慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問に答えます
すばらしい 言い訳特集記事
慰安婦報道は「誤報」とは言えないそうです
昔 新聞保存版の中で
太平洋戦争時の報道記事を
全て真っ白けに塗りつぶした新聞がありました
たとえ言い訳でも 再評価しただけマスコミ姿勢の進歩か
一方 韓国を失望させました
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■慰安婦問題を考える・世間の目・朝日新聞社第三者委員会報告書 |
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![]() 韓国の歴史認識に大貢献しました 生き証人も死に絶えました 「韓国の歴史認識」だけが独り歩き 闊歩 |
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![]() ![]() ![]() ・・・戦時下での女性に対する性暴力をどう考えるかということは、今では国際的に女性の人権問題という文脈でとらえられています。慰安婦問題はこうした今日的なテーマにもつながるのです。・・・ 公娼が心ならずも慰安婦となった歴史と、戦時下での一般女性に対する暴力は、別物です、つながりません。女性の人権問題は錦の御旗と、一緒くたにしています。 公娼制度は悲しい文化ですが、当時は韓国にも日本にもありました。 歴史・文化の認識基盤を、今日的な価値観にすり替えたいのでしょう。 |
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「今では国際的に」は、自信のない時のマスコミの大好きな、箔を付ける常套句、前ふり言葉です。・・・だから、この考え方は正しいのです。・・・ 「女性の人権」のとらえ方は、宗教と深く関連しています。朝日が期待している「とらえ方」は、多分、キリスト教圏のものでしょう。キリスト教徒は、世界人口の約33%です。イスラム教徒とヒンズー教徒を加えると、約35%です。イスラム教やヒンズー教の、教義としての「女性の人権」は、キリスト教と異なるものです。 |
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●慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問に答えます | |
●強制連行自由を奪われた強制性あった 日本の植民地だった朝鮮や台湾では、軍の意向を受けた業者が「良い仕事がある」などとだまして多くの女性を集めることができ、軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません。一方、インドネシアなど日本軍の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す資料が確認されています。共通するのは、女性たちが本人の意に反して慰安婦にされる強制性があったことです。 |
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●「済州島で連行」証言裏付け得られず虚偽と判断 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。 |
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●「軍関与示す資料」本紙報道前に政府も存在把握 記事は記者が情報の詳細を知った5日後に掲載され、宮沢首相の訪韓時期を狙ったわけではありません。政府は報道の前から資料の存在の報告を受けていました。韓国側からは91年12月以降、慰安婦問題が首相訪韓時に懸案化しないよう事前に措置を講じるのが望ましいと伝えられ、政府は検討を始めていました。 |
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●「挺身隊」との混同当時は研究が乏しく同一視 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。 |
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●「元慰安婦初の証言」記事に事実のねじ曲げはない 植村氏の記事には、意図的な事実のねじ曲げなどはありません。91年8月の記事の取材のきっかけは、当時のソウル支局長からの情報提供でした。義母との縁戚関係を利用して特別な情報を得たことはありませんでした。 |
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●他紙の報道は ( どこも似たり寄ったりの報道、朝日だけが誤認したわけではありません、ご理解ください。) |
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●朝日新聞社第三者委員会 報告書 2014/12/23 | |
●はじめに | |
当委員会は、朝日新聞社代表取締役から、同社の慰安婦報道等に関して調査し、検討の結果を報告することを委嘱された。本報告書はその結果を記載するものである。調査については、全面的に朝日新聞社の協力を得、限られた期間内におけるものではあったが一応の結果を出すことができたと考える。自由闊達に議論を行い、言論の力によって世論を形成してゆくことは民主主義の基礎である。今般の調査中、この基礎を脅かすような脅迫、嫌がらせの類の働きかけが朝日新聞社やその関係者に行われていることを認識した。誠に遺憾なことである。この報告書が、朝日新聞社の慰安婦報道その他の問題について、広い視野に立った、偏見のない、冷静な議論が行われることの一助になれば幸いである。 | |
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●1 本報告書作成に至る経緯及び調査事項等 | |
●(1)本報告書作成に至る経緯
当委員会は、株式会社朝日新聞社代表取締役木村伊量より、朝日新聞が行ってきた慰安婦報道に関して調査及び提言を行う旨委嘱を受け、2014年10月9日、設置された。当委員会は、上記委嘱を受け、朝日新聞が行った前記報道とその経緯について調査するとともに、その調査の結果を踏まえ、問題点を抽出し、これを正す方策を考え、今後の同社の報道のあり方について提言を行うものである。 |
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●(2)調査の対象とする事項
当委員会が検証ないし議論を行った主な事項は次のとおりである。 ○ア 事実関係 ・太平洋戦争中、済州島において、吉田清治氏が、山口県労務報国会下関支部動員部長として、いわゆる慰安婦とする目的の下に多数の朝鮮人女性を強制連行したとする証言(以下「吉田証言」という。)を取り上げた、朝日新聞の1982年から1997年までの合計16本の記事(以下これらを合わせて「吉田証言記事」という。なお、これらの記事のうち外部筆者によるもの以外の13本を本報告書別冊資料1として添付する)を作成した経緯 ・吉田証言記事について、2014年8月5日付朝刊及び同月6日付朝刊に掲載した検証紙面「慰安婦問題を考える」(以下両記事を合わせて「2014年検証」という。)の掲載に至るまでこれを取り消さなかった理由・朝日新聞が作成した慰安婦に関する吉田証言記事以外の主な記事の作成経緯 ・2014年8月分の池上彰氏のコラム原稿について内容の修正を求め、いったん掲載を見送った経緯 ・朝日新聞が行った慰安婦報道が日韓関係をはじめ国際関係に対して与えた影響 ○イ 上記事実に関する評価 ○ウ これらの報道等に通底する朝日新聞の報道姿勢・体質的問題 ○エ これらに対する報道のあり方 |
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●(3)調査の範囲
当委員会が行う調査は、慰安婦問題に関して朝日新聞が行った取材及び報道並びに過去の報道を取り消さなかった不作為及び過去の報道の訂正又は取消しのあり方が、報道の自由の範囲内のものとして許容される適正なものであったかを明らかにするために行うものであって、検証事項に関連する事実の認定も、その判断を行うために必要な範囲で行う。 本来、過去の歴史的事実の究明は、多くの歴史考証の専門家による長年にわたる精密な研究に委ねられるべき事柄であり、当委員会がそれらの事実について、上記の調査を実施するために必要な限度を超えて認定判断することは、当委員会の任務の範囲を超えるものである。 |
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●(4)調査実施状況
○ア 当委員会は、上記検証及び提言を行う前提として、2014年10月10日から同年12月12日にかけて、木村以下、延べ50名の役員、従業員その他関係者及び有識者らに対してヒアリングを実施し、事実関係を調査した。 ○イ 当委員会が本報告書を作成するにあたり参照した記事、文献その他の資料の主要なものを本報告書末尾に掲記する。 |
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●(5)朝日新聞の組織
朝日新聞の事業及び組織に関する説明文を、本報告書資料Tとして掲記する。 |
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●2 事実経過の概略 | |
●(1)吉田証言について
朝日新聞は、同社記者が執筆した1982年9月2日付朝刊紙面に「朝鮮の女性/私も連行/元動員指揮者が証言/暴行加え無理やり」の見出しの記事において、同社として初めて、吉田証言を紹介した。 それ以降、1983年10月19日付夕刊紙面、同年11月10日朝刊紙面、同年12月24日付朝刊紙面、1986年7月9日付朝刊紙面、1990年6月19日付朝刊紙面、1991年5月22日付朝刊紙面、同年10月10日付朝刊紙面、1992年1月23日付夕刊紙面、同年3月3日付夕刊紙面、同年5月24日付朝刊紙面、同年8月13日付朝刊紙面、1994年1月25日付朝刊紙面(以上、外部筆者による3本以外の合計13本)において、かなりのスペースを割いて、吉田証言に関連する記事を掲載した。 その間、歴史学者の秦郁彦氏は、1992年4月30日付産経新聞及び同年5月1日発行の「正論」において、吉田氏に対する取材及び慰安婦の強制連行があったとされる済州島での現地調査等を踏まえ、吉田証言は疑わしいと指摘した。 秦氏の上記指摘があった後も、上記のとおり、朝日新聞は吉田証言記事の掲載を続けた。 朝日新聞は1997年3月31日付朝刊における特集紙面(以下「1997年特集」という。)において、吉田証言について、「真偽は確認できない」旨記載したものの吉田証言記事について訂正又は取消しを行わなかった。その後、2014年検証に至るまで、吉田証言記事について訂正又は取消しを行わなかった。 |
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●(2)朝日新聞が掲載した吉田証言記事以外の主な記事
朝日新聞が、吉田証言記事以外に掲載した慰安婦に関する記事のうち本報告書で扱う主なものは次のとおりである。 ○ア 1991年8月11日大阪版朝刊紙面「元朝鮮人従軍慰安婦/戦後半世紀重い口開く/思い出すと今も涙/韓国の団体聞き取り」 ○イ 同年12月25日付朝刊紙面「女たちの太平洋戦争/かえらぬ青春 恨の半生/日本政府を提訴した従軍慰安婦・金学順さん」 ○ウ 1992年1月11日付朝刊紙面1面「慰安所 軍関与示す資料/防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌/部隊に設置指示/募集含め統制・監督」、社会面「朝鮮人慰安婦への軍関与資料/『謝罪を』『補償を』の声さらに/政府の『無関係』に批判」 ○エ 1997年3月31日付朝刊紙面「政府や軍の深い関与、明白/従軍慰安婦 消せない事実」(1997年特集) |
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●(3)検証紙面
朝日新聞は、2014年8月5日及び同月6日の各朝刊紙面において、次の検証紙面を掲載した(2014年検証)。 ○ア 2014年8月5日 a 「慰安婦問題の本質 直視を」(論文) b 「慰安婦問題 どう伝えたか/読者の疑問に答えます/強制連行/『済州島で連行』証言/軍関与示す資料/挺身隊との混同/元慰安婦 初の証言」 ○イ 2014年8月6日 a 「日韓関係なぜこじれたか/河野談話 韓国政府も内容評価/アジア女性基金に市民団体反発/韓国憲法裁決定で再び懸案に」 b 「慰安婦問題特集 3氏に聞く」 |
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●(4)池上コラム問題
朝日新聞は、毎月1回、池上氏執筆による「新聞ななめ読み」と題するコラム(以下「池上コラム」という。)を掲載していた。2014年8月掲載予定の池上コラムの内容は、朝日新聞の2014年検証に関するものであった。朝日新聞は、2014年8月28日組み込み、同月29日掲載予定の池上コラムの原稿の内容を確認したうえで、池上氏に内容の修正を求めた。池上氏が修正に応じなかったところ、朝日新聞は、上記掲載予定日に池上コラムを掲載しなかった。 |
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●(5)慰安婦問題に関する動き
1990年11月、韓国で元慰安婦の支援団体である挺身隊問題対策協議会(挺対協)が結成された。 1991年8月、元慰安婦である金学順(キム・ハクスン)氏が実名を公表して名乗り出た。 1991年12月6日、金氏を含む元慰安婦、元軍人・軍属やその遺族らから、日本政府に対し、戦後補償を求める訴訟が提起された。 1993年8月4日、河野洋平官房長官が、いわゆる河野談話を発表した。 1995年7月19日、元慰安婦に対する償いの事業などを行うことを目的に「女性のためのアジア平和国民基金」(いわゆるアジア女性基金)が設立された。 1996年2月、女性に対する暴力に関する国連人権委員会特別報告官ラディカ・クマラスワミ氏が、慰安婦への国家としての補償と加害者の処罰を勧告する報告書(以下「クマラスワミ報告書」という。)を同委員会に提出した。 2007年1月31日、米下院に慰安婦問題に関する対日謝罪要求決議案が提出され、同年7月30日、同本会議において、慰安婦問題に関する対日謝罪要求決議が可決された。 2011年8月30日、韓国憲法裁判所が、韓国政府が元従軍慰安婦の補償につき日本側と解決に向けた努力をしないことは違憲とした決定をした。これを受けて、韓国政府は、日本政府に対し、元慰安婦への対処を求めるようになった。 2012年3月1日、李明博韓国大統領が、三・一独立運動93周年記念式典で慰安婦問題に言及した。 同年8月10日、李明博大統領が、慰安婦問題に対する日本政府の消極的態度に対する抗議という理由で竹島に上陸した。 2013年1月、ニューヨーク・タイムズが慰安婦問題に関して、安倍晋三内閣総理大臣を批判する社説を掲載した。 |
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●3 国内外の報道の概要 | |
当委員会は、朝日新聞が行った慰安婦に関する報道を評価するために、朝日新聞以外の作家、ジャーナリスト、報道機関等がどのような報道を行ってきたかも判断材料とした。その主なものは以下のとおりである。 | |
●(1)書籍等
慰安婦に関する書籍としては、千田夏光氏が週刊新潮1970年6月27日号で発表した「特別レポート 日本陸軍慰安婦」が知られており、その後千田氏が刊行した1973年の「“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦」、1978年の「従軍慰安婦〈正篇〉」のうち、前者が、1974年に韓国で翻訳出版された。 千田氏は、書籍において「従軍慰安婦」という言葉を使用した。また、千田氏は、朝鮮人女性が「挺身隊」の名で集められたとしつつ、その人数について、「総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち“慰安婦”にされたのは“五万人ないし七万人”とされている」と言及している(「従軍慰安婦〈正篇〉」114ページ)。 吉田氏は、1977年に、「朝鮮人慰安婦と日本人」を刊行した。同書は、80年代初頭に韓国で翻訳出版されている。また、吉田氏は、1983年に、「私の戦争犯罪」を刊行した。同書では、朝鮮人女性を強制連行した際の様子が詳細に描写されている。 |
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●(2)国内メディアの報道状況
国内における初期の報道では、朝日新聞以外の報道機関においても、慰安婦と挺身隊を混同して報じた記事が存在する。また、その人数についても、記事によって様々であった。 1991年8月14日、金氏が元慰安婦であることを公表した後も、慰安婦と挺身隊を混同したまま報じた記事が存在した。 1991年11月22日付北海道新聞は、吉田証言を記事にして報じ、同月27日付紙面において、吉田証言についての同紙の報道が韓国メディアに大々的に取り上げられたことを報じている。 1992年4月30日付産経新聞において、吉田氏の証言に疑義を呈した秦氏の調査結果が報道されて以降、吉田証言について疑問を呈する報道や記事が増加した。 |
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●(3)海外メディアの動向
○ア 韓国メディアの報道状況 吉田証言に関して、例えば、1983年6月下旬に韓国紙が吉田氏の「謝罪の碑」建立を報じているが、吉田証言を報道する記事は散発的だった。なお、秦氏の済州島での現地調査によれば、1989年8月14日の済州新聞において、済州島の島民が吉田証言を否定したとの記事が掲載されていた。慰安婦問題を大々的に扱った韓国メディアの報道として注目されたのは、梨花女子大教授の尹貞玉氏が1990年1月、ハンギョレ新聞に4回掲載した「挺身隊取材記」である。1991年8月14日に金氏が慰安婦として名乗り出ると、韓国メディアもこれを一斉に報じた。同月15日付ハンギョレ新聞等は、金氏がいわゆるキーセン学校(妓生を育成する学校)の出身であり、養父に中国まで連れて行かれたことについても報道している。 1991年11月25日付北海道新聞が吉田証言について報じると、韓国メディアもこれを大きく取り上げた。 ○イ 韓国以外の欧米メディアの報道状況 欧米メディアを中心とした韓国以外の海外メディアの報道状況については、本報告書別冊資料2のとおりである。 |
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●4 朝日新聞の1980年代における吉田証言に関する報道の状況 | |
本項では、朝日新聞の1980年代における吉田証言に関する報道の状況について検討する。検討の対象となる記事は、2014年検証記事において取り消されたものであり、1980年代については5本ある。 | |
●(1)1982年9月2日付記事
1982年9月2日、朝刊(大阪本社版)社会面(22面)に「朝鮮の女性 私も連行」、「元動員指導者が証言」、「暴行加え無理やり」、「37年ぶり 危機感で沈黙破る」などの見出しのもとに、吉田氏が講演したことが掲載された。同記事には壇上で講演する吉田氏の写真が「『日本軍が戦争中、犯したもっとも大きな罪は朝鮮人の慰安婦狩りだった』と話す吉田清治さん=1日夜、大阪市浪速区の浪速解放会館で」との説明が付けられて掲載された。 同記事は、前日の1日に大阪市内で行われた集会において吉田氏が講演したことを報道するものであり、吉田氏が、昭和17年から20年にかけて山口県労務報国会下関支部の動員部長として、10数回にわたり朝鮮半島において朝鮮人約6千人(うち慰安婦950人)を強制連行したこと、朝鮮人慰安婦は皇軍慰問女子挺(てい)身隊という名で戦線に送り出したこと、昭和18年の初夏の1週間に済州島で200人の若い朝鮮人女性を完全武装の日本兵10人を伴って、狩り出したことを述べたとする。 その集会は、浪速解放会館において行われた「旧日本軍の侵略を考える市民集会」で、反安保府民共闘会議の主催で行われたものであり、吉田氏の演題は「済州島における慰安婦狩り出しの実態」であった。この記事を執筆した記者、執筆意図、吉田氏の講演内容の裏付け取材をしたのかについては判明しない。当初執筆者と目された清田治史は記事掲載の時点では韓国に語学留学中であって執筆は不可能であることが判明し、上記記事中の写真説明を書いた記者(当時大阪社会部)は、講演会場に赴いて写真を撮影したのは自分であるが、記事執筆の点を含めて細かい記憶はなく、当日のデスクの指示により写真を撮ったものと考えられ、事前準備もなしにこれだけの記事を出稿できるものではないなどと述べて記事執筆を否認していて、その供述に合理性がないわけではない。 |
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●(2)1983年10月19日、同年11月10日及び同年12月24日付記事
○ア 1983年10月19日付記事 1983年10月19日、夕刊社会面(15面)に「韓国の丘に謝罪の碑」、「『徴用の鬼』いま建立」、「悔いる心、現地であかす」などの見出しのもとに、「韓国からの励ましの手紙などを繰り返し読み、謝罪の碑への思いをはせる吉田清治さん=東京都品川区上大崎2丁目の自宅で」との説明のある吉田氏の写真が付された記事が掲載された。 同記事は、吉田氏が、韓国に石碑を建立するということを報じるもので、吉田氏について「太平洋戦争中、六千人の朝鮮人を日本に強制連行し、『徴用の鬼』と呼ばれた元山口県労務報国会動員部長」と紹介し、「軍や警察の協力を得て、田んぼや工場、結婚式場にまで踏み込み、若者たちを木刀や銃剣で手当たり次第に駆り立てた。徴用した六千人のうち、約三分の一は病気などで祖国解放を見ずに死んだ、という。」などと記載する。 ○イ 1983年11月10日付記事 1983年11月10日、朝刊総合面(3面)「ひと」欄に、「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる吉田清治さん」との説明のある写真を付して吉田氏を紹介する記事が、清田の署名入りで掲載された。同記事は、朝鮮半島における吉田氏の具体的行為の記述はないが、吉田氏について、法政大卒業後、旧満州国吏員から中華航空に転じ、軍法会議において利敵行為で懲役2年に処せられ、出獄後、特高警察に迫られて労務報国会で働くことになったなどの経歴を記載する。 ○ウ 1983年12月24日記事 1983年12月24日、朝刊社会面(23面)に「たった一人の謝罪」、「強制連行の吉田さん 韓国で『碑』除幕式」などの見出しのもとに、「サハリン残留韓国人の遺家族を前に土下座する吉田清治さん=韓国忠清南道天安市の望郷の丘で清田特派員写す」との説明のある吉田氏の写真が付された記事が掲載された。同記事は、吉田氏が韓国に建立した碑の除幕式について報道するものであり、吉田氏の戦時中の行為について、「吉田さんは、国家総動員体制の下で軍需工場や炭鉱などで働く労働力確保のためつくられた報国会の一員として、自分が指揮しただけで女子挺身隊九百五十人を含め六千人を徴用した。」とする。また、メモと題された用語説明には、「大韓赤十字社などの調べでは、一九三九年から四五年の敗戦までの間に日本が『徴用』、『募集』名目で強制連行した韓国・朝鮮人は七十二万余人。うち『女子てい身隊』名目で前線に送られた慰安婦は五―七万人にのぼるといわれる。」と記載する。 ○エ 上記各記事の取材経緯その他の事情 上記アからウまでの記事は、当時大阪社会部管内の岸和田通信局長をしていた清田によって執筆された。清田は、韓国語学留学仲間であった弁護士や大阪の在日キリスト教関係者らから吉田氏の人物像や韓国に謝罪の碑を建立しようとしていることを取材した。この件に関する取材報道は、大阪社会部デスクの意向もあり、ソウル支局ではなく、清田により、強制連行の全体像を意識した企画として進めた。清田は、1983年10月に東京の吉田氏宅を訪問し、数時間にわたりインタビューをした。その過程で裏付け資料の有無を尋ねたが、焼却したとのことで確認できなかった。吉田氏の経歴その他についても十分な裏付け取材をしなかった。清田としては、慰安婦としての強制連行にかかわる吉田氏の証言内容が生々しく詳細であり、朝鮮人男性については強制連行の事実が確認されてもいるので女性についても同様のことがあったであろうと考え、これを事実であると判断して、記事を書いた。 |
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●(3)その後の吉田証言の報道状況
1986年7月9日朝刊社会面(22面)に掲載された記事(「アジアの戦争犠牲者を追悼」との見出し)中に、「日本側からは、戦争中『山口県労務報国会下関支部』動員部長として、従軍慰安婦を含む朝鮮人の強制連行の指揮に当たった吉田清治さん(七二)=千葉県我孫子市=が体験を話す。」との記載があるが、同記事が対象とする追悼集会について、これに参加する者を紹介するもので、その体験内容について独自の取材を経たものではない。 |
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●5 朝日新聞の1990年から1997年2月までの間における吉田証言の報道の状況 | |
本項では、1990年以降1997年2月までの吉田証言にかかわる記事中、2014年検証において取り消された11本の記事について、検討する。1990年代に入ると、慰安婦問題についての関心が日本及び韓国それぞれで高まり、多様な動きが見られるようになる。朝日新聞においても吉田証言以外の慰安婦に関する報道がされるようになった。
下記(1)から(4)では年代に従ってこれらを概観し、下記(5)において、上記4で概観した記事を含めて、一連の吉田証言を取り上げた記事内容及びこれへの批判に対する対処方法の妥当性について検討し、あわせて、名乗り出た慰安婦に関する植村隆執筆の記事(1991年8月11日及び同年12月25日)及び軍関与を取り上げた記事(1992年1月11日)について検討する。 |
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●(1)1990年の報道状況等
○ア 吉田証言に関する記事 1990年6月19日、朝刊(大阪本社版)社会面(26面)に「名簿を私は焼いた」、「知事の命令で証拠隠滅」、「元動員部長証言」との見出しのもとに、吉田氏の顔写真が付された記事が掲載された。同記事は、吉田氏について「戦前、山口県労務報国会下関支部動員部長として、『徴用』名目で多数の朝鮮人を強制連行した」と紹介し、吉田氏が朝鮮人の徴用に関する書類を焼却したことを報道するものであり、その前提としての強制連行については、「地元警察署員らが集落を包囲した後、吉田さんらが家の中や畑で作業中の朝鮮人男性を強引に引きずり出し、次々に護送車に乗せた。抵抗すれば木刀で殴り倒した」、「『同じやり方で多くの朝鮮人女性を従軍慰安婦として連れ去ったこともあります』」と記載する。 同記事は、書類焼却の点など他の取り消された記事にない部分があり、吉田氏の発言をカギ括弧で引用していること等から、吉田氏を直接取材して作成したものと認められるが、執筆者は不明であり、取材の詳細も判明しない。 ○イ 吉田証言に関する記事以外の状況 韓国では、1990年1月に、尹氏による慰安婦に関する「挺身隊取材記」がハンギョレ新聞に4回にわたり掲載された。1990年6月6日、参議院予算委員会で労働省(当時)の局長が、「先ほどお答え申し上げましたように、徴用の対象業務は国家総動員法に基づきます総動員業務でございまして、法律上各号列記をされております業務と今のお尋ねの従軍慰安婦の業務とはこれは関係がないように私どもとして考えられますし、また、古い人のお話をお聞きいたしましても、そうした総動員法に基づく業務としてはそういうことは行っていなかった、このように聞いております。」、「従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております。」、「できる限りの実情の調査は努めたいと存じますけれども、ただ、先ほど申しました従軍慰安婦の関係につきましてのこの実情を明らかにするということは、私どもとしてできかねるんじゃないかと、このように存じます。」などと答弁をした。 大阪社会部では、8月に行う平和をテーマとした企画記事準備のため、元慰安婦の女性を探して記事にしたらどうかということになり、同社会部所属の植村が7月に2週間程度韓国内を取材したが、元慰安婦の女性を探し出すことはできなかった。同年10月には韓国の女性団体が「挺身隊問題」に関して海部首相に公開書簡を出すなどの動きがあり、尹氏らが中心となって同年11月16日、韓国挺身隊問題対策協議会(以下「挺対協」という。)が結成された。 |
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●(2)1991年の報道状況等
○ア 吉田証言に関する記事 a 1991年5月22日付記事 1991年5月22日、朝刊(5面)に「木剣ふるい無理やり動員」、「加害者側の証言記録必要と執筆」などの見出しのもとに、吉田氏の顔写真の付された記事が掲載された。連載企画「女たちの太平洋戦争」の一つである同記事は、編集委員の署名記事であり、「女たちの太平洋戦争」へ韓国から寄せられた投稿にある、「“挺身(ていしん)隊員として連行された”女性」について述べる一方、「多数の朝鮮人を強制連行した側からの証言がある。一九四二年(昭和十七年)、朝鮮人の徴用を目的に発足した『山口県労務報国会下関支部』の動員部長になり、それから三年間、朝鮮人約六千人を強制連行した吉田清治さん(七七)=千葉県我孫子市=である」として、1986年8月に大阪で開催された集会(上記4(3)の記事で紹介されている集会)における吉田氏の講演記録からの引用という体裁をとり、朝鮮における行動の詳細が記載されている。例えば、「私たち実行者が十人か十五人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道(どう)の警察部を中心にして総督府の警察官五十人か百人を動員します。(略)殴る蹴(け)るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックとなっている中を、一つの村から三人、五人あるいは十人と連行していきます。(略)十万とも二十万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に一人もお帰りになってないのです」とする。 この編集委員は、上記記事執筆前に吉田氏に会っているはずだが、取材に至る経緯を含めて記憶になく、吉田氏の著書や吉田氏に関する過去の朝日新聞記事を参照した記憶や吉田氏の経歴調査等の裏付け調査をした記憶もないと言うほか、引用した講演録の基となった集会にも自分は参加していないと思うと言う。なお、上記記事は、吉田証言について朝日新聞の記者が執筆したものではあるが、著作物の引用が多いとして2014年10月10日付記事において公表しなかったものである。 b 1991年10月10日付記事 1991年10月10日、朝刊(5面)に前記「女たちの太平洋戦争」の一つとして「従軍慰安婦 加害者側から再び証言」、「乳飲み子から母引き裂いた『実際、既婚者が多かった』」、「日本は今こそ謝罪を」の見出しのもとに、「『私はもう年。遺言のつもりで記録しておいてほしい』と語る吉田清治さん=東京都内で」との説明のある吉田氏の写真が付された記事が掲載された。 これは前出の編集委員による署名記事であり、「吉田さんは五月二十二日の本欄で、加害者としての自分について証言したが、改めて胸中を吐露した」として、「私が連行に関与したのは千人ぐらいですが、多くが人妻だったのではないでしょうか。(略)若い母親の手をねじ上げ、けったり殴ったりして護送車に乗せるのです」などといった具体的行為のほか、「『あれは業者がやったことだ』『調査は不可能』などという理屈が通るはずもありません」、「韓国の反日感情にも火がつきます。外務省は、今すぐにでも事実を認め、謝罪するべきでしょう」、「北朝鮮がその問題を暴露したら日本政府はどうするのでしょうか」と日本政府の対応を批判する発言も記載する。左下には関連記事があり、「考える集い・催し次々と」、「岡山・大阪… 各地で広がる関心」の見出しのもとに、従軍慰安婦問題への関心が韓国・日本各地で急速に広がっていること、11月に吉田氏も参加する予定の集会があることなどが記載されている。 筆者は、記事中に3時間余り吉田氏を取材したとの記載があるが上記aの記事の取材と同様にあまり記憶がない、記事左下の関連記事も自分が書いたとは思うと言う。 ○イ 吉田証言に関する記事以外の状況 a 名乗り出た慰安婦に関する1991年8月11日付記事 1991年8月11日、朝刊(大阪本社版)社会面(27面)に「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」、「思い出すと今も涙」、「韓国の団体聞き取り」の見出しのもとに、「従軍慰安婦だった女性の録音テープを聞く尹代表(右)ら=10日、ソウル市で植村隆写す」と説明された写真の付された記事が掲載された。同記事は、当時大阪社会部に所属していた植村のソウル市からの署名入り記事で、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり」、同女性の聞き取り作業を行った挺対協が録音したテープを朝日新聞記者に公開したとして、「女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた」などその内容を紹介するものである。植村は、上記(1)イのとおり、韓国での取材経験から、朝鮮で女性が慰安婦とされた経緯について、「強制連行」されたという話は聞いていなかった。取材の過程で植村に女性の名前が明かされなかったため、上記記事において女性は匿名として扱われていたが、同月15日の北海道新聞には女性を金学順という実名入りで同人への単独インタビューに基づいた記事(「『日本政府は責任を』」、「韓国の元従軍慰安婦が名乗り」、「わけわからぬまま徴用」、「死ぬほどの毎日」、「賠償請求も」などの見出しが付されている。)が掲載された。 b 名乗り出た慰安婦に関する1991年12月25日付記事 金氏を含む元慰安婦、元軍人・軍属やその遺族らは、1991年12月6日、日本政府に対し、戦後補償を求める訴訟を東京地裁に提起した。1991年12月25日、朝刊(5面)に「かえらぬ青春 恨の半生」、「日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」、「ウソは許せない 私が生き証人」、「関与の事実を認めて謝罪を」の見出しのもとに、「弁護士に対して、慰安所での体験を語る金学順さん=11月25日、ソウル市内で」との説明のある金氏の写真が付された記事が掲載された。 同記事は、植村の署名記事であって、連載企画「女たちの太平洋戦争」の一つであり、同記者が1991年11月25日に上記裁判準備のための弁護士らによる聞き取り調査に同行して金氏から詳しい話を聞いたとして、その同行取材時の録音テープを再現するものである。例えば、従軍慰安婦となった経緯については、「(略)貧しくて学校は、普通学校(小学校)四年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」、「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と二人、誘いに乗りました。十七歳(数え)の春(一九三九年)でした」などと述べ、「日本政府がウソを言うのがゆるせない。生き証人がここで証言しているじゃないですか」とも述べたとする。 植村は、金氏への面会取材は、写真が撮影された1991年11月25日の一度だけであり、その際の弁護団による聞き取りの要旨にも金氏がキーセン学校に通っていたことについては記載がなかったが、上記記事作成時点においては、訴状に記載があったことなどから了知していたという。しかし、植村は、キーセン学校へ通ったからといって必ず慰安婦になるとは限らず、キーセン学校に通っていたことはさほど重要な事実ではないと考え、特に触れることなく聞き取りの内容をそのまま記載したと言う。 |
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●(3)1992年の報道状況等
○ア 吉田証言に関する記事 a 1992年5月24日付記事及び同年8月13日付記事 1992年5月24日、朝刊第2社会面(30面)に「慰安婦問題 今こそ自ら謝りたい」、「連行の証言者、7月訪韓」の見出しのもとに、吉田氏の顔写真が付された記事が掲載された。 同記事は、「『私が慰安婦たちを朝鮮半島から強制連行した』と証言している千葉県在住の吉田清治さん(七八)が七月、韓国に『謝罪の旅』に出る。」として、吉田氏が同年7月に訪韓すること及びその趣旨や背景事情を伝えている。吉田氏の戦時中の行動については、「吉田さんによると、一九四二年(昭和十七年)、『山口県労務報国会下関支部』の動員部長になり、国家総動員体制の下、朝鮮人を軍需工場や炭鉱に送り込んだ。(略)三年間で連行、徴用した男女は約六千人にのぼり、その中には慰安婦約千人も含まれていた、という」とする。 この記事は当時東京社会部の記者であった市川速水が執筆したものであるが、市川によると、後記イbの秦氏の調査結果が発表された直後、吉田証言の真偽を確かめるため、デスクとも相談のうえで、既に2月に顔つなぎを兼ねて会っていた吉田氏の自宅を訪ねた、そこで資料や戸籍等の確認を求めたが、一切資料は提示されなかったという。市川は、証言の真実性を判断する材料が与えられなかったため、少なくともオーラルヒストリーとしては使えないと判断したが、上記記事掲載の数日前に吉田氏から電話連絡を受けて韓国に行くことを伝えられたため、デスクとも相談のうえで、記録として事実関係だけは残すべく記事にすることとしたという。吉田氏には怪しい点があるとの心証であったので、慎重に、すべて「吉田氏によると」など、証言内容が事実であるような書き方にならないよう気を付けたともいう。 上記記事でいう訪韓が実現したことを1992年8月13日付朝刊記事(26面)が伝え、「太平洋戦争当時、山口県労務報国会動員部長として、朝鮮人慰安婦や軍人、軍属を強制連行したと証言している」と吉田氏を紹介したうえで、同人が「訪韓し、太平洋戦争犠牲者遺族会の『証言の会』に出席した」、「金学順さん(六九)の前で頭を下げて謝罪」などと主として事実面を短く伝える内容となっている。同記事は、当時のソウル支局長が執筆したものであるが、同人は、吉田証言に疑義が呈される状況下で、事実面のみを短く伝えるようにしたという。 b その他の記事 論説委員の北畠清泰による1992年1月23日付夕刊記事(1面「窓」)については、「国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、一年二年と監禁し、集団強姦(ごうかん)し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」、(吉田氏の名前を出すと迷惑がかかるのではないかとの質問に対する)「いえいえ、もうかまいません」などの吉田氏の発言が記載されており、取材に基づく記事と考えられるが、執筆者が物故しているため、取材の経緯や裏付け取材の程度等は不明である。 上記執筆者による同年3月3日付夕刊記事(1面。「窓」)については、上記記事の反響を踏まえての記事であり、直接吉田証言を取り上げるものではない。ほかの外部識者による論評2本(1992年1月23日及び同年2月1日付)は、吉田証言に関する独自の取材によるものではない。 ○イ 吉田証言に関する記事以外の状況 a 1992年1月11日付記事 1992年1月11日、朝刊1面トップに「慰安所 軍関与示す資料」、「防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌」、「部隊に設置指示」、「募集含め統制・監督」、「『民間任せ』政府見解揺らぐ」、「参謀長名で、次官印も」の見出しが付された記事が掲載された。 同記事は、中央大学教授の吉見義明氏が、防衛庁図書館所蔵の資料中から発見した通達類や陣中日誌に基づくもので、同記事の前文には、「日中戦争や太平洋戦争中、日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されていることが十日、明らかになった。朝鮮人慰安婦について、日本政府はこれまで国会答弁の中で『民間業者が連れて歩いていた』として、国としての関与を認めてこなかった。昨年十二月には、朝鮮人元慰安婦らが日本政府に補償を求める訴訟を起こし、韓国政府も真相究明を要求している。国の関与を示す資料が防衛庁にあったことで、これまでの日本政府の見解は大きく揺らぐことになる。政府として新たな対応を迫られるとともに、宮沢首相の十六日からの訪韓でも深刻な課題を背負わされたことになる。」と記載する。「従軍慰安婦」の用語説明メモとして、「多くは朝鮮人女性」の見出しのもとに、「一九三〇年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる」と記載する。 また、同日の夕刊(14面)では、「慰安婦問題 政府筋語る」、「軍関与、否定できぬ」、「謝罪 データ集めてからの話」などの見出しで、政府筋が「『当時の軍の深い関与は否定できない』と、これまでの政府側答弁などから一歩踏み込んだ見解を示した」との記事、及び「軍の関与 北海道にも資料」、「陸軍省が『娼婦の誘致』」などの見出しで、「札幌市の北海道開拓記念館では、陸軍省整備局戦備課が、強制連された中国人のための『性的欲望考慮』として、朝鮮人、中国人慰安婦の誘致を進めるよう業者に指導した『苦力管理要綱草案』が十一日、見つかった」とする記事、「市民団体が慰安婦110番」の見出しが付された記事及び「資料明るみ韓国で詳報」の見出しの付された記事が掲載された。 吉見氏は1991年の年末に資料の存在について東京社会部の記者であった辰濃哲郎に連絡をしたと言い、上記朝刊1面記事を中心となって執筆した辰濃は、1991年の年末に吉見氏から連絡を受けて過去の政府答弁などを調べ、当該資料の存在にはニュース性があると判断して記事化を考えたが、まず現物確認しようとしたところ、防衛庁図書館が年末年始で休館していたので、年始休館明けに吉見氏とともに同図書館を訪れ、資料現物を確認したうえで実際の作業を進めた、作業が完了した時点で上記各記事の掲載に至ったもので宮沢首相訪韓時期を念頭に置いたことはないと言う。なお、辰濃は上記朝刊1面記事を中心となって執筆したものの、従軍慰安婦の用語説明メモの部分については自分が書いたものではなく、記事の前文もデスクなど上司による手が入ったことにより、宮沢首相訪韓を念頭に置いた記載となったと言う。用語説明メモは、デスクの鈴木規雄の指示のもと、社内の過去の記事のスクラップ等からの情報をそのまま利用したと考えられる。また、市川は、記事掲載の2日くらい前から手伝うようになり、朝刊記事については一部の識者談話作成や資料チェックを行った程度であり、夕刊記事はメインとなって政府筋への取材記事や慰安婦110番の記事を書いたが、北海道の資料に関する記事には全く関知していないと言う。 b 1992年4月の秦氏の調査結果発表 1992年4月30日、産経新聞社会面に「加害者側の“告白” 被害者側が否定」、「朝鮮人従軍慰安婦 強制連行証言に疑問」、「済州島民『でたらめだ』」、「地元新聞『なぜ作り話』」等の見出しが付された記事が掲載された。同記事は、秦氏による実地調査等を踏まえた吉田証言への疑問点を指摘する。同記事による吉田証言の疑問点は、1地元済州新聞の1989年8月14日付記事において吉田証言の信ぴょう性に強い疑問が投げかけられたほか、秦氏の調査によっても吉田証言を裏付ける証言が得られなかったこと、2吉田氏の経歴中に、中華航空に勤務中に逮捕入獄との記載があるが、中華航空関係者はそのような事件があったとは聞いていないこと、3吉田氏が示した「西部軍→山口県知事→下関警察署長」という命令系統について関係者はそのようなことはあり得ないと述べていること等が挙げられており、秦氏は、「今回の調査結果によって、吉田氏の“慰安婦狩り”が全否定されたことにはならないが、少なくとも、その本の中でかなりの比重を占める済州島での“慰安婦狩り”については、信ぴょう性が極めて疑わしい、といえる」と結論付けた。 |
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●(4)1993年以降1997年(同年3月31日付の記事以前)までの報道状況等
○ア 吉田証言に関する記事 1992年以降、一般に吉田証言は疑わしいとされる状況になっていたが、朝日新聞においてもこのことは社内である程度共有されるに至っていて、吉田証言を取り上げた記事は影をひそめることとなり、この間に吉田証言を取り上げたと考えられる記事は、読者の「声」欄への投稿1本のほかは、1994年1月25日付記事のみである。 同記事は、朝日新聞創刊115周年記念特集中の「政治動かした調査報道」という記事において、「戦後補償 忘れられた人達に光」と見出しを付けたうえで、「戦後長い間、戦禍の責任をとるべき側から忘れられた人達(ひとたち)がいた。旧日本軍に性の道具とされた従軍慰安婦、強制連行の被害者、海外の残留邦人‥‥。近年になって急浮上したこれらの戦後補償問題に、朝日新聞の通信網は精力的に取り組み、その実像を発掘してきた」として、過去のこの分野における調査報道を振り返るものであり、朝鮮人慰安婦の関係では、「日本ジャーナリスト会議からJCJ賞を贈られた朝日新聞と朝日放送のメディアミックス企画『女たちの太平洋戦争』に、慰安婦問題が登場したのは、翌九一年五月。朝鮮に渡って強制的に慰安婦を送り出した元動員部長の証言に、読者から驚きの電話が何十本も届いた。」、「読者同士の紙面討論が延々と続くかたわら、記者が朝鮮人慰安婦との接触を求めて韓国へ出かけた。その年十二月、韓国から名乗り出た元慰安婦三人が個人賠償を求めて東京地裁に提訴すると、その証言を詳しく紹介した。年明けには宮沢首相(当時)が韓国を訪問して公式に謝罪し、国連人権委員会が取り上げるに至る」などと記載されている。同記事の執筆者は特定されておらず、記事掲載に至る経緯や取材方法、記事の内容決定についての詳細は不明である。 ○イ 吉田証言に関する記事以外の状況 1993年8月4日、河野洋平内閣官房長官(当時)が記者会見を行い、いわゆる従軍慰安婦問題について政府が進めてきた調査を踏まえてまとめたものとして、以下の談話(いわゆる「河野談話」)を発表した(添付資料U)。 |
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●(5)評価
○ア 吉田証言を取り上げた記事内容及びこれへの批判に対する対処方法の妥当性 吉田氏が当時講演やインタビューにおいて報道されたような内容の発言をしたことは否定できない。したがって、当時吉田氏が講演やインタビューで証言したこと及びその内容を報道したこと自体を非難することはできない。 しかしながら、正確な事実を報道する責務を負う報道機関としては、事実を証言する発言については、その事実に関する発言の真偽を確認して報道を行うべきことは当然である。このような見地から、各時点で真偽確認のための裏付け調査がその当時の状況下で適切に行われたものであるかは、当然検証の対象となる。吉田証言に関する各記事の前提となる取材経過を見ると、その取材方法は吉田氏の発言の聴取(講演傍聴、その記録確認、インタビューによる直接取材)にとどまっており、吉田氏の発言の裏付けとなる客観的資料の確認がされたことはなかった(そもそも、吉田氏にこれらの資料の提示を求めたのは、清田及び市川のみであり、清田及び市川らも結局何らの資料も確認できなかった(前記4(2)及び上記(3)アa)。)。 吉田証言は、戦時中の朝鮮における行動に関するものであり、取材時点で少なくとも35年以上が経過していたことを考えると、裏付け調査が容易ではない分野におけるものである。すると、吉田氏の講演や韓国における石碑建立という吉田氏の言動に対応しての報道と見る余地のある1980年代の記事については、その時点では吉田氏の言動のみによって信用性判断を行ったとしてもやむを得ない面もある。しかし、韓国事情に精通した記者を中心にそのような証言事実はあり得るとの先入観がまず存在し、その先入観が裏付け調査を怠ったことに影響を与えたとすれば、テーマの重要性に鑑みると、問題である。 そして、吉田証言に関する記事は、事件事故報道ほどの速報性は要求されないこと、裏付け調査がないまま相応の紙面を割いた記事が繰り返し紙面に掲載され、執筆者も複数にわたることを考え合わせると、後年の記事になればなるほど裏付け調査を怠ったことを指摘せざるを得ない。特に、1991年5月22日及び同年10月10日付の「女たちの太平洋戦争」の一連の記事は、時期的にも後に位置し、慰安婦問題が社会の関心事となってきている状況下の報道で、朝日新聞自身が「調査報道」(1994年1月25日付記事参照)と位置付けているにもかかわらず、吉田氏へのインタビュー以外に裏付け調査が行われた事実あるいは行おうとした事実がうかがえないことは、問題である。 秦氏の調査結果は、済州島の現地調査等を含む実証的なものであり、吉田証言と正面から抵触するものであった。そうであるならば、その調査結果の発表後は、吉田証言を報道するに際して、裏付け調査の深化やかかる批判の存在を紙面上明らかにするなどといった、従前とは異なる対応が求められる。上記のとおり、市川が秦氏の調査結果発表を受けてその直後に確認に赴き裏付け資料の提示を求めたのも、このような必要性を認めたことによるものであろう。 市川は、吉田氏から資料の提示を受けられなかったことから、吉田証言の真偽は不明であるとの心証を抱き、報告を受けたデスクを通じてそのような認識が、一定程度、社内の関係部署に共有されるに至ったものとみられる。しかし、そのような認識を持つに至ったのであれば、それ以降、吉田証言を記事として取り上げることには慎重であるべきであり、これまでの吉田証言に関する記事をどうするかも問題となるはずであるのに、吉田証言について引用形式にするなどの弥縫策をとったのみで、安易に吉田氏の記事を掲載し、済州島へ取材に赴くなどの対応をとることもないまま、吉田証言の取扱いを減らしていくという消極的な対応に終始した。これは新聞というメディアに対する読者の信頼を裏切るものであり、ジャーナリズムのあり方として非難されるべきである。 ○イ 名乗り出た従軍慰安婦記事(上記(2)イa及びb)について 1991年8月11日付記事(上記(2)イa)については、担当記者の植村がその取材経緯に関して個人的な縁戚関係を利用して特権的に情報にアクセスしたなどの疑義も指摘されるところであるが、そのような事実は認められない。取材経緯に関して、植村は、当時のソウル支局長から紹介を受けて挺対協のテープにアクセスしたと言う。そのソウル支局長も接触のあった挺対協の尹氏からの情報提供を受け、自身は当時ソウル支局が南北関係の取材で多忙であったことから、前年にも慰安婦探しで韓国を取材していた大阪社会部の植村からちょうど連絡があったため、取材させるのが適当と考え情報を提供したと言う。これらの供述は、ソウル支局と大阪社会部(特に韓国留学経験者)とが連絡を取ることが常態であったことや植村の韓国における取材経歴等を考えるとなんら不自然ではない。また、植村が元慰安婦の実名を明かされないまま記事を書いた直後に、北海道新聞に単独インタビューに基づく実名記事が掲載されたことをみても、植村が前記記事を書くについて特に有利な立場にあったとは考えられない。 しかし、植村は、記事で取り上げる女性は「だまされた」事例であることをテープ聴取により明確に理解していたにもかかわらず、同記事の前文に、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり」と記載したことは、事実は本人が女子挺身隊の名で連行されたのではないのに、「女子挺身隊」と「連行」という言葉の持つ一般的なイメージから、強制的に連行されたという印象を与えるもので、安易かつ不用意な記載であり、読者の誤解を招くものと言わざるを得ない。この点、当該記事の本文には、「十七歳の時、だまされて慰安婦にされた」との記載があり、植村も、あくまでもだまされた事案との認識であり、単に戦場に連れて行かれたという意味で「連行」という言葉を用いたに過ぎず、強制連行されたと伝えるつもりはなかった旨説明している。 しかし、前文は一読して記事の全体像を読者に強く印象づけるものであること、「だまされた」と記載してあるとはいえ、「女子挺身隊」の名で「連行」という強い表現を用いているため強制的な事案であるとのイメージを与えることからすると、安易かつ不用意な記載である。そもそも「だまされた」ことと「連行」とは、社会通念あるいは日常の用語法からすれば両立しない。 なお、当該女性(金氏)の経歴(キーセン学校出身であること)に関しては、1991年8月15日付ハンギョレ新聞等は、金氏がいわゆるキーセン学校の出身であり、養父に中国まで連れて行かれたことについて報道していた。また、1991年12月25日付記事(上記(2)イb)が掲載されたのは、既に元慰安婦らによる日本政府を相手取った訴訟が提起されていた時期であり、その訴状には本人がキーセン学校に通っていたことが記載されていたことから、植村も上記記事作成時点までにこれを了知していた。キーセン学校に通っていたからといって、金氏が自ら進んで慰安婦になったとか、だまされて慰安婦にされても仕方がなかったとはいえないが、この記事が慰安婦となった経緯に触れていながら、キーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。植村による「キーセン」イコール慰安婦ではないとする主張は首肯できるが、それならば、判明した事実とともに、キーセン学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった。 ○ウ 軍関与記事(上記(3)イa)について 上記(3)イaの1992年1月11日付記事は、従前の国会答弁(上記(1)イ参照)と相反する内容の資料が発見されたものであるとして1面トップとした報道機関としての判断自体は、記事中の従前の国会答弁の解釈(軍の関与を完全に否定した趣旨であると言えるのかどうか)、引用された資料の性質(通牒「案」であって正式な通牒ではないことをどのように評価するか)や解釈(当該資料から軍の関与が認定できるか、できるとしてどの程度か、また、従前の政府見解や答弁と相反するものであるか)についてはなお議論が存するものであることを考え合わせても、その掲載自体に問題があったとはいえない。 掲載時期について、朝日新聞があらかじめ入手していた資料をすぐに記事にせず、政治問題化を狙って首相訪韓直前のタイミングで記事にしたとの指摘がある。この点について、担当記者は、資料にニュース性があると判断したのは1991年の年末であったものの、図書館で資料を実際に確認できたのは翌年1月に入ってからであったため、その後急いで記事をまとめたと説明している。上記証言には不自然な点も残るが、「資料を早期に入手していたにもかかわらず(資料を寝かせ)、宮沢首相訪韓直前のタイミングをねらって記事にした」という実態があったか否かは、もはや確認できない。 しかし、この記事の前文には「政府として新たな対応を迫られるとともに、首相の16日からの訪韓でも深刻な課題を背負わされたことになる」と記載があり、社会面にも「日本政府に補償を求めた朝鮮人元従軍慰安婦らの訴訟の行方にも影響を与えそうだ」と取り上げているほか、同日夕刊にも別の資料を掲載してたたみかけるように報道している。 したがって、朝日新聞が報道するタイミングを調整したかどうかはともかく、首相訪韓の時期を意識し、慰安婦問題が政治課題となるよう企図して記事としたことは明らかである。 この記事に対しては、掲載のタイミングについての批判だけでなく、過去の朝日新聞における吉田証言の記事や、戦場に慰安婦が「連行」されていたという内容の記事等と相まって、韓国や日本国内において、慰安婦の強制連行に軍が関与していたのではないかというイメージを世論に植え付けたという趣旨の批判もある。しかし、記事には誤った事実が記載されておらず、記事自体に強制連行の事実が含まれているわけではないから、朝日新聞が本記事によって慰安婦の強制連行に軍が関与していたという報道をしたかのように評価するのは適切でない。 もっとも、本件記事の「従軍慰安婦」の用語説明メモに「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる」と記載されており、あたかも「挺身隊として『強制連行』された朝鮮人慰安婦の人数が8万人から20万人」であるかのように不正確な説明をしている点は、読者の誤解を招くものであった。 この用語説明メモは、集積された先行記事や関連記事等から抜き出した情報をそのまま利用したものと考えられるが、当時は必ずしも慰安婦と挺身隊の区別が明確になされていない状況であったと解されること(詳細は下記8(7)オのとおり)を考慮しても、まとめ方として正確性を欠く。 |
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●6 1997年特集について | |
●(1)特集紙面の内容
朝日新聞は、1997年3月31日付朝刊1、16、17面の特集記事(1997年特集)において、「従軍慰安婦 消せない事実」、「政府や軍の深い関与、明白」との見出しで、慰安婦問題を大きく取り上げた。 記事は、慰安婦問題の論理・データ解説を中心としたうえで、河野談話全文と河野洋平氏へのインタビュー、各国の慰安婦の証言と補償の状況、中学歴史教科書の「慰安婦」に関する記述の紹介で構成された。 このうち、中心となる慰安婦問題の論理・データ解説の部分は、「経緯」として慰安婦問題が社会に認知されるようになった過程を説明し、「強制性」と題する部分で慰安婦問題の「強制性」に関する定義づけを行い、「徴集(募集)」、「輸送・移動」、「設置・管理」の各局面についての事実と、これを裏付ける資料などの解説をする。吉田証言は、上記の「経緯」の文中に、次のように取り上げられている。「吉田清治氏は八三年に、『軍の命令により朝鮮・済州島で慰安婦狩りを行い、女性二百五人を無理やり連行した』とする本を出版していた。慰安婦訴訟をきっかけに再び注目を集め、朝日新聞などいくつかのメディアに登場したが、まもなく、この証言を疑問視する声が上がった。済州島の人たちからも、氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない。吉田氏は『自分の体験をそのまま書いた』と話すが、『反論するつもりはない』として、関係者の氏名などデータの提供を拒んでいる」吉田証言に関する過去の朝日新聞の報道について、これを訂正したり、取り消したりする記載はない。 紙面の核となるのは「強制性」の部分であり、「強制」の定義に関して、軍や官憲による「強制連行」に限定する議論を批判し、「『よい仕事がある』とだまされて応募した女性が強姦され、本人の意思に反して慰安所で働かされたり、慰安所にとどまることを物理的、心理的に強いられていたりした場合は強制があったといえる。」としている。 この特集紙面掲載紙の5面には、「歴史から目をそらすまい」と題する社説が掲載され、特集紙面と論調を合わせ、次のように記載されている。「日本軍が直接に強制連行をしたか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向」は、「問題の本質を見誤るもの」で、「慰安婦の募集や移送、管理などを通して、全体として強制と呼ぶべき実態があったのは明らかである」「戦後の国家間の賠償は、確かに終わっている。しかし、それで解決ずみと片付けられるものではない」 |
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●(2)特集紙面が組まれた経緯
前記のとおり、1992年に、済州島や本人などに当たって吉田証言の一部が極めて疑わしいと指摘した秦氏の調査結果が発表され、これに基づく他紙や週刊誌などの報道がされるようになって以降、朝日新聞においても、吉田氏の証言は信用できないとの認識は、日韓関係について記事を書くなど知識経験のある記者の間に広まっていた。しかし、朝日新聞社内において、1997年特集が出るまでの間、吉田証言の真偽について改めて紙面で検証しようとする動きは一切なかった。 1997年特集が掲載されることとなった主要なきっかけは、その前年に、いわゆる「歴史教科書問題」が問題として広く取り上げられることとなったことにある。1996年6月、翌年度から使用される予定の中学校用歴史教科書に、第二次世界大戦中における我が国による朝鮮人の強制連行(徴用)や慰安婦問題について、「朝鮮などの若い女性たちを慰安婦として戦場に連行しています」(大阪書籍)等の記述が掲載されることが明らかとなり、その掲載に反対する多様な論者・団体が、種々のメディアを通じて掲載阻止の運動を繰り広げるようになった。 このように、歴史教科書問題に関する議論が盛んに行われるのに伴い、吉田証言の信ぴょう性に関する論争が再燃し、朝日新聞の、吉田証言に関する一連の記事に強い非難が集中した。とりわけ、1992年1月23日付、3月3日付コラム「窓」欄の「従軍慰安婦」、「歴史のために」が特に問題とされた。 このような情勢を受け、1996年12月ころ、慰安婦問題の特集記事を掲載することが朝日新聞の編集部門において決定された。この種の特集記事は、通常は編集局長と局次長、関係部長らの協議で決まり、局長が、複数いる局次長の中から担当局次長を決めて進めていくことになる。特集の発案をする者は事案により様々で、本件の場合は、論説委員室の発案であったと述べる関係者もいるが、これを否定する者もあり、明らかではない。いずれにしても、社として、社会部・政治部・外報部合同での特集記事を掲載することとされた。 |
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●(3)1997年特集の取材班の構成・役割分担等
○ア 取材班の構成 1997年特集は、編集局長、担当局次長のもとに、政治部・社会部・外報部の3部の合同取材チームを組む態勢で進められた。3部の部長も関与はするものの、実質的に記事の方向性を決め、取材や原稿の作成を差配するのはデスクの職位にあるものであり、この3部から各1名と、総括役として社会部から1名、計4名のデスクが担当となった。 この4名のデスクは、通常業務と並行して特集を担当しており、専従ではなかった。各デスクのもとに、実際の取材や原稿を書く記者が数名専従で配置され、10名程度の取材班となった。また、論説委員室も随時関与した。 ○イ 担当者の選定方法 担当者は、各部の部長がそれぞれ選び、対象者に声をかけて担当するよう命じた。記事の主要部分を担当したのは、東京社会部の記者である。同記者は、当初は取材班に入っていなかったが、97年1月、鈴木から、「社会部のまとめ役として担当してほしい」と声をかけられ、途中からキャップ格で参加した。鈴木は、当時は名古屋社会部長で、1997年特集が出た直後の4月1日に東京の社会部長となっており、97年1月には、直接に特集を担当していたわけではない。しかし、特集が組まれる場合に、社内でその問題に詳しい者の話を聞いたり、意見交換をするということは通常あり得ることで、社会部内で、人権問題、慰安婦問題に詳しい鈴木が人選に関わったものと考えられる。 ○ウ 役割分担の決定、ミーティング等の状況 担当局次長の秋山耿太郎とデスクは、大まかな方針の決定、進捗状況の確認、記事組み込み時期について、不定期に会議を行った。これとは別に、デスクと取材記者らは、2週間に1回程度、計5〜6回ミーティングを行った。1996年12月24日に取材班の初ミーティングが開かれた。4名のデスクと、各部から集められた取材記者ら及び論説委員1〜2名が集まった。その後のミーティングは、デスクとその下の取材記者らが中心で、取材の状況などにより、出席者は一定ではなかった。 翌97年1月21日、吉見氏を社に招き、デスクと取材記者が参加して、慰安婦問題・教科書問題に関するレクチャーを受けた。 合同のミーティングとは別に、各部では、随時デスクと取材記者らとで打ち合わせなどが行われていた。 大まかな各部の役割分担は、遅くとも2月上旬までには、社会部が慰安婦問題の整理とデータのまとめ、各国の元慰安婦たちの主張と教科書の記載内容を担当し、政治部が河野氏インタビューを担当する、という大枠が決められた。外報部は、済州島での確認取材を担当することとなった。 2月の後半には、紙面構成や全体像、基本的な考え方などが取材班の間で議論され、3月上旬にはより具体的な検討に入った。3月上旬、上述のキャップ格の記者が吉田氏への接触を試み、しばしば電話をしたが、雑談はするものの吉田証言については応答を拒まれ、自宅も訪問したが留守で、結局会うことも、吉田証言について会話することもできなかった。なお、政治部・外報部の役割について、「サポート」、「支援」等と述べる者が複数おり、「あれは社会部の記事」と認識している者もいる。形のうえでは複数の部で取材班が組まれていても、実質は特定の部が中心になることもあり、本件は社会部が中心であった。 1997年3月19日、最終的に取材班の意思統一を図るためのミーティングがあり、デスク以下で議論がなされ、3月26日に吉見氏にも確認してもらったうえで、完成原稿となった。 ○エ 論説委員の関与態様 1997年特集の掲載された日の紙面に、この問題について論じた「歴史から目をそらすまい」との社説が掲載された。 編集局が担当する記事と、論説委員室が担当する社説については、互いに関与しないのが通常であるが、編集部門と論説委員室の協議で同日掲載を決める場合もある。 本件の場合、誰が同日掲載の話を出したのかは明らかではないが、1996年12月24日の初回ミーティングに論説委員室から1名ないし2名の論説委員も参加していたようである。ただ、この段階では、同日に社説を出すことは確定しておらず、取材班のメモなどによると、3月上旬〜中旬ころには、社説と連動しないことになっていた。しかし、結果的には同日付で社説が出ており、いずれかの段階で、社説も連動するという話が決まったようである。 担当した論説委員は、初回のミーティングを含め、数回の会議に参加し、3月下旬に取材班のゲラが出てから、これをふまえて社説の原稿を書いた。 ○オ 植村の関与態様 外報部の担当デスクが、当時ソウル特派員だった植村に「吉田証言の真偽を調査するように」と指示を出し、植村が短期間済州島に赴いて吉田証言に出てくる事実の裏付けとなる証人の有無などの調査を実施した。調査に先立ち、植村は東京での取材班ミーティングにも一度顔を出し、慰安婦問題に関する見解などを説明した。 実際の調査の態様は、済州新聞の記事を書いた許(ホ)氏に会って聞き取りをしたほか、現地調査も行われたようであるが、徹底的な調査ではなかったようである。植村は、本社に、「いわゆる人狩りのような行為があったという証言は出てこなかった」とのメモを提出した。 |
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●(4)吉田証言の取扱いについて
○ア 吉田証言の位置づけ 1997年特集において吉田証言の真偽問題及びこれに関する過去の朝日の記事をどう取り扱うかについて、今回ヒアリングをした関係者の見解は異なる。吉田証言の真偽問題は教科書問題に付随する一項目にすぎない、と述べる者、教科書問題と並ぶ重大な懸案事項であったとする者及び、そもそも「吉田証言の処理」のための特集だったという者までに分かれる。 2月末ころの社会部記者作成のミーティング時のワープロ打ちのメモには、「ここでの『吉田証言』の取扱については、社会部内でも論議があり、検討したい」との記載があり、資料への書き込みにも、吉田証言についての記載が複数みられる。また、3月上旬に政治部記者が作成したメモには、「吉田証言についてどう触れるか」という項目があり、「この企画を逃せば、吉田証言について訂正する機会を失う」、「吉田証言は論点整理の中でできるだけコンパクトに触れる」と記載されている。このような資料があるだけでなく、実際に、吉田氏本人への取材を行うべく何度も電話や手紙などで接触の努力がなされ、済州島での調査も実施されている。また、92年以降、吉田証言の信ぴょう性を揺るがす論文や他紙の記事が出て、教科書問題を端緒に吉田証言を取り上げた朝日新聞のコラムなどが批判されているという状況もあり、そもそも吉田証言は教科書問題を取り上げるための付随項目に過ぎないとする証言は、信を置き難い。 メモの内容や記事自体から、教科書問題を端緒とする慰安婦問題の整理が主要な目的であったことは明らかであるので、「吉田証言の処理」が第1のミッションであった、とまでは言い切れない。 以上からすると、個々人の受け止め方の軽重はあるが、本特集記事において、吉田証言の扱いは、慰安婦問題の整理と並ぶ重要課題であったと認められる。 ○イ 吉田証言の取扱いについての検討状況 上述のとおり、そもそも吉田証言の位置づけについて、関係者の語る内容に齟齬がある。 しかし、2〜3月の取材班のメモによると、2月末までは、取材班の中で、「そもそも取り上げるべきか」というレベルで議論されていた。一時期は、取り上げない方向になったが、3月上旬に取り上げることになり、「取り上げ方」について議論された。 この間の事情について、「“上”が『この問題をやるのに吉田証言を避けてとおるわけにいかない。これだけ問題になっているのだから』と判断し、取り上げることになった」と述べる者があり、実際に、上位職の者になればなるほど、「吉田証言は避けてとおれない」という認識を示している。デスク・担当記者よりも上位の者が、吉田証言を「取り上げない」から「取り上げる」へと軌道修正をしたものと考えられる。 そのため、吉田氏への取材は3月に入ってから試みられたが、前記のとおり、取材は打ち切りとなった。 このような状況を踏まえ、吉田証言について、「全く触れない」、「特集面では触れないが、秦氏に寄稿欄である「論壇」などで吉田証言の疑問点を書いてもらう」、「特集面の歴史的経緯の中で簡単に触れる」、「さらに踏み込んで書く」などの案が提案されて再度議論された結果、吉田証言を取り上げたうえで、「真偽は確認できない」と表現することに落ち着いた。この議論が、いつ、どのような会議でなされたのか、という点について、関係者の見解は一致していない。しかし、社会部が中心となって議論を主導していたこと、取材班の中で大きな意見対立はなかったことは、関係者らの認めているところである。 一部の者、特に政治部は、最終的な論調には不満があり、もっと踏み込んだ訂正なり謝罪なりをするべきであると考えていたようであるが、その点を決める検討会議や、それ以前にもあった議論の機会においても、この点が中心として議論されることはなかった。 ○ウ 訂正等に関する議論 吉田証言については、前記のとおり、当初そもそも特集に取り上げるか否か、という点で議論がされた。 取り上げることになってから、さらに進んで、訂正・取消し・謝罪を要するか、という議論の存否に関し、聴取した記者には「取り消すなどといった議論は全くなかった」とする者と、「訂正・おわびをするべき、との主張があった」とする者がある。後者には、より具体的に、「1面でおわびするか、ないし論説委員室で書くべきだと主張した」と述べる者もいる。 社会部の担当者の中には、このような証言は、本年の検証後の世論の批判的な論調に迎合した後付けである、と言う者もいた。しかし、客観的にみれば、当時の状況下で、訂正・おわびすべしという意見が全く出ないということは、考えられないことである。実際に、当時の資料中には、前述のとおり、「この企画を逃せば、吉田証言について訂正する機会を失う」との記載もあるし、日付の異なる複数のメモにおいて、吉田証言の取扱いが論じられている。 92年以降、吉田証言の信ぴょう性に関する様々な議論があり、朝日新聞社内の関係者の吉田氏に対する心証も悉く「黒」ないし「グレー」という状況において、吉田証言について議論するなかで、「訂正」の意見が出ないということは到底あり得 ない。以上から、「訂正」という意見も含めて、様々な観点で、複数回にわたって議論がなされたと認めるべきである。 |
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●(5)吉田証言を訂正・取消ししなかったことの評価
関係者には、1997年特集の記載は、吉田証言の訂正と評価できる、と述べる者もいるが、世間一般の感覚からすれば、この記事を「訂正」と見ることはできない。このような論調となったことに対する関係者の評価は、「現在から振り返ってみても、当時の判断には全く問題はなかった」とする者と、「悔いや心残りがある」とする者とに二分されている。 全く問題はない、という考え方の論拠として、次のようなものが挙げられている。 1完全に嘘であるとは立証できない。 2吉田氏が存命で、その証言を虚偽であるとすると訴訟リスクがある。 3歴史証言は訂正ではなく新たな証言の積み重ねで修正されていくべきである。 4他社も訂正していない。 しかし、自社の記事を「訂正・取消し」することと、吉田証言を虚偽であるとすることとは直結しない。訂正などのやり方によって、訴訟リスクは回避できるので、12は理由にならない。特に、2に関しては、92年に「正論」や産経新聞が吉田証言に疑義を呈する記事を掲載しているが、これらに対して吉田氏から訴訟が提起されたとの情報はなく、97年の段階では「訴訟リスク」は大きな懸念材料とは言えない。朝日新聞は、92年の秦氏の調査結果の発表までの間、吉田証言を論拠とする「強制連行」を複数回にわたり、大きな扱いで報道してきたのであり、34のような理由で訂正などを行わないということは、読者に対して不誠実である。 なお、4の他社の問題については、2014年検証でも大きな紙面を割いて説明がなされている。しかし、1997年特集と同日の社説「歴史から目をそらすまい」において、「ほかの国は謝っていないからと、済まされる問題でもない」とあるように、他社の訂正の状況は、考慮されるべき問題ではない。 現時点から評価すれば、1997年特集が、その時点での慰安婦問題を総括してその後の議論の土台とする、という意図のもとに作成されたのであれば、吉田証言に依拠して、徴募の場面において日本軍などが物理的な強制力により直接強制連行をしたといういわゆる「狭義の強制性」があったことを前提に作成された記事について、訂正又は取消しをすべきであった。さらに、必要な謝罪もされるべきであった。1997年特集において、訂正・取消しをせず、謝罪もしなかったことは、致命的な誤りであった。 |
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●(6)「強制性」について
1997年特集は、吉田証言については上記のような扱いにとどめ、「強制性」、「人権の観点が必要 本人意思に反し自由侵害」との見出しの部分におけるいわゆる「広義の強制性」論の説明が主となっている。 「強制性」という用語はかなりあいまいな、広義な意味内容を有するものであり、この報告書において「強制性」について定義付けをしたり、慰安婦の制度の「強制性」を論ずることは、当委員会の任務の範囲を超えるものである。ただし、朝日新聞は当初から一貫していわゆる「広義の強制性」を問題としてきたとはいえない。80年代以降、92年に吉田証言に対する信ぴょう性に疑問が呈されるまで、前記のような意味での「狭義の強制性」を大々的に、かつ率先して報道してきたのは、他ならぬ朝日新聞である。1997年の特集紙面が、「狭義の強制性」を大々的に報じてきたことについて認めることなく、「強制性」について「狭義の強制性」に限定する考え方を他人事のように批判し、河野談話に依拠して「広義の強制性」の存在を強調する論調は、のちの批判にもあるとおり、「議論のすりかえ」である。 |
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●7 1997年特集から2014年検証に至る経緯 | |
●(1)1997年特集に関する社内外の評価
1997年特集に対しては、関係者は、一様に「驚くほど反応がなかった」、「特に批判も浴びなかった」という趣旨の感想を述べており、実際に、他紙等でも大きく取り上げたものは見当たらない。 なお、約1年後に、週刊新潮経由で、櫻井よしこ氏から次のような質問書が朝日新聞の広報に届いた。 「済州島で慰安婦狩りをし、強制連行した吉田清治氏のコメント及び著作を報道し、日本軍が女性たちを直接強制連行したという印象を御紙が広めました」「九七年三月三十一日の特集で御紙は吉田氏の証言について『疑問視する声があがった』と述べています。氏の証言をかつて前面に押し出して報道した御紙の誤りについては、言及していませんでした。それはなぜですか?」これに対し、広報は、社会部とも相談の上、次のような内容の回答をした。「私どもは、歴史の証言が批判と反批判の中で鍛えられ、事実の解明に至ることを歓迎するものです」 「『誤りについて、言及していませんでした』というご質問が、『なぜ、訂正記事を出さないのか』という意味でしたら、そのような性格のものではないとお答えするしかありません」 「従軍慰安婦問題は政府の調査や学術研究、ジャーナリストの取材などによって徐々に全体像が明らかになってきたテーマです。発掘された資料や証言がさまざまな批判にさらされ、新たな通説や定説が形成されていく、その過程の話なのだと考えております」回答書には、他にも吉田氏との接触の内容や、週刊新潮も訂正していないこと、などが記載されているが、いずれも、櫻井氏の質問に対して真摯に正面から回答したものとは言い難い。 |
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●(2)1997年特集後の吉田証言の取扱い
○ア 「行政」について 1997年特集の後、担当した社会部のデスクは、「以降、吉田証言は紙面で使わないように」と記載した「行政」を出した。「行政」とは、社内の連絡文書であり、当時は、デスクが編集システム等を通じて社内の関連部署に送っていた。 「行政」の内容は、他部署に対する調査・取材依頼、取材に関する注意喚起など多岐にわたっており、受領後に保管するか、廃棄するか、といったルールも明確ではなく、受け取った側によって取扱いは様々であった。「行政」は頻繁に発出されており、1件1件の重みは様々であったと思われる。なお、現在では、「社内連絡」の名称で、メールの形となっている。 「行政」の位置づけが上記のようなものであったことから、吉田証言に関する「行政」は、これを出した者の記憶にはあるものの、その他の者には意識されず、取材班の者ですら、ほとんど把握していない状態であった。 ○イ 広報宣伝センター内の取扱いについて 2001年、危機管理と読者からの質問・苦情等に対応する部署である広報宣伝センターは、問い合わせが多いテーマ(原発、自衛隊、歴史認識等)に関する回答内容を平準化するため、「きほんのき」と題する回答例の冊子を作成した。その中に、慰安婦問題に関するいくつかのQ&A があり、「朝日新聞はかつて吉田清治のデマをそのまま紙面に載せ、いまだに訂正もしていない」との問いに対しては、「(朝日新聞は)疑問視する声が出ていることは以下の特集(注:1997年3月31日の特集)で書いている」との回答が用意されている。この回答は、「訂正した」とも「訂正しない」とも明言しておらず、甚だ不十分なものである。 なお、この冊子は、2005年に改訂され、2009年に広報部門と応答部門が分かれた後は、お客様オフィスに参考資料として引き継がれたが、現在ではあまり参照されていない。 |
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●(3)2014年まで遅れた理由
上記のとおり、櫻井氏に対する回答も、広報内に用意されたQ&A も、「訂正しないのか」という問いに対して正面から回答しておらず、吉田証言の問題は、社内の整理としても曖昧な状態となっていた。 関係者の中には、1997年特集の後、吉田証言問題については、放置すべきでないと考える者もおり、「どこかのタイミングではっきりと訂正・取消しをすべきであると考えていた」とか、2005年ころ編集局内で「改めて慰安婦問題を整理したほうがいい、と進言したが、当時はまったく耳を傾けてもらえなかった」とか述べる者もいる。 しかし、多くの関係者が「1997年特集で解決済みになった」との認識で、目立った批判もない状態となったこともあり、吉田証言について改めて検証されないまま、2014年の検証に至ることとなる。 このように、吉田証言の問題が取り上げられないままとなったのは、次のような要因に拠ると考えられる。 第1の要因は、当事者意識の欠如である。社会部以外の者は、「あれは社会部がやっていること」であり、不用意に口出しすべきではない、との認識を示し、社会部内でも、「あれはもともと大阪社会部がやっていたこと」と述べる者もいた。さらに、「大阪社会部と東京社会部には壁があった」、「大阪社会部の記事を、東京社会部が取り消すなどということは、ありえない」と言う者すらいた。このように、同じ朝日新聞社内、同じ社会部内であっても、自分が関与していない記事については当事者意識が稀薄であったことが、吉田証言の見直しが遅れた大きな要因と言える。 第2に、引き継ぎが十分になされていない、という点がある。社会部の遊軍記者は、各自が興味のある問題を追っている状態で、例えば「慰安婦担当」が代々いて、資料を引き継ぐというようなことはなかった。デスク間でも、明確な引き継ぎのルールはなく、吉田証言に関する「行政」も、前記のとおり、数多くの行政の中の一つという位置づけで、特に意識されていなかった。 第3に、訂正・取消しのルールが不明確であったことが挙げられる。「1997年特集時に、吉田証言を訂正・取消しすべきであったか否か」という問いに対し、ヒアリング対象者の回答は様々で、各自が持論を有しているものの、社としての統一的な基準・考え方が定まっていなかった。 第4に、社内で意思疎通が十分行われず、問題についての活発な議論が行われる風土が醸成されていなかったことがある。意思疎通が行われ、議論も行われていれば、誰かがこの問題をとりあげ、社内での関心事となって何らかの結果を生むことができたと考えられる。 東京編集局と大阪編集局の相対的独立が継承されてきたことは、本来であれば、社内の多様な言論を保障し、地域に根ざすジャーナリズムを大切にするものとして評価できるものである。しかし、慰安婦問題のように複雑で議論が分かれ、継続的取材を必要とし、かつ国際的に注目が集まるテーマを扱う際には、裏目に出てしまった。高度の専門性を有し、日本全体に影響を及ぼすテーマについては、社の内部で編集体制を確立し、その体制を透明化し、責任あるジャーナリズムを実行できる体制環境を整える努力を格別に払うべきであろう。 |
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●(4)2012年の下調べの状況
2011年12月、韓国の日本大使館前に慰安婦像が設置され、韓国政府が政治問題として慰安婦問題を大きく扱うようになってきたことを受け、再び朝日新聞の過去の報道が国内で批判されるようになった。 2012年5月、当時の編集担当吉田慎一は、当時の国際報道部長の渡辺勉と相談し、吉田証言問題について下調べをすることとした。記事等にすることを前提としない秘密裏の調査ということで、3名の担当者が選定された。それと前後して、6月に社長が秋山から木村となり、ゼネラルエディター(GE)兼東京本社編成局長が杉浦信之、ゼネラルマネジャー(GM)兼東京本社報道局長が福地献一という新体制となり、これらの者にも下調べをすることを伝えた。 2012年秋ころ、安倍政権が誕生した場合には、河野談話の見直しや朝日新聞幹部の証人喚問がありうるとの話が聞かれるようになったことも下調べの動機となった。具体的な調査としては、吉田氏の生死・所在の確認、これまでに関与した主な記者に対する聞き取りが行われた。吉田氏が死亡していることが分かり、吉田氏の子息からの聞き取りも実施した。 2013年1月ころまでには、一通りの下調べが終わったが、もともと記事にする前提での調査ではなく、証人喚問や、朝日批判に対する回答の準備としての調査であったため、調査内容をファイルにして、国際報道部、政治部、報道・編成局長室などに置いて、一旦終了した。 |
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●8 2014年8月の検証記事について | |
●(1)検証記事が組まれた経緯
上記のとおり、朝日新聞においては、2012〜2013年にも吉田証言に対する調査を行っていたが、特段、紙面化する具体的な予定もないまま2014年を迎えた。しかし、同年2月中旬ころから、政府による河野談話の見直しが実際に行われることになった場合には、改めて朝日新聞の過去の報道姿勢も問われることになるとの危機感が高まり、慰安婦問題についての本格的な検証を行わざるを得ないとの考えが経営幹部を含む社内において強まってきた。 また、他の報道機関も朝日新聞の慰安婦問題に対する報道姿勢などに批判を集中し、読者の中にもこれについて不信感を抱く者が増加して、お客様オフィスレポートでも慰安婦報道に対するネガティブな意見が広がり、これが販売部数や広告にも影響を見せ始めてきたことから、販売や広報の立場からも放置できないという意見が高まってきていた。 このような状況下において、同年3月1日に編集担当に就任した杉浦は、前任者の吉田慎一から、自分の時にはできなかった慰安婦報道の検証をやってもらいたいと引き継ぎを受け、編集担当に就任後まもなく、社長の木村の意見も聴いてその承認を受けたうえ、GEに就任した渡辺及びGMであった市川に対し、編集部門として検証チームを作って準備する方針を明らかにした。 そのころ、政府において河野談話の出された経緯を検証するとの方針が発表されており、当該検証の際に吉田証言も俎上に上る可能性があったため、朝日新聞としては、特に吉田証言を中心に検証することとし、政府の検証結果をみながら遅くとも2014年中には記事にするという方向となった。 既に、吉田証言については、1997年特集の際、「真偽は確認できない」と結論づけたことから、朝日新聞としてはこれで事実上訂正をしたと総括してきた。しかし、前記のとおり、このような表現では、訂正したものとは到底見ることができず、紙面においてこれまで明確に吉田証言に関する記事を訂正し又は取り消すなどしてこなかったことから、吉田証言を「訂正していない」との強い非難を受け続けてきた。このような経緯から、2014年の検証では、97年の特集の内容を超える、より徹底した検証が行われなければならなかった。 なお、経営幹部において、この検証は、日常扱う記事とは異なり、多分に危機管理に属する案件であるとし、経営幹部がその内容に関与することとして、広報担当執行役員の喜園尚史にも検証を行う方針が知らされた。 |
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●(2)2014年検証の取材班の構成・取材内容等
○ア 担当者の構成 2014年3月下旬以降、朝日新聞は、上記検証を行うためのチームを立ち上げた。2014年検証記事の作成に関わった主要なメンバーは、編集担当の杉浦、GEの渡辺、論説委員、編集委員、元ソウル特派員の国際報道部記者、韓国語を話せる東京社会部記者、政治部記者であり、途中から、大阪社会部記者1名が加わった。現場のまとめ役としてのデスクは、東京社会部デスクが務めることとなった。また、主に危機管理の観点から訂正・取消し対象となる記事の取扱い(データベースの処理方針の検討)や紙面案の検討を行うため、広報部長やGM補佐が関与したほか、顧問の津山昭英にアドバイザー役を依頼した。 GMの市川は、吉田氏に関する記事の執筆者でもあったことから、当初の企画段階ではチームから外れていたが、2014年7月ころ以降、紙面検討段階においては、危機管理の観点から関与の必要があり、かつ慰安婦問題に詳しい者として、アドバイザー的な役割として関与した。 ○イ 取材の概要 a 吉田証言の裏付け調査 1 検証チームのうち主として国外取材を担当した記者は、まず、韓国の済州島において、老人ホームを訪問するなどの方法で、1週間かけて約50名に対して取材を試み、そのうち40名ほどから話を聞くことができた。また、吉田氏の著書に地名が記載してある場所については、実際にその地へ行って村長(むらおさ)や年配者の話を聞いた。 吉田氏の著書において場所の特定が十分でない場合、例えば、工場で働いている女性を強制的に連行したという内容について、「○○村と○○村の中間くらい」との趣旨の記載があるような場合には、当該記載の条件に合う工場を探し、唯一該当する可能性があると考えられた工場まで出かけて話を聞くなどした。以上のような聞き取り取材の結果、挺身隊として徴用されるのが怖かったから早く結婚した、というような話はあったものの、吉田氏が証言しているような強制連行については、「聞いたこともない」という反応であり、吉田証言を裏付ける話は得られなかったとのことだった。工場(該当する可能性があると思われた工場3軒くらい)付近に住んでいる老人からも話を聞いたが、「そのようなことはない」との答えであった。 韓国挺身隊研究所元研究員にもソウルで会って話を聞いたところ、同元研究員自身が済州島で調べたことがあるが、吉田氏の著書の裏付け証言は得られなかったとのことだった。 2 国内取材の担当記者は、既に吉田氏本人が亡くなっていることから、吉田氏の子息から話を聞くとともに、戸籍を確認させてもらうなどした。その結果、吉田証言中、妻の日記に記載されていたという命令書(西部軍の動員に関する命令書)が出たとされる日よりも妻との結婚の日付の方が後であること、その妻の日記は見当たらないこと、子息自身が吉田氏から強制連行に関する話を聞いたことがないことなどを確認した。 なお、吉田氏の子息からは、吉田氏は何か動員に関する仕事をしていたところ、(慰安婦に対しては)補償が必ずしも十分になされていないことから、何か贖罪意識のような強い気持ちを抱いていたと思われるので、父親を信じたいとの旨、また済州島に関する描写が極めて詳細であることなどから、吉田氏が済州島に行ったことがないというわけではないと思われるとのコメントを得た。その他、吉見氏に対する取材の結果、1993年5月に吉見氏らが吉田氏にインタビューした際のメモ等の資料から総合的に判断すると、吉田氏は、徴用を行った仲間の特定を避けるために脚色せざるを得なかったという趣旨の発言をしており、少なくとも済州島で強制連行を行ったという証言は、その日時・場所において虚偽であることを自ら認めたものと理解された。さらに、東京大学の外村大准教授や京都大学の永井和教授からは、それぞれ専門家としての観点から、吉田氏の証言内容は、軍の指揮系統や済州島への陸軍の集結状況と矛盾しており事実とは考えにくいとの指摘を受けた。 3 上記の調査結果を踏まえ、検証チームは、済州島で強制連行を行ったという吉田証言は虚偽であると判断するに至った。 b 過去の記事の執筆者に対する聞き取り 慰安婦の強制連行に関する証言者として吉田氏を取り上げた記事(取消し対象となった記事)の中には、執筆者がつきとめられないものもあった。執筆者の判明した記事については、その執筆者から当時の状況や記事化した経緯等に関する聞き取り調査を行った。取消し対象ではないものの慰安婦関連の記事として批判の対象とされていた1992年1月11日付記事(軍関与を示す資料が見つかった旨の記事)や、1991年8月11日付記事(元慰安婦が初めて名乗り出たことを報じる記事)及び同年12月25日付記事(日本政府に賠償請求した金氏の証言内容を取り上げた記事)を執筆した記者らについても、記事化した経緯などに関する聞き取り調査を行った。 |
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●(3)検証記事の掲載時期
検証作業を開始した当初は、政府による河野談話の検証結果発表の後に、同検証結果を踏まえて、2014年6月下旬ころ、検証記事を掲載する予定であった。 例年終戦記念日である8月15日とその前後の紙面には、慣例として戦争関連記事が掲載されるため、これらと関連づけられないようにするためにも、8月の記事掲載は回避する予定であったが、同年6月12日から7月13日にかけて開催されたFIFAワールドカップの時期を避けたり、新聞料金の集金が行われる時期や週刊誌が夏期合併号を発行する時期を避けるなどの調整を経営幹部の指示により行った結果、掲載時期がずるずると遅れ、最終的に8月5、6日の掲載となった。 |
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●(4)紙面検討の経緯
○ア 経営幹部らの関与 本件検証記事の掲載は、朝日新聞の危機管理に属する案件であったため、記事の方針について経営幹部らが関与した。 まず、2014年5月の経営会議の場において、社長の木村が慰安婦問題の検証作業を行っていることについて言及し、編集担当の杉浦が概要を説明した。なお、当時の経営会議の構成メンバーは、社長の木村を始めとする役員、執行役員など、合計18名である。 また、記事の原案が完成しつつあった2014年7月上旬ころ以降は、記事の構成・内容についても、編集担当の杉浦、広報担当の喜園及び社長室長に就任した福地の3名が本件における危機管理担当の経営幹部として子細に検討し、社長にも諮って、検証チームに対して指示をしていた。 紙面構成の原案が作成され、同年7月17日に常務会懇談会(通称「拡大常務会」。以下「拡大常務会」という。)が開催された。販売・広告を含め経営上の影響が大きいと考えられたことや、議論の内容を踏まえ、通常の常務会参加メンバーの社長以下8名に加え、販売担当取締役、杉浦、喜園、渡辺及び市川も参加した。 紙面の方針については、7月17日の拡大常務会のほか、同月24日及び同年8月1日の経営会議懇談会(経営会議のメンバーが参加し随時開かれる)の場においても議論が交わされ、最終的な朝日新聞社としての方針が定まった。 ○イ 紙面構成の変遷状況 2014年7月上旬ころ、検証チームが作成した記事の紙面案(ゲラ刷り)の構成は、2日間にわたり合計8ページ(1面論文のほか7ページ)を割き、慰安婦問題について基礎から丁寧に説明して読者の理解を得られるよう、詳細な紙面を組む方向で準備されていた。しかし、7ページもの特設紙面とした場合、大げさになりすぎてしまい、一般読者に一体何事かとの印象を与えてしまうのではないか、との懸念が危機管理担当の経営幹部から示されたことから、最終的には、1面論文のほか2日間で合計4ページの検証紙面とすることになった。 紙面のページ数を削減したことにより、当初予定されていた項目のうち、取消し対象とした記事の概要一覧、慰安婦問題の基礎説明(Q&A)、慰安婦問題が社会問題化した経緯(社会問題化したことが朝日新聞の報道によるかどうか)、米国における慰安婦像問題などが掲載を見送られたり、短縮した記載となったりした。 ○ウ 吉田証言の取扱い 吉田証言の取扱いについては、検証チーム内でも温度差があり、様々な意見が出された。訂正するか取り消すかしておわびをすべきであるとの意見に対し、歴史的事実の報道については、事実報道を上書きする形で修正していくべきであって、訂正や取消しになじまないという意見もあった。 しかし、今回は1997年特集時と異なり、単に吉田証言の裏付けが取れないというだけでなく、その虚偽性をうかがわせる資料を確認することができたほか、GEの強い意向もあり、検証チームの方針としては、訂正しておわびをする方針で固まり、7月15日までは、1面掲載の論文及び囲み記事においておわびする旨を明記した紙面案が作成された。 拡大常務会の前日である7月16日、社長の木村、危機管理担当の経営幹部ら及びGEの渡辺が集まって協議した。この場において、木村から、おわびすることに反対する意見が出された。そのため、翌日の拡大常務会に提出する紙面案は、おわびを入れない案が提出された。 拡大常務会においては、おわびをすると慰安婦問題全体の存在を否定したものと読者に受け取られるのではないか、かえって読者の信頼を失うのではないか等の意見があった一方、謝罪もなく慰安婦問題をこれまでどおり報じていくのは開き直りに見えてしまうのではないかという懸念も表明された。最終的には、8月1日の経営会議懇談会を経て、吉田証言については、虚偽と判断して取り消すこととするが謝罪はしない、1面の編集担当の論文で「反省」の意を表明するという方針が決定した。 |
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●(5)検証記事掲載後の状況
8月5、6日付の検証記事が掲載された後、他紙や週刊誌を始めとする極めて強い反発があったが、批判は、その量の多さにおいても激しさにおいても朝日新聞の事前の予想をはるかに超えるものであった。 そのため、当初は、反響・疑問提起などに対して続報を出すことで対応しようと考えていたが、批判に逐一反論するのは火に油を注ぐことになる恐れが高く、危機管理上望ましくないと判断し、8月28日に河野談話が吉田証言に依拠していない旨の記事を掲載した以外は、続報の掲載を見送った。 |
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●(6)検証記事の概要
○ア 2014年8月5日付記事 2014年8月5日付検証記事は、1面に杉浦の「慰安婦問題の本質 直視を」と題する論文を掲載した。その概要は、慰安婦問題に光が当たり始めた90年代初めは、元慰安婦の証言や少ない資料を元に記事を書き続けており、そうした記事の一部に事実関係の誤りがあったこと、問題の全体像がわからない段階で起きた誤りであるが、裏付け取材が不十分だった点は反省すること、しかし「慰安婦問題は捏造」との主張や「元慰安婦に謝る理由はない」といった議論には決して同意できないこと、戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性が、慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質であること、等を訴えるものであった。 次に、16、17面に見開きの形で「慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問に答えます」との共通の見出しのもとに、「強制連行」、「『済州島で連行』証言」、「軍関与示す資料」、「『挺身隊』との混同」、「元慰安婦 初の証言」の5つの項目を立て、それぞれ主に批判を受けていた点について、「疑問」とこれに対する朝日新聞としての結論を小見出しに表記するとともに、「読者のみなさまへ」と題する回答を記載した。具体的には、下記のとおりである。 〇「強制連行」…自由を奪われた強制性あった 「疑問」 政府は、軍隊や警察などに人さらいのように連れていかれて無理やり慰安婦にさせられた、いわゆる「強制連行」を直接裏付ける資料はないと説明しています。強制連行はなかったのですか。 「読者のみなさまへ」 日本の植民地だった朝鮮や台湾では、軍の意向を受けた業者が「良い仕事がある」などとだまして多くの女性を集めることができ、軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません。一方、インドネシアなど日本軍の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す資料が確認されています。共通するのは、女性たちが本人の意に反して慰安婦にされる強制性があったことです。 〇「『済州島で連行』証言」…裏付け得られず虚偽と判断 「疑問」 日本の植民地だった朝鮮で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理矢理連れ出したと著書や集会で証言した男性がいました。朝日新聞は80年代から90年代初めに記事で男性を取り上げましたが、証言は虚偽という指摘があります。 「読者のみなさまへ」 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したという証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。 〇「軍関与示す資料」…本紙報道前に政府も存在把握 「疑問」 朝日新聞が1992年1月11日朝刊1面で報じた「慰安所 軍関与示す資料」の記事について、慰安婦問題を政治問題化するために、宮沢喜一首相が訪韓する直前のタイミングを狙った「意図的な報道」などという指摘があります。 「読者のみなさまへ」 記事は記者が情報の詳細を知った5日後に掲載され、宮沢首相の訪韓時期を狙ったわけではありません。政府は報道の前から資料の存在の報告を受けていました。韓国側からは91年12月以降、慰安婦問題が首相訪韓時に懸案化しないよう事前に措置を講じるのが望ましいと伝えられ、政府は検討を始めていました。 〇「挺身隊」との混同…当時は研究が乏しく同一視 「疑問」 朝鮮半島出身の慰安婦について朝日新聞が1990年代初めに書いた記事の一部に、「女子挺身隊」の名で戦場に動員された、という表現がありました。今では慰安婦と女子挺身隊が別だということは明らかですが、なぜ間違ったのですか。 「読者のみなさまへ」 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。 〇「元慰安婦 初の証言」…記事に事実のねじ曲げない 「疑問」 元朝日新聞記者の植村骼≠ヘ、元慰安婦の証言を韓国メディアよりも早く報じました。これに対し、元慰安婦の裁判を支援する韓国人の義母との関係を利用して記事を作り、都合の悪い事実を意図的に隠したのではないかとの指摘があります。 「読者のみなさまへ」 植村氏の記事には、意図的な事実のねじ曲げなどはありません。91年8月の記事の取材のきっかけは、当時のソウル支局長からの情報提供でした。義母との縁戚関係を利用して特別な情報を得たことはありませんでした。 ○イ 2014年8月6日付記事 2014年8月6日付検証記事は、16、17面に「日韓関係 なぜこじれたか」と題し、河野談話の発表(1993年8月)、アジア女性基金の発足(1995年7月)、韓国憲法裁判所における決定(2011年8月)といった日韓間の外交上転機となった出来事及びそこに至る経緯を取り上げるとともに、慰安婦問題についての識者へのインタビュー・寄稿を掲載するものであった。 |
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●(7)検証記事の評価
○ア 編集担当の論文について 1面に掲載された編集担当の論文は、なぜ2014年検証を行うのかといった朝日新聞としてのスタンスを示すものであり、編集部門のトップである編集担当自らの名前で出されたものであることからしても、2014年検証記事に対する朝日新聞の意気込みがうかがえるものである。 それだけに、この論文において読者に対し何を訴えるかは、朝日新聞にとって極めて重要な意味を持つものである。しかし、論文は吉田証言を記事にするに際して裏付け調査が不十分であったことを「反省します」と述べるにとどまって、「慰安婦問題の本質は女性が自由を奪われ、尊厳を踏みにじられたことである」との主張を展開し、他メディアにも同様の誤りがあったことを指摘するという論調であった。このような構成であったことが、読者に対し朝日新聞の真摯さを伝えられず、かえって大きな批判を浴びることとなった原因である。 ○イ 「強制連行」の項目について 2014年検証記事において、慰安婦にするための強制連行はあったのか、との疑問に対する回答は、問題の本質は「慰安所で女性が自由を奪われ尊厳を傷つけられたこと」であるといういわゆる「広義の強制性」の存在を指摘するものであり、その姿勢は基本的に97年特集の時と変わっていない。 当委員会は、その主張内容自体の当否について論評するものではないが、強制連行に関する吉田証言を虚偽と判断し、記事を取り消す以上、吉田証言が強制連行・強制性の議論に与えた影響の有無等について丁寧な検証を行うべきであった。吉田証言の取消しよりも本項目を先に位置づけ、「朝日新聞の問題意識は変わっていない」と結論づけることによって、かえって朝日新聞が吉田証言を取り消し、裏付け取材が不十分であった点につき反省しているという意図が読者に伝わらず、誠実でないという印象を与えた。 ○ウ 「『済州島で連行』証言」の項目について 吉田氏の証言(済州島で慰安婦の強制連行を行った)を検証するこの項目は、2014年検証の最大のポイントであり、最も丁寧な検証が行われるべきであった。実際、吉田証言の裏付けについては、前記のとおり、今回は相当綿密な調査を行った。 しかし、記事を取り消すに当たっては、取り消すか否かといった結論のみでなく、記事掲載に至った経緯や取消しの判断が2014年にまで遅れることとなった経緯も含めて検証の対象としてこそ、このような事態に至ったことを真摯に受け止め、再発を防止しようとする朝日新聞としての覚悟を読者に示すことができたはずである。 2014年検証は、取消し対象となった記事の掲載に至る経緯や取消しの判断が遅れた理由などが検証されてはおらず、不十分なものであった。 a 吉田証言を記事として取り上げた経緯についての検証が不十分であること 2014年検証記事においては、11982年9月2日付記事において、「済州島で女性を狩り出した」と集会で講演した吉田氏の講演内容を報道したこと、21992年4月に吉田氏の証言の信ぴょう性を疑問視する秦氏の調査結果が産経新聞に掲載された直後に、東京社会部の記者が吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたこと、397年3月の特集記事において吉田氏の証言について「真偽は確認できない」と表記し、以後吉田氏を取り上げていないことを記載している。 しかし、1982年9月2日付記事を掲載した後、吉田氏の証言内容について何らかの裏付け調査を行っていたかどうか、朝日新聞はそれをどう評価するのかについては書かれていない。また、1992年4月の産経新聞の記事以降、吉田証言について疑問が提起され、証言の裏付けがないとされている状況であったにもかかわらず、その後、1997年3月の特集記事までの間、朝日新聞として検証を行わないまま、吉田証言を記事に取り上げ続けたことについては、経緯の説明もされていない。 すなわち、朝日新聞は、上記秦氏の調査結果が産経新聞に掲載された後である1992年5月24日、吉田氏が同年7月に韓国に謝罪の旅に出ることを報じ、吉田氏が慰安婦約千人を徴用したと述べていることを紹介した。 また、1994年1月25日付朝日新聞創刊115周年記念特集において、「政治動かした調査報道」と題する記事を掲載し、「戦後補償 忘れられた人達に光」、「慰安婦・強制連行…」などと見出しをつけたうえ、慰安婦問題についても詳細に記事にした。吉田氏の証言について、「朝鮮に渡って強制的に慰安婦を送り出した元動員部長の証言に、読者から驚きの電話が何十本も届いた」と、当該証言が事実であることを前提として記述している。 既に1992年4月の時点において、秦氏による具体的な批判が提起されており、他方、前記のとおり吉田氏自身からは情報提供を拒まれて、真偽の裏付けが取れない状況であったにもかかわらず、その証言を改めて記事として取り上げ、吉田氏の証言内容に疑問が呈されているという事実に一切言及していないことについては、2014年検証記事において検証が行われていない。 b 取消し時期が遅れたことに対する検証がないこと 上記のとおり、吉田証言の信ぴょう性については、既に1992年ころから明確な形で疑問が提起され続けていたのであるから、朝日新聞が報道機関として自らの報道内容に責任をもつのであれば、速やかに検証するなど積極的に対処すべきであった。 関係記者の中には、歴史的事実は上書きしていく形で修正していくものであり、訂正・取消しになじまないと述べる者がいる。仮にそうであったとしても、吉田証言に疑問が呈された92年以降は、これを放置するのではなく、疑問が提起されている事実やその内容を報道することによって、吉田証言があたかも真実であるかのように報じた過去の記事に新たな状況を上書きし、いずれが真実であるかを確定できない状態であるという客観的な事実を一刻も早く読者に伝えるのが新聞社として誠実な態度であった。 積極的な検証作業を行うことすらせずに、吉田証言の取扱いを減らしていくという消極的な対応に終始したことは、前記のとおり、新聞というメディアに対する読者の信頼を裏切るものであり、ジャーナリズムのあり方として非難されるべきである。 2014年の検証において、ようやく多方面にわたる調査を行い、吉田証言を虚偽と判断し、取り消すことにしたが、調査は、この段階にならなければ不可能であったものではなく、虚偽と断定できる決定的な資料が新たに得られたといえる事情もない。 前記のとおり、遅くとも1997年には、訂正・取消しをするべきであり、当時に充分調査していれば、2014年と同じ結論が得られたはずである。その意味で、取消しは遅きに失したとの批判を免れないが、2014年検証において、取消し時期が遅れたことに関する理由の検証や評価は行われていない。また、朝日新聞は、1997年特集以降、吉田証言を報じていないが、それ以前に積み上げられた報道による社会的な影響の有無に関する朝日新聞の見解も示されていない。 これだけ歴史的に長い経緯を経ていることからすれば、単に取り消せば足りるという姿勢ではなく、読者に対し、現時点での総括を行うという態度を示すことが必要であった。 ○エ 「軍関与示す資料」の項目について a 1992年1月11日付記事は、宮沢首相訪韓の直前のタイミングで掲載されたことから、日韓両国において他紙にも大きく取り上げられ、慰安婦問題のその後の動きに大きな影響を与えた。 前記のとおり、朝日新聞があらかじめ入手していた資料をすぐに記事にせず、政治問題化を狙って首相訪韓直前のタイミングで記事にしたという実態があったか否かは、もはや確認できないが、首相訪韓の時期を意識し、慰安婦問題が政治課題となるよう企図して記事としたことは明らかである。 また、本件記事の「従軍慰安婦」の用語説明メモにおいて、あたかも「挺身隊として『強制連行』された朝鮮人慰安婦の人数が8万人から20万人」であるかのように不正確な説明をしている点は読者の誤解を招くものであった。 このような用語説明メモを付すことによって、世論が反応した可能性は否定できず、朝日新聞は、この点についても真摯に検証すべきであった。同時期において他紙にも同様の記載の記事が複数見受けられるが、それが言い訳になるものではない。 b この項目の結論部分(「読者のみなさまへ」)は、1992年1月11日付記事に掲載された資料が存在することは、政府がこの報道のある前から報告を受けていたと説明している。 この記載は、朝日新聞の報道が政府にとって「不意打ち」であり、この報道によって日韓間の外交問題に発展したとの批判に対し、不意打ちではなかったことを述べる趣旨であろうが、同記事が首相訪韓に際して慰安婦問題を政治課題として取り上げるべきであるとの考えのもとに報道されたものであることは明らかであり、朝日新聞がこの反論によって何を主張したかったのか明らかではない。2014年検証が慰安婦問題の本質を明らかにすることを掲げつつ、実態は、外部から批判されていることに対する防戦・反論という視点に偏ったものであることを示している。 ○オ 「『挺身隊』との混同」の項目について a 挺身隊や慰安婦については、1990年代初頭ころまで、韓国でも日本でも研究が乏しく、書籍等の出版物における慰安婦や挺身隊の人数についての説明もさまざまであり、当時実態が正確に把握されていなかった。 挺身隊や慰安婦に関する出版物の内容は、例えば、1970年8月14日付のソウル新聞には、「1943年から45年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は、全部でおよそ20万。そのうち韓国の女性は5〜7万人と推算されている。」との記述があり、千田夏光氏の著書「従軍慰安婦」には、「“挺身隊”という名のもとに彼女らは集められたのである。(中略)この“挺身隊”員の資格は12歳以上40歳未満の未婚女性を対象とするものだった。ただし、総計20万人(韓国側の推計)が集められたうち“慰安婦”にされたのは“5万人ないし7万人”とされている。すべてが慰安婦にされた訳ではない。」と記載されている(ここでは、「挺身隊」と「慰安婦」が明確に区別されて述べられている。)。また、1986年初版の「朝鮮を知る事典」には、「43年からは〈女子挺身隊〉の名の下に、約20万の朝鮮人女性が労務動員され、そのうち若くて未婚の5〜7万人が慰安婦にされた」と記載されている。 1980年代当時の韓国においては、「挺身隊」がほぼそのまま「慰安婦」を指す言葉として用いられていた。日本においては、挺身隊と慰安婦が別のものではあるが、韓国において、実態として一部又は多くが重なるのかどうかについては、定説があったとはいえない状態であった。1990年代初めころまで多くの出版物でみられる「挺身隊の名のもとに」という言葉は、国家総動員法に基づく制度として集められたことを指しているのか、挺身隊だとだまされて集められたような場合も含むものとして使っているのかについて判然としないものもある。 1991年12月に東京地方裁判所に提訴された戦後補償を求める訴訟においては、慰安婦の人数を10万から20万人と主張し、元慰安婦の韓国の支援組織「韓国挺身隊問題対策協議会」の代表が「女子挺身隊の名で徴用された女性たちの多くが、慰安婦にされた」、「慰安婦として売春を強要された女性の総数は十万人とも二十万人とも…」などとインタビューに答えた(毎日新聞1991年12月9日付記事)。 これらの状況からすると、1991年12月ころまでは、一般に「女子挺身隊」と「慰安婦」がそれぞれどのように集められたかの理解が十分でなく、挺身隊として集められた女性の中に慰安婦とされた者がいたと理解される素地があり、それぞれの人数についての情報も錯綜・混乱していた。 朝日新聞の記事だけをみても、1991年5月22日付記事においては「『従軍慰安婦』は、太平洋戦争の戦線が拡大するにつれて連行が本格化し、『慰安婦』にされた朝鮮女性は8万人説から20万人説まである。」と説明されているが、同年8月11日付記事には「朝鮮人慰安婦は5万人とも8万人ともいわれるが、実態は明らかでない」と記載されている。1992年1月11日付記事の「従軍慰安婦」と題する用語説明メモにおいては、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる。」と説明されており、ほぼ同時期の記事においても、執筆者が何を参照したかによって内容が異なる。 b 1992年1月ころから、慰安婦と挺身隊とを同一視しているのは誤りではないかとの観点からの記事が散見されるようになる。例えば、1992年1月16日付記事(ソウル発)には、「韓国のマスコミには、挺身隊イコール従軍慰安婦としてとらえているものが目立ち、…」との記載があり、挺身隊と慰安婦とを完全に同一視することは誤りであると認識されている。同日の読売新聞の記事は、従軍慰安婦について「戦時中、『挺身隊』の名目で強制連行された朝鮮人の従軍慰安婦は十万とも二十万人ともいわれる」とする一方、同じページの記事において「韓国では工場での勤労動員と見られる『挺身隊』と『従軍慰安婦』は同義語として使われているため…小学生まで慰安婦にしていたと受け止められている」などと解説している。 当時、韓国の通信社が、挺身隊となった小学生の学籍簿が発見されたとの記事を配信したところ、実際には工場労働のための挺身隊であったにもかかわらず、韓国国内において、小学生まで慰安婦とされていたとの誤解が広まり騒ぎとなったことをきっかけとして、「挺身隊」イコール「慰安婦」との認識が正しいものではないとの問題意識が表面化したものと考えられる。 同じころ、元慰安婦などが日本政府に対する訴訟を提起したのをきっかけに、挺対協において原告を集めたり、日本国内の支援団体が「慰安婦110番」などとして情報を募ったところ、元挺身隊だった者の中に慰安婦ではない者が含まれていることが明らかになってきたと言われており、1992年1月ころ以降、慰安婦と挺身隊とを区別すべきであるとの認識が急速に高まってきたと見られる。c こうした経緯からすると、1991年から1992年ころにかけ、急速に「挺身隊」と「慰安婦」の相違が意識されるようになるまでは、両者を混同した不明確な表現が朝日新聞に限らず多く見られたという実態があったことは事実であると解され、2014年検証記事の記載に誤りがあるとは言えない。 しかし、報道機関としては、記事の正確性に十分配慮すべきであり、研究が進んでいない事項については、読者の誤解を招かないよう注意深く丁寧に説明する必要がある。たとえ韓国において「挺身隊」と「慰安婦」とが混同されていたとしても、少なくとも、日本と韓国における「挺身隊」の認識・理解に齟齬があることは比較的早い段階で知り得たはずであり、両者が本来は異なるものであり、韓国における実態として重なる部分があるのかどうかについては解明されていない状態であることについて、注意深く丁寧に伝えるよう努力すべきであった。 また、研究が進んだ段階で、自ら速やかに過去の誤解を解く努力をすべきである。例えば、92年3月7日付の「透視鏡」と題するソウル発のコラムは、「韓国人の多くはいまも、挺身隊を慰安婦の同義語ととらえている。」「挺身隊と慰安婦の混同に見られるように、歴史の掘り起こしによる事実関係の正確な把握と、それについての情報交換の欠如が今日の事態を招いた一因になっているといえる。」と書いている。こうした問題意識がなぜ共有されなかったか、検証されるべき課題である。 このような観点からすると、単に当時は研究が乏しかったために誤用した、と事実を説明するのみではなく、誤用を避けるべき努力が十分なされていたのか、誤用があった後の訂正等が行われてきたかという経緯や、今後こうした混同・誤用が生じないようにするためどのような態度で臨んでいくのかなどについても踏み込んで記事とし、朝日新聞としての姿勢を示すべきであった。 ○カ 「元慰安婦 初の証言」の項目について 上記のとおり、植村の取材が義母との縁戚関係に頼ったものとは認められないし、同記者が縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたともいえない。 しかし、1991年8月11日付記事前文において「女子挺身隊」の名で「連行」という実際と異なる表現を用いているため強制的な事案であるとの誤ったイメージを読者に与えかねないこと、同年12月の記事においては、金氏が慰安婦となった経緯についても正確な事実を提示し、読者の判断に委ねるべきであったことについては、前記のとおりである。 植村の金氏についての記事は、本人の供述(録音テープを含む)の聞き取りであり、金氏を取り上げた他紙等の報道と比較しても、特に偏りがあるとはいえないが、2014年検証においては、意図的な事実のねじ曲げがあったとは認められないと結論づけたのみで検証を終えるのではなく、読者に正確な事実を伝えるという観点から、前文部分の記載内容も含め、さらに踏み込んで検討すべきであった。 ○キ その他 a 2014年検証では、取消しの対象となった記事を特定しておらず、この点も批判されている。 検証チームが当初予定していた紙面は、取り消した記事の一覧、慰安婦問題における出来事を抽出した大型年表、社会問題化した経緯等を詳細にまとめるというものであり、慰安婦問題の全体像をより把握しやすい構造になっていた。検証チームのメンバーの中には、経営幹部の意向を受けて掲載を見送ったことを悔いる者もいる。 朝日新聞としては、8月5、6日付紙面に掲載しなかった情報は、適宜、続報等で対応することとしていたが、検証記事が予想を超える批判にさらされる結果となり、続報を掲載するタイミングを失った。 このような経過に鑑みると、朝日新聞特に経営幹部において、2014年検証を行うに際して一般読者に対し誠実かつ真摯に向き合い、丁寧に対応する姿勢に欠けていたといわざるを得ない。 b なお、朝日新聞は、2014年10月10日付朝刊において、取消し対象16本の記事のうち12本を公表したが、残り4本については、外部筆者によるものが含まれている等の理由で特定しなかった。 外部筆者による3本の投稿・寄稿についてはともかく、朝日新聞記者が執筆した1991年5月22日付記事については、慰安婦の強制連行に関する吉田氏の講演内容が詳細に記載されていることから、特定対象から除外するのは適切でない。そこで本報告書には別冊資料1の中にこれを添付することとした。 |
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●(8)2014年検証全体に対する評価
長年にわたり論争の対象となってきた争点について、遅きに失したとはいえ改めて紙面で一から説き起こして検証しようとしたことは一つの決断に基づくものである。しかし、吉田証言の取消しなど、過去の記事の誤りを認め謝罪することによって読者の信頼を失い支持を得られなくなることをおそれ、謝罪をしなかったのは、反対世論や朝日新聞に対する他紙の論調を意識する余り、これのみを相手とし、報道機関としての役割や一般読者に向かい合うという視点を欠いたもので、新聞のとるべきものではない。 また、「読者の疑問に答える」として掲げられた事項に対する回答も、個別の事実認定について誤りがあるとは言えないものの、慰安婦に対する賠償問題に関して朝日新聞がどのような立場で臨みその中で朝日新聞自身の主張方針に合致するよう記事の方向付けを行ってきたのではないかとの指摘に対しては、明確に答えていない。特に、吉田証言については、関連記事を全て取り消すという重大な決断をしたのであるから、取消し時期が初報から約32年を経た2014年となった理由を検証するとともに、そのことに対する朝日新聞の見解を示すことが読者に対する誠実な態度であった。 総じて、この検証記事は、朝日新聞の自己弁護の姿勢が目立ち、謙虚な反省の態度も示されず、何を言わんとするのか分かりにくいものとなったというべきである。 |
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●9 2014年検証記事に関する意思決定 | |
●(1)事実経過
2014年検証記事については、2014年7月上旬以降は、拡大常務会等、経営幹部を中心とした会議でも吉田証言の処理の仕方、謝罪すべきか否かについて議論が行われた。当初、検証チームの方針として、吉田証言を虚偽であったとし、吉田証言関連の記事を訂正・取消しする以上は謝罪するのが筋であるというGEの渡辺ら編集現場の意見に基づき記事の訂正とともに謝罪文言を入れたゲラ刷りが作られた。一方、歴史上の事実は間違っていたらその後の報道により上書きされていくものであるから謝罪にはなじまない、おわびをすると慰安婦問題全体の存在を否定したものと読者に受け取られるのではないか、おわびをするとこの問題を放置してきた歴代の人達についても責任を問うことになってしまうのではないか、あるいは今朝日新聞にいる人達が責任をとらなければならないのか、謝罪することで朝日新聞の記事について「ねつ造」と批判している勢力を「やはり慰安婦報道全体がねつ造だった」とエスカレートさせてしまう恐れがある、朝日新聞を信じて読んでくれている読者の信用を失うといった意見から、謝罪文言を入れないゲラ刷りも作成された。 吉田証言に依拠した記事は訂正すべきであり、記事を訂正する以上、謝罪するのが筋であるという意見もあったが、拡大常務会等の経営幹部を中心とした会議で議論した結果、最終的には8月1日の経営会議懇談会での議論を踏まえ、経営上の危機管理の観点から、謝罪した場合、朝日新聞を信じてきた読者に必要以上に不信感を与える恐れがあること、朝日新聞を攻撃する勢力に更に攻撃する材料を与えること、「反省」という言葉で表現することで謝罪の意を汲んでもらえるとする意見などにより、結局、謝罪はせず、他方、吉田氏にまつわる16本の記事については記事そのものを取り消すという対応をすることとした。 取消し又は訂正の選択及び取消しの範囲については、吉田証言が虚偽であるとすると、このような証言、さらにはそのような虚偽の証言を述べている吉田氏に関する記事全体も事実に基づかないものに依拠した記事であり、記事全体を取り消すべきではないか、訂正するとした場合、証言自体が虚偽であるとすると、どの部分を訂正すればよいのか、ほとんど全てを訂正しなければならないことになるのではないか、謝罪しないこととする以上、記事については新聞社にとって最も重い内容である取消しにより対応するのが妥当であろうなどと考え、最終的に記事自体を取り消すこととした。 |
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●(2)16本の記事を取り消した判断について
(1)記載のとおり、吉田証言を取り扱った記事16本を取り消すこととした結果、取消しの対象となった記事はそもそも存在しない扱いとなった。 訂正と取消しの区別については、訂正は表現の仕方が誤っていた場合に表現を訂正するなど、記事の根幹となった事実は存在する場合に行うというイメージであり、取消しは記事の根幹となった事実が虚偽であったという場合に行うというイメージであって、訂正よりも取消しの方が厳しい取扱いであるとの説明であった。 朝日新聞はこのような訂正及び取消しに対する理解から、吉田証言を虚偽であると評価する以上、吉田証言に依拠した記事、吉田証言が真実であることを前提として吉田氏自身について記載した記事(少なくとも吉田氏の証言の内容は事実であろうということを前提としているように見える記事)については訂正ではなく取り消すことが適切だと考え、取り消すこととしたという。 しかし、例えば1982年9月2日付記事については、吉田氏が「旧日本軍の侵略を考える市民集会」に参加し、当該記事に記載されている内容の講演を行ったことについては客観的な事実であり、その意味においては虚偽とは言えない部分も含まれる。また、1992年8月13日付記事は、吉田氏が訪韓して太平洋戦争犠牲者遺族会の「証言の会」に出席し、金氏に謝罪をしたという内容であり、吉田氏の証言を紹介したとまでは言えず、外形的な事実は客観的な事実に合致している。 このような観点からすると、今回取り消した16本の記事について、訂正により対応せず全て取り消すこととした扱いはおおざっぱな処理であるとも見られる。 しかし、吉田証言に依拠した記事、及び済州島で暴力的な方法での強制連行を自ら行ったという証言を行っている人物として吉田氏を取り上げた記事は、吉田氏の証言内容が真実であることを前提としたと評価されるから、これらの記事については取り消すこととするという判断には合理性があるといえる。 ただし、吉田氏の、済州島においていわゆる慰安婦とする目的の下に多数の朝鮮人女性を強制連行したとする証言について虚偽と判断するのであれば、今回取り消した16本の記事には含まれていない慰安婦以外の者の強制連行について吉田氏が述べたことを報じた記事についても検討し、適切な処置をすべきである。 |
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●(3)謝罪しないこととした判断について
2014年の検証記事において16本の記事を取り消すだけで謝罪しないこととしたのは、(1)の事実経過において記載したとおり、歴史上の事実は間違っていたらその後に上書きされていくものであって、歴史上の事実についての誤りは謝罪にはなじまない、謝罪することで朝日新聞の記事を「ねつ造」と批判する勢力を、「やはり慰安婦報道全体がねつ造だった」とエスカレートさせてしまう恐れがある、朝日新聞を信じて読んでくれている読者の信用を失う恐れがある、反省という言葉により謝罪の意を汲んでもらえるであろうなどの理由で謝罪しないと判断したものである。 しかし、報道内容に誤りがあった場合、おわびしてその報道を取り消すということは自然な対応であり、朝日新聞の記者行動基準の「公正な報道」においても「1.正確さを何より優先する。捏造や歪曲、事実に基づかない記事は、報道の信頼をもっとも損なう。(略)」、「2.筆者が自分であれ他の記者であれ、記事に誤りがあることに気づいたときは、速やかに是正の措置をとる」とされていることからしても、報道内容に誤りのあることが発覚し、これを取り消すという場合には、取消しとともに誤った内容の報道をしたことについておわびをするのが妥当である。このような観点から見た場合、2014年検証において、朝日新聞を標的にしている者に攻撃材料を与えてしまうという危機意識などから謝罪はしないこととした判断は、謝罪することによる影響の一部に強くとらわれて判断したものであり、報道機関の報道の自由が国民の知る権利に奉仕するものであることから憲法21条の保障の下にあるということを忘れ、事実を伝えるという報道機関としての役割や一般読者に向き合うという視点を欠落させたものというべきである。 |
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●(4)「経営と編集の分離」原則と今回の対応
2014年検証記事の作成に対して、経営上の危機管理として経営幹部が関与したことについては、朝日新聞が組織体として新聞の発行事業を行っている以上、経営幹部が記事の内容等、編集に対して一定の関与をすること自体はあり得ることであり、2014年検証記事のような、朝日新聞の経営にも大きな影響があり得る記事について経営幹部が関与したこと自体は必ずしも不適切とはいえない。 しかし、経営幹部において最終的に謝罪はしないこととしたのは誤りであった。また、このような経営幹部の判断に対し、編集部門にはこれに反対の者がいたのであるから、反対する者は、できる限り議論を尽くし、そのような結論となるのを回避する努力をすべきであり、編集部門の責任者や経営幹部はこれを真摯に受け止めるべきであった。このような努力が十分尽くされたとまではいえない。 |
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●10 池上コラム問題 | |
●(1)事実経過
○ア 2014年検証記事の担当チームは、2014年検証記事を企画している中で、池上氏に対し、秦氏、吉見氏とともに、有識者として慰安婦問題について論評してもらうこと、それが難しければ、毎月最終金曜日に掲載している池上氏のコラム(「新聞ななめ読み」。以下「池上コラム」ということがある。)で慰安婦問題の検証記事について取り上げてもらう依頼をすることとした。 2014年7月上旬ころ、池上コラムを担当しているオピニオン編集部の担当者が池上氏に対し、慰安婦問題について秘密裡に進めている企画があり、事前にこの記事の原稿を読んで、同じ紙面に慰安婦問題について論評して欲しいと頼んだ。池上氏は、検証記事について論評するのは時間もないので難しい、しかし、慰安婦問題に関する報道の検証記事を掲載するということであれば、当然それは「新聞ななめ読み」で取り上げるべき内容なので「新聞ななめ読み」で書くこととしたいと回答した。そこで朝日新聞は池上氏に対し、「新聞ななめ読み」で記事を取り上げるよう依頼した。 ○イ 池上コラムの掲載は毎月末の金曜日の朝刊紙面となっていた。2014年検証記事の掲載が延期されたため、検証記事を取り上げる池上コラムの掲載時期も変更されることとなった。最終的に2014年検証記事が8月5、6日付紙面に掲載されることとなったことから、同月29日付紙面に2014年検証記事を取り上げる池上コラムの掲載が予定された。 池上氏は、原稿を、池上コラムを担当しているオピニオン編集部の担当者に対し、同月27日午後、電子メールで送信した。担当者は、これに、「過ちは潔く謝るべきだ」という見出しを付け、池上氏の了承を得た。 ○ウ 当時、経営幹部は、2014年検証記事に対して他の新聞や週刊誌等がどのような反応を示すか注視しており、これに関する報道は、杉浦、広報担当の喜園、社長室長の福地ら危機管理を担当していた役員らと社長の木村が目を通していた。池上コラムについては、もともと2014年検証記事について書いて欲しいと依頼していたことから、危機管理担当の役員らは、原稿が届いたら内容を確認することとしていた。 そこで、担当者は、GEである渡辺にゲラ刷りを配布するとともに、GM補佐の机上に置いてこれを配布した。配布されたゲラ刷りは、GMである市川にも渡されたほか、杉浦、喜園、福地に配布され、木村も原稿を見た。 渡辺は、ゲラ刷りを受け取った時点では、掲載することで問題ないと考えていた。しかし渡辺は、27日の夕方になって、木村が掲載に難色を示しており、このままでは掲載できないということになった、今後の対策として、1全く違うテーマで書き直してもらう、2掲載するのを止める、3見出しをマイルドにするのいずれかにできないかといった趣旨のことを担当者に述べた。これに対しオピニオン編集部は、1については、そもそも池上氏には朝日新聞からの要請として2014年検証記事について取り上げて欲しいと依頼したテーマであること、これまで基本的にコラムの内容には注文を付けないことでやってきたことから難しい、2については、そのようなことをすれば池上氏はコラムを打切りにさせて下さいと言うに違いなく、連載打切りは避けられず、非常に不自然な終わり方になってしまう、この場合、週刊誌等に気付かれ池上氏の記事を握りつぶしたとバッシングを受けることになると危惧される上、これまで朝日新聞を信頼して読んでくれている読者が離れてしまうなどといって反対した。 その後、GMの市川、GEの渡辺を含む編集部門において協議した結果、27日深夜、見出しを「訂正遅きに失したのでは」とマイルドなものに変更して掲載しようということで、杉浦が木村と話をすることになった。 翌日(28日)もこのままでは掲載できないという結論であったので、渡辺及びオピニオン編集部は、編集担当である杉浦に対し、池上氏の原稿はそのまま載せるべきだ、もし載せなければ、これまでは慰安婦を巡る問題の議論だったのが言論の自由を巡る問題に変わってしまいフェーズが変わる、リベラルな知識人や読者からも批判されてしまうなどの意見を述べた。これに対し杉浦は、池上氏の連載が打切りになる可能性も踏まえたうえでのリスク判断だ、連載打切りのリスクよりもコラムを載せる方がリスクが高いと判断した、掲載しない判断は経営上の危機管理の観点からのものだ、2014年検証記事で謝罪しないという方針は社として決定したものだ、読売新聞が朝日新聞の慰安婦報道に関する連載を始めており、朝日新聞のブランド価値を著しく毀損するとして週刊文春の広告掲載も拒否した、社長の、逆風に負けず頑張るぞという言葉がホームページにアップされるタイミングであり、このタイミングで池上氏のコラムをこのまま掲載することはできないなどと説明した。 その結果、池上氏に対し、掲載見合わせについて説明するために連絡を取り、その日の夕方、GEの渡辺及び担当者らが池上氏と面談することになった。 ○エ 池上氏との面談において、渡辺から池上氏に対し、外部から厳しく攻勢されている状況であり、危機管理の観点からこのままでは載せられない、おわびがないという部分を抑えたものに書き直してもらうことはできないかなどと依頼した。 これに対し池上氏は、細かい言葉の修正ならともかく、根幹に関わる部分は修正できない、おわびを求めるというのは変えようがない、テレビでは訂正とおわびはセットだ、「新聞ななめ読み」をどう書くかずっと1カ月以上悩んで考えて決めた、これがだめだということだとジャーナリストとしての矜持が許さないので連載は打ち切らせて欲しいと答えた。 渡辺らは池上氏に対し、この場で最終判断することはできないのでいったん持ち帰らせて欲しい旨伝え、その日の面談は終了した。朝日新聞は、池上氏の発言を踏まえ、オピニオン編集長から池上氏にこれまでの「新聞ななめ読み」の連載を振り返るインタビューを行って掲載するなど、「新聞ななめ読み」をどのように終わらせるかについて検討し、池上氏に打診するなどした。 ○オ その後、朝日新聞が池上氏のコラムの原稿を掲載しなかったことについて、9月1日以降、週刊新潮や週刊文春が池上氏に取材するとともに、朝日新聞に対しても取材の申し入れがあったことから、池上氏のコラムの原稿を掲載しないこととしたことが外部に漏れたことが判明した。週刊新潮等からの取材に対して朝日新聞は、「弊社として連載中止を正式に決めたわけではありません。池上彰氏と今後も誠意をもって話し合ってまいります」と回答した。 情報が外部に漏れたことを認識したことから、朝日新聞はいったん、週刊誌に書かれる前に「新聞ななめ読み」が終了したことを告知することを検討したが、9月3日、池上氏のコラムの原稿をそのまま掲載することとした。そこで朝日新聞は池上氏に連絡し、経緯について朝日新聞からの説明を付したうえでそのまま掲載することについて了解を求めた。その際、見出しについては、その後の状況等も踏まえて、「訂正、遅きに失したのでは」という見出しとしたい旨説明した。池上氏は、経過について自分のコメントも掲載することを条件に、掲載を了解した。 朝日新聞は、9月4日付紙面に、池上コラムを、朝日新聞からの経緯の説明(「今回のコラムは当初、朝日新聞社として掲載を見合わせましたが、その後の社内での検討や池上さんとのやり取りの結果、掲載することが適切だと判断しました。池上さんや読者の皆様にご迷惑をおかけしたことをおわびします」との説明)、及び池上氏のコメント(「私はいま、『過ちは改むるに憚ることなかれ』という言葉を思い出しています。今回の掲載見合わせについて、朝日新聞が判断の誤りを認め、改めて掲載したいとの申し入れを受けました。過ちを認め、謝罪する。このコラムで私が主張したことを、今回に関しては朝日新聞が実行されたと考え、掲載を認めることにしました」というコメント)と共に掲載した。 |
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●(2)池上氏の原稿を掲載しなかったことについての朝日新聞の説明について
○ア 掲載しないという判断をした経緯についての説明 朝日新聞は、池上氏のコラムを掲載しないこととした経緯について、社長の木村は池上氏のコラムの原稿について感想は述べたがあくまで感想を述べただけで、掲載見送りの判断をしたのは杉浦であるという趣旨の説明をした。 しかし、(1)の事実経過のとおり、8月27日に池上氏から原稿を受け取った際、編集担当を含む編集部門は、これをそのまま掲載する予定であったところ、木村が掲載に難色を示し、これに対して編集部門が抗しきれずに掲載を見送ることとなったもので、掲載拒否は実質的には木村の判断によるものと認められる。なお、この判断に対し、編集部門は反対であったのであるから、可能な限りの意見を述べ、議論を尽くして、掲載拒否の結果を招かないよう努力すべきであり、編集部門の責任者や経営幹部はこれを真摯に受け止めるべきであったが、このような努力が十分尽くされたとまではいえない。 ○イ 池上氏との交渉経緯についての説明 朝日新聞は、週刊誌、他の新聞社等からの取材に対し、「弊社として連載中止を正式に決めたわけではありません。池上彰氏と今後も誠意をもって話し合ってまいります」と回答し、また、9月4日に池上氏のコラムを掲載するにあたって、「今回のコラムは当初、朝日新聞社として掲載を見合わせましたが、その後の社内での検討や池上さんとのやり取りの結果、掲載することが適切だと判断しました。池上さんや読者の皆様にご迷惑をおかけしたことをおわびします」という趣旨の説明をした。しかし、(1)の事実経過のとおり、担当者は池上氏の原稿をこのままでは掲載できないと判断した時点で既に池上氏のコラムは打切りになる可能性が高いと認識し、現に池上氏から打ち切りたいと言われたことからすると、交渉担当者が、「いったん持ち帰らせてください」といってその場で承諾はせずに持ち帰ったとしても、実質的にはその時点で打切りは決まっていたと認められる。現に池上氏は28日の時点で終了が決まったと理解しており、上記朝日新聞の経緯に関する説明については、担当者に、自分とのやり取りが違う気がしますがといった感想を伝えた。このような状況について、「池上彰氏と今後も誠意をもって話し合ってまいります」と説明するのは、池上氏との協議の内容を余りに朝日新聞に有利に解釈したものというべきである。 |
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●11 「経営と編集の分離」原則 | |
●(1)「経営と編集の分離」原則について
新聞社における報道の自由については、国政に関し国民に重要な判断の素材を提供し、国民の知る権利に奉仕することから、報道の自由は表現の自由について規定する憲法21条の保障のもとにあると理解されている。他方、新聞社における報道は新聞社の事業として行われているものであることから、経営幹部が報道の内容に関与する権能を有すること自体は、理論的にあり得ることである。 しかし、経営幹部が報道の内容に対し不当に干渉することによって報道の内容が歪められるようなことがあれば、報道の自由が認められる目的を達することができない。そこで、経営幹部が報道の内容に不当に干渉することを防止するため、編集機能と経営機能を分離し、編集に関する最終決定は経営に携わらない編集部門の責任者が行うようにすべきであるという考え方(「経営と編集の分離」原則)が提唱されている。 |
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●(2)2014年検証記事への経営幹部の関与について
経営幹部の関与については、日本の戦後に確立された編集権の概念として、編集権が経営、編集管理者に帰属するという考え方がある。 編集権は、概念自体の妥当性にいまだ議論があり、必ずしも確立された概念ではない。他方で、とりわけ、編集権の第一の効果が「新聞に対する政治的権力の干渉排除」と説明されている点に鑑みれば、完全には否定され得ない面がある。また、「経営と編集の分離」原則の考え方が妥当な考え方であるとしても、そもそも、組織体としての新聞社においては、経営幹部が編集に関与する権能を有するということ自体は、理論的にあり得ることである。 以上のとおり、「経営と編集の分離」の考え方は、民主主義社会における言論の自由の十全な発展のために極めて重要な考え方であり、新聞社において守られるべき原則であるとしても、新聞社が組織として危機管理を必要とする場合については、合理的な範囲で経営幹部が編集に関与すること自体はあり得ることである。 このような理解を前提として2014年検証記事の内容に経営幹部が関与していた経緯についてみると、近年の朝日新聞を取り巻く状況に鑑みれば、朝日新聞社という組織としての危機管理が必要な場合であるとして、合理的な範囲で経営幹部が編集内容に関与すること自体はあり得ることである。 ただし、今回の慰安婦特集は、企画立案から紙面の内容に至るまで、経営による「危機管理」という側面が先行しすぎている。問題の取り上げ方から紙幅、おわびの有無に至るまで、経営幹部による「社を守る」という大義によって、さまざまな編集の現場の決定が翻された。それゆえに、本論である慰安婦問題の伝え方は、一般読者や社会の納得のいく内容とはなっておらず、結果的に危機管理そのものも失敗した。その意味でも、報道機関において「経営と編集の分離」の原則を維持し、記者たちによる自由闊達な言論の場を最大限堅持することの重要さについて、経営幹部はいま一度確認すべきである。 |
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●(3)池上コラムに対する経営幹部の関与について
池上氏のコラムの原稿を掲載しないこととした判断については、関係者らは朝日新聞社としての危機管理的な観点から検討した結果である旨説明するが、それは視野の非常に狭い、内向きの議論であって、事実を伝え国民の知る権利に奉仕するという報道機関としての役割や一般読者の存在という視点を欠落させたものというべきである。経営幹部による不当な干渉を防止するための概念である「経営と編集の分離」原則との関係でも不適当な関与がなされたといわざるを得ない。 |
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●(4)まとめ
朝日新聞をはじめ、近年の新聞業界は、1997年をピークに売り上げ部数は頭打ちとなってきている。広告収入も減少傾向にある。株式会社電通によると、2012年以降、日本の広告費のうち、新聞広告費はインターネット広告費を下回るようになった。日本全体の少子高齢化による人口減少傾向とともに、オンライン・メディアの普及によって、新聞産業は、かつてのような成長産業から、既存の事業者同士の生き残りをかけた戦いの時代に突入しているといえる。 朝日新聞も、そうした点を意識して、インターネット時代の本格化の中で、中長期的な新聞経営危機の打開を最大の課題とし、2012年に木村体制が発足した。木村は、それまでの社内コンセンサス型経営体質を脱し、より積極的に、デジタル戦略の本格化、社内分社化によるコスト削減構想の推進などを軸に、素早い判断と決断、実行をより重視し、取締役会への権限集中をはかってきた。木村は、このような素早い判断と決断、実行力を買われて社長に抜擢されたということを述べる者もいた。今回の慰安婦報道に関する一連の問題も、こうした経営体制の中で起きたことである。ヒアリングおよび社内資料からは、こうした経営強化の雰囲気の中で、経営幹部、販売、編集現場など、それぞれの意識やアイデンティティの違いも明らかになった。 2014年検証は、こうした経営体制から生まれた危機管理の一環であった。そこには、従来のコンセンサス型経営方針からの転機に加えて、社員や販売店などへの嫌がらせ、朝日新聞に対する攻撃などもあり、朝日新聞の幹部は、自社内部の危機に集中するあまり、外部環境を適切に識別する力を失っていった。すなわち、一般読者の意見、社会の一部の極端な意見、同業他社の目、社会全般の意見などを混然一体として議論していた様子がうかがわれ、失敗を重ねるごとに、これらの点を注意深く議論して、対策をとる力を失っていったと認められる。 |
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●12 国際社会に与えた影響 | |
標記については、当委員会の委員の数名がそれぞれその専門的立場からアプローチし、3つの、異なる側面から検討した結果が報告された。当委員会では、これら検討結果について資料を参照しつつ協議検討し、いずれも当委員会の本問題に対する報告とすべきであるという結論となった。
岡本委員及び北岡委員は、長きにわたる欧米での広報をはじめとする諸活動において得られた知見をもとに、この問題の欧米等海外における認識の現状、朝日新聞を含む日本の有力メディアの報道が韓国の批判的論調に同調したことの影響、我が国においてこのような現状に対処すべき方法等について報告した。 波多野委員は、歴史的経緯を概観して、慰安婦問題に対し朝日新聞がどのような報道をし、これがどのように日本政府の政策や、韓国など国内外の動向と関連していたかについての事実及びこれについての所感を報告し、林委員は、過去20年間の英・米・独・仏4カ国、10紙の慰安婦報道、合計約600本の記事及び韓国の全国紙5紙の慰安婦報道合計約1万4千本の記事を対象に、定量的調査を実施し、その結果得られた知見を報告した。 波多野委員及び林委員の検討結果は、いずれも吉田証言についての朝日新聞の記事が韓国に影響を与えたことはなかったことを跡付け、林委員の検討結果は、朝日の慰安婦報道に関する記事が欧米、韓国に影響を与えたかどうかは認知できないというものである。 以下がこれらの報告である。 |
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●(1)国際社会に与えた影響(岡本委員、北岡委員)
欧米、特に米国で日本についての広報活動を行う際に最も多く受ける質問のひとつが「慰安婦」である。韓国系米国人が慰安婦問題を組織的にキャンペーン事項にしていることもあり、この問題を巡る日本批判の動きは今も衰えない。 のみならず、抗日戦争勝利記念70周年にあたる2015年に焦点をあてて世界的に反日キャンペーンを強化しようとする中国政府が、慰安婦問題についても日本非難を展開しようとしている兆候もある。 米国には慰安婦に対する定型化した概念がある。例えば2014年12月2日のニューヨークタイムズ紙は慰安婦問題について在京特派員発の大きな記事を掲載したが、そこには次のように記されている。「主流に位置するほとんどの歴史家の見解は、日本陸軍が征服した領土の女性を戦利品として扱い、彼女たちを拘束し、中国から南太平洋地域にかけて軍が経営していた慰安所と呼ばれる売春宿で働かせたという点で一致している。女性達の多くは、工場や病院で働くとだまされて慰安所に連れてこられ、兵士たちへの性行為を強制された」 本件記事にしても、今回インタビューした海外有識者にしても、日本軍が、直接、集団的、暴力的、計画的に多くの女性を拉致し、暴行を加え、強制的に従軍慰安婦にした、というイメージが相当に定着している。 このイメージの定着に、吉田証言が大きな役割を果たしたとは言えないだろうし、朝日新聞がこうしたイメージの形成に大きな影響を及ぼした証拠も決定的ではない。しかし、韓国における慰安婦問題に対する過激な言説を、朝日新聞その他の日本メディアはいわばエンドース(裏書き)してきた。その中で指導的な位置にあったのが朝日新聞である。それは、韓国における過激な慰安婦問題批判に弾みをつけ、さらに過激化させた。 第三国からみれば、韓国におけるメディアが日本を批判し、日本の有力メディアがそれと同調していれば、日本が間違っていると思うのも無理はない。朝日新聞が慰安婦問題の誇張されたイメージ形成に力を持ったと考えるのは、その意味においてである。 海外が慰安婦問題について持っている誤ったイメージに対しては当然に反論すべきではある。また本件に対する現在の日本の対応ぶりについても、アジア女性基金を通じて民間と政府の見舞金が元慰安婦に渡されたばかりでなく総理大臣が慰安婦の一人一人に謝罪の書簡を出してきた事実、さらには相当数の慰安婦は日本人であった事実などは海外で報道されない。そして韓国側の一方的な主張のみが既成事実化していくことに焦燥感を抱く日本人は多い。 しかし、いかに日本として対応するかは、必ずしも簡単ではない。日本側が反論すれば、多くの場合、いっそう火に油を注ぐ結果になるからだ。吉田証言を報じた記事の取消しにしても、吉田証言は問題のほんの一部に過ぎないと海外の有識者は反論し、海外の一般市民は「日本にはそのような制度があったのか」と改めて好奇心を示すという展開になる。 これまで日本は、外国世論との関係で、歴代首相の靖国参拝、南京事件、捕鯨、イルカの殺処分、政治家によるマイノリティーや女性蔑視発言等、様々な摩擦案件があったが、慰安婦問題ほど日本にとって深刻で対応が厄介な問題はない。当委員会に託された任務を超えることであるが、基本的に対応を考え直す時である。 |
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●(2)国際社会に与えた影響(波多野委員)
○ア 1980 年代の慰安婦報道 その証言が虚偽であることが明らかとなった吉田清治氏の「慰安婦狩り」について、朝日新聞が最初に報じたのは1982 年9 月2 日(大阪本社版)であるが、韓国メディアによる後追い記事はなかった。大阪本社版であったことから韓国メディアの眼にふれなかった可能性があるが、いずれにしても、韓国では、千田夏光「従軍慰安婦」(1973 年)が74 年に韓国語に訳され、慰安婦を暴力的に連行したとする記述はないものの、77 年刊の吉田氏の「朝鮮人慰安婦と日本人」も80 年代初頭には韓国で翻訳されており、朝日新聞の報道で吉田証言が韓国内で初めて知られたわけではない。特に、千田氏の著作は韓国の運動団体には一定の影響を与え、慰安婦問題のテレビ・ドラマ化に際しても参考にされたという。要するに、82 年の朝日新聞報道の以前から、韓国内では「吉田清治」はある程度知られており、80 年代の韓国の著作にも少数ながら、これらは引用されている。また、83 年10 月19 日の朝日新聞は、吉田氏の「韓国の丘に謝罪の碑」を、11 月10 日には「ひと」欄で吉田氏を報じているが、すでに同年6 月下旬の韓国主要紙が、在日大韓婦人会への取材によって吉田氏の「朝鮮人強制連行謝罪碑」を報じている。ただし、この報道内容は慰安婦問題というより、植民地統治下で徴用された韓国人の強制連行の実行者、加害者として吉田氏が紹介され、慰安婦を強調した朝日記事とは視点も、取材源も異なる。いずれにしても、80 年代の吉田清治氏に関する韓国内の報道は、朝日新聞が最初ではない。こうした意味では、朝日新聞の吉田氏に関する「誤報」が韓国メディアに大きな影響を及ぼしたとは言えない。むしろ、朝日新聞の問題点は、はるか以前から韓国内で定着していた慰安婦は挺身隊を意味するものとの理解について、その混同を明確に認識するソウル支局員がいたにもかかわらず、無批判に受け入れていたことにあろう。 80 年代後半の民主化運動の結果、多くの市民団体(NGO)が生まれるなかで、とくに韓国における「性暴力」問題に取り組んでいた女性団体は,慰安婦問題を大きく浮上させる役割を果たす。その重要な契機は,90 年1 月、この問題の調査を続けていた尹貞玉・梨花女子大教授が「ハンギョレ新聞」に、同世代の女性が「挺身隊」として連れて行かれた事情を連載したことであった。この連載は大きな反響を呼んだ。同年5 月に予定された盧泰愚大統領の訪日にあわせ、尹貞玉教授が主宰する団体を含む女性団体が、日韓両政府に対して、真相究明、公式謝罪、賠償を求める声明を発表した。さらに同年10 月には、36 の女性団体が真相解明と被害者への補償を求める公開質問状を日本政府に送付した。11 月には、これらの運動は、30 を超える女性団体を傘下におく「挺身隊問題対策協議会」(挺対協)の結成につながった。しかしながら、慰安婦に関する日韓メディアの扱いは、なおも徴用者の強制連行問題の一環として位置づけられ、両国政府間の主要な争点もこの問題におかれていた。朝日新聞も例外ではなく、86 年7 月9 日、90 年6 月19 日の記事も「強制連行」の実施者として吉田氏が強調されている。 日本では90 年5 月の盧泰愚大統領の訪日に備え,朝鮮人強制連行者の名簿調査が開始されていたが,この調査に関連し、社会党の本岡昭次議員が90 年6 月6 日の参議院予算委員会で,強制連行された人々のなかには従軍慰安婦もいたのではないかとただした。これに対し労働省の局長は,国家総動員法に基づく徴用の業務と慰安婦は無関係であり,慰安婦は「民間業者が軍とともに連れて歩いて」いたようであり、実態調査によって「結果を出すことは、率直に申しましてできかねる」と答弁した。この発言に反発した韓国の女性団体は,90 年10 月、海部首相宛に,日本政府が朝鮮人女性を慰安婦として強制連行した事実を認め,謝罪と補償を求める公開書簡を送った。これに対し日本政府は,事実関係が確認できない,といった回答に終始していた。 ○イ 金学順氏のカミングアウト 翌91 年8 月14 日,日本政府の態度に反発した元慰安婦の金学順氏が初めて実名で取材に応じた。朝日新聞はその直前(8 月11 日、大阪本社版)に、元慰安婦の一人に挺対協の尹貞玉代表らが聞き取りを開始したことを、その概要とともに報じた(「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」)。さらに、同年10 月10 日には、再び吉田氏を登場させ、従軍慰安婦を強制連行した加害者として証言を掲載した。金氏のカミングアウトは日韓の支援団体に提訴の動きを後押しする。金氏を含む元慰安婦3名は、同年12 月6 日、「太平洋戦争犠牲者遺族会」(太平洋戦争の遺族を中心に73 年結成)の元軍人・軍属ら35 名による、日本政府を相手とした東京地裁への提訴の原告に加わった。日韓メディアは元慰安婦たちの証言を繰り返し報道したが,朝日新聞は提訴に際し,「従軍慰安婦にされた朝鮮女性 半世紀の『恨』提訴へ」,「問われる人権感覚,制度の枠超え真の補償を」(12 月6 日)などと熱心に報じた。12 月25 日付の朝日新聞(大阪本社版)は、「(日本政府の)ウソは許せない 私が生き証人」として金学順氏による証言テープを伝えている。 この間、ソウルに支局をもつ北海道新聞は8 月15 日に「『日本政府は責任を』 韓国の元従軍慰安婦が名乗り」と社会面トップで金学順氏との単独インタビューを掲載している。さらに11 月22 日、「朝鮮人従軍慰安婦の強制連行、『まるで奴隷狩りだった』 日本人元責任者の痛恨の告白」と題する吉田証言を掲載した。この記事は、金学順氏が名乗り出た後だったこともあり、韓国メディアの注目を浴び、数日間、この吉田証言を後追いする記事が続いた。たとえば東亜日報は、91 年11 月26日に、1 面準トップ記事として、北海道新聞による吉田氏の告白を大きく紹介している。北海道新聞(11 月27 日)は、この東亜日報の記事が「韓国民に新たな衝撃を与えた」と書いている。 金学順氏らの提訴から数日後の12 月10 日、韓国政府は駐韓日本公使に真相究明を要請した。韓国における慰安婦問題への関心と対日批判の高まりを受け、日韓外交当局は、この問題が年明けに予定された宮沢首相の訪韓時に争点化することを懸念し、韓国側から日本側に、何らかの措置を講ずる必要性が伝えられる。11月末には、宮沢首相の訪韓日程は1 月16 日から18 日の3 日間と公にされていたのである。 12 月12 日、加藤紘一官房長官は国会で、多くの証言や歴史研究で従軍慰安婦として働かされていた人がいたことは事実と思う、正確に調査を進めたいと述べた。一方、韓国国会も、12 月13 日、元従軍慰安婦への聞き取り調査に着手し、両国政府は本格的な調査に乗り出した。日本側では、「口頭だけの謝罪だけでは韓国世論が治まらない可能性」があるとして具体的な措置を検討していた(※1)。 ○ウ 「軍関与」報道のインパクト 92 年1 月11 日、朝日新聞は前年末に防衛庁で発見された資料を「慰安所 軍関与示す資料 『民間任せ』政府見解揺らぐ」との見出しで1 面トップで報じた。記事内容は、明言を避けていた「軍関与」に関する政府見解を批判するものの、「強制連行」の事例として報じているわけではなかった。だが、慰安婦報道の日韓関係への影響という点からすれば、このスクープ記事は、韓国世論を真相究明、謝罪、賠償という方向に一挙に向かわせる効果をもった。 朝日新聞の報道は韓国の主要メディアにセンセーショナルに伝えられた。例えば、翌1 月12 日付の朝鮮日報は、朝日新聞の報道をなぞり、「日帝治下で戦争に連行された韓国人従軍慰安婦問題が、『民間業者の問題』だったという日本政府のこれまでの答弁とは違い、日本軍による設置の指示と直接統制および管理の下で行われたという事実を明確にする日本軍の当時の書類が日本の防衛庁で発見された」と報じている。東亜日報(1 月11 日付)は、「従軍慰安婦、日本政府関与決定的な証拠」との見出しで、今回の資料発見で日本政府の立場は大きく動揺し、宮沢首相の韓国訪問、元慰安婦らの補償訴訟にも多くの影響を及ぼすと見られる、と報じた。中央日報(1月11 日)も、朝日新聞の報道を「日本軍「挺身隊秘密文書」発見 日本政府関与の最初の証拠」と大きく取り上げた。地方紙の「釜山日報」(1 月15 日)は、「挺身隊糾弾運動拡散」との見出しで、宮沢訪韓を前に、挺身隊問題に対する日本政府の公開謝罪と賠償をうながす運動が、全国規模で拡大していることを紹介している。 さらに、韓国世論の怒りをあおったのは宮沢訪韓の直前、14 日から15 日にかけて、聯合通信の配信によって、韓国メディアが勤労挺身隊の動員が国民学校生徒にまで及んでいたことを学籍簿をもとに一斉に報じたことである(※2)。韓国では女子挺身隊が慰安婦と同義に使用されていたため、小学生(国民学校生徒)までも慰安婦として動員した、と理解され、韓国社会に大きな衝撃を与えた。1 月15 日付の東亜日報は,同種の学籍簿が新たに全国各地で見つかっていることを伝え、社説では「天人ともに憤怒すべき日帝の蛮行」と断じ、人道主義に基づく問題の清算を求めた。同日の中央日報は,挺身隊問題の真相究明に消極的な韓国政府を批判し,社説では「日本の首相が謝罪の意思を示すことになったが,それが単なる方便や形式的な修辞に終わってはならない」と論じた。 朝日新聞はこうした韓国紙の報道を「小学生まで慰安婦に……」などといち早く取り上げ,「(韓国)国民の対日感情が急速に悪化している」と伝えている(1 月16日付、大阪本社版)。 中央日報(1 月16 日)社説は、「日本総理の韓国訪問をきっかけに、挺身隊に関する記録と証言が多くでてきた。特に12 歳の小学生を挺身隊に徴発した当時の日本人教師と生存者の生々しい証言は人々に憤怒と敵愾心まで持たせる。挺身隊の存在を皆知っておきながら、その規模や募集方法、またその惨状について詳細な資料を探す努力や作業を政府もやってこなかった」ことは、我々の「恥ずべきことだ」と自省を交えて論じた。 女子児童までもが挺身隊に、という報道は1 月11 日付の「軍関与」報道と相乗効果をもって日本政府糾弾の世論や運動として地方にも広がっていった。地方紙「国際日報」(1 月22 日)の「反日感情次第に拡散」と題する記事は、これまで隠されてきた小学生の挺身隊への動員事例が次々に出てきているなかで、釜山地域の女性団体による日本政府糾弾行事が続く予定であり、「市民の反日感情が次第に悪化」と記している。 英字紙では、1月13日付のジャパン・タイムズがいち早く、「日本軍は数十万の慰安婦を売春婦として強制連行」と伝えた。同紙は慰安婦を「性奴隷」として報じ続ける。 ○エ 加藤官房長官談話 92 年1 月11 日の朝日新聞報道は、宮沢首相の訪韓と首脳会談にも影響を与えた。記事中でも「宮沢首相の16 日からの訪韓でも深刻な課題を背負わされたことになる」と述べているように、取材記者の意識はともかく、宮沢訪韓に向けた一定の政治的意図が働いていた、と指摘されても否定はできないであろう。少し後になるが、93年8 月5 日の朝日新聞のソウル発記事は、「韓国外務省高官」の情報として、92 年1月、当時の大統領府の有力首席秘書官が「慰安婦問題を訪韓する宮沢首相に突きつけて、日本側から貿易収支不均衡問題の政治的決着を得ようとした」と紹介している。少なくとも韓国側は対日交渉にこの問題の利用を意図していた。 朝日新聞の報道によって、慰安婦問題への対応策を改めて示すことを強いられた日本政府は、1 月13 日には加藤官房長官が記者会見において「従軍慰安婦問題に関する談話」を発表し、「今回従軍慰安婦問題に旧日本軍が関与していたと思われることを示す資料」が発見されたこと、発見資料や関係者の証言、米軍等の資料を見れば、「従軍慰安婦の募集や慰安所の経営等に旧日本軍が何らかの形で関与していたことは否定出来ない」、「衷心よりおわびと反省の気持ちを申し上げたい」こと、「引き続き誠心誠意調査を行って行きたい」こと、などを述べた。 加藤談話の特徴は、「軍の関与」があったか否かに問題を収斂させ,政府見解の誤りを認める形となっている点である。加藤長官は、前年12 月6 日に、慰安婦の動員について「政府が関与したという資料は見つかっていない」と従来通り述べていたが、この認識が誤りであることを認めたことになる。慰安婦の募集や慰安所の設置について、官憲による一定の関与の存在は当然視されていた。しかし、当時の日本政府は、とくに徴募段階における政府や軍による「関与」がなかったことを国会答弁などで繰り返し表明し、そこが最重要ポイントであるかのような印象を日韓世論に与えていた。換言すれば、当時の日本政府は、「慰安婦」という問題について何を議論すべきかを明確に示せなかった。 1 月13 日の加藤談話のもう一つの特徴は、関連資料を調査中で、関与の程度や責任が明確でなかったにもかかわらず、政治的配慮から謝罪を先行させたことである。この加藤談話や渡辺外相の発言によって,韓国の運動団体は日本政府が自らの過ちを認めたものとして勢いづき,さらに直接,補償に進むものと期待した。日本大使館を取り巻くデモはそれまで数十人であったものが、400 名を超えるほどになったという(※3)。 関連資料の調査中に発表された加藤談話は、官憲の「関与の有無」が慰安婦問題の焦点であるかのように日韓の世論と政府自らを導き、朝日新聞の報道は、こうした傾向に拍車をかけた。しかも、朝日新聞は徴募段階における「軍の関与」は、強要・強制の意味をもつものとして報じていくことになる。たとえば、1 月12 日の「社説」は、「植民地支配下の朝鮮から多数の人々をかり出し、男性には労務や兵役を、女性には兵士の慰安をという役割を強要したのは、たかだか半世紀前のわが国であった」(「歴史から目をそむけまい」)として、なおも慰安婦問題を徴用者の「強制連行」の一環ととらえている。 ただ,1 月16 日からの日韓首脳会談において慰安婦問題が最優先のアジェンダとなったわけではない。貿易赤字の是正や技術移転が大きなテーマであったが、宮沢首相は,訪韓前の記者会見や首脳会談でおわびと反省、謝罪を繰り返すことになる。もっとも,宮沢首相の「謝罪」には、新たな補償を行う責任は生じないという前提があった。当時の韓国政府も同じで、仮に慰安婦問題で日本の直接的な責任を示す資料が出てきたとしても、日韓条約が存在する限り,補償責任は生じないと認識していた。そこで日本政府としては、まずは「謝罪」を先行させた。1 月11 日の朝日新聞の報道は、こうした日本政府の対応を後押ししたということができる。 92 年1 月21 日、韓国政府はそれまでの姿勢を一変させ,真相究明とこれに伴う「適切な補償などの措置」を求めることを決定した。この決定によって謝罪と「何らかの補償措置」が結びつく。しかしその後,韓国政府は一貫して公式に「補償」を求めてきたわけではなく,「国家賠償」を求める姿勢を崩さない挺対協などの運動団体との間で,日本政府は翻弄されることになる。 ところで朝日新聞は、91 年12 月の元慰安婦らの東京地裁への提訴をきっかけに、いわゆる「戦後補償」問題に関する、一種の「キャンペーン」に乗り出す。その「宣言」が92 年1 月4 日「いま問われる戦後補償 アジアから提訴相次ぐ」であった。講和条約や日韓などの二国間協定によって、補償要求は「解決済み」とみなす日本政府に対して、「解決済み」なのは国家間の請求権と個人の外交保護権であり、個人の請求権は消滅していない、との立場からアジアの被害者が日本政府に提訴する事例を紹介している。慰安婦問題もその一つであった。92 年7 月6 日の加藤談話の4日後(92 年7 月10 日)の「迫られる個人の救済(戦後補償)」では、中国政府は、韓国と同様の救済措置を期待するという意向を表明したことに触れ、「個人の補償要求に政府はどう対処するのか」と問いかける。 ○オ 河野官房長官談話 宮沢訪韓後、政府は外政審議室を中心に慰安婦問題への取り組みを本格化させ、92 年7 月6 日、それまでの調査結果とともに、加藤官房長官談話(資料U)を発表した。加藤は、慰安施設の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締りなど様々なレベルで「政府の関与」を認め、「改めて衷心よりお詫びと反省の気持ち」を表明した。だが、半年に及ぶ調査継続にもかかわらず、軍による組織的な強制連行を示すような資料は発見できなかった。慰安婦問題は、戦時徴用者の強制連行問題の一環とみなされていたことから、それを示す資料が未発見であったことは、徴募の過程における「強制性」という争点を浮き彫りすることになった。換言すれば、加藤談話は、「政府の関与」の程度と内容を示せないまま、「狭義の強制」か「広義の強制」かという、今日に続く国内論争の構図を定着させることになった。 加藤談話に関する朝日新聞の社説(92 年7 月8 日「過去の克服に取り組む時」)は、「政府はなぜ『関与』などというあいまいな言葉を使うのだろう。発表された文書をたどると、当時の政府や軍が事実上の管理、運営に当たっていたと言わねばなるまい。率直にそう認めることが、いさぎよい態度なのではないか」、慰安婦の集め方に関して、政府の調査は「強制連行を示す文書はなかった」としているが、果たしてそうか。「関与」は認めても、「強制」は認めたくない、という政府の及び腰がありはしないか、と問いかける。 翌93 年3 月20 日の社説(「日本の道義が試されている」)も、こう論じている。「強制徴用」について資料の裏付けがないという。しかし、当時の状況からみて、強制徴用は「推定有罪だ」という見方がある。「朝鮮半島からの労働者の強制連行があったのに、慰安婦についてだけは、強制がなかったと考えるのは不自然だろう。」、「被害者たちの立場を考えれば、『強制』を否定されたのでは、自分たちが進んで慰安婦になったか、少なくとも同意のうえでなったという形になる。それは耐えがたいことであろう」。 こうして朝日新聞は、慰安婦問題の焦点が徴募段階における強制・強要による連行(「狭義の強制」)が慰安婦問題の焦点であるかのような報道を続けることになる。他方、韓国政府が92 年7 月末に発表した「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書」も、慰安婦の動員や募集の方法に重点がおかれ、日本政府の調査を不十分として追加調査を要請し、「謝罪の意が十分に現れるような誠意ある措置」を促すものであった。韓国側が求める真相究明とは、「強制連行」を立証できる資料の確認であった。すでに実施済みの元慰安婦に対する聞き取り調査によれば、強制連行は日本側の関係資料によっても確認できるはずであった。「真相究明」が不十分であれば、どのような提案にも応ずる余地はなかった。 ただ、93 年2 月、盧泰愚氏に代って大統領となった金泳三氏が、3 月中旬、「真相究明」は求めるが物質的な補償は求めない方針であり,補償は韓国政府が行うと述べた。調査が続くなか,この金泳三発言は日本政府による解決案の策定を急がせることになる。問題の焦点は「真相究明」の落とし所として,「強制性」に関する認定をどこまで韓国側の理解に近づけるかにあった。93 年4 月の事務レベル接触でも,韓国側は「一部に強制性があった」といった表現では韓国世論は大騒ぎになるであろう,と伝え,日本側は,事実を曲げた結論を導くことはできない,と応答したという。こうしたやりとりが続くなか,韓国政府の要望を踏まえ、元慰安婦に対する聞き取り調査が重要なポイントとなって行く(※4)。 しかし、聞き取り調査は難航した。政治決着に向けた動きに反発する挺対協などが、調査が不十分として聞き取り調査への協力を拒否した。幸い、挺対協に次ぐ支援団体、太平洋戦争犠牲者遺族会が調査を受け容れ、7 月末に数日間の聞き取り調査が行われる。この聞き取り調査は談話について、韓国政府から一定の評価を得るためにも必要なプロセスではあった(※5)。また、慰安所経営者など幅広く関係者の証言が集められ、吉田清治氏に対しても外政審議室の担当官が複数回にわたって面談したが、その「証言」はとても信を置き得るものではなく、談話の作成に当たっては全く参考にならなかった。談話は朝鮮半島だけでなく、インドネシアにおけるオランダ人女性のケースや、アメリカにおける調査など幅広い情報を念頭に書かれたものであった(※6)。 談話の作成経緯において、最も難航したのは、慰安婦の徴募に際して日本軍による「強制」をどのように表現するか、であった。日本側は、幅広い調査を通じて、「慰安婦のすべてが強制であったと認定することは困難である」という立場をとっていたが、非公式に聴取していた韓国側の意向には沿うものではなかった。 93 年8 月3 日までにようやく、日本政府の責任でまとめられた談話内容は、翌4日に河野官房長官談話として発表される。日本政界は,自民党単独政権が崩れ,反自民連合による政権獲得が確実になるという大きな曲がり角にあり,宮沢政権の最後の日であった。 河野談話は,焦点となっていた「強制性」について、とくに徴募については「軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に,官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」と記された。さらに,「強制性」に力点をおく韓国側に配慮して、次のような文言が加わった。「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。」 河野談話は、前述のように、アジア地域全体の慰安婦をカバーするもので、朝鮮半島に限定されていたわけではない。他地域では、インドネシアのスマラン収容所事件のように組織的、暴力的にオランダ人女性を慰安婦として連行したという事実、すなわち「狭義の強制性」は認められることから、「官憲等が直接これに加担したこともあった」、と表現されたのであった。 韓国政府は、河野談話を「軍隊慰安婦の募集、移送、管理等において全体的な強制性を認定」している、として評価する論評を発表した(93 年8 月「韓国外務部論評」)。朝日新聞は、8 月5 日の解説記事(「苦心の末『強制』盛る 『総じて』に日韓のズレ」)で、談話作成の経緯を詳細に報じ、「強制」をめぐって日韓の見解に開きがあり、官房長官談話の「総じて」を、韓国側は「全体的に」と訳して「日本政府が全体的に強制を認めた」ものと理解した、とまとめている。韓国外務部論評と軌を一にしている。 同日の社説(「戦後補償を正面の課題に」)では、「『総じて本人の意思に反して行われた』と談話は述べている。被害者の名誉回復への前進である」と評価したうえで「単に、法律論で身構えるだけではなく、むしろ、政治が対処すべき問題として考える必要があろう」として戦後補償問題全般について、「補償すべきは補償するという態度を明示すること」を宮沢退陣後の新政権に求めている。 しかし、河野談話以後の報道は、慰安婦問題を突破口に、被害者個人に対する国家補償や特別立法に向けて「戦後補償」の実現に世論をリードするかのような報道が目立つ。93 年8 月27 日、28 日の「戦後補償 みんなのQ&A」、8 月31 日「従軍慰安婦問題で政府補償要望 女性議員有志」、9 月23 日「7割以上が『慰安婦に補償必要』 国会議員に法律誌が戦後補償調査」、11 月14 日「問われる戦後補償 朝日新聞社全国世論調査」などである。これらのうち、9 月23 日の「7割以上が『慰安婦に補償必要』」は、法律誌(法学セミナー)が全国会議員に戦後補償の必要性についてアンケート調査した結果を転載したものであるが、衆参両議員763 名のうち回答を寄せた議員が88 名で、そのうち過半数の46 名が戦後補償に積極的な社会党所属であった。「7 割以上」の見出しは明らかに操作されたもので、戦後補償立法を後押しする世論形成を意図したもの、と指摘されても不思議はない。 戦後補償に関する「キャンペーン」は、94 年1 月25 日の「戦後補償 忘れられた人達に光」において一つのピークを迎える。この記事は「政治動かした調査報道」と題して、「戦後長い間、戦禍の責任をとるべき側から忘れられた人達がいた。……これらの戦後補償問題に、朝日新聞の通信網は精力的に取り組み、その実像を発掘してきた」として、誇らしげにその成果を振り返る。 ○カ アジア女性基金をめぐって 宮沢内閣以降、政府はおわびと反省の気持ちをどのように表すべきか、検討中と答えてきたが、具体的な措置は村山内閣に託される。94 年8 月末、村山首相は、青少年交流や歴史研究支援などの「平和友好交流計画」に加え、慰安婦問題、サハリン残留朝鮮人の永住帰国問題、台湾の確定債務問題などの解決に取り組む決意を首相談話として表明した。慰安婦問題については、「反省とお詫びの気持ち」を国民とも分かち合うために、「幅広い国民参加の道」を探究することを明らかにした。この談話を受けて、同年8月、与党三党(社会党、自民党、さきがけ)「戦後50 年問題プロジェクトチーム」が発足し、外政審議室を交えて具体案が練られ、95 年7 月、「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を財団法人として発足させた。このアジア女性基金は、国家としての個人補償を否定したうえで、国民から浄財を募り、政府も資金拠出を含む可能な協力をするというものであった。中心的事業は、「国民的な償い」のための、元慰安婦に対する「償い金」の支給、総理大臣の手紙である。国民募金による償い金が1人200万円、政府支出の医療・福祉事業が同じく300万円であった。 政府の基金構想をスクープしたのは朝日新聞である。94 年8 月19 日、1面トップに「民間募金で基金構想」、「元慰安婦に『見舞金』」、「政府は事務費のみ」「直接補償避ける」との大見出しの記事を掲載した。このころ政府の内外には、「償い」の仕組みとして、国民と政府の双方がかかわる基金案を軸に、いくつかの案(大沼保昭東大教授による「包括的基金案」、議員立法を想定した「民間基金財団案」など)が検討されていたが、政府部内案の一つがリークされたものであった。のちに設立される女性基金の基本的性格を示しており、「以後の検討に枠をはめるものであった」との指摘がある(※7)。 国民に協力(拠金)を求める「よびかけ文」が95 年8 月15 日付けの全国紙6 紙に、村山首相の「ごあいさつ」とともに全面広告で掲載された。その日のうちに1455万円の拠金が寄せられ、月末には3778万円に達し、年末には1億3千万円を超えた。朝日新聞は、当初は「基金方式」に否定的で、批判する声を積極的にとりあげた。当初、韓国側はこの基金方式を評価していたが、態度を硬化させた背景には、朝日新聞の否定的論調があったことは否定できない。その後、朝日新聞では徐々に、被害者への国家補償に未練を残しながらも、「国家補償が望ましいが、次善の策としてはやむをえない」という評価が定着していく。 村山首相談話から数日後、朝日新聞(94 年9 月2 日付)の社説(「戦後補償に魂を入れるには」)は、個人補償を避けるための「窮余の策」としての「国民参加」方式について、「民間募金による『見舞金』で国家としての『謝罪』になるのかどうか。肝心の元慰安婦たちの間には、日本政府の責任回避だとして批判する声が強い。この方式をとろうとするのなら、政府が責任を痛感していることを、彼女たちの心に響くように伝えるため、さまざまの努力をしていくべきだろう」と、懐疑的である。アジア女性基金の発足当時の95 年6 月17 日の社説(「償いに私たちの心を」)は、「元慰安婦たちの間からは、日本政府が国の責任を認めるというなら、なぜ、国費による補償をしないのか、という声があがっている。もっともである。その怒りと失望から目をそむけるわけにはいかない。しかし、それにもかかわらず、多くの心ある人々が政府の基金計画を正面から受け止め、元慰安婦たちへのせめてもの償いの気持ちを伝えるために協力することを、私たちはいま願う」と国家補償に未練を残しながらも基金に一定の理解を示している。 1年後の96 年6 月6 日には「政治の誠意が問われている」を表題とした社説をかかげる。この社説のきっかけは、自民党議員116 名が歴史教育の見直しを掲げて議員連盟を結成し、会長の奥野元法相が「慰安婦は商行為に参加した人たちで、強制はなかった」と発言したことであった。社説は「政府は宮沢内閣当時、実態調査を踏まえて、従軍慰安婦に対する『政府の関与』と『強制性』を認めている」として、河野談話とアジア女性基金を擁護する。そのうえで、「被害を受けた人の立場から日本の歴史をとらえなおしてみるという、政治家らしい視野の広さや懐の深さはうかがえない」と指摘する。この社説に限らず、朝日新聞はあくまで「被害を受けた人の立場」で戦後補償問題を考えるのだ、という姿勢では一貫している。 ところで96 年6 月、翌年度から使用予定の中学校用歴史教科書に、河野談話を受けて慰安婦に関する記述の掲載が明らかとなり、その是非をめぐる議論が盛んになった。朝日新聞も投書欄などでこれを積極的に取り上げ、とくに地方議会の動きを詳細に報じている。徴募段階における強制性をめぐる議論が再燃し、吉田証言の信ぴょう性をめぐって朝日新聞の過去の報道も批判の対象となった。 こうしたなかで、朝日新聞は97 年3 月31 日の特集記事で「従軍慰安婦 消せない事実」「政府や軍の深い関与、明白」との見出しで改めて慰安婦問題を取り上げている。この時点までに、秦郁彦教授の取材や検証(92 年4 月30 日産経新聞「朝鮮人従軍慰安婦 強制連行証言に疑問」)などによって吉田証言が「強制連行」(狭義の強制性)の根拠とはなりえないものとなっていたが、この特集記事では吉田証言について「真偽は確認できない」としている。他方、「強制性」に関する定義を示し、軍や官憲による「強制連行」を否定し、「本人の意思に反して慰安所で働かされたり、慰安所にとどまることを物理的、心理的に強いられたりした場合は強制があったといえる」と、いわゆる「広義の強制性」を認めている。 特集記事と連動する97 年3 月31 日の社説(「歴史から目をそらすまい」)は、慰安婦記述の削除を求める一部の論者について、「これらの主張に共通するのは、日本軍が直接に強制連行をしたか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向だ。しかし、そのような議論の立て方は、問題の本質を見誤るものだ。資料や証言をみれば、慰安婦の募集や移送、管理などを通して、全体として強制と呼ぶべき実態があったのは明らかである」としたうえ、93 年8 月の河野談話について「募集から慰安所生活に至るまでの強制性を認めて謝罪した。当然の結論といえよう」と述べている。当初の吉田証言に依拠した「狭義の強制性」に傾いた報道から、吉田証言の危うさが明らかとなって、河野談話を梃子として論点をすりかえた、と指摘されてもやむをえまい。 この社説は、「慰安婦問題は、戦時の尺度だけでなく、いまの視点でも考えなければならない」ともいう。そして、2日後の4 月2 日の社説(「なぜ歴史を学ぶのか」)では、「私たちは、この教科書の記述を削除する必要があるとは考えない」として、その教育的意義を強調し、「問題は、侵略戦争と植民地支配の下で、政府・軍が関与して多数の女性の意思に反し、その尊厳を踏みにじったことにある。女性たちは半世紀をへて、いまも苦しんでおり、日本人の責任を問うている」と、問題の重点を女性の尊厳や人権の問題に移していく。 読売新聞は97 年4 月13 日の社説で、ドイツ軍の売春施設などに触れ、まず「どの国、民族の歴史もきれいごとばかりではないことは、ごく普通の常識に属する話だ。歴史の実像を、時間的にも空間的にも、複眼的に認識しようとする努力を欠いた偏った姿勢では、肝心の日本のことさえ、よくわからなくなるだろう」。そのうえで、「勤労動員だった女子挺身隊を慰安婦徴用のための“女性狩り”だったと、歴史を偽造してまで日本を“比類なき悪”に仕立てようとした報道などは、そうした偏った姿勢が行き着いた結果ではないか。」読売新聞が慰安婦報道に関して朝日新聞を正面から批判したのは、これが最初である。 この間、アジア女性基金は、支援団体や韓国政府が批判するなかで、97 年1 月から韓国人元慰安婦に対する事業を開始していた。しかし、慰安婦による償い金の拒否、韓国政府による生活支援金の支給という金大中政権の対応によって行き詰まると、朝日新聞は「アジア女性基金は、元々、真の戦後補償とはいえない。それが他国から納得もされず、政治的な対立も生むとすれば、もはや存在価値はないだろう」、「原点に戻って白紙から考え直す時」だ、と金大中政権を批判するよりも日本の態度に転換を促す(98 年7 月15 日の「存在価値失えば解散を 韓国反発に揺れる『アジア女性基金』」)。 1998 年10 月、小渕首相との首脳会談のため訪日した金大中大統領が日韓条約ですべて解決ずみとする日本政府の姿勢に対し、「法律の解釈だけで終わるものではない」と述べたことに対し、朝日新聞は、98 年10 月11 日の社説(「被害者の心を原点に」)で、「私たちはかねて、政府として責任を明確にし、国費で補償するのが本来の道だと主張してきた」と述べる一方、「当面は政府主導でつくられたアジア女性基金を活用するのが現実的だろう」と一定の理解を示す。さらに、「国庫支出という点で、実質的にはすでに国家補償に近づいている。にもかかわらず、そうではないという政府の逃げの姿勢が、事態をさらに複雑にしてはいないか」とも述べる。ちなみに、98年の日韓首脳会談では、小渕首相が、植民地支配により韓国国民に「多大な損害と苦痛」を与えたことに「痛切な反省とおわび」を述べ、金大統領は、首相が韓国を対象に文書をもって謝罪したことを「その重さにおいて過去とは異なる」と評価した(共同宣言)。 このように朝日新聞のアジア女性基金事業に関する報道姿勢は揺らいでいたが、社説や論説の基調は、被害者の立場からは「国家補償」が正論であることを認めつつも、基金事業に一定の評価を与え、当面はその活用を促すというものとなっていく。しかし、次に述べるクマラスワミ報告や女性戦犯法廷に関する突出した報道は、こうした報道姿勢を影の薄いものにしていた。 ○キ クマラスワミ報告と女性国際戦犯法廷 国連において慰安婦問題が本格的に議論されたのは93 年6 月のウィーン世界人権会議である。前年からの挺隊協など韓国の市民団体が日本のNGO などと連携し、女性の人権問題として積極的に働きかけた成果であった。この頃から「慰安婦」ではなく、「性奴隷」(Sex slaves)という呼び方が運動団体や国連のなかに定着していく。このウィーン会議は、朝日新聞が、慰安婦問題を「女性の人権」問題として提起していく契機になったようである(93 年6 月14 日夕刊のウィーン発「日本に強い風当たり 世界人権会議で慰安婦問題巡り」、同年12 月18 日のコラム「『女性の人権』守る態勢を 松井やより」など)。 94 年3 月、「女性に対する暴力特別報告者制度」を人権委員会に設置する運動が世界の女性団体やNGO によって展開された結果、それが実現し、クマラスワミ女史が特別報告官に任命される。国連人権センターを通じて慰安婦問題だけではなく、女性に関する暴力全般に関する情報が提供され、予備報告書提出後の95 年7 月にはクマラスワミ調査団が韓国・北朝鮮(平壌は延期)と日本を訪問して慰安婦に対する面接調査などを実施した。 96 年2 月、国連人権委員会による「女性に対する暴力撤廃についての決議」は、決議主文において、クマラスワミ特別報告官の活動を歓迎し、第1付属文書と位置づけられた「戦時性奴隷制問題に関する報告書」(いわゆる「クマラスワミ報告書」)に「留意する」(take note)と述べていた。同報告書は、「軍隊によって、また軍隊のために性的サービスを強要された女性たちの事例は性奴隷制の実施であった」とし、日本政府に対し、慰安所制度の法的責任を受け入れたうえ、関係資料の公開、元慰安婦(性奴隷)に対する公的謝罪と補償、関係者の処罰などを勧告していた。また、報告書は、アジア女性基金について「道義的観点から歓迎するが、国際法上の法的責任を免れさせるものではない」と指摘していた。 クマラスワミ報告書に関する朝日新聞の解説記事(96 年2 月6 日付夕刊)は、「『個人補償』議論の復活促すか 従軍慰安婦問題で国連が勧告」と題して、報告書は日本政府を拘束する力はないものの、勧告を無視していいかどうかは別の問題だ、とし、アジア女性基金を責任回避の方策とみて、「『そういう金ならいらない』という元慰安婦が大勢いることも事実だ」、「本当に個人補償は不可能なのか、今度の勧告が法的、政治的な議論を復活させるきっかけになる可能性はある」と論じている。「女性に対する暴力撤廃についての決議」は96 年4 月から人権委員会の審議に付される。日本政府は、慰安婦問題にはアジア女性基金によって対応しているとして、報告書の法的見解について留保した。クマラスワミは報告書を口頭で報告し、4 月19 日に採択される。人権委員メンバーのみならずNGO も満場の参加者が「万雷の拍手」で歓迎したという。この間、とくにに中韓は日本の慰安婦政策を厳しく非難した。クマラスワミ報告書(第1 付属文書)の取扱いによっては「アジア女性基金の活動に悪影響を与える可能性」がある、と見なした日本政府は人権委員会の開催前の3 月末、詳細に反論した「日本政府の見解」を提出したが、やがてこれを「撤回」し、アジア女性基金の説明に終始する新たな「日本政府の見解」を提出したとされる(※8)。 この経緯について、3 月28 日朝日新聞はジュネーブ発として、「慰安婦問題の国連報告書 日本政府が反論書」と報じているが、反論書の撤回について踏み込んだ報道はない。ジュネーブ発の記事としては、50のNGO が国際協議会を結成し、クマラスワミ報告の支持、アジア女性基金に「道徳的、法的責任の回避」として「強く反対」との立場を表明、等の日本政府を批判するものが多い。 96 年5 月16 日の参議院外務委員会で、外務省の政府委員は、「採択されたのは(女性に対する暴力撤廃についての)決議であり、報告書そのものは採択されていない」、人権委員会における討議でも「多くの国は日本の立場に同意していると理解している」、「日本政府の見解」についても、より簡潔に直したものを提出したのであり、撤回ではない、と述べた。 さらに、政府委員は、take note について、「評価を含まない中立的な表現である」と説明したが、運動団体にとっては、take note は中立以上の意味をもち、むろん不採択ではなく、今後の審議の基礎となるもの受け止め、クマラスワミ報告書は立法による個人補償を求める団体などの活動に弾みを与えた。96 年6 月には、クマラスワミ報告書の「勧告」に対応する措置として、議員立法による解決案(「戦時性的強制被害者問題調査会設置法」)が参議院に提出されている。また、市民団体は、96 年4 月、「応じよ!、国連勧告」の署名集めのための市民運動を起こした。有識者と市民運動グループが共同記者会見をひらき、「政府がこの勧告を受け入れ、国家として法的責任を認め、被害者個人に対する謝罪と補償とを一日も早く実行に移すことを改めて強く要望します」とする要望書を政府に提出した。 韓国政府は、96 年4 月、クマラスワミ報告書の内容を高く評価し、その勧告を歓迎・支持するステートメントのなかで、日本政府が「最初に行うべきことは過去の侵害行為を公に認め、直接的な形で適切な責任を果たすことである」とし、勧告の 自主的かつ早急な実施を要望した。 朝日新聞のクマラスワミ報告に関する報道は、韓国政府ステートメントを後押しするかのようにクマラスワミ報告を全面的に支持するものであった(96 年4 月18日、西部本社夕刊の「人権委報告の『追い風』に、元慰安婦や国内外の支援組織は、『採択が政府を動かす原動力になれば』と期待を寄せている」と記している)。96 年4 月24 日の社説(「『慰安婦』をみつめる外の目」)では、報告書で法的責任を免れるものではない、と指摘されたアジア女性基金について、「国家補償の代わりに民間基金を、というこの方式が、どこまで被害者たちに理解され、国際社会からも支持されているのだろうか」と問いかけ、「日本政府は今回、報告書の内容に事実の誤りがあることや、違反したという国際法の理解の仕方に承服できないなど、全面的な反論を試みようとした。確かに、報告内容には、誤った記述もある。だが、こうした角度からの反論だけでは説得力がない」、とする。その上で、社説は「ジュネーブに集まった非政府組織(NGO)から、民間基金による解決を支持する声はなく、あったのは、報告を歓迎する発言ばかりだった」と、ジュネーブからの報告をそのまま受け入れ、国家補償のみが唯一の道であるかのように論じている。 こうした国家補償論を法的立場から支えようとするのが、2000 年12 月に東京で開催された「女性国際戦犯法廷」であった。この「法廷」は、それまで戦犯裁判で不問にされてきた慰安婦制度を「日本軍性奴隷制度」として、国際法の観点から裁こうとする「模擬裁判」であったが、その準備は数年前から始まっていた。朝日新聞を退社後、「戦争と女性への暴力」日本ネットワークを発足させ、裁判運動を世界に呼びかけていたNGO(アジア女性資料センター)の松井やより代表が企画の中心であった(98 年7 月27 日付 オピニオン欄)。朝日新聞のこの戦犯法廷に関する報道は突出したものであり、準備段階を含め法廷の模様をつぶさに伝えている。 2000 年12 月18 日の社説(「不処罰の歴史のなかで 女性戦犯法廷」)は、9 カ国・地域から64 人の被害者が参集し、当時の国際法に照らして昭和天皇と日本政府の責任を認める「判決」を下したことを紹介し、「人権や人道についての国際社会の意識は、女性たちの声を受けて少しずつ広がり、深まってきた。『女性法廷』の試みは、その流れをさらに確かなものとするために、東京から世界に発信した問題提起と受け止めたい。加害国である日本の非政府組織(NGO)と被害を受けた六カ国・地域のNGO、人権活動家たちが力を合わせて実現した」と、その成果を高く評価している。 その数日前、2000 年12 月14 日の「『女性国際戦犯法廷』が閉幕 慰安婦制度の国家責任立証」は、民間法廷の意義を「国際人権法の新たな潮流」として評価したうえ、アジア女性基金に触れ、「今回アジア各地から集まった七十人余の元慰安婦の中で、アジア女性基金を評価している人は一人もいなかった。『基金は日本が法的責任を回避するための手段』とみなす人が多い」という。 ○ク 揺らぐ河野談話 2007 年1 月、マイケル・ホンダ議員らが米下院外交委員会に、いわゆる「慰安婦決議案」を提出し、2 月の公聴会を経て、6 月下旬、賛成39 票、反対2 票で採択され、2007 年7 月30 日、米下院において満場一致で可決された。日本軍がアジアの女性を慰安婦として「強制的に性的奴隷」とした、と強く非難し、日本政府に公式謝罪と歴史教育の徹底などを要求するものであった。慰安婦制度を「20 世紀最大の人身売買事件の一つ」と位置付けている。当初、共同提案議員がさほど伸びなかったのは一部共和党議員の反論や加藤良三駐米大使の抗議書簡が奏功したとされる。しかし、4 月以降、賛同議員を急増させた最大の要因は、本委員会によるインタビューに応じた複数の米国人有識者が指摘するように、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(「議員の会」)を中心とした44 名の国会議員と有識者が、ワシントン・ポスト紙(2007 年6 月14 日付)に掲載した意見広告「THE FACTS(真実)」であった。4 月26 日に、同じワシントン・ポスト紙に、韓国系市民の働きかけで掲載された意見広告「THE TRUTH ABOUT “COMFORT WOMEN”」に対抗するものであった。意見広告「真実」は、日本軍によって強制的に従軍慰安婦にされたことを示す文書は見つかっていない、慰安婦はセックス・スレーブではなかった、などと訴えるものであった。米下院外交委員会ラントス委員長は「慰安婦制度のなかで生き残った人々を中傷するもの」と批判したように、この意見広告は米社会のなかでは逆効果であった。 第1 次内閣の安倍首相の発言も見逃せない決議の促進要因であった。安倍氏は、3月1 日、「当初定義されていた『強制性』の定義が変わったことを考えなければならない」と記者団に語り、3 月5 日の参議院予算委員会では、「官憲が家に押し入って人を人さらいのごとく連れて行くという、そういう強制性はなかった」と述べた。そのうえで、「(米下院の)決議があったから謝罪するということはない。この決議案は客観的な事実に基づいていない、日本政府のこれまでの対応を踏まえていない」と批判した。 ここで安倍首相は再び「吉田清治」を登場させる。「そもそもこの問題の発端は、朝日新聞だったと思いますが、吉田清治という人が慰安婦狩りしたという証言をしたわけですが、後ででっち上げだったということが分かった。その後、慰安婦狩りのような強制性、官憲による強制連行的なものがあったということを証明する証言等はないということです。」 「議員の会」などでの議論を通じて、慰安婦の強制連行を告白した吉田証言は、河野談話の有力な根拠と認識されていたのであろう。しかし、安倍首相は、吉田証言が否定されたことをもって、「強制連行」を日本の公的立場と見なす河野談話の見直しに言及するようになる。国際的評価も定着しつつあった河野談話は、その信認を失う危険にさらされることになる。 安倍首相の一連の発言は、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズによって批判された。ワシントン・ポスト(3 月)は、「数万人の女性を拉致し、強姦し、性の奴隷としたことの責任を軽視している」と釘をさした。 安倍首相の発言は「広義の強制性」を否定したわけではなかったが、これを取り上げた朝日新聞の社説(2007 年3 月6 日付「『慰安婦』発言 いらぬ誤解を招くまい」)は、「いわゆる従軍慰安婦の募集や移送、管理などを通じて、全体として強制 性を認めるべき実態があったことは明らかだろう。河野談話もそうした認識に立っている。細かな定義や区別にことさらこだわるのは、日本を代表する立場の首相として潔い態度とは言えない」と述べた。 さらに数日後の社説は、安倍首相の「官憲が家に押し入って連れて行くといった強制性はなかった」という発言がニューヨーク・タイムズ等の批判対象となっていることに言及したうえ、「(日本の)一部メディアは、問題の核心は「強制連行」があったかどうかだ、と主張している。そうした議論の立て方が問題の本質から目をそらしている」として、「民族や女性の人権の問題ととらえ、自らの歴史に向き合う。それこそが品格ある国家の姿ではないのか」という。 安倍内閣は3 月16 日、河野談話までに「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とする答弁書を閣議決定した。そのうえで、日本政府に謝罪を求める下院決議案について「事実関係、特に日本政府の取り組みに正しい理解がなされていない」ことを確認した。こうした安倍内閣の姿勢は、慰安婦の「強制連行」を否定するもの、謝罪の意思がないものと受け止められ、下院決議案への賛同議員を一気に増加させた。2007 年の下院決議案の採択は、同種の決議案のオーストラリア上院への提出(9月)、オランダ下院における採択(11 月)、カナダ議会における採択(11 月)、さらにEU議会における採択(12 月)へと波及する。日本国内の地方議会でも、慰安婦問題に対する政府の誠実な対応を求める決議や声明書が相次ぎ、2013 年6 月までにその数は40議会を超えた。その一方、慰安婦問題で日本の名誉を守ろうという諸団体が、強制連行を認めた河野談話こそが各国の日本非難の最大の根拠と見なし、その見直しを求める運動を展開する。 米国内では、2010 年に初の慰安婦記念碑が建立されてから次々に記念碑や銅像が設置される。なかでも、2013 年、下院決議を記念して7 月30 日を「慰安婦の日」と定めたカリフォルニア州グレンデール市の慰安婦像の建立は日本人社会に大きな波紋を呼んだ。「少女像」の傍の碑には「1932 年から45 年まで、日本軍に強制連行され、強制的に性奴隷にされた20 万人以上のアジア人、オランダ人の女性たちを記憶にとどめるために」と刻まれた。 議決に際しての公聴会の論争構図は、日系市民が慰安婦は強制的に駆り出されたのではない、として強制性を否認し、韓国側は日本政府が性奴隷の管理・運用への関与を河野談話で認めていることから、性奴隷の事実は世界の女性の人権擁護の象徴として少女像を肯定する、というものであった。 読売新聞の社説(2013 年8 月1 日)「強制連行巡る誤解を正したい」は、慰安婦像建立に関する公聴会で、韓国系住民が「日本政府も河野談話で強制連行を認めた」と主張した経緯に触れ、「『性奴隷』との曲解を是正するためにも、20 年前の河野談話の見直しが欠かせない」と主張する。 韓国では、2011 年8 月、憲法裁判所が、元慰安婦への個人補償が日韓協定の例外にあたるか否かを、韓国政府が交渉しないのは違憲と判断した。日韓両政府に解決を促したことになる。同年12 月にはソウルの日本大使館前での抗議集会が1000 回を記録し、それを記念する少女像が大使館前に建てられ、日本国内の世論が悪化した。その直後の2011 年12 月19 日の朝日新聞社説(「日本と韓国 人道的打開策を探ろう」)は、「尊厳は侵されて報われぬままという怨念が、支援団体がソウルの日本大使館前にたてた『記念像』につながった。野田首相は李大統領との会談で『人道主義的な見地から知恵を絞っていこう』と語った。問題を打開する糸口はここにあるのではないか。人道的に着地点を見いだしていく。それは政治の仕事だ」と、人道・人権の観点からの解決を促す。最近の主張(2014 年 8 月16 日「日本と韓国国交半世紀に向かって」)も同趣旨である。「朝日新聞は今月、慰安婦問題について特集を組んだ。過去の報道の誤りをただすとともに、慰安婦問題の本質は普遍的な人権の問題であることを示した。日本軍が関与して作られた慰安所で、多くの女性が兵士の性の相手を強いられた。女性の尊厳が著しく傷つけられた。その史実は否定できない」、と。 読売新聞(2014 年8 月6 日社説)は、朝日新聞の慰安婦報道を「反日世論をあおっただけでなく、日本について誤った認識が、世界に広がる根拠の一つとなった」と批判したうえで、こう論じている。「疑問なのは、『強制連行の有無』が慰安婦問題の本質であるのに、朝日新聞が『自由を奪われた強制性』があったことが重要だと主張していることだ。(略)今回も、問題の本質は、『慰安所で女性が自由を奪われ、尊厳が傷つけられたことにある』としており、その主張は基本的に変化していない。(略)戦時中に多数の女性の名誉と尊厳が傷つけられる行為があったことは確かである。(略)しかし、『戦場の性』の是非と、軍の強制連行があったかどうかは、区別して論じる必要がある。広義の強制性があったとして日本政府の責任を問うことは、議論のすりかえではないか」。慰安婦問題の核心は「官憲による強制連行の有無」である、と主張してきた読売新聞としては譲れない主張であろう(2007 年3 月7 日など)。 これに対し、毎日新聞の社説(2014 年8 月7 日「国際社会に通じる論で」)は、「『旧日本軍の関与』という言葉で政治決着させた河野談話を安倍政権が引き継ぐと世界に約束した以上、広義の強制性か狭義の強制性か、といった国内論議に改めて時間を費やすのでは、国益を損ねる。戦時下の女性の尊厳というグローバルな問題と捉え、日本の取り組みを再構築していくべきだろう」と主張する。強制性をめぐる国内議論を超え、女性の尊厳や人権という観点から解決策を模索すべし、という点では朝日新聞と同趣旨である。しかし、女性の尊厳や人権という立場に過剰に寄り添うことによって、現実的な解決策を遠ざけている印象は拭えない。 ○ケ 吉田清治氏の「亡霊」 政治家はしばしば、国民教育の基本である歴史教科書に注目する。慰安婦問題がどう書かれるかも、国の名誉や誇りといった点からすれば見逃せない事項である。このような観点から、公的発言の場で、慰安婦問題に最も頻繁に言及してきたのが、ほかならぬ安倍首相である。たとえば、97 年5 月27 日、衆議院決算委員会第2 分科会で安倍議員は、慰安婦の教科書記述に関連して、次のように述べている。「吉田清治なる詐欺師に近い人物」の本や証言が虚偽であることが明らかであるにもかかわらず、マスコミにしばしば登場したが、朝日新聞をはじめテレビ局も新聞も「その訂正は未だかつて一回もしていない。」「彼の証言によって、クマラスワミは国連の人権委員会に報告書を出した。ほとんどの根拠は、この吉田清治なる人物の本、あるいは証言によっているということであります。その根拠がすでに崩れているにもかかわらず、(河野)官房長官談話は生き、そしてさらに教科書に記述が載ってしまった。これは大変大きな問題である」 確かに、吉田氏はほんの一時期、日本のマスメディアにしばしば登場したが、むろん、加藤談話や河野談話を支える証拠として採用されたわけではない。では、このような認識がどのように形成されたのであろうか。それは、安倍氏自身が述べているように、問題が多いとされた従軍慰安婦の教科書記述について、「自民党議員だけで60 名近い議員が勉強会を重ねてきた」結果であったことは想像に難くない。その一人であった板垣正議員も、97 年3 月18 日の参議院予算委員会で「吉田清治と称する全く無責任な男」の証言が問題の発端だったとして、安倍首相と同趣旨を発言している。 問題は、内外政治に強い影響力をもつ集団が、誤った認識を共有していたことである。そこでは、慰安婦の強制連行を告白した貴重な吉田証言は、河野談話の有力な根拠と認識され、談話は「強制連行」を認めたもの、というステレオタイプが形成されていたのであろう。本文で触れたように、2007 年3 月の参議院予算委員会では、安倍氏は首相として、「慰安婦狩りしたという吉田清治の証言」は強制連行の証拠とみなされていたが、虚偽と判明した後は、「慰安婦狩りのような強制性、官憲による強制連行的なものがあったということを証明する証言はない」と述べている。「強制連行」の有力な根拠であった吉田証言が否定されたことをもって、この集団は「強制連行」を日本の公的立場と認識する河野談話の見直しに言及するようになる。強制性をめぐって日韓双方の主張の微妙なバランスを表現し、国際的評価も定着しつつあった河野談話は、その信認を失う危険にさらされることになる。それは、「強制連行」の実行者としての吉田清治証言の「亡霊」がなせる業であった。 慰安婦問題を決着させる機会は、少なくとも3度あった。93年の河野談話、95年のアジア女性基金の創設、98年の金大中大統領と小渕首相の首脳会談である。これらの機会がなぜ、失われていったか、何が妨げとなったのか、改めて問われる必要がある。 |
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●〈注〉
1.木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』ミネルヴァ書房、2014 年 2.実際には、ソウルの国民学校の6 年生の担任教員が、1944 年に、生徒6 人を勤労挺身隊として富山県の軍需工場に送ったが、戦後、一人が帰国しなかったので、退職後に探すと無事帰国していたという「美談」が、ねじ曲げられた記事であった(西岡力『よくわかる慰安婦問題』草思社)。 3.木村、同上。 4.河野談話作成過程等に関する検討チーム「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯」(2014 年6 月20 日) 5.談話の内容は聞き取り調査前に固まっており、日本政府による聞き取り調査は、「真相究明に対する日本の真摯な姿勢」を示し、慰安婦の心情を「理解する」ためであったという(同上)。 6.当時の外政審議室職員の談。 7.和田春樹「アジア女性基金の成立と活動」黒沢文貴編『戦争・平和・人権』原書房、2010 年 8.戸塚悦朗『日本が知らない戦争責任』現代人文社、1999 年 〈主な参考文献〉(注に記載以外) 大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』中公新書、2007 年 / 大沼保昭他『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998 年 / 鄭鎮星「米下院日本軍慰安婦関連決議案の審議過程における『狭義の強制性』とその歴史 / 的真実」〔韓国語〕、韓国社会史学会編『社会と歴史』76、2007 年12 月号 / 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社、1999 年 / 吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995 年 / 朱徳蘭『台湾総督府と慰安婦』明石書店、2006 年 / 女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』全5 巻、龍渓書舎、1997 年 / 女性のためのアジア平和国民基金編『「慰安婦」調査報告・1999』1999 年 / 読売新聞編集局「徹底検証 朝日『慰安婦』報道」中央公論新社、2014年 |
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●(3)国際社会に与えた影響(林委員)
(詳しい調査方法、結果は、別冊資料2を参照されたい) 朝日新聞慰安婦報道を検証する第三者委員会の審議課題の一つに、「日韓関係をはじめ国際社会に対する朝日新聞による慰安婦報道の影響」があった。本章は、その課題に応える調査報告である。しかし、そもそも、特定の報道機関による個別テーマの記事が、いかに国際社会に影響を与えたかを調べることはほとんど不可能である。はじめに、この点をやや紙幅をとって断っておきたい。 メディア研究の歴史において、性急な「メディアの効果論」を持ち出すことは、禁物だと見られてきた。特定の小説や芸術作品が、人々や社会に「悪影響を与える」という理由が弾圧の方便に使われた例は枚挙にいとまがない。弾圧までいかずとも、そのような物言いは、言論の自由を萎縮させかねない。もともと、日本語というローカル言語で発信された情報が、他言語の異文化空間においてどのような影響を及ぼしたかとする問いの立て方も、それ自体に無理がある。 したがって、「朝日新聞による慰安婦報道は国際社会に影響があった」と結論づけるのは、朝日新聞を過大に評価している可能性が高い。同様に「影響がなかった」と結論することも、朝日新聞という日本の代表的な新聞社の影響を過小評価しているし、今回であれば、結果的に第三者委員会が他の部分で指摘する、社が現実に抱える編集、経営上の諸問題点の深刻さを相殺する効果を持ち込みかねない。第三者委員会立ち上げの際、国際社会への影響を明らかにしてほしいという朝日新聞からの要請は、おそらく、社の危機的状況の中で、同社の報道が国際社会に影響を与えたと主張する日本の一部の意見に過敏に反応したものだと受け止める1が、そうであるにせよ、朝日新聞は第三者委員会に委嘱する際に、審議を依頼する課題についてより慎重に吟味する必要があっただろう。よく練られないまま投げられた問いに対して、安易に応答を期待する社会的雰囲気にも、調査者は危うさを感じる。 以上を踏まえた上で、調査者は、英、米、独、仏、韓国5カ国、15紙の1990年代からの新聞記事をデータベースから抽出し、主に定量的方法を用いて「国際社会への影響」に関する調査を実施した。定量的方法というのは、ある特定の人物や言葉が記事の中で繰り返し引用されたり、登場したりする現象を、数値で記述していく。この方法を用いるメリットは、基礎となるデータと調査方法のプロセス(何をどう数えるか)が明らかにされていることである。それゆえに、調査によって明らかになる部分と明らかにならない部分とを読み手とともにある程度共有できるので、この点において公正であると言える。とりわけ、慰安婦報道のように、国や国際関係を分断するような激しい論争のあるテーマでは、論者の立場や状況に左右される主観的な体験、実感、意見に基づく議論をすれば、それに賛同、共感するかどうかで議論への評価が変わり、今後のジャーナリズムのあり方についてなんらかの共通認識や提言をつくり出すことはほとんど不可能であろう。調査者は、そうした類の報道検証をすることによって、慰安婦問題をさらに混迷させることも強く懸念した。 調査者は、本報告のために準備した以下のデータとともに、慰安婦問題の議論に一定程度の共通基盤が生まれ、今後さらなる国民的議論と問題解決への一石を投じることができればと願っている。詳しいデータや調査方法は、別冊資料2に記載されているので、そちらを参照されたい。 / 1 たとえば、「[スキャナー]慰安婦問題 世界の誤解 払拭多難 「性奴隷国家」吉田証言から」読売新聞2014年9月6日付朝刊。菅義偉官房長官は、前日9月5日の記者会見で「(クマラスワミ)報告が我が国の慰安婦問題に対する基本的立場や取り組みを踏まえていないことは遺憾。報告の一部が、朝日新聞が取り消した記事の内容に影響を受けていることは間違いない。国際社会に誤解が生じている」と発言した。 |
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●英・米・仏・独新聞10紙の報道について
欧米については、4カ国主要10紙を選び、データベースより<Japan &(かつ)“comfort women”>のキーワード・サーチで検索して記事を抽出した。 表 調査利用資料内訳 (略) これらの新聞について、情報源調査を行った。情報源調査とは、あるテーマをめぐって、記者たちがどのような情報源を選択、引用するかを明らかにすることによって、テーマの背後にある権力関係や社会的文脈を解明する研究方法の一つである。特定の情報源が多く引用されることは、その情報の発信源の動向がとくに注目を集めているか、あるいは記者たちと近い関係にあって発信力をもっているかのどちらかであり、当該テーマに関する議題設定力があることになる。逆に、テーマに重要な関連性があり、当然情報源として声が引用されるべきであるにもかかわらず、情報源としてあまり注目されない個人や社会的グループが発見された場合は、引用されない理由を発見し、問題提起すべきであろう。このほか、人物や組織などをキーワード検索して、それぞれの言及頻度を調べ、内容を調査した。キーワードについては、過去の先行研究、検証委員会で論点となったもの、ならびに記者や専門家たちへのヒアリングで争点とされていたものを中心に選んでいる。 ○ 全体傾向 最初に、データから見た全体傾向を述べておきたい。記事量の調査によると、欧米では、慰安婦問題はさほど大きく扱われていない。記事数にして、10紙約20年合計で600本ほどである。単純に平均を出せば、一紙あたり、1年平均3本という計算になる。つまり、慰安婦問題は、世界各地に暮らす一般市民たちの日本のイメージ形成に決定的な影響を及ぼす要素とは見なされていない可能性が高い。ただし、記事量の変動は、下図のとおり、日・韓・欧米とも同じ波長になっている。 図 慰安婦に関する地域別報道量の関係(左Y 軸=日韓記事本数、右Y 軸=欧米記事本数) (略) 相関係数 日本-韓国 0.90 日本-欧米0.79 [2014 年9 月26 日まで] したがって、ここから、日・韓・欧米のいずれかが、この報道の動きの主導権をもっていることが予想されるので、その点を次の項目で検証した。 ○ 慰安婦報道の舞台 最初に、「慰安婦報道が展開する主要舞台」を調査するために、情報源を国別に分けてみた。すると、日本からの情報源がもっとも多いことがわかった。また、日本からの情報源を引用している記事では、同時に韓国からの情報源も3分の1から半数近く引用されている。他方、韓国からの情報源を引用している記事を見ると、そのうち7割から9割近くの数の記事が、日本からの情報源が同時に引用されている。このように、日本と韓国の情報源の相互参照関係を比較すると、慰安婦報道の大部分は、日本が中心的舞台となって展開されている様子が見えてくる。 また、欧米の報道の情報源には、国籍・出自の多様性も目立った。国連などの国際機関をはじめ、国籍を特定しない専門家の引用、オランダやフィリピンの元慰安婦たちなどがそれである。こうした情報源が引用されている記事の内容を確認すると、国際社会では、慰安婦問題を人道主義的な「女性の人権問題」の視点から位置づけようとしていることが見てとれた。 ○ 朝日新聞の引用 朝日新聞は、調査した欧米8紙(引用調査ではドイツの新聞を除外している)の間では、もっとも頻繁に引用される日本のメディアだった。とはいえ、その数は全体からすると31本と少なく、内容を確認すれば、引用も必ずしも慰安婦問題に即した情報源としてではなく、沖縄問題、NHK 番組改変問題(05年)など多岐にわたっていた。次に多い引用はNHK であったが、NHK の場合、今年の籾井勝人会長の就任会見に関する引用が16本のうち7本と多く、その意味で、NHK は慰安婦報道に関するニュースの参照先とは言えなかった。 総合すると、朝日新聞だけでなく、日本のメディアは海外のメディアの情報源としては限定的な扱いである。しかしながら、日本の戦後のあり方にかかわる問題が取り上げられるとき、もっとも参照されるのは朝日新聞であり、その意味では、朝日新聞は海外のメディアにとって、日本のメディアの中では注目度の高い情報源であると言えよう。 ○ 「吉田清治」 吉田証言は、欧米の慰安婦報道の内容に影響を及ぼしたとは言えない。調査した欧米の新聞記事のうち、吉田清治氏が言及されていた記事は全期間にわたって5本、そのうち朝日新聞が本年8 月5 日に取消しを発表する以前のものは3本であった。また、それらも、朝日新聞からの引用ではなかった。ただし、92年8月8日にニューヨーク・タイムズは、吉田氏に単独インタビューを行っていたのが目を引く。吉田氏は慰安婦のいわゆる「強制連行」証言者として呈示されているが、記事の後段からは現代史家、秦郁彦氏の反論を掲載し、吉田証言の信頼度に疑問を呈していた2。朝日新聞がほぼ同時期に、吉田証言を信ぴょう性あるものとして使用していたのとは対照的である。 なお、吉田氏を引用しているGeorge Hicks の著作The Comfort Women. Japan’s Brutal Regime of Enforced Prostitution in the Second World War(95年出版、邦訳『性の奴隷従軍慰安婦』)は、慰安婦についての最初のまとまった英文の論考であるため、言及がどのくらいあるか調べてみた。検索によると、この書に言及している記事は全部で4本あった。4本のうち、「慰安婦」という概念の説明のために引用されているものが3本。残りの1本はニューヨーク・タイムズの書評欄に取り上げられていた。Hicks のこの書は、慰安婦に関する英文文献がほとんどなかった90年代、欧米の記者たちが参照していた可能性が高い。ここから、慰安婦の「強制連行」のイメージが欧米の記者たちの間に定着した可能性もあるだろう。しかし、引用されていた記事の数は限定的だった。 また、「吉田清治」という名が明示的に出ていない場合でも、欧米の報道には日本軍による慰安婦の「強制連行」のイメージが登場する。しかし、インドネシアでのいわゆる「スマラン慰安所事件」など、朝鮮半島以外で日本軍関係者が売春を強制した記録も見つかっており、そうした史実が今回調査した記事の中でも報道されていることを考え合わせると、日本軍の強制性のイメージが朝日新聞の報道によるものか、他の情報源によるものかというメディア効果論からの実証的な追跡は、いまとなってはほぼ不可能である。 なお、世界が抱く日本のイメージへの影響という問いは、慰安婦問題とは関係なく、長期で幾重にも重層的かつ繊細な面があるので、こうした大まかなデータからは見えてこない可能性は否定できない。そこで、追加的に第三者委員会の指示で朝日新聞の取材網にインタビューさせた海外の有識者の意見も別途列記しておいた3。英語圏に限ってではあるが、総合するならば、吉田証言は、日本のイメージに悪影響を与えてはいないという意見がほとんどであった。他方で、慰安婦問題は、日本のイメージに一定の悪影響を及ぼしているとする意見もほとんどの識者が述べるところであった。しかし、その際、日本で言われているような、「慰安婦の強制連行」のイメージが傷になるというのではなく、日本の保守政治家や右派活動家たちがこの「強制性」の中身にこだわり続け、河野談話に疑義を呈したり、形骸化しようとしたりする行動をとることのほうが、日本のイメージ低下につながっているという認識でほぼ一致していた。 / 2 この時点では、朝日新聞はまだ吉田清治氏の発言をそのまま掲載していた。(読者投稿や匿名での吉田氏の言及を除けば、結局92 年8月13日まで吉田清治氏という人物を、すでに証言には疑念ありと言われていることを明示せずに報道し続けた)。 ○ 「安倍晋三」 欧米の慰安婦問題の報道を分析すると、安倍晋三首相の存在感が目を引く。安倍首相は全期間にわたって96本の記事に彼の発言が引用されている。歴代首相でその次に多いのは、戦後50年となる95年に、日本の過ちを認めて「心からのお詫びの気持ちを表明」した、いわゆる「村山談話」を発表した村山富市首相であるが、彼の言葉が引用された記事数は20本だった。在任期間が5年半に及ぶ小泉純一郎首相は17本。安倍首相はこの2人を大きく引き離している。 また、安倍首相を言及する頻度(名前の出現回数)も抜きんでて高い。検索の結果、歴代首相では、Abe が1141回、Koizumi が200回、Murayama が155回、Miyazawa が101回と、安倍首相の言及頻度が他を圧倒している(下図)。 図 英、米、仏、独の慰安婦問題関連報道における政治家の言及頻度(年別) (略) *「Hashimoto」は、「橋本龍太郎首相」(首相在任期間96 年〜98 年)ならびに「橋下徹大阪市長」と両方が出現する。13 年の出現はすべて「橋下徹大阪市長」であった。 以上のように安倍首相の動静に注目が集まる現象には、次のような背景があると考えられる。 すなわち、安倍氏は97年、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長を務め、同年5月27日の国会で吉田証言が虚偽であることを理由に「河野官房長官の談話の前提がかなり崩れてきているという大きな問題点があると思うんですね4」と発言していた。こうした背景から、06年の第1次安倍政権発足の際、海外のメディアから注目が集まった。 14年現在、安倍首相は、河野談話を継承することを確認しているが、その傍らで、側近と目される人たち、および政権下で公職に就く人々が河野談話見直しを示唆したり、慰安婦問題の「狭義の強制性」の不在とともに、慰安婦問題全体を否定するかのような発言をしたりしており、欧米メディアはその度にそれを報道し、報道量を一段押し上げているという構図が見てとれる。 / 3 インタビューした海外有識者リストは資料Vの一覧表を参照願いたい。 ○ 「性奴隷」 日本国内では、海外のメディアが「性奴隷(sex slave)」という「いわれなき中傷5」の言葉を使うことによって「あたかも強制連行があったかのような誤解」を招き、国際社会で日本のイメージを悪化させ、国益を損ねているとする主張が見られる6。そこで、英、米の新聞記事中で、「奴隷」にあたるslave, slavery, enslavement, enslave をキーワード検索し、これらの言葉がどのように使われているかについて調べてみた。 欧米の記事では、「慰安婦(comfort women)」は「婉曲表現(euphemism)」であると断っている文が目に付くが、その際の説明として「性奴隷」という言葉が使われることが多い。確認のため、記事本数の変動とsex slave 等の言葉の出現頻度の関係を調べてみると、両者はほぼ連動して出現することもわかった(下図)。 ここから、欧米では、「性奴隷」という言葉は特別な表現というよりは、「慰安婦」の直訳である“comfort women”という英語を説明したり言い換えたりする言葉の一つとして使用されている様子がうかがわれる。 / 4 14年12月3日閲覧 / 5 安倍首相 14年10月3日衆院予算委員会にて。14年12月3日閲覧。 / 6 たとえば、「本社英字紙で不適切な表現…慰安婦報道でおわび」『読売新聞』14年11月28日(14年12月2日閲覧) 図 英・米の新聞記事のうち、各年の“slave” “slavery” “enslavement” “enslave”の言及回数と記事の本数の関係 相関係数 0.717 (略) 現在、日本政府は、「性奴隷」という言葉は「言われなきレッテル貼り」であり、「国際社会にしっかり説明していく」と反論している(菅官房長官、14年9月5日記者会見)。この立場の前提は、慰安婦は「戦前期の日本に定着していた公娼制の戦地版」(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』99年、27頁)であり、そうした境遇に生きる売春婦たちの多様な生き様を見るならば、彼女たちを「性奴隷」という否定的概念に敷衍、固定化するのは相応しくないというものである。つまり、慰安婦は、借金返済や「口減らし」など、本人やその親が個人的理由によって選択した職業のひとつであり、国家の責任を問う領分にはないという見解である。 他方で、欧米の報道の論調の多くは、慰安婦問題を普遍的・人道主義的な「女性の人権問題」の観点から位置づけようとしている。この見解では、女性や子どもなど弱者の権利を収奪し、人身取引を正当化する、戦闘地や植民地の社会構造を問題視する。「性奴隷」は、そのような社会構造を前提として使われる言葉だ。 したがって、「慰安婦」は「性奴隷」なのかという問いは、日本政府と海外との慰安婦問題に対する理解のギャップの所在を明らかにする。 いまのところ、上図で示したとおり、欧米メディアでは、「性奴隷」という言葉がかなり一般化していることも事実である。日本政府が主張する、慰安婦たちの個別具体的な事実レベルの判断に焦点を絞り、国家の責任を非争点化する立場を理解してもらうには、欧米と日本の慰安婦問題の理解の根幹の違いに関わることでもあり、今後困難も予想される。 |
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●韓国全国紙5紙の報道について
韓国の報道については、韓国における、主要5紙「東亜日報」「中央日報」「ハンギョレ」「朝鮮日報」「韓国日報」を対象にして、90年以降の<「日本」&「慰安婦」>検索により「慰安婦」関連記事を抽出。全体で1万3931本を調査した。報道量の多さに鑑みて、本報告書では、朝日新聞社による吉田清治報道が韓国に与えた影響、吉田清治氏が韓国の報道に与えた影響の2点のみに焦点を絞って調査した。 表 利用資料内訳 (略) 調査期間: 90年1月1日から14年10月10日まで / ※東亜日報、韓国日報、ハンギョレでは、「慰安婦」の検索結果には同義語として使われてきた「挺身隊」も自動的に含まれる。 ○ 朝日新聞による吉田清治報道の影響について 90年代以降、<「日本」&「慰安婦」>で検索された記事1万3931本のうち、同時に日本のメディアとの関係を調べたところ、「朝日新聞」および「朝日」が出現した記事本数は合計827本で、記事全体の5.9%となる。このほか、共同通信(2.7%)、産経(2.6%)、読売(2.4%)、NHK(2.2%)、毎日(2.1%)の順となる。 したがって、韓国で<「日本」&「慰安婦」>検索して抽出される記事においては、朝日新聞が最も高い割合を占めており、他の日本のメディアに比べて韓国メディアの報道に影響力を持っていることが推定されるが、韓国の慰安婦報道全体から見るとさほど高い割合とは言えない。 また、朝日新聞が取り消した記事16本が掲載された日から1 週間(当日を含めて8日間)を確認したところ、慰安婦に関する報道は193本あり(その内2本はデータベースに記事本文が掲載されていなかったため、分析対象から除外した)、その中で日本の媒体を引用した記事は45本あった。一本の記事に複数の日本の媒体が引用されている例があったので、のべ57回、日本の記事の引用があった。しかし、朝日新聞の取り消し記事を直接引用したのは、韓国日報の記事一本のみであった。これは、朝日の92年5月24日付朝刊記事「『今こそ自ら謝りたい』 従軍慰安婦連行の証言者、7月に訪韓」を引用したものだった。 ○ 吉田清治証言が韓国の報道に与えた影響について 89年以降の韓国の報道において、吉田清治氏が言及された記事は、「ヨシダセイジ」と「ギルジョンチョンチ(「吉田清治」の漢字の韓国式読み方)で検索した結果、合計68本であった。その中で吉田氏がどう語られていたかを調べると、日本の媒体が情報源となっていた記事は25本あった。これらを調べてみると、数は少ないとはいえ、ごく最近(12年)でも吉田証言に基づいて日本による「強制連行」が語られている。 朝日新聞は、97年3月31日の特集記事において、「証言を疑問視する声が上がった」として、信ぴょう性に疑問を呈する記事を書いている。しかし、そのことは、韓国側には伝わっていなかったと言える。韓国でもっともよく参照される朝日新聞が、97年の時点でより明確に吉田証言を取り消していたとしたら、今日の韓国の議論の流れに何らかの影響を与えたかどうか。今となってはわからない。 他方で、韓国にとって「強制連行」は、テレビドラマなどに描かれ、日常に生きるイメージであるがゆえに、日本の報道とは関係なく存在する社会的事実であることも踏まえなくてはならないだろう。韓国は、日本帝国主義による植民地支配下の被害者たちが生きる国であり、吉田証言は彼らの実際の体験を追認する証言として受け止められてきた。すなわち吉田氏は、韓国社会の根底に流れる日本帝国主義のイメージ、さらに「強制連行」のイメージを固めたということは言えるであろう。 |
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●結語
慰安婦問題の複雑さ、難しさは、戦後すでに70年以上の年月が経っているということ以外に、「性」の問題という特殊性もあるだろう。被害に遭った女性たちの経験を考えれば、彼女たちの証言が感情的で不安定になることは推し測って余りある。また、問題そのものが社会的タブーと見なされているだけに、関係者は公式記録や資料を残すことを恐れる。 しかし、事実を基本とするジャーナリズムという観点から見ると、そうした「感情的で不安定」な証言、あるいは記録の不在は報道を難しくする。学術研究においても、同様である。幾重もの困難を背負ったテーマであるため、全容はなかなか明らかにならない。こうして、証拠や証言の入手が難しい中、記者たちはいわば使い古された虚偽の吉田証言に依存し、通りのよい「物語」を長年使い続けてきた。そのことが、今回の朝日新聞の一連の事件につながった。 その傍らで、検証した欧米各紙には、慰安婦問題を東アジアのローカルな話題として限定せずに、より広いテーマとして捉えるものが目に付いた。すべての報道がそうではないが、欧米の報道には、元慰安婦たちの個人的経験を、人道主義的、普遍的観点から捉え直そうとする試みが見出される。つまり、そこには、慰安婦をはじめ、戦時の性暴力被害に遭った女性たちの経験を、近代の国家権力の暴走の構造的な副産物であると捉え返す視点が存在した。 こうした記事には、帝国主義や軍事・独裁政権は、女性、被植民者、被支配者たちの権利を周縁化しながら、差別構造を内在させて国家の発展を導いたとする、近代への批判的世界観が存在する。差別の構造は日本だけにあったのではなく、欧州、米国、アジアなど広く近代国家の問題だった。そして、今日現在も、性的搾取が目的の女性や子どもの人身取引の問題が日本だけでなく世界各地に存在する。欧米の各紙には、こうしたまなざしから慰安婦問題を取り上げようとするものがあった。 これに対して、日本では、慰安婦の募集・動員に際していかなる類の強制性があったのか、それは広義なのか狭義なのか、「事実」に目を向けよとする姿勢が目立ち、上記のような欧米で慰安婦問題が議論されている文脈からすると、ほとんど理解されない。しかも、海外の有識者ヒアリングで多くの有識者が語っていたとおり、日本側のこだわりには、何か別の目的があるのではないかとさえ勘繰られてしまう。そうした疑念が、欧米の慰安婦報道量の底上げをしていた。 最後に、この国際報道調査のもっとも端的な結論は、朝日新聞による吉田証言の報道、および慰安婦報道は、国際社会に対してあまり影響がなかったということである。可能な限りの客観的データを示したつもりであるが、慰安婦問題をここまで混迷させ、国内および国際社会を分断しかねない状況に追い込んでしまったのは朝日新聞のせいだという声は、今後も依然続くだろうと思う。 しかし、こうした慰安婦問題への朝日新聞の報道の影響の存否は、慰安婦問題の一部でしかない。この調査の結果、朝日新聞の報道の影響が限定的であるという結論を出したことは、すなわち、慰安婦問題の解決に向けて、私たちが再びスタート地点に立ったことを意味するのではないかと考えている。この調査で示したとおり、国際社会と日本との認識のギャップは大きい。今後、社会の一人ひとりが慰安婦問題をはじめとする歴史認識の課題に取り組んでいかなくては、到底解決の道は見つからないであろう。その際の議論の基盤として、本調査が少しでも役に立てばと願う。 他方で、繰り返しになるが、朝日新聞による国際社会の影響を限定的と認定したことは、本報告書が他所で指摘している同社の経営陣の判断の誤り、および報道プロセスの数々の問題点そのもののインパクトを減ずるものではない。それらは、まったく異なる次元の話である。この点もここで改めて確認したい。 慰安婦問題を、近代のジャーナリズムという制度の中でどう報道していくか、そして私たち社会も、どのような報道を望むのか。今後も国際的な広い視野をもちながら、社会全体がこの難題に取り組んでいくほかないだろう。 |
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●(4)世界への伝わり方
朝日新聞の慰安婦問題に関する記事が世界にどのように伝わったかという点について、木村幹神戸大学教授から説明を受けるとともに、米国・豪州・韓国の有識者に、当委員会で整理した質問事項を朝日新聞の取材網に指示し、インタビューさせた。ただし、インタビューへの協力は、必ずしも本報告書の内容への賛同を意味するものではない。 インタビューの対象は、資料Vのとおりである。 |
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●13 まとめ | |
当委員会の検証は以上のとおりであり、1(2)記載の調査の対象事項についての調査結果を整理すると、以下のとおりである。 | |
●(1)吉田証言記事に関する事実と評価
1980年代の記事の取材方法は吉田氏の発言の聴取にとどまっており、吉田氏の発言の裏付けとなる客観的資料の確認がされたことはなかった。その時点では吉田氏の言動のみによって信用性判断を行ったとしてもやむを得ない面もあるが、裏付け調査がないまま相応の紙面を割いた記事が繰り返し紙面に掲載され、執筆者も複数にわたることを考え合わせると、後年の記事になればなるほど裏付け調査を怠ったことは問題であると指摘せざるを得ない。 秦氏の研究結果発表の後、吉田証言は真偽不明であるとの心証が社内の関係部署に共有されるに至ったものとみられるが、それにもかかわらず、その後も安易に吉田氏の記事を掲載し、済州島へ取材に赴くなどの対応を講じることもないまま、吉田証言の取扱いを減らしていくという消極的な対応に終始した。これは新聞というメディアに対する読者の信頼を裏切るものであり、ジャーナリズムのあり方として非難されるべきである。 教科書問題を契機として作成された1997年特集に際しては、吉田証言の扱いが慰安婦問題の整理と並ぶ重要課題とされ、訂正についても話題にされたものの、取材班の中で大きな意見対立はなく、「真偽は確認できない」との表現にとどめてしまった。この特集において、訂正するか又は取消しをするべきであり、さらに、必要な謝罪もされるべきであった。本特集における「強制性」のまとめ方は、のちの批判にもあるとおり、「議論のすりかえ」である。 その後、2014年検証まで取消しが遅れたのは、当事者意識の欠如、引き継ぎが十分になされていない、訂正・取消しのルールが不明確であった、社内で意思疎通が十分行われず、問題についての活発な議論が行われる風土が醸成されていなかった、などの理由が挙げられる。 2014年検証は、長年にわたり論争の対象となってきた争点について、遅きに失したとはいえ改めて紙面で一から説き起こして検証しようとしたことは一つの決断に基づくものである。 しかし、「読者の疑問に答える」としつつ、その中で朝日新聞自身の主張方針に合致するよう記事の方向付けを行ってきたのではないかとの指摘に対しては、明確に答えていないこと、吉田証言について、関連記事を全て取り消すという重大な決断をしたのに、取消しが遅れた理由を十分検証していないことなど、全般に、読者に対する誠実な態度とはいえない。 総じて、この検証記事は、朝日新聞の自己弁護の姿勢が目立ち、謙虚な反省の態度も示されず、何を言わんとするのか分かりにくいものとなったというべきである。2014年検証記事において謝罪をしないことを決定したのは経営幹部である。経営幹部が関与したこと自体は必ずしも不適切とはいえないものの、最終的に謝罪はしないことと判断したことは、報道機関の報道の自由が国民の知る権利に奉仕するものであることから憲法21条の保障の下にあるということを忘れ、事実を伝えるという報道機関としての役割や一般読者に向き合うという視点を欠落させたものというべきである。また、このような経営幹部の判断に対し、編集部門にはこれに反対の者がいたのであるから、反対する者は、できる限り議論を尽くし、そのような結論となるのを回避する努力をすべきであり、編集部門の責任者や経営幹部はこれを真摯に受け止めるべきであった。このような努力が十分尽くされたとまではいえない。 |
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●(2)朝日新聞が作成した慰安婦に関する吉田証言記事以外の主な記事に関する事実と評価
名乗り出た慰安婦記事のうち、1991年8月11日付記事については、植村が個人的な縁戚関係を利用して特権的に情報にアクセスしたとは認められなかったが、金氏が「だまされた」事例であることをテープ聴取により明確に理解していたにもかかわらず、同記事の前文や本分中の記載は、強制的に連行されたという印象を与えるもので、読者の誤解を招くものと言わざるを得ない。 また、1991年12月25日付記事において、金氏がキーセン学校の出身であることを記載していないことについては、キーセン学校に通っていたからといって、金氏が自ら進んで慰安婦になったとか、だまされて慰安婦にされても仕方がなかったとはいえないが、この記事が慰安婦となった経緯に触れていながら、キーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。植村による「キーセン」イコール慰安婦ではないとする主張は首肯できるが、それならば、判明した事実とともに、キーセン学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった。 1992年1月11日付の軍関与記事は、1面トップとした報道機関としての判断自体は、問題があったとはいえない。また、掲載時期については、「資料を早期に入手していたにもかかわらず(資料を寝かせ)、宮沢首相訪韓直前のタイミングをねらって記事にした」という実態があったか否かは、もはや確認できない。 しかし、この記事の前文や、同日夕刊にも別の資料を掲載してたたみかけるように報道していることからすれば、朝日新聞が報道するタイミングを調整したかどうかはともかく、首相訪韓の時期を意識し、慰安婦問題が政治課題となるよう企図して記事としたことは明らかである。 本件記事の「従軍慰安婦」の用語説明メモは、あたかも「挺身隊として『強制連行』された朝鮮人慰安婦の人数が8万人から20万人」であるかのように不正確な説明をしており、読者の誤解を招くものであった。 |
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●(3)池上コラムに関する事実と評価
社長の木村が池上氏のコラムの原稿に対して難色を示し、これに対して編集部門が抗しきれずに掲載を見送ることとなったものであり、実質的には社長の木村の判断によるものと認められる。この判断について、関係者らは、朝日新聞社としての危機管理的な観点から検討した結果である旨説明するが、それは視野の非常に狭い、内向きの議論であって、事実を伝え国民の知る権利に奉仕するという報道機関としての役割や一般読者の存在という視点を欠落させたものというべきである。経営幹部による不当な干渉を防止するための概念である「経営と編集の分離」原則との関係でも不適当な関与がなされたといわざるを得ない。 さらに、一連の経過について、「池上彰氏と今後も誠意をもって話し合ってまいります」と説明したことは、池上氏との協議の内容を余りに朝日新聞に有利に解釈したというべきである。 |
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●(4)朝日新聞が行った慰安婦報道が日韓関係をはじめ国際関係に対して与えた影響
「国際社会に与えた影響」参照。 |
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●(5)これらの報道等に通底する朝日新聞の報道姿勢・体質的問題、これらに対する報道のあり方
これらの項目については、次項において、提言としてまとめる。 |
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●14 問題点の指摘と第三者委員会からの提言 | |
以上の事実関係及びこれに対する評価分析を経て、当委員会は、朝日新聞社及び同社社員の各位に対し、以下の数点について、深く思いを致し、改めるべき点は改めて、再出発されることを提言する。 | |
●(1)報道のあり方について
○ア 前提とする事実の存否及び事実の意味についての吟味の必要性の自覚 新聞報道のうち、事件・事故を取材した記事ではなく、いわゆる企画記事、調査報道などは、その企画趣旨に沿う情報を収集、選択して報道することになる。過去の情報の中には、元来の企画趣旨に反する事実や意見もあろう。とりわけ、意見の分かれる論争的なテーマにおいては、それぞれの主張する事実が真実存在したのか(吉田証言など、供述に基づくものについてはその裏付けがあるのか)、記事を書く者として十分吟味しなければならない。たとえ、当初の企画の趣旨に反する事実(任意に慰安婦となった者もいたことや、数が変動したことなど)があったとしても、その事実の存在を無視してはならず、そのような事実が存在することを指摘し、その存在が、当該企画とどのような関係にあるのかをも明らかにしなければならない。 今回問題となった朝日新聞の記事の多くは特集企画、および調査報道に属するものである。この記事の作成に当たって、上記に述べた報道のあり方が忘れられ、取り上げた過去の事実の存否の吟味や、複数の情報源による再確認が十分でなかった。吉田証言についても、企画趣旨に反する事実や異論も存在すると指摘されているのに、これが取り上げられなかった。テーマが日本政府の戦後責任追及等多方面へのインパクトのあるものであるだけに、上記の原則は一層厳守されなければならなかった。 朝日新聞の記者は、上記の基本的な報道のあり方について今一度思いを致し、事実を軽視することのないよう努める必要がある。 ○イ 先入観が事実の選択を誤らせることの自覚 国や公共機関と権力との関係、および社会のさまざまな秩序について、人は自覚しないままで先入観あるいは思い込みを持ちがちである。先入観はあるいは思い込みは、事実を取材し、その存否あるいは当否を判断するにあたって、一定の影響を与える。新聞記者は、取材対象と近づけば近づくほど、取材対象の世界に引き込まれ、その世界の先入観や思い込みを共有し、それを自覚することが難しくなることがあるが、事実を取材した後、いったん立ち止まって内省することは有用である。誤った判断を免れるために、日ごろから意識しておくべきだろう。本件事案においても、通常であればそのような判断はしないであろうと思われる場面で、記者が簡単に誤った事実判断に陥ったことが見られた。吉田証言の真実性の判断については、女性たち全員が強制的に連行されたという思い込みや先入観によって、長らく記事の修正を拒む結果を招いた。軍隊について、一般私人に対してもいわれない強制力を行使することがあるという思い込みあるいは先入観が必要以上に強く働いたものとうかがわれた。 朝日新聞の記者は、上記の基本的な報道のあり方について今一度思いを致し、取材対象を相対化する目をもち続け、自己の先入観や思い込みをなるべく糺すと共に、一方的な事実の見方をしないよう努める必要がある。 ○ウ 記事の効果の自覚 新聞報道は多かれ少なかれ対象とされた人、団体、社会、政治などに影響を及ぼす。このことは記者たる者十分自覚しているはずであるが、調査をすると、記者たちは日々の取材や記事作成過程において、その自覚が足りないのではないかと疑われる場面が多々見られた。他方で、筆の力を信じるあまり、自分が一つの権力を手にしているとの錯覚に陥る危険もある。日本社会では、新聞の信頼度は極めて高く、いったん誤りを犯すと広範囲な影響を及ぼす危険性が大きい。報道の効果は絶大であって、相当な痛手を受ける個人や組織も出てこよう。だから報道するなというのではない。そのような影響を受ける者、打撃を受ける者が自分の記事によって発生するのだ、自分にはそれだけ責任があるのだということを十分自覚する必要があるということである。したがって、新聞記者たちは、そのような影響力を可能にしてきたさまざまな特権を自覚し、それに甘えることなく事実報道の精神に徹し、万が一誤った場合は、素直かつ謙虚にそれを認めなければならない。そうであってこそ、人々の知る権利に奉仕し、公共性の高い有益な報道をし、読者の信頼を確たるものにすることができると考えられる。今回の検証記事は、誤報の際に必要な謙虚さが感じられず、むしろ頭が高く上から見下ろすような印象を受けるものであった。誤った報道をしたことや、報道の与えた影響について真摯に責任を取ろうとする姿勢が感じられない者も多くいた。 朝日新聞の記者は、上記の基本的な報道のあり方について今一度思いを致し、自己が報道という権力を持つ意味と、そうであるが故に、誤った際には素直な謙虚さを忘れずに報道しなければならないということを、この際再確認する必要がある。 ○エ 報道した記事についての責任の自覚 報道した記事は、それ以降は既成事実となって社会に通用してゆく。報道機関が、虚偽である事実を真実として報道するとは思われないから、一般に、報道された事実は真実であるものとして、以降人の行動や社会の動きの前提となってゆく。記事を報道したということの重みはこのようなものである。このように重い意味を持つものであるからこそ、報道された記事については、その記事内容の真否や、記事で扱った事象のその後の経過を継続的にフォローし、これらについて何か情報が得られれば、これを報道してゆくのが報道機関の責務である。しかし、朝日新聞社では、一人の記者が突出的な記事を書いた場合でも、その続報が引き続き長期間にわたってその記者に委ねられるということは少なく、今回取り上げたような記事については、引き継ぎの態勢もあいまいである。こうして、社会的に重要なテーマであっても、継続的にその後の経過や記事の影響をフォローしてゆくような制度も存在しないから、その場限りの記事、あるいは過去の報道を吟味しないままこれを踏襲するような記事が罷り通るということになっている。たとえ、ある部署に属する一人の記者によって書かれても、その記事は読者から見れば、その新聞社の記事なのであって、その部署の記事ではない。その記事内容の真否や、その事象について何らかの新しい情報が得られれば、どの記者であってもそれを報道してゆくべきである。 朝日新聞社では、あの記事は某記者の記事であり、あるいは某部署の記事であるとして、他の記者、他の支局はかかわろうとしない風土があった。このような風土は改められなければならないし、朝日新聞の記者は、特に困難で意見の分かれる論争的なテーマについては、持続的なジャーナリズムのあり方について今一度思いを致し、報道された記事の重みを自覚して、継続的報道の重要性を、この際再確認する必要がある。 ○オ 記事は読者のためのものであることの自覚 新聞記事は、読者のために書かれるものであることは余りに当然である。しかし、今日、新聞社は、オンライン・メディアの台頭や売り上げ部数の減少という逆風の中で、この当然のことを軽視するようになってきている。今回の検証記事は、形こそ読者に呼び掛けることになっているが、内容は読者向けではなく、朝日を攻撃する他の新聞社や、雑誌、週刊誌、インターネットの論調向けに自社の立場を弁護する業界内向きのものである。真に読者に向いた記事であるならば、真摯に自社の至らなかった点を指摘し、なぜそのようなことになったのか、今後どのようにしてこれを改めるのかについて読者に釈明するものとなったはずである。そのような記事であったのであれば、このたびのような事態には至らず、ここまで厳しい批判はされなかったと思われる。新聞社に特定の意見がある場合も、きちんと読者に向いて、その主張について、さまざまな事実をもとに説明してこれを行うべきである。 朝日新聞はこの検証記事を経営上の危機管理によるものというが、読者に対して危機管理をする必要性はない。報道に値する報道を粛々として行ってゆくことこそが危機管理であろう。 |
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●(2)新聞社として、既報の記事内容が「誤報」であったと判明したときの取扱いの確立
朝日新聞は、今回の事件をきっかけに、既報の記事内容が「誤報」であったと判明したときに、それをどう扱うか、という点について、精緻な議論をし、将来に向けての対応策を確立すべきである。 朝日新聞は吉田氏を取り上げた16本の記事の「取消し」を行った。16本の記事の「取消し」について、記者のヒアリングでは、「取消し」が妥当だという者から、こうしたケースは後日続報で上書きされていく類のものであるから、「取消し」という措置は適当ではないのではという声も聞かれた。実際、これまでの朝日新聞では、誤報記事をめぐって、報道された記事は誤報であっても既成事実となって社会に通用していくといった誤報のインパクトを考慮した上で、「訂正」や「取消し」をどのような場合に行うのかといった区別などはなされてこなかったようである。今回の検証記事についても、吉田氏の記事はなぜ「訂正」ではなく「取消し」としたのか、どの記事を「取消し」の対象とするのか、「取消し」対象記事のどの部分を取り消すのかといった点について、社内で十分な議論があったわけではなく、これらの点についての論理的な説明は最後まで聞かれなかった。現状では、何か起こったときは、その時々の組織防衛のための判断や営業上の配慮が先行しており、言論機関として、後継の記者たちへの教訓を残すような形での対応にはなっていない。 ジャーナリズムにおいて、誤報は最小限にすべきことは言うまでもないが、日々の作業のなかで、免れない面もある。したがって、なるべく誤報を回避する体制をつくると同時に、誤報が出てしまった場合の事後対応についても検討してほしい。 従前は記事「取消し」の場合、後日記事保存用の縮刷版で当該記事が白く抜かれることもあったようである。他方で、デジタル化時代に移行し、記事保存はすべてデジタルデータとなっている。この場合は、記事を取り消した場合、各記事にそのように明記されるとのことであった。また、海外の新聞のように記事訂正に関しては、紙面の定位置に「訂正欄」を設けてわかりやすく提示するなどの方法もある。情報のデジタル化という外部環境を考慮し、読者にもっともわかりやすい、過誤及びその訂正の周知方法について検討を重ねてほしい。 |
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●(3)取材チームの編成の開示、署名記事及び社説執筆者の明示について
1997年、2014年の大型特集企画の検証をすることについては、紙面を見る限り、社内のどういうメンバーが選ばれ、執筆したのか知ることができない。このような特集は、事件事故などのニュース性があるわけではなく、他方では専門性が高く継続性が期待されるもので、無記名の大型記事は、文脈のわからない読者にとっては唐突感を否めない。もし、執筆者やチームが継続的に取材をしており、折々に適宜報道してゆくというような認識が広まれば、こうした特集も読者にとってアプローチしやすくなると考えられる。したがって、各記事の筆者や取材チームは、第三者委員会などの機関によって他律的に全貌が明かされるというやり方ではなく、そもそも新聞社側で、記事を出す時点で読者側に主体的に明らかにすべき情報であったと言うべきだろう。 また、今回の検証では、ついに筆者の特定できない記事もあった。その点も考えると、継続性のある重要な報道に際しては、その都度取材チームの編成、および執筆記者名を明らかにするなど、より透明性のある編集体制を望みたい。このようにすることは、専門性が高く、複雑で国論を二分するテーマに対して、朝日新聞社が一定の継続的な取り組みをしているということを外部に示すことになり、読者とのよりよいコミュニケーションにもつながると考える。 社説についても、論説委員らの合議によって内容を決定するため、執筆者個人の意見の表明ではないというが、専門分野をもつ執筆者の意見が中心であって、その氏名を記載して文責を明らかにした方が妥当なものもあろうから、責任を明確にするためにも、可能な限り執筆者は特定することを検討すべきであろう。 |
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●(4)情報源の選定及び専門家との関係について
慰安婦問題は、国内、そして国際関係を分断するような激しい論争が続いている。こうした中で、近年、朝日新聞の報道は「偏向報道」だという批判が続いている。第三者委員会では、こうした論争のいずれかの立場に立脚して今回の検証を行っていない。しかし、このような「偏向」という批判は絶えず存在していることは確かである。この点に対して、ジャーナリズムのあるべき姿を考える立場から、次のような提言をしたい。 すなわち、慰安婦報道に関しては、吉田証言に疑問が呈されてから20年以上の歳月が経っているにもかかわらず、朝日新聞の取材体制を検証した結果、特定かつ一部の専門家や情報源に過剰に頼る傾向が見られた。紙面上誰に取材するかは新聞社の裁量の範囲であるが、多くの場合、その情報源は、記者たちが日常の人間関係によって培ってきた取材網であることは目立った。 第三者委員会は、今後、朝日新聞には、複雑で学界などでも多くの異論が見られる問題については、今回見られたような、その都度の一面的、個人的人間関係に基づく情報のみに依拠するような取材体制のあり方を再考してほしい。たとえ紙面では限られた数の意見のみ掲載するとしても、それは多くの取材の結果であるはずで、そのためには日常からの幅広く、奥の深い調査・取材活動は不可欠である。 これを可能にするべく、たとえば、社内で、さまざまな立場や意見をもつ、そしてあえて異論を唱えるような有識者や専門家を集めて積極的に勉強会および意見交換の場を重ねる仕組みをつくってはどうか。編集部門の記者たちは、年次や地位、所属部署を超えてこうした仕組みを活用し、広い視野を獲得することによって、常に公正な立場から記事を書く努力を積み重ねるべきであろう。読者に毎日届く紙面は、このような日々の研鑽の上に築かれた結果であるという姿勢を見せるべきである。こういった取り組みはまた、定期的に社会に開示し、社の風通しをよくすることも怠らないようお願いしたい。 |
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●(5)新聞社としての経営のあり方
○ア 取締役会、代表取締役、編集担当取締役等の責任 会社経営を担うのは取締役会であるが、今般の件では、朝日新聞においては、取締役会において十分な議論がなされなかったとみられる。編集と経営の分離と言いながら、今回の検証記事、池上コラムの原稿の掲載の許否については経営側が細部に至るまで関与し、それが社を利する結果となるどころか、逆に新聞社への信頼を傷つけるような事態となってしまった。ことが起こってしまってからの社内における経緯の説明さえ、連絡の悪さから、相反する事実が様々に語られる事態となった。 このような経営側の対応の多くは代表取締役の意思を反映したものと見られる。編集担当の取締役は編集について最終責任を持つから、その者が拒否すれば代表取締役の意思が実現することはなかったが、結局のところ代表取締役に抵抗できなかった。そもそも代表取締役と編集担当取締役によって対応についての方針が決定され、他からの意見を入れる余地の少ない体制となっていることは問題であって、危機管理案件として経営に関する事項であるならば、当然取締役会における相当の議論を経なければ決定されるものではないと思われる。しかし、今回そのような議論が尽くされた形跡はない。これでは取締役会がその役割を果たしていないと言われてもやむを得ない。取締役会などにおける協議、審議がより実質的なものとなるよう全役員が努力する必要がある。 今回の事態を招来する最終決定をした代表取締役社長の責任は重いが、取締役会を構成した者も責任を深く自覚する必要がある。今般当委員会の報告書による提言を待たず、代表取締役の交替等の一連の人事が行われたが、これによって新たに経営に当たることとなった者も責任を深く自覚し、猛省の上にたった新しい朝日新聞社を作らない限りその再出発はあり得ないことを銘記すべきである。 ○イ 経営と編集の分離原則の徹底について 今回の問題の多くは、編集に経営が過剰に介入し、読者のための紙面ではなく、朝日新聞社の防衛のための紙面を作ったことに主な原因があるというべきである。経営には最終的に編集権も帰属する以上、編集に経営が介入することもあり得ないことではない。しかし、それは最小限に、しかも限定的な介入であるべきであろう。今回、経営と編集で意思決定の中心となった者は、いずれも新聞記者出身であり、思考形式が共通であると共に、類似の思い込みにとらわれている可能性があった。そうしてみると、編集に経営が介入するときには、第三者の意見を聴く必要が高いと思われる。編集に経営が介入するという非常事態の場合には、その介入の可否や介入の程度について意見を聴取するための常設の機関を設け、これを新聞記者出身以外の第三者によって構成することを検討すべきであろう。 |
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●(6)第三者委員会設置の経緯の説明について
朝日新聞社の前社長は、この第三者委員会設置に当たり、委員には、どのような前提もつけずに自由な議論をお願いし、問題点を摘出して提言して欲しい趣旨のことを述べた。当委員会は、その趣旨に従って、調査を進め、提言を行えるよう鋭意協議を重ねてきた。 しかし、その報告書の提出を待たず、社長が辞任し、役員の異動が行われるという事態となった。社内外の環境を考えれば、やむを得ない面もあったにせよ、「信頼回復と再生のための委員会」という組織を、外部識者4名を入れて設置したことも併せ、これらの措置が朝日新聞の今回の問題に対する対応ぶりを分かりにくくしたことは確かである。当委員会としては、朝日新聞社に対し、当委員会の役割及びこの報告書が今後の朝日新聞社社内体制の整備・改革に占める位置について深く思いを致して、この提言の趣旨をできる限り実現することを望むものである。また、当委員会は、朝日新聞社に対し、本報告書提出後数カ月後に、その後の対応ぶりについての検証の機会を設けることを求める。 |
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●(7)言論機関における第三者委員会設置についての注意喚起
民主主義社会において、「報道の自由」は、憲法21 条が保障する表現の自由のうちでも特に重要なものであり、日本の判例上もそのように認められてきた(最1判昭53年5月31日刑集32巻3号457頁)。この点に鑑みれば、特定の新聞社のあり方について、たとえさまざまな不祥事や事件があったからとはいえ、そのあり方や評価をメディアの外部に委ねることは、必ずしも最良の措置とは言えない。 当報告書は、この点を十分に認識した上で、朝日新聞社に対して、あえて社外から見た問題点を多岐にわたって指摘した。今後、朝日新聞社が、今般のさまざまな不祥事および事件を乗り越えて読者の信頼を回復し、再び自由で闊達なジャーナリズム活動を担う仕組みを築きあげるために、本報告書が寄与することを願う。 朝日新聞社の記者たちは、言論の行使に際して萎縮することなく、そして、その社会的責任を十分自覚し、日本の健全なジャーナリズム活動を推進する原動力となっていってほしい。 |
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●(8)終わりに
以上のように朝日新聞の慰安婦報道検証の結果、朝日新聞のさまざま問題点を指摘した。この点については、経営側をはじめ、朝日新聞社全社一体となって、今後の会社のあり方を真摯に検討して頂きたい。 他方、第三者委員会は、検証のヒアリングの結果、ならびに各種の資料によって、朝日新聞社の社員および販売店が悪質な脅迫や嫌がらせを受け、非常に苦しい立場に立たされていることを改めて認識した。朝日新聞社は、1987年、88年に支局襲撃事件および爆破未遂事件を経験しており、こうした歴史的経緯に鑑みれば、経営幹部の切迫した心情も理解できる。 第三者委員会は、このような言論機関に対する攻撃に強い危惧を抱くとともに、こうした卑劣な行為が日本の民主主義の破壊をもたらす危険性のあることを改めて指摘しておきたい。 |
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●15 個別意見 | |
●(1)岡本委員 / 記事に「角度」をつけ過ぎるな
我々の今回の検証作業に対して、朝日新聞社はまことに誠実に対応した。新しい方向へレールが敷かれた時の朝日の実行力と効率には並々ならぬものがある。しかしレールが敷かれていない時には、いかなる指摘を受けても自己正当化を続ける。その保守性にも並々ならぬものがある。 吉田清治証言を使い続けた責任は重い。しかし、同様に国際的に大きなインパクトを与えたのは、1992年1月11日の「慰安所 軍関与示す資料」と題して6本の見出しをつけたセンセーショナルなトップ記事だ。数日後の日韓首脳会談にぶつけたこの報道は、結果としてその後の韓国側の対日非難を一挙に誘うことになった。(同記事の問題点については本報告書をお読みいただきたい)。 当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初めて見出しがつく」と。事実だけでは記事にならないという認識に驚いた。だから、出来事には朝日新聞の方向性に沿うように「角度」がつけられて報道される。慰安婦問題だけではない。原発、防衛・日米安保、集団的自衛権、秘密保護、増税、等々。 方向性に合わせるためにはつまみ食いも行われる。(例えば、福島第一原発吉田調書の報道のように)。なんの問題もない事案でも、あたかも大問題であるように書かれたりもする。(例えば、私が担当した案件なので偶々記憶しているのだが、かつてインド洋に派遣された自衛艦が外国港に寄港した際、建造した造船会社の技術者が契約どおり船の修理に赴いた。至極あたりまえのことだ。それを、朝日は1面トップに「派遣自衛艦修理に民間人」と白抜き見出しを打ち、「政府が、戦闘支援中の自衛隊に民間協力をさせる戦後初のケースとなった」とやった。読者はたじろぐ)。新聞社に不偏不党になれと説くつもりはない。しかし、根拠薄弱な記事や、「火のないところに煙を立てる」行為は許されまい。 朝日新聞社への入社は難関だ。エリートである社員は独善的とならないか。「物事の価値と意味は自分が決める」という思いが強すぎないか。ここでは控えるが、ほかにも「角度」をつけ過ぎて事実を正確に伝えない多くの記事がある。再出発のために深く考え直してもらいたい。新聞社は運動体ではない。 一方で重要なことがある。不正確でない限り、多様な見方を伝える報道の存在は民主主義を強いものにする。朝日新聞の凋落は誰の利益にも適わない。朝日の後退は全ての新聞の後退につながる。 |
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●(2)北岡委員 / 現代におけるジャーナリズムの責任
今回の従軍慰安婦報道問題の発端は、まず、粗雑な事実の把握である。吉田証言が怪しいということは、よく読めば分かることである。従軍慰安婦と挺身隊との混同も、両者が概念として違うことは千田氏の著書においてすら明らかだし、支度金等の額も全然違うから、ありえない間違いである。こうした初歩的な誤りを犯し、しかもそれを長く訂正しなかった責任は大きい。 類似したケースはいわゆる「百人切り」問題である。戦争中の兵士が、勝手に行動できるのか、「審判」のいないゲームが可能なのか、少し考えれば疑わしい話なのに、そのまま報道され、相当広く信じられてしまった。 第二の問題は、キャンペーン体質の過剰である。新聞が正しいと信じる目的のために、その方向で論陣をはることは、一概に否定はできない。従軍慰安婦問題を取り上げて、国民に知らしめたことは、それなりに評価できる。 しかしそれも程度問題である。1971年9月に中国の林彪副主席が失脚したとき、世界のメディアの中で朝日新聞だけが林彪健在と言い続けた。そして半年後に、林彪の失脚は分かっていたが、日中関係の改善に有害なので報道しなかったと述べた。同様のおごりと独善が、今回の従軍慰安婦報道についても感じられる。 第三に指摘したいのは、物事をもっぱら政府対人民の図式で考える傾向である。権力に対する監視は、メディアのもっとも重大な役割である。しかし権力は制約すればよいというものではない。権力の行使をがんじがらめにすれば、緊急事態における対応も不十分となる恐れがある。また政府をあまり批判すると、対立する他国を利して、国民が不利益を受けることもある。権力批判だけでは困るのである。 第四に指摘したいのは、過剰な正義の追求である。従軍慰安婦問題において、朝日は「被害者に寄り添う」ことを重視してきた。これは重要な点である。しかし、被害者によりそい、徹底的な正義の実現を主張するだけでは不十分である。現在の日本国民の大部分は戦後生まれであって、こうした問題に直接責任を負うべき立場にない。日本に対する過剰な批判は、彼らの反発を招くことになる。またこうした言説は韓国の期待を膨らませた。その結果、韓国大統領が、世界の首脳に対し、日本の非を鳴らすという、異例の行動に出ることとなった。それは、さらに日本の一部の反発を招き、反韓、嫌韓の言説の横行を招いた。こうした偏狭なナショナリズムの台頭も、日韓の和解の困難化も、春秋の筆法を以てすれば、朝日新聞の慰安婦報道がもたらしたものである。かつてベルサイユ条約の過酷な対独賠償要求がナチスの台頭をもたらしたように、過剰な正義の追求は、ときに危険である。正義の追求と同時に、日韓の歴史和解を視野にいれたバランスのとれたアプローチが必要だった。 第五に、現実的な解決策の提示の欠如である。アジア女性基金に対して当初取られた否定的な態度は残念なものだった。日韓基本条約によって、個人補償については解決済みであり、それ以後の個人補償については、韓国政府が対応すべきだというのが日本の立場である。この立場と、人道的見地を両立させるために、政府はアジア女性基金という民間と政府が共同で取り組む形をとり、国家責任ならぬ公的責任を取ることとしたのである。公的責任というのは、必ずしも悪い方式ではない。ドイツのシーメンス等もこの形であった。これを否定したことは、韓国の強硬派を勇気づけ、ますます和解を困難にしたのである。なお、国家補償が最善であるという立場には、疑問もある。すべてを国家の責任にすると、その間で違法行為に従事し、不当な利益を得ていたブローカー等の責任が見逃されることにつながらないだろうか。 第六は論点のすりかえである。今年8月5日の報道で朝日新聞は強制連行の証拠はなかったが、慰安婦に対する強制はあり、彼女たちが悲惨な目にあったことが本質だと述べた。それには同感である。しかし、第1次安倍内閣当時、安倍首相が強制連行はなかったと言う立場を示したとき、これを強く批判したのは朝日新聞ではなかったか。今の立場と、安倍首相が首相として公的に発言した立場、そして河野談話継承という立場とどこが違うのだろうか。朝日新聞にはこの種の言い抜け、すり替えが少なくない。 たとえば憲法9条について、改正論者の多数は、憲法9条1項の戦争放棄は支持するが、2項の戦力不保持は改正すべきだという人である。朝日新聞は、繰り返し、こうした人々に、「戦争を放棄した9条を改正しようとしている」とレッテルを張ってきた。9条2項改正論を、9条全体の改正論と誇張してきたのである。要するに、自らの主張のために、他者の言説を歪曲ないし貶める傾向である。安倍内閣の安全保障政策についても、世界中で戦争ができるようにする、という趣旨のレッテルが張られている。人命の価値がきわめて高く、財政状況がきわめて悪い日本で、戦争を好んでするリーダーがいるはずがない。これも他を歪曲する例である。これらは、議論の仕方として不適切であるのみならず、国論を分裂させ、中道でコンセンサスが出来ることを阻む結果になっていないだろうか。 以上のような欠点は、朝日新聞だけにあるわけではない。また、このような指摘は、やや厳しすぎるかもしれない。しかし、新聞記者は特権集団なのである。名刺一枚で誰にでも会えるし、自分のメッセージを数百万部の新聞を通じて天下に発表することができる。しかも高給を得ている。自由な言論のために、そうした特権集団は必要だ。しかし特権には義務が伴う。自らの記事を絶えず点検する厳しい自己規律を求めたい。 |
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●(3)田原委員 / 気になる朝日新聞の体質
2014年8月5日付の検証記事についてだが、吉田清治氏の証言が虚偽であったとして、吉田証言関連の記事を取り消しはしたが、読者に対して謝罪はしなかった。読者に謝った情報を与えてしまった加害者としての責任を問う姿勢がなく、まるで朝日新聞が自らを吉田証言にだまされた被害者であるような記事として扱っていた。 なぜ誤った情報を与えた加害者として謝罪しなかったのか。その理由は、報告書に記しているように、「謝罪することで、朝日新聞の記事を『ねつ造』と批判する勢力を、『やはり慰安婦報道全体がねつ造だった』とエスカレートさせてしまう恐れがある。朝日新聞を信じて読んでくれている読者の信用を失う恐れがある」と判断したためのようだ。報告書では、経営幹部が判断したと記しているが、当初は入っていた謝罪文言を外す判断をしたのは経営の最高幹部である。 話が飛躍するが、池上彰氏のコラムについても、担当者やGE、そしてGMは掲載することで問題はないと判断したようだ。ところが、吉田証言問題と同様に、「経営上の危機管理の観点」から、経営の最高幹部が掲載しないと判断したのであった。そして最高幹部は、私たち第三者委員会が提言を出す以前に辞任してしまった。もちろん、8月5日付の検証記事で加害者として謝罪しなかったのも、池上氏のコラムを掲載しないといったん決めたのも、明らかに誤りであった。だが、問題は最高幹部の判断が誤りであったと同時に、編集部門のスタッフがなぜ最高幹部の誤りを指摘してとことん議論を尽くすことが出来なかったのか、ということだ。 編集上の問題に、経営最高幹部が介入したことに対する批判はあるだろうが、私は編集部門のスタッフが、表現は下品だが、最高幹部と身体を張った議論が出来なかったことこそが朝日新聞の問題体質であり、最高幹部が辞任しただけでは体質改革にはならないのではないかと強く感じている。 |
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●(4)波多野委員 / 「相対化」する視点を!
朝日の慰安婦報道をふりかえって指摘できることは、その多くが、法的救済から洩れた、被害者個人を救うという意味の、「戦後補償」問題の解決――終局的には国家補償の実現を後押しする「キャンペーン」と位置付けられていたことである。当時の記者は「戦後補償をやりそこねた、置き忘れたテーマとして確立されつつある」と実感していた、と語る。 慰安婦問題が浮上してくると、朝鮮半島での徴用者の「強制連行」が焦点であったことから、この問題は、募集段階での「強制」の有無や程度という今に続く問題設定に投げ込まれる。その意味で、強制連行の実行者としての吉田清治氏の登場は、朝日にとって貴重であり、容易に手放せない存在となったのであろう。 朝日の戦後補償報道は、その解決を促すほどに「加害者」と「被害者」という二分法に陥る傾向がある。日本とアジアの過去の関係を考えれば、それも重要である。だが、被害者の立場に過剰に寄り添う取材対象の選定、発掘とその記事化が目立っていた。アジア女性基金の運営審議会委員長を務めた橋本ヒロ子氏は、朝日新聞等の記事は、その取材源が反基金NGO に偏り、「基金アレルギーという世論を醸成した」と言わざるを得ないと書いている(大沼保昭他『「慰安婦」問題とアジア女性基金』)。 「贖罪意識」のなせる業か、支援団体の国家補償論に翻弄され、揺れ動く韓国政府の慰安婦政策を明確に批判する社説や論説はなかった。問題がこじれた原因が、そこにあることに、控えめな指摘はあるものの、国家補償を認めない日本側にこそ責任があるかのような論調が目立った。 いわゆる「人権派」の一握りの記者が、報道の先頭に立っていた点も特徴的である。とくに、クマラスワミ報告書や女性国際戦犯法廷の意義を過剰に評価する記事は主に、彼らによるものであった。ある記者は、彼らの問題点を「運動体と一緒になってしまう」傾向と指摘する。朝日は、慰安婦問題の本質は女性の人権や尊厳の問題だ、としばしば説くが、現実的な選択肢を示せないまま、本質論に逃げ込むような印象を与えることは否めない。多様な読者に豊かな情報を伝える努力を奪う。大野博人(論説主幹)は、今年6月、東亜日報幹部との長時間対談を終え、こう書いている。 自分たちの国や政府の振る舞いをなるべく「相対化」する視点を読者に提供する。私は、それも大事な仕事の一つだと思っている。政治指導者の説明に誇張はないか、自国の政策はほんとうの問題解決に向かっているか――。心すべき姿勢である。 |
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●(5)林委員 / 慰安婦問題と女性の人権
第三者委員会の議論で、ほとんど取り上げられなかった、慰安婦問題と「女性の人権」の関係について、個別意見を述べたい。この論点が委員会で取り上げられなかった背景には、一つには朝日新聞の社内ヒアリングをしても「女性の人権」は争点となっていなかったため浮上してこなかったという報道・編成局内部の問題と、もう一つには、第三者委員会メンバーのうち、女性は私一人であり、さらに女性の人権の専門家も不在だったという委員会の構造的問題の二つがあると考えられる。 今回、第三者委員会の指示で朝日新聞の取材網にインタビューさせた海外の有識者たちからも、また、海外15紙の新聞記事の検証からも、国際社会では、慰安婦問題を人道主義的な「女性の人権問題」の視点から位置づけようとしていることが見てとれた。海外の報道では、記事に登場する情報源の国籍・出自・職業の多様性も目についた。他方で、近年の日本国内の議論では、ほとんどの場合、日韓や日米などの「外交問題」、および「日本のイメージの損失」など、外交関係と「国益」の問題として扱われている。内外の議論のギャップが、改めて浮き彫りにされた。 朝日新聞の杉浦信之・取締役編集担当(当時)による8月5日付の記事「慰安婦問題の本質 直視を」(1面見出し)においても、「女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです」と結論付けていた。それにもかかわらず、朝日新聞の過去の記事を調査すると、この点に十分な光が当てられていたという印象は薄い。また、社内ヒアリングをした際も、慰安婦問題を扱う現場の記者たちの中に、「女性の人権」という観点から専門家に取材したり、問題意識を共有したりしていた形跡はほとんどなかった。その上、記者たちからは、近年の朝日新聞の「慰安婦問題」に取り組む姿勢は、中途半端、あるいは消極的であったという声も複数上がっていた。ちなみに、私が調査したところ、日本の全国紙4紙の中で、「慰安婦」で検索した記事の割合は、2009年以降産経新聞がトップである。 図「慰安婦」記事全体に占める全国紙4 紙の報道量の割合の推移 (略) (「慰安婦」で検索した全国紙4 紙の記事数各年合計を100 としたときの割合) こうした環境の中で、結局、朝日新聞も、「国家の責任」「国家のプライド」という枠組みから離れることができないまま、「女性の人権」という言葉を急ごしらえで持ち出して、かねてから主張してきた「広義の強制性」という社論を正当化していた印象がある。「本質」と言いながら、慰安婦問題の本質と「女性の人権」とがどのような関係にあるのか。日本の帝国主義が、女性や被植民者の権利を周縁化し、略奪することで成立していた体制だったという基本的事実を、読者に十分な情報として提供し、議論の場を与えてきたとは言い難い。 第三者委員の任務にあたり、慰安婦問題解決の複雑さ、困難さ、そして重要さを改めて実感した。だからこそ、日本社会において、このテーマを、女性はもちろん、外国人、専門家、一般市民など、多様で幅広い社会のメンバーが自由に議論できる土壌を耕し、議論の幅を広げていかなければならない。朝日新聞には、今回の一連の事件をきっかけに、ぜひその牽引力となっていってほしいと願う。 |
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●(6)保阪委員 / 「軍隊と性」という視点
慰安婦問題の本質は「軍隊と性」である。もっとかみ砕いて言うなら「軍隊と性病」と言っていい。歴史上、あるいはどこの国でも、この関係にはきわめて神経質だった。旧軍の高級将校の証言によれば、陸軍大学校でもこの恐怖についての講義はあったというし、将校として兵士を教育訓練するときも性病については特に熱心に行われたという。なぜなら、1部隊に10%もの性病患者が生まれたら、その軍隊はすでに戦う軍隊ではなくなる。10%は、20%、30%と、またたくまに患者の比率を増やすからである。 性病を恐れるがゆえに、どの国の軍隊も性の管理は徹底している。むろん国によって、時代によって、その管理の方法は異なっている。旧軍の場合は、大体が部隊長の命令のもと、主計将校、軍医がこの管理にかかわる形をとる。慰安所建設、慰安婦募集、そして性病検査は、いわばシステム化されていて、3者のトライアングルの中で「秘密」が共有されるケースが多い。ここが密閉されれば、管理の実態はわからない。今回の慰安婦問題は、その管理に軍がどういう形で関与したか、慰安婦募集に強制があったかなかったか、さらにそこに植民地政策に伴う暴力性があったか否かなどの検証であったが、あえて言えば一連の慰安婦問題は全体の枠組みの中の一部でしかない。一部の事実を取り上げて全体化する、いわば一面突破全面展開の論争でしかなく、私は委員の一人として極めて冷めた目で検証にあたったことを隠すつもりはない。 1990年代の朝日新聞の慰安婦報道は、むろん朝日だけではなく、各紙濃淡の差はあれ、同工異曲の報道を続けていた。ありていに言えば、朝日はその中で、事実誤認を放置したことや取材対象者との距離のとり方が極めて偏狭だったことは事実である。私見では、他紙と比べると慰安婦報道へのアプローチが積極的であり、それゆえに他紙は誤認の汚名を免れた側面もあるように思う。 委員会のこの検証は、「軍隊と性」というテーマを具体的に確かめていくわけではなく、いわば1980年代、90年代の朝日報道を検証するだけであった。そのことは、戦後日本の「戦争報道」は、ある部分に執拗にこだわり、それが国際社会の作り出している潮流と結びついていたことを教えている。同時に、朝日報道への批判の中に、むしろ歴史修正主義の息づかいを感じて、不快であったことを付記しておきたい。 慰安婦問題は、もっと根源的、多角的に考えることにより、日本社会の歴史検証能力は国際社会の中に独自の立場を保ち得るはずである。 |
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以上 | |
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●資料 | |
(1)千田夏光「日本陸軍慰安婦」週刊新潮、1970年6月27日号
(2)千田夏光「“声なき声”八万人の告発 従軍慰安婦」双葉社、1973年 (3)吉田清治「朝鮮人慰安婦と日本人 元下関労報動員部長の手記」新人物往来社、1977年 (4)千田夏光「従軍慰安婦〈正篇〉」三一書房、1978年 (5)吉田清治「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」三一書房、1983年 (6)「朝鮮を知る事典」平凡社、1986年 (7)西岡力「『慰安婦問題』とは何だったのか」文芸春秋、1992年4月号 (8)秦郁彦「昭和史の謎を追う 従軍慰安婦たちの春秋」正論、1992年6月号 (9)尹貞玉他「朝鮮人女性がみた『慰安婦問題』」三一書房、1992年 (10)「慰安婦問題の煽動者は『この男』に乗る煽動者」週刊新潮、1992年12月24・31日号 (11)「『慰安婦強制連行』問題をデッチ上げた変な日本人」週刊新潮、1995年1月5日号 (12)吉見義明「従軍慰安婦」岩波新書、1995年 (13)「従軍慰安婦強制連行『虚偽レポート』の元凶」週刊新潮、1996年5月9日号 (14)女性のためのアジア平和国民基金編「政府調査『従軍慰安婦』関係資料集成」全5巻、龍渓書舎、1997年 (15)大沼保昭他「『慰安婦』問題とアジア女性基金」東信堂、1998年 (16)女性のためのアジア女性基金編「『慰安婦』調査報告・1999」1999年 (17)戸塚悦郎「日本が知らない戦争責任」現代人文社、1999年 (18)秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮社、1999年 (19)朱徳蘭「台湾総督府と慰安婦」明石書店、2005年 (20)大沼保昭「『慰安婦』問題とは何だったのか」中公新書、2007年 (21)鄭鎮星「米下院日本軍慰安婦関連決議案の審議過程における『合意の強制性』とその歴史的真実」(韓国語)、韓国社会史学会編「社会と歴史」76、2007年12月号 (22)和田春樹「アジア女性基金の成立と活動」黒沢文貴編「戦争・平和・人権」原書房、2010年 (23)吉見義明「「日本軍『慰安婦』制度とは何か」岩波ブックレット784、2010年 (24)西岡力「よくわかる慰安婦問題」草思社、2007年 (25)「『慰安婦検証記事』朝日OB はこう読んだ」文芸春秋、2014年10月号 (26)木村幹「朝日報道は実際、韓国にどのような影響を与えたか」中央公論、2014年11月号 |
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●加藤談話 | |
朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表 (1992年7月6日)
朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題については、昨年12 月より関係資料が保管されている可能性のある省庁において政府が同問題に関与していたかどうかについて調査を行ってきたところであるが、今般、その調査結果がまとまったので発表することとした。調査結果については配布してあるとおりであるが、私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。調査の具体的結果については、報告書に各資料の概要をまとめてあるので、それをお読み頂きたい。なお、詳しいことは後で内閣外政審議室から説明させるので、何か内容について御質問があれば、そこでお聞きいただきたい。政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未来に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。 |
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●河野談話 | |
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 (1993年8月4日)
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。 |
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●村山談話 | |
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」 (1995年8月15日)
先の大戦が終わりを告げてから、50 年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1 人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2 度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2 つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。いま、戦後50 周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。敗戦の日から50 周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。 |
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