安全事故

安全は何から生まれるのでしょう 
 
人の良心任せ 
縁の下の力持ち 
地味な技術の継承 
そんな人たちを大事にしなくなりました 
 
などと思ってはいけません 
事務的組織的機械的に 
マニアルに忠実に 
実行するシステムがないだけです
 


 
山本五十六 
マニアルを理解させ 
考えさせずに 
トレーニング 
手順どおりに作業をさせ 
事故率をお金に換算 
見えるもので事務的に報いる
   
やってみせ 
言ってきかせて 
させてみせ 
ほめてやらねば 
人は動かじ
   
原子力 
バケツが最高の道具とは 
冗談がきつ過ぎます
   
石油 
日本は地震国 
天災まではなどと 
先端システム産業が言う言葉とは無責任 
浮蓋程度の安全装置 
日本沈没なら皆が諦めます
   
鉄 
成熟産業 
システムも老朽化
   
ロケット 
見よう見まねの限界 
アナログ技術もサビつきました
   
失われた10年 
日本人の弱点 
失われた10年ではなくて 
呆然自若
 
老害延命で 
システム創りのリーダーを育てそこなっただけ
東海村JCO臨界事故 
1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村にある株式会社ジェー・シー・オー(住友金属鉱山の子会社。以下「JCO」)の核燃料加工施設で発生した原子力事故(臨界事故)である。日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。
1999年9月30日、JCO東海事業所の核燃料加工施設内で核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となったほか、667名の被曝者を出した。国際原子力事象評価尺度 (INES) でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)の事故。
事故の推移​
JCOでは1999年度に、高速増殖炉の研究炉「常陽」で使用される核燃料(濃縮度18.8%、ウラン濃度380gU/リットル以下の硝酸ウラニル溶液、約160リットル)の製造を請け負っていた。1999年9月、まずウランの精製作業が中旬から28日まで行われ、翌29日より硝酸ウラニル溶液の均一化作業が始まった。
9月30日、転換試験棟にてJCOの作業員たちが、硝酸ウラニル溶液を沈殿槽にバケツで流し込む作業を行っていた。午前10時35分ごろ、7杯目をバケツで流し込んだところ、沈殿槽内で硝酸ウラニル溶液が臨界となり、警報が鳴動した。沈殿槽は言わば「むき出しの原子炉」の状態となり、中性子線は建物・敷地の外にも放出された。
同11時15分、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから科学技術庁に入る。そして11時52分、被曝した作業員3名を搬送するため救急車が出動した。東海村から住民に対する屋内退避の呼びかけの広報が始まったのは、12時30分からである。なお広報に関しては、東海村村長の村上達也が、日本国政府・茨城県庁の対応を待たず独断で行った。
午後12時40分ごろ、内閣総理大臣・小渕恵三(当時)に、事故の第一報が報告される。現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民10万世帯(約31万人)への屋内退避および換気装置停止の呼びかけ、現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖、JR東日本の常磐線水戸 - 日立間、水郡線水戸 - 常陸大子・常陸太田間の運休、自衛隊への災害派遣要請といった措置がとられた。
JCO社員は事故当初、誰も臨界事故を収束させようとする作業をしなかったが「あなたたちでやらなければ、強制作業命令を出したあとに、結果的にすることになる」と日本国政府からの代理人に促された。その結果「うちが起こした事故は、うちで処理しなければならない」と、選抜されたJCO社員18人が2人1組で1分を限度に現場に向かい、冷却管の破壊、アルゴンガスを注入して冷却水を抜く、ホウ酸を沈殿槽に投入する作業を行い、連鎖反応を止めることに成功して、臨界は収束した。中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った翌10月1日の朝6時30分ごろであった。
事故原因​
本事故の原因は、旧動燃が発注した「常陽」用核燃料の製造工程における、JCOのずさんな作業工程管理にあった。
JCOは燃料加工の工程において、臨界事故防止(臨界安全)を重視した正規のマニュアルではなく、「裏マニュアル」に沿って作業をしていた。一例を挙げると、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では、正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用すると定められていたが、裏マニュアルではステンレス製のバケツを用いるという手順に改変されていた。しかも事故前日の9月29日からは、作業の効率化をはかるため、この裏マニュアルとも異なる手順で作業がなされていた。具体的には、濃度の異なる硝酸ウラニル溶液を混合して均一濃度の製品に仕上げる均質化工程において、「貯塔」という容器を使用するべきところを「沈殿槽」という別の容器を使用していた。貯塔は臨界に至りづらい形状(背が高く、内径が狭い)であったが、使用目的が異なる沈殿槽は非常に臨界に至りやすい構造(背が低く、内径が広く、冷却水ジャケットに包まれている)であった。
その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線などの放射線が大量に放射された。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員は「ウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」と証言している。
事故被曝者​
この事故では、3名の作業員が推定1グレイ・イクイバレント以上の多量の放射線(中性子線)を浴びた。作業員は急性放射線症候群になり、ヘリコプターで放射線医学総合研究所(以下「放医研」)へ救急搬送され、うち2名は造血幹細胞移植の関係から、東京大学医学部附属病院(東大病院)に転院し、集中治療室での医療が施された。3名の治療経過や、本事故において被曝した者の経過は、それぞれ以下の通り。
16 - 20グレイ・イクイバレント(推定16 - 20シーベルト以上)の放射線被曝をした作業員A(当時35歳)は、高線量被曝による染色体破壊により核型が完全に破壊され、それにより新たな細胞が生成できない状態となる。まず白血球が生成されなくなったため、無菌病室に移動され、実妹から提供された造血幹細胞の移植が行われた。移植術自体は成功し、直後は白血球の増加が見られたが、時間経過とともに移植後の新細胞の染色体にも異常が発見され、白血球数が再び減少に転じた。放射線障害により皮膚が形成されず、体液が滲み出て止まらなくなり、事故から59日後の11月27日、心停止。心臓マッサージにより約1時間後に蘇生したものの、心肺停止によるダメージから、脳および各臓器の機能が著しく低下、敗血症から最終的に治療手段がなくなり、事故から83日後の1999年(平成11年)12月21日、多臓器不全により死亡した。
6.0 - 10グレイ・イクイバレント(推定6 - 10シーベルト)の放射線被曝をした作業員B(事故当時39歳、死亡時40歳)もAと同様に高線量被曝による染色体破壊を受け、造血幹細胞の移植が一定の成果をあげたことにより一時は警察への証言を行うまでに回復した。しかし放射線障害により徐々に容態が悪化、さらにMRSA感染による肺炎を併発し、事故から211日後の2000年(平成12年)4月27日、多臓器不全により死亡した。
推定1 - 4.5グレイ・イクイバレントの放射線被曝をした作業員C(当時54歳)は、一時白血球数がゼロになったが、放医研の無菌病室において、G-CSF製剤などによる骨髄治療を受け回復。12月20日に放医研を退院した。
臨界状態を収束させるため、作業を行った関係者7人が年間許容線量を越える計画被曝をし、事故の内容を十分知らされずに、被曝した作業員を搬送すべく駆けつけた救急隊員3人が2次被曝を受けた。被曝被害者の受けた最高被曝線量は最大120ミリシーベルト、50ミリシーベルトを超えたものは6名であった。さらに周辺住民207名への中性子線などの被曝も起こった。最大は25ミリシーベルトで、年間被曝線量限度の1ミリシーベルト以上の被曝者は112名であった。被曝者の総数は、事故調査委員会(委員長:吉川弘之・日本学術会議会長)で認定されただけで667名(2000年4月)であった。
刑事責任​
この事故では、同時に会社側の刑事責任も問われた。事故から約1年後の2000年10月16日には茨城労働局・水戸労働基準監督署がJCOと同社東海事業所所長を労働安全衛生法違反容疑で書類送検、翌11月1日には水戸地検が所長の他、同社製造部長、計画グループ長、製造グループ職場長、計画グループ主任、製造部製造グループスペシャルクルー班副長、その他製造グループ副長の6名を業務上過失致死罪、法人としてのJCOと所長を原子炉等規制法違反および労働安全衛生法違反の罪でそれぞれ起訴した。
2003年3月3日、水戸地裁は被告企業としてのJCOに罰金刑、被告人6名に対し執行猶予つきの有罪判決を下した。なお、被害者でもある作業員Cは、製造グループ副長としての現場責任を問われ有罪判決を受けた。
事故の影響​
当事者への影響​
この事故の結果、JCOは加工事業許可取り消し処分を受け、ウラン再転換事業の廃止を余儀なくされた。また、親会社の住友金属鉱山も倒産寸前まで追い込まれた。
公共機関への影響​
この事故を受けて、原子力災害対策特別措置法が制定されたほか、保安規程の遵守状況の日本国政府による確認、定期検査、主務大臣または原子力安全委員会への申告制度(原子力施設安全情報申告制度、いわゆる内部告発制度)が導入された。
事故当時の陸上自衛隊は、災害派遣要請に基づき、第101化学防護隊(現中央特殊武器防護隊)を派遣するなどの対処を行った。その後、同年12月に先述の原子力災害対策特別措置法が制定されたことを受け、国会は自衛隊法を改正、自衛隊の行動区分において「災害派遣」とは自然災害による派遣と定義づけ、原子力事故に起因する災害派遣は新たに「原子力災害派遣」を設け(自衛隊法第83条の3)、別個のものとして対処することとなった。
経済・産業への影響​
事故の影響により、事故施設周辺はもとより、茨城県内全域で農水産物・加工品の返品や値崩れ、旅館や観光施設のキャンセルが相次いだ。
このため、農産物への風評被害があったとして東海村の農家がJCOに損害賠償を請求しており、茨城県がJCOに対する補償窓口を設置した際は約8000件の被害申出があった。
この教訓は、のちの東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による福島第一原子力発電所事故においても活かされ、茨城県内の農水産団体は、発災当初から各業者による個別請求ではなく、農水産団体による一括して交渉・請求体制をとった結果、全国に先駆けて、農畜産物及び水産物の補償請求を行った。
発生から間もない10月12日に、水戸芸術館にて開催が予定されていたソプラノ歌手バーバラ・ボニーの水戸リサイタルが中止された。
報道への影響​
翌10月1日の新聞朝刊から読売新聞や朝日新聞、毎日新聞など各全国紙が足並みを揃えてトップニュースでこの事故を伝えた(第1面と社会面のほぼ全面をこの事故関連の報道に割り当てた)が、事故当日はプロ野球・中日ドラゴンズが明治神宮野球場で11年ぶり5度目のセ・リーグ優勝を決めている。このためか、中日の親会社である中日新聞社が発行する中日新聞(東京新聞)は6大紙(読売・朝日・毎日・東京・日本経済新聞・産経新聞)で唯一第1面および社会面の大部分がこの事故関連の記事と中日優勝関連記事で占められることとなった(38面はこの事故関連、39面は中日優勝関連記事で占められた)。この件は「プロ野球で中日ドラゴンズが優勝すると政変及び大事件が起きる」というジンクスの代表格として取り上げられることも多い。  
   

 
2004/