清く正しく美しく

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美しく
 
 

 
2016/4
 
 
天才起業家の遺訓 「清く・正しく・美しく」 1
本業を発展させながら、情報、レジャー、文化というコンセプトを次々に生み出し、グループ全体の付加価値を高める―。情報文化産業の生みの親が小林一三だ。今も根強い人気を誇る「宝塚歌劇団」、日本のハリウッドを目指した「東宝映画」、新聞社を巻き込んだ「夏の高校野球」といったイベントを考案し、ビジネスとして発展・成長させた天才的起業家である。阪急電鉄の経営を託された小林は、斬新(ざんしん)なアイデアで都市づくりに挑んだ。その一つが日本初の「ターミナル・デパート構想」。駅を商業施設と一体化させる事業は前例がなく、周囲では反対の声も聞かれたが、「素人だからこそ玄人では気づかない商機が分かる」と譲らず、事業を推進。その後、日本各地に広がった駅ビルを商業施設として活用し、まちづくりの中核に位置づける構想は小林のアイデアである。
今も高い人気を博す宝塚歌劇団も小林が生み出した。三越少年音楽隊を範に、宝塚新温泉にあった温水プールの跡地利用の一環として考案。温泉場の余興に―との発想から始まった。現在も宝塚歌劇団に受け継がれるモットー「清く・正しく・美しく」は小林の遺訓。「宝塚歌劇の父」という顔も持つ。
ダイエー創業者で多角的事業家であった中内功が全盛期、こんな話をしている。「わたしなんかがいくら頑張っても、しょせん、小林一三の掌(たなごころ)の上ですわ」。最大の賛辞であろう。 
 
宝塚歌劇 「清く正しく美しく」 2
宝塚歌劇団は今年、100周年を迎えた。入団は宝塚音楽学校の卒業生に限り、未婚女性しか在籍を認めない方針を取ってきた。その異色の劇団が1世紀の時を刻めたのは、劇団のテーゼ「清く正しく美しく」が色あせること無く、人を惹(ひ)きつける力を持ち続けてきたからだろう。
終戦後のくすんだ大地に光輝く舞台が出現
私もテーゼを具現化した歌劇団の舞台に惹かれた一人だ。終戦翌年の1946年、宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)の再開公演で、戦争の惨禍をひととき忘れ、夢を見させてもらった。町はくすんだ色に覆われていたのに、大劇場の中だけは色があふれていた。入団以来57年間、戦後の再開公演で味わった感動を、脚本を執筆し、演出した作品を通して伝えようとしてきた。代表作「ベルサイユのばら」もその一つ。フランス革命を舞台に、男装の麗人オスカルと幼なじみのアンドレの愛を、私流の「清く正しく美しく」で描いた。主題歌「愛あればこそ」で「愛」を歌い上げたのも、戦争をくぐり抜けた故の問い「いかに生きるべきか」が下敷きになっている。
宝塚歌劇の厳格な法「すみれコード」
手掛けた作品の舞台は、激動の時代が多い。「戦後焼け跡派」なので、どうしても関心がそっちに向いてしまう。それを宝塚にマッチする恋の物語に紡ぎ、観客に届けてきた。
舞台を盛り上げようとするあまり、歌劇団のテーゼにのっとった不文律「すみれコード」にひっかかったこともある。「ジャワの踊り子」(菊田一夫作)を私の潤色で舞台化した時は、濃厚なラブシーンが「宝塚らしくない」とされ、少し手直しをした。トップ男役からは「最初の演出でやりたい」と涙ながらに訴えられ、これはこれでこたえた。
「すみれコード」の許容範囲を、時代に合わせて広げもした。もう一つの代表作「風と共に去りぬ」で、レット・バトラーを演じるトップ男役に髭(ひげ)を付けさせるかどうかでもめた時だ。東京宝塚劇場を運営する東宝から「あるまじきこと」と大反対され、東京公演の実現を巡って「髭(ひげ)が箱根を越えるか?」などと新聞に書き立てられた。
歌劇団の特徴は未婚女性約400人から成る劇団だということ。だが、必要以上に自制して、「お嬢さん芸」と揶揄(やゆ)されるのは承服できない。
昭和の初め、長い髪が女性の常識だったのに、男役は役柄に徹するため短髪にした。女性が素肌を出して舞台に立ったことでも、宝塚は先駆けだった。日本物に限らず手足に白粉(おしろい)を塗って出演するのがマナーだった時代にだ。これとて、「すみれコード」の許容範囲を探った結果だろう。
「髭や髪、化粧で大げさな」と思われるかもしれない。だが、本拠地の宝塚大劇場だけで年間ほぼ100万人の観客を迎え、春日野八千代、鳳蘭、麻実れいら歴代のトップスターはその視線を一身に浴びてきた。彼女たちを傷つけないためには、細心の注意を払わねばならない。だから、演出家は本番の舞台が気になり、浅い眠りしかとれない日々を送ることになる。
宝塚歌劇のはじめての海外公演
1965年9月、宝塚歌劇団の総勢63人はフランスに向けて旅立った。パリのアルハンブラ劇場で約1カ月間の公演を行うためだ。私は演出助手として、海外公演に初めて参加した。
公演の企画は西ドイツのテレビ番組製作会社、ババリア・アテリエから持ち込まれた。歌劇団は創設50周年に当たる前年、「未婚女性の400人の劇団」として海外の新聞・通信社からも取材を受け、同社はトップ男役の那智わたると麻鳥千穂を西ドイツに呼び寄せてショーを制作していた。この縁で、パリ公演が企画された。
演目は歌劇団演出の日本物のショーと、ババリア側スタッフ演出による洋物のショー。外国人に制作全てを委ねるのは初めてで、洋物はババリア側スタッフが宝塚に来て作った。8月に大劇場で日本物と洋物を併せて上演してから、パリに持って行った。
女性重視の演出への戸惑い
彼らの演出で興味深かったのは「女性」を最重視することだ。衣装からして、男役の燕尾服(えんびふく)は女性の体のラインを出そうとし、ラインダンス用は股上の切れ上がったデザインだった。生徒(劇団員)は「男役の衣装がバスト強調では恥ずかしい」「腰骨まで見える」と反発。変更を求めて団体交渉したが、ババリア側は撤回しなかった。
パリ公演は最初、客席にとまどいがあったが、徐々に感触がよくなったと聞いた。というのは、私は初日の幕が開いて数日後、同じく演出助手として参加していた菅沼潤さんとパリを立ち、ロンドンやニューヨークを巡る研修旅行に出たので、その後の舞台を見ていないからだ。
所見したところでは、日本物のショーで舞妓(まいこ)姿の一同が踊りながら舞台袖に退く時、最後尾の可奈潤子が「待って」と泣きそうな声を出していたのが、ほほ笑ましかった。この場面の後、カーテンが閉まり、真っ暗な中で舞台装置の転換が行われる。可奈は自分が退場する前にカーテンが閉まってしまい、大道具担当と交錯するのが怖かったのだ。
東洋から来たエンジェル達が話題に
パリ到着の翌日、公演のデモンストレーションで、出演者52人全員が和服の訪問着でシャンゼリゼ通りを歩いたのは誇らしい思い出になっている。地元の新聞に「東洋からエンジェルが来た」と報じられ、大きな話題になった。
訪問着を巡っては、オルリ空港に到着する際、トラブルがあった。出演者は晴れがましげにパリの地を踏もうと、男性陣をファーストクラスに遠ざけ、機内で大騒ぎして訪問着に着替えた。
意気揚々とタラップを降りると、出迎え役のシャンソン歌手ジュリエット・グレコが一人ひとりの首にレイをかけてくれた。だが、雨でレイの色紙が色落ちし、全員の訪問着が台無しになった。それに気付いた彼女たちの嘆声は、今も耳に残っている。ただ、全員が替えを用意していたから、シャンゼリゼ行進に支障はなかった。
現代の宝塚の中性的な男役の原点
パリ公演は初めからテレビ撮影を意識した企画だったので、舞台装置が希望通りにいかないなど悔いは残した。だが、得たものは大きかった。女性を強調したババリア側の演出は、宝塚になかった中性的な男役を後に生み出す契機になった。また、この時の英国人振付家パディ・ストーン氏は、歌劇団に高度で激しいダンスをもたらした。 
 
清く正しく美しく 3
現代社会では、清く、正しく、美しくという言葉は全否定である。この世の中は、醜悪で汚れきっている。それが現実だというのが通り相場である。更に、強さも唾棄すべき事柄である。清く正しくなんて言うと斜に構えておまえは、何も現実のことを解っていないと仲間から諭される。諭された挙げ句によってたかって引きずり降ろされる。引きずり降ろしておいてやっぱり汚い世の中だと嘯く。違う違う、そうやって引きずり降ろす奴が汚いだけである。彼等にとって真面目に生きる奴は目障りなのである。自分の醜さが際立ってしまうからである。弱々しく、媚びへつらう者を望んでいるのであり、誇り高く、気高い人間は邪魔なだけなのである。正義や公義など無縁な我利我利亡者である。なぜならば、骨の髄まで負け犬が染みついているからである。俺はなんて駄目なんだと諦めるのは容易いし、楽だ。しかし、それでは生きている甲斐がない。
現代日本の似非知識人にとって現実というのは、とにかく、汚く、汚れた、醜いものでしかない。清く美しいものがあったとしてもそれは偽物でしかない。その様な偽物は、早く汚してしまった方が良い。理想なんて幻想に過ぎず、理想に取り憑かれるから災いに巻き込まれるのである。神ですら、汚れた存在であり、子供も父母の欲望の果てに生まれた存在でしかない。この様な原罪思考が現代人の根本を支配している。アメリカの恋愛ドラマを見ていると、純真な愛を追い求めている癖に、やっている事ときたら快楽の追求に過ぎない。だからいつまでたっても愛は成就しない。そして、真実の愛など存在しないと訴えている。またまた、それは、言行が不一致なだけのである。相手に自分だけを愛するように求めながら、自分は、数多くの快楽を得ようと欲張っているだけなのである。真実の愛が得られないのは当然の報いであり、自らが招いているのに過ぎない。現代人は、何かというと愛だ愛だという癖に、爪の先ほども愛なんて信じていない。いつよりも、愛なんかより、性欲の方が勝っているのである。だから、愛に飢えている。まったく馬鹿げている。愛を求めるのならば、愛を信じるべきである。
確かに、理想を実現する事は困難かも知れない。だからどうだというのか。理想はこの世にはないかも知れない。だからどうなのか。いずれも理想を棄てる理由にはならないし、夢を信じない理由にもならない。理想や夢を棄てるのは、自分が弱いからに過ぎない。大体、求めている理想や夢が、有名になって、金を沢山も受けると言った最初から不純なのである。夢や理想に公がなく、私利私欲に過ぎないのである。自分が弱いから、自分が汚れいるからと言って他人の強さや美しさを汚す理由にはならない。
現実をなぜ、殊更に醜くする必要があるというのであろう。なぜ、理想を高く掲げてはならないのか。己が、なんの努力もせずに、どうせ駄目さと怠惰な生活をおくるためには、現実は見にくく、理想なんて実現できないと諦めるのが早い。結局、何もしない言い訳のために、現実を醜いものだと決め付けているに相違ないのである。現実が醜かろうと、理想が高ろうと、どうだって良いことだ。自分が清く、正しく、生きていくことの障害にはならない。自分と戦って、戦って勝ち抜くこと以外に、何の意味もない。 
 
清く正しく美しく生きる 4
「清く正しく美しく」という言葉、耳にされたことありますか?「清く正しく美しく」は、幸福論においてよく用いられる言葉であり、これを守って生きることこそが、幸福への近道であると考えられています。実際、清く正しく美しく生きることは、現実社会においても、幸せになるための手段として有効に機能するものといえそうです。そしてこれは、簡単な例を用いることでも、実際に証明することができたりします。
まず最初の「清く」とは、穢れのない心身をいいます。精神的にも肉体的にも、健全に生きることでまず第一に得られること。それは、心身の健全性といえそうです。よって、清く生きることで、健康的な日々を過ごすことが可能となります。
次の「正しく」とは、社会における正しさと考えても良いと思いますが、常に正しく、本来の道から逸れることなく生きることで、常にブレのない安定性を身につけることが可能となるはずです。また、ブレがないわけですから、精神的にも平穏な状態を保つことができそうですよね。
そして「美しく」とは、心や身体において、常に美的感覚を持って生きることといえそうですが、これは単に美人であるとか、ファッションセンスに優れたといったことよりも、さらに崇高な、美しい生き方を追及することを意味しているように思います。
さて、健康的に、しかも社会的にブレがなく、そして美しい生き方を追及していくと、日々の健全な歩みの中で、自ずと不幸を回避する力を持つことができるようになるものです。なぜなら不幸とは、過ちや障り、罪などによってその多くがもたらされるものであり、清く正しく美しく生きることを心がけることで、自然と不幸の因子を遠ざけることが可能となるからです。
実は、清く正しく美しく生きることは、幸福という人生の大きな流れを変える効果があるのみならず、彼氏ができる策としても、とても強力に作用するものです。
「そうなの?」
ということで、今回は「清く正しく美しく生きると自然に彼氏ができる理由」というお話を進めていくことにしましょう。
「清く正しく美しく」というと、「とても、私にはできないな」と思われるかもしれません。でも、この3つの条件は、努めて持つことをしなくても、誰にも備わっているものといえそうです。
たとえば、お友達と喧嘩になって、言い過ぎたことがあったりすると、あなたは、それを悔やむはずです。これは、心が清く、そして正しい行いをあなたが知っているからに他なりません。また、あなたは心身ともに美しくありたいと願っているはずですし、美しいものに触れた際、強い感動を得たりすること、ありますよね。つまり、「清く正しく美しく」は、実は誰もが持つ側面であり、決して難しい生き方ではないんですね。
ですから、今後、自然に彼氏ができる状況を呼び込むために、あなたが実行する「清く正しく美しく」も、そんなに高いハードルではないと言えます。
では、さっそく実質的な戦略説明へと移行することにしましょうね。
まず最初の「清く」とは、男性に対する部分で考えるのなら、節度を持った関係性といえるかもしれません。つまり、感情と肉体の関係性に、大きなかい離がない近づき方をするということでしょうか。…というと、ちょっと硬すぎる感もありますが、でもこれ、男を落とす施策において、とても重要な要素が含まれているように思います。つまり、適度な焦らしは、男から見た女性の価値観を高めることから、女性にとってとても強力な武器として機能します。誰でも価値あるものは手にしたいと願うものですが、男とて、女性の価値を常に把握しつつ、感情が動かされているからです。
次の「正しく」とは、コミュニケーションにおける正しさといえるかもしれません。人は一人では生きていくことができません。よって量的な差はあるものの、誰もが何らかのコミュニティに接していたり、属しつつ生きているはずです。この際、正しいお付き合いに努めることとは、たとえば、人を敬ったり、感謝をしたり、困っている人を助けたり、互いに励ましあうなどの、ポジティブなコミュニケーションの実現といえるでしょう。
最後の「美しく」とは、内面、外面の双方において、常に美を意識して生きるよう心がけるということでしょうか。多くの美しいものに接し、また、自らも美しくありたいと常に願うのであれば、誰にでもできそうな気がしませんか?さて、これらに努めて日々人生を歩んで行くことで、実は多くの出会いに恵まれ始めることに気付かれるでしょうか。
男性から見たあなたの価値が上昇し、しかもコミュニケーションの幅が常に拡大を続け、さらには、心身ともに美しくありたいと願うあなたです。そんな女性、周囲の男が放っておくわけがないことは、容易に想像することができることでしょう。
そう、つまり自然に男が引き寄せられ、そして彼氏ができる状況が徐々に構築されることになるわけです。
さて、いかがでしょうか。
「清く正しく美しく」というと、何となく100点満点の解答用紙のようで、逆に違和感をもたれるかもしれません。でも、そんな生き方に努めることで、次第に男運を上げることができるわけです。しかも、幸福論としてもこの戦略は機能しているわけですから、しばらくの未来におけるあなたは、自然に彼氏ができて、しかも幸福につつまれるといった恩恵を受けることになるわけです。
ちょっとコソバユイ戦略ですが、その効果は大きいので、是非とも戦略のひとつに加えてみてくださいね。そして、幸せな人生を歩んでいただきたいと思います。