全国の底なし沼
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底なし沼伝承の面白さ 引きずり込まれました
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●アイヌ伝説・水神龍王神社 旭川市忠和 ある家に代々伝わる妖刀がありました。 その刀が急に暴れだし、家々を襲ってはケガ人を出したそうで、山に捨てても川に捨てても、刀は家に戻ってくるので、巨大な立石のそばの崖の上にあるチャシ(聖地)で刀を鎮める祈りの儀式をしたのです。 立石のそばに底なし沼の跡があり、その底なし沼に刀を沈めると沼は泡立ち、恐ろしい様子に変わったそうです。 その時、立石の上にエゾテンの姿になったカムイ(神様)が現れました。 それを見た人々が「祈りが届いたのなら、力をお示し下さい。」と云うと、巨大な石は二つに割れました。 人々がカムイに「底なし沼に、この妖刀の魔力を捧げます。」と云うと、沼は刀を受け入れてブクブクとした泡は、無数の蛇となり静かになったのです。 刀には悪いカムイが宿っていたのでしょう・・・ ●底なし沼 旭川市 昔、ある集落に代々先祖から受け継がれてきた妖刀があり、「どんなことがあっても開いてはいけない」と言われていました。 しかしある日、その妖刀が光りだし、集落に災いが続くようになったんです。 人々は神の助言を受け、底なし沼の近くにある大きな岩の上に祭壇を作り、祈ったそうです。 そこに山の神が現れ、人々は「この魔力をあげるから災いをなくしてほしい」と、妖刀を沼に投げ込みました。 すると災いは起こらなくなったんだとか。 ●龍神沼 稚内市 坂ノ下神社のすぐ横には沼が横たわっています。 昔、材木屋が付近から切り出した材木を沼に入れておいたところ、数日後、ひとつ残らず消え失せてしまいました。ところがその材木が、海を隔てた利尻島の姫沼に浮かんでいたというのです。つまり、竜神沼は底なし沼で、姫沼と繋がっているのだ、と。 ● 竜神沼は底なし沼なのか、否か。実は答えはすでに出ています。竜神沼は、残念ながら底なし沼ではありません。以前調査したところ、水深3メートルほどしかなかったということでした。とはいえ、丘の中腹に建つ坂ノ下神社と竜神沼は、そんな伝説が残っていてもおかしくない独特の雰囲気を醸し出しています。利尻富士が見える絶景にも出会えるので、近くを通りかかったら立ち寄ってみてはいかがでしょうか。 ●カムイコタン 旭川市・神居古潭 昔、カムイコタンに住んでいた魔神《ニッネカムイ》が、山の上から大岩を転げ落として石狩川を堰き止め、鮭の遡上を止めて上流に住むアイヌ民族を困らせました。 これを見ていた山の神が大急ぎで、《ニッネカムイ》の転がした岩の半分を爪で引掻いてこわし、どうにか水流れるようにしました。山に戻った《ニッネカムイ》はアイヌ民族たちが困っているだろうと見下ろすと、せっかくの岩を山の神がこわしているので、真っ赤になって怒り、山の神に襲いかかりました。 これを近くで見ていた《サマイクルカムイ》の妹が、空知に行っていた兄に大急ぎで知らせました。これを聞いた《サマイクルカムイ》は怒って駈け戻り、山の神に加勢して大岩を取り除こうとしたので争いになりました。《ニッネカムイ》はついにたまりかねて逃げ出しましたが、泥にぬかってしまいます。その足跡が《オラオシマイ》(鬼の足跡)、そのときに《サマイクルカムイ》が刀で切りつけた跡が、《エムシケシ》(刀の傷)として残っています。さらに逃げる《ニッネカムイ》を追って《ハルシナイ》(食料のある沢)を過ぎて《パンケアッウシナイ》(川下のオヒョウニレ群生する沢)の川口でとうとう首を切り落としました。《ニッネカムイ》の胴体はそこで大岩になって残っています。切り落とされた首はその対岸に飛んでサイクリングロード下に奇怪な形の大岩となってどかっと坐っています(ニッネカムイサパ魔神の頭)。《ニッネカムイネトパケ》(魔人の胴体)は、落石の危険防止のためとなっている。また、その前の川の中には低い岩が散らばっており、これが魔神のあばら骨です。《サマイクルカムイ》は、《ニッネカムイ》が投げ込んだ大岩を取り除き、川には再び鮭が上れるようになりました。 ●イペタム・スマ(人食刀岩)と、アサムサクト(底なし沼) 上川地方 昔、上川コタンの《コタンコロクル》(首長)の家に、一つの刀が《キナ》(ゴザ)に包まれて《カムイ・プヤラ》(神窓)の上に吊り下げられていましたが、代々先祖から「これは妖刀である。どんなことがあっても開いてはならない」と言い伝えられていました。 ところがある夜、怪しい光とともに妖刀は《カムイ・プヤラ》(神窓)から音もなく姿を消し、朝になると刀は何事もなかったように《キナ》(ゴザ)の中に収まっていました。このようなことが何日も続き、《コタン》(集落)では、人々が不可解な切り傷によって死ぬという事件が続きました。 途方に暮れた《コタンコロクル》(首長)が妖刀を山深くもっていって捨てても、カムイコタンの深みに沈めても、刀は家に戻り相変わらず人々を襲いました。 《コタンコロクル》(首長)は、《カムイ》(神)へ祈りながらも疲労のためいつしか眠りについてしまいました。すると、夢の中に、白髪の神と黒髪の神が現れてこう言ったのです。 「妖刀から《コタン》(集落)を守るには、《チウペッ》の《ホトゥイェパウシ》(いつも大声で呼びつけている所)の崖下に沼があり、その岸に赤い岩がある。その大岩の下に《ヌサ》(祭壇)を設けて妖刀を祀って心こめて祈りなさい。そうすれば、私たちが助けよう」 早速、《コタンコロクル》(首長)は夢のお告げの通りに《ヌサ》(祭壇)を作り、刀を祀って命がけで祈りました。すると、ものすごい轟音とともに岩が二つに割け、沼には湧きかえって白波がたち、異様な気配が漂ったのです。そのとき、《コタンコロクル》(首長)が「この刀が《コタン》(集落)にあってはアイヌ民族が滅びてしまう。アイヌ民族のために、この魔力を水神であるあなたに預けるから、しっかりと預かっていただきたい。もしこの願いを聞き入れてくださるなら、この刀を投げ入れるから、今、風もないのに沼に立っている波を消して誓って下さい」と言って、刀の包みを沼に投げ入れました。すると、異様な気配はすっかりなくなり、白波だと思っていたものは幾千としれぬ白蛇でした。それから、《コタン》(集落)には平和が戻りました。 夢に現れた白髪の神は竜神のお使い、黒髪の神は山の神のお使いであったことを悟った《コタン》(集落)の人々は、以後、この赤岩でお祭りをするようになりました。 そして妖刀を呑んだ沼を《アサム・サク・ト》(底なし沼)、赤岩を《イペ・タム・シュマ》(人食い刀の岩)と呼ぶようになったのです。 ●まりも 釧路市・阿寒湖 昔、阿寒湖に《ペカンペ》(水・の上に・あるもの=菱の実)が群生していました。《ペカンペ》(菱の実)はアイヌ民族にとって、大事な食料でした。ところが、《トコロカムイ》(湖・の・神)は、《ペカンペ》(菱の実)が湖一面にはりつめると、湖が汚れて見苦しくなり、アイヌ民族が《ペカンペ》(菱の実)を取りにきて汚れるからと、《ペカンペ》(菱の実)を快く思わず、絶えず虐待しました。 《ペカンペ》(菱の実)は、「仲間を増やしてアイヌ民族の役に立ちたいから」と懇願しましたが、《トコロカムイ》(湖の神)に、にべもなく断られてしまいました。それで、《ペカンペ》(菱の実)は大いに怒って、そこら一帯の藻をかきむしり、それを丸めて湖の神向けて投げつけて、自分たちはさっさと塘路湖《トー・オロ》(湖・のところ)に引っ越してしまいました。その丸めた藻が、今日言うところのマリモ(鞠の形をした藻)となったのです。 ●有珠山の噴火 伊達市洞爺湖町・有珠山 昔から静かな大地、静かな村を領していました。ある日、地震が起こって大地が揺れるに揺れました。私は山の様子をみていましたが、何日も、何日も、地震がおさまらないので、村の住人である子どもや《フッチ》(おばあさん)、《エカシ》(おじいさん)たちを避難させました。しかし、《アブタ》(虻田)のかしら(村長=むらおさ)は「わたしが避難させた」と言っても村人を避難もさせないでいたのでした。ところが恐ろしいことに真夜中に噴火が起こり、熱湯が村中を飲み込み、岩とともに火が下り、《アブタ》の村を飲み込んでしまいました。村は破壊され、一人の人間も避難させなかったことから、全部消されてしまい何もかもが無くなりました。噴火が起きて《アブタ》の村から逃げ、海に逃げたものは、あわてて海へ飛び込み頭が焼け、海の底に潜ったものは哀れにも海水を飲んだのか腹を膨らませて死にました。死んだものたちが浜一面に引き上げられ、《ウソロ》(有珠)の村はひどく破壊され、めちゃめちゃに焼かれ、家は燃えた木片が半分ぶら下がり、跡形もなく燃えてしまったものもあって、《アブタ》の村はすっかり消えました。 そのようななか、《アブタ》の村、《フレナイ》(虻田)の村を治めるかしらが見つからないのを私は不思議だと思って、毎日、かしらを探しましたがわかりません。《フレナイ》(虻田)の住人で逃げきれたものたちも、かしらが生きているのか死んでいるのかわからないので、皆で泣いて《リミムセ》(叫び声)をしましたが、どうしたものか行方がわからないのです。そうしているうち、《ペペ》(ベンベ/豊浦)という村に逃げた人たちも自分の村に二人帰り、三人帰り、次々と村に戻りました。村へ戻ると《フレナイ》(虻田)の村のかしらが、生前の姿のままで山へ向きながら座っていました。座って神に祈っていたのです。アイヌ民族も和人もびっくりして口をおさえ、鼻をおさえ、哀れみました。和人が近くに寄って「かしらよ、達者でいたのか」と言いながら杖で突きましたが、そのまま座っています。灰だらけで座っているのです。いつ、焼けたのか、生きているものと同じように、かしらも奥さんも座っています。虻田の村がどうなったのかと心配したアイヌ民族たちや助かったアイヌ民族たちが泣きながら威嚇行進をおこないました。《ペペ》(豊浦)の村、《レプンケ》の村の焼け殺された人びと全員の魂が、死んだ魂が神のところにいけるよう長老たちが神に語り、神に呼びかけました。 そうしていると、山(有珠山)を鎮めるために《ウェイシリ》の上から神が立ち上がりました。その神に続き《フレスマ》から《レプンケプ》から《ペぺ》(豊浦)の岬からと、辺りの山の上、岬の上からたくさんの神々が立ち上がって山へ攻撃しています。稲光とともに宝刀が大きく揺れ、切り合ってでもいるように神々が戦いました。山の神が弱まったらしく、何の音もなく地震もすっかりおさまりました。 《アブタ》や《ウソロ》(有珠)の村も噴火ですっかり消えましたが、新しいかしらが仲間を分けて、方々に村をつくりました。アイヌ民族たちは《フレナイ》(虻田)の村に集まり、村をもってたくさんの酒を造り、神に返礼し、方々の神々に祈りを捧げました。噴火によって死んだアイヌ民族たちの魂、その留まる魂の鎮魂のためにも酒を造り祈りました。「だから私は今でも《ウェイシリ》の神に祈りますよ。《レプンケプ》の神々、方々のたくさんの神々全部に祈ります。だからお前たちも覚えておきなさい。今は長いこと山が噴火することもないが、おまえたちも気をつけなさい」と。私はもう死ぬので、仲間たち、子孫たちに教えたのだと《フレナイ》(虻田)の村長が言いました。 ※『物語虻田町史』によると、有珠の再噴火は、1663(寛文 3)年、1768(明和 5)年、1822(文政 5)年、1853(嘉永 6)年、1910(明治 43)年、1943(昭和 18)年、1977(昭和 52)年が記録されており、1822( 文政 5)年文政の噴火の頃に「この時の噴火で、今の新漁港を中心としてあった《アブタ》は壊滅的な打撃を受けて《トコタン》(廃村)と呼ばれるようになり、会所も今の神社の横に移り、ここは本来《フレナイ》の《コタン》(集落)のあった所であるが、名前は前の《アブタ》をそのままとって現在の地名《アブタ》とした」とあります。遠島氏の伝承でも噴火のために《アブタ》のコタンがすっかり消されてしまったと謡われていることから、文政の噴火を知る先祖から伝えられた話だと思われます。 ●「カムイラッチャコ(御神火)と登別温泉の神 登別市・登別温泉 白老《コタン》(集落)から見て西方、登別温泉の方向に当たって、昔は時々不思議な火が見えることがありました。アイヌ民族は《カムイラッチャコ》(御神火:ごしんか)と呼び、悪疫流行のお告げとしてとても警戒しました。登別温泉の神は病を治す神でありますから、悪疫流行の兆しがあれば山に火を点じ、あらかじめ知らせてくれるのだと言い伝えられ、この火を見れば疫病除けの祈りをしたといいます。白老アイヌは登別温泉の神を《ヌプルペッカムイタプカシエヌプルカムイ》「登別の聖なる山頂を守る神」と称し、神の中でも特に大切な神として《ヌサ》(祭壇)に祀ったといいます。 昔、《アイヌモシリ》(人間の国)に一人の女の子が生まれました。その子は世にも珍しいほど神々しく上品で綺麗な子どもで、両親の愛もまた一通りでありませんでした。村の人たちもこの子が成長したらどんなに美しい《ピリカメノコ》(美しい娘)になるかと、寄ると触るとその噂で持ちきりでした。しかし、6、7歳の頃からガンベ(皮膚病の一種)にかかり頭から顔まで一面にひろがり、いろいろと手当てもし、あらゆる薬もつけましたが、治る様子もなくひどくなる一方で、両親はもちろん村の人びとも《カムイノミ》(神への祈り)を続けましたが、それも効き目がなく、後には目まで腐ってしまい二目と見られない形相となりました。 この女の子が 17、18 歳になる頃、ある日、神隠しにでもあったように姿を消してしまいました。手を尽くして方々探したが、どこへ行ったか杳として消息がわかりません。多分醜い自分の容姿を恥じて行方をくらましたのだろうということになり、両親も泣く泣く諦めていました。しかし、これは神があまりに女の子が綺麗なため、このままにしておいて人間の垢をつけられるのは惜しいと思い、病気でもガンベでもないのに他の人々の目にはガンベに見えるようなさったことで、行方不明になったのも神の国に呼び寄せられ、その神の妻になったからだったのです。 神の国で 6 人の女の子を生み、やがてその子たちが大きくなって、それぞれ神様の所にお嫁に行きました。長女は《ヌプルペッ》(登別)の奥の高い山にいてこの付近を守る神様となり、母が人間世界にいるとき、病気と見られ長い間苦労したのを思って、この登別温泉の主となり、世の多くの人たちのあらゆる病気を治してやる神となりました。以来、アイヌ民族はヌプルペッ温泉に入浴する場合、必ずこの神に《イナウ》(御幣)を捧げ、病気全快を祈祷した後、入浴するのが習慣となりました。登別温泉はこの神のご利益で何病にも効きますが、ことに母神の病気であった皮膚病には効験が一層あらたかであると言い伝えられています。 なお、妹たちも、次女は小樽の祝津、三女は積丹のお神威、四女は《エンルム》(室蘭の絵鞆)、五女は室蘭の地球岬、六女は《ヤンゴウシ》(矢越)に皆それぞれ嫁ぎ、そこの守護神となったといいます。 ●日高地方に伝わるアイヌの民話 日高地方 ●プクサの神の怒り ある村に心がけの良い働きものの娘がいました。 畑で仕事をしていると、萩(はぎ)の神が娘に、村長(むらおさ)の家に行くようにささやきました。急いで行ってみると、村長の妻は重い病気になり、たったいま亡くなったばかりのところでした。すると今度は、その家の鍋(なべ)の神が娘に、村長の妻が死んだ理由をそっと教えてくれました。 それは、村長の妻が、山で《プクサ》(ぎょうじゃにんにく)やほかの山菜をとるときに、いつも根だやしにとりつくしたので、《プクサ》(ぎょうじゃにんにく)の神が怒り、誤りに気づかせようと重い病気にしたからだというのです。 これを聞いた娘が、鍋の神が教えたとおりのおまじないをし、《プクサ》(ぎょうじゃにんにく)の神の怒りをしずめると、村長の妻を生き返らせることができました。 助かった村長の妻は、娘の話を聞き、自分がしたことを悔いあらためました。 また、そのあと、娘はとても豊かになり、一生幸せに暮らしたということです。 娘はよく働くうえに心がけも良く、山に山菜をとりに行っても、《プクサ》(ぎょうじゃにんにく)などをとりつくすようなことは決してしなかったので、いろいろな神が助けてくれたのでした。 だから、山菜とりに行っても、全部を根だやしにとるようなことをしてはいけませんよ。 このように、アイヌ民族の昔話には、自然を大切にする精神を教えるものが多いのです。みなさんも、村長の妻のようには、ならないようにしましょうね。 ●キツネのチャランケ(談判) サケが川をたくさんのぼってくるようなった秋の夜のこと、《アイヌコタン》(村)の長(おさ)が川辺を歩いていると、なにやら声がします。だれだろうと月明かりをたよりに目をこらすと、そこにいるのは一匹のキツネでした。キツネは村長に何かを訴えたがっている様子です。不思議に思いながらも耳をすましてよく聞くと、キツネが言いたいことがわかってきました。それは、こういうことだったのです。 「アイヌよ。人間よ。よく聞け。きょうのひるごろ、おまえたちアイヌがとっておいたたくさんのサケの中から一匹だけちょうだいした。それに気づいた一人のアイヌが、聞いたこともないような悪い言葉でののしった。それは、人間が言えると思うありったけの悪口だった。そのひどい言葉は、まるでどす黒い炎のようにおそいかかってきたのだ。 それにしても、サケは人間がつくったものではあるまいし、キツネがつくったものでもあるまい。川辺で暮らしている生き物たちのために、神がたくさんのぼらせているものを、腹をすかせたキツネが一匹とったからといって、あの仕打ちはひどすぎるのではないか」 これを聞いた村長は、キツネの言い分ももっとだと思いました。そして、朝になるとキツネの悪口を言った者を呼び、キツネの話を伝えてしかり、これからはそのようなひどいあつかいをしないように教えさとしました。また、村人が皆で《イナウ》(御幣)とお酒をキツネの神に捧げて、ていねいなお祈りをし、サケを自分たちだけのもののようにしたことをわび、これからはそのような振る舞いをしないことを誓いました。 「だから今いるアイヌたちよ、魚や木の実は決してわたしたち人間だけが食べるものと考えてはいけない、と年老いた村長が語りながらこの世を去りました」。昔話の多くが、このような言い方で教訓を伝えながら終わります。 サケなどの自然の恵みをほかの動物たちとも共有しようという、また一匹のキツネの主張に対してもまともに耳を傾けようとする、アイヌ民族の伝統的な精神を伝えているお話の一つですね。 また、このような守るべき精神道徳をそなえた人を《アイヌ ネノアン アイヌ》、つまり「人間らしい人間」と呼んで尊敬するのが、アイヌ民族の考え方なのですよ。 |
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●北海道の伝承
●神威岩 ニセコ積丹小樽海岸国定公園にある神威岬は、北海道の観光スポットの中でも指折りの存在である。岬の付け根に位置する駐車場からは、岬の尾根伝いに続く遊歩道を経て突端に達する。日本海に面した岬から見える海の青さは格別で、通称「積丹ブルー」と呼ばれる。その美しい青い海の中にそそり立つ奇岩が神威岩である。この自然の造りだした奇跡のような岩には、当然のように不思議な言い伝えが残されている。平泉で自害したとされる源義経であるが、実は生き延びて北へ逃れ、津軽から蝦夷地に渡ったという伝説がまことしやかに残されている。この神威岩にまつわる言い伝えも、この義経にまつわるものである。蝦夷に渡った義経主従は、平取(びらとり。現在の沙流郡平取町)のアイヌの長の許に身を寄せた。その長の娘であるチャレンカは義経と恋に落ち、将来を誓い合うのであった。しかし義経は蝦夷に留まる意思はなく、遙か彼方の中国大陸を目指して新たな旅に出ようとしていた。そこで義経はチャレンカに黙って平取を去り、海伝いに積丹半島へと移動したのである。チャレンカは義経がいないことに気付くと、その後を追って積丹半島へ向かった。そしてようやく神威岬にまでたどり着いたが、義経一行は既にそこから船に乗って中国大陸へと旅立ってしまっていたのである。それを聞いたチャレンカは泣き崩れると、もはや平取に戻ることもなく、そのまま神威岬の突端から身を投げた。すると、その遺体は石と化したのである。それが神威岩が出来た由来であるとされている。チャレンカの義経に対する愛情は、激しい嫉妬の執念となって人々に危害を加えた。この岬を女性を乗せた船が通りかかると、海が荒れて船そのものを転覆させるという伝説が広まった。そのために、この岬一帯は女人禁制の地とされるようになった(駐車場から遊歩道に入る入口にある古めかしい門が、女人立ち入りを禁止として設けられた門である)。また同様に和人を乗せた船もこの近くを通ると転覆すると言われていた。いずれもチャレンカが死の間際に叫んだ呪いの言葉によるものとされている。 ●源義経の北行説 / 平泉で死んだされる義経であるが、平泉から北の各地に義経一行が北へ向かって逃避行を続けたという伝説が残されている。そして北海道にも渡ったとされ、平取町や積丹半島にその伝説が残っている。さらに義経は中国大陸に渡って、その後、チンギス・ハンとなったという説が、大正時代以降に小矢部全一郎によって提唱された。 ●萬念寺 お菊人形 “髪の毛が伸びる人形”という怪異の1ジャンルを確立したと言っても間違いない「お菊人形」が安置されている。ただ寺そのものは、北日本でよく見かける、ごくありふれた建物であり、この物件がなければ集落の檀家だけが訪れるだけの何の変哲もない寺院だったろうことは想像に難くない。お菊人形にまつわる寺の公式な由来は、以下の通りとなる。大正7年(1918年)8月に札幌で開かれた大正博覧会で、当時17歳だった鈴木永吉が、3歳の妹の菊子のためにおかっぱ頭の人形を買ってやった。菊子はそれを気に入って、寝床まで持って一緒に寝るほど可愛がった。しかし翌年1月に菊子は風邪が元で急死する。人形は、棺に納められるのを忘れたため、遺骨と共に仏壇に飾られたのであるが、いつしかおかっぱのはずが肩まで髪の毛が伸びてしまっていた。昭和13年(1938年)になって、鈴木家は北海道を離れ樺太に移ることとなり、萬念寺にこの人形を預けた。戦後、追善供養のために戻ってくると、人形の髪の毛はさらに伸びており、菊子の霊が宿ったものとしてそのまま萬念寺に納めて永代供養を頼んだのである。ところが、小池壮彦のレポート(宝島別冊415『現代怪奇解体新書』所蔵)によると、この人形にまつわる怪異譚の初出は上のものとは全く異なる。昭和37年(1962年)8月6日号の『週刊女性自身』によると、この人形は昭和33年(1958年)に鈴木永吉の父の助七が寺に預けたものであり、その後助七は本州へ出稼ぎに行って帰ってこなかったという。また人形の髪の毛が伸びているのを発見したのは住職で、預かってから3年ほどして夢枕にずぶ濡れの助七が現れて「人形の髪の毛を切って欲しい」と伝えたため、不審に思って見つけたということになっている。しかもこの人形を大切していた子供の名前は菊子ではなく清子となっている。ところが昭和43年(1968年)7月15日号の『ヤングレディ』では、上の週刊誌記事を書いた同一の記者が最初とは全く異なる来歴を紹介している。大正7年(1918年)大正博覧会で鈴木助七が買った人形を娘の菊子が可愛がっていたが、娘は急死。昭和13年(1938年)に樺太の炭鉱に出稼ぎに行くことになった助七が萬念寺に人形を預けた。そして昭和30年(1955年)になって、住職が掃除をしている最中に、髪の毛の伸びていた人形を発見して供養したという展開になっている。最終的に、萬念寺公式の由来と同じ内容となるのは昭和45年(1970年)8月15日付の『北海道新聞』に掲載されたコラムからであり、それ以降は異説は全く登場してこなくなる。“髪の毛が伸びる”という事実に対しても、合理的な理由が考えられ、超常現象ではないという見解も採られている。特に有名のものは、この種の日本人形の植毛方法は1本の長い人毛を半分に折って2本の髪の毛としてくっつけるために、経過年によって折られた髪の毛がずれて一方だけが長くなるという推論がある(ただしこの論が正しいと、人形の髪の毛の総数そのものが減り、見た目の髪の量が減るはずである)。また寺によると、髪の毛が伸び続けるので年に1回の割りで供養として髪を切って揃えているとしている。しかし、残念ながらその切り揃えられた人形の写真が公開されたという話は聞かない。さらに過去と最近の写真を比較すると、伸びている髪の毛の長さが変わっていないと判断せざるを得ないものが殆どである(近年になって髪の毛の伸びる速さがかなり鈍っているという説明がなされているが)。率直に言うと“髪の毛が伸び続けている”という説明はかなり厳しいものがある。そしてお菊人形の怪異として挙げられるもう1つの特徴は“口がだんだんと開いていく”という内容である。写真で見ても判るように、お菊人形の口はわずかに開いている。本によっては“開いた口から歯のようなものが見える”という記述まである。こちらも初めは口を閉じていたとされるが、それに類する写真は見たことがない。写真によって口の開き方が若干異なるように見えるものがいくつかあるが、果たしてどこまでが真実かを判定するには少々難しいところである。萬念寺を訪れて実物を見ると、写真で見た時よりも愛くるしい人形という印象を受けた。魂が入っているため“写真に撮られることを嫌って”写りが悪くなるそうである(それ故写真撮影も禁止である)。最早合理的な説明がつけられたからといって、お菊人形は伝説の域の存在であることに変わりない、というのが正直な感想である。 ●泣く木跡 現在の栗山町の歴史は、明治21年(1888年)に仙台藩士であった泉麟太朗によって入植をおこなわれたのを初めとする。その翌々年から、この地では幹線道路や鉄道路の開発がおこなわれた。これには市来知集治監の政治犯が多数駆り出され、寒さと飢えの中を酷使された。そのため多くの囚人が亡くなり、その遺体は掘削工事の進むトンネルのそばにある巨木の下に埋められたという。この巨木が伝説の“泣く木”である。“泣く木”はハルニレの木で、樹齢は約300年ほどのものとされた。その不気味な名が流布しだしたのは昭和7年(1932年)である。室蘭本線の栗山トンネルに沿ってあった道路を拡張する工事が始められた頃、道路を直線にしようとすると邪魔になる木があった。ハルニレの巨木である。そこで伐採してしまおうとすると、その木がキューキューと音を立てる。それがまるで人が泣く声のように聞こえたために、噂が広まった。しかもこの巨木を鋸で挽こうとしてもなかなか伐れない。そのうち鋸が折れて大怪我をする者が出てきて、さらに引き抜こうと馬車を使ったところロープが切れて馬が即死、作業員も大怪我をする事故まで起きた。結局、この部分だけは道路を迂回して拡張せざるを得なくなったのである。この事件の前後から「泣く木で首を吊った飯場の女」の怨念という噂も立った。この土地に流れてきた女性が、道路工事をおこなっていた飯場の飯炊きに雇われたが、作業員の慰み者にされた挙げ句それを悲観して首を吊ったというのである(後日、道内の霊能者の霊視によって、この女性は“上野キヨ子”という名であるという話まで広がった)。あるいは、昔、アイヌの娘が和人の若者と恋に落ちるが叶わず、二人してこの木で首を吊ったという話も現れた。“泣く木”の名は「伐ろうとすると祟りがある」という内容で、道内で知らぬ者はないほど有名になったのである。またこの部分だけカーブになっているせいもあるかもしれないが、自動車事故の多発地帯となり、死亡者も複数出ている。そして昭和29年(1954年)の洞爺丸台風の時に木の上半分が折れたが、地元の人々は怖れて手をつけることはしなかったという。昭和45年(1970年)8月22日の夜。川の護岸工事と、道路の舗装工事がおこなわれていたさなか、工事の下請けで現場で寝泊まりしていた小林という若者が、酒に酔った勢いで15000円の賭のために、チェンソーで一気にこの木を伐り倒してしまったのである。倒された木は安全面を考慮して細かく切られた処分された。しかしこの木の切れっ端を自宅に持ち帰った者がその夜にうなされたとか、ストーブの薪として燃やした者が病気をしたり急死したりするという噂が流れた。またオカルトブームに乗って、この祟りの伝承は週刊誌などで全国的に知られるようになったのである。かつて“泣く木”のあった場所には石碑が建てられ、おそらく“泣く木”の種子から育ったであろう若木が二代目として大切に育てられている。そして今もなお、国道234号線はこの木のあった部分を避けるようにカーブしたままである。 ●“泣く木”の伝説 / 現在流布している話は昭和7年頃に成立したと考えられるが、この木の怪談めいた噂そのものはもっと古くからあったと考えられ、大正5年(1916年)に発行された『婦人倶楽部』にこの木の怪談が紹介されている。そしてこの木の存在が全国的なものになるのは、上に挙げた通り、昭和50年(1975年)前後のオカルトブームの頃である。この時には強制労働で亡くなった囚人の話ではなく、飯場の女性の霊のなせる怪異であるとの紹介が圧倒的である。おそらく「泣く=女性の仕草」というイメージが先行したのであろう。また木を伐った男性についての噂も喧伝され、伐った後しばらくして死亡したと紹介されていた。しかし『栗山・泣く木物語』(著:坂井菊二郎)によると、この男性はその後も生存しており、治療院の経営者として15年後に新聞で紹介されている。 ●光善寺 血脈桜 天文2年(1543年)創建の光善寺は桜の名所としても有名であるが、本堂前にある桜の巨木は“血脈桜”と呼ばれ、北海道指定記念樹木として屈指の名木と言われている。樹齢約300年とされるこの古木には、名前の由来に関する不思議な伝説が残されている。松前の鍛冶屋・柳本傳八は、娘を伴って上方見物に出掛けた。そして桜が満開の吉野をいたく気に入った親子は、しばらくの間逗留することに。娘の静枝は吉野のある尼寺を訪ね、尼僧と懇意となった。やがて松前に戻る日が来て、尼僧は吉野の思い出にと一本の桜の苗木を手渡しくれた。そして親子は郷里に戻ると、苗木を菩提寺の光善寺に寄進して植えたのであった。年月が経ち、桜は立派な大木となった。ところが十八世・隠誉上人の代となって、寺の改修をおこなうためにこの桜の木が邪魔となり、伐採することと決めた。その伐採の前夜、寺を訪ねてきた若い女性があり、「明日にも死ぬ身なので、血脈を授けて欲しい」と上人に頼み込んだ。夜も遅いので明日にと言う上人に対して、女は今日でなければならないとせかし、渋々上人は血脈の証を授けたのであった。翌朝、庭に出た上人は、今日切り倒す桜の木の枝に何かがぶら下がっているのを見つけた。それは昨夜自らが授けた血脈の証であった。ここで上人は昨夜の女が桜の助命に来たのだと悟り、伐採を取りやめると同時に供養を執りおこなったのである。この伝説により、この桜の古木は“血脈桜”と呼ばれるようになったという。上人の許を訪れた若い女性であるが、桜の精であるとも、苗木をもらってきた静枝の霊であると言われている。また光善寺には「義経山」と刻まれた石碑が置かれている。これはかつて松前にあった義経山欣求院の山号であると言われており、源義経自身が矢尻で刻んだとの伝承が残されている。源義経北行伝説の有力な証拠の1つとされている。 ●源義経北行伝説 / 源義経主従は平泉で死んだのではなく、身代わりを立てて逃亡して蝦夷地(北海道)を目指して行ったという伝説。平泉以北に複数の義経ゆかりの寺社がある。さらに義経一行は蝦夷地から中国大陸へ渡り、その後チンギス・ハンとなったという伝説もある。 ●神居古潭 (かむいこたん) 旭川市内の南西部、国道12号に沿って石狩川が流れる景勝地が神居古潭である。その名はアイヌ語の「カムイ=神」と「コタン=村」が合わさったものであり、アイヌにとっての聖地である。この付近は石狩川が上川盆地から石狩平野に抜け出る部分であり、川幅が細く急であるために水上交通の難所であり(行き来する船が遭難することが多く、アイヌはここで祈りを捧げてお供えするらしい)、またその流れによって両岸に大きな奇岩や甌穴群(浸食によって丸い穴が開く)が多数見られる。そのような地形であることから、次のような伝承がアイヌに伝わったと推測される。はるか昔、この地にニッネカムイ(「ニッネ」は悪の意)という魔神がいた。ある時ニッネカムイは、人々が平和に暮らしていることを妬み、川に巨石を投げ入れて鮭の遡上を止め、人々の村に洪水が起こるよう仕向けた。それを見た山の神の熊は阻止しようとして、ニッネカムイと争った。しかし山の神は劣勢に立たされる。そこへ妹神から知らせを聞いた、英雄神サマイクルが山の神の応援に駆け付け、激闘となった。はじめはサマイクルの刀をかわしていたニッネカムイであったが、やがて砦に追い詰められてしまう。そして窮地に立った魔神は川に向かって飛び降りたのだが、両足がめり込んでしまって身動きが取れなくなる。サマイクルはここぞとばかり刀を振るうが、魔神は深手を負いながらも上流へと逃げていく。だが、ほとんど抵抗する力を失ったニッネカムイは、少しばかり上流でついに首を刎ねられてしまったのである。首は川岸に落ちて岩と化し胴体も立ち尽くしたまま石化してしまった。ニッネカムイの砦と言われる巨岩が、吊り橋から臨める「カムイ岩」である。また魔神の首と呼ばれる岩も残されている。しかしながらニッネカムイが飛び降りた際につけられたという2つの巨大な穴(甌穴)とサマイクルの刀傷の残る岩は国道の拡幅工事のために土砂に埋まってしまったとのこと。また魔神の首の対岸にあった魔神の胴体も同じ工事で削られてしまったという。 ●サマイクル / アイヌ伝承の創造神。オキクルミと共に英雄神とされる(兄弟・一族であったりライバルであったりとさまざまなシチュエーションで語られるが、定説はない)。またオキクルミよりも粗野で愚昧とされるが、これもエリアによっては異なる。旭川周辺の伝承では、サマイクルが創造神であり、英雄神とみなされている。 ●義経神社 寛政11年(1798年)に近藤重蔵によって創建された、比較的新しい神社である。しかしその来歴は古い。史実として源義経は平泉で自害したとされるが、不死伝説として主従揃って蝦夷地へ逃れたとする説がまことしやかに伝えられている。それを裏付ける証拠として、平取のアイヌの間では義経の来訪に関する伝承が残されている。社伝によると、義経主従は蝦夷地白神(現・福島町)に着岸するとその西海岸を北上、羊蹄山を越えて平取の地に辿り着いた。そこで義経は現地のアイヌに対して造船・機織・農耕・狩猟などの技術を伝え、「ハンガンカムイ」という名で呼ばれた。つまりアイヌ伝承の創造神であるオキクルミの再来とみなされたとされる。この伝承を聞いた近藤は、平取に義経を祭神とする神社を建てたのである。そこにはアイヌに対する徳川幕府の政治的思惑が根底にあるのは想像に難くないが(徳川氏は源氏を祖としており、その祖先に近い人物を祀ることによって懐柔を試みているのは明らかだろう)、史実として全く接点があるはずもないこの地に義経の名が残されていること自体、ある種の不思議さを感じるところである。 ●義経の北行説 / 源義経は1189年に31歳で平泉に自害したとされるが、その死の直後より生き延びて蝦夷地へ渡ったとの伝説が流布する。東北地方にもその足跡が残されており、蝦夷地へ渡ったとされる青森県三厩をはじめ、義経を祀る社寺も存在する。大正時代になると、この説をさらに拡張、義経は蝦夷から大陸に渡りモンゴル帝国の初代ジンギスカンとなったとする「義経=ジンギスカン説」が小矢部全一郎によって主張され、著作がベストセラーとなる。 ●オキクルミ / アイヌ伝承(ユーカラ)における国土創造神。天上より初めて人間界(沙流郡平取町と比定される)に降り立った神とされ、人間に対して害悪をもたらす魔物を退治し、さまざまな文化や産業技術を伝えたとされる。しかし後に人間の心が堕したため去ってしまったという。別名アイヌラックル、オイナカムイ。また各地の伝承によって出自や事跡がかなり異なっており、正確な定説と言われるものはない。 ●松前城 江戸時代、北海道に唯一あった藩が松前藩である。藩は幕末まで松前氏が代々務めており、その居城が松前城であった。この城には、この松前氏にまつわる2つの負の遺産が残されている。それが「闇の夜の井戸」と「耳塚」である。この2つの伝承はいずれも5代藩主矩広の治世の時のものであり、元は城の前の方にあったのだが、現在は2つとも人気の少ない裏手に並べて残されている。「闇の夜の井戸」は、矩広の乱行を諫めた丸山久治郎兵衛が悪臣に謀られて生き埋めにされた井戸である。ある時、丸山は「殿の鉄扇が井戸に落ちたので取ってきて欲しい」と言われ、それが謀り事であることを承知で応じた。そして悪臣達は丸山が井戸に入ると、その上から大石を投げ込んで殺してしまった。その後、矩広の子が早世するなどの怪異が続き、祟りを怖れて井戸を埋めようとしたが、いくら土砂を流し込んでも埋まる気配はなかったという。さらに月のない夜になると、今なお井戸から呻き声が聞こえてくると言われる。「耳塚」は、寛文9年(1669年)に起こったシャクシャインの戦いで処刑されたアイヌ側の首謀者14名の首の代わりに持ち帰った耳を埋めたものである。ただ塚と言っても、さして大きくない3つの黒石が残されているだけである。松前藩の横暴に対して立ち上がったシャクシャインであったが、東北諸藩の援軍を仰ぎ、鉄砲を多用する圧倒的な松前藩の戦力の前に劣勢となり、長期戦に持ち込もうとした。しかし和議を結ぶ宴席で騙し討ちに遭い、謀殺される。そしてシャクシャインの遺体は松前城門前に磔にされたという。松前城には他にも、7代藩主・資広の正室がもののけを退治して皿を手に入れたという「手長池」の怪異などの伝承が残されている。 ●シャクシャイン / ?-1669。日高地方に拠点を置くアイヌの首長。松前藩の不当な交易に対して蜂起を呼びかけ、戦いを起こす。戦いは不利となり長期戦を画策するが、和睦を受け入れる。しかしこれは松前藩の罠であり、和睦の宴席で謀殺される。 ●セタカムイ岩 国道229号線は、小樽から積丹半島を経て江差まで通じる道である。古平(ふるびら)町は余市と積丹半島との間にある町であり、海岸線に沿って国道が続くエリアである。そしてその海岸線には多数の奇岩があることでも有名である。セタカムイ岩は、余市町と古平町の町境に位置する豊浜トンネルの入り口近くにある。高さは約80メートル、このエリアの中でも一際有名な奇岩である。セタカムイという言葉は、アイヌ語で“犬の神”という意味を持つ。遠くからだと、ちょうど犬が首を挙げて遠吠えしているような姿に見える。この形が名前の由来であることは間違いない。現地の案内板で紹介されているものは以下の通りである。昔、ラルマキという若い漁師が犬と一緒に暮らしていた。ある日ラルマキは漁に出かけるが、大時化のために遭難して還らぬ人となってしまった。しかしそれを知らない犬は、飼い主の帰りを待って嵐の中を鳴き続けた。そして嵐がやんだ後、その犬は岩と化していたという。また別の伝承がある。文化神であるオキクルミが狩りをした後に犬を置き去りにして去っていった。犬は後を追ったが、海に阻まれてしまいそこで主人恋しさに泣き続け、とうとう石になってしまったという。さらにこんな伝承もある。源義経がこの地を去る時に飼っていた犬を置いていった。犬は後を追いすがったが、結局海辺で岩となってしまったという。この岩の伝承は、飼い主はそれぞれ変わるが、いずれも飼い主に置き去りにされた犬が悲しさのあまり石と化してしまったというパターンとなっている。それだけ、海に向かってそそり立つこの岩が悲しく鳴き続ける犬の姿にそっくりであり、幾世代に渡って人々のイメージとして固着し続けた結果が、複数のバリエーションとして伝播されてきたことに繋がったのだろう。 |
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●影沼 上北郡六戸町
折茂新田に影沼と呼ばれている場所がある。今は、その沼はないが、昔この沼は大きく、底が深く、底なし沼だともいわれた。その岸辺には老柳が茂っており、おばけが出そうな薄暗い場所であった。 そして、岸辺を通る者がいて、もしその者の影が沼面に映ったならば、その者の生命は沼に吸い込まれ、死んでしまうという恐ろしい場所であった。したがって、そこを通る時には影が映らないように夜間に通ればよいというが、夜は夜で、沼に吸い込まれた者たちの霊が出たり、泣き叫ぶ声も聞こえたという。 『藤坂村誌』には、この影沼が紹介されており、次のように記されている。「この近くでは六戸の折茂にも影を水にうつせば死ぬと傅へる影沼といふのがある。馬が主であるといふから、鹿毛沼であったのであらう。ここらはもと往昔木崎の牧の中に入ってゐた所だったのである」。 ●橘公塚(きっこうづか) 上北郡六戸町 舘野公園入り口に鎮座する熊野神社は、出雲大社様式の堂々たる社殿である。その社殿に向かって左側の一角に、金の鳥居が建ち、ブロックで囲まれた聖地がある。囲いの中は、1.5メートル四方の土まんじゅうの塚が築かれ、その上に50センチメートルほどの卵形の石が安置されている。石は苔むして、何も刻まれていないが、昔から「橘公塚」と呼んでいる。当地方に伝わる『六戸郡姉戸沼崎観世音縁起』による次のような物語が展開されている。 ● 白雉5年(654年)のころ、橘中納言道忠という公家が、世をはかなんで東北行脚の旅へ出た。そして、小川原湖の倉内付近に草庵を営み、自ら観音像を彫刻して、読経三昧の日々を送っていたという。そのころ、都には道忠公の娘、玉世・勝世という姉妹がいた。姉妹は、父恋しさに、進藤織部・駒沢左京之進という家来を従え、小川原湖へやって来た。ところが、すでに父は亡く、悲しさのあまり、玉世姫は姉沼へ、勝世姫は小川原湖へ入水し、沼の主となったという。したがって、今日の姉沼は玉世姫のことを指し、小川原湖は勝世姫で、妹沼とも呼んでいる。そして、進藤・駒沢らは、彼女たちを供養するため、この地に住みついたのである。 その後、道忠公の奥方が、織笠兵部・根井正近らの家来を引き連れて小川原湖へやって来た。奥方は道忠公の草庵跡へ海向山専念寺という寺院を建立し、尼となり、現在の天ケ森(尼ケ森)に住みついた。そのため、小川原湖近辺には、この物語に登場する進藤(新堂)・駒沢・織笠・根井ら、家来たちの名が、地名として今日も残っている。 ところが、その長い歴史の間には、寺へ賊が入ることもあった。ある時、住職は、難を避けようとして、道忠公が彫った観音像を背負い、近くの湖沼へ入水した。現在、その沼を仏沼と呼んでいる。 その後、村人によって2体の観音像が仏沼から引き揚げられ、一体が現在、五戸の専念寺へ、もう一体は六戸の民家(杉山家)へ納められるようになったという。 その石は道忠公が、都を思い出して、舘野のさつき沼の霊水を使い、石へ思いのままを書きつけたところ、その文字が都の屋敷の庭石に浮き出たという。それを見た奥方が逆に、庭石へ字を書いたところ、橘公塚の石へ文字が浮き出てきたという逸話も橘公塚伝説として残っている。 |
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●青森の伝承 ●上皇宮/白山堂 第98代長慶天皇は南朝の第3代天皇とされるが、その史料の乏しさから長らく天皇としての在位について疑問が持たれていた。正式に98代目の天皇として認められたのは大正15年(1926年)10月のことであり、その在位は正平23年(1368年)の後村上天皇崩御から、弘和3年(1383年)頃とされる(弘和3年に綸旨が、翌年には院宣が出されたとの史料が残っているため)。ただその詳しい事績は南朝衰退期と重なっているために明確に記録されておらず、特に上皇となった後については崩御されたのが応永元年(1394年)との史料が残されるだけで、実際のところは不明なことばかりと言える。ただ、長慶天皇はその在位期間に北朝との和議が全く進まなかったことから(先代後村上天皇の時には交渉はあったとされ、次代後亀山天皇の時には南北朝が統一されている)、南朝存続の強硬派であったと推測されている。そのため上皇となってからは北朝打倒のため全国各地に潜幸されたという伝説が生まれ、その地で崩御されたという伝説地は100近くあるとも言われいる。その中でも「御陵参考地」として挙げられた場所が、弘前市(旧・相馬村)の紙漉沢にある。紙漉沢の陵墓は小高い丘の上にあり、その丘の麓あたりに上皇宮と呼ばれる神社がある。言うまでもなく、主祭神は長慶天皇である。この地には次のような伝説が残されている。北朝打倒のために陸奥国浪岡に身を寄せた上皇一行であったが、元中2年(1385年)に南部信政によって襲われ、上皇も傷を負ったために、家臣の新田宗興(新田氏の一族とも類推出来るが、史実には登場しない)が守っていた紙漉沢の地に移り住んだとされる。そして最終的に応永10年(1403年)にこの地で崩御されたというのである。上皇宮の近くには、白山堂という祠があり、ここが長慶天皇の后であった菊理姫(菊子姫・菊代姫とも)の墳墓であるとされる。案内板によると、菊理姫は新田宗興の養女であり、伊勢国で宗興が討死して以来(上皇宮での説明と矛盾するが)上皇と行動を共にしてこの地に至り、ここで盛徳親王(長慶天皇陵を造営し、上皇宮の前身を創建したとされるが、それ以外の事績および生没年は不明)をもうけたとされる。そして応永23年(1416年)に亡くなるまでこの地で紙漉きの技術を教えたとされ、そのため“紙漉沢”という地名となったという伝説も残される。 ●長慶天皇の陵墓 / 長慶天皇陵として現在認定されているのは、京都市右京区の天龍寺塔頭の1つであった慶寿院跡に設けられた嵯峨東陵である。これは、南北朝統一後に南朝の皇族が京都へ戻っていること、慶寿院が長慶天皇の皇子である海門承朝が住んでいた場所であることから推断されたものであり、決定的な根拠はない。むしろ昭和19年(1944年)に決定が下されるまで、この地以外に2箇所が“陵墓参考地”とされており、有力な陵墓地とみなされていた。それが和歌山県九度山町にある旧河根陵墓参考地と、紙漉沢にある旧相馬陵墓参考地である。ただいずれも嵯峨東陵確定後に陵墓参考地から除外されている。 ●久渡寺 (くどじ) 津軽三十三観音霊場の第一番札所。開山開基は不詳であるが、一説によると坂上田村麻呂が阿闍羅山に建立した寺院を、鎌倉時代に円智法印が再興。さらに時を経て津軽藩の庇護を受け、慶長18年(1613年)に現在地に移転。そして寛永10年(1633年)に久渡寺という名に改められている。弘前の市街地から少し離れた場所にあり、さらに200段を超える長い階段を上ったところに寺がある。静寂な霊場の印象が強いが、ここには霊的なものと深く繋がった伝承がいくつか存在する。平成11年(1999年)に国の無形民俗文化財に指定された「オシラ講(王志羅講)」がある。“オシラ様”の信仰は東北各地にあるが、津軽のというか久渡寺のオシラ様信仰は非常に独特のものがある。その最も際立った特徴は、各家に祀っているオシラ様を5月15日・16日に大祭という名目で久渡寺に集めて遊ばせる方法である(しかも毎年参ることでオシラ様の“位が上がる”システムらしい)。またオシラ様自体も異色で、他の地域よりもかなり大きく、1m近い大きさとなっている。さらにオセンダクとして着せていく衣装も派手なものが多く、頭の部分には冠などの装飾品も着けられる。ただこの行事自体はさほど古いものではなく、明治30年頃に住職によって始められたとされている。それでも今や津軽のオシラ様といえば、この久渡寺の方式が代表である。久渡寺の年中行事には、他にも不思議なものがある。旧暦の5月18日に1時間限定で行われる、「幽霊画の公開」である。この絵は円山応挙の作で、彼の妻の幽霊であるとされる。寺伝によると、実際の幽霊を見たことがない夫に対して妻が自ら命を絶って幽霊となり、応挙が目の前に現れた姿を写しとったのだという。しかもこの公開日には必ず雨が降ると言い伝えられており、実際わずかの時間でも雨が降るらしい。そして境内にはまことしやかな怪異の伝承も残る。階段を上りきった正面にある観音堂があるが、その隣に名もない小さな池がある。言い伝えによると、この池のほとりで亡くなった親族や友人の名を呼ぶと、水面にその人物の顔が映し出されるという。あるいは池を覗き込むと、自分の死に際の顔が見られるという。 ●阿闍羅山 / 弘前市の南東、大鰐町に位置する山。平安初期には山腹に阿闍羅千坊と呼ばれる一大修行場があった。現在は冬スキーのメッカとして有名である。 ●オシラ様 / 東北地方の農家を中心に信仰されている神様。蚕の神、馬の神、女性の神と言われている。一般的なオシラ様については「遠野伝承園 御蚕神堂」のページを参照のこと。 ●唐糸塚 現在は「唐糸御前史跡公園」として整備されているが、その一画に塚がある。大きな松の木と周辺の板碑に目を奪われるが、松の木の根元にわずかばかりの土盛があり、塚であることが判る(公園内において塚のある場所は、柵で囲まれているため容易にわかる)。鎌倉幕府5代執権の北条時頼には、一人の愛妾があった。名を唐糸といった。時頼が唐糸を寵愛することは格別であったが、その一身の愛情は逆に他の側室の嫉妬を駆り立てることになった。その憎悪の烈しさのため、唐糸は時頼のそばに居ることに耐えられなくなり、鎌倉を去ることに(あるいは無実の罪を問われて鎌倉から追放されたとも)。離れがたい時頼はいずれかの再会を約束し、そして唐糸は陸奥国の藤崎の地にたどり着き、そこでわびしい暮らしをすることになった。それから歳月が過ぎ、時頼は出家すると旅の僧に身をやつして諸国を巡回する。やがて陸奥国にも時頼が訪ねてくるという噂が流れた。それを聞いた唐糸は、己の容貌の衰えたことを改めて感じ、この姿で時頼に再会することは叶わないとして、柳の池に自ら身を投げて命を絶ったのである。その後、時頼は藤崎の地を訪れ、唐糸の最期を聞くと、懇ろに供養して一寺を建立したという。 ●大石神社/赤倉神社 岩木山の北東側の麓にある神社である。徐々に山の中に入る舗装路を道なりに進むと、やがて大きな鳥居が見えてくる。その扁額には【大石大神 赤倉大神】の名がある。大石神社は岩木山信仰によって成立している。岩木山頂にある奥宮に対する下居宮(里宮)が坂上田村麻呂によって北麓の十腰内の地に創建され、岩木山登山道の入口である赤倉沢にあった巨石も信仰の対象となった。それから下居宮は寛治5年(1091年)に南麓の百沢に遷され、現在の岩木山神社となる(十腰内の社は巌鬼山神社となる)。この遷宮によって、赤倉沢の巨石は“巨石大石明神”としてますます信仰の対象となったのである。そして慶長17年(1612年)、津軽藩2代藩主の津軽信牧が赤倉山御祈願所として勧請したのが大石神社である。御神体は言うまでもなく巨石であり、いわゆる陰陽石として子授けや安産、縁結びの神とされた。後年には農耕や牛馬の神ともされ(境内には神馬を奉納した祠が多数)、水神や竜神なども祀られている。本殿の後ろに石垣で隠すように囲まれた御神体の巨石は、結界を意味する「千曳岩」という名で呼ばれている。ここで言うところの“結界”とは、この神社の奥にある赤倉神社を中心とする“赤倉霊場”を指す。大石神社の鳥居前には、この霊場を案内した地図が掲げてある。岩木山登山から発生した霊場であるが、その歴史はそれほど古くなく、明治から大正にかけての頃より始まり、地図にある社やお堂が建てられたのは昭和30〜40年代にかけてのことらしい。これらは、地元で言うところの“カミサマ”、いわゆる御託宣を行う霊能者が個々に造営したものである。彼らはこの赤沢に縁あって修行し、神を祀るのである。(この霊場は国有林なので、社やお堂は土地を借り受けて運営しているらしい。ただし借り受けられた時期は建築ラッシュのあった昭和中期だけであり、現在はこの地に造営が許可されることはない。)奥まで進入することはなかったが、舗装道が途切れる寸前の、霊場の一番手前にある菊乃道神道教社まで足を運んでみた。 ●赤倉沢 / 岩木山神社が岩木山信仰の表の顔とするならば、赤倉沢が裏の顔と言われる。古代の山岳信仰の形が色濃く残っているとされ、大石神社や赤倉山神社などには神仏習合の概念が残されている。また“赤倉の大人(おおひと)”と呼ばれる鬼神がこの地に住み着いており、里にやって来ては農作業などを手伝ったという伝承がある。 ●善知鳥神社 (うとうじんじゃ) 「青森市発祥の地」と言われるほどその歴史は古く、創建の伝説は第19代允恭天皇の時代にまで遡る。陸奥国の外ヶ浜という地に、勅勘を受けた善知鳥中納言安方(烏頭大納言藤原安方とも)が住むようになり、やがて宗像三女神を祀る祠を建てたのが始まりとされる。その後、善知鳥中納言が亡くなると、どこからともなく見慣れぬ鳥が飛んでくるようになった。その鳥は、親鳥が「ウトウ」と鳴くと、雛鳥が「ヤスカタ」と鳴き、そのことから善知鳥中納言の魂が変化したものであり、“善知鳥”という名が付けられたとされる。その後は荒れるに任せていたが、大同年間(806-810年)に坂上田村麻呂が社を再興。それからは各時代の領主の崇敬を受けて庇護され、現在に至っている。ウトウという鳥は上にあるように親子の情が強い鳥として知られ、それ故に特別な鳥であると考えられたようである。さらに言えば、雛を捕られた親鳥は血の泪を流してあたりを飛んで探し回るという言い伝えまで残されている。そしてそれらの習性を巧みに織り交ぜ、外ヶ浜の地を舞台とした能の演目が『善知鳥』である。越中国立山で一人の僧が、猟師の亡霊と会う。亡霊は陸奥国外ヶ浜にいる妻子に供養を頼むと蓑笠と着物の片袖を僧に渡す。それを持って僧が外ヶ浜を訪ね、供養を行うと、再び猟師の亡霊が現れる。生前、猟師は善知鳥を捕らえて生計を立てており、親鳥が「ウトウ」と鳴くと雛鳥が「ヤスカタ」と鳴くのを利用して、親鳥の鳴き真似をして雛を捕っていたという。生きるための糧とは言え、その報いのために猟師は地獄に堕ちて、化鳥となった善知鳥に責め苛まれ続けると訴える。そして我が子の元へ歩み寄ろうとするが、己の罪の深さ故か姿を捉えることが出来ないまま、消えてしまうのである。 ●ウトウ / ウミスズメ科の海鳥。北日本の沿岸部に棲息する(南限は宮城県とされる)。繁殖期にはつがいで生活し、1個だけ卵を産んで育てる。親鳥は雛のために夜明け前から餌を採りに行き、日没直前に帰巣する習性がある。また子育てをしている期間である夏には、目の後ろから長く白い羽状のものが生える。 ●允恭天皇 / 第19代天皇。中国の史書である『宋書』に登場する「倭の五王」の一人である“済”であるとされている。その説に従えば、在位は5世紀中頃のこととなる。 ●一本杉 東北自動車道黒石インターチェンジそばに、一本の杉の巨木がある。自動車道建設の際に邪魔になるとして伐られるところ、地元の反対の声によって数十メートル移動して保存されることになった、曰く付きの木である。この黒石インターチェンジあたりに、戦国時代末期まで浅瀬石城という城があった。城主は千徳氏。陸奥国を支配していた南部氏の庶流である。この千徳氏最後の当主となった千徳政氏の菩提寺にあったのがこの一本杉であったと伝えられている。天正10年(1582年)、南部氏24代当主の晴政とその嫡男の晴継が相次いで亡くなると、南部氏は後継者争いが激しくなる。その隙に乗じて津軽地方で独立を企てたのが大浦為信(後の津軽為信)であった。この為信の盟友として南部を離反したのが千徳政氏であった。後の津軽氏の記録によると、為信と政氏は南部家から津軽を簒奪して二分するという約定を取り交わしていたとされる。しかし天正13年(1585年)に南部氏が浅瀬石城を攻めた時に為信が援軍を送らなかったことをきっかけにして、両者の関係は微妙となる。そして豊臣秀吉の天下統一を経た慶長2年(1597年)、津軽を治めていた津軽為信は、浅瀬石城の千徳氏を滅ぼす。息子の政康が討死したのと同時期に政氏も亡くなったとされ、あるいは父子共々為信によって謀殺されたともいわれる。直後に浅瀬石城は落城し、菩提寺も津軽兵によって蹂躙された。だが、杉の木だけは残され、いつしかこの杉の木には滅ぼされた千徳氏の怨念が宿っていると言い伝えられるようになった。東北自動車道建設の際の移動も、この伝説に基づくものとされている。 ●十和田神社 十和田湖畔に建つ古社である。社伝によると創建は大同2年(807年)、坂上田村麻呂によるものとされる。祭神は日本武尊であるが、かつては熊野権現・青龍権現と呼ばれていたという。しかしこの神社創建にまつわる伝説にはもう1つあって、そちらは北東北一帯に広がる、三湖伝説と呼ばれる壮大な話となる。十和田神社を創建したのは、南祖坊という修験僧であったという。父親は藤原是真、熊野権現に祈念して生まれた子とされる。南祖坊は熊野権現で修行した折、神より鉄の草鞋と錫杖を授かり「百足の草鞋が破れたところに住むべし」とのお告げを聞く。そして百足の草鞋が破れた地がこの湖のほとりであった。しかしこの湖には、八頭の大蛇である八郎太郎が既に住み着いていた。そこで南祖坊は法華経の霊験によって自らを九頭竜に変化させて八郎太郎と戦い、そして勝利の末にこの湖に住み着き、青龍権現として崇められるようになったのである。境内の奥へと入り、絶壁を下りると湖面に辿り着く。ここが占場と呼ばれる場所であり、南祖坊が入水した場所であるとされる。社務所でわけていただける「おより紙」を湖面に浮かべて吉凶を占うことができる。 ●三湖伝説 / 十和田湖・八郎潟・田沢湖にまつわる伝説。マタギをしていた八郎太郎は、ある時掟を破って仲間の岩魚まで食べてしまったために大蛇となってしまい、十和田湖を造って住み着いた。その後十和田湖に来た南祖坊が八郎太郎を追い出し、八郎太郎は今度は八郎潟を造り出して住み着いた。一方、辰子という娘は、年老いて容色が醜くなることを恐れ、観音菩薩に祈念してその結果、竜となって田沢湖に住み着いた。その後、八郎太郎は辰子を見そめて、毎冬田沢湖へ通うようになったが、また南祖坊が邪魔に入った。しかし今度は八郎太郎が勝利した。 ●日本中央の碑 日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」である。その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄』に <陸奥には“つぼのいしぶみ”という石碑があり、蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が矢筈を使って“日本中央”という文字を刻んだものである> という一説がある。それ以降、東北の歌枕として和歌の中に使われ、また幻の遺跡として考えられてきたのである。江戸時代には宮城県の多賀城の碑が“つぼのいしぶみ”と目されていたが、明治9年(1876年)の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に“つぼのいしぶみ”発見の要請があった。そこで田村麻呂が石を埋めたという伝承の残る千曳神社で大掛かりな発掘作業が行われたが、結局発見には至らなかった。ところが昭和24年(1949年)6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土してきたわけである。発見された場所が“石文”であり、またそのすぐそばには“都母(つぼ)”と呼ばれる地域があることが“つぼのいしぶみ”という別名と一致するなどの根拠もあって、現在のところ最有力候補という位置付けをされている。しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央」である。なぜこのような文字が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのか。蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代である。さらに付け加えると、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していない(後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実である)。一説によると“田村麻呂はこの先にある北海道や千島列島までを日本の領土とみなして、ここを中央と確定したのだ”という、国威発揚的発想が結構幅を利かせているらしい。だが実際のところ、ここに刻まれた“日本”という文字は“ひのもと”と読ませ、平安初期の文献によると“東北地方”一帯を指す言葉として使われていたらしい。つまり、この「日本中央」とは、坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントという意味と捉えるのが妥当だろう。 ●つぼのいしぶみ / 歌枕。和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠む。「遠くにあるもの」や「どこにあるか分からないもの」という意味で使われることが多い。 ●キリストの墓 青森県新郷村の戸来(へらい)地区にキリストの墓(十来塚)とその弟のイスキリの墓(十代墓)がある。“高貴なる人物”の塚と言われていたが、これを昭和10年(1935年)に調査してキリストの墓と断定したのは、『竹内文書』の竹内巨麿である。『竹内文書』によると、21歳から約12年間、キリストは日本でさまざまな学問を学び、ユダヤへ一時帰国したらしい(この12年間は、キリスト教世界においても“謎の空白期間”とされている)。そしてその教えのためにユダヤで不興を買い、イスキリを身代わりにして再度日本へ舞い戻る。再来日後はこの戸来村に定住、地元の女性と結婚し【十来太郎大天空】と名乗ったという。布教活動こそしなかったが、たびたび日本各地を探訪したらしく、その姿はまさに“天狗”のイメージで語られている。そして106歳という長寿を全うして、戸来村で亡くなったという。その子孫は沢口姓を名乗り、現在も当地に住んでいる。またこの地区の風習として、初めて戸外へ出る赤ん坊の額に十字架を描くというものが残されている。これが魔除けの呪文らしいが、近隣はおろか国内で例を見ない異質の風習である。さらにこの地方では父のことを「アダ」、母のことを「エバ」と呼ぶ。まさに「アダム」と「イブ」の呼び名なのである。そしてこの土地の名である“戸来”自体が“ヘブライ”に酷似している。極めつけは、この地に伝わる盆踊りの歌である。「ナニャドヤラー、ナニャドナサレノ、ナニャドヤラー」という歌詞はヘブライ語に訳すと「汝の聖名を讃えん、汝は賊を掃討したまい、汝の聖名を讃えん」というものらしい。とりあえず現在では、6月に行われる祭りの際に、この2つの墓の周りを浴衣姿の人々がこの唄を歌いながら踊るらしい。エルサレム市からの「友好の証」なるものがこの2つの墓の前に置かれている。 ●『竹内文書』 / 武内宿禰の孫にあたる平群真鳥が、25代武烈天皇の勅命を受けてまとめた文書とされ、真鳥の子孫を称する竹内巨麿が昭和3年に公開。神武天皇以前にも100代に及ぶ皇統があり世界を治めていた(宇宙生成よりも早くから存在したことになっている)、また歴史上に名を残す宗教指導者は全て日本で修行し、天皇に仕えたとする。キリストだけではなく、モーゼや釈迦も来日していることになっている。当然であるが、偽書として黙殺されている。 ●「ナニャドヤラー」の歌詞 / 上のヘブライ語説を唱えたのは、神学者の川守田英二。それに対して“方言がさらにくずれたもの”と主張したのは柳田國男と金田一京助。ただ、この歌詞は戸来地区固有のものではなく、旧・南部藩領内に広く伝わっている。 ●恐山冷水 (おそれざんひやみず) むつ市街から県道4号線を道なりに進むと、その途中に冷水峠という場所を通る。そこにはコンコンと湧き出る水場がある。この湧き水は、遠い昔から恐山へ参拝する人々の喉を潤す役目を負っている。現在は3本の樋から流れ出る水を“不老水”と呼び、霊験あらたかな水とみなしている。実際、この水場を霊場の入り口とみなして手水舎としての役割もあるとし、この峠を俗界と霊界との境界線として認知している説もある。そのせいか、この場所で水を求めるのは人間だけではなく、恐山へ集まってくる霊もあると考えられている。 ●恐山 恐山は比叡山・高野山と並ぶ三大霊山の一つである。開基は慈覚大師円仁。円仁が唐で修行をしているとき、夢に聖人が現れ「国に帰り、東方へ三十余日行ったところに霊峰がある。そこで地蔵菩薩を一体刻み、その地に仏道を広めよ」というお告げを聞き、帰国後さっそく東方を目指し、見つけたのがこの恐山であったという。その後、戦国時代に大乱で壊滅状態となったが、むつ市内にある円通寺の宏智覚聚によって再興された。恐山の入口を越えると、真っ赤な太鼓橋が現れる。この橋は宇曽利湖から流れる三途の川に架かっている橋であり、ここからが恐山の“地獄”の始まりである。悪人がこの橋を渡ろうと思うと、橋が急に糸のように細く見えるという言い伝えがある。山内に入って一番最初に目に飛びこんでくる異様な光景は、荒涼とした岩場である。これが恐山の象徴である【地獄】である。活発ではないにせよ活火山の指定を受けており、ところどころから白い煙が立ちのぼっている。それに対して強酸性の宇曽利湖の岸辺は【極楽浜】と呼ばれ、絶妙のコントラストを見せている。このエリアでは「死ぬと魂は恐山へ行く」と信じられており、地蔵菩薩を本尊とした、死者の供養をおこなう霊場として信仰の対象とされている。また7月の大祭の時には、境内にイタコが常駐して「口寄せ」がおこなわれる。 |
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●ツブ沼 奥州市
「雨乞いにツブ沼をかき廻すと、雨が降る」という話も、干ばつに悩まされた人びとの祈りがうかがえる。 昔、市野々近くの八郎という若者は、川で小魚や貝を捕って生活の糧にしていた。ある日、お寺の凡鐘ほどのツブ貝を捕ったが、なかなか売れなかった。金持ちの多い秋田へ売りに行く途中、背中でツブがクツクツと声を発するので、気味が悪くなり原野に投げ出すと、にわかに大雨となって沼ができた。数年、都の人が大ツブを捕ろうとしたが、網を入れると大雨になり、捕ることができなかった。以来その沼をツブ沼と云った。干ばつの年の雨乞いには、農民たちが沼をかきまわし、ツブを怒らせて雨を降らせたといわれている。 *雨ごい・・・降雨を神仏に祈ること。 *ツブ・・・・昔の方言で「タニシ」こと。 ●底なし沼 (ごまうなぎ) 花巻市 土沢の細谷地に底なし沼と称する沼がある。その辺りは、柳・さんなし・芦・がま等叢生して水面をおおい、また二十間程南に北方傾斜地の畑の西隅の小杉立には、狐穴数洞あって、白昼も狐が彷徨するという気味の悪い所があった。鮒はたくさんすんでいても、人気のない所、釣をしようとも一人ではいやな場所、盆には青年連が申合せて、山椒の皮をおしもんで、鮒や鯰などを捕える位のもので甚だ淋しい所であった。 ある年の盆に、一人の旅僧が瓢然と土沢に現れた。時に平蔵沢・土沢の青年等六・七人で盛んに山椒の木の皮を、日盛りの天日で乾していた。僧は一青年に向い何をするのかと問うた。青年答えて、この皮の粉と木灰とをまぜ、それを流せば、水中の雑魚はみな死ぬこれから盆の休日に雑魚捕りをするのだという。僧曰く、その雑魚とりを何処でするや。青年曰く、細谷地の沼でとると。僧曰く、何ものか生を欲せざる。一草一木みな生を遂げて子孫繁栄を願っている、況や動物においておや。生物を愛し、慈しみ、育み育て、決して之を苦しめたり、殺したりするものでないと言葉をつくして戒めた。 血気にはやる青年らは耳にも入れず、やかましき小言を並べるなまぐさ坊主。この土沢で餓死されては甚だ迷惑、この赤飯でも食べて腹をこしらえここから去って死ねといった。旅僧は止むなく退去、山椒の皮は乾燥し終っていた。 明日は地獄の釜の蓋もあくという七月十五日、空は朝からからりと晴れ一点の雲なき好天気、昨日の青年ら旅僧の言をきかずに底なし沼にかけつけ、山椒の皮と木灰とを上流からもみ流した。鮒・すずもろこ・果ては鯰・銀魚など背負いきれぬ程とれた。青年共これに力をえて粉のあらん限りもんだら、その辛味に堪えかねて大きさ五尺ほどの「ごまうなぎ」半身を現わして泥中を泳ぐ。青年らは力を合せ半時ほどもかかって漸くこれを陸に引上げた。喜び勇んで持ち帰り、平蔵沢の人々にも分配せんと料理にとりかかる。ところが人間の鮮血そっくりのものがとめどもなく流れ出るのにいささか面食いたるも勇をふるって切断したるに、これいかに臓腑中より昨日の赤飯色も変らず出たのには一同顔を見合せた。強いて元気を出し之を焼き、あるいは煮、舌鼓を打って食べたが、中には病気にかゝり永々苦悶せしもあり、あるいは養生叶わで死せるもあった。あの旅僧は人間ではなく古鰻で、今日殺されることを予感し、しばし人間の姿に替えて慈悲を説いたものであろう。 ●蟇沼 八幡平市 古寺の和尚夫婦に蝶よ花よと育てられた長い黒髪につぶらな瞳の美しい娘いた。年頃になり自室に篭もりもの思いにふけるようになる。日増しに青ざめやつれてゆく娘は、夫婦の詰問に見知らぬ美成年が夜毎訪ねてくることを告げる。夫婦は計を案じ、衣に仕掛けた針と糸を頼りに青年の正体にたどり着く。なんと、それはこの沼の主である大蟇ガエルであった。ことの仔細を娘に告げて別れを説得する。やがて娘は容色を取り戻し、一段と美しくなって良家に嫁ぎハッピーエンドとなる。 松尾には「がま沼」が二つある。八幡平は「ガマ沼」とカタカナ表記、畑の沼は「蟇沼」と漢字表記で区別している。故瀬川経郎氏は「八幡平のがま沼は本来火口湖なのだから「釜沼」であり、今後は「釜沼」と呼ぶことを推奨したい」と、その著書『新いわて風土記』で述べている。畑の沼も火口湖であるかもしれないが、植物の蒲も多いし、動物の鴨の飛来も多く蟇ガエル(ヒキガエル)も多く棲む。ここに伝わる伝説はこの蟇ガエルに因むもので、畑が舞台であろう。 ●八の太郎 八幡平市 源流 野駄・田中の住人八の太郎はマンダの皮剥ぎが商売。前森で仲間と作業中にイワナ(味噌田楽)の盗み食いをして巨人(八つの頭を持つ大蛇)に変身する。アセ沼を飲み干した八の太郎は、大量の水と棲み処を求めて東北各地を彷徨うことになる。 この物語、飲み干したイワナは語り人によってイモリやサンショウウオだったり、単に美味な霊水だったりするが、アセ沼川は密林を潜り抜ける清流で岩魚の宝庫である。ここでは、八郎が分け前だけでは我慢できなくなるほど美味なイワナとして売り出すのがいいだろう。岩魚の加工食品から、釣り人をターゲットにしたグッズ(マンダの皮で作った魚篭やコダシ、岩場用藁ぐつなど)も考えられる。 ちなみに、岩手山の雪形は、後述する大鷲と種まき坊主以外にもイワナ、蛇竜、ウナギ、イモリ(いずれも地域の伝説と結びつく)などに見立てることができる。 ●女護沼 岩手県八幡平市 殿様夫妻に食された松川御護沼の主のゴマウナギが、奥方の胎内を借りて再生、曲折を経て名湯松川温泉への湯治を口実に、再び御護沼の主に納まるという物語。女護姫(百合姫)、実はゴマ鰻の化身という。 ●赤沼 八幡平市 岩大名誉教授の吉田稔氏によれば、赤沼(別名五色沼)は流入水が全くない湖で、形は茶筒のような円筒形。水深10〜11メートル、平な湖底の一部から湧いてくる湧水が溢れて隣の御在所沼に注ぐ。松尾鉱山の硫黄の鉱床と温泉湯脈の影響で、強酸性の特殊な水質で、湖水の上層下層の循環や停滞、気温や化学反応などによる他に類を見ない複雑な変色のメカニズムを持つという。「五色」の名のつく沼は各地にあるが、一つの湖でこれほど顕著な変化を示す湖は全国唯一であるという。 さて、この赤沼にまつわる伝説である。釣と猟を無常の楽しみとする畑浅左ェ門という風流人が、と、ある密林の中でたどり着いた沼は、あたりの蒼然を映し青々と輝く不思議な湖面の沼だったという。そこに鴨らしきものを見てとり矢を放とうとするが、鴨は一瞬にして大波と化し浅左ェ門に襲いかかる。「今後は鴨射ちはしないし何人にもさせない。」との誓いを立てて難を逃れた浅左右ェ門であったが、襲いかかった大波は鳥獣殺生の戒めだったのか、自然破壊への警鐘であったのか。 |
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●岩手の伝承 ●磐神社/松山寺 水田が広がる中に、整えられた杉木立に守られるようにしてあるのが磐神社である。遠くからでも赤い屋根の拝殿が目立つが、これが出来たのが明治30年(1897年)頃のことであり、それまでは御神体のみが祀られていた。その御神体は、東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mという巨大な岩であり、拝殿の裏手に今なお鎮座している。この御神体の巨石はいわゆる“陽石”であり、この神社も別名を“男石大明神”とも称される。そしてこの陽石に対する陰石があるのが、この神社から北西に1km弱ほど離れた場所にある松山寺である。この寺の境内にある“女石神社”の御神体が対となっているとされる。こちらの石は周が約5m、高さも2mと、磐神社の男石と比べると小ぶりである。磐神社の説明によると、この一対の陰陽石で二柱の神(日本武尊と稲葉姫命)を祀るが、男石大明神が本社となるという。この磐神社から南西へ約500m離れた場所には、かつて奥州阿倍氏の居館があった。この安倍氏が崇敬していたのがこの神社という。さらに安倍氏が信仰していた神が“アラハバキ神”であり、かつてこの神社はこの神を守護神としていたとされる。また延喜式内社としても記載されており、古来より信仰されてきた場所であることは間違いないだろう。このアラハバキ神は蝦夷土着の神と認識されているが、その正体は不明な点が多い。さまざまな性格を持つ神と解釈されているが、その中に“塞の神”とみなす説がある。つまり境界を守る神=道祖神ということになるが、その一形態として“陰陽石”が挙げられる。かつてアラハバキ神を祀ったとされる磐神社の御神体が陽石となっているのは、果たして偶然の産物なのか、あるいは意図的なものであるのかは謎である。ただ一説では、松山寺の女石と合わせて陰陽石とみなしたのは、安倍氏がこの地にあった時代よりもはるかに後の話であるとも言われている。 ●盲神 岩手県道35号線は通称“大槌街道”と呼ばれ、昔から釜石から遠野へ抜ける主要道路として人の往来があったとされる。その釜石から遠野への道のちょうど中間地点あたり、県道に面した場所に一つの社がある。それが、『遠野物語拾遺』第27話に残る盲神の社である。昔、共に盲目の夫婦が幼い子供を連れてこの街道を歩いていた。ところがこの地に来た時、子供が誤って橋から落ちてしまう。目の見えない二人はそうとは知らず、子供を呼ぶが返事がない。そのうち二人は子供が橋から川へ落ちて流されてしまった事実を知ってしまう。二人の悲しみぶりは尋常ではなく、子供を失ってしまったら最早生きている意味がないとばかりに、二人とも橋から身を投げて死んでしまったという。そしてこの親子を哀れんだ村人は、祠を建てて祀るようになり、その祠を“盲神”と呼ぶようになった。今ではこの祠近辺の沢の水は、眼病にご利益があると言われている。 ●遠野伝承園 御蚕神堂 (とおのでんしょうえん おしらどう) 遠野市の観光地でも屈指の知名度を誇る施設が、遠野伝承園である。遠野地方の農家の生活様式を再現した施設であり、国指定の重要文化財である菊池家曲り家を中心に、井戸や湯殿・雪隠などが展示されている。その中に「オシラ堂」と呼ばれる建物がある。曲り家から廊下伝いに中に入る構造となっているが、わずか6畳ほどの狭い室内には、壁一面に“オシラ様”と呼ばれる神様の御神体が並べられている。その数は約1000体。その圧倒的な威圧感は、時に見学者の体調にまで影響を与えるほどとも言われている。オシラ様は、主に東北地方の農家を中心に信仰されてきた神である。蚕の神とも農業の神とも言われ、あるいは女性の神、馬の神ともみなされている。この地方の農家に関係する事柄全てに関わる神であると言ってもおかしくない。その御神体は、約30cmほどの桑の木を棒状にしたものの先端に、顔が彫ったり描いたりしてかたどられており、それに着物のように布が幾重にも重ねられている。そして御神体は2体一組とされ、それぞれ男女であったり、あるいは馬と女性の組み合わせであったりする。代々家に祀られており、現存する最古の像で制作年が判っているものは大永5年(1525年)となっている。オシラ様を家に祀るに当たっては、かなり厳格で細かな掟が存在する。“命日”と呼ばれる祭りの日は、旧暦1・3・9月16日と定められている。その日は御神体を神棚から下ろし、布を着重ねさせ(地元では“オセンダク”と呼ぶ)、家人(主に本家の最長老の女性)が祭文を唱え、少女が御神体を背負ったりして“遊ばせる”という一連の行事がおこなわれる(あるいはイタコが祭文を唱えて遊ばせる場合もある)。そして禁忌も数多い。例えば、二足四足の動物の肉を食べると、顔が曲がるとされる。また一度オシラ様を家で祀ると拝むことを止めることが出来ないとされ、また粗末に扱うと祟ると言われている。オシラ様の始まりに関する伝説は何種類かあるが、最も有名なものは『遠野物語』第69話に収められたパターンである。ある時、父と娘の二人暮らしの農家があった。その家では牡馬を一頭飼っていたが、娘と馬は仲が良く、娘が馬小屋で馬と一緒に寝ることもよくあった。そのうち娘と馬は相思相愛の関係となり、夫婦の契りを交わすまでとなった。そのことを知った父親は、怒りに任せて馬を桑の木に吊り下げて殺してしまった。事の次第を知った娘は、吊り下げられた馬の首に取りすがって泣き叫ぶ。それを見てさらに憎悪を募らせた父は、斧で馬の首を斬り落としてしまったのである。すると馬の首は天へと飛んでいき、娘もそれに取りすがったまま彼方へと消え去っていった。それがオシラ様の始まりであるとされる。 さらに『遠野物語拾遺』第77話には、次のような話も残されている。 馬の首と共に消え去る直前に、娘は父親に「3月16日の朝、夜明けに庭の臼の中を見たら、父を養うものがある」と告げる。その日になって父が臼の中を見ると、馬のような頭を持った白い虫がいっぱい湧いていた。それに桑の葉を与えて養った。それが蚕であるという。オシラ様の伝説は、中国の“馬娘婚姻譚”を踏襲し、養蚕の起こりを伝えたものであると考えられている。しかしその伝承に留まらず、独自の信仰形態を獲得して土着している点では、オリジナルを遙かに凌駕した存在であると言える。現在でも遠野市内の個人宅に祀られているオシラ様を公開しているケースもあるが、やはり伝承園のインパクトと圧倒感は別格であり、その脈々と重ねられてきた信仰の強さや深さを実感することが出来ると言えるだろう。 ●オシラ様について(補足) / オシラ様は漢字で“御白様”と表記する場合がある。これは同時に蚕の尊称でもあり、養蚕と関連性が高い名称であるとも考えられる。一方、オシラ様は“お知らせの神”という側面があり、命日にオシラ様を遊ばせることで託宣する、また狩に出る時にオシラ様が獲物のいる方角を教えてくれる(『遠野物語拾遺』第83話)ような実例がある。単純に蚕の神と決定付けられず、むしろオシラ様の神としての祀られ方を推察するほど、念を引き継いで溜め込むことで一定の霊力を帯びることとなった強力な家憑き神という性格が出てくるようである。 ●馬娘婚姻譚 / 古代中国より伝わる伝説で、馬と娘が融合して蚕となり、養蚕がもたらされるという展開となる。最も古い記述が残る『捜神記』(4世紀頃成立)では、戦争に行った父を連れて帰ってきたら嫁になるという娘の言葉に対して、飼い馬が実行した。しかし馬の様子のただならぬのを見て、娘から事情を聞いた父が激怒して、馬を射殺して皮を剥いで晒した。その後、娘がその馬の皮のそばで遊んでいると、いきなり皮が娘に巻き付くとそのまま飛び去ってしまった。数日後、馬の皮と一体となった娘が発見されたが、既に蚕となり、桑の大木で糸を吐いていたという。状況などの細部は異なるが、オシラ様の伝説の原型と考えられる内容である。 ●陣ヶ岡/蜂神社 陣ヶ岡は標高136m、南北になだらかな丘陵である。周囲には他の高台などはなく、この陣ヶ岡だけが独立している。その地形故に、この地は虚実取り混ぜさまざまな戦いの場面で何度も攻め手が陣を敷いている。特に古代から中世にかけては錚々たる武人が名を連ねており、戦国時代末期までその絢爛たる歴史を織りなしている。現在、当地に掲げられている案内板にあるものを並べてみると 蝦夷討伐のため、日本武尊が宿営。この地で妻の美夜受比売(宮簀姫)が産気付いて皇子が生まれるが、結局3日目に亡くなったので墓を築いた。これが当地にある王子森古墳とされる。 / 斉明天皇5年(659年)、蝦夷討伐に赴いた阿倍比羅夫が宿営。 / 天応元年(781年)、蝦夷討伐に赴いた道嶋嶋足が宿営。 / 延暦20年(801年)より蝦夷征討に赴いた坂上田村麻呂が宿営。 / 康平5年(1062年)、前九年の役の終戦時に、源頼義・義家親子が本陣として宿営。その後、後三年の役の時期にかけて数々の遺構を残す。 / 文治5年(1189年)、奥州藤原氏討伐のために出陣した源頼朝が本陣として宿営。 / 天正16年(1588年)、南部信直が高水寺城の斯波氏を攻める時に本陣とした。 / 天正19年(1591年)、九戸政実の乱を鎮圧するために出陣した蒲生氏郷が宿営したとされる。 これで多くの武将が関係する地であるが、とりわけ深いゆかりのあるのが源頼義・義家父子である。まずこの地を“陣ヶ岡”と呼ぶようになったのは、この父子が本陣を構えたことから始まるとされる。この地に野営した折、月明かりに照らされた源氏の“日月の旗”が金色に輝いて堤に映えたのを見て、源義家が勝利の吉兆として大いに士気を揚げた故事にちなんで造営された「月の輪形」がある。さらに源義家が大江匡房から伝授された“八門遁甲”の兵法を実践して極めたとされる陣形の跡とされるものが残されている。そして頼義・義家がこの地に建立したのが、陣ヶ岡の中心に置かれた蜂神社である。これは大和の春日大社にある三日月堂より勧請されたと伝えられている。その一方で、敵の安倍貞任を攻略する時に藪の中の蜂の大群に悩まされていた義家が、逆に夜のうちに蜂の巣を袋に詰めて、翌朝それを敵陣に投げ込んで敵を混乱させて散々に討ち果たしたため、蜂を祀る神社を建立したという伝説も残されている。前九年の役の終戦時にこの地が本陣であったことから、この地には気味の悪いものも残されている。戦いに勝利した頼義・義家父子はここで首実検をおこなった。その時に敵の首領である安倍貞任の首級を晒し置いた場所が今もなお残されている。しかもこの場所は、義家の直系の子孫である源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした際に、その最後の当主である藤原泰衡の首級を晒すためにも使われているのである(陣ヶ岡のそばにはこの泰衡の首を洗った井戸も残されている)。 ●上の橋擬宝珠 (かみのはしぎぼし) 盛岡の町を流れる中津川に掛かる上の橋には、日本最古級の青銅製擬宝珠が18個取り付けられている。銘によると慶長14年(1609年)に造られたものが8個、同16年(1611年)に造られたものが10個となっている。ちょうど南部利直が盛岡(当時は不来方と呼んでいた)を藩庁として建設していた頃である。この擬宝珠は盛岡建設の際に新たに造られたものではあるが、それが取り付けられた由来を紐解くと、さらに300年ほど時代を遡ることになる。三戸南部家の12代当主である南部政行が京都在番中のこと。その年の春になって鹿の鳴き声が都で聞かれるようになった。季節外れの鳴き声は不吉であるとして、歌を詠むことで凶兆を抑えようと“春鹿”の題で広く歌を求めた。政行はそれに応じ、 春霞 秋立つ霧に まがわねば 想い忘れて 鹿や鳴くらん と天皇の御前で詠じると、鹿の鳴き声が止んだ。天皇は大層喜ばれ、松風の硯を下賜し、さらに都の風情を在所に持ち帰るようにと、鴨川に架かる橋の擬宝珠を模すことを許された。そこで政行は所領の三戸に戻ると、熊原川に黄金橋を架けて擬宝珠をあつらえたという。この故事にならい、27代目の利直が新しい城下町を築く際に、擬宝珠を鋳直したのである。その後、何度かの洪水で橋は流されたが、擬宝珠は残った。そして戦時中の金属供出の際には、盛岡出身の太田孝太郎の尽力によって急遽国の重要美術品に指定され免れたという逸話も残る。 ●続石 柳田國男の『遠野物語拾遺』第11話に、この続石に関する伝説が集約されている。この不思議な石の造型は自然のものではなく、弁慶がこさえたものであるという。初め弁慶は近くにある別の石の上に、笠となる石を乗せた。ところが、乗せられた石は「自分は位の高い石なのに、その上に石を乗せられたままとなるのは残念である」と言って一晩中泣き続けた。ならばと弁慶は別の石を台石として、その笠石を乗せ直したという。そして泣き続けた石もこの続石のそばにあり、泣石と呼ばれている。またこれらの巨石がある場所に少しだけ開けた平地があるが、ここは“弁慶の昼寝場”と伝えられている。上の乗せられた笠石の大きさは、幅7m、奥行5m、厚み2mという巨石であり、弁慶が持ち上げる時に付いたという足形が残っているとされる。奇異な巨石を見た人々が怪力の伝説の持ち主である弁慶が造ったものとして、ある種合理的な説明を残したのであろう。間近で見ると、その偉容に圧倒される。柳田國男も『拾遺』で指摘しているように、形から見て続石は人為的なドルメンの一種ではないかという説がある。その説を強くさせるような奇怪な話が『遠野物語』第91話にある。この本が出される十余年ほど前、ある鷹匠が続石の少し上の山の岩陰で赤い顔の男女と出会った。男女は手を広げて制止するよう警告したが、鷹匠は戯れに腰に下げていた刀を振りかざした。その途端、男の方に蹴られて気を失ってしまった。意識を取り戻した鷹匠は「多分今日の出来事で自分は死ぬかもしれない」と言い、果たして病死した。不審に思った家人が寺に相談すると、それは山の神であり、祟りを受けて死んだのだと告げたという。人工物であるか、自然の為せる奇跡かは定かではないが、この続石の存在がこの一帯を神秘的で神聖な場所であると認識させていることに間違いがないと言えるだろう。 ●ドルメン / “支石墓”と言われる。数個の支柱となる巨石の上に天板状の巨石を乗せたもので、墓とされる。起源はヨーロッパであるが、紀元前500年頃に朝鮮半島に伝播したと考えられる。日本へは縄文時代晩期に伝わったとされるが、北九州の限られた地域で見られるぐらい、弥生時代の初め頃には途絶えてしまったとされる。そのため続石についてはドルメンのような人工的な遺物ではなく、土石流などによって偶然に巨石が重なり合ったものであるという考えが一般的である。 ●長安寺 真宗大谷派の寺院であり、この地域では指折りの古刹である。平安時代末期に気仙郡司一族の正善坊によって開基され、室町時代前半に浄土真宗に改宗したとされる。戦国時代に全伽藍が焼失し、その後再建された。真正面にある山門は、高さが約20mもあり、それだけでもこの寺院の勢力を推し量ることが出来るだろう。しかしよく見ると、この山門は上部の壮麗さに比べて、何となく下部が貧弱に見える。実は、この山門は未完成であり、このような状態でそのままになっているのには、珍妙な曰く因縁がある。この山門が再建されたのは、寛政10年(1798年)のこと。ところが、当時この地を支配していた仙台・伊達藩では建築物にケヤキ材を使用することは御法度であり、にもかかわらず、この山門は総ケヤキ造りであったために大問題となったのである。藩は禁制であるが故にこの山門を取り壊すように命じた。それに対して住職は、これは仏殿であるので取り壊せないと突っぱね、最終的には取り壊しを免れた。しかしながら、これ以上の工事はおこなわないことが暗黙の条件であったため、山門は未完成のまま工事を中止。藩も黙認という形で決着したのである。結局、山門は扉もなく、袖塀もないまま、現在に至っているのである。 ●南面の桜 紫波町にある志賀理和気(しがりわけ)神社は、延喜式の式内社として最北にあるとされている古社である。創建は延暦23年(804年)、坂上田村麻呂が香取・鹿島の神を勧請したのが始まりとされる。この神社の長い参道の途中にあるのが“南面の桜”と呼ばれる桜の巨木である。樹齢は500年以上とされている(岩手県下では最古の桜の木とされる)。この木には次のような恋の伝説が伝わっている。元弘年間(1331〜1334年)にこの地に下った藤原頼之は、地元の豪族・川村少将清秀の娘・桃香姫と知り合い、相思相愛の仲となった。そこで二人は、志賀理和気神社の参道に桜の木を植えて、行く末を誓ったのである。ところが、しばらくして頼之は急に都に戻るように命ぜられる。二人は別れを惜しみ再会を誓ったが、あっという間に数年の歳月が流れた。ある年の春、桃香姫はかつて二人で植えた桜の木を訪れた。すると咲き誇る桜の花は、全て都のある方角である南を向いていたのである。この様子を見た姫は想いを一 首の歌に託して、頼之の許へ文を出したのである。 南面(みなおも)の 桜の花は 咲きにけり 都のひとに かくと告げばや この文を受け取って間もなく、頼之は迎えの使者を送った。そして桃香姫は都へ上り、頼之の妻となったという。この伝説から、この桜の木は“南面の桜”と呼ばれるようになり、縁結びのご利益をもたらすものと信じられている。 ●弁慶の墓 平泉は奥州藤原氏の本拠地であり、源義経主従終焉の地でもある。国道4号線沿いの、中尊寺へ行くための駐車場入り口付近に、弁慶の墓と呼ばれるものがある。義経を庇護していた藤原氏の当主・泰衡が、源頼朝の圧力に屈して義経を自害に追い込んだのは、文治5年(1189年)のことである。数百騎で衣川館へ攻め込んだ泰衡の手勢に対して、義経は抵抗することなく持仏堂に籠もり、妻子を手に掛けると自害して果てた。わずかにいた義経の家来も全て討ち取られたという。伝承によると、武蔵坊弁慶は攻め入る敵を前にして、持仏堂の前に立ちはだかって侵入を防いだとされる。敵は容赦なく矢を浴びせ掛けたが、弁慶は決して倒れることなく、堂を守るように立ったまま死んだとされる。これが有名な“弁慶の立ち往生”である。 ●寒戸の婆 (さむとのばば) 『遠野物語』8話にある、「神隠し」と題される話に登場するあやかしが寒戸の婆である。 ……寒戸のある家の娘が、梨の木の下に草鞋を残したまま行方知れずとなった。三十数年後、親類などが家に集まっていると、老いさらばえた姿でその女が戻ってきた。どうして戻ってきたのかと尋ねると、女は人々に会いたかったからだと答え、また去って行った。その日は風が激しかったため、遠野の人は、風の強い日は「寒戸の婆が帰ってきそうな日」と呼ぶそうである。…… 上の話を柳田國男に語ったとされる佐々木喜善が、昭和5年(1930年)刊の『民俗文芸特輯』第2号に、ディテールの異なる同じ筋の話を発表している。 ……松崎村の登戸(のぼと)というところに茂助の家があった。その家の娘が、梨の木の下に草鞋を残したまま行方不明となった。幾十年経ったある風の強い日、家の人に会いたくなって、山姥のような姿になった娘が帰ってきた。肌に苔が生え、爪は二三寸に伸びたような姿であった。娘は一晩泊まると帰って行ったが、それから毎年その時期になると山の土産を持って訪れた。家の者も餅を持たせてやったりしていたが、来る時の数日が大風になるために村方より掛け合いがあって、山姥が来ないようにまじないをおこなった。その後、その山姥が来ることはなかったという。大風のある時は「今日は、登戸の茂助婆様が来る日だ」と老人が言っていたのを覚えている。山の物に攫われた娘が老齢になって、里に帰っても安心だとなった時初めて里帰りを許されて、人々に会いに行けるのであろう。…… 実は、遠野には“寒戸”という地名はない。しかし、柳田國男の著作があまりにも有名になりすぎたために、いつしか“寒戸の婆”の名が正式なものになったようである。寒戸の婆にまつわる伝承は口碑だけだったが(佐々木喜善の作品によると「婆が来ないように封じた石塔が六七年前まであったが洪水で流された」とある)、現在は『遠野物語』の観光名所として石碑が、登戸橋のたもとに置かれている。 ●太郎淵 「淵」と名が付いているが、現在は改修工事の結果、池のようなものになってしまい、さらに様々な施設も加えられて、全くの公園のようになってしまっている。案内板によると、この淵には太郎河童が住んでおり、女性が洗濯などで川辺にしゃがみ込むと、水面から顔を覗かせて腰の辺りをじーっと見ていたという。また下流に住んでいる女河童に好かれており、言い寄られていたともいう。まさに好色そのものである。しかしこれだけでは済まない。案内板に参考的に掲示されている『遠野物語』55話の中には、微笑ましさの欠片すら微塵もないような凄まじい話が書かれている。 ……松崎村の川べりの家には、二代続けて河童の子を孕んだところがある。生まれた子は醜悪で、切り刻んで一升樽に詰めて土中に埋めたという。女の婿の里である主人の話によると、ある時、女が汀で川に向かってにこにことしているのを目撃した。翌日もそうであったが、そのうち夜に女の元に誰かが寄っているという噂が立った。最初は婿の不在の時だけだったが、しまいには婿と一緒の時すら来るようになった。河童の仕業と言われるようになり、一族が守ったが効果はなく、婿の母親が一緒に寝た時は金縛りに遭って、笑い声を聞くだけで何も出来なかった。お産の時は難産となったが、馬桶に水を張ってその中で産めば易いということで試すとその通りだった。生まれた子供には水掻きがあった。この女の母親も河童の子を産んだことがあるという話である。…… ●千貫石堤 おいし観音 千貫石堤は天和2年(1682年)に着工された、灌漑用の溜め池である。完成は元禄4年(1691年)であり、10年の歳月が掛かっている。この堤を作るにあたって、人柱が立てられている。1000貫で買い取られた、「おいし」という19歳の娘であった。釜石あたりに住んでいた、器量は良いとは言えない娘であったと言われている。また嫁の貰い手があると騙されて連れて来られたという説もある。その娘を生きたまま子牛と共に石棺に押し込めて、100年の年季を限り人柱としたのである。地名ともなっている「千貫石」は、銭1000貫で買われたおいしが埋められた地ということで付けられたとも言われている。経緯を見れば、明らかに本人が望んでなったものでもなく、人柱になる覚悟も諦めもなかったことは間違いない。工事の責任者であった伊達藩の普請奉行・川田勘祐の屋敷では、人柱を立ててから毎夜のごとく「暗いぞ、暗いぞ」と声がしたという。さらに川田一族はことごとく死に絶えたとも言われた。またおいしと関わりのあった家々でも代々実子が生まれず、血の繋がりのない人間が家を継いでいくこととなったともいう。これらは全ておいしの祟りであると噂されたのである。そして100年の年季に近づいた安永6年(1777年)、7日7晩降り続いた雨のために千貫石堤は決壊した。多くの被害を出したが、この決壊の際にも約36mの青い光が流れ出たのが目撃され、これもおいしの祟りであるとされた。時代はくだり昭和50年(1975年)、地元の複数の人の夢枕に、おいしの幽霊とおぼしき女性が立ったという噂が流れた。それを機に、おいしの供養を目的としておいし観音が建立されることとなり、翌年に完成した。おいし観音は、千貫堤を見下ろす小高い山の頂上に置かれている。ただ、今なおこの付近では女性や牛と思われる幽霊の目撃情報があるそうである。 ●大籠キリシタン殉教史跡 藤沢町大籠は、現在でも自動車を使わないとアクセスが難しい、ある意味秘境の地のような場所である。そのような土地に江戸時代初期のキリシタン弾圧の遺跡が点在している。大籠の地は、キリシタンとは関係のない製鉄から始まった。千葉土佐(初代)という者が、砂鉄を使う「たたら製法」で鉄を生産していたのだが、生産量が増えないために、永禄元年(1558年)に備中国から千松大八郎・小八郎の兄弟を呼び寄せた。この兄弟が熱心なキリシタンであったため、仕事のかたわら布教に専念し、またたく間にキリシタンの数が増えたのである。その数は伝承によると、最盛期には3万人に達したと言われていた。慶長17年(1612年)、江戸幕府は禁教令を出し、キリスト教の本格的な弾圧が始まった。元和の大殉教では全国各地で大がかりな処刑がおこなわれた。大籠を領有していた仙台伊達藩でも拷問による殉教者を出したが、大籠での徹底的な弾圧は10年以上も後のこととなる。寛永16年(1639年)から約3年ほどの間に、大籠でキリシタンの大量処刑がおこなわれた。処刑された数は309名。そして今なおその処刑にまつわる史跡が、街道沿いに点在する。さすがに処刑そのものに関係した物はないが、後年に造られた供養碑(江戸時代に作られているので仏式である)と案内板が置かれているだけの、何の飾りもない殺風景な場所である。しかし簡素であるが故の生々しさ、ここで人が次々と刑死したのだということを否が応でも思い起こさせる雰囲気があった。最も多くの殉教者を出した場所が「地蔵の辻」である。2年にわたって178名が処刑された。地蔵の辻と県道を挟んで置かれてあるのが「首実検石」。伊達藩の役人が、この石に腰掛けて、処刑の検分をしたと伝えられる。さらにその近くには94名が処刑された「上野処刑場」、集落の入り口あたりには12名が処刑された「トキゾー沢処刑場」がある。その他にも、斬られた首を晒して埋めたとされる「架場首塚」。上野処刑場に晒されていた遺体を約60年後の元禄年間に埋葬した「元禄の碑」。地蔵の辻に晒された首を親族が取り戻して埋めたとされる「上の袖首塚」。そして絵踏をおこない、キリシタンを捕らえた「台転場」など。これらの地のほとんどは、毎夜のように男女の泣き叫ぶ声が聞こえたり、幽霊が彷徨い出てきて、住民を恐れおののかせたという。 ●東北のキリシタン活動 / 大籠にキリスト教を広めたのは千松兄弟とされているが、実際に布教が活発になるのは、江戸幕府が禁教令を出してから以降であると推測される。幕府に対抗する形でキリシタンに対して接近していたのが伊達政宗であり、家臣に欧米使節となった支倉常長や、藤沢ゆかりの人物で熱心なキリシタンであった後藤寿庵らがいる。禁教令によって西日本や京都・江戸の大都市から逃げてきた信者が、キリスト教に対して理解があると思しき伊達藩の辺境の地であり、比較的流れ者が紛れ込みやすい鉱山のある大籠へ集まってきたのが真相ではないかと考えられる(それでも信者3万人という数はかなりの誇張であると言える)。ちなみに伊達政宗は、大籠でキリシタンの大量処刑がおこなわれる3年前までは存命であった。 ●元和の大殉教 / 元和5年(1619年)に京都で52名を処刑。同8年(1622年)長崎で55名を処刑(これが狭義の「元和の大殉教」)。同9年に江戸で55名を処刑。同10年に東北一帯で108名、平戸で38名を処刑。これまではキリシタン取り締まりでは、国外追放などが主な刑罰であったが、この時期より拷問や処刑などの残虐行為が常態化していく。 ●達谷窟 (たっこくのいわや) 達谷窟は坂上田村麻呂ゆかりの地である。延暦20年(801年)この地を平定した田村麻呂は、戦勝は仏の加護であるとして、遠征前より祈願していた京都の清水寺に模した堂宇を建立し、そこに毘沙門天を祀った。それが達谷窟毘沙門堂である。その後も崇敬篤く、奥州藤原氏や伊達氏が堂宇を建立している。また文治5年(1189年)に源頼朝が平泉平定後に立ち寄ったことが『吾妻鏡』に記録されている。元々この窟には、悪路王という鬼が住み着いていたという。悪路王は赤頭・高丸などの仲間とともに近隣を荒らし、また京の都にまで現れては姫君を攫っていったのである。その悪行は当然、時の帝の聞き及ぶところとなり、坂上田村麻呂が遣わされることとなったのである。達谷窟の他にも、悪路王の伝承地が近隣にある。近くを流れる太田川に“姫待滝”という小さな滝がある。京から攫ってきた姫らを上流で幽閉していたのだが、隙を見て逃げ出す者があった。すると悪路王はこの滝で待ち伏せをして捕らえたのだろいう。さらにはその滝の下流には“髢石(かつらいし)”という巨石がある。逃げ出して再び捕らえられた姫は、見せしめのために長い髪を切られ(あるいは首を切られたとも)、その髪(首)が川を流れてこの石のところで塞き止められたのだという。悪路王はその名前から、蝦夷の族長であったアテルイの存在がモチーフとなっている推定されている。悪路王の悪逆非道ぶりは、最終的な支配者となる朝廷に対する頑強な抵抗を行った史実の裏返しであることは容易に想像できる。“悪路王の首”と称される木像が、鹿島神宮に納められている。東国に睨みをきかすように派遣された天津神の武神を以てして封じ込めていると見るべきだろう。 ●アテルイ(阿弖流爲) / ?-802。胆沢地方(現在の奥州市)を支配していた蝦夷の族長。延暦8年(789年)に征東将軍・紀古佐美が率いる朝廷軍を打ち破ったことが『続日本紀』にある。延暦21年(802年)に坂上田村麻呂の許に、モレ(母礼)と共に500人余りの者を引き連れて降伏する。その後2人は京都へ入り、田村麻呂の助命嘆願の甲斐なく、河内国で処刑された。 ●カッパ淵 柳田國男の『遠野物語』には、何話か河童に関する伝承が記載されている。厳密に言えば、古の伝承というよりも、実際の体験者から採話したような次元の体験談である。それによると、遠野の河童は、一般的な河童とは異なり、赤ら顔であるという。それ故に柳田は遠野の河童と猿との関連性を唱えている。遠野の河童といえば、今や観光地となっているカッパ淵が最も有名である。「河童狛犬」のある常堅寺の裏手を流れる川にカッパ淵はある。かつてはこの淵にも河童が住んでいるとされ、たびたび目撃されていたらしい。現在、このカッパ淵には、河童を祀った祠がある。この淵で悪さをしていた河童を諭し、神として祀ったものであると推測される。なぜか乳の神であり、赤い布で乳をかたどった供え物を奉納すると、母乳の出がよくなると伝わる。このカッパ淵の近くには、東北の豪族・安倍氏が構えていた安部屋敷跡が残っている。この安倍氏の末裔にあたり「カッパじいさん」と呼ばれていたのが安部与市氏である(2004年にお亡くなりになっている)。氏自身も幼少期にこの地で河童を目撃している、生き証人であった。 ●むかで姫の墓 南部利直の正室・於武の方は先祖がむかで退治した時に使った矢の根を持参してきたが、その亡くなった時に、遺体の下にむかでを連想させる模様が現れた。むかでの祟りを恐れた利直は、むかで除けの堀をめぐらせた墓を作るように命じた(むかでは水が苦手なため)。だが、その墓へ行くための橋を堀に架けたのだが、一夜にして破壊されてしまった。そして何度も付け替えようとするのだが、むかでが現れてそれを破壊した。墓から大小のむかでが這い出てくるし、さらに於武の方の髪も片目の蛇に変化して石垣の隙間から出てきたという。そこで於武の方を“むかで姫”、その墓を“むかで姫の墓”と名付けたという。この於武の方は蒲生氏郷の養妹、つまり先祖は近江国でむかで退治をした俵藤太(藤原秀郷)である。このむかで姫の伝説は、まさにこの俵藤太の伝説が発端となって広まったものであることは間違いないだろう。 ●俵藤太の百足退治 / 近江の瀬田の唐橋に大蛇が横たわり人が通れなくなったが、俵藤太だけはそれを踏みつけて渡った。その夜娘が訪れ、大蛇は自分の化身であり、琵琶湖に住む龍王の娘と名乗る。三上山の大百足に悩まされており、助けて欲しいと頼む。快諾した俵藤太は、山を七巻半する大百足に矢を放つが効果がなく、最後の一本の矢じりに唾を付けてようやく退治したとされる。 ●大泉寺 おかんの墓 盛岡市内のほぼ中心部にある大泉寺には、不思議な墓石がある。“カンカラ石”という名で呼ばれる墓石なのだが、材質が花崗岩にもかかわらず、石で叩くと高い金属音のような音が出る。これだけでもかなり奇妙な石なのだが、この音が鳴るようになったいきさつの伝承も、それ相応に不思議な因果話になっている。秀吉による天下統一の末期、九戸政実は反乱を起こし、南部家によって滅ぼされた。その重臣・畠山氏の息女であった“おかん”は、家来であった三平と夫婦となり、盛岡に住み着いた。三平は盛岡城築城の現場で働いていたが、事故によって働けなくなった。そのような状況でおかんに言い寄ってきたのが、建設現場で夫の直接の組頭であった高瀬軍太であった。高瀬はおかんの気品の高さに思いを寄せ、夫の事故の件を境にして、露骨に関係を迫るようになってきた。これ以上拒絶すれば夫の身にも累が及ぶと感じたおかんは、夫を殺すならば身を任せると言って欺き、自ら夫になりすまして高瀬の手に掛かって貞死した。己の非を悟った高瀬は自ら仏門に入り、おかんの菩提を大泉寺で弔ったという。この貞女おかんの墓が、この不思議な音の鳴る墓石なのである。そしてカンカンと鳴る甲高い音は、おかんの泣き声であるとか、夫の三平の唱える念仏であるとか、そのような伝説になっている。あるいはこの不幸な夫婦二人の声が合わさっているとも言われている。ほとんど戒名すら判読できないほど磨滅した墓石の上には、墓石を叩くための石が置かれている。しかもこの石が置かれている部分は、叩かれたために、自然のうちにくぼみができているのである。300年以上、数知れぬほど多くの人々がこの墓石を叩いてきた証なのだが、この行為がおかんに対する賞賛や供養を意味しているように感じるのである。 ●大泉寺 / 盛岡築城時に三戸より移転。本堂は宝形式反り屋根を持ち、盛岡の文化財に指定されている。寺宝に“お菊の皿”がある(8月16日のみ公開とのこと)。 ●三ツ石神社 鬼の手形 昔、この地に<羅刹(あるいは羅教)>という名の鬼が棲んでおり、悪事の限りを尽くしていたという。困り果てた人々がこの地で崇拝されていた<三ツ石様>という自然石に祈願したところ、たちまち鬼はこの巨石に縛り付けられた。さすがの鬼もこの神聖な威力に恐れをなし、二度とこの地に現れないと約束し、この巨石に自分の手形を押して立ち去ったという。この伝説によって、この地は鬼が二度と来なくなった場所という意味の「不来方(こずかた)」と呼ばれるようになり、また鬼が岩に手形を押したということから「岩手」という名前が出来たと言われている。そして盛岡の代表する夏祭りである<さんさ踊り>の由来も、羅刹という鬼がこの地から去ったときの民衆の喜びを表現したものであると伝えられている。三ツ石神社の入り口に立つと、その問題の3つの巨石が出迎えてくれる。調査によると、この岩は元来1つの岩だったらしいが、年月と共に3つに割れてしまったのだという。さらに岩手山で噴火が起こった際にとんできたものであろうと推測されている。その唐突にそびえ立つ岩を見ていると、その巨大さゆえに信仰の対象となり得たことが十分理解できる。しめ縄を張られた岩の表面は苔むしており、今でも鬼が手形を押した場所だけは苔が生えないので、手形らしきものが見えるという。 ●不来方の地名 / 南部藩が居城を構えた時も「不来方」の名前であったが、その名が縁起がよくないと忌避することとなり、その後「森ヶ岡」さらに「盛岡」と改称された。この新しい名称は、城下の鬼門にあって鎮護の役目を果たした永福寺の山号“宝珠盛岡山”から取られたものであり、元禄時代以降に付けられたと言われる。 ●田村麻呂伝承 / この手形の伝承として、三ツ石神=坂上田村麻呂、羅刹=蝦夷という組み合わせで、全く同じような話が残されている。おそらく東北一円に広がる田村麻呂伝承が、この鬼の話を巧みに取り込んで完成させて流布したものであると推測する。この三ツ石神社が屈指の古社であることを裏付ける証拠であるだろう。 |
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●安兵衛茶屋 阿仁町
阿仁は山に囲まれて阿仁川の上流にある。部落を開いた人たちは仙北の方から山越えして来ている。 昔は、戦いに敗れると一族郎党が四散して阿仁にも落ちてきている。阿仁鉱山が発見されてから、山師たちや鉱夫たち、それに商人と、人の出入りが多くなって、米代川を上ったり山を越えて来ていたもので、鉱山住民の食物は仙北からも運ばれたから、自然と山道が開かれて、大覚野街道が出来たのである。郡境の大覚野峠は、海抜582mにあって、仙北市西木村に通じていて、現在国道105号線として比立内から南5キロメートル程進んでいる。いま茶屋の跡ははっきりしないが、郡境から少し西木村の方に入ったところに、池の跡は残っている。 ● 昔、阿仁鉱山が盛りになって人の往来が多くなった頃、この大覚野峠に一軒の茶屋があって、安兵衛と言う60歳くらいのおじいさんが独り住んでいた。この茶屋の泉は非常にきれいで、すごく冷たいし、夏でもかれることなくこんこんと湧いているので、旅人から賞味され、それに安兵衛はお客にたいへん親切なので、すこぶる評判のよい茶屋であった。それで誰いうとなく安兵衛茶屋と愛称されていた。茶屋の裏の方には、大きな沼があって底なし沼と言われていたという。 さて、ある日のこと、1人の旅人が大覚野街道を登ってくるうち、日がとっぷり暮れて夜の山道になってしまった。とぼとぼ歩く夜の道は淋しい、心細くなって一心に向こうを見つめると、ポツンと明かりが見える。これは神の助けと、元気付いて着いてみたのはその安兵衛茶屋で、主はこれまた大変親切なおじいさんであった。安心して一夜の宿をとることになり、心づくしのもてなしを受けて、商人は奥の間に案内され、疲れ果てた身を横たえると、たちまちぐっすり眠り込んでしまった。この様子をかいま見た安兵衛は、ガラリと人が変わって、恐ろしい形相、奥の部屋には「つり天井」の仕掛けがあるので、それを外すと、ものすごい音を立てて天井が落ちるとともに、商人の断末魔の叫びも、静寂な夜の山々にこだまするだけで、誰あって知る由もない。安兵衛は商人の財物を取り上げ、死体は裏の底なし沼に投げ捨てるという恐ろしい強盗であった。 またある日、父の敵を探し求めて、六部姿(巡礼の姿)のまだ若い一人の娘がこの峠にさしかかった時は、日も暮れて夜道をこの先行くことができないので、この茶屋に休んで一夜を泊めてもらうことにした。安兵衛じいさんは、例の通り、六部を親切にもてなして、身の上話などを聞いたりしてから、床につかせた。六部の娘はゆっくりした気持ちでスヤスヤと眠りに入ると、夜中に安兵衛は恐ろしい顔つきになって、六部を揺り起こすと、刀を振り上げて襲いかかる。意外な強盗に声もなく、ようやく「金は差し上げますから、父の敵を探すまでは死ぬことはできない、命だけは助けてください。」と泣き叫びながら一心に懇願しても、鬼の安兵衛は、この哀れな娘の六部を、遂に殺して金品を巻き上げたうえ、死体は例の底なし沼へ投げ込んだことであろう。 その後、鬼の安兵衛とて、毎夜悪い夢に悩まされたに違いない。どのような死に様をして、茶屋もいつのまにか無くなったことか誰も知る者はないが、大覚野峠を通る旅人は、茶屋のあったあたりを通るたびに「助けてください、助けてください」という哀れな女の声が聞こえたものだと語り伝えられている。 ●安兵衛茶屋 2 東北東から望む。湿地帯の右側に街道があり、中央部の湿地帯が突出している部分の先に大覚野峠があった 桧木内川の水落、かくら沢(赤倉沢?)の源流域にある御役屋の下の池の傍らに、安兵衛茶屋という往来の旅人相手の茶屋が建っていた。弘化3年(1846年)、この安兵衛茶屋の近くで殺人事件があった。阿仁町の『越後谷文書』に収録されている「万歳日記」の弘化3年の項にそれが記述されている。角館宇左衛門が殺され衣類や金まで奪われ、子供が阿仁まで探しに行ったが、阿仁の帰りにかくら沢で砂に半分埋まった状態で発見したものであった。犯人らしき人は捕まったが、証拠不十分のため解き放たれたとある。民話には次のような話が伝わっている。 阿仁鉱山が盛りになった頃、大覚野峠に安兵衛茶屋と呼ばれる一軒の茶屋があった。表向きは親切なお爺さんが一人で営んでいる茶屋であったが、本当は旅人を吊り天井の部屋に泊めて殺し、金品を奪って死体は裏の底なし沼に捨てる強盗であった。ある日、六部姿の若い娘がここに泊まったが、夜中に娘を襲うと、金は全部渡すが、親の敵を取るまで命だけは助けてくれと命乞いをしても、殺して池に捨てた。それからこの峠の茶屋のあたりを通るたびに、「助けてくれ」という女の叫び声が聞こえてきたという。その後鬼の安兵衛とて、毎夜悪い夢に脳まされてに違いない、どのような死にざまをして、茶屋もいつのまに無くなったことか誰も知る者はないが。 ●八郎太郎 南秋田郡大潟村 みなさんは「八郎太郎」という名前を聞いたことがありますか? 八郎太郎は、八郎潟の龍神です。大潟村唯一の神社である「大潟神社」には、天照大神と豊受大神とともに、八郎太郎大神が祀られています。その龍神八郎太郎を、大潟村の初代村長である嶋貫隆之助さんはこう述べていました。「八郎太郎は、八郎潟干拓事業の最高の理解者であり、協力者である。」 大潟村の住民にとってはとてもなじみの深い八郎太郎ですが、実は八郎潟だけでなく、青森・秋田・岩手の北東北3県に、八郎太郎に関する壮大な伝説が分布しています。これらは「めでたしめでたし」で終わるものではありません。八郎太郎の悩みや苦しみ、喜びが、大潟村を始め北東北の各地には連綿と語り継がれているのです。ここでは、各地に分布する八郎太郎伝説について、伝説の舞台を含めて紹介します。ぜひ八郎太郎伝説の舞台を訪ね、八郎太郎に思いを馳せてみませんか。ひょっとしたら八郎太郎に会えるかもしれませんよ。 ●1 鹿角の里で、八郎太郎は産声をあげた むかしむかしのことです。比内の独鈷(とっこ)1)に了観(りょうかん)というお坊さんがいました。しかしある日、お坊さんらしくない行いをしたため、お寺の近くの沼に住んでいた大蛇のたたりを受けてしまいました。それから間もなく、了観の妻は身ごもりました。子が生まれるとき、天地が激しく鳴り響き、嵐となりました。こうして生まれた子は久内(くない)と名付けられ、後に鹿角の草木(くさぎ)に移住し、その家は代々久内と名乗ったのでした。それから長い年月がたったある日のこと、草木の地2)で9代目の久内が生まれました。先祖からの血を受け継いでいるためか、成長すると身の丈6尺あまりの大男になりました。彼はとても力が強く、気立ても優しい若者であり、八郎太郎と呼ばれていました。そんなある日、「マダ」という木の皮を剥ぐため、八郎太郎は仲間と3人で十和田の山奥へと入っていきました。 1) 現在の大館市比内独鈷にある大日堂。大蛇は大日堂の裏にある北沼に棲んでいたといわれています。大日堂、北沼ともに現存しています。 2) 現在の鹿角市草木字保田(ぼった)。地元住民が「八郎太郎生誕の地」碑を建立しています。また、近くには、産湯に使われ、八郎太郎が飲んで大きくなったという「桂の井戸」があります。なお、八郎太郎生誕の地にはここ以外にも諸説があります。 ●2 八郎太郎は龍に姿を変え、仲間に別れを告げた 八郎太郎が、仲間3人と十和田の山奥に入って数日が経ちました。その日は八郎太郎が炊事当番でした。水を汲みに沢におりると、おいしそうなイワナが3匹泳いでいました。八郎太郎はおかずにしようと、3匹のイワナを捕まえ、串に刺して焼きました。やがておいしそうな香りが漂い始めました。八郎太郎は我慢できず、自分の分を食べてしまいました。あまりのおいしさに我を忘れ、仲間のイワナを全部食べてしまったのでした。まもなく、八郎太郎は喉が渇いてひりひりするようになりました。汲んだ水を飲んでも足りず、沢に行って水を飲み続けました3)。やがて、沢に映った自分の姿を見て、八郎太郎は驚きました。なんと、大きな龍に変わっていたのでした4)。戻った仲間は八郎太郎の変わり果てた姿に驚きました。八郎太郎は涙を流し、仲間に別れを告げました。そして沢の流れをせき止め、湖とし、その主となったのでした。こうしてできた湖は十和田湖といいます。 3) 七日七晩飲み続けたとも言われています。 4) 「仲間を置き去りにしない」「食べ物は必ず分かち合う」「収穫は平等に分配する」といった掟を、八郎太郎が破ってしまったためと考えられています。 ●3 諸国を巡った修行僧の南祖坊が、八郎太郎に戦いを挑んだ 八郎太郎は、美しい十和田湖で暮らしていました。そんなある日のこと、南祖坊という修行僧が十和田湖のほとりにやってきました。南祖坊は南部の出身5)であり、紀州(今の和歌山県)の熊野で修行をしていました。そして権現様から鉄の草鞋(わらじ)を授かり、「これを履いて諸国を修行し、草鞋が切れたところをすみかとせよ」というお告げを受けたのでした。南祖坊は諸国を巡り、十和田湖に着いたそのとき、鉄の草鞋が切れたのでした6)。南祖坊は目の前に広がる十和田湖を、権現様からお告げのあった永住の地と考え、喜びました。そのとき、南祖坊の前に八郎太郎が姿を現しました。「私はこの湖の主の八郎太郎だ。おまえはいったい何者だ!」「私は南祖坊。熊野権現のお告げに従い今日からこの湖の主となる。」こうして、八郎太郎と南祖坊の激しい戦いが始まったのです。 5) 青森県三戸郡南部町の斗賀神社の裏に十和田神社があり、ここが南祖坊生誕の地といわれています。 6)「鉄の草鞋の切れたところ」ではなく、「片方の鉄の草鞋を発見したところ」と記している文献もあります。十和田湖畔には十和田神社があり、その、境内社として熊野神社も設けられ、鉄の草鞋が奉納されています。 ●4 七日七晩の戦いの末、八郎太郎は敗れ去った 南祖坊は、十和田湖のほとりの岩山に座り、八郎太郎に向けて法華経8巻を取り出しました。そして経文を唱えると、お経を八郎太郎に向けて投げつけたのです。するとそのお経は八龍となり、八郎太郎に挑みかかりました。一方八郎太郎は、自分の住みかである湖を取られてなるものかと、八つの頭をもつ龍に姿を変え、南祖坊に挑みました。静かであった湖は急に荒れ狂い、雷が鳴り響き、山々が鳴動し、それは凄まじい光景でした。この戦いはなかなか決着がつかず、七日七晩続きました。南祖坊は最後の力をふりしぼり、最後の法華経のお経を八郎太郎に向けて投げつけました。すると、経文の一字一字が鋭い剣となり、八郎太郎の体に突き刺さったのでした。とうとう八郎太郎は力尽き、十和田湖を自らの血で真っ赤に染め、体を引きずりながら十和田湖を去ったのでした。そして、八郎太郎に勝った南祖坊は、静かに十和田湖へと入っていきました。南祖坊が十和田湖の主となったのでした7)。 7) 十和田湖の主となった南祖坊は、青龍権現として祀られました。十和田湖に向かう道路沿いには「十和田青龍大権現」碑が現在も残っており、かつてはその碑より奥は女人禁制の十和田の神域でした。 ●5 八郎太郎は、鹿角の里を追われた 十和田湖を追われた八郎太郎は高台に腰掛け、鹿角の里を見下ろしました。小坂川、大湯川、米代川が合流する雄神(おがみ)と雌神(めがみ)8)の間をせき止めれば、鹿角の盆地は大きな湖となり、ここを安住の地にできると考えたのでした。そこで八郎太郎は毛馬内(けまない)の茂谷(もや)山9)に縄をかけて背負い、川の合流地点をせき止めようとしました。この計画に驚いたのは、鹿角の43体の鎮守の神様たちでした。神様は大湯のお宮10)に集まり八郎太郎を追い出すための相談をしました。そして鹿角の花輪地区の鍛冶屋に金槌などをつくらせ、牛で運ばせ11)、八郎太郎がせき止めた場所を壊したのでした。鹿角の神様たちの反撃に遭い、住みかを失った八郎太郎は、再び安住の地を求めて米代川沿いに下って行ったのでした。 8) 雄神と雌神の間は峡谷となっています。雄神と雌神は米代川を挟んで向かいあっており、それぞれ祠と御神像があります。 9) 茂谷山には、八郎太郎が縄をかけた跡が残っているといわれています。 10) 神様が集まったお宮を集宮(あつみや)といいます。 11) 牛は運んでいる途中であまりの重さに血を吐いたといいます。その土地を「血牛(ちうし)」といい、現在は「乳牛(ちうし)」の地名となっています。 ●6 八郎太郎は、七座(ななくら)の天神様と力比べをした 鹿角を追われた八郎太郎は、米代川沿いに下り、きみまち坂付近で蛇行している米代川をせき止めて湖にし、住み家にしました。それに驚いたのは七座(ななくら)山12)の神様たちでした。そこで、いちばんかしこい天神様が八郎太郎に声をかけました。「八郎太郎よ、力持ちと聞いているが、私も負けない。大きな石を投げて力比べをしてみないか。」 八郎太郎は、そばにあった大きな石を投げました。その石は、米代川の中ほどに落ちました。一方天神様は、もっと大きな石を軽々と投げ、それは米代川をはるか越えていきました。驚いている八郎太郎に、天神様はすかさず言いました。「この川の下流の男鹿半島のほうに、もっと広い場所がある。そこを住み家にしてはどうだ。」 そこで天神様は、米代川をせき止めた堤防を、たくさんの使いの白ネズミに穴を開けさせました13)。八郎太郎は、その水の勢いに乗って下流へと行ったのでした。 12) 現在の能代市二ツ井町にある、七つの峰をもつ山。各峰には神が鎮座しており、米代川は七座の山をう回するように蛇行している。 13) 喜んだのは猫たちで、白ネズミをつかまえようとしました。そこで天神様は猫にノミをつけないと約束し、猫を繋いでおきました。この地が猫繋で、現在は「ね」が取れて小繋の地名となっています。 ●7 鶏が鳴くと同時に大地が割れ、八郎潟が誕生した 米代川を下った八郎太郎は一夜の宿を求めて歩き回りました。そして天瀬川(現在の三種町天瀬川)で、年老いた心優しい夫婦が宿を提供してくれたのでした。八郎太郎はお爺とお婆に、泊めてくれたことのお礼を述べ、自分が龍であることを伝えたのでした。そして明日の朝、鶏が鳴くと同時に大地が割れ、ここが大きな湖になると老夫婦に言ったのでした。老夫婦は大変驚きながらも、八郎太郎のお話を信じ、鶏が鳴く前に逃げようと荷物をまとめたのでした。翌朝、鶏が鳴くと同時に轟音が響き渡り、水が溢れました。八郎太郎の姿は龍になり、そして大地は瞬く間に湖となったのでした。そのとき、八郎太郎は溺れているお婆を発見しました。お婆は裁縫道具を家に忘れ、取りに戻ってしまったのでした。八郎太郎はお婆を助けようと、尾ではじきました。お婆は、天瀬川の反対側の芦崎(あしざき)(現在の三種町芦崎)に飛ばされてしまいました。お爺とお婆は助かりましたが、離ればなれになってしまいました。後に、お爺は天瀬川の南の夫殿権現(おどどのごんげん)に、お婆は芦崎の姥御前神社(うばごぜんじんじゃ)に祀られるようになりました。そして、この両地域では鶏を禁忌とし、鶏を飼うことを禁じるだけでなく、鶏や卵を一切食べませんでした。こうして、現在の位置に八郎潟が誕生し、八郎太郎はここを永住の地としたのでした。 ●8 八郎太郎は、一の目潟の女神に逢いに行こうとした 八郎潟を安住の地とした八郎太郎でしたが、八郎潟は冬に凍る湖でした。冬も凍らない湖はないかとあちこち訪ね、男鹿の北浦に冬も凍らない一の目潟があることを聞いたのでした。そして、一の目潟を冬の間の棲み家にしようと考えたのでした。困ったのは一の目潟の女神様でした。自分一人では八郎太郎にはかないません。そこで、京都出身の弓の名手であった武内弥五郎真康(たけのうちやごろうまさやす)に八郎太郎を追い払ってくれるように頼んだのです。さらに女神様は真康に、八郎太郎を追い払うことができるのであれば、雨乞いのお札を授ける約束をしたのでした。真康は女神様に、八郎太郎を追い払うにはねらいをどこに定めたらよいか尋ねました。女神は、八郎太郎は寒風山の上から黒雲に乗って現れるので、それを目当てに矢を放てば良いと答えました。真康は先祖伝来の弓矢を携え、一の目潟のほとりの三笠の松に姿を隠し、八郎太郎が現れるのを待ちました。そして黒雲が現れたそのとき、武内真康は矢を放ちました。矢は八郎太郎に当たりました。怒った八郎太郎は体から矢を抜き、「この恨みは子孫七代まで必ず片眼にする」といいながら矢を真康めがけて投げ返したのです。矢は真康の左目にあたり、以後、七代目まで左目が不自由だったといわれています。 ●9 辰子は、永遠の美しさを求め、大蔵(おおくら)観音に願をかけた。 八郎太郎が八郎潟で暮らしていた頃、西木村(現在の仙北市)神成沢(かんなりざわ)16)には、辰子という美しい女性がいました。辰子は永遠の美しさを手に入れようと、神成沢と田沢湖との間の山の中腹にある大蔵(おおくら)観音17)に毎晩願掛けをしました。そして成就の夜、観音様から田沢湖のそばの泉を飲めば、永遠の美しさを得られるというお告げを受けました。辰子は泉を探し求め、ついに発見し、水をすくって飲んだのでした18)。すると辰子は、龍の姿に変わってしまいました。母は戻らない辰子を何日も探しました。ついに湖のほとりで母は龍になった辰子と会ったのでした。母は泣く泣く辰子と別れたのでした。後に、辰子は田沢湖の主になりました。 16) 辰子姫生誕地が神成沢にあります。 17) 辰子が願をかけた大蔵観音は老朽化により山の麓に移され、かつての跡には祠があります。 18)永遠の美しさを得ようと訪れた泉は、現在は「潟頭(かたがしら)の霊泉」といい、田沢湖北部の御座石神社(ござのいしじんじゃ)のそばにあります。なお、御座石神社には下半身が龍の辰子像があります。 ●10 八郎太郎は身だしなみを整え、辰子姫に会いに田沢湖へ向かった。 ある日のこと、八郎太郎は、八郎潟にやってきた渡り鳥から、田沢湖に辰子という美しい娘がいることを聞きました。そして冬も押し迫ったある日、ついに辰子に会いに行こうと決心したのでした。八郎太郎は潟のほとり19)で身だしなみを整えた後、新関(潟上市)、久保田(秋田市)、船沢(大仙市)、西明寺(仙北市)などで一夜の宿を求めながら、川伝いに田沢湖へと向かったのでした。大仙市や仙北市のある宿では、泊めたお礼にと、八郎太郎は薬のつくりかたを宿の主人に授けてくれました。潟上市や仙北市のある宿では、八郎太郎の寝ている姿を、その家のおばあさんが見てしまったため、後に滅びてしまいました。 19) 潟上市天王塩口には、八郎太郎が身だしなみを整えたという「足洗の井戸」があります。 ●11 八郎太郎は、辰子がいる田沢湖に入っていった 八郎潟を発った八郎太郎は、辰子姫に逢うために川沿いに一夜の宿を求めながら田沢湖に向かいました。そして桧木内川から潟尻川を経て、霜月の9日(旧暦の11月9日)に、現在の潟尻地区から田沢湖に入っていきました。辰子姫は八郎太郎の来訪を喜び、想いを受け入れたのでした。それ以来、八郎太郎は冬になるたびに田沢湖を訪れ、辰子と共に暮らすようになりました。そのため、主の八郎太郎がいない八郎潟は冬に凍るようになり、八郎太郎と辰子姫の二龍神が暮らす田沢湖は、逆に冬も凍ることなくますます深くなった20)といわれています。八郎太郎が田沢湖に入った場所には現在、浮木神社が建立されています。なお、かつて潟尻の人々は、八郎太郎が田沢湖に入る音を聞いたり姿を見たりしないようにと、その日は一晩中賑やかに飲んで騒いだといわれています。 20) 田沢湖は日本一深い湖で、水深が423mもあります。 ●空素沼 秋田市 寺内字高野の聖霊短大裏にある空素沼。ここはその昔、狼沢(おいぬさわ)と呼ばれ、沢水が流れ、田や畑が広る場所でした。 この田畑を耕していた男がある日、沢の奥で大蛇を見つけました。男はその場を逃れましたが、大蛇がはきつけた毒が原因で三年後に亡くなります。その頃から、沢の源にあった小さな池がしだいに大きくなり、一夜にして満々と水をたたえる空素沼が生まれたといいます。その日の夜、ある村人の枕もとに白髪の老人が現れて、「私は沼の主である。狼沢の田畑の場所をしばらく借りることになった」と告げて姿を消したそうです。 この空素沼のなりたちに関する伝説には、他にも「日中、瞬く間に大きな沼ができた。それを見た人がいる」というような話もあります。これらの話は、まったく、荒唐無稽なものなのでしょうか? 同じ高清水の丘にある史跡秋田城跡の発掘調査の成果と栗田定之丞の功績から、この伝説を考えてみたいと思います。 秋田市教育委員会の発掘調査によって、古代秋田城の歴史解明が進んでいますが、同時に高清水の丘の土の堆積状況もわかってきています。その結果、場所によっては、風によって運ばれてきた砂が数メートルの厚さで降り積もっている状況が確認されています。空素沼は、高清水の丘を流れていた小さな川が、このような飛び砂によって、いつの頃か、せき止められてできた沼なのではないでしょうか? 別の古い資料には、「狼沢に砂山ができた」という記述があることもそれを裏づけています。 ●一夜でできた 遠く江戸にも知られる それでは、川がせき止められて少しずつ大きくなったはずの沼に、どうして「一夜にしてできた」という伝説が生まれたのでしょうか? 一つは、狼沢が「帰らずの沢」とも呼ばれ、人々があまり訪れない場所であったため、沼が大きくなっていった様子が人の目に触れなかったこと。また、植林に人生を捧げた栗田翁の功績により飛び砂の被害が少なくなり、「短期間の間に砂が飛んできて川がせきとめられる」という自然現象がイメージしずらくなっていたこと。そして何よりも空素沼が、厚い信仰を集めていた場所であったことが神秘的な伝説が生まれた理由ではないでしょうか。 江戸時代、日照りの時には、空素沼の主に雨乞いし、雨を降らせたとも伝えられています。人々の空素沼への信仰の深さを物語るエピソードであり、その雨乞いの状況を記録した「法壇の図」が現在、天徳寺に所蔵され、市の文化財に指定されています。また江戸の有名な読本作家である滝沢馬琴の随筆にも紹介されていることから、空素沼は遠く江戸にも知られていた場所であったことが伺われます。 空素沼には、他にも多くの伝説が伝えられ、また同じような内容でも細かい部分が異なっている例もいくつか見られます。まさに伝説に包まれた空素沼。賑やかな国道からわずかな距離に、こんなにも緑豊かで神秘的な場所があることに、秋田市の自然と歴史の奥深さを感じます。 |
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●秋田の伝承 ●唐松神社 (からまつじんじゃ) 古代史の異説を書いた書物として、『物部文書』という文書の一部が昭和58年(1983年)に初公開された。この文書を一子相伝として代々受け継いできたのが唐松神社の宮司家である物部氏であり、この文書は出羽の地に移った物部氏に関する来歴をはじめ、唐松神社創建にまつわる由来が書かれている。唐松神社にまつわる伝承で最も古い内容は、物部氏の祖神である饒速日命が秋田と山形の県境にある鳥海山に天磐船に乗って降臨、さらにそこから唐松岳(現在の唐松神社の隣接地)の頂上に“日の宮”を建て、持参した“十種の神宝”を収めたというもの。つまり神武東征よりも前の神代の伝説が残されている。次に登場するのは、神功皇后とその臣である物部膽咋(饒速日命から数えて9代目)である。三韓征伐の凱旋時にこの地に寄った神功皇后は唐松岳の“日の宮”に参詣、さらに膽咋は神功皇后より下賜された腹帯を奉納し、「韓(から)国を服(まつ)ろわせた」という意を含んだ“韓服”神社を建てたとされる。そして宮司家の直接の祖先となる物部那加世が、父の物部守屋が敗死した直後、捕鳥男速に匿われてこの地へやって来たのが用明天皇2年(587年)のことである。当地へたどり着いた時、櫃が動かなくなったため、土地の者から神功皇后の由来を聞いて社殿を修復した。これ以来、物部氏はこのあたりに定住したという(実際には天元5年(982年)に物部氏第24代・長文の時に唐松岳に定住し、社殿を建立したことになっている)。その後、源義家が前九年の役の際に、唐松神社の神の化身に助けられたため、社殿を再建して神殿を寄進したという記録も残されている。時代が下り、延宝8年(1680年)に唐松岳の頂上にあった社殿を現在地に遷したのが、久保田藩3代藩主の佐竹義処である。この時、義処は神社の前を下馬しなかったために神罰として落馬した。これに怒った義処は社殿を窪地に当たる土地の底部に建てた(さらに神罰が下って再度落馬するなどしたらしい)。現在でも唐松神社の拝殿は、他の神社とは異なり、一段低い窪地に置かれているが、古来からの伝承に関連するものではないようである。また御神体が神功皇后の腹帯とされることから、唐松神社は安産のご利益のある神社として有名である。特に、娘の難産を見かねて祈願したところ無事に男児が生まれたことを喜んだ佐竹義処が「女一代守神」に指定したとの伝説があり、参拝者が近県だけではなく全国から安産祈願に訪れるという。さらに境内にあるのが、他に類を見ない建造物として知られる“天日宮(あめひのみや)”である。周囲に濠を巡らせた中央に直径20mの石積みががあり、その上に社殿が置かれている。これは唐松神社の宮司家である物部氏の邸内社であり、饒速日命が祀られている。一説では『物部文書』に記された様式の建造物を忠実に再現したものであるとされている。文書の真偽を度外視して、このような不思議な建造物を目の当たりにすると、この土地に実際何かがあったのではないかという気にさせられる。 ●饒速日命 / 『日本書紀』などでは、天孫降臨に先立ち、天照大神より“十種の神宝”を授かり、天磐船に乗って河内国に降臨したとされる神。神武東征に抵抗した長髄彦の妹婿であったが、神武に味方して長髄彦を討ち取った。『物部文書』でも、唐松岳に社殿を建てた後、畿内へ行き神武に協力したとされる。 ●物部膽咋 / 仲哀天皇が崩御した後、神功皇后がその死を秘匿することを告げた4人の臣下の一人として『日本書紀』に登場する。 ●物部守屋 / 仏教を巡る対立から蘇我氏と敵対し、用明天皇2年(587年)に敗死した。守屋の子息については具体的な記録は残されていないが、敗死後に各地に潜伏した可能性はある。ただし那加世の実在性は全く不明である。 ●水門龍神社 能代の町の鎮守とされる八幡神社の敷地内にある池の中ほどに境内社がある。水門龍神社。一名、住吉龍神社とも呼ばれるこの神社は、明治元年(1868年)に能代に入った奥羽鎮撫副総督の沢為量以下、参謀・大山格之助、隊長・桂太郎が、秋田藩の多賀谷家知らと密議をおこなった史跡としても有名である。しかしこの神社の創建由来には、あやしい伝説が残されている。能代は日本海側の交易港として江戸時代に大いに栄えた。交易のための商家は当然であるが、船乗りのための施設も栄えた。その中には遊郭もあった。享保年間(1716〜1736年)の頃の話。播磨国から1隻の船が能代にやって来た。船は荷物の積み卸しなどのため、1ヶ月近くは港に停泊する。その間に、船乗りの一人がとある遊郭の女と懇ろになった。特に女の方が男にぞっこんとなってしまったから、始末が悪くなってしまった。船乗り達は当然の如く、荷を積めば郷里の港へ戻る。男も出航の日を待つばかりとなったが、女の方がいきなり自分も播磨国へ連れて行って欲しいと言い出した。ところが男には郷里に妻があったらしい。あまりに女がしつこく言い寄ってきたため、やむなく「船に乗せてやる」と女を誘い出して小舟に乗せて沖に出ると、その場で首を絞めて殺してしまったのである。そして重しを付けて港近くの米代川の河口辺りに投げ捨ててしまったのである。(一説では、男が妻子持ちであると告げたために、女が逆上して、そのまま河口に身投げして死んでしまったとも)素知らぬ顔で男は他の者と一緒に船に乗り込んで、能代の港を出ようとしたその時、いきなり大風が吹き荒れだした。帆を揚げたばかりの船はたちまち風に煽られて、港に引き返そうとしたが河口辺りで転覆し、結局乗り合わせた船頭は全員溺れ死んでしまった。それ以来、能代の港では播磨国の船が来ると必ず大荒れになるため、これは遊女の祟りであろうと、元文3年(1738年)に河口付近に龍神を勧請して社を建てた。それが水門龍神社の始まりであるとされている。その後嵐でたびたび社が流失するため、現在地に移転し、今に至っている。この神社が出来てからは遊女の祟りはおさまったと言われるが、時折港で変事が起こると播磨国の船があるためだという話はその後も残ったとされる。 ●八幡神社 / “能代鎮守”を称す。創建は斉明天皇4年(659年)。阿倍比羅夫が蝦夷征伐の際に海岸沿いに建立したとされる。その後、米代川の流れの変化などで移転、元禄9年(1696年)に現在地に鎮座。秋田藩佐竹氏の崇敬を受ける。 ●能登山の椿 この椿地区には、海岸線に面して能登山という小高い丘がある。この丘は春になると一面椿の花に覆われる。能登山は椿の自生群の北限として大正11年(1922年)に天然記念物に指定されている。そして次のような伝説が残されている。男鹿の港は、昔から遠方からの商船が停泊し、船乗り達が一時上陸する土地であった。ある年の春、能登から来た若い男が初めて男鹿の港に上陸した。そしてその初めての土地で、一人の美しい娘と出会った。二人が相思相愛の仲になるのには、さほどの時間は掛からなかった。しかし男が男鹿の土地に居られるのは僅かであった。再び船に乗って西国へ向かうことになった男は、2年後の春に嫁に迎えに来ると、娘との再会を約束した。「その時には、綺麗な椿の実を持ってくる」という言葉を残して、男は男鹿の港を後にした。娘は毎日のように海の見える小高い丘に登って、愛する人の言葉を思い出して帰りを待った。やがて約束の2年後の春が来たが、男は戻ってこなかった。それでも娘は待ち続けた。周囲の者は、男は余所で所帯を持ったとか、どこかで嵐に遭って既にこの世の人ではないとか噂した。そしてさらに1年、次の年の春が訪れた。娘の姿は港から消えた。もはや男と会えないと悲観したのか、海に身を投げて自ら命を絶ってしまったのであった。それから間もなく、男は約束の地に戻ってきた。良い所帯を持とうと稼ぎを多くするために遠方まで足を運んで遅れて戻ってきたのであった。男は娘が死んだことを聞かされると、毎日のように娘が海を見に登っていた丘を訪れた。そして約束して持参してきた椿の実を埋めると、港を去って行った。やがて椿は芽吹き、美しい赤い花を咲かせ、丘を覆い尽くすほど増えていった。この丘はいつしか男の生国から能登山と呼ばれるようになり、集落も椿と呼ばれるようになったという。 ●鹿島様 鹿島様は、大雑把に言えば、道祖神の一種である。ただ秋田県中南部の一帯を中心に見ることが出来るが、その他の地域では殆ど見られない、非常に特殊な“人形道祖神”ということになる。道祖神とみなされるのは、集落の境に置かれ、疫病などの災厄が集落に入ってこないように設けられているためである。湯沢市岩崎地区には、現在3体の鹿島様がある。2体は岩崎八幡宮の本殿奥にあり(1体は雨ざらし、もう1体は小屋の中に安置されている)、残りの1体は国道に面した場所にある。いずれも大きさは3〜4mで、大人の背丈の倍ぐらい。恐ろしげな木の面を付けており、藁で出来た胴体部分は鎧をまとったように見え、さらに大小2本の刀を帯びている。まさに武神のようである。そして2体には、道祖神の特徴である“男根”が付いている。この特異な道祖神の謎を深めるのは、この神の名である「鹿島」という名称の由来である。武神のような姿から、この名は鹿島神宮の祭神である武甕槌神であるという説がかなり有力である。この推察からさらに、鹿島様の名前は江戸初期に常陸国から移封されてきた秋田藩・佐竹氏に関係があるという説がある(鹿島神宮は常陸国一之宮)。あるいは、同じ武甕槌神を祭神とする古四王神社との関連性も考えられる。だがいずれも推測の域を出ず、どういう経緯で鹿島様が秋田の特定の地域で信仰の対象となったのかは、謎のままである。そして藁を使って集落の者が総出で毎年造り直して受け継がれてきた鹿島様は、人口減少のあおりを受けて徐々にその姿を消していっている。 ●武甕槌神 / 『古事記』及び『日本書紀』に登場する神。「出雲国譲り」の際に、高天原の使者として大国主命に直談判を行い、さらに力比べを挑んできた息子の健御名方神を破って諏訪まで追い詰めたとされる。また国譲りの後に関東へ赴き、この地を平定したとされる。雷の神、剣の神、武神として信仰される。 ●古四王神社 / 崇神天皇の代に四道将軍として北陸に派遣された大彦命が、武甕槌神を祭神として祀ったのが始まりとされる。秋田県下に複数の古四王神社があり、古くから信仰されてきた神であると考えられる。 ●芦名(葦名)神社 「鹿角三姫」の一人に数えられる芦名姫にまつわる神社である。幹線道路や鉄道からかなり離れた小さな集落にあるが、かつては馬の神様として多くの参詣者があったと伝わる。奈良時代の頃、このあたりに長者と豪族の2つの家があった。なぜか昔からこの家同士は仲が悪く、ことある度に諍いが絶えなかった。ところが、長者の息子と豪族の娘が相思相愛の仲となってしまった。当然、両家ともども二人の仲を認めず、互いに会わさないようにしたのである。やがて豪族の娘は恋の病で寝たきりになってしまった。それを聞いた長者の息子は居ても立ってもおれず、ある夜、闇に紛れて豪族の屋敷を巡りながら、中の様子をうかがった。だが豪族の家来は、その不審な者の姿を見逃さなかったのである。翌日、豪族の家では葬儀が執りおこなわれた。前夜に賊が忍び込み、病気の姫を殺害した。賊はその場で捕らえられ、打ち首にしてしまったという。豪族は娘の墓を造り、さらにそばに賊の墓も築いたのである。一方、これらの話を聞いた長者は、この賊の正体が自分の息子であると悟った。しかし仲が悪いとはいえ、他家の娘を殺してしまった以上は抗議をするわけにもいかず、泣き寝入りするしかなかった。それから月日が経ち、二人の墓のそばに寺が建ち、そこに一人の女性が毎日経を上げに訪れるようになった。それは死んだはずの豪族の娘であった。あの夜、長者の息子は捕らえられたが、二人の思いを理解した豪族が夫婦となることを認め、その代わり遠くへ旅に出て暮らすように命じたのである。さらに二人が死んだことにするために、実際に2頭の馬を生き埋めにして墓を築いたのであった。一方、若い二人は旅立ち、しばらく仲むつまじく楽しく暮らしていた。しかし、息子の方が病気となり、亡くなってしまった。そこで娘は夫の葬儀を済ますと、結局故郷へ戻ってきたのである。そして事の真相を聞くと、自分たちの身代わりになって死んだ馬を憐れに思い、亡き夫の菩提を弔うと共に、馬の供養のために寺を建てて日参するようになったのである。しばらくして娘も病に倒れて亡くなった。死の間際に、この寺を詣でた者には良い馬を授け幸せになれるようにしたいと言い残した。その後、全てを知り寺を訪れるようになっていた長者は、都へ行って十一面観音菩薩の像を求めた。そして像を本尊として堂宇を建立したのである。それが「芦名沢の観音様」と呼ばれ、良馬に恵まれるように参拝する者で賑わい、多くの絵馬が奉納されたという。 ●鹿角三姫 / 鹿角地方に残る伝説の主人公である3人の女性。「だんぶり長者」の娘である吉祥姫、「錦木塚」伝説の政子姫、そして芦名姫である。この3つの伝説に関連性はなく、鹿角地方に伝わる話として観光振興のために一括りにされたようである。 ●小町堂 小野小町の出自については諸説あり、全国各地にその生誕地や死没地(墓碑)が存在する。その中でも有力な出身地として挙げられるのが、出羽国の小野である。小野篁の息子である小野良真が出羽郡司として赴任中に、地元の娘との間に出来たのが小町であり、13歳まで出羽の小野で過ごしたとされる。その後に都に上り、約20年間宮中の女官として務め、再び故郷へ戻ったと言われる。最終的に出羽における小町は92歳で没するまでこの地に留まり、その霊を祀るために建てられたのが小町堂である。またその周辺には、小町ゆかりの寺院や岩屋が存在する。この小野の地にも小町にまつわる伝承が残されている。小町の後を追って都から来たのが深草少将であり、その求愛に対して小町は100日間芍薬を1株ずつ植えてくれれば受け入れるとした。しかし少将は最後の日に増水した川に転落して亡くなってしまったという。 ●深草少将 / 小野小町の「百夜通い」伝説の主人公であり、世阿弥などの能作者によって作られた架空の人物。この秋田の伝承も、おそらく後世の二次創作であると考えられる。 ●蚶満寺 かつての景勝地・象潟の蚶満寺は、円仁の創建であるが、それ以前に神功皇后が三韓征伐の途上でシケに遭ってこの地に流れ着き、皇子(後の応神天皇)を出産したという伝承が残されている。安土桃山時代に曹洞宗に改められ、以後、名僧を輩出。また松尾芭蕉をはじめとする文人墨客も多数訪れている。蚶満寺には“七不思議”と呼ばれるものが存在する。とりわけ有名なものは「夜泣きの椿」と呼ばれるもの。寒中の夜中に花を咲かせ、寺の周辺で凶事が起こる前後に夜泣きするという言い伝えが残る。他には「猿丸大夫姿見の井戸」「弘法投杉」「あがらずの沢」「木登り地蔵」「北条時頼咲かずのツツジ」「血脈授与の木」がある。また七不思議以外にも、島原から移転の際に象潟沖で漂着して置かれたという「親鸞上人腰掛け石」がある。 ●象潟 / 「東の松島、西の象潟」と称された、入り江に大小の小島が浮かぶ景勝地。しかし文化元年(1804年)に起こった大地震によって土地が隆起して、干潟となった。現在でも小島だった部分は小さな山状となって残されている。干潟を開墾しようとした本荘藩に対して蚶満寺住職が反対し、閑院宮家に祈願寺許可を働きかけ、土地を保全したためである。 ●與次郎稲荷神社 関ヶ原の戦いにおいて旗色不鮮明であった、常陸の大名・佐竹義宣は慶長7年(1602年)に秋田に転封となった。その時に築かれたのが久保田城である。築城が始まってから、義宣の許を訪れたのは大きな白狐であった。今度の城造りによって自分達の住処がなくなってしまう。新しい住処を与えてくれるならば殿のお役に立とう、と言う。ならばと義宣は、城内の茶園のそばに住処を与えた。それからこの狐は「茶園守の与次郎」と呼ばれ、佐竹家の飛脚となって秋田と江戸を6日間で往復して、重宝された。しかしその働きは長く続かず、山形の六田村(現・東根市)で狐と見破られた上、罠を仕掛けられ殺されてしまった(現在でも東根市には與次郎稲荷神社があり、その死についていくつかの話が残されている)。この死を哀れんだ義宣は城内に祠を建て與次郎狐を祀ったのである。 ●黒又山 どこから見ても綺麗な円錐形に見える黒又山は、標高280mの小高い山である。この整った形であるが故に、この山は日本の超古代史におけるピラミッドの一つであると言われている。黒又山は地元では「クロマンタ」と呼ばれている。この名前の由来であるが、一説ではアイヌの言葉で“神々のオアシス”という意味の“クルマッタ”が転訛したとされる。またこの山は昔“クルマンタ”と呼ばれており、やはり“クル”は「神」を意味し、“マンタ”は「野」を意味する“マクタ”が訛ったものとも言われる。いずれにせよ、神聖視された山であると考えてよいかもしれない。この山は平成4年(1992年)に黒又山総合調査団によって学術調査がおこなわれた。その結果、この山は現在土に覆われているが、麓から山頂までが7〜10段の階層を持った人工物であることが分かった。さらに山頂の地下10mの部分に空洞があり、何者かを埋葬している可能性が高いことも明らかになった。つまり、この形状は中南米に見られる階段型ピラミッドを彷彿させるものであり、日本における人工的なピラミッドの存在を裏付けるものと言えるかもしれない。さらにこの山の周辺には、大湯環状列石をはじめとする遺跡や古社が多くあり、これらの多くは黒又山を中心として正確に東西南北の方角に位置していたり、また夏至や冬至の日の出・日の入りの方角にあることが判っている。少なくとも、この黒又山を中心に据えた祭祀システムがあったと推測できるだろう。 ●日本のピラミッド / 昭和9年(1934年)に酒井勝軍によって、広島県葦嶽山が日本のピラミッドであると認定されたのが始まり。酒井によると、日本のピラミッドはエジプトのものとは異なり、自然の山を利用して人為的に作り上げられたものであるとし、風化によって元の山の形に戻ってしまっていると説く。その特徴として、三角形の山であること、頂上付近に巨石遺構があることを挙げている。 |
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●最上白髭沼の龍神 新庄市
鮭川村の日下から清水坂を下り、槙新田に行く道端の田んぼに、白髭沼という小さな沼があった。深さは底知れず、隣村までつながっているとのことである。この沼に主がいて、酒樽や徳利を投げ入れて祈ると、どんな日照りでも雨を降らせると伝えられていて、「雨乞いの沼」ともいわれていた。 ● 昔、香雲寺様という新庄の殿様がそのことを聞いて、「その沼を干して、主の正体を見とどけてやる」ということになり、新庄藩の家来の見守る中で大勢の人夫達が七日間にわたって沼の水を汲み上げたが、一向に水は減らず七日目を迎えた。すると突然空が暗くなり、雷鳴が轟き天を返したかと思われる大雨が降って来て、何やら得体の知れない声が聞こえて来た。 殿様は何かを悟り、「沼の主の正体は予が見とどけた、みなの者、休め」と命ずると、今までの嵐が止み元の空になった。殿様は馬に乗って帰る途中、沼の主が龍神となって追いかけて来たため、宝刀を抜いて難を逃れたが、馬は龍にかまれて死んでしまった。この場所を今も乗馬長嶺と呼んでいるそうで、水の神を龍にたとえてそれを崇める、古くから伝わる最上地方の伝説です。 ●白髭神社(鮭川村) 白髭神社の創建年などは分かりませんでしたが、神社の下手にある小さい沼が古来からの自然崇拝の対象になっていたと思われます。現在でもその沼は白髭と呼ばれ、神社の奥の院となっています。伝承では、この沼に竜が住んでいると言われ、御神酒を捧げると願いが叶うと伝えられています。又、古来からの雨乞いの儀式が行われ、江戸時代の古記録にも掲載されるなど当時からの民俗信仰が続いているようです。 ●白髭沼の伝説 鮭川村に伝わる伝承によると白髭沼には竜神が棲み、酒を捧げると雨が降ると言い伝えられてきました。その話を聞いた、新庄藩2代藩主戸沢正誠(法名:香雲寺荘海慧巌・通称:香雲寺様)が是非、その竜神を見てみたいと申し、周囲の家臣や村人が止める中、大勢の人夫を集め沼の水をかき出しました。その行為は7日7晩続き、ようやく、沼の底が見え始めると、急に空が暗くなり雷鳴が轟くと今ままで見た事も無い程の大雨が降り一瞬で沼の水が元に戻りました。さらに、天から沼に向かい紫雲が降り始めると、それを見ていた見物人や立会人は竜神の祟りと恐れ戦きました。正誠も身に危険を感じ、全員にこの場から離れるように指示しましたが、怒った竜神は正誠に向かって襲ってきた為、自ら愛馬に跨り新庄城に戻ろうとしました。しかし、猿鼻峠で竜神に追いつかれ、何とか宝刀の霊力により振り払う事が出来ましたが、愛馬は無残に食いちぎられ命を落としたと伝えられています。 ●龍神沼 西川町岩根沢 昔、ある沼の主だった龍が、村に住む一人娘をさらった。元武士だった老いた父親は怒り、娘を救わんと沼深く潜り斬りこみ、一太刀を浴びせたが逃がしてしまった。 そこで父親は栗の木の皮を剥ぎ、沼いっぱいに投げ込むと、沼の水は栗渋で真っ黒になった。龍はこの渋攻めに耐え切れず、牛首に変身し、大空を目指し飛び去った。 しかし悪事をはたらいた龍は、神々に咎められ、行く先々を厚い雲で覆われてしまい、あてどもなく大空をさまよった。 龍は飛ぶ力もなくなり、気力も失い始める中で、これまでの罪を悔いた。すると雲のわずかな切れ目から、神々の慈悲の、青々としたこの龍神沼が見えた。 龍はこの龍神沼に舞い降り、沼の主となり、その後は心を改め、干ばつには雨を、長雨には晴天をもたらし、世のために尽くした。 人々はこの沼の主を、稲作、養蚕の守り神として崇めるようになり、文政13年(1830)、この地に龍王神社が祀られた。 ●笛吹き沼 新庄市 新庄市の最上川に沿う畑村の近くに笛吹き沼という沼があります。昔、この沼のそばを侍が通りかかり、大きな岩に腰を下ろして笛を吹きました。すると、どこからか美しい娘が現れ、「私はこの沼の主です。笛の音をもう一度聞かせて下さい」と頼みました。曲が終わると、娘は「あなたから離れることはできません。私とここで暮して下さい」と言いました。困った侍は「来年の春には必ず戻るからそれまで待っていて下さい」と告げ、その場を立ち去りました。春になり、京都から戻ってきた侍が最上川を下っていると、本合海上流の「蛇喰見の淵」で船が止まってしまいました。船頭が侍に「あなたは沼の主に見込まれています。川に入ってみんなを助けて下さい」と言うので、侍は川に入り、川面のかすみの中を沼の方へ消えて行きました。それからというもの、月のよい晩には沼の底から美しい笛の音が聞こえるようになり、この沼を「笛吹き沼」と呼ぶようになりました。 ●与蔵沼 最上郡鮭川村 大芦沢・羽根沢と飽海郡との境に与蔵峠というところがある。標高685メートルで、昔は庄内越えの要路であった。峠の頂上には直径200メートルほどの沼がある。深さは底知れず、あるとき村の若者が筏をつくって沼の真ん中にいき、深さを計ろうとして縄一把におもりをつけて下ろしたが、底にとどかなかったという。この沼には主の大蛇が棲んでいるといわれているが、大蛇にかかわる物語が伝えられている。 ● 昔、この峠で炭焼きをしていた与蔵という若者がいた。ある秋の日のこと、与蔵はかまに入れる薪背負いをしていた。汗を流したせいか、喉がからからにかわいたので、筧(木や竹でつくったといで、水を引くしかけ)から流れてくる水に口をつけてごくごく飲んだ。ふと見ると、筧に小さな魚が二尾流れてきていた。与蔵は喜んでその魚を捕らえ、焼いて昼飯のおかずにした。ところがどうしたことか喉がかわいてきはじめた。筧の水を続けざま飲んだが、それでもたまらない。与蔵は大急ぎで沢に下りていき、沢水に口をつけて飲んだ。 その日も暮れ、夜中になっても与蔵が帰らないので母親が心配して、村人たちと迎えに峠に上った。炭小屋のところまでくると、そこには満々と水をたたえた大きな沼になっていた。みんなびっくり仰天したが、それよりも与蔵はどうしたものかと、みんなで探しまわったが、みつからない。 母親は気がふれたようになって、『与蔵やーい、与蔵やーい』と叫んだ。すると、今まで静かに月光に輝いていた沼の水面が急にざわめいて、大きな渦がもり上がったと思うと、そのなかから、にゅと鎌首をもちあげた1匹の白い大蛇が、真っ赤な口を開けて『おーい』と返事をした。 与蔵はあまりに喉がかわいたので、谷をせきとめて沼をつくり、そこにはいり水を飲んでいるうちに、大蛇の姿に変わってしまったのである。大蛇は1回姿を現しただけで、いくらよんでも二度と現れなかった。母親は泣く泣く村に帰ってきた。 そこからこの沼を与蔵沼、峠を与蔵峠と呼ぶようになったという。それからのち、この峠を通る人はときどき白い大蛇が沼で遊んでいるのをみかけるという。 |
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●山形の伝承 ●椙尾神社 (すぎのおじんじゃ) 一本に延びる石段、そして高台にある境内は広く、社殿も相当に立派で大きい。言い伝えによると欽明天皇の治世(539〜571年)に創建され、鎌倉時代以降の中世には庄内地方を治めていた武藤(大宝寺)氏が崇敬、その後もこの地を領有した大名が寄進をおこない、明治になって県社に列した経歴を持つ。よく整備された石段の途中の左右両脇には、簡素な覆屋をされて阿吽の犬の像がある。この神社の例大祭である“大山犬祭”の主役である“めっけ犬”である。かつて、この神社の裏山となる高舘山に化け物が棲み着き、毎年祭りの日に若い娘を差し出さないと田畑を荒らし回るため、白羽の矢が立った家では泣く泣く娘を生贄としていた。そのような祭りの時に旅の六部がその話を聞いて、化け物の正体を確かめようと、真夜中の神社の境内に隠れて様子を見ていた。生臭い風が吹くと、大入道が2体現れた。お互いを“東の坊”“西の坊”と呼び合い、早速娘を籠から引きずり出すと、「このことを丹波の“めっけ犬”に聞かせるなよ」と上機嫌で言いながら、俎の上で真っ二つにしてしまった。そして“東の坊”が娘の頭の方を、“西の坊”が足の方をそれぞれもらうと「また来年」と言いながら消えていった。大入道の弱点が“めっけ犬”であると悟った六部はすぐに丹波へ赴き、その名を持つ犬を探した。そして何とかその犬を見つけた時には、間もなく祭りが始まる頃であった。急いで六部は“めっけ犬”を連れて戻り、事情を話して娘の代わりに“めっけ犬”を籠に入れて神社の境内に置いて夜を待ったのである。翌朝、村人達が境内にやって来ると、“めっけ犬”が血まみれで息絶えていた。そしてその横には2匹の大狢が噛み殺されていた。化け物の正体は大狢で、見事に“めっけ犬”が退治したのであった。村人は命懸けで戦い死んだ“めっけ犬”を丁重に葬り、神社と村の守護神として崇敬することとしたのである。この伝説に基づいておこなわれる“大山犬祭”は300年以上の歴史を持ち、“めっけ(滅怪)犬”をかたどった犬の像を曳きながら大名行列などが練り歩く、庄内地方を代表する祭となっている。 ●珍蔵寺 創建は寛正元年(1460年)。初めは金蔵寺という名であったが、後に現在の名となった。この寺には創建伝説として“鶴女房”の話が残されており、この種の伝承の中でも最も古いものの一つとされている。正直者の金蔵という男が、ある時、1羽の鶴が縛られているところに出くわした。憐れに思った金蔵は、有り金をはたいて鶴を解き放して助けてやった。するとその夜、若くて美しい女が訪れ、一夜の宿を請うた。そして女はそのまま金蔵の家に居着き、やがて夫婦となった。しばらくして、妻は金蔵に「今からご恩返しにあるものを差し上げたいと思います。これから7日間部屋を覗かないで下さい」と言って、そのまま籠もってしまった。部屋からは昼も夜も織物をする音がするだけであったが、金蔵はだんだんと妻が何を織っているのかを見たいと思うようになった。そしてとうとう約束を破って、こっそりと部屋の中を覗いた。部屋の中にいたのは、1羽の鶴。その鶴が自分の羽をむしり取り、それを織物にしていたのであった。金蔵が覗いていることに気付いた鶴は、自分が助けてもらった鶴であり、恩返しのために人間に化けたのだと正体を明かした。そして今織っているものは“曼荼羅”であり、これが自分の形見であると告げると、そのまま消えてしまった。金蔵は妻との約束を破ったことを恥じて出家した。そして残された布を納める寺院を建てた。それが金蔵寺であり、鶴の織った布を寺宝とするために“鶴布山珍蔵寺”という名となったとされる。 ●若松寺 ムカサリ絵馬 (じゃくしょうじ) 山形の民謡“花笠音頭”の冒頭部分に登場する「めでためでたの若松様よ」は、この若松寺を指していると言われる。和銅元年(708年)に行基が開山し、後に慈覚大師が中興したとされる古刹であり、最上三十三観音札所の第一番札所でもある。特に縁結びのご利益で有名であり、“西の出雲大社、東の若松観音”とも称されている。この縁結びのご利益のためなのか、この若松寺には数多くのムカサリ絵馬が奉納されている。かつては観音堂に掲げられていたが、重要文化財に指定されたために、現在では絵馬堂が設けられて保管されている。古いもので明治時代のものが存在するという。ムカサリという言葉は、山形の方言で“婚礼”を意味する。「迎える、去る」が語源とも「む(娘)が去る」からきた言葉であるとも言われる。そしてムカサリ絵馬はこの婚礼の様子が描かれた絵馬であるのだが、これの奉納の目的は追善供養である。【冥婚】という風習が、中国を中心に東アジアにはある。結婚する前に亡くなった子供のため、親などが死後の結婚を執りおこなうのである。日本では主に青森・山形両県で残る風習であり、幸薄かった子供を供養することが主たる目的である(中国などでは故人の供養であると同時に、一族の繁栄を願う側面もあるという)。死後の婚礼の様子を絵馬に描いて奉納するムカサリ絵馬の風習は、山形県の村山地方に集中しており、若松寺だけではなく、いくつかの寺院にも奉納されている。しかし納められた絵馬の数や残された絵馬の古さなどをを考えると、やはり若松寺がムカサリ絵馬の風習の中心的役割を果たしていると言えるだろう。現在でもムカサリ絵馬の奉納はおこなわれており、若松寺のホームページでも告知されている。絵馬堂に納められている古い絵馬は婚礼の様子が多く描かれており、花婿と花嫁以外にも媒酌人などの立会人が描かれているものが多い。それに対して最近の絵馬は、花婿と花嫁の二人が立ち並ぶスナップ写真のような構図のものが主流のようである。また昔は親兄弟が描いた絵を納めるのが普通であったが、今では専門の絵師が描くものになっている。時代によって絵馬も変遷していくのである。ただし、今も昔も変わらない禁忌がある。生きている実在の人物の名前や肖像を使うと、その人は死者に連れて行かれると言われており、決してしてはいけないとのことである。 ●青森の冥婚 / 青森では絵馬ではなく、花婿・花嫁の人形を納める風習となっている。最も有名なのは五所川原市の川倉地蔵尊であるが、ケースに収められた人形が所狭しと並べられた堂がある。 ●村山地方 / 山県市を中心に、東根市、天童市、寒河江市などがあるエリアを指す。ムカサリ絵馬の風習については、近年になってから周辺の地域にも広がっていると言われる。 ●専称寺 夜泣き力士像 専称寺は、文禄4年(1595年)に天童から山形に移設された、浄土真宗の寺院である。移設を命じたのは出羽の戦国大名であった最上義光であり、愛娘の駒姫の菩提を弔うためのものであった。それ故に壮大な伽藍が建立され、周辺には多くの塔頭が建てられて、付近は寺内町と言うべき様相を呈した。現在でも多くの寺院が残っている。現在ある本堂は、元禄16年(1703年)の建立で、山形市内で最も大きな寺院建築である。この本堂の屋根を支えるように建物の四隅に置かれているのが、力士像である。この4体の像が毎夜夜泣きするという伝承が残されているが、その内容はいくつかの説に分かれている。この4体の像を製作したのは、伝説的名工の左甚五郎であるとされる。その出来映えの見事さ故に、これらの4体の像は魂を持つようになったという。そして次のような“夜泣き”伝説が生まれたのである。昼間は何とか我慢しているのだが、その屋根の重さに耐えかねて夜になると「重い、重い」と力士像が泣くようになったという。たまりかねた住職の依頼によって、ある猟師が力士像の足元目がけて鉄砲を撃ち放つと、夜泣きは収まったという。また別の伝説では、命を得た力士達は夜中になると屋根から抜け出して、境内で相撲を取って遊んでいた。それをけしからんと怒った住職が、動けないように足に釘を打ち込んだ(あるいは鉄砲で足を撃った)ところ、それから悪さはしなくなった代わりに屋根の上で夜泣きをするようになったという。あるいは、見咎めたのは最上義光自身であり、娘の菩提を弔う寺院の本堂を守護する像の悪さに激怒して鉄砲を撃ったとも伝わる。いずれにせよ現在は夜泣きが収まった力士像であるが、その姿は個性的であり、魂を宿していろいろな悪さをやったという伝承が発生したのも頷けるところである。 ●駒姫 / 1581-1595。東国一の美女とうたわれ、父母が溺愛していた。奥州仕置で東北を訪れていた豊臣秀次が目をつけ、再三側室になるよう求めた。15歳になった時に京都へ行くが、直後に秀次は謀反の疑いで切腹、駒姫も秀次の他の側室と共に捕らえられ、助命運動もおこなわれたが、三条河原にで斬首となる。その14日後には生母(最上義光正室)も亡くなる。これを機に義光は専称寺を山形に移設して菩提を弔うことになる。またこれをきっかけにして最上家は反豊臣・親徳川の急先鋒となり、関ヶ原の戦いなどにも影響を与えた。 ●與次郎稲荷神社 特徴的な石造りの鳥居(最上三鳥居の1つ)のある神社である。この神社は與次郎という名の狐が祀られている。佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおいて東西どちらにも与せず傍観を決め込んだため、徳川家康によって常陸から秋田へと転封となった。秋田に赴いた義宣は早速城を造ったが、その最中に夢枕に白狐が現れ、古くより城を建てている場所に住んでおり、土地の一角に住まわせて欲しいと願い出た。義宣は快諾して住処を与えたところ、白狐は那珂與次郎という名の飛脚に変じて義宣に仕えた。そして秋田と江戸をわずか6日間で往復するという離れ業を使って江戸の情報をいち早く秋田に伝えたり、時には幕府の隠密の動きを封じたりと、御家安泰に一役買ったのである。その與次郎が宿としたのが、六田村(現・東根市)にある間右衛門の宿であり、いつしか娘のお花と恋仲になった。與次郎は自らが白狐の化身であるとお花に告白したが、二人の仲は変わらなかった。しかし與次郎の存在を疎ましく思う者が現れだした。佐竹家の動向を探っていた幕府が與次郎飛脚の秘密に感付いたとも、與次郎の働きで仕事にあぶれた六田村の飛脚達だとも言われる。その者達が、宿の主人の間右衛門を金で抱き込み、さらに與次郎を快く思っていなかった猟師の谷蔵も加わり、與次郎を亡き者にしようとした。その悪事を知ったお花は與次郎に危急を知らせた。與次郎は難を逃れたかに見えた。しかし罠として置かれた油揚げ(鼠の天ぷら)を仲間の後難を恐れて始末しようとしたところを、谷蔵の矢によって射抜かれてしまったのである。最後の力を振り絞った與次郎は、義宣の状箱を秋田に向かって投げ、そして事切れてしまった。お花は與次郎の遺体を見つけ、それを葬った後いずこともなく去り、二度と六田村には戻らなかった。そして城の松の木にぶら下がった状箱を見つけた義宣は、六田村で與次郎が殺されたことを知って涙したという。六田村ではその後災厄が立て続けに起こった。谷蔵は突然発狂して妻子を殺して自身も死んでしまった。そして村を疫病が襲い、多くの人が亡くなった。さらに怪火によって村のほとんどが焼けてしまったのである。残った者はこれを與次郎の祟りと恐れ、ついには幕府の命によって慶長16年(1611年)に與次郎稲荷を建てたということである。佐竹家では尊崇篤く、久保田(秋田)城内にも與次郎稲荷神社は建立された。参勤交代の折にも、四ツ家にあるこの與次郎稲荷神社にも代々藩主が参拝したとされる。 ●秋田での與次郎伝説 / 上記の伝承は山形県で語られているものであり、秋田では多少内容が異なる(戦前の秋田神社宮司の証言とのこと)。六田村の谷蔵が、與次郎の不思議な能力から狐であると見破り、間右衛門と謀って鼠の天ぷらを使って殺そうとする。與次郎は正体を見破られたことを恥じて、敢えて罠に掛かったとされる。谷蔵と間右衛門は狐を叩き殺して汁にして食べたが、その後六田村では怪事が起こり、発狂乱心した上で死んだ者が17名にも及んだ。特に谷蔵と間右衛門の最期は凄惨を極めたという。その噂は幕府の耳にも届き、與次郎の霊を鎮めるために八幡神社を建立した。秋田の伝承では、お花という娘は登場せず、狐の祟りが強調されるという内容になっている。 ●べんべこ太郎の墓 下山口の地に妙見神社があり、その境内にべんべこ太郎の墓がある。特に墓石に名前が刻まれているわけでもないが、地元ではそのように言い伝えられている。ある旅の僧がこの地を訪れて、庄屋の家に泊めてもらった。家の中で両親と娘が泣き続けている。そのわけを聞くと、村の慣わしで3年に一度若い娘を人身御供にせねばならず、次の人身御供に娘が決まったのだという。生け贄を要求する神はおかしいと思った僧は、その夜、問題の神社に隠れ潜んで様子を探った。すると夜中に大勢の狸が現れて、腹鼓を打ち出すと「信濃の国のべんべこ太郎にあのごど、このごど、聞かせるな」と歌い出した。翌日、旅の僧は信濃にべんべこ太郎を探しに出掛けた。そしてようやく見つけ出したのは、一匹のたくましい犬であった。僧はそれを連れて帰ると、人身御供の日に娘の代わりにべんべこ太郎を神社に解き放した。すると獣の戦いあう騒ぎ声が聞こえだし、やがて静かなった。次の日の朝、僧や村人はあたりにたくさんの狸の死骸を見つけた。そして虫の息のべんべこ太郎も見つかったが、そのまま息絶えてしまった。村人はべんべこ太郎の功績を称え、墓を造って供養をおこなった。その墓と一緒に創建されたのが妙見神社であると伝えている(一説では、狸が人身御供を要求した場所が妙見神社であるとも)。 ●貝喰池 貝喰池には古来より龍神の伝説があり、隣接する善寳寺に祀られている。開基である妙達上人がこの地に庵を結び、日々法華経を唱えているうちに、近隣の者が大勢集まってそれに聞き入った。その中に人目を引く美しい男女の姿があった。ある時、読経が終わってもその男女が席を立たなかったので、上人が声を掛けると、二人は自らの正体を明かした。二人は貝喰池に天下った竜王・竜女であり、上人の読経を聞き仏法のありがたさを知ることが出来たと言う。そこで上人が竜王に竜道、竜女に戒道の名を与えると、二人は風水の災厄から信者を守ることを約束し、龍の姿となって昇天したのである。その後、上人の庵は龍華寺と名付けられ、善寳寺となったのである。現在でも善寳寺は龍神守護の寺として信仰を集め、特に海の守護神として漁業関係者の信仰が篤い。明治16年(1883年)に建てられた五重塔は、本邦唯一の魚鱗一切の供養塔として漁業関係者によって発願されている。貝喰池にはそれ以外にも不思議な話が残されている。『日本の伝説4 出羽の伝説』にはいくつかの伝説が書かれている。かつて龍神にお願いすると膳椀を人数分貸してくれたが、良からぬ者が一客を失敬したところ貸さなくなってしまったという貸し腕伝説。日照りの時に貝喰池から水を引こうと壕を造りだしたら、村の方から火の手が見える。慌てて戻ると何事もない。それが三度続いたため、龍神様がお怒りだということで、作業を取りやめてしまった。大干魃の時、身欠きニシンをくわえて貝喰池に入ると龍神様の怒りで大雨になるという禁を敢えて破った百姓が二人いた。しかし雨は降らず、ただ池の底に引きずられていくだけだった。村人に助けを求め、さらに善寳寺の住職が祈祷をするが、結局二人はそのまま池に沈み、7日後に死体となって浮き上がったという。貝喰池の鯉を食べてはならないという禁を犯して、それを食べた男が熱病にかかった。死の間際、男は夢枕に龍神様が立ってお叱りを受けたと言って成仏したという。 ●新庄城趾 新庄藩は、元和8年(1622年)に山形藩の最上氏が改易となった後、新たに成立した藩である。初代藩主は戸沢政盛。はじめは居城を鮭延城としていたが、山城であったために幕府に許可を願い出て、新たに造ったのが新庄城である。この築城の際に人柱伝説が残されている。新しい城を造る地は沼田と呼ばれており、その名の通り、湿地帯であった。そのために堀を造るのに土を盛っても固まらず、工事は難航した。そこである法師に占ってもらったところ、十三の娘を黒牛に乗せて人柱にせよ、というお告げを得た。そこで領内から娘を選び人柱にしたのである。結果、難工事は一気にはかどり、城はようやく完成したという。ところが、完成後から不気味な噂が立った。本丸付近の池辺りに夜な夜な少女の幽霊が現れて「水が欲しい、喉が焼ける」と言って泣くというのである。これには屈強の武士たちも恐れをなしたと言われる。新庄藩は明治維新まで戸沢家が藩主として統治していたが、新庄城は戊辰戦争で灰燼に帰している。現在城跡は最上公園という名で、市民の憩いの場とされており、巡らされた堀や石垣が当時の面影を残している。また敷地内には藩祖・戸沢政盛を祭神とする戸沢神社もある。しかし、人柱となった娘にまつわる痕跡は何一つ残されていない。 ●妙多羅天堂 妙多羅天は悪霊退散の神、縁結びの神、子供などの守護神として祀られる神である。高畠町にもその神を祀る堂があり、以下のような伝説が残されている。平安時代末期、一本柳の地に安倍貞任の一族である度会弥三郎とその母の岩井戸があった。弥三郎は妻を娶ると御家再興のための武者修行の旅に出たが、間もなく妻と生まれてきた子は病で亡くなり、一人残された岩井戸は悲しみのあまりに鬼女となりながら、狼を操って旅人を襲い金品を奪うことで、御家再興の軍資金を蓄えていた。弥三郎が故郷へ戻り近くの橋に差し掛かると、狼が襲ってきた。弥三郎はそれを退治しつつ、操っていると思われる鬼女の右腕を切り落とした。そして腕をたずさえて我が家に辿り着くと、そこには床に伏せった母親のみ。母は涙ながらに妻子の死と軍資金のことを語り、弥三郎は武者修行のことと先ほどの橋での出来事を語った。そして切り落とした腕を見せると、母はいきなり鬼女を化してそれを取り上げると、天高く飛び去って弥彦山へ赴いた。その後、鬼女は前非を悔い改めて善神となったという。(その他にも、戦国時代の話であり、岩井戸は元は天女であったという伝承もある)高畠にある妙多羅天堂は、弥三郎が後に屋敷内に母の供養のために作ったものと言われている。また鬼女が狼を使って旅人などを襲っていた橋は「おっかな橋」と呼ばれ、現在でもその名が残されている。 ●妙多羅天と弥彦山 / 弥彦には「弥三郎婆」という、全く異なるシチュエーションの伝承が残されている。ただし最終的に鬼女が改心して善神である妙多羅天となる結末は同じであり、また妙多羅天が信仰されている地域も新潟と山形にほぼ限られていることから、おそらく関連性が高い伝承であることは間違いないところである。ただし高畠の伝承には、鬼の腕を切り落として取り返されるす話、狼の頭目として老女が登場する話など、別種の伝承が付け加えられていると言える。 ●生居の化け石 山形県上山市の東部に位置する生居という場所には、七不思議と呼ばれるものがある。その筆頭に挙げられるのが“生居の化け石”である。昔、生居のあたりは夜になると石の化け物が出るという噂で、人ひとり通る者がなかった。ある時、生居の庄屋である権左衛門が夜道を一人で歩いていると、石の化け物の声がした。「お願いします、お願いします」という声に権左衛門は気丈に「何の頼みだ」と尋ねる。「私には子供がたくさんおり、食べ物がなくて困っております。何か食べ物を下さい」と石が返答する。承知した権左衛門は家に帰ると、米一俵分の握り飯を作って石の前に置いた。すると無数の手が出てきて握り飯を全て平らげてしまい、「有り難うございます。お礼にこの石を差し上げます。この石がある限り、家も子孫も栄えることでしょう」と、小さな石を渡したのである。権左衛門はその小石を家の庭の池に沈めたのであるが、それ以来家は栄えることになった。その話を聞いた上山の殿様は、その石を献上するように命じた。そして権左衛門が献上するのだが、明くる日になるとその石が池に戻ってしまっている。結局殿様もその石を献上させることを諦め、いまだに石は池の中にあるらしい。この話だけであればただの伝説で終わるのだが、今なおこの庄屋の家が現存している。重要文化財・旧尾形家住宅は、この化け石のある場所から約500メートル東に行ったところにある。小石は現在も池の中に沈められた状態らしいが、昭和期に一度池の中をさらったところ、卵大の大きさの石が2つ出てきたという(その石はまた池に沈められたらしい)。また天保年間に大明神号を得たことを示す藩からの書状も保管されており、不思議な信憑性を持っている。ちなみにこの地名である生居も、この化け石に関連していると言われ、声を発する化け石、そして子供が生まれる小石ということで、“生きている石”つまり生の石という言葉が変化して、今の生居という地名になったのだとされている。 ●生居の七不思議 / 案内板によると、この化け石以外に「三度栗」「むかさり清水」「お花畑」「葉山権現と妙見菩薩」「ころころ清水」「明見坊と植えし松」とされる。ただし他の文献では別のものが挙げられているとのこと。 |
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●照夜姫 1 大崎市
むかし、沼のほとりに長者が住んでおり、1人の美しい娘があった。娘は、朝な夕なその美しい姿を沼辺に見せていた。すると、そのあまりな美しさに、沢山の蛇が水面に集まるようになった。ある秋の夕暮れのこと、みずもしたたるような美しい若い衆がここを通りかかり、許しを乞うて長者の家に泊まるようになった。 やがて、若い衆はいずこともなく旅立つことになるが、娘はいたく別れを惜しみ、嘆き悲しんだ。 その後、打ち沈む娘の姿に、長者の家はひっそりと淋しい毎日が続いた。ある日、物思いにふけりつつ草原で身を横たえていた娘は、身体に異常を感じ、あわてて館に戻った。その夜娘は産気づき白い蛇の子どもを産んだ。娘は驚きその蛇の子を追い、愛用の機織り木とともに沼に身を投じた。その後、毎年7月7日の日には、沼の中から機を織る音がするといわれている。 化女沼にまつわる伝説はたくさんあり長者の娘が沼の水を鏡にしていたので化粧沼というのだとも語りつがれています。 ●照夜姫 2 宮城県北部の大崎市古川にある東北道の長者原(ちょうじゃはら)サービスエリア(SA)。なだらかな丘陵地帯にあり、上りと下りの両SAの展望施設から、近くの景勝地「化女(けじょ)沼」を一望できる。 長者原など化女沼周辺には、長者とその娘の沼にまつわるいくつかの伝説が残る。その一つが「照夜姫(てるやひめ)伝説」と呼ばれる長者の娘(姫)と旅の若者の悲恋物語だ。 「古川市史」(昭和47年発行)などによると、伝説はこうだ。昔、沼のほとりに住む長者にひとりの姫がいた。朝夕、姫が岸辺に立つと、その美しさに見とれてたくさんの蛇が水面に集まるようになった。ある秋のこと、ここを通った美男の若者が許しを請い、長者の館に泊まった。やがて若者は旅立つことになり、姫は別れを嘆き悲しんだ。 ある日、姫は体に異常を感じ、しばらくして蛇を産んだが、蛇は長者の館を出て、沼の中に消えた。その後、沼の中から毎晩のように泣き声が聞こえ、やがて姫は泣き声に誘われるように愛用の機織機(はたおりき)とともに水中に身を投じた。その後、毎年5月の節句の日(または7月7日)には、沼の中から機を織る音がするといわれる。 |
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●宮城の伝承 ●神石白石 (しんせきしろいし) 町の中心部に近いところに、直系1mほどの石が垣根に囲まれるようにしてある。この灰色っぽい石が神石白石であり、“白石”の地名の由来となっている。伊達家の家臣であった片倉氏が治めていた頃には朱塗りの玉垣に囲われていたとされ、古くから不思議な石として大切にされてきたようである。おそらく古代には磐座として認知されてきた歴史があるものと推測される。伝説として知られているのは、この石の根は深く、仙台の根白石(泉区)と地下で繋がっているという話である。直線にして40数km離れているが、この伝説は長く信じられており、この伝説を元に今では縁結びのご利益があると大いに宣伝されている。 ●割石 仙台市との境界線近く、七北田川の堤防道にその石はある。目印として残された杉の巨木の根元に置かれている。かつてこの七北田川はたびたび氾濫し、大きな被害をもたらしていた。そこで堤防を新たに築くこととなったが、うまくいくようにと人柱を立てることにした。昼間は工事をしながら、夜になるとめぼしい人柱が現れるのを待ち受けるという日が続いた。そしてとうとうある夜、何も知らず通りがかった女を捕まえると、工事中の堤防に生き埋めにして人柱にしたのであった。人柱のおかげか、工事は順調に進み、やがて立派な堤防が出来上がった。ところがしばらくすると、嫌な噂が立つようになった。堤防に女の幽霊が出るという。幽霊はさめざめと泣きながら何かを訴えるようにつぶやいている様子だが、何を言っているのかは分からないらしい。間違いなく人柱にした女が怨みを残して成仏出来ずに現れるのだと噂は広まり、日中ですら人が近寄らなくなってしまったのである。この噂を聞いた一人の侍が、退治してやろうと名乗り出た。そして小雨の降る夜に、人柱を埋めたという場所へ向かった。案の定そこには人魂が浮かび、女の幽霊が恨めしそうに鳴きながら佇んでいる。しかし全く動く気配がない。侍はじりじりと間合いを詰めながら、腰の物に手を掛けると一刀のもとに抜き打ちに斬りおろしたのである。サッと幽霊も人魂も消え、辺りは真っ暗になった。手応えのあった侍は、幽霊がどうなったのかも確かめもせずそのまま帰ったのである。翌朝、幽霊を切り捨てた場所へ戻ってみると、そこには一刀両断にされた板碑があった。昨夜侍が斬ったのは、この板碑だったのである。しかしその夜から女の幽霊は現れなくなったという。“割石”と呼ばれるこの両断された板碑であるが、元応元年(1312年)との年号が刻まれており、さらに斬られたとされる石の断面にも貞享2年(1685年)の年号が追刻されている。おそらくこの人柱の伝説は、この2つの年号の間にあったものと考えて良いだろう。ただ正確な年号も分からず、人柱となった女についてもその身元は全く不明である。 ●禰々麻の墓/醍醐ヶ池 栗原市の若柳地区に、三峰神社という小社がある。その境内に申し訳程度に残されている、干上がった池の跡のような場所がある。それが醍醐ヶ池であり、かつてはもっと大きな池であったとされるが、宅地開発などでその面影は全くない。そして小社から少し離れたところ、田に囲まれるように五輪塔、地蔵と松の木がある。それが禰々麻の墓であるとされる。いずれも辛うじて現在に残された、憐れを誘う伝承を持つ遺跡である。後醍醐天皇による建武の新政において、東北地方を統治するために派遣されたのが北畠顕家である。義良親王(後の後村上天皇)を奉じて多賀城に赴任すると、瞬く間に各地の諸将を束ねる。さらに反旗を翻した足利尊氏を討つべく、東北から京都まで一月足らずで転戦してこれを打ち破るなど、休むことなく獅子奮迅の働きを見せた。一方で、顕家の家族は京都に残されたままであった。そこで妻は顕家会いたさに、本拠となった東北へ旅立つことにした。連れて行くのは幼い二人の姉弟、禰々麻と醍醐であった。従者を連れての旅であったが、女子供の足ではやはり過酷なものとなった。途中、妻は病気に冒されてついに亡くなり、幼い姉弟が従者に連れられて、父のいる東北に向かった。だが、いつしか従者もこの二人を見限るようにいなくなり、東北の地にたどり着いた時には姉弟だけが取り残されてしまっていた。それでも父に会いたい一心で二人は旅を続けた。しかしある時、ついに禰々麻は弟の醍醐の姿を見失ってしまった。途方に暮れる中、さらに追い打ちを掛けるように、父が既に討死したことを知ってしまう。家族のすべてを失ってしまったと悲嘆した禰々麻は、最早生きる希望を失い、近くの池に身を投げて生涯を閉じてしまうのであった。同じく姉とはぐれて独りでさまよう醍醐は、数日掛けてようやくとある池のほとりにたどり着いた。喉の渇きを癒やそうと池に寄った醍醐は、そこで思いがけないものを見つける。水面に漂うように見える人の姿は紛れもなく、必死になって探していた姉の禰々麻であった。ようやく見つけた姉に喜ぶ醍醐は、何の躊躇いもなく水面に飛び込んだ。…… 幼い姉弟が相次いで命を落とした池は、その後“醍醐ヶ池”と呼ばれるようになり、そのそばには姉・禰々麻の墓と称する塚が築かれたという。 ●荒脛巾神社 (あらはばきじんじゃ) 荒脛巾神は謎の多い神である。東北・関東地方で祀られていることの多い神であるが、“客人神”という立ち位置で、その出自ははっきりとしない。おそらく朝廷の信奉する神々とは別系統で信仰されていた土着の神が、取り込まれて生き残ったものであると推測するのが妥当だろう。それだけ強く信仰されたと考えられる神であるが、ただその性格は多様である。一方で『東日流外三郡誌』の記述によって固着したイメージがあり、ミステリアスな存在となっている。多賀城市にある荒脛巾神社は、鹽竈神社の境外末社となっている。創建時期は不明であるが、安永3年(1774年)の記録には記載されており、その頃には仙台藩より所領が寄進されていたという。この神社は一般的には“腰から下の病気”にご利益があるとされている。この神の名にある「脛巾」が脛に巻いて用いられる装具であることから、足腰に関するご利益が求められたのだろう。また「脛巾」が旅に用いられることから“旅の神”と考えられ、祠にはたくさんの草鞋が奉納されている。さらに旅から連想されるためか、あるいは神社の立地から境界を守る守護神とも考えられ、“塞の神=道祖神”的性格も帯びており、実際、道祖神のシンボルでもある男根がいくつも奉納されていたりする。その他にも境内には鋏を奉納した養蚕神社があったり(鋏は「病の根を切る」という意味があるとされているが、これをもって荒脛巾神を“製鉄”の神と考える説もある)、何故か聖徳太子を祀る太子堂があったり、とにかく種々雑多な信仰が荒脛巾神に融合されている感が強い。またこの神社は民家の敷地内を通って入っていくために、さらに民間信仰らしい雰囲気を醸し出している。 ●客人神(まろうどがみ) / 一般的には“神社の主祭神と対等もしくは下位に位置する神で、外からやって来て主祭神には従属はしていない状態で祀られる”とされている。しかし折口信夫らによると、客人神こそが神社創建以前の土着神であり、主祭神の方が後からやって来た神とする。荒脛巾神の場合も、信仰されている地域が限定的であることから土着神であると見るべきあり、記紀神話成立以降に大和朝廷の支配地となったために神話の体系に組み込まれず、かといって土着の神話において最高神(創造神・開拓神)に近い存在であった故に排除されず“融合”という形で残されたのではないかと考えて良いかもしれない。しかしながら存在は残されても、彼らが元来持っていた性格は消し去られ(特に後から“支配者”として入ってきた記紀神話の神々と役割が重複する場合)、新たなものに改変されたとも推察できるだろう。 ●『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし) / 戦後、和田喜八郎が発見したとされる古文書。しかし現在では様々な観点から「偽書」と断じられている。アラハバキの名は“荒覇(羽)吐”と表記され、津軽地方を治めた一族の名として登場する。そしてアラハバキ神の像として遮光器土偶が描かれており、これがイメージとして広く流布することになる。全くの偽書であるとみなすものの、荒脛巾神を東北一帯を治める民の主神と位置づけた点は示唆に富むものがあると思う。 ●賢淵 蜘蛛碑 仙台のシンボルの一つと言ってよい広瀬川であるが、ちょうど市の中心部へ差し掛かるあたりに“賢淵”と呼ばれる大きな淵がある。昭和の半ば頃まで、夏になるとこの淵で泳ぐ子供の姿が多くあったというが、ここには恐ろしい伝説が残されている。仙台の城下町のはずれに当たるこの付近は茶屋町と呼ばれていたが、ここに住むある男が淵で魚釣りに興じていた。ふと気が付くと、一匹の蜘蛛が川面から現れて男の足首に糸を巻き付けた。気に留めた男は糸をはずすと、そばにあった柳の木の根元にそれをくっつけた。しばらくして気付くと、また同じ蜘蛛が男の足首に糸を巻き付けていたので、同じように柳の根元にくっつけた。こうして巻き付けられた糸を何度もはずしては根元にくっつけていたのだが、突然あたりを揺るがすような大きな音がしたかと思うと、柳の木が根こそぎ引き抜かれ、勢いよく淵に引き込まれていったのである。突然の出来事に男が肝を潰していると、水の中から「かしこい、かしこい」という声が聞こえてきた。そこでようやく、淵の主である蜘蛛が自分を引きずり込もうとして足首に糸を巻き付けていたこと、そして自分が糸を柳の木に付け替えていたために身代わりに柳が淵に引きずり込まれたことに気付いたのであった。それ以降、この淵は“賢淵”と呼ばれるようになったという。この賢淵の主である蜘蛛は、他の伝説にも登場する。賢淵から少し下流に藤助淵(または牛越淵)と呼ばれる場所がある。ある時、その近くに住む藤助が釣りをしていると、水底から名前を呼ぶ声がする。返事をすると、声の主はこの淵に住む鰻で、翌日の夜に賢淵の蜘蛛がこの淵に来て戦いをするので見に来て欲しい。そしておまえが声を上げなければ戦いに勝つことが出来るのだ、と訴える。藤助は約束の夜に淵にやって来ると、既に鰻と蜘蛛が戦っていた。その凄まじい光景に思わず藤助は声を上げてしまった。すると一瞬であたりは静まりかえってしまったのである。翌朝、おずおずと淵に様子を見に来た藤助であったが、淵にぷかりと浮く首だけになった鰻に睨まれて、そのまま狂死してしまったという。(これと同じ蜘蛛と鰻の戦いにまつわる伝説が、源兵衛淵と呼ばれたところにも残されている)このように恐ろしい力を持つ蜘蛛であるが、茶屋町の人々は逆にその魔物を祀り上げて水難除けの神としたのである。それが賢淵の真上、国道48号線沿いの一角に置かれた、【妙法蜘蛛之霊】と刻まれた蜘蛛碑である。また蜘蛛にまつわる俗信から商売繁盛の神としても崇敬されていたと伝えられる。 ●「水辺の蜘蛛」の伝説 / 人を水底に引きずり込むために蜘蛛が人の足に糸を巻き付け、それに対して人が糸をはずして難を逃れるという話のパターンは、全国各地にかなりの数見られる。賢淵の話は、伊豆の“浄蓮の滝”の伝説と並んで、この種の話の代表例として取り上げられることが多い(ただし人間を軽く見下すような言葉を発するのは、この賢淵の話だけであり、そこにこの蜘蛛の魔物としての恐ろしさが凝縮されている)。 ●蜘蛛にまつわる俗信 / 蜘蛛を商売繁盛の神とする思想には「朝の蜘蛛は殺してはいけない」という俗信が多分に影響していると考えられる。朝の蜘蛛は福を持ってくるとされるため、殺してはいけないとされる。商売をする者にとって、“朝から福を持ってくる存在=お客様”と解釈され、客の入りが多いから商売繁盛という考えに至ったのであろう。ちなみに「夜の蜘蛛は盗人なので殺した方がいい。しかしそれを見逃すと仏の功徳を得られるので、やはり殺すべきではない」という俗信もある。 ●首壇 天正18年(1590年)の奥州仕置によって改易となった葛西氏と大崎氏の旧領は、豊臣秀吉の側近であった木村義清・清久親子の領有するところとなったが、5千石の小身から一気に30万石の大名となったため強引な統治を行い、僅か1ヶ月で大規模な一揆が発生した。世に言う“葛西大崎一揆”である。一揆勢に囲まれて佐沼城に立て籠もった木村親子は危急を知らせ、伊達政宗と蒲生氏郷が鎮定の軍を進めた。ところがここで不測の事態が起こる。伊達政宗が一揆を煽動しているとの密告が蒲生氏郷にもたらされ、共同の鎮定を拒否し、さらにその情報を秀吉の許に届けたのである。一方の伊達政宗は単独で木村親子を救出したが、それ以降は一揆勢とは積極的に事を構えず、むしろ秀吉側への釈明に追われることになる。翌年上洛した政宗は何とか釈明に成功し、5月に帰国するとようやく一揆討伐に着手する。6月下旬に旧葛西・大崎領に入った伊達軍は籠城する一揆勢の頑強な抵抗に遭うが、ことごとく撫で斬りにして殲滅させていった。そして兵や百姓が数千人以上が立て籠もる佐沼城を包囲する。7月1日に本格的な総攻撃を加え出すと、3日に完全に制圧。一部逃亡する者はあったものの、城内にいた者を全て撫で斬りにして討ち果たした。その様子は“城内は死体が積み重なり、下の地面が見えないほど”と表されている。そして翌日に近くの寺池城が落城すると、残った一揆勢は伊達軍の厳しい仕打ちを怖れて降伏し、一揆は終息したのである。佐沼城にほど近い場所に、首壇と呼ばれる塚がある。佐沼城攻略の際に殲滅させた一揆勢の首を埋めた場所とされている。侍が500名、百姓などが2000名、合わせてその数は2500にも及ぶという。現在塚の上にある碑は大正2年(1913年)に町の有志らによって建てられたものである、今でも落城した時期に合わせて供養がおこなわれている。 ●葛西氏・大崎氏 / 葛西氏は鎌倉時代以降に土着、大崎氏は室町時代に奥州探題となった、どちらもこの地方の名族である。しかし戦国時代には勢力を失い、独立しながら伊達氏に従属する形で命脈を保っていた。豊臣秀吉の命に従わず、小田原参陣をしなかったためいずれも改易となるが、伊達氏との関係が影響を及ぼしているとも考えられる。なお、大崎氏は秀吉への直訴により旧領の一部を与えられる予定であったが、一揆のために反故にされた。 ●義経鞭桜 この沼倉の地には源義経ゆかりの判官森があるが、その森への入口そばにあるのが義経鞭桜である。奥州藤原氏の許にいた義経は、この地をよく訪れていたとされる。判官森の由来でも、この土地を治めていた沼倉小次郎高次が平泉に打ち棄てられていた義経の胴を引き取って埋葬したのが始まりであるとされており、昵懇の間柄であったと考えられる。そしてこの桜の木は、その名の通り、義経が使っていた乗馬用の鞭を挿し木したところ見事な桜の木となったという伝承を持つ。現在は3代目の木とされており、その隣にある木は“静桜”と呼ばれているらしい。また木の根元あたりにはかなりの数の石碑や石祠があるが、これは地元の民間信仰に関わるものであり、この桜の木そのものを祀るものではなさそうである(一番目立つ石碑も“筆塚”と刻まれており、勿論義経にまつわる伝承とは全く関連性がない)。 ●実方中将の墓 藤原実方は中古三十六歌仙の一人であり、歌道に秀でた人物である。美男子で、数多くの女性と浮き名を流したとされる(清少納言もその中の一人である)。そのため後世において『源氏物語』のモデルの一人と目されている。史実としては、藤原北家の左大臣師尹の孫にあたり、左近衛中将にまで昇進し、一条天皇に仕えている。長徳元年(995年)、殿上にて歌のことで藤原行成と口論となった際、激情の余りに行成の冠を奪い投げ捨ててしまうという暴挙に出てしまった。それを見咎めた一条天皇は「歌枕を見て参れ」と実方に命じて陸奥守に左遷したのである。本来であればしばらくの任期で都に戻れるはずだったのであろうが、実方はこの陸奥国で不慮の事故により生涯を終える。その死について『源平盛衰記』には次のような逸話が残されている。長徳4年12月(999年)、実方は名取郡にある笠島の道祖神の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。土地の者が馬から下りて再拝して通られるよう諫めたところ、実方はその理由を尋ねた。土地の者によると、この笠島の道祖神は、都にある出雲路道祖神の娘であり、良いところへ嫁そうとしたが商人に嫁したために親神が勘当、この地に追われやって来た。そこで土地の者は篤く崇敬している。男女貴賤の差にかかわらず、祈願する者は“隠相=男根”を造って神前に捧げれば叶わないものはない、と。この返答に対して実方は「さては此の神下品の女神にや、我下馬に及ばず」と言い放って、馬に乗ったまま通り過ぎてしまった。そこで神は怒り、馬もろとも蹴りつけたために、実方は落馬して打ち所が悪く死んでしまったのだという。実方中将の墓は伝承通り、かつて笠島と呼ばれた地にある。そして実方を蹴殺したとされる笠島の道祖神も、佐倍乃神社という名で残っている。墓と神社の距離は直線で1km足らず。おそらく墓は実方中将落馬の現場のそば近くと考えて良さそうである。この実方の不慮の死には、もう1つの伝承が残されている。実方死去の知らせが都にもたらされた頃、御所では1羽の雀が、台盤に置かれた飯をついばんで平らげる出来事が続いていた。また藤原氏の大学であった勧学院では、実方自身が雀に変化したという夢を見た翌朝、林の中で死んだ雀が見つかった。人々は、都を懐かしんで死んでいった実方の魂が雀に変化して都までやって来たのだろうと噂しあい、“入内雀”を名付けて哀れんだという。 ●出雲路道祖神 / 現在の幸神社(さいのかみのやしろ)。京都御所の鬼門除けのために創建された。平安時代初期に、この地域は出雲氏(出雲国出身の豪族)が住んでいたとされ、出雲路という名称がついている。 ●佐倍乃(さえの)神社 / 祭神は、猿田彦大神と天鈿女命の夫婦神。“さえの”という名称は“さいのかみ”から来たものであると考えられる。また実方中将の墓のそばにあった佐具叡神社(延喜式式内社)が合祀されている。 ●緒絶橋 (おだえばし) 緒絶橋は『万葉集』にもその名が記されている、陸奥国の歌枕である。この大崎の地は古来よりたびたび川が氾濫し、そのたびに川の流れが大きく変わった。そのために以前の川筋が切れてしまい、あたかも流れを失った川のようになることがあった。このように川としての命脈が切れたものを“緒絶川(命の絶えた川)”と呼び、その川筋に架けられた橋ということで「緒絶橋」と名付けられたとされる。しかしそれ以外にも“緒絶”の由来とされる伝承がある。嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いたが、その恋人であった白玉姫は余りの恋しさに皇子の後を追うように陸奥へ向かった。ところがこの地に辿り着いてみたが、皇子の行方は掴めない。意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまった。土地の者は、姫の悲恋を哀れんで“姫が命(玉の緒)を絶った川”という意味で緒絶川と呼ぶようになったという。歌枕としての緒絶橋は、白玉姫の伝承をあやかって“悲恋”や“叶わぬ恋”を暗示するものとなっている。最も有名な歌は、藤原道雅の「みちのくの をだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす」という悲恋の内容である。また松尾芭蕉がこの地を訪れようとしたが、姉歯の松同様、道を誤って辿り着けなかったことが『奥の細道』に記されている。 ●姉歯の松 姉歯の松は、歌枕となった場所であり、現在では何本かの松の木が植わっており、そこに明治期に設けられた碑が立っている。歌枕としては、『伊勢物語』に「栗原や 姉歯の松の 人ならば 都のつとに いさといわましを」という歌をはじめとして、たびたび取り入れられている。また松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の途中で、行こうとして行き着けなかったことが記されている。それほどまでに有名な場所である。姉歯の松の由来であるが、いくつか存在する。在原業平が、陸奥国いた小野小町を訪ねた時に、その妹(または姉)の“姉歯”の消息を尋ねると既に亡くなっていた。そこでその墓に松を植えたのを始まりとする伝承。人身御供となるべく陸奥国に赴いた松浦小夜(佐用)姫の後を追って、この地まできた姉が亡くなったので、小夜姫が墓を築いて松を植えたとする伝承(“姉墓”が訛って“姉歯”となったとする)。これらの著名な人名が挙がっている中で、歌枕となった理由として最も流布しているのは以下の伝承である。用明天皇の頃、朝廷に仕える女官(采女)を各国から1名ずつ選び出すことになった。陸奥国から選ばれたのは、高田(現・陸前高田)に住む長者の娘である朝日姫であった。姫は海路都へ向かうが、途中嵐で船が座礁したため、陸路をとった。ところがこの地で病没してしまう。それを聞いた朝日姫の妹である夕日姫は、自ら志願して采女として都に上ることとなる。そして姉が亡くなった地まで来ると、姉の墓の上に松の木を植えて目印にし、都へ行ったという。いずれの伝承も姉妹の墓に目印として松を植えたことから始まるものであり、そのはかなく憐れな美しい姉妹の運命に思いを馳せながら歌を詠んだのであろう。 ●『伊勢物語』 / 平安時代初期に書かれた歌物語。在原業平がモデルとされる男性が主に登場し、男女間の恋愛を中心に様々な人間関係を描いている。姉歯の松が登場する話は、陸奥国へ行った都の男が土地の女と懇ろになるが、結局別れるという展開。歌の内容は「姉歯の松が人であったならば(貴女が姉歯の松にちなむような美人であったならば)、都に一緒に連れて行ったのだがな」とする。“姉歯の松=美しき存在”という概念が通底にある歌である。 ●松浦小夜(佐用)姫 / 肥前松浦の豪族の姫とされ、日本三大悲恋の1つとされる伝承の主人公。しかし東北では、暴れる大蛇を鎮めるための人身御供として自ら進んで名乗り出て都からはるばる赴いたという、いくつかの伝承の主人公となる(最終的には姫の唱える経文によって大蛇は成仏して昇天し、小夜姫は犠牲にならずに済む)。 ●鬼の手掛け石 またの名を“姥の手掛け石”。東北の地であるが、渡辺綱の伝承が残されている。京の朱雀大路の羅生門で、渡辺綱は鬼と格闘して右腕を切り落とす。しかし取り逃がしてしまったために、切り落とした腕を石の長持に保管して、諸国を回って鬼を探し求めた。そして辿り着いたのが姥ヶ懐という地でであった(一説では、ここが綱の故郷であるとされる)。滞在してまもなく、綱を訪ねてくる者があった。綱の伯母である。用件は、切り落とした鬼の腕を見たいということであった。綱は断り続けたが、伯母も全く引き下がらない。とうとう根負けした綱は、石の長持から腕を取り出して伯母に見せた。しげしげと見つめていた伯母はやにわに腕を掴むと、ついに正体を現した。伯母に化けていたのは、羅生門の鬼。腕を取り返すと一散に逃げようとする。逃すまいと、綱は太刀を手にして斬り掛かる。囲炉裏の自在鉤を伝って、鬼は屋根の煙出から家の外へと飛び出すと、一気に川を渡ろうとした。ところが、あまりに慌てていたためか、そこで体勢を崩して転倒しかかる。思わず近くの石に左手をついて身体を支えると、そのまま川を飛び越えて逃げおおせてしまったのである。これ以降、姥ヶ懐の土地では、囲炉裏に自在鉤も煙出も作らないようにしたと言われる。また節分の豆まきの時でも「鬼は外」とは言わないようになったという。また異説では、金太郎を背負った山姥が川を渡ろうとして思わず滑って転びそうになって手をついた跡であるとも伝えられている。川沿いの小社の一角に、囲いに覆われた石があり、今でも彫ったように四本の指の手形と思しきものが残されている。 ●渡辺綱 / 953-1025。嵯峨源氏・源融の子孫。源頼光四天王の筆頭とされる。摂津国渡辺(大阪市中央区)に居住し、渡辺党の祖となる。羅生門の鬼との戦いと、その後伯母に化けた鬼が腕を取り戻しに来る展開は、京の一条戻り橋で茨木童子と遭遇して名刀・髭切丸で腕を切り落としたという逸話を脚色して能の演目とした内容と同じである。 ●宗禅寺 鶏の墓 広瀬川べりに建つ宗禅寺は、室町期に仙台の地を治めていた粟野氏の菩提寺である。この寺の山門を入ってすぐのところに“鶏の墓”と呼ばれる塚が存在する。寛文13年(1661年)、宗禅寺の住職は不思議な夢を見た。びしょ濡れの鶏が現れて「私は檀家の庄子某宅で飼われていた鶏だが、一緒に飼われている猫が一家を殺そうと企んでいるを知って三日三晩鳴き続けた。ところが主人は夜鳴きする鶏を不吉だと言って、私を殺して広瀬川に投げ捨ててしまった。私の屍は宗禅寺の崖下の杭に引っかかっている。どうか主人達の命を救いたいので、朝飯の前に行ってこのことを伝えて欲しい」と言った。住職が川へ行くと、果たして鶏の死骸が引っかかっていたので、慌てて庄子某の家を訪ねた。ちょうど庄子某の家ではこれから朝飯を食べようとしていたところであった。住職が夢の話をしている時、汁鍋の蓋が開けられており、一匹の猫が何気ないそぶりで鍋を飛び越した。住職は、猫が尻尾を鍋の中につけるのを見逃さなかった。その場を離れた猫を追って住職が竹藪に入ると、猫が竹の切り株に尻尾を入れると、また家へ向かって行った。怪しんで切り株の中を覗くと、そこには蜥蜴や虫が腐って毒液となっていたのである。全てを理解した住職は子細を庄子に伝えると、庄子は鶏を殺したことを悔いて、懇ろに弔ったという。ただしこれには異説がある。この怪異は庄子宅ではなく宗禅寺で起こったものであり、住職が夜鳴きする鶏を殺し、隣家の者の夢枕に鶏の霊が現れて住職の危難を告げ、住職の朝食の膳椀に猫が毒を仕込むという展開となっている。さらにその後日譚として、竹藪に南瓜が生えたので住職が取って食べようとすると、鶏の霊が夢枕に現れて「毒があるから食べるな」と告げた。不審に思った住職が掘り起こしてみると、南瓜の根が猫の髑髏から生えていたことが分かったという。鶏の墓には、寛文13年に庄子太郎左エが建立したことが刻まれている。そして正面には「卍不是人間之塔(これは人間の塔ではない)」と彫られている。 ●化女沼 (じょぬま) 化女沼は現在ではダム湖となっているが、以前は自然の湖沼であった。そのために今でも数多くの水生植物が繁茂、水鳥の越冬地となっており、平成20年(2008年)にはラムサール条約の登録を受けている。この不思議な名前の由来となった伝説が残されている。この沼のそばに、かつて一人の長者がいた。その長者には美しい一人娘がいた。名は照夜姫と言い、毎日のように沼へ来て日を過ごしていた。その美しさのために、いつしか姫が沼のほとりに近づくと、水面にたくさんの蛇が集まるほどであったという。ある時、一人の旅の美男が長者の家にやって来て、宿を借りることになった。照夜姫とはすぐに相思相愛の仲となったが、また旅を続けるためにと男は去って行った。男との別れを嘆き悲しんでいた照夜姫であったが、しばらくして突然の体調の異常に気づく。そのまま産気付いた姫は、その夜のうちに子供を産んだ。しかし赤子は人間ではなく、白蛇だったのである。驚く姫をよそに、生まれた白蛇は沼の底へと沈んでいった。そして姫もその後を追うようにして、愛用の機織りの道具を持って沼へ身を投げたのである。それから毎年7月7日には、沼の中から機織りをする音が聞こえてくると伝えられる。 ●お鶴明神 北上川に沿って一関街道が走っているが、その堤防の緑地にぽつんと小さな赤鳥居が立っている。これがお鶴明神と呼ばれる祠である。登米の町は、仙台藩の支藩として栄えた町である。初代領主・白石宗直が城下を整え、河川の整備をおこなうことで、2万石の石高を生み出した。特に有名な事業は、北上川の治水である。3年を掛けて約7kmにわたる堤防を築いたが、これは宗直の官職名から“相模土手”と呼ばれている。ところがこの堤防も何度か決壊してしまったため、息子の宗勝(宗貞)がさらに改修を重ねて、決壊の被害を絶ったとされる。そしてこの頃にあった伝承として、お鶴明神にまつわる話が残されている。お鶴は、岩手の南部地方の生まれの娘で、彦総長者の家で下働きをしていたとされる。この堤防工事では、人夫に昼の弁当を配る世話をしていたのであるが、決壊を防ぐために人柱が必要であるという話が持ち上がった時に白羽の矢を立てられて、無理矢理生き埋めにされてしまったという。これ以降堤防は決壊することなく、今に至っている。このお鶴明神は、人柱となったお鶴を哀れんだ土地の者が建てたものである。簡素なものではあるが、現在でも毎年、講による供養がおこなわれている。また祠のそばには“お鶴の涙池”と呼ばれる小池があったが、これも平成になってから復元されている。 ●下紐の石 国道4号線の宮城県と福島県の県境に位置する場所に、下紐の石はある。とりたてて何もない場所に柵に囲まれて大きな石があるので、すぐにそれと判る。かつてこのあたりに坂上田村麻呂が関所を置き、下紐の関と呼ばれていたとされる。また平安時代には歌枕として和歌に詠まれていた。江戸時代には石大仏とも呼ばれていた時期があるが、相当古い時代から下紐の石として存在していたと言える。この名の由来であるが、用明天皇の妃である玉世姫がこの石の上でお産の紐を解いたことから名付けられたとされている。ただ、玉世姫は豊後(大分県)にあった真野長者(炭焼き小五郎)の娘であり、なぜこの地にその姫の伝承が残されているのかは謎である。 ●用明天皇と玉世姫の伝説 / 室町時代に成立した、幸若舞の「烏帽子折」において用明天皇と玉世姫にまつわる伝承の詳細が描かれている。それによると、玉世姫の美貌の噂を聞いた用明天皇は、密かに豊後に赴いて真野長者の召使いに身をやつす。3年の歳月の後に天皇はその正体を明かして、姫を娶る。そして二人して都に戻り、男児をもうける。それが後の聖徳太子となる、という伝説である。(地元では、玉世姫は般若姫と呼ばれ、先に都へ戻った用明天皇の後から船で都に赴くが、途中周防国で病没したとされる) ●鹽竈神社/御釜神社 (しおがまじんじゃ/おかまじんじゃ) 鹽竈神社は陸奥国一之宮、東北鎮守として崇敬を集める神社である。ただ「弘仁式」において祭祀料正税一万束を受け取るほどの大社でありながら、「延喜式」では式内社に挙げられず、その後も目立った神階を授かることもなかった。明治時代になって、式内社で国幣中社であった志波彦神社が敷地内に遷宮されてから、両社で国幣中社としてようやく大社としての社格を得たと言える。祭神は、主祭神が塩土老翁神で別宮に祀られ、武甕槌神が左宮に、経津主神が右宮に祀られている。伝説によると、東北平定を命ぜられた武甕槌神と経津主神は塩土老翁神の先導によって目的を達成してそれぞれ元の宮(鹿島神宮と香取神宮)へ帰ったが、塩土老翁神だけは東北に残って製塩法を教えたという。鹽竈神社が製塩と密接に関わることを示す藻塩焼神事が、境外摂社である御釜神社に伝わる。御釜神社には、日本三奇の1つである神竈と呼ばれる、直径1m強の4口の竈がある(これらの竈は奉置所の中にあり、社務所に申し出て拝観することができる)。土塩老翁神はこの竈を使って製塩技法を教えたという。現在でも常に潮水が張られており、屋根のない場所であるにも拘わらず、どんな旱魃の時にも決して涸れることはなく、また溢れることもないと伝えられる。また「塩竈」という土地の名はこの「四の竈」が由来であるともされる。さらに境内には牛石藤鞭社があり、和賀佐彦という神が7歳の童子に変じて、背に塩を載せた牛を引いていたが、それが石と化したとされる。今でも境内の池の中にその石が沈められており、見ることができるという。またその童子が藤の枝を鞭にしていたが、それを立てかけておくと枝葉が伸びて藤の花が咲いたと言われる。 ●塩土老翁神(しおつちのおじ) / 記紀に登場する神。釣り針をなくした山幸彦のために舟(または目の詰まった竹籠)を用意して、海神の許へ赴くよう進言したとされる。また神武東征においては、神武天皇に東に良い土地があることを告げて、東征を決意させている。 ●藻塩焼神事 / 宮城県無形民俗文化財。7月4日に七ヶ浜沖でホンダワラを刈り取る。5日に満潮時の潮水を取り、神竈の潮水を取り替える。6日にホンダワラを敷いた大釜に潮水を入れて煮詰めて粗塩を採取する。御釜神社の神前に供え、そして10日の鹽竈神社例大祭の神饌とする。 ●磯良神社 地元では「おかっぱ様」と呼ばれる。資料などでも磯良神社ではなく「カッパ明神」の方が通る(あるいは「田子谷磯良神社」の名称も流布している)。県道に面したところに鳥居があるので分かりやすいが、周辺には人家は全く見当たらない。神社以外にはほとんど何もない。昔、平泉の豪族・藤原秀郷(氏子の伝承による)の馬屋に虎吉という名の者が仕えていた。ある時ふとしたことでその正体が河童であることが分かってしまった。そこで暇をもらって主家を離れることにした。虎吉を可愛がっていた秀郷は、その時に持仏の十一面観音を与えたという。虎吉は各地を巡って田子谷の沼まで辿り着くと、そこを気に入って終の棲家とすることとした。その後、虎吉は多くの子供を授かり、子河童たちがこの沼のほとりで相撲を取ったりして遊んでいる姿がよく見かけられたという。 ●判官森 平泉から直線距離にして約30km足らず。判官森と呼ばれる小さな山がある。旧・栗駒小学校の裏山であり、実際に小学校の敷地を突き抜けてちょっとした山道が続いている。この小高い山は「判官」の名前の通り、源義経にまつわる伝承地である。文治5年(1189年)に平泉で討ち取られた義経は、その首を鎌倉に送られたのであるが、胴体は平泉に打ち捨ておかれていた。それを引き取って葬ったのが、この沼倉の領主であった沼倉小次郎高次であったという(沼倉小次郎の実弟が、義経の影武者と言われた杉目太郎である)。判官森の頂上近くには、この義経の胴塚と呼ばれる碑が建てられている。生前の義経がこの地を気に入ってよく馬を掛けてこの地を訪れたともいわれている。判官森の麓にあたる郵便局前には、この地を訪れた際に鞭にしてた桜の枝を差したものが成長したとされる、義経鞭桜がある。また判官森のさらに奥には弁慶森と呼ばれる場所がある。 ●杉目太郎 / 年格好が義経とそっくりであったために影武者となった武将。平泉の戦いで自刃したのは実は杉目太郎であり、義経は落ち延びてその後に蝦夷に辿り着いたという伝説が生まれた。杉目太郎の墓は、この判官森から数km離れた場所にある。 ●観音寺 気仙沼の港を見下ろす高台にある古刹である。天台宗に属し、全国に七寺のみという延暦寺根本中堂の「不滅の法灯」を分灯された寺院である(東北では山寺立石寺・平泉中尊寺と並んで三寺のみ)。この寺院には名前のごとく観音菩薩像が安置されているが、この像には1つの悲恋の伝説が残されている。源義経がまだ鞍馬で修行に励んでいた頃、文武の師・鬼一法眼の娘である皆鶴姫とよしみを通じて、法眼の持つ兵法書『六韜』を盗み出した。そしてその書を携えて、金売り吉次と共に奥州藤原氏の許へ赴いたのである。平泉に着いてしばらくして、義経は夢を見る。京都に残してきた皆鶴姫が奥州の母体田の浜に打ち上げられている夢である。不吉な知らせとばかりに義経は浜へ駆けつけると、人だかりができている。そばへ行くと、うつろ船に乗せられた皆鶴姫の亡骸があり、その手には観音像が握られていたのである。姫は父の法眼の怒りを買って、うつろ船で流されていたのである。事の真相を知った義経は、姫の冥福を祈るために観音像を観音寺に納めたという。またうつろ船の残骸の一部、義経の使っていた笈なども観音像と共に、観音寺に安置されている。異説では、皆鶴姫を乗せたうつろ船が浜に漂着すると、高貴な人を助けて後難に巻き込まれるのを恐れた村人が幾度も船を沖に押し戻しているうちに姫は衰弱して亡くなったともいう。また衰弱した姫を老夫婦が助けて住まわせていると、数ヶ月後に義経の子を産んだが、産後の肥立ちが悪くて結局亡くなってしまったともいう。いずれの話でも、義経とは会えぬ運命で終わっている。 ●不滅の法灯 / 天台宗の総本山である延暦寺根本中堂にある、宗祖の最澄がともした灯明。現在でも決して消されることなく火を灯し続けている。織田信長の焼き討ちの際に根本中堂の火は途絶えたが、山寺立石寺の分灯を用いて再び灯し続けられている。 ●鬼一法眼 / 『義経記』に登場する伝説上の人物。一条堀川に住む陰陽師であり、文武に秀でており特に兵法の大家とされる。また剣術の京八流の祖とされている。 ●『六韜』 / 中国の兵法書。周の太公望が武王に授けた用兵の極意書とされる。「虎の巻」の語源となった書である。 |
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●十六沼 福島市
この沼の名は、伝説によると、昔この沼の近くに、十六歳になる娘が住んでいて、この村の男と契りを結んだが、男は非情にも別の女と出奔してしまいました。 娘は嘆き悲しみこの沼に身を沈めてします。村人はこのことを知りこの娘を惜しみ、それから十六沼と呼ぶようになったと言います。 この沼は自然湧水の沼で、四方の灌漑用水になっています。 ●雄国沼のとらんぼう 耶麻郡北塩原村 標高1,000m以上の天空にある神秘的な雄国沼には、昔からこの沼の主の大泥鰌(どじょう)が棲んでいると伝えられている。胴回りは仁王さまのきき腕ほどあり、口は耳まで割けて、本当にこわい化け物みたいだといわれていたが、誰も見たことがない。村の人たちは、沼の主のいるこの沼に近づくこともなかったので、沼や流れ込む小川には、たくさんの泥鰌がうようよしていた。 ある日のこと、ひとりの男がこの沼に行って泥鰌すくいをしてみたいと思い、登っていった。網を入れてすくう度にいっぱいの泥鰌がとれて、たちまち大きなハケゴいっぱいになってしまった。喜び勇んで家路を急ぎ、沼の峠にさしかかったときであった。沼の方から「とらんぼう! とらんぼう!」と呼ぶ奇妙な声がした。振り返って沼の方を見たけれど、誰もいない。あたりはシーンと静まり返っていて、ハケゴに入っている泥鰌だけが、「キュッ、キュッ」と泣くだけだった。 男は空耳だと思って歩きだしたら、また「とらんぼう! とらんぼう!」と、先程よりはっきりした声で男に呼びかけた。あんまり泥鰌を取りすぎたから、沼の主が怒っているんだなと思うと不気味になり、男はハケゴごと泥鰌を坂下の川に投げ込むと、転げるように逃げ帰った。しかし、身も心も疲れ果て具合が悪くなってしまったという。 村中にこの話が伝わり、沼の主のことをいつしか「とらんぼう」と呼ぶように なったんだと。 ●沼沢湖の大蛇 大沼郡金山町 金山町の沼沢湖には、「沼御前」という大蛇が棲んでいたとされています。 髪の長さが6mほどにもなる美女に化けられると言われており、人を惑わせたり、襲ったりして、付近の人々にたいそう恐れられていました。当然この沼御前を退治しようと立ち上がった人もいましたが、沼御前は鉄砲で撃たれてもなんともなかったといいます。 そこで、困り果てた人々を見かねた領主が、50人から60人の討伐隊を結成して沼御前退治に向かいました。途中、沼御前に家来ともども飲み込まれてしまいましたが、鎧に身に着けていた観音様の力で生還し、無事に沼御前を退治したということです。 ● 金山町の「沼御前神社」が建っている場所は、沼御前の首を埋めた場所とされています。 |
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●昔ばなし 伊達郡川俣町
●あまわだ清兵衛 (清兵衛さんの話) むかし、小綱木にあまわだ(※1)が大好きで、あまわだ清兵衛と言われた人が住んでいました。町に行くたびにあまわだ買って来る人で、その日も遅くなったが、藁づと(※2)にあまわだ入れてぶらさげて帰ってくる途中、急にもようしてきました。根っからしみったれな清兵衛さん、自分が出したものだから、持って帰らなければ損だと思い、藁づとを作って入れてそれもぶらさげて帰ってきました。「おっかあ、今帰ったぞ。」と言って、玄関に入る前に藁づと便所に放り込みました。「おっかあ、あまわだ買ってきたぞ。台所の戸棚に入れておいたからな。」と言って、そのまま寝てしまいました。 次の朝、清兵衛さんが寝ているうちに、おっかあがかまどのわきで、「おとっつぁ、なんだ。これは。」と怒鳴りました。「なに言ってんだ。あまわだだろう。」「あまわだどころか、とんでもない話だ。臭くてたまらない。」 清兵衛さん、びっくりしてひろげてみたら、自分のお土産でした。 ※1 あまわだ=鮭の内臓 ※2 藁づと=藁で編んだりたばねたりして、中に物を入れるようにしたもの ●あわの胸算用 (女神山のばかむこの話) 女神山のばかむこが、粟を刈り軒場(のきば)に干してから、振り打ち棒で叩いて、み(箕・・・農機具)でふるいました。そして、「おっかぁ、おっかぁ、たいしたものだ。臼に八升、みに八升、七(なな)ます、八ます、九(ここ)のます、十(と)ます、どのくらいになるかな。」と聞いたら、おっかぁが、「五斗でしょう。」と言ったので、すっかり感心してしまいました。 ●石になった男 (石になった男の話) むかし、むかし、一人の男がいました。その男は毎日、毎日、寝てばかりいて、少しも働こうとしませんでした。ある日いつものように男が寝ていると、一匹の蛇がやって来て、男の家の周りをぐるぐる回っていました。近所の人が心配して男の家に入ってみると、誰も居なくて、大きな石が庭にころがっていました。 蛇に回られて男は石になってしまいましたとさ。 ●糸合図 むかし、南山のばかむこが嫁このぜえさ呼ばっち、二人で行ぐごどになったど。「おめえさん、下手なごと語っとあら出っがら、何言わっちも、さようでございます。さようでございますって言えばぜえがら。おめえのさおの先さひもしばっておぐがら、ぐっと引っ張らっちゃら、そう語らっせ。」「うんうん。」って、約束して行ったど。始めのうぢはうまくいってだが、嫁こがそっとひもおいでしょんべんどさ立ったら、ネコがひもさじゃれで、むしょうに引っ張らっち、たまんなぐなっで、「さようでございます。さようでございます。さよう、さよう、さようの頭がもげそでございます。」って言ったどさ。 ●イヌの足 (弘法大師と犬の話) 昔、弘法大師さまがあるとき、「わらう」という字を作ろうとして筆を持ったが、どうしても書けませんでした。どのように書けばいいかと考えていたら、表で子供たちの笑う声が聞こえてきました。ちょっと障子を開けてみると、子供たちが子イヌに籠(かご)をかぶせて遊んでいました。籠がきつくてどうしても取れないので、子イヌがはねているのが面白くて笑っていました。大師さまはそれを見て、犬という字に竹をかぶせてみたら、本当に笑っているように見えたので、それから「笑」と言う字ができたそうです。 それで大師さまはイヌに恩返しをしようと思いました。むかしは、イヌは三本足でした。大師さまは三本足では不自由だろうから、一本ふやして四本にしてやろうと、五徳から一本取ってイヌに付けてやりました。五徳は四本足でしたが、それから三本足になったそうです。 イヌは喜んで大師様にもらった足に、しょんべんなどかけたら罰が当たると思い、そのたびにその足を持ち上げてするようになったそうです。 ※五徳・・・火鉢や囲炉裏などに置いて、鉄びんなどをかける鉄製の道具。 ●芋掘り (あほなおにいさんの話) むかし、あるところに、あほなおにいさんがいました。畑で、ジャガイモ堀りをしていました。そしたら通りかかった人が、「ここは、なんというところですか。」と聞きました。「ところ(※)だか、芋だか、掘ってみないと分からない。」と、一生懸命掘っていました。(通りかかった人は、)この人ちょっと変だと思って、「それでは、ここはなんという里ですか。」と聞いたら、「さとは実家に行ったから、いつ帰ってくるか分からない。」と言いましたとさ。 ※おにどころ=野老の別名で山野に自生するヤマイモ科の多年性つる草 ●うどんの食い方 (南山のばかむこの話) 南山のばかむこが、他の家にお呼ばれして行って、うどんをだされたら、「いや、なんだ、このうどん。長いこと、長いこと。」と、立ったりすわったり、すわったり立ったり、首にからんだりして、ご馳走になったとさ。 ●うば捨て山 1 (孝行息子と母の話) むかしは六十になっと、うば捨て山さ置いでこなかなんねがったど。あっとこに、親孝行な息子があってない、どうしても親を山さなんか置いでこらんねがらって、座敷の下さめど掘って、かぐしておいたんだと。あっどき、殿さまがら、「あぐで縄もじったがな持ってきたもんに、褒美をやる。」って言わっちゃんで、なじょしたらでぎんのかなぁど思って、床下にかくしてだおっかぁに聞いだと。「てえらな石の上で縄燃せば、あぐで縄もじったがなできる。」って言わっち、そのとおりにして持ってっで見せだと。「なじょして、こういうふうにできたんだ。」「実は床下さかぐしてだおっかぁに教しえらっちゃんだ。」って言うと、殿さまは、年寄りはいろんな経験してっがらなんでも分がってる。大切にしなきゃなんねってごとになって、ほれがらうば捨て山をなぐしたんだと。 ●うば捨て山 2 (孝行息子と母の話) むかし、あっとこに、親孝行な息子があったど。昔は六十になっと殿さまの言いづけで、山さ捨てでこなくちゃなんねがったげんじも、どうしても山ん中さ捨ててこらんにゃがったど。ほんでも、お上の言いづけなんで、なんともしょねぇぐて、うぶってって捨ててけえる気になったど。すっと、ばあさまが、「道が遠いがら道まちがえっとてえへんだがら、おら来る途中両側の杖折って来だがら、木の折れだ枝探しで行げばけえられっがら。」って言わっち、息子はなじょんしてもばあさま捨てらんにゃぐなって、うぶってけえって来てないしょに、ぜえの縁の下さ室作ってしまっておいだど。 ほしていたどころ、殿さまんとごさ隣の国の殿さまんどごがら難題吹きつけらっち、この問題解げねえこっちゃ国寄ごせといわっちゃつうんだな。殿さまもがおっちゃったど。ほんでも、誰も家来に知ってるやつねえもんだがら、国中さ布令まわしだどごろが、息子が聞いできてばあさまにこう、こう、こういう話だって語って聞かせだど。すっと、ばあさまはほだごとわげねえっておせえでくっちゃど。 ほれは木目がら正目がらどっちともつかねえ木持っできて、どつちが本だが裏だが見分げでよこせって、隣の殿さま言ってきたど。ばあさまは、「ほだごとなにも面倒でねえわ。水さひたしてみっと本の方はいく分沈むもんだ。」っ言ったど。息子は行っで殿さまさ話すと、「なるほど、ほんじゃ分った。」って言ったど。ほんでぜえがど思っだら、今一ペん問題よこしたど。 ほれはアリは一間のうち、何どきの速さで歩ぐが返事よこせっていわっちゃど。そだげんじょも、わがんねえつうな、アリは。歩がせてみっと一っペんになんが、まっすぐに歩がねつうがら。息子はけえっできてばあさまにゆっだら、ばあさまほだごとめんどうなことねえって、「一間のがな、かな糸張っておいで、こっちのはしさ何か甘いもの一つおいで、こっちのはしがらアリはわせっど、一生懸命こいつのにおいするがんで甘いどこさ行っがら、そんで何どきの速さで歩ぐが分っがら。」って言ったど。ほんで息子がまた行っでおせえだら、ほの通りだったど。二つで間に合うど思っだら三つめよこしたど。ほの三つめは、あぐの縄、なべのうえでもじった縄そっくりもやすとあぐの縄あっがらと教えてくっちゃど。 息子がこの三つといだもんだがら、殿さまがおめえこういうがな、自分の考えがら出だのがと言わっちゃがら、正直に実はこういうわげで殿さまのお布令破っで、おっかさまごど縁の下しまっておいだ。これはおっかさまがいって聞かせたんだと語ったど。ほしたら、どんなほうびでもくれっからと殿さまがいったつうがら、ほがのほうびいんねえがら、どうぞおっかさまの命助けてもらえでと言ったど。ほんだがら、年寄りはてえせつにしなくちゃなんねえって、ほれがらうば捨て山はなくなったんだど。 ●馬のしりにお札 (南山のばかむこの話) 南山のばかむこがしゅうとの家に行ったら、しゅうとが大変立派な家を造っていました。節のないもの(材木)で造った家でしたが、一つ節があったそうです。「せな(男性に対する二人称、本来は兄の意)、ここにこれ節があって。それが、玉に傷でな。」と言ったら、「この節を隠すには、火伏せご祈祷のお札を貼るといいですよ。」と言いました。あほなせなだと聞いていたが、なかなか利口だなあと、ほめられました。それから、馬を出して見せられました。そしたら、馬のしりを見て、「火伏せご祈祷のお札を貼るといいですよ。」と、言ったそうです。 ●ウマのしりに節穴 (南山のばかむこの話) むかし、南山のばかむこが嫁の家に行ったそうです。ウマを出してきて見せてもらったとき、しっぽを立てて尻の穴を見て、「節穴ある。」と言ったそうです。 ●オオカミの報恩 (オオカミの話) むかし、八木(ばちぎ)のこすずというところに一軒の家がありました。そこに住んでいた女の人が火種が無くなって、隣の家に貰いに行くとき、オオカミが何かを食べて骨をはさんで、取れなくて苦しんでいるところに出会いました。はさまって困っていたので取ってやったら、帰りかけたオオカミは振り返って、しばらくじっとみていました。そのときはそのままにして、火種を貰って家に帰ってきました。その家に、その晩、馬を持ってきてくれたものがいました。オオカミがお礼に持ってきてくれたものだろうといわれました。それでも、どんなにかこわかったのでしょう。どんなに飼育しても太りませんでした。馬はあお手の馬でした。 ●おつるさん むかし、あっとこの長者屋敷に、おつるさんていう娘があって、機織りしておったんだと。すっと、いつもばんげになっと、「おつるさん、おつるさん。」って呼ばる人があったんだと。「はて誰だべ。」と外さ出てみっと、誰もいねえんだど。何日かたってがらキツネがおっぼ(尻尾)をない、節めどさ突っ込んで、ツー、ツー、ツー、ツーとやってんがながわかったど。ほれが、「おつるさん、おつるさん。」と聞えてたんだとわかったど。今はその屋敷もねえげんと、どこどなし、そごさ行くとさびしない。 ●鬼かけ馬 (むこと暴れ馬の話) 南山のばかむこがしゅうとの家に行ったところ、鬼かけ馬(※1)を飼っていたそうです。暴れ馬で誰も手をつけられませんでした。しゅうとおとっつまが、「この馬には、誰も乗る人がいないんだ。」と言ったら、「おらが乗ってあげましょう。馬なんてなんでもないよ。」と、乗ったところが、勢いよく走り出して、どんなに手綱をひっぱてもどうしても、止まるものではない。ばかむこは、「ホーイ、ホーイ、ホーイ。」と、泣き泣き乗ったそうです。それを見て近所の人たちが、「たいしたむこだ。誰も手をかけない馬に乗って、鼻歌がけで(※2)行ったぞ。えらいむこだ。」と言ったそうです。 ※1 鬼かけ馬=暴れ馬 ※2 鼻歌がけで=鼻歌うたって ●鬼とニワトリの声 (心がけのよいおじいさんと欲深いおじいさんの話) むかし、心がけの良いじいさまと、欲の深いじいさまとが隣り合って住んでいました。心がけの良いじいさまは、毎日、朝早くから夕方遅くまで、畑に行って仕事をしていました。 ある日、用事をしに行った帰り、あたりは暗くなってくるし、雨も降ってきて、家に帰れなくなったので、途中の空家に泊まりました。床の上では濡れるので天井のはりにあがって寝ました。 夜中になって、うるさくて目を覚ますと、下に鬼たちが集まってばくちを打っていました。じいさまは静かにして鬼たちが帰るのを待っていましたが、いつまでたっても帰らないので、鬼たちを追い払ってやろうと、むしろ(莚)でもあったのでしょう、それでバサ、バサと音をたてて、「コケコッコー。」と言って、一番鶏(とり)のまねをすると、鬼たちはびっくりして、「やっ、たいへんだ。夜が明けてしまう。ほら、早く逃げろ。」と、あわてて財布からさいころからそこいらにおいて、逃げていってしまいました。じいさまは、これは良い授かりものだと、家に持って帰えりました。隣の欲の深いじいさまがそれを聞きつけて、「どこから授かったのか。」「実はな、これこれ、こういうわけだ。」と言ったら、「それじゃ、おらも行ってみよう。」と、暗くならないうちから、空家のはりの上にあがって鬼のくるのを待っていました。案の定、鬼たちが集まって、ばくちを打ち始めました。 (欲の深い)じいさまは、あんまり早くから寝ていたものだから、宵の口から目がさめてしまい、小便がしたくなったのと、鬼たちの金に目がくらんでしまい、むしろでバサ、バサとやって「コケコッコ−。」と、力んで声を出したものだから、鬼たちの頭に小便をかけてしまいました。鬼たちは、「何だ。これ。星が出ている空から、雨が降るわけがない。変なにおいだ。こりゃ、人間の小便だ。この前とりの鳴き声のまねして、金を持っていったやつだろう。」と、はりにあがっていって、じいさまをつかまえて、持っていた鉄棒で殺してしまいました。 ●お福と節分 (欲ふかい金持ちの話) むかし、むかし、あるところに、欲ふかい金持ちの人がいました。たくさんの奉公人やお手伝いを雇っていて、夜も昼も働かせていました。お手伝いの中にお福という女の子がいました。 毎年、節分になると、その家のだんなさまが大きな声で、「鬼は外、福は内。」と豆まきをしていました。そのときお福は外にいて、「福は内。」と(だんなさまが、)いったとき、「福が入ってまいりました。」といって、家に入ることになっていました。毎年、寒い夜に外に立って待っているのが、お福はいやでいやで仕方なかったけれども、だんなさまからいわれているから仕方がありませんでした。 ある年の節分の夜、いつものように豆まきが始まって、「鬼は外、福は内。」とだんなさまが大きな声でいったけれどもお福が入ってこないので、「福はどうした。どうした。」と、大きな声でお福のことを呼びました。すると、家の中にいたお福が、「只今、家の外に出るところでございます。」と、外に出て行きました。お福は夕方にいいつかった仕事ができなかったのと、寒い外に出るのがいやだったのでしょう。外に出るのが遅れてしまいました。入ってこなければならないお福が、「福は内。」で、外に出ていってしまいました。 それから、その家は不幸が続いて、貧乏になってとうとうつぶれてしまいました。 ●おへこばあさんの江戸見物 (せっかちばあさんの話) むかし話を聞かせてあげましょう。今と違ってむかしは乗り物など無かったから、殿様のような人はかごに乗って行きましたが、たいがいの人は江戸見物に行くといっても、歩くほかありませんでした。あるとこのじいさまとおへこばあさま(※)が、江戸見物を楽しみに一生懸命仕事をしてお金をためて、いよいよ江戸見物をすることになりました。「さあ、ばあさんや。仕度をしろよ。おらのふんどしをどこにおいた。」「なに、ふんどし、あんまり汚くしておくから、それじゃいけないと思って、コチリ、ムチリコ、コチリ、ムチリコと洗って、大神宮さまに供え申しておきました。」「このくさればばあ。大神宮さまに供え申したら、死に罰があたってしまうだろ。おらの草履はどこにおいた。」「草履だって、あんまりごじゃ、ごじゃ汚しておくから、いや、いや、これはいけないと思って、これもモチリ、モチリと洗って、はしごにきつく縛っておき申した。」「早く持ってこい。」 それで、やっと出かけました。「ばあさん、ばあさん、早く行こう。」「じいさん、待ってください。縞の財布が落っこちていたから、見つけて懐に入れたら、モチリ、モチリとへそがかゆいので、どうしようもない。見てください。」「どれ、どれ、縞の財布が、そんなにへそをかくはずがない。」と見ると、財布ではなくヒキガエルでした。「こんなもの一緒に連れて行かないで、捨ててしまいなさい。」「いや、いや、せっかく見つけたのに、もったいないな。バイ。」と捨てました。「さあ、早く行かないと日が暮れてしまうから、急いでいきましょう。」「じいさん、じいさん、まんじゅうが落ちていた。」「どれ、見せてみなさい。なんだ、これ、まんじゅうではなく馬ぐそだ。きたない。捨ててしまいなさい。」「あんまりほかほかしているから、まんじゅうだと思った。もったいないな。バイ。」と、また捨てました。 こうしてやっと江戸に着いて夕方になったら、ドカーンと花火が上がりました。「じいさん、じいさん、なんだろう。忘れ物して、あれ、戻ってくるよ。」「ばあさん、ばあさん、なにを言ってる。あれは戻ってくるのじゃなく、残月と言うものだ。」と言いました。 ※おへこばあさま=せっかちなばあさま ●愚かな姑 (愚かな姑の話) むかし、ある家の嫁と姑のお母さんが芝居見物に行きました。その日の出し物は「菅原伝授手習鑑」で、「寺子屋の段」のところでは、道真の世継ぎ菅秀才のために、わが子を犠牲にする松王を見て、嫁は泣いてしまいました。姑のお母さんは家に帰ってきて、「あんな芝居見て泣いて、外聞悪くてしょうがなかった。」と、家の人に話して聞かせました。すると、姑のお父さんが嫁にわけ聞いて、「おまえこそなんにも分からないで、なにをいっている。」と、お母さんは、叱られました。 それからしばらくして、また、二人で芝居見物に行きました。「義経千本桜」だったかを見て、馬鹿な姑のお母さんは義太夫の口上で、「さるほどに九郎判官義経は・・・・・・」と、語るのを聞いて、猿がほど(囲炉裏の火)に入って死ぬところだ。かわいそうだと泣いたそうです。 |
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●カエルの江戸見物 (カエルの江戸見物の話)
むかし、関西のカエルが江戸見物に出かけてきました。長い東海道をあるって、箱根山の頂上にきました。「ああ、箱根山さえ越せば、江戸は近い。」と言って、(立ち上がって)背伸びをして江戸の方を見たら、自分の生まれたところと同じものがあったので、「ああ、江戸もおらのところと同じだ。」と、箱根山から戻ってきてしまいました。 ●かしけえ坊さま (かしこいお坊さんの話) むかし、むかし、ある坊さまが行脚の途中で、貧しいさびれた村に通りかかりました。村の人たちはみんな顔色が悪く元気がありませんでした。坊さまは村の人たちを助けてやろうと思って、誰もいない破れ寺に住みつくことにしました。いろいろ考えて、村の人に信仰心と働く気を起こさせねばならないと、あることを考えつきました。坊さまは道端にあった泥だらけの古い石の地蔵さまを見つけて、ある場所に穴を掘って底に村の人からもらった大豆をたくさん入れて、その上に地蔵さまをのせて土をかぶせておきました。入梅の節が近づいた頃、坊さまは村の人を集めて、「毎晩、休んでから夢の中に石の地蔵さまが出てきて、長い間土の中に埋められていたが、やっと表に出られるようになった。寺の西の方で頭持ち上げて出てくるから、お堂を作って供養してくれ。そして、一生懸命信仰すれば暮らしも良いようになって、村も栄えるってお告げがあった。」と、聞かせました。 入梅になって何日かたった時、埋めた場所が地割れして石の地蔵さまの頭が出てきました。村の人は坊さまの夢は正夢だったとびっくりして、早速お堂を建てて供養し、坊さまを尊敬しました。村人は坊さまからみ仏の教えと、働くことの大事なことを聞かせられて、何年もたたないうちに村は栄え、暮らしも良くなりました。石の地蔵さまは大豆が雨でふくれて、待ち上げられたのだけれども、ほんとに利口な坊さまでした。 ●カニのふんどし (むことカニとふんどしの話) 南山のばかむこが、礼儀作法もさっぱりわからないので、しゅうと(の家)に行くときにお嫁さんから、「実家の方はカニが名物だから、カニを出されたら、カニのふんどしは食べられないのだから、ふんどしを取っておぜんの隅の方において食べなさい。」と、教えられたそうです。 そうして、しゅうとの家にいったところ、案のじょうカニがでました、(それも)大きい。ばかむこはカニのふんどしを取らないで自分のふんどしを取って、おぜんの隅の方において食べたそうです。 ●瓶と小石 (ばかむこと甘酒の話) 南山のばかむこが親類の結婚式に呼ばれて、前の日に行って泊まりました。晩に甘酒を出されたそうです。飲んでみたら大変おいしいもの(甘酒)で、その味が忘れられないので夜中に台所に起きていきました。瓶を見つけてすくって飲んだところが、だんだん下の方になってしまって、瓶に首を入れて飲んでいたら、瓶が取れなくなってしまいました。困ってしまってどこにも隠れるところがないので、便所に行って隠れてじっとしていました。 そしたら、ほかの人が入って来て用をすませたが、紙を持ってこなかったので、困ってしまいました。それで、そこらの石ころを拾ってしりをふいて、クーンと投げたら、すみの方に座っていたばかむこの瓶にあたって割れてしまいました。格好悪くてどちらもいえない話なので、「おたがいに(だれにも)言わないことにしよう。」と、約束しました。 次の日、いよいよ三三九度の式が始まって謡(うたい)となりました。そしたら、石をぶつけた人が、「池のみぎはの 鶴亀はー。」とやった(謡い始めた)ので、ばかむこは瓶が割れてしまった話が出てしまったと思って、びっくりしてしまい、「石でしりふいて、おらの瓶にぶっつけたー。」と、謡に負けないように高い声でやったとさ。 ●カラスの埋け栗 (カラスの話) 山仕事で炭がま作りや、木を植えに行った時など、土の中から栗がたくさん出てくることがあるでしょう。それは、カラスや山のサルが冬のえさにしようと栗の実を集めて、空に浮かんでいる雲を目印に、土の中に埋めたものと言われています。雲は生き物(動いているもの)で少しもじっとしていません。それだから、カラスが後で掘り返してみても、目印がないから分からないわけです。それをカラスの埋け栗と言うそうです。 ●観音さまの日と手間取り (欲深い名主さまの話) むかし、あるところに、欲深い名主さまが居たそうだ。ある日、一人の男がやってきて、「おら、食わせてもらえるだけでいいから、雇って下さい。ただ、先祖代々観音さま信仰しているから、観音さまの命日だけは休ませて下さい。」と言ったそうです。欲深い名主さまは、これは安い拾いものだと喜んで、「うん、いいだろう。」と、雇うことにしました。 ところが、次の日(その男が、)働くかと思ったら、今日はなに観音の日だから休み、明日はなんの観音の当り日、あさってもなに観音だから休むって、一ヶ月の間ただ食いをされました。観音さまは三十三ありますから。欲深い名主さまは泣くほど腹を立てて、とうとう暇をくれました。 ●寒風 (お寺の和尚さまの話) むかし、あるお寺の和尚さまが大きな袋に寒風をためておいて、あついとき、だん家の人たちに、「寒風にあててやるから、何日に集まれ。」と触れを回したところ、それではとみんな喜んで集まりました。ところがその寒風は、どんなにたくさん入れた袋だか知らないけれど、小僧につめ方をまかせていたので、(小僧が)おならをして入れてしまいました。 それでみんな集まったところで、(袋の)口を開けて風をかけたので、だん家の人たちは怒って帰ってしまいました。和尚さまは一軒ごとにだん家を回って、謝って歩いたとさ。 ●聞く耳頭きん むかし、あるところに、じいさまとばあさまがおりました。じいさまは山に行って枯れ枝を取ってきて、町に背負って行って売って暮らしていました。 ある日、枯れ枝を売って帰ってくるとき、道端で子供たちがキツネの子を捕まえて、いじめているところに通りかかりました。「なんと。かわいそうなこと、そんなことをするとキツネにたたられるぞ。」と言ったところが、「なあに、そんなことあるか。」と聞かないので、キツネがかわいそうになって、枯れ枝を売ったなけなしの銭で、「こいつで私に売ってくれないか。」と言ったら、「ああ、キツネの子を殺したって、一文にもならないから売ってやろう。」ということで、(じいさまは)キツネの子を買って、そして(帰り道の)途中まで来て、「おまえ、こんなところに出てくるから、子供たちに捕まって、ひどいめにあわされるのだから、これから決してこういうところに出てきてはいけないぞ。」と、放してやりました。 それから、何日かしていつものように枯れ枝を売って帰ってくるとき、この前のキツネの子が道ばたにちょこんと座っていて、「じいさま、この前は命を助けてもらってありがたかった。家に帰って父さんに話したら、『恩返ししなければならないから、おまえが行ってじいさまを連れて来い。』と言われたので、一緒に来てください。」「せっかくだから、それでは行くか。」と、キツネの子の後について、ある穴の中に入っていったら、キツネの身内がたくさん集まっていて、お礼を言われた上、大変なご馳走をされました。「ばあさまも待っているから、私は、もう帰ります。」と(じいさまが)言ったら、帰り際にキツネの子の親が言いました。「何も恩返しするものもないのですが、こんなものでよかったら、役に立つものだから、持っていってください。」とだされたものは、ボロボロの頭きんでした。じいさまはこんなボロ頭きんをもらっても仕方がないと思いましたが、せっかくもらってくださいとだされたものだから、ありがたくもらって帰ろうと、頭きんをもらって帰ってきました。 そして何日かたった頃、じいさまが家の前で仕事をしていたら、急に天気が悪くなって雨が降ってきました。何も頭にかぶるものがなかったので、キツネにもらった頭きんをちょいと頭にのせたところ、近くにとまっていたカラスやスズメやトリが鳴いていることばが、すっかり耳に入ってきました。じいさまはこれは不思議なこともあるものだと耳をすまして聞きました。「ありゃ、ありゃ、あそこの庄屋さまの娘が今日、明日の命だと。医者よ、坊さまよ、神主さまよといろいろやってみたけれど、一つも効き目がないそうだ。」「そんなこと、効き目があるはずない。あれは病気の元を治さなければ治らない。」「それは、どういうことなのか。」「あれはな、庄屋さまお金があるのにまかせて、奥の方に新しく土蔵を造り始めたそうだ。ところが、大きなエノキの木が邪魔だからと言って、切るにも切れないで、根のどこか少し削ったくらいで、その木の上に土蔵を建て始めたそうだ。古いエノキはその重さに苦しくなってしまって、その苦しみが娘のところにいって、娘が苦しんでいるのだ。ありゃ、土蔵を別なところに建てるか、木の根をよけて建てなければならない。そしたら、娘の病気なんてすぐに治ってしまうのだが。人間なんてばかなものだな。」と、鳥たちが話していました。 じいさまはこれはよいことを聞いたと、庄屋さまのところへ行って、「かわいがってる娘、病気なそうだが、まだよくならないか。」と言ったら、「どんなに医者に診てもらっても、まじないをやっても、拝んでもらっても治らない。なんとかうまい方法はないものかと、心配していたところだ。」「私の言うことを聞いてくれれば、治るかもしれないが、確かかどうかわからない。ちょっと耳にはさんだことがあるから。」「いや、それはぜひ聞かせてください。お礼はいくらでもします。」「それでは話しましょう。私が聞いたのは、今造っている土蔵がエノキの根元の上に建てたから、土蔵の重さでエノキが苦しがって、その苦しみが娘のどこかに移ったそうだ。あの土蔵さえどければ、娘の病気はすぐ治ってしまう。」 庄屋さまはそれを聞いて、娘がかわいいので、それでは、土蔵を建てるのを止めて、建て始めたのを取り壊して、すっかり片付けてしまうと、娘の病気がうそのように治ってしまいました。庄屋さまは喜んで、じいさま、ばあさまに一生生活できるくらいのお礼をあげたそうです。 ●キツネとタヌキ むかし、むかし、ある山の中に、キツネが二匹住んでいました。一匹(のキツネ)は、(山の中で)木の実などを取って食べていましたが、もう一匹のキツネは村におりてきて、畑を荒らして(畑の野菜を)食べていました。これを見て神さまが、(畑を荒らしたキツネを)畑を荒らせないようにしてやろうと、太らせてタヌキにしてしまいました。(タヌキになったキツネは)村に畑を荒らしにいっても、体が重くてあぶないめにばかりあっていたので、(村におりて)畑を荒らさなくなったということです。 ●キツネのお礼 (おじいさんとキツネの話) むかし、あるところに、じいさまとばあさまが住んでいて、じいさまは、毎日畑に仕事に行っていました。 あるとき、ばあさまは間食に、団子を作って持たしてやりました。じいさまは畑仕事がいい具合になったので、団子をひろげて食べていたら団子が一つ、コロ、コロと転がってしまいました。拾うと思ったら、ひとりでコロ、コロころがっていってしまうので、「団子どん、団子どん、どこに行く。」と言ったら、「裏の山まで行く。」と、コロ、コロころんで行くので、仕方ないから追いかけていったら、穴の中にコロ、コロと入ってしまいました。じいさまは、「団子一つ、損しちまった。」と帰ってきました。 次の日もまた仕事に行ったら、キツネが出てきて、「じんつぁん、じんつぁん、昨日、団子とてもおいしかった。おとっつぁんに、お礼したいから連れてこいと言われたので、一緒に来てください。」と言われたので、一緒に穴の中に入っていったら、キツネの巣があって、たくさんご馳走になって、お土産をもらって帰ってきましたとさ。 ●孝行むすことタラの木 (孝行むすこの話) むかし、あるところに、親孝行なむすこと、年をとったおとっつぁと二人暮しの家がありました。毎日二人して仲良く木を切ったり、炭を焼いたり山仕事に行きました。そのうち、おとっつぁは、腹にでき物を患って亡くなってしまいました。むすこは夜も休まないで看病し、良い薬があると聞くと早く買って来て飲ませていました。それでも、亡くなってしまったので、むすこはそのでき物を憎むようになってきました。それで、おとっつぁの腹からでき物をとって、そして、たばこ入れの根付(※)を作って夜、昼、火の点いたキセルで、親のうらみ、思い知れって叩いていました。 ある日、山仕事に行って、(根付を)たばこ入れと一緒に近くの木にかけておきました。一服休んでたばこを吸おうと思ったら、(たばこ入れが)無いのでよく見たら根付がなくなって下に落ちていました。よく見たら根付が溶けてしまっていました。おなしなこともあると木を見たらタラの木でした。タラの木が腹のでき物に効くのかと試してみたら、腹の病気に効くことが分かりました。それで、今でもタラの木の根の皮を取って、干して町に持って売っているそうです。 ※根付け=タバコ入れを腰に下げる時、落ちないようにそのひもの端につける細工物。 ●小神と小島 (小手の殿様の話) むかし、小手の殿さまが村の人に、「ここはなんてところだ。」と聞くと、「ここは小神(こがみ)でございます。」「それでは、山の向こうはなんとゆう。」「小島(おじま)と言います。」そしたら、殿さまはおれを馬鹿にしていると腹を立てて、牢にぶち込めてしまいました。そして、打ち首にしろと命じて、「この世の別れに、なにか言い残すことがあったら言ってみろ。」と殿さまに(村人が)言われたので、「最後の別れに、息子に会せてください。」と言うので、会わせたら、「俺はここで殺されてしまうが、おまえに言っておくが、これから決して干したいかをするめと言ってはいけない。生(なま)のうちはいかだが、干してしまえばするめだ。同じ小さいという字も、かたほうは小神、かたほうは小島と言っただけでも打ち首になるからな。」 そしたら、殿さまが脇で聞いていて、「うん、なるほど。それもそうだ。」と、死罪を免れました。 ●心の中 (ある家の旦那と小僧の話) むかし、ある家の旦那様が、小僧を試してみようと、手をかざしながら、「私が、これから手をたたくと思うか、たたかないと思うか。」と言いました。小僧はへそ曲がりな旦那様だから、きっと「たたく。」と言うと、たたかないし、「たたかない。」と言うと、たたくにきまっている。それで、「旦那さん、僕は当てるから、それより先に僕のを当ててください。」と、敷居にまたがって、「僕が、入ると思いますか、出ていくと思いますか。」と言いました。 ●子育て幽霊 むかし、あっとこに娘があったど。その娘がぜえにかせでいた手間取りと、仲がよくなっちまって、親が反対したっつんだが、おどっこ生むようになっちまったんで、仕方なく一っしょにしたんだと。 ほして、八カ月位たった時、そのむこがどうしたわけだか、ぼっくり死んじまったんだと。まれからまもなく、娘もおぼこ生まねまま死んじまったんだと。親たちもがっかりしちまって、死んじまったからと、近くに墓造って埋めてくっちゃんだと。 ほうしたっげがな、ある夜ふけに村のあめ屋の戸を、「トン、トン、トン、トン。」って、たたくもんがあったんだと。あめやのじいさまが起ぎできで、「なに用だ。」って言ったら、「あめくんつぁんしょ。」って、一文銭つんだしたんで、あめ四つくっちゃたんだとさ。ほしたら、次の晩もやってきて、あめ買っでてな、四回もきたんだとさ。店のじいさまが「おがしねぇな。なんだが手がひゃっこかった。」ってんで、後さついてくと墓の方さ上って行くだ。どこさ行くんだべと気持ちわりがったが、新しい墓んどこで、ボット、姿が見えなくなっちまったど。幽霊かなと思って土さ耳あてて聞いてみっと、なんとなくおどっこの泣くような声がしたんだとさ。 ほんじ、次の朝、みんなに聞がせて、墓さ行って掘ってみっと、女のおどっこが出てきたんだと。 ●古地上の酒 むかし、ある人が古峰神社参りに行って、ご祈祷がすんでお神酒が出た時のこと。お国自慢のつもりで、「私の村(で、つくられる)の古地上の酒はもっとおいしい。」と言ったら、給仕をしていた人が、「ちょっと、待っていてください。」と言って、部屋から出ていってしまいました。しばらくたってから、その人は手に酒を持って(部屋の中に)入ってきて、「古地上の酒って、これでしょう。」と言って、(酒を)ついでくれました。間違いなく古地上の酒でした。おまいりに行った人は「不思議なこともあるんだな」と家に帰ってから、酒屋に行って聞いてみました。すると、「あなたが酒をご馳走になっている頃に、みなれない小僧が徳利持って酒買いに来たのはおぼえている。あなたがあんまり(古地上の酒を)自慢するから、古峯が原の天狗が確かめに来たのでしょう。」と言われたそうだ。 ※古地上(こちじょう)=東福沢の地名、昔酒造りがあってそこで造った酒の名前を古地上といった。 ●子づくりも聞いて 南山がら来たがら、南山のばかむこっていうがな。おがだが利口で、合わねがったんだな。まんまどき、夫婦げんかして、「ほだごど言うんでは、おら出で行ぐがら。」「ほだら行ったらえがんべ。」 ほうやって、おがだは出で行っちゃったど。ばがむこは茶わんとはし持っで、追っかげでったと。しゅうとまで行ぐうぢ追っつかんねがら、茶わんとはし持って行ったつんだ。おがだは後から追っかげでこらっちゃがら、はねこんじゃったど。しゅうとおどっつぁは、こういうあほな野郎では、娘くっちゃって見こみねえど思って、「おめえら、そうけんかばりなどしてるようじゃ、子どもつくんのなんか考えでねえのが。」って言ったら、「子どもつくんのは、まだおどっつぁに聞いでねがら、おどっつぁに聞いでがらつくっペど思って、ゆっくりしてだ。」って言ったどさ。 ●米倉、子めくら むかし、あっとこに、二人のじいさまが隣あっで住んでだと。どっちも貧乏で、その日暮らししてだと。一人のじいさまは人がぜえうえに正直で、神も仏も深く信心してだと。ある晩、夢に仏さまがでできて、「おめえはいつも心がけがぜえうえ、信心ぶげえがら、三つの願いごとをかなえでやる。明日お寺さ行って、ご本尊さまのめえで願ってみろ。」って言って、消えていっちまったど。 じいさまは嬉しぐなって、次の日、お寺さ行ってご本尊さまのめえで、「三つも願いごといんねがら、一つだけでぜえからおねげえします。困ってる人や旅の人泊めだどき、不自由しねで面倒みられるようにしてくんつぇ。」って、ぜえ(家)さけえってみっと、ぜえは立派になってし、布団もかさなってし、米びつに米はいっペえへえってし、なんもかもそろってで、じいさまはおったまげたど。じいさまはさっそく、隣、近所の困ってる人さ分けでやったど。ほして、家さけえってみっと、米も布団もなんもかも少しも減ってねで、元どおりになってたど。 隣のじいさまはおがしねえなど思って、「このぜえでは、なじょなわけでごいら物持ちになったんだべや。」って聞きさきたど。人のぜえじいさまは、かくしておげねで、「これ、これ、こういうわけだ。」って聞かせだと。ほしたら欲ふけえじいさまは、氏神さまがら、仏だんがら掃除して、にわか信心ば始めたど。何日かして夢に仏さまがでできて、「三つの願いを授けてやっつぉ。三日目の夜、九つ時分(※)までに願え。それをすぎっと、願いはかなえらんにぞ。」って言って、消えていっちまったど。欲ふけえじいさまは嬉しぐなって、夜明けを待ってはやばやとお寺さ行って、「ご本尊さま、腹へったがら、うめえ物たんと出してくんつぇ。」って願って、けえってみっと、てえしたごちそうがたんと出でだと。じいさまは喜んじゃって、腹いっぱいよっぱら食って、次の日は立派なぜえを願って、でんと出してもらったど。三日目は、欲ぶけえがら何出してもらうべと、あれこれ考えでるうぢに刻げんはくっし、そんじも決まんなくて、とうとう刻げんが切れそうになっちまったど。欲ぶけえじいさまあわてちまっで、一生食うに困らねえようにど、「米倉、千出ろ。米倉、千出ろ。」って願ったど。ほしたらご本尊さまは、「子めくら、千出ろ。」ととっちがえちまって、めくらの子を千出しちまったど。指の間がら、脇の下がらなにがら、千も出られちゃって、欲ぶけえじいさまは、はあ、あわくっちまって、なじょしたらぜえがわがんなくて、悲めいをあげだという話だ。 ※九つ時分=十二時 ●米出し地蔵 むかし、あるところに、じいさまとばあさまが住んでいました。山に行って枯れ木を取ったり、山菜を採ったりして細々とと暮らしていました。 あるとき、じいさまが町に枯れ木を売りに行って、遅く帰ってきたら、土手の下の方から、「おんぶしてください。おんぶしてください。」と言う声が聞えました。なんだろうと思って耳を澄ませて聞いていると、やはり、「おんぶしてください。おんぶしてください。」と聞えました。 じいさまは変なこともあるなと、その声のする方へ行ってみたら、地蔵さまが土に半分埋まっていて、それで、「おんぶしてください。おんぶしてください。」と言っているようなので、これでは地蔵さまも苦しいだろうからと、どうにか、こうにか掘りおこして、地蔵さまを背負って(家に帰る)途中まできました。そうしたところが、急に背中が軽くなったので、(背中を)見たら地蔵さまがいなくなってしまいました。「あれ、なんだろう、地蔵さまがおんぶしてください、おんぶしてくださいと言うから、おんぶしてあげたのに、どこかに落としてきたのかな。」と思ったのですが、そのまま家に帰ってきてしまいました。 あくる日、じいさまは何とも不思議だなと思って夕べと同じ道を行ってみました。すると、道ばたにいつもは五つ立っている地蔵さまが六つ並んで六地蔵になっていました。「あれ、夕べに、わたしがおんぶしてきた地蔵さま、こっちのはじにいるじゃないか。体半分、泥だらけになっていらっしゃる。これは供養してやらなければならないな。」と思って、家に帰って、「ばあさま、地蔵さまに何かお供えするものはないか。」と言ったら、「なにもないが、ご飯が少し残っている。」「ああ、それでいい、それでいい。」と、残りご飯を持っていって地蔵さまにお供えして拝みました。 そうして、町に商売に行ってもどって来てみたら、地蔵さまにお供えした(少しの)ご飯が、大盛りの白いお米になっていました。「あれ、誰か信心にお米をお供えしていったな。このままおいておいたのでは、スズメに食べられてしまうし、雨が降ると(お米が)腐ってしまうから、わたしが(お米を)いただいていって、ご飯を炊いて地蔵さまにお供えしてあげよう。」と、そのお米を持って帰って、こういうわけだからと、ばあさまに聞かせて、また次の日、ご飯を炊いて持っていって地蔵さまにお供えしました。 ところが、商売の帰りに(地蔵さまにお供えしたご飯を)見ると、また、(白い)米になっていました。スズメに食べられると、もったいないからといただいて来て、また、ご飯を炊いてお供えしました。そうして、「残りはいただきましょう。」といただいたので、それからじいさまとばあさまは、ひとつもお米の心配をすることがなくなり、困っている隣近所の人にも分けてやりました。 ところが、隣に欲が深いじいさまとばあさまが住んでいて、「(その話を聞いて)よし、わたしがご飯をお供えしよう。」と、隣の良いじいさまより先にご飯を炊いて持っていって、地蔵さまにお供えしておきました。あとから良いじいさまが(お供えに)行ったら、ちゃんとご飯がお供えしてあったので、「誰か信心な人がいて、私の持ってきたもの(ご飯)、いらなくなったな。それでもせっかく持ってきたのだから、わきの方にでもお供えしていこう。」とお供えしていきました。 隣の欲の深いじいさまが(お地蔵さまのところへ)行ってみたら、(お供えしたご飯が)お米になっていたので、「これはうまくいった。これからはお米に不自由しないな。」と思って、持って帰ってきた(お米で)ご飯を炊いてみたら、みんな砂になっていました。(地蔵さまにご飯をお供えして持ってきたお米を)何べん炊いても、なべの中は砂になっていました。良いじいさまがいただいてきたお米を炊いてみると、いつも白いご飯になっていたと言う話です。 |
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●誘いの歌 (南山のばかむこの話)
南山のばかむこが嫁をもらいましたが、嫁は待ちかねていたのでしょう。「船は浜ばにあれども、乗りもせず。」と、毎晩寝ようとすると話したそうです。ばかむこは家のかみ(地形的に高い場所)におじさんがいたので、「おじさん、おじさん、うちの奥さんおかしくなったのかどうか分からないが、寝ようとすると、「船は浜ばにあれども、乗りもせず。」と、寝言言ってしょうがない。」「そうか。晩に(同じことを)言ったらば、「まだ荒波なれば、乗るに乗られん。」と言え。」「へい。」と、ばかむこだから一つ覚えで待ちかねていました。そんなところで(嫁に)言われたので、「まだ荒波なれば、乗るに乗られん。」と言いました。すると奥さんが、「神の仰せか、仏の仰せか。」と言ったら、「神の仰せや、仏の仰せではないが、かみのおじさん、かみのおじさん。」と言ったそうです。 ●サルのむこ入り (サルと娘の話) むかし、むかし、あるところに、おじいさんが住んでいて娘が三人いました。だんだん(おじいさんは)年をとって、畑仕事も思うようにできなくて、どうしようもなくなってしまいました。それでサルが遊んでいたので、何の気なしに、「この仕事やってくれるのなら、娘の一人をくれてやるから、やってもらえないかい。」と言ったら、「それなら、おれがやってやりましょう。」と、全部(畑仕事を)やってくれました。 じいさまは家に帰ってから、うっかりとそんな約束をしてしまったと、ご飯も食べずに青くなって寝込んでしまいました。一番上の娘が心配して、「おとっつあん、なにを心配しているの。」と言うので、「実は、これこれ、こういうわけでサルと約束してしまった。おまえ、サルの嫁になってくれないか。」と言ったら、「とんでもない。サルの嫁になるなんて嫌だ。」と言われました。二番目の娘にも断られました。末の娘に聞いてみると、娘は、「おとっつあんが、うそつくことになっては困るだろうから、私が行くから。」と引き受けてくれました。 春の頃でしょう。サルと娘の夫婦は、里帰りすることになって、(サル)「おとっつあん、何が好きなんだろう。」(娘)「餅が好きだから、ついて持って行きましょう。」と言うことで、二人で餅をつきました。(サル)「さぁ、何に入れていくか。重箱に入れていこう。」(娘)「重箱は、うるし臭くて食べてくれないから、だめね。」(サル)「それじゃ、どんぶりにいれていくか。」(娘)「あれは土で作られているから、土臭いと言って食べてくれない。」(サル)「それなら、何に入れていこう。」と考えたが、でも、ほかの入れ物もないので、「それじゃ、うすでついたまま背負っていこう。」と出かけました。 山から降りてくる途中、沢の淵に桜が美しく咲いていました。娘は、「あの桜の花を持っていったら、おとっつあんどんなに喜ぶだろう。」と言ったら、サルが、「それじゃ、土産に持っていこう。」と、うすを下ろそうとしたら、「土の上におくと、おとっつあんは土臭いと食べないから、背負ったまま登った方がいい。」サルは、うすを背負ったまま登りました。「このへんでどうだ。」と(サルが)言ったら、「もっと上の。」「このへんでどうだ。」「もっと上。」と、サルはとうとう桜の梢まで登ってしまいました。「このへんでどうだ。」「それでいい。」 サルがそれを折ったとたんに、うすが重くて下の沢にどんぶりこと落ちて死んでしまいました。娘はそれを見ていて、「サルは沢に落ちても、サルの命は惜しくない。」と言って、おとっつあんのいる家に帰っていきました。 ●産神問答 むかし、ある六部(※)が村のお堂さ泊まったんだと。ほしたら、夜中にゴヤゴヤ、ゴヤゴヤって声がして、「その子の寿命は。」「十三の初かみそりよ。」って言って、ちらげっちまったど。あくる朝、六部が村の中さまわって行っだら、あるぜえでおどっこが生まっち大喜びしてたど。六部はとんぼぐちで拝んでから、お堂で聞いだごとを書いで、「このややこがな、十三年目の今日、またくっから神棚さ上げで拝んでろ。」って立ち去ったど。 ほして、十三年たったその日にきたら、なんのじょ、わらしがかみそりを使ってるうぢに、ちょ−まがきでうっさしいもんだから、おんなぐっぺと思ったらかみそりで自分の首切っちまったど。ほんに人の命ってもんは、生まっちゃどきにちゃんときまっちゃってんだな。 ※六部=六十六部の略、六十六部の法華経を納めてまわる行脚僧、江戸時代は鉦や鈴をならして米、銭を請いまわった。 ●三人のくせ (三人のくせの話) むかし、あるところに、しょっちゅう両そでをつかんで体をゆすっている人と、しょっちゅう鼻をこする人と、ひっきりなしに目をこすっている目がただれている人がいました。(三人は、)みんなにわらわれるし、みためもよくないからこれからは(くせを)止めることにしようと、一回やったら酒一升を買うことを決めました。 ところが、三人とも我慢していましたが、体をゆする人がどうにも(くせを)我慢できなくなって、「向かいの山からイノシシが、ノソリ、ノソリと向かって来た。」と、両そでをつかんで体をゆすりました。そしたら、鼻たらしが、「それじゃ、大変だ。ズドーンと一発、仕留めなければならない。」と、ズドーンと鉄砲を撃つまねをして、鼻をこすりました。するとただれ目の人が、「イノシシの子がどんなにかわいそうなことだろう。」と、目をこすりました。 ●三枚のお札 (五郎とばあさまに化けた古ダヌキの話) むかし、あるところに、五郎という男の子がいました。その五郎が、「おばさんの家に柿をあげてきて。」と(家の人に)言われて、柿を背負わされて(おばさんの家に)向かって行きました。すると道に迷ってしまい、一人のばあさまが井戸端で米をといでいるところに出会いました。すると、ばあさまが、「おまえ、どこへ行くのか。」と言いました。「おばさんの家に柿を持っていく途中です。」と言ったら、「わたしが、おまえのおばさんだ。」と、言われたので、(五郎は、)「違う。ぼくのおばさんは、額にほくろがあります。」と言いました。そしたら、「わたし、今日は豆うちだったから、ごみがついて見えないのです。今ここで顔を洗うから。」と、井戸端でジャブ、ジャブ(顔を)洗って、そして額に、ほくろをつけてしまいました。そして、「ほら、おまえのおばさんだぞ。」と言われて、ついて行ってしまいました。一晩泊まっていく時に夜中に、ブリッコ、ブリッコと何かを食べている音がしました。これは大変だと思って、「おばさん、何を食べているの。」と聞きました。すると、「おまえにもらった柿を食べているんだ。」と、ブリッコ、ブリッコと食べていました。大変なことがおきたと思って五郎が、「小便、小便。」と言いました。すると、「小便は庭の隅にでもしなさい。」と言って、まだブリッコ、ブリッコと食べていました。「庭の隅にしたらば罰があたるから、早く、早く、小便でそう。」と言ったら、帯に鎖をつけられました。そして、「小便所に行って来い。」と言われました。 五郎は神さまにお願いしました。「何だか気味が悪いから、どうかこの鎖を解いてください。」と、一所懸命に神さまにお願いしたら、神さまが(鎖を)解いてくれ、鎖を柱に結いつけてくれました。そして(五郎は、神さまから)三枚のお札をもらいました。「もし(ばあさまに)追いかけられたら、『大いばら山になれー』と言ってお札をまきなさい。その次は『大火の海になれー』と言ってまきなさい。その次は『大波になれー』といってまきなさい。」と、教えられました。五郎はずっと走って逃げました。ばあさまは、「早く来い。早く来い。」と言って、全力で鎖を引っ張りました。そしたら、小便所が入り口まできて、ガターンと引っかかっていました。ばあさまはこれは大変だ。逃げられたと、臭いをかいで、髪をはねながら追いかけてきました。五郎はもう少しで食べられそうになった時、神さまにもらったお札を、「大いばら山になれー。」といってまいたら、山がいばら山になりました。ガサ、ガサ、ガサ、ガサと(ばあさまは)山を越えてきました。そしてまた、つかまりそうになったので、今度は、「大火の海になれー。」と、またお札を投げました。そしたら、火の海になってもばあさまが火をかきわけて、走ってきました。そしてまた、つかまりそうになりました。それから今度は、「大波になれー。」とお札をまいたら、波がジャプーン、ジャプーンとおしよせて、そこをばあさまは流されもしないで、やってきました。五郎は恐ろしいし、どうしたらよいかと思って、息をつぎつぎチラッと見たら、高いところにお寺がありました。そのお寺に走っていくと、和尚さんムニャ、ムニャと一所懸命お経を読んでいました。「ばあさまに食べられるから、こういうわけだから、早く助けてください。」と頼んでみると、「今、一服お茶を飲んで。」なんて、のん気なことを言いました。五郎は慌てていました。「早く。和尚さん、早く。早く。」そしたら、お寺の大きな囲炉裏の上に、むかしは芋などが凍みないように、干しておくところがあって、そこのところにはしごを掛けて、かくしてもらいました。そこのところに、ばあさまが波をこえて(水浸しの)ダラ、ダラになってきました。「寒い。寒い。火にあたらせてください。家の息子がこなかったかい。」などと言って、そして、ブリブリ、ブリブリと木を折って火をたきました。そしたら上で、「熱い、熱い、熱い。」と言いました。「あっ、いた。」と、ばあさまは、はしごがかかっていたので、半分くらいまで登っていきました。すると、和尚さん一所懸命お経を読んで拝んだので、はしごが折れて、ばあさまは下にベタッと落ちてしまいました。そして、その死んだばあさまよく見ると、大きな古だぬきだったということです。 ●じい、ばあの江戸見物 (おばあさんの江戸見物の話) むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいて、「江戸見物に行きましょう。」と言う話になりました。「おばあさん、江戸は生き馬の目も抜かれるようなところだから、私と放れたら、もう二度と家には帰れないぞ。棒の先の方に赤い切れはしを付けておくから、はなれないように見物しなさい。」と言って、江戸に行って見物して帰ってきたそうです。「おばあさん、江戸はどうだったい。にぎやかだったでしょう。」とみんなに聞かれたら、「にぎやかでしたよ。それより、江戸は棒の先に赤い切れはししかなかった。」と言ったそうです。 ●信夫山のごんぼキツネ (しっぽの短いキツネの話) 信夫山をお山と言っていますが、むかし、お山のごんぼ(しっぽの短い)ギツネと、なんという山か忘れたが、その山のキツネとが、「金持ちばかにして、金とって酒でも飲もう。」と相談しました。お山のキツネのほうが賢かったのでしょう。人に化けて別なキツネが馬になりました。そして、「馬買ってください。」と、ある金持ちの家に行きました。馬を買う時はあるかせて歩きぶりを見たり、姿、格好を見て買いました。その家のだんなさんが後ろ足がどうだ、こうだと言えば、化けているのだからそのとおりに直すし、首の振り方がどうだと言えば首も直すし、立派な馬になってしまいました。だんなさんは喜んで言い値どおりで買ってくれました。 お山のごんぼギツネはいっぱい金をもらって、自分ばかり飲んだり食ったりしてしまいました。馬に化けたキツネはすぐ逃げられると思っていたが、厳重に馬屋にかこわれたので逃げられませんでした。そのうち馬屋から引き出されて、体や足を洗ってもらっているうちに、やっと逃げてお山のキツネのところに行きました。分けまえをくれと言っても、(お山のキツネが、)飲み食いしてしまったのでもらえませんでした。よし、見ていろ。今に敵を取ってやると、(別のキツネは、)その時は帰っていきました。 寒い冬のある日、(別の山のキツネが、)川でいっぱい魚を捕って食べていたところに、お山のごんぼギツネがやってきて、「おらにも分けてくれ。」「いや、だめだ。阿武隈川に行けば、いくらでも捕れる。明け方近くに行って、川にしっぽ浸してじっとこらえていれば、いくらでもかかってくるよ。」と言いました。お山のキツネは本気になって、明け方近く、阿武隈川に行ってしっぽを浸していました。かんかんという寒い日だったから、凍りついてしっぽが抜けなくなってしまいました。そのうちに夜が明けて、村の人たちも仕事に出かけてくるので、あわてて無理矢理引っぱったら、しっぽがポッツリ切れてしまいました。それで、お山のごんぼギツネと言われるようになったとさ。 ●下手渡(しもてど)の嘘つき (嘘つき名人の話) むかし、下手渡に嘘つきの名人がいました。「おまえ嘘つき上手だが、なんで上手なんだ。なにか嘘の本でも見て、嘘をつくのかい。」と(ある人が)聞いたら、「嘘にほん(本当)があるか。」と言いました。 あるとき、田仕事の一服休みで、みんなが休んでいたら、しもの方からその嘘つきがやってきました。(休んでいる人たちが)ひとつからかってやろうと思い、「今日は嘘つかないのかい。」と言ったら、「嘘どころじゃない。おまえのおっかあが倒れて、前野さまに(診察してもらうよう)頼みに行くところだ。」と、急いで、テコ、テコ走って行ったので、あわてて仕事を切り上げて家に帰ってみたら、おっかあはピン、ピンして仕事をしていたので、「また、やられた。」と言ったとさ。 ●十二支の由来 (おしゃかさまと十二支の話) むかし、おしゃかさまが十二支を決める時に、「何日の何時まで集まってきなさい。」と言って、お触れをまわしました。牛は、一番乗りしようと、早々と出かけました。ネズミはずる賢いから、牛のしりにちょこんと乗っかって、おしゃかさまの近くに行った時に、牛より先にピョンと飛び降りて、「おらが一番だ。」と言いました。それで、子、丑、寅、卯、辰、巳…となったそうです。ネコは一日おくれて行ったので、「もう決まりました。」と言われたそうです。ネズミのやつはずる賢いから、ネコに一日ずらして教えていました。ネコは腹を立てて、それから、いつまでもネズミを追いまわすようになったそうです。 ●ショウブ湯の由来 (ショウブ湯の由来の話) むかし、ある山伏が、山奥の滝に、うたれて帰ってきたら、大きな蛇に追いかけられました。なんとも恐ろしくなってしまい、逃げ場がないので、ショウブとヨモギのはえているところに、逃げ込んでしまいました。ヘビはそれが嫌いなので、真っすぐ行ってしまい、(山伏は、)命拾いしました。その日が五月の節句だったので、それから、厄払いとしてショウブ湯を沸かして入るそうです。 ●しり鳴りへら (あほな人の金儲けの話) むかし、むかし、あるところに、あほな人がいました。ご飯はたくさん食べるのだけれど、ぶらぶら遊んでばかりいました。 ある日のこと、気が向いて近くの神社に行ったそうです。何か(お供え物が)あるかなと思って(神社に)入ってみたら、何もお供え物がないので、頭が悪いくらいだから、(御神体)の脇に行って大便をしたそうです。そして、何も拭くものを持っていなかったので、御神体の脇に捨ててあったへら(しゃもじ)で、ひょっとしりを拭きました。そしたら、しりが鳴きだしました。「トーピスカラピス、スッカラピース、スカスカギンナン、ハッカッコ。」と鳴きだして、それがどうしても鳴いていました。困ってしまいしりをつかんでもどうしても、鳴き続けて止まらないので、(へらの)ご飯をよそう方でちょっとしりをこすったら、ぴたっと止まってしまいました。これはいいものを授かった。あほだ、あほだと言われているから、これでお金を稼ぐことができるぞと喜びました。 そうして、ある日の夕方、村一番の長者の風呂場に忍び込んで、娘が風呂に入るときにちょっとへらで(娘のしりを)さわってやったら、娘のしりが、「トーピスカラピス、スッカラピース、スカスカギンナン、ハッカッコ。」と、鳴き続けに鳴きだしました。娘も湯に入ったものの、(しりが)鳴いてばかりいるので、家に飛び戻ったら(家族)みんなもびっくりしてしまいました。それから、お医者さまよ、神主さまよと、直してもらおうと頼んでも、直りませんでした。こういうしりの鳴き方は初めてだし、どうしてこんなに鳴くのかと、娘もみんなも困ったことだと途方にくれていたとき、あほだ、あほだと言われていた男が、きれいな布切れにへらをつつんで、「しりが鳴くのを直すー。しりが鳴くのを直すー。」と、(長者の家の)前の道を通ってきました。(長者は)家の中でそれを聞きつけて、「私のうちに来てください。」と、呼び止められてその家に行きました。 娘の脇に座って、少し薬を飲まして、きれいな布切れから見えないようにへらを出して、ご飯をよそう方で(娘のしりを)ちょっとなでたら、ぴたっと止まってしまいました。「どういうことをして直した。何の薬を飲ませた。」と聞かれたので、「金けつよりえん丹という薬を飲ませた。」と言いました。(娘のしりも)直ったのでとても感謝され、あほな男はお礼にたくさんのお金をもらって、家に帰ってきて、新しく家を建てたりして、きれいな嫁ももらったそうです。 ●しりに沢あん (ばかむこと沢あんの話) むかし、むかし、こんなことがありました。南山のばかむこがよその家にお呼ばれして行った時、おいしい沢あんをだされました。ばかむこはいつもかかあを大事にしていましたので、こんなにおいしい沢あん、我家のかかあにも食べさせたいなと思って、自分が食べるふりをして、こっそりとふところに入れて帰ってきました。そして、夜寝てから、「おいしいから食べてみろ。おいしいから食べてみろ。」と、かかあに食べさせようと思ったのですが、かかあは日中、一生懸命働いて疲れていたので、グウ、グウ眠っていて食べようとしません。ばかむこはしかたないので、「おいしいから食べてみろ。おいしいから食べてみろ。」と、しりの方にさしだしたら、かかあはスーッとおならをしました。そしたら、「すかくない(すっぱくない)から食べて。すかくないから食べて。」と言いました。そんなことをしているうちに、(かかあは、)ボーンと大きなおならをしてしまいました。そしたら、「いや、いや、盆まではおけないから、それじゃ、おらが食べてしまおう。」と、ばかむこが食べてしまいました。 ●甚五郎の知恵 (甚五郎と他の大工たちの腕比べの話) むかし、左甚五郎がまだ若い時のことです。他の大工たちが(甚五郎を)ねたんで、悪口を言ったので、それでは、木でネズミを作って腕比べをすることになりました。みんな本気で作ったそうです。いよいよ約束の日がきて、みんな(作ったネズミを)持って集まってきました。みんな今にも走り出しそうな良い出来具合のものばかりで、どれが一番良いか決められませんでした。 それでは、ネコを連れてきて、ネコの飛びついた方が良くできているに違いないと言うことになりました。作ったネズミを並べてネコを連れてきました。はじめネコはあっち、こっちうろうろしていたけれども、ネズミに気がつくと急に目の色変えて、甚五郎が作ったネズミに飛びかかって、くわえて逃げていきました。ほんで、やっぱり甚五郎の腕は一番だとなりました。本当は、甚五郎は(ネズミを)かつお節で作ったそうです。とんちがきいたのですね。 ●スズメの粗こつ 1 (おしゃかさまとスズメの話) むかし、おしゃかさまがめぇ落どす時、「早ぐきて見でくれろ。」って言わっちゃそうだ。ほしたら、スズメは山でみの笠着て、一生懸命かせえでっどこさおせぇらっちゃもんだがら、えしょも何もかまねで、みの笠着たまんまはねでったど。 戸んぼくちさへえってない、家の中さ、はねこむどき、敷居さ足がつっかがって足痛ぐしたがんで、スズメはピョン、ピョン、ピョンって歩ぐんだって。 ツバクラはしゃれこな鳥なもんだがら、おしろいつけだり紅つけだりして、しゃれこして行ぐうぢに、おしゃかさまはめぇ落どしちまって、いきあわねちまったど。スズメはおしゃかさまさ、いきゃったがら、ほんで、「おめえは米をけぇ。」って、言いわたさっちゃんだと。ツバクラは死にめさあわねがら、ほんで、「虫探してけぇ。」って、言わっちゃんだとさ。 ●スズメの粗こつ 2 (おしゃかさまとスズメの話) おしゃかさまは万物の親方っていうが、一番えれえ人だがら、めぇ落どすというどき、人間はじめ鳥やけものにいたるまで、みなかげつけてきたんだと。 ところが、おしゃかさまのぜえさ行ぐには、ちっと身なりよぐして行がなくては不調法だがらって、ツバクラはうんと化粧してトロ、トロどみがいで行ったんだと。スズメは死にめに会わねど困っと思っで、羽とがすまもなくバサ、バサしたまんまかげつけだわけだ。おしゃかさまは早ぐかげつけでくっちゃからって、スズメさ、「おめえはなりふりもなぐ、おらを思っできてくっちゃがら、田んぼの米を食ってもぜえぞ。」って言わっちゃど。ほして、ツバクラはしゃれでトロ、トロ体ばかりつくって、死にめにあえねくれに遅っちきたんで、「おめえは田のくろの土虫でも拾ってけぇ。」って言わっちゃど。そごにいだヘビのやろうが、「おら何も食う物ねえなあ。」って言ったら、カエルのやろうそばさいで、「おらのけつでもけえ。」 、って言ったつうがら、ほんで、ヘビはカエルのけつがらのむんだと。 ●スズメの報恩 (おばあさんとスズメの話) むかし、あるところに、情ぶかいばあさまと欲ぶかいばあさまが、隣合って住んでいました。 ある日、村の子供たちが、一羽の子スズメをつかまえていじめているのを、情ぶかいばあさまが見ていました。あまりにもかわいそうなので、こどもたちに駄賃をあげて子スズメを貰ってきました。そうして、毎日傷が治るまで手当てをしてあげて、逃がしてやりました。 それから、しばらくたって、庭先でスズメがピンチョコ、ピンチョコやかましく鳴いているので(庭に)出てみると、その中の一羽のスズメが、パーッと飛んできて、ばあさまの肩に止まって、なにかをポロッと落としていきました。(それは、)ひょうたんの種でした。恩がえしのつもりで持ってきたのかなと思って、せっかくだからまいてみました。 そしたら、芽を出して、どんどん伸びて大きなひょうたんが二つなりました。中をくりぬいて何かに使いましょうと、(ひょうたんの)口を切って中の種や、かすなどを取ろうして振ってみると、一つのひょうたんから金がザラ、ザラ、一つのひょうたんから米がサラ、サラたくさん出てきました。「これはありがたいものだ。」って、また振ってみると、米がサラ、サラ、金がザラ、ザラ、またでてきました。それから、ばあさまはすこしも米に不自由しないで、お金持ちになって暮らしました。 それを聞いた隣の欲ぶかいばあさまは、よし、わたしもやってみようと思いました。だからといって、けがしたスズメがいないので、スズメを捕まえてきていじめて、そして、むりやり飲ませたり食わせたりして放してやりました。 そしたら、しばらくして、(スズメが)ひょうたんの種をおいていきました。(欲ぶかいばあさまは、)これは思い通りになった。わたしも一生米に不自由しないと思って、(種を)まいてひょうたんをならせました。(ひょうたんの)口を切って振ってみたら砂がザラ、ザラとでてきました。もう一つの口を切って振ってみたら、中からポコ、ポコと水がでてきました。においをかいでみたら酒でした。これは、わたしが酒好きなこと、スズメがわかっていて酒をくれたんだなと喜びました。自分も(酒を)飲んで気持ちが大きくなって近隣の人にも飲ませました。さあ、次の日になったら自分も近隣の人も、下痢をしてしまい、(近隣の人から)「とんでもないものを、ご馳走された。」といわれて、みんなからさんざん文句をいわれましたとさ。 ●前世の報い 1 (兄と鉄砲好きの弟の話) 昔、あっとこに兄弟があったと。せなの方は毎年奥めえりさ行っとったが、しゃでの方は行ったことがなかったど。奥の山つんだから何ぼか奥ぶけえ山で、鳥も獣もいっぱいいっペと思って、鉄砲撃ちの好きなしゃでは、今年はおらも行ぐって、あんちゃにくっついて行ぐことにしたんだど。そして鉄砲をかつぎ出したどころが、「あそこまで行って、殺生なことすんな。罰あだっつぉ。持たねえでやべ。」と言わっちゃが、鉄砲好きのしゃでは、言うごと聞かねで持ってだと。 途中まで行ぐと、なんの、なんの木の枝さ鳥が止まってだと。ありゃ、めっけだとなって、ぶとうとしたらあんちゃが、「罰当だっからぶってなんねえ。ぶってなんねえ。」って止めだが、ダーンとぶっちまったど。うまく命中してない、落っこったど。うまぐいったと拾ったら、鳥でなく袋さ金がいっぱい入ってだと。あんちゃはそれを見て、なぜしゃではたまにきて殺生までして、そんなの授かったんべと思って、お山のお堂さ行って悔し泣きに泣いで、泣き眠りに眠っちゃったど。眠ってるうちに夢知らせがあったど。「おめえは元をただせば、雀の生まれがわりで、上がったおさごをチョン、チョン、チョンと無断で食ってだ。しゃでは牛の生まれかわりで、奥の宮造っだどき、いっしょけんめ材木運んだんだ。てえへん役立った。」っていう知らせで、あんちゃは納得したんだとさ。 ●前世の報い 2 むかし、ある神社の改築工事の時だったど。人夫の中さ、油売ってばかしいるたれかと、陰日向なく働くが、親方にごしゃかっちばかりいるもんがあったど。ほんで、給金は同じだったんだと。こんな不公平な話があっかど、親方さ言ったら、「おらそんなことわがんねえ。みな同じに払えって言わっちから、文句あっこったらたゆ−さまさ言え。」って言わっち、たゆ−さまさ聞いたんだと。「おめえたち二人は、めえ−の世にここの神さまがでぎっどき、おめえは牛方でたれかもんは牛だった。牛はぜえ(材)木運んだり、石運んだりして、一生懸命稼いだが、その牛をひっぱたいたりして、こき使ったのがおめえの前世だ。ほれがこの世で報いどなって出たんだ。罪滅ぼしに稼ぐように生まれできたんだから、仕方ねえんだ。」って言わっちゃど。 |
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●沢あんだらい 1 (ばかむこの話)
むかし、ばかむこが親類のぜえさ呼ばっち行ったど。足洗うのに湯出さっちゃら熱がったわげだ。ぜえではまんま食ってお湯飲むどき、熱がったら沢あん一切れいっち、かんまがして飲んでだもんだがら、「沢あん出してきてくれ。」って言って、かんまがしたどさ。 ●沢あんだらい 2 (ばかむこの話) 南山のばかむこがまんま食うどき、沢あんで茶わんゆすいで、飲むように嫁こにおせらっちだど。正月に嫁このぜえさ行っで、じょ−り脱いで足洗っだどき、沢あんもらっでたらいかんまかしで足洗ってない、沢あん食べでその湯ば飲んじまったど。 ●沢あん風呂 1 (ばかむこと沢あんの話) 南山のばかむこがしゅうとのぜえさ泊まりさ行ったど。熱い湯ついでくれらっちゃら、熱くで飲めながったど。しゅうとおっかあさまが、「湯が熱い時は、沢あんで三回もまわせば、でえじょうぶだ。」って、おせえたど。その夜は泊まってすいしろさへえったんだと。ほしたら、おがだどご呼んで、「沢あん持ってこ。沢あん持ってこ。」って言ったど。「ほんなに沢あん好ぎなら、あがってがらなんぼでも食ったらぜえのに。」って言っだら、「いや、そうでねえ。すいしろ熱がったら沢あんで三回まわせばでえじょうぶだって、おっかあさま言ったでねえか。」って言ったどさ。 ●沢あん風呂 2 (ばかむこと沢あんの話) 南山のばかむこが、おっかあといっしょによそのぜえさ行って、まんまご馳走になったど。食っちまっても茶わんそのまんまにしとったんで、けえりにおっかあが、「まんま食っちまったらお湯もらっで、沢あんで茶わんの中かんまかしてうつくして、沢あん食べるもんだわ。」って教えたど。ぜえさけえってすいしろさへえったとき、「沢あん持ってこ。持ってこ。」っていうんで、持っていったど。なかなか上ってこねんで、おっかあが行ってみっと、沢あんですいしろかんまがしては、ガリ、ガリ、またかんまがしては、ガリ、ガリってやっておったと。 ●沢あん風呂 3 (ばかむこと沢あんの話) しんしょもちの息子なんだが、ちっとあほだったど。年頃になったもんだがら、親が嫁こむかえでくっちゃど。南山っていうどこさいだもんで、南山のばかむこでとおってだと。ばかむこはぜえでまんま食ってお湯飲むどき、熱い、熱いって言うもんだがら、沢あんでえごんいっちかんまかすどぬるぐなっから、ほして飲めっておせらっちたど。 正月が来て嫁ことしゅうとさ行って、すいしろさへえっことになってない、ばかむこが、「早く沢あんでえこん持ってこ。」って言ったど。「でえこんなんすんだ。」って言ったら、「熱いがらかんまかすとぬるぐなる。」って言ったどさ。 ※沢あん風呂の話はこの他、飯坂 藤原アキヨ、西福沢 菅野豊之助、鶴沢 根沢 タツ、飯坂 本田 貞等、全町にわたって採集されている。 ●タヌキと知恵くらべ (タヌキとじいさまの話) むかし、むかし、天平入りの山に古ダヌキがいました。炭焼小屋のじいさまのところに毎晩遊びに来ていました。あるとき、タヌキがじいさまに知恵くらべをしようと言ったそうです。じゃんけんして勝った方から問題を出すことにしました。じいさまが勝って第一問を出すことになりました。それは一丁のとうふを百に切って、一こを一口で食べることでした。タヌキはそんなことは簡単なことだと思って見たら、一丁を半分にして残りが小さく切ってありました。それで百だったそうです。いくらタヌキの口が大きくても、一丁の半分はタヌキの口には入りませんでした。それでタヌキの負け。 勝ったので、またじいさまが問題を出しました。今度は動かないで体を倍にすることでした。タヌキは早速腹鼓を打って腹をふくらませました。じいさまは、そっととげのあるバラの小枝を、ふくらんでくるタヌキの腹に向けておきました。だんだんふくれてくるタヌキの腹が、バラの小枝のとげにプッと刺さったから空気が漏れて、タヌキがいくらふくらましても大きくならず、だんだん小さくなっていきました。それで、また、タヌキが負けてしまいましたとさ。 ●タヌキの機織り (狩人とタヌキの話) むかし、若い鉄砲うち(狩人)が一人で山に狩りに出かけていきました。その日はあいにく獲物に逃げられてばかりで、とうとう日が暮れてしまいました。そして、疲れてしまったので大きなスギの木の下で寝ることにしました。遠くから聞こえてくるキツネやイヌの鳴き声を聞いているうちに、若い鉄砲うちは昼間の疲れでぐっすり寝込んでしまいました。 しばらくたって、バッタン、バッタンとかん高く静かに聞こえてくる機の音で目を覚まし、寝ぼけまなこをこすりながら周りを見ました。すると、すこし先の大きなマツの木のあたりがぼーっと明るくなっていて、そこから機の音が聞こえてくるようでした。若い鉄砲うちはおかしなこともあるものだと、わからないようにそろり、そろり行って上を見ると、美しい女の人が大きなちょうちんつけて機を織っていました。 しばらくの間機の音を聞きながら見ていましたが、ふと、この頃村に古ダヌキが出てきて村の人をだますということを思い出して、こいつはきっと古ダヌキの仕業だろうと思い、しとめてやろうと思いました。しかし、たまは一発しか残っていませんでした。まちがえなく当てるには、大きなちょうちんを狙うに限ると、こっそり鉄砲を構えバーンとぶっぱなしました。見事にちょうちんに当たったと思ったら、美しい女の人は真っ逆さまに落ちてきて、黒いかたまりになって暗闇の中に消えていきました。若い鉄砲うちはほっとして、昼間の疲れで恐いのも忘れ、木の下で眠ってしまいました。 真っ赤なお日さまが向かいの山に上ってくる頃、若い鉄砲うちは目を覚ましてびっくりしました。マツの木の下にはべっとりとたくさんの血が落ちていました。それをたどって畑を越え山の奥の方に行って見ると、大きな岩の下で大きな古ダヌキがウーン、ウーンとうなって死にそうになっていました。 それから、村の人はタヌキにだまされずに、また、静かな村にもどりました。 ●タヌキの八畳敷き (昔話のうまいじいさまと古ダヌキの話) むかし、あるところに昔話の上手なじいさまがいました。毎晩、小僧が、「昔話聞かせてください。」と、来たそうです。じいさまはどこの小僧だか分かりませんでした。そして、話を聞き終わると、「それじゃ、おやすみなさい。どうもありがとうございました。」と、帰ってしまうそうです。 じいさまは、おかしな小僧だ。化け物に違いないと、ある晩火ばしを囲炉裏の火の中にさしておいて、昔話をしながら(火ばしが)真っ赤になるまで続けて、ちょい、ちょい居眠りをするふりをして、小僧の様子を見ていました。小僧は火にあたりながら金玉だしてあぶりだしたそうです。それをだんだん大きく広げて、じいさまにかぶせようとしたので、(じいさまは)その動きを読んで、真っ赤な火ばしをさっと突き刺しました。そしたら、「ギャーッ。」と、縁側の下にもぐっていきました。タヌキの金玉八畳敷きといいますが、それは古ダヌキだったそうです。 ●旅人と大蛇 (七里四方を取り巻く大蛇の話) むかし、むかし、盲目の旅人が町に行く途中、ある大きな山を通りかかりました。旅人は笛を吹きながら山に登って行ったのですが、日がとっぷりと暮れてしまい、仕方なく野宿することにしました。淋しくて笛を吹いていると、立派な侍が通りかかって、「わしは人間ではない。この山の七里四方を取り巻く大蛇だ。おまえの笛の音があまりに美しいので、こうしてここまでやって来たのだ。」と言うと、しばらく笛の音を聞いていました。旅人が笛を吹き終えると、大蛇は、「このことは他人に話してはいけないぞ。もし話したならばおまえの命はないと思え。」と言って、どこともなく消えていきました。次の日、旅人は町に着くと、黙っていられなくなって町の人たちに話してしまいました。すると旅人はその場に急にばったりと倒れてしまいました。その話を聞いた町の人たちはその山に登り、山を取り巻く七里四方の大蛇の住む地割れに、金の矢を七百本打ち込みました。すると大蛇は七日七晩苦しんで死んでしまいました。 ●団子の食い方 1 (だんごの日のばかむこの話) 南山のばかむこが二月十六日のまゆだんごの日に、団子すっからってしゅうとさ呼ばっち行ったど。ほして、団子出さっちゃんだと。ほしたら、一つずつペロッ、ペロッと一ペんに食べんだってない。「団子ってそういうふうに、一つずつペロッ、ペロッど食べるもんでねえ。」って、おがだに言わっち、今度二つずつ食ったんだと。「そんじゃ笑われっがら、そなごどでなぐ食え。」って言わっちゃど。 ●団子の食い方 2 (だんごの日のばかむこの話) 南山のばかむこがおがだもってがら、しゅうとさ行ぐごどになったんだと。おがだに、「今日は二月の十六日だがら、団子ださっちゃら、あんぐり一口で食うもんでねえ。」って聞かせらっち、しゅうとさ行ったど。ほしたら、なんのじ団子出さっちな、一口で食うもんでねえって言わっちゃがなを、二つずつ食わながなんねえもんだど聞いだわげだな。二つずつ食ったどごろが、しめえに一づになっちまったんだと。ほして、「一づ足んねえ、一づ足んねえ。」って、さいそくしたつぅんだな。 ●団子むこ 1 (女神山のばかむこの話) むかし、女神山さばかむこがいで、仕事は確かなんだげんちも、食うごどに欲があって、食いぬけってやっちゃむこだったんだと。 あっどき、お祭りさ呼ばっち、とってもうめえもん腹一杯ごち走になったど。ぜえさけえったらせっかぐ、つくってもらって食うべと思って、「これはなんていうもんだ。」って聞いだら、「団子って言うもんだ。」っておせらっちゃんで、けえるうぢ忘んねえようにと、「団子、団子、団子、団子。」って、ずうっと山も川も通るうぢ、忘んねえで来たんだげんちも、家のそばさ来だら気がぬげだのが、掘っこ渡っどき、「どっこいしょ」って渡っだら、今まで「団子、団子。」って来たのが「どっこいしょ」ってなっちまっで、ぜえまで、「どっこいしょ、どっこいしょ。」で来ちまったど。ぜえさへえるより早くおがだに、「どっこいしょこしゃえてけろ。」「どっこいしょってなんだ。」「こだようなもんだ。」って、手まねで丸つくってみせんで、餅でもあっかど思ってこしゃえてかせだら、「これではねえ。」って、ごしゃいで、ただかっちゃど。おがだが、「いでえ、団子のようなこぶでぎだ。」って言ったら、「ほれ、ほの団子のごどだ。」って言ったど。 ●団子むこ 2 むかし、むかし、ばかなむこさまがあったど。しゅうとさまさご年始さ行っだら、しゅうとさまのぜえでうめえ団子出してくれらっちゃど。うめえがらない、うんと食べだんだと。「せなさま、うんと食べで、ゆるっと休んでいがせよ。」って言わっちゃがらない、あらまし食べちまったんだと。すっと、しゅうとおっかぁさまがまたつくってくっちゃんで、団子もらってけえって来たど。 途中まで来たんだげんちも、掘このっ越えっとって、団子ころげ落ぢっちまってなぐなっちまったと。名めえ忘れっちまうど思って、「団子、団子、団子、団子、団子、団子。」って、やって来たど。ほしたら、またずない堀こあったがら、「どっこいしょ。」って、のっ越えたんだと。ほしたら団子がどっこいしょになっちまって、「どっこいしょ、どっこいしょ。」って言いながら、ずうっとぜえさけえって来たんだと。「おめえのぜえさ行って、どっこいしょ食わせらっち、うんとうまがった。けえりしなにもらってきたが、落ぢちまって拾わねで来たがら、こしゃってけろ。」って言ったんだと。「どっこいしょって、なんだ。」って嫁こが言ったど。「あれ、どっこいしょだったもんな。食ってぎたの。」って、ばかむこが言うんだって。ほしたら、なんがしてけつまずいて、ボコンとたんこぶでぎたんだと。丸こくない。ほして、「ああ、その、団子だった。」って気づいて、「団子こしゃってけろ。」って、嫁こさ言ったんだとさ。こんで、ざっとむかしはさ−がえだ。 ●団子むこ 3 むかし、むかし、あったど。南山のばかむこがしゅうとさ呼ばっち行ぐのに、団子もって行ぐごとになったど。「うめえ団子もってきたがら、食べてくなんしょって出すんだよ。」って、おがだに言わっちたがら、団子の名めえ忘ちゃてえへえんだと思っで、「団子、団子、団子、団子。」って、繰りけえしながら行ったど。ところが、堀こあったもんだがら、「どっこいしょ。」ってのっ越えだら、団子忘ちゃって、今度は、「どっこいしょ、どっこいしょ。」に変わっちまったど。ほして、しゅうとさ行って、「どっこいしょ持ってきたがら、食べてくなんしょ。」って突んだしたがら、しゅうとが、「どっこいしょってなんだべ。ってあげてみだら、団子だったど。 ●だんじゃべ (嫁と泥棒の話) むかし、あるところに、変なことにへ(屁)が、ちょっと聞くと、「だんじゃ、だんじゃ。」とへをこく女の人がおりました。ある家に嫁に行って、暇さえあると、「だんじゃ、だんじゃ。」と、へをたれていたそうです。 ある晩、泥棒がやってきて、家の周りを立ち回っていたところに、「だんじゃ、だんじゃ。(だれですか、だれですか)」と聞こえるので、なんだこれ、見つかったのではないかと思って、前の畑にベタッとなって隠れました。それでも、まだ「だんじゃ、だんじゃ。」と言っている。また、ここにいても見つかったかと思って、ついに泥棒に入らないで行ってしまいました。 ●丹波のめざき、おざき (魔物と丹波の三毛ネコの話) むかし、むかし、ある村の名主さまの家で、不幸が続いて死に絶えてしまいました。そして、空家になったその家に魔物が住みついて、村の人を食い殺したりして、みんな困ってしまいました。村の元気の良い若い者たちが、われこそは退治してやりましょうと乗りこんでいっても、次の日の朝(村の人が空家へ)行ってみると、のど笛を食いちぎられて、死がいになっていました。村の人たちは恐がって空家の前をなるべく通らないよう、遠回りして通ったり、夕方には早めに山から帰るようになっていきました。 そんなことが長く続いたので、(新しい)名主さまはとても心配して、どうにかして退治しなくては村がつぶれてしまう、魔物の正体が何だか探ってやろうと、ある晩、勇気を出して空家に忍び込んで、魔物が出るまで待っていました。そうして、夜中になったら急ににぎやかになったので、何が起きたのかと聞き耳を立てたら、その言葉の中から「丹波の国の太郎左衛門の、めざき、おざきに知らせるな。ドッカダ、ドンドン、キッタカ、ドンドン。」と、何者かが歌って踊っているのが闇の中からわかりました。 名主さまは、そのはやし言葉を覚えてきて、これは丹波の国の太郎左衛門と言う人のところに行けば、何か分かるのではないかと思い、さっそく旅支度をして探しに出かけました。何日かかったのでしょう。やっと太郎左衛門の家を探しあてたところ、その家も名主さまでした。「実はこれこれ、こういうわけでたずねてきましたが、魔物が知らせるなと、恐がっているめざき、おざきとは何のことでしょう。」と聞いたら、「めざき、おざきと言うのは、ネコのことです。三毛ネコのひとつがいのことです。」「何とかそれを貸していただけないでしょうか。」「とても利口なネコで、家族と同じに育ててきたので、そんな危ないことが分かっていて、貸すわけにはいかない。」「私の村の危機を救うと思って、何とかまげてお願いします。」と言ったら、太郎左衛門を分かってくれて、「それでは貸してやろう。だが、どんな姿になってもきっと返してくれ。」と、かたく言われて二匹の三毛ネコを借りてきました。そしてネコの大好きなものを食べさせて、機会を狙っていました。 そしてある晩、時刻をみはからって、二匹の三毛ネコをだいて、化け物屋敷に行きました。「丹波の国の太郎左衛門の、めざき、おざきに知らせるな。ドッカダ、ドンドン、キッカダ、ドンドン。」とはやしながら、魔物が踊りを踊っていました。「それっ。」と、ネコを放してやったら、ドタン、バタン、バタン、「ギャーッ、ギャーッ。」と、天地がひっくり返るような大騒ぎになりました。名主さまは闇の中で、三毛ネコのことを心配しながらふるえていたら、そのうちシーンとなってしまいました。 夜が明けてみると、小さな牛ほどもある古ダヌキが二匹、のどを食い切られて死んでいました。そのそばに、めざき、おざきも、血だらけになって死んでいました。 名主さまは村の人たちと泣きながら、血だらけになったネコを、ていねいにふいてやり、さっそく旅支度をして、丹波の国に帰しに行きました。太郎左衛門の家に着いてから、力のかぎり戦って死んだことを話して聞かせたら、「それでは、めざき、おざきも満足して死んだだろう。手あつく葬って長く供養してやろう。」と言いました。助かった名主さまの村では、比翼塚(※)をたてて、長くネコの霊をなぐさめてやりました。 ※比翼塚=男女を合伴して建てた塚 ●長者の三毛ネコ (長者の飼いネコの話) むかし、むかし、秋山の一貫森に長者が住んでいました。あるとき、その長者の嫁が一人で留守番をしている時、飼いネコの三毛ネコが、「あねさま、あねさま、これからわたしが踊りを見せてあげますよ。よーく見ていて下さい。それでもこのことは誰にも話さないでください。もし誰かに話しをしたら、生かしておかないからね。」といって、おもしろ、おかしく踊ってみせました。嫁は黙っていればよかったのに、みんなの前で手柄顔をして話してしまいました。すると、突然三毛ネコが飛んできて、嫁ののどもとを食い切ってどこかに逃げていってしまいました。嫁はそれがもとで死んでしまい、長者の家もその後落ちぶれてしまいました。 ●天から降った金(かね)と地にある金(かね) (じいさんと小判の話) むかし、あるところに、正直なじいさまと、欲の深いじいさまが隣合って住んでいました。正直なじいさまは、いつも、「天から降った金は授かりものだから、使っても良いが、地にある金は誰かが落としたものだから使えない。」と言っていました。ある時、正直じいさまが道を歩いていると、道ばたに金の入ったかめがあるのを見つけましたが、地にある金は使えないと、拾わないで帰ってきました。その話を聞くと、隣の欲の深いじいさまは、さっそく拾いに行ってかめの中をのぞいて見ると、おそろしい人間の生首が入っていました。欲の深いじいさまは、カッ、カッと、頭にきて(生首の入ったかめを)持って帰って、正直じいさまの家の煙出しから放り込みました。すると、生首は小判に変って家の中にざらざらと降ってきました。正直じいさまは喜んで、「これは天から降った金だから使っても良い金だ。」と、近所の人にも分けてやって、楽しく使いました。 ●天人女房 むかし、松原ってどこで、一人の男が炭焼きやってたど。ほしたら、ある日の夕方、天人たちが水浴びさやってきたんだと。えしょを松の枝さかけて、ほして、水浴びでるうぢに炭焼ぐ男がな、ほのえしょはぜええしょだがら、かぐしておけば天さ昇って行がんねえがら、ひとづかくしておくべって、一人のがなをかくしちゃったんだと。 天人たちは水浴びで、キャッ、キャッ、キャッさわいでない、楽しく遊んで、ほして、えしょを着っ気になっだら、一人のえしょがねえんだって。みんなは着てない、天さ昇って行っちまったど。一人の天人は昇って行がんなくて、シク、シク、泣いてたんだと。ほして、しめえに炭焼ぐ男のおがだになっちまったんだど。 ほして、二年、三年してるうぢに、男のわらしができたんだってな。天人はわらしにな、「ちゃん、かぎちょうだい。かぎちょうだい。」って言わせたんだと。炭焼ぐ男はあんましわらしにせがまっちない、かぎをあずけちゃったんだど。長持ちのかぎをない。ほしたら、天人が長持ちさかぐしておいだえしょめっけて、着て天さ行ぐどき、わらしを天神さまさない、捨てでったんだと。ほして、わらしに、「どっから生まっちゃって、聞かっちゃら、木の根っこから生まっちゃって言えよ。」って、おせえで行っちまったど。 ほしてるうぢに、天神さまのお祭りがきたんだと。近所のわらしがまりつきしてるうぢに、ちょうど天神さまの後ろさ捨てでったわらしんどこさ、まりがポーンと転げていっちゃったんだと。あけえ−えしょ着てるもんだから、拾わんねべ。わらしらはがおったなあなんて騒いでるうぢに、やぶの中からポーンとけえってきたど。「だれかいっぞ。」って行ってみっと、天人のわらしだったんだと。「おめえはどこのわらしだ。」って聞いだら、「おら、どこのわらしでもねえ。」「どつからきた。」って聞いても、言わねんだって、ほして、「おら、木の根っこがら生まっちゃんだ。」ってばっかし言って、おせぇらっちゃどおりしか言わなかったど。ざっと、昔はさ−がえだ。 ●とんまな親子 (とんまな親子の話) むかし、あるところに、とんまな親子がいました。ある日、しゃで(弟)の方が、「あんちゃ(お兄さん)、おらぁ、今日ウグイスの初音聞いてきた。」と言いました。するとあんちゃが、「なんて鳴いたぁ。」と聞いたら、「テテッ、ポッポーって鳴いた。」と言ったので、あんちゃが、「あほー、ニワトリじゃないのだから、テテッ、ポッポーって鳴くか。」と言いました。そしたら、おどつぁ(お父さん)が、わきで聞いていて、「うん、なるほど、あんちゃはあんちゃだけあるな。」と言ったそうです。 ※注(テテッ、ポッポーと鳴くのは山バト) |
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●長い名の子 (名前が長い兄の話)
むかし、あるところに、兄弟がいました。兄の方は、「扇拍子(びょうし)をちょっと打って、ちょうぎちょうぎ長六に、長太郎びくに長びくに、あの山のこの山の、ああ申すこう申す、はっきりど縁切りもくあみに、てんもくもくのもくぞう坊、伊賀の平左衛門加賀の源蔵次、源七源八源年六、とっペない五郎、うりのおん坊とうがん坊、豆腐のおん坊食いしん坊、刀の鐺(とう、刀のこじり)の小左衛門、鳥の鶏冠(けいかん)の藤三郎」と言う長い名まえで、弟の方は「問うてなんしょ」という短い名まえでした。 お父さんは兄の方があまり可愛くないので、出世しないようにと面倒くさい名まえをつけ、弟の方は可愛かったので、短くて呼びやすい名まえをつけました。 そして、二人とも大きくなって、殿さまにお目通りをすることになりました。殿さまの前で、「兄の方から名まえを申してみよ。」と言われて、「はい、おらはこうこう、こういう者でございます。」と、長い名まえを申し上げたら、「ほう、なるほど、長い面白い名まえだな。」と、お褒めの言葉をいただいて、ご褒美をもらいました。それから、弟に、「そちは何と申す。」「はい、問うてなんしょと申します。」と言ったら、「問うてなんしょ。聞いてくださいとは何事だ。無礼者さがれ。」と、大変叱られましたとさ。 ●長良の人柱 (嫁と姑の話) むかし、ある家で嫁を貰ったのだけれど、(その嫁は、)話もしないで黙ってばかりいました。それで、なんともしょうがないから(嫁の実家に)かえすほかないだろうと、姑おっかぁさまが送って行こうと送って行きました。そしたら、途中でキジが飛び出したと思ったら、鉄砲うちがドーンと撃ちました。そしたら、嫁が、「口ゆえに親は長良の橋枕、キジも鳴かずば撃たれないもの。」と、歌を詠みました。姑おっかぁさまもその歌聞いていて、こういう嫁ではかえすことないと思って。「口ゆえにって、どうゆう訳だ。」と聞いたら、「おどつぁんが橋普請しているところに通りかかったら、橋が流されてしょーがないと聞いて、『そういうところには人を埋めておけばよい。』と言ったら、『それなら、人を埋めると言ったって誰を埋めたらよいのか。』という話になり、『縦じまに横じまの切れ(つぎあて)ついだ人にしよう。』という話になりました。たくさんの人がいたので、それでは(探そう)と探し始めたところ、私のおどつぁんがそうゆう切れが付いていました。そして、『それじゃ、この人埋めろ。』となってしまい、おどつぁんが埋められてしまいました。あんなことさえ言わなければ、埋められることもなかったし、キジも鳴かなかったら、撃たれることもないでしょう。」 おっかぁさまはそれを聞いて、そういう訳があったのか、歌を作るような嫁ではかえすことはないと思って、連れてかえってきました。 ●二十三夜の花嫁 むかし、むかし、あっとこに仲のぜえ兄弟があったど。せなはめっこでびっこ、しゃでは村一番のぜえ男だったど。しゃではりごで男ぷりもぜえもんだから、ご指南さまがくるげんじも、せなんどこさは誰もきてくんにゃがったど。せな思いのしゃでは、せなが嫁っこ貰わねうじは絶対持だねえって断わっていだんだと。ところがごえらしゃでが嫁取っことになっで、村の人はおったまげちゃったど。ほれも隣り村の小町娘だつぅんだな、ほして、正月の二十三夜の日に、ご祝儀すっことになったんだと。 三、三、九度の盃もすんで、いざ、床入れとなっだら、花むこが、「ちょっくら、しょんべんたっちくっから。」って、でていってな、めっこびっこのせなの手引いで、花嫁の床さもぐらせちゃったど。しゃでは素早く花嫁がぬいだ白むく着ちゃっで、サーッとから紙あげで、「夢々、疑うことながれ。われこそはとうとい二十三夜さまなるぞ。二十三夜にもかかわらず、夫婦の契りを結ぶとは、どつちかめっこかびっこにしてやっつぉ−。夢々疑うことなかれ。」ってやったわげだ。さあ、布団の中で嫁っこ困っちまったど。「おらとおめえさんは、今晩夫婦の契り結ばなきゃなんねえが、めっこかびっこになったら、おめえさん、おらこと見捨てっペか。」「おらほだごとねえ。おらがもしめっこかびっこになっだら、おめえごそおらどこ見捨ててなんねぞ。」って話しながら、夫婦の契り結んじまったわけだ。昨日まであれほど立派だった花むこが、めっこでびっこになっちまってぶったまげちゃったど。嫁っこもあきらめで一生そうてな、夫婦仲よく、あんちゃもしゃでも仲よくしで暮したど。 ほれがらは、正月二十三日にゃ、朝がらじょ−り作りしで、二十三足作んのに子の刻までかかるがな。ほして、二十三夜さま拝んで家の安泰祈願したもんだと。 ●ネコ檀家 (ネコの恩返しの話) むかし、むかし、あるところに、じいさまとばあさまが住んでいました。一匹のトラネコを飼っていて、自分の食べ物を半分に減らしてでも、ネコに食べさせて子供のようにかわいがっていました。 ネコはとてもなついていて、じいさまとばあさまの言うことを聞いていましたが、だんだんじいさまとばあさまは年をとってしまい、自分たちが食べるだけの仕事もできなくなってしまいました。それで、ネコもかわいいが、このままではとても食べていけないからと、あるとき、「おまえのことを飼っていけなくなったから、どこかの情け深い飼い主をみつけて、生きていってくれ。」と言ったら、ネコは悲しそうな顔をして、しょぼ、しょぼと出て行きました。 それから何日か過ぎて、ある晩、寝ていたら起こすものがいました。よく見たらトラネコでした。「長いことお世話になって、なんの恩返しもできないが、近いうちに庄屋さまがとてもかわいがっていた娘が死んで、お葬式になる。その途中で急に風が吹いてきて、仏さまが入っている棺が空に上がってしまう。どんな偉い山伏さまが祈とうしても、決して落ちてこない。どうしたらいいかと、庄屋さんが慌てるから、そのとき、じいさまが行って、『なむからたんのー、とらやーのやー。』と、空に向かって三度拝んでください。そしたら、棺を降ろしてやります。それでお葬式は無事にできて、一生食べていけるほどのお礼を貰えるだろうから。忘れないでそうやってください。」と言って、どこかに行ってしまいました。 何日かすると、案の定庄屋さまの娘が死んでしまいました。いよいよ今日はお葬式です。行列をつくって(棺を運んで)行ったところが、急に生臭い風が吹いてきて、仏さまの入った棺が、みるみるうちに空に舞い上がってしまいました。庄屋さまの家の人たちや、行列に参加してくれた人たちは、驚いてしまいました。「これでは困った。どこそこの寺の坊さまに拝んでもらえ。」「いや、山伏さまを呼んで祈とうしてもらおう。」と、拝んでもらったり、祈とうしてもらっても、どうしても落ちてきませんでした。そのとき、一緒に行列に参加していたじいさまが、「私が拝んでみると、落ちてくるかもしれない。」と言ったら、「それなら、じいさま、やってみてください。」ということになって、じいさまは少し格好つけて、トラネコに教えられたとおり、やってみました。空に向かって、「なむからたんのー、とらやーのやー。」と、坊さまのようなふし付けて、三度拝むと、棺が静かに落ちてきて、ちゃんと元の棺台におさまりました。 そして、無事お葬式も終わって、庄屋さまは、「いやぁ、一時はどうなるかと思ったが、じいさまのおかげで娘も成仏できた。何かお礼がしたいが、望みがあったら話してください。」「いや、別に望みもないが、これからは年をとって仕事もあまりできない、庄屋さまの庭を掃除にでもきたいので、使ってください。」と言ったら、庄屋さまはとても嬉しくなってしまい、「じいさま、ばあさまのことは、(私が)丈夫なかぎり食べていけるようにするから、心配しないでください。」と言われて、それで、じいさまばあさまは、一生楽して過ごしました。ネコはそれっきり姿を見せませんでした。 ●ネコの踊り むかし、あるぜえでない、赤いネコ飼ってだんだど。そのネコがごでが仕事さ行ったあとで、おっかが留守番してだら、突然踊り出したんだと。「キッカダ、ポンポン、カッタ、カタ。」って始まったんだってない。ほうして、「ごでのけえんねうちは、まだ調子が揃わえねえ。」って踊ってたんだと。そんとこさごでがけえって来たもんだがら、ごいらけむ出しからさ−っと逃げで、二度とけえって来なかったど。 ●ネズミ経 (にわか坊主のお経の話) むかし、ある人が用を頼まれて大金を持って、「どこそこまで行ってきてください。」と言われたそうです。途中で追いはぎに会ったら大変だ。無事に用たして帰ってくるには、坊さまの支度をして行くにかぎると思って、にわか坊主に化けて出かけました。 そうして、あるところまで来たら暗くなってしまい、泊まるところはないし、どうしようと思っていたら、明かりがもれている家があったので、そこに行きました。「暗くなったから、一晩泊めてください。」と言ったら、じいさまとばあさまがいて、「ああ、ちょうどいいとこに坊さま来ていただいた。じつは娘が死んで、葬式をすませたばかりです。功徳にひとつお経をあげてください。」と言うので、今さら坊さまでないと言えないので承知しました。じいさまとばあさまは、ちゃんと仏壇の前に坊さまの席を設けて、「坊さま、ひとつ供養お願いします。」と言われましたが、にせ坊主だからお経のおの字も知らない。なんて拝んだらよいかわからない。初めはカーン、カーンと鳴らしながら、むにゃむにゃとやっていたが、すぐ脇にじいさまとばあさまがいるから、何か文句を唱えなければならない。そうしたところ、仏壇のうしろからネズミがチョロ、チョロでてきました。これはいいと思って、「おんチョロ、チョロと穴のぞきー、カーン。」と適当に言いました。そしたらネズミがひっこんで、また出てきました。「また、チョロ、チョロと穴のぞくー、カーン。」と言いました。そしたら今度は、ネズミが二匹出てきて、チュー、チューと鳴いたので、「何やら相談しており候。カーン。」と言いました。ネズミはキョロ、キョロようすを見ていたが、ひっこんでしまったので、「どこにか逃げ行き候。カーン。」と言いました。 じいさまとばあさまは、坊さまが帰ってからも、そのお経をありがたがって、毎晩、娘の供養に唱えていました。 ある晩、二人の泥棒が娘を亡くしたことで、お悔やみがたくさんあるに違いないと思い、(じいさまとばあさまの家に)忍びこんで障子の穴からそっとのぞいて見ていました。そうしているところ、じいさまとばあさまが、「おんチョロ、チョロと穴のぞきー、カーン。」と言ったのでびっくりしてしまいました。これはさとられたと思って、さっと身をひいて、またのぞいたら、「また、チョロ、チョロと穴のぞくー、カーン。」と言ったので、泥棒はびっくりして、「おい、あい棒、すごいじいさまとばあさまだ。おらがのぞいたことを知っているぞ。じっとしてようすを見てみよう。」とこそこそ言ったら、「何やら相談始め候、カーン。」と言いました。泥棒はびっくりして逃げ出したら、「どこかへ逃げ行き候。カーン。」と言ったので、きもをつぶして逃げていきました。 |
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●ばかでも総領 1 (あほな総領息子の話)
むかし、あるところにあほな総領息子がいました。正月が近づいたので、「町に行って、せぎよい(※)してこい。」と言われて、五円あずけられました。むかしの五円は大金でした。首に風ろ敷をしばって、五円を持って町に行きました。(しかし、)何を買っていいのかわからない。「せぎよいしてこい。」と言われても、そんなこと知らなかった。 町では正月がくるから、あっちでもこっちでも道の両側に店が並んでいました。何を買ったらいいかと、あっちへ行き、こっち行きしていたら、「これ、これ、ちょっときてみろ。おめえさん、何を買いにきたのか。」と、声をかけられました。(うろうろしていた)様子でわかったようだ。「せぎよいしてこいと、金をもらってきた。」「いくらもらってきた。」「これだけだ。」と、出してみせたら、「五円か、せぎよいにはこれが一番だ。」と、その人は、お獅子神楽を売っていました、小さいのから大きいのから、いくつも並べてありました。「このお獅子神楽を持って行けば、悪魔払って年取られるので、一番いい。」「それじゃ、これを買っていく。」と、神楽面を買って家にせおって帰ってきました。「せぎよいしてきた。」と、(風ろ敷を)ゴロゴロと転がしてやりました。おとっつぁがあけてみたら、神楽面一つきりでした。「なんだ、これだけか。」「これが一番いいと言うから、買ってきた。」「このバカ。正月がくるというのに神楽面一つ買ってきて、どうするのか。おまえというやつは、よくよくあほうな野郎だ。これ一つくれてやるから、せおって出て行け。家にはおけない。行きたいところに行け。」と、神楽面一つ風ろ敷にせおわされて、追い出されてしまいました。仕方がないからしおしおと出て行きました。だんだん日が暮れて、心細くなってきて、さて、どこに寝ようかと、そっち、こっちさがしていたら、人が住んでいないような小屋を見つけました。今日はここに寝ようと思っていたところ、遠くから人声がしました。ゴヤゴヤ、ガヤガヤと近づいてきたので、そーと戸を開けてみたら、十人も十五人もぞろぞろとやってくるところでした。これはいけない。みつかったらいじめられると思って、天井のはりに上がって、野郎共なにしにきたのかと見ていました。 そしたら、金をひろげてやったり取ったりしてばくちを打ち始めました。ばくちなんて見たことなかったので、いやぁ、これはおもしろい。おらもひとついれてもらおうと、盛りになった頃、神楽面かぶって、「おらとこいれろー。」と、はりの上からドサッとまん中に落ちたらば、いやあ、集まった連中がびっくりしてしまい、「ほら、化け物だー。」と、お金をおきざりにして逃げていってしまいました。いや、これはいい。泊まるところないから、このくらい集めて持って行けば、(おとっつぁ)許してくれるだろうと思って、金をもって家に帰ってきました。「おら、金もうけしてきた。」と、大きいこと言っておとっつぁに見せました。「どこでそういう金もうけしてきた。」「これこれ、こういうわけです。」「いやあ、たいしたものだ。これだけあれば働かなくてすむ。」と(総領を家から)追い出していたのを(やめて)、また(家に)もどしました。 ※せぎよい=正月用の品物を買うこと。 ●ばかでも総領 2 (あほな総領息子の話) むかし、ある家に、太郎、次郎、三郎と言う三人の息子がいました。むかしから、「ばかでも総領」といいますが、太郎は頭が悪いと言うか、人が善すぎるというか、親から見ると心もとないので、知恵試しをしてやろうと思って、「おまえたち、今日一日暇をやるから、山に行っても川に行っても、海に行ってもいいから、一年で一番長く伸びたものを取ってきた人に、家・財産ゆずってやろう。」と取りに行かせました。次郎と三郎は、本気になって何か長いものを探そうと歩きましたが、総領の太郎は土手の陰で昼寝をしていました。 次郎は、一年で一番伸びるのは竹のようだと思って、竹を取ってきました。三郎は、一年で一番伸びるのは梅の木より他にないだろうと思って、梅の木を取ってきました。総領の太郎は何を考えたのか、むっくり起きて山に行って茨に入って、藤のつるを取って持って帰ってきました。(三人が持ち帰ったものを)比べてみたところ、藤(のつる)が一番長かったそうです。「ばかでも総領」と言うのは、それからだそうです。 ●ばかな殿さま (ばかな殿さまの話) むかし、お城の庭番が庭掃除をしていたとき、粟が一本生えていたのでつっかい棒をして倒れないようにしておいたら、大きな穂を実らせました。すると、殿さまが、「これはなんと言うものだ。」と聞いたので、「これは百姓が作る粟と言うものです。」と庭番が答えると、「だいぶ実っているな、これはどのくらい取れる。」と聞かれたので、「へい、これは一升まけば二升は取れます。」と(収穫量を少なく)答えました。 そして、さんまが旬のころさんまを焼いて(殿さまに)出すと、「うまいから食べてしまったので今一匹持ってこい。」と言われましたが、その一匹しかありませんでした。それで、(お膳を)持ってきて殿さまの食べたさんまをひっくり返してみたら、片方はそのままありました。(殿さまは、)骨から上ばかりしか食べていませんでした。 また、殿さまは魚つりが大好きな人だったので、川崎のおおくま川(※)に来て魚をとって、すべって転んで川に入ってしまいました。それで、川上の家のところに来て火にあたらせてくれと火にあたりました。そしたら殿さまを大切にして、こうぞの樹皮(和紙の原料)を燃やして火をたきました、もったいない。すると、(殿さまは)「百姓というものはぜいたくだ。木にかんなをかけて火を燃やしているから。」と言ったそうです。殿さまはそのように馬鹿でした。 ある日、川崎の百姓が、大根を持ってきてくれました。「大きな大根。これはよい大根だ。何をこやしにした。」と(殿さまに)聞かれたので、「下肥をこやしにしました。」と言いました。夜、(貰った大根を)大根おろしにして(殿さまに)食べさせたら、そうしたら、(殿さまは、)「これに下肥をかけてこい。」と言いました。 ※おおくま川=阿武隈川のこと ●化ネコ退治 (ばあさまの仇をうつ孫の話) むかし、あるところに、ばあさまと男の孫が楽しく暮らしておりました。ばあさまは毎日、ピーユー、ピーユーと音をさせながら糸を紡ぎ、それを売ったり紬に織ったりして、孫の衣装を縫って着せたりしていました。孫はよそに働きに行っていて、たまにお土産とお金を持って帰ってきていました。 ある時、村に恐ろしい山ネコの化け物が出てきて、女の人や子供が食い殺されて大変な騒ぎになりました。村の力自慢の若い者が退治に行っても、みんな大けがをして命からがら帰ってきました。そんなときに、孫がばあさまの喜ぶ顔を見るのを楽しみに帰ってきました。ところがある晩、ばあさまが糸を紡いでいるところに、後から化ネコに飛びかかられて食い殺されてしまいました。孫はとても悲しんでどうしてでも仇をとってやろうと誓いました。それでも、化ネコは神通力を持っていて手が出ませんでした。それで、孫は働いているところのだんな様に話をしたら、化け物退治は鉄砲しかないと、近くにいる鉄砲撃ちに弟子にしてくれるように頼んでくれました。孫は一生懸命をみがきました。そして、「もう大丈夫だ。早く帰って化ネコを退治しろ。」と言われて、鉄砲一丁と玉十発、銭別に貰い勇んで村に帰ってきました。 そして、何日か化ネコが出るのを待っていると、ある晩、遠くの方でポーッと一つ灯りが見えて、別な方からピーユー、ピーユーとばあさまの糸紡ぎの音が聞こえてきました。孫は鉄砲をとって音のする方へめがけて一発ぶっ放しました。それでも、音は止まらないでピーユー、ピーユーと悲しそうに聞こえてくるので、続けて二発、三発と撃ちましたが(音は)止まりませんでした。次の晩も、次の晩も同じでした。今晩こそはと思って、玉袋を見たら一発しか残っていませんでした。失敗したらとばあさまの仇をとらないぞと、かたい覚悟を決めて出かけていきました。真夜中になると、また、いつもの通りポーッと一つの灯りと、ピーユー、ピーユーと糸紡ぎの音が近くに聞こえてきました。孫は心の中で、「おばあさん、今度失敗したら私も化ネコに食い殺されてしまう。おばあさんのところに行くのはいいけど、仇をとらずには行けない。」と言って、ばあさまが毎日唱えていたお経を口にすると、前の方がぼんやりと明るくなってばあさまが出てきて、遠い灯りの方を指差しました。孫がそれを見て、「おばあさん。」と、呼ぶとスーッと消えていってしまいました。これはばあさまが化ネコの居場所を教えてくれたのだ。今まで音の方ばかり狙って撃っていたのは、化けネコにばかされていたのだと気づき、灯りに向けて、ドーンと鉄砲を撃ったら、天地がくずれるような音がしてシーンとなりました。 夜が明けてすぐ、村の人が集まって灯りのあった方に行ってみると、イヌぐらいの大きなぶちネコが目玉を撃ち抜かれて死んでいました。ネコの首には、ばあさまの紡いだ糸がからまっていて、それを見て孫は男泣きして悲しみました。 ●はし渡るな (とんち小僧の話) むかし、ある寺の小僧が橋を渡ろうとしたら、「このはし渡るべからず。」という立て札がありました。それで、橋の真ん中を行ったら、「こら、こら、立て札を見ないできたか。」「いや、見てきた。はしを渡るなと書いてあるから、真ん中をきた。」と言ったそうです。 ●花咲かじじい (じいさまと犬の話) むかし、じいさまとばあさまがいました。じいさまが犬を連れて山に行くと犬に、「ここ掘れ、ワンワン。ここ掘れ、ワンワン。」と言われて、うるさいと思ったけれども掘ってみたら、大判、小判がザックザック出てきました。 じいさまは喜んで持って帰って、ばあさまに教えて、「これはたいした宝物だ。」と、広げて見てたらとなりの欲深いじいさまが来て、「おまえの家でどうゆうわけで、こんなに金授かった。」「犬を連れて山に行ったら、『ここ掘れ、ここ掘れ』と言うから、掘ってみたらこんなにたくさん黄金が出た。」「それなら、おらにその犬貸してくれ。」「いやだ。」と言ったけれども、聞かないで連れていってしました。山に行ってここ掘れとも何とも言わないのに、掘ってみました。そしたら汚いものばっかり出て、もう、欲深いじいさまは腹を立てて、犬ごと殺して埋めてしまいました。犬を貸したじいさまが、「返してくれ。」と言ったら、「とんでもない話だ。犬に教えられて掘り返したら、汚いものばっかり出たから、殺して埋めてしまった。」「なにか、しるし植えてくれたか。」「なにも植えない。」と言うので、やさしいじいさまは、犬の墓にとマツの木を植えてあげました。そしたら、マツの木がだんだん大きくなって、あまり大きくなったので、切って犬の形見にうすを作りました。そして、餅をついたらじいさまの前にザック、ザック、ばあさまの前にザック、ザックと、大判、小判が出たそうです。 そしたら、また欲深いじいさまが来て、「こっちじゃ、なんでたくさん黄金あんだ。」「いや、うちの犬が殺されたところに、マツの木を植えておいたら、あんまり大きくなったので切ってうすを作って、餅をついたら黄金が出てきた。」「それでは、おらにそのうす貸してくれ。」「とんでもない。おまえなどに貸せない。」と言ったけれども、ろくでなしじいさまだから、突然持って行って餅をつきました。そしたら、じいさまの前にビダ、ビダ、ばあさまの前にビダ、ビダと、汚いものばかり出ました。じいさまは腹を立てて、うすを燃やしてしまいました。 よいじいさまは、その灰を持って帰ってくると、その灰が風で少し飛んで、枯れ木にかかって花が咲きました。これは良いものだと思って、枯れ木に花咲かせてみようと、大きな桜の木に上がっていたところ、殿さまが通りかかりました。「そこにいるじじい、なにじじいだ。」「枯れ木に花を咲かせるじじいだ。」「一枝咲かせてみろ。」と殿さまに言われて、「一振り振れば、つーぼんだー。二振り振れば、ひーらいたー。三振り振れば、つーぼんだ。」と灰をまいたら、そのとおりになって、たくさんのご褒美をもらいました。ほしたら、また欲深いじいさまが来て、「なんだ、この家はたいしたものだ。」「いや、おめえにうす貸したら、燃やされてしまったが、その灰を持って行って、一振り、二振り、三振りまいて、花を咲かせて殿さまにご褒美をもらった。」「おれにもその灰をくれ。」と持って行って、そして木に登っていたら、殿さまが通って、「そこにいるじじい、なにじじいだ。」「枯れ木に花を咲かせるじじいだ。」「それなら咲かせてみろ。」 ところが、花を咲かせようと思ったところが、灰が殿さまや、家来の目に入って、とうとうわるいじいさまは、捕まってしまいました。 ●花塚山のオオカミ (花塚山のオオカミの話) むかしは花塚山のきっぺ沢には、みんな馬に乗って、朝、草刈りに行ったものです。ある朝、山家(やまが)の人たちが馬に乗って行ったところに、山から大木戸の人たちが、青い顔して急いで帰ってくるところに出会いました。(山家の人が、)「青い顔してどうした。」と言うと、「オオカミに追いかけられて逃げてきた。一緒に帰った方がいい。」と(大木戸の人に)言われましたが、(話を)聞かないで山に行きました。その後でオオカミに出会ったようでした。みんな鎌の柄が折れてオオカミに食い殺されていたそうです。その(鎌の柄)の中で牛ころし(※)の木で作ったものだけ、折れていなかったとゆうことです。それで、それからは鎌の柄に牛ころしの木を使うようになったそうです。 ※牛ころし=かまづかの異名。 ●はのない話 (だいこんの話) むかし、あるところで、手間取り(臨時雇用)の男を雇いました。「あの畑に大根をまいてください。」と言われて、畑を耕して(大根の種)をまいたところ、(発芽した大根の芽を)間引きするようになったので、(男が)「大根の間引きを、どうしましょうか。」「一本立ちにしろ。」(一本一本の間隔を空ける)と(だんなさんに)言われて、(周りの大根を)全部抜いてしまって、畑のまん中に一本だけ残してしまいました。畑のまん中にポツリと。だんなさんは、「困ったな。それじゃしょうがないから、ぐるりと(周りに)穴を掘って、一生懸命肥料をかけろ。」と言いました。そしたら、その大根の育ったこと、育ったこと、途方もなく育ってしまいました。収穫するようになって、その近辺の人に頼んでみんなで引き抜いたら、見たこともないとても大きな大根でした。その大根が、「伊勢参宮に行きたい。伊勢参宮に行きたい。」と言いました。それじゃしょうがない。大八車につけて人を頼んで、ヨイサ、ヨイサと引いていきました。街道を通ると、「大きな大根だ。大きな大根だ。」と、びっくりしてみんなが集まってきました。人は宿屋に泊まることができるけど、大根は大八車につけて表におくから、どこに行っても葉っぱをむしられて、最後には葉っぱがなくなってしまったはなしです。 ●半殺し皆殺し手打ち (女神山のむことしゅうとの話) 女神山のばかむこがしゅうとのところにいった時、「むこどのに何をご馳走しましょうか。半殺しか、皆殺しか、それとも手打ちにしようか。」と、話しているのを小耳にはさんで、殺されては大変だと、ワラ、ワラ逃げて帰ってきました。「おっかぁ、おっかぁ、しゅうとが半殺しか、皆殺しか、それとも手打ちにしようかと相談していたんだ。」と言うので、おっかぁはあきれてしまい、「半殺しはおはぎ、皆殺しは餅で、手打ちは手打ちそばのことでしょ。」と言いました。 ●びた銭で命拾い むかし、あるところに、情け深い人がいました。ある日、買い物に行く途中に、道ばたに物貰いがいました。「何か恵んでください。」と願われて、「私はたいした持ち合わせもないが、小銭が少しあるから、これで何か買っていきなさい。」と、財布から(小銭を)出してあげました。物貰いはありがたがって、「何も貰ってもらうものもないが、これを持っていってください。」と、一包みのもぐさをよこしました。「せっかく貰ってくれとよこされたのだから、それでは貰っていきましょう。」と、物貰いと別れてどこまで行ったのか、途中で日が暮れてしまったので近道を通りました。ところが古井戸でもあったのでしょうか、ドスーンと穴に落ちてしまいました。深いところに入ってしまって、登ることもなにもできません。どんなに叫んでも誰も来てくれないし、それで、一晩穴ですごして明るくなってから気がついたのがもぐさでした。これはいいものがあったと思って、火打ち石を出して火種にして、わきの雑草に点けて煙を出したところ、のろしのように上っていきました。それを見つけた村人が、「なんだろう。あんなところから煙が出ているぞ。山火事にでもなったら大変だ。さあ、すぐに行こう。」と、皆でかけつけてみたら、深い穴の中で、「助けてくれ。助けてくれ。」と、叫んでいる人を見つけて綱を持って来てやっと引き上げました。「おまえどうして入った。」「近道したところ、踏み外して入ってしまいました。」 こうして物貰いに恵んだ小銭で命を拾ったということです。 ●ひどい嫁っ子 (ばあさまと意地悪な嫁の話) 昔、あるところに目の見えないのばあさまと、息子が住んでいました。ばあさまはとても観音様の信心深い人でした。息子に早く嫁をもらって安心して死にたいと思っていました。そのうち息子は町に行って、変な女を嫁にしてつれて帰って来ました。この女は性悪な女で、何かにつけてばあさまの事を邪魔者にして、つらく当たってばかりいました。かわいそうなことに、息子が急に病気で死んでしまいました。嫁は、ばあさまの財産が欲しくなり、今までより邪魔者にしました。そして三度の食事を満足に食べさせないで、邪魔者は早く死んでしまったほうがいいなどと、近所の人に言って歩くようになりました。そのようなことで年を取っていたばあさまは病気になってしまい、嫁はいっそうばあさまの事を邪魔者にして、薬も食事も取らせなくなってしまいました。ある日ばあさまが、「私もそう長く生きられないから、この世の思い出に一度でいいから、うどんが食べたい。」と言いました。すると嫁は、ばあさまが近いうちに死ぬのだろうと思い、うどんを作って食べさせました。嫁が留守の間に、近所の人が見舞いに来てくれたので、ばあさまは、「今日は珍しく嫁がうどんを作ってくれたが、美味しくなくて変な味がしたな。」と言ったので、(近所の人が)鍋の中を見ると、ミミズを煮たものでした。びっくりして(近所の人が)、「ミミズだ。」と言うと、ばあさまはびっくりして目を回してしまいました。あわてて近所の人が、水をかけたり、背中をさすってくれたりしたので、やっと息を吹き返しました。その(近所の)人が帰るとき、気持ちの優しいばあさまは、「嫁には言わないでください。」と言いました。次の日からばあさまは、急に具合が悪くなり、夜になってから枕もとに嫁を呼んで、「私も長いことないようだ。いろいろ世話になったおまえに言っておく。私が死んだら誰もいない時に、私の布団の下を見てくれ。」と言ったので、嫁はてっきり金でも隠していたのかと思ったのでしょう。食事もさせないで、ばあさまの死ぬのを待っていました。 そしてとうとう、ばあさまは死んでしまうと、嫁は近所にも知らせないで、死がいを放り出して布団の下を見ました。すると真中に丸い包み物があったので、嫁はてっきり金包みだと思い、急いで開くと、ピカッと光って、突然のどが何かに締め付けられるようになって、苦しくて息が止まりそうになってしまいました。苦しくてそこら中を転げまわって騒いでいると、近所の人がやって来て、嫁を見てびっくりしました。首に白い蛇が巻きついて、、無気味な目を光らせていました。蛇を取ろうとすると、首を強く締め付けてしまい、息が止まる苦しみなので、どうしようもなくなってしまいました。それから嫁は水を飲もうと思っても、食事をしようと思っても、少ししかのどを通らなくなってしまい、ただ生きているだけになってしまいました。医者に診てもらっても、神主さまや坊さまに祈祷してもらっても、蛇は取れませんでした。近所の人も気味悪がって寄り付かなくなってしまいました。嫁はお釈迦さま、如来さま、観音さまとお参りしても、ちっとも効き目がなく、日一日と痩せこけてしまいました。 ある日、旅の坊さまが通りかかって、その話を聞いて、「それは、ここから遠く離れている海の中に小島があるから、そこに祭られている観音さまに、二十一日の願をかけてばあさまの供養をすると、蛇が離れるかもしれない。」と言いました。嫁は早速旅の用意をして、近所の親切な人に付き添ってもらい旅に出かけました。(首の蛇を)人に見られるのが嫌で首に布を巻いていきました。やっとのこと島に出る舟の港に着きましたが、舟の出る日まで宿で蛇に苦しめられました。ついに舟の出る日がやって来て舟に乗り込むと、観音さま参りの人たちでいっぱいでした。岸を離れて島に向かいましたが、途中で不思議なことに舟がぴたっと止まってしまいました。船頭がいくら漕いでも進まないので、みんな騒ぎ出して船頭もあせって調べてみても分かりませんでした。すると、一人の船頭が、「この舟に汚れた人が乗っていて船玉明神(※)さまが怒って、舟を止めたに違いない。」と言い出しました。それでお客を一人一人調べ始めました。嫁は隅のほうに小さくなっていて、最後に調べられて首に巻きついた蛇を見つけられてしまいました。「こいつだ。」と言われて、舟は港に戻って嫁は舟から降ろされてしまいました。今度は、舟は何事も無かったように、島に向かって進んで行きました。降ろされた嫁はどこへ行ったか分からないそうです。 ※舟玉明神=舟の守護神。古代から船乗りのあいだで信仰され、はじめは住吉の神、のち、神仏混交の形をとり大日、釈迦如来、聖観音も現われた。 ●一粒の飯 (法印さまの奥参りの話) むかしは奥三山といって、月山、羽黒山、湯殿山は、お山の神さまになっていて、この奥参りは命がけでした。 おらが五ツ六ツの頃、本家のじいさまが奥参りに行くことになりました。橋の手前まで親戚一同で送っていきました。帰ってくる日は、橋を渡って向うで迎えました。それまで親戚一同精進して、生臭い物は一切口にしませんでした。 むかし、むかし、法印さま(山伏)が、奥三山へ行く途中、急にもよおしてきて、通りすがりの便所に入りました。そして、用足して出たところが、前のきん隠しに飯粒が一つ付いていました。もったいないなと思いましたが、そのまま山に向かっていきました。山の途中まで行ったところ、どうしたわけか油汗は出る、足は一歩も前に進まなくなってしまって、金しばりに会った時みたいに体が(ゆうことを)きかなくなってしまいました。どうしてこうなったのかといろいろ考えているうち、法印さまだから、便所の飯粒ではないかと気が付いて、飛ぶように戻って行きました。そして、それを拾って、「ありがたくいただきます。」とたべたところ、今度は羽が生えたように足が軽くなって、無事に頂上に行って帰ってきました。 ●古屋(ふるや)のむり (お父さんとオオカミの話) むかし、貧しい家が、むかしにありました。家に戸締りの棒をして火をたきながら、子供たちは寝ながらみんなで話していました。「お父さん、お父さん、世の中で一番怖いものはなんだろう。オオカミは恐いよね。」と聞いたら、(お父さんが、)「なに、オオカミなんて恐いことがあるか。古屋のむり(※1)と米びつの下だし(※2)たのが一番恐い。」と言いました。 ちょうどそのとき、馬小屋にオオカミがやってきていました。ガサガサと音がしたので、お父さんは馬を盗まれたのでは大変だと、まっ暗がりの馬小屋に行って、黒いものに飛び乗りました。オオカミの方がびっくりして、古屋のむりと米びつの下だしたのにとりつかれた。これは大変だと思って、一目散に山にかけ登っていきました。お父さんはおおかみの耳につかまって、「えい、えい、えい、えい。」と(乗って)行ったらば、そのうちに夜がだんだん明けてきて、ひょいと乗っていたのを見たら、口が耳までさけているオオカミでした。 お父さんはびっくりしてしまい、青くなって、さあ、大変だ。これでは食われてしまう。どうしたらいいかと思って、本気になって考えていたら、大きな洞穴が見つかりました。いや、これは(助かった)と思ってひらりと飛び落ちて、洞穴の中に隠れました。オオカミはいやいやこれは助かった、助かったと思って、山奥に帰って、けものたちの会議を開きました。「こういうわけで、おらはすごいものにつかまってしまった。すんでのところで命がなくなるところだった。みんなで退治しないと、後でまたどんなことになるかわからないから、誰か行って来い。」と言っても、誰も行くものはありませんでした。それで、くじを引いたらサルに当たってしまいました。サルは青くなってブルブルふるえて、「おら、とでもだめだ。」と言いました。そうだけれども、「くじに当たったのだからだめだ。」と、みんなで洞穴の前に行って、サルが入るのを見ていました。サルは恐くて、恐くてしょうがなかったが、のぞいて見たらまっ暗なので、尾をいれて洞穴の中をかき回しました。 お父さんはびっくりして、何がでてきたと思って、ぎゅっとつかんでしまいました。サルがギャンギャン、ギャンギャン言うし、お父さんは命がけでつかまっているし、まわりのけものたちは、「ほら、つかまった。」と思って、みんなワラ、ワラと逃げてしまいました。そうして、とうとう、サルの尾っぽは半分ぬけてしまい、それから、サルの尾っぽは短くなってしまい、顔が赤くなってしまったそうです。 ※1 古屋のむり=古屋の雨もり ※2 米びつの下だし=米びつの底が見える ●へっぴり嫁 1 (部屋の由来の話) むかし、ある村に気立のぜえ娘があったんだと。一つ人に言わんに癖があんがなで、縁が遠くなってだところが、隣村がら話あって、うまぐまどまって嫁入りしたんだと。 ご祝儀も終っていく日か過ぎた頃、何か心ペいでもあんのが青い顔してんで、しゅうとめとむこさまが聞いだどころが、「おら病気どもつかねえ大きな“へ”たれる癖あんだ。」「“へ”ぐれのがんで心ペいしてっこどねえがら、思いきりたれろ。」「ほんじぜえごったらたれるが、危ねがらおっかあさんも、おめえさんも庭の臼さつかまってでくんつぇ。」って言うんで、つかまってだら、しりまぐってボーンとやらがしたど。ほしたら、むこさまは天井のはりの上さ吹っ飛ばさっち、おっかあさんは臼ぐちらけたの上さ吹っ飛ばさっちゃど。「こんではとても命まで取られちまうがら、こんな嫁はおがれねえ。おめえ里さ送ってげ。」って言わっち、むこさまは仕方なく送ってっだど。途中までくっと、馬さ反物つけで商いさ来てだ奴らが、のどかわいで道ばたの梨の木めっけで取っペとしてだが、とどがなくて困ってたど。嫁っこはそれ見でて、「なんだ。こらぐらえなごど、こだ梨、おら“へ”で落どしてみせる。」「人、ばかにすんな。“へ”たっちゃぐれで、この梨落じるはずあっか。落どしだら馬ごどこの反物みなくれる。」「よし、ほんだら見でろ。危ねえがら、おめえだぢ梨の木がらはなっちろ。」って、しりまぐってボーンとやったどころが、梨も木の葉も落じて裸になっちまったんだと。ほんじ約束だがら、馬がら反物がらそっくり貰っちまったど。ほれ見でむこさまは、こういう宝嫁はけえさんねど思って、「いっしょに戻ってけろ。」って、つれでけえって、おっかあさんに、「これ、これ、こういうわげだ。」って話したら、「そんな宝嫁なら長ぐいでけろ。しかし、あの手で“へ”やらっち、いつも屋根の上さなんて吹っ飛ばさっちゃ困っから、奥の方さ一間(ひとま)造ってやっから、そごさ行って思うぞんぶんたれろ。」って言ったど。ほれがへ屋(部屋)の始まりだつうんだな。 ●へっぴり嫁 2 むかし、あっどこでない、嫁さんもらったんだと。てえへんぜえ嫁さんだもんだがら、みなして喜んでだどごろが、だんだん顔色わりぐなって泣いでだんだって。これはなじょしたもんだ。体でもぐえいわりんだど思って、「嫁っこ、嫁っこ、なしてふさいでる。顔色すぐれねがなじょしたんだ。」「聞かっちゃっから言うが、実はへこでえでだんで、青ぐなっちまったんだ。」「なんだ、ほんじゃ、へぐれえならたれろ。」「たれでもぜえが、おらのへはとってもてえへんなへだがら、炉ぶちさつかまっででくなんしょ。」って言ったど。ほんじゃ、それはど言うんじゃと、炉ぶちさつかまってたんだと。嫁こがボーンとたっだら、おっかぁさまは天井までドーン上がってバタッと落ぢで、またボーンとたれっとドーン上がっで、ドスーンと落っこじたど。おっかぁさんはおったまげで、おっがなくなり、「嫁こ、嫁こ、への口止めでけろ−。」って騒いだんで、への口止めたんだと。おっかぁさまはおったまげちゃって、とんでもねえ嫁もらっじまった。こんなごどしょっちゅうやらっちゃんでは、たまったもんでねえど、思って、息子ども相談して出しちまったど。 嫁こはへたれねどぐえいわりくなっちゃうし、たれっとみんなに迷惑かげっし、がおっちゃったなぁど思って、トボトボとぜえ(家)さけえる途中、柿の木の上さ上がって、さおで柿落どししてる人さあったど。「そんなごどしてで日ぃ暮れっペなあ。おらがへ一つたれっど、みな落ぢっちまうがな。」って言ったら、「なにかすかたる。ほんじゃやってみろ。」って言わっち、ほんで、ボーンとやったら、柿がバラ、バラ、バラど一っペんに落ぢちまったんだと。いやあ、これはぞうさなく落ぢるもんだとなって、礼金たんともらったんだと。おん出したぜえでそれ聞いで、調法な嫁だ、柿落どしといわず、その力借りだぐて戻ってきてもらったど。へでだくなったどきは裏さ行って、ドーンとたれるようにさせたど。そこのぞえでは何かのどきにはみんなに頼まっち、金もうげしたんだとさ。 ●ヘビのたたり (結び付けられたヘビのたたりの話) むかし、ある家の人が、春の暖かい日に垣根を直していました。そこに一匹のヘビがニョロ、ニョロと出てきました。(その人は、)ヘビが大嫌いだったので、捕まえて垣根に動けないように結び付けてしまいました。それから、何日か日に照らされ、雨にうたれ、風に吹かれて、とうとう長い白骨だけになってしまいました。 夏が過ぎて秋が来てきのこの季節がやってきました。ある朝、その人が畑を見回って垣根のところに来てみると、美味しそうなきのこが山ほど出ていました。(きのこを)とってきて村の人に見せたら、誰も見たことの無い知らないきのこでした。昔から知らないきのこは食うなと言われていたから、もったいないと思ったが裏の川に捨ててしまいました。 ところが翌朝川に行ってみると、捨てたきのこにコイや、フナや、ドジョウが集まって食べていました。これはいいものを見つけたと思い、網ですくってきて焼いたり、煮たりして家中で食べました。ところがみんなお腹をこわして最後にはとうとうみんな死んでしまいました。 ●ヘビむこ入り 1 (ヘビと娘の話) 暮らしのぜえどこの娘ではなかったそうだがない、むかしはどこでも機織りしたっペない。「晩げしなになっだがら、水汲んでこ。」って遠ぐの井戸さやらせらっちゃど。ほしたら、立派なさむれえさまがきてでない、「今夜、おじゃますっからな。」って言ったんだと。娘は気持ぢ悪くて、おっかさんに話したんだべ。「こういう立派なさむれえさまが、こられるちゅうだげんちも、おらああだりさ、ああいう立派なさむれえさまがこられるはずなんがねえ。」ほしたら、おっかさんも利口で、さとってない、「ほれは並たいてえの人でねえんだから、羽織着ったったげが。」って聞いたら、娘は、「着てだ。」って言うんでない、「ほんじゃきたらばな、羽織りのすそさ針さして、糸あるだけからんでな、ふぐしてやれよ。」って言ったんだと。 ほしたら、その晩、いわっちゃとおり蚊帳つって寝てっとこさへえってきたど。娘はおっかさんに言わっちゃがら、糸を針のめどさとおして、団子さつっとおして待ってだと。すきみて羽織りのえりさそっと針さして、糸ふぐれるだけふぐしてやったんだと。「あした、その糸たぐってみろ。」って言わっち、行ってみだら、大きなけやきの木のぼっくの中にさ、ずない蛇がうなって寝てたど。 ●ヘビむこ入り 2 (ヘビと娘の話) むかし、むかし、あっとこに、じいさまとばあさまと、息子とその嫁っこが住んでおったど。 むかしは自分のぜえ(家)で機織りしとったでな。嫁っこは毎日、カラットン、カラットン、機織っていたど。そして夕方になっと、ぜえの下の井戸さ行って手桶さ水くんで、てんびん棒で運んでだど。むかしは井戸はぜえより下にあっでな、ほれも、てんびん棒で手おけさ汲んでおったでな、てえへんだった。 ほうして、いつからか分んねけんじも、水くみさ行くとわけえ男が、毎日来とんのに気が付いたど。嫁っこはおがしねなと思ったけんじも、毎日水及みさ行ったど。そのうちだんだんおっかなくなり、顔色が悪ぐなってきたど。ばあさまが気が付いで、「なじょした。体のぐえ−でもわりいのか。」って開くと、嫁っ子は、「毎日水くみさ行ぐと、わけえ男が来とっで、おっかなぐてしょねんだ。」って言ったど。すっと、ばあさまは、「ほんじゃ、針をわけえもん(者)のたもとさ、そっと入っちやれ]って、おせえでやったど。嫁っ子は言わっちゃどおりに、わけえ男のたもとさそっと針を入っちやったど。すっと、男はごいら苦しみだし、血を流しながら山の奥の方さ行っちまったんだと。その跡さそろっとくっついて行ってみっと、ずないずない蛇が死んでおったどさ。大蛇がわけえ男に化けとったんだ。ほれがら、わけえ男はばったり来なくなったど。ほして、まもなくその嫁っ子は蛇のおどっこ生んだっつんだな。 だから女の人はな、山さ行ぐ時は鎌と針と持って行ぐとぜえって言わっちきたんだ。蛇さ針が毒なんだと。 ●ヘビむこ入り 3 (ヘビと娘の話) むかし、ある山奥さばあさまと娘が住んでいたど。ほしたら、毎晩、美しいせなさまがかよってきたんだと。そしてるうぢに、その娘ごどはらませちゃったんだと。娘がばあさまにさ、「なじょすっペ」って言ったら、「なあに、五月節句のしょうぶ湯さはいっと、おぢちまうわ。」って言ったんだと。ほんじそのせなさまのあどついでって、蛇だとわかっちまったがらない、そうさせんだと。ほだがら五月節句のしょうぶ湯さ、なんでかんでへえねがなんねんだって。 ●ヘビむこ入り 4 (ヘビと娘の話) 娘があってない、あるせなさまと仲よくなって、はらんじまったんだと。そのせなさまが、「五月節句のしょうぶ湯さは、はいんねでくれろ。」って言ったんだと。ところが節句の湯さはいっちまったんだと。すっとゾロ、ゾロとへびっこが、生まっちまったんだと。そのせなさまはヘビだったんだとない。 ●法印とキツネ 1 (法印(山伏)とキツネの話) むかし、南平にある法印さま(山伏)が住んでいました。ある日、行(ぎょう)に出かけた時に、日向(ひなた)にキツネが昼寝しているところに出会いました。法印さまは、いたずらしてやろうと、キツネの耳にほら貝をあてて思い切りブァッーと吹いてみたら、キツネはびっくりして逃げていってしまいました。 そして、キツネは池に行って水に影をうつし、法印さまに化けるところを田んぼで働いている人にわざと見せて、急いで遠くに行ってしまいました。しばらくたって、本物の法印さまがその働いている人のところを通りかかると、「この化けギツネめ。またずうずうしく来やがったな。なぐり倒してやれ。」と言って、棒やげんこつでなぐり倒されて、傷ができるやら、こぶができるやら、法印さまは泣きっつらでやっと家に帰りました。 ●法印とキツネ 2 (法印(山伏)とキツネの話) むかし、南平(なんぺい)の奥に古ギツネが住んでいました。時々、里に出てきては村人を化かしていました。その南平に法印さま(山伏)が一人で行をして暮らしていました。ある時、山の中で法印さまが、古ギツネが気持ちよさそうに昼寝しているのを見つけて、いたずらしてやろうときつねの耳もとに、ほらの貝を押し付けて思い切りブッーと吹きました。するとキツネはびっくりして、山の中に逃げていってしまいました。 夕方、法印さまが中島のところを通りかかると、ある家がとてもにぎやかで、踊りや歌が聞こえてきました。ひとつのぞいてやろうと、節穴を探して家の周りをぐるっと回って、やっと小さい節穴を見つけてのぞいたら、とたんに、おもいきり蹴飛ばされてしまいました。気がついたら田んぼのまん中にころばされていました。そして、村の人が集まってきて、「法印さま、どうして馬の尻の穴などのぞかれた。」と聞かれて、「あの古ギツネめ、おらのこと化かしたな。」と言いました。 ●法印とキツネ 3 (法印(山伏)とキツネの話) むかし、キツネが山のくぼ地の日当たりのよいところで、昼寝をしていました。そこに、法印(山伏)さまが通りかかって、「キツネ、びっくりさせてやろう。」と思って、キツネの耳にほら貝をあてて、ボホーッ、ボホーッと鳴らしたら、キツネの野郎は、びっくりして飛び上がって逃げていきました。「いやぁ、おもしろかった。」と(法印さまは)喜んで、また、看経(※)しながら歩いていきました。 キツネは腹を立てて、法印の奴、また、帰りにはここを通るだろうから、今度はこっちがばかにしてやろうと思い、案の定戻って来たので、山だったところを川にしてしまいました。法印さまはおかしいなと思いましたが、細い橋があったのであわてて渡りました。すると、それは細い木で、法印さまは木の先の梢まで上がって、一晩そこで騒いでいたそうです。朝になって草刈りに行った人が、「おーい、法印さま、そこで何をしてる。」「いや、橋を渡ってここまで来たが、行くところがない。」と、一番上の梢まで登ってしまって、騒いでいました。 ※看経=経を読むこと。 ●ほえどに助けらっちゃ話 (女のものもらいとじいさまの話) むかし、あるところのじいさまが、焼きおにぎりを作ってもらい山仕事に出かけました。途中でボロ、ボロの着物を着た女のものもらいが苦しんでいました。じいさまは知らないふりをして通り過ぎましたが、(女のものもらいを)かわいそうに思いもどりました。(女のものもらいにじいさまが、)聞いてみると腹がへって苦しくて動かなかったそうです。じいさまは持っていた焼きおにぎりを全部くれてやりました。ものもらいはなみだを流して喜んで、「なにもお礼する物がないが、こんなもので良かったら持っていってください。」と、一握りのもぐさをよこしました。「なにもいらないよ。」と、じいさまは言いましたが、せっかく、よこしたものだからと貰って山に行きました。 じいさまは焼きおにぎりをあげてしまったので、なにも食べないで仕事をしていました。夕方帰ってくる時は、フラ、フラして遅くなって真っ暗になってしまいました。とうとう道に迷って帰られなくなってしまい、見つけた洞穴に入って明るくなるまで野宿することにしました。すると、奥からオオカミのような気味の悪いうなり声が聞こえてきて、じいさまは恐くなってきましたが、オオカミは火が嫌いなことを思い出して、腰から火打道具ともぐさを出して火をつけました。それでも少しばかりのもぐさでは、直ぐ無くなってしまいました。心細くなってしまいましたが、そのとき、今朝ものもらいからもらったもぐさを思い出し、それを夜明けまで燃やしていました。それで、オオカミは襲って来ませんでした。夜が明けたのでじいさまは、そこから逃げてやっと家に帰ってきました。火が燃えていたのでオオカミも追いかけてこれなかったのでしょう。 ●ぼた餅は観音さま (和尚さんと小僧の話) むかし、ある寺に和尚さんと小僧がいました。あるとき、だん家からぼた餅が送られてきました。ちょうど和尚さんが、用事があって出かけるときだったので、「小僧や、(私が)帰ってくるまで観音さまにお供えしておきなさい。」と言って出かけました。小僧はおなかがへって、がまんできなくなってしまいました。(それで、)ぼた餅を全部食べてしまいました。そうして、観音さまの口のあたりに、あんこをべったりつけて、知らない顔をしていました。 和尚さんが帰ってきて、自分もぼた餅を食べたいのを、がまんして出かけていったので、さて食べようと思ったら、ひとつもない。小僧を呼んで、「ぼた餅、どうした。」と聞いたら、「さあ、うー、あのー、私知りません。」 和尚さんが本堂に行ってみたところ、観音さまの口のあたりに、あんこがべったりついていました。小僧は和尚さんのあとについていって、「あれえ、観音さまが食べてしまったのでしょう。口にあんこがべったりついている。」と言いました。そしたら、和尚さん(怒って)腹を立てて、「ひどい観音だ。勘弁できない。」と言って、釜に入れて煮てしまおうと、(観音さまを)煮たところが、だんだん煮立ってきたら、観音さまが、「クッタ、クッタ、クッタ、クッタ。」と音を立てました。「この観音、私のぼた餅を食ってしまった。ひどい観音だ。」と(釜から)引き上げて、錫杖(※)でひっぱたいたら、こんどは、「クワン、クワン。」と言ったそうです。 ※錫杖(しゃくじょう)=杖の一種で上部のわくに数個の輪がかけてあり、振ると鳴るので、読経などの調子を取るのにも用いられた。 ●ホトトギスと兄弟 1 むかし、むかし、うんと貧しいぜえがあったど。腹の一番減る五月の頃なんだってない。おっかぁさまが芋煮でわらしど食ったんだと。もう一人のわらしが遊びさ行ってでいながっただら、どんぶりさわげで残しておいたど。ほしだら、後がらけえってきたんで、「おめえの分残しでおいだがら、早ぐけぇ。」って、おっかぁさまに言わっち、「こらほどうまい芋だらば、先さ食ったしとはうまいどこうんと食ったんだべ。」って、急いで本気なってガッガッ食ったがら、腹ぶっちゃげちまったど。ほして、鳥になっで、「ぽっとぶっつぁげだ、オダダカショ。」って、鳴きながら窓ぶっつあいで飛んでっちまったど。 五月の節句頃になっと、「ぽっとぶっつぁげだ、オダダガショ。」って、口が割れるほど血い流して鳴ぐんだって。ほれが今のホトトギスなんだってない。こんで、ざっとむかしはさ−がえだ。 ●ホトトギスと兄弟 2 むかし、兄弟があってない。おっかぁさまが「これけぇ。」って、こずはんの用意してでくっちゃど。しゃではあんちゃさうまいどご残して食ったんだど。ほしたらあんちゃがけえってきて、「おめえ、おらよりうまいどこ食ったべ。」って言ったど。「ほでね。あんちゃさぜえどこ残して、おら悪りいどご食ったんだ。」って、言っても聞かねんだと。「ほんじゃ、腹ぶっつぁいで見せっから。」って、腹ぶっつぁいで見せだら種ばっかし残ってだと。ほんで、しゃではホトトギスになって、「ぽっとぶっつぁげだ。ぽっとぶっつぁげだ。」って、今でも鳴いでんだと。 ●ホトトギスと兄妹 (ホトトギスになった妹の話) むかしは五月節句に、山芋とふきを煮て食事にしていました。おかあさんに、「山芋掘ってきなさい。」と言われて、息子が山に行って掘ってきました。「おかあさん、これね、掘ってきたから煮といてくださいね。おれは買い物に行ってくるから。」 そして、お竹という妹が一生懸命洗って煮て、お兄さんが帰ってこないうちに、お母さんと妹が(山芋煮を)食べました。お兄さんが帰ってきたので、「芋煮ておいたから、おにいさん食べなよ。」「そうか。」と芋を見て、「あら、おれにこれくらいのところを残しておいたのでは、まだまだ大きいところを食べただろう。」「そんな性根が悪いこと言ってはいけない。」と、おかあさんが言いました。それでも、「大きいところ食べただろう。」と言うことをきかないので、妹が「うそかどうか、私の腹を開いて見せてやる。」と言って、お腹を開いて見せたので、お兄さんはびっくりしてしまいました。妹はホトトギスになって、「ぽっとぶっつぁげた、オダダカショ。ぽっとぶっつぁげた、オダダカショ。」と、鳴いて飛んでいきました。 ●ほら吹きくらべ (ほら吹き親子の話) むかし、むかし、ある村に大変なほら吹き親子がいました。あまりに大きなほらを吹いていたので、有名になって京の都にまで聞こえていきました。それで、京の大ほら吹きが腕くらべをしようとやってきました。その日はちょうどおどっつぁ(おとうさん)は留守で、子供が一人で留守番していました。京のほら吹きが残念だといったら、その子供が、「おら(私)でよかったら。」といったら、「おどっつぁはどこに行った。」と聞かれたので、「おどっつぁは、セセリ(※)のなみだの池のメダカ取りに行った。」といいました。京のほら吹きは、あまりに小さいのでびっくりしていまい、もっと大きなほらできないかといったので、「今、おら、天と地を団子に丸めて、手のひらにのせ、飲み込んだところに、あなたがきたのです。」といったので、この子供でさえ、こんなほら吹くのでは、このおどっつぁはどんなものだかと恐くなって、早々に逃げて帰っていってしまいました。 ※セセリ=小形ちょうの総称 ●ほら童子 (ほら比べの話) むかし、たいしたほら吹きがいて、どこそこの国にものすごいほら吹きがいると聞いて、ひとつほら比べをしようと(ものすごいほら吹きのところへ)行ったそうです。「お願い申し上げる。」と言ったら、子供が出てきたので、「お父さんはどこへ行った。」と言ったら、「富士山が倒れそうだって、線香三本持って、つかえ棒に行った。」「おかあさんは。」「おかあさんは、いま天と地を団子に丸めて、なべに入れて煮ているから、どうでしょう、のどにもつかえないので、ひとつ食べていきませんか。」と言うので、これじゃとても自分のほらなんてかなわないと、逃げていきました。 |
●正夢 (あほな夫と嫁の話)
むかし、むかしあるところに、あほなおじさんがいました。何回見合いしても、嫁にくる人がなかったと言うことです。ところが、正月の二日に紙で船を折って、「今日の眠りの南風、波乗る船の音のよきかな。」と書いて、枕の下に入れて眠ったら、良い家から嫁が来た夢を見たそうです。それから何日か過ぎたら、夢が本当になって、とっても良い嫁がそのおじさんの奥さんになったそうです。嫁をもらったので、いつまでもおじさんまで一緒にその家に居られないので、その家がある並びの一番上の古屋に移ることになりました。立派な家なので何人もの買い手が来ても、夜中に化け物が出るというので、買い手がなかったそうです。そしたら、あほなおじさんの嫁が、「世の中に化け物なんかいないから、私が行ってみましょう。」と、夜中、その家の真っ暗なところに入って、長いキセルでスポーリ、スポーリタバコを吸って、化け物が出てくるのを待っていました。そしたら夫が、「ほら、化け物が出たら食われてしまうぞ。」と、ガータ、ガタ、ガタ、ガタ震えて入口に立っていました。 すると、床の間の方からカラッ、カラッと戸を開けて、ブリッコ、ブリッコと音をさせながら、化け物が近寄ってきて、「エヘヘヘヘヘヘヘ。」と笑ったそうです。嫁が、「なぜおまえは、こうやって毎晩この家に化けて出るのか。」と聞いたら、「床の間の下の大きなかめに、金がたくさん入って埋まっているから、それを掘り起こしてくれるならば、化けて出ない。」と言いました。「ほんとかい。」嫁が聞いたら、「ほんとに出ないから。」と化け物が言うので、家に帰って一眠りしてから、早速その家を買いました。そして、床の間の下をはがして掘ったら、大きなかめに大判、小判がいっぱい入っていました。そうして、大変にお金持ちの女性になりましたとさ。ですから、あほな野郎だからと言って、ばかにするものではありませんよ。 ●まま子話 むかし、むかし、あっとこに、ままかかあがあったんだと。わがのおどっこができたっつんでな。先のわらしごど邪まになってきたんだと。 ある日、井戸掘ったら、水が出ねえもんだからな。「新しい井戸見さいんべ。」って、わらしせでって、井戸さつっころばしたんだとさ。「助けてけろ。助けてけろ。」って、泣き叫んでるうぢに、風吹いできて、紙がパラ、パラっとおっこちてきたんだと。わらしは指かみ切って手紙を書いで、スズメに頼んだとさ。「おとっつぁんこういうどこさ行ってっから、助けてけろ。」ってない。おとっつぁんはそんどき、女郎屋さ行って酒飲んでだんだど。スズメは手紙をくわえでって、「チュー、チュー、チュー、チュー。」って、うんと鳴いだもんだがら、何事できたんだべとみんなと出てみだら、おとっつぁんどこさパラ、パラって、紙おっことしてよこしたど。 おとっつぁんはいそいでぜえさきて、帯ほどいで下げてやって、わらしこと助けてやったんだとさ。こんでざっと昔はさ−がえだ。 ●マムシとワラビ (一匹のマムシとワラビの話) ポカ、ポカと暖かい春の日、日当たりのよい土手のところに、一匹のマムシが夢をみながら昼寝をしていました。マムシは突然息がつまるほどの痛さと、今にも死んでしまうのではないかと思うほどの痛さに襲われました。びっくりしてよく見ると、チガヤの先のとがっているところが、マムシの腹をつきぬけてどんどん伸びていました。マムシは苦しくて体を動かして抜こうと思いましたが、気は遠くなるし、どうしようもできませんでした。すると腹の下が少しずつ持ち上がってきて、チガヤの先まで上がりスポッと抜けて、マムシは地面にバタンと落ちてしまいました。よく見るとワラビがグン、グン伸びて、マムシを持ち上げて育っていました。 マムシは喜んでワラビにお礼を言って、これからあなたの言うことをなんでも聞きますからと約束しました。 それだからかどうか知らないけれども、マムシの皮をむいて赤裸にしたものにごみがついたら、どんなに洗ってもこすっても落ちないが、ワラビの葉っぱでこするとびっくりするほど美しく取れるそうです。 ●豆子話 1 (おじいさん、おばあさんときな粉の話) むかし、じいさまとばあさまがあったんだって。ばあさまが庭はいだら、豆こ一粒拾ったんで、それを黄な粉にひいでな。そこらさおぐと、ネコだのネズミになめられっからって、じいさまとばあさまの間さおいで寝たんだと。夜中にじいさまがボーンと大きなへたれで、みな吹っ飛ばしちまって、ばあさまがっかりしちゃったんだとさ。 ●豆子話 2 (おじいさん、おばあさんときな粉の話) むかし、じいさまとばあさまが住んでで、ばあさまが庭はきしてで、豆一粒拾ったんだと。「じいさま、これどうすっペ。」って言ったら、「そのままいって食ったんでは、一人分きりねえ。煮で食っても一人分だ。仲よく食うには炒(い)って黄な粉にひいだらいいべ。」って、黄な粉にひいでな。「あどがら食うに、どごさおくべや。そごらさおぐど吹っ飛んじゃうがら、仕方ねえ、じいさまのふんどしさでも包んでおがせ。」って、ふんどしさ包んで寝たんだと。夜中にじいさまがボーンとへたれで、吹っ飛ばしてしまったんだとさ。 ●むこの好きな物 (南山のばかむこの話) 南山のばかむこが、正月、嫁と二人で、しゅうとの所に行ったそうです。嫁の父親は、このむこは、ばかだと聞いていたが、どのくらいばかだか試してやろうと思って、酒という字を書いて、「これ読めるか。」と、出したそうです。嫁は父親に恥をさらしたくないと思って、「おまえさんの好きな物だ。おまえさんの好きな物だ。」と、お尻をつつきました。そしたらむこは、お尻をつつかれたので、嫁の下の物のことを言ってしまいました。 ●餅争い (カエルとサルの話) むかし、山の中に大きなカエルと力のあるサルがいました。カエルは餅米を作って持っていました。サルはそのことを聞いたので、餅が食べたくなってしまって、「カエルさん、私が臼ときねを用意するから、餅をついて二人で分けっこして食べましょう。」と言って、餅をつきました。ついているうちにサルもカエルもお腹が減ってしまったものだから、一人で食べればお腹いっぱいになるほど食べられるぞと思いました。そしたら、サルが、「カエルさん、高い山にこの臼背負って行って、ゴロゴロ、ゴロゴロ、転がして、早く餅に着いた方が食べることにしましょう。」「それもいいでしょう。」となって、サルは力があるから臼を背負って山に登っていきました。そして、一、二の三と、ゴロゴロ、ゴロゴロと転がしました。 サルは早いからピョンピョン、ピョンピョンはねて、臼と一緒に行ってしまいました。カエルも賢いから、途中で臼から餅がはなれるように、水をつけておきました。それだから、サルが臼を追いかけて下まで行って、ひょいと見たら(臼は)空っぽでした。これはどこかに落ちてしまったと、夢中になって戻ってきたら、カエルは思ったとおりに落ちた餅を、うまそうにペタ、ペタ食べていました。サルはどんなに悔しがっても仕方がないから、「それ、そっちから食え。それ、あっちから食え。」と、よだれを流しながら遠くから眺めていました。 ●餅のお代わり (ばかむこの話) 女神山のばかむこが、しゅうとの(家に)招待されて行ったら、餅のご馳走でした。あんこ餅から、くるみ餅から、納豆餅がら、たくさん食べて、「さあ、さ、お代わり。」と、出てきた女の人に言われて、「初めのあんこ餅のような、うまいお代わりください。」と言ったそうです。 ●餅は化け物 (女神山のばかむこの話) むかし、女神山にちょっとあほな若い者がいました。嫁をもらって正月に、「ご年始に行ってきて。」と言われて、嫁の家に行ったら、ぺターン、ぺターンと餅つきをやっていました。 そしたら、子供たちが寄ってきて危ないものだから、「おっかねぞ。おっかねぞ。(危ないよ。危ないよ。)」と言ってついていました。若い者は本当におっかない(恐い)と思って、びっくりして見ていました。つき終わってから、丸めてあんこに入れて、おかあさんに出されました。(若い者は、)恐いものだと思っていたので、じっと見てばかりいました。みんなはペロペロ、ペロペロおいしそうに食べているのだけれども、若い者はおっかないと(餅つきをやっていた人に)教えられたので、とても恐いものだと思って、「おにいさん、おにいさん、たくさん食べてください。」と言われても、食べないで全部座布団の下に捨ててしまいました。 そして、お土産に重箱に、丸め餅を十三個入れて風呂敷に包んでもらい、帰ってきました。ずっと来るうちに棒があったので、恐い餅だと思っていたので、棒の先に風呂敷包みの先に引っ掛けて、ヒョッコ、ヒョッコと来たら、ドサーンと風呂敷がほどけて落ちてしまいました。重箱のふたがあいて、中の白い丸め餅がガシャガシャになってしまいました。それを見て、「白い歯を向けて、おれにかかってくる気か。」と、担いでいた棒を持って、餅ごとペタペタ、ペタペタ、ペタペタと叩いて、泥だらけにしてしまいました。 |
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●指合図 (和尚さんと小僧の話)
むかし、ある寺に和尚さんと小僧がいました。小僧は毎日、和尚さんに言いつけられて、ご飯を炊いていました。指一本を出した時は一升、二本出した時は二升、米をとがなくてはなりませんでした。どうも一升、二升だけ食べさせられたのでは、お腹いっぱい食べられませんでした。 小僧は、どうにかしてたくさん炊いてみたいと考えました。そして、せっちん(便所)の板をぐるっとのこぎりでひいて、ちょっと上がると、落ちるようにしておきました。いつも朝に、和尚さんがせっちんに行くものですから。そうして見ていました。 和尚さんはそんなこと知らないので、タッ、タッ、タッ、タッと行って、せっちんに入ったら、ドサッと板ごと落ちてしまいました。「あーっ。」と、両手を広げて指十本だしたので、小僧はそれではと、米を一斗炊いてしまいました。そのときは、お腹がいっぱいになるまで食べたそうです。 ●利益分配 (二人の友だちの話) むかし、あるところに、あほな二人の友だちがいました。おたがいに銭を出しあって、商売をやったところ、一貫二百文ほどもうかってしまいました。ところが、どうして分けてよいか分からないでいました。相談しても勘定を知らないので良い考えが浮かばないでいると、かたほうのやつが、「誰かに九九というものを聞いたことがある。その中で、二、四が八というのがあったから、にしゃ(おまえ)、八百、おら(自分)が四百で分けましょう。」と言って、分けっこしたという話がありました。 ●りごなたゆうさま (利口な神主様の話) むかし、あるお宮に利口なたゆうさま(神主様)がいました。暮らしを良くしていいお宮を建てるには、どうしたら良いかいつも考えていました。 ある時、村の人たちがお宮参りにきて、神さまにおさい銭をあげてお祈りしていました。ところがさい銭箱のサカキが小銭をあげるとなんともないが、大きな銭をあげるとガサ、ガサと動きました。わきにいたたゆうさまから、神さまが願いを聞き届けてくれたおしるしだと聞かされ、村の人はみんな大きな銭をあげるようになりました。そして、とうとう立派なお宮を建てることができました。 たゆうさまはさい銭箱に水を入れて、中にたくさんのどじょうを入れておきました。小銭ではなんともないが、大きな銭があたると痛いものだから、それで、どじょうがあばれてサカキがゆれたそうです。 ●若く見らっち (頭の悪い四十歳くらいの人の話) あるところに、とても頭の悪い四十ぐらいの人がいました。家に帰って、「おどっつぁ、おどっつぁ、おら今日とても若くみられてきた。三十五か、五か、二か、八かと見られてきた。」「あほ、五十のことだ。」「えっ。」と言ったそうです。 ●わざくらべ (五人の旅人の江戸見物の話) むかし、むかし、ある人が江戸見物に行きたくて、行きたくて困っていました。いつかは行ってみたいものだなぁと思っていても、なかなか(一緒に行く)相手がいなかったので、行きかねていました。すると、片足でビッコ、ビッコ、ビッコと歩いてくる人がいました。「どうして片足で歩いているのですか。」と聞いたら、「両方の足で歩くのでは早すぎるので、片方の足で歩いて十分です。」と言いました。それで、「私は江戸見物に行きたいと思っているのですが、相手がいないので、ご一緒にどうですか。」と聞きました。すると、「私も行きたいと思っていたのです、それではぜひ連れて行ってください。」ということで、二人で江戸に向かう旅に出ました。すると、今度は片方の目をおさえて、鉄砲を撃っている人がいました。片方の目で狙っているのではと思って、言葉をかけました。「どこを狙っているのですか。」と聞くと、「三里四方のアブの左の目を狙っています。」と言いました。「いや、いや、私はこういうわけで江戸見物に行きたいと思っていますが、あなたも行きませんか。」と聞くと、「私も行きたいと思っていたのですが、なかなか行けずにいたので、それではぜひ連れて行ってください。」ということになりました。三人で旅を進めて行くと、今度は片方の鼻の穴をおさえて、プープー吹いている人がいました。そこでまた声をかけてみました。「どうして片方の鼻でプープー吹いているのですか。」と聞くと、「三里向こうの風車を吹いています。」と言いました。それで、「江戸見物に行きたいと思っていたのですが、なかなか相手がいなくて、こういうわけで行くので、おまえさんも行きませんか。」と聞いたら、「私も行きたいと思っていたのですが、相手がいなかったので、ひとつ世話になりましょう。」ということで、今度は四人になって進んでいきました。すると、大きな菅笠を横にかぶって、テッ、テッ、テッと歩いてきた人に会いました。「なぜ横に笠をかぶっているのですか。」と聞いたら、「真っすぐにこの笠をかぶっていると、冷えて凍ってしまうくらいだから、このくらい横にかぶっても、これでも寒いくらいなんです。」と言いました。それで、その人にも江戸見物に誘いました。そして五人で進んで行って、江戸の近くになった時、「お姫さまとかけっこをして負かしたなら、ご褒美をたくさんあげる。」と言う立て札がありました。それで、両方の足で歩いたのでは、早すぎる人を出しました。そして、お姫さまとかけっこをしました。 初めは片方の足で、ビッコ、ビッコと走っていましたが、途中から両方の足を使って走ったのでとても速くて、お姫さまを負かしてしまいました。そして向こうに行って一升だるを持って、引き返して来なければなりませんでした。ところが一升だるを持ってきて、途中で枕にして一休みしていました。そしたら、後からお姫さまが走ってきました。これは大変だ。追いつかれてしまうと、三里四方のアブの左の目を狙っていた人に、「見てください。」と言って、両方の目を使って見たら、一休みしていて走り出そうとしていませんでした。負けてしまうので、一升だるの底を狙ってドーンと(鉄砲を)撃つと、ド、ド、ド、ド、ドと酒が流れ出ました。片方の足で歩いていた人が、これは大変だと、またテッ、テッ、テッ、テッ、テッ、テッと走り出すと、お姫様のことを負かしてしまいました。 そして、勝ってしまうと、その屋敷の侍たちは、そんな田舎者に、ご褒美をやってはもったいないと、みんなのことを土蔵の中に閉じ込めてしまいました。それで、焼き殺してしまえと、蔵の周りに麦わらを集めて、むし焼きにしようとしました。そしてボン、ボン燃やして熱くなっていたので、みんな死んでしまったろうと思い、蔵の戸を開けてみたら、笠を横にかぶっていた人が、真っすぐ立っていてみんな笠の中に入っていたので、五人とも平気な顔をしていました。 そして、どうしてもご褒美をやらなくてはならないので、それでは背負われるだけ(沢山のご褒美を)、五人にくれてやって、後から馬で追いかけようと侍たちは考えました。山ほど(ご褒美が)与えられました。すると(帰る)途中で、三里向こうの風車を片方の鼻でプーッと吹いていた人が、両方の鼻で(追っ手を)サーッと吹いたので、いや、いや、侍たちは馬もろとも吹っ飛んでしまいました。そして、(五人は)宝物を沢山もらってきたそうです。 |
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●福島の伝承 ●金売吉次兄弟の墓 『平家物語』などにもその名前が記されている金売吉次であるが、実在の人物というよりもむしろ“当時の奥州から京都へ砂金を売りさばきに来た商人の集合体”のような位置づけが定着しているようである。しかし伝承の世界では、源義経を奥州藤原氏と引き合わせたキーパーソンとして重要な人物である。白河市にある金売吉次の墓は、他の兄弟と合わせて3基の墓が設けられている。中央にある大きいのが吉次のものであり、左が吉内、右が吉六のものと伝えられている。地元の伝承によると、承安4年(1174年)に吉次兄弟は砂金の交易の途上、この地で群盗に襲われて殺されたとされる。ただこの年に義経は元服して奥州へ向かっており、伝承が正しければ吉次は義経を平泉に送り届けた直後に死んでいることになる。そして年代的な整合性を維持するためか、伝承では義経が後年にこの地を訪れて吉次兄弟の霊を慰め、近くの八幡神社に合祀したという後日談も残されている。また殺した群盗の首領は藤沢太郎入道とされ、この時に砂金の入れていた革の葛籠を捨て置いたので、この土地の名を“皮籠”としたという地名由来の話も伝わる。だが、藤沢入道は、他の伝承では義経一行の奥州行きの道中で大勢の手下を率いて盗みを働こうとして、討ち果たされている。これらの伝承内容は、物語として流布したものが付け加えられながら形成されたものであると推測される。吉次兄弟の墓である宝篋印塔は室町時代頃に造られたとされるが、実際には何度も積み直されており、その時に違う石塔の部分が使われていたりする。しかし地元の人々は今なお「吉次様」と呼び習わして、大切に保存している。 ●金売吉次 / 『平家物語』では“橘次”とも表記され、奥州の商人ではなく、京都に店を構える富豪のような書かれ方もされている。また長者伝説の主人公である炭焼藤太と同一人物としている場合もある。ただ上に書いたように、“金売吉次”は特定の人物ではなく、当時奥州と京都を行き来して砂金を取引していた複数の商人をモデルとしていると考えた方が合理的である。 ●藤沢太郎入道 / 『義経記』に登場する盗賊。近江国の鏡の里で元服したばかりの義経を、手下100名と共に急襲するが返り討ちに遭ったとされる。この藤沢入道自体も架空の人物であるが、さらにそれらが統合されて出来たキャラクターが、大盗賊・熊坂長範であるとされる。 ●観世寺 黒塚 陸奥の 安達ヶ原の 黒塚に 鬼籠もれりと 聞くはまことか 平兼盛の歌で有名な“安達ヶ原の鬼婆”の伝承は、細部が多少違うものもあるがおおよそ次のような展開となる。岩手という名の女性が、とある公家に奉公していた。その家の姫は幼い頃から不治の病であったために、岩手はその病を治すための薬を求めて各地を転々とした。その薬とは、妊婦の腹の中にある胎児の生き肝であった。やがて岩手は安達ヶ原の岩屋に潜み、標的となる妊婦が通りがかるのを待ち構えていた。ある時、若い夫婦が岩屋に一夜の宿を求めた。女は臨月の身重、しかも夫は用事があってそばを離れた。岩手は女を殺すと、胎児の生き肝を取り出して遂に目的を果たした。しかしふと女の持ち物に目をやると、見覚えのあるお守りがあった。それは幼くして京に残した実の娘に与えたものであった。今自分が手に掛けた女が我が子であることを悟った岩手は、そのまま気が触れて鬼となった。そして岩屋に住み続け、旅人を襲ってはその肉を貪り食うようになった。時が過ぎて神亀3年(726年)、紀伊国の僧・東光坊祐慶は旅の途中で日が暮れてしまったために、安達ヶ原の岩屋に宿を求めた。そこは岩手が鬼と化して住み着く場所であった。岩手は薪を拾いに行くので、奥を覗かないように言って外に出た。祐慶は気になって覗くと、そこには累々と人骨が積まれており、ここが安達ヶ原の鬼婆の住処であると気付いて逃げ出した。やがて戻ってきた鬼は、旅の僧がいないことに気付いて後を追い掛けた。鬼は僧を見つけると、恐ろしい速さに追いつこうとする。そしてもう少しで手が届くところとなり、祐慶はもはやこれまでと如意輪観音像を笈から取り出して経文を唱えた。すると、観音像が天高く飛びたつや、光明を放ちながら白真弓に矢をつがえて鬼婆を射抜いたのである。その後、祐慶は鬼婆の危難を救った如意輪観音を本尊として真弓山観世寺を建立したのである。観世寺の境内には鬼婆が住んでいた岩屋や、出刃包丁を洗ったとされる血の池など、鬼婆伝説の舞台が残されている。また宝物館には、鬼婆使用の出刃包丁などのおどろおどろしい道具や祐慶の使っていた錫杖などが展示されている。観世寺から少し離れた川岸に「黒塚」と呼ばれる塚がある。ここが射殺されて成仏した鬼婆を葬った場所とされている。 ●「安達ヶ原の鬼婆」伝説 / 上記の伝説は観世寺の寺伝であるが、その他にも、東光坊は偶然鬼婆の岩屋に泊まったのではなく退治を目的として安達ヶ原に赴いたという説や、鬼婆は殺されずに改心したりあるいは退散しただけという内容もある。また,関東にも類似の鬼婆伝説があり、一種の様式化された伝承であるとも言える。 ●正法寺 幽霊の墓 かつては境内裏手の山の中腹にあったとされるが、本堂への参道の途中に無縁墓群があり、その中央最前列に「即心即佛」と彫られた墓碑がある。これが“幽霊の墓”と呼ばれるものである。保科正之が会津の藩侯であった時、阿蒲大郎左衛門という者があった。その妹が他家に嫁に行って間もなく兄が不慮の死を遂げ、さらに妹もじきに亡くなってしまった。妹は死の間際に実家の墓に葬って欲しいと懇願したが、願いは聞き届けられず婚家の墓に埋められた。その葬儀の日から、実家の菩提寺である正法寺の二世斧山和尚の枕元に、その妹の幽霊が現れて「この寺に改葬して欲しい」と頼むようになった。その幽霊の執心ぶりに、和尚は婚家に事情を話して改葬を掛け合った。最終的に婚家も折れて改葬を認めたために、晴れて妹の亡骸は正法寺に引き取られたのである。その時に斧山和尚が建てた墓碑が“幽霊の墓”と呼ばれているのである。そしてそれ以降は幽霊は姿を現さなくなったと言われている。 ●阿蒲大郎左衛門 / 会津藩の歴史逸話を集めた『志ぐれ草子』(1935年刊)では、幽霊の兄は、安武(阿武)大郎右衛門という、保科正之の小姓役で150石取りの藩士であるとされる(大郎左衛門と誤記されることが多いとの註あり)。大郎右衛門は承応元年(1652年)1月に惨殺されており、その兄の死後、妹が回向料代わりに大石を置いて帰ったと記されているので、上の怪異譚はおそらく承応年間の出来事であろうと推察できる。ちなみに大郎右衛門が殺された理由は、町野権三郎という青年を巡っての衆道の痴情によるもの。そのせいか、大郎右衛門は殺害後に顔の皮を剥がれ、肛門から喉まで刀で刺し貫かれるという姿で放置されていたと伝えられる。また殺害した側の4名が切腹。そのうち鮎川市左衛門の許嫁であった千女は「二夫にまみえず」として17歳で自害したため、貞女の鑑として会津藩の子女の崇敬を集めた。 ●蛇骨地蔵 養老7年(713年)に開かれたという蛇骨地蔵堂であるが、次のような伝説が残されている。日和田の領主であった安積忠繁には、あやめ姫という美しい娘があった。家臣の安積玄蕃が求婚したが、忠繁に拒絶され、それを怨みとして主家を滅ぼしてしまった。さらに残されたあやめ姫に言い寄ったが、姫はついに沼に身を投げて命を絶ってしまった。しかしあまりの怨みのために姫は大蛇と化し、玄蕃一族を祟って滅ぼしたのである。それでもなお大蛇は怒り狂い、村人に毎年娘を人身御供とするように求めたのである。娘が33人目の人身御供に選ばれた権勘太夫は、娘の命を救うべく大和国の長谷観音に詣でて、佐世姫という娘と出会う。佐世姫は話を聞くと、自らが代わりに犠牲になると言った。佐世姫は人身御供となって、沼のほとりに置かれた。そして一心に法華経を唱えていると、大蛇が現れた。ところが大蛇はその法華経によって天女の姿に変わっていき、昇天したのである。天女は佐世姫に礼を述べ、残された蛇骨で地蔵を作ってくれるように依頼した。それが蛇骨地蔵の由来であるという。この地蔵堂の裏には、大蛇の人身御供となった32人の娘と佐世姫を供養するための三十三観音像が安置されている。また大蛇伝説を残す“蛇枕石”や“蛇穴”といった伝承地もある。 ●蛇骨婆 / “蛇骨”という奇妙な名称を共通に持つため、鳥山石燕の描くところの“蛇骨婆”の伝承地であるという説もあるようだが、石燕の手による解説を読む限りは、関連性は殆どないものと考えて間違いないところである。 ●(松浦)佐世姫 / 佐用姫・小夜姫とも。肥前国松浦の長者の娘であり、朝鮮へ出兵する大伴狭手彦と恋仲となるも別れる運命となり、最後は悲恋のうちに石と化したとされる。ただし『肥前国風土記』には別伝として、狭手彦に化けた大蛇に見入られて沼に引きずり込まれたとも言われる。また岩手県水沢地区には“掃部長者伝説”として、やはり松浦の佐世姫が大蛇の人身御供となるが、改心させるという伝承が残されている。 ●文知摺石 (もぢずりいし) 文知摺観音堂を中心に信夫文知摺公園がある。この「文知摺」という名であるが、この信夫地方に古来あった染色法であり、紋様のある石に絹をあてがい、その上から忍草の葉や茎を擦りつけて染色したものという。これにちなんで名付けられたのが文知摺石(別名:鏡石)である。中納言・源融が陸奥国按察使として赴任していたが、ある時信夫で道に迷い、村長の家に泊まった。そこで娘の虎女を見初めて相思相愛の関係となった。しかし都に戻るよう命を受けた融は再会を約してその地を去った。残された虎女は融に一目会いたい一心で観音堂に願を掛け、文知摺石を麦草で磨き続ける。そして満願の日、ついに磨き込まれた文知摺石に融の姿を一瞬見いだしたのである。だが、そこで精根尽き果てた虎女は病の床に就き、そのまま亡くなってしまう。その死の直前に、都にあった融から一首の歌が届く。それが古今和歌集に残る“みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れんと思う 我ならなくに”である。この伝説の有名さ故、後世の歌人達も多く訪れており、松尾芭蕉も実際にこの石を見ている。ただ『奥の細道』によると、通りすがりの人々が麦の葉をちぎって石を磨くので、村の者が怒って石を谷へ突き落としてしまって、半分埋まってしまった状態であったらしい。一説によると、この石は未だにひっくり返ってしまっている状態のままであるとも言われている。 ●夜泣き石(会津) 会津若松の市街地から東へ行ったところ、国道49号線沿いに戸ノ口原という場所がある。幕末の会津戦争の折、会津軍と薩長軍が激突した古戦場であり、白虎隊が実戦で奮闘した地としても有名な場所である。このような古戦場の地にひっそりとあるのが“夜泣き石”である。戦国時代、会津地方を蘆名氏が治めていた頃の話。無実の罪で処刑されようとした男の家族が、累が及ぶことを怖れ、夜陰に紛れて逃げようとしていた。途中ここまで来て、幼い男の子が疲れ果てて石の上で寝てしまった。母親はこの子を連れてこれ以上逃げることはかなわないと見て、捨て子にして死を免れさせようと思い立ち、この石の上に寝かせ付けたまま去っていった。その後目が覚めた子供は母恋しさに泣き叫ぶと、闇の向こうから母が呼ぶ声がする。喜び勇んで行こうとすると、なぜか身動きが取れない。足が石に吸い付いて前へ進めないのである。そのうちに朝となり、追っ手がこの石のところまでやって来た。しかし追っ手と思っていたのは、父親の冤罪を知らせるために来た者であり、男児はその後成人して家督を継いだという。実は、夜中に聞こえた母親の声は魔性の石が子供を食い殺すために発したものであり、その災難を救わんとするために子供の寝ていた仏性の石が足止めをさせていたというのが真相だったという。実際にこの石には、幼い子供の足形と言ってもおかしくないくぼみがある。このリアルな物証が伝承を後押ししているのは間違いなく、子供を背負ってこの石にお参りすると夜泣きがなくなるという信仰の対象ともなっている。そして、このくぼみになぞらえるように、いつしか靴を奉納する習慣も出来ているようである。なお、この石にまつわる伝承には、玄翁和尚と九尾の狐が登場するバージョンがあり、狐が化けた子供を背負った玄翁和尚がこの石で休んだところを襲われたが、法力で退治したという話も残されている。 ●蘆名氏 / 源頼朝の奥州攻めに功績のあった佐原義連が会津の地を所領としたのが始まり。その後、蘆名氏を称する。16代当主の盛氏(1521-1580)の頃が最盛期となるが、没後に急速に衰退。1589年に伊達政宗との摺上原の戦いで当主・義広が実家である佐竹領へ逃散、戦国大名として滅亡する。 |
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●鬼怒の中将乙姫
鬼怒沼のほとりには「機織姫」が住んでいて「天女のごとき乙姫(中将の位の鬼怒沼中将乙姫)が黄金に輝くハタオリ機で白い絹布をパタリパタリと織っていた」という伝説がある。姫が機を織るのをうっかりのぞき見すると、恐ろしい祟りがあるという。 ●おらが湯 藤太湯(とうたゆ) 昔、昔な。信達平野(しんたちへいや)の湖がな、干上がって、そこんとこが湿地帯になってな……、大作山(だいさくやま)の麓を奥州街道(おうしゅうかいどう)が通っていたころの話しをおせっぺな。 今でいうとな飯坂小学校のあたりからな、二丁(200m)くらい赤川(あかがわ)を上って行くとな!どんどん川幅が狭くなって、一番せまくなった所が「川崎」と言うんだ。そこん所になんとづない大蛇が川に横たってなア……橋のかわりになっていたんと!そこを通る村の人も旅の人もな、づない大蛇の姿を見るとまんず、ぶったまげちまって。しまいには、おっかなくなって誰も近よる人がいなくなっちまんだと。 ところがある日。弓をもった立派な若者が通りかかり平気で大蛇の背中をふんでな! 川の向かい側に渡ってしまったんだと。ほうしたら……なんとパァーと大蛇が美しいお姫様に姿を変えたんだと!女「お侍さん」藤太「ハイ!俵藤太と申します」と言いながら、ふりかって見ると年は二十あまりか? この世の人とは思えぬほどに妖しく耀くように美しい女が立っていた。 藤太「お目にかかった覚えはないが、貴女は誰ですか」と尋ねると、…………女はそばに歩みより……小声で「私をご存じないのはご尤っともです」……「赤川、川崎でお目にかかった大蛇なのです」 藤太「それではどうして姿を変えて訪ねてきたのか!」と聞いたんだと。 女「私は日本の国がひらけはじめた、はるか昔から信達の湖に住んでいたのです。湖は七度も干上がっては、田や畑に変わりましたが、そのたびごとにうまく逃れて大作山の麓の『子守沢』に沢山の子供達と幸せにすごして来ました。ところが聖武天皇(756年)の御代から摺上川(すりかみがわ)のほとりに大百足(おおむかで)が現れ、『吉川』ぞいに『片倉山』を越えて、私の子供を食い荒らしに来るようになったのです。そのため、川は、私の子供の血で赤く染まり『赤川』と呼ばれております。それで、どうにかしてこの悪百足を退治したいと願っておりましたが、私達では力が及びません。これは、やはり器量のすぐれた方の力にすがる他ないと思いあのように大蛇の姿になってお待ちしていたわけです。」と涙を流して頼みました。 藤太は、一部始終を黙って聞いていた。……もし事をし損じたなら、先祖の名折れ末代までの恥辱である、しかし神々の加護の下、日頃きたえた武術をもってのぞめば、かならずや道がひらかれる。と、覚悟をきめ「分かりました。今夜のうちにも百足を退治してみせましょう」と答えた。女は大層喜んで「三本の矢」をさしだしたんだと……「これは、私たちの血と涙が流れて沢となった『毒沢』で作った矢です、どうかこの矢で、あのにくい百足を仕止めて下さい。」と女はそう言うと、かき消すように消え去った。 藤太はすぐさま身支度を整えました。先祖伝来の太刀をはき、五人張りの重藤の大弓を小脇に抱え十五束三伏もある大きな矢を三筋手にして「天王寺沼」の右手、寺山に向かった。 夜になり「矢場」に立って「片倉山」を眺めると稲妻がひらめき生(なま)ぐさい風が大作山を吹きわたり、にわかに激しい雨がふりだした。片倉山の頂だちが、みるみるうちに千本の松明をともしたように明るくなり、山鳴りの音がごうごうと山を動かし谷をゆさぶった。天王寺雷様の襲来である。 それでも藤太は少しも騒がず弓に矢をつがえ百足の近づくのをまった。百足は「穴原・吉川」の断崖をよじ登り大地をゆるがして迫ってくる。藤太は矢が丁度とどくころとみて、弓を力一パイ引きしぼり百足の眉間めがけて射た、しかし矢は難なくはじき返されてしまった。藤太は、第二の矢をつがい一心不乱に引きしぼって、ひょうと射放った。だがこの矢も踊り返り百足に突き刺さりはしなかった。 藤太は進退きわまって最後の一本の矢を……”南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)”……と祈ったら……アラ不思議、貝がら山の岩場から天狗様が舞おりて……”コレ、藤太、百足の目を狙え”藤太は神の加護、われにありと、弓を引きしぼりひょうと射た。矢はねらいたがわず百足の目に突きささった。その瞬間、天王寺雷さまのものすごい音も、ぴたりと鳴りやんでしまった。さては百足め息が絶えたか? と、その辺りを調べると百足は片倉山から「ムジナ山」にかけて長々と横たわっていた。 次の日の朝、嵐がすぎ去った大作山の木々や緑は生き生きと生命を吹き返していた。色鮮やかな若草、季節の花、きのこ、蝶など生きとして生けるすべてのものに光の訪れをそそぎ岩から流れ落ちる滝はうれしげに踊るように流れている。 女「あなた様のおかげで、日頃の仇きを退治していただき、これほど嬉しい事はありません」と心から礼をのべ感謝のしるしにと、黄金千枚、うるし千杯、朱千杯をさしだしました。 藤太「この度のことは、武門の譽れ、我が身の面目、これ以上望むものはない」と、「贈り物は辞退したい」と言いました。 女「このご恩はどうのようにて、お報いすればよいでしょう。大変勝手なことですが、麓の佐波来(さばこ)の里に、第12代景行(けいこう)天皇の御子(みこ)日本武尊(やまとたけるのみこと)様が東征の折、病に伏し佐波来湯(さばこゆ=現在の鯖湖湯)に入浴したところ、たちまち平癒したといわれる霊泉があります。私が案内しますので、どうぞ……おいで下さいますように」と誘うのである。 藤太「日本武尊がご入浴なされた霊泉佐波来湯で百足の血でけがれた身体を洗うのは、あまりに恐れ多いことです」と断った。 女は、ほとほとこまって故郷である龍宮城の乙姫様に相談した。ほうしたら乙姫様は、大作山の難儀を取りのぞいてくれたことを大そう喜んでナー、「佐波来湯の北隣りの泉で百足の血でよごれた衣類を洗い流しなさい」と啓示したんだと。藤太は再三再四の親切をことわるのも心ないことと思い快く承知して、言われた通り、泉でよごれた衣類を”そそいだところ”冷たい清水が、だんだんあたたかくなり、……、あつい温泉が湧いてきたんだと。 藤太「いやー、不思議なことがあればあるもの」と。つぶやきながら、ゆったりと温泉につかり、昨夜来の激斗(げきとう)のつかれをいやしたんだって言うんだ。 うんじゃな、おわり。 ●俵藤太(たわらとうた) 10世紀の栃木県の佐野にいた武士である藤原秀郷(ひでさと)の幼名です。940年の天慶の乱で、平将門を討ちました。その功により、下野・武蔵の国司に任命されます。その時代に、藤太湯(とうたゆ)が発見されたとされています。すでに、佐波来湯(=鯖湖湯)はありました。 ●飯坂温泉の歴史 福島県福島市飯坂町。飯坂温泉の歴史は縄文時代にまで遡ります。紀元前3000年頃……摺上川(すりかみがわ)の支流の小川(おがわ)が、飯坂温泉の南を流れており、小川と飯坂街道が交差する月崎(つきざき)そこに縄文人が住んでいました。2世紀頃、日本武尊が東夷東征の際、病にかかり、”佐波子湯”に浸かった所たちまち元気になった。とされています。また、拾遺和歌集で「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」と詠まれている(詠み人知れず)ことから、「さばこ」という名前も定着したようです。 源泉は至る所に点在し、農民、庶民などにも重宝されていました。世に知れ渡るようになったのは江戸時代中期の享保年間の頃からで、各街道が整備されたことにより、周辺の庶民に加え、多くの旅人も訪れるようになりました。中でも、松尾芭蕉の奥の細道の中で、「飯塚(芭蕉は奥の細道において飯坂のことを飯塚と記しています)」として記され、知名度を浸透させたようです。ただし、芭蕉はこの「飯塚」において、苫屋のような宿に泊まったため、好意的な感想を記しておりませんが、、 この頃の飯坂は鯖湖湯など温泉宿が4軒、人口326人、戸数74戸と小さな温泉街だったそうで、温泉地としての体裁が整ってきたものの内湯はあまり見られなく、思い思いに宿を選んで、点在する外湯で湯治を施すようなスタイルであったといわれています。飯坂という地名はこの辺りが飯坂村と呼ばれたことに因み、伊達家の分家が飯坂姓を名乗り、一帯を開墾したことに因んでいます。これがいつしか飯坂村の温泉、すなわち飯坂温泉と呼ばれるようになりました。 飯坂温泉を訪れた、俳人・歌人としては芭蕉の他、正岡子規、与謝野晶子も訪れており、飯坂を詠んだ句碑等が建てられていいます。ヘレン・ケラーは1937年飯坂温泉に宿泊をしたのをはじめ、2度訪れています。また、昭和天皇をはじめ、皇族の皆様も訪れています。ヤマトタケルや松尾芭蕉、正岡子規、与謝野晶子、ヘレンケラー、みんな飯坂温泉のお湯ですべすべ肌を体験したのでしょうか!? ●大中寺 七不思議 大中寺ははじめ真言宗であったが、延徳元年(1489年)に領主の小山氏が快庵妙慶を招いて曹洞宗に改宗された。その後、徳川家康の関東移封後には、曹洞宗の関八州僧録職(人事統括)に任ぜられ、さらに関三刹の1つとして全国の曹洞宗寺院を管理する寺院となった。同時に曹洞宗の徒弟修行の道場として栄え、多くの雲水を抱える大寺院でもあった。 上田秋成の『雨月物語』にある「青頭巾」の話は、快庵妙慶の大中寺再興の伝説であり、また“大中寺七不思議”の1つ「根無し藤」として有名である。 ●根無し藤 1 … 当代の住職は、旅の折に連れてきた稚児を仏事を疎かにするほど可愛がっていたが、その稚児が急の病で亡くなると、遺体を葬らず、ついにはその肉を喰らい尽くして、鬼と化してしまった。諸国行脚の身であった快庵は、その話を聞くと寺に赴き、一夜の宿を求めた。鬼と化した住職は夜半に快庵を喰らおうとするが、その姿を見つけることができず、己の浅ましい所業を悔いて懺悔した。快庵は住職に青頭巾を被せ、一つの句を与えてその意味を考えるよう諭した。そして翌年、快庵が再びこの地を訪れると、同じ場所に住職の姿があった。句を繰り返しつぶやく住職を見て、快庵は藤の木の杖で打ち据えると、たちまち姿は消えて骨と頭巾だけが残るのみであった。……そして手厚く住職を葬った快庵は、打ち据えた藤の木の杖を地面に突き刺して寺の繁栄を祈願したところ、根が生えて大木となったのである。 ●根無し藤 2 … 昔々、快庵禅師という僧侶が富田の里を訪れました。富田の里には人食い坊主が住む山寺があって、里の人たちは大変怖れていました。お寺の童を亡くし、悲しみのあまり人食い坊主になってしまったのです。 その話を聞いた快庵禅師は、人食い坊主を諭すため山寺へ出向き、一編の詩を授けました。そして一年後、意味が解けずにいた人食い坊主に禅師は、命あるものは必ず召され、形あるものはやがてはなくなる、と説きました。ようやく往生をとげた人食い坊主。その墓標に挿した禅師の杖には藤の根がつき、たくさんの花を咲かせたそうです。 ●油坂… ある学僧が夜間の勉学のために本堂の灯明の油を盗んでいたが、それがある時ばれそうになって逃げようとして誤って石段から転げ落ちて死んでしまった。それ以降、この石段を上り下りすると不吉なことが起こるとして、使用が禁じられた。 ●枕返しの間… 本堂の一角にある座敷は、そこに泊まると翌朝には必ず頭と足の向きが逆さまになってしまうという。 ●不断の竈… ある修行僧が疲れのために竈の中に入って寝ていたが、それを知らずに火をつけてしまい、修行僧は焼け死んでしまった。その後、夢枕にその修行僧が現れ「火さえついていればこんなことにはならなかった」と言ったため、それ以降は火を絶やさないようにした。 ●馬首の井戸… 近隣の豪族・晃石(佐竹)太郎が戦に敗れて、大中寺に逃げ込んだ。しかし住職は匿うことを拒否したため、晃石は恨みに思って馬の首を切り落として井戸に投げ込み、自身も切腹して果てた。それ以来、その井戸を覗き込むと馬の首が浮かび出るとか、いななきが聞こえるとか言われるようになった。 ●開かずの雪隠… 晃石太郎の後を追って奥方も大中寺に逃げ込んだが、夫の死を知ると、雪隠へ籠もってその場で自害した。それ以来、その雪隠には奥方の生首が現れると言われた。 ●東山の一口拍子木… 大中寺の東にある山の方から拍子木の音が一回だけ鳴ると、寺に異変が起こると言われる。ただしその音は住職以外には聞こえないという。 |
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●鬼怒の中将乙姫 ●加仁湯のおやじ 昔、はじめて鬼怒沼に行きついたのは大類市左衛門という地元の山男だったそうである。川俣から野門、富士見峠、日光湯元を経て、金精峠から温泉岳を通り、念仏平までを踏破した。山男の市左衛門でも相当難儀したらしく、「念仏を唱えながらさまようたた」ということから「念仏平」と呼ぶようになったという。念仏平の難所を無事突破して根名草山の山頂に立つと、沢となった鬼怒川の谷を挟み眼下に絨毯を敷いたような鬼怒沼を望むことができる。 根名草山から鬼怒沼湿原を望む。正面茶色に広がった所。奥の山は燧ケ岳 「これこそ神の庭であり、柔らかな緑の園、神秘の楽園だ」と、胸が騒いだ市左衛門は勇気百倍、根名草山を下り鬼怒沼を目指す。オロオソロシ沢を渡り、四日山平のコースを進むが、ここも念仏平に輪をかけたようなアオモリトドマツの原生林で、どこも同じような地形、根名草沢へは、両岸崩壊と絶壁で降りることもできなかった。市左衛門はここで四日間も迷い歩いたという。「四日山平」という地名はここから名づけられた。そして、ようやくのことで二段滝のすぐ下、左岸から清水が滝となって落ちる柳橋沢に降り口を見つける。柳の木を倒し、橋をかけ渡して沢沿いに登って行くと、ぽっかりと奥鬼怒湿原が現れた。現在も柳沢橋の地名が残っている。 大類市左衛門は多くの苦労を続けながら鬼怒沼に到着したが、鏡のような四十八沼をちりばめた湿原の一角に、姫御殿というのがあり、姫の腰掛松がある。「天女のごとき乙姫(中将の位の鬼怒沼中将乙姫)が黄金に輝くハタオリ機で白い絹布をパタリパタリと織っていた」という伝説がある。 市左衛門は、この深山幽邃の地に、こんなきれいな乙姫が絹布を織っているなんて不思議なことだと思い、そしてあまりにも姫の美しさに息をのみ、しばらく姫のしぐさを傍観していたという。 ふと、気がつくと自分が持っていた新しい斧の柄が朽ちて折れてしまっていた。市左衛門は不思議なことがあるものだと恐れおののき、夢見る心地で逆コースの根名草山、金精峠、日光湯元から、日光市、富士見峠を越えて野門の我が家へ帰りついた。 玄関の戸を開けようとすると、家の中には、立派な法衣をまとったお坊さんが仏壇に向かって盛んに念仏を唱えている。妻も子も、親戚の人たちも大勢集まって、異様な光景である。何事だろうと思いきって戸を開いて中に入って「どうしたことだ」と問うてみると、家人が涙を流して「どうしたもこうしたもあるものか、あなたはこの世の人とは思えない。すでに死んだものと思い、家を出た日を命日として、今日は丸三年目、三回忌の追善供養を営んでいたのに、、、」と。これは陸の浦島太郎伝説そのものではないだろうか。鬼怒の中将姫=乙姫、鬼怒沼=竜宮城ということだ。 ●鬼怒沼四十七沼七不思議 鬼怒沼には大小四十七の沼が点在している。そして、それぞれの沼には乙姫にちなんだ名前が付けられているものも多い。 一番大きな沼が金沼、太陽が沼の表面を照らすと、沼の底が金色に輝き、乙姫の使っていた黄金のはたおり機が映っているのだそうである。その他の沼も、乙姫の日常生活に必要な調度品なのである。釜沼、茶碗沼、杯沼、お膳沼、箸沼から大小便沼というのまである。腰掛沼のほとりには、姫の腰掛松があって、ちょうど腰を下ろすように丸くくぼんでいる。岸辺に腰を掛けると、その人の姿が映るといわれる鏡沼。姫が笛を吹いたと伝えられる笛沼、音連れる旅人に茶をふるまったという茶筅沼、小さな腰掛松があった小松沼、樹林の茂みの陰で乙姫が着替えをしたという衝立沼、顔を洗ったという洗顔沼に髪すき沼、まさに乙姫伝説の宝庫である。 鬼怒沼には湧水がない。どこを調べても水源がないそうである。噴火の火口に雨水がたまって大小の沼が生じているらしい。しかも、一つ一つの沼はそれぞれ水位が違っており、水温、PH(酸性度)も違うということである。 ●鬼怒沼の機織姫 弥十は十七、川俣に住むいきのいい若ものである。 よく晴れた初夏のある朝、弥十は母親から用事を頼まれた。日光沢へ嫁に行っている姉のところで、先日、赤ん坊が生まれた。祝いに餅をついたので、届けてやってくれというのである。 弥十はこころよく承知して、さっそく餅の包みを背負い、家を出た。 山道をせっせと登ると、汗ばむほどである。ブナも白樺も楓も水楢も青々と繁って、その上をやわらかい風が渡る。駒鳥がしきりにさえずっている。草いきれでむせるようだ。鬼怒川の渓流が足もとを涼しげに流れて行く。 昼ごろに姉の家に着くと、姉も姉婿もたいそう喜んで、昼飯を食わしてくれた。 飯を済ませ、一休みして、弥十は姉の家を出た。 こんどは荷がないので、足も軽い。弥十はとぶように道を急いだ。 しかし、途中でふと立ち留った。もう、とっくに、下りにかかっていなければならないのに、道はなお山を登って行く。どうやら途中で、わきへ迷いこんでしまったらしい。 「まあ、いいや、まだ日は高い。そのうちに道がみつかるだろう」 川俣で生まれ育って、このあたりの地形を知り抜いている弥十は、べつに不安も感じなかった。 登っていくうちに、しだいに視界が開けた。それは、弥十も初めてみる風景だった。 ひろびろとした台地に、大きいの小さいの、幾十ともなく沼が点在する。しかも、いまは夏のはじめのことで、可憐な花が咲き乱れていた。 岩の間に群れ咲く、玉子の黄味みたいな花は岩車、羞じらう乙女のようにうつむいて咲く淡紅花は姫石楠花、釣鐘の形の岩鏡、見渡す限り、咲き競い、甘い匂いはあたりに満ち満ちて、弥十は思わず五体が痺れた。 「なんといい匂いだ。なんと美しい風景だ。この世の極楽とは、こういうところを言うのではあるまいか」 子供の頃から弥十は、鬼怒沼の話を聞かされていた高くそびえる鬼怒沼山の上には、たくさんの沼がある。そこには春から夏にかけて、きれいな花が咲いて、人を夢見心地に誘いこむ。しかし、鬼怒沼には、妖しいことがいろいろある。 むかし、沼に大蛇が住んでいた。あるとき、腕のいい猟師がこれを撃ち殺したために大洪水が起こり、麓の村々はたいそう迷惑を蒙った。 それからまた、沼には機織姫が住んでいる。姫が機を織ろうとしているとき、うっかり覗き見すると、おそろしい祟りがある。 弥十はこうした言い伝えをたくさん聞かされ、「だから、鬼怒沼へは、近寄ってはなんねえぞ」と、きつくいましめられていた。 「ここは、きっと、鬼怒沼なのだ」 心のうちで弥十は呟いた。が、少しもおそろしいとは思わなかった。花の甘い香に酔い、それに歩き疲れてもいたので、岩の上にごろりと横になった。岩は日に照らされて、ほどよくあたたまっている。弥十はいつか、うとうとと眠りこんでしまった。 日が翳って、うそ寒くなったのか、弥十はふと眼をさました。びっくりしてあたりを見回した。 「そうか、おらはここで眠ってしまったんだな」 その弥十の眼が、沼の上にいるあるものを捉えた。光りかがやくような美しい女である。黒髪は肩を越えて背になびき、身には水色の羅(うすもの)をまとっている。遠目のよく利く弥十は、羅の下のもり上がった乳房や、まるみを帯びた白い尻まで、すっかりみてとってしまった。 女はなにか歌を歌いながら、楽しげに機を織っていた。 トン、カラリ、トントン、カラリ 女の白い手が機の上をす早くかすめたと思うと、梭(ひ)が走り、筬(おさ)が動いた。 弥十は呆然と見惚れていた。 「天女さまだ、天女さまだ」 乾いた唇をなめなめ、夢中で呟いた。 ふっと、女の手がとまった。女は顔をあげて弥十を見た。たちまち女の顔に、怒りの色が走った。おそろしい眼をして弥十を睨んだかと思うと、さっと立ち上がった。 女の手から、空を切って、梭がとんできた。狙いはあやまたず、弥十は額をわられた。どっと血が溢れた。気がついたときには、もう、女の姿はどこにも見えなかった。 弥十がぼんやりと家へ戻ってきたのは、その日も暮れ切った時分だった。どこをどう歩いてきたのか、弥十の麻単衣はあちこち裂け、顔も手足も血と泥にまみれ、履物もなかった。それでいながら、どこで拾ったのか、飴色のみごとな梭を一つ、しっかりと握りしめていた。 あれほどいきのいい若ものだった弥十が、その日を境に、すっかり腑抜けになってしまった。眼はうつろで、ものも言わず、時折、口の中でなにか呟くばかりである。 ・・・あれは、鬼怒沼のほとりへ迷いこんで、機織姫を見たにちがいない。 村人はおそろしそうに噂した。 弥十はそれからまもなく、痩せ衰えて死んでしまった。 ●山の新伝説 「鬼怒沼の絹姫」 いつの頃からか、鬼怒川の上流にある山深い栗山の里に、「鬼怒川をどこまでも遡ればこの世とは思えぬ仙境があり、美しい姫君が住んでいる」と言う言い伝えがありました。 勇気ある栗山の若者の仲間が仙境と姫君を尋ねて鬼怒川を遡って行きましたが、その都度山の険しさに阻まれ、源流にまで達することができませんでした。また、別の仲間は中禅寺湖の湖岸から戦場ヶ原を北に向かい、金精峠を登り温泉岳を過ぎたものの、薄暗い原始の森の中に迷い込んでしまい、恐怖に駆られて口々に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることしかできませんでした。それでも何日もかかってやっと戦場ヶ原に戻ることができました。 そのうち山での恐ろしい話が若者に広がり、仙境探検に出かける者はいなくなりました。行く者が一人もいなくなれば、俺が行くと言う者が現れるものです。当然一緒に行こうと言う者は誰もおらず、一人で出かけることになります。 村でも勇気と知恵があることで評判の若者がついに仙境探検に出かけると言い出しました。若者は、親や兄弟の引き止めるのも聞かず、トチ餅と斧とつり道具を持って仙境へ向かいました。金精峠、温泉岳、念仏平、根名草山をなんとか通り過ぎ、鬼怒川の最上流部に出ました。 ここは鬼怒川を遡行したグループも到達した所ですが、この先は山が切り立っており、どこを行けば仙境にたどり着けるのか、分からなかったのです。若者はなにやら無言で念じながら、最も勾配のきつい山腹を登り始めました。 そして、悪戦苦闘すること、数時間ついに目の前が明るく開けました。あふれるような緑の中に青い空と白い雲を写した沼が無数にありました。そして沼の周りには赤や黄色などの珍しい草花が咲いていました。今までに見たことの無い夢のような美しさです。若者が景色に見とれていますと、なにやら「シュッ、シュッ、トン、トン」と音が聞こえてきました。音のほうに目を転じると、涼しげな建物があり、なんと若い天女のような娘が機を織っているではありませんか。 若者は村で言い伝えられていた仙境と姫君に出会えたことを確信しました。娘は、若者が食い入るように見ているのを知ってか知らずか、機を織り続けました。若者はわれを忘れて、美しい娘を瞬き一つすることもなく、見続けていました。 三日後、娘が立ち上がって外に顔を向けたとき、若者は、娘と織物のあまりの美しさに「あっ」と驚きの声を発しました。 次の瞬間、娘はもちろんのこと、建物も跡形も無く消えていました。 われに帰った若者の背筋に冷たいものが走りました。若者は、ぶるぶる震えながら、後ろも見ずに山の斜面を駆け下りました。 つりに来たときの記憶を頼りに、栗山の里にやっとの思いで帰り着くことができました。懐かしい我が家の前に立つと、なにやら仏事が執り行われている様子でありました。留守中に若者の家に不幸があったのでしょうか。心配になった若者は、入り口で「お父う、お母あ、今戻ったよ。」と声をかけますと、奥から人々が出てきて、「お前、無事で戻れたのか、良かった、良かった。」と涙を流すばかりでありました。 この日、山に入ったまま戻らなかった若者の三回忌の法事が執り行われていたのです。 この時以来、鬼怒沼の絹姫に出会った者は一人もいないそうです。また、この若者の名前は残念ながら伝わっておりません。 ●注 この話は、地名説話のひとつと考えられる。一つは金精峠の北にある「念仏平についてであり、二つは「鬼怒」の語源についてである。 「念仏平」は特に説明するまでも無いが、「鬼怒」については、機おりの「絹姫」の物語から同じ音である「鬼怒」に結びつけ、鬼怒川などの「鬼怒」の謂れとするものであるが、これは文字から来る語呂合わせに過ぎない。古くは「上野の国」と「下野の国」は、合わせて「毛野(けの)の国」と呼ばれていたが、「けの」⇒「けぬ」⇒「きぬ」と変化し、「鬼怒」の文字が当てられた。なお、「毛野」は「木の生い茂った野」であり、未開拓の地の意味と考えられる。 この話は、「山の浦島太郎物語」でもある。いずれの話も、異界における時間が人間世界の時間より遅れるところに共通点がある。逆に言えば、異界から人間世界に戻ると、時間はずっと先に進んでいたのである。なにやら時間や空間は絶対ではなく、伸び縮みすると言う相対性理論の話のようである。 ●鬼怒沼の機織姫 昔日光の奥の川俣という所に「やじゅう」という十七になる若者が住んでいた。 ある日やじゅうは母親から、日光沢に嫁に行っている姉に子供が産まれたので祝いのもちを届けてくれと頼まれた。 昼頃姉の家に着くと姉は大変喜び、やじゅうは飯をすませ一休みしてから姉の家を出た。 今度は荷が無いので足は軽い。だが途中で足を止めた。もうとっくに下りにかかってよいはずなのに道はなお山を上っている。 やじゅうは不思議に思ったが「まあいいか、そのうち道が見つかるだろう」と思って歩いた。川俣で産まれ育ったやじゅうはこの辺りの地形を知り尽くしているので、別に不安もなかった。 そして上っていく内に次第に視界が開けた。そこは、やじゅうも初めて見る風景であった。 広々とした大地に幾十ともなく沼が点在し、しかも今夏の始めで可憐な花が咲き乱れている。 やじゅうは「何と美しい景色だ、この世の極楽とはこういう所を言うのか」と驚いた。 やじゅうは子供の頃から「鬼怒沼」の話を聞かされていた。 高くそびえる鬼沼山の上にはたくさんの沼があり、そこには春から夏にかけてきれいな花が咲いて、人を夢見心地に誘い込む。 その沼には「機織姫」が住んでいて、姫が機を織るのをうっかりのぞき見すると、恐ろしい祟りがある。 やじゅうはここはきっと鬼怒沼なのだと思った。花の香に酔い、それに歩き疲れていたやじゅうは岩の上にごろりと横になった。 岩は日に照らされて程よく温まっており、やじゅうはいつかうとうとと眠りこんでしまった。 そのうち日が陰って薄寒くなり、やじゅうはふと目を覚ました。するとどこからか誰かの歌声が聞こえてきた。 岩影から声のする方を見ると、やじゅうの目に機を織る娘の姿が映った。それは光り輝くような美しい娘であった。 やじゅうは機織姫だと思い、うっかりのぞき見すると恐ろしい祟りがあると思い出し、思わず目をふせた。 だが何となく気になり、もう一度岩影からそっと娘を見てみた。娘の黒髪は肩を越えて背になびき、身には薄布をまとっている。 さらに遠目のよくきくやじゅうは、薄布の下の盛り上がった乳房や、丸みをおびた尻まで、すっかり見てとってしまった。 あまりに美しい娘の姿は天女様のように見え、やじゅうはもっと近くで見たいと、言い伝えも忘れてふらふらと娘に近付いていった。 やじゅうが娘の目の前に近付いても、娘はただ歌を歌いながら機を織り続けていた。 やじゅうは「天女様…」と言って娘の肩に手をかけた。 その時、娘は「手をどけてくださんか、機織りができませぬ」と言ってやじゅうの手を掴んだ。 その手はものすごい力でやじゅうの手をしめつけた。やじゅうは娘のあまりの力に思わず声をあげふりほどいた。 やじゅうが驚いて身上げると、娘は突然やじゅうの顔に爪を降り下ろした。 やじゅうが顔を触ってみると、その手には血がべっとりとついている。 娘は「この沼には近付いてはならぬと知っていて足を踏み入れたのか?」と言った。 やじゅうはたまらずその場から逃げ出した。 娘は逃げるやじゅうを見ながら「この沼に入った者は帰すわけにはいかぬ」と言って機織り機の杼(ひ)を投げ付けた。 やじゅうが必死になって走りに走りに、ようやく自分の家に辿り着いた。 だがその時、娘が投げた杼が戸板を突き破り、その糸がやじゅうの身体をぐるぐる巻きにした。 そしてやじゅうはものすごい力で引っ張られた。 やじゅうは必死で「助けてくれ!鬼怒沼にはもう二度と近付かねえ!」と許しをこいたが、娘はすごい力でやじゅうを引きずっていった。 やがてやじゅうは鬼怒沼まで引き戻されてしまった。やじゅうが必死で謝ったが、娘は許そうとしなかった。 思いあまったやじゅうは、娘に向かって殴りかかった。 だが娘はひょいとやじゅうをかわし、やじゅうは勢いあまって後ろの沼に飛び込んでしまった。 やじゅうは糸にからまれて身動きが取れず、とうとう沈んでしまった。 娘は沈んだやじゅうを見て、また機織りを始めた。それからしばらくして、沼に沈んだやじゅうがぷかりと顔を出した。 そしてゆらゆらと娘に近付くと、やじゅうは娘に杼を突き立てた。 娘は悲鳴を上げ、その場に倒れこんだ。横たわった娘は動かなくなった。 とその時突然、娘の身体が白く光り、やがて氷が砕けるように消えてしまった。 そしてやじゅうは、ようやく命からがらぼんやり村に戻ってきた。 やじゅうの着物はあちこち裂け、顔や手足は血と泥にまみれていた。 そしてそれでいながら、あめ色の見事な杼をひとつしっかりと握りしめていたそうだ。 それからも、鬼怒沼には春から夏にかけて見事な花が咲き乱れ、人を夢見心地に誘いこむ。 沼には機織り姫が住み、うっかりのぞき見すると恐ろしい祟りがある、ということだそうだ。 ●鬼怒沼の怪 [塩谷郡] 沼の主 上州(群馬県)小川村のある猟師が、獲物を追いながらいつのまにか山道を越えて、鬼怒川の水源である鬼怒沼へ出てしまいました。 その時、うっそうとした密林にかこまれている沼から、何か不気味なうなり声がおこったので、びっくりしてそちらを見ると、沼の中ほどから、眼をらんらんとかがやかした大蛇があらわれ、かま首をもち上げてこちらに向かって来ます。 猟師は夢中で鉄砲を向け、引き金を引きました。 みごと手ごたえあって、大蛇は水面にのたうちまわっていましたが、さえわたっていた名月はたちまち黒雲におおわれ、雷鳴とどろき、雨がはげしく降ってきて、満々と水をたたえていた沼の一部はくずれ落ち、下流は大洪水となってしまいました。 これから後、鬼怒沼の水は涸れてしまい、大沼の中に四十八沼をその名残りにとどめるだけになってしまいました。 これが享保八年(1723)八月の五十里洪水です。 猟師はやっと家へにげ帰ることができましたが、これがもとで、狂い死にしてしまいました。 ●鬼怒沼の乙女 ある年の初夏のころ、ひとりの若者が山しごとに出て道に迷い、この鬼怒沼のほとりへ出てしまいました。 ちょうど、美しい花があまい香りをただよわせて一面に咲きほこっていましたが、どこからともなく、はたおりの音が聞こえてきました。 鬼怒沼のほとりには、美しいお姫様が住んでいて、はたを織っているそうだ、といういいつたえはあるものの、まだ誰も見たことはありません。 その音は花の香りの中に、うっとりとするようなふしぎな調べとなって若者の胸にひびいてきて、夢見る心地で聞きほれていました。 その時、沼の奥のほうに、天女のような美しい女があらわれ、沼の上をすべるようにこちらへ近づいて来ましたが、花の中にたたずむ若者の姿を見ると、さっと怒りをあらわし、その手に持った梭を若者になげつけて姿を消しました。 若者はそのまま気を失ってしまいましたが、やっと正気づいて家に帰ったのは、それから三日の後だったそうです。 若者はそれからかわいそうに気が狂い、十日ほどして死んでしまいました。 (註 梭・・・はた織りの道具の部品、横糸を巻いたくだがはいっており、たて糸の間に右または左から入れて、たて、よこの糸を組んで織るのに使用する。) ●平家落人 女夫渕地名の由来 「平家でない者は人でない」と一門の栄と奢りを極めた平家でしたが、 壇の浦の戦い(1185年)で破れ、散り散りになって、源氏の追ってを 逃れ山の奥へと逃げのびていきました。 その頃、中将姫という、 高貴な人が居り、姫は片時も忘れることのできない中納言が奥州路を さして落ちていったと聞き、その後を追って同じく奥州路に向かいま した。 当然、中将姫も追われる身のつらさ、言葉に表せないような 苦しみを重ね、塩原路を過ぎ、鬼怒川に沿ってただ一人登ってきまし た。 戦禍の中で平家の公達の多くは戦死しましたが、中納言は姫の 安否を求めて鬼怒川の奥へ奥へと進んでいきました。 群馬県境に近 い平五郎山引馬峠を越え、たいへん苦労して下ってきたので、その名 を「苦労沢」と名付けられました。 これは何時しか、黒沢に変わり ました。 中将姫は川俣の奥の洗坂沢付近に身をひそめ、神仏にお互 いの無事を祈願しつつ、なお、中納言を探し求めて歩きました。 手 白沢温泉に登る途中「合の山」と云う地名がありますが、この一説、 愛の山からつけられたといわれています。 鬼怒沼山より源を発して います、鬼怒川をはさんで、右岸に中将姫、左岸に中納言が会うすべ もなく、厳しい大自然の訓練を受けながら互いを探しておりました。 しかし、長い年月の苦労が報われて、ある日鬼怒川を過ぎ黒沢と本 流の合流地点である「三音渕」のほとりで、中将姫と中納言は幾久ぶ りに再会し、喜び合いました。 これから後、「三音渕」は「女夫渕 」となり、中納言は姫の手を取り、鬼怒沼を目指して行ったのです。 これから先は、鬼怒沼につながる伝説になります。 七百有余年の 月日が流れた今日も、清らかな瀬音に立ち昇る湯の香と共に「女夫渕 」の伝説は語り伝えられているということです。 ●実在した中将姫 1 藤原氏の中将内侍 中将姫伝説と言えば、當麻寺曼荼羅を織り上げた中将姫の伝説である。デフォルメされて折口信夫の「死者の書」となって広く知られている。 時代は奈良時代、聖武天皇の天平5年、藤原豊成の娘に生まれたのが藤原南家の郎女、後の三位中将内侍である。曾祖母が藤原不比等で、祖母武智麻呂が藤原南家の始祖になる。 ●実在した中将姫 2 平安時代(1015年頃) 当子内親王の乳母、中将内侍。 第67代三条天皇の第一皇女当子内親王は斎宮に卜定されて16歳になって斎宮を退下する。天皇鍾愛の皇女だったが、藤原道雅が皇女と密通しているというウワサが立った。父天皇は激怒して、藤原道雅を勅勘、二人の手引きをした中将内侍を追放した。内親王は道雅との仲を引き裂かれ、悲しみのうちに落飾し、6年後に23歳の若さで生涯を閉じる。 今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならで言ふよしもがな 藤原道雅が内親王と別れた後に贈った歌が後拾遺集に採用され、百人一首にも選ばれている。 憎からぬ人の着せけむ濡れ衣は思ひにあへず今乾きなむ 中将内侍 (後選和歌集) 中将内侍が追放の末に栗山村に至って女夫淵で恋人と再会するという物語もできそうだが、平家落人伝説が背景とすると、時代が1000年早まってしまう。また、乳母であって姫とは呼びがたい。 |
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●とちぎの伝説
●鉢の木 旧葛生町(現佐野市) 山本の里(旧葛生町)で大雪に遭い、途方に暮れた旅僧は、貧しい農家に泊めてもらった。この家の主人は、貧しい暮らしではあったが、大切にしている鉢の木を焚いて旅僧に暖をとらせた。僧は主人にその素性をたずねると、佐野源左衛門常世のなれのはてと名乗り、零落はしたが、いざ鎌倉という時には、いの一番にはせ参ずる覚悟であると語った。その後、かの旅僧(実は最明寺入道時頼(鎌倉幕府第5代執権・北条時頼))は鎌倉に帰ると、常世の言葉の真意を確かめようとして諸国の士を招集した。果たせるかな常世はやせ馬に鞭打ってはせ参じた。そこで時頼は常世の忠節を賞し本領をもとに戻した。 ●小町塚 岩舟町 平安朝の昔、若いころは都の貴族のあこがれのまとであった小野小町も、年老いて容色衰え、老残の身を諸国流浪の旅に託すことになった。しかし、この地にたどりついた時ついに発病し、薬師堂にこもって病気回復を祈願したが、霊験あらわれず、この世をはかなんだ小町は、三杉川に身を投げて死んだという。里人はこれをあわれんで、小町を埋葬し、碑をたて、塚を築いた。以来この塚を、小町塚というようになったという。 ●戦場ヶ原の由来 日光市 昔、男体山の神と赤城山の神が、美しい中禅寺湖を自分の領土にしようと、大蛇と大ムカデに姿を変え、激しい争奪戦を繰りひろげた。しかし、なかなか決着がつかない戦いに業を煮やした男体山の神は、弓の名人である自分の子孫・猿麻呂に大ムカデの目を射抜かせ、ついにこれを討ち負かした。この戦いが繰りひろげられた広野原が、現在の戦場ヶ原なのだと伝えられている。 ●那須温泉の由来 那須町 農産物を荒らす白鹿を追い続けていた猟師の狩野三郎行広は、矢を打ち込んだにもかかわらず傷ひとつ残さない白鹿のことを不思議に思い、深山幽谷に分け入ってその姿を追った。そこで行広が見たものは、悠然と湯につかる白鹿の姿だった。鹿の傷を癒していたのはこの温泉だったのだ。以来、行広はここに湯治場を開き、病気やけがで苦しむ村人たちを救ったという。 ●宇都宮城釣天井 宇都宮市 幕閣から遠ざけられたのを恨んだ本多上野介正純は、2代将軍・秀忠が日光参拝の途中、宇都宮城に寄るのを機に将軍を亡き者にしようと、釣天井の仕掛けを持った御座所をひそかに場内に建築し、機会を待った。しかし、釣天井を作った大工からもれ、未然に鎮圧され、正純は家禄を没収され流罪となった。 ●殺生石 那須町 昔、中国の人々をたぶらかして、日本に飛来した白面近毛九尾の狐が化した玉藻前は、時の帝の寵愛を受けるようになった。帝の心身が衰弱するのを不思議に思った大臣の依頼によって、陰陽師の阿部泰成が、玉藻前の正体が狐であることを見破った。京で見破られた九尾の狐は那須野原に飛来し、しばらくの間人間界に害を及ぼしていたが、朝廷から遣わされた三浦義純、上総介広常と那須領主が力をあわせこれを討ち取った。ところが九尾の狐は死んだ後も、那須野原の石と化し毒気を吐き、道行く人を悩ましたので、殺生石と呼ばれた。後世、名僧・源翁和尚がこの地を訪れ済度し、狐の霊を鎮めることができた。 ● 「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す」と松尾芭蕉が『奥の細道』で記した那須の殺生石は、現在でも温泉地の一角にある。昆虫や小動物がそばに寄ればたちどころに死に、場合によっては人すらも命を落とすと言われた怪石である。実際には石が瘴気を発しているのではなく、付近から噴出する火山性ガス(硫化水素・亜硫酸ガス)によって死に至るのだが、目に見えないガス故に昔の人々にとってはまさに恐怖の対象であったのだろう。 この石にはあまりにも有名な伝承が残されている。“玉藻前=白面金毛九尾狐”の話である。これは室町時代頃に『御伽草子』の一編として成立、さらにさまざまに脚色されて能・人形浄瑠璃・歌舞伎などで人気を博した題材である。 久寿2年(1155年)、“化生の前”と呼ばれる下女が鳥羽法皇の院で働き始めた。下女は容姿端麗、あらゆる知識に精通しており、あっという間に法皇の寵愛を受けて、そば近くに仕えるようになった。その後、宴席で灯りが消えた時に自ら光を放つという不思議を起こして名を“玉藻前”と改めるに至り、法皇は寵愛すると同時に畏怖の念を抱くようになった。 それを境にして法皇の体調が悪化する。医師は邪気が原因であるとし、陰陽師の安倍泰成が祈祷すべしと具申するも一向に良くならず、ついに泰成は事の真相を包み隠さず話し出す。実は“玉藻前”の正体は下野国那須野にある二つ尾の古狐であり、それが法皇に取り憑いて害をなしているという。しかもその狐は天竺や震旦の王に近づき国を滅ぼそうと暗躍した過去があり、今日本の仏法を破滅させ王朝を簒奪しようと企んでいるという。そこでその正体を見破るために、泰成は泰山夫君の祭を執りおこない、玉藻前に御幣取りの役に任じたのである。玉藻前は拒絶するが、周囲から説得を受けて渋々承知して御幣を取ったが、突然その姿を消してしまう。やはり正体は狐であり、この出来事以来、法皇の病は治ったのである。 狐が潜む那須野には、それを退治するために弓の名人の三浦介と上総介の軍勢が派遣された。しかし容易に捕らえることは出来ず、さらに鍛練をして再度臨むがそれでも捕まえることが出来ない。ところが三浦介の夢に若い女が現れて命乞いをした。それを狐の進退窮まった様子と受け取った三浦介は、翌日ついに弓で狐を射殺したのである。 こうして退治された古狐の執心が凝り固まったのが殺生石とされ、そこから発する瘴気によって生き物の命を奪うようになったのである。そして退治から約200年経った至徳2年(1385年)、那須野に立ち寄った玄翁心昭が殺生石を打ち砕き引導を渡したとされる。その時砕かれた殺生石の破片は全国にある“高田”という名の地に飛散したと言われている。現在那須野に残っている殺生石は、本来のものの一部である。また近くにある温泉神社の境内には、九尾稲荷神社がある。 ●朝日堂・夕日堂 茂木町 仏の山峠に1軒の茶店があり、お仙という娘がいた。お仙は峠に出る追剥が父親であることに気づき、止めさせようと、旅人を装って峠に向かい、父親の手にかかって死んでしまった。父親は、犯した罪を悔い、娘の冥福を祈るため、朝日堂と夕日堂を建立した。 ●渡良瀬 旧足尾町(現日光市) 勝道上人が初めて足尾の地に着いたところ、川には橋がなく思案に暮れてしまった。そのうち上人は、浅瀬を見つけて無事に対岸に渡ることができたので、その地を渡良瀬と名づけたという。日光開山の祖といわれている勝道上人にまつわる話は、 この他にも日光、上都賀地方にかなり多く分布している。 ●蜂の恩返し 旧烏山町(現那須烏山市) 那須与一が狩に出た時、ススキの原でクモの巣にかかっている蜂を救った。この蜂が、そのお礼として黄金を彼に与えようとしたが、辞退したので、二本の鏑矢(かぶらや)を与一に与えた。屋島の戦いで扇の的を射たのはこの鏑矢だという。 |
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●栃木で伝承される「妖怪」
●天狗 ●古峰ヶ原 [鹿沼市] “古峯ヶ原”の神様や天狗様は山芋を好むという。信心深い人には忘れ物を飛んで届けてくれ、借りた傘を屋根に置いておけば集めてまわってくれるという。 ●川俣 [日光市] …愛宕山の深い穴(穴はダムに水没)。子どもが悪さをすると、出てきてこらしめたという。 ●百目鬼(どうめき) ●百目鬼通り [宇都宮市] ●明神山 [宇都宮市] ●長岡百穴古墳 [宇都宮市] ●本願寺 [宇都宮市] ●慈光寺 [宇都宮市] 宇都宮にはいくつかの民話や言い伝えが残されている。 1)平安時代、宇キ宮で百匹の鬼の頭目だった「百目鬼」が藤原秀郷に退治された。その400年後、本願寺の住職が熱心に説教をしていると、そこに毎日姿を見せる美しい女性がいた。その正体は「百目鬼」で、昔の力を取り戻すためにかつてここで流した血を吸い取ろうとしていたのだった。しかし、説教を聞くうちに改心し、角を折り、爪をささげたという。明神山は、百目鬼が討たれて倒れた場所、長岡百穴古墳は、百目鬼が400年間身をひそめ、傷ついた体が癒えるのを待った場所と言われている。 2)八幡山と二荒山の山間には、たくさんの山賊が潜んでいて、山賊たちの目が月夜に光る鬼の目のように見えたために、その辺りは百(たくさんという意味)目鬼と呼ばれるようになったと言われる。 ●河童 ●川俣の馬坂沢 [日光市] カジカという魚の中にまれに赤いものがいる。これは河童が化けたものでこの魚を殺さなければ河童に化かされないと言われていた。 ●戸中 [日光市] 7歳の子どもがいる家で、屋根に白羽の矢がついた家は、その子を川にやらなくてはならなかった。本来、子どもは河童に取られてしまうので戻らないが、餅を持たせた子どもが無事だったことから、餅を川に流す風習が生まれた。 ●古峰ヶ原 [鹿沼市]…おなべ淵 おなべという娘が身を投げた淵は、河童が住むとも言われ、引き込まれてしまった人もいると言い伝えられている。 ●妙伝寺 [益子町] いたずらばかりしていた河童が、寺の住職によって改心し、農民たちが日照りで苦しんでいるときに雨を降らせてくれた。河童の干物が妙伝寺に残っていると言われる。 ●そのほか、県内で“河童”の言い伝えがある場所 小倉川 [鹿沼市] / 湯西川 [日光市] / 尾頭峠 [那須塩原市] / 山形家 [鹿沼市] / 入粟野上五月地区の粟野川 [鹿沼市] / 上粕尾発光路 [鹿沼市] ●九尾の狐(きゅうびのきつね) ●殺生石 [那須町] 玉藻前(たまものまえ) / 奈良時代に、遣唐使・吉備真備が日本へ帰る船に、いつの間にか16、7歳の美少女がこっそり乗り込んでいた。この少女は、玄界灘まで来たところで見つかり博多に上陸するとその少女は姿を消した。これが「白面金毛九尾の狐」だったという。平安時代末期、玉藻前(たまものまえ)という美しい少女がいた。玉藻前はやがて鳥羽上皇に仕える女官となり、美しいだけでなく非常に博識だったことから上皇の寵愛を受けるようになった。上皇は次第に病に伏せるようになり、医師にも原因が分からなかった。しかし陰陽師・安倍泰成が玉藻前の仕業と見抜く。安倍が真言を唱えると、玉藻前は変身を解かれ、九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方をくらました。その後、安部泰成率いる討伐軍は、那須野(那須町)で九尾の狐を発見し、討つ。しかし、息絶えた九尾の狐は巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪うようになった。そのため村人は後にこの毒石を「殺生石」と名づけた。 ●雷獣 ●第一いろは坂の 屏風岩にある洞穴 [日光市] 春と秋の2回、暴風を起こして土地を荒らしたため、二荒山神社などに残る「二荒」の由来の一説とされている。 ●那須烏山市 ネズミに似てイタチより大きく、鋭い爪を持ち、尻尾は二股に分かれていると言われる。夕立が起こりそうな雲が現れると雲に飛びこみ、雷になると言われていた。 |
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●栃木県の民話・伝説
●宇都宮市 ●大豆3粒の金仏 善願寺の大仏は旅の僧にもらった3粒の大豆を栽培して得たお金で作ったという伝説 ●男抱山(おただきやま)物語 地元の娘と江戸から来た男との悲恋物語 ●足利市 ●字降松(かなふりまつ) 足利学校の学生が読めない字を書いた紙を夜のうちにこの松の枝に結んでおけば、次の朝には読み仮名が振ってあったという松。実は7代目庠主・九華がかなを振っていたという。 ●蛭子様 足利義兼に不義の疑いを掛けられて自害した時子夫人の腹中からヒルがたくさん出てきた。無実の罪で死んだ時子夫人の菩提を弔うために建てられたのが現在の蛭子堂(蛭子様)で鑁阿寺(ばんなじ)本堂の西にある。 ●栃木市 ●このしろの伝説 有馬皇子と五万長者の娘との恋物語 ●白旗八幡と旗掛け桜 源義家が陸奥国へ下向のとき、勝泉院内の八幡宮にもうでて、桜木に白旗を掛けたとされる伝説 ●日光市 ●戦場ヶ原 二荒の神様は蛇の兵隊を、赤城の神様はムカデの兵隊を繰り出し戦った。勝負はつかず引き分けに終わった。 ●山菅の蛇橋 日光開山の祖・勝道上人が大谷川を渡るとき2匹の蛇が現れ橋の代わりをした。 ●今市市 ●生子石(うぶこいし) ヤマメを食べて石になった身重のおさよと、生まれた赤ん坊の話 ●追分地蔵尊 現在、日光街道と例幣史街道の分岐点にまつられている。昔、大谷川の河原に埋もれていて、のみを当てたら血が出たという。 ●小山市 ●千駄塚 長者の家に荷を積んだ1000頭の馬を連れた商人が、泊まり、長者と掛けをした。商人が負けて荷を置いていった。翌年又同じ商人が訪ね、又掛けをして今度は勝ち、前年の荷だけ持っていった。今年の荷の中身はがらくたばかりで。長者はこれを埋めた。現在の千駄塚の地名からきた民話 ●のろわれた七夕 豊臣秀吉の小田原征伐のとき、小田原方だった小山政種が秀吉方に城を攻められ落城した。この日が七夕だったので小山では七夕祭りをしないと言われる。 ●矢板市 ●旗掛け松 八幡太郎義家が奥州征伐の祭、宿陣したので宿陣の印である旗掛け松がある ●金輪とはめられたヒル ヒルは気持ち悪い姿のうえに人に吸い付き血を吸うので、産土神の三島明神が口に金輪をはめた。 ●鬼が坂 筑波山ふもとに鬼女がおり、片岡兵郎が退治に乗り出し、鬼女は大槻の山中に逃げ込みここで討ち取られ鬼が坂となった。 ●黒磯市 ●子守石 娘に化身した蛇と呉服屋の主人が結ばれ、子供が産まれた。しかし、出産の様子をのぞき見され、蛇と知られ自ら子供を置いて家を出た。主人が泣く子を背負って沼っ原の大きな石の所で「もう一度会ってくれ」と願を掛けると一度だけ会うことが出来たという。 ●上三川町 ●ねずみ観音 馬になろうとしてなれなかったネズミの話 ●片目のドジョウ 上三川城落城に伴い片目を失った姫君の悲話 ●南河内町 ●埋蔵金伝説地「金山」 南河内町本吉田南の通称「金山」と言われている場所で、結城家17代晴朝の埋蔵金伝説 ●吉田が池と片目のコイ 南河内町龍興寺の北東に残る小さな2つの池には龍神のお使いのコイ、池の雨乞いの池として伝説がある ●天狗山のてんぐとひょう 南河内町薬師寺八幡宮の東、昔、天狗が住んでいた天狗山、ひょうを降らさないでほしいと願を掛けた農民と天狗の話 ●上河内町 ●巨人ダイダラボウシ 昔、ダイダラボウシという雲を見上げるような巨人が出羽の羽黒山に住んでいた。ある日、この山の土をもっこに乗せ東の方に向かって歩き出した。下野国河内郷に着いたとき、ダイダラボウシは一休みしようともっこの土を降ろし、休んだ後、土を忘れて行ってしまった。この土山が現在の羽黒山で肘を付いたところが肘内、足跡が残り沼となったのが芦沼と言われる。 ●河内町 ●3本杉とキツネ 白沢宿のはずれの鬼怒川べりに3本杉があり人をだますと言われてきた。その話をうまく利用し、宿場に泊まった殿様と家来がだましあって遊んだという話 ●かしらなし 上河内町の羽黒山を背負ってきたダイダラボウシが疲れ切って芦沼と弁財天沼にまたがり、小用を足してたまったところだと言う話 ●西方町 ●八百比丘尼 昔、八重姫という一人の姫がいた。ある日、貝の肉を食べたところ、不思議なことに娘はいつまでも若く、美しいまま年を取らなかった。娘は尼となり全国を巡り歩き、800歳まで生きたという。人々は彼女のことを八百比丘尼と呼んだ。 ●足尾町 ●孝行猿 猟師が山で道に迷い猿に助けてもらったお礼に末娘を猿の嫁にやる話 ●二宮町 ●宗光寺の鬼つめ 悪人が死に、野辺送りの途中、空から鬼が現れ死がいを奪おうとしたが、住職が鬼を撃退した。その時の爪が残る。 ●高田山専修寺の夜祭り 上人が如来堂に入ったまま忽然と姿を消したため夜を徹して捜したが見つからず以来夜祭りとなった。 ●茂木町 ●お島田 3年間の約束でお島という娘が奉公に来た。地主は冗談に3段歩の苗取りを一番鶏が鳴かないうちに終わらせれば帰してやると話した。お島は一生懸命仕事をしたので終わりそうになった。地主は「コケコッコー」と鳴き真似をした。お島はそれを聞いて、ひょいと立ち上がったがそのまま田の中へ前かがみになって死んでしまったという。 ●野木町 ●ドウロクジン(道祖神) 丸林の五差路にドウロクジンがまつってある。丸林にはほかにヒノゴゼン(日の御前)弁天の3人の神様がいた。昔、ドウロクジンはいつも弁天様のところへ夜這いをしていたが、あきれた弁天様に丸い池の中に引き込まれてしまった。その時ヒノゴゼンに「1つくらいよいことをしろ」ととがめられ、それから道を教えたり足が痛いのを治すようになったという話 ●大平町 ●泣き地蔵 田植えの手伝いで馬の鼻取りをした男の子が大人でも途中で休むところを頑張り通した。その仕事を終わらせて、やっと朝食のおにぎりを食べ始めた。ところが悪いことに馬に蹴られて死んでしまった。家の者、近所の者が男の子が余りにもかわいそうだと1体のお地蔵さんを作り供養した。これが泣き地蔵。 ●田植え地蔵 昔ある百姓が庄屋に「あそこの田植えを今日中に終わらせろ」と命じられた。とても1日で終わるような仕事ではなかった。そこへ見知らぬ子供が近づき手伝ってくれた。その田植えの速いこと。見る見るうちに終わってしまった。礼を言う間もなく子供は帰って行きお堂の中に入った。後を付けていった百姓がお堂の中を見ると地蔵の足が泥で汚れていた。この話を聞いた村人は田植え地蔵と呼ぶようになった ●藤岡町 ●おゆわふち伝説 郷土の部屋地方は、昔、毎年のように水害に苦しめられていた。田畑が荒らされ多くの人々の水死が繰り返された。やがて村人から水害を防ぐために、若い娘を人柱にする風習が起こった。その人柱の一人がおゆわであった。何回かの河川改修で今はこのおゆわふちは姿を消しているが、大正7年おゆわ稲荷だけは部屋地区の帯刀研修館内に移転され、つい最近まで村人たちの手で香華が手向けられていた。 ●栗山村 ●鬼怒沼伝説 ある男が山へ働きに行くと、きれいなお姫様がいて3年も家に帰ってこなかったという話 ●へっぴりじい あるじいさんは殿様に屁をして褒美を頂いたが、まねをした別のじいさんは切られてしまう話 ●氏家町 ●そうめん地蔵 日光の強飯式のルーツとなった話で荒くれ山伏が無理に勧めるそうめんをそうめん地蔵が平らげるという話 ●つた地蔵 どこへ運んでも一晩のうちに元の場所に戻る地蔵様で定家地蔵ともいう。藤原定家の顔を模しているという。 ●雪姫と紅葉姫 勝山城落城の時、2人の美しい姫が鬼怒川に身を投げる。2人はコイとなり釜ヶ淵で再び出会う話 ●デーデン坊 大男のデーデン坊が山を背負ってくる話で羽黒山や周辺の地方の由来にもなっている。 ●喜連川町 ●長者が平 下妻街道(古い道)を行くこと4km、鴻の山に出る。源義家がこの地の豪族塩谷民部に家来1000人分の食糧と雨具の用意を命じたところ即座にそろえた。義家は帰途再び立ち寄り、後患を恐れてこれを焼き滅ぼしたという。現在、焼米(米の炭化物)が出るのでその時の米倉のものと言われる。 ●南那須町 ●とげ抜き地蔵 六兵衛さんが山にまきを取りに行ったとき、苦しんでいた山犬ののどのトゲを取ってやったあとは、山犬が人を食い殺さなくなった。 ●黒みだ様 村人が荒川に流れ着いた金色の阿弥陀様を見つけお堂を建てた。だが、これに目がくらんだ馬が、驚いて荒川に転落。このため村人たちは阿弥陀様を漆で塗ったという話 ●鳴井山の霊験 一人の武士が神社の拝殿に斬りつけ「霊験無し」とうそぶいて立ち去ったが間もなく落雷で即死したという話 ●小川町 ●那須与一の逸話 8歳の時に兄弟で鳥の巣を打ち落とそうとしたとき、与一の矢は巣をそれ兄弟に笑われたが、実は巣をねらっていた蛇を射抜いており幼少から弓矢の技に秀でていたという、源平屋島の合戦で扇の的を射落としたのは成長した与一の逸話。 ●那須町 ●九尾のキツネ 唐から渡ってきた金毛九尾のキツネが、宮中に入り玉藻の前と称し鳥羽上皇の寵愛を受けるようになった。ところが陰陽師阿倍泰成にその正体を見破られ東国へと逃れたが、那須野が原で射殺され、その怨念が毒気を放つ殺生石と化し、近づくものをすべて殺すようになった。 ●西那須野町 ●烏ヶ森の妖怪変化 人々が妖怪変化の恐ろしい目にあうなか、一人妖怪にあわなかった者がいたという(それは目と耳が不自由であったから)話 ●人数計りの桝 4角に掘られた升形の土地で九尾のキツネを退治するとき、ここに人を入れて人数を計ったという千人桝の話 ●オオカミの恩返し 旅人に助けられたオオカミが那須野の道を守ってくれた話 ●塩原町 ●医者になった狩人 腕のいい狩人がある日木の上にいた大蛇を撃ち、その骨で良薬を作り医者になったという話 ●葛生町 ●夜泣き石 藤坂与三というものが夜、明神山のふもとで赤子の泣き声を聞く。よく見ると石が泣いている。これをご神体としてまつる話 |
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●足利市の伝説 ●鑁阿寺 蛭子堂 境内北門近くにある蛭子堂には、下記に様な言い伝えがあります。 足利市重要文化財 蛭子堂(ひるこどう) 時姫堂とも称し、当山開祖 足利義兼の妻、北条時子(源頼朝の妻北条政子の妹)を祀り、時子の法名から智願寺殿ともいう。創建年代は不詳 時子姫は寺伝では自害したといわれ、これにまつわる逆さ藤天神足利又太郎忠綱の遁走、自刃の哀話は足利七不思議の伝説の中の白眉の物語りとして残っている。妊娠の女人、此の堂にお詣りすれば栗のいがより栗が軽くもげるが如く安らかに安産のききめありといわれ、昔から信仰されている。本尊は栗のいがを手に持つ蛭子女尊。 この他、蛭子堂については、足利義兼に不義の疑いを掛けられて自害した時子夫人の腹中からヒルがたくさん出てきた。無実の罪で死んだ時子夫人の菩提を弔うために建てられたのが 現在の蛭子堂(蛭子様)と言う説があります。 時子夫人は不義をしたわけではなく、花見の時に侍女が汲んできた井戸の水に蛭が入っていて、その無数の蛭が血を吸ってお腹が膨れたという話もあります。その井戸が、開かずの井戸とも言われているそうです。本堂と中御堂の間に、分厚いコンクリートで蓋をされた井戸があります。 そんな逸話がありますが、今では安産を願いお参りする人がたくさんいます。 願い事が書かれたよだれかけがたくさん奉納されています。 逆さ藤天神は北門を出て、西へ10mくらい行った北側にあります。 ●蛭子伝説 北条時子は時政の娘にして足利義兼の正室なりき。義兼鎌倉出府の折、春の一日を郊外に遊べり、そのおり老女藤野の組む水を飲みしところ、日を逐い腹部膨満せり。折しも足利の館に足利又太郎忠綱が滞在し藤野と通ず。藤野は義兼に、時子が忠綱に密通せりと虚偽の報告をなせり。 義兼の疑が晴れざる故、時子は「死後わが体を改めよ」と遺言して自害せり。 時に建久七年六月八日。 時子の遺体を検するに、腹部に蛭の充満せるを発見、郊外散策のおり飲みし水の故と推定さる。義兼大いに驚き藤野を極刑に処し、時子の遺体を当山の地にねんごろに葬りたり、法号に智願寺殿を贈り、これより当山の院号を智願院と称す。 ●時子の症状について胞状奇胎では無いか言う考え方があります。 胞状奇胎は現在でも分娩350〜500回に1例程度の割合で発生しているそうです。当時も胞状奇胎という症状は周知されていたと思われます(”ぶどう子、泡子”と呼ばれていました)。体内で蛭が増殖する可能性は限りなく0%に近いので、”胞状奇胎”説は有力だと考えられます。 ところで”蛭子”と書いて”ヒルコ”と読んでいますが、一般には”蛭子”と書いて”エビス”と読む事が多いようです。 ”ヒルコ”とは記紀神話に登場する”蛭子(ヒルコ)命”を指します。不具の子に生まれ、誕生後すぐ流されてしまいます。 しかし、後に戻って来てエビス神として信仰されるようになった…と、言われています。復活・再生の神話とも言われます。そうしたエビス信仰がはじまるのも鎌倉時代以降の事です。 時子の病状からこのような伝説が生まれたのかも知れません。しかし、それより単純に、義兼が病に斃れた時子を悼み、浄土での安穏を祈願して建てられたお堂と受け止める方が、私達も幸せな気持ちになれるのでは無いでしょうか? ●藤野の処刑方法は、車裂きとも牛裂きとも言われる残虐な処刑であったそうです。 ●足利又太郎忠綱が滞在という記述は重要です。 「蛭子伝説」には続きがあり、その足利忠綱は義兼一党に赤雪山に追い詰められて自害したと言われています。問題は、その時、足利忠綱が足利に居た事です。通説によれば野木宮合戦に敗れた後、山陰道を経て西海へ赴き消息不明となったと言われています。他方、西暦1185年に『吾妻鏡』文治元年4月15日条に「兵衛尉忠綱」という名前が見られ、足利忠綱ではないかという説もあります。 いずれにしても、義兼の元に忠綱が保護されていたと言うのであれば驚く次第です。 ●藤姓足利氏・忠綱の伝説 次の四つの話題から出来たひと繋がりのお話です。蛭子伝説(=あかずの井戸)、逆藤天神(さかさふじ天神)、赤雪山伝説、忠綱八幡宮、お話の主人公である足利忠綱と云う人物は「藤原姓の足利氏」の一族であり、義兼が足利全域の知行権を獲得する以前足利の大半を支配下に治めていました。しかし治承寿永の乱(頼朝が覇権を確立するまでの一連の内乱)の中で滅亡し、その後「足利」は義兼が治める地となりました。伝説の中で「足利忠綱」は義兼に仕え足利屋敷を取り仕切っていた事になっています。それ自体が理解できない内容なのですがここでは敢えて触れずにお話の概要を記します。 ● 或る日鎌倉から戻った義兼は侍女の藤乃から「時子様(義兼の妻)と忠綱殿が不義の関係にあり、時子様はすでに忠綱殿の子を身籠られている」と告げられ激しく怒ります。身に覚えの無い嫌疑を掛けられた忠綱は一旦足利屋敷を逃げ出し、義兼から不義を問い詰められた時子は「死後、腹を開いてみよ」と遺言し自害してしまいます。時子の遺言通り義兼が腹を裂いてみるとそこからは無数の蛭(ヒル)が湧き出て来たのでした。時子の無実を知った義兼は侍女の藤乃を牛裂きの刑に処しました。これが蛭子伝説です。一方、怒る義兼から慌てて逃げ出した忠綱は、足利屋敷の北に在った天神様で一息吐きました。その時忠綱が地面に刺した一本の藤の枝がやがて根付いた事から、この場所を「逆藤天神」と呼びます。その後足利の山中に逃れた忠綱は追手に追い付かれ雪を血に染めた事からその山を「赤雪山」と呼ぶようになりました。そしてついに山を越えた皆沢という場所で力尽き討ち取られました。その地には忠綱八幡宮が建てられました。 滅亡した藤姓足利氏への憐憫の情はわかりますが、義兼の人となりを「猜疑心が強く」、死後妻の腹を裂き腸を探るような「残虐性」を併せ持ち、偽りを告げた侍女を容赦なく残虐な方法で殺す「冷酷無情な人」と描いている点が奇妙に感じます。時子に対しても或る意味侮辱的な描写をしています。事実はいずれにしても何故このような伝承が伝えられたのでしょうか。「判官贔屓(はんがんびいき)」と言えばそれまでですが非常に不可解な伝承です。 この伝承の通りで在るならば、先ず足利忠綱は家中の者として留守を守っていた事になります。それ以前の藤姓足利氏の源氏に対する敵対行動を考えると支持する事の出来ない話です。そしてこの出来事の後、義兼は「出家した」と続く事からお話の時期は建久六年(1195年)7月頃の話か、または一般に時子が亡くなったとされる建久七年(1196年)6月8日前後の話と考えられます。しかしその何れの年であっても6月〜7月では「赤雪山」の下りに記されるような「血で赤く染まる雪」はあり得ません。更に「忠綱八幡宮」の伝承に関しても下野神社社沿革史〔明治三十五年風山広雄編)には「忠綱は建久五年(1194年)に戦死」とあり年が異なります。他にも「忠綱は野木宮合戦に敗れ後にこの地で戦死」と云う伝承も有ります。その場合は寿永二年(1183年)2月23日または治承五年(1181年)閏2月23日であり「赤雪山」の伝説が成り立ちますが、時子の没年や義兼の出家との整合が取れません。季節の事を踏まえれば建久六年および建久七年はあり得ず、それ以外の年では時子や義兼の行動と整合が取れません。「忠綱の逃亡劇」が義兼や時子に関係した行動である可能性は皆無です。 思うにこのお話は2つの異なる話から出来ています。ひとつは早産、死産、多胎児、異常妊娠など理由はいずれにしても出産間もなく我が子を亡くした時子の悲しいお話と、そしてもうひとつは藤姓足利氏滅亡の時の忠綱逃亡劇という話です。前者は出産した子供を水子(水子には胎児だけではなく出生後まもなく死亡した子も含まれる)の内に亡くした話が、イザナミの産んだ「蛭子神」の伝承と重なり、「水子」が同義の「蛭子」となり、現在の鑁阿寺境内にある蛭子堂の創建に繋がったと考えられます。そして生まれて間もなく亡くなった子供とは、鑁阿寺古縁起において樺崎寺下御堂の仏壇下に葬られたと伝わる「瑠璃王御前」と「薬寿御前」で在ったと考えられ、(別縁起ではこの記述が「女子三人」と書き改められて混乱しています。)更にその時期は、吾妻鏡文治三年(1187年)12月16日の条に記載された「義兼の北の方(時子)の急病に際し政子が見舞う」の記述が相当するのでは無いかと思われます。その翌年義兼は鎌倉に極楽寺を創建しており、その動機にもなり得ます。この伝説はもとは「元気な子を産み育てられなかった時子の悲しみ」と「義兼の落胆」を伝える内容で有ったと考えられ、鑁阿寺別縁起に記される「悲歎の余り犀皮の鎧を売り大日尊を彫らせ、法界寺下御堂を建立した」との記述が元の話であったのでしょう。 忠綱の逃亡劇については概ね伝承の通りでしょう。しかし時期については定かでは有りません。一つの可能性として、忠綱の叔父である戸矢子有綱が文治二年(1186年)6月1日に源姓足利氏と戦い自刃したと伝わることに関係するかも知れません。 この二つの伝承が合わさり変質した背景としては、室町時代に上杉氏が勢力を伸長させ足利を支配下に置いた事が大きく影響していると考えます。上杉氏は上野国を所領としており、そこには当時も藤姓足利氏の連枝・末裔が土着し上杉氏の知行を担っていたと考えられます。藤姓足利氏最後の当主の悲哀を中心に描かれたこの一連の伝説は、元々は藤姓足利氏の連枝・末裔の間に伝えられていた話が、その一族が足利に移り住んだことで一緒に持ち込まれ、やがて現在伝わるような内容に変質したのでは無いかと考えます。 義兼は元より、義氏を生んだ時子もまた足利の父母のような存在です。歴史的事実かどうか確かめられない限り、蛭子伝説のように先人の尊厳を傷付けるような伝承は軽口に乗せて話す事は控えるべきかも知れません。 ●織姫神社 1 足利は古くから織物を中心として栄えてきました。 奈良時代初期の和銅6年(713年)というのが足利織物が文献上に残る最古のものと言えるでしょう。 その約1,300年の伝統を持つ足利織物の守り神として奉られているのが足利織姫神社で、昔機織を司られた天御鉾命と八千々姫命を祭神としております。 昔は「機神さま」と呼ばれ、明治12年8月24日に合祀されていた通4丁目の八雲神社から今の織姫山南麓に遷宮しましたが、翌年の明治13年9月10日の火災で焼失以来、仮宮のまま約50年を経過。この間、織姫神社奉賛会により織姫神社中腹に朱塗りの社殿が造営され、昭和12年5月7日仮殿から遷座して現在に至っています。 緑に映える朱塗りのお宮は、国登録有形文化財にも指定されている足利の名勝の一つで、足利県立自然公園の最南端に位置しています。社殿の東側には関東ふれあいの道「歴史のまちを望むみち」が通っており、北に続く織姫山一帯は明治100年記念事業として造成された総合公園(織姫公園)になっています。 ●織姫神社 2 当織姫神社の祭神は、太古の昔より機織を司る天御鉾命・八千々姫命のニ柱の神様です。 このニ柱の神様は、もともとは皇太神宮御料の織物を織って奉納したという、伊勢国渡会郡井出の郷、御織殿の祭神でした。 千二百年の歴史と伝統を誇る機業地足利の守護神として、このニ柱の神を勧請、その分霊をお祭りしたのがこの織姫神社なのです。 記録によりますと、明治十二年八月二十四日、足利市通四丁目から機神山南麓にかけての梅林を切り開いて遷宮したとあります。ところが、翌十三年九月十日、火災により神殿が焼失、以来仮宮のまま経過しておりました。昭和九年春、崇敬者有志をもって、織姫神社奉賛会を組織し、社殿再建に着手しました。三年有余の歳月をかけて落慶、昭和十二年五月現有社殿の威容が完成しました。 朱塗りの殿堂は緑の景観に映えて美しく、関東ふれあいの道の名所にもなっています。 ●織姫神社 3 栃木県足利市西宮町にある神社である。 1200年以上の伝統と歴史をもつ足利織物の守り神であり織姫山の中腹に建つ朱塗りの美しい神殿は足利名勝のひとつともなっている。古墳跡もある。 1705年(宝永2年)に土地住民により創建された。のちに通4丁目の八雲神社の境内社としてまつられた。そして織姫神社は1879年(明治12年)8月24日に通4丁目の八雲神社から織姫山に遷座されたが、1880年(明治13年)9月10日に火災により焼失した。しばらく仮宮のままであったが、1934年(昭和9年)に再建事業を開始し、1937年(昭和12年)に現在の社殿が完成した。平等院鳳凰堂をモデルとしたという。 織姫神社は一時衰退したが、平成期になってから林吉郎によって再興された。 祭神は天御鉾命と八千々姫命である。 神社造営碑は幅2.7メートル、高さ7.5メートルで題額は金子堅太郎、撰文は徳富蘇峰、書は書家の岩澤亮弌の手による。 2004年(平成16年)6月9日に社殿・神楽殿・社務所・手水舎が登録有形文化財に登録された。 2010年(平成22年)7月より織姫神社と同市内の門田稲荷神社(下野國一社八幡宮境内社)を中心にあしかがひめたまという萌えおこしが行われている。縁結びにご利益があるとされ、2014年(平成26年)に恋人の聖地に選定された。 2014年(平成26年)7月に織姫神社入口歩道橋下に「ひめちゃんひろば」という休憩所、案内所が建設された。地域の個人が足利市活性化のために土地を購入、足利元気隊/いいねこ。のみせ(同市内の民間団体)が同所を管理し織姫神社への観光客や地域住民の休憩所となっている。また同月、隣接する織姫公園とともに日本夜景遺産の認定を受けた。2017年(平成29年)、月の風景が一般社団法人「夜景観光コンベンション・ビューロー」の選ぶ「日本百名月」に認定された。 ●足利織姫神社のご由緒 1200年余の機場としての歴史をもつ足利。この足利に機織の神社がないことに気づき、宝永2年(1705年)足利藩主であった戸田忠利が、伊勢神宮の直轄であり天照大神(あまてらすおおみかみ)の絹の衣を織っていたという神服織機神社(かんはとりはたどのじんじゃ)の織師、天御鉾命(あめのみほこのみこと)と織女、天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の二柱を現在の足利市通4丁目にある八雲神社へ合祀。その後、明治12年(1879年)機神山(はたがみやま)(現在の織姫山)の中腹に織姫神社を遷宮した。 翌年の明治13年、火災に遭い仮宮のままとなっていたが、昭和8年皇太子殿下御降誕(現在の上皇陛下)を期し、当時の足利織物同業組合組長の殿岡利助氏の先導により市民ぐるみで新社殿の建造にかかり、昭和12年5月に現在の織姫山に完成、遷宮した。 平成16年6月、社殿、神楽殿、社務所、手水舎が国の登録有形文化財となる。 ●足利織姫神社が縁結びの神社と云われる由縁 ご祭神は、機織(はたおり)をつかさどる『天御鉾命』(あめのみほこのみこと)と織女である『天八千々姫命』(あめのやちちひめのみこと)の二柱の神様です。 この二柱の神様は共同して織物(生地)を織って、天照大御神に献上したといわれています。 織物は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りあって織物(生地)となることから、男女二人の神様をご祭神とする縁結びの神社といわれるようになりました。 また、織物をつくる織機(しょっき)や機械は、鉄でできているものも多いことから全産業の神様といわれ7つのご縁を結ぶ産業振興と縁結びの神社といわれております。 |
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●高根沢町の伝承
社会生活を営む私たちは、さまざまな道具に支えられて生活している。特に、高度情報化社会と言われている今日の生活にあっては、視覚や聴覚という人間の感覚までもが、高性能の情報機器に転換させられようとしている。しかし、少し前までの生活では、文字や映像という、記録による文化継承ばかりではなく、人間の感覚そのものを生かした、話ことばという耳の記録、つまり、記憶による文化継承という機能も重視されていた。 言語伝承は、「口承文芸」と呼ばれたりすることもあるが、一般的には「民話」と呼ばれている。「民話」は民間に語り伝えられてきた話という意味を持っているが、話しことばのリズムや響きを生かして、古代から途絶えることなく、その時代時代の心を積み重ねてきた、庶民の文芸でもある。「民話」をさらに細かく分けると、「伝説」や「昔話」、そして、「世間話」などがある。 「昔話」は、「むかし、むかし」とか「むかしあったけど」と語り始め、「どっと、はらい」とか「これでおしまい」で納める。また、「へんとう」とか「おっとう」と独特の相づちを打つなど、語りの形式が大切にされている。一般的には、木小屋などでの農作業の効率を上げる働きや那珂川流域の葉たばこ農家の夜なべ仕事を手伝う子供たちの眠気を覚ます働きとして語られてきたものである。そして、「民話」は、語り手と聞き手が共同して作り出してきた物語の世界でもあったのである。 「伝説」は、地域に起きた過去の事件に基づき、特定の人物や事物の由来を説明しようとする。大きな石や木、冬でも涸れない沼や池、地域に起こった不思議な事件があると、湖沼の開発や貴人の巡行、あるいは、高僧や英雄の奇瑞として語る。伝承の形式はあまりとらわれず、話の伸縮も自由である。 高根沢町では、現在「昔話」はほとんど聞かれなくなってしまった。残念ではあるが、今回の調査ではこれと言って記録できる「昔話」を集めることができなかった。「世間話」は日常生活の中に起きたさざ波のような事件を噂話のように語り合い、事件の緊張感を和らげ、しかし、その事件が残した生活の知恵は忘れないようにしようという、巧みな耳の文芸である。高根沢町における「世間話」もかすかにその残像を残すのみではあるが、いくつか「伝説」と結びついて記録することができた。しかし、「世間話」そのものとしてまとめ記録するまでには至らなかった。 「伝説」は高根沢町全域に伝承されている状況を確認することができたが、伝承内容がその一部であったり、かつてそういう話を聞いたことがあるという、いわば、伝説のかけらが残されている状態である。しかし、『高根沢郷土誌』(鈴木旭翠・小川寿々夢編、昭和三八年)や『高根沢町の伝説集』(古口利男、昭和六三年)「子どもが書いた ふるさとの伝説集」(ふる里運動実行委員会編、昭和五三年)など、先人たちの尽力によって貴重な記録が残されている。「昔話」や「世間話」は、どちらかというと地域の人間関係が織りなす喜怒哀楽を物語化して、人生の知恵として語り伝えるという性質を持っている。それに対して「伝説」は、地域社会に起きた事件を素材にして、地域の歴史や文化を語り伝えるという性質を持つ。また、かけらながらも伝承されている地域には、その伝説にまつわるほこらが作られていたり説明板が立てられていて、今も変わらない地域文化継承の篤い思いに触れることができる。高根沢町に「昔話」や「世間話」よりも「伝説」が強く伝承されてきたということは、高根沢町の風土が郷土の歴史を重視する気質が強いということを証明しているとも言えるであろう。 これらの伝説を整理してみると、宝積寺や上阿久津・中阿久津などの西部地区には、鬼怒川水運を色濃く映し出している伝説や稲荷信仰に結びついた伝説が残されていることが分かる。大谷・石末や桑窪などには、川や沼など水を中心とした農耕信仰や農耕儀礼を反映した伝説が多く見られる。また、地名の由来を説く伝説や行商人や旅芸人にまつわる伝説が町内全域に分布しているのも、高根沢町の特色ではないかと考えられる。 ここでは、先人たちが残された貴重な記録を顕彰するとともに、かすかながら現在も伝承されている伝説を収録することによって、高根沢町の生活文化を振り返り、さらに、これからの地域文化育成の手がかりになればと願い、伝説の特徴がよく出ている自然や人物を項目として整理し、補足解説を施して記録した。 ●水と伝説 五行川低地には、多くの湧水池や支流があったが、整地事業や各種土木工事によりその姿を消していった。水は米づくりを中心とした農業に欠かすことができない。水を大量に使う農繁期はもちろんのこと、農作業がない期間でも、用水や湧き水の維持管理は地域住民の重要な仕事の一つであった。 苗代しめが始まる直前の「川普請」と呼ばれていた仕事もその一つであった。地区によっては「モク上げ」とか「堀さらい」とも呼ばれていた共同作業であった。厳しい寒さがゆるみ、畦の雪も消えたころ、地域の人々が土手の修理をしたり、用水に溜まった泥やゴミをきれいにし、水路を確保する。仕事が一段落すると、当番の家で、おにしめや赤飯を食べたり酒を飲み交わして、秋の実りを祈願した。 水への期待と祈りが高まると、涸れることのない湧き水や沼への畏怖の念がつのり、湧き水や沼に神々が宿ると考え、湧き水や沼を汚すことを畏れ慎んだ。その思いが水神信仰となり、湧き水や沼を汚すことを諌める伝承を生み出していったのであろう。 ●おだきさん 廻谷に冬でも涸れることのない沼があり、澄んだきれいな水を湛えていた。 その沼の近くの庄屋の家におだきという名の娘が奉公勤めをしていた。美人で働き者だったので、庄屋の主人も大切に使い、まわりの人たちもおだきを可愛がっていた。庄屋には息子がいて、いつしか、おだきはその息子を好きになっていった。しかし、身分の違いがおだきを苦しめることになった。苦しい胸の内を判ってくれる人は誰もいない。おだきは息子への思いを断ち切ろうと、さらに奉公勤めに精を出した。 やがて、庄屋の息子に縁談が持ち上がった。しかし、相手はおだきではない。おだきは悲しみと苦しみに耐えることができず、庄屋の息子の華やかな婚礼の夜、とうとうその沼に身を投げて死んでしまった。彼女の死を悼んだ人々はいつしかその沼を「おだきさん」と呼び、小さなお堂を建てて、彼女の冥福を祈ると共に、家内安全祈願や豊作祈願をするようになった。 また別の伝承では、家は貧乏だったが美人で働き者のおだきという娘がこの沼の魚を獲って生計を立てていたが、ある日、あまりにもたくさんの魚が獲れて夢中になってしまったので、沼の主の怒りに触れ、この沼に引き込まれてしまい亡くなったので、その沼を「おだきさん」と言うようになった、とある。 ● 何本かの杉の木に囲まれた「おだきさん」は、現在高根沢町の文化財に指定されている。杉木立の間に立派な鳥居が建てられ、池のほとりには「滝尾神社」「日吉神社」「水天宮」「雷神社」と、水に関係した神々が鎮座していて、往時、地域の人々の篤い信仰や寄進を集めた歴史を今に伝えている。水の神は、女性にたとえられることが多い。女性は生命を生み育てる、重要な役割を持っている。水もまた、人間の生命そのものを支えている。農業は大地の生命をいただく仕事である。その大地を育む水の生命と生命を生み育てる女性が結びつくのは決して不自然ではない。 ●自害渕 両親を幼くして亡くした「おすず」という女の子が祖父の「作造」と慎ましく暮らしていた。やがて、おすずも美しい娘に成長し、「善之介」という若侍と許婚になった。しかしどうしたことか、善之介が突然の病で急死してしまい、あまりの悲しみにおすずは両親の位牌を胸に抱いて渕に身を投げてしまった。たった一人の身寄りを失った作造もまたおすずの後を追って渕に身を沈めた。人々は幸せ薄い二人を弔って渕の近くに塚を建て「姫塚」と名付けた。その塚に近づいたり塚に手を触れると祟りがあると恐れられている。 ● 正式には「扇渕」と呼ばれている渕ではあるが、平田地区を流れている井沼川にまつわる悲しい伝説である。 ●おっかな渕 昔、鬼怒川の支流が豊かに流れていたころ、中阿久津の富士見坂下にあった大きな沼を、通称「おっかな渕」と言っていた。沼のほとりに生えていた大きな松の木に、これまた大きな青大将がいつもとぐろを巻いていたので、誰言うともなく「おっかな渕」と呼んだ。 ●折れた一本の針 昔、大谷に年中水が湧き出ている沼があった。沼の名は天沼と言った。水は常に透明、沼の中程は底無しといわれるほどの深さで、青く不気味な色を漂わせていた。 この沼にはたくさんの魚が住んでいたので、近くにここの魚を獲って暮らしていた娘と父親が住んでいた。父親の名は寅三と言って、手先が器用だったので、鉄の鍋や釜、鉄瓶の修理をするイカケ屋もやっていた。だから、その地域では「イカケ屋寅さん」と呼ばれていた。また、娘はおていと言い、父親譲りの器用さで近所の人々から頼まれた縫い物を上手にこなしていたので「おていさん」と親しまれていた。しかし、イカケや針仕事だけでは生計が思うようにいかなかったので、春には春の魚、夏には夏の魚と、豊富な天沼の魚を獲っては売り歩いて暮らしていた。 やがて、いつごろからか、夜毎おていさんの所に若い侍が通うようになった。そして、二人は相思相愛の仲になった。おていさんはその侍の名前と出生地ぐらいは知りたいと何度も尋ねたが、そのたびに侍は話をそらして名前もどこから来るのかも教えようとしない。 不審に思っていた矢先、尋ねてきた侍の顔を見ておていさんは驚いた。それもそのはず、若い侍の顔は今までと打って変わった形相になっていたのである。黒紫色の顔に目だけが異様に光っていて、脹れ上がった皮膚からは異臭さえ発している。呆気に取られ口をあけたままのおていさんに若侍は、「俺は天沼に住んでいた池の主である川獺なのだ。俺はお前が使っていた折れた針が刺さって体中を廻ってしまい、その毒で死んでゆく。だから、俺の後をつけて来てはいけない」と言って姿を消した。 ちょうど、それから七日過ぎた朝のこと、近くの漁夫が大きな川獺の死骸を網にかけた。引き上げられた川獺はブヨブヨになって体毛もすっかり抜け落ち臭気が辺りを包み、集まってきた人々も顔をそむけるほどであった。人々は大騒ぎをしながら川獺の死骸を埋めた。 おていは川獺の死体を見ようともせず、自分の部屋でかつて祖母が言っていたことを思いだしていた。祖母は、「女は縫い物ができることが一番だ。だから針は大切にして、決して折ってはいけない。針は魔物と同じで、針が体に入るとその毒で死んでしまう」と、いつもおていに言って聞かせていたのだった。 ● この伝説は、「蛇婿入り」として、日本全国に伝承されている昔話や伝説の一つである。「蛇婿入り」のあらましは次のようになっている。若い娘が住んでいる家に夜毎若い侍が訪ねてくる。やがて、その侍を怪しんだ母親や娘が侍の着物に縫い針を刺し、その糸をたどって居場所を突き止める。若い侍は実は大蛇で洞穴に住んでいて、人間の娘に子供を宿してきたと大蛇の母親に言う。母親は、人間には気をつけろ、たとえ子供ができても菖蒲湯に入れば流れてしまうし、我々は針の毒には弱いと話しているのを聞く。娘は菖蒲湯に入り難を逃れ、大蛇は針の毒がもとで死んでしまう。高根沢町では、訪ねてくる若い侍が大蛇ではなく川獺となっていたり、若い侍の着物に縫い針を付け糸を頼りに侍の居場所を突き止め難を逃れるという展開も見られない。全国に流布している伝承は、結末に五月五日の菖蒲湯由来という農耕儀礼も伴っているのであるが、高根沢町の伝説では針供養を連想させる伝承になっているところに、地域文化の特色がうかがわれる。隣の芳賀町の芳志戸地区には、五行川の渕の底にある竜宮城から若侍が旧家の娘の所に通ってきて、縫い針のせいで身元が判ってしまい竜宮に帰るが、竜宮のお碗を残して行ったり、田植え時期にワラツト(藁苞)に入れた赤飯を五行川の渕に投げ入れて豊作を祈るという伝承が残っている。この「蛇婿入り」伝承は、遠く古代の『古事記』や『日本書紀』にも記録されている伝承で、神が蛇に姿を変えて娘と結婚するという「三輪山伝説」に端を発していると言われている。それだけ人々の記憶に残り、それぞれの時代の文化に深く関わりを持ちながら、さらにまた、地域の生活文化と深く結びついて豊かな言語伝承を形成してきたのであろう。 ●栗ヶ島由来 ある日、旅の僧がこの辺りに着いたころ、夜もとっぷりと暮れてしまったので一夜の宿を願い出た。何軒かの家では冷たく断られたが、正直者のばあさんがいて快くその僧を泊めた。翌日、僧は宿の礼だと言って、ばあさんの家に生えている栗の実が全部落ちたら洪水が起きると告げて去って行った。 ばあさんは村人にそのことを伝えて注意を促したが、老人の戯言として嘲笑う者がいても注意を聞き入れる者は一人もいなかった。そして、旅の僧が言った通りに栗の実が全部落ち洪水が村を襲った。助かったのは旅の僧の忠告を信じていたばあさんの家だけで、そこが島のようになった。やがて、そこはいつしか栗ケ島と呼ばれるようになった。 (『子どもが書いた ふるさとの伝説集』) ● 日本全国には「白髭水」と呼ばれている洪水伝説が伝承されている。夜明けに白髪の老人が、大声で村人に大水が出るので早く逃げろと知らせたところ、そのことばを聞いて逃げた者は助かったが信じなかった者が多く死んだとか、洪水の前日に白髪の老人が川上からやってきて大水が出るので注意せよと言って走り去ると、程なくして洪水が襲ってきたという伝説である。高根沢町に伝承されている伝説では、「白髪の老人」ではなく「一夜の宿を借りた旅の僧」と、法力をもって水を湧き出させたり水を止めてしまう「弘法大師伝説」にかなり話の構造が傾いてはいるが、鬼怒川が大きく蛇行して流れる地域にある高根沢町が、繰り返し起きた洪水との闘いを持つ地域でもあったことを反映してか、水に対する畏怖の念が強く映し出されている伝説となっている。 ●橋と伝説 古代から中世にかけて、川は生活圏の境界の役割も持っていた。だから、橋はその境界に建てられるものとして、こちらとあちらを繋ぐと同時に、次元の違う世界との交流が行なわれる聖なる場所でもあった。華の都の平安京の夜を震え上がらせた「茨木童子」が、女性に化けて、切り落とされた片腕を取り戻しに来て、声高らかに去っていった「一条戻り橋」や鞍馬山の修業で力を付けた牛若丸が怪力法師弁慶に最初に出逢った「五条の橋の上」なども、伝説の世界では橋が重要な場所であることを示している。 ●十二瞽女橋 昔、この地に門付けに来た二人の瞽女が花岡付近を流れている五行川に架かる橋に差し掛かった。瞽女は目の見えない女が三味線を引きながら家々を回る旅芸人で、いつも目の見える者が案内して歩いている。その日も目の見える瞽女が先にたって目の見えない瞽女を案内していたが、どうしたはずみか、その目の見えない瞽女が足を滑らせ下を流れる五行川に落ち、大きな渦に飲み込まれてしまった。 やがて、その橋のたもとには白い蛇が見られるようになった。渦に飲み込まれた瞽女はその時一二歳だったので、その橋を「十二瞽女橋」と言うようになった。 ● 瞽女とは、目の不自由な女性が目の見える女性に案内されて各地を門付けと称して三味線の演奏に乗せてさまざまな物語を語り聞かせる旅芸人のことである。東北や北陸を中心にいくつかのグループがそれぞれの興行圏を持っていて、最盛期には千人を超える瞽女が活動していたが、戦後は衰退の一途をたどった。瞽女を受け入れる地域には、彼女たちが泊まる定宿があり、多くは旧家や地主の家であった。その家の座敷や縁側で、哀調を帯びた三味線の音に合わせ、「葛の葉子別れ」や「石童丸」などの物語を聞かせた。ラジオやテレビがない時代には、こうした旅芸人のもたらす芸能が農作業の疲れを癒す娯楽の一つだったのである。高根沢町でも、昭和三〇年代ごろまでは農閑期のころになると新潟方面から「越後瞽女」がやってきて、心に沁みる芸を披露してくれたということである。また、瞽女の他にも宇都宮からは「宮神楽」、水戸からは「水戸神楽」と呼ばれていた一座が、玉乗り・皿回しなどの曲芸や獅子舞を披露し「家ごめ」(家内繁盛や豊年満作を祈願すること)をして歩いたということであった。「阿久津河岸」と言われるほどに賑わいを見せていた時代は、交易交通が盛んで多くの人々が行き交っていたことであろう。橋とは関係ないが、昔、旅芸人の太夫が行き倒れて死んだ場所なので「太夫山」と呼んだとか、山伏が死んだところなので「山伏箱」と言われているなど、旅芸人や旅の中で修業をした僧に係わる地名も高根沢町にはいくつか残されている。 ●おつぎ橋 荒川村の鴻野山北方台地に「朝日の長者」という飛ぶ鳥も落とす勢いで栄えていた長者が住んでいた。百人を超えるほどの使用人を抱えていた長者で、酒も飲み干すことができず捨ててしまうほどの贅沢ぶりであった。そこで、酉の日には有り余った米で酒を作り、板戸まで運び売りさばいていたが、ここ文挟付近の井沼川に架かる橋が、あまりの重さに壊れかねないので、周囲の人々に酒を分け与えていた。そこで、その橋をおつぎ橋(またはつつぎ橋)と呼ぶようになった。 なお、酒蔵のあった場所を「百駄窪」、精米した糠を捨て山のようになった場所を「糠塚」、窪地に厩を作り沢山の馬を放牧していたので「厩窪」、鍛冶を沢山住まわせ刀剣を作らせていたので「鍛冶ケ沢」と呼んだという地名由来の伝説も残っている。 ● 酒は米から作られる。また、酒を作れるのは杜氏を雇うことができる資産家でなければならない。沢山の酒蔵を持っているのは長者のあかしでもある。豊作豊穣を願う思いがこの伝説を生み出したのであろうか。「朝日さす、夕日輝く」の歌で財宝の在処を示す物語で有名な長者伝説が「朝日長者」である。多くは、その権勢を誇るあまり、やがて没落して行く運命を描いている。太陽を支配しようとして死亡したり、一日で田植えを済まそうと夕日に注文をつけたために田が荒れて没落するという物語りの内容を持つところから、本来、農耕儀礼に係わる太陽信仰から生まれた伝説であろうと言われている。また、南那須町鴻野山の長者ケ平遺跡は、最近の調査で古代の官道であった「東山道」の駅舎跡ではないか言われているが、「長者ケ平」という名前がついた場所も国内には多く存在する。そして、必ずと言っていいほど、火を出したり焼き打ちに逢ったりして、火災で没落しその跡からは焼き米が発見されると言う伝説がある。鴻野山の「長者ケ平」にあった長者屋敷も、八幡太郎義家が奥州征伐に行く途中でその屋敷を焼き払ったという伝説を持っている。 ●木と伝説 樹齢何百年などという大木や老木を見ていると、その大きさに圧倒されるだけではなく、時間という風化に耐えてきた生命力にも圧倒されることがある。大空に大きく枝葉を茂らせている姿、大地に太い根を張ったり何人もの腕を繋がなければ回らないがっしりとした幹に、人知を超えた不思議な力が宿っていると考えるのは当然の感覚であろう。 ●大藤になった大蛇 ある日の夜、一人で住んでいる茂作の家の戸を叩くものがいた。恐る恐る戸を開けると、そこに一人旅の女が疲れ果てた姿で立っている。茂作はやさしくその女を招き入れ、お粥を食べさせて休ませた。 一夜明けて茂作がいい匂いで目を覚ますと、すでに朝食ができている。泊めていただいたお礼だと言って野良仕事も手伝ってくれる。そうこうしているうちに日にちは経つが、一向に女は旅に出る気配もなく、まめに精を出して野良仕事や家事をこなしていた。やがて、二人は結婚して子供が生まれ、幸せな日々が続いた。 そして、二、三年の時が流れたある夕暮のことであった。野良仕事から帰った茂作の目に異様な光景が映った。そこには子供と寝ている大蛇の姿があった。子供をあやしながら安心してつい眠ってしまったのであろう、妻は人間を忘れて本性を現してしまったのである。 茂作は急いで子供を抱き上げると一目散に家を飛び出した。しばらくして、目を覚ました大蛇は火のような赤い舌を出して花岡あたりまで二人を追いかけて来た。そして、恥ずかしさと悔しさに身をよじらせながら二人に抱きつき、そのまま大きな藤の木になってしまった。 ● 女性に姿を変えて男のもとに訪れて来て夫婦になるという話で「異類婚姻譚」と呼ばれているものである。よく知られている話に、鶴が女性に姿を変えて人間の男と結婚し、美しい布を織って富をもたらすが、見てはいけないという約束を男が破ってその姿を見たので、男のもとを去って行くという「鶴女房」や女性に化けた狐が人間の男と結婚し、優れた霊能力を身につけた子供を産むという「狐女房」などがある。「蛇女房」は、妻が正体を見られて去って行くとき、自分の目玉を置いて行くのでそれを子供にしゃぶらせて育ててほしいと、目をくり抜いて男に託し池に身を隠すが、目玉の美しさを知った殿様にむりやり献上させられ、困り果てた男が池に行くともう片方の目もくり抜いて男に渡すという物語が基本になっている。水神信仰や農耕儀礼が物語の基盤にあり、子供や夫と別れる悲しみと辛さを奏でている伝承である。高根沢町に残されている伝説では、大蛇が池に戻るのではなく藤の大木と化すという独特の結末になっているが、大木を切り倒した時、赤い水が流れ出て中から大蛇の骨が出てきたという伝説が近隣の地域に多く残っている。そうした大木への畏怖の念が、このような伝説を生み出させたのかもしれない。また、藤の蔦は農具の材料として重要な素材であり、花も桜の花と同じように田植え時期に美しい姿を見せるので、田植え歌などに歌い込まれるほどであり、五穀豊穣への祈りに強く結びついていることが連想される。やはり、農耕儀礼に深く関係した伝説として語り継がれてきたのであろう。 ●桜観音 桑窪から柏崎に向かって行くと、山の頂にひときわ大きな桜の木が見えてくる。枝が逆に下の方に向って伸びているために、木が逆さに生えているようにも見える。 この近くを「辰街道」という奥州へと続く道が通っている。その昔、八幡太郎義家が奥州の安倍氏の反乱を鎮圧に行く時にこの「辰街道」を通って行ったのだが、ここで昼飯を食べた。その時桜の木でできた箸を使って食べ、その箸をここに挿して残していったところ、それが根付いて見事な花を咲かせるようになったのでその名がついた。 また一説には、源平の合戦で大活躍した那須の与一がこのあたりまで来て、お昼時になったので昼飯にして一休みしようとしたが、あいにく箸がなかった。そこで、近くの桜の枝を折って箸にして食事をし、食べ終えた木を挿して行ったところ、逆さになったように木が伸びて立派な花を咲かせ、やがて、根元に観音様が祀られるようになった。そこから誰言うともなく「桜観音」と呼ぶようになったと伝えられている。 ● 逆さ杉や逆さ榎など、まるで逆に生えているかのようになっている大木や老木は、八幡太郎や九郎判官義経が挿して行った杖が大きくなったのである、という伝承がこの近辺には多い。ある時代を画した英雄が残していった不思議な出来事を語る伝説は、神仏の加護を得て化物退治をする「英雄伝説」の他にも、その英雄にまつわる多くの物語を生み出していった。「辰街道」は隣の芳賀町へも通じていて、芳賀町芳志戸地区にはそこで休憩した八幡太郎が持っていた杖を挿して残していったところ、逆さに生えた榎になったので「逆木八幡」として祀ったのだという伝説や、先にも述べた南那須町鴻野山の長者屋敷を焼き払ったという伝説が残されている。「辰街道」は、八幡太郎義家の伝説に深く関係した街道でもある。 ●大柊の祟り 戊辰戦争のおり、会津軍に味方して官軍に攻め込まれた宇都宮城からなんとか逃げ延びた女性たちがいた。彼女たちは、幼い姫君をかばいながら上阿久津までやってきたが、悲嘆の中、姫君は息絶えた。残された侍女たちは姫君を手厚く葬り、柊を植えて会津方面に逃げ延びて行った。 やがて、その柊も大きく育ったが、人が近くを通ると怪我をしたり、枝を切った者が重い病気になったり、さらには、死んだりすることが度重なった。 ● 柊は、節分の豆まきの時に大豆の茎で刺したヤッカガシ(鰯の頭を燻して唾を付けたもの)と一緒に戸口に挿して、悪い病気が入ってこないようにする木でもある。年中行事で大切にされている木や草は非常に多い。門松に使う松や竹といった代表的なものの他にも、マユダマを付けるミズの木や樫、小豆粥をすする時や庭の堆肥塚に挿すヒエボー・アーボー(稗棒・粟棒)に使うヌルデ(ノデッポウ、または、ノデンボウとも呼ばれている)、あるいは、五月五日の端午の節句の時に搗く餅に入れる蓬(餅草と呼ぶ地域も多い)、そして、その餅を包む柏の葉や軒端に挿したり菖蒲湯に使う菖蒲など、農耕儀礼や家内安全を祈願する大切な素材として、身近にある草や木は私たちの生活に深く結びついているのである。柊に託して、戦乱の世に犠牲を強いられていた女性たちの悲しい歴史を語る伝説はあまり他に類を見ない。しかし、年中行事で使われてきた柊の神秘性と時代の犠牲になっていった女性たちの悲痛な叫びが、祟りを残す伝説と交じり合って語り継がれてきた、高根沢町独特の伝説ではある。 ●石と伝説 石は、その堅固さや永遠性から古来より、神仏の姿に託されて各時代のさまざまな伝承に彩られてきた。 貴人が腰掛けた石なので「腰掛け石」と言ったとか、貴人の乗った馬が蹄で傷を付けたので「馬蹄石」と呼んだという石が残されていたり、汗をかいたり夜通し泣いたりするので不思議に思った村人がその石を祀ったところ、たいへんなご利益があったと言う伝説など、国内には石にまつわる伝承が数多く残されている。 ところが、度重なる鬼怒川の氾濫は大石さへも流し去ってしまうのか、高根沢町には石にまつわる伝説がほとんど残されていない。たとえば宝積寺には、近付くとケチがつくといわれる場所から大きな石が出てきて、そこが並塚の由来になったという地名伝説の他、以下で紹介する伝説が確認されただけである。 ●石神 いつのころからか、鬼怒川のほとりに大きな石があって石神様と親しまれ、鬼怒川を行き来する船頭たちの篤い信仰を集め、沢山のお供え物が後を断たなかった。 ところが、その盛況ぶりを妬む者たちがいて、あろうことか、その石神様を鬼怒川の石神渕に突き落としてしまった。翌朝、消えてしまった石神様をめぐって村中が大騒ぎになった。ところが、一夜明けてみると、驚いたことに石神様は元通りになっていたのである。それで、石神様に対する信仰はますます強くなっていき、その後は誰も石神様を妬む者などいなくなったということである。 やがて、この石神様は、塩乃屋大尽の氏神として、船頭ばかりでなく近隣の信仰も集めていった。塩乃屋大尽は鬼怒川水運で大儲けをした人で、石神様のために立派な社殿を作ったが、金遣いが荒くいつしか家も財産も失い、社殿も荒れ放題になってしまった。 その後、若目田久右衛門によって阿久津河岸が創設されると、奥州と江戸を結ぶ水運の要所として大いに賑わった。そして再び石神様は、鬼怒川を上下する船頭たちの守護神として信仰を集めるようになった。 ● この伝説は、鬼怒川の水運に携った人々や近隣の人々に語り継がれた貴重な伝説である。また、石神様がいたずらされて渕に投げ落とされてしまってもすぐ元通りになっているという語り口は、地蔵をいたずらしてどこかへやってしまうがすぐ元通りになっていて、その霊力により深い信仰を集めるという地蔵信仰をはっきりと受け継いでいる。あるいは、塩乃屋大尽の盛衰を語るという語り口は、長者伝説とも強く結びついている。このように、「石神伝説」にはさまざまな伝説が複合していて豊かな伝承を残してきたことがうかがわれる。それは、この伝説が鬼怒川の豊かな流れとも深く結びつき、地域の人々の心の拠り所としての役割を担ってきたということも証明しているのである。 ●駈け上がり かつて、仁井田あたりに小高い山があった。ある時、その山道を油を買いに行くために通りかけた娘がいた。娘は何者かに襲われるような嫌な気持ちで山道を上って行ったが、急に石になってしまった。 その後、夜その山道を一人で歩く時は駈け上がるように通れと地元の人々が言うようになった。 ● 坂や峠は、橋と同じように住む世界の境界を意味していた。こちらとあちらの境であり、異次元への入り口であり、異次元からの出口であった。だから、坂や峠には異様な力が働いており、そこを通る人間が急に消えてしまったり、突然死んでしまったりする場所であった。人々は道を支配する神が住むと考え、「賽の神」や「道祖神」、あるいは、「お地蔵様」を道の傍らに建てて交通の安全を祈ったのである。この伝説は、石に対する信仰は薄いようであるが、交通交易の盛んな地域であったかつての高根沢町の風土を象徴しているような伝説である。 ●稲荷信仰と伝説 稲荷神社は、真っ赤な鳥居の伏見稲荷や笠間稲荷で有名であるが、稲荷信仰は古代から農耕信仰と深く結びついて、さまざまな伝承の中に現われてきた。多くは、狐が稲荷明神の化身だったり眷属として語られてきた。 狐は里山に住み着き、畑と森の境に崖や土手に洞穴を作り住んでいる。時には、畑の農作物を食い荒らしたり、鶏を盗んだりと人間の生活を脅かす存在として怖れられてきた。また、その多産ぶりや素早い動きから不思議な力を宿していると人々が受けとめてきたのであろう。こうした狐と人間との交渉が、狐を田の神の化身と考えるようになっていった。さらに、狐は油揚げが大好きなのでお稲荷さんに油揚げを供えたり、初午の日には藁筒にシモツカレと赤飯を入れて供えるという、五穀豊穣を祈る習慣が広く行なわれるようになった。 あるいは、那須の殺生石の伝説で知られている金毛九尾の狐は、実は玉藻前という絶世の美女であったという伝説や、平安時代に大活躍したという陰陽師の安倍晴明の母親が狐であったという伝説も歌舞伎などで広く伝承されていて、狐と人間の関係は、蛇と人間の関係と同じように深いものであった。 さらに、宝積寺には、狐窪という地名が残されていて、かつては狐がたくさん住んでいて、「狐の提灯行列」や「狐火」が見られたという。今では鉄道が引かれ交通交易で賑わいを見せているが、かつては、豊かな自然の中で、動植物との交流を通して地域文化を育成してきたのである。 ●岩清水稲荷 寺渡戸の五行川の近くに、年中涸れることのない沼があった。近くには岩清水稲荷があって、初午の日などは、近郷近在からの参詣者でかなりの賑わいを見せていた。それも、この沼には稲荷様が乗ると言い伝えられている川蛇様が住んでいるからで、初午の日に赤飯を供えるとたいそうご利益があると信じられていたからである。沼にはたくさんの魚も住んでいたが、それを捕ると川蛇様の祟りがあると恐れて、誰も沼に入ることがなかった。 ところが、ある時、三人の男たちが魚を捕ろうと沼に毒を撒いた。すると、沼の祟りがあったのか、三人ともその沼に落ち自分たちが撒いた毒を浴び体の痺れがとまらず、村にもいることができなくなってどこかへ行方をくらましたそうである。 ● 古代から民間信仰と深い関わりを持ってきた陰陽道信仰の教典とも言える『簠簋内伝』(宿曜という占星術を解説したもので、鎌倉時代末期に書かれたと言われている)に、「辰狐」という神が出てくる(高村禎里『狐の日本史』による)。つまり、狐と竜(辰)が強く結びついた信仰は、古くからあったのである。民間信仰の一つである農耕信仰の世界でも、狐と蛇が密接な関わりを持って、「稲荷神が乗る川蛇様」というところにはかなり古い伝承が残っていると考えることができる。また、禁忌を冒して罪を得るという伝承も、その場所の神聖さを証明をするものである。豊作をもたらす水への畏敬の念と稲荷信仰とが結びついて、独特の伝説となったのであろう。 ●釜淵 上阿久津・中阿久津・宝積寺三地区の用水堰を「釜渕」と呼んでいたが、その用水路開鑿の難工事にまつわる伝説である。 用水開鑿が無事成功するようにと、正月が来ても餅をつくことなく過ごそうと村中で決意した。その願いが叶ったのか、数年ならずして、一人の怪我人も出すことなく、用水路は完成した。しばらくは先人たちの苦労を思い、正月に餅をつく家はなかったのであるが、ある年、つい禁を破り餅をついた家があった。そのためか、その村が全焼するような大火災になり、改めて禁を破った恐さを知った。だから、今でも正月には餅をつかない家が多いのである。 一説には、上阿久津地区は稲荷信仰が強く、正月には狐の好きな赤飯を稲荷神社に供えて、その年の豊作と家内安全を祈願していたので、餅をつくのではなく赤飯を炊くのだという。 ● この伝説は直接に稲荷信仰を語るものではないが、正月に餅をつくのではなく、赤飯を炊いて稲荷神社に供えるという伝承が残されているので、ここに記録した。正月に餅をつかないという伝承は国内に広く伝承されている。米が貴重であった時代、汗水を垂らして田畑を切り開いてきた先祖の苦労を忘れないために、蓑笠を着て芋串を食べる地域があったり、餅をついているときに火の不始末でその家ばかりではなく地域一帯が消失してしまい、その戒めを伝えるために餅をつくのではなく赤飯を炊くのだと言い伝えられてきた。正月に餅をつかないで赤飯を炊くのは、米が貴重で神聖な食物であったという、稲作起源を語る伝承として考えられているが、赤飯の赤い色が火事の記憶に繋がって、禁忌を破った戒めとごちそうとしての赤飯のめでたさが交じり合ってきた伝承でもあろう。今は豊かな土地と生産に恵まれた高根沢町であるが、その陰には先祖のたゆまぬ努力があってこそという歴史を忘れてはなるまい。 ●地蔵信仰と伝説 お隣の芳賀町にある「延生地蔵」は関東一円は言うに及ばず、東北地方にもその名を広げているが、「お地蔵さん」は伝説や昔話の世界でも人気者で、よく子供と仲良く遊んでいて、大人が子供のいたずらをたしなめると、かえってその大人に罰が下るというくらい、大らかであらゆる願いを聞いてくれる仏様である。 お地蔵さんが子供と仲が良いのは、この世とあの世を繋ぐ三途の川に続く賽の河原で幼くして死んだ子供やこの世に生を受けることなく流産した子供の霊が集まり、石を積み上げてあの世に行く努力をしていると鬼が出てきてその石を蹴散らすが、それを地蔵が助けあの世に導くという伝承と深く結びついていると言われている。お地蔵さんが赤いよだれ掛けをしているのも、そうした伝承の影響である。 多くの仏は立派な寺に鎮座しているが、お地蔵さんは、道端や峠で雨や風をまともに受けながらも、ほほ笑みを絶やさず、人々の願いを叶え親しまれてきた仏様である。それだけに、日々の生活の喜怒哀楽を一番知っている仏でもある。 ●雨っぷり地蔵様 昔は、何日も日照りが続くと田んぼや畑の作物が大きな被害を受けた。宝積寺あたりでは、畑の作物の被害が大きく、サトイモ(里芋)や大豆、オカボ(陸稲)に「日が通る」と言って、日照りを恐れたものである。 夏になって何日も雨が降らず日照りになると、御幸坂下にあるお地蔵様を誰にも見つからないように抱いて川に入り「どうぞ○○日までに雨を降らせてください」と祈る。すると、不思議とその通りになったので、いつしか「雨っぷり地蔵様」と呼ばれるようになった。 旧暦の一月二四日と七月二四日が縁日で、近郷近在から参詣者が集まりたいそうな賑わいを見せた。 ● 雨乞いの儀礼は本来、農耕信仰の世界に属するものであるが、仏様も一役買うところが何とも微笑ましい。田植えが終わらず悩んでいた信心深い百姓が、朝田んぼに行ってみるとすっかり苗が植えられていた。びっくりしていつもお参りしていたお地蔵さんを見たところ、そのお地蔵さんの足が泥で真っ黒だったという昔話が各地にある。お地蔵様を信心している者の苦しみを取り除いたりその苦しみの身代わりになったり、庶民が愛した神仏はあらゆる力を発揮する存在でもあった。 ●塩地蔵 むかし、西根に住んでいた男が手にできたいぼで悩んでいた。ある時、その男の夢にお地蔵様が現われて「海水で手を洗え」と言って消えた。男は大喜びで、わざわざ海水を汲んできて手を洗うと嘘のようにいぼが消えてしまった。 その噂を聞きつけた人々がお地蔵様のご利益にあずかろうと、その男が信心していたお地蔵様に塩をお供えするようになり、いつしか「塩地蔵」と親しまれるようになった。 ● 東京都足立区にある西新井大師の「塩地蔵」も、同じような伝説を持ち人々に親しまれている。ある出来事を通して霊験あらたかな神仏が誕生するという伝承は、その神仏の霊力を教え広める人々が宣伝のために物語として作り変えたことと深く結びついている。こうした神仏の霊験を体験するのは多く女性であった。女性の物語の方が耳の文芸としても記憶に残りやすい。また、地蔵信仰は、子供と深く結びついているところから、多くは安産祈願を中心にして、女性たちが信仰してきた世界でもある。しかし、この伝説では、神仏の霊験を体験する主人公が男性であるところに、その特徴を見ることができる伝説である。 ●お花ぼうこん これも西根に伝わる話である。 こんもりした森があり薄暗い中を一本の道が通っていた。近くには墓もあって、昼でも不気味であった。ある夜、一人の男がその道を通ると、お花という娘が赤ん坊を抱いてぽつんと立っていて、「しばらくの間、この子を抱いていてくれませんか」と男に赤ん坊を預けてどこかへ行ってしまった。 男は言われたままに赤ん坊を抱いてお花の帰りを待っていると、赤ん坊がだんだん重くなり、気がつくと地蔵様に姿を変えていた。 ● 墓もまた橋と同じように、異界と交流する場所のひとつである。子供の生めない女性が、その悲しみを石の赤ん坊に託して男たちに訴えるという伝説は国内全域にある。しかし、地蔵に赤ん坊が変わるという伝承は数少ない。石のままでは恨み辛みの重苦しさが消えないと受けとめた人々の温かさが地蔵信仰と結びつき、「地蔵様への変身」へと伝説を変えていったのであろうか。 ●貴人・偉人伝承 歴史の上で非業の死を遂げたり数奇な運命をたどった人物に特別な思いを抱くのは、私たち人間の自然な感情であろう。いかに生きるべきかという問題はいかに死ぬべきかという問題と繋がっている。幸福な人生は万人の願いであるが、幸福な人生がほとんど稀であることもまた事実である。私たちは幸福な人生を願いつつも、悲劇の一生を終えた人物に人生の意味を見い出し、明日を生きる糧としてきたのである。 数奇な運命をたどった歴史上の人物は、歴史の上では不幸であっても、伝説の世界では歴史的事実を踏まえながらも、人間的には幸福な世界を演じてゆく。源義経の物語に代表されるような「判官贔屓」が、伝説と歴史の間に繰り広げられてきた。 歴史上有名でなくとも、地域にも数奇な運命をたどった人物がいれば、伝説はその人物に特別席を用意して、地域の人々に明日を生きる力を与えていたのである。 ●上方治兵衛のこと 上高根沢にある浄蓮寺に、不思議な運命に操られこの地で死んだ一人の男の墓石が残されている。 その男の俗名は寺田治兵衛と言って、大阪和泉郡の一ツ橋家領地の庄屋惣代をしていた。しかし、幕末のころ、打ち続いた凶作による土地争いに巻き込まれ、罪人の汚名を着せられてしまった。そして、ここ上高根沢にあった一ツ橋家の陣家の座敷牢に入れられてしまったのである。 一ツ橋家陣家近くには行商人や旅芸人を泊める木賃宿があり、そこに逗留する人々の口に「陣家に捕らえられている罪人を面倒見ているのは大きな古狸だから、陣家に近づくな、古狸に取り憑かれるぞ」という噂が交わされるようになった。 やがて、この地域一帯も凶作に見舞われ、食物を与えられなくなった囚人は衰弱して息を引き取った。その日の夕方、陣家から一片の黒い雲が立ち上り、そこに二、三匹の狸が乗っているのを見た者がいたそうだ。 ● 上方治兵衛については古口利男氏がかなり詳しく調査されていて、史実としても貴重な記録ではないかと思われるものである。ただ、古狸が出てくるところなど、史実から伝説へと変化してゆく姿や話の背後に行商人や旅人の姿がちらついているのは、そこに伝説を育て広めてゆく人々の姿が見え隠れしてるということでもあって、伝説がどのようにして形成されてゆくのかがよく判る、貴重な伝承でもある。 ●種姫のこと 浄蓮寺には、もうひとつ悲しくも不思議な話が残されている。三ツ葉葵の徳川家ゆかりの紋の付いた位牌にまつわる話である。位牌の主は一ツ橋家のお姫さまで、名は種姫と呼ばれていた。 種姫は芳志戸の般若寺に尼僧として住んでいたので、地域の人々は比丘寺と呼んでいた。比丘寺は鬱蒼とした杉林に囲まれていて、昼でも暗く、天狗が住んでいるとも言われていた。また、尼僧しか住んでいないので、男子禁制であったが、体の不自由な年老いた男が寺男として尼僧たちの世話をしていた。 種姫がこの寺に住んで数年後、らい病の身であった姫は静かに息を引き取り、石塔が建てられた。さらに数十年が過ぎた明治三五年、ふとした火の不始末で本堂、仁王門、鐘楼、庫裏などが悉く焼け落ちてしまった。火事の最中、寺を守っていた三人目の寺男は、無我夢中で種姫の位牌を持ち出し安全な場所に置くと、再び身を翻して燃え盛る炎の中に飛び込んでいった。 ● 芳賀町企画課発行の『ふるさとこぼれ話』によれば、種姫は徳川八代将軍吉宗の子宗武の娘で、先祖供養のために般若寺に住んだとある。芳志戸にも、らい病になった種姫が般若寺に住んでいて、三三歳でその一生を終え墓を建てたが、その墓は白い蛇が守っているのだという伝説が残っている。高貴な生まれではあっても、予測を超えるような生き方をすると、そこに運命の糸を操る不思議な力が働いていると人々は考え、伝説を育ててゆく場を見いだす。不思議な力に操られて悲劇の一生を終える伝承は「貴種流離譚」と学問的には呼ばれているが、貴人の不思議な運命に耳をそばだてている庶民の心には、平凡というこの日常を生き抜くにはどれだけ非凡な努力が必要であるかという人生の知恵も響いていたことであろう。 ●赤堀玄番のこと 赤堀玄番は、すばらしく足の速い盗賊で、一反の木綿を背中に付けて走っても、その先端が地面に着かなかったという。芳志戸に住んでいた芳志戸左門や金井の金井とさという大泥棒と共謀しては金持ちの家から金品を盗み、まずしい人々に分け与えていた。その所業はみごとで、家族の者も気づかないほどの早業であった。 ある時、三人は日光東照宮の山額を盗んで、大谷川を下ってこようとしたが、とうとう御用となった。 しかし、地元では玄番の義賊ぶりを偲んで玄番地蔵を建てた。旧暦の一月二四日を縁日として甘酒とだんごが振る舞われ、今でも参詣者が絶えないという。 石末の赤堀には、玄番が住んでいたとされる「玄番屋敷」という字名が残され、また芳賀町芳志戸には、盗みをする時にのろしを上げた場所にちなんだ「火振り塚」という字名が残されている。 ● 「鼠小僧」や「石川五衛門」など、いわゆる『義賊伝承』と呼ばれている伝説である。こうした庶民の英雄は、どこか滑稽さも持っていて、胸のすくような大活躍をしたかと思えば、最後には大失敗をする。人生そんなに甘くはないということであろうか。日々の暮らしの中で喜怒哀楽を味わいつつも、何か満たされない思いを、伝説の人物がその喜怒哀楽こそ人間を豊かにするのだと教えてゆく。芳志戸左門も、芳志戸の英雄として、家族に知られることなく火振り塚に烽火を挙げ、一反木綿を地に着けることなく走り金持ちから金品を盗んでいる。 ●赤堀六兵衛のこと 赤堀には、その昔、運送業の馬を休ませる「立場」というところがあった。そこに、元は武士だったという六兵衛という男が息子と一緒に住んでいて、馬の世話をする仕事をしていた。その仕事ぶりは馬方にも評判が良く、「馬の水おっさん」と親しまれていたほどであった。 ある日のこと、店でいつものように休んでいた馬方達が、西の台の山中には追剥ぎが出るので通らないほうが良いと話し合っているのを息子が聞いた。息子はなぜか胸騒ぎを覚えた。夜になると、父の六兵衛は決まってどこかに出掛けたり、押入から着物や刀を包んだ荷物が出てくることがあったからである。 息子はもしやと思い、ある夜、西に向かう父の後をつけて行った。すると、西の台で仲間から荷物を受け取っている父の姿を見てしまった。翌朝、思い詰めた息子は、父と一緒に焼け死のうと家に火を放った。すぐに気づいた六兵衛は難を逃れることができた。しかし、燃え盛る炎の中から、もう追剥ぎは止めてくれと言う息子の悲痛な叫び声が聞こえてきた。 六兵衛は自分が犯した罪の深さを悔い、息子や馬の供養を込めて、火伏せの神である騎乗愛宕の石仏を彫り西の山に安置した。そして、僧に身を変えいずこともなく立ち去っていった。 ● 元武士という貴人性を持ちながらも、盗賊の身に落ちぶれ悲劇の末路をたどる。伝説の典型を「六兵衛」は生きている。『平家物語』に、源氏の武将熊谷直実が平家の若武者平敦盛と一騎打ちをして殺すが、息子と同じ年ごろの若者を殺してしまった罪深さから世の無常を感じ出家するという物語がある。仏教の教えを史実と結びつけて庶民にもわかりやすく説く「仏教説話」として、広く伝承されてきたものである。この伝説もそのような「仏教説話」の流れの中で、火事の恐ろしさを説いた「愛宕神」と結びついて広く伝承されてきた伝説であろう。 ●日蓮上人のこと 旅の修業を続けていた日蓮上人が小松原で法難に会い、那須温泉へ治療に行く途中のことであった。道に迷い台新田あたりに差し掛ったころ、すっかり夜になってしまった。宿を探したが泊めてくれそうな家もない。仕方なく、日蓮上人は近くにあったお堂に泊まり、翌朝、修業のお経を唱えていた。 やがて、お堂から美しい光が出てているのを見た村人たちが、不思議に思い一人二人と集まってきた。そして、日蓮上人の有り難いお話を聞いた村人たちは、近くの池に毒蛇が住んでいて悩まされていると訴えた。そこで、日蓮上人は、村人たちに鬼怒川からきれいな小石を拾ってこさせた。そして、その小石の一つ一つにお経を書いて池に投げ入れた。すると不思議や、池から毒蛇の姿が消えたではないか。 それからというもの、村人たちは安らかに生活できたということである。 ● 「高僧伝承」のひとつで、水がなくて困っていた村に来た高僧が、持っていた杖を剌したところ、そこから清水が湧きだしたという「弘法清水伝説」の世界に属するものである。人々に信仰の有り難さや大切さを説いて回った修業僧や布教家としての旅人が日本全国を歩き、その地域の文化を生かしながら、地域の人々の耳にさまざまな物語を残していったのである。 |
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●栃木の伝承
●清巌寺 (せいがんじ) 創建は健保3年(1215年)。宇都宮頼綱によって開基された。その後天正元年(1573年)に宇都宮氏の重臣で一族でもあった芳賀高継が清巌寺と名を改め、現在地に移転させている。この寺の山門の奥、本堂前にある門の横に1本のヒイラギの木がある。この木にまつわる奇怪な伝承が残されている。昔、3月15日に二荒山神社では例祭として「花の会」という祭が執りおこなわれていた。この祭の習わしとして、宇都宮氏の郎党の子が5人で舞を舞うことになっていた。その年も同じように子供らが稚児として舞を披露していた時、突然一陣の突風が吹き荒れ天狗が現れると、一人の稚児を目にも留まらぬ素早さで引っさらっていったのである。人々は神隠しに遭った子を探し、やがて白沢というところで発見したが、既に息絶えていたという(現在でも白沢地区には“児ヶ坂”という地名があり、その辺りで遺体が発見されたことで名が付いたとされる)。ほどなくして人々はこの稚児の供養にと、清巌寺にヒイラギの木を植えて墓標とした。これが“稚児の樹”と呼ばれ、現在でも残されている。その後「花の会」では、稚児の舞は4人で行われるようになったとされる。 ●二荒山神社 / 下野国一之宮。日光と宇都宮にあるが、この伝承に登場する神社は、宇都宮氏が座主を務める宇都宮二荒山神社である。「花の会」は現在では「花会祭」として4月11日に執りおこなわれている。 ●教伝地獄 那須の殺生石へ至る遊歩道の途中にずらっと並ぶ千体地蔵、そしてその端辺りに石積みされて置かれている地蔵が“教伝地蔵”と呼ばれている。この地蔵付近が教伝地獄とされる。後醍醐天皇の御代の頃、奥州白河の五箇村に蓮華寺という寺があった。そこに預けられていたのが教伝という小僧。相当な悪童であったが、やがて28才の時にこの寺を継いで住職となり母親と共に暮らすようになった。建武3年(1336年)のこと。教伝は友人らと那須の温泉へ湯治に行くこととなった。ところがその日の朝、旅支度も出来ていないにもかかわらず、母親が朝飯を勧めたのに腹を立て、膳を足蹴にしてそのまま出立してしまった。数日ほど逗留していた教伝らは、殺生石の近くを物見遊山に訪れた。出かける時には晴れ渡っていたが、突然荒天となると雷鳴が轟き、いきなり地面が割れて熱湯が吹き上げてきたのである。友人らは慌てて逃げ出したが、教伝だけは一歩も動けず、そこに留まったままである。そして友人らに向かって「俺はここに来る前、母の作った朝飯を足蹴にした。その天罰を受けて俺は火の海に落ちていくのだ」と叫んだ。友人らは悶絶する教伝を何とか助け上げたが、既に時遅く、腰から下が炭のようになって死んでしまっていた。それからこの辺りは泥流が沸々と湧き上がり、さながら地獄の様相であったという。この教伝の話には別伝がある。寛文元年(1661年)に刊行された『因果物語』上巻十三話「生きながら地獄に落つる事」では、教伝は那須の人とあり、薪を母と共に拾いに行った時に飯の支度が遅れたことに腹を立てて母を蹴り倒し、その帰りに天罰に遭ってしまう。友人が助けようとしたがそのまま地獄に呑み込まれて死んだとされる。またその場へ行って「教伝甲斐なし」と言うと、たちどころに熱湯が湧き出ると記されている。この教伝地獄はその後の山津波などで埋められてしまい見ることが出来なくなっていたが、享保5年(1720年)になって有志がかつての地獄のあったとされる場所に地蔵を建立し、供養と共に親不孝の戒めを示すものとした(現在の地蔵は2代目に当たるという)。 ●『因果物語』 / 鈴木正三が収集した怪異譚をその死後に編集して寛文元年(1661年)に刊行した仏教説話本。鈴木の収集の目的は、法話を語る際の題材とするためであったとされる。しかし多くの作品が脚色され仮名草紙として無断で売り出されたため(この流れが浅井了意らの怪談本の系譜に直結する)、正本として弟子によって片仮名本として世に出たという経緯を持つ。 ●盲蛇石 那須の殺生石へ至る遊歩道の途中にある巨石である。昔、五左衛門という湯守が冬に備えて山で薪を採ってきた帰り道。殺生石の付近で一服していると、人の背丈を超えるような大きな蛇を見つけた。だがその蛇は目が白く濁っており、明らかに目が見えていない。おそらくこのままでは冬を越すことは出来まいと考えた五左衛門は、辺りの枯れ枝やすすきで小さな小屋を仕立ててやった。翌年の春、五左衛門は盲目の蛇のことが気になって、早々に河原にやって来た。しかし蛇はどこにも見当たらず、その代わりに不思議な光景があった。小屋に仕立てた枯れ枝やすすきがキラキラと輝いていたのだった。湯の花がそれらに付着していたのである。これを見て五左衛門は湯の花の作り方を悟り、やがてこの製法を皆が真似て作るようになった。そして人々は、五左衛門の優しい心が神に通じて湯の花作りを教えたのだと信じ、また盲目の蛇に対しても感謝の気持ちを込め、蛇の鎌首に似た巨石を“盲蛇石”と名付けて後世に伝えたという。現在でも殺生石へ至る道の途中には、湯の花の採取場が再現され、昔ながらの製法の様子が分かる。蒸気の噴き出す場所に木や草を置き、それに湯の花の結晶を付着させるというやり方である。ただ現在はこのような方法による採取はおこなわれておらず、あくまで観光用の展示として再現されているようである。 ●湯の花 / 温泉に含まれる成分が結晶化したもの。主に硫黄や明礬が成分となっている。かつて那須では上記の方法で採取がおこなわれ、約100日掛けて結晶を取り出すとされる。 ●那須温泉 / 舒明天皇2年(630年)、郡司の狩野三郎行広は土地を荒らす白鹿を退治したが、一時その鹿が深手を負って逃げた。追い求めた三郎は途中で翁(温泉神)と出会い、鹿が温泉で傷を癒やしているのを見つけて退治したという。それが開湯の縁起とされる。共同湯の「鹿の湯」の名はこれに由来する。 ●那須の殺生石 「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す」と松尾芭蕉が『奥の細道』で記した那須の殺生石は、現在でも温泉地の一角にある。昆虫や小動物がそばに寄ればたちどころに死に、場合によっては人すらも命を落とすと言われた怪石である。実際には石が瘴気を発しているのではなく、付近から噴出する火山性ガス(硫化水素・亜硫酸ガス)によって死に至るのだが、目に見えないガス故に昔の人々にとってはまさに恐怖の対象であったのだろう。この石にはあまりにも有名な伝承が残されている。“玉藻前=白面金毛九尾狐”の話である。これは室町時代頃に『御伽草子』の一編として成立、さらにさまざまに脚色されて能・人形浄瑠璃・歌舞伎などで人気を博した題材である。久寿2年(1155年)、“化生の前”と呼ばれる下女が鳥羽法皇の院で働き始めた。下女は容姿端麗、あらゆる知識に精通しており、あっという間に法皇の寵愛を受けて、そば近くに仕えるようになった。その後、宴席で灯りが消えた時に自ら光を放つという不思議を起こして名を“玉藻前”と改めるに至り、法皇は寵愛すると同時に畏怖の念を抱くようになった。それを境にして法皇の体調が悪化する。医師は邪気が原因であるとし、陰陽師の安倍泰成が祈祷すべしと具申するも一向に良くならず、ついに泰成は事の真相を包み隠さず話し出す。実は“玉藻前”の正体は下野国那須野にある二つ尾の古狐であり、それが法皇に取り憑いて害をなしているという。しかもその狐は天竺や震旦の王に近づき国を滅ぼそうと暗躍した過去があり、今日本の仏法を破滅させ王朝を簒奪しようと企んでいるという。そこでその正体を見破るために、泰成は泰山夫君の祭を執りおこない、玉藻前に御幣取りの役に任じたのである。玉藻前は拒絶するが、周囲から説得を受けて渋々承知して御幣を取ったが、突然その姿を消してしまう。やはり正体は狐であり、この出来事以来、法皇の病は治ったのである。狐が潜む那須野には、それを退治するために弓の名人の三浦介と上総介の軍勢が派遣された。しかし容易に捕らえることは出来ず、さらに鍛練をして再度臨むがそれでも捕まえることが出来ない。ところが三浦介の夢に若い女が現れて命乞いをした。それを狐の進退窮まった様子と受け取った三浦介は、翌日ついに弓で狐を射殺したのである。こうして退治された古狐の執心が凝り固まったのが殺生石とされ、そこから発する瘴気によって生き物の命を奪うようになったのである。そして退治から約200年経った至徳2年(1385年)、那須野に立ち寄った玄翁心昭が殺生石を打ち砕き引導を渡したとされる。その時砕かれた殺生石の破片は全国にある“高田”という名の地に飛散したと言われている。現在那須野に残っている殺生石は、本来のものの一部である。また近くにある温泉神社の境内には、九尾稲荷神社がある。 ●玉藻前のモデル / 鳥羽法皇の寵姫であった美福門院(1117-1160)が該当するとされる。美福門院は、譲位した後の鳥羽法皇に仕え、皇子を生む(後の近衛天皇)。この皇位継承に関して美福門院が暗躍したとされ、崇徳天皇を強制的に退位させ我が子を即位させ、さらに崇徳院が院政を行えないように宣命を書き換えたとされる。また国母であるとの理由から皇后の地位を得て、さらに鳥羽法皇の中宮であった待賢門院を呪詛事件を口実に出家させて権力を握ったのである。この暗躍によって数々の対立が生まれ、保元の乱が起こったと考えられる。即ち王権の没落と新たな為政者の台頭を促した張本人であるとも言えるのである。 ●白面金毛九尾狐 / 九尾狐は古来より霊獣とされ、天下太平の時に現れる瑞獣と言われていた。上記にあるように『御伽草子』では妖狐は“二尾の狐”と明記されており、かつて天竺(インド)や震旦(古代中国)に跋扈して国を滅ぼした例として耶竭陀国の斑足太子(華陽夫人にそそのかされ千人の王の首を求めた)と周の幽王(寵姫の褒似の笑顔を見たいがために諸侯の不興を買って滅ぼされた)を挙げている。後世の創作においてこの狐の正体が“王を惑わせて国を滅ぼす傾国の美女”である例として加えられたのが、殷の紂王の寵姫であった妲己であり、『封神演義』などの諸作で妲己の正体を白面金毛九尾狐としていた。このような流れで、いつしか玉藻前が九尾狐とみなされるようになったと考えられる。ちなみに玉藻前は、吉備真備が唐より戻る船に紛れ込んで日本に来たとされ、後に北面の武士であった坂部行綱の拾い子として育てられ院に出仕するという設定となっている。 ●安倍泰成 / 史実では泰成という人物は見当たらないが、鳥羽上皇や美福門院に召し出された陰陽師に安倍泰親(1110-1183)があり、モデルであると考えられる。泰親は特に占いに秀でており、安倍晴明以来の実力者と目され、災害や政変を多く言い当てたとされる。 ●殺生石の破片 / 打ち砕かれた殺生石の破片は、“高田”と呼ばれる3箇所に飛び散ったとされ、美作・会津・安芸・越後・豊後のいずれかとされる。実際、美作の高田にある化生寺には殺生石を埋めた塚、会津の高田にある伊佐須美神社の末社である殺生石稲荷神社には謎の石が置かれている(会津にはあと2箇所、殺生石と称する石が存在する)。また殺生石を彫って地蔵にしたとされる“鎌倉地蔵”が京都の真如院に安置されている。 |
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●「磯ヶ原日向守正儀」 太日稲神社 館林市
昔、今の正儀内の場所に、磯ヶ原日向守正儀という優しい殿様がいました。その人の奥さんも美人で優しく、夫婦の仲は人々からうらやまれるほどだったそうな。人々は、この奥さんのことを「正儀内」様とよんでいました。 ところが、ある日、理由は分かりませんが、二人とも近くの底なし沼に身投げ自殺をしてしまいました。そんな悲しい出来事があってすぐ、磯ヶ原日向守正儀のために、人々が「日向神社」を建てたんだそうな。 [日向神社の由来] ● 実は、「日向神社」の神様の名は「豊玉彦命」であり、磯ヶ原日向守正儀の名はない。また、歴史上の記録にも、この名前はない。と言うことは、この人物そのものもいないと考えられます。でも、伝説には、何かもとになる話があるものです。そこで登場するのが、「植村家次」さんです。この人に関しては、あと2つも悲劇があるのです。 悲劇[1] 家次さんの奥さんの兄 依田(芦田)康勝は、藤岡城3万石の大名でした。し かし、1600年、友だちとけんかして、殺してしまい、その罪で、大名を首になってしまいました。家次さんが亡くなってすぐのことなので、奥さんはすごく悲しんだでしょうね。 悲劇[2] 家次さんの長男は出世しましたが、次男は、1641年、三代将軍徳川家光に嫌われて、自殺してしまいました。 家次さん関係で3つもの悲劇があることから、この伝説の武将「磯ヶ原日向守正儀」のお話ができたのではないでしょうか。まさか、本名は書けませんからね。 ●大日稲神社 館林市 当社は、明治四二年(一九〇九)四月三〇日「正儀内」地内に鎮座していた稲荷神社(倉稲魂命)・神明宮(大日孁尊)と、その末社八幡宮(誉田別命)・日向神社(豊玉彦命)の四社を合祀、神明宮の祭神大日孁尊(天照大御神)の「大」と、日向・稲荷両社名から一字ずつとり「大日稲神社」とし、社殿はこの年六月一三日竣工した。境内には八幡宮・浅間神社・小御嶽社などの末社がある。 伝説によると、合併社のうち日向神社の祭神は磯ヶ原日向守正儀という殿様で、あるとき、どうしたわけか殿様夫婦が近くの底無沼に身を投じて死んだ。これを知った村人たちは殿様夫婦の不慮の死を嘆きかなしんだ末、沼のほとりに小さな社を建て日向守を祭り、日向神社と名付け、その沼を夫婦沼と呼んだ。 のち大和国(奈良県)高市郡高取城主二万五千石を領し春昌寺に祖先の墓のある植村氏は、日向守の家来筋ともいうが確証がない。 ●「守りの沼」〜城と躑躅ヶ崎を守ってきた城沼〜 館林市 550 年前、周囲5qの東西に細長い城沼を天然の要害として館林城が築かれた。城沼は館林城の建つ台地を取り囲む外堀の役目をし、武将たちにとって「守りの沼」となった。沼によって守られた堅固な城は、近世になると江戸を守護する要衝として、徳川四天王の榊原康政や、五代将軍となる徳川綱吉の城となり、守りを固めるための城下町を広げ、その周囲に水を引き入れ、堀と土塁で囲った。 「守りの沼」には、二つの伝説が生まれた。一つは龍神伝説である。沼に人を寄せつけないため、城沼は沼の主・龍神の棲む場となり、城下町にはその伝説を伝える井戸が残る。もう一つはつつじ伝説である。今から 400 年程前、「お辻」という名の女人が龍神に見初められ、城沼に入水した。それを悲しんだ里人は沼が見える高台につつじを植え、その地を「躑躅ヶ崎」と呼んだ。歴代の館林城主はそこにつつじを植え続け、花が咲き誇るようになった高台を築山に、城沼を池に見立てた雄大な回遊式の大名庭園を造り上げた。城主によって守られてきた躑躅ヶ崎は「花山」とも呼ばれ、花の季節には里人たちにも開放された。 明治維新後の近代化は、「守りの沼」を大きく変貌させた。江戸時代に禁漁区となって人を寄せつけなかった城沼は、里人たちに開放されて漁労や墾田、渡船などが営まれ、「里沼」としての歴史を歩み始めた。 ●竜の井 館林市 竜の井は元々善導寺(館林藩主榊原家の菩提寺)の境内にありましたが、善導寺は館林駅前の再開発で楠町に移転したことで竜の井だけこの地に残りました。この竜の井には次ぎのような伝説が残っています。天正18年(1590)、館林城を攻め倦んだ石田三成と大谷吉継は起死回生の策として城沼に木橋を設けて一気に城内に突入する作戦を立てました。しかし、橋が完成した翌日、総攻撃の前に突如として橋が消滅し、館林城の守護神である狐か、あるいは城沼の主である龍神の仕業と噂が立ち結果的に和議による開城となりました。北条家が滅びると徳川家康の家臣で徳川四天王とまで言われた榊原康政が10万石で入封、改めて館林城の拡張と城下町の整備が行われ、当地に善導寺が移される事になりました。 中興に先立ち康政が篤く帰依した幡随意白道上人を招くと上人は城下の町民達を集め度々説法を行い浮世の習いを説いて聞かせていました。すると、毎回説法の毎に現れ熱心に聴く年の頃17、8歳の若く美しい女性がいるので不思議に思い、上人はその生い立ちを訪ねると城沼に棲む龍神の妻で説法によって本当に救われたと話し出しました。辺りに誰も居なくなると上人は一度本当の姿を見せてほしいと懇願すると女性は恥ずかしながら20尋(約36.6m)の龍の姿に戻りました。龍は人間に本当の姿を見られたからはもう二度と人の姿に戻る事は出来ません、これからは善導寺の守護神として上人を守っていくと告げ井戸の中に消えていったそうです。 善導寺は歴代館林藩藩主や幕府から庇護され寺運も隆盛し、龍が消えた井戸は「竜の井」として大切にされたと伝えられています。又、この井戸は城沼と青龍の井戸が繋がっているという伝説も伝わっています。 ●茂林寺沼と分福茶釜 館林市城町 茂林寺沼には、なぜ今も原風景が残っているのか?そこには、600年前に開山した古刹・茂林寺の存在がある。沼の畔に曹洞宗の信仰の拠点「祈りの場」が生まれることにより、人々の自然を畏怖する気持ちが高まり、「祈りの沼」としての静謐さが受け継がれてきた。 いつしか人々は、その沼を茂林寺沼と呼ぶようになった。そして、寺に伝わる貉(狸)の古譚「ぶんぶく茶釜」のなかで、和尚が貉の化身であったり、狸が茶釜に化けるなど、人と動物とのかかわりが今もユーモラスに語り継がれている。 茅葺き屋根の本堂や山門をもつ茂林寺は、その葺き替えに沼茅(葦)を利用してきた。人々は繁茂する葦を刈ることで沼の生態系を維持し、茂林寺沼は「里沼」として人との共生が保たれてきた。今も人々の祈りの姿が途絶えることのない寺と、希少な動植物の棲みかの沼との共存が図られている。 ●白滝姫伝説 白滝神社 桐生市川内町 今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡(こうづけのくにやまだごおり)から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々につたえ、その技術が今でも桐生の地で受け継がれているのだという。 この白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を『仁田山』といい、特産品となった絹織物を「仁田山織」というようになった。桐生織は、江戸時代前期までは「仁田山織」と言われていた。 姫が亡くなると、天から降ったという岩のそばにうめ、機織神として祀った。すると岩からカランコロンという機をおる音がきこえていたが、あるときゲタをはいて岩にのぼった者がおり、以降鳴らなくなった。この岩は現在の桐生市川内町にある白滝神社の前の神体石であるという。 |
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●白滝姫
●白滝姫 1 桐生織の発祥については、白滝姫伝説という伝承が残されている。 今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡出身の男が、京都で宮中の白滝姫に恋をした。男は天皇の前で見事な和歌の腕前を披露し、白滝姫を桐生に連れて帰ることを許してもらった。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々に伝え、その技術が今でも受け継がれているのだという。白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を「仁田山」といい、特産品となった絹織物を「仁田山紬」と言うようになった。 ●白瀧姫 2 第47代の天皇(758年〜764年)の頃、朝廷の官女だった白瀧姫は、桐生から朝廷に奉公に行っていた山田 某(それがし)と知り合い、この男の妻となりました。白瀧姫は、夫と共に桐生に下り、里人に機織りを教えました。この姫を機神として祭り、天の織女星(しょくじょせい・七夕の織姫)になぞらえ、(旧暦の)7月7日に祭礼を行うようになりました。 今に伝わる、この織姫伝説は、江戸時代中頃に書かれた『機神白瀧姫御神影並御伝記(しらたきひめごしんえいならびにごでんき)』により確立したといわれています。桐生新町に住んでいた新居甚兵衛がこの伝記と白瀧姫の画の摺り物を、桐生織の反物に巻いて売ったことから、白瀧姫伝説が広く知られるようになりました。 都から桐生に下ってきたと伝わる白滝姫は、当時、桐生にはなかった新しい織物技術を伝えたといわれています。その白瀧姫を機神(はたがみ)として、祭る神社が白瀧神社です。 ●白瀧姫 3 白滝姫伝説の桐生市には、織姫にちなんだ様々な図像が存在しています。その中でも、最も古い白瀧姫の御神影は桐生新町の新居甚兵衛が、館林の文人画家小寺應斎に描かせたものがあります。制作は文化元年、以来二百年あまりの間に様々な織姫の図像が描かれました。 桐生市川内町五丁目は昔、上野国(こうづけのくに)といってその村人、久助が京都宮中の庭掃除奉仕に選ばれて作業していると、一枚の短冊が落ちてきて、拾いあげてみると、「吾妻より 山田からすが飛び来たり 羽ばたきをして 庭ぞはきける」と書かれた和歌をみて、久助は筆と短冊をかり、平然と返歌をした「飛立てば 雲井の空に羽をのして 大宮人を めの下に見る」と詠んだ。(下品な私のようなカラスでも、とび立てば、宮中の空高く、貴方方、高貴な人たちでも、自由に見さげることができるのですよ)今まで笑っていた官女たちは驚き、後日歌合わせすることになり、「雲の上 目には見ゆれど白滝の 八重に思ひと 落ちぬ君かな」とうたい、白滝姫の心を動かし、お勤めの交代の時期に、桓武天皇から「ながいことご苦労であった。なんでも望みの品をしんぜよう」とのお言葉に、他の者は餅や料理を所望したが、久助は「おらあ 外のものはいらねえ ただ、白滝姫をお嫁にいただきてえ」側に控えていた公郷百官はどっと笑った。 帝は、久助に同情して「さらば 歌合わせで勝ったら姫をそなたの嫁に進ぜよう」先ず姫より「照り続き山田の稲の枯れはてて 何を種とて 命つくらん」久助は「照り続き 山田の稲のこかれなば 落ちてたすけよ 白滝の水」と返歌をした。そして願いが叶い、姫と久助は手に手をとって、川内村仁田山岩本に二人の住居を構え、宮中で習った養蚕、糸繰り、はた織の業を仁田山の里人に教え、やがて時の朝廷に絹織物を献上するほどになり、これが桐生織物の源となった伝説の原画が目を引く。 織物にちなんだ神社の絵馬や御札、桐生以外からの写真や壁掛け、日本織物創業者の孫にあたる佐羽氏の協力で出品された生き人形写真。圧巻は当時の人気随一の歌舞伎役者が明治座で公演した役者絵。書画では長澤時基、大出東皐、田崎草雲の軸など大家の書が観られる。 ●白瀧姫 4 ●山田男・白滝姫伝説 この伝説は柳田国夫監修「日本昔話名集」に完形昔話の部、幸福な結婚の類型に「山田白滝」として取り揚げられている。しかし、鎌倉地区のごとき公卿の姫君と結婚するのは異色で、一般的には金持ちの娘との結婚話です。 今から約800年ほど前(鎌倉三代1203〜1219)、山田鎌倉、現在の田中正治氏の遠い祖先に二人の兄弟がありました。兄は当然ながら家を継ぎこの地にすみましたが、弟は志を立て京都に出てお公卿に使えました。元より利発の男なれば「山田男よ」「山田男よ」と皆に愛されました。 ある日のこと、湯殿の湯を沸かし湯加減もよろしいとその旨を公卿の娘白滝姫(三女)二申し上げました。姫は湯殿に来、湯加減を試されたところ少々厚かったので、山田男に「水を持て」と仰せられま山田男は早速かしこまって手桶の水を持ち湯壺へ注ごうとした時、いかなるはずみか手桶の水が媛がお召の袖にかかってしまいました。この時、田舎者とはいえ誠実な山田男にほのぼのとしたものを感じていた白滝姫は後ろ向きに振り向きざまに歌をお詠みになりました。 「霞(かすみ)さえ かかりかねたる 白滝に 心かけるな 山田男よ」 このような高貴な公卿の娘とはいえ、日頃から白滝姫に淡い慕情を抱いていた山田男は、すかさず 「照り照りて 苗の下葉の 枯れる時、山田に落ちよ 白滝の水」 と歌でお返ししました。 この有様を一部始終陰できいていた白滝姫野父親は、二人の成り行きを察し、山田男に「媛を汝に嫁として与えるから、媛を連れて故郷へ帰れ」とお言いつけになりました。一方、白滝姫も遠い北国での暮らしをご承知になりました。この時代は公卿と一般の人との結び合いは国外追放という厳しい掟がありました。せっかく志を立てて京に上った山田男でしたが、掟に逆らう訳にもいかず仕方なく故郷へ帰ることにしました。 しかし二人の足取りは軽く、途中敦賀より放生津までの水路、放生津から山田への陸路、長の道中もつつがなく家に帰りました。出発の際、嫁入り道具は勿論のこと、母君より形見に黄金造りの合わせ鏡を送られました。 山田男は姫との成り行きを家の者に詳細に説明しました。家の者達は大変驚いて、そのような高貴な同居するのは恐れ多しと、川向うの山(向い原鏡が窪)に新居を築いて両人を住まわせました。二人はここで生涯中睦まじく過ごされました。 ●鏡の宮の縁起 (白滝姫伝説のその後) その22〜23代後の田中家で。東の空より太陽が昇り向い原を照らす頃になると、川向いの山田男と白滝姫の屋敷跡より、どんどこどんどこと神楽囃子が聞こえてきました。初めの内は何とも思っていませんでしたが、あくる日もあくる日も聞こえてきました。不思議に思った当主はふと白滝紐の事を思い出し、これは確かにこれは確かに姫の親の形見の黄金の合わせ鏡が土に埋もれているに違いないと村中で屋敷跡を掘り起こしました。しかしとうとう鏡を見つけることはできませんでした。 今を去ること凡そ200年前、蓮華寺村の九郎右ェ門なる者に夢のお告げがあったとういことで、当時の田中家の当主八郎兵営を訪ねてきました。そして、古い祖先が建て春秋2回祭礼を行ってきたという祠(ほこら)の境内より一面の鏡を掘り出して行きました。(現在の外輪野用水の守護神となっています) 又もう一面は明治18年9月、八郎兵衛の希望により鎌倉の人々により祠の大門を拡げる作業をしておりました。中川善右衛門、杉林円四郎が一緒に茅株を起こそうと打ち込んだ桑先にカチンと金音がし、不思議に思い土を除くと一面の鏡が出てきました。善右衛門がすぐに八郎兵衛を呼びました。八郎兵衛は鏡を手に取りおし頂き「これこそ伝え言う先祖の宝鏡に違いない」と、直ちにほ祠にまつり一同で礼拝しました。その後、鏡の宮は遠方にて参拝困難ゆえ氏子八幡宮に合祀されました。鏡の宮跡には石碑が建ててあります。 ●地名のいわれ異聞 「山田男と白滝姫伝説異聞」もあります。その中で山田男が奉公したのは現在の神奈川県鎌倉市であり、武家に奉公したとあります。そして山田男は大変な美男子で有り姫と恋をしたとされており、名誉ある武家としては奉公人と姫を近辺に置くことを避け、男の故郷山田郷へ多大なる支度で送り届けられました。そしてこの地を鎌倉と名づけたというものです。 ●白瀧姫 5 平安時代の初期、桓武天皇の時代に山田郡の仁田山(今の川内地区)に住んでいたと言われている農家の青年が、宮廷の掃除係として都へ行きますが、宮中で出会った姫に恋い焦がれ、その気持ちを和歌にしました。 最初は東国から来た身分の低い男を相手にしていなかった姫も、彼の才能に次第にひかれてゆきます。 やがて天皇の前でも見事な和歌を詠み、許しを得て姫を連れて帰ることになりました。 この 時、姫が身に着けていた養蚕、製糸、機織りの技を里人に教えたのが桐生織の発祥と言われています。 ちなみに伝承では姫がこの付近の山を見て「京の小倉山に似ている」と言ったので、今の川内地区は仁田山と呼ばれるようになり、峠は小倉峠と呼ばれたとなっています。 ●全国に拡散した白滝姫伝説 さてこの白滝姫の伝承は神戸や富山など、他の山田という地名の場所にも残っています。 おそらくこの伝承を聞いた全国数か所の山田村の人々が、きっと「おらが村の話にちげえねえ」と思って子孫に伝えたか、「うちこそ伝承の地」といった白滝姫伝説誘致運動を繰り広げたかのどちらかでしょう。 しかしながら、白滝姫が嫁いだ地「山田」とは桐生の川内であった可能性が非常に高いと私は考えます。 理由は川内に白瀧神社があり、亡くなった後で石の下に埋めたと伝わる「降臨石」と呼ばれる石が境内に存在しているからです。 神社に祀られるというと何やら神話めいていますが、昔の人は現代人が考える以上に亡くなった人の魂を恐れ敬う気持ちが強く、実在したからこそ、そこに祀られている可能性が高いのです。 また恋愛のストーリーは大体同じですが、白滝姫が機織りを伝えたという話があるのは桐生だけです。 地元の人は機織りを伝えてくれた恩人として白滝姫を大切に祀ってきたのです。 なおこの降臨石には、七夕の日に白滝姫が天から降りてきて、耳を当てると機織の音が聞こえたと伝えられています。 七夕の日に織姫と彦星が出会う織姫伝説ともリンクしている点が興味深いですね。 ●白瀧姫 6 関東の養蚕信仰の女神さまには、群馬県桐生市にある白滝神社に祀られている<白滝姫>と、茨城県筑波市の蚕影神社の<金色姫>の2つの系統がありました。八王子(とくに北西部)では<白滝姫>が信仰されていますが、八王子以外の多摩や神奈川方面では<金色姫>が信仰されているようです。<金色姫>の伝説はかなり古くから存在しており、そのバリエーションも少なくありません。養蚕との関わりもかなり深く、江戸時代には神仏習合の信仰として養蚕の盛んな地域に広がったようです。一方、<白滝姫>に関する伝説も、日本の各地に散らばっていますが、ちょっと面白い話なので紹介しましょう。 まずは、桐生に伝わる伝説から。 今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々に伝えた。 この伝説のキーワードは、<白滝姫>と<和歌>、そして<山田>という地名です。 同じような伝説は富山県にもありました。 越中国婦負郡山田村出身のある男が京の公家の家に仕えていた。その家には白滝姫という美しい娘がいた。男がある日、白滝姫のために風呂をわかしたが、熱くて入れない。男が桶で水を運んだところ、その水がこぼれて姫の袖を濡らした。そこで姫は次のような歌を詠んだ。 雨さへも かかりかねたる 白滝に 心かけたる 山田男の子よ けっこうタカビーな内容の歌です。水をかけられたくらいで、<自分が好かれている>って、<どんだけ〜>ですよね。ところが、山田男も歌を返します。 照り照りて 苗の下葉に かかるとき 山田に落ちよ 白滝の水 姫は田舎者だと思っていた男が予想外の見事な歌を返したのに感心。この歌が縁で、男は身分を越えて姫との結婚を許されます。そして、故郷の山田村へ姫を連れ帰り、終生仲睦まじく暮らしましたとさ。 ちなみに、白滝姫が輿入れのとき京から持参した二枚の鏡のうちの一枚が山田村の鎌倉八幡宮に今もあるそうです。でも、この富山バージョンには、姫が機織りの技術を伝えたという言い伝えはありませんね。 さらに、兵庫県神戸市北区山田町にも同じような伝説がありました。こちらはより具体的です。 奈良時代、淳仁天皇の御世、右大臣藤原豊成の娘に中将姫、白滝姫という美しい姉妹がいた。 <中将姫>は奈良当麻寺に伝わる曼荼羅を蓮華の糸で一晩で織り上げたというお姫様だそうです。この名前は、能や歌舞伎にもよく登場しますね。 その妹の白滝姫も、姉に劣らぬ才色兼備で、多くの公達から求婚されていた。ところが、山田郡郡司の山田左衛門尉真勝は、身分の違いも顧ず、白滝姫に恋をし、文を送ったところ、白滝姫から次のような歌が返される。 雲だにも 懸からぬ峰の 白滝を さのみな恋そ 山田男よ 富山バージョンとは若干語句が違いますが、云っている内容はほぼ同じですな。しかし、相当の美人だったんでしょうね、たいした自信です。山田真勝は次のような歌を返します。 水無月の 稲葉の末の こがるるに 山田に落ちよ 白滝の水 この歌に関心した姫の父藤原豊成は、白滝姫を真勝の嫁にやることを決断。おまけに、帝もこの話に感動して、真勝に宝剣を与えて祝福する。真勝は白滝姫を山田庄へ連れて帰る。 ところが、兵庫バージョンはラストが違います。 しかし、もともと気にそまない結婚生活を強いられた白滝姫は、子供を産んだ後、病気で死んでしまう。真勝は邸内に白滝姫を葬り、弁財天の祠と観音堂を建て姫を祀った。その弁才天祠の前に井戸を掘ると、毎年、栗の花が落ちる頃に清水が湧き出す。真勝は白滝姫をしのび、姓を「栗花落氏」と改める。そして、後世まで山田庄の豪族として栄えた。 富山バージョンのお姫様は、今で云うところの「ツンデレ」系の女の子でしょうか。男の才能に惚れて、富山行きを決心するところなどは、チャーミングなお姫様です。一方、兵庫バージョンはちょっともの悲しい結末です。最後まで<オジョウサマ>気質が抜けず、鄙の生活に慣れなかったのでしょうね。 ただ、富山の話も、神戸の話も、いずれも<養蚕>とは関わりがありません。 どうしてこの物語が日本中の山田郡(村)に広がっているのでしょうか?ちょっと不思議ですね。 おそらく、<高貴な姫と山田男>ストーリーが先に存在し、全国の山田という村が、<この話の舞台はうちの村だ!>とばかりにこぞって採用したのではないでしょうか。でもって、群馬の山田郡桐生の場合は、そこに養蚕伝来のサブストーリーも追加したのでしょうね。 ●桐生織 群馬県桐生市において特産とされる絹織物である。その起源は奈良時代まで遡る。江戸時代以降、西陣及び西洋の技術を導入し、さらには先駆けてマニュファクチュア(工場制手工業)を導入し発展。『西の西陣、東の桐生』と言われ、高級品織物を中心に、昭和初期までは日本の基幹産業として栄えてきた。2006年(平成18年)4月に施行された改正商標法によって、特定の地域名を冠した「地域ブランド」(地域団体商標)が商標権の取得が可能となり、桐生産地では2008年(平成20年)2月1日に桐生織物協同組合の「桐生織」が地域団体商標に登録された。 群馬県桐生市とその近郊に位置するみどり市大間々、伊勢崎市赤堀、太田市藪塚、栃木県足利市小俣、葉鹿地区などにおいて産される絹織物で、経済産業省の伝統的工芸品に指定されている。桐生織には、御召織(おめしおり)、緯錦織(よこにしきおり)、経錦織(たてにしきおり)、風通織(ふうつうおり)、浮経織(うきたており)、経絣紋織(たてかすりもんおり)、綟り織(もじりおり)の七技法があり、桐生織伝統工芸士会によって技術の継承がなされている。 御召、羽織、紬、絣、コート、紋紗、帯など、内地向け織物は、多品種少量生産が特徴である。太平洋戦争中に大規模な織物工場は軍需産業に転換され、戦後、再建されずに廃業したため桐生に大工場は残存せず、現在では基幹の織物業に加えて、染色、整理、加工、刺繍、縫製、レースなど多種多様の小規模事業者によって構成される総合産地となっており、礼装着物、浴衣、着尺、帯地、丸帯、袋帯、角帯、兵児帯、洋服地、裏地、法被などの祭礼用品、神社仏閣の御守袋など袋物、作務衣や甚平、文楽人形や節供人形の衣装、幟や暖簾、ネクタイやストールなどが生産されている。 ●白滝姫伝説 桐生織の発祥については、白滝姫伝説という伝承が残されている。 今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡(こうづけのくにやまだごおり)から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々につたえ、その技術が今でも桐生の地で受け継がれているのだという。 この白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を『仁田山』といい、特産品となった絹織物を「仁田山織」というようになった。桐生織は、江戸時代前期までは「仁田山織」と言われていた。 姫が亡くなると、天から降ったという岩のそばにうめ、機織神として祀った。すると岩からカランコロンという機をおる音がきこえていたが、あるときゲタをはいて岩にのぼった者がおり、以降鳴らなくなった。この岩は現在の桐生市川内町にある白滝神社の前の神体石であるという。 ●仁田山 仁田山織の紬は、西国や畿内の紬と比べて品質が劣っていたが、廉価であったため室町時代には近隣諸国に流通していた。江戸時代に品質が向上したが、上方では「田舎絹(田舎反物)」の代表としてその名が知られており、現在でもえせ物やまがい物のことを「仁田山」と呼ぶ語源ともなっている。 ●歴史 ●古代・中世 上野国の絹織物は奈良時代初期に産出され始めたと考えられており、『続日本紀』には、和銅7年(714年)に、相模、常陸、上野の三国から、初めてあしぎぬが調として納められたとある。平安時代中期に編纂された『延喜式』では、上野国の税はあしぎぬと定められた。鎌倉時代の元弘3年(1333年)、新田義貞は鎌倉攻めにおいて、仁田山紬を旗印に用いた。南北朝時代の元中年間(1384年 - 1392年)には、仁田山絹として他国にも流通し始めた。義堂周信の詩集に上州土産として絹が詠まれており、上野の絹織物は鎌倉あたりにまで知られていたようである。応仁の乱により衰退したが、安土桃山時代には荒戸原に新町(桐生新町)が築かれ、天神社周辺で開かれた酉の市では、絹の取引が行なわれ、少しずつ盛り返していく。 ●近世 慶長5年(1600年)、徳川家康が小山にいた軍を急に関ヶ原へ返すとき、急使を送って旗絹を求めたが、わずか1日ほどで2千4百10疋を天神社の境内に集めて納めた。このことが織物生産地としての桐生の名声を高めた。江戸時代前期に、桐生新町が六丁目の下瀞堀まで整えられ、近郷からの移住者の増加によって機業を仕事とする者が多くなり、京都、大阪、江戸や他の国々との取引も盛んになったため、酉の市を六斎市とし、市日は天神社の例祭にちなみ、五・九の日に開かれた。元文3年(1738年)に、京都の織物師の中村弥兵衛と井筒屋吉兵衛が桐生に高機の技法を伝えた。高機は織手と紋引手が共同で文様部を織り出すことで、複雑で変化に富んだ紋織物を作りあげた。その製品は飛沙綾と呼ばれ、桐生の絹市は見立番付の『関東市町定日案内』で大関に格付けされるほどに賑わった。寛政2年(1790年)に、京都の模様師の小坂半兵衛が桐生に先染紋織の技法を伝えた。時代の変化にしたがって技術も進み続け、図案、製紋、紋揚げ、紋移し、糸撚り、糸染め、糸繰り、緯巻き、整経、綜絖通し、筬通しなどの準備行程が分業化し、年ごとに綾、緞子、綸子、羽二重、縮緬、紗綾、海気、錦、金襴、金紗、絽金、琥珀、厚板、天鵞絨など多種多様な絹が生産されたので、桐生の名は高まっていった。 ●近現代 安政6年(1859年)の横浜開港から、国内の生糸が海外に輸出されるようになり、桐生では織物原料の不足と価格の高騰に悩まされつつ、明治維新を迎えることとなったが、生糸の代わりに輸入綿糸を用いた絹綿交織物の生産に転換することで復興した。明治時代前期には、輸出羽二重の開発、織物協同組合の前身にあたる桐生会社の開設、ジャカード織機の導入による紋織物生産の能率化、成愛社、日本織物会社といった大工場の設立があった。明治後期になると、輸出織物の重要性を認識した政府は機業地に財政援助を行なった。その援助を受けて設立された工場は模範工場といわれ、桐生には、桐生撚糸会社、両毛整織会社の二社があった。1907年(明治40年)に渡良瀬水力電気会社が電気を供給し始め、大正時代に入ると手織機から力織機に移行する工場が増え、原料の安い人絹織物の生産が活発となった。輸出向け織物は、1928年(昭和3年)に設置された商工省輸出絹織物検査所で検査に合格した製品が海外に売り出され、桐生織物の信用度が高まったことで販路の拡大につながった。太平洋戦争後はマフラーの輸出によって復興し、輸出織物見本市や海外見本市の開催によって、新市場の開拓に成功したが、大阪万博開催のころから、繊維工業が急成長した途上国の追い上げによって、販路がせばめられてきた。日本人の生活様式の変化に伴う和装離れから桐生織は苦境に立たされているが、炭素繊維などの先端科学技術を導入した新製品や、映画・ドラマなどを中心とした衣装提供など、新分野に進出して販路を広げている。スティーヴン・スピルバーグ監督作品の映画『SAYURI』において、主演のチャン・ツィイー、コン・リーや桃井かおりが身につけた丸帯は、桐生市の後藤織物で生産されたものである。1973年(昭和48年)に、桐生繊維関係団体連絡協議会(現在の桐生繊維振興協会)が発足し繊維業界の発展を図るため活動している。1974年(昭和49年)施行の伝産法に基づく伝統工芸士制度の発足により、桐生伝統工芸士会が設立され、技術の向上や後継者の育成にあたっている。1977年(昭和52年)には「桐生織」が当時の通商産業省から伝統的工芸品に指定されるなど、桐生織の技術は高い評価を得ている。1987年(昭和62年)には桐生地域地場産業振興センターが竣工し、新製品の開発や内外情報の収集を実施して地場産業の活性化を推進している。 ●遠野清滝姫と桐生白滝姫 ●遠野・清瀧姫伝説 奥州閉伊郡山田村より登りたる左内と云ふ役夫、清瀧姫と云宮仕ひの官女を見初、忍戀にあこがれ手寄を求め密に一首の歌を贈る。 雨ふらで植えし早苗もかれはてん清滝落ちて山田うるおせ 女返し歌 及びなき雲の上なる清滝に逢わんと思う恋ははかなし 男又遺す歌 かけはしも及ばぬ雲の月日だに清きけがれのかげはへだてぬ 女返し歌 よしさらば山田に落ちて清滝の名を流すとも逢うてすくわん うれより人目を忍ぶ枕の藪積り清瀧ただならぬ身と成り夫婦内裏を忍び出で男の古郷を心ざし東路に赴き逃げ下る道終はや先立て東國の村里に御尋の御詮議きびしき御沙汰の風説を聞き古郷の山田は伝に及ばず何方も人住む里には身を忍ぶ隠れ所なく遠野東禅寺村の奥山深く分け入り巌窟を舎としてしばらく忍ぶ居る間に女は重き身に重き病の悩をうけ終に此世を去ければ左内泣々亡骸を葬り塚の印に建置たる石を麓より見上れば猿乎石乎と疑しく見ゆる故塚の傍より涌出る細谷川を世俗猿乎石川と稱し来ると言傳へ侍る。 ●桐生・白滝姫伝説 今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々につたえ、その技術が今でも桐生の地で受け継がれているのだという。 姫が亡くなると、天から降ったという岩のそばにうめ、機織神として祀った。すると岩からカランコロンという機をおる音がきこえていたが、あるときゲタをはいて岩にのぼった者がおり、以降鳴らなくなった。この岩は白滝神社の前の神体石であるという。 ● 話が妙だなと思っていた、遠野の「清瀧姫伝説」と同じものが、古代では毛野国に属する桐生織で有名な桐生に「白滝姫伝説」として伝わっていた。遠野では清瀧姫であるのが、桐生では白滝姫となっている。遠野の伝説では猿ヶ石川の名前の由来伝説となっているが、桐生側では養蚕技術の伝承となっている。養蚕技術を教えた話は、遠野の伊豆神社に伝わるものと、陸前高田には綾織姫の話が有名か。遠野の場合は、悲恋物語が際立っているが、猿ヶ石川の名の由来は、後で取っ手付けた感のある話になっている。恐らく桐生の伝説が、遠野の地に持ち込まれ加工されものと思える。時代的に考えても、恐らく古代に毛野国に属していた阿曽沼の人間が遠野の地を統治する際に持ち込み伝えたのではないだろうか。そして本来は、養蚕を伝える物語であったのだろうが、それが打ち消され猿ヶ石川名の由来になったのは、遠野には既に有名な伊豆神社の養蚕伝承があったからではなかろうか。気になるのは、何故に滝という名が共通するのかだろう。桐生の白滝神社では、滝が御神体というわけではない。しかし京都から連れてきた(運び込まれた)事を意識すれば、岩手県のいくつかの新山神社に伝わる話を思い出してしまうが、それは後回しにする事としよう。白滝日の白滝として思い出すのは、遠野にある白滝神社二か所(琴畑・犬淵)である。どちらの白滝も、清瀧とも呼ばれ、その白滝神社も大元である早池峯神社の前身、妙泉寺の末寺だったと云われている。名が二つあるというのは清い意味を持つ、清瀧も白滝も同じ意味である為だろう。そういう意味でも、白滝姫が遠野に伝わり、清瀧姫となっても何らおかしくは無い。 桐生の白滝姫は京都から連れてきた。滝は瀑布とも呼ばれ、やはり養蚕に関わる布を意味するのは、宗像のみあれ神事が、白い布をひらひらとなびかせ、神を依り付かせる事に繋がる。山の滝とは、山中でたなびく一枚の白い布であるのが、瀑布とも云われる由縁だ。その白い布に依り付くのは養蚕の神でもあり、滝神でもある。 遠野の伊豆神社には、兎が描かれている。何故兎なのが謎ではあったが、兎が月と結びつくのは誰しもが知っている事実だ。また東山文化での庭園造りを伝えたのは、被差別部落の人間でもあったが、そこで伝わるものは、月とは直接見るものではなく、水に映して見るものであるという事だった。実際に、平安時代の習俗にも和歌にも、月を直接見るものではないと伝わるものがある。それは忌むべき事というよりも、その月の光の神秘性をより強く伝えるものでもあったようだ。云わば、月と水との融合を意味し、それは月の変若水にも繋がる事であった。 琵琶湖を水源とする宇治川の宇治とは、兎路であった。それは恐らく、水面に映る月の光の軌跡を言ったのではなかろうか。「日本書紀(垂仁天皇記)」に、天照大神が伊勢を選んだのは常世から押し寄せる波が伊勢に届いているからでもあった。その波を際立たせるものは、月の光であった。恐らく琵琶湖を水源とする宇治川もまた、琵琶湖の湖面に映る月の光りが波だったものが、宇治川へと流れ注ぐ意があるのだと思う。その流れは途中で様々な支流と合流し、最後は伊勢へと流れ着いている。伊勢神宮前の橋を宇治橋というのは、その事を言うのだろう。そして海上の沖からも、月光を浴びた幾重もの波が伊勢へと押し寄せている。つまり、それが兎路であり、兎路であり月光の集まる場所が伊勢神宮である。だから伊勢神宮とは月の宮では無いかと、以前に書いた。 白という意味は広いが、「皓」と「素」に分かれる。「皓」は、自然界の雲や雪。さらに霜・水や滝などから発想されたもので、白い色を示す。皓月や皓雪というのは「白く光って明らか」という意味で、光沢のある白と思えば良い。そして「素」は、楮などの木の皮を川の流れや雪の上で晒して白くした素糸とか、素絹とか、本来の地の色の白く美しい表現に使うものとされるようだ。つまり素肌という表現は、本来白く美しいものとなるので、「古事記」の中での因幡の白兎が本来「素兎」と書かれているのは、この意味からである。結局「皓」も「素」も、清らかな意味を有する。清瀧も白滝も、自然な清らかな滝の意であるのは先にも書いたとおりだがつまり「白」とは、穢れを受け付けない清らかさを意味する。そしてまた、白山信仰にも繋がるものであろう。ところで水は、夜の闇では白くは見えない。そこで必要となるのは、夜の闇に浮かぶ月の光となる。伊勢に押し寄せる常世の波は夜の波でもあり、それは月の光を浴びた波でもあった。また琵琶湖の桜谷もまた黄泉国と繋がっている伝承からも、琵琶湖に映る月の光も常世の波と同じ理屈となる。それが、伊勢神宮に押し寄せている。 とにかく若干の内容は違えども、遠野の清瀧姫伝説も桐生の白滝姫伝説も同じものであり、それは京都から持ち込まれた女神を物語化させて伝えたものだと考えるのだ。岩手県の新山神社に伝わるものに、京都から早池峯の女神を抱いて、ある場合は羽黒経由で岩手に持ち込まれ、または直接岩手に持ち込まれ、早池峯の女神として遠望するように祀ったとある。それは複数であったのはわかっているが、どれだけの人数によって持ち込まれたのかはわかっていない。また、京都のどこであったかも伝わっていない。ただ桐生の白滝姫の伝説は、桓武天皇時代だという。つまり、その頃の東北は、蝦夷征伐であり坂上田村麻呂が来ている頃と重なる。その蝦夷征伐後の大同元年に、遠野の早池峯神社が建立され祀られた神とは、伊豆神社と同じ瀬織津比唐ナあった。その瀬織津比唐ヘ、犬淵の白滝神社にも祀られ、琴畑の白滝神社にも祀られている。そして伊豆神社の伝承にも、坂上田村麻呂と共に養蚕を伝えた拓殖夫人の伝承があるが、これが桐生の白滝神社とリンクする。毛野国であった桐生もまた蝦夷の入り口であり、この北関東から東北にかけて、オシラサマが分布し、養蚕が盛んになったのも何かの関係があるだろう。余談として、犬淵の白滝神社だが、地名を中滝と言い、その奥の又一の滝と繋がる意を有しているらしい。その中滝の出身者が明治時代に遠野の町に移り住んだそうだが、かなりの風流な者であったそうな。その者は苗字を中滝ほ変換させ中竹と改め、月を待つ意の「待月」という店を構えたのは、意味深な事であると思うのだ。 |
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●ふるさとの伝説 ●前橋市 ●きついばあさん 「鬼ばばあ」と呼ばれるばあさんがいて、息子の嫁はみんな逃げてしまったが最後の一人はばあさんのことばに従って仲良く暮らしたという話 ●猫山 祐庵という医者が、飯土井を通りかかったところ猫が踊りを踊っており、その中に自分の飼い猫も入っていた。それからこの辺りを猫山と呼ぶようになり、現在も記念碑がある。 ●桐生市 ●白滝姫 京都に使いに出かけた男が、京都で白滝姫を見初めて連れ帰った。白滝姫は折門織物が上手でこの地方に織物を広めたという話 ●伊勢崎市 ●波志江の五郎兵衛 力持ち五郎兵衛にまつわる話 ●栄朝にまつわる伝説 世良田の長楽寺開山にまつわる話 ●大久庵(湾)の入水 悲恋物語 ●太田市 ●鳥居のない神社 昔、日光例幣使の一行が石原の賀茂神社で休んでいると犬が吠えるのでその首を切ってしまったところ、首が鳥居に跳ね上がってそこにいた蛇に食いついた。犬に助けられたことを知った例幣使はその犬を手厚く葬り、鳥居も外してしまったという。この神社には今も鳥居がない。 ●ダイダラボッチ 昔、ダイダラボッチという大男がいて、赤城山に腰を掛けて利根川で足を洗った。きせるをはたいた灰が丸山で、吉沢にある池が足跡だという。 ●沼田市 ●迦葉山天狗「中峰尊」 昔、迦葉山の寺に天巽(てんそん)という僧侶と一人の小僧さんがやってきた。この小僧さんは夜中に大木をひいたりして寺を建て、岩壁に穴を開け五百羅漢の像を作ったが、実は中峰尊という天狗の化身だったという。 ●絵馬のいたずら 昔、柳町や町田の田畑が何者かによって踏み荒らされた。毎夜のことなので調べてみると家々の馬はみなつながれていたので、これは歓楽院の絵馬のせいだと手綱を書き入れるとすっかり収まったという話 ●館林市 ●分福茶釜 茂林寺の茶釜にタヌキの首や手足が出て、毎夜陽気に踊り出したという話 ●キツネが教えた縄張り 赤井照光はキツネの教えにより館林に築城したという話 ●渋川市 ●お袋山 金井の渋川吾妻線沿いにあるお袋山には、その中腹の南面のところに乳池がある。弘法大師が山に登り四方を眺めているうちに、あまりにのどが渇いたので杖でそこを掘ったところ乳色の水がわき出した。里人はこれを乳池と名付けそこから乳の出の悪い人はこの水を飲むと不思議に乳が出るという。 ●富岡市 ●昔話 ●ミミズと蛇●道祖神様と小鳥●キツネとオオカミ●しょうぶの話●大日様とキツネ●山姥の話●医者になった男 ●笑い話 ●和尚と小僧●和尚と焼き芋●たの九●松山鏡●馬鹿婿●梅のばか●へっぴり嫁御 ●世間話 ●かいげんとキツネ●馬小屋と小僧●六部を殺した話 ●伝説 ●弘法大師と九十九谷●弘法井戸●弘法池●片目のウサギ●蚊のいない村●蛇のからまる家●太郎坂●行人塚●羊太夫●小町塚と化粧井戸 ●安中市 ●チャンコロリン石 夜な夜な「チャンコロリン」といって町中を丸い石が転がり回る。町民は住職にくぎ打ちを頼んだ。その石というのが大泉寺に残っている ●お八重ヶ淵 お八重は無実の罪で大きなかめの中で蛇責めにされた。無実ならばゴマの花を逆さに咲かせるといって死んだ。これは無実であったという。安中城中での悲話 ●赤城村 ●おおみ堂の釣り鐘 昔、おおみ堂にみぞろが池という池があった。池の主の大蛇が成長して池が小さくなったので赤城の小沼に移ったが、その時あらしが起こり小沼の水があふれて流れた。おおみ堂の鐘も流されてしまったが、これが筑波山のふもとに流れ着いた。この鐘は今も突くと「溝呂木恋しやゴーン」と鳴るという ●富士見村 ●田島の大石 田島には天狗の足跡石というのがある。天狗が飛んできてこの石に止まったと言われ、大きな足跡が付いている。この石の上で子供が遊んでいて落ちてもけがをする者はいないという。 ●すずり石 山口の北方にすずり石というものがあり、窪みに水がたまっているので、昔、親鸞上人がこの水を硯に受けて経文を書いたので、すずり石という。 ●お茶の水 米野の芦沼と中田に、こんこんとわく清水がある。これをお茶の水といい、昔キツネがこの水を京都まで持参して献上したと伝えられる。 ●粕川村 ●小沼の蛇姫 藤原道玄の娘が小沼に身を投じて龍神となり庶民の安穏を守るという話 ●竜源寺の竜燈桜 若い男女が仏の道を悟れず煩悩に身を焦がしていた。真光和尚は2人に血脈を授けた。この恩返しに桜のこずえに毎夜法灯を掲げたという話 ●黒保根村 ●道元姫の綿帯 赤堀道元姫いわゆる赤城山小沼に入水し蛇の化身となった娘が着用していたといわれる布地が医光寺に残る ●榛名町 ●長年寺の7不思議 ●榛名湖に続いている木部井戸●水がかれたことのない弁天池●ぜんわんを貸した満行水(山神)●夫婦松●シダレザクラの下に立つ白装束の城主夫人●山門を2つ建てると一方が必ず火事になる話●入ったら出られない方丈窪 ●榛名湖女人入水伝説 霊地榛名湖へある時代に不浄視されていた女性が投身自殺したことは昔はかなりショッキングな事件で、女性の身分や投身の理由から同情が集まり種々の女人入水伝説が生まれた。なかでも上野の国司の若君が神隠しにあい、それを嘆き悲しんだ北の方をはじめ若君の乳母や守り役の女性が相次ぎ入水した伝説が知られている。 ●箕郷町 ●じじばば石 箕輪城主長野氏の据えた名石を後に城主となった井伊氏が高崎城に移る際運び出したが、一夜で箕輪城へ戻ったという話 ●柿の木沢のヒル 現在の鳴沢湖の敷地は主に湿田であったが、そのなかに弁天宮がありそこから見える田のヒルは人に付かないという。 ●ちょんぴらりん 現在の鳴沢湖の近くに住むキツネが夜ごと周辺の民家の戸を叩き人々を歌と踊りに誘い込むという話 ●群馬町 ●霊亀 妙見寺に投宿した人が、夜半に目覚めたところ、一筋の光が天に昇っていることに気づいた。その光源を探ると光る亀がいた。この亀を朝廷に献じたところ朝廷はさいそう感じ入り、年号を霊亀と改めたという話 ●子持村 ●雙林寺(そうりんじ)の7不思議 ●開かずの門の鶴●山門小僧●忠度桜●鏡の井戸●カヤの実●竜神水●千本カシ ●一つ拍子木九十九谷伝説 弘法大師が100の谷があるというので、寺を造るため子持村にやってきたが天狗が1谷隠してしまったので寺を造るのをあきらめたという話 ●仏足石 子持神社が山火事に包まれ女神が幼児とともに社殿から避難したときに岩に足跡を残したという。 ●小野上村 ●肩切り五輪 貧しい母子の母は、毎夜食べ物を探しに出かけていた。ある夜母が帰ると子供は怪しい者と思い切り殺してしまった。子どもは終生母の菩提を弔うため石仏を刻み五輪塔を造ったが、その屋根の一角は刃で切られたようになっているという話 ●吉井町 ●羊太夫伝説 羽をもった馬で奈良の都に日参していた羊太夫が、羽を折って日参できなくなり朝廷から反乱の疑いをかけられて滅ぼされたという話 ●万場町 ●入沢の滝の大グモ 入沢の滝に大グモが住み、昼寝をしていた農夫に糸をからめて釣り上げようとしたところを助けた話 ●千軒山 千軒山と桐の城の城主は兄弟であったが、毒を川に流し兄の千軒山城を落城させたという戦国悲話 ●南牧村 ●六車の荷つけ石 甲斐の武田信玄が攻め入ったとき、兵糧を積んだ荷車が道端の岩に突き当たって6つに割れてしまった。それからこの村を六車と呼ぶようになった話 ●蛇身仏 昔、ある大地主が諏訪神社が自分の家に背を向けていると怒って、社殿の向きを変えさせたところ、凶事が重なり一人娘の体内に蛇が入って、娘を殺してしまった。今、全身に蛇を巻き付けた石仏が残る ●大上の大竹林 重税逃れに知恵を絞っていた農民たちは代官所がカイコを飼うこがこの枚数に課税してきたため、大上の大竹林の中にこがこを隠したという話 ●タヌキの書き付け 昔、坊さんに化けたタヌキがたく鉢をして歩いたところ、村人たちから「本物の坊さんなら字を書いてみよ」と言われたが、その場で筆で紙にすらすらと書いてみせた。その書き付けが今も残っているという。 ●甘楽町 ●宝積寺山門 無実の罪で捕らえられたお菊が、山へ行く途中立ち寄った宝積寺の住職に城主に罪を許してもらうよう依頼したが、頼みを聞いてもらえずお菊は蛇攻めにあって死んでしまった。その後の戦いで山門は焼け何度建て替えても焼けてしまう。お菊のたたりであるという話 ●松井田町 ●夜泣き地蔵 五料の丸山坂を通りかかった馬子が傾いた荷物を直そうと地蔵の頭を馬に付けて、武州深谷宿まで運んでしまったところ地蔵の頭が「五料恋しや」と泣いたという。地蔵の頭は奇特な老人により送り返され供養されたという話 ●百合若大臣射抜きの穴 百合若大臣は弓の名人であり中木山の1峰を射抜き大きな穴をあけた。この穴は夜空の星のように見えることから星穴と呼ばれ中木山は星穴岳と呼ばれている。 ●吾妻町 ●榛名湖に帰った善導寺のおばあちゃん 日本ロマンチック街道沿いに善導寺という寺がある。昔、その寺の裏には小さな池があり、この寺のおばあちゃんはこの池が大好きで毎日池を眺めていた。ある年の春のこと、おばあちゃんは和尚さんに切なそうな声で「暖かくなったんで榛名の沼に行きたいんだが、だれか連れてってもらえんだろうか」と頼んだ。そこでお寺ではお供を付け、かごに乗せ、榛名湖に連れて来た。いかにもうれしそうに榛名湖を見渡しているうちに、おばあちゃんは見る間に大蛇となり沼の真ん中まで泳いでいき、大きな渦を巻き起こし沼の中に消えた。実はおばあちゃんは元箕輪城主の娘で落城の時にこの沼に身を投げ大蛇となり、この榛名の沼を守っていたのだ。善導寺で一族郎党の供養をしてきたという話 ●六合村 ●平兵衛池 働き者の娘が池の竜神となり年に一度会いに来るじいさんにコイの贈り物をするという話 ●へっぴりじい 屁をして褒美をもらった正直者とまねておしかりを受けた者の話。花咲かじいさんに似た話 ●猿の嫁取り 祖父の約束で猿に嫁ぐことになった娘が知恵を絞って猿を木から落として帰宅した話 ●高山村 ●添うが森 天慶3年、平将門征伐の際、小野としふるの家臣小野としあきがあわび姫との恋に落ち、軍から遅れてしまった。しかし女に迷ってはいけないと悟り、出家し住職となった。姫はその後和尚を訪ねたが会ってもらえず帰り道に小高い森に登り、歌を残して自殺してしまった。村内の者がこれを葬り塚を作ると何人かが願いを掛けに訪れるようになった。その願いが叶うところから添うが森と呼ぶようになったという話 ●川場村 ●みそなめばあさん 風邪を引いたときに口に味噌を塗ると治るという話 ●新治村 ●三国峠の化け物 くぐつ五郎衛門という豪傑が長髪の女と子どもの化け物に化かされそうになったとき、二十三夜様(神社)を拝んで助かったという話 ●昭和村 ●糠塚の長者 昔、赤谷の糠塚に住んでいた長者が、そばの粉を山にまいて沼田様を慌てさせたという話 ●法印様と古キツネ 糸井村に住んでいた法印様が古キツネの化けたのを見破って逆に術をかけたという話 ●赤堀町 ●千鳥姫 城内の厳しい警固をかいくぐり、千鳥姫の元へ毎夜通う若者がいた。ある日、着物に糸を通して跡をつけると実は蛇で千鳥姫からたくさんの子蛇が生まれたという話 ●赤堀姫 赤城山に登り小沼に着くと姫が湖に飲まれた。間もなく湖面に姿を現したが、下半身は蛇だったという。亡骸だけでもと、湖を切り崩し水を流し出したのが、今の粕川になったという話 ●尾島町 ●蓮池の伝説 何か必要なものがあれば、その品目を書いた紙を池上に投げ込むとその品が浮上すると言われた。 ●開山堂の牛石 栄朝が牛に乗って精舎建立の地を求めて東国に下向した。この地に至ると牛が倒れて石になったという話。 ●開山堂の竹 栄朝が突いていた竹の杖をその南方に突き刺したところ活着して逆さ竹となったという話。 ●薮塚本町 ●俵藤太むかで退治 沼の主の蛇が子を産んでも、でっかいムカデが食べてしまうので、蛇は姫様に姿を変え、弓の名人俵藤太秀郷に退治を頼んだ。弓を射ってもびくともしないので姫の教えによって人間のつばきを付けた矢で射ったら死んだという話。 ●笠懸町 ●鹿田上のお化け桜 鹿田上に夫のいない貧しい母子がいた。何かにつけ村人からいじめられ、大事なわずかな食糧のアズキを取られ、井戸に身を投じた。後にその井戸のそばの桜の木の下に夜ごと女のすすり泣きと「アズキ食うか、人食おうか」とお化けが出たという話 ●山際の名付け地蔵 夢枕で地蔵が「みけんに傷を負っている。まつってくれれば子どもを丈夫に育てよう」と言った。翌朝、家の外にみけんの欠けた石地蔵があったので、お堂に祀った。以後子供が産まれると命名札を地蔵に上げ、丈夫に育つように祈ったという話。 ●大間々町 ●伊勢転がし 問答に勝って伊勢神宮のご神体を町内塩原地区に持ってくると言う話 ●道玄の娘 17の年に赤城山に登った娘が沼に入ったまま出てこない。実は大蛇の生まれ変わりだったという話。 ●鬼ばば伝説 小平の奥に山うばが隠れ住み、子どもを食ったといわれる話で大荷場(おおにんば)という地名も残る ●かっぱの昇天 河童が竜のしっぽにかじりついて天を目指したが、あまりの高さに驚き、口を離してふちに落ちた話。 ●板倉町 ●海老瀬の由来 昔、弘法大師が旅の途中、上野国に八谷郷という恵まれた里があると耳にしてやってきたが、目の前の渡良瀬川という大河を渡らなければそこへ行くことが出来ず、途方に暮れ、経を唱え始めた。するとエビが寄り合って橋を作ってくれ大河を渡ったという。そのエビにちなんで名付けられたという話 ●明和町 ●ガマガエルの油 沼に住むカエルと丘に住む獣が競争し、獣のクマが怪我をした。その時ガマガエルの油をクマに塗ったら血が止まり元気になったという話 ●邑楽町 ●分福茶釜の裏話 たぬき塚の高源寺に、茂林寺にある分福茶釜がその昔あったという話。ある昼下がり、昼寝をしていた和尚のところへ村人が訪ねてきた。昼寝をしていたのは僧衣をまとった古ダヌキであった。村人は驚き「お寺の坊さんは化け物だ」とふれ歩き、正体を見破られ和尚は、秘蔵の茶釜を小脇に抱え松林へ消えていった。この時、茶釜の蓋を落としたという。この茶釜が現存する茂林寺の分福茶釜と言われている。残念ながら落とした蓋は現存しない。 |
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●群馬の伝承
●長松寺 長松寺が現在地に移転したのは寛永元年(1624年)。創建は永正4年(1507年)とされるが荒廃、移転と共に臨済宗から曹洞宗に改宗もしている。庫裏は高崎城本丸の不要材を移築したもので、書院は徳川忠長が自刃した部屋であると伝えられている。また幕府の御用絵師を務めた狩野探雲による天井画が市の文化財となっている。この寺の墓地の一角に、非常に不気味な伝承を持つ墓がある。時代はおそらく天明(1781〜1788年)の頃と推定されるが、高崎藩で仇討ち騒ぎが起こった。藩士の磯貝久右衛門が同僚を殺害して逐電したのである。当然、父を殺された長谷川源右衛門は藩の許しを得て、仇討ちの旅に出る。当時は仇討ちが成就できなければ帰藩も許されない風潮があり、源右衛門も必死で磯貝の足取りを追って方々を訪ね歩いたという。数年が経ち、結局、源右衛門は仇に巡り会うこともなく高崎に戻ってきた。しかしここで事の真相を知る。既に磯貝は亡くなっており、地元の長松寺に葬られていたのである。永久に父の仇を討つことが出来なくなった源右衛門は、あまりの無念に槍を持ちだして、長松寺にある磯貝の墓に向かった。そしてそれまでの苦難を一気に吐き出すかのように、墓石目がけて槍を一突き。すると槍は墓石に突き刺さり、それを引き抜くとたちまちそこから赤い血が流れ出たという。現在でも、その墓が一般の墓と同じように並んで置かれている。墓の裏側に回ると確かに穴が開いており、何かが伝い流れたような跡が残っている。今でも雨の降る日には、赤い液体が流れ出ることがあると言われているが、定かではない。また磯貝の墓の前にある剣のような形をした墓が、長谷川源右衛門のものであるとも言われている。 ●事件の異説 / わずかであるが、磯貝九右衛門を長谷川源右衛門が遺恨を持つようになった原因について、磯貝が長谷川の妻を奪ったためという異説がある(この説であれば、両者の墓が高崎の同じ寺にあること、討手側の長谷川源右衛門の名があまり表に出てこないことも、ある程度説明がいくものになるだろう)。ただしあくまで“異説”ということで。 ●落合の道祖神 道祖神は、村などの集落の境あたりに置かれ、疫病といった災厄が集落に入ってこないよう祀られた、村の守り神である。当然、村の繁栄すなわち子孫繁栄を願う対象ともなり、近世以降は路傍に置かれているために旅などの交通安全の神としても信仰の対象となっている。このようにさまざまな性格が合わさった神であるが故に、その姿も多種多様である。子孫繁栄の神としての性格を帯びた道祖神は、言うまでもなく性的シンボルをかたどった姿をしている。有名なところでは、男性器の形をしたものである。それ以外では男女が並んでいる姿を彫ったもの、中にはまさに男女が交合している姿をストレートに彫ったものもある。「宝暦十年(1760年)辰極月吉日 中原村中」と刻まれ、榛名神社への参拝路の途上にある落合の道祖神は、まさしくその男女が顔を近づけて抱擁し合いながら交合する姿を表したタイプの道祖神としてつとに有名である。そして『日本の伝説』によると、この道祖神が祀られるようになったいきさつには、ある悲しい伝説があるという。中原のお大尽であった甚兵衛には、大助という一人息子があった。ところがこの大助は何度も嫁を貰うのだが、相性が良くないせいか、すぐに里に帰ってしまうの繰り返しであった。そして7人目の嫁となったのが、おせんであった。おせんは大助を何度も誘い、ついに二人は契りを結んだのである。ところがその段になって、おせんの本当の身元が判った。実はおせんは甚兵衛が里子に出した娘、つまり大助にとっておせんは実の妹だったのである。それを知ってしまった二人はいずこともなく姿を消し、二度と中原に戻ることなかった。甚兵衛は二人が亡くなったものとしてその霊を慰めるため、さらには二度と同じ過ちを繰り返さないために、男女和合の姿を刻んだ道祖神を造ったのである。 ●小雀観音 菱町の一画に少し大きめのお堂がある。前には“馬頭観音”と彫られた石碑がある。これが小雀観音である。天文13年(1554年)、菱町一帯を領していた細川内膳を攻め滅ぼしたのは、桐生大炊介助綱である。力関係で言えば、桐生氏の方が細川氏よりも勢力があり、特に助綱の時代が桐生氏の全盛期であり、戦国時代のならいとしては当然の成り行きであると言えるだろう。しかし伝説によると、この時の細川氏滅亡のきっかけとなったのは意外な理由であった。当時、細川内膳は京都の八条殿より賜った“小雀”という愛馬を所有していた。それに目を付けた桐生助綱がこの馬を譲るように強要したのである。だが内膳がこれを拒否したため、桐生氏はこれを滅ぼしたとされるのである。細川氏を討ち果たした桐生氏側は、これで名馬が手に入ると考えたのであるが、思わぬ結末が待ち受けていた。桐生氏に攻められた細川内膳が自害したという知らせが広まると、愛馬の小雀は自らの舌を噛み切って死を選んだのである。憐れに思った村人がその遺骸を埋めて祀ったのが、今の小雀観音であるとされている。 ●簗瀬八幡平の首塚 昭和6年(1931年)3月に、近くに墓参りに来ていた小学生によって偶然発見された塚である。6世紀頃に造られた円墳の石室付近に、幅1m、長さ2mの穴を掘り、その中に約150人分の頭骨が埋められていたのである。さらに戦後の調査で、積まれた頭骨を覆うように、天明3年(1783年)に噴火した浅間山の噴石があることが分かったため、それ以前に埋められたものであるとされた。また、穴の中からは頭骨以外の骨は見つかっておらず、下顎の部分すらない状態で埋められており、各地にあった頭骨だけを集めて改葬したと考えられたのである。さらなる頭骨の精査の結果、これらの骨は室町時代を中心とする中世の日本人のものであり、一部には刀創が発見されたという。それらを総合すると、おそらくこれらの骨は戦国時代にこの付近で起こったかなり大きな戦いで死んだ者を葬ったと推測されたのである。戦国時代にこの地を治めていたのは、関東管領上杉氏に属していた安中氏である。そしてこの一帯が戦乱に巻き込まれたとされるのは、上杉氏が関東を追われ、西から領土拡大のために進出してきた武田氏との戦いが激しくなった頃である。具体的には永禄4年(1561年)に武田氏がこの簗瀬に陣を築いて、安中氏の持つ安中城と松井田城を分断しており、その際にかなりの戦闘が行われたと考えられる。現在は、塚が発見されて間もなくに建てられたお堂に150人分の骨は安置されており、丁寧に祀られている。 ●安中氏 / 戦国時代に碓氷郡を治めていた有力国人。関東管領・上杉憲政が越後に追われ、武田信玄が上野進出を開始すると、国人衆の長野業正を大将として武田氏に抗した。しかし業正が永禄4年(1561年)に亡くなると、翌年には武田氏に臣従。その後は信濃・美濃を転戦する。信玄亡き後も武田氏に仕えるが、長篠の戦いで一族のほとんどを失う。武田氏滅亡後は北条氏に仕えたようであるが、北条氏滅亡後、本流は消滅してしまう。碓氷郡に定住するようになって100年足らずの出来事である。 ●養行寺 静御前の墓 養行寺は、厩橋(前橋)藩初代の酒井重忠の母が、生国の三河に建立した一寺から始まる。寺は重忠の転封に従い、三河から武蔵川越、さらに上野厩橋へと移転、現在地に置かれた(寺のある地が三河町と称するのもこのためらしい)。前橋には、なぜか静御前にまつわる伝承が残されている。『吾妻鏡』によると、義経と吉野で別れた後に捕らえられて鎌倉に送られた静御前は、鶴岡八幡宮で白拍子の舞をするように命じられる。その時に朗じた歌に頼朝は激怒したが、妻・政子らの取りなしにより放免されたとされる。そしてその後の消息は不明である。前橋の伝承は、おそらくその放免後のものであると推測される。奥州にいるという義経を慕って静御前は旅立つ。しかし前橋の地に辿り着くと病を得て、結局この地で亡くなったという。養行寺にあるのは、墓というよりは供養塔に近いものである。寺の変遷から考えても、おそらく江戸時代以降に建てられたものであると考えてよいだろう。 ●静御前 / 生没年不明、出処不明。白拍子。住吉大社で祈雨の舞をしたところを源義経に見初められ愛妾となる。『吾妻鏡』では、義経が頼朝と対立した後より義経と共に行動を共にする。鎌倉方に捕らえられた時には義経の子を宿していたが、男児であったために殺される。しかし静御前の登場する記録は『吾妻鏡』に限定されており、実在を疑問視する説もある。 ●善導寺 特異な形をした岩櫃山の麓に善導寺はある。創建は貞治年間(1362〜1368)、吾妻太郎が開基とされる。この寺には吾妻一族にまつわる怪異があると伝えられている。永禄6年(1563年)、甲斐の武田信玄は上野国への侵攻を本格化させ、岩櫃山にある岩櫃城攻略を目指した。派遣されたのは主将の真田幸隆以下、約3000の兵であった。堅城を誇る岩櫃城は力攻めでは落ちない。一旦和議を結び、幸隆は内応に応ずる者を求めて調略を図った。それでも事が上手く運ばないため、再度城を取り囲んで水路を断つ策に出たが、一向に埒が開かない。幸隆は、城内に水を運び入れる場所があるとにらんだ。そこで城との和議に際に交渉役に当たった善導寺の住職に尋ねたところ、水利の秘密をいとも簡単に喋ってしまった。武田勢は水路を断つと、たちどころに城内は動揺。ほどなくして城主が逃亡して落城となったのである。それからしばらくして善導寺は火事を起こして焼け落ちた。人々は岩櫃城落城の祟りであると噂した。その後、善導寺では本堂を再築するたびに火事が起こった。記録によると慶長4年(1599年)、寛文3年(1663年)、享和3年(1803年)、天保8年(1837年)、明治35年(1902年)と5回も起きている。しかも出火の原因は不明であり“鳥が火のついた物をくわえて飛んできた”とか“火の玉が飛び込んでいった”とかいう怪異の噂が立つばかりであった。明治の大火の時も“本堂から火の玉がいくつも落ちてきたと思ったら、手の着けようもない猛火となった”という話が伝わっているという。現在は明治の大火以来の本堂が新しく建てられている。 ●岩櫃城の落城 / この善導寺の怪異の伝説では、武田氏による岩櫃城落城の際の城主の名が“吾妻太郎”となっているが、史実としては“斎藤憲広”である。南北朝時代に、岩櫃城は一度落城しており(ただし戦国時代のものとは異なる規模であったとされる)、その時の城主が“吾妻太郎行盛”であったため、話が混乱しているものと考えられる。ただ、この吾妻行盛の忘れ形見の嫡子が成人して斎藤姓を名乗って岩櫃城を奪回し、以降代々城主となっているので、ある意味、吾妻氏の城であると言ってもおかしくはない。 ●桐生大炊介手植の柳 (きりゅうおおいのすけてうえのやなぎ) 桐生市東七丁目の公園の真ん中にある柳の大木である。樹齢は約400年、根元回りは5mを超す。(平成25年4月、強風により根元付近より折れたとの報がある)桐生一帯を治めていた桐生氏は、藤原秀郷流の足利氏の支流とされる(室町幕府を開いた足利氏は源氏の支流)。室町時代から歴史の表舞台に登場するようになる小領主で、関東で対立する古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏の間を行き来しながら、所領を拡大させた一族である。永正13年(1516年)、当主であった桐生重綱は愛馬の浄土黒に乗って、この辺りに鷹狩りに訪れた。そしてその最中に思わぬ事故に遭遇する。愛馬の浄土黒がいきなり倒れたのである。乗っていた重綱も地面に叩きつけられ、その時の傷が元で亡くなってしまう。重綱の子の助綱は、浄土黒が倒れた場所にその遺骸を埋め、その上に柳を植えた。それがこの“大炊介手植の柳”である。なお浄土黒が突然死に至ったのは、ダイバ(頽馬)神の仕業であるとされている。 ●ダイバ(頽馬)神 / 馬を即死させる風の怪異。緋色の着物に金の髪飾りを着けた少女の姿をした妖怪に擬されることもある。夏の季節に多く、地方によって特定の種類の馬だけが被害に遭うともされる。またダイバに襲われた時は馬の耳を少し切って血を流すと助かるとも、ダイバ除けの腹掛けをすると襲われないとも言われる。 ●大泉寺 チャンコロリン石 安中はその昔、中山道の宿場町として栄えていた。その頃の話。ある夜、いきなり街道をチャンコロリン、チャンコロリンとお囃子のような音を立てて移動するものが現れた。宿場の人々は驚いてこっそりと様子を探ると、音を立てて移動しているのは、一抱えもある大きな石である。しかもそれはひとりでに転がりながら動いている。この光景を見て、人々は怖じ気づいてしまったのである。そのチャンコロリンと転がる石は毎夜のような現れる。ある者が恐る恐るその石の後を付けていくと、それが宿場にある大泉寺の境内に入っていく。正体が分かったので、退治しようと安中藩の侍が石を斬りつけたが全く動じる気配がない。さらにと鉄砲を撃ってみたが、少し穴が開いただけで何も変わらない。そのうち噂が近隣に広まり、安中の宿場に泊まろうという者がいなくなってしまい、宿は閑古鳥が鳴く始末となった。宿場の人々は、とうとう大泉寺の住職に法力で封じてもらえないかと頼み込んだ。住職は快く引き受けると、お経を唱えながら石に近づいて、やにわに釘を打ち付けたのである。するとその夜から石は町に出ることもなく、またチャンコロリンという音も立てることもしなくなったという。大泉寺の境内の片隅に、いまだにチャンコロリンの怪石が残されている。供養塔のようになっている,その真ん中の丸石がチャンコロリンの正体であるという。今でも刀傷や鉄砲傷が付けられているのが確認できる。そしてこの供養塔そのものがチャンコロリンの墓であるという、何とも奇妙なことになっている。 ●大泉寺 / 創建は文安年間(1444〜1449)とされる。中山道を挟んで安中宿本陣の向かい側にある。安中藩初代藩主・井伊直勝の母の墓がある。 ●元景寺 淀君の墓 曹洞宗の古刹である。創建は天正18年(1590年)、秋元長朝が父の菩提を弔うために建立したとされる。その後、関ヶ原の合戦後に長朝はこの総社の地を領有し、総社藩1万石の藩主となる。そして高齢ながら大坂夏の陣にも参戦している。総社には、この大坂夏の陣にまつわるまことしやかな伝承が存在する。大阪城落城の折、秋元家の陣中に豪奢な着物を身にまとった女性が飛び込んできて、命乞いをしたという。長朝はその女性を、大阪城の主・淀君であると察して匿ったのである。そして戦いが終わった後、所領である総社へ駕籠に乗せて連れて帰ったというのである。元景寺には、秋元家の墓のそばに淀君の墓と伝えられるものが残されている。そこに刻まれている戒名は「心窓院殿華月芳永大姉」。戒名としては最高位の諡号となっており、説明にある“側室の墓”というには無理があると考えられる。また元景寺には、正絹の大打掛と豪華な籠の引き戸が伝えられており、これが淀君所有の品であるとされている。しかし、総社に連れて来られた淀君の後半生は不幸であったとされる。世を憚って“お艶”という名で呼ばれるようになった淀君であるが、その美貌から秋元長朝に言い寄られたものも拒絶したため、遂には箱詰めにされて利根川に沈められたとも言われる。また生活になじむことが出来ず、自ら利根川に身を投げたともされる(身を投げたとされる岩が“お艶が岩”として敷島公園に残されているが、この岩には別伝も存在する)。いずれにせよ天寿を全うすることなく亡くなったという伝承で終わっている。 ●淀君 / 1569?-1615。浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の長女。後に豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生む。史実では、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において大阪城内にて自害したとされる。 ●虎姫観音 群馬県庁の西側、利根川河畔に六角形のお堂がある。昭和43年(1968年)に建立された、比較的新しいお堂であるが、その由来は江戸時代前期にまで遡る。延宝6年(1678年)、厩橋城主の酒井雅楽頭(忠清)は赤城山での鷹狩りの最中に、お虎という名の美しい娘を見初める。お虎は早速城に召し出され、雅楽頭の身の回りの世話をするように命ぜられる。このただならぬ寵愛ぶりに嫉妬に駆られたのが、以前からいた奥女中達である。色々とお虎のあらを見つけようとするが、全くそのようなものは見当たらない。とうとう女どもはお虎を罠にはめようと、雅楽頭の飯茶碗に折れた針を忍ばせたのであった。何も知らないお虎が差し出した茶碗飯から針を見つけた雅楽頭は激怒。さらに奥女中の讒言を鵜呑みにすると、可愛さ余って憎さ百倍、有無も言わさずお虎を蛇や百足の入った箱に押し込めると、生きたまま利根川の淵へ沈めてしまったのである。その惨い仕打ちを受ける際、お虎は「城を取り潰し、七代まで祟ってやる」と言い放ったという。そしてそれ以降、毎年利根川は氾濫し、そのたびに城の建つ土地は浸食されるようになる。宝永3年(1706年)には本丸の櫓が倒壊。明和4年(1767年)、遂に本丸倒壊の危機となり、城は打ち棄てられることになったのである。酒井忠清から数えて七代目の藩主の時であった。虎姫観音は、無惨な死を遂げたお虎の霊を慰めるため、お虎が沈められたとされる淵あたりに建立されたものである。 ●前橋(厩橋)藩 / 関ヶ原の戦い後、酒井重忠が藩主となり、それ以降、酒井家が代々受け継ぐ。忠清は4代藩主。酒井家9代藩主の忠恭の時、寛延2年(1749年)に姫路へ移封、代わって姫路から松平朝矩が入封する。そして朝矩の代で前橋城本丸が倒壊のおそれがあるため、同領内の川越へ藩庁を移転することとなり、前橋藩は事実上廃藩となる。 ●宝積寺 天狗の腹切り石 宝積寺の本堂脇、ちょうど小幡氏歴代の墓群へ向かう途中に、非常に不自然な感じで、注連縄が張られ卒塔婆が立てかけられた巨石が置かれている。宝積寺創建当初より、修行の僧が座禅石として使っていたとされる。しかし今では「天狗の腹切り石」という不思議な名前で呼ばれている。永禄6年(1563年)、国峰城主であった小幡家で一族同士の内紛が起こった。城から逃れた兵は宝積寺に陣を張り、味方する僧と共に敵軍に応戦した。その中に巖空坊覚禅(がんくうぼう かくぜん)という巨体の僧がおり、薙刀や丸太を振り回して敵を蹴散らしていた。しかし多勢に無勢は覆しがたく、本堂も火に包まれてしまい、味方もほとんどが倒されてしまった。巖空坊はもはやこれまでとばかり、本堂の脇にあった座禅石の上に立つと、その場で腹を掻き切って果てたのである。この超人的な巨僧の最期の場所ということから「天狗の腹切り石」と呼ばれるようになったという。 ●宝積寺 お菊の墓 宝積寺は、国峰城を拠点とした豪族・小幡氏の菩提寺である。本堂の裏手の高台に、小幡氏累代の墓がある。その傍らに「菊女とその母の墓」が今なおある。菊女は、小幡信貞の腰元として寵愛されていた。しかしそれに嫉妬した正室が、信貞不在の折に、膳飯の中に針を入れるという無実の罪を着せて、樽に蛇や百足と共に押し込めて、菊が池に沈め殺してしてしまったのである(あるいは信貞本人が処刑を命じたとも)。伝承では、この菊女の助命嘆願をしたのが宝積寺の住職であり、小柏源介という者が菊女を救い出したが、既に事切れていたとされる。これが天正14年(1586年)のことと伝わっており、それから4年後に豊臣秀吉の小田原攻めがおこなわれ、小幡氏は北条氏滅亡と共に歴史の表舞台から消えてしまう。小幡氏の滅亡後も、菊女の祟りと言われるものがあったとされ、宝積寺では度々追善供養をおこなっていた。さらに明和5年(1768年)に菊が池に大権現として祀られ、平成5年(1993年)には菊女観音像が建立されている。実は、この菊女の伝説が『番町皿屋敷』の原型の1つであるという説がある。上野の小領主として滅亡した小幡氏であるが、その後は信貞の養子(実子はいなかった)が幕府旗本をはじめ、松代の真田家、紀伊の徳川家、加賀の前田家、姫路の松平家にそれぞれ仕官しており、その子孫から各地の「皿屋敷」伝説が形成されていったと考える説である。(永久保貴一氏による)「皿屋敷」伝説とは直接関係ないが、小幡氏には菊女の祟りがつきまとい、さらにその祟りが移動によって伝播しているとも取れる怪談話が残されている。真田藩が沼田から松代へ移封される時、家臣の小幡上総介信真もつき従ったのだが、松代へ着くと駕籠代を多く取られた。不審に思って尋ねると、二十歳ばかりのやつれた女性が乗っていた駕籠があったという(あるいは、誰が乗っているのか判らない女駕籠があったが、松代に着いて中を改めると誰も乗っていなかったいうパターンも)。それを聞くなり小幡は、松代までお菊の亡霊が付いてきたに違いないと思ったそうである。 ●『番町皿屋敷』 / 元となった『皿屋敷弁疑録』は、宝暦8年(1758年)に馬場文耕が著している。さらにこの話を元に作られた歌舞伎芝居が明和2年(1765年)に江戸で公開されている。宝積寺で盛大な供養がおこなわれた時期と重なっている点は、注目されるべきである。 ●鎌原観音堂 天明3年(1783年)の浅間山大噴火は関東周辺に甚大な被害をもたらした。中でも壊滅的な被害を受けたのは、北部に位置した鎌原村であった。大噴火の3ヶ月ほど前から火山活動が盛んとなり、多くの火山噴出物が溜まりに溜まったところで噴火が起こり、土石流と火砕流による大崩落が起こったのである。当時、鎌原村の人口は約100世帯で570名。馬を200頭ほど飼っていたという記録があり、上州と信州を結ぶ宿場町を形成していた、かなり規模の大きい集落であったと推測されている。しかし、この大噴火によって一瞬にして村は壊滅、土砂の下に埋まってしまった。生き残った村人は僅かに93名。そのほとんどは高台にあった鎌原観音堂にまで避難出来た人であったという。現在、観音堂に登るために設けられた石段は15段であるが、言い伝えでは100段を超える長い階段であったとされていた。昭和54年(1979年)の発掘調査で、15段の石段の下にさらに35段の石段が続いていたことが判明、村に流れ込んだ土石流の凄まじさが改めてわかった。そしてこの石段の最下部から2体の白骨遺体が発掘された。若い女性と年配の女性であり、その態勢から若い女性が年配の女性を背負ったままここまで逃げてきたが、力尽きてここで土石流に埋もれてしまったのだろうと推測された。さらに顔の復元から、この2人の女性は親子かあるいは年の離れた姉妹ではないかとされた。壊滅的な被害から人々を救ったということで、現在、鎌原観音堂は厄除け、特に災害除けのご利益があるとされている。そして鎌原の集落はうち捨てられることなく、その後、災厄から逃れた村人自身によって再び復興を遂げている。 ●浅間山の天明大噴火 / 天明3年(1783年)旧暦の7月8日に大噴火があり、鎌原村は土石流などで埋没してしまう。さらにこの土石流は吾妻川を一時的に堰き止め、直後に決壊して鉄砲水を起こし、1500人以上の死者を出した(下流にあたる前橋でも被害があったとされる)。またこの噴火が天明の大飢饉を一層深刻なものにしたとも言われる。 ●囀り石 (さえずりいし・しゃべりいし) 県道53号線を中之条町市街地から北上すると、「囀り石」という表示に出くわす。県道に面した道路脇にある巨岩がそれである。敵討ちのために諸国を歩いていたある男が、この岩で一夜を過ごしていると、人の声が聞こえる。その声は、自分が寝ている岩の中から聞こえてくる。しかも話の内容は、自分の求めている仇にことであり、その居場所まで喋っている。男はその話の内容を頼りに仇を捜し当て、本懐を遂げたのである。それ以降、岩はさまざまなことを話し出し、またその内容が有益なことが多かったので、人々はこの岩を祀るようになった。しかしある時、通りがかった旅人の前で岩が喋り出したため、驚いた旅人が岩を斬りつけてしまった。それ以来、岩は何も言わなくなってしまったという。現在もこの岩の上には小さな祠が置かれ、道に面した場所には灯籠があり、それなりに信仰を集めていることがわかる。 ●茂林寺 茂林寺の開山は大林正通(だいりん しょうつう)であり、応永33年(1426年)に館林に小庵を建て、応仁2年(1468年)に正通に深く帰依した赤井正光が現在の地に堂宇を建立したのが始まりである。その正通が館林を訪れた時に、一人の僧を伴っていた。諸国行脚の旅の途中、伊香保で出会ったとされる守鶴和尚である。守鶴はその後も代々の茂林寺住職によく仕えることとなる。元亀元年(1570年)、茂林寺で千人法会がおこなわれることとなり、大勢の来客のために湯釜が必要となった。すると守鶴はどこからか1つの茶釜を持参してきた。その茶釜はいくら湯を汲んでも尽きることがなかったという。守鶴はこの茶釜を「分福茶釜」と呼び、この茶釜の湯を飲むと8つの福が授かるとしたのである。(現在も茶釜は残されており、観覧可能)守鶴はその後も寺に仕えていたが、ある時、つい居眠りをした折に尻尾を出してその正体を晒してしまった。守鶴は数千年を生きた狸だったのである。正体がばれてしまったため守鶴は寺を去ることとし、別れの際に、源平合戦の屋島の戦いを再現して見せたという。正道禅師に従って館林に移り住んで161年、天正15年(1587年)のことであった。茂林寺では守鶴を鎮守として崇敬し、守鶴堂を建てて祀っている。この守鶴の伝説は、松浦静山の『甲子夜話』に残されているが、この伝説を元に作られたおとぎ話が「ぶんぶく茶釜」である。ある男が助けた狸が恩返しに茶釜に化けて、寺の住職に売られていくが、火に掛けられて逃げ出す。今度は綱渡りをする茶釜として見世物小屋を開いて成功し、男は裕福となり、また狸も幸せに暮らしという話。 ●岩神の飛石 群馬大学病院の西に「岩神稲荷神社」というちょっとした神社がある。この神社の背後には小さな山のような巨大な石が見える。これが“岩神の飛石”と呼ばれる巨石である。高さが約10メートル弱、周囲が約60メートルという巨大な岩石である。相当遠景からでなければ石全体を写真におさめることは出来ず、神社の背後から見るとほぼ完全に社殿が隠れてしまう程の大きさである。地質考古学的見地から言うと、この巨石は約10万年以上前に赤城山の噴火の際に飛び出した火山岩が冷え固まったものであり、さらに約2万年前に起こった浅間山の噴火による土石流によってこの地まで流されてきたものであると推測されている。いわゆる「赤土」と呼ばれる関東ローム層が形成された時期と同じ頃に火山から噴出された岩石であるが故に、この飛石も全体が赤褐色に近い色をしている。この石にまつわる伝承の中で最も有名な話も、勿論この“赤色”が重要な役目を果たしている。昔、石工達がこの岩を削って石材にしようと考えたことがあった。そこである石工がこの石にノミを当てて打ち込んだところ、その部分から血が噴き出してきたという。そして打ち込んだ石工は急死し、誰もこの石を削ろうという者はいなくなり、やがて祟りを鎮めるために神社(岩神稲荷)を建立したという(ちなみにこの神社は江戸期に藩侯が建てたものという話も残されており、この奇怪な伝承が具体的なものとして成立したのもその時代であったと推測できるだろう)。まさにこの石の色から連想された神意譚であると言える。 |
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●深んぼのすげがさ
ある村に、他所から若い嫁さんがやって来た。 若い嫁は、まだ野良仕事に不慣れなため、いつも姑に小言を言われていた。それでも嫁さんは一生懸命に働いた。 やがて田植えの季節となった。この時期は何時にも増して忙しく、嫁さんは皆が家に帰っても田んぼで田植えを続け、嫁さんが家に帰るのは日が暮れて空に月が上がってからだった。 田植えは辛かったが、嫁さんを待っていたのは優しい夫で、遅くに戻る嫁さんの為に、そっと風呂を沸かしてくれた。そんな小さな幸せを頼りに、嫁さんは毎日重労働に耐えていた。 さて、忙しい田植えもようやく最後の日となった。田んぼには全部苗が植わり、残すはそれまで苗を育てていた苗代田(なわしろだ)の深んぼだけとなった。 深んぼとは、もともと泥沼だった場所に丸太や竹を縦横に沈めて足場にした田んぼだ。無論、足場を踏み外せば、それっきり浮かび上がって来れない底なし沼だ。 これくらいの田んぼの田植えならすぐに終わるだろうと思い、夫思いの嫁さんは夫を家に帰らせ、一人で深んぼの田植えをしていた。しかし深んぼの足場は悪く、思うように仕事が進まない。田んぼを月が照らす頃になり、ようやく田植えが終わろうとしていた。 ところが、嫁さんが最後の苗に手を伸ばした時だった。嫁さんはよろけて足場を踏み外してしまったのだ。 夫は、嫁さんの帰りがあまりにも遅いので、家を抜け出して深んぼに迎えに行った。すると、煌々と月に照らされて、嫁さんがいつも被っていたまだ新しい菅笠だけが、ぽっかりと深んぼの真ん中に浮かんでいた。 ●笄田の話 ひたちなか市 市毛の坂を下って間もなく国道六号線と旧国道六号線が交錯するあたりに、笄崎(こうがいざき)とよばれる所があります。このあたりに笄田(こうがいだ)といって、むかしは底なし沼のような深い田んぼがありました。田植えのときは、田げたといって大きなげたを履いて田に入らないと、身体が沈んでしまうのです。この笄田には、悲しい物語が伝えられています。 ● むかし、市毛村にたいそうまじめで働き者の太助という若者がすんでいました。太助は早く両親と死に別れ、身よりもなく一人ぼっちで、わずかの畑と笄田を耕して暮らしていました。 ある年の春、太助は何里も離れた遠くの村から、花嫁さんを迎えました。この花嫁さんは明るく、器量よしで働き者でした。太助夫婦は朝草刈りといって毎朝早起きして、田んぼの肥やしにする草を刈ったり、よなべ仕事も欠かしませんでした。太助夫婦の仲むつまじさは、村中の評判でした。 田植えの季節がやってきました。苗代の苗もすくすく育ち、明日は田植えをすることになりました。ところが、当日になって太助は庄屋様からよび出され、急に人足に出ることになってしまいました。 「ねえ(苗)はむしってしまったし、困ったことになった。あの田んぼ深えがら、なれねえおめえには、とでも無理だ。田植えは明日やっぺ。」 「心配しなくともだいじょうぶだよ。わだし一人でも植えられっから。」 花嫁さんがそう言うので、太助は人足に出掛けて行きました。 太助が仕事を終え、花嫁さんの姿を思い浮かべながら家に帰ったのは夕方のことでした。ところが、家の中にはあかりもなく真暗でした。太助の胸に、ふと不吉な思いがよぎりました。太助は急いで田んぼへとんで行きました。けれども、夕やみせまる田んぼには、すでに人影はなく、花嫁さんが御髪に差していた笄だけが浮いていたということです。 ●福泉寺の河童 鉾田市大蔵 福泉寺では、毎夜お供え物を盗むものがおり、村人がみはりをしていると、底なし沼に住む河童がつかまった。寺の雑草を毎日綺麗にする約束をし、約束を守る証にその手形を残すことで許された。以来、福泉寺は雑草のない綺麗な寺であった。しかし、火事で手形が焼けてしまうと、河童は雑草を取るのをやめてしまったという。 ●牛久沼の河童 龍ケ崎市 ●河童について 河童、そもそも河童て何なんでしょう?九州地方を中心に全国の川や沼に生息するらしい???? ある人は実際に河童を見たという。多くの人が証言している。 トトロは昭和生まれの平成の時代に育った空想の生き物です。いまやそれは伝説化し、多くの日本人の心の中に住みついた可愛い怪獣です。美しい自然の中に埋没すると空想と現実が一体となり、.ふとトトロを見た錯覚に陥ることがあります。 河童も同じです。トトロほど可愛くない、でも愛嬌があります。憎めないです。そして美しい自然が大好きです。ただし、河童は水陸両生類である為、水のある所しか生息しません。 当地、牛久沼は大きな沼で周りは田畑がたくさんあり、豊かな自然を誇っています。ふと沼畔に佇むと、水面に河童の姿を見たような不思議な錯覚に陥ります。 河童は一説によりますと、1600年ほど前、中国から海を渡り九州八代地方へ辿り付き、そして其処から日本全国へ伝播していったといわれている。それ故、各地に伝わる河童の特徴は皆似たようなものです。好きな食べ物キュウリ、特技は相撲、容姿は頭に皿があり背中に甲羅を背負っていて、体中ヌルヌルしている。以上が主な特徴です。 遠野の河童伝説は柳田国男氏によって紹介され有名になりました。そして牛久沼の河童伝説は小川芋銭氏の河童松によって全国に紹介されました。 ●小川芋銭の牛久沼河童松 常陸國牛久沼の北岸に河童松と呼ぶ老松あり五百年の昔 彦衛門と云う里の勇士 河童をこらさんとてして此松に縛りたりと云う ●河童に纏わる伝説 ●河童松 その昔、牛久が水戸街道の宿場町として栄えていた当時のお話です。 牛久沼には昔から河童が住んでいました。河童は畑を荒らしたり、魚採りの網を破ったり、あるいは水遊びする子供たちの足をひっぱり、時にはおぼれて死んだ者もいたという。 そこで村人達は河童の退治方法を相談しました。その結果、村で一番強く、また泳も達者な彦衛門に河童退治を命じました。 彦衛門は来る日も来る日も沼を泳ぎまわりました。そして数日後、河童を見つけた彦衛門は大変な格闘の末、ついに河童を陸に引き上げることが出来ました。そして河童は沼辺の大きな松の木にさらしものにされました。 日ごと元気を失った河童は村人に泣きながら「もう悪いことはしません、これからはお百姓さんの役にたつ河童になりますから許してください」とお詫びをしました。村人たちはあまりにも哀れに思い、河童を沼へもどしてやりました。 その後、畑は荒されることも無くなり、そればかりか、沼の周りの浮田では葦が刈られ草が積み重ねてあったそうです。 村人達は河童が約束を守ってくれたと喜び、お礼として、かぴたり餅をつき、小さくまるめて沼へそそぐ川へ投げ込みました。 そして、それは毎年旧暦十二月一日に、水の安全を祈る行事として、長く長く続けられました。しかし太平洋戦争に敗れた戦後の食料統制下では廃止され、以後二度と復活することは無かった。 ●河童の秘薬 昔、良庵という医者がいた。 修行を終え水戸街道を北へ向かって二日目、牛久沼が見えてきた。あまりの美しさに沼畔まで降りて沼を見ていたら、草むらに妙なものが落ちていた。それを拾い家路へと急いだ。 その夜の事である。トントントンと戸をたたく音が聞こえた。良庵は不信に思い戸を開けると小さな老人が立っていた。「私は牛久沼の河童です。手を返してください。人間のワナにかかり手を切ってしまいました。私達は代々伝わる秘密の薬があり、これを塗るとどんな怪我でも治ってしまう。だからその手を返してください。お礼に秘伝の薬の作り方を教えてあげます」と、それを聞いた良庵は半信半疑手を返してしまいました。 そして何日かが過ぎ、老人が現れて「おかげで手はもとどおり直りました。これが秘薬の作り方です」と巻物を渡しました。 良庵は巻物どおり作ってみると黒くてねばりのある薬が出来ました。ためしに切り傷に塗ってみるとたちまち治ってしまう。これは凄い、いろいろ試してみるとどんな怪我でも治ることが解った。 良庵は何でもきくこの薬を万応膏と名づけました。万応膏のうわさはたちまち広がり、たくさんの人がこの河童の秘薬で助かったそうです。その後牛久沼ではワナが取り除かれ人間と河童の交流が始まりました。 ●小貝川の主 牛久沼のほとりに小貝川が流れている。その川の主は河童だという。昔は川へ入ると河童に尻ぬかれるってよくいわれ、子供の水難事故が相次いだ。ところが、ある若者が川で遊んでいる河童を格闘のすえ捕らえた。その時、河童は大怪我をした。若者は、もう二度と悪さをしないと約束をさせて逃がしてやった。しかしその河童は小貝川を遡って筑波山の麓まで泳いでいって死んだという。そしてそこのお寺で手厚く葬られたそうな。その後、村では子供の水難事故は無くなった。 ●河童のおくり提灯 ある人が夜更けに牛久沼の岸を通ると、前の方に提灯が見える。その人がどんどん進むと、提灯も進む、暗い夜道を照らされて、その人は多いに喜んだ。 ●屁こき河童 牛久沼は今も昔も釣りの名所である。あるとき、村の人が沼へ釣りに行くと、河童が屁をこいた。その匂いの臭いったらありゃしない。村の人はたまらず、逃げ帰ってしまった。 ●置いてけ沼 籠一杯に野菜を背負った百姓が牛久沼の岸を通ると、オイテケー!オイテケー!と河童の声がする。しぶしぶ百姓は採れたての野菜を籠から下ろして家に帰った。ところが籠の中をのぞくと空のはずの籠が、うなぎや鮒など魚で埋め尽くされていた。道理で籠は重たかったはずだ、と百姓は納得した。 ●河童囃子 夏の夜更け、どこからともなく河童囃子が聞こえてくる。遠くなったり、近くなったり。村人は何処から聞こえてくるのか不思議に思い、牛久沼の方々を探したが解らなかった。 ●牛久沼にまつわるお話 龍ケ崎市 牛久沼は龍ケ崎市の西側に位置し、筑波・稲敷台地と猿島・北相馬台地に囲まれ、流れは小貝川につながり、本土地改良区の用水源として長く利用されています。沼面積は6.52キロ平方メートル、平均水深は1〜2mと比較的小さな沖積低地沼で河童伝説、金龍寺の伝説やうなぎで有名な沼です。 沼の周りには龍ケ崎市、つくばみらい市、つくば市、牛久市、取手市が隣接していますが、湖沼面は龍ケ崎市に属しています。 現在の牛久沼は、小規模な漁業のほかは、主に牛久沼土地改良区が取水する農業用水として使われています。また、週末になると多くの釣り人たちで賑わっています。牛久沼にまつわるお話を紹介します。 ●牛になった小坊主のお話 昔から「食べてすぐ横になると牛になってしまう」などと言われますが、牛久沼のほとりにある金龍寺には、そんな話の原点ともいわれる伝説が残っています。大食いでなまけものの小坊主が、住職の忠告も聞かずに、毎日ごろごろしながら大食いを続けているうちに、ある日とうとう尻尾が生えて牛になってしまいました。悲観した小坊主は必死に尻尾を持って止める住職を振り切って沼に身を投げてしまいます。 以後、その沼は「牛を食った沼」として、『牛久沼』と呼ばれるようになりました。 なお、今もその尻尾は金龍寺に祭られています。 ●牛久沼の河童 河童の絵で有名な明治・大正期に活躍した文化人「小川芋銭」の晩年の住居である「雲魚亭」の近くに、『かっぱ松』があります。この松の由来は、牛久沼に住むいたずら好きな河童が畑を荒らしたり子供を溺れさせたりと住民に迷惑をかけていました。そこで、村人たちはこらしめのため、陸で昼寝をしていた河童を捕まえ、沼のほとりに生えていた大きな松の大木にしばりつけました。河童は二度と悪さをしないと泣いて村人に訴えたので哀れに思った村人は河童を沼に帰しました。 それ以来、河童は悪さを止めただけでなく沼の周囲の葦を刈り取るといった村人の手伝いまでするようになりました。改心して約束を守っている河童の心根に勘当した村人は、お礼として「かぴたり餅」を造り沼にそそぐ川へ投げ込みました。 それからは、毎年12月1日に水の安全を祈る行事として餅を投げる習慣になった。 ●うな丼 現在、牛久沼に沿って通っている国道6号線には複数のうなぎ料理を扱う店があるが、ここが「うな丼」の発祥地であることはあまり知られていません。 むかし、江戸は日本橋の大久保今助さんが、生まれ故郷水戸に向う途中に牛久沼の渡し場にある掛茶屋で好物のうなぎの蒲焼と、どんぶりご飯を頼んだ。しかし、食べようとしたところ「船が出るよー!」と声がかかったので、慌ててどんぶり飯の上に蒲焼の皿をかぶせて船に持ち込んだ。そうして、向岸に着いた今助さんは、土手に腰を下ろして食べたところ! 鰻の蒲焼は熱いご飯に蒸されて柔らかくなり、タレがご飯にほどよく染み込んでいて、これまでに味わったことのない美味しさでした。 今助さんは江戸へ帰る際に再び茶屋により、そのときの話をしてうなぎ丼を作ってもらいました。その後、茶屋でうなぎ丼を売り出したところ、大当たりとなり牛久沼の名物になりました。 これが、『うな丼』のはじまりです。 その後、江戸での今助さんは牛久沼のうな丼の味が忘れられず、芝居見物につきものの重詰の代わりに、熱いご飯の上にうなぎの蒲焼をのせた重箱を取り寄せ、舌鼓をうっていました。これが、『うな重』の始まりです。 |
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●茨城の伝承 ●西福寺 炎石 西福寺は寛永9年(1632年)に了学上人の隠居所として建立された浄土宗の寺院である。その山門付近に一基の板碑が置かれている。この板碑は明治4年(1871年)に廃寺となった妙見寺にあったものを移したとされ、さらにその元を辿ると、同市蔵持にある3基の板碑と並んで神子女引手山にあったものとされる。建長5年(1253年)、時の執権・北条時頼は民生安定のためにこの地に豊田四郎将基の供養碑を建てた。その際に時頼は、いまだ平将門が祀られていないことを聞き及び、自らが奏上して勅免を得ると、千葉胤宗に命じて将門の赦免と供養のための板碑を建てるように命じたのである。さらに翌年と翌々年には、豊田氏・小田氏といった将門所縁の一族によって板碑を建て、その次の年にも将門の父である良将の供養のために板碑を建てた。この4年続けて建てられた板碑のうち、建長6年の板碑だけが妙見信仰の縁で妙見寺に移され、さらに西福寺に置かれているのである。この建長6年の板碑には「炎石」の別名が残されている。天保年間(1831-1845)のこと。ある旗本がこの石を気に入り、縄を掛けて持ち運ぼうとした。ところがその夜、突然この石が炎を噴き出したため、旗本は恐れおののいて逃げたという。それ以来、この板碑は「炎石」と呼ばれるようになり、将門公の霊が籠もっていると信じられるようになった。さらにはこの石に縄を掛けると病が治るという言い伝えも出来たという。 ●深井地蔵 ちょっとした集落でなら特に珍しくもないような地蔵堂であるが、その由緒を紐解くと、平将門の伝承にまつわるものであることが分かる。平将門が関東で乱を起こす遠因となったのは叔父の平良兼との「女論」であったとされる。つまり女性を巡る争いである。一説では、源護の娘を将門が妻に所望したが良兼に奪われてしまったとも、あるいは良兼の娘を将門が妻にしたところ源護の3人の息子が横恋慕して襲ったのだとも言われる。いずれにせよ、将門と良兼はお互いに敵とみなして干戈を交えたのである。承平7年(937年)8月、平良兼は子飼(小貝)の渡しに進駐した。一方の将門は脚気で戦意もなく、連れていた妻子は万一に備えて船に乗せて隠れさせた。ほどなく良兼の軍は引き揚げたので、妻子は岸に戻ろうとした。しかしまだあたりに残っていた良兼軍の一部がそれを発見、妻子は“討ち取られ”たのである。この将門妻子受難の地に建てられたのが深井地蔵である。つまり殺された将門妻子の冥福を祈って造られたのが、この地蔵であるとされる。今では安産子育てにご利益があるとされ、月ごとの縁日には多くの参詣があるという。 ●妻子受難の記述 / 将門の妻子が“討ち取られ”たとの記述は『将門記』にある。しかしその後の展開として「翌月に兄弟によって良兼の元から脱出して将門の陣に戻った」という記述がある。将門には少なくとも2人の妻があり、一人は平良兼の娘、もう一人は平真樹の娘とされる。深井地蔵の存在と『将門記』の記述から、おそらく2人の妻は同時に捕らわれ、平真樹の娘だけが殺され(平真樹と平良兼は縁者ではなく、敵対関係にあった)、自分の娘は自陣に連れ帰ったと推測して良いかもしれない。 ●笠間稲荷神社 “日本三大稲荷”の1つに数えられる笠間稲荷神社であるが、その由緒は古く、社伝では白雉2年(651年)を創建としている。実際に『常陸国風土記』にも稲荷の祭神である宇迦之御魂命が祀られていたとされる記述があるが、それ以降の記録は殆ど残されていない。現在の笠間稲荷神社の隆盛のきっかけとなったのは、寛保3年(1743年)、笠間藩主であった井上正賢にまつわる伝説である。その年の夏、正賢の夢枕に束帯姿の白髪の老人が現れ、自分は稲荷神であるが、社地が狭く里人も憂いていると告げた。夢から覚めた正賢のそばには1個の胡桃が落ちており、老人の告げた場所に果たして稲荷の祠があったため、急ぎ社地を拡張して祭具を奉納した。さらに数年後、正賢が江戸にあった時、再び官人が胡桃1筺を献じて訪れ、社地拡張を謝して消えた。正賢はますます神威を敬い、自ら祠を参拝し、藩の祈願所と定めたのである。この稲荷神社の祠は、胡桃の古木の下にあったため“胡桃下稲荷”と呼ばれており、現在も笠間稲荷の別称として伝えられている。さらに笠間稲荷には“紋三郎稲荷”という別称がある。社伝では、藩主・井上正賢の縁者に門三郎という者があり、笠間稲荷の信者獲得のために大いに尽力したので、紋(門)三郎の名が冠せられたとされる。しかし紋三郎の名には,全く異なる系譜の伝説が残されている。笠間の近くの瓜連という地には、常陸国二之宮である静神社がある。この社叢に、昔、源太郎・甚二郎・紋三郎・四郎介という4匹の狐の兄弟があった。兄弟は、仲間の狐が人に悪さすることを嘆き、それぞれが罪滅ぼしに常陸の各所に散って土地を拓くことにした。源太郎は瓜連に残って川を守り、甚二郎は米崎へ行って野を守り、紋三郎は笠間へ行って山を守り、四郎介は那珂湊へ行って海を守った。その甲斐あって各地は栄え、兄弟も神として祀られるようになった。笠間稲荷は、即ち紋三郎狐を祀ったものであるというのである。紋三郎狐の伝説で有名なものに、棚倉藩の殿様の鷹を取り戻した話がある。笠間で鷹狩りをした殿様の鷹が1羽消えてしまった。狐の仕業とにらんだ殿様は狐狩りを命じた。すると翁が現れ、狐狩りを3日延期してくれるよう頼んだ。そして3日目に鷹は無事戻ってきて、1匹の老狐が倒れていた。紋三郎狐が悪い狐を懲らしめたのだということである。 ●日本三大稲荷 / 総本社である伏見稲荷大社(京都)の他は諸説ある。他の有力なところとしては、豊川稲荷(愛知)、祐徳稲荷(佐賀)、笠間稲荷(茨城)が挙げられる。 ●静神社 / 名神大社に数えられる古社。主祭神は健葉槌命で、武甕槌神(鹿島神宮祭神)と経津主神(香取神宮祭神)が平定できなかった悪神・香香背男を倒したとされる。 ●蚕影神社 (こかげじんじゃ) その名にある通り、養蚕の神として関東甲信地方で大いに崇敬された神社の総本社である。創建の由来は、第13代成務天皇の御代、国造として派遣された忍凝見命孫(おしこりみのみこと)と阿倍閇色命(あべしこのみこと)が筑波大神に奉仕し、さらに豊浦の地に稚産霊神(わくむすびのかみ)を祀ったことから始まる。主祭神となる稚産霊神はその頭から蚕と桑が生じたとされ、養蚕の神として相応しい存在である。また時代が下って、第29代欽明天皇の御代、皇女の各谷姫が筑波山まで飛来して神衣を織り、その製法を人々に伝えたともされる。いずれにせよ、この筑波が養蚕と絹織物発祥の地であるとし、その象徴として蚕影神社があったと考えて良いだろう。上垣守国が著した『養蚕秘録』の中には、養蚕伝来の伝説として“金色姫”の話が紹介されている。21代雄略天皇の御代の頃、天竺に旧仲国という国があり、霖夷大王が治めていた。その娘に金色姫がいたが、継母はそれを疎んじ亡き者にしようと企んだ。継母は大王の留守中に姫を師子吼山へ棄てるが、山に住む獅子王が宮殿に送り届けて失敗。次に鷹群山に棄てるが、鷹狩りの視察に来た家来によって救われる。さらに海眼山という孤島に流したが、漂流してきた漁師に助け出された。そして遂には宮殿の庭に埋めてしまうが、100日後に光を放ちだしたために不審に思った王が掘り返して発見した。4度の危機を知った大王は、これ以上城に置いてもいずれ姫は殺されると思い、桑の木で造ったうつぼ舟に姫を乗せ、海に流してしまった。そして遠く離れた常陸国の豊浦の浜に流れ着いたのである。うつぼ舟の姫を救ったのは、漁師の権太夫夫婦であった。姫は夫婦と暮らし始めるが、やがて病を得て亡くなってしまう。亡骸は唐櫃に納められたが、その夜、夫婦の夢枕に姫が立ち、「私に食べ物を下さい。後で恩返しをします」と言う。夫婦が唐櫃を開けると、亡骸の代わりにたくさんの見慣れぬ虫が入っていた。姫が乗った船が桑で出来ていたので、桑の葉を与えると虫はそれを食べ始めた。しばらくすると虫たちは葉を食べることをやめ、頭を上げて震えるばかりとなった。心配する夫婦の夢枕にまた金色姫が現れ、継母に命を狙われた受難のために休んでいるだけであると告げた。そうして虫たちは4度の休みを経て、繭を作り出したのである。さらに繭が出来た時、権太夫夫婦は筑波の影道(ほんどう)仙人から糸を取り出すことを教わった。これが本邦初の養蚕業となったのである。権太夫夫婦はこの養蚕によって富を得て、やがて金色姫の御霊を祀る社を豊浦に建てた。これが現在の蚕影神社であるという。明治以降、養蚕業は日本の主産業として大いに発展した。それと同時に蚕影神社への信仰は絶大なものとなった。しかし戦後、養蚕業そのものが衰退すると、参拝者も激減した。かつての賑わいの痕跡を残しながら、今の参道や境内は閑寂そのものである。 ●稚産霊神 / 『古事記』では、食物の神である豊受大神の親とされる。また『日本書紀』では、頭に蚕と桑が生じ、へそに五穀が生じたとされる。養蚕・穀物の神とされる。 ●『養蚕秘録』 / 享和2年(1802年)刊。全3巻。蚕の飼育から製糸に至るまで、養蚕に関する技術や知識を図解した実用書。後年シーボルトがオランダに持ち帰り、ヨーロッパの養蚕技術向上のために利用している。 ●御門御墓 平将門の供養塔とされる4基の五輪塔がある。造られたのは鎌倉時代初期。土地に残る伝承では、かつてこの地に将門の居館があり、将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために造られたとされる。“御門御墓”という名称は、将門が乱を起こした際に“新皇”と称したところから付けられたものであり、さらに“三門”という地名もそこから派生した物であると言えるだろう。この辺りは、平将門の乱の頃、平真樹(たいらのまさき)の治める土地であった。将門の妻であった“君の御前”の父であり、将門の同盟者である。当時の風習では通い婚が通例であり、おそらく足繁く通う将門のために館が設けられていたものと推測できる。この付近には君の御前を祀る后神社があるが、この4基の五輪塔はちょうどその神社と向かいあう形で置かれている。これもこの五輪塔が将門にまつわる伝承を持つものであるとする証左とされている。 ●息栖神社 (いきすじんじゃ) 常陸国一之宮の鹿島神宮、下総国一之宮の香取神宮と並び「東国三社」として崇敬を集める神社である。主祭神は岐神(くなどのかみ)であるが、鹿島神宮の武甕槌命と香取神宮の経津主命が関東平定の時の先導役となった神であるとされる。また相殿神である天鳥船命は、武甕槌命・経津主命と共に“出雲の国譲り”に登場する神とされている。いずれにせよ、この3つの神社の結びつきは非常に強いものであると考えられる。また祀られている神から分かるように、交通関連、特に水上交通のご利益があるとされる(実際、息栖神社のある一帯は利根川下流の水運の要衝であった)。息栖神社の一の鳥居のそばには「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる霊泉があり、伊勢の明星水・山城の直井と共に日本三霊泉とされている。忍潮井は鳥居の両脇に2つあり、それぞれの井戸の中に銚子の形をした「男瓶」と器の形をした「女瓶」があり、そこから水が湧き出ているとされる。そして神社が現在地に移転された時、取り残されてしまったこの2つの瓶は自力で川を遡って追い掛けてきたという伝説を持つ。 ●東国三社 / 関東以北の習慣として、伊勢神宮参拝後にこの3つの神社を「下三宮参り」として巡拝したという。また“出雲の国譲り”に関連する神が祀られているだけでなく、この3つの神社を結ぶとほぼ直角二等辺三角形になるとされ(ちょうど直角の位置にあたる息栖神社が移転した結果であり、これも意図的な配置とみなす根拠である)、特別な関係があると考えられる。 ●出雲の国譲り / 高天原の神が、大国主命が治める出雲国を服従させようと使者を送るがことごとく失敗。そこで武力で解決するために送り込んだのが武甕槌命であり、それと共に地上に降りたのが『古事記』では天鳥船命、『日本書紀』では経津主命となっている。最終的にこの神々によって出雲国は高天原のものとなる。 ●一向寺 小栗助重供養碑 説経節で有名な『小栗判官』であるが、実は完全な創作ではなく、実在の人物がモデルとなっている。それが常陸国に所領を持っていた小栗助重である。小栗氏は、平将門に繋がる大掾氏の支族として源平の合戦にも名を残している。そして時代が下って室町時代になると、鎌倉公方の支配地である関東に所領を持ちながら、京都の幕府と直接主従関係を結ぶ“京都御扶持衆”となる。そのためか助重の父・満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で鎌倉公方に反旗を翻すが、結局は敗北。この時に所領の大半を取り上げられたために応永29年(1422年)に再び戦火を交えるが、今度は鎌倉公方・足利持氏に直接攻められ、最終的に満重は自刃する。これによって一時期小栗氏は所領を失うことになり、息子の助重は流浪の身となったとされる(一説では、満重は自刃せずに常陸を脱出し、相模に逃れて『小栗判官』のモデルとなるとも)。ところが、永享の乱で足利持氏が自害、さらにその遺児を擁立して起こった結城合戦が永享12年(1440年)に始まる。この時に武功を立てた小栗助重が再び旧領を取り戻すことになる。父の死からおよそ20年ぶりの復帰であった。こうして京都側と鎌倉側の権力争いが続くが、その中で小栗氏はさらに翻弄される。享徳3年(1455年)に始まった享徳の乱で反鎌倉公方であった助重の居城・小栗城は足利成氏によって攻め落とされてしまう。これによって小栗氏は再び所領を失い、京都御扶持衆の有力武将の中でいち早く歴史の表舞台から消えてしまったのである。かつて小栗氏が知行していた筑西市小栗の地にある一向寺には、小栗助重の墓とされる供養碑がある。だがそは後世に建立されたものであり、その後の助重は『小栗判官』の物語に匹敵するとも言うべき人生を歩む。所領を失った助重は出家すると、京都の相国寺の門を叩く。そしてそこで画僧・周文の水墨画を学び、やがて足利将軍家の御用絵師にまで上り詰めるのである。大徳寺にある重要文化財「芦雁図」を描き、門下に狩野派の祖・狩野正信を持つ、小栗宗湛その人である。 ●京都御扶持衆 / 鎌倉公方が支配する関東・東北に所領を持ちながら、京都の幕府と直接の主従関係を結んだ豪族。鎌倉公方の支配を受けないために、公方に対して常に反抗的である。その態度は、鎌倉側と対立を深める京都側の意向を汲んでの反抗であると考えられている。甲斐の武田、常陸の大掾・小栗・真壁、下野の宇都宮・那須、陸奥の伊達・南部・蘆名などがこれにあたる。 ●桔梗塚 関東鉄道常総線の稲戸井駅の間近、国道294号線沿いのバス停に生け垣で囲まれた場所がある。中を覗くと数多くの石塔が並んでいる。これが取手市にある桔梗塚である。桔梗塚に葬られているのは、平将門の愛妾・桔梗御前とされる。ただしこの桔梗御前の存在は伝説上のものであって、史実としては不明な点が多い。むしろ桔梗御前に関する伝説は関東各地にあって、それぞれ独自の設定で語られていると言うべきである。最大公約数的な設定としては、平将門の愛妾であり、将門最大の秘密である“こめかみ”に関する情報を敵方に漏らしてしまったために死を迎えたとなるが、それすらも多少の異説があるともされる。取手の桔梗御前の伝承は、この塚のそばにある竜禅寺に伝わるものである。桔梗御前は大須賀庄司武彦の娘とされ、将門の間には3人の子供がいたという。さらに薙刀の名手とされる。だが、戦勝祈願をした帰り道、この地で敵将の藤原秀郷に討ち果たされたのである。その後、この地は桔梗ヶ原と言われるようになり、このあたりに生える桔梗は花をつけないと言われている。あるいは、図らずも将門の秘密であった“こめかみが動く者が本物の将門であって、他は影武者である”ことを敵方に漏らしてしまい、口封じのために藤原秀郷に討たれたともされる。いずれにせよ、この地が桔梗御前終焉の地ということになる。ちなみに、桔梗の花が咲かないという伝説は、漢方薬として桔梗の根が使われることから、根が大きく育つように花が咲く前に摘み取ってしまうからだという説がある。 ●桔梗御前の諸説 / 桔梗御前の出自については、藤原秀郷の妹とする場合もあり、妹を使って敵情を探らせ、最終的に後難を怖れて秀郷が殺すことになる。また本当に将門を裏切って秀郷に秘密を教えてしまったために、将門によって誅せられたとも言われる。さらに桔梗御前は愛妾ではなく、将門の母親にあたる人物という説も存在する。 ●カッパ松 牛久沼にはいくつかの河童の伝説が伝わる。その中でも一番有名なのが、カッパ松である。牛久沼の河童はいつも悪さばかりしており、人々は困り果てていた。ある時、彦右衛門という百姓が度重なる悪戯に憤慨し、力尽くで河童を捕らえると、沼のそばの松の木に括りつけた。炎天下に三日三晩晒された河童はとうとう頭の皿の水を全て失い、命乞いを始めた。哀れに思った村人は戒めを解き、二度と悪さをしないように言いつけた。その後、河童による悪さはなくなり、そればかりか、沼の水草などの掃除までおこなうようになったという。今でもこの河童を縛り付けたという松の木が残っており、カッパ松と呼ばれている。 ●法蔵寺 累の墓 (かさねのはか) 法蔵寺には、後世に演劇の題材として取り上げられて有名となった「累ヶ淵」の伝承が残されている。この話は『死霊解脱物語聞書』という書物として江戸時代に流布しており、以下のようなあらすじとなる。事件は、寛文12年(1672年)に羽生村の百姓・二代目与右衛門の娘である菊に霊が憑依したことから始まる。菊に憑いていたのは、二代目与右衛門の最初の妻であった・累(るい)の霊であった。累の霊は、正保4年(1647年)に入り婿の二代目与右衛門によって川に突き落とされ殺されたことをはじめ、数多くの悪事を暴露した。そして自らの供養を求めて菊に取り憑いたのだと語った。そこで近くの弘教寺の住職・祐天が引導を渡し、累の霊は成仏した。しかしその直後、再び菊に何ものかが取り憑いて怪事を引き起こした。祐天は再び取り憑いたものに問い質すと、助(すけ)と名乗る子供の霊であった。村の古老に尋ねると、助は累の異父姉にあたり、初代与右衛門の後妻・お杉の連れ子であったが、生来片目で手足が不自由であったために義父の初代与右衛門に疎まれ、慶長17年(1612年)にお杉によって、後に累が殺されたのと同じ場所で川に投げ込まれて殺されたのである。さらに、助の死んだ翌年に生まれた累は容貌が瓜二つと言ってよいくらい似ており、村人は累の容貌は助の祟りと噂し合っていたのであった。祐天は、この助の霊も成仏させ、60年にも及ぶ悪因縁を絶ったのであった。法蔵寺の境内には、累の一族の墓がある。その正面には3基の墓がある。左より菊、累、助の墓とされる。また本堂にはこの3名と祐天上人の木像が安置されており、また祐天上人が死霊供養に用いたとされる数珠も保管されている。 ●『死霊解脱物語聞書』 / 元禄3年(1690年)に出版された仮名草子本。ここに書かれた内容を元にして、四世鶴屋南北が歌舞伎「色彩間苅豆」を上演、また三遊亭圓朝が落語『真景累ヶ淵』をを発表している。 ●延命院 平将門の首は京都へ送られ、数々の伝説を残して、現在は東京の大手町の首塚にあるとされる。しかし将門の胴体は、戦没地とされる場所からそれほど遠くない場所に埋められているとされる。それが延命院にある胴塚である。延命院の創建については不明な点もあるが、将門がこの地を支配した時期には伽藍が建てられたという。そしてそこに弟の将頼らが首なき胴体を運んできて埋めたという伝承になっている。延命院の山号は“神田山”であるが、それは将門の“身体”を埋めた場所だから名が付いたという説がある。だが実際には、この付近一帯は相馬御厨として伊勢神宮へ寄進された荘園であることから“神田”とされたと思われる。また伊勢神宮ゆかりの土地であったために、墳墓は荒らされずに残されたとも言われる。現在、胴塚は古墳として文化財指定を受けており、また塚の上から生えた榧の木は天然記念物となっている。そして東京にある将門塚(首塚)保存会より贈られた「南無阿弥陀仏」の刻まれた石塔婆が建っている。 ●海禅寺 海禅寺は、平将門が父の菩提を弔うために建てた寺である。また本尊は、将門の娘・妙蔵尼の持仏であったとも伝わる。その後、将門の子孫を名乗る下総相馬氏の菩提寺となるが、戦国時代後期以降の相馬氏の衰退と転封によって荒廃する。江戸時代に入って領主の堀田氏が再興、奥州相馬氏も参勤交代の折りに立ち寄ったという。海禅寺の境内には、8基の石塔が整然と並んでいる。これが平将門と七騎武者の墓である。一番右端の大きな石塔が平将門の墓といわれ、中央部に「平親王塔」と刻まれている。そして残りの石塔は平将門の7人の影武者の墓とされている。寺伝では、承平7年(937年)に京から帰国した将門を待ち伏せていた平良兼と平貞盛に襲撃された時に、身代わりに討ち死にした家臣7名であるという。将門本人の墓と称されるものは数多いが、家臣の墓は珍しいものである。 ●相馬氏 / 平将門を祖と称する千葉氏(常胤の代)から、鎌倉幕府成立直後に分かれた一族。父より相馬御厨(現・守谷市も含む一帯)を譲り受けて相馬姓を名乗る。鎌倉幕府滅亡直前、家督問題により分裂。旧地に残った下総相馬氏と、所領であった磐城へ移った陸奥(奥州)相馬氏の二流となる。下総相馬氏は、豊臣の小田原攻めの際に改易となって以降旗本として存続。陸奥相馬氏は江戸時代以降も存続し、明治維新まで同じ領地を統治し続けた。 ●平将門の影武者 / 将門には7人の影武者があるという伝説は、室町期に成立した『俵藤太物語』に既にあるほど有名である。その人数については、将門が信仰していた妙見信仰に基づくもの、即ち、北極星と北斗七星の関係を、将門と7人の影武者という形になぞられたと見るのが有力である。またこの影武者は生身の人間ではなく、将門の超能力によって出現したものであるとされている。そのため、本人と影武者を見分ける方法は秘中の秘であり、それを愛妾(桔梗・小宰相などの名称)から聞き出す伝説も残されている。 ●北山稲荷神社 天慶3年(940年)2月14日。新皇を名乗り、関東一円を支配下に置いた平将門が討ち死にする。藤原秀郷・平貞盛の軍勢と合戦中、誰が放ったか判らない矢が額(或いはこめかみ)に当たり落命したという。この将門最期の地となるのが北山古戦場である。この古戦場の有力な比定地が北山稲荷神社である。すぐそばを幹線道路が走り、24時間営業のコンビニエンスストアが隣接しているにもかかわらず、神社の中は手入れされていない草木が延び放題となっていて、全く時空から隔絶されたかのような印象がある。ある種の【魔所】である。この稲荷神社が将門最期の地と考えられるようになったのは、昭和50年(1975年)にこの場所から1枚の板碑が発見されたためである。この板碑には平将門の命日が刻まれており、さらにそれを供養したのが長元4年(1031年)、源頼信であることが記されていたのである。長元4年は、平将門の乱以降で最も激しい内戦が関東で繰り広げられた平忠常の乱を、頼信が鎮圧した年であり、信憑性はそれなりに考えられるところである。 ●平忠常の乱 / 平将門の叔父にあたる平良文を祖父に持つ平忠常が起こした反乱。忠常は上総の有力武士であり、広大な領地を背景に強大な武力を有して専横が目立っていたが、安房の国司を焼殺して朝敵となる。約3年間朝廷軍に対して抵抗を続け、上総・下総・安房は荒廃する。そして源頼信が朝廷軍の主将となると、忠常は出家して降伏してしまう(護送中に病死。死後斬首となる)。この戦いを契機に、頼信は関東の武士と主従関係を結び、源氏の東国基盤を作り上げた。 ●鹿島神宮 七不思議 常陸一の宮である鹿島神宮は、平安期より伊勢神宮・香取神宮と共に「神宮」と呼び慣わされた名社であり、香取神宮・息栖神社と共に「東国三社」とされてきた。その祭神は武甕槌大神であり、天孫降臨に先だって葦原中国平定(いわゆる「国譲り神話」)をおこなった武神である。鹿島神宮はその祭神の性格を反映するように、創建時から東国(蝦夷)平定の最前線として位置づけられていたと考えられる。鹿島神宮には、七不思議と呼ばれるものが伝わっている。以下の7つである。 1.要石 / 地震を起こす大鯰の頭を押さえつけていると言われる石。この石があるため、鹿島地方では大きな地震は起きないと伝わる。かつて徳川光圀がこの石の根を確かめようと七日七晩掘らせたが、結局根に辿り着くことができず、事故が頻発したので取りやめたという。 2.御手洗池 / 参拝前に身を清めたとされる湧水の池。大人でも子供でも池に入ると、水面が胸の高さまでしかこないと言われる。 3.末無川 / 神宮境外にある川。川の流れが途中で地下に潜って切れてしまい、その末がわからない川とされる。 4.御藤の花 / 藤原鎌足が植えたとされる藤の木。その木が付ける花の数で、作物の豊凶を占った。(現存せず) 5.根上がり松 / 神宮境内にある松の木は全て、伐っても切り株から芽が生えて、何度伐っても枯れることがない。(現在は不明) 6.松の箸 / 神宮境内の松で作られた箸はヤニが出ないとされる。(現在は箸が作られていないとのこと) 7.海の音 / 鹿島灘の波の音が、北から聞こえると晴れ、南から聞こえると雨となる。 ●東国三社 / 鹿島神宮(祭神:武甕槌大神)、香取神宮(祭神:経津主神)、息栖神社(祭神:岐神・天鳥船神)。道祖神と同一とされる岐神を除き、三神はいずれも「国譲り神話」において高天原の使いとして登場しており、密接な関係があると考えられる。また、この3つの神社を結ぶと二等辺三角形ができるなど、人工的な仕掛けも施されている。 ●国譲り神話 / 地上を支配していた大国主命に対して、天照大神をはじめとする高天原の神は支配権を譲るように使者を派遣するが、ことごとく失敗する。そこで武甕槌命らの二神(『古事記』では天鳥船命、『日本書紀』では経津主命)を派遣する。武甕槌命らは稲佐の浜に降り来たり、剣の切っ先に胡座をかいて国譲りを迫った。また国譲りに反対した建御名方命に対して力比べをおこない、その両手を握りつぶし、諏訪まで追いかけて服従させた(建御名方命は諏訪の地から出ないと誓い、諏訪神社の祭神となる)。 ●大甕神社 宿魂石 (おおみかじんじゃ しゅくこんせき) 社伝によると、この宿魂石とは、この地をを治めていた甕星香々背男(みかぼしかかせお)が化身したものであるとされる。この甕星香々背男は星の神であり、別名、天津甕星(あまつみかぼし)と言う。『日本書紀』によると、国譲りの大役を終えた武甕槌命と経津主神はその後もまつろわぬ悪神を平らげていったが、最後まで屈服しなかったのが香々背男であった。最終的にこの二神に代わって服従させたのが建葉槌命(たけはづちのみこと)であり、大甕神社の祭神となっている。伝説では、香々背男の荒魂を封じ込めた石が成長するが、建葉槌命が金の沓で蹴り上げたところ、石が砕け散ったという。この神社は初め大甕山にあったのだが、元禄2年(1689年)に徳川光圀の命によって、宿魂石の上に遷宮している(宿魂石は実際には巨石が集まってできた小高い丘である)。『日本書紀』にある由緒に基づいて遷宮したとされるが、それだけ荒ぶる神であったという認識があったものと思われる。 ●天津甕星 / 『日本書紀』のみの登場する天津神。天津神でありながら“悪神”とされる。上記の内容以外にも、二神が国譲りに赴く前に誅しておきたい天の神であると言ったともされている。いずれにせよ、非常に特殊な立ち位置にある神である。なお、天津甕星とは、平田篤胤によると「金星」を指しているという説がある。 ●武甕槌命・経津主神 / 国譲りおいて大国主命と交渉して認めさせた武神。武甕槌命は鹿島神宮の祭神、経津主神は香取神宮の祭神であり、ともに東国平定に関連のある神とされる。その点で言えば、この二神に最後まで抵抗した香々背男の存在は大きいだろう。 ●建葉槌命 / 別名、倭文神(しとりのかみ)。織物の神であり、女神である。なぜ星の神を服従させることができたかについては、星を織り込んで布を織った(要するに懐柔策)という説もある。 ●大黒石 佐白山の山頂にはかつて笠間城があり、江戸期には笠間藩の藩庁があった。この城の起源を遡ると、初代笠間氏によって鎌倉時代前期には既に館が築かれていたとされる。さらに城が築かれる以前には、この山頂一帯には正福寺という広大な寺院があった。正福寺は、七会にあった徳蔵寺とたびたび勢力争いをしていた。ある時、徳蔵寺の僧兵達は不意をついて正福寺を攻め立て、佐白山の中腹あたりまで兵を押し進めていた。あと少しで正福寺を落とせるという時、いきなり山頂付近にあった巨石が揺れ出すと、徳蔵寺の僧兵に向かって転がり落ちた(一説によると、正福寺側の僧兵が落としたともされる)。この石に押し潰される者、はね飛ばされる者が多数出て、徳蔵寺側は這々の体で逃げて行き、正福寺は難を逃れたという。この時に転がった巨石がこの大黒石と呼ばれる岩である。名前の由来は、この岩は元々2つの巨石が並んでおり、1つは大黒様の姿に良く似ており、もう1つは大黒様がかつぐ大きな袋に似ていたため、そう呼ばれていたと言われる。転がり落ちたのはその“袋”の方であり、そして不思議なことに、もう一方の巨石はこの騒動の最中どこかに消えてしまったという。この巨石は大きさが縦横が約5メートルほど、高さが約3メートルという大きさである。現在では“大黒”の名前が付いているためか、御利益をもたらすものとしての伝承されており、“へそ”と呼ばれるくぼみに続けて3回石を投げ入れて一度でも成功すると願いが叶うと言われている。実際、このくぼみにはいくつか小石が入っていて、今でもやっている人がいるようである。 ●笠間氏 / 宇都宮氏の支流・塩谷氏を祖とする。元久2年(1205年)頃に僧坊間の争いに乗じて塩谷時朝が左白山を占拠して城を築き、笠間氏を名乗る。豊臣秀吉の小田原攻めの際に北条氏に与したため、宗家である宇都宮氏によって滅ぼされたとされる。 |
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●駒止谷に沈んだ恋 1 習志野市
大和田原に底なし沼の駒止谷があったという、大和田原の西南端に、働き者だが五反ばかりの少ない畑を耕す貧しい若者が住んでいた。病弱の父と弟をかかえてその日の暮らしを立てていた。 若者は荷車を引いて船橋の市場へ野菜を売りに行き、付近の村で一番美しいと評判のおきんを好きになった。しかし耕地をあまりもっていないので嫁に貰うことができなかった。そこで藩に申し出て駒止谷を耕す許可を得たが、そこは大勢の百姓が開墾に失敗している沼地だった。 たらいに乗って田植えをし稲を育て、その年、若者の稲は実り豊作となった。若者は翌年の収穫が増えたのなら、おきんと祝言をあげると約束をした。 しかし、次の年、その次の年も稲作に失敗した。その間、おきんは母親に死に別れ、遠い国へ出稼ぎにでてしまった。 ある夜、若者は、駒止谷の稲が数年ぶりに育ち、黄金の穂をつけている夢を見た。飛び起きて大和田原に駆けると、月明かりの下に稲穂が波打っていたため、震える手でその稲穂をつかんだ。その瞬間、稲穂ではなく泥沼に生えている葦の葉であることに気がつくが、泥沼に足を引きこまれ次第に身体は沈んでいった。 その後、若い娘が駒止谷に身を投げて死んだという噂が村々へ伝わった。谷岸に木綿の着物が包まれた風呂敷と下駄が揃えて置かれてあったという。その娘がどこの誰であったかは今でもわかっていない。 ●駒止谷に沈んだ恋 2 むかし、大和田の原にどんな駿馬でも足をとられ死んでしまう「駒止谷」という泥沼がありました。 その近くの小さな貧しい村に、働き者の若者が住んでいました。 ある日のこと、街道筋の市へ野菜を売りに行き、おきんという娘を好きになってしまいました。 「ああ、もっと広い土地があれば精出して働いて、おきんさんを嫁にもらうんだがなあ…。」 若者は思い切って駒止谷に稲を作ってみました。すると、その夏の干ばつにも平気で、大変な豊作となりました。若者はおきんに豊作のことを話し、駒止谷の稲が来年も豊作だったら祝言を挙げようと誓い合いました。 ところが 次の年は長梅雨がたたり稲がうまく育ちませんでした。それでも秋の取入れが近づき、ある日、若者は泥沼の穂が月光に照らされ、黄金色に輝き垂れているように見えました。若者は喜び、それをてにとろうとしたときです。ずるずるっとすべりだし、底なし沼に引き込まれてしまいました。 若者は夢から覚めないまま死んでしまいました。若者の葬式の済んだ夜、駒止谷に行ったおきんは、両手を合わせると静かに若者の後を追ったということです。 ●ギロ沼の主 松戸市 松戸市栄町西周辺の地は、昔はギロと呼ばれていた。台風のたびに水害にあうような低地だったが、村人は稲作のほかに、どじょうや鮒、うなぎを獲って生活していた。 ギロの沼にはなにか得体のしれない沼の主がいると村人はうわさしていた。台風が来るたびに、田んぼに2メートル幅ほどの大きなものが暴れた跡のようなものができて、稲が荒らされていたからだ。 大正6年9月に大暴風雨の中で村の兄弟が漁をしていた。すると、なにか大きなものが網に引っ掛かった。これは土左衛門(死体)ではないかと思った兄弟は恐くなって網をそのままにして、帰ってしまった。次の日、網を引き上げてみると、こいのぼりみたいに大きな鯉が網にかかっていた。兄弟はその大きな鯉を荷車に乗せて、上野の不忍池の神様に奉納した。村人たちは、これがギロ沼の主ではないか、とうわさしたという。 ●龍角寺 1 栄町 ひっそりとした住宅地の中に佇む「龍角寺(りゅうかくじ)」。発掘調査の結果、7世紀にさかのぼる伽藍跡が見つかり、創建年代の古さという点では、関東地方でも屈指の古寺だそうです。 また、案内看板のひとつに「その昔、大旱魃(かんばつ)の年に竜神が自分の身を三つに切ってまで人々を助け、その頭を納めたことから名付けられた」と記載されているとおり、自分の身を挺して栄町の人々を助けた"龍伝説"が残っています。 ちなみに、龍角寺はもともとの名を「龍閣寺」と表記していましたが、龍神の頭が納められてから「龍角寺」に改められました。また、龍神の腹部は印西市(いんざいし)の、尾は匝瑳市(そうさし)のお寺に手厚く葬られ、それぞれ「龍腹寺」「龍尾寺」と改称したそうです。 ●龍角寺 2 栄町 龍角寺は、和銅2(709)年、天から龍女がやって来て一晩のうちに寺の全ての建物を建てたといわれ、初めは龍閣寺といいました。 奈良時代の天平3(731)年、この年は春からの日照り続きで水不足となり作物は実らず、人々は困窮していました。 聖武天皇は、諸国の神社仏閣に雨乞いの祈願をさせましたが、一向にその効果がありませんでした。そこで、龍神に由縁のある龍閣寺に雨乞いの祈願を命じました。龍閣寺の釈命上人(しゃくめいしょうにん)は、大勢の弟子とお経を読み、昼夜を問わずに祈り続けました。とうとう結願の日、聴衆の中から印旛沼の主と名乗る小龍の化身が現れました。 小龍はお経を読んでもらった代わりに、大龍に命を奪われることを承知の上で、雨乞いの願いを聞き入れました。「私が雨を降らせれば、この命は奪われるでしょう。この身は三つに裂かれ、印旛沼のほとりに落ちるでしょう。そうしたら、頭は龍閣寺に、腹は印西の地蔵堂に、尾は匝瑳の大寺に納めてください。そして、どうか、私のために祈ってください」と言うと、姿が見えなくなり、部厚い黒雲が空を覆いつくし、どっと雨が降り始めました。 田畑の作物は息を吹き返し、人々は歓喜の声を上げました。雨は七日七晩降り続き、雨が上がると上人たちは印旛沼を訪れました。小龍の言う通り、小龍の体は三つに裂かれ落ちていました。 約束通り、その体を3カ所に葬りました。人々は龍のために祈りを捧げました。頭を納めた龍閣寺は「龍角寺」(栄町)に、腹を納めた地蔵堂は「龍腹寺」(印西市)、尾を納めた大寺は「龍尾寺」(匝瑳市)に名を改めました。 ●龍閣寺 3 三つざきにされた龍神 印旛沼 昔、温かな夜には印旛沼からはしばしば赤い火の玉が現れて北へ向かった。近隣の人々は、龍神が安食村の龍閣寺に明かりを灯しに行くのだと話し合った。ある年、旱魃のため龍神に雨乞いを行ったが効果はなかった。3日目の夜が明けたとき、一帯の旱魃に見かねた龍が老人の姿となって印旛沼から現れ、高齢のため雨を降らせなくなったが雷神に頼んで降らせてもらう、と話して姿を消した。たちまち空が曇って稲妻を伴う豪雨となり、枯れていた作物が蘇った。人々は喜んだが、間もなく、龍閣寺に2本の角の生えた龍の頭が落ちているとの知らせが届いた。その後、印西の地蔵堂で龍の腹部が、ずっと離れた大寺村で龍の尾が見つかった。人々は、雨を降らせるために龍神がその体を雷神によって3つに分断されたのだと悟り、龍閣寺を龍角寺と改め、龍腹寺と龍尾寺を建てて、龍神の事を忘れまいとした。その後も印旛沼からは赤い火の玉が現れ、3つに分かれてこの3つの寺の方へ向かった。人々は、龍神の魂が自身の体を納めた寺に龍灯を灯しに行くのだと話し合ったという。 ●龍閣寺 4 雨を降らせた竜 印旛沼 昔、印旛沼のそばに、人柄の良い人々が住む村があった。印旛沼の主である龍は、人間の姿になってしばしば村を訪ねては村人達と楽しく過ごしていた。ある年、印旛沼付近はひどい旱魃に見舞われた。雨乞いは功を奏さず、水田は干からびて、村人達は餓死を覚悟した。そのとき龍が村に来て、村人達から親切にしてもらった恩返しとして雨を降らせること、しかし大龍王が降雨を止めているため雨を降らせれば自分は体を裂かれて地上に落とされるだろうことを話し、姿を消した。間もなく空が雲に覆われて雨が降り出した。喜んでいた村人達は、龍が天に昇って雲の中に消え、直後に雷鳴と共に閃いた稲妻の光の中で龍の体が三つに裂かれるのを見た。村人達は龍の事を思って嘆き、翌日、皆で龍の体を探し出した。龍の頭は安食で、腹は本埜で、尾は大寺で見つかった。村人達はそれぞれの場所に寺を建てて龍の体を納めた。それが龍角寺、龍腹寺、龍尾寺である。 ●小金城のお姫様 松戸市 戦国時代、小金城の高城氏には二人のかわいらしいお姫様がいた。高城氏は、豊臣秀吉の関東攻めの際、小田原の北条氏に味方していたため、滅ぼされた。一人のお姫様は下谷の芦原の中に逃げたが、差向の底なし沼に入ってしまい、力尽きた。もう一人のお姫様は二ツ木の山の中に逃げたが、大きな松の木の下で力尽きた。後の世、下谷の橋のそばでは、お姫様の幽霊が出るようになった。 橋のそばに住んでいた綿屋さんがかわいそうに思って、自分の土地に祠を建てて供養すると幽霊も出なくなったという。二ツ木の松の木の下で力尽きたお姫様の松は枯れてしまった。枯れた松の根本に不思議な形をした松ぼっくりができた。それは、お姫様が二人座っているような形をしていた。この松ぼっくりを見つけた名主は、これは小金城のお姫様かもしれないと思い、祠を作った。この祠はその後、蘇羽鷹神社に祀りかえられて、今でも大切に供養されている。 小金城の跡には毎年赤いかやが生えるので、戦の時にたくさん血を吸ったからではないかと、土地の人にうわさされた。 ●手賀沼にもぐった牛 柏市 むかし松ヶ崎の覚王寺(かくおうじ)に、牛のすきな坊さんがおりました。坊さんは牛をたいへんかわいがり、ひまがあると手賀沼に連れていって遊んでやりました。そのころ、手賀沼は松ヶ崎の近くまで広がっていました。沼のまわりは広い草原でした。草が一面に生え色とりどりの花が咲いていました。沼の水は青く、どこまでもすみきっていました。 牛は草原を自由にかけまわりました。つかれると草むらに寝そべって、チョウや虫たちと遊びました。おなかがすくと草を食べ、のどがかわくと水を飲み、楽しい時を過ごしました。なかでも牛にとって一番うれしいことは坊さんの手でからだを洗ってもらえることでした。それは気持ちよいものでした。牛はしあわせに暮らしていました。 ところがこの坊さんは重い病気にかかって死んでしまいました。牛の悲しい声が昼となく夜となく続きました。あとにきた坊さんは牛が大きらいでした。坊さんは牛を小さな小屋にとじこめ外に出そうとはしませんでした。おなかのすいた牛は、ある時小屋をぬけ出し近くの森へ行き食べ物をさがし歩きました。坊さんはかんかんになっておこりました。そしてこんどは、太い藤づるを牛の首にまきつけ小屋の柱にしばりつけてしまいました。小屋にとじこめられていた牛はのどがかわき今にも死にそうでした。とうとうがまんできなくなった牛は自分をつないでいる藤づるを切ろうと力いっぱい引っぱりました。すると、どうしたことか藤づるが柱の結び目のところでほどけたのです。そのとたんです。牛ははげしい勢いで入口の戸をこわし外にとび出しました。丘をかけくだり林を通りぬけ田んぼにでました。目の前には満々と水をたたえた沼があります。そこは牛が坊さんと楽しく遊んだ手賀沼でした。 牛は沼の浅いところに両足をつけガブガブ水を飲みました。草もおなかいっぱい食べました。元気になった牛は、そこから草原をあちらこちら歩きまわりました。 そのうち日が暮れ、夕やみが手賀沼一帯をつつみはじめました。すると今まで気持ちよさそうに動きまわっていた牛は急に立ち止まりました。それからゆっくりと歩きはじめました。しかしその足は覚王寺への道ではなく沼のほうに向かっています。牛はアシの茂る沼辺におり沼に入りました。沼の中ほどに進んだ時です。牛はゆっくりとふりかえり一声高く 「モウー」となくと沼の底に姿を消していきました。 手賀沼にもぐった牛の絵やがて秋がきました。それは明るい晩のことでした。 ひとりの村人が藤づるでたばねたたき木を背負い沼のふちを通っていました。すると沼の中からなにやら気味の悪い声が聞こえてきました。村人はおっかなびっくり声のするほうへ近づいてみました。と、突然、風がおこって沼の水が波立ち青い月の光の中に、なにものかが浮かびあがってきたのです。 村人が目をこらすと、それは一頭の大きな牛の姿でした。大きな口から炎のようなまっ赤な舌がみえます。首には藤のつるがまきつけられています。牛は村人の方を向き 「モウー」と、大声でなきました。しかし、その目はなぜか悲しそうでした。 あまりの不思議なできごとに村人はびっくりぎょうてん、背負っていたたき木をほうりだし、いちもくさんに逃げだしました。それからというもの村人たちの間に 「手賀沼には牛がいる。覚王寺の牛だ。」といううわさが広まりました。 そして、村人たちは牛のたたりをおそれて手賀沼を舟でわたる時やその近くを通る時、けっして藤づるを持たなかったということです。 ●神沼(かみぬま)のおっつあん 匝瑳(そうさ)市 新堀川は、今泉の神沼を出て吉場の橋をくぐったあたりから、大きく蛇行している。そこの東側がお休所(やすみどころ)、西側が上人塚になっている。 さて神沼のおっつあんの話だが、これはおじさんの意で、神沼と新堀川の主(ぬし)の大蛇のことである。この大蛇は、千年も前から住んでいて、からだはヒビ割れ、頭にはコケが生えていたということだ。ふだんは神沼の底深いところに住んでいて、一年に一度沼を出て新堀川を下り、海へ出てゆく。 お休所がちょうどその中間点。大蛇はここに上がって休み、それから対岸の上人塚をお参りするともいわれる。川にまつわる龍とか蛇は、たいてい暴れ者だが、このおっつあんはたいへんおとなしく、村人のために水を配ってくれるやさしい心の持ち主である。 このため村人から“神沼のおっつあん”と呼ばれ、親しまれた。今日では、耕地整理や河川改修工事が行われて、沼や川はすっかり様相を変えてしまったが、当時はどれほど日照りが続いても、満々と水をたたえていたということだ。 |
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●千葉の伝承 ●おせんころがし “おせんころがし”はかつての交通の難所であり、高さ数十mの断崖が約4kmに渡って続き、その中腹あたりに道がへばりつくように作られていた(現在は国道128号がやや内陸よりに通っている)。この奇妙な地名は“お仙”という娘の悲劇にまつわるものであり、国道にあるおせんころがしトンネルそばから伸びる旧道を海岸に向かって進むと、その供養碑がある。ただこの“お仙”にまつわる伝説はいくつかのパターンがある。最も有名な伝承では、お仙は、この地域を治めていた古仙家の一人娘であるとされている。領主の娘として何不自由なく育てられていたお仙であったが、その聡明さゆえに、領民の窮状を知るところとなった。古仙家は重い年貢を領民に課して厳しく取り立てていたのである。心を痛めたお仙は、数え13歳の時に意を決して、父親に華美な生活を慎みたいと願い出た。その健気な態度は領民の怨嗟を鎮めた。そしてお仙18歳の秋は久しぶりの豊作であった。ところが欲深い古仙家はこの時ばかりと年貢の率をつり上げた。領民は名主を立てて交渉するが、けんもほろろであった。さらにそれを聞いたお仙も懇願するが、それすらも拒否してしまった。ここに来て領民は怒りを爆発させた。秋祭りの夜、酒に酔った若い者を中心に領主の家を襲い、酔いつぶれて寝ている領主を有無も言わさず簀巻きにすると、断崖から投げ落としたのである。翌朝、領主の死を確かめに浜まで降りた領民は、そこで変わり果てた姿のお仙を見つける。父親の着物を身につけたお仙の亡骸を見た領民は、自分たちの暴挙を悔い泣き叫び続けた。それは命を救われた領主も同じであった。やがてお仙が亡くなった断崖は“おせんころがし”と呼ばれるようになり、その霊を慰めるために「孝女お仙供養塔」が領民の手によって建てられたという。その他にも、病弱の父を看病しながら働くお仙の美貌に目を付けた代官が、金で父親を口説こうとしたが拒絶されたため、父親を簀巻きにして断崖の上に放置。それを知ったお仙が父親の身代わりにすり替わり、やがて戻って来た役人によって断崖から投げ落とされたという伝承。あるいは、父親が後妻をもらうが、後妻は継子のお仙を苛め、自分の子ができたために殺してしまおうと決意。断崖の上にある萱を刈るように命じて、そこで不意を突いて突き落とした。さらにかろうじて宙づりになっていたお仙を蹴り続けて、ついに断崖の下へ転がり落として殺したという伝承もある。いずれにせよ父親との絡みによって命を落とすことになる結末となっている。 ●夜泣き石(国府台) 永禄7年(1564年)に起こった第二次国府台合戦は、北条氏と里見氏が激突し、多数の犠牲を出したとされる戦いである。前日に北条の先鋒を撃破した里見軍は、その夜は酒をふるまい軍装を解いていた。そこへ夜襲を仕掛けた北条主力によって里見軍は総崩れとなり、当主の里見義弘の馬が矢傷を受けて辛うじて逃げおおせたほどであり、親族・重臣を含む5000ものの戦死者が出たとされる。対して北条側も前日からの戦いで3000近い兵を失っており、戦国時代でも有数の激戦であった。この戦いで討死した将の一人、里見広次(当主義弘の弟・忠弘の子)には一人娘があった。その時まだ12歳ほどの娘であった。父の戦死を聞いて駆けつけたところ、戦場はまさに死屍累々の状況。幼い姫にはあまりにも惨い光景であった。その無残な様子を見た姫は、大きな石にもたれかかり泣き続け、そして亡くなってしまったのである。それ以降、夜になるとこの石から少女のむせび泣く声が聞こえるようになった。さらに年月が過ぎて、ある侍がこの話を聞いて供養をおこなったところ、それからは泣き声を出さなくなったと言われている。現在、この夜泣き石は里見公園内にあるが、この公園はかつての国府台城跡である。この城は前方後円墳を土台にして築かれており、現在でも公園の最も高い高台部分には“明戸古墳”と呼ばれる古墳から出土した石棺が置かれている。かつてこの石棺こそが里見広次の葬った跡であるとされ、夜泣き石もこの石棺のそばにあったとされる(今の夜泣き石の台座となっている平石は、実はこの石棺の蓋石である)。現在は夜泣き石はそこから移動し、文政12年(1829年)に建立された“里見軍将士亡霊の碑”に隣接するように置かれている。ちなみに三基並ぶ碑であるが、左から“里見諸士群亡塚”、“里見諸将霊墓”、“里見広次公廟”となっている。 ●吾妻神社 祭神は弟橘姫命。地元では「吾妻様」の名前で通るという。日本武尊の東征軍が相模から房総半島へ船で渡ろうとした際、途中で暴風雨に巻き込まれた。このままでは船が難破して、一行が海に沈んでしまう。その時に嵐を鎮めるために身を捧げたのが日本武尊の寵姫であった弟橘姫である。姫は別れを告げると、海に身を躍らせた。すると間もなく嵐は収まり、日本武尊一行は何とか対岸の上総の地にたどり着いたのである。漂着して数日後、浜辺に打ち上げられたのは一枚の布。それは弟橘姫の着物の袖であった。日本武尊はそれを大切に納めて祠を建てた。それがこの神社の創建とされる。(『古事記』では、浜辺に打ち上げられたのは姫の櫛であったとされるため、一部では「櫛が納められた」とされている。神社の公式の由来では、袖となっている)境内には、池を模したちょっとした公園のような場所がある。かつてこのあたりは“吾妻の森”と呼ばれ、そこに“鏡ヶ池”という池があった。その名の由来は、漂着した日本武尊一行がこの池に姿を映して身支度をしたためとも、弟橘姫が愛用していた鏡を底に沈めたためとも伝えられている。現在の池は、それを復元したものであるという。この木更津の地は、日本武尊が詠じたとされる「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を 見るぞ悲しき」の“君去らず”の部分からその名が採られたとされる。また隣にある袖ケ浦や君津の地名もこの歌を由来としていると言われる。その意味でも、この神社(“吾妻”という社名も、日本武尊にとっての妻である弟橘姫を指している)は、この地域にとって由緒ある場所なのである。 ●伏姫籠穴 (ふせひめろうけつ) 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は全くの創作であるが、実在する土地の名や人物を話の中で用いているために、あたかも史実に基づいた伝承のような印象を与える。この富山(とみさん)も、フィクションから生み出された伝承地である。滝田城主・里見義実は、飢饉に乗じて攻めてきた安西氏の前に落城寸前まで追い詰められた。義実はふと飼い犬の八房に「敵大将の首を取ってきたら、娘の伏姫を嫁にやろう」と戯れに告げた。それに応じるように実際に八房が大将首を取ってきてさかんに伏姫に執心し始めると、義実は困り果ててしまう。娘の伏せ姫は君主の言葉を覆すことは叶わないと父を説き伏せ、ついに八房を伴って富山(とやま)へ籠もってしまうのである。富山の洞窟に籠もった伏姫は読経を続け、八房と交わることを拒んだ。そして1年が過ぎ、姫は山中で仙童と出会い、かつて父・義実が滝田城を落とした際に助命から一転斬首した玉梓の怨念が八房に取り憑いたためにこのような事態になったこと、姫の読経の功徳によってその怨念は消えてしまったこと、しかしながら八房の気が既に姫の胎内に宿ってしまったことを聞き及ぶ。ちょうどその時、お忍びで義実が、また八房を退治すべく忠臣・金碗大輔が富山に来ていた。大輔が放った鉄砲で八房は死んだが、同時に伏姫も傷つき、二人の目の前で懐妊していない証を立てるために腹を切ったのである。すると腹から発した光と共に、首に掛けていた数珠にあった8つの大玉が飛び散っていったのである。現在、富山には“伏姫籠穴”という場所がある。たまたまそれらしき洞穴があったために、誰言うことなく「伏姫が籠もっていた場所」とされたのであろう。 ●八房出生地 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は伝奇小説の傑作であり、巧みに歴史上の人物や土地を取り入れてあたかも史実に即した物語となっているため、モデルとなった房総地方には『八犬伝』ゆかりの地と称する場所がいくつかある。南房総市犬掛は史実でも里見氏ゆかりの地である。ここは古戦場であり、里見氏一族内での争いの末に討死した、嫡流の里見義豊らの墓がある(この戦いで実権を握った傍流の里見義尭は後に里見氏中興の祖として名を馳せる)。そこから南に500mほど行ったところに鎮守の春日神社があり、その入口付近にあるのが八房公園と名付けられたスペースであり、ここが『八犬伝』の因縁の端緒となる犬の「八房」誕生の地とされている。里見氏初代・義実が安房の地を治めていた頃、この地に住む百姓の枝平の家に子犬が生まれた。間もなく母犬が狼に殺されたため、子犬もじき弱って死ぬだろうと思っていたが、逆にすくすくと大きくなっていった。不思議に思った枝平が子犬の様子を探ると、夜更けに一匹の雌狸が現れて乳を与えていたのであった。この“狸に育てられた犬”の噂は広まり、ついには義実の耳にまで届き、珍しい犬として召し出されたのであった。そして八房と名付けられた子犬は、娘の伏姫の愛犬となるのであった。現在、この公園の一角には“八房と狸の像”が置かれている。おそらく“犬掛”という地名から馬琴が思い付いた設定であろうことは想像に難くないが、この像はあたかもこの地で本当に八房が誕生したかのような印象を残している。 ●阿久留王の墓 日本武尊の東征はその出立から相模国までの記述は詳しいが、走水海(浦賀水道)で愛妃の弟橘媛が自らを犠牲にして一行を上総国へ到着させてからは、突然のように大雑把な記述となっている。だが海路から上陸を果たした上総国には、記紀には書かれていない日本武尊の征討にまつわる伝承が残っている。現在の木更津周辺に上陸した日本武尊の一行は、そこから南に進路を取って内陸部へ入り、鹿野山周辺を支配していた“鬼”を退治したとされる。この討伐された敵が“阿久留王”である。阿久留王は、その出身地から“六手王”とも呼ばれ、鹿野山を根城に悪の限りを尽くしていたために、日本武尊の軍勢によって滅ぼされたという(しかしながら地元では、善政を敷いていたが、大和朝廷に目を付けられて逆賊として討ち取られたということになっている。このあたりの経緯は東北で猛威を振るった“悪路王”と非常によく似ている)。日本武尊に打ち負かされた阿久留王は鹿野山の西にある山に逃げ込んで、涙を流して命乞いをしたが許されることがなかったとされ、そのためにその山の名は“鬼泪(きなだ)山”と呼ばれている。そして二度と甦ることのないように八つ裂きにされた阿久留王の血は3日3晩流れ続け、その血が流れた川は“血染川”と呼ばれた(現在は“染川”と呼ばれる)。鹿野山の名刹・神野寺の裏手にあたる雑木林の一角に、阿久留王の墓と言われる塚がある。この塚は八つ裂きにされた阿久留王の胴体を埋葬した場所とされており、現在では神野寺が管理して、月に1回法要がおこなわれているという。 ●神野寺 / 推古天皇6年(598年)に聖徳太子によって開山とされ、関東最古の寺院とされる。本尊は薬師如来と軍茶利明王とされるが、阿久留王は軍茶利明王が化身したとされている。 ●もう1つの鬼泪山の伝説 / 日本武尊が鬼泪山で戦った相手は鬼ではなく、九頭龍という怪物であったという伝説も残されている。付近で暴れる九頭龍を退治しようと探索していた日本武尊は、逆に九頭龍に呑み込まれるが、その腹を割いて退治したという。神野寺の境内にある“九頭龍権現”が、それを供養して建立されたとも言われる。 ●金谷神社 大鏡鉄 国道127号線から鋸山ロープウエー乗り場に入るところにある、小さな神社が金谷神社である。祭神は、豊受姫神、金山彦神、日本武尊。ある意味どこにでもある普通の神社であるが、ここに納められている「大鏡鉄」は一見の価値がある。大鏡鉄は、直径が1.6m、厚さ11p、重さ約1.5tもある巨大な円盤形の金属器である。この金属器は、文明元年(1469年)に、この神社の沖合から引き揚げられたものであると伝えられる。しかも沖の海中で光るものを発見し、確かめたところがこの大鏡鉄であったと言われ、引き揚げようとしたが重くて運べず、金属を司る神である金山彦神を祀る金谷神社に祈願したところ、7日間海が荒れてその後2つに割れた状態となったので陸に揚げることが出来たという。この巨大な円盤状の金属器という珍しさもあるが、長らく海中に没していたにも拘わらず腐食していないことが奇異とされ、“鉄尊さま”と呼ばれ、不老長寿の効験があると近隣の信仰も篤い。この大鏡鉄の正体を探る研究は古くからなされ、伝説としては“海龍王の釜の蓋”であるとされてきた。江戸時代後期になると、平田篤胤は『玉襷』の中で“日本武尊が東国征討で浦賀沖から房総半島へ船で渡った際に、船首につけていた大きな鏡”であると推論した(これが“大鏡鉄”の名の由来となっている)。さらに昭和42年(1967年)に文化財指定を受ける時と前後して科学的調査がおこなわれ、三浦半島において造られた鋳鉄であり、類似の遺物から製塩用の平釜であると考えると結論づけられた。ただし、100年単位の長期にわたって海中に沈んでいたという仮設は、その錆び具合から謎とされ続けている。 ●宗吾霊堂 正式名称は鳴鐘山東勝寺。桓武天皇の命を受けて坂上田村麻呂が開基したという伝承が残る古刹である。しかし今では義民・佐倉惣五郎の祀る場所として知られている。佐倉惣五郎は、嘉永4年(1851年)に上演された歌舞伎『東山桜荘子』によって全国的な知名度を持つに至り、明治なると『佐倉義民伝』と銘打って役名を実名で上演。福沢諭吉などの賞賛を受け、自由民権運動の高まりにも影響があったともされる。江戸時代に起こった数々の農民蜂起によって誕生した“義民”の中の代表格と言っても過言ではない。佐倉惣五郎は、本名を木内惣五郎。印旛郡公津村の名主であった。当時の公津村は佐倉藩に属していたが、度重なる凶作のために周辺の村は衰退、多くの村人は年貢が払えず逃散する者、果ては餓死する者すらあった。しかし藩は追い打ちを掛けるように様々な税を課して生活を圧迫する。そこで惣五郎らの名主は藩に訴え出るが、にべもなく却下。そこで江戸に上って、老中・久世大和守に訴状を出す。一旦は受理されたものの、他藩への干渉を理由に訴えは退けられた。かくなる上は将軍への直訴しかないと考えた惣五郎は単身、寛永寺に赴く将軍・徳川家綱に籠訴し、無事に受理される。承応元年(1652年)のことである。窮状を慮った家綱は、佐倉藩藩主である堀田正信に命じて税の免除をおこなわせたのであった。将軍から失政を咎められたに等しい正信は、翌年、年貢の免除を命ずると共に、惣五郎への処分もおこなった。妻は惣五郎と共に磔、女児を含む4人の子供は全員打ち首というものであった。しかも惣五郎と妻は、目の前で4人の子供が斬首されるのを見届けさせてから磔されたのである。直訴に及ぶ直前に妻を離縁し、子を勘当した惣五郎にとっては無念としか言いようのない処罰であった。それから間もなくの万治3年(1660年)、堀田正信は突如、幕政批判の書をしたため、江戸から無断で佐倉へ帰るという前代未聞の不祥事を起こしてしまう。その真意は今なお不明であるが、協議の結果、正信は“狂気の作法”として所領没収の上に、実弟に預けられる。そして無断で配所を抜け出して京都へ赴くなどの奇行をおこなった後、延宝8年(1680年)に将軍・家綱死去の報に接し、鋏で喉を突いて自害してしまう。この一連の騒動を人々は「惣五郎の祟り」であると噂したのである。(芝居では、夜な夜な正信の寝所に、磔されたままの姿の惣五郎の怨霊が現れるという場面が設定されている)堀田家が去って後の佐倉藩は、頻繁に領地替えがおこなわれた。そして延享3年(1746年)、佐倉藩に入封してきたのが堀田正亮であった。正信の実弟の家系ではあるが、堀田家が再び佐倉藩を所領としたのである。正亮は、惣五郎の百回忌にあたる宝暦2年(1752年)に「宗吾道閑居士」の法号を贈ることで、祖先の非を認め、その遺徳を公にしたのである。その後も、各時代の藩主が石塔を寄進したり、惣五郎の子孫とされる家に供養田を与えるなどの措置をおこなっている。そのためなのか、それまで頻繁に領主の代わった佐倉藩であったが、幕末まで堀田家が代々藩主を勤め上げることとなったのである。惣五郎については、一揆を蜂起したり、将軍へ訴状を提出したりという行為に関する史料が全く残されておらず、その存在自体が創作ではないかの疑いを持たれた時期があった、しかし戦後になって、児玉幸多による研究で実在がようやく確認されている。現在霊堂のある境内には、惣五郎の御廟がある。この墓のある場所で処刑がおこなわれたとされ、多くの者が参詣に訪れている。佐倉惣五郎とは、公津村の名主・木内惣五郎の事績に重ね合わせて生み出された、時代の英雄と言うべきなのかもしれない。 ●真間の継橋 真間地区はかつて入り江となっており、弥生時代には既に集落があったとみなされている。またすぐそばには下総国の国府があり、古来より行き交う船の停泊地として栄えた。この土地は入り江と共に砂州が広がっていた。そこを往来するには橋が必要となるので、掛けられたのが真間の継橋である。“継橋”という名は、砂州と砂州を繋ぐようにいくつもの橋が渡され、それを1つの橋と見たことから付けられたという。この橋は真間の象徴として『万葉集』にも詠まれており、歌枕として知られた存在であった。現在、継橋は弘法寺の参道の途中にわずか数メートルの長さだけ架けられている。しかも橋の下には川は流れておらず、かつて存在した橋の痕跡だけを記憶させるモニュメントとなっている。橋のそばには万葉集の歌碑があり、歌枕ゆかりの場所として保存されている。 ●真間 / “崖”や“傾斜地”を意味する言葉が真間であり、下総国の国府のあった国府台から見ると、真間地区はかなりの低地にあたる。真間には継橋以外にも、弘法寺の紅葉や“真間の手児奈”の伝説など、有名なものが存在する。また、上田秋成の『雨月物語』の中にある“浅茅が宿”の舞台ともなっている。 ●八幡の藪知らず “迷宮”の代名詞として使われる八幡の藪知らず(不知八幡森)であるが、国道14号線に面し、市川市役所の斜め向かいにある。まさに都会のど真ん中にあるが、ここだけは全く手つかずの状態で柵に囲われている。ただし大きさは18m四方で、おおよそ100坪ほどの広さしかない。これは近代化に伴って土地開発がおこなわれたためではなく、江戸時代中期には既にこの程度の大きさしかなかったようである。江戸時代後期には『江戸名所図会』をはじめとした旅行記や名所案内本の中で有名な「禁足地」として取り上げられ、一度入ると出られなくなる、入ると祟りがあるとされている。そしてこの土地が禁足地となったかの理由についても、諸説書かれている。最も有名な逸話は、徳川光圀が単身この藪へ入り、やっとの思いで帰還したという話。光圀はこの藪の中で数多くの妖怪変化と遭遇し、最後に若い女性(または白髪の老翁とも)が現れて「今回だけは見逃してやろう」と言われて脱出することが出来たという。あるいはからがら出てきた光圀は、土地の者を集めて禁足地にするよう申しつけただけで、中の詳細については全く語らなかったともいう。これと並んでさかんに登場するのは、平将門にまつわる話。この藪は、将門を討った平貞盛が将門の死門(八門遁甲で言うところの凶相)の地として陣を張っていた場所とも、あるいは将門の首を守った近臣6名が時を経て土人形として朽ち果てた場所であるとも言われる。さらには、東国へ赴いた日本武尊の陣所であった、馬に乗った里見安房守の亡霊が現れる場所であるとの奇怪な話もある。そして藪の中から機織りの音がしたり、若い女が夜な夜な近所に機織り道具を借りに来るが、翌日返された物には血が付いているという、かなり恐ろしい噂もある。逆に非常に合理的で現実的な禁足地の理由付けもある。近くにある葛飾八幡宮の旧宮跡である(実際、この藪は現在葛飾八幡宮の土地となっている)。貴人の古墳である。八幡の隣町にあたる行徳の飛び地である(行徳の土地だから、八幡の地区の者は与り知らぬ場所となる)などが、昔から語り継がれている。また近年では、藪の中央が凹んでおり、元々八幡宮の放生池であったために禁足地となったのではないかという説も出ている。 ●雄蛇ヶ池 雄蛇ヶ池は慶長19年(1614年)に完成した灌漑用貯水池である。10年の歳月を掛けて造られ、周囲は約4.5kmとかなり大きい溜め池である。現在では灌漑用水に利用されるだけでなく、釣りや池周辺の散策などのレジャースポットにもなっている。歴史の長い池である故に、不思議な伝説も多い。特にその名が示す通り、大蛇にまつわる内容が多い。池が出来る前よりこの辺りには水源となる沼があり、ここに蛇神が住んでいたとも言われる。雄蛇ヶ池の造営にあたることとなる島田重次の枕元にその蛇神が現れて、造営を促したという。あるいは、蛇神は白い蛇であり、身分違い故に一緒になることが出来ないことを悲観した娘が池に入水して変化したものであるという言い伝えも残されている。さらには、池の近くに住む娘が、意識のないまま夜な夜な家を抜け出して池のふちまでやって来ることを繰り返す。そのたびに年老いた両親が連れ戻していたが、ある時、草履を残したまま姿を消してしまった。慌てた両親が池の周りを探して7廻りしたところ、突然池の中から大蛇が姿を現し、それきり娘は帰ってこなかったという伝説もある。(雄蛇ヶ池には「池の周りを7周半すると、大蛇が水面に現れる」という言い伝えが残されている)そして蛇の登場しない伝承もある。若夫婦の嫁が姑に苛められ、ついには自慢の機織りを貶され、雨乞いのために奉納する布をずたずたに切り裂かれた。今まで我慢してきた嫁であったが、この出来事に耐えきれず、池に身投げをしてしまった。それ以降、しとしとと雨の降る夜には池の底から布を織る音が聞こえるという。 ●七天王塚 千葉大学医学部のキャンパス内外にある7つの塚。これが七天王塚である。キャンパス内に5つ、残り2つは敷地に面した道路沿いにある。いずれの塚も牛頭天王を祀っており、しかもかなり大きな木が生えている。そしてこの7つの塚は、上空から見ると北斗七星の形に配置されているとされている。亥鼻地区は、かつて下総・上総を領有していた千葉氏の本拠地である。千葉氏は平常兼を祖とする房総平氏の一族であり、さらにそれを遡れば平忠常、そしてその母方の祖父として平将門に繋がる。七天王塚の伝承は、平将門を抜きにしては語れない。七天王塚は北斗七星をかたどっているが、これは将門が信仰していた妙見信仰の象徴である。また祀られている牛頭天王も、妙見信仰に関わる神である。さらにこの塚についても、将門の7人の影武者の墳墓であるという説もある。このほかにも、七天王塚に葬られているのは千葉氏の7人の兄弟であるとか、千葉氏の居館の鬼門に置かれたものであるとか、墳墓や祭祀的なものであるという説がもっぱらであるが、中には千葉氏居館の土塀の名残であるという説もある。また最新の調査では古墳時代の古墳群の可能性もあると言われる。平将門に絡むためなのか、この七天王塚にはまことしやかに祟りの噂がある。特に有名なものは「塚の生えている樹木の枝を切り払うと祟る」というもの。さらにこの噂のバリエーションとして、伐採を主張した大学関係者に不幸があったという話まである。祟り系の噂としてはさほどのものではないが、大学医学部の敷地内にいまだに保存されているという事実が、妙な信憑性を生み出している側面があると思われる。 ●千葉氏 / 房総平氏の一族。平常兼(1045-1126)を祖とする。亥鼻に居館を構え、千葉姓を名乗るようになったのは、その子の常重の頃とされる。常重の子の常胤の時に、源頼朝に味方して、下総から上総一帯を領する有力御家人となる。その後は一族内の内紛などで徐々に衰退。戦国時代には小田原の北条氏と結んで命脈を保つが、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅亡。 ●妙見信仰 / 仏教としては妙見菩薩を信仰する形を取るが、実際には北極星(北辰)を天にある不動の存在(天帝)として崇める道教思想から生まれた。また天帝の乗り物として北斗七星も信仰の対象となった。これらが神格化したものが“鎮宅霊符神”であり、また陰陽道では“牛頭天王”も同一神とされ、さらに神仏習合では牛頭天王の本地は“素戔嗚尊”、垂迹は“薬師如来”とされる。平将門は妙見菩薩を守護神として信仰しており、また千葉氏の家紋である月星紋は妙見信仰の象徴であるとされる。 ●神余の弘法井戸 (かなまりのこうぼういど) その名の通り、弘法大師伝説をもつ井戸である。昔、弘法大師がこの地を行脚していた時、土地の女が小豆粥でもてなした。大師が食べてみると、全く塩気というものがない。訳を尋ねると、貧しくて塩が手に入らないという。ならばと大師は、近くの川岸に下りて、祈祷しながら錫杖で地面を突き刺して引き抜くと、塩辛い水が吹き上がってきたという。土地の者は後に、この僧が弘法大師であることに気付き、この塩水を出す井戸を弘法井戸と呼んだという。現在、この井戸は巴川の川中にある。やや黄色がかった水であり、水の湧き出るところからは少しだけ泡が出ているのが分かる。川底から天然ガスが出ており、この効果で塩辛い水となっているとのこと。ただし現在は飲用不可である。 ●證誠寺 (しょうじょうじ) 「日本三大狸伝説」と言えば、上州館林の“分福茶釜”と伊予松山の“八百八狸物語”、そして木更津の“證誠寺の狸囃子”となる。證誠寺は江戸時代初め頃の創建、木更津では今なお唯一の浄土真宗の寺院である。狸囃子の伝説も比較的新しく紹介されたもので、明治38年(1905年)に松本斗吟という人物が地元文芸誌で紹介したのが最初という。しかしその名を一躍有名にしたのは、当地を訪れた野口雨情が大正14年(1924年)に『証城寺の狸ばやし』という名の童謡として発表したことによる。ある秋の夜のこと。住職は外の騒々しい音に目を覚ます。庭を見ると、大勢の狸がお囃子をしながら踊っているではないか。驚いた住職だが、そのうちそのお囃子の調子に合わせて踊り出す。すると狸も負けじとお囃子や踊りをして、とうとう夜が明けるまで競争になってしまった。翌日も、その翌日も月夜の晩に住職と狸は歌や踊りに興じた。しかし4日目の夜、狸達ははとうとう夜明けまで現れなかった。住職は不審に思って辺りを調べてみると、いつも腹鼓を叩いていた一匹の大狸が腹の皮が裂けて死んでいた。そこでその哀れな狸のために塚を築いたという。それが今に残る狸塚である。 ●芋井戸 房総半島の南端にある土地でも、弘法大師の伝説は残されている。全国を行脚する大師が土地の者に施しを願い、それに対して親切にした者には幸いをもたらし、邪険に扱った者にはそれ相応の報いを与えるという伝説である。ある老婆が芋を洗っていると、旅の僧が「芋を分けてもらえないか」と尋ねた。老婆は芋を与えるのを惜しんで「この芋は石のように堅くて食べられない」と答えた。そして家に帰って芋を煮て食べようとすると、本当に石のように堅くなってしまっていた。怒った老婆はその芋を道端に捨ててしまうが、そこから水が湧き出て、芋は芽を吹き出したのである。驚いた老婆は改心し、この旅の僧が弘法大師であると知ったのである。いわゆる“石芋(食わず芋)”伝説と呼ばれるパターンなのであるが、芋を捨てたところから水が湧き出るという展開は他にまず例がなく、非常に珍しい話であると言える。現在でもこの霊泉は滾々と水を湧きだしており、今でも伝承通り、芋の葉を繁らせている。 ●石芋伝説 / 堅くて食べられない芋が育ってしまう地域に残される伝承。パターンとしては、旅の僧への施しを嫌がったために芋が食べられないものに成り果ててしまったという内容であり、旅の僧の正体はたいていは弘法大師となっている(日蓮である場合もある)。その他、実を付けない作物の話や、湧き水が絶えてしまった話などの変形もある。いずれもその土地特有の悪条件の由来を示した内容である。 ●弘法寺 涙石 市川市真間に弘法寺という日蓮宗の古刹がある。高台の上に建立された本堂へ向かう長い石段があるが、その下から数えて27段目の左側にある石だけが、なぜか年中濡れた状態にあるという。この不思議な現象には次のような伝承が残されている。江戸時代のはじめ、日光東照宮造営のため、作事方御大工頭であった鈴木修理長頼が伊豆より石材を市川に船で運び入れた際に、突然石が動かなくなってしまった。やむなく長頼はこの石材を弘法寺の石段に使ってしまった。ところがその不正が幕府の知るところとなり、長頼はこの弘法寺の石段の上で切腹して果てたという。その時の恨み辛みによってこの石は四六時中濡れたままであり、それ故に“涙石”と呼ばれるようになったという。ただこの話は史実としては誤りである。作事方として東照宮造営時に当主であったのは長頼の祖父である長次であり、弘法寺の大檀家として石段を寄進したのも長次である。しかしながら、長次が“東照宮造営の残石”を寄進した記録があり、さらに長頼以降の鈴木家が急速に没落している事実がある。おそらくこの伝承は、真間ゆかりの鈴木家の栄華と没落を示すべく作られたと言えるかもしれない。 |
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●丸山沼の大蛇 北足立郡伊奈町
小室村の、あるおじさんは、魚とりが大好きでした。 あるとき、おじさんは、いつものように、網と銛を持って丸山沼に舟を浮かべ、魚をとっていました。 しかし、その日はどうしたことか、魚はサッパリとれません。あきらめてたばこを一服していると、向こうのまこもの茂みの中から、水を切って大蛇が泳いで来るではありませんか。 よせばよいのに、おじさんは、通り過ぎようとした大蛇の背中を、骨も砕けよとばかりに、舟竿で殴ったのです。 ところが、大蛇は死ぬどころか、その竿にぐるぐる巻き付いて、手元に向かって来るではありませんか。 さすがのおじさんもびっくりしましたが、とっさに舟の中にあった草刈り鎌を取って、舟の中に半ば入りかけた大蛇の胴体を断ち切ろうとしました。 しかし、一度ではたたき切れず、大蛇は苦しみながらも舟の中に転がり込んでしまったのです。 二度目の鎌でやっと蛇の体は切れたのですが、大蛇は二つに切られてもまだ動いています。しかも、鎌は、力を入れすぎたあまり、先が舟底に突き刺さってしまい、すぐには抜けません。おまけに無理に抜こうとしたため、鎌の首が折れてしまったのです。 そこで、仕方なく舟の水かき道具で力まかせにたたきのめし、やっとグッタリした大蛇を沼に投げ込むことができたそうです。 このおじさんは、体も大きいし力持ちということで小室村でも有名な人でしたが、この時ばかりはよほどてこずったらしく、「丸山沼には大きな蛇がいた」と、ギョロギョロした目で繰り返し繰り返し話をしたといいます。 ●みがわりのナス 昔、武蔵の国の諏訪に、底なし沼に囲まれた静かな里があった。この沼の反対側にある荒れた畑では、おさよという若い娘が茄子を育てていた。 ある夜、突然恐ろしい地鳴りとともに大雨が降ってきた。この豪雨で村人たちの畑は荒らされ、沼の魚も死んでしまった。それからも、地鳴りと大雨はたびたび村を襲うようになり、すっかり村人たちはおびえて暮らしていた。 ある日、旅の行者(旅の僧)が現れた。行者は、「これは水のたたり。若い娘を底なし沼に沈めるしかない」と告げた。他に打つ手がない村人たちは、身寄りのないおさよに生贄になるようお願いするためおさよのナス畑に向かった。すると突然、また激しい地鳴りと大雨がおこり、沼の水が怒り狂ったようにおさよと村人たちに襲いかかってきた。 沼はおさよを飲み込んだ後、たちまち静かになった。村人たちは身代わりになってくれたおさよのおかげと思ったが、てっきり死んだと思ったおさよが、流木のうえに乗って浮かんできた。驚いた村人たちの目の前に、沼の主である竜神が現れた。「病気で苦しんでいたが、その娘のナスを口にするとたちまち苦しみが消えた。これからは村のためにつくすから許してくれ」 再びしずかな里にもどり、喜んだ村人たちは沼のほとりに竜神をまつる「諏訪神社」を建てた。そして、年に一度のおまつりの時に、必ず茄子を供えるようにした。 ●お諏訪さまのなすとっかえ 狭山市入間川 入間川4丁目にある諏訪神社は長野県に鎮座する諏訪大社を分祀ぶんししたもので、祭神は武御名方命たけみなかたのみことです。勧請かんじょうの年代は不明ですが、戦国時代に甲斐かい国(山梨県)から信濃しなの国(長野県)を支配した武田氏が滅んだあと、多くの家臣が入間川流域に移り住んだというので、この人たちによって創建されたとも考えられています。 「お諏訪さまのなすとっかえ」は、同社で毎年8月26日前後の土曜・日曜日に行われる神事です。これは、自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神前に供えてある別のナスを戴いて帰るというもので、ナスは夏の毒消しといわれたところからはじまった行事といわれています。 この神事の起源は不詳ですが、次のような伝説が残っています。 ● 諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、村人がそこを通りかかると急に水しぶきが立ち、大蛇が現れ暴れはじめました。おどろいた村人は手に持っていた鎌と一緒に、採ったばかりのナスの入った籠かごを投げ出して家へ帰りました。これを聞いた村の若者は、大蛇を退治しようと沼へ駆けつけましたが、空になった籠が水に浮かぶだけでその姿は見えませんでした。その後しばらくすると村人の夢枕に龍神りゅうじんが現れ、「私は沼に住む龍神だが、村人が投げ込んだナスを食べたところ夏病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕えるつもりである」といいました。 それ以来、村人は夏病退散のため、神社にナスを供えるようになったというものです。今はその沼も小さくなってしまいましたが、神社の右脇の細い道をしばらく行くと湧き水の流れ出ている場所があり、そこには「水祖神すいそじん」と刻まれた石祠せきしが湧き水を見守るように建っています。 ●龍ヶ谷の龍神 入間郡越生町 その昔、龍穏寺のあたりは大きな沼でした。秩父に向かう旅人は、どうしてもこの深い沼の側を通っていかなければならなかったのですが、そこには悪龍が住んでいました。 村人達はこの沼に住む悪龍の機嫌を損ねないようにお供えをして、あちこちに龍神を祭り、荒々しい心を鎮めるように祈りました。その恐れおののく声は太田道灌さんまで伝わり、村人の切実な願いを聞いた道灌さんは、この悪龍を鎮めるために、日頃より師として尊敬している高僧の雲崗俊徳和尚(龍穏寺第五世住職)を遣わしました。 雲崗俊徳和尚は、沼を目前とする愛宕山に登って教典を読み上げ、幾日もの間、悪龍を押さえ込む闘いが続き、やがて雲崗和尚さんの霊験によって悪龍は過去の悪行を断ち切って、善龍となって奉仕することを誓いました。そして、雲を呼び竜巻にのって天に昇っていってしまったということです。その時、沼は竜巻が起きたため大嵐となり、水があふれ出て沼の底まで見え、数年経って平地となりました。あふれ出た水は現在の越辺川になったといいます。 雲崗和尚さんは、龍の心が静かになり善龍になった事を記念し、道灌さんに援助をお願いして大きなお寺を建てました。そのお寺の名前は、龍の心が穏やかになったという意味から、龍穏寺と名付けられたのです。そして龍が住んでいたということから龍ヶ谷(たつがや)という地名が生まれたということです。 ※この伝説の原型は「長昌山龍穏寺境地因縁記」に記載されています。 ● じつは龍ヶ谷の龍神伝説はもう一つある。龍ヶ谷の龍は有馬山に住む雌の龍に逢うために、度々、高山不動の上を飛んでいた。ある日、その不浄さに業を煮やしていた不動様は、空を飛ぶ龍に向かって斬りつけた。龍は寸でのところで身をかわしたのだが、尾はスッパリと切り落とされてしまった。そして龍ヶ谷の龍はほうほうの体で有馬山に向かって飛んでいってしまったという。(切られた尾は越生の町の近くの尾崎という所に落ち、今では龍台寺というお寺が建っている。) 高山不動と谷を隔てた山頂には龍にまつわる「子の権現」が鎮座している。土地の人は「不動様の祭りのときに雨が降ると子の権現では晴れで、その逆もあり、一緒に晴れた年はない。実は仲が悪いのかも知れない。」という。都会の人はこんな話すると非現実な事と思うかも知れないが、自然との暮らしの中ではこういう話は素直に受けとめられる。現代人は教育を受る事と引換えに、人々がかつて培ってきた信仰心や伝統を軽んじる傾向にあると思う。 しかし都会の喧騒の中に埋没していてはそれも無理からぬ事かも知れない。都会を離れ鳥の声や川のせせらぎに耳を傾けるだけでも、現実と非現実な世界は紙一重のところにあるということが少なからず感じられると思う。だがそれはけして人から聞くものでなければ教わるものでもない。伝説をつくり話と笑うのはたやすいことだが、もう一度 自らの感性に問いかけてみたい。 龍穏寺はもともと裏側の戸神(とかみ・神への入口という意味らしい)の坊地という場所で栄え、草創期の寺院跡があった。また江戸時代には寺代官が置かれたが、現在でもその家は残されている。そしてすぐそばを通っている秩父へと向かう古道「秩父往還」の路傍には、多くの旅人達の喉を潤した「篠葉の池」という湧き水が、今も昔と変わらずこんこんと湧きでているのだ。 一昔前まで修行僧の心胆を寒からしめた「天下の鬼道場」も、今はじつに穏やかだ。静寂の中、訪れる人にいつもと違う何かを感じさせてくれるという事は確かだと思う。 ●龍穏寺 長昌山龍穏寺は奈良平安時代に役の行者らによって創始され、応永3年(1398)に足利義教の招請によって、無極禅師が開山しました。のち第3世泰叟禅師に至り、太田道真・道灌父子が再建したといわれ、境内には道真・道灌公が眠ります。その後、豊臣秀吉公から百石の御朱印を受け、さらに徳川家康公からは曹洞宗関東三大寺の筆頭として10万石の寺社奉行に任じられました。本堂は大正2年(1913)に焼失しましたが、経堂や銅鐘など多くの文化財を有しています。 ●四本竹の龍神 さいたま市 この前方に『四本竹』というところがあります。その地名はむかし四本の竹を四方に立ててしめ縄を張り、そこを祭祀の場としてお祭りを行っていたことからその名がつきました。その辺り一帯は見沼という大きな沼で、沼の主の竜神が棲んでいたといいます。 ● むかしむかし、宮本の氷川女軆神社は、2年に一度、見沼の一番深いところに神輿を舟に乗せていき、沼の主の竜神を祀る『御船祭』というお祭りをおこなっていました。神主が、舟から四本の竹をしめ縄で囲ったところに向かってお祓いを済ませたあとで、お神酒や供物を沼にささげます。すると、そこにはまたたく間に渦を巻き、ささげた供物などを沼の奥底にあっという間に吸い込んでしまったというのです。見沼の竜神は人々に沼の恵みや、田畑を耕す水を与えて人々を見守ってくれているので、竜神を大切にするお祭りが昔からつづいているのです。 ●埼玉一ノ宮は3つある!龍神が結ぶ氷川神社「ご来光の道」 埼玉県の一ノ宮は、さいたま市大宮区にある「大宮氷川神社」ですが、古来より一ノ宮氷川神社は三社あったといわれ、「中川の中氷川神社(現・中山神社)」と「三室の氷川女体神社」を加えた三社が一ノ宮氷川神社と伝えられています。更に驚くべきことに、この三社は、龍神伝説で結ばれ、奇跡的に一直線に並んでいる「光の道」と考えられているのです。この氷川三社の奇妙な結び付きをご紹介いたします。 ●「光の道」って何!? はじめに「光の道」についてご説明しておきましょう。最初にこの「光の道」を発見したのは、イギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスで、一直線上に『レイ』という名の付く地名が多いことから「レイライン」と名付けられました。 この『レイ』とは「光」のことで、このレイラインは光が一直線に進む様に例えられ、“聖地を刺し貫く=パワーゾーン”と解釈されたことから、レイラインを探せとばかりにイギリスで大流行し、後に世界中に広まったのです。 日本でも勿論、いくつものレイラインと思える聖地を結ぶ直線が見つかっています。代表的なものは、千葉県外房の上総一ノ宮にある玉前神社の参道から登った太陽の光が、神奈川県一ノ宮の寒川神社、富士山頂、琵琶湖竹生島の弁財天社、中国地方の名山大山の大神山神社から出雲大社へと一直線に続く、本州を横断する壮大なレイラインです。そして日本でのレイラインは、春分・秋分、夏至・冬至の太陽の光から「ご来光の道」などと呼ばれており、特に霊験あらたかなパワースポットと考えられているのです。 ●龍神伝説の源「大宮氷川神社」 さいたま市大宮区にある武蔵国(現在は埼玉県)の一ノ宮『大宮氷川神社』は、毎年正月の参拝客が全国10指に入る著名な神社で、創建は二千有余年前という由緒を持ち、武蔵国一ノ宮の名に恥じない大社です。古代この辺りには「御沼」と呼ばれた豊かな恵みを育んでいた神聖な湖沼があり、江戸時代に開発された見沼溜井(溜池)は、こうした伝承から神聖なる龍神が棲むと伝承されました。現在、境内にある神池は、この見沼の名残といわれ、神聖な神池からの湧水は現在も豊富に注がれているのです。 その神池に注ぐ湧水の源流が社殿の西側にあり、これまで禁足地であった「蛇の池」が参拝できるようになり、知らざれるパワースポットとして脚光を浴び始めています。 このように水と密接な関係のある氷川神社は、横浜のシンボルとして山下公園に係留されている日本郵船・氷川丸や、あの戦艦武蔵の祭神として祀られていました。そして埼玉県・東京都の荒川流域(特に旧武蔵国足立郡)に氷川神社が分布するのも、水に深い関係のある一ノ宮総本社ゆえで、その神池は龍神伝説の源とも言えるパワースポットなのです。 ●龍神伝説の祭祀「氷川女體神社」 さいたま市緑区にあるのが『氷川女體(にょたい)神社』です。社伝では二千年以上前の崇神天皇時代に、出雲神社を勧請して創建されたと伝えられ、主祭神の奇稲田姫命が、大宮氷川神社の主祭神である須佐之男命の妻であることから、大宮氷川神社を「男体社」とし、氷川女體神社を「女体社」としています。 この神社で、古くから最も重要な祭祀が、神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し沼の主である龍神を祭る「御船祭」です。八代将軍吉宗のときに見沼が干拓され“見沼田んぼ”となってからは「磐船祭」と呼ばれ、周囲に池をめぐらせた祭場を設けて龍神が祀られるようになりました。実際に祭祀が行われたのは明治時代初期までの短い期間でしたが、その遺跡が境内に残っており、埼玉県の史跡に指定されています。 このように氷川女體神社もまた、水と深い関係を築いてきた神社で、奇稲田姫命の伝承から「蓮を作ってはいけない」「片目の魚が棲む池」として、龍神伝説が色濃く残るパワースポットです。 ●龍神伝説の継承「中山神社」 最後は、さいたま市見沼区中川にある『中山神社』です。こちらも創建は紀元前95年と伝えられ、別名「中氷川神社」と呼ばれています。それは氷川神社と氷川女體神社の中間に位置していることと、祭神が大国主こと大己貴命で、大宮氷川神社の祭神である須佐之男命の息子であることから、氷川神社の「男体社」、氷川女體神社の「女体社」に対して「簸王子社」と呼ばれています。 毎年12月8日に行われる「鎮火祭」は有名で、炊き終わった炭火の上を素足で渡り、無病息災及び火難が無い様祈願する神事です。その鎮火祭が行われたのが「御火塚」と刻まれた標中のある一角で、この鎮火祭が変化して現代の火渡り神事となりました。 このようにここ中山神社は、水とは正反対の火と深い関係がある神社です。しかし、かつてこの地は氷に覆われていて、この神事の鎮火祭の火によって「中氷川」の氷が溶け他と云われています。この故事から、この地を“中川”と呼ぶようになったとの伝承があり、やはり龍神伝説を受け継ぐパワースポットなのです。 ●龍神伝説のご利益「氷川ご来光の道」 これまで見てきたように、祭神の関係と龍神伝説の結びつきにより、氷川三社は三位一体と言われてきました。それは写真のように現在でも氷川女體神社の扁額には「武蔵国一宮」と記載されていることにも表れています。 そして驚愕するのが、この三社の位置で、この三社はほぼ一直線に並んでいるレイラインを構成しているのです。これは、太陽は夏至に西北西の大宮氷川神社に沈み、冬至に東南東の氷川女体神社から昇るという、稲作で重要な暦を把握するための意図的な配置と言われており、「祭神」「龍神伝説」がご来光の道で結ばれた奇跡の三社は、間違いなく強力なパワーを秘めた奇跡のパワーゾーンであると考えられているのです。 ●小埼沼 (おさきぬま) 行田市 さきたま古墳群から東へ2.5Km、川里町との境界付近に小埼沼は位置します。小埼沼の北500mには旧忍川が流れ、あたり一面には水田が広がっています。しかし、かつてこの周辺は沼の多い湿地で、旧忍川の対岸には昭和50年代まで、小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼が存在しました。(現在は古代蓮の里)また、川里町にも屈巣沼(現在は鴻巣カントリークラブというゴルフ場)がありました。古墳時代の頃には小埼沼の周辺は、東京湾の入り江だったと云われていますが、今では水も涸れ、沼の面影はまったくありません。古墳時代には旧忍川は存在していませんから、おそらく小針沼はこの付近まで広がっていて、小埼沼は小針沼の一部が涸れあがって残った跡なのでしょう。なお、この付近は風光明媚だったようで、万葉集には小埼沼を詠んだ歌もあります。 一方で小埼沼には、不思議な伝説があります。この付近に住む、おさきという娘が沼で遊んでいた時に、葦が目に刺さり、それが原因で片方の目が見えなくなってしまったそうです。その後、沼には片目のドジョウが棲みつき、水辺には片葉の葦が茂るようになってしまったと言い伝えがあります(武蔵国郡村誌 13巻、p.371)。小埼沼の西側には、片原(地元の人はカタラと呼んでいます)という地名がありますが、それも片目の伝説と関係があるのでしょうか。行田市には似たような伝承が他にもあり、例えば埼玉県伝説集成中には行田市谷郷の春日神社に関して、”春日様は幼少の時、芋の葉で目をつかれ片目を傷つけた。そのため谷郷の人の片目は細い”と記されています。 ●鳴かずの池 弁天沼 東松山市 昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、首を埋めたところにこの弁天沼ができたといわれ、カエルが住み着かないところから「鳴かずの池」と呼ばれたとの言い伝えのこと。 |
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●埼玉の伝承 ●吉見百穴 大正12年(1923年)に国の史跡に指定された、古墳時代末期の横穴墓群である。“百穴”とされているが、実際は219基の横穴がある(終戦間際に巨大軍需工場が建設されたため、墓群の一部が破壊されている)。これらの墓群が出来上がったのは6〜7世紀頃、古墳としては末期の形態であるとされる。この頃の古墳は、地方を治める首長クラスの巨大な墓ではなく、一定水準以上の階層の者のためにも造られている。吉見百穴はこのような階層の者たち(特にこの一帯は高い技術力を持った渡来人が多数移住している)の遺体を安置する墓として造営されたものと考えられる。またこの横穴式の墓には複数の棺が安置できるスペースがあったり、入口の石蓋をはずせば容易に出入りできることなどから、家族や一族単位で造られている可能性が高いとされる。吉見百穴は、日本考古学史上最も早い時期である明治20年(1887年)に坪井正五郎の手によって調査された。その結果として坪井が提示した内容は以下の通りである。すなわち、これらの横穴式の遺物は住居跡であり、その大きさから考えて、現在の日本人のではなく、日本にかつてあった先住民族であるコロポックルのものである。その先住民がいなくなった後、横穴式の古墳として再利用されたのである。いわゆる【プレ・アイヌ説】と呼ばれる、日本人の先祖に関する人類学的仮説であるが、坪井の死後、この説を採る者がなく自然消滅している。そのためか、吉見百穴の摩訶不思議な見た目に加えて、“妖怪”コロポックルの住処というイメージがいにしえの言い伝えであるかのように何となく定着することで、この遺跡は一層ミステリアスな存在として認知されているのかもしれない。この吉見百穴のそばには、さらに奇妙奇天烈なものが存在している。通称【巌窟ホテル】である。この地に住む農夫の高橋峰吉が独力で明治37年(1904年)から掘り始め、その子の奏治が死去する昭和62年(1987年)に閉鎖されるまで断続的に構築されている。岩を掘り抜いて造られた建築物ではあるが、実際はホテルではなく、峰吉が岩を掘っているのを見た近隣の者が「巌窟掘ってる」と言いあっているうちにそのような名前になったとか。崩落などの危険があるため閉鎖されて久しいが、巌窟ホテルの向かい側にある商店が峰吉の子孫にあたる家であり、さまざまな資料を保管されているそうである。 ●プレ・アイヌ説 / 大森貝塚を発見したモースが主導した説。縄文時代人をアイヌとする一方、それより前の石器時代に日本列島に先住民が存在していたと考える。この説を引き継いだのが、坪井正五郎の“コロポックル説”である。 ●コロポックル / アイヌの伝承に登場する小人。姿は現さないが、アイヌと物々交換などの交易をして友好的な関係を築いていたが、ある時その正体を確かめようとしたアイヌの若者が女のコロポックルの腕を掴んでその姿を見てしまったため、怒ったコロポックルはどこかへ去って行ったとされる。なおコロポックルは小人であるとされるが、実際の伝承ではアイヌ民族より少し体格が小さい程度であり、一般的にイメージされているものとは大きさは異なる。 ●寅子石 高さ4mの板碑であり、それが水田の広がる一画にスクッと立っている。刻まれている内容によると、この板石塔婆は延慶4年(1311年)に、親鸞の高弟であった真仏法師の法要供養のため、唯願という者が銭150貫で建てたものである。しかし、この碑は「寅子石」という名で呼ばれ、この地方に伝わる悲劇を語り継いでいる。この付近に住む長者夫妻には、寅子という見目麗しい娘がいた。一説によると、寅子は実の子ではなく、承久の乱後に姿を消した三浦義直という侍の娘であり、母子で父を求めている最中に母がこの地で病を得て亡くなったために長者の娘になったという。成長するにつれてその美しさは際立ち、周辺の若者達は毎日のように長者の許を訪れて嫁に欲しいと頼み込んできた。最初は喜んでいた夫妻であるが、求婚話のせいで周囲でいさかいが起きるようになって、却って心配事に変わっていった。そして寅子も自分のためにいがみ合い騒ぎとなる状況に心を痛め続けたのであった。ある時、長者夫妻は寅子に求婚してきた若者全員を酒宴に呼んだ。いよいよ寅子の婿が決まる時と若者達は勇んで屋敷を訪れた。そして豪勢に盛られた膾を肴にして酒を呑みその時を待ったが、一向に肝心の寅子が現れない。業を煮やした若者達が長者に詰め寄ると、長者は涙ながらに真相を語り出した。皆の者に求婚され悩み果てた寅子は自害しました。最期に「皆様に等しくこの身を捧げたい」と望んで死にました。先ほど出しました膾こそ、寅子の腿の肉。寅子の遺言通り皆の者に等しく分け与えました。その言葉を聞いた若者達は言葉を失い、そして己の浅ましさを恥じ、寅子の冥福を祈るために全員で供養塔を建立したという。さらに出家をする者もあり、供養塔が見える土地にそれぞれ自分たちの俗名にちなんだ源悟寺・満蔵寺・慶福寺・正蔵院・多門院を建てたとも伝わる。 ●日月神社 蜻蛉の寄生木 (じつげつじんじゃ とんぼのやどりぎ) 住宅街にあるごく普通の神社であるが、その境内には立ち枯れてしまったケヤキの御神木がある。かつてこのケヤキの木の途中からエノキの木が生えていて、なかなか有名なものであったらしい。そしてこの不思議な様子の木には、ある伝説が残されている。この秋津村には、無理難題を言って家臣を困らせていた殿様があった。ある時、自分の年齢と同じ数の蜻蛉を捕ってくるよう家臣に命じた。ところが集められた蜻蛉の数が1つ足りない。怒った殿様は日月神社に行って、「もし本当に神の力があるのなら、このひとかたまりの蜻蛉を、御神木の木の股から別の種類の木にして生やしてみせろ。出来なかったら祠を取りつぶす。出来たならもう無理難題は言わない」と言い放って、御神木に蜻蛉を投げつけた。すると途端に、ケヤキの御神木からエノキが生えてきた。蜻蛉がエノキの寄生木に変わったのである。それと同時に、殿様は無理難題どころか声を発することが出来なくなってしまったという。 ●浄誓寺 平将門首塚 関東に覇を唱えた平将門であるが、その後人々がいかに慕っていたかを知る一つの目安に、将門に関する墓や塚が複数残されている点が挙げられるだろう。東京の大手町にある首塚が最も有名であるが、幸手市にも将門の首塚が存在する。伝説によると、将門が最後の一戦に臨んだ場所が幸手であり、ここで敗れて討ち死にしたのだという。そして首が埋められた場所が現在の首塚であるとされる。さらに一説によると、埋められた首をこの地に運んできたのは将門の愛馬であったとも言われている。この浄誓寺の近くには、将門の血で染められた木があったことから“赤木”と付けられた地名など、将門にちなんだ伝承が残されている。 ●鬼鎮神社 (きちんじんじゃ) 全国的にも珍しい、鬼が祭神として祀られている神社である。節分の際には「福は内、鬼は内、悪魔外」と掛け声をして豆をまく。鬼は内と言うのは、他の寺社から追い払われた鬼がここにやって来られるようにするためとも言われ、また悪魔とは参拝者に取り憑いた魔のことであり、これだけをうち払うのだという。また武運長久にご利益があり、それが叶うと金棒を奉納する伝統がある。鬼を非常に意識した神社であることは間違いない。この神社の創建は寿永元年(1182年)、畠山重忠の菅谷館の鬼門に当たる場所に厄除けとして設けられたのが始まりである。鬼門封じに建てられた神社であるから、創建当初から鬼と関わりがある。さらに地元では「鬼鎮様」と呼ばれる伝説も残されている。ある刀鍛冶の元に若者が弟子入りした。そして大いに働きだし、ある時、親方の娘を嫁に欲しいと言ってきた。鍛冶屋は「1日に刀を100本打てたら嫁にやろう」と約束する。すると若者は一心不乱に刀を打ち始めた。その勢いは凄まじく、親方は気になって様子を覗いた。すると若者の姿はいつしか変じて鬼となっていたのである。おののいた親方は、無理やり鶏を啼かして夜が明けたことにして、作業を中断させた。そして夜が本当に明けた頃に仕事場に行くと、最後の1本を作るところで若者は槌を握ったまま死んでいた。哀れに思った親方は「鬼鎮様」として宮を建てて祀ったという。 |
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●東京の昔話
●拾い屋 むかし、江戸(えど)のあるところに貧乏長屋(びんぼうながや)があったと。 その長屋にひとりの男が引っ越(こ)して来た。ところがこの男、一体何を生業(なりわい)にして暮(く)らしているのやら、さっぱりわからん。 毎朝早うに出かけては日暮れに帰ってくるのだが、それが商売道具(しょうばいどうぐ)ひとつ持って行くでなし、ただ、ふらあっと出かけてふらあっと帰ってくる。 どうにも不思議(ふしぎ)でならない家主(やぬし)の親父(おやじ)が、訊(き)いてみた。男は、「俺(おれ)の商売は、拾(ひろ)い屋(や)だぁ」と、あっけらかんという。 「拾い屋だと。はて、それはどういう商売だ」 「なあに、毎日町んなかを歩いて廻(まわ)れば、何かひとつは拾うて帰れるもんだ。俺ぁそれで暮らしているんだ」と言われたって、そんな商売が成り立つものか、どうも合点(がてん)がいかない。 江戸の長屋の家主は、長屋に住んでいる店子(たなこ)が何をして暮らしているかを識(し)っておかなければお役人(やくにん)にとがめられることになっているから、ようしそれなら、と、次の朝早くに男のあとをこっそりつけて行ったと。 そんなこととは露(つゆ)にも知(し)らない男は、あっちの通り、こっちの通り、そこいらの筋道(すじみち)と足の向(む)くまま、気の向くままってな感じで歩いてゆく。やがて神社(じんじゃ)の境内(けいだい)を通り、お寺にも行き、隣町(となりまち)まで足を延(の)ばしたが、何ひとつ拾う様子はない。 こんな調子(ちょうし)で近隣(きんりん)の道という道を全部歩き廻るだけで日が暮れた。 家主の親父は、「さては、わしが後からつけまわしているのを悟(さと)ったかな。それで何もせずにわしを引き廻しているんじゃなかろうか。うん、きっとそうに違(ちが)いない。あ奴(やつ)め、いよいよあやしいぞお。 見れば、あ奴めもやっと家に帰る気配(けはい)、今日のところはわしも帰って、また明日、後をつけてやろう」と言うて、くたびれて、店子より先に帰ったと。 家に帰って、着物をぬいで気がついた。懐(ふところ)に入れてあった銭袋(ぜにぶくろ)が無くなっている。 「あいつのせいで、ろくなことはねえ。大損(おおぞん)だ」と、独(ひと)り言を言うていると、そこへ男が帰ってきた。何ぞひとこと文句(もんく)を言わなければ気が済(す)まん。 「今日はええ日よりで人の出も多(おお)かったろうし、さぞかしええ物を拾って帰ったのだろうのう」 「それが親父さん。今日は、いつになく不景気(ふけいき)じゃった。あんまり何にも拾われんかったんで、うしろから疫病神(やくびょうがみ)でもついて来よるかと思うたくらいでしたがのぉ。けんど、帰りがけにそこの路地(ろじ)で銭二百文(もん)入った銭袋を拾うたから、まあ、一日歩いた甲斐(かい)がありました」こういうたと。 おしまい ちゃんちゃん。 ●においの代金 むかし、ある町にえらくケチな男が住んでおったと。 飯を食うにも梅干をじいっと見て、酸っぱいつばがわいてきたら、いそいでご飯をかきこむ、というぐあいだったと。 ところが、毎日毎日、梅干ばかり見ているもんだから、そろそろ飽きがきて、たまには変わったもんで飯が食いたくなったと。 あるとき、何ぞいいもんはないかと町を歩いていると、向こうからぷーんと香ばしい匂いがして来た。うなぎ屋が店先で蒲焼き(かばやき)を焼いておったと。 男は、急いで家に戻ると、どんぶり飯と箸(はし)とを持って、うなぎ屋にとって返し、その店先で、くんくん匂いをかぎながら飯を食い出したと。 これを見ていたうなぎ屋の主人が、「そこのお客さま、お代をいただきやす」と言うた。男は、 「わしは、うなぎなど食うておらんぞ。匂いをかいでおるだけじゃ」と言うと、店の主人は、「へえ、ですから、そのにおいのお代をいただきとうございやす」と言うて、こちらもなかなか、たいしたケチぶりだ。 「よし、分かった。そこまで言われて払わなかったら、こちらの男がすたるというもの。払いましょう」 男はふところから財布(さいふ)を出したと。 店の主人が手を出すと、「ほーれ、今から払うから、よーく聞けよ」と、こう言うや、財布の中の小銭をかきまわして、「チャリン、チャリン」と、音をたてたと。そして、「おやじ、においの代金は、音で払ったぞ」こう言うたと。 おしまい チャンチャン。 ●盗人をなおす医者 むかし、江戸の小石川(こいしかわ)、今の東京都文京区に小石川診療所(しんりょうじょ)というのがあって、赤ひげ先生という、診(み)たても、治療(ちりょう)も、薬もうまい名医があった。 貧乏人からは金(かね)を受けとらんし、ひとがさけるような病(やまい)も嫌な顔をせんし、大変な評判(ひょうばん)で、 「赤ひげ先生の薬さえ飲めば、どんな病気でも治(なお)ってしまう。えらいもんだ。神さまみたいな先生だ」 だれもがそう言って、むずかしい病気になると、すぐに赤ひげ先生を頼(たよ)った。しぜん赤ひげ先生は忙(いそが)しい。体がいくつあっても足(た)りない風で、たくさんの弟子を置いて、手つだわせていた。 ある晩、一人のお婆さんが杖(つえ)ついてやってきた。赤ひげ先生に、 「先生、実はわしの息子がとんでもない癖(くせ)がありまして、弱っとります。ひとつ先生のお力で治してもらおうと思うてやって来ましただ。よく効(き)く薬を盛って下っさい」 「ん、その癖というのは、どんなんだ」 「それが、お恥(はずか)しい話ですが、盗人(ぬすっと)の癖がありまして。そのうちお役人さまにつかまるのではないかと思うと、この先、安心して死ねませんのじゃ。なんとか薬を盛って下っさい」と、拝(おが)み頼んだと。 「ん、盗人か、そりゃ困った癖だ」 赤ひげ先生、あごひげをなでなで思案顔(しあんがお)だ。 やがて、「ん、そこでしばらく待っていなさい」 「へ、へえ。あした死んでも惜しい命ではありません。お願いします。お願いします」 さすがは名医だと思ってお婆さんが待っていると、赤ひげ先生は、すぐに薬研(やげん)でごしごし何やら粉薬をつくって、紙に包んで持ってきた。 「ん、婆さん、息子が泥棒(どろぼう)に入りたくなったら、すぐこの薬を服(の)むようにさせるといい。きっと泥棒の癖は治るはずだ」 「ありがたや、ありがたや」 お婆さんは、薬をおしいただいて、喜んで帰ったと。 このありさまを奥から見ていた弟子たちは興味(きょうみ)しんしんで、「先生、盗人の癖まで治せるとは知りませんでした。いったい、どんな薬草を処方(しょほう)されたのですか」と聞いた。赤ひげ先生、「ん、どんな薬か、お前たちも考えて見よ」というた。 弟子たちは皆して考えたが、ぜんぜん見当(けんとう)つかなかったと。 「先生、降参(こうさん)です。私たちではとても無理です。是非(ぜひ)その薬の盛り方をお教え下さい」と頼むと、赤ひげ先生、ひげをなでなで、「ん、肺臓(はいぞう)をかわかす薬を包んでやった。肺臓をかわかすと咳(せき)が出るだろ。咳が出れば泥棒にも入れない」こういうた。 弟子たちは、赤ひげ先生のうまい思案に思わずコホン、コホンとむせながら、やっぱり先生は日本一の名医にちがいないと思うたと。 おしまい チャン チャン。 ●とげぬき地蔵 江戸時代の中ごろ、江戸の小石川、今の文京区に、病の妻を持つ田村という侍がいてたいそうお地蔵さまを信心しておった。 侍は、毎日、毎日、妻の病が早くなおるように、「帰命頂礼地蔵尊菩薩(きみょうちょうらいじぞうそんぼさつ)、帰命頂礼地蔵尊菩薩」と、お地蔵さまをおがんでいた。が、妻の病は一向に快くなるようすもなく、日に日にやせおとろえてゆくばかり。 そんなある晩のこと、侍の夢の中にお地蔵さまがあらわれ、「妻の病をなおしたかったら、わしの姿を紙に写し、一万体を川に流せ」と申された。 侍が、ハッとして目をさますと、枕元に小さな板があった。何やら人の姿が彫ってあるように見える。墨をつけて、紙に押しつけると、それはお地蔵さまのお姿であった。 侍は、さっそく一万体のお姿を紙に刷(す)り、両国橋から隅田川に流した。 次の日のこと、妻が、「夢の中にお地蔵さまがあらわれ、私の枕元にいた死神を追い払って下さりました」 というた。 不思議なことに、それからというもの、妻の病はうす紙をはぐように一日、一日とよくなり、半月もしないうちに、元の元気な身体になった。 この話が広まり、お地蔵さまのお姿の札をもらいにくるものが、田村の家に次から次とやって来るようになった。お地蔵さまは、延命(えんめい)地蔵というて、命を延(の)ばしてくれるお地蔵さまだったそうな。 それからしばらくして、毛利家(もうりけ)江戸屋敷の腰元が、針仕事をしているとき、口にくわえていた針を、あやまって飲み込んでしまった。 さぁ、大ごとだ。腰元は、いたい、いたい、ともがき苦しむけれども、どうにもならん。医者が来ても、のどの奥にささった針はとり出すことが出来ん。大騒ぎしているところへ西順(せいじゅん)というお坊さんが通り合わせた。 西順は、ふところから一枚の小さな紙をとり出すと、「このお地蔵さまのお姿を水に浮かせて飲みこんでみなされ」というた。 毛利家の者が、すぐ、腰元に紙をのませた。すると、間もなく、いたいいたいと苦しんでいた腰元は、「ウッ」とうめいて、口から、さきほどの小さな紙を吐き出した。よく見ると、お地蔵さまのお姿に針が一本ささっている。腰元の痛さもとれ、「これはお地蔵さまのおかげだ」ということになり、田村家のお地蔵さまは、ますます評判になった。 田村家では、こんなありがたいお地蔵さまを、自分一人で持っていてはもったいない、ということで、上野の車坂(くるまざか)にある高岩寺(こうがんじ)におさめることにした。 病気のひとはお地蔵さまのお姿を刷った札を飲めばいいし、身体の具合が悪い人はその痛い場所に札を張っておけばなおる、つまり、病のとげを抜いて下さるというので、いつしか、”とげぬき地蔵”といわれるようになった。 とげぬき地蔵は、明治二十四年、高岩寺とともに上野から巣鴨(すがも)に移った。 けれども、今でも大勢の人々が病気をなおしてもらいに訪れている。山の手線巣鴨駅の近くだから、病気になったら行ってごらん。きっと、すぐになおるよ。 ●赤マントやろかー 創立何十年もたつという古い学校には、必ず、一(ひと)つや二(ふた)つの、こわーい話が伝わっている。中でも多いのが、便所にまつわる怪談だ。今日は、一つ、こわーい話をしてみよう。 ちょっと昔のこと。 ある女子(じょし)高等学校で、生徒用便所に妙なうわさがたった。 入口から三番目の便所に入ると、「赤いマントやろかー、青いマントやろかー」という声が聞こえるという。 そんなわけで、だーれも三番目の便所に入るものがいなくなってしまった。 掃除の生徒も、ここだけは気味悪がって手をつけない。三番目の便所は、いつしかほこりだらけの荒放題となった。 あるクラスで、何人かの生徒がこの便所のうわさをしていた。 すると、一人の生徒が、「この世の中にお化けが出るはずがないじゃない。私が行ってお化けの正体を見てくるわ」といった。クラスメイトたちは、「本当にお化けの声がするんだから、やめなさいよ」と、しきりにとめた。 しかし、勝気なその女生徒は、「大丈夫よ」と言い残して、スタスタ、便所へ向って行った。クラスメイトたちは心配になり、そっと後をつけて行った。 女生徒は、便所に着くと三番目の戸を開けて、中へ入った。 すると、案の定、「赤いマントやろかー、青いマントやろかー」という声がした。 女生徒は返事をしなかった。そしたら、また、「赤いマントやろかー、青いマントやろかー」という。 段々こわくなって返事どころでない。便所の壁に張りついて、歯をガチガチいわしていると、今度は、大きい声で、「赤いマントやろかー、青いマントやろかー」といった。女生徒は、目をつぶって、「赤いマントよこせー」と怒鳴(どな)った。そのあとすぐに、「ギャー」と叫び声をあげた。 便所の入り口で見守っていたクラスメイトたちは、一目散に逃げ出した。 事の次第を聞いた体操の男先生が、便所へ行って三番目の戸を開けた。便所の中で女生徒は死んでいた。背中にナイフが刺さり、血がべっとりと着いて、まるで、赤マントをつけているようであった。 それから、その三番目の便所は釘づけにされ、「あかずの便所」といわれるようになった。 もし、「青いマントよこせー」と言ったら、血が全部吸いとられ、身体中、青くなってしまうのだそうな。 ●しばられ地蔵 享保(きょうほ)三年というから、一七一七年、今から二六六年も前のこと、江戸、つまり、東京でおこったことだ。 本所の南蔵院(なんぞういん)という寺の境内(けいだい)に、石の地蔵様があった。 あつ―い夏のこと、越後屋(えちごや)の手代喜之助(きのすけ)が商いの木綿を背中いっぱいにかついで、南蔵院の前を通りかかった。 「あっちぇいのう―。地蔵様の前で、ちょっくら休むとするか」 荷をおろして休んでいるうちに、つい、うとうとっとしてしまった。一時して、目をさますと、そばにおいた木綿がない。そこらじゅうをさがしたがどこにもない。商売物(しょうばいもん)を盗まれたとあっては主人に叱(しか)られる。 喜之助は顔をまっ青にして番所へとびこんだ。 番所の役人がさっそく奉行所(ぶぎょうしょ)へ届けると、町奉行の大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)が直々に調べることになった。 ところが越前守、奉行になったばかりだし何の手ががりもない盗みのこと、犯人の目星などとんとわからぬ。そこで一計(いっけい)を考えた。 さっそく、役人をよび、「いや―しくも地蔵菩薩(じぞうぼさつ)ともあろうものが、自分の前の品が盗まれたのを知らぬはずがない。ただちに地蔵を召し捕(と)り、縄をかけて、江戸市中を引き回せ」と申しつけた。 役人は奉行のいいつけだからしかたなく、しぶしぶ南蔵院へ行くと、地蔵様に縄をかけ、大八車(だいはちぐるま)にのせると、江戸市中を引き回した。なにしろ、物見高いは江戸の町人たち、盗人(ぬすっと)のうたがいで石の地蔵様がつかまったというので、われもわれもと地蔵様の後についてゆき、果ては、どんなお裁きがあるのかと、どっと奉行所へなだれこんだ。 ころを見計らった越前守、「門をとじよ―」と命じ、大声で、「天下の奉行所へ乱入するとは不届千万(ふとどきせんばん)。本来ならきつく罰(ば)っするところなれど、元はといえば木綿が盗まれたことにより生じたこと、よって、一人につき木綿一反の科料(かりょう)とする。ただちに持って参れ」といった。町人たちはあっけにとられたがしかたがない。それぞれに木綿一反を持ってくると、自分の名前を書いて帰っていった。 越前守は喜之助を呼んで一つ一つの反物を調べさせた。そうすると、やはり、盗まれた反物がでてきた。それで、盗人がつかまり、いもづる式に、江戸市中を荒し回った大盗賊団(だいとうぞくだん)も一網打尽(いちもうだじん)となった。 地蔵様も無事南蔵院へ戻り、大岡越前守も名奉行といわれるようになったそうだ。 そして、それ以来、盗難にあうと、南蔵院の地蔵様を縄でしばって願いをかけると、必ず盗まれたものがでてくるといわれ、だれいうとなく、この地蔵様を”しばられ地蔵”と呼ぶようになった。 |
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●東京の民話
●王子のきつね火 1 むかしむかしの大昔、うみべ(海辺)が荒川とまぎらっていたころ、王子村の近くの古いふるーい大きな木のあたりに、 たくさんの狐火が見えました。 狐火は、とくにおおみそか(大晦日)のばん(晩)におおくあらわれ、それが王子いなりさまへむかうのでした。 村の人々はゆらゆらゆれるふしぎな色をした狐火がなんだかとてもおそれ多かったので、だーれもそばまでたしかめに行くゆうき(勇気)のあるものはいませんでした。 そうしたあるときのこと、村人たちは、みなではなしあって、だいひょうを三人えらんで、狐火のそばまで行って見てみようということになりました。 いちばん狐火のあらわれる、さむ(寒)いさむーい大みそかのばん(晩)のことでした。 村人のだいひょうたちが、か(枯)れ草をかぶってイキをこらして遠くで見ていると、どこからともなく、人のようでもありケモノのようでもある声がささやくように聞こえてきました。 「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」 「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」 しずかに きいていると、おさえるような声が、いくえ(幾重)にもいくえにもかさなって、それはそれは たいそうな数の声であるとわかりました。 「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」 「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」 そしておどろくほどたくさんの狐火が集まってきて、大きな木のそばまで来ると、ふしぎふしぎ、 狐たちは身じたくをととのえたすがたに、つぎからつぎから変わっていくのでした。 すべての狐がしょうぞく(装束)をととのえた姿になったときのことです。 いっぴきの白い狐が前にあらわれて、ゆっくり王子いなり(稲荷)さまに向って歩みはじめると、 すべての狐たちも列をつくってしたがって行ったのです。 こだかい(小高い)おか(岡)にある、いなりさまへむかうみち(道)は、 ゆれる 狐火 で、いっぱいになりました。 この年の狐火はとくにいつもよりもおおくありました。 つぎの年、村むらは、それはそれはゆたかな実りと、 あらそい(争い)やわざわい(災い)の無い良い年となりました。 村むらの人びとは、はなしあって、王子いなりさまのかたわらに、 王子いなりさまをおまもりしていただくために、白狐のお宮をたて、 狐たちがへんしん(変身)したところの大きな木を装束(しょうぞく)の木と名づけ、 小さなおいなりさまをそこにおいてお守りすることにしたのでした。 狐たちがもっともっとあつまってくれて、村むらがゆたかな実りにめぐまれますように、とのねがいからです。 ●王子の狐火 2 むかしむかしの大昔、海辺が荒川を見晴らすそばまで広がっていたころ、岸村の近くの古いふるーい大榎木(えのき)のあたりに、たくさんの狐火がありました。 狐火は、とくに大晦日の晩に限りなく現れ、不思議なことに、たくさんの時ほど、翌年の作物が実り多かったのでした。 村の人々は、何か恐れ多かったので、だーれもそばまで行く勇気のある者はいませんでした。 あるとき、村人たちは皆で話あって、代表を何人か選んで、狐火のそばまで行って見てみようということになりました。 一番狐火の現れる寒いさむーい大晦日の晩でした。 村人の代表たちが草をかぶって息をこらして遠くで見ていると、どこからとも無くそれはそれはたくさんの狐火が現れて大榎木のそばまで来ると、不思議不思議、身仕度をととのえた狐の姿に、次から次から変わっていくのです。 すべての狐火が装束(しょうぞく)を調えた姿になったときのことです。 一匹の白い狐が前に現れて、ゆっくり岸稲荷さまに向って歩みはじめると、すべての狐たちも列をつくって従って行ったのです。 その列は延々と続き、人家の無い岸稲荷さまの丘の中腹は、稲荷さまへ向かうゆれる狐火でいっぱいになりました。 次の年、岸村のあたりの村々は、それはそれはゆたかな実りと、争いや災いの無い良い年となりました。 村々の人々は相談して、岸稲荷さまの側らに、岸稲荷さまをお護りしていただくために白狐(びゃっこ)のお宮を建て、大えの木を装束えの木と名づけ、その根元に装束(しょうぞく)稲荷を設けてお守りすることにしたのでした。 ●王子の狐火 3 かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きな榎の木があった。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したという。その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられている。 この榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重『名所江戸百景』の題材にもなった。 ●伝承の描写の初出 王子と狐とが一緒に登場する最も古い資料は、寛永期に徳川家光の命により作られた『若一(にゃくいち)王子縁起』という王子神社の縁起絵巻である。この絵巻の原本は存在しないが、精巧な模本が紙の博物館にあり、その奥書によれば作成作業は堀田正盛(加賀守)のもとに春日局の甥で斉藤三友(摂津守)をもって遂行されたとある。また文は林道春がかかわり、絵は狩野尚信が描いたことが知られる。絵巻の完成は寛永十八年(1641年)七月十七日だった。 『若一王子縁起』絵巻は王子神社についてのものだが、すぐそばの王子稲荷神社も別当寺金輪寺の持ちであったために、下巻にその社のたたずまいと、その前道筋に集まり来たる諸方の命婦(狐)の絵がある。絵には、稲荷社前の道筋のあちこちに狐火を燈した複数の狐と松の木の下にも二匹の狐が描かれている。そして「諸方の命婦、此の社へ集まりきたる」とあり、下札には「毎年十二月晦日の夜、関東三十三ケ国の狐、稲荷の社へ火を燈し来る図なり、この松は同夜狐集まりて装束すと言伝ふ」と狐の集合が説明されている。なお、大田南畝は『ひともと草』に「むかしは装束松といひしも、今はいつしか榎にかはれり」と書いている。 狐火の絵は、この絵巻を彩るためだけに描かれたものではなく、縁起を作るに先んじて寛永期の幕府の役人が王子の狐火の調査に来たという事実により、当時広く流布していた伝承の表現だったと知れる。 ●寛政改革による民話の変節 絵巻の完成後約150年経った寛政3年(1791年)になって、王子稲荷社が実際に諸国三十三ケ国の稲荷社の総社であったかどうかの社格の是非を幕府が問題にした。寺社奉行の松平輝和が老中松平定信に進達した「王子稲荷額文字之儀ニ付、金輪寺相糾候申上候書付」で始まる文書(以下、「進達文書」と記す)にその内容が示されてある。「進達文書」には、王子稲荷が自社について「東国惣司ト称シ候濫觴」、つまり王子稲荷が東国惣司と自称しているとあり、これは王子稲荷が「関東稲荷惣司」との源頼義の文言を「東国稲荷惣司」(とうごくいなりそうつかさ)と平安時代以来認識し自認してきたことを意味する。王子稲荷社は三十三ケ国伝承にまつわる額や幟(のぼり)などを没収され処罰を受けた。 幕府の王子稲荷神社調査記録の「進達文書」は、王子と狐の民話が古くは「東国三十三ケ国からの狐集合」だったことを示すが、これ以降、世上、王子の狐民話は狭く関八州の物語として伝わるようになり現在に至る。ただし、当の王子稲荷社自身は門石に「康平年中、源頼義、奥州追討の砌(みぎ)り、深く当社を信仰し、関東稲荷惣司と崇む」と刻み、往古と変わらぬ社歴を今に伝えている。 ●装束榎の碑と装束稲荷 狐が集まったとされる榎の木は明治時代中頃に枯死した。昭和4年(1929年)には道路拡張に伴い切り倒され、「装束榎」の碑と「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が停留所の東部に移されている。一帯は戦前には榎町と呼ばれてもいた。 ●一葉松 東京都国分寺市 「一葉松」は、武将・畠山重忠(平安末期から鎌倉)と傾城・夙妻太夫 との悲運の恋に由来しており、夙妻太夫の死を哀れんだ里の人々が墓標として植えた松です。 不思議な一本葉の松で、夙妻太夫の一途な思いの現れとも云われ、いつしか「一葉松」(ひとはまつ)と呼ばれるようになりました。 言い伝えの一葉松はすでに枯れてしまいましたが、現在 、枝を植継いだ松が東福寺内の本堂・事務所にむかう階段横に数本植えられており、わずかではありますが一葉を見ることが出来ます。 ●姿見の池 東京都国分寺市 姿見の池は、かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。 現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。 恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われ、傾城・夙妻太夫が武将・畠山重忠を慕って 身を投げた池といわれています。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)など文学作品にもよく登場する名所です。 平成5年に東京都の「国分寺姿見の池緑地保全地域」に指定され,平成11年度に湿地,用水路,水辺林等を含めた池周辺地域として整備し、かつての武蔵野の里山風景を見ることができる,市外からも多くの方が訪れる観光拠点となっています。 ●神戸岩 東京都西多摩郡檜原村 東京都西多摩郡檜原村にある知る人ぞ知るパワースポットが神戸岩(かのといわ)。北秋川の上流、神戸川にある奇勝で、両岸から高さ100mの岩盤が迫る廊下状(ゴルジュ状)の狭い峡谷を水が流れ、鎖を頼りに通り抜けることができます。まさに東京最奥の秘境。 下流側から見て右手にある戸岩は、高さ100m、幅は40m(上部)、谷底で4m幅の峡谷が60mほど続いています。峡谷の延長線上に大嶽神社が鎮座するため、神域への出入口と見立てて、神の戸岩から神戸岩(かのといわ)という名が付いたという説もあります。しかし、大岳神社は現社地に遷座しているので、神戸地区の戸岩という可能性が大。戸岩は、中生代ジュラ紀(4億4000万前〜1億4300万年前)に形成された硬質なチャート層のため、浸食を免れ、奇勝を生み出したのです。東京都の天然記念物にも指定されています。 チャートは、放散虫(ほうさんちゅう)などプランクトンの死骸が海底に降り積もったものが固まってできた岩石。秩父古生層と呼ばれる地層は、海の底で形成されたものです。神戸岩の探勝は、滝の横をハシゴで登る危険な場所、鎖を伝ってトラバースする岩場もあるので、足回りはしっかりと。 ●王子の狐 (落語) 落語の噺の一つ。初代三遊亭圓右が上方噺の高倉狐を東京に写したもの。人を化かすと言われる狐がかえって人に化かされる顛末を描く。結末は一種の考え落ちでもあろう。主な演者に8代目春風亭柳枝、10代目金原亭馬生、7代目立川談志などがいる。 ● 王子稲荷(東京都北区王子)の狐は、昔から人を化かすことで有名だった。 ある男、王子稲荷に参詣した帰り道、一匹の狐が美女に化けるところを見かける。どうやらこれから人を化かそうという肚らしい。 そこで男、『ここはひとつ、化かされた振りをしてやれ』と、大胆にも狐に声をかけた。「お玉ちゃん、俺だよ、熊だ。よければ、そこの店で食事でも」と知り合いのふりをすると、「あら熊さん、お久しぶり」とカモを見付けたと思った狐も合わせてくる。 かくして近くの料理屋・扇屋に上がり込んだ二人、油揚げならぬ天ぷらやらお刺身などを注文し、差しつ差されつやっていると、狐のお玉ちゃんはすっかり酔いつぶれ、すやすやと眠ってしまった。そこで男、土産に卵焼きまで包ませ、「勘定は女が払う」と言い残すや、図々しい奴で狐を置いてさっさと帰ってしまう。 しばらくして、店の者に起こされたお玉ちゃん、男が帰ってしまったと聞いて驚いた。びっくりしたあまり、耳がピンと立ち、尻尾がにゅっと生える始末。正体露見に今度は店の者が驚いて狐を追いかけ回し、狐はほうほうの体で逃げ出した。 狐を化かした男、友人に吹聴するが「ひどいことをしたもんだ。狐は執念深いぞ」と脅かされ、青くなって翌日、王子まで詫びにやってくる。巣穴とおぼしきあたりで遊んでいた子狐に「昨日は悪いことをした。謝っといてくれ」と手土産を言付けた。 穴の中では痛い目にあった母狐がうんうん唸っている。子狐、「今、人間がきて、謝りながらこれを置いていった」と母狐に手土産を渡す。警戒しながら開けてみると、中身は美味そうなぼた餅。 子狐「母ちゃん、美味しそうだよ。食べてもいいかい?」 母狐「いけないよ!馬の糞かもしれない」 ●猫の恩返し (落語) 五代目古今亭志ん生の噺、「猫の恩返し」(ねこのおんがえし)より。別名「猫塚の由来」。 ● 八丁堀に棒手振りの魚屋金さんがいました。それが、友達の付き合いで博打に手を出して買い出しの金三両を取られてしまった。金さんの道楽は酒と猫が大好きで飼っていた。博打でとられて、やけ酒を猫の”コマ”と呑んでいた。「コマよ、正月二日の買い出しの金を三両取られてしまったんだ。『猫に小判』と言うこともあるから、三両何とかしてくれよ」。と言いながら寝てしまった。 大晦日の晩ですから、周りは明るく、のどが渇いたので水瓶の水を飲んだ。「『酔い醒めの水千両と値が決まり』と言うように、旨い水だ」。寝床に戻ってみると小判が三枚置いてある。夜の明けるのを待って外に出ると、伊勢屋という質両替屋の番頭に小判を崩して貰って、湯に行って、酒を一升買って帰ってきた。 「コマ、お前がこの小判持って来たんじゃないか。『ニヤオ〜』と返事をしてやがら。恩にきるよ。これで買い出しに行けるんだ」。元日の酒を飲みながら、「助かったけれどよ〜。三両くわえてくるなら、もう少しくわえて来いやぃ。金に困っていない家から持って来いや・・・。ウソだよ、そんな無理なことは言わないよ」、と寝てしまった。 翌日の正月二日、正月から値切られるのはいやだから、金さんは仕入れた魚を掘留の戌亥(いぬい)という大店に持っていった。番頭が浮かない顔をしているので聞くと、「猫は恐いから飼わない方が良い」、「そんなことは無いですが・・・」、「大晦日の晩に三両が無くなったんだよ。店の者は知らないし、旦那は三両ぐらい良いと言っていたが・・・、元日の夜中ガタガタ音がするので、見に行ったら、用箪笥の鐶(かん)を口にくわえて大きな猫が引っ張っているんだ。錠がかっているから開かないだろう。で、ガタガタやっていたんだな。前の三両を盗んだのもあの猫だと思うから、店の者を起こして棒で叩いて殺しちゃったんだ」。 「殺す気は無かったが、しょうが無いよな。旦那は回向院に葬ってやれと言われたので、これから行くところなんだよ、春早々からね〜」、「見せてください。この猫ですか?」、「そうだよ。泥棒猫だよ。用箪笥に取り付くんだから・・・」、「オッ、コマッ。情けね〜姿になって。これは私の猫です。番頭さん、博打で三両取られ買い出しにも行けなかったが、この猫が三両持って来てくれたんだッ。それで仕入れも出来たんだ」。 旦那に言うと感心な猫だと、5両を持たされ回向院に行って、葬ってやった。そのコマのお墓は鼠小僧の隣に建てられたという。 それからの金さんは酒も博奕もやめて一生懸命仕事に精を出すようになった。やがて大きな店をかまえたが、その店のことを誰いうとなく「猫金、猫金」と呼ぶようになって繁昌し、明治まで続いたとのこと。両国回向院に残っている猫塚の一席でした。 ●長命寺 1 東京都墨田区 東京都墨田区向島にある天台宗の寺。山号は宝寿山遍照院(へんじょういん)。本尊は阿弥陀如来。隅田川七福神巡りの一つ弁財天を祀る。寺の開基は明らかではない。江戸前期ごろまでは宝樹山常泉寺と称していたが、3代将軍徳川家光(1604―51)が鷹狩りにきて腹痛をおこし、寺の般若(はんにゃ)水で薬を飲んで治ったことから以後長命寺と改号したという。江戸時代の本堂は1855年(安政2)、1923年(大正12)の二度の大地震によって焼失した。雪見の名所として名高く、芭蕉の「いざさらば雪見にころぶ所まで」の句碑をはじめ、歌碑、人物碑などの石碑が40余りある。また江戸のころから伝わる門前の桜餅は有名。 ●長命寺 2 浅草駅から15分ほど歩いた隅田川東岸にある寺院。起源は不詳だが、3代将軍徳川家光が鷹狩りの際中に体調を崩して長命寺で休息し、境内の井戸水で薬を飲んだところすぐに回復したため、井戸水が『長命水』と名付けられ、寺号を『長命寺』としたと伝えられている。隅田川七福神の弁財天担当で、琵琶湖の老女弁天を分霊している。江戸時代は雪見の名所として多くの人が訪れていた。松尾芭蕉もここで一句詠んでおり、境内には雪見の句碑がある。近くには『言問団子』や『長命寺桜もち』があるのであわせて寄りたい。 ●宝寿山遍照院長命寺 3 (通称:風流寺) 長命寺の起源に関しては、寺伝によると「当寺は元和元年頃の中田某の檀那寺なれば、その頃の建立に係るものならん」……とあり、村内一宇の道場として小庵が存在していたものと思われる。しかし開山については定かではないが、「長命水石文」には「当寺いにしへは、宝樹山常泉寺と唱し道場なり」とあり、三代将軍徳川家光公が、当地に鷹狩りに来た際、腹痛を起し、住職の加持した庭中の般若水(井戸水)で薬をのんだら痛みが止まったので、以後長命寺と呼ぶように改号されたのである。もと東叡山寛永寺の末寺に属していたが、今は比叡山延暦寺を本山としている。 江戸時代の本堂は安政2年の大地震に焼失してしまい、明治になっても復興はなかなか困難を極めた。麻布の武家屋敷を移築させてこれを本堂とし、明治時代に及んだ。仮堂ながら風流な造りが当地と似合った。この堂も大正12年の関東大震災にて再び焼失し、本尊の阿弥陀如来は、からくも難をのがれて現在に至っている。 また境内には芭蕉堂、観音堂、弁天堂、稲荷社、地蔵堂、般若堂等の諸堂があったが、いずれも震災で焼失してしまい、そのご尊像のみ難をのがれた。 芭蕉堂は芭蕉像を安置したお堂で、宝暦年間に自在庵祇徳の建立による。近くに芭蕉の句碑「いささらば雪見にこ路ふ所まで」も残されている。特に雪景色が有名であったため詠まれた句であり、向島の地が風雅な趣きを持っているところによる。 江戸時代末期、当時の文人墨客達が隅田の地に七福神を設けた。いつの時代でもあることだが福を願う人々が、本来の宗教的要素とは別に、正月の散策を兼ねた信仰が庶民階級の間に広まった。隅田川七福神の内、当寺には弁財(才)天が祀られていて、正月は参詣人で賑わう。 又、江戸時代から門前の長命寺桜餅が有名で、隅田川という絶好な地の利と共に人々に気に入られて今日に至っている。 ●石碑 「いささらは 雪見にころふ 所まて」 松尾芭蕉 「千代迄も 爰に隅田の長命寺 九十九までで 落葉かくとは」 九十九翁長者園 「どのやふ那 なん題目を かけ累とも よむは妙法連歌狂哥師」 蜀山人 「此世をは ど里やお暇に せん古うの 煙りと供に 者ひ左様南ら」 十返舎一九 辞世 「朝霞 引出す牛の御前はへ もふ草も芽を佐ますた堤」 八十三翁 天露道人 「寝て於記て 呑喰ひの業 世苦能娑婆 けふは極楽南無阿弥陀仏」 七十五翁 雪廼屋富士丸 辞世 |
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●奥多摩の民話
●西久保の天狗さま むかし、むかし、西久保には天狗山という小高い山があって、この山には、天狗さまが棲んでいた。日が暮れるころになると、村人をおどかしたり、積荷を背負った馬を追いとばしたして、馬方衆を困らせたものだから、夜などはこわくて、人通りも絶えたという… ●隊道の屁 ちょっとむかしのこと、あるところにでけえ屁をひるじいさまがいた。ある夜更けのこと、親戚から急な沙汰があって隣村まで出かけることになった… ●盗まれた馬頭さま 惣岳河原に臨んだ崖っぷちの道脇に、江戸のむかしからわしらの祖先が愛馬の供養のためにと祀った、馬頭さまがおられた… ●惣岳の大蛇 むかし、むかし、シダクラ谷には大蛇がいると言われておりました。雷が鳴り、風雨のはげしいある晩、谷底からとどろき渡る大音響とともに、その大蛇が姿を現したのです… ●槐木(さいかちぎ) わしは氷川の宿から登りつめた峠に、どっしりと根をおろす、さいかちの木じゃ。大むかしから、ここを通る村の衆のよい目印にされ、それでこの峠に槐木(さいかちぎ)という名がつけられたようじゃ。… ●熊をくすぐる むかし、むかし、このあたりには変わった熊猟があったそうです。熊は冬至のころ、たらふく食いだめると、棲穴で翌春までの冬眠に入るのです… ●熊野神社の熊獲らず 境の集落の山際には、熊の頭がい骨をおさめた、小さな祠の熊野神社があります。この村に入った熊は、決して撃ってはならぬ、食べてもならぬ、というむかしからの言い伝えが、村人によってかたく守られてきました… |
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●きよせの民話
●くろくわ和尚 野塩三丁目の円福寺に、「何事も無駄にならず、何か行動すれば必ずためになる」という励ましのありがたい教訓の昔話が残っています。 昔々、円福寺のある和尚さんが、「朝日さす夕日輝く楠の木の根元に、黄金輝く」という言い伝えを耳にします。誰でもお金が埋まっていると聞けば、堀りあてたいというのが人情でしょう。早速、翌日からあちらの木の根元、こちらの荒れ地と掘り返し始めました。来る日も来る日も「縦九寸横六寸の鍬」(くろくわ)を使って掘りました。 しかし、何日経っても何も出てきません。そうしたある日、ふと顔を上げて辺りを見渡して気が付きました。あの言い伝えは、埋蔵金の在りかを教えているのではなく、どんな荒れ地でも、開墾すればそこは立派な畑や田んぼになり、そこに実った作物は富を産み「宝」となるということを教えていたのです。その後も、和尚さんは荒れ地の開墾に汗を流し、村人たちは親しみを込めて和尚さんのことを「くろくわ和尚」と呼ぶようになったそうです。 ●こわしみず この民話のいわれとなった泉は、JR武蔵野線が敷設された昭和四十八年まで実在しており、整理前の住居標示も清戸下宿字清水(現・旭が丘六丁目付近)でした。 さて、親はききざけ子は清水といわれた「こわしみず」とは。 むかし、清瀬の下宿に働きもののお百姓さんが住んでいました。ある暑い日のこと、お百姓さんは仕事で疲れ、のどもかわいたため、大きな杉の木が二本ある丘へ歩いていきました。そこには、一年中こんこんと水がわき出る泉があるのです。 お百姓さんは、泉の澄んだ水を手ですくって一口飲み、びっくりしてしまいました。甘いお酒の味がするのです。 それからは毎日、仕事を終えると泉の水を飲み、ほろよいきげんで帰るようになりました。 不思議に思った息子が、ある日そっとお父さんの後をついて行くと、なんとお父さんは、にこにこと泉の水を飲んでは酔っていくのです。お父さんが帰った後、息子も泉の水を飲んでみました。 しかし、息子には、ただの水でした。 ●ひいらぎ伝説 中清戸三丁目の志木街道沿いにある日枝神社は、勇壮な清戸獅子で知られていますが、むかしは上清戸・中清戸・下清戸の三清戸の・総鎮守でした。 ひいらぎ伝説は、この日枝神社にあったと伝えられている大きなひいらぎの木にまつわる伝説で、清戸という地名の由来がからんだお話です。魔を除(よ)けるといわれるひいらぎは、今も節分のときなど伝統行事のなかで使われます。 さて、清戸という地名の由来にからんだ、ひいらぎ伝説とは。 むかし、日枝神社には大きなひいらぎの木があったそうです。 大昔のことですが、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東北地方を征服するため清瀬を通りかかり、日枝神社の大きなひいらぎの木の下でお休みになったそうです。 そのとき、日本武尊は、なにげなく足元の土を手にとって、「清き土なり」といったそうです。 それから、この地は「清土」とよばれるようになり、やがて「清戸」と書かれるようになったそうです。 ●ひかる梅 下清戸2丁目の志木街道沿いにある長命寺。そのお堂に祀られている清瀬薬師にまつわる話、ひかる梅は「長命寺文書」に残されています。 さて、清瀬薬師の縁起と薬師如来への信心の大切さを説く言い伝え、ひかる梅とは。清瀬薬師は、元々、新田家に代々伝わる薬師様だったそうです。時の頃は戦国、新田義貞の子義興は、金山城(群馬県太田市)主でした。本来薬師様はお堂に祭るものですが、義興は信心をおこたり、宝蔵の中に仕まい込んでいたのです。ある日の夕暮れ、宝蔵の中から光が放ち、しばらくして消えたので、家来が蔵の中をのぞいてみると、不思議なことに薬師様が姿を消していました。 その夜、敵が攻めて来て城は落ちたそうです。それから長い年月がたち、行春というお坊さんが日夜修行に励んでいると、梅の樹が光り根から薬師様が出てきたので、お堂に祀りました。この薬師様の霊験により、丸薬を調剤したところ大変効力があり、病人を救う薬師様として民衆の信仰を集めました。 その後、再びこの地の古い梅のこずえより発見され、長命寺に祀られたそうです。 ●びわかけの松 昔、目の不自由なびわ法師が、野塩にある円福寺の薬師堂を訪れ、目が見えるように願いをかけました。そして修行に励みながら願いがかなうとされる満願の日を迎えました。おそるおそる目を開けたところ薬師様が見えました。 急いでお堂を出て外を見ると、そこにはあざやかな松の木がありました。びわ法師は、それはそれは喜びました。そして喜びの余り、大事なびわを松の枝にかけたままとびだしていきました。それから、この松をびわかけの松とよぶようになりました。 薬師様は、病をいやす仏様で、とりわけ円福寺の薬師様は目をいやす仏様として厚く信仰されてきたそうです。びわを置いたとされる松は残っていないとのことですが、薬師堂への坂道は二十一段の石作りであったそうです。 ●ぶたい 現在の清瀬水再生センターのあたりは、昔「清瀬村字舞台」という地名でした。 そのあたりが「ぶたい」と呼ばれるようになったのは、次のような伝説に由来があると言われています。 今の下宿のあたりに大きな沼があり、大蛇がすんでいました。 村の人々は、怖がって誰ひとり沼に近寄りませんでした。ある日、ひとりの子どもがひとめ大蛇を見ようとそっと沼にくると、ザザーツという水音とともに大蛇がにゅーっと頭を出し、子どもをペロリとのみこんでしまったそうです。そこで、村人たちは大蛇退治の相談をし、村の長老が「大蛇をおびきだすために踊りをおどろう」と提案しました。村人たちは、沼の周辺の小高いところに踊りをおどるための「ぶたい」を作ろうと、作業にとりかかりました。 「ぶたい」ができあがった日、村人みんなでにぎやかに踊りをおどると、大蛇が頭を出し、村一番の弓自慢の若者が大蛇の頭をもぎとりました。大蛇は、のたうちまわって柳瀬川の方へ逃げていったそうです。 その後、土地の人の話では、人々は「ぶたい」を作った土地を「舞台」、矢の飛んで行った土地を「矢崎」、大蛇の頭の落ちた土地を「井頭」、大蛇が逃げていった土地を「頭なし」という名で呼ぶようになったそうです。 ●一文坂 小金井街道から中里交差点方面へ柳瀬川通りを東に進むと、左に清瀬橋の方へ下る坂道があります。この坂道が一文坂です。坂の途中には「大六天」と刻まれた石塔があり、三島大六天という神様がまつられています。さて、一文坂の由来は。 むかし、中里の村に急な坂道がありました。そこには大変おこりんぼうな神様がいて村の人たちがころんだりすると必ずバチがあたります。ですから村の人たちは、ころばないよう恐る恐る歩いていました。 ある日、瀬戸物を馬に積んだ商人が、この坂道を通りかかり、気をつけながら歩いていましたが、振り返って馬に声をかけたとたん、ころんでしまったのです。商人は困ってしまいました。バチがあたって瀬戸物がわれたら大変です。そこで、商人は一文を取り出して神様に供え「バチがあたりませんように」とお願いしました。すると、バチがあたるどころか、その日は瀬戸物もすっかり売れました。このうわさは村中に広がり、ころんだときは、すぐ一文を供え、バチがあたらないようお願いするようになりました。それから、この坂道は「一文坂」とよばれるようになったそうです。 ●梅坂橋 第四中学校の脇に、梅坂と呼ばれている急な坂道があります。梅坂橋のイラストこの坂をおりきったところに流れる空堀川に橋が架かっています。この橋がいつのころからか梅坂橋と呼ばれるようになりました。 この梅坂橋は、清瀬10景の一つにもあげられている「空堀川と中里緑地保全地域」を一望することのできる橋でもあります。 しかし、この橋にはとても悲しい伝説が伝えられています。 その昔、お梅さんという娘さんがお嫁入りをすることになりました。お梅さんは、このお嫁入りがどうしてもいやでした。そして、お嫁入りの日、思い悩んだお梅さんはこの橋から身を投げて死んでしまったのだそうです。 それ以来、土地の人々は、お嫁入りはもちろんのこと、婚礼にかかわる話で出かけるときは、どんなに遠くなっても梅坂と、この梅坂橋を避けるようになりました。 |
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●小平の昔話
●矢(や)の根石(ねいし) わたしがまだ小さかったころは、小平はほとんどが畑と雑木林だったんだよ。この辺りの土はさらさらで、石が混じっていることなんてほとんどないんだけど、たまに三角の小さな石が落ちていたの。それが、大人の親指の先ぐらいの本当に小さくて、うすべったい石なの。おじいさんは、「これは矢(や)の根石(ねいし)だよ。小平は古戦場だったから、そういうものが落ちているんだ。鍬(くわ)の刃が欠けたら大変だ」と言って、畑の隅にすぐ捨ててしまったんだけどね。 矢の根石は、矢の先につける石(矢じり)のことなんだよ。何百年も前、新田義貞というお侍が鎌倉幕府を攻めるときに、この辺りを通って行ったそうだよ。新田義貞は途中でいろいろな戦いをして、国分寺にあった武蔵国分寺も、焼き打ちしてしまったんだって。矢の根石はその時のものだよって、言われたから、わたしは何十年も信じていたんだけど、それが間違いだってわかって驚いたんだよ。鈴木遺跡資料館へ行ったら、矢の根石と同じものがあってね。そこで教えてもらったんだけど、石の矢じりを使っていたのは石器時代で、新田義貞のころは、もう金属の矢じりだったそうだよ。だから矢の根石は4,000年も5,000年も前のものなんだってね。石器時代の人がこの辺りで狩りをして、放った弓矢の先なんだって。資料館には大昔の石器もあって、獲物の皮をはいだり、切ったりするのに使ったんだってね。そういえば、畑の中から、そんな石も出てきたことがあったよ。その時は、ただの石ころだと思ったけど石器だったのかもしれないね。 小平では大根をたくさん作っていてね。石が土の中にあると、大根が大きくなるときに当たって、二またや三またになったりするんだよ。そうなると売れないし、硬くなって味も悪いんだよ。それでそんな石はみんな、畑の隅に捨ててしまったの。石を捨てた辺りには家がたくさん建ってしまったから、もうとっくに無くなってしまったよね。残念なことをしたよ。 ●亥(い)の子(こ)のぼたもち 大根といえば、こんな話もあるんだよ。 昔、この辺りには亥(い)の子(こ)さまという大きなイノシシがいたんだって。亥の子さまには9匹の子どもがいて、やんちゃで暴れん坊だったの。畑にやってきては、作物の芽を踏みつぶしたり、大根や芋をかじってしまったり、それはそれは大変だったんだよ。この辺りはみんな、農家だったからね。作物を荒らされて、困ってしまって、とうとうみんなで相談したんだって。いつもこんなに畑を荒らされたら、仕事をする気にもなれない、どうしたらいいものかって。それで、ぼたもちをこさえて、亥の子さまに畑で悪さをしないように、お願いに行くことにしたんだって。どうか、このぼたもちを食べて、大事な畑を荒らさないでくださいって。亥の子さまに願いは通じてね、それからは作物が荒らされることはなくなったの。それで、毎年11月9日になると、ぼたもちを作るようになったんだよ。亥の子さまの子どもは9匹だから、9つの大きなぼたもちを作って、重箱に詰めるの。それを畑に持っていくんだよ。 うちでは、そのぼたもちを畑に置いてきたんだけど、そのまま持って帰る家もあるんだよ。知り合いの家では、ぼたもちを大根畑に持っていって、畑の周りをぐるっと回るそうだよ。そうすると大根がぼたもちを見たくて、ぐいっと首を伸ばすんだって。大根がぐんと大きくなって土から持ち上がるんで、抜きやすくなるってことだね。 ほかにも、ぼたもちをみんなで食べている音を聞かせると、それを食べたくて、首を伸ばすっていう家もあるよ。そのときにね、「米かえ、粟(あわ)かえ」って、大声で聞くんだって。「米だよ」って答えると、大根が首を伸ばすんだって。だけど、粟で作ったぼたもちだと、大根が首を引っ込めちゃうんだって。それで、この日を「大根の年取り」って言ったんだよ。 ●お雑煮(ぞうに)とごはん 小平のお雑煮(ぞうに)は、しょうゆ味なんだよ。おもちは四角で、焼いたり、焼かなかったり。それから自分ちの畑の大根やにんじん、里芋、小松菜なんかを入れるんだよ。おもちは陸稲(おかぼ)のもちだったの。小平は水が不自由で、田んぼがほとんどなくてね。陸稲っていって畑で育つ稲を植えていたんだよ。陸稲の米は、田んぼの米に比べて、ぱさぱさして粘りけが少ないの。だからもちをついても、あんまり伸びなくて、今のようには、おいしくなかったね。それでも、おもちはごちそうだったんだよ。もち米は、ごはんに炊くうるち米より、とれる量が少ないから、それだけぜいたくだったんだね。だからお正月にしか食べられないお雑煮は、本当にごちそうだったの。 ごちそうといえば、白いごはんもごちそうだったの。白いごはんは月に1・2回しか食べられなくて、ふだんはお米に大麦を混ぜて食べていたでしょ。それも大麦の方が多いくらいだから、ぽろぽろのごはんだったよ。お正月になると、朝はお雑煮で、昼は真っ白なごはんを食べられるんだから、とても楽しみだったの。 |
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●福生の昔話
神明社(しんめいしゃ)の近くにある小さなお堂(どう)に三体のお地蔵様(じぞうさま)があります。まん中の小さなお地蔵様には、何まいもの前かけやきものがかけられています。 このお地蔵様は「おその」と呼ばれています。おそのさんは幕末の福生長沢(ふっさながさわ:今の神明社のあたり)に生まれ、村山(現在の東村山市、武蔵(むさし)村山市あたり)にお嫁(よめ)にいきましたが、おもい病気にかかっていまい福生に帰って来ました。「私がしんだら、おそうしきなどしないで地蔵にまつってほしい。きっとみんなの病気をなおしてあげる」と言いのこしてなくなったおそのさん。この言いつけをまもりお地蔵様をたてましたが、それがいつしか「おその地蔵」と呼ばれるようになりました。 このお地蔵様は、子どもの病気に効きめがあるとゆうめいで、いまでも多くの人がお参りに来ています。 |
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●狭山の民話・伝承
●黒くなったお地蔵さま 入間川地区 むかしむかし、入間川の宿しゅくに、働者の若者が住んでいました。ところがこの若者には、体いっぱいにイボがあり、これが一番の悩みでした。そして、あまりにもイボが多いので、まだ嫁もとれずに一人者でした。もちろん今までにも大変な努力を重ねて、イボをなくそうとしましたが、今ではもう半分あきらめていました。 そんなある日のことでした。若者は、となりのおばあさんから、近くのお地蔵さまの話を聞き、おばあさんと一緒に出かけました。そして、『どうぞみにくいこのイボが、全部とれますように』と何度もくり返してお願いしたあげく、お地蔵さまの前にあがっていたお線香の灰をイボというイボに塗りつけました。 なんだかそうすると、イボがとれるような気がしたからです。『今日は、大変いい気分になりました』とおばあさんにお礼を言って、家に帰ってぐっすり 眠りました。あくる日の朝若者は、いつもと同じように顔を洗っていて、ハッとしました。昨日まであんなにあったイボが、今朝はもうすっかりとれていました。 おどろいて、体のあちこちをさわってみても、やっぱりイボはありません。もう天にものぼるうれしさでした。『これは、昨日のお地蔵さまのお線香のおかげに違いない』 このうわさは、近郷近在の人たちにパッと広がりました。そのために、このお地蔵さまにお参りにくる人たちは、今までにも増してあとを断たなくなりました。そして、お線香の灰を持って帰る人も増えました。 あとから、あとからやって来る人々が、みんなお線香を供えて行ったので、お地蔵さまはお線香の煙でいぶされて、すっかり黒くなってしまいました。 このお地蔵さまは、今でもうす黒くなって、入間川1丁目の慈眼寺じげんじのうら手の坂を登ったところのお堂の中に立っています。 ●くらの井戸の観音さま 入間川地区 昔のお話です。入間川の田中に「くらの井戸」と呼ばれ、どんなに日でりがつづいても涸かれることのない清水(湧水)がありました。きれいな水でしたので土地の人たちは「くらの池」とか「くらの清水」ともいいまして、米とぎをしたり、飲み水としても使った大切な場所とされていました。 ある日のこと、修行僧が通りかかり渇いたのどをうるおそうと井戸に近づいたところ突然、水の中よりありがたい光が輝きました。修行僧はおどろき手をさし入れましたところ、小さな観音像があらわれました。「これは、何かのお告げに違いない」と、修行僧は土地の人たちと相談しまして、近くの瑞光寺ずいこうじに納めることにしました。観音さまが出た井戸は、ますます人々から親しまれました。 観音像は、今も瑞光寺の観音さまのご胎内仏たいないぶつとして伝承されており、くらの井戸は「清水下公園」と呼ばれ、人々が集う憩いの場になっています。 ●伝・八丁の渡し 入間川地区 鎌倉街道の入間川に「八丁の渡し」と呼ばれるところがあります。大きな橋もなく人々は、川の浅瀬を探しながらの徒歩渡りでした。 昔、木曽義仲きそよしなかが源頼朝みなもとのよりともに討たれます。そのとき義仲の嫡子で12歳になる清水冠者義高しみずのかじゃよしたかは、頼朝の娘 である大姫おおひめの計らいで女装をして入間川まで逃れてきます。そして、八丁の渡しにさしかかったところで、無念にも追っ手によって討たれてしまいます。 入間川の八丁の渡しが義高終焉しゅうえんの地とされ、今も残る国道16号線沿いの「清水八幡」のお社と、奥州道に安置されている「影隠地蔵かげかくしじぞう」には、多くの参拝者が後を絶ちません。 この八丁の渡しは、市内に2ケ所あるとされています。その1つは、子ノ神ねのかみさまを下り、本富士見橋周辺の中島辺りだとか、もう1つは奥富の前田、入間川堤防に建つ九頭龍大権現くずりゅうだいごんげんの石仏辺りから柏原へ渡る浅瀬です。 春の入間川の土手を歩いていますと、周りは緑に包まれ、また、堤内では少年・少女のスポーツが盛んで、明るい元気な声と野鳥のさえずりが聞こえる中での歴史ウオーキングが楽しめます。 ●お諏訪さまのなすとっかえ 入間川地区 なすとっかえとは、農家がその年にとれた『なす』を持って、お諏訪さまのなすととりかえる行事です。そして、この時にとりかえたなすを食べると、一年中病気をしないと いわれています。 このなすとっかえには、入間、広瀬、柏原、入曽、そして遠くは川越や高萩(日高町)の方からも大勢の人達がやってきたそうです。 また、むかしは今のように「七夕まつり」が盛んでなかったので、お諏訪さまのなすとっかえが一番にぎわったと言われています。 そして、子ども達にとっては、境内で行なわれる村相撲が、大の呼びものでした。相撲の前の日には、大人達が入間川の河原から砂を運んで、土俵をつくります。そして、家々はぼんぼりをつけ、ところどころには屋台もでました。 また、なすとっかえのお祭りには、菅原囃子、下諏訪囃子、広瀬囃子、入曽囃子などのにぎやかな鳴りものが入り、舞台もできて、若い衆が歌舞伎芝居をしたと言われています。 そして、なすとっかえの日には、ふしぎと毎年雨がふらずに、よいお天気ばかりだったそうです。 なすとっかえ、それはそれは、にぎやかなお祭りでした。 ●音色のいい鐘 入間川地区 江戸時代のころ入間川にあった綿貫家は、たいへんなお大尽だいじんだったそうです。 〜江戸は綿貫家、北が本間家で大坂は鴻池こうのいけ〜 と唄にうたわれたほどの大金持ちだったそうです。 なにしろ江戸の神田に出店をたくさん持っていまして、旗本衆はたもとしゅうにお金を貸すときは二、三百両はすぐにふところから出したといいます。また、綿貫家の台所にありますお皿やお茶わんを並べますと、家の門から所沢の神明社あたりまでつづいたといいます。 昔のおはなしです。成円寺じょうえんじ※(中央公民館あたりにあったお寺)にある鐘楼堂しょうろうどうの鐘はたいへん音色がよく、聞く人がおもわずその場にたち止まってしまうほどだったそうです。 そのうえ遠くにまでよくひびきわたることでも有名で、一度鐘の音を聞いた人は『いったいどんな鐘だべえ?』とわざわざ見物に来たそうです。そして鐘の音のいい理由を聞いて みんな納得して帰ったそうです。 この鐘は綿貫家が寄進きしんしたもので、鐘を鋳造ちゅうぞうするとき、おしげもなく大判、小判をどっさり焼きこんだからだそうです。 ●沢のお雷電さま 入間川地区 入間川地区の沢という所に、惣門そうもんで有名な天岑寺てんしんじという古いお寺があります。そのすぐそばに「雷電神社」とよばれている小さなほこらがあります。 土地の人は、この神さまのことを「お雷電さま」、「おしゃもじさま」、とか「せき神さま」とよんで親しんでいます。雷電神社とは、もともとこのあたりにカミナリの被害が多かったことから、この地にカミナリが落ちないように、みんなが願ってお祀りした神さまです。ところが、このお雷電さまには、こういう昔ばなしが伝わっています。 むかしむかし、このあたりに百日咳が大流行した時のことです。あるおばあさんが、孫娘の百日咳を治してもらおうと、お雷電さまにお願いしました。 『お雷電さま、どうかうちの孫の百日咳を治してください』 するとどうでしょう。今まで、あんなに苦しんでいた咳が、たちどころに治ってしまいました。このことがたちまち評判になって、遠くの村々の人達までが百日咳きはもとより、咳の病気や喉の病気のお願いにやってくるようになりました。そして、病気が 治った人達は、お礼に鳴りものの笛や太鼓、さらに絵馬やおしゃもじに自分の名前を書いて奉納しました。 奉納された物の中には、江戸や川越あたりの人達の名前もあったといわれています。そして、今でもお雷電さまにお参りにやってくる人が、あとを絶たないということです。 また、雷電神社のすぐそばに「天王さま」のお社があって、毎年7月中旬が、お祭りの日になっています。むかしは、屋根のついたちょうちんが賑やかに飾られていたということです。 ●清水八幡宮大祭 入間川地区 国道16号線、富士見橋のたもとにあります清水八幡宮の大祭は、毎年5月第3土曜日のころ行われます。小さなお宮と境内ですが、大きな銀杏が目印となります。 祭神は、清水冠者義高で、旭将軍といわれた木曽義仲の嫡子です。 義高は比企郡岩殿山大蔵が生まれ故郷といわれ、7ヶ所の清水を汲んで産湯をつかったことから清水冠者、または志水冠者義高と名のったと伝えられています。 義高は源頼朝の命により、入間河原で追手に討ち果たされます。弱冠14歳でした(このとき、奥州道にあります影かくし地蔵の伝説がうまれました)。それを哀れんだ北条政子が祠をたて、供養したのが清水八幡宮のはじまりといわれ、朱塗りの美しい神社で梨原御殿なしはらごてんともいわれました。 何の罪もない義高が討たれたことを哀れみ、今でも無実の罪などで苦しんでいる人がお参りにくるそうです。また、長野県の木曽から義高を偲毎年お参りにくる人もいるそうです。 灯籠絵もたち並び、初夏の風にさそわれ入間川沿いは賑わいます。そして、お祭につきものの下諏訪囃子が心を豊かにしてくれます。 ●綿貫家の井戸 入間川地区 むかしのお話です。入間川の綿貫家といえば、東北の本間家、大阪の鴻池こうのいけ家とともに、唄にうたわれたほどのお大尽だいじんだったそうです。 あるとき、井戸の水をわけてもらいにきた人がおったそうです。すると番頭さんがでてきて 『あー、それはおやすいご用です。わたしの方には四つの井戸がありますが、どの井戸をつかいますか』 その井戸といいますのは、一つめは隠居場いんきょばのあったところで、現在の図書館の下あたり、二つめは狭山市駅前の八百屋あたり、三つめは綿貫家の墓地(現在は移転しました)のあたり、四つめは徳林寺とくりんじのあたりだったといわれております。 いまさらながら、そのスケールの大きさにはおどろかされたということです。また、ぶっこし【一揆いっき】があったとき、綿貫家では、四つの井戸の中に金銀を隠しておき、家財道具は天岑寺に預けて無事だったことから、お礼にと『葷酒くんしゅ山門に入るを許さず』という石碑を奉納しました。今も参道の入り口にたっています。 ●入間川の大ケヤキ 入間川地区 むかしむかしのおはなしです。入間川の菅原(現在の祇園)という所にある白山神社の境内には、それはそれは大きなケヤキがありました。 この大木は、樹齢じゅれいが700〜800年以上もたっていて、太い幹みきから張り出した枝は、4キロメートルほどはなれた家までも日かげにしたそうです。また、春先の新芽がふく頃ともなると、大ケヤキの水を吸い上げる音が、あたり一面にひびきわたり、夜などは、うるさいくらいでした。 これほどの大ケヤキでしたので、白山さまのケヤキは、関東の三大ケヤキの1つに数えられ、遠くから見物の人たちが来るほどでした。しかし、この大木もある事情で伐きらなければならなくなりました。 いよいよ大ケヤキを伐る日には、大勢の職人さんが出て、やっとの思いで切り倒しました。そして、太い幹は船をつくる材料として高い値段で売られ、枝はいろいろな家具をつくるのに使われました。しかし、大ケヤキを伐ってからしばらくたったある日に、大火事が起こり、りっぱだった神社も焼けてしまいました。 人々は、この火事が、大ケヤキを伐った祟たたりだとたいそう恐れました。この大ケヤキの枝で作った大うすが、今も残っているそうです。また、この白山さまは、眼の病と虫歯にご利益があるといわれ、お九日くにちのおまつり(10月19日)には病気の治った人々が、萩の幹でつくった100膳の箸をお礼として奉納ほうのうしたといわれています。 ●市場の荒神さま 入間川地区 新緑のやわらかい風がここちよい5月1日、祇園にあります三柱神社みはしらじんじゃの例大祭が行われます。通称『市場の荒神さま』と呼ばれておりますが、これは昔、加藤清正公の末裔まつえいで加藤太郎左衛門という人が当地にこられた時、三宝荒神さまを奉祀ほうししたからであると伝えられています。 よく掃除された境内にはダルマ、焼きそば、植木、農具といった露店が数軒出ておりまして、けっこう賑っていました。 この荒神さまは、養蚕ようさんの神さまとしてあがめられ、繭まゆがあたりますように(豊作)と日高市、入間市あたりからも養蚕関係者や農家がお参りにやってきたそうです。 「昔は、ツゲの木に白と黄色のダンゴをさしたのをいただいたもんだ」 と、おばあさんがなつかしそうにおしえてくれました。ダンゴは繭の豊作と病気をしないようにと縁起ものだそうです。 この小さな神社には伝説も多く、神社の裏手には小さな塚があり、白いヘビが来るとか、塚を掘ると病気になるとかいわれています。 また、この塚が『将軍塚しょうぐんづか』とも呼ばれるのは、昔、新田義貞公滞陣の地であったからだといわれているのです。境内にはなぜか『古池や、蛙飛び込む水の音』の句碑くひもあります。 この神社の祭礼と同日時に青梅市の今井にあります三柱神社でも養蚕守護のお祭りが行われ、やはりツゲの木にダンゴをつけた縁起ものがあるそうです。ただ、こちらのダンゴの色は赤、黄、青だったそうです。※現在は神事のみ行われています。 ●狭山の長者伝説 入間川地区 狭山市は、昔、入間川とよばれる宿場町として大変栄えました。 そのころ、綿貫様という長者どのがおりました。大きな屋敷には4か所の井戸を持ち、異変のためにたくさんの抜け穴が掘られました。 現在の中央図書館前の道を「山下通り」・・・この「山下」は、綿貫家の屋号で、江戸の上野にも「山下」の地名をつくったそうです。入間川を本拠地として、江戸の神田周辺にたくさんの店や蔵、土地を持っていたことから、江戸の綿貫家、北の本間家、大阪の鴻池と、唄にうたわれるほどのお大尽でした。 入間川宿から江戸までの道のりでは、一歩たりとも、他人の土地を踏まずに行けたといわれ、綿貫家の台所にある皿や茶碗を全部並べると、家の門から所沢まで続いたともいわれています。また、綿貫家のいろりは、それは大きく、そばに9尺2間の屏風が置かれていたそうです。 江戸の神田には、毎日70人からの食客があり、角力取すもうとり、役者、絵師が寄食していたり、大名、旗本衆に大金を貸したりしていました。 そんな長者伝説の遺跡が残る入間川は、歴史の1ページを飾る貴重なところです。 |
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●七曲の井と観音堂 入曽地区
昔のお話です。武蔵野台地であるこのあたりは水にたいへん苦労してきたところです。ある大かんばつにおそわれた年のことです。村人はこまりはてて、観音堂のご本尊である聖観世音しょうかんぜおんさまに一心に祈りつづけましたところ、古老に『御堂の横の古井戸を掘ってみよ』と夢のおつげがありその通りにしました。すると井戸の底より水が湧きだし人々はうるおったそうです。 また、この御堂は毎年1月11日がお祭りで、馬が五色の布でかざられ、鈴をならし御堂を何度も まわったそうです。今は馬は出ませんが入曽囃子が奉納され、常泉寺の住職が護摩ごまをたきます。 ●帰ってきた夢地蔵さん 入曽地区 信州(長野県)の小諸 、千曲川のほとり、湯の瀬温泉に安置されていました、通称「夢地蔵さん」。その昔は南入曽の大日堂に安置されていたもので、平成7年ごろようやく信州から里帰りしたのです。 ある人が、お地蔵さんのお告げにより、みごと信州の地に温泉を掘り当てたのだそうで、このことが大評判となり、お地蔵さんは小諸に居ついてしまったのです。 ところがお地蔵さん、やはりふるさとの南入曽が恋しくなったのでしょう、大勢の人たちのお力により、帰ってまいりました。 すると、人々の切ない夢や希望を叶えてくれるという伝説をたよりに、大勢の人が願掛けに来たそうです。 もちろん夢は、その人のたゆみない努力によって叶えられるものですが、お地蔵さんに願を掛けることにより、手助けも望めるでしょう。入曽地区には、荒縄で願を掛ける「化け地蔵さん」もあります。庶民を温かく見守るお地蔵さんに、そのうち新たな現代の民話が生まれるのでしょうか。 ●南入曽のおさるさん 入曽地区 南入曽の入曽用水路の近くに「青面金剛 」と彫られた小さな石仏が立っています。 近所の人たちは「おさるさん」と呼びまして親しんでいます。青面金剛とは、庚申さまとも言われ「見ざる、聞かざる、言わざる」の三匹のさるが彫られたものが一般的ですが、ただの文字塔もあります。 むかしから南入曽では、子ども達が「はしか」に掛かったときは、すぐおばあちゃんが『なら、おさるさんにお願いに行くべえか』と言いまして、泥のだんごを作っておさるさんにお供えします。そして、無事に全快したときは、お礼に白い米のだんごをお供えしたそうです。 今もおさるさんには、しめ縄やだんごが置かれていて、庶民信仰の深さがしのばれています。 ●歯いたどめの神さま 入曽地区 北入曽の旧鎌倉街道沿い、七曲井のある観音堂から野々宮神社に向かう道端に、めずらしい「歯いたどめの神さま」が立っております。 昔、村にはお医者もおらず、何かあったときには遠くの町まで行かなければなりませんでした。そこで、病で苦しんでいる人たちは、道端のお地蔵さんや馬頭さんに願懸けをすることがありました。 ある親子がいまして、子どもの偏食がひどく、甘いものばかり食べていましたので、とうとう虫歯になってしまいました。『そんなときは北入曽の歯いたどめの神さまだ』と、おばあさんに言われまして願懸けに行くことにしました。そこに行くときは、必ず自分の使っているお箸はしをもって行くそうです。そして何日か願を懸け、無事、歯の痛みが治りましたら 『おかげさまでよくなりました』とお礼を述べて、お箸を倍にしてお供えするのだそうです。 この神さま、よほどご利益があると見えまして、今も小さな石の祠の前には色とりどりのお箸がいっぱい供えられております。そして、祠の中には、なぜか「水神さま」と「稲荷さま」の二柱ふたはしらがまつられています。 ●不老川のお話 入曽地区 北入曽を流れる不老川(としとらずがわ)は伝説の川として有名ですが、川の周辺にもたくさんの伝説が語りつがれています。 昔は蛇行していた川で、上新田の『べえっくび』といわれる小さな淵は、地下水が入間川の鵜ノ木までつながっていたといわれ、縁起のいい白いヘビがいたそうです。 不老川は一名「大川」とも呼ばれ、近くを流れる入曽用水いりそようすいを「小川」といって、二つの川を「親子川」と呼んだそうです。 「小川」のそばには大日堂があって「夢地蔵」という人々の夢を叶かなえてくれるめずらしいお地蔵さんがあったそうです。 「七曲の井」(史跡県指定文化財)のとなりにある観音堂[常泉寺持ち]ご本尊さま(聖観世音菩薩)に水不足でこまっていることをお願いしたところ夢つげがあり古井戸を掘ったところ清水がコンコンと湧き出たという話しがあります。 金剛院と入間野神社では毎年10月中旬には、雨ごいや疫病をたいさんさせるための獅子舞が奉納されます。これを入曽の獅子舞といいます。 野々宮神社には「日本武尊」の言い伝えがあり、神社の手前には「歯いたどめの石仏」の赤い祠があります。中には水神さまと稲荷さまが安置され、お箸をもってお願いにいくと不思議と歯いたがなおるといわれています。 そして、山王小学校の近くには名高い「化け地蔵さん」と女性の信仰が厚かったといわれる山王橋の「山王さま」があります。 ずっと下って鎌倉街道が通る橋に「権現橋」があります。橋のたもとには、文字塔の石仏で奥武蔵にある子ねの権現さまが祭られており、ワラジを持っていってお願いすると足腰がじょうぶになるという伝説があります。 |
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●堀兼の井かいわい 堀兼地区
堀兼神社にあります「堀兼の井」は、古くから歌人に詠まれた場所として有名です。 『武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり』俊成 『くみて知る人もあらなん自づから 堀兼の井のそこの心を』西行 不老川(としとらずがわ)にかかる権現橋から新河岸街道をのんびり歩きますと、途中に弁財天の石仏[元禄13年(1700)]がたっています。 そこより雑木林の方へ歩を進めますと、林の中はまさに国木田独歩の「武蔵野」の世界です。県選定の“自然の森”になっているところで四季を通じて、その変化の美しさに感動するでしょう。 この辺りより望む堀兼神社こそ、古歌の心にひかれる場所ではないでしょうか。また、元弘3年(1333)の昔、分倍河原で戦って大敗した新田義貞軍が「いったん堀金さして退いた」と『太平記』にあります。 ちなみに堀兼神社の前を通る道は古来より『鎌倉街道』といわれています。 ●お乳のでる井戸水 堀兼地区 堀兼の青柳に「釈迦堂」がありますが、このお堂の境内にある井戸の水を飲むとお乳の出がよくなるといわれております。 昔のお話です。川越からやってきた利白和尚(りはくおしょう)という徳のたかい僧がなくなるとき、『この地に釈迦如来の石像をつくり安置すれば、どんな願いごともかなうであろう 。』といったそうです。 その後、近くにすむ若夫婦に赤ちゃんができましたが、お乳が出なくてなやんでいました。こまったときの神だのみと、うわさで聞いていました釈迦如来に3・7の21日間お願いしました。 そして満願の夜、若夫婦の夢まくらに利白和尚があらわれ 『なんじらのこまりごとは、釈迦堂の境内の井戸の水で乳房を洗い、井戸の水を朝・夕飲めば、よいお乳が出るであろう。』 お告げのとおりお乳がたくさん出るようになり、子どもはどんどん成長して、幸せになったということです。 ●3体のお地蔵さん 堀兼地区 むかしむかしのお話です。堀兼の加佐志には「耳だれ地蔵」とよばれる、有名なお地蔵さんがあります。 そのすぐそばに、3体のお地蔵さんが立っておりますが、このお地蔵さんは、村の災難を救ったということで、大変感謝されております。 ある年のこと、加佐志あたりに、はやり病がひろがり、良く効く薬も無く、困り果てました。村の古老に相談しましたところ 『由緒ある地蔵尊が、石橋の下に埋もれている。これを掘り起こせば、たちどころに病はおさまるであろう。』とのお告げがあったそうです。 さっそく橋の下を掘り起こしますと、どうでしょう!りっぱなお地蔵さんが、3体もあらわれましたので、さっそく丁寧に安置いたしました。すると、たちどころに病気は下火となり、村には平和がもどったということです。 このお地蔵さんには、「加佐志」のことを、「風下」と刻まれているそうです。 ●せんちゃん地蔵さま 堀兼地区 青柳地区を流れている小川のそばの辻に、小さなお堂が建っています。そして、このお堂の中には、「中橋地蔵尊なかはしじぞうそん」というちいちゃなお地蔵さまが、ちょこんと立っています。ところが人々は、このお地蔵さまを中橋地蔵とは呼ばずに、だれもが 『せんちゃん地蔵』と呼んでいます。 そのいわれは、むかしむかし、お地蔵さまのすぐそばに、小さな茶店がありました。そして、茶店で売っていた焼きだんごも『せんちゃんだんご』と呼ばれ大そうな評判でした。 旅の人たちも、かならずここに立ち寄って、お地蔵さまに旅の無事を祈り、茶店でせんちゃんだんごを食べて、また旅を続けました。 せんちゃんと呼ばれるのは、実は茶店のおじいさんが『せん松』という名前だったからなのです。せん松さんは、若いころに青柳へ引越してきましたが、そのころにはあたり一面背たけよりも高い藪(やぶ)が茂っていて、川には土手もありませんでした。『これじゃあ、みんなが困るべぇ』とせん松さんは、まず草を刈り、次に川のふしん(工事のこと)にとりかかりました。その時に掘り出したのが、このお地蔵さまでした。 それからは、だれいうとなくこのお地蔵さまを『せんちゃん地蔵』と呼ぶようになりました。特にこのあたりは、おかいこさまや野菜を出荷する時には、入間川へ行く大八車をつくり、茶店も繁盛したそうです。 しかし、今は大八車が自動車になり、道もりっぱになったため、人通りがまばらになり、とうとう茶店もなくなってしまいました。しかし、せんちゃん地蔵だけは今も残っています。 ●第六天さまの狐 堀兼地区 むかしのおはなしです。堀兼の青柳に住むある男が、川越の新河岸へと、大八車に荷物をいっぱい積んで出かけました。 第六天の林の中を通ったそうです。その時は、とても急いでいましたので、サッサとかけぬけたそうです。 林の中は杉の木が立ち並び、昼でもなお暗いところでした。やがて仕事も終わり、帰るときは日も暮れ、月がでていました。 第六天の林の中から家の明かりがチラチラ見えましたので、『やれやれ!ひと風呂あびて、一杯やるべぇ!』と、少し足を速めました。ところが、歩いても歩いても、明かり は遠くなるばかりで、家にたどりつきません。 気が付いてみると、なんと、新河岸にもどっているではありませんか。男は立ち止まり、一服つけて考えました。『そうだ!おら、今朝方あわてていたんで、第六天さまに挨拶しなかったべぇ!これは、第六天さまの狐のしわざにちがいなかんべぇ!』と気が付き、おおいに後悔しました。 それからは、林の中を通る時は『第六天さま』と言って通るようになったそうです。 ●堀兼の六地蔵さん 堀兼地区 旧川越街道・北入曽と堀兼の境の辻に、市内でもめずらしい六地蔵さんがたっております。正式には石幢六地蔵菩薩せきどうろくじぞうぼさつと呼ばれ、六角の面それぞれに、お地蔵さんが彫られています。 六地蔵とは、この世で犯した罪のむくいに、死後、閻魔大王のさばきにより、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六つの世界に落ちて罪のつぐないに、長い苦難の歳月を過ごすと、信じられておりました。そのときに、救いの手をさしのべるのが、六つに分身した、お地蔵さんだそうです。 昔、大八車にたくさんの荷を積んで、行きかう人々も、辻のお地蔵さんまで来ると、『あー、お地蔵さんだ、ここまで来れば、もう安心だべ!』といって手を合わせて通りすぎていったそうです。近所の子ども達も、六地蔵さんの前で遊んでいる分には、大人たちも安心して、仕事に精が出たそうです。 街道も広がり、車の往来の激しくなった現在も、この六地蔵さんの前では、大きな事故が起こらないのだそうです。 この六地蔵さんは、貞享3年(1686)に造られたもので、今も小さなお堂の中に安置され、人々の安全を見守りつづけております。 ●ほっぽられたお地蔵さま 堀兼地区 むかしむかし、まだ堀兼のあたりの開拓が、始まりだした頃のお話です。その頃の堀兼は、人家も少しずつ増えてきて、小さな村ができ始めていました。 そんなある日のこと、そのころ『小江戸』といわれていた川越から一人のお坊さんが、堀兼にやってきて、小さなお堂をつくりました。それは、このあたりで、初めてできたお寺でしたので、大勢の人たちが集まり、たいそうにぎわったそうです。 しかし、時が経つにつれて、お坊さんの気がゆるんだのか、だんだんいばりだしてきて、とうとうお坊さんにあるまじき事をするようになってしまいました。 そして、いつの間にか土地の人たちとのもめごとが絶えないようになり、やがてお坊さんは、土地を追われるようになってしまいました。その時、お坊さんは川越から持ってきた石のお地蔵さまをせおって帰ることにしました。ところが、いざせおって歩きだすと、お地蔵さまがあまりに重くて、とうとうお地蔵さまを途中の道ばたにほっぽり投げてしまいました。 そのときのお地蔵さまは、今も『かみや』という所の道ばたに立っているそうです。 ●第六天のキツネ 堀兼地区 市内六地区には、キツネにまつわる昔話が多く語られています。 昔々のお話です。 堀兼、青柳の第六天あたりは、松や杉の生い茂るところでした。 福原(川越市)からやってきたおばあさんが、このあたりを通りかかったとき、キツネが杉の根元にある稲荷さまの祠ほこらで寝ているのを見つけました。おばあさんは、いたずら心で小石を投げると、キツネは飛び上がって逃げていきました。 用事も終わり、おばあさんが第六天まで戻ってきたときは、すっかり夜になっていました。突然、火の玉が現れ、大きな杉の木の上で、どんどん大きくなっていくではありませんか。おばあさんはびっくり! 近くの家に走り込み、「火事だべえ」と大騒ぎだったそうです。 さて、翌朝、行ってみると焼けた跡は何もなく、松や杉は青々と茂っていましたと。 これは、第六天のキツネの意趣返し。稲荷さまのお使いでも、時々、いたずらもします。 稲荷さまは、五穀豊穣を願う農家の屋敷神として祀まつられています。 |
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●ドンドン焼きのはなし 奥富地区
奥富地区の前田という所では、お正月の14日に「ドンドン焼き」という子ども達の行事がありました。 師走の中頃ともなると、子ども達は近くの山へ大きいナラの木を伐に出かけます。そして伐った木は、大勢で「わっせ、わっせ」と担いできて、大人達に見つからないように、茶畑の下に隠しておきます。 そして、いよいよ年が明け1月の14日になりますと、お正月に使った門松、シメ飾り、書きぞめ、それに前年のお棚 (年神さま)やダルマなどを家々から持ちより、大八車にのせて村のはずれの田んぼへ運びます。 次に、かくしておいたナラの木を田んぼに運んで、1メートルぐらいに掘った穴に大きい木と小さい木を一本づつ立てます。そして、ワラ 束を木に巻きつけて、よく燃えるようにします。門松、 シメ飾り、書きぞめは、ワラの下へ入れます。 準備ができあがると、小さい木の方に火をつけます。その火が、ドンドン焼きのお知らせになって、 大勢の子どもや大人が集まってきます。そこで、残りの大きい木に火がつけられ、ドンドン焼きはいよいよクライマックスを迎えます。 子ども達は、桑の木にまゆ玉のおだんごをつけて、ドンドン焼きの火で焼いて食べます。こうすると、一年中虫歯にならないといわれています。また、 舞い上がる灰が高ければ高いほど習字が上手になるともいわれています。 こうして、ドンドン焼きは夜のふけるまで、にぎやかに続けられます。 次の日に子ども達は、ナラの木をたおし、マキにして村中に売り歩きます。このお金は、子ども達の遊びの資金にしたといわれています。また、ドンドン焼きで 子ども達にふみ荒らされた田んぼは、その年はかえってよくお米がとれたそうであります。 ●歯痛止めの金山さま 奥富地区 奥富地区の上奥富、梶屋というところの道端に「金山さま」という小さなお社があります。 昔のお話です。ふち端ばたの方に老夫婦とかわいい孫娘が住んでおりました。孫娘はかわいがられすぎたせいか、毎日甘いものばかり食べておったそうです。とうとう虫歯ができまして『ばあちゃん歯が痛いよー』と泣いておったそうです。 おばあさんは『しかたがねえ、ひとつ評判の金山さまに行くべえか』と言い、おじいさんは『じゃあ、金山さまの周りにあるハチス[蓮]の花をとって、それに針を通してお願いするとよかんべえ』と言いました。 さっそくおばあさんは孫娘を連れて金山さまへ出かけて行き、ハチスの花に針を通して、三さん・七しちの21日間、熱心に願掛けをしました。 すると不思議にも、あんなに痛がっていた孫娘の歯痛がケロリと治ってしまいました。無事に治 った場合はハチスの花に通した針を取り除くのだそうです。お礼には、金具で作った鳥居が置かれていたと言います。 金山さまは、『トンテンカン』と金属をたたき、色々な器具を作る鍛冶屋の職人さんたちの守り神だと言われております。 ●火事をふせいだ田にし 奥富地区 むかしのおはなしです。下奥富の吹上にあります亀井神社は田んぼの中にありました。 村では田植えもおわり、ひと息いれ、のんびりとした日がつづいていたある日のことでした。とつぜん神社近くにある家から火の手があがり、おおさわぎとなりました。 『火事だ、火事だ!』 『たいへんだ神社があぶねぇぞ!』 急なことで村の人たちはおろおろと右おう左おうするばかりでした。 『水だ水だ!』 『はやく、はやく!』 火はみるみる広がり神社にまで火がうつろうとしたときです。田んぼの方からなにやら小さな生きものがゾロゾロと神社に向かっていくではありませんか。やがて本殿をグルリと囲み、たてものが 見えなくなるくらいベタベタとくっつきはじめました。そして、火が本殿をひとのみにしようとしたときです。小さな生きものがいっせいに水を吹き出し火を消しはじめました。そのみごとさには村のひとたちも拍手かっさいでした。 無事、神社を火事からまもった恩人をよく見ますと、なんとそれは水田や小川にすむ"田にし"ではありませんか、こんなことがあってからは下奥富では 、けっして田にしをとって食べてはいけないということになったそうです。 ●大芦の神の木さま 奥富地区 下奥富の大芦(おおあし)に大樹寺という古いお寺がありました。 昔のおはなしです。徳のたかいお坊さんが大芦にやって来て虚空蔵さまを安置あんちし、持っていました杖をお寺の境内につきさし、いずこともなく去っていきました。 その杖が不思議にも年々育っていき、しっかりと根をはり大きなケヤキとなりました。それが大樹寺の神の木さまといわれるようになりました。 根っこあたりの大きさは大人が15人、手をのばしてやっとつながるほどでした。また、根っこには、大きな穴がありまして、なんと大人が10人も入れたそうです。それに根っこの穴に湯を入れてお祈りして、その湯を飲みますと万病に効いたそうです。これが評判となり村の人はもちろん、近郷近在の人が列をなしたといいます。 そして、神の木さまの高さといったら、木に登りはじめ中腹あたりで、もう川越の伊佐沼がゆうに見られたということです。 この神の木さまの大ケヤキも、大樹寺も今はありません。 ●塩釜さま 奥富地区 奥富の吹上という所に小さな観音堂があります。そしてこの観音堂の脇には、塩釜さまとよばれる神さまがあります。 この塩釜さまは、むかしからお産(赤ちゃんを生むこと)の神さまとして有名です。また、塩釜さまは本来、塩釜神社といい、総本山は宮城県の塩釜市にあり、むかしから安産の神さまとして、広く信仰を集めています。 奥富では、お嫁さんに行く人や、ほかの所からお嫁さんに来た人は、かならず塩釜さまにお参りをしました。 『どうぞ、よい子宝に恵まれますように』また、『無事に赤ちゃんが生まれますように』とお願いして、塩釜さまの大札や中札、安産のお守り、腹帯、麻、小口、そして、おさご(お米)などをいただいてきたといわれています。 念願がかなって、元気な赤ちゃんが生まれると、きれいに着飾った親子が塩釜さまにお礼にやってきます。 『塩釜さま、おかげさまで無事に元気な赤ちゃん生まれました。どうもありがとうございました。』とお礼をいい、家ではお赤飯を炊いてお祝いしたそうです。 また、塩釜さまは近郷近在(近くの村や町のこと)の人たちからもたいそう信仰され、遠くは八王子のあたりからもお参りにやって来たといわれています。 吹上の塩釜さまには、安産のほかにもいろいろなご利益があり、額や赤いハタ、そしてきれいな絵馬などが納められていました。 また、毎年3月10日ごろには[塩釜講]という女の人たちだけの集まりもあったそうです。 ●キツネのいたずら 奥富地区 たいていの農家では屋敷神として稲荷さまを祭っています。稲荷さまのおつかいのキツネどのがまだまだいばっていたころのお話です。 むかし下奥富あたりが、まだ家も少なく、雑木林と草っぱらが広がりさびしかった頃のことです。 ある日、大芦(おおあし)に住むとうべえさんが青柳の方へお茶っぱを買いに出かけて行きました。話がはずみ、帰る頃にはすっかり日も暮れ、空には星がチカチカしていました。ちょうど五反田あたりを通りかかった時のことです。突然「コーン、コーン!」と板木をたたく音が聞こえてきました。 『はて?』ととうべえさんは立ち止まりました。すると、板木の音がはやくなってきました。「コーン、コーン、コーン!」 『これは大変だ、火事だべぇ!』すると暗やみの中、高張ぢょうちんが浮かびあがり数がどんどん増えてきて、それが波をうつように走りだしました。 『火事だ!火事だ!』と叫びながらとうべえさんも追いかけていきました。 しばらくかけておりますと高張りぢょうちんが一つ、二つ・・・と消えていきます。でも板木だけは「コーン、コーン!」となっておりますので、とうべえさんはなおもかけていきました。その時です。 『おーい、とうべえさん!』と誰かが呼ぶ声がしてハッとして振り返ってみますと、近所の人たちがけげんそうな顔をして立っています。よく聞いてみますと、なんととうべえさん畑のまん中をグルグルとかけまわっていたのだそうです。 これは、五反田にすむキツネのいたずらだそうです。 ●弁天さまの雨もり 奥富地区 昔のおはなしです。下奥富に弁天さまを祀る小さなお社がありました。その近くに大工仕事をなりわいとする「いっつぁん」という正直な男が住んでいまして、日ごろから弁天さまを大事にしてよくお参りに行っておりました。 ちょうど梅雨(つゆ)の季節に入り毎日、うっとおしい雨が振り続きました。そんなある夜のことでした。島田(女性の髪型で島田まげという)を結ったきれいな女の人が「いっつぁん」の夢まくらに現れまして、 『いっつぁんよ 弁天さまの屋根がこわれ、雨もりがひどくて困っておる、どうか直してくれ』と言ったそうです。翌日はやく弁天さまの所へ行ってみますと、女の人が言ったとおりでした。ゆうべのは弁天さまの化身けしんだったのかと念を入れて屋根を修繕いたしました。 その後、「いっつぁん」の家は弁天様を大事にしたおかげで、ますます栄えて幸せに暮らしたということです。この弁天さま、今はなくなりましたが、「弁天通り」という地名だけが残っております。 ●かまってもらえぬ稲荷さま 奥富地区 むかしのお話です。下奥富の前田に小さな屋敷稲荷さまがありました。 その屋敷の主人は、お正月など、特別の日に限っては大変なごちそうを山盛りにおかざりしました・・・が、日頃はあまり稲荷さまをかまいません。それで、稲荷さまをおまもりしているキツネどのは毎日お腹をへらしておりました。 そんなこんなでキツネどのは、夜もふける頃になるとこっそり祠を抜け出しては、食べ物を持って通る人を待ち伏せしては、しっけいしていました。その被害は、日を追って増えてきまして、うわさがどんどん広がり、さすがに屋敷の主人もほうっておけなくなりました。 それからは、お稲荷さまには朝・昼・晩と、かならず食べ物があがるようになったそうです。そして、キツネのいたずらもなくなったとということです。 ●かさもり稲荷 奥富地区 下奥富の大芦の、あるお屋敷の稲荷さまは「かさもり稲荷」と呼ばれ、近郷近在では知らぬ人がいないほど有名です。 むかし、働き者の孝行息子がおりましたが、ただ一つの悩みは身体中におできがあることでした。それで所帯を持つことができません。いろいろな薬をためしてみましたが、らちがあきません。困った末に村の古老に相談しましたところ、大芦の稲荷さまに願をかけてみろといわれました。 『はじめに泥のだんごをあげ、おできが治りますようにと願をかけ、治ったときは白い米のだんごにするべぇ』と教わり、最後の頼みとばかり泥のだんごを持って稲荷さまに出かけました。 願かけは、3・7の21日間、毎日かかさず泥のだんごをあげましたところ不思議にも身体中のおできがとれてしまいました。 それで風習ならわしどおり、すぐに白い米のだんごを持ってお礼に出かけました。それで、かさもり稲荷には、今も泥のだんごと白い米のだんごが置かれているそうです。 ●上奥富のやんめぇばぁさん 奥富地区 上奥富の竹の花に通称「やんめぇばぁさん」と言われているお社があります。 今は、道路脇の崩れかかったさびれたお社になっていますが、むかしは、たいそう栄えていたそうです。 このやんめぇばぁさんには、もろもろの病を治すという言い伝えがあります。特に、目の病気にはご利益があり、願掛けをして治らない人はいなかったという程です。このお社には、こういうお話が伝わっています。 むかしむかし、たいそいう信仰心が厚く、目の病気で苦労したおばぁさんがいました。そして、このおばぁさんが亡くなる時に『私は、目の病気で苦しんだから、目を病んでいる大勢の人を助けたい』と言い残しました。 それを聞いた村の人たちは、ぜひおばぁさんの気持ちを生かそうと、みんなで力をあわせて小さなお社をこしらえました。この話が、たちどころに広がり、近くの村々の人たちが『上奥冨のやんめぇばぁさんは、目が治る』と絵馬やおだんごを持って願掛けにやって来るようになりました。 毎年1月14日のまゆ玉の時などは、近所の人達が木の枝に白いもちをくっつけて、やんめぇばぁさんのお社にお供えしたと言われています。 また、願いごとがかない目が良くなった人は、そのお礼に鳥居を納めたそうです。 このやんめぇばぁさんは、今もみんなに語りつがれている横丁の神さまであります。 ●武蔵野の一本松の道標 奥富地区 むかしのお話です。万葉集にでてくる入間路(いりまじ)は、広い広い荒野でした。江戸時代に入っても雑木林と、ところどころ田畑のある草原でした。 あるとき旅人が通りかかりました。はじめてやってきたらしく道をさがしながら歩いておりました。ちょうど下奥富あたりへきたとき、畑しごとをしている人に道をたずねました。 『越生(おごせ)の方へ行きたいのですが』 『あー、それなら一本松の道しるべを見ればわかるべー』と、道標をおしえてくれたそうです。 それは、武蔵野の一本松の道標といいまして、寛政二年(1790)に造られた石柱でした。 [東 川越一り半、西 扇町屋一り半 八王子拾八り、南 三ツ木□□村武蔵野、北 下奥富入口 柏原生越道] と、彫られています。また、「武蔵野は西も東もわからねど南に北みちしるべかな」と、作者不明のしゃれた歌もあります。 生越(せごし)とは、今の越生町のことで、大きくて彫りもしっかりした道標はめずらしく、現在、国道16号線沿いにたち、市の史跡でたいせつな文化財です。 ●オトウカさまのいたずら 奥富地区 オトウカとは「稲荷さま」のことで、稲荷神社のお使いはキツネだそうです。それでキツネのことを狭山辺りでは、オトウカさまといっています。 昔のお話です。 下奥富の前田に住む、おじいさんが畑での仕事も終わり、夕暮れ近くなったので、のんびりと篭を背負って、夕焼けを眺めながら帰りかけたときのことです。 周囲が急に薄暗く、どこからともなく、水があふれ出てきました。 「ウワァー!こりゃあ、なんだべえ?」 慌てて尻をまくって、水の中で右往左往しながら、「深い、これは深い!誰か助けてくれー」と大声で叫んでおりました。 後ろの方から、「おーい!おじいさん、なにをやっとるべえ?」 ハッと我に返ったおじいさんは、なんとソバ畑の中を歩いておったのでした。 これは畑に住む、いたずらなオトウカさまに化かされたのです。 そんなことがあってから、おじいさんは、畑の仕事は朝のうちに済ませるようになったとのことでした。 |
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●耳のお地蔵さま 柏原地区
むかしむかしのお話です。柏原の中本宿にある古いお寺のそばに、あぐらをかいて、片手で耳を押さえている、ちょっと風変わりなお地蔵さまがありました。 初夏の太陽がカンカンとてりつけるあるあつーい日に、となり村に住んでいるおじいさんが、このお地蔵さまのまえを通りかかりました。このおじいさんの耳は、若いころには良く聞こえていましたが、今ではよる年なみには勝てずにすっかり聞こえなくなっていました。 おじいさんは、お地蔵さまに気づいて『おーお、お前さまも耳が悪いのかね。頭巾もかぶらねえでお天道てんとうさまにこうジリジリあぶられちゃあ大変じゃわい。かわいそーに』と言って小川から冷たい水をくんできて、お地蔵さまの頭や体を冷やしてあげました。 そんなことのあった次の朝のこと、おじいさんは『おじいさん、おじいさん』と言うおばあさんの声にびっくりして目をさましました。 不思議なことに、今朝はおじいさんの耳がすっかり聞こえるようになっていました。別に医者にみてもらってわけでもなく、薬を使ったこともなかったので、いろんなことを思い出してみると、きのうお地蔵さまにしてあげた親切を思い出しました。 『こりゃあきっとお地蔵さまのご利益だべえ。聞こえる、聞こえる。ばあさんの声が。お地蔵さまありがとうございました。』 この話が大評判となって、たくさんの耳の悪い人々が、このお地蔵さまに願かけに来るようになったということです。 今もこのお地蔵さまは、円光寺の山門の裏にちょこんとすわっています。 ●荒縄でまかれたお地蔵さん 柏原地区 村のはずれにたっているお地蔵さんは、いつもニコニコとしたお顔で、困っている人々の願いをかなえてくれていたそうです。 昔のお話です。身体中にイボができて、困っていた男がおりました。医者にも行った。薬もぬった。おまじないもしてもらった。でも、どうしてもイボがとれません。 そんな時、柏原の上宿、上沢にあるお地蔵さんに御利益があるということを聞き、やって来ました。見ていると、子どもたちがお地蔵さんに向かって、一心に何やらお願いをして、荒縄でグルグルと巻きはじめたではありませんか。 男が不思議に思い、たずねますと、「このお地蔵さんは荒縄でしばってお願いすると、何でも聞きとどけてくれるべぇ!」「なるほど、ところ変わればなんとやら…」男もすぐに荒縄を巻き、願を掛けました。 すると、あら不思議、みごとにイボが全部とれました。めでたし、めでたし!このお地蔵さん、子どもの病気にも御利益があり、いつも荒縄が巻かれていたそうです。 ●影かくし地蔵さま 柏原地区 水富の上広瀬という所に、奥州道といわれている昔からの街道があります。そして、この道ばたには「影隠地蔵(かげかくしじぞう)」とよばれる古いお地蔵さまがポツンと里を見守っています。 このお地蔵さまには、こういうお話が伝わっています。それは、むかしむかし、源氏と平家がさかんに戦争をしていた頃のことです。 木曽義仲の長男の清水冠者義高は、鎌倉の源頼朝への人質になっていました。ところが、義高のお父さんの木曽義仲は、寿永3年(1184)に、源頼朝の命令を受けた源義経の手でほろぼされてしまいました。 義仲をほろぼした頼朝は、次に人質の義高を殺すことにしました。殺されることを知った義高は、義理のお母さんの北条政子のはからいで、女の子の姿をして夜に、そっと鎌倉を逃げ出しました。 義高は必死に走りました。府中から所沢をとおり、やっとのおもいで入間川を越えました。 これでひと安心と、後ろを振り向くとどうでしょう。鎌倉からの追手が馬をとばして、ぐんぐん近づいてきます。逃げる義高。馬で追う荒武者。義高は必死に走り、奥州道までたどりつきました。しかし、いくら走っても馬にはかないません。間一髪のところで義高は、道ばたのお地蔵さまを見つけました。 『お地蔵さま、どうぞ私を助けてください。』とお地蔵さまの後ろに姿をかくしました。すると、不思議なことにあれほど近づいていた追手も義高を見失ってしまいました。 清水冠者義高は、このお地蔵さまの慈悲(あわれみのこと)によって危ないところを救われたそうです。 また、このお話とは別に、入間川3丁目の本富士見橋脇には、清水冠者義高が、この地で討たれてしまったとする史実に基づき、義高をまつった「清水八幡宮」というお社があります。 ●柏原のだんご坂 柏原地区 市内の入間川をはさみ、右岸左岸には、いくつかの坂道があって「ごろー坂」「ごへい坂」「石無坂(いしんざか)」「中の坂」などとめずらしい名前のついた坂道がありますが、柏原にもちょっと変わった名前の坂道があります。 白鬚神社の前の道で下宿から上宿への坂道ですが、鯨井、笠幡へとつながる道ですので通行人も多かったようです。 坂をのぼりきったわかれ道には、庚申さまと焼だんごを売る店がありましたので、馬方や旅人がひと休みをする場所としてたいそうにぎわっていたそうです。 そんなことから誰からともなく、『あの坂にだんごを売る店があるからだんご坂だべえ』と呼ばれるようになりました。また、『だんご坂のだんごはうまかんべえ 』と評判になり、遠くからもだんごを買いに来る人も多かったそうです。 このだんご坂のすぐ脇には大きなくぼ地がありました。それが人の足あとのような形をしていたことから、『だいだらぼっち(山をつくる神さま)の足あとだべえ 』と言われ、「だんご坂のだいだらぼっち」としても知られるようになり、わざわざ遠くから見物に来る人もあったそうです。 ●甲斐屋坂の話 柏原地区 柏原の下宿に「甲斐屋坂(かいやさか)」と呼ばれている、細く、急な坂道があります。 この坂道には、こんなお話が伝えられています。 昔々、甲斐の国(現在の山梨県)から戦にやぶれた落人がこのあたりにやって来て、田畑を耕し、道を切り開き、いつしかこの地に住みつくようになりました。 そうしたことから、人々は、この地にある坂道を「甲斐屋坂」と呼んだそうです。また、柏原から甲斐の国まで通じている坂道ということからも、この名前がついたといわれています。 「甲斐屋坂」の下あたりには、以前、石のお地蔵さんがたっておりました。これは「耳だれ地蔵さん」と呼ばれ、耳の病によく効くお地蔵さんだったそうです。そして、このお地蔵さんに願掛けに訪れた人々は、必ずタカズッポ(竹筒)を供えていったため、その量の多さにお地蔵さんが見えなくなるほどだったそうです。このお地蔵さんは、現在、円光寺に安置されているそうです。 柏原には、このほかにも、信濃坂や影隠地蔵(奥州道交差点付近)など、狭山の地名ではめずらしい名前の坂道やお地蔵さんが残っています。 |
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●眼に効く薬師さま 水富地区
昔のお話です。水富の根山の方に、それは働き者のおばあさんと孫娘が住んでおりました。朝は日の出とともに、孫娘と畑に出て、日が西の山に沈むまで畑を耕し、その日を暮らしておりました。 ある日のことです。孫娘の着物がほころびていましたので、おばあさんが早速縫いつけようと針に糸を通そうとしました。ところがです。何度やっても針の穴が見えず、糸は通りませんでした。眼が弱ったことを知ったおばあさんは、すっかり自信を失い、畑仕事も休みがちになってしまいました。 そんな時、上広瀬本宿の小川のそばに眼病に霊験れいけんあらたかなお薬師さまがあるということを聞きつけた孫娘は、すぐおばあさんをつれて願かけに出かけました。二人が毎日、熱心におすがりしたおかげで、あんなにかすんでいた眼もよくなって、針に糸が通せるようになり、おばあさんと孫娘は以前にもましてよく働くようになりました。 この薬師さまは「堀口薬師」で、ご本尊は木造薬師如来立像です。あるとき火災により、堂はすべて焼失しましたが、ご本尊は無事でした。ご先祖様が新田義興の家臣かしんであったので「新田の薬師さま」とも呼ばれ、毎月12日が縁日になっています。 ●赤稲荷さま 水富地区 下広瀬の入間川沿いの田んぼの中にこんもりとした塚があります。塚のうえには、小さな鳥居とお社がありますが、これを通称「赤稲荷(あかいなり)さま」と呼んでおります。 稲荷大明神のお使いはキツネで農作物の神さまといわれております。そして、狭山周辺ではキツネのことを「オトウカ」ともいって、たくさんの伝説が語られています。 とくに、オトウカの嫁入りの話は有名で入間川の土手あたりではよく見られたそうです。まず赤い灯が1つともり、あっというまに数がふえ、しばらくするとその灯が波のように上下しながら流れるように横にうごいていくそうです。それは、まるで嫁入り行列のようだといいます。 また、この塚のことを証文塚ともいいます。むかし入間川が氾濫したとき、境界が不明になることから塚をたて証拠にしたものといわれています。「蕪榎(かぶらえのき)」と「馬頭観音」、「赤稲荷」の3ヵ所がその名残りで、入間川と並行して築かれています。 ●ぶしゅうさま 水富地区 むかしむかしのおはなしです。水富の笹井あたりには、よいお米がたくさんとれる水田が、あたり一面に広がっていました。ところが、いつの 頃からか秋になると毎年、大雨がふったり、大粒の雹ひょうがふったりして、せっかく豊かに実った稲が折れてしまい、大切なお米が、とれなくなってしまいました。 お農家さんたちは、たいへん困り、近くの宗源寺そうげんじというお寺の和尚さまの所へ相談にいきました。 「和尚さま、そういうわけでみんな困ってるだ。どうしたらよかんべえか」 すると、和尚さまは「それはお困りでしょう。ならわしのいうとおりにしなされ」と言って、いろいろと教えてくれました。そして、小さなお堂をつくり、そこでご祈祷きとう 【お祈りをすること】をしてくれました。 すると不思議なことに、次の年からは、大雨や雹の被害がなくなりました。喜んだお農家さんたちは、それから毎年かかさずにご祈祷をしていました。 ところがある年のこと、どうしてもお堂をほかの場所へ移さなければならなくなりました。「大切にお移しすればよかんべえ」とみんなでお堂をほかの場所へ移したところ、その年の とりいれの頃になると、たちまち大嵐がおこり、大きなカミナリがとどろいたかと思うといきなり大粒の雹がバラバラふってきて、とうとうその年は 一粒のお米もとれませんで した。 おどろいたお農家さんたちは、気持ちを新たにして、お堂をもとの所へ移し、心からお祈りをしました。そうすると、また不思議なことに、この地から 雹の被害がなくなったということです。 村の人たちは、この雹難(ひょうなん)よけのありがたいご祈祷をしてくれた『ぶしゅう禅師』を今でも心からそんけいし、4月8日の花まつりには、ぶしゅうさまの徳とくをしのんでいます。 ●がんざ山のはくさんさま 水富地区 笹井の宗源寺の北側に「がんざ山」という昼でも うす暗く、さみしい所がありました。そこには、今も「はくさんさま」がお祭りしてあり、そのすぐそばには、滝不動といわれるお不動さまがあります。がんざ山のはくさんさまは、虫歯にご利益があるといわれ、村の人たちは、みんな願かけに来ていました。このはくさんさまには、こういういい伝えがあります。 むかしむかし、広瀬に住んでいたある女の子が虫歯になり、毎晩『いたいよー、いたいよー』と泣いていました。するとおばぁさんが『かわいそうに、そんなにいてぇなら、がんざ山のはくさんさまにお願いしてみたらよかんべぇ 』といいました。ところが、このがんざ山には悪いタヌキがいて、人が行くと悪さをして、なかなか人を近づけませんでした。 そのことを聞いていた女の子の兄さんが『よし、おらがおぶってやんから 行くべぇ。なーに悪いタヌキがでたらぶっとばしてやらあ』といいました。そして、女の子は兄さんにおぶわれて願かけに行きました。 兄さんは、村でもわんぱくでとおっていましたので、がんざ山のタヌキなどは、ちっともこわくはなかったのです。兄弟は、毎日一生懸命に願かけに通ったので、女の子の歯もすっかり治り、そのお礼に金具でできた「鳥居」をはくさんさまに納めました。この 鳥居は、針でつくったものもあったそうです。 ●タケが淵の伝説 水富地区 水富の笹井にある「タケが淵」には、昔からさまざまな伝説があります。 淵のまわりにはケヤキや雑木が生いしげり、昼でも暗くぶっそうなところでした。それに淵は深くよどみ、人々はあまり近づきませんでした。 あるとき、旅のオタケという瞽女さんがあやまって淵に落ちてしまいました。その後、この淵を「タケが淵」と呼ぶようになったそうです。 また一説には、オタケという娘さんが村の水不足の難をすくうために人柱となって「オタケ大日如来水神宮」となり、雨乞の神さまとなったというお話です。 そしてもう一説は、淵には「タケ坊」という河童がいて、井草(川島町)のケサ坊河童と久米(所沢市)のまんだら河童とたいへんに仲がよくて、旅をしたり、自慢話をしていたそうです。それで、近郷近在では三大河童として有名だったそうです。 タケ坊河童は、ときどき人里にあらわれいたずらをしては、こまらせていました。それでも、すぐに見やぶられ退散し、またすぐ次のいたずらを考えていたということです。 ●地名伝説 水富地区 むかしのお話です。 水富の広瀬にあります「広瀬神社」は、市内では唯一の延喜式内社です。埼玉県で三十三座、入間郡でも五座しかないと言われる、古く格式のあるお社やしろです。 この神社の伝説によりますと、日本武尊やまとたけるのみことが当地に来られました時、入間川の風景があまりにも、我が大和の国(奈良県)広瀬の地によく似ている、ということから、この地を広瀬と呼ぶようにと、いわれたそうです。 土地の古老の話によれば、広瀬神社から信立寺にかけては、高台になっておりまして、まわりが入間河原だったことから、人々は「中島」と呼んでいたそうです。 時代も過ぎ、川の流れも変わり、「中島」という地名を知る人も少なくなったようです。 |
●十日夜(とおかんや)亥の子の話
『昔は、おらとこも子どもたちが、とおーかんや(十日夜)をやったもんだ 』 市内の畑作地帯に住んでいるおじいさんがなつかしそうに話してくれました。 十日夜の行事ですが、11月9日の夜は、わら鉄砲を作って畑の横の地面を力いっぱいたたきます。畑の作物を荒らすモグラやネズミを追い出す役目をしたといいます。そのとき、地面をたたく音を聞いて畑のダイコンが背のびをして大きくなるのだといって「ダイコンの年とり」といったそうです。 9日にはダイコン畑に入ってはいけないとか、ダイコンをとってはならないといったそうです。 亥の子の行事にも、いろいろな言い伝えがあるものです。 ●道しるべのお地蔵さん 路傍にたつ石仏は、今や少なくなりました。それでも市内の旧街道を歩いておりますと、草むらの中にポツンとたつ石仏が見られます。 その種類は多様で、地蔵菩薩、馬頭観世音、庚申塔、弁財天などがあり、たいていは道しるべが彫られています。 市内では、道しるべの石仏が約36基あり、その中でもっとも古い石仏としては、堀兼の上赤坂、新河岸街道ぞいの辻にたつ弁財天《元禄13年(1700)》です。「これより中山、はんのう、此道大目(青梅)、左は武蔵野、所沢」とあります。 また、庶民信仰の代表的な石仏として地蔵菩薩があります。水富の笹井、宮地には「道しるべのお地蔵さん」が桑畑の旧街道ぞいにたっております。 このあたりでは、子どもの守護神として親しまれており、イボやオデキで困っている人が、最初はドロのダンゴをあげ、治ると白い米のダンゴを納めたそうです。「右中山、ちちぶみち、左飯能、子(ね)のごんげん道」と彫られていました。 ●狭山の庚申様 市内の各地区を歩いておりますと、路傍の辻に、「庚申様」と呼ばれる石仏が、たっているのが見られます。 こわい顔をした青面金剛が、6本の手を広げ、足元に邪鬼を踏みつけ、その下には、「見まい、聞くまい、話すまい」の、三猿が彫られています。 庚申様の信仰は、古く平安時代に始まったといわれ、市内では、室町時代の天文3年(1534年)に、伝わったといわれています。 中国の道教にある、三尸(さんし)説…人の体内には、三尸という虫がすんでいて、60日毎ごとにやってくる庚申の晩、天に昇り、人間の犯した罪を天帝に告げ、寿命を縮めさせるという…。庚申の日は、それを防ぐために、夜は眠らずに、しゃべったり、食べたりして、夜明かしをする。 この教えをもとに、人々が集まったことを「庚申待」といいました。この時に、土地の「むかしばなし」が、よく語られたといいます。 ●義貞伝説あれこれ むかし(鎌倉時代のころ)新田義貞が元弘3年(1333)5月8日、群馬県新田の生品明神で旗揚げをしまして、鎌倉を攻めました。 10日には入間川に到着し、小手指ヶ原へと向かいました。そのときの義貞伝説の場所が市内にはいくつかあります。 先ずは、入間川八幡神社の境内にあります「駒つなぎの松」。これは義貞が神社に戦勝祈願したとき、乗っていた馬をつないだ松だそうです。 柏原の永代寺のうら山あたりは義貞が陣屋をかまえたところといわれ「御所の内」といい「新田の館」というところもあります。 そして、奥富の瑞光寺には武運祈願したときにおさめられたといわれる「義貞の太刀」があるといわれています。 |
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●東京の伝承 ●常盤塚 江戸前期頃に成立したとされる『名残常盤記』という書籍がある。そこに描かれている伝承は、常盤姫にまつわる悲話である。 世田谷城の吉良頼康には13人の側室がいた。その中で一番の寵愛を受けていたのは、重臣の大平出羽守の娘・常盤であった。やがて常盤は懐妊し、頼康はますます彼女を愛した。これに不満を持ったのは、残りの12人の側室であった。その不満は嫉妬へ、そして怨みへと変じたのである。常盤を殿から遠ざける策をあれこれ考え、ついに卑劣な計略を立てたのである。城中一の美丈夫と謳われた内海掃部と常盤が不義密通を重ねており、懐妊したのも掃部の子であるとの噂を流したのである。さらに掃部の懐に常盤の字に似せた付け文をしのばせ、露見するように仕向けたのである。頼康は怒り狂い、ただちに掃部を誅すると、さらに常盤を捕らえるように命じたのである。身重の常盤は間一髪のところで城外に逃れるが、もはや逃れきることは出来ぬと観念し、可愛がっていた白鷺の足に遺書をくくりつけて実家へと解き放した。しかし追っ手が常盤の元に駆けつけた時には既に自害して果てており、胎児も死んでいたのである。常盤の潔白を信じるわずかばかりの者は、胎児の胞衣に吉良家の家紋である桐の模様が浮かび上がっていることに気づき、頼康に進言する。さらにその悲劇の2日後、内海掃部の屋敷から黒雲が湧き上がり、城内が鳴動するさなか、突然側室の下女が発狂して側室の数々の悪計を暴露した。そして下女の声が掃部の声に変じて恨み言を述べると共に、無念の一筆をしたためて失神したのである。頼康は、厳しく事の真相を質し、最終的に12名の側室全員を処刑した。しかし領内でさらに怪事が起こったため、駒留八幡神社の相殿に亡くなった若子を“若宮八幡”として祀り、境内社として田中弁財天を建てて常盤を祀ったのである。その後、常盤の解き放った白鷺が力尽きて落ちた土地に、名も知れぬ花が咲くようになった。その花は白く、まるで鷺が羽ばたいているように見えることから、人々は“鷺草”と呼ぶようになったという。常盤が自害した場所とされるところにあるのが常盤塚である。住宅地の一角にあるが、近隣の方々によって大切に管理されている様子が分かる。さらに駒留八幡神社の境内には、常盤弁財天と名を変えて、今も常盤を祀る祠が残されている。一方、処刑された側室達を埋めたとされる十三塚というものがあったが、こちらは環状七号線建設の際に壊されて、今はない。 ●駒留八幡神社 / 創建は徳治年間(1306-1307)。このあたりの領主であった北条左近太郎入道という者が社を建てたいと思ったところ、夢枕で神のお告げを聞き、馬に乗ってそれが止まった場所に神社を建立したという伝承が残る。 ●鷺草(サギソウ) / ラン科の植物。かつては世田谷地区に多く自生しており、区の花に指定されている。世田谷では常盤姫の伝説に付随して語られることが多く、常盤姫の実家である奥沢城の跡地である九品仏浄真寺が代表的自生地であった(一説では、白鷺を常盤姫が放ったのは自決の直前ではなく、物語の始まり、即ち常盤姫が側室になる前、実家の城付近で白鷺を飛ばしていた時に、吉良頼康の鷹が襲い、それをきっかけに二人が知り合うとする)。現在、世田谷区には鷺草の自生地は存在していない。 ●源覚寺 こんにゃく閻魔 源覚寺は寛永元年(1624年)創建の浄土宗の寺院である。本尊は阿弥陀如来であるが、最も有名なのは“こんにゃく閻魔”と呼ばれる閻魔像である。この像は鎌倉時代の作と言われ、非常に古い座像である(源覚寺に安置されている由来は不明)。右目部分が割れて黄色くなっているのが一番の特徴で、この姿が“こんにゃく閻魔”と呼ばれる伝承を生み出している。宝暦年間(1751-1764)のこと。眼病を患った老婆が、閻魔像に治癒祈願の参拝をおこなっていた。すると夢枕に閻魔大王が現れ「満願成就となった暁に、片方の目をお前にやろう」と言った。そして21日間の祈願を終えた時、老婆の片方の目が突然見えるようになり、お礼参りに行くと閻魔像の右目がつぶれていた。老婆はその功徳に感謝し、自分の好物であったこんにゃくを以後口にせず、閻魔像に供え続けたという。現在でも閻魔像にこんにゃくを供えて祈願するという風習が続いている。「裏表のない板こんにゃくなので、閻魔が好む」との俗説があり、また「こんにゃくを断つ」という言葉が「困厄を断つ」に通じることも信仰につながったとも考えられる。 ●豊島二百柱社 今から約550年前の文明9年(1477年)、現在の江古田地域で大きな合戦があった。扇谷上杉家の家宰・太田道灌と石神井城主・豊島泰経による“江古田原合戦”である。長尾景春の乱に味方した豊島氏が、道灌の拠点である川越城と江戸城の行き来を遮断したため、両者が激突することとなった。この戦いはかなりの激戦となり、寡兵で臨んだ道灌勢が豊島氏の主力を打ち破り、豊島勢は泰経の弟・泰明をはじめ有力な武将が討死する。さらに敗走して石神井城に籠城した泰経は最終的に城を捨てて逃亡し、有力豪族であった豊島氏は完全に没落する。今でこそ住宅が建ち並び何事もなかったかのような街となっている土地であるが、宅地開発が進められる以前はところどころに“塚”と称するものがあったという。これらは江古田原合戦で討ち死にした豊島氏の武将の遺骸を埋めた塚であると言われ、「豊島塚」と総称されていた。しかし開発の波によってほぼ全てが整地され、跡形もなく消えてしまっている。ただ整地の折に「人骨が出てきた」とか「刀などの武具が出てきた」という記録や噂が残されている。豊島二百柱社は、この「豊島塚」をまとめて供養する形で建立されたものである(隣にある石碑には昭和49年(1974年)の建てられたとある)。この祠のある公園の名称となっている“丸山塚”もかつてあった「豊島塚」の一つとされており、おそらくこの公園の敷地そのものが塚であった可能性が高い。この公園の向かい側にあるビルの敷地内には延命地蔵が祀られており、不思議な空間を醸し出している。実はこの地蔵も「豊島塚」にまつわる伝承を持っている。江古田原合戦が直接のきっかけで滅亡した豊島氏の怨みは凄まじいものであったとされ、それゆえに多くの「豊島塚」が造られ残されてきたが、それらが宅地開発によって徐々に失われていった昭和初期頃の話。この周辺で頻繁に事故や不幸が起こり、また頭痛などの体調不良を訴える住民が増えたため、これは豊島氏の祟りではないかとまことしやかな噂が流れ、これを供養するために建立されたのが延命地蔵であるとされている。 ●豊島塚 / 塚と称されていたものはあらかた宅地や駐車場などに整地され、現在残っているものはないとされる。また学術的な調査もされておらず、実際に討死した将兵の墓であったかも不明なものがある。ただ噂によると、整地の際にリヤカー数台分の人骨が一度に出た塚もあると言われている。 ●鐘ヶ淵 荒川区と墨田区の境界線として流れる隅田川が大きく西から南に曲がる部分が、鐘ヶ淵と呼ばれる場所である。その名の通り、この淀みの部分には沈鐘伝説が残されている。この沈んだ鐘の来歴については複数の説がある。元和6年(1620年)に普門院という寺院が亀戸の替え地に移転する際、什器を積んだ船を渡している最中に落とした半鐘である。あるいは、橋場の長昌寺という寺にあった釣鐘が享保5年(1720年)の洪水で流されて沈んだものである。さらに奇怪な言い伝えでは、この鐘は、千葉常胤が娘の夕顔姫の菩提のために建立した瑞応寺のものであったが、天文21年(1552年)に千葉氏が北条氏に降った時に、戦利品として北条氏が持って帰ろうとした。船で運んだところ、突然若い女の泣き声が聞こえだし、それが唸り声に変わると、遂には嵐のように川が波だったために鐘を沈めたのだという。この伝説に興味を抱いたのが、8代将軍の徳川吉宗であった。鐘を引き揚げよという命を下した。そこで用意されたのが、江戸市中の女性数百人分の黒髪で編み上げた綱である。これを鐘の竜頭に結びつけて引っ張り上げようというのである。そして名人の水夫がその綱を持って川の底へと潜っていったのである。鐘を見つけた水夫は早速、髪の毛で出来た綱を竜頭に結びつけた。すると目の前に若い美しい女性が一人現れた。女性は「この鐘は主のあるもの。勝手に持ち出すことは出来ません」と言う。水夫は将軍の命に背くわけにはいかないと応えると、「ならばあなたの顔も立てることにしましょう」との返事であった。水夫の合図で綱はゆっくりと引き上げられ、鐘は川底から浮き上がってきた。そしてその先端の竜頭の部分がいよいよ水面から出ようとした。しかしここで突然、髪の毛の綱が何者かの力で断たれるよう切れ、鐘はまた川の底に沈んでいったのである。ほんのわずかに竜頭だけが水面から顔を覗かせたところであったいう。その後将軍が再度鐘を引き上げるよう命じることはなかった。 ●縁切榎 中山道最初の宿場町として栄えた板橋にあって、名所と呼ばれたのが縁切榎である。その名の通り「縁切り」にご利益があるとされており、特に悪縁を切って良縁を授かるとして庶民の信仰を集めている。願を掛ける者は、この木の樹皮を削り、煎じて飲ませると良いとされている。この榎の木が「縁切榎」と呼ばれるようになったかについては、定説がある。江戸時代、このあたりに旗本の屋敷があったが、この垣根の際に榎と槻の木が並んで生えていた。この2本の木が目立っていたため、誰が言うともなく「えのきつき」と呼び出し、それがいつしか詰まって「えんつき」、即ち「縁尽き」の語呂合わせが広まり、その後榎だけが残ったということらしい。初代の榎は明治期に焼けてしまい(一部は現地に保存されている)、現在は2代目を経て3代目の榎となっている。この木にまつわる最も有名な逸話は、和宮降嫁の際に「縁切り」の噂を聞き及んで、この木が見えないように迂回路を造らせて行列を通したという話。この噂にはさらに尾ひれがついて、和宮の行列が通る時には榎を菰筵で覆い隠したもされる。実際、縁切榎については「嫁入りの行列が通ると縁付かない」という言い伝えがあるが、10代将軍徳川家治に嫁いだ五十宮倫子の場合も迂回路を通ったという記録があり、和宮の時だけ特別ということではなかったのが真相らしい。 ●皇女和宮 / 1846-1877。第120代仁孝天皇の八女。第121代孝明天皇の異母妹。第122代明治天皇の叔母にあたる。幼少の折に有栖川宮と婚約するが、公武合体運動の影響を受けて、14代将軍の徳川家茂に降嫁する。内親王が将軍家へ降嫁する事例は初めてであり(婚約は7代将軍家継の時にあったが、夭折のため降嫁までは実現せず)、多くの謎めいた噂がある。 ●慈眼院 澤蔵司稲荷 (じげんいん たくぞうすいなり) 澤蔵司稲荷は、小石川の傳通院の護法神とされ、慈眼院はその別当寺である。元和4年(1618年)、傳通院の学寮に澤蔵司と名乗る僧が、浄土宗を学びたいと言って入寮してきた。澤蔵司は非常に秀才で、わずか3年ほどで浄土宗の奥義を学び取ったのである。そして元和6年(1620年)5月7日、学寮長の極山和尚と傳通院住職の郭山和尚の夢枕に澤蔵司が立った。澤蔵司が言うには「私は、太田道灌が江戸城築城の折に勧請された稲荷神であるが、浄土宗の奥義を学びたくこの地に現れ、その願いは達せられた。これからは神に戻り、当山を守護し、所願を満足させよう。早く一社を建てて欲しい」とのこと。郭山和尚は早速稲荷社を建立し、澤蔵司稲荷としたのである。境内には霊窟とされる“お穴”があり、戦時中の空襲の際にも延焼を免れ、江戸期からほとんど変わることなく神秘的な雰囲気を保っている(天保7年(1836年)に出された『江戸名所図会』にもその存在が描かれている)。そして澤蔵司の逸話で最も有名なものが“蕎麦”の話である。修行僧時代の澤蔵司は、傳通院門前の蕎麦屋によく通っていたと言われ、来た日には売り上げの銭の中に何枚かの木の葉が入っていたとされる。また蕎麦を持って帰る澤蔵司の後をつけていった店の主人が狐であることを悟ったため、澤蔵司は正体を明かして寺を去ったともされる。 ●傳通院 / 開山は応永22年(1415年)。その後の慶長7年(1602年)、徳川家康の母・於大の方が亡くなった時に遺骨を埋葬したため、徳川家の菩提寺となった(この時に、於大の方の法名である傳通院に名を変えている)。その際、徳川家康から住職に指名されたのが郭山和尚である。 ●姥ヶ池跡 浅草寺の二天門から東へまっすぐ。花川戸公園内に石碑と祠、そしてわずかばかりの人工池がある。ここに明治24年(1891年)に埋め立てられるまで、姥ヶ池というかなり大きな池があった。池は隅田川まで通じていたと言われているので、相当な面積であったと推測される。浅草寺が創建された頃、この周辺一帯は浅茅が原と呼ばれ、奥州へ向かう街道ではあるものの、見渡すばかりの荒れ地であったという。その荒野にあばら屋が一軒、老婆とその娘が暮らしていた。この辺りで日が暮れてしまうと、旅人はこの一軒家に宿を借りるしかなく、二人もそれを承知して旅人を泊めていた。しかし親切な老婆の正体は、旅人が石枕に頭を置いて眠りに就くと、吊した大石を落として頭を叩き潰して殺し、遺骸は近くの池に捨てて金品を奪ってしまうという鬼婆だったのである。そしてその所業を浅ましく思う娘は何度も諫めるが、老婆は聞く耳を持たなかった。あと一人で千人の命を奪うところまできたある夕刻、一人の稚児が宿を請うた。老婆はいつものように床に案内すると、稚児が寝てしまうのを待った。そして頃合いを見計らって、いつものように大石を頭めがけて落とした。そして遺骸を改めたところで、異変に気付いた。いつの間にか稚児は女の身体にすり替わっていた。しかもそれは我が娘であった。さすがの冷酷無比の鬼婆も事の次第に茫然自失するしかなかった。そこに全てを悟ったかのように稚児が姿を見せた。その正体は浅草寺の観音菩薩。老婆の所業を哀れんで、稚児に姿を変えて正道に立ち戻らせようとしたのである。その後の老婆であるが、娘を自らの手に掛けた報いと己の所業を悔いて池に身を投げたとも、観音菩薩の法力によって龍となって娘と共に池に沈んだとも、仏門に入って手を掛けた者の菩提を弔ったともいわれる。いずれにせよ、この“浅茅が原の鬼婆”にまつわる池として姥ヶ池と呼ばれるようになったという。 ●「一ツ家伝説」 / この浅茅が原の鬼婆の伝説は「一ツ家伝説」と言われ、旅人を泊まらせては殺害して金品を奪う悪逆を繰り返す老婆が、法力によって改心させられるというパターンの話である。現在この伝承の最も有名なものとしては福島県の「安達ヶ原の鬼婆」があるが、こちらも法力によって成仏するという展開となっている。(この安達ヶ原の伝説も、実はこの武蔵国の“浅茅が原”の伝説の亜種であるという説もある) ●浅草寺 / 推古天皇36年(628年)に、檜前浜成・竹成が拾った観音像を安置したのが始まりとされる。現在の伽藍の規模の寺院となるのは、平安時代初期のこととされる。浅茅が原の鬼婆の伝説では、浅草寺の観音信仰が色濃く反映されており、安達ヶ原の伝説とは異なる部分となっている。おそらく浅草寺の観音菩薩が登場する部分は、後世に追加されたと考えられる。 ●石枕 / 浅草寺の子院である妙音院に、この伝説に登場する石枕が所蔵されている。ただし非公開である。 ●南蔵院 しばられ地蔵 水元公園の近くにある南蔵院は、関東大震災で罹災したため現在地に移転してきたが、かつては本所(現在の墨田区)にあった寺院である。この境内にある「しばられ地蔵」は、荒縄で地蔵を縛ることで願いを叶えてもらうという、奇妙な信仰が今でも続いている。その風習の由来とされるのが『大岡政談』に収められた「縛られ地蔵」の逸話である。日本橋のある呉服商の手代が荷車に反物を積んで南蔵院の前で休憩をしていたが、うっかりそのまま居眠りをしてしまった。起きてみると荷車ごと反物を盗まれていた。奉行所に訴えると、町奉行・大岡越前は「門前にいながら、盗人の所業を一部始終見ていただけの地蔵も同罪である。引っ立てよ」と命じる。そして地蔵は縄を掛けられて市中引き回しの上、南町奉行所に連れて行かれたのである。あまりに不思議な裁きであるため、多くの人々がぞろぞろと地蔵のあとを追って、そのまま奉行所の中にまで入ってしまった。すると越前は門を閉じて「奉行所に勝手に入るとは不届き千万。科料として各人反物を一反差し出すこと」と野次馬を叱りつけたのである。そうして集められた反物を手代に見せると、その中に盗まれた反物が一つまざっていた。奉行所はそれを出した者を割り出すと、その背後にあった盗賊団も一網打尽にしたのである。この逸話のため、しばられ地蔵のご利益は盗難除け。さらには足止めや厄除け、また縄で縛ることから縁結びまで、さまざまな願い事を聞き届けるとされている。ちなみに願いが叶うと縛った縄を解くことになっているが、大晦日には縄解き供養もおこなっている。 ●『大岡政談』 / “享保の改革”と呼ばれる8代将軍・吉宗の治世に江戸町奉行となった大岡忠相(1677-1752)を主人公として、その機知と人情味に溢れる名裁きを講談や読本などを通して発表されたもの。ただし特定の人物によってまとめられた作品ではなく、大岡忠相の名声にあやかって各々の逸話が作られていったものと推測される。『大岡政談』として括られる一群の話には、実際に大岡が裁いた事件はほとんどなく、そのストーリーの原型は他の奉行の事績や中国古典の判じ物などに求めることが出来る。 ●殿塚・姫塚 扇谷上杉家の家宰(筆頭家臣)であった太田道灌の生涯はまさに戦闘に明け暮れたといっても過言ではないだろう。その中でも最もめざましい戦功を立てたのは、文明8年(1476年)に始まった長尾景春の乱である。山内上杉家の家宰である長尾家の家督争いから山内・扇谷の両上杉家に反旗を翻した長尾景春であるが、それに呼応して関東の豪族が蜂起して大乱となった。扇谷上杉家の支配する武蔵・相模でも景春に味方にする有力豪族が現れた。中でも最も厄介な存在となったのが、石神井城を拠点とする豊島泰経であった。豊島氏は名族であり、石神井城・練馬城・平塚城(東京都北区)に拠って、道灌の居城である江戸城と、扇谷上杉家の居城である川越城を分断するに至った。そのため、道灌は急ぎその障害を取り除くべく、兵を動かして豊島氏を攻撃する。文明9年(1477年)4月、道灌は泰経の弟・泰明の平塚城を攻撃。寡兵と見せて泰明を城外へおびき出し、さらに援軍に駆けつけた泰経軍と合わせて江古田で合戦に及び、これを完膚無きまで叩く。泰明は討死、泰経は石神井城へ逃げ戻るが、道灌に取り囲まれるという事態に陥ったのである。もはやこれまでとした泰経は、家宝の金の鞍を白馬に乗せて跨ると、三宝寺池にそのまま飛び込んで自害する。そしてその姿を見届けた二女の照姫も三宝寺池に入水し、ここに石神井城は落城となり、名族の豊島氏も滅亡した。道灌の平塚城攻撃から一月足らずの出来事であったという。三宝寺池は、今は石神井公園の一部として残され、池の周囲には遊歩道もできている。その遊歩道に2つの塚が残されている。一つは泰経を祀る「殿塚」、そしてもう一つは照姫を祀る「姫塚」とされる。今でもこの塚のある辺りから池底を眺めると、金の鞍が見えると言われている。また、石神井落城の頃には「照姫まつり」が催される。ただし、この伝説は史実ではなく、明治時代に書かれた小説が下敷きになっているのではないかという説もある(小池壮彦氏による)。 ●長尾景春の乱 / 1476-1480。山内上杉家の家宰であった長尾家の家督相続に端を発する戦乱。山内・扇谷の両上杉家と20年近く戦ってきた古河公方・足利成氏が味方し、景春に同調する豪族も多かったが、太田道灌がことごとく居城を落としていったために古河公方側から和睦の申し入れがあり、膠着することなく短期間で終わる。孤立した景春は逼塞するが、道灌暗殺後に起きた両上杉家の戦いの際に扇谷側に味方をして、再び山内との戦いに臨んだ。 ●立石様 葛飾区立石の地名の由来ともなった立石様であるが、応永5年(1398年)に出された『下総国葛西御厨注文』にその名があり、その頃には既に有名な物件として知られていたと思われる。江戸期には“冬に縮んで、夏になると膨張する”という不思議な現象が起こる石として噂にのぼっていたとも言う。そして、文化2年(1805年)に近隣の者がこの石の根元を確かめようと掘り下げたことから騒動が始まる。結局掘り下げても根元は現れず、さらには関係者の間で疫病が発生したために“祟り”ということで急遽取りやめ、その後石祠を建てて立石稲荷神社として祀ることになったのである。今でこそ鳥居が設けられ、神様扱いとなっているが、それはさほど古い出来事ではないということである。その後も立石様の噂は生まれ、“掘ったり触ったりすると祟りがある”とか“近くの流れる中川が蛇行しているのは立石様の根を避けているため”とかいう話にまでふくらんでいる。現在の立石様は、写真で見る通り、水色の柵に囲まれた真ん中に申し訳程度頭を覗かせている石でしかない。多分地面から数センチほどの高さでしかないだろう。しかし天保5年(1834年)に出された『江戸名所図会』の挿絵を見る限りでは、立石様は大人の腰下あたりまでの高さがあり、しかも一抱えほどの大きさの岩として描かれている。さらに石は雨晒しで祀られている形跡はなく、それどころか人が平気で触っている。話によると、立石様は明治以降“弾よけ”の御守りとして削られることが多く、また土砂の堆積や地盤沈下で埋もれてしまったために、現在のような姿になってしまったようである。実はこの立石様は上流から流れてきた岩ではなく、千葉県鋸南から切り出されてきた石(房州石)であることが調査によって判明している。つまりこの石は人工的にこの地に置かれたものなのである。しかもこの石と同じ材質のものが、近隣の南蔵院裏古墳の石室に使われている。そのため古墳石室の一部ではないか(実際の調査でも地下部分に空洞があるという指摘がある)、あるいは官道の道標として流用されたものが、いつしか歴史の記録から消え去り、後世に珍奇な石として認識されたと考えられる。 ●女塚神社 矢口渡で新田義興を騙し討ちにしたのは竹沢右京亮と江戸遠江守であるが、彼らの策略はかなり用意周到なものであった。 鎌倉公方の執事である畠山国清と謀り、わざと罪を得て鎌倉から追放されたり、鎌倉方と不和になったりすることで、義興の属する南朝方に近づいたのである。最初は二人の行動に対して疑念を持っていた義興であるが、徐々に彼らを信用するようになってきた。二人もとにかく取り入るためにかなりの努力をしている。その一番最たるものは“色仕掛け”である。二人は連日のように酒宴を開いては義興を招き、その席に多数の美女をはべらせて接待したのである。竹沢右京亮が義興に奉った美女が少将局である。少将局は京都から来た16歳ぐらいの上臈であったとされるが、義興はいたく気に入ったようである。そして少将局も竹沢らの謀略に加わりながらも、次第に義興に惹かれていったという。一方いよいよ時機到来と見た竹沢は、義興を自宅へ招いて謀殺しようとする。しかし、竹沢の企みを知る少将局は義興に夢見が悪いので七日間は外へ出ないように文をしたためる。義興はその文を見て外出を取りやめて危機を脱したが、少将局は事が露見して竹沢らによって殺されてしまうのであった。殺された少将局の遺骸は打ち捨てられたままであったが、村人が憐れんで塚を建てた。その塚のあった場所に八幡宮を移したのが女塚神社である。“女塚”という名称は言うまでもなく、少将局のことである。場所は東急蒲田駅から歩いて数分、かなり繁華街に近い場所にある。そして新田神社からもそれほど離れてはいない。神社本殿の脇に祠があり、これが女塚を祀る祠であるらしい。ちなみにこの神社にある石碑では、少将局は義興の死を知って自害したとされている。 ●頓兵衛地蔵 新田義興謀殺を題材にして浄瑠璃『神霊矢口渡』を書いたのが平賀源内である。彼はこの芝居の中で、謀殺に一役買った船頭に“頓兵衛”という名前を付けた。この頓兵衛であるが、義興以下13名の武将を船に乗せ、多摩川の半ばまで来た時にわざと櫓を取り落とし、それを拾うと偽って川に飛びこんだ。さらに、あらかじめ細工していた船底の栓を抜いて船を沈め、そのまま向こう岸に泳いで逃げていったという。ここまでのことをやれば、直接手を下していなくても頓兵衛が義興を殺したと言われても仕方がないところである。当然のことながら、頓兵衛は竹沢右京亮・江戸遠江守と並んで、源内の浄瑠璃では悪役である。ところが、竹沢・江戸の両名が義興の祟りにあって死ぬに至って、頓兵衛も前非を悔いて地蔵を一体作った。それが“頓兵衛地蔵”と呼ばれる地蔵なのである。だが、義興の祟りはこの地蔵にも直撃し、その顔を溶かしたのである。それ故、この地蔵は一名“とろけ地蔵”とも言われることになった。住宅地の一角に頓兵衛地蔵の祀られたお堂がある。中を見ると(お堂の外ではない)、なるほどボロボロと崩れた地蔵であるのがわかる。実はこの地蔵は砂岩でできており、その崩れやすい材質のためにこのような姿になったらしい。またこのような姿であるために“いぼ取り”の効験があるとされ削り取られた、あるいは義興を殺した張本人が祀った地蔵に八つ当たりした者が石をぶつけてボロボロにしたという説もある。いずれにせよ義興の祟りの凄まじさを後世に伝える物証となった訳である。ちなみにこの地蔵にはもう1つの説が存在する。この地蔵は義興の供養のために頓兵衛が作ったのではなく、祟りにあって狂死した頓兵衛自身の供養のために造られたものだという。 ●妙蓮塚三体地蔵 新田義興と共に矢口渡で命を落とした側近たちは十寄神社に祀られている。しかし、伝承によると、十寄神社は別名【十騎神社】と言い、義興公側近の内、10人の霊を慰めるために造られた神社であるとという。そしてこの十寄神社とは別の場所に義興側近を祀る場所がある。それが妙蓮塚三体地蔵である。十寄神社の由緒書きには10名の側近の名が記されているが、何名かは名前が入れ替わることがある。しかし妙蓮塚三体地蔵については、祀られている人物の名は完全に特定されている。土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の3名であり、いずれも渡河中にだまし討ちに遭った時に向こう岸にまでたどり着き、敵と刃を交えて討ち死にしたとされている。この3名の忠烈を思い作られたのが、この三体の地蔵なのである(ちなみに十寄神社の由緒書きにも彼ら3名は名を連ねている)。この三体の地蔵が祀られている場所は、新田神社・十寄神社からそこそこ離れている。かつてはこの二つの神社と 地蔵の間には多摩川が流れていたという。つまりこの地蔵が建っている場所は、3名の側近が川を渡りきって奮戦し、そして討ち死にした場所なのである。妙蓮塚という名が残っているのは、この地蔵をこの地に祀ったのが妙蓮という尼であったということからであるらしい。特に寺社の境内にあるわけでもなく、いわゆる“道端のお地蔵さん”という感じなのだが、すごく手入れされたお堂に安置されている。 ●十寄神社 矢口渡での新田義興謀殺の際に従っていた側近は、全部で13名。そのうちの3名は果敢にも向こう岸にたどり着いて討ち死にしたが、残りの10名は義興公と共に、沈み行く船の上で自害して果てたという。この10名の側近が祀られているのが、この十寄神社である。当然のことながら、この神社の祭神はこの自害した10名である。その名は神社の入り口に掲げられている神社の由緒書きにも記されており、世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の10名であるという (ただし人数については諸説あり、土肥・南瀬口・市河の3名は向こう岸にたどり着き奮戦した者である、あるいは松田与市、宍道孫七を加えた12名と義興本人で13名とするなどの説もある。いずれにせよ、この程度の人数であったのは確かなのだろう)。“新田神社へ願掛けへ行く前に、まずこの十寄神社へ行ってお願いしないと、願いは叶わない”という。独立した神社ではあるが、新田神社との関係は生きていた頃と変わらないと言えるだろう。 ●新田神社 東急線武蔵新田駅周辺には、南北朝の武将・新田義興にまつわる史蹟が点在する。義興は父・新田義貞の没後、関東の新田一族を率いて室町幕府軍(北朝方)と武蔵を中心に戦いを繰り広げていた。その剛勇ぶりのため、関東公方足利基氏の執事・畠山国清は、竹沢右京亮と江戸遠江守を使い、謀殺を試みる。竹沢・江戸両名は寝返ったと見せかけて義興に近づき、しきりに鎌倉攻めを進言する。そして延文3年(1358年)10月10日、近習のみを率いた義興は、多摩川の矢口の渡しで両名の裏切りに遭う。13名の側近は討ち死にあるいは自害し、義興も船上にて腹を切り、自害して果ててしまうのである。ところがその直後から、この渡し場付近に怪光が飛び交い、義興の怨霊が雷神と化し、謀殺に関わった者はことごとく変死したという。このため義興が葬られた塚に建立されたのが新田神社である。建立された年が1358年と、謀殺と同じ年になっているのは、それだけこの謀殺が悲惨なものであり、また義興の祟りが凄まじかったことを 意味していると言えるだろう。その後江戸時代になると、新田神社は隆盛を極める。徳川氏は家系図上、新田氏が祖先となっているからである。そして明治の廃仏毀釈後も神社は残り(南朝方の武将は全て天皇家の忠臣とみなされる)、現在に至っている。新田神社の本殿裏には、義興が葬られたとされる塚が控えている。この神社を建立する場所として選定された目印になった塚である。言うならば、本当の意味での御神体である。現在は完全に柵で囲まれて入ることが物理的に不可能になっているが、昔からここは“荒塚” あるいは“迷い塚”と称されて、この塚に立ち入ると抜け出られなくなるという伝承が残されている。そしてもう一つ、新田神社に残る伝承は“唸る狛犬”である。義興謀殺を企んだ畠山一族の者がこの神社に近寄ると、この狛犬が唸りをあげ、雨が降るという伝承である(現在、この狛犬は戦災によって一体だけが残されており、神社の境内の一角に祀られている)。 ●栖岸院 お菊の墓 (せいがんいん) お菊さんの怪談と言えば『番町皿屋敷』である。これの元ネタは『皿屋敷弁疑録』という本であり、大まかな話は以下の通りである。事件が起こったのは承応2年(1653年)正月二日。火付盗賊改役(1665年創設)の青山主膳が、盗賊・向坂甚内(1613年刑死)の娘・菊を役宅にて下女として使っていたが、その菊が誤って家宝の皿を割った。青山は菊の中指を切り落とし、手討ちにするために監禁していたが、菊はその直前に井戸に身を投げて 自害する。その後、その井戸から菊の亡霊が現れては皿の数を数え、青山の本妻が産んだ子の中指が欠けているなどの怪異が続き、青山家は取り潰しとなる。しかし井戸の幽霊は消えず、小石川伝通院の了誉上人(1420年没)の力によってようやく成仏することになる。年代を見ればこの話の信憑性など一挙に吹き飛んでしまうが、とにかくこのような話が伝承され、『番町皿屋敷』として人気を博した訳である(ちなみに“番町”というのは、青山主膳の屋敷が【牛込御門内五番町】にあったとされるためである)。ところがほぼ虚構に近い話であるにもかかわらず、このお菊さんの墓が存在するのである。場所は永福の栖岸院。栖岸院は伝通院と同じく浄土宗の寺院であり、江戸期には住職が将軍へ直接お目見えできるほどの寺格を持っていたという。そして大正時代に現在地へ移転する前は麹町にあったのである。麹町と番町とはほぼ地続きであると言ってもおかしくないほどの距離にある。 ●江戸の皿屋敷伝承 / 『番町皿屋敷』以外にも、皿屋敷伝承が残っている。伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社)によると、承応2年に麻布桜田町で、皿を割った下女が手討ちに遭い、その幽霊が出たという記録が残されている(当事者の遠山氏は騒動のために浪人となるが、後に南部藩で取り立てられ、問題の皿は現在盛岡市の大泉寺にある)。 ●於岩稲荷田宮神社(新川町) 四谷左門町以外にも“於岩稲荷田宮神社”を名乗る神社が存在する。中央区の新川(越前堀)にその神社は存在する。この神社はニセ物どころか、本家本元と称しても間違いないというべき存在なのである。『東海道四谷怪談』が評判を得て、田宮神社もかなりその恩恵に浴した様子である(史実とは相当な隔たりがあり、神社としては不本意な結果と言えるかもしれないが)。特に上演の際の祟りの噂から、演劇関係者の参拝があり、数多くの役者から崇敬されるようになっていた。ところが、四谷にあった田宮神社は、明治 12年に周辺の大火の被害にあって焼失してしまう。そのような非常事態の際に手をさしのべたのが、歌舞伎役者の市川左団次。彼は私有地を提供し、田宮神社を再興する。しかし、そこは四谷ではなく、芝居小屋に近い新川だったわけである。田宮神社は移転後も芝居関係者の崇敬を受け、またその知名度から多くの人々の参拝があったという。そうして戦後間もなくまで平穏に新川にあったのだが、事態は一変する。突如として四谷に“於岩稲荷”を称するものが移転してくる。それが現在も四谷左門町にある陽運寺である。これに慌てたのが田宮神社である。四谷を離れて既に60年ほどになる。しかも陽運寺は、田宮神社が元あった場所の目の前に建立され、お岩様を大いに喧伝している。そこで田宮神社が下した結論は、元の四谷に帰ることであった。昭和27年に田宮神社は四谷に戻るのであるが、新川にある田宮神社もこの地に残ることになった。つまり神社の歴史からいえば、新川の田宮神社の方が本家とも取れるわけである(実際には越前堀の田宮神社は同格の分社という扱いになっている)。 ●妙行寺 お岩の墓は西巣鴨にある。都電の新庚申塚駅を降りると、すぐ目の前の通りには“お岩通り”なる名が付けられている。なぜ四谷で生活していたお岩様の墓が西巣鴨にあるのだろうか。その解答は妙行寺の門前にある石碑にあった。明治42年に四谷よりこの地に移転してきたとある。さらに“お岩様の寺”とまで刻まれている。既にこの当時から無視できない存在であったことがわかる。そこそこ広い墓所の一角に、寺院とは不釣り合いな赤い鳥居が立っている。ここがお岩様の墓へ通じる入り口である。“お岩様の墓”と言っても、別に後世に建立された碑だけがあるわけではない。実際の墓石が信仰の対象である。しかもお岩様の墓は田宮家代々の墓が並ぶエリアにあるのだ。妙行寺は元々四谷にあった時から田宮家の菩提寺であった。お岩の墓はその菩提寺に田宮家の代々の墓と共に置かれてあるわけである。これはお岩の存在がフィクションではなく、実在の人物であるという証である。だが、ひっそりとたたずむ他の墓とは別に、びっしりと周囲を取り囲むように並べられた卒塔婆や 特別に目立つように置かれている状況を見ると、やはり虚構の部分を担っているようにも感じる。 ●於岩稲荷陽運寺 四谷左門町の於岩稲荷田宮神社の向かい側には、於岩稲荷陽運寺がある。両者とも【於岩稲荷】と名乗っており、いわゆる本家争いを繰り広げている(現在はお互いの存在を無視しあう形で並存しているらしい)。お岩様ゆかりの地として探訪する者も多いが、この睨みあうようにして並び立つ2つの寺社には必ずと言っていいほど面食らわされるのである。結論から言ってしまうと、歴史的な背景を辿っていけば、田宮神社の方が本家である。元々この地が田宮家の旧宅跡であり、既に江戸時代には存在していたことが記録されている。翻って陽運寺は、戦後にこの四谷に移転してきた日蓮宗の寺院である(陽運寺そのものが昭和になって創建された寺院である)。一番肝心な点であるが、田宮神社に祀られているお岩は史実として田宮家にあった女性であり、それに対して陽運寺に祀られているお岩はまさに『東海道四谷怪談』に登場する主人公なのである。田宮神社は、この鶴屋南北の芝居に登場するお岩はフィクションであると広言し(もし事実であれば田宮家は断絶しており、神主である田宮氏が子孫であるという事実に反するわけである)、陽運寺は積極的にこの物語のイメージを喧伝しているのである。つまり、両者が“お岩様”呼ぶものは全く次元の違う存在を指していると言ってもおかしくないのである。 ●於岩稲荷田宮神社(四谷) 四谷左門町にある於岩稲荷は、旧田宮家の屋敷跡に所在すると言われる。元々田宮家内にあった稲荷社からできた神社であるが、かの『東海道四谷怪談』と絡んで取り上げられることが多い。曰く、芝居や映画で『四谷怪談』を上演する時、事前にここへ参拝しないと事故が起こるという、まことしやかな噂である。田宮神社(この神社は田宮家の子孫が代々継いでいる)によると、実は『四谷怪談』はフィクションである。四谷左門町に田宮家が存在し、そこに“お岩”という名の女性がいたことは事実であるが、彼女が夫に裏切られ、毒を盛られて殺されたという話はまさにでっち上げである。更に夫の行状に嫉妬して失踪した“お岩”という女性があったという、土地の有力者の上申書『於岩稲荷来由書上』も存在するが、これは『四谷怪談』上演の2年後に書かれたものである。つまりこれもまた芝居の信憑性を高めるために捏造されたものであるとみなしている。要するに『四谷怪談』とは、作者の鶴屋南北が当時の江戸で起こったさまざまな情痴事件を集大成させ、それを全て於岩稲荷に祀られていた“お岩さん”に結びつけてしまったというのが真相というわけである。“お岩”は夫の伊右衛門を助けて火の車だった家計を立て直し、再び家を盛り返したとされる。それ故、現在の於岩稲荷は夫婦円満のご利益がある。経済的困苦を乗り越えた妻が信心していた屋敷神を、他の人があやかって信仰されてきた神社だと主張しているのである。 ●密厳院 お七地蔵 天和3年(1683年)3月29日に八百屋お七は鈴ヶ森で火刑に処せられた。本来ならば処刑された者をただちに懇ろに葬ることは認め られていないのだが、なぜかお七だけは異様な早さで供養が施されている。複数の伝承によると、裁いた奉行が、罪を一等減じさせるためにわざと年齢を15にしたにもかかわらず、お七がそれを否定したので、火刑が決まったらしい。“未遂罪”という法的解釈がないために極刑が下されたようである。それも考慮に入 れると、わずか16歳という年齢と可憐な容姿に同情が集まったためだけではなさそうである。鈴ヶ森からあまり離れていない大森の地に密厳院という古刹がある。そこにはお七の三回忌供養のための“お七地蔵”が置かれている。お七の実家のある小石川の住民が寄贈したものであり(ここからもお七の放火が大した被害を出していないことが判るだろう)、台座も含めると2mほどというかなり大きなお地蔵様である。この地蔵菩薩の一番の特徴は何と言っても【振袖姿】であることだ。普通の地蔵菩薩でもかなり丈の長い振袖のような着物なのだが、それがさらに強調されているのが目立つ。お七といえば振袖姿がトレードマークのようなものである。実際の処刑の際も艶やかな振袖姿で臨んだという徹底ぶりである。その強烈な印象が、この地蔵菩薩に凝縮されているといって過言ではないだろう(ちなみにお七が起こした放火が“振袖火事”と呼ばれる大火であるとしている資料もあるが、それは史実として誤伝である)。公式にはお七がこの寺に葬られていたために地蔵が建立されたとされているが(ただしお七の墓はこの密厳院には現在存在しない)、それとは別に奇妙な伝説が残されている。元々この地蔵は鈴ヶ森に置かれていたのだが、ある時一夜にしてこの大森の密厳院に移動したとも言われている。 ●鬼王神社 新宿歌舞伎町のはずれにあるのが鬼王神社である。正式には“稲荷鬼王神社”といい、大久保の稲荷神社に鬼王神社を合祀してできた神社である。この“鬼王”という名称を持つ神社はここにしかなく、節分会では鬼を悪者とせず、「鬼は内、福は内」と言って豆を撒くらしい。この珍しい名前の由来であるが、大久保の百姓、田中清右衛門が熊野にあった鬼王権現を勧請してきたのが始まりであるという。ただ、現在熊野に鬼王権現は存在せず、神社で鬼王権現が祀られているのは全国でここだけと称している。そもそも“鬼王権現”とは“月夜見命”“大物主命”“天手力男命”の三神である。実際、鬼王神社の祭神としてこの神々は祀られている。しかし、この“鬼王”という名にはもう一人、重要な人物の存在が見え隠れしている。それが平将門なのである。将門の幼名こそが【鬼王丸】なのである。だが、この神社の由来には全くその名は記されていない。神社の前に置かれた手水鉢にはあやしい伝承が残されている。この手水鉢はかつて加賀美某の屋敷内にあったのだが、文政の頃(1800年代初頭)毎夜のように水音が聞こえるという怪異が続いた。そこでこの手水鉢を斬りつけたところ、水音はしなくなったが、家人に不幸が続いたため、この神社へ預けたという(天保の頃というから、ちょうど稲荷神社と鬼王神社が合祀された直後のことと思われる)。怪しげな水音の正体であるが、この手水鉢の土台になっている鬼の仕業であるとされている。手水鉢を斬りつけたというのも、実際にはこの鬼を斬りつけたらしく、肩のあたりに傷跡が残っているとされているが、それらしき痕跡はあるものの、はっきりとした傷には見えなかった。ちなみにこの斬りつけた刀は“鬼切丸”という名が付けられ、手水鉢と同時に神社に納められたがその後盗難にあって行方知れずであるという。 ●日輪寺 今でこそ、大手町にある平将門の首塚は塚の碑だけが残っている状態なのだが、以前はその塚に隣接する形で神社と寺院があった。神社は言うまでもなく【神田明神】である。そして寺院の方は【神田山日輪寺】という。嘉元3年(1305年)、時宗の真教上人が首塚の地を訪れた時には、塚は荒れ果て、周辺には将門の祟りが原因と言われる疫病が流行っていた。そこで上人は“蓮阿弥陀仏”の法号を与え、塚を修復して供養した。すると疫病は止み、上人もそばにあった日輪寺に留まることとなった。さらに上人は近くの神社を修復し、そこに将門の霊を合祀して神田明神としたのである。まさしくこの真教上人こそが、祟り神であった将門を鎮護の神へと変えた人物なのである。その後、江戸幕府成立直後、神田明神は江戸の総鎮守社として現在の地に移転し、日輪寺も明暦3年(1657年)に現在の西浅草の地に移転した。神田明神がその後も将門と関係深くあったのに対し、日輪寺の方は本来の時宗の念仏道場として名が広まり、将門との直接の関係は薄れてしまったようである。しかしこの寺には非常に貴重なものが残されている。真教上人は将門公供養のために“蓮阿弥陀仏”という法号を与えたが、徳治元年(1307年)にその法号の直筆を石塔婆に刻ませたのである(これによって上人は塚を修復し、祟りもおさまったらしい)。この石塔婆が現在もこの寺に置かれているのである。しかも、 現在大手町にある首塚に置かれている石塔婆は、この日輪寺の石塔婆に刻まれた真教上人の書を拓本して作られたのである。首塚のシンボルのオリジナルということで、貴重なものであると言えるだろう。 ●鎧神社 ここの由来はその名の通り“鎧”である。ただ神社の由来書によると、第一の説としては日本武尊がこの地に甲冑を納めたこととしている。しかしながら、歴史的な事実として天暦元年(947年)に平将門の鎧を納めた記録があるらしく、こちらの方が有力な説であるように感じる。地元の人々が将門の威徳を慕って鎧を納めたのが始まりとする説もある一方で、藤原秀郷が残党狩りをしている最中ここで不意の病に倒れ、将門の霊を鎮めるために将門の鎧を奉納したともされる。さらには将門の弟である将頼がこの地で鎧を脱いで休んでいたところを襲われて討ち死にし、その霊を慰めるために将門の鎧を納めたという異説まである。とにかく将門と鎧というキーワードは共通であり、鎧が埋められているのは確実だと思われる。 ●鎧の渡し 兜神社から徒歩で数分のところに「鎧の渡し」という場所がある。ここにも平将門と源頼義(源義家の父)の伝説が残されいる。源頼義が東北遠征へ行く際、この地で暴風雨に遭い、この淵に鎧を沈めて龍神に祈ったところ、風雨が止んで川を渡ることができたという。この由来からこの辺りを「鎧が淵」と呼ぶようになり、ここにできた渡し場を“鎧の渡し”と名付けたそうである。将門の由来については、この地に兜と鎧を納めたということになっている。“兜”という名で思い出すのが兜神社であるが、向こうでの兜の由来は将門公の死後の出来事であり、どうも関連性は薄いようである。江戸時代にはこの“鎧の渡し”は有名だったらしく、名所図会にも取り上げられている。しかし、明治5年に橋が架けられ、渡し場は消滅してしまった。という訳で、現在ではこの橋が「鎧橋」と呼ばれるようになっている。 ●水稲荷神社 加門七海氏の『平将門魔方陣』によると、この神社も平将門関連の地なのであるが、他の伝承地とは違和感がある。というのも、討伐した藤原秀郷との関連の方が大きいからである。この地に秀郷が稲荷神社を勧請したのが天慶4年(941年)、つまり将門を討った翌年となる。おそらく討伐が成功したお礼の意味合いが強いものであると思われる。将門との関連はさておき、この神社の裏手には古墳がある。【冨塚古墳】というもので、藤原秀郷が最初に稲荷明神を勧請したのもこの塚の上であり、冨塚稲荷と呼ばれていた。そしてこの辺り一帯はこの塚の名前を取って【戸塚】と呼ばれるようになったという。(当時は、塚も神社も現在の早稲田大学の構内にあったのだが、昭和30年代後半に早稲田大学との土地交換によって現在の地に遷座している)冨塚稲荷から水稲荷という名称に変わったのは、元禄15年(1702年)のこと。神木の根元から霊水が湧き出て眼病に効くという評判が立ち、さらに火難退散の神託があったことで改名となったとされる。またこの神社には「耳欠け神狐」と言って、身体の痛い箇所と同じ部分を撫でると痛みがとれるという狐の像がある。 ●築土神社 地図で確認すると、築土神社はビルの並ぶ区画のど真ん中に位置する。ビルの前に立つ鳥居から中へ入り込んでいく。そして神社は高層ビルに取り囲まれるように建っている。この神社が今の九段に置かれたのは戦後の昭和29年(1954年)。それ以前は新宿の牛込辺り、そして江戸幕府ができる前は田安にあり(このころは田安明神と称していたらしい)、更に最初は上平川にあったという。とにかく都内各地を転々としている神社である。現在では本当に小社と言っておかしくない規模であるが、かつては神田明神・日枝神社と共に江戸を代表する古社であった。神社の歴史を紐解くと、創建は天慶3年(940年)。平将門が討たれたその年に、その霊を祀るために建てられたのである。言い伝えによると、上平川に津久土明神としてできたのは、ここに将門公の首が落ちてきたためであるとのこと(つまり現在の首塚の場所に作られた社である)。実際、束帯姿の将門公の木像と共に “首桶”が納められていたらしい(戦災により現存せず。写真のみ残る)。転々と移動している神社であるが、邪険に扱われているわけではない。田安に移したのは太田道灌であり、江戸城の裏鬼門の護りのためと伝えられる。また江戸幕府が移した理由も江戸城内の敷地になるためであった。そして戦後に今の場所に移されたのも、戦災で消失し、元の位置に近い場所に移そうとした結果であるという。 ●兜神社 東京証券取引所のすぐそば、首都高速道路が真後ろを走るというとんでもない都会の一隅に兜神社はある。日本経済の中心地の一つに置かれた神社は、現在では商業の神様としてこのエリアの守護をしている。由来によると、この近辺にあった兜塚が兜神社(源義家が祀られている)となり、更に鎧稲荷(平将門が祀られている)が合祀されて今の兜神社となったようである。合祀後の明治初期に祭神の源義家を廃して倉稲魂命を勧請し、現在に至っているようである。つまりこの神社そのものは既に伝説的二人の武人とは何の関係もないことになる。しかし、この神社の名になった“兜”にまつわるものは残されている。それが兜岩である。この兜岩についても二人の武人が大いに絡んでくる。義家の関連で言うと、東北凱旋後の義家が鎮定のために兜を埋めて塚をなした、あるいは義家が東北遠征のおりに兜を岩に掛けて必勝祈願をした。将門の関連で言うと、藤原秀郷が将門の首を兜を添えて持ってきたが、この地で兜だけを埋めて塚をなした。いずれも決定的な証拠はないのだが、何らかの祭祀がかなり昔からおこなわれていた場所であることは間違いないところである。 ●鳥越神社 祭神は日本武尊。東征の折にこの地に留まったことを近在の者が尊び、白鳥神社を建立したのが始まりとされる。その後、永承年間に源義家が奥州征討へ赴く際、この付近を渡河しようとし、白い鳥に導かれて浅瀬を渡ることが出来たため、鳥越神社と改称したという伝承が残る。しかし神社の由来書きにない伝承もある。それが平将門にまつわるものである。この鳥越神社は将門公の首が飛び越していったので「鳥越(=飛び越え)」という地名になり、この社名となった。あるいは、将門の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められたが、この鳥越神社には手が埋められているという。この神社と将門を結びつけるものはいくつかある。神社の紋を【七曜紋】としているところ(将門の紋は【九曜紋】であり【七曜紋】も同種とみなされる)。また宮司である鏑木家は将門ゆかりの千葉一族の中でもかなり由緒のある家柄であることが、挙げられるだろう。全く縁もゆかりもない土地ではないわけである。 ●神田明神 正式名称は神田神社。元々この神社は平将門首塚のある場所(芝崎村)にあった。当初は大已貴命のみを祀る神社であったが、日輪寺を建立した真教上人が平将門を神として祀り、延慶2年(1309年)に合祀した。平将門という伝説的武将を祀っているために、戦国時代は多くの武将の崇敬を受ける。江戸城増築の際に幕府が現在の地に移転させた。江戸総鎮守として江戸城の鬼門を守護する役目を果たすためである。だが明治に入り、平将門は朝敵であり、天皇が参詣するには不敬であるという理由で祭神から外し、代わって少彦名命を勧請する(オオナムチとスクナヒコナという神の組み合わせは、よくあるケースである)。その後、昭和59年(1984年)になって、平将門は摂社であった将門神社から再び本殿の祭神として祀られるようになり、現在に至る。さてこの【神田(かんだ)】という名の由来であるが、やはり将門の存在が見え隠れする。首塚が築かれたこの地は“身体のない遺骸を祀る山”と いうことで“からだ山”と呼ばれ、それがいつしか“かんだ”という名に転訛したのだという説がある。(ただし漢字から由来を探ると、昔この地が伊勢神宮の “神田”であったために付けられたという。ただし祭神の関係から考えると、少々無理がある部分もある) ●平将門首塚 この首塚の祟りは周知のごとく凄まじい。かなり信憑性のある記録に残っているのでは、関東大震災後に大蔵省が首塚を潰して仮庁舎を建てた直後に大臣以下14名が死亡した件。そして終戦後にGHQがブルドーザーで整地中に事故が起こり死傷者が出た件。いずれもその祟りぶりは凄いものがある。そしてオフィス街にまことしやかに噂されるのは、首塚に尻を向けた格好で机を配置すると祟られるという話である。また塚の供養を怠った企業は何らかのトラブルに巻き込まれるという話もある(首塚の隣りにあった某銀行が20世紀の終わりに破綻したのは祟りだという噂まであるらしい)。関東で兵を起こした将門は藤原秀郷・平貞盛に討たれ、その首は京都四条河原に晒された。ところが、その首が「今ひとたび一戦を」と声を立て、三日後に自力で東国へと飛んでいったのである。そして武蔵国芝崎村にてとうとう力尽きたのだが、その首が落ちた場所がこの地である。住人が首が落ちた所に塚を作り、祀ったという。首塚の碑の後ろにある石灯籠の辺りが塚のあった場所と言われている。この首塚の脇には蛙の置物がおかれている。将門が蝦蟇を自由自在に操ることができるということで、願いが叶うとお礼に置いていくという。そしてひときわ大きな蛙の一つであるが、誘拐された某商社のマニラ支店長が解放された直後に、真っ先に奉納したものであるという。ちなみにこの商社は首塚の隣にあり、首塚の街灯の電気代をずっと負担しているとのことである。 ●江戸期以前の首塚 / 塚が出来た当初置かれていた神社は津久土明神(現・築土神社)。そして徳治2年(1307年)に真教上人が塚を修復して日輪寺を建立、さらに神田明神を建立する。江戸幕府成立後に、日輪寺は浅草へ、神田明神は駿河台へ移転し、首塚だけが当地に残される。 ●首塚の祟り / 関東大震災で首塚が崩れたのを期に学術調査がおこなわれた。石室はあったものの、一度盗掘されていて、めぼしい副葬品が発見されなかった(最終的に将門の墓であることを証明するものは出てこなかった)ため、取り崩されて大蔵省の仮庁舎が建てられた。その後、大蔵大臣の早速整爾が病死(発病後3ヶ月で他界。享年57歳)したのを皮切りに、幹部クラスも含めて14名が2年以内に死去。政務次官・事務次官以下多数の者が足を負傷する。そこで昭和2年に仮庁舎を取り壊して、首塚を復元して、盛大な供養をおこなった。昭和15年6月には、大蔵省庁舎が落雷によって全焼。この年は将門没後千年目に当たり、またもや祟りの噂が流れ、大蔵省による祭祀が執り行われた(現在の供養碑はその時に再建されたもの)。戦後、大蔵省敷地はGHQが接収し、首塚は一時整地され駐車場となったが、整地時にブルドーザーが横転事故を起こして日本人運転手が死亡。土地関係者が「昔の大酋長の墓」であるとして陳情して、塚は保存されることとなった。 ●桐生稲荷(皿明神) 全体的に整合性を欠く内容となっており、それ故伝承の域を超え出ない東京の『番町皿屋敷』の話であるが、なぜかたった一つだけ、皿屋敷に関する歴史的な遺構が存在するという。それが桐生稲荷と呼ばれる小さな祠である。怪談『番町皿屋敷』の原典は『皿屋敷弁疑録』であるが、それ以前にもこれに類似した話が書かれている。中でも『江戸砂子温故名跡誌』では“牛込御門内で 下女が誤って井戸に皿を落としたために殺され、その後、皿を数える声だけが井戸から聞こえてきたのだが、その地に【皿明神】なる社を祀り霊を慰めたところ、声が聞こえなくなった。その社は稲荷である”とある。この話に基づいて古地図を見ると、実際にこれと比定できる稲荷社がある訳である。それが桐生稲荷である。この社であるが、元を質せば個人の屋敷に祀られた稲荷社なのである。三田村鳶魚氏によると、この屋敷には英国公使アーネスト・サトウの家族が住んでおり、その頃には『皿屋敷』を演じる者が詣でていたらしい。現在よりも昔の方が由緒正しい社として認識されていたと見てよい。その後この屋敷の所有者はこの地を去ったのであるが、この社だけは残していったようである。だが残された稲荷社は、やがて“お菊さんの霊を慰めた”という伝承の部分が消えてなくなり、土地の守り神としての性格だけが伝えられるようになったみたいである。そのため現在の正式名称は桐生稲荷であり、皿明神という通り名はほとんど伝えられていない。 ●『番町皿屋敷』 / 元となった『皿屋敷弁疑録』は、宝暦8年(1758年)に馬場文耕が著している。…火付盗賊改方の青山主膳の屋敷は、かつて千姫が住んでいた屋敷の更地に建てられた。主膳は大盗賊・向坂甚内を捕らえ、その娘の菊を下女にする。菊は青山家の家宝である十枚一組の皿の一枚を割ってしまい、主膳に折檻されて指を切り落とされる。そして菊は井戸に身投げしてしまう。その後、生まれてきた主膳の子は生まれつき指が一本欠け、さらに井戸から菊の亡霊が現れて、皿を枚数を数えるに至る。この怪異は公儀の知るところとなり、青山家は断絶する。しかし井戸から菊の亡霊は現れ続けたために、了誉上人が引導を渡して菊を成仏させる。…この話はその後に歌舞伎や芝居に掛かり、評判を得て、皿屋敷伝承の主要なストーリーとなる。 ●浄閑寺 浄閑寺。通称「投込寺」。安政の大地震の時に、新吉原の遊女の遺体が打ち捨てられるように数多く葬られたことから、この通り名で呼ばれる。一部では、吉原が出来た頃から病死した遊女の遺骸が投げ込まれてきたように言われているが、どうもそれは誤りであるらしい。やはり【新吉原総霊塔】がまず第一である。『生まれては苦界 死しては浄閑寺』と詠まれた事実が全てを言い尽くしているように、死してもなお寄る辺のない遊女の霊を慰めるために建てられたのがこの総霊塔である。L字形になった墓地のちょうど角に近いところに総霊塔はある。花などの供え物も新しい、よく清められた場所のように感じる。この浄閑寺であるが、新吉原の遊女に関係するもの以外にもいろいろと見所がある。中でも不気味なのが【本庄兄弟 首洗いの井戸】というものである。親の仇である平井権八を追った本庄兄弟であるが、先に兄が平井の返り討ちに遭い、さらに兄の首を井戸で洗っていた弟もそこを襲われ命を落とす。仇討ちに失敗し、悲惨な末路をたどった兄弟の最期の地が この井戸である。 ●吉原 / 幕府公認の遊郭であった吉原は現在の人形町辺りにあったが、明暦の大火の直後に現在の浅草寺裏の日本堤に移転した。そのため、現在の吉原は江戸期には新吉原と呼ばれていた。ちなみに浄閑寺の創建は新吉原移転より数年早い。 ●本庄兄弟の仇討ち / 鳥取藩士の平井権八は、父の同僚である本庄助太夫を些細な遺恨から殺し、逐電する。遺児の助七・助八兄弟は江戸の三ノ輪に住んで権八の行方を追うが、逆に居所を知られ、助七は吉原田圃で斬られ、兄の首を井戸で洗っていた助八もその場で斬られ、仇討ちは成就しなかった。この平井権八は歌舞伎の「白井権八」のモデルとして有名。 ●本然寺 お菊稲荷 西浅草の金竜公園のすぐそばに曹洞宗・本然寺という寺院がある。ここになぜか“お菊さん”にまつわる非常に珍しいものが祀られている。それが【お菊稲荷】と呼ばれている祠である。永久保貴一氏の“お菊さん”関連の漫画での考察によると、“お菊さん”の伝承は“菊理姫”の伝承が変化したものであるという。その“菊理姫”を祀ったのが白山神社であり、さらに白山神社を寺内社としているのが“曹洞宗”の寺院なのである。前述している通り、本然寺は曹洞宗の寺院である。そして 一方“菊理姫”の実体は農耕神、特に稲の神であるという。稲荷社はその名の通り、日本における“稲の神”として認知されている。このあたりのリンクが、この一切の来歴不明の社の存在に関わっていると推測するのも一興かもしれない。 ●圓乗寺 お七の墓 文京区白山にある圓乗寺。ここは八百屋於七のゆかりの寺院である。天和2年(1682年)12月、大火事で焼け出された八百屋於七の一家は、檀家である圓乗寺へ避難していた。そこで於七が出会ったのが、この寺の小姓・生田庄之助。 彼に一目惚れした於七は、また火事になれば会えると思い込み、翌年3月に自宅へ放火。未遂に終わったが、当時の江戸では放火は大罪。3月29日に鈴ヶ森で 於七は火炙りの刑に処せられてしまう。これがいわゆる【八百屋於七】の事件である。芝居や小説などでは様々なフィクションが入り乱れているが、どうも上に挙げた話が真相のようである。要するに一人の少女が一目惚れの彼氏に会いたいがために狂言放火をやらかし、当時の法令に基づいて罰せられた事件ということである。於七の墓であるが、都合三基が並べられている。中央にあるのが一番古い墓で、刑死直後に造られたもの。右が、舞台で於七を演じたこともあるという岩井半四郎が百十二回忌の供養に立てたもの。そして左が、二百七十回忌に有志が立てたもの(戦後間もないころである)である。この圓乗寺にはさらに【於七地蔵】なるものが安置されている。この地蔵の由来によると、この地蔵は於七が成仏したことの証として作られたものであるらしい。 ●八百屋お七 / お七が有名となったのは、処刑から3年後に井原西鶴が『好色五人女』でこの事件を取り上げてから。その後は創作世界でさまざまな形で脚色され、伝承が拡張している。有名な「振袖火事」の犯人であるとされたり(この明暦の大火は、お七の誕生より約10年前)、丙午の年に生まれたとされたり(これも史実に照らし合わせると2年ほどずれている)しているが、実際には上に書いた通りである。 ●すってくりょう 兄弟塚 菅生本願寺の裏手のあたる坂の登りきったところにある、一名“ほととぎす塚”と呼ばれる塚である。「すってくりょう」「兄弟塚」と大きく案内があるので、見落とすことはほぼないだろう。鎌倉時代の初め頃、この付近を領有していたのは武蔵七党のうち横山党に属していた菅生氏であった。当主の菅生太郎経孝には3人の息子がおり、長男の有孝が菅生太郎の名跡を継ぎ、次男は小倉次郎経久、三男は大貫馬之亮有経と名乗りそれぞれ分家していたという。ある時、菅生氏の菩提寺である福泉寺(現在も国道を挟んで菅生本願寺の反対側にある)から使いが来て、田の代掻きに馬を貸して欲しいと言ってきた。ちょうど長男の有孝は所用で鎌倉へ行っており不在であったが、たまたまいた次男の経久が半日ぐらいならばと兄の馬の一頭を貸したのであった。数日後、所用から戻ってきた有孝はすぐに馬の異変に気付いた。家来に尋ねると、寺の田仕事に貸したという。それを聞いた有孝は武士の乗物である馬を田の仕事に使うとは何事であるか、と怒った。気安く貸し出した弟の経久に食ってかかると、最初は冷静であった弟も売り言葉に買い言葉、最後にはお互いに罵り合うまでの喧嘩になってしまった。ついに激昂した有孝は刀を抜き放ち、経久もそれに応えて刀を抜く。ついに刃傷沙汰に及ぶと、二人は追いつ追われつしながら刀を斬り結び、とうとう“すめり坂”まで移動していた。そこでついに弟の刀の切っ先が、兄の左耳から首筋にかけて鋭く深く食い込んだのである。この一刀で兄はその場に倒れて絶命した。ここで我に返った弟は、血を流して動かなくなった兄を見て、愕然とする。喧嘩をするつもりもなく、ましてや斬り倒す気も毛頭なかったのに、兄を殺してしまった。経久は咄嗟に兄を斬った刀で自らの喉を突き、折り重ねるようにして自害して果てたのである。慌てたのは菅生家の面々である。そして知らせを聞いて駆けつけた福泉寺の者も、事の次第を聞いて狼狽する。とにかく早く葬ろうと“すめり坂”の一番高いところにある、福泉寺所有の林に二人を埋めて弔ったのである。ところが、あまりに慌てていたために、二人とも本来おこなうべき剃髪をせずに葬ってしまったのである。そのため、昼なお暗い林から「すってくりょう、すってくりょう(剃ってくれ、剃ってくれ)」という声が聞こえるようになったという。これが、この塚の名の由来であると言われている。 ●武蔵七党・菅生氏 / 横山党を筆頭に、猪股党・児玉党・与野党・村山党・丹党・西党といった武蔵国に土着する中小武士団で、婚姻によって血族となっており、ある程度結束して集団で行動していたとされる。菅生氏は、多摩郡横山庄(現・八王子市)を中心に所領を持つ横山党に連なる一族であるとされている。また菅生太郎有孝と小倉次郎経久は、あきる野市菅生にある正勝神社の創建に深く関わったとされており、その創建時とされる元暦年間(1184〜1185年)には存命であったと考えられる。 ●“ほととぎす塚”の由来 / ホトトギスの前世は人間あったという伝説が、各地に流布している。これによると、弟が山芋を取ってきて、兄に美味い部分を食べさせているにもかかわらず、兄が邪推して弟の喉を切って殺した。しかし山芋の不味い部分ばかりが弟から出てきたため、後悔した兄はホトトギスとなって「オトノドツッキッタ(弟喉突っ切った)」と鳴くのだという。この「兄弟殺し」の構図がそっくりであるため(兄と弟の立場が逆転しているが)、この別名が付いたものと考えられる。また弟の経久が喉を突いて死ぬという流れも、この伝説がだぶってできた可能性がある。 ●高尾山薬王院 薬王院は、現在は成田山新勝寺、川崎大師平間寺と並んで、真言宗智山派の大本山とされている。しかし創建は天平16年(744年)、聖武天皇の命を受けた行基によるとされる。その時に薬師如来が本尊として祀られたため、薬王院の名が付けられたという。大きく変わるのは、永和年間(1375〜1379年)、醍醐寺の俊源が入って中興の祖となった時である。俊源は不動明王の化身である飯縄権現を本尊として祀り、修験道の山として隆盛していく。高尾山といえば天狗のイメージであるが、これは現在の本尊・飯縄権現による。飯縄権現の姿は、白狐に乗り、剣と索を持った烏天狗であり、またの名を飯縄三郎天狗という。天狗は神使とされ、また高尾山全体を守護する存在として崇められている。参道には「天狗の腰掛杉」という、参拝する者を見守るために天狗が物見しているとされる杉の大木がある。また薬王院の境内には天狗にまつわるものをいくつも見ることが出来る。 ●飯縄(飯綱)権現 / 起源は、信濃国の飯縄山での山岳信仰とされる。白狐に乗った姿はダキニ天と同じであり、妖術(外法)を使うとの民間伝承も多い。一方で、軍神として上杉謙信や武田信玄といった戦国武将の信仰が篤く、日光の輪王寺にも祀られているなど、徳川家からの庇護もあった。 ●雪おんな縁の地碑 小泉八雲(ラフカディオ=ハーン)の晩年の傑作である『怪談』に収められた“雪おんな”の話は、この著名な妖怪にまつわる伝承の最も一般的なものとされている。巳之吉という樵の若者が、冬のある夜に吹雪で戻れなくなり、茂作という老人と共に、川の渡し場にある小屋で一夜を明かそうとした。真夜中に吹き付ける雪に目を覚ました巳之吉の前には、白ずくめの美しい女がいた。女は茂作に息を吹きかけて凍死させると、巳之吉に近づいた。しかしその女は、この夜の出来事を話さないと約束するなら命は助けると言って、去ってしまった。数年後、巳之吉はお雪という女と出会い、結婚。10人の子供をもうけた。お雪は美しく、いつまでも年をとらなかった。そしてある夜、子供を寝かしつけた後、巳之吉はお雪の顔を見ながら思い出したように、あの小屋で出会った女のことを話してしまう。するとお雪は、自分こそがあの時の“雪おんな”であるが、既に子供もなしてしまった今は、殺してしまうことは出来ない、と言うとその場で消えてしまった。この話は八雲の創作ではない。『怪談』の序文には“武蔵の国、西多摩郡調布の百姓が、自分の生まれた土地の伝説として物語ってくれた”と明記されている。さらにこの話をしたとされる人物は、八雲の家で奉公していた、調布村出身の親子であると推断されている。さらに、かつての調布村にあった川の渡し場で最も有名な場所が“千ヶ瀬の渡し”であるということから、おそらくこの有名な怪談話の舞台が比定されたのである。そして平成14年(2002年)、この渡し場のそばにある調布橋のたもとに、雪おんな縁の地碑が作られたのである。碑文は、八雲の孫にあたる小泉時が揮毫。碑の裏側には“調布村”が記載された『怪談』の序文とその和訳文のプレートが付けられている。 ●調布村・調布橋 / 調布村は明治22年(1889年)の町村制施行により成立(当初は神奈川県)。昭和26年(1951年)に町村合併により青梅市となり、消滅。調布橋は、大正11年(1922年)に吊り橋として秋川街道に架けられる。それまでは、現在の橋の少し下流にあった“千ヶ瀬の渡し”が交通の手段となっていた。 ●八王子城址 御主殿の滝 八王子城は関東屈指の山城と言われる。現在、城址は史跡として復元されているが、実際の規模はそれを遙かに上回り、住宅地となっている周辺地も城址であるとされている。八王子城は、関東を実効支配していた北条氏によって建てられた。城主は、北条3代目・氏康の三男、氏照である。当初は滝山城を居城としていたが、より防御の堅固な山城を築くことにした。小田原に本拠を構える北条氏とすれば、関東平野の各地に守りの堅い支城を建設して敵を食い止めれば、小田原からの本隊が攻撃。敵の侵攻を確実に抑えることが出来た。着工は元亀2年(1571年)頃。ちょうど武田信玄と関東各地で戦いを繰り広げていた頃である。ところが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めは、圧倒的な兵力で関東全域の支城を落としていったのである。八王子城も、豊臣軍の北陸部隊である前田・上杉の約3万の兵力の前に落城する。しかもその戦いは、小田原攻め最大の悲劇とも言われるほどの悲惨なものであった。北陸勢は碓氷峠から関東に侵攻、北条氏邦の守る支城の鉢形城を開城させるが、これに1ヶ月も費やしたために秀吉より叱責を受けていた。そのために次に攻める八王子城では、出来るだけ素早く決着をつけて信頼を回復させる必要があった。対して八王子城では、城主の氏照以下主力の兵は小田原城で籠城しており、わずかの守備兵と近隣の女子供ばかり約3千名ほどが籠城して戦いに備えた。6月23日、北陸勢の主力は一気に城へ殺到。対する守備側は一時的に反撃するが、適わぬとみて自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げて全員が死を選んだのである。わずか1日の攻防で、滝を流れる川は三日三晩血で染まったという。さらに北陸勢は見せしめとばかりに、婦女子の首を刎ねて小田原に運び、城から見えるように並べたのである。難攻不落と謳われた小田原城が開城するのは、それから12日後のことであった。その後八王子城は、直後に関東に移封された徳川家康の命によって廃城となった。そして付近の村では、血で染まった川の水で米を炊くと赤く染まるとの言い伝えが残り、供養のために赤飯を炊いたともいう。戦いで最も多くの死者を出した御主殿の滝は今でもあり、そのそばには供養のための碑がある。未だに奇怪な噂が聞かれる場所となっている。 |
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●龍神様と雨乞い 横浜市
今年(平成12年)は庚辰(かのえたつ)の年です。このように年月日を数える十干十二支(じっかんじゅうにし)の干支紀年法(かんしきねんほう)は、古く中国の殷(いん)代にはすでに成立していました。そして、中国の戦国時代(BC480〜247年)頃より、文字の読めない人にも覚えやすいように、十二支に動物を充(あ)てるようになりました。辰(たつ)には伝説の霊獣(れいじゅう)である龍(りゅう、たつ)が充てられました。干支紀年法は、5世紀頃までには日本にも伝えられ、明治5年(1872)までは公式に使われていました。 さて、龍は鱗介類(りんかいるい、鱗(うろこ)や甲羅(こうら)を持った生物)の長(かしら)とされ、平素は水中にひそみ、水と密接な関係をもち、降雨をもたらすと考えられていました。そのため、水神の蛇(へび)信仰と結びつき、龍神、龍王などと呼ばれるようになりました。各地の年中行事には、水と耕作をつかさどる龍の農業神的な性格を見ることができます。 港北区は、鶴見川の流域に位置し、かつては稲作を中心とした農村地帯でした。低湿地帯でありながら、干魃(かんばつ)にもあいやすいという土地柄でしたので、各地で雨乞い(あまごい)が行われていました。師岡(もろおか)熊野神社の熊野郷土博物館には、承安(しょうあん)4年(1174)高倉天皇の勅命により、延朗上人(えんろうしょうにん)が雨乞い神事をおこなった時にみずから彫刻したという十三頭の龍頭が展示されています。この龍頭は、近年まで「いの池」でおこなわれていた雨乞い神事に使用されていました。樽(たる)では、本長寺(ほんちょうじ)の境内に八大龍王の石塔を建てて龍神を祀り、身延七面山や大山に詣でて分けてもらった水をかけて雨乞いをしました。新羽(にっぱ)では、西方寺(さいほうじ)の住職が寺持ちの神社へ赴き、龍王様をかたどった龍を藁(わら)で作り、水を入れた大きな桶の中に浮かして請雨経(しょううきょう)を読誦(どくしょう)しました。日吉(ひよし)や城郷(しろさと)でも、大山からもらってきた水を使って雨乞いがおこなわれていました。 このように、かつては区内各地で様々な雨乞いがおこなわれていましたが、都市化が進み、昭和30年頃までには無くなってしまいました。しかし、自然に対する畏敬の念や水を大切にする気持ちは、いつまでも持ち続けていきたいものです。 ●五頭龍 鎌倉市 江の島には、天女と五つの頭を持つ龍のロマンチックな「天女と五頭龍」伝説があります。昔、深沢の底なし沼に、「五頭龍」という龍が棲み、様々な災いをもたらし人々を苦しめていました。ある時、海底から島がわき起こり、天女が舞い降りました。その美しい天女に恋をした五頭龍は結婚を申し込みますが、これまでの悪行から断られます。そこで五頭龍は悪行を止め、改心し善行を尽くし、天女と結婚することができたと伝えられています。 天女は江島神社に祀られ、龍は江の島の向かいにある龍口明神社に祀られています。 ● むかし、むかし、1500年もの大むかしのこと。鎌倉の深沢の山ん中に底なし沼があったそうな。 沼のまわりは、うっそうと原始林がおいしげり、昼なお暗く、 そこにはやせこけたオオカミが、たむろしておったそうな。道に迷った旅人が、沼のほとりに近づくと、とつぜん黒いなまぐさい風が吹きまくり、沼には白い波がざわざわとたち、 水がむっく、むっくともちあがり、沼の底から五つの頭をもつた龍がぬうっと現われて、ふるえおののく旅人をドクンとのみこむと、 ふたたび沼の底にもぐっていった。 五頭龍は、人をのむだけではなく、ときには山くずれや洪水をおこし、田畑をうめたりおしながし、作物を枯らしたり、 ときには火の雨をふらせたりして村人を苦しませていた。 なかでも村人がいちばん恐れていたのは、とつぜん龍が里にあらわれて、 こどもをまるのみにすることだった。 ある日、五頭龍が津村の水門のところにあらわれて、はじめて村のこどもを食った。 それからというもの村人は、ここを「初くらい沢」と名づけて近よらなかった。 また、津村の長者には、16人のこどもがいたが、 ひとり残らず五頭龍にのまれてしまった。 悲しんだ長者は、しかたなく西の村に逃げ、そののち、 村人達は、沼のある深沢へいくこの道を「子死越(こしごえ)」と呼ぶようになり、それが今の「腰越」になったと。 「五頭龍さまがくるぞ」といえば、どんな悪たれ小僧もチンとしてちじこまってしまった。 「こんなにつぎからつぎと災難つづきじゃ、村は死に絶えてしもうわい。 どうじゃ、五頭龍さまをなだめるために、 こちらからこどもを人身御供としてさしださねばおさまるめえ」。村では、そう話がきまって、毎年、おさないこどもたちが「子死越」の坂を越えて、沼へつれていかれた。 いけにえとなった子供達のおかげで、村は静かな年をおくることができた。 ところが、欽明天皇(きんめいてんのう)の13年(552年)4月12日、前夜から海岸一帯にまっ黒い雲が天をおおい、深い霧がたちこめ、 地鳴りがゴーゴーとひびき大地震がおそった。地は割れ、山はくずれ、沖合いからは高波が村におそいかかってきた。 村人は命からがらあちこちとさまよっていた。 地震は十日のあいだつづいたが、二十三日の辰の刻に、うそのようにとまった。やがて、地鳴りもやんでホッとしたとき、とつぜん大音響がして、海の中に爆発がおこり、 まっかな火柱とともに海底が天までふきあげられ、そのあとに小さな島が出現した。 これが今の「江ノ島」なのだと。 そのとき、天から天女が紫の雲にのり、左右に美しい童女をしたがえて、静かにおりてきた。 そして、どこからともなく美しい音楽がきこえ、 いい香りがただよっていたそうです。このありさまを、対岸の山のかげから、かたずをのんで見ていた五頭龍は、天女のあまりに美しい姿に、 「なんとまあ美しい女ごだんべ」と波をかきわけ、島にやってきた。「わしは、このあたりを支配する五頭龍さまじゃが、そなたをわしの妻にむかえたい」と、天女に申しこんだ。 ところが、天女はだまって洞窟の中へはいっていかれ、奥から申されました。 「これ五頭龍とやらに申すぞ。おまえは田畑をおし流し、 罪もないおさな子までのみ、村人を苦しめてきた罪悪をふりかえってみるがよい。そのような者の妻になりはせん。」 五頭龍は、すごすごと沼へもどっていったが、翌日、ふたたび海をわたって江ノ島へやってきました。 「もうし、天女さま、昨日の五頭龍でごぜえますが、わしは、今まで人々を苦しめたことを深くあやまりますだ。 これからは、心をあらため、そのつぐないをするでどうか夫婦になってくだせえ」「・・・・・・」「わしを信じてくだされ、天女さま。わしは、もうむかしの五頭龍ではなくなりましただ。どうか夫婦になってくだされ」「ならば、そちの心を信じて妻になってあげよう」と、いうことで天女と五頭龍は、めでたく夫婦になった。 それからというもの五頭龍は、生まれかわったように情ぶかくなり、ひでりの年には雨をふらせ、みのりの秋には、台風をはねかえし、 津波がおそったときには、波にぶちあたっておしかえし、天女と力をあわせて村人のためにつくしたということです。 しかしそのたびに、五頭龍のからだはおとろえていった。 ある日のこと、五頭龍は、妻にむかって「わたしの命もやがて終わるでしょう。 これからは、山となっていつまでもこの地をお守りしたい」と、いいのこすと、対岸に去って山になったということです。 これが、江ノ島の対岸にある片瀬の「竜口山(たつくちやま)」で、山の中腹には竜の形をした岩があって、 江ノ島の天女をしたうように見つめていたということです。村人は、心をいれかえた五頭龍を「竜口明神」としてまつり、社を建てました。これが「竜口明神社」です。「竜口明神」となった五頭龍は、今も片瀬や腰越の人々を、見守りつづけているということです。 ●姫の松の由来 愛甲郡愛川町 角田地域にある桜坂の坂下に昔、「底なし」と呼ばれる沼がありました。その岸辺には「姫の松という名の老木があったそうです。 相模川の川辺にある小沢城に美しい姫が住んでいました。この小沢城が戦乱に巻き込まれ落城、姫も侍女たちと城を出てここまで逃れてきましたが、身の末を儚んで「底なし」に身を投げて果ててしまったのでした。「姫の松」は沼に身を投げた姫が持っていた杖が根付いたものといわれいます。 また、一説には姫を悼んだ近辺の村人が植えたものと伝えられています。 |
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●神奈川の伝承 ●居神神社 創建は永正17年(1520年)。主祭神は三浦荒次郎義意とされる。相模の名族三浦氏は永正13年(1516年)に、伊勢宗瑞(北条早雲)によって新井城にて滅亡した。義意もこの戦いで自害するのだが、そこから神社創建にまつわる奇怪な伝承が残されている。『北条五代記』に書かれている義意は21才にしてまさに容貌魁偉、背丈は7尺5寸(227cm)、黒髭をたくわえて目は血走り、手足も筋骨隆々で八十五人力であったとされる。さらに戦に及んでは、厚さ2分(6mm)にうち延ばした鉄の甲冑を身にまとい、家に代々伝わる5尺8寸(176cm)の正宗の大太刀を持って斬り回った。そして最後の戦いでは城の外に打って出て、白樫の丸木を1丈2尺(364cm)に切って八角に削った金砕棒を振り回し、敵の兜目がけて振り下ろせば頭が胴にめり込み、横に薙ぎ払えば5人10人と一気に打ちひしいだ。遂には500人ばかりを打ち殺すと、自ら首を掻き切って自害したのである。だがこの打ち落とした首は死なないどころか、北条氏の居城であった小田原に向かって飛び去り、そして井神の森にあった松にかぶりついたのである。首はそのままの状態で通行人を睨みつけ、気絶する者や中には死ぬ者まで出てきた。数多くの高僧などが供養するも首の怪異は止まず、3年が経って、総世寺の4世・忠室存孝が松の下で読経をしつつ「うつつとも 夢とも知らぬ ひとねむり 浮世の隙を 曙の空」と詠むと、首はようやく目を閉じるやたちまち白骨となって松の木から転がり落ちたのである。そしてその時「われ今より当所の守り神にならん」との声がしたため、ここに神社を建立したという。武運つたなく敗れた者を勝者が慰霊のために祀り、神とすることで逆に自分たちを守護する存在とする考えは古来よりあり、居神神社もそのような発想から、自分たちが滅ぼした相模の名族の当主を神とすることは十分に考えられる(しかも居神神社は小田原城から見て南西の位置、つまり裏鬼門に当たる場所にある)。そして義意の“鬼神”のような武勇についても、“人間離れした存在=神となるべき存在”であるという認識が下敷きにあるものと推察出来る。 ●『北条五代記』 / 寛永期(1624〜1645年)に成立と考えられる。三浦氏の一族であり、北条氏の家臣であった三浦浄心(1565-1644)が著す。後北条氏5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた書。 ●総世寺 / 小田原市にある曹洞宗の寺院。開山は嘉吉元年(1441年)、小田原城を建てた大森氏の一族である安叟宗楞。家督争いで一時的に敗北した三浦道寸が、この寺に逃げ込んでいる。 ●義意の首の異説 / 居神神社の創建伝説として“義意の首が小田原へ飛んだ”話が残っているが、『北条五代記』では首が生き続けるなどの逸話はあるが、“首が飛んだ”という表記はない。ただ「義意が死んだ場所100間(182m)四方は、今なお田畑を作らず、草を刈らない。牛馬もここの草を食べると死ぬのを知っていて、他の獣も入らない」という記述があり、首は新井城の戦場跡にあったものと考えられる。また“小田原に首が飛んでいった”という表現は、この地に一時期梟首されたことの暗示であるとの説もある。なお居神神社では、三浦市住民からの抗議もあって、現在は“首が飛んできた”という伝承の紹介はおこなっていない。 ●舟地蔵 (ふなじぞう) 大庭城址公園の南端、舟地蔵交差点の北西角にある。現在でも花や菓子などが供えてあり、土地の人達によって手厚く守られているのがわかる。この地蔵の一番の特徴は、その台座が舟の形になっているところである。珍しい形ではあるが、稀なものではなく、おそらく“無事に三途の川を渡れるように”という意味合いで作成されたものではないかと考えられている。ただここにある舟地蔵については、悲しい伝説が残されている。扇谷上杉家の支配する大庭城を、北条早雲が攻めた時のこと。大庭城は、太田道灌が全面的に改修し、かなりの規模の平城であった。そしてさらに厄介なのは、平地から攻めようとすると城の前面に沼地があって、思うように兵を進めることが出来ないことであった。さすがの北条軍も攻めあぐねるばかりであった。ある時、北条方の武将が、城のそばでぼた餅を売っていた老婆に何か良い知恵がないかと相談してみた。すると老婆はあっさりと「引地川の堤を切れば、簡単に水が抜けて沼地ではなくなる」と答え、さらには最も決壊させやすい堤の場所まで教えたのである。喜んだ武将であったが、それと同時に秘密が漏れたことを敵に知られてはなるまいと思い、その老婆を斬り殺してしまったのである。そして北条軍は堤を切って水を抜き、遂には大庭城を攻略してしまったのである。大庭城はその後は北条氏のものとなり、そして北条氏の滅亡と共に廃城となった。近隣の者は、秘密を教えてしまったために殺された老婆を哀れみ、城跡近くに一体の地蔵を置いて、その霊を慰めた。それが今ある舟地蔵であるとされ、土地の人々はその左手に乗せられている宝珠は、実は老婆が売っていたぼた餅であると言い伝えている。 ●大庭城 / 鎌倉権五郎が築城したとされ、居城とした権五郎の子より大庭氏を名乗る(源頼朝を石橋山で破った大庭景親は子孫)。室町時代には扇谷上杉氏の支城となり、太田道灌が大改修をして東相模の要衝とした。永承9年(1512年)、北条早雲によって攻略された後にも改修された。北条氏の滅亡時に廃城となる。 ●子産石 JR逗子駅から京急バスに乗って約20分。葉山付近の海岸線沿いを走る国道134号線に“子産石”というバス停がある。そのバス停を降りた目の前に、球形をした大きな石が置かれている。これが子産石である。その名の通り、子産石は子を生み出す。『三浦古尋録』という書籍にも記載されており、古くからその名が知られている。近くの浜辺にある岩場が波に削られていくと、その中から小さな丸い石が出てくるらしい。そしてその不思議な現象から、この子産石は子宝を求める人々から大いに信仰されている。このバス停そばにある大きな石(これ自体が子供を産む石というわけではなく、子産石信仰の象徴的存在として文化財登録を受けているだけらしいが)に触れた手で腹をさする、あるいは丸い小石で直接腹をさするとご利益(妊婦の場合は安産のご利益)があるという。そして丸い小石は、現在でも近くの浜辺へ行けば拾うことが出来る。浜辺で拾った丸石を持って帰って子宝祈願をすると良いともされる。実際ここを訪れて祈願して子宝に恵まれた方の体験記がネット上にもあり、根強い信仰が続いていると考えて間違いなさそうである。 ●蹄の井 馬頭観音 (ひづめのい) 防衛大学校の西側そばにあるのが“蹄の井”と呼ばれる伝承地である。コンクリートで造られた祠の中には馬頭観音が安置されており、現在は近くの浄林寺が管理しているとのこと。この蹄の井には以下のような伝説が残されている。平安時代末期、海を隔てた安房国嶺岡(現在の千葉県鴨川市の南部)の洞窟に一頭の暴れ馬が住み着いていた。土地の者はこの馬を“荒潮”と呼んで怖れていた。荒潮は人が怖れて近づかないのをよいことに、次第に畑の作物を荒らして食べるなど暴れ回った。そしてとうとう人々の怒りは頂点に達し、遂に総出で退治することとなった。さすがに大勢の人間を相手では分が悪く、荒潮は追い立てられ、最後は自ら海に飛び込んで逃亡する羽目となってしまったのである。だが荒潮は大力の馬である。安房国から何とか対岸の相模国まで泳ぎ着いてしまった。たどり着いたのは小原台(現在の防衛大学校周辺)であった。だがさすがの暴れ馬も泳ぎ疲れて息も絶え絶え、特に喉の渇きは耐えられそうもなかった。この生死のさなか、荒潮に救いの手を差しのべたのが馬頭観音である。観音の導きによって、荒潮が大地を力強く蹄で蹴ると、そこから清らかな水が湧き出てきたのである。それを飲んだ荒潮は息を吹き返した。それと同時に激しい気性が収まり、穏やかな性格の馬へと変貌したのである。この稀に見る馬は小原台の森に棲み着くようになり、近隣の者も“美女鹿毛”と呼び、その駿馬ぶりの噂は広まった。そこで領主である三浦義澄は美女鹿毛を捕らえると、それを源頼朝に献上した。頼朝もその能力を愛で、名を“生月(いけづき)”として愛馬としたのである。歴史に名を残す名馬に由来するということで、現在でも競馬関係者が祈願に来るとも言われ、また今でも残る湧き水は夜泣きや百日咳に効くと言って貰い受ける人もあるとされる。 ●六ツ塚 “坂東武士の鑑”と謳われた畠山重忠は、鎌倉幕府草創期の有力御家人として活躍し、清廉高潔の人物として同時代の御家人達からも敬われる存在であった。しかし、そのような武人の最期は悲劇的であった。元久2年(1205年)、重忠は「鎌倉に異変あり、急ぎ参上せよ」との命を受け、取るものも取りあえず134騎という小勢で駆けつけようとした。しかしそれは重忠謀反という虚偽によって仕掛けられた罠であった。二俣川(現・横浜市旭区)で重忠は、数千とも一万ともいわれる討伐軍と遭遇し、自らに謀反の疑いが掛けられ誅殺されようとしていることを悟る。家臣も一旦本拠地に引き返し、軍備を整えて一戦を交えようと進言する。だが重忠は「ここで本拠に戻って兵を出せば、やはり謀反の疑いは真実であったと言われるであろう」とその場に踏みとどまり、134騎全員が討ち死にしたのである。この畠山重忠終焉の地である鶴ヶ峰周辺には、多くの史跡が残されている。中でも重忠以下134名の遺骸を葬り埋めたとされるのが、薬王寺の敷地内にある六ツ塚である。塚と言っても、少し大きく盛り土されたものが6つ点在するだけである。しかし逆に、これらが崩されることなく残されているのは、それだけ畠山重忠という人物に対する崇敬の念が強い証左でもあると言えるだろう。今では薬王寺の境内にあるように見える六ツ塚であるが、実際はその逆で、六ツ塚のそばに畠山重忠顕彰のために霊堂建設運動が起こり、昭和3年(1928年)に廃寺であった薬王寺がこの地に移設されたのである。この運動を主導したのは栗原勇。元陸軍大佐で、この時期は既に退役して出家をしていた。畠山重忠に武士道精神の理想を見出し、顕彰しようとしたのだという。戦後、薬王寺はコンクリート造りの建物となったが、いまだに重忠公の位牌を祀り、6つの塚の保存と慰霊に勤めている。 ●謀殺の背景と結果 / 武蔵国の支配権をめぐる、北条氏と畠山氏の利害関係の対立が大きな原因であるとされている。特に北条時政の後妻・牧の方の娘婿が武蔵国の国司であったため、時政と牧の方が主導で重忠排除を画策したともされる。重忠亡き後は武蔵国は北条氏の支配下に置かれたが、それと同時に謀殺を口実にして時政と牧の方は、息子の義時(そしてその姉の政子)によって政権の座から引きずり下ろされる。これも重忠が人格者であった故に、他の御家人の恨みを買うことを怖れたためであると言われる。 ●鎌倉宮 祭神は、後醍醐天皇の第三皇子・大塔宮護良親王である。親王は6歳の頃には僧となる身として門跡に入り、その後、若くして天台座主にまで上り詰める。しかしその気性は激しく、座主となってもなお武芸を好み、日々その技量を磨いていたと言われる。転機が訪れたのは元弘元年(1331年)。父である後醍醐天皇が幕府打倒を目指して兵を挙げた時である。挙兵に呼応するように、親王は還俗して戦乱の真っ只中に身を投じることになる。特に後醍醐天皇が隠岐に流罪となった後の活躍はめざましいものがあり、楠木正成と時を同じくして再挙兵し、令旨を発して各地の不満分子である武士の倒幕を促したのである。この一連の動きが功を奏し、遂に幕府は滅亡するのである。後醍醐天皇による親政が始まると、親王は征夷大将軍と兵部卿という、武士の最高権威の地位を得る。しかしそれは、倒幕に功績のあった足利尊氏を刺激し、両者の仲は険悪となる。さらに倒幕の令旨を出したことに絡んで、父の後醍醐天皇とも対立を深めていった。そして建武元年(1334年)に皇位簒奪の疑いを以て親王は捕縛され、足利方に引き渡される形で鎌倉に幽閉されるのである。土牢に幽閉されること9ヶ月余り。親王に悲劇が訪れる。先年滅ぼされた北条高時の遺児である時行が鎌倉を攻め落とす勢いで進軍してきたのである。守りにあった足利直義は鎌倉を放棄することにしたが、その時、家臣の淵辺義博に後難の憂いを絶つために親王暗殺を命じる。『太平記』によると、この暗殺は凄惨極まりないものであった。土牢に押し込められて足の萎えていた親王は、易々と淵辺に組み伏せられてしまうが、首を掻こうとする刀を歯で噛み止めて抵抗し、とうとう切っ先の部分が折れてしまう。すると淵辺は脇差しを抜いて、親王の胸を二刺し、そして弱ったところで首を掻き切ったのである。淵辺が首を明るいところへ持っていって確かめると、生きているかのように両目をカッと見開き、口の中はなお折れた刀の切っ先を噛み締めたままという恐ろしい形相であった。これを見て淵辺は「このような首は主君に見せるものではない」として持ち帰らず、近くの藪に捨ててしまったという。土牢のあった東光寺は廃寺となるが、明治2年(1869年)明治天皇の命によって、護良親王を祀る神社が造営される。それが鎌倉宮である。本殿の裏側には、護良親王が幽閉された土牢が今でも残されている。また淵辺義博が首を捨てた場所も「御構廟」として境内にある。 ●旧相模川橋脚 自然は時折、思いも掛けないような奇異なるものを人々の目の前に出現させることがある。大正12年(1923年)に起こった関東大震災とその余震によって水田から現れたのは、7本の柱であった。さらに調査をすると3本の柱を確認、計10本の柱が忽然とこの世界に甦ったのである。歴史学者の沼田頼輔はこの柱を『吾妻鏡』に照らして、鎌倉時代に相模川に架けられた大橋であると鑑定した。平成になってからの調査の結果、これらの柱は1200年頃に伐採されたヒノキ材であり、2m間隔で3本一列に並べられ、その列が10m間隔で4列になって並んでいることが判った。まさに鎌倉時代に造られた橋脚であると結論づけられたのである。現在、この橋脚は中世の遺構として史跡に指定されると同時に、関東大震災時の液状化現象を示すものとして天然記念物にも指定されている。突如として現代に現れた遺構というだけでも十分伝説的であるが、この橋そのものも曰く因縁を持った存在である。この大橋は建久9年(1198年)に稲毛三郎重成が妻の冥福を祈るために建造したものである。この妻が北条政子の妹であったため、この落成に際しては源頼朝も参列している。そしてその帰り道、頼朝は死の直接的な引き金となった落馬をしているのである。この落馬の原因が怨霊であるという説がある。『北條九代記』という書物によると、頼朝は八的ヶ原という場所で、自分が滅ぼした源義経や源行家らの怨霊と出くわし、からがら逃げたという。しかし稲村ヶ崎で遂に安徳天皇の亡霊と遭遇するに至って失神、落馬したというのである。頼朝が死の間際に見た橋そのものを、800年の時を経てじかに見る。何か不思議な気分にさせる伝承地である。 ●三浦大介腹切松 どこにでもあるような児童公園の一角に、いくつかの石碑と共に一本の松の木がある。それが三浦大介腹切松である。平家打倒を掲げて、源頼朝が伊豆で挙兵をしたのは治承4年(1180年)のことである。この時、頼朝に味方した一大勢力が三浦一族である。三浦氏は三浦荘の在庁官人として“三浦介”を名乗る豪族であったが、その地は源頼義から与えられたものであり、その縁で代々源氏に忠誠を誓っていた。源氏の嫡流が挙兵となれば、一族が味方するのは当然であった。ところが、伊豆の頼朝に合流すべく兵を動かしたが、川の氾濫で身動きが取れず、結局、頼朝は石橋山の戦いで敗走してしまう。三浦一族も兵を引き、居城の衣笠城に立て籠もる。そこへ数倍もの数の平家軍が攻めてきたのである。この時の三浦一族の家長は大介義明、齢は89。敗戦必至の状況で、義明は主力である息子達を城から落ち延びさせて再度頼朝に合流するように命じ、そして「源氏の家人として再興にめぐりあえたことは喜ばしい。生き長らえて八十有余年、先はいくらもない。この上は老いた命を頼朝様に捧げ、城に残って手柄を立てたい」との決断を下すのであった。その後、一族が退却するのを見届けた義明は城と運命を共にして討死したとも言われるが、次のような伝説も残されている。敵を引きつける役目を果たした義明も城を抜け出し、愛馬に乗って一族の墓所へ向かった。ところが、途中にある松の木のそばで愛馬が急に立ち止まって動かなくなってしまった。義明はここに至って己の運命を悟り、そこで馬を解き放して、切腹して果てたという。その場所にあった松が腹切松と呼ばれるようになったという。ちなみに石碑の左横に扁平な石があるが、かつては黒白二つの石があって「駒止石」と呼ばれていたともいう(現在は黒石のみが残り、白石は行方知れずとのこと)。 ●お玉ヶ池 近世の箱根と切っても切れないものは“関所”である。旧東海道である県道732号線の途上にあるお玉ヶ池も、この関所にまつわる伝説の地である。元禄15年(1702年)2月、関所破りの罪で一人の少女が捕らわれた。伊豆国大瀬村の百姓の娘で玉という名であった。江戸に奉公に上がっていたのであるが、家恋しさに店を抜け出し、通行手形もないままに箱根まで来たのである。そして関所の裏山を抜けていこうとしたところを役人に見つかり、牢に繋がれたのである。2ヶ月の吟味の後に下された処分は、打ち首獄門。お玉は捕らえられた場所で斬首となった。街道から外れた裏山に入ったところの坂道であった。これを哀れに思った村人は、獄門に晒されたお玉の首をこの池で洗ったという(あるいはこの池のほとりに獄門に晒されたとも)。それ以来いつしか“薺(なずな)ヶ池”という名が“お玉ヶ池”と呼ばれるようになった。そして処刑された坂道も“お玉ヶ坂”となったという。また一説では、京の旅芸人であった二人の少女が、親方嫌さに一座から逃げ出したが、旅芸人は手形がなくとも芸を披露するだけで通行できることを知らず、関所を破ってしまった。役人の追っ手を撒こうとしたが、結局逃げ切れず、二人はこの池に身を投げて死んだという。この旅芸人の名がお玉であったと伝わる。 ●源実朝公御首塚 建保7年(1219年)1月、鎌倉幕府3代将軍・源実朝は鶴岡八幡宮で暗殺された。武士として初の右大臣昇進の拝賀がほぼ終わった時であった。暗殺に及んだは、実朝の甥で猶子、さらに鶴岡八幡宮寺の別当であった公暁である。公暁は実朝を襲うとその首を切り落として、放さず持ち続けた。だが同日、乳母夫であった三浦義村の邸宅へ赴く途中、義村の送った討手である長尾貞景・武常晴ら5名によって急襲され殺害された。そして実朝の首はそこから行方知れずとなり、墓にも首を納めることが出来ず、胴体に下賜された髪の毛一本だけが棺に納められたという。ところが鎌倉から馬で半日掛かるとされた秦野の地に、その実朝の首が祀られている場所がある。伝承によると、首を運んできたのは、公暁の討手の一人であった武常晴であり、当時の秦野を治めていた波多野忠綱に供養を願い出て葬ったとされる。ただ波多野氏と三浦氏は縁戚でもなく、むしろ関係は良好ではなかったと言われる。一説によると、実朝暗殺を画策して公暁をそそのかして暗殺させたのが三浦義村であり、それを知った武常晴が憤って、首を秦野まで持ち出したのではないかとも言われている。ただし実際には、なぜこの地に首がもたらされたのかは、実朝暗殺の背景と共に謎である。 ●走水神社 祭神は日本武尊と弟橘媛命。日本武尊の東征の折、相模国の走水に着くと、ここから海路で上総国へ向かうことになった。日本武尊は海を眺め「小さな海だ。これなら飛び上がっただけで渡れよう」と言ったが、いざ船で渡り始めると突然の暴風雨となり、船は進むことも退くことも出来なくなった。すると后の弟橘媛は「この嵐はきっと海神の仕業です。私が身代わりとなって海に入りましょう」と言うと、海に入っていったのである。するとたちまち暴風雨は止み、日本武尊は弟橘媛の犠牲によって無事に上総国へ行くことが出来た。走水神社の創建は、日本武尊が海を渡る前にしばらくこの地に滞在していたが、土地の人々が慕ったので出航に際して自らの冠を与えた。人々はそれを石櫃に納めて土中に埋め、その上に社を建てたことによるとされる。一方、弟橘媛が入水して数日後、媛が身につけていた櫛が浜に流れ着いた。人々はこの櫛を日本武尊が仮の宮としていた場所に社を建てて、橘神社として崇敬した。しかし明治になってからこの場所が軍用地として接収されることとなったため、橘神社は走水神社の境内に移され、さらに明治42年(1909年)に走水神社に合祀されたのである。現在、境内には弟橘媛に殉じた侍女を祀る別宮、弟橘媛が入水に際して詠んだ歌「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はや」を刻んだ碑、また弟橘媛のレリーフをはめ込んだ舵の碑など、弟橘媛に関するものが多く見られる。さらに社殿の裏手には、水神として河童を祀る水神社もある。 ●二枚橋 五反田川に架かる橋。現在は何の変哲もない橋であり、説明板と、欄干のデザインに伝承にまつわる透かしがあることで,ようやくそれと分かる程度である。治承4年(1180年)、伊豆で源頼朝が反平氏ののろしを上げて挙兵をした折、平泉にいた弟の義経は取るものも取りあえず、勇んで関東の兄の許へ馳せ参じることとした。その途中、義経主従は五反田川を渡ろうとするが、橋があまりにも粗末であるために、馬でも渡れるような橋に造り直した。丸太を並べてその上に土を盛るという手法で造られた橋は、横から見ると、まるでのし餅を2枚重ねたように見えるために「二枚橋」と呼ばれるようになったという。 ●菖蒲沼跡/鹿沼公園 相模原に残る、デイラボッチ(ダイダラボッチ)伝承ゆかりの地である。大昔、雲に届かんばかりの大男、デイラボッチがいた。ある時、東の方に高い山がないので、富士山を東に持ってこようと思い立ち、抱え上げると動かしだした。ところが、さすがに富士山は大きくて重いので途中で一休みしようと、山を地面におろしてそこに腰掛けて一服した。しばらくしてまた運び始めようとしたが、山に根が生えてしまって持ち上がらない。何とかしようと頑張ったが、結局動かせないと分かるとそのまま富士山をほったらかして動かすのを止めてしまったという。その時、足を踏ん張った場所が菖蒲沼と鹿沼であると言い伝えられている。どちらの沼も相当以前に埋められてしまい、菖蒲沼の方は跡地であることを示す石碑が建っているのみで、全く痕跡を残していない。一方、鹿沼の跡は公園用地となり、昭和48年(1973年)に鹿沼公園となった。公園の中心部には白鳥池という、鹿沼の名残を伝える池があり、その形は巨人の足を想起させるものになっている。 ●医王寺 蟹塚 医王寺境内の鐘楼のそばに蟹塚がある。これにには次のような伝説が残されている。医王寺の鐘は朝と夕に撞かれたが、その音を怖がって白鷺が寄りつかないために、境内の池に棲む魚や蟹は捕られることもなく暮らすことが出来ていた。ある時、近隣から火の手が上がり、やがて医王寺にも延焼した。山門を焼き、やがて火が鐘楼に迫ってきた時、池から何百もの蟹が現れて鐘楼に上ると泡を出して火を消し止めようとした。火は猛威を振るい多くの蟹が焼けて死んでいったが、一向に蟹の数は減らなかった。そして翌朝、鎮火した後の境内には鐘楼だけが焼けずに残っており、その周りには焼けた蟹の死骸が大量にあったという。寺では、命がけで鐘楼を守った蟹の徳を後世に伝えるべく塚を建てた。そしてそれ以降、医王寺の池に棲む蟹は、火で焙られたかのように背中が赤いものばかりになったという。 ●猫の踊り場 昔、戸塚宿に水本屋という醤油屋があった。主人夫婦と一人娘の家族3人と、奉公人の番頭と丁稚が住んでいた。そして娘が雌の黒猫の“トラ”を飼っていた。醤油の付いた手を拭くので、毎日晩になると5人分の手ぬぐいを洗って干しておくのが、この家の習慣であった。ところがある時、丁稚の手ぬぐいがなくなり、翌日には主人のものもなくなった。主人は丁稚がわざとなくしたのだと思って問い詰めたが、埒が開かない。一方、丁稚はいわれのないことで怒られ、泥棒の正体を暴いてやろうと夜なべして見張った。すると夜中に手ぬぐいが地を這うように走って行くのを見たが、結局正体は分からなかった。翌日、主人は用事で隣町へ行ったその帰りの夜道で、不思議な光景に出くわす。人気のない空き地で、手ぬぐいをかぶった何匹かの猫が人語で会話しているのである。月明かりの下、猫たちは踊りの師匠を待っている様子。そこへ来たのが、手ぬぐいをかぶった黒猫、まさしく飼っている“トラ”である。しかも“トラ”は、晩御飯に熱いおじやを食べて舌を火傷して満足に喋れないとぼやきつつ、踊りの手ほどきを始めた。腑に落ちた主人は,店に戻ると内儀に猫の晩御飯を尋ねると、案の定熱いおじやであった。翌日の晩、家族と店の者を連れて主人は、昨日の空き地へ行った。隠れて待っていると、やがて手ぬぐいをかぶった猫が集まりだし、そして“トラ”が音頭を取って踊りを始めた。不思議な光景であったが、全員が得心がいったようにその場を離れた。それ以降、戸塚宿では猫が踊る光景を見に行く人がぽつぽつ現れた。しかし見られていることに気付いたのか、そのうち猫が空き地で踊りをすることはなくなってしまった。そして“トラ”もいつの間にか水本屋からいなくなってしまったという。横浜市営地下鉄戸塚駅の次の駅は「踊場」駅という。ここが、猫たちが踊りをしていた空き地のあった場所であると言われている。当然、駅名の由来はこの伝説であり、駅構内には猫をモチーフとした意匠が数多く見られる。そして2番出口の脇には、「踊場の碑」と言われる石碑がある。案内板には“猫の霊をなぐさめ、住民の安泰を祈願して”とあり、元文2年(1737年)に建てられたとされる。今でも猫の置物が供えられており、猫供養のための碑と言えるだろう。さらにこの石碑から見て、交差点の斜め向かいとなる場所に交番があるが、この場所が実際に猫が踊りをしていた空き地の跡であるということ。 ●戸塚宿 / 東海道五十三次の5番目の宿場。江戸から早朝出発するとちょうど宿を取る時間帯に到着できる場所として、慶長9年(1604年)に宿場町として開けた。ちなみに伝説に登場する水本屋は現存しない。 ●「猫の踊り場」伝説 / 細部は異なるが、これとほぼ同じパターンの伝説が、戸塚以外にも静岡県函南町、同富士市などに残されている。人間に飼われているうちに特殊な能力を持つようになった化け猫の、1つの典型的なパターンであると考えてもよいだろう。 ●泣塔 現在は鎌倉市所有の土地となっているが、かつてはJR東日本大船工場の敷地であった場所にある。鎌倉市文化財に指定されている(戦前は国の重要美術品にも指定)宝篋印塔である。今でもこの塔の周辺にはフェンスが張り巡らされており、入口には南京錠が掛けられている(鎌倉市に問い合わせると開けてもらえるが)。指定文化財にしても、かなり物々しい印象である。そしてこの塔自体が奇怪な伝承を多く持っているために、一種異様な空間を形成していると言える。銘によると文和5年(1356年)に建てられた石塔であり、その背後に“やぐら”が設けられていることから、おそらくこの年号より少し前に付近で複数の人間が亡くなった出来事、具体的に言えば、新田義貞と北条守時が戦った洲崎合戦の北条方供養碑であると考えられている。即ちこの地は多くの人の血が流された、しかも鎌倉幕府滅亡という悲劇的な戦いの場なのである。そしてこの“泣塔”という奇妙な名であるが、次のような伝承が残されている。この石塔を近くの青蓮寺に移動させたところ、夜な夜なこの石塔からすすり泣きが聞こえたという。そこで元の場所に帰りたいのであろうということで、元に戻したと言われている(あるいは住職の夢枕で「帰りたい」と訴えたとも言われる)。このために“泣塔”と呼ばれるのである。しかしこの石塔にまつわる怪異譚の真骨頂は、この石塔のある敷地を所有すると不幸に遭うとか没落するという話である。特に有名なものは、昭和17年(1942年)にこの地に横須賀海軍工廠深沢分工場が設立されることとなり、用地を買収して泣塔周辺も更地にする計画だったが、塔を移動しようとすると怪我人や死者が出て、さらに工事現場で怪事が度々起こったために取り除くことをやめたとという話である(地域住民からも祟りを恐れて嘆願があったという)。そして昭和20年(1945年)に終戦を迎え、海軍は解体されるのであった。海軍の次に泣塔を含む土地の所有者となったのは、国鉄。だが、国鉄も昭和62年(1987年)に分割民営化されて消滅した。この2つの大組織の末路から、泣塔の負の伝説がまことしやかに噂されたのである(次の所有者であるJR東日本鉄道は平成18年(2006年)に土地を手放したために没落を免れたとの噂もある)。その他にも近隣に幽霊が出るとか、泣塔を訪れた後には必ず幽霊に遭遇するなど、あまり良い噂はない。しかしこれらの噂によって、泣塔は周囲の変化の波にも耐え、かつての風景のまま保存されてきたことも事実である。南北朝時代の宝篋印塔としても最も美しいものの一つであり、時代の波に取り残された一画は、一見の価値があると思う。 ●やぐら / 特に鎌倉周辺で多く見られる、武士などの支配層の人々を埋葬する横穴式の墳墓。鎌倉時代から室町時代にかけて多く造られる。 ●洲崎合戦 / 鎌倉へ攻め入る新田義貞の軍勢と、それを防ぐ北条守時との戦い。巨福呂坂から出撃した北条守時は一日一夜に65回の突撃を繰り返し、化粧坂にあった新田義貞の陣近くの洲崎まで至る。しかし兵力の大半を失っており、退却してまた謀反の疑いをかけられることを嫌い、守時はここで部下90余名と共に自刃する。新田義貞の鎌倉攻めでも屈指の激戦と言われる。 ●浦島太郎足洗の井戸 京急子安駅の南側の住宅地にある。この付近には昔ながらのポンプ式の井戸が点在しており、現在でも防災時の飲料水確保のために現役であるという。その中に浦島太郎が足を洗ったとされる井戸がある。現地には特別な案内板もなければ、それと分かるような痕跡もない。ネット上にあるいくつかの紹介記事を頼りに現地に辿り着き、さらに近隣の事情に詳しいお年寄りに尋ねて何とか特定できた次第。しかしながら、伝承に関しては単純に「浦島太郎が足を洗った」ということだけで、他にとりたてて何かあるわけではなかった。かつては長命にあやかり、病気に罹らないということで、産湯にも使われていたらしい。浦島太郎の伝説が神奈川の地にあるのは、大郎の父が相模国の出身であったためで、竜宮城から帰還して身寄りがなくなってから故郷を懐かしんで戻ってきたということになっている。これだけは神奈川の浦島太郎伝説共通の設定である。浦島太郎が足を洗ったという場所は、この井戸以外にもある。それが足洗川である。既に暗渠となって久しいが、かつてはこの川で足を洗うと、足の病気によく効くとされたらしい。また近所にある浦島寺へ参詣の折には、この川で足を清めてから詣るとされていたという。今では「足洗川の碑」というものが残されているだけである。 ●女躰神社 JR川崎駅にほど近い場所にある神社である。その名の通り、女性の悩みを取り除き、また願いを叶える御利益があるとされる。そしてこの神社の創建にも一人の女性の存在がある。このあたりは多摩川の南側に当たり、たびたび水害に悩まされてきた。ある時、今までにないほど酷い水害が起こり、田畑はほとんど水没してしまった。あまりの惨状に、一人の女丈夫が意を決して水中に身を投じ、水神の怒りを鎮めたのである。そのせいか、このことがあって以降大きな水害が起こることはなくなり、村人はこの女丈夫の徳を称え偉業を後世に残すために、祠を建てたのである。はじめは多摩川辺りの「ニコニコ松」の下(正確な位置は判らず)にあったが、その後現在の場所に社が出来たという。 ●お菊塚 平塚駅の近く、紅谷公園の一角に「お菊塚」がある。この塚の主は『番町皿屋敷』の主人公であるお菊と伝えられている。この塚の由来によると、お菊は平塚宿の宿役人であった真壁源右衛門の娘とされる。番町に住む旗本・青山主膳の屋敷に行儀見習いに奉公に出ていたところ、誤って家宝の南京絵皿十枚の内の一枚を割ってしまい、主膳が斬り捨てて井戸に投げ込んでしまったという。(一説では、お菊に懸想して振られた主膳の家来が罪をなすりつけとも言われる。いずれにせよ「番町皿屋敷」伝承の域を超えない展開である)お菊の遺体は、罪人と同じ扱いで長持に入れられて、平塚宿に戻された。馬入川の渡しで遺体を迎えた父親の源右衛門は、「あるほどの 花投げ入れよ すみれ草」と詠み絶句したという。そして罪人扱いとして墓を作らず、センダンの木を墓代わりに植えたとされる。その後、青山主膳の屋敷では、井戸からお菊の幽霊が現れてさまざまな障りが起こったと伝えられている。この事件は元文5年(1740年)の出来事であるとされ、全国各地にある「皿屋敷」伝説の中でも比較的新しいものである。おそらく、実際に“お菊”という名の女性が江戸の旗本屋敷に奉公に出て、そこで何らかの粗相をして手討ちにあったのであろう。ただ名前が“お菊”という関連から、いつしか「皿屋敷」の伝説と絡まって新しい伝説として伝えられるようになったと推測される。しかし、公園の一角に塚があるのにはかなり不思議な謂われが残っている。昭和27年(1952年)に戦後復興のための区画整理がおこなわれ、この地に元からあった青雲寺は移転。そこにあった墓と共にお菊の墓も移動させようとしたが、工事に支障が出ることがたびたびあったので、結局、塚を築いて残したのである。 ●蓮法寺 浦島太郎供養塔 神奈川区には浦島太郎に関する伝承地が数多く残されている。その来歴は古く、江戸時代に書かれた『江戸名所図会』にも既に浦島太郎ゆかりの寺院として“帰国山浦島院観福寿寺”という名が挙げられており、かなり有名な観光名所であったと推測される。観福寿寺の山号からわかるように、神奈川の浦島伝説は、竜宮城から帰ってきてから後の話となっている。竜宮城から戻ってみて誰一人身寄りもなくなった浦島は、丹後から両親の故郷である白幡の峯へ赴き、そこで父母の供養塔を建てたという。つまりこの相模国が父の故郷であり、浦島太郎の生国でもあるというのである。江戸期には、観福寿寺に浦島太郎にまつわる寺宝が納められていたのであるが、明治元年(1868年)の大火によって寺院は焼失、その後の廃仏毀釈などで結局廃寺となってしまった。寺宝の一部は慶運寺(神奈川区)に移されたのであるが、大正時代になって、観福寿寺があった場所に蓮法寺という日蓮宗の寺院が移転してきて現在に至っている。そして蓮法寺には浦島太郎父子の供養塔が残されており、さらに乙姫の供養塔とされるものも一緒に置かれている。なお、この付近には“浦島”や“白幡”という地名が今なお残されている。 ●源頼朝の墓 鎌倉の街の基礎を作り上げた人物は言うまでもなく、鎌倉幕府初代将軍である源頼朝である。だが、鶴岡八幡宮の裏手の小高い丘にあるその墓はすこぶる質素である。頼朝の死は歴史的な謎の一つとされている。鎌倉幕府の正史ともいえる『吾妻鏡』において、頼朝の死去した前後の記述が意図的に省かれているためである。 とりあえずは1199年1月13日に落馬による事故が引き金となって死亡したとされるのだが、武家の棟梁としての面目が立たないためなのか、現在では乗馬中の心臓発作とか脳溢血ということで“合理的な”理由付けがなされている。だが、江戸期に作られた『北条九代記』には、まことしやかに伝えられた奇怪な死因について語られている。頼朝は、自らの命で抹殺された怨霊によって殺されたというのである。建久9年(1198年)12月27日、稲毛三郎が妻の冥福を祈って架けた橋供養に頼朝は出かける。その帰り、矢的原という場所にさしかかった時にただならぬ気配となり、そこに源義経主従や源行家の亡霊が現れた。それを見て頼朝は恐怖を覚え、身の縮む思いで立ち退いた。そして稲村ヶ崎まで来ると、今度は波間に子供の亡霊が見える。これが壇ノ浦に沈んだ安徳天皇であると悟るや、ついに頼朝は 失神し、落馬したというのである。実際、頼朝は鎌倉幕府成立のために多くの血を流している。特に近親者への憎悪が激しく、情け容赦なく敵を潰すために、怨霊に取り殺されてもおかしくないという風に見られたのであろう。 ●佐助稲荷神社 伊豆に流されていた源頼朝はある時夢を見る。夢の中に老人が現れ「源氏の嫡流として打倒平氏の兵を挙げるのだ。何かあれば儂が助けてやる」と言う。そして頼朝が名を尋ねると「隠れ里の稲荷である」と名乗った。3日続けて夢を見た頼朝は、挙兵して平氏を倒したのである。そして鎌倉に入った頼朝は隠れ里の稲荷を探させ、佐助ヶ谷に祠を見つけて再建したのがこの佐助稲荷神社である。この神社の名前は、当時の頼朝の呼び名であった 「佐殿(すけどの)」から来たとも、「佐殿」を助けたからだとも言われている。また時代が下って13世紀頃に、ある漁師が狐を助けてやったことから霊夢を見てこの神社に住み、その後鎌倉を襲った疫病に効く薬を作ったという伝説も残っている。とにかく大きな社ではないにせよ、結構信仰を集めているように感じる。本殿を少し登った場所には、鳥居が建てられた洞穴のような塚がある。辛うじて読みとれる立て札の案内によると、ここは社殿が建てられる前からあった信仰の場であったらしい。由来によると、頼朝がここに神社を建てる前に既に稲荷があったとされているから、平安時代の後半にはここが斎場とされたり祭が催されたりしていたのだろう。『吾妻鏡』によると、1185年に頼朝はこの隠れ里の巫女に一人1枚の藍染めの織物を贈ったという。この年に平家は壇ノ浦に滅びており、頼朝の覇権が確定したと言ってもよい時期である。何らかの報酬であるといって間違いないだろう。また神社が成立したのもこの時期である。 ●腹切りやぐら 元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府は新田義貞の軍勢によって滅ぼされる。事実上の滅亡の場になったのが、執権北条氏の菩提寺である東勝寺である。ここが執権北条高時をはじめとする一族郎党870余名が立て籠もり、寺に火を放ち、自害して果てた場所である。日本の歴史上、政権が瓦解する時に、これほど為政者一族(一門の自害者だけで283名とされる)が悲惨な死を遂げたということはない。この北条高時をはじめとする一族郎党の菩提を弔うために作られたのが“腹切りやぐら”である。余りにもストレートなネーミングである。鎌倉で土地整備をすると必ず人骨が出るという噂をよく聞くが、幕府滅亡時の戦乱で亡くなった人のものであるらしい。それだけ多くの血が流れた場所であり、その中核となるのがこの腹切りやぐらと言うことになるだろう。 ●第六天社 安倍清明大神碑 鎌倉五山の第一とされる建長寺の門前に、その第六天社はある。この第六天社は建長寺の四方鎮守の一つで、南の方角の守護にあたるという。1674年に徳川光圀が書いた『鎌倉日記』にその存在が示されているので、江戸初期には建てられたと考えられる。この建長寺にある第六天社はその建てられた理由から考えると、方除けの神としての性格を帯びていると考えるべきであろう。そしてその入り口付近に、何の脈絡もないかのように【安部清明大神碑】が置かれている。この碑もおそらく【鎮宅霊符神】と同じ意味合いで、特に火難除けとして祀られたとみなしてよいかもしれない。 ●安部清明大神碑 『吾妻鏡』の治承4年(1180年)10月9日の項には次のような内容が書かれている。“源頼朝の鎌倉の館を建てるが、出来上がるまでは山ノ内の兼道という有力者の館を移築して仮屋とする。この館は正暦年間に建てられたが、一度も火災に遭ったことがない。晴明朝臣が鎮宅の符を押した ためである。”この記述が、安倍晴明が鎌倉へ赴いたことを示す証拠であると言われている(正暦年間は晴明75歳頃)。ではこの館はどこにあったものなのだろうか? 最も有力な場所とされているのが、鎌倉街道とJR横須賀線が交差する場所である。ここには小さいながらも【安部清明大神】と刻まれた碑があり、何らかの関連があると考えられる。この石碑は明治39年に作られたものであり、またかなりの年月に渡って放置されていたらしい。この碑の隣に<五山>と いう蕎麦屋があるが、そこの主人が偶然発見して祀ったという話である。不思議なのは、碑の奥に広がる空き地である。観光地として一等地にありながら、なぜか駐車場として放置されている。実は、地元の人によると、この場所に建物が建たないのは“頻繁に起こる火事”のせいであるらしい。とにかく建てるたびに火事に遭うらしい。伝承とは逆の現象が起こっているのだが、裏を返せば【鎮宅霊符神】の札を貼らねばならないほどの場所であり、現在はその札が散佚してしまったために火事が起こりやすくなっていると想像することも可能だろう。 ●八雲神社 晴明石 JR北鎌倉駅から大船方面へ向かうこと200メートルほど。小高い丘の上に八雲神社がある。ここに【晴明石】と呼ばれる石がある。この石も全国各地に散らばる安倍晴明伝説の一つなのだが、この石自体にも不思議な伝承が残されている。もともとこの石は鎌倉街道沿いの橋のたもとにあり、この石が【晴明石】であることを知らずに踏むと足が丈夫になるが、知って踏むと不幸に見舞われるというのである。このような災厄をもたらすものは安倍晴明関連の遺跡の中でもかなり珍しい。【晴明石】が八雲神社に祀られるようになったのは、戦後の昭和30年代のことらしい。鎌倉街道の拡張工事をした際に往来の邪魔になるということで移設したとのこと。かつてこの山ノ内周辺に安倍晴明が【鎮宅霊符神】の札を貼った家があり、その後200年間火災に遭わなかったと伝えられる。【晴明石】が水を祀るもので火難除けの効験あらたかであるという伝承と図らずも一致する。しかもこの石が最初に置かれていた場所は、鎌倉街道沿いの“十王堂橋”。つまり【晴明石】のあった橋の近くには“十王”を祀る御堂があったと推察される。この“十王”の中心にあるのが“閻魔王”である。さらに現在【晴明石】が置かれている“八雲神社”であるが、この名の神社は明治以前はほぼ間違いなく“牛頭天王社”として“素戔嗚尊”を祭神としている。これら“閻魔王”“牛頭天王”“素戔嗚尊”と同一神であると言われるのが“泰山府君”、まさに陰陽道における最高神なのである。謂われのない橋のそばに偶然あったのでもなく、移設の際に最寄りの神社という理由だけで選ばれたわけでもないと言えるだろう。 ●鎮宅霊符神 / 凶宅に住みながら裕福な劉名進が神より授かった霊符を、漢の文帝が広めたのが嚆矢とされる。家内安全・無病息災に効験がある。通例では【鎮宅七十二霊符】として72枚の霊符でまとめられている。その中心にあるのが鎮宅霊符神である。日本伝来後、北辰北斗信仰と結びつき、陰陽道において発展する。御姿は北辰北斗になぞらえ、玄武に乗っている。 ●十王 / 地獄にあって、亡者に審判を下す10人の王。秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋帝王(そうたいおう)、五官王(ごかんのう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)、泰山王(たいせんのう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんのう)。初七日から百ヶ日を経て、三回忌までそれぞれの区切りで裁きをおこなうとされる。 ●八雲神社 / 牛頭天王という社名が明治の神仏分離政策によって禁じられたため、素戔嗚尊にまつわる名称として「八雲神社」に改名した神社が多い。名前の由来は素戔嗚尊が詠んだとされる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」の歌による。(牛頭天王と素戔嗚尊との関連性であるが、『日本書紀』によると素戔嗚尊は新羅の曽尸茂梨(そしもり)から高天原へ来たとされ、この「そしもり」という言葉が、朝鮮語の「牛頭」または「牛首」に当たることから、両者の習合がなされた) ●素戔嗚尊 / さまざまな側面を持つ神であるが、ここでは「根の国」の支配者としての性格が強調されている。「根の国」は死者の住まう国であり、地獄を統括する閻魔王との共通点があるとする。 ●泰山府君 / 中国にある泰山を神聖視し、それに尊称を付けたもの。生死や寿命をつかさどり、生前の罪に合わせて懲罰をおこなう性格から、閻魔王と同一視される。 |
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●河童 江戸時代、馬で情報を伝える伝馬制が整備され、河童に関する数々の言い伝えが広められました。有名な河童の言い伝えでは、巴川にかかる稚児橋(2.7km)のお話しがあります。 1611年(慶長16年)、巴川に初めて橋が架けられました。そこで渡りぞめが行われることになり、古くからのならわし通りに、皆から選ばれたおじいさんとおばあさんが渡ろうとしたところ、どこからかおかっぱ頭の男の子が現れました。そしてアレヨアレヨという間に渡ってしまったのです。その男の子は、そのまま府中(現在の静岡市葵区伝馬町近辺)の方へ歩いて行ってしまいました。実はその男の子は、巴川に住む河童だったのです。はじめはびっくりしていた人々も「あの子供はきっと神様の使いに違いない」とたいそう喜び、その橋に「稚児橋」と名付けたということです。 その他にも、清水区高部地区の民話では、命を助けられた河童が巴川の水を産湯に使えば、子どもを水の事故から守ることを約束したと言われています。 また、清水地区に伝わる郷土玩具「デッコロボー」にも河童が伝承されています。この「デッコロボー」は、夜泣きする子供の枕元に立てておくと夜泣きが治ると伝えられています。 河童を通して、昔の人々と河川の精神的な関わりが伝えられています。 ●沼のばあさん 昔の麻機地域には“浅畑沼(麻機沼)”があり、その周りには小沼や武平渕と呼ばれた大小の沼池がありました。そのうちのひとつ、浅畑沼には「沼のばあさん」の伝説があります。 後醍醐天皇の時代、「こよし」という美しい娘が生まれました。母親がすぐに亡くなったので、こよしはお婆さんに育てられました。 こよしが17才になった年の夏、こよしのお婆さんが病気にかかってしまいました。こよしはお婆さんの病気が治るようにと、毎日浅間様にお百度参りを行っていました。 ある日、お参りに行く途中で川を渡ろうとしたこよしは、河童にさらわれてしまったのです。そのことを聞いたお婆さんは龍に姿を変え、その河童を退治したあと、沼を守るために水の底に身を沈めました。 不思議なことに、お婆さんが身投げをした次の年から「法器草」という霊草が育ち、村人はその根を食べて飢えをしのぎました。村人たちは「あのお婆さんが、この不思議な草を沼に生やして下さったのだ」と言って、お婆さんの魂を諏訪神社に祀ったとされます。 葵区南沼上の諏訪神社では、7年に1度大祭がとり行われます。かつては、周辺地域の人が心待ちにした祭典で多くの見物客で賑わいをみせたそうです。 「沼のばあさん」にまつわる話は、大谷川放水路の下流部にあたる大谷地区にも伝えられています。 |
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●伝説・民話 浜松市
●遠州七不思議・片葉の葦 豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎といった少年のころ、現在の頭陀寺町の松下嘉平次という武士のところへ下男として働いていた。藤吉郎の仕事は毎日草を刈って畑を耕すことであったが、将来、偉い武士になりたいと望む彼にとってこの仕事は嫌で仕方がなかった。いつも、草を刈りに家の東にある雑草と葦に囲まれた小池のほとりへと出かけると、まずはゆっくりと鎌を研ぎ出した。そして、鎌を研ぎながら、あたりに落ちている松葉を拾い、それを手裏剣の代わりにして池で泳ぐメダカの目を狙って投げていた。初めのうちは全くあたらなかったが、何日も繰り返しいるうちに三度に一度、そして二度に一度はメダカの目に刺さるようになった。また、研いだ鎌を持つと、前に生えている葦の片側の葉のみを切り落とした。葉の付け根からのみ切り落とすことにより、戦いに出るときのために腕を磨いていた。その後、秀吉が鎌を研いだ池は「鎌研ぎ池」と呼ばれるようになった。そして、この池に住むメダカは、松葉の手裏剣によって片目をつぶされたので、みんな片目になってしまい、片方の葉のみ切り落とされた葦は、片葉の葦となってしまった。 ●遠州七不思議・京丸牡丹 昔、春野町気田から数十キロの山奥に京丸という村があり、そこに一人の若い旅人が迷い込んできた。彼は長い山道に疲れ果て、更に空腹だったため、まるで病人のようであった。旅人が村の村長の家を訪ねると、彼の事情を聞いた村長は親切にいたわり、食と宿を与えた。また、村長には若く美しい娘がおり、彼女もまた旅人を優しくいたわった。幾日か経つと、旅人は元のように元気になったが、旅人はこの村から出ようとはせず、村人と一緒に炭焼きや農耕の手伝いをしていた。そして、彼はいつの間にか村長の娘と恋仲になっていた。旅人と娘が恋仲になっているのを村長は知り、困っていた。娘の恋を成就させたいと願う一方、村には他村の者を村人にすることや他村の者と結婚することを禁止する厳しい掟があった。村長は旅人に村の掟を話し、村から出て行って欲しいと頼むと、旅人は承知し、次の日の朝には若い二人の姿が村から消えていた。それから数ヵ月後の夕暮れ、村長の家の裏に村を出たはずの若い二人がみすぼらしい姿で立っていた。二人はこの数ヶ月、いろいろな地を回ったが、どこにも安住の地を求めることができず、村に戻ってきてしまったのである。しかし、村長は掟だからと言い、二人は再び家を出て行った。二人はその足で村の前の気田川に身を投げ、死んでしまった。その後、命日になると行き場のない2人の魂が大きな牡丹となって気田川のふちを彩っている。 ●遠州七不思議・桜ヶ池のお櫃納め 昔、京都の比叡山に皇円阿闍梨上人(こうえんあじゃりしょうにん)がいた。上人は、お釈迦さまが亡くなってから56億7千万年後に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が現れ、この世を救うという記述を経本の中に見つけた。ぜひ弥勒菩薩に会い、教えを受けたいと思った高僧は、人の寿命ではとても生きていられないので、この世の中で一番長生きである大蛇となって生きようと考えた。そこで、高僧は弟子たちに大蛇として住むのに良い池を探すように命じた。弟子の一人である法然は、東へと旅をして遠江国へ入り、いろいろ尋ね歩いていた。ある夜、この国にある桜ヶ池へ行って様子を見て来いと、夢の中でお告げがあった。桜ヶ池へ行ってみると、山の上にある大池で、東と北には断崖の山があった。ここなら気に召すであろうと思い、池のほとりで経を読んでから池の水を汲んで、比叡山へと帰った。法然から報告を受けた上人は、早速と、桜ヶ池から汲んできた水を掌に受け経を読むと、瞬く間に恐ろしい大蛇となり、黒雲に包まれて東へと飛び去ってしまった。それから十数年後、法然が弟子二人を連れて桜ヶ池を訪れた。もう一度、阿闍梨上人に会いたいと思った彼らは池のほとりで朗々と経を読んだ。すると上人が現れ、四人は昔話や仏の道についていろいろと語り合った。別れのとき、法然は阿闍梨上人の今の姿を見せて欲しいと言った。上人がにっこりと頷くと、黒雲が集まり、池を覆った。その雲間から大蛇がうろこを光らせていた。うろこに住む小虫が皮膚を食いちぎるので苦しいと上人が法然に話すと、法然は仏道の力でうろこを全て取り去ってしまったため、この時以来、桜ヶ池の大蛇にはうろこがなくなった。阿闍梨上人の大蛇は56億7千万年を待つために、今も池の水底深くに住んでおり、毎年、秋分の日にその大蛇への食べ物として赤飯を入れたお櫃を池の底深くに沈めている。沈めたお櫃が上がってくると、中の赤飯はすっかりなくなっているという。 ●遠州七不思議・三度栗 昔、徳川家康が戦争に負け、一人で園田村へと逃げてきた。長い道のりを走ってきた家康は空腹でたまらなかった。すると、近くにあった農家へと飛び込み、家の中にいた老婆に食べるものを求めた。老婆は大きな箱に一杯、栗の実を持ってきてくれた。家康は喜んで、いくつも皮をむいては食べた。お腹が膨れ元気になった家康は、残った栗の実を1つ、その家の門前に埋めた。そして、自分が食べた分、早く実がなるようにと言いながら、右足で軽く踏みつけた。その後、家康の蒔いた栗から芽が出て、毎年6月、9月、11月と3回も花が咲いて実がなる不思議な栗の木となった。 ●遠州七不思議・波の音 昔、大勢の漁夫たちが海に網を入れて漁をしていたが、何度引き上げても不漁で困っていた。次の網を入れて引き上げてみると、そこには怪物が一匹引っかかっており、漁夫たちはこんなものがいるから不漁になるのだと、殺そうとした。するとその怪物は、自分は海の底に住む波小僧なので、天気のことを良く知っているから、これから天気の変わり目には太鼓をたたいて知らせるかわりに逃がして欲しいといった。漁夫たちもそれならばと、波小僧を逃がしてやった。それから天気の変わり目には波の音がするようになった。 ●遠州七不思議・無間の鐘 昔、栗ヶ嶽の頂上の観音寺には無間の鐘という、つくと大金持ちになるが、死後は地獄に落ちるという噂のある鐘があった。その噂は村人はもとより遠い他国へも広がり、多くの人が鐘をつきに押し寄せた。それを見た観音寺の住僧は、今が良ければ未来来世のことはどうでもいいという考えの人々のことを悲しく思った。そして、人々の目を覚まさせるため、鐘を寺の前の古井戸に投げ込み、埋めてしまった。 ●遠州七不思議・夜泣き石 昔、牧の原のほとりに貧しい夫婦が仲睦まじく住んでいた。美しい妻は小石姫と呼ばれ、仏教への信仰も厚く、月に何度か小夜の中山の峠にある久延寺の観音菩薩にお参りし、貧しいながらも三文ずつ供えていた。ある年、夫が所用で京都へ行って幾月も帰らず、小石姫は妊娠10ヶ月のお腹を抱えながら、明日の食事にも困っていた。そこで、家に伝わる赤丸玉の名刀を持ってお金を借りようと、夕暮れの道を町へと急いだ。小夜の中山の峠に差し掛かる頃には日は沈み、久延寺の側を通ってしばらく進むと、道の傍らに大きな丸い石があった。すると、その石の横から一人の凶漢が現れた。小石姫は急いで逃げようとしたが捕まってしまったので、持っていた名刀を鞘から抜き、男へと立ち向かった。しかし、あっさりと刀は奪われ、凶漢によって切り殺されてしまう。凶漢は刀を腰に刺し、更には彼女の着物まで剥ぎ取ろうとした時だった。旅僧が突然現れ、それに驚いた凶漢は急いで逃げてしまった。この夜からその大石のほとりで子供の泣く声が聞こえるようになった。その夜、久延時では観音菩薩が消えてしまい、困った和尚は翌日にでも村人に頼んで探してもらおうとしていた。しかし、翌朝には観音菩薩は戻っており、その右手には赤子が抱えられているようであった。こうしたことが毎夜続いた。また、山のふもとにある菓子屋では、見慣れない旅僧が毎夜三文ずつ飴を買いに来るようになった。不思議に思った店主がある夜、旅僧の後をつけると、子供の泣き声が聞こえるという石の側まで来た。石からは今夜も泣き声がしていた。すると、旅僧はその大石のあたりで消えたので、店主は恐る恐る石のほうを調べると、そこには女の着物に包まれた赤ん坊がいて、その周りには彼の店の飴の包み紙が落ちていた。菓子屋の店主は赤ん坊を連れて家へと帰ったが、自分たちが生活するだけでも苦しいので、翌朝、久延寺を訪ねた。寺の和尚に昨日のことを伝え、赤ん坊を見せると、赤ん坊を包んでいた着物から小石姫の子供であると分かった。また、観音さまが菓子屋へ飴を買い、石の側にいた子供に飴をなめさせたことによってその赤ん坊は生き延びていたのだと思った。このことに縁を感じた菓子屋の店主は赤ん坊を引き取り、育てることにした。赤ん坊は音八と名付けられ、すくすくと育っていった。音八が成人し、大阪で刀の研磨師をしていると、ある日一人の老人が一本の刀を持ってきて研磨を頼んだ。すると、刀は良いものではあるが、刃先にキズがあったので、理由を聞いてみると、昔、小夜の中山で妊婦を切ったということだった。音八は母の仇と、その刀で老人を切ってしまった。 ●家康と小粥の姓 戦国時代の頃のこと、家康率いる徳川軍は三方原の戦いで武田軍に大敗。家康は命からがら逃げることができたのだが、逃げ隠れしているうちにすっかりお腹が空いてしまった。耐えきれなくなった家康は、ある農家に飛び込み食べ物を求めた。農家の老夫婦は、今煮ているのは、粗末な米の粥で、とても人にあげるようなものではないと断ったが、それでもいいと家康はお粥をもらった。おなかいっぱい食べた家康は、いずれ恩返しをすると言い残し、走り去っていった。家康は天下を取ったあと、その老夫婦にお礼にと「小粥」の姓を与えた。後にその家は庄屋を務め、家はますます栄えた。小粥の家紋は丸に二引。これは家康が粥を食べたとき、茶碗の上に箸を置いたかたちだという。 ●池の平のふしぎ 昔、水窪の南にある高根城に敵兵が攻め寄せてきたときのこと。城主の民部少輔(みんぶのしょう)貞益は応戦したが敵兵は優勢で、城主を初め、みな討死してしまった。城主の妻、おわか様には二人の幼い子供があり、せめて子供だけでも生かそうと、おわか様は城を抜け出し、城下の水窪川のほとりまで逃げてきた。すると、そこには多くの敵兵がおり、子供二人を抱えてでは抜けられないと感じたため、片方の子供を川の渕に投げ入れた。後にこの渕は「赤児渕(あかんぶち)」とよばれるようになる。更に山を分け入っていくと、一軒の小さな家があり、そこには一人の老婆が留守番をしていた。おわか様はそこで一杯の水をもらって飲むと、敵が来ても自分がどこへ逃げたか言わないよう老婆に頼んだ。しばらくして敵兵が老婆の家へやって来て、おわか様の行方を聞いた。敵兵は老婆を脅し、それに恐ろしくなった老婆は口で言わない約束をしていたので、手で山のほうを差し示した。おわか様は、山を登りつめたところにある池の平という凹地まで、くたくたになりながら登っていった。ここなら大丈夫と思い、草の中に身を隠そうとすると、突然子供が泣き出してしまった。その声を聞きつけた敵兵が近づいてきたので、もはやここまでと、短剣を抜き応戦したが、無念にも殺されてしまった。その場所におわか様をまつる小さいお宮を建てたが、まだおわか様の思いが残るのか、今もまだ、普段は平地の部分から8年ごとに水が沸いては池を作る。 ●いたずらキツネ むかし、ある男が芳川村に住んでいた。ある晩、男は親戚の家に行く途中、道で馬の糞を転がしているキツネに会った。どうしてそんなことをしているのかと男が尋ねると、キツネは近くの家に住むおばあさんに、丸めた馬の糞を饅頭だと騙して食べさせるのだと言う。男は面白そうだと思い、キツネについて行くことにした。おばあさんの家に着くとキツネは障子の穴から覗いていろと男に言い、家の中へと入っていった。穴から覗いてみると、中にはおばあさんがひとりで寝ていた。男はいつキツネがおばあさんをだますのかと見ていたが、いつまでたってもキツネが馬の糞を食べさせることはなく、ついには夜が明け始めた。それでも覗いていると、道を通った人に肩をたたかれ、何をしているのか訊かれた。気が付くと、覗いていたのはおばあさんの家ではなく、自分の家の馬小屋だったのだ。 |
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●芋ほり長者
今は昔、奈良の都に一人の信心深い美女がいた。ある時、女は伊勢の大神宮でお参りをし、良い巡り合わせを祈願した。その夜、夢に大神宮様が現れた。大神宮様は、女に棉の小袋を渡し、「これを持って、東へ参れ」と告げた。女が目を覚ますと、なんと夢で渡された小袋を手にしていたのである。お告げの通り、女は一人東へと旅に出た。数日後、遠江国を旅している時に困ったことが起きた。何もない野原で日が暮れてしまったのだ。しかし、運良く一軒の貧しい農家を見つけ、ここに泊まることとなった。家には、山の芋を掘って生活をしている貧しい男が住んでいた。男は、貧しいながらも心の限り彼女をもてなした。女は男の親切を嬉しく思った。すっかり気を許した彼女は、大神宮様の小袋を男に見せると、不思議なことに男も同じものを持っていると言う。二人の袋を開いてみると、両方とも黄金の玉が入っており、二人は驚いた。縁を感じた二人は夫婦となり、一生懸命に働くと何年もたたないうちに富み栄え、さらに10年、20年するとさらに豊かになっていった。はじめは芋ほりからはじめた二人の貧しい暮らしを知っている人たちは「芋ほり長者」と褒め称えた。二人は、豊かになったのは神さまや仏さまのおかげと、感謝のしるしにお寺を建てて、観音さまをお祭りした。これが今の浜松市中区鴨江町にある鴨江の観音さまだといわれている。現在でも、二人が住んでいたとされる鴨江町一帯は、長者平(ちょうじゃびら)と地元の人に呼ばれている。 ●うばが橋 何百年か昔、今の田町周辺がまだ田んぼと荒地と沼だった頃、旭町のあたりにはこの地方屈指のお金持ちの家があった。その家には4歳になる一人娘がおり、父母はその娘に乳母を一人つけて宝物のように育て、やさしい乳母に女の子もよくなついていた。しかし、ある夏、女の子が突然病気にかかり息絶えてしまった。女の子の父母は娘を失った悲しみを乳母の所為だと言ってぶつけた。実の子ではないにしても、自分によくなついていた女の子を失った悲しみは大きく、乳母は神さまに女の子を生き返らせてくれるようにと拝みながら、池に身を投げてしまった。すると、乳母の願いが通じたのか、死んだはずの女の子が生き返った。一家は涙を流して喜んだが、女の子は乳母がいないことに気付き、乳母を探し始めた。しばらくすると、乳母が女の子の身を念じて入水したことが分かり、女の子の父母も自分たちの失言に気付き、申し訳なく思った。乳母が身を投げてしまったことを知った女の子は泣きながら池のほとりへと駈け、乳母を何度も呼んだ。すると、乳母の白い死体が草の繁りのかげに浮き上がってきた。姥ヶ橋後に、この池を「乳母が池」、橋を「乳母が橋」と言うようになった。現在では、池は埋め立てられてしまい、橋はコンクリート製となってしまったが、名前は「姥ヶ橋」と昔のままである。 ●おしどり池 式内郷社英多(あかた)神社(現在の浜名総社神明宮といわれる)に「おしどり池」という池があった。昔、この近くに猟師を生業とする夫婦が暮らしていた。ある日、夫が猟に出たが、思うような獲物がなく、諦めて山を下りていたとき、英多神社の前にある池に二羽のおしどりが仲良く泳いでいるのを見つけ、一羽を射止めた。もう一羽には逃げられてしまったが、射止めた雄のおしどりを家へと持ち帰り、首を切って裏の竹藪に捨て、料理して夕飯に出した。今日の話を妻にすると、妻は仲のいい鳥なのに可哀そうだと言った。彼女は夫が生き物を殺すのを生業としていることを快く思っておらず、もっとほかの仕事をして欲しいと思っていた。その夜、裏の竹藪で鳥の声がしたので、夫婦は目を覚ましたが、夫は特に気に留めなかった。次の日、夫が再び英多神社の池のほとりへ行ってみると、そこには昨日射止めることのできなかった雌のおしどりが浮かんでいた。矢をつがえても逃げようとはしなかったため、簡単に射止めることができた。水の上から拾い上げ、よく見てみると、雌の羽の中には昨日捨てた雄の首が抱きしめられていた。驚いた彼は、昨日の妻の言葉を思い出した。それから家へ帰り、裏の竹藪の中へ雌の死骸と雄の首を一緒にして丁寧に埋めてやると、その後、猟をやめて百姓として働いた。それからこの池をおしどり池と言うようになった。 ●お姫様と大工の恋 徳川時代の末頃、気賀の関所の関主でもあった殿様、近藤用随には美しい娘が一人いた。姫は殿様や奥方、家来や女中たちからもかわいがられて、大切に育てられていた。その頃、御殿修繕のために孫兵衛という若い美男の大工が出入りをしていた。姫は孫兵衛の凛々しく男らしい姿に惹かれ、また、孫兵衛も美しい姫を嫌うわけはなく、二人の間に恋心が芽生えた。しかし、二人の関係が殿中に広がり始めたため、二人は城から抜け出し、都田川から小舟に乗り、浜名湖へ向かって漕ぎ出した。姫の失踪を知った城内は、孫兵衛が姫を連れ去ったと大騒ぎになり、すぐに追っ手が二人を探しに出た。そのため、二人の舟はすぐに見つかり、孫兵衛は牢屋へと入れられ、打ち首されることとなった。姫は殿様に孫兵衛を許してほしいと願うが受け入れられなかった。せめてもと、姫の目の前ではなく、国境で打ち首にするよう殿様は家来の佐藤長太夫に命じた。翌日、長太夫は孫兵衛を連れ、国境の引佐峠へと向かった。そこで長太夫は斬るふりをしながらも、孫兵衛に三ヶ日のほうへと逃げるように合図し、孫兵衛を逃がしてやった。罪人を逃した罪で、長太夫は三ヶ月の閉門を言い渡されたが、心は晴れやかだった。その後、姫は近藤家の菩提寺である宝林寺へかんざしを献じ、訓戒を受け、江戸の屋敷へと引き取られていった。一方、孫兵衛は一度は三ヶ日の町へ逃げたが、その後、見付へ出て、舞台大工として一生を送った。 ●お弁地蔵 昔、宇布見の町に医師夫婦が住んでいた。ある年、その医師の所に中年のお弁という女が雇われていた。お弁はまめに働き、気立てが優しく、十人なみの容姿を持っていた。医師夫婦もそんなお弁に特別目をかけていた。しかし、お弁はなぜかいつもおどおどしており、外出するのや顔を見られることを嫌っていた。家の中の用事ならすぐに働くのに、お使いの用事となるとなかなか腰を上げない。理由を聞いてもお弁は語らなかったが、彼女には秘密があった。お弁は数年前に結婚したが、夫は酒癖が悪く、狂暴で手に負えなかった。そのため、離婚を切り出したが、受け入れられず、更に彼女に対する仕打ちがひどくなっていった。そこで、いたたまれなくなったお弁はある夜にそっと家を抜け出し、50キロも離れた宇布見で暮らしているのだった。しかし、夫が彼女を探しに出ているとうわさに聞き、いつ見つかるのか不安でならなかったが、それを医師夫婦に伝えれば、余計な心配をさせるだけだと思い、何も語らなかった。そんなある年の秋の初め、お弁は主人の使いで大久保村まで行った帰り、夫と出くわしてしまう。お弁は急いで逃げたが、男の足にはかなわず、ついに追いつかれ、斬りつけられた。お弁は血を流しながら、宇布見村と志都呂村の小川にかかる橋までなおも逃げたが、ついに力尽きてしまう。村人たちはお弁の冥福を祈り、息絶えた場所に地蔵を建てた。その地蔵はお弁地蔵と呼ばれるようになり、また、彼女が斬られ、逃げた道を血塚畷(ちづかなわて)と呼ぶようになった。 ●お松火 100年以上前のこと、中ノ町村松小池にお松という若い女がいた。彼女は、近くの笠井上村に住む権七という青年と恋に落ちた。二人は毎晩のように会い、将来もずっと一緒にいようと誓いあっていた。しかし、頑固なお松の父、源右衛門(げんえもん)は娘の恋愛を許すことができなかった。怒った源右衛門は、お松を家に軟禁し一歩も外には出られないようにしてしまう。恋しい彼に会えなくなり、お松は日々悲しく過ごすことになった。ある晩、お松と権七はそっと家を抜け出し村の貯水池へと向かう。「この世で結ばれぬなら、せめてあの世で」と二人は池に身を投げた。次の朝、二人の死体が見つけられるとすぐに村中の評判となった。多くの村人が同情した。しかし、源右衛門は、「親不孝者め」と死体を叱りつけ、許すことはなかった。情死したのだから一緒に埋めよという村人の意見も聞かず、源右衛門はお松を松小池に、権七を笠井上村にと別々の場所に埋めた。するとそれから暗い静かな晩には、松小池から笠井に通じる田んぼ道に怪しい火の玉が通るようになった。村人たちは、お松が権七に会いに行こうとしているのではないかと考え、夜にその道を通るものは誰もいなくなった。このお松の火の玉は大変なうわさになり、噂にたえかねた源右衛門は改めてお松と権七を夫婦として同じところに埋めた。すると、その後から火の玉が出なくなったといわれている。 ●親投洞(おやなぎどう) 昔、不作の年が続き村人たちは食糧に困っていた。そんな中、年老いた親たちがいては食糧がたくさん必要となり大変なので、親を捨てればよいと考える子供がいた。子供は親が悲しむのも構わず、人目を忍んで熊切川に捨てていた。谷間には捨てられた親たちのうめき声が響き渡った。同じように親を捨てる子供が何人もおり、多くの年老いた親たちがこの淵に捨てられていった。そのため、その淵は「親投洞」と呼ばれるようになった。 ●隠れ岩と小豆坂 1575(天正3)年、徳川家康は光明山中で武田軍と戦っていた。家康は苦戦を強いられ、ふと見つけた洞窟の中に逃げ込んだ。一方、武田軍の大将である勝頼は、朝からの戦いに空腹で仕方がなかったので、近くの農家へ駆け込んだ。戦いの最中であったため、一番早く煮える食べ物を食べさせろと言った。そこで、農家は小豆の塩煮を煮て出すことにした。しかし、小豆の塩煮はとても時間のかかる煮物だった。しのびはそれを家康に知らせ、家康は洞窟から這い出して逃げた。その後、家康の隠れた洞窟を「隠れ岩」、両者の戦った坂を「小豆坂」と呼ぶようになった。 ●笠かむり観音 805(大同元)年のこと、天竜川の川瀬に毎夜、光るものがあった。ある日、村の一人がそれを見てみると、三尺ばかりの木の仏像だった。村人はそれを拾い上げ、近くの井戸で洗い清めると、道の傍らにすえ、丁寧にまつった。すると、その前を通った人々が、花を飾ったり、水を供えたりしていった。ある雨が降る日、濡れては可哀そうだと自分のかぶっていた笠(かさ)を冠せていく人がいたので、それから笠を冠る観音さまとして有名になった。やがて「笠かむり観音」と呼ばれるようになり、その後、近くに井戸があったことから「笠井観音」となって多くの信仰を集めた。そして、この観音堂を中心に町ができ、「笠井町」となった。現在、観音さまは笠井町の福来寺境内にまつられている。 ●河童の証文 今は昔、都田川に悪い河童が棲みついていた。都田川と中川のさかいは瀬戸と呼ばれていて、このあたりに雄渕(おぶち)と雌渕(めぶち)という二つの淵があった。河童はその二つの渕に住んでいて、よく渕に人を引きずりこんで溺れさせていた。毎日のように人々にいたずらをするこの河童に村人たちはすっかり困っていた。これを聞いた村の和尚は、河童を懲らしめることにした。和尚が7日間、渕のかたわらに立ってお経を読み続けていると、渕の水が熱湯のように熱くなった。これには河童もたまらず、川から飛び出して謝り、もう悪さをしないから許して欲しいと言う。和尚に証文を書けと言われた河童は、これに従い証文を書き和尚に手渡した。しかし証文の字は、和尚以外に誰も読むことができなかったそうだ。これより後、河童は悪いことどころか姿を現すこともなかった。 |
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●飢饉と三岳神社
1783(天命3)年の3月のこと。引佐の北部の山間の村に一人の乞食(こじき)ふうの老翁が各家を巡っていた。老翁は決して食を乞うのではなく、人々が飢饉で困っているのを見ると、ソバのからや大根の葉の部分、エノキの新芽などを飯に入れたり、餅にしたりして食べると命をつなぐことができると教え歩いていた。そして、いつの間にかいなくなってしまっていた。前年は、春から天候不順で雨ばかりが多く、夏から秋にかけて十数回もの暴風雨があり、また、寒冷が早く来たため、作物は実らず、収穫は皆無だった。しかし、備蓄があったため、どうにか凌ぐことができていた。その年、前年とは打って変わって雨が降らず、作物は枯れて収穫は皆無となっており、大飢饉が起こった。しかし、老翁のおかげで代用食を用意できた村民たちは、不作でも餓死から逃れることができた。老翁に感謝した村民たちは、あれは三岳の権現様の御使いに違いないと言うようになった。 ●兄妹地蔵 昔、天竜川沿いの船明の村に仲の良い兄妹が住んでいた。二人とも特別の美男美女というほどではなかったが、十人なみの器量だった。しかし、年頃になってもどこからも縁談がなかった。兄は妹を、妹は兄が、誰かと結婚して知らない誰かの持ち物となることがこの上なく嫌であったので、特に困ることはなかった。兄妹は二人で仲良くしていたいと、いつしか夫婦のように暮らし始めた。しかし、狭い山の中の村なため、二人の生活のことが村の人々の話題の的となっていた。そんなうわさが二人の耳にも入り、罪の重さを感じた二人は、手と手をしっかり握り合って天竜川の船明渕に身を投げた。船明の人々はそんな二人を哀れんで、男女二体のお地蔵さまを刻み、行者山におまつりした。このお地蔵さまは「船明の兄妹地蔵」または「行者山の道祖神」として現在長養寺の境内にある。 ●兄妹夫婦 今の水窪町に昔、絶世の美男美女の兄妹がいた。彼らに及ぶような者がいなかったため、二人とも、年頃になっても適当な配偶者が見つからなかった。そこで、兄妹は西と東に分かれ、別々の土地へ結婚相手探しの旅に出た。しかし、そこでも良い相手が見つからず、故郷へ戻ることとなった。それぞれ西と東から村に入って来ると、二人とも、自分の向かいから兄妹に劣らない人物が歩いてくるのを見つけ、運命の人だと駆け寄った。しかし、それは兄妹であり、日本中探しても兄妹以上に良い相手がいないことを実感した。それから兄妹は夫婦として平和に暮らし、兄妹夫婦を祝福して道祖神が作られた。その道祖神は兄の名前が次郎兵衛と言ったことから「次郎兵衛様」と呼ばれている。 ●熊の親子 昔、佐久間町にいた一人の猟師がある雪が降る日、獲物を探しに山奥へと入っていったところ、雪がひどくなり道に迷ってしまった。困っていると近くに洞穴を見つけ休もうと思い中に入ると、そこには熊の親子がいた。猟師は驚いたが、仕方がないので熊の横に座ると熊は猟師を襲うこともなく、また、猟師も熊を撃つこともしなかった。猟師がお腹がすいたと言うと、熊は手のひらを出してなめろというので、なめるととてもいい味がして、不思議にお腹もいっぱいになった。こうして雪が降り続ける3日間を一緒に過ごした。雪が止み、村へ帰った猟師が山であったことを友だちの一人に話すと、いい金儲けができるといって、その熊を撃ち取ろうということになった。二人は山の中へ出かけ、先日の洞窟の前へ来ると、穴から出てくる親熊を狙って二人同時に引き金を引いた。続いて小熊も撃ち取ると友だちは大喜びし、猟師は先日のことを思い出しながら熊の手を持とうとした。すると、死んだはずの熊が猟師ののどに食いつき、猟師は死んでしまった。それからこの村では熊が親子でいるときはどんなときでも決して撃たないことにしている。 ●光禅寺の雨ごい池 今は昔のある年のこと、大蒲で日照りがずっと続いたことがある。来る日も来る日も雨は降らず、田んぼに地割れが出来てしまった。田植えの時期も近づき、農民たちはすっかり困っていた。そこで、農民たちはみんなで光禅寺に行き、弁天様に雨乞いをしようと話し合った。光禅寺の境内にある、弁天様がまつられた小さな池の水を汲みだすと、雨が降り、また池の水がいっぱいになると言い伝えられていたのだ。さっそく農民たちは弁天様に雨を降らしてくれるようお祈りしながら、池の水を汲みだしはじめた。みんなで力を合せて、汗だくになりながら農民たちは水をかきだし続けた。すると、今まで晴れ渡っていた空が曇りだし、ついには雨が降り出したのだ。からからだった畑も田んぼ潤い、農民たちは「弁天様の雨だ」と大喜びし、裸になって飛びまわったそうだ。 ●高野谷のキツネ 今の雄踏町宇布見から北隣の大久保町へ行く途中には山がある。その山の左側の谷は「高野谷」と呼ばれ、昔、そこには悪いキツネが住んでおり、その道を通る村人をだましては、素裸にしていた。時々、裸になった人が夜明けごろにようやくだまされたことに気付き、ふるえながら谷を駈けていく姿が見られた。ある夜、村の若者の伝助が悪いキツネを捕まえてくると言って、高野谷へと一人で出かけていった。谷の中でキツネが出てくるのを待っていると、雑木の上から猿の鳴く声がしたので見てみると猿がいた。一匹の猿が伝助のすぐ前に下りてくると、続いて二匹、三匹…と下りてきた。猿たちはそこにあった一隻の船を押して運ぼうとし始めたが、小さな猿の力では容易に動かないため、伝助は猿たちに混ざり、船を押した。伝助が船を押すと、船が少しずつ動き出したので、伝助は夢中になって押した。海岸近くまで来て、もう少しというときに大波が沖から押し寄せてきたので、伝助は服が濡れては大変と、急いで着物を脱いで裸になった。そして、また船を押していると、大波が伝助のところまで押し寄せてきたので、伝助は裸のまま波を切り、両手を上げて波の中を泳いだ。その頃、東の空が白くなり、夜が明けてくると、一人の農夫が高野谷を通りかかった。そこには素裸で両手を上げてわめいている伝助がいたので、キツネにだまされていると思い、肩をたたき、声をかけた。正気に戻った伝助は、自分の裸を見回し、家へと急いで駈けて行った。 ●権現さまと橋羽の妙恩寺 1572(元亀3)年の12月、家康は袋井や中泉方面での武田軍との合戦で大敗し、天竜川の堤防から逃げ出して命からがら橋羽村の妙恩寺へ逃げ込んだ。お寺の住職は家康を天井裏に隠して、その下で朗々とお経を読んでいたため、家康を追って寺にきた武田軍に見つからずにすんだという。家康は和尚からごはんをいただき、浜松城に無事戻ることができた。家康はこの地方を平定した後、妙恩寺の和尚を城へ招いてその時のお礼として丸に二引の紋所を授けた。お寺で助けれれた時にいただいたごはんのおわんに箸をのせたかたちをとったものだという。妙恩寺では今でもこの紋を用いている。 ●紺女郎キツネ 笠井の定明寺のまわりは昔、鬱蒼(うっそう)とした森であり、いくつものキツネの穴があった。そのキツネの頭はいつも紺がすりの着物を着た美しい娘に化けるので、「お紺女郎」と呼ばれていた。お紺女郎は決して悪いことはせず、占いをしたり、お寺のためによくお使いをしたりしてくれる便利なキツネだった。お紺女郎はお寺の和尚たちが話すのを聞いては店に先回りして、品物を注文する。店の人は、定明寺にこんな娘がいないことを知っているので、すぐにお紺女郎と分かるが、いつも通り注文を受け、品物をお寺に届ける。そして、月末にはお紺女郎が代金を払ってくれるということで、誰も困る人はいなかった。ある日、お紺女郎が町の薬屋に目薬を注文しに来たので、薬屋が定明寺へ目薬を届けると、和尚は目薬は必要ないということだった。おそらく、今朝方、和尚が檀家の一人にお尻にできた腫れ物が見えないという話をしたとき、お紺女郎は「見えない」というのを聞いて、思い違いをしたようだった。そんなキツネに親しみを持って、金如呂(紺女郎)稲荷としてまつっている。 ●さくら塚 1523(大永2)年の2月のこと。堀江勢と、堀江城に攻め入ろうとする今川勢とのにらみ合いが続いていた。ある夜、堀江城主の養女であったさくら姫が、城内を一人散策していると、裏門のあたりで一人の敵兵の姿を見つけた。さくら姫は彼に魅力を覚え、柵の近くに歩み寄った。敵兵も同様に歩み寄り、二人の目が合うと、互いに笑いかけた。その夜はそのまま別れたが、次の夜も二人は裏門のあたりで会い、そういった日が幾日か続いた。1523(大永2)年3月1日の夜、不意に多数の敵兵が堀江城へ裏門から攻め込んできた。安眠していた兵もいた時間だったので、城内に入った敵と戦うのは不利であり、多くの死者を出した。生き残った者を集め、暗闇にまぎれて城を抜け出した堀江城主は、平松村を見下ろせる小山の上まで逃げた。そして、裏門の守りが薄かったのには城内に裏切り者があるからで、誰か心当たりはないかと聞いた。すると一人の家来が、さくら姫が裏門のあたりにいたのを見かけた者がいると答えた。それを聞いた堀江城主は怒り、さくら姫を死刑にして逆さに埋め、塚を作った。そして、その塚の上に、一株の桜の木を植えて、彼女の冥福を祈った。その後、春に咲く塚の桜の花は彼女の哀しい思いが伝わってか、また逆さに埋められたからか、花が下を向いて咲いている。 ●椎ヶ脇渕(しいがわきふち)の竜宮 西鹿島にある椎ヶ脇渕の上の山には椎ヶ脇神社がある。昔、椎ヶ脇神社の神主が、渕の上の断崖近くで芝を刈っていたとき、握っていた鉈(なた)を渕の中に落としてしまった。上から覗くと、鉈が渕の中に沈んでいるのがはっきりと見え、手が届きそうであった。手を伸ばして拾おうとしたところ、神主は渕の中に落ちてしまった。しばらくして神主が目を開けると、そこは竜宮城であった。美しい乙姫が片手に神主の落とした鉈を持って現れ、自分は鉄ものが嫌いだからこれから鉄ものを渕に入れないこと、そして、椎ヶ脇渕に竜宮城があることを他言しないこと、それを守ってくれるなら何か入用なものがあれば、渕に来て言えばなんでも貸してあげると言った。神主はうれしさを感じつつ鉈を持って帰った。数日後、この国の領主と四十余人の家来が神主の家へ泊まるということになった。しかし、そんなに多くの食器も寝具もなく、また、粗末な待遇はできないと困っていた。そこで神主は、椎ヶ脇渕に行き、上等のお膳とおわん、それとお布団を貸して欲しいと伝えた。数時間後、再び渕に行くと、渕の岸には頼んだものが並べてあり、それによって領主たちを十二分にもてなすことができた。それから幾度となくお膳や重箱などを借りているうちに、神主はこのことを人々に自慢をしたくなった。そこで、口では言ってはいけないとが、文字で書くのなら大丈夫だろうと思った神主は、親しい友人に紙に書いてそのことを伝えた。それから神主は椎ヶ脇渕から何も借りられなくなり、また、ものが言えず、文字を書くこともできなくなってしまった。 |
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●しおひる玉
坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)がエゾ征伐にあたった平安時代の頃、半田のあたりから東のほうは広々とした入り海で「岩田の海」と呼ばれていた。その海にはおろちが住み、海を渡ろうとする人々の邪魔をしていると言われていた。東国へ攻めに向かおうとしていた田村麻呂は、三方原の船岡山(ふなおかやま)にとどまり、おろち退治の祈りをささげた。そんな時、田村麻呂は一人の美しい女と出会い、その女を妻とする。やがて、戦果を上げて船岡山にまた来たとき、再びその女が現れた。女は、お産をするので小屋を建ててほしいと言う。また、お産する姿は決して覗かないでくれとお願いした。建てた小屋に女が入ると、覗くなと言われたにも関わらず田村麻呂は覗いてしまった。驚くことに、そこに女の姿はなく、かわりにおろちが子供を生んでいたのである。女は海に住むおろちで、田村麻呂の祈りが苦しく、女の姿になって出てきたのだ。姿を見られたからには海に帰らなければならないとおろちは言い、田村麻呂に子供を託した。この時、いつか役立ててくださいとりっぱな玉も渡した。その後、おろちは竜となって二俣の椎ヶ脇の渕に潜ったといわれている。おろちの子は、俊光という立派な将軍になって父の志を継ぎ、再び東国を征伐することになった。しかし、岩田の海に差し掛かると海が大荒れで渡れない。そこで、父から授かった母の形見の玉を出して海に投げつけると、海はみるみる干上がって陸地になった。有玉という地名はこの俊光が形見の玉を投げたことから始まったと言われており、有玉神社の境内には、俊光をまつる社がある。 ●宿蘆寺と家康 戦いに負けた徳川家康が数人の家来を連れて、浜名湖のほとりまで逃げて来たときのこと。日が暮れて辺りが暗くなってくると、その前の夜から寝ていなかった家康は、ようやく敵の目を逃れたのに安堵し、眠くなってきた。家来にどこかいい場所がないか探させるが、浜名湖のほとりには蘆(あし)が深く茂っており、とても眠れる場所ではなかった。近くにお寺があることに気付き、家来が山門の戸をたたいたり、中に向かって叫んだりしたが、何も返事はなかった。そのお寺の名前が宿蘆寺(しゅくろじ)だと知った家康は、蘆の中で眠ることを思いついた。一人の家来が湖畔から小舟を一隻見つけ出し、蘆の中のあまり見えないところにその小舟を持って行き、その中でゆっくりと寝た。翌朝、起きてきた宿蘆寺の和尚たちは、小舟の中で眠る家康の姿を見つけると驚き、そしてもてなした。 ●そうめん谷 戦国時代のこと。真夏の暑い最中、戦いに負けた徳川家康が数人の部下を連れて逃げていた。庄内村の和田まで来た家康は、木陰で休んでいると、朝から何も食べていないことに気付き、急に空腹を覚えた。すると、それを見ていた村人たちが、冷たい谷水で冷やした、おいしそうなそうめんを家康に差し出した。家康はおいしいと大喜びして食べた。それ以来、その近くの谷を「そうめん谷」と呼ぶようになった。 ●たらいに乗った美女 昔、水窪の村に絵から抜け出したような美しさの「おたか」という女がいた。大工の男を婿にもらい、仲睦まじく暮らしていた。ある年の秋、降り続く大雨で水窪川は大洪水となっていた。おたかは雨のせいでたまった洗濯ものを片付けに、濁流のほとりへとたらいを抱えて下りていこうとした。夫は危ないと引き止めたが、おたかは大丈夫と川岸に立ち、しばらくの間、濁流を眺めていた。すると、おたかは何かに取り付かれたかのように一糸まとわぬ姿となってたらいに乗り、濁流に浮かんで流れていってしまった。濁流に流されるおたかを見て、夫を初め、村人は大騒ぎしたが、おたかはうれしそうに流され、そして濁流の彼方に消えていった。おたかの子供は母親を失ったことに泣き続け、ついには目が見えなくなってしまった。ある夜、夫の大工の夢におたかが現れ、今は大蛇となって下流の鳴瀬の渕に住んでいるから鏡を持ってきてほしいと夫におたかは伝えた。次の日、鏡を持ち、目の見えない子供を連れて鳴瀬の渕へと行くと、美しい昔のままのおたかが現れた。おたかは渕の水で目の見えない子供の目を洗ってあげると、不思議と目が見えるようになった。夫はおたかに帰ってきて欲しいと願うが、受け入れられず、あきらめるために大蛇になった姿を見せて欲しいと頼んだ。おたかの大蛇となった姿を見た夫は顔色を変え、逃げて帰ってしまった。 ●大蛇と座禅 1393(明徳4)年、一人の偉いお坊さんが現在でいう竜泉寺の裏山あたりで座禅をし、修行をしていた。それを見た村人たちはそのお坊さんに、この村に落ち着き仏の道を教えてほしいと頼んだ。お坊さんは快く引き受け、この土地に住むことにした。村人たちはお寺(岩雲寺)を経て、住職として迎えた。ある日、和尚のところへ一人の美しい女が現れた。その女は椎ヶ脇渕に住んでいる大蛇が化けたものであった。そして、自分はすでに死んでいるのだが、成仏出来ていないので、成仏させてほしいと願った。和尚は女に座禅をさせ、静かに法華経の全巻を読むと、読み終わった頃には女の姿はなくなっていた。その夜、和尚の夢の中に女が現れ、自分に仏の道を教えてほしいと願ったため、和尚は座禅をするようにといった。この時、外では黒雲が出てきて激しい雷鳴がし、その黒雲の中には竜の姿が見えたという。翌朝、お寺の境内には池が出来ており、その池から清水がこんこんと湧き出ていた。竜が池を作ってくれたということで、後に徳川家康によって竜泉寺と名付けられ、雲岩寺から改称した。 ●だいだら法師とつぶて島 昔、だいだら法師という天にも届くような大男がおり、山を動かし、海を掘るような大きな力を持っていた。ある時、だいだら法師が近江国の琵琶湖を掘って、富士山を作ろうと土を運んでいると、浜名湖の西まで来たときにちょうど昼飯の時間となった。だいだら法師が今の湖西市入出の宇津山に腰掛けて弁当を食べていると、ご飯の中に黒い小石が1つ混ざっていた。だいだら法師はその小石を箸で挟んで、浜名湖の中に捨てた。その石が今のつぶて島といわれている。また、運んでいた土が途中でこぼれ落ちて出来たのが、今の舘山寺の東にある大草山と根本山であり、歩いた右足の跡が神ヶ谷町に、左足の跡が西山町にあるという。 ●稚児が岩 今の館山寺町にまだ堀江城があったころ、豊かな自然に囲まれて人々は平和に暮らしていた。しかしある時、思いかけず敵が大軍で攻めよせてきた。城の兵たちは必死で応戦したが、相手があまりの大軍だったため、とうとう城は包囲されてしまった。水も食糧もなくなり身動きが取れなくなったので、殿様と奥方は城に火をつけ、闇にまぎれて逃れようとした。湖に船を浮かべて逃げようとしたものの、いつの間にか向かい岸でも敵が弓を向けていた。逃げるのに無理を感じた殿様と奥方は目の前にあった岩に飛び移り、そこで自殺した。翌朝、敵兵がその岩に近づいてみると、亡くなった奥方に抱かれて生まれたばかりの赤子が眠っていた。さすがの敵兵も涙を浮かべ、その子を育てることにした。それから誰ということなく、その岩を稚児が岩と呼ぶようになった。 ●天狗のお使い 昔、村の男、源助が秋葉山にお参りに行き、いつものように奥の院に泊まろうと思っていた。しかし、堂守(どうもり)は先客があるため今日は駄目だと言った。困った源助はどこでも良いからと頼むと、庭の見えないところならと泊めてくれた。やがて夜中になると、赤や青の衣を着たお坊さんが大勢、堂の庭に集まって来た。そのうちの一人が源助に気付き、付き添いを一人やるから村へ酒を買いに行って来いと言った。源助が了解すると、赤い衣の男が近づいてきて源助の手を握った。すると、急に身体がふわりと舞い上がり、瞬く間に山のふもとの店に着いた。源助は夜遅くに閉まっている店に酒を売ってくれと頼んだが、起きるのが面倒だった店主は売り切れてもうないと言った。すると、付き添いの男がすごい剣幕で焼き払うぞと店に向かって言った。仕方がなくほかの店で酒を買うと、来た時と同じようにして奥の院に帰っていった。次の日、酒を売ってくれなかった店に行くと、店が焼けていた。 ●天狗の羽音 今は昔、中ノ町村に五兵衛という魚とりが好きな男が住んでいた。男がいつものように天竜川へ魚を釣りに行くと、その日はひとあみで魚がざるいっぱいになった。こんなに多くの魚がとれたのは初めてのことだったので、五兵衛は喜んで堤の上を歩いて帰っていった。すると、耳のそばで羽が風を切るような音がする。天狗が水の中に蓄えていた魚を自分がとってしまったから、怒って羽音を立てているのかもしれないと思いながらも、気の強い男はそのまま家へ戻った。戸を閉めて寝ようとすると、今度は屋根の上で石を転がすような音がして、一晩中眠れない。天狗ににらまれたらどんなことになるかと思った男は、とった魚を全部、川へ逃がした。すると、その音はぱたりとしなくなったという。 ●天狗の火 浜名湖で、漁師がたくさんの魚を獲った時のこと。天狗が向こう岸から火をかかげ、その魚をとりにあらわれた。そんな時はわらじを頭にのせて待っていればいいという教えがある。そうして待っていると、だんだんと火が近づき、船は急にガタガタと揺れ、そしてしばらくすると静かになった。天狗が通り過ぎた後、獲った魚を見てみると、魚の目玉がいつの間にかすべてくりぬかれていた。 |
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●天神社の雨ごい歌
1713(正徳3年)年のころ、5月から6月にかけて一粒の雨も降らない大日照りが続いた。苗は枯れ、田んぼには地割れができしまい村人たちは困り果てていた。村人たちは雨ごいに効くと評判の天神町の天神社で、お祈りを捧げようと決めた。カネや太鼓を鳴らして、村人たちは雨が降るようにと祈った。また、浜松城からは岩城善左衛門康親(いわきぜんざえもんやすちか)がお参りに来た。歌よみの名人である岩城善左衛門は雨ごい歌三首をそなえ、三日三晩の間、一心に雨乞いをした。すると、日の照りつけていた空が曇り、雨が降ってきた。それから後、日照りの年には城主が雨ごいの祭りを行なうようになったといわれている。 雨ごい歌 雨神のえにしもあれば ひとむきに 雨のめぐみをいのりこそすれ もののふも民も草木も いろかれて 月日をうとみ雨夜をぞまつ もろもろの民をすくいの神心 てんまんぐうの森のゆう立ち ●出頃房坂 今は昔、都田のに大杉が一本立っていた。村人たちはこの大杉をご神木とよんで崇めていた。しかし、ある年、神木が一夜のうちに誰かによって切り倒された。代官はただちに犯人を捕まえるように言ったが、1ヶ月経っても犯人が捕まらないので切り倒された梢の先の村から犯人を一人出すように命じた。梢の先は都田村一色を向いていたので、その村から強引に犯人を出し、この杉の切り株の上で首を切り落とした。その夜から、青白い光を帯びた首がちかくの坂を転げ回るようになり、人々は杉の木を本当に切った人に向かって転げ下りているのだろうとうわさした。そこで、村人たちは、ほこらを立てて供養すると、それから首は転がらなくなり、その坂を「でころぼう坂」と呼ぶようになった。里人はこの坂に地蔵をまつり、その霊を慰めた。都田村一色の人々は、犠牲者を哀れみ、長いこと正月のお祝いをしなかったという。 ●飛び出す絵馬 今は昔、龍禅寺に大きな絵馬の額があった。狩野探幽(かのうたんゆう)という画家が描いたといわれるその絵馬は、それは本当にみごとなものだったそうだ。その馬は本当に生きているようで、馬が毎夜、絵から抜け出しては近くの田畑で農作物を食い荒らしていた。これに困った村の人たちは竜禅寺の和尚さんに相談に行くと、和尚さんは快く引き受けてくれた。その夜から馬は出なくなった。絵を燃やしてしまったのではと心配になった村の人たちは、和尚をたずねた。すると、和尚は絵馬を見せてくれた。そこには、杭と手綱が描き加えられ、馬がしっかりとつなぎとめられていた。この絵は戦争前まで本堂にあったが、戦争で焼けてしまった。 ●鳥追地蔵 1718(享保3)年、寺島は田んぼばかりの村であった。秋には、黄金色の稲の穂が一面に広がり、なんとも美しい眺め。しかし、稲の穂が実るとたくさんの雀が集まって稲を食い散らしてしまうのだ。かかしを立てても、鳴子を仕掛けても、どんなことをしても逃げない雀。困った農民たちは、雀を追い払ってくれるよう、お地蔵さまにお参りをした。翌朝、目を覚ますと一羽の雀も飛んでいなかった。お地蔵さまのところに行くと、お地蔵さまの足が泥で汚れていた。お地蔵さまが田んぼに入って雀を追い払ってくれたのだ。農民たちはお礼にお堂を建てた。この鳥追地蔵は、現在も寺島町に残っている。 ●泣く子坂・泣き子地蔵 泣き子坂 成子町にある小山には一本の坂道が通っており、坂を上ったところには石のお地蔵さまが立っていた。木の葉や草に埋もれ、通る人もまれだったため、お地蔵さまのそばに度々捨て子があった。子どもがよくこの坂で泣いていたので、「泣く子坂」と呼ばれるようになり、そして、それがなまって「成子坂」というようになった。 泣き子地蔵 担い笊(ざる)にいっぱいの魚を入れ、天秤棒で担いで浜松へ売りにきた漁師がいた。一方の笊だけを売ったところで夕方になってしまった。片方だけ軽いのではバランスが悪いと、近くにあった小さなお地蔵さまを空になった笊に入れて家まで帰り、お地蔵さまは家の近くに捨てて置いた。すると、夜に漁師を呼ぶ声がするので行ってみると、お地蔵さまが元の所に帰りたいと目から涙があふれさせながら言っていたので、急いで元の場所に返した。それから「泣き子地蔵」と呼ばれるようになり、のちに「成子地蔵」と名づけられた。 ●肉つきの面 昔、阿弥陀様に信仰が厚く、月に何度も通う嫁がいた。しかし姑は、嫁が阿弥陀さまに通うのは、仕事をさぼりたいからだろうと思い、やめさせようとしていた。ある晩、嫁がいつものように阿弥陀様へ行ったとき、姑は鬼の面をかぶりながらお宮の出口で隠れていた。そして、嫁が拝み終わって出てきたところを姑が急に飛び出して驚かせると、嫁は気絶してしまった。姑は急いで鬼の面を取って家に帰ろうとしたが、どんなにがんばっても取れなかった。仕方がないので、家へ帰って押入れの中で一生懸命に外そうとするが、どうしても取れない。やがて、気を取り戻した嫁は家に帰って寝ることにした。嫁が寝ていると押入れの中から何か物音がするので開けてみた。すると、姑が汗だくになりながら鬼の面を取ろうとしていた。姑も嫁に見つかったことですべてを白状し、顔がどうなってもいいからお面を取ってほしいと頼む。力を入れてお面を取ると、顔の皮がお面についてすっかりむけてしまった。それから姑は大変優しい人となった。 ●猫の恩返し 昔、善住寺に三代もの住職に飼われた一匹の老猫がいた。ある夜、この猫が和尚の夢に現れ、自分は生涯を終えるときが近くなったので、明日、和尚が信濃のほうへ法事で行くが、その途中で恩返しをすると言った。次の日、和尚が信濃に行く途中に寄った峠で、庄屋の大旦那の葬式が行なわれていた。善住寺の老猫が、棺の中に入っているはずの大旦那の遺体を隠したことに気付いた和尚は、そのことを葬式中の家へ知らせてもらった。葬式はその村にある法行寺の和尚が行なっていたのだが、棺の中は空だと伝えられ、中を確認すると、やはり、中に遺体はなかった。法行寺の和尚がお経を読んでも死体は棺に戻らなかったため、善住寺の和尚を呼んで、お経を読んでもらうことにした。善住寺の和尚は、法行寺が善住寺の子寺となることを条件にお経を読むことを承諾した。善住寺の和尚がお経を読むと、しばらくして棺の中でがたんと音がし、蓋をあげると遺体が戻っており、みんなが感謝した。その後、善住寺の和尚が用事を済ませて寺に帰ると、老猫の姿はなく、和尚は猫を厚く葬った。法行寺は善住寺よりも大きな寺で、他国であったにもかかわらず、善住寺の小寺として、献物を持っいくるようになった。 ●灰縄山 昔、春野町の山中にある村に、年老いて働くことができなくなった老人を山へ捨てるという定めがあった。そんな中、どうしてもそれが出来ず、まるで捨てたかのような顔をして、そっと老母を奥の部屋へ隠している若者がいた。ある日、領主の殿様から灰で縄を作って持ってこいと村人は命じられた。そして、もし持ってこなかったのなら、村をつぶしてしまうと言われたのだが、この無理難題に村の人々は困ってしまった。若者は困った挙句、そっと奥の部屋へと入り、老母へ相談をした。すると、老母は藁で縄を作ってから、それを焼けば出来ると教えてくれた。出来た灰の縄を殿様に差し上げると、殿様は驚き、誰に教えてもらったのか尋ねた。若者は、定めを破った罪で裁かれるのを覚悟しながら、母親に教わったと一切を告白した。それを聞いた殿様は、老人の尊さを見直し、老人を捨てる風習をやめるようおふれを出した。その後、老人を捨てていた山を「灰縄山」と呼ぶようになった。 ●はたごの池 昔、井伊谷川が渕をなした深さの計り知れない池があった。池のほとりに立って耳を澄ませていると、池の中から遠くではた織りをするような音が聞こえるので、「はたご池」と呼ばれていた。そして、村の人々は、この深い渕の底には竜宮城があり、そこで乙姫さまがはたを織っているのだと考えていた。ある日、井伊谷の竜潭寺の小僧が和尚(おしょう)から鉈(なた)を買ってくるよう頼まれた。小僧は鉈を買った帰りにはたご池のそばで休んでいると、買ってきた鉈を池に落としてしまう。池の中を覗いてみると、鉈は池の底で白く光っており、拾えそうに思えた。和尚はなかなか帰らない小僧のことを怒ったり、心配したりしながら待っていたが、日が暮れても帰っては来なかった。夜が明けても帰らないので、和尚を初め、寺の者たちが心配して探したが見つからず、遠くよその国まで探したが、行方は分からなかった。3年の時が流れ、小僧は死んだと思い、和尚は小僧の葬式を始めた。和尚が朗々と経を読み、村人が焼香をしていたそのとき、小僧が鉈を握って大急ぎで帰ってきた。小僧に遅くなった理由を聞くと、はたごの池で鉈を落としてしまい、拾いに池へ下りるとそこには竜宮城のような御殿があり、その御殿のお姫さまから鉈を受け取って帰ってきたということだった。小僧は今朝お寺を出て今気賀から帰ってきたと言うが、その間、実際は3年もの時間が経っており、一同ははたご池の不思議に唖然とした。 ●富士馬頭観音 上阿多古西来院「いぼとり観音」のおまつりの日には、近くにある十二所神社の広場に観音様を持ち出し、その前で、村人たちは草競馬を楽しんでいた。ある年、この近くに住む豪農の自慢の馬、富士が下男の清作に連れられてやってきた。毛並みが良く、去年も草競馬で一等を取ったというほど立派な馬だった。しかし、日頃、薄暗い小屋の中ばかりにいた馬が、祭りの太鼓や、赤や青に飾られた屋台を見て、驚いてしまった。そして、突然大きくいななき、前足を高く上げ、身体をのけぞらせたかと思うと、道下の田んぼに落ちてしまった。清作はびっくりし、田んぼに下りて馬を起こそうとしたが、打ち所が悪かったのか起こすことが出来なかった。村の人たちも集まり手を尽くしたが、ついに死んでしまった。そのことを主人に話すと、仕方がないと言ってはくれたが、責任を感じた長太夫は、石の馬頭観音を作り、馬の落ちた道ばたに立て、「富士馬頭観音」と刻んでその霊を慰めた。 |
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●二俣の河童
昔、二俣川の油渕には恐ろしい河童がいると伝えられていた。ある夏の日、村の子供の彦三郎が二俣川でひとり遊んでいた。すると、見たこともない男の子が遊ぼうと声をかけてきた。彦三郎が返事をしないでいると、男の子が鮎取りをしようと言ってきた。ちょうど鮎取りをしようと思っていたところだったので、一緒に二俣川に入って鮎取りをすることにした。川の中には小さな鮎が群れをなして泳いでいるので、彦三郎は夢中になって追いかけ、次第に川下の油渕のほうへと行ってしまった。すると、急に雲行きが怪しくなり、滝のような大雨が降り出すと、耳もさけるような大きな雷がした。彦三郎は気を失い、そのまま倒れてしまった。しばらくすると、どこからか白い髪、白いひげ、白い着物を着たおじいさんが現れ、彦三郎に早く帰りなさいと呼びかけた。彦三郎はその声に目を覚ますと、先ほどまでの大雨は止み、空には夕日が光っていた。おじいさんは彦三郎を家まで送ると、森の方へと歩き消えてしまった。日ごろから油渕へは行ってはいけないと言われていた彦三郎は、言ったら叱られると思い、誰にもこのことを話さなかった。それから幾日か経ったある日、彦三郎と同じ年頃の子供が一人、油渕で死んだことを聞き、驚いて家の人にそのことを話した。すると、家の人は油渕の河童が彦三郎を取り殺そうとしたのを、田中の森の諏訪明神さまが助けてくれたのだと、急いでお礼の参りに行った。現在、油渕はなく、どこにあったのかも分からない。 ●平八稲荷さま 今は昔、都田村新木に平八という親切なおじいさんが住んでいた。平八爺さんはもとは、白狐だったが、皆のことをよく気にかけて優しかったため、村人たちに慕われていた。ある年、長雨が続いたことがあった。その時、近くを流れる都田川を平八爺さんはじっと見ていた。しばらく川を眺めた後、突然、平八爺さんは村人たちに山の方へ逃げろと大声で言った。なにか起きたのかと村人が尋ねても、ただただ急いで逃げるよう叫び続けた。平八爺さんの真剣な声に村人たちは従い、山の上に登った。その時、川の水が氾濫して村全体を飲み込んでしまった。こうして、村人たちは助かったのだが、平八爺さんの姿が見えない。かわりに、都田川の荒い流れの上をぴょんぴょんと跳んでいく、一匹の白狐の姿があった。その後、平八爺さんを都田で見ることはなかった。「平八さんは白狐だったが、良い人だった」と村の人たちはお宮を作って稲荷神社としてまつった。それが現在新木にある「平八稲荷神社」である。 ●法源和尚さま 昔、現在の半田町の舟岡山に大智寺という寺があり、そこには法源和尚という大変偉い和尚が住んでいた。法源和尚ははじめ、現在の北区細江町中川の初山宝林寺という寺で独湛禅師(どくたんぜんし)という支那から来た優れた和尚の下で勉強をしていた。その後、日本全国を歩き、寺を建てたり、つぶれかけた寺を建てなおしたりと、仏教を広めることに力を尽くした。その噂を聞いた現在の半田町近くの近藤徳用という殿様は、法源和尚にぜひ自分の領内に住んでもらいたいと思った。そして1713(正徳3)年に舟岡山に大智寺を建て、和尚になってもらった。決まった檀家を持たないお寺の暮らしは決して楽ではなく、毎日近くの家々を廻ってお金やお米をもらい、細々と暮らしていた。しかし、法源和尚はとくに困った様子はなく、これで良いとすがすがしい気持ちでいた。ある寒い冬の朝に、弟子たちが寒さに震えていたが、法源和尚は平気な顔をしているので、尋ねると、今に村のおかみさんが綿入れの着物を持ってくると言った。するとその通りに、寒いでしょうからこれを着てくださいと、綿の入った暖かい着物を持ってきてくれた。またある朝、和尚が急に本堂の前に立ち、西の方へ向かって水を投げた。何事かと思い弟子が和尚に尋ねると、京都の宗円寺に火事が出たということだった。5日ほどして、京都の宗円寺から先日火事があったが大火にならずに済んだのも和尚のおかげだという礼状が届いた。東海道を通る大名たちがかごから片足を出して、はるか遠くにいる法源和尚に目礼して通ると、今どこの国の大名が通ると言ったほど、何でも分かる不思議な力を持っていた。 ●ほら穴の大蛇 昔、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東の地域を征伐して三方原の東のあたりへと来たときのこと。当時、そのあたりには岩田の海という荒海が広がっており、そこには赤大蛇が住み、海を渡ろうとする人々の邪魔をしていた。田村麻呂が神仏に祈って大蛇退治をしようとしたとき、とても美しい女性が彼のところに現れ、側においてほしいと願った。田村麻呂は彼女を妃として迎え、二人の間には子供ができた。しかし、彼女が出産するとき、田村麻呂が産屋を覗くとそこには大蛇がおり、大蛇が女に化けていたことを知ってしまう。田村麻呂は大蛇に岩田の海での乱暴をやめてくれるように伝え、そして、大蛇が産んだ子の俊光を連れて都へと帰っていった。15年後、再びその地を訪れた俊光は、母に会いたいと七日七夜祈願した。すると、大蛇が美女の姿となり現れた。俊光は岩田の海を静かな海にしてほしいと母に頼むと、海の水は引き、広々とした陸地となった。大蛇はというと、北のほうへと向かい、ほら穴の中に隠れた。そこで、俊光はそのほら穴の前に岩水寺建てた。 ●堀江の亀塚 ある年、浜名湖のほとりにある堀江村に大津波が襲ったことがあった。村人たちは、慌てふためいた。逃げるにも逃げようがないのだ。その時、誰かが、一匹の亀が呼んでいることに気がついた。見ると、大きな亀が、手招きしているではないか。大喜びで、村人たちは亀に向かって泳ぎ、その背によじ登った。こうして、亀のおかげで村人たちは波に飲み込まれるまえに安全な場所へと辿りつくことができたのだった。お礼にお酒を出すと、亀は大喜び。良い気持ちでもとの海へ帰って行った。それから数年後、再び現れた亀は、病気にかかっていた。津波から救ってくれた恩返しにと村人は懸命に看病したが、その甲斐なく死んでしまった。人々は昔のお礼にと、亀塚を作って葬った。今でも舘山寺町には、その亀を葬った「亀塚」が残っている。 ●身代り黒地蔵 今は昔、浜松城主の一行が野口(現:野口町)の辺りを通った時のこと。突然、案内役の勘右衛門(かんえもん)の名前を呼ぶ声が聞こえた。周りを見まわすと、なんと声のした辺りから光が射しだしているではないか。そこを掘ったら、ら黒いお地蔵さまが出てきた。そこで信心深い勘右衛門はお地蔵さまを家に持ち帰り、仏壇でおまつりした。その夜、お地蔵さまが勘右衛門の枕元に現れ、お前の身体はまもってやるから万福寺に自分をおさめてほしいと言った。勘右衛門はお地蔵さまを萬福寺におさめ、境内にお堂を建てて丁寧にまつってあげた。それから一年後のある日、勘右衛門は若い武士に呼び止められ、数日後に池川のつつみで会う約束をしてしまう。当時、刀の切れ味を確かめるため罪のないものを試し斬りする武士が良く出現していた。自分も斬られる羽目になると感じた勘右衛門は、命を守ってくれるよう黒地蔵にお祈りをした。約束の日、やってきた勘右衛門に武士は、やはり斬りかかった。肩先から胸の辺りまで斜めに斬られ、勘右衛門は倒れた。しかし、朝になり目を覚ますと、なんと斬られた傷がないのである。お地蔵さまのところへ行くと、お地蔵さまには肩から胸にかけて斜めに斬られた刀のあとがるではないか。勘右衛門は思わず手を合せたという。 ●麦飯長者 昔、高塚の村に一軒の裕福な家があり、五郎兵衛という男の家族が住んでいた。五郎兵衛は馬を引いて人や荷物を運ぶ、馬子を生業としていた。ある日、浜松の宿場から舞坂の宿場まで一人の旅僧を送り届けると、馬の鞍に風呂敷包みがくくりつけたままだった。手にとって見ると、ずっしりと重く、家に入って中を見てみると、そこには観音経一巻と大量の小判が入っていた。急いで返そうと思い、舞坂の町まで馬を走らせ、旅僧の姿を捜すが見つからなかった。そして、旅僧が現れるのを待って30年ほど過ぎたある日、捜し求めていた旅僧が立派な格式の高い僧として、街道を通るのを見つけた。五郎兵衛は大金を返そうとするが、誠実さに感動した高僧は受け取らなかった。そこで、五郎兵衛は困った人のために使おうと、街道を行き交う人々に湯茶を接待したり、空腹の人には麦飯を食べさせてあげたり、怪我をした人を手当してやったりした。こうした五郎兵衛の善行によって、後に小野田という姓が与えられ、村役人や庄屋にまでなることができた。 ●やきもち地蔵さま 今は昔、三方原の片隅に小さなお地蔵さまが立っていた。誰が建てたのかはだれも分からない。村の人たちは、「原のお地蔵さま」と呼んで大切にしていた。ある日、近くに住んでいる農民の夢の中にお地蔵さまが出てきて、江戸の町へ連れて行って欲しいと言った。ふたつ返事で引き受けた農民は、次の朝、荷車にお地蔵さまを乗せて江戸へと向かった。しかし、天神町の竜梅寺の門前まで来た時に、急にお地蔵様が重くなり、一歩も進むことができなくなった。困った農民は竜梅寺にお地蔵さまをまつってくれるように頼むと、快く引き受け、お堂を建ててくれた。それから、竜梅寺のお地蔵さまへお願いすると願い事がかなうと評判になり、人々は願いをかなえてくれたお礼にと、焼いたやきもちを供えるようになったので「やきもち地蔵さま」と呼ばれるようになった。今も竜梅寺には、このお地蔵さまがいる。 ●米津浜の雨ごい 文化年代のある年の夏、ひどく日照りが続いた。春から一滴の雨も降っていなかったのだ。このままでは稲が枯れ、年貢を納めることができないと市野の人たちは困り果ててしまった。そこで、皆で相談した結果、宗安寺の和尚さまに雨ごいをお願いすることにした。和尚さまは、雨ごいの祈祷(きとう)をすれば大雨が降り洪水が起きると告げた。村人たちは、それでも構わないから祈祷してくれるよう頼んだ。和尚さまはすぐに祈祷を始めたのだが、満願の7日目になっても一粒の雨も降ることはなかった。不安がる村人たちだったが、和尚さまは自信満々で「最後の祈りをするから、米津浜に一緒に来い」と言う。それで、皆で米津浜へ向かったのだが、その時、和尚の言い付けで二つの大きな長持(ながもち)も持っていった。村人は誰も、中に何が入っているのか知らなかった。米津浜に着き、和尚さまが海の竜神に向かって一心にお祈りをしていると、空が曇り、豪雨が降り出した。すると、和尚さまが突然長持を開けるように言い、開けてみるとそこには笠がいっぱい入っていた。村人たちはその笠をかぶり、喜びながら家路についた。しかし、和尚さまが言った通り洪水が起きて、田んぼは水浸しになってしまった。それでも村人たちは「日照りよりはまし」と楽しげに田んぼを眺めたそうだ。 ●嫁橋 何百年か昔のこと、橋羽村に仲のいい若夫婦が住んでいた。しかし、ある晩、些細なことから夫婦喧嘩をし、妻は生まれて間もない子供を連れて家を出ていった。家を出たものの頼るところもなく、生活をしていけないと感じた妻は、子供を川岸に埋めてしまった。そして、西へ500メートルほど走っていったが、子供を殺した悲しさから、自分も川へ身を投げて、死んでしまった。それ以来、東の橋を「子埋橋(こずめばし)」、西の橋を「嫁橋」と呼ぶようになった。※『遠江風土記伝』では、昔この道が駅に通じていて、ここで嫁が夫を待っていたため「嫁橋」となったとも記されている。 |
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●静岡の伝承
●ダイダラボッチの足跡 全国各地に伝わるダイダラボッチ(巨人)の伝説であるが、浜松市にもそのダイダラボッチの足跡とされる土地が2箇所ある。共に姫街道の通る浜名湖の北に位置し、直線距離で約5km離れてある。細江町にある足跡は、住宅に隣接した池になっている。ただ足跡と言っても、道路などの区画整理によってかなり埋められ、約10m四方の正方形の形をしている。道路沿いにダイダラボッチの伝説の案内板があるので、それと分かる程度のものとなっている。一方の三ヶ日町の足跡は平らな窪地となっており、それなりの大きさはあるものの、やはり県道の開設によって一部が削られていると言われる。こちらも案内板がなければ、ただの空き地にしか見えない。この2つの伝承地にある案内板には、浜松に残るダイダラボッチの代表的伝説が書かれている。ダイダラボッチは東の国に大きな山を造ろうと、西の国で土を掘り返して土を運んだという。その途中で休憩したのが、この浜松。尉ヶ峰に腰を下ろして弁当を食べたという。この休憩の際に出来たのがこの2つの足跡とされている。そして飯の中に紛れ込んでいた小石をつまみだし、浜名湖に捨てて出来たのが“礫島”であるとされている。ちなみに東の国に造られた山が富士山であり、西の国で掘られた土地が琵琶湖となったとされる。さらにスケールの大きい話では、この土地までやって来たダイダラボッチが何かのはずみでよろけて、地面に手をついてしまった。その手形で出来たのが浜名湖であるという。 ●尉ヶ峰 / 浜松市北区の細江町・三ヶ日町・引佐町の境界にある山。標高は433m。2つのダイダラボッチの足跡の中間地点に位置している。 ●礫島 / 浜名湖にある唯一の島。岸から約400m離れた場所にある。周囲約300m。島には弁財天を祀る礫島神社があり、普段は上陸できない禁足地となっている。 ●慶昌院 江戸時代初めの頃の話。教化のため諸国を巡っていた禅僧・巨山存鯨が当地を訪れた折、寺で一夜を明かそうと立ち寄った。しかし天念寺という名のその寺は久しく人が住んだ形跡はなく、荒れるままになっていた。何かの縁とそのまま本堂で座禅を組んで夜を明かしていたが、深夜になって急に空気が一変した。何か得体の知れないものが近づいてくる。目を開けると、月明かりに影が一つ。存鯨が名乗ると、形のなかった影がたちまち人の形となった。それなりの身分のある侍のようであった。その幽鬼は“成田三郎慶昌”と名乗った。源頼朝の家来であったが、曾我兄弟の仇討ち事件に連座したため自害し、寺の裏にある松の木の根元に埋められた。しかし誰も供養する者もなく、しかも寺はいつしか荒れ果てて人もいなくなってしまった。願わくば寺を再興して供養をしていただきたい。そこまで言うと、幽鬼は目の前から消えてしまった。翌日、存鯨は里の者に事の次第を告げ、自らがこの哀れな侍の菩提を弔うこととして、寺を再興して住職となった。その後、この寺は成田三郎慶昌の名から“天念山 慶昌禅寺”と改称し、曹洞宗の寺院となった。墓苑の一角には、現在も、この成田三郎の戒名である「空忍院殿天念慶昌居士」が刻まれた墓があるという。 ●慶昌院 / 弘仁10年(819年)、弘法大師が創建したとされる。創建当初は天念寺という名であったが、上にある逸話より曹洞宗の寺院となる。 ●曾我兄弟の仇討ち / 建久4年(1193年)に起こった事件。曾我十郎・五郎兄弟が、父の敵である工藤祐経を富士の巻狩の陣屋で討ち果たした。兄の十郎はその場で討たれるが、弟の五郎は源頼朝の陣屋にまで侵入したところで捕縛、その後祐経遺児の嘆願により処刑された。寺伝によると“成田三郎”は曾我兄弟の弟と名乗っているが、2人いる弟はそれぞれ“原小次郎”と“律師(出家僧)”と呼ばれており、該当する人物はいない(しかし、両名ともこの仇討ち事件によって直接・間接的に死んでおり、兄弟が連座した事実は間違っていない)。 ●上臈塚 (じょうろうづか) 浜松市内から国号152号線を北上、二俣町をさらに北へ進んだところに船明という地区がある。その国道沿いに、小規模ながら石垣が積まれた墳墓と思しき場所があり、その上に小さな祠が建てられている。これが上臈塚である。南北朝時代も終わりの頃。皇室祈願所となっていた光明寺に、身なりの良い若い女性とその供侍が訪れ、しばらくこの寺に参籠したいという。寺の者は、それなりの身分相応の者であろうとうかがい、それに応じることにした。何日間かは何事もなく過ぎたが、ある日、一人の武者が光明寺にやって来て、若い姫とその供侍の二名が立ち寄っていないか尋ねてきた。そしてそれらしき者が参籠したことを聞くと、急ぎ戻っていったのである。翌日、大勢の武士が光明寺に押し掛けてくると、姫と供侍が参籠していたお堂に押し入った。しかし既に二人はその場を退去しており、寺の者への感謝をしたためた書き置きが残されているばかりであった。それから数日後、光明寺からほど近い船明にある薬師堂で、姫は自害して果てていた。もはや逃げおおせぬと観念したのであろう。憐れに思った村人は墓を築き、一人残された供侍はその墓を守るように七日の間いたが、やがて同じように自害したのであった。村人はこの侍のためにも墓を築いてやったという。結局、この逃げてきた主従が何者であったかは分からずじまいであったが、村人はおそらく追ってきた武士は北朝の手の者であり、姫は南朝の身分ある者の子女ではなかろうかと推察した。そしていつしか、この姫は長慶天皇の第一皇女・綾姫とされ、言い伝えられることとなったのである。この姫の墓とされるのが上臈塚である。なお供侍の墓も“下賤塚”と呼ばれてあったが、既に取り壊されて現存していないという。 ●光明寺 / 天竜区山東にある。養老元年(717年)に行基によって開かれた古刹である。上臈塚からは1km足らずの場所にある。 ●見付天神/霊犬神社 (みつけてんじん/れいけんじんじゃ) 正式名称は矢奈比売神社。創立などは明確ではないが、延喜式内社に列する古社である。祭神は矢奈比売命と菅原道真。菅原道真が祭神となったのは正暦4年(993年)のことであり、東日本では一番早く勧請されたとされる。この神社には“猿神退治”の伝承である「悉平太郎」にまつわる話が残されている。正和年間(1312〜1317年)の頃、この見付の地をある旅の僧が通りがかった。ちょうど祭のさなかであったが、そのような賑やかさは全くなく、むしろ集落全体が悲しみに包まれていた。不審に思った僧は集落の者に訳を尋ねると、毎年この祭の時に一人の娘を生贄として見付天神の神に捧げることで集落の安寧を図っているのだという。しかし僧はそのような残虐な神はいないと確信、その生贄を求めるものの正体を探ろうとした。その夜、境内に現れたものは恐ろしい妖怪変化たちであった。それらは「今晩のことは信濃の悉平太郎に知らせるな」と口々に言う。それを聞いた僧は、“信濃の悉平太郎”を見つけて、妖怪退治をすることを決心したのである。信濃のに赴いた僧は方々を探したが“悉平太郎”という者はいなかった。そしてもうすぐ祭が始まろうとする頃になって、ようやく悉平太郎が駒ヶ根の光前寺で飼われている犬の名であることを知る。早速寺へ行って訳を話して悉平太郎を借り受けると、急ぎ見付に戻った。祭の夜、娘の代わりに悉平太郎を棺の中に入れると、いつものように境内にそれを置き帰った。夜半になって神社の方から凄まじい物音と犬の鳴き声と何とも言えない悲鳴のような唸り声がしてきた。人々は生きた心地もしないまま夜を明かした。獣の鳴き声は夜が明けると共に静かになっていった。日が昇りきったのを見計らって、人々は神社へやって来た。そこには多くの狒々が転がっており、とりわけ巨大な年老いた狒々は喉笛を噛み切られて絶命していた。そして悉平太郎も数多くの手傷を負って、息も絶え絶えの様子でうずくまっていたのであった。こうして見事に狒々を退治した悉平太郎であるが、その後については3つの話に分かれる。傷を負った悉平太郎であるが、それを押して故郷の光前寺まで戻り、そこで力尽きて死んだという説。また、故郷に戻る途中、国境の地で死んでしまったという説。そして、狒々退治で既に致命傷を負っていて、手当の甲斐なく神社の境内で亡くなったという説がある。現在、見付天神の境内に隣接するつつじ公園内には、霊犬悉平太郎を祀る霊犬神社が建立されている。日本で唯一犬を祀る神社であるという。 ●猿神退治 / 全国各地に残されている伝承。生娘を人身御供にするよう強要する神に対して、僧や猟師が犬を使ってそれを退治するが、その正体は年老いた巨大な狒々(猿)であったというパターンで語られる。この“悉平太郎”の話はその最も有名な物語である。 ●光前寺 / 長野県駒ヶ根市にある古刹。この寺院でも遠江国見付にいた狒々を退治した犬の話が残されているが、その犬の名前は“早太郎(疾風太郎)”となっている。 ●犀ヶ崖 元亀3年(1572年)12月、浜松城にあった徳川家康は、三方原で武田信玄の軍勢と野戦に及び完膚なきまでの惨敗を喫する。家臣が身代わりとなって命からがら浜松城に引き返した家康であるが、敢えて城門を開けっ放しにして篝火を焚かせる“空城の計”を用いて、城まで追い詰めてきた武田勢を怯ませることに成功した。そして武田勢は城から少し離れた場所で野営することとなったのである。ここから徳川方が一矢報いるために仕掛けたのが夜襲である。武田勢の野営地の近くには、深い断崖のある犀ヶ崖があった。まず密かにその断崖に白布を架けてあたかも橋があるように見せかけた。そして鉄砲隊を間道から敵陣背後に配して一斉射撃をおこなったのである。夜襲を受けた武田勢は慌てふためき、次々と偽物の橋を渡ろうとして人馬もろとも断崖に転落していった。その数は百を超えるとも言われる。この犀ヶ崖の戦いの翌々年から、崖の下から人の呻き声や馬の嘶きが聞こえる、付近で“かまいたち”に遭って怪我をする者が絶えない、あるいはイナゴの被害が起こるなど良くないことが続いたため、人々はこれを犀ヶ崖の戦いで亡くなった者の祟りであると言い始めた。訴えを聞いた家康は、三河から了伝上人を招いて供養をおこなった。了伝は当地で七日七晩掛けて大施餓鬼の念仏を唱えることによって、ついに怨霊を鎮めたのである。家康はこの功績を永世伝えることを命じ、領民に盆の期間に大念仏を行うように命じたのである。これが現在も続く「遠州大念仏踊り」の始まりである。犀ヶ崖の断崖は、現在、長さ約120m、幅約30m、深さ約13mとなっている。しかし合戦のあった頃は、長さ約2km、幅約50m、深さは優に40mはあったと伝えられており、実際に急ごしらえで布を架けることが出来たかは甚だ疑問に感じるところである。また犀ヶ崖の戦いそのものの記述が、徳川幕府が興ってから以降の史料にしか見当たらないという事実からも、実際にそのような夜襲があったかには疑問を呈する部分がある。ただこの付近で何度も行われたであろう合戦の中で、あるいは日常の営みの中でこの断崖から転落して死んだ者が多数あったことは疑いのないところである。 ●三方ヶ原の戦い / 約3万の大軍を率いた武田信玄が西へ進軍。それを浜松城近くで迎え撃った徳川家康と織田援軍約1万数千が戦った。当時最強と呼ばれる武田の騎馬軍に徳川勢は大敗し、家康の生涯最大の危難の一つと数えられる。 ●遠州大念仏 / 犀ヶ崖の戦いでの鎮魂を目的として行われた大念仏会を起源とする(あるいはそれ以前よりあった害虫や疫病除けのためにおこなっていたとする説もある)。了伝が始めたとされるが、その後を託された宗円が普及させたとされ、現在犀ヶ崖にある旧資料館は「宗円堂」として建てられたものである。現在は、初盆を迎えた家を回り、念仏踊りをおこなう行事として定着している。 ●真珠院 八重姫御堂 『吾妻鏡』によると、安元元年(1175年)、当時の伊豆で親平家の豪族として勢力を持ち、伊豆に配流となった源頼朝の監視をしていた伊東祐親が頼朝殺害を企て、頼朝が伊豆山神社へ逃げ込むという記録が残っている。この原因について『曽我物語』では次のような逸話が残されている。伊東祐親の三女である八重姫は美貌の持ち主であったが、父が京都へ大番役として3年間上洛しているうちに、頼朝と懇ろな間柄となって千鶴丸という男児までもうけたのである。ところが、祐親が伊豆へ戻って事態を知ると、激怒。「今時に源氏の流人を婿に取るなら、娘を非人乞食にやる方がましだ。平家の咎めを受けたら何とするのか」と言い放ち、まだ幼子であった千鶴丸を簀巻きにして生きたまま川に沈めてしまったのである。そしてその怒りの矛先を頼朝に向けたのである。だが、祐親の次男の伊東祐清は、義理の母が頼朝の乳母であった関係で、頼朝に事態を告げて父の追っ手から逃がしたのである。さらに祐清は、自分の烏帽子親(元服時に仮親として、名を与える者)に当たる北条時政の屋敷に頼朝を匿ってもらうこととした。結局、それが縁で頼朝は北条政子の求婚を受け入れ、時政も子(長女)が出来てしまったために2人の関係を許したのである。一方、八重姫は父によって頼朝と強制的に離別させられ、さらに我が子までも失ってしまう。しかし、それでも八重姫は頼朝のことが忘れがたく、遂に治承4年(1180年)に侍女を連れて屋敷を抜け出し、頼朝が匿われているという北条の屋敷を訪ねたのである。その結末は無惨なものとなった。この時になって初めて八重姫は頼朝と政子が結ばれており、殺された我が子と同じくらいの年頃の娘までいることを知ってしまう。もはや伊東の屋敷にも戻ることは出来ず、進退窮まった末に選んだのは、激流の渦巻く真珠ヶ淵へ身を躍らせることのみであった。今では護岸工事ですっかり様相の変わってしまった真珠ヶ淵に面するように真珠院が建てられている。その山門をくぐったところにあるのが、八重姫を祀った八重姫御堂である。そのお堂の一角には、小さな梯子がいくつも置かれている。これは“梯子供養”と言い、八重姫が入水した時にせめて梯子一本あれば助けられたかもしれないという村人の無念の気持ちから始まったものである。願い事が叶った時に必ずお礼参りとして梯子を奉納することになっているという。また境内には、八重姫と共に命を絶った6人の侍女を供養する“八重姫主従七女之碑”もある。 ●お吉ヶ淵 (おきちがふち) 明治24年(1891年)3月27日の豪雨の夜、一人の女性が下田街道沿いの稲生沢川の淵に身投げをした。その女性の名は斎藤きち。“唐人お吉”と呼ばれた女性である。きちの生涯は、幕末の動乱期に翻弄され流転した。幼い頃に下田に移り住んで、14歳で下田一の人気芸妓となったきちであるが、安政4年(1857年)に人生を決定付ける転機が訪れる。当時下田に滞在していたアメリカ総領事のハリスの“身の回りの世話”をするよう説得されるのである。胃潰瘍で倒れたハリスとしては看護をしてくれる女性を希望したと言われるが、幕府はこれを愛妾の要求と解釈してきちに白羽の矢を立てたのである。期間として約2ヶ月の勤めであったが(最初の3日間で一旦暇を出されるが、支度金25両のこともあってきちの側から再び世話を願い出ている)、異国人の私的な身の回りの世話をしたという偏見や、その報酬の高さ(月給10両)からくる妬みのせいか、その後きちは下田の町で「唐人お吉」と呼ばれ、迫害を受けるようになるのである。ハリスと共に江戸へ赴いたきちは、そこで職を解かれた直後に行方をくらました。そして明治維新頃に横浜に現れ、かつて将来を誓い合った男と偶然再会して所帯を持つ。二人して下田に戻ったが、結局いさかいが絶えなくなって離縁。きちは再び下田を離れて三島の遊郭で芸者として働きに出る。数年後、蓄えを持って下田に戻り、支援を受けて小料理屋「安直楼」を始めるが2年で破綻する。その頃には既にアルコールによる障害が出始めており、生活もすさんでいき、ついには物乞い同然の身にまで堕ちてしまう。そして悲劇的な死を遂げてしまうのである。淵から引き揚げられた遺体は引き取り手もなく、菩提寺も埋葬を拒否したため、3日間もその土手に放置されたままだったという。結局、宝福寺の住職が遺体を引き取り境内に埋葬したのである(これが現在の墓所)。死んでからまで下田の人々から嫌われ続けたきちであるが、彼女自身はこの土地を離れては戻ることを繰り返している。それを考えると、「世をはかなんで」投身自殺したとされる最期も、もしかすると彼女の本意ではなかったような印象も出てくる。歴史の表舞台に出ることもなく、翻弄されるだけで消えてしまったようなきちであったが、突如としてその存在が人々の目に触れるようになる。昭和2年(1927年)に村松春水が書いた小説『実話唐人お吉』、翌年その版権を買った十一谷義三郎が著した『唐人お吉』を下敷きにしたサイレント映画が立て続きに公開され、彼女の名前は全国に知られるようになった。そして昭和8年(1933年)、この地を訪問した新渡戸稲造が、このお吉ヶ淵を詣でて供養のための地蔵を建立した。これが現在の“お吉地蔵”であり、またお吉ヶ淵は小公園化され、命日には「お吉祭り」と称して下田の芸者をはじめとする多くの女性がこの地を訪れて冥福を祈るようになっている。 ●ゆるぎ橋 伊豆七不思議の1つ。場所は非常にわかりにくく、国道136号線から天窓洞へ向かう歩道の階段を下りる途中にある小さな石碑が目印である。よく見ると、そばに橋の板材と思しきものがコンクリートの壁面に掛けられてあり、これがゆるぎ橋の遺物であると分かる。天平の頃(729〜749年)、この付近を荒らしていた海賊がいた。その首領は“墨丸”といい、海を行く船を襲ったり、近隣の村の産物を奪ったりしていた。ある時、墨丸の一団は、朝廷に納めるために集められた砂金を奪い取った。そして村の薬師堂の近くにあった橋を渡ろうとすると、なぜか橋が大きく揺れて渡れない。部下達が橋の下に落ちるのを見ながら、最後に墨丸も渡ろうとするが、橋は一向に揺れを止めない。それどころか突然仁王様が現れて、墨丸をつまみ上げると、薬師堂の前に連れて行ったのである。そこで墨丸は、薬師如来から直々に仏の教えを説かれ、ついには改心して、薬師堂の堂守として残りの人生を全うしたという。この伝説から、ゆるぎ橋を心悪しき者が渡ろうとすると、地震のように橋が揺れて渡ることが出来ないという言い伝えが生まれた。また一説では、月経の女性が渡ろうとすると橋が揺れるのだとも伝わる。さらに、この橋の一部を削って火をつけたものを子供に見せると、夜泣きや夜尿に効くのだとも言う。 ●伊豆七不思議 / 大瀬の神池・函南のこだま石・堂ヶ島のゆるぎ橋・手石の阿弥陀如来・河津の酒精進鳥精進・独鈷の湯・石廊崎権現(石室神社)の帆柱。 ●竹採塚 日本最古の物語とされる『竹取物語』であるが、その伝承地と言われる場所がいくつかある。その中でもとりわけ有力な伝承地とされるのが、富士市の竹採塚である。ただし従来の物語とは異なる展開の伝承が、この地では流布している。延暦年間(782〜806年)の頃、この地に竹籠造りを生業とする老夫婦が住んでいた。ある時、翁は竹の中から一人の小さな少女を見つけ、それを大切に育てた。その少女は大きくなってかぐや姫と名付けられた。やがてその美貌は国司の知るところとなり、財宝を積んで招いたが、姫は応じなかった。そこで国司は姫の許に押しかけ数年間ともに暮らした。ある時、姫は自分が富士山の仙女であり、富士山へ戻ることを許して欲しいと願い出た。国司は認めなかったが、姫は1つの箱を残していなくなってしまった。悲しんだ国司は富士山の頂上へ行き、そこにあった大池の中に姫を見つけたが、既に姫は天女となってしまっていた。元の姿ではない姫を見た国司は、箱を抱いたまま池に身を投げて死んでしまったという。竹採塚のある周辺は公園化されており、塚もその遊歩道に沿って歩いていけば見ることが出来る。塚には“竹採姫”と刻まれた石が置かれているが、どのような謂われで作られたのかは定かではない。ちなみにこの公園は市が整備したものであるが、土地は岡田氏という個人の所有であり、この岡田氏がかぐや姫を育てた老夫婦の子孫になるとされる。またこの公園内には、江戸時代に名僧・白隠禅師の墓がある。この地は江戸時代に白隠が住職をしていた無量寺があり、白隠自身がこの寺の縁起を著した著作の中でも、この地がかぐや姫ゆかりの場所であることを記している。さらにこの比奈の地にはかぐや姫の伝説から名付けられた地名が複数あり、姫が里の者と別れて富士山へと赴いたとされる“囲いの道”、その途中で振り返ったとされる“見返し坂”などが残されている。 ●かぐや姫と富士山 / 富士山へ帰ってしまうかぐや姫のイメージは、この山の神である木花咲耶姫命(浅間大神)とだぶっており、両者を同一と見る向きは強い。また上の伝承で登場する国司と姫が神仏化して“冨士浅間大菩薩”となったという説もある。 ●佛現寺 日蓮宗の霊跡寺院である。弘長元年(1261年)、日蓮は伊豆へ流罪となった。当時難病に悩んでいた伊東の地頭・伊東八郎左衛門は、日蓮を伊東に招いて祈祷をおこなわせた。すると病気が平癒したため八郎左衛門は日蓮に帰依し、館のそばに建てた毘沙門堂に置いた。この毘沙門堂が佛現寺の前身であり、日蓮が赦免を受けて伊豆を去った後、惣堂と呼ばれ8つの寺院の輪番で護持されていたとされる。佛現寺として独立した寺院となったのは、明治に入ってからということになる。この寺院には「天狗の詫び状」という巻物が保管されている。長さは1丈(約3m)、幅は1尺(約30cm)の巻物に約2900文字余りが書かれている。しかし、その文字は解読不能であり、一体何が書かれているかは判らない。ただ以下のような伝承が残されている。万治元年(1658年)頃、東伊豆から中伊豆に抜ける柏峠に天狗が現れ、多くの旅人が難儀していた。その話を聞いた住職の日安上人はその天狗を懲らしめようと、単身柏峠に乗り込んでいった。怪力無双と言われた上人は天狗を見つけると、いきなり3尺もの長い鼻を両手で掴むと捻り倒したのである。驚いた天狗は老松に飛び移ると、一陣の風と共に逃げ去ってしまった。そして同時に上から落ちてきたのがこの巻物であるとされる(一説では、日安上人が峠へ行って7日間祈祷をし、満願の日に峠の松の巨木を切り倒すと、枝に巻物が引っかかってきたともされる)。何が書かれているかは判らないが、おそらく上人の怪力に恐れ入った天狗が、二度と悪さをしないと誓った内容がしたためられているのだろうということで「天狗の詫び証文」と呼ばれるようになったのである。佛現寺には「天狗の髭」という、天狗にまつわる寺宝がもう1つある。これは佛現寺に縁のある人が寄進したもので、吉凶を占うことが出来るという。ただ詫び証文も髭も一般には公開されていない。その代わり伊東の和菓子屋である玉屋で作られている「天狗詫状」という羊羹が売られており、その包み紙に「天狗の詫び証文」の写しとその由来が印刷されている(この羊羹は佛現寺でも手に入れることが出来る)。 ●河津三郎血塚 閑静な住宅地の外れに血塚の入口がある。車止めの先は石畳の道、そして両脇にはよく手入れされた林が続く。元々この道は伊豆半島の東海岸を通って下田へ至る主要な街道であった「東浦路」の一部であり、近年自治体が整備して遊歩道としたものである。この石畳の道の奥にあるのが、河津三郎の血塚である。河津三郎祐泰は伊東祐親の嫡男で、河津荘を領有していたために「河津」を名乗っていた。この当時、伊東祐親は伊東荘の所有権を巡る問題で恨みを買っていた。相手は義理の甥にあたる工藤祐経。祐親は祐経の所領であった伊東荘を奪い取り、さらに祐経の妻となった自分の娘を強引に他家に嫁に出すという暴挙に出たためである。ただ祐親からすれば、伊東荘は元来父親の所領であり、父の死後に祖父が後妻の連れ子が産んだ子を嫡男に据えて伊東荘を与え、嫡孫である自分を次男として養子に迎えたこと自体が理不尽な仕打ちであったわけであり、その後妻の子の息子から伊東荘を取り戻しただけという認識だったとされる。だが遺恨を持つ工藤祐経の思いは変わりなく、復讐のために暗殺を企てたのである。安元2年(1176年)、伊豆に流された源頼朝の無聊を慰めるべく狩りがおこなわれた。その帰り道で待ち伏せたのは、祐経の配下の大見小藤太成家と八幡三郎行氏の二人。共に弓の名手で、街道を行く祐親父子を遠矢で射殺そうとしたのである。街道を眼下に見おろす椎の木三本に身を潜ませて、何名かの武将が通るのをやり過ごすと、先に馬に乗って現れたのは河津三郎。目の前を通り過ぎるのを待って八幡三郎が放った矢は、鞍の後ろをかすめて河津三郎の腰を貫いた。剛の者である三郎は応戦しようとするが、力尽きて落馬する。続いてやって来た伊東祐親を狙った大見小藤太の矢はわずかにそれて失敗。他の武将も異変に気付いたために、二の矢を放つことなく二人の刺客は退散した。祐親は落馬した息子を抱きかかえるが、既に三郎は虫の息であった。三郎は最期の力を振り絞り、自分を射た者が八幡・大見の両名であり、工藤祐経の企みであろうと告げた。そして言葉を継いで、残される子供を案じつつ息絶えたのである。父を殺された遺児は、その後母親の再婚のために川津の家を離れたが、決して復讐を諦めてはいなかった。父の死から17年後の建久4年(1193年)、兄弟は富士の巻狩の場で工藤祐経を討ち果たしたのである。これが日本三大仇討ちの一つとされる曾我兄弟の仇討ちである。河津三郎の血塚は、曾我兄弟の仇討ち発端の地として知られ、多くの文人墨客が訪れたとされる。塚が建てられた時期は不明であるが、塚の頂上に置かれた宝篋印塔は南北朝時代の特徴を持つとされており、おそらくその時代に伊東氏の一族の者が塚を造ったのではないかと推測される。 ●日本三大仇討ち / 曾我兄弟の仇討ち、伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻で荒木又右衛門が助太刀したことで有名)、赤穂浪士の討ち入りを指す。 ●桜ヶ池 面積約2万uの堰止め湖である。三方を鬱蒼とした林に囲まれた様子はかなり神秘的である。池のほとりには池宮神社がある。祭神は瀬織津姫であり、敏達天皇13年(584年)にこの池に現れたため神社が創建されたされる。この神社の行事としておこなわれるのが「おひつ納め」である。これは祭神の一柱である皇円阿闍梨にまつわるものであり、遠州七不思議として数えられる。皇円阿闍梨は天台宗の高僧であり、浄土宗の開祖・法然の師匠として知られる。皇円は、釈迦入滅より56億7千万年後に弥勒菩薩が衆生を救う時まで、菩薩行をおこなって衆生を救いたいという願いを立てる。そのために人よりも遙かに寿命の長い龍に化身することを欲し、この桜ヶ池に入水寂滅するのである。数年後、弟子の法然は師を偲んでこの地を訪れた。そして桧のお櫃に赤飯を詰めたものを池の中心まで運んで投げ入れた。それ以降、法然の弟子の親鸞や熊谷蓮生房などが継承して今に伝わる奇祭となった。現在でも9月23日におこなわれ、直径40cmの桧のお櫃に4升5合の赤飯を詰めて池に投じられる。おひつ納めの神事は約2時間、100個前後のお櫃が沈められるとのことである。この奇祭の不思議なところは、沈められたお櫃が数日後には空になって必ず浮き上がってくることである(浮き上がってきたお櫃は奉納した人に下げ渡されるとのこと)。さらにこの池は底なしであり、諏訪湖に繋がっているという伝説がある。そのために、沈められたお櫃が諏訪湖に浮かび上がってきたことがかつてあったとも言い伝えられている。そして皇円が変じた龍は諏訪湖に訪れることがあり、7年に一度だけ出現するという池の平の幻の池が、龍が途中で休むために現れるのだとされている。 ●瀬織津姫 / 大祓詞に登場する神で祓戸四神とされ、災厄を払う神である。しかし記紀に登場しない神であり、謎の多い神である。一説では、天照大神の荒御魂(向津姫)ともされる。災厄を払う神であるため、川などの水辺に祀られることが多い。 ●遠州七不思議 / 桜ヶ池の他に、小夜中山の夜泣き石、大興寺の子生まれ石、池の平の幻の池、遠州灘の波小僧、天龍の京丸牡丹、掛川の無間の鐘などがある。 ●十九首塚 (じゅうくしょづか) 平将門の伝承といえば関東がその中心であるが、それ以外の地にもいくつか残されている。掛川市内にもぽつんと伝承が残されている。平将門を討ち取った藤原秀郷は、京都に凱旋するべく将門以下の主立った一族郎党の首級を持って西へ向かっていた。そしてちょうどこの地に到着した時に、京都から首実検のために派遣された勅使も到着。ここで持参した19名の首実検がおこなわれたのである。ところが首実検が済むと、勅使はこれらの首を打ち棄てるように命ずる。京都に対して激しい恨みを持つ者の首なので、京都に持ち込むことはならぬという理由であった。それに対して秀郷は「逆臣とはいえ、死者に鞭打つことは出来ない」と言って、この地に手厚く葬ったという。これが十九首塚であり、また首と共に持ってこられた剣、白と黒の犬の描かれた2本の掛け軸、念持仏も近くの東光寺に納めたという。そしてこの首実検の際に首を川に並べ掛けたところから、この地を「掛川」と呼ぶようになったとの説もある。19の首はそれぞれ塚に葬られたのであるが、現在は将門のものとされる塚だけが残されている。そして近年になって残りの者の名を刻んだ石碑を周囲に配して整備されている。 ●十九首塚に祀られた者 / 相馬小太郎将門・御厨三郎将頼・大葦原四郎将平・大葦原五郎将為・大葦原六郎将武(以上一族)鷲沼庄司光則・武藤五郎貞世・鷲沼太郎光武・堀江入道周金・御厨別当多治経明・御厨別当文屋好兼・隅田忠次直文・東三郎氏敦・隅田九郎将貞・藤原玄茂・藤原玄明・大須賀平内時茂・長橋七郎保時・坂上逐高(以上郎党) ●大神山八幡宮 座頭宮 (おおかみやまはちまんぐう ざとうのみや) 大神山八幡宮の境内にはいくつかの祠があるが、その中の1つに祀られているのが座頭宮である。この宮には1つの言い伝えがある。このあたりには豊川稲荷へ行くための豊川道という街道があり、大知波には峠があった。ある時、その峠を越えるために二人の盲目の姉妹が通りがかった。まだ年端もいかない娘であったが、琵琶の免状を貰うためにはるばる東国からやって来たのだった。峠に至る道に迷ったので、近くで働いていた農夫に行き道を尋ねた。ところが、その農夫はつい悪戯心で、峠へ行く道とは別の方角を教えたのであった。間違った道とは知らず、娘達は礼を言って、その道を歩いて行った。数日後の大雨の後、崖の下で二面の琵琶が見つかった。村人は旅路を急ぐ盲目の姉妹のことを思い出した。おそらく道を間違えて崖から滑り落ちてしまったのだろうということで片付けられた。しかし、その出来事があってから、件の農夫の家には不幸が次々と襲った。特に顕著だったのが、生まれてくる子供が不具の子、しかもほとんどが目の見えない子供ばかりだったのである。ようやく不幸の原因が、出来心で間違った道を教えたために命を失った姉妹の祟りであると悟った家の者は、大慌てで祠を建てて祀ったのである。それが座頭宮の始まりであるという。座頭宮は、市杵島姫命(弁財天)と共に同じ祠に祀られており、今でもこの農夫の子孫によって守り継がれているという。 ●大神山八幡宮 / 足利義政・今川義元・徳川家康などの寄進を受け、武門から篤く敬われた神社。「大神」の名称は大和の大神神社から勧請されたとの伝承も残る。 ●秋葉山本宮秋葉神社 火防せの神として名高い秋葉神社の総本社である。現在では火之迦具土を主祭神とする秋葉神社上社が秋葉山山頂付近にあって尊崇を集めているが、明治の神仏分離より前は山頂には秋葉寺もあり、神仏習合の霊域であった。また主祭神も「秋葉三尺坊大権現」であった。この秋葉大権現である三尺坊は実在の人物とされており、宝亀9年(778年)に信濃にて母親が観音菩薩に念じて生まれ、越後の栃尾にある蔵王権現の三尺坊で修行を重ね、ついには迦楼羅天を感得して飛行神通自在となって秋葉山へ飛来したといわれている。その姿は飯綱権現(頭は迦楼羅天、身体や持ち物は不動明王、そして白狐に乗っている)と同じであり、天狗として祀られている。また観音菩薩の化身であるともされる。秋葉信仰が盛んとなったのは、貞享2年(1685年)に始まった「秋葉祭り」が発端であったとされる。一種の流行り神であり、秋葉の神輿を村送りの形式で巡航させるのが流行となった。その頃から火防せの神として東海地方を中心に信仰を集め、江戸などでも秋葉講と呼ばれる講を設けて秋葉山へ詣でることが大流行したのである。明治の神仏分離政策によって、秋葉神社と秋葉寺は切り離され、神仏習合の象徴であった秋葉大権現は主祭神の地位から下ろされた。また秋葉寺は無住のために廃寺(後に再建、ただし秋葉大権現ゆかりのものは本山である可睡斎に移されている)となり、大きく様変わりした。現在、秋葉山本宮秋葉神社は、山頂にある上社と、山の南東側麓にある下社の2社によって成り立っている。 ●火之迦具土 / 伊弉諾尊と伊弉冉尊の神産みで誕生した、記紀神話における火の神。伊弉冉尊の陰部を焼いて瀕死の重傷を負わせたために、伊弉諾尊によって首を刎ねられたとされる。 ●猫塚/ねずみ塚 その昔、御前崎に遍照院という寺があった。そこの住職がある時、難破した船の木片に取りすがって流れてきた子猫を助けて、寺で飼うことにした。それから10年の月日が流れた頃、遍照院に旅の僧が宿を求めてきた。住職を快くその僧を迎え入れた。そして3日目の夜、突然本堂の屋根裏で何かが格闘する大きな物音がした。翌朝、おそるおそる屋根裏を覗いてみると、寺の飼い猫と隣家の猫が深手を負って倒れていた。さらにそのそばには、旅僧の衣服をまとった大鼠が死んでいたのである。旅の僧に化けて住職を喰い殺そうとした大鼠の企みに気付いた猫が、命を助けて貰った恩義に報いるために、大鼠を倒して住職の危難を救ったのである。住職はこの2匹の猫を懇ろに葬り、そこに塚を建てた。これが現在でも残る猫塚である。一方の殺された大鼠であるが、こちらは海に捨てることとなったが、運びきれずに海岸近くにうち捨てられてしまった。すると住職の夢枕に大鼠が現れ、改心して今後は海上の安全と大漁を約束すると伝えた。そこで住職は、大鼠のためにも塚を建ててやったのである。それがねずみ塚である。 ●波小僧・浪小僧 遠州七不思議の1つと数えられる“遠州灘の波小僧”は、東は御前崎から西は伊良湖岬までの遠州灘一帯で起こる自然現象を指す。昔からこの一帯では、海鳴りによって天候を判断していた。西に音がすれば晴れ、東であれば雨、さらに東であれば嵐という具合である。この不思議な自然現象について、古くから「波小僧」という妖怪にまつわる言い伝えが残されている。ある漁師が遠州灘で漁をしていると、網に奇妙な生き物が引っ掛かってきた。それは波小僧であった。漁師はこれを殺そうとしたが、波小僧は「命を助けてくれたならば、お礼に雨や嵐の時にお知らせします」と願い出た。漁師はそれを聞いて、海に帰してやった。それ以来、波小僧が海鳴りで天候を知らせるようになったのだという。上のものは遠州灘に面する地域一帯に流布する波小僧の基本的な話であるが、中には、行基が農作業を手伝わせるために作った藁人形が波小僧の正体である(この説は河童の起源の一説と同じ内容)とか、海鳴りは波小僧が海底で太鼓を叩いて知らせている音とか、漁の網に引っ掛かったのではなくて陸に上がって遊んでいるうちに干上がってしまったところを助けられたとか、色々なバリエーションがある。いずれにせよ、海鳴りの正体は、海に住む妖怪の仕業ということになっている。現在、御前崎市の浜岡砂丘の入り口近くに「波小僧」、浜松市舞阪町の旧東海道と国道1号線が交わる地点に「浪小僧」の像がある。漢字は違うが、どちらも同じ妖怪を指しているのは間違いないだろう。 ●遠州七不思議 / 「七不思議」であるが、実際には10以上の不思議が紹介されている。波小僧の他には、小夜の中山夜泣き石、桜が池のおひつ納め、京丸牡丹、無間の鐘、三度栗、池の平の幻の池、霧吹き井戸、子生まれ石、能満寺のソテツ、片葉の葦、天狗の火、清明塚などが挙げられる。 ●石室神社 (いろうじんじゃ/いしむろじんじゃ) 伊豆半島の先端にある石廊崎。その石廊崎灯台よりさらに先端に位置するのが石室神社である。祭神は伊波例命(いわれのみこと)であり、役行者が勧請したとされている。神社そのものは、さらにそれ以前、弓月君の子孫である秦氏がこの地に建立したものであるという説もある。位置的な関係から海上安全の神として信仰を集めている。石室神社には【伊豆七不思議】の一つとされる「千石船の帆柱」がある。岩壁に食い込むように建てられた社殿の基礎として建物を支える柱であるが、この帆柱がここにある由来が伝承されている。播州(兵庫県)浜田港から塩を積んだ千石船が江戸に向かって航行していた。石廊崎は暗礁も多く、強風が吹き付ける海の難所である。船が差し掛かった時、運悪く嵐となり、もはや転覆するしかない状況となった。船主は陸地にある石室神社に手を合わせ、江戸に無事到着したあかつきに船の帆柱を奉納すると一心に祈った。すると嵐は収まり、船はそのまま無事に江戸にたどり着いたのである。そしてその帰り道、再び石廊崎に差し掛かった船は突然動かなくなり、追い打ちを掛けるようにいきなり暴風雨となった。往路の際の願い事を思い出した船主は、嵐の中、自ら斧を振るい帆柱を切り倒した。すると帆柱は波によって陸へ流され、神社の前に奉納されたかのように打ち上げられたのである。同時に暴風雨も収まり、船はそのまま櫓を漕いで播州まで戻ることが出来たという。石室神社からさらに先端に、熊野神社がある。この神社は縁結びの効験があるとされるが、これにも不思議な伝説がある。石廊崎の名主の娘・お静は漁師の幸吉と恋仲となるが、身分違いのために引き離され、幸吉は石廊崎から10キロ近く離れた神子元島に流されてしまった。しかしお静は石廊崎の先端で火を焚き、幸吉も島で火を焚き、お互いの無事を確かめ合っていた。ある夜、島からの火が見えないため、お静は心配のあまり大風の中を島へ向かって小舟をこぎだした。しかし大波に行く手を遮られ、お静は一心不乱に神に祈った。その甲斐あって、神子元島で二人は再会し結ばれた。それを知った親は二人の仲を認め、その後末永く幸せに暮らしたという。お静が火を焚いたとする場所に祀られたのが、熊野神社である。 ●伊豆七不思議 / 大瀬の神池・函南のこだま石・堂ヶ島のゆるぎ橋・手石の阿弥陀如来・河津の酒精進鳥精進・独鈷の湯・石廊崎権現(石室神社)の帆柱。 ●人穴 人穴は富士山の噴火によって作られた溶岩洞穴である。奥行きは約90m。古来より神聖な場所として信仰の対象となっていたようであり、江ノ島の岩屋洞窟とつながっているという伝説も残されている。『吾妻鏡』によると、建仁3年(1203年)6月、源頼家は富士の裾野一帯で巻狩りをおこなった。その時、家臣の仁田四郎忠常に人穴探索を命じた。忠常は家来5人と共に人穴に入るが、蝙蝠が飛び交い蛇が足元を這うという状況。さらに千人の鬨の声のような大音声がしたかと思うと、ときおり人の泣く声が聞こえてくる。その奥に大河があって渡ることができず、川向こうに光が見えると、中に不思議な姿の人が現れた。たちまち家来4名が急死し、恐れおののいた忠常は頼家から授かった刀を川に投げ入れて立ち去った。そして翌日になって忠常はようやく人穴から出ることが出来た。土地の古老によると「この穴は浅間大菩薩が住み給う場所である」ということであった。また、『御伽草子』にある『富士の人穴草子』は、上の仁田(新田)四郎の話をさらに拡張させ、人穴で出会った毒蛇に拝領の太刀を献上すると、本来の姿である浅間大菩薩に変化し、地獄から天道までの六道巡りに案内される内容となっている。この富士山の神である浅間大神にまつわる地として古くからある人穴で修行を積んだのが、長谷川角行という行者である。この角行こそが江戸時代に隆盛を見た富士講の創始者であり、この事実によって人穴は富士信仰(富士講)にとっての一大聖地と位置づけられることとなる。そのため人穴周辺には信者による碑の建立が相次ぎ、現在でも230基の碑が建ち並び“人穴富士講遺跡”として保存されている。現在、人穴は崩落の危険性があるために立入禁止となっている。またまことしやかな都市伝説として、県道に面した大鳥居は、入る時にはくぐらない、出る時にはくぐるようにしないと、事故に遭ったり霊に取り憑かれるという噂がある。 ●富士講 / 角行創始の富士信仰が、直系の弟子である村上光清(1682-1759)による北口本宮冨士浅間神社再興と、食行身禄(1671-1733)の富士山入定によって、江戸を中心に爆発的な支持を受け、組織化された講社。定期的な拝み行事と富士登山をおこなう。また江戸の各地に「富士塚」を築いて、信仰の対象とした。 ●小夜の夜泣石 (さよのよなきいし) 小夜の中山に住むお石という臨月の妊婦が菊川からの帰り、この丸石のあたりで腹痛に見舞われうずくまっていたところ、轟業右衛門という男が介抱したが金に目がくらみ、お石を斬り殺して金を奪って逃げた。その斬り口から子供が生まれ、お石の魂は丸石に取り憑き毎夜泣くために、この石は“夜泣石”と呼ばれるようになった。生まれた子供は音八と名付けられ、近所の久延寺の住職が飴を食べさせ育て、やがて大和の刀研ぎ師の弟子となった。ある時一人の侍が刀を研ぎにやってきた。立派な刀だが刃が少しこぼれている。音八が訳を聞くと、昔小夜の中山で女を一人斬ったという。この侍こそが轟業右衛門であり、音八は見事母親の仇を討ったという。この伝承が全国に広まったのは、まさにこの石自体が東海道の真ん中にデンと置かれた曰く付きの石だった故である。歌川広重の『東海道五十三次』にも描かれているほどである。ところが、この石は明治以降は数奇な運命に翻弄されることになる。明治天皇が東幸される際、畏れ多いということで街道から退かされ、ゆかりの久延寺へ移転。そして明治14年(1881年)にその人気から東京浅草で開催された「勧業博覧会」へ出品となったのだが、石が到着する前に浅草では張りぼての石の中に子供を入れて泣き声を出させる見せ物が大繁盛し、本物のは“泣かない”とのことで全く人気が出ず、そのまま静岡に返されることになる。焼津まで到着したが、ここで資金が底をついて雨晒しのまま。ようやく小夜まで運んだが、峠の上の寺まで運びきれずに結局現在の位置に半ば放置され、そのまま保存となってしまったという。さらに話がややこしくなるのが、久延寺にも“夜泣石”が安置されている事実。しかし久延寺にあるのは本物があった場所近くから発見されたよく似た石であり、昭和30年代以降に安置されているものである。 ●夜泣石の位置変遷 / 現在は国道1号線・小夜の中山トンネルの静岡市方面側にある「小泉屋」そばの高台にある。かつて置かれていた地点(旧東海道)には【夜泣き石跡】が残されていて、その変遷が確認できる。 ●久延寺 / 行基の開基とされる。徳川家康が遠江平定時に本陣としたのを契機に、ゆかりの寺院として栄える。本尊は、夜泣石伝承にちなんで「子育て観音」と呼ばれている。 ●「子育て飴」 / 赤ん坊に食べさせた飴は、その後、伝承と共に有名な土産物となる。久延寺隣にある「扇屋」と、夜泣石そばにある「小泉屋」(かつては旧東海道沿いにあった)で、現在は売られている(扇屋は日祝日に開店のため、常時購入できるのは小泉屋のみ)。お土産用は600円ぐらい。 |
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●牛首峠 塩尻市
霧訪山断層の断層鞍部に位置する峠です。昔、長者ヶ平の屋敷に住む娘が若い僧と恋仲になり、底なし沼に実を投じて命を落として以来、お供していた牛が暴れるようになったため、その首を落とし峠の中腹に葬ったというのがこの峠の由来と言われています。現在の県道254号にあたります。中山道を定めるに当たって、時の総奉行大久保長安は塩尻を通ることなく下諏訪から小野、牛首峠を経て桜沢へ出る道を開きました。江戸への近道と言うだけでなく、木曽へ伊那の米を入れるかわりに、木曽の木材を直接江戸へ送ることにねらいがあったようです。長安と言う人物は、道中筋に関することの一切の支配のほか、佐渡・石見などの金銀山における大規模な採掘・選鉱で業績を上げ、飛ぶ鳥を落とす勢いがありましたが、死後種々の不正ありとして改易となりましたが真相は不明といわれます。やがて、中山道は塩尻峠を越えるルートに変更されました。しかし、伊那米の木曽への移入路としては、江戸時代を通じて大いに利用されました。峠近くの前山には、当時築かれた江戸より60里の一里塚が1基存在します。 ● 昔、山口集落(牛首峠のすぐ下の集落)の裏に長者の館があり、ここの長者にはお玉という綺麗な一人娘がいました。村の人々からも「お玉様」と呼ばれ、慕われていました。また、この長者の家では牡の大きな黒い牛を飼っていて、お玉もこの牛を可愛がっていました。 ある日、お玉は目を患ったのですが、藤沢集落というところの金龍院というお堂の傍にある沼の水が、目の病に効果があるということで、毎日牛に乗って通っていました。そのお堂には、若い綺麗なお坊さんが住んでいて、やがて二人は恋に落ち、世を儚んで心中をしてしまったのです。 お玉の牛は一匹で帰ってきましたが、その日から田畑を荒らし回るようになってしまったため、村人達は牛を捕まえて首を切り、この地に埋めて塚を作り、松を一本植えて、供養しました。これが現在の牛首塚の場所であり、この峠もいつしか牛首峠と呼ばれるようになりました。 ●カッパと立木様 諏訪市 赤沼(諏訪市四賀赤沼)の村のはずれに、ぽつんと沼がありました。村人たちは「赤沼池」とよんでいました。 いつも、青みをおびて、ひっそりと静まり返っていました。そこは、「底無し沼」と言われ、一度入りこむと、どこまでもめり込んで、ついには沼からあがることが出来なくなるということです。 ここに、一匹のカッパが住んでいました。 天気の良い日などは、沼の上に浮かび、泳いだり、沼の端に腰をおろしてヨシの葉でつくった笛を鳴らしていました。 ところがある年のことです。静かな赤沼の村に奇妙なことが起こりだしました。 村の人たちが大事に飼っている馬や牛を草原へ放しておくと、誰も知らぬうちに次々といなくなりました。 村人は沼の上に、馬のたてがみや、牛のしっぽが浮いているのを見つけました。さては、沼のカッパのやつめが、馬や牛の中へ引きずり込んで食べちゃったに違いないと、村人はカンカンに怒りました。 そうこうするうちに、村人が沼の近くを歩いていると、カッパが飛び出してきて声をかけるのです。 「おめさん。おらあと力くらべをしねえか?」村人が嫌がるのを無理やりにやらせます。 しまいには、馬や牛を沼に引きずり込んだ持ち前の強い力で人間を引っ張り込んでしまうのでした。 村では、何人もの人がやられました。 諏訪の殿様の家来に立木様(今の諏訪市片羽町 立木正純医院の何代前の人)という人がいました。この方、とても力の強い侍でした。 立木様はこの話を聞いて、さっそく殿様に願い出て、退治することの許しを得ました。 体のがっちりとした足の速い馬にまたがって、立木様は沼へ向かいました。案の定、カッパが沼の中から飛び出し「お侍さん、力くらべしねかい?」と言いました。 「よし、おもしろい、やろう。」立木様は力強く答えました。 立木様は、大男でとても力が強く、馬の上から、太い足のような腕を前に突き出しました。同じようにカッパもさっと前に手を出しました。 立木様は、カッパの腕を握った瞬間、左手で馬のお尻を鞭で打ち、馬は矢のようにまっしぐらに走りだしました。 「あたたたた・・・・助けてくれ・・・」 さすがのカッパもこれはたまりません。しかし、悲鳴を上げる声にはかまわず、また、馬のお尻を叩きました。馬はいっそう速さをまして走ります。カッパは土の上を引きずられてどうすることも出来ません。 「お願いです。命だけは助けてください。」カッパは哀れな声をだして頼みました。立木様は可哀そうになって、手綱をゆるめ、馬をとめました。 引きずられたことで、カッパの腕は完全に折れてしまいました。カッパは大粒の涙をこぼして「今まで、本当に悪いことばかりしました。」と謝りました。 立木様が「その折れた腕はどうするのか」と聞くと「骨をつぐ方法があります。助けてもらえれば、骨つぎのしかたを教えます。」と答えました。 「よし、人助けをする骨つぎのしかたを教えるなら許してやろう。これからはけっしていたずらするではないぞ。」立木様は厳しく言いました。 カッパは立木様に骨つぎのしかたを詳しく伝えました。そして、泣き泣き血のように夕焼けした赤沼の池へ消えて行き、二度と姿を現しませんでした。 立木様は、カッパから教えられたとおり、骨つぎをしました。不思議なことにどんなに難しい骨の折れた者もすぐに治りました。 「諏訪の立木様、骨つぎの立木様。」と大変有名になりました。近くはもちろんのこと、遠く江戸まで知れ渡り、わざわざ治しにやってきました。 こうして、立木様はたくさんの人々の骨接ぎをしました。誰彼となく大勢の人たちを助けましたので、みんなから「立木様、立木様」と敬われました。 しまいには、「立木様」という言葉が「骨つぎ」という言葉の意味になったそうです。 立木家では今でも毎年夏になりますとカッパの好きなそば粉を川に流して供養しています。 ●河童の妙薬 駒ケ根市 昔、大田切川が天竜川に合流する地点に「下り松の淵」があり、河童が住んでいた。 江戸時代の寛政年間、高遠藩川奉行中村新六様がこの淵の近くを馬に乗って見廻りをしていると、いたずら河童が馬の尾に跳びつき、馬ごと淵に引きずり込もうとした。河童は驚いた馬に引きずられ、新六様の屋敷の馬屋に入ってしまった。 かわいそうに思った新六様は馬の尾にからまった河童を解放し、今後絶対いたずらをしない約束をした。助けられた河童はお礼に痛風の妙薬「かげんとう」の作り方を教えてくれた。中村家では以後150年間もの間、薬を販売してきた。 ●かつら淵の河童 駒ケ根市 昔、中沢菅沼の下間川下流にかつら淵と呼ばれる淵があって、河童が住んでいた。 川に遊びにくる子どもたちのしんのこを抜くので、子どもたちは怖がってだんだん近寄らなくなってしまった。 河童は淵の奥へ隠れようと下がるうちに岩が二つに割れてしまった。 それ以来、河童は淵に姿を見せなくなってしまった。 |
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●長野の伝承
●尖石様 (とがりいしさま) 国の特別史跡に指定されている尖石遺跡は、日本で初めて確認された縄文時代の集落跡である。同じく一括で特別史跡指定されている与助尾根遺跡と合わせると、約80箇所の竪穴住居跡が発見されている。この“尖石”という名の由来となったのが、遺跡の南はずれにある石である。この石は高さ1mあまりと目立って大きい石ではないが、その先端部分の三角錐の形状がただならぬ印象を与えている。この尖石様はかなり昔から村人の信仰の対象となっていたようであり、現在も石のそばには小さな石の祠が置かれ、何らかの謂われがある塚石のように見える。この一帯で遺跡が見つかったのは、明治25年(1892年)頃のことである。縄文時代の土器や石器が大量に出土した時、村人は祟りを怖れてそれらを捨てたという。またこれらの出土品がかつてこの地に長者の屋敷があった証拠であるとも言われた。おそらくこの尖石様の存在が、この土地に何らかの曰く因縁があると思わせたものと推測される。そしてその極め付けが「尖石様の下には財宝が埋められている」との噂である。さらにそれを信じて夜中にこっそりと発掘しようとした村人がいたが、その夜の内に瘧にかかって死んでしまったという。遺跡の発掘と共に尖石様が信仰の対象となった根拠として挙げられるようになったのは、石の右肩部分にある“溝”である。これは縄文時代に、磨製の石斧を作る仕上げとして、この石を使って擦り磨いた跡とされている。つまり集落の共用の道具として使われ続けた事実を経て、その記憶だけが残り、最終的に何らかを祀る存在として畏敬の念を持って接されてきたのだろう。 ●犬坊の墓 阿南町役場の近く、国道151号線沿いに位置するのだが、非常に分かりにくい場所にある。具体的に言うと、阿南消防署の南にある“牛久保橋”の南端にある、下り坂になっているコンクリート舗装の脇道を歩いて下りて行き、道なりに橋の下をくぐって行けば行き当たる。田んぼに面した道の横に石積みの祠があるので、道さえ間違わなければ分かりやすい。武田信玄が信濃侵攻を開始する直前、この下伊那地方も戦国のならいとして有力領主の攻防が繰り広げられていた。今の阿南町周辺は関氏が治めていた。5代当主の盛永は領土拡張を勢いに任せて進め、特に北側で敵対する下条氏との戦いに備えて、わずか5年のうちに3つの新しい城を築いていた。この性急な伸張策は当然領民の怨嗟の種であった。城の普請に駆り出され、怠けると荊の鞭で叩かれる懲罰を喰らい、さらには婚姻にまで課税をして金品を取り立てるなどの苛政が行われた。さらには罪のない者を鉄砲で撃ち殺すなどの悪行も重なり、家臣からも信用を失っていったのである。そこに乗じてきたのが、敵対する下条氏である。関氏の家臣から内応者を募り、ついに天文13年(1544年)宴席で酔いつぶれた関盛永を討ち果たしたのである。その時に一番の手柄を立てたのが、盛永の小姓であった。まだ18になったばかりの若者であったが、主君が反撃出来ないようにと愛刀の目釘を抜き、さらに弓の弦を全て切っておいた。さらには台所の竈の陰に潜んで、襲撃が始まるのを待った。そして襲撃が始まり、台所に逃げてきた盛永の脇腹から肩口にかけて槍を深々と刺し抜いて致命傷を負わせたのである。この抜群の功績を認められ、大小の刀などを拝領し意気揚々と引き揚げる小姓であったが、途中で白犬と出くわすと突然「盛永殿が出た」と叫びだし、犬に向かって刀を抜いて斬り掛かった。周囲の者も刀を振り回す小姓に近づくことも出来ず、ただ成り行きを見守るしかなかった。しばらく犬と対峙して暴れ回っていた小姓であったが、足を滑らせて地面に倒れ込んだ。その一瞬、白犬は小姓に飛びかかると、いきなり喉笛に食らいついた。そのまま絶命する小姓。あたりは騒然となったが、いつの間にか犬は消えてしまっていた。悪辣な主君ではあるが、寵愛を受けていた者があっさりと裏切って死に追いやった報いだったのであろうと、人々は噂した。そしてこの小姓を葬ったが、いつしか“犬坊の墓”と呼ぶようになったという。祠の中には、今でも丁寧に祀られているのが分かるように、新しい御幣が置かれている。そして古い石像が安置されているが、よく見ると、その頭の上には犬の頭が乗せられている。いかなる目的の祠であるかは想像に難くないところである。ちなみにこの逸話を題材として、井上靖が昭和32年(1957年)に『犬坊狂乱』という短編を上梓している。 ●関氏 / 伊勢に勢力を持っていた関氏の支族であり、文安5年(1448年)この地へ落ち延びてきたとされる。現在の道の駅信州新野千石平の付近に城を構え、一時期は近隣の村々も領有した。5代目の盛永の時に、下条氏の急襲を受けて滅びる。 ●下条氏 / 甲斐源氏武田氏の傍流とされる。応永元年(1394年)頃に、現在の下條村付近に土着。信濃守護の小笠原氏から養子を取って、勢力を伸張し、時氏の代に関氏を滅ぼして下伊那一帯を領有する。その後伊那に侵攻した武田氏に服属、時氏の子の信氏は、信玄の妹を娶り義兄弟となるなど優遇された。武田氏滅亡時には、親族に土地を奪われるが、徳川氏の援助を受けて復帰。しかし度重なる失態のため没落する。 ●夜泣き石(飯田) 飯田市の市街地から少し離れた場所であるが、交通の便が良く近隣にも事業所などが並ぶ場所でありながら、完全な空き地となっている一画がある。スペースには車が置かれていることもあるようだが、その奥まった部分には全長7mにもなる巨大な岩が野ざらしであり、その上にはお地蔵様が置かれている。これが飯田の夜泣き石である。正徳5年(1715年)6月、この一帯を豪雨が襲った。その勢いは激しく、天竜川の流域にあった飯田城下では多数の被害があった。この年がちょうど未年にあたったので、この水害を「未の満水」と呼ぶ。特に天竜川と松川では土砂によって川が堰き止められて、低地が大水となってしまった。そして3日目になってようやく豪雨は収まったが、松川の支流であった野底川だけは大きな出水もなかったため、周辺の人々は早速野良仕事などを始めだした。しかしその安心しきった状況の直後、野底川流域を山津波が押し寄せたのである。上流から流されてきた土砂の勢いは凄まじく、野底川が松川に流れ込むあたりにあるこの夜泣き石も、この土石流によって上流から流れてきた巨石である。不意を突かれた形になったため、この山津波によって多くの者が犠牲となった。その中に、この巨石の下敷きとなって亡くなった子供があった。そしてこの石から子供の泣き声が聞こえるようになった。そのため人々は巨石の上にお地蔵様を祀って、子供の霊を慰めたところ、それ以降は泣き声は聞こえなくなったという。以来現在に至るまで、この巨石は“夜泣き石”と呼ばれ、この地から動かされることなくある。 ●未の満水 / 正徳5年(1715年)6月17日から降り始め、18日より豪雨となった。3日後の20日になって雨はやむが、野底川の山津波でさらに甚大な被害が出た。記録によると、飯田城下での被害は、死者32名、流出家屋118軒、堤防決壊2580間(約4.5km)となっている。 ●先宮神社 (さきのみやじんじゃ) 諏訪大社の主祭神は建御名方命であるが、この神が元より諏訪の神ではなかったことは『古事記』にある通りである。出雲の大国主命の次男であった建御名方命は、国譲りの談判の際に建御雷神命に勝負を挑むが相手にならず、命からがら諏訪の地へ逃げ込み最終的に「この地から出ない」ことを誓って赦されるのである。そして諏訪地方を治める神として祀られることになるのだが、この来訪神よりも前から諏訪を治めていた神はどのようになってしまったのだろうか。その一つの形を示しているのが先宮神社である。この神社の伝承によると、この神社の祭神は建御名方命来訪以前より原住民の産土神として祀られていた存在であったが、建御名方命との抗争に敗れて服従させられたとある。そしてその服従の証として“この神社に鎮座して境内より外へ出ない”ことを誓い、さらに“境内前の川に橋を架けない”習慣が連綿と続けられている。まさに建御名方命が出雲において強制させられた「国譲り」と全く同じ構図の伝承が残されているのである。ただ不思議なことがある。この神社の祭神の名が“高光姫命”別名“稲背脛命”という点である。高光(照)姫命は建御名方命の姉神であり、稲背脛命は出雲の国譲りの際に事代主命(建御名方命の兄神)に事を告げる使者となった神である。いずれも諏訪に土着した神と言うよりも、建御名方が元いた地に関係する神の名である。それ故に『古事記』の記載された建御名方命の逸話が、中央にとって有利に作られたものであるとの疑念を持たざるを得ない。しかしながら現在でもこの神社の前には狭いながらも川が流れており、境内に入る参道には橋が架かっていない。建御名方命に対する先宮神社の神の誓いが破られていないことは、とりもなおさず高天原に対する建御名方命の誓いもいまだに有効であることを示しているようにも見えるのである。 ●建御名方命 / 『古事記』の国譲りの項で大国主命の御子神として登場する(大国主命の系譜が書かれた項では、御子神の中にその名はない)が、『日本書紀』では登場しない神。『先代旧事本紀』では、母は高志国(今の新潟県あたり)の沼河比売とされ、大国主命に代わって高志国の実質的な支配者のように扱われている。想像を逞しくすると、大国主命の国譲りが行われた段階で、高志を治めていた建御名方命は既に諏訪を支配しており(母の出身地である糸魚川にある姫川を遡り、安曇野経由で諏訪へ行ける)、最終的に高天原勢の攻勢に対して諏訪のみ死守したとも考えられる。『古事記』にある逸話も、実際は先宮神社の伝承が先にあって、それを中央政府が都合良く当てはめたものであるとも考えられる。 ●諏訪の産土神 / 建御名方命が諏訪を来訪する以前にあった神には、先宮神社の神のような服従ではなく、協力体制を敷いたものもある。建御名方命の妻となった八坂刀売神も土着の神であると推定されており、諏訪大社の筆頭神官であった守矢氏の祖である洩矢神も土着の神である。また諏訪信仰の根底にあるとされるミジャグジ神(蛇神)も先住民に信仰された神であるとされる。 ●牛つなぎ石 「敵に塩を送る」という故事は、義将・上杉謙信の美談として知られるところである。永禄10年(1567年)、甲斐と信濃を領していた武田信玄は、娘を織田家へ嫁がせて同盟を結ぶ。これは弱体化した今川家との同盟を破棄、その所領である駿河への侵攻を意図したものであるとされる。この武田と織田の同盟に対して、今川側が取った対抗策が「塩留め」であった。領内に海を持たない武田氏は、同盟していた今川・北条氏から塩を買い求めていた。それを止められることは深刻な問題であった。これに対して救いの手を差しのべたのが、当時敵対していた上杉謙信である。正々堂々の戦ではなく、卑怯な手段で領民をも苦しめるのは許しがたしとばかり、糸魚川から武田領へと塩を送り込んだのである。これが「敵に塩を送る」故事の由来とされる。松本市の繁華街、中央2丁目の交差点にあるのが、この故事の伝承地とされる“牛つなぎ石”である。糸魚川から送られた塩は街道を通って、当時武田領であった松本へ運ばれた。そしてその塩を運んできた牛を休ませるために繋いだのが、この石であるとされるのである。しかし実際は、この石は道祖神であり、江戸時代初期に松本の城下町ができた時に別の場所から移されてきたものである。ただこの地は江戸時代以降毎年1月11日に塩の売り買いが行われる“塩市”が立つ場所であり、この“塩市”の起こりが上杉謙信の逸話であるという言い伝えがいつしか出来上がったというのが真相のようである。明治38年(1905年)に塩の専売制が始まると塩市はなくなり、代わって当時生産のさかんだった飴を売る“飴市”が始まった。そして現在でも毎月のイベントとして継承されている。 ●「敵に塩を送る」の真相 / 今川氏が塩留めを実施している間も、上杉領から塩が武田領へ移送されていたことは事実である。しかしそれは無償で送られたものではなく、商取引を伴うものであったとされ、謙信はそれまであった“糸魚川〜松本”ルートの塩の売買を禁止しなかったというだけのことである。すなわち後年「義に厚い武将」とのイメージから作り上げられた逸話でしかない。 ●板垣神社 戦国最強の武将と言われる武田信玄(晴信)であるが、若き領主時代に手痛い敗北を二度喫している。いずれも北信濃に勢力を持っていた村上義清との戦いである。特に最初の敗北となる上田原の戦いでは筆頭格の重臣である板垣信方・甘利虎泰の2名を一挙に失うなど、人的にも大きな損失があった。上田原の戦いは天文17年(1548年)に起こった。その前年に武田勢は信濃の佐久郡を支配下に治め、村上勢と境界を接するようになったため、衝突は時間の問題であった。先に行動を開始したのは晴信である。軍勢を率いて上田原へ進軍。対する村上義清も兵を出して対陣し、合戦が始まった。最初に優勢に立ったのは、武田勢であった。先陣を任された板垣信方は敵陣深くまで進撃し、敵兵の首級を約150も挙げる活躍を見せた。ところが、ここで板垣は不可解な行動を取る。敵中深くまで入り込んでいるにもかかわらず、その場で首実検を始めたのである。この軽率とも言える状況を村上勢が見逃すはずもなく、板垣の陣を急襲。虚を突かれた格好となった板垣は、馬に乗ることも出来ないまま、この場で討死するのである。板垣信方は晴信の傅役であり、その家督相続の際のクーデター(父である武田信虎の追放)において尽力し、筆頭格の宿老となったとされる。そして晴信の信濃侵略の先鋒として活躍する。諏訪攻略後には郡代として入部して政情の安定を図り、晴信の信濃侵攻の際には諏訪衆を率いて陣に駆けつけたという。板垣が討死したとされる場所に、板垣神社はある。神社と名が付くが、実際には覆屋の中に五輪塔が一基あるだけである。これが板垣の墓とされている。そして愛煙家であったという伝承が残る故か、墓の前には煙草が供えられていることが多い。 ●上田原の戦い / 天文17年(1548年)。武田・村上氏による戦い。武田氏は板垣・甘利の両宿老を失い、信玄自身も手傷を負ったとされる。信玄は戦いの後も陣を保つが、最終的に母親の説得により陣を引き払う。信玄最初の敗戦とされる。 ●竹室神社 日本武尊の東征にまつわる伝承を残す神社である。最愛の弟橘媛を亡くしながらも東征に成功した日本武尊は帰途に就き、上野国から四阿山(あずまやさん)を北に見ながら鳥居峠を越えて信濃国に入った。そしてこの地までやって来た時、村人は梢を折って仮屋を設けて歓待したという。その後、その跡地に宮を建てて“柴宮”と称した。これが現在の竹室神社の起こりであるとされる。境内には日本武尊の足跡が残されているという神足石がある。手水鉢にあたるものがその石であるとされているが、実際には本殿近くにあるとも言われている(写真では手水鉢の方を採っている)。 ●笠原新三郎首塚 武田晴信(信玄)の信濃攻略は、家督継承直後から本格化している。同盟関係にあった諏訪氏を電撃的に攻撃して制圧、さらに伊那方面にまで進出して地盤を固めている。それと同時に東信濃の佐久郡にも兵を送り込んで、徐々に領土を拡張している。佐久郡は上野国に近く、この土地の国人衆の多くは関東管領・上杉氏を頼りに武田氏に抵抗した。中でも最後まで抵抗を続けたのは、志賀城主の笠原新三郎清繁である。志賀の地が碓氷峠に近く上野の援軍を得やすいこと、また笠原氏の親族である高田氏が上杉の家臣であることも好条件であった。それに対して、晴信は天文16年(1547年)に自ら甲府を発って出陣。清繁も上杉憲政に援軍を要請し、いよいよ志賀城の攻防戦が始まった。まず武田軍は志賀城を包囲して水を絶った。一方の上杉軍は3000以上の兵力で碓氷峠を越えて信濃に入ってきた。それを迎撃したのが、武田軍の板垣信方と甘利虎泰である。両将は小田井原で上杉軍を迎え撃つと、3000の兵を討ち取って一方的に打ち負かしたのである。ここで晴信は非道な策を実行する。3000の討ち取った兵の首を自陣に持ち帰ると、それを志賀城から見えるところに並べたのである。もはや援軍が来ないことを悟った城方であるが、結局降伏することなく武田軍の総攻撃を受けた。そしてわずか2日ほどで落城、城主の笠原清繁は討死した。武田軍は、生き延びて捕らえられた城方の者に対してさらに過酷な仕打ちを行った。美貌で評判の清繁の若い妻は、戦功著しかった小山田信有に褒美として与えられた。そして他の者は甲府へ連れて行かれ、そこで親族に高額で身請けされるか、それが出来なければ人買いに売り払われた。この事実は後年、武田信玄の大悪業として伝えられることになったのである。かつて志賀城があった地の近くに、笠原新三郎清繁の首塚が残されている。それのある場所は水田の真ん中。どうしてもどけることが出来ない曰く因縁があるとしか思えない。 ●蓮華寺 絵島の墓 蓮華寺は高遠藩ゆかりの寺院である。創建は正平15年(1360年)だが、高遠藩初代の保科正光(会津藩祖・保科正之の養父)が寺領を与えて高遠城下に寺院建立。鳥居忠春が藩主の慶安4年(1651年)に現在地に移転をした。その裏山にあたる場所に一基の墓がある。それが絵島の墓である。絵島は、7代将軍家継の生母・月光院付きの御年寄として、大奥で絶大な権力を握っていた人物であった。しかし大奥を揺るがす一大事件によってその身分を剥奪され、罪人として生涯を終えることになる。その終焉の地が高遠であった。正徳4年(1714年)、前将軍・家宣の墓参の名代として寛永寺と増上寺を訪れた絵島は、その帰途の最中に木挽町の山村座に立ち寄った。ところが何故か滞在が長引き、江戸城に戻った時には既に閉門の刻限を過ぎていた。この一件で咎めを受けたのであるが、その山村座に立ち寄った目的が、役者の生島新五郎との密会であるとの疑いを掛けられてしまったのである。結局、絵島本人の自白はないまま、死罪を減じて遠島、さらに月光院の嘆願によって高遠へ配流となったのである。高遠に流された後の絵島の生活は過酷なものであった。一軒家の八畳間をあてがわれたが、常時役人が隣室で監視し、食事の差し入れ以外の接触は全て遮断された監禁生活であった。現在、絵島の居宅は設計図に従って復元されているが、厳重な監視態勢は勿論、外部の人間が入り込むことも出来ないような造りになっている。そのような中で、絵島は27年間生き長らえたのである。ただ後年、高遠藩より赦免の願いが出され、居宅の外にもわずかに出られるようになったとされ、大奥時代より信仰していた日蓮宗の寺院である蓮華寺にも足を運ぶようになったという。その縁で絵島の死後に墓が設けられたのである。 ●絵島生島事件 / 正徳4年(1714年)に起こった、大奥の醜聞事件。密会をしたとされる絵島は高遠に配流、生島新五郎は三宅島に遠島となった。また密会の舞台となった山村座は廃止され、座元も遠島。また絵島の兄である旗本の白井平右衛門は切腹ではなく斬首、絵島と生島の仲立ちをしたとされる商人らも処罰された。この事件の背景には、大奥における主導権争い(7代将軍家継の生母・月光院に対して、6代将軍家宣正室・天英院側が追い落としを図って仕掛けたとの説)、大奥の綱紀粛正を断行するための口実、等の諸説がある。いずれにせよ、二人が密会したかの確認よりも大きな目的があったと考えられている。 ●姫宮神社 上松町の市街地から西へ進み、赤沢自然休養林へ向かう一本道の途中に木製の吊り橋がある。これが姫宮神社の入口になる。この神社の祭神は以仁王の姫君とされるが、悲劇的な伝説が残されている。平家全盛時に反旗を翻した以仁王は京都での戦いに敗れると、所領であった美濃国(現在の長野県木曽郡上松町付近)に逃げ隠れてしまった。それを聞いた娘の姫君は、弟宮を連れてこの地まで父を訪ねて下ってきた。しかし途中で平家方の武将によって、落人であると正体がばれてしまい、姫君は追われる身となってしまう。島という土地にまで逃げ、麻畑に身を隠した姫君であったが、土地の者は後難を怖れて追い立ててしまう。仕方なく姫はさらに西へ歩を進め、親切な里人の助けも借りながら身を潜めて峠を越えていった。だが越すことが出来そうにない淵を前にし、さらに追っ手の馬のいななきを耳にするに至り、姫君は覚悟を決めた。追われ続けたこの土地で、ほんの束の間だけ心を休めた時に、里の娘たちが唄っていた田植歌を思い出すと、見よう見まねで朗々と唄いだした。そして唄い終わるやいなや、目の前の淵に身を躍らせたのであった。それから間もなく、この淵のそばにある木々の間からやんごとなき若い女性が姿を見せるという噂が立った。おそらく亡くなった姫君であろうと、里人は慰霊のための祠を建てたという。それが姫宮神社の起こりであるとされる(あるいは姫を死に至らしめた追っ手の中に者が祟りを怖れて創建したとも)。また姫君に冷たい仕打ちをした島では麻を栽培しても育たなくなってしまったとも伝えられる。姫宮神社へ行くために設けられた吊り橋が架かるところ、そこが姫君が身を投げた場所とされ、姫渕と称されている。 ●信玄塚 国道153号線を走ると、その途中で“信玄塚”と書かれた巨大な看板が立ち、道路の壁面にも武田家の旗印である風林火山のデザインが施されている場所がある。この地が武田信玄終焉の地の1つとされる。元亀4年(1573年)、信玄は約3万の大軍を率いて破竹の勢いで西へ攻め上っている最中であったが、野田城攻略後その動きを止める。そして春になるとそのまま本国へ引き揚げてしまう。この不可解な行動の裏には、重篤だった信玄の死が秘されていた。しかし信玄の遺言により、彼の死は隠されたため、その正確な終焉の地も公にされることがなかった。そのため“信玄の墓”とされるものが、三河北部から信濃南部にかけて何カ所か存在する。『甲陽軍鑑』によると、“ねばねの上村”で信玄は亡くなったとされ、この地は有力な終焉地となっている。この地に残る伝承によると、信玄の死に際して哀悼の意を込めて風林火山の旗を横にしたので、この地は“横旗”と呼ばれ現地名になったという。また、信玄没後の百回忌供養のため寛文年間(1661〜1673年)に武田家の縁者が宝篋印塔を建てたとされている。この宝篋印塔であるが、調査の結果、室町時代後期の特徴を備えたものであることが判明している。ただし、供養の対象となったのは、領主クラスの身分の高い者であっただろうともされている。 ●信玄終焉の地 / 有力な場所としては、阿智村の駒場(信玄を火葬したとされる長岳寺がある)、設楽町の福田寺がある。 ●『甲陽軍鑑』 / 武田信玄・勝頼の事績を通して、甲州流の軍法や兵法を著したもの。信玄の家臣であった高坂弾正が書いたとされるが、江戸時代初期に旧武田家臣の子であった小幡景憲がまとめ上げたと考えられている。 ●鍵引石 雨境峠は、大和朝廷が造った古代の官道が通過した地点である。この標高1580mの峠の周辺には、5〜6世紀に成立したと考えられる祭祀遺跡群がある。その中の1つが鍵引石である。雨境峠から南に下った女神湖畔にあるこの石の名は、祭祀遺跡とは関係のない、河童にまつわる伝説に由来する。今の女神湖のあるあたりは“赤沼”と呼ばれる湿地帯であった。その赤沼に住んでいたのが河童の河太郎。河太郎は子供に化けると大きな石に座り、道行く人を“鍵引き”に誘うのである。“鍵引き”とは指と指を絡めて引っ張り合う指相撲のことである。河太郎は鍵引きを始めると、恐ろしい力で相手を沼に引きずり込んでしまうのであった。 ある時、その噂を聞いた諏訪頼遠という剛力無双の侍が立ち寄ったところ、またしても河太郎が子供に化けて石の上から鍵引きに誘った。頼遠はそれを受けて、指を絡めるやいきなり馬を駆けだして、あっという間に河太郎を引きずり回したのである。しばらくして見ると、頭のお皿の水がこぼれた河太郎は瀕死の状態。そこで頼遠が「沼から出て行くか、それとも殺されるか」と尋ねると、河太郎は「今夜半には立ち去ります」と答えたので、そこで赦されたのであった。翌日になると、赤沼は干上がっており、代わりに隣村に大きな池が出来ていた。人々はこの新しい池を“夜の間の池(一夜池)”と呼び、河太郎はここに移ったのだろうと言い合った。しかし河太郎が鍵引きのために座っていた石だけは残り、鍵引石と呼ばれるようになったという。 ●筑摩神社 飯塚 (つかまじんじゃ いいづか) 現在は筑摩神社と呼ばれているが、かつては「八幡宮」と称しており、筑摩と安曇地方の総社とされていた。創建は延暦13年(794年)。坂上田村麻呂によって石清水八幡宮を勧請したのが始まりとされる。伝説によると、坂上田村麻呂は、この地を荒らし回っていた八面大王を退治するために石清水八幡宮に参籠し、この地に八幡宮を祀れば大願成就するとの神託を受けて建てたという。そして見事に八面大王を退治した田村麻呂は、再び蘇らないように遺骸を切り刻んで各地に埋めたのであるが、その首は筑摩神社の境内に埋められたのであった。現在では、八面大王の首塚は“飯塚”という名で呼ばれている。また一説では、泉小太郎(または小次郎)が湖の水を流して松本平を平地とした後、鬼賊を倒してその首を埋めたともされる。いずれにせよ、この飯塚は鬼の首を埋めて祀った場所とされている。 ●八面大王 / 魏石鬼(ぎしき)とも言われる。鬼として民話化されているが、この伝説の元となった史実として、『仁科濫觴記』にある盗賊団“八面鬼士大王”の存在がある。 ●石清水八幡宮 / 貞観元年(859年)に、宇佐神宮より山城の男山に勧請され創建。平安京の裏鬼門に位置しており、王城守護・国家鎮護の役目を果たしているとされる。石清水八幡宮の創建が坂上田村麻呂の死後であるため、筑摩神社創建の由来は時代的に矛盾している。 ●泉小太郎 / 安曇野開拓にまつわる伝説的人物。白龍王と犀龍との間に生まれた小太郎は、母の犀龍と再会すると、湖の水を抜いて広大な土地を生み出すことを願う。そして母の背中に乗り、山清路の岩盤を打ち抜いて水を流した(現在の犀川)とされる。 ●葛井神社 諏訪大社上社の摂社の1つであり、諏訪大社の大祝の即位の際に御社参りをする13の神社の1つに数えられる。祭神は槻井泉神(つきいずみのかみ)。この神社の信仰の対象は本殿に隣接する池である。この池は諏訪七不思議の1つ“葛井の清池”に数えられ、色々な伝承が残されている。最も有名なものは、上社の年中行事の最後となる「葛井の御手幣(みてぐら)送り」の神事である。大晦日に、上社で使われた幣帛や榊、柳の枝や柏の葉を取り下げて、葛井神社に運ぶ。そして寅の刻に前宮御室の御燈を合図に、それらを池に投げ入れるのである。すると翌元日の卯の刻に遠江国の佐奈岐(さなぎ)池に浮き上がってくるという。またこの底なしの池には片目の魚がおり、それが池の主であり、捕ると祟りで死ぬとも言われている。町中にある何の変哲もない池であるが、非常に神秘的な伝承を持つ場所である。 ●諏訪大社 / 本宮と前宮からなる上社、春宮と秋宮からなる下社の計4つの神社。信濃一之宮として崇敬を集める。祭神は、出雲国譲りの際に諏訪へ来た建御名方神と、その妃の八坂刀売神である。また土着信仰の対象であった蛇神のミシャグジ神とも一体視されている。 ●諏訪七不思議 / 諏訪大社の上社と下社の神事などにまつわる七不思議(上社と下社にも独自に七不思議があり、それらを総合した形で諏訪七不思議が形成されている)。湖水御神渡・蛙狩神事・五穀の筒粥・高野の耳裂鹿・葛井の清池・御作田の早稲・宝殿の天滴。 ●佐奈岐の池 / 具体的にどこの池を指すかは不詳。しかし比定地として最も有力なのは、静岡県御前崎市佐倉にある、遠州七不思議の1つ、桜ヶ池である。この池にも龍神に供えるために赤飯を詰めたお櫃を池に沈める「お櫃納め」がおこなわれており、そのお櫃が諏訪湖に浮かび上がったとの伝承が残されている。 ●大塚神社 耳塚 一面水田地帯の真ん中にそそり立つ巨木が目印となっている。近くまで来ると、この小さな神社そのものが少し盛り上がった土地に鎮座しているために、ここが塚であることが分かる。この耳塚に埋められているのは、八面大王の耳であると言われている。八面大王はこの安曇野地方の伝説では鬼とされ、悪逆の限りを尽くした後に坂上田村麻呂によって攻め滅ぼされたとされている。しかし蘇ることを恐れた田村麻呂は、八面大王の遺骸を切り刻んで、各地に埋めたのである。耳塚はその耳を埋めた場所であるとされているのである。現在では“耳の神様”として有名となり、祈願をする地元の人も少なくないという。 ●八面大王 / 魏石鬼(ぎしき)とも言われる。鬼として民話化されているが、この伝説の元となった史実として、『仁科濫觴記』にある盗賊団“八面鬼士大王”の存在がある。この書物によると、耳塚は、降伏した盗賊団を処罰した際に手下を含めて全員の耳をそぎ落としたものを埋めた場所であるとされている。 ●魏石鬼岩窟 (ぎしきのいわや) 『信府統記』によると、平安時代初期、安曇野地方に魏石鬼という賊がいた。別名を八面大王という。各地を荒らし回ったため、大同元年(806年)に蝦夷征討に赴く途上にあった坂上田村麻呂によって成敗されたと伝えられる。この魏石鬼が田村麻呂に抵抗するために立て籠もったとされるのが、魏石鬼岩窟である。有明山神社に隣接する正福寺から細い山道を伝って歩くこと10分足らず、岩窟はある。岩窟の上にはお堂が建てられ、さらに岩窟の表面には磨崖仏が彫られている。かつては修験道などの修行場としても用いられた様子がうかがわれる。この岩窟は花崗岩の巨石を組み上げられて作られた古墳、日本では珍しいドルメン式古墳であるとする鳥居龍蔵の説が一般的である。この地域の名ともなっている安曇族が九州方面から移動してきた海洋民族とされるため、ドルメン式古墳が多く見られる朝鮮半島との関係も指摘される。山の中にひっそりと佇むようにある岩窟は、その特異な姿である故に、何かしら畏怖の念を感じさせるものがあると言えるだろう。 ●『信府統記』 / 松本藩の命によって享保9年(1724年)完成の、信濃国の地誌。魏石鬼の伝説は、おおよそこの書籍に依っている。ただしこの伝説の元となった史実として、『仁科濫觴記』にある盗賊団“八面鬼士大王”の存在がある。 ●ドルメン / 支石墓。柱となる巨石を数個並べてその上に平らな巨石を乗せる、テーブルのような形の墓。西ヨーロッパのものが有名であるが、東アジアでも独自に発達し、中国東北部で発生し、朝鮮半島に広く見られる。日本では、朝鮮半島の影響を受けたと推測されるものが九州北部にいくつかあるが、その規模はかなり小さい。弥生時代前期にはほぼ作られなくなったと考えられる。 ●光前寺 早太郎の墓 光前寺は天台宗の古刹である。庭園は国の名勝に指定され、境内にはヒカリゴケが自生するという、非常に環境の良い落ち着きのある場所である。この寺院には、霊犬・早太郎にまつわる伝説が残されている。ある時、山犬が光前寺の縁の下で子犬を生んだ。住職が手厚く世話をしてやると、母犬は子犬の1匹を寺に残していった。残された子犬は大変賢く、動きが俊敏であったため、早太郎と名付けられた。数年後、光前寺に一実坊という旅の僧が訪れた。僧が言うには、遠州府中の見附天神では、毎年祭りの時に白羽の矢が立てられた家の娘を人身御供として神に差し出す風習がある。生贄を要求する神がいるのかと思い様子をうかがうと、化け物たちが現れて「今宵今晩おるまいな 信州信濃の早太郎 このことばかりは知らせるな 早太郎には知らせるな」と歌いながら娘を引っさらっていった。そこで信濃に早太郎という者を探しに来たのであるが、それが光前寺の飼い犬と知って、借り受けに来たのであると。話を聞いた住職は早速早太郎に言い聞かせ、一実坊と共に見附天神に向かった。そして祭りの生贄となる娘の代わりに早太郎が箱に入って、夜を待った。すると化け物たちが現れ、歌い踊りながら箱を開けた。一散に飛び出す早太郎、不意を突かれて慌てふためく化け物。しばらく凄まじい戦いの物音がしていたが、やがてその音も小さくなっていった。夜が明けて村人がおそるおそる見に行くと、巨大な狒狒が3匹噛み殺されていたのであった。その頃早太郎は、生まれ故郷の光前寺へ向かっていた。しかし狒狒との戦いの傷は深く、寺に戻り住職の顔を見ると、一声鳴いてそのまま息絶えてしまった。哀れに思った住職は、境内に一基の墓を建て、霊犬・早太郎を祀った。延慶元年(1308年)のことと寺では伝えられている。またその後、一実坊も早太郎供養のために大般若経を奉納している(現存)。早太郎の伝説は光前寺だけではなく、狒狒退治があった見附天神にも伝えられており、この縁で駒ヶ根市と静岡県磐田市は姉妹都市を提携している。かなり距離のある土地同士で全く共通の伝説が残る、珍しい実例である。 ●「早太郎」の名称 / 光前寺の伝説では「早太郎」とされているが、もう一方の伝承地である見附天神では「しっぺい(悉平)太郎」と呼ばれている。また「疾風太郎」と呼び慣わす地域もある。 ●見附天神 / 静岡県磐田市にある。矢奈比賣神社が正式名称。隣接地には早太郎を祀る霊犬神社がある。一実坊はこの神社の社僧であり、実際に早太郎を探しに信濃へ行ったのは旅の六部であるとの伝説もある。また見附天神での伝説では、大怪我を負った早太郎を村人が介抱し、それから光前寺に送り返したとされている。 ●鳴石 (なるいし) 大和朝廷が東国支配を果たしたとされるのが、5世紀頃。その東国との主要道として設けられたのが、東山道である。この道の途中に雨境(あまざかい)峠がある。この周辺は現在でも多くの祭祀遺跡が存在しており、その最も象徴的なものが、鳴石である。この巨石は鏡餅が重なっているかのような奇麗な形をしている。しかし調査によると、これは一つの石が割れたのではなく、本当に人工的に重ねられたものであるという。しかも2つの石とも別の場所から意図的に運ばれてきたものであると判明している。それ故にこの岩の上で何らかの祭祀が執り行われたものであると考えてもよいと言われている。鳴石の名の由来であるが、風が強く吹く時にこの石が音を立て、必ず天気が悪くなるという言い伝えによるという。さらに、天変地異にまつわる恐ろしい伝承も残されている。ある時、石工がこの石を割ろうと玄翁で数回叩いたところ、突然山鳴りが起こり、空から火の雨が降り注ぎ、石工は悶死したという。祭祀の施設であると同時に、この石そのものが神聖視された磐座であるということが分かる伝承であると言えるだろう。ちなみに、雨境峠の祭祀遺跡は、蓼科山の神に対するものであると考えられている。その蓼科山には“ビジンサマ”という名の山の神が住んでおり、その形態は丸くて黒い雲に覆われ、赤や青の布きれのようなものが下に付いているという。何か鳴石の姿や伝承を彷彿とさせるような形である。 ●東山道 / 近江・美濃から信濃を経て碓氷峠から上野・下野へと向かうされた道。この道の途中、諏訪から佐久へ抜けるところに雨境峠がある。 |
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●仏のどじょう 1 関市
入江のように山の中へ入り込んだ田んぼには、“○○洞”と田んぼを作った人の名前がつけられていた。“じんねさ洞”の向かいに底なし沼があった。ある日、お百姓さんが沼の傍で休もうとして、過って石につまづき沼に落ちてしまった。お百姓さんは、助けてエ〜と叫んだが、とうとう笠だけが蓋のように残って沼に沈んでしまった。村人は“笠ぶた”と呼んで恐れていたけれど、“昨日は吾作どんが落ちた”、“今日は権六どんが…”と沼に落ちる人が絶えなかった。村人たちが相談し、近くにあった大岩で沼をふさぐことにして、綱を掛けて皆で引張った。しかし、もうちょっとの所まできて、大岩はまったく動かなくなってしまった。これを見ていたお寺の和尚さんが“どうした事かの〜”と岩の上を覗いた。すると岩のてっぺんの窪みに、どじょうが数匹泳いでいた。和尚さんは“村の衆や、これは仏様のお使いじゃ、仏様も手伝ってくれている、もう少しじゃ”と励ました。村人たちは再び力を合わせ、やっと大岩で沼をふさぐことができた。村人たちは、そのどじょうを“仏様のお使いじゃから、大切にしなくちゃ〜”といって、近くのきれいな谷川に放してやった… ●仏どじょう 2 下有知 (しもうち) の中組部落の東、竜泰寺の裏山の北には、入江のように山の中に入りこんだ田んぼが沢山あります。この田んぼには、 『 いちべい洞 』 とか 『 さいべえ洞 』 とか人の名前がついています。これは、この荒地を一生懸命たがやして、田んぼにした人達の名前をとってつけられたものです。『 じんねさ洞 』 の向いに 『 笠ぶた 』 と呼ばれる所があります。 ここはむかし、底なし沼になっていました。ある日、近くで仕事をしていたお百姓さんが、「 やれやれ、疲れた、少し休もうか 」 と、沼のそばまでやってきて、涼しい木陰で休もうとしたとき、あやまって石につまずき沼に落ちてしまいました。 その沼はどろ沼だったので、出ようとしてもズブズブ、ズブズブと、沼の中にしずんでいきます。お百姓さんは、 「 助けてくれ、助けてくれ 」 と、叫ぶのですが、体はどんどん、どんどん沈ずんで、とうとうかぶっていた笠だけが、ふたのように残っただけでした。 その事があってから、村の人達は、ここを 『 笠ぶた 』 と呼んで恐れるようになりました。けれども、田んぼはこの沼の近くにあり、毎日通らなければなりません。「 このあいだは、吾作どんが、落ちたそうな 」「 きのうは、権六どんが落ちたそうな 」 と、犠牲者はどんどん増えていきます。そこで、村の人達は、 「 どうしたらいいんだろう 」 と、頭を悩ませました。「 さくを作ったら、どうだろう 」「 うめてしまう事はできないかなぁ 」 などと、いろいろな相談をしました。そして、近くにあった大岩で 『 笠ぶた 』 の穴をふさぐことに決まりました。 村の人達は、総出で大岩にひもをかけ、「 そうれ、いくぞ 」 「よいしょ、こらしょ 」 と、声をあわせて引っ張ります。沼まであと少しという所まで運んで来ました。けれども、そこからは押しても引いても動きません。「 よいしょ、こらしょ 」 「よいしょ、こらしょ 」 村の人達も必死です。けれども、岩はびくとも動きません。とうとう力つきて、村人達はすわりこんでしまいました。 これを近くで見ていた 『 堪念 (たんねん) 』 という和尚さんが、「 どれどれ、どうした事かの 」 と大岩を見にきました。その大岩のてっぺんをのぞいてみると、くぼみの水たまりにどじょうが数匹泳いでいるのを見つけました。和尚さんは、 「 これこれ、村の衆や。どじょうは仏さまのお使いにちがいない。仏さまも手伝って下さるのだから、きっとこの岩は動く、みなの衆も、もう少しだからがんばってくれや 」 と、励まされました。村の人達も、「 そうか、どじょうがいるか 」「 仏さまも手伝って下さるで、きっと動くぞ 」 と、再び元気をとりもどして、「 そうれ、よいしょ、こらしょ 」 と、今まで以上の力を出しました。とうとうこの大岩を、 『 笠ぶた 』 まで運んでふさぐことができました。 それからは、村の人達は、安心して田んぼで仕事をすることができるようになりました。そして、大岩のてっぺんにいたどじょうを、「 仏さまのお使いだから、大切にせにゃならんのう 」 と、話しあって、このどじょうを、大洞谷のきれいな水に放してやりました。 |
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●岐阜の伝承
●日輪神社 国道158号線を高山市街から上高地方面へ向かう途中、道路に面して一の鳥居が立っている。神社は鳥居の真正面に位置する、美しい円錐形の山の中腹にある。創建などの記録は残っていないが、天照皇大御神(天照大神)を祭神とし、少なくとも中世には「日輪宮」の名で通っていたと考えられる。日輪神社はその社殿がある山そのものを御神体としているが、この山がその美しい形から「人工ピラミッドではないか」という説がある。主張したのは、上原清二。上原は陸軍大佐で神宮奉斎会高山支部長という地位にあり、昭和9年(1934年)に当地で講演をおこなった酒井勝軍より「飛騨は神代の中心である」話や「上野平の平面ピラミッドの鑑定」の話を聞くに及んで感化され、人工ピラミッドの可能性のある飛騨一帯の山を踏査し、その結果、日輪神社で人工ピラミッドの物証となる太陽石を発見するに至ったのである。さらに上原の考究は続き、日輪神社は飛騨において最初に造られた人工ピラミッド(太陽神殿)であり、そこから16等分された方角にそれぞれ人工ピラミッドが造営されたという説を打ち立てたのである。この途方もない説の背景にあるのが『竹内文書』であり、地球に神々が降臨して最初に神宮を建てた場所が“日球国”の位山と明記されており、“日球=飛騨”が世界最初の文明発祥の地とされている。さらにそこに降臨した天皇は、世界を16の方位に分けて統治したのである(これが天皇家の紋章・十六葉菊のモチーフとする)。上原はこれらの説を援用・補完する形で自説をまとめていったと考えられる。これらの経緯をふまえて、日輪神社は現在でも指折りのパワースポットとして全国的に知られている。しかしながら人工ピラミッドにとって最も重要な役割を果たすはずの「太陽石」が既に山頂近くの位置にはなく、しかもそれを割ろうとした鏨の跡が付いており、何らかの意図的な破壊を実行しようとした痕跡がある。 ●上原清二 / 生没年未確認。高山市在の人物であり、上にもある通り“日本ピラミッド”の発見者である酒井勝軍に感化され、飛騨地方にあるピラミッドの発見・調査を精力的におこなっている。昭和16年(1941年)に『日霊国:飛騨神代遺跡』を上梓し、「飛騨神代遺跡研究会」の発起人となっている。戦後は公職追放されているが、神代遺跡に関する著述があるとのこと。 ●日本ピラミッド / 酒井勝軍が提唱・発見した、超古代史上の遺跡とされるもの。エジプトのピラミッドと異なり、日本の場合は元からある山に手を加えて人工的な円錐形に整えるという工法が採られる。また山中には遙拝のための“鏡石”“方位石”などがあり、そして山頂に丸い形をした“太陽石”が置かれているといった条件を元にして選定されている。 ●文明発祥の地としての飛騨 / 『竹内文書』では、約360億年前に天神7代の天御光太陽貴王日大御神大光日天神が地球に降臨し、位山に皇子のための宮を建てたとされ(この皇子が即位して上古25代が始まり、地上での統治が本格化する)、ここに“日球(飛騨)国”が成立する。一方で、飛騨出身の超心理学者・山本健造が、教員として赴任した地で病気を治すなどの超能力を発揮していた折、“語部翁”より日本人の起源に関する口碑を託されたとされる。これによると、海の中から浮かび出た淡山(乗鞍岳)の池から生命がおこり、人間も誕生した。最初人間は乗鞍岳の頂上付近に棲んでいたが、気候変動で下山した。人間は生命発生の池に映る太陽や月を見て精神統一する習慣を得ており、これを“日抱の御魂鎮”と称し、そこから“日抱=飛騨”という名が始まったとする。いずれの説も位山を最重要視しており、日輪神社に関してはあまり言及されていないようである。 ●福源寺 大阪城代・青山宗俊の家臣であった石井宇右衛門は、面倒を見ていた赤堀源五右衛門に逆恨みされ殺害される。ただちに18になる長男の三之丞と次男の彦七が免状を受け取って、仇討ちの旅に出た。延宝元年(1673年)11月のことである。その年の内に、兄弟は赤堀の養父を大津で討ち取ったが、それ以降は杳として行方も知れず、手掛かりも掴めない状況となった。数年が空しく過ぎ、やむなく兄弟は別れて仇の探索を続けることとし、三之丞は叔父に当たる犬飼瀬兵衛が住む養老の室原に逗留し、方々の心当たりを探した。さらには相手を挑発しようと、仇の名を挙げて、自分の逗留する叔父宅まで喧伝したのである。この三之丞の噂はやがて赤堀本人の知るところとなった。腕に覚えのある赤堀はならばと、養老の住まいへと足を運んだ。三之丞にとって最大の不運は、仇の赤堀源五右衛門が訪れたちょうどその時に、庭で行水をしていたことであった。赤堀は三之丞であると見ると、庭に乱入し有無を言わさずその首に深々と斬りつけたのである。不意を突かれた三之丞は何の抵抗すら出来ないまま、返り討ちに遭ってしまったのである。仇討ちの旅に出て8年が過ぎた天和元年(1681年)1月のことであった。あまりにも呆気なく返り討ちに遭った三之丞は、叔父宅のある室原の福源寺に葬られた。だがここから奇怪な話が始まる。福源寺の墓地のはずれに柿の木があった。そのうちの1本の幹から“髪の毛”が生えてきたのである。これを見た多くの人々は、為すすべもなく無惨な死を遂げた石井三之丞の亡魂が、再び生まれ変わって仇を討ちたいとの一念で柿の木に髪の毛を生えさせたに違いないと言うようになったのである。この噂は評判となり、後に大垣藩の殿様も見物にきたという。“髪の毛の生える柿の木”は今でも現存している。戦後も髪の毛が生えていたとされるが、近頃は環境が変わったせいなのか、そのような怪異は見られないとも言われている(残念ながら探訪した際にも確認出来なかった)。ただ伝承だけは残され、石井三之丞の墓碑と柿の木には、字はかすれていたが案内板が建てられていた。 ●仇討ちのその後 / 長男の三之丞が返り討ちに遭うのと前後して、別れて仇を探していた次男の彦七は四国に赴く途中で船が遭難して溺死している。二人の死後、まだ幼かった三男の源蔵と四男の半蔵が成長して仇討ちを引き継ぐ。そして仇の赤堀源五右衛門が後日亀山藩に仕えていることを知ると、藩総出の警戒網をかいくぐって、ついに亀山城下で仇討ちに成功する。時に元禄14年(1701年)5月、父の死から数えて29年目のことであった。この仇討ちは評判となり、“元禄曾我”と呼ばれた。後に四世鶴屋南北はこの仇討ちを下敷きにして「霊験亀山鉾」を書いている。 ●髪の毛の正体 / 奇怪な髪の毛とされてきたが、実際にはウマノケタケ(ヤマウバノカミノケ)という名のキノコ類の菌糸束であることが判明している。 ●おまむ桜の碑 長滝白山神社を南に下った、国道沿いにある大きな碑である。周囲には他の石碑や地蔵が置かれてあるが、肝心の桜の木はなく、既に枯死したものと思われる。元禄の頃(1688〜1704年)、小源次という魚売りの若者が長滝に商いに来ていた。1月6日、ちょうど長滝白山神社の花奪い祭の折、小源次は境内で一人の娘を見初める。娘の名はおまむ。長滝にある寺坊の一人娘であった。いつしか二人は惹かれ合う間柄となった。だが、魚の行商人と寺の娘とでは、言葉を交わす機会を作るのも難しい。何とか年明けの花奪い祭の夜、神社近くの桜の木の下で出逢う約束だけをした。そして小源太はその夜、桜の木の下でおまむを待ち続けた。一方のおまむは、夜半に家を抜け出ようとしたところで親に見つかり、外出を禁じられて部屋に閉じ込められた。そして恋しい人に出会えぬまま一夜を過ごしたのである。翌朝、桜の木の下で小源次が凍死しているのが見つかった。その話は当然、寺にも伝わった。その日のうちにおまむの姿は寺から消えた。家人が消息を知るのは、小源次が亡くなった桜の木の下で自害して果てたという知らせがあった時であった。年月が経ち、二人の悲恋は“おまむ桜”の伝承として伝えられ、さらには白鳥の町に続く夏の風物詩である“白鳥踊り”の曲目「シッチョイ」の歌詞として語り継がれている。 ●長滝白山神社 / 白山信仰の美濃国側の中核をなし、全国の白山神社の中でも主要な地位を占める神社。花奪い祭は、現在でも1月6日に行われており。神事の舞の途中で、拝殿天井に吊された各種の花輪を奪い合う。国の重要無形民俗文化財に指定されている。 ●はだか武兵の祠 昔、中津川の宿に武兵という男が住んでいた。鵜沼宿の出であったが、いつの間にか茶屋坂という場所に居着いて雲助を生業としていたが、大力の大酒飲みで、真冬の時ですら褌一丁のままで暮らしていた。そのため仲間内では“はだか武兵”と呼ばれていた。ある時、武兵は仕事で木曽の須原宿まで客を送ったが、日も暮れてしまったので、宿場にある神社で一晩明かすことにした。拝殿に入ると既に一人の老人がいたが、二人はすぐに意気投合。やがて老人は、自分が疫病神であることを明かした上で、兄弟分になろうと提案した。疫病神が取り憑いている所に武兵が来たら退散する、という約束である。面白がった武兵はすぐに兄弟分となる約束をしたのであった。しばらくして仲間の雲助が熱病にかかった。武兵が見舞いに行くと、たちどころに治った。そんなことが数回繰り返されるようになって、町では「はだか武兵は熱病を治す」という評判が立つようになったのである。数年後のある冬のこと。中山道の大湫(大久手)宿から大層な使いの者が、武兵を訪ねてきた。参勤交代で本陣に泊まった長州の殿様の姫が熱病にかかって、もはや医者も匙を投げてしまっている。かくなる上はということで、街道筋でも噂の高い武兵に来てもらおうとなったのである。本陣に現れた武兵の姿を見て、家老はたまげてしまった。雲助と聞いて多少は覚悟はしていたが、目の前に現れたのが褌一丁の大男。床に伏せっている姫君一人の部屋に入らせて良いものか、家老は逡巡せざるを得なかった。しかし武兵はお構いなしに、そのままの格好でずかずかと部屋に入り込む。するとたちまち姫は意識を取り戻して、熱病は嘘のように治ってしまったのである。そして驚喜する家老を尻目に、武兵は褒美も受け取らずに帰って行ったのである。この痛快な“はだか武兵”を祀った祠が、旭が丘公園の中にある。その祠の前にある舟形の石を年の数だけ叩いて祈ると病気にかからないとされ、この石は叩くと高い音を出すので“ちんちん石”と呼ばれている。今でも病気平癒のご利益に預かろうと参拝する人がいるという。 ●根古石(猫石) 高山市内屈指の観光スポットに高山陣屋がある。現存する唯一の代官所建造物である。元をただせば、この陣屋は高山藩主金森氏の下屋敷として建築されたものであり、元禄5年(1692年)に6代藩主の金森頼時が出羽に移封されてから明治維新になるまで、幕府の直轄地であった飛騨国の代官・郡代所として使用されていたものである。この陣屋の敷地外、ちょうど陣屋入り口の反対側の塀にへばりつくようにしてあるのが根古石である。古文書などによると、この根古石のある土地もかつては代官所の敷地内にあたり、近隣から納められた米を置く蔵を守護する稲荷神社が建てられていたという。この神社は祭の際には一般にも開放されていたらしく、初午の時には多くに人で賑わったという記録も残されている。その後、大正3年(1914年)に社殿は全て移転となり、いつしか住宅が建ち並ぶようになっていた。だが、この移転の際に何故か一つだけこの土地に放置されたままとなったのが、この根古石である。かつて、この石に触れると祟りがあるというまことしやかな噂が流れたために放置されたのではないかと推測される。現在の陣屋の元となった金森家の下屋敷を造ったのは、3代藩主の重頼の頃という。自分の家族を住まわせるために建造したとされる。この金森家の下屋敷であった時代に、根古石の伝説にまつわる事件が起きた。ある時、藩主の姫が屋敷の庭にいると、飼っていた猫が突然着物の裾を咥えて放そうとしない。難儀していると、そこへちょうど藩主が通りがかった。事情を察すると、畜生のくせに娘に執心するとは許しがたいと、いきなり刀を抜くと猫の首を斬り捨てたのである。そのはずみで猫の首は空高く宙を舞うと、庭の松の木に一直線に飛んでいき、その木の枝にいた大蛇の喉元に咬みついたのである。たまらず大蛇は木から落ち、そしてそのまま動かなくなってしまった。この様子を見て、藩主は、大蛇が姫の命を狙っていたのを猫が気付いて救おうとしたことを悟ったのである。そこで憐れな猫を葬り、その目印としたのが根古石とされる(あるいは猫の死骸がこの石の上に乗ったともいわれる)。猫の報恩譚としては典型的な話であり、信憑性には欠けるきらいはあるが、今でもなお根古石は近隣の人々から大切に扱われている。 ●道三塚 住宅地の一角を占める形の道三塚は、その名の通り、戦国時代に美濃を治めた斎藤道三を祀る塚である。元は、織田信長父子の墓のある崇福寺の近くにあったのだが、長良川の氾濫でたびたび流されるために、天保8年(1837年)に斎藤家の菩提寺の住職がこの地に移転させたものである。その後周辺は住宅地の密集する土地となったが、塚は移転されることなく、崇敬の対象となっている。一介の商人から身を興して美濃一国の太守となった道三であるが(最近の研究では親子二代の覇業とされる)、その最期はあっけないものであった。天文23年(1554年)、道三は家督を嫡男の義龍に譲って隠居する。その直後から二人の仲は険悪となり、義絶するに至る。その理由は、義龍は実は実子ではないために道三が廃嫡を考えていたとも、長年にわたる国盗りの強引な手法によって家臣団が強制的に道三を引退させたためとも言われる。いずれにせよ、翌年には義龍は、道三が可愛がっていた弟2人を殺害して、明確に反旗を翻したのである。そして弘治2年(1556年)、道三と義龍は長良川を挟んで対峙する。その兵の数は、義龍1万7千に対して、道三は3千足らず。多勢に無勢の中で、道三は討ち取られる。かつての太守は、脛を薙ぎ払われた後に首を切り落とされたとされる。その際、複数の者が同時に襲いかかったために一番槍争いが起こり、証拠として鼻をそぎ落とされたともいう。享年63。 ●血洗池跡 血洗神社 『古事記』によると、三貴神(天照大神・月読尊・素戔嗚尊)は黄泉の国から戻ってきた伊弉諾尊が禊ぎをして誕生したことになっている。ところが『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊による“神産み”の中で誕生した、即ち伊弉冉尊が生んだという設定になっているのである。恵那山には、この『日本書紀』の内容に基づいて、次のような伝承が残っている。恵那の地名は、伊弉冉尊が御子を生んだ際に出た胞衣(胎児を包んでいた膜や胎盤)を埋めた山という意味で付けられたとされるのである。そして恵那山の麓に位置する血洗池で、伊弉冉尊は産穢を洗い清めたとされるのである。さらに、伊弉冉尊は出産に後に岩に腰を掛けて一息ついたので、このあたりを“安気の里”と呼び、それが現在の阿木の地名となっているという。血洗池はそこそこ大きな池であったが、土砂の流入によって縮小され、昭和時代には完全に埋まってしまったとされる。昭和の終わりに頃に国道363号線が整備された時に、この池の跡も整備され、近くにあった伊弉冉尊が腰掛けたとされる岩も移し替えられている。血洗池のそばには血洗神社と呼ばれる神社があったが、現在は少し離れた場所に移設されている。祭神は天照大神であり、安産のご利益があるとされている。 ●護国之寺 (ごこくしじ) 護国之寺は天平18年(746年)に聖武天皇の勅命によって建立された古刹である。県や市の重要文化財を多く所有しているが、中でも“金銅獅子唐草文鉢”は奈良時代の作とされる、国宝指定の名器である。この鉢にまつわる伝承は、この古刹建立にも大いに関係する。聖武天皇が奈良の都に総国分寺として東大寺を建立を欲し、大仏造立の詔を出したのが天平15年(743年)のことである。そこで全国に使者を遣わして、然るべき仏師を求めることとなった。美濃国へ派遣された使者は、ある夜、夢の中で「明日東へ行って、一番最初に出会った者が、おまえが探し求める仏師である」というお告げを聞く。翌朝、使者が最初に見かけたのは一人の童子であった。日野金丸(ひのきんまろ)と名乗った童子は、使者の求めに応じて土をこねて見事な仏像を造って見せた。そこで使者は金丸を伴って奈良へ戻り、大仏建立の任に当たらせたのであった。天平勝宝4年(752年)ついに大仏は完成し、落慶法要が執りおこなわれた。その時、紫雲が現れ、美しい音楽が流れてくると、空から一つの鉢が舞い降りてきた。そして「これは釈尊が使われていた鉢である。大仏造立を称えてこれを授けよう」という声がした。そこで聖武天皇はこの鉢を、大仏建立に功績のあった金丸に与えたのであった。その後、故郷に戻った金丸は雄総に寺を建てて、この鉢を納めた。そしてその死後に千手観音菩薩像に変化して、この寺の本尊となったという。 ●東大寺大仏 盧舎那仏(華厳宗における“宇宙の中心に位置する仏”。真言宗で言うところの大日如来である)。天平17年(745年)より造られ、天平勝宝4年(752年)に開眼供養(仏に魂を入れる儀式)が執りおこなわれた。高さ約15m、重さ250t。後に2度の戦火によって焼失するが、その都度再建される。現在の大仏は、元禄4年(1692年)に完成したものである。 ●御首神社 祭神は平将門の御神霊。関東を根城にして歴史に名を残した平将門が東海地方に祀られているのには、次のような伝承がある。討ち取られた将門の首は京都に運ばれてきて晒し首となったのだが、何ヶ月経っても一向に朽ち果てることもなく、それどころか切り離された胴体を求め、さらに一戦を交えようという勢いで罵り続けていた。そしてある時、首は胴体を求めて東に向かうべく、宙高く舞い上がって京都を去って行ったのである。美濃国の南宮大社では、将門の首が関東に戻ればまた大乱が起こると怖れて祈願をおこなった。すると大社に座する隼人神が弓を構え、東へ向かって飛んで行く将門の首を矢で射落としたのである。首は荒尾の地に落ち、そして再び関東へ行かないようにこの地に祀ることで将門の御霊を慰めた。これが御首神社の始まりと伝えられている。首を祀る神社ということで、首から上の諸祈願に霊験あらたかと言われ、近年では合格祈願の神として知られる。また祈願の際には絵馬ではなく、帽子やスカーフなど首から上に身につけるものを奉納する者も多くあるとのこと。 ●南宮大社 / 美濃国一之宮。主祭神は金山彦命で、全国の鉱山・金属業の総本宮とみなされている。南宮大社の境内摂社に隼人神社があり、その社の前には矢竹が植えられている。この神社の祭神は火闌降命で、瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の間に出来た三人兄弟の真ん中神である(上の兄は海幸彦、弟が山幸彦となる)。 ●源氏橋 平治元年(1159年)、源義朝は京都で平清盛に敗れると、勢力圏である関東へ逃れるべく東へ向かった。途中で息子達とも散り散りになりながらも、何とか美濃国の青墓(現・大垣市)にまで辿り着く。青墓では、源氏と姻戚関係を持つ大炊兼遠に匿われることになる。しかしさらに東へ逃れるために、乳兄弟の鎌田政清の舅である長田忠致を頼って川を下ろうとした。そこで義朝主従が柴舟に乗ったのが、この源氏橋のたもととされる。現在では人が乗る船など浮かべることも出来ないような小川に、石造りの橋は架けられている。そして源氏の名にふさわしく、その家紋である笹竜胆が橋に彫られている。偶然、この橋をよく知る古老の話を聞くことが出来たが、かつてはもう少し離れた場所に橋があったのだという。その移転に際して、橋のほかに、義朝が鎧を掛けたとされる鎧掛け榎も植え替えたが、結局枯れてしまったとのこと。さらに弁当の箸の代わりに使った蘆が後に生い茂ったという蘆塚をもとに植えられた蘆も、結局根付かないまま朽ちてしまったという。今は、石造りの橋と、移動させた当時に掲げられた案内板が残るだけである。 ●二つ葉栗 昭和32年(1957年)に岐阜県天然記念物に指定された栗の木である。「二つ葉」の名の通り、葉が2つに分かれるという変わった木であり、葉の付け根から分かれる場合もあれば、葉の中ほどで二つに割れてY字のような形になるものもある。このような不思議な葉の形になる原因についての伝説が残されている。牧口という集落に源次という男がいた。他人の土地のものを勝手に盗ったりするので、村の者から随分と嫌われていた。ある時、隣家の者が立山へ参拝に行ったのをこれ幸いに、薪を持ち去っていった。その途中、源次は風で頭巾を飛ばしてしまい、探したが見つけることが出来なかった。数日後、隣家の者が源次を訪ねてきた。立山で源次に会ったという。薪を背負った源次が正面から近づいてきたかと思うと、突然、体勢を崩すと煮えたぎる地獄に落ちてしまったというのである。そして隣家の者は、証拠にとその時拾い上げた頭巾を見せた。それは薪を盗んだ時になくした頭巾であった。これにはさすがの源次も恐れをなし、前非を悔いて真人間になることを誓った。それ以降、盗みを働くこともせず、さらには人助けもおこなって善行を積み、念仏を毎日唱える生活を続けたという。そして年月が過ぎて宝暦11年(1761年)の冬、いよいよ臨終という時に、源次は「もし家の前の栗の木の葉が二つに割れるようになったら、その時は私が極楽へ行ったものと思って欲しい」と告げて亡くなった。その翌年から、その栗の木の葉は葉先が割れるようになったという。 ●夜叉龍神社 祭神は夜叉龍神。この地からさらに10kmほど北上したところに登山道がある夜叉ヶ池の主であり、また龍神の嫁となった夜叉姫を祀る。正保4年(1647年)、大垣藩主の戸田氏鉄はこの地を訪れ、夜叉ヶ池の伝説を聞いて感銘し、夜叉姫の髪洗池のほとりに夜叉龍神社を建立したのが始まりである。その後治水の神として大垣藩の崇敬を受ける。しかし明治28年(1895年)この付近一帯襲った鉄砲水によって神社は流失する(この時に夜叉姫の髪洗池もなくなってしまう)。しばらく御神体などは別の場所に安置されていたが、昭和9年(1934年)に揖斐川電工株式会社が川上発電所を開設する際に、治水の神、村と会社の平安隆盛を祈願するために復興されたのである。揖斐川電工株式会社は,現在ではイビデンという会社名で電気機器製造メーカーとして存続しているが、現在でもこの夜叉龍神社へ役員が参詣しているという。 ●夜叉ヶ池伝説 / 弘仁8年(817年)、美濃国を大干魃が襲った。窮した郡司の安八太夫安次は、小さな蛇を見つけると「雨を降らせてくれるなら、娘をやろう」とつぶやいた。するとその夜の夢枕に小蛇が現れ「私は龍神である。望み通り雨を降らせる代わりに娘をもらう」と言うと、たちまち雨が降り出した。翌日、龍神は若者に姿を変じ、安八太夫の許を訪れる。太夫は事の子細を3人の娘に告げると、末娘が「ならば」と承諾した。そして娘は若者と共に揖斐川の上流へと向かったのである。そしてしばらく後、娘を案じた安八太夫は揖斐川の上流へ行き、さらに山の上の池を訪れて娘の名を呼ぶと、既に龍の姿に変じた娘が現れ今生の別れをした。その後、安八太夫は龍となった娘を祀る祠を池(奥宮)と自宅(本宮)に建てた。そして池は、娘の名を取って夜叉ヶ池と呼ばれるようになったという。 ●藤波橋(藤橋) 神岡町の中心部を流れる高原川に架かる藤波橋は、昭和5年(1930年)に完成した鉄橋である。赤く塗られたその姿は場違いなほど目立つ存在でもあり、それでいて町のシンボルとしてしっくりと町並みに溶け込んでもいる。この橋があった場所には、かつて“藤橋”と呼ばれた藤蔓で造られた橋があったという。そしてこの橋を舞台にし、かつてこの土地で起きた悲劇を伝える謡曲「藤橋」が残されている。原本は田中大秀らによって書かれたとされ、昭和8年(1933年)に謡本「藤橋」として発刊。地方で作られた謡曲として平成15年(2003年)に神岡町文化財指定を受け、同18年(2006年)に飛騨能「藤橋」として完成披露されている。一人の僧が舟津の里(今の神岡町)を訪れ、藤橋の景色に見とれている内に日が暮れたために、近くの家に宿を求めた。その家の女主人は、縁の人のために経を上げて欲しいと頼んだ。かつてこの辺り一帯を治めていたのは江馬時盛という豪族であった。ある年の盆の夜に酒宴を開き、館に家来などを招いた。その時に時盛の妻の明石は舞を披露し、宴は大いに盛り上がった。しかしその夜更け、時盛の寝所に賊が押し入り、時盛と妻の明石を刺殺したのである。それは父である時盛と対立する嫡男の輝盛の策略だったのである。涙ながらに昔の話をする女主人を不憫に思った僧が名を尋ねると、時盛の妻の明石の亡霊であると正体を明かす。事の真相を知った僧は非業の死を遂げた夫妻のために、夜通し経を読んだのである。やがて夜が明けようとする頃、明石が江馬の館で舞を披露した時の衣装を身につけ、再び僧の前に現れた。僧の読経によって成仏することが出来た礼として、明石は一差し舞を披露すると、いずこともなく姿を消したのである。 ●江馬氏 / 戦国時代に、飛騨国北部の高原郷(現在の神岡町周辺)を拠点とした豪族。姉小路(三木)氏と飛騨国の覇権を争い続けた。江馬時盛(1504-1578)は武田氏と手を結ぶことで勢力拡大を図るが、嫡男の輝盛(1533-1582)は上杉氏を推すために度々衝突したとされ、ついには父を暗殺するに至る。しかし、織田氏を後ろ盾とした姉小路氏が次第に勢力を増してきて、江馬氏は徐々に衰退。最後は姉小路氏との八日町の戦いで、当主の輝盛が討ち死にしたため江馬氏は領地を失う。これにより姉小路氏の飛騨統一が完成する。その後羽柴秀吉の飛騨攻めの際に、輝盛の嫡男の時政(?-1585)が羽柴勢に属して活躍するが、旧領復帰は果たせず、逆に反乱を起こしたために自害に追い込まれ、江馬氏は滅亡する。 ●帰雲城埋没地 戦国時代、現在の白川郷一帯を領有していたのは内ヶ島家という豪族であった。その一族が居城としていたのが帰雲城である。内ヶ島一族がこの白川郷を領有するのは寛正年間(1461〜1466年)頃とされる。内ヶ島氏は足利家の奉公衆であり、8代将軍・足利義政の命によって赴任したとされる。以後、白川郷に勢力を持つ一向宗の正蓮寺と対立・和解をする以外には大きな戦いもなく、また領地を広げるようなこともなかった。だが4代目の内ヶ島氏理の代になって、ようやく歴史の波がこの地にも押し寄せてきた。天正13年(1585年)、羽柴秀吉は配下の金森長近に飛騨攻略を命じた。飛騨の大半を治める姉小路(三木)自綱は越中の佐々成政と組んで抵抗。内ヶ島氏理もその同盟に加わり、越中に援軍するなどの軍事行動を取る。しかし金森軍は姉小路家の居城を攻め落とし、また佐々成政も秀吉に恭順してしまった。さらに居城の帰雲城も越中遠征中に内応によって金森軍の手に落ちてしまったため、内ヶ島氏理はやむなく金森長近の許を訪れて和睦、金森氏に臣従することで所領安堵となったのである。同年11月29日。和睦による所領安堵を受けて、帰雲城では祝宴が開かれた。城主をはじめ、内ヶ島一族郎党が全員集まっての宴であった。ところがその夜半、突如悲劇が起こる。天正地震と呼ばれる大地震が発生、帰雲山が崩落し、帰雲城とその城下町は土砂に埋まってしまったのである。これによって帰雲城は、内ヶ島一族と共に一夜にして歴史から消えることになる。現在、国道156号線の脇に“帰雲城埋没地”として城址の碑や帰り雲神社などがあるが、これは田口建設という採石業者の社長の夢枕に内ヶ島氏の武将が現れたことが発端で造られた施設であって、あくまで比定地でしかない。帰雲城とその300軒余りの家があったとされる城下町は跡形もなく土砂に流され、その所在地は全く不明のままである。また、白川郷一帯は金銀の産出地であり、内ヶ島一族がこのやせ細った土地に勢力を張れたのは金鉱を掘り当てていたためと考えられ、その蓄えられた金銀が地震によって埋まってしまっているという「埋蔵金伝説」も残っている。 ●天正地震 / 天正13年11月29日(1586年1月18日)発生の地震。美濃を震源として、東海・近畿・北陸に大きな被害をもたらす。上記の帰雲城埋没の他、美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、近江の長浜城が半壊する。また京都の三十三間堂の仏像が600体以上倒れるなどの被害。伊勢湾で津波(若狭湾でも津波とされるが誤記録の可能性あり)。マグニチュードは推定で8前後とされる。 ●蛇穴 (じゃあな) その名の通り、かつて大蛇が棲んでいたと言われる穴。鍾乳洞の東端にあたり、奥行き25mの洞穴であり、そこから湧き出る水は岐阜県名水50選に指定されている。昔、この穴には乙姫様(龍神・大蛇)が住んでおり、村人が行事で膳や椀が必要になると、この穴の前に希望の人数を書いた札を置いておく。すると翌朝には人数分の膳や椀が揃えてあったという。ある時、村人が鼓を5つ貸してもらった。ところがあまりに珍しいものなので、1つを隠して4つだけを返した。するとその年はひどい日照りで、田畑の水は涸れ、土地がひび割れるほどになってしまった。乙姫様の怒りと思った村人は、早速雨乞いをおこなった。やがて黒雲が湧いて激しい雷雨が降ったが、今度は辺り一帯に落雷があり、たちまち火の手が上がりだした。さらに蛇穴からは大蛇が這い出してきたかと思うと、黒雲を目指して空に飛び立っていったのである。それ以来、いくらお願いをしても椀も膳も出てこなくなったという。 ●椀貸伝説 / 全国各地に見られる伝説の類型。水場において、膳椀を人数分貸し出して欲しいと頼むと、その通りのものが貸し出せた。しかし村人の誰かがその1つを返さなかったために、その後は頼みを聞いてくれなくなるという展開である。 ●照手姫水汲井戸 (てるてひめみずくみのいど) 説経節で有名な『小栗判官』の物語ゆかりの地が大垣市内にある。小栗判官の許嫁となった照手姫であるが、父の横山大膳がこれを憎んで判官を毒殺、照手を相模川に沈め殺そうとする。川に流されただけで命拾いした照手は、村君太夫に救われるが、嫉妬した姥に売り飛ばされ諸国を転々とし、最後に美濃国青墓宿の万屋に買われた。万屋の主人・君の長夫婦は照手に常陸小萩という名を付け、遊女として客を取るように迫る。しかし小栗への貞節を守ろうとする照手はそれを断り、代わりに下水仕として16人分の仕事をこなすことを命ぜられる。一度に馬100頭の世話をさせられ、さらに馬子100名の飯の支度をさせられた。さらに笊で水を汲むように強要されるなどの無理難題を押しつけられ、3年の月日を過ごしたという。その照手姫が水仕事に使っていたという井戸が残されている。かつてこの付近に青墓宿の有力者の屋敷があったものと思われ、それがいつしか『小栗判官』の物語と結びついたのであろうと推測できる。やがて、蘇生したものの生ける屍のようになった小栗は餓鬼阿弥と呼ばれ、道行く人々に車を曳いてもらいながら熊野へ向かう。そして青墓の万屋の前に辿り着く。車を曳けば仏の功徳になると知った照手は、君の長から5日の暇をもらい、お互いの素性も知らぬまま、狂女のなりをして大津まで車を曳いていくのであった。 ●東首塚・西首塚 慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ヶ原の戦いは「天下の分け目の戦い」と呼ばれる合戦である。関ヶ原の地に布陣した兵数は、東西両軍を合わせて約17万人。わずか半日の戦闘であったが、約8000人の死者が出たと言われている。関ヶ原の勝者である徳川家康は現地で首実検をおこなった後、多くの遺体の処理を、この地を治める竹中重門に供養料千石を与えて命じた。そこで造られたのが東首塚と西首塚であるとされる。東首塚のある場所には、家康が首実検した際に首級の汚れを落としたという首洗いの井戸があり、また昭和6年(1931年)に史跡に指定されて後に移築された護国院大日堂と唐門がある。対して西首塚は胴塚とも呼ばれ、あるいは東西両軍の武将に分けて葬られた首塚であるとも言われる(実際のところは、東西どちらの兵であったか分からない者が大半であったと伝えられる)。どちらの首塚もよく整備されており、今なお供養が丁重に執り行われていることが分かる。関ヶ原は多数の死者が出た場所であり、この2つの首塚以外にも遺体を埋めた場所が複数あると推測される。実際、明治になって敷設された東海道線の工事の際に、多数の白骨が掘り出されたという記録も残されている。 ●丸山神社 鮒岩 中津川は巨石が点在するエリアである。その中でも最も奇異なる形の巨石といえば、この鮒岩にとどめを刺すと断言して間違いない。平野部にちょこんと置かれたような小山の中腹部分に、その岩は据えられるようにしてある。ある意味人工的と言われてもおかしくないような小山そのものが、丸山神社の敷地である。その小山の南側に鮒岩はある。長さ約12m、高さ約6mの巨石であり、かなり遠くからでも目視できる。そして誰が見ても、尾ヒレを持ち上げた魚(あるいはクジラ)にしか見えない。その巨石がバランスよく石の台座に乗っかっているのである。この鮒岩については、超古代文明の人工物ではないかという説もある(少なくともこの場所に人為的に移動させたという説もある)。この丸山神社の境内には他にも相当な巨石がゴロゴロ転がっているが、ここまで奇妙な形の石は見当たらない。またこの神社自体も古い記録が残っておらず、この鮒岩との関係も全く不明である。そもそもこの巨石そのものが祭祀などの信仰の対象となっているとの有力な見解もなく、まさに謎に包まれた岩なのである。 ●念興寺 鬼の首 この寺には「鬼の首」と呼ばれる、頭部より2本の角の生えた頭蓋骨が安置されている。寺伝によると、元禄7年(1694年)に粥川太郎右衛門の死去に伴って寺に納められたとのこと。この太郎右衛門は、この鬼を退治した藤原高光の子孫であるという。天暦年間(947〜957年)、この地の近くにある瓢ヶ岳(ふくべがたけ)を根城に付近を荒らし回った鬼があった。その知らせを聞いた朝廷は藤原高光を派遣し、高光は見事にその鬼を退治したと伝えられる。鬼の首は本堂内の厨子に安置され、住職の説法を聞きながら拝観する(拝観料250円。法事などで拝観不可の場合も)。頭蓋骨は普通の人間より一回りほど大きいように見え、生えている角以外も何かしら異形の雰囲気を漂わせている。そして撮影は一切禁止。これには、かつて漫画家・永井豪が『手天童子』取材のために写真撮影をしたが、その直後から周囲で異変が頻発したため、写真を寺に納めたところ怪異が収まったという逸話が発端であるとまことしやかに言われている。 ●櫻山八幡宮 狂人石 (さくらやまはちまんぐう きょうじんせき) 高山にある櫻山八幡宮は、秋の高山祭りで有名な神社である。その起源は古く、仁徳天皇の御代、飛騨一帯で猛威を振るっていた両面宿儺(りょうめんすくな)を退治するため征討軍が組まれ、必勝祈願のため難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)が先の帝である応神天皇(八幡神)を祀ったのが始まりとされる。江戸期に入り、高山領主となった金森氏により元和9年(1623年)に再興され、高山北部一帯を氏子と定めて鎮守となす。このように由緒正しく且つ町の人々の信仰を集める神社であるが、その境内末社である秋葉神社の神殿脇に不自然な形の巨石が置かれている。それが狂人石である。最近立てられた駒札によると、この神域や境内を汚す行為をした者がこの石に触れるとたちまち発狂してしまうという古来よりの言い伝えがあるらしい。神域を汚す者に対して神罰を下すという伝承は限りないほどあるが、具体的に<石に触れると発狂する>という伝承は他に例がなく、またその実物が現存するという話は聞いたことがない。 |
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●孫太郎池 八田の山奥の「谷内(やち)」というところに、直径が二間ほどの小さな池があります。 昔、この池のそばに、村の若者たちが集まって、話し合っていました。 「この池の中を通って、向こう岸まで渡られるだろうか。」 「途中で、背がたたんほど、深いところがあって、溺れてしまうかもしれんぞ。」 若者たちの中で、実際に、この池に入った者はいませんでした。 それは、大人たちから、「この池は、入ったら、二度とあがることができない、底なし沼だから、ぜったいに近寄るな。」と、注意されていたからです。 若者たちの中で、『孫太郎』という若者は、みんなの話を、じっと聞いていましたが、 「おら、この池の中に入って、深さを調べるぞ。」と言うと、みんなが止めるのも聞かず、どんどん、池の中へ入っていきました。『孫太郎』は、すぐ、膝まで水につかり、まもなく、肩まで水につかってしまいました。その時、『孫太郎』は、一度、みんなの方を向いて、元気よく手を振りました。「向かいまで、渡るぞ。」と言うと、さらに、池の中へ向かって進んでいきました。 やがて、『孫太郎』の頭だけが、やっと、水の上に見えていましたが、それも見えなくなりました。高く挙げた二本の腕が見えていましたが、それも、すっかり、池の中に消えてしまいました。それっきり、『孫太郎』は、二度と池の中から、姿を現しませんでした。岸で待っていた若者たちは、繰り返して、『孫太郎』の名前を呼んでいましたが、このことを、できるだけ早く、大人たちに知らせなくては…と、村に向かって駆け出しました。 若者たちの話を聞いた大人たちは、さっそく池へ駆けつけて、池の中を探してみましたが、『孫太郎』を見つけることはできませんでした。 それから後、「この池のそばを人が通ると、池の中から、『孫太郎』の悲鳴が聞こえ、池の真ん中から、手のひらが現れて、人を引き寄せる。」といわれ、この池のそばを通る人は、誰もいなくなりました。 そこで、村人たちは、相談をして、池の前でお坊さんにお経をあげてもらい、『孫太郎』の霊を弔いました。それからは、『孫太郎』の悲鳴や手のひらが、池の中から出なくなりました。それから、この池は、『孫太郎池』と呼ばれました。 (八田町 伝承) ●雨乞いの数珠 昔、能登の国中が「百日日照り」といって、夏の間、雨が一粒も降らなかった時のことです。七尾の近在、三十カ村のお百姓さんたちは、雨が降るのを待ちきれず、飯川の光善寺の法印さんの所へ行って、 「八田の蛇(じゃ)池で、どうか雨乞い(日照りの時、雨が降るように神仏様に祈ること)をして下さい。」 とみんなで頼みました。 蛇池は、八田の山奥にあり、昼でも薄暗い池でした。昔から大蛇が住んでいるという言い伝えがありました。法印さんは、お百姓さんたちの話を聞いて、さっそく、みんなと一緒に蛇池へ行きました。そして、祭壇を設け、断食をして身を清め、一心不乱に雨乞いのお祈りを始めました。 ところが、一週間目の満願の前日、法印さんは、誤って池の中へ大切な雨乞いの数珠を落としてしまったのです。さあたいへん、法印さんは、すっかり困って数珠を拾うために池の中へ入ろうとしました。お百姓さんたちは、驚いて、 「この池は、底なし沼だと聞いとります。そんな所へ入ったら生きて帰れんでしょうから、どうか、数珠のことはあきらめてくださいませ。」 と一心に頼むのですが、法印さんは聞き入れず、 「この数珠は、光善寺に代々伝わる寺宝なんじゃ、だから、わしの命に代えても、取り戻さねばならんのじゃ。」 と言って、そのまま池の中へ入っていかれました。 お百姓さんたちは、どうしたらよいか分からず、その場に立ちすくんで震えていました。しばらくたって、池の中から法印さんが姿を現し何事もなかったように、ニコニコしながら帰ってこられたのです。見れば、法印さんの手には、落としたはずの数珠がちゃんとかかっているではありませんか。お百姓さんたちは、胸をなでおろして法印さんの前に駆け寄って行きました。 法印さんは、みんなをぐるりと見渡して、 「池の中は、思ったより浅かったのじゃ。まず、下へ降りる階段があってな。そこを降りていくと、途中に木の株があるのじゃ。ふと、その上を見ると、運よく木の株の頭に、この数珠がのっかっていたのじゃよ。」 と話されました。 底なし沼であるはずの池ですから、お百姓さんたちが、半信半疑でいると、法印さんは、急に声を落として、 「実は、階段だと思ったのは、大蛇の背中であったのじゃ…。また、木の株のように見えたのは、大蛇の頭だったのじゃよ。」 お百姓さんたちは、ゾーッとして、目の前の青黒い池を見つめながら、震えが止まらなかったそうな。そして、この法印さんは、なんと尊いお方であろうと、みんなで法印さんに向かって合掌しましたと…。 さて、いよいよ、その翌日、満願の日になると、大雨が降り続いて、七尾の町中が水浸しになりました。雨乞いのおかげで、三十カ村の田畑はいっぺんに潤い、その年は大豊作になったそうです。お百姓さんたちは、そのお礼にと、みんなで相談して「大般若経六百巻」をお寺へ寄進しましたとさ。そのお経は、今も、光善寺に全巻残っておるそうな。 (八田町伝承) ●八田の蛇池 昔、八田の村は、今よりもずっと奥へ入った山の中にあったそうです。八田川の川上に、小さな池があります。昔、大蛇が、その池に住んでいたので、村人たちは、時々、池の側で雨乞い(あまごい)をしました。それで、この池を「雨乞い沢」と呼んでいました。 昔、長く日照りが続いたことがありました。村人たちは、飯川村の光善寺を訪ね、法印さまに「雨乞い沢へ行って、お祈りをして下さい。」と頼みました。法印さまは、「信州の戸隠(とがくし)神社の雨乞いの水をいただいてくれば、さっそくお祈りしましょう。」と教えてくれました。 そこで、村人たちは、代表を選んで、信州へ送りました。代表の者たちは、雨乞いの水をいただきました。「帰り道だけは、決して休むな。」と注意されたので、夜通し歩き続けました。それは、休んだところに雨が降って、それでおしまいになるとも言われたからでした。 さて、村へいよいよ雨乞いの水が届くと、村人たちは、総出でわらの大蛇をこしらえ、それをかづいて、雨乞い沢へやってきました。池の前に、高いやぐらを組み、その上に太鼓をのせて叩きました。また、やぐらのそばに祭壇をつくり、お神酒や雨乞いの水を供えました。そして、法印さまが、読経を始めました。こんな風にして、雨乞いの式が行われたのです。 雨乞いは、七日間続けられました。その間、法印さまは、ご飯も水ものどへ通しませんでした。村人たちも、法印さまの後ろで、お祈りを続けました。太鼓の音も、休むことなく打ち続けました。すると、七日目の満願(まんがん)の日には、とうとう、雨が降ってきました。この雨で、村の田畑が生きかえり、村人たちは、安堵(あんど)の胸をなでおろしました。 今でも、この池に石を投げると、大雨になると言われています。また、その時、打ち続けた太鼓は、八田町に「雨乞い太鼓」「龍神太鼓」として伝えられ、太鼓打ちは、ますます盛んになっています。 (八田町 伝承) |
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●石川の伝承
●地震石 能登一之宮・気多大社から東に約300mほど離れた場所にあるのが、大穴持像石神社である。主祭神は大穴持神(大己貴神)。気多大社の摂社とされているが、この地区の産土神として尊崇されており、旧県社の社格であった。この神社の名にある「像石(かたいし)」とは、言うならば、神の降臨の際に出現した自然石であり、一種の磐座とも、あるいは神像に代わるものとも考えられる存在である。この像石とされるものが、神社の鳥居横に置かれている。そしてそれが“地震石”と呼ばれているのである。地震石とはまさに“地震おさえの石”であり、能登地方に地震が少ないのはこの石のおかげであると言われている。“地震おさえの石”としては鹿島神宮などにある“要石”が有名であるが、要石も元は神の降臨の際に現れた御座石であるので、どちらも実は同じ性格を帯びた霊石であると考えて良いのかもしれない。ただ、この地震石には奇怪な話も残されている。『能登志徴』によると、文久3年(1863年)に、海防のためにこの地に派遣されてきた藩士の一人が、石の霊験の噂を聞きつけ、試しにと小便をかけたという。ところがたちまち顔が土気色となって具合を悪くすると、その夜の内に亡くなってしまったという。さらに家督を継いだ息子は、祟りを怖れて幾度も参拝したらしいが、結局家名は傾いたままだったという。 ●富樫の馬塚 加賀・能登・越中の奇談を集めた『三州奇談』の一話に「敷地馬塚」という題の奇怪な話が残されている。室町時代の頃の話。加賀国の守護として力を持っていた富樫氏であるが、ある時、京の足利将軍の命を受けて富樫三郎成衡という将が西国を転戦し、本国に帰ろうとして大聖寺まで辿り着いた。季節はちょうど12月。あたりはすっかり豪雪で覆われており、成衡の乗った駿馬に追いつけなくなる家来が続出し、気付くと成衡一騎だけが雪の中を走っていた。しかも街道からそれてしまった様子で、どこをどう走っているのかも分からない。やがて日が暮れ、追いつく家来もなく、成衡はついに雪の中での野宿を余儀なくされたのであった。暖には困らなかったが、如何せん空腹だけは我慢できず成衡が嘆いていると、いきなり馬が雪の中を一散に駆けていく。そしてしばらくすると餅を2枚口に咥えて戻ってきた。成衡は大いに喜び、それを食って何とか飢えをしのぎ、一夜を無事に過ごしたのであった。翌朝、日が昇ると、遅れを取っていた家来達が成衡を見つけて合流し、そのまま街道を進軍し始めた。しかし菅生石部神社の前まで来た時、いきなり成衡の馬が歩を止めて、全く動こうとしなくなった。最初はなだめすかしていた成衡であったが、馬は一点を見つめたまま動かない。鞭を振るって急き立てても動かないのに業を煮やした成衡は、ついに刀を抜いて脅し始め、果ては馬に斬りつけだし、とうとう殺してしまったのである。血に染まった馬の死骸を見て冷静になった成衡は、馬が最後まで視線を外さなかった葭屋がふと気に掛かった。中に入ると、血まみれの人が倒れている。しかも大きな獣に食い殺された跡がある。あたりには餅が散乱しており、ようやく成衡は事の真相に行き当たった。昨夜一時駆け去った馬は、おそらく主人の危難を悟って、食べ物を求めてあたりを巡ったのであろう。そして餅をついている家を見つけて闖入し、その家の主を噛み殺して餅を強奪して戻ってきた。しかし神聖な神社の目の前で行った所業に恐れおののき、その罪を受けんと自ら死を賜ったのであると。成衡は感じ入り、馬を埋めて祠を祀った。これが馬塚となって、今日まで残っている。現在でも、菅生石部神社の鳥居の前にある民家の敷地内に、この奇談を記した案内板と共に祠がある。 ●恋路海岸 “恋路海岸”というロマンティックな名前にあやかって、現在でも「恋人達の聖地」として人気の観光スポットである。しかしこの名の由来には、悲しい伝説が残されている。かつてこのあたりの地は、倶利伽羅峠の戦いで逃亡した平家の落人が土着した場所で“小平次の里”と呼ばれていた。この小平次の里の南に住む助三郎という男は釣り道楽で、小平次の里までやって来て釣りをしていた。特にお気に入りの場所は海岸近くにある弁天島で、そこへ毎日のようにやって来ては釣りを楽しんだ。ある日、助三郎が弁天島で釣りをしていると、深みにはまってまさに溺れている女を見つけた。あわやというところで助三郎が救ったが、よくよく女の容姿を見ると本当に美しい女人であった。たちまち助三郎は恋に落ちた。女は小平次の里の北に住む鍋乃と名乗った。この弁天島に来ては海藻や貝を採っているという。女も命の恩人である助三郎に対してすぐに好意を抱いた。あっという間に二人は相思相愛、人目をはばかる仲となったのである。そしてこの縁を取り持った弁天島で毎夜のように逢瀬を重ねた。島の周辺は危険な磯が多かったので、いつも先に来た鍋乃が篝火を焚いて、助三郎それを頼りに鍋乃の許へ行くことが通常となっていった。美しい容姿の鍋乃に恋する男が、助三郎以外にもいた。助三郎と同じ集落の源次という男であった。源次は鍋乃に思いを伝えるが、命の恩人でもある愛する人は一人だけとつれない返事。しかし源次は諦めきれず、やがて二人の秘密を知り、ますます鍋乃に執着し、そして常軌を逸してしまった。鍋乃を愛するあまり、その行く手を阻む助三郎さえいなくなれば、助三郎を殺してしまえば、鍋乃は自分になびくであろうと。ある夜、源次は先回りして、篝火を焚く鍋乃を待ち構え、縛り上げた。そして篝火を危険な磯へ誘導するように位置を変えたのであった。それを知らない助三郎は、いつものように篝火を頼りに磯を渡ったが、足を滑らせて海にはまってしまった。何とか這い上がろうとしたところ、突然目の前に現れたのは源次。何も言わず助三郎に一太刀浴びせると、助三郎は再び海へと沈んでいったのである。助三郎を討ち果たした源次は、その足で鍋乃の許へ戻ると縄を解いた。助三郎はもうこの世にはいない。だから今度は自分を好いて欲しいと源次は懇願した。だが鍋乃の返答は、源次の隙を突いて逃げると、そのまま磯から身を投げるという固い意志であった。翌日助三郎と鍋乃の死体が浜に打ち上がり、源次の姿が集落から消えた…… そして二人の死から長い歳月が経ち、小平次の里の観音堂に一人の旅の老僧が棲み着いた。里の者は誰も気付かなかったが、その老僧こそ、出奔したまま行方知れずだった源次であった。仏門に入り各地を放浪した源次は、己の欲望のために命を落とした二人の霊を慰めるため、故郷に戻ってきたのであった。やがて助三郎と鍋乃の悲劇は語り継がれ、この地は“恋路”という名で呼ばれるようになったのである。 ●貴船明神 金沢のメインストリートから西に入った住宅地の一角にある神社である。その名の通り、京都の貴船神社の末社ということとなっているが、創建された江戸時代には“縁切宮”と呼ばれていた。かつてこの近くに加賀藩の家老・村井氏の上屋敷があったが、この家の奥方が酷く嫉妬深く、臨終の際に「女の嫉妬ほど辛いものはない。死んだら女の嫉妬を和らげて守ろう」と言ったため、死後この祠に祀られたとされる。貴船の名が先であったか後であったかは不明であるが、おそらく、京都の貴船に伝わる「丑の刻参り」の伝説がその背景にあったことは容易に推測できる。そして京都と同様、この縁切りのご利益から、縁結びのご利益もさかんに信心されるようになる。ただこの神社の面白いところは、この縁切りと縁結びの参拝方法が異なり、それがしっかりと根付いているところである。江戸時代の頃には次のように伝えられている。縁切りの場合は、丑の刻に用水を渡って参拝。逆に縁結びの場合は、惣構の土居を越えて参拝。ちょうどそれぞれ反対方向から参るように指示されていたという。ところが明治になって、現在のように用水に橋が架けられてからは、また別の参拝方法に変更されている。つまり、縁切りの場合は南側(香林坊方面)から行って、小さい方の祠(玉姫社)を参拝する。対して縁結びの場合は北側(高岡町方面)から行って、大きい方の祠(貴船社)を参拝する、という決まりである。ただ何故このような参拝方法になったかは不明である。 ●丑の刻参り / 白装束に髪を振り乱し、顔には白粉、頭には鉄輪(五徳)をかぶって3本の蝋燭を立て、一本歯の下駄を履き、胸に鏡を吊して、丑三つ時(午前2時頃)に神社へ赴き、藁人形に五寸釘を打ちつけて相手を呪い殺すという呪法。この原型となったのが謡曲「鉄輪」に登場する嫉妬深い女性で、京都の貴船神社に丑の刻参りを21日間続け、ついには鬼女となったとされる。 ●法船寺 義猫塚 (ほうせんじ ぎびょうづか) 法船寺は元は尾張の犬山にあった寺院であるが、前田家の移封に合わせて移転を繰り返し、加賀移封の際にも金沢に地所を与えられた。本尊は藩祖・前田利家が豊臣秀吉から奥州統一の戦利品として拝領したものであり、また他の寺院が寺町に集められたのに対して現在と同じ場所に置かれ、さらに寛永時代の頃の住職の母が先代藩主・前田利長の乳母だったとされ、前田家にとっては所縁の深い寺であった。ところが、寛永8年(1631年)に起こった大火がこの法船寺前が火元であったために、地所を返上。約70年後の元禄時代になって、ようやくかつてと同じ地所に再建を許されたという経緯を持つ。そして法船寺には金沢を代表する有名な伝説が残されている。享保の頃。本堂の天井裏に鼠が棲み着いて暴れるようになった。その大きさは並みの鼠の比ではなく、相当な大きさであった。住職が困り果てていると、近所の者が1匹の子猫を持ってきたので、それを寺で飼うことにした。しばらくして猫も立派な体格となったので、そろそろ鼠を退治するかと期待したが、一向にその気配はない。やきもきしているとある晩、その猫が夢枕に現れた。そして「あの大鼠は私だけでは退治できません。能登の鹿島郡にいる猫と共に戦えば勝てると思います。少しお暇をいただきます」と言うと、翌日から姿を消した。2日後、再び猫が寺に姿を見せたが、見慣れぬ猫を連れている。そしてまたその夜に夢枕に現れて「明後日の夜に鼠を退治します」と伝えた。その当日の夜、2匹の猫は本堂の天井裏に入り込むと、いきなり大きな物音がして猫と鼠の戦いが始まった。猫が鼠を天井から追い落としたら打ち据えて殺そうと人々が本堂で待ち構えていると、ますます物音は大きくなり、ついに天井の板が破れて鼠が落ちてきた。寺男たちは傷つき力尽きた鼠をたやすく打ち殺したのである。そして住職が天井裏に上ると、2匹の猫は古鼠の毒気に当てられたのか、既に死んでしまっていた。憐れに思った住職は2匹の猫の死骸を丁重に葬ってやったという。現在も寺の境内の一角に、この猫を供養したとされる義猫塚が残されている。またさらに境内にある薬師堂の一部は、加賀騒動で有名な大槻伝蔵の屋敷の一部を移築したものであるという。 ●寛永の大火 / 法船寺前の民家より出火したとされ(原因はある侍が町屋の娘に横恋慕して放火したとされる)、江戸時代に起こった金沢の大火で最も古いものである。焼けた家屋は1万戸以上、金沢城も延焼した。この大火によって金沢は現在の町割となり、水利のために辰巳用水が造られることとなった。 ●妙慶寺 金沢の寺町寺院群の一角にある妙慶寺は、前田利家の家臣であった松平氏に伴って越中から移転してきて現在に至るが、周辺で大火が起こっても類焼しないとされている。5代住職の向誉上人が近江町市場を通りがかった時、人々が何かを取り囲んで騒いでいる。気になって覗くと、1羽のトンビを捕まえて殺そうとしている。聞くと売り物の魚を盗ったところを捕まえたのだという。憐れに思った上人は、人々に掛け合ってトンビを譲ってもらい逃がしてやったのである。その夜、上人の枕元に天狗が現れた。助けたトンビは実はその天狗が化身したものであり、命を助けてもらったお礼がしたいと言う。しかし上人は特に望むものはないと答える。そこで天狗はいつまでも寺が続くように守護しようと言って、八角形の板を取り出して鋭い爪で何かを刻み始めた。翌朝目覚めた上人は、枕元に八角形の板を見つけて、天狗が現れたのは夢ではないことを悟った。板の両面にはそれぞれ「大」と「小」の文字が刻まれていた。上人はそれを庫裏の柱に掛けて、大の月の時は「大」の面、小の月の時は「小」の面が表になるようにした。それ以降、妙慶寺は“天狗さんの寺”と呼ばれるようになり、火災に巻き込まれることはなくなくなった。そしてそれにあやかるように、金沢の町の商家などでは八角形の板を模した“大小暦板”を火難除けとして飾るようになったとされる。ちなみに実物の暦板は非公開、檀家のみ見ることが出来るとのこと。 ●実盛塚 倶利伽羅峠の戦いで惨敗した平家を木曽義仲がさらに痛撃を加えたのが、加賀国の篠原であった。この篠原の合戦で敗れた平家軍は京都に逃げ戻り、一月の後に木曽義仲は入京を果たすのである。この篠原の戦いでは、関東出身の平家方の武将が多く加わり討死している。とりわけ有名なのが斎藤別当実盛である。実盛は、かつて源氏に属していた頃、木曽義仲の父・源義賢が討ち取られた直後に義仲を匿って木曽へ送り届けた、いわば命の恩人であった。しかし、今は平家方の一介の武将として、地盤としていた関東を追われて北陸の戦陣に身を投じていた。既に73という老齢に達しており、この戦いを最期の一戦と覚悟していた実盛は、侍大将のみが着用できる錦の直垂を身につけ、さらに老齢であることを隠すために白髪頭を黒く染めて戦いを迎えた。味方が総崩れとなったところで実盛は殿を務め、手塚太郎光盛によって討ち取られる。最後まで名乗りを上げず、首実検の時になって初めて実盛であったことが分かったという。この老将の首級に、総大将の義仲は昔を思い出して涙したと伝えられる。斎藤実盛の討死した場所と言われるところには大きな塚が築かれている。応永21年(1414年)、北陸地方で布教をしていた時宗の14世遊行上人・太空が潮津道場(加賀市潮津町)で別事念仏会をおこなっている最中に白髪の老人が現れ、十念を授かるとすぐにその場から立ち去ってしまうという出来事があった。直後からその白髪の老人が斎藤別当実盛の幽霊だという噂が立ち、太空上人は実盛が討死した塚を訪れて回向をおこなったのである。それ以降、時宗の遊行上人が新しく代替わりすると必ず実盛塚を訪れて回向をおこなう風習が今も続くことになる。さらにこの幽霊の話は京都にまで伝わり(醍醐寺座主・満済の日記にも記載されている)、おそらくそれを伝え聞いたであろう世阿弥によって「実盛」という謡曲が作られとされる。 ●謡曲「実盛」 / 世阿弥作。遊行上人が篠原で連日説法をしていると、老人が欠かさず現れる。しかし上人以外にはその姿が見えない。上人が老人に素性を尋ねると斎藤実盛の亡霊であり、成仏できないことを告げる。上人が回向を始めると、実盛の亡霊が現れ、首実検のこと、錦の直垂のこと、手塚太郎に討ち取られたことを語り、やがて消えていく。 ●伏見寺 金沢の寺町寺院群の1つである。開基は芋掘り藤五郎とされ、藤五郎ゆかりの寺として有名である。芋掘り藤五郎は、奈良時代にこの地に住んでいたとされる伝説の人物であり、山芋掘りと生業としていた。ある時、初瀬の観音菩薩の夢告に従って、大和国の長者が姫を伴ってやって来て婿とした。貧しいながらも2人は仲良く暮らしていたが、姫の実家から送られてきた金を藤五郎は鳥を捕るために投げつけてしまう。金の価値を知らない藤五郎を嘆く姫であったが、藤五郎はそれが山芋を掘ればいくらでも出てくるものだと告げる。かくして2人は大量の砂金を手に入れ長者となったのである。また藤五郎が掘った芋を洗った沢を「金洗いの沢」と呼んだことから、この一帯を金沢と呼ぶようになったとも言われる。伏見寺は、信心深い藤五郎が集めた砂金を使って仏像を造って、自らが住んでいた山科の里に近い伏見に建立した寺である。さらにその仏像を開眼供養したのが行基であるため、現在でも行基山伏見寺としている。境内には芋掘り藤五郎の墓があり、堂内には平安前期の阿弥陀如来像が安置されている。 ●岩井戸神社 猿鬼 岩井戸神社は別名「猿鬼の宮」と呼ばれる。旧柳田村の伝説として伝わる猿鬼を祀ったとされるためである。昔、このあたりで猿鬼という化け物が18匹の鬼を従えて、周辺の田畑を荒らし、娘を攫ったりと暴れ回っていた。かつて猿鬼は、大西山に住む善重郎という猿の手下であったが、棟梁の目を盗んで悪さを繰り返したので追い出され、いつしか化け物に変じたともいわれる。とにかく村人は猿鬼を大いに恐れ、隠れるように住んでいた。やがて猿鬼の悪行は神々の知るところとなり、神々の集まる出雲で相談がおこなわれた。最終的に能登のことは能登の神が処するということで、大将に一之宮・気多大社の気多大明神が、副将に三井の大幡神社の神杉姫が選ばれ、猿鬼退治が始まった。猿鬼は当目にある岩屋堂という洞窟に潜んでおり、そこを襲ったが、放たれる無数の矢をかわし、さらには手足や口を使って矢を受け止める始末。全く勝負にならなかった。神々は一旦引き揚げ、新たな策を考えた。すると「白布で身を隠し、筒矢を射よ」という声を聞いた。早速準備をすると、神杉姫が白布を使って洞窟の前で踊ってみせ、猿鬼たちはそれにつられて岩屋から出てきた。戦いが始まり。気多大明神が放った筒矢を猿鬼が受け止めると、筒の中に入っていた毒矢が飛び出して猿鬼の左目を突いた。慌てふためいて猿鬼はオオバコの汁で傷を洗うと、洞窟に逃げ込もうとした。それを追った神杉姫が名刀・鬼切丸で見事に猿鬼の首を刎ねて、神々が勝利したのである。岩井戸神社の境内には、猿鬼が隠れ住んでいたという岩屋堂が現存する。今は窪みのような穴が残っているだけだが、昔は海まで通じていたと言われ、海の荒れた時には洞窟からイカが出てきたという伝説も残る。また、この周辺には猿鬼との戦いの時の伝承が地名として残されており、「当目」は猿鬼の目に矢が刺さった所、「大箱」は猿鬼が目の治療をした所、「黒川」は猿鬼の首を刎ねた時の血が流れた所など、かなりの数のゆかりの地がある。 ●宗泉寺 ミズシの墓 志賀町にある宗泉寺には「ミズシ」の墓と呼ばれるものが残されている。山門を入って本堂へ向かう途中の左手、とりたてて他に何もない場所に五輪塔の一部が置かれてあるが、墓であるという。「ミズシ」とは加賀・能登あたりで河童のことを指すが、この墓は近くにある淵端家の者が建てたと言われている。慶長年間(1596〜1615年)のこと、淵端家の主人が馬を米町川に連れて来て水浴びをさせていると、いきなり馬が走り出した。屋敷に戻ってきた馬を見ると、尻尾に一匹のミズシがしがみついていた。おそらく馬の尻子玉を取ろうとして失敗したのだろうと推察した主人は、ミズシを取り押さえると屋敷のタブの木に縛り付けて折檻をした。陸の上に引き揚げられたミズシは全く力が出せないために、「秘伝の薬の作り方を教えるから助けてくれ」と命乞いを始めた。主人は殺すつもりまではなかったので、願いを聞き入れて薬の調法を紙に書かせると、縄を解いて解放してやったという。その後、この薬を売り出したところ「ミズシのねり薬」ということで評判となって、家業が繁栄したという(疳薬として平成に入る頃までは売られていたと言われている)。またしばらくの間は、ミズシが川魚を魚籠に入れてタブの木に引っ掛けておいていったともいう。以前地図に「疳薬本舗」と表示のあった場所には、かつて薬店を営んでいた名残のある家があった。そしてその家の前には、現在でも注連縄の張られた古木がある。おそらくそれが河童を縛り付けたタブの木なのだろう。 ●金城麗澤 (きんじょうれいたく) 兼六園に隣接する金澤神社のそば、大きな四阿風の建物がある。「金城麗澤」の額が掲げられており、屋根の天井には小さいながらも竜の絵が描かれている。そしてこの建物の下から滾々と水が湧き出ている。これが金沢の地名の由来となった金城麗澤である。金城麗澤は加賀藩12代藩主の前田斉広(なりなが)がこの地に竹沢御殿を建てた時に整備されたものであるが、水源地としては相当昔から湧いていたものであり、金沢のもう1つの発祥の伝説となる、芋掘り藤五郎とも大いに関係している。この水源こそが、藤五郎が掘った芋を洗った場所であり、大量の砂金が取れた場所であるとされている。それ故にこの地は「金洗い沢」と呼ばれるようになり、それが転じて金沢の名称となったとも言われている。 ●芋掘り藤五郎 / 加賀国の山科に住んでいた藤五郎は、貧しくも山芋を掘って生計を立てていた。ある時、大和の長者の姫が観音菩薩のお告げによって藤五郎に嫁いできた。姫は砂金の入った袋を手渡して買い物を頼んだが、藤五郎はそれを鴨を捕るために投げつけて、結局手ぶらで帰ってきた。金のありがたみを知らない藤五郎に怒る姫に対して、藤五郎は芋を洗って砂金を見せた。姫はそれが金という価値あるものと教え、夫婦は大金持ちになったという。この物語は全国各地に散見できる長者伝説であり、金沢独自の伝承ではない。 ●首洗池 寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家軍は、篠原の地で軍勢を立て直し、再び木曽義仲軍と矛を交えた。しかし木曽軍の勢いはとどまるところを知らず、敗走の憂き目となった。その中にあって、大将と思しき出で立ちで奮戦する平家の武者が一騎。それを見た義仲の家臣・手塚光盛が一騎打ちを申し入れると、武者は名乗りを敢えてせず挑み掛かってきた。だが、手塚によって討ち取られてしまったのである。首実検をおこなった義仲は、その武者が、自分が幼い頃に命を助けてくれた斎藤別当実盛であると認めた。しかしその髪は黒く、70を越えているはずの実盛とは思えなかった。そこで近臣の樋口兼光に尋ねると、かつて実盛は「年老いて戦に出る時は髪を黒く染めて、老人と侮られないようにしたい」と申していたという。そこで首を洗わせると、果たして髪は白くなり、実盛であると確かめられた。義仲は涙を流し、実盛の甲冑を多太神社に奉納したのである。篠原の古戦場には斎藤実盛にまつわる遺跡が点在する。実盛の首を洗ったとされる池も現存する。池のほとりには、首実検をする木曽義仲・樋口兼光・手塚光盛の中央に、実盛の兜が置かれた銅像が作られている。 ●須須神社 三崎権現とも呼ばれ、能登半島の先端部分にほど近い場所にある。10代崇神天皇の御代に創建と伝えられ、東北鬼門日本海の守護神として海上交通の要衝の役割を果たしている。須須神社の奥宮のある山伏山は海上からのランドマークとして最適であり、信仰と共に航行の目標とされてきた。また平安時代には、海上で異変があれば直ちに狼煙が上げられ、都まですぐさま伝達される仕組みになっていたとも伝えられる(現在でも、半島の先端には「狼煙町」という地名が残る)。須須神社には「蝉折の笛」という名笛がある。鳥羽上皇の時代に宋の皇帝から贈られてきたと伝わる笛であるが、奉納したのは源義経とされる。兄の頼朝から追われ、奥州藤原氏を頼って落ち延びる際、義経一行は須須の沖合で時化に遭遇する。義経が神社に祈るとたちまち嵐が止んだので、船を岸に着けて参拝。お礼として蝉折の笛を奉納したという。その時、弁慶も「左」と銘が彫られた守り刀を奉納している。いずれも神社の宝物館に保管されているが、義経一行の奥州落ちのルートを考察する上で、非常に重要な物証となっている。 ●動字石 (どうじせき) 石動(いするぎ)山は泰澄によって開山された、北陸では白山と並ぶ一大霊地であった。かつては衆徒3000人を抱える天平寺があり、幾度も戦火によって焼失したが、加賀藩の庇護の下で栄えていた。しかし明治の廃仏毀釈によって寺院は徹底的に破却され、今では伊須流岐比古神社が残されているだけである。現在は、国の史跡に指定され、寺院の発掘調査がおこなわれて整備が進んでいる。この石動山は、泰澄による開山以前から信仰の山であったとされる。その象徴が動字石である。この石は別名を「天漢石」と称し、天から降ってきた星が石と化したものであると伝えられる。この石が山に落ちてきた時に山全体が揺れ動いたことから「石動」という名が出来たともされている(泰澄が開山するまでは山が振動していたともされる)。神社の境内から少し離れた場所にあるが、石そのものが信仰の対象であることが分かるように祀られている。しかしながら科学的な調査によると、この動字石は隕石ではなく、安山岩であることが判明している。 ●いぼとり石 金沢一の観光名所である兼六園の南に隣接する金澤神社。その鳥居のそばにある放生池のほとりに、いぼとり石がある。駒札があるのでそれと判るが、なければただの庭石としか見えない。この石は元からこの地にあったわけではない。この石は、はじめ能登鹿島郡町屋村(現在の七尾市中島町屋)にあったが、前田家12代藩主夫人が兼六園の梅林近くに取り寄せ、さらに現在地へ移動させたものである。金澤神社によると、この町屋村には“いぼ池”という名の池があり、そこの石でこするとイボが取れるという言い伝えがあるらしい。このいぼとり石は一抱えほどの大きさで、表面が滑らかであり、本当にイボを取るためにこすり続けられているのではないかと思わせる雰囲気がある。それを裏付けるような話が、明治27年(1894年)に出された『金沢市内独案内』という書籍に残されている。とある遊郭の女郎の陰部にイボが出来た。困り果てて、いぼとり石で一両回こすってみると、イボは跡形なく取れてしまったという。金澤神社周辺は、明治7年(1874年)に兼六園が公園として開放されるまでは一般人が立ち入ることが禁じられていた場所であるので、この話が事実として成立するためには、明治以降に起こったとされなければならないはずである。つまりこのイボ取り信仰は明治期まで続いていたとみなしていいだろう。 ●金澤神社 / 創建は寛政6年(1794年)。11代藩主・前田治脩が兼六園内に藩校を設立し、家祖である菅原道真を祀ったことから始まる。12代藩主・斉広の時に火難除けなどの神も合祀した。歴代藩主が兼六園散策の折りに藩内の安寧を祈願したとされる。兼六園開放までは、年2回の例祭の時に婦女子のみ参拝を許されていた。 |
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●深泥池の幽霊騒動 京都の都市伝説
市内を南北に走る鞍馬街道を北へ、北山の住宅街を抜け、宝ヶ池の西側に広がる湿地帯の中央に深泥池はある。周囲1.5Km、面積9haの京都最古の天然池で、氷河期からの動植物群が生き続けているというのだから、驚きだ。池はその名のとおり、泥が数メートル堆積し、足を踏み入れると抜け出せない、底なし沼だといわれる。そして、この池をさらに有名にしたのが、例の都市伝説だった。 ● しょぼしょぼ雨が降る深夜、深泥池の近くで一台のタクシーが雨に濡れた女の乗客を拾った。女は髪が長く、白いワンピースを着ていた。運転手が行き先を尋ねると、うつむいたまま、「山科区上花山××へ」と告げる。運転手は、おや、と思った。その場所は火葬場しかない。「こんな夜中に、いったい何の用があるのやろか……」と思いつつ、タクシーを走らせた。と、その途中、ふとバックミラー越しに後部を覗いた運転手は、ぎくり、とした。ミラーに女の客が映っていない。慌ててタクシーを停めて振り返ると、誰もいない後部座席のシートが、ぐっしょりと濡れていた――。 タクシーの運転手が「客の女性を車から落としてしまった」と、真っ青になって近くの交番に駆け込んだという。だが、運転手が言う現場へ駆けつけて捜索したものの、その痕跡や目撃者はなかったそうである。こういう奇妙な出来事が、その後、何度も起こったという。 ライター仲間の一人は、当時、その事件でタクシーの運転手が駆け込んできた交番で、事情聴取をした元巡査からもこの話を聞いているというから、かなり信憑性のある都市伝説といえる。 ところで、この女の乗客の行き先だった上花山の火葬場の北側には、「出る」と囁かれる京都三大トンネルのひとつ、花山洞(トンネル)がある。古くは風葬地・鳥辺野を通り抜ける渋谷街道にあり、江戸時代には道がぬかるんで歩きにくかったことから、「汁谷(しるたに)街道」と呼ばれていた。この名は「死人谷(しびとだに)」から来たともいわれている。 明治になってこの街道に花山トンネル(花山洞)が開通、さらに昭和42年に車の往来を主とした東山トンネルが完成し、以来、車両はそちらを通るようになったことから、現在、花山洞は自転車と歩行者専用トンネルとなっている。 花山トンネルを東山区側から歩いてみた。トンネルで着物の女の幽霊を見たとか、足音だけが後をついてくるとか、さまざまな噂がある。確かに、周辺やトンネルにはそういった噂が生まれても不思議でない雰囲気が漂う。 ●成相寺「底なしの池」 宮津市 五重の塔の前にある蓮池が「底なしの池」と呼ばれています。その昔、この池には大蛇が住んでおり、寺の小僧を次々と呑み込んでいたため、和尚が藁人形で作った小僧に火薬を詰め、それを呑ませて退治したという、この池にまつわる奇怪な話が残っています。 ●サンシと山椒魚 (深泥池の主) 京都市上賀茂 この池は、初夏ともなると、里人が「じゅんさい」を採ったり、浮き島には、虫を食う草が生えていたりして、もう生きては帰って来られんという恐ろしい底なし沼でもあるのじゃ・・・。 むかしむかしのおおむかし、三四郎という耳の遠いオッサンが、この池のほとりに住んでいた。このオッサンは、たいへん魚とりが上手でいつも雲ヶ畑の奥までいっては、アユやイワナ(岩魚)をとって来て、京の町まで売りに行っていたそうじゃ。 ある時、鞍馬川の谷川でそれはそれは大きな山椒魚を見つけて、こいつと、せんこ、まんこと大格闘してやっと捕まえたそうな。そして京へ持っていけばええ値で売れるやろうと思って、藤づるでグルグルとす巻きにして、よっこらしょと背中にしょって帰ってきたそうな。 深泥池のほとりまで帰ってきたとき一人の男に出会った。この男ものすごく早口で、いつも何をいうてんのかようわからなんだ。この男が出会い頭に「サンシ・・・・どこへ行く?」と大きな声でたずねたんじゃが、それが「サンショウ、どこへ・・・・」と聞こえたんじゃ。すると背中の方から「藤に巻かれて、京へ行く・・・」という声がした。人間の言葉などわかるはずもない魚が、背中で妙な声を出したもんやさかい、二人の男はびっくり仰天して、尻餅をついてしもうた。 その時、放り出された拍子に藤づるの結び目がほどけて、中から出てきた山椒魚はそのまま、のっそりのっそりと歩いて池の中へ入っていってしもうたんじゃそうな。腰の抜けてしもうた二人の男は、ただ道の真ん中でへたばってしもうて、口をあんぐりとあけたまま、ただそのありさまを見ているだけじゃった。 山椒魚は別の名を「ハンザキ」と言うてな、手足をなんぼ切り取ってもまたすぐ生えてくるという。 深泥池の浮き島が、なんぼ切り取ってもすぐに元の大きさにもどるのは、あの山椒魚がこの池に住みついてからだ、というひともあるくらいじゃ。 ・・・ そんなこんながあってから長い年月がたつたある夏のことやった。その年はひどい日照りがつづいてな、田んぼの稲も黄色くなって枯れてきょったんじゃ。困りはてた賀茂のお百姓さんたちは、この池の樋をぬいて、水を一滴も残さず田んぼにひいたそうじゃ。そん時とれたナマズやコイ、フナなどの魚は、大ザルに何十杯あったかわからへんぐらいやったということじゃ。そん時、浮き島の底になんやら動くものがいてな、何やらと思ってよーくみると、実はあの山椒魚やったということじゃ。村の若者らがよってたかってこいつを岸に押し上げて、賀茂の川奉行のところへ持っていったそうじゃ。 そして「御領地、深泥池在の農夫共、田用水がため池の諸樋相抜き、池床干しつきたるところかくかくしかじかの次第」と御上告申し上げたところ、馬面がかみしもを着たようなおもしろい顔をした奉行が、それでも威儀を正して「ふむふむ、いかに取り扱うべし・・・」と思案していたんじゃ。するとどこからかひょっこりと旅の老人が現れてな、「山椒魚とやら、神の御供えにて相成る。何とぞ拙者にお下げ戻して下さるようお願い申す。お百姓には多分の骨折り料を出し申すべし。もっとも件の魚の儀は、たたりの程は如何と存じまする故、もとの池に放ち返す心得でござりまする。」というと、そこで奉行も「されば苦しかるまじ、差し許すべし・・・・・」ということで、山椒魚はもとの池の底に解き放たれたんじゃそうな。 ・・・ それからどれくらいの年月がたったか・・・。それから山椒魚もどれくらい大きくなったかわからへんくらいじゃ。あれから一度もこの池の樋は抜かれたことがあらへんしな・・・今でもこの浮き島は動いていると人々は言うたはる・・・。 |
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●京都の伝承
●宴の松原 『大鏡』に次のような話が残されている。5月のある雨の夜。花山天皇が戯れに肝試しをしようと言い出した。そして藤原3兄弟にそれぞれ大内裏の各所へ一人で行くように命じた。長男の道隆は途中の宴の松原で得体の知れないものの声を聞いて逃げ帰り、三男の道兼は建物の軒ほどの大きさの人影を覚えて退散した。ところが五男の道長だけは悠然と戻ってきて、証拠の品まで差し出した。宴の松原は怪しいものがいるという噂で専らの場所であったことが分かる逸話であるが、そもそもその場所自体が不可解なものと言える。大内裏の一画、内裏(天皇の住まい)の西側に位置しており、南北430m、東西250mの広さを持つが、実は空き地である。なぜそのような場所に空き地があるかの真相は不明で、その名の如く宴会などを催すために設けられた場所であるとか、あるいはちょうど内裏と対称の位置にあるため“内裏の建替時のための用地”であるとも考えられている。いずれにせよ大都会のエアポケットのような空間であったことは間違いない。実際、この場所では恐ろしい出来事が起こっている。『日本三代実録』によると、仁和3年(887年)8月17日の深夜10時頃のこと。宴の松原を内裏に向かって東へ歩いていた3人の若い女があった。すると松の木の下に一人の容姿端麗な男がいて、3人のうちの一人を手招きして呼ぶと、陰に隠れて何か話をし出した。残った2人は待ったが、話し声も聞こえないので不審に思って見に行くと、男女の姿はなく、ただ女の手足だけが散らばっていて、首や胴体はそこにはな |