言葉は文化だ

寿司屋の湯呑み魚偏のかたまり 
 
鯖鮊鮮鱎鯷A鱞魫鯥鱈鮰C鯳鮅鱝鮨鱛鰞鱃鯺鱧 
鮓魿鮃鯱鱒鱞鮧鮹鯤鰮鮫鰰鰻鯯鰉鱏鰖鱲鱊鱘鰦 
鰽鮬鯝魮鮸鰚鮔魬魹魨鱃鰪鱲鱷鰾鮖鮉鰔鯎鮇鯸 
鱐鱵鯒鱄魭鮗鰍鰆鮴鮪鰯鰹鰋鰮鱨鯏鰘鮀鮑魣鯥 
鰑魴鱇鯉鯪鱚鯎鯥鰄鮐鱸穌鯇鰥鰓鰈鱣鱶鰱鰒鰜 
鮎鰡鰐鰺鰒鯑鱗鱠鱮鮟鯹鰊鷠鯛鯸鰩鱎魡鯆鰌鮾 
鮍鮄鰏鰨鰾鱆鯀鯡鯨魳鰭鮭鯢鯿鯀鯰鯐魞鱆魸鯔 
鰚F 
 
魚は日本の食文化  
言葉文字の多さは生活に密着したものの証

 


 

寿司の雑学外食の歴史・・・
 
   
魚氷に上る 
魚千里 
魚と水 水魚の思い 水魚の因み 水魚の交わり 
魚の泥に息吐くが如し 
魚の釜中に遊ぶが如し 
魚の水に離れたよう 
魚の水を得たるが如し  
魚の目に水見えず 
魚は江湖に相忘る 
魚は鯛 
   
魚を得て筌(うえ)を捨てる 
魚の目 
俎上に載せる 
俎上の魚 
俎上の魚江海に移る  
魚心あれば水心 
逃がした魚は大きい
 
魚目 
硬骨漢 
鱈腹 
焼き直し 
骨抜き
  
思考停止 
特定の言葉を使わなければ差別が減る 
思考停止の勧めなど 
ない社会がいい 
躾・教育の悪さを約束事でカバーしようなど 
愚の骨頂
   
言葉は生活習慣から派生増殖する 
一つのことに表現言葉が多いことは生活密着度・歴史がある証 
流行り言葉はすぐ消える
   
物は言いよう 
木で鼻をくくるように「美人だね」 
貴女はブスだ 
セクハラ
  
   
物は言いよう 
まじまじと「美人だね」 
本当に美人だ 
認める
 
まじまじと目でなめるように「美人だね」 
押倒したい 
セクハラ
 
朗らかに「セクシーだね」 
女だね色っぽいね  
セクハラではない
  
物は言いよう 
前振り「お腹立ちになるでしょうが」 
本音をぶつける
   
物は言いよう 
汚い言葉づかい 
耳障りな言葉づかい 
場所柄をわきまえない言葉づかい 
使う人は軽蔑無視される 
尊敬されない 
認められない社会になろう
  
断じて「言葉」ではない 
「言葉づかい」を物差しにしよう

 
2002/  
 
 
寿司の雑学
寿司の起源 
寿司は日本独自のものだとの認識が強いのだが、もともとのルーツは、東南アジアの先住民が塩漬けにした川魚を、炊いた米にからめて自然発酵させた「馴れずし」にあるという説が有力だという。我が国では滋賀県近江の「鮒ずし」などがその系統に属し、いわゆる「握りずし」とは明らかに見た目も味も異なる。「握りずし」が酢飯を生ものの魚貝類と共に食べるのに対し、「馴れずし」の場合、米は発酵させるためのもので食用ではない。米のほとんどは捨てて魚だけを食べる。また、納豆、もち、漆、焼畑、着物、下駄、かかしのような今日の私たちの生活に根付いた「日本文化」と寿司のルーツとされる地方に共通点があるのも興味深い。「馴れずし」はほかの文化と同じように中国を経て我が国へ渡来したとされるが、中国では13世紀に北方民族である「元」に征服されると跡形もなく消え失せてしまった。日本の史上で初めて「鮨・鮓(すしの別漢字)」が登場するのは、養老2年(718年)に制定された「養老律令」の租税を定めた中に、「アワビスシ、イガイスシ、ザツノスシ」と記されているもので、当時の寿司は朝廷に納める税であったとされる。当時のネタは川魚だったので、特に人気だった鮎のすしが献上品として好まれたのかもしれない。 
保存食から美食の対象へ 
日本の歴史上、奈良時代に登場した寿司は千年ほどの間に大きく変化した。もともと米は乳酸発酵の材料でしかなかったことからドロドロであったが、しだいに漬け込む時間を短くしてまだ生っぽい魚を食べるようになる。室町時代になると、漬け込む時間がいっそう短くなるとともに米も食べるようになり、寿司の酸味も新しい味覚として受け入れられるようになった。こうして「飯ずし」が誕生し、酢の登場により「箱寿司(押し寿司)」も誕生し、魚の素材も川魚から青背魚へと変化していった。もっとも、この時期(室町〜安土桃山時代)は日本人の食生活が大きく変化し、料理法が蒸すから煮る・焼くへ、一日二食が三食へと変化していったという時代背景があり、これらが寿司が保存食から美食へと変化していった後押しをしたとも考えられる。 
握り寿司の誕生 
明暦3年(1657年)の大火で江戸の町の3分の2が失われると、その復興のために全国各地から職人が集まり、その彼らへの食を賄うために今でいう外食産業が自然発生し、寿司は初めは関西寿司の行商として登場した。やがて、蕎麦やおでんなどと同じく屋台となって海苔巻寿司が出現し、文化7年(1810年)、華屋与兵衛が握り寿司店を開業。これが握り寿司の誕生である。味はもちろん、ふらりと立ち寄って、立ったまま好きなネタの握りをつまんでさっと立ち去る、という手軽さが当時の江戸っ子の気風にぴったりだったことから、たちまち江戸中の寿司店が握り寿司一辺倒となってしまったのだという。ちなみにマグロは現在握り寿司に欠かせないネタとなっており人気も高いが、握り寿司が誕生した江戸時代の頃は客に提供できないほどの下魚とされており、マグロの握りは明治時代末期、屋台で提供されたのが最初だというから歴史は浅い。トロは更に下って大正時代から食べ始められたというから、何だかもったいない話である。 
江戸前寿司と関西寿司 
江戸前とは江戸の目の前にある海のことで、本来は東京湾で捕れた魚貝類を寿司ネタとしたことから江戸前と呼ばれた。寿司が登場する前は、江戸前と言えば実は「うなぎ」を指していたという。江戸城周辺で捕れたうなぎを他所で捕れたものと区別して「江戸前うなぎ」と称していたらしい。それが、江戸時代の文政年間に握り寿司が登場して人気を博すと、たちまちうなぎから寿司へと「江戸前」が転移してしまったのだという。一方、関西寿司は、ファストフード的な江戸前に比べて保存食である押し寿司の流れにあるもので、最大の相違点は寿司飯に用いる砂糖の量が関西寿司の方が多いという点である。京寿司にいたっては江戸前の3倍の砂糖を使用するという。また、江戸前の寿司飯は人肌の温度が最適といわれ、逆に関西寿司はすっかり冷ましてから使うという違いもある。砂糖がしっかり使われているために保存性が高いのである。 
いなり寿司と巻き寿司 
スーパーなどで売られる「いなりすし」と「巻き寿司」をセットにしたものを「助六」というが、これは「油揚げ」と「巻き」を合わせて「あげまき」と呼べば、歌舞伎の登場人物の一人「助六」の恋人である遊女の名の「揚巻」と読みが同じであることからしゃれで付けられたのだという説がある。いなり寿司は1800年代にはすでに知られていたようだが、江戸時代の記録によれば「最も安価」とか「甚だ下直」などと書かれている。一方、巻き寿司の発生も不確かだが、一説によれば「姿寿司」から派生したのではないかという。魚身に飯を詰め込んだものを姿寿司というが、海苔を魚の皮に見立てて使ったのではないかという。 
回転寿司 
回転寿司の1号店は昭和33年(1958年)に東大阪市に誕生した「廻る元禄寿司」だという。元禄産業株式会社の創始者・白石義明氏がビール工場でビンの洗浄や詰め込みなどが人手によらず、コンベアに乗って流れていく工程にヒントを得て現在の回転寿司の形態を思いついたということになっている。当時の寿司は、高価で庶民にはなかなか手の届かない食べ物であったが、この発明により一気に大衆化し、価格がはっきりしていて安心して食べられることや、長い待ち時間も不要などの手軽さが圧倒的な支持を得て全国的に普及した。その後、業界としては多少の浮き沈みはあったものの、平成に入ると「安い」「早い」に「うまい」が加わったり、個性的な店が登場するなどしてその地位を不動のものとした。今では回転寿司も様々な展開を見せており、一時ブームとなっていた「一皿100円」の表示は少なくなり、寿司飯が大きくネタが小さいというようなイメージは消え去った。ちなみに、一皿(1個)に2カン提供するという寿司店独自のサービス方法は戦後誕生したもので、戦前は一皿(1個)は1カンであり、1カンはもっと大きな、おにぎり程度の大きさだったようだ。客の要望や店側の都合、昨今のネタを重視する嗜好などから1カンの大きさが小さくなり、かつ2カンで提供する方法になったそうだ。 
恵方巻き 
2月3日の節分の日の夜、恵方を向き、切っていない太巻寿司に無言で丸ごとかぶりつくと「福」を呼ぶといわれ、厄払いと幸せを祈る風習がある。その起源について一説には、江戸末期〜明治時代にかけて大阪の商人が「商売繁盛」「無病息災」を願って大阪・神戸で始めたというものがよく聞かれるが、豊臣秀吉の家臣・堀尾茂助吉春が、節分の前日に巻き寿司の様な物をたまたま食べて出陣し、戦に大勝利を収めたという故事にちなむ、というのが通説のようだ。20年ほど前から復活し、節分の日の行事として今では全国に広がっている。恵方とは幸運を司る歳徳神が存在するとされる方角で、毎年方向が変わるものであるが、太巻寿司を鬼の金棒に見立て、それを食べてしまう事で厄払いになるといわれている。太巻寿司を切らないのは年越し蕎麦と同じく、長いと言う事に意味があり、「縁を切らない」で「福」を巻き込む、との願掛けがあるそうだ。また無言でというのも、無言参りや読経中魔が入り込まないよう一息に読む事等とも関係があるといわれ、具は福を食べる意味から七福神に因み、かんぴょう・きゅうり・しいたけ・伊達巻・うなぎ・でんぶ等の7種類と言われている。とにかくキッチリ食べれば1年間良いことがあるという。筆者は関西出身ではないし20年前は幼少時代でもないので、これを全く知らず、無論一度もやらずに今に至ってしまった。元来節分とは、季節の変わる節目の立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをいい、1年に4回あるものだが、現在は立春の前日の節分だけ、行事をする習慣が残っている。 
このほかにも、ほとんどの寿司ネタが魚偏の漢字で書き表されることや、「まぐろ」に関する話題、「わさび」について、「通の話」など調べてみたい話に事欠かないのが我が日本人の好む寿司である。  
  
外食の歴史
 
はじめに  
「外食」というと何を思い浮かべるでしょうか。ハンバーガー店や牛丼屋、ファミリーレストランなど、現在では多様な外食産業が盛んです。チェーン展開を特徴とするこれらの外食産業はおもに1970年代以降に登場したものですが、料理店や食堂など、家庭外で食事を提供する飲食店は、より古くからありました。第145回常設展示では、外食文化の栄えた江戸時代から現代までの「外食」の変遷を、当館所蔵の資料から3つの時代に分けてたどります。  
第1章では、江戸時代を取り上げます。この時代、長い平和のもとで日本文化は成熟しましたが、外食文化もまた、大いに発展していきました。日本の外食文化は、江戸時代前期に起こった浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まり、後期には八百善のような高級料亭も誕生するようになりました。また、握り鮨やてんぷらなど、日本料理を代表する数々の料理が生み出されたのもこの時代です。本章では特に江戸の町にスポットを当て、当時の外食に関する資料を紹介していきます。  
第2章では、明治・大正・昭和前期を取り上げます。明治以降、日本にはたくさんの西洋文化が流入しましたが、外食の世界でもそれは例外ではありませんでした。すき焼きやカレーなど現在でも食べられている料理がこの時期に広まり、明治・大正期には和洋の料理店が共に繁栄しました。  
戦時期に入ると、食糧難の中で雑炊を提供する「雑炊食堂」が現れ、窮乏状態を反映した外食の形態が見られました。本章では、急激な変化を見せた明治・大正・昭和前期の外食に関する資料を展示いたします。  
第3章では、第2次世界大戦後から現在までを取り上げます。経済の復興とともに戦前の水準をとりもどした外食は、1970年にファミリーレストランやファーストフードが登場すると、産業として急速に発展し、日常化していきました。高度経済成長期を経て、人々の生活が豊かになるにつれ、各国の料理を供する様々な料理店が現れました。そして、グルメガイドブックがさかんに出版され、食べ歩きが流行するなど、外食そのものが娯楽になっていきました。本章では、著しい発展・多様化を見せる現代の外食に関する資料を展示いたします。  
鎖国体制下で独自の外食文化を熟成させた江戸時代。西洋料理を取り入れ、和洋の料理店が共に栄えた明治・大正時代。総力戦下の食糧不足を反映した戦時期。ファーストフードやファミリーレストランの登場など、急激な発展・多様化を遂げた現代。外食のありさまは社会の情勢を反映し、常に変化を続けています。今回の展示を通じて、社会の変化を受け入れつつたくましく発展してきた外食文化の諸相をご覧いただければ幸いです。  
第1章 江戸時代  
料理店の起こり  
江戸時代初期、江戸の町には飲食店がなく、飲食店が現れ始めたのは明暦の大火(1657)年以降といわれています。各地からたくさんの人々が江戸へ移住し、その多くが単身の男性であったこと、また参勤交代により妻子を故郷に残して江戸へやってくる武士が多いこともあって、外食の需要が強くありました。そうした人々に食べ物を提供するために、様々な食べ物屋が現れました。簡易な外食の手段としては、振り売りや屋台見世などが見られます。貞享3(1686)年、蕎麦切りその他火を持ち歩く商売を禁止するお触れが出されており、料理を提供する振り売りや屋台が、社会的に無視できないほどの規模で存在していたことがうかがえます。店舗を構えて料理を提供する料理屋もまた、明暦の大火以降に姿を現しています。『西鶴置土産』にある浅草金竜山の奈良茶飯の店が良く知られており、一般的にこれが料理屋の元祖と言われています。  
 
『西鶴置土産』。『好色一代男』などで知られる、江戸初期を代表する作家井原西鶴の遺稿集。元禄7(1694)年刊行。「江戸の小主水と京の唐土と」の項で、浅草金竜山に奈良茶飯を売る店があるとし、「中々上がたにもかかる自由はなかりき」と評しています。  
高級料亭の出現  
当初は簡素な奈良茶飯から始まった料理屋ですが、宝暦から明和のころには、より本格的な料理屋も開業し始め、高級料理店も現れるようになりました。特に明和8(1771)年に、深川洲崎で営業を始めた升屋は、料亭の元祖といわれています。『日本料理法大全』【596.1-I597n】に升屋の献立が掲載されていますが、その充実振りは目を見張るものがあります。また化政期を代表する料亭に八百善があります。『明和誌』は、「一箇年の商ひ高二千両づつありと云ふ」と、その繁盛振りを伝えています。八百善といえば、お茶漬けと香の物を頼んだところ半日ほど待たされた挙句、料金が一両二分かかったというエピソード(『寛天見聞記』)が有名です。その料金の理由が遠方の川に水を汲みに行った運送費ということですから、当時の料亭のこだわりようがうかがえましょう。また、八百善は料理書を出版し、当代一流の画家、作家を参画させるなど、広告戦略にも優れていました。  
 
『明和誌』(白峯院著。文政5(1822)年序)。「宝暦の末、明和の頃より文政迄、色々うつりかはる風俗をあらまししるす」とし、当時の風俗を具体的に記した書。「寛政の頃より流行専らなる」として八百善やさくら井、平清の名を挙げ、「いづれも上品にして値高事限なし」と評しています。  
『料理通』(文政5(1822)年刊)。化政期に繁盛した高級料亭「八百善」の主人が書いた料理書です。序文を蜀山人など当時の著名人が書き、八百善亭の図は鍬形惠斎、他に酒井抱一も絵を描くなど、単なる料理書の枠を超えた、非常に贅沢な本となっています。本書は江戸土産としても好評で、続編も刊行されました。  
さまざまな料理  
江戸時代には醤油やみりんなどといった調味料の普及もあり、現代でも好まれている様々な料理が現れました。そのひとつが麺にした蕎麦を食べる蕎麦切りです。幕末の文化・風俗を紹介した『守貞漫(謾)稿』によれば、江戸では蕎麦屋は「毎町一戸」、繁盛していない地域でも「四五町に一戸」はあったといいます。また、夜間蕎麦を売る「夜鷹蕎麦」など、屋台見世も多くありました。他にもてんぷらや握り鮨など、現在日本料理を代表する数々の料理が生み出されました。現代のものに近いてんぷらが文献で紹介されたのは、寛延元(1748)年刊の料理書『料理歌仙の組糸』になります。それ以前にもてんぷらという料理を紹介した本はありますが、現在のものとはかけ離れたもののようです。握り鮨は文政年間(1818〜1830)に生まれました。それまでは箱鮨などが食されており、江戸の町にも箱鮨を売る店が少なくありませんでした。しかし「近年はこれを廃して握り鮨のみ」(『守貞漫稿』)とあり、江戸の町では握り鮨が広く受け入れられるようになったことがわかります。またこの時代、肉食は嫌われる傾向がありましたが、まったく食べられなかったわけではありませんでした。一般的な食材ではありませんでしたが、「薬食い」と称して折に触れて食されていました。また大名層でも、牛肉が献上品とされるなど、肉食は必ずしも完全なタブーではなかったようです。  
 
江戸の地理に不案内な人のために作成された一種のガイドブック。原本は文政7(1824)年刊。町人文化が隆盛を極めた化政期の様子を知る上で貴重な資料です。こうしたガイドブックや名鑑類は『富貴地座位』(安永6(1777)年刊)、『七十五日』(天明7(1787)年刊)、『江戸名物酒飯手引草』(嘉永元(1848)年刊)など種々見られました。これはそれだけ料理屋の数が多いこと、また、広告が商売を行ううえで重要な位置を占めていることを示しています。  
『家庭鮓のつけかた』(大倉書店 明治43年刊)の複製に、解説を付したもの。著者は与兵衛鮓四代目小泉喜太郎の弟。本書は題名のとおり家庭での鮨の作り方を書いた料理書ですが、巻末に附録として「鮓の変遷」という項が設けられています。著者はその中で、握り鮨の起源を与兵衛鮓の初代であるとしています。  
『蜘蛛の糸巻』岩瀬百樹(山東京山)著。てんぷらの語源について、天明の初年(天明元(1781)年)に筆者の兄山東京伝が名付けたとしています。「天竺浪人」が「ふらりと」江戸へ来て売り始めるから「天麩羅」ということです。実際にはてんぷらという言葉は天明以前に存在していますので、この由来譚には疑わしい部分があります。また、てんぷらの語源を外国語に求める説がありますが、これも決定的な証拠があるわけではありません。  
「びくにはし雪中」(安政5(1858)年)。左手に見えるのは獣肉料理店の尾張屋。「山くじら」とはいのししのことです。江戸時代にも、肉食文化があったことがうかがえます。また右手に見える「○やき」「十三里」とは、薩摩芋(焼き芋)のこと。薩摩芋は栗に食感が似ているため、栗(九里)にかけて、「九里四里(栗より)うまい十三里」「九里(栗)に迫る八里半」などと売り出されました。薩摩芋は飢饉対策として普及しましたが、『甘藷百珍』(寛政元(1789)年)という料理書が出されるなど、庶民に親しまれました。  
第2章 明治・大正・昭和前期  
洋食の流入  
明治時代に入り洋食が本格的に流入すると、外食も急速に多様化し、都市において普及・発達しました。慶応3(1867)年には早くも神田に三河屋という西洋料理店が出現し、明治元(1868)年には大衆相手の牛鍋屋が誕生しました。明治12(1879)年は中華料理店の永和斉(王 斉)が東京築地入舟町で開店し、明治32(1899)年には新橋にビヤホールが登場しています。この時期には文学にも外食が現れ、例えば明治41(1908)年9月から12月朝日新聞に連載された夏目漱石の『三四郎』には、西洋料理店や天ぷら屋、そば屋などが登場しています。明治期の外食施設としては、この他に汁粉屋、焼芋屋、氷水屋、すし屋、蛤鍋屋、鰻屋等があり、明治30年末の調査によると、当時東京には料理屋476軒、飲食店4,470軒、喫茶店143軒があったとされています。大正期に入ると、外食が日常化してきます。大正期の中頃には公営の簡易食堂が設置され、大正12(1923)年の関東大震災後には、大衆食堂の元祖といわれる須田町食堂が開店するなど、各種の飲食店が急増します。明治・大正期を通して外食は大いに多様化し、発展を遂げたといえます。なお、明治・大正期に創業して以来、現在まで続いている店も少なからずあり、今でもこれらの店の味を楽しむことができます。  
明治期  
仮名垣魯文著の『牛店雑談 安愚楽鍋』(明治4‐5年)や『西洋料理通』(明治5年)を収録しています。『牛店雑談 安愚楽鍋』では当時大流行した牛鍋屋を舞台に明治の風俗を描き出し、『西洋料理通』では、「生鮭の煮方」などの西洋料理の料理法について、挿絵を交えて紹介しています。  
収録の「東京番付案内」(明治40年)には日本料理店や西洋料理店など各種料理店の番付が掲載されています。例えば蒲焼屋の番付では、東の横綱が浅草の「前川」、西の横綱が京橋の「竹葉」となっています。本書には、この他に昭和10年の「大東京たべあるきのみあるきスタンプ集」、大正6年の「東京食通番付」、明治18年の「酒客必携割烹店通誌」などを収録しています。  
大正期・昭和初期  
収録の「東京番付案内」(明治40年)には日本料理店や西洋料理店など各種料理店の番付が掲載されています。例えば蒲焼屋の番付では、東の横綱が浅草の「前川」、西の横綱が京橋の「竹葉」となっています。本書には、この他に昭和10年の「大東京たべあるきのみあるきスタンプ集」、大正6年の「東京食通番付」、明治18年の「酒客必携割烹店通誌」などを収録しています。  
日本の列車食堂営業についてまとめた資料。85ページに掲載されている「表16 1925年(大14)7月 洋食堂車および和食堂車の食事需給動向」からは、大正7年当時の食堂車においてビーフステーキやチキンカツレツ、サイダー等が人気を得ていたことがわかります。  
昭和2年東京日日新聞社会面に掲載されていた読み物をまとめた資料。毎回ゲストを招き、食に関する談話を紹介しています。例えば「印度志士 ボース」はカレーについて語っており、「日本のライスカレーはどこへ行つても随分まづい、それあ思ひきつてまづいものです」と述べています。  
戦時下の外食  
戦時期に入ると、外食についても明治・大正期に見られたような華やかさは影を潜めました。昭和16(1941)年4月、戦時下食料統制の一環として外食券制が実施されると、「外食」という言葉が広まりました。また、この時期には窮乏状態に合わせて「雑炊食堂」が誕生し、人々に雑炊を提供しました。戦時期の外食について記した資料は多くありませんが、例えば山田風太郎の『戦中派虫けら日記』昭和19(1944)年5月15日の記述では「雑炊食堂」について触れており、「現在東京都でやっている雑炊食堂は三百三十五軒。合計一日分六十万食だそうだ。だから一日分一軒について千八百人分売っていることになる。昼と夜だけだから、九百人の行列が、東京の三百三十五ヶ所に昼夜並ぶことになる。一食三十銭だから、一日雑炊だけで十八万の金が費やされる。行列に要する時間は、このごろ自分の経験によると、1時間20分かかる。(以下略)」と述べています。  
 
日中戦争から太平洋戦争期を中心に、戦前から終戦直後までの食を扱った資料で、戦時下の食事について詳細に解説しています。昭和19(1944)年には、外食券がなくても雑炊が食べられる「雑炊食堂」が誕生し、昼食時には長い行列が出来た、というエピソードが紹介されています。「雑炊食堂」に関する記述のほか、外食について随所に言及しています。例えば、昭和17(1942)年12月22日には、友人と「食おう会」を敢行した時のことが述べられており、五反田の「玉屋食堂」でコロッケ、里芋の煮ころがし、こんにゃく、大根の煮付けをお菜に大丼二杯飯を食べた後、さらにミルクコーヒーにケーキ、お汁粉を食べに行ったことが記されています。  
第3章 戦後期  
「外食元年」以前の外食  
終戦直後の深刻な食糧難は、日本経済の回復とともに次第に解消されていきました。 人々の生活も向上し、一般家庭で西洋料理や中華料理が作られるようになるなど、食生活は多彩になっていきました。 しかし、「外食元年」と呼ばれている1970(昭和45)年になるまでは、サラリーマンが仕事で得意先を接待する場合などを除けば、大部分の人々にとって外食はハレの行事でした。  
 
終戦直後の深刻な食糧難は、日本経済の回復とともに次第に解消されていきました。 人々の生活も向上し、一般家庭で西洋料理や中華料理が作られるようになるなど、食生活は多彩になっていきました。しかし、「外食元年」と呼ばれている1970(昭和45)年になるまでは、サラリーマンが仕事で得意先を接待する場合などを除けば、大部分の人々にとって外食はハレの行事でした。  
外食産業の誕生  
1970年は外食の歴史上画期的な年でした。ファミリーレストランのすかいらーくが第1号店を出店し、同年大阪万博にケンタッキーフライドチキンが出店しました。この年は業界において「外食元年」と呼ばれています。翌71年には銀座にマクドナルドの第1号店がオープンし、以後ファミリーレストラン、ファーストフードの大規模なチェーン展開がなされていきます。このころからマスコミで「外食産業」という言葉が使われだします。「外食産業」とは、『広辞苑』第5版によれば、「飲食店業、特にレストラン・チェーンやハンバーガー・ショップなど規模が大きく、合理化された飲食業の総称」です。ファミリーレストランやファーストフード店の登場により、手ごろな値段で食べられ、食事の準備も後片付けもしなくてよいという、人々の要求が満たされ、外食は日常化していきます。  
「日本マクドナルド、第一号店を開店」  
1971年7月20日、東京の銀座三越一階の銀座中央通り側にオープンした。  
外食の娯楽化  
外食産業の成長により外食が日常の一部になると、外食はレジャー化・娯楽化が進むようになります。 バブル直前の1980年代半ばころから「一億総グルメ」などといわれたグルメブームがおこりました。料理店が多様化し、「激辛」が流行語になったエスニック料理ブーム、バブル期の高級フランス料理ブーム、俗にいう「イタめし」ことイタリア料理ブームなど、人々の選択肢は増えました。そして、食べ歩きが流行し、グルメガイドブックの出版が盛んになり、雑誌のレストラン紹介などの記事を日常的に目にするようになりました。また、有名店の料理人が出演するテレビの料理ショーが人気を集め、料理の作り手側にも注目が集まるようになりました。近年の外食産業界は、食の多様化や市場規模の縮小などを背景に、競争はさらに厳しいものになっています。単に味や価格のみならず、素材へのこだわり、健康への配慮、更には癒しの提供のような付加価値に特徴を持たせるなどの差別化が図られています。このようなサービスの日々の進化により、味覚に留まらない喜びを私たちに提供してくれています。  
外食産業市場の成長  
外食市場は、統計を取り始めた1975年からバブル期の1990年代初めまで、成長の一途をたどりました。しかし、それ以降は、このグラフでいう料理品小売業、すなわち持ち帰り惣菜や弁当、宅配給食などの「中食」市場が成長を見せはじめ、狭義の(店舗形態の)外食市場は、1997年をピークにやや縮小傾向をみせています。