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●ジェンダー |
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ジェンダーとは、社会的・文化的に作られた性差のこと。ジェンダーバイアスとは、その「〜らしさ」から生まれる偏見や先入観のこと。ジェンダーフリーとは、「女性的な人」「男性的な人」を否定的に捉え「中性的な生き方」を
広めようとするものではなく、誰もがありのままの自分を生きられる社会への提案とのことのようである。 |
●メディアの差別語作り
あるときNHKのニュース解説で「片手落ち」という言葉を使った。けしからんと部落解放同盟の地方支部の書記長がNHKに抗議した。協議の結果、この言葉は放送で使わないことに決まった。ところが、この年の大河ドラマが忠臣蔵で、赤穂浪士が集まって「吉良上野介はお咎めなしで大石内蔵助だけを切腹させるのは片手落ちだ」と言う有名なシーンがあった。そのときすでに収録は終わっていたが撮りなおし「片落ち」という言葉で代用した。浪士が次々に立ち上がって「片落ちでござる」と訴える珍妙なシーンが放送された。
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●それは片落ちでござる
1999年放送されたNHK の大河ドラマ「元禄繚乱」はご存知の通り赤穂浪士を描いたドラマで、前半のクライマックス「刃傷松の廊下」の場面から仇討ちへと毎週進んで行き、日曜日の夜を楽しみにしておられた向きも多いと思われる。
そのなかの一場面で、殿中で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭へは切腹ご下命される一方、吉良上野介にはお咎めがなかったことに対して浅野家家臣が「それでは片落ちと言うものでござる」と憤る場面が放送された。
この「片落ち」という言い方に若干の違和感を覚えられた方も多いのではないだろうか。以前であれば「片手落ちでござる」と言われていたであろうが、近年は手の不自由な障害者の方への配慮からこの様な表現に変わってきた。
「聾桟敷(つんぼさじき)」「盲蛇に怖じず」「群盲象を撫でる」など、上記のような配慮から放送および公の社会から消えつつある表現、諺などたくさん挙げられる。生放送などでうっかり出演者が使ってしまった場合にはすぐさま「不適切な表現がありました」とお詫びの言葉が流される。法律の名称、条文などもそれに沿って近年改められて来ており、社会の大きな流れとして定着して来た感がある。
従来踏襲してきた日本語の文化が、この様な形で改められていくことに抵抗感を覚えられる方々の意見も時には耳にするが、やはり障害を持つ人々を言葉で傷つけてきた歴史を素直に反省し、文化にこだわらずに改められていくべきものであろう。
しかしながら、名前、言葉という体裁などよりも、もっと大切なのはそういった弱い立場の人たちを思いやる心であり、これは我々医療人の根本にしっかい据えておかなければならない問題である。言葉だけ改めても、思いやりの心が育っていなければ、それこそ本当に片落ちでござる。 |
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部落 / 特殊部落 / 人非人 / 家柄 / 身分 / 身元調査 / 過去帳 / 興信所 / 特殊学級 |
めくら / つんぼ / あきめくら / おし / どもり / びっこ / ちんば / いざり / かたわ / がちゃ目 / ロンパリ / 業病 / かさっかき / ライ病 / 植物人間 / 白痴 / こけ / のうまくえん / 精神障害者 / きちがい / きちがいに刃物 / きちがい沙汰 / 狂気の沙汰 / 天才と狂人は紙一重 / ○○キチ / しらっこ / せむし / みつくち / 台湾ハゲ / 馬鹿でもチョンでも / めくら判 / つんぼ桟敷 / めくら縞 / めくら滅法 / めくら蛇におじず / 片手落ち / てんぼう / バカチョンカメラ / 自閉症児 / 精神薄弱児 / 精薄 / 心身障害者 / 心障者 |
犬殺し / おわい屋 / 汲み取り屋 / クズ屋 / バタ屋 / ゴミ屋 / おんぼう / 屠殺 / 屠殺人 / 屠殺場 / 番太 / おまわり / 運ちゃん / 沖仲仕 / かつぎ屋 / 給仕 / 漁夫 / 芸人 / 周旋屋 / 下女 / 下男 / 女中 / 百姓 / どん百姓 / 工夫 / 土方 / 土工 / 人足 / 人夫 / 鉱夫・坑夫 / 小使い / 三助 / 女給 / 女工 / 職工 / 線路工夫 / 日雇い / ニコヨン / 坊主 / 親方 / 小僧 / 丁稚 / 土建屋 / タケノコ医者 / ヤブ医者 / 床屋 / 代書屋 / 共稼ぎ / 馬丁 / 馬喰 / 郵便屋 / 潜水夫 / 板前 / OL |
くろんぼ / ニガー / ニグロ / クロ / 黒人 / アメ公 / イタ公 / ロスケ / ジャップ / チャンコロ / 支那人 / ジュー / ポコペン / 毛唐 / 紅毛人 / 鮮人 / 半島人 / 南鮮 / 北鮮 / 中共 / 土人 / 後進国 / 低開発国 / ダッチマン / あいのこ / ハーフ / 混血(人) / 移民 / 支那チク / 支那料理 / 支那そば / 日本のチベット / 三韓征伐 / 朝鮮征伐 / トルコ風呂 / トルコ嬢 / 老婆 / 裏日本 / 表日本 / 田舎 / 出戻り / オールドミス |
スケ / ナオン / イモ / あらめん / まえつき / ほんぼし / シマ / ペイ患 / おとしまえ / やばい / ジャリ / がき / ずらかる / ブタ箱 / サツ / デカ / ガサ / ドヤ / コロシ / タタキ / ブツ / 強姦 / あて馬 / ネコババ / イカサマ / 股にかける / くわえこむ / 足を洗う / インチキ / アオカン / すけこまし / 土左衛門 / ゲンナマ / ザギン / チャリンコ / ノビ / ヒモ / かわかぶり / ゲーセン / ズージャー / せんずり / ヤー様 / 地まわり / やさぐれ / 淫売 / 姦通 / パクる |
南部のシャケの鼻まがり / 越後の米つき / 富山の三助 / 上方のぜい六 / 伊勢こじき / いちゃもんをつける / うんこ / 女子供 / 婿をとる / 嫁にやる / 娘をかたづける / しりぬぐい / たれ流し / 足切り / 首切り / 落ちこぼれ / 溺れ死ぬ / 本腰を入れる / 名門校 |
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●「座頭市」 |
●二十五本も製作された「座頭市」シリーズ
子母沢寛と言えば「新撰組始末記」や「勝海舟」などの歴史小説、一方で「国定忠治」や「紋三郎の秀」等の股旅モノで知られていますが、彼の短編小説のようなエッセイ集のような、ちょっと風変わりな「ふところ手帖」を読みました。この本の中に、「座頭市物語」と題する一篇があります。文庫本でわずか十頁ほどという短いものです。
これに目をつけ、映画化しようと考えた人が誰なのかは知りませんが、大変な企画力の持ち主だったんじゃないかな。もちろん、企画力の評価は、作品が完成して大当たりをとるまで出来なかったんでしょうけど、こんなに息が長く、大変な興行成績を上げる黄金シリーズになるなんて、最初はまさか予想していなかったんじゃないかしら。
日本映画にはシリーズものがやたらと多いんです。「丹下左膳」や「鞍馬天狗」の昔から、「多羅尾伴内」を経て「網走番外地」や「仁義なき戦い」にいたるまで、そして「男はつらいよ」などは、日本映画史上特筆すべきシリーズになってます。
外国にだって「ターザン」という大変な例はありますけど、日本ほどシリーズ好きじゃあないようです。名だたる「フランケンシュタイン」だって「007」だって、それほど多く作られているわけではない。
それにたいして、日本では勝新太郎だけとっても、「座頭市」のほかにも「悪名」があり、「兵隊やくざ」があり、数は少ないですが次郎長シリーズだってある。
「座頭市」シリーズはぜんぶで二十五本ありますが、何がそれほど日本中の観客をひきつけたのでしょうか。 |
●勝新太郎の「座頭市」
観客をひきつけた要因の一つには、座頭市というキャラクターと、勝新太郎とを結びつけたところにあるんじゃないかと思います。
丹下左膳と大河内伝次郎(左膳はバンツマや大友柳太郎等ほかの俳優も演じていますが、やはり大河内にとどめを刺すと言ってよいでしょう)、鞍馬天狗と嵐寛寿郎(これも丹下左膳とおなじですね)、そのほかにも007ジェームス・ボンドとショーン・コネリー、車寅次郎と渥美清といったように、生涯にたった一度出合い、その役者を決定してしまうキャラクターがあるようです。ただし、そういう出会いを待ち望みつつ、果たせぬままおわってしまう俳優の方が沢山いるのが現実なんですが。
勝新太郎も初期は白塗りの二枚目役の一人でしかなかったんですが。その後、荒々しい役に挑戦したんです。定説なんですけど、「不知火検校」が勝新太郎を開花させたスタートということになっています。「破れ傘長庵」もその系列です。
でも、出世のためには手段を問わないという盲目の悪人(不知火検校)を演じて、悪の魅力を打ち出すことに成功はしたんですけど、まだどこか明るさが出てしまう、といった「健康人」の気配を感じさせてるのが気がかりでした。
「座頭市」は、必ずしもその延長線上にあるとまでは言えませんけど、監督の三隅研次は勝新を盲目にして「片輪者」にしたてあげた。そういった役割の設定で「座頭市物語」は成功したんだと思います。
盲目であることが共通してはいますが、どこか正義の味方のようにもみえる「座頭市」は、愛嬌もある悪人といった側面も兼ね備えて、それも魅力の一つでした。 |
●子母沢寛原作による第一作
第一作の「座頭市物語」は、子母沢の原作を下敷きに踏まえて、さらにそれを膨らませたものでした。
勝新太郎の座頭市と天知茂扮する平手造酒との友情と宿命の対決がストーリの上では重要な骨子となってるんですが、原作には、浪曲や講談で有名になった「天保水滸伝」、飯岡の助五郎と笹川の繁蔵の「でいり」で、平手造酒(原作では史実通り平田深喜と記されています)が死んだという記述はあっても、座頭市に斬られた、と言っていないんです。
第一、座頭市は「目の見えねえ片輪までつれて来たと言われては、後々、飯岡一家の名折れになる」と言われて、その喧嘩には加わらなかった、と書いてあります。
従って、市と造酒との対決は、映画製作の上での創作と言うことになるんですが、映画全体を通した雰囲気は、原作をふまえているだけにリアリティがあります。
映画の開巻は、ネガとポジを同時に焼き付けたような異様なソラリゼーション画面で、座頭市の後ろ姿からはじまります。丸木橋を手探りしながら四つん這いになって渡るシーンなど、どこか危うい雰囲気で始まります。
市の居合抜きも飯岡の助五郎(柳栄二郎)の言葉で説明されるだけで、ローソクを見事に斬るシーンは見せますが、人を斬るのは(造酒をふくめて)三人だけ。原作では人を斬ってさえいないんです。
ローソクを斬るシーンなどの市の居合抜きのデモンストレーション・シーンは、映画でも魅力的な場面になっていますし、原作でも徳利や桶を斬って見せるところがあります。ところが、シリーズ化されるにしたがって映画ではこの「居合抜き」のシーンがエスカレートして、碁盤やら火鉢やら錢箱をやたら斬って見せるようになる。
それはそれで面白いんですが、だんだん飛躍が大きくなっていってしまいますし、それに第二作以降の映画は創作ということもあってどんどん派手になってしまって、座頭市は滅多矢鱈に強くなってしまいます。それはそれで痛快でもあり、シリーズを成功させた原因でもあるんでしょうが・・・。 |
●意外性の面白さ、痛快さ
盲人がめっぽう強い、というのは意外性の面白さがあります。社会的に虐げられていた人物が、ある瞬間、異常な強さを見せ、悪人たちをバッタバッタとやっつけるのは胸のすくことでもあるんですけど、座頭市が有名になり、シリーズ化されるにしたがって、その意外性がだんだん消えていって、ただ胸のすく痛快さだけが残るようになっちゃった。
そして、そこを際立たせるためには主人公をますます強くしなければならなくなる。ところが、あまりスーパー・マンになり過ぎると、今度は人間的な魅力に欠けてきてしまうというジレンマに陥ってしまった。このシリーズが次第に衰退していったのには、そんなところにも原因があるんじゃないかな。
盲目の剣豪には、「大菩薩峠」の机龍之介という人物がいますが、龍之介の鬼気迫るさまに比べれば、座頭市には、何といってもまだユーモアもあり、庶民性があります。
西部劇にも盲目のガンマンがでたことがあるんです。あまり評判にはならなかったようですけどキャメロン・ミッチェルの「ミネソタ無頼」という映画です。座頭市よりあとに作られてますから、座頭市をヒントにしたのかも知れません。
テレビ用の西部劇でもアーサー・ケネディが盲目のガン・マンを演っていました。座頭市が作られるよりも前のことです。時計の振子の音を頼りに撃ったり、ラストの決闘は夜のシーンで、まずランプを撃って消すことで優位に立ったりして、そんなリアリティは、座頭市の第一作にも共通するようにも思えます。
一作目の「座頭市物語」で座頭市と斬り合うのが平手造酒で、労咳病みの浪人に扮した天知茂がとてもよかった。飯岡の助五郎と笹川の繁蔵の「でいり」
で、飯岡に厄介になった市と、笹川の用心棒になっている造酒が、「はみだし者」同士の友情で結ばれるんだけど、「でいり」のために対決しなきゃならなくなるという心理的な葛藤も、よく出てました。
橋の上での二人の対決を、やや下から煽り気味のアングルで撮った三隅の演出と宮沢義男のカメラが秀逸です。そして二作目(「続・座頭市物語」)では自分の兄を、三作目(「新・座頭市物語」)では自分の居合抜きの師匠を斬ってしまう。
ところが、そういう因縁や葛藤のドラマがあるのはこのあたりまでで、以降の作品では旅先で出会った悪い親分やその用心棒との闘いといったパターンが続くようになってしまう。そんななかではもっと派手な殺陣の工夫や、対決する相手に強力なゲストを迎えるということが、興味の中心となって行ってしまうのは、やむをえないことなんでしょうが、やはりマンネリになってきちゃった。 |
●チャンバラは相手役が大事
チャンバラ時代劇の相手役、これ、大事ですね。チャンバラに限らず相手役は大事なんだけど、チャンバラの場合主人公と拮抗するだけの実力がなけりゃいけない。役の上でも強くなけりゃ面白くないし、またそう思わせる、見せる役者が必要です。
見た目でそう見えるだけじゃなくて、その人物の背後にある権力とか陰謀とかを表現する演技力も必要なんです。とにかく強い相手が映画を面白くすると思います。
宮本武蔵に対する佐々木小次郎もそう。みためは武蔵の剛に対して小次郎は軟ですが、技ではどちらも強い。三船敏郎が武蔵を演ったときの小次郎は鶴田浩二だったし、中村錦之介が武蔵の時は小次郎は高倉健。千恵蔵は何回も武蔵を演ってますが、最初の千恵蔵武蔵の小次郎は、軟とはいえない月形龍之介。敵に回したときの龍之介はなかなか怖くて、チャンバラではないけれど「姿三四郎」の敵役の檜垣源之助なんかはほんとに怖い強敵でした。座頭市のようにシリーズになると、次の敵は誰だろう、というの(だけ)が楽しみになってきてしまうもんです。
座頭市は一作目で平手造酒を斬り、二作目の相手役は城建三朗。若山富三郎のその頃の芸名です。
市の兄貴という設定で、これは実際の兄弟の対決ということになる。三作目では、市の居合抜きの師匠であった人物が敵に回る。河津清三郎。三作目まではそれぞれに因縁話があるんで、やや暗いところも画かれますけど、四作目からはそんなこと抜きで、単純な娯楽シリーズとして徹底した。それでも殺陣の工夫がある。市が強いことは衆知になっちゃったんで、市の敵に回る側がそれを上回る作戦を練る。
沢山観てると、どの回の敵がだれだったか忘れちゃってるんですが、成田三樹夫、仲代達矢、三国連太郎、佐藤充、平幹二郎、高橋悦史などといった一癖も二癖もある人たちが敵に回ります。
中でも強力な敵が、二作目に続く六作目の城建三朗。「座頭市千両首」の鞭を使う不気味な浪人で、滅法強い。勝新太郎もそれまでの座頭市のイメージが加わって強そうな、風格といったものが出てるんですが、若山さんは勝新の実兄で一枚上手と言ってよいほどの風格があるし、なにしろ時代劇は得意ですから、この二人の立ち回りはまさにド迫力でした。
変わったところでは森雅之。「座頭市あばれ火祭」だったかな、闇の検校という役で、悪人だけどこっちも目が見えない。盲人同士の闘いというのも凄みがあります。
三船敏郎の「用心棒」のキャラクターをそのまま立ち廻りの相手にもってきたのが「座頭市と用心棒」。さすがに役名は変えてるんだけど、黒澤明の名作のイメージがあるから斬っちゃうわけにはいかない。勝負なし、と言うことにしてます。そのために座頭市シリーズとしては何かスカッとしない出来になっちゃった。でも、興行成績では一番だったはずですけど。シリーズの回を重ねるにしたがって、強力な敵を演れる役者さんがだんだん少なくなっていったんでしょうね。三船敏郎なら十分に強力だけど、悪役に出来ない辛さがあったんだろうと思います。
傑出した出来の第一作を除けば、ボクは「座頭市千両首」が(評価はあまり芳しくなかったようだけど)好きです。島田正吾が国定忠治の役で出てくるのも面白かったし、何よりも斬り合いの相手城健三朗(二度目の出演)の凄みが利いていて、二人の対決シーンは大変な迫力でした。宮川一夫による撮影も美しく、何というか昇華された美学を生み出していたと思うんです。
ついでに書いておきますと、第一作の終盤で、やむを得ず造酒を斬った自分に遣りきれなくなった市が、「でいり」の大勝に浮かれる助五郎に浴びせる痛烈なセリフ、「ヤクザあな、御法度の裏街道を行く渡世だ。お天道様へ、大きな顔を向けて歩くような根性になってはいけねえんだ」という、市の哲学とでも言うべき名セリフは、原作にあるものです。
そして、映画の第一作目と第二作目(「続・座頭市物語」)はモノクロ、スタンダード版で、以降カラー版、大型画面になってます。 |
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