石原都知事もついに限界
カリスマ性も老いた証明でしょうか
黒川紀章
諫言趣旨中身は判りませんが
口にしたことを良しとしましょう
![]() ![]() ![]() ![]() あの新鮮さ 筋の通し方 政治力はどこに行ったのでしょうか |
![]() 力を楽しむ |
![]() 地位を楽しむ |
![]() 居心地を楽しむ |
![]() 座り心地を楽しむ |
![]() 民を忘れる |
![]() 心意気はよしとして 文化も押付けがましくなりました 形だけでは実になりません |
![]() でも石原さんの完勝でした 浅野さんも負けました 批判だけでは勝てないことが証明されました |
![]() 都民は比較論では常識の持ち主です 民の目を少しは意識されれば延命できます 2007/4 |
![]() 2007/10/12 黒川紀章心不全で逝く |
![]() まだ足りぬ器創りてあの世まで |
![]() ![]() ![]() ![]() |
●黒川紀章氏逝く 2007/10/13 |
世界的に有名な建築家、黒川紀章氏が亡くなりました。享年73才でした。
今の若者達にとって、黒川さんの名前を聞き、顔を見れば、きっと「都知事選と参議院選挙に出たヘンなおじさんだ」という答えが返ってくるでしょう。 確かに4月に行われた東京都知事選挙に出馬した黒川さんを見て、私も“黒川さん、どうしちゃったんだろう!功なり名を遂げた今、政治的権力が欲しくなったのかな?”と、下世話な推測をしたことを覚えています。 実際、当時の黒川さんは、親友だったはずの石原慎太郎知事に対して、「彼の政治姿勢を改めて貰うため反目に立ったと」いう趣旨の出馬動機を語っていました。しかし、親友・石原慎太郎に“覚醒して貰いたい”という出馬動機は、当時の都民には全く共感を呼ぶことなく、結果で言えば泡沫候補の得票数で散ったのです。 そしてその挫折にも懲りず、参議院選挙に新党党首として参戦。しかも参議院選挙では夫人の若尾文子さんまで担ぎ出し、“一体、あの二人はどうしちゃったんだろう?”と、正直私は呆れていました。 でも全く違ったんですね。・・・私には人を見る目がありません。 恐らく、黒川さんは死期を悟っていたのでしょう。 今日の報道では黒川さんの死因を「心不全」と発表していますが、「心不全」は死因でも何でもありません。人が死ぬ時は全て、心臓が止まるわけですから、結果「心不全」になるのです。 何故「心不全」に至ったのかが「死因」なのですが、今日の時点では明確になっていません。 ある局のニュースでは肝臓や腎臓など多くの内蔵が不調だったという風に伝えていましたので、推測するに、黒川さんはガンを患い、転移し、既に死期を悟っていたのではないかと。 とすれば、4月の東京都知事選挙に突然出馬した意味が見えてきます。 黒川さんは石原慎太郎さんのことを親友と話していました。石原知事はそうではないと語っていましたが、私は黒川さんが親友・石原慎太郎に対して「諫言」の意味で都知事選挙の対立候補として立つ事を決断させたのではないかと思います。 そして討論会などで鋭く、彼の息子に対する都税の使い方や、都知事としての行動や出張費の問題など、石原知事にとっては耳の痛い話をあえて語り、親友の“再起”を願っていたのではないか。勿論、彼の終生のコンセプトであった「共生」を東京都政に実現したいという理念を言い続けることも目的の一つだったでしょう。 そして7月の参議院選挙です。 黒川氏は「共生新党」の党首として国政選挙に打って出ました。この時には夫人の若尾文子さんも黒川氏と共に出馬し、大勢の国民の前に姿を現しました。 きっと、若尾さんは黒川さんの最後の我が儘に付き従ったのだと思います。夫唱婦随という言葉がありますが、黒川氏が自分の生命の最後の残り火を日本国の為に使いたい、燃え尽きたいと主張したことに若尾さんは素直に付き従ったのではないでしょうか。 天下の大女優・若尾文子が73才の年齢となった今、老けた自分の顔を公衆の面前に晒すことを唯々諾々と受け入れたはずがありません。恐らく、命が燃え尽きようとしている夫・黒川紀章の身を案じ、常に身近にいて体調管理に気を配ろうとしたために参議院選挙に立候補したのでしょう。 そう考えれば、天才黒川紀章最晩年のちょっとヘンなおじさんめいた「選挙道楽」が、俄然、「生き切る」事を選んだ夫婦二人の決断だったことが垣間見え、その隙間から黒川紀章の輝きが蘇ってくるような気がします。 そして今夜、若尾さんが駆けつけた記者達にインターフォン越しに語った言葉が、強く私の印象に残りました。 “まさかこんなに早く急変するとは思わなかった。こんなに人が簡単に死ぬと思わないから辛かった。・・・一昨日、私っていい奥さんじゃなかったわよねと話しかけたんですよ。そしたらあの人が「そんなことない。そんなことない。本当に好きだった」と答えたのが最後の会話になった・・・” 73才にして、「本当に好きだった」と語った黒川紀章氏。とっても格好いいし、男らしい人だと思います。若尾さんも女冥利に尽きることでしょう。 果たして自分はこんな風に「生き切り」、「本当に好きだった」と妻に言えるか・・・ 天才・黒川紀章氏のご冥福を心からお祈りします。 |
●黒川紀章 |
(1934 - 2007) 日本の建築家(一級建築士)、思想家、実業家、政治活動家。株式会社黒川紀章建築都市設計事務所代表取締役社長を務めた。日本芸術院会員。1986年にフランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞。
愛知県海部郡蟹江町生まれ。 1953年(昭和28年)東海高等学校卒業。1957年(昭和32年)京都大学工学部建築学科卒業。在学中は西山卯三に師事。卒業制作の題目は「A Project for Shopping Center」であった。同年東京大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程へ進学。東大では丹下健三研究室に所属し指導を受ける。東大在学中に「株式会社黒川紀章建築都市設計事務所」を設立。1964年(昭和39年)東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程単位取得退学。1969年(昭和44年)に株式会社アーバンデザインコンサルタントと社会工学研究所を設立。 槇文彦、磯崎新、谷口吉生らと共に丹下健三の門下生である。1959年(昭和34年)に建築理論メタボリズムを浅田孝、大高正人、槇文彦、菊竹清訓、粟津潔、栄久庵憲司、川添登らと提唱した。1960年(昭和35年)、メタボリズム・グループとして世界デザイン会議に参加。社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。メタボリズムに基づいた増築・取替えの可能な建築として中銀カプセルタワービル(1972年)などの作品がある。 博士課程時代の数々の構想案や、磯崎新の代理でアスペン学生デザイン会議に参加するなどの結果、学生時代から国際的に著名で、のちも海外の作品も数多い。 2007年(平成19年)、共生新党を結党して、4月の東京都知事選挙、7月29日の参院選に立候補していずれも落選するが、バラエティ番組への出演と合わせて耳目を集めた。 参院選2ヵ月後の10月12日午前8時42分に、東京女子医科大学病院で死去した。73歳没。死の2年ほど前にすい臓がんが見つかり手術をしていたが公表しておらず、死の直前まで夫人の若尾文子にもがんであることを明かしていなかった。青山の梅窓院に埋葬され、戒名は至聖院範空功道居士である。 フランス建築家協会正会員、日本景観学会会長などを務めた。 ●政治活動 かねてから日本会議で代表委員を務めるなど、保守派の論客として知られていた。2007年(平成19年)に共生新党を発足して党首に就任し、4月の東京都知事選挙、7月の第21回参議院議員通常選挙に出馬したが落選した。建築で世界的に著名な人物の初出馬は、派手なパフォーマンスが世間の注目を集めた。 建築家磯崎新は黒川の死後、彼の立候補によるアイデア表明はメディア型建築家として当然のことと見なし「(都知事選の)マニフェストは群を抜いていた」「そのアイデアは誰かが実現させることだろう」と述べた。 |
●東京都知事選
2007年(平成19年)2月21日、「石原氏とは親しいが、議会無視、側近政治、無意味な五輪招致など目に余る」と2007年東京都知事選挙に出馬を表明。本人は石原を応援していた8年前から出馬を考えていたと発言した。3月16日には共生新党を立ち上げた。 主要4候補の一人としてテレビ討論に出演するなどメディアに取り上げられるも落選(票数:159,126、得票率:2.9%)。 選挙翌日のフジテレビのインタビューでは、浅野史郎が敗因や感想を述べ総括をしていたのとは対照的に、都政の具体的な話題に熱弁をふるい、次の都知事選に触れた。 選挙の2日後に、共生新党として参院選に出馬する意志があることを明らかにした。 ●マニフェスト 以下は2007年(平成19年)3月5日に都庁で発表したマニフェストである。 任期中の給与は1円。 東京都庁舎や、江戸東京博物館、東京国際フォーラムの民間売却。 オリンピック招致中止。 学校現場での日の丸・君が代の強制を改める。 築地市場の豊洲新市場移転は反対。 東京23区の市昇格を行い、行財政権力を強化する。 首都機能の一部を移転し、霞が関に緑地を増やす。 都知事選立候補時の記者会見では、日本会議で代表委員も務めた保守派言論人というイメージにも関わらず、「僕は社会主義に対する幻影がいまだにある。具体的に支援しているのは中国。ロシアは本気で亡命しようとしたこともあった」と発言して話題となった。 ●パフォーマンス 自らがデザインした円形のガラス張り選挙カーを使用、クルーザーから手を振る、ヘリコプターで都知事選候補者では初めて離島へ向かうなどの選挙活動を黒川自らが「陸海空作戦」と称した。当初は飛行船から桜吹雪を撒き散らすというアイデアもあったが、選挙管理委員会の許可が下りなかった。 他の主要候補者が演説している場所に突然現れ、対話しようとする選挙活動を一部のメディアが「奇襲作戦」と称した。選挙戦の最終日は新宿西口で演説中の石原慎太郎候補の近くに来て、「石原裕次郎の名前を出さないと当選できない石原慎太郎さんには、この歌を送ります」といい、妻と共に石原裕次郎の「銀座の恋の物語」を歌った。しかし、その後は夫婦で石原の演説に聞き入り、最後に拍手を送っていた。 参議院選挙から関口忠相を選対副本部長に据え、最終日の和太鼓・ほら貝・松明に武田信玄のテーマをバックミュージックにした新宿駅東口の打ち上げ演説の様子は、多くのテレビで放映されたが、黒川本人は体調不良で参加しなかった。 ●参議院選挙 結果 黒川 - 得票70275、投票率1.16% 共生新党 - 得票総数146,986.951、得票率0.25% 主張 命を守る安全な日本をつくります。 老後も安心して生活できる年金、医療、福祉を最重点政策とします。 格差の是正 教育 経済と文化の共生 |
●人物・エピソード
黒川家は蟹江町の名家であり、弟の黒川雅之、黒川喜洋彦(株式会社黒川建築事務所代表取締役)を加え父子4人とも東海高等学校OBの建築家である。父は社団法人日本建築家協会東海支部長であった黒川巳喜。 母校の東海高等学校で受けた宗教教育に影響を受け、共生の思想を建築の領域で展開し、最晩年に共生新党を結成して政界への進出を試みた。 黒川がファンであった若尾文子と、中部日本放送のトーク番組『すばらしき仲間』1976年(昭和51年)に共演して若尾の美しさをバロック芸術の「肯定と否定の矛盾」に例えた。番組をきっかけに交際を始め、黒川と前妻の離婚が成立した1983年(昭和58年)に若尾と結婚した。若尾も再婚で両者共に50歳を超えた再婚であった。 本名は紀章(のりあき)。1960年代に出版された『プレハブ住宅』では、紀章(のりあき)と書かれている。 日本文化デザイン会議では黒ずくめの服装で日本刀を持ち込み、「僕はいつも、明け方3時にこれ(日本刀)を抜いて、自宅近辺を走ってますよ。刀を抜いて着物で走るという“実戦”の訓練を昔からやっているんです」と週刊文春 2007年3月8日号で語っている。 黒を好む人物として知られており、1960年代に黒を流行らせたと自負する。「黒の服しか着ない」と述べており、初めて買ったポルシェの色も黒で設計事務所のワークステーションも黒で統一している。その他、IBMのロゴに対して、3色を使っていることと斜めを向いていることに対して、「いわれにこだわりすぎ」と述べるほどである。 講談社が1969年4月に「キミたち若者が選んだ現代のヒーロー」に、幾人かとともに選出した。サンデー毎日1970年12月「街で聞いたカッコいい男」で12位、週刊読売1971年2月人気投票で3位、1990年日刊建設通信のアンケート「好きな建築家」で1位、となる。週刊ポスト1970年2月27日号が「女子大生がシビレる建築界の鉄腕アトム 黒川紀章」と報じ、1989年10月文藝春秋「エリート100人が選んだ日本の最強内閣」で建設大臣とした。 自身設計の東京赤坂のマンションに居住し、若尾文子も同じマンションの異なる階の別部屋に居住した。ほかに東京全日空ホテルのスイートルームに常泊していた。海外ではサンディエゴ、シンガポール、ロンドン、サンクトペテルブルクに住まいがある。 亡くなる2日前、妻の「あまり良い奥さんじゃなかったわね」という言葉に対して「そんなこと、そんなこと…本当に好きだったんだから」と答えたのが妻と2人で交わした最後の言葉とされる。 台風で甚大な被害を受けた高千穂鉄道の再建のため、同鉄道から施設の継承を予定している神話高千穂トロッコ鉄道に数億円規模の寄付を行う意向を示していたが、急逝により、高千穂あまてらす鉄道は計画の変更を余儀なく。された。 本田技研工業に同社初となる小型ジェット機HondaJetの1号機と次期NSXの1号車を発注していたが、急逝のために引き渡されなかった。 ヤフーの週計検索キーワードランキング(集計期間10月8日 - 10月14日)の急上昇時事ワードランキングで「黒川紀章 死去」が一位になった。 没後の2014年12月15日に個人事務所(プライベートカンパニー)である黒川紀章建築都市設計事務所が同日に民事再生法の適用を申請したと、長男である会社代表の黒川未来夫が発表。今後は大手建築コンサルタント業の日本工営に経営支援を仰ぐ予定。 |
![]() |