子供のお正月遊び

お正月 子どもの遊び
凧揚げ こま回し 羽根つき
懐かしい

今の子供たちは・・・
 


お正月遊び / 凧揚げ独楽(こま)回しお手玉手まり羽根つきけんだまめんこ百人一首(かるた)福笑い双六(すごろく)だるまおとし・・・
お遊び / 花合わせトランプオセロ1オセロ2でんでん太鼓万華鏡1万華鏡2輪投げ1輪投げ2ヨーヨー紙風船1紙風船2・・・
 
 
 
 
 
 

 

●凧揚げ 
凧を高く揚げるだけでなく、その高さや揚がっている時間を競うことも楽しさの一つです。また、相手の凧を落としたり、糸を切ったりする”凧合戦”や”凧喧嘩”という遊び方もあります。
由来
中国で占いや戦いの道具として使われていた凧揚げが日本に伝わったのは、平安時代の頃。貴族の遊びだったものが、江戸時代には、年初めに男の子の誕生祝いとして使用するようになり、庶民にも広まりました。そのことから当時は、男の子に代表的な遊びと言われていたそうです。また、凧揚げには、願いごとを凧に乗せて天まで届けるという意味も込められています。
凧揚げは、かつて中国で戦の道具に使われていたものが日本に伝わり、貴族の間で遊びとして親しまれるようになったと伝えられています。江戸時代には、男の子が生まれたお祝いとして、凧揚げをすることもあったようです。お正月の凧揚げは、「立春の季に空に向くは養生のひとつ」という言葉に由来すると言われています。この言葉には、「暦上で春が始まる『立春』(2月4日頃)の季節に空を見上げるのは健康にいい」という意味があります。新年の時期の健康を祈る遊びとして親しまれ、お正月遊びとして定着したようです。
遊び方
凧揚げは、以下の2種類の遊び方で楽しんでみましょう。
<子どもと保育士さんが協力して遊ぶ方法>
1.子どもが凧の紐をしっかり持って、走る準備をします。
2.保育士さんは子どもの凧を水平に高く持ち上げます。
3.「さんはい!」という声かけで子どもと保育士さんが走り出し、凧が風にのるタイミングをみて保育士さんが凧から手を放します。
<子どもが一人で遊ぶ方法>
1.凧と糸のつなぎ目を持ち、左手で糸を持って少しずつ走り出します。
2.少しずつ凧のほうをみながら、糸の長さを調整して凧の高さや位置を安定させます。
慣れてきたら距離や走る速さを変えながら、上手に凧揚げを楽しんでみてくださいね。凧揚げをするときは、屋外の広い場所を使いましょう。近くに電線や看板などがない公園や運動場などを選ぶとよいかもしれません。また、凧に夢中になって周囲が見えにくくなりがちかもしれないので、あらかじめ遊べる場所を決めておき、保育士さんの目が届く範囲内で楽しむことが大切です。 
昔ながらの正月遊び「凧あげ」は、古来中国では、占いや戦いの道具のひとつでした。日本には平安時代に貴族の遊戯として入りましたが、戦国時代には、敵陣までの距離を測ったり、遠方へ放火する兵器としても活用されていたそうです。やがて江戸時代になると男の子の誕生祝いとして凧あげをするようになり、庶民の遊びとしても広まっていきました。
凧が高くあがるほど願い事が神様に届くので願いが叶う、元気に育つといわれています。
また、昔から「立春の季に空に向くは養生のひとつ」といわれたことから、立春に凧あげをするようになったともいわれています。昔は新しい年が立春のころにめぐってきたので、新春が正月を意味するようになったのです。
遊び方にも幾つかあり、より高く揚げて楽しむだけでなく、相手の凧を落としたり、糸を切ったりする「凧合戦」「凧喧嘩」などがあります。また、日本の凧に対して、洋風凧をカイトと呼びます。現在はのびのびと凧を揚げられる場所が少なくなりましたが、お正月の風物詩としてチャンスがあればぜひどうぞ! 
たこあげは、中国で占いや戦いの道具として使われていたものです。日本に伝わると貴族の遊びとして広まり、だんだんと庶民にも親しまれるようになりました。そのうちに「立春の季に空に向くは養生のひとつ」(立春に空を見上げるのは健康に良い)という言葉から、正月にたこあげをするようになったという説があります。子供との遊びでは、たこを高くあげるだけでなく、揚がっている時間や高さを競い合うのも楽しいですよ♪相手のたこを落としたり、糸を切ったりする「喧嘩たこ」や「たこ合戦」という遊び方もあります。最近はたこを思い切りあげられる場所がなかなか少なくなってしまいましたが、川辺や海辺など、空が広いところで楽しみたいですね。 
童謡「お正月」の歌詞にも登場する、「凧揚げ」。凧には、竹ひごや和紙を使った昔ながらのものや、プラスチックの骨組みとビニールでできた現代風のものまでさまざまあります。凧は簡単に作れるので、親子で作ってみるのもいいですね。
由来
凧の起源は中国にあるのだそうです。かつて中国では、占いや宗教、戦の道具などに使われていました。それが平安時代に日本に伝わり、貴族の遊びとなりました。江戸時代になると、正月遊びのとして定着していきます。当時、凧を揚げることで、厄よけや祈願などになる、おまじないのような要素があったそうです。
遊び方
凧を風の力で、空に浮かばせます。このとき、糸をうまく操ることで、空高くまで凧を飛ばすことができます。ゲーム性のある遊び方には、どれだけ高く凧を飛ばせるかを競ったり、相手の凧を落としたり、糸を切ったりする「けんか凧」という遊び方もあります。 
凧あげは、古来中国では占いや戦いの道具でした。平安時代に貴族の遊戯として伝来しましたが、一般庶民のあいだで盛んになったのは江戸時代のことです。 もともとは、年初めに両親が男子の出生を祝い、その健やかな成長を祈る儀礼として行われていたもので、願いごとを凧に乗せて天に届けるという意味もありました。 また、凧は、関東の方言で「タコ」、関西の方言では「イカ」「いかのぼり(紙鳶)」と呼ばれていました。その由来は、凧が空に揚がった姿が、「たこ」や「イカ」に似ているから、という説があります。 
代表的なお正月遊びのひとつが凧あげです。骨組みに紙や布を張り、風の力で、空に浮かばせる遊びです。糸でうまく凧を操り、どれだけ長く糸を出したかで飛距離を競う遊び方もあります。なぜ、お正月に凧あげをするようになったのでしょうか。日本で凧が正月の遊びとなったのは江戸時代後期のことです。昔から「立春の季に空に向くは養生の一つ」と言いますが、旧暦の新年である立春に、空を向く遊びとして凧あげが広まりました。その後、その年を元気に過ごせるように願いを込めて、正月に凧をあげるようになりました。凧をうまくあげるポイントは、風のある日に河川敷や海辺などの広い場所で行うことです。凧あげを目的に、ちょうど良い場所へちょっと遠出してみるのも、良い気分転換になるかもしれませんね。凧を見ながら夢中になって駆け回る子どもたちは、とても良い絵になりますね。 

 

●凧(たこ)
糸で牽引して揚力を起こし、空中に飛揚させる物。木や竹などの骨組みに紙、布、ビニールなどを張って、紐で反りや形を整えて作られる。世界各地にある。日本では正月の遊びとして知られ、古語あるいは地方名で紙鳶(しえん)、ハタ、いか(イカ)などとも言う。
歴史​
半ば伝説的だが、中国で最初に凧を作った人物は、後代に工匠の祭神として祭られる魯班とされている。魯班の凧は鳥形で、3日連続で上げ続けることができたという。ほぼ同時代の墨翟が紀元前4世紀に3年がかりで特別な凧を作った記録がある。魯班、墨翟のどちらの凧も軍事目的だった。
中国の凧は昆虫、鳥、その他の獣、そして竜や鳳凰などの伝説上の生き物など様々な形状を模している。現代中国の凧で最上の物は、竹の骨組みに絹を張り、その上に手描きの絵や文字などがあしらわれている。
日本では、平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』に凧に関する記述が紙鳶、紙老鳶(しろうし)として登場し、その頃までには伝わっていたと思われる。日本の伝統的な和凧は竹の骨組みに和紙を張った凧である。長方形の角凧の他、六角形の六角凧、奴(やっこ)が手を広げたような形をしている奴凧など、各地方独特の様々な和凧がある。凧に弓状の「うなり」をつけ、ブンブンと音を鳴らせながら揚げることもある。凧の安定度を増すために、尻尾(しっぽ)と呼ばれる細長い紙(ビニールや竹の場合もある)を付けることがある。尻尾は、真ん中に1本付ける場合と、両端に2本付ける場合がある。尻尾を付けると回転や横ぶれを防ぐことができ、真上に揚がるように制御しやすくなる。
14世紀頃から交易船によって、南方系の菱形凧が長崎に持ち込まれ始めた。江戸時代の17世紀には、長崎出島で商館の使用人たち(インドネシア人と言われる)が凧揚げに興じたことから、南蛮船の旗の模様から長崎では凧を「ハタ」と呼び、菱形凧が盛んになった。これは、中近東やインドが発祥と言われる菱形凧が、14-15世紀の大航海時代にヨーロッパへと伝わり、オランダの東方交易により東南アジアから長崎に広まったものとされる。
江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行り、江戸の武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やすほどだった。競技用の凧(ケンカ凧)には、 相手の凧の糸を切るためにガラスの粉を松脂などで糸にひいたり(長崎のビードロ引き)、刃を仕込んだ雁木を付けたりもした。
このような状況が世相に混乱を招き官憲の介入に及び、当時は一般的に「イカ揚げ」として親しまれていた娯楽は禁止されることになった。したたかな庶民は同じ遊びを「イカ揚げ」ではなく「タコ揚げ」だと屁理屈で逃げ道を作り、官憲も厳しくは追及しなかった。このため、以後「タコ揚げ」として周知されるようになったという。長崎でも、農作物などに被害を与えるとして幾度となく禁止令が出された。
明治時代以降、電線が増えるに従い、市中での凧揚げは減っていくが、正月や節句の子供の遊びや祭りの楽しみとして続いた。1910年、森下辰之助は、飛行機凧を発明し、皇孫への献上を出願した。
スポーツカイトは1960年代に登場した凧である。2本、4本など複数のラインを用いて自在に操ることができる。第二次世界大戦中、アメリカ海軍では対空射撃の訓練用として2本ラインの凧が使用され、これがスポーツカイトの原型となった。定期的に競技会が開かれ、決められた図形を凧でなぞっていく規定競技や音楽に合わせて様々な技を披露するバレエなどで操縦技術を競い合う。
種類​
以下のような凧がよく知られている。なお、日本ではこれら分類とは別に和紙や竹などから構成される和凧と、海外から輸入され、ビニールなど様々な素材で構成される洋凧(カイト)に大別される。
娯楽用の凧​
江戸時代後半から明治にかけて、日本では数多くの凧(和凧)が作られてきた。和紙と竹に恵まれた日本では、地域ごとに特徴のある「ふるさと凧」が生み出され、伝統が受け継がれてきた。和凧といっても形も名前も様々である。ふるさと凧は、地域の自然や暮らしに結びついた大切な伝統文化なのである。その主なものを上げると、角凧、津軽凧(青森県)、南部凧(青森県)、べらぼう(秋田県)、まなぐ(秋田県)、まきいか(青森県)、大凧(埼玉県)、奴(東京都)、とんび(東京都)、べか(静岡県)、ぶか(静岡県)、あぶ(愛知県)、ますいか(香川県)、釣鐘いか(香川県)、いぐり凧(島根県)、ようかんべい(大分県)、はた(長崎県)、ぶんぶん(鹿児島県)、まったくー(沖縄県)。
   角凧
最も一般的な和凧の基本形。長方形が多いが正方形もある。厳密には以下の凧でも角凧に含まれるものがある。
   ぐにゃぐにゃ凧
二つの棒の間にビニールを付けて作る凧。製作が簡単な割にはよく飛ぶ。
   ゲイラカイト(Gayla Kite)
アメリカ合衆国で発明された三角形の凧。「ゲイラカイト」の“ゲイラ(Gayla)”とは発売したメーカーの名で、登録商標であるが、日本では「三角形の凧」の代名詞ともなっている。日本には1974年に輸入された。NASAの元技術者が開発したという触れ込みで、「(NASAジョンソン宇宙センターがある)ヒューストンからやって来た」というテレビ・コマーシャルで当時、一大ブームを起こした(実際には元技術者のフランシス・ロガロが発明したのはロガロ翼(英語版)であり、ゲイラカイトの開発には関わっていない。また、所属していたのはNASAではなく、その前身の航空諮問委員会〈NACA〉である)。和凧と異なりプラスチックの骨組みにビニールが張られており、非常に簡単に凧揚げが可能である。元は安価な飛行機の翼「ロガロ翼」として開発され、1948年に特許を取得している。その目的としてはハンググライダーとして実用化されている。1964年8月28日付の『朝日新聞』に「米国・民主党が凧上げで政治宣伝」との記事が掲載されているが、その写真に現在のゲイラカイトとほとんど同じ形の凧が写っていることから、この時点で既にアメリカ本国では、ロガロ翼の凧としての使用が始まっていることが確認できる。2005年に日本上陸30周年記念としてスカイスパイ(SkySpy:空から覗くもの、の意、血走った大目玉のデザイン)のスポーツカイトが発売された。現在日本では、株式会社エージーからプリヴェAGを経て、株式会社あおぞらが輸入、販売している。
   立体凧
立体的な凧。「行灯凧」など。
   連凧
小型の凧を複数連ねたもの。
   鳥凧
鳥の格好をしたもの。
   セミ凧
昆虫のうち、セミの格好をしたもの。
   六角巻凧
六角形をしたもの。新潟県三条市【六角巻凧発祥之地】のものが知られる。
   丸凧
丸凧丸い形をしたもの。静岡県袋井市で保存・伝承されている。
   バイオカイト
2001年に伊藤利朗が開発。そよ風程度の風力で揚がり、気候・天候を問わず、形状の可能性が無限にある。流体力学や航空機力学を応用しているため、斜めではなく真上に高く揚がるのが特徴。
   仕掛け凧
蝶の形状を模した風弾(ふうたん)がよく知られる。揚がっている凧に装着する。上空のストッパーに当たると羽根が折り畳まれ、落ちてくる。沖縄県の八重山諸島ではシャクシメーと呼ばれている。
   シコフレックス
短い円筒形の凧。
   エネルギー凧
実用の凧​
   気象観測
19世紀末から20世紀前半にかけて箱型のボックスカイトに測定機器を取り付け風速、気温、気圧、湿度など高層の気象観測が行われた。
   移動通信用のアンテナ
衛星通信や携帯電話の中継局が普及するまで、長距離の無線通信を波長の長い中波や短波で行なう際に、係留線を導体とした凧を臨時のアンテナとして使用することがあった。
   カイトフォト
凧およびカイトで軽量カメラを上空に揚げ撮影を楽しむ。地上から約300メートル以下の低空の空中撮影が可能で、各種の学術調査にも利用されている。
   カイトサーフィン(カイトボード)
カイトボードは専用のカイト(凧)を用いて、ボードに乗った状態で、水上を滑走するウォータースポーツである。
文化​
凧を「タコ」と呼ぶのは関東の方言で、関西の方言では「イカ」「いかのぼり」(紙鳶とも書く)と明治初期まで呼ばれていた。江戸時代になると「紙鳶」と書いて「いかのぼり」と読むようになった。「いかのぼり」を売る店もあり、日常的に遊ぶ娯楽になった。しかし「いかのぼり」を揚げている人同士でケンカになったり、通行の邪魔になったり、大名行列の中に落ちたりといった問題も起きていた。それを受けて1650年代に「いかのぼりあげ禁止令」の高札が立ち、禁止を回避するためこの頃から「たこ」という呼び方に変わった。なおそれでも問題が起こるのでさらに「タコノボリ禁止令」も出た。
凧が「タコ」や「イカ」と呼ばれる由来は凧が紙の尾を垂らし空に揚がる姿が、「蛸」や「烏賊」に似ているからという説がある。長崎では凧のことをハタといい、ハタ揚げ大会が開かれる。方言周圏論からは、近畿・北陸、中四国の一部にイカ、それを囲むように東日本・四国南部・九州東部にタコがあり、さらに、この外側、東北北部と九州西部にハタが見られ、「ハタ」→「タコ」→「イカ」と変化していったものと考えられる。
世界各国の凧では、それぞれ空を飛ぶ動物などの名前が付けられていることが多く、英語ではトビ、フランス語ではクワガタムシ、スペイン語では彗星を意味する単語で呼ばれ、日本のように水生動物の名前で呼ぶのは珍しい。
正月の風物詩としての凧​
正月遊びとしての凧揚げには意味があり、天高く揚げて、男の子の健康・成長を願う。日本ではかつて正月を含む冬休みには子供たちが凧揚げをする光景がよく見られ、玩具店のみならず子供たちが買い物をする頻度の高い身近にある駄菓子店や文房具店などで凧も販売されていた。特に凧揚げが盛んに行われていた1970年代には、冬休みの時期には電力会社がスポンサーの夕方のニュース番組で「凧揚げは電線のない広い場所で」「電線に引っかかったら電力会社にご連絡ください」という内容のコマーシャルがよく流されていたほどで、当時のトラブルの多さを窺わせる。
1980年代以降は凧揚げが安全にできる広い空間が少なくなったことに加え、テレビゲームなど新しい玩具の普及、少子化などもあり正月の凧揚げの光景も少なくなった。
凧揚げ行事​
ただ単に人が集まり凧を挙げるだけではなく、見た目の美しさや滞空時間等を競うものもある。また、凧同士をぶつけあったり、相手の凧の糸を切ったりすることで勝利を競う凧合戦という文化もある。日本国内では、正月のほか、5月の端午の節句の行事として子どもの成長を願って全国各地で凧揚げ大会など凧揚げに関する催しが行われることが多い。
滋賀県東近江市では面積100畳(縦13メートル、横12メートル)、重さ約700キログラムの大凧(おおだこ)を揚げる「八日市大凧祭」が行われてきた歴史があり(2015年に起きた落下した凧による死亡事故で休止中)、「世界凧博物館東近江大凧会館」が開設されている。この八日市大凧(ようかいち おおだこ)は江戸時代中期から始まった。1882年には、240畳の大凧が揚げられたという記録がある。現在では、「近江八日市の大凧揚げ習俗」は国の選択無形民俗文化財に選択されている。
他にも大凧を揚げる大会としては新潟市の「白根大凧合戦」、浜松市の「浜松まつり」、愛媛県内子町の「五十崎の大凧合戦」、埼玉県春日部市西宝珠花「大凧あげ祭り」(国の選択無形民俗文化財)、他には相模原市、神奈川県座間市などの凧揚げ大会が知られている。
インドでは、グジャラート州やマハラシュトラ州など各地で盛んに凧あげ祭りが行われるが、凧糸にガラスなどを張りつけて近場の凧の糸を切る、いわゆる喧嘩祭りのスタイルを採ることがある。こうした凧糸は、マンジャと呼ばれるが危険性のためニューデリーなど人口密集地では使用が禁止されている。
象徴としての凧​
マレーシアでは民族の象徴的な存在であり、紙幣やコインのデザインとしても採用されている。またマレーシア航空の尾翼のデザインは凧を象っている。
凧に関する逸話・創作​
高知県の「土佐凧」は戦国時代、長宗我部氏が籠城戦(攻城戦)で糸の風切り音で敵を威圧したり、戦場を測量したりするために使ったことが始まりと伝承されている。
大凧に乗って名古屋城の金鯱を盗もうとした盗賊の話が知られている。この話は江戸時代に実在した柿木金助という盗賊がモデルになっている。実際には柿木金助は名古屋城の土蔵に押し入ったに過ぎないが、1783年に上演された芝居『傾城黄金鯱』(けいせいこがねのしゃちほこ)によって金鯱泥棒として世に知られるようになった。
忍術書の『甲賀隠術極秘』(芥川家文書)には、源義家による奥州合戦(後三年の役)金沢柵責めの時、服部源蔵という芥川流の小柄な人物がいて、大凧を作らせ、大風が吹いている中、乗せて、空中より火を降らして、焼き討ちにしたという記述が残されている(絵図が見られ、凧に複数の日の丸状の仕掛けから火を出す)。創作ではあるが、兵器としてのアイディアが近世からあったことがわかる。横山光輝の漫画並びにそれを原作とした特撮テレビドラマ『仮面の忍者 赤影』などでは、忍者が大凧に乗って偵察や戦闘を行う描写がみられる。
戦間期期のドイツではハイパーインフレーションにより煙草1箱が数億マルクもする状態になり、紙幣は価値をほとんど失ってしまっていた。こうした背景から、当時の子供たちは紙幣を貼り合わせて作った凧で遊んでさえおり、写真も残されている。
1752年、当時楽器の発明で有名だったベンジャミン・フランクリンは雷雨の中で凧を揚げて雷が電気であることを証明した。これは感電の危険がある。フランクリンが成功したのはまぐれと言ってもよく、当時にも追試で何人かが感電死している。  

 

 
 
 
 
 

 

●独楽(こま)回し
巻いてある糸を引き、回転の美しさを楽しむだけでなく、曲芸的な技に挑戦したり、”喧嘩ごま”という相手とぶつけ合いながら勝負したりする遊びもあります。
由来
独楽回しは、凧揚げと共に男の子の代表的な遊びでした。もともとは、奈良時代に宮中の年中行事の余興として催されていたものが、平安時代には貴族、子どもの遊びへと変化し、江戸時代には庶民の遊びへと発展していきました。現在は木でできたものが主流ですが、当時は先のとがった貝殻を使っていたそうです。
こまはまっすぐに芯が通っていると回り続けることから、「お金が回る」「物事が円滑に回る」など縁起がよい意味があると考えられ、お正月遊びとして親しまれるようになったようです。また、こまは一人で立って回ることから、「子どもが早く立派に独り立ちしますように」という願いが込められているとも言われています。
遊び方
指をつかって回す遊び方や、こまに紐を巻きつけて台や地面に放って回す遊び方があります。紐を使って遊ぶ場合は、友だち同士で同時にコマを放ち、どちらのコマが長く回り続けるか競うのが定番の遊び方でしょう。また、自分のこまを相手のこまにぶつけて台から落とす「喧嘩コマ」と呼ばれる遊び方もあります。ほかにも、競争せずに楽しめるぶんぶんごまなどもあるので、お正月の製作としてお気に入りのこまを手作りしてみるのもよいですね。 
お正月遊びのイメージが強い「独楽(こま)」ですが、世界最古の独楽は、エジプトで発見された紀元前2000〜1400年頃のものだというから驚きです。木を削っただけのシンプルなものですが、今から4000年も昔から独楽遊びをしていたとはびっくり!
日本へは奈良時代ごろに唐から高麗を経て伝来したと考えられています。高麗はかつて「こま」と呼ばれていたので「こま」という名前になり、「独楽」の字が用いられました。当初は貴族の遊戯でしたが、江戸時代から庶民の遊びとして広がりました。
独楽は、物事が円滑に回るに通じて縁起がよく、うまく回ると子どもが早く独り立ちできると言われています。
指でクルンと回すもの、紐を巻きつけて回すものがありますが、独楽の種類としては、軸を通したデアボロ、軸のないベエ独楽の2種類に分けられます。遊び方も、回転の美しさを楽しむもの、独楽同士をぶつけ合って勝負するもの、曲芸的な技を楽しむものなどいろいろです。紐を巻きつけて回すものは、巻き方などにコツがいります。独楽まわしの上手なおじいちゃんやお父さんに教えてもらうと良いでしょう。 
コマ回しの由来には、「お金が回るように」とゲン担ぎを込めて行われたという説や、縁日の余興として行ったという説があります。コマがうまく回ると「物事が円滑に回る」にちなんで、子供が早く独り立ち出来るとされました。コマ回しには、巻いてある糸を引き、回転の美しさを競ったりするものや、「喧嘩ゴマ」と呼ばれるコマ同士をぶつけて戦う遊び方もあります。コマが回る動きを見るだけでも楽しいので、子供が小さいうちは大人が糸を巻いてあげたり、コマを回してあげてもOK! 
「コマまわし」には、物事が円滑に回るという縁起が込められていることから、お正月の遊びとして定番になったそうです。
由来
コマは、平安時代頃に中国から伝わってきたといわれています。当初は宮中の儀式の際に回していたそうですが、次第に貴族の遊びとなり、江戸時代になってから、子どもたちがコマで遊ぶようになりました。
遊び方
コマの遊び方は、芯棒と呼ばれる部分の上部を指でひねる、または芯棒の下部に紐を巻きつけて、シュッとひっぱることで回して遊びます。対決方式の遊び方には、どらちが長く回せるか競ったり、コマ同士をぶつけ、相手のコマを台から落としたりする遊び方もあります。そのほか、回っているコマを指ではねあげて手のひらにとる「どじょうすくい」や、投げたコマを直接手のひらで回す「つばめがえし」などの技でも楽しめます。 
独楽まわしは、宮中の年中行事の余興として行われていたものが、平安時代になって貴族の遊戯となり、平安後期に子供の遊び道具となり、江戸時代から庶民の遊びとなりました。 その名の由来は、奈良時代に唐から高麗(こま=韓国北西部)を経て伝来したので『こま』という名前になり、中国語表記の『独楽』の漢字が用いられたと言われています。 
こまが回る姿から「お金が回る」、「頭が回る」、「仕事がうまく回る」などの意味が込められています。縁起が良いことから、お正月遊びとしても親しまれてきました。もともとは、奈良時代に寺や神社の縁日の余興として行われていたものが、次第に子どもの遊びになっていったようです。遊び方には、こまをより長時間回すことができた人が勝ちというものや、こま同士をぶつけて戦う当てごま、曲芸のように技を披露して競いあう遊び方などがあります。 

 

●独楽(こま)
何らかの塊を軸を中心として回転させて遊ぶ伝統的な玩具の一種。軸の先は細くなっており、周りにバランスをとるための重りがついている。
独楽の分布​
独楽は世界各地でみられ、それぞれ独自に発生したものと思われる。各地に独特なものが見られる。
一般には子供の遊びと考えられているが、マレーシアのガシンのように、地域によっては大人も巻き込んだ楽しみになっている場合もある。賭ゴマは大人の遊びである。また、日本の曲ゴマや中国の空中ゴマなど、芸能として認められている。
日本では、独楽作りは各地の民芸品、木地玩具としても作り続けられている。現在では淘汰が進んでしまったが、地域の名を冠する各地に固有の独楽はまだまだあちこちに残っている。特に九州には多くの独楽が知られている。
独楽の歴史​
起源と発展​
独楽は極めて古い歴史を持つ。ひねりゴマが最も簡単なこまで、これが初めであると考えられるが、実質的な証拠としてはぶちゴマが古くから存在したことが確認されている。エジプトでは紀元前1500年ごろの独楽が発見されているが、これは木製で円柱の下を逆円錐に削ったもので、ぶちゴマと考えられる。古代ギリシャにもぶちゴマやひねりゴマに関する記述が見られる。
ぶちゴマは、胴を横から鞭で叩いて回す独楽であるが、回し始めの時には先ず紐を巻いてそれを引くことで回すものがある。どうやらこれが紐で回す投げゴマの起源となったらしい。ヨーロッパでは17世紀頃から投げゴマに関する記述や絵が見られるようになる。そこで見られる独楽は投げゴマとぶちゴマが半々程度である。
力学的研究と工学的応用​
18世紀に入るとレオンハルト・オイラーなどによって独楽の角運動量、歳差運動、章動などの研究が進んだ。レオン・フーコーは1851年に地球の自転を精密な独楽によって証明しようと試み、それを「ジャイロスコープ」と命名している。ジャイロスコープはもともと独楽の性質を工学的に応用した装置であるが、コリオリの力やサニャック効果を利用して独楽を内蔵しなくても独楽がある場合と同じ様に機能するジャイロスコープも出現している。
日本における歴史​
日本では6世紀ころにぶちゴマのような木製の出土品があるが、確実にぶちゴマだとは言い切れない。また、平城京跡や奈良県藤原宮跡などからも7 - 10世紀ごろのものと思われる独楽、または独楽型の木製品が出土している。平安時代ごろにはすでに大陸から伝わっており、独楽を使って遊んでいたと言う記録がある。これもぶちゴマであったらしい。また、宮廷の儀式などにも使用されていた。14世紀、『太平記』にはこまという言葉が出てくるが、これはこまつくり(古末都玖利)を略したものである。また、東北地方では、すぐりなどと、最初の2文字を略していた。また、正月のこままわしには、物事が円滑に回る、お金が回るという縁起が込められている。
18 - 19世紀にかけてヨーロッパでは独楽が流行したが、日本でも江戸時代には独楽が大進歩を遂げた。博多ではそれまでよりはるかに精密で長く良く回る独楽が作られた。これは博多ゴマと呼ばれ、この独楽を使って曲芸を見せるのが現在まで伝わる曲ゴマの始まりとなった。元禄年間にその記録がある。しばしば禁令も出されたようである。
江戸の子供たちは巻貝を加工した小さな独楽の回しっこをしていたことが伝えられており、これが明治中期に金属となって現在のベーゴマになった。ベーゴマも当初はぶちゴマであったらしいが、次第により強く回せる投げゴマに変化したらしい。ぶちゴマは江戸中期に次第に投げゴマに取って代わられたようで、明治以降には日本国内ではあまり見かけられなくなり、昭和後期には商品としては皆無といってよい存在となった。それに代わって投げゴマが日本では独楽の標準の位置についた。子供の遊びにもこれが使われ、天保年間には喧嘩ゴマとしてより強くなるように胴の外側に鉄輪をはめた鉄胴ゴマが作られるようになった。この形の独楽は永く残り、昭和末まではどこの駄菓子屋にも置いてあったものである。今治市の生産業者は、最盛期には年間200万個も生産したと言う。
しかし、昭和末より次第に投げゴマはすたれ始める。この時期は団塊ジュニア(1971年 - 1974年生まれのベビーブーマー)が子供の遊びをしなくなる思春期に達していく時期に重なっており、小学生は1981年(昭和56年)の1192万4653人をピークに減少が始まった(参考:2014年の小学生数は約660万人)。また、1983年(昭和58年)に任天堂より発売された「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)を初めとする家庭用ゲーム機がバブル景気期にかけて広く一般家庭に普及した時期であり、バブル景気によって不動産価格が上昇し、子供が遊んでいた空き地が減った時期でもある。ガンプラ、ビックリマン、キン肉マン消しゴム、チョロQなど、新しい子供の遊びのブームも影響したと考えられる。駄菓子屋で独楽が山をなした風景は現在では見ることができない。代わって室内で機械式の回転装置をもつ独楽がよく見掛けられるが、室内遊戯である。1999年にベイブレードが出て子供の間でブームになったが、やはり投げゴマではなく回しやすい機構を備えている。
2011年から全国の中小製造業が自社の誇りを賭けて作成したコマを持ち寄り、一対一で戦うコマ大戦が行われ、2012年2月2日には、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2012」にて、第一回全国大会G1が開催された。第一回全国大会G1にて優勝したコマは、株式会社由紀精密のコマで、レプリカモデルが販売されている。コマ大戦にて使用されるケンカゴマは直径20mm以下、一円玉より小さいコマで、その小さなコマを製造業が設計し、切削機や旋盤などのプロの機械を用いて自社の持てる技術を全て注ぎ込み作成したものである。
当時、心技隊という団体が運営していたが、現在はNPO法人全日本製造業コマ大戦協会が運営している。
2013年2月7日に、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2013」にて、第二回全国大会G1が開催された。第二回全国大会G1にて優勝したコマは、有限会社シオンのコマで、ミニレプリカモデルが販売されている。 2015年2月15日には「世界コマ大戦2015」が横浜大さん橋ホールで開催され、7カ国29チームが参加し、優勝は日本の企業、準優勝はインドネシアの企業となった。 2017年4月1日に第三回全国大会G1 Japan Cup 2017がクイーンズスクエア横浜 クイーンズサークルにて開催された。
独楽の型​
一般の独楽​
独楽と呼ばれるものには実にさまざまなものがあり、ドングリや巻き貝をそのまま回すもの、木の幹を切り落とし、先をややとがらせただけのものから、内部に複雑な構造を持つものまである。いずれにせよ、地面や固い基盤の上で本体を回転させて遊ぶもので、その回転軸が変わらないように、とがった先端を持つ。胴体の中心に軸を突き通した姿が日本では一般的であるが、必ずしも世界中に通じるわけではない。
   回し方​
指でひねる / 最も簡単な独楽は、指でひねって回すものである。胴体は比較的小さく、軸も短い。回転速度もさほど上げられないので、ごく簡単なもの、単純なものが多い。このような独楽は、ひねりゴマと呼ばれる。
手のひらで回す / 細くて長い軸を持ち、これを両手で挟んで、手のひらをすりあわせることで回転させるものである。回転が足りなければ繰り返してすりあわせる。手よりゴマと呼ばれ、日本の曲ゴマはこの型である。
紐を使う / 大きく分けて2つの方法がある。[軸に巻き付ける] いわゆるいと巻きゴマと言われるもの。独楽本体から上に伸びた軸に、細い紐を巻き付ける。軸の一部には、管がかぶせてあるなどの工夫がしてあり、この管を持って紐を引けば本体が回り出すしくみである。[胴体に巻き付ける] いわゆる投げゴマである。胴体の底面の逆円錐の部分に下から紐を巻き付け、紐の片方を持って胴体を投げ出して、紐を引くことで回転をつける。
鞭を使う / ぶちゴマといわれる。普通は軸を持たず、円筒形の胴体の下が逆円錐に削られた姿で、立てておいて、簡単な鞭のようなもので胴体を叩いて回転させる。別名を無精ごまとも言う。叩かないと動かないとの意である。
専用の道具を使う / 最近増えてきた型で、独楽上面にかみ合わせがあり、ここに専用の回転を与える装置をつける。装置の中にはバネなどが仕込んであり、ここに力を蓄え、上の面のボタンを押してはじき出すなどの方法を採る。
複雑な構造の独楽​
一般の独楽は円盤形か円錐形の胴に軸があるもので、胴は固くて中が詰まっているものだが、ここに特別な仕掛けを持つものがある。
音の鳴る独楽 / 胴が内部に空洞を持ち、胴の側面に穴が開いていれば、独楽を回転させたときに音が出るようにすることができる。ビンの口を吹くのと同じである。
形が変わる独楽 / 胴の側面に溝があり、そこに羽根が折りたたまれているもので、回転させると遠心力で羽根が伸び、独楽が大きくなったように見える。独楽を急に止めると勢いで羽が畳まれる。ゴムが仕掛けてあって、回転が遅くなると畳まれるものもある。
軸受により枠に保持されたもの / 地球ゴマのように、コマ本体が軸受により枠に保持されたものは、回転している間でも外枠をさわっていられる。外枠が中の弾み車を完全に覆っていれば、更に簡単である。一般に独楽は回した途端に手を放さなければならず、子供にとってはここが難しい。それを楽にするための工夫でもある。
空中の独楽​
上述のような基盤の上で回すのではない独楽も存在する。日本では九州を中心として愛知県以西に伝承があるちょんかけ、またはちょんがけ、あるいは掛けゴマというのがそうで、円盤状の胴体の中心の片方に、先が太くなった釘が打ち込んである。回す場合には、胴体が垂直になる方向、回転軸が水平になる方向で回転させ、細長い紐を釘の根本にかけて、空中で紐を引き、独楽を紐に乗せたままで回転させる。また、中国の雑技団の芸にもある空竹は、円盤形の胴体二枚を鼓の胴のような軸でつないだもので、紐を軸の中央にかけ、やはり空中で紐を引き、紐の上で回転させる。同様のものが、ヨーロッパではディアボロと呼ばれる。これらは、独楽とヨーヨーの中間のようなものである。
他に、平らな円盤形で、底面の中央のくぼんだ部分にとがった棒に乗せ、その棒の先端で回転させる、皿ゴマというのもある。
独楽の運動​
一般的な独楽の運動​
まず、最初に与えられた回転が持続するのは、フライホイールとしての働きである。
続いて、一般的な、軸を持って基盤上で回転する独楽の運動には、一定の型がある(ここでは基盤が水平な平面の場合のみとする)。
1.回転を与えられ、基盤の上に置かれると、一般に完全に垂直に置くことはできないので、独楽はやや傾いて回転を始めるが、直後より回転軸の傾きの方向が次第に変わってゆく。これはジャイロ効果#ジャイロモーメントによるものである。あわせて、軸の先は台の上で円を描いて、下端から回転軸方向の上方に伸ばした線のどこかに静止する点があるような運動をする。後者はジャイロ効果とはされない。両者をあわせてみそすり運動というが、前者のみを指すこともある。前者は地球の歳差運動と力学的に同様のものである。
2.多くの場合、回転軸が鉛直方向を取るように、次第に立ち上がる。それにつれて、軸先端の描く円は次第に小さくなり、やがて完全に鉛直となる。独楽は、自転運動と軸の先の摩擦により位置を微動する他は静止したようになる。静止した独楽が安定するのはジャイロ効果#回転軸保存性による。
3.やがて回転が遅くなるにつれて、その回転軸が傾き、再びみそすりを始める。やがて軸が傾いて胴体が土台に触れた途端、独楽はこれまでのみそすりと反対方向へ回ってその動きを止める。
なお、正確に作られていない独楽は、回転が収まらず、軸の先ががりがり音を立てたり、軸がぶれたりする。これを独楽が暴れるという。これは、摩擦の影響と、軸がそもそも慣性主軸からズレているために起こるもので、回転の中心と床との接触点のズレのために、自由歳差運動が止まらなかったり、コマが丸ごとブレるためである。よくできた独楽では、直立する姿勢を取ると、一見回っているようには見えないほどになり、これを「独楽が眠る」と表現することもある。
意図的に(自由歳差運動ではない)みそすりが継続するよう作られた独楽や、回転軸がどんどんズレて逆立ちするような独楽もある(後述)。
空中の独楽の運動​
一般的な独楽がみそすりをするのと同じで、独楽を紐に乗せて空中に持ち上げれば、独楽全体がゆっくりと回転する。同じように、皿形の胴の片面から軸が出た構造のちょんかけゴマは、紐の上で回転させると全体が向きを変える。そのままでは紐がねじれてしまうので、一回りする前に紐を掛け替えてやらねばならない。
ディアボロや空竹は軸の両端に同等の胴が着いているため、ねじれることなく、回転の方向を維持する。
特殊な運動​
逆立ちゴマでは、回転するにつれて独楽の回転軸がずれ、次第に底面が上を向き、最後には軸先端を下にして回り始める。回転が止まると再び底を下に向けて安定する。
ラトルバックは非対称形状のコマで、特定の方向に回転しやすい性質を持つ。回転しづらい方向に回した場合、回転のエネルギーが振動に変換されていき、いったん回転が完全に静止した後、初めと逆の方向に回転し始める。
機械的にあり得ない運動​
機械力学の範囲ではあり得ない運動をする独楽もある。あり得ない運動とは、絶対に止まらない独楽や、空中浮遊する独楽などである。もちろん魔法などではなく、電気仕掛けや磁石を利用している。空中浮遊する独楽は市販されている。ただし、実際に浮遊させるのは難しい。
遊び方​
回す​
単に回すだけでも面白いものである。恐らく、独楽の発生はそこに動機があると思われる。ひねりゴマを回すことは力加減の調整が効きづらい初心者にとってはなかなかの関門である。投げゴマはひねりゴマより難しいとされる。掛けゴマとなれば、回すだけでその難易度は更に高い。
多くの場合、独楽には模様があって、回転する様子を見ているだけでも、その色の変化など、見飽きないものがある。
また、単に回すのではなく、回し方に凝る場合もある。たとえば投げゴマでは、投げたものを自分の手のひらにのせて回すとか、両手の間に紐を渡し、その上に乗せて回すなどの芸が伝えられている。空中で回す独楽では、非常に多彩な芸が知られる。
競う​
回転する時間を競う / 同時に回して、速く倒れた方が負け、といったものである。手軽にできるため、よく行われている。これの上級版で、マレーシアにガシンという独楽がある。この独楽のルールは、胴に分厚く金属を巻き付け、これを太い紐を巻き付けて投げるように回し、更に専用の台に移して回転させ、回転時間を競うというものである。回転維持時間は軽く五時間を超える。
ぶつけ合う / 土俵を決めてそこで回転させ、互いの独楽をぶつけてはじかれたら負け、といったもの。ひねりゴマでは相撲取りの模様をつけ、小さな土俵型の円盤で遊ぶ相撲ゴマ、投げゴマやベーゴマがそれである。佐世保独楽は木の塊の胴体に金属の釘を突き刺しただけの構造で、これを互いにたたきつけ合い、相手の独楽をかち割る。
技を競う / さまざまな回し方を互いにやってみせる。[投げゴマの技] 特定の場所を決めて投げる、いったん遠くへ投げつけておいて手元に引き寄せる、自分の手のひらの上に投げる、綱渡りなど。[空中ゴマの技] 投げ上げる、他人との間で投げ合う、綱渡り、紐昇りなど。
曲芸​
日本の曲独楽は演芸として独楽を専門に使う点で世界に他に例がない。一般に心棒が細い鉄芯の手より独楽を使う。以下は寄席芸として演じられた曲独楽、三増流 三世 三増 紋也の寄席演目の一例である。
手より独楽を使用する演目
末広 / 扇を広げた状態で地紙の中央に乗せて回す。他の流派では、地紙止めと称することがある。
刃渡り / 日本刀の刃の上から切っ先で回す。三増流は、まっすぐ構えるが、他の流派は横に構える。
綱渡り / 開始地点から終点までの距離3mから5mほど、釣り糸程度の細い糸の上を渡らせる。他の流派では、糸渡りと言うこともある。
小手調べ / 10cm程度の独楽から始まって、30cmの大きな独楽を片手でひねって回転させる。やなぎ女楽は、独楽しらべと言っていた。
投げ独楽の演目
投げ独楽 / 直径15cmほどの胴体、鉄の心棒17cm程度の独楽を、長さ3m位の紐を巻き、投げて回す。投げ回した独楽を手で受け止め、演技に入る。
要止め / 独楽を長さ1mの煙管の火皿に乗せ、扇を開いて要の部分に投げ移す。
行灯 / 吊るし行灯から垂らした紐に掛ける。独楽は行灯の仕掛けを開き、垂れ幕が出る。
衣紋流し / 独楽を長さ1mの煙管の火皿に乗せ、曲独楽師の着ている羽織が小道具になる。始点は左袖、首の後から右袖、終点の煙管の先端まで一気に通らせる。袖がらみといって、最後まで回転が落ちていない時には、左の袖口で回す。やなぎ女楽は、晩年、衣紋の独楽と言って、投げずにもみ独楽で回して左袖に乗せ、衣紋流しとは違う演じ方をしていた。
江戸時代後半から明治にかけて、足芸やバランス芸、水芸と共に曲独楽として、多くの興行があった。
欧米ではディアボロがジャグリングの中で使われ、中国の空中ゴマも雑伎団の演目に含まれる。
賭ける​
賭博の対象を独楽にするものである。先に挙げたような競う場合はこの対象になり得る。他に、賭けのために作られた独楽もある。
大きく2つの型がある。一つはひねりゴマの側面が多角形、たとえば六角柱型の胴の独楽で、それぞれの側面に数字や絵柄があるものである。回転が止まったときに倒れれば、どれかの面を上にするから、それを当てるものである。もう一つは丸い台の中心に柱を立て、その先端で独楽を回すもので、先端には独楽の軸のはいる孔があり、独楽の軸は先が膨らんで、胴との間に切れ込みが入っている。独楽が回転を止めると横に倒れるが、このとき台の先端の縁と軸とがかみ合って、独楽が柱から落ちずにある方向を指すようになっている。台の方には方向ごとに数字を書いてあって、独楽の先端の指す方向を巡ってルーレットのごとくに賭博を行うものである。  
 
 

 

 
 
 
 
 
 

 

●お手玉
お手玉歌に合わせ、いくつかのお手玉を投げてキャッチする遊び方が多いですが、決まったルールはなく自由にアレンジしながら遊ぶことができます。2つのお手玉を同時に投げてキャッチする方法や、それを手の甲に乗せたり、投げている間に手を叩いたりとさまざまな遊び方があります。また、お手玉1つを投げている間に、床に落ちている他のお手玉を拾い集め、集めた数を競う楽しみ方もできますよ。
由来
奈良時代に中国から伝わった”石取手玉(水晶玉)”や石を使って遊んでいたとされています。それが徐々に袋の中に小豆や大豆を入れた物へと進化していきました。
お手玉は、奈良時代に中国から伝わった遊びと言われています。「石名取玉」という16個の水晶を使って聖徳太子が遊んでいたことが、現在のお手玉遊びの由来のようです。平安時代には、石を使った「石なご遊び」が広がり、江戸時代になると袋の中に小豆や大豆、栗などを入れてお手玉をするようになったと言われています。
遊び方
左右の手に一つずつお手玉を持ち、同時に投げあってキャッチする遊び方が一般的です。1歳や2歳児の場合は、まずは1個のお手玉を上に投げて遊んだり、左右の手でお手玉を交互にキャッチしてみたりしましょう。 
「お手玉」といえば昔の遊びの代表格ですが、そのルーツは古代ギリシャで羊の骨を使った拾い技だったといわれています。日本では奈良時代に中国から伝わった「石名取玉」(16個の水晶玉)が法隆寺に残っており、聖徳太子がお手玉遊びをしていたという説もあります。
平安時代になって石を使った「石なご」遊びが一般に広がり、江戸時代に入ってから、袋の中に小豆、粟、ひえ、大豆などを入れたお手玉になりました。
手先を使うお手玉遊びは、脳を刺激して集中力も増すため、子どもの頃から親しむことで日本人の手先の器用さに貢献しました。現在は、子どもの脳を活性化するだけでなく、ボケ防止としても注目されています。
お手玉はいろいろな遊び方ができるもの。おばあちゃん世代に教えてもらったり、自分たちで考えたりして楽しめます。参考までに遊び方の例を幾つかご紹介します(競技大会では規定ルールがあります)。
お手玉2個の遊び方
•左右1個ずつ持ち、同時に投げ上げて、キャッチ。これを連続する(上手にできたら数を増やす)
•左右1個ずつ持ち、同時に投げ上げて、手の甲で受け止める→そのまま甲ではね上げてつかむ
•左右1個ずつ持ち、同時に投げ上げて、落下するまでに手を叩いてから取る→だんだん手を叩く回数を増やしていく
•右手は手の平にお手玉を置いて投げ上げ、手の甲で受け止める。左手は手の甲に置いて、手の平で受け止める。これらを同時に行う。
お手玉を複数使った拾い技
親玉を上に投げ上げ、落下するまでに床にまいたお手玉を寄せ集める。最初は親玉が落ちてくるまでに1つ拾って親玉も一緒にキャッチ。
これがひと通りできたら、拾う数を増やしていき、失敗したら次の人と交代します。お手玉歌(おばあちゃんに教えてもらいましょう)を歌いながらやると楽しい! 
お手玉は、奈良時代に中国から伝わった石取手玉(水晶玉)や、石を使って遊んでいた遊びが徐々に袋の中に小豆や大豆を入れたもので遊ぶように変化していったといわれています。お手玉の遊び方はさまざまあります。ほんの一例ですが遊び方を紹介すると…
・左右一個ずつ手に持って上に投げ、キャッチするまでに何回手が叩けるか競う
・歌を歌いながらジャグリングする
・お手玉を床に撒いておき、親玉を上に投げて落ちてくるまでに何個拾えるか競う
おじいちゃん・おばあちゃん世代にどんな遊び方をしたか聞いて、いっしょに遊ぶのも楽しいですよね。手先を使うお手玉遊びは脳を刺激して、集中力が増す効果があるともいわれています。 
お手玉の形姿はわかるけれど、どうやって遊ぶのか知らないという方もいらっしゃるかもしれませんね。リズムよく空中へ上げる遊び方が最もポピュラーですが、他にも、複数で小さい子どもでも簡単に楽しめる遊び方もあります。ここでは「あんたがたどこさ」の歌にあわせた遊び方を紹介します。徐々に歌のスピードを上げていくと難易度があがって面白いですよ。
1.まず複数で輪になります。
2.ひとりひとつお手玉を手に取って、「あんたがたどこさ」をうたいながら、「さ」の部分で自分の持っていたお手玉を隣の人に渡します。
3.歌の最後「ちょいとかーぶーせー」で、お手玉を頭の上に乗せましょう。 

 

●お手玉(おてだま、御手玉) 1
小さな布袋に小豆や米、ジュズダマの実などを入れ、数個を1組にして縫い合わせた玩具のこと。また、それを使って遊ぶことを「お手玉をする」などという。 地方によって、じゅずだま、おじゃみ、オニンク(オニンコ)、いしなご(石子/石投/擲石)などと呼ぶところがある。
遊び方​
いろいろな遊び方があるが、歌にあわせ、手をつかって、一定のルールのタイミングで放り上げて楽しむようなものが一般的である。同時に複数の玉をほうり上げるなど難度をあげ、ジャグリングに似た要素があり、技巧の上達を楽しむことができる。
男の子がお手玉で遊ぶことはあまりなく、伝統的にも“女の子の遊び”である。
歴史​
欧州の遊牧民が袋に粒状の物を入れて遊んだのが始まりと言われている。また、お手玉らしき物を投げて遊ぶ女性が描かれた古代エジプトの洞窟壁画(約4000年前)が残っているが、そうではなく、パンもしくは奇術の類ではないかという指摘もある。
日本では、奈良時代に中国から伝わり、当時は手ごろな大きさの小石や水晶を利用したことから石名取玉と呼ばれていた。実際に聖徳太子が遊んだとされる水晶も発見されている。現代のお手玉は、江戸時代から明治初期にかけて多く作られた。歌川広重による江戸後期の浮世絵『風流おさな遊び』にも、女児が遊ぶ姿が描かれている。
第二次世界大戦中の学童疎開では、親元から離れる子にお手玉を持たせたり、離れた子にお手玉を送ったりした人があった。空腹に堪えられなくなったらほどいて中の豆を食べるようにと言い聞かせておいたのである。
元来、お手玉はありふれた遊びとして親しまれ、母から娘、孫へと、作り方や遊び方が伝承されたものだった。しかし、1950年代ころから核家族化が進行するとともに(祖母から孫への)伝承が難しくなり、また、多種多様な遊びがまわりに溢れるようになり、徐々に忘れ去られていった。
現在では小学校などを中心に日本の伝統的な遊びとして受け継がれている。
その他​
・「手玉に取る」とは、少女たちがお手玉を巧妙に投げたり打ったりして遊ぶように、人を上手に操り、また、他人をあたかも物や道具のように扱うという意味の慣用句に用いられる。「手玉」には、装身具の「腕輪」の意味もあるが、ここではおもちゃのお手玉のことである。
・野球やクリケットの守備で、ボールを掴み損ねて送球に手間取ることを俗にお手玉という。

 

●お手玉の歴史 2
お手玉の遊び方は、『振り技』(ゆり玉)といって、何個かのお手玉を手でゆりあげて(上にあげて)遊ぶ方法と『拾い技』(よせ玉)といわれるもので、奇数のお手玉を床にまき、そのうちの(親玉)をゆりあげながら、残りのお手玉を寄せ集めたり、手でつくったトンネルをくぐらせたりする遊び方の大きく二つに分けることができます。
紀元前5世紀にリディア人によって発明され、ギリシャにもたらされた世界最古のお手玉遊び「アストラガリ」はこの「拾い技」だといわれており、羊の距骨(かかとの骨)を使って遊ばれていたようです。その痕跡はヨーロッパなどの多くの博物館で見られます。
羊の距骨を使ったお手玉遊びは、やがてシルクロードを通り、インドや中国にも伝えられましたが、アジアでは羊の距骨のかわりに身近にある小石を使うようになり、「石なご」という遊びになりました。この「石なご」も「拾い技」で、同じような遊びは、東はポリネシア、ミクロネシア、日本にはじまり、韓国、中国、中央アジアを経て、西はヨーロッパ、イギリス、アメリカ、ブラジル、チリへ。南はアフリカ、オーストラリア、北はアラスカ、シベリアへとひろがり、お手玉遊びは道具は異なるものの世界各国で遊ばれるようになっていったのです。
お手玉遊びの歴史
お手玉遊びの歴史には、いくつかの説があります。
紀元前5世紀説
元京都大学教授の藤本浩之輔氏は、お手玉遊びの起源を、次のようにいっています。
「お手玉の遊び方には、『振り技』(投げ玉)と『拾い技』(寄せ玉)の2つの方法がある。『振り技』は、何個かのお手玉を上に投げあげて遊ぶ方法。『拾い技』は、何個かのお手玉を床または地面にばらまいておき、手元にある1個のお手玉(親玉)を上に投げあげている間に、ばらまいたお手玉を1個、2個と取っていったり、手で作った橋の下をくぐらせたりして遊ぶ方法。
紀元前5世紀に、古代アナトリア半島(現在のトルコ)のリディア地方を中心に栄えた国の人たち(リディア人)によって発明され、ギリシャにもたらされた世界最古の遊び『アストラガリ』は、この『拾い技』だったとされている。
そこで使われていたお手玉は、羊の距骨(かかとの骨)だったと伝えられていて、その痕跡は、ヨーロッパなどの多くの博物館で見られる。
羊の距骨を使ったお手玉遊びは、やがて、シルクロードを通り、インドや中国に伝えられた。その過程で羊のいない地方では、身近にある小石を使うようになったと想像できる。
日本で石が使われたことは、お手玉遊びを「石なご」「石なんご」「石なぐ」と呼んでいることからも、うかがい知ることができる。
この遊び方も『拾い技』で、同じような遊びは、東はポリネシア、ミクロネシア、日本、韓国、中国、中央アジアへ。西はヨーロッパ、イギリス、アメリカ、ブラジル、チリへ。南はアフリカ、オーストラリア、北はアラスカ、シベリアへと広がっていった。
お手玉遊びの道具は、各国によって異なるものの、同じ遊び方として世界各国に広がっていった。
*『振り技』『拾い技』という、お手玉遊びの呼び方は、元京都大学教授の藤本浩之輔氏が名付けられたものです。
4千年の歴史説
アメリカのマサチューセッツ工科大学の数学の教授らによる調査では、「お手玉遊びの世界で最も古い記録は4千年前である」と、次のようにいっている。
「お手玉は古くから親しまれている。最古の記述は、およそ紀元前1994年から1781年まで続いた、古代エジプト中王国の時代のハッサン王子の墓に記されている。」
*『およそ紀元前1994年から1781年まで続いた古代エジプト中王国の時代のハッサン王子の墓に、お手玉をして遊んでいる女性が描かれている』と、「日経サイエンス」(1996.1)の「お手玉の科学」で紹介しています。
3千年前の羊の骨
お手玉遊びの道具として使われた道具で、世界で最も古いものは、黒海(こっかい)周辺の遊牧民の遺跡から見つかっている。
それは、羊の後ろ足のかかとの骨(距骨)で、大きさは、1個が親指大のもの。
この羊の骨を使ったお手玉遊びは、現在でも、中国を始め、モンゴル、オーストラリア、ヨーロッパなど10か国を超える国々で行われている。
聖徳太子のお手玉
日本では、聖徳太子が使っていたといわれるお手玉がある。それは水晶でできていて、「石名取り玉」(いしなとりだま)と呼ばれている。
その聖徳太子が使っていた「石名取り玉」は、現在、東京上野の国立法隆寺博物館に保管されている。
お手玉の方言「オナンゴ」は何個から
栃木県には、お手玉の方言に、オヒトツ・ナンゴ・オシナコ・オジャッキ・オンジョコ・オシンジョ・オヒトギなど約14種類あります。これらの中で、特に多くの地域で使用され、よく知られているものに、県の北部や東部のオヒトツ、南部のナンゴがあります。佐野とその周辺の地域ではほとんどナンゴが使われていますが、佐野にはこれ以外に、ていねいの意を表す接頭語「オ」の付いたオナンゴもあります。
オナンゴとは、小豆などを入れて作った丸い布袋をいい、その大きさは鶏卵を一回り大きくした程度のものです。かつて食糧難であったときには小豆の代わりに小石を入れたこともありました。
オナンゴを幾つか持ってつぎつぎに投げ上げ、落ちてくるオナンゴを受け取ったり、あるいはオナンゴの一個を空中に投げ上げ、それが落ちて来ないうちに、下にあるオナンゴをつかみ取って、落ちて来たものと合わせてつかむ女の子の遊びです。つかみ取りに失敗しないで、何個つかむことができるかを競い合って楽しみます。
この「何個」がお手玉を表すようになり、ナンゴという方言が生まれました。佐野ではこの遊びを、「ナンゴ遊び」とか、「オナンゴ遊び」などといっています。ちなみに北部の「オヒトツ」も、オヒトツ、オヒトツオフタツ、オフタツ…といいながら、投げ上げたお手玉を受け取る時の数えことばが方言となったものです。  
 

 

 
 
 
 
 

 

●手まり
はじめは、お手玉のように上に投げて取る「あげまり」という遊び方が主流でしたが、よく弾む”まり”ができると地面について遊ぶ「つきまり」が盛んになりました。
由来
平安時代の”蹴鞠(けまり)”が、次第にお手玉のような手で遊ぶおもちゃへと発展していきました。江戸時代には織り糸の端を利用して作られていたので、染め色が美しいことから女の子に送る風習ができ、女の子の遊びになっていったそうです。
「あんたがたどこさ」の歌にあわせて、まりつきをして遊んだ経験がある方は多いのではないでしょうか。「あんたがたどこさ」のリズムにあわせながらボールをつき、「さ」のところでボールを足にくぐらせる遊びです。手まりの起源は平安時代の蹴鞠(けまり)にあるといわれていますが、やがてお手玉のように女の子が手で遊ぶようになりました。各地で綿が栽培され木綿の着物が普及した江戸時代中期に、織り糸の端を利用した手まり作りがはやったといわれています。木綿糸のまりは染め色も美しいので、新年になると、ママやおばあさんから新しいまりを女の子に贈る風習ができたようです。 
手まり(てまり、手毬、手鞠)
日本に古くからある遊具・玩具(おもちゃ)の一つである。「新年」の季語。当初は、芯に糸を巻いただけの物であったが、16世紀末頃より、芯にぜんまい綿などを巻き弾性の高い球体を作り、それを美しい糸で幾何学模様に巻いて作られるようになった。ソフトボールよりやや大きく、ハンドボールよりやや小振りのものが多い。
婦人や女児が屋内外で、下について遊んだ。室内ではひざまずいてつくこともある。江戸時代中期以後とりわけ流行し、特に正月の日の遊びとして好まれた。
明治時代中期頃からゴムが安価になり、よく弾むゴムまりがおもちゃとして普及して、手でつく(地面にバウンドさせる)か、あるいは、空中に打ち上げて遊ぶ。女児のおもちゃで、江戸から明治期には正月の遊びとされたが、現在では通年の遊びとなっている。
蹴鞠と手まり​
日本には、「まり」と呼ばれるものが2つある。ひとつは蹴鞠で、これは2枚の鹿の皮を縫い合わせて作り、主に男子の貴族が楽しむスポーツまたは神事として行われた。もう一つが手まりで、女児の遊びであるが、江戸時代には男児も一緒に楽しむことがあった。歌人としても知られる越後の禅僧・良寛は子供たちとよく手まりで遊んだ。  

 

●手まりの歴史、遊び方、使用方法
手まりの歴史
まず歴史は平安時代の蹴鞠(けまり)までさかのぼります。蹴鞠のルールは円陣を組み、掛け声をかけながらボールを蹴り上げ向かい側の人にパスするものです。イメージは足で行うビーチバレーのような物です。
落とした人が負けでボールの素材は鹿皮で作られ、中空になっているそうです。現代でも京都のほうでは保存会の方がいて当時の衣装を着て行っているようです。
現在の手まりの元が出来たのが江戸時代です。マリの芯は、もみがら、古着、布団綿ヘチマ、海綿と地域により様々です。
御殿女中の間で広まり、お正月に帰省した際庶民に広まったと言われています。
当時は草木染の糸しか無かったので庶民が使える色糸は数少なく非常に地味なものだと推測します。庶民が盛んに作ったのは明治時代と言われます。
化学染料の普及で現在のような色糸が自由に使用できるようになり専用の手まり糸も作られたと言われます。
糸の素材は木綿が中心ですが織物の残り糸などで作る場合が多かったので絹で作られた模様もあったと聞きます。
明治中期、ゴムマリの普及により手まり歌が作られ、ツキマリ(バスケットのドリブルのような動作)としての遊び方が増え昭和30年頃急速に衰退しました。
江戸時代のマリ
江戸時代の版画などを見るとまりつきをする女性の姿が描かれています。しかし、足袋(たび)を履いている姿から室内で膝の高さぐらいで、ついている様子が描かれています。
また良寛さん(江戸時代のお坊さん)はマリつきが好きでいつもマリを持ち歩いていたと聞きますが現在、そのマリが保存されています。
画像から推測するに皮でできたマリと思われます。鳥の絵が描いてあります。
マリの字を漢字で見ると『 毬 』と『 鞠 』があります。おそらく『糸毬』と『つき鞠』の違いと推測します。
手まりの芯にスポンジのような素材を使用すると多少弾むマリを作ることが出来ます。しかし、模様を作る手順等を考えるとバウンドさせる遊び方はマリを傷めますので良くないのです。
これらを考えると、江戸時代の版画のマリも皮のマリだと推測できます。
昭和の手まり1
母は昭和10年生まれですが母も小学校入学のころお婆ちゃんから、手まりを貰ったと言います。他界する直前に聞いたのであまり多くの事を聞くことは出来ませんでした。
ただ一時期、ある年齢層で手まり、大正琴などが爆発的に流行った時期があります。
母の子供時代、それらを持っている出来る女の子は限られていたそうです。その為、お金持ちの家の子供しか持つことが許されなかった物だと聞きました。
昭和のある時期は、持っている、行う事がステータスという時期がありました。手まりが一部の年齢層で爆発的に流行ったのは郷愁のひとつとして、とも感じられます。
手まりの使用方法
手まりの使用方法ですが私が知っているのは飾り物、みやげ物としての手まりでした。多くは房飾りが付き、下げ物としての手まりです。
私は祖母から小学校入学の頃にいくつかの手まりを貰いましたがそれらには房飾りはついていませんでした。
手まりの本来の遊び方を知ったのはつい最近の事です。
全盲の知り合いが、私の手まりの初めての購入者でした。彼女が手まりの遊び方を教えてくれました。
手の中で転がして模様の手触りを楽しむ。室内で座って空中に投げ、模様の変化を楽しむ。その他には模様を作って競う物と教えてもらいました。
よく幼女の人形が両手で大事そうに手まりを持っている姿があります。玩具などが非常に少なかった時代色鮮やかな手まりは、少女の宝物だったのでは?そのように推測します。
昭和の手まり2
昭和30年頃、急速に衰退した手まりですが故尾崎千代子先生が全国各地をまわり多くの手まりの模様を集めそれを本に残してくださいました。
昭和40年頃から多くの手まりの本が出版されました。この事で、一時衰退した手まりが各地で復活します。
でも、色使い等、地域色が薄れるそのような批判も一部でありました。
私としては尾崎先生が記録を残してくれたから貴重な民族的遺産が、現在も残っていると感謝しています。
ただある世代の間で爆発的に流行した手まりですが1つだけ残念な事があります。
この頃の作り手の関心は、超絶技巧と呼びたくなる非常に技巧的な模様つくりに関心が移っていきました。これがあったから、ブームが再燃し手まりの世界が広がったことは否定しません。
しかし、昔からの土台つくりの技術が消えていきました。土台にスチロールボールを使用するようになったのです。
また東北地方で作られていた見事な刺繍入り手まりも後継者がいなくなったため衰退していきました。
土台作りの技術が守られているのは非常にわずかになってしまった事が私は残念に思っています。
そして本来の手まりの手触り手の中で転がして楽しむ事を忘れ模様つくりのみに関心が移っていきました。
使用される糸も、安価なリリアンまたは市販の化繊の専用糸になってしまった事です。市販の化繊糸も使ったことがありますが木綿や絹の手触りとは明らかに違います。
土台にそれなりの材料を使えば質量が写真にも出ます。素材により、暖かさが出ます。
化繊糸は触ると冷たいのです。スチロールボールは質量が無いので写真に写しても存在が軽いのです。その為、私は素材にこだわった作品つくりをしています。
平成の手まり
インターネットの普及により全国で昔ながらの手まりつくりを守っているグループや作り手がいる事を知りました。またNHKなどで取り上げられた事も大きいです。
大道芸をする方からお話を聞いたことがあります。その方がおっしゃるには、神社に奉納する物に手まりを使用する物があり各々の技量に合わせた手まりを自作するそうです。
現代の手まりの需要は飾り物が一番で遊びとしては廃れてしまいました。
現代では携帯等の普及により小さく作ってストラップにしたりバックに下げたりアクセサリー等に加工する方もいらっしゃいます。
このように、本来の形を変えながら手まり作りを楽しむ方が増えるのはとても良いことと思います。
私は昔ながらのサイズで作ることが多いのですがこれは、私のライフワークが模様の保存を主軸においているからです。
所定の難易度の模様までは簡単に小さくすることが可能です。しかし、それ以上の難易度の作品を小さくするのはほぼ無理になります。
そして、小さい作品ほど作り手の力量が問われます。
手まりの工程には
1、土台作り
2、地割(じわり、手まりの表面を分割する作業)
3、模様作り
この3つに分かれます。
土台がきちんと出来ていないときれいな地割が出来ませんしきれいな地割が出来ないと模様作りも上手に出来ません。
初心者が小さい手まりを作る場合(ストラップサイズ、直径3.8cm以下)模様によっては土台のゆがみが地割のゆがみになり模様のゆがみになってきます。
つまり、正確な技術があって初めて小さく作ることが可能になってきます。
また小さく作るにはどうしても模様、その他に限界が発生します。
その為、小さく作りたい方はしかるべきサイズをレッスンしてから小さい物にチャレンジすることをお勧めします。
一部のお流儀では手まりのサイズを円周で表記している場合もあります。円周表記の場合は1/3してください。円周率の3.14のためと思いますがこれで大雑把なサイズがわかります。 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●羽根つき
1人で何回羽をつけるか競う”つき羽”や、2人でつきあう”追い羽”という遊びがあります。負けたら顔に墨を塗られてしまいます。
由来
女の子の初正月に羽子板を贈る風習があったことから、手まり同様女の子の代表的な遊びでした。羽に硬貨をつけたものを蹴る遊びだった中国の羽根つきが、室町時代に日本へと伝わり、羽子板のことを”こきいた”、羽つきは”胡鬼子(こきのこ)勝負”と呼んばれ親しまれていました。羽には、子どもが病気にかからないための魔よけになると言い伝えられている”無患子(むくろじ)”という植物の実が使われていることから、1年の厄をはね、子どもの成長の無事を願うものとして親しまれてきたのです。顔に墨を塗るのは魔よけのおまじないの意味があります。
羽根つきは、平安時代の初めに行われていた「毯杖(ぎっちょう)」という遊びが起源と言われています。毯杖(ぎっちょう)とは、へらのようなつえで毬(まり)を打ち合う遊びです。これが時代とともに変化し、現在の羽根つきに結びついたとされています。また羽根つきは、羽根を打ち合うことから厄払いの意味を持っており、主に新春の厄除けの遊びとして女の子に親しまれていたそうです。現在、羽根つきに使われている羽根は「無患子(むくろじ)」と呼ばれる植物の実で、「子どもが患わ無い」という意味になることから、縁起がよいものと考えられていたのですね。
遊び方
羽根つき遊びには主に2種類の遊び方があります。
<追い羽根(おいばね)>
追羽根は、2人が向き合い羽子板で羽根を打ち合う遊び方です。打ち損なった場合は、相手の顔に墨を塗るというルールがあります。
<揚げ羽根(あげはね)>
揚羽根は、1人で羽子板を使って羽根を打ち、その回数を競う遊び方です。
1歳児前半の子どもの場合、羽子板を持って羽根を打ち合うのは難易度が高いため、揚げ羽根のように風船をうちわで上げてみるとよいでしょう。1歳児後半から2歳児であれば、友だちと向かい合って風船を打ったり、一人で羽根を打ったりできるかもしれませんね。羽根つきは一般的に戸外で楽しむ遊びですが、乳児クラスで行う場合は、風船や羽根が飛んでいかないようホールなど室内の広いスペースで楽しむとよいでしょう。子どもが羽根つきに夢中になって広く動き回る可能性もあるため、室内で遊ぶときは周囲に物がない環境を用意しておくことが大切です。 
お正月遊びの代表格である羽根つきの由来は、中国にあります。中国で羽根に硬貨をつけたものを蹴る遊びがあり、これが室町時代に伝来しました。当時の宮中の様子を記録した『看聞御日記』(1432年)では、羽根つきに負けたらお酒を振舞っていたと記録されています。やがて羽根つきで厄祓いできると信じられるようになり、江戸時代には、年末になると邪気を祓うための羽子板を贈るようになりました(浅草の羽子板市は有名ですね)。
また、羽根にも意味があります。羽根に使われるムクロジの実を「無患子」と書き、子どもが患わないという魔除けに通じるものとして、女の子の初正月に羽子板を贈る風習が生まれました。さらに、羽根の姿にも注目です。『世諺問答』(1544年)では、羽根のとぶ様子がトンボに似ていることから、子どもの病気の原因となる蚊に刺されないよう、蚊の天敵であるトンボに見たてて、正月に羽根つきをするようになったと書かれています。
こうして、羽根つきは一年の厄をはね、子どもの健やかな成長を願うものとして、親しまれてきたのです。打ち損じると顔に墨を塗るのも、魔除けのおまじないです。
押し絵などで装飾された観賞用の羽子板と、簡素な実技用の羽子板がありますので、実際に遊ぶ場合には実技用の羽子板で思う存分楽しんでください!
ちなみに遊び方ですが、ひとりで突く場合とふたりで突く場合では、呼び名が違います。
•突き羽根/あげ羽根:ひとりで何回突けるか競う遊び方
•追い羽根:ふたりで突いて勝負する遊び方 
家内安全・商売繁盛のお守りとしても使われる羽子板は縁起物としても有名。羽根つきに使う羽根の根元の黒い玉は「無患子(むくろじ)」と呼ばれ、これを使って遊ぶことで「子供が病気にかからないように」と願いを込めたといわれています。 羽根つきでミスをすると顔に墨で落書きされますが、これは罰ゲームではなく魔除けのおまじないという意味があるのだとか。羽根つきには、一人で何回羽根をつけるか競う「つき羽」、二人で羽根をつきあう「追い羽」という遊び方があります。お正月の恒例行事にして、毎年の記録を残しても楽しそう! 
羽子板と呼ばれる板で羽根を突き合う遊びです。新春の厄除けの遊びとして、古くから親しまれています。
由来
羽根つきのはじまりは、平安時代にさかのぼります。当時、「毯杖(ぎっちょう)」という遊びがありました。これは、毬(まり)をへらのようなつえで打ち合う遊びでした。時代が経つにつれ、毬が羽根に、つえが羽子板に変わっていったのだそうです。羽根つきには、元旦に羽根を突き合うことで厄払い・魔よけになるという考えがあります。そして、羽根つきの羽根「無患子(むくろじ)」にも、文字通り「子どもが病気を患うことなく、元気に育つように」という、無病息災の意味があるそうです。そのことから、江戸時代には年末に羽子板を贈る風習があったり、現在でも女の子の出産祝いに羽子板を贈ることがあります。
遊び方
羽子板には、「追羽根(おいばね)」と「揚羽根(あげはね)」の2つの遊び方があります。
「追羽根」の遊び方は、2人が羽根を打ち合うゲームです。打てなかった場合には、顔に墨を塗るペナルティを設けることもあります。
「揚羽根」の遊び方は、1人で何回羽根を突けるか競います。 
羽根つきの起源は、14世紀頃に中国で羽根に硬貨をつけたものを蹴る遊びがあり、それが室町時代に日本へ伝来したものとされています。羽根つきは羽子板で羽根を空中へはね上げて遊びます。羽根にはムクロジという植物の実が使われていて、ムクロジは「無患子」【子(どもが)患(わ)無(い)】と書きます。そのため羽根つきは1年の厄をはね、子供の成長の無事を願うものとして、親しまれてきたのです。打ち損なって羽根を落とすと、顔に墨を塗られるというルールも、魔除けのおまじないなのです。 
羽根つきは、厄を「羽根のける」という語呂から、主に女の子の健やかな成長を願うお正月遊びとして広まったといわれています。今ではあまり見なくなった羽根つきですが、シンプルなようで意外と難しいものです。親戚みんなが集まるお正月にやってみたら、わいわいと楽しいお正月になるのではないでしょうか。
羽根つきの遊び方は二種類あります。ひとつは揚羽根(あげばね)といってひとり用の遊び方、もうひとつは追羽根(おいばね)といってふたり用の遊び方です。
ひとり用の遊び方
ひとりひとつ羽子板と羽根を持ち、下に落とさずに何回羽根をつけるかを競う遊びです。
ふたり用の遊び方
羽子板を一枚ずつ持ち、ひとつの羽根をバトミントンのようにふたりで打ち合います。お正月の歌詞に出てくるのもこの追羽根ですね。細かいルールはなく、どちらかが打ち返せなくなるまで続けます。ミスをした方は顔に墨を塗られるという罰ゲームを受けます。今では罰ゲームとして行われている墨塗りですが、羽根つきが始まった当時は、魔よけの意味で行われていたようです。また、羽根には無患子(むくろじ)という植物の種が用いられ、「子が患わない」という名前から、無病息災と厄よけに転じたといわれています。
羽子唄
羽子唄(はねうた)とは羽根つきのときに歌う歌で、地域によっても違いますが、歌詞の一例は、下記のようなものです。
「一(ひと)ごに二(ふた)ご、三(み)わたし四(よ)めご、五(い)つ来ても六(む)かし、七(なな)んの八(や)くし、九(ここ)のまへで十(とを)よ」
「一ごに二ご、三わたし四めご、五つ来て見ても、七(なな)子(こ)の帯を、八(や)の字にしめて、九(ここ)のはで十(と)かした」
「一人(ひとり)来(き)な二人(ふたり)来な、三人(さんにん)来たら、四(よ)つて来な、五(い)つ来て見ても、七子(ななこ)の帯を、八(や)たらにしめて、九(ここ)のまへで十(とを)よ」
歌詞を覚えるのも楽しそうですね。お正月が終わっても口ずさむ子どもの姿が目に浮かびます。 

 

●羽根つき
羽根突き(はねつき)
日本の正月に行われてきた伝統的な遊戯のひとつであり、ムクロジの種子に羽を付けたものを羽子板で打つ遊戯。一年の厄をはね、子供の健康と成長を願うという意味がある。
羽根突きの遊び方には追羽根と揚羽根の2種類がある。
追羽根​
2人が向かい合って羽子板(はごいた)と呼ばれる木製の道具を持ち、羽根を打ち合う。打ちそこなった場合には顔に墨を付ける罰が与えられることもある。
揚羽根​
1人で羽子板を用いて羽根を打ち上げその回数を競い合うもの。
用具​
羽子板​
羽子板は胡鬼板(こぎいた)とも呼ばれる。コギノキという木は、その種子が羽根突きの羽に形が似ていることから、「突く羽・衝羽根(ツクバネ)」と名づけられた。
羽子板には装飾用に作られるものもあり、人物像や花鳥の図が布の押し絵で豪華に作りつけられる(詳細は羽子板の項を参照のこと)。
羽根​
木製の小球で、もともとはムクロジの種子に数枚の鳥の羽をさしこんだもの。羽子(はご)ともいう。
歴史​
毬杖が時代とともに変化し、杖が羽子板に変化し、毬が羽に変わったと言われる。一説には毬が羽に変化したのは、紐や羽のついた分銅を蹴る武術や舞や遊びが中国から伝わり、日本の毬杖と渾然一体となり現在の羽根突きになったとも言われる。
奈良時代に、男子の神事として蹴鞠(けまり)が存在したのに対し、女子には毬杖が行われていた。(毬杖とは、箆のような杖で毬を打ち合う遊びであり、神事であった。)
室町時代には、杖(「毬杖」というが、毬杖の神事と紛らわしいので「杖」とする)は羽子板に変化し、毬は無患子(むくろじ)の木の実に羽をつけた物に変化した。現在の羽根突きとほとんど変わらぬ様式となり、公家の間で「こぎの子勝負」といった羽根突き大会が行われ、男女対抗戦であり、負けた方が、酒を振舞ったとされる。この無患子は「子が患(わずら)わ無い」と表記するので女児への無病息災の願いが込められている。
戦国時代には祭礼の要素が強くなり、羽根突きよりも羽子板に祓いや縁起としての装飾が施され、縁起物の装飾品としての色合いを帯びていった。『世諺問答』には幼い子どもが蚊に刺されないようにというおまじないの意味があると記述されている。当時の疫病は蚊を媒介として広まることが多く蚊除けは大事な事であった。
江戸時代には、武家が女児の誕生を祝って羽子板を贈答するようになった。またこれが庶民にも伝わり、女児のいる家庭に縁起物の歳暮として年の暮れに贈られるようになった。このことが正月に羽根突きが行われることの由来となっている。
羽子歌​
羽子歌(はねうた)は、羽根突きにうたう歌である。歌詞の一例は、
「一(ひと)ごに二(ふた)ご、三(み)わたし四(よ)めご、五(い)つ来ても六(む)かし、七(なな)んの八(や)くし、九(ここ)のまへで十(とを)よ」。
また、「一ごに二ご、三わたし四めご、五つ来て見ても、七(なな)子(こ)の帯を、八(や)の字にしめて、九(ここ)のはで十(と)かした」。
また、「一人(ひとり)来(き)な二人(ふたり)来な、三人(さんにん)来たら、四(よ)つて来な、五(い)つ来て見ても、七子(ななこ)の帯を、八(や)たらにしめて、九(ここ)のまへで十(とを)よ」。  
 

 

 
 
 
 
 

 

●けんだま
糸でつながれた球をけん玉の先や横に乗せる遊びです。近年では海外でもブームになり、さまざまな技が生まれています。
由来
江戸時代では、鹿の角に穴を開けたものに球をつけ大人が遊んでいました。現在のような形になったのは大正時代で、昭和に入ってから子どもの定番玩具になりました。玉の赤色はご来光を思わせるめでたいものだとも言われています。
けん玉の起源は、フランスやギリシャ、中国などさまざまな説があるようです。日本には江戸時代に伝わったとされ、その頃は鹿の角に穴をあけ、球をつけたものであったと言われています。今のようなけん玉になったのは大正時代。球の部分を太陽、台の部分を三日月に見立てて日月ボールと呼ばれていたそうです。昭和のはじめになると多くの人がけん玉で遊ぶようになり、子どもたちに親しまれるおもちゃになったと言われています。
遊び方
けん玉には小皿・中皿・大皿とよばれる3つの皿があり、皿に球を乗せたりけんに球をさしたりして遊びます。幼児クラスになると、物のバランスを保ちながら遊べる子どもも出てくるため、はじめは大皿に球を乗せて遊んでみましょう。慣れてきたら、中皿、小皿と難易度を変えてチャレンジしてみるとよいかもしれません。さらに、すべてのお皿に球を乗せることができた子どもは、けんに球をさすことにチャレンジしてみるのもよいですね。けん玉で遊ぶときは、子ども同士がぶつからないように室内の広いスペースを確保し、間隔をあけて行いましょう。 
「けん玉」は昔ながらの遊びですが、日本生まれではなく、フランス説、ギリシャ説、中国説などがあります。日本にはシルクロードを通じて江戸時代に入ってきましたが、鹿の角に穴をあけた玉を結びつけたもので、失敗したらお酒を飲むという記述が『嬉遊笑覧』(江戸時代の百科辞典)にあり、大人の遊び道具だったようです。
今のような形になったのは大正時代で、玉を太陽(日)に、浅い皿を三日月に見たてて「日月ボール」といいました。これが昭和初期に大ブームとなり、けん玉として子供達の定番おもちゃとなりました。
けん玉は持ち方(どこを持つにしても親指と人差し指でしっかりと)、構え(重心を前に)、タイミングが重要。日本けん玉協会では、10級(大皿をに玉をのせる)〜1級(日本1週・世界1週・灯台をクリア)〜六段まで様々な技があります。 
けん玉が子供の遊びになったのは、じつは現代になってから。江戸時代には鹿の角に穴を開けたものに球をつけて、大人が遊んでいたようです。子供の定番のおもちゃになったのは昭和に入ってからで、赤い球がご来光を連想させて縁起が良いとされました。糸でつながれた球をけん玉の先や横のくぼみに乗せて遊びますが、近年は海外でもブームが起こりさまざまな技が開発されています。日本けん玉協会では実力ごとに検定級を用意し大会が開かれたりと、現代では競技として楽しむ人も。学童保育や保育園で技を磨く子もたくさんいます。 
けん玉は紐がついた玉を、3つの皿やけん先にのせる遊びです。海外でも人気があり、けん玉の世界大会も開かれています。
由来
けん玉の起源は明確にはなっていませんが、フランスやギリシャ、中国で生まれたのではないか、という説があります。江戸時代に日本に入ってきたようですが、そのときは今の形とは違い、鹿の角に穴をあけた玉を結びつけたものだったそうです。大正時代にようやく、今の形になります。当時は玉を日(太陽)に、皿を月に見立てて、「日月ボール」と呼ばれていました。
遊び方
けん玉は、玉を皿やけん先にのせる遊びです。さまざまな技があり、小皿→大皿→けん先にのせる技を「日本一周」、小皿→大皿→中皿→けん先にのせる技を「世界一周」といいます。一人で遊ぶことはもちろん、玉をのせるそれぞれの位置に点数を割り振って、点数を競う遊び方もできます。 
十字型の剣に穴の開いた玉を指して遊ぶ、けん玉。バランス感覚を必要とし、練習すれば上手になる遊びなので、子どもの成長とともに技が増えていくのではないでしょうか。さまざまな技があるので、家族で難しい技に挑戦していくのも楽しそうですね。 

 

●けん玉(けんだま)
十字状の「けん(剣)」と穴の空いた「玉」で構成される玩具。日本をはじめ、世界各国で遊ばれている。なお表記には剣玉、拳玉、剣球、拳球などがあるが、21世紀初頭では「けん玉」が一般的。
歴史​
木製の棒や玉、リングなど、2つのものを糸または紐で結び、一方を引き上げまたは振り、もう一方に乗せる・穴を突起物にはめるような玩具は昔から世界中に存在する。例えば日本のアイヌ民族のウコ・カリ・カチュ、アメリカの五大湖周辺のインディアンに伝わっているジャグジェラ、エスキモーに伝わるアジャクゥァクなどである。その中でフランスのビルボケ(仏: bilboquet)は16世紀頃から子どものみならず貴族や上流階級の人々にも広く浸透し、国王アンリ3世も愛好したという記録も残っている。このようなことから、ビルボケがけん玉のルーツというのが一般的な説であるが、フランスのビルボケが日本に伝わった証拠となる文献は確認されていない。ビルボケやメキシコのバレロ(西: balero)などは現在も現地にて販売されている。イギリスでは、カップ&ボール(英: cup-and-ball)と呼ばれるけん玉に似ている物がある。
日本の文献で確認できるのは江戸時代からであり、1830年に喜多村信節が著した『喜遊笑覧(きゆうしょうらん)』に「安永六七年の頃拳玉と云もの出來たり」とあるのが知られており、当初は酒席の遊びであったと考えられる。ただしこの資料にはけん玉の図はなく文章で紹介されているだけだった。しかし、それよりも前の資料である1809年の『拳会角力図会』に「すくいたまけん」としてけん玉が図つきで紹介されていることが1981年に判明した。
明治時代になり、文部省発行の児童教育解説『童女筌』(どうじょせん、1876年)にて「盃及び玉」として紹介されてから子どもの遊びへと変化していった。やがて大正時代に入り、広島県呉市にて、従来のけん先と皿1つで構成されたけんに、鼓状の皿胴を組み合わせた「日月ボール」(または「明治ボール」)が考案され、現在のけん玉の形がほぼ完成した。日月ボールは1919年5月14日に実用新案として登録された。その後、木工の町として栄えていた同県廿日市市にて1921年頃より製造が開催された。
日本でのけん玉の大流行は1907年、1924年、1933年とされている。また、1977年は「けん玉ルネッサンス」といわれる爆発的な大流行となった。この流行には、皿胴に糸を出す穴を開けるなど合理的な設計がされた競技用けん玉が普及したことが影響している。
1968年にクラシックギタリストの新間英雄(深谷伊三郎の息子で立川志らくの父)が東京けん玉クラブを設立。
1975年には童話作家の藤原一生氏により日本けん玉協会が設立された。上述の新間英雄氏らが開発したS型けん玉をベースにした競技用けん玉を認定けん玉とし、その普及のほか、けん玉道級段位認定制度、全国競技会の運営等に取り組む。全国レベルでのルール統一がけん玉競技の公平性を担保し、普及・発展に寄与した。一方で、けん玉道として規定された型や持ち方、動作の細部に至るまでの徹底したルール化が原因でけん玉の遊び方が画一化し、各地の伝統的な遊び方が失われたり、創意工夫の土壌が失われてしまったのではないかという指摘もある。
21世紀初頭では、前述の「競技用けん玉」が一般的となったが、民芸品や単純な玩具としてのけん玉も各地に存在する。また、1945年まで日本が統治していた台湾でも、日月球(リーユエチュウ)や劍球(ジエンチュウ)と称してけん玉が遊ばれている。
2000年代後半、米国の若者が日本から持ち帰ったけん玉をヒップホップ系の音楽に合わせて様々な技を披露する様子を動画サイトに投稿、これがきっかけでけん玉はKENDAMAとして世界中で認知されるようになり、新たなスポーツやパフォーマンスとして認知されるようになり、海外で急速に広がりを見せるようになった。
日本けん玉協会​
公益社団法人である日本けん玉協会が、けん玉道と規定した級位段位認定制度、各種大会の主催、その他各種行事の開催などを行っている。尚、協会が行っていた認定けん玉販売部門は、現在一般社団法人国際けん玉サポートセンターに移転している。 同協会主催のけん玉道日本一を決める大会は以下の通り。
日本けん玉協会ジュニア杯争奪戦 / 日本けん玉協会杯(JKA杯)争奪戦(通称JKAカップ) / 全日本けん玉道選手権大会 / 全日本少年少女けん玉道選手権大会(文部科学大臣杯) / 全日本クラス別けん玉道選手権大会 / 全日本けん玉道パフォーマンス大会 / 全日本けん玉道もしかめ選手権大会 / 全日本マスターズけん玉道選手権大会(2008年より)
グローバルけん玉ネットワーク(GLOKEN)
一般社団法人グローバルけん玉ネットワーク(通称GLOKEN/グロケン)が2012年に設立され、2014年からはけん玉発祥の地とされる広島県廿日市市にてけん玉ワールドカップを毎年開催。その他、日本けん玉協会が定める「けん玉道」の規定にとらわれない競技大会や、イベント、けん玉検定の運営や指導者研修などを通じて、けん玉の普及活動に努めている。法人設立時から現在までの代表理事は窪田保。
主な活動・取組みは / けん玉ワールドカップ の開催 / けん玉検定 の運営 / けん玉先生資格制度 の運営 / けん玉あそび研究所+ の運営 / けん玉の日 の制定 / NHK紅白歌合戦でのギネス世界記録™チャレンジプロデュース / 競技用けん玉開発 の監修 / 国内外でのけん玉普及活動、競技大会運営協力等
けん玉各部の名称
「けんの根元」は便宜上の名称。なお、小皿とは両サイドの2つの皿のうち「小さい方の皿」、中皿とは3つの皿のうち「真ん中の位置にある皿」という意味であり、大きさは一般的に大皿>小皿>中皿となっている。中皿という名は、かつては「えんとつ」といわれていたものが1977年に愛好家によって中皿と決定されたという説と、大皿と小皿ができたときに中皿と名がついたという説がある。
けん玉の技​
個々の技については「けん玉の技の一覧」を参照
グリップ​
技を始める前のけん玉の持ち方。以下は主要なもの。
皿グリップ(大皿グリップ) / 親指と人差し指でけんの根元をつまみ、残りの指を小皿に添え、けん先を下に向ける。残りの指を大皿に添えると小皿グリップとなる。
けんグリップ / けん先を上、大皿を手前に向けて皿胴の下のけんを持つ。薬指、小指は添えない場合も多い。
玉グリップ / 玉を持つグリップ。穴を真上にする場合が多い。
ろうそくグリップ / 中皿を上にしてけん先を持つ。
つるしグリップ / 糸の中程を指で支えてけん玉をぶら下げる。技によって玉をけんにさすかささないか、人差し指に引っ掛けるか親指と人差し指でつまむかは異なる。いずれの場合も糸を余らせて持ってはならない。
極意グリップ / けんを横にし、親指で小皿を、残りの指で大皿を持つ。
おしゃもじグリップ / すべり止めから中皿のふちあたりを軽く握る。
構え​
以下は主要なもの。
まっすぐ / 玉やけんなどを真下に垂らした状態、または玉をけん(けんを玉)に乗せて正面で構えた状態。
ななめ / 玉やけんなどを反対の手で持って体側に引き寄せ、地面に対し角度がついた状態。
技の分類​
けん玉の技は300種類とも5万種類ともいわれているが、以下のような理由で正確な数を把握するのは不可能に近い。
・同じような技でもグリップや動作の違いで別の技と呼びうるため。例えば玉を大皿に乗せる技でも、けんグリップやつるしグリップなどから始める、玉を振る方向を前・横・けんと体の間などに変える、などすれば厳密には違う技となる。
・それぞれの技は以下のように柔軟にアレンジを加えうるため。
 ・動作の一部を他の動作に置き換える(例:「村一周」で玉を引き上げるべきところ手で玉を大皿に乗せる)。
 ・動作を省く、または新たな動作を加える(例:「うぐいす〜けん」)。
 ・複数の技を連続して行う(例:「つるし一回転飛行機〜はねけん」)。「持ちかえわざ」というつなぎのための技すら存在する。
・新しい技が今なお創作され続けているため。新しいグリップ・構え・動作、手以外の体の部分の使用、頭上・背後・股下などの空間の利用、あるいは複数のけんや玉の使用など、今後も新しいアイディアが生まれる可能性を秘めている。
以下の技の分類は日本けん玉協会が2000年に定めた「けん玉の技百選」による。
皿系 / 玉を皿に乗せる技。
もしかめ系 / 所定の動作(主に皿に乗せる)を繰り返し、持続時間を競う技。
とめけん系 / 玉を垂直に引き上げ、けん先で受ける技。
飛行機系 / けんを玉の穴で受ける技。
ふりけん系 / 玉を回転させ、けん先で受ける技。
一周系 / 玉をけんの大皿・小皿・中皿・けん先側の皿胴などの場所に乗せる、またはけん先で受ける動作を連続して行う技。
灯台系 / けんを中皿を下にして玉の上に一定時間立てる技。またはある技が決まった状態からけん玉を放り投げて玉を取り、けんを玉の穴で受ける技。
すべり系 / けんに乗せた玉をけんから離さずに別の場所に移動させる技。
まわし系 / 玉を空中で回転させけん先で受ける、またはけんを空中で回転させ玉の穴で受ける技。
うぐいす系 / 玉を、穴がけん先側またはけんじり側の大皿(小皿)のふちに接した状態でけんに一定時間乗せる技。
極意系 / 玉を、けんの上の不安定な場所に一定時間乗せる技。名前の由来は日月ボールの頃に最も難しい技とされていたことから。
静止系 / けんを、不安定な形で玉の上に一定時間乗せる技。
空中系 / けん玉を糸が張った状態で投げ上げて回転させ、玉を取ってけんを穴で受ける、またはけんを取って玉をけん先で受ける技。
あやとり系 / けんを糸で作った輪に引っ掛ける技。
特殊系 / 上記の分類に含まれない技。 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●めんこ
床に置いためんこをめがけ自分のめんこを投げつけます。その時の衝撃を利用して相手のめんこを動かし、多くのめんこを獲得した方が勝ちとなります。
・起こし:相手のめんこを裏返したらもらえる
・はたき:円の外に出しためんこをもらえる
・落とし:台や箱から落としためんこをもらえる
由来
江戸時代には粘土でできたものを使用しており、粘土で人の形をかたどったものを”泥面子”と呼んでいたことから”めんこ”と言われるようになりました。
めんこは江戸時代が起源とされており、もともとは粘土で作られていたようです。粘土で人の顔を型取ったものを泥面子と呼んでいたことから、現在の名前がついたとされています。当時は魔除けの役割があり、ビー玉やおはじきのようにめんこ同士をぶつけて使われていたようです。明治時代になり鉛製のめんこが登場すると人々に広く普及し、現在のような形で遊ばれるようになったと言われています。
遊び方
地面に置いためんこに自分のめんこをたたきつけ、風圧を利用して相手のめんこを動かすのが基本的な遊び方です。以下のようにいくつかのルールがあります。
•相手のめんこを裏返す「起こし」という技を使って、裏返ったら自分がもらえる
•自分以外のめんこを円の外に出す「はたき」という技を使って、外に出せたら自分がもらえる
•自分以外のめんこを箱や台から落とす「落とし」という技を使って、落とすことができたら自分がもらえる
子どもたちが3種類の遊び方に親しめるように、室内に「起こし」「はたき」「落とし」の3つブースを作ってみるとよいでしょう。3人程度のグループを作り、時間を決めて順番にブースを回るようにすれば、いろいろなめんこ遊びを体験できて楽しいかもしれませんね。 
今でこそ「めんこ」は厚紙でできていますが、江戸時代には粘土で人の顔(面)をかたどった「泥面子(どろめんこ)」 が作られ、ここからめんこという名になりました。泥面子は直径2cm、厚さ5mm程度の円形で、割れるまで打ちつけたり、おはじきのようにぶつけたりして遊ぶものでした。魔除けの意味もあったそうで、昔の遊びは興味深いですね。
やがて明治時代の鉛のめんこを経て、大正時代には紙のめんこが主流になります。丸い「丸めん」、長方形の「角めん」があり、相撲力士・野球選手・漫画のキャラクターなどが印刷されてブロマイド的な要素もあり、男の子に絶大な人気でした。
めんこの遊び方・ルール
床に置いためんこめがけて自分のめんこを打ちつけ、風圧や衝撃を利用して相手のめんこを動かすのが基本です。いろいろな遊び方がありますが、勝者が敗者のめんこをもらい、最終的に枚数の多い者が勝ちです。
•起こし: 各自同数のめんこを置き、自分以外のめんこを裏返しにしたらそれをもらう。
•はたき:地面に円を描き、その中に各自同数のめんこを置いて、自分以外のめんこを円の外に出したらそれをもらう。
•落とし:箱や台の上に、各自同数のめんこを出しあい、自分以外のめんこを落としたらそれをもらう。
※呼び名は地方によって異なり、ローカルルールもたくさんあります。
めんこは厚紙でできているので、強いめんこにするために自分でカスタマイズすることもあります。例えば、テープを貼って滑りをよくしたり、溶かしたロウを中に塗りこんで重くしたり、数枚貼り合わせて頑丈にするのです。 
めんこは、「ぱちん、ぱちん」と、地面に叩きつけて、相手のめんこを裏返す遊びです。
由来
現在のめんこは厚紙でできていますが、江戸時代のものは、粘土で人の顔の形に型抜かれたものでした。これは、遊びで使われていたのではなく、魔除けで使われていたのだそうです。時を経て、紙や板でできためんことなります。昭和時代には、相撲力士や野球選手、映画スターなど、当時のヒーローが印刷され、男の子に絶大な人気がありました。
遊び方
めんこの遊び方は、めんこを地面に叩きつけて、その風圧で相手のめんこを裏返すのが基本的な遊び方です。これを「起こし」といいます。裏返しためんこは自分の物となり、最終的に持っているめんこの数で勝敗を競うゲームです。「起こし」以外にも、地面に円を書いて、めんこを円の外に弾き出す遊び方もあります。 
めんこは今ではすっかり見ることがなくなりましたが、手作りでも用意ができて、今すぐにできる遊びです。めんこづくりの工夫次第で勝負が決まってきますので、はまるととても面白いでしょう。ルールはさまざまありますが、「おこし」「はたき」という遊び方がポピュラーです。めんこで遊ぶときには、市販されているめんこか、厚紙などを加工した自作のめんこを準備します。折り紙などで作る方法もありますが、同じ形に切り抜いた厚紙を張りあわせるだけで簡単にできますよ。
「おこし」のルール
1.順番を決め、始めに攻撃する人以外は、自分のめんこを地面に置きます。
2.攻撃する人は、自分のめんこを地面にたたきつけ、風圧で相手のめんこを裏返そうとします。
3.これを繰り返し、上手く裏返した人の勝ちです。
「はたき」のルール
「おこし」では、ひっくり返すのが慣れるまで難しく、ひっくり返らなくてつまらない..という子どももいるでしょう。そのような場合には「はたき」がおすすめです。流行した当時の工夫をおじいちゃんに聞いたりすると、得意になって教えてくれるかもしれませんね。
1.フィールドを描きます。土に描いても良いですし、厚紙の上にマジックで描いても良いですね。枠を用意できれば大丈夫です。
2.フィールドの中に、お互いのめんこを置きます。
3.順番に、他のめんこで、相手のめんこをフィールドから外へ出すと勝ちです。床にたたきつけて風で出したり、本体のめんこを当てて出したりさまざまです。 

 

●めんこ(面子)
日本の子供の遊びで使われる玩具の一つ。めんこの語源は「小さな面」、つまり面子の意味である。めんこは、日本の昭和30年代においては、めんち、ぱんす、ぱっちんとも呼ばれていた。
めんこには素材により、泥めんこ、鉛めんこ、紙めんこがある。
もっともよく知られた形態のめんこは紙製のいわゆる紙めんこであり、厚紙製の手の平大のカード型や円形で、片面に写真や図柄が施されている例が多い。また、その遊びそのものをも指す。カード自体がコレクションの対象にもなっている。駄菓子屋などで販売されているが、牛乳瓶のフタなどの適当な素材で代用することもある。昭和時代の日本では、子供の遊びとして広く流行した。
最も古い形態のめんこは泥めんこであるが、紙めんことは遊び方などの点で異なる系譜にある。なお、紙めんこに似た遊びに英語圏のMilk caps、韓国のダクチ(딱지)などがある。
歴史​
起源​
めんこの起源は平安時代の史料に現れる意銭(いせん)などの遊戯にあるとされている。
ただし、このように史料に現れるはるか昔から太古の昔の子どもたちは貝殻や木の実、石などを臨機応変に遊具として用いていたと考えられている。
江戸期の泥めんこ​
江戸時代には貝や木の実、絵銭・泥面などを用いた穴一遊びと呼ばれる遊戯があった。穴一遊びは地面に掘った小さな穴に貝などを投げ入れ穴に収めた者を勝ちとする遊戯である。天保年間には穴一遊びの遊具として泥面を用いることが広まっていた。泥面を用いた穴一遊びは明治中期に至るまで子供たちの間で根強く行われたが、明治時代には遊戯の名称が「めんこ」と呼ばれるようになった。
絵銭・面模・芥子面・泥面を用いた遊びは、後世になって泥めんこと総称されるようになった。
なお、泥めんこを用いた穴一遊びは石蹴り(地面に描いた図形に石を蹴り入れる遊戯)のルーツになったとも言われている。
泥めんこの流行時代は明治初期まで続いたが、鉛めんこの登場により衰退し、一部の地域における郷土玩具や寺社の土産物に残存するにとどまった。
明治期の鉛めんこ​
明治10年代になると鉛めんこが急速に普及した。
江戸期からあったガラガラ煎餅と呼ばれる菓子にはもともと土製の芥子面が入れられおはじき遊びのような遊び方が行われていた。このガラガラ煎餅に芥子面にかわって鉛製の玩具が入れられるようになり、やはり最初はおはじき遊びのような遊びが行われていた。しかしやがて鉛という材質に適した「起こし」と呼ばれる遊び方が一般的になった。
遊具の系譜では鉛めんこは従来の土製の芥子面や泥面を鉛を材料に置き換えたものであるが、土という材質の時には得られなかった鉛という材質に特有の遊び方を生じた。鉛めんこで生じた独特の遊び方に「トーケン遊び」や「起こし遊び」がある。鉛めんこを「起こし遊び」により何度も使用すると変形が起こり、図柄も歪む。不細工な顔を意味するおかちめんこはこの歪んだめんこの図柄に由来する言葉である。
しかし、鉛めんこは1900年(明治33年)の大阪での鉛中毒事件により一気に下火となり、従来の研究ではおよそ20年の歳月で姿を消したとされている。しかし、大正期に小学時代を送った大岡昇平の回想などに鉛めんこの記述がみられ実際に下火になった時期については異なる考察もみられる。
紙めんこの登場​
明治10年代になると従来の鉛めんこに代わって紙めんこが登場した。子どもたちは画用紙を幾重にも折って紙めんこを作っていたが、その商品化を考えていた大人たちに画期的だったのがボール紙の登場であった。材質の安価さはめんこの爆発的普及とめんこ産業への新規参入ブームを巻き起こした。また、明治20年代には印刷にも技術革新があり廉価な印刷法の普及は「めんこ絵」に多大な魅力を生み出すことになった。 昭和30年代後半になると、学校給食に脱脂粉乳に代わって瓶入りの牛乳が供されるようになった。めんこがホンコで奪い合いをすることから、ギャンブルのようで教育上好ましくないと規制された時には、市販のめんこの代わりに給食で毎日1枚ずつ手に入る牛乳瓶の蓋が代用された。
   紙めんこの図柄​
   表面
表面には、その時代の人気のあるものが図柄として用いられる。力士、野球選手などのスポーツ選手が描かれた時代もあり、一種のブロマイドのようなものであった。その後は怪獣、怪人、ロボット、ヒーローが多色で印刷されていることが多い。ただし、著作権等の許諾を得ていないためか、オリジナルを一部変えた偽物の商品も多かった。
2000年(平成12年)以降は『ポケットモンスター』(ポケモン)を題材にして、ボードゲームやトレーディングカードゲームの要素も取り入れた『ポケモンパッチン』シリーズが代表的な商品である。
   裏面
裏面は紙の素地か、単色で印刷されていることが多い。裏面には、じゃんけん、トランプのカード、武器などが描かれており、工夫によってその図柄を用いて遊ぶこともできるようになっている。
めんこの現在​
流行もののキャラクターなどを取り入れて21世紀に入っても細々と受け継がれている。
・改造メンコバトル BANG!(バング)(2001年7月発売、タカラ) - タカラはビーダマン、ベイブレードと合わせて本商品を「伝承玩具」と称している。後に『爆転シュートベイブレード』『星のカービィ』『サルゲッチュ』のキャラクターを採用した。
・めんこスタジアム(2001年11月22日発売、コナミ) - TBS系列の番組『筋肉番付』とのタイアップ商品。自社ゲームのキャラクターを多く起用している。
・バチ魂バット(2014年4月12日発売、バンダイ) - 『ディスク・ウォーズ:アベンジャーズ』のキャラクター商品。
・ギガントバトルコレクション(2015年1月15日発売、FOREST Hunting One) - 『超爆裂異次元メンコバトル ギガントシューター つかさ』のキャラクター商品。
遊び方とルール​
起こし​
もっとも典型的な遊び方である「起こし」のルールは以下の通りである。
1.地面にめんこを置く
2.別の者が別のめんこを叩き付ける
多くの場合、以上の競技手順は同じだが、あらかじめ地面に置かれた方の所有権の移転に関わる勝敗の決め方が、地方や集団によって異なる。所有権の移転がなされる場合の代表例を以下に列挙する。
・あらかじめ地面に置かれためんこが「裏返る」。
・あらかじめ地面に置かれためんこの「下を通過する」。
・あらかじめ地面に置かれためんこが、規定の範囲(枠で囲った範囲など)よりも「外に出る」。
地面に置くめんこの枚数は1枚の場合もあるが、複数の参加者が1人1枚、または、参加者1人2枚など、様々である。
また、めんこの大きさに大小があり、子供にとって欲しい図柄が異なるので、自分の欲に任せて明らかに不当なルールを適宜つける例が横行する。取り上げられためんこは返してもらえない(所有権が移転する)ので、真剣に遊ぶ要素がある。
雨に濡れると柔らかくなるので、蝋を塗りつけるという「強度保持」をする一方、裏返りにくくするためぐにゃぐにゃにするなど、めんこの性能を変化させたりする。
この他にも他のカードゲームと類似した遊び方である「積み」や「抜き」、「落とし」、また物理的な遊び方として「壁当て」「滑り」などがある。
メンコ射撃​
直径6pの丸メンコを長さ38pのゴム銃にのせて発射して5m先の直径18cmの的紙に当てる。
競技で、メンコ射撃は2009年樋口裕乗が商標登録し長岡駅前に国際メンコ射撃場を設立して普及している。
名称​
札幌市では「パッチ」 / 津軽弁では「びだ」 / 秋田弁では「パッチ」 / 仙台弁では「パッタ」(仙台)、「パッツ」(松島)、「パンチョ」 / いわき市では「ペッタ」 / 酒田市では「ペッチ」 / 名古屋弁では「ショーヤ」 / 三重県尾鷲市では「かっぱん」 / 大阪市とその周辺では「べったん」 / 鳥取市では「げんじい」 / 浜田市では「ぱっちん」 / 広島県三原市では「パッチン」(昭和30年代:現在の呼称は未確認) / 大分県では「パッチン」(大分県大分市で行われる祭りである府内戦紙(ふないぱっちん)は、山車がこのパッチンの図柄に似ているため名づけられた。) / 日田弁では「おちょこし」 / 薩隅方言では「カッタ」(「カルタ(Carta)」からか) / 沖縄弁では「パッチー」 
 
 
 
   
 

 

 
 
 
 
 

 

●百人一首(かるた)
読み札を読み、それに合ったものを並べてある かるた から選んで取る遊びです。多く取った方が勝ちです。
由来
室町時代にポルトガルから伝わった”うんすんかるた”が、日本の”貝合わせ(貝に絵などを書いたものを並べて、ペアになる貝を当てる遊び)”や”花合わせ”の遊びと結びついて”花がるた(花札)”になったと言われています。平安時代には、その頃流行した”歌合わせ”と結びついて”百人一首”などの”歌がるた”ができ、その後江戸時代に、子どもたちがひらがなやことわざを覚えられるようにと”いろはがるた”へと発展していきました。
かるたは、ポルトガル語でカードを意味する「カルタ」が語源と言われています。平安時代に親しまれていた、裏面に絵や歌をかいた貝を並べてペアを当てる「貝合せ」が現在のかるたの由来とされているようです。
遊び方
かるたは複数人で行うゲームなので、友だちといっしょに遊ぶようになる幼児クラスにぴったりのお正月遊びでしょう。3歳児や4歳児の場合文字を読むことが難しい子どももいるため、イラストが大きく目立つかるたを選ぶとよいかもしれません。4歳児後半から5歳児の場合は、文字を少しずつ読める子どもも出てくるかもしれないので、子ども同士で3人1組になって、1人は読み手、残り2人は対戦する形で遊んでみても楽しそうですね。なお、子どもたちで行う場合は、役割を交代しながら行うことやどちらが先か判断できない場合はじゃんけんで決めることなど、あらかじめルールを決めておくとよいでしょう。 
伝承遊びの「かるた」は、読み札と絵札を使ったカードゲームで、百人一首を用いた「百人一首かるた」 と、いろは歌を用いた「いろはかるた」があります。かるたの語源はポルトガル語ですが、平安時代の貝合わせに由来するといわれています。
「百人一首かるた」は平安時代につくられた様々な和歌集を、鎌倉時代に京都の小倉山に住んでいた藤原定家が集めた「小倉百人一首」でできており、宮中の遊びだったものが江戸時代の木版画技術によって庶民に広がり、お正月に楽しまれるようになりました。
「いろはかるた」は「犬も歩けば棒にあたる」などのことわざを用いたもので、子どもが遊びながら字やことわざを覚えられるようにと江戸時代後期に考案されました。面白いのが、いろはかるたの内容が江戸(江戸いろはかるた)と京都(京いろはかるた)、大阪、上方、尾張などで違うということ。例えば、江戸と京都を比較してみると……
江戸いろはかるた/京いろはかるた
•「い」 犬も歩けば棒に当たる / 一寸先は闇
•「ろ」 論より証拠 / 論語読みの論語知らず
•「は」 花より団子 / 針の穴から天のぞく
•「に」 憎まれっ子世にはばかる / 二階から目薬
•「ほ」 骨折り損のくたびれ儲け / 仏の顔も三度
•「へ」 屁をひって尻すぼめる / 下手の長談義
•「と」 年寄りの冷や水 / 豆腐に鎹
•「ち」 塵も積もれば山となる / 地獄の沙汰も金次第
坊主めくり
かるたは最低3人いないとできませんし(読み手+ふたりで対戦)、文字が読めないといけません。ふたりしかいない場合や、まだ文字が読めないお子さんの場合、百人一首の絵札の山をめくっていく坊主めくりはいかがでしょう。
坊主めくりの遊び方・ルール
百枚の絵札を裏返して山にする。参加者が1枚ずつめくっていき、絵札の柄によって札を動かしていく。山がなくなった時点で多く札を持っていた人の勝ち!
•男性が描かれた札をひいた場合:そのまま場に置いていく(手持ちにするというルールも見受けられます)
•女性が描かれた札をひいた場合:それまでに場に置かれた札を全部もらう
•天皇(院は男性と同じ扱い)が描かれた札をひいた場合:山から10枚もらう(10枚未満の場合は全部)
•坊主が描かれた札をひいた場合:手持ちの札を全て場に出す
※坊主めくりには、さまざまなローカルルールがありますので(例えば、蝉丸を引いたら全員が手持ち札を全て出すなど)、参加者同士で確認してからスタートしましょう。 
カルタの起源は、室町時代に来航したポルトガル船が伝えた「うんすんかるた」だといわれています。それが平安時代から貴族の間で遊ばれていた「貝合わせ」と結びつき、カルタになったようです。「いろはかるた」は江戸時代後期、ひらがなや生活に必要な知恵を子供が遊びながら覚えられるようにと一種の教材として考案されたといいます。現代でもカルタは「英語カルタ」や「国旗カルタ」、「地図記号カルタ」など遊びながら学べる商品がたくさんあります。子供が興味を持ちそうなカルタを選んで、いっしょに遊んでみてください。 
百人一首の原型は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が百人の歌人から特に優れた和歌を一人一首ずつ選びまとめた和歌集です。百人一首のような「歌カルタ」は元は貴族の遊びでしたが、江戸時代における版画の技術の進歩とともに庶民にも親しまれるようになりました。百人一首は文字が読めないと遊べませんが、文字のまだ読めない子供と遊ぶときは坊主めくりがおすすめです。
坊主めくりの遊び方
1.山札を作り、1枚ずつ引いていく
2.引いたカードによって、次のようにします
・男性を引いた場合 / そのカードは場に置く
・女性を引いた場合 / 場に溜まったカードを全てもらう
・坊主を引いた場合 / 手持ちのカードを全て場に出す
3.最後にカードを多く持っていた人が勝ち
百人一首の絵を使って遊べば、年齢が違ってもみんなで楽しめそうです。坊主めくりは地域によってルールが違うこともあるようですから、それぞれのやり方を聞いても新たな発見がありそう♪  
百人一首をはじめ、いろは48文字を頭字にしたことわざや語呂のいい短文を表した「いろはかるた」、地域の特徴を表したかるたなど、かるたの種類はさまざま。お気に入りのかるたで遊びましょう。
由来
そもそも「かるた」という言葉は、「カード」を意味するポルトガル語です。そのことからもわかるように、かるたは16世紀の半ば頃にポルトガルから伝来した文化のひとつだといわれています。しかし、平安時代には、「貝合わせ」という二枚貝の貝殻を合わせる遊びがあり、それが、ポルトガルから伝わったかるたと融合し、現在の遊びになったようです。
遊び方
一般的なかるたの遊び方は、札を読む「読み手」と、札を取る「取り手」に分かれて遊びます。読み手が読み札を読み、それを聞いて取り手が絵札を取ります。最終的に持ち札が多い人の勝ちです。 
かるたの起源は、室町時代に来航したポルトガル船が伝えた「うんすんかるた」(ポルトガル語で「カード」という意味の「カルタ」)だと言われ、それが平安時代に貴族の間で行われていた貝合わせという遊び(貝の裏に絵や歌を書いたものを並べて、ペアになる貝を当てる遊び)と結びついて、後にかるたになったといわれています。昔の人の知恵がこもった「いろはがるた」は、江戸時代後期に、子どもがひらがなやことわざや生活に必要な知恵を、遊びながら覚えられるようにと一種の教材として考え出されました。 
百人一首は、百人分の歌を集めた歌集のこと。原型は鎌倉時代の歌人である藤原定家が、百人の歌人から優れた和歌を百種選んだものでした。天智天皇をはじめ、鎌倉時代の順徳院まで、古今集や新古今集などの勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)から選ばれており、平安王朝時代を代表する和歌が集められています。もともと宮中の遊びだったものが、江戸時代の木版画技術によって「絵入りの歌がるた」として庶民に広がりました。正月は子供が遅くまで起きて遊ぶことをゆるされていたということや、江戸後期以降には、百人一首のためだけの会を行うことがしばしば見られたりしたこともあり、お正月に楽しまれるようになりました。 
かるたは、江戸時代後期に、子どもがひらがなやことわざや生活に必要な知恵を遊びながら覚えられるようにと、一種の教材として考え出されました。かるたには種類がさまざまありますが、「いろはがるた」は、「読み札」にはことわざが書かれ、「絵札」には読み札のイラストがセットになっています。楽しく遊びながら、自然とことわざも覚えられるのはうれしいですね。ことわざは、まだちょっと難しいかなという幼児向けには、「あいうえおかるた」や、「のりものかるた」などやさしいもので楽しむのも良いですね。 
百人一首は、百人の歌人の和歌のなかで最も代表的な和歌を1首ずつ選んだものです。子どもがかるたには物足りなくなってきたら、百人一首に挑戦してみるのはいかがでしょうか。上級者のイメージがある方もいるかもしれませんが、大丈夫です。最初から歌を覚えていないといけないというわけではありません。
散らし取り
百人一首の代表的な遊び方は、読み手が上の句の札を読み上げ、取り手は読み上げられた和歌の取り札(下の句)を取り競いあう「散らし取り」です。読み上げられた通りのものを探せば良いというルールです。上級者になれば、上の句を読み上げられただけで下の句が取れるようになり、上達する面白さがありますね。このお正月を機に、百人一首をお正月の恒例行事にしてみてはいかがですか。毎年、少しずつ成長があって楽しめるのではないでしょうか。
坊主めくり
散らし取りはまだ難しいな、という子どもには、「坊主めくり」がおすすめです。「坊主めくり」は絵札(読み札)だけで楽しめるので、百人一首の和歌をよく知らない人でもすぐに参加することができますよ。ルールは簡単、絵札だけを用意して、これを裏返し順にめくっていきます。
・めくった札が男性の絵札のときには、そのまま自分の手元にためていきます。
・女性が描かれている絵札が出たときには、もう一枚めくることができます。
・坊主が描かれた絵札をめくったときには、これまで自分が持っていた札をすべて捨てなればなりません。
・中央に積んであった札がなくなったときに、手元の札が一番多い人が勝ちとなります。
絵札だけで遊ぶ坊主めくりですが、和歌に親しむきっかけづくりにも良いかもしれませんね。 
「坊主めくり」は、百人一首の人物の絵札を使ったかるた遊び。百人一首の和歌を知らなくてもできるから、お子さんにもおすすめです。
由来
百人一首は、鎌倉時代に藤原定家が勅撰和歌集から和歌を選び、和歌の入門書として読み継がれてきたものです。それが江戸時代に入り、かるたとして作られたといわれています。この百人一首を使った「坊主めくり」は、いつごろ遊びとしてできたのか、また、考案者についても明らかになっていません。
遊び方
百人一首の絵札を見えないようにして山にし、参加者が1枚ずつめくっていきます。絵札の柄によって手持ちの札をあげたり、もらったりして、山がなくなったときに多く札を持っていた人の勝ちです。絵札の柄のルールは次のとおりです。
男性の札をひいた場合:そのまま場に置く
女性の札をひいた場合:場に置かれた札を全部もらえる
天皇の札をひいた場合:山から10枚もらえる
坊主が描かれた札をひいた場合:手持ちの札をすべて場に出す
「坊主めくり」には、蝉丸の札が出たら全員の持ち札が没収されるなどのローカルルールがたくさんあります。オリジナルのルールを作って遊ぶのもいいですね。  

 

●百人一首
100人の歌人の和歌を、一人につき一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ)とも言われる。
鎌倉時代初期に藤原定家が京都小倉山の山荘で揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが後世歌がるたとして広く用いられ、特に小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)として定着した。以下は主に、この小倉百人一首について説明する。
小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。
室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。
小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。
定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。
『百人一首』の歌と歌人たち​
百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。( )内は漢字の読みを示す。太字は決まり字(上の句は読み基準、下の句は表記基準で判断)を示す。
歌一覧
1. 天智天皇 秋(あき)の田(た)の かりほの庵(いほ)の とまをあらみ
        わが衣手(ころもで)は 露(つゆ)にぬれつつ
2. 持統天皇 春(はる)すぎて 夏(なつ)きにけらし 白妙(しろたへ)の
        衣(ころも)干(ほ)すてふ 天(あま)のかぐ山(やま)
3. 柿本人麻呂 足曳(あしびき)の 山鳥(やまどり)の尾(を)の しだり尾(を)の
        長々(ながなが)し夜(よ)を 獨(ひと)りかも寝(ね)む
4. 山邊赤人 田子(たご)の浦(うら)に うち出(い)でて見(み)れば 白妙(しろたへ)の
        富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ
5. 猿丸大夫 奥山(おくやま)に 紅葉(もみぢ)踏(ふ)み分(わ)け 鳴(な)く鹿(しか)の
        聲(こゑ)きく時(とき)ぞ 秋(あき)はかなしき
6. 中納言家持 鵲(かささぎ)の 渡(わた)せる橋(はし)に おく霜(しも)の
        白(しろ)きを見(み)れば 夜(よ)ぞ更(ふ)けにける
7. 阿倍仲麿 天(あま)の原(はら) ふりさけ見(み)れば 春日(かすが)なる
        三笠(みかさ)の山(やま)に 出(い)でし月(つき)かも
8. 喜撰法師 わが庵(いほ)は 都(みやこ)のたつみ しかぞ住(す)む
        世(よ)をうぢ山(やま)と 人(ひと)はいふなり
9. 小野小町 花(はな)の色(いろ)は 移(うつ)りにけりな いたづらに
        わが身(み)世(よ)にふる ながめせしまに
10. 蝉丸 是(こ)れやこの 行(ゆ)くもかへるも 別(わか)れては
        知(し)るもしらぬも 逢坂(あふさか)の關(せき)
11. 参議篁 わたのはら 八十島(やそしま)かけて こぎ出(い)でぬと
        人(ひと)には告(つ)げよ あまの釣船(つりぶね)
12. 僧正遍昭 天津風(あまつかぜ) 雲(くも)の通路(かよひぢ) ふきとぢよ
        をとめの姿(すがた) しばしとどめむ
13. 陽成院 筑波嶺(つくばね)の みねより落(お)つる みなの川(がは)
        戀(こひ)ぞつもりて 淵(ふち)となりぬる
14. 河原左大臣 陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)故(ゆゑ)に
        亂(みだ)れそめにし われならなくに
15. 光孝天皇 君(きみ)がため はるの野(の)に出(い)でて 若菜(わかな)つむ
        わが衣手(ころもで)に 雪(ゆき)はふりつつ
16. 中納言行平 立(たち)別(わか)れ いなばの山(やま)の 峯(みね)に生(お)ふる
        まつとしきかば 今(いま)かへりこむ
17. 在原業平朝臣 千早(ちはや)振(ぶ)る 神代(かみよ)もきかず 竜田川(たつたがは)
        から紅(くれなゐ)に 水(みづ)くくるとは
18. 藤原敏行朝臣 住(すみ)の江(え)の 岸(きし)に寄(よ)る波(なみ) よるさへや
        夢(ゆめ)の通(かよ)ひ路(ぢ) 人(ひと)めよくらむ
19. 伊勢 難波(なには)がた 短(みじか)き蘆(あし)の ふしの間(ま)も
        逢(あ)はで此世(このよ)を すぐしてよとや
20. 元良親王 佗(わび)ぬれば 今(いま)はたおなじ なにはなる
        みをつくしても あはむとぞ思(おも)ふ
21. 素性法師 今(いま)来(こ)むと いひしばかりに 長月(ながつき)の
        有明(ありあけ)の月(つき)を 待(まち)出(い)でつるかな
22. 文屋康秀 吹(ふ)くからに 秋(あき)の草木(くさき)の しをるれば
        むべ山風(やまかぜ)を 嵐(あらし)と云(い)ふらむ
23. 大江千里 月(つき)見(み)れば 千々(ちぢ)に物(もの)こそ 悲(かな)しけれ
        わが身(み)一(ひと)つの 秋(あき)にはあらねど
24. 菅家 此(こ)の度(たび)は ぬさも取(とり)あへず 手向山(たむけやま)
        紅葉(もみぢ)のにしき 神(かみ)のまにまに
25. 三條右大臣 名(な)にしおはば 逢坂山(あふさかやま)の さねかづら
        人(ひと)に知(し)られで くるよしもがな
26. 貞信公 小倉山(をぐらやま) 峯(みね)のもみぢ葉(ば) 心(こころ)あらば
        今(いま)一度(ひとたび)の みゆきまたなむ
27. 中納言兼輔 みかの原(はら) わきてながるる いづみ川(がは)
        いつみきとてか 戀(こひ)しかるらむ
28. 源宗于朝臣 山里(やまざと)は 冬(ふゆ)ぞ寂(さび)しさ まさりける
        人(ひと)めも草(くさ)も かれぬと思(おも)へば
29. 凡河内躬恒 心(こころ)あてに をらばやをらむ はつしもの
        置(お)きまどはせる 白菊(しらぎく)のはな
30. 壬生忠岑 有明(ありあけ)の つれなく見(み)えし 別(わか)れより
        暁(あかつき)ばかり うきものはなし
31. 坂上是則 朝(あさ)ぼらけ 有明(ありあけ)の月(つき)と 見(み)るまでに
        よしのの里(さと)に 降(ふ)れる白雪(しらゆき)
32. 春道列樹 山川(やまがは)に 風(かぜ)のかけたる 柵(しがらみ)は
        流(なが)れもあへぬ 紅葉(もみぢ)なりけり
33. 紀友則 久方(ひさかた)の 光(ひかり)のどけき 春(はる)の日(ひ)に
        しづ心(こころ)なく 花(はな)の散(ち)るらむ
34. 藤原興風 誰(たれ)をかも しる人(ひと)にせむ 高砂(たかさご)の
        松(まつ)も昔(むかし)の 友(とも)ならなくに
35. 紀貫之 人(ひと)はいさ 心(こころ)も知(し)らず ふるさとは
        花(はな)ぞ昔(むかし)の 香(か)に匂(にほ)ひける
36. 清原深養父 夏(なつ)の夜(よ)は まだ宵(よひ)ながら 明(あ)けぬるを
        雲(くも)のいづこに 月(つき)やどるらむ
37. 文屋朝康 白露(しらつゆ)に 風(かぜ)の吹(ふ)きしく 秋(あき)の野(の)は
        つらぬきとめぬ 玉(たま)ぞ散(ち)りける
38. 右近 忘(わす)らるる 身(み)をば思(おも)はず ちかひてし
        人(ひと)の命(いのち)の をしくもあるかな
39. 参議等 浅(あさ)ぢふの をのの篠原(しのはら) しのぶれど
        あまりてなどか 人(ひと)の戀(こひ)しき
40. 平兼盛 忍(しの)ぶれど 色(いろ)に出(い)でにけり わが戀(こひ)は
        物(もの)や思(おも)ふと 人(ひと)の問(と)ふまで
41. 壬生忠見 戀(こひ)すてふ わが名(な)はまだき たちにけり
        人(ひと)知(し)れずこそ 思(おも)ひそめしか
42. 清原元輔 契(ちぎ)りきな かたみに袖(そで)を しぼりつつ
        すゑの松山(まつやま) 波(なみ)こさじとは
43. 権中納言敦忠 逢(あひ)見(み)ての 後(のち)の心(こころ)に くらぶれば
        昔(むかし)は物(もの)を 思(おも)はざりけり
44. 中納言朝忠 逢(あ)ふことの 絶(た)えてしなくば なかなかに
        人(ひと)をも身(み)をも 恨(うら)みざらまし
45. 謙徳公 哀(あはれ)とも いふべき人(ひと)は おもほえで
        身(み)のいたづらに なりぬべきかな
46. 曽禰好忠 由良(ゆら)の門(と)を わたる舟人(ふなびと) かぢをたえ
        ゆくへも知(し)らぬ 戀(こひ)の道(みち)かな
47. 恵慶法師 八重葎(やへむぐら) しげれる宿(やど)の さびしきに
        人(ひと)こそ見(み)えね 秋(あき)は來(き)にけり
48. 源重之 風(かぜ)をいたみ 岩(いは)うつ波(なみ)の おのれのみ
        くだけて物(もの)を 思(おも)ふころかな
49. 大中臣能宣朝臣 御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)のたく火(ひ)の 夜(よる)はもえて
        晝(ひる)は消(き)えつつ 物(もの)をこそ思(おも)へ
50. 藤原義孝 君(きみ)がため 惜(を)しからざりし 命(いのち)さへ
        ながくもがなと 思(おも)ひけるかな
51. 藤原實方朝臣 かくとだに えやはいぶきの さしも草(ぐさ)
        さしも知(し)らじな もゆるおもひを
52. 藤原道信朝臣 明(あけ)ぬれば 暮(く)るるものとは 知(し)りながら
        猶(なほ)恨(うら)めしき 朝(あさ)ぼらけかな
53. 右大將道綱母 なげきつつ 獨(ひと)りぬる夜(よ)の あくるまは
        いかに久(ひさ)しき ものとかはしる
54. 儀同三司母 忘(わす)れじの 行末(ゆくすゑ)までは かたければ
        今日(けふ)をかぎりの 命(いのち)ともがな
55. 大納言公任 瀧(たき)の音(おと)は 絶(た)えて久(ひさ)しく なりぬれど
        名(な)こそ流(なが)れて 猶(なほ)聞(き)こえけれ
56. 和泉式部 あらざらむ 此世(このよ)の外(ほか)の 思(おも)ひ出(で)に
        今(いま)ひとたびの 逢(あ)ふ事(こと)もがな
57. 紫式部 巡(めぐ)りあひて 見(み)しや夫(それ)とも わかぬまに
        雲(くも)がくれにし 夜半(よは)の月(つき)かな
58. 大貳三位 有馬山(ありまやま) ゐなの笹原(ささはら) 風(かぜ)ふけば
        いでそよ人(ひと)を 忘(わす)れやはする
59. 赤染衛門 安(やす)らはで 寝(ね)なましものを 小夜(さよ)更(ふ)けて
        かたぶくまでの 月(つき)を見(み)しかな
60. 小式部内侍 大江山(おほえやま) いく野(の)の道(みち)の 遠(とほ)ければ
        まだ文(ふみ)も見(み)ず 天(あま)のはし立(だて)
61. 伊勢大輔 いにしへの 奈良(なら)の都(みやこ)の 八重櫻(やへざくら)
        けふ九重(ここのへ)に 匂(にほ)ひぬるかな
62. 清少納言 夜(よ)をこめて 鳥(とり)の空音(そらね)は はかるとも
        世(よ)に逢坂(あふさか)の 關(せき)はゆるさじ
63. 左京大夫道雅 今(いま)はただ 思(おも)ひ絶(た)えなむ とばかりを
        人(ひと)づてならで いふよしもがな
64. 権中納言定頼 朝(あさ)ぼらけ 宇治(うぢ)の川(かは)ぎり たえだえに
        あらはれ渡(わた)る 瀬々(せぜ)のあじろぎ
65. 相模 恨(うら)みわび ほさぬ袖(そで)だに あるものを
        戀(こひ)に朽(く)ちなむ 名(な)こそをしけれ
66. 前大僧正行尊 もろともに あはれと思(おも)へ 山櫻(やまざくら)
        花(はな)より外(ほか)に 知(し)る人(ひと)もなし
67. 周防内侍 春(はる)の夜(よ)の 夢(ゆめ)ばかりなる 手枕(たまくら)に
        かひなく立(た)たむ 名(な)こそをしけれ
68. 三条院 心(こころ)にも あらでうき世(よ)に 長(なが)らへば
        戀(こひ)しかるべき 夜半(よは)の月(つき)かな
69. 能因法師 嵐(あらし)吹(ふ)く 三室(みむろ)の山(やま)の もみぢ葉(ば)は
        龍田(たつた)の川(かは)の にしきなりけり
70. 良暹法師 淋(さび)しさに 宿(やど)を立(た)ち出(い)でて ながむれば
        いづこも同(おな)じ 秋(あき)のゆふぐれ
71. 大納言経信 夕(ゆふ)されば 門田(かどた)のいなば おとづれて
        あしのまろやに 秋風(あきかぜ)ぞふく
72. 祐子内親王家紀伊 音(おと)に聞(き)く たかしの濱(はま)の あだ浪(なみ)は
        かけじや袖(そで)の ぬれもこそすれ
73. 権中納言匡房 高砂(たかさご)の 尾上(をのへ)の櫻(さくら) 咲(さ)きにけり
        外山(とやま)の霞(かすみ) たたずもあらなむ
74. 源俊頼朝臣 憂(う)かりける 人(ひと)をはつせの 山(やま)おろしよ
        はげしかれとは 祈(いの)らぬものを
75. 藤原基俊 契(ちぎ)りおきし させもが露(つゆ)を 命(いのち)にて
        あはれ今年(ことし)の 秋(あき)もいぬめり
76. 法性寺入道前関白太政大臣 和田(わた)の原(はら) こぎ出(い)でて見(み)れば 久方(ひさかた)の
        雲(くも)ゐにまがふ 沖津(おきつ)白(しら)なみ
77. 崇徳院 瀬(せ)をはやみ 岩(いは)にせかるる 瀧川(たきがは)の
        われても末(すゑ)に あはむとぞ思(おも)ふ
78. 源兼昌 淡路島(あはぢしま) かよふ千鳥(ちどり)の 鳴(な)く聲(こゑ)に
        いく夜(よ)ねざめぬ 須磨(すま)の關守(せきもり)
79. 左京大夫顕輔 秋風(あきかぜ)に 棚引(たなび)く雲(くも)の 絶間(たえま)より
        もれ出(い)づる月(つき)の 影(かげ)のさやけさ
80. 待賢門院堀河 長(なが)からむ 心(こころ)もしらず 黒髪(くろかみ)の
        みだれて今朝(けさ)は ものをこそ思(おも)へ
81. 後徳大寺左大臣 ほととぎす なきつる方(かた)を ながむれば
        ただ有明(ありあけ)の 月(つき)ぞ残(のこ)れる
82. 道因法師 思(おも)ひわび さても命(いのち)は ある物(もの)を
        うきにたへぬは 涙(なみだ)なりけり
83. 皇太后宮大夫俊成 世(よ)の中(なか)よ 道(みち)こそなけれ 思(おも)ひ入(い)る
        山(やま)の奥(おく)にも 鹿(しか)ぞなくなる
84. 藤原清輔朝臣 永(なが)らへば また此頃(このごろ)や しのばれむ
        うしと見(み)し世(よ)ぞ 今(いま)は戀(こひ)しき
85. 俊恵法師 夜(よ)もすがら 物(もの)思(おも)ふころは 明(あ)けやらで
        閨(ねや)の隙(ひま)さへ つれなかりけり
86. 西行法師 嘆(なげ)けとて 月(つき)やはものを 思(おも)はする
        かこち顔(がほ)なる わが涙(なみだ)かな
87. 寂蓮法師 村雨(むらさめ)の 露(つゆ)もまだひぬ まきの葉(は)に
        霧(きり)たちのぼる 秋(あき)の夕(ゆふ)ぐれ
88. 皇嘉門院別当 難波江(なにはえ)の 蘆(あし)のかり寝(ね)の ひと夜(よ)ゆゑ
        身(み)を盡(つくし)てや 戀(こひ)わたるべき
89. 式子内親王 玉(たま)の緒(を)よ たえなばたえね 永(なが)らへば
        忍(しの)ぶる事(こと)の よわりもぞする
90. 殷富門院大輔 見(み)せばやな 雄島(をじま)のあまの 袖(そで)だにも
        濡(ぬ)れにぞぬれし 色(いろ)はかはらず
91. 後京極摂政前太政大臣 きりぎりす なくや霜夜(しもよ)の さむしろに
        衣(ころも)かたしき 獨(ひと)りかもねむ
92. 二条院讃岐 わがそでは 潮干(しほひ)に見(み)えぬ 沖(おき)の石(いし)の
        人(ひと)こそしらね かわく間(ま)もなし
93. 鎌倉右大臣 世(よ)の中(なか)は 常(つね)にもがもな 渚(なぎさ)漕(こ)ぐ
        海士(あま)の小舟(をぶね)の 綱(つな)でかなしも
94. 参議雅経 みよし野(の)の 山(やま)の秋風(あきかぜ) 小夜(さよ)更(ふ)けて
        ふる郷(さと)さむく 衣(ころも)うつなり
95. 前大僧正慈円 おほけなく 浮世(うきよ)の民(たみ)に おほふかな
        わがたつ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖(そで)
96. 入道前太政大臣 花(はな)さそふ 嵐(あらし)の庭(には)の 雪(ゆき)ならで
        ふりゆくものは わが身(み)なりけり
97. 権中納言定家 來(こ)ぬ人(ひと)を まつほの浦(うら)の 夕(ゆふ)なぎに
        やくや藻塩(もしほ)の 身(み)もこがれつつ
98. 従二位家隆 風(かぜ)そよぐ ならの小川(をがは)の 夕暮(ゆふぐれ)は
        みそぎぞ夏(なつ)の しるしなりける
99. 後鳥羽院 人(ひと)もをし 人(ひと)も恨(うら)めし 味氣(あぢき)なく
        世(よ)を思(おも)ふ故(ゆゑ)に 物(もの)おもふ身(み)は
100. 順徳院 百敷(ももしき)や 古(ふる)き軒端(のきば)の しのぶにも
        猶(なほ)あまりある 昔(むかし)なりけり
小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。
歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。
100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。
万葉の歌人
『万葉集』の時代はまだおおらかで、身分の差にこだわらずに天皇、貴族、防人、農民などあらゆる階層の者の歌が収められている。自分の心を偽らずに詠むところが特徴。有名な歌人は、大伴家持、山部赤人、柿本人麻呂など。
六歌仙の時代
この時代になると、比喩や縁語、掛詞などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。選者の紀貫之が「六歌仙」と呼んだ、在原業平や小野小町などが代表的な歌人である。
女流歌人の全盛
平安時代の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。文学の世界では、女性の活躍が目ざましく清少納言が『枕草子』、紫式部が『源氏物語』を書いた。『百人一首』にはそのほかにも、和泉式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔といった宮廷の才女の歌が載っている。
隠者と武士の登場
貴族中心の平安時代から、武士が支配する鎌倉時代へと移る激動の世情の中で、仏教を心の支えにする者が増えた。『百人一首』もそうした時代を反映し、西行や寂蓮などの隠者も登場する。藤原定家自身も撰者となった『新古今和歌集』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。
用途​
『百人一首』は単に歌集として鑑賞する以外の用途でも広く用いられている。
教材​
たとえば中学や高校では、古典の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱しやすく、また、後述するように正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとってなじみがあるからである。また、短い和歌の中に掛詞など様々な修辞技法が用いられ、副詞の呼応などの文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材だと言える。
かるた​
『百人一首』は現在では歌集としてよりも、かるたとしての方が知名度が高く、特に正月の風物詩としてなじみが深い。『百人一首』のかるたは歌がるたとも呼ばれ、現在では一般に以下のような形態を持つ。
百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。読み札と取り札はともに花札のように紙を張り重ねてつくられており、大きさは74×53mm程度であることが一般的である。札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。読み札の表面には大和絵ふうの歌人の肖像(これは歌仙絵巻物などを模した意匠が多い)と作者の名、和歌が記されており、取り札には全て仮名書きで下の句だけが書かれている。読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。
かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である任天堂、大石天狗堂、田村将軍堂で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。
江戸期までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。また、現在でも北海道では、「下の句かるた」というやや特殊な百人一首が行われている。この「下の句かるた」に用いられるかるたでは、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてある。江戸期の面影を残したかるたであると言える。
21世紀においては、英語に翻訳された百人一首によるかるた大会も行われている。
歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由がある訳ではない。元々は様々な折に子供や若者が集まって遊ぶ際、百人一首がよく用いられたことによるものである。その中でも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことを許されていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。
首を用いたかるたの遊び方には以下のようなものがある。
散らし取り(お散らし)​
古くから行われた遊びかたのひとつで、以下のようなルールに従う。
読み手を選ぶ(普通は一人)。
読み札をまとめて読み手に渡し、取り札は百枚すべてを畳の上などに散らして並べる。
取り手は何人でもOK。みなで取り札のまわりを囲む。このとき不平等にならないように、取り札の頭はそれぞればらばらな方を向いているようにならなければならない。
読み手が読み札を適当に混ぜてから、札の順に歌を読み上げる。
歌が読み始められたら、取り手は取り札を探して取ってかまわない。ある文字まで読まれればその札だと確定できるという文字を決まり字といい、決まり字の把握が札を取る早さを左右する。
同時に何人もが同じ札を押さえた場合には、手が一番下にある人がこれを取る権利を持つ。
間違った札を取った場合(お手つき)には何らかの罰則が行われるが、源平のようにしっかりとした決まりごとはない。
百枚目を取ったところで終了。最も多くの札を取った人が勝ちである。
本来は読み札には上の句しか書いてなかったために、この遊び方は百人一首を覚えるうえでも、札の取り合いとしても、それなりの意味があった。現在では読み札に一首全てが書かれているため、本来の意図は見失われている。ただし大人数で同時に遊ぶためには都合の良い遊び方で、かつてのかるた会などではたいていこの方法を用いていた。
お散らしに限らず、江戸時代までは読み手は作者の名前から順に読み上げ、上の句が終わったところで読むことを止めるのが常であったようだ。現在では作者名を省き、最後まで読んでしまう(なかなか取り手が取れない場合には下の句を繰り返す)。読み方に関しては上の句と下の句の間で、間をもたせすぎるのは良くないとされるが、本来の遊び方からすればナンセンスな問題とも言える。
逆さまかるた​
本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札には漢字が混じるため視覚からくる思わぬ錯覚なども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。
源平合戦​
源平とは源氏と平氏のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。
1.散らし取り同様に絵札と字札を分け、読み手を一人選ぶ。
2.百枚の字札を五十枚ずつに分け、それぞれのチームに渡す。両チームはそれを3段に整列して並べる。
3.散らし取り同様に読まれた首の字札を取る。この時、相手のチームの札を取った時は、自分のチームの札を一枚相手チームに渡す。これを「送り札」という。
4.先に札のなくなったチームの勝ちとなる。
北海道で行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。
リレーかるた​
源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。
競技かるた​
一般社団法人全日本かるた協会の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。毎年1月の上旬に滋賀県大津市にある近江神宮で名人戦・クイーン戦が開催される。名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。NHK BSで毎年生中継される。また、7月下旬には全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会が行われている。そのほか、全国各地で色々な大会が開催されている。取り札を半分の五十枚しか用いないことが特徴である(ただし読み札は百首すべて読まれる)。
その他​
首を読まず、絵柄を利用した遊びもある。
   坊主めくり​
使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。
男性が描かれた札を引いた場合は、そのまま自分の手札とする。
坊主(「ハゲ」と呼ぶこともまれにある)の描かれた札を引いた場合には、引いた人の手元の札を全て山札の横に置く。
女性の札(姫)を引いた場合には、引いた人がそれまでに山札の横に置かれていた札を全てもらう。
蝉丸の札を引いた場合、引いた人は一回休み。
裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。
様々な地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。
山札の数が1束のみのルールや複数の束に分割するルールがある。
山札の横に札が無い場合に、姫を引いた場合はもう1枚札をめくることができる。
天皇札(台座に縞模様がある札)を引いた際には、数枚引ける。
天皇を引いた際には、山札とその横の札を除き、すべての札が引いた人の手札となる。
段に人が乗っている札を引いた際、もう一枚めくることができる。
蝉丸が出た場合、全員の札を供託に置く。
蝉丸も坊主扱い。
坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでない。江戸時代の文献には現われないことから、明治以降に成立したものと考えられている。
   青冠​
読み札のみを使用し取り札は使用しない。4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。書かれた絵柄で、青冠(あおかんむり)、縦烏帽子、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。ただし、天智天皇と持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、持統天皇は天智天皇以外の全ての札に勝つが天智天皇には負ける。その他の札はどちらにも負ける。絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。
1.100枚の札を4人に25枚ずつ全て配る。
2.最初の人を決めその人が右隣の人に対して1枚手札から出す。
3.出された人は、出された札に対し受けられる札で受けるか、受けられる札を持ってないもしくは持ってても出したくない場合はパスをする。同じ種類の絵柄の札か、出された札に勝つ札(天智天皇もしくは持統天皇)であれば受けることができる。なお、持統天皇は天智天皇のみで受けられ、天智天皇はどの札でも受けられない。
4.受けた場合は受けた人が、パスをした場合はした人の右隣の人、つまり最初に出した人の向かい側の人が、自分の右隣の人に対して1枚手札から出す。以下同様に続けていく。
この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。これを何回か行い勝敗を決める。
   銀行​
「銀行」は1950〜60年代まで、各地方で盛んに行われた子供、あるいは大人も入れた家族の遊びで、和歌は使わず、文字札は1、冠の札は10、姫の札は50、弓持ちの札(2枚ある)は150、烏帽子の札は300、坊主は400、台付き札(天皇と皇族)は500、蝉丸の札は最高位の1,000の価値があると見なす。遊び手の一人が「銀行」となり、4・5枚の札を伏せて置いたあと、その他の遊び手はあらかじめ一定額を貰った札の一部を銀行が置いた札の前に置いて賭けて、銀行が「空(あ)きの方(かた)は」などといいながら札を開けた時に、銀行の札の点数が多ければ没収されて、点数が同じなら引き分け、点数が少なければその他の遊び手に利子として支払いをする。(空きの方が坊主で負けたら2倍、坊主だったら3倍も銀行に取られるなどの細かいルールもある。)手持ちの札の点数が多い人の勝ちで、また銀行に点数が集まり過ぎた時には、銀行はわざと少ない点数の札を置いて、負けてやって、ゲームを続ける。
異種百人一首​
小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。以下に代表的なものを挙げる。
『新百人一首』
足利義尚撰。小倉百人一首に採られなかった歌人の作を選定しているが、91番「従二位成忠女」は小倉の54番・儀同三司母(高階貴子)と同一人物というミスが起こっている。また、79首目の歌は恵子内親王の歌となっているが、実際には徽子女王の歌である。その他、『百人秀歌』に見える権中納言国信も64番に入首(百人秀歌とは別の歌)している。
『武家百人一首』
同名の物が複数ある。
1.17世紀半ばの成立と見られている。平安時代から室町時代にかけての武人による和歌を採録。寛文6年(1666年)刊。榊原式部大輔忠次の撰とされるが、本自体にはその旨の記述はなく、後に尾崎雅嘉が『群書一覧』で比定したものである。また寛文12年(1672年)、菱川師宣の挿絵、和歌は東月南周の筆で再刊された。菱川師宣の署名した絵入り本の最初とされ、絵師菱川吉兵衛と署名されている。
2.安政5年(1858年)刊。賞月堂主人の著。1.のものと比べると、23人が別人の歌に置き換えられている。
3.明治42年(1909年)刊。富田良穂撰。神代から幕末までの武将・大名・夫人等の和歌を採録。
『新撰武家百人一首』
18世紀成立。伊達吉村撰。室町時代から江戸中期にかけての武将・大名による和歌を採録している。
『後撰百人一首』
19世紀初頭に成立。序文によれば二条良基の撰、中院関白顕実の補作とするが、後者の存在が疑わしいため成立年代は未定である。勅撰集だけでなく、『続詞花集』などの私撰集からも採録しているのが特徴。
『源氏百人一首』
天保10年(1839年)刊。黒沢翁満編。『源氏物語』に登場する人物の和歌を採録しているが、その数は123人。肖像を入れ、人物略伝、和歌の略注をのせる。和歌は松軒由靖、絵は棔斉清福の筆。
『英雄百人一首』
天保15年(1844年)刊。緑亭川柳撰。神代から室町期までの武人の和歌を採録。
『烈女百人一首』
弘化4年(1847年)刊。緑亭川柳撰。英雄百人一首に対し、著名な女性の和歌を採録。
『続英雄百人一首』
嘉永2年(1849年)刊。緑亭川柳撰。英雄百人一首の続編で、平安から安土桃山時代までの武将・大名の和歌を採録。
『義烈百人一首』
嘉永3年(1850年)刊。緑亭川柳撰。平安から江戸初期までの武将やその夫人等の和歌を採録。
『女百人一首』
嘉永4年(1851年)成立。平安・鎌倉期の女流歌人の和歌を採録。
『義烈回天百首』
明治7年(1874年)刊。染崎延房編。幕末の志士等の和歌を採録。
『愛国百人一首』
第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)に選定・発表された。恋歌の多い小倉百人一首に代わって「愛国の精神が表現された」名歌を採録。
『平成新選百人一首』
平成14年(2002年)刊。小倉百人一首、愛国百人一首と重複しないように和歌を採録。明成社から歴史的かなづかい、文藝春秋社から新かなづかいで出版という企画が巧妙。
『今昔秀歌百撰』
平成24年(2012年)刊。小倉百人一首、愛国百人一首、平成新選百人一首と重複しないように和歌を、一選者一歌人で101首採録。当初は寄贈だけで、販売せず。
『小倉擬百人一首』
弘化3年(1846)頃 歌川国芳・歌川広重・三代目歌川豊国画柳下亭種員筆。  

 

●かるた
かるた(歌留多、加留多、賀留多、嘉留太、歌流多、哥留た、樗蒲、軽板、紙牌、骨牌)
カードを使った主に正月に遊ぶ室内遊具である。
元々はトランプなどのカード一般を指した。現代日本では、花札か、後述する読み札にあわせた絵札をとってその枚数を競う競技を意味するようになった。
また、小倉百人一首の場合は読み札には短歌が書かれ、取り札には下の句が書かれている。
道具​
文字札・絵札ともに、あいうえお46枚ずつの札がある。一音につき一セットの読み札・取り札が用意されている。
文字札・読み札 - 取り札の絵の内容を書いた短い文章が書かれており、読み手(多くは大人)が声に出して読む。
絵札・取り札- 読み札の内容を描いた絵と、読み札の文言の頭文字がひらがなで目立つように書いてあり、読み札を読むのに合わせて取り人が手を出して札を取る。ただし、小倉百人一首では絵はなく和歌の下の句が書かれている。
ルール​
2人以上で行う。
1.取り札を平面(畳の上が多い)に広げ、取る人に見やすくする。
2.読み人が読み札を読む。
3.できるだけ早く、読み札に合った取り札を叩く(はじく、または押さえることもある)。先に叩いた方がその札を手に入れる(札を取る)。
4.全ての読み札、取り札がなくなるまで繰り返す。
5.より多くの取り札を取った方の勝ち。
子供が文字を覚えるための遊びでもある。
起源​
ポルトガル語のcartaが語源で「NOVO DICIONARIO DA LINGUA PORTUGUESA」によるとトランプやタロットの一枚一枚を意味しており(他にも手紙や証書などの意味がある)、英語のcardと同じ語源である。本来は外来語だが、新聞等では国語化しているものとして扱われ、通常は片仮名ではなく平仮名で書かれる。
語源はポルトガル語だが、同様の遊戯は日本とポルトガルとの接触前からあったものと考えられている。元々は、平安時代の二枚貝の貝殻をあわせる遊び「貝覆い(貝合せ)」である。これとヨーロッパ由来のカードゲームが融合し、元禄時代頃に今日の遊び方となった。
日本のかるたは、16世紀末頃、筑後国三池(現在の福岡県大牟田市)で作り始められたと言われており、大牟田市には三池カルタ・歴史資料館がある。
古典的ないろはかるた​
いろは47文字に対応した「いろはかるた」が最も古典的で有名である。なお、歴史的仮名遣いや字音仮名遣いに必ずしも準拠しているものではない。
ことわざを使っているが、内容は江戸、京都・大坂など上方、尾張などで各々異なっており、地方の特色が表れて、「郷土かるた」も各地に存在する。「犬も歩けば棒に当たる」で始まるものは、江戸かるた(犬棒かるた)である。
以下に示すものは伝統的な札の一例である。2012年現在市販されているものには、一部の札が差し替えられているものも多い(「ゐ」「ゑ」「京」の削除対象も含む)。江戸いろはかるたの場合では、表現が難解あるいは死語となっている(「月夜に釜を抜く」→「月とすっぽん」、「総領の甚六」→「損して得取れ」など、「芋の煮えたもご存じない」「子は三界の首かせ」も同様に差し替え対象となっている)、下品な表現が含まれる(「屁をひって尻すぼめる」→「下手の長談義」[上方より流用])、差別的ニュアンスがある(「かったいの瘡うらみ」→「かえるの面に水」など)などが差し替えの理由として挙げられる。「良薬は口に苦し」はもともとは慣用仮名遣いの「れうやく」、「れ」の札だったが(字音仮名遣いでは「りやうやく」)、現代仮名遣いの「りょうやく」、「り」の札に配置変更され、元の「り」の札、「律義者の子だくさん」が不採用となったこともある。こういった時代に合わせた変化については賛否両論となっている。
仮名  江戸 / 上方 / 尾張
い 犬も歩けば棒に当たる / 一寸先は闇 / 一を聞いて十を知る
ろ 論より証拠 / 論語読みの論語知らず / 六十の三つ子
は 花より団子 / 針の穴から天覗く / 花より団子
に 憎まれっ子世にはばかる / 二階から目薬 / 憎まれっ子頭堅し
ほ 骨折り損のくたびれ儲け / 仏の顔も三度 / 惚れたが因果
へ 屁をひって尻すぼめる / 下手の長談義 / 下手の長談義
と 年寄りの冷や水 / 豆腐に鎹 / 遠くの一家より近くの隣
ち ちりも積もれば山となる / 地獄(ぢごく)の沙汰も金次第 / 地獄の沙汰も金次第
り 律義者の子沢山 / 綸言汗のごとし / 綸言汗のごとし
ぬ 盗人の昼寝 / 糠に釘 / 盗人の昼寝
る 瑠璃も玻璃も照らせば光る / 類をもって集まる / 類をもって集まる
を 老いては子に従え(「老い」は「おい」が正しい) / 鬼も十八(「鬼」は「おに」が正しい) / 鬼の女房に鬼神
わ 破れ鍋に綴じ蓋 / 笑う門には福来る / 若いときは二度ない
か かったいの瘡(かさ)うらみ / かえるの面に水 / 陰うらの豆もはじけ時
よ 葦(よし)のずいから天井のぞく / 夜目遠目笠のうち / 横槌で庭掃く
た 旅は道連れ世は情け / 立て板に水 / 大食上戸餅食らい
れ れうやく(良薬)は口に苦し(「良」は「りやう」が正しい) / 連木で腹切る / 連木で腹切る
そ 総領の甚六 / 袖の振り合わせも他生の縁 / 袖の振り合わせも他生の縁
つ 月とすっぽん / 月夜に釜を抜かれる / 爪に火をともす
ね 念には念を入れよ / 猫に小判 / 寝耳に水
な 泣きっ面に蜂 / なす時の閻魔顔 / 習わぬ経は読めぬ
ら 楽あれば苦あり / 来年の事を言えば鬼が笑う / 楽して楽知らず
む 無理が通れば道理引っ込む / 馬(むま)の耳に風 / 無芸大食
う 嘘から出た真 / 氏より育ち / 牛を馬にする
ゐ 芋の煮えたもご存じない(「芋」は「いも」が正しい) / 鰯の頭も信心から(「鰯」は「いわし」が正しい) / 炒り豆に花が咲く(「炒り」は「いり」が正しい)
の 喉元過ぎれば熱さを忘れる / ノミと言えば槌 / 野良の節句働き
お 鬼に金棒 / 負うた子に教えられて浅瀬を渡る / 陰陽師身の上知らず
く 臭いものに蓋をする / 臭い物に蝿がたかる / 果報(くゎはう)は寝て待て
や 安物買いの銭失い / 闇に鉄砲 / 闇に鉄砲
ま 負けるが勝ち / まかぬ種は生えぬ / 待てば甘露の日和あり
け 芸は身を助く / 下駄と焼き味噌 / 下戸の建てた蔵はない
ふ 文はやりたし書く手は持たぬ / 武士は食わねど高楊枝 / 武士は食わねど高楊枝
こ 子は三界の首枷 / これにこりよ道才坊 / こころざしは松の葉
え えてに帆を上ぐ / 縁と月日 / 閻魔の色事
て 亭主の好きな赤烏帽子 / 寺から里へ / 天道人殺さず
あ 頭隠して尻隠さず / 足元から鳥が立つ / 阿呆につける薬はない
さ 三遍回って煙草にしょ / 竿の先に鈴 / 触らぬ神にたたりなし
き 聞いて極楽見て地獄 / 鬼神に横道なし / 義理と褌かかねばならぬ
ゆ 油断大敵 / 幽霊の浜風(「幽」は「いう」が正しい) / 油断大敵
め 目の上のこぶ / 盲の垣のぞき / 目の上のこぶ
み 身から出た錆 / 身は身で通る / 蓑売りの古蓑
し 知らぬが仏 / しはん坊の柿のさね / 尻食へ観音
ゑ 縁は異なもの味なもの(「縁」は「えん」が正しい) / 縁の下の舞 / 縁の下の力持ち
ひ 貧乏暇なし / 瓢箪から駒(「瓢」は「へう」が正しい) / 貧僧の重ね食い
も 門前の小僧習わぬ経を読む / 餅は餅屋 / 桃栗三年柿八年
せ 急いては事を仕損じる / せんちで饅頭 / 背戸の馬も相口
す 粋は身を食う / 雀百まで踊り忘れぬ / 墨に染まれば黒くなる
京 京の夢大阪の夢 / 京に田舎あり / --- 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●福笑い
目を隠して、目や口などの顔のパーツを輪郭に置いていく遊びです。正確に置いた方が勝ち、おもしろい顔を作った方が勝ちと自分たちでルールを決められます。
由来
「笑う門には福来る」とあるように、新年早々笑いがこぼれるのがめでたいということから、江戸時代から正月の遊びとして親しまれていました。
福笑のくわしい起源や由来などははっきりしていないようですが、江戸時代の後半から遊ばれるようになり、お正月遊びとして定着したのは明治時代と言われています。主にお正月に遊ばれていたことや、福笑いでできあがった顔をみんなで笑い合うことから、「笑う門には福来る」のことわざのように、新年の福を祈願したのではないかと考えられているようです。
遊び方
目隠しをした子どもが、おかめやおたふくの顔を書いた紙に、眉や目などの顔のパーツを正しい位置に置いて顔を作ります。1歳後半から2歳児クラスでは、はじめに保育士さんがお手本を見せて、遊び方をイメージしてもらいましょう。お手本の際は、「これは目で、これは口だね」と言いながらパーツを置いていけば、子どもたちも遊びやすいかもしれません。 
昔の遊び「福笑い」のルーツは定かではありませんが、明治時代からお正月の遊びとして定着しています。目隠しをして、輪郭を描いた紙の上に、眉・目・鼻・口などを置いていくゲームですが、出来上がった顔立ちが滑稽なので、それを笑って楽しみます。おかめ、お多福、ひょっとこなどの絵が多く、「笑う門には福来る」と縁起がいいことから、正月にふさわしい遊びになったようです。
遊び方に明確な決まりはないので、より面白い顔を作って笑わせた者が勝ち、正確な顔を作った者が勝ちなど、ルールを決めて勝負する場合もあります。家族の似顔絵でオリジナル福笑いを作ってみるのもおすすめです! 
「笑う門には福来る」といわれるように、福笑いは笑いが溢れてめでたい遊びとして昔から親しまれてきたようです。自分の目を隠しながら、福笑いの顔のパーツを顔の輪郭の上に置いていく遊びですが、勝ち負けのルールは自由!「面白い顔を作った人が勝ち」や「正確に置いた方が勝ち」など、家族や友だちとルールを決めて楽しみましょう。子どもの好きなキャラクターや家族の顔写真を大きく印刷して作っても盛り上がりますよ♪ 
顔のパーツを、目隠しした人が置いていくゲーム「福笑い」。できあがったユーモラスな表情が笑いを誘います。
由来
「福笑い」の由来ははっきりわかっていません。江戸時代後期あたりから遊ばれるようになり、明治時代になって正月遊びとして定着したそうです。お正月の遊びの定番となった理由には、「笑う門には福来る」ということわざが関係しているようです。福笑いの表情を見るとおもしろくてみんなで笑いますよね。それが「笑う門には福来る」ということわざのように、新年の福が来ると考えられたからです。
遊び方
福笑いは、おかめやおたふくなどの顔の輪郭だけを描いた紙の上に、目隠しした人が目や鼻、口などのパーツを置いていくゲームです。目隠しをしているため、思わぬところに顔のパーツが置かれておもしろい表情となるので、それを見て楽しみます。ルールに決まりはないので、正確な位置に目鼻を置いた人が勝ち、よりも、みんなを笑わせた顔を作った人が勝ち、などと勝負形式にしても盛り上がりますよ。また、子どもといっしょに福笑いを作って楽しむのもおすすめです。 
ひょっとこや阿多福(おたふく)、だるまの顔などの面の輪郭だけが描かれた台紙に、眉・目・鼻・口の形の紙片を目隠しをした者がそれを適当に置いていく遊びです。出来上がった顔は、並べる者が目隠しをしているため、とんでもない場所に置かれることがあり、その出来上がりの顔立ちの面白さをみんなで笑って楽しみます。「笑う門には福来る」というように、新年早々笑いがこぼれるのがめでたいとされ、江戸時代から正月の子どもの遊びとなっています。 
目隠しをされた人が、「おかめ」や「おたふく」の、顔の輪郭だけを描いた紙へ、自分が正しいと思う位置に、眉、目、鼻、口などのパーツを並べていくという遊びです。でき上がりは、位置のずれた可笑しい顔になって、家族みんなで笑いながら楽しめますよ。完成した顔を見たときに笑ってしまうので「笑う門には福来る」から新年の幸運を祈願する意味でお正月遊びの定番となったようです。紙と書くものがあれば簡単に手作りすることができるので、パーツ作りから子どもと一緒にやってみるのも楽しそうですね。 
正月に遊ばれる日本の伝統的な遊びである。また転じて「変な顔」のことを指す言葉としても使われる(例:顔面福笑い)。
阿亀(おかめ)や阿多福(おたふく)などの面の輪郭を描いた紙の上に、目、口、鼻などの部品を散らし、目隠しをした者がそれを適当な位置に置いていく。並べる者が目隠しをしているため、出来上がった顔は部品の配置が乱れており滑稽な顔立ちになっている。それを見て笑い楽しむものである。
よりおかしな顔を作った者、あるいはより正しいふつうの顔を作った者を勝者とするなどして勝敗を決する。正月の遊びとして定着したのは明治頃とされているが、起源ははっきりしない。平成以降は一般家庭での正月の遊びとしては廃れ気味となったが、自治体などが執り行う新春行事としては変わらず恒例のものといえる。
近年はパソコンやウェブ上で遊ぶ福笑いソフトなどが登場したが、オンラインゲームとして多人数で遊べるものは知られておらず、福笑いのエッセンスを利用したジョークとして楽しまれる。ウェブ上ではヒラリー・クリントン版 が世界的にも有名で、自分がつくったキャプチャー画像がブログなどで紹介されている。

 

●福笑い
皆様は最後に福笑いをしたのはいつでしょうか?子供のころに誰しもがやったことがあるであろう、福笑い。年を重ねるごとに、また時代の変化とともに気づけば福笑いに触れる機会は少なくなっていると思います。今では、テレビゲームやスマートフォンの普及により一層福笑いをやる機会はなくなってきていると思います。
そもそも福笑いについてどのようなものか調べたことがあるでしょうか。多くの人が、福笑いは「ただ顔のパーツを並べる」ぐらいの知識しかないのかもしれません。お正月の遊びとして、みなさん強いイメージを持っている福笑いとはいったい何なのでしょうか。そこで今回は改めて福笑いとはどういうものかというのをご紹介させていただきます。
1.福笑いの由来・意味とは?
1-1.福笑いとは
福笑いとは、お正月の遊びの1つで、おかめやひょっとこの顔の輪郭を描いた上に目や鼻口、眉といったパーツを散らしていきます。目隠しをした人がそれぞれを自分が正しいと思う位置に置いていき、でき上がった顔のおかしさをみんなで楽しむゲームとなっています。
実際にお正月の遊びとして定着したのは、明治時代(1868年〜1912年)と言われていますが、今のところ期限や由来というものは、はっきりしていません。福笑いはみんなが集まって実際にできた顔を大笑いするというものなのでコミュニケーションの一環として定着したのかもしれません。
1-2.「笑う門には福来たる」
福笑いは、起源やその詳細は明らかになっておらず、どのような目的で始まったかも分かっていません。実際に分かっていることはただお正月にやるということだけです。しかし、でき上がったその顔の表情を見て、全員で笑い合うことから、ことわざの「笑う門には福来たる」のように新年の福を祈願したのではないかと推測されます。
「笑う門には福来たる」の「門」には、家や家族という意味があります。ですので、いつもみんなで笑っている人の家には自然と幸福が訪れるという意味のことわざになります。
「笑い」の効果はさまざまな研究で確かめられてきています、心から笑うことにより免疫機能が高まるという研究報告があります。また笑顔を意識的に作るだけで多くのポジティブな情報を受け取りやすくなるということも研究により、分かっています。意識的に笑顔を作った場合とあえて厳しい表情をした場合とで楽しさの感じ方が変わってくるという研究結果も出ています。
会話をしている中で笑顔になると相手の表情も和らいでくるという経験は誰しもがあるでしょう。また反対に不愉快そうな表情で話をすると相手も同じような不愉快な表情になります。つまり、自分の表情や態度は相手にも移っていくものだと言えます。ここから考えると、福笑いは私たちの生活の知恵の中から生まれたものだと言えるでしょう。
1-3.どうして「おかめ」と「ひょっとこ」なの?
では、福笑いの顔のモチーフとして使われるのはどうして、「おかめ」と「ひょっとこ」が多いのでしょうか。
おかめは「お亀」「阿亀」と書くこともあり、「お多福」や「お福」など多くの呼び方がされています。また、「おかめ」は福を招く神様として知られ、「ひょっとこ」は火を守る神様として昔から家庭を守る神様だと言われているぐらい、生活になじみ深い神様だったからということが考えられます。
また、神楽(かぐら、神様に奉納するために行う舞や歌)で使われることも多くありました。道化役として男性、女性の対として用いられることも多くあり、福をもたらす縁起物だからと言われています。
2.福笑いの遊び方
2-1.準備するもの
では、実際に、福笑いで遊ぶ際には何が必要となるのでしょうか。福笑いで遊ぶ際に準備するものは大きく分けて3つあります。まず1つ目が、おかめやひょっとこなどの顔の輪郭を書いた紙。この紙は少し大きめの画用紙などがいいでしょう。
2つ目がおかめやひょっとこなどの顔のパーツ(目、口、鼻、眉など)。そして最後の3つ目が、目隠し用の布です。布に関しては必須ではなく、他の目が隠れるものであれば何でもいいですし、目を瞑ることでも対応可能です。特に用意するにあたり、あまり高価なものもなく簡単に手に入るものばかりなので、すぐに準備をして遊ぶことができるでしょう。
2-2.遊ぶ手順
ここではあらためて福笑いの遊び方について説明します。
1 まず、顔(おかめやひょっとこ)の輪郭が書かれた紙を広げます。
2 1人がその広げられた紙の前にタオルで目隠しをして座ります。
3 切り抜かれた、目、口、鼻、眉などのパーツを目隠しをした人は顔の上に並べていきます。その際に周囲にいる人が目はどこだったり口はどこだったりというのを誘導してもいいでしょう。
4 そして、切り抜かれたパーツすべてを顔の上に並べるたら、目隠しをとります。
5 多くの場合、その出来上がった顔はユニークで笑われずにはいられなく、それを皆で笑い合います。
6 実際に遊ぶ人1人1人ででき上がる顔が違うのでみんなで楽しむことができるでしょう。
ここではあくまで遊び方を一例として紹介させていただきましたが、例えばパーツが大きく少ないものから最初は初めて、徐々にパーツを増やすなどして複雑にしていっても面白くなりますし、これといった確定的なルールがあるわけではなく、遊び方は自由です。みなさんそれぞれのルールで楽しむことが一番いいでしょう。
また一般的には、おかめやひょっとこの顔を使うのが一番多いですが、最近では家族が写った写真などを、福笑いにして楽しむこともできるそうです。プリンターなどを使い、コピーして、作ることによって自分の中の親しい人達の面白おかしい顔を作ることができ、さらに盛り上がることでしょう。
3.福笑いはどこで手に入る?
では、福笑いはどこで手に入るのでしょうか。福笑いの入手方法として大きく2つあります。
1つ目が自分で作ること。シンプルに、おかめやひょっとこで作ることもあれば、アニメや漫画などの人気のキャラクターで作ったり、何かの顔であれば作れるというとても自由度が高く、制作することができます。
2つ目が完成品を購入することです。昔は実際にお店に足を運ばなければ手に入りませんでしたが、今ではネットを使って便利に買うことも可能です。完成品を買ってきてすぐにみんなで楽しむこともいいですし、家族や友人と一緒に作ることでその作る過程から楽しんで、実際にやっていくのも一つの楽しみなのかもしれません。
4.まとめ
福笑いとは今でこそ、テレビゲームなどに取って代わられることが多く、昔に比べてやる人は少なくなっているのかもしれません。しかし、その語源は笑顔になることで、みんなが幸せになるというように、笑うからこそ、幸福を呼ぶというとても素敵なものであり、特に勝ち負けもなく、みんなで盛り上がれるゲームです。
あらためてご家族や仲の良いご友人とテレビゲームなどは置いておいてみんなで遊び、みんなで笑顔になってみてはいかがでしょうか。 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●双六(すごろく)
サイコロを振ってコマを進めるというシンプルな遊びです。最近はコマが留まったところに書かれているお題を行い、ゴールを競う遊び方もあります。
由来
奈良時代に中国から伝わり、もともとは将棋のように2人が盤の前に座って行う遊びでした。次第にサイコロが使われるようになり、旅や人生にちなんだ”道中双六”や”出世双六”のような”絵すごろく”が江戸時代に人気を呼び、お正月にも親しまれるようになりました。
お正月遊びのすごろくには、「その年の運試し」という意味があるようです。すごろくには、元々「盤双六(ばんすごろく)」と「絵双六(えすごろく)」の2種類がありました。盤双六とは、白と黒の石をこまとして、どちらが早く相手の陣地に攻められるか競うゲームです。一方絵双六は、1つのサイコロを振って、絵をかいた紙の上で出た目の数だけ駒を進め、ゴールを目指すゲームを言います。はじめは盤双六が主流のようでしたが、江戸時代頃に絵双六が登場し、現代に至るまでお正月遊びとして親しまれているようです。
遊び方
保育園で遊ぶすごろくは、以下のようなルールに沿って進めましょう。
1.子どもたちでじゃんけんをして、自分のこまを決めます。
2.じゃんけんに勝った人からサイコロを振って、出た目の数だけ進みます。
3.止まったマスにかかれている指示に従います。
4.全員で(1)〜(3)を繰り返し、一番はじめにゴールした人が勝ちです。
すごろくで遊ぶときは、室内の広い場所を確保し、平らな床を使いましょう。人数が多ければ多いほど盛り上がるので、事前にサイコロを振る順番を決めてみんなで楽しんでみてくださいね。 
「双六」はお正月遊びのひとつですが、もともと双六には「盤双六」 と「絵双六」があり、遊び方も異なります。
盤双六
1対1で対戦し、将棋盤のような双六盤の上でサイコロに従って多数の駒を動かすゲームで、その名の通り双方に6つのマス目があります。その歴史は古く、日本書記に記載(689年付)されていたり正倉院に残されているほどで、江戸時代には嫁入り道具になったほどでしたが、現在はほとんど姿を消しました。西洋版の盤双六が「バックギャモン」というゲームです。
絵双六
この盤双六と区別するためにお馴染みの双六を「絵双六」といいます。絵双六のルーツに「浄土双六」があるのですが、これは極楽浄土への道筋を現したものでした。やがて東海道五十三次を進んでゆく「道中双六」や「出世双六」が江戸時代に人気をよび、お正月などに親しまれるようになりました。大正時代になると『少年倶楽部』などの雑誌の付録として様々な絵双六が登場し、畳めば薄くなって見栄えも良いため、新年号の目玉付録として定着していきました。
サイコロをふってコマを進めるだけのシンプルなルール、勝敗は運次第、何人でも参加できることがお正月の団欒にぴったりで、その年の運だめしにもなります。最近はルーレットを回すものも多くなりましたが、人気の「人生ゲーム」はまさに「出世双六」です! 
すごろくは奈良時代に日本に伝わった、元々は将棋や囲碁のように盤の前に2人が座って遊ぶものでした。しかし徐々にサイコロが使われ始めると、旅や人生にちなんだ「絵すごろく」の人気が高まっていき多人数の遊びに変化したそう。シンプルなルールと大勢で遊ぶことができるので、正月の団らんにはぴったり。勝敗は運しだいなので、その年の運試しとして遊んでみても♪ 
さいころを振り、出た目の数だけ進んでゴールを目指す「すごろく」。ボードゲームの元祖ともいえる遊びです。
由来
すごろくはいろいろな国に存在し、大きく分けて「盤双六(ばんすごろく)」と「絵双六(えすごろく)」の2種類あります。盤の上に置かれた自分の石(駒)を相手の陣地に攻め入るゲームが「盤双六」です。起源は、古代エジプトやローマ帝国といわれていますが、定かではありません。それが中国や日本へと伝わったと考えられています。「絵双六」は、さいころを振り、出た目の数だけ進んでゴールを目指す遊びです。江戸時代には地図の上を道順どおりに進めていく「道中双六」が流行したそうです。また明治時代には、子ども向け雑誌の付録にもなりました。現在の一般的なすごろくは、絵双六です。すごろくは、さいころを振ってゴールを目指すので、運が重要な鍵を握ります。そのため、その年の運試しをするために、お正月にすごろくをしていたのだそうです。
遊び方
スタートからゴールまでの間にコマが書かれた紙を使い、サイコロを振って出た目の数だけ進んで、ゴールを目指します。複雑なルールがないので、小さなお子さんでも楽しめますね。 
双六は、最も古い遊びの一つであり、インドに起こり、奈良時代頃に中国を経て日本へ伝わり、貴族のあいだで盛んに行われました。やがて東海道五十三次を進んでゆく「道中双六」や人生にちなんだ、「出世双六」といったような簡単に遊べるように工夫した絵すごろくが江戸時代に人気を呼び、お正月などに親しまれるようになりました。何人でも参加でき、簡単に遊ぶことができる双六は、お正月に家族みんなで楽しめ、その年の運だめしにもなりますね。 
サイコロをふってコマを進める、すごろく。小さな子どもにも人気の高いシンプルな遊びです。テクニックを必要とせず、サイコロの目にしたがう遊びなので、小さな子どもからおじいさん、おばあさんまで一緒に盛り上がれること間違いなしですよ。新年に集まった家族、親戚みんなで楽しめるお正月遊びです。 

 

●すごろく(双六) 1
サイコロを振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づける盤上遊戯(ボードゲーム)である。
すごろくには二人で対戦する盤双六(ばんすごろく)と複数人が競争して上がりを目指す絵双六(えすごろく)の2種類がある。江戸時代には盤双六と絵双六が共にすごろくと呼ばれていたため、混乱が生じた。盤双六は幕末期に廃れ、現在では、双六と言えばほぼ確実に絵双六を指す。
盤双六​
盤双六(ばんすごろく)は二人で遊ぶボードゲームであり、古い形のバックギャモンの一種である。盤上に配置された双方15個の石をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。片方のプレイヤーは黒い石を、もう一方のプレイヤーは白い石を使う。平安時代は上手が黒とされ、江戸時代には上手が白とされた。
・さいころの目に合わせて二つの石を動かすか、あるいは一つの石を二回進めることができる。後戻りはできない。相手の石が二つ以上あるマス目には進めない。
・石をすべて内地(インナーボード)に入れた段階で勝ち(バックギャモンのベアリングイン相当)。これを「入勝(いりがち)」という。
・相手の石が一つだけ存在するマス目に石を移動した場合、相手のその石を一時的にゲームから取り除くことができる。これを「切る」という。
・切られた石はマス目の外に置かれる。石を切られたプレーヤーは自分の手番が来たとき、切られた石を動かしてマス目に戻さなければ他の石を動かせない。
・相手が進めないマス目を六つ連続で作ることを「蒸す」といい、重要な戦術としていた。(上田竹翁の『新撰雙陸独稽古』明治三十年、青木嵩山堂による)
・ダブリングキューブはない。(ダブリングキューブは1920年代にアメリカで発明された)
源流​
盤双六の起源についてはバックギャモン#歴史を参照。中国にはシルクロードを経由して入ってきた。魏の曹植が盤双六を発明したというのは伝説にすぎない。日本には遅くとも7世紀には中国から伝来した。
隆盛と衰退​
盤双六はゲームの進行に際してさいころによる偶然の要素が大きいため、賭博に用いられた。『日本書紀』によれば、689年12月に持統天皇によって初めての禁止令が出されている。正倉院宝物中には聖武天皇の遺愛品とされる木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)が納められている。また平安時代の白河法皇も「双六の簺(盤双六のさいころ)」を天下の三不如意のひとつとして挙げたとされている。
鎌倉時代の宮廷の実力者西園寺公衡や室町時代の伏見宮貞成親王、戦国時代の山科言継の日記にも盤双六の記録が残されている。
盤双六はかつて上流階級の婦女子のたしなみでもあった。
盤双六は文化文政時代には衰微していた。第二次世界大戦後、舶来のバックギャモンが遊ばれるようになる。
絵双六​
絵双六(えすごろく、繪雙六)というのは、上記の盤双六の影響を受けて発達した遊戯で、紙に絵を描いてさいころを振って絵の上のマスの中にある駒を進めて上がりを目指すものである。ただし、かなり早い段階で(賭博の道具でもあった)盤双六とは別箇の発展を遂げていった。
ただし、最古のものとされる浄土双六には絵の代わりに仏教の用語や教訓が書かれており、室町時代後期(15世紀後半)には浄土双六が遊ばれていたとされる。なお、その名称や内容から元は浄土宗系統の僧侶によって作られたとも言われ、江戸時代の井原西鶴の作品(『好色一代男』など)には浄土双六がしばしば登場する。文政年間の曲亭馬琴の『耽奇漫録』によれば、当時浄土双六には大きく分けて4種類あったとする。ほぼ同時期に書かれた柳亭種彦の『還魂紙料』には、双六の起源について、
1.中国の陞官図の一種である選仏図に由来する
2.天台宗で初学の僧侶の学習のために作成された「名目双六」に由来する
3.熊野比丘尼の絵解に由来する
という3つの説を述べ、選仏図説が一番もっともらしいとしている。
江戸時代の元禄年間には、道中双六・野郎双六(芝居双六)などが絵入りの双六が遊ばれるようになり、後期になると勧善懲悪や立身出世などのテーマ性を持ったものや浮世絵師による豪華な双六も出現するようになる。その一方で、春画などを用いたり、賭博性を持たせた双六も存在したため、天保の改革などにおいては禁圧の対象となっている。
明治時代以後は文明開化・富国強兵をテーマにしたものも現れ、次第に国民教化の手段として用いられるようになっていった。また、児童雑誌の付録として欠かせないものとなった。
戦後、遊びの多様化や社会の変化から双六は衰退したと言われている。しかし、今日のボードゲームやテレビゲームの中にさいころ(あるいは代用品としてルーレット)を用いてゲームを進行させる作品が多く存在しており、これらを双六の進化・発展した姿であると考えることもできる。
なお、絵双六そのものは日本独自のものであるが、西洋にもバックギャモンの影響を受けたと見られる、鵞鳥のゲームと呼ばれる双六に近い趣旨のゲームが14世紀頃から行われており、20世紀に入ってこうしたゲームの影響を受けてモノポリーや人生ゲームが発明されることとなった。
名前の由来​
さいころを2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになった(「雙」・「双」は同じ意味を持つ)という説がある。しかし、日本の遊戯の歴史における先駆的な研究家である増川宏一は、江戸時代以前の日記などの記録類においては誤記と思われる少数例を除けば「雙六」と「双六」の使い分けがはっきりとしていること、日本語以外の言語でも盤双六系遊戯と絵双六系遊戯にはそれぞれ違う単語があてられているのがほとんどであることから、両者は同じ「すごろく」であっても全く別な遊戯であり、雙六(盤双六)に「双六」という表記を用いるのは不適切であると唱えている。
5世紀はじめに漢訳された『涅槃経』に見える「波羅塞戯」(はらそくぎ)が盤双六のことであるという。「波羅塞」はサンスクリットprāsaka(さいころ)の音訳。後に北魏では「握槊」(あくさく)と呼ばれ、南朝では「双六・双陸」(そうりく)と呼ばれた。唐以降は「双六・双陸」と呼ばれるようになった。日本語では古くは「すぐろく」と言った。これは「双六(または双陸)」の漢字音に由来すると考えられるが、「双」を「すぐ」と読むのは異例である(「す」の母音は上古音的であり、また /ŋ/ を「ぐ」のようにガ行で写すのは「愛宕(あたご・おたぎ)」などの固有名詞以外では珍しい)。

 

●双六 2
雙六とも書く。室内遊戯具の一つ。日本には、古く奈良時代に貴族社会の遊びとして行われていた盤(ばん)双六と、江戸時代これに着想を得て子供の遊び道具として発達した絵双六(紙双六)とがある。
盤双六。古代インドに始まり、『涅槃経(ねはんぎょう)』に「波羅塞戯(ばらそくぎ)」とあるのがそれとされる。これが中国に伝えられ、日本には武烈(ぶれつ)天皇時代(6世紀初め)に渡来したのが始めという。スゴロクの語は、朝鮮語のサグロクから転訛(てんか)したものといい、伝来系統が朝鮮半島を経由してきたとも考えられる。『日本書紀』持統(じとう)紀に「三年(689)十二月丙辰、禁断雙六(すごろくをきんだんす)」と禁令が発せられており、この点で当時すでに賭博(とばく)の具として流行していたことが想像される。また一説には、遣唐使吉備真備(きびのまきび)が735年(天平7)に唐土からもたらしたものともいわれる。なお、インドからヨーロッパに伝わったものはバックギャモンbackganmonとよばれる。1712年(正徳2)刊の『和漢三才図会』(寺島良安著)に、双六の文字は2個の賽(さい)の双方に六の目が出れば負けることはないことから名づけられたとある。盤双六の遊び方は、桜、黒柿(くろがき)などでつくった木盤を間にして両人対座し、黒白の駒石(こまいし)各15をそれぞれの陣に並べる。竹または木の筒に入れた2個の賽を交互に振り出し、その賽の目だけ、盤上の区画された線内に駒石を進め、早く敵陣に全部を入れた者を勝ちとする。賽の目の数には21種の変化があり、遊び方は複雑である。盤の形は時代によって多少異なっていたとみられるが、室町時代以後の記録によれば、盤の厚さ四寸(約12センチメートル。四季を表す)、幅八寸(約24センチメートル。八方を意味する)、長さ一尺二寸(約36センチメートル。12か月をかたどる)、縦に12の目を盛って横を三段に分け(天地人になぞらえる)、筒は三寸三分(約10センチメートル。須弥山(しゅみせん)の三十三天を表す)となっている。勝敗の鍵(かぎ)を握るものは二つの賽であり、自由にならぬ賽の運行が射倖心(しゃこうしん)をそそって人心を熱狂させ、「白河院は、賀茂川の水、雙六の賽、山法師、是(これ)ぞ朕(ちん)が心に随(したが)はぬ者と、常に仰せの有けるとぞ申伝へたる」(源平盛衰記)という挿話もある。したがって賭博にも盛んに用いられ、1254年(建長6)成立の『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』(橘成季(たちばなのなりすえ)著)の博奕(ばくえき)の条に「小野宮は、むかし惟高(これたか)のみこ(文徳(もんとく)天皇の皇子)の雙六のしち(質)に取り給へる所なり」とも記されている。戦国時代に入ってからはしだいにこの遊びは衰え、江戸時代中期ころまで行われたが、天保(てんぽう)年間(1830〜1844)になった『柳亭記』(柳亭種彦著)に、「廃(すた)れし遊び雙六なり。予おさなき頃(ころ)雙六をうつ者百人に一人なり、されど下り端を知らざる童はなかりしが、近年もそれは廃れたり」と述べているように、それ以後急激に姿を消した。
絵双六。一枚の紙を線描きでいくつにもくぎり、それにさまざまな絵を描き入れたもの。江戸時代に登場しておもに子供の遊びとして流行し、現在でも行われている。古制の盤双六を源流としながら、子供向きに作り変えられたもので、一つの賽を振り転がし、絵に描かれた「振り出し」から賽の目の数だけ進んで、「上がり」へ早く着くのを勝ちとする。最初は宗教的な名目(みょうもく)双六(仏法双六)で、それが浄土(じょうど)双六となり、さらに娯楽性を加えて野良(やろう)双六、道中双六系のものが相次いで現れた。江戸中期以後には錦絵(にしきえ)版画の興隆に伴って絵双六が発達、振り出しから上がりまで順々に回って進む回り双六や、飛び双六といって賽の目の数によっていくつもの区画を飛び越えたり、また逆戻りしたりする変化を加えたものもでき、子供の正月遊びの道具となった。絵双六からは多くの種類が派生したが、浄土双六のなかから怪異の図だけを抜いて構成した化け物双六の最古のものといわれる「なんけんけれど化物双六」が1731年(享保16)正月吉日上梓(じょうし)となった点からみて、このころから正月の遊戯に用いられてきたと思われる。現在でもこれらの絵双六系のものが正月の遊びとして親まれ、テレビ、漫画などに題材をとったマスコミ双六に人気がある。浄土双六は、絵双六の最初のものといわれ、江戸初期に仏法の名目を初心の僧に教えるためにつくられた。それ以前に、文字で示した名目双六というものがあり、それからこの絵双六となったらしい。南、無、分、身、諸、仏の六字を刻んだ賽を振り、紙に描いた南閻浮州(なんえんぶしゅう)を振り出しに、仏に止まると上がりとする。この系統に野良双六がある。浄土双六に描かれた菩薩(ぼさつ)の絵が野良(郎)歌舞伎(かぶき)の俳優の姿に変わったもの。ほかに名目双六系統に、官職累進の模様を教える官位双六、野良双六の一種で人形見せ物などを絵の題材としたおででこ双六などがあった。道中双六は、東海道五十三次を扱った回り双六の一つで旅双六ともいい、貞享(じょうきょう)年間(1684〜1688)浄土双六に倣ってつくられた。江戸を振り出しに京で上がる仕組みで、絵双六の代表的なものとして人気を集めた。
すごろく(双六/双陸)。二人が盤を隔てて向かい合って座り、交互にさいを振って、出た目の数によって盤上の駒を進め、早く相手の陣に全部入れたものを勝ちとする遊び。インドに起こり、日本には奈良時代に中国から伝来。紙面を多数に区切って絵を描いたものを用い、数人が順にさいを振って、出た目の数だけ区切りを進み、早く最後の区切り(上がり)に達した者を勝ちとする遊び。回り双六と飛び双六とがある。絵すごろく。《季 新年》「—の賽の禍福のまろぶかな/万太郎」
すぐろく(双六)。「すごろく」の古形。「つれづれなぐさむもの、碁、—、物語」〈枕・一四〇〉
双六。現在一般的に双六と呼ばれる絵双六〔えすごろく〕は絵を描いた紙を使い、サイコロを振って出た目の数だけコマを進め、ゴールを目指すという単純な遊びです。現在は絵双六を中心に、日本各地で遊ばれています。
しごろく(双六)。「すごろく(双六)」の変化した語。※太平記(14C後)七「碁・双六(シゴロク)を打って日を過ごし」
すぐろく(双六)。「すごろく(双六)」の古形。※書紀(720)持統三年一二月(北野本訓)「双六(スクロク)を禁め断む」

 

●絵双六
テレビゲーム全盛の今日ではほとんど姿を消してしまった感もあるが、筆者がまだ小学生くらいの頃は、サイコロを振り、出た目の数にしたがって「振り出し」から駒をすすめて「上がり」を目指す絵双六(えすごろく)は、少年雑誌の正月号の付録につきものだったように記憶している。江戸時代、絵双六は錦絵や草双紙とともに、大衆的な出板をする地本(じほん)問屋の主要商品のひとつであった。1832(天保3)年7月1日付の馬琴の手紙には、年末から年始にかけて人気歌舞伎役者が相次いで世をさり、その似顔錦絵(死絵(しにえ))が大流行したために、普段なら大晦日から年始にかけて売れるはずの草双紙や道中双六がまったく売れなかったと書かれている。絵双六は、江戸時代も正月に欠かせない遊びだったのである。
絵双六の歴史は、仏教で説く十界の世界観にもとづき構成した浄土双六が室町期に成立し、江戸時代に入り庶民層に普及、やがて道中双六や出世双六が生み出されたとされている。1707(宝永4)年末上演(『近松全集』巻五による)の近松門左衛門の浄瑠璃『丹波与作待夜(たんばよさくまつよ)の小室節(こむろぶし)』には、大名の姫君に馬子の三吉が道中双六を楽しませる有名な一節がある。「はいしゐ道中すご六。南無諸仏分身と。かいた六字を六角の。さい(骰子)はさくら木……」の詞句からは、浄土双六が母体となって他の主題のものが派生したことがうかがわれる。
江戸後期になり錦絵に代表される木版多色摺の技術が確立すると、絵双六は華やかさを加えるとともに、人気浮世絵師が筆を執って絵画性豊かなさまざまな主題のものが大量に生み出された。
比較的早くに道中双六が生まれたのは、駒をすすめるというゲームの性格が、東海道などの旅を主題とすることに適していたからだが、江戸後期の庶民の旅への関心の高まりとともに、制作点数も増えていったと考えられる。
人生の栄達を主題とした出世双六は、修行を経て「仏」へ到達するという浄土双六の性格を受け継ぐものだが、新春というめでたい時期の遊びだけにとくに好まれたのであろう。武家の出世をテーマにした「御大名出世双六」などその最たる物で、同種のものがほかにもつくられており、立身出世を願う武家社会で好まれたものと思われる。
また、絵双六は全体が数多くのマスに区切られており、一種、「絵尽くし」の観を呈している。江戸時代前・中期には、あるカテゴリーの事物を描き集めた「……尽くし」の形態をとる絵本が数多くつくられ、また幕末から明治初期にかけては、画面を小区画に分けて、それぞれの中に同一カテゴリーの事物を描き込んだ錦絵が数多くつくられたが、そうしたものとの関わりも考えてよさそうである。それらは情報提供や啓蒙といった機能を持っていたが、絵双六もまた同様の役割を果たしていたことが指摘されている。先述の『丹波与作待夜の小室節』の続きには、東海道の宿駅の名とそれぞれの風俗や名物を呼びながら骰を振る様子が語られているが、ゲームを楽しみながら自然と五十三次を覚えてしまうという効能もあったはずである。料理茶屋など江戸の有名な食べ物屋を主題にした「新版御府内流行名物(ごふないりゅうこうめいぶつ)案内双六」なども、名物案内的な性格を持つものといってよい。「春興手習出精(しゅんきょうてならいしゅっせい)双六」は、寺子屋で学ぶ子供の往来物をテーマにしたもので、多分に教育的配慮が感じられる。
江戸末期には、百物語のブームなどを背景に妖怪を主題としたものなども数多くつくられており、「豪傑水滸伝双六」も江戸末期の水滸伝ブームを反映したものである。
このように、絵双六はそれぞれの時期の人々の関心の在処や世の中の流行を映し出す鏡でもあったといえるだろう。
なお、読者の方が遊んだことのある双六のほとんどは、振ったサイコロの目だけ順番に先に駒を進ませる「廻り双六」であろうが、江戸時代に出板されたものには、マスに記された数字が指定するマスへと駒を飛ばす「飛び双六」も多くつくられ、両方の形式が合わさった「飛び廻り双六」や、振出しで駒の進む方面を分けた上でゲームを進める「振分双六」もあった。

 

●文献に見る双六
文献上で双六が初登場したのは、『日本書紀』「 持統三年(689年)十二月丙辰、禁断雙六」 最初から禁令の対象でした。
律令でも禁止されており、『令義解(捕亡律)』を見ますと、賭博行為に対する罰則についての注釈として「謂博戯者、雙六樗蒲之属、即雖未決勝負、唯賭財者、皆定之」 と記載されています。何度も禁令が出ると言うことは、人々がいかにこのゲームに熱中していたかをよく表しています。
文学作品にも 双六に興じるシーンはたくさん登場します。
絵巻物『長谷雄草紙』には文人である紀長谷雄が羅生門で絶世の美女(実は合成人間?)を賭けて鬼と双六を打つシーンがメイン場面として登場します。
『枕草子』では「きよげなる男の双六を日一日うちて、なおあかぬにや、みじかき燈台に火をともして」と、時間を忘れて熱中している姿が描かれています。
『源氏物語』(常夏)では近江の君が侍女の五節の君と双六に興じる様が描かれています。内大臣(かつての頭中将)が外腹の娘である近江の君を引き取りましたが、この姫がなかなかに<おしとやか>でありません。仲良しのしゃれた女房と長々双六を楽しみ、相手に小さい目が出るようにもみ手をしながら「小賽小賽(小さい目小さい目)」と早口に祈る様が描かれています。
「簾高くおしはりて、五節の君とて、されたる若人のあると、雙六をぞ打ち給ふ。手をいとせちにおしもみて、せうさい、せうさいとこふ声ぞ、いと舌疾きや」
対戦相手である五節の君も負けじと
「この人も、はやけしきはやれる、御返しや、御返しや、と筒をひねりて、とみにも打ちいでず」
ただし、これは近江の君がやや品に欠けるとするシーンとして扱われており、貴族社会では碁などと比較して格落ちの遊びと考えられていたと推測できます。
近江の君は(若菜下)でも双六ファンで登場します。
「よろづの事につけてめであさみ、世の言種にて、明石の尼君とぞ幸い人にいひける。かの致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、明石の尼君、明石の尼君、とぞ 賽はこひける。」
世にラッキーパーソンとして有名な明石の尼君の名前を唱えて良い目を願ったのです。根っからの双六好きというイメージなのですね。
『大鏡』には双六が政治がらみで登場します。
村上帝の時、長男の広平親王は民部卿元方の孫でした。当然元方は親王が帝になることを願っています。しかし有力者である藤原師輔の娘安子も懐妊しました。安子が男皇子を産んだとなると師輔の孫として次の帝になることは明らかです。元方は、安子に女子が生まれることを祈りました。
庚申待ちの夜に公卿たちが双六に興じているとき、師輔が戯れに「ご懐妊中の御子が男子であられるなら重六よ出てこい!」と言って賽を振りますと、なんと6のぞろ目が出てしまいました! 師輔は大喜び。周りの公卿たちも驚いて「これは本当に男皇子が生まれるのではないか」と騒ぎました。しかし元方は真っ青です。
結局、安子は無事男皇子を出産し、皇太子になりました。元方はショックのあまり命を失いましたが成仏できず怨霊となって、「あの重六を見て、突然胸に釘を打ち込まれた気分がした」と言った・・・とのことです。
『大鏡』では、道長も双六ファンであったことが記されています。
「ひさしく雙六つかまつらで、いとさうざうしきにけふあそばせ」と道長が政敵である兄道隆を誘って「雙六の坪をめして」遊んだとされます。ついには「この御ばくやうは、うちたたせ給ぬれば、ふたところながらはだかにこしからませ給ひて、よなかあかつきまであそばす」ほど。裸で腰だけに衣類をまとい、夜明けまで徹夜で双六に興じたのです。今ならさしずめ徹夜麻雀といったところでしょうか。トップクラスの公卿も、肩の凝らないお遊びとして双六で遊んだ情景が目に浮かびます。
『源平盛衰記』には、有名な白河法皇の「天下三不如意」である「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ 朕が心に随はぬ者」と遺されています。
『平治物語』には、ルールに係わる興味深い話が登場します。
「ぞろ目」の名称は、1のぞろ目なら「重一」、2のぞろ目なら「重二」などと呼びますが、3と4は「朱三」「朱四」と呼びます。これについて、当代一の物知りである信西が蘊蓄を傾けます。
「昔は重三、重四と言っていたが、唐の玄宗皇帝と楊貴妃が双六で遊んでいるときに、皇帝が重三の目を出そうとして「朕の思い通りになれば五位にしよう」と言って賽を振ったら重三の目が出た。続いて楊貴妃は重四を出そうとして「私の思い通りになれば一緒に五位にしましょう」と言ったところ、重四の目が出ました。二つの賽を五位に叙すこととして、五位のしるしとして何か・・・と考えれば五位の袍は赤衣と決まっています。それならばと、三、四の目に朱をさされました。それ以後、重三・重四を朱三・朱四と呼ぶようになった・・・」というのです。
なお、日本ではぞろ目を次のように呼び慣わします。
重一 (でっち)、重二(じうに)、朱三(しゅざん)、朱四(しゅし)、重五(でっく)、重六(ちょうろく)
時代は下がりますが『徒然草』には、国の運営を双六にたとえて名人の極意を語っています。
「勝とうとしてはダメ。負けないように打ちなさい。どの手を打てば早く負けることがないかを考えて、一目でも遅く負けるようにすべきである。」 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●だるまおとし
上絵のだるまが落ちないよう、小槌で下に積み上げた段をたたいて落とすという遊びです。1人でも大人数でも楽しめます。
由来
だるまは禅宗の祖・達磨大師をモチーフに作られたと言われています。転んでも起き上がることから、お正月に願掛けをしながら、だるまに片目を入れて飾るようになりました。だるま落としのだるまは、転んでも起き上がらないので、転ばないようにと願いを込めて遊ばれるようになったそうです。 
だるま落としのくわしい由来ははっきりしていないと言われています。しかし、だるまは転んでも(落ちても)起き上がらないことから、だるまが転ばない(落ちない)ようにする遊びとして、縁起がよいとされているようです。
遊び方
積み木の一番上にあるだるまを落とさないように、積み重ねてある段を一つずつ横から小槌で叩いて落としていきます。すべて1人でチャレンジしたり、2人で交互に遊んでみたりしても楽しいかもしれません。 
伝承遊び「だるま落とし」の歴史は定かではありませんが、だるま自体は禅宗の祖・達磨大師をモチーフにしています。
だるまは転んでも起き上がることから、お正月にだるまに願をかけながら片目を入れて飾り、願いが叶ったらもう一方の目を入れるもの。毎年大きなだるまに買い換えて、1年の願掛けをするのです。
だるま落としのだるまは転んでも(落ちても)起き上がりませんから、転ばない(落とさない)ようにするわけです。
だるま落としの遊び方・ルール
上のだるまが最後まで落ちないよう、下に積み重ねた段を小槌でたたいていくゲーム。最後までバランスよく保つのが難しく、たたく力や方向を加減しながら一喜一憂するのが楽しいのです。だるまが落ちるまでひとりで打ってもいいですし、複数で交互に打ってもいいでしょう。 
だるまの下に置かれた台をハンマーで叩き落としていくだるま落とし。だるまは禅宗の祖・達磨大師(だるまたいし)がモチーフになったとされています。転んでも起き上がり縁起が良いことから、お正月に願掛けをして片目を入れて飾るようになったといわれます。大人は台を多く・子供は少なく…など、ハンデをつけながら遊んでも楽しいですね。
だるまだと少し見た目が怖いですが、かわいらしいディズニーキャラクターの商品もあります。 対象年齢は10歳〜なので、子供が小さいうちはインテリアとして飾っておいてもいいですね。 
積み上がった木製の玉を、木槌でたたき、1番上のだるまを落とさないようにする遊びです。
由来
そもそもだるまは、転んでも起き上がることから縁起物として知られています。だるま落としで正月に遊ぶのも、だるまを落とさない(転ばない)ようにして、「今年一年難から逃れる(転ばないようにする)」という意味があるようです。ちなみにだるまは、禅宗を広めた人物・達磨大師がモデルですが、だるま落としがいつごろできたのかはわかっていません。
遊び方
木製の玉を積み上げて、1番上にだるまを置きます。このだるまを落とさないように、下に積み重ねた玉を木槌でたたく遊びです。複数でやる場合は、交互に打つとよいでしょう。 
積み重なった積み木の上にあるダルマが落ちないように、積み木を落としていくダルマ落とし。
だるま落としの由来は定かではありませんが、だるま自体は禅宗の祖・達磨大師がモチーフになっています。
だるまは転んでも起き上がることから、お正月にだるまに願をかけながら片目を入れて飾るようになりました。もし願いが叶ったらもう一方の目も入れるそうです。選挙中継のテレビ番組などでよくみる光景ですよね。
ところで、だるま落としのだるまは転んでも起き上がりませんよね。「これでは縁起が悪いんじゃないか」と思うかもしれませんが、これにもちゃんと理由があるんです。
ダルマ落としのダルマは転んでも(落ちても)起き上がらないので、転ばない(落とさない)ようにするんです。最後まで転ばずに落とせたら、「この一年は転ばない(困難が降りかからない)」言うわけですね!

 

●だるま
だるま落としの由来は定かではありませんが、だるま自体は禅宗の祖・達磨大師がモチーフになっています。 だるまは転んでも起き上がることから、お正月にだるまに願をかけながら片目を入れて飾るようになりました。 もし願いが叶ったらもう一方の目も入れるそうです。 選挙中継のテレビ番組などでよくみる光景ですよね。
人々の願いから始まった達磨づくり
現在では日本国内に限らず海外観光客のお土産品として海を渡るようにもなった「高崎だるま」ですが、いつごろから作られているのでしょうか。
今から200年ほど前、天明の大飢饉や災害により国全体が非常に貧しく辛い時代がありました。人々は飢えや流行り病に苦しみ、その頃に病気除けの願掛けとして、また農閑期の農家の副業として少しでも安定収入につながるようにと『少林山達磨寺』の東獄和尚が農民達にその作り方を伝授し始まったと言われています。
そうした当時の時代背景もあり赤い張り子の置物は評判となり、“縁起もの”“福達磨”として生産量も増えてゆきました。昔から邪気を払うと言われた赤色で塗られただるまは人々の祈りや願いを一身に受け、作られ続けててきたのですね。
だるま
「だるま」といえば、日本ではおなじみの存在ですよね。だるまにちなんだ言葉はそれこそたくさん溢れています。
◾だるまさんが転んだ
◾にらめっこ(だるまさんだるまさん、にらめっこしましょ)
◾だるま落とし
でもでも、よーく考えてみてください。だるまって一体なんなんでしょうか? 赤い体に怒ってるようなしかめ面の大きな顔。七転び八起きの象徴でもあり、縁起物としても扱われますが、その正体を知っている人はほとんどいないでしょう。
日本でのだるまの位置づけ
まずはおさらいです。日本ではだるまは縁起物として扱われていますよね。お正月の神社やお寺の屋台なんかでも売られているのをよく目にしますね。その中でなんといっても特に有名なのはだるまの8割を生産しているという群馬県高崎市の「高崎だるま(上州だるま)」でしょう。だるまは選挙の当選時なんかでもよく目にしますが、願い事ができた時に片目に墨で目を描き、その願い事が成就した際にはもう片方の目に墨で目を描くという風習は今だに残っています。私ももうしばらくやってませんが、小さいころに祖母の家などで見かけた気がします。
だるまにはモデルとなる人物がいた
と、ここまではなんとなく知っている人も多いでしょう。ここからもう一歩、足を踏み入れてみましょう。実は、だるまにはモデルとなる人物が存在します。その人物は、なんと日本人ではありません。じゃあどこの人なのか??実はそのモデルの人物、インド人なんです!普通にえっ!てなりますよね。そこで、そのお話を少々したいと思います。だるまのモデルとなった人物は、インド人仏教僧の「達磨」という人物です。読み方はそのまま「だるま」ですね。達磨大師とも呼ばれます。達磨に関しては出自など詳細はよく分かっていないんですが、5〜6世紀に南インドで生まれたと言われています。なぜ達磨が有名になったかというと、彼は中国の禅宗の開祖だからなんです。禅宗とは簡単に言うと、座禅を基本修行とする仏教の一派だと思ってください。達磨は中国へ布教の旅へでます。そこで紆余曲折あるわけですが、結果的に当時の中国王朝で保護され、その名を轟かせることとなります。
日本における禅宗
日本では中国におくれること数百年、13世紀頃の鎌倉時代にやっと禅宗が入ってきます。日本の禅宗では中国の禅開祖である「達磨」が重要視され、達磨をかたどった物が神聖視されます。これが、だるまの原点となります。その他にもお札や掛け軸などもつくられますが、やはり置物というコンパクトで持ち運びも簡単なツールが爆発的なヒットの要因となったのでしょう。
だるまの形の秘密はちょっと怖い
では、だるまはなぜあのような形なんでしょうか??実はちょいと怖い話に由来しています。
まず、色からです。だるまの色は赤色ですよね?これは古来より「赤色」というのは血の色や火の色を象徴する色で、魔除けの効果があると言われてきました。なので、魔除けの意味を全面に押し出して赤色なんです。これは、別に怖くもなんともありません。
問題は顔です。だるまって、顔だけですよね??これにはちゃんとした理由があります。
先ほど述べたように、達磨は禅宗の人です。禅宗は座禅を基礎修行とみなします。もちろん、達磨も座禅で修行をつみました。当時、中国で修行をつんでいた達磨は、「面壁」といい壁に向かって座禅をくみ修行をしていました。しかし、その長さが尋常じゃありませんでした。なんと、九年もの間、面壁をしていたといわれています。これを世に「面壁九年」と呼んでいます。
驚くことなかれ、その間になんと手と足が腐り、もげてしまったと言われています。もはや、苦行中の苦行の域ですよ、これは。
そう、あのだるまは、手と足がありません。つまり、手と足が腐り落ちた姿をそのまま残しているのが、まぎれもないだるまの形なんです。
そんなだるまは今やだるまさんと呼ばれ、日本でとても親しみのある縁起物となっています。せっかくだるまさんを親しむのであれば、そのモデルとなった人物のことも知っておいてあげたくなるのは私だけでしょうか。 
 

 



2022/1
 

 

 
 
 
 

 

●花合わせ 
原則として3人で遊ぶ花札の遊戯のひとつ。手札の花と場札の花を合わせてそれを自分の札とし、得点を競う。別名、ばかっ花。
歴史​
「花合わせ」という言葉は江戸時代から見えるが、古くは花札一般を指したようである。そのひとつの「馬鹿っ花」が代表的な遊び方であったため、「花合わせ」といえば「ばかっ花」のことを指すようになった。
ただし、古い時代の「ばかっ花」のルールは今と異なって単に札の点数を競うものであり、役がないから「馬鹿花」と呼ばれた。昭和以降に他のゲームの影響で役が追加されたが、札の点数と役の点数を両方計算する必要が生じたほか、地域によって役や役の札が違うなど細かい差異もあり(後述)、あまり簡単とはいえないルールになってしまった。
遊び方​
・遊戯は反時計回りに進行する。
・初回の親はなんらかの方法で決める。順に札を切り、めくった月の一番大きい者に決める方法もある。
・親の右隣の人が札を切り、親に渡す。親は全員に手札を配る。手札は各7枚、場札は6枚。配り方は自分の右隣からはじめて反時計回りに4枚ずつまとめて配り、それから場札を3枚さらす。2回目は同様に手札を3枚ずつまとめて配り、場札を3枚さらす。残りは山札として伏せておいておく。
・手札を各5枚、場札を8枚として4人で遊ぶこともできる。場札8枚が多すぎる場合は、場札を4枚とし、手札がなくなった後、山札をめくるだけで一巡するローカルルールもある。
・手札を各10枚、場札を8枚として2人で遊ぶローカルルールもある。
・競技者は親から反時計回りに、順に以下の方法で札を出していく。
1.手札から1枚取り出して場に出す。このとき、同じ札種(植物、月)の札が場札にあれば、2枚は得点となり、自分の脇に置く。なければ場札に加えられる。
2.山札をめくって場に出す。同様に、めくった山札と同じ札種(植物、月)の札が場札にあれば、2枚は得点となり、自分の脇に置く。なければ場札に加えられる。
・手札がなくなったら遊戯終了となり、得点を集計する(役ができたらそこで終わりとするローカルルールもある)。
・柳(雨)のカス札を柳同士以外どの札とも合せられる(札のことを「鬼」と呼び、合せることを「咬む」と表現する)特殊な役割を与えるローカルルールがある(本来は別の「むし競技」or「大阪むし」というゲームで使用されていたルール)。他の競技者に役ができないよう、阻止することができる。
手札に雨札がある場合は任意で使えばいいが、めくり札や場札にあった場合はやや特殊で以下のように成る。
鬼札の出現条件   /   対処法
最初に表にして場にまいた札(鬼つき場) / 親がめくり札を強制的に合わせる(場に他に合う札があっても鬼札を取る)。
「鬼つき場」の状態でめくり札が柳(雨)札 / 鬼札と合わせられないので通常処理、次の人に番が移り、同様にめくり札を強制的に合わせる。
めくり札が鬼札 / 場の札と合わせて持ち帰る、合わせられない場合は捨てて「鬼つき場」状態になる。
めくり札が鬼札だが最後の1枚 / そのまま最後の人が持ち帰って終わる。
なお、この場合、鬼札は本来同グループの柳(雨)の札とは合わせられないことと鬼札と合わされた月の札がそれぞれ1枚づつ余ってしまうが、この場合柳札は「先に柳同士2枚を合わせた人」、鬼札と合わされた月の札は「鬼札を使用した人」が、余った最後の1枚をそれぞれもらえる(流れ込み)。
得点の計算方法​
各々の札の得点(花札の項を参照)と、役の得点によって、以下の計算式で計算する。3人の得点を合計すると0になる。
自分の得点 = (札の得点の合計 - 88) + 自分の役の得点×2 - 他の2人の役の得点の合計
計算式が複雑だが、チップを使うと計算が楽になる。
・札の得点は、88を引いたあとにマイナスの人が2人あったら、2人は自分の負け分の点数を得点がプラスの人に支払う。マイナスの人が1人だけだったら、その人が残り2人にそれぞれの勝ち分の点数を支払う。
・役については、自分の役の得点を他の2人から受け取り、他の2人の役の点数を支払う。
・カスを0点と数え、80点を基準に得点を計算することもある。
・競技者が4人の場合は66点を基準に計算する(カスを0点と数えた場合は60点)。
得点のもっとも多いものが勝ちになり、次の親になる。
ゲームの終了​
何回か遊戯を行って、最終的にもっとも得点の多いものを勝ちとする。
役​
役は代表的なものに限る。点数もここに書かれているものとは異なる場合がある。
役名 / 説明 / 点数
五光 20点札5枚 200点
四光 20点札のうち柳に小野道風を除く4枚 60点
赤短(裏菅原) 松・梅・桜の短冊3枚 40点
青短 牡丹・菊・紅葉の短冊3枚 40点
七短 柳を除く短冊9枚のうち任意の7枚 40点
六短 柳を除く短冊9枚のうち任意の6枚 30点
表菅原 松に鶴・梅に鶯・桜に幕の3枚 30点
のみ(鉄砲) 桜に幕・芒に月・菊に盃の3枚 30点
松桐坊主(三光) 松に鶴・芒に月・桐に鳳凰の3枚 20点
猪鹿蝶 萩に猪・紅葉に鹿・牡丹に蝶の3枚 20点
花見で一杯 桜に幕・菊に盃の2枚 20点
月見で一杯 芒に月・菊に盃の2枚 20点
くさ 藤・菖蒲・萩の短冊3枚 20点
藤島 藤4枚 20点
桐島 桐4枚 20点
雨島 柳4枚 20点
上記は基本的な点数と役であるが、地域によって役や点数・用語などにかなり差異が生じているほか、それらローカルルールが複合していたりする場合があり、このゲームの特徴ともなっている。以下に例を挙げる。
雨島を20点として数えるのではなく、雨島ができたらすべての役を無効にして札の点数のみを計算したり、場自体を流す(勝負なし)というルールもある(この場合も「手役がある場合は手役だけ計算」と「手役も無効」の2パターンがあるので事前に決めておかないと揉める原因になる)。 極端な場合は点数自体は10点と低いが、任意で勝負なしにも出来るというものもある。
ほかに「フケ」「雨入り四光」、「親仲八丁ビキ十丁」「カス13枚」など、地域によって異なる役を認めていることもある。
手札の中にカスが6枚または7枚あったときに、それを「六カス」「七カス」として手役(点数は20点と30点)として公開するというローカルルールもある。さらに、そのときは公開したあと、場札かつ手札扱いになり他の人が取ってもよいというルールもある。
猪・鹿・蝶に似た、「猪・鹿・雁」の3枚で嵐というローカル役がある。嵐が揃うと3人の出来役が全て消え、嵐を揃えた本人に2人から70点が入る。しかし3人の手役だけは記録される。東海地方から関東地方にかけての一部に伝わる。またこれに類似するものとして中部地方などでは「牡丹に蝶」札ではなく「芒に雁」札を「猪・鹿・蝶」の役札としている地域もある。
点数計算の煩雑さを避けるため役を減らし、「ばかっ花」を基本に青短や猪・鹿・蝶など一部の役のみを認める遊び方もある。  
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●トランプ  
1人で遊ぶトランプゲーム
ピラミッド
カードを重ねてピラミッドの形をつくります。一番下の段から、足して「13」になる組み合わせのカードを取っていって、ピラミッドがなくなったら成功です。
四葉(よつば)のクローバー
場札から同じマークでカードの数字の合計が15になる組み合わせをとっていきます。すべての場札をとることができたら成功です。
カップル
カードを並べて同じ数字のカードがあったら「カップル」としてとっていきます。すべてのカードをカップルにしてとりのぞけたら成功です。
ソリティア(クロンダイク)
列の中から数字が続くカードを移動しながら、同じマークごとにAからKまでのカードを集めるゲームです。
戦争(せんそう)
カードを出し合って、カードの数の大小を競い合って、強いカードを出したほうが勝ちです。勝ったほうがカードをもらえて、さいごにカード多く持っていた人のシンプルなゲームです。
2人で遊ぶトランプゲーム
スピード
二人で遊ぶのにピッタリのゲームです。場札に出ているカードに続く数字のカードを手札からすばやく出していきます。相手よりも早くカードを出して、 先に手札をなくしたほうが勝ちです。カードを出すスピードをきそうゲームです。
スコパ
自分の手札と同じ数字の場札を取っていって、自分の前にカードを多くならべられた人が勝ちです。何回かゲームをして、先に点数を11点取るゲームです。
ジンラミー
「ジンラミー」は世界中(せかいじゅう)で人気のある「ラミー」というゲームの1つです。ラミーは、カードを1枚ずつ引いたりすてたりをくり 返して、カードの組み合わせをつくるゲームです。
3人で遊ぶトランプゲーム
ジジぬき
52枚のカードから1枚を抜きます。「ジジ」は1枚だけペアにならないカードです。ババ抜きに似ていますが、どのカードが「ジジ」か最期まで分からないのでスリルがあります。
トランプ10
ババぬきと同じようなルールのゲームです。同じ数字ではなく、数字をたし て10になるカードを2枚そろえてすてます。最後にジョーカーが手元に残った人が負けです。
4人で遊ぶトランプゲーム
ドボン
場札にあるカードと同じ数字かマークのカードを出していって、早く手札をなくした人が勝ちです。カードそれぞれに特徴があるので、有利にゲームをすすめましょう。
みんなで遊ぶトランプゲーム
ページワン
順番に同じマークのカードを場に出していって、早く手 札がなくなった人が勝ちのゲームです。手札が残 り1枚になったら「ページワン」と宣言(せんげん)します。
大富豪(だいふごう)・大貧民(だいひんみん)
前の人が出したカードよりも強いカードを出していって、初めに手札がなくなった人が「大富豪」になります。同じ数字の4枚をいっぺんに出せば「革命」をおこせます。
神経衰弱(しんけいすいじゃく)
場に裏向きにふせてならべたカードをめくって、同じ数字のカードを2枚見つけると、カードがもらえます。みんなで順番にめくって、取っ たカードの枚数が多い人の勝ちです。どこに何のカードがあったか、記憶力(きおくりょく)がためされるゲームです。
ババぬき
時計回りの順番でとなりの人のカードを引いて、自分の手札の数字と引いたカードの数字が合えば、場にすてることができます。みんなでくり返して、先に自分の手札がなくなれば勝ちぬけです。ジョー カーを最後まで持っていた人が負けです。
ブラックジャック
手札2枚の合計が21点をこえないで、親より点数が高くなれば勝ちです。親と子(プレイヤー)でチップをかけて戦います。かけた分だけチップがもらえます。
七並べ(しちならべ)
4枚の「7」を中心に、となりあう6、8から順番にカードを並べていくゲームです。出す順番やパスをうまく使うのがコツです。
ポーカー
5枚のカードを交換(こうかん)しながら、1番強いペアを作るゲームです。チップをかけると面白くなります。
51(ごじゅういち)
手札の合計が「51」になるように集めていきます。ちがうマークが1枚でもあると得点が0になるので注意。相手が集めているマークを予想して、自分のカードを集めましょう。
ダウト
カードを数字の順番に出していって、早く手札をなくした人が勝ちになります。みんなにバレないようにうまくウソをついてカードを出したり、相手のウソをうまく見ぬいたりしてカードをへらしましょう。
セブンブリッジ
麻雀のように「ポン」や「チー」を使ってカードを集めて組み合わせを作りながら、カードを早く捨てた人が勝ちになるゲームです。
ぶたのしっぽ
場にまるく広げたカードを順番に引いて、カードがなくなったときに、いちばん手札の少なかった人が勝ちです。 
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●オセロ 1 
オセロのコツなんてあるのか
誰しもがボードゲームで遊んだ経験があります。すごろくなどのように運の要素が強いもの、逆に将棋やチェスそしてオセロのように戦術的な側面が強いものまであります。将棋やチェスは守り方や攻め方の城跡があるということを知っている人も多いです。では、オセロはどうですか。オセロは覚えるのに1分、極めるのに一生といわれるほど奥の深いゲームです。人工知能がチェスや将棋のプロ棋士に勝ったなんて話もあります。しかし逆に言えば自宅に居ながらそれだけ強い相手と対戦できるようになったとも言えます。奥の深いオセロの基本からコツそして戦術まで詳しく紹介します。
オセロの基本とルール
オセロは2人用のボードゲームです。基本は二人が盤上に交互に石を打ち合います。そして自身の石で相手の石を挟むと色が変わり、最終的に色の多いほうが勝ちとなるシンプルなゲームです。
オセロの歴史
では、オセロの歴史はいつ始まったのでしょう。リバーシという言葉もあるため海外から伝わった歴史あるかなり古いゲームと考えている人もいるでしょう。確かに、大元と言われるリバーシ(Reversi)は海外の物です。しかし、現在一般に広まり、そして大会としても行われるオセロの基本、”初”を作り上げたのは日本人です。オセロの生みの親が日本人ということも驚きでしょうが、実はその開発、発表は1973年です。オセロの名称の由来はシェイクスピアの戯曲「オセロ」からきているそうです。気になる人はシェイクスピアにこれを機に触れてみてはいかがでしょう。
オセロのルール
それでは、学ぶのに1分と言われているオセロですが、コツを知る前にルールを見ていきましょう。隅のないものや、マス目の多いものがマイナー版として販売されていますが、ここでは8×8マスのオセロの盤を基準にして説明します。
基本の配置
オセロは初期の配置として8×8マスの中心4マスに石を配置します。この時、黒と白を2つずつ計4つ配置するのですが、同じ色の石が対角線上に交差するように並べます。そのため、左の手前に何色の石が来ても理論上の変化はありません。しかし日本オセロ連盟では左側の手前は黒と定められています。
ルール
先手は黒です。そこから交互に石を打っていきます。人によって先攻を得意としている、後攻を得意としているはありますが、今のところ先攻、後攻による有利不利はないとされています。石を打てるマスは石を打ったこととで縦、横、斜めに相手の石を挟むことができるマスに限られます。このことを着手するといいます。オセロのルール上、着手できる手がある場合は、石を打った結果不利になるとわかっていても打たなければなりません。また着手できるマスがない場合は、パスとなります。オセロのルールとして、パスの回数に制限はありません。しかし、パスの回数が増えることは後々不利になりますので喜ばしいことではないでしょう。マイナールールでパスの回数を制限したり、着手できない場合は石を置くということもあります。しかしそうなるとコツや戦術も変わってくるのでここでは紹介しません。
勝敗とハンディ
オセロの勝敗はシンプルに盤上にある黒と白の石の数で決まります。両者が着手できなくなった時点で対戦は終了となります。通常はすべてのマスが埋まった瞬間ですが、まれに双方着手できなくなることもあります。8×8マスのオセロの場合は、過半数、つまり32個以上盤上にあれば勝ちとなります。盤上にある石の数で勝敗を決めるため、盤上がすべて埋まっていてどちらも32個となった場合は引き分けとなります。また盤上に空きがある場合は折半となります。多くのボードゲームでハンディがありますが、オセロにもあります。ハンディをつける方法は、対局の開始前に隅にあらかじめ石を置く方法です。1つから4つまで置くことでハンディを調節します。またその場合はハンディを与えた側が先攻で対局を開始します。
勝ち方のコツ
オセロの初心者でも押さえておきたいコツとしてあるものをいくつか紹介します。
まずは隅を大切にするということです。どうして隅を大切にするのでしょう。それはオセロの勝敗が最終的な医師の数によって決まるからです。どんなに序盤や中盤の石の数が多くても最終的に多くなった方の勝ちです。ということは、絶対に取られない石が盤上にある方が有利です。そんな石を確定石というのですが、隅に置かれた石はまさに確定石です。そのため、取れる隅は基本的には取っておくのがコツです。そして、隅が大事だということはつまり、勝つためには相手に隅を取らせないというのが大切とも言えます。隅を簡単には取らせないためには隅の周囲への石の打ち方に注意するということです。隅の大切さを知っている人ならば隅を取られないように気を付けることもできるでしょう。
x打ち
x打ちとは隅の斜めにあるマスに打つことです。ここに石を打つことは危険ということをコツとして押さえておきましょう。なんでかというと、そこに石を置いた場合その対角線上に、相手の石があると簡単に隅を取られてしまいます。辺のマスは辺を取る方法が横のマスからと限られてくるので意識もできます。しかし対角線上の石を常に意識していることは難しく、石をすぐに取り返すことができないことも多いです。x打ちが危険だとわかっていれば大丈夫と高をくくるのは危険です。x打ちをしてしまうと逆にそこばかり意識してしまい、後手後手に回ることになりかねません。初心者のうちはx打ちは危険ということをコツとして押さえておくことをお勧めします。
序盤
オセロの序盤で覚えておきたいコツを紹介します。オセロの序盤のコツは石を取りすぎないということです。オセロの初心者にありがちなのが、序盤から攻めたてて有利にしようとする打ち方です。一見すると理にかなった戦術のように聞こえます。最終的に石が多いほうが勝ちなのですから、取れるだけ取るのがいいという考えでしょう。しかしそこに落とし穴があります。オセロは着手するのに相手の石が必須です。将棋やチェスのように相手がなくて動けるわけではありません。相手の石が少ないということはそれだけ、あなたの着手できる手が限定されてしまうということを指します。また相手にとってみれば着手する手が多くなるということです。このコツを知っているかどうかで攻め方は大きく変わってきます。コツを知っている人は、序盤は相手が起きにくくなるようにそして相手の石を取りすぎないように着手してきます。そんな着手をしているとなくなってしまうのではないかと不安になるでしょう。しかしオセロで盤上のすべての石が一色になることはほとんどありません。よほど大きなミスかレベル差があるときくらいです。
中盤
中盤のオセロのコツを見ていきましょう。中盤のコツは終盤や序盤にも応用できるものが多くあります。中盤がどこからか、厳密な定めはありませんが、盤上に石が15程度あれば中盤と言える段階でしょう。
中割
まずは中割と呼ばれている方法です。このコツは多くの石を獲得するためのコツというよりも、いかに相手の着手の自由を増やさないかということです。中割とは周りをすべてほかの石で囲まれている石のみを返す手のことです。またその石が空きマスに接していても、相手がすぐにアキマスに置けない状況であれば中割が成立します。中割が大切なのは、相手の着手する手があまり増えないからです。手が増えれば増えるほど攻め方が多彩になり、有利になるように意識することができます。しかしもともとの着手できる手が少ないと、打ちたくないところに石を打たせることにつながります。また中割というコツを知っている人の場合は、相手の中割をつぶすということも勝つためのコツになるでしょう。あらかじめその手をつぶしてしまえば相手は中割を打てませんので、あなたの着手数が増える手を打つこともあります。
手数を意識する
手数を意識するとはどういうことでしょう。これはいい着手の場所がない、中割もできない、などというときにも活躍してくれます。ここまで紹介してきたように、オセロの基本のコツは相手の着手を増やさないように意識することです。あなたにいい着手がない場合、どうせ打つならどこでもいいやと打ってはいけません。コツとしてはあまり戦況に変化の出ないマスに打つということです。それは取る石の数や取る場所を意識して戦況に合わせて行います。どうしてこれがコツ方というと、オセロは言って打てば確実に着手できる手が変化してきます。相手が打ってくれれば、いい場所に着手できるということもあるでしょう。
辺の形
オセロは8×8マスの盤上で戦います。隅の周りには辺をなすマスがあります。この辺の形も戦況に影響することがありますので、辺にまつわるコツを見ていきましょう。辺の理想の形は、その辺がすべて自身の色の石であることです。しかしだからと言って、どんどん辺に打っていけばいいということではありません。隅の隣まで安定して取れていればいいですが、隅の隣のマスが空いていたり、辺の中に相手のマスが入っていたりすると、戦局によっては不利になります。たとえ隅を取っていたとしてもその辺に相手の石が入っていると逆側の隅を取られるということもあります。辺を取るときには隅を取られる危険性がないか、相手の石があなたの石のある辺の間に入らないかなどを注意しましょう。
辺への打ち方
では、具体的にどのようなコツを押さえておくと辺を打つときにいいのでしょうか。まずは、辺を打った後に、その隣に相手に石を打たれた場合、難なく相手の石を取ることができるかどうかということです。相手の石を簡単に取れない場合、最悪相手に辺の石を取られてしまいます。また、辺を打つことによってあなたに特があるのかどうかを吟味する必要があります。辺の着手というのは隅につながりやすいということもあり、リスクを伴います。そのため辺に打つというのならばあなたに特があることが前提になります。少なくとも損があるような場合を見分けられるようにしましょう。このコツを知っていれば、相手が辺に石を打ってきても慌てることなく損なのか得なのかを見極めることができます。
終盤
オセロの局面で終盤になったら何を意識すればいいのでしょう。ここからは 終盤に大切になるコツについて紹介します。
数を数える
シンプルでありながら大切なコツであるのが、盤上の自身の色を数えるということです。オセロの勝敗は最終的には色の数できまります。隅を押さえられようと辺を取られようと負けと確定したわけではありません。数を意識で来ていることは終盤では大切なコツです。残り数手となった時ならば、初心者であっても時間をかければどう打つのが最善なのか見えてくるでしょう。そうすれば焦って多くを取れる着手を取って失敗することも減るでしょう。
偶数理論
理論といってもなんとなく理解するためならば計算式も数学の知識もいりません。ここでオセロの原点に立ち返りましょう。オセロは石を置いた時点で確実に相手の石が返ります。つまり、最後の一手を打った人はその分だけ得という考えもできます。この考え方を部分的な空きに当てはめたのが偶数理論です。偶数個の空きと奇数個の空きがあった場合、奇数個の空きにあなたが打つと、相手はどうあっても最後の一手まえを打つことになります。そうなると部分部分で、あなたが最後の一手を打つことができます。
上級者が使うテクニックと必勝法
上級者も基本的なコツは初心者が使うのと一緒です。しかしこれに加えて、相手が不利になるように、少なくとも有利にはならないように考えて手を打ってくることができるのが強みです。上級者の強みはその経験の多さと、読みの力です。読みとは、戦局に合わせて何手か先まで考える力のことです。当然読みが凄ければその分オセロには有利に働きます。
コツを覚えてオセロを楽しく
ここまでオセロの基本やコツについて紹介してきましたが、オセロの歴史には驚いた人もいたでしょう。最初にも述べたようにオセロはルールはシンプルです。しかし極めようとすれば奥が深くかなりの時間を有するでしょう。コツを知っているとオセロをするときの対戦の見方が変わるでしょう。また今まで勝てなかった人にも勝てるようになることもあります。とはいえ、やはりゲームは楽しんだ方が得です。勝ちにばかりとらわれずに、思いがけない手に感動したり、対戦を楽しみましょう。  
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●オセロ 2 
オセロのルール
初期配置
ゲーム開始時の石の配置は図のようになります。黒白 2 個ずつクロスさせ、黒が左手前になるように配置します。仮に黒と白が逆でも理論上は何も変わりはないのですが、日本オセロ連盟 ではルールとしてそう定めています。
先手(せんて)
黒が先手です。つまり一手目を打つのは黒です。一手目は d3、 c4、 f5 または e6 の 4 箇所打てるところがありますが、対称形なのでどれも同じです。一般に解説書では、一手目は f5 に打つように統一されています。
パス
打てる箇所がない場合パスになり、相手の手番になります。パスは何回でも出来ます。パスを 3 回したら負け、というようなルールはありません。ただし何回もパスをさせられるようなゲームでは、恐らくそのまま進んでも負けます。
着手(ちゃくしゅ)
打てる箇所がある場合は必ず打たなければなりません。盤上のマスに故意に触れた場合、 そこが着手不可能でない限りそこに打たなくてはなりません。
勝敗
双方が打てなくなったら(通常は盤面が全て埋まったら)ゲーム終了です。盤上に空きがある場合折半します。石の多い方が勝者となります。大会によっては、勝敗だけでなく「何個石を取ったか」が順位を決定する要素になる場合があります。
オセロ用語
オセロに必要な道具
オセロゲームに最低限必要なものは、オセロ盤と64枚の石です。 コマと言う人もいますが、正式には「石」と呼びます。英語ではそれぞれ Othello board、 Disc です。
盤上の各マスの呼び方
盤上の座標は左上を原点として、横方向を a〜h、 縦方向を 1〜8 で表します。つまり左上の隅はa1、右下隅は h8 という具合です。 それぞれ「エーいち」「エッチはち」と読むのが普通です。「エイワン」「エイチエイト」と言っても良いのでしょうが、あまりそう言う人はいません。
また図に示したように、各場所に特別な名前のついたものもあります。隅の隣を C と言い、その隣を A、その隣を B と呼びます。隅のななめ隣 は X または星と呼ばれます。また、A の位置に打つことを「A 打ち」と言います。
もう少し大きな分類では、中央の 4×4 の16マスをボックスと言います。 その 1 つ外側、すなわち b 列、g 列、2 行、7 行から C と X を除いた部分を中辺と呼びます。 一番外側は辺と呼びます。
解説書によく出てくる用語
以下に解説書によく出てくるオセロ用語を示します。オセロプレイヤの間ではごく普通に用いられる言葉ばかりですので、なんとなくでも意味を覚えておいて下さい。
用語 / 意味
好手(こうしゅ) / 良い手
悪手(あくしゅ) / 悪い手
ブラックライン / h1-a8 の対角線。左下がりの対角線。
ホワイトライン / a1-h8 の対角線。右下がりの対角線。
敗着(はいちゃく) / 負けを決定付ける悪手
中割り(なかわり) / 内側の石を返すこと。中盤の手筋の 1 つ。
一石返し(いっせきがえし) / 中盤の手筋の 1 つ。相手の石を 1 つだけ返すこと。

 

オセロの基礎
オセロの基本中の基本
ここでは、オセロの一般的な考え方について学びます。
隅は大切
正解は a8 です。基本的に隅が取れる時は取るべきと覚えておいて下さい。図の局面では、もし黒がa8を取らないと次に白にa2と打たれてしまい、折角の隅が取れるチャンスを棒に振ることになってしまいます。
黒がa8と隅を取ったのが図 2 です。一度隅を取ってしまえばその石は絶対に相手に取られることはありません。また、隅の石から連続している自分の石(図2 では a3〜a8 までの 6 個の石)も同様に絶対に相手に取られることはありません。このような「絶対に相手に取られない石」を確定石と呼びます。オセロは「終局時の石の多さを競うゲーム」ですから、絶対に相手に取られない確定石が増えることが良いことであるのは言うまでもありません。
図 2 では、以降黒は b7 や h8 に打つことができ、こうなると 7 行、8 行及び b 列までが黒の確定石になり、もはや勝負有りというところです。
Cは危険、Xは論外
隅は取った方が良いということがわかりました。ということは、隅を取られるのは悪いことであるとも言えます。では隅を取られないようにするにはどうしたら良いか。隅の隣に打たなければ良いことになります。よって、隅を取られないようにするためにはむやみに C や X に打たないようにするのが良さそうです。
それではまず、なぜ X に打っては悪いのかを見てみましょう。
右図は黒が何も考えずに b7 の X に打ってしまった局面です。さて、白はどこに打ったら良いでしょう。
今はブラックライン(h1-a8の対角線)が全て黒なので白はa8の隅を取ることが出来ません。それなら白はブラックライン上に白石を作ってあげれば良いわけですね。例えばg5に打てばOK です。ブラックライン上のd5を白にすることが出来ました。これで黒が次にどこに打っても白は次の手でa8の隅を頂くことが出来ます。
一般に、何も考えないで X に打つとこの例のように簡単に対角線を切られ(相手の石しかなかった対角線に自分の石を作ることを「対角線を切る」と言う)、簡単に隅を取られてしまいます。
ということで、「考え無しの X 打ちは論外」ということになります。
次はなぜ C 打ちが危険なのかを見てみましょう。ここでは特に「単独 C 打ち」について見てみたいと思います。
右図は黒が考えなしにb8の単独 C 打ちを実行したところです。ここで白が適切にとがめると、なんと数手後にa8の隅を取ることが出来ます。
黒のこの悪手(単独 C 打ち)をとがめる白の一手はf8です。ここでは「相手が単独 C 打ちしたら反対側の A に打つ」とでも覚えておきましょう。
それでは、白が f8 に打った後の全ての展開を見てほんとにa8の隅が取れるのか見てみましょう。
黒がe8と来た場合、白はc8と応じます。これで黒が次にどこに打っても白は次の手でa8の隅が取れます。
黒がd8と来た場合、白はc8にもぐり込みます。これで白は次の手でa8の隅が取れます。
黒が下辺以外のところに打った場合、白はd8に打ちます。次に黒がどこに打っても白はc8に打ってその次にa8の隅が取れます。
おわかり頂けたでしょうか。読んだだけではこの「相手が単独C打ちに来た時のとがめ方」が理解出来ない場合には、実際に盤を使って図5〜図7を実際に並べてみて下さい。
単独 C 打ちを行うと必ず隅を取られてしまうということではありませんが、上のような手筋で隅を取られてしまう場合が多々あります。ですので、ここでは「単独 C 打ちは危険」と覚えておいて下さい。
石の多い方が不利
多くの初心者が持ってしまう誤解があります。それは「とにかく石が多い方が有利」と思ってしまうことです。実際はそれとは逆で「石の多いほうが不利」「石の少ない方が有利」である場合がほとんどです。
では図 8 の局面で考えてみましょう。黒番です。どちらが有利と言えるでしょうか?
この局面は圧倒的に黒優勢です。現在の石の数は白の方が圧倒的に多いですが、そのせいで打てる箇所数が黒の方が圧倒的に多くなっています。多くなっているというよりも、白は打てるところがありません。
オセロでは、一般に「打てる箇所数の多い方が有利」と言えます。「石の数」ではなく、重要なのは「打てる箇所数」です。
せっかくですので、図 8 からどのように進むか見てみましょう。黒番が有段者であれば、恐らく図9 の 1〜14 のように進んで白は全滅します。この14手のうち白は 2 回しか打っていません。なぜなら打てるところがないからです。さらにたった 2 回の着手さえも、そこしか打てるところがなく嫌々打たされています。
このように、序中盤で大量に石を取ってしまうと打てるところがほとんどなくなってしまい、パスや指定打ち(1箇所しか打てる所がない状態)になってしまいどうすることもできなくなってしまいます。
重要なのは打てる箇所数
右図は黒番です。さて、どちらが有利でしょうか。
石が多いのは白だから黒が有利なのでしょうか。この場合はそうではありません。圧倒的に白有利です。そのわけは打てる箇所数にあります。白は左側から上側にかけていくらでも打てる箇所があるのに対し、黒はb7とg7の 2 箇所しか着手可能箇所がありません。現在黒番なので、黒は嫌でもb7かg7に打つほかありません。b7に打てばa8の隅を取られ、g7に打てばh8の隅を取られてしまいます。
この局面の黒の問題は、左側や上側で自分の石が全て外側にあることです。その為に左側や上側に打てるところがありません。中盤戦術論のところで詳細に触れますが、オセロでは自石が内側に固まるよう、外側に壁を作らないように気をつける必要があります。それはすなわち、自分の打てる箇所を増やすことが目的です。
まとめ
1.隅をとることは重要
2.確定石を増やすことは重要
3.考え無しに X 打ちをしない
4.単独 C 打ちは危険
5.打てる箇所が多くなるようにする
6.自分の石が内側に固まるよう努める

 

中盤戦術 1
オセロの中盤戦術
ここでは、オセロの中盤戦術について学びます。中盤戦術は序盤や終盤にも利用可能なものが多く、とても大切です。中盤の各種手筋をしっかりと学んで下さい。
中割り(なかわり)
オセロの基礎のところで書いたように、オセロで重要なのは自分の打てる箇所を増やす(減らさない)こと、相手の打てる箇所を増やさない(減らす)ことです。ここで説明する「中割り」は、相手の手を増やさないための重要な手筋です。
例えば図 1 の局面で白がd6に打つのが中割りです。この手によって白が返すのはe5の石で、このe5の石は周りを全て他の石によって囲まれています。このような「周りを全て他の石で囲まれている石のみを返す」手を中割りと呼んでいます。ちなみに英語では「Perfect Move」と呼びます。
図 2 ではどこが中割りの手と言えるでしょうか。ここで白番だとすると、上の定義の「周りを全て他の石で囲まれている石のみを返す」手は存在しません。ここでは A のところに打つような手も「中割り」と呼びます。A に打つことによって返す石はe4の石ですが、この石は完全に囲まれてはおらずf3の空きマスと接しています。しかし、黒は現在そのf3に打つことは出来ません。
このように、「返す石が空きマスに接しているけれども相手がすぐにはそこに打てない」ような場合にも一応中割りと呼び、上で説明したPerfectな中割りと同様に良い手です。
ちなみに図 2 で黒番だとすれば、B や C で示したところが中割りの手になります。
相手の中割りを消す
慣れてくれば中割りの手を探すのはそう難しいことではありません。そこで次に重要になってくるのが「相手の中割りの手を消す」ということです。相手に中割りの手がなければ、相手はどこかに中割りではない手を打たなければならず、それはすなわち自分の打てる箇所が増えることになります。
さて、右図の局面で白番です。どこに打ったら良いでしょうか。
中割りの観点で行くと A (d6) が良さそうです。また、B(g4) や C(g6) も中割りと言えそうです。一体どこに打ったら良いのでしょうか。
ここでは相手の立場に立って考えてみます。もしここで白が A と打ったら黒は次にどこに打つでしょう。中割りの観点で行くと D (d3) に打ってきそうですね。
では白が A ではなく B に打った場合を考えましょう。この場合も次に黒は D に来るでしょうか。いいえ来ません。なぜなら白が B に打つことによってf5の黒石が白になり、黒の D の手を打てなくしているからです。
白はこのg4の手によって、黒の中割りの手を消すことに成功しました。これが何を意味するか。自分が中割りを打ったということは相手の打てる箇所を増やさないことに成功し、相手の中割りを消したということは相手の打てる箇所を減らすことに成功したと言えます。
些細なことに感じるかもしれませんが、これが実は大きいのです。相手の中割りを消すということは、自分が中割りの手を打つのと同じ位の価値があります。つまり中割りを打ちながら相手の中割りを消すということは普通の中割りの 2 倍くらい価値があると言えます。
中割りの手を作る→中割りの手を消す応酬
実戦では、お互いに中割りを消したり自分の中割りを作ったりの応酬になることが頻繁にあります。図 4 の局面からどのように展開するか例を見てみましょう。
黒番です。まず相手のことを考えます。白にとってみればd3においしい中割りの手が転がっています。黒としてはそれを邪魔してやりたい。そこでg5に打つことにしました(図5)。
白はどうしてもd3に打ちたいのでd3の手を作ることにしました。そこでg4に打ちました(図6)。
しつこい奴めぇ、と思いながら黒は白のd3の手を再び消すべくg6に打ちました(図7)。
白はひとまずd3の手は諦めてd6の中割りの手を打ちました(図8)。
この 4 手の中に、それぞれ意味が込められているのが理解できたでしょうか。単に中割りの手を打つというだけではなく、自分が次に中割りすることを考えたり、相手の中割りを消すことを考えてお互いに着手しています。
一石返し(いっせきがえし)
中割りと共に中盤戦で大切な手筋が一石返しです。
右図で黒番。さてどこに打つのが良いでしょうか。おいしい中割りの手が見つからなければ、中割りを作る手も見当たりません。更に白の C の中割りの手を消すことも出来ません。
このような時に様子を見る目的で1石のみ返す手を打つことを「一石返し」と呼んでいます。この局面で言うとAのところに打つのがそれです。とりあえず一石だけ返して相手の手番にすることで、相手もどこかに打つわけですから何らかの手が生まれることが期待できます。
例えば黒が A に打った後に白が C の中割りの手を打ったとすると、白の C の手によってe6の黒石が白になりますから、今度は黒としては B に打ちやすく(f5の石が返らないから)なります。
手を稼ぐ
オセロで重要なのは「打てる箇所数」であることは既に書きました。打てる箇所が少なくなってしまうと、例え嫌々でも X 打ち等の打ちたくない手を打たなくてはならなくなってしまうからです。
さて図 9 に戻りますが、ここでは A の一石返しが良いということを上に書きました。では、なぜ B に打ってはいけないのかを考えてみて下さい。
図 9 で B に打つとどうなるでしょう。f3、 f4、 f5 の 3 つの石を返さなくてはなりません。しかもこれらの石は内側にはありません。これによってどうなるかというと、黒は A のところに打てなくなっています。おまけに今までは打てていたg5にも打てなくなっています。
つまり A から始めればその後 B にも打てるのに、先に B に打ってしまうと A に打てなくなってしまうということです。些細なことに感じられるかもしれませんが、こういう事の積み重ねがとても大切です。
これは自分自身で手損(てぞん)をしています。正しく A から始めれば 2 手打てていたところを 1 手しか打てなくしてしまったわけですから、差し引き 1 手損の悪手と言えます。
「2 回にわけて打てる場合は 2 回にわけて打つ」ということを覚えておいて下さい。
手を渡す
しつこいようですが、オセロで大切なのは「打てる箇所数」です。いかに自分の打てる箇所を増やし(保持し)相手の打てる箇所を減らすかが重要です。
これを実現する一つの方法として「局面に殆ど変化を及ぼさずに相手の手番にする」ことが挙げられます。
右図で黒番です。もし白番だったらb7やb8やg7などのただで黒に隅を献上するような手しかなく、黒必勝なのですが. . .。このような時は、黒は左側の壁を簡単に破ってはいけません。壁を破ることによって白に手が生まれてしまうからです。ここでは黒h2が良いのです。この黒h2によって白が新たに打てるようになったのはg2とh3。白がg2に打てば黒はh1の隅が頂けるし、白がh3に打てば黒h7と右辺を取って再び白番になります。
この黒h2のような「局面に殆ど変化を及ぼさずに相手の手番にする」ことを「手を渡す」と言います。特に図のような相手が手詰まり(相手に隅を献上するような悪い手しかない状態)寸前の状態で「手を渡す」ことが出来れば勝ったも同然です。
手得/手損
右図の局面で黒番です。黒はどこに打つべきでしょうか。
この局面のポイントはずばりh3です。ここに黒が打つか白が打つかでこれからの展開に大きな差が出ます。
まずこの局面で黒がh3に打たずに左側に打った場合を見てみましょう。例えばb3に打ったとします(図12)。そこで白はh3に打ちます。(図13)。黒はまた左側に打たなければなりません。例えばb5に打ったとしましょう(図14)。
では今度は図11の局面で黒がh3に打った場合を見てみましょう。
黒が先にh3に打ちました(図15)。白は上壁を破りたくないのでh2と右辺を取りました(図16)。黒はb3に打ちました(図17)。
図14と図17を見比べてみて下さい。話を簡単にするために右辺の形の違いを無視して考えれば、違うのは左側の状態です。図14の方が黒いですね。それもそのはず、図17では黒はb3にしか打っていないのに対し、図14ではb3とb5の 2 手打たされているからです。
ポイントはどこだったかと言えば、それはh3の手です。図12〜図14の進行では白のみが右辺(つまりh3)に打っています。黒から見れば−1。一方図15〜図17の場合では黒と白がそれぞれ一手ずつ右辺(黒がh3、白がh2)に打っています。黒から見れば±0。つまり図12〜図14の進行では、黒は右辺で 1 手損したと言うことが出来ます。白の立場で言えば、黒の悪手のおかげで 1 手得したと言えます。
何度も言うようにオセロで大切なのは打てる箇所数。上の図12〜図14のような小さな手損を繰り返すと、あっという間に手詰まりになって負けてしまいます。全てのポイントにおいて「自分が何回打って相手が何回打つ」ということを良く考え、手損をしないように気をつけて下さい。
まとめ
1.中盤の基本は「中割り」
2.常に先を考えて「自分の中割りを作る」ようにする
3.常に相手のことも考えて「相手の中割りを消す」ようにする
4.手を稼ぐことを常に考える
5.良いタイミングで「手を渡す」ことを考える
6.「手損」の積み重ねが手詰まりを招く

 

中盤戦術 2
オセロの中盤戦術〜辺の形
ここでは、オセロの中盤戦術論の一つとして、辺の形について学びます。
辺の形
辺の形の良し悪しを覚えましょう。
右図上辺の形を山と呼びます。C から反対側の C まで 6 個の石が連なった状態です。この形は安定しており、一般に良形であると言われています。
右図左辺の形をブロックと呼びます。安定している形ではありますが、隣の辺の形も関係して悪く働く場合もあります。
右図右辺の形を爆弾と呼びます。内側にある方が良いのか外側にある方が良いのかは一概には言えません。
右図下辺の形をウィングと呼びます。一般に悪形です。
ウィングは悪形
ウィングについて見てみましょう。右図の局面(右上半分は省略)で黒番です。下辺に白のウィングがあるので攻撃してみましょう。黒はb7に打ちます(図 3)。白がa8の隅を取ったとします(図 4)。黒はb8にもぐり込むことが出来ます(図 5)。
さて、この攻防で得をしたのはどちらでしょう。
まず手得の観点で考えてみましょう。左下の 3 個空きに対して、黒は 2 手打って白は 1 手打ちました。差し引き黒が一手得したことになります。
確定石の観点で考えてみましょう。白はa8の隅を取ることで、左辺の白石を白の確定石にすることが出来ました。一方黒はb8にもぐることが出来たために以降h8の隅を取って下辺を黒の確定石にすることが出来ます。またh8を起点として右辺にも確定石を増やすことができます。
つまりこの 3 手によって、黒は手得という意味でも確定石という意味でも得をしています。これがウィングが悪形と言われる所以です。
この例では白がa8の隅を取ったのが大失敗でした。隅をとらずに他のところに打てば、白としては単に一手損するだけで済んだのです。
山は良形
ウィングは X 打ちされても隅が取れない、また隅を取ると相手にもぐられ反対側の隅を取られてしまうという意味で悪形であることを上で学びました。
では山はどうなのか見てみましょう。右図(上半分は省略)では下辺に白の山があります。黒は上のウィングの例のようにここを攻撃することは出来るでしょうか。出来ませんね。黒がb7と X 打ちをしたら白は単にa8の隅を取れば良いし、黒がg7の X 打ちをしたら白は単にh8の隅を取れば良いだけです。
このように、山は相手に X 打ちをされても単に隅を取れば良い、という意味で良形と言えます。
ブロックは普通
山は良形とかウィングは悪形とか簡単に言ってしまいましたが、実際のところは隣接する辺の形や中辺の状態によって評価はころころと変わります。
このブロックも一般に悪い形ではありませんが、隣接する辺の形によっては悪く働く場合もあります。このあたりの隣接する辺との関係も交えた考察はかなり複雑になってしまうため中級者の為のオセロ講座でやることにして、ここではブロックが悪く働く例を見ることにしましょう。
図7(右半分は省略)を見て下さい。黒番だとします。ここで図8のように黒がb7の X 打ちを敢行、白は喜んでa8の隅を取り、黒はa7にもぐります。これで図9のようになります。
この後右側で数手の攻防があり、また黒番になったとします。
黒は今度は図10に示す手順で同様に「X 打ち→隅を取らせ→a2にもぐり込む」ということが出来ます。
この手順の後の局面が図11です。白はa1とa8の両方の隅が取れたにも関わらず a 列の中身を黒にごっそりと取られてしまいました。またこの手順中、黒は全部で 4 手打っていますが、白が打ったのは 2 手のみです。つまりこれによって黒は 2 手得しながら左辺を確保することに成功したと言えます。
この例のように、ブロックを作った隣の辺も自分が取っており、そこに3個空き(隅、C、X)が出来てしまうとブロックは悪く働く場合があります。
連打に気を付けよ
ウィングやブロックを使って「X 打ち→隅を取らせる→もぐる」という手順を紹介しました。しかし隣の中辺の形によっては最後の「もぐる」が出来ない場合があります。もしもぐれないと隅を取られた上に相手に 2 手を献上することになってしまい、大変なことになってしまいます。ですから次に書くことをしっかりと理解して、X 打ちを実行するときは細心の注意を以って行って下さい。
図12(右上は省略)を見て下さい。黒番です。左辺に白のブロックがあり、下辺には白の山があります。図 7 と似たような感じです。では、「ブロックは普通」の項目で学んだ「X打ち→隅を取らせる→もぐる」が実行出来るか検証してみましょう。
黒がb7の X 打ちを行います。図13のようになります。ここで白がa8の隅を取ってくれれば黒はa7にもぐり込むことが出来てめでたしめでたしなのですが. . .。7 行に注目して下さい。黒がb7の X に打ったことによって、7行が全て黒石になってしまっています。これはすなわち、白が図14のようにa7に打ってもb7の石を返さなくて済むということです。図14のようになってしまうと黒はどうしようもありません。黒はb7の X に打つことによって、白にa7、 a8を連打する権利を与えてしまったことになります。
このように、X 打ちすることによって中辺が自分の色で一色になってしまうと、相手に「C打ち→隅取り」の連打を与えてしまうことになるということを覚えておいて下さい。
次に連打に気を付けろパート 2 としまして、中辺が相手の色一色の場合も見てみましょう。
図15の場合はどうでしょうか。図12と殆ど同じですが、下辺の中辺が白一色です。
b7の X 打ちを実行してみましょう。図16のようになります。そして白がa8の隅を取ると図17のようになります。さてと、a7にもぐりま. . . あ、もぐれない!! 7 行が白一色であるため、黒はa7にもぐることが出来ません。
これでは先の例と同様で、黒はb7の X に打つことによって、白にa8、 a7を連打する権利を与えてしまったことになります。
このように、中辺が相手の色で一色になっているところに X 打ちをしてしまうと、相手に「隅取り→C打ち」の連打を与えてしまうことになるということを覚えておいて下さい。
爆弾で連打の危険激減
爆弾があると、連打の危険が激減します。特に自分の石が内側にある爆弾では、連打の危険がなくなります。
図18は図13の左辺のブロックを爆弾に変えたものです。黒がb7の X 打ちを実行したことによって 7 行が黒一色になってしまいましたが、この場合白は連打できるでしょうか。
左辺がブロックだった場合には白はa7→a8と連打をすることができましたが、この場合は白がa7に打ってしまうと黒にa8の隅を取られてしまうため出来ません。
中辺が相手の色一色バージョンも見てみましょう。
図19は図16の左辺のブロックを爆弾に変えたものです。7行が白一色であるため、左辺がブロックの場合には白がa8の隅を取った後に黒はa7にもぐることができませんでした。しかし図のように左辺が爆弾であれば、a5の黒石のおかげでa7にもぐることが出来ます。
このように爆弾があれば、X 打ちした後に相手の連打を恐れる必要がなくなります。
双方 C 打ち形
辺の形で他に知っておきたいものとして、双方 C 打ち形があります。お互いに C 打ちをしており、間に 1 マス空きがある形です。
右図(上半分は省略)の下辺の形が双方 C 打ちの形です。空きの部分(図で言うと A で示したところ)に打てるかどうかが重要で、自分がその空きに打てれば、相手のウィングを攻撃するかの如く X 打ちで攻撃することが出来ます。右図では黒からも白からも A のところに打てるので、黒も白も X 打ち攻撃をすることが出来ます。
では、黒がこの辺を攻撃する様子を見てみましょう。黒はb7の X 打ちをしました(図21)。白は何も考えずにa8の隅を取りました(図22)。黒はd8にもぐりました(図23)。
さて、何が起こったのでしょうか。白はa8の隅を取り、左辺を確定させることが出来ました。一方黒はd8にもぐることに成功したので将来h8の隅を取ることが出来ます。つまり黒は下辺を取りながらh8の隅が取れるのです。隣の辺(この例では左辺や右辺)の形も関係するので一概には言えませんが、一般にこの下辺の攻防は黒が得したと言えます。実はこの形はウィングと同様、相手が X に打ったからといって簡単に隅を取ってはいけない形なのです。
今は黒が双方 C 打ち形を攻撃する様を見ましたが、同様の方法で白も攻撃することが可能です。図20の局面で白g7とX打ちをするのがそれです。その後もし黒がh8の隅を取った場合にはどうすれば良いか、御自分で考えてみて下さい。
まとめ
1.ウィングは悪形
2.X 打ちの時は相手の連打に気を付けよ
3.爆弾は連打の危険が少ない

 

中盤戦術 3
オセロの中盤戦術〜辺回りの打ち方
ここでは、オセロの中盤から終盤にかけて重要な辺回りの打ち方について学びます。
辺への足の下ろし方 〜 A打ち
中盤では、辺での攻防が大きなポイントになってきます。まず初めに、全く石が無い辺上に対してどのような手を打つのが良いのかを見て行きましょう。
右図(上半分は省略)を見て下さい。黒番です。ここで下辺に打つとしたらどこに打つのが良いでしょうか。
この形では、下辺に打つとしたら黒は絶対に A (c8) です。なぜなら、将来的に Aの頭(c7)にも黒が打つことが出来るからです。
では、なぜ B(d8)ではいけないのでしょう。それは白にc7に打たれてしまうからです。黒がc8から始めればc7も黒が打てるのに対し、黒がd8から始めると白にc7に打たれてしまうのです。これでは明らかに手損ですね。
黒は A に打つのが良いとさらっと書いてしまいましたが、実は重要なポイントについて触れていません。その重要なポイントとは、黒が A に打った後に白が B と打ってきても黒は難なくe8と辺が取れるということです。「難なく」とは、ここでは「左上斜め方向の石を返さなくて済む」という意味です。
比較するために図 2 を見てみましょう。これは図1のb5の白石を黒に置き換えたものです。この場合、黒のA(c8)の手はあまり良い手ではありません。
ちょっと見てみましょう。黒が c8 に打ちました(図 3)。白は d8 に打ちました(図 4)。黒は e8 と辺を取りました。(図 5)。
次は白番になります。図 1 の場合は黒がc7に打てたのに、この場合だと白にその c7 に打たれてしまいますね。
ここが重要です。自分が辺に打つ時は、その後相手にその石のすぐ隣に打たれた場合(図4の白の手)に難なく辺を取ることが出来るかどうかが重要です。図5のように辺を取ると斜めの石まで返ってしまうような場合には、一般に図2の時点で辺に打つことをやめるべきなのです。
手得の観点で考えれば黒白共に 2 手ずつ打てるのでイーブンです。しかし黒は下辺を取らされています。おいおい説明して行きますが、「辺を取る」ということは将来的な手損に繋がります。ですから、手得なく辺を取ることは良いことではありません。
辺への足の下ろし方 〜 B打ち
今度は「良い B 打ち」のパターンを覚えて頂きます。右図(上半分は省略)で白番です。下辺に打つとしたら、白はどこに打つのが良いのでしょうか。
正解は e8 の B 打ちです。次に黒が f8 と来た場合には、白にはc7の手が生まれます。また黒がc8に来た場合には、白d8→黒f8→白c7と、黒に辺を取らせながら黒に手を渡す(黒番にする)ことが出来ます。
ちなみに、右図の局面で白が f8 に打つのは大悪手です。e7とf7の両方の石を返してしまうことで、下側が真っ白になってしまいます。真っ白になってしまうということは、これ以降白は下側に打てなくなってしまうということです。
図 6 を良く見て下さい。これは図 2 と全く同じ形ですね。この図の7行の状態を良く覚えておいて下さい。一般にこの形は、黒はc8のA打ちがしたく、白はe8のB打ちがしたい形です。上で説明したようにb5の石の色によっては黒が c8 に打つのは好ましくない場合などもありますが、一般論として覚えておいて下さい。
置き打ち
辺で手を稼ぐ簡単な方法として置き打ち(おきうち)があります。
右図の c8 のような手を置き打ちと呼んでいます。辺に打つときに、そこに隣接する中辺(図ではc7のこと)に相手の石が既にあるが、辺に打つことによってその石を返す必要がないような手です。
この置き打ちが出来ると何がうれしいかと言うと、将来的に黒はb8に打てるということです。しかもこのb8は白からは打てない、いわば黒の権利手になります。
ちょっと例で見てみましょう。図8は図7から数手進んだ局面です。ポイントは c7 の石が白であることです。
わかりますね? b8 は黒のみが打てる権利手になっています。このような自分のみが打てる権利手を「余裕手(よゆうしゅ)」と呼びます。余裕手はいつでも使える自分だけの権利手ですから、好きな時に一手得できるわけです。
例えば自分が手詰まり寸前になってしまった時にこの余裕手を使えば死なないで済みます。また、相手が手詰まり寸前の時にこの余裕手を使ってやれば、相手を手詰まりに追い込むことが出来ます。
付け手
辺の攻防で重要な手筋の一つに付け手(つけて)があります。
実はこの付け手、上で既に紹介しています。図4の2の手がそれです。付け手の目的は相手に辺を取らせること。更に願わくば辺を取らせることによって自分になんらかの利益があることです。図4の付け手では、黒に e8 と辺を取らせることによって白c7の手を作るのが目的でした。
他の付け手の例も見てみましょう。右図は黒がc8と打ったところです。ここでは普通白はd8と付け手を打ちます。でも、なぜ付け手をする必要があるのでしょうか。それは手損をしないためです。
白が d8 の付け手をしないでどこか他に打ったとします。すると恐らく黒は次にf8に打ってきます(図10)。そしたら白はまた他に打たなければなりません。つまり黒が下辺に2手(c8とf8)打っている間に、白は他のところに2手も打たなければならないわけです。これは明らかな手損です。下辺にただで2手も打たせてしまうわけですから、2 手損と言えます。
それでは付け手をした場合はどうなるのか見てみましょう。図11が付け手を打ったところです。これに対して黒が辺を取らずに他のところに打ってくれば、黒白共に下辺に1手ずつ打ったということで手得/手損はなし。一方黒がe8と辺を取ってきた場合(図12)には、手得の観点で言えば下辺に2手打った黒が一手得したことにはなりますが、下辺を黒に取らせたということと、また、将来的に白にはg8の手(手を渡す目的)が存在します。ですから明らかに付け手をしない場合より白にとって好ましいと言えます。
辺は取るべき? 取らせるべき?
一般に、辺を取ることの目的は手得をするためです。ですから、手得無しに辺を取ることは好ましいことではありません。また、ばりばりと辺を取っていくのは一瞬手得をしたようにも思えて、実は将来的に相手にX打ち攻撃をされて手損であるという場合も多々あります。状況によって異なるため一概には言えないのですが、基本的に「取る必要のない辺は取らない」と覚えておくのが良いかと思います。
でもあくまでも「取る必要のない辺」ですからね。なんでもかんでも取らないという方針で行くと、辺で手損しまくっていつの間にか手詰まりの状態に陥ってしまうなどという悲しい結果になってしまいます。
まとめ
1.辺への足の下ろし方を覚える
2.辺に打つときは相手の付け手を考える
3.付け手を有効に活用する
4.置き打ちで余裕手を作る
5.取る必要のない辺は取らない

 

終盤戦術
オセロの終盤の打ち方
ここでは、オセロの終盤の考え方を学びます。
基本は「数える」
右図の局面で黒番です。どちらに打つのが最善で、結果はどちらの何石勝ちになるでしょうか。
数えてみましょう。まず初めに現在の自分の石の数を数え、それから自石の増減を計算します。
現在の黒石の数は23個です。それでは初めに黒h1→白g1の手順を数えてみましょう。黒がh1に打つとその打った石で 1 個増えます。24個になります。それから縦と斜めの石が全部で 8 個返りますので、合計32個になります。最後に白がg1に打つとg2の黒石を返されてしまうので 1 個減ります。結果黒石は31個残ることになります。
次に黒g1→白h1を数えてみましょう。現在の黒石数は23。g1に置いた石 1 個と、縦と斜めの返る石の数11を加えて35個。白がh1に打つとg1とg2の2石を返されるので 35-2=33 で33個残ることになります。
つまりここで黒がg1に打つと33個残って勝ち、h1に打つと31個で負け、ということがわかるわけです。
このように、2 個空きで最善を見つけるには「数える」ということをします。この時点ではもはや中盤の考え方などは使えないので、隅だからh1に打ったほうが良いなどという考え方は絶対に使えません。慣れるまでは面倒くさい作業かもしれませんが、まず2個空きでは必ず数えるようにして下さい。
3 個空きでもやっぱり数える
右図の局面で白番です。どこに打つのが最善で、結果はどちらの何石勝ちになるでしょうか。
やることは 2 個空きの場合と同様「数える」ことです。
まずここで白h1と打つ場合を考えましょう。現在の白石の数は25個です。h1に打つと3個増えて28個になります。さて、この後黒はどちらに打ってくるでしょう。一般に、終盤の最善手探索では相手も最善手を打ってくるものと仮定して考えます。数えてみれば黒はg1に打ってくることがわかります。黒がg1に打つと白石は5個減って23個になります。最後に白がh2に打つと8個増え、全部で31個になります。残念、これでは白は勝てないことがわかりました。
次は白g1から初めてみましょう。g1に打つと25個から5個増えて30個になります。黒はh1に来るので6個減って24個になります。最後に白がh2に打つと2個増えて26個。これでも勝てないことがわかりました。
それでは白がh2から始めた場合はどうでしょう。白がh2に打つと8個増えて33個になります。黒はg1に来るので9個減って24個になります。最後に白がh1に打つと9個増えて33個になります。やりました、勝ちがありました。
このように、一生懸命数えてやっとh2でのみ勝てることがわかりました。2個空きの場合は数えるパターンはたったの2通りで済みましたが、3 個空きの場合はその3倍の6通り数える必要があるわけです。ちなみに4個空きの場合はその 4 倍の24通り、5個空きはその5倍の120通り. . . と、N 個空きならば最大でNの階乗通り数える必要があります。
理論上は上で説明した方法で何個空きでも最善手を求めることができますが、数百通りの変化全てについて数えて比較することなど、出来るはずがありません。それゆえ、以降で説明するさまざまな手筋を覚えて、可能な限り数える必要を減らす工夫が必要です。
手止まりの重要性
右図を見て下さい。次黒番だとします。どちらに打つのが最善で、結果はどちらの何石勝ちでしょうか。
正解はh1が最善で、黒h1→白g1という手順で28-36の白8石勝ちになります。
それではここで白番だとした場合、結果はどちらの何石勝ちになるでしょうか。
この場合は白g1→黒h1となって35-29で黒の勝ちとなります。
つまりこの局面、黒番だとすると白の勝ちで、白番だとすると黒の勝ちということになります。これから言えることは、2個空きでは先に打つほうが損で、後から打ったほうが得ということです。このように部分的な空きで最後の1手を打つことを「手止まりを打つ」と言います。この言葉を用いれば、「手止まりを打つことは大切である」と言えます。
偶数理論
右図の局面で白番です。さて、どこに打つのが最善でしょうか。
白の打てる箇所は g1、 h1、 g7 の 3 箇所あります。もちろん全てについて数えて比較するのがベストですが、実際の試合などでは時間がない場合もありそれが出来ない場合もあります。このような時に思考の手助けになるのが、上で学んだ「手止まりを打つことの重要性」です。
右上の 2 個空き(g1とh1)を見て下さい。ここは2個空きですから、手止まりを打つためには出来れば自分から打たない方が良いと言えます(白h1→黒g1と、黒g1→白h1ではどちらが得か一目瞭然ですね)。
では右下はどうでしょう。ここは 3 個空きです。自分がこの3個空きに打ってやれば、当然そこは2個空きになります。右上も2個空きであり次は黒番ですから、右上、右下の2個空き共に、黒が先に打って白が手止まりを打つことが出来そうです。
ではg7に打ってみましょう。白がg7に打った局面が図5です。先に書いた通り右上(g1とh1)と右下(g8とh8)の両方が2個空きになっており、どちらについても黒が先に打たなくてはなりません。白としては黒が打った方について行くように打ってあげれば両方の空きで手止まりが打てることになります。その結果この試合は図6のように展開し、図7に示すように白の2石勝になります。
オセロの手数は60手(偶数)であることから、基本的に白が手止まりを打つことが出来ます。上に見たように、白としては「奇数空きのところに打つ」ことを心がけて打てば全ての空きについて「手止まりを打つ」ことが出来ると言えます。
このように「奇数空きのところに打って全ての空きを偶数にする」という考え方を「偶数理論」と呼んでいます。もちろん例外もありますが、大抵の場合はこの偶数理論に従って着手を行えばそれが最善である場合が多いです。
上の例ではこの偶数理論がどんぴしゃに働いてg7が最善でしたが、実際の試合では、まず偶数理論を用いて「たぶんg7が最善だろう」と当たりをつけます。それからg7に打った場合の進行を考え、石の増減を数えます。それで33個以上の石が獲得できることがわかったならば実際にg7に着手を行います。
奇数理論
上で説明した偶数理論は白の特権なのでしょうか? いいえ、必ずしもそうであるとは言えません。
右図の局面を御覧下さい。黒番です。どこに打つのが最善でしょうか。
左上が 3 個空き、右上が 3 個空き、そして左下が2個空きになっています。「手止まりの重要性」から考えて、左下のb7に打つのは良くなさそうですね。それでは左上と右上のどちらに打つのが良いのでしょうか。
答えはh2です。それは左上の 3 個空きは白から打てないからです。白がこの3個空きに打てないということは、つまり白は左下と右上の2個空きの両方共に先に打たなくてはならなくなります。つまり黒は左上の3個空きを保留することで、右上と左下で手止まりを打つことが出来るのです。
白がh2に打った後は図 9 のように進んで白の2石勝ちになります。
このように、白から打てない奇数空き(この例ではa1、 a2、 b2の 3 個空き)を保留することで、黒が偶数理論(全ての空きで手止まりを打つ)を使うことを「奇数理論」と呼んでいます。
これから言えることは、白は自分から打てない奇数空きを作らないようにすべきであり、また黒は白から打てない奇数空きは最後まで保留するようにすべきである、ということです。
まとめ
1.終盤の基本は「数える」こと
2.手止まりを打つことが大切
3.奇数空きには先に打つ  
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●でんでん太鼓 
●でんでん太鼓 1
日本の民芸玩具。棒状の持ち手がついた小さな太鼓の両側に紐があり、その先には玉が結びつけてある。持ち手を高速で往復回転させることにより、玉が太鼓の膜に当たり、音を立てる。雅楽で用いられる「振鼓」(ふりつづみ)をモデルとしている。
太鼓と名がつくものの、楽器として用いられることはほとんどなく、小さな子供をあやす“がらがら”と同じように用いられるのが一般的である。
世界のでんでん太鼓​
紐に付いた玉で鳴らす、でんでん太鼓と同様の原理の楽器は世界各地に見られる。中国では古く「鼗」(とう、「鞀」とも書く)という鼓が存在した。近代では「波浪鼓」と呼んで、物売りが使用したり、子供のおもちゃとして使われた。
インドではシヴァ神が持つダマル(チベット語版、英語版)(チベット語: ཌ་མ་རུ།)(ダムルとも)という鼓にひもをつけて鳴らすことがある。宗教的な目的でチベットでも用いられる。
●でんでん太鼓 2
でんでん太鼓の起源は宮中雅楽の振鼓(ふりづつみ)という楽器です。
でんでん太鼓は太鼓の叩く部分から柄の部分まですべてが丸(円)で作られていることから「尖らず穏やかで裏表のない性格に育ちますように」という願いが込められています。
また、太鼓の音には悪霊や災難をよけてくれる効果があると信じられていました。
お宮参り後には赤ちゃんの部屋に厄除けの願いを込めて飾ってあげると良いとされています。
●でんでん太鼓 3
でんでん太鼓は乳幼児の発音玩具。太鼓の両枠から糸を垂らして小さな玉を結び、持ち柄を手に振り回すと、玉がデンデンと鼓面を鳴らす。音の響きからこの名がついたと思われる。
源流は奈良時代に中国から渡来した舞楽の楽器「振り鼓」とされ、またチベットの宗教的楽器「ダマル」に起源を求める説もある。
貴族社会に定着した振り鼓は小型の太鼓を数段に重ねた形態で、四天王寺(大阪市)の精霊会や西日本各地の寺院に伝わる来迎会(らいごうえ)などに登場する古楽器に当時の姿をしのぶことができる。
この渡来楽器が小型化し、赤ん坊をあやす玩具として庶民に親しまれるのは江戸後期。当時の文献には簡素な和紙製の振り鼓が記録され、やがて江戸で流行する子守唄に「里のみやげに何もろた、でんでん太鼓にしょうの笛」と歌われる。
近世庶民が愛したでんでん太鼓は、栃木県宇都宮の豆太鼓や福岡県甘木のバタバタ、鹿児島県隼人のポンパチなどの郷土玩具に受け継がれている。いずれも輪状に曲げた割り竹に和紙を張った太鼓を大豆がポンポンと軽やかに打ち鳴らす。この音に病魔よけや招福の力がこもると考えられてきた。高齢の方々には素朴な玩具が奏でる懐かしい音色に胸が熱くなるという。
一方、この玩具の故郷とされる中国やチベットだけでなく、東南アジア、アフリカ、中南米にも同型の打楽器が存在する。太鼓枠には木や土、ココナツやヒョウタンの実殻、鼓面には動物の皮、ひも先には木玉や土玉などが用いられる。鳴らしてみると音質の個性がきわだって興味深い。
現在、日本における市販品の多くは中国製や台湾製。木枠に皮を鋲(びょう)で張り留めた太鼓を木玉が打つ音は力強く、幾度もの演奏に耐える安定感がある。玩具博物館のプレーコーナーにも備えているが、子供たちには発音の動作が新鮮らしく、日々にぎやかな音が鳴りやまない。
対して、郷土玩具のポンパチや豆太鼓は軽く繊細で、子供が力任せに遊べばたちまち壊れてしまう。元来、日本のでんでん太鼓は、母親や年長者が赤ん坊の傍らでそっと手にしてきたもの。我々の祖先は、小さな命が初めて出合う玩具の音色に優しさを求め、丁寧な扱いに託して赤ん坊への慈しみを表現したのだ。近世的でんでん太鼓が郷愁を誘う理由がここにある。
●でんでん太鼓 4
柄(え)をつけた太鼓の両側に、糸で玉や小鈴を結びつるし、太鼓を振るとそれが鼓面に当たって鳴る玩具(がんぐ)。紙製が多い。奈良時代に中国から渡来した舞楽の振り鼓に似せて小形化した遊び道具。振って鳴らすので振り鼓の名がある。平安時代には貴族階級の間で用いられたが、江戸時代には広く一般化され、嬰児(えいじ)をあやす玩具として親しまれた。京坂地方では豆太鼓またはぶりぶり太鼓ともよばれた。一般にはその鳴る音からでんでん太鼓の名で知られ、伝承的な子守唄(うた)にも歌い込まれた。なお、このでんでん太鼓を背負わせた犬張り子を嬰児の宮参りの祝いに贈る風習が、大正時代までみられた。でんでん太鼓は現在でも郷土玩具として各地に残っている。おもなものに、栃木県宇都宮の豆太鼓、愛知県甚目寺(じもくじ)の振り太鼓、愛知県犬山のでんでん太鼓、広島県鞆(とも)の振り太鼓、福岡県甘木のバタバタ、鹿児島県国分(こくぶ)のポンパチなどがある。バタバタ、ポンパチなど、いずれも豆が鼓面にあたって鳴る音から名づけられた。宇都宮の豆太鼓は「マメに働く」豊作と家内安全、甘木のバタバタは子供の疱瘡除(ほうそうよ)けのまじない、国分のポンパチは魔除けなどの縁起と結び付いている。
柄のある太鼓の両側に小さい鈴や玉などを糸で結びつけ、その柄を持って振ると、鈴が鼓の面に当たって鳴るようにした玩具。多く紙製。※浄瑠璃・天神記(1714)一「ののさまのみやげには、でんでん太こにしゃうのふえ」
玩具(がんぐ)の一種。小さな張子の太鼓につけた柄の先端からひもをたらし、その先に鈴や玉をつけたもの。柄を持って振ると玉が鼓面をたたいて鳴る。原型は振鼓(ふりつづみ)。
雅楽で使う振り鼓を小型にした形の乳児用の玩具。小さな太鼓に柄をつけ、左右に鈴や玉などのついたひもを垂らしたもの。柄を振ると玉などが太鼓に当たって鳴る。
…また小板を紐でつないで指で鳴らす手づくり玩具もあり、これら乳幼児向きの音のする玩具は、すべて〈がらがら〉と呼んだらしい。振鼓(ふりつづみ)やでんでん太鼓も、がらがらの一種とされた。明治期にはブリキ製が登場、その多くは柄が笛につくられた。…
…鞉、鞀とも書き、中国では鞉牢とも記した。日本では鞀鼓と記したこともあるが、振鼓(ふりつづみ)、でんでん太鼓ともいう。小型の丸胴の両面太鼓に柄を差し通し、胴に結びつけた短い2本のひもの先端に小さい球をつけて、柄を回して球で革面を打ち鳴らす。…
…小さな円筒型の太鼓2個を直角に重ね、二つの胴の中央に柄を1本貫通させたもので、小さな玉をつけたひもを1本ずつ、各革面の先端に結びつけ、舞人が柄を振ると、この玉が革面に当たって音が出る。同じ原理の簡単な玩具(太鼓1個のものが多い)を一般に〈でんでん太鼓〉ともいうが、でんでん太鼓は鶏婁鼓のことをいうとする説もある。(2)歌舞伎舞踊で用いる鈴を入れたタンバリン型の小太鼓〈鈴太鼓〉の別称。…
●でんでん虫とでんでん太鼓の「でんでん」の語源
でんでんむしは、「出出虫(ででむし)」の変化した語。 「ででむし」は、「出る」の命令形「出よ」「出ろ」の意味で、「出ない」を意味する「出ん」や「電電虫」ではない。 「ででむし」から「でんでんむし」に転じたのは、童謡『かたつむり』に「でんでんむしむし かたつむり おまえのせなかはどこにある つのだせ やりだせ あたまだせ」とあるように、子ども達が口拍子に「でんでん」と言ったためであろう。
でんでん太鼓の語音は各地方で「でんでん」の代わりに「どんどん」「とんとん」「てんてん」「じぇんじぇん」「べんべん」「かんかん」など多様なうたい換えがある。ここから「でんでん太鼓」は、もともと幼児の玩具太鼓をさす普通名詞ではなくて、単に”でんでんと鳴る太鼓”の意味であり、その音色は人によって「てんてん」とか「べんべん」とも聴こえたのであろう。
でんでんむしの由来・語源
でんでんむしは、「出出虫(ででむし)」の変化した語で、「電電虫」や「出ん出ん虫(「出ん」は「出ない」の意)」ではない。
「ででむし」の「でで」は、「出る」の命令形「出よ」「出ろ」の意味の「出」を繰り返した言葉である。
「ででむし」から「でんでんむし」に転じたのは、童謡『かたつむり』に「でんでんむしむし かたつむり おまえのせなかはどこにある つのだせ やりだせ あたまだせ」とあるように、子ども達が口拍子に「でんでん」と言ったためであろう。
でんでんむしは「出出虫」の意味に由来するが、漢字はカタツムリの別名「蝸牛(かぎゅう)」の字が当てられる。
でんでんむしの別名・類語
ででむし/でんでむし/カタツムリ/かたつぶり/マイマイ/まいまいつぶり/まいまいつぶら/まいまいつぶろ/蝸牛(かぎゅう)/エスカルゴ/ナメクジ/ナメクジラ/ナメクジリ/マメクジリ/マメクジラ/ナメラクジ/スネール/巻貝 
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●万華鏡 1 
2枚以上の鏡を組み合わせてオブジェクトと呼ばれる内部に封入または先端に取り付けた対象物の映像を鑑賞する筒状の多面鏡。同義の英単語をカタカナ表記して、カレイドスコープ(kaleidoscope)ともいう。かつては万華鏡(ばんかきょう)、百色眼鏡(ひゃくいろめがね)、錦眼鏡(にしきめがね)とも呼ばれた。
観察者は筒の一端からのぞき込み、他端からは光が入り鏡で反射する。鏡を45度の角度に交差させると8個、60度では6個、90度では4個の1回の反射による鏡像が見られる。筒を回転すると着色された物体が移動し、さまざまな色や模様を見ることができる。鏡の対称性により美しい図形が見られる。2枚の鏡でできたものは背景から独立したパターンとなるが、閉じた三角形の鏡でできたものは視界の全体がパターンとなる。
歴史​
ディヴィッド・ブリュースターが偏光の実験の途中で発明し、1817年に特許を取得した。初期のデザインは、一端に一組の鏡を置いた筒からできており、他端には半透明の円盤、その間にビーズを置いたものである。初期には科学における道具として発明されたものが、玩具として急速に複製された。日本には江戸時代の文化文政時代の1819年には既に輸入され、「紅毛渡り更紗眼鏡」などと呼ばれて大阪ではその偽物が出回るほどの人気を博した。
埼玉県川口市には個人が運営する「日本万華鏡博物館」がある。
神奈川県鎌倉市にある「鎌倉ヴィヴァン(代表は緒方 豪)」は銀座で45年間、アートと万華鏡を全国的に広め2021年12月に鎌倉に移転するまで、現代の万華鏡を普及すべく
国内で、美術館や百貨店などで万華鏡展を421回も企画開催してきた。鎌倉ヴィヴァンでは国内外の最先端の現代万華鏡を幅広く取り扱い、常時店頭で見ることができる。
構造と種類​
鏡​
万華鏡の内部映像は鏡によって作られ、その枚数や組み方のシステムをミラーシステムという。
オブジェクト​
万華鏡の内部に封入または先端に取り付けた見る対象物をオブジェクトという。オブジェクトにはオブジェクト専用のケース(オブジェクトケース)に封入しているものとボディに直接取り付けているものがある。
オブジェクトケースを使用しているものには、オブジェクトケースが本体(ボディ)に固定されているケース固定式とオブジェクトケースだけ回転できるケース回転式がある。また、オブジェクトケースへのオイルの封入の有無によりオイルタイプとドライタイプに分けられる。
ボディに直接取り付けている万華鏡には円盤状にオブジェクトを取り付けたホイールタイプや先端に円筒状のオブジェクトを取り付けたシリンダータイプがある。
ボディ​
万華鏡の外装でミラーシステムを収める箱の部分。  
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●万華鏡 2 
カレイドスコープkaleidoscopeの原理を応用してつくった玩具(がんぐ)。「ばんかきょう」ともいう。円筒の中に長方形のガラス板を三角に組み込み、筒の一方の端をすりガラスで覆う。ほかの端に彩色した紙やガラスなどの小片を数多く入れ、筒をのぞきながら回転していくと、内部のきれいな色ガラスの模様の像の位置が動き、さまざまに変化して見える。しかも同じ模様がふたたび現れないので、この名がついた。カレイドスコープは、イギリスの物理学者ブルースターD. Brewster(1781―1868)が発明したものといわれる。光の性質を応用した科学玩具で、日本には江戸時代の末ごろ渡来した。1850年(嘉永3)高野長英が訳した『三兵答古知幾(タクチーキ)』には、「可列以度斯可布(カレイドスカフ)」と出ている。明治の初めには「百色眼鏡」の名で人気を集めた。輸入品を模した国産品も出回ってきて、これを改良、進歩させたものが万華鏡とよばれ、1891、92年(明治24、25)ごろ子供の玩具として流行、「錦(にしき)眼鏡」ともいわれた。
(ばんかきょう)、カレイドスコープとも。玩具の一つ。長方形の平面鏡3枚で鏡面を内側にした正三角筒を作り、一端をすりガラスで閉じ、色つきの小さいセルロイドかガラス片を散らして他端からのぞく。鏡の多重反射により美しい模様が見え、筒を回転、振動させると模様が次々に変化する。1816年英国の物理学者D.ブルースターが発明したといわれ、江戸末期に日本に渡来した。
玩具の一つ。円筒の中に長方形のガラス板を三角に組み、彩色したガラスや紙などの小片を入れ、筒を手でまわしながら、筒の端の穴からのぞくと、さまざまに変化する模様が見えるようにしたもの。にしきめがね。ひゃくいろめがね。ばんかきょう。カレイドスコープ。※食後の唄(1919)〈木下杢太郎〉序〈北原白秋〉「彼自ら謂ふ所の万華鏡の複雑光で変幻極りなかった」
玩具の一つ。円筒の中に長方形のガラス板を三角に組み、彩色したガラスなどの小片を入れ、筒を回しながら、筒の端の穴からのぞくと、美しい模様が見えるようにしたもの。にしきめがね。まんげきょう。※血(1927)〈岡田三郎〉「涙が出たので、彼の眼に電燈はきらきらと万花鏡(バンクヮキャウ)のやうに輝いた」
英語のカレイドスコープ kaleidoscopeのこと。錦眼鏡、百色眼鏡ともいう。玩具の一種。3枚の鏡で三角柱をつくり、底に色紙、色ガラスの小片を入れ、上ぶたの小穴からのぞくと種々の対称模様が見え、回転させることにより変化が楽しめるもの。
円筒の中にガラス板を三角柱に組み合わせ、色ガラス・セルロイド・色紙などの小片を入れ、回しながらのぞく玩具。小片が作り出す模様の変化を楽しむ。百色ひゃくいろ眼鏡。錦にしき眼鏡。カレードスコープ。ばんかきょう。
鏡を用いた玩具の一種。カレイドスコープkaleidoscope。円筒の中に細長い3枚の平面鏡を、鏡面を内側にして正三角形にはめこみ、筒の一端をすりガラスでおおい、他の端におもにガラスなどの透明で小さな色片を数多く入れる。筒を明るい方向に向けてのぞき穴から見ると、色片が三つの鏡面に写って見える。筒を回すとそれがさまざまに位置を変化させ、同じ模様がふたたび現れず、美しく見えるのでこの名がある。1816年イギリスの物理学者ブルースターDavid Brewster(1781‐1868)が発明したという。
1999年公開の映画。監督:河瀬直美。出演:有元伸也、尾野真千子、三船美佳ほか。田舎の少女と都会の少女を被写体に、写真家・有元伸也が写真集をとりまとめるまでを撮影したドキュメンタリー。
米国の作家レイ・ブラッドベリのSFファンタジー短編集(1965)。原題《The Vintage Bradbury》。  
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●輪投げ 1 
輪(もしくは蹄鉄)を特定の目標(台に立てた棒など)に投げ入れる遊び。スポーツ競技として明確なルールのもとに行われる輪投げもある。
スポーツ競技​
投輪​
投輪(とうりん)は、大正の頃に神戸港に入港する船上で行われたのを始まりとするスポーツ。
8.5メートル手前から、9本のゴム製の輪を投輪専用の台に向かって投げる。投輪専用の台には、ピンが9本あり、ピンには1から9までの数字がつけられている。輪の重さは180グラム。
競技は、投げ込み・シングル・ダブルの3種類。「投げ込み」は輪が入ったピンの数字の合計が得点となる。「シングル」はピンの数字の合計が得点となるが、一つのピンに2本の輪が入ってしまうと失格となる。そのため9本全部を投げずに、途中でやめることもできる。「ダブル」は輪が2本入ったピンの数字のみを合計して得点とする。こちらは、一つのピンに3本の輪が入ってしまうと失格となる。そのため、シングル同様に途中でやめることもできる。
神戸市を中心に競技が行われている。神戸投輪連盟と神戸市スポーツ教育協会による大会が、王子スポーツセンターで年数回開催されており、毎年6月辺りに知事杯、10月辺りに市長杯が開催されている。
クロリティー
クロリティー(qulority)は、1988年に現:愛知東邦大学人間学部教授の石川幸生が考案したニュースポーツ。
7、9メートル手前から、10本のゴム製の輪をクロリティー専用の台に向かって投げる。台には25本のピンがあり、台の大きさは75センチ四方の正方形で、傾斜角度は30度である。台は4色に色分けされており、中心に近いほど高得点になる。また、輪が台に乗れば、ピンに入らなくても、輪のある場所の色によって得点となる。輪の重さは150から200グラム。
競技はシングル・ダブルス・ミックスダブルスの3種類。
蹄鉄投げ​
鉄投げは世界各地に遊びとして存在するが、ここでは競技人口も多くルールも明確なホースシューズについて説明する。
1921年に全米ホースシューズ協会が設立。アメリカでの競技人口は約3000万人と言われ、野球やバスケットなどに引けをとらないほどのメジャースポーツになっている。1991年に日本ホースシューズ協会が設立されている。
地上に50センチ出した鉄の杭(ステーク)に17歳以上の男子は12メートルそれ以外は、8メートル離れた所から蹄鉄(ホースシュー)を投げる。杭の15cm以内にはいれば1点、杭に蹄鉄が入れば3点で、それ以外は無得点である。2投ずつ交互で投げ二人でその点数の合計を競い合う。決められた点数に早く到達した方が勝ちというポイント制と回数を決めてその合計点で勝敗を決めるイニング制がある。  
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●輪投げ 2 
遊戯の一種。一定の距離を決めて置いた棒や柱に、金属、木または麻縄(あさなわ)などでつくった輪を投げかけて、棒や柱に入った数の多さを競う。古代ギリシアでスポーツとして行われていたという古い歴史をもち、日本には明治時代に伝わったが、おもに子供の遊戯として行われている。イギリスでは居酒屋などで人気のある遊びであった。そのほか、現在でも船の旅の際には、デッキ・ゲームとして行われている。
棒をめがけて輪を投げ、かかった輪の数などで勝敗を争う遊戯。古代ギリシアではスポーツとして流行したといわれ、今日おもに子供の遊戯として世界各国にみられる。1〜5世紀頃ローマ支配下のイギリスにおいても行なわれ、中世にイギリスの農民の間で蹄鉄を曲げて輪にしたものを地面に刺した鉄の釘に向けて投げる遊戯が始まり、発展したとみられる。馬蹄投げは、今日アメリカ合衆国やカナダで盛んである。
棒を立て、一定の距離から輪を投げて棒に通した数の多いほうを勝ちとする遊び。
標的を目がけて輪を投げる遊戯。円盤投げの変形と思われるが、起源は不詳である。イギリスではquoitsと呼ばれ、14世紀から行われている。現在の代表的な例は、直径20cmのゴム板に直径6cmほどの穴のあいたものを1本のピン(hob)に向かって投げるか、あるいは、直径15cmほどの輪を約20cm間隔で正方形に9本並んだピンに投げる競技で、屋外・屋内ともに行われ、ピンまでは16mくらいとする。アメリカで愛好される蹄鉄を投げる馬蹄投げhorseshoe‐pitchingや、ロープを輪にして船の甲板で行うゲーム(deck‐quoits)などもある。  
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●ヨーヨー 
玩具またはスポーツの1つである。一般的に木製もしくは、プラスチック・金属製の2つの円盤を短軸で連ね、軸(アクセルと呼ばれる)に紐(ストリングと呼ばれる)を巻きつけた形状をしたもののことを指す。遊ぶ際は紐の一端にフィンガーホールという輪を作り、そこに指を通して円盤の部分を上下させて遊ぶ。技は2種あり、以下で解説する。
歴史​
遊具としてのヨーヨーの起源は古く、多くの古代社会においてヨーヨー遊びが取り入れられてきた。考古学的にみると、玩具として人形の次に古い起源を持つほどである。本来の起源は中国にあると考えられているが、古代ギリシアにおいても紀元前500年時点でヨーヨーに似た遊具が登場したことが分かっている。アテネの国立博物館には、ヨーヨー遊びが描かれた花瓶とテラコッタ製のヨーヨーが展示されている。ヨーヨーは交易路を通じてアジアとヨーロッパに広まり、スコットランド、イングランド、インド、エジプトにまで伝わった。フランス革命当時は亡命者émigréの遊びとしてヨーヨー自体をémigretteまたはémigrantと呼び、大流行となった。フランス革命の混乱から来るストレス解消に役立つものだと捉えられていた。ヨーヨーはフィリピンにまで伝わったが、アメリカで大流行になるまでしばらくの間、地元民の遊びに留まっていた。
フィリピンにおいて、ヨーヨーは現代の形状に次第に近づいていった。このため、ヨーヨーは本来フィリピンに起源があり、数世紀の歴史があると主張するものもいる。yo-yo(ヨーヨー)という名前自体、タガログ語のcome-comeという意味を持つ単語に由来すると一部には信じられている。しかし、yo-yoはタガログ語由来ではなく、comeという意味を持つ単語はタガログ語ではdumatingである。ただし、yo-yoという語がフィリピンで使われていた他の言語に由来する可能性はあり、その理由として、yo-yoという単語が印刷物に現れたのは1860年に出版された「フィリピン語」の辞書であることが挙げられる。
日本での大流行​
江戸時代中期ごろに中国から伝来した長崎で流行、享保年間初期には京坂で売られ、やがて江戸でも流行した。当時は手車、釣り独楽と呼ばれた。
1933年(昭和8年)、洋行帰りの教員がアメリカ土産として持ち帰り再流行した。いわゆるモダンボーイやモダンガールと呼ばれた者が楽しんでいたが、訓練を要さず誰でも手軽に楽しむことができたので、サラリーマンや学生の間にも広まり、大阪でヨーヨーの競技大会と思しきイベントが開催されるなど、老若男女の別なくヨーヨーを持ち歩くようになった。同年、東京・日比谷にあった仮国会議事堂を警備哨戒中の一警邏が、職務中にヨーヨーで遊んでいたとして「職務怠慢」による懲戒免職に処せられた。弘文社(大阪市にある同名の弘文社とは異なる)より、ヨーヨーの歴史や遊び方、実際のトリックを解説した専門書『ヨーヨーの競技と遊び方』が出版されている。翌年初夏には既にブームが沈静化している。
「銀座の歩道からゴミゴミした夜店が一掃されて大變さつぱりしたと思つてゐると、今度はその代り、大人や子供のヨーヨー賣りが幾人も出て來てその「妙技」を競ひはじめ、暇な見物人がそのまはりにたかつて、歩く人間の邪魔をしてゐる。」— 板垣鷹穂、『観想の玩具』
戦後の日本では、1970年代にコカ・コーラの販促品をきっかけにした第三次ブーム(コカ・コーラの認証を受けた物には「GENUINE RUSSELL YO-YO」(真正ラッセルヨーヨー)の文字が印刷されていた)、1980年代にスケバン刑事による第四次ブーム、1990年代にバンダイのハイパーヨーヨーによる第五次ブームが起きている。
武器説
俗説とは異なり、ヨーヨーが武器として使われた証拠、何らかの武器に由来するという証拠は存在しない。周囲に鋭利な刃物を備えたヨーヨーを武器とすれば、動物の狩りに使用できるかもしれないが、ヨーヨーを安全に手元に戻す方法がない以上実用的ではない。武器として使われたという俗説はフィリピンに起源があると考えられる。16世紀のフィリピンでは鋭利な石を紐に結わえて樹上から獲物を狩っていた。近代的なヨーヨーの起源も当時のフィリピンであることから、ヨーヨーの起源に関して混乱が生じたと考えられている。
基本的な遊び方​
簡単なヨーヨーでは、ひもの先端は円盤の間の軸に固定されている。軸にひもを巻き付けてから、ヨーヨーを下に落とせば、ひもがほぐれ、かつヨーヨーは回転しながら落ちてゆく。ひもが伸びきればそれ以上落ちることができないが、ヨーヨーは慣性で回転を続けようとするため、今度は反対向きにひもを巻き込んでよじ登ってくる。
この際、摩擦抵抗があるので、手を動かさないでいるとヨーヨーは手元まで登りきらない。完全に登らせるため、実際には落とすときには投げ下ろすようにして初速を与え、上がる直前には素早く手を引き上げる動作をする。この引き上げる動作は、回転をさらに加速させると同時に、ヨーヨーが落ちる動き(垂直方向の慣性)を反転させる効果がある。このようにして、ヨーヨーを素早く確実に手元まで引き戻すことができる。またこれを応用すると、下向きだけでなく横など様々な方向へ投げ出し、手元へ素速く引き戻すことも可能である。
ヨーヨーは、軸を中心にしての回転を用いて遊ぶ点で、独楽と共通点がある。水風船を輪ゴムや紐で吊るした水ヨーヨーというものもあり、これも水風船を掌から放したり引き寄せたりして遊ぶが、その運動は、むしろ手鞠に似ている。
高度な遊び方​
簡単なヨーヨーでは、ひもが軸に固定されていた。しかし、ひもを軸に固定しないタイプが生まれ、遊び方が高度化した。先端を輪にしたひもをヨーヨーの軸にかけ空回りするようにしたものや、ヨーヨーの軸となる部分にプラスチック製のものや金属ボールベアリングなどの軸受を取り付け、その上にひもをつけることによってひもが直接回転軸に触れないようにしたものなどがそれである。そのまま巻き付けて使えば、普通のヨーヨーと同じように使えるのだが、ひもが伸びきっても回転を止める抵抗がないため、ひもは逆方向に巻き取られず、ヨーヨー本体だけが落下時の方向にいつまでも回ることになる。しかし、このままだとひも巻き取る手段がないため、本体の回転軸近くにひもに対する抵抗となる構造上の突起や高摩擦のシールなど(レスポンスと呼ぶ)を設けておく。そうすると、回転中にヨーヨーのひもを引っ張るなどしてひもにたるみを与えることによって、ひもがひっかけ抵抗に絡まるため巻き取ることが可能となる。
このような回転のあるヨーヨーは、回転中はジャイロ効果により横に倒れにくいという特徴をもっているため、様々なパフォーマンスができるようになった。ウォーク・ザ・ドッグ(犬の散歩)やエレベーターなどは、トリックと呼ばれる技の例である。なお、現在のヨーヨー空転時間(スリーパー)の世界記録は2012年の世界大会で香港のSimpson Wong Wai Sheukが樹立した30分28秒30である。
プレースタイルにも種類があり現在では大まかに以下の6つの部門に分類される。
1A:ワンハンドストリングトリックヨーヨー1つで、あやとりのような「ごちゃ系」と呼ばれる技や、主に糸の上を滑らせる「レール系」と呼ばれる技を行う。
2A:ツーハンドルーピングトリック両手にヨーヨーを1つずつ持って弧を描いたり、紐を腕に巻きつけたりする技を行うスタイル。
3A :ツーハンドストリングトリック両手にヨーヨーを1個ずつ持って二つで1Aに近い技を行う。マーク・マックブライドが考案したベルベット・ロールというトリックからできた。
4A:オフストリングトリック (OS)あらかじめヨーヨーとストリングを外してそれぞれ独立させた形でのプレーを行う。デイル・オリバーが考案したオリバーズ・ロケットというトリックからできた。
ディアボロ(中国ゴマ)と違う点は演技の始まりと終わりにストリングがヨーヨーに巻きついた状態にあること。
5A:カウンターウェイトトリック (CW)本来指につけるひもの端に重りを付け、手からヨーヨーを独立して運動させることで、ヌンチャクのような動きが出来るプレースタイル。カウンターウェイトと呼ばれる。
スティーブ・ブラウンによって考案された。
AP:アーティスティックパフォーマンス1-5A部門とは違い、芸術性を追求。ヨーヨーさえ使えば何をしても良い。
※過去に、まだ名前のついていない仮部門のことをX部門と呼ばれていた。2000年頃までの世界大会は主な競技は1Aと2Aだけだったが2000年〜2002年に新しい部門が開発された。(本当はもっと昔からあったが、非公式部門という扱いを受けていた)それが 3A・4A・5Aだ。しかし、開発当初は正式名称がなかったため、とりあえずX部門と呼ばれていた。現在はX部門は存在しない。従って 8A・9A・13Aは非公式部門なので、AP部門でプレイする必要がある。
世界的な大会としてWorld Yo-Yo Contestが存在する。 また、日本では語呂合わせで日本ヨーヨー協会が4月4日をヨーヨーの日と制定、外国では6月6日(National Yo-Yo Day)であり、ヨーヨーを世界的に有名にした立役者であるドナルド・F・ダンカンの誕生日である。
スピナー​
かつてはヨーヨーで遊ぶ人のことをスピナーと呼んでいた。これは1997年にハイパーヨーヨーを発売したバンダイが当時ヨーヨーをプレイしていた人たちの呼称として採用していたもので、現在では使われる機会が減っている。日本を含め、ほとんどの世界各国の大会運営組織はスピナーという呼称を用いず、単に「プレイヤー」または「ヨーヨープレイヤー」と呼んでいる。  
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 

 

●紙風船 1 
人数:1〜3人程度。遊び方がとくにあったわけではないです。お店(駄菓子屋とか文房具店、今ならスーパー等)で、紙風船を買ってきます。紙風船に空気口がついているので、そこに口をつけ、息を吹き込みます。紙風船は、もののみごとに丸い風船になります。風船といっても、ゴム風船のように飛びません。この風船を2〜3人で交互に手で突いて、おとさないように遊びます。紙なので、しだいに空気は抜けるし、破れてもきます。空気が抜ければ、また入れればいいですが、破れると次の新しいのに変更です。  
 
 
 
 
 

 

●紙風船 2 
紙風船、大人にとって懐かしい遊びですね。そんな紙風船から育ちの要素を考えてみましょう。紙風船は力加減によっては簡単に空気が抜けて潰れた状態になります。紙風船を持つ、投げる、手で打つことを行うことで、力のバランスや相手(紙風船)の特性を想像することができます。社会性の育ちにも連動します。0歳児クラスの高月齢であれば、そっと紙風船を持ち投げたり運ぶことができます。3歳になると簡単なキャッチボールができるようになるかもしれません。4歳児後半くらいからバレーボールのように弾いて遊べるようになるかもしれません。このように各発達において使い方が変わるので、同じ遊具でも様々な活動を想像することができます。
紙風船の不思議
少し潰れかけた紙風船を手で弾いていると、不思議と空気が入り丸くなる不思議な現象を体験することができます。手で弾いたら空気が抜ける!!と思い込んでいる子どもには考えるきっかけになるかもしれません。
紙風船を膨らめることにも育ちがある
紙風船に空気を入れる時も肺活量や口や唇の使い方など考えなければいけません。とっても単純なおもちゃではありますが、奥深く楽しめると思いますので、ご家庭で楽しんでみてください。大人も紙風船を手で弾いていると、なんだか懐かしい気持ちになれますよ。