「おもてなし」は日本だけの文化

「おもてなし」 懐かしい言葉が飛び出した 
東京2020オリンピック開催プレゼン 
 
大事な人大切な人に 自分の心を伝える所作でしょうか 
「もてなし」を受ける側 もてなす側 双方の感性・価値観や認識で成り立ちます 
知る限り日本だけの文化でしょう
 


おもてなし
 
  
  
  
文化が異なれば「おもてなし」は成立しません 
欧米の人アジアの人イスラム圏の人 
何に 大事にされた大切にされたと感じるのでしょうか
  
  
世界への 日本の「おもてなし」普及は無理でしょう 
日本人でも 「おもてなし」を感じ取れる世代は中高年 
消えていく文化と思っていました
  
良き時代の接待営業 
安酒の接待は効果のないことを最初に教えられた 
年に一二度で結構 忘れられない接待を工夫しました
  
ヨーロッパは階級社会 
「サービス」はサーバントの仕事
  
極めつけの「おもてなし」 
一見さんお断り 
しきたり お互いの思いやり 大事にしたい文化を楽しむ 

 
2013/9  
 
 
もて成し 
1 客を取り扱うこと。待遇。「手厚い―を受ける」  
2 食事や茶菓のごちそう。饗応。「茶菓の―を受ける」  
3 身に備わったものごし。身のこなし。「いとわろかりしかたちざまなれど、―に隠されて口惜しうはあらざりきかし」〈源・末摘花〉  
4 とりはからい。処置。取り扱い。「自らの上の―は、又誰かは見扱はむ」〈源・総角〉  
もて成す 
1 人を取り扱う。待遇する。あしらう。「国賓として―・す」「よそよそしく―・される」  
2 心をこめて客の世話をする。饗応する。馳走(ちそう)する。「山海の珍味で―・す」「客を酒で―・す」  
3 そうであるかのようにとりなす。みせかける。「無理に納得した体(てい)に―・す」〈漱石・吾輩は猫である〉  
4 とりはからう。処置する。「あるに従ひ、定めず、何事も―・したるをこそよきにすめれ」〈枕・四九〉  
5 特に取り上げて問題にする。もてはやす。「今様の事どもの珍しきを言ひ広め―・すこそ」〈徒然・七八〉  
 
滝川クリステルさんの「おもてなし」プレゼン  
流暢なフランス語、ご本人の魅力で大成功  
今回の東京五輪招致成功の決め手は、滝川クリステルさんの最終プレゼンにあったという見方が強い。また、評判もすごくいい。しかし、本当にそうだろうか?  
私は全然違った見方をしている。  
それは、プレゼンそのものではなく、その中身が、まったく無味乾燥、もっと言えば事実に反しているからだ。  
滝川さんのプレゼンそのものは、聴衆の「情感」に訴える素晴らしいものだった。流暢なフランス語を駆使し、身ぶり手ぶりで日本の良さを表現し、IOC委員の心を動かしたのは確かだ。髪型もイヤリングも素晴らしかったし、青いスカーフも似合っていた。ご本人の魅力、そして、演出は最高だった。  
しかし、「おもてなしの心」に続く、そのスピーチの中身は、日本人自身がつくりあげた、一種の幻想だ。  
「現金を落としても必ず戻ってくる」は本当か?  
「東京はみなさまをユニークにお迎えします。日本語で『おもてなし』と表現します。それは訪れる人を慈しみ、見返りを求めない深い意味があります」  
と、そのスピーチは始まった。そして、次のようなことが語られた。  
「もしみなさまが東京で何かを失くしたならば、ほぼ確実にそれは戻ってきます。たとえ現金でも。実際に昨年、現金3000万ドル以上が、落し物として、東京の警察署に届けられました」  
「東京は世界で最も安全な都市です。街中の清潔さ そして、タクシーの運転手の親切さにおいてもです」  
これは、本当だろうか?  
私の周囲にいる東京在住外国人たちは、「違う」と言う。  
おもてなしの心は従業員の犠牲のうえに成り立っている  
「日本人はよくおもてなしと言い、日本のサービスは最高と自慢する。しかし、東京にはチップの習慣がない。ということは、そのサービスの分は価格に含まれていることになる。それをおもてなしでごまかしている。日本のサービス業に従事している人たちは、その分、ソンをしているのだ。おもてなしの心を強いられて、安い料金で働かされている人たちはかわいそうだ。おもてなしは、そういう人たちの犠牲で成り立っている」(米紙の記者)  
「世界で最も安全。それはどの都市でも場所による。東京ぜんぶが安全ではない。いちばん安全なのはアジアではシンガポールだろう。清潔さにおいてもシンガポールのほうが上だ」(外資金融マネージャー)  
「私は現金10万円入りの財布を落とした。それですぐ届け出に行くと、財布はすでに届けられていた。しかし、現金は抜かれていて、カードやIDだけ残っていた」(外資金融マネージャー)  
「それは、IDやカードが英語で、使えないし、使ったら危ないと思ったからでしょう。中国だと、全部抜かれて、財布は捨てられてしまいます。東京はIDやカードだけでも戻って来る分ましですよ」(中国人留学生)  
「たしかに東京のタクシー運転手はみな親切で、ぼったくりがないから、安心して乗れる。でも、問題がひとつある。それは、運転手がみな老人だということだ。英語があまり通じないのは仕方ないが、重い荷物となると、運んでもらえない。チップがないから仕方ないけど、それでも運ぼうとしてくれるので、気の毒になる」(外資金融マネージャー)  
「私も運転手が老人だと不安になる。あまりにも年の人だと、事故にあったらどうしようと思う。日本は高齢化が進んでいる。すでに高齢化率は20%を超えている。7年後が不安だ」(米紙記者)  
世界一高齢化が進む都市で開かれる初めてのオリンピック  
というわけで、こうした見方に対して、みなさん、どう思まわれますか?  
ちなみに、2020年、日本の総人口は1億2411万人に減り、そのうちの高齢者人口は3456万人、高齢化率は30%に迫ると推定されている。老人ばかりの街に、世界から若いアスリートと観客が大挙してやって来る。2020年東京オリンピックは、世界一高齢化が進む都市で開かれる初めてのオリンピックになる。 
 
「滝クリ」の美女ぶりに注目する台湾メディア  
2013年9月7日(現地時間)、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、2020年夏季五輪の開催地が東京に決定した。このニュースは隣国でもさかんに取り上げられることとなっているが、一部メディアは、最終決定を前にしてフランス語のプレゼンテーションを行ったフリーアナの滝川クリステルに注目したようである。  
得意の語学力を駆使し、身振り手振りを交えながら熱心に日本のおもてなし精神や治安のよさをアピールした滝川に、台湾紙・自由時報が目をつけた。「日仏ハーフの美女アナ、滝川クリステルさんは招致成功の貢献者の1人」として、彼女を紹介している。いわく、滝川は日本では有名な美人アナウンサーであり、英語や仏語に精通。その美貌と知性が大きな武器になると目をつけた猪瀬直樹東京都知事によって、五輪招致大使に抜てきされた。  
「中国版ツイッター」と呼ばれる簡易投稿サイトでも、「確かにキレイ」「美人だ」「日本には美女が多いな。男はパッとしないけど」など、その美貌を絶賛する声を中心に、大きな話題となったようだ。他には以下のような声も聞かれた。  
「美こそ最上の資本だ」「つつもたせ?」「純血の日本人でない人物を起用するとは、日本人は(民族主義以上に)実利主義を重んじるんですね」「やっぱり日本人って欧米志向なのね」「欧米の審査員におもねるための作戦ですか?」 
 
爆笑問題の太田光が滝川クリステルの「おもてなし」に「むかつくんだよな」  
「爆笑問題」の太田光がパーソナリティーを務めるTBS「爆笑問題カーボーイ」の 11日未明の放送で、今や日本のヒロインとなった滝川クリステルをメッタ斬りにした。  
番組冒頭でMCの太田と田中裕二は、2020年夏季五輪開催地が 東京に決定したことをトークした。ターゲットにされたのは滝川のフランス語で行われた プレゼン「お・も・て・な・し」。太田は「てめえ、この野郎!滝川。むかつくんだよな。調子に乗ってんじゃねぞ」と口火を切る。続けて「みんな喜んでいるのをイチャモン付ける俺もどうかしてるけど、 なんか気に入らないんだよ、この空気」と日本中に漂う浮かれムードに 警鐘を鳴らす。長野五輪(1998年)後の長野市は、造りすぎたスポーツ施設の 維持費が市民生活を苦しめていることを博識の太田は知っているのかもしれない。  
さらに滝川に集中砲火を浴びせる。「日本にいるときはフランスが一番みたいなこと言ってさ。フランスの女性はすごいとか、本(恋する理由 私の好きなパリジェンヌの生き方)出してんだよ。  
でも(プレゼンでは)日本の心みたいなこと急に言いだしてさ!お前に言われたくないよって感じするよ」とバッサリだ。  
一方の田中は「あれが、IOCの心象を良くしたんだから。作戦勝ち」と滝川をフォローしたが、太田の怒りは収まりそうにない?! 
 
 
 
「加賀屋女将」 小田孝自伝 
 
「元気でやってるかい」 
1.まえがき  
昭和五十八年五月、天皇陛下の二度目のお宿を賜りました。  
その折、格別のおはからいでご面談を許され、御前に参りますと、ごあいさつもそこそこに、「元気でやってるかい」とのおやさしい御言葉をいただきました。  
この御言葉を、今も想い出しては嬉し涙しています。  
加賀屋の八十年を刻んだ本誌にこの御言葉を表題として使わせていただくことは、私の心からの願いでもあります。 
 
2.心を語る  
いつの間にやら日がたって―というのが、私のいまの感慨です。  
私と同じころの多くの人たちがそうであったように、ワクにはまった“女の生き方”をしてきただけで、とりたてて「これが私の・・・・・・」といえるほどのものはありません。  
でも考えてみるにつけ今日こうしてあるのは、ご愛顧いただいたお客様をはじめ、多くの人たちの陰になり日なたになっての暖かい励ましがあったからこそであります。  
その想い出を記(しる)すことで“一人の女の青春―加賀屋の歩み”としてご理解いただけるならと思います。 
3.わくら、わくらと家なら七ツ…  
ふりしきる雪の中でも海の中から湯けむりのぼる  
今から約千二百年前の大同年間、薬師岳の西麓に湯が湧きだしたのが、和倉温泉の幕開けといわれています。その後、噴出口はふさがれてしまいましたが、約九百年前の永承年間の大地震により、今度は海の中に熱い湯が噴きだしたといわれています。当時の里人を震えあがらせた大地震も、その後の人にとっては、“災い転じて福”となったわけです。  
ふりしきる雪の中でも、海のそのあたりだけは、湯けむりをあげていたのではないでしょうか。そういう風景を思い描いてみますと、能登島に波をさえぎられた湯の涌く浦(湧浦わくら)は、海そのものが大きな湯槽のようなものであったのでしょう。  
湯は、陸から百b余りの海中に湧きでているため、小舟に乗ってそこまで行き、湯をくみとって湯治に利用していたといいます。男衆の中には、海を湯舟にしてプカリプカリと大の字に浮かび、大漁節などをうなる気楽な人もいたんでしょうね。  
江戸の初め頃、藩の命令で、町奉行・石黒覚左衛門さんが、湯の噴出口の四方を石で囲み、その周囲十間余りに土を盛り、湯島をつくったそうです。島に草屋根の小屋を建て、その中に湯槽を置き、小桶で湯をくみいれ、海の水で薄めて入浴したといわれています。  
今から見ますと、おかしいような、羨しいような話でありますが、楽しみの少なかった当時の下々の民にとりましては、何よりのくつろぎの場であったことなのでしょうね。  
湧浦の名は、近郷近在に口から口へと伝わって、年ごとに湯治客が増えていきました。人が賑わえば、自然のなりゆきのように、湯治場から遊び場への色彩が強くなっていくものでして、それは、今も昔も変らないようです。  
それを抑えるために、藩は、庄五郎さんなる人に温泉の支配権を与えて湯番徒としました。湯番徒は湯税の取り立てをする税吏のようなもので、湯へ入る者から入湯金を取り、後には、病気の治療以外では入湯をさせないというような厳しい取り締まりもしたそうです。この湯番徒制度は、明治の初めまで続きました。  
自然からの贈物であったはずの熱い湯を、権力に握りしめられ、当時の人は憤懣やるかたないものがあって、当時のことだったのでしょうね。  
  面のにくいやっぁ  
  小島の湯番徒  
  海へけこめや二十日のやみに  
  あげるふりして  
  またけこめ  
などという凄まじい唄も残っているほどです。  
能登の国の和倉の湯は庶民の温泉気分を堪能させた  
江戸の終り近くに、湯島と板橋でつないだため、舟で渡る不便はなくなりました。粋な女衆と相合傘で、かろうじて二人歩ける心細い板橋を渡って行く浮世絵のような情景が浮かびますが、現実にはどんなもんだったんでしょうね。また、陸との百b余りのへだたりも少しずつ埋めたてられて、半分位になっていたそうです。当時すでに、埋めたてをなされた先覚の方がいらっしゃったのでしょうか…。  
その頃、『たる湯』といって、四斗樽に和倉の湯をいれて、江戸、京、浪速へと運んでいたそうです。なかなかの評判で、高値で取り引きされ、湯屋では『能登の国、和倉の湯』などと大いに宣伝し、珍しいもの好きの庶民の心をくすぐり、また、湯治の好きな庶民の温泉気分を堪能させたそうです。今、東京や大阪からいらっしゃるお客様の血の中に、遠い昔のじじ、ばばさまのあこがれが知らぬまに流れているといえば、少し考えすぎでしょうか。  
一般の里人のものだった湯治場も、後にはサムライも来るようになって、なかなかの繁盛ぶりで、それに応じて随分と整備されていったようです。  
明治になり、藩の後楯を失った湯番徒・庄五郎さんの力も弱まりましたので、和倉村は手切銀、二十貫文で湯の権利を二百五十年ぶりで取り戻しました。その後、住民四十四人で資金を出し合い、『鉱泉営業組合』を設立、元湯を自分達で管理、経営しはじめました。  
湧浦湧浦と家なら七ツ島に湯が出にゃ 誰いこや  
という里唄にあるように、戸数わずか七軒の小村は、人の行き通う用もないところであったのでしょうが、天恵の温泉が湧きいで、その上、自然の景勝の地という環境にいだかれ、今日、海の温泉地として繁栄していることは、自然の恵みもさることながら、先人の努力のたまものであって、まことに感謝にたえないことであります。 
4.加賀の出だから加賀屋と…  
明治の中頃すぎ、和倉にも近代化の波が…  
明治も中頃を過ぎると、裏山を崩し、島までの海を埋めたて、大浴場をつくるなど、近代化の波は、和倉にも押し寄せてきました。ドイツで開かれた万国衛生博覧会で世界三等泉の成績を得たこともあって、評判はとみに上っていったそうです。  
その和倉に浴客を運んだのは『おか蒸気』と『船』でした。金沢―矢田新(七尾)間を、おか蒸気が開通したのは明治三十一年です。それまで、加賀方面からのお客さんは、津幡駅で乗り換え、七尾駅で降り、馬車や人力車、船で和倉にやってきたといいます。羽咋の駅で汽車を降り、気多の大社に参拝したり、邑知潟や眉丈山を右に左にながめながら人力車にゆられ、ゆっくり、のんびり和倉へ向かう方も多勢いたそうです。人々は、今のような急ぎ旅ではなく、過ぎゆく時間の中で旅を楽しんでいたのじゃないでしょうか。  
当時、今は幻の鳥であります“朱鷺”が、美しいうすもも色の羽を広げ、優雅に飛び回っていたそうです。鹿島路あたりの森のそばを通ると、森がボゥーと白く見えるほど、朱鷺が、森いっぱいに眠っていたものだと、後年、土地の古老の方から聞かされました。  
船は江戸時代から使われていましたが、船着き場が粗末で、多少波があると、接岸するのに苦労をしたそうです。そこで、かねてから和倉の湯をことのほか愛していた、穴水村川島の回船問屋・七海屋海兵右衛門さんが、竪固な船着き場を私財を投げうち造ってくれたおかげで、上陸が容易となり、毎日、奥能登をはじめ、富山、直江津と、蒸気船による運航が出きるようになったのだそうです。  
新参者の加賀屋の中に能登らしさが浸みこんでいって…  
竹の弾力を動力代りに使う『カズサ掘り』という工法で、はじめて泉源を掘りあてたのは、大正の中頃だそうです。それまでは、湯が池の中にどんよりたまっている状態でしたから、各旅館では、地下へ松丸太を引き、同じ水位の井戸を掘り、そこまでお湯を誘導し、そこから手桶でくんで、トイで湯つぼにと運んでいたのです。  
そんな明治三十九年九月十日、『加賀屋』は、この自然に恵まれた地に、創業致しました。和倉温泉十六軒目の宿でした。  
加賀屋という屋号は、加賀の津幡出身というところからつけた名でしょうが、『加賀百万石』というと、天下に響く雄藩として広く知れ渡っていますから、それにあやかって、大きく飛躍したいという願いがこめられていたそうです。  
明治も終り近くに、この地に開湯させていただいた加賀屋は、和倉の古い歴史からみれば、新参者。この地風にいえば、旅の人ともいわれかねないものです。しかし、和倉のもつ、さまざまな歴史とわかちがたく密着し、その土の上に咲いた湯の花だったのです。旅の人ではなく、この地に根を張り、土から命をくみとってこそ、咲き得たのだと思っています。  
明治三年、湯の権利を庶民の手に戻してくれた住民四十四名、堅固な船着き場を造られた七海屋さん、埋めたてを進められた和歌崎さん、ポンプ送法による配湯システムを考えられた大井さん……。多くの先人達の身からしたたる汗が浸みこみ、いよいよ華やぎをましていった和倉温泉。加賀出身の創建者小田与吉郎の心の中にも浸みこみ、お蔭さまで八十年。能登らしさの典型ともいわれるようになったのです。 
5.庭を草履で歩きたい…  
田舎力士、旅館を興す  
小田与吉郎(夫・与之正の父親)は、津幡町(石川県河北郡)を山寄りに入ったところにある倉見の大百姓の三男坊でした。それが、百姓で終りたくないという男の夢で、しぶる乃へ(与吉郎の妻)をせきたて、当時三才の男の子を連れて和倉へとやってまいりました。その男の子が、私の夫となる与之正でした。時に明治三十九年九月十日ということです。  
与吉郎はなかなかの力持ちで、田舎相撲では大関格でした。どこかで相撲があると、かならず出場するので名前も知られておりました。商売を始めてからも、相撲関係の人たちが多く泊ってくださり、お客にことかかなかったようです。私がいうのもおこがましいのですが、ヤンチャというか、覇気というか、溢れるような活気を心身にみなぎらせた人であったそうです。  
ところが、百姓のような力仕事はきらいで、「一生のうちに、庭を草履ばきで歩いて過せる暮らしがしたい。そんな商売がしたい」というのが口グセでした。「百姓の三男坊がそんな夢みたいなことをいっていては、どうにもならん」と、母にたしなめられたこともしばしばだったということを、後年、夫より聞きました。  
露地に湯の湧く土地の鼓動が胸にグンと来た  
たまたま、与吉郎の父、与右衛門が持病のリューマチに悩まされ、「和倉の湯につかるのが一番や」ということで、しばしば、湯治に和倉へ来ていたそうです。もちろん乗り物などない時代でしたので、馬に乗り、手綱をひかせて朝早く津幡を出ると、晩方にようやくたどり着いたということです。  
一週間、二週間と滞在することもしばしばだったそうで、柴端旅館さんが定宿だったようです。そんな時、いつ来ても、柴端旅館さんの向かいにある館が、つまり今の加賀屋になるわけですが、いつも大戸を閉じたままで、ひとっこ一人出入りしている様子がないことを不思議に思っていたそうです。女中さんに尋ねてみますと、「あそこはだめですちゃ」とにべもなく答えたといいます。それがかえって面白く、根ほり、葉ほり尋ねるということになったわけです。  
当時は湯元から埋樋で湯をひいており、各旅館ではその客の数によって営業組合に湯銭を払っていたそうです。ところが、奥原さんという人が所有する問題の館では、中庭の露地を掘ったら湯がコンコンと湧いてきたそうで、自分の土地に自分の力で掘った湯に、湯銭を払う理由がないと主張し、和倉で湧いた湯はすべて組合のものという組合の意見と対立したそうです。奥原さんのいい分にも一理あったと思えますが、この一件で村八分のようになったため商売ができなくなり、百姓にもどっているとのことでした。  
この話を父から聞いた与吉郎が、身をのりだしたのはいうまでもありません。かねがね自分の性にあった、これぞと思う商売と出あえるのを待ち望んでいた矢先でもあり、『露地に湯の湧く土地の鼓動』が、胸にグンときたそうです。  
奥原さんと数回の交渉を経て、その間さまざまなことがありましたが、商談成立とあいなったそうです。当時のお金で三千円であったと聞いていますが、所詮百姓でありますから、現金などそんなにあるわけでなく、結局は親類、縁者からお金を借り集めて、こちらへ移住ということになったわけです。  
十二室で三十人収容。それが加賀屋の出発だったのです。 
 
6.アンチが十歳になったら津幡へ帰る  
諸行無常とはいいますが人間ははかないものです  
与吉郎の希望がかなって、“草履ばきで生活ができる商売”を始めたわけですが、乃へは百姓の娘であり、百姓こそは無上の仕事であるという観念に徹していましたので、和倉に移住しようということには反対で、ずいぶんいざこざもあったようです。が、“行く、行かない”の争いをしていてもラチがあかないとあきらめて、和倉へ出てきたのだそうです。  
夫、与之正には姉が九人いましたが、男は夫一人、しかも末っ子で、乃へは「アンチ、アンチ」と呼び、可愛がり、「今は、お父さんがああいうからついてきたけれど、アンチが十になったら倉見に帰って百姓をする」と、口グセのようにいっていたそうです。が、だんだんと商売に興味もわいてきて、そうこうするうちに、“アンチが十になったら帰る”という夢もいつしか薄れ、商売に専念するようになったそうです。  
商売がだんだんと軌道に乗り、大正三年には、離れ座敷を増築、二十室六十人の収容となりました。しかし、夫が十五の春(大正七年)、中学二年の時、与吉郎は風邪をこじらせたのがもとで、亡くなってしまいました。  
草履をはいて庭の中を歩く商売がしたいという願いがかない、順調に発展しようという折りに…。諸行無常とはいいますが、人間ははかないものです。後年、夫は、父の心境を思いやって、ことあるごとに仏壇に合掌し、そっと涙していました。  
十五才という若僧でしたが、旅館の経営者となったわけです。責任は重大ですから、学校も中退して、背水の陣で一家の心をひとつにして、商売繁栄にはげむことになったのです。しかし、気丈だった乃へも、その後しばらくして亡くなってしまいました。  
三食付きで八十銭の頃、「能登つばめ」という週末列車を走らせました  
夫にとって、はじめて増改築に着手したのは、大正十五年、二十一才の時だったそうです。何分にもはじめてのことであり、苦労も大変あったようですが、トンビを着て、下駄ばきで、山から山を材木集めに歩いたことなど、苦しい中にも、楽しかった思い出もあると、よく聞かされました。また、施工をお願いした松井組の棟梁・松井角平さんという方が、頭のいい腕のしっかりしたなかなかの人で、その時、建築についていろいろ教えられたことが、後になり、どんなに役立ったかしれないと、後生、深く感謝しておりました。  
当時の宿泊料は、三食付きで八十銭だったそうです。現在のように一泊二食のお客様はなく、一週間か二週間という保養のためのお客様だったといいます。今の気忙しい時代に比べますと、羨しい限りですね。もっともお料理は、膳の上に四・五品つけるのが、せきのやまだったようです。  
その頃の和倉温泉は、越中からのお客様が多く、富山県でもっていたようなものだったそうです。そこで、金沢からも来ていただこうと、昭和の初め頃に、「能登つばめ」という金沢―和倉間の週末列車を走らせたそうです。また、能登島の向田の向かいにある寺島に海水浴場や見晴らし台、茶屋などを、能登島汽船さんがおつくりになるなど、今と変らぬ観光開発が一体となり進められ、賑わいをみせていたそうです。そんな昭和十三年、与之正のもとへと嫁いできたわけです。 
7.女系家族・四人姉妹の私  
政治の世界に生涯ささげた実父の生き方に何を学ぶ…  
私の父、村弥一は、民政党の代議士桜井兵五郎さんの“懐(ふところ)刀”といわれた人で、津幡町町長、県議をつとめた後も、七十歳で没するまで、選挙のたびに東奔西走する大の政治好きでした。  
祖父の儀太郎も郡会議員を長年つとめた人で、村の家には、これらの関係の人が絶え間なく出入りし、それは賑やかなものでした。選挙ともなると、いろいろな人たちが入り込んでくるので、自分の家じゃないみたいに感じたものでした。  
国の動きなどにそれほど関心があるわけでもない私が、NHKのニュースを毎日欠かさず、選挙のたびにテレビの前に座りこんで夜を明かすことが毎度であるのは、当時感じた熱っぽい雰囲気を、今でも忘れられないからなのでしょうかね。まわりの人は「選挙の結果で人脈をつかむ一流の経営術」と思い込んでいるようですが、勝てば小躍りして喜び、負ければふとんをかぶってくやし涙にくれていた父の面影を、なつかしく思い浮べているだけのことなのです…。  
うちは、女ばかりの四人姉妹で、政治屋さんの父にとってはことのほか不満だったらしく、四人目の恭(舟田)が生まれた時、父は昼間から祝い酒ならぬやけ酒の上、フテ寝してしまったそうです。父を含めて六代に渡る養子縁組で、村の家は続いていたのです。その心中は察するに余りあるのですが、古今東西、こればかりはどうしようもありません。  
小さい頃の私は、姉妹の中で体も弱く手のかかる子でした  
小さい頃、肋間神経痛を患うなど、体も細く弱かった私は、姉妹の中でも一番手のかかる子だったようです。七つか八つの時頭にできたできものがなかなか治らず、父に連られて和倉温泉へ湯治に来たこともあります。同じ津幡出身ということで、父が常宿にしていたのが、『加賀屋』だったのです。しかし、その生涯の大半を、ここのおかみとして過ごすことになろうとは、思いもよらなかったことで、こじんまりとした温泉宿のうす暗い廊下を、頭にできものを作った小さな女の子が、チョコチョコ歩き回り、ゆく末、夫となるべき人と顔をあわせていたのかと思うと、おかしさがこみあげてくるとともに、運命の不思議さも感じます。  
小学校を卒業した私は、地元の津幡高等女学校へ進みました。それまで女学校といえば金沢にしかなく、モダンでハイカラな金沢へ毎日通えることは心楽しいことと、幼な心をワクワクさせていたのですが、父が津幡に女学校を誘致したため、その夢を破られてしまいました。何度か「金沢の女学校へ行かせて」と、父にせがんだのですが、「女の学ぶことはただひとつ。家事全般だ。家事を学ぶのに津幡も金沢もない」と押し切られたのです。それまで、何でもいうことを聞きいれてくれた父の意外にがんこな一面に驚きましたが、女学校創設という大事業に一役かった町長としての体面もあったからなのでしょうね。こうしてなんの苦労も知らない“箱入り娘”はぜいたくな不満を口にしながら、上級学校へと進んだのです。 
8.セーラー服のハイカラ女学生  
セーラー服と黒いストッキングに町の人は振り返りました  
誕生したばかりの津幡女学校の制服は、赤いふちどりのある紺色のセーラー服でした。ちょうどハカマ姿からセーラー服への変り目でもあり、スカートから黒いストッキングの足を見せて町を行く私達の姿は、すれ違う人たちを振り返らせるほど、ハイカラなものでした。でも、そのハイカラさも表面だけのもので、少しでも長めの袖を着るとすぐに、「村佐の娘さんは……」と、近所の人たちから後指をさされるような時代でしたから、行動も慎重にならざるを得ませんでした。  
そんな私達の一番の楽しみは、先生の家へ押しかけておしゃべりをすることでした。親しい今でいうクラスメートと誘い合わせて行くのですが、行き先は決っていたのです。松村先生と尾崎先生。ともに体育の女の先生でしたが、学年の生徒数が五十人足らずの学校でしたから、このお二人は先生というよりも、私達にとっては姉さんのような存在でした。他愛のないおしゃべりの中で、私達は私達なりに青春を楽しんでいたのです。  
好奇心の旺盛な私でしたが、父の権限が絶対の時代でした  
松村先生の下宿で、マージャンをしたこともあります。新しがり屋だった松村先生は、話題も豊富で、マージャンなども先生らしい遊びのひとつだったのでしょうが、好奇心が旺盛だった私はすぐに飛びついてしまい、先生から誘われると、どんな用事もほっぽり出して出かけていったものです。それなら今もマージャンができるかというと、それが全然ダメで、パイの種類さえ忘れています。どうも私たちのマージャンは、同じ字や絵を集めるだけの絵合わせのようなものだったようです。現在は松村先生、尾崎先生とも東京に住んでおられ、数年に一度は、なつかしくお逢いしております。  
私は生まれつき体が弱く、大好きな先生だというのに、体育は一番苦手でした。皮肉なもんですね。それで、油絵の方へ走りだすことにしました。油絵を習うのに金沢に通えることが、ひとつの魅力となっていたことはいうまでもありません。週に一、二度でしたが時には四人姉妹が揃って行ったりもしました。  
先生は飛鳥鉄夫さんという方で、市内の工業高校の美術担当をしていらっしゃいました。飛鳥先生に絵の面白さを教えられた私は、“美術学校でさらに勉強を―”と、思っていたのですが、「女には、もっとほかに学ぶべきことがある」との父の反対に断念せざるをえませんでした。妹達は随分と応援をしてくれたのですが、父親の権限が絶対の時代でしたからね。 
9.身体がキツイぞ、大丈夫か?  
結婚式の最中に赤紙が舞いこんで…  
そうして卒業(昭和六年)―。“箱入り娘”の私を待っていたのは、父のいうところの“女として必要なお茶や生け花”などのおけいこ事でした。でも、それもしばらくの間。金沢の青草問屋の若主人との縁談がまとまり、嫁ぐことになったのです。時に十九歳。  
まったくの世間知らずでしたが、「そんなもんだ」という父のことばに励まされ、文金高島田打ち掛け姿で、おそるおそる式場へ向いました。型どおりの結婚式。ところが、まったく思いもかけないことが起ったのです。  
式場は花婿さんの家の座敷で、両側に両家の親類縁者の人たちがズラリと並び、かなり盛大なものでした。緊張の連続だった式もそろそろ終りに近づき、少し気もゆるみかけた時です。  
正面の戸を開けて、軍服姿の若い軍人さんが入ってきたのです。それまでなんとなくざわめいていた式場が、一瞬にして静まりかえりました。「ただいま、お国に召されました」と、敬礼しながら大声で告げる軍人さんの顔を見て、私は、息がとまるほどびっくりしました。なんと、軍人さんは、つい先まで私の横にいた花婿さんだったのです。十九歳の私には、何が起ったのかとっさに判断がつきませんでした。続いて起った蜂の巣をつついたような騒ぎの中で、私はただじっとうつむいているだけでした。  
結婚式の最中に赤紙が舞いこんだのです。父からそのことを知らされた私は、なすすべもなく、その場に立ちつくしていました。親類、縁者の人たちがなんとなくざわめいていたのは、赤紙が届いたことを、花嫁である私に知らせるべきかどうかと相談していたためでした。あまりに突然のことにみんながうろたえている間に、花婿さんはサッサと紋付きハカマを軍服に着替えてしまっていたのです。赤紙を受け取った花婿さんが、いつの間にか自分の横から姿を消しているのにも気づかないほど、私は緊張していたのです。  
翌々日、花婿さんは金沢の第九師団七連隊におもむきました。  
七連隊に入った花婿さんは、上海事変にかり出され、一年程して背中に貫通銃創を受けて帰って参りました。不意の高熱に悩まされたり、肋膜炎を併発したりで、闘病生活は苦しいものでした。私は、お医者さんから治療法を教わりながら看病に努めましたが、運命の神は味方してくれず、七年間の闘病生活ののち亡くなってしまいました。  
未亡人となった私は、昔の風習で津幡の実家へ帰り、再び村の娘として日々を送ることになりました。あまりにも急激にいろいろなことが起ったため、気持ちの整理をすることが、私にとって必要なことでした。  
箱入り娘の私 加賀屋に嫁いできました  
昭和十四年の春、再び見合いの話が持ちこまれました。相手は加賀屋の若だんな・与之正でした。やはり、数年前に病気で奥さんを亡くされ、二人の女の子がいると聞かされていました。その頃には落ちつきを取り戻していた私は「いつまでもひとりでいても―」という周囲のすすめにのったのです。  
津幡の私の親戚の家が見合いの場所でした。私には父がついておりましたが、与之正は一人でした。その時の様子はほとんど忘れましたが、「体がきついぞ、大丈夫か」と与之正に聞かれたことだけは、今も頭に残っています。  
当時は世間一般がそうでしたが、見合いといっても形式だけで、私がどうのこうのいえるものではありませんでした。祖父が加賀屋を常宿にしており、与之正ともつき合いがあり、そんなところから、話がでたのだろうと思いますが、私は、当然のことのように嫁ぐことが決まったのです。  
あとで聞いてわかったことなのですが、与之正は、「もっと若い人を―」と、思っていたそうです。ところが二女の梅子さんが、私の写真を見て「この人がいい」と決めてしまったそうで、子供に甘い与之正は、ついつい心を動かされたということらしいのです。  
結婚はその年の六月。二人とも再婚ということで、式は内輪だけですませました。幼い頃、湯治客として来た私が、その加賀屋で式をあげ、そこのおかみさんになったわけです。箱入り娘として育った身には、人に頭をさげる客商売など、身内で見聞したこともなかったわけですが、今でも不思議なのは、その時、違う世界へ飛びこむ不安や、いやだとかいうそんな気持ちがまったくなく、まして“覚悟”といった大げさな気持ちなど、持たなかったことです。  
夫、与之正三十五歳。私二十六歳。挨拶の仕方を習うことから始まり、今に至る私の加賀屋での生活が、その日から始まったのです。 
10.お客様の座布団に座った女将  
石橋をたたいても渡らぬ夫と盲ヘビにも怖じずの私・・・  
当時(昭和十四年)の加賀屋は、部屋数二十、番頭さんが一人、板場さん二人、流し場をする人が二人、女中さんが七人。お客さんはいっぱいになるといっても六十人も入りましたかね。明治三十九年に先代・与吉郎が開業した時は、十二室、三十人だったといいますから、ほぼ二倍に拡張されたことになります。とはいうものの、和倉温泉にはほかに伝統のある立派な旅館がたくさんあり、古ぼけた木造三階建ての加賀屋などは、目立たないちっぽけなものでした。  
大きな家に毛がはえた程度の旅館ですから、一度のお見合いで、夫の性格も何も知らないままに“お嫁さん”になった私は、新婚旅行など望むべくもなく、結婚式の翌日からさっそく“おかみさん”として、駆けずり回らなければなりませんでした。  
夫の性格は、『石橋をたたいても渡らぬ』ほどの慎重派、私は『盲ヘビに怖じず』といった風で、がむしゃらに何にでも手を出す行動派と正反対でした。一方では、人の言うことをよく聞くことにしようと私は、アイディアマンの夫の意見を尊重しながらやってきました。先代の与吉郎が企画型、義母・乃へが実行型だったという“加賀屋の伝統”が、そのまま受け継がれたのかしらね・・・・・・。  
おかみ修行中のある日、夫から大目玉をくらいました  
何もわからない私は、お客様の前へ出るのが怖ろしくて怖ろしくて、最初の一週間位は、前掛け姿で帳場や板前さんの手伝いをしていました。そして、はじめて玄関でお客様のお見送りをした時、笑うに笑えない大失敗をしたのです。  
当時は、玄関口のお客さんが靴を履き変える際腰をおろす所に、赤い座布団が並べてありました。聞くこともすることも全て初めての私は、たまたま娘心配で来ていた父に、「この座布団は何のためにあるがかね」と尋ねると、私の身を思ってのこともあったのでしょうが「お前が座ってお迎え、お見送りするがやろ」と答えました。私は何疑うことなく、座布団のひとつに座り、帰りのお客さんに挨拶していたのです。そうしていたところ、「そこは、お前の座るところではない。お客さんの座るところだ」と、夫から大目玉をくらいました。来ていた実家の父は、バツが悪くなったのか、その日は泊らずに帰ってしまいました。万事そんな風でしたが、とにかくがむしゃらに働きました。女中さん、板場さんはみな家族という仲間意識が私にはあって、“おかみさん”などという肩書きはかなぐり捨て、寝るのも起きるのも、みんなと同じ生活をしました。お客さんに対しては一人前の『おかみ』の顔をしながら、実際には『おかみ修行中』の毎日だったわけです……。  
その頃、番頭をしておられたのが、故松田佐太郎さんでした。現在の寿苑(能登ビューホテル寿苑)の先代さんです。その人がお申しこみの受け付けなど、いっさいキリモリしていて、私に一から『おかみ業』を教えてくださいました。昔の旅館は常連客が多いので、お客さんの人柄や癖をわきまえた上で応対しなければいけませんでした。佐太郎さんは、各部屋の前まで付き添ってくれて「この客は、こんな人やから、挨拶はこんな風に」と、手にとるように新米おかみをリードしてくれたのです。 
 
11.何が何でも一流旅館に…  
一番おぞい旅館の女将が一番後に迎えにきてと叱られて…  
何もわからなかった私も、失敗を重ねながら、少しずつ一人前になっていったわけですが、ふり返って見ますと、いろんな人が蔭となり陽なたとなって、私をかばい、教えてくださったからこそ、今日があるとつくづく思っております。  
その中でも、一番印象に残り、一生忘れられないだけでなく、その後の私の心の『芯』のようになったことが、昭和十六年に起りました。  
七尾にあるニッサン肥料という一流の会社のお取り引き先や幹部の方などが、大勢さんで和倉にお越しになられることになり、加賀屋を入れて四軒の旅館での分宿が決まりました。その頃は、七尾まで汽車で来て、七尾の港から船に乗り、湾内を遊覧してから、和倉港に着くというのが、大体のコースになっていました。各旅館では、お客さんが船着き場に着く頃に、波止場までお迎えに出かけるのです。  
その日も私は、いつものようにお迎えに行きましたところ、他の旅館の方もいらっしゃらなく、船影も見えないものですから「少し早過ぎたのかしら」と、一旦引き返し、子供に乳を与えているうちに、そのまま眠ってしまったのです。その時はよっぽど疲れていたのか、気がついた時には、船はもう着いてしまった後でした。髪もほぐれたまま、帯もどうしたのか忘れるぐらいに、波止場へ走って行きましたが、お客様に「一番おぞい旅館の女将が一番後に迎えにくるとは何事だ」と、皆の前でものすごい剣幕でどなられました。  
もっとものことであり、平謝りに謝って、旅館の方へ案内し、お部屋に入っていただきました。ところが、当時、煙草を吸われる方もそう多くない頃でしたのに、灰皿に吸いがらが残っていたのです。「こんな悪い部屋しかないもんが、一番遅くに迎えに来て、その上、掃除も行き届いとらん、こんな旅館に泊れるか…」と、再びこっぴどく叱られました。  
大失敗が、私の頑張りの出発点となりました  
確かに部屋もよくありませんし、すべてが上客を迎えるのに値しない旅館でした。情けない、何ともいえない気持ちで、部屋から出てきて一人になると、ドッと涙があふれ出ました。  
この失敗を補うには、あとは料理しかないと、めいっぱいといっていいほどの料理でもてなしました。翌朝、帰り間際に、「あんなに料理を出されたって、食べきれるもんでない」と、文句をいわれましたが、幾分か、心も柔らいでいてくれたようでした。あとで、うちに泊られたその方は、ニッサン肥料の社長さんだと聞かされ、冷や汗が出る思いでした。  
「これからは、ふんばって、何が何でも一流の旅館にならなければ―。そして、来てくださるお客さん一人残らずに、ちゃんと、お出迎えとお見送りをしなければ……」と、この一件の出来事が、私の頑張りの出発点となったのです。疲れて手抜きをしたくなったこともありました。「これでいいや」と弱気になることもありました。その度に、この日のことを思い出し、私自身を奮い立たせてきたのです。  
戦後、そこそこの体裁をなした頃、再びお泊りいただき、帰り際に、「立派になったね」と言われた時は嬉しくて、嬉しくて、「これもすべて、あの日の教訓のおかげです」と、涙しました。人の縁と申しますか、その方々には今も親しくご愛顧いただいております。 
12.戦時中も細々ながら旅館経営が  
陸軍・海軍のお客さま お国のために…と奉仕  
戦争が激しくなるにつれて、他地区の温泉では遊休旅館が増え、転廃業をよぎなくされ、ミシンなどを据えつけて、ズボンやシャツの軍需品をつくる工場になったところもあったようです。幸い和倉温泉は、湯の効能が大きかったことや、これまで、遊興的ではなく保養本位の旅館ばかりでしたので、細々ながら商売を続けていくことができました。  
昭和十九年の秋頃、和倉温泉の旅館全部が舞鶴の海軍の療養所となりました。二十余軒の旅館の客室は、病室となり、傷病兵さんであふれていました。翌年の春頃だったと思いますが、陸軍九師団の師団長の井関さん、副官の上村さんが能登島での軍務帰りに、加賀屋にお泊りになられた時のことです。その時、海軍の軍人さんたちの姿が見えたものですから、「海軍の療養所になっているのですよ」と、お話ししますと、「陸軍で利用したい」とおっしゃられ、ちょうど、義兄が九師団本部に勤めていたこともあって、陸軍の特別利用施設を受け、将校の保安所となりました。  
療養所ではなくなったので、一般のお客様も利用できるようになったのですが、お見舞いにいらっしゃる傷病兵の家族の方などで、一般の湯治客は、ほとんどいらっしゃいませんでした。といいましても、このような形であっても、営業ができましたのは、当時としては恵まれた方でした。  
私は快く泊っていただくことで、お国のために役立っているという心の張りを感じて、ことのほか、一所懸命にサービスをしました。戦後になって、当時のお客さまが、「あの時は世話になったね」と、ずいぶん来てくださいました。また、「能登へ行くなら和倉の加賀屋」と口伝えの紹介も多く、本当にありがたい思いでいっぱいでした。  
そんなことが、戦後の躍進の出発点にもなっていったのかもしれません。と同時に、夫も私もサービスはその場だけでなく、それ以後の長い年月に影響を与えるものだと、強く知らされたのです。『お客様が必ずまた来てくれる旅館』をと、心懸けはじめたのです。  
お客様が必ずまた来てくれる旅館になりたい  
終戦近くになりますと、七尾には沢山の疎開した兵隊―暁部隊が来たり、六月頃からは、チョクチョク軍艦も入ってきたりと、なんとなく騒然とした気配が漂っていました。そのうち、兵隊さんたちが上陸しはじめ、お酒など民間では見られない時に、灘の月桂冠などを持っていました。一升瓶に麦ワラのツトをかぶせてあるのですが、軍艦の底にでも積んであったものなのでしょうか、包み紙もラベルも見えないくらいに虫が喰って、ボロボロになったものでした。  
中にはヤケクソになったのか「オレたちは命をすてたのや、酒をあるだけ飲ませんか」などとおどす方もいらっしゃり、大変恐い思いをしたこともありました。東北あたりの農村に帰る人たちでしょうか、「別れの会をするから部屋を貸して欲しい」といわれ、食べ物や、わずかばかりの酒を持ちよって、ささやかな決別の宴を張る方もありました。  
私は「お国のためにご苦労さま」と、ただ同然で使っていただきました。八月十五日から、末まで、そんな兵隊さんがよく見えられました。 
13.進駐軍、来たる  
進駐軍の応待で本当の民主主義を学んだ気がします  
終戦直後、陸軍、海軍の軍人さんに変って、アメリカの駐留軍将校さんが来ることになりました。  
第一陣は、九月一日に来る予定でしたが、台風で遅れ、翌日の二日の朝、ジープで乗りこんできました。なにしろその頃は、「アメリカ兵が来たら、青酸加里をふところに山にかくれろ」などと、いわれた時代でしたので、『女、子供は隠れているように』と、市役所からお触れが来て、実際のところ私も物陰から様子を見ていたのです。  
トイレは水洗でしたが、洋式のものはありませんでしたので、夫は、見よう見真似で、座椅子を便器の上にくっつけて急場をしのぎました。今思い出してもおかしくなるようなあわてぶりで、いらない心配をやまほどしたくらいです。  
こちらの食糧に毒でも入っていては…という懸念からでしょうか、第一陣は、カンズメなどを持ちこんできていましたので、お食事の方の心配はありませんでした。恐る恐るの対応ではありましたが、何の異変もなく二晩のお宿をつとめることができました。  
その後、毎週土曜日の午後になると決って来ていただくことになり、それまでは夫にやってもらっていたのですが、三〜四度目かの時に、はじめて私がご案内をしてご挨拶を申しあげました。隊長を中心に五〜六人がズラリと並ぶ部屋に入りました時、手の甲までも毛がモジャモジャと生えた、天をつくような大男たちばかりなものですから、おそろしい感じがしたものでした。  
何をしゃべっているのか、私にはチンプンカンプンでわかりませんでしたが、隊長が何か話をしている時でも、兵隊たちは寝ころがったまま、ガムをクチャクチャかんでいたり、スパスパ煙草をふかしながら聞いている様子に、ビックリさせられました。日本の軍隊では、とても信じられないような光景です。このなごやかで陽気な光景に、おそろしいといった気持ちもいささかほぐれていきました。  
もてなす心は日本人も外国人も同じ  
翌朝、私は、様子やいかにと部屋を伺ってみますと、隊長以下みんな、よだれかけのようなものを首にかけて、歯ブラシを使っていました。そのありさまをみて、「ああ、この様子なら、ムチャなことはいうまい」と、直感しましたので、「恐いことはないから、安心して接待をしなさい」と、女中さんたちにいい、女中さんたちにも接待にあたらせました。  
女中さんの中に、三味線の上手な子がいましたので、「三味線というものを聞かせてあげましょうか」と聞きますと、「OK!!OK!!」と、大変喜ばれましたので、踊りもまじえて披露しました。「三本の糸で、どうしてこんな美しい音がでるのか」「ワンダフル、ワンダフル」と、拍手喝采でした。『敵国人』ではありましたが、遠い異国地にあり、ややもすると白い眼を向けられながら任務についていることを思い、加賀屋流の誠心誠意のサービスを、私が先頭に立ちやったわけです。  
来訪が度重なるごとに打ちとけて、一緒に騒いだり、お酒を飲んだりと、本当に愉快な人たちでした。ただ、加賀屋といえば、魚料理が中心でして、それがあまりお好きではなかったようです。お肉を調達してのすき焼きなど、外人さんの口に合うような味付けにするため、板場さんは苦労をしたようです。毎回少しずつ味を違わせて、反応を見ながら、段々好みの味付けを見つけていきました。そんなこともありまして、短期間ですっかり気にいっていただけたようです。  
「もてなす心は、日本人も外国人も同じ」と進駐将校さんをお迎えして、あらためて勉強させていただきました。 
14.女中さん、部屋にこもる  
いい女中さんを揃えたいと、厳しいくらいに教えこみました  
陸軍の保安所だったこともあって、戦争が終ってすぐに、旅館の体裁をしていたのは、うちぐらいでしたので、住友セメントさんや海陸さんなど、七尾の大きな会社でお客様を接待する時、うちをご利用になることになりました。  
やむを得ずうちへ来られたわけで、部屋のつくりの悪いこともあって、初めは「こんなところに泊らんならんのか」という風でした。それまでは和倉温泉でも超一流の旅館ばかりをご利用のお客様でしたから、“この機になんとかして、うちのお客さんになっていただけたら……”と、必死で応対したものです。  
しかし、かんじんのいい女中さんがいません。他の旅館さんには、年増のしっとりとしたいい女中さんが揃っていました。うちではちょっといい人が入っても、すぐよそへ行ってしまうといった状態が続いていて、何としてもいい女中さんを揃えたいというのが、一番の願いでした。いい女中さんになって欲しいという一念が強すぎたのか、少し厳しすぎたのかもしれません。  
行儀の悪い女中さんにはお客さんの前でもどなりつけましたし、間にあわない人には、後から押し倒して「こんな風にしぃ」といって教えたりもしました。  
その頃、おばあちゃん(夫・与之正の姉のとよさん)も一緒に仕事をしていまして、おばあちゃんがまた、細かい、厳しい人で、よく注意をしてくれていました。  
何の時でしたか、二人で何かいったのでしょう。「あんまりにもうっさい。いじくらしい」と、いって、女中さんたちが部屋にこもってしまいました。今で言うストライキです。  
“女中さんは宝”を信条としていた私には、この時程、ショックだったことはありません。やむなく夜もほとんど寝ないで働きました。人を教えるむずかしさをつくづく思い、「こんな失敗を二度してはいけない」と、心に誓ったのです。  
親しき仲にも礼儀教育は環境で決まるもの…痛感  
ちょうどその頃、柳子さんという人が、うちへ入りました。東京は新橋で芸者をしていた人で、著名人の愛人だったということでした。田鶴浜町に親戚があり、東京から疎開してきて、人の紹介でうちへ勤めるようになりました。私よりちょっと上で四十すぎだったと思います。  
さすが礼儀作法、しつけがきちんとしていて、帯でもきれいに結んで、それは粋な人でした。ことばも標準語ですし、和倉では目立ってアカ抜けした人で、入ってすぐに女中頭となり、接客の方法について厳しく教えてくれました。とにかく妥協のない厳しい人で、ビシビシ教えこむので、私より柳子さんの方をみんな恐ろしがっていたようです。「どっちが奥さんかわからん」といわれたほどでした。私は病気をしたりして、少しの間休んだのですが、柳子さんが客廻りを、ひな子さん(宿守屋寿苑の先代女将さん)が帳場をキリモリしてくれていましたので、何の心配もなかったほどです。柳子さんは十年ほど勤めて、東京で「末広」という料理屋を開いたと聞きました。  
柳子さんが教えてくれた接客法は、私の中にも大きな影響を与えてくれましたし、現在の加賀屋の中にも生き続けています。 
15.膝のすり切れた着物  
お部屋回りでお客様の満足度を肌で知ることができました  
そんな頃、アメリカさんたちの宴席におきまして、知事さん(柴野和喜夫さん)が、お一人お一人にお酌しながら、丁寧に挨拶して回っておいででした。「あんな、えらい人がこまめに…」と、まことに感心いたしました。それで、私もと、お部屋まで必ずご挨拶に回るようになったのです。  
数年前、京都の顔見世に行き、嵐山の『錦』という料理屋へあがりました。きちんと和服を着こなした京風の女将がお部屋からお部屋へとご挨拶に回られていらっしゃいました。九十二歳だということで、「よくやられますね」と感心して、お声をかけましたところ、「あなたを見習ったのですよ」と、おっしゃいます。よく伺ってみますと、何度か加賀屋へおいでになられ、お泊りになられた折、私がお酌をして回っていたということでした。  
「料亭や温泉旅館では、今はどこでも見られるいい習慣だけど、奥さんが元祖や」といわれまして、ひとつの行為が波紋を広げていく、その限りなさに、嬉しいような、こわいような思いをかみしめたのでした。  
余談になりますが、そのせいか現在は、ひざが角質化してしまい、正座することが困難となってしまいました。持っている着物のすべてのひざに当る部分は、すり切れてしまっています。  
お部屋回りは、お客様に感謝するという意味で、おかみとしては欠かせないことですが、お客様の満足度を肌で知るうえでも、これ以上の方法はないということにも気がつきました。お部屋へお伺いした雰囲気で、お客様のうちに対する評価がわかるようになってきたのです。  
採算にとらわれずに、お客様と真剣勝負をするつもりで  
一番最初に、部屋の中を見回しますので、「奥さんはただ挨拶にくるんやない。部屋の中を見にくるんや」といわれました。事実、冷暖房は快適か、額の絵や床の間の飾りは季節に合っているか、曲っていないか、掃除は行き届いているか、お料理は……と、頭を下げて上げるまでの間に、実はこれだけのことをすべてみていたわけです。  
そして、“観察”の結果をすぐに女中さんや板場さんにはね返すわけです。「○○の間の料理はすぐに取り替えて」「でも、予算どおりなんですけれど…」「いいからすぐ替えなさい。あれでは寂しすぎます」。そうしないと、私の気がすまなかったのです。採算を考えることも必要ですが、お客様に満足していただけなければ、“張り”というものがないですよね。  
そんな意味もあって、「できません」とはいわないようにして、一人一人のお客さんと真剣勝負をするつもりで、サービスにあたりました。「何とかという、珍しい名前のたばこが欲しい」と、いわれれば、七尾まで車を飛ばして買いに行かせました。酒宴が始まってから、「富山の酒(銘柄は忘れましたけれど)が、どうしても飲みたい」と、おっしゃる方がいらっしゃり、タクシーを飛ばして砺波の醸造元まで買いに行かせたこともあります。酒宴にはもちろん間に合いませんでしたが、夜中には届きました。  
採算など合うはずもありませんし、無茶な要求だと思いましても、無茶とわかってて要求するお客様の願いがかなえられた時の驚き、喜びは、ひとしおだったようです。  
そんなお客様は、必ず末永くお得意客になってくれましたし、友人、知人の紹介もしていただけました。そんなことなど、客商売の面白さをひとつずつ覚えていきました。 
 
16.呼帆荘の名付け親はおまわりさん 
加賀屋の人気を不動のものにした呼帆荘の建築  
加賀屋の人気を高めたものともいえる呼帆荘は、昭和二十五年五月に完成しました。洋間のローズ、和洋折衷のリリー、すみれ、ぼたん、ゆめなど合計二十九室。いっぱいになりますと百人位のお客さんが収容できました。この計画は、私が嫁いでくる以前、昭和十一年にすでに基礎工事を終えていて、材木も一部ととのっていたのですが、戦時中に旅館の新建築などできるはずがなく、延び延びになっていたのです。終戦を迎えましたので、基礎もでき、資材もあることですので、時代に対応すべきデラックスなものをと建築にかかることにしました。  
しかし、釘もガラスも容易に手に入らず、しかも十五坪以上の建築はまかりならぬという厳しい規則もあり、建設大臣の認可が必要とされていました。  
それで、昔からよく村の家へ来たり、奥能登からの帰りには宿をとられたりして存じあげていました衆議院の益谷先生に、「何とか建てられるようお力添えしていただけませんか」と、会うたびに与之正のみならず私もいっしょになって相談しました。この頃には商売の楽しさもわかってきて、とにかく新しいものをすぐにというのが、せっかちな私の心境でした。  
益谷先生は相談のたびに、重厚な表情で、「待ちなっしゃい。もうちょっとたつと、いいがになるちゃ」といわれるだけでした。しばらくすると、益谷先生は建設大臣に就任。「もうちょっと待て」といわれた意味がわかりました。  
呼帆荘はまさに“お父さん”の手造り  
夫は下馬評を耳にして、心中期するものがあったようで、早速上京し、先生を訪ねていきました。「物には順序がある。まず担当の課長にお前さんの考えていることをいってブチあたれ。それが駄目なら、最後に私があたる」という益谷先生のことばに勇気づけられた夫は、「十五坪以上は建築できない時代に、旅館とはなにごとだ」とケンもほろろの課長を相手に一歩も譲らなかったそうです。  
「ただ金儲けのためにお願いしているのではありません。能登半島の機雷処理のために外国人が五、六人泊まっています。満足な設備ではないし、泥棒にも悩まされているのです。進駐軍が、日本人のために機雷処理に来てくれているのに、盗難にあったら国辱ですから、別棟でお泊めしたいのです」  
「じゃ、こんな広いものはいるまい」  
「もちろん日本人が使うのなら小さくてもよいのですが、日本情緒を味わっていただくためには、せめてこのくらいの大きさが必要なのです」  
といった説明を積んだり、崩したりで、何回通ったことでしょうか。結局は益谷先生の大変なご助力をいただき、許可を得ることができました。  
次は金策です。旧円が封鎖されて、新円が出たばかりなので、持ち金はゼロ。担保だけでは銀行もお金を貸してくれない時代でした。困った夫は、親戚の酒屋に頼み、そこの翌月納めるべき酒税をちょっと借りて、それを見せ金として、銀行からお金を借りたのです。  
当時としてはぜいを凝らしたもので、名前もその頃では珍しく公募という形をとり、「呼帆荘」と名づけました。たしか一等をとられたのは、お巡りさんだったはずです。 
17.“声なくして人を呼ぶ”経営 
一部屋に二人の女中さん 加賀屋方式に人気  
呼帆荘が完成したことで施設がよくなったこともあって、いい女中さんも揃いはじめました。「加賀屋に行くとスリッパがいつの間にか揃えてある」「朝の早い出発でも、女中がいやな顔をしない」と、お客様のご満足のことばもいただけるまでになりました。一部屋に二人の女中さんを配する加賀屋方式をとり、サービス向上につとめたためか、一流旅館のお客様もうちへ来ていただけるようになっていきました。  
いいお客様がどんどん増え、県外からのお客様も来てくださり、呼帆荘の廊下は人でいっぱいで、お客様がぶつかりあうようなこともあったほどです。宴会場が狭くなり、二十七年に宴会場と客室を少し建て増ししたのですが、百人の団体さんですと、宴会をする広間がありませんでした。  
お客さんの方から「奥さん、心配すんなや。外でやりましょう」といってくださったりしました。それはそれで前日は「雨がふらなければいいが…」と、一晩中心配で眠れなかったことも今では懐しい思い出です。  
加賀屋は曲りなりにも大きくなり、三流から二流へと変っていきました。それとともに、私の役目は、大勢のお客さんのお出迎え、お見送り、お部屋へのご挨拶回りと、集約されていきました。掃除や料理運びはお役ご免となり、“おかみさん”としての仕事を“無理強い”されることになったのです。  
お客様が、お客様を呼んでくださるような接待を心がける  
来ていただいたお客様には、必ず満足していただき、また来ていただく…。これがいつも変らぬ信念でした。頭を下げる時も目の前にいるお客様を通して、見えないお客様にも挨拶しているつもりでいました。加賀屋でいい一日を過ごしたお客様が、きっとお友達やお仲間に紹介してくださり、その人たちもいつか来てくださると願っていました。    
今の時代ですと、テレビのコマーシャルが盛んですが、それよりも、お客様がお客様を呼んでくださるような接待を心がけることが大切なのじゃないでしょうか、と、今も思っております。  
女のしたたかな計算でしょうかね。 
18.お前に騙されてみるか… 
能登を舞台とした「忘却のはなびら」が大ヒット  
世の中も落ちつき、能登観光も少しは知られてきましたが、全国的にはまだまだといったところでした。当時、夫は和倉温泉観光協会の会長をつとめていました。和倉を知ってもらうには、まず、能登全体を知ってもらうことだと、あの手、この手を考えていました。  
そこで思いついた案が、『能登を舞台にしたラジオドラマ』でした。当時『君の名は』で大変人気をわかせていました作者、菊田一夫さんを日参することになりました。事務局長の寺西憲一さん、国鉄の旅客課の笹川準治さん、県観光連盟の新保辰三郎さんなどが大変熱心に後援してくださり、ついに、次の作品『忘却の花びら』の舞台が能登に決定したのです。  
昭和三十一年、「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして、忘却を誓う心の哀しさよ」の不朽の名文句ではじまる『忘却の花びら』がNHKラジオで放送されるやいなや、人気急上昇で、東宝がカラーで映画制作にのりだしました。映画も空前の大ヒットとなりました。甘く哀しいストーリーとあいまって、能登の美しい自然が、人々の心を捉え、能登への憧憬が全国に高まったようです。  
熱いおしぼりを持って金沢駅までお出迎え  
ラジオドラマ、映画の大ヒットもあって、東京や大阪のお客さんもふえていきましたので、私は与之正に、「もっといい建物にしたい」と望んだのですが、慎重な夫は二の足を踏み、銀行もなかなかお金を貸してはくれませんでした。あまりに「やりましょう、やりましょう」と、夫をせっついたもので、ついに「お前にだまされたと思って建てるか」と、しぶしぶ着工したのが、竜宮閣で、昭和三十二年のことでした。  
私が積極的に推進した手前もあって、なんとしても成功させなければと、頑張りました。“頑張る”といいましても、何か特異なことをするわけではなく、“ただただ来てくださるお客様が満足してくれること”それのみでした。  
その頃、はじめたのが、金沢駅でのお迎えでした。夜、仕事を終えた番頭さんと女中さんたちが和倉を出発、金沢で一泊して、早朝大阪から夜行で来られるお客様に熱いおしぼりを差しあげるのです。大勢の女中さんに迎えられ、旅で汚れた顔を、熱いおしぼりでふけるということで喜ばれ、大変好評でした。  
決して楽な仕事ではなかったのですが、そうやって、みんな揃って一所懸命頑張るといったような、そんな気風にあふれていました。 
19.感涙とともに両陛下をお迎え 
どうやら一流といわれる旅館への仲間入り  
無我夢中で働きつめた戦後の十年間のおかげで、加賀屋は、和倉温泉の一流といわれる旅館の中に入ることができました。  
そんなところへ、天皇、皇后両陛下が十月二十二、二十三日の二泊でお泊りになるという内意が伝えられました。昭和三十三年の梅雨どきだったと、はっきり記憶しています。古い人間と思われるかもしれませんが、ただただ感激して、身ぶるいしたのを覚えています。  
それまでの普通の考えからすれば、新しいものを建ててお迎えすべきでしょうが、前年の暮れに竜宮閣が完成したばかりでしたので、そこを使うことにしたのですが、お部屋の装飾、ご接待はどうしようか、どのようにしたらご満足いただけるだろうというようなことを考え続け、自分自身さえも忘れてしまいそうな日々であったのが、この時の偽らざる心境でした。  
ご来県の二十日程前、日程が本決りとなり、侍従の入江さん(後に侍従長、故人)や、随行の方、県の係官の方々などが下見に見えられ、「何も特別のことをしなくともいい。そのままの姿でいい」と強く念をおされました。しかし、お泊りいただけるからには、能登観光のためにもご満足いただけるようにすることは当然のつとめである―と、以後は、竜宮閣へのお客様の宿泊はお断りし、清掃、補修にとりかかりました。  
「万葉の間」をお使いいただくことにして、総檜造りの浴場を設けました。あたりの風景をご覧いただけるよう物見台もつくりました。これが大変お気に召されたと、後でお伺いいたしました。  
海苔はいづこ…  
それはもう大変な歓迎ぶりで、沿道に沢山の人が並びました。船では、『いで湯太鼓』を打ちならし、陸では、『七尾まだら』や『石崎の奉灯』が舞うなど、とても賑やかでした。    
両陛下はベランダにお出ましになられ、天皇陛下は白、皇后様は赤の提灯を高く挙げられ、歓迎に応えられました。たいへん寒い日でして、長時間ベランダにお出ましだったので、両陛下のお身体にさわりはしまいかと思いましたが、その真摯なお姿には、心打たれました。  
「お料理は、あまり手を加えないようなものがお気に召される」と、事前に聞いていましたので、そのように心がけ、当時の料理長であった竹田さん(故人)と、十数回試作をこころみたりしました。  
お膳やお椀などは輪島漆器の人間国宝、前大峰さん(故人)や、ほかの方々に特別お心を配っていただきました。また、漆かぶれのようなことがあってはたいへんと、米糖で何回もふきました。九谷焼は浅蔵五十吉さん(芸術院会員)にお願いしました。その鉢、皿類が実に鮮やかなのが、両陛下のお目にとまり「美しい」とお喜びいただいたということを、おつきの方から聞かされました。  
私どもでは、御膳を差しあげる前に御献立を―。たとえば刺身ならワサビ、ノリといったものまで記して差しあげていました。両陛下はその献立表とあわせてお召しあがりになられたようです。  
ところが、ケンのために浅草ノリを水に浸したものをおつけする筈でしたが、板場さんが緊張のあまりつけ忘れたものですから、陛下は、「ノリというのはどれですか」と、ご質問になられました。ノリをつけ忘れただけのことでしたので、すぐお持ちしてことなきを得ましたが、「つけ忘れました」ともいえずに、冷汗ものでした。  
夫は“モーニングを着た三助”掃除まで一切やりました  
二十三日は奥能登に向かわれ、穴水から三井のアテの林をご覧になられ、輪島を経て和倉にお帰りになり、もう一泊なされました。  
夫は万が一のことがあっては取り返しがつかないことになると思い、モーニングを着たまま、お湯かげんはもちろん、掃除まで一切やりました。浴室の横にわざわざ不寝番をする部屋をつくりお世話を致しました。“モーニングを着た三助”は、後年、杉森久英先生の『天皇の料理番』にも取り上げられるほどで、まあ、珍風景だったんでしょうね。  
二十四日の朝、両陛下がお発ちになられる時、従業員、家族一同のものが玄関に並んでお見送りを申しあげたのですが、陛下が私の前に、皇后様が、夫の前にお立ちになり、やさしいねぎらいのおことばをいただきました。私ごときにもったいないと思った途端、自分を押さえることができず、思わず大きな声で泣いてしまいました。それにつられたのか、みんな一斉に声をあげての嗚咽となり、何をおっしゃられたのかよくわからず、翌日の新聞を見て、わかったような次第でした。  
嫁いで三十年目だったと思いますが、ただ何ともいえないありがたい気持ちでいっぱいだったのです。 
20.私は“バケモノ”とも言われましたが  
早朝でも深夜でも お見送りはかかしませんでした  
私のことを“化けもの”とうわさされていた時もあったようです。早朝でも深夜でもお客さんのお見送りを欠かさなかったことから、「よく体が持つものだ」といわれ、それが誇張されて「夜も寝ないでがんばっている」になり、ついに「化けものや」といわれるようになったらしいのです。  
確に、朝早くおたちになるお客様がある日には、前夜から寝ないでいることもあり、深夜の場合は、目をこすってでも頑張りました。ただ、そうしないと私の気がおさまらないからで、それ程意識してやっているわけではありませんでした。私のクセのひとつとでもお思いになって、気になさらないでいただきたかったのですが、なかなかそうは見ていただけなかったようです。まあ化けものなら化けものでもいい……とあきらめて、フテくされていた次第でした。  
「いらっしゃいませ」という私の特徴ある声をテレビかラジオのコマーシャルに使おうと、むすこたちが相談していたことがあるそうです。まったくひどい話です。私のお客様に対する自然に出てきた気持ちを、そんな形で使われては困るのです。化けものは化けものになりきってしまったために、加賀屋の看板になってしまったのでしょうか。  
夫と夫婦というコンビを組めたことを感謝しています  
比べて夫は、能登の美しさに魅せられ、その美しさをひとりでも多くの人に知ってもらいたいという夢に生涯を賭けていました。夢をただの夢に終らせず、次々と形にしていく人でした。  
私が加賀屋に嫁いだ頃のはなしですが、部屋数も二十室という小さな旅館だったこともありますが、その頃はお客様に合わせて仕込みをしていました。数も少なかったせいもあるのかも知れませんが、椎茸の数まで記憶して業者を驚かすといったほど、数字に強い人でもありました。  
増築のために借金をする時も、まあこれくらい借りても返済できるだろうというおおまかな計算ではなく、この部屋の回転率は七十パーセントだからいくら、この部屋は六十パーセントだからいくら……合計するとこれくらいになるから、この金額まで借金できるという緻密な計算のできる人でした。実際、数字通りになるのですから、私は安心して、計算はすべて夫まかせでした。  
ですから、夫が「やろう」とうなずいたことは、必ず成功すると、いつか私は思い込んでいたのです。戦後、呼帆荘を建てた時も、「忘却の花びら」の映画の時もそうですが、夫は、数字で計算できないもうひとつの世界があることをちゃんと知っている人でもありました。  
そんな夫と夫婦というコンビを組めたことを心から感謝しています。おかげで私は、楽しく、苦労はあっても退屈せずイキイキと暮してきました。私が楽天家だといわれるのも、主人の大きな力が、私を支えてくれたからだと思っています。 
 
21.今は、母親として幸せです 
旅館にかかりっきりで子供たちの面倒は姉さんまかせでした  
今は、夫のかわりに、子供たち夫婦が、孫たちが、私を支えてくれています。でも、その子供たちにとって私は、決してよい母親ではありませんでした。旅館の仕事にかかりっきりで、子供たちの面倒は、夫の姉さんまかせでした。  
仕事を休んだのは、四人の子供の出産の時と終戦直後にしばらく入院した時だけでしたから、子供たちと旅行をしたことなど一度もありませんでした。唯一の家族団欒は、お墓参りの帰り、みんなで氷水を食べることでした。  
子供たちは、それをとても楽しみにしていて、その日は朝から「いつ出かけるの」と幾度もたずね、どこへも遊びに行かないで私の手のすくのを待っていてくれました。いとしさで胸を熱くして出かけるのですが、家を離れると、お客さんのことが気がかりで、帰りを急ぐ駄目な母親でした。  
かまってやれない分、甘やかすと、将来ロクな人間にならないと、中学になると、金沢へ下宿させました。森山町の河島さんという家でした。家族の仲睦まじい団欒ぶりにはじめて接し、こんな生活もあったのかと驚いたようです。  
土曜日の午後に帰って来て、日曜日の最終列車で金沢へ帰るわけですが、時間が近づくと、きまって「腹が痛い」や「風邪をひいた」と、俄づくりの病気になり困ったこともあります。子供の将来を考えて鬼になる心と、夜汽車でひとり帰らすことのいとおしさが交錯して、なんともやりきれない思いでした。  
また、土曜、日曜はもっとも忙しいかき入れ時ですので、私は、まったくといっていい程相手になってやれませんでした。夫に向かって、「うちの母さんは、ちっとも子供の面倒なんかみてくれない。あんな母親なら河島のおばさんと変えたらいい」と、不満をぶちまけていたようです。  
それでも四人の子供は、忙しい母親の私を優しい理解のまなざしで見つめ、健やかな子に育ってくれました。大学生になった頃は、私のよきはなし相手になってくれました。  
息子たちも“旅館の良さ”に気づいてくれ、夫と同じ道を歩んでいます  
最初に男の子が二人続いたせいか、夫は、父親として、ひとりの男性として、真剣に子供と向かい合っていたようです。長男が東京の大学へ行った時など、用事にかこつけて、よく上京しました。私が、「また東京ですか」というと「仕事、仕事」といっていましたが、目的は、すし屋で好物のゲソを肴に、長男と二人で酒をくみかわすことにあったようです。  
東京の大学を終えると、すぐに和倉に帰って、当然のごとく家業に専念してくれました。帰ってすぐは、“宿屋”をあまり好きでなく、学生時代に習ったホテル式の合理的なやり方に憧れを抱いていたようですが、“旅館の良さ”に気づいてくれ、夫と同じ道を歩んでくれています。  
渚亭を建てる時でした。夫は健康もすぐれなかったこともあって、迷っていました。それを禎彦(長男)と孝信(次男)が説得したため建てることが決ったのです。いつのまにか二人は、夫の生き方から多くを学び、若いエネルギーでもって仕事をしはじめていました。「若い時の自分を見るようだ」と、夫は幸せそうでした。  
真弓さん(長男の嫁)、恭子さん(次男の嫁)をみていると、また私も夫と同じような気持ちになれることが、母親として嬉しいことだと、今は幸せをかみしめています。