万骨枯る

また8月がくる 
シベリア抑留から帰った親戚のおじさんの話を思い出す 
 
本音と建前の使い分けは日本の文化 
それでも信じて多くの人たちが死んでいった 
「気概」の持ちようか 
教育に 新しい国を思う「気概」創りを加えたい 
 
政治の過ちで万骨が枯ることもあります 
争いに敗れれば山河もなくなるでしょう 
争いは戦争だけではない 政治・外交・経済・資源確保・情報・環境維持など山とある 
 
手始めに選挙 投票へ行こう
 


富士フイルム渡満隊の思い出
 
  
「一将功成って万骨枯る」 曹松  
巳亥歳         巳亥の歳  
沢国江山入戦図   沢国の江山 戦図に入る  
生民何計楽樵蘇   生民 何の計あってか樵蘇を楽しまん  
憑君莫話封侯事   君に憑(ねが)う 話る莫れ封侯の事を  
一将功成万骨枯   一将功成って万骨枯る
  
「國破山河在」 (国破れて山河在り) 杜甫   
これは、唐の杜甫の五言律詩「春望」の最初の一句である。  
杜甫が仕官という年来の希望が叶って、右衞卒府冑曹参軍なる官職を与えられたのが四十三歳の時であった。どうにか希望がかない、これから安定した生活が出来ると思った矢先に、突如、安禄山が反乱を起こした。  
安禄山は北東方の節度使として十八万を越える兵力を握り、今の北京に近い范陽にいたのだったが、玄宗皇帝の左右にはべる不忠の臣を討つと称して兵を挙げた。七五五年の十一月のことである。破竹の勢いをもって南下した彼は、正月に東都の洛陽を陥れて大燕皇帝と称した。その年の五月、長安の都も危機に見舞われ、玄宗皇帝を始め長安に住まう官吏や貴族たちは都落ちのやむなきに至ったのである。  
杜甫もまた妻子の居た長安の東北方の片田舎へ命からがら脱走したのであった。その田舎も安全とは観られなかったので、更に辺鄙な羌村という田舎へ妻子を疎開させた杜甫は、当時玄宗の太子で西方の霊武という片田舎で即位した粛宗の朝廷へ参内すべく出発したのだったが、しかし忽ち賊兵の手に捕まり、囚人として長安に送られてしまった。  
彼はこうして囚われの身となったが、幸いなことに彼の官位はあまり高くはなく、また白髪頭の弱々しい老人であったから、生命を許されたばかりでなく、監視も比較的緩かった。杜甫は兵禍にみまわれ、見る影もなく荒らされた都の姿を身をもって体験することが出来たのだった。  
安禄山は元来胡人である。従って彼は胡人から組織された軍隊を養っていた。猛々しい胡兵が我が物顔に馬を乗り回し、婦女子は怯えおののき、乞食に身を落として街に顰みうろつく王孫公子達もあった。杜甫自身もまた人目を憚るように長安の街を歩き、悲しい風物を観、そしてその悲哀を多くの詩に歌ったのである。  
「春望」もまたその一つである。  
国破れて山河在り―――  
それは都の建物が破壊されたとか、唐室が安禄山に負けたというだけでなく、国が壊された、秩序も破棄され、機構も破られ、人民の拠り所は全くなくなってしまった、という悲しみをさしているようである。  
安禄山の乱はその後、史思明親子の乱となって後を引き、完全に片が付くのには九年間かかった。しかも当時にあっては世界随一の大国家であったろう唐朝は、この乱によって極盛期の秩序と威力とを回復する実力を失い、武人は割拠し、ずるずると沈滞していったのだった。つまり唐朝の基盤はこのとき破れたといってよい。  
国は破れたのである。  
「春望」 長安の賊中にあって春の眺めを述べる  
国破山河在   国破れて山河在り  
城春草木深   城春にして草木深し  
感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ  
恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす  
烽火連三月   烽火 三月に連なり  
家書抵万金   家書 万金に抵る  
白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く  
渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す  
都は滅茶苦茶になってしまったが山や河は昔のままであり、長安には春が訪れて草や木が深々と生い茂っている。世の中の有様に心を動かされて花を観ても涙をはらはらと零し、家族との別れを惜しんでは鳥の声を聞いても心を傷まさせている。打ち続く狼煙火は三月になってもまだ已もうとせず、家族からの便りは万金にも相当するほどに思われる。白髪頭は掻きむしるほどに抜けまさり、まったくもって簪を受け留めるのにも耐え兼ねそうだ。
  
昔 シベリア抑留から帰った親戚のおじさんから聞いたことがある 
「ただただ生きて帰れたことがうれしい」 
前歯は何本か欠けていた 
戦闘のことや抑留生活のことは一言も口にしなかった
  
  
  
 
 
  
  
  
  
  

 
2013/7  
 
 
富士フイルム◯渡満隊の思い出
一 蘭の花咲く満州へ  
一九四五年六月ごろ、私は富士フイルム会社・足柄研究所の第四科で、写真フイルムの現像液の研究に従事していた。研究テーマは「熱地における現像液の研究」。南方の戦場で使用するため、現像温度が高くなってもカブリ(感光していない部分が感光したように黒くなる現象)の出ない、加えて膜面が弛んだり、皺(しわ)がよったりしない現像液を開発することであった。研究方法は、まずメトール・ハイドロキノール・炭酸ソーダ・ブロームカリなどの基礎薬品に、いろいろな薬品を加えてテスト現像液を作る。次に、乾板(ガラス板に感光乳剤を塗布したもの)をガラス切りで細断したストリップというガラス片を感光させて、暗室の中でテスト現像液で現像する。そのストリップを乾燥し、感光度試験機でカブリの状況などを調べる。このテストを何度も繰り返して、目的に合致した現像液を開発するのである。  
最初は、伊藤肇氏という写真専門学校出の主任の下で研究を始めたが、間もなく主任が出征してしまったので、私が別の上司の助言を受けながらひとりでこの仕事を続けていた。伊藤氏は青年学校の教師も兼任していて、ポンちゃんという愛称で親しまれていたが、その後まもなく戦死の悲報が入ってきた。  
この頃になると、太平洋戦争の戦局は、日本にとって次第に不利になってきた。前年マリアナ沖の海戦で、海軍は戦艦や航空機の大半を失い、七月にはサイパン島の守備兵が玉砕した。十月のレイテ沖の海戦では、神風特攻隊が奮戦したが敗戦は覆うべくもなく、マリアナ基地の米軍は、B―29の本土爆撃を開始した。この年の四月には、沖縄本島に対して、米軍の猛攻撃が始まっていた。研究所の私の身の周りでは、親しい先輩の武寅蔵氏や吉田一夫氏をはじめ身近かな知人が次々と召集されて行った。同室では井上長作君が、少年飛行兵に志願し出征した。  
当時は酒が配給制でなかなか入手できなかった。某先輩が出征する際、私に合成酒の処方を伝授して行った。そんな関係で、出征兵の送別会があるとよく私の所へエチルアルコールやグリセリンが持ち込まれた。私がそれを元に数種の薬品を加えて合成酒を造り、喜ばれたものである。若気の至りとはいえ、今考えるとずいぶん不埒なことをしたものである。  
同じ頃、研究所の中に、「近く、会社が満州(現中国東北部)に進出するので、派遣する隊員を選考しているそうだ。」「研究所からは殿城さんが行くらしい。」という噂が広まった。徴兵検査前後の先輩達がしきりに殿城利之氏の研究室を訪ねて、積極的に自分を売り込んでいるらしいということだが、だれが同行するのがいっこうにわからなかった。  
そんなある日、私は殿城氏の部屋に呼ばれた。私は今の研究に入る前は、殿城氏の下で、「映画フィルムの研究」に従事していた。懐かしいその暗室に入ると、殿城氏は、「今度満州に行くことになったんだけど、瀬戸君もいっしょに行ってくれないか。会社は満州に進出して、満映(満州映画株式会社)とタイアップして、満州に一大映画王国を建設しようということなんだ。君も会社が始まれば、二百人ぐらいの中国人を使って仕事をすることになるだろう。僕は君が行ってくれると助かるんだがね。」と言うのである。  
突然の話で返答に窮したが、良く考えてみると、〈どうせ国内にいても、近い将来に徴兵検査があり、その後は召集令状が待っているだけだ。思い切って、殿城さんと満州に行くのも夢があっていいかもしれない。しかし、母子家庭の我が家にとって、私が家族を国内に置いて満州に行くことが可能だろうか。たった一人の弟は、まだ工業学校にはいったばかりである。果して母親が許してくれるだろうか〉いろいろ思い悩んだ末に、返事は二、三日待ってもらうことにした。  
その日から母の説得を始めた。「将来の生活設計に夢を持つために、多少のリスクはあるが今しばらく弟とふたりで頑張ってもらいたい。」「満州の仕事が一段落したら、直ぐに迎えに来る。」「どうせ国内にいても、すぐに徴兵検査がある。そうすれば、召集されてどこの戦場へ行くか分かったものではない。」  
「弟もいることだから、気を強く持って辛抱してほしい。」と渡満の長を深夜まで粘りづよく説いたが、母は最後は沈黙して涙ぐんでしまう。それ以上の説得はあきらめて出勤する。翌日も帰宅すると、夜は渡満の話を続ける。こうして三日目の深夜やっと納得を得ることができた。  
かくして私は、◯(マ) 渡満隊の一員として満州に渡ることになった。満十八歳、身分は軍属である。行く先々のことはいっさい軍の機密ということで、はっきりしたことは分からなかった。  
 生まれ故郷を後にして 俺もはるばるやってきた  
 蘭の花咲く満州で 男一匹腕だめし  
 金もなければ地位もない 生まれついての丸裸  
 持った度胸が財産さ やるぞ見てくれこの意気を  
何という題名だったか忘れたが、これは当時私がよく口ずさんで自らを鼓舞した流行歌である。蘭の花は、日本の作った傀儡政府・旧満州国の国花であった。 
二 ◯(マ)隊員、高岡に集結  
「からだに気をつけろ!」「元気でやってこ―い」「がんばれ―」   
歓呼の声に送られて、やっと一人前になれたようなくすぐったい優越感と、別離に伴う感傷的な悲壮感にひたりながら、小田原駅を出発した。  
見送りの人々が次第に視界から消え、デッキの手摺につかまり、行李(こうり)とトランクを体でおさえ、空いた手で手荷物を持つという不自然な自分の姿勢に意識が戻ると、フッと涙が出そうになった。三日三晩、昼の勤めを済ますと、夜は眠らずに持ち物を整えてくれた母の姿や、工業学校一年生のあどけない弟の姿が、こもごも浮かんでは消えていった。矢のように消え去る足柄平野・酒匂川・国府津の海・・・、これが見納めになるかもしれないと思うと、無性に懐かしく感じられた。  
二宮・平塚・茅ヶ崎・・・と小田原を遠ざかるにつれて列車が混んできた。車内にいるはずの同行の人達のことも気になったが、デッキがぎっちり混んでいるので、荷物の多い私は身動きするのが精いっぱいであった。しかたなく母の煎ってくれた落花生をボリボリかじりながら、来し方行く末に思いを馳せていった。  
やがて列車は午後五時三十二分東京駅に着いた。行李を背負ってトランクと手荷物を両手にホームに降り立った私は、先ず殿城氏一家の姿を見つけ家族と対面した。殿城氏と生後間もない女児・亜美ちゃんを抱いた奥さんが笑顔で迎えてくれた。研究所一科(写真乳剤研究)の中沢義行氏一家とも合流し、ここで東京駅で下車した全員が点呼を受けて後、一行は上野駅に向った。  
上野駅では集合場所を間違えた隊員もあって多少混乱した。ここで班編成が行なわれ、私たちは中沢分隊長のもとに二十一グループをつくり、一時間ほど待って午後九時発の信越線に乗り込んだ。  
幸運にも坐席は確保できたが、人間が満員の上に大きな荷物がいっぱい持ち込まれたので、網棚も通路も人と物で溢れ暑苦しくて堪らない。電灯は半数しか点いていないので本を読むこともできない。外は雨が降っていた。途中原因不明の事故で二時間ほど立ち往生した。旅行経験に乏しい私にとって、じっとしていることはきついお仕置きである。水汲みを頼まれると、ホッとする思いで車窓から飛び出し嬉々としてホームの水道に走って行った。  
翌朝四時頃、日本海が見え始めると、太平洋側と違う海岸の風景が話題になり始めた。その頃になると、殿城氏や中沢氏の奥さんたちともすっかり打ち解けて、笑顔で盛んに会話を交わし始めていた。  
富山駅では、先発の佐藤徹氏(◯(マ)隊の隊長・満州工場での工場長予定者)が出迎えてくれた。七月五日午前十時三分、列車は富山県の高岡駅に到着した。改札口には、先発の隊員が出迎えに来ていた。その中に見知った金子東助氏・平岩一夫氏・一杉博氏たちの姿を発見した時はホッとした。行李などの大きな荷物は後から車で届けてくれるということで駅に預け、手弁当だけをぶら下げて、馬喰国民学校まで行進した。  
講堂に落ち着き場所が決まると、他の工場から来て高岡で合流した吉住正四郎君と二人で風呂屋に行き、帰りは手拭いを頭に乗せて乾かしながら高岡の町をぶらついた。吉住君は私より一歳年長で、満州の遼陽に着くと内地から召集令状が来たので、再び内地に戻って行った。  
高岡は物資は豊富で、買って帰りたい物が沢山目についた。お客が増えたら、先刻まで九円だった弁当箱がいつの間にか十円になっていたのには驚いた。帰ってトランクを枕にひと眠りした。午後四時に夕食。食後、明日の乗船に備えて行李の荷を解き、満州に着いてから使う物と、それまでの旅行で使う物とに仕分けして再び行李を縛り直し、仮眠をとった。九時頃、中沢分隊長が帰ってきて、乗船が一日延びたことを伝達したので、再び安心して深い眠りに落ちた。翌六日はのんびりと講堂のピアノを叩いたり、荒平家や佐藤家の子供達の遊び相手をしたりして過ごした。 
三 伏木港から羅津港へ  
七月七日、午前四時半起床。出発準備。八時半馬喰国民学校校庭に集合。点呼を済ませ伏木港まで徒歩で移動した。波止場の倉庫で乗船まで休息することになった。  
波止場には貨物船や艀(はしけ)など大小多数の船が停泊していた。大豆の入った南京袋が山積みになっていて、、満州との頻繁な往来が想像された。船の蔭で白人の捕虜が屈んで大の用を足しているのが見えた。他にも汚れたシャツを着た数名の白人捕虜が南京袋を船から担ぎ出していた。  
乗船についての説明があった。断片的に残っているメモを転記しておく。  
暁部隊 第二大隊 第一中隊 安藤隊長、輸送指揮官 新井中尉  
坐席(仕切りなし)一坪に五人の割 荷物はリュック程度、片手は使えるように帽子は顎紐(あごひも)をしめる。ゲートルの上から靴を履く。  
短時間で乗船。頭上と足下に注意。水がないので火気(特に煙草)に注意。船旅は三日から六日ぐらい。船から物を投げない。筏は二十五人に一艘用意。  
決死行(二◯・七・七)  弱冠立志向蘭邦 前途洋々燃大望 一敵襲生死託何 人間万事塞翁馬 乗船を前に  長治  
七月七日午後三時伏木港より乗船 船中にて一泊 船は石炭の輸送船。広い船倉にゴザを敷いただけ。便所は舷側に張り出した木造の仮設の囲い、取っ手につかまって下を見ると、遥か下で日本海の海水が舷側を打っている。  
八日 七尾港にて一泊  
九日 三国港にて一泊  
十四日 羅津港で下船 国民学校に一泊。煙草・キャラメル支給。  
船が動き始めると、最初は船酔いに苦しむ人が多発したが、日が経つにつれて治っていった。夫婦者の多い船中では、独身者はわびしいものである。たまたま私たちの一坪の区画の中に他の団体の新婚不夫婦が同居することになった。貨物船の中には娯楽施設もないので、坐席に座り込んでいることが多くしばしば目のやり場に困ることがあった。本を読んでいても落ち着かないので、荒平家の俊一・昌延兄弟を相手に遊んで気を紛らわしていた。時々甲板に出ても、毎日見えるのは大きな波のうねりばかりである。  
四日目の午後、船内で演芸会が開催された。途中で、トイレに行きたくなって、鉄梯子を上りハッチを押し上げて甲板に出た。外は暴風雨で、夕暮れの闇の中に見上げるような大波が甲板を洗い流していた。波に翻弄されて船が大きく左右に傾くので、次に取り付けそうな所をしっかり見定めては必死に仮設トイレに接近した。やっとの思いで用を足し、ハッチの蓋の所にたどり着いた時は、命拾いしたような気がした。  
七月十四日午後、輸送船は羅津港の入り口で停止した。羅津と清津・雄基とは、北鮮三港と称され、満鮮への玄関口として重要な港であった。港の背景には、草木の疎らなゴツゴツした禿げ山が水墨画のように連なり、異国情緒を漂わせていた。港内には数隻の大型船舶が停泊していた。昨夜、B―29が飛来して、港内に沢山の機雷を投下して行ったそうで、掃海艇という小型の艦艇がめまぐるしく走り回って、機雷の除去に活躍していた。船倉から甲板に出てきた乗客たちが大勢珍しそうに見物していた。  
掃海艇の活動が停止すると、私たちの輸送船が大きく左に旋回を始めた。その途端、物凄い轟音とともに高さ数メートルの水柱が沸き上がった。絵本でよく見かけた蛸入道の頭のような大水柱であった。  
その反動で、船体が大きく傾いたが、二三度揺れ戻しているうちに常態に復して静止した。一瞬、沈没するのではないかとヒヤッとした。命拾いをした思いで船倉に下りてみると、真っ黒な石炭のかけらが坐席のあちこちに散在していた。それを見て、この船が石炭の輸送船だったことをあらためて自覚させられた。  
〔渡満に際し持参した品々〕  
図書類 / 教科書・・中学五年の代数・幾何・国語・漢文 / 参考書・・解析幾何学・順列・微分積分・現代 / 文の総合研究・英語単語集・英語の研究(文法)・ドイツ語 / その他・・名将言行録・理の探求・芥川龍之介全集・ペン習字  
衣服類 服(上衣)二着・ズボン三着・靴二足・靴下三足・靴二足・ゲートル一本・パンツと褌若干・手拭い・ちり紙・石鹸薬品類 ヨードチンキ・包帯・メンタム・かぜ薬・緩下剤  
その他 万年筆・インク・はがき・ノート 
四 遼陽にて  
十六日午前零時 吉林  
十七日朝 新京 煙草・キャラメル・飴配給  
十八日 奉天で乗り換え午後七時 遼陽に到着・内田荘 桔梗ホテル、遼東ホテルに分宿  
〔内田荘〕二十五人  
一六号 殿城俊之家族三人 / 三一号 佐藤徹家族五人 / 二一号 川口栄太郎家族五人 / 二〇号 中沢義行家族三人 / 一一号 加藤半治・鍵和田稔・吉住正四郎・瀬戸長治  
〔桔梗ホテル〕  
生地部四人・松崎長家族・岡崎光夫家族・平岩一夫・一杉博ほか  
〔遼東ホテル〕  
修理部・山本貞美家族・本間茂家族ほか 計六十二名  
吉住正四郎君の応召  
七月二十日午前零時までに入隊。憲兵隊に処置を聞く。新京本部に電話して、帰国の手続きを取る。東亜交通公社にて切符を購入。食料 十日分 大豆・塩(船中で船員から十円で買う)外食券  
下痢に苦しむ  
内田荘に宿泊し始めて、私だけでなく他の隊員も下痢で苦しんでいることが分かったのは、尾籠(びろう)な話だが、トイレのなかであった。半濁音のはいった破裂音は、どんなに隠そうとしても隠しけれるものではない。よくトイレの出会い頭に、互いに照れ笑いをしながら、「や―、まいったね―。」と言葉を交わし合ったものである。なぜみんなが下痢をしているのかいろいろ話し合っているうちに生水の飲用が主因で、その他に食べ物や生活リズムの変化、それから暑くて寝苦しいので布団を剥いで寝冷えしたことなどが原因だろうという結論になった。下痢の症状が一週間ぐらい続いて、顔はげっそりやせてしまった。それでも、日課になっていた勤労奉仕を休むことはなかった。  
奉仕先は富士紡績会社の進出企業である満州紡績会社。ここでは現場作業の一部を分担させられた。横浜ゴムの出先である満州ゴムという会社へも出かけた。ここでは◯(マ)隊員の修理部社員が中心になって、空調の施設を修理した。隊員は、輸送中の機械が届くまで、食いつなぐため、また体力・気力を維持するために勤労奉仕が要請されていたようである。 
五 夢は破れて   
八月十三日の朝。ここは遼陽市の中心街にある遼東ホテル一号室の大広間である。幻の満州化工厰の工場長になるはずであった◯(マ)隊長佐藤徹氏は、連日の会議や交渉で疲労しきった蒼白な表情で、二、三名の幹部とともに床の間の柱にもたれて坐っていた。その前には、婦女子を除く四十名足らずの隊員が、ずらりと両側に向かい合って着座した。八月九日のソ連軍の空襲、続く戦車の南下やその後の様々な情報が、隊員を極度に疑心暗鬼に駆り立てている。六十二名の隊員は、日頃は内田荘・桔梗ホテル・遼東ホテルに分宿して生活していたが、今日は重要な会議があるというので男ばかりがここに集合したのである。  
隊長がおもむろに語り始めた。  
「本日集まっていただいたのは、他でもありません。皆さんもご承知のごとく、今やソ連軍が連合軍に加わって日本に挑戦してきました。一両日の進撃速度は目を見張るものがあるが、我が軍の抵抗によりその鋭鋒は鈍化しており、事態は諸君の憂慮するほど悪化はしておりません。私は昨日やっとのことで新京から帰ってきましたが、まだ市内はたいして動揺はしておりませんでした。一部の婦女子が引き揚げのため、南下の列車に殺到しているという程度で・・・」  
この時私は隊長の現況の把握に激しい危機感を覚えた。実は昨日、満州ゴム株式会社経理課長の二見賢二氏から次のような情報を得ていたからである。  
『赤軍(ソ連軍)は南下の勢いが激しく、十二日午後には既に佳木斯(ジャムス)・ハルピンの線まで南下し、その勢いは怒涛のごとく、現在の関東軍では到底抵抗はおぼつかない。軍の予測では、近いうちにこの遼陽も戦場と化すかもしれない。そこで、満人(中国人)は頼りにならないから、日本人の男という男はすべて武装して警備につくことになっている。いま在郷軍人にずっと通知してきたので、君にもそっと知らせに来た。ま、帰国の見込みはないから、我々と一緒にがんばるんだな。』  
また、二見課長と親しかった東亜交通公社の浅井中尉と、満州に来てできた同年の友人の今福・山崎・鶴田(いずれも大学生や会社員)の諸君に過日、召集令状が来て出発することになり、今夜、二見氏宅で送別会をするからと、私も招かれていたのである。(結局、私はこの送別会の前に、慌ただしく遼陽を発つことになってしまった。)  
二見課長から得た情報は、すぐに平岩氏他の若い幹部の耳に入れておいた。  
「隊長! 今、敵はそんな呑気な状態ではありません。」  
と発言した平岩氏は、私が二見課長から得た情報をくりかえし説明した。会場はにわかに騒然となり、隊員の懐疑的な眼が隊長に注がれた。隊長は、渋々うなずいてまた話を続けた。  
「それでは、今日までの我々の渡満の動機や経過の概要をあらためてお話しして、今後の◯(マ)隊のとるべき行動について皆さんのご意見を伺いましょう。」分厚いファイルをめくりながら語り始めた。  
「まず我々は、山田関東軍司令官の斡旋により満州に新工場(仮称 満州化工厰)を建設することになりました。資本金二千万円(うち政府補助五百万円)の工場を建設すべく交渉中であります。一方、輸送された機械のほうですが、厳重に梱包して三隻の貨物船で輸送し、順調に行けば我々の到着する前に着いているはずでした。しかるに、第一の船は、横浜を出航した所で艦載機の銃撃を受け、辛くも逃れることができたが座礁してしまったという電報が入っている。機械や荷物がどうなったかは不明。第二の船は、函館港でB―29の爆撃により撃沈され、第三の船は、横浜の港外で駆逐艦により襲撃され命からがら港内に逃げ込み二度、三度出たり入ったりしていたが、その後の消息は不明。機械・荷物については春木栄社長が帰国して調査することになっています。」  
つまるところ、我々隊員だけは全員が無事に渡満できたが、機械や荷物はみんな沈んでしまったらしいということである。  
「なお、これらのことは、船中以来しだいに分かりつつあったことですが、判然としたニュースではないのでお知らせしなかった次第です。」  
この秘密主義に対して、一斉に非難の声が起った。  
「そこで・・・、今後の方針ですが・・・」隊長は声を励ましながら続けた。  
「若い元気な方々は、なるべく日本に帰って、また富士フイルムのために活躍してください。しかし、こちらで暮らしたいというご希望の方は、不行き届きですが、私が上層部に知人がいる吉林の火薬工場で、十人ぐらいなら賃金も住宅も責任を持って引き受けてくれることになっているのでお残りください。」  
再び、室内にざわめきが起った。残る者の行く先が、所もあろうに吉林とは! 九日の初空襲でもソ連は吉林を襲っているではないか。吉林は新京・奉天とともに満州の三大都市の一つで、もっとも戦火に巻き込まれやすい都市である。隊長の言葉は続いた。  
「では、早速ですが、残る方と帰られる方に分かれてください。」  
ざわめきが一層激しくなった。やがて、平岩氏、金子氏の若手幹部が次々に発言した。  
「佐藤さん! ほとんど帰国ですよ。」  
「残る人間を数えた方が早いんじゃないですか!」  
「冗談じゃない。吉林なんて真っ平だよ。」  
しばらくざわめきが続いたが、残留に挙手する者は一人も出なかった。  
「そうですか。残留者はないですね。私は改めて皆さんにお詫びしなければなりません。七月七日以来今日まで、船中・車中を通して、常に行き届かぬ指揮のもとに、よく辛抱してくださいました。私は残念ながら私的な事情で皆さんと一緒に帰国することはできません。どうか途中体に気をつけて帰ってください。・・・最後に隊長となって帰りの指揮を取ってくださる方を決めてください。」  
「帰りの編成のことは、後にしたら・・・」という声が出ると、隊長は突然厳しい口調になって、  
「いや、私の前で隊長を決めてください。・・・舟生さんは、まだ十分にお体が回復されていないでしょうから、大野さん、どうでしょう。お願いします。」  
大野氏はどぎまぎしながら、「ええ、私は到底そのお―、責任にたえられる人間ではありません。どうぞ他の人に・・・」と辞退したが、大方の隊員の賛同で、隊長は大野浩氏、参謀格は松崎長氏・金子東助氏・平岩一夫氏と決定し、いよいよ帰国の途につくことになった。  
隊長一家の残留  
佐藤隊長には奥さんと三人の子供が同行した。長男の信君(当時四歳)・長女の総子さん(当時六歳)・次女の孝子さん(当時一歳)である。このうち信君と孝子さんの二人は、旅行中の列車や船の劣悪な環境に冒され、すっかりやせ細ってしまった。遼陽滞在中に、孝子さんは麻疹(はしか)をこじらせて死亡した。他の二人も、八月十三日には麻疹の最中で、奥さんが四六時中の看病で憔悴していた。しかも、隊長は連日の会議や交渉で外泊が多く、家族がともに過ごした夜は、せいぜい三日か四日ぐらいであったろう。  
隊長は、事業にやぶれ、部下と職場を一挙に失い、家には病床に呻吟する二児を抱え、看病疲れの妻と四人で異郷の地に残留することになり、さぞかし無念やる方なかったことであろう。  
十三日午後、私たちは後ろ髪を引かれる思いで、知人たちに挨拶する暇もなく遼陽を後にした。遼陽でできた知人、二見氏・今福君・山崎君・鶴田君たちのその後の消息は不明である。  
隊員内地引揚げ申請書より  
昭和四十三年五月一日、富士フイルム会社社長・小林節太郎氏から厚生大臣園田直氏宛て出された『◯計画による在満並びに内地引揚げに関する申請書』から、本文に関係のある部分を抜粋しておこう。  
◯ 施設機械の移設  
昭和二十年六月十八日、満州へ移設の設備及び機械を足柄工場から搬出し、同年六月下旬、横浜港から永観丸・永徳丸・延文丸の三隻に積み込み出帆したが、輸送船はいずれも被害を受けた。永観丸は釜石沖で米潜水艦の魚雷を受けて大破、永徳丸は津軽海峡で米機の爆撃を受けて大破、延文丸は房総南方で砲撃されて破損し、いずれも大陸には渡らなかった。   
◯ 満州における状況  
佐藤隊長以下六十二名は、(中略)昭和二十年七月十八日より八月十三日まで遼陽市の滞在。この間幹部は会社設立に奔走し、その他の者は満州紡績・遼陽木材・満州ゴムで勤労奉仕をした。  
◯ 引揚者状況  
帰還と決定。佐藤徹氏は長男・長女の病疫のため残留することになった。即ち、残留したのは佐藤徹・佐藤卯・佐藤信・佐藤総子四名であり、その他五十八人は内地帰還することになった。(中略)残留者は満州電化株式会社に託することになった。  
昭和二十年八月十三日  
遼陽駅出発(大野浩以下五十七人)  
同日 午後奉天駅着  
十四日 奉天発、同日夜半安東駅着  
十五日 午後五時安東駅発  
十六日 午後八時釜山駅前三宅旅館に落ち着く  
十七日 釜山港出航  
十八日 博多港に入港するも上陸できず  
十九日 博多上陸  
二十日 博多駅発  
二十二日 小田原駅着 足柄工場着  
◯ 佐藤氏一家の在満並びに引揚  
昭和二十年七月十八日 満州国遼陽市昭和通内田荘  
八月二日 二女佐藤孝子さん死亡  
昭和二十一年一月四日佐藤徹氏、発疹チフスで死亡(遼陽市大和通十七号)  
三月二日 大連市  
昭和二十二年一月九日 大連出航(佐藤卯・信・総子)  
一月十七日 佐世保港上陸  
一月二十五日 東京着 
六 帰国の旅  
〔奉天→安東→釜山→博多→わが家〕  
八月十四日午前八時半奉天を発つ。無蓋の貨物列車に乗せられて、十六時間余りの窮屈な旅が始まった。幸い晴天が続いた。列車は駅の有無に関係なく何度も停車した。だんだん慣れてくると人家の疎らな所で、男共は列車から飛び降りて大小の用を足した。出発の汽笛が鳴ると、大慌てで身づくろいをして貨車に飛び乗る姿がまことに滑稽であった。不思議なことに私の記憶では、乗り遅れた者は一人もいなかった。同日夜十二時、安東着。翌日の四時三十分釜山行の急行列車に乗車できることになった。おそらく金子氏や山本氏ら(二人は陸軍中尉で、旅行中は軍服を着用し軍刀を吊っていた)の交渉が成功したのであろう。全員が貨車から降りて、重い荷物を背負ったまま百メートル以上もホームを移動した。そこへ新京行きの列車が来て停車した。この列車の行き先が釜山行に変ったので、大急ぎで乗車した。貨物列車では食料の配給量が少なかったが、安東に着いたらがぜん豊富になった。座席もゆったり使えるようになったのでぐっすり寝込んでしまった。  
翌日午前五時、安東を出発し釜山に向う。顧みて、今回の旅行の乗り物ではこの列車が最も快適であった。また、戦時の旅行では、強健な体力と強引な押しが必要であることを痛感した。  
終戦  
列車が京城駅に停車した時、ハングル文字の新聞を片手にかざした朝鮮人が、「日本は負けた。」「日本は降伏したぞ!」と大声でわめきながら通路を通り過ぎて行った。車内には一斉にざわめきが起った。立ち上がって、「嘘だ!」「あいつはスパイだ!」という声も聞こえた。列車が走り出しても、釜山に着くまでこの話題で持ち切りであった。しかし、八月十六日、釜山駅で下車して日本語の新聞を見た私たちは思わず肩を落とした。紙面には、大きく『日本無条件降伏』『阿南大将自刃』と書かれていた。  
朝鮮海峡を渡る  
釜山では、三宅旅館で旅装を解いた。しばらくここで逗留するというのである。安心して行李の紐を解いて荷物の整理にかかった時、突然表の方で、「船が出るぞ!」というどなり声が聞こえてきた。大慌てで荷造りをし直して表へ出ると、他の隊員もぞろぞろ外へ出てきて、三々五々波止場に集結した。 二度ほど待合場所を移動して、ようやく乗船することができた。今度も貨物船である。みんなが甲板に集まると、元気な隊員が二人、長い縄梯子をぶらぶらさせながら、船倉に下りて行ったが、冴えない顔で戻ってきた。その後には、再び怖い縄梯子を降りようとする者はなかった。行きの輸送船では、鉄製の階段が付いていたので、婦女子も安心して船倉と甲板の間を昇降できたが、この不安定な縄梯子ではとうてい昇降できない。やむをえず船倉へ降りることはあきらめて、全員が甲板上にかたまって朝鮮海峡を渡ることになった。先ず持ち込んだ荷物を甲板の中央部に集結し、長いロープで堅く船室の周囲にゆわえつけた。残った甲板の限られた狭いスペースに、新たに乗船した身知らぬ団体の者も一緒に男女老幼の区別なく、海に落ちないように身を寄せ合って一昼夜を過ごした。  
十八日、幸運にも敵機や敵潜水艦の襲撃を受けることもなく、朝鮮海峡を無事渡り、博多港に入港した。検疫のためにということで船上で一夜を過ごし、翌十九日ようやく博多の土を踏むことができた。富士フイルム博多営業所からの炊き出しを受けて夕食をとり、弁当も作ってもらい、その夜は博多で一泊した。  
二十日朝早く、私たちは博多駅から上り列車に乗車した。列車の行き先は不明である。情報が混乱していて、行く先々の被害状況が分からないから、とにかく行ける場所まで行って、また次の列車に乗り継ぐしかないという有り様であった。当時の博多の状況は、終戦で敵軍が上陸してくると何が起るか分からないというので、大部分の婦女子は山の方へ避難してしまったそうで、街には男の姿ばかり目についた。時々、日本の憲兵が巡回しているのに出くわした。放浪している日本兵の武装解除をするためだと聞いた。  
消えた本隊  
デッキからはみ出しそうな超満員の列車がようやく発車した。(これで何とか家に帰ることができそうだ。)とホッとしながらデッキに立っていた。◯隊は婦女子を多く抱えた団体なので、独身で最年少の私はいつも殿(しんがり)を努めることにしていた。乗車の際に全員が乗り移った後に乗り込むため、たいていデッキに一人だけ離れて乗る羽目になってしまう。この時もそうだった。  
列車が小倉駅に着いた時、ホームは内地に帰還する軍人でごった返していた。そんな中で私たちの車車両に多数の海軍将校たちが乗り込んできたのを、何となく不安な気持ちで眺めていた。それから発車した列車は、関門トンネルを抜けて下関駅に到着した。停車時間が長くなりそうだったので、車中の隊員のことが気になり、周囲の人たちに行李とトランクの監視を頼んで、大急ぎでホームに降り、殿城氏や中沢氏の家族が坐っていた辺りを何度も見たが、見知らぬ海軍の将校ばかりで殿城氏や中沢氏の家族はもちろん、周囲に沢山いたはずの他の隊員の姿も一人として発見できなかった。  
「この辺に、大きな荷物を持った家族づれの団体はいませんでしたか?」  
「知らん!」  
「おかしいなー。たしかに博多でこの辺りに大勢乗っていたんだけどなー。」  
「うるさーい! 知らんといったらしらん!」と、若い将校が軍刀に手を掛けた。驚いて、別の車窓に行って尋ねてみたら、「その方たちは、海軍の人たちにおどされて、皆さん小倉駅でお降りになりましたよ。」というのである。  
大急ぎでデッキに戻り行李とトランクを抱えて下り列車に乗り換え、再び関門トンネルを抜けて門司駅にとってかえした。ひょっとしたら、まだ門司駅で会えるかもしれないと思ったからだ、ホームに降りて二、三時間待った。結局、会社に戻るまで本隊に合流することはできなかった。  
困ったことに、博多で作ってもらった弁当包みは殿城氏の奥さんに預けたままである。家に着くまであと幾日かかるか分からない。食料なしで我慢できるだろうか。門司駅では、どちらを向いても見知った顔などあろうはずはない。さらに不幸なことは、団体切符で乗車したので個人の乗車券は持っていない。これから遥か故郷の山北駅まで無賃乗車でたどり着くことができるだろうか。軍属とはいえ、身分を証明する書類は一片も持ち合わせていない。  
門司駅は、外地や九州から帰還する軍人や一般人でごった返していた。その中に、私に話しかけてきた兵士がいた。  
「どちらから来たんですか。」「満州からです。」「お一人ですか。」「いやー。今まで仲間と一緒だったんですがね。」と、一人になったいきさつをかいつまんで話した。  
「そりゃー大変だね。でも、くよくよしたってしょうがない。一緒に飲みましょう。」と、ホームに腰を降ろして、飯盒と中蓋に水筒の焼酎を注ぎ、私に中蓋を勧めてくれた。お互いに情報を交換し合っているうちに、私も合流をあきらめて単独で帰還する決心がついた。上りの列車が入ってきたので、その兵士に励まされながら一人で乗車した。  
岩国の辺りで、線路が飴のように曲がっている箇所があり、線路を交換するためしばらく停車した。瀬戸内海には、海中に突き刺さったように船首を空に向けて沈没している艦船を見た。その列車は、広島駅で当駅止まりとなったのでホームを降りた。辺りは復員の兵士たちが。あちこちにたむろしていた。私の傍らに少年兵の一隊が陣取った。その中の一人が私を見つけて話しかけてきた。情報を交換しているうちに、私が本隊に取り残され、弁当も一緒に送ってしまったことが分かると、仲間に帽子を回して食料をカンパしてくれた。好意の食料ですっかり満腹し、いつの間にかぐっすり眠り込んでしまった。行李とトランクだけはしっかり押えながら・・・。  
目が覚めた時は少年兵の一隊の姿はなく、傍らには新たに都城から引き揚げてきた三人の兵士が座っていた。話を聞くと静岡や群馬の人々だという。生国が近いというのですっかり同情され、一緒に帰国しようということになった。  
ちょうど夕方になったので、ホームで飯盒炊さんをすることになった。米や燃料は彼等が持っていたが、米を研ぐ水がなかった。そこで、一番若い兵士と私が改札を出て米を研ぎに行く役を引き受け、米を入れた飯盒を持って改札口に向った。うっかりしていたが、改札口には駅員が立っていた。相棒は切符を見せてどんどん出て行ってしまったが、切符のない私は出ることができない。やむをえず駅員の隙を見て改札を飛び越えて外に出た。周りの様子をゆっくり見回す余裕もなく、なんとなくごった返している殺風景な駅前で、やっと水道の蛇口を探し出して米を研ぎ、またビクビクしながら大急ぎで改札を乗り越えてホームに戻った。  
久しぶりに落ち着いた夕飯のご馳走になり、車中の人になった。帰宅してから、広島に原爆が投下されたことを知ってびっくりした。  
それから、どの辺で一泊したか忘れたが、とにかく小田原駅までは穏やかな旅を続けることができた。  
小田急線ホームの改札では、「満州帰りの軍属の者ですが、本隊にはぐれてしまいました。団体切符は先に行ったはずの隊長が持っているので私は何も持っていませんが、山北まで帰るので乗せてください。」と弁明したら、快く了解して通してくれた。新松田駅も同様の弁明で無事に通過することができた。  
しかし、御殿場戦の松田駅では難渋した。意地悪な駅員に、細かいことまでしつこく聞かれ荷物内容まで調べられて、叱られ叱られやっと改札を通してもらった。最後の山北駅ではどうなろことかと、頭を抱えながら憂鬱な気持ちで列車がホームに入るのを待っていた。  
山北駅では、たまたま英霊の帰還で正規の改札口を使わずに、臨時の広い改札口が大きく開かれていた。駅の構内も構外も出迎えの人々でごった返していた。おかげで私は誰にも見とがめられずに、隠れるようにして改札口を通過した。  
千田時計店の前で母の実家の伯母と出会ったが、とっさには私であることが分からなかったという。一か月余の間にそれほど痩せこけてしまったのである。伯母と別れ、重い行李を背負いトランクを片手に、複雑な気持ちで家路を急いだ。暦は八月二十二日になっていた。  
富士フイルムの社史によると、私たちの帰国はすべて最後の便であったという。  
『帰還にあたっては、遼陽からの出発も、奉天(現中国瀋陽)から安東への貨物列車も、安東から釜山への列車も、釜山からの貨物船も、すべてが最後の便で、一つつまずけば、一行全員の無事帰還は不可能であったろう。』 
七 軍需工場の一時解散  
それから約一か月間、何となきう人に顔を見られるのが嫌で家にこもりがちになり、今後の身の振り方を考えていた。会社の方は、渡満の際に職場からもアパートからも荷物を引き払ってしまったので住む所はない。聞くところでは、軍需工場として事業を拡張し過ぎた会社は、一時解散でストップし、人員のリストラをしなければ新しいスタートができないという状況だという。  
ようやく会社から連絡があり、退職金が出た。再採用の者には袋の中に採用通知が入っているということであったが、私の袋にはささやかな退職金が入っているだけであった。殿城氏も入っていなかったという。しかし、よく考えてみれば、入社以来わずか二年足らずでこれという実績もなく、社員として給与も優遇されていたわけだから、クビにされても仕方がない。◯渡満隊の一員であったことは、プラス評価の対象にはならなかったのであろう。ちょうど日本の大変革期に国を離れていたのが不運だったんだと自分に言い聞かせた。一度クビを切られた富士フイルムに今更みじめに頭を下げて採用してもらおうという気持ちはなくなった。  
心機一転して、大蔵省印刷局小田原工場の採用試験を受験した。面接会場に入ると、何と試験官が富士フイルムの勤労課勤務だった石渡氏であった。偶然の出会いで試問らしい話は一切なく、雑談の末に採用が許可された。翌日から、印刷課の一工員としてまったく新しい人生のスタートを切ることになった。