負け戦

負けるが勝ちはない 負けは負け
引き際 粘る
せめて  引き分けに持ち込む

他人の土俵に乗らない
自分の土俵を創る

堂々の正面戦争 
世の中の市場占有原理 トップ 50-60% 2位 30-20% 物好き市場 10%
マイペース ゲリラ戦 物好き市場

 


真田昌幸九戸政実日本のオトナ蜥蜴の尻尾切り妥協と黙認・・・
戦国武将の名言徳川家康の名言負け戦に学ぶ人材の獲得と活用・・・
 
 
 

 

●ときはいま… 〜戦国武将から学ぶリスクマネジメント〜
孫子の兵法では、負け戦はしないが原則ですが、勝てそうも無い場合でも戦いに挑まざるを得ないときというものがあります。それを避けるのが名将なのでしょうが、避けられないのが人間の哀しさであるとも言えそうです。
信長公記によると、信長は好んだ敦盛の一節「人間五十年、化天の内を比ぶれば夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」を舞い、今川義元との桶狭間の戦いに挑んだとされています。信長は、偶然の重なりのおかげで桶狭間で勝利したようにも言われますが、そうではなく十分な下準備をして挑んだという説もあります。
好条件が重なりすぎると判断を誤りやすくなると言われます。天正10年6月、羽柴筑前は中国で毛利と戦い、柴田勝家は北陸遠征、滝川一益は厩橋(群馬県)と、信長配下の独立した軍を持つ武将は出払っていて、絶好の好機であると明智光秀は、考えたのでしょう、「時は今 雨が下しる 五月哉」と詠んで本能寺に攻め入りました。が、あまりの好条件が重なったが故に、起こるかもしれないリスクを軽く見てしまったのかもしれません。毛利への使者をもっと増やしていれば…。
少し前に、歴女という存在が話題になりましたが、その影響もあってか本屋さんで妙に格好良く描かれた武将たちの本を見かけます。その中の1人に真田幸村(信繁)がいます。真田幸村と言うと、大阪冬の陣、夏の陣での活躍が光り、数ある戦国武将の中でも特に人気の高い人物ではありますが、表舞台に立つことは少なく、実際には幸村より、その父親・昌幸の戦い方の方が際立っています。
真田昌幸は、元々、武田信玄の家臣で、武田家が織田信長に滅ぼされた後に豊臣秀吉の傘下に入ります。秀吉なき後の関が原の戦いにおいては、石田光成側に味方し、信州上田城において、徳川秀忠の軍を相手に奮闘し、関ヶ原での決戦に間に合わせなかったという功績をあげています。
そして何よりも真田昌幸の最も優れていたと思われるのは、幸村を豊臣側の武将として戦わせましたが、幸村の兄、信之を徳川方に置いたことでしょう。これにより、豊臣が滅んだ後も真田家は、生き残ることができました(幸村についていた家臣も後に信之に拾われています)。こうした対応は、将来的に課題となりうる状況を見据え、早い段階からリスク分析を行い、軽減処置を考えないと、中々できるものではありません。
将来、起こりうるかもしれない問題を予測し、分析し、対応策を決めていくことをリスクマネジメントと言います。最近のプロジェクトでは、このリスクマネジメントの重要性が各方面から(各種の手法からも)指摘され、リスク管理表なるものを作成し始めている組織も多くなりつつあります。が、リスクマネジメントをきちんとできている組織は非常に少ないとも言われています。
よく見かけるものとして、リスク管理表の帳票を作成し部門内展開して安心してしまう例、開発計画時にリスク管理表に思いつくリスクを書き出したまま放置してしまう例などがあります。組織にリスクマネジメントを根付かせるには、やりすぎと思われるくらいの根気をもって、教育と実践フォローを実施していく必要があります。みなさんの職場ではどうでしょうか。
 

 

●真田昌幸 1
戦国時代に活躍した真田家の武将では「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら[さなだのぶしげ])が有名です。その真田幸村の父親が「真田昌幸」(さなだまさゆき)です。
真田昌幸の青春時代
幼少の頃、人質として甲斐へ
真田昌幸は、1547年(天文16年)に、「真田幸隆」(さなだゆきたか)の3男として生まれました。幼名は「源五郎」(げんごろう)。真田昌幸には2人の兄、長男「真田信綱」(さなだのぶつな)と次男「真田昌輝」(さなだまさてる)がいました。なお真田昌幸は、「真田の里」と呼ばれる現在の長野県上田市にあたる地域で生まれたと言われていますが、これには諸説あり、生誕地の確定はしていません。真田昌幸が生まれた当時、真田家は甲斐国(現在の山梨県)武田家の軍門に下り仕えている状態でした。そのため、真田家が武田家を裏切らないための保険として、3男の真田昌幸を「武田晴信」(たけだはるのぶ:のちの武田信玄)が人質として預かることになったのです。戦国時代は、妻や子どもを人質として主君や同盟相手の家に送ることは一般的でした。例えば、今川家が松平家から嫡男「松平元康」(まつだいらもとやす:のちの徳川家康)を人質に取り、駿府(現在の静岡県静岡市)に置いたことは歴史的に有名です。
武田信玄が設立した奥近習衆に選出される
人質となった真田昌幸は、甲斐国甲府で学問や軍略などの英才教育を受け、武田信玄の「奥近習衆」(おくきんじゅうしゅう:主君の側近くに仕える家臣)に加わることになります。そして、甲府で受けた英才教育を武器に、真田昌幸は15歳で初陣を果たすことになるのです。その戦いは第4次「川中島の戦い」で、任務は近習として武田信玄を警護することでした。与えられた任務を無事遂行し、真田昌幸自身の初陣は成功します。しかし、この戦いでは「山本勘助」(やまもとかんすけ)や、武田信玄にとって右腕的存在だった次男の「武田信繁」(たけだのぶしげ)を失うなど、武田軍にとっては手痛い結果となりました。
武田信玄のはからいで武藤家の養子となる
その後真田昌幸は、武田信玄の母方・大井氏の支族にあたる武藤家の養子に迎えられます。そこで「武藤喜兵衛」(むとうきへえ)と名乗り、足軽大将の任に就くことに。なお、武藤家を継いだこの時点の真田昌幸は、地位的には武田家の譜代宿老(ふだいしゅくろう:代々その家に仕えている重臣)クラスに匹敵、もしくはそれに準ずるとされています。
才能を発揮して戦で活躍し、さらに武田信玄の信を得る
ここで真田昌幸が活躍したエピソードをひとつご紹介。1569年(永禄12年)、武田家と北条家が争った「三増峠の戦い」(みませとうげのたたかい)が勃発します。真田昌幸はこの戦いで、武田家の重臣「馬場信春」(ばばのぶはる)の使番(つかいばん)を務めていました。任務は、戦場において正確な情報を伝えることですが、真田昌幸はその任務を正確にこなすだけでなく、戦場での一番槍も挙げ、武田信玄の信頼を勝ち取ったのです。三増峠の戦いは、武田家の勝利で幕を閉じます。
武田信玄の死以降、真田家を継承することになった真田昌幸
武田信玄の西上作戦に参加
1572年(元亀3年)、武田信玄はいよいよ天下取りに向けて甲斐国を出発、東海道から京を目指しました。別称「西上作戦」(せいじょうさくせん)と呼ばれる、武田が徳川領や織田領を通過して進む遠征を指します。この時期に動いた理由として有力なのが、当時は織田家が浅井・朝倉連合軍と対峙しており、そちらに目が向いていたことです。西上作戦実行の際には、宿敵関係にある「上杉謙信」(うえすぎけんしん)が、武田信玄が留守の間に信濃国(現在の長野県)へ侵攻する可能性を考慮し、後顧の憂い(こうこのうれい)を断つために本願寺家に協力を要請。越中国(現在の富山県)に一向一揆を起こさせました。準備をしっかり行なった西上作戦は順調に進みますが、それでも戦は避けられません。ルート上に徳川家があるためです。こうして起こった戦が有名な「三方ヶ原の戦い」です。真田昌幸は、この三方ヶ原の戦いに参加し、徳川勢を打ち破る活躍を見せました。敗北した徳川家康は、「浜松城」(静岡県浜松市)に籠り「空城の計」(くうじょうのけい)で対抗。徳川家康を追撃した「山県昌景」(やまがたまさかげ)は、大手門(おおてもん)が開け放たれた浜松城の異様な雰囲気を警戒し、引き上げることになりました。徳川勢を打ち破った武田家は、そのまま西進を続行します。
武田信玄亡きあと、跡を継いだ武田勝頼に仕える
武田信玄は、1573年(元亀4年)に三河国(現在の愛知県東部)に侵攻を開始しましたが、その最中に病没。なお、死ぬ前に武田信玄は跡継ぎを「武田勝頼」(たけだかつより)に指名し、この世を去ったとされています。武田信玄の死によって西上作戦は頓挫し、武田勝頼は甲斐国へ引き上げる決意をしました。武田信玄の遺言にあった「ワシの死を3年隠せ」とは、武田勝頼が甲斐国に戻り国力を高め、再起できるまでの時間を稼ぎたい、という武田信玄の親心だと推察できます。真田家は、そのまま新しい当主である武田勝頼に仕えることとなりました。
長篠の戦いの影響で真田昌幸が真田家を継ぐことに
武田信玄の死から数年後、真田家当主の真田幸隆がこの世を去ります。嫡男の真田信綱が真田家を継ぎました。しかし、1575年(天正3年)に勃発した「長篠の戦い」で武田家は織田・徳川連合軍に大敗を喫し、跡を継いだばかりの真田信綱、さらには次男の真田昌輝も討ち死にしてしまいます。この戦で真田昌幸は、武田勝頼の旗本衆(大将直属の家臣)として戦っていたため、討ち死には免れました。当主と次の後継者を一度に亡くした真田家は空白状態となり、真田昌幸は強烈な危機感を覚えます。しかし、真田昌幸自身は武藤家の者になっているため手の出しようがありません。懊悩する真田昌幸でしたが、武田家重臣「高坂昌信」(こうさかまさのぶ)のはからいにより、真田昌幸が真田家を継ぐことを主君の武田勝頼が了承。真田昌幸は、無事お家の危機を防ぐことに成功するのです。なお、真田昌幸が真田家を引き継いだことで、武藤家の所領に関しては武藤一族が引き継いだとされています。
沼田攻略と武田勝頼の死
長篠の戦いのあと、真田昌幸は武田勝頼に命じられ沼田領(現在の群馬県沼田市)へ侵攻。持ち前の知略を存分に発揮して切り崩し工作を行ない、支城を手に入れました。そうして万全の準備を整えてから「沼田城」を攻略しようとしましたが、「北条氏邦」(ほうじょううじくに)が沼田城の援軍に駆けつけたため、一時撤退を余儀なくされることになります。しかし、真田昌幸はあきらめません。1580年(天正8年)に再度侵攻、沼田城の攻略に成功します。その活躍が認められ、武田勝頼から「安房守」(あわのかみ)の名乗りを許されることに。こうして真田昌幸は、事実上武田家重臣となり、その地位を確立させました。ところが、1582年(天正10年)に織田・徳川連合軍が本格的に武田領への侵攻を開始。武田勝頼は奮戦しましたが、家臣の裏切りに遭い、自害してしまうことになります。
真田家が生き残るために立てた真田昌幸の方策とは
生き残ることを最優先に、織田家への従属を決断
1582年(天正10年)4月、真田昌幸は様々な状況を考慮して織田家に従属することを決断。「織田信長」に謁見しこれを認められ、真田昌幸は「滝川一益」(たきがわかずます)のもとで与力武将として働くことになりました。当時の織田家の勢力は、日本一と言っても過言ではありません。また、真田昌幸の所領から近いところでは、「柴田勝家」(しばたかついえ)が「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を圧迫する形で、今にも越後国(現在の新潟県)に攻め入ろうとしていました。そのような状況で織田信長に反抗するよりも、従属した方がデメリットは少ないと真田昌幸は判断したのです。
織田信長が本能寺の変で討ち死にすると状況は一変
1582年(天正10年)6月2日、織田信長は「明智光秀」(あけちみつひで)の謀反に遭い、この世を去ります。有名な「本能寺の変」ですが、これが真田昌幸の運命を変えるきっかけとなりました。本能寺の変ののち、旧武田領を巡って起きた一連の戦を総称して「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)と言います。真田昌幸が織田家に従属した当時、織田家家臣は旧武田領を治めていましたが、有力家臣滝川一益が北条軍に敗北してしまいました。その影響でドミノ式に織田家家臣達が旧武田領を捨て、尾張国(現在の愛知県西部)、美濃国(現在の岐阜県南部)、伊勢国(現在の三重県北中部)などに逃亡。織田信長が死んだことで、旧武田領に主が不在となる状況が生まれたのです。この隙に領土を広げようと、徳川、上杉、北条がそれぞれ領地獲得に動き出しました。真田昌幸はその頃、大名ではなく佐久郡(現在の長野県東部)の長という地位でしたが、武田信玄から学んだ知略を活かして大名への道を目指します。織田信長亡きあとはまず上杉に従属し、状況が変わると今度は北条に従属。さらには徳川に従属と転身を繰り返しました。もちろんこれらは表向きの従属。真田昌幸が真田家の生き残りをかけて打った大博打です。
領土をめぐって徳川家康と対立し上田城の合戦に発展
徳川に従属していた真田昌幸でしたが、領土問題の影響で合戦に発展してしまうことになります。1585年(天正13年)に起きた「第1次上田城合戦」です。なお、この頃には真田昌幸の嫡男「真田信之」(さなだのぶゆき)と次男「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら[さなだのぶしげ])が父親の補佐を努めていました。徳川家康と対立した真田昌幸は、四面楚歌を防ぐために再び知略を巡らせます。編み出した策は、一度裏切ったため敵対関係にある上杉との再同盟でした。当然ながら、ただ同盟を結びに行ってもうまくいくはずはありません。そこで人質として真田幸村(真田信繁)を越後に送ることにするのです。上杉側にもメリットがあったことが幸いし、最終的にこの再同盟は結実します。背後を気にする必要がなくなった真田昌幸は「上田城」(長野県上田市)に様々な仕込みを行なった上で、徳川軍と対決することにしました。この戦いは武田信玄仕込みの知略を活かした、世に知れ渡る真田昌幸の戦いとして評価されています。真田昌幸が知勇兼備の猛将として真価を発揮した部分を抜粋してご紹介。まず、合戦時の兵力は真田軍約2、000人に対し徳川軍約8、000人と4倍の差がありました(※諸説あり)。この劣勢を跳ね返すには、野戦で奇襲などを仕掛け敵の混乱を誘い、敵総大将を一気に討ち取るのが戦国時代における基本の兵法です。しかし真田昌幸は、野戦ではなく「籠城戦」を決意します。この選択が敵の油断を招くのですが、それこそが真田昌幸の狙いでした。徳川軍は怒涛の攻めであっという間に上田城の二の丸まで占領します。それを確認した真田昌幸は、部下に命じて合図を送りました。すると真田軍の伏兵が現れ、徳川軍を側面から攻撃したのです。不意の襲撃に徳川軍は混乱、一時的に二の丸から撤退しようと試みますが、城内に潜伏していたさらなる伏兵が退却する徳川軍に襲い掛かります。さらに神川(かんがわ:現在の長野県上田市を流れる信濃川水系の一級河川)を渡って徳川本陣に帰還しようとしていた兵に対し、真田軍は堰を破壊、鉄砲水の発生により徳川軍の多くが溺死してしまいます。一連の真田軍の反撃により徳川軍の犠牲者は約1、300人、その一方、真田軍はわずか40人ほどの犠牲で済みました。結果的に真田軍の勝利で第1次上田城合戦はその幕を閉じたのです。
豊臣秀吉に接近し賭けに出る
徳川軍を返り討ちにしたものの、状況が好転したとは言えませんでした。今度は徳川家康本人が10、000を超える大軍を率いて、真田軍を滅ぼそうと計画していたからです。そこで真田昌幸は、大きな賭けに出ることにしました。それは「豊臣秀吉」への従属です。ただ、これまでの表向きの従属とは違い、本物の従属となります。その当時の状況を考えると、万が一にも豊臣家を裏切れば、圧倒的な兵力で蹂躙(じゅうりん:暴力や権力で侵害すること)されてしまうことが容易に想像できたからです。逆に言えば、真田が豊臣の庇護下にあれば徳川家康に攻められる可能性は低くなるとの算段もありました。真田昌幸は、上杉景勝のもとで人質となっていた真田幸村(真田信繁)を通じ、豊臣秀吉との謁見を願い出ます。真田幸村(真田信繁)の尽力により豊臣秀吉との謁見は実現。真田昌幸が上洛して話し合った結果、真田家は徳川家康の与力大名(家臣ではないが部下にあたる大名)となることに決まったのです。その決定は徳川家康にも伝えられ、徳川家康は真田攻めを取りやめることになりました。真田昌幸にとって、徳川家康の与力大名となるのは不本意だったとも推察されますが、結果的には、お家存続の賭け」に勝ったことになります。
豊臣秀吉の死後、再び世は乱れ関ヶ原の戦いが勃発
豊臣政権下で真田家は安定期を迎えていました。豊臣秀吉の庇護下に入り、沼田の領土問題は豊臣秀吉の裁定で無事決着したかに思われましたが、北条が武力をもって「惣無事令」(そうぶじれい:豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令)に違反します。これにより「小田原征伐」が執り行なわれ、北条家は滅亡してしまいました。その後、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去。以降の豊臣政権運営を巡って、「石田三成」(いしだみつなり)と徳川家康の対立が激しくなります。その対立が招いたのが、1600年(慶長5年)に勃発した天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」です。この関ヶ原の戦いは、真田家にとって運命の分かれ道となります。
関ヶ原の戦いで打ち出した真田昌幸の「大勝負」とは
関ヶ原の戦いで、真田昌幸は一世一代の大勝負を打ち、そして勝ちました。その過程を紐解いていきます。関ヶ原の戦いは真田昌幸にとって、東軍・西軍のどちらを選択するべきか簡単には選べませんでした。石田三成と徳川家康がそれぞれ挙兵した争いは、真田昌幸ほどの武将でも、どちらが勝つのか予想するのは困難だったのです。悩んだ末、真田昌幸は徳川に付くことを決め、会津(現在の福島県西部)に移った上杉攻めに合流するため宇都宮を目指しました。しかし、石田三成側からの密使が訪れて、状況は一変します。この時点で、嫡男の真田信之は徳川方の重臣「本多忠勝」(ほんだただかつ)の娘と結婚しており、徳川方との結び付きが強い状態でした。そこで真田昌幸が究極とも言える策を編み出します。それは真田信之が徳川方に、真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は石田方に味方をするという選択でした。つまり家族を両軍に分け、どちらが勝っても真田家が生き残るようにしたのです。関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利で終わり、真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は徳川家康から高野山(のちに九度山[くどやま]へ移転。いずれも和歌山県北部)での蟄居を命じられました。しかし、真田昌幸は勝負に勝っています。なぜなら真田家自体の生き残りは、嫡男の真田信之が真田家を継承することで確約されたからです。
真田家の家紋は六文銭だけではなかった
家紋は、そのお家の旗印として戦国時代では使用されていました。真田家が使用した家紋をそれぞれご紹介します。
六文銭
真田家の家紋として一番有名なのはこの「六文銭」(ろくもんせん)です。別名「六連銭」(ろくれんせん)、「六紋連銭」(ろくもんれんせん)。六文銭の考案者は、真田昌幸の父・真田幸隆だったとされています。真田家の家紋が六文銭になった理由は諸説あり、真相はいまだ明らかにはなっていません。六文銭それ自体は、仏葬の副葬品である冥銭(めいせん:あの世で使う金銭を模した紙銭など)に由来しています。三途の川の渡し賃は、「六文」と信じられていました。あの世への道中に「六地蔵」(ろくじぞう)があり、そこに1文ずつお供えして、それが渡し賃になるという考え方から来ています。
結び雁金
「結び雁金」(むすびかりがね)は、主要な家紋である六文銭が使用できなかった一時期に使用されていた家紋です。雁金の鳥は当時の中国に存在した「がちょう」がベースになったとされています。しかし、時代を追うごとに結び雁金は使用されなくなり、次第に廃れていきました。
州浜
「州浜」(すはま)も副次的に使用されていた家紋です。蓬莱山(ほうらいさん:仙人が住み、不老不死の薬があるとされる伝説の神山)や竜宮城を意味するおめでたい意匠として使用されていました。諸説ありますが、真田氏が信仰していた神社の神紋が州浜だったため、これをベースに家紋を作成して使用したという説が有力です。
真田昌幸の名言
関ヶ原の戦いの前に
関ヶ原の戦いにおいて、真田昌幸・真田幸村(真田信繁)は西軍に、真田信之は東軍に付くこととなります。この際に真田昌幸が決意を込めて話した言葉が、「我が真田家は今存亡のときを迎えておる。道を誤ってはならぬ。我らは2つに別れてそれぞれの道を歩むしかあるまい。どちらか生き残ればそれで良い。遺恨も後悔もあるまいぞ」です。真田家存続のために、親子・兄弟を東軍・西軍に分けた「犬伏の別れ」(いぬぶしのわかれ)と呼ばれる苦渋の決断を下したときの言葉。結果としてこの決断は功を奏し、真田家は絶えることなく、西軍側に付いた真田昌幸と真田幸村(真田信繁)も、真田信之とその岳父(がくふ:舅)である本多忠勝の口添えにより死罪を免れることとなりました。
九度山に流されて
真田昌幸は関ヶ原の戦いで敗れ、その力を恐れた徳川家康によって、真田幸村(真田信繁)と共に九度山での蟄居を科せられます。生涯九度山から出ることはかなわなかった真田昌幸ですが、九度山に流される前後に、「さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」という言葉を残しました。この言葉は一聴すると単なる負け惜しみに聞こえるかもしれません。しかし、この内府という言葉が徳川家康を指しているのがポイント。真田家と徳川家の石高や領地の差は、関ヶ原の戦い時点で比較にならないほどの大差があります。にもかかわらず「自分が勝って、徳川家康をこそ、このように蟄居させてやりたかった」と言い放っているのです。つまり真田昌幸にとって徳川家康とは雲の上の人物などではなく、自分が力を発揮すれば十分に勝てる相手だと認識していたということになります。それだけ自分の知略、戦術に自信があったことを窺わせるのがこの言葉なのです。
 

 

●真田昌幸 2
戦国時代〜江戸時代初期の武将、大名。真田幸隆の三男。武田家家臣の時代から信州上田を拠点としており、「表裏比興の者」の名でも知られた。徳川軍に対して2度の勝利を収めた人物。
   生没年:天文16年(1547年)〜慶長16年6月4日(1611年7月13日)
   通称:源五郎、喜兵衛(武藤氏時代)
   受領名:安房守
   父:真田幸隆
   兄:真田信綱・真田昌輝
   弟:真田信尹
   息子:真田信之・真田信繁
概要
武田信玄に仕え「攻め弾正」という異名を持った謀将・真田幸隆の三男。自らも信玄に近習として仕える。初めは信玄の母方の一族・大井氏の支族である武藤氏の養子となって「武藤喜兵衛」と称し、足軽大将等を務めた。しかし、長篠の戦いで長兄・信綱と次兄・昌輝が戦没したのを切っ掛けに真田家に復帰して家督を継ぎ、名を「真田昌幸」に改めた。また、1580年には、武田勝頼より、受領名として「安房守」の名乗りを許されている。これは、北条家と手切れになったために、北条家で安房守を名乗る北条氏邦を倒して上野(こうずけ、現在の群馬県)を占領せよという意味あいがあったとされる。
武田家滅亡後は信濃上田の独立勢力として織田・徳川・北条・上杉の勢力の中で幾度となく主を変えつつも、その勢力維持につとめた。現在の地図を見てもわかるとおり、信濃(長野県)は越後(新潟県)、甲斐(山梨県)、駿河(静岡県)、三河・遠江(愛知県)、美濃(岐阜県)などに囲まれている要所であり、当時でも前述の有力大名に囲まれており、絶えず勢力争いが起きていた。ゆえに真田家でなくても信州を領地にする豪族、大名は時と状況に応じて主を代えていた、またそうしなければ生き残れず簡単に滅亡していた。
徳川家康と対峙した際に上田城を包囲する7000もの徳川軍をその6分の1に当たる、わずか1200人の手勢で退けたことで、その名を轟かせることになる(第一次上田合戦)。ちなみに、上田合戦の際、徳川の大軍が迫りくる中、城内にて余裕の表情で囲碁を打っていたという逸話はファンの間では有名である。
その後は豊臣秀吉に臣従。上杉景勝の人質だった次男・信繁を盟主である秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従した、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となった。
天正15年(1587年)2月に上洛。3月18日に昌幸は小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見し、その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となった。なお、真田氏は上杉景勝を介して豊臣大名化になりたかったようだが景勝は真田氏を豊臣大名化させる意志はなかった。このため昌幸が独力で交渉窓口を切り開いたが、当時は石田三成ら有力な取次と関係を構築できなかったので、豊臣大名化が遅れた。
天正17年(1589年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得る。この頃、昌幸は在京していたが、11月には真田家が歴史的に重要な役割を果たすのは、秀吉による北条家小田原攻めのきっかけとなった、当時真田領であった上野・名胡桃城を北条家が乗っ取った事件である。これが惣無事令違反とみなされた。この際、昌幸から同城代に任命されていた鈴木重則は昌幸に対して責任を取る形で自害した、これにより、北条攻めの口実をつかんだ秀吉は20万の大軍で小田原を攻めることになり、昌幸には上杉景勝・前田利家ら北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り。この小田原征伐の間、昌幸は秀吉・石田三成らと相互に情報交換を繰り返しており、結果、関東北条家は滅亡している。
北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担った。昌幸は秀吉から旧領を安堵され、同じく家康牽制の一端を担った。昌幸は秀吉から家康の与力大名とされていたが、沼田問題で昌幸の在京期間が長期に及んで秀吉の信任を得る事になり、正式に豊臣系大名として取り立てられていた可能性が指摘されているが、それを示す直接的史料は無い。なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立した。
文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に在陣した。昌幸は秀吉の命令で500人の軍役が課されており、16番衆組として徳川家康ほか関東・奥羽諸大名の中に編成された。昌幸は渡海命令を与えられる事の無いまま、家康と共に文禄2年(1593年)8月29日に大坂に帰陣した。この1年半の間、上田領内に発給した昌幸の文書は皆無であり、上田統治は家臣に任せていた可能性が高い。
大坂に帰陣した後、渡海しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられた。そのため昌幸は上京してその指揮を務め、資材や労働力を負担したが、この間に豊臣秀頼が生まれたため、一応は完成していた伏見城の更なる拡張工事を命じられて普請に当たっている。昌幸は普請役では知行高の5分の1の人数負担が割りふられており、その人数は270人を数えている。ただし扶持米は豊臣家から支給された。また、築城工事の最終段階で木曽材の運搬役を秀吉から命じられている。
この軍役や普請の負担の功労により、文禄3年(1594年)11月2日に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。なお、信繁はこの頃になると昌幸の後継者としての地位を固めつつあった。また、同年4月には、昌幸は自称だった安房守に正式に任官されている(従五位下安房守)。
慶長2年(1597年)10月、秀吉の命令で下野宇都宮城主の宇都宮国綱が改易されると、その所領没収の処理を(浅野長吉>浅野長政]]と共に担当した。 時期不明であるが、秀吉から羽柴の名字を与えられたのであろう「羽柴昌幸」の文書が残っている。
関ヶ原の合戦においても、嫡子・信幸が家康側につき、自身は次子・信繁と共に石田三成側につき、再度徳川軍(この時の大将は徳川秀忠)の大軍と対峙、ついに敗れることなく徳川秀忠軍を関ヶ原の合戦に遅参させた(第二次上田合戦。この時、徳川秀忠軍は38000で、対する真田昌幸の軍勢はその10分の1である3500だった)。しかし関ヶ原の本戦自体は1日で終わり家康側の勝利に終わっている。
「上田軍記」に拠れば、関ヶ原の合戦後、家康は、真田昌幸と信繁は死罪、真田氏の所領である信濃上田を没収という裁決を下すはずであったが、家康側に属した長子の信之、及び信之の舅である本多忠勝の必死の助命嘆願により赦免が認められ、信州上田領は信之に譲渡、及び昌幸と信繁は高野山の麓である九度山(当初は高野山に配流であったが、共に流された信繁の方が妻を伴っていた為、高野山の「女人禁制」の規則を配慮して麓の九度山に変更したという)に配流され、そこで国許にいる信之の援助を受けつつ「真田庵(善名称院)」で暮らした、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長(長政の長男)からの援助で賄った。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が窺える。また国許の家臣との関係も親密で、家臣が昌幸を頼って九度山に逃れてきた事もある。
また配流当初には信之を通して赦免運動を展開し、その間に昌幸は赦免して復帰を願ったが、徳川家康の警戒が解けることはなかった。最晩年の昌幸は病気がちで、信之宛の書状では信之の病気平癒の祝言を述べると共に自らも患っている事を伝えている。また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、さらに「大草臥」と繰り返しており、配流生活は年老いた昌幸を苦しめたようである。慶長16年(1611年)に死去した。享年65。大坂の陣の3年前であった。
死後、信繁が大坂の陣に際し、大坂に入城した際は、昌幸はすでに亡くなっていたにも関わらず、家康が思わず「親(昌幸)の方か、子の方か」と体を震わして問いただしたほどで、子の方だと聞いて安堵したというエピソードが伝わっている。これは創作であり史実には無いが、いかに昌幸が家康に恐れられたかが知られていた証左でもある。
なお、侮った家康がこの「子」によって、その後どのような目に合うかは、広く知られる所である。
人物・逸話
表裏比興の者
昌幸を「表裏比興の者」と評した文書がある。これは天正14年(1586年)の上杉景勝の上洛を秀吉が労う内容の文書で、同日付で豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が景勝へ宛てている添書条に記されている。
これは家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となり、家康の真田攻めで景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現で「比興」は現在では「卑怯」の当て字で用いられる言葉だが「くわせもの」あるいは「老獪」といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。
これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と場合によっては大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強さ(武勇)を合わせて評したものである。実際、昌幸を「比興の者」と評したと目される三成は、真田家と縁を結んでいる。
知略・統率力
昌幸は現代の歴史小説において「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に根強い。誤りとまではいわないが、この従来の人物像の基礎になっているのは江戸時代中期の享保16年(1731年)に成立した松代藩士・竹内軌定の『真武内伝』である。
そのため、確実な一次史料の存在が乏しく、昌幸の人物像や個性に関しては不明な点も少なくない。文人としての知識や興味は乏しかったためかどうかは不明だが、昌幸の著作や詩歌に関連する物は皆無の状態である。
『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれているが、これから昌幸の人物像を紹介すると、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの大名を味方に付けるように策す事を遺言したとされる。
ただこの作戦は寡兵で多勢の敵軍に何度も勝利した楠木正成が採用した策略や陽動作戦そのものであり、昌幸が死に臨んで披露したかどうかには疑問をもたれている。
昌幸の策略は常に少数の味方で大兵力を抱える敵を破る事にあった。『真武内伝』では「古今の英雄で、武略は孫子呉子の深奥を究め、寡をもって衆を制し、神川の軍前には碁を囲んで強敵といえどもものともせず、その勇は雷霆にも動じない」と評している。
同書によると昌幸は策略において常に楠木正成を手本にしていたとされている。また策略だけではなく、家臣や領民を糾合して大敵に当たった昌幸の統率力は高く評価されている。
武田信玄に対する忠義・敬愛
昌幸は最初の主君である武田信玄を生涯において敬愛し、絶対の忠誠を誓っていた。
天正13年(1585年)12月に昌幸は信玄の墓所を自領である真田郷内に再興しようとした。
また『真武内伝』によると昌幸は信玄に幼少期から仕え、信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたとされる。
同書によると、秀吉と昌幸が碁を打っていた際、秀吉が「信玄は身構えばかりする人だった」と評した。それに対して昌幸は「信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつけをした事は一度もない」と答えたと伝わる。
豊臣秀吉に対する恩顧
昌幸は大名となる過程で秀吉の支援を受けていたため、秀吉や跡継ぎの秀頼に対して一定の恩顧心があったとされる。
なお、一説によると、小田原征伐の後に家康が北条家亡き後の関東へ移封されてしまったのは、家康を目障りに思っていた昌幸の進言ではないかとの説があり、事実、家康が移封となった関東は、後に豊臣と関係の深い真田家や上杉家や佐竹家に挟まれた場所で、昌幸からして見れば上杉家や佐竹家と結託して徳川を包囲して攻め滅ぼすにはうってつけの場所であったと言えなくも無かった。
徳川家康に対する敵対心
家康とは互いに相容れぬ関係にあり、彼に対しては他の武将と比べてみても反骨精神が並外れなまでに旺盛であった。これは信玄存命の頃から家康と敵対関係にあったためではないかとされ、特に三方ヶ原の戦いにて徳川軍に阻まれた結果、武田軍は勝利したものの、信玄は上洛を果たせないまま陣中で死亡し、後の武田家滅亡の遠因にもなっている為、それが昌幸に家康への並外れた憎悪を抱かせるに至ったのだと思われる。また、信玄の死後に徳川家と同盟を結んでいた際、徳川家と北条家の和睦の条件として真田の領地である沼田を明け渡すよう家康に言われたのが不服であったからとされてもいる。
その後、秀吉から徳川の与力大名になれと言われた際も、家名存続の為に嫡男・信幸(信之)を送り込んでいるが、一定の距離は保っている。自領の周囲が家康の脅威にさらされていたにも関わらず、それでも家康に対する敵対姿勢は緩める事無く、家康が出陣していないとはいえ2度の上田合戦で勝利した事からも、昌幸の自負心の高さが窺える。だが、関ケ原の戦いで再度裏切る選択を取った事は、完全に裏目に出てしまう事になり、家康の高い憎悪を買っていたこともあり西軍の主犯格の一人と見なされ宇喜多秀家や織田秀信同様、一度は死罪を申し付けられる。信之が徳川方についた事などから真田家自体は存続でき昌幸も一命は助かったが、以降は決して赦免が許されないまま、昌幸は晩年を過ごし、この世を去る事になってしまった。
昌幸の死後、信之はその葬儀に関して家康の側近である本多正信に尋ねた。それに対して正信は昌幸は「公儀(政府。江戸幕府を指す)御憚りの仁」であるから幕府の意向を確かめてから対応するようにと忠告している。 死してなお、昌幸は容易に許されず、それだけ家康の怒りを買ってしまった事を窺わせるが、これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が「偽装死」ではないのかと半ば疑っていた事も示唆している。事実、徳川家康は大坂冬の陣で真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。その時家康の手は震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる。しかし、実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも伝わる。
筆まめ
昌幸は非常に筆まめだった。
大名時代から信之、家臣の河原氏などに対する書状が確認され、流人時代には信之や近臣に頻繁に書状を送っている。
流人時代には彼らから生活の援助を受けており答礼を記したものもあるが、書状の中では旧主として振る舞っているようにも見られ、昌幸の芯の強さが窺える。
一方で昌幸は我が子を愛しており、死去する1か月前には信之に何としても会いたいという気持ちを吐露する書状を送った。
囲碁
昌幸は囲碁をよく打った。江戸時代後期、文政2年(1819年)三神松太郎が編纂した『古棋』には、昌幸と信之のものとされる棋譜が収録されている。真偽は不明だが、棋譜によると196手で白番(後手)の昌幸が中押し勝ちを収めている。
関ヶ原
徳川秀忠が西軍についた昌幸と信繁の篭る上田城に前進を阻まれていた時、秀忠は冠が岳にいる先陣の石川玄蕃、日根野徳太郎に連絡する必要に迫られ、島田兵四郎という者を伝令として出した。
兵四郎は地理がよくわからなかったうえ、上田城を避けて迂回していたのでは時間がかかりすぎると思い、なんと上田城の大手門前に堂々と馬を走らせ、城の番兵に向かって「私は江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者。君命を帯びて、我が先陣の冠が岳まで連絡にいくところです。急ぎますので、どうか城内を通してくだされ」と叫んだ。味方に連絡するために、現在交戦中の敵城を通してくれ、というのだから、とんでもない話である。番兵たちもあまりのことに仰天してしまい、昌幸に報告すると「なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ」と門を開けるように指示した。「かたじけない」と城内を駆け抜け裏門を抜ける際、兵四郎はちゃっかりと「帰りももう一度来ますので、また通してくだされ」と言った。
その言葉通り、再び兵四郎が帰りに城に立ち寄った時、昌幸はいたく感服し、兵四郎に会い、「そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ」と、自ら直々に案内して城内を詳しく見せてやり、その後門を開けて帰してやったという。
墓所
昌幸の葬儀に関しては不明である。
死後、遺体は九度山に付き従った河野清右衛門らによって火葬にされ、慶長17年(1612年)8月に分骨を上田に運んだという。墓所は長野市松代町松代の真田山長国寺で、上田(長野県上田市)の真田家廟所である真田山長谷寺に納骨された経緯が記されている。
また九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の真田庵にも法塔が造立され昌幸墓所とされており、後に尼寺である佉(人偏に「去」)羅陀山善名称院が開かれている。別称の真田庵というのは、大安が建立した善名称院の事で、いつの頃からか、後世に真田庵と呼ばれるようになった。
評価
信玄からは次兄・昌輝同様に「我が眼がごとく」と言わしめ、徳川の大軍を2度にわたって敗走させるなど、この時代きっての武将であるのは間違いない。ただし、武田家滅亡以降(真田家の維持のために止むを得なかったとはいえ)→織田信長(本能寺の変により死亡) →北条氏直(戦に助成するも直ぐに別離)→徳川家康(沼田領地の没収命令に憤慨して裏切る)→上杉景勝(徳川と戦する為に助成を求め同盟)→豊臣秀吉※(天下統一により上杉家と共に臣下の礼をとる)、5度にわたって主家を変えたことから、秀吉からは「表裏比興の者」(老獪な奴の意)、家康からは「稀代の横着者」(狡猾な奴の意)、といったとの評価をされ、『三河後風土記』には「生得危険な姦人」(腹黒く悪賢い人物)と記録されている。
※(昌幸の主家は豊臣家だか、昌幸と徳川家康の関係は家臣なく「与力大名」と呼ばれるもので、軍団活動時に昌幸は家康の指図を受ける立場となる、昌幸が徳川家来になったわけではない。)
松永久秀等と同様、武将として恐れられていても信用が全くない人物とされており、最終的に九度山へ軟禁状態にされてしまったのも、徳川家へ二度目の裏切りを重ねてしまった故の結末と言われてしまえば、やはり仕方の無い事かもしれない。
それでも現在において昌幸の人格的評価がそれほど悪くないのは、天正壬午の乱のとき、小笠原貞慶や木曽義昌は積極的に領土拡張に乗り出してるが、真田昌幸はひたすら現領地の維持にしか努めていない、豊臣秀吉に真田領の全てを安堵されて以降は、おとなしく臣従している。度重なる謀略や手のひら返しは野心ではなく、ひたすら「真田の家や領地を守る」ために頭脳をフル回転させているイメージの評価が多い。
また次男の幸村(信繁)が圧倒的な人気をほこり、創作作品などでは幸村の師匠のように扱われてるためでもある。やもすれば、その信繁の影に隠れつつもあるが、大坂の陣が始まるまでは真田と言えば昌幸・信之のことであり、当時、信繁は無名の扱いをされていた。江戸時代260年続いた真田家を作り上げたのはまさしく昌幸の功績なのである。
余談に近いが、九度山に配流されてた時、生活のため編んでいた紐が「真田紐」と呼ばれるようになり、寄生虫「サナダムシ」がこれに似ていたことから語源となったとされるが、一説にはサナダムシに悩まされた家康が「真田は虫になってまでもこのわしを苦しめる!!」と嘆き、腹立ち紛れにつけたともされ、家康の真田アレルギーの大きさを物語っている。
 

 

●真田昌幸と城 3
「真田昌幸」(さなだまさゆき)は、1547年(天文16年)〜1611年(慶長16年)年7月13日までを生きた戦国武将です。幼いときから名武将である武田信玄に仕えて、その兵法を学びました。成長して信濃の大名となると、会得した兵法を駆使し、徳川家康の軍を2度も破っています。また、「日ノ本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と称えられる戦国武将「真田幸村」(さなだゆきむら)の父としても有名です。そんな真田昌幸の生涯と、ゆかりのある城についてご紹介します。
真田昌幸の生涯
1547年(天文16年)真田昌幸は、甲斐を治める武田家の家臣である「真田幸隆」(さなだゆきたか)の3男として生まれました。幼少期から武田家の家臣団に入り、武田信玄を主君と仰いでいます。武田信玄の薫陶(くんとう)を受けて、知略に長けた武将へと成長していった真田昌幸は、武田信玄からは「我が眼」と言われるほど、重宝されました。真田昌幸の初陣となったのは、武田信玄がライバルである上杉謙信と対峙した「川中島の戦い」(かわなかじまのたたかい)です。これ以降も戦に参加しながら、武田信玄の優れた兵法を学んでいます。しかし1573年(天正元年)、武田信玄は病により亡くなってしまいました。家督を継いだのは、その4男である「武田勝頼」(たけだかつより)です。武田家を盛り立てるため次々と他国に攻め入った武田勝頼ですが、「長篠の戦い」(ながしののたたかい)で織田信長と徳川家康の連合軍に惨敗。この戦で真田昌幸の兄たちが討たれてしまったため、真田昌幸は3男ながら家督を継ぐことになります。
1582年(天正10年)、織田信長と徳川家康の連合軍は、武田家への総攻撃を開始しました。武田家の家臣たちは劣勢だと見ると、次々と連合軍に寝返っていきます。そして、家臣の裏切りにより追い詰められた武田勝頼が自害すると、武田家は滅亡。仕えるべき家を亡くした真田昌幸は、独立する形になったのです。この頃、真田家の領地がある信濃は、織田信長の支配下にありました。「本能寺の変」により織田信長が没すると、信濃は統治者がいない状態になります。そこで、信濃の有力者たちが話し合いの末に、新しい統治者として選んだのが真田昌幸です。武田家の家臣に過ぎなかった真田昌幸は、数奇な運命をたどり、信濃の大名となりました。これ以降、真田昌幸は「有力大名に仕えては離反する」を繰り返していきます。信濃を守るためには、時代の流れに応じて主を変えていく必要があったのです。
1585年(天正13年)、徳川家康に仕えていた真田昌幸は、「領地の一部を北条家(関東を治める大名家)に明け渡すように」という理不尽な命令を受けました。真田昌幸がこの命令を拒否すると、激怒した徳川家康は真田討伐の兵を出したため、真田昌幸は徳川軍を迎え撃つべく、信濃の上田城に籠城します。徳川軍7、000に対して、城内の真田軍はわずか2、000。この3倍以上の戦力差を、真田昌幸はかつて武田信玄から学んだ兵法によって覆しました。徳川軍を城下町までおびき寄せると、民をあらかじめ避難させていた城下町に火を放ちます。しかも、城下町の門を閉鎖して、徳川軍が脱出できないようにしたのです。そして、徳川軍に1、000人以上の死者を出す被害を与えて、真田軍は勝利しています。
その後、徳川家康のもとから離反した真田昌幸は、天下人である豊臣秀吉の家臣となりました。豊臣家へ人質に出した、次男の真田幸村が豊臣秀吉に気に入られたこともあり、真田昌幸は豊臣家と良好な関係を築いています。しかし1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康はこれに乗じて天下を獲るべく、豊臣家の武将たちを仲間に引き入れていきます。そんな徳川家康の前に立ちはだかったのが、豊臣秀吉の側近だった「石田三成」(いしだみつなり)です。豊臣家の天下を守るべく、石田三成は徳川家康に対抗するための勢力を作り上げます。ふたりの対立は全国に飛び火し、戦国時代で最大級の合戦となる「関ヶ原の戦い」に発展。全国の武将が徳川家康の率いる東軍か、石田三成の率いる西軍かに分かれて覇を競いました。真田昌幸が加勢したのは西軍です。なぜ西軍に加勢したのかには諸説ありますが、徳川家康と上田城での因縁があったからという説もあります。東軍は、徳川家康が率いる軍とその三男である「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が率いる軍に分かれて、決戦の地である関ヶ原を目指しました。徳川秀忠の行く手に立ちはだかったのが真田昌幸です。またしても真田昌幸は上田城に籠城し、徳川軍と激突します。
この戦でも、真田昌幸の兵法が真価を発揮しました。徳川軍を本丸までおびき寄せたところで、鉄砲の一斉射撃を浴びせます。徳川秀忠は本丸で苦戦する部隊を助けるために援軍を出したのですが、その援軍は本丸にたどり着けませんでした。なぜなら、真田軍が上田城付近を流れる川のダムを決壊させたため、川が増水し、援軍の行く手を阻んだからです。このように、真田昌幸の兵法に翻弄された徳川秀忠は、上田城を落とすことができませんでした。そればかりか、上田城での戦で時間を取られたせいで、関ヶ原の戦いの開戦に間に合わなかったのです。徳川秀忠の軍を上田城に釘付けにして、東軍の戦力を大きく削ぐ。ここまでは真田昌幸の思惑通りでしたが、関ヶ原の戦いで想定外の事態が起きてしまい、わずか半日で西軍が敗退してしまったのです。
関ヶ原の戦いを制して、天下を獲った徳川家康は、真田昌幸とその子である真田幸村を高野山の麓にある九度山へ追放しました。九度山での生活は経済的には苦しかったものの、真田昌幸は息子と支え合って過ごしています。そして1611年(慶長16年)、65歳で永眠。その後、豊臣家と徳川家が戦った「大阪の陣」で、真田幸村が徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めています。真田昌幸の武将としての魂は、真田幸村へと受け継がれたのでした。
真田昌幸が長男と別れた犬伏の地
関ヶ原の戦いで東軍につくべきか、西軍につくべきか。当時の戦国武将にとって運命の分岐点とも言える決断だったでしょう。真田昌幸がこの運命の分岐点について、ふたりの息子たちと話し合ったのが下野(今の栃木県)の犬伏という場所です。
1600年(慶長5年)、犬伏での話し合いのなかで、長男である真田信幸(さなだのぶゆき/関ヶ原の戦いのあとは真田信之に改名)と真田幸村の意見が分かれました。東軍を率いる徳川家康の重臣「本多忠勝」(ほんだただかつ)の娘を妻に持つ真田信幸は、東軍につくことを決断。一方、西軍を率いる石田三成の側近である「大谷吉継」(おおたによしつぐ)の娘を妻に持つ真田幸村は、西軍につくことを決断します。そんななか、真田昌幸は西軍につくことを宣言しました。東軍に長男がつき、西軍に父と次男がつくことにより、家族内で争うことになった真田家。しかし、これは真田昌幸の計略だったという説もあります。どちらの軍が勝っても家が存続するように、あえて家族内で両方の軍に分かれたというのです。実際、関ヶ原の戦いのあと、家族内で両軍に分かれていたことが幸運となります。敗れた西軍についていた真田昌幸と真田幸村は、徳川家康から死罪を言いつけられたのですが、真田信幸が助命嘆願してくれたおかげで、死罪を免れることができたのです。
犬伏での真田家の別れは計略だったのでしょうか。もしそうだとしたら、策士として本領発揮した真田昌幸はさすがと言えます。
真田昌幸に関連する城
戦国時代、名将・武田信玄から学んだ兵法により、いくつもの戦を制してきた真田昌幸。上田城に籠城して徳川家康の軍を2度も破っているだけあり、戦において城をどのように利用すれば良いのかを知り尽くしていたことでしょう。ここでは、真田昌幸がその足跡を残した岩櫃城、名胡桃城、沼田城、上田城、戸石城、名護屋城をご紹介します。なお、この6つの城は真田昌幸とかかわった年代の古い順に並べました。
岩櫃城(いわびつじょう):群馬県吾妻郡東吾妻町
真田昌幸の拠点のひとつであった岩櫃城は、堀を巡らせた山の頂上にある堅牢な要塞でした。1582年(天正10年)、真田昌幸は主君である武田勝頼に「岩櫃城で籠城すること」を進言しています。武田勝頼が、織田信長と徳川家康による連合軍の攻撃に晒されていたからです。真田昌幸は岩櫃城の付近に主君が住むのにふさわしい立派な屋敷を、わずか三日間で築いています。しかし、武田勝頼が岩櫃城に来ることはありませんでした。家臣である「小山田信茂」(おやまだのぶしげ)の進言を受けて、「岩殿城」(いわどのじょう)に向かうことを決断したのです。岩殿城への道中で、武田勝頼は小山田信茂の裏切りにあって、自害することになります。もし、武田勝頼が岩櫃城へ来ていれば、武田家が滅びることはなかったのかもしれません。現在、岩櫃城の城跡には遺構こそ残っていませんが、山の上から雄大な景色を楽しめる景勝地として人気です。
名胡桃城(なぐるみじょう):群馬県利根郡みなかみ町
北条家の拠点である沼田城攻略の手始めとして、真田昌幸が落としたのが沼田城の支城である名胡桃城です。この城を落としたことにより、真田昌幸は沼田城攻略にも成功しました。 その後の1587年(天正15年)、有名な「名胡桃城事件」が起きています。時の権力者である豊臣秀吉は大名間での争いを禁じる法令を発布しました。ところが、北条家が法令を無視して、武力行使によって真田家から名胡桃城を奪い返します。これに豊臣秀吉が激怒したので、豊臣家に仕える諸大名たちが北条家の居城である小田原城を攻めた「小田原攻め」が勃発したというわけです。 ドラマによる「真田ブーム」が起きた2015年(平成27年)、真田ゆかりの地である名胡桃城でも土塁などの一部を復元する整備工事が行なわれました。
沼田城(ぬまたじょう):群馬県沼田市
主君である武田勝頼の命により、真田昌幸が攻め落としたのが北条家の拠点であった沼田城です。真田家の所有となったこの城では、真田昌幸の長男である真田信幸が妻の小松姫と暮らしました。その後1600年(慶長5年)、犬伏の地で話し合った真田昌幸と真田信幸は、親子でありながら、関ヶ原の戦いで東軍と西軍に分かれて戦うことを決断。真田昌幸は犬伏から本拠地である信濃に戻る途中、孫に会うために沼田城に立ち寄ることにしましたが、城に入ることができませんでした。小松姫が、義父といえども敵に回った者に城門を開かなかったためです。甲冑を身に付けてあらわれた小松姫は、勇敢にも真田昌幸を城から追い返しました。現在、沼田城跡は公園となっており、その付近には小松姫のお墓もあります。
上田城(うえだじょう):長野県上田市
1583年(天正11年)、真田昌幸は信濃の地に上田城を築きました。そして、この城に籠城し、2度も徳川軍を破っています。関ヶ原の戦いのあと、真田昌幸が九度山に追放されると、上田城はその長男である真田信幸に引き継がれました。現在の上田城で、真田家ゆかりのものとして有名なのが、東側の門付近にある巨岩「真田石」です。この真田石には、信州へ転封(幕府の命令で領地が他の場所に変わること)となった真田信幸が父の形見としてこの巨岩を持っていこうとしたものの、あまりの重さに持っていけなかったという逸話があります。城跡には櫓が3つも残っているため、昔ながらの城の雰囲気が楽しめると評判です。
戸石城(といしじょう):長野県上田市
上田城の支城のひとつだったのがこの城です。山の尾根に築かれた4つの城のことを総称し、戸石城と呼んでいました。1600年(慶長5年)に起きた、真田昌幸が徳川軍と戦った「第二次上田城の戦い」で、戸石城を攻めたのが真田信幸です。戸石城を守っていたのは、その弟である真田幸村であったため、悲劇的な兄弟対決が起きてしまうことが危ぶまれました。しかし、開戦前に真田昌幸が真田幸村に撤退を命じています。父親として、息子たちが争う様子は見たくなかったのでしょう。現在、戸石城の城跡が残る東太郎山には登山道が整備されているため、登山をしながら土塁や堀といった城の遺構を見物することができます。
名護屋城(なごやじょう):佐賀県唐津市
1592年(天正20年)、豊臣秀吉の計画した朝鮮出兵に協力するため、真田昌幸とふたりの息子は備前(現在の佐賀県)の名護屋城にまで遠征しています。もちろん真田親子だけではなく、豊臣家に仕えていた諸大名たちも名護屋城に集まっていました。この城に集まった諸大名と彼らの家臣たちの数を合わせると、約20万人にも及んだとされています。真田親子は500人の兵を朝鮮半島に送りましたが、自分たちが渡海することはありませんでした。現在、名護屋城の跡地とその周囲に築かれた諸大名の屋敷の跡は、国の特別史跡に指定されています。真田親子が利用したという屋敷は5ヵ所も見つかっており、真田家のファンから人気を博しているようです。
 

 

●「危険な武将」〜真田昌幸(さなだ まさゆき)〜
武田信玄は「わが眼の如し」と信頼した。豊臣秀吉は「表裏比興(ひきょう)の者」と警戒した。徳川家康は「稀代(きだい)の横着者」と嫌忌(けんき)した。世人は「生得の姦人(かんじん)」と畏怖した。強者に媚びず、権力を怖れず。真田昌幸は矜持(きょうじ)を貫く戦国の漢(おとこ)であった。
昌幸は幼時から信玄に仕え、外交内政のあらゆる戦略戦術を実践で学んだ。武田流軍法は「孫子」に言う“風林火山”。昌幸は信玄の薫陶を骨の髄に刻み込んだ。
その昌幸の本領が輝くのは天正10年(1582年)。4月、武田勝頼を討った信長に臣従し、西上野と東信濃のわずかな領地を安堵される。しかし6月、信長が本能寺で横死。旧武田領の甲斐、信濃、上野をめぐって徳川家康、北条氏康、上杉景勝の三つ巴の争奪戦(天正壬午の乱)が起きる。その渦中で存亡の危機にさらされた昌幸は北条と組み、9月には一転して徳川に随身と、めまぐるしく動いた。
昌幸の外交戦略は、徳川、北条、上杉と次々に陣営を変えながら三者を牽制し(結果的には翻弄し)領土領民を守ることだ。臣従し随身するが、心服はしない。「命より名こそ惜しけれ」(名将言行録)という戦国武将の鮮烈な美学である。
昌幸の凄みは外交の巧みさだけではない。強者の横暴には、武門の意地と武名を懸けて昂然(こうぜん)と対抗する。家康に対峙した二度にわたる上田合戦がそれだ。
第一次上田合戦は天正13年(1585年)。天正壬午(じんご)の乱の収拾和解の条件として、沼田領の割譲を迫られるがこれを拒否。
激怒した家康は7千の兵で迫る。真田勢はわずか2千。果敢に戦い領土を死守。自立自衛を果たし戦国大名にのし上がる。
第二次合戦は慶長5年(1600年)。秀吉亡き後、天下への野心を露骨に示す家康は上杉征討の軍を興す。昌幸は徳川と決別し上杉と盟を結んだ。そして関ヶ原決戦。真田親子はそれぞれの義に従い、昌幸と次男信繁(幸村)は豊臣方西軍に、長男信之は徳川方東軍についた。世に言う「犬伏の別れ」である。上田城に籠った真田勢3千は頑強に抵抗。徳川秀忠率いる3万8千は撤退を余儀なくされ、あげくに関ヶ原合戦に遅参するという大失態を演ずることになる。
上田合戦の攻防は、まさに“風林火山”の極意。信玄の言う「わが眼の如し」であった。「兵は分合(ぶんごう)を以て変を為すなり」(*1)であり「戦いは正を以て合い、奇を以て勝つ」(*2)。静と動、正と奇。戦法は臨機応変、縦横無尽だった。
真田の強さは主従の結束力だ。この時代、家臣や領民は戦闘の不利を知れば、あっさりと主家を見捨て、時には敵側に寝返るものだ。そうならなかったのは、真田の治世が広範な支持を得ていたことと、部下に「この人のためならば…」と思わせる魅力が昌幸にあったのだろう。上田合戦では多くの領民が籠城し、共に戦った。「人は城、人は石垣、人は堀」の伝統だ。二度の勝利は戦国合戦の奇跡だといえる。
「比興の者」の意は“老獪な男”、「横着者」とは“一筋縄ではいかぬ者”のことだ。昌幸は家康らにとって手ごわい男、生得の姦人(生れながらの危険な男)であった。
小国経営にあたって大国を怖れず、めまぐるしく動いた「危険な武将」真田昌幸から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。
*1 戦闘の根本は敵をあざむくこと。機に応じて兵力を分散あるいは集合し、変化に対応する(孫子軍争篇)。その後に「疾(はや)きこと風の如く、徐(しずか)なること林の如く…」と続く。
*2 戦闘は正攻法で対陣し、奇襲で勝利を得る(孫子兵勢篇)
 

 

●真田昌幸「弱くても勝つ方法」
根の深い確執から徳川を嫌った昌幸
真田信繁(幸村)の父にあたる真田昌幸(まさゆき)は、信濃国小県(ちいさがた)郡の小豪族、真田幸隆(ゆきたか)の三男である。幸隆は武田信玄の父信虎に所領を追われていたが、信玄が武田氏の家督を継ぐと信州に帰って武田氏に臣従した。
昌幸は、幼い頃に人質として武田家に送られ、信玄の許で多くの合戦を体験した。信玄は昌幸の才を「わが両目の如し」と愛し、武田家足軽大将の武藤家を相続させた。
ところが天正3年(1575)の長篠の戦いで、長兄の信綱(のぶつな)と次兄の昌輝(まさてる)が討死したため、真田家に帰って家督を相続した。
天正10年(1582)3月に、織田信長の攻勢で武田氏が滅亡すると、昌幸は織田氏に臣従し滝川一益の与力武将となった。ところが3カ月後に信長が本能寺の変で横死すると、旧武田領を統治する織田勢は逃走し、無主となった旧武田領を巡って徳川家康や上杉景勝、北条氏直らが争奪戦を繰り広げ、昌幸も武田家旧臣を取り込んだ。
滝川一益が北条氏直に敗れると上野(こうずけ)も無主になり、昌幸は沼田城を奪取した。嫡男の信幸を岩櫃(いわびつ)城に入れて上野の守備を固めたが、小大名の真田氏の領土は徳川、上杉、北条から狙われ、昌幸も状況に応じて三者の間を渡り歩いた。
昌幸は徳川家康に臣従したが、家康は北条との和平条件で、真田が自力で奪った沼田領を、北条氏に渡せとしたことで、家康から離反した。
天正13年(1585)7月に、昌幸は越後の上杉景勝の支援を得て、2000の兵力で上田城に籠もり、徳川軍7000を迎え撃ち大勝した。この上田合戦で昌幸は秀吉から信濃の独立大名として認知された。その後も家康は、真田征伐に兵を甲府に進めたが、秀吉の調停により真田氏は徳川氏の与力大名とされた。だが家康は小領主で策を弄する昌幸を警戒し、昌幸は畿内で輝くように活動する秀吉に魅了されていた。
天正17年(1589)に、北条方が真田領の名胡桃(なぐるみ)城を攻略したことで、秀吉は私闘を禁じた惣無事令(そうぶじれい)への違反とし、小田原の北条氏を征伐した。秀吉は家康を北条氏の旧領である関八州に移すと、徳川領の周囲に豊臣系大名を配して家康を牽制するが、昌幸もその一端を担った。
昌幸は沼田領を嫡子の信幸に与え、信幸は家康の重臣本多忠勝の娘を正室としたため家康配下の大名となり、次男の信繁は昌幸の後継者としての地位を固めていった。
三成挙兵を真田家興隆のチャンスとした昌幸
慶長5年(1600)、家康が上杉景勝討伐に関東へ下ると、昌幸もこれに応じた。石田三成が家康の留守を狙って上方で挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送り、昌幸は下野国犬伏(現・栃木県佐野市)で、この書状を受け取った。
昌幸は三成の使者に「かほどの大事を、前もって相談せぬことがあるものか」とした怒りの返書を渡し、信幸と信繁を呼んで評議を開いた。長男の信幸は本多忠勝との縁から家康に与したが、次男の信繁は人質として秀吉の許に送られて、秀吉の傍近くに仕え、秀吉の声がかりで大谷吉継の娘を妻にしていた。ところが昌幸は二人の息子の立場とは違った発想をしていた。
昌幸は智謀の将とされ「真田は表裏比興(卑怯)の者」と評されていた。家康が上方を留守にすれば、三成が挙兵するのを昌幸は予測できたが、前もって知らせられなかったとして怒ってみせた。そして、三成と書面で交渉して謝罪させ、勝利すれば信濃と甲斐を与えるという条件を引き出したのである。
昌幸と信繁は上田に帰り、真田父子が訣別したことは家の存続のための両面作戦とされたり、上田合戦で上杉景勝の支援を受けた返礼ともされるが、昌幸は家を興隆させるために、所領の拡張を望んでいたと思われる。
家康の後継者秀忠は、徳川軍の主力である3万8000の大軍を率いて、中山道を上方に向かった。秀忠は上田城の昌幸に、信幸と本多忠勝の長男忠政を使者として送り、帰順を勧告した。昌幸は帰順するような態度を見せながら、最終的には「太閤様の御恩忘れがたく……」と抗戦の意思を示した。
家康も見誤った智将・昌幸の人間性
秀忠は麾下の武将に上田城攻略を命じ、関ヶ原合戦の前哨戦が始まった。信幸は信繁の籠もる砥石城攻略を命じられたが、信繁は砥石城から兵を引き、兄弟による死闘を回避した。砥石城の占領は信幸の功とされた。
昌幸は2000の兵力で籠城戦を展開し、奇策を用いて秀忠軍を誘って打ち破った。徳川方の史料にも「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」とある。秀忠は昌幸に翻弄されて小諸に退いた。
利根川の増水で遅れていた家康からの使者が、秀忠の許に着き、上洛を命じられた秀忠は上田攻略を諦め、急いで上方に向かった。だが秀忠は、9月15日の関ヶ原合戦の本戦に遅参してしまった。そのため家康は、豊臣恩顧の大名たちの軍勢を主力にして戦わねばならず、戦後の論功行賞では、彼らに大禄を与えねばならなくなった。
さすがの昌幸も、たった一日の戦いで、三成方が崩壊するとは思ってもいなかった。家康は昌幸と信繁父子に、上田領没収と死罪の処分を下したが、長男の信幸とその舅の本多忠勝の助命嘆願によって高野山への蟄居とされた。
信幸と別れの対面をした昌幸は「さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と涙を流し、無念の胸中を語ったという。
昌幸と信繁は高野山麓の九度山(くどやま)に屋敷を構えて住み、紀州藩主になった浅野幸長の監視を受けた。昌幸は浅野家から毎年50石の米を贈られ、信幸は年貢の一部を割いて支援したが、昌幸らの生活は苦しく、信幸や浅野家を通じて家康に赦免を願っていた。晩年の昌幸は気力が衰え、慶長16年(1611)に65歳で死去した。
昌幸は領土に対する執着心が強く、爽やかな武将ではない。現代で言うなら、破格の俸給を提示されれば、ライバル会社に移籍することも厭わないと思える人だ。昌幸は徳川の大軍を少兵力で二度までも破り、絶大な「費用対効果」を上げている。家康も昌幸を小領主とあなどらず、慎重に接していれば傘下にできたのだ。
昌幸の人生の最後は残念なものになったが、それでも大国相手にひるむことのなかった生きざまは、現代人にも「小」が「大」に勝つヒントを提示してくれる。
東京下町の工場では、大企業にない手作業の技術で世界から注目されており、中小のメリヤスメーカーは独創的な発想で、継ぎ目のない一体になった衣服を織り、フランスの有名ブランドからも注目されていると聞く。 現代で資本力の弱い「小」が「大」を凌ぐ方策は、「智恵」と「独創性」ではないだろうか。
 

 

●真田昌幸は「打倒家康」を悲願としていたのか?
実は貧困と病気で苦しんだ悲惨な晩年。
九度山に逼塞した真田昌幸
慶長5年(1600)9月、徳川家康は関ヶ原で西軍を打ち破り、天下取りの道を切り開いた。しかし、信濃上田城(長野県上田市)に籠城し、西軍に味方した真田昌幸・信繁父子は無念にも敗北。昌幸・信繁父子は、家康から紀伊九度山(和歌山県九度山町)への蟄居を命じられた。映画やテレビ、小説などによると、九度山に蟄居した昌幸・信繁父子は、「打倒家康」を悲願として、日々作戦を練っていたという。果たして、その話は事実であると考えてよいのだろうか?
弱気だった昌幸
九度山で過ごしていた昌幸は、たびたび手紙を書いていたが、その内容は意外にも至って弱気である。
慶長8年3月15日、昌幸は故郷の信綱寺(しんごうじ。長野県上田市)に書状を送った(「信綱寺文書」)。その内容とは、本多正信(家康の家臣)を介して家康に赦免を願うという趣旨のものだ。昌幸は「打倒家康」を悲願としていたように思われていたので、ただ驚くばかりである。
どうやら昌幸は「打倒家康」を考えておらず、逆に許してもらおうとしたようだ。慣れない土地での生活は厳しく、昌幸は一刻も早く故郷へと戻りたかったのだろう。この書状からは、昌幸の赦免を乞う哀れな姿が思い浮かぶだけで、「打倒家康」という闘志を感じることはできない。
また、昌幸は金にも困っていたらしく、この書状の追伸部分には信綱寺から2匁の送金があったことが書かれている。昌幸は、信綱寺の心遣いに大変感謝していた。
慶長8年1月9日、昌幸は人を介して願主となり、豊国社(京都市東山区)に銀子7枚を奉納した。昌幸の依頼を受けたのは、関ヶ原牢人と懇意にしていたという秀吉の正室・北政所だった(『梵舜日記』)。とにかく昌幸は復権を画策して、なりふり構わず家康や北政所にすがりついたのだ。
ところが、昌幸の努力は実ることなく、九度山から故郷の上田に帰ることは叶わなかった。家康の凄まじい怒りは、容易に解けなかったのだ。同じ頃の昌幸は、厳しい経済的な事情で苦しんでいた。
昌幸の苦しい生活
一大名から転落した昌幸の経済的な基盤は、どうなっていたのであろうか。昌幸は国許の信之から支援を受けており、信之の妻から鮭を送られることもあった。また、紀州藩や蓮華定院(和歌山県高野町)などからも支援があり、紀州藩主の浅野長晟(ながあきら)から毎年50石を支給されていた(『先公実録』など)。なお、先述した信綱寺からの銀子2匁は、臨時収入だったのだろう。
年不詳1月5日付の昌幸の書状(宛名欠)には、昌親(昌幸の三男)から臨時の扶助金40両のうち20両が送金されたと書かれている(「真田神社文書」)。とりあえず半分の20両が昌幸に送金されたが、まだ20両も不足していた。40両は、現在の貨幣価値で約400万円である。
加えて昌幸には多額の借金があり、返済に困っていたため、すぐに残りの20両の送金を昌親に依頼した。準備が出来次第送金して欲しいと書いているので、昌幸はかなり経済的に困窮していたようだ。つまり、昌幸の生活は、周囲の経済的支援がなければ成り立たなかったのだ。
昌幸の生活は経済的に厳しかったのだから、とても「打倒家康」を考えるゆとりはなかったと考えられる。むしろ、お金のことばかり考えていたのかもしれない。
病気で苦しむ昌幸
昌幸の晩年は、病気との闘いであったといえる。慶長5年の時点で、昌幸は54歳。まだ、そんなに老ける年齢ではない。しかし、年月の経過とともに、昌幸の心身は蝕まれていった。年未詳(慶長15年頃)3月25日付の昌幸書状(信之宛)には、昌幸が病に苦しんでいた様子が克明に書かれている(「真田家文書」)。
昌幸は書状を送る前に国許の状況を知るため、配下の青木半左衛門を上田に遣わし、信之が病気であると知った。書状は信之の病気を見舞うとともに、自身の状況を知らせたものだ。以下、概要に触れておこう。
昌幸は書状のなかで変わりないので心配しないようにと言いつつも、加齢により気力・体力ともに衰えたと書いている。そして、自身の状況(貧困、病気)を悟って欲しいと述べる。追伸の部分では、田舎のことなので何かと不自由なことを推察して欲しいとし、とにかく大変疲れたと書いている。
信之に心配を掛けないようにしているが、病気になった昌幸は心身ともにすっかり弱っていたようだ。このとき昌幸は64歳。すっかり高齢となっていた。
別の年未詳の昌幸の書状(信之宛)には、自身の病気が長引いていること、信之に会いたいと思っているが、それが叶いそうにないことを書き綴っている(「真田家文書」)。もし、病気が治った場合は、信之に会いたいと書いているので、心の底から息子に会いたかった心情がうかがえる。
もはや「打倒家康」どころか、昌幸は心身ともに衰えていたのである。
昌幸の最期
慶長16年(1611)6月4日、昌幸は65歳で真田庵(和歌山県九度山町)で病没した。九度山での幽閉生活は11年にも及んだ。ここまで記したとおり、「打倒家康」を悲願としていたという通説とは大きく異なり、晩年は病と貧困に苦しんでいたのである。
法名は、龍花院殿一翁殿干雪大居士という。真田庵には宝塔があり、昌幸の墓所とされている。昌幸の火葬後の慶長17年8月、河野清右衛門幸壽が分骨を持ち出し、長谷寺(ちょうこくじ。長野県上田市)に納骨したといわれている(『先公実録』)。そのため、昌幸の墓は長谷寺にもある。
 

 

●名将・真田昌幸が耐え抜いた、2度の上田城における徳川氏との対決とは
第一次上田城の攻防
天正10年(1582)6月に本能寺の変で織田信長が横死すると、信濃の情勢は一変し、天正壬午の乱が勃発した。同年10月、徳川氏と北条氏は和睦を結び、ようやく戦いは終わった。
和睦条件の一つとして、真田氏の上野沼田領(群馬県沼田市)と北条氏が制圧した信濃佐久郡(長野県佐久市など)を交換するという条項があった。これがのちに火種となる。
翌天正11年(1583)以降、真田昌幸は上田城(長野県上田市)の築城を開始し、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と交戦状態に陥った。
天正13年(1585)、甲斐へ着陣した家康は、昌幸に北条氏へ沼田領を引き渡すよう求める。ところが、昌幸はこの要請を拒否し、家康と敵対関係にあった上杉氏と誼を通じた。ここから第一次上田合戦がはじまる。
この対応に家康は怒り、同年8月に家臣の鳥居元忠ら軍勢を上田城に送り込み、真田討伐の兵を起こした。徳川軍は甲斐から信濃に侵攻し、上田盆地に兵を展開した。真田方は兵力が乏しかったが、昌幸は上田城に、長男・信幸(信之)は戸石城(長野県上田市)に、昌幸の従兄弟・矢沢頼康が矢沢城(同上)にそれぞれ籠城し、徳川軍を迎え撃った。
同年閏8月、徳川方は上田城を攻撃したが撃退され、退却の際に追撃を受けた。戸石城の信幸の軍に矢沢勢も加わると、徳川軍は壊滅状態に陥り多数の兵を失った。一方の真田軍の犠牲は少数に止まった。
翌日、徳川軍は真田方の丸子城(長野県上田市)を攻撃するが攻略に失敗し、結局は上田から撤退せざるを得なくなった。一連の戦いは、『真田軍記』などの軍記物語により、昌幸の優れた智謀がクローズアップされることになった。
この合戦を契機にして、徳川方では本多忠勝の娘・小松姫を真田信幸へ嫁がせ関係を深めた。一連の戦いは、真田氏が大名化を遂げる大きな画期となった。
関ヶ原合戦はじまる
慶長5年(1600)6月、家康が不穏な動きを見せた会津の上杉景勝を征伐するため兵を挙げた。その隙を突いて、石田三成は毛利輝元を総大将に据えて挙兵した。これがいわゆる関ヶ原合戦のはじまりである。ところで、この関ヶ原合戦において、昌幸が西軍に与した理由を考えてみよう。
そもそも昌幸は、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると家康方についていた。慶長5年(1600)6月に家康が上杉景勝を討伐する際も、東軍に従って会津方面に出陣した。三成の挙兵を知った家康は、滞在先の小山(栃木県小山市)で評定を催し、諸大名を味方に付けることに成功した(小山評定)。
昌幸が三成挙兵の一報を知ったのは、犬伏(栃木県佐野市)の地であった。これまでの流れを勘案すると、東軍に与するのが自然なように思う。
しかし、昌幸は「表裏」の人と称される策略家であり、思い切った行動に出る。それは、昌幸自身と次男・真田信繁(幸村)が上田城に戻って西軍に味方し、長男・信幸はそのまま東軍に従うというものであった。これが「犬伏の別れ」と称される逸話である。
これはいかなる判断に拠るものなのか。それは、3人が東軍に与して敗北を喫した場合、真田家が滅亡してしまうため、それぞれが東西両軍に分かれたほうが得策であるという判断である。
そうなると、信幸の妻が本多忠勝の娘であるため、信幸が東軍についたほうがよい。要するには、昌幸は真田家の末永い存続を願って、究極の決断を下したということになろう。
第二次上田城の攻防
第二次上田合戦は、関ヶ原合戦という「天下分け目の戦い」において起こった。昌幸と次男・信繁は西軍に属し、嫡男・信幸は東軍に与した。
小山評定後、徳川秀忠の率いる部隊は中山道を進んだ。秀忠の進む中山道の先には、昌幸と次男・信繁が籠もる上田城があった。秀忠は上田城を開城させるため、信幸と本多忠政に昌幸の説得に向かわせた。
しかし、百戦錬磨の昌幸は返事を先延ばし、籠城のための時間稼ぎを行った。数日後、昌幸は秀忠に対し宣戦布告を行った。ここから両者の戦いがはじまる。
秀忠は「関ヶ原に急ぐべき」という家臣の忠言を聞き入れず、上田城への攻撃を決意した。これは、主力軍の到着を遅らせるという昌幸の思う壺であった。ここから昌幸は数々の奇策をめぐらし、少ない軍勢ながら秀忠の大軍を巧みに翻弄した。
たとえば、上田城外へ出た真田軍は、徳川軍に攻撃されるとすぐさま城内に逃走した。しかし、それは昌幸の作戦で、徳川軍が大手門へ近づくと、城内の鉄砲隊が一斉に射撃をして、徳川軍を蹴散らした。このような意外な作戦によって、真田軍は徳川軍を相手にして、一歩も引けをとらなかったのである。
さすがの秀忠も真田軍の粘り強い抵抗に手を焼き、ついに関ヶ原への到着を優先することとした。ところが、戦いによる遅延と共に、道中の悪天候が災いし、思うように歩を進めることができなかった。結局、秀忠は9月15日の関ヶ原本戦に間に合わないという大失態を演じることになる。
これにより、秀忠は家康の面会を断られるほどであった。戦後、昌幸・信繁の2人は、九度山(和歌山県九度山町)での幽閉生活を余儀なくされたのである。
 

 

●真田昌幸とは 見事に徳川家を2度撃退した上田の策士
真田昌幸とは
真田昌幸は、1547年に真田幸隆の3男として生まれた。幼名は真田源五郎。母は河原隆正の妹・恭雲院(または阿続方)。
この1547年頃は、父・真田幸隆が武田晴信(のちの武田信玄)の軍門に入ってまだ数年程度と考えられ、1545年に旧領「真田の里」に復帰したばかりだと考えられる。真田源五郎(真田昌幸)は7歳のとき1553年、父母の元を離れて武田家の本拠地・甲斐の甲府へと人質に出された。真田本家の跡取りとなる真田幸隆の嫡男・真田信綱や2男・真田昌輝ではなく、3男を人質として要求したのは、武田晴信が真田家にかなり配慮したものである。
人質とは名目上のことで、甲府で英才教育を受けた真田源五郎(真田昌幸)は、その才能を見出されて土屋昌次、曽根昌世、三枝守友らと共に武田晴信の奥近習衆に加わった。
1561年、第4次川中島の戦いで、真田源五郎(真田昌幸)は15歳で初陣したとされ、近習として武田信玄の警護をした。その後、1561年〜1564年頃に、武田信玄の母方の支族・武藤家の養子に入って武藤家を継ぐと、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)と称した。
1564年頃、遠江・尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘・山手殿(山之手殿、寒松院)を妻に迎えた。1565年7月には長女、1566年3月には長男・武藤源三郎(真田信之)が誕生している。そして、1567年には2男・武藤弁丸(真田幸村)が生まれた他、1568年には次女も誕生。
1569年10月、三増峠の戦いで、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は馬場信春隊の検使の旗本を務めて一番槍の戦功を挙げた。1570年1月の駿河攻めの際には、曽根昌世と武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、武田信玄から「我が両眼だ」と賞賛されている。
1572年10月、武田信玄の西上開始にも同行し、12月には三方ケ原の戦いでは真田一族も参戦し徳川家康・織田連合軍に勝利。1573年4月12日、武田信玄が帰陣途中の伊那駒場で病没。父・真田幸隆は落胆のあまり、七日六夜の間、食を断ったと伝わる。1574年5月19日、父・真田幸隆が死去。(享年62) 真田幸隆の嫡子・真田信綱(真田昌幸の兄)が、真田本家の家督を継いだ。
1575年5月21日、織田信長・徳川家康との決戦・長篠で戦いで武田勝頼は敗北し、多くの武田重臣も討死したが、真田家も当主・真田信綱(39歳)だけでなく、2男の真田昌輝も戦死した。このように兄2人が討死した為、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、真田家を継ぐことになり、真田昌幸と改名。子の真田信幸と真田幸村は真田郷に戻った。
1578年、武田家と上杉家が同盟すると、御館の乱に乗じて相模の北条氏直が沼田領を狙ったため、武田勝頼は真田昌幸に沼田攻略を命じ、矢沢頼綱の活躍もあり1580年5月には藤田信吉の沼田城を奪還した。
1581年1月、甲斐・韮崎の新府城普請奉行として真田昌幸が赴任。また、計略によって沼田景義を滅ぼしている。
武田滅亡 真田の生き残り術
1582年3月、織田信長の武田攻めはじまり、織田信忠が信濃に侵攻。武田勢は家臣の裏切りが相次いで内から崩壊。新府城での最後の軍議にて、真田昌幸は岩櫃城(いわびつじょう)に逃れるよう、武田勝頼に進言するが、武田勝頼は小山田信茂の岩殿城を目指した。その逃亡途中、小山田信茂も裏切り、3月11日、武田勝頼は甲斐・田野で討死。(天目山の戦い)
武田家が滅亡し、真田昌幸は独自に生きる残る道を選択することになり、織田信長に臣従するに決した。そして、上野の領主となった滝川一益の旗下に加わった。しかし、武田滅亡の3ヶ月となる1583年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死。
北条氏直ら北条勢が沼田へ侵攻したため、滝川一益と迎撃するも、6月18日に神流川の戦いで大敗。滝川一益は本拠地の伊勢長島城に逃亡したため、真田昌幸はやむなく北条氏直に臣従した。
真田昌幸は、旧領・沼田城を確保したが、旧武田領の甲斐・信濃・上野を巡っては、徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが争うことになる。1582年7月12日、北条氏直が海野平に進攻し、真田を圧迫すると、9月28日、真田昌幸は北条家を見限って、徳川家康に寝返った。
その後、徳川家康が北条氏直と和睦すると、その条件とされた沼田領の所有問題が勃発。徳川家康は沼田を北条家に譲渡するとしたことに真田昌幸は反発し、以後、徳川・北条と敵対していた越後・上杉家に接近し、ついに1585年7月15日、 越後の上杉景勝と同盟した。この時、真田幸村(真田信繁)は上杉家に人質として出されている。
これに対し、徳川家康は北条氏直と連合で1585年9月、真田家攻略を開始。徳川勢7000の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らは上田城を攻撃するも、真田昌幸と子・真田信幸は僅か2000撃退し、この徳川勢相手に大勝利した真田昌幸の武名は天下に知れ渡った。その後、上杉家が豊臣秀吉に臣従すると、自動的に真田家も豊臣家に従う事となり、真田幸村は上杉から豊臣秀吉の人質になった。
1586年、再び徳川家康は上田城攻めを開始したが、豊臣秀吉が徳川家康に働きかけ真田攻めは中止。徳川家康もついに大坂城に行き、豊臣秀吉に臣下の礼をとった。以降、豊臣秀吉は関東を徳川家康に任せた為、真田昌幸は徳川家康の与力大名に加わった。そして1587年3月、真田昌幸は駿府城にて徳川家康と会見し、その後、上洛して豊臣秀吉に拝謁している。
1589年2月13日、嫡男・真田信幸が徳川家康に出仕すると才能を高く評価し、本多忠勝の娘・小松姫を徳川家康の養女とした上で、真田信幸に娶らさせた。そして、豊臣秀吉が沼田領の裁定を下し、沼田領の利根川より東が北条家の領地となり、真田家は代替地として信濃伊那郡・箕輪領を与えられた。しかし、1589年11月3日、真田昌幸の在京中に、北条氏邦の家臣・猪股邦憲が真田領・名胡桃城を攻め、真田家臣・鈴木主水が自決する事件が起こる。そのため、豊臣秀吉は、諸大名に対して北条征伐の宣戦布告状を通達し、小田原攻めが始まった。
1590年3月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は3000の兵にて、上杉景勝・直江兼続・前田慶次らと共に前田利家の北国軍に加わった。小田原城降伏後、沼田領を安堵され、真田昌幸は真田信幸に沼田支配を委ねている。
1592年3月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は朝鮮の役に参加。その後、1598年8月18日、豊臣秀吉が死去。
関ヶ原の戦いと九度山蟄居
1600年、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は、徳川家康の会津・上杉景勝討伐軍に加わるため、宇都宮で徳川勢と合流しようとした。しかし、7月21日、下野・犬伏の陣に石田三成からの密使が届き、その長束正家、増田長盛、前田玄以の石田三成に協力せよとの報を受け、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は真田家の方針を話し合った。その結果、真田昌幸と真田幸村は石田三成に協力するため、上田城に帰参。真田信幸は徳川勢にそのまま参加する事となる。この真田の決断は「犬伏の別れ」とも呼ばれる。
徳川家康は真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領も真田信幸に安堵させた。一方、真田昌幸と真田幸村は沼田城に寄って孫(真田信幸の子)の顔を見てから帰ろうとしたが、城を守る真田信幸の正室・小松殿は入城を拒否したと言う逸話もある。
そして、中仙道を通り、関ヶ原を目指した徳川秀忠勢38000と、上田城で合戦となる。その大軍を相手にも徳川勢に大損害を与え、上田城で篭城したが、徳川秀忠は先を急ぐために上田城攻めを諦めて美濃へ軍を進め、これで2回、徳川相手に勝利した事となった。徳川秀忠は悪天候もあり、結果的に9月15日の関ヶ原決戦に遅参した。
関ヶ原の結果、石田三成に協力した真田昌幸と真田幸村は上田領没収と死罪の沙汰が下されたが、真田信之や本多忠勝らの助命嘆願もあり、命は助けられ、16人の家来と高野山麓の九度山に蟄居した。山手殿は真田信之に引き取られ上田に留まり、出家して名を寒松院と改めている。この九度山に付き従った16人の家臣は「真田十勇士」の元となった。真田昌幸は涙ながらに「悔しい。家康をこのようにしてやりたかった」と語ったと言う。
真田昌幸は真田幸村と九度山の真田庵で暮らしたが、1611年6月4日、大阪の陣を目前にして九度山で病死。享年65歳。
遺骸は本領の真田長谷寺に葬られた。  
 
 
 

 

●秀吉に刃向った武将・九戸政実の生き様
戦国時代の舞台は、京都や大阪付近だけではありません。天下取りの野望までは抱かずとも、自分の力で領地を切り取ろうとする諸将の戦いは、東北地方でも熾烈をきわめていました。その中で、天下人となった豊臣秀吉に敢えて反抗した、九戸政実(くのへまさざね)という男がいました。豊臣軍6万に対し、たった5千の兵で戦いを挑んだ彼には、守るべきものがあったんです。それは、領民でもあり、九戸氏としてのプライドでもありました。関ヶ原の戦い以前、東北で鮮烈な光を放ち、燃え尽きた闘将の生涯をご紹介します。
平成の世で明るみに出た遺骨の声
平成7(1995)年、岩手県二戸(にのへ)市にあった九戸(くのへ)城の発掘調査で、首のない人骨が多数出土しました。これらには刀傷があり、中には女性のものまであったんです。平成20(2008)年になってようやく、彼らがどうしてこのような状態になったのか判明しました。彼らは、天正19(1591)年に豊臣方に開城した際の皆殺しの犠牲者だったのです。九戸城主・九戸政実は、彼らがこうして殺されたことを知らなかったかもしれません。というのも、彼は開城後に宮城県に送られ、そこで斬首されていたからです。もしかすると、自分の命と引き換えに、彼らを守れたと安堵していたかもしれないんですよ。そうだとしたら、何という悲しい事実でしょうか…。自分の首を差し出して民衆を守ろうとした九戸政実、これだけでもヒーロー的要素のある人物だとお判りになるかと思いますが、なぜこんな悲劇的な結末に至ったのか、これから解説していきますね。
九戸氏と南部氏
青森県や岩手県には「○戸」という地名が多く存在しますよね。九戸氏はそのうちのひとつであり、主を同族で主流の南部氏と仰いでいました。南部氏は、元々は、平安時代末期の東北の戦乱を収めるためにやってきた源氏の末裔だったようです。つまり、九戸氏も源氏の末流に連なると考えられてもいます(諸説あり)。九戸政実は、天文5(1536)年に九戸城主・九戸信仲(のぶなか)の嫡男として誕生しました。主と仰ぐ南部宗家当主・南部晴政(なんぶはるまさ)を助けて勢力拡大に大きな貢献を果たし、その武勇は南部氏にとってはなくてはならない存在でした。また、政実自身も南部宗家に尽くす心は揺るぎないものだったんです。しかし、南部氏を宗家としていても、血族である他家は、自分たちと宗家は同列であると考えていましたし、そうした連合政権が当然となっていたようなんですね。それが壊れたからこそ、九戸政実が挙兵するにいたったわけなんです。その経緯については、これからご紹介していくうちに判明しますので、少しお待ちください。
南部家のお家騒動の始まり
南部宗家の当主晴政はなかなか男子に恵まれず、永禄8(1565)年に従兄弟にあたる信直を長女の婿に迎え、養嗣子とします。その一方、晴政の二女は政実の弟・実親の妻となり、政実は宗家との関係を強めました。ところが、この5年後、晴政は54歳にして初の男子に恵まれました。晴継(はるつぐ)と名付けたこの息子を、晴政は溺愛します。しかも、折悪しく信直の妻となった晴政の長女が病死。信直の存在は宙に浮いた感じになってしまいました。それをわかっていた信直もまた、養嗣子を辞退して城を出て行ったんです。しかし、晴政はこうした信直の動きに不信感を抱きました。もしや自分に刃向うのでは…と思ったようですね。確かに、こうした関係って一度揺らぐとなかなか元に戻りにくいもの。加えて、信直に近しい家臣たちは彼を自分の館に迎え入れたりもしていたんですね。こうして、徐々に家臣たちも分裂し、晴政VS信直の構図が否応なしにでき上がっていったんです。もちろん、政実は晴政との結び付きにより、信直とは距離を置くようになっていました。
次期当主を巡る争い
不穏な情勢の中、天正10(1582)年に晴政が亡くなると、水面下の対立はついに表面化します。そして、火に油を注ぐような出来事が発生しました。晴政の跡を継ぐはずだった13歳の晴継が、父の葬儀後に暗殺されてしまったんです(病死説もあり)。となれば、嫌疑はもちろん信直に向けられます。晴継がいなくなれば、当主の座は信直に回る可能性は高いですよね。政実はこの時、信直を主の息子の命を奪った仇とさえみなしていたかもしれません。しかしとにかく後継者を決めなくては…と、家臣団が会議を開きました。候補に挙がったは、信直と政実の弟・実親の2人。実親は晴政の娘婿に当たりますから、当然、後継者と目されてしかるべきだったんですね。もちろん政実は弟を推します。政治的にも感情的にも当たり前ですね。しかし、信直派の参謀・北信愛(きたのぶちか)は、抜け目のない人物でした。彼の事前の根回しによって、南部一族の重鎮・八戸政栄(はちのへまさよし)を味方に引き入れていたんです。八戸の影響力はかなりのもので、これで、南部宗家の後継者は信直と決定してしまったのでした。いつの時代も、裏工作って政治には必要なんでしょうかね。不本意ですが、それを認めざるを得ない出来事でした。
南部宗家からの離反と秀吉の「奥州仕置」
この当主交代劇は、政実にとって不満しか残りませんでした。弟・実親が当主になれなかったことはもちろんですが、信直が晴継に手を下したのではないかと思っていたようで、彼の胸の内では、信直への不満と不信がどんどん大きくなっていったのでした。そして、彼は自分の領地へ戻ると、天正14(1586)年には、何と「自分こそが南部当主である」と自称するようになったんです。政実と信直の亀裂が決定的になったのは、天正18(1590)年に豊臣秀吉が行った奥州仕置き(おうしゅうしおき)の直後でした。小田原の北条氏を滅ぼした秀吉は天下統一をほぼ成し遂げます。そして、小田原攻めに参加した東北諸将とそうでない者たちの領地について、検地を実施し、再分配を行ったんですよ。これが奥州仕置なんです。この時、信直は兵を率いて秀吉の元に馳せ参じており、秀吉から正式に南部宗家の当主として認められていました。これはつまり、当主ひとりだけが大名として認められるため、南部宗家以外の同族は一介の家臣となることが義務付けられたのと同然となってしまったんですよ。これは、今まで同列の立場から政権を運営してきた一族の者にとっては、すべてを今までとはガラリと変えられてしまった、不満の残る処置だったと言えます。不満を持つ一派の筆頭が政実だったというわけですね。そして、政実は翌年の正月参賀をボイコットします。本来、家臣は主のところへ正月にうかがうのがならわし。それを破ったということは、明確な敵意があると示したのと同じことでした。
政実、挙兵す
正月参賀のボイコットから2ヶ月後の天正19(1591)年3月、ついに政実は反・南部信直を掲げ、5千人を率いて挙兵します。武勇の将であった彼に率いられた九戸勢は、猛者揃いで非常に強く、次々と南部側の城へと攻め込んでいきました。その勢いは、もはや南部宗家の当主・信直でもどうにかできるものではなくなっていたんです。政実を勢いづけた要因はもうひとつ。それが、秀吉の行った奥州仕置に対する一揆でした。秀吉のやり方への不満という点で、彼らは一致していたんですね。信直はとてもすべてに対抗しきれないと悟ると、すぐに秀吉に援軍要請をします。その後、自らも秀吉に謁見し、東北の混沌とした状況を報告したんです。これを聞いた秀吉は激怒。天下人たる自分のやり方に、公然と反抗するとは何事か!と、討伐軍を編成して東北へと差し向けました。政実だけでなく、東北各地で続発する一揆勢もこの際鎮圧しようと、それはすさまじい数の軍勢となりました。総勢は6万とも言われています。総大将は、秀吉の養子で世継ぎと目されていた豊臣秀次(とよとみひでつぐ)。そして、会津の名将・蒲生氏郷(がもううじさと)や秀吉側近の浅野長政(あさのながまさ)、徳川勢からは大河ドラマでおなじみの猛将・井伊直政(いいなおまさ)までもが派遣されるという、名前を見ただけで逃げ出したくなるような面々がずらりと顔を並べたんです。こんな軍勢が、京都からやって来た(途中合流も含む)わけですから、いかに秀吉がこの鎮圧に力を入れていたかがわかりますよね。
思いもよらぬ講和の申し出に、政実は…
6万もの大軍勢は、政実勢が籠もる九戸城を包囲しました。10倍以上の兵力を前にしても、政実とその兵たちは臆することなく戦ったといいます。しかし、やはり多勢に無勢。川に囲まれた天然の要害・九戸城といえども、落城は時間の問題でした。そこで、豊臣方・浅野長政が、九戸氏の菩提寺・長興寺(ちょうこうじ)の薩天和尚を使者として、政実に講和を持ちかけてきたんです。その言い分は、「開城するならば、女子供や城兵の命は助ける」というものでした。浅野長政は、秀吉の奥州仕置に際しての実行役を務めていました。検地も彼が行っていましたし、東北の人々がこのやり方に不満を持っているのもわかっていたんですよ。だからこそ、政実の気持ちも理解していたのではないかと思います。それに加えて使者が薩天和尚とあっては、政実も無下にはできなかったことでしょう。そして何より、政実は自分についてきてくれた人々の命を救うことを優先したんです。これは豊臣方の謀略だという家臣もいましたが、政実はそれを退けると、講和を受け入れたのでした。
政実の最期と九戸城の悲劇
おそらく、自分の首は差し出さねばならないだろう。そこまで考えた政実は、弟・実親に後のことを託し、白い死に装束に身を包んで出頭して行きました。彼の身柄は三ノ迫(さんのはざま/宮城県栗原市)に陣を敷いていた総大将・豊臣秀次の元に送られると、斬首となったのです。56歳でした。一方、政実が去り開城した九戸城では、惨劇が起きていました。開城するなり豊臣軍がなだれ込み、すべての城兵や女性、老人、子供たちを二ノ丸に押し込めて皆殺しにしたんです。やはり、講和の申し出は謀略でした。しかし、いったい誰が皆殺しを命じたのかははっきりしていません。もしかすると、秀吉は最初から九戸勢を皆殺しにせよと討伐軍に命じていたのかもしれない…と勘ぐってしまいます。人々が皆殺しにされた九戸城には火が放たれました。夜空を赤く染め上げた炎は、三日三晩にわたって燃え続けたと言われています。そして、殺された人々の骨は、約400年後、平成の世になってからこの世に再び現れ、当時の惨劇を私たちに伝えることとなったのでした。遠く宮城の地で死を迎えた瞬間、政実は、九戸城に残った人々の運命がどうなったか知っていたのでしょうか。いずれにせよ、悲劇的な結末にしかならなかったことは言うまでもありません。九戸政実の乱以降、秀吉に対する大規模な反乱は影をひそめました。言い換えるなら、政実こそ最後まで秀吉という巨大な権力に立ち向かい、理不尽なシステムに抵抗した最後の東北武士ということになるでしょう。これこそが、政実のプライドでした。
その後の九戸氏
斬首された政実の首は、生き残った家臣が密かに九戸に持ち帰って埋めたと言われており、政実の首塚が今も残されています。その側には九戸氏を祀る九戸神社があり、後に政実を祭神とした政実神社も境内に建立されました。また、落城した九戸城は改修され、後に南部氏の居城となり「福岡城」と改称されます。しかし、人々は政実への思いを胸に、「九戸城」と呼び続けました。そして現在に至るのです。ところで、実は、九戸氏の血は政実で絶えたわけではありませんでした。政実の実弟・中野康真(なかのやすざね)は、複雑な経緯を経て何と南部信直の下で仕えるようになっており、政実の乱の際にも信直方だったんです。しかも、九戸城攻めの案内役を豊臣方から仰せつかったというのですから、何とも皮肉なことですよね。そして、九戸氏の血を引く中野氏として、八戸氏・北氏と共に南部家老御三家として続いていったんです。敵とみなした家の中で自分の血脈が保たれていくとは、政実は考えもしなかったのではないでしょうか。
兵どもが夢の跡
九戸政実の乱は、日本史における戦国時代・安土桃山時代において、規模としてはとても小さな、単なる辺境の乱にすぎません。しかし、強大な権力に真っ向からモノ申した存在として、当時としてはかなり鮮烈な印象を残したはずです。旧体制から新体制への移行を拒んだだけと言われるかもしれませんが、政実が守ろうとした九戸氏のプライドと、彼を慕う多くの地元の人々の存在があったことを、ぜひ今回の記事を通して知っていただけたらと思います。
 

 

●九戸政実 (くのへまさざね)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。九戸城主。九戸信仲の子。
九戸氏の勢力拡大​
九戸氏は、南部氏始祖である南部光行が建久2年(1191年)に地頭職として陸奥国糠部郡に入部して以降、その六男・行連が九戸郡伊保内(岩手県九戸村)に入部して九戸氏を称したとされているが、別姓小笠原氏を名乗っていたとする資料もあり定かではない。室町幕府からは南部宗家と同列の武将と見られていた。関東衆・九平五郎とは政実の事を指すとされている。政実は行連から数えて十一代目にあたるとされ、武将としての器量に優れており政実の代に勢力を大幅に広げた。永禄12年(1569年)、南部晴政の要請により、安東愛季が侵略した鹿角郡の奪取などに協力し、その勢力を拡大している。そして斯波氏の侵攻に際しても石川高信の支援を行い、講和に貢献した。
晴政・晴継の死と、信直との対立​
南部氏二十四代・晴政には男子がなかったため、永禄8年(1565年)に石川高信の子(晴政にとり従兄弟)である信直を、長女の婿養子として三戸城に迎え世子とした。その後、晴政は次女を南部一族の中で有力者である九戸政実の弟・九戸実親に嫁がせる。しかし元亀元年(1570年)晴政に男子(後の南部晴継)が出生し、更に天正4年(1576年)信直の妻が没する。信直は嗣子を辞して三戸城から出るが、晴政は信直への不信を抱き続け、晴政ならび九戸氏の連衡と信直を盟主とする南長義、北信愛の連合の間で対立していく。
天正10年(1582年)、晴政が病死すると南部氏はかつての世子・信直と実子・晴継の間で後継者を巡る激しい家督争いが始まる。晴政の跡は実子の晴継が継いだが、父の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に暗殺されてしまう(病死説有り)。
急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。後継者としては、晴政の二女の婿で一族の有力勢力である九戸実親と、かつて晴政の養嗣子でもあった信直が候補に挙げられた。評定では実親を推す空気が強かったが、北信愛が事前に他の有力勢力・根城南部氏の八戸政栄を調略し、結局は信愛、南長義らに推された信直が後継者に決定した。 政実としては弟を差し置いて、恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者である信直が継いだことに大きな不満を抱き、自領へと帰還する。
九戸政実の乱​
天正14年(1586年)には信直に対して自身が南部家の当主であると公然と自称するようになる。このような政実の姿勢は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の「奥州仕置」後も変化はなく、ついには天正19年(1591年)1月、南部氏の正月参賀を拒絶し、同年3月に5、000人の兵力をもって挙兵した。
もともと南部一族の精鋭であった九戸勢は強く、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、信直は苦戦した。そしてとうとう自力での九戸討伐を諦めて秀吉に使者を送り、九戸討伐を要請するに至る。秀吉の命令に従い豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始しさらに小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季・大浦為信が参陣し、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回った。
同年9月1日、討伐軍は九戸氏所領への攻撃を開始する。怒涛の勢いで迫る討伐軍は翌9月2日に政実・実親の籠る九戸城も包囲攻撃を開始。善戦した政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、4日に出家姿で討伐軍に降伏した。
秀次の陣へと引き出された政実・実親兄弟らは死を覚悟しており従容として斬首された。そして女子供を含む九戸一族も斬殺され九戸氏は滅亡したが、政実の実弟・中野康実の子孫が、八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。
 

 

●九戸政実の乱
天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。
背景​
南部氏最盛期を築いた第24代当主の南部晴政が天正10年(1582年)没すると、南部家内は後継者問題で分裂する。それ以前から南部晴政ならび一族内の有力勢力・九戸氏の連衡と、田子(石川)信直を盟主とする北信愛、南長義の連合の南部一族間で対立があった。盟主である三戸南部家当主を継いだ南部晴継が同年13歳で急死すると、九戸家と田子(石川)家の南部宗家後継者争いが本格化する。
田子(石川)信直が九戸実親を退けて半ば強引に三戸南部家当主となり南部氏惣領になったことにより、実親の兄・九戸政実は大いに不満を持ち、南部信直との関係は亀裂状態であった。 南部氏は、三戸南部氏を中心とした八戸氏・九戸氏・櫛引氏・一戸氏・七戸氏ら南部一族による連合である「郡中」による同族連合の状況であったが、天正18年(1590年)7月27日の豊臣秀吉朱印状によって、三戸南部氏の当主信直が南部氏宗家としての地位を公認され、豊臣政権の近世大名として組み込まれ、それ以外の諸勢力は例え有力一族であっても独立性は認められず、宗家の「家中」あるいは「家臣」として服属することを求められたことで、九戸氏は反発し信直と激しく対立する。
奥州仕置と一揆の勃発​
南部信直が兵1000を引き連れ小田原征伐とそれに続く奥州仕置に従軍していた留守中の天正18年(1590年)6月、九戸側は三戸南部側である南盛義を攻撃する。南盛義は討ち死にし、以後南部家中は緊張状態が続いた。 その頃、秀吉の奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃し、大崎氏、葛西氏、黒川氏ら小田原に参陣しなかった在地領主の諸城を制圧して検地などを行ったあと、奉行である浅野長政らが郡代、代官を配置して軍勢を引き揚げた。
奥州仕置軍が各々領国へ帰って行った同年10月から陸奥国各地で、奥州仕置に対する不満から葛西大崎一揆、仙北一揆など大規模な一揆が勃発する。 南部信直は和賀・稗貫一揆に兵を出すが稗貫氏の元居城である鳥谷ヶ崎城で一揆勢に包囲されていた浅野長政代官を、南部氏居城の三戸城へ救出するのが精一杯で、積雪により討伐軍が出せなくなった。
九戸勢の反乱​
情勢が不穏の中で天正19年(1591年)の新年を迎えると、九戸氏は三戸城における正月参賀を拒絶して南部本家への反意を明確にする。 三戸城に配置されていた浅野長政代官が、2月28日上杉景勝重臣で横手盆地西端の大森城に駐在する色部長実に送った手紙には「逆意を持った侍衆がおり糠部地方が混乱状態にあること、当地の衆が『京儀』を毛嫌いし、豊臣になびく南部信直に反感を抱いていること、仕置軍の加勢が無ければ南部信直は厳しい状態であること」などを伝えている。 また同日に南部信直から色部長実に送られた手紙にも「逆意を持った者達に手を焼いているが仕置軍が来るのは必定である」という旨を書いている。
同年3月に九戸側の櫛引清長の苫米地城攻撃を皮切りに、ついに九戸政実は5千の兵を動かして挙兵し、九戸側に協力しない周囲の城館を次々に攻め始めた。3月17日付の浅野長政代官から色部長実への手紙には「九戸、櫛引が逆心し油断ならないこと、一揆勢は仕置軍が下向するという噂を聞いて活動を控えている」ということなどが書かれている。
もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、三戸南部側も北氏、名久井氏、野田氏、浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、南部領内の一揆に乗じて九戸勢が強大化し、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、三戸南部側は苦戦する。そしてとうとう自力での九戸政実討伐を諦めて信直は息子・南部利直と重鎮・北信愛を上方に派遣、6月9日には秀吉に謁見して情勢を報告した。
奥州再仕置軍の進撃​
九戸以外にも、奥州では大規模な一揆が起きていたため、これらの総鎮圧を目的として、秀吉は同年6月20日に号令をかけて、奥州再仕置軍を編成した。
白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進して蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。8月23日、九戸政実配下の小鳥谷摂津守が50名の兵を引き連れて、美濃木沢で仕置軍に奇襲をかけ480人に打撃を与えた。これが緒戦となった。9月1日に九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ちた。九戸政実は九戸城に籠もり、9月2日には総勢6万の兵が九戸城を包囲し、以降攻防を繰り返した。
九戸城の戦い​
九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害であった。城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広、馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。九戸政実はこれら再仕置軍の包囲攻撃に対し、少数の兵で健闘したが、城兵の半数が討ち取られた。浅野長政が、九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者に立て、「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させた。九戸政実はこれを受け入れて、弟の九戸実親に後を託して9月4日、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと、揃って白装束姿に身を変えて、即ち出家姿で再仕置軍に降伏した。
浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行った後、助命の約束は反故にされる形で、九戸実親以下の城内に居た者は全て二の丸に押し込められ、惨殺され火をかけられた。その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている。政実ら主だった首謀者達は集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。
結果​
この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部信直に引き渡した。信直は南部家の本城として三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めた。
この乱以後、豊臣政権に対し組織的に反抗する者はなくなり、秀吉の天下統一が完成する。また南部氏はこれをきっかけに蒲生氏との関係を強めており、蒲生氏郷の養女である源秀院(お武の方)が、南部利直に輿入れしている。戦国変わり兜の一つとして有名な「燕尾形兜」は、この時の引き出物として南部氏にもたらされたものである。
また氏郷と浅野長政は信直に本拠地を南方に移すことを勧め、これが盛岡城築城のきっかけとなった。なお九戸政実の実弟の中野康実の子孫が中野氏を称して、八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。
 

 

●九戸の歴史・文化
長興寺
1504年に九戸氏の招請によって、加賀の国、宋徳寺末寺、宋徳四世大陰恵善(だいいんけいぜん)大和尚が開山されたといわれる、九戸家代々の菩提寺であった寺。政実の父九戸氏23代信仲の位牌が残されています。九戸地方の文化の中心地にあり、村指定天然記念物公孫樹(イチョウの木)が迎えてくれます。秋に見事な黄色に色づくイチョウの木は、長興寺のシンボルです。本尊の聖観音像は、昭和34年の東北大学の調査により、鎌倉末期か南北朝期の作と見られています。同等の作品は県下にありません。寺が所蔵する2体の不動明王は村指定の文化財。平成に入ってから、九戸家の墓を再建しています。
公孫樹
広々とした境内にひときわ目立つ巨木。幹囲9.2メートル、樹高32メートル、枝張23メートルの大イチョウ。九戸村の天然記念物に指定されています。足元に波打つように広がった根が、さらに神秘的な印象を残しています。秋になると、鮮やかな黄色の葉を成しています。
千本松
幹囲2メートル、樹高26メートル、枝張11メートルの巨木の松の木。地上2メートルくらいから束が広がるように多数の枝に分かれる姿がほうきのように見えることから、別名「ほうき松」とも呼ばれています。秋になり周囲の広葉樹が色づくと、色鮮やかな紅葉に囲まれ緑の美しさが際立ちます。九戸村の天然記念物に指定されています。
九戸神社
古くは「北辰妙見」「九戸妙見」と称し、842年の創建と伝えられる九戸村の総鎮守。祭神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と、宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)。明治元年より九戸神社に改称されました。1575年に山火事に遭ったため、貴重な資料の多くは、焼失しましたが、妙見菩薩・毘沙門天・不動明王(鎌倉期作)は御手洗池に沈めたため守られました。1663年に再建したものです。九戸政実とゆかりがあると思われる1538年の棟札などが納められています。1995年、神社近くに政実を祭る「政実神社」が建立されました。5月5日が例大祭。
塩の道 伊保内街道
九戸村から一戸町にかけて、江戸時代まで盛んに使われた8.5kmの古道です。緑なす森のなかに、ほぼ当時の状態のまま貴重な歴史の道が残っています。何カ所か迂回路で急な部分がありますが、ほかはいたってアップダウンの少ない道になっています。南部藩・八戸藩の藩境塚なども見られます。豊かな自然のなかの道なので、熊鈴は必携です。
黒山の昔穴遺跡
折爪岳の直下の標高430m前後の所に位置している平安時代後期の高地性集落です。遺跡の保存状態がきわめて高いことが高く評価され、県指定史跡に指定されました。遺跡の特徴は1,000年以上前の竪穴建物跡などの遺構が埋まりきらないでそのままくぼ地となっていることです。同じような穴がいくつも転々と残っていることから地元の人々も「昔の人が住んだ穴」ということで「黒山の昔穴」と呼んでおり、その名称がそのまま遺跡名となっています。くぼ地は40箇所ほど確認されていますが、そのうち住居跡は30箇所程度と考えられています。平成28年度からの調査では、指定地の南側に沢を挟んで2箇所で同じようなくぼ地を確認しており、遺跡はさらに広がる可能性が高くなっています。くぼ地の発掘調査は平成14年から3か年間福島大学で調査していますが、なかでも最も高い場所にある39号竪穴は最も規模が大きく直径7mあります。地上から50cmから1mほど掘り下げており、なかには柱穴とともにカマドの跡が確認されています。発掘調査を実施した遺跡から土師器(はじき)や須恵器(すえき)と呼ばれる焼き物とともに刀子(ナイフ)や鏃(やじり)などの鉄製品などが出土しています。須恵器のなかには高さ70cm以上の大甕が出土しており、九戸村公民館2階に展示しています。黒山の昔穴遺跡は教育委員会でも刈り払いを年数回行うなど保存整備をこころがけているほか、地元の江刺家小学校で平成19年度から毎年カタクリの種を植えて花いっぱいの遺跡にしようと頑張っています。
平和祈念像
九戸村の悠久の平和と、政実公以来の多くの戦争犠牲者の鎮魂を願い、建立寄贈された祈念像です。九戸村出身で元八戸市長の中里信男氏。
不動明王(長興寺蔵)
不動明王の素朴な木彫りによる像が2体伝えられています。もともと一体は九戸神社妙見菩薩の脇本尊としてあったもので、明治元年の官命により長興寺に移されました。もう一体は不動堂の本尊でしたが、廃社により長興寺に移されました。いずれも桂でつくられた一木造の仏像です。高さは90センチメートルと87センチメートルで、幅はどちらも38センチメートルの立像です。いずれも村の有形文化財に指定されています。
毘沙門天(九戸神社蔵)
邪鬼を踏みつける毘沙門天は北の守り神。鎌倉末期の作と見られる、高さ83センチメートル、幅32センチメートルの毘沙門天立像。桂の木の一木造り。本尊である妙見菩薩の脇本尊として神社に安置されています。右手に剣を持ち、主の毘沙門天よりも大きく勇ましい顔の彫刻を施した鎧を身につけ、やわらかな法衣を中にまとっています。法衣の紋様は飛雲くずれ(わらび)様の画風で描かれています。神社に残る貴重な仏像で、村の有形文化財に指定されています。
妙見菩薩(九戸神社蔵)
高さは116.5センチメートル、幅33センチメートル。材質は桂。粘土や漆などを混ぜて型で抜き、刺繍の文様を立体的に表現する土紋装飾がほどこされています。両手で蓮華の香炉をもった菩薩像です。彫刻年代と正確な制作者は不明ですが、社伝には自覚大師のお手作りなりとか。九戸神社自体がかつては「北辰妙見」「九戸妙見」と称されていたように、信仰の中心にある妙見菩薩でした。武士の信仰が厚い妙見信仰で、この本尊に九戸一族も武運を祈ってきました。1575年に山火事に遭った際も、毘沙門天・不動明王像とともに御手洗池に沈められ守られました。
泥絵(九戸神社蔵)
木の根、草の根、粘土から取った絵の具で描かれたものといわれています。江戸末期のもので、山高部の高さ32センチメートル、両端の高さ27センチメートル、幅が上部46センチメートル、下部45センチメートルの剣先形の画面です。明治2年正月、九戸妙見崇敬者の奉納によるもの。富士山、海、武士、家屋が描かれた清楚な画風の「泥絵額」です。
棟札(九戸神社蔵)
栗板でつくられた九戸城主寄進の棟札です。寸法は、最高部が82センチメートル、幅が上部19.5センチメートル、下部10.8センチメートル。「天文7年9月19日、大檀那源政実」(九戸政実)と記された、村の文化財のなかでも最古のものです。政実公が生存当時残された記録して唯一の貴重なもの。ただし当時の年齢が若年すぎることから、政実公と見るべきか異論もあがっています。大工の藤九郎は室町幕府の番匠で、御所勤番を終えた中央建築のベテラン。
奉納剣(九戸神社蔵)
長さ20センチメートルの小さなものですが、砂鉄でつくられた室町末期(江戸初期)の作と推定されている奉納剣です。この最古の小剣のほか、安永2年、嘉永3年、弘化3年、文久元年、慶応元年、明治4年、大正7年、昭和9年など年代不詳の十数本を含め、江戸初期から昭和初期まで、約50本もの奉納された剣が残っています。
和鏡
直径10.5センチメートル、重さは172グラムという小さな銅製の和鏡。14世紀の南北朝時代に作られたとみられています。鏡面は褐色ですが、やや光沢を残しています。鏡背面は、全体的に緑青がかっていて、一部に溶着物が点になって付着しています。一回り小さい円が描かれ、その外側を縁取るように、18弁の菊の花が12組描かれ、2つまたは3つの組で、描かれています。円線の内側に、下に大きな波が打ち寄せ、右側に屹立する岩、そして松竹梅、左に双雀が舞っています。いわゆる「蓬萊鏡」の紋様です。
江刺家神楽
江刺家神楽は470年前に陸奧の国に落ち延びた神楽人12人の一人、聖剛院茂右ェ門将が現在の江刺家に落ち延び、付近の山伏たちに教えたのが始まりであると伝えられています。かつては26の演目があり、復活をめざしています。権現神社である江刺家の「新山神社」に伝えられてきました。岩手県の神楽の三源流のひとつといわれ、青森県下北まで、旧南部領に伝わる神楽です。伊保内高校郷土芸能委員会が伝承活動していてイベント等でも「三宝荒神」「注連切舞」などを披露しています。
瀬月内(せつきない)神楽
1873年、明治6年に舞い手の一人が江刺家神楽に弟子入りしたことにはじまります。一人前の神楽人になり、瀬月内の人々に伝えました。活動は活発な時期も衰退の時期もありながらも、とだえることなく続いてきました。8月18日に例祭と3年に1回の例大祭で、8月16日から18日には神明宮の奉納舞として祭典を盛り上げています。瀬月内自治会員宅を巡り家内安全・無病息災・悪魔祓い等の祈祷をする『門打ち』を行っています。
九戸神楽
仏教が日本に伝来して普及が進んだ奈良朝時代に、神信者である神楽人12人が大和を追われ日高見国へ逃れてきました。そのうちの一人、聖剛院茂右ェ門将が、現在の江刺家に落ち延び、山伏たちに教えたのが始まりといわれている神楽です。神社に奉納するときは権現舞だけを舞い、民家で舞うときは、役付舞の注連切舞や番が楽など7種の舞と、神舞としての山の神、信夫の太郎、三本つるぎなど21種類、そして人々を楽しませる狂言と、暮らしの中で舞う御墓獅子や花舞があります。
えんぶり
農具「えんぶり」を手にして踊ったのが始まりとされる岩手県北部青森県南部に広く伝わる郷土芸能。黒木綿の羽織一に華やかな大きな烏帽子を太夫と呼ばれる舞い手が被って踊ります。妻ノ神えんぶりが村の無形文化財となっています。九戸地方に伝承されたのは、約200年前といわれています。「どうさいえんぶり」の流れをくみ、太鼓、笛、鉦の囃子に合わせて3人1組で踊ります。旧正月行事のひとつとして伝わり、苗代づくりから田植え、秋の収穫を表現する、稲の豊作を祈願する踊りです。
九戸音頭
「ここはみちのく九戸のさとよ」と歌い始める九戸の魅力を12節に詰め込んだ「九戸音頭」は、村勢施行30周年を記念して1985年に制定された村民歌です。瀬月内川、折爪岳、神楽、えんぶり、しし踊り、岩魚に松竹まで登場する賑わいです。振り付けもいっしょに考案され、九戸まつりなどさまざまなイベントで披露されています。
九戸政実
1536年に生まれたと伝えられる九戸出身の戦国時代の武将。南部家と同族の家臣で、九戸氏24代当主。秀吉の天下統一の最後の決戦。南部家の新しい当主、信直を認めず5,000人で挙兵したのは、秀吉の奥州仕置の翌年、1591年。秀吉が認めた信直への反旗は、秀吉への反旗と、豊臣秀次を総大将に、浅野長政、井伊直政、蒲生氏郷、堀尾吉晴ら武将が集結し、九戸城を包囲しました。約6万5,000の兵が集まりました。地方の小城ながらなかなか落城せず、討伐軍は菩提寺である長興寺の薩天和尚を仲介として「政実の降伏と引き替えに城兵の命を救う」と和議を申し入れ、政実は投降。しかし約束は反故にされ城内の者はなで切りにされ、政実以下7名の武将は、処刑されました。
政實公の首塚
秀吉との戦いに敗れ、1581年九戸政実と7人の武将が、宮城県の三ノ迫(現在の栗駒市)で打首となりました。家臣の佐藤外記が乞食に姿を変えて、九戸政實の首級(しゅきゅう)をひそかに持ち帰り、この地に鎮めたとされています。長い間、一部の村民にその存在は知られていましたが、昭和51年の調査で確認されました。直径6メートル、高さ約1メートルの円形の盛り土があり、縦29センチメートル、横27センチメートル、高さ18センチメートル、縦15センチメートルの苔むした方形の石が重ねられています。現在は供養塔も建っています。
民話(オドデ様の話・荒谷のきつね・銚子の雨堤みetc.)
九戸地方にはいろいろな昔話が伝わっています。一番有名なのは、折爪岳に住んでいたオドデ様でしょう。オドデ様は、2升樽くらいの胴に、フクロウのような目玉、そして下半身は人間の足のような姿をしています。初めてオドデ様と出会った牛方に「鳥だべが、人だべがと思ったな。ドデン、ドデン」と語りかけるように、人の心を読んで繰り返す怪鳥です。ほかに伝わる民話に興味がある方には、教育委員会発行の『九戸村の民話』がおすすめです。
 

 

●青森県南部の歴史 南北朝時代
櫛引八幡宮
八戸市、南部の総鎮守とよばれる櫛引八幡宮は、南部家初代・光行が草創したと伝えられています。光行が家士を遣わして、甲斐南部郷(現在の山梨県)の八幡宮御神体を奉り、櫛引村に宮社を造営し武運長久を祈ったのがきっかけです。朱色の太鼓橋を渡ると「南部一之宮」の正門とよばれる四脚門があります。平屋の門の中で最も格式の高い形式といわれています。本殿は、三間社流造の社殿であり屋根が曲線になっているのが特徴です。細部には彫刻や彩色模様があり江戸時代前期の造立でありながら桃山時代の遺風が察せられる建築となっています。
国宝の赤糸威鎧兜大袖付(あかいとおどしよろいかぶとおおそでつき)は、大袖と兜に菊一文字の飾金物があり「菊一文字の鎧兜」ともいわれています。国宝の白糸威褄取鎧(しろいとおどしつまどりよろい)は、正平22年(1367)、甲斐の本領である波木井にいた根城南部家7代・信光が、北朝方の武将「神大和守」を退けた功績により後村上天皇から拝領したものだと伝えられています。応永18年(1411)根城南部家10代・光経が安藤氏との秋田戦争に打ち勝った時、備州長船幸光の太刀とともに奉納したそうです。
建武年間(1334〜1338)には、根城南部家4代・師行が流鏑馬(やぶさめ)の神事を奉納したといわれています。現在でも旧暦8月15日の例大祭で行われており、多くの観光客が訪れています。櫛引八幡宮は糠部郡を拝領されてからの南部家の軌跡が残っている場所だといえるでしょう。(金さん)
南部氏が糠部に入ってきた時の様子
青森県三戸郡南部町相内、南部家の始祖・南部光行が糠部に入部した際、宿をとったという相内観音堂があります。伝承によれば、光行は八戸に到着した後、馬渕川沿いに西へ向かい、今の三戸郡南部町の相内観音堂で一夜を過ごしました。翌日になると、観音堂に村人たちが集まり、光行が領主であることがわかると、佐藤兵衛(さとべえ)、後の田子丹波の家に光行一行を案内しました。佐藤兵衛は光行に「仮にも領主の館とするのであれば、一日といえども非常の備えが必要です」と言い、急いで村人を集め、徹夜で家の周りに堀を掘らせました。こうして夜のうちにできた館を「一夜堀の館」と呼ぶようになりました。光行は佐藤兵衛を家臣に加え、この館で正月を過ごしたといわれています。
佐藤氏の子孫は代々南部家に仕え、九戸政実の乱を機に三戸に帰還します。田子通16箇村の世話人、まとめ役となり下参郷(しもさごう)氏と名乗るようになりました。その後、三戸町内の八日町に屋敷を賜り、田子丹波と改め田子氏を名乗ります。
三戸町川守田にある熊野神社のとなりには、佐藤兵衛屋敷跡があります。屋敷跡の脇には「えの坂」と呼ばれる坂があり、昔は佐藤兵衛橋(さとべえばし)と呼ばれていたのが省略されて「衛(え)の坂」と呼ばれるようになったといわれています。現在、屋敷跡には広大な石塁があり、かつて大きな屋敷があったことがわかります。
南部光行は村人に歓迎されながら、「一夜掘の館」で冬を越し、春になると平良ヶ崎城の築城工事に取り掛かりました。ここから、南部氏の歴史が始まるのです。
根城南部氏の出自
八戸における南部氏の歴史は、建武元年(1334)甲州から渡ってきた南部師行が根城を築いた時から始まります。
東北の広大な土地を治めていた南部氏には多くの氏族がありますが、大きく二つの系統に分かれています。ひとつは南部氏の本家とされる三戸南部氏、後の盛岡南部氏。もうひとつの大きな系統が、八戸に根城を築いた根城南部氏、後の遠野南部氏です。三戸南部氏と根城南部氏は、各々が領地を持ちながら統治していました。
鎌倉幕府滅亡後、朝廷が南北2つに分裂し、南北朝時代が始まります。根城南部氏は北奥羽唯一の南朝方として八戸を中心にその所領を拡げ、勢力を拡大していきます。一方の三戸南部氏は北朝方を支持していましたが、同じ一族ということもあり、三戸南部家と争うことはありませんでした。師行は南朝方の有力武将として各地に出向きますが、延元3年(1338)、京都の石津の戦いで高師直軍に敗れ戦死しました。子孫には南朝方への忠節を尽くすよう遺言したと伝えられています。その後、南北朝が統一され戦乱が収まると、根城南部氏は三戸南部氏を本家と仰ぎ、行動を共にするようになります。
その約200年後、南部氏26代当主・信直が豊臣秀吉から所領安堵の朱印状を受けると、根城南部氏は三戸南部氏の家臣の立場に置かれるようになりました。江戸時代、三戸南部氏は盛岡に移って盛岡南部氏となり、領内の家臣の配置を見直すなど、新しい支配体制をしくことになりました。根城南部氏も寛永4年(1627)、国境警備を理由に岩手県遠野へと移されます。こうして根城南部氏は遠野南部氏と呼ばれるようになります。
後醍醐天皇と南部師行
南部師行が築城したと伝えられている根城の跡地は「史跡根城の広場」公園に姿を変えています。南部師行がこの地に根城を築城した所以を追ってみましょう。
元弘3年(1333)、足利高氏や新田義貞の活躍もあり、北条氏率いる鎌倉幕府は後醍醐天皇によって滅ぼされました。しかし、北条家を支持する全ての残党がいなくなったわけではなく、東北地方にはまだ多くの残党が残っていました。そこで後醍醐天皇は、皇子義良親王(のちの後村上天皇)を陸奥に遣わし、さらにその補佐役として、北畠顕家を陸奥守に任命しました。この奥州統治に参加することになった者の中に南部師行がいました。
奥州の広大な土地までは、遠く離れた国府からは目が行き届かないため、師行が北奥羽地方の統治を任されることになりました。そして、元弘4年(1334)、師行は北奥羽地方を本拠地とするため、八戸に根城を築城しました。根城という名称は「天皇に従わない者を討伐するための根の城」という北畠顕家から南部師行への言葉が由来とされています。師行は根城で国代として活躍し、北条残党と安藤一族が結託して争った際も見事に攻略しています。
甲州の地頭から始まり、北奥羽統治を担うまでになった南部師行は、見事にその重責を果たしていました。(アラン・スミシー)
足利将軍と南部氏
鎌倉幕府滅亡後、建武2年(1335)と延元2年(1336)の二度にわたり、根城を拠点とする南部師行の軍勢は、国府の将軍・北畠顕家の伴として、後醍醐天皇に敵対する足利尊氏の討伐に出陣しています。尊氏は光明天皇を守り立て北朝政権を開きます。公家統一を願う後醍醐天皇は吉野に朝廷を開き南朝政権をたてます。こうして、朝廷は京都と吉野に分かれ、公家も武士も二手に分かれて60年間近く争います。これが南北朝時代です。
南部師行は北畠顕家と行動を共にし、最初の遠征で足利尊氏を京都から九州へ追い払うことに成功しました。顕家はこの功績からわずか16歳で陸奥鎮守府大将軍に任じられます。一方、九州で力を蓄えた足利勢は大軍で京都に攻め入ります。延元2年(1336)の夏、出陣命令を受けた師行は糠部の精鋭約2千騎を引き連れ、顕家と共に足利軍を迎え撃つために京都へ出陣します。一年近くも各地で戦を繰り広げた結果、和泉国堺浦の南、石津川のほとりで、部下108人と共に壮絶な最後を遂げました。(石津の戦い)
その命が尽きるまで総大将の顕家と行動し、忠誠を誓った師行は、奥州を発つ前に遺言を残しています。「この度の上洛は厳しく、おそらく自分は討死するだろう。しかし自分が戦場の露と消えても、悲しまず、節操を曲げずに忠節を貫徹したことを喜んで欲しい。そして、自分達南部一族が奥州に多くの土地を得られたのは顕家と帝の恩恵があったからこそで、今後どんなことがあっても敵の足利軍に寝返ってはならない。」
師行の子孫はその遺言を守り、政長、信政、信光、政光と5代に渡り、南朝方への忠誠を守り続けたのです。
七戸城
国指定史跡の七戸城(別名・柏葉城)は、七戸南部氏の中世城跡です。城跡から東にある青岩寺の山門は、七戸城の城門を移築したもので、町指定有形文化財に指定されています。これは、七戸城の建築物では唯一の遺構です。築城については明らかにされていませんが、南部師行の弟・南部政長が南北朝時代に築いたのが始まりともいわれています。鎌倉攻めに功を立てたことにより、当地を与えられたといいます。以後、七戸城は南部氏の居城として維持され、七戸南部氏による周辺地域の支配が確立しました。
天正19年(1591)、城主・七戸家国が九戸政実の乱に加担したことから、奥州再仕置軍の上杉景勝から攻撃を受けて廃城となります。その後は代官所や藩庁が置かれるなど、南部藩の拠点として機能していました。
かつて本丸があった場所には神明宮があります。神明宮は、應永3年(1396)、根城南部8代藩主・政光の勧請により創建されました。江戸時代には遠野南部氏の祈願所として尊信厚く、社殿の造営、修繕が行われており、人馬等の諸費が寄進されたと伝えられています。現在も「しんめいさま」として町民や崇敬者に親しまれています。
七戸城の東門をくぐり、進んでいくと姫塚があります。七戸城には美しい姫様がおり、身分の低い武士と恋仲の関係になりますが、殿様に知られ、その武士は殺されてしまいます。姫様は悲しみ、後を追って自害したという伝説があります。この塚は、「あの世では一緒にいられるように」という思いで埋葬されたものだといわれています。
 

 

●青森県南部の歴史 室町時代
安藤氏との戦い
南北朝時代の北奥羽では、南朝方についた根城南部氏が優勢で、北朝方の三戸南部氏を押さえていました。ところが、対立が止んだ14世紀末頃から三戸南部氏がこの地域の支配を確立したようです。その過程で、松前・津軽・下北・秋田を支配していた安藤氏とも対立し、しばしば、戦闘をくり返しています。
応永25年(1418)、三戸南部氏13代当主・守行とその嫡子・義政は、十三湊に拠点を置く津軽安藤氏の居城を次々と攻撃、陥落させました。敗れた津軽安藤氏は松前へ逃れ、三戸南部氏は北東北の大部分を手中にしました。その後、永享4年(1432)に秋田湊の安藤氏が再び仙北地方に侵攻するも、大軍を派遣し撃退しました。この時、仙北地方には、守行の三男で下久慈城主・金沢右京亮家光を代官として置いたとみられています。  応仁2年(1468)、安藤政季(師季)は失った津軽などの回復を願う願文を熊野那智大社に奉納していますが、そういった安藤氏の挑戦をことごとくはねのけ、三戸南部氏は全盛期を迎えました。「南旧秘事記」によると、東北太平洋側は現在の仙台市大崎まで、日本海側は新潟県までの広大な領地を有していたとされています。仙北地方では金沢氏と安藤・小野寺氏との間で熾烈な戦いが続きました。長禄・寛正(1460〜65年前後)になると小野寺氏を主力とする出羽勢の反撃が始まり、金沢右京亮家光は敗死しました。
その後、家信の嫡子・光信(のちの大浦光信)が三戸南部氏の命により、安藤氏の備えとして津軽地方種里へ派遣されます。そして、光信から5代後の大浦為信が津軽統一を成し遂げ、弘前藩誕生へと続きます。(haru)
南部長経と秋田安藤氏の戦い
八戸市にある松館大慈寺は、根城南部氏の菩提寺として、応永18年(1411)宝山正弥(ほうざんしょうちん)和尚が開山したといわれています。大慈寺開山に至る経緯は、安藤氏側の史料には書かれてません。そこで、南部側の史料からひも解いてみます。
応永17年(1410)、秋田の領土侵攻に対抗するため、南部守行は根城南部の南部長経(ながつね)の弟・光経に、秋田との戦の先陣を要請します。しかし、秋田勢の抵抗の前に苦戦を強いられます。光経は、この状況を打開するために、月山(がっさん)の神へ戦勝を祈願しました。すると、光経と3人の家臣が同じ夢を見ます。その夢とは次のようなものでした。
光経の陣の上を2羽の鶴が飛んでいきます。そして、その彼方から、9つの星が光経のお膳に落ちます。光経はその星を取り懐に入れる、というものでした。
この夢を吉兆と捉えた光経勢の士気は高まり、いよいよ秋田軍に攻め込もうとした時に現れた僧が、宝山正弥和尚です。和尚は、光経にこう進言します。
「秋田軍は、要所に伏兵を忍ばせている」
この情報を得た光経は、無事秋田軍を攻略することができました。長経と光経は、和尚の功労に報い、寄進することにした寺が大慈寺でした。
以上が南部側史料によった物語になるのですが、異説もあり、真相に近づくためには、安藤側の史料の発見が期待されます。
蛎崎蔵人の乱
むつ市川内町、蛎崎城跡は陸奥湾を望む小高い丘にあります。建武元年(1334)、根城南部氏4代・師行の目代として配置された武田修理の居城でした。のちに武田氏は蛎崎氏と改め、改築された蛎崎城は錦帯城と称されました。その後、根城南部氏6代・信政は後村上天皇の甥・良尹(ながただ)を下北地方、田名部の領主として迎えました。この時、良尹は現在のむつ市城ヶ沢にあったという順法寺城を居城とし、人々は天皇の血を引く良尹の一族を北部王家と呼んだとされています。
文安5年(1448)、北部王家5代・新田義純は重臣の蛎崎蔵人の謀略により、子供達と共に暗殺されました。それにより、蔵人は北部王家の実権を握ることになりました。蔵人による謀反の報は、北部王家とゆかりの深い根城南部氏にももたらされました。13代当主・政経は、幕府に事の詳細を報告し、後花園天皇から蛎崎蔵人追討の勅許を得ていました。その間、蔵人は北部王家の財力をつぎ込み、城を強固な構とし、松前アイヌの兵など多くの兵力を集めたといいます。
康正2年(1456)12月、いよいよ勅許が出ます。根城南部軍は蔵人への攻撃を開始しましたが、大雪という条件に有利であったアイヌ兵の勢力により苦戦が続きました。政経軍は海上から錦帯城を奇襲、蛎崎軍を破り、錦帯城は落城、蔵人は蝦夷へ逃げました。
蛎崎蔵人の乱を平定した根城南部氏は、幕府や朝廷からの許しを得てからの戦であったため、恩賞として北部王家の所領・田名部3千石と錦帯城等に蓄えられていた莫大な金・銀や銭、食料を与えられました。こうして南部政経の領主としての威令は一段と高まることとなったのです。
 

 

●青森県南部の歴史 安土桃山時代
三戸城 —城山公園—
三戸町にある城山公園は、中世戦国期の南部氏本家の居城・三戸城があった場所です。
南部氏は甲斐源氏の一族で、当初は現在の山梨県南部町周辺を領していましたが、奥州合戦の功により青森県から岩手県にかけての糠部郡一帯を与えられました。糠部郡に入部した三戸南部氏は、室町中期以降、聖寿寺館を本拠地に勢力を拡大し、領内を統治してきました。ところが、天文8年(1539)南部氏24代当主・南部晴政に謀反を企てた家臣・赤沼備中に放火され焼失する事件が起きます。南部氏は、この火災の後「留ヶ崎」と呼ばれていた現在の場所に、新たに三戸城を築いて移ったとされています。三戸城築城とともに聖寿寺館は「本三戸城」と呼ばれるようになりました。
南部藩南部家の始祖・南部三郎光行を祀る糠部神社総代の主唱により、歴史資料収蔵のために建設されたのが、三戸城温故館です。三戸城の角櫓を模した鉄筋コンクリート造り、外見3階、内部4階建の建物で、南部藩主、家臣の武具、装束、古文書などが展示されています。平成元年には綱御門が復元されるなど、城山公園として整備されています。また、遺構として搦手門が法泉寺の山門として、表門が龍川寺の山門として、代官所門が観福寺の山門として、それぞれ移築されています
城山公園は県立公園として、地域の人々にとって憩いの場として親しまれています。
三戸城 —三戸五ヶ城—
永禄年間、南部氏が留ヶ崎城を居城とするまでの約370年間、現在の南部町が南部氏の本拠地であり、中心であったといいます。
南部氏は南部町、三戸町、田子町を中心に糠部郡を支配したといわれます。南部町にあった聖寿寺館、平良ヶ崎城、馬場館、大向館と、現在三戸城と呼ばれている、三戸町の留ヶ崎城を指して「三戸五ヶ城」といいます。この5つの城が互いに連絡を取り合い、居館であった聖寿寺館や政庁として使われていた平良ケ崎城を守っていたと思われます。
聖寿寺館は14世紀末頃から南部氏の本拠地とされていました。しかし天文8年(1539)に家臣の放火により、建物と一緒に殆どの創建期の記録も焼失し、創建時の様子は記録や伝承によってしか知ることができません。しかし町内には現在でも南部氏に関連する城館や藩主の墓、霊廟などの文化財が良好な状態で遺されています。
南部氏の菩提寺の一つ三光寺は、聖寿寺館の北側にあります。境内には南部26代・信直夫妻の墓所(町史跡)、南部27代・利直の霊屋(県重宝)、利直の四男・利康の霊屋(国重文)、南部2代・実光の墓所などがあります。当時は南部氏の菩提寺である聖寿寺、東禅寺、三光庵がありましたが、南部氏が盛岡に移った時点で三光寺が菩提寺として残りました。
南部氏は東北地方を代表する中世武士団です。その武士団の本拠地であった南部町には遺構も良好に残されており、東北地方の歴史を考える上で貴重な存在であるといえます。
田子城
田子町の中心街を望む高台に、町立田子中学校があります。そこはかつての田子城でした。三戸南部氏26代当主・南部信直の居城として知られています。三戸南部氏が糠部郡に入部した際、家臣だった在地勢力の佐々木氏が築城したとされています。
田子城は、人工的に作られた堀によって牛尾館と佐々木館の2つの郭からなり、北は自然の堀である田子川、南は斜面が急で険しい丘で守られた要害です。堀によって二分された牛尾館と、本丸に相当する大館と小館に分かれています。天正期、牛尾館には信直が、佐々木館には佐々木惣左衛門が居住していたとされています。
現在、中学校の敷地になっている牛尾舘は、大館と小館に分かれる谷が埋められてグランドとなり、わずかに牛尾館と佐々木館の間の堀跡が残っているのみです。詳しい廃城時期は不明ですが、南部信直が南部本家の家督を継承して三戸城へ移った頃といわれています。
信直は田子城主・南部高信の長男として誕生しますが、子に恵まれなかった三戸南部氏24代当主・晴政の養子となります。ところが、晴政に世継ぎの男児・晴継が誕生したので信直は跡継ぎを辞退し田子城へ戻ります。しかし、25代となった晴継は暗殺され、本家の当主が不在の事態となりました。一族の会議で後継は改めて田子城主となっていた信直と決まりましたが、これを不服とした有力一族の九戸政実が信直と対立し、一族を二分する内乱となります。さらには、当時の関白・豊臣秀吉と日本中の大名を巻き込んだ「九戸政実の乱」へと発展していくのです。
剣吉城主・北信愛
南部町剣吉には三戸南部氏の重臣であった北信愛(のぶちか)が城主を努めていた剣吉城がありました。北信愛は大永3年(1523)剣吉村で生まれました。父・致愛(むねちか)が永禄年間(1558〜1569)に死没後、信愛が剣吉城の跡を継ぎました。信愛は物事を恐れず智謀に優れ、武術では特に弓が優れていたようです。信愛は、のちに三戸南部家の当主となる南部信直とも深い関わりがあります。
信愛の剣吉城主時代、三戸南部氏24代当主・南部晴政に後継者がいなかったため、婿の信直が跡継ぎに決まっていました。しかし、晴政に跡継ぎとなる男児・晴継が誕生すると信直と晴政は不和になりました。信直夫人も既に死没していたので信直は跡継ぎを辞退し、田子館に戻りました。晴継の身を案じた晴政は、信直を殺そうと狙っていました。これを不憫に思った信愛が信直を剣吉城に匿います。晴政はそのことに立腹し、剣吉城に攻め入りましたが、双方の間に根城南部氏18代当主・八戸政栄が入って和解を進めました。その後、晴継が幼くして25代当主となるも、ほどなくして死没。改めて信直が跡継ぎに推され、26代当主となります。
16世紀後半になると、大浦為信(津軽為信)が独立の動きを見せ、浪岡城の北畠氏を滅ぼし、石川城の石川高信(信直の父)を討ちました。南部信直は前田利家を介し、為信は秀吉の惣無事令に違反した逆徒であるという訴えは退けられ、為信は罰せられませんでした。
天正18年(1590)、信直は秀吉から朱印状を受け、正式にその臣下となりました。このとき糠部、閉伊、鹿角、久慈、岩手、志和、遠野などの支配を認められ、領主としての地位を高めることに成功しました。(メガネ)
南部信直の一生
三戸南部氏26代当主・南部信直は、天文15年(1546)、22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子(側室の子)として岩手郡一方井で誕生します。やがて、三戸南部氏24代当主・南部晴政の長女の婿となり、養子として三戸城に迎えられますが、晴政の子・晴継の誕生後、田子城へと戻ります。
天正10年(1582)、晴政が亡くなり晴継が25代当主となりますが、同年、謎の暴漢集団により暗殺されます。晴継の跡継ぎとして、一族の九戸政実の弟・実親を推す意見を抑え、南長義や北信愛、八戸政栄らの支持を集めた信直が26代当主を継承します。これに政実が憤り、一族に不穏な状態が続きます。
天正15年(1587)、勢力の拡大を図る信直は、北信愛を代理にたて、加賀の前田利家に対し、豊臣政権下に従うことを告げます。その3年後、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した信直は所領を安堵されます。翌年に九戸政実が起こした反乱では九戸軍を鎮圧し、政実や実親らを処刑させて、当主としての地位を揺るぎないものにしました。このとき、蒲生氏郷から九戸軍の居城・九戸城を譲られ、福岡城と名付けて新たな拠点としました。
天正20年(1592)の朝鮮出兵では秀吉に従い肥前名護屋城に参陣するも、朝鮮には渡らず帰国。その後、信直は福岡城からの移転と盛岡での築城を決意しますが、慶長4年(1598)盛岡城の完成を見ることなく、信直は福岡城で亡くなります。南部町の三光寺では信直夫妻の墓をみることができます。信直の跡を継いだ長男・利直は盛岡藩主となり、その血統は受け継がれていきます。
南部氏の勢力地図の移り変わり
津軽為信が現れるまで、現在の青森県全域を支配していたのは南部氏でした。ところが、為信が独立の動きを見せた16世紀後半、南部家の客将である北畠氏の浪岡城と、南部氏26代当主・南部信直の父・石川高信の石川城(大仏ヶ鼻城)は為信によって滅ぼされました。これにより、この地の勢力図は大きく塗り替えられていくことになります。青森県全域を支配していた南部氏の勢力は半分近く減り、青森県の東側だけとなってしまいました。
この後、為信は豊臣秀吉に鷹を献上するなどの工作を駆使し、津軽地方の支配を認められ、青森県の西側を手に入れました。信直はこれに不満を持ち秀吉に訴えましたが、結果は変わりませんでした。不満を残したまま、信直は秀吉から朱印状を受け、「南部七郡」を治めることとなりました。しかし、信直の統治は安定せず、九戸政実の乱が起きるなど、その後も苦労することになります。
信直はその後、本拠地を三戸から九戸、そして盛岡に移しました。寛文4年(1664)に28代当主・南部重直が死去すると、領地は2人の弟に分領され、七戸重信には盛岡藩8万石、中里直房は八戸藩2万石が与えられ、それぞれを治めることになりました。
一方、津軽地方の支配を認められた為信は、弘前藩4万7千石の初代藩主となりました。その後、明暦2年(1656)に4代・信政が幼くして藩主となった際、幕府の指示により信政の後見人となった叔父・津軽信英に、弘前藩より5千石が分知されました。これが黒石津軽家の始まりです。黒石津軽家は、文化6年(1809)に加増されて1万石となり、大名となりました。(メガネ)
九戸政実の乱
岩手県二戸市福岡の市街地を望む高台に、九戸城跡があります。この城を居城としていたのが、北奥羽を支配していた南部一族の実力者である九戸政実です。
政実は、南部信直と南部氏26代当主の座を巡って対立します。天正10年(1582)、三戸南部氏25代当主となってすぐに暗殺された南部晴継の跡継ぎとして、南長義や北信愛、八戸政栄などから支持された信直が26代当主を継承することとなりますが、政実の弟・実親が退けられたことに対して、政実は大いに不満を持ち、恨んでいたようです。
信直が当主になると、天正19年(1591年)、政実は自身が南部氏当主となるべく、苫米地城攻撃を皮切りに信直方の周囲の城館を攻撃しました。もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、自力での九戸政実の討伐を諦めた信直は、嫡子・利直と重臣の北信愛の2人を上洛させ、豊臣秀吉に援軍を要請しました。秀吉の号令により編成された討伐軍は奥州再仕置軍と称し、10万の兵は一揆を平定しながら北上し、九戸城近くまで進撃します。九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ち、これに抵抗した九戸政実は5千の兵とともに九戸城に立て籠もります。総勢6万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返しました。
九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要塞で、難航不落の城と呼ばれていました。討伐軍の予想は裏切られ、攻撃を続けることによってかえって損害が生じるだけでした。そこで、討伐軍は次なる策へ出るのでした。
三方を川に囲まれた難航不落とされる九戸城の攻略に手を焼いた、奥州再仕置軍の諸将たちは「降伏すれば、一族家臣の命は助かり、所領は安堵される。」と九戸家の菩提寺である長興寺の住職・薩天和尚を使者にたて、九戸政実城を明け渡すよう説得させました。政実はこの申し出に応じて、家臣らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏します。ところが、助命の約束は反故にされて、政実の弟・実親はじめ城内に居た者は全て二ノ丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ、火をかけられました。その光景は三日三晩、夜空を焦がしたと言い伝えられています。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女性の人骨などが発掘されています。そして、政実ら主だった首謀者達は集められ、天正19年(1591)栗原郡三迫(宮城県栗原市)で重臣たち7人と打ち首となりました。
また、使者として奥州再仕置軍に利用された薩天和尚のその後の消息は歴史書には記されていませんが、ひとつの言い伝えとして、盛岡の南部家菩提寺である東禅寺で、抗議のため自害したといわれています。
九戸村に、政実が戦勝を祈願したと伝わる九戸神社の近くに九戸政実の首塚が残っています。この首塚は、斬首となった政実の首を家臣が密かに九戸へ持ち帰り、塚を築いて鎮められたといわれている場所です。また、田子町には政実の子・亀千代を祀る小さな社があります。
天下人秀吉に最後まで抵抗した政実は、首一つになっても故郷に帰って供養を受け、現代も地域の人々に愛され続けています。
関ヶ原の戦い・上杉包囲戦と南部利直
岩手県花巻市の鳥谷ヶ崎公園には、明治5年(1872)に至るまで、盛岡藩南端の拠点とされる花巻城が存在していました。ここでは、戦国末期の花巻城について追ってみましょう。
慶長5年(1600)、徳川家康への抵抗の意志を固めた上杉景勝は、家康にくみする最上義光の山形城を攻めました。家康はただちに東北諸藩へ命を発して山形城の救援に向かわせ、自ら江戸に戻りました。これをみた石田三成は大軍を組織し、家康の留守を衝いて大坂城・伏見城の奪回に乗り出しました。そこで家康は上方にとって返し、石田三成軍と関ヶ原で激突しました。「天下分け目の戦い」といわれた関ヶ原合戦です。家康が協力を要請した東北の大名の中には、南部利直も含まれていました。利直は、最上家の援軍として山形に向いました。
しかし、山形出陣で手薄になった隙を突かれ、反乱を起こされます。和賀の旧領主・和賀忠親が花巻城を夜討ちしたのです。利直は帰国の許可を得て、これを鎮圧しました。この和賀忠親をそそのかしたのが、利直と同じ東軍の伊達政宗だという説があります。政宗が自分の領土の拡大を謀ったのです。
関ヶ原の戦い及び、上杉包囲戦は、軍事的駆け引きを睨みながらの戦だったといえます。この2つの戦での勝利で、徳川家康の全国平定は確実なものになりました。
なお、和賀氏の攻撃に耐えた花巻城は、その後も南部領の重要拠点として機能していくことになります。
 

 

●青森県南部の歴史 江戸時代
三戸南部氏の本拠地を盛岡城に移す
南部家26代当主で三戸城主の南部信直は、豊臣秀吉から南部内七郡の所領を安堵されました。しかし、三戸城が拠点のままでは、広大な南部氏の所領を統治するには、北に偏りすぎているという問題が生じました。そこで領内の基盤固めのため、本拠地を不来方(現在の岩手県盛岡市)へ移動し、新しい城を建てる構想が浮上します。信直の嫡子である利直を総奉行として築城が始まりました。
北上川と中津川が合流している突き出した丘陵に本丸・二の丸・三の丸などを配し、大きな石垣を構築の内郭として築城は進められます。2つの川を外濠として利用したり、城の基礎に地元で豊富だった花崗岩を使用するといった、軍事的・経済的に優れた築城計画でしたが、度重なる北上川の氾濫によって、作業は困難を強いられます。盛岡城は、利直の子・南部重直の代に完成し、以来盛岡は、藩政時代を通じて南部氏の居城となりました。
上ノ橋、中ノ橋、下ノ橋の三橋によって河北と河南が結ばれ、城下の市街地化が一層促進され、現在の盛岡の骨格が完成しました。 この三橋は現在も盛岡市内に残されています。上ノ橋には慶長14年及び慶長16年に作られたとされる擬宝珠がつけられており、国指定重要美術品(工芸)となっています。
盛岡城は廃藩置県後、陸軍省所管となり、その2年後には大半が取り壊され荒廃します。その後公園に整備され、岩手公園(盛岡城跡公園)として開園。歴史公園として市民に親しまれています。
根城南部氏、遠野・横田城へ移封される
根城南部家は戦国時代に三戸南部家(南部本家)の家臣となり、八戸氏と称しました。
寛永4年(1627)、22代当主の八戸直義は、本家の27代当主・南部利直から遠野・横田城への移封を命じられました。八戸氏の権威と家格により、横田城下の不穏な動きを封じることと、藩境を接している伊達藩に対する警護の任にあたらせることが理由でした。
直義にとって遠野への移封は、父祖の地を失うことになりますが、八戸氏の命脈を守るために従います。そして、遠野移封後も利直の側に仕えました。利直の没後、その子・重直の代には八戸弥六郎と名のり、それ以後、代々で本藩家老職を務めます。遠野南部家、中野家、北家は盛岡藩三家老と呼ばれ、盛岡城に常勤します。八戸氏はその筆頭でした。
直義が遠野に入った当時は、横田城奥の院はむしろ敷きで、諸士屋敷も周辺にわずか28軒が散在するのみ、板戸代わりにむしろを下げているだけという荒廃ぶりでした。 
遠野の城下町整備事業は、直義移封直後から元禄年間(1688〜1704)まで続き、延宝2年(1674)に直義が74歳で亡くなると、2代領主となった嫡子・義長が引き継ぎました。
延宝9年(1681)遠野五町(六日町・一日市町・新町・穀町・裏(仲)町)の町屋敷数は240件弱でしたが、約100年後には608軒にも増えました。これは、遠野六度市における内陸、海産物の交易中継商業の発達によるもので、六度市は「入荷千駄出荷千駄(いりにせんだいでにせんだ)」といわれるほどの賑わいだったと伝えられています。
藩境塚
奥州街道のほぼ終着地点にある野辺地町は、津軽領と南部領との境でした。柴崎地区、国道4号線沿いにある藩境塚は、江戸時代に南部領と津軽領との境界の目印として築かれた塚です。塚の底面直径約10m、高さ約5mで、南部と津軽にそれぞれ2基ずつ、合わせて4基あることから四ツ森とも呼ばれています。築造時期は明らかではありませんが、元禄14年(1701)、津軽領と南部領で確認した絵図には、両藩ともに藩境塚が書かれています。塚と塚の間を流れる二本股川が印とされていましたが、山中の境界が曖昧なため、たびたび論争が起きていたといわれています。
現在、藩境塚には番所風の建物と「馬門御番所(まかどおんばんしょ)」と書かれた木の門があります。隣には「覚(おぼえ)」と書かれた縦2枚の高札が建てられており、番所の取り締まりについて書かれています。領内から武具類や鉄製品、特産品などを手形なしで他所へ持ち出す事を禁止し、違反者を捕らえた者は褒美を与える旨のことが記されており、覚書の最後には南部領家老の名前が記されています。
野辺地町の東側、愛宕公園には数々の文人に関わる石碑があり、俳句が盛んな地であったことがわかります。その中の1つに松尾芭蕉のものがあります。「花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ」この句は、貞享5年(1688)、芭蕉が桜の名所・吉野山で詠んだものです。彼を尊敬する野辺地の俳人らによって、文政12年(1829)に愛宕山に建てられました。
野辺地町は古くから南部と津軽の境として重要な町であったばかりではなく、独特の文化を育んだ地でもありました。
南部氏の代官たち
盛岡藩では領内の郷村支配のため、代官統治地区を「通」(とおり)と称し、1通には藩から代官2名を派遣し、統治していました。通は検地が進むにつれ整えられて、享保20年(1735)に確立、10郡33通となっていました。盛岡藩の青森県部分には2郡5通があり、三戸郡に五戸通・三戸通が、北郡に七戸通・野辺地通・田名部通が置かれていました。
五戸代官所は文禄4年(1595)頃、領国支配に乗り出した三戸南部氏26代当主・南部信直が木村杢之助秀勝に命じて、代官所周辺の町場と一緒に造成させたものと伝えられています。代官所には代官2人のほか下役・帳付・野馬別当・牛馬役などが置かれました。五戸通29ヶ村の総石高は慶安5年(1652)には約1万4千石でした。明治2年(1869)には一時、斗南藩(旧会津藩)の藩庁でした。五戸町立図書館に併設された歴史みらいパークには、五戸代官所が復元されています。文久年間頃の平面図を基にしたものです。
三戸代官所には、代官2人、下役などの他に、植立奉行・漆木奉行・御古城掃除奉行・鷹巣御用懸・別段廻役等の特別な役人も置かれました。三戸歴史民俗資料館には藩主から代官にあてた御古城掃除についての書状が残されています。三戸通33ヶ村の総石高は安永9年(1780)には約1万2百石でした。野馬別当であった一戸五右衛門の屋敷跡には、五右衛門の祖先である一戸兵部綱定が藩主から賜った盆栽を五右衛門自ら植えたという関根の松が残っています。三戸代官所があった場所は、現在、三戸福祉会館に、代官所の門は、観福寺の山門に姿を変えています。
野辺地代官所
野辺地は、津軽領の平内と境界を接する南部氏にとって軍事上重要な場所でした。現在の野辺地町中央公民館など、公共施設が並ぶこの場所に、野辺地城があったと記録に残っています。築城時期、築城主ともにわかってはいませんが、南北朝期には、七戸南部氏の一族、野辺地氏が下北・上北統治のため居住したといわれています。
天正19年(1591)、九戸の乱で七戸氏が没落し、野辺地城は三戸南部氏に接収されます。慶長3年(1598)の館持支配帳には「野辺地館2千石 石井伊賀」とあり、石井氏は津軽に対する抑えとして配属されたとみられています。その後、小軽米氏、日戸(ひのと)氏が相次いで城代となります。城代とは、城主に代わって城を管理し、政務を代行する者のことを指します。城代を務めた日戸内膳行秀の墓は、町役場に近い常光寺で見ることができます。内膳は父に引き続き、野辺地城代を務めています。貞享元年(1684)、城代に代わり、代官が置かれるようになり、野辺地代官所が置かれました。
城跡に建つ野辺地町立歴史民俗資料館では、野辺地の考古、歴史、民俗などに関する資料を展示しており、歴史と生活文化の移り変わりを見ることができます。展示室には野辺地代官所に関するゆかりのものが展示してあります。
野辺地は江戸時代に盛岡藩の湊町として発展し、領内の大豆、銅などの物資が北陸、瀬戸内海、関西など日本海航路の湊町に積み出されていました。その北前船による航海、交易に関する海運資料、江戸時代の北方探検家最上徳内に関する資料、戊辰戦争に関する資料などの近世から近代までの資料も展示してあります。
盛岡藩最大の鉱山 尾去沢鉱山
秋田県鹿角市、ここには日本最大規模とされる尾去沢鉱山があります。歴史は非常に古く、最初の発見は奈良時代の和銅元年(708)だったと伝えられています。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が奥州仕置を行い、鹿角地方は南部領に組み込まれ、尾去沢鉱山も南部氏のものとなりました。江戸時代に入ると、盛岡藩の金山奉行が置かれ、金・銀・銅などの鉱石を大量に産出し、繁栄していきました。
江戸時代以降、銅の産出が次第に増加していき、1688年から1704年の元禄年間が最高頂に達しました。尾去沢鉱山で採れた銅鉱石は山元で粗錬され、盛岡藩の粗銅となり、牛を使い陸路で青森県の野辺地港に集積されました。集積された粗銅は幕府の雇船により大阪に廻送し、大阪で精錬され、輸出のため長崎に送られました。外国との貿易に使用されたのです。
野辺地港は、盛岡藩の日本海航路への窓口として賑わいました。野辺地港の常夜燈は、夜間は魚油・菜種油を燃料とし、毎夜目印の灯火を照らしていました。常夜灯は石で造られており、現存する石の常夜燈の中では日本最古とされ、町指定文化財となっています。
尾去沢鉱山は昭和53年(1978)に鉱量の枯渇により閉山となりましたが、その4年後には観光坑道として生まれ変わります。平成19年(2007)には近代化産業遺産認定となり、今に至っています。現在は砂金採りや天然石堀りの体験ができ、鉱石が確かにここにあったことを伝えています。(メガネ)
日本有数の良馬、南部馬を産出
青森県三戸町。南部地方は古来より馬産地として有名です。江戸時代、盛岡藩では南部九牧(くまき)と呼ばれる藩営牧場を開き、馬産に積極的に取り組みます。1184年の宇治川の戦いで先陣を争った源頼朝の馬、磨墨(するすみ)と池月(いけづき)は三戸産と七戸産であったともいわれています。
三戸町にある馬暦神社には、江戸時代中期に亡くなった1頭の馬を偲び、建てられた唐馬の碑があります。享保10年(1725)8代将軍・徳川吉宗はオランダから輸入した春砂(はるしゃ)と名付けられた名馬を、盛岡藩に送りました。「春砂」とはペルシャのことです。藩は春砂を住谷野で放牧し、馬の体格を大型化するための種馬として改良を図りますが、9歳で亡くなってしまいます。寛保3年(1743)、石井玉葉が春砂の埋葬地に供養碑を建立し、馬頭観音尊を祀ったのが馬暦神社の起源となっています。唐馬の碑は、外国産馬に関しての貴重な資料として県の文化財に指定されています。
道の駅しちのへにある絵馬館では、見町観音堂と小田子不動堂に奉納された絵馬を見ることができます。絵馬とは、当時の人々が祈りや願いを込めて奉納した、絵が描かれた木の板のことです。ここに展示されている絵馬は、南部小絵馬と呼ばれています。これらは、南部地方の庶民信仰を知るうえで質、量ともに優れており、国の重要有形民俗文化財に指定されています。馬に対する愛着は信仰と結びつき、格調高い絵馬が残されています。
馬と共に生活してきた農民が馬を尊び、良馬産出を願う心が窺えます。
相馬大作事件
寛政元年(1789年)2月21日、盛岡藩二戸郡福岡村、現在の二戸市に下斗米秀之進、後の相馬大作が誕生。武芸に長けた秀之進は江戸で平山行蔵に入門します。その腕前は平山道場の師範代も務めるほどでした。文武両道を極め、世界情勢を学んだ秀之進は、二戸に帰還し兵聖閣演武場を開きます。
文政4年(1821)、江戸から帰国途中の弘前藩9代藩主・津軽寧親(やすちか)の狙撃未遂事件が発生します。この時期、津軽家の家格が南部家を上回り、盛岡藩主・南部利敬(としたか)が愚痴をこぼしたのが、事件の発端と言われます。秀之進は利敬の思いを汲んで行動を起こしたようです。しかし、秀之進の真意は、単なる南部家への忠義だてではなく、津軽・南部両家和解の上、協力して北方警備にあたるよう自覚を促すことであったとされています。秀之進は津軽寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、従わない場合には暗殺すると伝えます。しかし、仲間の密告により計画が洩れ、未遂に終わります。
暗殺の失敗により、相馬大作と名前を変えて江戸に隠れ住み、後に捕えられ処刑された秀之進。この相馬大作という偽名が事件名の由来となっています。当時の江戸住民は、南部家に忠義をたてた大作の行動に大きな感銘をうけ、講談や小説・映画・漫画の題材として事件を採り上げました。この事件は、みちのく忠臣蔵や赤穂浪士の再来とも呼ばたそうです。さらに吉田松陰にも影響を与え、松陰は長歌を詠み大作を讃えています。
南部領の飢饉と蛇口伴蔵の情熱
八戸市南郷区の世増(よまさり)ダム。ここに、彼方を指さし、遠くを見つめる男の像が建っています。彼の名前は、蛇口伴蔵。南部領の水利事業に尽力した人物です。
南部領は幾度か飢饉に見舞われました。天明の飢饉や天保の飢饉です。飢饉では多くの餓死者を出しました。人々は飢え、強盗などが多発し、領内は荒れましたが、幕府の取り締まりもままならない状態でした。
天保の飢饉から遡ること24年、蛇口伴蔵は八戸領の侍として誕生します。蛇口は自分の財産を増やすことにこだわり、周囲からは、ケチ、商人侍、などと蔑まれていました。しかし、そこには蛇口の固い意志がありました。 蛇口は蓄えた財産を投じ、飢饉に苦しみ、厳しい自然環境にある南部領のため、運河の開発をしようとしていたのです。また、単なる守銭奴ではなく、三本木開拓を進める新渡戸伝に無償で資金援助するなど、開発のための出資は惜しみませんでした。
白山上水計画も彼の計画のひとつでした。この計画は、水路は完成したものの十分な水が確保できず、あえなく失敗に終わりました。蛇口はそれでも諦めず、他の計画も手掛けたものの、いずれも失敗に終わりました。当時の技術では蛇口の発想を具体化することは困難でした。さらに悪いことに、蛇口自身も病を患い、計画を中止した2年後の慶応2年(1866)、この世を去ります。戒名は活山治水居士とつけられ、大慈寺に眠っています。
蛇口は、結局、大きな功績は残せませんでしたが、2003年に完工した八戸市新井田川の世増ダムに蛇口伴蔵の像があるのは、蛇口の情熱と構想が後世に引き継がれてきた証しだと言えるでしょう。(アラン・スミシー)
戌辰戦争の中の野辺地戦争
野辺地町の県道243号線沿いに、野辺地戦争戦死者の墓所があります。野辺地戦争とは、戊辰戦争のうちのひとつを指します。戊辰戦争は、幕府の失政を追及する薩摩・長州などの雄藩連合が、天皇親政の復活を名目にしかけた内乱のことです。
慶応3年(1867)、徳川幕府15代将軍徳川慶喜は、大政奉還を行い、政治の実権を天皇に返しました。新政府から慶喜が外され、厳しい処分も下ったため、翌年、幕臣らが蜂起しました。これに会津藩・桑名藩も加わり、戦闘は激しさを増しました。これが戦争の幕開け、鳥羽・伏見の戦いです。この戦いは新政府軍の勝利に終わり、のちに江戸城無血開城、慶喜の水戸謹慎という結果になります。
江戸を支配下に置いた新政府軍でしたが、東北の諸藩が奥羽越列藩同盟を組み、抵抗します。この東北での戦争の1つが、野辺地戦争です。野辺地戦争は、明治元年(1868)9月23日、新政府軍に盛岡藩討伐を命じられていた弘前藩が盛岡領の馬門村に放火したことから幕を明けます。弘前藩は途中で奥羽越列藩同盟を脱けて新政府軍側に付いたので、不信感を持たれていました。そこで、新政府軍側としての戦績を残したかったようです。結局、弘前藩は、八戸藩の協力を得た盛岡藩に撃退されて退却します。
実のところ、盛岡藩は9月20日、新政府に降伏表明し、22日に正式に受け入れられていたので、盛岡藩は既に新政府軍に抵抗する意思はありませんでした。野辺地戦争は、わずか1日で終わった小規模な局地戦でした。
廃藩置県で盛岡藩消滅
秋田県大館市、大館市役所のすぐ近くに桂城公園があります。ここにはかつて、大館城がありました。大館城は天正10年(1582)以前に出羽国の豪族・浅利勝頼により築城されたといわれています。
慶応4年(1868)、戊辰戦争が開戦すると、大館城も戦場となりました。8月20日、盛岡藩隊は扇田村(現・秋田県大館市比内町扇田)を占領し、全村に火をつけて焼き払いました。このため、秋田藩隊は大館城周辺に布陣を置き、戦に備えました。同年、8月22日に一発の大砲とともに戦闘が開始されました。盛岡藩の攻撃により、秋田藩隊は大館城に籠城しましたが、最後は自らの手で城に火をつけ、撤退しました。
桂城公園の近くには、扇田神明社があります。扇田神明社は、長治2年(1105)に創建されました。天正3年(1575)に、長岡城主・浅利勝頼が、現在の位置に社殿を移築した後といわれています。社殿は戊辰戦争により焼失しましたが、明治7年(1874)、佐竹義遵と茂木知端によって再建されました。境内には、戊辰戦争で戦死した佐竹兵2名の墓と、戦闘の際打ち込れた弾玉が入ったままになっている杉の老木があります。また、浅利氏の祈願所であった証としての、両刃の短刀が奉納されています。
戊辰戦争によって大勢の人が犠牲となり、町や村が戦火に巻き込まれました。現代の平和と繁栄は、そうした歴史の上に築かれているのです。(メガネ)
斗南藩
明治のはじめ、戊辰戦争に敗れた会津藩の人々が、下北半島のむつ市に移り住み、会津の再生を目指しました。会津藩改め斗南藩の歴史は、飢えと病に冒され、多くの犠牲を出した、苦しく辛いものでした。
明治元年(1868)夏、京都から引き揚げてきた会津藩隊は若松城に篭城し、新政府軍への抵抗を続けますが、攻防の末、同年9月22日に降伏します。藩主・松平容保は謹慎の身となります。翌年、会津松平家は再興を許され、旧陸奥盛岡藩領への移住が決定。新たに斗南藩と称され、旧藩士とその家族1万7千人余りが陸路・海路を辿って新天地に赴きます。海路組の上陸地点の一つが大湊でした。斗南藩士上陸の地の記念碑には、会津鶴ヶ城の石垣と同種の石が使われ、会津の方角に向けて建てられました。
斗南藩は下北半島の他、岩手との県境付近にも飛地の領地を持っており、当初は旧盛岡藩の五戸代官所に藩庁が置かれました。その後、下北半島の田名部・円通寺に移されます。円通寺境内には戦死した会津藩士を弔う招魂之碑があります。むつ市郊外の斗南ヶ丘には、藩士が復興を夢見た開拓地が斗南藩史跡地として残っています。当時は200世帯が暮らす街並みをつくる計画でしたが、現在は土塀跡が残されているのみです。
気候の厳しさにより作物は殆ど育たず、過酷な生活の中で特に老人や子供が犠牲になったようです。明治4年(1871)廃藩置県が断行され、斗南藩はわずか1年で消滅。そのまま残る者、会津に戻る者、東京に移住する者。生活の糧を求めて藩士たちは進む道を決めていくのです。(サト)
南部家ゆかりのもの
南部氏ゆかりのものは青森県、岩手県に多数残されており、これらを見ることによって南部氏の変遷を辿る事ができます。三戸町立歴史民俗資料館には、家臣の武具や装束、古文書などが展示されています。大名長上下は江戸時代の武家の礼服であり、南部家が寄贈したものです。このほか、県重宝の黄金橋青銅擬宝珠が展示されています。12代・政行が詠進した和歌が天皇の御心に叶い、恩賞として従四位下に叙された時、この擬宝珠で飾った橋をかけたとされています。
盛岡市の盛岡城跡(岩手)公園は、かつて盛岡城があった場所です。もりおか歴史文化館には、南部家が三戸から盛岡に拠点を移した後の時代に関わる様々な資料が展示してあります。館内入り口付近には歴史年表などが展示してあり、その奥には新山船橋の縮尺模型が展示されています。新山船橋は北上川に架けられていた橋で、奥州街道に繋がっていました。北上川はたびたび氾濫を起こすため、船を並べて鎖で繋ぎ、その上に板を渡し、人馬が往来できるように工夫されていました。
さらに奥へ進むと不動明王打出五枚胴具足をはじめとして、信直が使用していたとされる白羅紗地日の出紋(複製)、緋羅紗地合羽(複製)、鶴印三匁火縄銃・亀印三匁火縄銃などが展示してあります。南部家ゆかりの品々のコーナーには大名婚礼調度などが展示されています。
南部光行が、甲斐国から陸奥国糠部群へ入部して以来、広大な領地を有していた偉大なる南部家の歴史を伝えています。  
 
 
 

 

●大人と撤退戦 2014
いったん始めたことを止めるのはいけない。三日坊主は戒めるべきことである。苦難に耐えてこそ明るい未来がある。わたし自身は、日記にしろ何にしろ、続けると決めたことを続けきることは少なかった。思い返してみれば、それなりに続いたバドミントンや翻訳にしても、何度もギブアップ寸前になったこともあったから、いったん止めてまた再開することへの敷居を低くすることも大事だなあと感じる。
それにしても、こどもの頃から続けていることと言えるものがない。こども時代は知らないことだらけで好奇心は旺盛だし、ひとつのことに固着することは成長を妨げることもあるだろうから、それがこどもの本性なのかもしれない。別のいい方をするなら、こどもは、負け戦をきれいに戦うことができない。勝てるかもしれない、新たな戦いへと歩を進めることに魅力を感じる年齢に、負け戦をしなさい、とはなかなか言いにくいし、言っても仕方ないだろう。
しかし、おとなになれば、勝てない戦いだとわかった時点で、負け戦をする覚悟も必要である。しかし、《おとなのいなくなった日本》で、その覚悟ができる人がどれだけいるのだろうか(顕著な例外は何人も知っているが)。第二次世界大戦時には今より《おとな》は多かったような気がしているのだが、それでも、負け戦を勝てる戦と強弁して、社会は負け戦の底に沈んだ。それが再度の成長には不可欠だったという人がいたとしても、わたしは同意できない。負け戦を悟ったとしても、まだ勝てるはずだとか、この方向に活路があると主張するほうが、こどもの生き方としては威勢がいいだろう。負け戦を負け戦として、きれいに負けることは、ふつうに主張したのでは、消極的とか弱腰とかいった非難が飛んでくるだろう。だが、大人の集団なら、きれいに負けることは、華々しく勝つよりも、よほど困難で、しかし、きもちの良いことだと考える人をマジョリティにしなくてはならない。
脱原発もまた、原発を推進してきた国にとっては負け戦である。撤退戦をすることに腹をくくり、新しい挑戦をすることが気持ちのよいことだ、かりに一時的に日本が貧困国に転落してもなお、その路線はゆるがない、と覚悟することこそおとなの国になることだと思う。こどもが移り気なのも、それはそれで短期的な《快》を追求しているためだろう。私が《きもちよさ》を言うと、あたかもそれは《快楽の追求》であって、こどもっぽいものと見なされるかもしれないが、決定的に違うと思っている。おとなの《きもちよさ》も、こどもの《快感》も、かりに身体的には同一の、脳内ドーパミンの生成に基盤があるとしても、私がいう《おとなのきもちよさ》には、ある種の潔さの要素が含まれる。理念なくして潔さは生まれない。
きもちのよい撤退戦。それは、人が集まらなくなった大学でもまた同じことだ。おとなの戦略とはなにか。もうしばらく考えつづけることになりそうだ。
 

 

●そして日本からオトナがいなくなった 2014
昭和の大人の象徴であった「高倉健」の死は、私たちに何を伝えようとしているのだろう。「いま日本人が考えるべきことは、経済成長ではなく、日本人全体の<幼児化>がもたらしている問題についてではないか」。新刊『復路の哲学 されど、語るに足る人生』が話題の経営者・文筆家の平川克美さんが、コラムニスト、小田嶋隆さんと語り合う。
小田嶋:新刊『復路の哲学 されど、語るに足る人生』を興味深く読ませていただきました。この本で平川さんが繰り返し語っておられるのは、「大人の不在」という問題ですよね。
平川:かつて、この国に確かにいた「大人」たちが消え去りつつある、という危機感を持っています。実は僕自身、64歳になって言うのもなんですが、まだまだ「子供だな」と感じているんです。自分が子供の頃を思い出してみると、周囲にはもう少し「大人」と言える人々がいたような気がする。でも今は自分も含めて、社会全体が幼児化しているように感じるんです。
幼児化する日本の危機
小田嶋:「大人が消え去りつつある」というのは、言われるまで気づかなかったんですけど、私も確かにそうだな、と思いました。
平川:いちばん顕著な変化を感じるのは政治家です。最近、現役の政治家に会う機会がけっこうあるんですが、実際に会って話してみると「え! こんなにガキなのか」と驚くことが多い。誰とは言いませんが、これはおそらく僕だけが感じていることじゃないでしょう。テレビやメディアを通して見聞きする政治家の言動に、あまりにも子供っぽいなという印象を抱いている人は少なくないと思います。ちょっと前までは、政治家って基本的に尊敬されていたように思うんです。別に「昔の政治家は偉かった」と言いたいわけではありません。ただ、昔は政治家自身が「偉い人」として振る舞おうとしていたし、周囲もそういう振る舞いをする政治家を尊重していた。何かの会合に衆議院議員が呼ばれると、「何々先生がいらっしゃいました」と紹介され、数分ほど喋って帰るのをみんなで拍手して見送る、ということが当たり前だったんです。でも今は一国の総理大臣からして、大人の顔をしてないし、大人として振る舞おうとしていない。当たり前のように子供っぽい言動を繰り返し、それを見る僕たちも、どこか「そんなものだ」と思っている。そのことに危機感を覚えるんです。
小田嶋:今のお話は、「鶏が先か卵が先か」という側面がありますよね。政治家が子供っぽくなったということもあるだろうけど、私たち視聴者や新聞読者に当たる国民の側が、政治家を見上げなくなった、ということもある。おそらく両者はループしているのでしょう。尊敬できない人間だから尊敬しない、ということもあるし、尊敬されていないから、彼らも尊敬されるような振る舞いをしなくなったということもある。
平川:一つ確かなことは、「大人とはこういうものだ」という規範が失われた、ということだと思うんです。先日、高倉健さんが亡くなりましたが、彼がスクリーンの中で体現していた「黙って耐える」「嘘はつかない」というような大人像というのは、間違いなくある時期までは「あらまほしき大人像」として機能していました。それがどこかで失われてしまった。
小田嶋:今、規範という表現をされましたが、平川さんがこの本で問題にされているのは、単純に社会から大人がいなくなったというよりも、社会全体から「大人なるもの」というイメージや「社会が安定的に営まれるためには大人が必要だ」という意識が失われつつある、ということですよね。
歳を取ることがマイナスの意味しか持たなくなった
平川:今の価値観だと、人間というのは歳を取れば取るほど醜くなって、価値が失われるということになっていますよね。そのことは特に女性に顕著で、20代の沢尻エリカさんなんかが「最近老けたね」「もうババアだね」なんて言われちゃったりする。歳を取ることがマイナスの意味しか持たなくなっている。
小田嶋:「アンチエイジング」なんていう言葉があるくらいですからね。ハリウッド映画だと、出てくる女性の年齢はとにかく20代ばっかりなんですが、フランス映画を観ると「なんでこんなおばさんがいい女の役やってるの」って驚くことがあります。「若ければ若いほどいい」というハリウッド映画の価値観を、戦後の日本が取り込んで来た影響は大きいですよね。
平川:最近の日本映画も、若者しか登場しなくなりましたよね。日本の映画で「大人」を演じることができる俳優は、もしかすると高倉健が最後になってしまうかもしれない。ところで、そもそもいま我々が話しているような「大人がいなくなった」という問題に対して、「なぜ大人がいないといけないんだ。そんなのいなくていいじゃないか」と考える人もいると思うんです。でも、僕はまさにそのことを問題にしているんですね。社会の中で「大人にならなければいけない」「社会には大人が必要だ」という意識が希薄になってきていることが、非常に厄介な問題を生みつつあると思うんです。
小田嶋:私はこの『復路の哲学』を拝読していて、大人というのはそもそも引き算というか、「えぐれている何か」「実体として名指すことのできない何か」としてしか表現することができないものなのかもしれないな、と感じました。これ、孫引きだと思うので正確ではないと思うんですが、サルトルが、「価値というのは、欠けている何かだ」ということを言っています。そこにあるはずなのに何か欠けているもの、それこそが価値だということですね。たとえば満月が欠けているとすれば、価値というのは月が光っているところではなく、欠けているところに宿っている。
「2日目のカレーのほうがおいしい」に似た感覚
小田嶋:社会から「大人なるもの」が失われてきたことによって初めて、私たちは大人の価値に気づきつつあるということかもしれない、と思うんですよ。「大人がいない」ということはわかるけど、大人とは何か、どうやれば自分が大人になれるのかということはなかなかうまく言葉にできない。平川さんも『復路の哲学』の中で、「大人なるもの」の周囲を迂回するようにしながら、段々とその実像を浮かび上がらせていくような語り方をされていますが、大人って、そういうものなんですよね。それは、たとえばラーメンを食べていて、「なんかひと味足りないぞ」っていう感覚に似ています。塩なのか醤油なのか出汁なのかわからないけど、明らかに何かが足りない。でも、何が足りないのかはわからない。
平川:わかる。カレーでもあるね、そういうの(笑)。
小田嶋:ありますね。明らかに何かが足りない。足りないんだけど、何が足りないのかわからない。ダメなことだけはわかるんだけど、どうすればよくなるのかはわからない。『復路の哲学』を拝読していて、大人って、そういうものじゃないかと思ったんです。
平川:すばらしい喩えだね。
小田嶋:私自身、「お前は大人なのか」と問われたら、話にならないくらいダメなことは、はっきりとわかっている。でも「じゃあ、お前が大人になれよ」と言われると、そう簡単ではない。ラーメンの味でいうと、これとこれを何グラムいれて、こうすればこの味が出ますよ、というほど簡単なものじゃないんです。味覚というのは、非常に複雑な感覚ですからね。
平川:「コク」って具体的に何なのかわからないけど、コクがない料理がダメだってことは誰でもわかりますからね。
小田嶋:安い日本酒とか、飲んでいて悲しい気持ちになりますよね。カレーでも、作った日より翌日のほうが、なんとなくいい味になったりしますよね。
平川:あれはたぶん、放置しているうちにいろんなゴミが混じって美味くなるんだと思いますよ(笑)。
小田嶋:でも、 1日目と2日目で何が具体的にどう変わってるのかはわからないけれど、2日目のほうが明らかにいい。そういう変化って、人間でもあると思うんですよ。
平川:それはつまり、「エイジング」ということだよね。
小田嶋:そうなんです、エイジングです。一晩寝かせて美味しいカレーが完成するのと同じで、エイジングがなければ、人はいくら学んだり、スキルを上げたりしても、大人になれない、ということだと思うんです。だから、アンチエイジングなんておかしな話だと思うんですよ。平川さんは今回の本の中で「復路の人生というものは、往路とはまったくその景観を異にしている」と書かれていますよね。「人生の往路」を歩んでいるときにはなかなか理解できないけれど、「人生の復路」に差し掛かると自ずとわかってくることもあるということだと思います。
「語り得ないもの」を抱えている大人
平川:本の中でも触れましたが、向田邦子さんが、自分のお父さんについてこんなことを書いているんです。子供の頃、家を訪ねて来た上司に対して、父親が床に額をこすりつけてお礼を言うのを見た。そのときはなぜ父親がそこまでするのかわからなかったんだけれど、ある年齢を過ぎたとき、「なぜ夕飯のとき、父親だけが一品料理が多いのかということがわかった」というんですね。大人とは何かというのはそういうふうに、ある年齢とか経験を経て、ふとした拍子に「ああ、これが大人になるということなんだな」と気づくものだと思うんです。たとえば、小津安二郎の映画を高校生が観ても理解できないですよね。
小田嶋:小津の映画に出てくるお父さんって、自分のやってることをほとんどまともに説明しないまま死んでいきますからね。小津の映画と対照的なのが「渡る世間は鬼ばかり」なんです。あれは全部、心の中のことまで全部しゃべっちゃいますから。小津は逆に、いちばん大切なことであればあるほど、決して口には出さない。テロップで説明したりはしないんです。
平川:説明責任を果たしてないんだよね(笑)。でも、残された子供たちは、どこかで理解する。向田邦子の小説『あ・うん』の中に、「おとなは、大事なことはひとこともしゃべらないのだ」という述懐があるんですが、大人というのは、そういうふうに「語り得ないもの」を抱えているものなんです。
小田嶋:僕らは平川さんたち団塊の世代がいろんな権威や旧弊的なものと戦い、壊して来た瓦礫の上を歩いて来た、という世代です。一方、今の若い人たちは「何にもなくなったあとの世界」で生まれ、大人になってきたという側面があると思うんです。ここには実は、けっこう大きな断絶があるような気がしています。いちばん大きいのは、僕らは家父長制的な、縦社会の圧迫を受けてきた経験を持っていますが、今の40代より下の世代だと、そういう縦社会の理不尽な圧制をあまり受けずに育って来たんじゃないか、ということです。実は、そういう人が中核を占めるような社会で何が起きるのか、ということは歴史上例がないわけで、いわば社会実験をやっているような状況にある、といってもいいと思うんです。
『昭和残侠伝』で
平川:そういう権威主義的な秩序を壊して来た世代の人間が言うのもなんだけど、「かつて、自分たちの社会にはこういうものがあった」ということを知っておくということは、大切なことだと僕は思うんです。今の日本、今の家族、今の社会みたいなものがずーっと、当たり前のように続いて来たかというと大間違いで、いろんな経緯があって今がある。そのことを知っているか知らないかは、生きていく上で大きな違いを生む気がします。そのことは別に今の若い人にだけ言えることではなくて、僕自身もそうなんです。高倉健の代表作である『昭和残侠伝』って、監督からカメラスタッフまで、みんな戦中派なんですね。ですから、娯楽映画でありながら、スタッフの一人ひとりが、「今、日本で失われつつある何か」を懸命に映像に定着させようとしていることが伝わってくる。そのことで、非常に興味深い作品に仕上がっているように思うんです。もちろん、現実の「任侠」って呼ばれていたヤクザ者が、映画に描かれているような立派な人たちだったかというと大いに疑問符はつくんですよ。でも、『昭和残侠伝』というのは、昔ながらの任侠と、新たに進出してきた愚連隊の対決という構図を通して、戦中派の人々が、戦後の日本社会の中で生きる日々の中で、痛切に感じていた「失われつつあるのだけれど、決して失われてはならないもの」を必死に描こうとしているんです。僕は戦後生まれだから、彼らとは何も体験を共有していないんだけど、そういう作り手の思いに感応することで、ぐっとくるわけです。
 

 

●競争がガキとジジイしかいない国を生んだ 2015
なぜ日本から「大人」がいなくなったのか。それは「大人」がうまく機能するための前提である制度や慣習を、今の「大人」世代がぶっ壊してきたからではないか――。「いま日本人が考えるべきことは、経済成長ではなく、日本人全体の<幼児化>がもたらしている問題についてではないか」。新刊『復路の哲学 されど、語るに足る人生』が話題の経営者・文筆家の平川克美さんが、コラムニスト、小田嶋隆さんと語り合う。
福沢諭吉は20代で大学を作った
平川:今、大人がいなくなっているということについては、少し昔の人の写真を見るとよくわかります。20代、30代でも、昔の人って非常に大人っぽい風貌をしているんです。たとえば、夏目漱石の30代ぐらいの頃の写真を見ると、非常に落ち着いた、深みのある佇まいをしている。30代にして、ああいう顔をして、あれほどの作品を書いていたのだということに改めて驚きます。
小田嶋:福沢諭吉が慶応義塾大学の前身である蘭学塾を作ったのなんて20代ですからね。「嵐」のニノ(二宮和也)とかマツジュン(松本潤)が大学を作っちゃうようなものですよ。今の20代、30代には、そもそもそんなことは求められていませんからね。本人はもちろん、周囲も30歳を「大人」として見ていない。「何歳になれば大人」という社会の共通認識というものが、相当大きく変化していることは間違いないでしょう。それはおそらく、明治までさかのぼらなくても、私たちが子どもの頃と今とでも、ずいぶん変わっているのだと思います。たとえば私が子どもの頃、『少年マガジン』や『少年サンデー』といった雑誌の表紙は王選手や長嶋選手でした。彼らが小学校2、3年生の男の子の頭をなでながら、にっこりほほ笑んでいる。そういうふうに、王さんや長嶋さんを「お父さん」としてフレームに収めた図柄が、雑誌の表紙のひとつの定型だったわけです。でも、考えてみると当時の王さんや長嶋さんって25とか26歳ですからね。いまの感覚だと“若造”です。それこそ嵐のメンバーより年下なんですから。でも、当時の彼らは周囲から「お父さん」として見られていたし、そういうふうに振る舞っていました。中身が本当に大人だったかどうかはともかくとして、少なくとも25、6歳の野球選手が、役柄として“大人”を演じていたんです。
平川:小説家や野球選手だけじゃなくて、一般の人も、昔と今とでは、まったく顔が違うんですよ。大阪の堂島の地下にバーがあって、残念ながらもう閉まっちゃったんだけど、そこのママが、何十年もお客さんの写真を撮って、アルバムにする、ということをやっていたんです。たぶん40年分ぐらいあったと思うけど、アルバム何十冊にわたって、各時代のサラリーマンの「顔」が収められているわけですね。それを見せてもらったときに、40年前のサラリーマンたちの顔が、今よりもずっと大人だったことに驚いたんです。
小田嶋:ああ、なるほど。
平川:ひとつは服装がきちっとしているということもあるでしょう。ソフト帽をかぶったりして、身なりがきちっとしているし、姿勢もいいんですよね。同じ30歳ぐらいでも、今の30代よりもずっと大人びているわけです。それを見たとき、子どもの頃見た、自分や友人の親たちの顔が、今の同世代と比べてずっと大人びていたということに気づいたんです。
小田嶋:数十年前のサラリーマンの写真の話は興味深いな、と思いました。彼らが今の30代よりもずっと大人に見えるのは、顔の造作の問題というより、写真を撮られるときの緊張感の問題ですよね。「写真に撮られるときには、大人としての表情をたたえておかなければいけない」という意志が働いているからこそ、そういう表情の写真が残っているわけです。そういう意味では、「大人」というのは、人格というよりも「役割意識」に近いものだったんじゃないでしょうか。
「大人になれ」という圧力があった
平川:そう。昔の人のほうが内面的に立派だったかどうかということはさておき、少なくとも「大人の仮面を被ろうとしていた」ことは間違いないだろうと思います。
小田嶋:それは、自分の意志で大人として振る舞おうとしていたというよりも、むしろ周囲からの圧力でそう振る舞っていた側面が強かったということですよね。私の父親の世代でも、少なくとも30歳ぐらいになったら大人として振る舞わなければいけないというふうに、周囲から追い込まれていたように思います。でも、私の世代になるともう、30歳を超えても、そういう周囲からの「大人になれ」と追い込まれるような圧力は感じませんでした。今の30歳だと、そもそも周囲が「大人」だと思っていないぐらいではないでしょうか。先ほどからお話している「大人のロールモデル」としてみんなが共有するような映画俳優なり、スポーツ選手がいないというのは、そのことを象徴的に表しています。おそらく数十年前の30代というのは、多かれ少なかれ、高倉健さんが演じていたような大人像をロールモデルとして共有していた。だから、30歳になると何となく「俺はもうおじさんだから」と覚悟を決めて、若者みたいにチャラチャラするのはやめておこう、と考えたんだと思うんです。ところが今、テレビや映画で活躍していて、若者のロールモデルになりうる人たちって、みんな「年齢よりも若く見える」人達ばかりですからね。30歳になった嵐も、40歳になったSMAPも、みんな若者であって、大人ではない。
平川:SMAPって40歳なんですか(笑)。
小田嶋:40歳なんです。いちばん若い香取慎吾でも30代後半じゃないでしょうか。このことって、大きいですよね。だって「SMAPが若者なら、40歳の俺だって若者だよな」ってなるじゃないですか。でも、そうすると何が起きるかというと、ずーっと若者だった人がある日突然、ジジイになっちゃうんです。大人というか、「おじさん」の期間がほとんどなくなってしまうということですね。
子どものほうが断然「使える」
平川:「大人がいなくなる」というのは、世の中に「ガキ」と「ジジイ」しかいなくなる、ということなのかもしれないですね。だいぶ前、僕が企画したシンポジウムに、当時まだオン・ザ・エッジをやっていた頃の堀江貴文さんに出てもらったことがありました。そのとき彼が言っていたのは、とにかく「年寄りは使えない」という話だったんだけど、僕が非常に印象に残ったのは、彼の言う「年寄り」というのがおそらくは「30歳以上」を指していたことなんです。「30歳以上が年寄り」っていうのは、普通の感覚からしたら違和感があると思うんだけど、彼の尺度からすれば、それはそれで理屈が通っているわけです。30歳を超えた人間は、少なくともビジネスをより先鋭化させ、効率化させていくという点では、だんだん使えなくなっていく。「若いやつより物覚えが悪いくせに、なまじ経験があるから偉そうにしているようなやつは切り捨てたほうがいい」というのは、それはそれで、一応筋が通った話だとは思います。「大人」なんか必要ない、体力があって、ビジネスをぐいぐい引っ張っていける「ガキ」がいれば十分だ、というわけですね。実際、競争に勝つということだけ考えるなら大人よりも子どものほうが断然、強いですからね。たとえば議論でも、勝ち負けだけを争うなら、子どものほうが強いじゃないですか。
小田嶋:そうですよね。
平川:大人には建前と本音があるから、どうしても発言に矛盾がある。だから大人というのは、理詰めで議論をしていくと、前後が矛盾して、何を言っているのかわからなくなってくる。子どもはそこを見破って、巧みに突いてくるわけです。「父ちゃんの言ってることはおかしい!」と言われた大人は、もう絶句するしかない。象徴的なのは橋下徹ですよね。彼の議論っていうのは、終始一貫して子どもです。たとえば彼がよく展開する「学者は現実的な提案を何もしない。机上の空論ばかり言っていて役に立たない」という批判は、それだけ見れば「おっしゃるとおり」なんですよ。実際、学者というのは現実的には「役立たず」であることが多いから。でも、そもそも社会的に「役立たず」である学者という存在を許容しているからこそ、長期的に見たときに社会は安定する、ということもある。でも、こういうややこしい「大人の議論」というのは、子どもの単純な議論に負けざるを得ないんです。
小田嶋:橋下さんって、議論ではほとんど無敵なんだけど、なぜ無敵かといえば理由は簡単で、まったく人の話を聞かないからですよね。彼にはいくつか、「既得権益をぶっ壊せ」「役人が諸悪の根源である」といった主張があるけど、彼の議論ってそれらを繰り返し主張するだけなんです。それに対して何か言う人がいても、「俺の意見に反対なら対案を出せ」といった、いくつか持っている必殺の「切り返しフレーズ」を連呼するだけ。相手の立ち位置とか言い分をしょうしゃくするということなく、ただただ自分が持っている最強の武器で切りかかっていく。これは議論においては、最強といっていいぐらいの戦略です。だから、これまで彼と論戦になった「大人」はボロボロに負けちゃうしかなかった。でも最近、橋下さんは在特会の桜井誠と公開討論をやって、負けていましたよね。まあ、橋下さんは負けたって認めないだろうけど、あれは橋下さんの負けですよ。最後は「おまえっていう言い方をやめろ、おまえ」とか言っていましたからね。
仲裁役として機能していた「大人」
平川:あれを見ていて「昔、ガキの頃によくああいう喧嘩したな」って思い出しておかしかったんですよ。「誰がそんなこと言ってんだ」「親父がこう言ってた」「いや、総理大臣はこう言ってる」「いやいや、天皇陛下はこう言ってるぞ」みたいなね。僕が子どもの頃は、最後はやっぱり天皇陛下に出て来てもらわないと収まりませんでした(笑)。
小田嶋:なぜ橋下さんが桜井に負けたかといえば、結局、橋下よりも桜井のほうが「子ども」だった、ということに尽きると思うんです。特に終わり際のやりとりは、桜井がなかなかのクリティカルヒットを繰り出していました。橋下が「おまえ、帰れよ」と言ったのに対して、桜井が「呼んだのはおまえだろ! 呼んどいて『帰れ』はないだろう!」と切り返した。これは、桜井の言うとおりだなあと感心しました。つまり、どうやったら議論に勝てるかというのは、突き詰めると面の皮の厚さにかかっているんです。シンプルな主張を、相手の話を聞かずに繰り返しているやつが勝つ。橋下さんは、まさか自分よりガキっぽいやつと対決することになるとは思わなかったんじゃないかな。
平川:建前抜きの競争社会になればなるほど、大人よりも子どものほうが強くなる。それこそ卵が先か鶏が先か、どちらが先かはわからないけれど、競争社会が進んできたことと、「大人がいなくなった」こととは、リンクしていると思いますね。そうやって「大人」を駆逐して、「ガキ」と「ジジイ」しかいない社会を作ってきた結果いま何が起こっているか。ひとつは、「責任を取る人」が誰もいなくなった、ということだと思うんです。政治もそうだけど、世の中のニュースを見ていると、とにかく平気でとんでもない嘘をついて、その責任を取らない人が増えているじゃないですか。それは結局、この社会から「大人」がいなくなったことによって引き起こされた問題だと思うんです。
小田嶋:「大人」というのは、子ども同士のいさかいを収める「仲裁者」として機能していたんですよね。議論が起きたとき、双方の話を聞いて「おまえの言いたいことはわかるけど、とりあえずここは俺に任せてくれ」「ここは俺の顔を立てて引っ込んでおいてくれ」っていうのが、大人の役割なんだと思います。
平川:そうですね。昔から嘘つきとか、無責任極まりないやつというのはいたんだけど、そういうのを全部ひっくるめて「俺の責任だ」と引き受ける大人がいて、なんとか丸く収まっていた。今、そういう機能が社会から失われつつあるのだと思います。
小田嶋:そういう「それぞれの言い分はわかるけど、ここは俺の顔を立てて、刃を引っ込めてくれ」というような仲裁を成立させるには、論理とか、損得勘定ではうまくいかない。
平川:うまくいかないんだよね。いくら公平に裁定しようとしても、それは結局、勝ち負けがついちゃいますからね。「顔」とか「貫禄」で収めることではじめて、しこりやわだかまりを残さずにいさかいを丸く収めることができるんです。落語で言えば「ご隠居さん」の位置づけですよ。夫婦喧嘩でもなんでも、とにかくご隠居さんに聞きに行って仲裁してもらう、というのが落語のひとつの話型だからね。
ぶっ壊して来たものの中にあった、大切なもの
小田嶋:ご隠居さんって、ロジックのレベルではあんまりたいしたこと言わないんですよね。
平川:そうそう。どちらにも言い分はあるだろうけど、「ここは俺の顔を立てて、言い合いはやめておけ」とその場を収めるのがご隠居さんの役割だからね。顔を立ててって、なんだよってことですが、そういう役割を担える“大人”がいなくなったことは、社会にとっては大きな損失ですよね。
小田嶋:ただ、ここが面白いところですが、そういうご隠居さんの仲裁がきちんと機能するためには、実は日本古来の上下関係や家族関係みたいなものが前提として必要なんですよね。ご隠居さんに権威があるのは、年配だということもあるけど、そもそもある種の「身分制度」みたいなものが前提になっている。「偉い人の言うことは聞かなければいけない」ということですね。それがなければ、大人というのはちゃんと機能してくれない。でも、そういう権威的なシステムって、われわれ自身がこの何十年かの間に、否定し、嫌い、壊して来たものじゃないですか。少なくとも、家父長制とか、日本古来の上下関係みたいなものって、私が生涯かけて嫌ってきた価値観です。平川さんなんて、いちばんそういうものをぶっ壊してきた世代ですよね。
平川:おっしゃるとおりです。団塊の世代っていうのは結局、権威という権威を壊してきたわけですから。
小田嶋:そういう意味では、封建制とか身分制度とかジェンダーとか、あらゆる上下関係を解体して、すべての人が対等になる、フラットな社会に近づくなかで失われたもののひとつが、「大人」だということなのかもしれないなって思うんです。
平川:家父長制とか、封建制とかって、見るからに「悪人面」をしています。だからこそ、僕らもそれをぶっ壊そうとしてきたわけです。一方で、それらが壊された後に現れて来たフラットな社会に立ち現れて来た、「人権」「民主主義」「友愛」みたいな、いまの世界を形作っている論理って、非常にきれいな、「正義面」をしているんですね。でも僕の年齢になると、そういう正義面にうさんくささを感じるようになる。実際、そういう「きれいな顔」をしたものが歯止めなく社会全体に広がることで、非常に厄介な問題を起こしつつある。「大人がいなくなる」ことに僕が懸念を覚えるのは、そういうことなのかもしれません。
 

 

●なぜ日本には「マトモなオトナ」がいないのか? 2021
平成から令和にかわった今、「エヴァンゲリオン」が終わることの「意味」
私は『経営コンサルタント 兼 経済思想家』という肩書で普段仕事をしているのですが、今回エコノミストオンラインから寄稿依頼を受けるにあたって、初回記事ではまず、現在大ヒット中の映画「シン・エヴァンゲリオン」について語ってほしい……と言われて、考え込んでしまいました。難解なエヴァンゲリオン・シリーズのストーリーについて深く解説するような記事は私には手が余るので、最初のエヴァンゲリオン・テレビシリーズがはじまった1995年から今年までの26年間の日本の変化と、そしてそのシリーズが今年終わることの意味について、いろいろな経済社会的変化とエヴァンゲリオンのストーリーの構造とを関わらせながら、考えてみたいと思います。単純化して言うと、「マトモなオトナ」がいない空白をなんとか埋めようともがいてきた26年間のために必要だったのがエヴァンゲリオンシリーズであり、「マトモなオトナ」を皆で協力して押し上げる方向へ進む決意を持って、エヴァンゲリオンシリーズは幕を閉じたのだ・・・という話なのだと私は考えています。
1 「1995年」から続く、26年間の暗中模索
1995年の日本の風景は、今とは随分違っていました。なにしろ、「一人あたりGDP」が世界2位(ある程度以上の規模のある主要国では1位)というお金持ちぶり、「経済大国日本」は健在でしたからね。しかし一方で、阪神大震災や地下鉄サリン事件といった大きな事件も相次いでいて、バブル経済の崩壊も明らかになっていました。そんな中、今まで必死に経済発展を求めて頑張ってきた「昭和以来の日本のあり方」が曲がり角を迎え、「このままでいいはずがないのはわかっているがどうしたらいいのかは全くわからない」という不安が社会に満ちていた、という状況だったと思います。当時私は高校生でしたが、90年代を通して「潰れるはずがなかった」大きな金融機関が次々と潰れていったりする中、若い世代から見れば「今までとは違う」何か進むべき道があるのではないか?と感じる反面、周囲のオトナたちは結局「今までの延長」以外の道を指し示してはくれないという不満感があったように記憶しています。そんな中で放送開始したエヴァンゲリオンシリーズは、とにかく「マトモに配慮して接してくれるオトナがいない」「子供である主人公が無理強いされて大変な試練に合う」というストーリーが印象的でした。一方で、今までなにげなく共有できてきた社会の安定感がバラバラにほどけてしまうという不安感を、必死に埋め合わせるかのような切実な願いが、「人類補完計画」という謎めいた設定には込められていたように思います。人類が「個人」という単位から解き放たれ、直接「みんな」と一体となってわかりあうことで、今の社会の不安から逃れられるのではないか?という「人類補完計画」の夢想は、しかし結局はストーリーの中でも完全には実現せずに終わります。それからの日本の26年間は、「個」と「みんな」との間の綱引きの中で、どちらにも進めずに混乱をし続けてきたと言ってもいいかもしれません。これからは「個」の時代だ……と突っ張ってみては、結局果てしない弱肉強食の世界に突き進んでしまい、自分たちの良さを失ってしまいそうな恐怖心を感じて、また「みんな」ベースの世界に戻ってくる。しかし結局「みんな」が「個」を圧殺しているような空気が息苦しくなって、また「個だけ」がある世界を夢想してみたりする。結局その繰り返しの中でどちらにも大きく進んで行けずにグジグジと衰退してきた時代であったと、そう感じる人も多いのではないでしょうか。
2 ひたすら個を追求する「第一波グローバリズム」に抵抗しつづけた日本社会
一方で、日本以外の諸外国におけるこの26年間は、「グローバリズム」が個の力を解き放ち、経済社会の構造が大きく変化し続けた時代でした。急激に進んだIT分野のイノベーションが、世界を緊密に結びつけ、「個」の力を思う存分発揮した存在が、巨大な富を独占する時代。日本はその「大競争の時代」にも、どこか引きこもりがちで、内輪の利害調整的なものに足を取られ、結果として鈍重な動きが続いて、経済では一人負けのような様相が続いてきたところがあります。しかし、アメリカをはじめとする、この26年間全力でアクセルを踏み込んで経済成長した国では、「持てる者と持たざる者」の分断があまりに激しくなってしまい、経済的格差だけでなく文化的分断も進んで、同じ国を共有しているという意識の維持が難しくなり、民主主義的な制度が危機に瀕するところまで行ってしまいました。一方で日本では、お金持ちもそうでない人も、まだ一応同じコンビニとラーメン屋と漫画を共有していて……という紐帯が維持されている。果てしない「個」の追求が経済発展と社会の分断をもたらした、ここまでの世界の流れを、私は「第一波グローバリズム」と呼んでいます。それは20世紀の米ソ冷戦が終わり、アメリカだけが唯一のスーパーパワーとなることで、世界のあらゆるものが「アメリカ的」な運営に染まっていく流れの中で起きたことでした。しかし、そういう「第一波グローバリズム」の問題点が明らかになる中で、世界の潮流は徐々に反転しようとしています。いわゆる「ネオリベ」的な市場原理主義への抵抗という流れも出てきていますし、政治的にも「米中冷戦」という形で「なんでもアメリカ型がいいよね」という時代は終わりを迎えつつあります。「グローバル」な流れと「その社会」、そして「個」と「みんな」を、何らかの形で調和させていかないと、ゴリ押しにどちらかが押し切るだけでは限界があるよね……という事が見えてきた時代になっている。私はその新しい流れを「第二派グローバリズム」と呼んでおり、「第一波」の時代に必死に抵抗して内輪の紐帯を守ってきた日本が、これから「ウサギとカメの競争」のような形で徐々に自分たちなりの力を発揮できるようになっていくはずだ……と考えています。
3 「シン・エヴァンゲリオン劇場版」で「マトモなオトナ」が描かれたのはなぜか
今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」で印象的だったのは、「マトモなオトナ」が沢山いたことですよね。「オトナ」の人たちが、自分たちが進んでいくべき方向をしっかり理解していて、しかも協力しあって社会を形作り、運営している。しかも、「黙って従え」的な昭和なマネジメントスタイルではなく、傷ついたシンジくんのことを、押し付けがましくもなく、見捨てるでもなく、距離をおいて見守ってくれる、スマートな「オトナ」たちがいる世界。一方で、「人類補完計画」的な、「個」を捨てて全体と同一化するようなビジョンについては、これまで以上に徹底的に「拒否」する展開になっていました。ざっくり言えば、「エヴァの世界」と耽溺しながらこの26年間、「人類補完計画」の幻影にすがることで、日本人は「個」だけに振りすぎないように、必死に内輪で寄り集まって変化に抵抗し、自分たちの紐帯がバラバラになってしまわないように抵抗してきたわけです。しかし世界的に「第二波」グローバリズムの時代が来つつある今、私たちは「マトモなオトナ」をちゃんと自ら作り出し、そこを頼りにすることで、「個」を押しつぶして全体と一体化するような動きへの決別を選ぼうとしている……と言えるかもしれません。
4 「個」の長所を消さない、「マトモなマネジメント」が求められている
例えば日本のアニメ業界は、「自分たちの価値観」を守るために、アニメーターの低賃金労働に依存してきました。そうやって採算度外視で「とにかく自分たちが好きなものを作る」をやり続けてきたからこそ、オリジナリティが保たれているのでしょうが、しかしそういうものは持続不可能だという事も見えてきた。最近では、ネットフリックスなどをはじめとして、国内でなく世界を市場として配信し、しかも違法コピーでなく、ちゃんと薄く広く世界で課金収入を得るモデルが登場しています。そういった新しい「オトナのマネジメント」が浸透し、徐々にですがアニメ業界の経済的問題は改善に向かいつつあるようです。シン・エヴァンゲリオン劇場版を作った庵野監督のスタジオも、映画作りという売上の振れ幅の大きいビジネスを妥協せずに行うために、不動産投資などを組み合わせることでキャッシュフローの安定化を図っているそうです。「自分たちが本当に描きたいもの」を妥協せずに描き続ける。そのためにこそ、「マトモなオトナのマネジメント」をちゃんと組み合わせる。そういう未来が見えてきている。「個」を押しつぶしてしまわなくても、「みんな」との調和は実現できる。シン・エヴァンゲリオン劇場版は、そういう未来を描こうとしているのではないでしょうか。いやいや、俺のまわりじゃ、まだまだ「個」を押しつぶしてなんとか集団の和を保ってる例ばかりだよ!!……と、思われる方もいるかもしれませんが、「マトモなオトナ」を選択して押し上げて、みんなで協力していく事は、やっとその入り口が見えてきた、私たち一人ひとりのこれからの課題なわけですね。「エヴァシリーズ」の終焉とともに、この26年間の「人類補完計画の幻想」とも決別し、「マトモなマネジメントでちゃんとみんなに配慮する」日本にしていきたいですね。
 
 
 

 

●「負け戦の全う」という人生観を持っている人は居ないのか?  2020
冨山和彦氏、ジョンFケネディ、九戸政実、大谷吉継、西郷隆盛、高杉晋作らが上位表示される。しっくりこない。「負け戦の全う」と聞いた時、ジョジョの奇妙な冒険のブラフォードとタルカスが出てきました。
「美しい負け方を構築する」「勝てると自分を洗脳して勝つ施策を打つ」「勝つ確率が高い施策を打つ」「周りが負けると言ってるから周りの姿勢に迎合する」etc ・・・ 「勝てると信じて努力する」という考えが広く世の中で支持されてるように思うが、それは本当に正しいのか?
休日、書店の自己啓発書コーナーではサラリーマンがこぞって自己啓発書を手に取っています。起業家や芸能人、アスリートらの人生哲学や啓発本です。そこに書かれていることは「自分を信じて頑張りましょう」「人の行く裏に道あり花の山」といった類の教訓です。生存バイアスが多分にかかった、参考にするには参照経験、参照文献を当たる必要のある教訓ばかりです。
知能、容姿、人格、文化/経済資本、生まれた場所など人は生まれながらに配られるカードがあります。そのカードを使ってゲームをしていくのが、人生だと思います。ただしその手持ちのカードの解釈は所持者に委ねられている。ある時点でクズに見えたカードが実は神の一手に変わるということは人生に数回はあるようです(経験則)
小学生の時は絶対評価で自分は将来の夢を叶えられると思っていたのにいつしか受験勉強やフットボールの勝敗/リーグ戦など相対評価に晒されるうちに自身の人生を自身で相対評価の中に位置付け規定します。他者を見るときも相対評価の項目ごとに評価を顕在/潜在意識により行います。容姿、学歴、性別、趣味、恋愛、服装 etc
その相対評価の中に自身を位置付けるとトップ0.001%以外の人間は負けです。遥かに上が居る。フットボールの世界にはイブラヒモヴィッチが居るし、音楽の世界には The Strokes が居る。この仮定に基づいた時、世の中に流布されている思想はあまりにも努力信仰、自信信仰ばかりのように思えます。”負け戦の美しい全う”という価値観を持っている方は居ないでしょうか?
殿という役が兵法においてあります。
「殿(しんがり)は、後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊。本隊の後退行動の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという戦術的に劣勢な状況において、殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない最も危険な任務であった。このため古来より武芸・人格に優れた武将が務める大役とされてきた。」
”負け戦の全う”や悪く言うならば”蜥蜴の尻尾切り”といった役を積極的に買って出る方にお会いしたいです。
 

 

●蜥蜴(とかげ)の 尻尾切(しっぽき)り
不祥事などが露見したとき、蜥蜴が尾を切り捨てて逃げるように、上の者が下位の者に責任をかぶせて、追及から逃れること。
トカゲが尾を切り捨てて逃げるように、不祥事などが露見したとき、下位の者に責任をかぶせて、上の者が追及から逃れること。
トカゲが危機に瀕した場面などで自ら尻尾を切除し、外敵から逃れようとする行動のこと。比喩としては、組織で事件や不祥事が起きた際に、組織内で比較的立場の弱い者に表向きの責任を取らせ、より責任を追うべき立場にある者が責を逃れること、つまりスケープゴートにすることを指す。
悪いことが明らかになった時、その責任を逃れるために、下位の者を犠牲にすること、のたとえ。組織などを運営している途中で、悪いことが世間の人たちに知られ、立場が苦しくなった時、 負わなければならない償いを逃れるため、組織の上にいる幹部の者に影響がおよばないように、 下にいる者に償いを負わせることのようです。地位の低い人を切りすてて、組織などを守ることを たとえて言った言葉だと思います。トカゲは、自分のしっぽを切りはなして逃げてしまうことが多く、 また、トカゲのしっぽは、切れてもすぐに生まれかわるので、このように表現するのだと思います。 トカゲのしっぽがなくなっても、トカゲの本体は、まだ生きて残っているので何の影響もない、つまり、 トカゲのしっぽは、組織にとって、ほとんど影響のない下位の人のことをたとえたのだと思います。  
 

 

●トカゲの尻尾切りに奔走…東京五輪「絶対に信じてはいけない政治家」の見分け方
緊急事態宣言で国民に自粛を要請し続けておきながら、強硬に「五輪は開催する」というダブルスタンダードを貫いてきた政府。開幕直前に待っていたのは、世界中に恥を晒すグダグダの展開だったーー。
開幕4日前から3人が次々と辞任や解任に追い込まれるという異例の事態。7月19日には開会式の作曲担当だった小山田圭吾氏(52)が、過去のいじめ告白騒動から辞任することとなった。
また20日には、文化プログラムに出演予定だった絵本作家・のぶみ氏(43)が辞退。過去の教員へのいじめと疑われる行動を自伝に綴っていたことなどが、ネット上で問題視されていた。
そして開幕前日の22日には、開会式と閉会式のショーディレクターだった小林賢太郎氏(48)が解任された。過去のコントでナチス政権によるユダヤ人大量虐殺「ホロコースト」を揶揄する発言があり、SNSで騒動になっていたことを受けての処分だった。
そうして現場は続々と辞めていくなか、“お偉い方”は「責任」の取り方について沈黙を貫いている。
大会組織委員会の橋本聖子会長(56)は、20日の会見で「責任は私にあります」と発言。だがその後、具体的な処分は何も下されていない。
さらに前会長だった森喜朗氏(84)は女性蔑視発言から今年2月に辞任したものの、ここへきて「名誉最高顧問」への就任案が浮上。開会式にも“功労者“として出席することが伝えられるなど、優遇され続けている。
そして丸川珠代五輪担当相(50)は小山田氏の問題が報じられた後も、「まだ報道を確認していない」と逃げの一手。しかし辞任すると、一転。組織委員会が当初は留任していたことについて、「私自身は『理解できません』と申し上げた」と発言していた。
このように自らは処分を回避し、トカゲの尻尾切りのように他者へ責任転嫁する政治家たち。永田町関係者はこう語る。
「政治家に必要なのは行動と責任。口だけの人は必要ありません。選挙演説では、いくらでもきれいごとを並べられますからね。結局は任期中にどんな活動をしてきたかを見て、次に生かすしかありません。
彼らがこの五輪で、いったいどんな対応をしていたか。それを覚えておきましょう。皮肉にも、それが次の選挙で“絶対に信じてはいけない政治家“を教えてくれるのです」
 

 

●「安倍氏説明を」多数 政治へ不信感や怒り 2020
安倍晋三前首相の後援会が「桜を見る会」前日に主催した夕食会の費用補填(ほてん)問題で、安倍氏が東京地検特捜部から任意で事情聴取を受けた。編集局は22日、無料通信アプリLINE(ライン)でつながる読者に受け止めを尋ねた。「逃げ得を許してはいけない」「国会での証人喚問を」。関与を否定したとみられる安倍氏に説明を求める意見が目立ち、「政治とカネ」の問題が相次ぐ現状を非難する声も多く寄せられた。
費用補填を巡って検察側は、安倍氏の公設第1秘書を政治資金規正法違反(不記載)の罪で近く略式起訴する方向で検討。一方、安倍氏は不起訴処分となる公算が大きい。
「そもそも秘書が指示なく法に違反することをするだろうか」。広島市東区の公務員男性(37)は疑問視する。「費用負担を知らないわけがない」「トカゲの尻尾切りだ」との意見も多数あった。東広島市の会社員男性(52)は「秘書のやったことは雇い主の責任であるべきだ。たとえ知らなかったとしても責任を取らないといけない」と強調した。
夕食会費が安すぎるとの野党の追及に、安倍氏は国会で「事務所が補填した事実は全くない」などと繰り返してきたが、安倍氏周辺は費用の補填を認めているという。安佐北区の男性(69)は「国会での証人喚問は不可欠。菅義偉首相が官房長官としてかばってきたことも厳しく追及してほしい」。廿日市市の男性(25)も「根拠を示し、国民に具体的な説明を」と求めた。
一方、佐伯区のピアノ教師女性(62)は「秘書の報告の仕方が悪かったのでは。安倍氏に非はなかったと思う」と受け止めた。歴代最長政権を担った安倍氏の業績を評価する呉市の会社員男性(51)は「不起訴で全く問題ない」。西区の医師女性(58)は「それよりも(政治は)新型コロナウイルス対策など喫緊の問題に速やかに対応してほしい」と訴えた。
昨年7月の参院選広島選挙区を巡る大規模買収事件をはじめ、「政治とカネ」の問題が絶えない。22日には、鶏卵生産大手「アキタフーズ」(福山市)グループ元代表からの現金受領疑惑が浮上した自民党の吉川貴盛元農相が衆院に議員辞職願を提出し、許可された。森友・加計学園問題なども含め、寄せられた意見からは政治への不信感や怒りがにじむ。
尾道市の自営業女性(38)は「今回は不起訴に終わっても、検察は今後も問題に切り込んで」と注文した。中区の主婦(49)は嘆いた。「血税から政治家に多額の給料が支払われていると思うと、やりきれない気持ちでいっぱい」
 

 

●文書改ざんは「尻尾切り」で済む問題ではない 2018
森友学園をめぐる疑惑は季節外れの台風のように問題が大きくなり、永田町に君臨する安倍晋三内閣を直撃した。週明けの3月12日、学校法人・森友学園との国有地取引問題で、所管の財務省理財局が同学園との契約・売却決裁に関する公文書の「書き換え」を公式に認めたからだ。国会にも開示した公文書を、最強の官庁と呼ばれる財務省の担当部局が改ざんしていたという前代未聞の不祥事で、1強政権の基盤も大きく揺らいだ。今後の展開次第では9月の自民党総裁選での首相の「3選」にも赤信号が灯る。首相や麻生太郎副総理・財務相は「財務省理財局の失態」として、同省幹部の懲戒処分などでの事態収拾を図るが、「誰が、どのような動機で指示したのか」などの真相が解明されない限り、国民の政治不信は払拭できない。特に、一連の決裁文書に付された別紙の売買交渉経過説明で、数カ所に記載されていた安倍昭恵首相夫人の名前がすべて削除されていたことは、昨年来、野党や多くのメディアが指摘してきた政権トップへの忖度(そんたく)による書き換えを裏打ちする事実ともみえる。今後も大阪地検の捜査と並行して財務省独自の調査も続くが、現状では真相解明による政権全体の信頼回復への道筋はまったく見えてこない。
「全容解明のために」麻生財務相は続投
急浮上した今回の公文書改ざん疑惑は、政権を揺るがす「想定外の展開」(自民幹部)となった。発端となった2日の朝日新聞報道から10日後の12日、財務省は国有地取引に関する決裁文書の書き換えを認め、国会に調査報告を提出した。昨年2月の「疑惑の取引」発覚以降に、関連する14文書を意図的に改ざんしたもので、削除部分には首相や麻生氏ら政治家に加え、昭恵夫人の名前も含まれていた。
この調査報告について麻生財務相は12日午後、記者団に、(1)書き換えは佐川宣寿理財局長(前国税庁長官)の国会答弁に合わせて行われた、(2)理財局の一部職員による書き換えで、最終責任者は佐川氏、と説明し、自らの監督責任は認めたものの、進退問題については「考えていない」と否定した。
これを受けて首相も12日午後に「行政の長として責任を痛感している。国民の皆様に深くお詫びしたい」と神妙な面持ちで謝罪した。ただ、麻生財務相については「全容解明のため、責任を果たしてもらいたい」と続投させる考えを表明した。
これに対し、立憲民主党など野党6党は「国民に事実を隠蔽する前代未聞の異常事態」として、当面の国会審議を拒否する方針を確認するとともに、麻生氏の財務相辞任と国会での真相解明のため佐川氏や昭恵夫人の証人喚問要求で足並みを揃えた。このため、13日の衆院本会議の開催は見送られたが、すでに決まっていた参院予算委の中央公聴会は野党6党が欠席のまま開催された。
野党などが「内閣総辞職に値する政府の不祥事」(共産党)の疑惑の核心として追及するのが「誰がいつ、いかなる動機で、書き換えを指示したのか」だ。この点については、財務省も国会での調査報告で「調査を継続中」と繰り返し、今後の省内調査と大阪地検の捜査結果を踏まえて明らかにする姿勢を示している。
ただ、こうした政府の対応については自民党内からも厳しい意見が相次ぐ。二階俊博幹事長は財務省の調査報告を受けて「想像しがたいこと。エラーという言葉では説明しきれない重大な問題」と財務省を厳しく批判した。また、小泉進次郎筆頭副幹事長は「書き換え自体、あり得ないことだが、なぜ書き換えたのか。何が真実なのか、やはり知りたい。自民党は、官僚だけに責任を押しつけるような政党ではない。その姿を見せる必要がある」と、政府のトカゲの尻尾切りともみえる対応に不満を示した。
そもそも、今回の不祥事の原因になったとされるのが昨年2月の首相答弁だ。今回と同様に“森友疑惑”に関する2月9日の朝日報道を受けて、首相は同17日の国会審議で「私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく、総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきり申し上げておきたい」と強い調子で否定した。野党の執拗な追及にいら立った上での答弁だが、秘書官らが事前に作った答弁要領を踏み越えた発言で、当時も与党内から「あんなこと言って大丈夫なのか」(自民国対)との不安の声が出ていた。
改ざんは「もっと上からの指示がなければありえない」
この首相答弁を受けて、野党側の追及の矢面に立たされたのが佐川理財局長(当時)だ。佐川氏は2月下旬以降の国会答弁で「(近畿財務局と森友学園との)交渉記録は廃棄している」「(政治家などからの)不当な働きかけは一切ない」「(土地取引の)価格について、こちらから提示したこともないし、先方(森友学園)からいくらで買いたいという希望があったこともない」などと断定的な答弁を続けた。
12日の財務省の調査報告では、この一連の佐川答弁との整合性をとるために、理財局の指示で決裁文書の大幅書き換えが行われた、との説明だ。しかし、与党内からも「発覚すれば刑事罰も受けかねないような公文書改ざんは、もっと上からの指示がなければあり得ない」(自民官僚出身議員)との声が相次ぐ。麻生氏が「最終責任者」と明言した佐川氏にとっても、「改ざん指示など、本人にとって何のメリットもないし、そんなことでエリート人生を台無しにする理由がない」(財務省OB)のは明らかだ。となれば、「誰の指示か」は別にして、「議員も辞める」と言い切った首相答弁への「官僚としての忖度が理由」(同)との説も真実味を帯びる。
当時の政府・与党内では「取引はすべて適正」などと疑惑を否定し続けた佐川氏について、「官僚にしては腹がすわっている」(自民国対)などの評価も多く、麻生氏も「適材適所の人事」として昨年7月、国税庁長官への昇格を決めた。
このため、3月9日に佐川氏の国税庁辞任を決めた際も、「有能で人事は間違いだはと思わない」と繰り返したが、「国税庁長官が確定申告の最中に辞任などあり得ない」(財務省OB)だけに、与党内からも「問題の人物を昇格させたこと自体が大失敗」(公明党)と麻生氏の任命責任を指摘する声も少なくない。
大阪地検の捜査は長期化しかねない
政府・自民党は「理財局の責任」で幕引きを図るため、「さらに財務省での調査を徹底させる」(二階幹事長)とともに、大阪地検の捜査終結後に財務省幹部や関係職員の処分を行う構えだ。ただ、今回の事態を受けて財務省に対する市民団体などの刑事告発が相次ぐ事態も想定され、「その場合は、年度内とみられていた捜査終結が大幅にずれ込む」(検察関係者)との見方も広がる。そうなれば、政府はいつまでも幕引きを図れず、国会攻防も長期化必至だ。
自民党は13日、野党側が要求する佐川氏や昭恵夫人の証人喚問などの国会招致を拒否した。財務省の省内調査が続く中での佐川氏招致などには応じられない、との判断だ。森山裕国対委員長も「(佐川氏は)一般人になったから(喚問は)難しい」と語った。ただ、同党内にも「いずれ佐川氏を招致せざるを得なくなる」(執行部)との声は少なくない。ただ、「佐川氏を証人喚問して、首相サイドからの指示などの新事実が出たら、最悪の事態」(同)となる。このため、「佐川氏がすべてをかぶる、という前提がないと危ない」(自民若手)との指摘も出ている。
野党が佐川氏招致の先に見据えるのが麻生氏の進退だ。過去の大蔵省(現財務省)不祥事でも、蔵相(財務相)と事務次官ら省幹部の辞任で幕引きとなった例がある。与党内からも「プライドの高い麻生氏が、いつまでも針の筵(むしろ)を我慢できるとは思えない」(閣僚経験者)との声がもれてくる。
しかし、「内閣の大黒柱で、首相の後見人」とされる麻生氏が辞任に追い込まれれば、「政権の重大危機で、首相退陣への引き金ともなりかねない」(自民長老)ことになる。その一方で、真相解明が進まない中で、首相が麻生氏を擁護し続けても「国民の政権全体への不信が拡大する」ことも間違いない。
「森友政局」の急展開に合わせて、一部の新聞・テレビが実施した世論調査で内閣支持率は急落の兆しを見せている。昨年6月以降の支持率急落と似た展開で、「このまま疑惑解明が進まなければ、近い将来に政権の危険ラインとされる支持率30%を割り込む事態」(調査専門家)も想定されている。そうなれば、首相が「アベノミクスの目玉」と位置付ける働き方改革法案の今国会成立も危うくなり、国会での憲法改正論議もまったく進まない状況に追い込まれる。
そうした状況を踏まえ、永田町では安倍政権の存続の可否も絡めた今後の政局展開について、「3つのパターン」が取りざたされている。それは、(1)国会を麻生財務相続投で乗り切り、9月の総裁選で首相が3選を果たす、(2)国会中に麻生財務相が辞任し、国会閉幕後に首相が総裁選不出馬を表明する。(3)疑惑の幕引きに失敗し、働き方改革法案なども廃案となり、国会閉幕後に首相が退陣表明する、との3パターンだ。
もちろん、自民党内の権力闘争の構図の変化や野党の出方、さらには大阪地検の捜査などの「変数」次第ではあるが、これまでのところ永田町でも、首相にとっての最悪シナリオとなる(3)の「任期途中の退陣表明」説は極めて少数だ。衆参両院で与党が圧倒的多数という状況下では、国会攻防の末の首相退陣はほとんどあり得ないからだ。
しかし、(1)の首相の3選による続投と、(2)の総裁選不出馬表明については、永田町専門家の予測が分かれている。(1)のパターンのように、既定路線に沿って首相が3選を果たしても、「森友疑惑がなおつきまとえば政権の体力が奪われ、改憲論議も進まないまま2019年夏の参院選自民敗北で退陣の危機を迎えるのは避けられない」(自民長老)との予測が、(2)の「3選不出馬」説に現実味を与えているからだ。
「まさか」の事態、「奢れる人も久しからず」
政治論でみれば、現在の首相にとって、「いつまでも疑惑を引きずったまま続投し、悲願の憲法改正にもたどり着かないまま参院選敗北で退陣するよりは、潔く総裁選不出馬を決断してキングメーカーとしての影響力を維持する」(首相経験者)ほうが、「名宰相としての引き際にふさわしい」(首相経験者)とみえる。
もちろん、燃え盛る「森友政局」を夏までに収束させ、得意の外交攻勢で内閣支持率の急落も防げれば、「3選」後の1強政権も維持できるが、「現在の混乱が続く限り、その可能性は日増しに小さくなる」(同)ことは避けられそうもない。
自民党内で「政局運営のプロ」と呼ばれる二階幹事長は12日、首相の3選については「微動だにしない」と語った。しかし、変幻自在で権謀術数を駆使する二階氏の言葉を額面通り受け止める向きは少ない。
その一方で、総裁選出馬を明言する石破茂元幹事長のライバルとして出方が注目される岸田文雄政調会長は、今回の森友政局の急展開について「政局(が変わること)への期待など、もともと考えていない」と苦笑しながらも「(総裁選に)出られないだけ、といわれないように、今は力を蓄えておくことが大事」と地方行脚に力を入れる。これに併せて、岸田派も党内各派との会合を頻繁に行い、情報交換に余念がない。自民党内でも「これまでの首相3選が当たり前というムードは一変した。これからは遭遇戦だ」(無派閥有力議員)との声が広がる。
2007年9月12日に、安倍首相(第1次政権)が突然退陣表明した際、事実上の後継指名で安倍政権を誕生させた小泉純一郎元首相は「人生には3つの坂がある 『のぼり坂』『くだり坂』 そして『まさか』だ」と語った。今回の「森友政局」は、文字通り首相にとっての「まさか」の事態だ。しかし、その背景には5年を超える政権運営で生じた「1強政権の歪み」があることも否定できない。今、永田町では一部のベテラン議員が「奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」という平家物語の一節を口ずさみ始めている。
 

 

●なぜ日本人は「切腹」で責任を取るのか?
知られざる「ハラキリ」の歴史
お隣の韓国は、いま大変な事態になっています。ついに槿恵大統領の弾劾訴追案が、国会で採決されました。しばらくは政治的混迷を深めていくのでしょう。
今回に限らず、韓国では大統領の多くが、退陣後に逮捕されて有罪判決を受けています。その理由はいずれも、親族や関係者の利権がらみです。韓国では、アリが甘い汁を吸いに来るように、権力者のもとに一族や関係者が続々と群がってくる風潮が強く、そこに不正が起こりやすいのでしょう。
ただ、これは世界共通の傾向といえ、アメリカでも次期大統領になったトランプさんが閣僚を親族で固めるのではないかという噂がありますし、日本でも親族が関係した政治家の汚職事件は数えればきりがありません。
義理を重んじること自体は悪いことではありません。ただ、一旦不正が発覚したり、自らに課せられた使命を果たせないと知れば、潔く職を辞したり、罰を受けるのが正しい姿でしょう。今の政治家や経営者が問題なのは、それが出来ていないことではないでしょうか。物価上昇率2パーセントを約束した日銀の総裁が、その達成が不可能になっても、のうのうとその座にいるのが良い例でしょう。
こうした無責任な政治家や経営者を見た時、こんなことを思ったことはないでしょうか。
「江戸時代の武士なら切腹して責任を取ったはず。今の政治家も見習うべきだ」
実際、江戸時代の武士は、自分に落ち度があった場合、その責任をとるために割腹して命を絶つケースが少なくありませんでした。そんなことから、切腹という自殺手段は、日本人特有の責任の取り方と考えられ、外国人にも「ハラキリ」という語が知れ渡っています。
ただ、切腹も時代によって、その意味や方法が様々に変化しています。日本人が大好きな「忠臣蔵」の劇中でも、切腹の場面がよく取り上げられます。今回は、そんな切腹の歴史と変遷についてお話ししたいと思います。
日本最古の「切腹」は?
そもそも我が国で「切腹」という自裁手段がおこなわれるようになったのはいつ頃なのでしょうか。記録にある最初の切腹は、永延二年(988)のことだとされています。盗賊の藤原保輔が捕まるさい、刀で腹を割いて腸を引きずりだし、自殺をはかったというものでした。つまり、当初切腹は、武士の専売特許ではなかったのです。
やがて武士が登場すると、主に彼らが合戦に敗れたさいに切腹が自殺する手段となっていきましたが、当初は職務の責任を果たす行為ではありません。不運にも戦いに敗れ、窮地に追い込まれた武士は、敵に殺されるのを待つのではなく、自分で切腹して死を選ぶようになったのです。
刀で腹を割いても、死ぬまで相当な時間がかかるものです。死ぬだけなら、首を吊ったほうがすぐに死ねるし、刃物を用いる場合も喉や心臓を刺したり、首の動脈を切ったりする方がよほどすぐに死が訪れます。にもかかわらず、切腹を選ぶのはなぜでしょう。
切腹は、腹を大きく一文字か十文字に切るのが一般的です。己の意志で刃を左脇腹に深々と突き立て、それを確実に横に引いていった後、十文字切りの場合は、さらに刃をいったん引き抜いてから、みぞおちに突き通り、それを上から下へと引き裂いていくのです。
当然、激しい苦痛が襲うとともに、切腹をやり遂げるにはすさまじい意志の力が不可欠で、気の弱い人間ならショックのために失神してしまうかも知れません。実は、そこがミソで、切腹という自殺手段は、やむなく合戦で敗れたものの、その最後の場面において、どれだけ己が勇敢であるかを敵に見せつける一世一代の大舞台だったのです。
なお、医学的には、腹部を切開しても太い血管が通っていないため、切腹だけではすぐに失血死はしないそうです。そこで死が訪れるまでの間、さんざん相手をののしり、さらには己の腸を腹部から曳き出し、内臓を相手に投げつけるという行為が、中世の武士にはよく見られたというのですが、想像するとかなりグロテスクですね。
たとえば、赤松満祐は室町幕府の六代将軍・足利義教を殺害したため、嘉吉元年(一四四一)に幕府の征討軍に攻め滅ぼされます。このとき、赤松方の勇将である中村弾正は矢倉にのぼって「これから腹を切る。心ある侍は、後の手本とせよ」といい、十文字に腹部を掻き切り、はらわたを手でつかみ出し、矢倉の下に投げ落としました。
さらに驚くべきは、そのまま城へと戻って主君満祐の御座所に火をかけ、その後、自らにとどめを刺して焼死したと伝えられています。
まさに切腹は、「敗者にとっての晴れ舞台」だったというわけなのです。
戦国時代、切腹とは「他殺」だった
ところが、戦国時代になると、切腹の意味合いが大きく変わりました。切腹が武士の刑罰となっていったのです。しかも、それ以前の切腹が、ある意味自ら進んで行っていたのに対し、権力者や勝者が、罰として切腹を申し渡すようになるのです。切腹という行為はあくまで自殺だが、その行為を強要されるわけで、その本質は他殺と言ってもいいでしょう。
豊臣秀吉も、幾人もの敵や部下に切腹を申し渡しています。その代表が、一度は自分の後継者に選び、関白にまで昇進させた甥の豊臣秀次でしょう。 
文禄四年(1594)、秀次は秀吉から伏見城まで来るように言われ、出向いたところ、城ではなく木下吉隆の屋敷に案内され、そこで「高野山へ登れ」と命じられます。理由は謀反の罪でした。弁解は、一切許されません。その日のうちに秀次は伏見を出て七月十日に高野山の青巌寺に入りました。そしてまもなく秀吉から死を賜り、七月十五日、秀次は切腹して果てたのです。
秀次の切腹では、後の切腹に繋がるエピソードも伝えられています。
自害する前、秀次は小姓の山本主殿、山田三十郎、不破万作に、貴重な脇差しを手渡しました。彼らはいずれも十代の美少年だったそうですが、主君に先んじて次々と腹を切っていきました。四番目には、秀次に目をかけられていた東福寺の隆西堂も「秀次があの世で迷わぬよう」と腹を切ります。
驚くべきは、その四人すべての首を、秀次自身が見事に切り落としていったことです。これを介錯といいますが、すぐに死ねない切腹の苦痛を和らげるのがその目的だったのです。
かつては、腹を割いて臓物をばらまいた後、みずからで刀を口にくわえて命を絶っていたのが、介錯がつくのが通例となったのもこの頃からで、秀次も見事に腹を切りますが、その際も介錯を受けて果てていす。
自ら腹を切るだけでも相当の勇気がいることは確かですが、苦痛を和らげるために介錯を受けるというのは、戦国時代以前に比べると、若干軟弱になったと言えるかも知れません。
処刑と切腹
江戸時代になると、切腹は更に形式化が進みます。つまり、切腹にも作法がしっかりと確立していくのです。
切腹前の潔斎。公儀への届け出。当日の準備や服装。切腹に用いる短刀の寸法。具体的な切腹の所作。介錯の作法。検死の方法。こうした細かい取り決めごとに則り、淡々と流れ作業のように切腹が進んでいくのです。切腹という文化自体は世界各地にあるのですが、マニュアル化されたのは、おそらく世界的にも異例だと思われます。
しかも、江戸時代に入ると腹に刃を突き立てる前に介錯をうけることも珍しくなくなっていきました。元禄時代に吉良上野介を討った赤穂浪士たちも、この方法で死んでいます。因みに、間新六郎だけは本当に腹を割いたので、介錯人があわてて首を落としたと伝えられています。
いっぽうで、扇子腹が見られるようにもなります。これは、短刀のかわりに扇子を三方に載せ、その扇子を手にした瞬間、介錯人が首を落とすという切腹方法です。切腹者が子供や病人、あるいは臆病などで刃物を持たせると危険な場合におこなわれました。ここまでくると、ほとんど切腹は形だけで、実際は処刑と変わりないといってもいいかも知れません。
切腹する動機も、江戸時代に入り多様化が進みます。江戸時代初期までは、主君が死んだとき、それに殉じるために切腹することも少なくありませんでした。とくに寵臣には「殉死すべき」という強い圧力がかかったようです。主君を諫めるため、あらかじめ腹を切ってサラシをきつく巻いて主君の前に出て、諌言をおこなってそのまま果てる……これを蔭腹と呼んだのです。
ただ、江戸時代にはやはり、失敗や不手際の責任をとるためにおこなわれる切腹が極めて多かったようです。その理由については「徳川家の情容赦のない武断政治―威厳維持の政策にあったとしか思われない」と中井勲は『切腹』で述べています。
つまり、江戸幕府の厳しい処断姿勢が、「罪に問われる前に責任をとって自死を選ぶ」という風潮をつくり上げたというのでしょう。罪としての切腹と自責の念からの切腹が密接に連動しているという考え方はなかなか面白いですね。
「トップの腹切り」はほぼ皆無だった?
そして、ここが面白いのですが、藩のトップである大名自らが、失政の責任を感じて腹を切る例は絶無だったと言われています。たいていは、その家老や側近が詰め腹を切らされて決着する。いまで言う「蜥蜴の尻尾切り」ということでしょうか。しかも、それが制度として確立していたというのですから、驚きです。
戊辰戦争に敗れた東北諸藩に対し、新政府は藩主が自裁するかわりに家老の切腹を求めました。ゆえに誰一人、敗北した大名は自ら責任を取って腹を切っていないのです。たとえば戊辰戦争で朝敵とされた会津藩は、鶴ヶ城に籠もって新政府軍に徹底抗戦したが、城下は灰燼に帰し、城内の矢玉も尽き、一月後に降伏しています。
藩主の松平容保は粗末な籠に乗せられて江戸へ護送されましたが、死一等を減じられ、処刑は免れることになりました。しかし、新政府はその代わりに、敵対した責任として家老三名の首を要求されました。このうち田中土佐、神保内蔵助はすでに死んでいましたが、あと一人、犠牲にならないといけません。その役を買って出たのが萱野権兵衛です。
これを知った容保は、萱野に書簡を送っています。
「私の不行き届きよりこのようなことになり、まことに痛哭にたえない。一藩に代わって命を捨てること、不憫である。もし面会できるならお前に会いたい。が、それはかなわぬこと。お前の忠義は、深く心得ている。このうえは、潔く最後を遂げてくれるようお頼み申す」
この書簡を目にした萱野は涙を流し、粛々と死についたといわれています。
会津藩に限らず、当時は全国的に同様のことがあったようですが、こうした構図は、現在とまったく同じだといえます。すべての不正やミスは秘書や部下のせいにし、真相を知る彼らが切腹ならぬ自殺を遂げて事件がうやむやに終わらせる。その意味で、いえば今の政治家は歴史と伝統を重んじていると言ってもいいのかも知れません。
こんな日本人がいた
ただ、日本の歴史を振り返ると例外的とも言える清廉で責任感の強い人物がいました。それが、江戸時代中期、松代藩の改革に尽力した藩士恩田木工です。
木工の事績を紹介した『日暮硯』から、彼の政治姿勢を紹介したいと思います。
恩田木工は、藩政改革の責任者になると、親類一同に対して絶縁を宣言した後、妻子と家来を呼び出し、こう言いました。「おまえたち暇を申し渡す。何処なりとも立ち退くがよい」と告げ、さらに家来たちにも「今後は他家で奉公してくれ。もちろん生活のこともあうから、欲しいものは何でもくれてやる。自由に持ち去ってよろしい」と述べたのです。
驚いた妻はなぜ、暇を出されるか理由を尋ねます。すると木工はこう答えました。
「訳を話しても納得してもらえないと考えていたが、ならば申そう。私は役目を引き受けた以上、今後一切ウソはつかないと決心した。けれど、私がつかなくても妻子や家来、親類がウソをついていれば、世間はきっと『木工はウソを言わぬというが、親しき人々がウソを言っているのだから、木工のことは信用ならぬ』と考えるはず。そうなれば、お役目は果せない。ゆえに縁者と義絶しようのだ。私は今後飯と汁以外、たとえ漬け物であっても食べない。着物も木綿の服以外は一切新調せず、あるものをそのまま着る。だが、おまえはウソもつきたいし、うまい物も食べたかろう。だから家に置けないのだ。さあ、早く親元へ帰りなさい」
とせかしたのです。最終的に妻子や家来達は、今後ウソは言わず、一切贅沢もしないことを誓い、家に残ることを許されるのですが、おそらくこれが、真の政治家の姿なのでしょう。
その後、恩田木工は藩の改革の道半ばの46才で亡くなっているのですが、それも過労と精神的な負担がたたったのではないかと言われています。
残念ながら、今の政治家や経営者には、私利私欲を排して命をかけて職務に尽くそうという人は少ないことは残念でなりません。木工のように清廉を貫くか、それができないのであれば潔く責任を取るか、そのいずれかではあってほしいものです。
 
 
 

 

●あなたなら負け戦の案件で何をする? 2020
誰でも「負け戦」は経験している
デザイナーであればユーザーにとって価値のある何かを作りたいと思うはずです。しかし、仕事では思うようにいかないことがあるのも事実。「これは絶対にダメだ」と思うことでもやらなければいけない場合があると思います。例えばこんな状況で何かを作らなければいけない場合があるとします。
•企画側で作りたいものが明確に決まっている
•デザイナーからみるとユーザーのためになっていない施策だというのが分かる
•代わりの案を作ってみたが「こんなのは頼んでいない」と言われる
•簡単な調査をして別提案を作り「ユーザーはこちらに反応している」と説明しても No と言われる
•開発なら分かってもらえると思って提案するものの「これを作るために、予定より 3 ヶ月かかる」と言われる
誰に何を言っても通じない状況。締め切りはもちろんあるので、仕方なく要件を飲んで作ることになるでしょう。妥協したくない。納得できないことに時間をかけたくない。それでも作らなければ「仕事ができない」と評価されてしまう。何をやっても状況が変わらない『負け戦』を経験したことは誰でもあると思います。代わりの案を作って論理的に説明しても通じない … 出口がなくて途方に暮れてしまう経験をされた方はいるのではないでしょうか。妥協をしたデザインに対して納得いかない方はいると思いますが、仕事では少なくないこと。妥協はポジティブな表現ではないですが、プロジェクトメンバーのニーズを考慮して最善を尽くしたという点では、ひとつの課題解決をしたと言えるかもしれません。重要なのは『負け戦』の後の次の行動です。
黙っていては何も変わらない
『負け戦』はこれが最後ではありません。きっといつかまた経験することになります。再び『負け戦』が訪れたとき、あなたならどんな行動をとるでしょうか。
•リリースを遅らせても実現のため交渉する
•主導権を勝ち取るために別の企画を作る
•頼まれたものを黙って作る
•振り返りのときにチームで課題共有をする
•次回に備えてワークフローの課題を改善する
•会社を辞める
ダークパターンを作る仕事ばかりであれば、辞めてしまったほうが良いかもしれません。上記以外にも選択肢があると思いますが、なかでもやってはいけないのが「頼まれたものを黙って作る」ことです。妥協することと黙認することはまったく違います。妥協はある種のトレードオフですが、黙認することは一方通行の関係ですし、受け入れているデザイナーの立場が弱くなります。受け身になって与えられた要件を満たした『良い感じのモノ』を作り続けるだけでは、『負け戦』を経験する回数が増える可能性があります。なぜ違和感を感じているのか。何をすることが事業の成功に繋がるのか。ビジネスだけでなく、ブランディングやマーケティングなど「デザイン」というフレーズを使わなくてもデザイナーの立場から課題解決の提案はできます。重要なのは、あれこれ伝え方を変えながら交渉を諦めないことです。事業会社で働くデザイナーであれば、ステークホルダーとの関係性を築くために中長期的な活動ができます。クライアントワークの場合は、自分たちに合うクライアントと仕事をすることが前提になりますが、本質的な目的に沿った提案を小さくても良いので続けると信頼へと繋がります。誰も『負け戦』は経験したくないですが、逃れることはできません。「よし!うまくいってるぞ」と自信がついてきた頃に、突き落とされるような経験をしたことは何度もあります。負けた、ダメだと落ち込んでばかりいられません。重要なのは負けた後に立ち上がって仕事を続けること。そのとき自分は何をするだろうとシュミレーションしてみると、足りないところ、もう少し考えを深めたほうが良いところが見えてくると思います。
 

 

●妥協
対立した事柄について、双方が譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること。
相反する利害関係にある二者が互いの意を理解し、自分の主張する条件などを相手のそれに近づけ、双方が納得する一致点を見つけておだやかにことをまとめること。おりあい。
主張・利害が対立している場合、当事者の一方または双方が、その主張・利益の一部を断念、譲歩して合意の形成を図ること。政治技術の一形態。強制や奨励と異なり、妥協は、みずからの要求水準を下げることによって相手方の同意を調達する方法であり、制裁、報酬の手段をもたない場合にも可能な政治技術である。この点では説得と似ているが、他面、妥協は説得と異なり、利益の違いを否定したり解消したりしないで、あくまで相互の要求の正当性を認めたうえで合意形成を図るところに特徴がある。
誰しも、自分が思い描いた通りの理想の人生を歩みたいと考えているはずです。しかし、現実はそう簡単ではありません。生まれてから死ぬまで、全てのことを自分の理想通りにコントロールできる人など、世の中にどこにもいないのです。「人生に妥協はつきもの」とよく言いますが、そもそも「妥協」とは異なる考え方や意見が衝突した時に折り合いをつけて、両者の中間地点を見つけることを意味します。
「妥協」とは両者の間で意見や利害が対立していた場合に、双方あるいはどちらか一方が歩み寄り、意見を近づけることです。互いの条件で譲り合える点がないかを探った後、不本意な部分を飲み込んで、妥当な線で折り合いをつけることを意味します。注意したい点は、歩み寄る割合が必ずしも互いに同じではないところです。たとえ譲りたくない部分があったとしても、穏便にことを済ませたいときに使用される場合が少なくありません。よく似た言葉に「妥結」がありますが、こちらはどちらか一方ではなく、互いに折り合いをつけて話をまとめることを意味します。
まず、「妥協」には「利害や主張が対立している場合に、双方が折れ合って一致点を見出し、事をまとめること」「折り合い」といった意味があります。もしくは、お互いが働きかけるのではなく片方だけが歩み寄りを示す場合も含まれますが、いずれにしても「不本意ではありながらも自分の主張する条件などを相手のそれに近づけて妥当な線へ持っていくこと」が本来の意味です。このように、この言葉は「相手との利害の対立に対して条件などを譲って穏やかに解決を図る」といった意味で定義されているものとなりますが、「希望する職種ではなかったが妥協して応募することにした」など「提示されている条件などに対して自分の中で折り合いをつける」という意味で用いられることがあります。しかしながら、前者のほうの意味が本来のものとなるため、この言葉を用いる場合にはその点に留意することが必要です。
…帝位を継ぐべき息子ルドルフは心中し、妃エリーザベトはアナーキストの凶刃に倒れた。66年オーストリアは、ケーニヒグレーツKöniggrätzの戦でプロイセンに敗れ、翌67年いわゆるアウスグライヒAusgleich(妥協)を通してオーストリアとハンガリーとの二重帝国が成立し、オーストリアは軍事と外交を除くすべてを自立したハンガリーの手にゆだねた(オーストリア・ハンガリー二重帝国)。第1次世界大戦前の相対的安定期にはオーストリア・ハンガリーの経済は急速に発展した。…
…1848年革命を鎮圧したのち〈新絶対主義〉体制をうちたて、自国内の諸民族の抑圧をはかってきたハプスブルク帝国も、59年の対イタリア戦争以来、体制の再編成を迫られた。連邦制や中央集権制などの試みの末、66年の普墺戦争の敗北を経て、決定的にハンガリーとの二重国家の形成に向かい、67年オーストリアとハンガリーのアウスグライヒAusgleich(〈妥協〉の意。ハンガリー語でKiegyezés)が成った。…
…ことに59年のイタリア独立戦争、66年の普墺戦争に敗れてイタリアとドイツから排除されると政策上も中央集権化と諸民族の連邦化との間を動揺する。ドナウ帝国の再建のために67年ハンガリーとアウスグライヒAusgleich(妥協)を行い、オーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させるが、犠牲にされたスラブ系諸民族の不満は高まる。78年ベルリン会議後のドイツ・オーストリア同盟も、ロシアとの関係を悪化させてスラブ系諸民族をロシアに近づけ、また西欧列強からも孤立してドイツへの従属を深め、オーストリア帝国主義は民族運動と帝国主義の交錯するバルカンの泥沼にはまり込む。…
…正式名称=ハンガリー共和国Magyar Köztársaság‖Republic of Hungary面積=9万3030km2人口(1995)=1027万人首都=ブダペストBudapest(日本との時差=−8時間)主要言語=ハンガリー(マジャール)語(公用語)通貨=フォリントForint東欧中部に位置する共和国。北はスロバキア、北東はウクライナ、東はルーマニア、南はセルビアのボイボディナ自治州、クロアチア、西はスロベニア、オーストリアと国境を接する内陸国。…
…かくして、西欧における宗教的寛容の主張は、個人主義的自由主義の思想的起源をなすものであった。
政治における寛容 / 政治がつねになんらかの利害の調整関係を含むものであるとすれば、個別の立場を相互に容認し、その間の妥協をはかるという意味での寛容の考え方は、政治の登場とともに古いといえよう。すでにアリストテレスは、妥協を政治の根本原理の一つとしている。…

●「仕事上手の共通点」三流は妥協し、二流は論破したがる、では一流は?
他人も自分も疑ってかかる
これからの「正解のない」時代を生きるには、わたしたちは自分の頭で考え、努力を続けていかなければなりません。ただ、そんなとき、自分の主張を強固にしてくれる意見や情報ばかりを求める人がいます。でも、「正解のない」時代だからこそ、本来もっとも避けるべきは、バイアスのある意見や価値観のはず。そこで、現実に起きていることを客観的に把握し、分析し、的確に行動へ変えていくためには、どうしても全体を見渡す力=俯瞰力が必要になります。「自分に有利な意見だけを拾っていないだろうか」「多数の意見が正しいと思っていないだろうか」「自分の考えに疑わしい部分はないだろうか」「相手はこの問題を、どんな背景から見ているのだろうか」そんなことを、一つひとつ自分の頭で問い続けることが、いま求められているのです。このような姿勢を身につけると、みんなが気づかない課題を発見し、関係者全員が受け入れられる方法を導くことができます。みんなが発想できないイノベーティブなアイデアは、いま組織がもっとも欲しているものではないでしょうか。努力はもちろん大切。でも、その方向性をまちがえると、視野が狭くなることもあります。自分の立場に添うものだけを拾わずに、つねに疑ってみること。他人だけでなく、自分でさえも疑ってかかること。それが本当の意味での、「考える」ということではないでしょうか。
自分を客観視する方法
自分の考え方や、拠よりどころにしている価値観をいちど疑ってみるには、どうしても自分を「客観視」する必要があります。でもこれは、いうは易く行うは難しですよね。冷静になって自分を疑うのは、けっこう難しいことなのです。そこで、わたしがよく使う比較的簡単な方法をご紹介しましょう。それが、「自分の感情を自分で叙述する」ことです。たとえば、ひどい出来事があって心が乱れてしまったとき。そんなときは、「わたしはいまショックで混乱しているみたい」と、自分に語りかけてみるのです。すると、それだけで不思議と心が落ち着き、自分を客観視できる態勢が整っていきます。また、文字にして紙に書き出すのも効果的。わたしは自分の感情が乱れたとき、どんなことも、まず1日置くようにしています。そして、自分が「おかしい」と感じることを紙に書き出します。なぜ、いちいち書き出すかというと、実際に言葉にしてはじめて、「自分が不満に思っているだけ」なのか、「本当に相手やまわりがおかしい」のかを冷静に判断できるからです。
感情が揺らぐ「原因」を把握する
じつは、わたしは自分のことを感情的なタイプだと自認しています。まわりからも、「山口さんって気分屋だよね」とけっこういわれます。ただ、感情のままに振る舞っていては、仕事にも人間関係にも支障が出てしまいます。そこであるとき、「自分はどんなときに不機嫌になるか」を客観的に探ってみました。自分の感情が揺らぐ原因を分析すれば、対策できるにちがいないと考えたわけです。すると、ご多分に洩れず、「睡眠不足」「仕事が立て込んでいる」という、ふたつのイライラの原因が見つかりました。さらに、イライラしたときにどうなるかという「状態」も分析。そして、「人の話を最後まで聞けなくなり、つい遮ってしまう」という悪いクセに気づいたのです。ここまでわかれば、なんとか対策できそう。まず、先に書いたように、イライラしたときは「わたしはいま苛立っている」と、自分にいうことで冷静さを取り戻します。次に、「でもその感情を相手にぶつけるのはフェアではない」と考えるようにしました。簡単にいうと、八つ当たりをしないようにと自分に語りかけるわけです。そして最後に、人の話を遮るクセが出ないように、意識して人の話を最後まで聞き、あえてゆっくり話すようにしました。つまり、自分の感情の揺らぎをいったん認めたうえで、それを自分の態度で打ち消したわけです。感情だから仕方ないと思うのではなく、感情が生まれる原因や状態まで掘り起こしていく。この習慣をふだんから身につけていくと、自分を客観視する思考が育まれていきます。
「論破」は賢明な手法ではないワケ
さて、自分が信じること、あるいは単純に意見を表明するとき、「自分の主張を通そう」とする人はたくさんいます。最近では、それが「論破」などと持ち上げられることもありますが、さほど賢明なやり方とはいえません。「自分の主張を通す」ことの裏には、「相手の主張を退ける」意図があります。勝つか負けるか。正義か悪か。そんな二項対立から、建設的な解決はほとんど生み出せません。「まちがっていることは、まちがっている」そう語る人は、自分こそがまちがっている可能性に気づけないという、致命的な陥穽かんせいに陥っています。そもそも、人間や組織同士の関係はもっと複雑なもの。あたりまえですが、関係者すべてをふたつの陣営にわけられるはずもなく、そこには対立のかげで苦しむ人がいたり、全員を出し抜こうとしている人がいたり、もっと別の動機を持つ人もいたりします。要するに、「自分の主張を通そう」としても対立があおられるだけで、ものごと全体をさらに混乱させるだけなのです。では、どうすればいいのか?わたしの答えは、「全体がより良い結果を得る」ことを目指すこと。これは、妥協ではありません。そうではなく、相手の立場を理解し、互いの主張を少しずつ取り入れながらも、まったく新しい第三の道を探っていくということです。このような視点を持つと、次元の高い解決策を生み出すことができ、個人でも組織でも、より向上することができるでしょう。
不可欠なマイノリティの視点
相手の立場を理解するために、覚えておきたいポイントが、相手が「マジョリティ」なのか「マイノリティ」なのかという点です。たとえば、日本人は、国内にいると自分が日本人であることを意識することはほとんどありません。でも、いったん海外へ行くといきなりマイノリティとなり、感受性が鋭敏になることで、他者の悪意がない言動にも傷ついてしまうこともあります。このように、誰にでもマイノリティの部分があります。また環境や条件によって、自分のなかにマイノリティの部分が生じることもあるわけです。大切なのは、なにかを判断したり表現したりするときに、必ず「マイノリティ」の視点を持とうと意識することです。「悪気なんてなかったんだ」それは、マジョリティの傲慢ごうまんに過ぎません。無邪気だったり無神経であったりすることが、マイノリティを深く傷つけていることにもっと自覚的になるべきなのです。今後、社会はますます多様性を増していくでしょう。そんな時代に、「自分はいつでもマイノリティになり得るのだ」と思える感受性がない人は、多種多様な人とコミュニケーションができず、活躍の場所はどんどんなくなっていきます。自分のなかの「マイノリティ」に耳を澄ますことは、これからの時代にとても大切な態度になると思います。
「俯瞰力」でバランスの取れた視野と思考を
残念ながら、いまの日本社会には、目立つ個人を徹底的にバッシングする傾向があります。そこにあるのは、「みんなと一緒でいたい」という潜在的な不安感なのかもしれません。人を貶おとしめることで溜飲を下げ、自身の心の奥底にある不安感をなぐさめる。そんな風潮が蔓延まんえんしていくと、社会はどんどん狭量な生きづらい場所になっていきます。だからこそ、良識ある人は、偏った考え方や価値観にとらわれずに、社会や集団から外れた人たちを受け入れることができる「俯瞰力」を持つ必要があります。努力によって「自己の成長」へと踏み出しながら、同時に、バランスの取れた視野と思考を育む必要があるのです。

●「賢い妥協と創意工夫が夢の実現を早める」
賢い妥協で理想の店を
開業希望者は、時間をかけて物件を探し出し、途中、いくつかの新しい条件を加えたり妥協したりする。そうして、「ここだ」と思う物件にめぐり合う。まったく妥協することなく、思い通りの物件を探し出した人は皆無だろう。多くは、「気に入った物件があってもコスト的に合わない」という問題にぶつかり、「予算内だが立地が悪い」「天井が低い」「間口が狭い」など、何らかの妥協を余儀なくされる。
最良の物件を見つけるために重要なのは、妥協しないことではない。コストも含め、自分の理想の物件を追い求めてばかりいると、いつまでたっても店を開くことはできないのが現実だ。少しでも早く夢を現実にするためには、多少の融通は不可欠。賢い妥協をしながら創意工夫で理想に近い店を作るのが、成功の秘訣といえるのだ。
今回は、この妥協とそれを打開する創意工夫について考えていきたい。
目先の条件に左右されない
物件選びをする際、チェックしなければならない項目はたくさんある。保証金や家賃などの「コスト面」と、広さや形状、建物の状態など「物件そのもの」に関すること。そして駅からの距離や物件の近隣状況など「周辺環境」に関するものがある。
コスト面に関しては、物件探しをスタートする段階で見通しがたっているはずで、それを大きく変更するようなことは最も避けなければならない。物件探しの本格化の前に、コスト面のシミュレーションをしっかりしておくことは経営者として当然のこと。そもそも予算立てが甘ければ、そこからはじき出されるコストも厳密なものではなくなる。それを元に経営を始めると、必ずどこかにひずみが生じ、必要以上の苦労や時には破綻をきたすこともある。
物件探しは、あくまでも当初計画した資金内で条件にあったものを探すしかない。つまり、コストを最優先にして、物件や周辺環境に関して妥協することが必要となる。
しかし現実には、これから独立しようという人が陥りやすいのが、物件の内部の状況に目を奪われ、コスト面や周辺の状況が見えなくなってしまうケースだ。これは特に、居抜き物件に多い。内装が気に入ったために、「以前にその物件でやっていた商売が失敗している理由が立地などにあるのでは?」」と深く考えることもなく、契約にいたってしまう。「ちょっと予算オーバーだけど、この雰囲気なら大丈夫だろう」と思ってしまうのだ。これは実に危険なことであり、一番陥ってはいけないミスだ。
内装は、最も変更をしやすい部分。壁紙を変えたり、椅子やテーブルなどの調度品を入れ替えたりすれば、まったく違う印象の店にすることが可能だ。そのため、「内装が気に入った」という理由は物件決定の要因にすべき事柄ではない。目に見えることではなく、見えない事柄こそ十分にチェックすべきで、いかに冷静に状況を見極め、優先順位をつけるかが、後の成功のカギを握る。
賢い妥協は妥協ではない
物件探しでは、自分の力ではどうやっても変更ができないことから順に優先していく必要がある。特に、周辺環境については、どうにもならないことが多い。たとえば、「駅から遠い」「物件の周りに街灯がなく暗い」「看板を取り付けたいが、となりのビルの看板が邪魔をして視認性が悪い」「雑居ビルで入り口が分かりにくい」などは、工夫がしにくい事柄で、事前によく観察しておく必要がある。ところがこういった事柄は、うっかり見落としてしまいがちで、後から「困った……」となるケースが多い。ちょっとした甘さが後の大きな苦労を引きおこしてしまうのだ。そうならないためにも、冷静な判断が欠かせない。
では、前述のような悪い条件があるときに、絶対に妥協してはならないのだろうか。実は、その妥協が、“他でカバーできる”ものであればまったく問題はない。逆に、創意工夫をすることで、個性を発揮する格好の利点になる可能性もある。
例えば、ビルが並んで建ち、似たような場所に看板が設置され視認性が悪い場所でも、店の間口が広く、存在感をアピールできるのであればまったく問題はない。入口がわかりにくくても、置き看板の設置ができればカバーできるところもあるだろうし、発想の転換をして、会員制のバーを作り成功した人もいる。
目標は継続すること
店は、開業することはスタートに過ぎず、その後、どうやって売上を上げ、収益を得ていくことが本来の目的だ。開業時の妥協は、その時点で我慢すればやり過ごせることではなく、その後もずっと背負っていかなければならない現実だ。「開業はギャンブルのようなもの」というように、甘い目算が大きな代償となって返ってくることも少なくない。開業後、1年を待たずして閉店を選択する店が多い現状を考えても、「これくらい問題ないんじゃない?」という甘さは捨て、状況を多方面から分析する冷静さと個性ある創意工夫をする発想力を身につけてもらいたい。

●「妥協」することは敗北なのか? 
議会改革のはじめの一歩として、良い意味での「妥協」の精神をもって合意形成を目指すことが必要だ。議員は評論家ではなく、全体の縮図としての市民意見を市政に反映させることが、重要な任務と考えるからだ。一方で、最初から自己主張を議会の意思にすることを目指さず、党派や議員個人としての主義主張が公式記録として会議録に残れば、それで良いとの主張を聞くことがある。だが、貴重な時間を費やす本会議等で、主張を会議録に残すことだけを目的とすることに、議会制民主主義における正統性はあるのだろうか。
「妥協」の重要性
大津市議会の議会基本条例策定時に、「議員相互間の議論を尽くして合意形成に努める」と条文に「合意形成」の文言を入れることについて議論になったことがある。しかし、ある会派だけが、「いくら議論を尽くしても、合意できないこともあり得る」と主張し、膠着状態となった。最終的には他の全会派が譲る形で「議員間の議論を尽くす」との表現で決着し、「合意形成」の文言は条文に入らなかった。
後日、議員研修会に招聘した大森彌・東京大学名誉教授に、先の主張をした議員を前にして、この話をしたところ、教授は「君の会派は過半数を握っているのか」と尋ねられた。当該会派が少数会派であると知ると教授は「ではなぜ妥協しないのか?過半数を握っておれば最終的には多数決で自己主張を通せるが、少数意見を最後まで押し通そうとすれば、ゼロ回答の憂き目にあうだけではないか」と言われた。
それでも議員は「妥協できないこともある」との主張を繰り返したが、教授は「一議員としては、自己主張を譲らなかったことに達成感があるのかもしれないが、それは単なる自己満足だ。君に投票した有権者も、本当にそれを望むだろうか。むしろ妥協をして、10の主張のうち二つでも三つでも通したほうがいいと思うのではないか。君は『妥協』という言葉の意味を誤解している。『妥協』を引き出せたこと自体が少数会派の勝利だ。なぜなら最後は多数決で自己主張を押し通せる多数会派には、妥協しなければならない理由などないからだ。よく考えた方がいい」と諭された。
議会制民主主義と「妥協」
議会制民主主義の3原理は、「代表の原理」「審議の原理」「監督の原理」とされる。「代表の原理」とは議会は主権者である住民全体の代表機関であり、特定団体、特定地域の代表ではないということ。「審議の原理」とは、公開の場で十分議論し、最終的には多数決で結論を出すことである。議論の過程で少数意見は尊重されなければならないが、合意形成を度外視した言いっぱなしの意見ばかりでは、合議制機関である議会は十分な権能を果たせなくなるだろう。そうなれば住民のための行政が公正に行われているかを監視する「監督の原理」も機能せず、議会制民主主義が根幹から揺らぐ事態となりかねない。
政治は結果であり、そもそも政治自体が妥協の産物とも言われる。多様な意見に基づく議論は必要であるが、皆が一歩も譲らない自己主張に終始すれば、全体意見の縮図としての住民代表機関の意思は示し得ない。議会は合議制機関だからこそ、合意形成のための「妥協」を許容する文化の醸成が求められると思うのだが、いかがだろうか。

●相乗効果は妥協ではない
コミュニケーションの中で、何か新しい案を生み出そうとするとき、私たちがよく陥りやすいものに、「妥協」があります。これは相乗効果と呼べるものではなく、結果としては、非常にレベルの低いものです。これでは、1+1が1以下になってしまいます。私たちがよく「交渉」と呼ぶコミュニケーションには、この「妥協」を目指したものが少なくありません。相乗効果とは、誰かの案でもあなたの案でもなく、全く新しい「第3の案」を求めることです。1+1が3以上になるように、お互いが満足できるような解決策を打ち出すことが相乗効果なのです。組織の中で、リーダーと呼ばれる人の役割とは、まさにこの「第3の案」を導くことにあります。メンバー間の能力を最大限に発揮させ、その能力の和をはるかに超える、チームとしての力を導く仕事こそ、現在の組織に求められている能力でしょう。
相乗効果を発揮するにはどうすればいいのでしょうか。まず、「相違点」を認め、尊ぶことが必要です。「違いがある」ということが相乗効果のスタートなのです。会社の中で、全く意見が違う(合わせようともしない)二人がいる場合、協力する意欲が本当にないのであれば、この会社で相乗効果が発揮されることはないでしょう。一方、完全に同じ意見の人が二人いる場合、その二人のうち一人は不要だということになります。相違点を尊ぶために、いくつかのヒントを紹介しましょう。
多様性を尊重しましょう。あなたと同じく、他の誰もが独自の感じ方、考え方をする存在なのです。リラックスして他の人と接しましょう。緊張感は警戒心のもとです。他者と意見を交わす必要があるときは、深呼吸して、リラックスしましょう。バランスをとりましょう。自分の利益ばかり考えず、ギブ・アンド・テイクの関係を進んで築きましょう。新しい考えに耳を傾けましょう。頭の中のドアを閉め切ってしまってはいけません。
常にドアはオープンにしておきましょう。
信頼を築く努力をしましょう。信頼関係はすぐには構築できませんが、その努力は最後に必ず価値を発揮するはずです。共通の利益を見つけて共有しましょう。自分のやり方に対するこだわりを捨てて、多様な知性を融合させましょう。ユーモアを忘れてはいけません。固定概念を捨てましょう。必ず間違いを犯すことになります。
常に本来の自分でいましょう。

●両首脳、妥協案の正当性誇示 「主権回復」「公平さ維持」―英EU 2020
欧州連合(EU)と英国は24日、難航を極めた自由貿易協定(FTA)締結交渉に合意した。最終局面で自ら電話協議を重ねて妥協案を見いだした英EU両首脳は、その正当性を誇示している。
「われわれの運命や法律の主権を取り戻した」。ジョンソン英首相は合意決定後の記者会見で、2016年6月の英国民投票で離脱派が掲げたスローガンを実現したと宣言した。
ただ、英国は交渉の最大の懸案の一つで、EUが最も重視していた企業の公平な競争維持の仕組み導入を受け入れた。労働や環境の規制を高度な水準で保つことを互いに約束。相手が大きく逸脱した場合、独立的な仲裁判断が出れば、対抗策として報復関税を課せるという内容だ。
フォンデアライエン欧州委員長は「公平な競争がゆがめられれば対応する効果的手段を得た」と強調。合意は新たな英EU関係の「確かな基盤」だと自信を示した。
とはいえEUも譲歩を余儀なくされた。当初もくろんだEU司法裁判所の関与は、英国の強い抵抗で断念。EUの補助金規制に英国を直接従わせる案も見送られ、英政権は「勝利」だと主張する。
一方、英国が「主権回復」の象徴と位置付けていた英海域での漁業権では、EUの漁業者に操業を認める5年半の移行期間を設定。この間にEUの漁獲割り当てを25%削減する。最近まで80%削減を求めていた英国が大幅に譲った格好だ。英国が一方的にEUの操業を拒めば、EUが報復関税を課すことなども確認した。
ジョンソン氏は「英国の漁獲シェアは大幅に上がる」と強弁するが、英漁業団体からは反発の声が出た。これに対しフォンデアライエン氏は「(漁業者に)十分な予見可能性を確保した」と胸を張っている。

●トルコ外相「テロリストに妥協は禁物」 2021
トルコで2016年7月15日に起きたクーデター未遂事件から5年となるのに合わせ、同国のチャブシオール外相が産経新聞に寄稿し、事件を首謀したとみなす在米イスラム指導者、フェトフッラー・ギュレン師や同師が指導する団体「ギュレン運動」(トルコ政府はフェトフッラー派テロ組織=FETO=と呼称)を強く批判し、各国にテロ対策での協調を呼び掛けた。

テロは共通の安全保障、幸福、価値観、全人類の明るい未来への大きな脅威であり続けており、国際社会があらゆる形態のテロを非難し、戦う決意を示していることは適切な態度だ。
近年、テロという現象は変容を遂げ、テロ活動は新しい局面に入った。テロ組織は自らを社会、経済、技術の発展と急速に進化する国際環境に適用させようとしている。一部のテロ組織ははっきりと目に見えず、狡猾(こうかつ)に設計された宣伝手段の陰に隠れているため、グローバルな対テロ戦略は見直しを迫られている。
効果的にテロと戦うには次世代のテロリストを包括的に理解し、国際社会が強い政治的意思を示すことが必要となる。FETOという新型のテロ組織とのトルコの戦いが顕著な例だ。
トルコは5年前、FETOの残忍なクーデター未遂に直面し、民主主義を破壊し、民主的に選ばれた政府を転覆しようとする行為で251人が殺害され、2000人以上が負傷した。
FETOは多くの国で活動し、学校、語学センター、寮など「教育機関」で洗脳を行っている。その世界観は首謀者のギュレンに関する捏造(ねつぞう)された神話により形成され、それが民主主義の価値や人権に反しても疑問視されない。彼らの究極の目的は国家機関を乗っ取ることだ。
トルコでは与野党を問わず、FETOをテロリスト、犯罪者のネットワークと考えている。FETOを含め、全てのテロ組織に対して決意を持って共に行動する必要がある。テロリストへの妥協は禁物だ。私たちは民主主義と自由を守らなければならない。

●村田町・大沼克巳町長 妥協なき財政再建、迅速に 忍耐の町政運営続く 2021
東日本大震災から10年がたった今年、地方自治の現場は新型コロナウイルス感染症との闘いに引き続き追われた。少子高齢化や人口減少、地域経済の疲弊も深刻化。難局のかじ取りを担う市町村長は地域の負託に応えているか。住民や関係者の声を交えて検証する。
現職との選挙戦を制し、念願の町長就任から半年後の2020年2月。宮城県村田町の大沼克巳町長(59)は「財政非常事態宣言」を発令した。町の将来を方向付ける大きな決断だった。財政調整基金(財調)の残高や実質公債費比率など、町の財政指標は県内市町村でワースト。宣言に沿い、21年度から5年間の財政再建計画を定め、一般会計当初予算編成では財調を取り崩さないなど「緊縮型」を基本方針とした。1期目の首長は有権者に分かりやすい成果を示す誘惑に駆られがちだが、その思いを封印した。「今のまま財政を放置すれば本当に破綻する」と予算に縛りをかけた。
給料カットにも乗り出し、財政再建で妥協しない姿勢を示した。23年8月までの任期中、自身を含む三役の月額給料の15〜30%削減を決定。職員にも20年4月から1年間、一律3%の月額給料削減を求めた。20年2月、労使交渉で職員組合も受け入れた。減額交渉で大きな混乱もなかったのは、議員や職員から「怒鳴ったりする姿は見たことがない」と評されるほど温厚な人柄も要因だったという。年間約2000万円の人件費削減となり、財政再建に寄与した形となった。地元の青年会議所理事長や町議4期を経て、町長に就任した。遠藤実議長(71)は「公務員にない経営感覚が働き、施策のスピードが速い」と就任から2年間の町政運営を評価する。スピード感は新型コロナウイルス対策でも発揮された。県結核予防会(仙台市)に依頼し、1日で300人以上が接種できる体制を構築。65歳以上の接種は6月末でほぼ完了し、県内市町村でもトップランナーに位置する。
ワクチン対応では町民の評価も高い一方、財政非常事態宣言の賛否は割れている。太田初美町議(69)は「宣言を町外に発信する必要はなかった。活力のない町だとのイメージを持たれる。財政再建一辺倒ではなく、夢のあるまちづくりを提案してほしい」と注文する。村田工業団地への誘致が決まり、雇用創出などの経済効果が期待される自動車部品製造ケーヒン(現日立アステモ)の新工場操業は来年以降とみられる。それ以外、目立った企業や商業店舗の進出は見られない。経済活性化などで現状を一変させる妙手がないのは自覚している。1期目の任期は折り返し。残り2年も地道で忍耐を強いられる町政運営が続く。

●リーダーは妥協から考える事はしない
   経営者の条件・ドラッカー
   リーダーは、意思決定の際、妥協から考えることはしない
   何が正しいか?自社は何をなすべきか?といったことを、
   まず徹底的に考え抜く・・・リーダーシップとは勇気である
経営とは意思決定の連続です。日々変化する市場・顧客・競合に対しいかに有効な戦略をもって自社の価値を創造し続け、優位性を持ち続けるかの戦いです。私は経営とは判断力(経営意思決定力)だと考えています。リーダーのすべき一番の仕事は経営判断、有効な経営の意思決定を不断なくとり続けていくことです。経営において有効な意思決定を行うためには、意思決定の軸(判断軸)を持っていなければなりません。マーケティング(顧客)の点からみて、イノベーション(変革)の点からみて、生産性向上の点からみて、また組織メンバーが幸せになるというマネジメントの観点からみて正しいのか、経営の判断軸は一つではなく多岐にわたります。
リーダーシップとは好かれることではない
ドラッカーはリーダーシップについて次のように言います。「リーダーシップとは、周囲の人に好かれることではない。それはセールスマンシップである。」「リーダーシップとは、確かに耳が痛いことであろうと、あの人の言っていることは正しいと思ってもらえることである。」リーダーとは正しいことを為す人、正しい事の向けての経営判断を為す人なのです。正しい事とは、究極的には、リーダーの人間性・人格に関わる問題です。即ち、人として正しい事であるかどうか、人として真摯であるかどうかという本質的な経営判断なのです。正しい意思決定をするためには、正しい判断軸を学ばなければなりません。経営判断をする際に有効なのが、経営全体を網羅したドラッカーの経営学、そしてマネジメントとは人の事であると唱えたように、人間として正しいあり方を追求するドラッカー経営学なのです。
経営判断の軸とするために、人間中心の経営のドラッカーを学ぶ
ドラッカー経営の根底にあるものは、正当性、いかに組織の中で人は生産的に、生きがいをもって自己実現できるのかという、人間が生きる上での本質的課題です。ドラッカーを軸に経営判断をする企業に卓越した企業・そして経営者が多いのは、経営の問題が行きつくところは、人間の問題だからなのです。誰が正しいのではなく、経営にとって、人間にとって何が正しいのかを考え抜き成果に繋がるアクションプランを取っていくことで、リーダーとしてぶれることがなくなり本質的に経営が強化されていくのです。リーダーは妥協から考える事はしてはなりません。リーダーは何が正しいかを考え抜き、勇気を持って意思決定(決断)するものなのです。その正しさの判断基準となるものが、マネジメントとは人の事である、と説いたドラッカーのマネジメント哲学なのです。リーダーの経営判断軸をぶれないものにし、メンバーのリーダーシップも確立するドラッカーの経営を是非組織に取り入れてみませんか?

●河野氏が「脱・原発」を“妥協” 当時の菅官房長官がかけた言葉「大人になれ」 2021
河野太郎行政改革担当大臣は10日、自民党総裁選に出馬することを正式に表明した。
今回の総裁選で“影のキーマン”として影響を及ぼしているのが、安倍前総理だ。安倍前総理から支持を取り付けている高市早苗前総務大臣は、メディア出演で「安倍路線継承」を前面に。一報、河野大臣はこれまで掲げてきた「脱・原発」「女性天皇容認」の持論を封じ、現実路線を打ち出した。
河野大臣に対しては菅総理が過去、路線変更も時には必要だと諭すような言葉をかけていたという。テレビ朝日政治部の今野忍記者が伝える。
Q.河野大臣の出馬会見から受けた印象は?
カラーで印刷された政策パンフレットを配布して、中では「保守」という言葉が多用されていたのが印象的だった。あとは、「ぬくもりの政治」とか「ぬくもり」というキーワード。河野さんはどちらかというと猪突猛進というか、異端児という印象が強いと思うが、この会見では、「皆さんと一緒に」とか「共感」を求めるような表現もあって、イメージチェンジを図ろうとしているような、「いろんな人の話を聞いていきますよ」というスタンスを示した冒頭発言だった。質問に移ったところでは、最初に原発の再稼働をどうするかを聞かれたが、パンフレットにも「産業界も安心できる現実的なエネルギー政策を進める」と明記されているように、持論であった「脱・原発」を事実上、封印したようなかたちになった。総理を目指すわけなので、自民党のバックにある経団連や経済界、ベテラン議員に配慮したような会見だと考えている。
Q.なぜ「脱・原発」から方針転換?
河野さんといえばひと昔前まで、「脱・原発」がキーワードみたいな政治家だった。菅総理が官房長官だった時に直接ご本人から聞いた話があって、2012年に第2次安倍内閣ができた時から2014年ぐらいまでの間は河野さんを非常にかわいがっていたと。「閣僚にならないか」と声をかけていたが、河野さんは「脱・原発を取ったら河野太郎じゃなくなる」というニュアンスのことを言って、あまり乗り気ではなかった。今度2015年に内閣改造をする際に、菅官房長官が河野さんを口説く時に言ったのが、「大人になれ」という言葉。要は、「やりたいこともいろいろあるんだろうけど、大人になれば俺がいずれ総理にしてやる」と、こうやって口説いた。それで、河野さんは「脱・原発」と書いてあった当時のブログを閉鎖して、当時の国家公安委員会委員長と行政改革担当などで初入閣した。なので、本人としてはあの時点で「脱・原発」はいったん閉じている。
Q.河野大臣はポストのために自身のポリシーを曲げるような人?
そこを記者なども厳しくつくが、本人はあんまり意に介さないところがある。内心、おそらくは「脱・原発」なのだろう。パンフレットでは「現実的なエネルギー政策」と書いているが、よくよく話を聞くと「将来的には原発はなくなる」とも言っている。どういうことかというと、改革のスピードの問題。自分が総理になったらすぐ全国にある原発を廃炉にする、といった過激なことをすると、原子力関係で働いている人も多くいるわけで、大変な混乱になってしまい、経済界もついてこない。これからクリーンエネルギーや自然エネルギーをやっていけば、原発は最低限は使っていくけれども、原発をメインにするわけでもないし、河野さんは新しい原発をつくるとも言っていない。スパンの違いで、ひょっとしたら10年後か50年後かもしれないけど、自分のスタンスは変わってないと。ただ、総理にならなければ、偉くならなければ自分のやりたいこともできないので、封印でも曲げたわけでもなくて、「妥協」というのが適切だと思っている。小泉(純一郎)さんが郵政民営化をやったのもかなり最後のほうで、安倍前総理が憲法改正を具体的に自分の政権の達成目標として掲げたのも2017年ぐらい。そうやってまず実績をつくりながら、「脱・原発」への工程表を将来的にはつくるかもしれない。そこが菅総理に言われた「大人になれ」ということだと思う。
Q.安倍前総理が支持を表明している高市前総務大臣への意識もある?
安倍さんが高市さんを支持する理由には、菅さん(が総理)になってから、自民党の強い保守層、安倍さんにとっての岩盤支持層の人たちが離れている懸念もある。来月には衆議院の総選挙もあるので、もう一度岩盤支持層の人たちに自民党の中に保守的なものを示すために、安倍さんは高市さんを支援している。河野さんはある程度、決選投票とかも見据えてこういった保守を掲げて、安倍さんもしくはベテランの人たちに「安心してください。私は異端児とか変人みたいに言われているけど、ちゃんと現実的な形でやっていきますから」というメッセージを送っているという感じだ。党内のベテランたちはかなり河野さんに抵抗感があると思うので、「私が総理になったからといっていきなり全部、あなたたちが守ってきたものを変えるわけじゃない」というアピールだと思う。
 

 

●黙認
だまってみとめること。暗黙のうちに許すこと。また、知らないふりをして見のがすこと。
暗黙のうちに認め許すこと。過失などをそのまま見逃すこと。「夜間の外出を黙認する」「やむを得ないこととして黙認する」
悪事や失敗などを認識しておきながら、特にそれに対処するための行動を起こさないこと。人の罪を罰せずに赦すこと。悪事などを目撃しても、特に何も言わないこと。

●井上尚弥が弟・拓真の不倫を黙認、女性に放っていた「冷徹すぎる一言」
2021年1月16日、プロボクサーの井上拓真が、昨年結婚して第1子が誕生していたことを公表。兄の尚弥とともに兄弟そろって話題を集めているが、やりきれない気持ちの女性がいる──。その彼女、Aさんは20代半ばで、矢田亜希子似の小柄な美女。拓真は妻と8年の交際期間を経て結婚したが、同時に、このAさんとの関係も深めていたのだ。輝かしい実績を誇る拓真だが、リングの外では違う一面を見せていた─。'19年3月、兄・尚弥を介して知り合ったAさんと拓真は男女の関係に。Aさんは既婚者で、拓真も現在の妻と交際中だった。その後2人はそれぞれのパートナーのもとに戻ったが、約1年後の'20年7月、拓真がAさんを温泉旅行に誘ったことで、再び“禁断の愛”が動きだす。'20年8月末、軽井沢のチーム合宿にもAさんは同行。合宿の最終日に拓真の妻が出産したが、その日も2人は関係を持っていた。
事務所も不倫を認めて……
「奥さんが入院している間に、拓真さんが彼女を自宅マンションに招き入れたことも。新築の戸建てに引っ越した後も、何度も呼び寄せたそうです。お互いの友人には公然の仲で、“俺の女”と言ったりキスを見せつけることもありました。“結婚しよう”“離婚したら子どもは妻に引き取ってもらう”とまで話していたんです」(同・知人)その言葉を信じたAさんは、'20年10月末、夫に離婚を切り出した。すると拓真は、大胆にも彼女に対し、自宅の隣街に住むようすすめたという。しかし、状況が一変したのは、合宿が終わった直後の12月上旬。拓真のもとに、Aさんの夫から内容証明郵便が届いた。不倫がバレたのだ。拓真に対し、慰謝料を求める内容だった。すると、拓真は態度を急変。「まじふざけんなよ」「お前のせいや」とメールでまくしたてた。拓真の所属事務所にAさんとのW不倫について問い合わせると、事実関係を認めたうえで以下のようなコメントを寄せた。「過去のこととはいえ、今回のことで多くの方を傷つけてしまったことを心から反省しています。これからは、ボクシングひと筋に精進します」このスクープが『週刊女性』およびWEB版で配信されると、その反響はすさまじかったようだ。「特に女性ファンからの反発が大きいようですね。ネット上では“ガッカリした”“もう応援しない”という声が飛び交っていますよ。弟の行動を黙認していた井上尚弥選手にも批判が集まっていますが、不倫相手の女性に対しても“妻子がいると知りながら、関係を続けていたわけだから同罪”と評価する人が多いですね」(スポーツ紙記者)不倫の当事者である拓真は周囲にそうとう怒られたようで、改めて自分がしてしまったことの大きさを痛感しているという。「現在は、スポンサーを務める企業などに対して、“お騒がせして申し訳ありませんでした”と、謝罪行脚の真っ最中みたいですね」(同・スポーツ紙記者)拓真とW不倫の関係にあった20代女性のAさんだが、実は彼の前に、兄の尚弥と出会っていた。事情を知るAさんの知人は、拓真が尚弥に対して嫉妬心を抱いていたと語る。
アザができるほど掴み、一万円札を投げつけて
「Aさんがメールで尚弥さんから連絡が来たことを告げると、拓真さんは“そうかそっち行くのか”“尚(尚弥の愛称)から誘われたら行くやん”とふてくされた様子で返信してきたそうです。Aさんはもちろん否定しましたが、“ほんとかよ”“まあそっち行ってたら知らんけど”と苛立ちを隠さなかったといいます」Aさんは‘18年12月に、西麻布で開かれた飲み会で尚弥と初めて出会っている。翌年2月にグアムで再会したときは、拓真も一緒におり、それが拓真との初対面だった。「3月に六本木で飲み会があり、その場でAさんと急接近したのが拓真さん。2人が男女の関係になったのはその直後です」(同・知人)しばらく会わない期間があったが、約1年後に関係が復活。‘20年8月に軽井沢で行われたボクシング合宿の最終日に、拓真の妻が第1子を出産したが、その日も2人は関係を持っていたという。「合宿を終えた翌日、奥さんが入院しているときにも、拓真さんはAさんを自宅マンションに呼んで泊まらせています。帰った後に彼女が“子どもも生まれて幸せな家族って感じで嫉妬する”とメッセージを送ると、拓真さんは“Aといたほうが幸せ”と返信。“妻の束縛がすごくて疲れる”と、愚痴をこぼすこともあったそうです」(同・知人)妻子持ちの拓真は、妻からの束縛を嫌っていたにも関わらず、Aさんの行動にはうるさかった。「Aさんには“浮気するなよ”“俺の女やからな”とメッセージを送っていたみたい。彼女がちょっとでもほかの男性と親しげにすると、不機嫌になるんです」(同・知人)その状態でさらにお酒が入ると、トラブルになることもあった。「お酒の席でAさんがある男性と距離が近かったことが気に入らなかったようで、拓真さんはものすごい力で彼女の膝をつかんで引っ張りました。アザができてしまったほどです……。カラオケ店で2人が口論になったときは、外に出て友人に迎えを頼もうとした彼女の電話を弾き飛ばし、“しょうもないやつに電話してんじゃねえよ! てめえはこれで帰れ!”と1万円札数枚を投げつけたことも。Aさんがほかの男性の話をするとキレて、彼女が泣くまで罵倒したこともあったそうです」(同・知人)
井上尚弥がみせた“逃げの姿勢”
2人がケンカすると、尚弥が間に入って仲裁することもあった。‘20年12月に浜名湖で行われた合宿では、同じ部屋で過ごしていたAさんと拓真にこんな助言も。「尚弥さんが“最近2人はどうなの?”と部屋を訪ね、ケンカの話をすると“拓(拓真の愛称)それはダメだよ”とAさんの味方になってくれたそうです。拓真さんが“離婚してフリーになりたい”と言うと、“だから結婚考えろって言ったじゃん”と諭したなんて話も聞きました」(同・知人)ケンカしながらも交際を続けていた2人だったが、Aさんの夫に不倫がバレると拓真の態度が急変。「まじふざけんなよ」「お前のせいや」と、メールでAさんをまくし立てた。結局、要求された慰謝料を拓真が全額支払うことになり、Aさんの離婚が成立。拓真と一緒になれると喜んだが、拓真は冷たい言葉を投げつけた。「拓真さんの要求にしたがってAさんが離婚受理成立証明書を用意すると、彼は“俺は絶対に離婚しない”と言い放ったんです」(Aさんの別の知人)拓真はAさんのLINEをブロックし、電話も着信拒否。なんとかして話し合おうとAさんが彼の実家まで行くと、練習帰りの拓真が彼女を近くの公園に連れて行ったという。「2人で話し合っていたところ、そこに尚弥さんも駆けつけ、彼は拓真さんを家に帰したそうです。すると尚弥さんは“盛り上がっていれば結婚するとかそんなことも言うけど、それを真に受けるのはおかしい。高校生じゃないんだからさ”とAさんを冷たくあしらったといいます。最終的には“試合が終わったら、俺が間に入るから話し合おう”と、その日は強引に返されたそうです」(同・知人)追い返されたAさんは、その言葉を信じて待つことに。しかし、いざ試合後に連絡すると、尚弥は言を翻したのだった。「“俺は関わってないから”“2人のことを俺は詳しく知らないから、〇〇に聞いて”と友人の名前を出してあからさまに逃げの姿勢。結局、尚弥さんを含めずに話し合いの場を設けることになったんです」(同・知人)巻き込まれたくないと思ったのか、拓真に続いて尚弥の態度まで急変。こじれにこじれた話し合いは、“契約書”まで登場する事態に。
W不倫の代償
「拓真さんは、井上家にとって都合のいい条件を並べ、それを破った場合は300万円を支払うといった、一方的な“契約書”を突きつけてAさんにサインを強要しました。断ると拓真さんの母がやってきて、彼を信頼していたと話すAさんに“著名人だからといってそんなのは関係ないし、それだけで信用するのはおかしい”と開き直ったそうです。息子を棚に上げて叱責してきたことで、Aさんは驚きを隠せなかったとも聞きました」(同・知人)拓真と尚弥の言葉を信じたばかりに、振り回されることとなったAさん。しかし、彼女もまた“不倫”という過ちを犯した1人である。「拓真さんの言動を考えると、彼のために全てを捨てたAさんには同情してしまう部分もあります。それでも、不倫は不倫。旦那さんがいる立場で、拓真さんと関係に至ったのは許されることではありません。拓真さんの結婚後も関係を続けていたことで、彼の奥さんに与えたショックも計り知れないものだと思います」(同・知人)兄という立場ながら、2人の許されざる関係を黙認していた尚弥。彼は『週刊女性』の直撃に対しても、「いや、聞いていなかったんで」と、シラを切っていた。2人から相談まで受けていた彼が“聞いていなかった”というのは、いったいどういうことなのか。改めて尚弥の所属事務所に問い合わせたが、期日までに返答はなかった。弟の不貞に対して彼がすべきことは、見て見ぬふりをすることではない。多くの人を裏切ってしまった問題だけに、尚弥もその事実に向き合う必要があるはずだ。

●黙認された側面を考えるべき、取り締まり強化は大反対 2021
大リーグは今日21日(日本時間22日)から、投手に不正使用が疑われる粘着物質の取り締まりを強化する。全体の打率が2割3分台と「投高打低」が顕著な今季のメジャー。一部投手が投球の回転数を上げるために不正使用している疑惑を受けたものだ。先発、救援とも徹底的にチェックされ、違反者の罰則適用も厳格化することで、「スパイダータック」など新物質の横行に歯止めをかけたい方針。一方、シェービングクリームなどは使用を黙認されていたところもあり、現場は大混乱。元メジャー投手の上原浩治氏(46)と佐々木主浩氏(53)が自らの経験から声を上げ、粘着物質の現状、現役選手の反応などを深掘りする。
個人的には、粘着物質の取り締まり強化に大反対だ。「違反投球だから仕方ない」という声は理解するが、それならなぜ、今まで黙認されるような側面があったのかを考えてほしい。
今では一般ファンでも、メジャー球は滑ると知っているだろう。私自身、メジャー移籍後は投手コーチに勧められ、シェービングクリームや日焼け止めを調合した“滑り止め”を付けて投げた。個人差はあるだろうが、とてもじゃないがロジンだけではまともに投げられない。むしろ、ロジンだけだと余計に滑る感覚だった。これではすっぽ抜けてぶつけてしまうし、抜けないようにすれば必要以上に力が入り、肩肘を壊す投手が激増すると思う。
それが分かっているから、よほど見え見えでない限り、黙認されていたのだと思っていた。シーズン中の規制強化はあまりにも理不尽であり、せめて厳格化するなら、滑りにくいボールを供給するか、ロジンバッグを滑らないように改良するべき。ボールの改良は時間的に無理があるが、3Aや2Aで使用しているボールは、メジャー球よりは滑らない。日本のボールを使用してもいい。
今季に限っては、松やにや限度を超える粘着物質だけを取り締まるのが、現実的だと思う。問題視され始めたのは、ボールの回転量を増やすため、過度に粘着力がある物質を付けるようになったから。来季からは選手の安全性を考慮し、どうやっていくかを考えた上で取り締まるのであれば、反対はしない。
個人的に思うのは、歴史を見ても投手に有利になるルールは作られてこなかった。打者はレガーズの着用、最近でもアゴまで隠れるようなヘルメットなど、打者有利と思われる装備着用が認められている。ならばストライクゾーンは、ルールブック通り厳格に取れば広くなるはず。投手だけが不利にならないようにやってもらいたい。
メジャーの投手であれば、大半が自分なりの“滑り止め”を使用しているのが実情だと思う。難しいのは、現役選手が告白すれば処分が下る可能性があり、どんな批判を浴びるかも分からない。これまでの経緯を話し、今回の取り締まりがどれだけ理不尽かを説明しにくいだろう。経験者としては、黙っていられなかった。

●「モザイク入りなら子ども写真も黙認」 週刊誌報道に猛抗議をしないワケ 2021
「芸能人だから我慢して過ごしていかなきゃいけないのは違う」
福山雅治が批判の矛先を向けたのは「吹石一恵 子どもとのんびり歩いた『帰り道』」(『FRIDAY』 7月9日号)という記事だった。この記事では、福山の妻である女優の吹石一恵が子どもを連れて帰宅する様子を描き、吹石と子ども(全身モザイク)の2ショット写真を掲載している。福山は自身がパーソナリティーを務めるTOKYO FM「福山雅治 福のラジオ」において、次のように怒りをぶつけた。
「子どもの写真を撮られ、それが掲載され、かつ販売物となって世の中に出ていくことに黙っていることはできない。幼稚園に通って毎日通る場所で、全然知らない人が写真を撮っている。しかも、編集の方、さまざまな方が子どもの顔を知っていて、データを持っているって、とても怖いこと。守られるべきものが守られていない。一線どころか随分越えたところにきた。芸能人だからと我慢して、これから何年も過ごしていかなきゃいけないのは違う」
これまで週刊誌記事については「完全スルー」を貫いてきた福山が今回、異例の問題提起を行ったのは、子どもの写真が掲載されたことにある。なぜ、このような報道がされ、問題視されているのか。「一線を越えた」と批判された問題について、メディア側とタレント側のそれぞれの立場を踏まえて考えたい。
大きな社会的影響を持つタレントは「準公人」
タレントのプライベート写真については、「公道」上の写真であれば許容されるというのが日本だけではなく、世界の芸能報道を見てもスタンダードな考え方といえるだろう。それは、「メディアに出るタレントは準公人であり、“ある程度の”プライベートが報じられることもありうる」という考え方があるからだ。
政治家など社会的影響力の大きい公人はプライベートを含む全てをメディアに検証される立場にある。タレントが準公人(みなし公人)とする考え方は、彼らの言動が大きな社会的影響力を持っているから故であり、福山発言の波紋の大きさはその一例ともいえる。
タレントは芸事以外にも、結婚・離婚、育児といったプライベートがビジネスに直結する。私生活を切り売りするというタレントの特質と、その発言が社会的影響力を持つという準公人という立場を踏まえた上で、週刊誌はタレントのプライバシーを報じている。準公人を検証するという「社会的意義」、そしてより多いのが後述する「読者ニーズ」に応えることを目的として「タレントのプライバシーについて彼らの都合の良いことだけではなく、都合の悪いことも書く」というのが週刊誌のスタンスなのである。
「子供の顔にはモザイク」という“業界内ルール”
一方で、「どこまでプライバシーを報じるか」という点については、さらなる議論が必要だと感じている。特に今回の福山のケースのような、「子ども」の報じ方は、記者の間でも意見が分かれるところだ。
「写真週刊誌の場合は、家族や子どもなどのプライベートショットは『タレントの商品価値の1つ』と考え、記事として掲載をしている。もちろん無秩序に掲載しているわけではなく、そこには『子どもの顔等にモザイクをかける』『事務所に写真掲載の事前通告をする』など、報道するに当たっての“業界内ルール”というものが存在しています。
『FRIDAY』編集部は記事を掲載するに当たり、ルールに従い福山の事務所に母子写真が掲載される旨を事前通知しており、配慮の上で記事を出したと聞いています」(芸能ジャーナリスト)
今回の『FRIDAY』記事は、ワイドショーなどで「子どもの写真を無断で掲載した」と批判されているが、誌面やウェブを読み比べると、一定のルールにのっとっていることが分かる。
1.子どもに全身モザイクをかける。顔だけではなく全身をモザイク加工しているのは、性別も分からないようにするためとみられる。
2.公道上で撮影されている。自宅や学校内ではなく、あくまで公道に出てきているところを撮影しており、「盗撮」とはいえない。
3.通学路やジムなどを特定されない写真を選んでいる。カメラマンは数か所で撮影しているはずだが、特徴の薄い場所の写真が使われているのは、撮影場所を特定されにくくするためと思われる。
4.母子写真は雑誌のみで掲載する。『FRIDAY』は雑誌、ネットメディアの両方を持つが、ネット記事には母のみの写真が使用されている。ネットに子ども写真を掲載すると、アーカイブが残ってしまうことを考え、ネット記事には子ども写真を使わなかったとみられる。
「表現の自由」で報道を黙認するのが一般的
さらに言えば、記事では福山や家族を批判することが一切書かれていないという「配慮」もなされている。週刊誌では記事掲載前には、事務所に事前通告することになっている。撮影場所と日時、写真の概要などが掲載前に伝えられるのだ。事務所サイドは「子どもにモザイクがかかっているか」「タレントがマスク着用をしているか」などの項目を確認し、「表現の自由」を鑑みて報道を止めることはできないと黙認する、という形式が取られている。
すなわち『FRIDAY』記事は、業界内のルールを守った上での報道だったいうことができるのである。
それでも、プライベート記事を掲載されることを嫌うタレントは多い。福山と同じアミューズ所属のタレント賀来賢人は、自身のインスタグラムで写真週刊誌の誌名をいくつか挙げながら「盗撮するのは100万歩譲って許します。しかし、もし次、私の子どもを盗撮した記事を例えモザイクをつけたとしても、載せた場合、私は本当に怒ります」と子どもの写真の掲載を控えるように強く要求して話題になった。
福山自身も「いつでもモザイクを外せるような状態でその(子ども写真の)データが共有されているという事実がとても恐ろしい」と、今回ラジオで言及している。
筆者の週刊誌経験から言わせてもらえば、取材メモや写真の類いを見ることができるのは「編集長、担当編集者、担当記者だけ」とされている。週刊誌の立場だと「取材写真・メモは編集部内で厳重に管理されている」という説明になるだろう。
プライベートをビジネスにするタレントが“イタチごっこ”を生む
では、なぜこうした「子ども」のプライベート写真が記事になるのか。それはSNS時代となり、タレントがプライベートを公開することが当たり前になったからだろう。
例えばタレントの藤本美貴や芸人のくわばたりえなどは、ブログやインスタに目線だけを隠した「子ども写真」を堂々と掲載している。それにとどまらず一部芸能人の中には目線なしの「子ども写真」をアップしているケースもある。「タレント本人、もしくは子どもが認めているのならいいのではないか」という議論もあるが、実はこうした行為は週刊誌報道以上にリスクのある行為である。
「タレントのSNSでは子どもの顔が丸出しというケースも少なくなく、テレビでも顔出しで子育て特集などが放送されることが多い。ママタレと呼ばれる人たちもインスタに子どもの写真をバンバン上げています。子どもの顔にモザイクをかける必要があるという考え方は、子どもが誘拐事件のターゲットになったり学校でイジメに遭ったりするリスクを少なくするために出てきたもの。『子どものリスク』という観点から見れば、SNSやテレビなどのほうが、危険性がより高いといえます」(週刊誌記者)
それでも子育てコンテンツが人気になるのは、視聴者や読者がSNSや子育てドキュメントを楽しんでいるという“ニーズ”があるからだろう。こうした状況が、他の大物タレントの子どもやプライベートを知りたいという好奇心を喚起し、それに応えようとするメディアを生む。一部のタレントがプライベートを公開すればするほど、他のタレントのプライベートも見てみたいという読者ニーズが出現するという“イタチごっこ”となるのだ。
このままでは「個人的意見」「週刊誌批判」で終わってしまう
子どもを含めたプライベートをビジネスにしているタレントが存在する以上、芸能事務所側も強く週刊誌側を批判できないという後ろめたさもあり、報道を黙認してきたというのがプライバシー報道の現状なのである。
例えば、『週刊文春』では「キムタク(木村拓哉)の犬の散歩問題」という事件があった。
文春がキムタクの犬の散歩写真を撮影した際に、キムタク側は「これから犬の散歩ができなくなるので、犬の顔を消してほしい」と主張。文春はキムタクの要望通り犬の顔を画像処理し、消した形で記事を掲載した。文春内には「犬にもプライバシーがあるのか?」「SNSに犬の写真が堂々と公開されているが?」という議論も起きたというが、そこはタレントの要望に配慮したという。こうしたタンレントのプライバシー報道については、水面下で週刊誌側と事務所の非公式合議を経て報道内容が決められていくことは少なくない。
まとめると、プライバシー報道については、週刊誌側も、タレント側も、それぞれの思惑があり、一定のルールの中でバランスを取ってきた。一方で、福山のようにプライベートは一切公開しないというタレントは、こうした状況に不満をため続け、今回の週刊誌批判となったのである。
福山発言のインパクトは大きく、ワイドショーを中心に週刊誌批判の声が上がっている。しかし、一方で芸能事務所側は公式見解を明らかにしたものの、編集部への正式抗議には至っていない。芸能界側にも週刊誌側にも議論を深めようという動きはなく、筆者には騒動の沈静化を図っているように見える。
現状では福山の発言は「個人的意見」に終わってしまっている。ワイドショーや世論は同情を寄せているものの、「週刊誌はいかがなものか」という批判に終始し議論が深まる様子はない。
ここで「週刊誌はもう要らない」とするのでは思考停止である。問題の背景には何があったのか? そして解決策はあるのか。「週刊誌側の問題」と「タレントサイドの問題」の両面を検証し、深堀りすることで、福山発言は初めて大きな社会的意義を持つことになるはずである。
つまり、「週刊誌は酷い」という感情論的な議論を行うだけでは、「問題提起」は時間とともに忘れ去られてしまう可能性が高いのだ。
パパラッチ大国アメリカでも模索が続いている
ではアメリカではどうなのだろうか? 国際メディア論に詳しい在米ジャーナリストはこう解説する。
「アメリカでは『表現の自由』というのが憲法上強く保障されているので、ハリウッドスターのプライベートだけではなく、子どもの顔写真まで堂々と報道されていることが多くあります。今回の福山さんのケースでも、アメリカなら顔写真まで出るということがあり得たでしょう。一方でロサンゼルスのあるカリフォルニア州では通称・反パパラッチ法(606法)というものが制定されています。これはカメラマンなどが子どもを追い回すなどの迷惑行為を禁じた法律で、それらに違反した場合は軽犯罪として禁固一年などの処罰を受けることもあります」
アメリカではタレントの子どもについての顔写真まで掲載されるなど報道がよりオープンである一方で、つけ回し行為などを罰する州もある。つまり世界的にもタレントの子どもをどう守るかについては、グレーゾーンの中で模索が続いている状況だと言えそうだ。
SNS時代に子どもをどう守るかの議論が必要だ
決して週刊誌は“無軌道”に取材をしているわけではない。報道は一定の業界内ルールによって行われる。ただし、「政治スキャンダルから芸能人の下ネタまで」を扱う奔放なメディアであり、一定の「反権力性」を帯びている。故に「自主規制」や「忖度」を嫌う、というメディア的性格を持っている。だからといって決して「反社会的存在」ではない。
先に述べたようにプライバシーに関してはタレントが私生活公開をビジネスにしている以上は、週刊誌側もタレントを準公人としてその裏側も含めてプライバシー報道をするという状況を変えることはできないだろう。ただ、こうしたプライバシー議論とは別に、「子どもをどう守るのか」という議論があってしかるべきだと筆者は考える。
SNS時代となり、タレントは子どもを晒すことも含めプライベート公開により積極的となっている。今回の『FRIDAY』報道は、そうした“世相を反映”した形だったと思う。一方で、タレントのプライベートがより多くの人に簡単に拡散されるようになっており、それが子どもにどのような影響を与えるのかという点も考慮しなければならない。
私は『FRIDAY』記者時代、デスクから「週刊誌は社会の窓である」とよく言われた。世相に反した記事を作り続ければ、読者からそっぽを向かれてしまうだろう。週刊誌には常に世相が反映されるのだ。今回の記事についても社会的議論が高まれば、世相を反映する形で業界内ルールを見直そうという動きも出てくるはずだ。
親には子どもを守る義務がある。たとえ子ども本人の意思があったとしても、「メディアに出る」というリスクを十分に理解できているとは限らない。ましてやタレントである親が、子どもを頻繁にSNSやメディアに露出させることは慎重であるべきだ。同じように、週刊誌側の「子ども」写真のルールについても、「子どもを守る」という観点から考え直す必要があるだろう。
福山問題を一時の感情論だけで終わらせてはいけない。

●不正を黙認せず「忌憚のない意見」を言うべき理由 2021
「疑問を呈することは許さない」という体質
東芝の長年にわたる、巨額に上る不適切会計問題の発覚とその後の迷走、三菱電機の検査不正、最近では、トヨタの直営店での不正車検の発覚、システム障害を何度も繰り返すみずほ銀行等々、企業の「不祥事」が後を絶ちません。
現場で働く人たちは「正しくないことをしている」とわかっていたと思いますが、経営幹部クラスは感覚が麻痺して、「正しくない」という認識すらなかったのではないか。
10年以上前、コンサルティングの仕事で、ある金融機関から、ある大手製造業企業の経営計画の精査を求められたときに、計画数値の異常を複数の事業で発見し、不自然さを指摘したことがあります。
たとえば、外部の業者に発注する経費が次の年から極端に下がっているとか、新しい施設の立ち上げで要員の運転習熟の期間が極端に短く見込まれているとか。
企画部門は「できる」の一点張り。不毛な時間を過ごし、われわれはこの会社の計画に青信号を出さないレポートを用意しました。案の定、後に「不正」の問題として露呈。その会社ではずっと以前までさかのぼって、自分たちに都合のよい数字、必要な数字から自分たちの結論を出して、それに疑問を呈することは許さないという体質、文化になっていたものと推察します。
こういう企業の体質、文化は、日本という国と似ていると思います。真のリーダーがいなくて、真空で意思決定されている組織が多く、政治家も、官僚組織も、企業も、これまでやってこられたから、これからもうまくやれると思って、後ろめたさもなくなっているのではないか。現場では、おかしいと思っている人はいるのだが、諦めている。
こうなった組織では、トップが自分も含めて過去を明確に否定しない限り、あるいは過去のしがらみがまったくないリーダーが外から入ってきて、明確に過去を断罪しないかぎり、日本人が得意なあいまいな解決で、誰も傷つけないというままに、全体が腐っていくのでしょう。
不祥事が起きた会社では、誰かが犯意をもって不正を指示したということは実は少ない。真空の意思決定があって、あるいはあったという虚構の下に、多くの人が間違った行為に参加しているということが多いと思います。
経営トップ、上司、部下それぞれが保身に走り、組織を正す「忌憚のない意見」を述べる人がいなかったということか、と思います。仮に「忌憚のない意見」を言う人がいても、経営トップ、上司や組織がそれを受け入れなかったということかもしれません。
「忌憚のない意見」を言えない部下、「忌憚のない意見」を受け入れられない上司、そして組織、それぞれにインテグリティ(高潔さ、誠実さ、真摯であること)が欠如しています。
「二度と来るな」と言われても気にしない
実際、「忌憚のない意見を言ってくれ」と言っておきながら、本当に正直なことを言うと怒る人が多い。
クライアントへの初回の進捗報告で、「会社の至るところからお金も人も出血しているので、まず止血すべき。未来を語ってごまかすときではない」と会社の現状の見立てを述べたら、「出ていけ、二度と来るな」と言われたこともあります。このときは、もう1人のパートナーが頑張ってくれたおかげで、ひと月後に私の会議への復帰がかないましたが。
もちろん相手を怒らせることが目的ではないけれど、それくらい本気でぶつからないと会社や経営が変わらないのも事実です。
「もう来なくていい、と言われたところでどうってことはないよ。日本に会社はいっぱいあるんだから」と若手には言っていました。
ちなみに、この会社は、プライベート・エクイティーがグリップを利かせて、経営者を交代させてから、みるみるうちに業績が回復しました。
こんなふうに、コンサルタントのような外部の人間ですら、忌憚のない意見を言ったら烈火のごとく怒る経営者がいるのですから、内部の人間が言ったら左遷されかねない。
「モノ言えば唇寒し」で、黙っておこうとなってしまうのも無理はないかもしれません。
先日もある人からこんな話を聞きました。
最近、新しく上に来た副社長が、「ここに自分の考えが書いてあるから、読んで忌憚のない意見を聞かせてくれ」と言った。それで本当に忌憚のない意見を言ったら、副社長はかんかんに怒ったという。「忌憚のない意見を聞かせてくれ」と言いながら、自分にとって心地よい回答が返ってくることを期待していたのでしょう。
自分がクライアントや上司の立場ならば、コンサルタントや部下からの「忌憚のない意見」に感情的に反発するのではなく、まずは受け止める。それから建設的な話をする。
挑戦的なことを言われてもそれを受け入れられるのが、インテグリティのある人だと思います。
私が幸運だったのは、ブーズで繰り返し「(ポジションが)上の者は下からのチャレンジを許せ」と教えられたことです。何事もポジションを後ろ盾にした議論をするなということで、「チャレンジを受けたら、もっとよい案を出せ」とも言われていました。
「一緒にやりましょう」と言える共感力
コンサルタントとクライアントの関係では、クライアントに、厳しいことを言わないといけないこともあります。目指すものが成長であるにせよコスト削減であるにせよ、今までとは非連続なことをやるから効果が出るわけです。だから、クライアントには、その場では納得してもらえなかったとしても、「もう1回話を聞きたい」と言ってもらえる関係をつくることが重要です。
コンサルタントというと、頭脳明晰であることが第1条件だと思われがちです。しかし、私が本当に重要だと思うのは、「正しいこと」を示す力ではなく「どうしたら正しいことがやれるか」を示して、「一緒にやりましょう」と言える力です。
クライアントに「変えてみませんか」と言うのは簡単ですが、彼らが何十年もやってきたことを、コンサルタントに否定されるのは愉快ではないでしょう。そのとき「諸外国ではこうですから」「ほかの産業ではこうですから」と理詰めで説明しても、到底受け入れられるものではない。
つまり、「今までやってきたことを変えなさい」と言われたときの相手の気持ちを「わがこと」として理解できるか。理解できれば「やっぱり簡単じゃないですよね。大変ですよね」と共感し、「どのあたりに抵抗を感じるのか教えてください」と言って、その感覚を共有しながら、一緒にそれを乗り越えていく。この「共感力」は非常に大事です。
インテグリティのある人間の条件の1つに「信頼」があります。クライアントから見たコンサルタントは「トラステッド・アドバイザー=信頼される相談役」であるべきです。
たとえば二十数年間その仕事をしてきて執行役員になった人がいるとする。そんなときコンサルタントに未経験のことをするように言われた。うまくできないかもしれない。違うやり方をするのは、自分の過去を否定することになる……。そこには何かを失うかもしれない、という恐れがあります。恐れは本能的な警報なので、理性だけでは克服しきれない。
しかし、コンサルタントが「信頼できる相談役」であればどうでしょう。「あの人の言うことなら、信じてみようか」という気になるのではないか。
「最初のうちは嫌だったけれど、あの人たちと一緒にやっていたら、なんとなくうまくいきそうな気がしてきた」と思ってもらえること。それができるのが、トラステッド・アドバイザーです。
解のない連立不等式を解く
「どうしたら正しいことができるのか」を示すのは、答えのない連立不等式を解くことと似ています。学校の数学であれば、連立不等式には解があります。そして解のある連立不等式は、途中で計算さえ間違えなければどんなに難しくても解ける。しかし現実のビジネスにおいては、連立不等式を満たす解の領域がないことも多々ある。
たとえば、ある顧客の要望を満たさなければいけない。しかし自社のある部門はその要望を満たすために必要な方法に反対している。こんなとき、「解がないから解けません」と言うだけでは、コンピューターと同じです。人間がやるべきは、解のない連立不等式を解くことです。
解のない連立不等式を解くなんて、できないと思うかもしれません。しかし、いくつかの不等式のどこかの部分を変えれば、解を求められるようになる。つまり、「ある部門が反対している」のであれば、その部門の反対の理由は何かを突き止めて、「どうやったら納得してもらえますか」という話をする。
クライアントを動かすことで、解がないように見えた連立不等式も解けるようになるのです。
私たちはつい、「与えられた条件ではこれだけしかできません」と考えてしまいがちです。それは確かにそうなのですが、現実の世界の問題は、所与の条件を変えることができるのです。
たとえば、「この事業はうちの会社の祖業だから、不採算であってもやめるわけにいかない」と会長が大昔に言ったけれど、実は会長は今ではそれほどこだわっていない、というようなこともあるかもしれない。誰かを動かして、この連立不等式の条件のどこかを変える。それは意志があって、熱意のある人間にしかできないことです。
所与の条件には、いろいろなものがあります。「20年もこのやり方でやってきたのだから、このやり方がいちばんいい」と信じている人を説得しなければいけないかもしれない。新しい技術が出てきているのにそれについていけない、世の中が変わっているのに気づいていない場合もある。
それをどのように変えていくかを考えるのが、コンサルタントや、事業会社の中ならば経営企画の担当者の仕事の一部でもあります。
確かに簡単ではないけれど、もしできれば大きな成果につながる場合、「同じ目標に向かってがんばろう、一緒にその夢に挑んでみよう」と相手に思ってもらうには、やはり相手と自分が厚い信頼で結びついていなければならないでしょう。
クライアントとはプロヴォカティブに対峙する
コンサルタントは、プロヴォカティブに物事を考え、クライアントと対峙することが求められます。プロヴォカティブとは、辞書的には「挑発的な、刺激的な」という意味ですが、英語圏ではビジネスの改革、変革に欠かせないキーワードとなっています。プロヴォカティブに考えることができるか。言い換えれば、空気を読まず、他人とは違うことを面白がり、楽しむことができるか。
クライアントが気づいていない視点で物事を捉え、ブレークスルーとなる解決策を提示できるか。相手の立場や都合を忖度(そんたく)しすぎることなく、プロヴォカティブな提案や助言ができるか。それができてこそ、相手と本当に信頼し合い、共感できる関係になれるのだと思います。
ここまで、コンサルタントとして仕事をしてきた私自身の経験から述べてきましたが、事業会社で働くビジネスプロフェッショナルも、経営トップや上司の立場や都合を忖度しすぎることなく、プロヴォカティブに向き合うべきでしょう。
そうすることで、企業も、経営者や社員同士が互いに信頼し合い、不正を許さない、正しく、美しい意思決定ができる組織、インテグリティのある組織に進化できるのです。 
 
 
 

 

●「戦国武将」の名言 行動派!部下を引っ張るカリスマリーダー
自らの行動で兵・部下たちを引っ張ったカリスマ的リーダー。
上杉謙信(1530〜1578年)
上杉謙信は越後(新潟県)の戦国大名で、「越後の龍」「軍神」と称されました。武田信玄とのライバル関係は有名であり、信玄没後に衰退した武田家を攻め入ることはせず、私利私欲のための戦はしない、義に忠実な武将として知られます。謙信は越後で作られる布を「越後上布」というブランドにして、専売制を実施。その布を自ら足利将軍家に売り込むなど経営者としても優れていました。
「人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことは言ってはならない」
軽い気持ちで発した言葉が、他人の心を傷つけたり、思わぬ波紋を広げてしまうことがあります。それは、人の上に立つ立場の人なら、なおさらのこと。経営者、上司として軽率な発言を戒め、深き思慮をもって言葉を選ぶことの大切さを説いています。
伊達政宗(1567〜1636年)
伊達政宗は後に仙台藩の初代藩主となる戦国大名です。23歳で奥州を制圧し、乱世の時代には勇猛果敢な若き武将として活躍。その後は抜群の行動力で仙台藩を統治しました。幼少時に患った天然痘の影響で右目を失明したことから「独眼竜」という呼び方でも知られています。また、政宗の身につけるものは弦月の兜など特徴的でセンスの高いものばかりでした。このことからオシャレな男性を「伊達男」と呼ぶようになったという説が流布されていますが、真相は不明です。
「時を移さずに行うのが勇将の本望である。早く出立せよ」
競合他社より出遅れてしまうと、機会損失の影響は後々大きく響いてきます。いざ勝負と思ったときは、時を移さず行動すること。つまり、戦略立案から決断→実行をスピーディに行い、ライバルに先んじることが勝利のカギを握ると解釈できるでしょう。
「大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるがよし」
重大な選択をする際、他人に相談して意見を求めたり、さまざまな情報を調べることは大切ですが、最終的な判断は自分でするべきだという言葉です。自ら決断したことは、腹をくくって進むことができますが、他人の意見に流されて失敗してしまえば、相談した相手を憎んだり、後悔が生じてしまいます。
織田信長(1534〜1582年)
織田信長は最も有名な戦国武将の1人です。奇抜なエピソードもありますが、その一方で目標設定を上手く活用した戦術家でもあり、非常に優れたカリスマリーダーでした。有名な戦に「桶狭間の戦い」があります。ここでは目先の利益である戦利品を奪うことはせずに、完全勝利という目的設定を徹底します。また、「戦いに参加した者全員が末代まで英雄として語り継がれる」という、目的に対するリターンを明確に告げることで部下たちのモチベーションを向上させました。
「絶対は絶対にない」
一見矛盾した言葉ではありますが、これには自分を勇気づける「絶対に不可能と思えることでも突破口はある」という意味と、自分を戒める「絶対に大丈夫と思った時点で隙が生まれる」という2つの意味を持ちます。前者は常に考えて行動せよというメッセージであり、後者は大丈夫と思った時点で成長が止まってしまうことを危惧せよという意味です。
「臆病者の目には、常に敵が大軍に見える」
日本三大奇襲の1つ、「桶狭間の戦い」で2万5000の兵を擁する今川義元をわずか2000の軍勢で強襲し、討ち取った信長らしい言葉です。(数字には諸説あり)自分を過小評価して弱気になるのではなく、しっかりと戦略を練ったら、リスクを取ってチャレンジしないと、いつまでたっても勝利は得られないということを訴えています。

●「戦国武将」の名言 頭脳派!上司に気に入られて出世したリーダー
カリスマ性や武力ではなく、頭脳で乱世に頭角を現した武将。
豊臣秀吉(1537〜1598年)
低い身分から叩き上げで出世し、天下統一まで成し遂げた戦国武将であり、智将としての要素が人気の理由です。秀吉が信長へ行った、冬の寒い日に懐に草履を入れて温めたエピソードはあまりに有名ですが、他にも象徴的なものが数多く残っています。例えば、増え続ける薪代のコストを下げるよう信長から指示された秀吉は、流通過程から調査し、問題のあった仕入れルートを排除。代わりに城下の村にあった枯れ木を薪として利用しました。その上で、この無料同然の薪代を「苗木代」、すなわち植林のための費用として徴収し、城下に植林を行い、自前で薪を賄えるようにしました。まさに、そのまま現代のビジネスに通じるエピソードといえます。
「一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られるだろう」
草履取りから天下人にまでのし上がった秀吉らしい名言です。周囲の人は最初、秀吉が天下統一まで成し遂げるとは誰も思っていなかったようですが、下積みの仕事をコツコツ積み重ねて、一歩ずつ成長していきました。大きなことを成し遂げるためには、目の前の仕事を一つ一つ丁寧に行うことが大切だという名言です。
「戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである」
ポイントは、戦わずして逃げるのではなく、戦わずして勝つという点です。戦うべきときは徹底的に戦う秀吉ですが、その一方で不毛な戦いで味方の被害を出すことも嫌いました。「兵糧攻め」や「水攻め」で相手をギブアップさせる作戦も、被害を最小限に抑えながら勝ちを得るという点で理にかなった戦術です。
黒田官兵衛(1546〜1604年)
秀吉の天下統一を支えた軍師です。本能寺の変で信長を裏切った明智光秀を討つ秀吉の活躍をお膳立てしたのが官兵衛であり、上司を立てて信頼・評価を高め出世しました。
「その職にふさわしくない者はすぐに処分したりするが、よく考えてみると、その役を十分に務めてくれるだろうと見たのはその主だ。目利き違いなのだから、主の罪は臣下よりもなお重い」
「自分の上司に読ませたい」と思った人もいるかもしれません。仕事を任せたのは上司であって、部下がその仕事を完遂できなかったことは、部下の責任もありますが、上司にも責任があります。いや、むしろ上司の責任のほうが重いというのが官兵衛の意見です。自分が上司になって部下を持ったときも忘れないようにしたい名言です。
「上司の弱点を指摘してはならない」
どんな人にも弱点はあります。しかしその弱点を部下から指摘されると、上司としては気分が良いものではありません。表面上は納得してくれても、信頼関係を築くことは難しいでしょう。上司の弱点に気づいたときは、そこを部下として補完することが大切です。そのことで上司から信頼され、良い評価を受けられるでしょうし、責任のある立場に取り立ててもらうこともできるでしょう。

●「戦国武将」の名言 部下から慕われる!人材活用術に長けたリーダー
部下をうまく活用することに長け、理想の上司像として語られる武将。
真田信繁(真田幸村)(1567〜1615年)
NHK大河ドラマ『真田丸』でもお馴染み、織田信長と並んで人気の戦国武将です。天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いの際に、亡き豊臣秀吉に恩義を感じていた信繁は、莫大な報酬で徳川家康率いる東軍から誘いを受けますが、これを断ります。義を大切にしたリーダーです。ちなみに「幸村」の名前が広く浸透していますが、正しくは「信繁」です。
「部下ほど難しい存在はない」
褒めて育てると甘やかすことにならないか、厳しく指導すると辞めてしまわないか――人材育成というのは今も昔も難しいもの。「笛吹けども踊らず」とならないよう、部下の能力を最大化して、チームとして結果を出すにはどうすれば良いのか?上司としての力量が問われるところです。
「いざとなれば損得を度外視できる、その性根。世の中にそれを持つ人間ほど怖い相手はない」
ビジネスは損得勘定をベースに動きます。しかし、人間関係において損得勘定のみを優先する人の周囲には同じような人ばかりが集まり、その人物と付き合っても損だとわかると潮が引くように皆去っていくものです。信繁が日本人の心を捉えて離さない理由の一つは、損得勘定よりも義を優先した彼の姿勢にあることは間違いありません。
徳川家康(1543〜1616年)
戦力の差がない関ヶ原の戦いにおいて、味方だけでなく敵軍をも上手く動かして戦局を有利に進め、江戸幕府を築いたのが徳川家康です。自身の失敗はもちろんのこと、味方の裏切りや秀吉の失敗、最終的には部下からも学ぶ家康の「学習能力」と「柔軟性」の高さが受け継がれ、江戸幕府は260年以上も繁栄を続けました。
「最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える」
江戸幕府という長期政権を築いた初代将軍・家康らしい名言です。自分だけ、自社だけが栄えれば良いのではなく、「Win‐Win」の関係を築くことや、その商品・サービスによって、どれだけ多くの人に幸せをもたらすことができるかが、結局は企業の繁栄につながるという考え方と同じです。
「いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある」
上司として「裸の王様」になることは避けたいもの。家康も同じことを思っていたようです。上司に進言することは、部下にはなかなかできません。それをあえて、勇気を持って実行してくれる部下は、それだけで大切にするべき存在です。上司になったとき、この言葉を忘れないようにしたいですね。
武田信玄(1521〜1573年)
「風林火山」の軍旗を使い、「甲斐の虎」として知られた戦国武将で、上杉謙信との五度にわたる川中島の戦いが有名です。現代でも「部下の力を引き出し、チームの力を高められる」として、戦国武将の中の「理想の上司1」に選ばれたこともあります。信玄は身分を問わず、部下の意見をよく聞き、部下が活躍すると高い評価を与え、モチベーションを高めることに常に配慮していました。功績を上げた部下にはボーナスとして金を与えることもあり、慕われるリーダーの見本としても名を残しています。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
戦いに勝つために必要なのは、堅固な城ではなく、人の力であるという、効果的な人材活用術で知られる信玄ならではの名言です。また、後半は、「人に情けをかければ相手の心に届き、味方になってくれるが、相手に恨みを持たれれば敵になる」という意味であり、信玄のように日頃、大勢の猛者を部下として率いている人は、参考にしたい言葉です。
長宗我部元親(1539〜1599年)
四国の戦国大名として、部下思いな一面だけでなく、山が多く米の収穫量が少ない四国を経済的に救ったリーダーとして知られます。元親は弱みである山の多さを逆に強みと捉え、木材を管理し、職人たちの力で商品化を進めて経済難を回避しました。地元産業の活性化に力を注ぐことで経済力をつけた政治家としてだけでなく、名経営者ともいえるでしょう。
「一芸に熟達せよ。多芸を欲張るものは巧みならず」
色んなことに手を出すと、すべて中途半端に終わってしまいがちです。それよりは1つのことを追求し、その道のプロになることを目指せと説いた名言です。つまり、ゼネラリストよりもスペシャリストを目指し、一芸に秀でてその道で認められることが大切だという意味です。

戦国武将の名言を、ただ流し読みしても成長はありません。名言を心に留め、その言葉を実行に移してこそ意味があります。15の名言のうち1つでもいいので、自分に合った名言を選択し、自分の行動に落とし込んでみてはいかがでしょうか?  
 
 
 

 

●徳川家康の名言
「滅びる原因は自らの内にある」
徳川家康が師として仰いでいた武田信玄が病死し、その際に徳川家康が発した言葉です。徳川家康の師であり宿敵でもあった武田信玄がいたおかげで緊張状態が続き緩みがなかったが、武田信玄が死んだ今、いちばん恐ろしいのは味方の中から起こる油断や裏切りであることを意味した言葉です。味方からの裏切りは、時には何よりも恐ろしいものになります。自分がいちばんだと徳川家康が驕り高ぶっていたら裏切りが多数出たかもしれません。しかし徳川家康は、信玄のおかげで軍が保てたことを理解しており油断することもありませんでした。自分のことを厳しく律していたからこそできた発言です。滅びる原因を自分の中に作らないように心がけていたことが垣間見えます。
「重荷が人をつくる。身軽足軽では人は出来ぬ」
ここでの人というのは、徳川家康自身のことを指します。徳川家康は幼いころに今川家に人質としてとられていたり、我が子である信康に切腹を命じたり重い過去を背負って生きた人です。しかし、それを気に病むのではなく、その過去があったからこそ今の徳川家康がいるのだという意味がこの言葉に含まれています。何の経験もなければ、人格というものは生まれてきませんよね。暗く重たい背景も、自分をつくるためのものだと思えば良いということが学べます。
「世に恐ろしいのは、勇者ではなく臆病者だ」
勇者(強い軍隊)は向かってくる敵に対して勝つか死ぬまで戦いますが、臆病者(弱い軍隊)は敵が強ければ逃げ、弱ければ必要以上に追い続けます。つまり、戦うべき時に戦う勇者より無用な戦いを続ける臆病者が恐ろしいということです。これは徳川家康が臆病者に追われていたというより、自軍から臆病者が出ることを嫌っていたような意図が含まれています。徳川家康が天下を取った後に、自軍の臆病者が平民に対して無駄な殺戮や略奪を行ってしまうと民衆からの信頼もなくなってしまいます。これは、現代におけるいじめ問題にも通じるものがありますね。臆病者ほど自分より弱いものを必要以上に追い詰め、自分は強いと誇示したがります。そういった人は恐ろしいということがこの名言から学び取ることができます。
「あぶないところへ来ると、馬から降りて歩く。これが秘伝である」
徳川家康が小田原攻めに加勢した際に、馬術の達人であった徳川家康が、川を渡るときに下馬して渡ったことを付き人に指摘されこの言葉を語っています。馬術の達人だからといって、それに甘んじて他の人がしないような危険を冒したり無謀なことをすることは良くないと諭しています。これは、ビジネスなどの現場に当てはまることが多いのではないでしょうか。自分の特技を自覚しすぎて天狗になると、その部分がなあなあになりミスが増えます。得意なことでも慎重さを持つことが必要だということを教えられますね。
「勝つことばかり知りて負くるを知らざれば、害はその身に至る」
勝ってばかりで負けを知らないと、逆境に陥った時乗り越えられない、だから負けることも大切だという意味の名言です。この名言は、武田信玄と戦い惨敗した徳川家康が放った言葉です。背景を知ると少々負け惜しみのようにも聞こえますが、惨敗した自分の姿を肖像画にして残させて自分への戒めへするほど悔しがったようです。負けを知らずにずっと勝ち続けてきて、いざという時に挫折をしてしまったという経験は誰しもにあることではないでしょうか。そうならないためにも、負けを知っておくことは重要だと学べますね。負けを知ると次に勝つための戦略も練るわけですから、負けることは必ずしも悪いことではないと徳川家康が教えてくれています。
「水よく船を浮かべ、水よく船を覆す」
この言葉の中で水は家臣、船は主君のことを指しています。主君が家臣に愛情深く接していれば、それに報いるように家臣は働きます。しかし、不当な扱いを受けていると家臣は謀反などを起こし、主君を裏切ることもしてくるだろうという意味が込められています。幼い頃から誰かに仕え、後には自分自身が主君になった徳川家康が自分自身に言い聞かせていた言葉のようです。誰かの上に立つことがある方ほど、この言葉から学べることは多いのではないでしょうか。リーダーだからといって、下の人たちを不当に扱っていると自分の身を滅ぼしてしまうことになるということが読み取れますね。
「不自由を常と思えば不足なし」
質素倹約をモットーとしていた徳川家康らしい言葉です。徳川家康は、贅沢な暮らしをしていると危機感を覚えるほどの倹約家でした。不自由な生活が当たり前なら、何も不満を感じることはないという意味合いの言葉です。あれもこれもと欲しがっていると、欲が途切れませんよね。贅沢しすぎずわざと不自由な暮らしをしていれば、不満は起こらなくなっていきます。不自由をどうにかしようという知恵もついていきます。これから貯金などを始めたいという方は、この言葉をモットーにしてみましょう。
「心に望み起こらば、困窮した時を思い出すべし」
心に欲が生まれたら、貧しく苦しかった時を思い出しましょうという意味の名言です。上で紹介した「不自由を常と思えば不足なし」に通ずるものがありますね。欲が生まれた時に困窮していた頃を思い出すと、あの頃に比べて今は恵まれていると実感することができます。また、欲を出しすぎると貧しい時期に苦労したことが無駄になることが教えられます。幼少期から苦労を超えてきた徳川家康だからこそ言えた言葉ですね。今が恵まれていることに気付くための、核心をついた名言です。
「多勢は勢いを恃(たの)み、少数は一つ心に働く」
人数が多い軍はその数に頼ってしまいがちなので思ったよりも弱いが、少数の軍は意思を統一しやすいので意外と強いものという意味の名言です。人数の多い敵軍に少数で立ち向かわなければならない時に放った言葉で、とても納得させられてしまう言葉ですよね。企業で例えると、大きな企業よりも小さな企業の方が意志の伝達を行いやすいです。全員に伝達できるので統一も行いやすいですね。人数の勢いだけで立ち向かうより、一致団結している方が策略などに強いです。人数が少ないからと言って諦める必要はないということが学べます。
「戦いでは強い者が勝つ。辛抱の強い者が」
戦場で勝利をおさめるのは、力が強い者ではなく辛抱強い者という意味です。徳川家康は「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」で有名ですが、鳴くまで待つという辛抱強い徳川家康ならではの名言だと感じます。力の強さももちろん大切ですが、勝機というのは時の運で力の強さだけで切り開けることではありませんよね。必ず勝つために、そのタイミングを辛抱強く待つことも必要だと学ばせてくれます。負けるだろうと思っていた人が勝ったという経験はありますか?そういった人は、辛抱強く勝機を待てる人なのかもしれませんね。
「己を責めて、人を責むるな」
自分に都合の悪いことが起こった時、誰かを責めるのではなくて、自分の何がいけなかったのか考え直してみましょうという教えが込められています。この名言は、現代でも通ずることが多くあるのではないでしょうか。不都合が起こった時に、他人を責めてばかりでは解決策も出てきません。自分自身の行動を改めて思い返して原因を追究することで、成長にも繋がりますし対策も思い浮かんでくるものです。誰かを責めているばかりでは、チームの成長にもなりませんし雰囲気も悪くなります。責めるなら自分を責めて解決した方が良いということが学べます。
「怒りは敵と思え」
怒りという感情は、相手が間違っていて自分が正しいと思い込むことで生まれ、それをぶつけてしまうとぶつけられた相手は敵になりますよね。また、怒りは自分の判断も狂わせてしまう感情なので結果的に自分を滅ぼしてしまう敵になるという広い意味で敵という言葉が使われています。徳川家康は家臣に慕われていた武将ですが、慕われる理由が分かる名言ですね。怒りという感情は自分自身に悪影響でしかないと徳川家康は悟っていました。怒りは時に、恐ろしいほどに自分を蝕んでいくものです。この名言を心に置いて、自分を滅ぼしてしまわないようにしていきましょう。
「人の一生は、重荷を負うて遠き未知をゆくがごとし。急ぐべからず」
この名言で言う重荷とは、大切なものという意味です。徳川家康は家臣や領民をとても大切にしていましたが、勢いに任せた判断ミスや負け戦で大切な家臣たちを失った経験もあります。この名言は自分自身を振り返って語られたもので、大切なものを持ちながら成功への道を急ぐと、途中で大切なものを失ったり力尽きてしまうことになるので、焦らず生きていきましょうという意味を込めています。やはり徳川家康は辛抱強く、忍耐の人であるといえますね。ゴールへと急いだがためにその場の勢いや周りに流されて判断することは、大切なものを失ってしまうので危険なことだということが学べます。
「人生に大切なことは、五文字で言えば『上を見るな』七文字で言えば『身の程を知れ』」
こちらの名言も徳川家康が自身に言い聞かせるために言っていた言葉です。徳川家康は、織田信長に比べて戦は得意ではありませんし、豊臣秀吉のような要領の良さもないことを、自分自身で分かっていました。自分を把握していたからこそ、上を見て誰かと比べようとせず、身の程を知って現状を把握することが大切だという意味を込めた言葉を放ちました。誰かと比べてもろくなことがありませんよね。自分の得意なことや現状を知り、それを役立てることが重要だと教えてくれています。
「諫(いさ)めてくれる部下は、一番槍をする勇士よりも値打ちがある」
まず、諫めるという言葉は部下が目上の人に指摘したりすることを意味します。自分は戦が得意ではないと把握していた徳川家康は、自分に従って戦で結果を出す勇士よりも、自分を諫めてくれて大局的に成果をあげようとする人材が必要という意味でこの名言を残しています。自分が何かをしようとした時に反対した人というのは目の敵にしてしまいがちですが、そういった人ほど自分よりも冷静に物事を見ているものです。何かをしようとしている時、躍起になっていたりと自分では冷静さは保てません。自分に反対して諫めてくれる人ほど大切にするべきだということが学べます。
「得意絶頂のときこそ隙ができることを知れ」
絶好調の時ほど、人には隙ができるものだという意味を含んだ名言で、徳川家康が討ち取った敵に向けて放った言葉です。得意になっていたり絶頂にいる時ほど、物事を甘く見て隙ができてしまいます。徳川家康はその隙を巧みについて、最終的に勝利をおさめることが幾度もありました。この名言から、絶好調の時の隙は命取りになるということが学べますね。成功した時ほど、冷静でいなければ危険だということを教えてくれている名言です。
「平氏を滅ぼすものは平氏なり、鎌倉を滅ぼすものは鎌倉なり」
幕府を開く者として、徳川家康自身への戒めとして残した言葉です。組織というものは外からの攻撃よりも内部から崩壊していくということを歴史上の平家と鎌倉時代を例に出して、徳川家康は自分を戒めていました。内部にいては、その崩壊に気付きにくいということを意味している言葉です。内部告発というような言葉をよく聞きますよね。そういったことから組織は崩壊していくので、内部に敵を作らないようにリーダーは常に注意をしておくべきだということを教えてくれる名言です。
「過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし」
ここでの過ぎたるは、やり過ぎという意味で、及ばざるは、やり足りないという意味を込めています。何事もほどほどがちょうど良く、やり過ぎることはやり足りないことと同じくらい良いこととは思わないといった意味の名言です。悪いことはもちろんですが、良いこともやり過ぎると時には害になりえます。ほどほどに切り上げるのがいちばん賢い方法だということを学ばせてくれています。やり過ぎると自分自身も疲れてしまうので、そうなってしまっては意味がないですよね。
「愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない」
この名言には「でなければ、聴くに値することを言う者までもが、発言をしなくなる」という言葉が続いています。愚かなこととは嫌味などを含めていて、それを言われた時に自分がどう接してどう対処するかを周りは見ているという意味の名言です。嫌味を言われて腹を立てたりするより、うまくかわしている人には人が集まります。そして賢い人も発言をしてくれるようになっていきます。自分が周りからどう見えているかを考えましょうということを教えてくれる名言です。
「天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず」
天下を取り国を治める者は自分1人だけの天下と思わずに国民の心を思い、国民に寄り添った政治をせよという意味を込めた名言です。戦を好まなかった徳川家康らしい名言ですね。この名言は、会社の社長などに心に留めておいてほしい名言です。自分1人では何も成り立たない、下にいる人の気持ちに寄り添うべきだと理解してくれているリーダーなら、部下を不当に扱ったりもしなくなります。誰かの上に立つ人こそ、こういう気持ちを忘れてはいけませんよね。

徳川家康の名言や、その意味を紹介してきました。徳川家康はの名言には誰かを諭しているものより、自分自身を戒めている言葉多くありましたね。戦を嫌い、辛抱強く、家臣に慕われていた徳川家康らしい名言ばかりです。人の上に立てる度量を持っていた徳川家康だからこそ本当の意味で戦のない江戸幕府を開府できたのでしょう。ぜひ、徳川家康の名言を参考に今一度自分を振り返る機会を持ってみましょう!  
 
 
 

 

●「負け戦」を選んだ歴史上の人物から学べ
歴史上の人物を見ていくと、みんな成功者ばかりではありません。最高の社会的地位を捨て去って、敢えて負ける道を行く者に人の心は惹きつけられます。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教師の松尾英明さんが、歴史上の人物に関するエピソードを例に出しながら「逆風が吹くことがあっても、自分の信念をもって前向きにチャレンジしていこう」と熱く語りかけています。
「負けるとわかっていても、やる」
先日の鍵山教師塾での学び。この学習会は、「こうすればこうなる」系のノウハウは全く身につかない。徹底的に話し合い、考え方を身に付ける、ある意味哲学的な学習会である。
講師の執行草舟先生の話で、「負けるとわかって誰かに味方して、負けた人に、人は魅力を感じる」という話があり、これがすとんと腑に落ちた。
なるほど、歴史上の人物を見ていくと、成功者ばかりではない。最高の社会的地位を捨て去って、敢えて負ける道を行く者も多い。その中でも特に人気のあるのは、西郷隆盛だろう。土方歳三もそうである。若き日の高杉晋作も、その無茶に従った伊藤博文も、明治維新の志士はみんなそうである。
吉田松陰の有名な言葉、「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」の精神である。損するとか失敗するとかは、志の前には二の次なのである。講師の執行先生は、これらの精神に対し「不合理を愛する」と表現している。
やはり、人の心を惹きつけるのは、そういう人物である。後生の人々の心に残るのは、不合理を愛した人達である。逆に、うまく時流に乗ってとんとんといったと伝えられる人物は、意外と不人気である(しかしながら、そういった人達の作った制度に、救われている面も否めない)。
ともすれば「こうすればうまくいく」に飛びつきたくなる。私自身、そういう方法を使うことが実際に多いし、紹介もしている。
しかしである。「スマート」はほめ言葉だが、人間というのは心の底で、泥臭い方が好きという面がある。
「負けるとわかっていても、やる」。その覚悟をもって事に当たれば、こわいことは何もない。新しい職場、新しい学級。逆風が吹くことがあっても、自分の信念をもって前向きにチャレンジしていきたい。

●仕事をする上で「負け戦」を積極的にすべき理由
負け戦は自分自身の成長に必要なもの
負け戦とは、負けた戦いや負けると決まっている戦いという意味です。仕事において負け戦はよくないと考えがちですが、そうではありません。勝負の世界で、勝ちにこだわることはとても大切です。しかし、負けない戦いばかりをしていては自分自身の成長にはつながりません。社会人として経験を重ねていくと、敗北感や劣等感を味わうこともあります。そんなときこそ、成長のヒントが隠れているのです。
「負けを知らない戦いばかりをしても意味がない」
自分は仕事できる人間だと自信を持つことは、悪いことではありません。しかし、世の中にはもっと高いレベルで仕事をする人が大勢いるのです。その中には、多くの経験を積んでいる人もいます。そうした人と対峙したときに、「自分はまだまだ」と感じる瞬間が訪れるのです。もしも負け知らずの環境にいるのであれば、より高いレベルの環境で働くことをおすすめします。
負け戦を受け入れて対策を講じることが成長のカギ
社内の営業成績でライバルに負けてしまったり、商談で相手の思う通りになってしまったり、売上やノルマが達成できなかったり。このような状況であっても、きちんと負けを受け入れて対策を講じるようにしましょう。負けた原因は何だったのか。次の機会に負けないためにはどうするべきなのか。負け戦で成長するためには、負けても腐らずに立ち上がることが大切です。ビジネスは、一度負けたからといって終わるものではありません。負けを追求して、自分を磨きあげていくものです。自分の実力を知り、一歩一歩積み上げていきましょう。決して、焦ったり急いではいけません。それが、仕事で成長するということです。
「高いレベルにいる人と過ごして自分を奮い立たせる」
自分自身が成長するために、自分よりも高いレベルで仕事をする人との機会を積極的に作る人もいます。例えば上司とのお酒の席、自己啓発セミナー、同業種で大手企業に勤める役職者など。このような人たちと過ごすことにより、劣等感を感じて自分を奮い立たせるのです。0勝10敗であっても、10回の成長の機会を得たと考えるべきです。
仕事において負け戦は自分自身を成長させるもの!経験を積み重ねて強みに
いかがでしたか。仕事における負け戦の重要性についてご紹介してきました。負け戦は、仕事において自分自身を成長させるものです。成長というのは、毎日の積み重ねで少しずつ磨かれていくということです。負けを積み重ねるのは、経験を積み重ねることにもなります。経験は、成長していく過程で必要不可欠です。仕事ができる人や経営者は、想像以上に負けを経験しています。勝ちにこだわらず、負け戦であっても立ち向かっていきましょう。

●「負け戦」から学ぶこと
先日参加したワークショップの中で、以前から懇意にしていただいているビジネスパーソンの方が面白いことを言っていた。
「負け戦には必ず理由がある、理由なき敗北はない」「逆に、神風が吹いてたまたま勝つことはあるかもしれないけれど、それはいつか『負ける』」
確かに、一度吹いた神風頼りに考えなしに戦を仕掛けても、いつか神風は吹かずに負ける。過去の歴史上の戦いでも、絶対に負けには理由があるはず、それを学ばずして『勝ち続けること』はできない。
私自身も、これまで負け戦の経験は何度もあるけれど、それをしっかり振り返ることができているだろうか? 戦国の世でもないのだし、負け戦で死ぬことはないのだから、何度だって振り返ることはでいるはず。孫子の戦略でも勉強してみようかな、と思った今日この頃。

●負け戦から学ぶ
浜松市の「市役所南」というバス停で降りると、一本の松がある。浜松城の目の前だ。近くに寄って案内板を見ると、家康が見方の合戦で武田信玄に完敗し、ほうほうの体で城に逃げ帰った際、鎧を脱ぎ、大きな松の木の木陰で休んだ時にちなんでいるという。現存する松の木は、地元の人たちによって植えられた松の3代目にあたると書かれている。家康が生涯に経験した負け戦は、この時が唯一だと言われる。小牧・長久手の戦いでは、後に天下人となった秀吉に勝っている。家康といえば、戦上手というイメージはなく、どちらかといえば政治家肌だが、案外、戦に強いのだ。
三方原の合戦で破れ、浜松城に戻ってから急ぎ絵師に描かせたという家康の肖像画が有名だ。赤い床几に腰掛け、左手を頬に当てている姿は、よくある勇ましい肖像画ではない。目はなにかに怯えているようでもあり、武将であればけっしてひと目に晒したくないシロモノだ。しかし、負け戦を生涯の教訓にしようと思った家康は、あえて惨めな自分の姿を描かせ、後の戒めにするため、いつも身近なところに置いていたというのだ。
その絵が描かれたのが合戦の直後かどうかは怪しい。しかし、「いかにも家康ならそういうことをするだろう」と思わせるところが重要だ。勇ましい武将は掃いて捨てるほどいた時代、この冷静沈着さが天下をとった秘訣なのだと納得させられる。
それにしても時の運とは皮肉なものだ。無敵の行軍を続けた信玄は、京に登る途上で病に倒れる。それによって絶体絶命の危機を脱した信長は息を吹き返し、天下を取るやに見えた。それもつかの間、光秀に討たれる。
弔い合戦で株を上げた秀吉は天下を取るが、もとより治世の才は乏しく、朝鮮出兵などの愚策を重ね、政権の基盤を自ら脆弱にしていく。
後の世から見れば、信長、秀吉、家康の3人の能力は比べるまでもない。圧倒的に総合力で家康が勝っていた(心情的に信長という人物には惹かれるが)。

●負け戦から学ぶ
映画やドラマの場合多くの結末はハッピーエンドです。多くの人々は結末が悲劇で終わることを望みません。「ピーク・エンドの法則」というものがあり、「エンディングの印象が経過時間のすべての想い出の形を作る」というものです。つまり、終わりよければすべて良しであり、途中の経過において辛いことや嫌なことは終わりがよければ、脳ミソは良き想い出としてずっと印象に残るのです。ですから、モノゴトには途中経過よりも達成感を大切にしたほうが幸せな気分になれるのです。
さて、ハッピーエンドや成功の体験というのはストーリーとしては美しくても学ぶべき本質を見た時には決して良いことばかりではありません。失敗した時の体験を検証し、なぜ負けたのかを検証し、それを改善していくほうが、実学として重みのあることなのです。つまりは負け戦から学ぶことが重要なのです。戦国時代の各種の合戦も負けた側から見ると何が悪いのかという本質が見えてくるものです。関ケ原の合戦においても石田光成率いる兵士の数も多かった西軍がなぜ負けたのかのを検証することによって見えるものがあります。歴史に「もしも・・・」は禁句ですが、豊臣秀頼が出兵していたら・・・西軍総大将である毛利輝元が出兵していたら・・・歴史は違った展開になっていたかもしれません。
うさぎとかめの競争においてもなぜうさぎが負けたのかを検証すれば本質が見えてきます。うさぎはかめに負けるはずはないという慢心から昼寝をしてしまったことが最大の敗因であることは誰もが知る事実です。その事実から、うさぎがすればよかったことが見えてきます。つまりはゴールしてから寝ればよかったことですし、かめに負けるかもしれないという危機感を常に持っていなければならないという基本を忘れなければよかったのです。
負け戦から学ぶことを訓練しておけば、日常に深い学びがたくさん落ちているはずです。

●折れない心を作るコツ
どんな優秀な人でも、失敗や挫折を経験することはあるはずだ。
失敗は誰もがすること。大事なことは、その失敗を今後どう生かすか。それで、その人の将来は変わってくる。
もし大きな失敗をしてしまった時、どう乗り越えるか。それは、その人の心の強さにもかかっているだろう。何が起きても乗り越えられる、折れない心はどのようにすれば、つくることができるのだろうか。
失敗や挫折の経験は、今後ビジネスの世界でたくましく生き抜いていくためのノウハウを学び取ることができ、今後の自分にとって貴重な財産になる。
ただし失敗や挫折の経験が、そのまま貴重な財産になるわけではない。それを貴重な財産に変換するには、ちょっとした考え方のコツが必要になってくる。そのコツをイソップ物語、ギリシャ神話、ブッタ、孔子など世界中の民話や偉人たちの言葉をもとにして紹介しているのが『それでもあなたはうまくいく 折れない心を育てる88の種』(植西聰/著、マガジンハウス/刊)だ。
人生、良い時もあれば悪い時もある。うまくいっている時こそ気をつけなければならない。
例えば、若手社員にもかかわらず、自分が仕掛けた仕事が次々に成功して、上司たちからはかわいがられ、同僚たちからももてはやされる。そんな状況の人ほど注意しなければならない。
江戸幕府の初代将軍である徳川家康は「戦に行けば連戦連勝、いまだに負けた経験がない武将ほど、手痛い失敗をして自滅していくものだ(意訳)」という言葉を残している。
この家康の言葉は、やり手の若手社員にも通じるところだろう。
仕事で勝つことしか知らず、失敗した経験がない若手社員は、やがて自分の力量にうぬぼれるようになり、大きな過ちをおかしかねない。その意味では、若いうちに一度や二度失敗や挫折を経験しておくほうがいい。
失敗や挫折を経験することで、仕事を慎重に進め、よく考えてから決断、行動するようになれるからだ。
家康自身、若いころに連戦連勝で思い上がっていた時期があったようだ。しかし、武田信玄に攻め込まれた時に、相手の力を甘く見て結局は散々の負け戦を経験した。
以来、家康は「慎重にものを考え、相手の力を甘く見て軽率な行動をしない」ということをモットーにするようになったと言われている。
うまくいっているときでも、調子に乗らない。いい気にならない。
簡単なことだが、忘れてしまいがちなこと。童話や偉人たちの言葉から得るものは大きい。失敗や挫折から、折れない心を育めば、将来の大きな成功につながるはずだ。

●最終的に勝つ人の「絶対に負けない技術」
実は「攻める」より「守り」を指南
多くの人は、勝とう勝とうとして頑張っています。キツいけど、競争が激しいのだから仕方がないと言いながら……。しかし、そんな戦い方がいつまで続けられるのでしょうか。
実は、最終的にその他大勢から抜け出す人は、勝とうとする前に「負けない姿勢」で戦っているのです。年金受給年齢の引き上げに伴い定年が延び、一線で戦う年数が長くなっています。 長寿化もあってビジネス人生は長くなる一方です。こうした中、短期的に勝つことよりも長期的に見て、「負けないこと(守り)」が求められるのです。
孫子は兵法書ですから、戦争が題材です。命のやり取りをします。だから負けたら即、人の死や国の滅亡がやってくることを前提としています。兵法書なので、勝つための戦略や方策が書かれているように思う人が多いのですが、実は「負けないための指南本」なのです。負けたら本当に終わり(=死)だからです。
孫子は、「先ず勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ」 べきだと言っています。先に負けない備えをしておいてから、敵がミスをしたり弱みを見せるのを待てと言うのです。それはなぜかと言うと、「勝つ可からざるは己に在り、勝つ可きは敵に在り」だからです。
負けない準備は自分で事前にできるが、勝てるかどうかは、敵の出方次第だと言うのです。ですから、まずは負けない準備が大切なのです。
そこで、この記事では、孫子の兵法から導き出される、負けないルールを4つご紹介したいと思います。
負けないルール1:勝算が高い状態で、戦う
孫子は、「算多きは勝ち、算少なきは勝たず。況んや算無きに於いてをや」と言いました。戦う以前に勝算が多かった方が勝ち、勝算が少なかった方は負ける、そもそも勝算がないようでは話にもならないというのが孫子の考え方です。そして、準備段階、作戦段階で勝てるかどうかはわかるだろうと言うのです。事前に勝算を高めるために準備を万全にする。これが負けないために重要なことです。出たところ勝負で、何とかなるだろうという考え方ではダメなのです。
孫子は、「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む」とも言っています。勝つ方は先に勝つという見通しがたってから戦い、一方、負ける方は戦いを始めてからどうやったら勝てるかを考えているのだというのです。
表ではつねに平静を保ち、内面は奥深く
負けないルール2:何を考えているかわからない立ち位置で待て
野望や野心を表に出し、強気で攻めて行くのが、勇猛でカッコいいように感じますが、それで負けては元も子もないし、目立てば必ず敵を作るものです。時が来るまで、野心を見せずじっと待つことが重要、と感じたことのある人は少なくないのではないでしょうか。
孫子は、「将軍の事は、静かにして以て幽く 、正しくして以て治まる」と教えてくれています。将たる者は、表ではつねに平静を保ちつつ、内面の思考は周囲からうかがい知れないほど奥深い。だから何事につけ公正で的確な判断ができ、うまく組織を動かせるというわけです。ペラペラと軽口で、余計なことまで喋ってしまっていては、口は災いの元と笑われることになってしまいます。周囲の人から、あの人は何を考えているのかうかがい知れないが、結果としてあの人の言うことが正しいと気づくと言われるくらいでなければなりません。
そして、孫子の有名な一節。
孫子曰く、「始めは処女の如くにして、敵人、戸を開くや、後は脱兎の如くす。」
しおらしく控えめにしておいて、相手を油断させ、チャンスと見たら脱兎のごとく動くのです。エネルギーを溜め、敵の隙を伺い、いざという時に一気に動く。まずは、おとなしく待つのが肝要なのです。
負けないルール3:自分だけで頑張らず優秀な人を動かす
どんなに優秀な人でも、世の中のあらゆることを自分ひとりで把握し、理解することはできないでしょう。世界中を飛び交う情報をすべて把握することもできません。しかし、負けないためには世の流れ、世界の情勢、敵の動きをつかんでおく必要があります。
孫子は、諜報活動(インテリジェンス)を重視しました。孫子13篇の中には「用間篇」という、間諜(スパイ)をどう使うかを解説した篇があるほどです。そこで孫子は、「惟だ明主・賢将のみ、能く上智を以て間者と為して、必ず大功を成す」ものだと言いました。
優れた国王や将軍だけが、優秀な人間を間諜として動かし、大成功を収めるものだと孫子は言うのです。自分ひとりだけが頑張り、能力を高めるのでは足りないのです。いかに優秀な他人を集め、使うことができるか。負けないためには人の助けを借り、人の持つ情報をうまく取り込むことが重要なのです。
鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの墓碑銘に、「自分より賢い人間を周囲に集める術を知る人間がここに眠る」と刻まれたように。自分より優秀だな、自分にない長所を持った人だな、自分が弱い分野に強い人だな、という人たちになるべく出会い、その人たちを活かすことを考えましょう。自分ひとりの力には限りがありますから。
焦って戦わず、長期戦に持ち込むべし
負けないルール4:10年先、20年先の戦う場所を決める
今すぐには勝てなくても、5年後、10年後、20年後であれば勝てそうなテーマや領域というものがあります。どうせ人生は長いのです。焦って戦うのではなく長期戦に持ち込みましょう。その時大切なことは、戦う場所とタイミングを自分で決めるということ。追い詰められて戦わざるをえなくなるのではなく、自分が主体的に動かしていくのです。
孫子は、「戦いの地を知り、戦いの日を知らば、千里なるも戦うべし」と教えてくれています。決戦の地がどこで、いつ戦いが始まるかがわかっていれば、はるか遠い地であっても戦ってよいというわけです。なぜなら、きっちり事前準備できるから。
仕事や人生も同様です。10年もあれば、大概の分野でそれなりの専門家になれます。20年もあれば、第一人者になるのも充分可能です。20年も経つと、その道の大先輩たちはこの世から消えてなくなることも多いでしょう。現状の延長線上で考えず、発想を変えてみるのに、おすすめしたいのは20年後です。20代なら40代でどう戦うか考えてみましょう。30代なら50代。それなりの地位や立場に立っていると思います。
それはどの分野でしょうか。そこに向けて臥薪嘗胆です。臥薪嘗胆とは、孫子の兵法を生んだ呉越の戦いから生まれた故事成語ですね。その時は負けたように思えても、そこで諦めるのではなく、薪の上で寝たり苦い肝を舐めて、悔しさを忘れずにリベンジを狙うのです。負けたと思って諦めたらそこで終わりですが、負けた反省を次に活かせば大丈夫。まだ終わっていません。
この時、ヘタなプライドがあったりするから、ちょっとした失敗で心が折れて、「俺はもうダメだ」なんて言い出すことになるのです。勝とう勝とうとせず、負けないこと。再起不能の大敗がいちばんまずいのです。小さなプライドを頼りに、「気合と根性じゃ負けないぞ」と強大な敵に挑んで行ったりするから、ズタズタにされて再起できなくなるのです。
そんな人のために孫子は、「小敵の堅なるは大敵の擒なり」と忠告してくれています。力もないのに、強い敵に向かって突撃したら、飛んで火にいる夏の虫になるよというわけです。こんなことをしてはいけません。悲しくても、辛くても、悔しくても、恥ずかしくても、じっとチャンスを待って、耐え忍ぶのです。20年後に自分が設定した場所で勝てばいいのですから。
こうした「負けない姿勢」を10年、20年と継続できる人が、その他大勢から抜け出し、人生という長距離レースを笑顔で終えることができるのです。これが、2500年もの時を経ても尚、洋の東西で高く評価される孫子の智恵なのです。

●「勝ち戦」と「負け戦」
吉田松陰が記した言葉で、孟子の教えを引用したものなのですが、「先生のもとで学ぶときにはまず、心から先生につきたいという真摯な心があって、何を学びたいのか具体化するべきである。先生につくのは、それからだ」という言葉があります。これは、目的意識、目標、自主性、準備への心構えを説いた言葉であります。また孫子の兵法には、「勝ち戦というのは、目標達成までの明確なプランを描いて実行するもであり、負け戦というのは、何のプランもなく戦い始め、戦いながら勝利への道を模索するもの」と記されています。とりあえずやってみよの精神じゃあ、そりゃ負けますよと。言っています。
「行動力」、この言葉は今の現代で最も重要なキーワードの1つとして、存在していると思います。量は質に転嫁する、圧倒的行動を起こしたものが成功をする、まず行動!考えるのはそれからだ!というような言葉がたくさん見受けられます。ん?吉田松陰や孫子の兵法と逆のこと言ってる?と僕は思います。僕自身「行動力」という言葉は好きですし、その行動力という言葉の持つ本質も好きです。実際「行動」に起こした結果、良い成果も受けました。直近では、この1月も自分の「この行動」という明確なものがあり、少し重い腰を上げたことが、1カ月で感謝しきれないありがたいことが起きました。なので、「行動力」は好きですし、行動をしている人はもれなく尊敬します。しかし、行動する前に「明確なビジョン」を持たないと負け戦になる、という孫子の兵法、「何を学びたいかを明確」にしてから学ぶ、という吉田松陰の言葉。やはり相反するように思われます。
僕が思うに「行動力」のある人は、もれなく「行動しながら、同時に明確なビジョン、プランを構築」していると考えます。歴史上の偉人や伝記上の言葉や記述は、あくまで言葉や記述だけであり、実際の吉田松陰を見たものは1人もいません。そして結果として言葉と記述だけが残ったという事実だと思います。今回の記事は僕の推察及び考察の、主観以外の何ものでもありませんが、おそらく吉田松陰も、ものすごく行動していた人だと思います。そして幕末の時代、日本変革真っ只の中、行動もせず、考えもせず、だらしなく過ごす人への叱責の意味も込めて残したような言葉だと思います。現代でいうと、とりあえず大学行ってから考える、というような行動を全く認めないことだと思います。
真っ先に行動する、そして同時に明確なビジョンを描いていく、という意志が必要である、という言葉に僕は聞こえます。そして、その「意志の強さ」が成功か失敗か、勝ち戦か負け戦か、につながるということだと思います。

●しぶとく江戸の世を生き抜いた敗将に学ぶ
関ヶ原の合戦は、よほど歴史が苦手な人でも、日本中の武将が東西に分かれて争った「天下分け目の合戦」だったということを知っているはずだ。だから、その合戦で負けた西軍の武将はひとり残らず処分され、歴史から消え去ったと思っている人が多いかもしれない。しかし、実は、一時的に憂き目を見たものの、後に復活してしぶとく江戸時代を生き抜いた武将もいた。同じ関ケ原の敗将でありながら、両者はどこが違ったのだろうか? その理由に迫るため『「その後」が凄かった! 関ヶ原敗将復活への道』を紹介する。
この本では、関ヶ原敗将の復活劇を語る前に、どんな武将が戦国時代を生き抜けたのかという話をしている。実は、戦国時代には負けを知らない常勝の武将など誰もいなかった。軍神といわれた上杉謙信や武田信玄も、織田信長や豊臣秀吉も負け戦を経験し、敗戦から学んだことを次の戦いに活かしていた。中でも、戦国の世を最後まで生き延び、江戸幕府を開いた徳川家康は、負け戦の屈辱を絵師に描かせ、目に焼き付けていたほどだ。彼らの強さは、負けないことよりも命を落とさないことを重視し、負け戦の中から学んだことを活かせる「次の機会」を作り出すことに全力を注いだ点にある。
関ヶ原の敗戦後、改易になったまま滅亡した大名家が90家もある。つまり、復活できた大名家はほんの一握りに過ぎない。しかも、ほとんどが1万石前後の小大名としての復活だった。そんな中、10万石を超える大名として復活できた敗将が2名いる。立花宗茂と丹羽長重だ。彼らは他の武将とどこが違ったのだろうか? この本の言葉を借りるなら「敗者としての体験を次に活かせたから」だ。
立花宗茂は、領地を奪われ困窮しても詫びを入れ続け、大坂の陣の前に豊臣方からどんなに誘いを受けてもなびかず、ぶれない姿勢を見続けた。一方、丹羽長重は、義兄弟である秀忠の口利きで復活したのだが、それに甘んじず、持ち前の築城技術を関東の守りに活かしたことが評価され、生き残ることとなる。
関ヶ原の合戦以前は、世の中の形勢がまだどちらに転ぶかわからない状況だったから、豊臣への恩義や個人的な情によって西軍に付いた武将も多かった。しかし、関ヶ原後は違う。徳川に流れが移っていることは誰が見てもわかったはずだ。時流を冷静に受け止め、いくら家康から煮え湯を飲まされても、自分は徳川の世で生きていくのだという姿勢を貫いたのがこの2名だった。裏切りが日常茶飯事だった戦国の世を生きた家康が復活を許したのは、「こいつは裏切らないだろう」と信じられたからかもしれない。
10万石に届かずとも、一旦領地を失いながらも大名として復活できた武将には共通している点がある。窮地に立たされた時に手を差し伸べてくれる人がいたり、見捨てずに従ってくれる家臣がいたりした点だ。ただし、姿勢に一貫性がなかった人や、口利きをしてくれた相手に恩を返すことなくただ甘えてしまった人は、一度復活を果たしても逆戻りして浪人として一生を終えたり、再度領地を失ったりしている。結局、情に流されるだけで、しっかりとした人間関係を作れなかった人は、昔の恩義に振り回されて時流を読めなかった敗将たちと同じ道をたどってしまったのだ。
今の時代、リストラや会社の倒産などによっていつなんどき憂き目に遭わされるかわからない。大きい敗戦で初めて慌てても遅いのだ。そこから復活できるかどうかは、それまでに蓄えてきた知識や人間関係によるところが大きい。大敗を経験する以前の細かい負けをどうとらえてきたか、そしてどう次に活かしてきたかを考えてみよう。人情に流されてはいけないが、周りとの信頼関係は重要だ。救いの手を差し伸べてくれる人がいなければ復活はできないことに早く気が付いておきたい。

●『太平記』の世界 / 英雄になった楠木正成
『太平記』に描かれた人物で、大衆に人気が高かったのは楠木正成です。常識を超えた戦術を次々と生み出す「謎の人物」正成は、新しいヒーロー像として人々に強く印象づけられました
『太平記』の中で、もっとも物語性に富んだ人物が楠正成(くすのきまさしげ)です。「南北朝の動乱」で後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に従い南朝側について戦ったとされますが、出身地も生年も不明です。河内を中心とする地帯で活躍した豪族といわれ、組織的な行動力によって幕府や荘園領主と対決したために、支配層からは「悪党」と呼ばれました。
後醍醐天皇に尽くした正成ですが、「建武の新政」後、公家の政治にはもはや武士を抑える力はないことを感じており、後醍醐天皇に尊氏と和睦するよう進言しましたが天皇は聞き入れません。勝ち目のない戦と知りながら、やむなく出陣した湊川の戦いで正成は足利軍に敗れ、自害したとされています。
常識を超えるようなゲリラ戦術を駆使した正成は、天才的な戦略家であったと伝えられています。また、武士の主従関係が利害によるところが大きく、敵対する勢力へ寝返ることもめずらしくない時代に、負け戦と分かっていて後醍醐天皇のために命を捨てた正成は、『太平記』の中で、好意的に描かれました。
武略にかけては絶対の自信を持ち、主君に対して遠慮なく批判を加える忠臣・正成には早くから大衆的な人気が集まり、江戸時代には「太平記読み」の題材にもなっていきます。
「赤穂事件」で討ち入りを果たした大石内蔵助を、庶民になじみ深い英雄となっていた楠木正成になぞらえる風潮があったようです。
吉良家は足利一族の血を引く名門で、その血筋を断絶させた内蔵助は、足利と戦った楠木正成の再来を連想させたのです。同時に、主君の無念を臣下である自分の無念として、みごと晴らした内蔵助の姿に、江戸の人々は正成の姿を見ていたのかもしれません。

●孫子に学ぶ売るためのIT化
孫子の兵法は、「負け戦はしない」「勝てる相手としか戦わない」ということに集約できる。そこで重要になるのが、勝つか負けるかを戦う前に判断するための情報である。孫子の兵法の要諦は『情報力』にある。だから孫子は、情報をもたらす間諜(スパイ)を重視した。敵の情報を取ってくる間諜は、現代企業の営業マンである。営業マンの『情報力』がビジネス戦争の勝敗を決するのだ。営業部門の情報力を支えるITツール(SFA/CRM)と孫子の兵法はそこで融合する。孫子の考えた情報力について取り上げてみたい。 .
   事前に「お役に立てる」確信を持った顧客を訪問するべきである.
   孫子曰く 古の所謂善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。.
孫子 優れたリーダーとは、勝ちやすい相手に勝つ者である。なぜなら負けは死を意味するからだ。負け戦は決してしてはならない。そこまでの覚悟を持って営業部隊を率いているリーダーがどれだけいるだろうか。「当たって砕けろ」などと無責任な言葉を発していないだろうか。営業は、お役に立てると確信した顧客に対してのみアプローチすべきなのだ。
どんな顧客でも良いから、買ってもらおうとするような無理をする営業は、時に「大手柄」を生んだり、その涙ぐましい努力は賞賛されることがあるかもしれないが、多くの場合、お客様に喜ばれることも少なく、大きな成果も得ることはできない。仮に大きな成果を生んだとしても、間違いなくその裏には多大な無駄とコストがかかっており、企業全体としては、決して誉められた話ではないのだ。
それよりも事前に顧客のニーズをつかみ、事前の調査や仮説検討、上司−部下の事前検討を行って、お役に立てると確信を持てた先(見込客)を訪問することに時間をかけた方がよい。こうした「小事」と「当り前」の積み重ねが、肝要である。ここで活用すべきなのがSFA・CRMに蓄積された、商談履歴と成功事例である。この情報は日々の日報入力によって蓄えられたものだから、飾りがない。生きた情報である。これまでの経緯と他の事例を基に、お役に立つ(勝てる)ストーリーを事前に描くのだ。本人がお役に立てるとも思っていない顧客に対し、商談したり提案したりするというのは顧客を馬鹿にしている。当たって砕けるのは勝手だが、当たられる顧客の身になってみよと言いたい。.
   相手の立場に立って考えた上でどう動くか決めよ.
   孫子曰く 善く敵を動かす者は、之に形すれば敵必ず之に従い、之に予うれば敵必ず之を取る。.
顧客を動かすためには、まず顧客の立場に立ち、顧客の求めるもの、顧客の利点や利益は何かを知ることが大切である。こちらの都合や自社の利益のために相手を思うように動かそうとしても、うまくはいかない。孫子は、相手を知れば、相手を思うように動かすことができると説いた。
単純に、顧客の立場に立ち、顧客の利益を考えていれば良いとなれば、何でもかんでも安くして、値引きすれば良いとなる。何しろ顧客は少しでも安いものを求めているのだからと考えては、孫子の兵法を活かすことはできない。
そこで必要になってくるのがSFA・CRMである。過去からの商談履歴や購買履歴を参照しつつ、顧客の本当のニーズや目的を探るのだ。特に法人向けの営業においては、直接面談している担当者の社内での位置関係、力関係などを把握しておくことが非常に重要である。その顧客企業にとっては利益のあることであっても、その担当者の顔が潰れて、評価が下がるといったことも少なくない。パーソン情報は、このようなときに力を発揮する。どういう立場の人で、前職はどういう仕事だったのか、営業担当者が気付いたちょっとした情報も蓄積しておく。これが引き継ぎなどを行う際に役に立つ。さらに、この人の部署が変わろうと、転職しようとずっと個人単位で情報を引き継いでいくと、確実にこの人が望むものを把握できるようになる。そして、その望む利を見せつつ、自社の利を実現する方法を作り出すのである。
孫子の教えの根幹は「彼を知り己を知る」情報力にあったのだ。.

●「七人の侍」に学ぶプロジェクトマネジメント
黒澤明監督の名作「七人の侍」をご覧になった方は多いだろう。多くの映画評論家が日本映画の最高傑作と位置付けている。ジョージ・ルーカスはじめ海外の映画監督にも影響を与えた作品である。よく練られた脚本、迫力あるアクション、正確な時代考証、どれを取っても一級の娯楽作品である。この不朽の名作を全く別のビジネスの視点から読み解いてみよう。まだご覧になっていない方は一見をお勧めする。以下、映画のあらすじを追って考察を進めるので、未見の方はご注意願いたい。ただ、この映画は何度見ても面白いという人が多数なので、あらすじを知った上で見たとしても鑑賞の価値を損ねることはないと考える。
経営戦略――侍に業務を委託
映画の冒頭、野武士の群れが山間の小さな村を襲う相談をしている。偶然居合わせた村人がこの話を聞き、村は大騒ぎになる。野武士は前年にも村を襲撃しており、このとき村人はなすすべもなく、多大な代償を払って辛くも切り抜けていた。今回はどうするべきか。村人達の意見は分かれるが、村の長老は他の村の成功事例を参考にして、腹の減った侍を雇って野武士と戦う決断をする。
村人の日常業務は稲や麦の栽培であるが、今回は野武士撃退というプロジェクト遂行を選んだのである。村人はプロジェクトの専門家ではない。そこで腹の減った侍、つまり外部専門家を招請し、指導と支援を仰いで野武士に立ち向かうことにしたのだ。
「やるべし!」は、長老のプロジェクト遂行に関する意志決定である。
街に出た村人は当初は行き当たりばったりで侍の採用を画策し、良い結果を出せなかった。人材発掘は難しいのである。たまたま豪農の子供を盗人から救った島田勘兵衛(志村喬)を見つけ、曲折を経てプロジェクト専門家として採用に至り、以降は勘兵衛をプロジェクトリーダーとして業務全般の委託をしている。
侍の報酬はプロジェクト遂行中、腹いっぱい飯が食えるというだけであり、命がけの業務に対する代償としてはささやかなもので、参加を断わる侍が大多数であった。実際、プロジェクト終了までに7名中4名が亡くなっている。その中で集まった七人の侍の動機はいろいろであるが、自発的に参加したという意味ではNPO活動ととらえることもできるだろう。
プロジェクト遂行――一貫したブレない進行管理
七人の侍はプロジェクト遂行のための外部の専門家であり、村人は日常業務を遂行する業務担当者ということになる。
リーダーである勘兵衛は優れたリーダーシップを持つ優秀な戦略家であり、有能なプロジェクトマネジャーである。リーダーシップに関しては、何人かの侍が勘兵衛のリーダーシップに感服して参加したと述べている。文字通り寝食を共にした侍達が議論を交わす場面が何回も出てくるが、勘兵衛は自然な流れで会議を進めながらも、適切に各人の意見を集約し、良い意思決定をしている。
勘兵衛のプロジェクトマネジメントを見てみると、
• プロジェクトチーム結成:必要人数七人の見積もり、メンバーのスカウト、評価
• プロジェクト企画立案:地勢分析、村の要塞化、守備体型の整備、戦い方の決定
• 意思決定:砦への先制攻撃、最終決戦の決断
• プロジェクト領域の決定:橋向こうの離れ家の放棄
• プロジェクト遂行管理:各持ち場担当者への指揮・指導、倒した野武士の記録
• 組織の学習と成長促進:離反者への強権的指導、村人への戦闘訓練
など全体を通してプロジェクト遂行管理にブレがなく一貫しており、的確にチームや依頼主を掌握、統率している。
ほかの侍たちも役割分担がなされている。特に重要な枠割を果たすのは、専門的能力に長けた久蔵(宮口精二)と依頼主と外部専門家の橋渡しをする調整担当の菊千代(三船敏郎)である。
プロジェクトにおいてはプロジェクトマネジャー、対象プロジェクトの専門家、業務の専門家が必要とされる。ここでは業務の専門家は百姓の利吉(土屋嘉男)である。
ほかにも片山五郎兵衛(稲葉義男) は勘兵衛の補佐参謀役、七郎次(加東大介)は上司の勘兵衛に絶対的な信頼を置く優秀な部下、林田平八(千秋実) は人間関係を良好に保つ組織のムードメーカー、岡本勝四郎(木村功) は研修中の新人といった位置づけで描かれている。
プロジェクトの完了――組織の成長
プロジェクトは始まりより、終わりが難しいと言われている。
映画のラストは村人たちが日常業務に戻り、元気よく田植えをしている。映画の冒頭のおどおどとした態度ではなく自信を持っているように見える。プロジェクトを通して組織が成長したわけである。
映画は残された侍の1人が「今度もまた負け戦だったな」と呟いて終わる。
制約が付き物のプロジェクトにおいてプロジェクト屋に真の勝ち戦さはないのだろう。手柄は業務メンバーに譲って、さらなるプロジェクトを目指していくということだろうか。
映画「七人の侍」はビジネスマネジメントを考える上で示唆に富んでいる。改めてそういう視点で鑑賞することをお薦めしたい。

●「経営基盤強化」に効く名言
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(かたき)は敵なり 武田信玄
業務効率化や営業力強化のための設備投資は大切ですが、企業運営にそもそもなくてはならない「従業員」にまで目は届いていますか? 武田信玄の言葉から、経営基盤と人材の関係についてひもといてみます。
武田信玄とは…
あの織田信長が最も恐れていたといわれ、徳川家康を完膚なきまでに打ち破るなど、後に天下を統一する二人の名将に多大な影響を与えた武将・武田信玄。武田の赤備えと恐れられ、戦国最強と名高い騎馬軍団を中心に、生涯で70戦以上を戦い、負け戦はわずかに3戦という常勝軍団を作り上げました。甲斐(かい)の国を平定し、天下統一へと動き出した矢先、京へ向かう道半ばで病に倒れ、天下統一には至りませんでした。しかし、もし信玄の寿命がもう少し長ければ歴史は変わっていたかもしれません。
名言が教える教訓
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(かたき)は敵なり」という武田信玄が詠んだとされる歌です。武田信玄は多くの武将が堅牢な城を築く中で、城ではなく躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)という館を拠点としていたといいます。天然の要害を抱える甲斐(かい)の国の地形も関係しているものの、ここに信玄の経営基盤に関する本質を見ることができます。歌の意味としては、人=家臣/従業員と信頼関係を築き、その能力をフルに活用することができれば、堅牢な城や石垣、深い堀以上に強固なシステムを作り上げることができるといったところでしょう。信玄はリーダーの資質として、人材を見極める力が重要と考えており、実際に身分に関係なく力を持った家臣を優遇していたといいます。武田二十四将にも数えられる高坂弾正は、もともとは百姓の身分であり、同じくキツツキ戦法で有名な軍師・山本勘助も一介の浪人だったそうです。また、戦の前には必ず家臣団を集めた合議制の軍議を行い、家臣の意見に耳を傾けたうえで、政策を決定していました。こうした家臣団が一丸となった体制こそが、武田家の強さの秘密だったのかもしれません。逆に跡取りである武田勝頼は、家臣団をまとめられずあえなく織田徳川連合軍に敗れています。こうした事実からも、リーダーと部下の信頼関係の重要性が伝わってきます。
名言をビジネスの現場に当てはめる
この言葉を現代のビジネスの現場に当てはめると、どうでしょうか?どれだけ見事な経営戦略を立てても、どれだけたくさんの設備投資を行っても、実際にそれを行動に移す従業員にフィットしなければ、それらは効果を発揮しません。業績を上げるために設備投資したものの、使いこなせず結局使われない、なんてことはビジネスの現場ではよくあるのではないでしょうか。武田信玄のいうように人材こそが、企業の根幹といえるかもしれません。
経営基盤強化に当てはめる
武田信玄はこの言葉のとおり、とても家臣を大切にしていたことが伺える政策が数多く見られます。前述の、身分を越えた実力主義による人材登用や合議制などはもちろん、金貨を持ち歩き、戦の場で手柄を立てたものに与えるという、今でいうボーナス制を採用したりもしています。また、家臣が存分に力を発揮できるよう温泉開発も行うなど、現在の保養所のような政策も実施していました。さらに、私塾を開き、家臣の嫡子を集団で学ばせるという人材育成も行っていました。こうした正当な評価や厚い福利厚生、風通しの良い職場を作り上げることで、最強の軍団を作ってきています。こうした福利厚生や評価にまつわる規定は、現代のビジネスの現場でも、社員のモチベーションを高めるために大切な戦略であるといえます。どれだけ大規模な設備投資や、先進的な経営戦略を立てても、従業員が離れていったり、従業員のモチベーションが下がったりしてしまっては意味をなしません。もちろん、経営基盤強化として設備投資などは必要ですが、それは現場に沿ったものでなければならないのです。武田信玄を見習い、外側だけでなく内側に目を向けた経営基盤強化に力を入れてみてはいかがでしょうか?
まとめ
とはいえ、複雑化した現代では全ての従業員の動きを管理・評価するのはなかなか大変なこと。社内の動きが分かるよう、ITの力を駆使するなどして、業務の「見える化」を行うことが必要となります。

●負け戦から学ぶこともある!高句麗から日本へ伝わったもの
皆さんは「高句麗」という国をご存知ですか? 百済(くだら)、新羅(新羅)、高句麗(こうくり)、という3国が朝鮮半島の覇権を争っていたのは4世紀頃。日本では古墳時代のあたりです。この、高句麗をはじめとした百済や新羅、中国などの東アジアとのかかわりは、日本の黎明期に大きな影響を与えました。そんな高句麗と日本のかかわりをご紹介していきたいと思います。
当時のアジア情勢と日本のポジション
日本が高句麗とかかわりを持ち始めるのは、日本がまだ「倭国」と呼ばれていた古墳時代のこと。その頃の朝鮮半島は、中国、日本、朝鮮半島の小国らがその土地の利権と資源をめぐって戦いを起こしていました。中国の北東部から興った高句麗という国は、勢力を拡大しながら朝鮮半島北部にまで支配を広げ、313年、中国の植民地だった楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしました。さらに4世紀後半になると、高句麗は朝鮮半島をさらに南下の進路をとるようになり、同時期に興っていた新羅や百済、加耶(加羅)などを圧迫し始めていました。鉄資源を確保するために、加耶と親交関係の深かった倭国(わこく=日本のヤマト政権)も、当然ながら高句麗との争いに巻き込まれていきます。
高句麗との直接対決!?朝鮮半島で倭国が学んだことは
当時高句麗の都として栄えていた丸都(がんと)、現在の中国吉林省集安市には、高句麗の好太王の大きな石碑があります。その碑文によると、“百残(百済)新羅は旧是れ属民なり。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年よりこのかた、海を渡り百残を破り新羅を□□し、以て臣民と為す”とあり、倭国が高句麗と直接戦を交えたことを伝えています。高句麗はたけだけしい騎馬軍団を持つ軍国主義帝国でした。それまで「馬に乗る」という風習がなかった倭国は、高句麗との戦いで痛いほど騎馬の必要性を感じます。親交関係のあった百済や加耶から技術者を呼び寄せ、馬の育成や馬具などの生産が倭国で始まるきっかけとなったのです。さらに5世紀以降に作られた古墳の中には、これまでになかった馬具が副葬されるようになりました。このことは、倭国に馬の文化が定着していることを示しています。馬は聡明で力も強く、移動手段としてや農耕のため、重いものを運んだり、皮や毛を利用できたりと、人々の生活に必要不可欠な動物となっていったのです。
中国大陸、朝鮮半島からもたらされたもの
この朝鮮半島の戦乱から逃れてきた人々の多くは、海を越え倭国に多く渡ってきました。同時に大陸の多彩な技術や文化が倭国にもたらされたのです。機織りや金属加工技術、焼き物の生産、土木技術などが、その良い例です。倭国は朝鮮半島からの渡来人を積極的に取り入れ、技術組織集団を組織しました。鞍作部(くらつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、陶作部(すえつくりべ)などと呼ばれ、各地に配置されたのです。また、漢字が導入され文字を使用するようになったのもこの頃といわれています。漢字の音を使って、倭人の言葉や人の名前を表記することができました。さまざまな記録や出納も、史部(ふひとべ)などと呼ばれる渡来人が作成を担っていたようです。このようにして、倭国には大陸の優れた文化を吸収する土台が作られていきました。この後も、朝鮮半島からは儒教や仏教、暦や医学、易などがもたらされ、倭国の文化技術のますますの発展がもたらされました。
その後高句麗はどうなったのか
七世紀半ばの朝鮮半島の情勢を見てみましょう。655年、高句麗と百済が手を結び、新羅を攻めています。新羅は中国統一を成し遂げた唐に援軍を求めます。新羅・唐の連合軍は圧倒的な兵力で百済を攻め滅ぼします。しかし百済の遺臣たちは復興を願い、倭国に滞在していた百済王子豊璋(ほうしょう)の送還と、倭国の援軍を要請してきます。それに応えるべく向かったのは斉明天皇(在位655〜661年)のと、乙巳の変・大化の改新で有名な中大兄皇子です。しかし、倭国は大軍を率いるも663年白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いにおいて大敗を喫してしまいました。百済と結んでいた高句麗は、百済の滅亡によって孤立してしまいます。すでに疲弊していた高句麗でしたがおり悪く内紛が勃発、これをチャンスと見た新羅・唐の連合軍は高句麗の都平壌に侵略を開始します。そしてついに668年、東アジア圏内で強い影響力を誇った高句麗は、ここに滅亡したのでした。
日本にもあった、高句麗の軌跡
埼玉県の日高市に高麗神社があります。日高市は、滅亡した高句麗から逃れてきた、一部の遺民たちが住んだとされている地域。近くには高麗川が流れ、ほかにも国の重要文化財に指定されている高麗家住宅や、高麗家の人々の菩提寺・聖天院など、高句麗の名残を感じさせる建物などがあります。朝鮮半島からもたらされたさまざまな文化や技術、そして風習。ルーツをたどれば1500年前に高句麗から伝わったものだった!なんて、とてもロマンがあると思いませんか?機会があれば色々探してみるのも楽しいのではないでしょうか。

●戦う前から負け戦!? 「勝てない」資料に足りないもの
なぜ、その資料では「勝てない」のか?
せっかく1週間かけてパワポ資料を作り込んだのに、結局なにも決められずに来週の会議まで結論は先延ばしにされ、1週間のロスが確定。このようなムダ、あなたも経験があるのではないでしょうか。
私も何度も同じ経験をしてきました。たとえばクライアントが業務で利用するクラウドサービスの選定支援をおこなったときのこと(ITシステムは近年、自社の業務システムをクラウドサービスに置き換えるという流れが加速し、こうした案件がよくあります)。
「A、B、CのうちBが優れています」と比較表とともに提案しても、「コストが気になる」「うちの人間のITリテラシーでも使えるのか」「情報セキュリティの監査がねえ」など、さまざまな理由で何度も突き返されました。
リベンジを繰り返し、ミスチルの「HANABI」よろしく「もう一回 もう一回」とつぶやきながら、歯を食いしばって食らいつきました。これはこれで根性論としては美しいかもしれませんが、仕事としてはまったく美しくありません。
今あらためて振り返ると、「決めきる=意思決定をしてもらう」ために最低限必要なポイントが、当時の私の資料には足りなかったのだと痛いほどわかります。あんな資料を作っても通るはずないよな……と。
いうなれば最初から負け戦の「勝てない資料」だったのです。というわけで今回は、「決められない資料に足りない3つのポイント」を紹介します。
相手を動かせない資料に足りないものは……
「なぜ今決めるべきか?」の決断を迫るストーリー
1つ目は、「今、決めれば大きなメリットがある」ことを相手に実感させる「ストーリー」です。
たとえば、先ほどのクラウドサービスの選定を例に取ります。老朽化した自社の業務システムをクラウドサービスに置き換えたい、と思っているクライアントに対し、最適なクラウドサービスを提案しなければなりません。
この場合のストーリーは、たとえば
「・刷新対象の御社現行システムは、2019年3月に保守契約期限を迎えます
・保守契約費用は1年で約1億円。契約期限までに刷新が完了しなければ、IT投資に回せたはずの1億円が運用保守費に消えます
・それを避けるには、この会議でどのクラウドサービスを選ぶか、方向性だけでも決めなければなりません」
というようなイメージです。つまり、ストーリーとは「Why Now?(なぜ、今か)」を語るものです。
こういったストーリーがないと、相手は「なんで今決めないといけないの?」という疑問を持ちます。なかには、「そもそも、なぜ変えないといけないのか? 今のシステムでいいじゃん。売上をあげたいだけなんじゃないの」という疑念をいだく人もいるかもしれません。こうした疑問や疑念に対して先手を打たない限り、相手は「先送りモード」に入ります。
にもかかわらず、多くの「勝てない資料」にはストーリーがありません。ストーリーをすっとばして、唐突に「今日はあなたに○○を決めてほしいと思っています」と突きつけているのです。これでは決まるはずがありません。
ただし、だからといってストーリーを捏造するのはNGです。加えて、決断しやすいストーリーは相手によって異なります。
したがって、ストーリーは相手を取り巻く状況、相手の持っている課題、意思決定のプロセスなどを、事前にリサーチして組み立てなければなりません。そのうえで、「決めるべきは今」という根拠をもとに語りましょう。
「最終的にどうするべきか」が伝わる明確なメッセージ
2つ目は、「だからあなたはこうすべき」をバシッと伝える「メッセージ」です。
成果につながらない資料は、多くの場合そもそも結論がない、もしくはあいまいです。たとえばあなたが「とりあえずスライドは書いたけど、メッセージライン(タイトル下に書かれる、そのスライドの結論を示す短文)になんて書くか悩んでいまして……」と上司に相談しているとすると、それは赤信号です。
メッセージとは、最終的に「相手にどうしてほしいか」を伝える結論のこと。これが決まっていない、もしくはあいまいだと、当然相手になにも伝わらず、決断につながりません。メッセージが明確であることは、相手に決断させる前提条件といえます。
クラウドサービス選定を例にすると、
「○○の理由から、御社との適合度が高いクラウドサービスBを選ぶべきです」
と明確に言い切ります。
パワポ資料では「1スライド1メッセージ」と言われています。複数の話を1スライドに盛り込む「1スライドnメッセージ(複数のメッセージ)」は言いたいことが伝わりにくいため、1スライドに書く結論は1つに絞る……というもの。資料のメッセージを明解にするためのベストプラクティスです。
これは結論がそもそも書かれていない「1スライド0メッセージ」を避けるチェックにも使えます。資料を作る際は必ず、「このスライドの結論は?」と自問しましょう。
「なんで?」に答える、結論を支えるロジック
3つ目のポイントが、「ロジック」です。
ここでいうロジックとは、「あなたは◯◯すべき」というメッセージに対し「なんで?」と聞いてくる相手に、理由を示すためのものです。そもそも理由もなしに「決めろ」というのは横暴が過ぎます。相手としては、自分が決めたことについて上司や関係者に説明責任を果たさなければならないので、理由は必ず確認されます。理由=「結論を導くロジック」は決めるために必須、ということです。
再びクラウドサービスの選定の例で言えば、「なんでBなの?」という疑問に対する理由は、
「・Aサービスは、業務要件や技術面では適合度が最高だが、コストが予算の1.5倍かかる
・Cサービスは、コストは安く業務要件充足度も高いものの、技術適合の面で導入にリスクがある
・Bサービスは、コストは予算上限を10%ほど超えるものの、主要な業務要件と技術適合面はクリアしている
・コストとリスクのバランスを考えると、Bサービスが良いのではないか 」
というようなもの。
ロジックの立て方にはいろいろなパターンがありますが、基本をおさえるなら「ロジカルシンキング」を学ぶとよいでしょう。結論と理由を関連させ問題解決をする「So What/Why」や、理由の抜け漏れを検証する「MECE」など、ロジックが破綻しないようチェックする考え方がそろっています。
「ストーリー」「メッセージ」「ロジック」が資料の必要条件だ
資料で相手を動かすためには少なくとも、「なぜ今決めるのか」「私はどうすべきか」「その根拠はなにか」の3つの疑問に答えなければなりません。
そのため資料には、要素として「ストーリー」「メッセージ」「ロジック」の3点セットが含まれている必要があります。
ただし、この3点セットがそろっていることは、あくまで必要条件。「戦う前から負け戦」という最悪の事態を避けるためのものです。これを守れば100戦100勝という十分条件ではありません。
お粗末なストーリーでは相手は決める気になってくれません。メッセージがシャープでも、的外れなら無意味です。ロジックが破綻していれば、相手は納得しないでしょう。
とはいえ、世の中の大半の「負け資料」の多くは「戦う前から負け戦」レベルのものであるように思います。そのため、負けるべくして負ける可能性を減らすだけでも、勝率をグッと底上げできるはずです。
ぜひ次回資料を作るときは「ストーリーはあるか」「メッセージは明確か」「ロジックは通っているか」を意識してみてください。きっと今まで見えなかった改善点が見つかるはずです。

●島津の退き口・烏頭坂(うとうざか)
慶長5(1600)年、岐阜県にて起きた関ヶ原の戦い。その結末は語るべくもなく、誰もが知るところだ。小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、その中で孤立状態となった大名がいた。薩摩の猛将・島津義弘である。既に負け戦が確定し、何万という敵の大軍が押し寄せるなか、彼の取った行動は、歴史に深く名を刻むことになる。
それは決死の「敵中突破」。迫りくる軍勢に対して果敢にも向かっていき、乱戦を抜け出して戦場から脱出を図ったのである。そこで用いられた作戦が「捨て奸」だ。捨て奸とは隊を分けて片方が全滅するまで戦っては敵を足止めすることを繰り返し、その間に本隊を逃がす戦法のこと。頭が逃げおおせるまで、壮絶なトカゲのしっぽ切りを何度も何度も行うのだ。そこまでしても、島津家にとって大将の薩摩帰還は責務であった。
というのも、この先間違いなく行われる戦後処理にあたり、首謀者から徳川への「言い訳」が必要となる。場合によっては お家存続の危機となる。それを回避できるのは島津義弘ただひとり。つまり義弘さえ生きて領地へ帰ることができたなら、それだけで島津にとって「負け戦」を回避できたのだ。さらに関ヶ原へ馳せ参じた兵たちは皆、義弘の忠臣。大将が死すれば武士の恥。文字通り決死隊となった島津勢の凄まじさたるや、東軍の福島正則が慌てて「追撃するべからず」と指示し、赤揃えで有名な井伊直政が敵を討ち取るどころか逆襲を受けて被弾するほどであった。
なかでも殿(しんがり)として獅子奮迅の働きをみせたのが、島津豊久である。
豊久は義弘の甥にあたるが若くして父を亡くしており、実子同然に可愛がられていた。さらに才覚を認められ関ヶ原参戦時も副将に命じられていた。恩を感じていた豊久にとって、この窮地こそ一番の「武者働き」であったのだろう。いまでいう大垣市上石津町の烏頭坂にて、豊久は反転に出る。先ず火縄銃による一斉掃射にて敵の最前線を足止めし、後続が怯んだところで刀に持ちかえ、敵集団に突っ込む。捨て奸の基本戦術である。豊久の戦いぶりはまさに鬼人そのものであり、多くの首級を上げたという。
さて、そんな豊久の最期だが、確たる文書が残っておらず定かではない。烏頭坂で討ち取られたとも、重傷を負いながらも義弘の後に続こうとしてその道中で息を引き取ったとも、自刃したともいわれている。享年31歳。いずれにせよ豊久の願いは成就し、義弘は無事に薩摩へ帰還することができた。そして迎えた徳川による戦後処理にて、破格の「お咎めなし」を勝ち取るに至る。とはいえ徳川にとって島津は警戒すべき「仮想敵」として残り続け、薩摩藩となった後もそれは続くのである。
なお、それから175年後に幕府の命によって行った木曽三川の治水工事にて薩摩藩士は幕府への恨みをさらに強めることになり、その100年後にとうとう倒幕を果たす。もちろん明治維新は複雑な時流があってのこと、恨みつらみで倒幕へ進んだ、とは到底考えられない。しかし「見ておれ徳川。たとえ何百年かかろうとも、必ず島津が倒す」決死の最中、豊久は散り際にそう誓ったのかもしれない。遠く離れているが、意外にも岐阜と薩摩は縁があるのだと思うと、実に興味深い。
かくして島津(薩摩藩)が徳川(幕府)を倒すのは、退き口から275年後のことである。
 
 
 

 

●戦国に学ぶ・人材の獲得と活用
●織田信長と蒲生氏郷
織田信長は家臣となった武将たちの子息を人質として身近に置き、日常の行儀作法や戦場での軍隊の規律を教え育てた。そして目を付けた者にはその後も実戦経験を積ませるなど、いずれ自分の懐刀や右腕となる人材の育成に力を入れた。現代でいえば、インターンシップで働く学生に早くから目を掛け、入社後は様々な部署に異動させたり新規事業を任せたりして幹部候補として教育するようなもの。いわば信長流ともいえるこの人材育成法で頭角を現したのが蒲生氏郷(がもう・うじさと)だ。その資質を信長に認められた氏郷は、信長の背を見ながらリーダー学を学び、見事に実践してみせた。今回はそんな2人の関係から、人材の発掘・育成法について考察する。
信長流人材育成
新入社員は企業の将来を背負う大切な人材だ。特に次代の経営を担う幹部候補の育成は、どの企業にとっても最重要課題といえる。戦国の覇王・織田信長(1534〜82)は、将来有望な10代の少年たちに自ら英才教育を施した。そんななか、次代の織田家を支えるべく、信長に最も期待されたのが蒲生氏郷(がもう・うじさと/1556〜95)だ。永禄11年(1568)9月7日、信長は自国の尾張と美濃、同盟者である三河の徳川家康(1543〜1616)、北近江の浅井長政(1545〜73)の兵など6万を動員して上洛戦を敢行。約3週間後の26日には室町幕府15代将軍候補・足利義昭を奉じて上洛を果たした。氏郷の父・蒲生賢秀(かたひで/1534〜84)は南近江の六角氏の重臣で、この上洛戦の過程で信長の軍門に降(くだ)る。その人質として信長の許へ送られたのが13歳の氏郷だ。この頃、岐阜城には氏郷と同じような境遇の子供たちがいた。戦国時代の人質と聞けば、フラストレーションが溜まる暗い生活を想像する。しかし、当時の人質の預かり元は、とりわけ人質を牢に監禁していたわけではない。特に信長の場合、人質を身近に置き、日常の行儀作法や戦場での軍隊の規律を教導した。なぜか。人質が成長して一廉(ひとかど)の将となれば、戦力になるからだ。一方、人質となった子供たちにとっても、メリットはあった。日々、同じ境遇の者と交流し、その家の諸将とも顔見知りになる。気がつけば人的ネットワークが広がっていた。彼らは信長の背中を見ながら能力向上に努め、領国経営や戦場における戦略・戦術を身に付ける。その過程で信長に認められれば、一躍、次代を担う幹部候補に抜擢された。
「あのものは、いずれ良き将になりましょう」
人質時代の氏郷が出会った人物に、美濃出身の稲葉一鉄(いなば・いってつ、良通/1516〜89)がいる。一鉄は「文」と「武」を兼ね備えた武将で、ときおり信長に招かれては軍(いくさ)物語や自らの体験談を語った。そんなある日のこと。一鉄が夜の更けるのも忘れて話つづけたところ、信長の小姓たちの大半が寝てしまった。小姓と言ってもまだ子供だ、無理はない。そんななか氏郷は瞬き一つせず、目を輝かせて一鉄の話に聞き入っていた。「あのものは、いずれ良き将になりましょう」「ああ、いい目をしている」氏郷の非凡な才能を見抜いた信長は、永禄12年(1569)に自らが烏帽子親となり元服させる。そして同年8月、伊勢大河内城の戦いで初陣を飾らせると、その冬には娘を嫁がせた。信長の氏郷への期待の大きさが感じられる。以後、氏郷は信長の引き立てを受けつつ、その主要合戦――越前朝倉攻め、伊勢長島攻め、長篠・設楽原の戦い、有岡城の戦い、第二次天正伊賀の乱などに参戦。いずれの戦でも抜群の戦功を上げていった。その氏郷の名が一躍、天下に轟いたのは天正10年(1582)6月――本能寺の変の直後だ。氏郷は父・賢秀とともに近江安土城の信長の家族を救出すると、玉砕覚悟で明智光秀の誘いを拒絶した。このとき畿内は光秀の勢力圏内にあり、大半は光秀を支持、あるいは消極的中立が占めていた。そんななか蒲生父子は、正々堂々と拒絶の意志を表明する。主従関係がドライな戦国時代にあって、蒲生父子は義理堅く、実直だった。「上様の仇、明智光秀を討つ」羽柴秀吉(のち豊臣、1537〜98)の“中国大返し”が遅れていれば、この父子は討死していただろう。やがて秀吉は、20歳も年少の氏郷をまるで賓客をもてなすように味方陣営に迎え入れる。このあたりの秀吉の立ち居振る舞いは、さすがだ。その後、氏郷は秀吉の天下平定戦のなかで、その類稀な軍才を発揮する。秀吉と家康の直接対決となった小牧・長久手の戦いでは氏郷は殿軍(しんがり)を担当。やがて氏郷は天下の名将として仰がれるようになる。
「一歩も動けませぬ」
天正18年(1590)に天下統一を果たした豊臣秀吉は、政権第二位=五大老筆頭の徳川家康を関東に封じる。そして豊臣恩顧の大名たちを東海道筋やその周辺に配置し、家康が武装西進した場合に備えた。秀吉の極度な警戒心と敵意は、当然、家康も気づく。「さて、力押しでどの辺りまで進めようか」ある四方山話の席上、本気とも冗談ともつかないトーンで家康が呟いた。周囲にいた者は、一瞬、驚いたものの、冗談と気づくや口も軽くなる。幾つもの意見が出た。そんななか家康の腹心・本多正信(1538−1616)だけは口を開こうとしない。その様子に気づいた家康が正信に目を向けると、彼は周囲に気づかれぬよう無言のまま首を左右に振る。 (一歩も動けませぬ) 秀吉の家康包囲網のポイントは、東海道筋より関東の後方にあった。このとき家康は、沈黙したまま頷き返す。 (その通りだ) 関東の後方――奥州会津には氏郷が控えていた。その頃、氏郷は奥州会津に92万石の大名となっていた。関東の家康のほか、奥州の伊達政宗(1567−1636)、越後の上杉景勝(1556−1623)の3人を牽制するため、秀吉があえて氏郷を配置したことはいうまでもない。奥州会津に移るおり、氏郷は一つだけ秀吉に注文を出している。それは秀吉本人や諸大名家から“奉公構“となっている者たちを召し抱える許可だった。“奉公構“は、主君の怒りを買って飛び出した者(牢人)を、ほかの大名家は召し抱えないようにと釘を刺した回状のこと。“奉公構“のような刑罰は、すでに戦国大名の分国法(家法)などにもあったが、彼らは領土の範囲が限られていたから国境を越えれば牢人の自由は利いた。つまり“奉公構“は、天下を統一した秀吉だからこそ、その威力を遺憾なく発揮できたといえる。それを氏郷は「解除せよ」と言う。しかも「断れば奥州には行かぬ」とも。秀吉は氏郷の申し出をしぶしぶ了承する。氏郷が召し抱えた牢人たちは皆“はみ出し者”ばかりだ。彼はひと癖もふた癖もある強者たちを束ねて奥州へ下った。
“三英傑”が認めた男
氏郷が奥州会津に入国して1カ月が経過した頃、同地の旧領主・伊達政宗の煽動による一揆が勃発。葛西・大崎(現・宮城県北部と岩手県南部)の地に、30万石を新領した木村吉清が襲撃される。一揆勢の抵抗は凄まじく、奥州一帯に拡大するかにみえた。このとき、氏郷は“はみ出し者”たちを率いて見事に鎮圧する。新規に家臣を召し抱えたとき、いつも氏郷は同じ言葉を口にした。「戦場に出たなら、わが家中に銀の鯰尾(なまずお)の兜で奮戦する者がいる。その者に負けぬように励め」 いざ戦となると、確かにわれ先に戦場を駆けて敵陣に踊り込み、次々と敵将の首を上げる鯰尾の銀の兜をかぶった者がいる。主君・氏郷だった。氏郷は何事にも“率先垂範”を貫いた信長を生涯の師と仰いだ。彼は家臣を統率するため、常に先頭に立って模範を示した。当然、家臣たちは氏郷を慕った。家臣統率の心得について彼は言う。「家中の者には、情を深くして知行(領地・給料)を与えるべきだ。しかし、知行だけ与えても、情がなければ何事も成功しない。そして、情ばかり厚くとも、知行がなければこれもまた空しい。知行と情は車の両輪、鳥の両翼のようなものなのだ」
“三英傑”が認めた男・蒲生氏郷――信長流人材育成の“結晶”といえる。

●本能寺の変はなぜ起きた?
織田家重臣の明智光秀は、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公です。天下統一を目前にした織田信長が、京都の宿所で討たれた本能寺の変は、戦国史のみならず、その後の日本の歴史を変えた一大事件としてご存じの方も多いでしょう。しかし、光秀がなぜ主君に謀叛を起こしたのか、その動機は諸説あるもののいまだ明らかにされておらず、多くの謎に包まれています。
織田信長が討たれた本能寺は京都のどこにあったのか
天正10年(1582)6月2日は、太陽暦では6月21日にあたります。夏の夜がまだ明け初めぬ刻限、老(おい)の坂峠を下り、桂川を渡って七条口から京に入る軍勢がありました。旗印は「水色桔梗」。明智光秀率いる13,000の軍です。京に入った明智勢は数隊に分かれ、堀川通、油小路通、西洞院通などを北上、目指すはさいかちの木に囲まれた本能寺でした。
同じ頃、本能寺。朝の早い信長はすでに起床していたようです。軍勢が寺に迫る喧騒を、信長や小姓たちは下々の者の喧嘩かと思いますが、騒ぎが収まるどころか鬨の声が上がり、鉄砲が撃ち込まれるに及んで、敵襲であることを知りました。「これは謀叛か。いかなる者の企(くわだ)てぞ」と信長が問うと、側近の森蘭丸が「明智の手勢と思われます」と応えます。信長は「是非に及ばず」とのみ口にしました・・・。
以上は太田牛一『信長公記』などが記す、本能寺への襲撃が始まる様子です。まず事件の現場を確認しておきましょう。
本能寺は現在、京都市中京区寺町通御池通下ル下本能寺前町にあり、境内には信長公廟もありますが、実はこの地は豊臣秀吉の命令で、本能寺の変後に移転したもので、実際に本能寺の変が起きた場所とは異なります。
かつての場所は中京区元本能寺南町で、北は六角通、東は西洞院通に面した東西約110m、南北220mに及ぶ広大な寺域でした。しかも信長の命令で四方に堀と土塁をめぐらした城郭構えに改められ、土塁に沿ってさいかちの木が植えられていました。さいかちの幹にはとげがあり、侵入者を防ぐねらいがあったのでしょう。明智勢は、さいかちの木に囲まれた「本能寺の森」を襲撃の目印としました。現在、一帯は、京都市立堀川高等学校本能学舎や高齢者福祉施設となり、本能寺跡を示す碑が建てられています。
明智光秀とは何者なのか? 本能寺の変直前の織田家の状況とは?
次に事件の首謀者・明智光秀のプロフィールと、当時の織田家の状況を確認しておきます。
まず光秀についてですが、羽柴秀吉と並ぶ織田家の出世頭で、2020年の大河ドラマの主人公となる人物ながら、前半生については謎に包まれています。美濃国(現、岐阜県)の生まれであることは間違いないようですが、生年は諸説あり。『明智系図』では享禄元年(1528)とし、それに従えば信長よりも8歳年上になります。明智氏は東美濃の源氏の名族であり、信長の正室濃姫(のうひめ、帰蝶〈きちょう〉)の母親は、光秀の叔母にあたるともいわれますが、確証はありません。
光秀は濃姫の父・斎藤道三に仕えますが、道三が弘治2年(1556)に息子に討たれると美濃を離れ、越前(現、福井県)の朝倉義景のもとに10年ほど身を寄せたとされます。この朝倉義景に上洛援助を求めてきたのが、将軍になる前の足利義昭でした。しかし朝倉氏は動かず、義昭は次に美濃を攻略した織田信長に支援を求めます。この時、義昭と信長を仲介したのが光秀でした。
永禄11年(1568)、信長は足利義昭を奉じて上洛。義昭を15代将軍の座につけて、室町幕府再興を果たしました。光秀は義昭に仕える奉公衆(幕臣)となっていましたが、信長に有能ぶりを見込まれ、織田の家臣にもなり、義昭とのパイプ役を務めます。その後、義昭と信長が対立すると、光秀は幕臣を辞め、信長の有力家臣となりました
その後の光秀の活躍は目覚ましく、持ち前の教養を活かして公家や豪商、文化人らと親交を結び、交渉事を円滑に進める一方、武将として武功を重ね、信長配下で最初の城持ち大名となります。大坂の石山本願寺攻めや丹波国(現、京都府中部、兵庫県北東部)攻めに従事し、天正7年(1579)には丹波平定を完了。信長は「丹波での光秀の働きは天下に面目をほどこした」(『信長公記』)と絶賛し、この功で34万石の大領主となりました。
本能寺の変の頃には近江(現、滋賀県)坂本城、丹波亀山城(現、京都府亀岡市)の城主であり、組下大名に丹後(現、京都府北部)の細川藤孝(ほそかわふじたか)、大和(現、奈良県)の筒井順慶らを従える、まさに重臣中の重臣だったのです。
次に、本能寺直前の天正10年頃の織田家の状況に触れておきます。同年3月、長年の宿敵であった甲斐(現、山梨県)の武田家を滅ぼし、甲斐・信濃(現、長野県)・駿河(現、静岡県)・上野(現、群馬県)を接収。駿河は同盟者の徳川家康に与え、重臣の滝川一益を上野に置いて関東の押さえとします。
北陸方面では筆頭家老の柴田勝家が越後(現、新潟県)の上杉景勝領に侵攻、上杉家は信濃、上野方面からも織田勢に圧迫され、風前の灯(ともしび)でした。
中国方面では重臣の羽柴秀吉が備中高松城(現、岡山県岡山市)で、中国の覇者・毛利軍と対峙。秀吉は5月に信長の出馬を仰ぎました。ちょうどその頃、徳川家康が駿河拝領の御礼に近江の安土城を訪れており、明智光秀は接待役を務めていましたが、信長は秀吉の要請に応えて自らの出馬を決断するとともに、光秀の接待役を解いて、一足先に秀吉の応援に向かうよう命じています。
そして摂津国(現、大阪府)では、信長の三男・信孝が重臣の丹羽長秀(にわながひで)に補佐されながら、四国の長宗我部元親を攻めるべく軍船を調え、渡海しようとしているところでした。
つまり織田軍を率いる重臣たちは全国に散っており、安土から京に出向いた信長の近くにいる有力武将は、中国に出陣する明智光秀だけだったのです。なお安土を訪れていた徳川家康は、本能寺の変が起きた際には、少数の家臣を連れて堺見物をしているところでした。信長もまた、さほど多くない近習や馬廻衆らとともに上洛して、本能寺で茶会を開き、準備が整い次第、中国に向かう手はずだったのです。信長を討とうとする光秀にすれば、またとない絶好の条件がそろっていたといえるでしょう。
江戸時代〜戦前の「怨恨」説、戦後の「野望」説
では、いよいよ光秀が信長を討った動機について、諸説を検証してみましょう。
まずもっとも古典的といえる説が、光秀が信長を恨んでいたとする「怨恨」説です。映画やテレビドラマで、信長の機嫌を損ねた光秀が、打擲(ちょうちゃく)されたり、足蹴にされる場面を観たことがある人も多いでしょう。あるいは光秀が自分の母親を人質にして敵を降伏させたところ、信長が約束を破って敵将を殺したため、母親も敵方に殺されてしまった話や、安土城を訪れた徳川家康の接待に手抜かりがあったとして、信長に満座の中で折檻された話も有名です。
こうした信長の仕打ちを恨んだ光秀が謀叛を起こしたと、江戸時代から語り継がれ、芝居などでも演じられて、戦前までそれが光秀の動機と信じられていました。しかし実は信長のひどい仕打ちが記されているのは、ほとんどすべて後世の編纂物で、光秀が生きた当時の同時代史料からは確認できません。
江戸時代の読み物や芝居が、読者や客の関心を引き、共感を呼ぶために脚色した俗説が流布(るふ)し、ドラマなどで今なお描かれて、私たちもそれを疑わずに事実と信じてしまっているのが現状なのです。光秀は本能寺の変の半年前の茶会の席で、信長自筆の書を掲げています。その姿勢を見ても、直前まで関係は良好だったと考えるべきでしょう。
これに対し戦後、光秀の動機は「怨恨」ではなく「野望」であるとしたのが、歴史学者の高柳光寿(たかやなぎみつとし)氏でした。その著書『明智光秀』(1958年、吉川弘文館)は、確かな史料に基づいて従来の怨恨説を一つひとつ否定し、「光秀は天下を狙った」と結論づけたもので、本格的な光秀研究の端緒となったとされています。「野望」説は今でも影響力を持っていますが、一方で、天下を狙ったにしては、本能寺の変後の光秀の行動があまりに無計画に過ぎるのではないかという疑問が提示されています。
光秀の背後で糸を引いていたのは誰か? 多様な「黒幕」説
野望説に疑問が呈される一方で、次々と主張され始めたのが、光秀の背後には彼を操る黒幕がいたのではないかとする「黒幕」存在説でした。その主なものを紹介してみましょう。
1.朝廷 黒幕説
当時、朝廷と信長の間には、さまざまな軋轢(あつれき)があったとされます。信長は正親町(おおぎまち)天皇に譲位を迫り、暦(こよみ)を訂正するよう求めるなど、朝廷に圧力をかけていました。また本能寺の変後、関白や太政大臣を歴任した近衛前久(このえさきひさ)が事件関与を疑われて逃亡、光秀と朝廷の取次役であった吉田兼見(よしだかねみ)は本能寺の変前後の日記を改ざんし、光秀との関係を隠そうとしました。こうした公家たちの不審な動きが、朝廷が光秀の黒幕であったことを示している、というものです。
2.足利義昭 黒幕説
室町幕府15代将軍の義昭は、信長と対立して諸国の大名に打倒信長を呼びかけ、自らも挙兵したため、元亀4年(1573)に信長によって京都から追放されました。一般的に室町幕府はこの時に滅亡したとされますが、義昭は将軍職のまま毛利輝元領の備後(現、広島県東部)で亡命幕府を維持しています。そして2年前(2017)、光秀が山崎の戦いに臨む前日に書いた手紙の原本が見つかり、光秀が「義昭を京都に迎えたい」と書いていることから、その意図は「室町幕府再興」にあったとする見解が示され、話題になりました。
3.羽柴秀吉 黒幕説
本能寺の変によって最も得をした者は誰か? となれば、明智光秀を討って天下人となった秀吉になるでしょう。光秀は四国の長宗我部元親と親戚ぐるみの親交を持ち、信長もそれを認めていましたが、信長が元親を見限ると、秀吉は元親の仇敵である三好康長(みよしやすなが)の四国復帰を支援、信長の了承も取り付けて光秀を窮地に陥れました。また、本能寺の変が起きると、秀吉は戦っていた毛利氏と素早く講和を結び、光秀を討つべく現在の岡山市から京都までの約200kmを10日で走破する「中国大返し」をやってのけます。その手回しのよさから、秀吉は光秀が謀叛を起こすよう仕向けていた、とされます。
4.徳川家康 黒幕説
信長の同盟者の家康は、かつて正室と長男が武田氏に内通している疑いを信長にかけられ、二人を死なせています。信長への憎しみはあったでしょう。しかしそれ以上に家康を不安にしたのは、武田の滅亡で、東の防波堤役を務めてきた徳川の存在価値が失われたことでした。信長は自分にとって価値がないと見れば手のひらを返すのは、長宗我部の例からも明らかです。実際、宣教師のルイス・フロイスは、信長が家康を殺すつもりではないかと疑い、本能寺に向かう光秀の手勢には「敵は家康」と思い込んでいる者もいたほどでした。危険な状況を打開するために、家康は何らかの方法で光秀に謀叛を起こさせた、とします。
この他にも堺商人黒幕説、イエズス会黒幕説、本願寺黒幕説など、挙げればきりがありませんが、すべての黒幕説に共通するのは「状況証拠」しかないことです。足利義昭説以外の黒幕説で研究者が支持しているものは現在ありません。足利義昭説にも多くの疑問が提示されており、最新研究における大勢は光秀が単独で本能寺を起こしたとしています。
光秀重臣の斎藤利三か、信長の非道を阻止するためか
現在、光秀の動機として可能性が高いと思われる二つの説を紹介しましょう。
四国問題と斎藤利三関与説
一つは、すでに触れた四国の長宗我部問題と、光秀重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)が本能寺の変に大きく関わっているというものです。
当初、信長は土佐(現、高知県)から四国制覇を目指す長宗我部元親に友好的でした。というのも、信長は大坂の本願寺と10年に及ぶ戦いを続けており、元親は四国から本願寺の背後を脅かす存在として貴重だったのです。信長は元親の四国統一を認めていました。ところが天正8年(1580)に本願寺と講和すると、信長は元親への態度を一変し、土佐の他は阿波(現、徳島県)半国の領有しか認めないとしたのです。元親と信長の取次役を務めていた光秀は面目を失い、元親は信長と決裂しました。特に困ったのは斎藤利三です。実は元親の正室は利三の義妹、元親の長男の正室は利三の姪で、長宗我部と明智家中は血縁関係で結ばれていました。信長は四国攻めを計画しますが、光秀にすれば長宗我部を攻める事態は何としても避けたかったのです。
そんな最中、今度は斎藤利三自身が信長の標的となります。利三はもともと同じ織田家中の稲葉一鉄(いなばいってつ)に仕えていましたが、一鉄と喧嘩し、光秀の家臣となりました。本能寺直前の天正10年、那波直治(なわなおはる)がやはり一鉄のもとを去り、光秀に仕えます。利三の引き抜きによるものでした。これに一鉄が怒って信長に訴え、信長は光秀に那波を一鉄のもとへ戻し、利三には切腹させるよう命じます。その後、利三は助命されますが、フロイスは『日本史』に抗弁した光秀を信長は足蹴にしたと記しました。事実かはともかく、四国問題と重臣利三への厳罰が、光秀に謀叛を決意させたとします。
信長非道阻止説
もう一つは、信長による数々の暴挙(とりわけ朝廷の権威に対して)を見かね、これ以上の非道を阻止するために討ったとするものです。
光秀は本能寺の変の翌日に出した手紙に「信長父子の悪虐は天下の妨(さまた)げ、討ち果たし候」と記しました。悪逆非道の具体的な内容は、「1 信長による皇位簒奪(こういさんだつ)計画、2 暦への口出し、3 源氏でないにもかかわらず将軍に任官、4 太政大臣近衛前久への暴言、5 天皇から国師号を授けられた高僧・快川紹喜(かいせんじょうき)の焼殺、6 安土城に御所清涼殿を模した本丸御殿を造営(天皇行幸の際は、天皇を天主から見下ろすことになる)」などとされます。
朝廷黒幕説の内容ともかぶりますが、あくまで光秀の意思で信長を討ったとするものです。もっとも、暦は当時京都で用いていたものが現状にそぐわなくなっていたことは事実ですし、信長は皇室を敬っていたとする論者も多くいます。近衛への暴言は『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に載るもので、同時代史料では確認できません。なお、ルイス・フロイスの『日本史』も同時代史料ではないことを付け加えておきます。
日本史上の一大ターニングポイント
さて、いかがだったでしょうか。明智光秀本人が動機を明確に語っておらず、本能寺の変の真相については状況証拠から探らざるを得ないのが現状です。しかし本能寺の変が起きたからこそ、信長の後継である秀吉政権と、それに対抗する家康政権が誕生したわけで、まさに日本史上における「一大ターニングポイント」であることは間違いありません。さらに重臣明智光秀がなぜ信長を討ったのかを探ることは、信長政権がどんな性格のものであったのかを読み解く上で重要であり、今も多くの研究者が取り組んでいます。
蛇足ながら、私の空想もつけ加えておきましょう。高い教養があり、武将としても一流であった光秀。いかに乱世とはいえ、主君信長を討てば、「主(あるじ)殺し」の汚名をかぶることになるのは承知していたはずです。それでもあえて謀叛に踏み切ったのは、それが信長よりも上位の存在の意を汲んだ行動であると信じたからではないでしょうか。つまり、信長を討った後、「これは正当な行為だった」と皆が納得し、汚名の払拭(ふっしょく)が担保されているからこそ、変後の周到な準備もあまり必要ないと考えたのではないか。
光秀は老の坂から京の本能寺を目指しました。この地は二人の源氏の武将と縁があります。老の坂とは大枝(おおえ)山を指し、これは「酒呑童子」で有名な大江山のことだともいわれます。この地で平安の頃、天皇の命を受けた源頼光が悪鬼の酒呑童子を退治しました。また鎌倉時代末期には、後醍醐天皇の意を奉じた源氏の足利高氏が、この地から京に攻め込み、幕府の拠点・六波羅探題を壊滅させています。老の坂を下り、京の本能寺を目指す源氏の将・明智光秀の脳裏にあったものは果たして何であったのか。
皆さんはどう考えますか?

●豊臣秀吉と竹中半兵衛
これぞと思う人材を採用し、手塩にかけて育成する。その目的は、育てた優秀な人材を事業に投入し、成果を上げることにある。これは戦国時代でも同じ。戦国三英傑の一人である豊臣秀吉はそのために抜群の才を発揮した。そして秀吉の天下統一事業の実現のために多くの人材が結集した。なかでも竹中半兵衛は、浅井・朝倉攻めから中国征伐にかけて秀吉を支え、織田家における秀吉のランクを大幅に押し上げた逸材であった。自分より戦略手腕に勝る半兵衛を秀吉はどのようにして家臣として仕えさせることができたのか。秀吉は相手が何を考え、何を欲しているかを的確に把握し、その意を酌んで動くことができたという。現代ビジネスにおける優れた上司になる条件――そのヒントを秀吉と半兵衛のエピソードから探る。
「人材を育成できない上司は、部下に慕われていない」
空前の“売り手市場”のなか、苦労して獲得した人材が育成の過程であっさり辞めていく。このような問題に頭を抱える企業の担当者は多い。――時間も費用もかけて採用を決めた人材だった。面接時から自社のビジョンを説いてきた。その反応は悪くなかった。入社後の研修でも熱心に耳を傾けていた。職場の雰囲気にも馴染んでいるようにみえた。そう思っていた矢先の退職願い……。 (なぜだ) 周囲は言う。「アイツは人材を育てることができる器ではないのだ」 (ふざけるな)こんな光景が、いまもどこかで繰り返されている。ただ、織田信長(1534〜82)、豊臣秀吉(1537〜98)、徳川家康(1543〜1616)の“戦国三英傑”であれば、それを見て上司の監督責任を追及したうえで、こう断言したはずだ。「人材を育成できない上司は、部下に慕われていない」そして彼らは、家臣を育てられる主君の前提として、まずは“自らが家臣に信頼されなければならない”と説く。上司は部下に対して、自社のビジョンを咀嚼(そしゃく)して自分の言葉で語り、自らの行動をもって示さなければならない。それを実践してこそ部下は上司を信頼し、慕うようにもなる。「この人が言うならば――」この関係を築いてはじめて部下に上司から“学ぼうとする心”が芽生える。ここにようやく人材育成がスタートする。――そもそも自分は自社のビジョンを共有しているか? いま一度、見直す必要があるかもしれない。
「城を明け渡せば、美濃半国を与える」
人材を育成する目的は、人材を事業に結集して適材適所に配置し、一丸となって所期の目的を達成することにある。この点において、“三英傑”のなかで抜群の才を発揮したのが秀吉だ。秀吉の天下統一事業を支えるために、多くの人材が歴史の表舞台に登場する。なかでも、竹中半兵衛(1544〜1579)は、浅井・朝倉攻めから中国征伐にかけて秀吉を支え、織田家における秀吉の席次を柴田勝家(1522?〜1583)、丹羽長秀(1535〜1585)、佐久間信盛(1527?〜1581)、滝川一益(1525〜1586)、明智光秀(1516?〜1582)に次いで6位に押し上げた。ここで注目すべきは、半兵衛の戦略手腕は秀吉より勝っていたという事実だ。半兵衛が天下にその名を轟かせたのは、永禄7年(1564)に主君・斎藤龍興(たつおき、1548〜1573)の居城・稲葉山城を奪取した事件だ。難攻不落を謳われた堅城を、彼はわずか17、8人の手勢であっさりと乗っ取った。半兵衛は言う。「城の堅固などは迷信のようなもの。つけ入るべきはその油断だ」彼は城内にあった弟の見舞いと称し、武器を隠して城内に侵入。難なく稲葉山城を手中に収めると、城外から兵を引き入れて防衛を固めた。そうした半兵衛に惚れたのが、当時、美濃攻略中だった信長だ。「城を明け渡せば、美濃半国を与える」このとき半兵衛は拒絶する。彼はクーデターにより主家・斎藤家を覆そうとしていたのだ。しかし、半兵衛のもとへ馳せ参じる美濃の諸将は少なかった。結局、クーデターは失敗に終わる。半兵衛は稲葉山城を奪取したものの、長期的な戦略を見誤った。彼は思う。(知略を駆使するだけでは限界がある。自分の能力を十分に発揮できる主君が必要だ) やがて半兵衛は、城を龍興に返還して姿を消した。
「その知略、乱世を終わらせるために――」
天下はこぞって、消えた智将・竹中半兵衛の行方を追った。このとき信長の主命により半兵衛獲得(スカウト)に動いたのが、美濃攻略戦の過程で頭角をあらわした秀吉だ。幼少期に父と死別した秀吉は、新しく現れた父とはうまくいかず、家の銭をくすねて放浪生活を送った。10代から世間の荒波にもまれてきた彼は、他人の気心や好みを機敏に察知する能力に長けた。秀吉は相手が何を考え、何を欲しているかを的確に把握し、その意を酌んで動くことができた。半兵衛を捜し出した秀吉は、主君・信長の“天下布武”という将来のビジョンを咀嚼し、自分の言葉で語る。そして彼は半兵衛が何を考え、何を欲しているかを的確に読み取る。半兵衛にとって、天下平定をめざす織田家で自らの能力を発揮できることは大きな魅力だった。「その知略、乱世を終わらせるために活かしてはいかがか」秀吉には数々の死線をくぐり抜けてきた“運”、人生の岐路を見極める“勘”、一か八かの大博奕を打つ“度胸”、そして何より勝利の女神を微笑ませる“愛嬌”があった。半兵衛は主君・信長に粉骨砕身して忠勤する秀吉の姿を見て思う。「この人が言うならば――」永禄10年(1567)に半兵衛は織田家に転職する。はじめ半兵衛は、居城・菩提山城(現・岐阜県不破郡垂井町)が近江との国境に近かったこともあり、近江の諸将の調略を担当したようだ。やがて半兵衛は与力として秀吉のもとへ参陣し、軍師として活躍する。
半兵衛、官兵衛を諫める
天正元年(1573)の浅井家滅亡後、秀吉は浅井氏の遺領を拝領して北近江12万石の大名になった。戦国時代の大名家の多くは、代々、その家に仕えてきた譜代の家臣を中心に家臣団を形成していた。当然、一代で一国一城の主にのしあがった秀吉にそのような家臣はない。秀吉の配下はいわば寄せ集めの烏合の衆――蜂須賀小六(正勝)、前野長康、山内一豊など、ひと癖もふた癖もある将が名を連ねていた。彼らが新参の軍師・半兵衛の指示をすんなり受け入れるはずがない。そのことに気づいた半兵衛は、それぞれのプライドを傷つけぬよう、その将の敷いた陣形を褒めたうえで、そっと陣形の変更をすすめたという。天正5年(1577)10月、秀吉は主君・信長より播磨平定を命じられて姫路に入る。ここで秀吉と半兵衛は、御着城主・小寺政職(まさもと)の家老・黒田官兵衛(1546〜1604)を頼る。以後、半兵衛は官兵衛とともに調略を用いて播磨国の大半を織田方に帰属させていく。そんなある日のこと。官兵衛が、かつて秀吉からもらった知行(土地)を加増する誓文を手に不平を漏らした。「いったい、いつになれば約束は果たされるのか……」半兵衛はその誓文を取り上げ、火の中へ投げ入れた。半兵衛は官兵衛に言う。「このような紙切れがあるからこそ、不満に思うのだ」そして半兵衛は続ける。「おぬしは何のために戦っている? 乱世を終わらせるためではないのか? 大義を見失うな」半兵衛自身、秀吉からもらった誓文はすべて捨て手許に残さなかった。彼は過去の栄光や実績がときに邪気となり、人をマイナスの方向へ導くことを知っていた。秀吉は主君・信長のビジョンを自分の言葉で半兵衛に伝え、それを共有した半兵衛は官兵衛を諫める。寄せ集めの秀吉の配下にあって半兵衛は、家中の融和と調和を図った。そして大きな問題になる前にトラブルの芽を摘んだ。天正7年(1579)6月、播磨国三木城攻めの最中に半兵衛は平井山の陣所で病死する。享年36。「半兵衛の存命中、世の中の何事においても難しいと思うことはなかった」約10年後、天下人となった秀吉はときおり半兵衛を思い出しては、こう語ったとか。天下人(上司)にここまで言わしめた竹中半兵衛(部下)――秀吉の配下に半兵衛がいなければ、信長の天下統一事業は順調に進まず、秀吉の天下統一も不可能だった、といわれる所以だ。

●豊臣秀吉と黒田官兵衛
織田信長が本能寺で明智光秀によって暗殺されたことを知った豊臣秀吉は、中国地方を支配する毛利氏との講和をまとめ、光秀を討つためにわずか10日間で京に取って返した。秀吉が天下人への階段を上る分岐点となった、世に言う「中国大返し」である。この大事業を軍師として取り仕切ったのが黒田官兵衛だ。今回は、自らの命運を左右するような、いわばここ一番の状況で実力を発揮してくれる逸材をどのようにして発掘し、育成するのか、2人の主従関係から考察する。
「まずは人に好かれなければならぬ」
人手不足と人材不足は違うという。“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。両者とも早急に手を打たなければならない。が、より急ぐべきは、突然、自社の命運を左右する状況が訪れたときに実力を発揮する、スキルとモチベーションを兼ね備えた人材の確保――つまり即戦力の加入だろう。天正元年(1573)に北近江の長浜城主となった羽柴秀吉(のち豊臣、1537〜98)は、若手家臣の育成とともに即戦力となる人材の確保を急いだ。というより、一代で一国一城の主にのしあがった彼には、代々、仕える譜代の家臣がなかったから、優れた人材を外部から獲得(スカウト)する以外に方法がなかった。10代前半で親元を離れた秀吉は、放浪生活の中で、生来の貧しさや暗さを意識的に捨てる。彼は常に明朗快活な人間を演じ、道すがら他人に猿と笑われれば、いっそう顔を猿に似せたという。 (まずは人に好かれなければならぬ) 秀吉は相手が誰だろうと敬意を払い、自己主張を控え、相手の意見を尊重するように努めた。そんな彼のもとには、多くの優れた人材が集まってきた。前回取り上げた竹中半兵衛(1544〜79)の死後、入れ替わるように秀吉を補佐したのが黒田官兵衛(1546〜1604)だ。官兵衛は、永禄10年(1567)に播磨国御着(現・兵庫県姫路市)の小大名・小寺氏の家老職に就いた。この年、織田信長(1534〜82)は美濃を統一している。やがて官兵衛は東で勢力を拡大する織田家に注目し、成果主義(実力主義)による人材登用、最新兵器(鉄砲)の大量取得、楽市・楽座政策などから信長が天下を統一すると予測する。一方、毛利元就(もうりもとなり、1497〜1571)亡きあと、西の毛利家は吉川元春(きっかわもとはる、1530〜86)・小早川隆景(こばやかわたかかげ、1533〜97)の2人を官兵衛は高く評価しつつも、総大将の輝元(てるもと、1553〜1625)は天下を取れる器ではない、と分析した。
「西の毛利か、東の織田か」
天正3年(1575)、西に毛利、東に織田という二大勢力に挟まれた官兵衛の主君・小寺政職(こでらまさもと、1529〜84?)は身の去就に迷っていた。(大勢が定まるまで日和見に時を費やし、どうにか勝ち馬に乗れぬものか) そんな政職に対して官兵衛は言う。「殿、中小勢力が生き残るためには、常に旗色を鮮明にせねばなりませぬ」官兵衛の先見性の凄さは、織田家が大坂の石山本願寺、甲斐の武田氏、越後の上杉氏などを相手に大苦戦している最中に、中国10カ国の覇王・毛利家ではなく、織田家につこうと考えたことだ。やがて主君・政職を説得した官兵衛は、その使者として信長のもとへ派遣される。このとき官兵衛が信長への取り次ぎを依頼したのが秀吉だ。官兵衛は秀吉に対面するや、これから予測される織田家の中国征伐に役立つように、播磨周辺の情勢や調略方法を熱弁。出陣のおりには小寺家が先鋒を買って出ることなどを伝えた。秀吉は満面に笑みをたたえ、まるで賢者をもてなすような態度で官兵衛の言葉に耳を傾ける。(この男、できる) そうみた彼は主君・政職ではなく、家老の官兵衛と親密な関係を結ぼうとする。やがて信長から中国方面軍司令官の内示を受けた秀吉は、播磨の官兵衛へ書状を送る。「今後いかなることがあっても隔心なく、相談したい」さらに別の書状で秀吉は官兵衛に伝える。「そなたを弟・小一郎(秀長)と同じように思っている」これだ。まだ数回しか会っていない官兵衛に対し、秀吉は兄弟同然だと言えた。その後、官兵衛が秀吉に懸命に仕えたことは言うまでもない。
「殿、これで殿の御運が開けたのですぞ」
天正10年(1582)4月、秀吉は3万の中国方面軍を率いて毛利方の清水宗治の居城・備中高松城を包囲する。やがて彼は安土の信長に出馬と援軍を要請。さらに高松城を水攻めにすることを決めた。そして秀吉は5月8日の着工からわずか12日間で堅固な堤防を完成させると、足守川の水を引き込んだ。さらにそこへ梅雨の長雨も降り注ぐ。5月21日、毛利方の吉川元春・小早川隆景を先陣とする援軍4万が高松城の約3キロまで前進してきたが、すでに高松城は湖上に浮かぶ島と化していた。毛利方は目の前に広がる湖を前に為す術がなかった。いずれ信長の大援軍が到着することも容易に想像できた。彼らは秀吉との講和を決意する。堤防に設置された見張り場に立ち、秀吉は思う。(上様が到着するまでに講和が整えばよし。交渉決裂なら上様指揮のもと力でねじ伏せればよい) 戦況は圧倒的に織田方が優勢だった。だからこそ秀吉の講和の条件は、中国5カ国割譲と城将・清水宗治の切腹という強気なものだったのだ。当然、毛利方は5カ国割譲など認めるわけにはいかない。また宗治を見捨て、切腹させたとあっては士気にもかかわる。両者の交渉は難航し、膠着状態に陥った。そこへ本能寺の変の急報がもたらされる。6月3日未明のことだ。秀吉は慟哭した。彼にとって信長は父親以上の存在だ。いくつもの思い出が脳裏を去来する。そして本能寺の変の一報は、秀吉に絶望的な現実を突きつけた。秀吉が率いていた中国方面軍は新旧入り混じった混成軍団だった。それこそ中国征伐の過程で官兵衛の調略により織田方についた諸将もいれば、つい先頃まで毛利方に与した宇喜多家の大部隊もいた。信長の死を知った彼らが秀吉の首級を手土産に、毛利方へ“返り忠”を目論んだとしてもおかしくはない。信長がいなくなってみれば、織田家の中国方面軍は、まったく一枚岩ではなかった。四面楚歌――秀吉と官兵衛は、絶望を一気に希望に転換する“起死回生の一策”を模索する。(急ぎ上様の敬畏の念に代わる、何かを創出せねばならぬ) このとき中国方面軍には、新たなビジョンが必要だった。そして官兵衛は秀吉に言う。「殿、これで殿の御運が開けたのですぞ」さらに官兵衛は信長の喪を伏せたうえで毛利方と和睦し、上方へ急反転すべきだと説いた。「上様の遺志を継ぎ、殿が天下を平定し、乱世を終わらせるのです」秀吉は、それまで主張してきた領土割譲の条件を緩和しつつ、「宗治が切腹すれば城兵の命は助ける」との条件を提示した。それを聞いた宗治は自らの意思で自刃を決意する。
「やるしかない」
「毛利は、まだ上様の死を知らぬ」6月4日、湖上に浮かぶ小舟の上で自害した清水宗治を見て、秀吉は確信する。そして官兵衛は中国方面軍の将兵に告げる。「これより上様の仇・明智光秀を討つ。光秀を討てば、天下は羽柴さまのものになる。わかるな?」もし、秀吉が天下人になれば、ここで彼に従った将兵にはそれぞれ輝かしい出世栄達が待っている。 (これほどの好機、一生に一度、あるかないか……) 「やるしかない」中国方面軍の将兵は、梅雨どきの山陽道をわれ先にと怒涛の勢いで駆け抜けた。このとき彼らを突き動かした原動力は“欲”だ。しかも、この“欲”には「上様の仇討ち」という大義名分があった。秀吉と官兵衛は、途中、将兵に休息をとらせつつ、畿内の情勢や光秀の動向を探る。そして6月11日には尼崎に到着して光秀を驚かせる。中国方面軍のなかに毛利家の旗が混じっていたからだ。この旗は高松城を発つおり、官兵衛が小早川隆景から借り受けたものだった。光秀は相当応えたはずだ。協力して挟撃しようとした毛利家が秀吉とともに攻めてきたのだから……。6月13日、秀吉は摂津と山城の国境にあたる山崎の地で光秀と激突した。そしてこの天王山を制した彼はそのまま勢い持続させ、翌天正11年4月、織田家筆頭家老だった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで撃破。秀吉は天下人への切符を手に入れる。突然、自社の命運を左右する状況が訪れたとき、“起死回生の一策”を打ち出す人材はいるか? 秀吉の傍らには、官兵衛がいた。

●豊臣秀吉と加藤清正
代々仕える譜代の家臣がなかった羽柴(のち豊臣)秀吉は、即戦力となる人材を外部に求める一方、若手家臣の育成に力を注いだ。その1人が秀吉の母の従姉妹の子である加藤清正だ。秀吉は彼ならではの方法で上手に清正を取り立て、清正は適材適所の人材登用など秀吉を手本として実力をつけていく。そして、清正は九州征伐の後、肥後での一揆鎮圧とその戦後処理などで秀吉に大きく貢献する。今回は、秀吉と手塩にかけて育てた清正の関係から、若手の人材登用・育成について考える。
「本当に大した奴だよ、あの男は」
どこの業界にも、部下の悪口や陰口を言う上司はいる。これは企業規模の大小、役職の高低、年齢の上下は関係ない。「またアイツがミスしてさ――」「なんでアイツに任せると、こんなに時間がかかるんだ? 俺だったら――」その上司は対象の部下がいないところで、自分は悪くないことを主張する。彼は一方的に聞かされる周囲のストレスなど気にしない。ただひたすら自分の保身だけを考えて吹聴する。上司が去ったあとの職場の雰囲気は最悪だ。当然、士気は下がっている。そして周囲は思う。(この人、間接的にプレッシャーかけてる? というか、自分がいないところで同じことを言ってるな) なかには取引先の前で、まるで部下の失敗を自分の“十八番ネタ”のように嬉々として話す人も。「また、うちの〇〇がミスしましてね――」最低だ。誰も得をしない。わざわざ自らこう宣伝しているようなものだ。「私は部下を育成できません!」もはや、その上司は反面教師でしかない。さて、羽柴秀吉(のち豊臣、1537〜98)は、天下を獲るまで他人の悪口や陰口を言わなかったという。 (なるほど、そうかもしれない) 真偽はともかく、一瞬でも後世の人々にそう思わせるのは、現在も語り継がれている秀吉のエピソードの影響だろう。とにかく彼は、自らをより良く見せることがうまかった。織田信長(1534〜82)の美濃攻略戦の頃のこと。美濃宇留摩に大沢次郎左衛門という土豪がいた。秀吉は何度も大沢のもとへ足を運び、織田家に帰順させたのだが、信長は大沢を殺せと言う。「簡単に主家を裏切る者など信用できぬわ」秀吉は懸命に諫めたものの、相手は信長だ。聞くはずもない。思案にあまった秀吉は、密かに大沢を呼んで「すぐに逃げよ」と告げた。そして躊躇する大沢に彼は「不審に思うのなら、それがしが人質になる」と刀を差し出した。さすが苛烈で冷酷な主君・信長に仕え、数々の死線をくぐり抜けてきた男は違う。そんな秀吉に心を打たれた大沢は、秀吉をそのままに逃亡する。そして後日、大沢は美濃方の小領主や土豪たちに秀吉の言動を吹聴してまわった。「本当に大した奴だよ、あの木下藤吉郎(秀吉)という男は――」やがて彼らは秀吉を慕って次々と投降を申し出る。結果的に、秀吉は信長の生涯の分岐点となった美濃攻略戦で活躍し、織田家中で頭角を現すようになった。
「賤ヶ岳七本槍」
美濃平定後、浅井・朝倉攻めでも実績を残した秀吉は、天正元年(1573)に北近江の長浜城主となる。そんな秀吉を憧憬の眼差しで仰ぎ見る少年がいた。加藤清正(1562〜1611)だ。徒手空拳から一国一城の主となった秀吉は、代々、仕える譜代の家臣がなかったため、即戦力となる人材を外部に求めた。その一方で彼は若手家臣の育成にも力を注ぐ。秀吉は数少ない親戚の中から若者を募って家臣に取り立てた。清正もその1人だ。清正の母と秀吉の母が従姉妹の間柄で、幼くして父を亡くした清正は、母とともに長浜の秀吉のもとに身を寄せたという。ときに秀吉37歳、清正12歳のことだ。加藤清正といえば、6尺3寸(約1.9メートル)の堂々とした体格で、朝鮮半島での“虎退治”の武勇譚のように戦に強い猛将のイメージがある。しかし、清正の猛将らしい活躍は、本能寺の変後、天正11年(1583)に信長の後継者の座を巡って秀吉と柴田勝家(1522?〜1583)が激突した、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いまでほとんど出てこない。この一戦で、清正は先頭を切って敵陣を突破し「賤ヶ岳七本槍」に数えられる。ただ、この戦功でさえ、彼が誰をどのように討ち取ったか、具体的なことはわかっていない。むしろ、この論功行賞は秀吉が自らの将来を考え、次代を担う若者たちを世の中に宣伝しようと企てた、とみるべきか。秀吉は、この賤ヶ岳の戦いのおりにもエピソードを残している。戦の最中、熱暑で倒れる将兵が続出した。秀吉は、付近の農家から菅笠(すげがさ)を大量に購入すると、敵味方の別なく負傷者に被せてまわったという。「この人のためなら――」秀吉の慈悲の心に胸を打たれた将兵たちは、心に期したと伝えられている。いかにも、彼らしい。
清正、肥後国入り――抜擢人事の真相
天正13年(1585)7月、土佐の長宗我部氏を下して四国を平定した秀吉は、その目を九州へ向けた。やがて彼は毛利氏や長宗我部氏の軍勢を九州に派遣。そして2年後の3月、自ら8万の軍勢を率いて九州へ上陸する。このとき清正は、秀吉の後方支援として170人の手勢を率いて出陣している。翌4月、破竹の快進撃で九州を南下した秀吉は肥後国に入る。秀吉に付き従った清正にとっても、はじめての肥後入りだ。ただ、この九州征伐でも彼に表立った活躍はない。清正の運命を左右するのは、九州平定後、その戦後処理を担当したことだ。天正15年(1587)5月、薩摩の島津氏を下して九州を平定した秀吉は、その帰途、肥後熊本で九州の国割り(新たに大名の配置を決めること)をおこなった。このとき、肥後一国を与えられたのは佐々成政(さっさなりまさ、?〜1588)だ。しかし、成政は秀吉の「領主交代後の混乱を防ぐため、当分、検地をおこなわないように」との命令を無視。独自の政策を断行した彼は領民の反感を買って一揆を誘発させ、その責任をとって切腹となる。やがて秀吉は諸大名を動員して一揆を鎮圧し、肥後の再編に着手した。一説に、このとき清正が秀吉に肥後統治を志願したといわれている。「武力では肥後の民の心は掴めません。慈悲の心をもって向き合うべきです。どうか私を肥後に――」 秀吉は清正に肥後の北半分約19万5000石を与えた。それまでの清正の知行高は4300石。この異例の抜擢を周囲は「秀吉の縁故ゆえ」と冷ややかに見ていたというが、決してそうではない。九州征伐以降、清正は一揆鎮圧とその戦後処理など1年以上も肥後に深く関わっていた。当時、秀吉配下の家臣の中で、誰よりも清正が肥後に通じた人物だったのだ。賤ヶ岳の戦いから九州征伐にかけての約3年間、秀吉は清正に自らの天下統一事業を体感させるべく、後方支援部隊の指揮や蔵入地(秀吉の直轄領)の管理を任せていた。これに対して清正は秀吉の政治方針や指示を正確に理解し、それを忠実に実践した。肥後入り前の清正は、戦場での槍働きではなく、どちらかといえば裏方の仕事に従事して秀吉の信任を得ていたようだ。戦国三英傑のなかで、優秀な人材を見出し、適材適所に配置することに抜群の才を発揮したのは秀吉だ。清正が肥後半国の大名となったのは、秀吉ならではの人材登用だったといえる。
秀吉に学んだ適材適所の人材登用
清正と秀吉はよく似ていた。というより、清正は生涯、秀吉を手本として生きたようだ。彼の大胆さや人望をあらわすエピソードは秀吉に通じるところが多い。たとえば、清正愛用の片鎌槍――この槍の先は十文字の刃が1本欠けている。皆、この槍の刃が欠けた理由を常日頃の清正の立ち居振る舞いを見て「若い頃の合戦で――」「いや、朝鮮半島での虎退治で――」と噂し、その武勇譚を語りつつ、彼に畏敬の念を抱いたが、実は最初から欠けていたという。あるいは、清正は家臣数人を稲富流の砲術家に弟子入りさせたが、一度教えを受けさせただけで、その後、伝授に赴かせようとはしなかった。不審に思う家臣に清正は言う。「加藤家に稲富流の弟子がいるとの評判が立てば敵方も恐れをなそう。その効果だけでよい」さらに、清正はよく“築城の達人”“土木の神様”などといわれるが、彼の配下に飯田覚兵衛と森本義太夫という2人の家老がいた。実は、この2人が築城術や土木技術を身につけたテクノクラート(高級技術官僚)で、熊本城や清正堤などは彼らが中心になって取り組んだという。秀吉同様、清正も自らをより良く見せることがうまかった。ただ、全国各地から土木建築に長けた人材を集めたのは清正だ。そして飯田覚兵衛と森本義太夫の能力を見出し、家老に抜擢したのも彼だ。当然、彼らをまとめ、指揮した清正にも築城術や土木技術の才はあった。少年期より秀吉の傍らにあった清正は、秀吉のいいところを取り入れ、戦国屈指の大名となった。上司たるもの、日々、部下の手本となる言動を心掛けたい。

●豊臣秀吉と石田三成
鷹狩りを好んだといわれる秀吉だが、そこには領内をくまなく見て回り、優れた人材を発掘する狙いがあった。そうして見出されたのが石田三成だ。三成は、「太閤検地」や「刀狩り」など秀吉が新たに打ち出した施策のほとんどに関わり、秀吉の天下統一事業をプライドとやりがいをもって推進した。三成は、いわば秀吉にとって自らの手で育てた理想的な内務官僚だった。今回は秀吉と三成の主従関係から優秀な人材の発掘と育成について考察する。
時代錯誤の、決めゼリフから漂う“小物感”
離職率の高い企業の上司が部下に対してよく使う常套句がある。「お前のためを思って言っているんだ」これは人を惹きつけられない、人望のない上司が部下を懐柔するのに用いる言葉だ。周囲に聞こえるように言うのは、自分の言動を正当化するためのもの。十中八九、部下のことなど考えていない。試しに、しばらく放っておけば、彼はこう言うはずだ。「お前の代わりはいくらでもいるんだぞ」時代錯誤の、決めゼリフから漂う“小物感”――そして、彼の傍らに目を向ければイエスマンばかり。「そうですか、わかりました」そう言って部下が辞めたあと、彼は周囲にこう愚痴る。「なんで、うちは優秀なヤツばかり辞めて、使えないヤツばかり残るんだろうな?」(・・・・・・) 極端な売り手市場により、各業界が新規人材の獲得にしのぎを削るなか、既存社員の離職も大きな問題となっている。離職理由は「人間関係」「労働環境」「給与・待遇」などさまざまだが、現時点で離職の兆候がある人材を繋ぎ止めたいのであれば、ひとまず「給与・待遇」を見直せばよい。ただ、より高く自分を買ってくれるところを選ぶのは、現在も昔も変わらない。 “お金”によって繋ぎ止めた人材は“お金”で去っていくともいう。ならば、離職理由の大半を占める「人間関係」の改善も含め、仕事に“プライド”を持ち、“やりがい”が実感できる職場環境づくりに力を入れてみてはどうか。天下人・豊臣秀吉(1537〜98)は、多くの優れた人材を獲得し、その潜在能力を開花させた。秀吉が多くの人々を惹きつけた理由の一つに“素直さ”があげられる。彼は家臣に間違いを指摘されても正しいと判断すれば、素直に意見を聞き入れた。「すまないが、わしにもわかるように教えてくれぬか」そして秀吉は相手が誰だろうと敬意を払い、自分にない意見は積極的に取り入れた。「やってみろ。責任はわしがとる」もちろん、秀吉は家臣の「給与・待遇」にも気を遣っただろう。ただ、それ以上に家臣たちは彼の天下統一事業に携わることに、まさに“プライド”を持ち、“やりがい”を感じていたのではないだろうか。
秀吉と三成の出会い
一般に時代の転換期には、その時代に応じて組織の改革が推進される。戦国の覇王・織田信長(1534〜82)は、成果主義(実力主義)を導入して家臣たちを統率し、独自の家臣団をつくりあげた。ただ、このとき彼は一族一門を家臣団の実戦部隊に入れるのを極力避けている。なぜか。まだ貴種(高い家柄の血筋)信仰の濃かった時代だ。信長に近い“織田一族”が軍団内に入ることで、成果主義によって統率してきた現場に混乱をきたす可能性があったからだ。そこで信長は、一族一門から優秀な人材が出ると、裏方=内務官僚(内政を取り仕切る官僚)として取り立て、主に兵站関係の責任者に据えた。そして裏方でも成果さえあげれば相応に評価した。当然、信長の組織改革を秀吉はみていた。彼は試行錯誤を繰り返し、内務官僚の育成・強化に努める。秀吉が育成した豊臣官僚の一人が石田三成(1560〜1600)だ。この2人の出会いは「三献の茶」のエピソードとして知られている。天正2年(1574)頃のこと。前年に北近江の長浜城主となった秀吉は、ときおり鷹狩りを口実に領内を見てまわった。この鷹狩りには優れた人材を発掘する狙いもあった。ある日、伊吹山に鷹を放った秀吉は、その帰途、寺に入って茶を所望する。彼の声を聞きつけた小僧は、鷹狩り後の汗をかいた秀吉を見て、大ぶりの茶碗に茶湯を7、8分目、ぬる目にたてて持参した。喉が渇き切っていた秀吉は一気に飲み干して「いま一服を」と声をかける。すると一杯目よりも少し温かい茶湯が茶碗に半分ほど容れられて出てきた。(ん? これは……) さらに「もう一服」を求めた秀吉に出された三杯目は、小ぶりの茶碗に熱く少量容れられていた。そのさりげない工夫、立ち居振る舞い、涼し気な目、端整な容貌――秀吉は小僧を見据えて言う。「気に入った!」秀吉は寺の住職に頼んで小僧を貰いうけた。秀吉38歳、三成15歳頃のことだ。三成が秀吉の近侍となった頃、秀吉には浅野長政(1547〜1611)、増田長盛(1545〜1615)など13から15歳も年上の側近がいた。後年、三成は長政、長盛のほか、前田玄以(まえだげんい、1539〜1602)、長束正家(なつかまさいえ/ながつかまさいえ、?〜1600)とともに豊臣政権の有能な官僚で組織された「五奉行」に抜擢される。
“五奉行一の切れ者”
本能寺の変後、天正11年(1583)4月に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を撃破した秀吉は、本格的に天下統一を目論む。彼の天下統一事業のなかで、裏方=内務官僚として大きな役割を担ったのが三成だ。賤ヶ岳以降の秀吉の合戦――四国征伐から九州征伐、小田原征伐や奥州仕置などは、1度に動かす軍勢の数は5万から20万という数になっていた。そんななか三成は、戦場の後方にあって軍資金の調達や兵馬・弾薬の補給、食糧の運搬などを企画・立案し、実行する軍奉行としての役割に真価を発揮する。その一方で彼は重要都市・堺の整備や、九州征伐後に戦乱で荒廃した博多の復興にも尽力していた。また、秀吉が始めた検地を「太閤検地」というが、三成は初期段階から検地奉行として携わっている。 彼は、南は薩摩の島津領、北は小田原征伐後の奥州仕置で大規模な検地を実施していた。さらに三成は秀吉の「刀狩り」でも重要な役割を担っている。つまり、秀吉は三成を自らが打ち出した、新しい時代の施策のほとんどに関わらせていた。秀吉にとって三成は理想的な内務官僚だった。また三成も秀吉の天下統一事業に携わることに“プライド”を持ち、武力で統一した天下を再編して近代的に統治することに“やりがい”を感じていた。「五奉行」のなかで三成が一番若かったが、彼は“五奉行一の切れ者”として秀吉第一の側近となる。
「私は戦が下手だ。力を貸してほしい」
三成は、理想に実直で清廉潔白に生きたといわれる。そんな彼は実戦についても独自の見解を示していた。三成は合戦下手で、戦場で采配を振るうのが苦手だった。やがて彼は自分の弱みを補ってくれる武将を高禄で雇えばよい、と考えるようになる。このあたりは主君・秀吉に学んだのだろう。そんな三成が獲得した武将が島左近(?〜1600)だ。実直な性格の彼は、正直に頭を下げた。「私は戦が下手だ。力を貸してほしい」当時、“三成に過ぎたるもの”と揶揄されたほどの猛将だ。左近の勇名の効果もあって、三成の配下に次々と一騎当千の兵が集まってきた。彼らは皆、三成の魅力に惹きつけられる。しかし、そんな三成の性格は時に裏目に出ることがあった。彼の場合、相手を正論で責め、多くの敵を作ってしまったようだ。主君の一族や代々の重臣たちのことを譜代門閥層、主君に俄かに抜擢された側近たちのことを近習出頭人(きんじゅしゅっとうにん)という。豊臣政権の場合、前回みた加藤清正(1562〜1612)が譜代門閥層、三成が近習出頭人だ。戦国時代や江戸時代には、政権の内部や大名の内部で、ことあるごとに門閥層と出頭人が対立した。秀吉の死後、三成は豊臣家の行く末をめぐって清正らと衝突。彼の実直な性格は、結果的に関ヶ原の戦いを誘発し、自らの命を落とすことにつながってしまう。ただ、三成は最後まで豊臣家に忠義を貫いた。そして彼は、どこまでも清廉潔白だった。「権門勢家(けんもんせいか、権勢を誇る家柄)の石田三成のことだから、さぞ豪奢を極めた逸品が多かろう」関ヶ原の敗戦後、三成の居城・佐和山が落城したおり、寄せ手の将兵たちは略奪に心をときめかせたが、城内の建物は荒壁のまま、屋内も多くは板張り、障子や襖も反古紙(ほごがみ)を用いていたという。三成は俸禄のほとんどを家臣たちに与えていた。彼はこう言い残している。「人に仕える者は、主人から与えられる物や俸禄を、全部使って奉公に万全を期すべきだ」さらに彼は続ける。「使い過ぎて借金するのは愚人だが、使い残すのは盗人だ」「愛社精神」という言葉が終身雇用の崩壊によって、過去のものになりつつある今、三成のような人材を求めるのは、きっと時代錯誤だ。ただ、優秀な人材の離職を防ぐためには、秀吉が三成に活躍の場を設けたように、人材一人ひとりが自分らしく働ける職場環境を整備しておく必要はある。これはいつの時代も変わらない。

●徳川家康と井伊直政
徳川家康の天下取りに大きく貢献した家臣が4人いた。これを“徳川四天王”というが、このなかでいわゆる“中途採用”だったのが井伊直政だ。下剋上の戦国時代とはいえ、後から加わる外様や新参が出世することは容易ではない。そんななかで直政が頭角を現すことができたのは家康の独特な人材育成法があったからだ。それは外部委託――滅亡した武田家の家臣たちに直政の武将教育を委託したのだ。やがて将として成長した直政は家康の側近中の側近となり、天下分け目の合戦では家康の期待に大きく応えた。今回は約270年間続く江戸幕府を開いた徳川家康と、徳川四天王の1人として天下取りを支えた井伊直政の主従関係から人材育成について考察する。
「お前たちこそ、私の宝だ」
戦国の覇王・織田信長(1534〜82)の傍らにあって、結果として天下の覇権を手中にした豊臣秀吉(1537〜98)と徳川家康(1542〜1616)の2人――。徒手空拳から一国一城の主(北近江の長浜城主)となったとき、秀吉は37歳。彼はここから竹中半兵衛(1544〜79)、黒田官兵衛(1546〜1604)など即戦力の人材をスカウト(獲得)する一方、加藤清正(1562〜1612)、石田三成(1560〜1600)など若い人材の発掘・育成に力を入れた。秀吉の“家”には代々仕える譜代の家臣がいなかったからだ。一方、三河の小大名・松平広忠の長男に生まれた家康は、剽悍(ひょうかん、素早い上に、荒々しく強いさま)で知られた“三河武士”を擁する宗家で、譜代の家臣には事欠かなかった。家康が駿府の今川義元(1519〜60)のもとで人質生活を送っていた頃のこと。彼が義元に先祖の法要を願い出て、故郷・岡崎への一時帰国を許されたことがあった。ときに家康15歳。彼にとって7年ぶりの帰国だったが、このとき岡崎城内には大量の軍資金や兵糧米が蓄えられていたという。無論、いつか正式に帰国する家康のために譜代の家臣たちが苦労して集めたものだ。家康は、忍従の生活を強いられている家臣一人ひとりに頭を下げて、労いの声をかけた。「苦労をかけるが、いましばらく辛抱してほしい」家康の言動に彼らは皆、涙したという。秀吉に比べれば、家康は人材集めに恵まれていたといってよい。とはいえ、家康は幼少期以来の苦労人だ。彼は3歳にして生母と生き別れを余儀なくされ、6歳からは人質生活を送り、8歳で父と死別している。そんな境遇で育った家康は、常日頃、家臣たちを気遣っている。「お前たちこそ、私の宝だ」家康と三河以来の家臣との絆は深く、その関係は生涯にわたった。また彼は、信長や秀吉同様に身分や出自を問わず採用。召し抱えた家臣たちを信頼し、長所を見出して大切に扱った。
徳川四天王
徳川家康の側近として、天下取りに大きく貢献した功臣を“徳川四天王”といった。酒井忠次(1527〜96)、本多忠勝(1548〜1610)、榊原康政(1548〜1606)、井伊直政(1561〜1602)の4人を指す。家康の家臣団といえば、三河武士を中心とした結束力の強さで知られたが、四天王のうち直政1人だけ隣国の遠江出身だった。つまり、直政は徳川家中にあって中途採用の外様、いわゆる新参だ。現在は雇用の流動化が進んでいる時代とはいえ、新卒入社の人に比べ、途中入社の人が出世するのは難しい。同様に、下剋上の乱世とはいうものの、戦国時代も中途採用の外様や新参が出世することは容易ではなかった。譜代や古参の家臣たちが黙っていないからだ。いつの時代も、大なり小なり譜代と外様、古参と新参の壁は存在する。当然、徳川家にもあった。そんななか、家康はどのようにして新参の直政を育成し、直政は家康の期待に応えたのか。2人の出会いは天正3年(1575)の冬――5年前に岡崎から遠江の浜松へ居城を移した家康が城下で当時15歳の直政を見出したとされる。もともと井伊家は遠江の井伊谷を本拠とする国人で、今川氏の被官(部下)。桶狭間の戦いで戦死した当主・直盛に男子がなく、一族から直親が迎えられたが、この直親が家康との内通を疑われて今川家に暗殺された。直政は直親の息子で、家康はそのことを知って彼を預かった、とも。家康の小姓となった直政が、徳川家中で存在感を示したエピソードがある。ある日、家康に従っていた直政は不運な負け戦に遭う。退却の途中、家臣の1人がとある神社に赤飯が供えられているのを見つけた。空腹だった家康と家臣たちは、それを貪るようにして食べたが、直政1人だけ手を出さない。何度か家康が気遣って促しても、彼は手を出さなかった。「腹が減っては戦ができぬ。皆の足を引っ張らぬように食えと言っておるのがわからぬのか!」家康の怒号に対し、直政は毅然と答える。「殿、いま敵に急襲されれば私が殿軍を務めます。ここで敵に敗れ、腹を裂かれたとき、胃の中に盗んだ供物の赤飯が入っていては末代の恥。そして何より、殿に恥をかかせることになります。どうかお許しを――」直政の言葉に家康は大いに喜び、やがて彼を重用するようになったという。
家康流人材育成
直政の戦闘スタイルは、初陣の頃から命賭けの捨て身のもので、生疵が絶えなかった。彼は新参が認められるには武功、つまり結果を残すしかないとわかっていたのだろう。天正10年(1582)3月、長年、家康を苦しめてきた甲州の武田家が滅亡する。家康は武田家の遺臣たちを召し抱え、戦国最強と謳われた武田家にあって常に先陣を任された部隊――山県昌景(1530?〜75)の“赤備え”(部隊の軍装を赤に統一していたことから、こう呼ばれる)を直政に受け継がせた。ときに直政23歳。このとき、家康は直臣の木俣守勝(1555〜1610)を若い直政の補佐役に据え、歴戦の猛者が集まる“赤備え”――武田家の遺臣たちに直政の育成を依頼したようだ。やがて武田の遺臣たちは直政を一軍の将になるよう教育を始める。彼らはまず、それまでただがむしゃらに戦ってきた直政に対して、彼が目指すべき目標を定めた。「本多忠勝殿は、数十の戦に赴きながらかすり傷ひとつないと聞く。殿は本多殿を好敵手とされるがよい」さらにかつての主君、武田信玄や家康を例にあげながら、戦場で血気に逸る直政の心を諫める。「自らの戦功を焦って数多の家臣を見捨てるなど、われら旧主(信玄)も大殿(家康)もなさりませぬぞ」優秀な家臣たちに恵まれた直政は幸運だった。以後、彼は一軍の将として立ち居振る舞いを心掛けつつ、彼らとともに徳川家の先鋒として数々の戦に臨んだ。このとき、大将として指揮をとったのは木俣だったという。やがて“井伊の赤備え”は、家康と秀吉の直接対決――小牧・長久手の戦いで天下に武名を轟かせ、秀吉の小田原征伐でも活躍。戦後、直政は並いる譜代・直臣を押さえ、徳川家中最高となる上野国箕輪12万石を与えられる。
「これは、われらの戦である」
慶長5年(1600)9月、直政は本多忠勝とともに家康本隊の一員として関ヶ原へ向かった。決戦当日――朝から小雨が降り、深い霧がかかっていた。午前8時、ようやく薄れゆく朝霧の中、直政は家康の四男・松平忠吉とともに30騎を連れて持ち場を離れた。この日の東軍の先鋒は直政ではない。事前の軍議では福島正則(1561〜1624)率いる軍勢が先鋒をつとめることが決められていた。正則は秀吉子飼いの武将で、豊臣恩顧の代表格だ。古来より、大戦の火蓋を誰が切るか、大きな問題だった。このまま正則に先鋒をつとめさせたとすれば、徳川家は大いに面目を失うことになる。 (ここはなんとしても私が――) 直政は忠吉とともに“物見”と偽って、先鋒の福島正則の軍勢の側をすり抜ける。(すべては徳川家のために――) そして東軍の最前線――西軍の宇喜多秀家の前に出た彼は、一発の銃声を轟かせた。「これは、われらの戦である」そこに直政の自己顕示欲はない。だからこそ“抜け駆け”という汚れ役を買って出たのだ。一度、始まってしまえば、それを咎める者などどこにもない。直政と忠吉は西軍の中に分け入り、幾つもの首級をあげる。さらに戦の大勢が決したあと、敵中突破を企てた島津勢の前に立ちはだかり、主将・島津義弘の甥である豊久を討ち取った。戦いが終わり、負傷した忠吉に付き従って、直政は満身創痍で家康の本陣に戻った。「逸物の鷹(家康)の子(忠吉)は、さすがに逸物でございました」家康は直政と忠吉の活躍に満足しつつ、笑いながら答えた。「それは鷹匠(直政)の腕がよかったからであろう」戦後、直政は敵の総大将・石田三成の居城・佐和山において18万石を与えられる。家康は言う。「直政は口が重いが、一度事が決したなら決して躊躇せず、すぐに実行に移す。わしが考え違いをしたら、他の者のおらぬところでこっそりと意見してくれる。それゆえわしは何事であれ、直政に内談するのじゃ」関ヶ原における“世紀の抜け駆け”について、両者の間に“内談”があったかどうかは謎だ。家康は新参の直政を育てるために距離を置いた。徳川家中で直政の能力を最大限に引き出すためには、そうすることがベストだと考えたからだ。一方の直政は、常に新参として立場をわきまえ、スキルアップしながら一歩退いたところで徳川家中を見ていた。そして徳川家の命運を賭けた一戦で、彼は家康の思いを汲み取って大仕事をやってのけた。外部からスカウトした優秀な人材との、節度ある距離感――。雇用の流動化が進むいまこそ、家康が直政に行ったように、なるべく早く個々の能力を把握し、相性の良い組み合わせで仕事をさせる配慮が必要だ。

●徳川家康と福島正則
豊臣秀吉の死後、天下取りを狙う徳川家康は有力大名に接近を図る。その一人が秀吉の小姓から側近に出世した福島正則だ。そして大名の妻子を人質にとった石田三成が挙兵した際に、豊臣恩顧の大名が去就に迷う中、正則は真っ先に家康支持を表明する。これをきっかけに家康は天下取りに大きく踏み出す。戦国時代は自分の家を守るため、主従の変更、現代でいえば転職は当たり前だった。家康と正則は何を考え、どう行動したのか。両者の主従関係から考察する。
宝は命懸けで戦場を駆ける五百騎
晩年の天下人・豊臣秀吉(1537〜98)が、自らの名物茶器などの宝物を披露しながら問うた。「そのほうは、どんな宝を所持しておるのか」臣下の徳川家康(1542〜1616)は答える。「私は殿下にお見せできるような品を持ち合わせておりませぬ」 (そんなことはなかろう) 疑りの目を向ける秀吉に対して家康は「ただ、私には――」と続けた。「私のためなら火水を厭わず、命懸けで戦場を駆けてくれる五百騎があります。これが私の宝でしょうか」確かに三河の小大名の長男に生まれた家康には、生来、彼のために命を投げ出す忠臣はいた。家康の生涯最大の危機といわれる武田信玄との三方ヶ原の戦いのおり、周囲の反対を押し切って出陣した家康は信玄に完敗。命からがらに敗走する家康の身代わりとなり、敵中に飛び込んでいった“三河武士”がいた。また、本能寺の変の急報に接したおりのこと。僅かな供廻りで堺見物中だった家康は取り乱した。「信長公のご恩に報いるべく、手勢をもって(明智)光秀と一戦交え、正々堂々と斬り死にする」四面楚歌のなか、家康を諫止(かんし)し、伊賀越えを成功させ、無事に岡崎へ帰国させたのも酒井忠次(1527〜1596)、本多忠勝(1548〜1610)ら譜代の家臣たちだった。そんな家臣たちに対して、家康は日々、感謝や労いの気持ちを言葉や態度で伝えることを忘れなかった。彼は側近の老臣には敬愛の念を込めて「殿」づけで呼び、矢弾が雨と降りそそぐ戦場では、傷を負った家臣に自分の馬を与え、自らは徒立ち(かちだち、徒歩)となることも少なくなかったという。家康は生涯、苦労をともにした三河以来の譜代の家臣たちを重用した。それにしても、と思う。なぜ、家臣たちは家康を命懸けで守ることができたのか?おそらく家康は、常に自らの夢や志、徳川家が目指すべき将来のビジョンを家臣たちに示していたのだろう。そんな家康のビジョンを共有できていたからこそ、彼らは時に主君を叱咤激励し、諫めることもできたのではないか。
「もはや、私以外に天下を治められまい」
第二次世界大戦後に確立された終身雇用制度が1990年代の経済不況により崩壊を始めるまで、転職はお世話になった会社への“裏切り”行為という風潮があった。雇用の流動化が進む現在も、その風潮は決してなくなったわけではない。ただ昨今は、ずいぶんと仕事に対する価値観、転職の捉え方も変わってきてきた。(自分の生活を守るため、自分の価値をより高く買ってくれるところを選ぶのは当然だ) 世は乱世、殺るか殺られるかの“弱肉強食”の時代――戦国の武士は、自らの“家”を存続させるため、よりよい生活をするために、武力も財力もある強い戦国大名を求めた。現在でいうところの転職だ。そして彼らを抱えた戦国大名は、常に数年先の将来を見越したうえで、どの大名と組めば“家”が安泰かを模索した。彼らも皆、それぞれの局面で自分の身の振り方を選択し、決断していた。慶長3年(1598)8月18日、天下人・秀吉がこの世を去った。享年は62。世は再び乱世の兆しが現れる。全国各地の諸大名は、自らの“家”を守るため、決断を迫られる。ただ、秀吉は徒手空拳から天下人になった稀代の苦労人だ。自らの死後、無策のまま、側室・淀殿の間に生まれた愛児・秀頼(6歳)を残して逝ったわけではなかった。彼は死ぬ間際まで家康を“律儀な御仁”と称賛しつつ、誰にも天下取りの野心をおこさせないように「五大老」や「五奉行」の制度を設けるなど、様々な政治・外交工作を施していた。そんななか、豊臣政権五大老筆頭の家康が動く。彼は有力大名と縁戚関係を結ぶことで勢力の拡大を図った。よく誤解されるが、この時期、来たる将来を見越して準備を始めたのは、決して家康だけではない。家康が縁戚関係を結んだ一人に福島正則(1561〜1624)がいた。このとき正則は自ら進んで家康に近づき、家康の養女(家康の異父弟・松平康元の娘)を養嗣子の正之に娶せたともいわれる。正則は秀吉の叔母の子で、少年の頃から秀吉の小姓として仕えた。賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどで活躍し、文禄4年(1595)に尾張清洲城主となっている。彼は豊臣恩顧を代表する武闘派武将だ。この家康と正則の縁戚関係は、諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反する“裏切り”行為として、周囲から抗議を受ける。このとき正則は、この縁組は秀頼公の将来を考えてのことだと弁明したという。この時点で、正則は家康と組むことが豊臣家のため、ひいては福島家のためになる、と信じて疑わなかったようだ。慶長4年閏3月3日、秀頼の後見役となっていた前田利家(1538〜99)が病死する。「あと5年あれば、秀頼さまを奉じ、わしの力で諸大名をまとめてみせたものを……」当時、家康は信長、秀吉亡きあと、利家であれば豊臣恩顧の大名たちをまとめ、天下を治めることができるとみていた。信長の小姓からはじまった利家の戦国キャリアを考えれば妥当だ。その利家が死んだ。やがて豊臣家の行く末を巡り、秀吉が北近江の長浜城時代に召し抱えた石田三成(1560〜1600)ら「近江閥」と、秀吉と正室・北政所が親戚から若者を募って取り立てた正則、加藤清正(1562〜1611)ら「尾張閥」の軋轢が表面化する。(もはや、私以外に天下を治めることはできまい) 同年、北政所が大坂城西の丸から京都三本木の屋敷へ移り、家康が大坂城西の丸へ入った。「豊臣家中で2つに割れた派閥の一方に乗る――」これが天下取りという大プロジェクトを前に、家康が策定した基本戦略だった。
「わしは内府殿に進んで荷担する!」
慶長5年(1600)7月24日、会津上杉征伐のため下野小山に着陣した家康のもとに、石田三成挙兵の詳細が報告された。家康は愕然とする。三成方の軍勢――総勢10万は想定外だったからだ。不安に駆られた家康はどうしたか。すでに小山周辺には正則ら豊臣恩顧の諸将も多く着陣していたが、彼はまず、三河以来の譜代の家臣、あるいは直臣だけを招集した。このあたり、いかにも家康らしい。軍議の席上、当時、家康の側近だった本多正信(1538〜1616)は、箱根の嶮を固く守り、東上する西軍を迎え撃つよう献策。一方、その場にいた井伊直政(1561〜1602)は正反対の積極策を進言する。「物事には勢いというものがあります。いま、勢いに乗って西上すれば、決して我らは敗れませぬ」家康は肩に重くのしかかる徳川家の命運を意識しながら、直政の積極策を採用しつつ、正信の意見も心に留めた。そして翌7月25日、緊急の軍議が開かれる。これを“小山評定”という。冒頭、上杉征伐に従った諸将の妻子を人質にとり、三成が上方で挙兵したことが伝えられた。家康は言う。「妻子の安全を第一に考えるのは当然のこと。三成に荷担するのであれば、遠慮せず陣を引き払われよ」ぽつりぽつりと家康支持の声があがるなか、大声が響き渡った。「妻子を上方に残したのは秀頼さまへの忠義の証、三成の人質にするためではございませぬ!」諸将の間にどよめきが起こる。無理もない。豊臣恩顧を代表する正則が、そう声をあげたのだ。「わしは内府(家康)殿に進んで荷担する!」このときの正則の発言は事前に家康から依頼されていたとも、数年後の豊臣家――豊臣家を徳川幕府下の一大名として残すことを見越して自ら積極的に発言した、ともいわれている。いずれにせよ、彼の決断によって、その場にいた豊臣恩顧の諸将たちが家康荷担を表明した。場の雰囲気が高まるなか、家康は自らの立場、正当性を強調することも忘れていない。「この戦は、われが豊臣政権の五大老筆頭として、逆臣、石田三成を討つものである」約2カ月後の、関ヶ原の戦いの結果は周知のとおりだ。
家康にあって正則になかったもの
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、徹底した戦後処理をおこなう。彼は敵対した大名の領地を大部分没収し、大々的な配置転換を断行。中国地方以西へ豊臣恩顧の大名を移したのとは対照的に、京都から関東にかけては一族や譜代の家臣を中心に固めた。このとき豊臣家は220万石から摂津・河内・和泉3カ国65万石の一大名となり、正則は清洲24万石から安芸広島49万8千石となった。広島移転に際し、正則は京都三本木の北政所を訪ねた。彼は言う。「世間ではそれがしを、忘恩の徒と申しておりますとか。何といわれましょうとも、太閤殿下のご遺児・秀頼公が再び、三成のようなものに担がれ、天下を乱すことのないよう。内府殿のもとで、立ち行くようになれば、それでいいのでございます」正則は“裏切り者”の汚名を着てでも、主家である豊臣家を残そうとした。繰り返すが、殺るか殺られるかの“弱肉強食”の時代――周囲に“裏切り”だなんだと後ろ指をさされても、“家”の存続を第一に考えるのは当然のことだ。決して彼を責めることはできない。ただ、豊臣恩顧を代表した正則には次代のビジョンがなかった。一方、家康は慶長8年(1603)2月に征夷大将軍となり、2年後に、それを嗣子秀忠に譲ることによって天下に徳川幕府の世襲制を宣言している。その後も彼は大御所として実権を握り、一族・譜代を重用しつつ、優秀な人材であれば武士のみならず僧・商人・学者なども登用し、江戸幕府の礎を築いていった。そして慶長19年(1614)から翌慶長20年にかけての大坂の陣で、家康は秀頼を総大将に担いだ豊臣家を滅亡へと追い込む。このとき彼は正則の大坂方への寝返りを警戒し、江戸城留守居役として彼の行動を封じ込めてもいた。翌元和2年(1616)4月17日、家康はこの世を去る。享年75。家康の跡を継いだ秀忠によって正則の福島家が改易となったのは、この3年後のことだ。小山評定の時点で、家康には徳川家が目指すべき次代のビジョン、それが失敗したときの次善の策がいくつもあった。そして、それらは秀忠ほか一族・譜代の家臣、その配下の者たちに遺漏なく伝えられていた。家康にあって正則になかったもの――次代のビジョンと失敗したときの次善の策。雇用の流動化により、社員の入れ替わりが頻繁になる今こそ、自社の歴史や将来のビジョン、中長期経営計画などを常に全ての社員と共有しておくことが重要だと、家康は教えてくれる。

●徳川家康と本多正信
三河以来の譜代の家臣を重用したといわれる徳川家康だが、天下取りの過程で多くの優秀な人材を取り込んだ。本多正信はその一人。ただ彼は一度家康に反旗を翻し、のちに再び家臣となったいわば“出戻り社員”だった。家康は、正信の諸国遍歴の体験、そのなかで培った情報分析力と冷静な判断力を評価した。正信はあえて嫌われ役となるなど、家康の天下取りで重要な役割を果たす。今回は家康と正信の主従関係から現代ビジネスにおける“出戻り社員”の受け入れについて考察する。
“出戻り社員”の受け入れは、アリか、ナシか――
かつて日本の企業の多くは、自らの意思で辞めた者に対して“裏切り者”というレッテルを貼った。「二度と、わが社の敷居をまたぐな」新卒一括採用・年功序列・終身雇用といった日本独自の雇用システムが機能していた、バブル経済の華やかなりし頃の話だ。戦後日本を支えた彼らは、仲間意識が強く、連帯感が強かった。昨今は雇用の流動化の影響もあり、一度、辞めた社員――“出戻り社員”を再雇用する風潮が強まっている。企業が彼らを受け入れるメリットは「即戦力として計算できる」「採用・教育コストが少なくて済む」などがあり、デメリットには「既存社員の反発やモチベーションが低下する」「既存社員に“辞めてもまた採用してもらえる”というイメージがつく」などが挙げられる。「何を今さら――」“出戻り社員”の受け入れが増加傾向にあるとはいえ、少なからず、既存社員の反発はありそうだ。徳川家康(1542〜1616)が内政・外交の両面で頼りとした本多正信(1538〜1616)には、家康を“裏切った”過去があった。にもかかわらず、彼は許されて帰参し、家康の側近として活躍している。いったい、どのようにして家康は正信を受け入れ、正信は“帰り新参”として立ち振る舞ったのか。
「皆、わが家臣であることには変わりはない」
駿府の今川義元(1519〜60)のもとで人質生活を送っていた家康が本拠地の三河に戻ったのは、永禄3年(1560)のこと。同年、桶狭間の戦いで義元が織田信長(1534〜82)に討たれたからだ。家康は生涯、健康管理の一環として鷹狩りをつづけたが、彼が三河に戻った頃、正信は鷹匠として徳川家(当時は松平家)に仕えていたという。ときに家康20歳、正信24歳。やがて家康は徳川家の主君として、尾張の清須城で織田信長と同盟を結ぶ。いわゆる「清須同盟」だ。家康は数年先の将来を見据え、家臣たちに「今川家からの独立」というビジョンを示し、信長が率いる織田家と組むことが“家”の存続につながると決断。そのうえで彼は三河平定に着手した。永禄6年、家康は三河平定の過程で、一向宗の門徒と衝突する。これを「三河一向一揆」という。当時、三河では一向宗(浄土真宗)門徒が大きな勢力をもっていた。摂津石山(現・大阪市)の本願寺を本拠地とした一向宗は、長引く戦乱に疲弊した庶民たちの心の拠りどころとして、全国各地に広まっていた。徳川家中にも一向宗の門徒が多く、正信もその1人。このとき彼は家康を裏切り、一揆方に荷担する。この戦いの最中、家康は一揆勢の放った鉄砲の弾が被弾するなど苦戦を強いられたが、翌永禄7年には和議に持ち込んだ。彼は一向宗についた家臣たちに言う。「いまでも皆、わが家臣であることには変わりはない」このとき家康が罪は問わないという触れを出したこともあり、抵抗した多くの家臣が帰順した。そんななか、正信は家康のもとを離れ、諸国遍歴の旅に出る。やがて彼は畿内で勢力を拡大していた松永久秀(1510〜77)に仕え、松永家を辞したあと、加賀(現・石川県)へ潜行して「加賀一向一揆」を先導したともいわれるが、その正確な足取りは伝わっていない。正信が家康に許されて帰参した時期は、早くて「三河一向一揆」から7年後の元亀元年(1570)頃、遅くても天正10年(1582)頃とされる。いずれにせよ、正信が歴史の表舞台に登場するのは、甲斐の武田家が滅亡し、本能寺の変が起こった、天正10年前後だ。
“裏切り者”が帰ってきた
家康の家臣団といえば、“三河武士”を中心として結束が固く、家康への忠誠心の強さで知られた。そこへ過去に主君に刃向かった“裏切り者”が何の功もなく戻ってきたのだ。当然、正信を見る周囲の目は冷たく、受け入れられなかった。加えて彼に武芸や戦場での采配に才があったわけでもないから、相当、居心地は悪かっただろう。天正10年(1582)6月2日に起こった「本能寺の変」は、羽柴秀吉(のち豊臣、1537〜98)や家康のみならず、数多いた戦国武将のターニングポイントになる。正信にとっても、そうだった。本能寺の変後、武田家の旧領が統治者不在の空白地帯となると、家康は家臣団を派遣して迅速に占領した。このとき正信は甲斐の統治にあたり、戦国最強と謳われた武田家の遺臣たちに本領安堵の書状を発行。彼らに権利を与えることで家臣団に取り込んだ。彼が徳川家中で頭角を現すのは、この頃からだ。さらに正信が家康の側近となるきっかけの一つに、石川数正(?〜1592)の出奔事件があった。数正といえば、家康が今川家で人質生活を送っていた頃から酒井忠次(1527〜96)とともに近習として仕え、長年、苦楽をともにしてきた重臣だ。そんな数正が天正13年の家康と秀吉の直接対決――小牧・長久手の戦いのあと、豊臣方へ謎の出奔を遂げた。一説に秀吉によるヘッドハンティングともいわれる。さすがの家康も狼狽した。そして彼は傍らにあった正信に問うた。「数正のあと、岡崎城は誰に任せればよいか?」帰参後、正信は客観的に徳川家中の人材をみていたのだろう。彼は間髪を入れずに即答した。「本多重次殿はいかがでしょうか」正信と重次(1529〜96)に血縁関係はない。重次の通称は作左衛門。彼は家康の祖父・清康の代から仕えてきた重臣で、剛毅な性格と振る舞いから“鬼作左”と呼ばれた人物だ。正信は、主君を失って動揺する岡崎城の家臣たちを統制するには、規律に厳しい性格の重次が適任と考えたようだ。家康は正信の意見を採用し、以後、重要案件は常に正信の意見を聞くようになったという。天正18年の小田原征伐後、秀吉によって家康が関東へ移封されると、正信は相模国玉縄(現・神奈川県鎌倉市大船)に2万2000石の所領を与えられて大名となる。ちょうどその頃、家康と重臣との間で「力ずくで秀吉を攻め立てた場合、どこまで攻め上がれるか(西上できるか)」という話題になった。わが主君が秀吉に劣らないと信じる家臣たちの議論は熱を帯びたが、正信だけが議論に参加していなかった。家康が正信に目を向けると、彼は無言のまま首を左右に振り、家康は黙ったまま頷き返した。秀吉の対家康包囲網は背後に仕掛けがあり、関東の後方に名将・蒲生氏郷(1556〜95)がいた。家康は動きたくても動けなかったのだ。そのことに気づいていたのは家康と正信の2人だけだったという。また、秀吉の死後、加藤清正(1562〜1612)ら武功派が石田三成(1560〜1600)ら官僚派に抗争を仕掛けたとき、窮地に陥った三成が家康に助けを求めたことがあった。正信は家康に耳打ちする。「いま三成を殺してはいけませぬ」彼は、三成を中心に反徳川陣営の大名が挙兵すれば、それらを一度にあぶり出して一掃できるので、家康の天下取りが早く済むと計算した。正信には、将棋の名人が何手も先を読めるのと同じように、先の先までを見通す力があったようだ。
あえて嫌われ役を演じる
やがて家康は、正信を朋友のように扱うようになる。彼の正信への信頼は深く、帯刀のまま寝所へ入ることを許したほどで、2人の関係は「君臣の間、水魚の如し」などといわれた。ただ、戦場での活躍を第一とする本多忠勝(1548〜1610)や榊原康政(1548〜1606)などは“帰り新参”の正信を認めず、「腰抜け」呼ばわりをするなど露骨に嫌った。そんななか、正信はどう立ち振る舞ったか。彼は自らが周囲に嫌われていることを自覚したうえで、一見、見当はずれな言動をしてでも、徳川家の発展を優先した。関ヶ原の戦いの前夜、下野小山で三成挙兵の報せを受けた家康は、まず三河以来の譜代の家臣のほか、直臣だけを招集して軍議を開いた。正信は「箱根の嶮(けん)を固く守り、東上する西軍を迎え撃つ」という消極策を進言したが、周囲は井伊直政(1561〜1602)の「勢いに乗って西上すれば、決して我らは敗れませぬ」という積極策を支持し、家康も直政の意見を採用した。このとき正信は、天下分け目の決戦を前に徳川家中の士気を高めるため、あえて真逆の消極策を進言したという。さきの三成のエピソードも含め、関ヶ原の戦いは、正信が演出したといえなくもない。その後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍として江戸に幕府を開く。2年後、彼は秀忠を二代将軍に据え、徳川幕府が世襲制であることを宣言し、秀忠の後見として正信を江戸に置き、自らは駿府に入って大御所として天下の実権を掌握した。そして残されたのが、秀吉の遺児・豊臣秀頼(1593〜1615)の処遇問題だ。家康―正信主従は豊臣家を無力化し、秀頼とその生母・淀殿(1567〜1615)を大坂城から他へ移して平和裡に政権を移行しようとしたが、豊臣方がこれに応じず、大坂の陣へ突入する。慶長19年12月、天下一の巨城――大坂城に対して攻城戦が容易ではないと考えた2人は、冬の陣が休戦となるや講和の条件として外堀と三の丸、二の丸(内堀)を一気に埋めた。そして翌慶長20年5月の夏の陣で、裸の城となった大坂城を攻め、たった2日で決着をつける。家康は三河以来の譜代の家臣を重用したといわれるが、天下取りの過程で多くの優秀な人材を取り込んでいた。彼は譜代の家臣に気を遣いつつ、中途で採用した家臣の長所を見出して大切に扱っている。正信の長所は、他の家臣にはなかった諸国遍歴の体験、そのなかで培った情報分析力と冷静な判断力だろう。また家康の天下取りを助け、あえて嫌われ役を演じた正信は終生、相模国玉縄城2万2000石のまま、一切の加増を辞した。戦国乱世から泰平の世に移行する過程で、彼には戦場で活躍した武功派を粛清する役目もあった。そのためには何よりも、自らが清廉潔白でなければならないことを正信は知っていた。“出戻り社員”の受け入れはアリか、ナシか――再雇用をする際のポイントは、その人物が「出たあと、どのように成長したか」「戻ったあと、どう立ち振る舞うか」の見極めだ。

●徳川家康と藤堂高虎
日本一の堅城・大坂城を陥落させるために必要な大坂城内外の動静を忍びの技術を活用してもたらし、大坂夏の陣では先鋒として勇敢に戦う――。徳川家康の天下取りの総仕上げともなる、大坂の陣で、築城、諜報、槍働き…と多大なる貢献をしたのが藤堂高虎だ。高虎は築城術に優れる一方、何度も主君を変えたことで知られる。豊臣秀長配下だった高虎を家康はどう評価し、召し抱えたのか。また高虎はどうそれに応えたのか。経営者・ビジネスリーダーはいかに逸材を発掘し、活かすのか――。家康と高虎の主従関係から考察する。
「功の成るは、成るの日に成るに非ず」
筆者が歴史上の人物の生涯を扱った、漫画原作(シナリオ)という仕事に携わるようになって10年になる。「上様、謀叛にございます」様々なストーリーを執筆するなかで、筆者が登場人物の一人として、本能寺で就寝中の織田信長(1534〜82)にこんな声を掛けたことも、彼の「是非に及ばず」という最期の言葉を聞いたのも一度や二度ではない。その都度、“信長死す”の訃報を備中高松城の羽柴秀吉(のち豊臣、1537〜98)や、堺見物中の徳川家康(1542〜1616)のもとへ届けては、彼らとともに右往左往しつつ、打開策を練った。そして、あるときは梅雨どきの山陽道を足が不自由な黒田官兵衛(1546〜1604)の輿を担いで駆け抜け、またあるときは鈴鹿峠で主君の首を狙う野盗・野伏を相手に井伊直政(1561〜1602)らとともに戦った。秀吉の中国大返しと家康の伊賀越え。まさに九死に一生――死地からの生還だった。このとき主君の秀吉や家康の傍らに共通してあったものは、この先どうするかという明確なビジョンと、彼らが新戦力として獲得した官兵衛や直政といった優秀な人材だ。中国は北宋の文章家・蘇洵(1009〜66)は言う。「功の成るは、成るの日に成るに非ず、蓋し必ず由って起こる所あり」ある事柄の成功は、その成功した日に、突然、もたらされたわけではない。必ず、これに先立って、その成功をもたらすべき原由がある。戦国乱世のなかで天下を取った秀吉と家康は、常日頃、いざという時のために新しい人材を獲得していた。そして2人は彼らに将来のビジョンを示し、あるいは議論し、それぞれの局面で自らの身の振り方を決断した。すべては自らの“家”を存続させるため、ひいては自らが抱えた家臣たちを守るためだ。
「俺の価値はそんなものじゃない」
本能寺の変から3年後の天正13年(1585)は、家康にとって苦難の連続だった。第一次上田合戦で真田昌幸(1547〜1611)率いる真田軍に敗北を喫し、幼少から近習として仕えていた重臣・石川数正(?〜1592)が突然、秀吉のもとへ出奔。さらに領内では地震が相次ぐなど窮地に陥っていた。その頃、秀吉は関白に就任し、天皇の権威を盾に全国の大名に停戦を命じることができる惣無事令(そうぶじれい)を出す権限を獲得。彼のもとへは臣下の礼をとるために、全国各地から続々と大名たちが集まっていた。当然、秀吉は家康に対しても上洛を促した。家康は当初、秀吉からの呼び出しを無視していたが、客観的にみて秀吉に対抗できる状態ではなかった。翌天正14年10月、家康は上洛する。彼は“家”を守るために秀吉に臣従することを決断した。「この家康が家臣になったからには、今後関白殿下に鎧は着させませぬ」大坂城の居並ぶ大名を前に、家康が秀吉に陣羽織を所望した逸話は有名だ。家康と藤堂高虎(1556〜1630)が出会ったのは、ちょうどこの頃のこと。秀吉の政庁兼邸宅として、京の伏見に建築中だった聚楽第の傍らに家康の屋敷が設けられることになった。このとき秀吉の弟・羽柴秀長(1541〜91)の配下にあった高虎がその屋敷の普請奉行をつとめることになったことによる。殺るか殺られるかの“弱肉強食”の時代に、藤堂高虎は自らの生きる道を自らの力で切り開いた“戦国の武士”を代表する人物だ。北近江の地侍の家に生まれた高虎は、15歳で初陣して以降、どの主君に仕えても武勇を認められず、仕官先を転々として流浪の日々を送っていた。(俺の価値はそんなものじゃない) やがて郷里へ舞いもどったところ、織田家の出世頭・秀吉が北近江の領主となり、羽振りがいいことを知る。天正4年頃のことだ。ときに高虎21歳。ここで高虎は秀長と出会う。高虎にとって秀長は5人目の主君だった。秀長は高虎に武勇だけでなく、兵術や算術などの学問の大切さを教え、やがて高虎に築城術の才能があることを見出した。高虎の人生は、秀長と出会ったことで一変したといってよい。そんな高虎が伏見の家康の屋敷を普請することになった。このとき両者の間にエピソードが残っている。秀吉からもたらされた屋敷の設計図を見た高虎は、自らの懐から費用を負担して設計を変えたという。後日、家康は高虎に問うた。「この屋敷は、以前にみた設計図とは違うようだが、どういうことか?」高虎は毅然と答える。「以前の公家風の造りでは警固に難点がございました。もし家康さまに不慮の事態が起こればわが主・秀長さまの不行き届き、ひいては関白(秀吉)さまのご面目に関わると思い、私の一存で変更致しました」高虎の配慮に感激した家康は、労いと礼の言葉をかけ、名刀・備前長光を贈ったという。以後、高虎と家康の間で書簡が往復されるようになり、両者の繋がりも深くなっていったことは想像に難くない。そして慶長3年(1598)に秀吉が没すると、高虎は急速に家康に接近する。
家康、最後の決断
秀吉の死後、当時、朝鮮出兵中だった日本軍の退却が議論された。「全軍撤退が急務。さて、誰が引き揚げを指揮するか……」豊臣政権五大老筆頭・家康は言う。「藤堂佐渡守(高虎)よりほかに、適任者はおりますまい」これ以前、高虎は天正20年(1593)の文禄の役で紀伊水軍を率いて朝鮮に渡海し、慶長2年(1597)の再戦では伊予水軍を指揮して活躍していた。家康は、そんな高虎をよく見ていた。また高虎も、どうやらこの頃から次代の覇権を握るのは家康との確信を抱いていたようだ。やがて豊臣政権を守ろうとする石田三成(1560〜1600)と、豊臣政権を掌握しようとする家康との間で対立が表面化する。そんななか、一通の報せが高虎のもとにもたらされた。三成らによる家康暗殺計画だ。このとき高虎は、すぐさま暗殺計画を家康に告げ、未然に防いでいる。そして慶長5年の関ヶ原の戦いで、高虎は家康率いる東軍勝利のためにすべてを賭ける。彼は西軍荷担の諸将の切りくずしを担当し、戦後、その功により伊予今治に20万石を領する大名となった。以後、高虎は自らの居城のほか、家康の命により近江膳所城の築城、伏見城の修築、江戸城の天守閣の設計や二の丸、三の丸の増築に携わりつつ、家康の信頼を勝ち取っていく。この間、自らの正室と世子・高次を江戸に移し、住まわせてもいた。そして慶長13年8月25日を迎える。この日、駿府城内で高虎は、伊賀・伊勢安濃ほか計22万石への移封を伝えられた。ときに53歳。これまで家康は重要な拠点には徳川一門を配置し、直轄領としていた。そんな彼が伊賀・伊勢という重要拠点に外様大名の高虎を置いた。そして、徒手空拳で自らの地位を築いてきた高虎は、瞬時に何故、自分が伊賀・伊勢へ移封された意味を理解する。(ついに家康公は、豊臣家討滅を決断された)
「国に大事が起こったときは、先手を藤堂高虎とせよ」
関ヶ原の戦いのあと、家康は豊臣家と良好な関係を築きつつ、その地位を逆転することに成功する。また、秀吉の遺児・豊臣秀頼(1593〜1615)を一大名として残そうと画策もしていた。しかし、天下の巨城・大坂城に拠る淀殿・秀頼母子には、その心配りが悟れなかった。その一方で家康は、関ヶ原以来、懸命に積み上げてきた徳川幕府の実績、盤石の備えが、その実、自分1人の威名によって保持されていることを痛感してもいた。(秀頼を大坂城に残したまま死ねば、天下は再び争乱の様相を呈しかねない) この年(慶長13年=1608)、家康は67歳。それに対して秀頼は16歳。そして彼がいる大坂城は亡き秀吉が叡智のかぎりを尽くして建築した日本一の堅城だ。たとえ、日本中の大名を総動員しても容易く落とせるものではなかった。いかにすれば、大坂城を短期日に陥落させることができるか。このとき家康が喉から手が出るほど欲しかったのは、大坂城内外の動静だ。やがて高虎は伊勢の安濃津(あのつ)城、伊賀上野城の大改修をおこなう一方、丹波篠山城、丹波亀山城の修築にも携わっていた。これらはすべて大坂方を包囲する使命を帯びていた。そして高虎は伊賀の“忍び”の統率に着手する。もともと家康と伊賀にはつながりがあった。家康の配下に伊賀に縁のある服部正成(1542〜1596)がいた。信長による天正伊賀の乱のおり、傷ついた伊賀の人々の中には、半蔵を頼って三河に逃れた者たちがいた。このとき家康は、信長に黙って彼らを助けている。高虎はまず、正成の血縁者であるという保田采女を召し出して「藤堂」姓を与え、家老に抜擢。彼らが培ってきた忍びの技術を活用し、大坂方の情報を家康のもとへ送りつづけた。そして慶長19年11月、大坂冬の陣が勃発――約5カ月の講和を経て、夏の陣が開戦となる。この戦国最後の戦いで、先鋒をつとめたのは高虎率いる藤堂軍だった。高虎は大坂方の長宗我部盛親軍と激突。生涯でもっとも激しい合戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出しながらも大坂方の敗戦を決定的なものとした。築城、諜報、槍働き――大坂の陣における高虎の活躍は絶大だった。翌元和2年(1616)4月、家康が75歳でこの世を去った。臨終に際して彼は側近にこう伝えている。「今後、国に大事が起こったときは、先手を藤堂高虎とせよ」家康は、信長や秀吉同様に採用する際に身分や出自を問わなかった。そして採用後は、日頃の立ち振る舞いや仕事ぶりをしっかりと評価した。余談ながら高虎は二代将軍・秀忠の親政となっても、その傍らにいる。“転職”経験が高虎の人を見る目を養ったのだろう。“治国の要”について彼は言う。「国を治めるには何よりも、人を知ることが肝要でございます」さらに長所と短所を見極めたうえで、使うときは信じて疑わぬことが大切です、とも語った。「上に疑う心があれば、下もまた上を疑う。上下互いに疑念を持てば、人心は離散し、国に大事が起きても力を尽くす者がない」三英傑以外にも、歴史上の人物から学ぶことは、まだまだありそうだ。 
 
    
   
  
  
 
  
  
 
   
  
 
 
 
  
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
  
 
 

 

 
 

 


 
2021/9