正常な牛も狂いだしそう ダシに人間が税金を食らう

「詐欺」は差別用語らしい 
JASマークなど空々しい努力目標表示の印 
狂牛病だチャンス到来 
役人農協団体企業食肉マフィア 
 
政治屋は借りを補助金積み増しで返す 
役人は天下り先に貸しを作る 
農協は弱者のふりして口を閉ざす 
団体企業は税金で不良在庫の大掃除
 


   
食肉マフィアだ 
税金の使い道に責任者はいないらしい 
雪印 無責任体制 
日本食品 日本ハムでちょっと助かる 
日本ハム 二代目社長真打か 
零細食肉加工業者 大手がやっているのだから当然
 
ついに出てきました 
農協 雪印牛乳の救済
   
魚を食べよう健康にも良い 
牛が喜ぶ 
牧場でしばらくはゆっくりできる
   
土用の鰻 
浜松の生産量 
大幅に上回る浜松産表示
   
黒豚 
ブチも黒なら黒豚
   
コシヒカリ 
二三粒でも入っていれば魚沼産
   
まぐろ 
なんとかまぐろ 
魚図鑑の隅に載っていれば尾っぽだけの鮪
   
食料品が消える日 
民など見ていない 
農水省など信じない  
行くとこまで行かせてしまえ 
しばらくカスミを食べよう
 
雪印集団食中毒事件 
000年(平成12年)6月から7月にかけて、近畿地方を中心に発生した、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の乳製品(主に低脂肪乳)による集団食中毒事件。本事件は認定者数が14,780人にものぼる第二次世界大戦後最大の集団食中毒事件となり、雪印乳業の社長、石川哲郎が引責辞任に追い込まれた。
背景​
20世紀における牛乳の生産は、乳業メーカーにおいて製品用に処理された後、学校給食施設などの大口顧客のほかに、牛乳販売店と呼ばれる専門の小売業者により個別宅配や「ミルクスタンド」などと呼ばれる小売店を通して消費者に流通した。しかし、冷蔵輸送技術の発達、「ゲーブルトップ」と呼ばれる大型の製品容器の普及(加えてそれを収納できる家庭用冷蔵庫の普及)、そして大型小売店(スーパーマーケットなど)の急速な進出により、1970年代ごろまでに牛乳の流通は大規模化し、一般の消費者が日常的に買い求めるようになった。乳業メーカー側も大規模な滅菌加工設備が必要となる性質からガリバー企業化し、本事件の発生した2000年には日本全体で雪印乳業・明治乳業(現:明治)・森永乳業の3社による寡占状態となっていた。大企業によるスケールメリットの当然の帰結として、工場の集約化・大規模化が推し進められ、1工場が流通させる製品量は飛躍的に増大していた。
その一方で1980年代以降は日本人の栄養状態が充足し、高い滋養が強みであった牛乳の魅力が薄れ、牛乳の消費量は減少し始めていた。このため乳業メーカーは「加工乳」と呼ばれるチルド飲料に力を入れ始めており、特に脂肪が少なくカルシウムなどが濃縮された脱脂粉乳を水で戻した低脂肪乳などの飲料は、健康ブームに乗った商品として注目されていた。
また、20世紀に急速に発展した日本の製造企業は、社員に熾烈な出世競争を行わせることによって士気を維持したが、結果として特に管理職は「自らの経歴に傷がつくこと」を極端に恐れるようになり、一部の企業においては不祥事を隠蔽する体質に侵されつつあった。また、企業内の縦割り組織である「製造部」「開発部」「営業部」などのセクションが社内派閥化することにより、社長や重役ポストをセクション間で奪い合う社内政治も常態化し、企業トップの企業全体への統制力は低下していた。
経緯​
2000年3月31日、北海道にある雪印乳業大樹工場の生産設備で氷柱の落下に伴う3時間の停電が発生し、同工場内のタンクにあった脱脂乳が20度以上にまで温められたまま約4時間も滞留した。この間に病原性黄色ブドウ球菌が増殖したことで、4月1日製造分の脱脂粉乳内に毒素(エンテロトキシンA)が発生した。本来なら滞留した原料は廃棄すべきものであったが、殺菌装置で黄色ブドウ球菌を死滅させれば安全と判断し、脱脂粉乳を製造した。工場は同日分の脱脂粉乳に細菌が異常繁殖していることを4月3日に把握したが、製造課長は叱責を恐れてこれを隠蔽。そのまま出荷されたほか、4月10日製造分の脱脂粉乳に再利用された。黄色ブドウ球菌自体は死滅したが、毒素が残ったまま脱脂粉乳は大阪工場に送られた。
この汚染された脱脂粉乳は、大阪工場(大阪府大阪市都島区都島南通)で6月21日から29日までの間に製造された「雪印低脂肪乳」に使用されたほか、6月25日・26日に製造された加工乳3種(「のむヨーグルトナチュレ」「のむヨーグルト毎日骨太」「コープのむヨーグルト」)の製造に使用され、スーパーマーケットを中心とした関西地方一円の小売店に出荷された。
2000年6月25日、雪印低脂肪乳を飲んだ子供が初めて嘔吐や下痢などの症状を呈し、6月27日に大阪市内の病院から大阪市保健所に食中毒の疑いが通報された。6月28日には通報多数のため大阪市保健所が大阪工場に立入調査を行い、疑いのある製品の自主回収と社告の新聞掲載を指導した。しかし、大阪工場は本社重役が株主総会出席中のため判断を先延ばしとし、翌6月29日にようやく約30万個の製品の回収のみを始めたが、社告は行わなかった。同日、大阪工場の対応に危機感を抱いた大阪市保健所は独自で記者発表を行い、食中毒の疑いを公表した。深夜には大阪工場が初めて記者発表を行い、当座の低脂肪乳製造休止を発表する。しかし上述のとおり、製造休止の判断を棚上げしていた6月28日・29日製造分の低脂肪乳も汚染されており、大阪工場の事なかれ主義は結果として致命的な被害拡大をもたらした。
公表後は被害の訴えが関西一円に殺到し、大阪府・兵庫県・和歌山県・滋賀県など広範囲に渡って被害が報告され、最終的に14,780人という前代未聞の食中毒被害者となった。被害者の訴えた症状は嘔吐・下痢・腹痛を中心にし、総じて比較的軽いものであったが、入院に至った重症者もいた。奈良県の80代の女性1名が入院後に死亡しているが、大阪地裁の判決では入院後の医療ミスが原因と判断されている。
6月30日、和歌山市衛生研究所が検体の低脂肪から黄色ブドウ球菌の毒素産出遺伝子を検出し、同日には大阪市保健所が正式に製品の回収を命令した。7月1日朝、大阪市保健所と厚生省の担当者が大阪工場に立入調査を行い、製造ラインの調合タンクと予備タンクの間のバルブに黄色ブドウ球菌が繁殖しているのを検出した。しかし大阪支社は発表を逡巡し、直後の記者発表では汚染物質の存在を否定した。同日午後の記者発表でようやく汚染を認めたが、社長は会見内容を事前にまともに聞かされておらず、会見中の担当者の発表に驚き「君、それは本当かね」と口を挟む混乱ぶりであった。7月2日大阪市保健所は、大阪工場に対して無期限の操業停止を命じた。(その後、操業再開されることはなく、2001年3月末に閉鎖された。)
その後も、雪印乳業は場当たり的な対応に終始し、新たな事実は常に行政機関や司直によって明らかにされた。最も有名なのは7月4日の会見であり、この日も社長の石川は、「黄色人種には牛乳を飲んで具合が悪くなる人間が一定数いる。」などの説明を繰り返し、1時間経過後に一方的に会見を打ち切った。エレベーター付近で寝ずに待っていた記者団にもみくちゃにされながら、記者会見の延長を求める記者に「では後10分」と答えたところ「何で時間を限るのですか。時間の問題じゃありませんよ。」と記者から詰問され、「そんなこと言ったってねぇ、わたしは寝ていないんだよ!!」と発言。一方の報道陣からは記者の一部が「こっちだって寝てないですよ! そんなこと言ったら! 10ヶ月の子供が病院行ってるんですよ!」と猛反発。石川はすぐに謝ったものの、この会話がマスメディアで広く配信されたことから、世論の指弾を浴びることとなった。石川は7月9日に入院し、そのまま社長を辞任した。
雪印乳業に対する世間の不信感は日を追うごとにつのり、小売店からは雪印の商品が次々と撤去され返品もできない牛乳が廃棄される様子が連日報道され、ブランドイメージも急激に悪化した。そのため7月11日に雪印乳業全工場の一時操業停止が発表された。
その後、安全点検が終了し、8月2日に厚生省が大阪工場以外の工場の安全宣言を発表したため、生産は徐々に回復していった。
しかし、その後の大阪府警の捜査により食中毒の真の原因は大樹工場の脱脂粉乳であることが明らかになると、8月18日に大阪府から北海道に大樹工場の調査依頼が行われ、8月19日、20日に帯広保健所の担当者が大樹工場の立ち入り調査を行った。当初、工場側は異状の発生を否定したが、大樹工場の検体から食中毒患者と同じ毒素が検出されたことから保健所がさらにヒアリングを行ったところ、停電の事実が明らかとなり、同工場が食中毒の原因であることが確認された旨を8月23日に北海道が発表するとともに、大樹工場に操業停止を命じた。
これにとどまらず、8月29日の北海道の発表により、業務日報の生産数と異なる製品が見つかったり、4月1日の製造の汚染された脱脂粉乳が7月12日製造にラベルが張り替えられた状態で保管されているなど、日常的な改ざん・偽装が行われていることが判明した。もはやどの製品が安全であるか誰にも判別できない大樹工場は、保健所の指導を受けやむなく9月1日に脱脂粉乳の全ての在庫を廃棄した。
その後、9月22日に大樹工場から北海道に改善計画書が提出され、保健所が安全を確認した10月13日に操業停止が解除された。
大阪府警察の捜査により、雪印乳業社長、専務、大樹工場長、製造課長、製造課主任の5人が大阪地検に書類送検されたが、社長と専務は事件の予見不可能として不起訴処分となった。工場長と製造課主任には食中毒を発生させた業務上過失傷害に加え、帯広保健所に虚偽の書類を提出した食品衛生法違反のかどで2003年5月27日に大阪地裁で執行猶予付きの禁固刑が言い渡された。製造課長は公判中に交通事故で死亡した。
その後の混乱​
その後、雪印グループの製品が全品撤去に至るなど、親会社の不祥事とは言え、グループ会社全体の経営が悪化する。そして2001年(平成13年)から2002年(平成14年)にかけてBSE問題が表面化。これによって追い打ちをかけられたグループ会社の雪印食品は、雪印牛肉偽装事件(雪印乳業本体ではなく、子会社不監督)を発生させた。この事件によって信用失墜は決定的になり、グループの解体・再編を余儀なくされる結果となった。さらにこれが原因で、同社がスポンサーであった『料理バンザイ!』(テレビ朝日系)が、2002年3月31日で放送終了となった。
1997年の山一證券・北海道拓殖銀行・日本長期信用銀行の倒産ともあわせ、第二次世界大戦後のバブル経済まで絶対的に信奉されてきた「一流企業」ブランドに対する信頼は崩れ落ち、高度経済成長期以来の価値観の転換を象徴する事件となった。
雪印グループは、スキージャンプやアイスホッケーなどウィンタースポーツの振興に寄与していたが、雪印グループの再編により雪印の実業団は、(スキージャンプのチームである)「チーム雪印」を除き廃され、多くの選手が競技を続けられなくなった。長引く不景気により多くの企業が実業団に資金を注げなくなったこともあり、1998年の長野冬季オリンピックではスキージャンプで金メダルを獲得するまでに至っていた日本のウィンタースポーツは急速に凋落した。
影響は雪印だけに留まらなかった。他の乳業メーカーへ注文が殺到したために、乳業各社で生産・配送が受注に追いつかなくなった。また、乳業以外の食品メーカーでも衛生管理をめぐる不祥事が明るみに出たり、パンやトマトジュースなどをはじめとした食品への異物(蝿や蛙など)が混入する騒ぎなど、食品業界全体の食の安全に大きな影響を与えた。
さらにこの事件が社会に与えた影響として以下のものが挙げられる。

商品名への「牛乳」の命名基準が厳しくなり、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳などの名称が消えた。
低脂肪乳から成分無調整牛乳への需要の集中などにより、夏場の牛乳不足が深刻となる。 当初、牛乳・乳製品の需要は低下すると予測され、同業各社は減産を検討していたが、予測に反してほとんど需要が低下しなかった上、最大手の雪印乳業が事実上操業停止に追い込まれたため、明治乳業(現:明治)・森永乳業などの大手から地域の零細メーカーまで、フル操業でも需要を満たせないような状況になった。
お膝元である北海道では、雪印全工場の操業停止により「地元で作られた牛乳を地元で飲めない」という問題が発生。中でもパイロットファームで有名な、根釧原野を有する釧路・根室地方では、市乳工場であった雪印釧路工場が撤退していたため、他地域以上に問題視された。このためよつ葉乳業は首都圏向け商品に特化していた根釧工場で、2004年から「根釧牛乳」を生産・発売することとなった。
乳製品の再利用について、2001年5月に社団法人日本乳業協会が「飲用乳の製品の再利用に関するガイドライン」を作成し、「工場の冷蔵管理下にある一定量の製品についてのみ行われる」ことが決定された。
大阪工場が総合衛生管理製造過程(HACCPが要件、厚生労働省が審査/承認)承認工場であったことから、それまで書類審査のみであった承認審査に現地調査が導入されるとともに、3年ごとに更新申請が必要とされるなど、「総合衛生管理製造過程」見直しのきっかけとなった。
当事件をきっかけに雪印乳業大阪工場が閉鎖。跡地にマンション・生活協同組合おおさかパルコープ都島支所が建設された。
雪印乳業は、当事件発生を理由にJT・キーコーヒーとともに展開予定だった『Roots』ブランドを返上・離脱した。
「2つの事件」の概要と「雪印八雲工場食中毒事件」について / 雪印メグミルク
(1) 雪印乳業食中毒事件
2000年(平成12年)6月に雪印乳業(株)大阪工場製造の低脂肪乳などにより発生した食中毒事件。6月27日大阪市保健所に最初の食中毒患者の届け出がありました。
調査の結果、雪印乳業(株)大樹工場で製造された脱脂粉乳が停電事故で汚染され、それを再溶解して製造した脱脂粉乳を大阪工場で原料として使用していたことがわかりました。
その脱脂粉乳に黄色ブドウ球菌が産生する(エンテロトキシン)が含まれていたことが原因でした。雪印乳業(株)は事件直後の対応に手間取り、商品の回収やお客様・消費者への告知に時間を要したため、被害は13,420人に及びました。この事件によって、社会に牛乳、乳製品をはじめとする加工食品の製造に、不信と不安を抱かせるだけでなく、乳等省令についての乳業界の解釈と社会の理解との乖離が明らかになるなど、社会に対して大きな影響を与えました。
(2) 雪印食品牛肉偽装事件
2001年(平成13年)9月、国内でBSE感染牛が発見されたため、国はBSE全頭検査開始前にと畜された国産牛肉を事業者から買い上げる対策を実施しました。
これは、雪印乳業(株)の子会社であった雪印食品(株)がこの制度を悪用し、安価な輸入牛肉と国産牛肉とをすり替えて申請し、交付金を不正に受給したという、明らかな詐欺事件です。
事件は2002年(平成14年)1月23日の朝日、毎日両新聞の報道で表面化しました。
背景には、食肉業界で「原産地ラベル張り替え」が日常化していたことや雪印乳業(株)の食中毒事件の影響により雪印食品の売上が減少し経営が悪化していたことに加えBSE牛発生に伴う消費者の牛肉買い控えにより大量の在庫を抱えてしまっていた、などの状況がありました。
しかし、最大の原因は、当事者の考えや上司の指示がコンプライアンスや企業倫理に反するものであった、ということは否めません。
事件が顕在化してから3ヶ月後の2002年(平成14年)4月末に、雪印食品(株)は解散しました。
(3) 雪印八雲工場食中毒
1955年(昭和30年)3月、東京都内の小学校9校で、学校給食でだされた脱脂粉乳により発生した食中毒事件で、患者数は1,579人に上りました。
この脱脂粉乳を製造したのが当時北海道渡島にあった、雪印乳業(株)八雲工場でした。
原因物質は黄色ブドウ球菌で、脱脂粉乳の製造時に重なって発生した製造機の故障と停電により、原料乳あるいは半濃縮乳が粉化前に長時間放置されたことで菌が増殖したものと推定され、2000年に発生した食中毒事件と全く同様と言える事件でした。
この八雲工場食中毒事件を風化させてしまい、その教訓を活かすことができなかったことが、2000年の食中毒事件の発生につながったとも言えます。
八雲工場の事件後、当時の社長であった故佐藤貢(みつぎ)が全社員に向け発した言葉「全社員に告ぐ」(原文)を掲載しております。 
急がれる酪農家の救済 信頼回復と消費拡大策必要−雪印食中毒事件  
酪農家は怒りあらわに
北海道札幌市の酪農学園大学は雪印乳業と兄弟関係にある。ともに黒沢酉蔵が創立したからだ。「田中正造とともに栃木県・足尾銅山鉱毒の被害者救済に献身した義人」と教授の一人は説明する。「黒沢は牛乳を最高の健康食品とし、雪印創業と同じ理念のもとに酪農教育にも情熱を注いだのですが、今回の事件はまことに残念」と嘆く。学生たちのショックも大きい。
北海道は雪印発祥の地だが、酪農家の怒りはあらわだ。「私たちは毎日、乳を搾って冷蔵タンクに入れ、出荷後はホースやバルブなども毎回きれいに洗う。ところが雪印は3週間も洗わなかったという。とんでもない話だ」(別海町)。
乳業メーカーは酪農に厳しい衛生管理を求める。農協は生乳集荷の際に異物や細菌数、そして病牛の目安になる体細胞数を調べ、基準外に対しては乳代値引きのペナルティーもある。
違反は酪農への背信行為
「うちは約70頭と小規模なので手作業ですが、品質管理には毎日ピリピリ。暑くなると体調を崩す牛も出ますが、メーカーは『悪い牛は早く淘汰しなさい』と容赦なし。その最大手がでたらめをしていたとは想像もできなかった」と語るのは福島県川俣町の農業法人「みちのくグリーン牧場」(高橋勝信代表)。
メーカーは製造工程で食品衛生法を守る義務があるが、原料の取り引き段階では義務付けがない。しかし農協と酪農家は自主的な品質マニュアルを厳格に守っている。雪印の違反は酪農への背信行為といえる。
酪農の団体は「食中毒は加工乳によるもの。牛乳は無関係」と強調するが、消費者は加工乳も牛乳も同じ牛乳だと思う。しかし加工乳は脱脂粉乳を水で溶いて作れる。勢い輸入原料も多い。これに対し本物牛乳の原料は生乳100%だ。
もうけ主義が事件の原動力  −今後は補償金額が問題に
ここ10年、カルシウム強化や低脂肪など加工乳の需要が伸びた。メーカーの収益性も高い。競争激化の中で雪印は加工乳に限らず製品全体を多角化しつつリストラを徹底。一昨年から古い6工場を閉鎖する一方、京都府八木町に生産能力の高い新鋭工場をつくった。 大阪工場では仮設ホースの取りつけなどカネのかからない効率化を進めた。
そこには無理がある。経営は創業の理念からかけ離れていった。大阪工場の従業員の妻は「主人は毎日夜10時か11時に帰り、疲れがとれないまま翌朝早く出勤する状況です。会社は業績のみにとらわれ、労働基準法を無視しています」(毎日新聞の投書)と、ずさんな衛生管理の原因を内部告発している。やはり、もうけ主義が事件の原動力だ。もう一つ背景にある大問題として、メーカーから牛乳を買いたたいて安売りをするスーパーの強大なバイイングパワー(購買力)がある。量販店も再発防止のため、この際、安売り政策を真剣に見直す必要があると指摘されている。
農水省は酪農経営に対する被害を防ぐ措置をとり、全国の牛乳指定生産者団体は雪印の各工場に搬入していた生乳を他社の工場に振り向ける配乳変更の作業に振り回されている。
九州生乳販売農協連の安田一臣参事は「毎日やりくり算段ですが、仕向け先が遠くなった際の運賃負担や飲用乳から加工乳に振り代えられた場合の乳代低下など酪農家のマイナス分にはぜひ支援をしてもらわないと困ります」と訴える。
酪農家も「乳代は安い。その手取りが、さらに減っては死活問題です。補償は絶対に必要」(みちのくグリーン牧場)と痛切だ。今後は雪印の出す補償金額が問題となるだろう。
風評被害防止へ情報公開重要に
また安田参事は「消費者には牛乳が体によいという価値観があるが、それが損なわれた。業界と国は乳業工場の総点検を急ぎ、問題点を整理し、一日も早く安全宣言をして信頼を回復してほしい」と求めた。
コープ東京は「プライベートブランド(PB)商品を製造している乳業各社(雪印との提携はない)に一層の情報公開を求めていく」方針だ。すでに牛乳全体に対する不安感をあおるような報道もあるため、風評被害を防ぐには情報公開が重要な当面の課題となる。
九州大学の甲斐諭教授(農業経済学)に当面の課題のポイントを次の三つにまとめてもらった。
1酪農家救済が必要。今回の事件で廃業が出ないよう緊急避難的にも手取りを保障すること
2業界をこぞっての信頼回復対策と消費拡大対策が必要
3牛乳への不信感を抱かせないようマスコミなどの報道に節度を求めること。
雪印乳業の経歴と業績
創業は1925年。理想家の黒沢酉蔵を中心に北海道の酪農民が設立した「北海道製酪販売組合」が前身。従業員は数人だった。組合はその後、北海道の生乳供給を一手に引き受け、戦後は本州に進出し、乳業の最大手にのし上がった。メインバンクで筆頭株主の農林中金は創立以来「70年のお付き合い」である。
雪印の業績は売り上げの5割を占める牛乳に加え、乳製品が伸びて3月期の単独売上高は5439億円。経常利益は122億円。経常ベースで3期連続の増益で、今期の業績予想も事件前までは増収増益だった。
内部留保も厚く、今3月末の借入金は42億円と少ない。「企業規模からみると無借金経営に近い」(農中)。財務体質は強固だ。
石川哲郎社長(66)は2期4年目。財務部長など管理畑が長い。3月に業界3団体が一つになって発足した日本乳業協会の初代会長で、業界の顔でもある。 株主総会前日の6月27日、今年最高値と並ぶ619円だった株価は7月6日、396円にまで落ち込み、今年の最安値を更新したが、その後、持ち直している。 

 
2004/