南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

年寄り逝く
灰は風に飛ばされ どこへ行く

別世界が見られるか 
真っ暗闇か
仏様

 


お釈迦さまの教え釈尊念仏1念仏2念仏3他力本願専修念仏と融通念仏・・・
南無阿弥陀仏1南無2南無3南無4南無5南無6南無7南無阿弥陀仏とは・・・
 
 

 

             
●お釈迦さまの教え   
「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう」(大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほど沢山の仏方が、異口同音に阿弥陀仏の作られた「南無阿弥陀仏」の名号の、想像できない大功徳を褒め称えておられるのだ) 
すでに阿弥陀仏は南無阿弥陀仏を完成させていることがわかります。なんといっても、どこかの誰かが言ったことではなく、お釈迦さまのお言葉ですからね。親鸞聖人は、弥陀が完成なされた、この「六字の名号」の大功徳を、「功徳の大宝海」「本願の大智海」「正信偈」等と讃嘆され、蓮如上人は平易に、こう詳解されています。 
「南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大になること、更にその極まりなきものなり。(御文章)」「南無阿弥陀仏といえば、わずかに六字だから、それほど凄い力があるとはだれも思えないだろう。だが、この六字の中には私達が最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである」と書かれているのです。 
南無阿弥陀仏は全ての人を絶対の幸福にする力があります。人はなぜ生きるのか、何の為に生きているのか、なぜ苦しくとも生きていかねばならないのか、南無阿弥陀仏を頂くとその答えがハッキリするのです。 
さて、南無阿弥陀仏とは少し話が変わりますが「和顔愛語」という仏教の言葉を知っていますか?、私はこの和顔愛語という言葉が大好きです。笑顔でいることは人を幸せにし、自分の幸せにもつながるという意味だと私は思っています。笑顔は見返りを求めてするものではないですよね。自分の笑顔で人を幸せにする・・・こんな素敵なことはないと思います。 
●釈尊

 

歴史上の仏教開祖「釈尊」が、真理に目覚めたる者=「菩薩」(bodhisattva・ボーディーサットバ/菩提薩)として覚りを開いたことが、入滅後に崇高な存在として崇拝され、仏像仏画の原形が作り上げられる段階で、「薩/sattva(サットバ・人)」としての「菩薩」の崇拝観念を超えて「理想仏」の「如来」像を作り上げ「釈迦如来」となった。 
「釈迦牟尼世尊」の「釈迦」は、釈迦国の種族としての名を示している。「牟尼」は、寂黙、仙人、智者などの意で、「釈迦牟尼」で釈迦族の聖者を表す。「世尊」は、仏即ち如来の如き成道者であることの美称。釈尊の姓としての喬答摩(Gautama・ゴータマ)は種族の別称。 
釈迦国迦毘羅(かぴら)城主浄飯王(ジョウボンノウ/S'uddhodana・シュッドゥーダナ)の妻、摩耶夫人(マーヤブニン/摩訶摩耶・マカマーヤ/Maha-ma-ya-・マハーマーヤ)は、ある晩「六つの牙を持つ白象が天から降りてきて、摩耶夫人の右の脇から体内に入り、その純白の象は胎の外から透き通って見え輝いていた」という夢を見た。すると懐妊したという。摩耶夫人は授かった王子の出産のため、生まれ故郷の天臂城(てんぴじょう)へ里帰りした。帰路の途中、ルンビニーの花畑を過ぎたところで急に産気づき、ふと無憂樹(むゆうじゅ)の一枝に手を伸ばしたところ、右の脇の下から王子「釈尊」が降誕(ごうたん・誕生)した。世紀前566年4月8日(565年という説もある)という。 
王子は、この地に降り立つと直ちに七歩自分の足で歩き、手を上下に指し伸べ「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と声高らかに宣言した、すると、突然の雨が降ってきた(甘露の放水)。 
悉達多(Siddha-rtha・シッダールタ)と名づけられ、誕生の七日後、生母摩耶夫人と死別、摩耶の妹の摩訶波闍波提(Maha-praja-pati-・マハープラジャーパティー)に養育される。 
幼年期より学術、武技を習学し良く通達し、文武両道の優れた王子に成長したが、しばしば深思瞑想に耽る性格であった。いつも人として生きることに心悩ませる太子を心配した浄飯王は、何とかできないものかと、城中に三時殿(寒さ、暑さ、雨の一年三期を快適に過ごせる宮殿)を建設したり、太子(19歳)に耶輸陀羅(Yas`odhara-・ヤショーダラー)を妃に迎えたが、根本苦の悩みに出家の道を選ぶことになった。この根本苦に悩み出家にいたる伝説が「四門の遊観」として語られている。 
「四門(しもん)の遊観(ゆうかん)」の粗筋 / 釈迦国の王子として生まれた釈尊は、迦毘羅(かぴら)城の三時殿で過ごし、やりたいこと、欲しい物は何でも思いのままで、不自由のない生活をしていたが、天上の歓楽を思わせるような五欲を楽しむ生活に自分自身の心に内省していた。ある日、一日郊外で遊ぼうと馬車で出かけ、「東の門」を出たら、馬車の前を手につかまってよろめき通り過ぎる老人を目にした。いつも若い男女、付き人や召使いに囲まれていた釈尊は、「あの者は何であのようにみにくい様相(白髪で背の曲がったやせ衰えた姿)をしているのであろうか」「人は歳をとって老いる」現実を知り悩んだ。それから数日して次に「南の門」を出たら、病人に遭遇した。そして次に「西の門」を出たら、葬儀を目にした。「あの儀式は何であろうか」「人は老い、病を得る、そして死を迎える」ことを知り深く悩んだ。しばらくして「北の門」を出たら、出家し行に付す乞喰沙門(こつじきしゃもん)に出会い、「なんと澄んだ目をしていて心が研ぎ澄まれる者なのであう。質素な衣を通して、体中から喜びの光の輝き、和やかな空気があたりに充満しているのを感じる」の沙門の姿を見て「出家」を決意した。 
29歳の年、7月の満月の晩、愛馬カンタカに乗り、城門を出て一路修行の旅に出た。 
修行の道を求め釈尊は、毘舎離(びしゃり)国の跋伽婆(バツヴァバ)仙人に就いたが覚りを得られず、摩掲陀国(まがだこく)の王舎城(おうしゃじょう)へ行き阿羅羅伽羅摩(アーラーラ・カーラーマ)仙人に就き「無所有処定(むしょうしょじょう)」(何もない境地)の禅定を受ける。次に鬱陀伽羅摩子(ウッダカ・ラマプッタ)仙人に就き「非想非非想処定(ひそうひひそうしょじょう)」(何もないことはないという境地)の禅定を受け、更なる真の覚りを求め尼連禅河(にれんぜんが)の東岸優留頻羅(ウルヴェーラ)村の樹林(後に「苦行林」と名づく)で苦行を修す。この行は断食や息を止める苛酷な行で、いつしか衰弱した体に平常心を失い気力をなくし何も考えることが出来なくなった。釈尊は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」ことに気づき、6年苦行を捨てる。尼連禅河に沐浴し力つきて倒れていると、村の娘須闍多(スジャーター)から乳び(ヨーグルト状の醍醐という飲物)を授かり力を回復した。これを見ていた浄飯王の使いの者達は、釈尊は堕落したと考え、婆羅奈斯(ベナレス)の鹿野苑(ろくやおん)へ行ってしまった。 
釈尊は北方、伽耶(がや)村の畢波羅樹(ぴっぱらじゅ)(後に「菩提樹」と名づく)の下に座し、金剛の如くの決意で深く瞑想に入った。すると幾多の悪魔が来て釈尊の瞑想を邪魔した。ある時は美しい三人の娘を使わして誘惑し、またある時は大群を率いて覆滅しようとしたり覚りを開かせまいとした。釈尊は微動だもせず悉くこれらの悪魔を降伏(ごうぶく)した。心の安静を得て夜になって禅定に入り、最初に前世を知る知恵を得、次に無量の衆生を見通す知恵を得、最後に暁の明星のきらめきとともに迷いの闇を照らす真実の知恵を得た。ついに釈尊は正覚(しょうがく)を成道(じょうどう)した(覚りを開いた)、時に35歳の12月8日だった。この「覚り」がサンスクリット語で「Budhi(ブーディ)」であり、釈尊が覚れる者「覚者(かくじゃ)」即ち「Bodhi−Sattva(ボーディサットバ);覚る人」「真理に目覚めたる者」を漢字にして「菩提薩(ぼだいさった)」略して「菩薩」となったことを意味し、「Budhi(ブーディ)」が変化して「Buddha(ブッダ)」漢字にして「仏陀」となった。故に「伽耶(がや)村の畢波羅樹(ぴっぱらじゅ)」は「仏陀伽耶(がや)の菩提樹」と名づくことになった。 
釈尊は、その後も数週間はこの菩提樹下にて説法を開き、最初の説法を「初転法輪(しょてんぼうりん)」という。この説法が釈尊入滅に至るまでの45年間の源泉であった。内容は八万四千の法門と言われるほどの経典に収められ、それは「十二縁起」を順逆に観ずる知恵であると説明している。釈尊は苦行を共にし給仕してくれた5人の護衛(アサジ等)を思い、婆羅奈斯(ベナレス)の鹿野苑(ろくやおん)へ向かい最初の教えを説いた。これが「初転法輪」で、教えは「中道」(中庸・ちゅうよう)と「四聖諦(ししょうたい)」であった。「中庸」と「四聖諦」の教えは、後の二大弟子の一人、舎利弗(しゃりほつ)に説いた教えた経典「般若(波羅蜜多)心経」である。自らが苦行を修した優留頻羅(ウルヴェーラ)に向かい再び伝道の旅に出た。三迦葉(かしょう)を(優留毘羅迦葉(ウルヴィラカショウ)は五百、那提迦葉(ナダイカショウ)は三百、伽耶迦葉(ガヤカショウ)は二百の弟子をひいていたといわれる)を教化し、摩竭陀(マガダ)国の首都王舎城(おうしゃじょう)に入る。国王頻婆娑羅(ビンビサーラ)王の崇敬を受け、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)(寺)を授かる。舎利弗(シャリホツ)、目連(モッケンレン)等250人の仏弟子が加わり教団が次第に大きくなる。父の浄飯王は一族を教化し、阿難(アナン)、難陀(ナンダ)、羅羅(ラゴラ)、提婆達多(ダイバダッタ)等が入道する。後に養母摩訶波闍波提(マハープラジャーパティ)の出家により比丘尼(びくに)の教団が成立する。その後、薩羅(コーサラ)国舎衛城(シャエイジョウ)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)ほか、各地を布教し、45年の歳月、多くの仏弟子ができ、教団も大きくなっていった。衆生を教化する中で涅槃に近付く覚りを開いた。その間に提婆達多(ダイバダッタ)の反逆もあったが、教団を破られることなく仏法を広めた。釈尊は北に向かい伝道に旅を続けたが、波婆城(ハバジョウ)で純陀(チュンダ)という鍛冶屋の子供から栴壇樹耳(せんだんじゅに)というキノコの供養を得たことで赤痢に罹ってしまった。拘尸那羅(クシナラ)の沙羅林(サラリン)に入り最後の説法を行い、沙羅樹の間に北を枕にして西を向き入滅した。釈尊80歳にして世紀前486年2月15日であったという。 
「中庸」とは、両極端に偏らず程良く中道を進むこと。凡夫の我らのみならず釈尊が何の不自由もなく、快楽の欲(五欲)に流されるままの生活の中で何の自覚も無く、何の反省をも得ずに過ごした日々が一極端なものとするとき、それらのすべてを断じ、自らの身を苦しめることに専心し苦行を修した日々が反対の一極端となり、両極端の道を退け、そこを離れた中道を進む道こそが如来の証す法であり、涅槃を導く道であると説いた教えである。この「中庸」を求める道の実践は「四聖諦」にあるとした。 
「四聖諦」とは、「苦(く)」「集(じゅう)」「滅(めつ)」「道(どう)」をいい、第一の真理として「苦」は、世の中は苦しみであることを知ること。その苦しみとは、人が人として生きる上で逃れることの出来ない苦悩である根本四苦「生」「老」「病」「死」からはじまる、「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとっく)」「五蘊盛苦(ごおんじょうく)」の八苦より展開する百八の苦悩(煩悩)である。第二の真理としての「集」は、凡夫の苦しみの根源は心の奥深くに潜むもので、常に求めることに執着し押さえることの出来ない欲望の為すわざである(五欲煩悩)。第三の真理としての「滅」は、苦しみの無くなった世界が真の覚りの世界である。そして第四の真理としての「道」は、この真の覚りの世界に至るためには「八正道」の実践を以て修行すべきであると説いている。
 

 

             
●念仏 1  
念仏といえば、昔も今も、極楽往生を願って「南無阿弥陀仏」と唱えることですが、私たち現代人は素朴な信仰を見失っているように思われます。科学的知識が豊富な現代においては、西方に浄土があるといわれても、死んで極楽に往けるといわれても、容易に信じることは出来ません。それでは、私たちは「南無阿弥陀仏」を唱えながら、何を願えばよいのでしょうか。これは大きな問題です。 
信仰を持てない現代人の念仏を考えるために、今一度、阿弥陀仏とはどのような仏さんなのか、その仏に帰依する(ナム)とはどういうことなのかを、大無量壽経によって学び、現代人にも理解できる浄土の教えを模索してみたいと思います。   
 
念仏とは「南無阿弥陀仏」と唱えることです。  
「南無阿弥陀仏」の言葉の意味は、南無も阿弥陀仏もインドの古い言語からの音訳で、ナムは帰依する、すなわち頼みとしてすがる、信じるという意味で、アミダブツとは、無量寿(アミターユス)仏あるいは無量光(アミターバ)仏を意味します(アミタとは、限りがない、無量ということを意味していて、どちらの言葉にもアミタがついているので、漢字では阿弥陀仏と呼ぶようになつたものと思われます)。  
つまり、阿弥陀仏とは、寿命も光明も無限の仏様という意味で、これがこの仏様の名前でもあります。だから、「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀仏を頼みとしてすがります、信じます、ということを言い表している、ということになります。  
「阿弥陀仏を信じます」と言い表して、私たちは何を信じているのでしょうか。それは、極楽往生である、ということになります。阿弥陀仏が住んでいるところが極楽浄土であり、そこへ往って生きることを願うことが阿弥陀信仰であり、浄土の信仰です。「極楽浄土」の元になるサンスクリット語は、スカーヴアティーといいまして、これは「楽しいことがあるところ」という意味です。これは、誰もが往きたいし、できるなら今すぐ往きたいと思うような名前です。阿弥陀仏を信じることによって、私たちは、悲しみや苦しみのない幸多い楽しいところへ迎えられると、信じることができるのです0「南無阿弥陀仏」と言い表すことによって、そういう極楽へ往きたいです、ということも言っているということになります。  
この阿弥陀仏の極楽浄土は、よく知られているように、西の方角にあるとされています。なぜ西なのかはよくわかりません。ただ、インドの浄土信仰では、浄土は西だけにあるのではなかつたようです。東方には、アシユク仏の妙喜国という浄土があり、上方には弥勒仏の兜率天があるというふうに、十方に様々な浄土があると考えられていました。  
それが、阿弥陀仏の極楽浄土の信仰が優勢になつて広まったので、浄土といえば極楽浄土で西方にあるということになりました。ただし、西方にあると言っても、「西方十万億土」 と言われるように、極楽はこの世界の中の西の方にあつて、行こうと思えば行けるところというのではなくて、この私たちの世界の西に別の世界が無数にあり、それらの世界を十万億も過ぎたところにやっと極楽がある、という気の遠くなるような話なのです。  
何だ、それじゃあ行けないじゃないか、と言いたくなりますが、確かに、いくら飛行機を飛ばそうが宇宙ロケットに乗ろうが、極楽に辿り着くことはできません。それでは、どうすれば極楽に往けるのでしょうか。そこで大切になるのが、「南無阿弥陀仏」 と唱える念仏です。極楽浄土に往くには念仏しかないという教えです。しかし、念仏しても、生きている間に極楽に至ることはできません。そこで、教えられているのが、念仏すれば、死ぬ時に阿弥陀仏が迎えに来てくれて、死んで後に極楽に生まれ変わることができる、ということです。死んで後に極楽に往って幸せに暮らしたいのなら、念仏せよ、念仏こそが肝要である、ということになります。阿弥陀信仰、浄土信仰において、念仏が重要とされる所以であります。  
さて、話が念仏から始まって、また念仏に帰ってきてしまいました。ここで語ってきたのは、阿弥陀信仰、念仏信仰の基本事項というべき事柄ですが、これらのことはすべて 「阿弥陀経」 という大乗仏典に説かれていることなのです。  
阿弥陀経は、極楽浄土がどんなにすばらしいところかを説いたお経で、極楽には、七つの宝でできた池があり、砂は金ででき、美しい鳥の声が聞こえるなどと説かれていますが、その中に重要なことが説かれています。漢訳から引用すると、次のようになります。  
 
その時、仏、長老舎利弗に告げたもう、「これより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽という。その土に仏ありて、阿弥陀と号す。(か丸)いま、現に在まして説法したもう。舎利弗よ、かの土をなにがゆえに名づけて極楽となすや。その国の衆生、もろもろの苦しみあることなく、ただもろもろの楽しみを受く。ゆえに、舎利弗(その仏土を)極楽と名づく。  
舎利弗よ、汝の意においていかに。かの仏を、何がゆえに、阿弥陀と号すや。舎利弗よ、かの仏の光明は無量にして、.十万の国を照すに障礙するところなし。このゆえに、号して阿弥陀となす。また、舎利弗よ、かの仏の寿命および人民(の寿命)も、無量無辺にして阿僧祇劫なり。ゆえに阿弥陀と名づく。  
舎利弗よ、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏(の名号)を説くことを聞き、(その)名号を執持するに、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日(の問)、一心不乱ならば、その人命終る時に臨んで、阿弥陀仏は、もろもろの聖衆とともに、その前に現在したもう。この人(命)終る時、心、斯倒せず。(命終りて)すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することをえん。  
 
考えてみれば、ここで語られている事柄は、すべて事実として認識することのできないことばかりです。誰も、無量の光を放ち無限の寿命を持つ存在者を見たことがありませんし、この世界の他に無数の世界があると言われても、その無数の世界の彼方に楽しいところがあると言われても、死ぬ時に阿弥陀仏の来迎があると言われても、死んで後に来世があると言われても、それらを確かに認識することは、私たちには全く不可能なのです。確かなのは、私たちが「南無阿弥陀仏」と唱えているという事実だけでしょうか。   
しかし、私は、これら認識できないことはすべて捨て去るべきだと言いたいのではありません。むしろ、認識できないことだからこそ、信じること、信仰が大切とされるのだ、と言いたいのです。事実として確かに知ることのできることは、信じる必要がありません。お釈迦様がこの世に現れて仏教を興されたということは知ればよいのであつて、信じる必要はありません。  
しかし、阿弥陀仏が極楽浄土にいるということは、事実として知るごとができないので、このことと関わりをもとうとするならば、まず信じるしかない、ということになります0自分の目で見たことでないと絶対に信じないと言って悼らない人がよくいますが、実はこの人は信じるということがそもそもできない人なのです0と言っても、実は、私もその内の一人かもしれません。  
現代人は、おおむね、信じることが苦手になつているのではないでしょうか。御利益や超能力を信じる人や信じたがる人はかなりいるようですが、それらは、事実として装われて与えられるものですし、あると言おうがないと言おうがどちらにせよ事実として認識されうるものですので、純粋に信じるということではありません。そういうことなら現代人は必死になったり、ふらふら付いていったりしますが、本当の信仰に生きるということは現代人にとつて究めて難しいことになつてしまったように思われます。  
それは、恐らく、信じるしかない事柄に自分を投げ出して、すべてをその方に向けて真撃に生きる姿とでもいうべきものでしょうが、これはここ数十年の間に、急速に日本人から失われていったものではないでしょうか。  
それでは、日本人の阿弥陀仏信仰が昔はどのようであつたかを、いくつかの文献から、典型的と思われるものを選んで見てみたいと思います。(日本の浄土教には、源信、法然、親鸞、一遍といった優れた祖師と著作がありますが、信仰という観点から、これら中心的な思想家を避けています。)  
 
さて、すべての人が救われて幸せになつているとは、どういうことでしょうか。いやな奴も、自分に悪いことをしてくる奴も、悲しんでいる人も、皆共に救われるとは。  
凡人にとつては、何と思い描きにくいことでしょうか。考えてみれば、「西方十万億土」とはそういう精神的な距離を象徴的に表したものかもしれません。人間にとつて最も深く大きな苦しみは、死の不安、恐怖、孤独ではないでしょうか。誓願はそこに立ち会いたいと願うのです。来迎や往生として信仰されてきたものは、実は具体的な死にゆく人に対する慈悲の行いのことではなかつたか。  
それらの慈悲の願いによる活動に自分も参加したいと願うことが、「南無阿弥陀仏」と唱えることではないか、という気がしてきます。  
●念仏 2

 

今日一般的には、浄土教系の宗派教団において、勤行として「南無阿弥陀仏」と称えることをいう。  
仏教初期・部派仏教  
憶念 / 初期の仏教では、仏を憶念することを念仏と言う。 仏隨念 / 仏教の修定とは、基本的にすべての意識活動を停止することと解されている。隨念とは、意識活動の停止が難しい場合に、何かの対象に意識を集中することによって、他のすべての意識活動を停止しようとする瞑想方法である。隨念には仏随念、法随念、僧随念、戒随念、捨随念、天随念、寂止随念、死随念、身起念、入出息念の十種類(十随念)があり、仏随念とは 仏身(色身)を憶念の対象とする「見仏」、禅定三昧の中で観察する「観想」・「観仏」であり、これも念仏(観想念仏)とするようになった。仏随念の瞑想修法は、現在の上座部仏教にも受け継がれている。  
大乗仏教初期  
念仏三昧 / 大乗仏教初期には、諸仏の徳を讃嘆し供養することが大切な行とされた。そこで、三昧に入って念仏(観想念仏)をすることがその行とされた。日本天台宗では比叡山の常行堂(常行三昧堂・般舟三昧堂)における常行三昧がある。 浄土教の誕生 / 中国で浄土教が盛んになると、念仏には二つの流れができる。  
慧遠の白蓮社、慈愍の禅観念仏 
観無量寿経では観想念仏が説かれているが、観無量寿経はサンスクリット本やチベット語訳本が発見されておらず、中国もしくは中央アジア編纂説がある。中国で浄土教が興った際には観想念仏が主流であった。日本でも奈良仏教(法相宗)・平安仏教(天台宗)では、観想念仏が主流であった。日本天台宗の開祖・最澄(伝教大師)は、止観によって阿弥陀仏と自己の一体を観想する念仏修法を導入した。源信著の往生要集では観想念仏の重視が説かれており、平安貴族に流行した。その影響で、平安時代は極楽浄土や阿弥陀三尊を表現する建築様式(宇治の平等院や平泉の中尊寺など)や美術様式が発展した。貞慶は、釈迦の観想念仏に励行する一方で、法然の専修念仏を批判した。  
称名念仏  
善導は憶念(念ずる)と称名(称える)とは同一であると主張して、称名念仏を勧めた。観想念仏のように阿弥陀仏や浄土を心の中でイメージ化する瞑想は特に必要でない。したがって、特別な修行(例:日本天台宗の常行三昧)や浄土を観想するための建築空間(寺院・堂)や宗教美術(仏像・仏画)は不要となり、時間と空間を問わず誰でも称名念仏できるため、幅広い層の民衆に対する浄土教の普及に貢献した。日本天台宗の円仁(慈覚大師)は、入唐の際に五台山竹林寺を訪れて法照の流れを汲む念仏を日本に持ち帰った。これは五会念仏とも五台山念仏ともいわれ、独特の声明による称名念仏が特徴である。これが日本の称名念仏の源泉となった。称名念仏の流れは、平安時代末期の日本において、融通念仏の祖の良忍に受け継がれ、その後の融通念仏宗では「南無阿弥陀仏」と称え、「大念仏」という。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて法然が開いた浄土宗では「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」を行い、同系宗派の親鸞の浄土真宗にも受け継がれている。室町時代に天台宗から生じた天台真盛宗は、円戒と称名念仏を主にしている。  
踊念仏 
踊念仏(おどりねんぶつ)とは、太鼓・鉦(かね)などを打ち鳴らし、踊りながら念仏・和讃を唱えること。 その起源は平安時代中期の僧空也にあるといわれる。鎌倉時代、時宗の一遍が信濃国の伴野(長野県佐久市)を訪れたとき、空也に倣って踊念仏を行った。同じ時期に九州の浄土宗の僧・一向俊聖も一遍とは別に踊念仏を行った。それ以来、時宗・一向宗(一向俊聖の系統の事で浄土真宗とは別宗派、後の時宗一向派)の僧が遊行に用いるようになり全国に広まった。盆踊りや念仏踊り、出雲阿国の創始した歌舞伎踊りに大きな影響を与えた。一向俊聖より興る天道念佛(もとは天童念佛と書いた)。天道大日如来盆(地蔵盆)天道と大日如来に附すのは天道念佛が起源ともいわれる。  
●念仏 3

 

梵語の漢訳語で仏を憶念・思念するの意である。原始仏教では仏陀(釈迦)に対する追憶・帰依・礼拝などの行法の一つと考えられる。仏教徒の実践行である三念(念仏・念法・念僧)もしくは六念(三念に念戒・念施・念天を加える)の行の一つであった。のちにこの意味がだんだんにずれていき仏の理体(法身)を心に念じることになり、さらに仏の姿(色身)を心に観ずる、観念の念仏になった。観念の念仏は仏の全身や一部を具体的に頭の中に描くことで観想の念仏といわれるが、これがさらに浄土教などの発達により仏の名を唱える口称念仏が重視され、念仏というとこの口称念仏を意味するようになった。「南無阿弥陀仏」は、この浄土教の阿弥陀に対する口称念仏であるが、日本では念仏というと、この「南無阿弥陀仏」さらになまって「ナンマイダー」の語をさすことにまでなった。このように念仏とは禅定で精神を統一する行の一つで、これにより滅罪や悟りを得るものである。念仏がことに強調されるのは中国浄土教になってからである。浄土教では「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀教」の浄土三部教が根本となるが、「観無量寿経」にはさまざまな観仏の方法が説かれている。中国浄土教の始祖慧遠にあってはまだこの観想念仏が強いが、北魏末に出た曇鸞になると憶念の念仏と称名の念仏を同格に位置づけるようになり、さらに唐の道綽になると末世観が加わり、来世にいたっては称名の念仏こそが正しいとする説を出した。浄土教の大成者善導の考えでは称名の念仏こそ浄土往生のための最上行であるとし他の観念の念仏とは、はっきりと分けるようになった。日本ではこの善導の考え方を受け法然が「撰択本願念仏集」を著し、専修念仏をとなえ、浄土宗を開いた。法然の考えはいろいろと修行のあるなかで、口承念仏こそが易行最勝唯一の往生の道と説き、もっぱらに念仏を唱えることを勧めた。親鸞にあってもこの考え方は同じであるが、専修念仏に他力の考え方を徹底し、口承念仏が即往生を決定するとの考えにいたった。 
民間念仏 
中国浄土教においてすでに念仏の口称性が強調され、教理の面でも口称性の理由が深められていたが、民間の布教される側からみると念仏は同じことばの繰り返しという、呪術的言語にも似た、ありがたいことばであった。日本でもすでに奈良時代から浄土教の教えが入ってきていたが、平安時代になって民間に滲透したのは空也を始めとする念仏聖たちの活躍による。この念仏聖たちは六波羅蜜寺の空也像にみるように鉦(かね)をたたき、鹿の角の杖をつき、ひたすらに六字の名号を称えることにより往生することを説いた。空也を祖とする念仏行者・阿弥陀の聖(ひじり)と称する人々はほかにも多くいて、山林で修行をし、さまざまな霊験を行った。この念仏聖たちの伝統は鎌倉末期に出た一遍上人によって始められた時宗の徒によって引き継がれ、近世にいたるまで、鉢扣き・茶筅などの念仏系の聖として放浪する。一遍は遊行という型で全国を歩く一方、念仏を感得し、歓喜のうちに踊り始めたという踊り念仏をひろめた。これらが芸能化し、さまざまな念仏踊りが成立する。念仏の民間の定着には、念仏聖や時衆の徒のような、シャーマニスティックな民間宗教者の働きがあった。一方受け入れる側の民衆にも、念仏を唱えれば病気が治る、災害からまぬがれることができるとする信仰があった。とくに御霊や怨霊の祟りによって病気や災害がもたらされると考えた時代には、その御霊や怨霊を念仏で無事往生させて災厄を防ぐとしたため、念仏が民俗行事や民俗芸能に多く入るようになった。死してまもない新仏を送る、盆行事に念仏芸能が多いのは当然であるが、ほかに虫送り・雨乞いなどの災厄除けの芸能にも念仏が用いられる。  
 

 

             
●他力本願  
「他力本願」本来の意味合いと少し違った使われ方をされているようです。都知事とか、世のリーダーシップを取っている方達が云われますと、二義的な意味合いでは解らないことは無いのですが、残念に思われます。私の思っている「他力本願」を考え直してみました。  
以前テレビで拝見したのですが、本田宗一郎さん、この方は、とにかくバイクや車が、お好きでその為には寝食も忘れての生活、それを奥様が黙って支えてこられたそうです。  
「私と同じように、それ以上に、頭脳 技術が有り、努力された方は幾らでもいます。その方達に比べて、私が認められ、成功したのは、部下、家族、妻の御蔭は勿論ですが、本当に運が良かつたとしか云いようがありません」  
非常に謙虚なお言葉だと思います。でも 真実だと思います。  
天災人災を含めて、とてつもない災害を受けた時、助かつた人は、なになにを信仰しているからだとか、自分の行いを含めて、何々さまの御藤で助かつたとかよく聞きます、でも少し違う気がいたします。災害は善人悪人、老若男女全く問わず、何時 何処に襲って来るか解りません。  
生まれた時は平等だと云われますが、それは人権の問題だけで有り、生まれた場所、生きて行く条件で全く違います。例えば、生まれたばかりの赤ちやんが、幸せばかりとは言えません 病とか障害を持って生まれ、苦しむだけ苦しんで亡くなる、この子が、一体なにをしたのでしょう。誰がこの子を救えるのでしょう。人間ばかりでは無く、この地上に生まれて来る、動、植物の全てがそうなのです。この世の幸せも同じ様に降つて来ているのだと思います。こんなことから、今の世の宗教に対する、疑問点が湧き出しました。  
虚弱体質に生まれついたせいか、ものごころ付いた頃から、目に見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、五感に感じられるもの全てが不思議でした。その中でも、特に不思議なのは、自分の存在でした。存在感の掴めない不安定な気持のまま現在に至っています。その様な中で自然に惹かれていったのが、 
生命体、命、魂の在り方、そして繋がりでした。  
地球上の動植物全ての生き物は、一つから何十億単位の細胞で成り立っています。嫌気性バクテリア以外は、皆な他の生命を自分に取り入れないと生きて行けません。魂の存在とは、どこの段階から考えられるのでしょう。地球生態系から外れて存在する人間、その浮遊状態も忘れての、知識、知恵、蝕くなき探求心は、一体何なのでしょう。これは、偶然に人が手に入れたものでしょうか、それとも必然的なものでしょうか。私には解りません。  
宇宙がピックバンにより、発生されたと言われているのが約137億年前、太陽系が47億年。地球上に類人猿、猿人が、現れたのが20万年前、ホモ・サピエンスは、2万年前とか、生命の素である有機物質は、彗星に依って粛されているそうです。ならば、地球上の生命体のみならず、宇宙に浮かぶ我が銀河系も他の星雲達の、幸も不幸も、又 生死もひとつではないかと思えてくるのです。  
音読んだSF小説の中に、柔らかい草原の中に赤い蛍のように点滅する光の点々を持った、真っ白い惑星の話が有りました。それは白く長い毛と優しい赤い目を持った惑星、それ自体が、ひとつの生命体だったのです。それを読んだ時、我が意を得たりと、思いました。大変な経験をなさった、生命学者の柳澤桂子さんのお話の中に、粒子の存在、粒子の繋がり、それはこの世に存在する全てのものが繋がっていると言う事、全てが共同体で有る事。生きる為と死ぬ為の本、般若心経の本、読むまでも無く、私の胸の中にすっと入って来たのです。  
実家は浄土真宗ですが、決して仏教的な家庭では有りません。親鸞上人の高い所からでは無く、衆生と共に災害も幸せも一緒に生きる、私と一緒にころんで躓いて下さる、そんな方と、感じて居ました。この会に入る前には、お名前だけしか存じ上げませんでした、不遜な私が、一遍上人のお人柄を知るにつれ、人肌に感じる嬉しさでも有りました。  
「他力本願」を他人任せと使われているのは、寂しい事だと思って居ります。少し言葉が足りませんが、「人事を尽くして天命を待て」とは、無駄で有ってもするべき努力はすべきだと云う事でも有ると思います。自分自身が、努力とは全く縁の無い人間で本当に恥ずかしく、偉そうには言えませんし、人事を尽くしてとは、どれほどの事をすれば良いのか解りませんが、中学時代の恩師である 高橋治先生の口癖は、「チヤーンスの神様は、前髪がふさふさで、後頭部はつるつるなので掴めないから、前髪をしやんと掴めるように、いつも準備をして置きなさい」と独特の口調でおっしゃっていました。これも人事を尽くす事だと思います。  
「生かされている」、と云う言葉もあまり好きではありません。動物や植物達は、唯ひたすらに生きています。ゴリラ、なまけもの等、あの澄み切った目と優雅さは、人間以上に哲学に耽っているのではないかと思われて仕方がありません。  
●専修念仏と融通念仏

 

鎌倉時代の念仏の流れは、法然・親鸞・一遍と、その念仏の性格は少しずつ違えど、或る流れがある。 
一遍は、近代になってから、「法然・親鸞・一遍」と、専修念仏の系譜のなかで論じられることが多くなっている。法然によって創始された専修念仏は、その後親鸞、さらに一遍を経て発展、あるいは完成したという論である。柳宗悦の「南無阿弥陀仏・一遍上人」や、唐木順三の「無常」が、そうした立場から書かれたといってよい。 
だが、一遍の浄土教は、専修念仏の影響を深く受けているが、専修念仏の範疇にいれることはできない。なぜなら、一遍は自ら語っているように、平安時代中期に生きた空也(903-972)や、また融通念仏を主宰した良忍の系譜に連なる人物であったからである。 
日本の浄土教の大きな流れである「専修念仏」と「融通念仏」を説明しておかなくてはならない。専修念仏は、要するに法然上人によっていきなり作られた、阿弥陀信仰の極限形です。阿弥陀仏が法蔵菩薩だった頃の誓願に着目し、もし阿弥陀仏が「仏」としてあるならば、必ずこの誓願を果たしてくれるだろうという絶対他力の救済を信仰することで成立する浄土教です。必要なのは、「絶対他力の信」であり、この現世での行いは悪人・善人問わず救済されるという非常に明快な宗教です。後には親鸞聖人に受け継がれ、法然上人・親鸞聖人の門下が教団を作って大きくしたために現在までの日本に多大なる宗教的影響を与えました。 
それに対して、空也上人は「市聖」「阿弥陀聖」と呼ばれた平安中期の仏教者で、在俗の修行者として諸国を遊行遍歴し、阿弥陀仏の名前を称えながら各地で道を開いたり、井戸や池を掘り、橋を架けて、野原に遺棄された死骸を火葬にするなどの救済事業を行いました。36歳の時には京都市中に入り乞食して集めた施物を貧民に与えました。46歳の時に比叡山に上って受戒すると、貴族の外護なども受けるようになりました。同時代には恵心僧都源信などがおり、彼らは哲学的に高度な浄土信仰を貴族層などに広めておりましたが、空也上人は庶民の間に入って情動的・狂躁的な信仰を広めました。千観上人などは、正面からその影響を受けて野に下りました。 
融通念仏は平安時代末期にかかる良忍(1072-1132)上人が阿弥陀仏の直説として感受した「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」という偈をもって、自他の念仏が融通して円満なる功徳が満ちることを説き、日課として口称念仏するべきだと勧めました。融通念仏は宗派としての勢いはその時々にあって盛衰を繰り返したため、なかなか資料も伝わりませんが、現在の融通念仏宗は鎌倉時代の法明や江戸時代の大通が出て、広めたのが元となっております。大阪市平野区の大念仏寺を総本山とします。 
そして、融通念仏は各地に関係を持っていた寺社がありました。これは、融通念仏が寄付を募る手段として有効だった事があるためです。融通念仏者は各地を旅し、一種の漂泊の民になることから、多くの霊力を身に着けた「聖」としてみられていました。そして、この霊力を頼みに人を集めていたようです。寺社はそれを融通念仏者に依頼し、融通念仏者もそのことによって大手を振って各地の寺社で「興行」を打つ事が出来ました。結果として、融通念仏が行った寺社の祭神が同時に融通念仏の守護神になったようです。こういったことがあったので、一遍の伝記上にも多くの神が登場し、一遍に道を知らせます。結果、これらの説には、法然-親鸞の系統に見るような専修念仏のラディカルさは見えず、思想的にはかなりの相違を見ることが出来ます。13歳の春に筑前太宰府にいた法然の孫弟子聖達に就いて出家しました。それから12年間、浄土教の勉学に励んだそうですが、36歳の時、四天王寺や高野山を経て熊野に詣でて神託を受けます。これ以降はより一層「南無阿弥陀仏」と称えながら神社のお札のような「念仏札」を配ります。後には時宗の祖とされる一遍聖人ですが門弟達には「神明を重んじよ」と説きました。また、岩波文庫本の「一遍上人語録」には熊野権現や大隅正八幡宮や北野天神などの結縁があった事が示されています。 
 
一遍聖人は一宗の開祖であり、その伝記を書こうとすれば大変な労力と時間を費やすことになりますので、ここでは1つ禅宗と関わる有名なエピソードを挙げるに留めておきましょう。一遍聖人は、心地覚心という臨済宗の僧に印可をもらったことが知られています。 
宝満寺(兵庫県神戸市長田区)にて、由良の法灯国師に参禅していたときのことですが、国師が「念起即覚」の話を挙げたときに、一遍聖人はこのように歌を詠んで呈しました。 
 となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして 
しかし、国師はこの歌を聴いて「まだ徹底していない」と仰ったので、一遍聖人はまた歌を詠んで呈したところ、国師は手巾や薬籠などを与えて、「印可証明の信」を表したのでした。 
となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏 
この一段は、古来から浄土系の祖師と禅宗系の祖師との交流を指摘するものとして知られています。「念起即覚」とは、「無門関」の最後に出る「禅箴」に出る用語だとされていますが、禅宗では一切の善悪の思量の及ばない念こそ覚に他ならないとするのですが、これについて心地覚心が聞いたというのです。すると、一遍聖人は、念仏一念には仏もわたしもなく、ただ「南無阿弥陀仏の声ばかりだ」と詠んだわけです。しかし、覚心は許しません。何故ならば、ここには「南無阿弥陀仏の声」と、「声を聞いている主体」という二見対待が起こっているからです。したがって、それを突かれた一遍聖人は直ちに「南無阿弥陀仏」という仏もわたしもないただ念仏の実相を示すことで、印可証明を受けました。 
このような一遍聖人の宗教には、明らかに禅的と言えるような考えが出てきます。ひたすら「捨」を強調したこともですが、以下のような説示なども禅的だと言えましょう 
浄土門は身心を放下して、三界・六道の中に希望する所ひとつもなくして、往生を願ずるなり。此界の中に、一物も要事あるべからず。此の身をこゝに置ながら、生死をはなるゝことにはあらず。 
我体を捨て南無阿弥陀仏と独一なるを一心不乱といふなり。されば念々の称名は念仏が念仏を申なり。 
又或人、紫雲たち、華降けるを、疑をなしてとひ奉りければ、上人答云、「華の事は華にとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍はしらず」と。 
しかし、この華や紫雲が現れたときに、一遍聖人は、自分は知らないから、華のこと華に聞け、紫雲のことは紫雲に聞けという言い回しや、普通であれば「私が南無阿弥陀仏と唱える」と主語と述語に別れるところですが、これを「念仏が念仏を申す」という不可思議な論理はなかなかに面白いですね。しかも、法然上人がひたすらに阿弥陀仏に頼む「信の一念」を強調していたことに対して、以上に取り上げた一遍聖人の説相は「体」に言及が及び、今ここにある私という行為論的な内容が強調されていることを見て取れます。したがって、確かに専修念仏系ではただ信と念仏称名が重要とする選択が働くのに対し、一遍聖人の場合には念仏する行為を媒介に、多くの諸行や信仰を習合していくことになります。それは、或る人と一遍聖人との問答にも良く現れております。 
或る人が問うて「念仏以外のさまざまな修行では往生するものでしょうか、しないものでしょうか?また、「法華経」信仰と名号とはどちらが優れているのでしょうか?」云々と聞いた。 
上人は答えて「さまざまな修行も往生するならばするだろう、しなければしないだろう。また、名号とて「法華経」信仰に劣るなら劣るが良い、勝るなら勝るが良い。小賢しくも智慧者ぶって論議するのを止めて、ひたすら念仏をする者を善導上人は「人中の上々人」と誉められた。「法華経」信仰を釈尊が世に現れた根本義だという経典もある。また、釈尊が五つの汚れた悪い世の中に出で現れて、仏道を成就したのは、この信じがたい「法華経」を説くためだというのも、経典に書いてある。しかし、我らは何かのきっかけにしたがって修行し、役に立ったというならば、それはみな勝れた法だと言うべきであるし、役に立たないのならば劣った法だと言うべきであって、仏の意図した本当のところではない。 
一遍聖人の考え方は、拙僧が何故、宗教者は自分が正しいというのか?にて問題にした「真理の事後決定」に関わってきます。予め真理を定めることは出来ず、決まった後で確認される作業で体系化していくことです。しかし、体系化してしまった人は、事後決定したはずなのに、そのことに気付かないこともあります。例えば法然上人が弟子であった大胡太郎実秀に書いた手紙で示した考え方は一遍聖人や拙僧とはずいぶん異なっています。大胡実秀は阿弥陀念仏に対して、悪人ですら救われるというのなら「法華経」信仰を持っていたのならば、なおさら良いのではないか?と聴いたのです。それについての法然上人の返答は以下のような内容でした。 
「本願念仏では、罪を作った人でさえ、念仏するならば救われるという。それならば「法華経」を読み、さらに念仏するならば、往生は疑いないものになるのではないだろうか?なぜ「法華経」を読むことが不都合なのだろうか?」と、このようにいう人は、私のいる京の都でも少なくなりません。一見、もっともなことに思われますが、中国の善導大師は「阿弥陀仏の誓願に相応ずる行だけが、往生の正しい道であり、そのほかはいかに素晴らしい行であっても、阿弥陀仏が嫌われる道だ」とされておられます。阿弥陀仏がお勧めになっている念仏の道でさえ、我らには辛いものであるのに、阿弥陀仏がお勧めになっていない行を、どうして付け加えられましょうか。 
ここに見るように、法然上人は作善主義から離れ、ただ念仏一道のみを強調していくわけです。「専修念仏」とは、このようなものだとご理解下さい。 
 
一遍聖人の往生について、「一遍上人語録」では上巻には「遺誡」が示され、下巻にはその伝記が示されます。下巻を追いながら、一遍聖人の最期がどのようなものだったのかを考えてみましょう。 
一遍聖人は、往生される年の5月頃生涯がそれほど長くない事を自覚しながら、死期が近い事を弟子達に告げます。そして、往生する前の月になると、「阿弥陀経」を誦してから、所持していた書籍等を自ら焼き捨てて「一代の聖教はみな尽きて、南無阿弥陀仏となってしまったのだ」と言います。この焚書にも、禅的なものを感じるのですが、中国禅宗の祖師でも、多くが焚書して、経典の文字から離れてただ一行に徹する様が描かれます。 
さらに、往生の前に、紫雲がたなびいた事を弟子が報告すると「さてさて、今日明日は臨終の時期ではないようだ。最期の時に紫雲がたなびくという奇瑞が起こるはずがない」と言って一蹴します。一遍聖人は常に「物の道理を知らない者は、変化に執着する心でもって考えるから、真の仏法を知ることがない。これでは何の意味もない。ただ「南無阿弥陀仏」なのだ」と示していたとされますので、奇瑞である紫雲にも興味を示さなかったのでしょう。 
そして、いよいよ臨終が迫ると以下のように説きます。「我が門弟達は、私の葬礼の儀式を調えてはならないぞ。遺体は荒野に捨てて、獣のエサにするのだ。ただし、在家の者で仏法結縁の志を遂げようとする者があれば、葬儀を嫌うものではない」とします。かつて釈尊(ゴータマ=ブッダ)は出家者が葬儀に関わることを否定し、在家人に任せたとされておりますが、その古い伝統にしたがったものでしょう。この点、道元禅師とは全く相反しており、道元禅師は中国禅宗の清規にしたがって僧侶は僧侶によって葬儀をしたものだと拝察されます。弟子の1人である僧海首座に対して葬儀をしたこともあることからご理解できるかと思います。 
また、或る人が一遍聖人に臨終について聞こうとすると、聖人は「良い武士と仏道を志す者は、死ぬ様を辺りには知らせないものだ。私の命が終わる時を、どこの人が知ることがあろう」と言い、最期は杳として知られませんでした(この一連の描写は、前掲同著の137-139頁から、拙僧が意訳しまとめたものです)。 
 
一遍聖人は、一方で夢告などの神秘的体験を示しながら、最終的には今生きる自分自身の肉体を離れた奇跡を信じる事はありませんでした。結果として「聖」としての性格と「禅者」という徹底した現実感とを具有していた念仏者であったように感じます。おそらく伝記で一遍聖人像が多様な描かれ方をしているのは、この相反する性格を備えていたからではないか?と思うのです。臨終に見るような奇跡の否定と死後の肉体を捨てる様は、仏塔信仰によるブッダの神格化へ強烈なアンチテーゼを突きつけます。また一遍聖人の「聖」という性格から、時宗は非常に盛行しましたが、確固たる拠点を持たなかった事と、カリスマ的性格に依存した事もあって、後には衰退します。しかし、盆踊りや死者への祭礼を仏教者の仕事として受け止めるなど、多くの面で日本文化に多大なる影響を与えました。  
 

 

             
●南無阿弥陀仏 1  
数ある仏さまの中で一番お名前を呼ばれておるのは、まあ阿弥陀さまじゃろうのう。「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なんまいだー、なんまんだ」お唱えの仕方は聞きようによっては様々じゃ。南無とは帰依とか帰命といった言葉でお経に出てくる。心より信頼していますとか、全てお任せしますとか、おすがりします、といった意味じゃ。阿弥陀如来のお名前をお唱えする、つまり「阿弥陀如来さま、こころより信頼しています、おすがり致します、よろしくお願い致します。」とこうなるわけじゃ。これが念仏じゃ。 
無量寿経(むりょうじゅきょう)というお経の中で、如来になられる前の阿弥陀さまは、法蔵という名の国王で四十八のご誓願をたてて、出家修行され仏国土(お浄土)を建てられ、阿弥陀さまの智慧と慈悲のお心を信ずるときお浄土に生まれることができると説かれているのじゃ。この四十八のご誓願を阿弥陀の本願というてな、「未来永劫にわたってあらゆる人々がお浄土に行けるようにします。それができなかったら私は仏になりません。」という内容のもので、その十八番目のご誓願に「どのような人でも心からお浄土に行きたいと願って念仏を唱えれば必ず極楽浄土に行ける」というのがある。これによって人はお念仏するようになったのじゃ。これらを重視したのが、浄土宗や浄土真宗という宗派なのじゃな。ちなみに「私の十八番は、美空ひばりの川の流れのようにです。」などというこの十八番はここからきたものなのじゃ。一番大事なものとか、大切なものといった意味じゃ。十八番というのをおはこと読むようになったのは、江戸時代のことでな。歌舞伎演目の十八番を市川家が最も得意としておった。これが市川家の秘蔵とされる芸で、その台本がいつも箱に入れられて誰まり見ることができなかったのじゃ。それで十八番をおはこと云われるようになったとされているのじゃな。おっと話が飛んでしもうた。 
阿弥陀さまが法蔵菩薩という名で修行すること五劫(ごこう)年。一劫とは非常に長い期間のたとえである。たとえ話もたくさんある。ここでは、芥子劫(けしこう)というたとえじゃ。芥子の実を百年に一度大きな城壁に囲まれた城都に一粒づつ落とし、その城都が満杯になるのが一劫年。五劫とはそれが五回ということじゃ。落語にじゅげむというのがあるが、その中で子供につけられた長い名前がある。「じゅげむじゅべむごこうのすりきり」このごこうのすりきりというのが、城都に山のように溜まった芥子の実をすりきる様を云ったもので長いもののたとえなのじゃ。このような長い期間、阿弥陀さまは、ご修行され仏になられるわけじゃが、その苦しみたるやたいへんなものじゃ。東大寺の勧学院に「五劫思惟(ごこうしゆい)の阿弥陀如来座像」というのが伝わっているが、それは、頭が異常に大きいお姿じゃ。つまり、ご修行中に悩み考え抜かれそれによって頭が腫れ上がってしまったということなのじゃ。  
阿弥陀さまは、西方極楽浄土の教主にして、無量寿光の仏なり。阿弥陀さまは、永い永いご修行の末、阿弥陀如来となられた。四十八もの誓願をたてられ、それが成就したあかつきに、阿弥陀さまのおからだから十二の光がぱーっと放たれたのじゃ。これを阿弥陀如来の十二光とゆうてな、阿弥陀さまの仏像やお姿を見ると十二本の光背が、背中に光っておられる。この十二本の光には、きちんと意味があり名前もついている。その第一が、無量光というのじゃ。この光は、はかり知れない量の光で永遠に消えない光でもある。寿命からしても無量寿の光で、永遠という意味じゃ。それで、別名を十二光仏とか無量寿如来というのじゃ。 
人は死ぬと頭北面西にて通夜を営む。つまり北枕にして少し顔を西に向けるのじゃ。これはお釈迦さまのご入滅のお姿にならっている。釈迦涅槃像というお釈迦さまが横たわっている御尊像を誰しも目にしたことがあると思うがのう。この視線の彼方にあるのが西方極楽浄土じゃ。阿弥陀如来来迎図には、雲に乗った阿弥陀さまが迎えに来て下さる様子が描かれている。阿弥陀三尊といって阿弥陀さまが脇仏の観音、勢至の両菩薩を引き連れて迎えに来る図も有名じゃのう。知恩院にある二十五菩薩来迎図などもその典型じゃて。 
極楽浄土には、九つの世界があるといわれている。これは、生前の行いや信心の度合いによって決まるらしい。だから、善い行いをたくさんして、信心深い生活をした者には、それなりの待遇のいい世界が待っておるわけじゃ。一番上が上品上生(じょうぽんじょうしょう)という世界じゃ。反対に一番下の世界を下品下生(げぽんげしょう)という。品と生にそれぞれに上中下があるので、九つとなる。上品(じょうひん)とか下品(げひん)という言葉はここからきたものじゃ。これらの審査が亡くなって四十九日までの七日ごとに七人の王に審査されるそうな。この五七日忌に閻魔大王が登場するのじゃな。あるお婆さんが閻魔大王の前にやって来た。このお婆さんは、生前ことある毎に「なんまいだー、なんまいだー」と唱えておったそうな。ご飯を食べてもなんまいだー、便所に入ってもなんまいだーと朝から晩までそんな調子じゃった。閻魔大王は、「婆さんや、ここにおまえさんが生前に云ったなんまいだーが山ほどある。これを今からふるいにかけてやろう。」と云うと鬼どもが、それを次々とふるいにかけた。するとたった1個だけ残ったのじゃ。「この残ったたった1個は、婆さんが死ぬ間際に云ったなんまいだーじゃ。ほんとに心をこめて真剣に云ったものじゃ。よかったのう、この1個で極楽行きじゃ。」阿弥陀さまにおすがりして、極楽に行きましょうというのを他力本願というのじゃが、自分では何もしなくていいというのでは決してないのじゃ。阿弥陀さまを心から信じて阿弥陀さまにおすがりして、お任せするその真剣な敬虔な心が大事なのじゃ。  
 

 

             
●南無阿弥陀仏 2  
今回はあらためてお念仏の意味を探ろうということで、ご一緒にお勉強しましょう。普段何気なくお称えしているお念仏、南無阿弥陀仏。私たち浄土真宗のお念仏は、何度も申しあげているとおり自力の行ではありません。自分で称える念仏の数や称え方によって功徳があるのではなく、すべての人を救うという仏さまの誓いを信じさせていただくのだから、仏さまへの感謝とよろこび(仏恩報謝)のお念仏です。「南無」とは、古代インド語の「ナーム」の音写です。漢訳すると「帰命」となります。 
一切衆生を救うという阿弥陀如来の誓いを聞いて、その救済を信じたときに、おのずから口をついてくださるのが「南無阿弥陀仏」なのです。 
それでは、信心のよろこびに至らぬままにお念仏を称えるというのは、どういうことになるのか、という反問が生じるでしょう。これについての答えは、易しいようで難しく、一言で言い表すことはできません。ですから、私の場合、お寺やお仏壇の前は、仏さまを敬う場所なのだから、まず、仏さまへのごあいさつという意味を含めて、手をあわせ「南無阿弥陀仏」とお称えしましょう、とお答えしています。お念仏の深いおいわれをあじあわせていただくのは、そのようにして、お念仏を身近に親しむ、という日常から始ると思うのです。 
親鸞聖人は称名念仏には他にも様々な意味があると、代表的著述「尊号真像銘文」の中で述べています。 
「南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり」これは仏コ讃嘆というものでお念仏が自然と口に出た時、仏さまのお徳の偉大さ素晴らしさを褒めたたえることにもなるのだと教えて下さいます。 
「南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになるともうすなり」「無始より」は人間としていのちを授かってから今日に至るまでだけでなく、生まれる前遠い遠い昔、六道輪廻の世界を経巡っていた頃からということ。長年の罪業をお念仏一つで悔い改めてくださる阿弥陀如来様の偉大さ を感じず にはいられません。勿論念仏を称えた事を手柄と考えてはいけません。 
「南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり」これも念仏によって往生を遂げたいという自力の心ではなく、お念仏の教えを信じた時、自然と阿弥陀仏の安楽浄土に生まれさせてもらいたいと欲する気持になるということです。 
「南無阿弥陀仏をとなふるは、一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり」信心が相続し常にお念仏が口に出てくるようになると、自分の周りの方々を感化しお念仏が広まります。そして名号の徳をお互いに与えることになります。  
「南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと」念仏を称えることは、浄土をきれいにすることになります。念仏者はこの世にいながら、阿弥陀仏の仏弟子に仲間入りをし、位を等しくするのであって、浄土を荘厳する徳を備えることになります。 
このように経典には沢山のお念仏の意味が説かれていますが、私は仏さまに対する素直なお気持ちが何より大事だと思います。阿弥陀如来様またはなき方を思い浮かべながら、日頃の自分の行ないを反省し仏さまと心静かに対話をさせていただく。このような当たり前のお念仏で結構なのです。ただ自分の欲をかなえる為に仏壇に向かいお念仏して欲しくはないということです。
 

 

             
●南無阿弥陀仏 3  
南無阿弥陀仏って何?仏さまに手をあわせるときに、心に何か思い浮かべますか。口に何か言いますか。それとも何も思わない。何も言わない。ただ習慣として手をあわせているだけですか。どうでしょうか。 
たとえば、こんなことはないですか。仏さまに手をあわせて、病気を治してもらいたい。お金をたくさんもらいたい。いい暮らしがしてみたい。幸せになりたい。そして最後に、何か言わないとカッコもつかないので、そこで「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」とお念仏を称えたことないですか。 
もしあれば、そういうお念仏は、自分の都合を満足させるために、私の根性で仏さまを念ずる私の念仏です。それはどれほど一生懸命に称えようと、私による人間の行(ぎょう)であります。この私が問題になることはありません。 
それに対して、親鸞聖人が法然上人をとおして、我が身にいただかれたお念仏は、それとは全く反対に、仏さまが私を念ずる、仏さまの行です。仏さまの呼びかけです。親鸞聖人は「大」の一字を加えて大行(だいぎょう)と表しています。仏さまの大いなるおはたらきと言ってもいいでしょう。 
つまりお念仏は、あらゆることを自分中心にしてしか考えない私たちに、仏さまが「それでいいのか」と問うてくださる呼びかけです。人を踏みつけ、傷つけ、時として殺しあって、人間であることを見失っている私たちに、人間であることを回復せしめる根源のことばです。 
私たちが南無阿弥陀仏と念仏申すときは、仏さまが私を呼びかけてくださるときです。お念仏は、人間を見捨てない仏さまの願いが、まさしく南無阿弥陀仏の言葉となって、私たちにまで届けられた仏さまの名告りなのです。決して、私たちの欲望を満足させる呪文ではありません。
 

 

         
●南無阿弥陀仏 4  
南無阿弥陀仏とはなにか?蓮如上人は「御文章」に分かりやすく教示されています。 
「南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まりなきものなり(御文章)」 
南無阿弥陀仏の名号はたった六つの文字だから、その南無阿弥陀仏という言葉にそんなに凄い力があるとは誰も思えないでしょう。しかしこの南無阿弥陀仏という六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸福にする絶大な働きがあり、その広大さは、上をみれば果てしなく、底をみれば深さがしれない、まさに天の際限のないようなものである、と懇切丁寧にかかれています。 
親鸞聖人も「功徳の大宝海」と、南無阿弥陀仏は宝の海のようなものだと正信偈に言われていますね。 
大変な功徳が南無阿弥陀仏の六字にはあるのですが、猫に小判、ブタに真珠といわれるように、我々凡夫(人間)に、南無阿弥陀仏の値を知る智恵が無いので、その凄さが分からないのですね。 
お釈迦さま、親鸞聖人、蓮如上人が絶讃する【南無阿弥陀仏】。それには、一体どんな力があるのでしょう。それは、全人類の苦悩の根元である無明の闇(後生暗い心)を一念でぶち破って、絶対の幸福に救う、破闇満願の働きであり、それは不可称不可説不可思議の大功徳なのだと教えられています。 
南無阿弥陀仏の意味、南無阿弥陀仏の尊さを知ると、なんだか元気がわいてきます。 
生きがいです。
仏さまに手をあわせるときに、心に何か思い浮かべますか。口に何か言いますか。それとも何も思わない。何も言わない。ただ習慣として手をあわせているだけですか。どうでしょうか。 
たとえば、こんなことはないですか。仏さまに手をあわせて、病気を治してもらいたい。お金をたくさんもらいたい。いい暮らしがしてみたい。幸せになりたい。そして最後に、何か言わないとカッコもつかないので、そこで「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」とお念仏を称えたことないですか。 
もしあれば、そういうお念仏は、自分の都合を満足させるために、私の根性で仏さまを念ずる私の念仏です。それはどれほど一生懸命に称えようと、私による人間の行(ぎょう)であります。この私が問題になることはありません。 
それに対して、親鸞聖人が法然上人をとおして、我が身にいただかれたお念仏は、それとは全く反対に、仏さまが私を念ずる、仏さまの行です。仏さまの呼びかけです。親鸞聖人は「大」の一字を加えて大行(だいぎょう)と表しています。仏さまの大いなるおはたらきと言ってもいいでしょう。 
つまりお念仏は、あらゆることを自分中心にしてしか考えない私たちに、仏さまが「それでいいのか」と問うてくださる呼びかけです。人を踏みつけ、傷つけ、時として殺しあって、人間であることを見失っている私たちに、人間であることを回復せしめる根源のことばです。 
私たちが南無阿弥陀仏と念仏申すときは、仏さまが私を呼びかけてくださるときです。お念仏は、人間を見捨てない仏さまの願いが、まさしく南無阿弥陀仏の言葉となって、私たちにまで届けられた仏さまの名告りなのです。決して、私たちの欲望を満足させる呪文ではありません。 
 

 

             
●南無阿弥陀仏 5  
「南無阿弥陀仏」の六字を名号という。この南無阿弥陀仏を見て、「何のまじないですか」と聞く人もあれば、「南に阿弥陀仏が無い?弥陀の浄土は西だから当然じゃろう」と嘯く者もいる。だが名号六字の大功徳は、迷った人間の智恵では分からないのだ。 
釈尊は「大無量寿経」に、こう説かれている。 
「十方恒沙の諸仏如来、皆共に、無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したもう」 
「十方」とは十方微塵世界の略で、大宇宙のこと。 
「恒沙」とは、インドを流れるガンジス川の砂の意で、その数は無限といっていいだろう。広大な宇宙には、地球のようなものは無数にあり、地球に釈迦如来が現れたように、大宇宙には数限りもない仏がましますことを、「十方恒沙の諸仏如来」と言われている。 
「皆共に」とは、すべての仏が例外なく。 
「無量寿仏」は阿弥陀仏の別名で、「威神功徳の不可思議」とは、想像もできない凄い働きのある名号のことである。 
だからこの一文で釈尊は、大宇宙にまします数え切れないほどの諸仏方が異口同音に、阿弥陀仏のつくられた「南無阿弥陀仏」の想像を超えた大功徳を褒め称えていられると、おっしゃっているのである。 
仏さまですら「不可思議」と言われるほど、偉大な働きが名号にはあるのだ。 
蓮如上人は、これを「御文章」に分かりやすく教示されている。 
「南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まりなきものなり」 
南無阿弥陀仏の名号は、たった六つの文字だから、そんなに凄い力があるとは誰も思えないだろうが、それは猫に小判、ブタに真珠。我々凡夫に、値を知る智恵が無いからだ。 
この六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸福にする絶大な働きがあるのだ。その広大さは、天の際限のないようなものである、と懇切に仰せである。 
蓮如上人ご自身が何よりも明らかに知らされたことだが、「この蓮如は」とは言われずに、名号の大功徳のみを言葉を尽くして讃嘆なされているのは、親鸞学徒に徹していられたからであろう。 
では、一切の諸仏が絶讃する南無阿弥陀仏には、どんな力があるのか。 
それこそが、全人類の苦悩の根元である無明の闇(後生暗い心)を一念でぶち破り、破闇満願、絶対の幸福に救う、不可称不可説不可思議の大功徳なのである。  
 

 

             
●南無阿弥陀仏 6  
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と称える。「南無阿弥陀仏」は、「南無」「阿弥陀」と「仏」に分解できる。「南無」「阿弥陀」「仏」は、すべて、インドの古典語であるサンスクリット語の音を中国語(漢字)に置き換えたものである。したがって、個々の漢字の意味を調べてみても、「南無阿弥陀仏」の意味にはたどり着けない。残念ながら、サンスクリット語の意味を追うしかない。 
南無 / 南無は、サンスクリット語で「屈する」という意味を持つ「ナマス」という言葉を音写したものである。南摸(なも)と音写する場合もある。中国語では、帰依、帰順、帰命などと訳されている。心から信じる、まかせる、従うという意味である。 
阿弥陀 / 阿弥陀は、「無量の命(限りない命)」を表す「アミターバ」という言葉と、「無辺の光(果てのない光)」を表す「アミターユス」という言葉の語幹である。無量、無辺、およそ、我々には量り知ることができないという意味である。 
仏 / 仏は、ブッダ(仏陀)というサンスクリット語を語源とする。本来は、師匠、先生ほどの意味を表す一般語だったが、仏教では、悟りを開いた者という意味で使った。そして、お釈迦様や、その直弟子が亡くなり、時代が下がると、やがて、かつて悟りを開いた人々の共通項を集めた抽象的な存在を意味するようになった。 
今風にいえば、南無阿弥陀仏とは、「我々には量り知ることのできない命と光を本体としながらも、人よりは抽象的にして、悟りそのものよりは具体的な存在に対して、心から従うこと」と言える。   
 

 

             
●南無阿弥陀仏 7  
「なむあみだぶつ」の転。なんまいだ、なんまいだー、なんまいだあ、なんまいだぶ。 
「南無」はnamo (sanskrit) の音写語で「わたくしは帰依します」と意味し、「阿弥陀仏」は、そのサンスクリット語の「無量の寿命の大仏 (amitaayus)」「無量の光明の仏 (amitaabha)」の「はかることのできない」という部分のamita (sanskrit) を略出したものである。一遍聖絵には「なもあみたふ」と表記されているので、鎌倉時代には「なもあみだぶ」と発音していたようである。 
阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名号(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。 
善導は、「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字、合わせて六字に関する釈義(六字釈)で明らかにしている。親鸞はこれから「南無阿弥陀仏」は衆生が浄土に往生する因であるから、名号のいわれである「まかせなさい。必ず救うぞという仏の呼び声」を聞信すべきであるという。親鸞は名号を本尊とし、六字のほかに九字、十字の名号を書いている。ちなみに、親鸞は「南無」を「なも」と発音しているから、浄土真宗本願寺派では「なもあみだぶつ」と呼び習わしている。 
願行具足 / 上記、善導の六字釈によって示される解釈。願とは、「南無」と阿弥陀仏に帰命する衆生の願い。行とは、衆生を救うための阿弥陀仏の修行。この双方が「南無阿弥陀仏」と仕上がっているので、菩薩が行わなくてはならない「発願」と「菩薩行」の2つが、名号に完備しているという説。 
機法一体 / 融通念仏、浄土宗西山派、浄土真宗および時宗で説く、他力の教義を表す要語。機とは衆生の信心(=南無)。法とはその衆生を救う阿弥陀仏の本願力(=阿弥陀仏)。衆生の機と阿弥陀仏の法が一体不離となって「南無阿弥陀仏」となっているとする解釈。
●南無阿弥陀仏とは 

 

南無阿弥陀仏とは
南無阿弥陀仏の意味について、参考までに辞書をみてみましょう。
「南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ <南無>はサンスクリット語のnamas(帰依する)の音写語であるから、語義的には「わたくしは阿弥陀仏に帰依いたします」という意味である。 <六字の名号(みょうごう)>とも言い、衆生が浄土に往生する因とする。これを口で称えるのを<口称(くしょう)念仏>、あるいは単に<念仏>とも言い、また、これを書写して本尊を表示する。浄土三部経の中では、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の「智者復た教へて合掌叉手(しゃしゅ)し南無阿弥陀仏と称(とな)へしむ」〔下品上生段〕、「声をして絶へざらしめ十念を具足して南無阿弥陀仏と称へん」〔下品下生段〕の2カ所に用例がある。」
少し難しいですので、わかりやすく解説します。
阿弥陀仏の意味
阿弥陀仏は、阿弥陀如来とも言われ、阿弥陀というお名前の仏さまのことです。大宇宙の全ての仏方の師匠にあたる仏が、阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏を作られたのは阿弥陀仏なので、南無阿弥陀仏には、阿弥陀仏のお名前がおりこまれています。
南無の意味
南無の意味は、まず、以下のように、帰命の意味と同じです。
「「南無」はインドの昔の言葉、「帰命」は、中国の昔の言葉です。周知のとおり、仏教はお釈迦様がインドで説かれ、中国に伝わり、韓半島を経て日本に伝来しました。ですから、仏教ではインドの言葉、中国の言葉がよく使われています。「南無」はインドの発音に漢字を当てた音標文字で、字そのものに意味はありません。それが中国に伝わり「帰命」という言葉に翻訳されたので、「南無」と「帰命」は同じ意味です。」
このように、南無は帰命ということですが、これは信ずる心です。私たちには、阿弥陀仏というまことの仏さまを信ずる心も念ずる心もありません。そんな者に、信じてこいといっても無理ですので、阿弥陀仏は、信ずる心も作って与えてくださるということです。ですから、南無阿弥陀仏の南無は、阿弥陀仏が与えてくだされる信じる心です。このように、本来私が持っていなければならない信じる心もおさめて完成されているのが南無阿弥陀仏です。
「南無阿弥陀仏」のことを「名号みょうごう」ともいいます。
名号とは
名号は、私たちの苦しみ迷いを断ち切って、本当の幸せを与える働きを六字で表したものです。たとえるなら、私たちの迷いの元を断ち切る薬のようなものです。私たちは、どんなにお金があっても、どれだけ科学が進歩しても便利な生活をしても、心からの安心も満足もなく、いつも不安や不満を抱えて苦しんでいます。そんな私たちの苦しみ迷いを根本から治療する特効薬が南無阿弥陀仏の名号です。
南無阿弥陀仏が完成するまで
南無阿弥陀仏を作られたのは、阿弥陀如来という仏さまです。大宇宙の諸仏の王であり先生である阿弥陀如来が、すべての人を何とか本当の幸せに救ってやりたいという願いをおこされたのです。しかし、阿弥陀如来にいくら大きなお力があっても、それだけで私たちが幸せになれるわけではありません。
たとえるなら、熱にはものすごいエネルギーがあることが昔から分かっていましたが、どうすればそれを私たちが仕事に使えるのか、長い間分かりませんでした。18世紀にようやく蒸気機関ができてはじめて、私たちが仕事に使えるようになったのです。このように、大きな力があっても、それがそのまま私たちを幸せにできるわけではありません。
阿弥陀如来は、すべての人を本当の幸せにするにはどうすればいいのか、五劫という長い間考え抜かれ、すべての人の苦しみの元を断ち切る働きのある名号をつくるしかないという結論に達せられました。名号とは、南無阿弥陀仏のことです。
それは、兆載永劫という長い間、阿弥陀如来が一瞬たりとも雑念を交えず、純粋に、すべての人を何とか救ってやりたいという心でご修行なされて、その功徳を全部封じ込めた名号を作り、それを私たちに与えて救うということです。
ところが、限りないお力を持たれた阿弥陀如来が兆載永劫という長い間、純粋な心でなされたご修行は、大変なカサになります。私たちがそう簡単に受け取ることはできません。
肉体の病を治す薬を飲むときでも、部屋一杯の薬を飲めといわれても、到底飲めないのと同じです。私たちが飲むには小さい錠剤にしてもらわなければなりません。そこで阿弥陀如来は、兆載永劫の間の全身全霊、ご修行なされた功徳を全部封じ込めて、南無阿弥陀仏の六字の名号を作られたのです。
南無阿弥陀仏は仏心の表れ
このように完成した南無阿弥陀仏は、仏心の表れです。阿弥陀如来の、すべての人を何とか救ってやりたいという大慈悲心が、形となってあらわれたものです。
ちょうど、恋心というのは目に見えません。ところが「あなたが好き」というラブレターをもらうと分かります。たったの六字ですが、恋人の心がわかるので、その人にとっては大変な価値があり、大切にします。
それと同じように仏様が、私たちを絶対変わらない幸せにしてやりたいという仏心は、心ですから目にも見えず、私たちには分かりませんので、私たちに分かるように、南無阿弥陀仏という六字に表されたのです。これを「垂名示形すいみょうじぎょう」の南無阿弥陀仏といわれます。名を垂れて形を示された、ということです。「六字の名号」は、弥陀の大慈悲心の顕現なのです。
恋愛の喜びは、続かない無常の幸せですが、それでもラブレターを大切にします。ところが名号は、私たちを絶対の幸福にする働きのある仏心です。それで非常に大切にされるのです。
あらゆる仏がほめたたえる南無阿弥陀仏
すべての人を本当の幸せにする働きがある南無阿弥陀仏を作ることができたのは、阿弥陀如来だけですので、大宇宙の仏がたは、「阿弥陀如来はすばらしい名号を作られた」と口々にほめたたえておられます。
そのことをブッダは『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』にこう説かれます。
「十方恒沙じっぽうごうじゃの諸仏如来、皆共に無量寿仏むりょうじゅぶつの威神功徳いじんくどくの不可思議なるを讃嘆さんだんしたまう。(漢文:十方恒沙 諸佛如來 皆共讃歎 無量壽佛 威神功徳不可思議)」
「十方恒沙じっぽうごうじゃの諸仏如来しょぶつにょらい」とは、大宇宙のガンジス河の砂の数ほどのたくさんの仏様ということです。「皆共みなともに」ですから、この中に入らない仏様はありません。大日如来も薬師如来も釈迦如来も、一人残らず口をそろえて、ということです。
「無量寿仏むりょうじゅぶつ」とは阿弥陀如来のこと、「威神功徳いじんくどく」とは南無阿弥陀仏の大功徳です。「讃嘆さんだん」とは褒め讃えるということですから、仏様でも想像できない南無阿弥陀仏の不可思議な働きを、すべての仏が異口同音に褒め讃えておられるのです。
実際、ブッダは南無阿弥陀仏の功徳を一生涯説き続けましたが、最後に説ききれなかったと言われています。一生どころか、こう言われているのです。
「もし広説こうせつせば百千万劫ひゃくせんまんごうにも窮きわめ尽すこと能わじ。(漢文:若広説者 百千万劫 不能窮尽)」
もし南無阿弥陀仏の功徳をすべて説き尽くそうとすれば、何億年かかって説いても説き尽くせない、と言われています。
南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の違い
「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」とよく似た言葉に、「南無妙法蓮華経なんみょうほうれんげきょう」があります。
「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」はどう違うのでしょうか?
まず、南無妙法蓮華経は、ブッダの説かれたお経にない言葉です。ブッダは一切経七千余巻というたくさんのお経を説かれたのですが、南無妙法蓮華経は一回も説かれていないのです。
では誰の言葉かというと、日蓮宗を開いた日蓮です。日蓮宗では、南無妙法蓮華経にブッダの修行の功徳が備わっていて、唱えると即身成仏できると教えますが、ブッダはそのようなことは一言も説かれていません。
日蓮の創作です。
一切経に説かれていないことは仏教といえませんので、日蓮は、南無妙法蓮華経の根拠として法華経の寿量品の文底に秘沈していると主張します。これを「文底秘沈もんていひちん」といいます。こんなことを言うくらいですから、日蓮自身も南無妙法蓮華経の根拠はお経のどこにもないことを自覚しています。
文底秘沈という日蓮の主張からも、南無妙法蓮華経が仏説ではないことは明らかです。
それに対して、南無阿弥陀仏は、ブッダが説かれていますから、仏説です。
一例をあげると『観無量寿経』にこうあります。
「南無阿弥陀仏と称せん。仏名を称するが故に、念々の中に於て八十億劫の生死の罪を除く。(漢文:稱南無阿彌陀佛 稱佛名故 於念念中 除八十億劫生死之罪)」
このように、南無妙法蓮華経はブッダは説かれていませんが、南無阿弥陀仏はブッダが説かれているという違いがあります。これは、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の根本的かつ最も大きな違いです。
仏教とは、仏の説かれた教えのことですから、南無阿弥陀仏は仏教であるのに対して、南無妙法蓮華経は仏教ではないということが明らかになり、これによって、仏教上のその他の議論はすべて吹き飛びます。
南無阿弥陀仏をとなえれば救われる?
この南無阿弥陀仏をとなえることを「念仏」を称となえるといいます。「となえる」が「称となえる」という漢字が使われるように、となえるには、たたえるという意味があります。
では、念仏を称となえれば救われるのでしょうか?
ほとんどの人は、念仏を称となえれば死んだら極楽に往けると思っていますが、それは誤解です。
念仏には、他力の念仏と自力の念仏があります。
他力の念仏と自力の念仏について
ある人が浄土宗を開かれた法然上人に、念仏を称となえれば死んだら極楽に往けるのでしょうか?とお尋ねした記録が、『念仏往生要義抄』に出ています。「問いていわく、『称名念仏しょうみょうねんぶつ申す人は、みな往生すべしや』」称名念仏とは、念仏を称えることです。念仏を称えた人は、みんな極楽へ往けるんですか?
とお尋ねしたということです。すると法然上人は、こう答えられています。
「答えていわく『他力の念仏は往生すべし、自力の念仏はまったく往生すべからず。」
このように、他力の念仏を称となえれば救われますが、自力の念仏ではまったく不可能です。
単に念仏を称となえれば救われるわけではないのです。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人はどうでしょうか? 主著の『教行信証きょうぎょうしんしょう』にこう教えられています。
「称名憶念しょうみょうおくねんすること有れども、無明むみょうなお存そんして所願しょがんを満てざる者あり。」
「称名憶念」とは、阿弥陀如来を信じて念仏を称となえることです。一生懸命念仏を称となえていても、助からない者がいると教えられています。
浄土真宗の蓮如上人は、さらに現代人にわかりやすい言葉遣いで教えられています。
「ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称となうれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大きに覚束なきことなり」
ただ声に出して南無阿弥陀仏と称となえさえすれば極楽に往けるように思っていたら、それはとんでもない間違いだ、ということです。このように、ただ念仏さえ称となえれば救われるわけではないのです。ではどうすればいいのでしょうか?
南無阿弥陀仏の力が発揮される時
ではどうすればいいのかというと、南無阿弥陀仏の名号の働きによって、私たちの苦しみ迷いの根元を絶ちきられればいいのです。これを「信心獲得しんじんぎゃくとく」とか、「信心決定しんじんけつじょう」といいます。
信心獲得には時間はかかりません。名号を頂いた「一念いちねん」に、信心獲得します。一念とは、何億分の一秒よりも短い時間のことです。これを親鸞聖人は、こう教えられています。
「一念とは、これ信楽開発しんぎょうかいほつの時尅じこくの極促ごくそくを顕あらわす。」
「信楽開発」とは、苦しみ迷いの根元が絶ちきられて、絶対の幸福になることで、「時剋の極促」とは、これ以上速いということのない速い時間のことです。ですから「一念」とは、絶対の幸福になる何億分の一秒よりも短い時間をいう、ということです。
一念で信心獲得するとどうなるかということについて、蓮如上人は分かりやすくこう教えられています。
「一念帰命いちねんきみょうの信心を発おこせば、まことに宿善の開発かいほつに催されて仏智より他力の信心を与えたまうが故に、仏心と凡心と一つになるところをさして信心獲得の行者とはいうなり。」
まったく阿弥陀如来のお計らいによって一念で他力の信心を頂き、阿弥陀如来の心と私の心とが一体になったのを、信心獲得した人という、ということです。つまり、南無阿弥陀仏と一体になるのです。これを「仏凡一体ぶつぼんいったい」といいます。
南無阿弥陀仏の3つの名前
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称となえる念仏が、自力なのか他力なのかは、一念で分かれます。信心獲得までは、すべて自力の念仏です。信心獲得した後は、すべて他力の念仏です。自力の念仏と他力の念仏は、一念で水際立って切り替わります。
他力の念仏は、南無阿弥陀仏を頂いて、変わらない幸せに救われた喜びから称となえずにおれないお礼の念仏が他力の念仏なのです。
この「名号」と「信心」と「念仏」は、どれも南無阿弥陀仏ですが、阿弥陀如来のお手元にある間は「名号」といい、私たちが頂くと、「信心」といい、それが口から表れたのを「念仏」といいます。名前は変わりますが、体は一つです。
ちょうど、娘と結婚すると嫁といわれ、子供が生まれると母といわれるようなものです。名前が変わるだけで体は変わりません。
娘のときに出べそなら、嫁になっても出べそですし、母になっても出べそです。
ところが、隣にどんな美人で気立てのよい娘がいても、結婚しなかったら私と関係ありません。どんなに阿弥陀如来が名号を完成されていても、頂かなければ幸せにはなれません。
信心獲得の一念が最も大切ですから、蓮如上人は、こう言われています。
「たのむ一念のところ肝要かんようなり。」
肝要とは、最も大事ということです。
ではどうすれば信心獲得できるのでしょうか?
どうすれば南無阿弥陀仏を頂けるの?
どうすれば南無阿弥陀仏を頂けるのかは、ブッダに聞かなければわかりません。ブッダは、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』にこのように説かれています。
「その名号を聞きて信心歓喜しんじんかんぎせんこと乃至一念ないしいちねんせん。(漢文:聞其名号 信心歓喜 乃至一念)」
「名号」とは南無阿弥陀仏のことですが、名号を聞いた一念に、信心獲得するということです。
『無量寿如来会むりょうじゅにょらいえ』にはこのように説かれています。
「無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信じょうしんをおこして、歓喜愛楽かんぎあいぎょうせん。(漢文:聞無量寿如來名号 乃至能発一念浄信 歡喜愛楽)」
名号を聞いた一念に、信心獲得して絶対の幸福になれるということです。
他にもこのように説かれています。
「仏、弥勒に語りたまわく「それ彼の仏の名号を聞くことを得て歓喜踊躍かんぎゆやくし、乃至一念すること有らん。まさに知るべし。この人は大利を得と為す、すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」(漢文:仏語弥勒 其有得聞彼仏名号 歡喜踊躍 乃至一念 当知此人為得大利 則是具足無上功徳)」
ブッダは、弥勒菩薩にこう仰せられた。「どんな人も、阿弥陀如来の作られた名号・南無阿弥陀仏の大功徳を聞いた一念に、絶対の幸福になれる。すなわち無上の功徳と一体になるのである」ということです。
このように、名号を「称となえる」のではなく、名号を「聞く」ことで苦悩の根元を断ち切られ、本当の幸せになれるのです。 
 

 

             
●南無釈迦牟尼仏 [なむしゃかむにぶつ]
1 「南無」=「私は帰依する」、「南無釈迦牟尼仏」の7文字で「釈迦牟尼仏(釈迦の尊称)に帰依する」を意味します。曹洞宗の本尊唱名や、天台宗の宝号などに使われます。
2 天台宗や、臨済宗をはじめとする禅宗などで多く唱えられる念仏です。「南無」には「あなたにおまかせする」、「釈迦牟尼仏」は「お釈迦様」の意味があり、「仏様であるお釈迦様を信じ、拠り所にする」と訳すことができます。信心の気持ちを伝えることで、「故人様があの世に向かうまで仏様に守っていただきたい」と願うとともに、「仏様が守ってくれるから心配いらない」と故人様に伝えることができるとされています。
3 日本三禅宗と呼ばれる曹洞宗、黄檗宗、臨済宗などで唱えられることが多いです。禅宗にも宗派がありますが、どの宗派でも読経に入る前に「南無釈迦牟尼仏」と唱えます。また、禅宗では、お経を唱えることではなく座禅からの悟りを基本としているため、念仏を繰り返し唱えるということはありません。釈迦族の聖者であるお釈迦様に帰依します(全てをお任せします)という意味があると言えます。
4 皆さんは「なむしゃかむにぶつ」というフレーズを耳にされたことがありますか?漢字で書けば「南無釈迦牟尼佛」となります。これは、曹洞宗において、信仰の対象として日頃、拝んでいる「お釈迦様」のことですね。曹洞宗では数年前から、檀信徒の皆様に「本尊唱名」を呼びかけております。これは、ご仏壇などでお参りをする際、「南無釈迦牟尼佛」とお唱えして、お釈迦様との絆を深めていこうという呼びかけです。こうした呼びかけをする背景には、2つの理由がありました。一つには「曹洞宗の信仰の対象がお釈迦様であることが浸透していなかったこと。」二つには「曹洞宗のお寺のご本尊様にお参りをするときに、なんと言えばいいのかわからないという声が多数あったこと。」「なんまんだ」は皆さんもよくご存知か思います。漢字で書くと「南無阿弥陀仏」。浄土真宗などが信仰の対象とする「阿弥陀様」です。こちらは比較的、口に出してお唱えしやすいためか、我々の日常に深く浸透しています。それに対して、「なむしゃかむにぶつ」は言いにくく、聞きなれないためか、「なんまんだ」ほど浸透しているとは言いがたいです。ここで、「南無釈迦牟尼佛」というお名前の意味に触れておきたいと思います。まず、「南無」というのは「帰依」を意味する言葉です。「帰依」の「帰」は「帰着」の「帰」です。自分をそこへ投げ込み、落ち着かせていくことです。そして、「依」は「依存」の「依」で、「どこまでも従って、絶対に離れない」ことを意味します。ですから、「南無釈迦牟尼佛」とは、自分の身を全てお釈迦様に投げ込んで行き、お釈迦様に合わせていくことなのです。「お釈迦様に合わせる」それは、お釈迦様の悟りの世界に我が身を置くことです。また、間違った生活を改め、正しい真実の世界の中で生きていこうとすることなのです。人間は自己中心的になる生き物です。常に自分の判断で自分の生き方を決定しています。ですから、もし、誤った判断をすれば、自分の生き方も誤ったものになるのです。往々にして、自己を誤らせるのは「自我」です。「俺が・私が」と自分を優先させようとする「わがまま」が強いほど、周囲との関係が悪化していきます。「南無釈迦牟尼佛」と唱えることには、自分を邪の道へと誘い込む「自我(わがまま)」を減らし、お釈迦様に合わせていこうという謙虚な姿勢を作り上げていこうという願いが込められています。謙虚さが増せば、心が洗われます。自分がきれいな心で生きていくことで自分と共に周囲の人までもが幸せになれるのです。そして、自分に訪れる幸せがお釈迦様からいただいたものだと感じるとき、お釈迦様への感謝の念が沸いてきます。お釈迦様と気持ちが通じ合えるようになる―それは、お釈迦様との絆が深まったということなのです。自他共に幸せを恵む「南無釈迦牟尼佛」のお唱えは、様々な問題を抱えた現代社会の闇を晴らしてくれるものの一つだと思っています。一日も早く、心安らかな日々が訪れることを願い、今日も「南無釈迦牟尼佛」を念じて生きていきたいものです。そうした片時も「南無釈迦牟尼佛」を忘れずに心に念じていくことを、お釈迦様は「正念」と仰ったのです。 
             
             
             
             
             
             
             
             
       
 


2022/11