間協力
防衛交流・安全保障
防衛当局間や国境警備当局間での交流を進めるとともに,麻薬を始めとする「非伝統的脅威」への対処分野における協力の裾野をさらに広げていくことで一致。
議会間交流
議員・議会間交流が双方向で活発に行われていることを歓迎し,後押ししていくことで一致。
日露経済
ハバロフスク空港への経営参画やガスプロムによるサムライ債発行に関する協力等の8項目の「協力プラン」の具体化を含め,経済分野での協力進展を歓迎するとともに,肯定的な流れを加速させることで一致。 (参考)昨年9月首脳会談以降,民間文書が約30件署名。現在民間プロジェクトは約170件超,そのうち約半数で契約等の形で具体的アクションが始動。
人的交流
本年5月に日露知事会議が9年ぶりに開催される予定であることを歓迎。安倍総理より,お互いの訪問者数を,2023年までにそれぞれ少なくとも20万人,合計40万人までに倍増させるという目標を表明し,肯定的な流れを加速することで一致。
政治対話
6月の大阪G20サミットに併せて,日露首脳会談と日露交流年閉会式を行うことで一致。
3 国際情勢
北朝鮮問題
日露両国の共通の目標である朝鮮半島の非核化に向けて率直な意見交換を行い,緊密に連携していくことを確認した。  
 
 

 

 

●日露首脳、平和条約前進で一致 領土「解決は可能」 
安倍晋三首相は22日午後(日本時間同日夜)、ロシアのプーチン大統領とモスクワのクレムリン(大統領府)で会談した。平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すと明記した1956(昭和31)年の日ソ共同宣言を基礎とした平和条約締結交渉をめぐり、2月に予定される日露外相会談などで交渉を前進させることを確認した。
両首脳は会談後、共同記者発表に臨み、首相は北方領土問題を含む平和条約締結交渉について「じっくりと時間をかけ胸襟を開いて話し合った」と強調。「解決は容易ではないが、やり遂げなければならない。両国民が相互に受け入れ可能な解決のためリーダーシップを発揮する決意を確認した」と述べた。プーチン氏も「会談は非常に建設的だった」と述べ、平和条約については「締結を目指す」と明言。領土問題などについて「解決は可能だ」と強調した。
首相とプーチン氏の会談は通算25回目。共同宣言を基礎にした交渉加速で合意した昨年11月以来、初の本格的な首脳会談となり、約3時間に及んだ。河野太郎外相とラブロフ露外相らも同席した。
今月14日の外相会談では北方領土をめぐる日露双方の歴史認識の溝の大きさが鮮明になったが、首相はプーチン氏との信頼関係をてこに日露両国民が受け入れ可能な一致点を見いだし、6月に大阪で開かれる20カ国・地域(G20)首脳会議までの大枠合意に向けて弾みをつけたい考えだ。
会談では、双方の法的立場を害さない形での北方四島での共同経済活動や、元島民の空路墓参など人道措置について具体化を急ぐことで一致した。エネルギーや医療など8項目の対露経済協力プランや防衛当局間の連携強化も確認した。 

 

●首相、北方領土問題の進展示せず 事実上2島に絞り交渉 
安倍晋三首相は22日、ロシアのプーチン大統領とモスクワで会談した。
1956年の日ソ共同宣言で日本に引き渡すと明記した歯舞(はぼまい)群島と色丹(しこたん)島の事実上2島に絞って返還交渉を進める方針で臨んだが、会談後の両首脳による共同記者発表では交渉の具体的な進展は示せなかった。
会談は約3時間。終了後の共同記者発表でプーチン氏は「双方が受け入れ可能な解決策を見いだすための条件を形成するため、今後も長く綿密な作業が必要だと強調したい」と述べた。「その課題は長期的で多方面にわたる価値の高い日ロ関係の発展だ」とも指摘した。
首相は「平和条約の問題をじっくり話し合った」と語った。だが、領土問題に関する具体的な内容は明らかにせず、「交渉をさらに前進させるよう指示した」と述べるにとどまった。
首相とプーチン氏は昨年11月の会談で、日ソ共同宣言を基礎に平和条約交渉を加速させることで合意した。日本政府の基本方針は「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」というものだが、首相や河野太郎外相は昨年11月の首脳会談以降、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)2島の扱いや4島返還をベースにした過去の合意文書の踏襲について明言を避けている。日本が日ソ共同宣言に言及がない国後、択捉を含む4島返還を交渉で持ち出せばロシアが反発するのは避けられないためで、交渉は実質的に歯舞、色丹2島を対象とする考えだ。
一方で国内向けには「方針は変わっていない」との説明を続ける構えだ。国後、択捉を含む4島返還を断念した格好になれば、元島民や首相を支持する保守層からも厳しい批判を受けかねないためだ。
首相としては返還を求める対象を事実上2島に絞り、プーチン氏との個人的な信頼関係をもとに交渉の加速化を目指している。しかし、先週始まった日ロ外相による平和条約締結交渉でも北方領土に関する歴史認識などをめぐって対立が鮮明になったばかり。22日の会談でも具体的な成果を示せなかった。今後、首相の狙い通りに進められるか不透明だ。 

 

●首脳会談後の会見から見えたプーチン大統領の思惑は? 
モスクワで行われた25回目となる日ロ首脳会談。会談後に行われた記者発表からは、プーチン大統領の思惑が透けて見えてきます。
「北方領土の主権を認めるよう求めていたロシアですが、プーチン大統領が会談後指摘した問題は安倍総理と共有したというこの点でした」(記者)
「経済分野においては、日ロ協力が前進しています。(しかし)質的な向上がまだ見られません」(ロシア プーチン大統領)
日ロ経済協力は成果は出ているが、「ロシアへもっと積極的に投資して欲しい」、そんな不満が伝わってきます。ロシアメディアの中には、経済分野をプーチン大統領が強調したのは、「北方領土の主権の問題などを避けたかったから」だという見方もあります。
「北方領土はロシアの領土だ!」
北方領土の引き渡しに対する懸念が広がる中、国内の反発が強くなればなるほど、平和条約の締結も難しくなります。
今、微妙なかじ取りが求められているプーチン大統領。6月のG20での大統領の来日の際に成果をアピールしたい安倍総理との間ではスピード感も違います。今回の会談後、大統領が「長く緻密な」と語り、慎重に交渉を進める構えをみせています。
日本が焦れば焦るほど足元を見られ、日本側に多くの妥協が強いられる懸念も出てきます。 

 

●ロシアは警戒感から慎重姿勢に
ロシアでは、北方領土を日本へ引き渡す可能性があることに警戒感が広がっていて、プーチン大統領は、交渉は急ぐべきものではないと慎重な姿勢を示しました。
「双方が受け入れ可能な解決策を目指し、長くて緻密な作業が先にあることを強調したい」(ロシア プーチン大統領)
夏に参院選を控え、6月のG20でプーチン大統領が来日する際には成果をアピールしたい安倍総理との“スピード感の違い”が出てきていて、日本側が焦れば焦るほど、ロシア側がその足元を見て、多くの妥協を強いてくるとの懸念も出てきそうです。 

 

●首相 日ロ平和条約交渉めぐり、「相互に受け入れ可能な解決策を」 
安倍総理はロシアのプーチン大統領との首脳会談を行い、北方領土の帰属を含む平和条約交渉について、「相互に受け入れ可能な解決策を見いだす」ことを確認しました。
会談はおよそ3時間にわたって行われ、終了後の共同発表で安倍総理は、プーチン大統領と平和条約交渉を加速させる考えを改めて示しました。
「相互に受け入れ可能な解決策を見いだすための共同作業を、私とプーチン大統領のリーダーシップのもとで力強く進めていく。本日、その決意をプーチン大統領と確認した」(安倍首相)
今後の交渉について安倍総理は、来月にドイツで外相間の協議などを行い、交渉をさらに前進させるよう指示したことを明らかにしました。また、日ロが進めている北方四島の共同経済活動については、早期実現のため、共同作業を迅速に進展させるよう関係者に指示したということです。
平和条約交渉を巡っては、ロシアのラブロフ外相が「北方領土のすべての島に対するロシアの主権を含め、第二次世界大戦の結果を日本側が認めることが不可欠」とけん制していました。
「双方が受け入れ可能な解決策を目指し、長くて緻密な作業が先にあることを強調したい」(ロシア プーチン大統領)
共同発表でプーチン大統領はこのように述べ、主権の問題には触れませんでした。 

 

●日ロ首脳会談「平和条約」交渉加速化確認も 長期化を懸念 
22日に行われた日ロ首脳会談で、安倍総理は、プーチン大統領と北方領土問題を含む平和条約交渉を加速化させることを確認しました。しかし、政府与党内には交渉の長期化を懸念する声も出ています。
「相互に受け入れ可能な解決策を見いだすための共同作業を、私とプーチン大統領のリーダーシップのもとで力強く進めていく」(安倍首相)
首脳会談では通訳だけを交えた「1対1」の会談も50分程度行われ、安倍総理は平和条約交渉について「率直な意見交換を行った」としています。しかし、終了後の両首脳による共同発表では、北方領土問題の具体的な進展について明らかにされませんでした。
こうしたことから、政府与党内からは、「プーチン氏は手強い」「トップ同士の関係が良いからといって領土問題を解決できるほど外交は簡単ではない」など、交渉の長期化を懸念する声も出始めています。 
 
 

 

 

●元島民らから落胆の声「先が見えない」 
22日に行われた日ロ首脳会談で、安倍総理は、プーチン大統領と北方領土問題を含む平和条約交渉を加速化させることを確認しました。北海道根室市の元島民は・・・
「具体的な目新しいものがなかった。そういう意味で残念」(千島歯舞諸島居住者連盟 宮谷内亮一根室支部長)
「はっきり言って今の段階では先が見えない」(千島歯舞諸島居住者連盟 河田弘登志副理事長)
元島民は今回の結果に落胆の色をにじませながらも、6月の日ロ首脳会談に北方領土返還の望みをつないでいます。  

 

●日ロ首脳会談 “進展なし” 元島民は落胆
22日に行われた日ロ首脳会談。山形県内に住む元島民も会談の行方に注目していたが、北方領土問題に具体的な進展は見られなかった。
22日夜、ロシアのモスクワで安倍総理とプーチン大統領の首脳会談が開かれた。両首脳は2018年11月、1956年の日ソ共同宣言をもとに平和条約の交渉を進めることに合意している。日ソ共同宣言には北方4島のうち、歯舞群島と色丹島の2島について、平和条約締結後の引き渡しを明記している。今回の会談では、2月に予定されている外相会談で平和条約の交渉を本格化させることが確認されたが、領土問題について、具体的な言及はなかった。
山辺町に住む濱田絢子さんは県内にいる元島民の1人。国後島で生まれた濱田さんは、小学2年まで島で過ごし、1947年の強制引き揚げによって母親の実家がある山形に移ってきた。今回の会談を深夜まで注目していた濱田さんの感想は「落胆」。
「領土問題は全然出てこなかったので何しに行ったのかという感じ。少しでも前に進むかと思ったがやっぱり今回も裏切られた」 さらに濱田さんは、今回の会談にあたり大きな懸念を抱いていた。それは、会談前にロシア国内で起きた領土引き渡しへの反対集会で、今後の交渉に大きな影響を与えると心配している。
「今までもサハリンなどでデモはあったが、今回は本島(モスクワ)でも行われた。ますます(解決の)ハードルが高くなった」 これは、2018年8月、濱田さんが国後島に行った際に撮った写真。望むのは、自分が生まれ先祖が眠る場所に自由に訪問できること。そのために安倍総理には強気な姿勢を求めている。
「2人で仲良くしましょうという外交では困る。4島返還でいってもらいたい。日本固有の領土であるならばとにかく頑張ってほしい」 安倍総理は6月の大阪G20サミットにあわせて計画されている首脳会談で大筋合意したい考え。 

 

●『またか』 元島民からは落胆の声 日ロ首脳会談 
日ロ首脳会談がモスクワで行われました。  領土問題で具体的な前進は見られず、元島民からは落胆の声が聞かれました。
安倍総理「戦後70年以上残された課題の解決は容易ではない。相互に受け入れ可能な解決策を見出すための共同作業を進めていく」と語りました。安倍総理とプーチン大統領はモスクワで、3時間あまりにわたって会談を行い、領土問題について、双方が受け入れ可能な解決策を目指す方向で一致しました。平和条約締結に向けて河野外務大臣とラブロフ外相との協議を進めることでも合意しましたが、領土問題については目に見える進展はありませんでした。
プーチン大統領は「細かく長い作業が待っている」と話しました。元島民からは具体的な進展がないと落胆の声が上がっています。色丹島出身の元島民、中田勇さん90歳は『進展しないと聞いて、またか難しいなと感じた。経済協力の話などで話づらかったのではないだろうか。北方領土は日本のものだ、というのは変えてはいけない。』  

 

●領土問題に進展なく 落胆の声
22日夜行われた日ロ首脳会談では、焦点となっていた北方領土問題を含む平和条約交渉に具体的な進展はなく、元島民からは落胆の声が聞かれました。
22日夜、モスクワで行われた日ロ首脳会談では、北方領土問題を含む平和条約交渉について、来月外相会談を行い、交渉をさらに加速することで合意しました。また、安倍総理大臣はおととしと去年、2回実施された北方領土への航空機を使った墓参が、ことしの夏も行うことで合意したと発表しました。しかし、焦点となっていた平和条約交渉で具体的な進展はなく、今後、難しい交渉が予想されます。
元島民
日ロ首脳会談の結果について、歯舞群島の志発島出身で今は根室市に住む福士美和子さん(89)は、「安倍総理大臣もプーチン大統領も島の返還についてはっきりしたことを言わなかったので、島が返ってくるのは難しく、私が生きている間には無理だろうなと思ってしまいました」と話しました。そして福士さんは、「四島返還が一番良いですが、まずは歯舞群島と色丹島だけでも返してもらうなど、ことし6月の首脳会談に向けて少しでも進展することを願っています」と期待していました。福士さんはNHK札幌放送局が募集した「樺太・千島戦争体験の絵」で昭和20年9月のはじめに旧ソビエト軍が島に侵攻したときの様子を絵に描きました。福士さんは、「当時はとても怖い思いをしましたが、それまでの志発島は花が咲き乱れて、海では魚やウニがとれたとてもよいところでした。気持ちとしてはすぐにでも戻りたい」と目に涙を浮かべて話していました。
国後島で生まれ、10歳ごろまで過ごした根室市の及川タカさん(82)は、「首脳会談のたびにみんな期待していると思うが、北方領土の返還が年々、難しくなっていると感じます。島が返ってくるためには日本人とロシア人が互いに行き来して、例えば日本人が島に住んでみたりするなど交流を増やすことがよいのではと思います」と話していました。
また、国後島出身で元島民などでつくる団体の根室支部長を務める宮谷内亮一さん(76)は、「去年の首脳会談で1956年の日ソ共同宣言を基礎に平和条約交渉を加速すると合意したので、今回の会談には期待していたが、目新しい内容はなく残念だった。ことし6月に日本で行われる予定の首脳会談では、平和条約を締結して領土を返還する枠組みを示してほしい。政府には、島が返ってくるのを夢見て長年返還運動の先頭に立ってきた元島民の思いに報いてほしい」と話していました。
高橋知事
高橋知事は記者会見で、「戦後70年以上一歩も進んでこなかった問題なのですんなりすぐに具体的な解決の方向性がでるとは思っていなかった。これからの交渉に大いに期待していきたい」と述べました。また、元島民による航空機墓参がことしも行われることになったことについて、「航空機墓参は複数年続いていて地元としても率直に評価したい。われわれとしては環境整備のための北方領土問題解決に向けてのアピールしていきたい」と述べました。
専門家
今回の日ロ首脳会談の結果について、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの岩下明裕教授はNHKの電話取材に対し、「平和条約の締結について実質的な中身は何もなかった。共同経済活動や経済協力についても新しい内容は見られない」と述べました。その上で、岩下教授は、政府がことし6月にも平和条約の大筋合意を目指していることについて、「ロシアは島の主権が残る形の合意にしたいという意図が見え見えで、交渉は袋小路に入り込むことになる」と述べ、今後、交渉がさらに難航するとの見方を示しました。 
 
 

 

 

●領土問題、早期妥結一致せず
.安倍晋三首相は22日午後(日本時間同日夜)、モスクワのクレムリン(ロシア大統領府)でプーチン大統領と約3時間会談した。焦点の北方領土問題をめぐっては、外相、外務次官級の交渉をそれぞれ2月に行うことを確認するにとどまり、早期妥結では一致できなかった。プーチン氏は会談後の共同記者発表で「今後、辛抱強さを要する作業が待っている」と語った。
両首脳は昨年11月、1956年の日ソ共同宣言を基礎に交渉を加速することで合意。これを受け、首相は早ければ6月のプーチン氏の来日時に大筋合意するシナリオを描いている。しかし、今回の会談で具体的な進展を示せず、実現は難しくなったとの見方が出ている。
首相は共同記者発表で「相互に受け入れ可能な解決策を見いだすための共同作業を私とプーチン大統領のリーダーシップの下で力強く進めていく」と強調。これに対し、プーチン氏はロシア国内の北方領土引き渡し反対論を念頭に「両国の世論の支持を得なければならない」と述べ、慎重に環境整備を進める必要があると指摘した。
先の外相会談で隔たりが浮き彫りとなった北方四島の歴史や主権について、日本政府は首脳会談で議論されたか明らかにしていない。
両首脳は会談で、北方四島での共同経済活動の早期実現に向け、共同作業を着実かつ迅速に進展させるよう関係者に指示。次回の外相会談は、2月にドイツで開かれる国際会議などに併せて行う。
元島民の航空機を使った墓参を今夏も引き続き行うことで合意。観光や大学交流を促進し、日ロ間の人的交流を計40万人に倍増させることでも一致した。 

 

●プーチン氏、慎重姿勢鮮明 露専門家「早期妥結ない」
22日の日露首脳会談後の共同記者発表で、ロシアのプーチン大統領は、日露平和条約締結の前提となる北方領土帰属交渉の進展には触れず、むしろ条約締結までに超えるべきハードルは高いとの認識を示した。ロシアによる対日牽制(けんせい)姿勢の強まりを反映したもので、条約締結への慎重姿勢を改めて浮き彫りにした格好だ。露専門家らも「日本が望む早期の交渉妥結は困難だ」と分析している。
プーチン氏は共同記者発表の大半を経済協力関係の発展への言及に費やした。日本との貿易の拡大を評価しつつも「まだ質的な変革は起きていない。両国協調の潜在力は完全には作動していない」と指摘し、経済関係を強める「より野心的な計画」の必要性について語った。日本に対し、さらなる貿易や投資を促す意図があるとみられる。
平和条約交渉に言及したのは共同発表の後半だった上、「安倍首相と条約締結への関心を改めて確認した」と外交辞令的な修辞に終始。今後協議すべきテーマは多岐にわたるとし、「重要なのは両国の長期的かつ全面的な発展を保証することだ。解決策は両国の国民に受け入れられるものでなければならない」とも指摘した。領土引き渡しに8割近くの国民が反対している現状や、引き渡し後の島に米軍戦力が配備される懸念などを念頭に置いた発言とみられ、交渉の長期化を示唆したといえる。
今回の会談について露メディアや専門家らは軒並み「特筆すべきことはなかった」との評価だ。パノフ元駐日ロシア大使は22日、国営ロシア通信に「ロシアは交渉妥結を急いでいない」との見解を述べた。パノフ氏はまた、日本側が模索しているとされる6月の大阪での20カ国・地域(G20)首脳会議での平和条約締結の大筋合意は「絶対にありえない」と否定した。
第三国の米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)も22日、「プーチン氏は領土紛争を終わらせるとの日本の希望を打ち砕いた」とする論評を掲載。領土交渉で日本が後手に回っているとの見方を伝えている。 
 
 

 

 

●「胸襟を開いて」押されっぱなし 日露首脳会談
1月22日、25回目となる日ロ首脳会談がモスクワで行われた。北方領土問題の解決に意欲を示してきた安倍晋三首相は「前進」「進展」と発言したが、ロシア側の強硬な態度が露見しつつある。日本側、ロシア側の発言を整理してみたい。
安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領との会談は約3時間行われた。このうち約50分間は安倍首相とプーチン氏が通訳を交えて一対一で議論をしたという。しかし、北方領土問題についての進展はまったくなかったと言っていい。会談後に行われた記者発表での安倍首相の発言には「前進」「進展」などの威勢の良い言葉がちりばめられていたものの、昨年11月の「戦後70年以上残されてきた課題を次の世代に先送りすることなく、私とプーチン大統領の手で必ずや終止符を打つ」という発言に比べるとトーンダウンは明らかだ。
あたかも「現実的な」解決策として報じられた二島返還
話は少しさかのぼる。安倍首相は北方領土問題に関し、北方四島のうち、色丹島と歯舞群島の引き渡しをロシアとの間で確約できれば、日ロ平和条約を締結する方向だと複数の政府関係者が明らかにしていた。北方四島の総面積の93%を占める択捉島と国後島の返還、また引き渡しについて安倍政権幹部は「現実的とは言えない」と述べたという。
日本政府の基本方針は「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」というものだが、「2島決着」は安倍首相の本心であり、安倍政権のはっきりした方針だろう。これまでにも「首相の本音は二島返還で十分というもの」という官邸関係者の声が報じられた(『週刊文春』2018年9月27日号)。政府関係者の声として「2島は確実に取り戻す、ということだ」「択捉、国後にも人が住んでいる。返すわけがない」という発言が報じられたこともある。
あたかも二島返還が「現実的な」解決策として進んでいるように報じられてきた。ところが、二島返還は現実的な決着でも何でもなかった。ロシア側はそんなことはまったく考えていないことがわかったのだ。
「『北方領土』と呼んでいることは、ロシアは容認できない」
ラブロフ外相 発言 / 「第2次世界大戦の結果として、主権がロシアにあると認めないかぎり、何らかの進展を期待するのは非常に難しい」 「日本の国内法で、島々を『北方領土』と呼んでいることは、ロシアは容認できないと指摘しておきます」 「(日本は)第二次世界大戦の結果を認めていない世界で唯一の国」
日ロ両国は交渉を加速させるため、外相を責任者とする新たな枠組みをスタートさせた。しかし、1月14日に行われた河野太郎外相とロシアのセルゲイ・ラブロフ外相の会談の後の記者会見でラブロフ氏は日本側を強く牽制。日ロ両国の溝が鮮明となった。ラブロフ外相は16日の会見でも日本が北方四島の領有権を主張していることについて「国連憲章上の義務に明白に違反している」と強く批判した。
河野外相「手応えはあった」と言うが、共同記者会見もなし
北方領土はロシアに不法占拠されたものという歴史認識に立つ日本としては、ロシアの「正当な獲得」は当然認められない。ロシアの認識を認めるのであれば、尖閣諸島や竹島の領土問題にも影響しかねない。
河野氏は「立場に違いはあるものの、お互い主張をしっかり議論した」「手応えはあった」と強調したが、共同記者会見は行われなかった。ロシア側は日本側が開催を拒否したと批判している(テレ朝news 1月14日)。なお、ラブロフ氏は昨年12月にも北方領土をロシア領と認めることが平和条約締結交渉の前提だという認識を示したが、河野氏は記者会見で一切の質問を受け付けずに「次の質問どうぞ」と4回繰り返して回答を拒否した。
北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授の宇山智彦氏は「『ラブロフ外相が厳しい発言をするのは牽制で、大統領は別だ』と言う人もいるが、まったくの希望的観測でしょう。単に言い方が違うだけで、立場は同じです」と指摘している。
頻出するフレーズ「胸襟を開いて」
安倍首相 発言 / 「モスクワでは、じっくりと時間を取ってプーチン大統領と胸襟を開いて話し合い、平和条約交渉をできるだけ進展させたい」 「平和条約の問題をじっくりと時間をかけて胸襟を開いて話し合った」
菅官房長官 発言 / 「胸襟を開いて率直な意見交換を行った」
ロシア側の強硬姿勢が鮮明になった上で臨んだ日ロ首脳会談。上記の首相発言のうち前者はロシアへ出発する前に首相官邸で記者団に語ったもの、後者は首脳会談後の共同記者発表での発言。いずれも具体的なことは何も言っていない。プーチン氏との親密さのアピールに終始しているように見える。菅義偉官房長官も23日の記者会見で、安倍首相にあわせる形で「胸襟を開いて率直な意見交換を行った」と述べたが、北方領土問題の交渉については「どのような論点が取り上げられたかは答えは差し控える」と詳しい言及を避けた。
プーチンがこだわる経済協力拡大
プーチン大統領 発言 / 「今後数年間にロシアと日本の間の貿易高を1・5倍、300億ドル、少なくとも300億ドルを目指そうという認識で合意しました」
一方、プーチン氏は共同記者発表で具体的に日露両国の経済関係をさらに発展させることについて詳しく言及。歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すとした1956年の日ソ共同宣言を基礎に薦める平和条約交渉については、経済面を含めた日露関係の進展が重要だという認識を示した。話の順序も経済協力拡大の話題のほうが先で、平和条約締結の見通しについては後。飛躍的な経済協力拡大が平和条約締結の前提条件のようだ。
プーチン氏によると、昨年1月〜11月期では日ロ貿易取引高は18%も増えており、ほぼ200億ドルに達したという。今後数年間の間に、その1.5倍である300億ドル(約3兆3000億円)を目指そうというのだ。2017年の日ロ貿易は、輸出が6737億円(前年比21.5%増)、輸入が1兆5507億円(前年比26.3%増)だった(財務省貿易統計より)。なお、昨年の日本の貿易収支は3年ぶりの赤字で、赤字幅は1兆2000億円だったことが明らかになっている(朝日新聞デジタル 1月23日)。外務省は日ロ両国間の貿易拡大が首脳間の「合意」であることを否定した。
また、プーチン氏は日本のロシアへの投資が累積で22億ドル(約2400億円)に達したとも語っている。安倍首相は2016年12月に「8項目の経済協力」を提案し、3000億円の経済協力を約束している(日本経済新聞 2016年12月16日)。このときは「ロシアが強く求める経済協力をテコに北方領土交渉を前進させる狙い」と報じられていたが、現時点で北方領土交渉はまったく前進しているように見えない。
共同通信は「ロシア大統領、2島返還を示唆」と見出しを打った記事を配信したが、記事には「日本からの経済協力拡大など両国関係の飛躍的発展を条件に、北方領土問題を2島返還で決着させる用意を示唆した」と記されていた(1月23日)。ロシアの有力紙「コメルサント」は22日の電子版で「首脳会談は成果がなかった」とし、安倍首相に「緊急ブレーキがかかった」と報じた。
プーチンは「南クリル」、安倍首相は「四島」と
プーチン大統領 発言 / 「南クリルの島々での共同経済活動について話し合いました。これは海産物の養殖、風力発電、ゴミの減量、温室野菜栽培の開発などです」
共同記者発表での言葉。安倍首相の目の前で、プーチン氏ははっきりと「南クリルの島々」と発言した。逆に、安倍首相はプーチン氏の前でロシア側が嫌う「北方領土」という言葉を使わず、「四島」とのみ表現した。
ロイターは共同記者発表を報じる記事で、プーチン氏が日本との領土問題のいかなる解決にもロシア国民の支持が必要になると指摘したと報じている(1月23日)。ロシアの世論調査では国民の大部分が北方領土の返還に反対しており、今回の日ロ首脳階段の前にはモスクワの日本大使館前で抗議活動が行われた。今後、北方領土問題の解決と日ロ平和条約締結に向けては、ロシア国民の気持ちを和らげるほどの経済協力が必要になるとプーチン氏は匂わせているのだろう。
日ロ関係専門家のジェームズ・ブラウン氏は「ロシアの指導者は、この論争を活発な状態に保ち日本への影響力を維持することが役に立つのを知っている」と指摘した。
曖昧な言葉で締めくくられた会見
安倍首相 発言 / 「相互に受け入れ可能な解決策を見いだすための共同作業を私とプーチン大統領のリーダーシップのもとで力強く進めていく」
安倍首相は経済協力以外の具体的な「解決策」は示さないまま、とにかく「力強く進めていく」というアピールで共同会見を締めくくった。
九州大学の岩下明裕教授(ロシア外交)は「安倍首相がいよいよ『地獄の1丁目』に立ったな、という印象です」と述べている。軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏は「繰り返されてきた領土返還を期待させる報道は、すべて『誤報』だったわけです」と断じた。
もはや北方領土問題の交渉について、日本側から発信される「前進」「進展」「力強く」という言葉は信じないほうがいいのかもしれない。 
 
 

 

 

●日露外相会談・北方領土交渉の大失敗を必死で隠す安倍政権 1/15
安倍首相が「北方領土問題を解決して、平和条約を締結する」「戦後日本外交の総決算をおこなっていく」と年頭記者会見で宣言して、わずか約10日。昨日開催された河野太郎外相とロシアのラブロフ外相による日露外相会談では、北方領土問題の解決どころか、後退・悪化している現状が露わとなった。
ラブロフ外相は会談後の単独記者会見で、「ロシアの南クリル(北方領土のロシア側呼称)での主権を含め、日本側が第2次世界大戦の結果を認めるのが第一歩だ。この点で進展がないと、ほかの問題で前進を期待するのは非常に難しい」(朝日新聞15日付会見要旨)と発言。さらに、日本側が「北方領土」という呼称を使うことにも、「日本が国内法で『北方領土』と規定していることは受け入れられない」と言及、日本の国内法の改正を求めるようなことまで口にしたのだ。
安倍首相は昨年11月の日露首脳会談後「日ソ共同宣言が基礎」と強調し、マスコミに対して政府関係者も「2島は確実に取り戻す、ということだ」と話すなど、あたかも歯舞、色丹の2島返還に向けて前進しているかのように印象付けてきたが、ところがどうだ。2島返還以前に“主権は我々にある”と念押しされた挙げ句、“北方領土と呼ぶな”とまで言われてしまったのだ。
そもそも、この外相会談後は共同記者会見すらおこなわれず、そのためラブロフ外相は単独会見を開いた。この件については、外相会談前の13日にザハロワ報道官がロシア国営放送のテレビ番組で「(共同記者会見を)日本側が開かないように頼んできた」と発言。ラブロフ外相も単独会見の際に「日本側からの提案で、共同記者会見を本日はやらないとの認識にいたりました」「河野外相は後ほど、皆さんにブリーフィングをするでしょう」(ハフポスト15日付)と語っていた。
これに対し、河野外相はTwitterで〈会談後それぞれが個別に記者会見することで最初から合意している〉と反論しているが、共同会見を開いていれば、“北方領土と呼ぶな”などという内政干渉のような発言を一方的に許すことにはならなかっただろう。
しかも、だ。河野外相が会談後に記者たちに語った内容は、ラブロフ外相の主張と大きく食い違っているのだ。
河野外相は会談後、記者陣にこう述べた。
「首脳間の合意を受けて、しっかりと前へ進めていこうという手応えを感じた」 「交渉のなかで我々は領土問題を含め、日本側の考え方を明確に伝えた。ロシア側も考え方を具体的に伝え、真剣かつ率直なやり取りだった」
さらに河野外相は「ラブロフ外相が発言されたことにいちいちコメントはいたしませんが、日本側として、明確にすべてのことについて日本側の主張をお伝えできたと思う」と説明した。
だが、一方でラブロフ外相は単独会見で、このように話したのだ。
「『第二次大戦の結果、南クリール諸島はロシア領になったことを日本が認めない限り、領土交渉の進展は期待できない』と再度、伝えた。反論は聞いていない」 「河野氏に『北方領土という呼称はロシアには受け入れがたい。日本の国内法に北方領土という呼称が規定されている問題をどう解決していく考えがあるか』と伝えた。島の主権をめぐる問題については議論されなかった」
ロシア側の主権を認め「北方領土」という呼称も変えるよう要求したが、議論も反論もされなかった──ラブロフ外相は、そういっているのだ。一体これのどこが「明確にすべてのことについて日本側の主張をお伝えできた」という話になるのか。
しかも、こうしてラブロフ外相が単独記者会見で踏み込んだ発言をおこなっていた最中、河野外相は日本大使館で〈会談内容を記者団にどう説明するか協議〉(朝日新聞15日付)していたという。そして前述の通り、河野外相は記者陣に対して「真剣かつ率直なやりとり」などと言いつつ、「内容についてはお答えはしない」と繰り返したのである。
ようするに、ラブロフ外相による“日本側は反論しなかった”という発言を、河野外相は否定することさえできず、説明を拒否することで逃げてしまったのだ。
河野外相といえば、昨年12月11日の定例会見において、記者から受けた日露関係の質問をすべて「次の質問どうぞ」で押し通し、何ひとつ答えなかったことが批判を浴びたばかり。しかし、今回は河野外相ひとりの意志ではない。
あたかも北方領土問題を自分たちが解決できるかのように宣伝してきた安倍政権にとって、今回の外相会談は、問題解決なんて夢のまた夢であり、ロシアに手玉に取られているだけ、という現実をつきつけられるものだった。しかも、相手国の外相にその事実を明言されたため、政権としては、とにかく頬被りしてでも必死でごまかすしかなかったということだろう。
実際、菅義偉官房長官も本日の会見で、ラブロフ外相が“北方領土がロシアの主権下にあると認めることが平和条約交渉の前提”と語ったことを質問されると、「協議内容は対外的に明らかにしないことでロシア側と合意している」と回答。当のロシア側が明かした中身について質問しているのに、こんな説明拒否をするとは、政府首脳としてありえないだろう。
「真剣かつ率直なやり取りをした」などという薄っぺらい説明でその場をしのぎ、強弁で自分たちの失態をなんとか覆い隠そうと必死の安倍政権──。しかし、政権をまともに批判できないマスコミによって、こんなありえない言い訳、ゴマカシが通用してしまっているのが現実だ。
いったいこんな茶番がどこまで続くのか。来週22日には、モスクワで安倍首相とプーチン大統領による日露首脳会談が開かれる。この首脳会談で、安倍外交の大失敗が白日の下に晒されるのか、それともまたぞろメディアの忖度報道によって再び嘘が撒き散らかされるのか。要注目だ。  

 

●河野外務大臣会見 1/25
日韓関係
(記者質問) 日韓関係について2点伺います。先日の日韓外相会談で徴用をめぐる問題で、韓国側は日韓請求権協定に基づく協議に応じるかどうか明らかにしませんでした。こうした韓国側の対応について受け止めをお願いします。
(河野外務大臣) 現に紛争が起きているのは明白でございますので、協定に基づいて粛々と韓国側が協議に応じるものというふうに私(大臣)は考えております。
もう1点同じく日韓なのですが、同じ会談の中で康京和(カン・ギョンファ)外相が、自衛隊が韓国軍の艦艇に対して低空で威嚇飛行をしたとして遺憾の意を表明されました。さらに韓国側は昨日5枚の画像を公開して 、正当性を主張されているのですが、こうしたことに対する受け止めと、韓国政府に求めたいことをお願いします。
韓国側からおっしゃったような事実はないということを申し上げました。この件については防衛省の方が対応されると思いますが 、防衛省はおそらく情報を公開して、この問題については防衛省としてはそれで打ち止めというような話だったんだろうと思います。外務省としてそこは、対応は防衛省にお任せをするとして 、外交的に何か防衛省をバックアップしなければいけないことが生ずれば、それは外務省もしっかり対応していきたいと思います。
米朝関係
米朝関係について伺います。先週、米朝交渉に動きがあり、2月末に改めて首脳会談を行うと伝えられています。昨年の6月の会談では具体的な非核化の道筋というところには至りませんでしたけれども 、2回目の会談に期待することがあればお願いします。
2回目の会談が、現実にどのように進むか推移を見守りたいというのが現時点での考えです。
今のに関連して、米朝の首脳会談前にこれまで連携してきた日米韓の枠組みで、何か意思疎通を図りたいお考えはありますかということと、いまの徴用工やレーダーなどの問題が 、北朝鮮での日韓の連携に影響を与えることはないでしょうか。
ダボスでポンペオ長官と会談をし、あるいは一緒にG7の外相で食事をしようという話がありましたが 、シャットダウンの影響でアメリカ側から代表団が来られなくなりましたので、それに変わる電話会談を日米で行いました。今後も引き続き日米で連携をしていきたいと思っております。 また 、康京和長官との会談の中で、北朝鮮の問題について、日米韓でしっかり連携をしていく必要があるというところの認識は一致いたしましたので、必要に応じて日米韓についても外相会談を行っていくことになろうかと思います。
日露首脳会談
2点お伺いします。1点目は日露の関係についてです。大臣も同席された日露首脳会談がありましたが、その後の記者発表で、プーチン大統領は双方が受け入れ可能な条件を見つけるために長く注意深い作業は必要と 、安倍総理も簡単、容易ではないけれども、双方受け入れ可能な形を探っていくと意欲を示されていますが、交渉責任者の大臣としては、今後の交渉はどのような道のりになると考えられるのでしょうか。
両首脳がおっしゃったことに、特に付け加えることはございません。
ベネズエラ情勢
もう1点、ベネズエラの関係でお伺いします。野党の国会議長が暫定大統領への就任を宣誓して、アメリカなど承認する動きが相次いでいますが、日本の立場、大臣のお考え・受け止めをお願いします。
ベネズエラの国民がおそらく200万人、あるいはそれ以上、国内で生活できず、周辺国に避難せざるを得ない状況になっていることに対して 、日本としては早急な状況の改善・是正を求めたいと思います。日本としてこの難民、避難民を受け入れている周辺国と連携をし、また可能な限りの支援を提供したいというふうに思っております。ベネズエラの政局については 、憲法に則った民主主義が早急に回復されるべきと考えておりますので、そのような事態の収拾に努めていただきたいというふうに思っております。
北朝鮮の非核化プロセス
米朝の関連ですが、日本政府としては非核化プロセスでCVIDが必要だということ、そして、非核化に段階的措置は採るべきでないということ、この2点については変わりはないという理解でよろしいでしょうか。
すべての大量破壊兵器及びあらゆる射程のミサイルのCVIDが必要であるという認識は、日米で完全に共有をしております。非核化のプロセス 、これはいきなり全部同時にやるというのは物理的にも不可能でしょうから、さまざまなプロセスはあろうかと思いますが、制裁の解除についてはしっかりとした行動を北朝鮮がとった上で 、制裁については検討する、これも日米で考え方は共有しておりますし、国際社会も全く同じというふうに考えております。
2月の日露外相会談
先日の日露首脳会談についてお聞きします。首脳会談のあとの共同記者発表で、総理が次回の外相会談に触れながら、交渉を前進させることを指示したとおっしゃっていました。2月に次回の外相会談が予定されていますが 、その外相会談にどのような姿勢で臨まれるか、それとどのような成果を得たいと考えておられるかについてお願いします。
次回、ミュンヘンの安保会議の最中に平行して外相会談を行おうということで一致をいたしましたので 、そこで会談が行われることになろうかと思います。
海上自衛隊哨戒機飛行
低空飛行の問題について伺います。レーダー問題について、外務省は積極的に対応したと考えていますが、今回の低空飛行の問題は、防衛省に任せるという、外務省が対応しないようにする理由はなんですか。
このレーダーの照射の問題は技術的な問題でございますから、これはもう防衛省、国防部でしっかりとやっていただくということで 、防衛省に対応していただいておりましたが、防衛省も先般、把握している事実関係を公表し、これで最終的であるというような話をされておりました。外務省としてとくに付け加えることはございませんが 、今後、何か外交的に対応する必要が生じた場合には、外務省として防衛省をバックアップしてしっかり対応していきたいと思います。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 

 



2019/1
 

 

●北方領土 
北方領土とは、日本の北東端に位置する歯舞群島(はぼまいぐんとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)のことです。
歯舞群島は、北海道根室半島の納沙布岬(のさっぷみさき)の沖合3.7kmから北東方に点在する小島嶼、すなわち貝殻島(かいがらじま)、水晶島(すいしょうとう)、秋勇留島(あきゆりとう)、勇留島(ゆりとう)、志発島(しぼつとう)、多楽島(たらくとう)等の島々から成っています。
色丹島は、歯舞群島の北東方22kmに位置しています。歯舞群島と色丹島は、大昔、根室半島と地続きでしたが、土地の陥没などによって離れ島になったといわれています。
国後島は、根室半島と知床半島との中間、北海道本島の沖合16kmの地点から北東方に位置する全長122kmの島です。択捉島は、国後島の北東方22.5kmに位置する全長204kmの島です。 
松前藩の千島統治
松前藩の記録
千島列島には、もともと、アイヌと呼ばれる人々が住んでいました。江戸時代、北海道唯一の藩として隆盛を誇った松前藩の「新羅之記録」によれば、1615年(元和元年)から1621年(元和7年) 頃、メナシ地方(北海道根室地方)のアイヌの人々が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み込み、松前へ来て交易を営んでいたと記録されています。
正保御国絵図
1644年(正保元年)、幕府は、諸藩から提出させた地図に基づいて、日本の全領土を収めた「正保御国絵図」を作りました。この時、松前藩が幕府に献上した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が、その名を付して描かれています。
松前藩の幕府への上申書
また、1715年(正徳5年)、松前藩主は、幕府への上申書の中で「北海道本島、千島列島、カムチャツカ、樺太は松前藩領で自分が統治している。これらの地域には、アイヌ人がそれぞれ住み酋長がいるが総支配は松前藩が行っている。」と報告しています。松前藩は、はじめは厚岸(あっけし)を中心にして交易を行い、キリタップや根室のノツカマップへと交易の場所を広げていきました。1754年(宝暦4年)には、国後島に「場所」を開き、択捉島、得撫(うるっぷ)島にまで及んで交易を行っていました。  
ロシアの南進
ロシアの進出
ロシアは、16世紀から18世紀にかけて、国の勢いを伸ばそうと図り、はじめはウラル山脈を越えてシベリアに進出し、南方をめざしましたが、清国に妨げられたため、目を東に転じました。当時シベリアは毛皮の産地でしたので、これを求めてさかんに東へ進出するようになったのです。
フリース船長の記録
1643年(寛永20年)、インドネシアのジャカルタ駐在のオランダ総督が派遣したマルチン・ド・フリース船長が得撫島に上陸しました。このときのフリース船長の航海日誌や地図によって、千島列島の所在が初めてヨーロッパに紹介され、択捉島はスターテンランド(国家島の意)、得撫島はカンパニースランド(会社島の意)と命名されました。
しかし、このとき作成された地図では、千島列島の一部が示されたにすぎず、また、カンパニースランドをアメリカ大陸の一部であると誤認するような有様でした。
ロシアの千島探検
ロシアが初めて千島列島を探検したのは、1711年のこととされています。コサックの反乱者コズィレフスキーら2人が千島列島の占守(しゅむしゅ)島に上陸し、島の住民と戦ってこれを征服し、翌年には、幌筵(ぱらむしる)島も征服しました。また、1713年には温祢古丹(おんねこたん)島等を襲撃し、これらの島々を調査して帰国しました。
また、ピョートル大帝(在位1682-1725)は東方に関心を持ち、その死の直前に海軍大佐ベーリングに探検を命じました。これを受けて探検隊が組織され、シベリアやカムチャツカ、アメリカ大陸等へ派遣されました。1738年から1742年にかけて日本近海を調査したシュパンベルグ探検隊は、本州にまで到達しましたが、濃霧のため、千島列島の正確な調査をすることはできませんでした。
江戸幕府の千島調査
幕府が初めて調査隊を派遣したのは、1785年(天明5年)のこととされています。工藤平助がロシアの情報をまとめた「赤蝦夷風説考」を幕府に提出し、これに興味を持った老中田沼意次が調査隊を派遣しました。1786年(天明6年)の調査隊には最上徳内らも加わり、このとき徳内が書いた「蝦夷草子」には、徳内らが国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査したこと、得撫島に上陸して得撫島以北の諸島の情勢も察知したことなどが記されています。
ラクスマンの来航
1792年(寛政4年)、エカテリナ2世の命を受けたロシア人、アダム・ラクスマンが、カムチャツカに漂着した日本人、大黒屋光太夫ら3名を同行して根室に入港し、ロシア皇帝の国書をもって通商を求めてきました。 これに対して、幕府の老中松平定信は、鎖国という国法を変えることはできないとして、松前藩を通して次のように回答しました。
• ロシアの国書は受けとれない。
• 江戸への来航は許可できない。
• 漂流民の送還については感謝する。
• 通商の申し込みは長崎で行う。
このように、ラクスマンは目的を達成できませんでしたが、日本の様子や幕府の外国に対する方針などが、ロシア本国へ伝えられました。 
千島の開拓
江戸幕府の巡察隊の派遣
ラクスマンの来航などロシアの南下の動きに対して、幕府は、国防上の必要から、千島・樺太を含む蝦夷地を幕府直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)4月、180余名の大規模巡察隊を蝦夷地に派遣しました。このとき、支配勘定近藤重蔵の班は、最上徳内らと国後、択捉を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた国土標柱を建て、この年の暮に江戸に帰任しました。
漁場・航路の開拓
翌1799年(寛政11年)から1800年(寛政12年)にかけて、近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らとともに再び国後島、択捉島に渡り、本土の行政のしくみをとりいれた郷村制をしいたり、漁場を開いたり、島々への航路を開いたりしました。高田屋嘉兵衛が自分の持ち船「辰悦丸(しんえつまる)」に乗り、国後島と択捉島の間の航路を開き、択捉島に17か所の漁場を開いたのもこの頃です。また、幕府は、択捉島以南の島々に番所を設け、外国人の侵入を防ぐために役人を常駐させました。1801年(享和元年)からは、南部藩と津軽藩の兵、各100余名が守備に当たりました。 
国境の画定
千島をめぐる争い
ロシアの南下政策が強められる一方で、幕府の警備が進められるにおよび、両国の間にはこの地方をめぐって争いや事件が起きるようになりました。1804年(文化元年)、日本との通商を求めて、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが、幕府とラクスマンとの約束を頼りに長崎に来航しました。しかし幕府がこれを拒否すると、レザノフは部下に命じて樺太や択捉島等で日本人に暴行を加えたり、日本船を襲って火を放ったりしました。これらの行為に対して、幕府は守備の立て直しを図り、ロシア船が近づいたら打ち払うことを命じました。1811年(文化8年)、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島の泊に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送、拘禁されました。ゴローニンを取り戻すために、副艦長リコルドは努力を続けましたが、交渉は難航しました。そのため、リコルドは報復として、折から国後島付近を航行中の日本船を襲い、幕府御雇船頭高田屋嘉兵衛を捕らえました。捕らえられた高田屋嘉兵衛は、なんとか日ロ両国の紛争を解決して和議を図ろうと努め、その奔走と斡旋によって、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換釈放がなされました。この事件をきっかけとして、両国は国境を決めるための話し合いを始めることとなりました。
日ロ国境の確定
1853年(嘉永6年)、ロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督に訓令を出し長崎に派遣し、幕府に対し通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れました。プチャーチン提督はその年の11月下旬まで長崎に滞在しましたが、交渉はまとまらず、翌1854年(嘉永7年)に再び来航して交渉が行われましたが、それでも交渉はまとまりませんでした。1855年(安政元年)2月、交渉の場を下田(静岡県)に移して交渉を続けた結果、ついに2月7日に「日本国魯西亜国通好条約」が調印され、日ロ間の国境が画定しました。この条約によって、両国の国境は択捉島と得撫島の間に引かれ、択捉島から南の島々は日本の領土、得撫島から北の島々はロシアの領土と決まりました。しかし、樺太については、両国とも互いに主張をゆずらなかったため、従来どおり両国民の雑居地として、国境を決めないままとなりました。 
樺太千島交換
樺太での紛争
明治政府が誕生して新しい時代を迎えた1869年(明治2年)、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は郡制の中に組み入れられました。樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
千島樺太交換条約の締結
このような現状を打破するため、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
得撫島から北の島々の開発
その後、内政が充実するにしたがって、北の地域の開拓や警備も進められていきました。しかし、色丹島、国後島、択捉島には村役場が置かれ、行政組織もはっきりするようになりましたが、得撫(うるっぷ)島から北の島々には村は置かれなかったため、開発は遅れがちでした。このことを心配した郡司成忠(ぐんじしげただ)は、1893年(明治26年)、外国から千島列島を守るとともに、開発を進めようと考え、千島報效義会(ちしまほうこうぎかい)を興しました。そして、占守(しゅむしゅ)島、捨子古丹(しゃすこたん)島、幌筵(ぱらむしる)島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みました。しかし、捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員病死するという結果になり、北千島の自然の厳しさと、開拓の困難さがわかりました。そして、1904年(明治37年)に日露戦争が始まり、多くの隊員が引き揚げてしまったため、失敗に終わりました。
日露講和条約(ポーツマス講和条約)の調印
日露戦争は、1904年(明治37年)2月に始まり、翌年8月にアメリカのルーズヴェルト大統領の斡旋によってポーツマス講和会議が開かれるまで、18か月にわたって日本とロシアの間で戦われました。1か月に及び交渉が行われた結果、1905年(明治38年)9月5日に「日露講和条約(ポーツマス講和条約)」調印、同年10月16日に批准され、11月25日にワシントンで批准書が交換されました。この条約によって、樺太の北緯50度より南の部分は、ロシアから日本に譲渡されました。 
ソ連の占拠
日ソ中立条約の破棄
1941年(昭和16年)、日本はアメリカやイギリスを相手に戦争を始めました。緒戦こそ日本優勢で戦いが進められましたが、しだいに日本の敗戦の色が濃くなってきました。1945年(昭和20年)4月5日、ソ連のモロトフ外相は、佐藤駐ソ大使に対し、1941年(昭和16年)4月25日に日ソ両国で批准した「日ソ中立条約」の不延長を通告してきました。そして、同年8月8日にモロトフ外相は、クレムリンに佐藤駐ソ大使を呼び、8月9日から日本と戦争状態になることを通告し、宣戦布告しました。佐藤駐ソ大使は、宣戦布告を直ちに東京に打電しましたが、この公電は日本に到着していませんでした。そのため、日本政府はソ連の宣戦布告をすぐに知ることができませんでした。
ソ連軍の満州・樺太侵攻
宣戦布告がまだ日本政府に達していない8月9日未明、ワシレフスキー将軍の率いる160万のソ連極東軍は、ソ連と満州の国境、モンゴル、ウラジオストク、ハバロフスクの3方面から総攻撃を開始しました。これは、「日ソ中立条約」の有効期限内(1946年4月25日失効)のことでした。また、樺太では、バーツロフ大将の指揮する約35,000人が、8月11日に北緯50度の国境を越えて侵入したため、約20,000人の日本軍と戦闘になりました。8月14日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏しました。
ソ連軍の千島侵攻
8月16日にグネチコ将軍の指揮するソ連軍がカムチャツカ方面から行動を開始し、8月18日には占守(しゅむしゅ)島に上陸、約25,000人の日本守備隊と交戦しました。しかし、日本軍は北部方面軍司令部の命令により交戦を中止し、8月23日に日ソ両軍現地停戦協定を締結し、武器をソ連軍に引き渡しました。その後も、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月31日までに得撫(うるっぷ)島の占領を完了しました。
ソ連軍の北方領土占領
また、ソ連軍は、8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島、色丹島に達し、9月3日には歯舞群島にまでおよび、9月5日までにことごとく占領しました。なお、9月2日には、東京湾上の戦艦「ミズーリ」甲板で、ソ連代表も参加して降伏文書の調印式が行われました。翌1946年(昭和21年)2月2日、ソ連は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」を発し、北方四島を自国領に編入してしまいました。島で生活をしていた人々の中には、北海道本島との連絡が途絶えてしまったため不安にかられ、危険をおかして脱出した人もいました。住み慣れた故郷を捨てきれず島に残った人々も、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけて、強制的に日本本土に引き揚げさせられました。  
日ソ国交の回復
サンフランシスコ平和条約
1951年(昭和26年)9月4日、ソ連を含む52か国が参加してサンフランシスコ講和会議が開催されました。そして、9月8日に、日本と、ソ連等を除く48か国との間で「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」が署名され、翌1952年(昭和27年)4月28日に発効されました。これにより日本は主権を回復し、国際社会へ復帰することとなりました。同条約第2条(C)では、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」と規定されています。このサンフランシスコ講和会議において、日本の吉田全権は、歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成するものであることはもちろん、国後、択捉両島が昔から日本領土だった事実について会議参加者の注意を喚起しました。また、米国のダレス全権は、ポツダム降伏条件が日本及び連合国全体を拘束する唯一の講和条約であること、したがって、いくつかの連合国の間には私的了解がありましたが、日本も他の連合国もこれらの了解には拘束されないことを表明 しました。
日ソ国交の回復
「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」への署名を拒否したソ連と個別に平和条約を結ぶため、1955年(昭和30年)6月からロンドンにおいて、日ソ国交調整交渉が日本の松本全権とソ連のマリク全権との間で行われ、翌1956年(昭和31年)3月までに23回の会談が行われました。しかし、領土問題以外の交渉ではかなりの進展をみましたが、領土問題では、ソ連は、歯舞、色丹について返還の意向を示したものの、それ以上は譲らず無期限の休会となりました。
同年7月31日から場所をモスクワに移して、日本側全権の重光外相、ソ連側全権のシェピーロフ外相との間で第2次交渉が 行われましたが、またも北方領土問題で行き詰まりました。同年9月7日、米国政府は、日ソ交渉に対する米国覚書の中で「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した。」と日本の立場を支持しました。
日本政府はこれまでの交渉の経過に鑑み、領土問題について意見の一致をみることは困難であると判断し、鳩山首相は、同年9月11日付けで「この際領土問題に関する交渉は後日継続して行うことを条件として、両国間の戦争状態終了、大使館の相互設置、抑留者の即時送還、漁業条約の発効、日本国の国際連合加盟に対するソ連邦の支持の5点について、あらかじめソ連邦の同意が得られれば両国間の国交正常化の実現のため交渉に入る用意がある」との主旨の書簡をブルガーニン議長に送り、これに対して、ブルガーニン議長は「この際平和条約を締結することなく日ソ関係の正常化に関する交渉をモスクワにおいて再開する用意がある」との書簡を同年9月13日付けで送りました。
この往復書簡の後、同年9月29日の「松本・グロムイコ書簡」によって、領土問題を含む平和条約締結に関する交渉は両国間の正常な外交関係の再開後に継続されることが合意成立しました。これを受けて、戦争状態の終結と国交回復を図るための交渉に切り替えられ、同年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」が署名(同年12月12日発効)され、日ソ間に国交が回復しました。
この共同宣言第9項では、「両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と規定されています。
北方領土問題
北方領土問題とは、第二次世界大戦の末期、日本がポツダム宣言を受諾し、降伏の意図を明確に表明したあとにソ連軍が北方四島に侵攻し、日本人島民を強制的に追い出し、さらには北方四島を一方的にソ連領に編入するなどし、ソ連が崩壊してロシアとなった現在もなお、北方四島を法的根拠なく占拠し続けていることを言います。北方領土問題の解決は、日ロ両国間の最大の懸案事項です。日本政府は、北方四島の帰属の問題を解決してロシアと平和条約を締結することにより、日ロ間に真の友好関係を確立するという方針のもと、粘り強くロシア政府との領土返還交渉を行っています。 

 

●北方領土問題 1
北方領土問題とは
北海道の北東洋上に連なる歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島及び択捉(えとろふ)島の北方領土は、日本人によって開拓され、日本人が住みつづけた島々です。これら北方四島には、1945年(昭和20年) 8月の第二次世界大戦終了直後、ソ連軍により不法に占拠され、日本人の住めない島々になってしまいました。非常に悲しいことです。
北方四島は、歴史的にみても、一度も外国の領土になったことがない我が国固有の領土であり、また、国際的諸取決めからみても、我が国に帰属すべき領土であることは疑う余地もありません。
北方領土問題とは、先の大戦後、70年以上が経過した今も、なお、ロシアの不法占拠の下に置かれている我が国固有の領土である北方四島の返還を一日も早く実現するという、まさに国家の主権にかかわる重大な課題です。
内閣府は、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島早期返還の実現を目指して、外交交渉を支える国民世論の結集と高揚のための広報・啓発の充実、政府と民間が一体となった返還要求運動の全国的な発展・強化を図るとともに、北方四島との交流の推進など、北方領土問題解決のための諸施策を推進していきます。
北方領土問題に関する基本的な考え方
(1) 我が国の対露外交の基本方針
(イ) 平和条約締結問題
日露関係の最大の懸案は平和条約締結問題である。我が国固有の領土である北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するという一貫した基本方針の下、粘り強い交渉を継続する。
(ロ) 日露行動計画
平和条約交渉にも資するものとして、「日露行動計画」を着実に実施し、幅広い分野で協力を進める。
(注)「日露行動計画」の6つの柱:(1)政治対話の深化、(2)平和条約交渉、(3)国際舞台における協力、(4)貿易経済分野における協力、(5)防衛・治安分野における関係の発展、(6)文化・国民間交流の進展
(2) 北方領土問題についての政府の基本的立場
(イ) 歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島からなる北方四島は、いまだかつて一度も外国の領土となったことがない我が国固有の領土である。我が国としては、我が国固有の領土である北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するという一貫した基本方針の下、粘り強い交渉を継続する。
(ロ) 1993年の東京宣言以降、日露間においては、「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という共通の交渉指針を繰り返し確認している。
同宣言は、北方領土問題を、(1)歴史的・法的事実に立脚し、(2)両国の間で合意の上作成された諸文書、及び(3)「法と正義の原則」を基礎として解決するという明確な交渉の指針を示している。
(ハ) 北方領土問題の解決に当たって、我が国としては、(1)北方四島に対する我が国の主権が確認されることを条件として、実際の返還の時期、態様については、柔軟に対応する、(2)北方領土に現在居住しているロシア人住民については、その人権、利益及び希望は、北方領土返還後も十分に尊重していく、こととしている。
返還要求の根拠
(1) 歴史的事実
1.北方領土にはかつて外国人が定住した事実がなく、また外国の支配下にあったこともなく、18世紀末からは江戸幕府の直轄地として日本人の手によって開拓された。
2.この事実を踏まえて、1855年(安政元年)に締結された日魯通好条約においては、日露国境を択捉島と得撫(うるっぷ)島との間に設定することとした。
3.日露国境の再編をした1875年(明治8年)の樺太千島交換条約では、樺太の一部に対する権利を譲り渡し、得撫から占守(しゅむしゅ)に至る18の島(千島列島=クリルアイランズ)の領土権を取得した。
(2) 国際法上の根拠
1.連合国は、第二次大戦の処理方針として領土不拡大の原則を度々宣言しており、ポツダム宣言にもこの原則は引き継がれている。この原則に照らすならば、我が国固有の領土である北方領土の放棄を求められる筋合いはなく、またそのような法的効果を持つ国際的取決めも存在しない。
2.サン・フランシスコ平和条約で我が国は、千島列島に対する領土権を放棄しているが、我が国固有の領土である北方領土はこの千島列島には含まれていない。このことについては、樺太千島交換条約の用語例があるばかりでなく、米国政府も公式に明らかにしている(1956年9月7日付け対日覚書)。
(注)ソ連が北方領土の領有を主張する最も有力な根拠としていたヤルタ協定は、米英ソ三国間の秘密協定であり、我が国が拘束されるいわれはなく、また同協定が領土移転の法的効果を持つものでないことは、当事国である米国政府も公式に明らかにしている。(上記覚書)。  

 

●北方領土問題 2
安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領は12月15〜16日、日露首脳会談に臨む。そこで注目されるのが、両国間で懸案となっている「北方領土問題」の行方だ。
安倍首相は5月、日露首脳会談の際に「今までの停滞を打破するべく、突破口を開く手応えを得ることができた」と発言。9月にウラジオストクでプーチン氏と会談した際も、「新しいアプローチに基づく交渉を具体的に進めていく道筋が見えてきた。その手応えを感じた」と発言するなど、交渉の進展を強調してきた。
しかしここへきて、交渉の行方は不透明さを増している。
安倍首相とプーチン大統領は11月19日、APECの開催地ペルー・リマで会談。プーチン氏の訪日前最後の首脳会談ということで、北方領土問題と平和条約の締結について詰めの議論が交わされたとみられる。だが会談後に安倍首相の口から出たのは、これまでのムードを覆すものだった。
「70年間できなかったわけで、そう簡単な話ではない」
「大きな一歩を進めることはそう簡単ではない」
安倍首相が語ったのは、北方領土問題への厳しい見通しだった。これまでの交渉進展ムードからは一転、明らかにトーンダウンしていた。
プーチン氏も11月20日の記者会見で「(北方四島は)国際的な文書によりロシアの主権があると承認された領土だ」と明言。厳しい姿勢を崩さず、日露間の歴史認識のズレが改めて如実になった。
加えてロシアは、北海道の道東全域を射程内におさめる最新鋭のミサイルを北方領土に配備。プーチン氏の訪日を前に、北方領土を自国領土として防衛力を強化する姿勢を鮮明にしているかのようにも見える。
結局「北方領土問題」はどうなるのか。日露首脳会談の前に、その歴史的経緯を振り返ってみる。
そもそも「北方領土」ってどんなところ?
「北方領土」とは第二次世界大戦に絡み、ソ連(現在のロシア)が占領した歯舞群島(はぼまいぐんとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)の4つの島(北方四島)を指す。
面積はおよそ5000kuで、千葉県や愛知県と同程度の面積だ。日ロ両国が自国の領土と主張し、現在ロシアが実効支配している。北方領土をめぐる日本とロシアの領有権の対立、これが「北方領土問題」だ。
北方領土の東側は太平洋、西側はオホーツク海に面している。南からの暖かい日本海流(黒潮)と、北からの冷たい千島海流(親潮)の影響で、周辺海域は水産資源も豊富だ。また択捉島は、本土四島(北海道・本州・四国・九州)を除くと日本最大の島。火山島で、温泉が多いことでも知られる。
日本とロシア、国境策定の経緯
戦前、日本とロシアは数度にわたって国境を決める条約を締結している。その主なものを地図と合わせて、簡単に振り返ってみよう。
(1)1855年 日魯通好条約(日露和親条約)
およそ160年前の1855年2月、日本(江戸幕府)とロシア(ロシア帝国)の間で初めて国境を確定した日魯通好条約(日露和親条約)が結ばれた。両国の国境線は、択捉島と得撫島(ウルップ島)間に定められた。樺太島(サハリン)には国境を設けず、これまで通り両国民の「混住の地」にすると定められた。
日本政府は、この条約を根拠に「北方領土はこの時に日本領となった」とする立場をとっている。
(2)1875年 樺太千島交換条約
明治維新後の1875年、日本はロシアと樺太千島交換条約を締結。日本は樺太島の領有権を放棄するかわり、千島列島をロシアから譲り受けた。この条約では、占守(シュムシュ)島から得撫(ウルップ)島までの18の島々の名を「千島列島」として列挙している。
この条約を根拠に、日本政府は現在に至るまで「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は、千島列島に含まない」としている。
(3)1905年 ポーツマス条約
1904年、日露両国は朝鮮半島と中国東北部の支配圏をめぐって日露戦争が勃発。これに勝利した日本は1905年、ポーツマス条約で南樺太を獲得した。
「北方領土問題」の発生、きっかけは第二次世界大戦だった
1945年9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦ミズーリ号上での無条件降伏文書調印式に臨む日本側全権団
第二次世界大戦中の1941年4月、日本とソ連は「日ソ中立条約」を締結し、両国は互いに中立を保った。だが、広島に原爆が投下されてから2日後の1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。
背景には南樺太(南サハリン)・千島列島のソ連領有を決定したヤルタ秘密協定の存在がある。
8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾し、連合国に降伏。しかしソ連軍はその後も千島列島を南下し、9月5日までに「北方領土」を占領。ロシア側は「第二次世界大戦で北方領土は合法的に自国領になったと」主張し、現在に至る。
1951年、日本は連合国と「サンフランシスコ講和条約」を締結。この条約で日本は、戦前に領有していた台湾や朝鮮半島をはじめ南樺太・千島列島を放棄することが確定した。
ここで問題となるのが、「千島列島」が何を指し、最終的にどこに帰属するかという点だ。
調印に先立つサンフランシスコ講和会議では、日本全権だった吉田茂首相が「歯舞、色丹が北海道の一部で、千島に属しない」と述べた。しかし、択捉島、国後島については「昔から日本領土だった」と言及するにとどまった。
一方で、外務省の西村熊雄条約局長は1951年10月の衆議院特別委員会で「放棄した千島列島に南千島(国後島、択捉島)も含まれる」と答弁した。
結局のところ、「千島列島」が何を指すのか日本側でもぶれてしまった。サンフランシスコ条約でも帰属は明記されなかった。また、東西冷戦の最中であったことから、西側諸国と対立していたソ連や中国はサンフランシスコ講和条約に参加せず、条約は「片面講和」になってしまった。
日本とソ連(ロシア)はどんな交渉をしてきたのか?
ここからは、戦後に日本とロシアが北方領土をめぐってどのような交渉をしてきたのかを振り返ってみよう。
(1)1956年 日ソ共同宣言
サンフランシスコ講和条約が「片面講和」となったことで、日本はソ連と個別の平和条約を結ぶため交渉を続けた。戦後日本が国際社会に復帰するために、国連安保理の常任理事国で拒否権を持つソ連との国交回復には重要な意味があった。また、敗戦でシベリアに抑留された日本人の帰還交渉も必要だった。
一方のソ連側も、当時の最高指導者だったフルシチョフ第1書記が「スターリン批判」や「平和共存路線」を提唱。資本主義陣営との関係修復を目指していた。
1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相はモスクワで「日ソ共同宣言」に署名。戦争状態の終結と国交回復がなされた。当初は「平和宣言」の締結を目指していたが交渉が折り合わず、結局は「共同宣言」という形をとった。
交渉が折り合わなかった理由は北方領土だった。ソ連側は歯舞群島、色丹島の「二島返還」を主張したが、日本側は「四島返還」での継続協議を要求。そのため両国間の溝は埋まらず、ひとまず「共同宣言」という形に落ちつき、「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と明記された。
日本側が四島返還を主張した背景には、アメリカの圧力があったとも言われている。
当時、アメリカ(アイゼンハワー政権)のダレス国務長官は重光葵外相に対し「二島返還を受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」という圧力(いわゆる「ダレスの恫喝」)をかけていたと伝えられる。
さらにアメリカは日本の外務省に「覚書」を通達。その内容は、「択捉、国後両島は北海道の一部である歯舞群島および色丹とともに、常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、日本国の主権下にあるものとして認められなければならないとの結論に達した」というものだった。当時は東西冷戦の真っ只中、日ソ接近を警戒しての圧力だったと言われている。
(2)1960年〜70年代 日ソ交渉の停滞
これ以降、日ソ間では平和条約の締結には至らず、引き続き北方領土問題が交渉の焦点となった。1960年、日米安保条約が改定延長されると、1961年にフルシチョフ第1書記は日ソ共同宣言の内容を後退させ、日本を牽制。「領土問題は解決済み」との声明を出した。
これに対し日本側は同年10月「南千島に関する外務省見解」を発表。歯舞、色丹のみならず南千島(国後、択捉)も日本固有の領土として、あくまで四島返還を求める姿勢を強めた。
同年11月、池田勇人首相はソ連首相への書簡で「択捉、国後両島については日本政府は何らの権利をも放棄したものではない」とし、日本政府の統一見解として「国後、択捉島及び色丹島、歯舞群島の一括返還がない限り条約の締結はできない」という立場を強調した。
日本では1970年代になると、アメリカからの沖縄返還(1972年)の流れをうけて「南の次は北」という声が出ていた。ソ連側も、中国との関係悪化や日・米・中の接近を警戒し、日ソ間に歩み寄りの空気が生まれつつあった。
しかし、1979年からのソ連のアフガニスタン侵攻による東西冷戦の悪化、アメリカのレーガン大統領と中曽根康弘首相の接近(「ロン・ヤス関係」)により、日ソ間協議は停滞した。
(3)1980年代後半〜90年代
 ゴルバチョフ書記長の登場、ソ連崩壊とロシア連邦の誕生
1980年代後半になると、ソ連では政治改革「ペレストロイカ」を提唱したゴルバチョフ書記長が登場。日ソ間でも領土問題交渉の再開機運が高まった。
ゴルバチョフ書記長は「解決済み」としていたソ連側の見解を転換。北方領土問題を「両国間の困難な問題」とし、領土問題の存在を事実上認めた。
これに呼応するように日本側も、領土問題の解決がない限り経済協力をしないという「政経不可分」の立場を軟化させた。91年4月にはソ連の元首として初めてゴルバチョフ書記長が来日。海部俊樹首相との6回にわたる首脳会談をおこなった。この時に調印された共同声明には、「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ(中略)詳細かつ徹底的な話し合いを行った」と、日ソ両国の交渉で初めて北方四島が領土問題の対象であることが明記された。
1991年にソ連が崩壊すると、後継国家のロシア連邦ではエリツィン大統領が就任。民主主義や市場経済の導入を目指す新生ロシアにとって、民主主義国で経済大国の日本は、重要なパートナーだと考えられた。
1993年、エリツィン大統領が来日し、細川護煕首相とともに「東京宣言」に署名。この宣言では北方四島の問題を「法と正義の原則に基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し」と明記された。これにより、1956年の日ソ共同宣言で合意した「平和条約の交渉継続」そのものが、「北方四島の帰属の問題を解決すること」だと明確に定められた。
(4)1990年代後半
 橋本首相とエリツィン大統領、「クラスノヤルスク合意」と「川奈提案」
日ソ共同宣言40周年を迎えた1996年、日ロ間の交渉進展の機運がさらに高まった。この年、ロシアではエリツィン氏が大統領が再選。日本では橋本龍太郎政権が誕生した。
橋本首相は、領土問題以外でのロシアとの関係改善と協力を通じ、最終的に領土問題を解決に導く「重層的アプローチ」をとった。この「急がば回れ」の政策は北方四島周辺における日本船の安全操業協定などの成果につながった。
1997年、橋本首相は「ユーラシア外交」の名の下、「信頼」「相互利益」「長期的な視点」の対ロシア3原則を発表。さらに「勝者も敗者もない解決を目指す」と発言した。また、エリツィン大統領と個人的な信頼関係の構築にも努めた。
同年の6月、アメリカのデンバーで開かれたサミット(主要国首脳会議)で、橋本首相はエリツィン大統領との首脳会談を実現。サミット後の記者会見で橋本首相は、「多くの点で従来の雰囲気を超えるものであり(中略)日露関係の一つの壁を超えることができました」と、関係性の高さをアピールした。
デンバーサミットから5カ月後の1997年11月、橋本首相とエリツィン大統領はロシアのクラスノヤルスクで非公式に会談。エリツィン大統領の提案で、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力をつくす」ことに合意した。この「クラスノヤルスク合意」で日本側では四島返還への期待が高まった。
翌98年4月、橋本首相は静岡県での川奈会談で、エリツィン大統領に新たな策を提案した。いわゆる「川奈提案」だ。
その内容は「択捉島とウルップ島との間に、両国の最終的な国境線を引く」「当分の間、四島の現状を全く変えないで今のまま継続することに同意する」「ロシアの施政を合法的なものと認める」というものだと伝えられる。歯舞と色丹の返還を即時返還を求めないという、四島返還を求める日本側にとって最大限の妥協案だった。ただ、エリツィン大統領は「まさに新しい興味深い提案だ」と興味を示したものの「検討の時間が必要だ」と即答しなかったと伝えられる。
その後ロシア側は川奈提案を、99年間かけてイギリスから香港を返還させた中国になぞらえて「香港方式」と批判。ロシア側は、日本の川奈提案を譲歩とは見なさなかった。
98年11月、橋本首相は参院選敗北の責任を取り辞任。エリツィン大統領も経済危機や自身の体調悪化で99年に辞任。こうしてソ連崩壊を契機におこった領土問題解決の機運も、ここへきて頓挫した。
(5)2000年代 プーチン大統領の登場
2001年3月、森喜朗首相はエリツィン氏の後継者となったプーチン大統領とロシアのイルクーツクで会談し、北方領土問題を中心に話し合った。
この時に発表されたイルクーツク声明では、56年の日ソ共同宣言を「平和条約交渉締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」とし、その上で「東京宣言に基づき、択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題を解決することにより、平和条約を締結し、もって両国間の関係を完全に正常化するため、今後の交渉を促進する」とした。
この会談で日本側は、日ソ共同宣言で日本への引き渡しが約束されている「歯舞、色丹の返還交渉」と、東京宣言で帰属問題が争点となっている「国後、択捉の返還交渉」を並行して進める「同時並行協議方式」を提案した。
これはまず、歯舞・色丹の二島返還を先行させ、「国後と択捉の帰属は交渉の結果による」とするものだ。だが、「国後、択捉を諦めることにつながるのではないか」という反対論が日本国内では強まり、森政権から小泉政権に変わる中で頓挫した。
2013年 安倍首相が日本の首相として10年ぶりにロシアを公式訪問
2010年にロシアのメドベージェフ大統領が国後島を公式訪問したことで、日露の関係は一気に冷え込んでいたが、2012年にプーチン氏が大統領の座に返り咲き、日本でも安倍首相が復帰。これをきっかけに、両国は関係改善に向けて動き出した。
2013年4月、安倍首相は、日本の首相としては10年ぶりにロシアを公式訪問。両首脳はモスクワで「日露パートナーシップの発展に関する共同声明」を発表。
この中では「戦後67年を経て両国間で平和条約が締結されていない状態は異常である」とし、北方領土問題については「これまでに採択されたすべての諸文書および諸合意に基づいて交渉を進め、双方に受け入れ可能な形で最終的に解決することにより、平和条約を締結するという決意を表明した」と、平和条約と領土問題の交渉再開への機運が高まった。
しかし冒頭でも記した通り、2016年11月のリマでの首脳会談を経て、北方領土問題と平和条約の行方は、またも不透明なものとなっている。
11月3日には岸田文雄外相がロシアを訪問し、ラヴロフ外相と会談したが、ラヴロフ氏は「北方領土問題の解決よりも前に平和条約を締結すべきだ」との考えを示した。ロシア側としては、第二次世界大戦の結果に関する歴史認識が根幹にあるだけに慎重な姿勢を崩さない。また、2018年に大統領選が控えており、再選を目指すとみられるプーチン氏としても、高い支持率を得るために譲歩姿勢は見せづらいという背景もある。
12月の日露首脳会談で安倍首相とプーチン大統領が、戦後70年にわたって両国の間に刺さった「とげ」を抜き去るための道筋をつけられるか、その行方に注目が集まる。
プレス向け声明(日露共同記者会見、2016年12月16日)
日露首脳会談後、外務省は以下のプレス向け声明を発表した。
1 安倍晋三日本国総理大臣及びV.V.プーチン・ロシア連邦大統領は、2016年12月15日−16日に長門市及び東京で行われた交渉において、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島における日本とロシアによる共同経済活動に関する協議を開始することが、平和条約の締結に向けた重要な一歩になり得るということに関して、相互理解に達した。かかる協力は、両国間の関係の全般的な発展、信頼と協力の雰囲気の醸成、関係を質的に新たな水準に引き上げることに資するものである。
2 安倍晋三日本国総理大臣及びV.V.プーチン・ロシア連邦大統領は、関係省庁に、漁業、海面養殖、観光、医療、環境その他の分野を含み得る、上記1に言及された共同経済活動の条件、形態及び分野の調整の諸問題について協議を開始するよう指示する。
3 日露双方は、その協議において、経済的に意義のあるプロジェクトの形成に努める。調整された経済活動の分野に応じ、そのための国際約束の締結を含むその実施のための然るべき法的基盤の諸問題が検討される。
4 日露双方は、この声明及びこの声明に基づき達成される共同経済活動の調整に関するいかなる合意も、また共同経済活動の実施も、平和条約問題に関する日本国及びロシア連邦の立場を害するものではないことに立脚する。
5 両首脳は、上記の諸島における共同経済活動に関する交渉を進めることに合意し、また、平和条約問題を解決する自らの真摯な決意を表明した。
ロシア連邦大統領の日本国公式訪問の枠内で2016年12月15日−16日に行われた交渉において、両首脳は、両国の人的交流のための良好な条件の創設に賛意を表した。
特に、1986年7月2日付けの日ソ間の合意に基づいて実施されている、先祖の墓を訪問するための日本人の元住民の往来に関するテーマが触れられた。双方は、人道上の理由に立脚し、上記合意の実施の制度は、何よりも往来への日本人参加者が高齢であることを考慮した改善を必要としていることで合意した。
この関連で、両首脳は、両国外務省に対して、追加的な一時的通過点の設置及び現行の手続の更なる簡素化を含む、あり得べき案を迅速に検討するよう指示した。双方は、これに関するあらゆる問題について対話を継続することで合意した。 

 

●「北方領土問題」の歴史 
2つの終戦の日が問題を生んだ
日本では、8月15日を「終戦記念日」としています。でも、国際法上の太平洋戦争の終結は、8月15日ではないのです。天皇陛下の玉音放送から約半月後、東京湾に停泊中の戦艦ミズーリ号の上で、日本は降伏文書に調印します。国際法上の太平洋戦争の終結は、降伏文書に調印した日、1945年9月2日ということになります。
8月15日と9月2日、このふたつの終戦日のずれが、現在に至る北方領土問題の原因を生み出します。8月15日から9月2日までの空白の約半月間、ソ連軍は千島列島を侵攻し南下、島々を次々と占領して、8月28日に択捉島に上陸を開始。9月5日には北方領土をすべて占領、北方四島を一方的にソ連に編入しました。
歯舞群島や色丹島に関しては、日本が降伏文書に調印した9月2日のあとも、4日まで攻撃して占領したのです。ソ連、現在のロシアにすると、国後島と択捉島は戦争で勝ち取ったものだ。しかし、歯舞群島と色丹島は戦争が終わったあとに占拠したもの。国際法上は、日本に返さなくてはならないという思いを持っているのです。
ここで改めて北方領土をめぐる経緯を見ておきましょう。1855年「日露通好条約」で、国後、択捉、歯舞、色丹は日本の領土、その先の千島列島はロシアの領土だと確定しました。
当時の樺太には、ロシア人も日本人もたくさん住んでいました。そこで樺太は、日本とロシアどちらの領土にもしないという約束をします。ところが、両国民が混住している樺太では、開発をめぐって、たびたび両国間の紛争が起きるようになります。
混乱を避けるために、樺太は、ロシアの領土にしましょう。その代わりに、千島列島は全部日本に渡します。そう決めたのが1875年の「樺太・千島交換条約」です。これで北方四島から千島列島まで、すべて日本の領土になりました。さらに1905年、日露戦争で日本が勝利した結果、「ポーツマス条約」によって樺太の南半分まで日本の領土になったというわけですね。
そして1945年、日本は太平洋戦争に敗れます。1951年に締結された「サンフランシスコ講和条約」によって日本はアメリカをはじめとする連合国と、「戦争は完全に終わりました。お互い平和に暮らしましょう」という平和条約を結びました。
しかし当時は、東西冷戦が激化し始めていた頃でした。ソ連は「サンフランシスコ講和条約」に参加しなかったのです。日本国内でも、ソ連も含めた講和条約でなければ意味がないという意見が出ますが、結局ソ連以外の連合国との間で講和条約を結びました。「サンフランシスコ講和条約」では、千島列島は放棄します。樺太の南半分も放棄します。日本はそう宣言しました。
1956年に国交は回復しています。しかし、平和条約を結ぶには至りませんでした。平和条約を結ぶということは、国境線を確定するという意味があるんですね。日本は、千島列島と樺太の南半分は放棄すると宣言はしたけれども、現在まで平和条約を結んでいないので、ソ連との間に国境線は確定していないのです。
国後、択捉は日本のものではないと発言
日本とソ連、そして現在のロシアとの間では、どのような話し合いがされてきたのかを見ていくことにしましょう。日本が正式に降伏するまでの空白の期間に乗じて、北方領土はソ連軍によって占領されてしまいます。日本としては、国後、択捉、歯舞、色丹の4島に関しては、そもそも1855年の「日露通好条約」で、日本のものだと決まっている。日本固有の領土であるという方針をとってきたことになっています。
ところが、1950年、国会の質疑応答で「千島列島にどこまで含まれるか」という問いに「歯舞、色丹は千島に含んでいない(すなわち国後、択捉は千島列島に含まれる)」と、答弁に立った政府の幹部が言ってしまった。
1951年の「サンフランシスコ講和条約」で日本は千島列島を放棄しますよね。ということは、国後、択捉は日本の領土ではないことになってしまいます。1956年にその答弁を取り消して、国後、択捉は千島列島ではない。日本固有の領土だ、という言い方に変えました。
現在、日本政府は国後、択捉、歯舞、色丹を日本固有の領土だと主張していますが、1950年に国後、択捉は日本のものじゃないと言っているじゃないかと、ロシアから責められても仕方がない弱みもあるのです。
戦争が終わったのに日本とソ連の間では、平和条約が結ばれていない。異常な状態をなんとかしなければいけない。1956年、鳩山一郎総理大臣がソ連に行き、ニキータ・フルシチョフ第一書記らと会談。鳩山総理とニコライ・ブルガーニン首相が「日ソ共同宣言」に署名し、国交を回復します。国と国との付き合いは、再開しようよということになりました。しかし、まだ平和条約は結んでいません。北方領土問題も未解決で、国境も確定していないままです。
この時、フルシチョフ第一書記は、日本とソ連が平和条約を締結したあとに、歯舞と色丹は返還すると約束しました。1945年の9月2日に国際法上では戦争が終結しているのにもかかわらず、ソ連は歯舞と色丹に侵略したという引け目があります。日本政府も、歯舞と色丹だけが日本のものだと発言したこともある。フルシチョフ第一書記との間で、平和条約を結んで、国境線を確定させる時に、歯舞、色丹は返しましょうという話になりました。
関係が悪化する出来事が起きる
ところが1960年、日本とソ連の関係を引き離す出来事が起こります。日本は岸信介総理大臣の下で、日米の軍事同盟がより強化された日米安全保障条約の改定が締結されます。
ソ連は態度を硬化させます。なぜか。当時は東西冷戦時代です。ソ連とアメリカは、冷たい火花を散らし続けていました。敵国であるアメリカと強い同盟を結んだ日本に、歯舞、色丹を返すわけにはいかないと、フルシチョフ第一書記の約束を反故にしてしまうんですね。この状態が、現在まで続いているのです。
現在も安倍総理大臣とプーチン大統領が北方領土問題をめぐって、議論をしています。プーチン大統領は、レニングラード大学法学部の出身です。法律は守らなければいけないという意識はあるはずです。
歯舞、色丹は、国際法上は戦争が終結したあとに奪ったものです。いずれ返さなければいけないという思いは持っている。でも返還後、そこにアメリカ軍基地ができてしまったら困る。ロシア側の立場に立って考えると、歯舞、色丹にアメリカ軍施設は置かないという約束が取りつけられれば、返してもいい、と本音では思っているでしょう。
では、2島だけ返還される可能性は高いと考えていいのか? そこが外交の難しいところで、簡単にはいきません。もし、日本がロシアとの間で、アメリカ軍の基地はつくらないという約束をしたら、当然アメリカは怒る。日本を守るために日米安保条約を結んでいるのに、アメリカ軍は日本国内で自由に行動できないことになる。
今度はアメリカとの関係が悪くなってしまうから、安倍総理大臣としては、プーチン大統領との話し合いの中で、歯舞、色丹にはアメリカ軍の基地を置かないから大丈夫ですよ、と約束するわけにはいかない。北方領土問題は非常に難しい駆け引きがあって、なかなか進展しません。それが現状なのです。
なぜ4島一括返還にこだわるのか
そもそも北方4島は日本固有の領土である、と宣言してしまった以上、その方針を途中で取り下げるわけにはいかない、という日本政府の立場があります。国後や択捉は、歯舞、色丹よりずっと面積が広い。昔、大勢の日本人が住んでいて、お墓もある。だから4島とも返してもらわないと、北方領土問題は解決しないと考えているのです。
でも、ロシアの行動を見ると、4島一括返還をする気はないことがわかります。国後と択捉にロシア軍の基地をどんどんつくっているんですね。北方領土はロシアにとっての緩衝地帯なのです。有事の際、ロシアの領土に直接影響が出ない緩衝地帯として、国後と択捉だけは自分の下に置いておきたい。将来的に歯舞、色丹が日本に返還された時に、ここがロシアとの国境線になるでしょう。その時を見据えて国後と択捉の守りを固めようとしているのです。
日本が、4島一括返還にこだわっている限り、ロシアは絶対返さないでしょう。だけど、日本側が、2島でいいから返してほしいと言うと、日本の右翼から裏切り者と攻撃を受ける可能性がある。日本の政治家は、かなりの人が4島一括返還は無理だとわかっています。
わかっているけれど、2島でいいですと言った途端、自分の身が危うくなるから、決して口にしない。4島一括返還を言い続けている限り、悪いのは返さないロシアだという理屈になるでしょう。それによって、政治家は自分の身の安全が保たれる。そういう構図になっているんですね。
でも、こんなことをやっていたら、いつまでも北方領土問題は解決しないと、解決策を考えた人がいるんですね。それが、当時衆議院議員だった鈴木宗男氏と、その懐刀で外務省主任分析官だった佐藤優氏です。
2001年に、「2島先行返還」というアイデアを出しました。この「先行」というのが、アイデアだったわけです。ロシアには、4島返還は無理なので歯舞、色丹を先に返してもらう。国後、択捉には、これまでどおりロシアの人たちが住んでもらってもいい。自由に使ってください。しかし国後と択捉はもともと日本のものだということは認めてほしい。潜在的な主権が日本にあることはなんとか認めてほしい。そういう妥協策を考えたんですね。
その結果、当時の森喜朗総理大臣とボリス・エリツィン大統領の間で「2島先行返還」の話が内々にまとまっていたんです。いよいよ2島先行返還を具体的に進めようとなった時に、森内閣が支持率の低下で総辞職し、小泉内閣に代わりました。小泉純一郎総理大臣は、外務大臣に田中真紀子氏を任命。田中氏は2島先行返還の話を知った途端、これはなんだと怒ります。
田中真紀子氏の父は、元総理大臣の田中角栄です。豪腕の総理大臣として鳴らした田中角栄は、1973年にソ連のレオニード・ブレジネフ第一書記との会談で、「北方領土問題など存在しない」と言い続けていたソ連に、領土問題があることを認めさせた実績がありました。また、田中角栄は4島返還にこだわりました。
そのため、2島先行返還なんて、父の努力を台無しにするものだ。そんな話は聞いてないと、ちゃぶ台返しをして、全部なかったことにしてしまった。当然、ロシアは日本政府に対して不信感を持ちます。日本から2島先行返還提案をしてきたから、ロシアもその考えに賛同した。でも、日本側が断ってきた。その結果、現在も北方領土問題は、まったく動いていないということです。
首脳同士の仲も大きく関係
日本とロシアの関係の中で、4島一括返還は現実的には不可能です。4島一括返還を言い続けている限り、北方領土は戻ってきません。だから、2島だけを返してもらうやり方は、政治的にはありうると思います。
しかし、それによって右翼から攻撃されるかもしれないという思いがあると、なかなかそこに踏み込めない。でも、現在は保守派の安倍総理大臣です。右翼の多くは安倍総理を応援しています。安倍さんがやるのなら仕方ないと妥協する可能性はあります。
だから、北方領土問題を解決するためには、安倍総理大臣が政権をとっている間が実はチャンスなのです。ロシアでも国民の強い支持を受けて大統領に再選されたプーチン大統領には、誰も逆らえない。トップの権力基盤が弱いときに、日本と妥協しますって言うと、国内で反発が出る。ところがプーチン大統領は、絶対的権力を握っています。
もうひとつ、ロシアには豊富なエネルギー資源が眠っています。ロシアはシベリアやサハリンでの天然ガスの開発に、日本の技術や資金の協力が欲しいのです。エネルギー資源開発を切り口に妥協が成り立つチャンスもある。 

 

●北方領土「二島」が返ってこない理由 
再交渉は選挙目当ての「やるやる」詐欺
今月1日、ブエノスアイレスで行われた安倍首相とロシアのプーチン大統領の首脳会談は、なんと通算で24回目という異例の回数に達したそうだ。そしてそこでは「二島返還」を基礎とした、平和条約締結に向けた交渉の加速が確認され、すでに決定している来年1月の安倍首相のロシア訪問と、6月のプーチン大統領の来日についても言及があったのだという。
この動きについて、ただ一方的に悪口を言うつもりはない。永遠に不可能な「四島返還」から、日ソ共同宣言(1956年)に明記された「二島返還」に議論のベースが戻ったことは喜ぶべきことだからだ。この機会を捉えてなんとか話を動かそうと、多くの関係者が努力していることも事実だろう。
しかしそれでも現状では、二島返還も絶対にありえないのである。だからプーチンが来年6月に来日しても、「平和条約の締結」や「北方領土返還」というお題目は、その直後に行われる参議院選挙もしくは衆参同日選挙のための「やるやる詐欺」に終わることが確実だ。
なぜなら、現在「首相周辺」が述べているロシアとの再交渉のシナリオには、あまりに稚拙なウソが含まれているからである。
プーチンのような人物が、日本の「首相周辺」が考える明白なウソにだまされる可能性は100%ない。うまくあしらいながら、また巨額の経済協力だけを手にすることだろう。逆に選挙直前に、誤った情報でだまされるのは日本国民の方だ。
だからそうならないよう、いま私はこの記事でフェアな事実をみなさんにお伝えしようとしているのである。
経済協力を食い逃げされるだけ
そもそも、たった2年前のことを思い出してほしい。いまとまったく同じ光景が、より大規模にくり広げられていたではないか。
2016年12月15日、安倍首相の地元である山口県の老舗旅館にプーチン大統領がやってきて、歴史的な日本とロシアの合意が行われるらしい。そのとき戦後日本に残された最大の懸案である北方領土問題は大きく解決の方向へ動きだし、安倍首相は歴史に残る大宰相としての評価を不動のものにするだろう……。あまりにバカバカしくて詳しくはウォッチしていなかったが、だいたいそんなところだったのではなかったか。
しかし結果はまったくのゼロ回答。経済協力だけを、ただ食い逃げされて終わった。私が『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)の「はじめに」(ウェブ立ち読みで無料公開中)で書いたように、同年11月上旬に、モスクワを訪れた元外務次官の谷内(やち)正太郎・国家安全保障局長からロシア側に対して、「返還された島に米軍基地を置かないという約束はできない」という基本方針が伝えられた時点で、事実上、交渉は終了していたからである。
そしてその基本方針は、なにも谷内氏が独自に考えた見解ではなく、1973年に外務省の条約局とアメリカ局(北米局)が共同で作成した高級官僚向けの極秘マニュアル「日米地位協定の考え方」のなかに、次のように明記されていたものだった。
まず大前提として、アメリカは日本国内のどんな場所についても、施設〔基地〕や区域の提供を求める権利を持っている。そしてその提供については日本政府の同意を必要とするが、日本側がその必要性について判断することは事実上困難であるため、日本側がどうしても提供できない具体的な理由がない限り、アメリカ側の提供要求に応じないケースは想定されていない。
したがって、
〈「返還後の北方領土には、米軍の施設〔基地〕や区域を設けない」との取り決めをあらかじめソ連と結ぶことは、安保条約・地位協定上、問題がある〉(一部要約)
と、はっきり書かれているのである。
だから、ロシアが民主的かどうかとか、安倍政権の評価がどうかはまったく別にして、安倍総理大臣とプーチン大統領が両国のリーダーとして存在している間は、北方領土問題が少しでも前に進む可能性がある、ということです。
まさに子どもだまし≠フ理屈
ここまでは、昨年まで述べていたことのおさらいだ。問題はここから先である。
報道によれば、「首相周辺はこの文書〔「日米地位協定の考え方」〕を改めて分析し、「当時の外務省職員の個人的見解」と判断。ロシアとの間で「二島に米軍は置かない」と確認することは同条約上も可能と結論付け、首相や谷内氏ら複数のルートで日本側の考えを〔ロシア側に〕伝達した」という(「朝日新聞」2018年11月16日/下線筆者)。
当時、条約局条約課の担当事務官として、「日米地位協定の考え方」を執筆した丹波實(みのる)氏(その後、北米局安保課長、欧州局ソ連課長、条約局長、ロシア大使などを歴任)が、2年前に死去しているのをいいことに、この文書は対ソ強硬派だった丹波氏が勝手に書いたもので、外務省としての見解でもなければ、アメリカとの間でなにか具体的な取り決めがあったわけでもない。そのことをプーチンに伝えたので、これから日本とロシアは再び北方領土返還(今度は二島)と平和条約の締結に向けて、大きく動き出すことになるだろう、というのである。
こんな子どもだまし≠フ理屈をプーチンが信じるはずがない。
先ほどの下線部分を見てほしい。すべて日本側が「そう思った」というだけで、肝心の米軍側との合意をうかがわせる記述がどこにもない。私が『知ってはいけない』と『知ってはいけない2』で証明したように、戦後日本とは、韓国を唯一の対米従属の友人とする、朝鮮戦争のなかから生まれた軍事主権のない従属国家である。
朝鮮半島問題が文在寅と金正恩の意向だけでは何も決まらないように、北方領土問題もトランプの合意がなければなにも決まらないのだ。
だからこそプーチンは、北方領土を日本に引き渡した場合に、米軍がそこに展開しないよう、安倍首相に「トランプ大統領との間で、公式な文書によって合意し、確約するよう求めている」のである。
思えばこれは、主権国家に対して、これ以上ないほど失礼な要求だといえる。世界の独立国で、外国軍の行動に自国の判断だけでストップをかけられない国など、どこにも存在しないからだ(そう、日本と韓国以外には)。
だからそのためにプーチンは、あらかじめ正当な手順を踏んでいる。「ロシアから返還された区域には米軍を展開させない」という約束など、日本政府が絶対にアメリカと結べないことを知っているからこそ、今年の9月にウラジオストックで「年末までに、すべての前提条件なしで平和条約を締結しよう」、つまり「すべて現状のままで平和条約を結ぼう」と語ったわけである。
それが、日本が主権国家として面子をつぶさずに平和条約を結ぶ唯一の方法と、よくわかったうえでの提案だったのだ。それを安倍首相が正式に拒否するというプロセスを踏んだうえで、「じゃあそれがいやなら、軍事主権をもっているアメリカと正式な文書で合意してこい」と要求したわけだ。
実際はロシアがこの要求を出した時点で、今回の交渉も終了したといってよい。絶対にそのような合意文書は作れないからだ。プーチンはそのあたりの事情も全部わかったうえで、当面「話を合わせる演技」をしてくれるだろう。その見返りが再び「巨額の経済協力」となるからだ。
ノーベル平和賞受賞が招いた悲劇
そもそも、このロシアとの交渉で焦点になっている「日米地位協定の考え方」という極秘マニュアルは、いったいどういう性格の文書なのか。ここは最新の研究の部分なので、よく聞いていただきたい。
ひとことでいうとこれは、最近はすっかり有名になった「米軍と日本の官僚との密室での協議機関」である、日米合同委員会における秘密合意をまとめたマニュアルなのである。
ではなぜそんなマニュアルが、安保改定から13年もたった1973年(4月)に書かれることになったのか。その背景には以前も触れたことのある、戦後の外務省の最大の恥部である「空母ミッドウェイの横須賀・母港化」という重大事件が関係している。
そもそもの始まりは、1960年の安保改定で岸首相が結んだ「事前協議密約」だった。これはABCDの4項目からなり、AとCが「日本の国土の自由使用」、BとDが「日本の基地から国外への自由出撃」についての密約だった(詳細はこちら)。
しかし岸はそれらの密約を次の池田政権に引き継がなかったため、3年後の1963年にその存在を初めて知らされた外務省と当時の大平外務大臣は大混乱に陥り、アメリカに対しては密約の効力を認めながら、日本国内に対してはその存在を否定するという「完全な股裂き状態」に追い込まれていく。
そしてその矛盾が頂点に達したのが、それから9年後、2度目の外務大臣に就任した大平をターゲットに米軍がしかけてきた、「核爆撃機を多数搭載した空母ミッドウェイの横須賀・母港化」計画だったのである。
これは実質的に「外国軍の小規模の核攻撃基地を自国の領土内に設置する」ことを意味したので、1973年10月にミッドウェイの横須賀・母港化が実現した時点で、外務省がそれまで「日本の国是」としてきた非核三原則は、完全に崩壊することになったのである。
ところがなんと翌1974年、その実際は完全に崩壊している非核三原則を理由として、佐藤栄作首相がノーベル平和賞を受賞してしまうのである。
このいかなる論理的説明も絶対に不可能な究極の矛盾、その内実をアメリカ側からリークされたら「日本外交」が一巻の終わりになってしまう恥ずべき出来事をきっかけに、その後、日本の外務省は対米交渉能力を失い、ただただ米軍の要求に従っていくしかないという完全従属状態に陥っていくことになる。
どうずれば戻ってくるのか?
そしてここからが問題の「日米地位協定の考え方」の話だ。
「空母ミッドウェイの横須賀・母港化」の要求が、アメリカ側から大平外務大臣に突きつけられたのは、田中(角栄)内閣が誕生した翌月、1972年8月にハワイで行われた田中・ニクソンの首脳会談でのことだった。
そして以後、この難問中の難問の処理を任されることになったのが、ハワイでの首脳会談を駐米公使としてアテンドし、その直後にアメリカ局長(北米局長)に横すべりで就任した大河原良雄氏(その後、駐米大使)である。
「日米地位協定の考え方」という極秘文書は、この大河原・アメリカ局長の強い関与のもと、外務省条約局とアメリカ局の共同作成文書として、条約課長・安保課長の承認をへて翌1973年4月に完成し、関係部局で共有されたものだった。
加えて注目すべきは、執筆を担当した丹波氏の上司である上記の「条約課長」とは、その後、条約局長、北米局長、事務次官、駐米大使を歴任し、現在でも戦後の外務省で条約畑の最高権威とされる栗山尚一(たかかず)氏だったということだ。
だからこの「日米地位協定の考え方」に書かれた内容が、担当執筆官の偏った個人的見解であるなどということは、絶対にありえないのである。
さらに話は続く。われわれ日米安保問題を手がけている人間にとって、大河原良雄氏がもっとも記憶されるべきは、「大河原答弁」と呼ばれる1973年7月の国会での発言である。それは、その3ヵ月前に完成していた「日米地位協定の考え方」と強く連動する形で、
「米軍には原則として、日本の国内法が適用される」
という、それまで外務省がなんとかぎりぎり維持してきた見解を退け、
「米軍には、日本の国内法は適用されない」
という米軍側の主張を、公式に認めたはじめてのものとなった。
それ以来、岸が1960年に結んだ米軍による「日本の国土の自由使用」と「国外への自由出撃」という2種類の密約の内容が、外務省内でも公然と認められるようになり、かつて朝鮮戦争の中から生まれた「旧安保条約+行政協定」という米軍の治外法権的な特権が、「新安保条約+地位協定」という新しい条文によってすべて継承されることが、法的・政治的に確定してしまった。
そのなかで「核爆撃機を多数搭載した空母ミッドウェイの横須賀・母港化」と「佐藤首相のノーベル平和賞受賞」という究極の矛盾もまた、うやむやにされていったのだった。
こうしたきわめて従属的かつ非論理的な構造を改め、日本国民自身の手に軍事上の主権を取り戻さない限り、日本が自らの判断で他国と領土問題や平和条約について交渉することなど、絶対に不可能なのである。 

 

●元島民が語る「北方領土」  
1 歯舞群島[春苅島]出身
旧ソ連邦が北方四島の不法占領を続け十年が経った一九五五〜六年(昭和三十〜三十一年)、日ソ国交回復を目指す「日ソ交渉」は、終始、北方領土問題をめぐり難航し、その成り行きに一喜一憂しながらも必ずや「島は還る」との期待感にあふれた。
しかし、この日ソ交渉は、結局、最大の懸案である四島問題を解決すべく日ソ平和条約の締結を先送りにした「日ソ共同宣言」(一九五六年十月十九日)の方式で妥結し、とくに元島民や根室地方の住民は落胆の色に変わった。
米国傘下の日本にあって東西冷戦下の同交渉は、旧ソ連邦の列強外交を見せつけられ、シベリア抑留者の早期送還、日本の国連加盟支持、日ソ漁業条約の発効をかかえた日本としてはやむを得ない妥結だったが、肝心の領土問題ではその条文扱いで悔いが残り、いわば失敗の領土交渉であったと私は考え続けてきた。
そして、その後の十年はまたたく間に過ぎる中で、気づき憂いたのはすでに二十年を経て元島民が主力となっていた返還運動者の高齢化による退陣が目立つようになった。世論をおこし、民族の威信にかけて解決しなければならないこの問題は、現地として国民を代表する使命を担っていると考えねばならず、このままの状況では安藤石典氏(旧根室町長、返還運動の先駆者)らの先人の意にそむき、強いては根室の発展を損ねるとの意識にかられた。
さて、その私は、そのころ地元新聞の記者生活も十年に達していたが、当時、市政と漁業関係を担当し、毎日、市役所に出入りしていた。これから記述することが何か私の手柄話のようで恐縮するが、事実なので今となっては話してもよいであろうし、当時にして私の北方領土問題に賭た情熱の一端を理解していただければ幸甚に思う。
あるとき横田俊夫市長(故人)との個人的な席で私は横田さんに「領土対策係」の設置について説いた。すると横田さんは「そうしよう」といい、その年(昭和四十年四月)、企画課に領土対策係を設け、初代係長に白崎大氏(前助役、現教育長)をあてた。そこでこの機構を活かし、啓発活動を思いたったのが遊説隊、すなわちキャラバン隊の中央への派遣だった。
これについても横田市長に直訴しようとも考えたが、先の領対係の件でしゃしゃり出たことでもあり、ここはまず助役の寺嶋伊弉雄氏(のちに市長)にキャラバン隊の中央への派遣を再三にわたって持ちかけていた。そんなとき根室青年会議所(根室JC)の動きと相まって寺嶋助役は、その場で決断し、根室JCの行動計画を一挙に拡大、ほば私の思惑通りの形で実施されることになった。(この話し合いの場には私もいて意見を述べた)このとき横田市長は長期出張で不在、寺嶋助役の裁量で決められたものであった。
こうして、わずか十日間あまりの準備ののち、昭和四十二年十一月一日から十日間にわたり、乗用車輌十台(一輌に二人乗車)を連ね「根室市北方領土早期返還実現キャラバン隊」が道央(札幌、小樽方面)に派遣され、四十七市町村に対し横田根室市長のメッセージを手渡し、返還要求運動への取り組みと参加を求めた。
それに私も有給休暇をとり報道機関等に対応する広報班長の役で参加したが、社の同僚からは言論人(記者)として中立的な存在を維持すべき者が政治問題に加担するとはの批判もあった。しかし、私はこれを無視した。言論人である前に私は日本国民であり、ましてや島を追われた元島民なのだ。不法に占領され、国家の威信が傷つけられ,主権が犯されている。このことは、領土なきは国家の存亡にかかわる根源的な問題だとの意識が先行し、青年の血潮が行動へとかきたてずにはおかなかった。
私は、この第一回のキャラバン隊の構成メンバーを発起人とする、「根室市北方領土問題青年会議」の設立を提言したところ、全員快く受け入れ、その設立(昭和四十三年)をみたが、私は初代会長に誰を推すかで悩み、知人の弓削正己氏に相談したところ、中林昭生氏を挙げた。私は、まったく面識がなかったが、中林氏に会って口説いた。同氏は「責任が重いね」と引き受けてくれたが、彼の人柄は組織を拡充させ、当時、返還要求活動の中核的な存在だった。
道内全市町村を三ヵ年にわたって巡った根室市キャラバン隊はその反響とともに世論形成に多大な成果をおさめた。これをさらに北海道の肝入りで全国に広めるべきだとして、同青年会議の中林会長、浄土東副会長(故人)、私(事務局長)の三人で、道領土対策本部に出向き「道キャラバン隊」を本州に派遣するよう要請した。これが採り上げられ、今日の「北海道北方領土返還要求キャラバン隊」が実現した。私は、これにも参加したが、これからも命ある限り、島還るその日まで「島を還せ」と叫び訴え続ける。 
2 歯舞群島[志発島]出身
第二次世界大戦は、日本がポツダム宣言を受け入れ、昭和二十年八月十五日(一九四五年)且つて日本国民の歴史にもない敗戦国の冷厳な現実に打ち拉がれている時、その三ヶ月後の十二月一日、当時の根室町長安藤石典により占領軍の連合国軍総司令官マッカーサー元帥に宛てた陳情文面、以下により、返還運動の灯が点されたのです。(第一回の陳情は原文のまま)
閣下に對し余は、現在ソ聯の占領に係るゴヨマイ諸島並に南千島諸嶋の實情に付陳情することを衷心より光榮に存します。
一、 現在ソ聯軍の占領して居りますゴヨマイ諸嶋は北海道根室の一部にありまして歯舞村の區域てあり千島諸島の内色丹、國後、擇捉の三島は日本の封建時代より日本國土てありまして住民は父子相傳へて三代乃至五代位も相続して居り千八百七十三年(明治七年)日本かソ聯と千島樺太交換條約を締結の際擇捉海峡以北の諸島を我領有となし、樺太をソ聯の領有に帰せしめたるを以て舊來の擇捉、國後を南千島と構し新に交換したる得撫島よりオンネコタン島迄を中千島と稱し幌莚島、アライト島、占守島を北千島と稱するに至りました。而して現在南千島の一に加へられて居ります色丹島はゴヨマイ諸島てありましたか、千島・樺太交換條約の際被交換嶋嶼に居住して居りました士民は國籍選擇の自由の原則に從ひ日本國民たることを希望したる為め凡そ二十戸を色丹嶋に移住せしめました其の為め色丹嶋は根室國の一部たるゴヨマイ諸嶋でありますのを千八百七十三年(明治七年)以後殊更南千嶋に付け加へ現在に及んて居ります。
二、 九月一日ソ聯軍は南千嶋及ゴヨマイ諸嶋に對し武力占領を行ひました。而して住民の家宅捜索を行ひ金品を掠奪され又銃殺された者等もありますので不安に驅られ小舟艇にて根室町に逃避するものか続出し現在非常な数に上り別表の通りてあります。エトロフ嶋は根室町と距離遠く小舟艇にては航海不能の為め逃避し得す消息全く不明てあります余等はエトロフ嶋民の安否を非常に気遣って居ります。
三、 吾か根室港は南千嶋及ゴヨマイ諸嶋を水産圏内として水産業の中心地てあります從て産業、経済、人情、風俗全く同一てありまして親子の関係にあります。而して其の距離に致しましても別圖の如く極めて近距離にして地理的にも歴史的にも北海道に附属する小諸嶋てあります。
四、 然るにソ聯は以上の小諸島に對し保障占領にあらすして軍事占領を為し住民の自由を拘束して根室港との往来交通を禁し剰へ掠奪暴行の擧に出て住民の不安極度に達しエトロフ島の如きは全然消息不明の現状てあります。以上の小諸島は北海道てありますから速かに米軍の保障占領下に置かれ住民の不安焦燥を除去し賜はらんことを切に個願して飲まさる次第てあります。
五、 南千島及ひゴヨマイ諸島はカニ、鮭等の生産多く戦争前は之等に依り罐詰を製造し盛に貴國に輸出して居りました日本かポツダム宣言を忠實に履行する上からも以上の諸島を米軍の保障占領下に置かれ余等をして安んして是等の生業に就かしめ賜はらんことを重ねて嘆願する次第てあります。
以上概要を申上け閣下の御明鑑に愬へ一日も早く米軍の保障占領下に置かれんことを偏に悃願する次第てあります。
閣下の御健康と貴軍の御安泰を御祈り致します。