上州新田郡三日月村

大昔 年寄りのジョーク
あっしには関わりねえことでござんす ・・・

木枯し紋次郎
手前、生国は ・・・ 上州新田郡三日月村 ・・・ 
 


新田郡笹沢左保木枯し紋次郎1木枯し紋次郎2赦免花1赦免花2・・・
木枯らし紋次郎 / 川留めの水地蔵峠甲州路女人講の闇童唄大江戸の夜六地蔵の影一里塚湯煙の月絵馬龍胆木枯しの音見かえり峠水神祭房州路遠州路無縁仏流れ舟馬子唄暁の追分水車日光路夜泣石女郎蜘蛛海鳴り獣道錦絵相州路駈入寺九頭竜怨念坂明鴉上州路和田峠奥州路雪燈籠冥土の花嫁上州新田郡三日月村・・・
諸話 / 紋次郎1紋次郎2紋次郎3紋次郎4紋次郎5紋次郎6紋次郎7紋次郎8昭和の時代劇雑記仁義を切る仁義渡世人の掟・・・
新木枯らし紋次郎 / 紋次郎への道タイトルロール霧雨手向草四つの峠雷神急ぎ旅三途の川泪橋念仏旅立ち身代金笛の流れ消えた女次男坊五日の掟人斬り三日月水車小屋影一つ女郎に一言甲州路命は一度捨てる鬼が一匹笹子峠の月賽一つ生国は地獄お百度に心で詫びた紋次郎・・・
 
 
 

 

市場
手前、生国は ・・・
上野国新田郡 ・・・
群馬県新田郡大字市場字市場 (記憶が正しければ?)
群馬県太田市市場町

思い出す  父母の生まれたところ
市場のおじさんの家 縁側から 
畑の向こうを走る 東武電車 (足利-太田) が見えた
春秋の墓参り 東応寺 (臨済宗) 
足利
連想ゲーム
奈良時代 東山道 上野国新田駅 下野国足利駅 (五畿七道の一つ)
   (下毛野国足利郡→下野国足利郡)
鎌倉時代 下野国足利郡・下野国足利荘
江戸時代 下野国足利郡足利 (足利藩)
    例幣使街道 (倉賀野追分) 玉村宿→五料宿→柴宿→境宿→木崎宿→太田宿→
   八木宿→梁田宿→天明宿→犬伏宿→富田宿→栃木宿→合戦場宿→金崎宿
    古いテレビドラマ 
    土地がら 国定忠治の世界
明治時代 栃木縣足利郡足利町
足利藩
下野足利郡足利に存在した藩。藩庁は足利陣屋(栃木県足利市雪輪町)。
戦国時代、足利将軍家の故地足利荘は関東管領上杉氏の代官として足利長尾氏が治め、上杉氏が後北条氏に追われた後には後北条氏の支配下に入っていたが、後北条氏に仕えていた長尾顕長は小田原征伐で没落した。
江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の異父弟にあたる本庄宗資(はじめは公家の家臣だった)が徳川将軍家との特別な関係のために加増が繰り返され、元禄元年(1688年)には足利1万石を領するようになり、足利藩を立藩した。宗資にはその後も贔屓の加増が繰り返され、元禄5年(1692年)、本庄邸への2度目の“将軍お成り”の際に4万石に加増されて常陸笠間藩へ移封された。
その後の宝永2年(1705年)1月、将軍世子である徳川家宣の御側役を務めていた戸田忠時が甲斐国内8000石から3000石加増の上で下野国足利郡・河内郡・都賀郡1万1000石を領することとなったため、大名に列して再び足利藩を立藩した。歴代藩主は藩政改革を行ない、何人かが大坂定番や奏者番などを務めた。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還で最後の藩主・戸田忠行は藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で足利藩は廃藩となって足利県となった。そして同年11月14日、栃木県に編入された。  
 
 

 

●新田郡(にったぐん)
群馬県(上野国)にあった郡。
郡域​
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域にあたる。
太田市(龍舞町、下小林町、東長岡町、吉沢町以東、および古戸町と東金井町、東今泉町、緑町、矢田堀町のそれぞれの一部を除く)
みどり市(笠懸町各町)
伊勢崎市(境上矢島、境西今井、境三ッ木、境女塚、境米岡、境平塚、境東、境栄、境新栄および境美原の一部)
歴史​
郡衙(郡庁)は太田市天良町の天良七堂遺跡一帯。「上野国新田郡庁跡」として国の史跡に指定されている。
律令制下の郡として平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)に作成された倭名抄に「新田郡」および「新田駅」が記載される。
1108年(天仁元年)の浅間山大噴火によって北関東一帯が荒廃。
1157年(保元2年)- 源義国・新田義重父子によって開発された「空閑の郷々」19郷が本家に鳥羽院御願寺の金剛心院、領家に藤原氏北家花山院流藤原忠雅に寄進され、新田荘が立券。
1170年(嘉応2年)− 新田荘域が新田郡全体に拡大。
近代以降の沿革​
慶応4年
〇 4月3日(1868年5月5日) - 岡部藩が藩庁を移転して三河半原藩となる。
〇 6月17日(1868年8月5日) - 新政府が岩鼻陣屋に岩鼻県を設置。幕府領・旗本領を管轄。
幕末 - 西別所村が別所村に改称。
明治初年 - 多村から多村新田が分立。(1町1宿114村)
明治2年 - 館林藩の領地替えにより、旧・幕府領の一部(太田町、東今井村、鳥山村、強戸村、新野村、寺井村)、旧・旗本領の一部(新島村、長手村、鶴生田村、大島村)が館林藩領となる。
明治4年
〇 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が前橋県、西端県、半原県、佐野県、館林県の管轄となる。
〇 10月28日(1871年12月10日) - 第1次府県統合により、前橋県の管轄地域が群馬県(第1次)の管轄となる。
〇 11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、全域が栃木県の管轄となる。
明治9年(1876年)(1町1宿101村)
〇 3月 - 志賀村が鹿田村に、加波村が鹿の川村にそれぞれ合併。
〇 6月 - 鹿田村・鹿の川村が合併して鹿村となる。
〇 8月21日 - 第2次府県統合により群馬県(第2次)の管轄となる。
〇 高岡村・八木沼村が合併して米岡村となる。
〇 烏谷戸村が上田島村に、上中村新田が上中村に、東今井村・上浜田村が太田町に、宮内村が阿久津村に、阿左村・阿左村新田が阿左美村に、西野村が藪塚村に、田部村が佐位郡田部井村にそれぞれ合併。
明治10年(1877年)(1町1宿98村)
〇 久々宇村・桃頭村が合併して久宮村となる。
〇 久仁村が佐位郡国定村に、間野村が佐位郡間野谷村にそれぞれ合併。
明治11年(1878年)12月7日 - 郡区町村編制法の群馬県での施行により、行政区画としての新田郡が発足。郡役所が太田町に設置。
町村制以降の沿革​
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。特記以外は現・太田市。(4町9村)
〇 太田町 ← 太田町[大部分]、大島村[一部]
〇 九合村 ← 飯塚村、内ヶ島村、東矢島村、西矢島村、小舞木村、新島村、東別所村、新井村、飯田村
〇 沢野村 ← 福沢村、富沢村、牛沢村、高林村、岩瀬川村、下浜田村、細谷村、米沢村、由良村[一部]、邑楽郡古戸村
〇 尾島町 ← 尾島村、亀岡村、阿久津村、堀口村、岩松村、押切村、備前島村、二ツ小屋村、武蔵島村、前島村、前小屋村、安養寺村、大館村
〇 世良田村 ← 世良田村、出塚村、小角田村、徳川村、粕川村(現・太田市)、上矢島村、西今井村、三ツ木村、女塚村、米岡村、平塚村、境村[大部分](現・伊勢崎市)
〇 木崎町 ← 木崎宿、中江田村、下江田村、高尾村、赤堀村
〇 宝泉村 ← 西野谷村、別所村、沖野村、上田島村、下田島村、中根村、藤阿久村、由良村[大部分]、脇屋村[一部]、小金井村[一部]
〇 鳥之郷村 ← 新野村、鳥山村、鶴生田村、長手村、大島村[大部分]、太田町[一部]
〇 強戸村 ← 成塚村、西長岡村、菅塩村、強戸村、寺井村、北金井村、大鷲村、天良村、太田町[一部]
〇 生品村 ← 村田村、市野井村、反町村、市村、多村、多村新田、小金村、四軒在家村、小金井村[大部分]、脇屋村[一部]
〇 綿打村 ← 大根村、上江田村、上田中村、権右衛門村、上中村、溜池村、大村、嘉祢村、金井村、花香塚村、下田中村
〇 藪塚本町 ← 本町村、藪塚村、山ノ神村、大久保村、六千石村、寄合村
〇 笠懸村 ← 鹿村、西鹿田村、久宮村、阿左美村(現・みどり市)
〇 太田町の一部が山田郡韮川村・毛里田村に、境村の一部が佐位郡境町のそれぞれの一部となる。
明治29年(1896年)7月15日 - 郡制を施行。
大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
昭和15年(1940年)4月1日 - 太田町・九合村・沢野村が山田郡韮川村と合併し、改めて太田町が発足。(4町7村)
昭和17年(1942年)7月1日 - 「新田山田地方事務所」が桐生市に設置され、山田郡とともに管轄。
昭和18年(1943年)11月1日 - 鳥之郷村が太田町に編入。(4町6村)
昭和23年(1948年)5月3日 - 太田町が市制施行して太田市となり、郡より離脱。(3町6村)
昭和31年(1956年)9月30日 - 木崎町・生品村・綿打村が合併して新田町が発足。(3町4村)
昭和32年(1957年)
〇 4月1日 - 強戸村が太田市に編入。(3町3村)
〇 11月1日 - 世良田村の一部(大字世良田・出塚・小角田・徳川・粕川)が尾島町、残部(大字上矢島・西今井・三ッ木・女塚・米岡・平塚・境)が佐波郡境町に分割編入。(3町2村)
昭和38年(1963年)4月1日 - 宝泉村が太田市に編入。(3町1村)
平成2年(1990年)4月1日 - 笠懸村が町制施行して笠懸町となる。(4町)
平成17年(2005年)3月28日 - 新田町・尾島町・藪塚本町が太田市と合併し、改めて太田市が発足、郡より離脱。(1町)
平成18年(2006年)3月27日 - 笠懸町が山田郡大間々町、勢多郡東村と合併してみどり市が発足。同日新田郡消滅。 
●新田荘遺跡 
上野国新田郡(群馬県太田市)にあった荘園新田荘に関わる遺跡。荘域は上野国新田郡全域・勢多郡・佐位郡・武蔵国榛沢郡の一部に及び、おもに大間々扇状地と利根川左岸氾濫原からなる。『延喜式』には上野国新田駅、『和名類聚抄』では新田郡駅家郷と記されている。中世武士団新田氏一族の根源地として成立し、長楽寺文書、正木文書によって文献史料の裏付けを可能とする東国の中世荘園として稀有な例である。2000年(平成12年)、新田氏遺構群のうち11箇所が国の史跡に指定され、「新田荘遺跡」として保存されている。
律令制下の郡として平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)に作成された倭名抄に「新田郡」および東山道(武蔵路も含む)の駅として「新田駅」が記載される。
1108年(天仁元年)の浅間山天仁大噴火によって火山灰(浅間Bテフラ)が降下して北関東一帯が荒廃。
1142年(康治元年)- 源義国、足利荘立券。
1143年(康治2年)- 源義国、簗田御厨立券。
1150年(久安6年)- 源義国、右近衛大将大炊御門藤原実能と争い、実能の屋敷を焼き払い勅勘を蒙り、源義国は下野国足利の別業に隠退する。
この後、源義国は長子・新田義重とともに上野国新田郡の開発を開始する。源義国・新田義重父子の開発過程で近隣の藤姓足利氏との間で相論が活発化していく。
1155年(久寿2年)- 源義国が新田郡内の新田義重館にて死去。
1157年(保元2年)- 源義国・義重父子によって開発された「空閑の郷々」19郷が本家に鳥羽院御願寺の金剛心院、領家に藤原氏北家花山院流藤原忠雅に寄進され、新田荘が立券。同年、藤原忠雅により新田義重が新田荘下司職に補任される。
1170年(嘉応2年)- 新田荘域が新田郡全郡56郷に拡大。
1172年(承安2年)- 新田義重、嫡子である新田義兼へ所領を譲渡。同年、新田義重、隣接する園田御厨と紛争を起こす。
1193年(建久4年)- 源頼朝、新田義重館へ遊覧。
1215年(建保3年)- 新田尼、新田荘内3郷の地頭職に、岩松時兼、同12郷の地頭職に補任される。
1205年(元久2年)- 新田義兼が源実朝より村田・田嶋・中今井・一井・田中・堀口・多古宇・綿打・千歳・薮塚・上女塚・高嶋の12郷の地頭職に補任される。
1221年(承久3年)- 世良田義季が開山に栄朝を招いて世良田長楽寺を開基。
1226年(嘉禄2年)- 岩松時兼、岩松郷の地頭職に補任される。
1244年(寛元2年)- 新田政義が京都大番役での上京中に幕府に無断で出家した罪で御家人役を剥奪される。新田氏惣領職は没収され、世良田頼氏に与えられる。世良田氏とともに新田荘半分領家職は岩松氏が分担する。
1246年(寛元4年)- 世良田義季、女塚郷を長楽寺に寄進。
1268年(文永9年)- 得川頼有、岩松経兼の嫡子・亀王丸(岩松政経)を養子とし、所領を譲渡。
1272年(文永9年)- 世良田頼氏が二月騒動に連座し佐渡国へ流罪となり、新田氏惣領職(世良田氏分)は新田氏本宗家(新田政氏)へ遷移する。
二月騒動を契機として新田荘内に得宗領が拡大していった。
1277年(建治3年)- 世良田頼氏の娘「尼浄院」、上江田郷内堂垣内在家・田を長楽寺へ寄進。
1291年(正応4年)- 鎌倉幕府、鳥山時成の遺領相続を妻「尼念空」に認める。
1318年(文保2年)- 由良景長の妻紀氏に鎌倉幕府は上野国新田荘の田地を領せしむ。新田義貞が新田氏本宗家家督相続する。新田義貞・村田頼親が所領を長楽寺へ売却。
1322年(元亨2年)- 岩松政経・大舘宗氏が新田荘田嶋郷の用水相論。「尼浄院」、亡父忌日料として南女塚村内在家を長楽寺へ寄進。
1324年(元亨4年)- 新田義貞、所領を小此木盛光妻紀氏へ売却。
1328年(嘉暦3年)- 世良田満義、新田荘小角田村の田地等を長楽寺へ寄進。
1332年(元弘3年)- 大谷道海、火災にて焼失した長楽寺を再建。
1333年(元弘3年)- 新田義貞が倒幕の挙兵。江田行義、所領を長楽寺へ寄進。
1334年(建武元年)- 妙連(土用王御前)、所領を養子・岩松直国へ譲渡。
1335年(建武2年)- 足利尊氏、東国にある新田氏一族の所領を没収。
1338年(暦応元年)- 足利尊氏、新田氏の旧領を長楽寺へ寄進。足利尊氏、新田荘八木沼郷等を安養寺殿(新田義貞)追善料所として長楽寺へ寄進。
1347年(貞和3年)- 岩松直国、新田荘由良郷地頭職に補任される。
1350年(観応元年)- 室町幕府、上杉憲顕に命じ、新田荘内の世良田右京亮・桃井直常らの旧領を岩松直国に与える。
1352年(観応3年)- 新田義興、長楽寺に兵士の乱入狼藉するを停止する。足利尊氏、長楽寺の要請により、寺領安堵の署判を与える。
1355年(文和4年)- 村田頼氏、下江田郷内在家・田畠を売却。
1364年(貞治3年)- 足利基氏、世良田義政跡の新田荘江田郷を岩松直国に与える。
1365年(貞治4年)- 足利義詮、岩松直国に本領安堵の御教書を与える。
1381年(永徳元年)- 世良田憲政、所領を長楽寺へ寄進。
1411年(応永18年)- 鎌倉府、岩松満国に新田荘当年年貢百貫文を沙汰させる。
南北朝の動乱を経て、新田氏本宗家の滅亡後、新田氏惣領職は岩松氏に、新田荘領家職を鎌倉府に与えられる。岩松氏は守護職とほぼ同様の権力を新田郡に有したと考えられる。
1416年(応永23年)- 岩松満純が上杉禅秀の乱に加担し、以後、岩松氏は礼部家と京兆家に分裂。
1455年(享徳4年)- 岩松持国、足利成氏に新田荘の一元的支配権の承認を要求する。
1469年(文明元年)- 岩松家純(礼部家)によって岩松氏は統一される。同年、岩松家純によって新田金山城が築城される。
1495年(明応4年)- 被官横瀬景繁の専横により岩松尚純が隠居し、岩松昌純が擁立される。
この後、横瀬景繁の子・横瀬泰繁が岩松昌純を殺害する下克上を行い、由良氏(横瀬氏)は戦国大名化する。
1509年(永正6年)- 連歌師宗長、新田荘へ来着して岩松尚純と百韻連歌を行う。
1590年(天正18年)- 小田原征伐の後、徳川家康が関東入国し、太閤検地によって名実共に荘園制が崩壊する。 

 

●笹沢左保
1930年11月15日、神奈川県横浜市に詩人、笹沢美明氏の三男として生まれる。昭和23年関東学院高等部卒業。昭和27年〜35年郵政省簡易保険局に勤務。この間、交通事故に遭遇し、入院中に書いた小説『招かれざる客』応募し最終候補に留まる。受賞は逃したが、選考委員に完成度の高さを惜しまれ刊行の運びとなった。昭和38年には『人喰い』で第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞。それ以降も刊行ペースは衰えることを知らず、『空白の起点』『真昼に別れるのはいや』『泡の女』『暗い傾斜』などの長編や、短編「六本木心中」に代表される風俗的な作品など、夥しい数の作品を矢継ぎ早に発表した。
昭和48年『赦免花は散った』で《木枯し紋次郎シリーズ》を執筆開始。この《木枯し紋次郎シリーズ》で人気爆発。市川崑監督・監修、中村敦夫主演のテレビシリーズは一斉を風靡した。その後もミステリとエロティシズムを融合させる試みの《悪魔シリーズや《岬シリーズ》《小林一茶捕物帳シリーズ》などを展開。近年も《夜明日出夫シリーズ》《取調室》などの長編ミステリや《木枯し紋次郎復活シリーズ》などの時代小説を多数執筆し、著書は三百冊を超えている。昭和57年若い父親のための《青年塾》を結成。世直し説法の講演行脚をする。昭和63年5月佐賀県佐賀市に転居。平成14年10月22日没。
木枯し紋次郎 1
1 赦免花は散った
「人間には一生に一度や二度、計算に合わなくてもやらなればならねえことがあるもんだ」三度笠に汚れた道中合羽、手甲脚絆。頑丈一辺倒の長脇差とトレードマークの長い楊枝。……幼馴染みの兄弟分に裏切られ、罠におちた紋次郎の頬の刀傷がひきつった。くわえ楊枝が震えて、木枯しに似た乾いた音が、高く鋭く鳴った。時代小説のスーパー・ヒーロー、待望の登場。
2 女人講の闇を裂く
貧しい農家の六番目に生まれた紋次郎は、母親の手で間引きされる運命だった。姉のお光の機転で救われた幼い命は、しかし孤独と虚無を育んでいった。……人を頼るから裏切られる。頼られてしまえば裏切ることもある。ならばいっそ何事にも関わりを持たず独りのほうがいい。くわえた楊枝が木枯しに似た音を出す。木枯し紋次郎の孤独な旅は、まだ始まったばかりだ。
3 六地蔵の影を斬る
「あっしには、かかわりのねえことでござんす」その渡世人の左頬には、古い刀傷の跡がある。さらに彼は唇の左端に十五センチほどの手製の楊枝をくわえている。紋次郎のこのトレードマークは、十二、三年前、彼がまだ二十歳前のある出来事に由来していた……。上州新田郡三日月村の貧農の息子は、まさにこの瞬間から、永遠のヒーローに生まれ変わったのである。
4 無縁仏に明日をみた
「あっしは人を信じねえ代わりに、人から信じられるのも嫌えな性分です」天保の改革、大塩平八郎の乱、米船の浦賀への入港……。しかし紋次郎に限らず、農民も商人もやくざな稼業の者も、時勢の変動を感知することなく、その日の生活に追われていた。俗世に係わらず、義理にも人情にも煩わされずという生き方こそ、紋次郎がそこで学んだことであった。
5 夜泣石は霧に濡れた
「生きる張り合いも、生き甲斐もなかった。その日が去れば昨日だし、その日が来れば今日だった。明日という日は、ないのである」渡世人・紋次郎が今日生きる自分を守るのは、刃渡り二尺の頑丈な刀。道中合羽で刀を隠し、大勢を相手に変幻自在の戦法を取る。……漠とした不安ただよう天保年間を駆けぬけた紋次郎が、21世紀の現代に時代を超えて甦る。
6 上州新田郡三日月村
道中支度の長身、風雨に晒されて黒く変色した三度笠が大粒の雨を弾き返している。次の瞬間、大音響が轟いた。渡世人は落雷の衝撃で意識を失った。二十年ぶりに生まれ故郷の三日月村を訪れた紋次郎であった。石切り人足与作の孫娘に助けられて回復した紋次郎は、与作老人が、実は盗賊泥亀の喜三郎の仮の姿だと知る……。サスペンスと鮮やかなどんでん返し!
7 木枯しは三度吹く
紋次郎は、死を直視していた。非情冷徹な彼が、狂女の言葉を信じ、あざむかれたのだ。追っ手は二十四人。助かる見込みは万に一つもない。紋次郎の意識は朦朧とした。またある日、紋次郎は六人の大男を相手に決然と立ち向かった。全員を泥田の中に倒し去って行く。「あっしには、今日しかございませんよ」現代的な放浪感覚と、ミステリー仕掛けのどんでん返しが圧巻。
8 命は一度捨てるもの
うっそうとした木々、蝉の声に包まれた山道に突如降りつける夏の驟雨……。木曽路を進む木枯し紋次郎はそんな時、幼馴染みの長兵衛とお鶴に出会った。久しぶりの三人が巻き込まれる一大事!? 身を引き裂かれるような状況に立たされる紋次郎。ついにその長脇差は、情容赦なく光った! 全編みなぎる斬新な趣向と密度濃いドラマ。人の魂を震わす、感動の物語。
9 三途の川は独りで渡れ
「三途の川は、独りで渡るもんでござんす」冷ややかな目でそう言うと、渡世人は長脇差を鞘に納めた。北国街道を行く紋次郎の顔に表情はない。……行きずりの男から託された荷物、間に合わなければ子供が間引かれるという。紋次郎は騙されたのか!? なかに二百両の小判が入っていた。――虚無と孤独が色濃く漂う時代劇のスーパーヒーローが、今日も街道を足早に通り過ぎる。
10 虚空に賭けた賽一つ
上州の亀穴峠を行く木枯し紋次郎は突如襲われた。相手は山で育った八人兄弟。山刀、槍、弓矢、それぞれ独自の武器を使い、鍛錬を積んでいる。……行く手には「無」、引き返してもやはり「無」。無宿の流れ者、渡世人はそれでも、命を狙う者たちへ向かって前へ進むほかはない。――非情な紋次郎と哀しい女たちのドラマを描いて、股旅小説に斬新な世界を拓いた伝説のシリーズ。
11 お百度に心で詫びた紋次郎
紋次郎は夕焼けを眺めながら、峠路を下る。五、六歩行ってから振り返り、唇の中心に移した楊枝に息を集めた。木枯しに似た音とともに、楊枝は吹き矢のように飛んだ。峠路を下る木枯し紋次郎の顔に、表情はない。……人を冷たく引き離しながら、密接に関わってしまう紋次郎。その乾いた心情の底にある人間の温かみ。旅はまだ終わらない。道の先にはどんな風景が……?
12 奥州路・七日の疾走
奥州路、そこは賭場も親分衆の住まいもなく、渡世人にとっては禁断の土地であった。しかし、清水港から千石船で銚子に向かった紋次郎は、途中暴風雨にあい、八戸に流れついてしまった。一日も早く関八州に抜けなければならない。――紋次郎を追う、侠客・大前田栄五郎がはなった三十人の刺客と一刀流の達人。紋次郎に勝ち目はない。シリーズ初の長編大作。
13 人斬りに紋日は暮れた
渡世人の一団に追われた紋次郎は、霧の中で突然弓矢の攻撃を受けた。勘だけを頼りに人影に斬りつけると、相手は意外にも猟師の親娘。娘はその傷のために嫁入り話が破談となった。償いをしようとあせる紋次郎は、五十両で「人斬り」を請け負うのだが、殺す人物はなんと……!? 人の世の哀しさ、わびしさ、そこにきらりと光る紋次郎の優しさ。詩情あふれる見事な時代小説。
14 女の向こうは一本道
木枯し紋次郎の前に、最強のライバルが立ちはだかった。直心影(じきしんかげ)流の達人で武家崩れの渡世人・峠花の小文太は、行方不明の妹が紋次郎のため女郎に売られたと聞く。五年ぶりに再会したその妹は、死の床にあった。小文太は紋次郎を斬り刻むことを誓った。恐るべき宿敵。「明日のおのれを見通せねえ身にござんす。先のことはあっしにもわかりやせん」紋次郎危うし。
15 さらば峠の紋次郎
木枯し紋次郎は歩きながら、長脇差(ながどす)の下げ緒を結び直した。錆(さび)朱色の鞘を、鉄環と鉄鐺(てつこじり)で固めた長脇差は、かなり重い。足早に歩くときしっかり固定されていないと邪魔になるのであった。夕闇の中に、菜の花畑が広がっている。……最強のライバル・峠花の小文太との死闘。その行方は?……。シリーズ遂に堂々の完結。紋次郎はしかし、街道を急ぐ。今日も、そして明日も。  
木枯し紋次郎 2
1 赦免花は散った
光文社時代小説文庫から以前出ていたシリーズもの。記念すべき木枯し紋次郎初登場作「赦免花は散った」から「流れ舟は帰らず」「湯煙に月は砕けた」「童唄を雨に流せ」「水神祭に死を呼んだ」の計5編を収録。
最近「時代劇本格ミステリ」というのが流行りつつあるらしいが木枯し紋次郎なんかはその先駆けともいえるのでは。
なんせ著者の笹沢左保さんはもともと本格ミステリのお方。時代小説にどんでん返しを持ち込んだ功績はとてつもなく大きい。
なんやかんやいうても第1作「赦免花は散った」の完成度は高い。菅原文太で映画化されたのもこの作品。小池朝雄をぶった切る。江波杏子はちょいと違う気もするのだが。やるせなさと憤り感が満載のところがたまらない。
あと「湯煙に月は砕けた」が好きな作品。ケガした紋次郎が温泉で治療しているところに乱暴者が好き勝手。どうやってピンチを脱するかのスリリングさとどんでん返しのコントラスト。しかしまあ、つくづく女というのは身勝手なもんだと教えてくれる。これがテレビシリーズ第9話の原作。ゲストは扇ひろ子、長谷川明男、井上昭文など。
「童唄を雨に流せ」はテレビシリーズ第5話の原作。ゲストは香山美子、工藤堅太郎、藤岡重慶など。
「水神祭に死を呼んだ」はテレビシリーズ第14話の原作。ゲストは赤座美代子、田崎潤、南原宏治、寺田農など。
「流れ舟は帰らず」はテレビシリーズ第18話の原作。ゲストは吉田日出子、村松英子、上條恒彦、内田勝正など。これが最初のシリーズのラストを飾る作品。
実は小説はそこまで売れなかった木枯し紋次郎。テレビドラマというか時代劇がまだ力を持ちえた時代背景もあるが映像化によって人気に火が付いたのが真実のようだ。
個人的にはドラマも悪くはないが、原作の魅力には勝てんと思うけどね。
2 女人講の闇を裂く
木枯し紋次郎の光文社時代小説文庫第2弾。「女人講の闇を裂く」「一里塚に風を断つ」「川留めの水は濁った」「大江戸の夜を走れ」「土煙に絵馬が舞う」の計5編を収録。
紋次郎が渡世人となった事情が語られるのが「女人講の闇を裂く」と「川留めの水は濁った」。
貧しい農家の6番目に生まれた紋次郎。生まれた直後に間引きされかかるが、姉のお光の機転によって命を救われる。
そのことを後から知った紋次郎は無口な少年に。(そりゃそうだ)
そして嫁に行ったお光が病死したと知らせがあった翌日に紋次郎は故郷を出奔するわけである。それが10歳の時。これがテレビシリーズ第4話の原作。ゲストは藤村志保、大出俊など。
お光の死の真相を知る「川留めの水は濁った」が第2弾のハイライトかな。この作品がテレビドラマ第1話。1972年元旦放送だったのね。ゲストが小川真由美、小池朝雄など。
新しい長脇差を手に入れる「一里塚に風を断つ」、百姓の執念と哀しさが際立つ「土煙に絵馬が舞う」も好きな作品。
「一里塚に風を断つ」はテレビシリーズ第8話の原作。ゲストは扇千景、土屋嘉男、二木てるみなど。
「大江戸の夜を走れ」はテレビシリーズ第6話の原作。ゲストは安田道代、菅貫太郎、庄司永健など。
紋次郎のセリフといえば「あっしには関わりのねえことで」だが実のところ初期はそこまで頻繁に出てくるセリフではない。
それどころか「土煙に絵馬が舞う」では最後一人生き残った頭の足らない少女に「ここにいてもしょうがねえだろう、一緒に来なさるかい」なんて言ったりもする。これがテレビシリーズ第10話の原作。ゲストは市川小太夫、常田富士男など。
連れてってどうすんのよって話なのだが、そういう意味では紋次郎もまだ温かさが残ってるというか物語の中で裏切られながらどんどん虚無的な感じになり成長していったキャラクターなんだなと思う。
3 六地蔵の影を斬る
木枯し紋次郎の光文社時代小説文庫第3弾。「六地蔵の影を斬る」「噂の木枯し紋次郎」「木枯しの音に消えた」「雪燈籠に血が燃えた」の計4編を収録。
紋次郎のトレードマークの一つである左頬の傷跡と楊枝を加えている由来が語られる「木枯しの音に消えた」が個人的にはベスト5に入る。
まだ紋次郎が二十歳前の頃、斬り合って手傷を負い花田源左衛門という浪人の小屋に逃げ込みしばらく厄介になった。
左頬の傷跡はその時源左衛門が手当てしてくれた手傷の名残なのだ。
楊枝の由来は源左衛門の娘の影響だった。二十日間ほど厄介になった日々の中で、源左衛門の娘の志乃が父親が作った楊枝をさらに細く削り口に加えて笛のように使っていた。
それを紋次郎もまねたのだが、志乃のようなきれいな音は出なかった。紋次郎が左頬の傷をかばって吹くことから響き方に違いが出ていたのだ。
その源左衛門親子を訪ねるのが「木枯しの音に消えた」。ラストの叙情性はシリーズの中でも白眉の出来だと思う。これがテレビシリーズ第12話の原作。ゲストは十朱幸代、荒木一郎、戸浦六宏、左とん平など。観たい。
「六地蔵の影を斬る」はテレビシリーズ第7話の原作。ゲストは佐藤充、北林早苗、蟹江敬三など。
「雪燈籠に血が燃えた」はテレビシリーズ第18話の原作。ゲストは宇津宮雅代、長谷川明男など。
4 無縁仏に明日をみた
木枯し紋次郎の光文社時代小説文庫第4弾。「無縁仏に明日をみた」「暁の追分に立つ」「女郎蜘蛛が泥に這う」「水車は夕映えに軋んだ」「獣道に涙を捨てた」の計5編を収録。
「無縁仏に明日をみた」は紋次郎が子供に刺されてしまう珍しい話。どうにか窮地を脱して一人歩くラストの描写が素晴らしい。テレビシリーズ第17話の原作。ゲストは野川由美子、稲葉義男など。
「暁の追分に立つ」は紋次郎らしさ全開話。明日のない身の生き方が炸裂する。テレビシリーズ2・第2話の原作。ゲストは渡辺美佐子、横山リエ、小松方正など。
「女郎蜘蛛が泥に這う」はある意味マザコンの世界を描いた今日的な話。テレビシリーズ2・第6話の原作。黒沢映画で活躍した菊島隆三さんの脚本。ゲストは北林谷栄、寺田農、工藤明子、高品格など。観たい。
「水車は夕映えに軋んだ」はまあ女性不審ここに極まれりというか。テレビシリーズ2・第3話の原作。ゲストは大原麗子、悠木千帆時代の樹木希林、阿藤海など。これまた観たい。
「獣道に涙を捨てた」はあっしには関わりのねえことでと言いながら情けを見せるというか人間らしい行動をとる紋次郎の魅力が光るテレビシリーズ2・第8話の原作。ゲストは鰐淵晴子、加藤嘉など。
5 夜泣石は霧に濡れた
木枯し紋次郎シリーズの第5弾。表題作のほか、「馬子唄に命を託した」「海鳴りに運命を聞いた」「駈入寺に道は果てた」「明鴉に死地を射た」の計5編を収録。
「夜泣石は霧に濡れた」は紋次郎とこんにゃくの秘話。間引きにこんにゃくで口をふさぐというのはこの時代普通にあったのだ。現代の児童虐待どころの騒ぎではない。ま、そうしなきゃ食えなかったわけだが。
それを知る幼馴染との対決もあり、読みどころの多いエピソード。テレビシリーズ2・第5話の原作。ゲストは渚まゆみ、平田昭彦など。
「駈入寺に道は果てた」はミステリ仕立ての話。一人身になりたい女が惚れていたのが別の紋次郎という名前の男。何気ない話でもこういう細かいアヤのつけ方が素晴らしい。テレビシリーズ2・第11話の原作。ゲストは江夏夕子、織本順吉、浜田寅彦など。観たい。
「明鴉に死地を得た」はどんでん返しと人間不信全開の話。老婆のこだわりが最後に悲劇を生む展開と、ラストのどんでん返しが印象的。テレビシリーズ2・第14話の原作。ゲストは日色ともゑ、菅貫太郎など。
「馬子唄に命を託した」はテレビシリーズ2・第1話の原作。ゲストは新藤恵美、三益愛子など。
「海鳴りに運命を聞いた」はテレビシリーズ2・第7話の原作。ゲストは早瀬久美、河津清三郎など。
最近は時代小説といってもファンタジーだったり妖怪が出てきたりする。それが新たな読者を獲得して全体的な底上げと根強い人気に貢献していることは否定しようがないが、そもそも時代小説ってもともとはヒーローものである。
吉川英治「宮本武蔵」が今まで一番売れた(確か)小説なのは決して偶然ではないはず。
木枯し紋次郎は70年代前半の時代の空気を反映して大ヒットしたが今、何を書けば一番ヒーローとして通用するんだろう。
書き手としてはそれを頭に置いてやってかんとあかんのよね。
6 上州新田郡三日月村
光文社から出ていた木枯し紋次郎シリーズ第6弾。表題作のほか、「錦絵は十五夜に泣いた」「怨念坂を蛍が越えた」「冥途の花嫁を討て」「笛が流れた雁坂峠」の計5編を収録。
「怨念坂を蛍が越えた」はなかなか凝ってるミステリ仕立て。紋次郎と同じ上州無宿の渡世人、酌女と名主の御新造の2つの対比が効いている。怨念坂に復活した怨霊の正体とは? その後のどんでん返しも魅力。
ま、親兄弟の血のつながりって何だろうって気にさせられる。テレビシリーズ2・第13話の原作。ゲストは太地喜和子、高橋長英など。渋い。
「上州新田郡三日月村」は紋次郎の生まれ故郷であり、人間不信の発祥地でもある。ここを舞台に因縁が渦巻き、渡世人として有名になった紋次郎に村人たちが二千両の金を盗賊が狙ってるから用心棒をしてくれと頼む。
まあ人間なんて得手勝手なもんである。テレビシリーズ2・第20話の原作。これが最終回。ゲストは嵐寛寿郎、大滝秀治など。
「冥途の花嫁を討て」は仇討ちの旅を続ける一人の武士。忠臣蔵の頃と違い、江戸末期のこの時代は誰もほめてくれない。「まだやってんの」と嘲られる始末。
紋次郎とその武士始め、男女7人が大雨で一つ屋根の下に逃げ込むのだが――。
どうなるかは読んでのお楽しみ。テレビシリーズ2・第19話の原作。ゲストは「おはなはん」樫山文枝、まだ国会議員やったっけ横光克彦など。
「錦絵は十五夜に泣いた」はテレビシリーズ2・第9話の原作。ゲストは小山明子、穂積隆信など。
このあたりになると紋次郎のキャラクターが完全に確立。今はなかなか短編では生計を立てられない時代だが、長編ばかりではこういったキャラクターも生まれないのでは。
文庫書下ろしシリーズみたいなのもあるけど、紋次郎のような強烈なキャラクターで売ってるわけでもない。
時代小説の魅力って短編にあると思うし、時代小説専門雑誌みたいなの誰か作ってくれんかね。
7 木枯しは三度吹く
光文社時代小説文庫木枯し紋次郎第7弾。表題作のほか、「唄を数えた鳴神峠」「霧雨に二度哭いた」「四度渡った泪橋」の計4編を収録。
「唄を数えた鳴神峠」は紋次郎最大のピンチの話。他人の話を信じない紋次郎が狂女の言葉を信じ騙される展開。追っ手は24人。紋次郎はこの危機を乗り越えられるのか――という話。
ここで連載はひとまず終わり、次の作品から復活することに。それが表題作の「木枯しは三度吹く」。登場の仕方と殺陣のアイデアが凝っている作品。
「霧雨に二度哭いた」はフジからテレビ東京に移って制作された新・テレビシリーズ第1話の原作。ゲストは萩尾みどり、目黒祐樹、今井健二など。こういうどんでん返しは結構好み。
「四度渡った泪橋」は新・テレビシリーズ第7話の原作。監督は中村敦夫。以前にもあったな、そんな話。これはミステリ的にはバレバレなところがあるけど、まあ女性不信全開の話で結構共感するところはある。ゲストは三浦真弓、土屋嘉男など。
8 命は一度捨てるもの
光文社時代小説文庫木枯し紋次郎第8弾。表題作のほか、「念仏は五度まで」「狐火を六つ数えた」「砕けた波に影一つ」の計4編を収録。
「念仏は五度まで」は新・テレビシリーズ第8話の原作。濡れ衣で手配を受ける紋次郎。一方で起きる連続殺人。子連れの盲目の渡世人と紋次郎の運命は――という話。ゲストは赤座美代子、長谷川明男など。おなじみの人たちですな。
「命は一度捨てるもの」は新・テレビシリーズ第21話の原作。紋次郎が幼馴染の長兵衛とお鶴に出会う展開。ゲストは新谷のり子、竜崎勝、常田富士男など。観たい。
「狐火を六つ数えた」は知恵遅れの娘が何者かに孕まされた。処女が自然に孕むはずもないわけで、犯人探しが始まるのだがそこに巻き込まれた紋次郎。しかし――という展開。
ま、お熊婆のキャラクターが強烈。ぶった斬られた時にスカッとしてしょうがない。
「砕けた波に影一つ」は新・テレビシリーズ第18話の原作。基本、船の上で話が展開するという珍しい内容。冒頭、人違いで襲われ左手をケガする紋次郎。手当をしてくれた女が一緒の船に乗り合わせるが、乗っ取りに合い――という話。
ゲストは吉行和子、小松方正、織本順吉、樋浦勉など。観たい。
9 三途の川は独りで渡れ
光文社時代小説文庫木枯し紋次郎第9弾。表題作のほか、「鴉が三羽の身代金」「四つの峠に日が沈む」「鬼が一匹関わった」の計4編を収録。
「鴉が三羽の身代金」は新・テレビシリーズ第10話の原作。脚本が弟の中村勝行、演出は中村敦夫。兄弟でやるのってなかなかないのでは。
牢破りをした8人が地元に関わりのある渡世人たち3人を人質に。身代金を出せというのだが、それぞれの縁あるものはみな知らん顔。そうこうするうちに人質は殺され、8人は集落を襲いまくる。その時、紋次郎は――という話。
ゲストは松田英子、中西良太、田口計、内田勝正など。中西良太の役はハマってそうな。映像が目に浮かぶ。しかしまあ、人情紙風船とはこのことで。
「四つの峠に日が沈む」は新・テレビシリーズ第3話の原作。オレの誕生日に放送されてたのね。ゲストは池波志乃、石山律雄など。紋次郎と呼ばれている犬が結構キーになるんだけど、ドラマでは出たのかな。
「三途の川は独りで渡れ」は新・テレビシリーズ第6話の原作。紋次郎の唯一の弱みと言えるかもしれない、間引かれかけた過去。行きずりの男から託された荷物、間に合わなければ子どもが間引かれるという。その時、紋次郎は――という話。
ゲストは新橋耐子、小坂一也など。
「鬼が一匹関わった」は新・テレビシリーズ第22話の原作。終盤のどんでん返しの鮮やかさとお鶴の可憐さ、紋次郎の立ち振る舞いが光る。
ゲストは原口剛、泉晶子、岡本麗など。泉晶子さんってスケバン刑事Uに出てたねえ。南野陽子のお母さん役。回想シーンしか出て来んけど。おとっつあんはアオレンジャー宮内洋。この2人ならああいう娘生まれそう。
ま、脱線したけど、そういうことです。
10 虚空に賭けた賽一つ
光文社時代小説文庫木枯し紋次郎第10弾。表題作のほか、「旅立ちは三日後に」「桜が隠す嘘二つ」「二度と拝めぬ三日月」の計4編を収録。巻末にはテレビシリーズ主演を務めた中村敦夫の解説がある。
「虚空に賭けた賽一つ」は新テレビシリーズ第24話の原作。ゲストは弓恵子、橋本功など。ラストのどんでん返しと哀れさが心を打つ。
「旅立ちは三日後に」は新テレビシリーズ第9話の原作。出だしの切り口が最後に回収される構成が見事。結構好みの作品。危機を助けられた紋次郎が、安住の地に一度は心を動かされる展開。ゲストは佐藤友美、今福正雄など。観たいなあ。
「桜が隠す嘘二つ」は濡れ衣を着せられた紋次郎が絶体絶命のピンチの中、名だたる親分衆を相手に事件を推理する展開。これ、映像化してほしいよなあ。
「二度と拝めぬ三日月」は新テレビシリーズ第16話の原作。ゲストは江波杏子、大和田獏、蟹江敬三などなかなかのメンバー。極めつけは笹沢左保本人が国定忠治役で出演。原作は結構国定忠治の役割が大きいのだが、ドラマはどうなってるのかな。
この巻は濡れ衣着せられたり追っ手に間違われたり巻き込まれるパターンが多いな(笑)
あっしには関わりござんせん、という前に否応なくひたすら事件に巻き込まれていく紋次郎の姿にご注目。
11 お百度に心で詫びた紋次郎
光文社時代小説文庫木枯し紋次郎第11弾。表題作のほか、「白刃を縛る五日の掟」「雷神が二度吼えた」「賽を二度振る急ぎ旅」「年に一度の手向草」の計5編を収録。連載再開後は数字を必ず入れているのが特色。
「白刃を縛る五日の掟」は新テレビシリーズ第14話の原作。とある約束から長脇差を五日間抜かないことを余儀なくされた紋次郎の話。見届け人の吉五郎、旅を共にすることになるお捨てのキャラがいい。ゲストは林与一、服部妙子、草野大悟など。結構好きな短編。
「雷神が二度吼えた」は新テレビシリーズ第4話の原作。紋次郎の長脇差が折れてしまいピンチに陥る展開。ここでも道行きをともにする人たちのキャラが悪くない。また、国定忠治の言葉を思い出すところなんかが好き。ゲストは鮎川いずみ、住吉正博など。
「賽を二度振る急ぎ旅」は新テレビシリーズ第5話の原作。紋次郎よりも腕の立つ元武士の渡世人が現れる展開。ゲストは町田祥子、綿引勝彦(この頃の名前は綿引洪)など。
「年に一度の手向草」は新テレビシリーズ第2話の原作。紋次郎が唯一、人と認める今は亡き姉のお光の墓参りに。ところが何者かが墓を掘り返した跡が。怒りに燃える紋次郎だがという話。ゲストは「あばれはっちゃく」東野英心、浜村純、吉本真由美など。監督・脚本は神代辰巳。観たいなあ。
「お百度に心で詫びた紋次郎」は新テレビシリーズ第26話・最終回の原作。ようやく安住の地を見つけたかに思えた紋次郎だったが――という展開。人間関係のあやのつけ方とどんでん返しとラストシーンが素晴らしい。ゲストは中島葵、水島道太郎など。
粒ぞろいの短編集。  
赦免花は散った 1
天保6年、渡世人の紋次郎は、母親の死に目を看取りたいという幼馴染みで兄弟分の左文治の罪を代わりに被って、三宅島に流罪になっている。三宅島の囚人たちはみな飢えに苦しんでいて、島からの脱出を試みたりしている。脱出が未遂に終わって、島を出られなかった者は、銃殺されていくのだった。紋次郎の赦免花は散った02岩田専太郎.jpg島での同居人・清五郎ほか、捨吉、源太、お花の4人組も、脱出を企てている。差し迫った三宅島の火山噴火の機を狙い、その混乱に乗じて脱出しようということだ。一時的な身代わりとして島に来ている紋次郎はこの計画に加わらないつもりだったが、新たに島に来た流人から、左文治の母親は9か月前、紋次郎が小伝馬町の牢内にいる頃に亡くなっていたことを知らされ、自分が左文治に裏切られたことを知って、4人組の島脱出計画に加わることにする―。
「赦免花は散った」は「小説現代」1971(昭和46)年3月号に発表された作品で、「帰ってきた紋次郎」シリーズまで入れると28年間、全113編にもなる「紋次郎もの」の第1作、始まりの作品です。そのデビューが流刑島としての三宅島だったというのはやや意外でした。いきなり、島における悲惨を極める流人生活が克明に描写され、島流しが「遠回しの死刑」といっていいほどに、肉体的にも精神的にもギリギリまで追い詰められる地獄の刑罰であることを物語っています。
紋次郎は、島に流される時に、自分の後追いするように自殺した両替屋の「お夕」のことを毎日供養の気持ちで思ってみたり、三宅島では「お夕」と同じ名前の流人の妊婦の世話をしたりしますが、紋次郎が世話した島の「お夕」は子連れ自殺したために紋次郎の気遣いは報いられることなく、また、最終的には、もう1人の「お夕」にも左文治と通じ合って自分を裏切っていたことを知ることになり、日々の供養もまた無意味だったことを知るに至ります。
島からの脱出行で、清五郎、捨吉、源太、お花の4人組は生存本能剥き出しの獣のような争いとなり、結局、紋次郎だけが江戸に帰還して左文治と対峙します。お腹の中に左文治の子がいるというお夕の訴えを退け、「もう、騙されねえぜ!」と一喝して左文治を仕留め、お夕には「お夕さん、甘ったれちゃあいけませんぜ。赦免花は散ったんでござんすよ」と言い捨てます。
「赦免花」とは蘇鉄の花のことで、流刑の島では蘇鉄の花が咲くと赦免船がやって来るという言い伝えが根拠のないまま自然発生的に流布されており、そのことに由来する呼び名です。と言っても、今ここで「赦免花は散ったんでござんすよ」と言ってもお夕には何のことだか分かるはずもなく、紋次郎自身、なぜ自分がそう言い捨てたのか分からないでいます。但し、その後に、「しかし、それでもよかった。赦免花は散ったと口にした瞬間から、紋次郎は新しい自分になったような気がしたのだった」と続きます。
まさに、虚無感漂うアンチ・ヒーロー木枯し紋次郎の誕生の瞬間であり、当エピソードは紋次郎誕生秘話と言えるものですが(当時紋次郎は30歳で、渡世の道に入って14年という設定らしい)、翌'72年1月1日からフジテレビ系列でスタートした中村敦夫主演のテレビドラマ「木枯し紋次郎」では、全38話を通じてこのエピソードは映像化されていないようです('77年から'78年にかけて東京12チャンネルで放映された「新 木枯し紋次郎」全26話についても同様)。"誕生秘話"という特殊な位置づけであるだけに、通常のシリーズの中には入れにくいのでしょう。一方で、中島貞夫監督、菅原文太主演の映画「木枯し紋次郎」('72年/東映)がこの「赦免花は散った」を原作としているとのことで、初の時代劇出演だった菅原文太の紋次郎がどのようなものだった観てみたい気もします。
赦免花は散った 2
ドラマで一世を風靡した、おなじみシリーズの第一作だ。『赦免花は散った』は、紋次郎がこの世でただ一人、気を許した兄弟分、日野の左文治の身代わりで三宅島に島送りになるというところから始まる。その時、紋次郎には密かに慕うお夕というかたぎの娘がいた。しかし、流人船が出ようとしたとき、お夕は橋から身を投げて自殺してしまう。自分のためにかたぎの娘を死なせたことに紋次郎は苦しむ。三宅島での紋次郎の心の支えは、誰の子かもわからぬ子を身ごもった、同じくお夕という名の女囚の面倒を見ることだ。死んだお夕の供養のつもりである。しかし、その女も身を投げて死んでしまう。それを機に、紋次郎は誘われていた島抜けに加わり、江戸に戻る。するとそこには、死んだはずのお夕の姿が……。
赦免花とはソテツの花で、この花が咲いた年には刑期を終えた者を迎えに来る赦免船が来ると信じられていた。裏切りがばれて「おなかの中に左文治の子がいる、左文治を切らないで欲しい」と嘆願するお夕に、紋次郎の脳裏に、父無し子を抱えて身を投げた三宅島のお夕の姿が浮かぶ。
「赦免花は散ったんでござんすよ」
そう呟いて紋次郎は左文治を切る。
救いのない話である。しかし、面白い。たった一人で、何かにせき立てられるように旅を続ける紋次郎。愚痴もこぼさず、心を開く友達もいず、己の業務に邁進してきた、俺の親父の世代の「男」達は、この寡黙なヒーローに自分を重ね、静かなカタルシスを感じていたのである。 名手・笹沢佐保の小説作法を学ぶに最適な作品群である。蛇足ではあるが、私はあまりのうまさに、この第一作を、丸ごとノートに清書して、段落ごとに分析したことがある。作者は、紋次郎が「思った」とか「感じた」などと一切描写しない。しかし、彼のみた光景の描写だけで、紋次郎の怒りや絶望を読者に「しっかりと伝えて」くる。しかも、ストーリーがどんどん展開していくのにシンクロして、火山の噴火、荒れる海、と舞台背景も劇的に展開する。エンターテイメント小説を志す人は、絶対に読むべき作品群。面倒臭がりの俺が、まるまる模写してしまった作品は、あとにも先にもこの一編だけである。  

 

●木枯らし紋次郎
●第1話 「川留めの水は濁った」
放映では本来、第1話は「地蔵峠の雨に消える」であったことは有名。市川監督自身は、この「川留めの…」を第3話として放送する予定だったとか。原作は第8話になる。ちなみに、原作が活字化されたのが第1話放映の3ヶ月前(多分?)。そんな綱渡り状態でよく脚本ができたものである。市川監督がこの話を選んだのは、紋次郎のアイデンティティを語る上で、どうしても必要であると考えたからであろう。
紋次郎が唯一、信じることができた人物というのは姉「お光」だけ。紋次郎がなぜ、無宿渡世に身を置くようになったのかという答えを垣間見ることが出来る作品である。そのお光と瓜二つの壺振りお勝を「小川真由美」が演じている。原作とは随分イメージが違うキャスティングである。市川監督は何を狙ったのだろうか?髪型、メイク、着物、全てに於いて当時の時代劇からは、かけ離れている。監督はブリジット=バルドーのイメージを要求したらしい。時代劇に新風を吹き入れるというのは解るが、彼女からイメージするお光には、悲運や凛とした気高さは想像できない。本来の第1話 「地蔵峠の雨に……」があまりにも残酷すぎる内容だったので、バランスをとったのかもしれないが、お光のイメージはこのシリーズでは重要な位置づけであるので疑問である。
ちなみに以後「青春の門」で、この二人は再び共演するのだが、紋次郎収録時は二人の知名度にはかなりの差があった。にも関わらず中村氏には既にかなりの存在感が具わっていたことには驚きである。いや、存在感というより「木枯し紋次郎」として実在していたという方が正しいのかもしれない。
実在した(と思わせる)紋次郎と、明らかに原作から離れたイメージのお勝との対比が面白い。またお勝と実の弟との掛け合いもコミカルで、同じテイストで考えるとしたら、テレビ版第18話の「流れ舟は帰らず」のお藤のキャラクター設定かと思われる。原作では、お光の裏切り(佐太郎に見逃してもらうという交換条件で)行為がある。紋次郎に酒を勧めて酔わせ、命を狙う手はずであったが、紋次郎は酒を飲んだ振りをして手ぬぐいに染みこませてた。テレビ版ではお勝の策略はなかったが、酒を勧められても、紋次郎は断っている。とにかく酒は飲まないのだ。(大江戸…では飲んでしまうが)心を許すことが出来るのは、今は亡き実の姉「お光」だけなのだ。いくらお光に瓜二つであろうが、人を信じない鉄則を守る紋次郎。
原作とテレビ版との違いはいくつかあるが、その一つに、佐太郎(定吉)が自分の義理の弟、紋次郎に気づくのはいつなのかということ。原作では、はじめの賭場の場面で「木枯し紋次郎」と名乗られ、佐太郎は気づく。大体、自分で「木枯し紋次郎」と名乗るのは珍しいのだが…この時点で佐太郎は、お光の件で紋次郎に恐怖を覚える。テレビ版ではまだそのことには気づいておらず、それよりも手目博打で金を騙しとられたことに怒り、お勝と茂平衛を探し廻る。そのお勝を無事に佐太郎の許から逃がすために、紋次郎は手を貸してやるのだ。佐太郎は紋次郎の前で、お光の死の真相を打ち明けるのだが、紋次郎にとっては本当に辛く、怒りに満ちた瞬間であったろう。もしかしたら、どこかで生きていていつか会えるかもしれない……という一抹の希望が、残酷にもお光を殺した本人によって踏みにじられたのである。
「紋次郎の怒りは、激しく爆発していた。これほど怒ったのは、生まれて初めてかもしれない。紋次郎は、自分が恐ろしくさえあった。目の前で、お光に瓜二つのお勝が息を引き取った。その上、お光を死に至らしめた定吉と対峙している。21年ぶりに、お光は死んでいるという実感が湧いた。もう二度と、お光がどこかで生きていると、想像することはできないのであった。」(原作より抜粋)
主題歌「だれかが風の中で」を作詞した和田夏十さんは、この原作を何度もお読みになったのではないかと推察する。あてなく希望もなく、心は死んだはずの紋次郎であるが、消え入りそうな灯火を(お光は生きているかもしれない)心の奥底で灯していたのだ。紋次郎が背負う孤独の本質を、市川監督は第3回で表したかったのだが、結局、記念すべき第1話となった。この変更には監督はかなり抵抗したらしい。監督は本来の第1話 「地蔵峠の雨に……」で紋次郎をかっこよく登場させたかったに違いない。紋次郎の愚直とも言える根っからの渡世人ぶりで、視聴者に仁義を切らせたかったのだろうと推測する。
原作ではお勝は佐太郎に殺される。横たわるお勝に紋次郎は近づく。
「川風に着物の裾が煽られて、お勝の白い太股がチラチラ見えていた。紋次郎は楊枝を、唇の真中に 定めた。その一点に集めて、息を吐き出した。吹き矢のように飛んだ楊枝は、お勝の着物の裾を地面に縫いつけた。」(原作より抜粋)
このシーンは、テレビ版第3話の「峠に哭いた甲州路」のラストシーンとして使われている。笹沢氏が考えた楊枝の使い方は絶品である。感情をほとんど表に出さない紋次郎の唯一の感情表現は、飛ばす楊枝の行方である。市川監督は、お勝を生き延びさせる。明るく、強かに生きる道を指し示してエンドとなるが、一抹の希望が見えるエンディングは、このシリーズの中ではめずらしいと言えよう。 
川留めの水は濁った
「あっしは、面倒なことには関わりをもちたくねえんでさあ」
市川崑演出で、テレビのブラウン管に初めて紋次郎が登場し、オープニングタイトル前の賭場荒らしの最中、立ち去る紋次郎に助っ人をもとめるやくざに向かって云うセリフです。これが紋次郎の常套句のテレビ初登場のものです。ただし原作の小説では、本セリフは登場しません。
さらにやくざが「あいつが木枯し紋次郎」というつぶやきに続き、上條恒彦の歌う有名な主題歌「だれかが風の中で」をバックにタイトルが流れます。
賭場荒らしをする姉弟。賭場荒らしで手に入れ田舎の親に届けようとした金を姉のお勝(小川真由美)から弟の茂兵衛が横取りし、ひとりで居酒屋で呑んでいるところにやってきた紋次郎。経緯を察し、金のはいった巾着めがけて、口にくわえた楊枝を吹き刺し、お勝に返そうとし、金をとってゆきます。これも、今後決めポーズとして登場する楊枝を吹き刺す、初登場シーンです。
「渡世人の世界には、味方はいねえ。 信じられるのは、自分だけでござんす」
この話の中で、大井川の川留にあい、島田宿でお勝と同宿することになった紋次郎が自分の生き方、性格を語るシーンです。放送第1話として、登場人物の説明をしているわけです。これも原作にはありませんでした。そして、冒頭の有名なセリフ。他人事に関わりを持たないことを紋次郎は宣言しています。
ところが人間生きて行く中では、当然ながら一人で生きて行くことはできないので、関わりをもってしまいます。紋次郎もそう云いながら関わりが生まれ、対峙して行かざるをえない立場へ立たされてしまいます。積極的に関わってゆく必要はありませんが、人間関係を円滑にするためには、関わってゆくことが逆に必要です。と一般論を語ってしまいましたが、ビジネスにおいては、どうでしょう。
以前、筆者は企業の研究所の論文の検索システム開発を手伝ったことがあります。そのリーダが力不足で開発がうまくゆかない状況での応援要請で、その体制の中に一開発担当として入りました。結果、既存の体制の中にはいってゆく形で、うまくゆきませんでした。こんなケースが多いのではないでしょうか。
体制を含め、自身がリーダとなり、仕事全体を自身のものとした上での参加することがお薦めです。他人(同僚)の仕事に干渉することは、しないほうが懸命です。チームで仕事をしていても、所詮は個人の仕事の集まり、それが会社の仕事です。ポーズとしては、会社のために粉骨砕身、そしてどんなことも厭わない。しかし中途半端な応援は、成功したとしても応援者は評価されませんし、失敗したら、その責任の一端を担ってしまいます。いずれにしろ分が悪い。それを肝に銘じて、背を陽に向けて、ときどき振り返りつつ、ビジネス道を歩きましょう。 

 

●第2話 「地蔵峠の雨に消える」 
人からの頼まれごとには、必ずと言っていいほど断る紋次郎であるが、これは薄情とか利己的とかいう単純な理由ではない。人を頼らない、だから人に頼られたくない。人を信じない、よって人から信じられることを拒む。これは、つまはじきにされた渡世人が生き延びるための処世術である。しかしそんな紋次郎であっても、頼みを引き受け遂行することがある。そして一旦引き受けたからには、絶対やり通す。バカが付くほど律儀にやり抜くのだ。そんな数少ない頼みの中でも、この作品は異例中の異例である。「自分を殺せ」と書かれた書状を、自分の命を狙う相手に届けに行くのであるから。
この作品は紋次郎が連載される(1971年3月)前年、1970年9月号の「小説現代」で、「三筋の仙太郎」が主人公として発表されたものである。仙太郎を紋次郎として脚本化され、市川監督の構想では、本来第1話として放映されるはずだった。しかし内容が残酷すぎる、悲惨であるという理由で、一部カットされ第2話として放映されたのである。三筋の仙太郎は、紋次郎が文壇に登場する以前の渡世人である。仙太郎のトレードマークは、背中にある三筋の刀傷、左腕に巻き付けてある綱。それらが紋次郎の左頬の刀傷、口にくわえた楊枝を連想させる。「旅人さん、その口にくわえた楊枝は、何かのまじないですか?」「これはただの癖ってもんで……」この会話は有名であるが、三筋の仙太郎も腕に巻き付けた綱のことを尋ねられ答えている。「これかい。これはただの、癖というもんさ」多分、このセリフを最初に口にしたのは仙太郎であろう。
市川監督は仙太郎をベースにしながらも、よりかっこいい紋次郎を確立している。原作と違う設定や創作された印象的なセリフ。
腹痛に苦しむ十太に無言で背中を向け腰を下ろす紋次郎。「とんでもねえ、肩貸してもらうだけで十分だ」「遠慮はいらねえ、こっちは負ぶった方が楽なんだ」恐縮する十太に気を遣わせまいとする紋次郎の思いやりが見える。
十太を旅籠まで送り届け立ち去ろうとするが、宿の主人の「おめえ達は渡世人仲間じゃねえのか?」という言葉に立ち止まり、結局十太の面倒を見る。この「渡世人仲間」という言葉は、敵地に向かうことを止めるお千代に「あっしも骨の髄から渡世人だからでしょう」と口にする紋次郎のセリフにつながっている。十太の宿代を賄うために紋次郎は賭場に行き、手にした金の全額を旅籠の主人に渡す。この時の賭場でのしきたりはかなり史実に忠実で、(勝った分の半分近くは胴元に返す)よく研究されていると感じる。
原作ではお千代は半次(十太)の義理の妹で、善助の間に一子をもうけている。しかし市川作品では、お千代は十太の妻である。十太の妻でありながら、十太の親分代わりの囲い者にならざるを得なかったお千代という設定の方が、人間関係に深みがあり切ない。
番組内ではお千代と二人きりになったとき、紋次郎は雄弁に語る。原作ではお千代のことを、「1年中あちこち旅して歩いていても、これほどの美人にはそうめぐり会えるものではなかった」と記されてあるが、それをそっくり紋次郎は口にしている。これは、紋次郎を知っているファンにとっては絶対考えられない設定である。第1作目ということなので、紋次郎に状況をいろいろと語らせたのであろうが、私にとっては座り心地が悪く、このシーンになると自分自身が赤面してしまう思いである。
長ドスを抱かず仰向けに寝るほど無防備な紋次郎であったが、何かの気配を感じ長ドスを確かめるところなどはさすがである。また身の危険を察知し、急いで身支度を調える一部始終を見せるシーンは、その手際よさに見とれてしまう。原作にはない、お千代が紋次郎の長ドスの目釘を抜き、紋次郎はそれに気づき、梅の小枝を目釘代わりにするシーン。「おかみさん、目釘代わりに庭の梅の小枝をもらいやしたぜ」実にかっこいいセリフである。
原作の仙太郎の刀は、竹ベラである。襲ってくる敵の刀を奪い、柄を握った右手の上から綱で幾重にも縛り、もっぱら突きで敵を倒すという戦法である。渡世人の持つ刀などは、すぐに刃こぼれして使い物にならなくなる。実に合理的な考えである。この後の作品、「無縁仏に明日を見た」で紋次郎は、長ドスを右手に縛り付けて立ち回りをしている。このアイディアをいつかは使いたいと思っていたのだろう。
善助が事の次第を全部言い放ち、紋次郎のことを「とんだ愚か者だったのさ」と愚弄するが、その後の紋次郎の返しが実に胸をすく。「愚か者はあっしだけじゃなさそうですぜ…相手を知らなさすぎたって訳さ」
紋次郎と仙太郎の決定的な違いは、仙太郎は労咳に冒されているということである。仙太郎は喀血を繰り返しており、自分の死期を予感している。それが故に、今までにないアテのあるこの旅に充実感を味わっており、それはそのままクライマックスにつながっている。もう一通の書状(手紙を届けた者を殺せと書かれた)を粕尾の利三郎に届けに行くという仙太郎は「あっしの身体に、もう先はありやせん。今度血を吐いたら、助からねえ気がします。どうせそうなら、半次さんの頼みを果たしてやりてえんで、正直なところ、早くあの世で半次さんと会いてえのかもしれません。馬鹿なやつだと、笑っておくんなさい」とお千代に言い、雨の中地蔵峠に向かい消えていく。その後の仙太郎の消息は不明である。地蔵峠を越えようと越えまいと、死が間近に迫っている仙太郎には、生き甲斐と死に甲斐がないまぜになっていて悲壮感が漂っている。
一方、市川作品の紋次郎は、「あっしには十太さんの立場がよくわかります…あっしも骨の随から渡世人だからでしょう…あっしが桶川の松五郎を斬りさえしなければ、あんたも今のような辛い目に遭わなくてよかったんだ…十太さんのおかみさん、随分とお達者で…」渡世の義理で、なんの恨みもない松五郎を紋次郎が斬ったことが発端で、十太もお千代も運命を狂わされたのである。そして最後まで渡世の義理を貫いた十太の生き方に、紋次郎は共感を覚え愚直なまでに約束を果たす。紋次郎と十太の渡世人としての生き様は、とても真似できないだけに憧れる。
地蔵峠の雨の中の殺陣は圧巻で、ファンの間でも語りぐさになっているほどなので、ここでは割愛する。ただあの雨の中、利三郎一家を叩き斬った後、刀の柄を拭い血振りをして鞘に収める所作のかっこよさには惚れ惚れとした。雨が降る度に私はこの名シーンを思い出す。
ちなみに美術担当の西岡善信氏が、シリーズ全話分の経費をこの回の一話分の経費と思い込み手間暇をかけたという芸術品を味わえるのも、この回の贅沢な楽しみである。 
地蔵峠の雨に消える
「今夜のうちに明日のことを考える。十太さんから書状を頼まれるまでは、明日という日の使い方を前もって試案したことなんかねえ、あっしです」
放映開始後まもない市川 崑演出のサスペンスフルな作品である2作目の紋次郎は、多弁です。まだテレビドラマの紋次郎としてのキャラクタが確立されていません。
木曽路で病の渡世人 十太(高橋長英)と出会った紋次郎は、死の間際に2通の書状を届ける約束をします。日光裏街道足尾の内ノ籠の千代(宇都宮雅代)と粕尾の利三郎宛ての2通です。しかし、その書状は、紋次郎殺害を依頼するものでした。そうとは知らない紋次郎が、木曽から足尾まで足を運んだ際の、千代との会話です。
わたしたちは紋次郎ではありませんので、ビジネスで仕事をするにあたっては少なからず計画を作り、頭の中でシナリオを組立て行動するべきです。紋次郎の生き方は、明日のことを考えない、考えられない生き方です。わたしたちは明日が考えられるという喜びをかみしめて生きられるとよいですね。しかし、明日があるからといって、翌日に仕事を残すことなく、今日できることは今日中に片づけてしまいたいものです。明日のことは計画は立てるものの、どうなるかわかりません。今日片づけられる仕事を今日片づけるための残業は肯定できるものです。
本作の原作は「峠」シリーズの作品で、三筋の仙太郎という主人公を、紋次郎に置き換えた作品です。他にも同様な作品として、「峠に哭いた甲州路」、「見かえり峠の落日」等があります。
労咳病みで死期も近い仙太郎は、書状を届けるという目的を得た喜びを、原作ではセリフでなく、木曽路からの日光裏街道足尾までの目的ある旅の様子を長々をページを割き、心情を次のように説明しています。
"明日のない毎日ばかりを過ごしてきた。アテのない旅ばかりを続けて来た。そうした自分が初めて、確固たる目的を持った。きっと、そのせいに違いない。明日を考えながら、目的地に向かって旅を急ぐ。それがこんなにも、気持を熱っぽく充足させるものだとは、いままで知らなかったことだった。これが生き甲斐というものかもしれないと、三筋の仙太郎はふと思った。"
ちなみに本作の舞台である足尾から粕尾に向かう山間に地蔵峠という地名の場所はありません。当然フィクションですので構わないのですが、途中の粕尾峠の北に地蔵岳、その登り口に地蔵平という場所があります。 

 

●第3話 「峠に哭いた甲州路」
紋次郎の連載と同時期(昭和46年)に、文藝春秋から4作品を収録した「雪に花散る奥州路」の単行本が発行された。この「峠に……」はその中に収録されている。「天神の新十郎」という渡世人が主人公であり、テレビ版の展開はほぼ原作通りであるが、最後に新十郎と大関の村の関係が明かされる。大関の村人たちに片腕をもがれ、復讐に燃える源太役は、中村氏と同じく俳優座に所属していた「原田芳雄」である。ギラギラした執念を感じる個性的で野性味ある風貌は、紋次郎とは対照的である。
この回ではお妙との会話で、紋次郎の心情の奥底が吐露される。「あっしにはたった一人会いてぇ人がいる。会えっこねぇんだ、死んだってことなんですからねえ。だけどあっしの胸からどっか行きやぁ、ひょっとしたら会えるかもしれねえってそんな気持ちが消えねぇ…」会いたい人は姉のお光なのは言うまでもない。原作は新十郎なのだからこんなセリフは書かれてはいない。市川監督はここでも、姉のお光に対する紋次郎の気持ちを語らせている。市川監督の構想では、「地蔵峠の雨に消える」で紋次郎をかっこよく登場させ、この「峠に哭いた甲州路」で、たった一人会いたい人を求めて旅をする紋次郎の心情を表し、第3話 「川留めの水は濁った」でその人物は姉のお光であったという運びだったのではないだろうか。しかし、実際は第3話が前倒しになってしまった。
この「峠に…」の時の紋次郎の行動は冷たい。源太が村人を皆殺しにしようとすぐそこまで来ているのに、一言もそれについて村人には知らせない。村人が死の間際で助けを求めても、「大関の衆には何の義理もござんせんので……」と、立ち去ろうとする。お妙にはあんなに憐情のこもった表情を見せたのに、関わりがないと言えばそれまでだが、どうもしっくり来ないと思っていた。テレビ版だと紋次郎は、渡世人やよそ者に排他的で差別的な態度をとる村人だから、義理だてしないという風にしかとられない。本来紋次郎にとっては、堅気から蔑まされたり、人間らしい扱いをされないことなどは、当たり前のことで辛くも悲しくもないはずなのだ。そのあたりは新十郎と紋次郎の設定の違いからくるものである。
実は新十郎の生まれ故郷はこの大関で、父親の些細な咎で村八分になり、この村を逐われ、幼くして両親を亡くすという生い立ちであったのだ。新十郎にとっては源太と同じように、この大関の村は恨みこそすれ義理のある土地ではなかったのだ。だから源太に少なからず同情をしたのだった。番組内の紋次郎は、「なんで源太をかばうんだ?」の問いに「土地が貧しいと悲しい話が多いもんだと思いやしてね」と答えているが、問いの答にはなっていない。明らかに自分の生まれ故郷、三日月村と大関の村をオーバーラップし、村はずれの間引き地蔵にも言及し、思い出したくない自分の過去とを重ね合わせている。
お妙から別れ際に手渡された白い野菊の花…これは原作通りだが、紋次郎にとって野菊は姉のお光を彷彿とさせる象徴的なものである。(それについては、「飛んで火に入る相州路」で明らかにされる)野菊が風に吹かれ、はらはらと花弁が散る…逡巡した紋次郎が野菊を叩きつけ草鞋で踏みにじり、踵を返す場面は原作と同じであるが、村人が乗ってきた馬に飛び乗り大関に向かう新十郎に対して、紋次郎はひたすら走る。中村氏自慢の脚力の見せ所である。棚田を一気に駆け上り、走りながら敵に刃を向ける。敵が刀を吹っ飛ばされ、あたふたして丸腰で紋次郎に組み付くシーンなどは、今までにない殺陣で臨場感がある。ラストのクライマックスでの源太とのチャンバラでも、源太は長ドスを取り落とすがカメラは回り続ける。どちらも計算された演技ではないように思われる。人間、切羽詰まると演技抜きの行動をとるものだ。リアリズムを追求した市川監督の精神はこの後、他の監督にも受け継がれることになる。
源太に斬られ瀕死状態のお妙に「さあ、急がなくちゃあなりませんぜ」とお妙を抱き起こし背に負う紋次郎。原作と同じであるがラストは違う。原作では新十郎は自分の生い立ちをお妙に聞かせる。「新十郎さんは、大関の衆を恨み、憎んでいたでしょうに……」「だから、あっしは手を貸したくはなかったんでござんすよ」「大関に寄ってみようなんて、気紛れを起こさなければよかったんです」「それが不思議なもんで、憎い連中がどうしているか、ちょいと気になりやしてね」「そのために、憎い連中の命を助ける羽目になって……」「世の中は皮肉にできているんでござんしょう」「わたしも、この眺めを生涯忘れることはできません」(原作より抜粋)
お妙は峠の向こうを眺めながら息を引き取る。しかしテレビ版では、峠に着く直前に紋次郎の背中でお妙はひっそりと息を引き取る。願いを叶えてやれなかった紋次郎は、暫し静かに目を閉じお妙を静かに木の根本におろし、峠の向こうにそっと顔を向けてやる。「これが峠の向こうでござんすよ、お妙さん」お妙の着物の裾が風に吹かれて乱れるのを、紋次郎は楊枝で留める。「川留めの水は濁った」の原作で、姉のお光にそっくりなお勝の着物の裾を楊枝で留める使い方をここで取り入れた訳である。楊枝の使い方としてはこの回が一番の絶品である。感情を殆ど表に出さない紋次郎が、峠から遠くを眺め佇むエンディングというのもめずらしく、切ない。 

 

●第4話 「女人講の闇を裂く」
原作では第6話(昭和46年8月「小説現代」掲載)になる。後家のお筆役は女優の「藤村志保」。愁い顔で原作のイメージとピッタリであり、安心して観ていられる。お筆のキャスティングは良かったのだが、巳之吉役の「大出俊」が20歳というのはかなり無理がある。この二人は時代劇には欠かせない俳優だけに、意外性はなくオーソドックスすぎるかもしれない。
展開は殆ど原作と同じであるが、原作での紋次郎はいつになく精神的に疲れていて、急いでも仕方がないという怠惰な面が見える。北国街道筋の風景があまりにも平穏で、紋次郎はこんなところに自分の家があればとまで考えてしまう。いつもは七ツ立ちなのに、明け六ツ過ぎにやっと身支度をする有様だ。この胸の内はテレビ版では表現されていないので、茶屋にお筆より遅れて到着する紋次郎に首をかしげる人もいたかも知れない。
いつもなら連れは作りたくないし、堅気の厚意は受けないのに、今回はお筆と道中し誘われるままに宿に立ち寄る。また、平穏で静かな夜景の中、土地の人々と共に寄合に加わっている自分の姿を一瞬でも想像したりする。ナレーターの芥川さんは、街道筋や宿場の説明はあっても、紋次郎の胸中は絶対に明かさないので、視聴者はそんな紋次郎の心境を知らないのである。
お筆の娘加代は3歳になるが、早くに父を亡くしたせいか、口をきいたことがない。紋次郎シリーズに出てくる幼子はどの子も幸薄く、幼少の紋次郎を彷彿とさせる。
二十年前の庚申待ちの夜に起こった惨劇と報復の噂……伝奇ミステリー的な設定で、私は横溝正史氏の作品を連想した。村人への報復というストーリーは、前回の「峠に哭いた…」とかぶるが、本来は1〜3話の放映順が違ったので致仕方ない。原作では、庚申待ちの夜に巳之吉とお里は契りを結んでしまう。たまたまその場に居合わせた紋次郎は、村人が近づいて来るので、二人がいることを気づかせまいと自分から村人の方に近づいて行く。そんな心遣いができるのだと、意外な感がする。もしこの後お里が身籠もったりすれば……また新たな悲劇が起こってしまう。テレビ版での巳之吉は原作と違い、すがるお里を振り切る。そこでバッタリ紋次郎と出会った巳之吉は、与七郎の復讐はない、10年も前から佐渡に島送りにされていると告げる。ここまで種明かしをすると、巳之吉の正体は予想がつく。ただ20歳よりは老けて見えるので、歳が合わないなあと思ってしまうが……。
しかし、どうしてここで与七郎の消息を明かしてしまう展開にしたのだろう。この後与七郎と名乗り村人達を襲う男が二人も現れるが、視聴者は既に本物の与七郎ではないことに気づいているので、サスペンス性は低くなる。その点、原作はそのあたりを伏せてあるので3人目の男、銀次がもしかして与七郎…?と疑惑が広がる。
また原作では、大和屋孫兵衛の企みの一部始終を、金で雇われた銀次が暴露するが、テレビ版では紋次郎が推理する。鮮やかな紋次郎の推理力に、腕だけでなく頭の冴えにも驚いてしまう。紋次郎は動物的な勘だけでなく、物事をよく観察し論理的に推理する明晰な頭脳の持ち主なのである。銀次との殺陣で紋次郎は、板壁を蹴り上げ身体を半回転して長ドスを敵の背中に浴びせる。中村氏の運動能力の高さには驚くばかりである。屋内セットであまり変化がない中、スローモーションで斬新な殺陣を取り入れたのはよかったと思う。
原作では、紋次郎に斬られて瀕死状態の銀次の口をふさごうと、孫兵衛がとどめを刺す。堅気の分限者がヤクザを殺すというのは、テレビを観るお茶の間には相応しくないと考慮したのか…と思う。
巳之吉が匕首で自らの命を絶つのはテレビ版と同じだが、こんなセリフを最期に口にする。「お里…。好んで、若死にをするわけじゃねえ。だがなあ、二十で死のうと五十で死のうと、大した変わりはねえのさ。生まれて来たときから、そう定められていたんだからな。お前とおれが、どうしても一緒になれなかったのと同じさ」(原作から抜粋)
生まれてきたのが間違いだったのは、巳之吉だけでなく紋次郎も同じだった。生まれてくる前から、不幸を背負う宿命であったのに、一瞬でも紋次郎は人並みの生活を夢想した。許されるはずもないことを考えた自分の甘さが、腹立たしく情けなく感じる紋次郎の自戒の念を、原作は書き上げている。そして自分に対する腹立たしさを、夜陰に乗じて盗みに入ろうとするヤクザ者にぶつける。だから峰は使わず、渡世人として流れ歩く生活に疲れ甘ったれた気持ちを、盗人と共に斬り捨てる。原作では、紋次郎が無宿渡世の生き方に疲れを感じているという伏線が、ラストの怒りに効いている。
しかしテレビ版では、紋次郎の心の甘さを脚色していないので、利己的な孫兵衛の所業や、巳之吉とお里の虚しい宿命に対するやるせなさだけに終始してしまったのではないかと思う。かろうじて二人目を叩き斬った後、「ばかやろう!」と一喝させているが、この深い怒りと虚しさの本質がどこまで視聴者に伝わっただろうか。
この後、お筆が引き留めるのを振り切り、まだ夜も明け切らないのに宿を後にする紋次郎のセリフ。「お天道様に甘えてえ気持ちになりやすと困りやすんで……二度とお目にかかることもねえと思いやすが、どうか達者で暮らしておくんなさい」お天道様に……の件は原作にはないのだが、ここで初めて『甘え』という言葉が出てくる。さて、ここで言うお天道さまとは一体何なのか?真っ当に生きる堅気の衆のことか、慈悲深い神仏のことか。私は前者であると思う。
上がり框に過分の宿代を置いて紋次郎は立ち去る。原作にはない宿代を置くシーンは、律儀で礼儀正しく優しい心根を持った紋次郎を表している。口のきけない加代が「おとう…」と紋次郎の背中に呼びかける。加代の言葉はお筆を代弁しているのだ。「あの人はねえ、加代のおとうじゃないんだよ」と紋次郎が去って行った後、お筆が呟くシーンは本当に切ない。
巳之吉にしろ紋次郎にしろ、どちらも招かれざる客としてこの世に生を受けた流れ者であり、宿場の者とは水と油…決して相和することはない。この二人の共通する宿命なのだ。
ラストに紋次郎は月に向かって楊枝を飛ばし、村で起こった一部始終の記憶を消し去り、己の甘い考えと決別する。 
女人講の闇を裂く
「おてんとさんに、甘えてえ気持ちになると、困りやすから・・・」
市川崑演出の第3話に続く本作は、窪川健造演出です。なお、本作は、小説の第2集のタイトルにもなっています。ちなみに第1集のタイトルは、「赦免花は散った」。こちらは、テレビ放映はされていなく、菅原文太主演の東映映画「木枯し紋次郎」の原作です。
庚申講の晩に復讐にやってくるという言い伝えを利用し、旅宿の主人がならず者を使って殺人を企てます。その庚申講の晩に居合わせた紋次郎の活躍が描かれます。
事件が解決し、夜半に早々に立ち去ろうとする紋次郎を引き留める別の宿の娘のお筆(藤村志保)の誘いを断るセリフです。ただし、原作ではセリフの代わりに説明しています。
"甘い、と思った 心の疲れから、怠堕な気持になる。堅気の人々の暮らしを、羨ましく感ずる。どこかに落ち着いてみたい。そうしたことが、許されるはずはないのだ。許されないとわかっていて、考えてみる。その自分の甘さが、腹立たしいのである。"
甘えのない、厳しい立場に自身を常に置いて、生きるしかないことを自身に言い聞かせています。太陽の降り注ぐ日向は、ホントに気持ちが良いもの、そんなことも若いときや現役で働いているときには気づかず過ごしているのではないでしょうか。退職して、歳をとった今、朝の陽を受けるときは、至福のときです。なんか随分年寄じみた話ですが・・・
岩波新書「豊かさとは何か」(著者:暉峻淑子)の中に小さな女の子が"豊かだと感じるときは?"と問われ、朝露に濡れた草葉が光っているとき、と答えたというような内容が書かれていました。ささいなことに幸せとか豊かさとかを感じることは大切だ、と感銘を受けた記憶があります。 

 

●第5話 「童唄を雨に流せ」
原作では第4話となる。おまん→おちか / 松坂屋友右衛門→備前屋友右衛門 名前はテレビ版に統一します。
原作における展開はかなり陰鬱で残酷なので、テレビ版はその部分を変更し薄めている。紋次郎の出生に影を落とす「間引き」。この残酷な行為に、めずらしく正面から立ち向かう姿があるのだが、結局は救いようのない結末を原作では迎えてしまう。
原作では賭場で、紋次郎は備前屋友右衛門を見かけている。仙造に友右衛門が、鰍沢のダニ(源之助)を何とかひねり潰して欲しいと頼んでいる様子を耳にもしている。
紋次郎がおちかの間引きを止めるシーンだが、テレビ版では間引かれそうになるのは2人目の子どもという設定である。しかし2人目なのに間引きをするものなのか、という疑問が残る。貧困から間引きをするという忌まわしき風習はあったにせよ、2人目を間引くだろうか。原作では4人目であり、これについては頷ける。従って童唄を唄うのはテレビ版ではおちかである。童唄はやはり原作通り、幼い子どもに唄って欲しかった。
原作にはない、テレビ版の紋次郎のセリフで印象的な言葉。「俺みたいな裏街道をアテもなく歩き続ける半端者でも、ひょっとしたら何か良いことでもあるんじゃねえかと、思ったりすることもあるんです。それって言うのも生きていればのことでござんす」
原作の紋次郎は、絶対にこんな言葉を口にしない。明らかに主題歌「だれかが風の中で」とリンクしている。テレビ版の紋次郎が甘い、と言われればそれまでだが、「心は昔、死んだ」のではなかった。「間引き」という状況を目の当たりにして、人間らしい心を思い出したのか。
原作ではおちかのあばら屋を目にして、忘れたはずの過去を思い出す。間引かれそうになった自分を姉のお光に救われた経緯、姉が嫁ぎ先で亡くなったことを聞かされた翌日に10歳の紋次郎は村を出たこと、2番目と3番目の兄はコレラで死んだという噂……等、姉が死んで以来、親兄弟も肉親もなく、自分一人であり、自分しかないのである。いつかは自分も死ぬ。そのときを、ただ待っているのにすぎない。それが、渡世人の生き方としている。
自分の死を悲しんでくれる肉親もなく、生き甲斐や明日への希望もない無宿渡世の過酷な本質をテレビ版では紋次郎に語らせている。紋次郎に子分にしてくれと頼み込む百姓の横っ面を殴りつけ、渡世人とはどんなものなのかを語り、親兄弟の元に帰れと諭す。親兄弟、血縁、のキーワードがここにも提示されている。帰りを待っていてくれる肉親がいるのに、敢えて渡世人になり正義感を振り回そうとする無知な若者に「まだ、引き返せる」と語る紋次郎。原作にはない人間らしさを感じる。
テレビ版での金蔵(おちかの夫)は備前屋(おちかの実家)に訪れ、金の工面をしてくれと恥辱を顧みず頼み込むが、あっさり断られる。視聴者はここで初めて、おちかと備前屋との関係を知り、備前屋の薄情な金の亡者ぶりを知る。また原作にはない、源之助の手下に崖から落とされる紋次郎にヒヤヒヤする展開もあり、ある意味ボーナスシーンともいえよう。
金蔵に刃を向けられるが軽くかわし、紋次郎はおちかの窮状を話し、二人してあばら屋に戻る。原作は救いようがない。おちかは置き手紙をし、首をくくっている。足下には間引きされた赤ん坊の冷たくなった体。紋次郎との約束を守れなかった詫びとして命を絶ったのだ。紋次郎は、安易なその場限りの情けをかけたような気がして、そんな自分にも腹を立てる。
テレビ版はすんでのところで、首を吊りかけたおちかの命は救われるが、赤ん坊は飢えのために短い命を終えていた。この後のおちかはビックリするほど強い。気弱な金蔵を励まし、やり直そうと声をかける。さっきまで、悲観して死のうとしていたようには思えないような豹変ぶりだ。そして紋次郎のセリフ。「勘当されてまで、あんたについてきた恋女房じゃありやせんか。おちかさんを大事にしてあげなせえよ」「もう一仕事あるんでさあ。あんたならどんな辛いことでも耐えられるお人だ、そう思っておりやすよ」原作ではおちかは死んでいるので、こんなセリフはなく、脚本家が創作した紋次郎像である。実に人間味溢れる紋次郎である。
原作ではこの後備前屋に乗り込み、おちかの遺髪、赤ん坊の臍の緒、最後には源之助の生首まで持って行く。驚く備前屋を尻目に、竜虎の掛け軸の竜の目に楊枝を飛ばし消える。こんなシーンはいくら深夜放送であっても絶対無理である。脚本家は、このエンディングを変更することから、構想を考え始めたのではないかとも思える。
テレビ版での紋次郎は、備前屋の企みを全部見破り償金百両を出させ、瀕死の源之助を使って備前屋を殺させる。紋次郎は決して堅気には刃を向けない事を鉄則としているからだ。そして、最後に来迎図の掛け軸を楊枝で落とす。「地獄に仏は無用だ」と独り言。その後手にした百両を、おちかの家にそっと置いて去る。
身にふりかかったものだけを払うはずの紋次郎が、この回では何から何まで全て関わってしまう。絶望的な原作が、ここまで変わるかと思うほどである。展開が出来すぎで、昔の時代劇を引きずっている感がする。勧善懲悪で終わる珍しい結末であるので、原作を信奉するファンにとっては、違和感を持つであろう。しかしヒューマニストの市川監督監修となると、やはりこの路線になるのかもしれない。 
童唄を雨に流せ
「つれえこともござんしょうが、その子をきっと育てると約束しておくんなさい。俺みてえな裏街道をあてもなく歩き続ける半端者でも、ひょっとしたら、何かいいことがるんじゃあねえかと思ったりすることもあるんです。それっていうのも生きていればでござんす」
子供を間引きしようとする、おちか(香山美子)に当座の金を与え、間引きを思いとどまらせた紋次郎のセリフです。原作には、ありません。
本作の監督は、映画「ひとり狼」や同じ笹沢佐保原作、原田芳雄主演の映画「御子神の丈吉」シリーズを撮った大映股旅映画のエース池広一夫です。
間引きされ、姉に救われた紋次郎自身の出自、運命を呪う紋次郎の思いが強くでている作品です。人間生きていればこそ、いいこともある、なんていうセリフは、紋次郎が吐くセリフではありません。従って原作にはないわけですが、こういった人生肯定的な生き方は、大切ですね。すべて否定してしまうと自殺しかありません。
仕事においても不遇な時期もあります。それを乗り越えてこそ、人生です。実は筆者は、現役時代はソフトウェア、システムの技術者でした。しかし、あるとき技術部門から、企画部門に異動になりました。そのときは、なぜ私が、と強く思いました。工学部を卒業して、企業でも永く開発部門で働き、自身に技術を蓄積し高めてきたつもりでした。その運命を呪うときもあったわけです。そして、企業を早期退職したのですが、それ以降の自身の武器は、そのときの技術ではなく、企画部門で蓄積したスキルです。企画部門のスキルというのは、何、といって具体的に云えるのは、プレゼンテーション、話術、組織統制力・・・そこでのスキルが現在は役立っています。技術部門での技術スキルでは、いまの自分はないと思っています。とりあえず肯定的に捉え、前向きに力を注いでみることがよいのではないでしょうか。
原作のヒロインの名前は、おまん、それがテレビでは、おちかになっていたり、微妙に原作とテレビでは相違があります。テレビでは、このセリフの後、間引きしようとした子が死んでしまいますが、原作では一度思い留まった間引きをして子を殺し、自身も首を吊って自殺してしまいます。と、原作のほうが間引きに対する紋次郎の怒りが強烈に表現されています。
ラストシーンでは、おちかの父親であり、娘を離縁した、人足手配の源之助に殺された備前屋の主人に、吹き飛ばした楊枝で落とした掛け軸が落ち、紋次郎は云います。
「地獄に仏は、無用だ」 

 

●第6話 「大江戸の夜を走れ」 
原作は第9話である。江戸嫌いの紋次郎が、死罪となる盗人の女房の頼みのため、江戸に足を向ける。紋次郎の江戸嫌いの理由はテレビでは多くを語られない。市川監督は紋次郎に島抜けの罪人としてのスタートを切らせたくなかったので、島送りになったことは封印してある。読者は原作での第1話が「赦免花は散った」なので、なぜ江戸が嫌いなのかは周知の通りである。紋次郎が気乗りしないままに頼みを引き受けたのは、女房(お栄)への同情だけではなく、為吉という罪人に連帯感を覚えたから……と書かれている。罪人はそれぞれ、そうなるような星の下に生まれて来ており、その境遇がまさに紋次郎の生い立ちと重なる。そして生に執着している者は人を騙し裏切るだろうが、死を目前にした者は欲も得もなく、その姿に紋次郎は真の人間を感じる。
頼みを引き受け浅草に急ぐ紋次郎について来る謎の女、お小夜役には「安田道代」。粋な感じはするが翳りは感じられず、原作にあるような投げやりな様子はない。駕籠から降りて紋次郎に追いついた後、ヤクザ者と言葉を交わすシーンを入れたことで「ああ、やっぱりこの女は魂胆があるんだな」と視聴者に思わせてしまうのは面白くない。
お小夜の口利きで、大木戸をとがめられずに紋次郎は通り抜けるが、本来江戸市中は長ドスを差して三度笠姿では歩けず、原作では湯屋で着替えており、着流し姿の紋次郎を映像で見たかったファンもいるだろう。ちなみに内藤新宿の湯屋は、貸し衣裳屋になっていて、正体を隠して宿場女郎を買いに行く男が多かったということだ。笹沢氏はよくそこまで調べ上げたと感服する。
引き回しの最中、紋次郎は緋色の扱き帯を為吉に見せ、為吉から人差し指と薬指を2本立てた合図を受ける。ここまでの展開は原作とテレビ版では大きく変わらないが、お小夜と紋次郎の絡みがこの後大きく違う。
お小夜の住まいに上がり、為吉の通夜だと誘われるままに紋次郎は酒を飲む。酒に口をつける前に神棚を見上げ、御幣に楊枝を飛ばす。磔にされ槍で刺されて死んだ為吉の供養のためか……。お小夜との会話で自分の江戸での苦い過去をほのめかす。ある男と女に騙されて、小伝馬町の牢送りにされたことまでも話す紋次郎だが、その後も酒の勢いか雄弁に語る。為吉からの合図はなかったかとお小夜から尋ねられ、座を立とうと腰を上げる紋次郎にお小夜が「抱いておくれ」とすがりつく。この後の成り行きがテレビ版と原作では違うのである。
原作も9話となり、連載の評判も上がってくるにつれて男性ファンから「紋次郎が女を抱かないのは不自然だ」という声が聞かれるようになったという。もっともな話であるが笹沢氏は、「紋次郎に見合った安女郎を抱くこともあるだろうが、話の展開上必要がないから書いていないだけ」と言う。しかしこの9話だけは、紋次郎は女を抱くシーンがある。イメージだけの描写なのだがなかなか風情がある。原作では、江戸の毒気に当てられたような自分を冷たく笑い、為吉のことで神経がささくれていて、女の身体に安息を求めたくなるものと分析している。いつもの自分の出で立ちではなく、身体の一部とまでも言える長ドスがない。それが一番紋次郎らしからぬ所以である。
テレビ版では誘惑するお小夜に「こんなことをしてたんじゃ、為吉さんの供養にはならねえ」とふりほどく。女性ファンはここでホッと胸をなでおろすところだろう。ここで紋次郎はお小夜を置いて出れば良かったのだが、お小夜にほだされてこの後も酒を酌み交わし、結局為吉の合図を教えてしまう。
酔いが醒めてから紋次郎は、お小夜の魂胆に気づき江戸の町を駆け抜ける。このあたりは、やはりテレビ版の方が映像的に良いだろう。三度笠を手で押さえ、白い息を吐きながら夜の江戸の町を駆け抜けるシーンは、緊張感があり映像的にも美しい。これが原作だと、雪駄履きに裾をからげた着物に丸腰姿……様にならない。やはり、三度笠に長い合羽を翻し疾走してほしい。
原作では、お栄が臥せっている宿に着いた紋次郎は、為吉の幼い倅が死んだことと重兵衛が連れて行かれたことを告げられる。その後、白狐の源六とお小夜との関係を知る事になる。「命が惜しかったら、おとなしくしてな」と言う源六に「白狐の源六さん。お言葉ではござんすが、あっしは命を大事とも大切とも思っちゃいねえんですよ」と紋次郎は返す。原作と全く同じセリフだが、実にかっこいい。
源六一家を全員叩っ斬った後、お小夜に「女を斬るようなドスは持っちゃいねえんだ」と脇をすり抜けて去る紋次郎の背中めがけて、お小夜が襲いかかる。テレビ版では、長ドスを手にして襲いかかるが、原作では何も手にせず身体ごとぶつかりに行く。紋次郎は反射的に長ドスを背後に突き出し、結局女を殺してしまう。原作では、いまわの際のお小夜が1500両のありかを明かし、これで楽になれるという言葉を残して事切れる。原作、テレビ版共に紋次郎に殺される女、第1号である。殺されるというより自殺行為だったのだが……。
テレビ版では、お栄が1500両のありかに気づくが、原作のお栄は宿で亡くなり、為吉、倅、お栄と二日の間に相次いで死んでいく。実は、重兵衛が本物の十六夜の為吉であり、紋次郎は突き殺す。テレビ版では、緋色の扱き帯を重兵衛の首に巻き付け楊枝で白壁に留める。白壁と緋色のコントラストを映像上狙ったものと考えるが、1話の中で2回、楊枝を飛ばしたことになる。その後役人によって1500両が床下から見つけられ、お栄と倅は元気になり故郷に帰って行くのを見送る紋次郎……。お栄は何のために江戸に来たのか?と肩すかしを食らった感じがする。原作ほどの寂寥感はなく、何となく結末がぼやけた感じがする。
原作では甲州街道で浅草に向かう馬の背の荷駄に、楊枝を飛ばし緋色の扱き帯を留める。「やはり江戸には虚しさしかない」という思いで、扱き帯と共に過去と決別する紋次郎……。こちらの方がラストにふさわしい。 
大江戸の夜を走れ
紋次郎「渡世人の世界じゃ、頼りにできるのは自分だけだ」
お小夜「紋次郎さんは、これからもずっと無宿人で通すつもりかい」
紋次郎「それよりほかに生きる道を知らねえんで。当てのねえ流れ旅を積み重ねて、終いには殺されるか、のたれ死にするかだ」
お小夜「まるで死ぬときが来るのを待って生きているみたいじゃあないか」
紋次郎「そんなところかもしれねえなつれえこともござんしょうが、その子をきっと育てると約束しておくんなさい。俺みてえな裏街道をあてもなく歩き続ける半端者でも、ひょっとしたら、何かいいことがるんじゃあねえかと思ったりすることもあるんです。それっていうのも生きていればでござんす」
本作品は、夜の江戸市中での、鼠小僧ならぬ、十六夜小僧の捕物シーンから始まります(原作では違いますが)。紋次郎作品らしからぬスタートです。サスペンス、推理の作家である笹沢佐保らしい作品といえます。シリーズの中でも異色かもしれません。
この会話は、紋次郎とお小夜(安田道代)が酒を酌み交わしながら、語られるものです。紋次郎のセリフは、江戸時代の渡世人のことと捉えられるかもしれませんが、敷きつめれば、人間すべてに云えることです。人間ひとりで生まれて、ひとりで死んでゆく。頼りにできるのは、結局は自分ひとり。そして人生という流れ旅を歩いて、ひとりで死んでゆく。結果的には、死に向かって生きているわけです。しかし、そんな人生でも毎日の心の持ち方で充実した人生となるはずです。ぜひ人生で起こる些細なことでもひとつひとつ全力であたっていってみてください。人生が変わると思います。
ビジネスでも同じこといが云えます。つまらない仕事でも、それに全力であたることで周りの眼も違ってきますし、そこからきっと得ることもあります。
筆者は、日本語ワープロのソフトウェア開発の仕事をしていましたが、その商品もライフサイクルがたった10年で世の中から消えてしまいました。(パソコンのソフトとしては、残っていますが)そのとき、Windows 3.1(いまはWindows 8.1ですが)の開発の支援でマイクロソフトと一緒に仕事をしたことがあります。本来のソフトウェア開発の仕事ではなく、腰かけのような仕事でした。それでも今となってみれば、Windowsの開発に携わったということで誇らしいキャリアでもあります。自身の自己満足でしかないのですが、それも大事ですよ。
そして、ラスト。お小夜を斬るシーンでのやりとり。紋次郎「女を斬るようなドスを持っちゃいねえんだ」
お小夜「そうかい、じゃあこっちからいくよ。 生きているってことは、淋しいことだね」 

 

●第7話 「六地蔵の影を斬る」
原作では第11話になる。会ったこともない紋次郎に憧れ、紋次郎の真似をしたがる渡世人が出てくる話だ。今で言えばさしずめ、紋次郎オタクがストーカーするといったところか。
前半の話の展開は原作とほぼ同じであるが、後半のテレビ版は話がややこしくなる。板鼻の吾兵衛を斬ったという濡れ衣を着せられた紋次郎は、一家の代貸の鶴吉をはじめ子分6人に意趣返しという名目で命を狙われる。
その鶴吉に金で雇われた小判鮫の金蔵という渡世人に付きまとわれる。本当は吾兵衛を斬ったのは、金蔵の幼なじみである八幡の常平だと明かし、紋次郎を守ると言いながらも怪しい動きをする。常平から聞いたという紋次郎の癖、気質、長ドスなど全てに興味を持ち知りたがる。特に楊枝はしつこく欲しいと食い下がる。原作にはない金蔵と紋次郎のセリフ。
「おめえさんがそいつをフッと吹くと、まるで手裏剣みたいに相手を倒すってこともあるんだってな」「そいつは間違えだ。この楊枝で人を殺めたことはねえ」
と紋次郎はいつになく厳しい表情で金蔵に答える。原作では、人を殺傷できるまでの道具ではないにしろ、時には武器になる楊枝である。市川監督はこの楊枝には特別な思いがある。原作では15センチの長さで、当時は特別に長いというものではなく、実際使われていたようだ。テレビ版は27〜28センチ、長くしないと三度笠に隠れて見えないからだ。市川監督は、人に向かって楊枝を吹くという設定はしていない。いつも紋次郎の心情を表すときにしか使わず、その根底には優しさがある。このことは、他の監督や脚本家とも入念に打ち合わせをしているはずだ。視聴率が上がり、トレードマークの楊枝が一人歩きしているような噂を、視聴者の前で一刀両断したとも考えられる。
金蔵の思惑が分からないままに二人の道中は続く。道連れを嫌う紋次郎だが、得体は知れないが憎めない金蔵のよもやま話を聞く。話は全て常平の身の上話である。吾兵衛一家のために常平の女房は首をくくり、倅は殺されたのだと言う。(テレビ版だと倅の話は出てこない)
テレビ版では道中、野原に腰を下ろし紋次郎は問われるままに自分の生き様を語り、長ドスから手を離し仰向けになって仮眠する。油断できない金蔵を前にして、無防備にも程がある。原作ではさすがに長ドスを左腕に抱え込んでいるが、三度笠を顔の上に置く。金蔵がそっと紋次郎の長ドスに手を伸ばし鯉口を切るが、紋次郎はそれに気づきたしなめる。ますますもって怪しい。
テレビ版では二人して煮売屋にいる所へ、呉服屋の女房お久美とその手代が駆け込み、ならず者にまとわれ困っている、助けてくれと頼む。やっとここで女が登場する。テレビ版では必ず女優が出演する。そして騙すというパターンである。いったんは断るのだが、お久美が掠われた後、金蔵に「もしあのおかみさんが首でもくくったら、おめえさんのせいなんだ」と言われ、躊躇する。紋次郎は聞くともなく常平の身の上話を聞いていて、手籠め、首をくくるという言葉に反応したのだ。この時紋次郎は、金蔵は常平のことなのだと気づいていたのかも知れない。少なからず常平に同情し、助けるために走り出した常平の気持ちも察したのかも知れない。
筑波の六地蔵の前でお久美を見つけヤクザ者と対峙する。お久美を人質にして「刀を捨てろ」と喚くヤクザ。常平は刀を捨て、紋次郎の刀も預かる。案の定お久美は正体をばらし、鶴吉や子分たちがバラバラと六地蔵の陰から現れる。お久美は鶴吉の女で、一芝居打って紋次郎から長ドスを奪うのが目的だったのだ。実は吾兵衛のトドメを刺したのは鶴吉で、跡目を狙ってのことだったのだ。そして常平の女房を手籠めにしたのもこの鶴吉だったのだ。そしておきまりのように、お久美は鶴吉に殺される。テレビ版の常平は、紋次郎に長ドスを投げて返す。そして斬り合いの様子を眺めている。ここで疑問が生じる。
恋女房を手籠めにしたのが鶴吉だと分かったのに、なぜ常平は鶴吉を殺すために長ドスをふるわなかったのか。自分の手で殺したいはずではないのか。原作での常平は、まず手籠めにした子分を見つけ殺している。そのため草鞋を履いて旅に出て、久しぶりに故郷に帰り倅に会えると思っていたのに、吾兵衛に突き飛ばされ一人息子はもうこの世にはいなかったのだ。だから吾兵衛を殺したのは女房のためではなく、倅の仇を討ったのだ。
原作にはないお久美の出現によって、ただの親分の意趣返しをしようとする鶴吉は、殺されるべき悪人となった。原作より悪役に仕立てることで、勧善懲悪のニュアンスを入れている。そして鶴吉を目の前にしての紋次郎のセリフ「鶴吉、おめえは許さねえ、だが他の奴らには無駄死にさせたくねえ、逃げてえ奴はさっさと逃げろい」になるのだ。
最後に金蔵は紋次郎と斬り合い、自分から紋次郎に刺される。瀕死の金蔵は自分が常平だったことを紋次郎に明かす。原作では「八幡の常平ってのは、おまえさん自身のことだったのかい」とここで気づく紋次郎だが、テレビ版では「察しはついていた」と答える。どこで察しをつけたか、やはりお久美を助けようとしたあの時点だろう。
テレビ版では、常平はほおかぶりを取ると左頬に刀傷が見える。板橋の吾兵衛を斬ったときに、傷を負ったのだろう。また、その手拭いの先の結び目をほどくと、中から死んだ女房の遺髪が出てきて、常平は「お里……」と呟いて息絶える。
最後に、死んだ常平の口許に楊枝を吹いて刺してやる紋次郎の優しさは原作と同じで、楊枝の使い方としても絶品である。 
六地蔵の影を斬る
「知らず知らずのうちに巻き込まれてしまんもんだな、渡世ってやつは。七面倒なこった」
本作品は、大映の監督の森一生の演出、黒沢映画を撮ってきた宮川一夫の撮影という映画クラスの作品です。ということで、期待度大でもありました。
独りで生きてゆく紋次郎が、本人の意志に関係なく、世間のいざこざに巻き込まれてゆくことでストーリーが展開されるのですが、それをセリフとして語っています。世の中、そんなものでしょう。所詮一人で生きてゆけない世の中、人生です。だからといって、積極的に関わってゆく必要もありませんが、否応なく引き込まれてしまう。
このセリフは、紋次郎の命を狙う同業のヤクザ 小判鮫の金蔵(佐藤允)と交わす以下の一連の会話の中のものです。これは、原作にも登場します。
紋次郎「知らず知らずのうちに巻き込まれてしまんもんだな、渡世ってやつは。七面倒なこった」
金蔵 「おめえさんの生きがいってのは、何んだい」
紋次郎「そんなものありゃしねえ」
金蔵 「だったら、おめえさん、何んのために生きてんだい」
紋次郎「今は、まだ死んじゃあいねえから、生きてる。たぶんそんなところだろうさ」
金蔵 「生きていたいとは思ってねえんだな」
紋次郎「進んで死にたくもねえ、死ぬ時がきたら黙って死ぬ。ただそれだけのことさ」
死に向かって生きる人生。所詮は、それに間違いはない。そこまで悟って生きられたら、逆に楽かもしれません。
先日テレビのニュースでガン患者のホスピスで、患者と対話し、内村鑑三の「品性を高めるために生きる」という指針を患者に示し、心の安息を与える治療が報じられていました。
紋次郎流に生きられれば、ガンであろうとなかろうと、時の流れに身をまかせているだけですが、なかなかそんなふうにはいかない。そのときに、生きる方便としての自己実現の手段として、いささか高尚ですが、よいかもしれません。
この内村鑑三のことばは、彼の「成功の秘訣」の最後に登場します。
   「成功の秘訣」
一.自己に頼るべし、他人に頼るべからず。
一.本を固うすべし、然らば事業自ずから発展すべし。
一.急ぐべからず、自働車の如きも成るべく徐行すべし。
一.成功本位の米国主義に倣ふべからず、誠實本位の日本主義に則るべし。
一.濫費は罪悪なりと知るべし。
一.能く天の命に聴いて行ふべし。自から己が運命を作らんと欲すべからず。
一.雇人は兄弟と思ふべし、客人は家族として扱ふべし。
一.誠實に由りて得たる信用は最大の財産なりと知るべし。
一.清潔、整頓、堅實を主とすべし。
一.人もし全世界を得るとも其霊魂を失はば何の益あらんや。人生の目的は金銭を得るに非ず、品性を完成するにあり。
   六十六翁 内村鑑三 

 

●第8話 「一里塚に風を断つ」
原作は第7話である。人間関係が複雑でドロドロした展開である。アバンタイトルでは、泊まった宿で毒を盛られ道中苦しむ紋次郎に襲いかかる若者。街道筋で有名になっている紋次郎を殺して、男を上げようという魂胆だが、あっさりかわされる。原作では朝、宿で食べた川魚の酢漬けにあたったことになっている。酢漬けにあたるよりはかっこいいかも知れないが、このあたりになると、紋次郎の噂もかなり広がっているという設定になっている。この回の後も、紋次郎を殺して名を上げたがる半端者がまたぞろ出てくることになる。
腹痛に苦しむ紋次郎に薬を恵んで優しい声をかける町医者、石川良庵役に「河合伸旺」。申し訳ないがこの時点で「この医者、今は誠実そうだがきっと本当は腹黒いに違いない」と思ってしまう。いわゆる悪役専門の俳優でいらっしゃる。原作ではもっと優男で、役者よりもはるかに美男となっている。(河合さんには悪いが)また薬を恵むだけでなく紋次郎を洗馬宿まで運ばせ、旅籠でつきっきりの看病をする。薬代さえ受け取らない。テレビ版では紋次郎は良庵に「あっしは助かりやすんで?」と聞く。「誰でも命は惜しいもんだ」と言う良庵に「別に悲しむ者もありやしやせん」と答える。紋次郎が命を惜しいと思うはずはないので、なぜ「助かるか?」と尋ねさせたのかと思う。
因縁をつけて絡むヤクザに体をかわしたため、そのヤクザは谷底に落ちる。紋次郎のせいで清五郎一家に間違われて、襲われそうになる加代を助ける中、紋次郎の長ドスが折れる。顔に付いた返り血を拭くために、加代は紋次郎に自分の手拭いを手渡す。このとき二人は手を触れ合い、紋次郎の心に何かしらの動きが感じられる。実際原作では刀鍛冶を求め急ぐ道中、加代のことをふと思い出したりしている。
「もしも自分が堅気であって加代のような妹がいたら、と紋次郎は漠然とした想像に捉われていた。恐らく得意がって、加代を連れ歩くに違いなかった。人形のような妹として可愛がり、毀れ物の扱いををするだろう。そんなふうに考えながら、紋次郎は自嘲的に苦笑した。柄にもねえことを、と紋次郎は胸の奥で呟いていた。」(原作より抜粋)
そこまで思わせるほど、加代は可憐な娘なのだ。その加代を「二木てるみ」が演じている。いわゆる昔風な美人、切れ長の目で色白、適役である。しかし、紋次郎との道連れを拒まれたときのムッとした表情には、気の強さも窺われる。刀鍛冶師の妻、千登勢役には「扇千景」。気品があり美しく、身のこなしも堂に入っている。
テレビ版の紋次郎はめずらしく仰向けで蒲団の中で休み、独り言。「うっかり信じたりしたら必ず裏切られた。毒まで盛るヤツがいて、それが命取りになりかけたことも度々だった。こんな夫婦がいるとはねえ……」
その後夜中に床をぬけ、手拭いを懐から出し「甘い匂いだ」と加代を思い出し呟く紋次郎。直光と千登勢の夫婦愛に触発されたのか、信じ合える人間関係がこの世にあるのかも……と思いかける。
翌朝、加代が兄である直光の家に駆け込み、清五郎一家が仕返しに来ることを知らせに来る。よく考えると通常、子分の仇を親分がとるということは考えられない。その逆、子分が親分の仇をとると言うのなら分かるが、(実際、「地蔵峠の……」はそうである)その時点で聡明な紋次郎は、妙だなと気づかなかったのか?
テレビ版では、加代に千登勢の不義と利助殺しの件を明かされ、直光は怒り狂い「不義の相手を言え」と自分が鍛えた刀で千登勢を打つ。千登勢はその刀を手にし「死んでお詫びをする」と言うのを、直光は止めもしない。唯一止めるのは紋次郎だけ……。紋次郎が妹にしたいとまで思った加代は「死んでしまえばいいんだわ」と冷たく言い放ち、直光は「信じていたのに……」とがっくり肩を落とす。「そればっかり念仏みてえに唱えているおめえさんが打った刀なんて、どうせなまくらだぜ」と言い放ち、紋次郎は清五郎たちが来るのを一里塚で迎える。映像としては殺伐としていて、一里塚には見えないのが残念。普通一里塚は榎が街道の両端に植えられていて、枝を広げているはずである。この滋賀県の湖南アルプスでの立ち回り中、中村氏がアキレス腱を断裂してしまうのは有名な話である。
「おれは無性に腹が立っているんだ」と怒りを込めて清五郎一家を全滅させる紋次郎。甘いことを夢想した自分への情けなさ、美しい夫婦の剥がれた化けの皮、一瞬でも信じかけた自分への怒りなのだ。しかし、本当の修羅場はこの後なのである。
テレビ版と原作との決定的な違いはこの後なのだ。原作では良庵が現れ、良庵の企みが何もかもが分かったとき、千登勢は良庵に向かって短刀をかざして体当たりをするが、良庵は加代を楯にして千登勢を殺す。しかし、テレビ版では千登勢は生き残る。生き残った直光と千登勢の関係はこの後どうなるのか、と思っただけでも気が滅入ってくる。死ぬも地獄、生きるも地獄である。清純に見えた加代と貞淑に見えた千登勢だが、悲しい女の性というか結末はどちらも辛いものがある。女の性をおもちゃにし、自分の立身出世のため斬り捨てる良庵の狡猾さ。紋次郎に恩を着せ、金で動かそうとする浅はかさ。「医は仁術」などやはり存在しなかった。
そしてもう一つの大きな違いは、直光の刀がテレビ版では折れてしまうことだ。紋次郎は折れた刀を手にして直光に言い放つ。「おめえさん、本当は奥様の過ちを知ってたんだろう?知っていながら本当のことを言うのが怖くって、信じてるとか何とか、お題目唱えてたんだ」とことん直光の意気地の無いところを突いてくる。人を本当に愛するというのは、過ちや欠点も全てを丸ごと愛することではないのか、信じ合うというのは、お互いが本当の自分をさらけ出し、許し合うことなのではないのか、言葉だけうわべだけの愛は所詮もろいものであったのだ。そのもろさのためか、刀はまたしても折れた。
最後に加代の手拭いを川に流し、楊枝を飛ばす。この瞬間、全ては過去になり流れ去っていくのである。 
一里塚に風を断つ
「信ずるというのは、大切なことだ」
山里に夫婦で住む刀鍛冶の男のセリフです。彼は、不義を犯した妻の、それをネタに脅したヤクザを殺していないという言葉を信じ、ふたりで山里に移り住んでいます。
本作では、そのセリフの後に紋次郎が自身の気持ちを吐露しています。
”育ちの違いなのだ。生きてきた世間が別なのである。趣味で、人を信じないわけではない。信ずれば、必ず裏切られる。それが、命取りになることもある。だから、自分以外は絶対に信じない。ただ、それだけのことであった。"
この社会、信用で廻っています。従って、信じないと生きて行くことが難しい。しかし、根底には、紋次郎のように考えておかないと、身が持たない。これは、皆さん、そのように生きていると思います。
実は、刀鍛冶の男は、妻の不義を知っていて、知らないふりをし、セリフの言葉を自分に云い聞かせて生きてきたわけです。
本作は、信じるということをテーマとしていますが、それ以外にこんなセリフも登場します。
「あっしは、恩とか義理とかに縛られたくねえ」
これも実践するのは難しい。この社会、恩と義理で成り立っています。結局のところ、信じることを大切にする、恩・義理を大切にする、を建前とし、それを裏切られたとしても、それが当たり前と思える心がけでいることでしょうか。
なお、本作品の撮影中に主演の中村敦夫は左足のアキレス腱を怪我します。そして、次の第9話「湯煙に月は砕けた」で放映は中断します。
撮影は、大映で「座頭市」・「大魔神」シリーズ、フリーになった後、五社英雄監督の「鬼龍院花子の生涯」、「陽暉楼」などを撮った森田富士郎。2014年6月に逝去。ご冥福を祈ります。 

 

●第9話 「湯煙に月は砕けた」
三島宿で暴れ馬に踏み殺されそうになったお市という娘を咄嗟に助け、紋次郎は右膝の皿を骨折する。咄嗟の行動に、真の人間性が出るものである。「あっしには関わりのねえこって……」と人との関係を遮断するのが紋次郎だと思われているが、それは無宿渡世に生きる知恵であって、後天的なものである。咄嗟に出るものはきっと、紋次郎が生まれつき持っていた本来の優しさであり、自己犠牲の精神のはずである。
原作ではお市のことを以下のように書いてある。「恥らうような笑顔と可憐な口許が、お市の新鮮な魅力になっていた。女っぽく弱々しいお市だったから、暴れ馬に踏みつけられそうになった一瞬、紋次郎も夢中で助けに飛び込んだのかもしれない。そのように男の庇護本能を刺激する初々しさが、お市にはあるのだ。」 お市の役は「岸久美子」である。女っぽく弱々しいというより、明るく闊達なイメージがある。
原作にはないお市の入浴シーン。紋次郎とはほとんど混浴状態である。昔の露天風呂は混浴だったと、どこかで聞いたことがある。お市が入浴するとき、紋次郎はずっと背を向けたままで一度も振り返らない。紳士的な態度で、女性ファンが惹かれるポイントである。原作では、上弦の月を縁側から眺める紋次郎に、お市が声をかけるシーンであるが、テレビ版では離れて陰にになっているとはいえ露天風呂に共に入る二人である。そこまで親密になっているということから、紋次郎が湯治場に来てかなりの日数が経過していることが分かる。露天風呂から月を眺めるとは、いかにも風流であるが、これはただのサービスシーンではなく、ラストに大きく関わってくる重要なシーンでもあるので、この脚色は効を奏している。
この後二人は肩を並べて歩くのだが、この時の紋次郎の表情は、実に柔らかく穏やかである。怪我をしたというものの、湯治場で1ヶ月近く養生するなど、無宿人にとって希有なことである。それも人里離れた静かな山奥である。紋次郎にとって安息できる日々が、乾いて虚無的になった心を癒し、それが自ずと表情に出たのかもしれない。
お市が昔の恋人のことを話した後の紋次郎のセリフ。「お市さんの気持ちはきっと通じますよ」原作ではこんな言葉は口にしないだろう。人の恋路など興味もなく、ましてはなぐさめるなど考えられない。「なるようにしかならねえと割り切らなきゃ、渡世人は生きていけやせん」「でも、なるようにしかならないと諦めていたら、いつまで経っても歩けませんよ。さあ、歩いてごらんなさい」とお市は杖代わりにしている紋次郎の長ドスをさっと取り上げる。お市の明るさにつられて、ここで紋次郎の口許がほころぶ。このあたりも、原作のお市とは大分イメージが違う。演じている女優のイメージからこうなったのか、原作とは違うお市のイメージを創りたかったのかわからないが、庇護本能を刺激するとか、弱々しいというイメージでないことは確かである。
原作のイメージとピッタリなのがお市の兄、金吾だろう。原作以上に無宿人や渡世人に対する侮蔑や嫌悪感が見え、意気地がないが故に虚勢を張ってやっと存在しているという男を好演している。
しかしこの回での一番の適役は、湯女のお久を演じる「扇ひろ子」だろう。少しくずれた着こなしや髪型、気丈で健気な湯女を原作のイメージ通り演じている。原作にはない、お久のセリフをいくつか……。
「あたしが死んだって誰が泣いてくれる訳じゃないけど、このままむざむざ殺されるのも性に合わない。やれるだけのことはやってみるさ」まさに紋次郎の生き様を代弁している。「妙な話だね、日頃人並みに扱われない湯女のあたしと無宿者のお前さんが、峰の湯を守る羽目になるなんて……」所詮、堅気の者は頼りにならず、幾度となく修羅場をくぐった心の強い者が逆境に立ち向かえるのだ。「ちきしょう、治っておくれ。峰の湯の人たちの命がこの足一本にかかってるんだ」懸命に、紋次郎の足を揉み続けるお久の顔を見る紋次郎。緊迫した非常事態の中であるのにその気配は感じられず、まるで姉のお光を見るかのような表情である。唯一自分のことを守ってくれたお光と、やれることだけのことはやると、紋次郎のために身を尽くすお久を重ね合わせたのではないだろうか。
原作のお久は紋次郎に対する気持ちに恋情があったかは明らかでなく、死に際に簪を預けたり「やっと紋次郎さんが、あたしを抱いてくれた」とは言わない。「紋次郎さんの役に立って、わたしは嬉しいよ」とだけ言ってあっさり死んでしまう。この回にはもう一人、紋次郎の長ドスを取り戻しに行く途中に殺されるお島という湯女がいる。テレビ版では存在が薄いのだが、原作では秘かに紋次郎のことを慕っていたという設定であり、悲しい最期である。テレビ版ではお久とお島のディテールを混在させたものと思われる。瀕死のお久の頬に手をやり見つめる紋次郎の眼差しに、女性ファンの心はわしづかみにされたのではないだろうか。
クライマックスの立ち回りは、露天風呂であり原作と同じだが、お市と紋次郎の会話が違う。お市の「やめて!」の声と同時に紋次郎は弥七を斬り捨てる。お市が「あの人を…」と呟いたのを受けて「お市さん、『あの人』というのはこれで二度目でござんすね」と弥七の正体が分かっていたことを告げる。そして自分が斬ったのはべっ甲職人の弥七ではなく、ただの人殺しで、けだものの弥七だと表情を変えずにお市に言う。「知っていながら殺したの?人殺し!何も殺さなくてもいいじゃないか!お前なんかここに連れてくるんじゃなかったよ!人殺し!」とお市は湯壺で弥七の遺体にすがって紋次郎を罵る。
つい2〜3日前までは、この湯壺で月を見ながら紋次郎と親しく語り合っていたのに、このお市の変わりようには驚かされる。テレビ版ではオープニングとラストで、この露天風呂でのシーンを取り入れ、180度ひっくり返った紋次郎とお市の関係を強調した。これが女心…と言われればそうかも知れないが、峰の湯を命がけで救ったのに罵声を送られるとは……。湯壺で弥七に取りすがるお市のシーンは原作にはなく、宿を立ち去る紋次郎にお市は罵るだけである。
原作では、死んだお久の頭にとまった蛾を楊枝で落とすが、テレビ版では簪を楊枝で樹に留めて紋次郎は去っていく。形見の品であるが、紋次郎にとっては昨日も明日もない身である。当然、簪と共にこの湯宿での過去は置いていくのだ。ここで女性ファンは二派に分かれるのではないだろうか。「紋次郎はなんて薄情な男なんだろう」か、「良かった。お久の簪をずっと懐に入れているなんて、許せないもの」か。ちなみに私は後者の派である。紋次郎を慕った女の形見をずっと持ち歩くなど、絶対に考えられないので安堵した。
前回の「一里塚に風を断つ」の撮影中にアキレス腱を断裂した中村氏が、療養のために宿泊していたのがこの回の舞台となった天城である。また大けがをしたと報じられた後の作品が、同じく脚を痛めた紋次郎の話ということで、この回はかなり注目されたようだ。この作品の約1ヶ月後、再び紋次郎は戻ってくる。 
湯煙に月は砕けた
紋次郎「なるようにしかならねえ、と割り切らなけりゃ、渡世人は生きちゃいけませんから・・」
お市「でもなるようにしかならないと諦めていたら、いつまでたっても歩けませんよ」
暴れ馬から、峰湯「信田屋」の娘 お市(岸久美子)を助ける際に足を怪我し、その信田屋で湯治する紋次郎とお市の会話です。原作では、会話でなく、説明しています。
"なるようにしかならない。それが渡世人の人生だと、紋次郎は割り切っていた。人並に、生きる努力をすることはない。その代わりに、人並に死ねることを望んではならない。"
これは、渡世人でなくても、われわれ現代人にも云えることです。しかし、そこで重要なのは、お市も云っているように、"なるようにしかならない"ということを前提にしつつも、前向きに情熱をもって目標に向かって努力することです。"なるようにしかならない"ということを根底に据えていれば、どのような結果になっても落胆することもなく、裏切られることもありませんから・・・。
他の回で書いたかもしれませんが、会社で自分の期待する職務につけなかったからといって落胆することなく、その新しい職務で自分を磨いてゆけば、必ず自身のプラスになることを得ることができます。"ピンチをチャンスに"という言葉もあります。とくに40年近くある会社人生の中の10年程度を費やしたとしても、四分の一。
前回「一里塚に風を断つ」のカメラマン森田富士郎の訃報を伝えましたが、彼は大映の名カメラマンでした。その映画会社の大映が倒産したわけですので、本人にしてみれば大変なこと。しかしその後、五社英雄監督と組んで、宮尾登美子原作の「鬼龍院花子の生涯」、「陽暉楼」、「櫂」、さらに「極道の妻たち」といった作品を撮ったことで後年の活躍が光り輝いています。この紋次郎を撮ったころが最も大変な時だったのかもしれません。
ヒロインお久(扇ひろ子)のことも書いておきましょう。原作では、ラスト、飛んでいる蛾に向かって楊枝を放ちますが、本作品では、紋次郎の長脇差をやくざから取り戻し、息を絶えたときに預った簪を空中に投げ、それに向かって放ちます。こちらの方がヒロインの儚さを際立たせていました。
なお、本作品の前作「一里塚に風を断つ」のロケ中に、実際に足を怪我していたときの作品です。これにより、放映は、一か月中断し、峠シリーズが放映されます。  

 

●第10話 「土煙に絵馬が舞う」
原作も同じく第10話である。主演の中村氏がアキレス腱断裂という大怪我のため、約1ヶ月紋次郎の放映は延期された。4月に入り再開された第1回目の放映ということでなにかと注目されたことだろう。その上オープニングときたら、崖から落ちるシーンから始まるとは出来すぎである。
原作での殺伐とした村の様子は、映像で見るそれとは比較にならないほど悲惨である。
「誰もが、痩せ衰えている。土気色の顔をしている。垢にまみれ、乞食以下の身装りだった。中には、気の狂った娘も、まざっている。鬼気迫るものがあった。陰惨な執念、といったものが感じられた。紋次郎もさすがに、嘔吐感に似たような気分を覚えた。」
貧農の生まれである紋次郎でさえ、吐き気がする程のひどい状態である。読んでいるだけでも異臭が漂い、悪夢にうなされそうな表現である。
テレビ版はそこまで悲惨さを感じないのはなぜか?その一つ目は茂作の末っ子新吾が、年端も行かない子どもとして設定しているところにある。作品に子どもが登場するだけで、場の雰囲気が柔らかくなり、潤いが出る。この新吾が何かと紋次郎になつき、面倒を見たり「渡世人はいいなあ」と憧れを持ったりするのである。この子どもが実に健気で、原作にはない明るさがあり、見方によっては健康的にまで見えてしまう。柱に縛り付けられている紋次郎にヤモリを食べさせたりしているが、これは原作にはない。ヤモリを生で食するという風習はあったのだろうか?ヤモリは「屋敷を守る」という語源があるとされているが、この家の何を守ろうとしているのだろうか、と考えたくなる。この後、家は焼き払われてヤモリが炎に包まれるシーンがある。ヤモリに象徴されるもの……土地に縛られる百姓を意味しているのかと推察する。
二つ目は、茂作の息子の嫁が紋次郎を盗み見して「それにしても、いい男だなあ」と評する所である。これも原作にはあり得ないセリフである。極貧の上、黒銀にいつ皆殺しにされるかわからないという極限のとき、「いい男だなあ」はないだろう。そんな余裕があるのか、といったところだ。中村氏が演じる紋次郎はこの時人気が鰻登りで、特に女性からのファンレターが数多く送られたという。正真正銘の「いい男」であるのは確かである。あの一言は、画面に向かってため息まじりにしみじみと呟いた、数多くの女性ファン代表のセリフなのだ。
三つ目は、気が触れた娘「お花」の設定の違いである。「青柳美枝子」演じるお花は狂っているとはいえ、実に可愛らしく健気でる。また、紋次郎を死んだ恋人「佐助」と思いこみ、必死にかばったりする。「さすけー!さすけー!」と叫び、紋次郎にしがみつくお花の姿に、純粋な気持ちで人を愛する美しさを感じる。欲も得もない狂女こそが、真の愛の姿を示しているのだ。
茂作一家は、血のつながりのないお花を養い世話をしているというあたり、虐げられてはいるがいわゆる「いい人」なんだなあ、とテレビ版では思えるのだが、原作は酷い。原作では「お花」は狂っているからということで、黒銀一味の餌食として提供されている。どんなに慰みものにされようと何も感じないお花を犠牲にして、倅たちの嫁を毒牙から守るという利己的なやり方は惨い。そして、お花はあまりにも哀れな存在である。テレビ版でのお花は、浪人くずれの男に手籠めにされそうになり必死に抵抗する。かみついて悲鳴を上げるお花を助けようと、紋次郎は縄をほどこうともがく。青柳演じるお花の迫真の演技に触発されたのか、その時の紋次郎の表情は真に迫っているように感じる。
茂作の息子の中で次男だけは、こんなやせた土地にしがみつくなんて無意味だ茂作と対立する。末っ子の新吾は百姓は家の跡継ぎだけが人間で、次男以下は牛や馬と同じだと言う。「おとっつあんの指図だ、おらたち嫁たちは黙っとればいい」とは3人の嫁たち。よそ者意識の強い排他的な言動等々、テレビ版では原作にはない設定やセリフを通して、百姓の閉鎖的で封建的な世界を見せている。
なかなか口を割らない百姓に業を煮やして、黒銀一味は茂作一家を皆殺しにすると暴れ回る中、幼い新吾までもが殺される。紋次郎の所までかけ寄り「紋次郎さん……」とすがりながら、息絶える新吾。この後、紋次郎は黒銀一味を全員叩っ斬る。
「百両なんて金は百姓には二度と手に入らねえ。ありか知ってるのはおらだけだ。誰が渡すもんか」茂作は紋次郎に恨み言を残し憤死する。テレビ版では百両を隠匿したのは茂作一人ということになるが、原作では「ここにある絵馬のうちの百枚に、それぞれ一両小判が一枚ずつ仕込んであるのに違いなかった。茂作たちは何か月もかかって、この百両隠匿の作業を進めたのだろう」とあり、茂作の家族はみんな知っていたということになる。
原作では後を追ってくるお花に紋次郎は声をかける。「お花坊、ひとりでここにいても仕方ねえだろう。一緒に来なさるかい」紋次郎の優しさが見える。テレビ版ではお花が飾り扇を差し出すのを「くださろうっていうんですかい?おめえさんの大事な品じゃねえんですかい、大切にしておきなせえ」と丁寧に断っている。ラストではお花の手を離れた飾り扇を楊枝で絵馬に留めた拍子に、隠されていた小判が絵馬の裏からザラザラ落ちる。紋次郎は絵馬を残らず長ドスでたたき壊す。執拗に、怒りを込めて……。そこではたと思い出すのだ。お花の死んだ恋人の佐助は大工だったことを……。そして呟く。「金ってえのは、怖えもんだ」この設定でいくと佐助はこの細工をさせられた後、鉄砲水のどさくさに紛れて茂作に殺されたのではないか、ということが暗示される。どこまでも因業な結末だが、それ以上に原作では最後の2行が哀れである。「三か月後の天保九年八月に、小判百両と娘の餓死死体が見つかり、『その娘は、身重にて候』と記録されている。」どちらも殺伐とした結末で、乾ききった荒涼とした世界を描いている。
1ヶ月の療養後、再び紋次郎は帰ってきたのだが当然、殺陣や激しい動きは出来ないので代役がアクションをしている。長い合羽と三度笠のお陰で、上手く顔のアップとつなぎ合わせて作品は仕上がっている。演出は勿論、カメラ、編集とスタッフの並々ならぬ苦労があったことだろう。これも、作品を心底愛する人たちの心意気が結集した賜である。関わった全ての方々に敬服する。 

 

●第11話 「龍胆は夕映えに降った」
原題は「噂の木枯し紋次郎」であるが、テレビ版では改題されている。シリーズ「木枯し紋次郎」のタイトルには特徴的なものがあり、殆どが「〜(は、が、の、に)〜た」TA音で終わるパターンからいくと、このタイトルになっても不自然ではない。
逆に、笹沢氏がなぜいつものパターンを踏襲しなかったのかが気になる。「噂の木枯し紋次郎」は「小説現代」に毎月連載されて、第12話目となる。主人公が無目的な流れ旅を続ける中、推理小説手法を用いて、必ずドンデン返しを入れるというパターンのため、アイディアも限界ギリギリまできていたらしい。そのため、この次の話である「木枯しの音に消えた」で最後にしようと考えていたという。その辺を考慮すると、終末に向かっていく感がし、この原題も頷ける。
私はこの回に登場する、原作の「喜連川の八蔵」が個人的に好きだ。八蔵の姿形や受ける印象は紋次郎とそっくりである。小説をずっと読んできた者にとっては、紋次郎の外見の記述はお馴染みであるので、ポイントは全て押さえている。従ってこの話の出だしを読むと、違和感が覚える。まず鞘の色の記述である。紋次郎の長ドスの鞘は錆朱色であり、朱色ではない。そして風貌はそっくりだが、左頬の古い刀傷の記述もない。愛読者はこの後の種明かしを読むまでもなく、斬られたのは紋次郎でないことに気づく。
原作では紋次郎と八蔵は3ヶ月前に賭場で一緒になり、一晩だけ同じ屋根の下で過ごしている。
「世間では流れ渡世人で最も名を知られているのは、木枯し紋次郎と喜連川の八蔵だなどと取り沙汰をしているようである。しかし、当人たちはまったく、そんなことを意識していなかった。……二人とも余計なことは口にしなかった。ライバル意識どころか、互いに興味も持ち合わなかったのだ。過去のない流れ渡世人というものは、どことなく似通っているのかもしれない。」
そのあたりを読んだだけでも、紋次郎とそっくりの八蔵とはどんな渡世人なのかと想像が膨らんでくる。テレビ版は「内田勝正」が演じている。長身で痩せているところの立ち姿は似ている。出来れば原作通り、紋次郎と八蔵が同じ賭場、同じ宿で過ごした様子を映像化して欲しかった。そこでのやりとりや周囲の者たちの反応、二人の所作の美しさや貫禄ぶり、などを比較してみたかった。ちなみに八蔵役の「内田勝正」はこの後、「流れ舟は帰らず」で十兵衛という悪役ながら重要な役を演じている。
話の展開はかなり変えてある。原作通りで放映となると、やはりお茶の間にはきつい内容である。八蔵の妹の千香は藤兵衛に手籠めにされ、身をくずして居酒屋の酌女になってしまっていた。藤兵衛はそのことを八蔵に知られたくないがため、仙太郎に斬らせたかったのだ。話は複雑であり、藤兵衛の小心ぶりがうかがえる。テレビ版での藤兵衛は、兄貴分の文五郎の縄張りを狙っての企みとしており、藤兵衛と千香とは無関係である。
テレビ版での、偽紋次郎が殺された直後に本物の紋次郎が現れるなどいうことは、広い街道筋では滅多にない偶然だろう。その点、原作は必然的である。紋次郎は八蔵の伝言で、この地に呼ばれていたのである。伝言は、千香を見つけたがそのために三十両が入用になったので、何とかよい手蔓がないものかということだった。何の義理もなく、一晩同じ屋根の下で過ごしただけの八蔵の力になろうと思ったのは、やはり八蔵に共感を覚えたからであろう。多分紋次郎も八蔵と同じ立場なら、同じ道を選んだであろう。しかし、紋次郎にはそんな肉親はいない。自分の命を差し出せるほど愛すべき妹を持つ八蔵のことを、もしかしたら羨ましく思ったのかも知れない。だから原作の紋次郎は、八蔵のことを哀れだとは口にしていない。そして淡々と藤兵衛に、二十八両を千香に渡せと要求する。
テレビ版の紋次郎は八蔵と面識はなさそうで、八蔵の人柄も知らないようだ。仙太郎から事の経緯を聞かされた後のセリフ。「おめえさんは知るめえが、喜連川の八蔵は一頃はちょっとは名の知れた渡世人だった。死ぬ時ぐれえ、てめえの名前で死にやがれ」と語気を強め楊枝を飛ばす。そして一言、「哀れな話だぜ」哀れな話かも知れないが、八蔵にとってはこの道しかなかったのだ。そして本当に哀れなのは、この後である。
テレビ版での千香は、紋次郎が金を届けに来る直前に馴染みの客と刺し違えて、死んでいた。女郎屋の主は紋次郎が届けた金が二十八両と聞いて、手の平を返したように「これで、立派な墓を建てて供養が出来る」と、ありがたがる。千香は不幸な妹だったが、龍胆の花のイメージのままこの世を去っている。悲しい結末だが、これはこれでよかったと言える。
しかし原作は本当に酷い。清純な龍胆とは程遠い淫乱な女で、手にした金が続く限り湯治場で過ごそうと男に声をかけている。おまけに兄八蔵の消息など無頓着である。結局生きている間に二十八両は千香に渡ったのだが、実に後味の悪い結末である。気が優しくて、少女の頃から龍胆の花が好きな千香の労咳を治療するため、命を賭して紋次郎を演じ、紋次郎のまま死んでいった八蔵。千香の浅ましい姿を目にした紋次郎は、ここで初めて八蔵のことを哀れに思う。
「紋次郎は孤影を踏みながら、ふと喜連川の八蔵のことを思い浮かべていた。八蔵がなぜ千香のような妹に二十八両をくれてやりたくて死んでいったのか、紋次郎にはまったくわからなかった。ただ八蔵という男の哀れさが身にしみて、何となく他人事のように思えないのであった。」そして最後に、野に咲く一つだけの龍胆に楊枝を飛ばし花を落とす。
テレビ版ではたくさんの龍胆の花が咲き乱れている。手前に龍胆の花、遠景に紋次郎の後ろ姿でエンディングとなっていて、龍胆に楊枝を飛ばすことなく去っていく。しかしどう考えても、このシチュエーションであれば楊枝で花を落とすべきだと思うのだが……。タイトルを変え「龍胆」をイメージした作品だけに、原作の人間の愛欲ドロドロな内容から清楚で哀愁を帯びた作品に変貌したと言える。 

 

●第12話 「木枯しの音に消えた」
紋次郎の生みの親、笹沢左保氏が1971年の1月から「小説現代」に毎月連載していた13本目がこの作品である。前回にも書いたが、笹沢氏はこの回で限界だと感じたという。その時の経緯を紹介したい。
「……その頃からテレビの紋次郎が人気を集め始めて、いわゆる紋次郎ブームということになった。その最中に、紋次郎を散らせるのが、最も紋次郎らしい姿だったかもしれない。だが、そうなったからには、あまり勝手なことは許されない。人に迷惑をかけることになったのでは、それはぼくのわがままというものになってしまう。第1回目のシリーズを終えたテレビでは、再開までの半年間、ぼくの原作が貯まるのを待つということになった。テレビの第2シリーズ分まで、原作は書かなければならない。それだけではない。紋次郎を育てた「小説現代」に対する義理もあり、その意向は尊重しなければならなかった。それに、読者の要求に応ずることが、第一の義務であった。読者の支持、紋次郎を続けろという多くの要望があるうちは、書かなければならない。」
この作品が掲載されたのは多分放映2ヶ月前ぐらいである。もう原作が追いつかない状態になっている。中村氏は、アキレス腱断裂という大怪我をした後も撮影に臨む義理立てをし、原作者も紋次郎ブームに関わる人たちに義理立てをしている。「木枯し紋次郎」存続の裏にはいかに大勢のファンの期待と、作品に携わった人たちの魂の後押しがあったかがうかがわれる。
テレビ版と原作とは大きな違いはなく、ほとんど展開は同じである。紋次郎のトレードマークである、左の頬の傷とくわえた楊枝のいわれが、明らかにされる重要な作品である。おそらく紋次郎が18歳の頃、命を粗末にし無茶なことばかりしていた折、5人を相手に斬り合い頬に刀傷を負った。その時の傷が左頬の傷になるのである。また、左腕を骨折したとされており、20日ほど源左衛門宅で世話になっている。その時、源左衛門の娘「志乃」から楊枝の吹き鳴らし方を身につけたとしている。また中村氏は多分、怪我が完治していないので、このシーンは代役が演じていると思われる。ほとんど顔が見えないのであるが(殺陣が竹林ということもあって)幾分顔の輪郭がふっくらしているように見える。
「六地蔵の影を斬る」の回でも書いたが、市川バージョンでの紋次郎は、楊枝を人に向かっては飛ばさない。しかし原作では、半次に楊枝を切断された直後、顔に向かって飛ばしている。楊枝は右の頬に突き刺さり、半次は悲鳴を上げる。テレビ版では顔ではなく、半次の三度笠の掛け紐を射抜き、スローモーションで三度笠が落ちる。今でこそCG処理ができるが、当時はほとんどアナログである。楊枝が紐を射抜くなどということは容易ではない。よく見ると楊枝が飛ぶ前に、髪の毛状の糸が見え、楊枝(葦でできていてストロー状)がその糸にそって飛んでいくのが見える。超絶技巧である。不可能を可能にすることに職人気質がうかがえ、挑戦することに価値があるとしたスタッフの心意気がすばらしい。また、二つの賽子が真っ二つに斬られて転がるシーンもよく撮られている。
半次役に歌手の「荒木一郎」。およそ時代劇らしからぬ長髪、派手な着物、三度笠の色も妙に赤っぽく奇妙な出で立ちだが、それが半次の狂気じみた不気味さを表現している。その点、荒木一郎は失礼ながら適役なのかも知れない。稲荷山の兄弟の兄、仙太役に「戸浦六宏」。渋い脇役である。兄弟という設定であるが、あまり似ていない。この二人の実の妹は飯盛女の「おつね」で、過酷な客とりや折檻ののため命を落とした。その意趣返しのため、雇い主だった巳之吉を殺しに来たのだった。原作通りだと、この兄弟の言い分ももっともで肩を持ちたくなる。しかしテレビ版では、巳之吉を殺したら縄張りを譲ると箱田の六兵衛に言われその気になるような、狡猾な兄弟に設定している。また半次には、田丸屋の使用人を馬で引きずり回すという残忍な性格を与えている。このシーンは明らかに、マカロニ・ウエスタンの私刑をなぞっている。こんな狡猾で残忍な兄弟なんだから……最後に斬られても仕方ないといったところか。この兄弟がガツガツと膳部のモノを喰らうシーンは実に品がなく、いわゆる紋次郎食いとは似ても似つかない。
お志乃(お豊)役に「十朱幸代」。年齢設定は19歳、ちょっと無理があるかと思ったが、原作にこんな一文があった。「二十前なのだろうが、崩れた感じがお豊という女を老けさせていた。」というのであれば、良しとする。しかし十朱は崩れた感じは受けない。原作ではこうも書かれている。「……何とも、自堕落な恰好であった。髷ばかりではなく、どことなく崩れた感じのする女だった。顔に、ほつれ毛がかかっていた。気品があってなかなかの美人なのだろうが、いかにも荒んだ女というように見えた。」「十朱幸代」はどちらかというと、コケティッシュな感じのする緩く甘い雰囲気である。また輪郭もうりざね顔で、苦労を重ねたすれた飯盛女という感じはしない。汚れ役というのも珍しかったのではないだろうか。しかし、何となくお姫様っぽく、男好きのする可愛さがある点などを考えるとこれでいいのかとも言える。この頃、「木枯し紋次郎」に出演を希望する女優が大勢いたそうである。作品の人気や完成度の高さで、紋次郎に出演するということは、一種のステイタスになっていたようだ。
原作のお豊(お志乃)は風邪をひいていているようで、細い首に真綿を巻き付けているが、テレビ版はそれを再現していない。また、紋次郎を招き入れた部屋のすぐ近くで、15歳になったばかりの「お駒」が芝居っ気たっぷりで客をとっているシーンもない。(これについては、お茶の間ではやはり流せないだろう)しかし、この二点があるかないかで、当時の飯盛女の悲惨な生活ぶりの表現に差が出たように感じる。
お豊に「助けてやっておくれ」と頼まれるが冷たく断る紋次郎。
「人は人、あっしはあっしということに、しておいておくんなさい」(原作)
「人は人、あっしはあっしと思って生きておりやすんで」(テレビ版)
紋次郎の生き方を如実に表しているセリフである。私はこの場面の紋次郎の表情や雰囲気が好きである。「余計なことに関わりを持ちたくはねえんで」と言うときもだが、お志乃が紋次郎の顔を見つめて懇願していても、紋次郎は目を合わせずこれらのセリフを口にする。そして無言で立ち上がり身支度を手早く調え、玉代の三百文を蒲団の上に投げ落とす。原作では床の間に置くのだが、テレビ版の方がより非情である。そんな薄情で非情な紋次郎という設定なので、「お願いだよ、紋次郎さん」と呼ばれた後の行動のギャップが大きくなる。お豊の「紋次郎さん」と呼ばれた瞬間、紋次郎の動きが止まる。聡明な視聴者や読者ならここで、お豊がお志乃であることに気づくだろう。笹沢氏は紋次郎シリーズで、時々キーワードを配する。その一言でトリックや企みに気づくという趣向である。
巳之吉と稲荷山兄弟との決闘の場へ急ぐ紋次郎。その姿や足もとの映像と、木枯らしを受けてざわめく竹林が交互に映し出され、紋次郎の心象風景のようだ。心がはやる紋次郎は、途中から疾走する。
稲荷山の兄弟と対峙した紋次郎がとった手段は今までの殺陣にはない、斬新なものである。原作では「成功率は低い。これまでにも一度だけやって、失敗しているのだった。」とある。しかし、それまでの原作にはそういうエピソードはない。失敗した後はどうなったのか、気になるところである。二人を一度に攻撃する他の策は、私には思いつかない。因みに、紋次郎シリーズの先駆けとなる作品集、「見かえり峠の落日」に収録された「鬼首峠に棄てた鈴」には、一人を相手に壁に投げたドスと竹槍で、注意力を二分するという策はある。
ラストシーンの、お志乃と紋次郎の楊枝を吹き鳴らす心の交流は本当に切ない。楊枝を飛ばす名シーンは数多く語られるが、楊枝を吹き鳴らす絶品と言えば、文句なしにこの回のこのシーンだろう。この後名セリフが続く。「お志乃は死んだよ。紋次郎さん、あんたの知ってるお志乃のきれいな思い出だけを持ってっておくれよ」このセリフは原作にはなく、脚本家が考えた名セリフである。お志乃にとってきれいな思い出の最後は、幼少の頃、紋次郎と過ごした短い日々だったのだろう。「おめえさんのことは思い出しもしねえが、忘れもしやせん」一見矛盾しているようだが、紋次郎の心を表現するとしたらこれ以上のセリフはないだろう。笹沢氏の言霊のセンスの良さがうかがえる。いわゆる泣けるシーンである。
原作では以下のように記されている。「同夜、田丸屋飯盛下女志乃狂乱し、村田屋飯盛下女志乃は入水して死すと記録にある。」木枯らしの音の荒涼さと結末の哀しさが相乗効果を生み出している。 
木枯しの音に消えた
「おめえさんのことは、思い出しもしねえが、忘れもしやせんぜ」
足尾の神戸における出入りで、左の頬に傷を負った紋次郎は、そこに住む浪人親子に介抱されます。その折に6歳の娘志乃(十朱幸代)から楊枝を鳴らすことを教えられます。ここで左頬の傷、楊枝を吹き鳴らすようになった理由が明かされます。一年後父親が亡くなり、19歳になった志乃は玉村宿で飯盛女として生きています。彼女を探しにきた紋次郎と再会し、再び別れてゆく。別れ際のセリフです。
いやあ、難しい命題を投げかけられてしまいました。忘れないことと、思い出されるということと、同義としか理解できない。このセリフは、どういうことなのか、難しい。
ところで、企業の経営戦略を策定する際には、目的、それも具体的な目標を設定することが必要です。それは、その企業の理念なり、経営方針なりに則っていなければなりません。しかし、それらを持たない企業も多いようです。筆者は、ホームページの制作を依頼された場合でも、経営理念、経営方針の策定を薦め、事項してもらいます。とくに企業のホームページの場合ですが、必ず会社の紹介のページを用意し、経営理念、経営方針、社長挨拶、それから企業の所在地などの情報を掲載します。前者の理念、方針をもたいない企業には、これを契機に必ず作ってもらいます。食べてゆくため、収入を得るため、という方針も確かにあるのですが、法人として第三者を雇い、事業を進めているわけですので、彼らの人生も背負っています。理念とまでゆかなくとも、方針を立てて、それに向かってゆく姿勢を創らなくてはいけません。そして、その方針を社員で有言実行です。人間、口に出して言葉にすることで現実のものとなります。よく会社の朝礼で社訓を唱和するところがありますが、それはそういった理由でもあります。
ようやくここで話が繋がります。忘れないためには、文言にして、繰り返し口に出さなくてはいけません。目標は、常に忘れず、常に思い出すこと。それに向かって進むこと。やはり忘れないことは、思い出されるということですね。紋次郎のセリフは、人間は矛盾した存在でもあるというポーズとして捉えておきましょう。
本作品の監督は、1960〜70年代の東宝青春映画を支えてきた出目昌伸です。東宝の内藤洋子主演の「年ごろ」、酒井和歌子主演の「俺たちの荒野」といった女優の青春映画を多く撮っていました。それと紋次郎は結び付かないのですが、時代劇として唯一、草刈正雄の「沖田総司」がありました。この作品も彼らしい繊細な優れたものとなっています。
志乃との会話の中に、こんなセリフも出てきます。紋次郎の基本的な姿勢です。
「人は人、あっしはあっし、と思って生きておりやすんで・・・」
この生き方は、セリフ以外に原作の本文でも繰り返されます。
"一度は、志乃の達者でしあわせそうな姿を、はっきりと確かめたのである。その後のことまで、構ってはいられらなかった。志乃の一生を見守っているわけには、いかないのだ。人にはそれぞれ、自分の生き方というものがある。それにまかせるほかは、ないのであった。"
吹き鳴らす楊枝からは、紋次郎の木枯しの音、志乃の笛の音。それぞれの人生を歩んで行く、そして歩むしかない・・・  

 

●第13話 「見かえり峠の落日」
この作品は、作家笹沢氏の時代小説第1作目であり、第1回小説現代ゴールデン読者賞の受賞作品である。この作品の成功が、後の「木枯し紋次郎」を生み出す事になる。いわば紋次郎の兄貴分というところか。故に主人公の人物像には、紋次郎の原型となった部分が大きい。後の笹沢氏の膨大な時代小説の先駆けとなっただけに、記念すべき傑作である。
原作の主人公は「北風の伊之助」。彼の風貌を原作から見てみる。「二十八、九だろうか。日焼けが肌に染みついてしまったように、浅黒い顔色だった。目つきだけは精悍そうに鋭いが、表情はないも同然だった。顎のあたりに無精髭が目立ち、のびた月代が太い眉毛のすぐ上まで垂れている」紋次郎とよく似ているが、私はどちらかというと「御子神の丈吉」に近い感じを持つ。
テレビ版では、年老いた北風の伊之助が死の間際で紋次郎に頼み事をする。「労咳にかかった息子の忠七に、金を届けて欲しい」と言って伊之助は、二足草鞋の清蔵の手下に刺される。「仏に頼まれりゃ、嫌とは言えねえ」と、紋次郎は下仁田へ急ぐ。関わりになることを一切断る紋次郎だが、頼まれる相手が死の間際であれば見捨てることはしない。「地蔵峠の……」「大江戸の……」「龍胆は……」に続いての頼まれごとである。この後も何回か、よく似た設定が出てくる。テレビ版では、北風の伊之助から20両預かった時点で、原作の伊之助が紋次郎となる。展開の大筋は原作に近いが、テレビ版では大分枝葉が増える。
清蔵が関八州に訴えたため、紋次郎には手配書が回される。原作では伊之助の育ての親が忠七だが、テレビ版では伊之助の息子が忠七。原作の忠七は既に亡くなっていたが、テレビ版では金丸屋で奉公中、金を持ち出して雲隠れ、八重のことが好きだった若者という設定である。原作には登場しない、八重の姉で出戻りのお初。勿論エンディングも違う。
人から頼まれアテのある旅となると、紋次郎は俄然がんばる。途中、お八重が手籠めにされかけていても、そのまま見過ごしてしまうほど先を急ぐのだが、手配が回っているからでもある。テレビでの手配書の人相書は結構似ていたが、トレードマークの楊枝が描き忘れてあり、紋次郎は楊枝を人相書の口許に飛ばす。そんな事をしたら余計に足がつくじゃないか、とつっこみを入れたくなる。
金丸屋の久太郎は渡世人を毛嫌いしているが、20両と聞くやいなや、態度を変える。この時の中村氏の顔のアップを見ると、いくらか顔がふっくらしていて、のびた月代が額にかかる具合も丁度よく、いい感じの男っぷりである。お初が初めて紋次郎を見たとき、品定めをするかのように一瞬のうちに目を走らせる。さすが「市原悦子」である。その一瞬で、お初の性格づけがなされる。久太郎も「馬鹿正直な渡世人だ」と嘲笑する。お八重を助け再び金丸屋にもどった紋次郎に、お初はかくまってやる代わりにと口止めをする。その後のセリフ。
「変わってるわね、紋次郎さんって。父からいくらでも、ゆすれたのに……。そういうこと平気でやるんでしょ、渡世人って」
実に嫌な親子であるが、それだけにお八重の純粋さが際だつ。原作では本当のこと言い出せない伊之助の苦悩と、心を寄せるお八重の健気さが作品の重要な部分を占めている。自分が関わらなかったばっかりに、お八重の人生を狂わせてしまった後ろめたさから、金丸屋に長く逗留することになった伊之助。そんな伊之助にお八重が心を寄せ、「私を連れて行ってほしい」とまで言われる。このあたりは純愛小説のような趣である。
しかしテレビ版ではお八重に惚れられるのではなく、お初に誘惑される紋次郎。「姉は菅笠、妹は日傘」と自嘲的に自分を評するお初の境遇も可哀想ではあるが、どちらかというとやはり嫌なタイプの女である。旦那に浮気をされても仕方ないか……と思ったりもする。嫌なタイプと言えばこの金丸屋親子だけでなく、忠七のふがいなさにも腹が立つ。そんな卑怯な忠七なのにお八重は、「忠七にお金を届けてくださってありがとう」と紋次郎に礼を言う。
さて、ここで疑問なのだが、紋次郎はお八重に「拾った髪飾り、お返しいたしやす。すまねえことしやした。お達者で……」と言って金丸屋を後にするのだが、お八重は紋次郎があの時、助けずに通り過ぎたことを知っていたのか、ということだ。お初は知っているのだが、そのことをお八重に教えたのか。「ろくでなし」と憎々しく言い放つお初なのに、お八重は障子をそっと開け静かに頭を下げる。その痛々しく健気なお八重を見て取った時点で紋次郎は、お八重を手籠めにした新六たちの片をつけようと決める。
原作での伊之助は、新六たちを皆殺しにして見かえり峠に向かう。それを追ってお八重も後をついて行こうとするのだが、八州の捕吏に刺され命を落とす。伊之助は拾ったお八重の根掛のことを思い出し、寺に預けるため峠を引き返す。そのときの伊之助の心の中。
「余計なことや他人のことには関わり合いになりたくないという渡世人気質が、八重をあんな目に遭わせたのだ。そんなことは、二度と繰り返したくない。どこの馬の骨だかと言われながら利用されていると承知の上で5人も斬った馬鹿な男が、ついでにもう一つ無駄なことをしてやってもいいではないか」
しかし夕暮れの中、銃声が鳴り響き伊之助は倒れる。お八重が死に、後を追うように伊之助も、霞む目で見かえり峠の彼方に沈む落日を見ながら事切れる。原作はドンデン返しやサスペンス仕立てはなく、(弥吉が実は伊之助であったぐらいか)疎外された者同士が精神的に結ばれていく様を切なく書き上げている。
テレビ版では、渡世人や流れ者に対する侮蔑、体面や金に執着し人をうまく利用しようとする利己的な姿など、堅気と言われる者の醜さが浮かび上がる。そして、権力をかさに掛け弱い者いじめをする狡猾な二足草鞋の清蔵。好いた娘を輪姦することに手を貸した忠七。性根の腐ったヤツばかりの中、お八重は泥水に咲く蓮の花のように美しい。そして馬鹿正直と言われながらも、自分の信念に従って行動する紋次郎。これらの対比を狙った脚本作りで、こちらも目立ったドンデン返しは見られない。
今回は紋次郎シリーズの中、珍しく飛び道具が出てくる。先にお八重が河原で撃たれるのだが、なぜ撃たれたのかは説明なし。紋次郎と間違われたのか……にしてはあまりにも見通しのよいところである。林の中の殺陣は、木立に見え隠れしながら進行する。危険なシーンや激しいシーンは、まだ代役が演じているように見えるが、銃を構えた敵めがけ、蔓にぶら下がって蹴り倒すシーンは中村氏本人か。殺陣を考えたスタッフもどうかと思うが、それを引き受ける中村氏も度胸があるというか、意地があるというか。今の撮影現場では考えられないのではないだろうか。全くもってヒヤヒヤする。
やはり「見かえり峠の落日」は傑作である。テレビ版では、紋次郎というキャラクター設定なので、この話が変えられ展開していくのは仕方がない。しかし原作の、胸を締め付けられそうな切なさや無常観、ラストの悲哀などを味わおうとすると、やはり紋次郎ではなく「北風の伊之助」として映像化してほしいところだ。派手な特撮やアクション中心の時代物ではなく、底辺で生きていた無宿渡世人の苦悩する生き様と八重の純愛を、情感込めて誰か撮ってくれないものだろうか。そう考えると、キャスティングでまた妄想が始まってしまうのだが、それがまたファンの楽しみでもあるのだ。 
見かえり峠の落日
「時がたてば、忘れることだってできるんだから・・・」
ならず者たちに暴行を受けた妹の八重に向かって、出戻りの姉のお初(市原悦子)が諭すことばです。
特集2「やくざ映画に学べ!ビジネス、そして人生」でも同じようなセリフがありました。そうです。「関の弥太っぺ」(1963年。監督 山下耕作)です。
時間というものは、不思議なもので、万能薬のような効能があります。ずっと思いが持続してしまうようだと、人間生きていけませんから、うまくできています。
本作「見かえり峠の落日」は、「紋次郎」シリーズの原作には存在しません。著者の笹沢佐保が紋次郎に先立つ「峠」シリーズの作品、それも股旅ものを手掛けた最初の作品です。ということもあるのでしょうか、「紋次郎」シリーズの特長であるラストのどんでん返しが本作には存在しません。しかし、作品として整っていますので、原作を連載していた小説現代の第1回ゴールデン読者賞の受賞作品です。
テレビドラマと異なり、原作にはお初は登場しませんし、銃で撃たれた北風の伊三郎(「峠」シリーズの主人公の名前)は、見かえり峠へ向かう山道で息をひきとります。という具合に少々相違点があります。
さて、次のセリフは、名セリフということもないのですが、いつもの紋次郎の生き方を示すものなので、掲げておきます。
「てめえしか頼れねえ渡世ですから・・・」
人間ひとりで生まれて、ひとりで死んでゆく。だからこそ、生きている間は、ひとと交わって楽しく生きてゆきたいものです。逆説的な捉え方がよいです。
最後に、気になったのが、やはりお初のことば。
「姉は菅笠、妹は日笠」
このことばは、同じ親から産れた姉妹でも、各々の嫁ぎ先によって境遇に差がでてくることをいう慣用句です。「菅笠」は、農作業などでかぶるスゲの葉で編んだ笠で、貧乏の例え、一方「日傘」は、日傘をさせる裕福の例えです。姉は菅笠を被り働き、妹は日傘をさして遊興するようすです。
ここでは、上記の説明と微妙に異なり、家族の中で姉は常にたいへんな思いをして妹たちを守って生きてゆく定めにあることを云っていると受け取りました。確かにそうかもしれません。男兄弟でも似たようなところはあると思います。 

 

●第14話 「水神祭に死を呼んだ」
原作では第5話になる。渡世人の末路とはどういうものなのか……紋次郎はいつも自覚しているのであるが、今回は自分を投影するような老渡世人が出てくる。
原作の設定では4月15日、放映日もほとんど同じ時期でめずらしく花があちこちに見える。紋次郎の世界のイメージは荒涼としたものであるので、できるだけ撮影にもその雰囲気を出すようにしている中で珍しい。ラストシーンに山桜が印象的に出てくるので、必要ではあるのだが……。アバンタイトルでの最初のシーンが山桜の花、これはラストシーンと呼応させている。次に、諸肌を脱いで山水で身体を拭く紋次郎の姿がある。原作にはないシーンである。
ところで、映像で見る紋次郎には不潔感というものが一切感じられないのはなぜか……、こういうシーンが功を奏するのである。このほかにも映像の中では、川で顔を洗う、口をすすぐ、塩で歯を磨く、体を拭くなどのシーンが結構出てくる。もちろん主演の「中村敦夫」氏の端正な容貌の良さが、大きな比重を占めるのは言うまでもないが、身につけているものがどんなにすり切れ汚れていても、不潔なイメージには結びつかない。
白い木蓮の花とお美和の顔、お美和の清純さをイメージさせる。話の展開はほとんど原作をなぞっている。茂左衛門の頼みをいつものように断る紋次郎。「あっしはめんどうなことには関わりたくねえんで」原作とほとんど同じセリフであるが、この作品ではじめてこの言葉を発する。未だ決めセリフとしては確立していないらしい。
紋次郎の前に急に現れる若い渡世人、洲崎の佐吉役に「寺田農」。いかにも軽薄そうな若者を上手く演じている。ちなみに第24話 「女郎蜘蛛が泥に這う」では千代松役で再度出演する名脇役である。茂左衛門(人斬り伝蔵)役に「田崎潤」。貫禄十分の名優である。原作よりかくしゃくとし、言葉遣いにも武家上がりを思わせるような丁寧さが見られる。佐吉からも「人斬り伝蔵」の話を聞かされる。噂が噂を呼び、伝説の人斬りになっている伝蔵だが、紋次郎の噂も広まっているようである。原作はまだ5話目であるが、テレビ版ではすでに14話。視聴率も深夜でありながら、20%を超える勢いだったという。佐吉が「頬の傷とくわえ楊枝」で紋次郎と分かるあたり、如実にそれを表している。原作での紋次郎は自分で名を明かしている。
紋次郎が、人形師の惣助から五十両を頼まれる件は、原作とテレビ版では若干違う。テレビ版では、惣助の今際の頼みで引き受ける紋次郎である。この件は「地蔵峠の…」「大江戸の…」「龍胆は…」でお馴染みであるがこの後もよく似た設定が出てくる。因みに惣助役の俳優は「湯煙に…」の金吾役の方。原作では、死の直前の頼みではないが引き受けている。
「惣助が命を賭けて、女房のお敬の自由を願っていることが、紋次郎の胸にしみたのである。それに紋次郎にとっては、他人からこれほど信用されたのは初めての経験だった。どこの馬の骨ともわからない渡世人に、五十両という大金を預ける。渡世人はそのまま、五十両を持ってどこかへ消えてしまうかもしれない。…中略…堅気の人間なら、紋次郎には一両だって預けたりはしないだろう。渡世人同士にしても、同じことだった。信じられるのは、自分だけである。自分以外の者は、信じない。その代わり、誰からも信じられない。それが渡世人紋次郎の、これまでの生き方だった。 だが、惣助は違った。知ったばかりで、まだその名前さえ聞いていない紋次郎なのに、惣助は頭から信じきっていた。必ず届けてくれと念も押さずに、紋次郎に五十両を手渡したのであった。そのことも、紋次郎が惣助の頼みを引き受けた理由の一つになっているのである」(原作より抜粋)
原作ではまだ5話目なので、「甘いな」という感じである。胸にしみた、初めて信用された経験……人間らしさがまだ残っている時期だったのか。テレビ版では第14話。すでにかなり騙され、裏切られ、人間不信の塊になっている紋次郎であるので、今際の際の頼みだから引き受けたか。
「惣助さんはあっしにとっちゃ行きずりの人だが、今際の際に頼まれた使いを果たす気になったのは、まあ渡世の意地ってもんでござんした」
しかし原作でも結局、その後惣助は殺されてしまう。テレビ版は単に「渡世の意地」という漠然とした言葉で表しているが、五十両の重みが原作とは違うように感じる。
佐助と別れ、お敬のいる宮田に急ぐ紋次郎。小料理屋「福茶」から出てきたお敬役に「赤座美代子」。ほぼ原作通りの容貌とセリフ回しである。よく見るとえくぼがかわいい女優さんであるが、それだけに人を小馬鹿にした言いぐさが憎々しい。原作では自分はだれに何と嘲笑されようとも、腹は立たない。人間らしい感情もなく、結局は拒絶される渡世人は、大抵の仕打ちには馴れている、としている。
「しかし、惣助が哀れだった。それを思うと、紋次郎の胸のうちも冷たくなった。惣助は紋次郎を信じきって、五十両の金を預けた。お敬はそれを、間抜けた渡世人だとして嘲笑した。惣助の気持ちは、すべて無視されている」
紋次郎は自分を嘲笑されて立腹しているのではなく、自分を純粋に信じてくれた惣助の真心を踏みにじられて心が冷たくなったのだ。自分のことより、自分を頼りにした惣助のことを考える紋次郎に、私は人間としての限りない優しさを感じる。自分はどんな仕打ちにも傷つかない、自分の事を思う心は死んだも同然だから……。しかし、自分というフィルターを通して汲み取った純粋な人の真心が、正当に報われなかったことに立腹しているのだ。原作では「お敬の背後には、徳太郎がいる。やはり徳太郎を敵に回すようにできているらしい」とこの時点で自覚して、伊那宿の方へ引き返す。お美和や茂左衛門のことが気になったからである。
テレビ版では、お敬の店を出て徳太郎一家の前を通り過ぎ歩く紋次郎に、目的は感じられない。しかし途中で茂左衛門にバッタリ出合い、お美和が掠われたことを聞かされ、宮田に戻りこの件に関わることを選ぶ。「あっしは自分自身に訳あって、気が変わったんでさあ」と、茂左衛門の問いに答える紋次郎。この後宮田宿の徳太郎の住まいを訪ね仁義をきる。この時の作法に則った姿や発する声は、実にかっこよくて堂に入っており、貫禄さえ感じる。
話は宮田宿、大田切神社、伊那宿と目まぐるしくあちこちに舞台が移動するので正直、方向音痴の私は訳が分からなくなってしまう。原作にはない、茂左衛門の心臓の持病。老いと病持ちという設定である。実際、紋次郎の小説も回が進み、齢を重ねた設定のシリーズでは目を痛めたり、心臓に違和感を持ったりする。いつかは紋次郎も、老いて病持ちになるのかと思うと切ない。
テレビ版では紋次郎は馬を操れるようであるが、原作にはない。紋次郎はいつ、乗馬を習得したのか?とつっこみを入れたくなるが、サービスシーンということで許そう。中村氏は確かこの時点では馬には乗れないと思うので(足の怪我が完治していない・乗馬は未だ習得していない、 「水滸伝」の撮影で乗馬を習得するので)このシーンは、吹き替えである。茂左衛門は馬に乗り、紋次郎は韋駄天走りで麦藁船を追いかける。走る紋次郎の足もとには、一面に咲いた黄色いタンポポの花。既出だが、やはり花のイメージが見える。放映日と撮影時が、かなり接近していることを実感する。
この麦藁船は実に良くできていて、大道具さんの仕事ぶりはすばらしい。あれだけの船を作るのに、一体どれだけの労力と費用がかかったかは想像するしかないが、制作費が縮小されている現在では難しいのではないかと思われる。このリアルさが作品の完成度を高めるのであり、テレビ番組といえど決して手を抜かないスタッフの心意気を感じる。
テレビ版での宮田の徳太郎役は「南原宏治」。髭が頼りなく、貫禄をあまり感じない。お敬は倒れかかる徳太郎の長ドスに刺されて命を落とす。原作では、斬られた徳太郎ともつれ合って川に流され消える。早春とはいえ川に流されるシーンは、やはり女優には酷と思われたか。
しかし茂左衛門はお美和を助けるため、水をもろともせず船に近づく。回り込んだ瞬間足が滑って、全身水に浸かる茂左衛門。あれは演技ではなく、実際足を滑らせたと思う。回り続けるカメラ、熱演する田崎氏、リアルな映像だと感じた。
ラストシーンは、「茂左衛門!茂左衛門!」と泣きながら取りすがるお美也と、紋次郎に看取られて息を引き取る「人斬り伝蔵」。原作よりはずっと余韻が残るのは、やはり「田崎潤」の演技のせいか。原作通り、山桜の花を楊枝で落とし刀傷の残る胸に散らす紋次郎。ここでエンディングかと思われたが、紋次郎はお美和と言葉を交わす。
「茂左衛門さんも務めを果たして、十五年間の堅気の生活に死に花を咲かせた訳でござんすんね」
「あっしは訳あって、徳太郎とはこうなる因縁でござんした」
「あてのない旅でござんすが、先は急ぐものと決めておりやすんで、御免なすって……」
2回目の「訳あって」の言葉だが、「訳」とはやはり、惣助の真心に報いようとした紋次郎なりの仁義の通し方なのだ。この回は噂が先行する「人斬り伝蔵」と、名もない人形師「惣助」の死に様に自分を重ね、想いを馳せる紋次郎の姿が見える。
あてのあった一日が夕闇の中に消え、またあてのない紋次郎の旅が始まる。 

 

●第15話 「背を陽に向けた房州路」
「木枯し紋次郎」を連載中に平行して「オール読物」に発表された股旅小説がある。「小仏の新三郎」を主人公にした4作品で、同年8月に「地獄を嗤う日光路」として文藝春秋から単行本で発行された。本作品はその中に収録された第1作目である。
新三郎の容貌はやはり紋次郎に似ている。「渡世人は二十八、九に見えた。背は高いが、痩せ細っていた。整った顔立ちだが、目も鼻も頬骨も顎もすべてが尖っているという感じだった。顔色も悪い。青黒かった。それだけに、眼差しの鋭さが異様であった。憔悴しきった人間が、潤んだ目を妙にキラキラと光らせる、そういう目をしていた。すっかり痛んで、隙間だらけになった三度笠をかぶっていた。黒の手甲脚絆に、黒鞘の長脇差を腰にしている。鞘を固めている鉄環や鉄こじりが、すっかり錆びていた。月代が、大分のびている。それに髷の後ろに変わったものを刺し込んでいた。平打ちの簪である。銀でできていて先端が小さな耳かきになっており、その次が銀貨ほどの円形の板、それから先が二本脚の簪であった」
テレビ版は新三郎がそっくり紋次郎になっており、展開もほとんど同じである。新三郎は持病の心臓発作を起こして、倒れているところを「お染」に親切にれ、二両と簪を手渡される。この借りを返すために新三郎は流浪の旅を続けて4年になるのである。その辺が紋次郎とは設定が違うので、「深雪」(原作でのお染)を探しているという出だしで、少し違和感を覚える。
原作では、居酒屋で因縁をつける乞食渡世人が「小仏の新三郎と呼ばれて、ちっとは知られている顔なんだぜ」と騙って脅すところが面白い。テレビ版の乞食渡世人の風体は、原作通りボロボロの着物の上にゴザをまきつけている。これは笹沢氏の創作ではなく史実に則っている。今川徳三著「日本侠客100選」(1971年刊)から抜粋する。
「旅人といえば、三度笠に旅合羽。振り分け荷物に長脇差のカッコいい姿が想像されるが、実体はまるっきり違っていた。一宿一飯の旅ぐらしも、顔の通る親分株は別にして、よれよれの着物で、ゴザ一枚をくるくるっと巻いたのをかついで転々とした。古写本などでも『世に言う博奕打ちのように、見苦しき様……云々』と、見えるように、乞食同然の者が多く、夜は、破れ辻堂にもぐり、ゴザにくるまって、夜露をしのいだものである」まさにその通りの風体である。
「深雪さんってお人は、旅人さんのどういうお人なんですか」の問いに無言の紋次郎。この時の三度笠から見える斜め横顔のシルエットは実に端正で風情がある。女性ファンはここでドキッとする。「深雪は、もしかして紋次郎のいい人だったとか?」あり得ないとはわかっているがもしかして?と心配するも、次のセリフでホッとする。「借りはつくっちゃならねえ、つくった借りはかえさなくちゃいけねえ。渡世の掟と決めておりやす。でもあの人には未だに借りが返せねえんで……。いや、つまらねえ話をしやした」ここで、紋次郎は自分自身の掟を語る。独り言のようなこのセリフで、深雪という酌女に恩義があったということがわかる。
この後の展開は原作通りである。組頭の庄左衛門は紋次郎のことを「腕もガラもまずはなあ、義理堅いところが……」と評している。この義理堅いところを、うまく利用したわけである。テレビ版ではこの庄左衛門の所に、紋次郎を騙した行商人が百姓姿で訪ねてくる。この時点で視聴者は、紋次郎は何らかの形で利用されていることに気づくので、原作通りもっと後に登場して欲しかった。
今回のテーマは百姓の狡猾さである。今までの時代劇は、百姓は虐げられ搾取される弱者として表されることが多かった。しかし、この回の姿はエゴのかたまりと言っても過言ではない。自分たちの集落「岡大塚」さえ救われれば良いのである。そのため同じ村だというのに「浜大塚」から女を二人さらってならず者に差し出し、もし女が逃げたら村人で始末するとまで計画する。「毒を食らわば皿まで」と、言葉だけでなく本当に漁師の娘二人をさらってくるなど、テレビ版は原作よりさらに百姓のエゴを前面に出している。そしてお町とその恋人茂兵衛は、二人の恋の行く末だけを考えている。五人のならず者は雇われた金ほしさに寺に居座り、無理難題をふっかける。本当にどいつもこいつもである。そんな中で紋次郎だけが、純粋に深雪に借りを返すためだけに命を張る。このコントラストが見事である。
遠国寺で浪人、高瀬浦之助と対峙する紋次郎は浦之助から事の真相を明かされる。「ただ働きだぞ」と言われても「金の約束できたんじゃねえ」と答える。そう言われれば、庄左衛門は一言も「お礼に……」などと言っていなかった。「ではなんだ?義理か?それでは見逃せん」と斬りつけてくる浪人。義理を果たそうとする人間に、金の話は無用だと悟ったのであろう。原作ではこの時、心臓の発作が起こり絶体絶命となるが、簪を咄嗟に投げつけその隙に諸手突きで長脇差が浪人の鳩尾に埋まる。テレビ版では、せまい寺の座敷での立ち回りで、息をもつかさない二人の俊敏な動きがすばらしい。原作にはないシーン。浦之助は紋次郎に斬られ本堂の床下に落ち、紋次郎が飛ばした楊枝が浦之助の刀を床下に落とす。その際、村人たちが床下に隠していた米がザラザラと、白い滝のように浦之助の骸の上にこぼれる。自衛の為とはいえ、ここまでするかといった感じである。テレビ版では浦之助と一緒にいた女「お銀」が、ひとり正論を吐く。「私も貧乏のつらさは知ってるさ。知恵がいることも知ってるさ。だけどそれじゃあ、あんまり酷すぎる、汚すぎるよ」
貧しさというのは、ここまで人の心を汚く貧しくさせるものなのか。百姓にとって、自分の土地以外の者はみんなよそ者であり、利用するだけ利用しようとしたのだ。
原作での新三郎は、お染に手渡す二両は残し、後の有り金全部、二朱金をお銀に渡す。紋次郎は深雪に返すはずだった、紙に包んだ二両をお銀に手渡す。「たずねてた人の代わりだ、とっときねえ」人違いであった何のゆかりもないお銀に、躊躇することなく大金を手渡す紋次郎。騙されてただ働きをした上に、二両も渡すなんて……。どこまでも金には執着しない姿である。二両と共に、汚い水の底にたまった澱のようなこの村での過去を、紋次郎は置いていく。
庄左衛門の家に戻ったとき、紋次郎はお町と茂兵衛に会い全てを悟る。「庄左衛門さんに、借りは返したと伝えてやっておくんなさい」紋次郎にとって、庄左衛門に借りなどないことがわかったのに、テレビ版ではこのセリフで立ち去ろうとする。さらさら隠し米のことなど他言しようとは思っていないし第一、紋次郎には話し相手などいない。だのにくどくど庄左衛門たちは言い訳を並べ、その上去ろうとする紋次郎の背に鍬を振り下ろそうとする。この辺も原作にはない。どこまでもテレビ版は、百姓の浅はかさと紋次郎の崇高ともいえる精神を比較している。
「あっしが黙ってここを立ち去るのは、あっしもまた、お天道さんに背を向けた男だからでござんすよ」表題に関わる重要なセリフである。あっしもまた、……「あっしだけでなくおめえさん方も、お天道さんに背を向けているんでござんすよ」紋次郎の静かなる抗議である。ラストに乞食渡世人がまた襲ってくるときのセリフ。「よさねえかい、今日は虫の居所が悪いんだ、命取りになるぜ」どちらもほとんど原作通りであるが、こんなセリフを自然にサラリと口にできる中村氏の台詞回しは絶品である。心はとうの昔に死んだはずだが、「虫の居所が悪い」というセリフに、紋次郎の人間らしさが見える。何に腹を立てているのか? 紋次郎は極貧の生まれで貧しさの苦しみは嫌と言うほど経験している。しかし、飢えをしのぐためなら何をしても許されるのか。「苦労は買ってでもせよ」とはよく言われるが、苦労をして人間性を磨く者もいれば、苦労をして賤しい心根に落ちる者もいるだろう。しかし紋次郎には、あの百姓たちの生き様を批判することはできないのである。所詮「あっしはあっし、人様は人様」なのだ。頭ではよくわかってはいるが、やはり腹を立てているのだ。
借りを返すことは叶わず、虚しさだけをまた深くして、紋次郎の独り旅は続く。 
背を陽に向けた房州路
「借りはつくっちゃならねえ、つくった借りはかえさなくちゃいけねえ。渡世の掟と決めておりやす」
紋次郎は、かつて野州矢板で行き倒れになりかかっていたところを房州出身の深雪(光川環世)という酌婦に2両の金を恵んでもらい救ってもらったことがあった。その借りを返すために房州路を訪れ、深雪そっくりの庄屋の娘お町にその借りを返す理由を語るセリフです。
ならず者が住み着いた村を救ってもらうために、お町とその父親は、紋次郎に腐った丸木橋を渡らせようとし、それを救うことで借りをつくります。紋次郎が必ず借りを返すということを知って利用したわけです。
基本的には、借りはつくらず、つくった借りは返すというのが定法です。しかし、本作の例もありますが、ビジネス社会をうまく生きてゆくためには、借りをつくることで人間関係もつくり、深めるというノウハウもあります。借りばかりでは、人は離れていってしまいますが、ほどほどの借りは残しておくことも必要です。そうすることで、その相手は優越感を覚えます。それをビジネスに役立てるという方法があります。うまく使ってみてください。
本作品の原作は、「紋次郎」シリーズと同時期に発表していた「小仏の新三郎」シリーズです。その主人公を紋次郎に置き換えた作品です。小仏の新三郎は、お染(本作では深雪)の残していった簪を髪にさし、2両の借りを返すために、心臓を患っている身をおして旅を続けるという設定です。
本作で15作目となり、キャラクタも固まり、決めセリフも頻繁に登場するようになりました。有名なふたつの決めセリフが登場します。
ひとつめは、村で隠し米を保有していることを他言しないよう依頼されたとき。「あっしには、一切関わりねえことでござんす」
ふたつめは、お町にくわえている楊枝について問われたとき。「こいつは、ただの癖ってもんで」
特筆すべき廃寺での殺陣シーンを始めとし、紋次郎ドラマのエッセンスがすべて詰まった作品です。
また本作のヒロインの光川環世は、紋次郎を救った深雪、お町の二役です。テレビの時代劇に多く出演していましたが、東映のやくざ映画にも出演作品があり、梶芽衣子の「銀蝶流れ者 牝猫博奕」、安藤昇の「実録安藤組 襲撃篇」等。
百姓も小賢しく、ずる賢く生きて行かなくてはならない存在。隠し米をもっていたり、ならず者を利用したり・・・そんな百姓に向けて、夕陽を背に、以下のセリフを云って去ってゆきます。
「あっしが黙って、ここを立ち去るのは、あっしもまたお天道さまに背を向けた男だからでござんすよ」 

 

●第16話 「月夜に吼えた遠州路」
前作「背を陽に向けた房州路」に続いて、「オール読物」に連載された「小仏の新三郎」が主人公の原作である。展開は原作とは別物といった感じである。今回は「お染」の代わりとなる女は登場しない。
かろうじて原作の形を残しているところ
○次期親分が、先代の意趣返しのため旅に出ていること
○跡目相続の件で、代貸たち3人が関わっていること
○先代の娘と仁太が恋仲であること
○先代を殺害したのは主人公だと間違われ、命を狙われること
前回も今回も恩を受けた女を探す、という設定はやはり無理なのでガラッと展開を変えたのだろう。原作では結果的に二代目唐蔵こと勘八の命を助け、その後新三郎は心臓の発作を起こし、勘八の世話になっている。
原作では設定していないが、テレビ版では3人の代貸に跡目相続に関わる身分の違いをつけている。笹沢氏は勢五郎が主人公の「木っ端が燃えた上州路」の作品内で、子分の身分について言及している。跡目相続の優先順位はまず「手作り」と言われるその親分だけに盃をもらった子分、これが仁太である。次に「譲り」。先代の親分の子分でもあり、新しい親分の代になって改めて盃をもらい直した子分、最年長の伊兵衛である。そして三番目は「世話内」で、ほかの一家から何らかの事情で何度目かの親分と盃を交わしたという子分であり、跡目相続の資格を全く持っていない。この設定が清吉である。3人の代貸の跡目争いという内容なので、この「手作り」「譲り」「世話内」を取り入れ、再構築されたようである。
原作では仁太が先代を闇討ちして殺害しているが、テレビ版では「世話内」の清吉が下手人で、紋次郎が飛ばした楊枝を現場に置いていったとなっている。清吉は、このままでは絶対に自分が跡目を継ぐことができないと考え、丁度紋次郎が通りかかり飛ばした楊枝が手に入ったので、紋次郎に罪をなすりつけようとしたのだ。「たまたまその日に通りかかって、楊枝を飛ばしたからって、そんな安直な」と言うのが感想である。そんな無計画に親分の殺害を企てるのか、と疑問に思う。
原作でのどんでん返しは、紋次郎が冒頭に助けた意気地無しの渡世人が実は天竜一家の二代目だったというところ。40人の天竜一家を敵に回して、新三郎一人が斬り込みに行くところで勘八(二代目唐蔵)が登場して危機を救う。そして本当の下手人が仁太ではないかと推理をしてみせる。さすがに頭がきれるという設定だ。「おとぼけの仁太」と「小仏の新三」の聞き間違い、というちょっと無理のある展開である。こちらは、結果的に新三郎が下手人に間違われてしまったということで、意図はなかった訳である。原作の二代目勘八の見せ場は、最後に新三郎を助け、清吉と他の子分達とともに引き揚げるところだ。テレビ版では代貸は3人とも命を落とすが、原作では清吉だけは生き残る。
原作に比べるとテレビ版の勘八は情けない男である。命を助けられたのに、紋次郎が寝ているところを闇討ちにしようと忍び込む。「そんな事をやれた義理じゃねえんだが……」と弁解じみた言葉をつぶやく源八。「地蔵峠の……」での十太は、世話になった紋次郎をどうしても斬れないと手紙を書いたのに、次期親分になろうかという人物がこの様である。「義理?」と紋次郎は口にして、空を見上げるとその先に三日月が見える。月が映像として出るのは、この1回きりである。「月夜に吼えた」が表題だが、吼えてない!? 原作では、最後に新三郎が月に向かって吼えるように叫ぶ。「お染さん!生きていておくんなさいよ!小仏の新三郎も、まだ生きておりやすぜ!」
別原作であるので仕方がないが、せめてクライマックスは月夜のシーンであってほしかったが、高くそびえる富士山を振り返る紋次郎でエンディングとなる。「ヤクザなんてみんな虫けらだよ!」と吼えたのは先代の娘のお春であった。個人的な意見で申し訳ないのだが、お春を演じた女優さんの声がキンキン声で、どうしても耳になじめず、ずっと気になってしまった。
原作とは別物と前述したが、今回のメインは話の展開よりアクションであろう。第1シーズンもこの回を含めて後3話となったせいか、かなり殺陣には力を入れているように感じる。まず、アバンタイトルの浪人者とその一味とのからみ。紋次郎の楊枝の使い方はいろいろあったが、私は今回の使い方はかなり好きな方である。アバンタイトルで、浪人に絡まれ刀の早抜きを挑まれるが取りあわず、青竹に楊枝を飛ばすところなどは実にかっこいい。その後、浪人相手に長脇差を抜くまでもなく鞘で刀を弾き飛ばすところなど、自信満々の浪人者の鼻をあかせて、観ている側も気持ちがいい。次は、1年半前に見付を通り抜けようとしたときの天竜一家とのいざこざである。こちらも自分の長脇差を抜くこともなく、ほとんど素手で相手をねじ伏せている。足場が砂地であるので動きにくいはずだが、俊敏な切れのある動きはすばらしい。刀を抜こうとする清吉の手元に楊枝を飛ばして一言……「たった一つの命だ。粗末にしねえ方がよござんすぜ」紋次郎はいつも、むやみな殺生はしたくないのだ。一膳飯屋から出てきた紋次郎を、待ち構えていた清吉ら子分にも「くだらねえことで命のやり取りはしたくねえ」と口にしている。しかし、聞く耳を持たない子分たちとの立ち回り。この時も刀の鞘を使っている。身体を低く構え両手で鞘をたたきつける殺陣は、さながらバットのスウィングのようだ。ここで思い出した。中村氏が学生野球にのめり込んでいたことを……。そう思って他の殺陣を見てみると腰を低く落として構える姿はまさしく野球の守備姿勢だ。野球の練習で身につけた身体能力とあの体勢が、紋次郎の生きんがための本能的な殺法につながったのである。子分たちが逃げ去った後、錆朱色の頑丈な造りの鞘を肩に担ぐ姿も刀をバットに置き換えると、バッターボックスに向かうバッターそのものである。
クライマックスは、天竜一家との大立ち回りである。朝霧に浮かぶ水車小屋の陰から三度笠が飛び、抜き身を手にした紋次郎が現れる。実にかっこいい登場である。この回は、ここで初めて自分の長脇差を抜いたのである。敵から目を離さず、刀を地面に突き立て三度笠をかぶる。地面に刀を突き立てて刀は折れないのか、と「一里塚に……」を知っているだけにヒヤヒヤする。片手で顎紐をしめながら逆手に刀を持ち、敵を下から斬り上げる。斬られた男は体ごと水車に持っていかれ、川にもんどり落ちるところなど、斬られ役の体を張った演技はすばらしいし演出も面白い。
仁太とのサシの勝負であるが、仁太役は「郷英治」。あくの強い悪役俳優で、斜に構えて鋭い目つきで人を威嚇すると凄みがある。向こうっ気の強さが、刀を持つ手に唾をかける素振りに表されている。アクションスターでもあったので、チャンバラの動きも鋭いものがある。この後川の中のシーンとなり、上條恒彦が歌う主題歌が流れる。カメラワークがガラッと変わり、臨場感ある映像となる。まるで視聴者も、この大立ち回り加わっているような錯覚に陥る。原作では、天竜一家は総勢40人。40人とまでは行かないにしても、かなりの数の敵と対峙している。胸まで水に浸かり刀を振り回すシーンの撮影は、いつだったのだろう。春の初めだろうが、さぞ冷たかっただろうと推測する。こんなシチュエーションの時代劇は見たことがない。着物や合羽が水に濡れると恐ろしく重くなり、激しく動くことが困難であったという。主題歌をバックに死にものぐるいで孤軍奮闘する紋次郎の姿は、胸に迫るものがある。最後に清吉は残った子分に、「金をはずむから紋次郎を叩っき斬れ」とけしかける。渡世の義理など微塵も感じられない。目新しい殺陣はお春の帯を使ったところで、帯を振り回して相手を撹乱する戦法に出る。「おしどり右京……」顔負けの鞭さばきならぬ帯さばき?!ありとあらゆる戦法がこの回には試されたように思う。第1シーズンがまもなく終わるということで、視聴者にはかなりのサービスシーンが用意されていた。また第2シーズンへの新しい展開を予感するような実験的な殺陣もあり、アクションについては盛りだくさんだったと思う。
紋次郎は立ち去る前に、振り向いて仰ぎ見る。視線の先は雪を頂いた富士山。滅多に振り返る事はない紋次郎だが、見付の地名の由来(西から来た旅人は、この地で初めて富士山を見る)からのシーンか、それとも気高い富士山に代表されるような任侠の世界と、跡目争いの醜さとの対比を狙ったか。エンディングとしても珍しいと言えよう。 

 

●第17話 「無縁仏に明日をみた」
原作は第15話で、いよいよ原作が追いつかなくなったと思われる。原作の第14話は「雪灯籠に血が燃えた」であり、どう考えても5月では季節に合わない。ちなみに「雪灯籠……」は第2シーズン、第36話に放映される。
今とは違い命がけで旅をしていた時代、あまたの無縁仏が存在したことだろう。無縁仏の数だけ無縁になった経緯があり、それぞれの生き様があった。どこの誰かもわからず、見知らぬ土地で命を落とし全くの他人に葬られる。どこで死のうと死んだらおしまいではあるが、実に虚しい思いにかられる。「水神祭りに死を呼んだ」に通じる死生観がテーマになった作品である。
アバンタイトルからとにかく不気味だ。喧嘩支度の男達が、長ドスや竹槍、手槍を持って青白い霧の中から現れる。頭には濡れた和紙の上に鉢巻きをしている。濡れた和紙を頭や体に貼り付けるというのは、刀での傷を少しでも防ぐためであり、原作にもある。「帰って来た木枯し紋次郎」の映画でも、紋次郎は敵と対峙する準備で体に濡れた和紙を貼っていた。「おめえはこの河原で野晒しになるんだぜ」の言葉に「長く生きてえとは、思ったことはねえ。死ぬときが来たら、死ぬまでだ」と答える紋次郎。このセリフと同じような意味のセリフは何度も出てくる。
鞘から長ドスが抜けず、紋次郎は男達に刺され死を覚悟する。視聴者はいつもと違う映像と音楽に、このシーンは現実ではないと薄々わかるのだが、それにしても紋次郎が刺されて苦痛に顔が歪む様は見ていられない。特に闇の奧から死神のようなザンバラ頭の男が、跳躍しながら近づいてくる様は、夢に見そうで恐ろしい。くわえていた楊枝が口からがポトリと落ち、自分の死相が見えたところで紋次郎は悪夢から覚める。「夢か」と珍しく独り言。やっぱり夢だったのかと、視聴者も一緒にホッとため息をつく。
原作もテレビ版もオープニングはほとんど同じであるが、この後少しずつ展開が違ってくる。明らかにテレビ版の方が原作よりかっこいい。猿久保の八十吉の賭場で紋次郎は、素人衆の博奕のいざこざを粋な楊枝の使い方で収める。一度張った駒札を変えることは許されないということを、楊枝を飛ばして戒めるというところである。「札を動かしちゃいけやせん。お客さんは素人衆だ。作法をご存知ねえ。おあげなすっておくんなはい」と場を収める。貫禄のある言動に八十吉の子分たちも従う。この言い回しは実に渋くてかっこいい。
お妻を背負っての鳥居峠越えを断る紋次郎の前に飛び出した一太郎のセリフの中に、原作にはないセリフがある。「病人を見捨てて、野仏にするのかい!」野仏と聞いて悪夢を思い出したのか、この言葉で不本意ながら紋次郎は力を貸す。逆にテレビ版では省略されているが、原作での紋次郎は次のようなセリフを口にしている。旅先でどうにもならなくなると、迎えに来てくれと便りをよこすと話すお妻に一言。
「結構な、ご身分で……」
本来、流れ渡世人は職業ではなく、やむにやまれぬ事情のなれの果ての姿なのだ。好きこのんで渡世人になった訳ではなく、渡世人でしか生きていけない者の手段なのだ。従ってどうにもならなくなっても、当然誰も助けには来てくれない。二進も三進もいかなくなったら、野垂れ死ぬしかないのだ。博奕ですったから20両を持ってきてくれと兄に泣きつく新八といい、金がなくなったらしょっちゅう女房に迎えに来させる力蔵といい、紋次郎の対極に位置する存在、「結構なご身分」なのである。力蔵が締まらないのは腹下しだけでなく、甘っちょろい生き方にある。とにかく覚悟というものが微塵にも感じられない。
自分の女房を他人に背負わせ、子どもに手を引いてもらい、有名な木枯し紋次郎に女房を背負ってもらったと自慢げに話す力蔵に、紋次郎がイライラするのも当然である。
紋次郎はよく人を背負う。この回で3人目であり、この後第2シーズンでも何人かを背負う。そしてただ背負うだけではなく、かなりの距離を歩く。いかに脚力があるかと感心してしまうが、粗食であれだけの体力があるということには驚いてしまう。毎日、かなりの距離を歩いている賜物か、苦もなく峠を越えてしまう。女性ファンとしてはお妻が羨ましい限りであり、しばらくお妻と我が身を同化させる場面であろう。
原作とテレビ版では展開、設定に大きな相違点が3つあると思う。その違いの一つに、お妻の設定の違いがある。原作でのお妻は弱々しくおとなしい印象を受けるが、テレビ版ではなかなか強かな面が見える。演じるのは「野川由美子」。どちらかというと明るく庶民的で、おきゃんな感じの役が多く、今回のお妻のような役柄はめずらしいのではないかと思う。原作でのお妻の存在は薄く、寅吉の策略に加担した割合はテレビ版より低い印象を受ける。テレビ版でのお妻は亭主の力蔵に、楊枝を作ってくわえさせている。紋次郎にあやかろうという訳であるが、これは原作にはない。情夫の寅吉の指図で「紋次郎に仕立てろ」と言われてのことだった。後で父親思いの一太郎を、紋次郎殺しに利用した寅吉をなじり、斬られそうになる一太郎をかばって寅吉に殺される。テレビ版では、ダメな亭主を見限り殺しを手伝う悪女だが、我が子を想う哀れな母親として命を落とすという設定である。我が子を想うのなら、我が子が慕う父親を何とか真っ当にさせようとするのが本当だろう。その点、何となくどっちつかずで、居心地が悪い感がする。女として生きたかったのか、母親として生きたかったのか。原作でのお妻は、その場では刃にかかることなく、一太郎と追われるように故郷を後にする。
2つ目は紋次郎の傷の癒し方である。原作では3日間、意識不明の紋次郎を農家の老婆が世話をする。堅気の者に看病されるなど、滅多にないことであり、この老婆の話から寅吉の企みに気づく。テレビ版の紋次郎は自力でのサバイバル。藁縄で止血し、ヨモギや硫黄で殺菌、泳ぐ川魚を長ドスで捕らえ生で喰らう。岩陰に体を横たえ雨をしのぐ。まさに野獣が野性の本能で、自らの傷を癒そうとするかのようである。映像のバックミュージックは、上條恒彦が歌うテーマソング。誰にも頼ることなく、助けを求めることもしない。原作以上に自分に厳しく、明らかに力蔵との対比を狙っている。
テーマソングが流れるシーンはいつも重要なメッセージがある。アキレス腱断裂からの復帰第1作目「土煙に絵馬が舞う」のエンディング。待ちに待った紋次郎の再開に、この曲は花を添えてくれた。紋次郎がいない1ヶ月の間、フジテレビは笹沢氏原作の股旅シリーズを急遽放映した。紋次郎によく似た4人の主人公は、どれも魅力的ではあったが、やはり紋次郎のようなオーラは感じられなかった。それだけに「待ってやしたぜ、紋次郎兄貴。やっぱりおめえさんじゃねえと始まらねえ」といった、高ぶる気持ちをこの主題歌は表してくれたと思う。もう1作は「月夜に吼えた遠州路」の川の中での大立ち廻り。圧倒的に不利であるのに、生きんが為、懸命に敵に向かっていく紋次郎の姿と主題歌がかぶさる。思わず「紋次郎、がんばれ!」と心の中で叫びそうになる。ドラマ内で流れる主題歌は、どんな逆境にあろうと絶対に諦めない紋次郎への応援歌であり、共感して観る者への応援歌でもあるのだ。
3つ目は決定的な相違点である。楊枝の使い方である。テレビ版の紋次郎は市川監督の意向もあって、武器として使うことはなく、ヒューマンな使い方に徹している。人に向かって飛ばしても、直接身体に刺さるということはなく、顎紐を切ったり刀の柄に刺さったりで唯一、人の身体にというならば、「六地蔵の……」の金蔵の口許ぐらいか……。しかしこの回の原作は、なんと連続5回も敵に向かって飛ばしている。振分け荷物から取り出した新しい楊枝を5本……と書かれているのだが、一体紋次郎は何本楊枝を常時持っているのだろう?と思ったりする。生死をさまよった3日間を過ごした老婆の家に、夜陰に乗じて5人の男が紋次郎を殺しにやってくる。右脇腹の刀傷のため、まともに戦えない紋次郎は暗闇の中、次々と楊枝を飛ばし混乱させる。絶体絶命状態であるが故の作戦であることはわかるが、テレビ版では設定が違うので楊枝は武器として使われない。
傷のため握力が落ちた手から長ドスを放さないために、紋次郎は右手に下げ緒で長ドスをくくり付ける。本ブログで既出だが、これは「地蔵峠の……」の原作主人公、三筋の仙太郎の殺陣から流用したものと思われる。この時の紋次郎は、下げ緒をキリッと手に巻いた時から、尋常ではくぐり抜けられない修羅場であるという覚悟があったと思われる。
「死ぬときが来たら黙って死ぬだけだ」と紋次郎はいつも覚悟を決めているが、これは自分の命を粗末に考えているわけではなく、生き抜くためのあらゆる手段を講じた上で吐けるセリフなのである。座して死を待つことは絶対にあり得ない。紋次郎にとって「死ぬとき」とはどういうときなのだろう、「黙って死ぬ」とは誰に対して黙ってなのだろう。この場合の「黙って」とは少し意味合いが違うが、原作での紋次郎は一太郎に刺されたことを一言ももらさなかった。その心意気に老婆は惚れ込み、紋次郎を助けた。
「紋次郎は別に、一太郎を庇ったわけではないのである。たとえ刺した者が一太郎でなかったにしろ、紋次郎は誰であるかを口外せずにすましたことだろう。刺されて、紋次郎が死ぬ。誰が刺したかなどということは、どうでもよかったのである。」(原作より抜粋)
原作では、新八に手渡すはずだった20両をどうしたかは書かれていない。しかしテレビ版では両親に死なれた一太郎に「新八さんに届けに来た金だ。もう用はねえ。死んだお前の親父さんの供養でもしてやってくれ」と、手渡す。エンディングに「もんじゆうらうの墓」に2本楊枝を飛ばすところは、原作と同じである。原作では計7本も飛ばしたことになる。
さて、気になるところは一太郎のその後である。テレビ版では両親に死なれた一太郎であるので、紋次郎と同じように渡世人になるのではと私は思っている。丁度、紋次郎が故郷を捨てた歳と同じぐらいであろう。向こうっ気が強く度胸もありそうなので、一端の渡世人になるだろう。そしていつまでも憧れを持って紋次郎のことを忘れないだろう、と勝手に解釈してしまう。しかし、原作ではお妻と一太郎は二人して故郷を捨て旅に出る。
「武州川越の近くにある無縁仏に『つま・いちたらう。母子地蔵』という石仏が見られるが、お妻と一太郎に関係するものかどうかはわからない。」(原作より抜粋)とあるが、私としては憎い母親を捨てて、一太郎には独りで生き抜いて欲しい。(紋次郎と同じように)そして、成人してから母親の過ちを許し、死んだ母親のために母子地蔵を建ててやるという設定はいかがなものか……。 

 

●第18話 「流れ舟は帰らず」
原作では第2話であるが、テレビ版では第1シーズンの最終回となる。実は市川監督は、この「木枯し紋次郎」を13話ぐらいで終了して「股旅」を撮りたかったらしい。しかし視聴率が思いのほか高くなり、終わらせる訳にはいかなかったという。第2話は題名からして最終回には相応しいので、当初からの予定であったのだろう。「赦免花は散った」と同じ文体(「〜は〜」)で、テレビ版の題名の中では一番短い。市川氏自らが監督した作品は「川留めの……」「地蔵峠の……」「峠に哭いた……」のシリーズ初めの3作品と、この「流れ舟は……」で計4作品である。
展開は原作とほぼ同じではあるが、作品に流れている雰囲気が随分違う。これはキャスティングによるものが大きい。とにかく出演する各々のキャラクターが濃すぎるのだ。その中でも一番印象が強いのは「お藤」である。お藤役に「吉田日出子」。独特のキャラクターの持ち主である。キャスティングが先行して、脚本が書かれたのではないかと思われる。原作のお藤は「十九か二十の娘、美人ではないが、可愛らしい顔をしている、お嬢さんであることは、そのおっとりした仕草でわかる」と書かれているが、吉田日出子のキャラではないように思われる。テレビ版のお藤はとにかく個性的すぎる。パニックに陥ると放浪するのだ。本人は目的地に向かっていると思い込んでいるが、実際はとんでもない方向に向かっており、結局放浪となる。健気で一途であるだけに、憎めない。紋次郎もいつになく、お藤の扱いには戸惑ってしまい、お手上げ状態になる。実は私もお藤に負けないぐらい方向については自信がなく、地理にはとんと疎い。大体1回で目的地に到着した試しがない。それだけにお藤には親近感を持つ。お藤は「江戸であれば、道に迷うことはないのに……」と、追われている途中、山林の中で紋次郎に言う。そんなお藤に紋次郎が諭す。「野や山にも目印はたくさんありやすぜ。夜なら星、昼ならお天道さん、吹く風も木立の種別も、ちょっと気をつければ多すぎるほどでさあ」私にとっても、肝に銘ずべき名言である。思わず「そうなんですか、私もこれから気をつけます」と画面に向かって言いかけた。
原作ではお藤の父親が襲われて、死ぬ間際の頼みを紋次郎は引き受ける。しかし実のところ言葉で意思表示はしていないのだ。
「どうせアテのない流れ旅を続けているのだし、どこへ足を向けても同じことだった。ただ意志を言葉にしなかっただけである。殊更のように引き受けたとか、承知したとか意識したくなかったのだ。だから、彦三郎が礼金だと差し出した二十両も、紋次郎は受け取らなかった。紋次郎には、この世でただひとり気を許していた幼馴染みの兄弟分に、裏切られるという苦い経験があった。以来、何かを頼まれて引き受けるということを、しなくなった。常に自分の気まぐれか、自由意志で行動することにした。そうすればどんな結果が出ようと、裏切られることにはならないのである」(原作より抜粋)
テレビ版ではお光からお藤を捜すように頼まれるが、あっさり断っている。紋次郎にとって「お光」というのは特別執着のある名前のはずだが、何の反応も示さない。間引きから救ってくれた姉のお光の話は原作では第4話を待たないと提示されない。「お光」という名前だけでは、紋次郎は心を動かされない。初めて姉のお光がらみで関わるのは第8話の「川留め……」でお光そっくりのお勝との出会いである。
今まで登場してきた女のほとんどは、紋次郎に頼り助けを乞うのにお藤は違う。これもめずらしい存在であり、お藤からは助けて欲しいとは頼まれていない。しかし、いつの間にか関わってしまっている。とにかく行く先々で、フラフラして危なっかしいお藤と出会ってしまい、呆れながらも助ける羽目になるのだ。頼まれていないことに関わる紋次郎は、めずらしいかもしれないが、あまりに世間知らずで純粋なお藤を助けざるを得なくなったか。空腹で倒れるお藤のために百姓家で干芋を貰い受けたり、逃走中、お藤に草鞋を履かしてやったり……と世話を焼く。何度も紋次郎の助けを借りずに、江戸に向かおうとしては気を失うお藤の寝顔をしげしげと眺める紋次郎。「一人でこっから抜け出すのは無理なようですぜ。とにかく腹いっぱい喰って身体を治すことが一番だ」と思いやりの言葉を呟くなど、今回の紋次郎は実にヒューマニストでフェミニストだ。
私が好きな紋次郎の細かいディテールの一つに、紋次郎が破れた合羽を繕う場面がある。男っぽく野性味溢れる紋次郎が、慣れた手つきで糸と針を使いこなす。その意外性が逆に、真実味があり実在感が増す。原作では「破れた鉤裂きを不器用に繕ったあとが見られる」といった説明が時々見られる。この繕いの手元はきっと中村氏本人であろう。中村氏は若い頃アメリカのバークレイで遊学をしており、その時ウーマンリブの闘志たちと一緒に生活をしていた。当然家事も担当していたので、掃除、洗濯、料理、裁縫はお手のものだったに違いない。(事実今でも、一人自宅にいるときや休日は、冷蔵庫の種々雑多の食材で焼きめしをつくっておられるとか……)
それともう一つ、小道具ひとつ一つにリアリティーがあること。紋次郎が繕いを終わり、糸と針を振分け荷物に収めるとき、中身がチラリと見える。その中に折りたたんだ小田原提灯が見える。他にも薬や紐、筆らしきものも見える。そういう細かいところまで丁寧に作っているところはいつもながら感心してしまう。因みにこの小田原提灯は、第2シーズンの第20話 「暁の追分に立つ」で使われている。
お光がお藤を捜してほしいと頼んでも一向に取りあわず、ドンとお光を手で押しやり「そこに立たれると、手元が暗くてしょうがねえ」と言う紋次郎に、思わずクスッと笑いたくなる。そう、このテレビ版の本作品は、随所にクスッと笑えるシーンが出てくるのだ。上等な着物がズタズタになり、破れた足袋のまま放浪するお藤といい、ひげ面の上條恒彦演じる「釜石の木太郎」といい、いつもの悲惨で暗い雰囲気とは少し違うのである。木太郎は原作にはない登場人物だが、もう一人原作にはない特異な人物がいる。
それは「鬼の十兵衛」の傍らにいつも突っ立っている青白い顔をした男だ。なんの説明もないが十兵衛は「そいつは白痴だ。何もしねえ」と庇っている。この男をなぜ登場させたのか。それは、何もしないからだろう。
「でけえ顔して俺を見下ろすヤツが、我慢できねえ生まれつきなんでえ!」と啖呵をきったように、十兵衛が一番気にくわないのは、権力をかさにかける人間なのだ。「俺に父親はいねえ。俺がたった十四の時に後妻をもらいやがった。あれはただの雄だぜ。こんなひでえ事があるかい?あいつはそれでも俺に向かって親父だとでけえツラしていやがった。後妻を家に入れておきながらだぜ。俺の親父はその時死んだ」
十兵衛の父親は十兵衛の母が亡くなってすぐ再婚したのだろう。十兵衛はそんな父親が許せなかった。父親は十兵衛が反対するのを聞かず、父親としての威厳をふりかざし再婚したのかもしれない。きっと十兵衛は、死んだ母親のことが心底好きだったのだろう。横暴な父親の存在が、権力に牙をむく十兵衛をつくったのではないか。白痴とされている男は、何の欲も策略も持たない。人間不信の十兵衛にとって、およそ人間くさくないこの男だけが、唯一そばにおける人間なのだ。原作の十兵衛は、テレビ版のような鬱屈した性格は与えられていない。無欲で人間の汚い面を持たない男を登場させ、十兵衛との対比を狙い、複雑な内面の十兵衛をつくった市川監督はさすがである。
第1シーズン最終回に相応しく、この「流れ舟……」は見所満載であるが、一番の見所はやはり炎上シーンだろう。炎をバックにした十兵衛との殺陣は、炎の赤と影の黒とがコントラストを際だたせ、ダイナミックさと緊張感を両方味わえる。十兵衛の背中のやけど痕で実は小平次本人だったということが初めて分かる。小平次は死ぬ間際に全てを明かす。小平次という名前が気に入らないだけで何の罪もない人夫を殺したこと、父親を憎み殺させたこと。その中でお光のことを「あいつはバカだが、可愛い女だ」と言う。本当にその通りで、お光はたくさんヘマをやらかしている。元来嘘をつけない性分なのか、策略が全てばれてしまっていた。顔に痣ができるほど痛めつけられても、十兵衛のために健気に立ち回る。今で言うとDVである。そりゃあ、男にすれば可愛い女だろうし理想的な女だろうと思う。十兵衛亡き後、傍らにいたあの男とお光はどうなるのだろうかとチラリと思ったりする。
十兵衛を斬った後、橋奉行出役の武士に出合う。この武士は自分で「橋奉行出役(でやく)……」と名乗りをあげるのだが、本来は「でやく」ではなく「しゅつやく」が正しいとのことである。難しいものである。
「……これを『とりしまりでやく』と読んでいるのは誤りである。……連続テレビ映画『世直し奉行』を始め、『荒野の素浪人』『木枯し紋次郎』など、いずれも誤読しているのは、どうしたものであろうか。」(林美一著「時代風俗考証事典」より抜粋)
木太郎が言ったとおり、火付けは流れ者のせいにして紋次郎に斬りかかる。しかし紋次郎は動じず、歩をゆるめることなくズンズン進み一瞬にして斬り捨て、何事もなかったように去っていく。原作でのこの武士は、焼失の責任者として切腹を命じられているのだが、テレビ版では紋次郎に一刀両断で斬らせている。最終回なので、公儀の者を渡世人が斬るなんて普通はあり得ないが、サービスということか。暗闇の中、横一直線上に二人を配し、白い道と登場人物だけをライトアップした映像は、スタイリッシュで何となく「必殺仕事人」っぽく感じるのは私だけか。
お藤が待つ小舟に戻ってきた紋次郎は錨を上げ、お藤は一生懸命とも綱をほどく。世間知らずで何もできなかったお藤が、ここで初めて紋次郎の役に立つ。炎上して崩れ落ちる牧須橋の下を紋次郎が操る小舟は進む。このシーンは実物大の10分の1の大きさの橋を実際につくり炎上させたものだということだ。テレビ番組作品とは思えない、手間と費用のかけ方である。小平次は十兵衛に殺され死んでいたこと、その十兵衛を自分が斬ったことをお藤に話す紋次郎。初めてついた嘘であるが、お藤の事を思いやっての優しい嘘である。舟から身を乗り出そうとするお藤の手元に楊枝を飛ばし「妙な考えを起こしちゃいけやせんぜ。あっしと違ってお藤さんには、帰るところがあるんでござんすからね」と諭す紋次郎。小平次も流れ舟であったが、紋次郎も同じく流れ舟であったのだ。流れ舟と共に紋次郎の姿は川下に消える。ファンにとってはしばらく会えないという切なさで、胸が締め付けられそうになる瞬間である。そして紋次郎と再び会えるのは半年後となる。 
流れ舟は帰らず
「流れ舟は二度と、元のところへは帰って来ねえもんなんでござんす」
川を流れてゆく舟に人生を喩えてのセリフです。
商家の大店の娘お藤(吉田日出子)の兄の小平治、今は鬼の十兵衛と呼ばれるならず者、その再び相まみえることのなかった二人の生きざまに対して語ります。
人生、過ぎ去った時間は、二度とは戻らない。故に、その一時を真剣に大事に行きたいものです。極端な云い方をすれば、一瞬一瞬に生命を賭けて・・・。
とても当たり前のことを書いてしまいましたが、若いうちは自分の老年の姿を思い浮かべることが難しく、現在の状態が未来永劫続くかのように錯覚し、おざなりに生きてしまいがちです。続かないことは理屈では判っているのですが、想像しにくいので、結果として先のことを思い描きにくいのだと思います。しかし、前述したことを心の中で唱えて生きることで、きっと生き方が変わりますよ。
少々話は変わりますが、ビジネスにおいて、仕事の大小で取り組み方を変えていませんか?。大きな仕事、とくに会社の収支に関わるような仕事には心血を注いで、結果をだそうとするでしょう。一方、小さな仕事、誰にでもできるようなルーティンワークのような仕事は、適当に済ませてしまいがちです。しかし、大きな仕事を成し遂げる力は、小さな仕事をきちんと成果をあげてゆく心がけで育まれます。仕事の大小に関わらず、仕事に対する姿勢を備えること。さもないと、大きな仕事はできません。小さな仕事をする時間も人生のヒトコマです。真剣に立ち向かいましょう。
紋次郎の第1シリーズの掉尾を飾る、市川崑演出の第18作は、吾妻川にかかる牧須橋が炎上し、燃え盛り落ちようとする下を紋次郎とお藤が舟で下るクライマックス。シリーズのラストを派手に飾ります。
そして、流れてゆく舟のように紋次郎の渡世の旅も流れてゆく。といったシーンで終わります。これで第1シリーズは完結します。本作品放映当時は、第2シリーズがふたたび始まることなど知る由もありませんので、紋次郎は、これでわれわれの前から立ち去ってゆきました。
原作は、小説誌に連載が始まった直後の第1作「赦免花は散った」に次ぐ第2作です。というわけで、紋次郎的な情緒を携えた作品に達していません。
なお、主題歌を歌う上條恒彦が渡世人の役で1シーン登場します。 

 

●第19話 「馬子唄に命を託した」
第1シーズンが5月27日に18話で終了し、半年経った。この半年の間に笹沢氏は原作を書き進め、フジテレビは「浮世絵・女ねずみ小僧」を放映し、朝日放送は「必殺仕掛人」を9月2日より満を持して開始した。「木枯し紋次郎」の視聴率の高さに、朝日放送はなんとか牙城を崩そうと奮起したことは有名な話である。第2シーズン開始より1ヶ月半早く放映を開始し、紋次郎より半時間前の10時を放送開始とした。「仕掛人」誕生秘話は他に譲るとして……さすがに紋次郎制作のスタッフ陣は気が気でなかったらしい。紋次郎再開から3日後、笹沢氏はプロデューサーと一緒にロケ現場に慰問に行く。寒いロケ現場で、黙々と真剣に撮影している人々に感動し、京都市内のスタジオで視聴率を知る。紋次郎25.2%、仕掛人14.9%。この結果を知らず、まだ寒い現場で40人ものスタッフはがんばっている。生みの親である笹沢氏は、帰りの新幹線の車中で目頭を熱くする。自分の書いた作品が、たくさんの人々の努力によって映像作品として世に送り出されている。作家冥利につきることだったろう。
このとき、視聴率結果を聞いた作品がこの「馬子唄に命を託した」である。第2シーズン開始の1作目であるので、あらゆる面で力を入れ満を持してということだろう。話の展開は、原作とほとんど同じである。放映が晩秋ということもあり、山栗が印象的な作品でもあるので、初回の作品として選ばれたと思われる。また紋次郎の鉄則、「堅気の衆は傷つけない」を、身をもって示す重要な作品でもある。
アバンタイトルは山々の遠景から始まり、手前に見えるのは栗の木かと思われる。この始まり方は「天神祭りに……」で桜をオープニングで撮影したのと似ており、オープニングとエンディングが呼応するという心配りである。お政の唄う馬子唄が流れる。お政役に「新藤恵美」。原作では「髪の毛を短く刈った頭に、手拭いで鉢巻きをしている」とあるが、髪の毛はパーマがかかったクルクル巻き、鉢巻きというより風呂上がりのヘアバンド?風、化粧もしっかり施している。女優として、短髪に刈ることにためらいがあったか?山奥の馬子という泥臭さは感じられないのが惜しい。道ばたに倒れた渡世人を跨ごうとするお政を紋次郎が制する。「待ちなせえ」のセリフの後、マカロニウエスタン風のギターサウンド。ここで紋次郎の登場となる。第1シーズンと変わりない姿にホッとする。(変わりなくて当然なのだが……)原作ではこの時、和久井の新六や10人程の子分達と出遭い、下手人捜しに力を貸して欲しいと頼まれるがあっさり断る。
絵馬堂で眠る紋次郎を、誰かが襲いに来る。原作では、真の闇で明かりはなく月も出ていないとしているが、さすがにテレビ版で真の闇は映像的に無理なので、月明かりをうっすら配している。でないと、真っ暗な画面で長脇差と刃物の金属音しかしない。おっちょこちょいの私であればきっと故障したと思い、テレビをバンバン叩いていることだろう。冗談はさておき……月の光一つにしてもフワッと明るくなりスッと暗くなる。月が雲居に隠れた様を細かに表現しているところは、こだわりの照明でありすばらしい。
紋次郎が長脇差を抱いて寝るシーンは、ファンにとってはたまらなく魅力的である。必ず左を下にして寝る……右に長脇差を抱いて、危険が迫ればすぐに刀が抜けるように。もう一つ言えば、板壁からも離れて眠る方がよい。板の隙間からでも、敵は狙って刀で刺してくることがあるからだ。翌日、川で顔を洗い刀を洗っているところに新六たちがやって来て、紋次郎が下手人ではないかと疑う。紋次郎は自分も昨夜襲われた事を明かし、仁義をきる。しかし「上州新田郡三日月村の紋次郎」と名乗っているのに、誰一人驚かない。野州までは紋次郎の噂は届いていないのか、少し拍子抜けである。原作では名乗る前から、子分たちが「紋次郎だ」と浮き足立つのだが……。「折角ではござんすが、他人さまのことには関わりを持たねえことにしておりやす」と断り、ズンズン去っていく。
お熊と次郎吉が住む百姓家……あれは多分本物の民家であろう。美術の西岡氏はあちこちロケをしながら、使えそうな民家や景色などを総てチェックしていたそうである。この民家もその一つであろう。セットではこのリアリティーは作り出せない。原作とテレビ版の話の展開はほとんど同じと前述したが、敢えて言うなら、お熊の人物像が原作と若干違う。お熊役に「三益愛子」。名女優であり存在感がある。テレビ版のお熊はお政には辛く当たる。自分の可愛い長男がお政と一緒にいるところを、渡世人に絡まれて殺されたのである。お政と一緒にいなければそんな目には遭わなかったのかもしれないから、少なからずお政に対しても冷たい態度をとる。お政が家に寄ったとき、「おら、おめえの顔なんか見たかねえ、さっさと帰ってくれ!」だの「おめえに、おっかあと言われることはねえだ!」と冷たく言い放ち、追い返したりする。原作よりずっと気の強い老婆として描かれている。
お政が新六たちに襲われそうになったとき、紋次郎が現れる。男言葉で喚いていたお政が絶体絶命になり、女言葉で助けを叫んだとき紋次郎が立ちはだかる。「お天道さんは、まだ高えようですぜ」ここでまた、マカロニウエスタン調のギターサウンド。こんなセリフが似合う俳優は、そう多くはいないだろう。中村氏が演じると嘘っぽく聞こえないのは、ファンのひいき目なのかもしれないが、この境地までたどり着くことは誰でもできることではない。ひとえに、白羽の矢を立てた市川監督の眼力のおかげであろう。
新六たちを追い払った後の、ススキ野原でのシーンは絶品である。とにかくススキの映像が美しいのだ。まだ季節的に穂が出たところと思われるが、銀色に光って実に趣深い。この美しい映像の中、お政は自分の境遇を話す。紋次郎はその間中、お政の切れた腰の荒縄の代わりとなる縄をなう。このシーンは原作にはないが、やはり映像の力は大きい。この作品の心象風景シーンの一つである。縄をなうことは結構難しい。私も以前何回か挑戦したことがあるが、上手くいった試しがない。できていると思ってもバラバラとほどけてしまうのだ。中村氏は映像で見る限り、なかなか上手い手つきである。紋次郎は元来、他人の身の上話を聞くことに興味はない。原作第9話 「大江戸の夜を走れ」から抜粋する。お小夜と紋次郎の会話である。
「わたしゃ、自分の身の上話をするのが嫌いでね。それが紋次郎さんと一緒にいると、話したくなるから不思議だよ」それが口惜しいというような、お小夜の口ぶりだった。「聞きたがらねえ相手には、是非とも聞かせたくなる。それが、人情というものでござんしょう」
本来ならお政を助けた時点で、その場を去っても良かったが、縄をなうという行為を入れることで自然とお政の身の上話を聞くことになる。しかしそれ以上に、紋次郎の深い優しさに根ざした、お政に対する心遣いに女性ファンはクラッとする。何も言わずに縄をお政に投げ、クルリと背を向ける紋次郎に「男の美学」を感じる。世の男性はこの姿に、是非とも学んでいただきたいものである。さすがに渡世人嫌いのお政も、紋次郎の優しさに気恥ずかしそうに「ありがとう」と礼を言う。原作にはないこのシーンは、脚本家の勝利と言えよう。原作ファンにとっては甘すぎるという声もあるかも知れない。しかし笹沢氏は著書「紋次郎の独白」で以下のように述べている。
「茶の間で見るテレビ・ドラマには甘さが必要である。老若男女が揃っていて、和やかな気分でドラマを見ている。その辺に甘さの必要性があるのだった。中村敦夫君には、その甘さにピッタリの雰囲気がある。女好みの紋次郎が誕生したのも、そのせいなのだ。男っぽくて、甘いという不思議なムードを、彼は持っている」
「中村紋次郎」だからこそ成立する脚色だったのである。 

 

●第20話 「暁の追分に立つ」
追分、街道、峠、宿場……これらの文言に反応する人は、かなり紋次郎度が高い人であろう。今回は「追分」。各地に追分という地名はあまたにある。それもそのはずで、追分は分岐点であるから各地にあっても不思議でない。追分で旅人は立ち止まる。あてのある旅人なら迷わず目的の道を選ぶであろうが、あてのない旅人はどうしたのだろう、と想いを馳せる。どちらの道を選ぶかで、この先が決まるのである。後で後悔しても始まらない。自分が選んだ道なのだから……。それを思うと我々も同じことが言えるかもしれない。人生の岐路に立たされることは誰にだってあり得ることなのだから……。
テレビ版のアバンタイトルからかっこいい。お梶と紋次郎の再会のシーンである。小粋で大人の雰囲気の出会いである。テレビ版ではお梶との過去の経緯は語られていないが、原作ではお梶の台詞がある。
「わたしはお梶。と言ったところで、思い出しもくれないだろうけどね。もう8年も前のことになるよ。甲州は勝沼の賭場でイカサマの針入り賽を使ったことから、お前さんに右腕を斬り落された神楽の才八なら、忘れちゃあいないだろう」「だったら、思い出しておくれな。8年前、お前さんに右腕を斬り落とされた神楽の才八の、女とか言われていたお梶だよ」
8年前、紋次郎が22歳ぐらいのときか。その若さなのに賭場でのイカサマを見破り、右腕を斬り落とすという荒技をやってのけている。なんて残酷な……と思われる方もあろうかと思われるが。イカサマが発覚した場合は、そのぐらいのやり方は当然である。ただ、いつも冷静な紋次郎だが、若い頃は血気盛んだったと見える。
テレビ版でのお梶の台詞。「袖すり合った女だよ」「わたしゃ忘れないよ……わたしゃつくづく惚れちまったのさ」「冷たいじゃないか、昔のよしみで……」それ以上説明がないので、紋次郎とどういう関係なのかわからないだけに、女性ファンはヤキモキするが、これも脚本家の思うツボなのだろう。
原作の出だしとアバンタイトルはほとんど同じ。違うのは原作では与三郎の名前を出していないが、テレビ版では名前を明かしている。それにしても原作と映像がピッタリなのには驚く……というか、笹沢氏は原作を書くときに、ドラマのつかみ部分(アバンタイトル)を意識しているのではないかとさえ思わせる。笹沢氏は、映像から少なからず影響を受けたと明かしているが、構成もそのあたりを意識していたのかもしれない。
お梶とのやりとりで紋次郎らしいところ。「……昔馴染みのお前さんに、是非頼みたいことがあるというだけなのさ」「お断り致しやす」「まだ、何も頼んじゃいないよ」「何も、頼まれたくねえんで……」  
五郎蔵の子分、留吉から頼まれたとき「ですがね、旅のお人。半分は仏になりかかっているとっつぁんの、最後の頼みとあっちゃあ知らん顔もできやせん」「誰だって、半分は仏になりかかっているんですぜ。お断り致しやす」             
「あっしには関わりのねえこって……」が有名な台詞になっているが、私はそれ以外の断り方が好きである。紋次郎は断るときも、丁寧に断る。冷たい態度で素っ気ないかもしれないが、言葉遣いは誰に対しても大変丁寧である。日本人はなかなかキッパリとものを断れない質だということで、私もご多分に漏れずその類に入る。紋次郎の台詞のように、格好良くキッパリ断れる術も身につけたいものである。
白く流れる朝霧の中、紋次郎の孤影が現れ近づいてくる。原作は5月の朝であるが、放映は晩秋であるのでやはり霧が似合う。五郎蔵の子分の頼みを一度は断るが、テレビ版の紋次郎は「与三郎」の名前に反応する。お梶から「与三郎」の名前を聞いていたからだ。テレビ版の紋次郎は市川監督の意向もあり、島抜けの経験は提示されていない。五郎蔵の子分から「二十年も島送りになっていたとっつぁんの願いというのを……」の言葉に振り返り、「島送り……?」と聞き直す。過酷な島送りの生活に、想いを馳せたかどうかは定かではない。しかし、原作では「島送り」に大きく反応している。「過去のない男紋次郎にとって、過去として残るのはその島送りの一件だけだと言ってよかった。」とされているほどである。その後お梶の言った「くたばり損いの爺さん」の話を思い出す。ウェイトのかけ方が違う。テレビ版の島送り経験のない紋次郎には、「与三郎」という名前を先に明かしておかないと、頼みに心を動かされにくいといったところか。
須原の五郎蔵の家に着き、紋次郎は与三郎の臥せっている部屋にまっすぐ入る。五郎蔵には目もくれない。「用がある、なしだけのご縁でござんす。つきましては、渡世の挨拶は省かせて頂きやす」原作と寸分違わない台詞であるが、この台詞回しは実に貫禄があり堂に入っている。低く響く声も魅力的である。与三郎と二人っきりになって、紋次郎は部屋を見渡す。カメラが紋次郎の目となる。天井、柱、壁板、障子……総てに手抜きが無く、実によく作り込んであり、重厚感がある。障子紙一つにしても、当時を再現しているかと思わせるほど凝ってある。「おめえさん、島送りに関わりがあるのかい」という与三郎の問いに、テレビ版の紋次郎は「いえ…」と言葉を濁す。与三郎が紋次郎に手を伸ばしたとき、袖口から「二本線と八」の入れ墨が見える。八丈島の島送りの印であり、本来なら紋次郎にも三宅島の島送りの入れ墨が腕にあるのだが……。
「あっしは人を信じねえ代わりに、人から信じられるのも嫌えな性分ですぜ」と言い残し、紋次郎は与三郎を後にする。結局、一言も「引き受けた」とは口にしていない。「それほど紋次郎の気持ちを動かす話ではなかったからである」と原作にある。また、「生きるか、死ぬか。人は常に、その追分に立たされているようなものだった。死ぬからどうの、生きるからああだのと、騒ぐほうがどうかしているのであった。ただ紋次郎として言えるのは、死ぬ者より生きる者のほうが優先するということだけだった。」としている。「生きる者のほうが優先」……これがこの作品のラストに効いてくるのだ。
これまでは今際の際の頼まれごとに弱い紋次郎だったが今回はあまり気乗りしない。何故か……。それは自分の欲望に執着する与三郎が、理解できなかったからである。それも盗品をこの目で見てみたい……?これがもし、捨てた女房、娘のためというのならもっと積極的に関わろうとしたかもしれないが、私利私欲のためだけの頼みである。だから目的地まで急ぎもしない。
道中のBGMは第2シーズンのために作られたものか、主題歌がアレンジされている。妙にムード歌謡っぽくて洗練されてないように感じ、私としてはあまり好まない。
降り出した雨に大木の下で雨宿りをする紋次郎と、五郎蔵の家にいた水仕女が出会う。与三郎の娘と明かすお清役に「横山リエ」。化粧っ気がないだけに、実在感がある。雨の中、身の上を語るお清だが、映像と台詞が微妙にずれていて気になった。後で音声を入れたものと思われる。原作よりは、かなり気の強い女という印象を受ける。「和合」という村の説明は原作と同じ。因みに「五街道細見」にも「むかし木曽の谷中に酒なし。和合の里人はじめて酒を造る。渓水酒味淡愛すべし。」と書かれており、「和合銘酒屋」という記述も見られる。笹沢氏はこの部分を使ったのだろう。
和合の茶屋で、お梶と出会う。お梶は酒饅頭を食べる紋次郎にもたれかかり、与三郎と阿弥陀如来像の話を一方的に喋り続ける。紋次郎は黙々と食べ続け、お梶は長煙管の由縁も話す。視聴者も読者もこの辺になると、お梶は与三郎の娘だと察しがつくだろう。「わたしの色気だって満更捨てたもんじゃないんだけどね」とお梶が太股まで露わにして見せ、「いまからでも、遅くはないんだよ。紋次郎さん、わたしに力を貸しておくれな」と流し目を送る。紋次郎は無表情で何の反応も見せず一言、「世間にありすぎるようなことは、お互えにやめておこうじゃあござんせんか」この紋次郎の台詞に痺れるファンは数多い。色仕掛けには絶対紋次郎は反応せず、女の武器は通用しない。世の男性は見習って欲しいし、世の女性も色仕掛けには頼らないで欲しいものだ。
お清が必死になって阿弥陀如来像を掘り出すシーンは、生々しく女の執念を感じる映像である。土を掘る音、お清の息遣い、流れる汗、総てが生きている証なのである。紋次郎はその姿をただ眺めるだけである。手を貸すことをしない代わりに、止めもしない。紋次郎にとっては、与三郎に頼まれたとはいえ明確な返答もしていないので、成り行き任せの感じである。
テレビ版ではお清が落とした櫛をお梶が見つけ、お清の正体を見破るのだが、原作には櫛の件はない。お梶はお清の父親のことを「結構なおとっつあんを持ったもんだ」と吐き捨てて、櫛をたたきつける。実のところ、口惜しかったのだろう。自分の父親は母親と自分のことを一顧だにしなかったのに、お清は父親の勘兵衛から流人彫の櫛をもらっているのだ。この後、お梶とお清の壮絶な阿弥陀様争奪戦が繰り広げられる。原作では泥まみれだが、テレビ版では川の中での女の戦いとなる。お梶役の「渡辺美佐子」も体当たりの演技である。着物の裾が乱れ太股まで見え隠れするのも、男性諸氏へのサービスシーンか。お清は「この金の阿弥陀さんが、お腹の子の血や肉になるんだい」と叫ぶがこの台詞は原作通りで大事な言葉である。
紋次郎と五郎蔵一家との立ち廻りも川の中である。BGMも第2シーズンのために作られたものと思えるが、今聴くとやはり古さを感じてしまう。私としてはパーカッション中心か、BGMなしで編集して欲しかった。ただ紋次郎の声(というか息遣い)が、殺陣の合間に入っているのは良かった。新しい試みとして、川の中で自分も敵も首まで水に浸かり睨み合うというシーンがあり興味深い。第1シーズン「月夜に吼えた……」でも川のシーンはあるが、今回のはそれ以上のものを狙っていると思われる実験的なシーンであり、観ている者も息苦しく感じる程である。
テレビ版のラストでは放心状態のお梶がお清に、「阿弥陀様はくれてやるよ……。あたしにゃ用なしの阿弥陀様だけど、生まれてくる子には役にも立つだろう。持っておゆき」と優しい言葉をかけるが、原作では紋次郎の台詞である。「たとえどうあろうと、お清さんは生まれてくる赤ン坊を育てるつもりだと、あっしは見て取りやしたぜ。そのためには、金がいる。あの金無垢の阿弥陀如来像は、死んだ与三郎のためには何の役にも立たねえ。ですがお梶さん、これから長く生きなくちゃあならねえ者にとっては、ずいぶんと役に立ちやすぜ」紋次郎は明らかに、「生きる者のほうを優先」している。必死になって、金無垢の阿弥陀如来像を身重の身体ながら掘り起こし、「お腹の子の血や肉になるんだい」と叫んだお清に紋次郎は、自分の母親にはなかった我が子への愛情を感じ取ったのかもしれない。過去を引きずり、恨みに満ちたお梶の執念より、泥にまみれながらも我が子と明日を生きようとする、生への執念を持つお清を尊いとしたのだ。
テレビ版のお梶は与三郎が死んだと聞かされて、本当の自分の気持ちに気づいたような印象を受ける。憎み恨み続けた父親ではあったが、やはりこの世に存在して欲しかったのだ。存在しているから、恨むことが自分の生き甲斐であったのだ。お梶は本当は、父親を愛していたのだろう。恨みと愛情は相反するようでありながら、根は同じなのではないかと考える。
「そんなことは、あっしの知ったことじゃあねえ。それよりお梶さん、あっしはおめえさんに言ったはずだ。明日も知らねえ者に、昨日があるはずはねえってね」「だから、どうだっていうんだい」「おめえさんは、どうですかい。おめえさんには明日があるっていうのに、昨日のことばかり、いや遠くすぎ去ったことばかり考えていなさる。おふくろさんと一緒にどんな酷い仕打ちを受けたかは知らねえが、おめえさんの頭の中には実の父親の与三郎を恨み憎むことしかなかったんでござんしょう」
原作の紋次郎は、いつになく諭す場面が多い。そしてその結果、飛ばした楊枝の行方はお梶と与三郎をつないでいた長煙管となる。その後原作とテレビ版は同じ台詞。「おふくろさんの形見なんて、何にもなりはしねえ。すぎたことは、何もなかったことと同じでござんすよ。ずいぶんと、お達者で……」いつまでも過去にこだわるな、過去の恨みや憎しみからは何も生まれない、明日の自分のために生きろ、とお梶に伝えたのだ。
原作者の笹沢左保氏は実の父親から、少年期よりかなり酷い仕打ちをされてきたようで、家庭的には恵まれていなかった。その点からも笹沢氏の人生観は、紋次郎の生き様と重なる部分が大きいとよく言われている。私は与三郎と笹沢氏の父親とは、ある意味共通点があるのではないかと考える。また第18話 「流れ舟は帰らず」の鬼の十兵衛も、もしかしたら笹沢氏本人ではないかと思ったりする。今回の作品で笹沢氏は、与三郎とお梶を通して、父親と自分とをじっと見据えていたように思う。そして最終結論として、紋次郎に語らせたのではないか。
因みに笹沢氏は昭和47年の3月末に、疲労による急性肝炎で入院している。しかし各誌とも休載となったのに、紋次郎だけは休まず、入院10日目から黄疸症状もそのままにこの「暁の追分に立つ」を書き始めたと言う。肉体的にも精神的にも辛かったろうが、決して逃げず言い訳もせず、全うするところなど、本当に紋次郎の生き様に似ている。言い換えればこの作品は、笹沢氏の「執念の作品」とも言えよう。 
暁の追分に立つ
「明日のねえあっしに、思い出す昔なんかござんせんよ」
木曽路の旅先で出会ったお梶(渡辺美佐子)に昔のよしみで老やくざの与三郎殺しを依頼され、紋次郎が当然のように断った後のセリフです。これは名セリフ。
過去を想い出し、あれこれ考えてもしかたがない。成功した過去を想い出しても有頂天、失敗した過去を想い出しても反省。いずれにしても将来に向かって役立てようとしても、そう意味がない。素直に前をみて生きることが大事。
巌流島の決闘で有名な剣聖 宮本武蔵も後年「五輪書」の中で云っています。
"われごとにおいて後悔せず"
自分の成してきたことの中には必ず後悔することもあるはず、しかし、そこで後悔し反省したとしても過ぎ去った時は戻らない。過去のことに後悔しないように生きることがベストですが、何事にも自分が成してきたことなので後悔しないと、自分に云い聞かせて処世するのも、うまい生き方だと思いませんか。
ちなみに原作では、
「明日もねえ者に、思い出す昨日があろうはずはありやせん」
となっています。テレビのほうがキレがあるセリフです。しかし、原作は、過去に対する紋次郎の思いを説明やセリフで多く語っています。
"人は、何のために生きているのか。死ぬ日が来るのを待って、生きている。少なくとも、紋次郎はそうであった。人間には、生きるか死ぬかのどちらかしかない。両方避けることも不可能だし、二股かけることもまたできないのだ。生きるか、死ぬか。人は常に、その追分に立たされているようなものだった。死ぬからどうの、生きるからああだのと、騒ぐほうがどうかしているのであった。ただ紋次郎としても言えるのは、死ぬ者より生きる者のほうが優先するということだけだった。"
また、殺しを依頼した与三郎が実の父であることを知って、お梶に向かって、
「明日も知らねえ者に、昨日があるはずはねえって。・・・おめえさんには明日があるっていうのに、昨日のことばかり、いや遠くすぎ去ったことばかり考えていなさる ・・・ すぎたことは、何もなかったことと同じでござんすよ」
そして、別れ際に、
「あっしは、振り返ることが嫌いでござんしてね。 所詮は、すぎたことで・・・」 

 

●第21話 「水車は夕映えに軋んだ」
「木枯し紋次郎」に出演する女優の中で、この「大原麗子」は一番の適役ではないだろうか。とにかく着物姿と日本髪が本当によく似合う。お縫について「決して、艶っぽくはない。内向的な性格の女に見られる愁い顔で、人形のように美しい。顔立ちが整いすぎているせいか、冷たい感じさえした。誰かにいじめられていたら、同情し助けてやりたくなるような弱々しさと繊細さを具えていた。」と原作にはある。年の頃も二十四、五としている。まさにピッタリである。切れ長の目と形の良い唇、また少しハスキーで艶のある声質も魅力の一つである。もう一人、お縫の姉お鶴役の「稲野和子」。この女優さんは第15話 「背を陽に向けた房州路」でお銀役をしていた方である。目に特徴があり、いわゆる「三白眼」。人相学的にはあまりよくないらしいが、私は艶っぽくて魅力的だと思う。原作では「二十七、八の年増であった。決して醜くはないが、男みたいに気の強そうな容貌をしている。女の円味に欠けていて、痩せぎすの上に色が浅黒い。」とあるが、こちらは少し配役が違うようで、テレビ版ではお縫よりお鶴の方が色っぽいかと思われ、原作より存在感があり、演技もよかったと感じる。酒に酔って、紋次郎に絡む上目遣いの据わった目などは良い表情だ。紋次郎は蕎麦をかき込みどんぶりと箸を置くのだが、この箸が小道具でありながら印象に残る。木の枝から削り出したような箸なのである。映り込むモノにはどんなに小さなモノでも、本物が要求されるのであろう。アバンタイトルでの重要な提示は、紋次郎は「女子どもを斬る長脇差を持ち合わせていない」ということである。「女、子どもを斬ることはない」ではなく、「そんな長脇差は持っていない」という言い回しである。これがラストに効いてくるのである。
原作にはない旅籠の女中役に「樹木希林」。とぼけた感じがなかなかいい。紋次郎も珍しく、くだけたしゃべり方をしている。短い絡みの中で利助一家の悪業ぶりや村の内情が語られる。原作には旅籠に泊まる設定はなされていない。旅籠に泊まるということは滅多にないので、何となく紋次郎の私生活を見たような気分になる。
村の娘がむごたらしく殺されている姿と、それを囲む村人を後にしたところで、テレビ版ではお縫とお鶴に再び出合う。駕籠を使い、夜旅まで続けて急ぐ女旅に紋次郎は、「よほど急ぎ旅のようですね」とチクリと一言。原作にはないシーンである。
利助一家の子分に「阿藤 快(海)」。彼は俳優座の後輩で、中村氏がかなり面倒を見ていたようである。アキレス腱断裂の際に吹き替えもやったようであるが、中村氏曰く「ちょっと身体つきが違うんだよね」。そう言われれば身長はあるが、立ち姿には随分違いがある。阿藤氏は骨張っているというか、中村氏のような、しなやかで強靱な筋肉は見られないので、衣装を身につけても外見上やはり違うだろう。
夜旅に蝋燭をきらしたので分けてもらえないかと、百姓家で頼む低く響く声は、何度聞いても心地よい。この民家もセットではなく実際に最近まで使われていた家屋と思われる。貧しい百姓家という雰囲気なのだが、瓦がひさし部分に載っている。この時代、百姓家でも瓦が使えたのだろうか……。さて、中村紋次郎の魅力の一つに低く響く声がある。当時の中村氏の普段の声はどうだったのだろう。笹沢氏は「低い声でボソボソと……」と彼のしゃべり方に触れているが、紋次郎の声は原作通りであろう。低くかすれた声でないといけないのだ。紋次郎を演じるには姿、形だけでなく、声質も大きな比重を占める。20年後に撮られた「帰って来た木枯し紋次郎」で一番大きな違いは、声のトーンだったのではないかと私は感じている。原作では蝋燭ではなく、納屋の片隅を一晩借りられないかという頼みであるが、同じく断られている。いつも感じるのだが紋次郎の言葉遣いは本当に丁寧でキチンとしている。渡世人言葉なので丁寧とは気づきにくいのだが、特に堅気の者に対してはへりくだった言い方をする。
村人達に取り囲まれ、鎌で左肩を負傷する紋次郎。堅気の者には刃向かわないという鉄則を守る。「どうせ、いつかはどこかで失くす命でござんす。別に、惜しいとは思いやせん」堅気の衆に襲われても長脇差を使わない……といえば、「暮坂峠への疾走」で銀次の兄弟分の小三郎は、農夫たちに無抵抗のまま殺された。紋次郎はとんだとばっちりで傷を負うことになるのだが、堅気の者への怒りはないし言い訳もしない。その後、事の経緯を農夫から聞き「大谷の利助が、子分の意趣返しをするのはおかしい」と紋次郎は答える。その会話の中で「半七は親分のお気に入りで婿養子にしようとしていた」という台詞が入るが、原作にはない。婿養子ということは、娘が許婚である……女の影がチラリとテレビ版では見える趣向である。
話は変わるが、半七といえば以前から気になっていたこと。殺された半七は死に顔しか映像にないので不確かなのだが、彼は「流れ舟は……」の「白痴」と呼ばれていた男と同一人物ではないか。彼は「木っ端が燃えた……」でも出演している。とにかく死に顔なのでなんとも言えないのだが、決め手は「胸毛の濃さ」。
利助の身内の三下が再び紋次郎を襲って来るが難なくかわし、子分に真相を聞き出そうと刃を向ける紋次郎。細かいことで申し訳ないのだが、話を聞き出している途中で三度笠が変わっている。連続の撮影ではなかったのか、背景の色合いや顔に当たるライティングも若干違う。三度笠によっては、破れ目や痛み具合が違うということはファンの中では知られていることであり、いくつかストックがあると思われる。
原作とテレビ版との違いは、お鶴とお鶴の夫との夫婦愛が描かれているところだ。水車に閉じこめられ痛めつけられた夫を助けに危険を顧みず行動に移すお鶴。酒に酔って紋次郎にからんでいた姿から一変して、夫に対して健気に尽くす。紋次郎は祠に逃げ込んで来た二人を訳も聞かずかくまい、振分け荷物から塗り薬を差し出す。あんなに罵詈雑言を浴びせ、おまけに足の甲に怪我まで負わせた女なのに、手を差し伸べる姿にテレビ版の紋次郎の懐の深さと優しさを感じる。
さて「木枯し紋次郎」のタイトルロールで舞殿で長ドスを抱いて横になる紋次郎の姿は皆さんご存知の通りであるが、私はずっとこの場所が気になっていた。一時は京都嵯峨野の「鳥居本八幡宮」かと思い足を運んだのだが、帰宅して映像と写真を比べて違うことに気づいた。しかしその後ケガの功名というか「大江戸の夜を走れ」で舞殿に壁板をめぐらして使われていることがわかったのだが……。ポイントは萱葺きの屋根である。ほとんどが瓦葺きであるので萱葺きは滅多にない。さて、本作品の紋次郎が休んでいた祠がまさしく萱葺き屋根である。しかし舞殿ではなく板壁がある祠である。……とここでハタと気がついた。これは美術さんの仕事だ……と。映像で見るとなるほど古い質感で壁が作られているが、これは実際の姿ではなく作られたものだろう。ということで私は「水車は……」の祠とタイトルロールの舞殿とは同一の場所とにらみ、映像を見比べてみた。決定的な証拠はないがすぐ右側に石垣があり、右手奥には灯籠らしきモノも見える。右手は同じように竹林である。ではこの場所はどこなのか。立ち回りをしている景色を見ていると、周囲は広い田園……となるとやはり京都の郊外か?
AGUAさまのサイト「時代劇の風景」で探してみると「藪田神社」が目に留まった。記事内の説明によると以前は萱葺きの屋根だったようで、今は鉄製の屋根に葺き替えられているとのこと……これだ!と思った。まだ訪れたことはないのだが、いずれ実際にこの目で確かめたいと思っている。「時代劇の風景」には、紋次郎のロケ地である「鳥居本八幡宮」や「丹波国分寺」等も紹介していただき、大変お世話になっている。紋次郎のロケ地はなかなか特定するのが難しい中、豊富な資料や写真を掲載していただき、本当に嬉しく思っている。お蔭で、紋次郎を求める旅が実現できている。この場をお借りしてお礼を申し上げたい。
本題に戻る。祠の周りに八五郎と仙造、子分達が迫ってくる気配を感じ取って紋次郎はお鶴たちに奧で隠れるように顎で合図する。無言であるが紋次郎はこの二人を助けようという意志を示す。祠から出てきた紋次郎の物に動じない貫禄ある態度は格好いい。流れモンには関わりないだろうという仙造に「関わりねえとは言わせねえぜ。大谷のお身内衆が堅気相手の外道のお陰で、難儀な旅をしやしたぜ」の台詞が胸を好く。
お鶴とその夫は逃げようとするのだが、追っ手に襲われ夫は斬られる。お鶴は泣き叫び倒れた夫に取り縋るのだが、紋次郎はそれを引きはがし抱えるようにして逃がす。お鶴の狂乱ぶりに夫婦愛が見て取れる。原作にないこの部分を入れたことで、お鶴の悲哀とこの後の残酷な仕打ちが作品に深みを出している。
水車に逃げ込むお鶴は再び外に出てきたが、その場で倒れる。水車から続いて出てきたのはお鶴の実の妹お縫。ニコリともしない冷酷な大原麗子の美しい顔。手には長ドスを提げている。ここで大きな意外性が出てくる。憎まれ口をたたいていた勝ち気そうな姉を健気にとりなしていた可憐な妹が、実はこの残酷な一連の糸を引いていたのである。やはり女は怖い。姉のお鶴も妹のお縫も、形は違えど惚れた男に心底尽くすタイプの姉妹だったのだろう。まさしく『情の濃い姉妹』である。原作にはないこの二人の違いに焦点を当てたのは脚本家、天晴れである。
原作ではお縫はお鶴の喉を刺して止めをさすが、やはりテレビでは残酷すぎると見え、刺す場所は変えてある。原作ではお縫はそのまま水車のほうへ戻りかけたところ、紋次郎が長ドスを弾き飛ばす。長ドスは右のほうへ水平に飛び、お縫の左胸に刺さる。シミュレーションしたが、位置関係に疑問が残る。その点テレビ版は、一旦水車に戻りかけたが踵を返し、刀で襲いかかろうとするお縫にドスを飛ばして胸に命中させている。紋次郎は後ろ向きであるので気配だけを感じ、長ドスを飛ばしたことになる。もうここまで来ると神業であろう。また、襲いかかる女を刺すという設定は「大江戸の……」と同じく正当防衛のにおいも漂わせている。紋次郎には丸腰の女を殺すことはあり得ないし、鉄則からは外れる。ということで、テレビ版のお縫は紋次郎の背後を襲わせる脚本に変更されており、お小夜以来、二人目になる。
刺されてよろけたお縫は水車にぶつかる。水車が出てくるシーンは今までに何回かある。水車に巻き上げられて落ちる敵や、杵に手を潰される敵もいた。今回は、帯が水車の軸に巻き取られるという設定である。「大原麗子」の出番としてはあまり多くなかったので、ラストシーンにはかなり時間がかけられている。倒れたお縫の髷から珊瑚の簪が落ちる。半七にもらった簪だと呟きながら、手を伸ばすお縫。その簪に楊枝を飛ばしお縫の指先に触れさせる紋次郎の優しさ。意趣返しのために阿修羅となったお縫だが、最期に半七からもらった簪を手にし、一途に恋する健気な女に戻りこと切れる。
「長脇差は確かに使わなかったけど、女を殺したことには間違いないんだよ。木枯し紋次郎が、そのことをすぐ忘れられればいいんだけどねえ」「……紋次郎さん、わたしを殺したからって、気にするんじゃないよ。わたしのほうで、殺してもらおうとしたんだからね。お蔭で楽になれる。……」 女たちは紋次郎を恨むことはなく、この世を去る。初めから死を予感している、というか死をもって初めて救われるといった雰囲気が漂う。
水車と独り佇む紋次郎のシルエット、山の向こうには夕日が沈む。もの悲しく無常観が漂う中、影絵のように美しく脳裏に焼き付く映像であり、私のお気に入りのエンディングシーンである。この美しい夕景を撮るため、どのくらいの時間を費やしたのだろう。紋次郎の映像美の集大成にエンディングシーンがある。作品の締めくくり方をどうするかは、監督の腕とこだわりにかかっていると言ってもいいだろう。本作品は夕景シーンで終わらず、荒涼としたひび割れた大地、その彼方を独り歩く紋次郎のシルエットに芥川氏のナレーションが入る。水争いに端を発した惨劇であったのでこの映像を入れたのだろうが、ちょっと唐突な感じがする。私としては、夕景と水車と紋次郎のシルエットで終わらせた方が余韻が残ったと思うのだが……。
私がこの記事を書いている最中に、大原麗子さんがお亡くなりになった。偶然とはいえビックリしてしまった。難病に冒されながらも、女優業に徹した生き様は、筋が通っていて格好よかった。本当に男前の女優さんだったと思う。心からご冥福をお祈りいたします。合掌。 
水車は夕映えに軋んだ
「昨日という日のねえあっしには、忘れられねえことなんかござんせんよ」
ラストシーンで、お縫(大原麗子)の以下のセリフに続けて、紋次郎が語るセリフです。
「確かに自分の長脇差は使わなかったけど、おまえさん、女を殺したことに間違いないんだよ、木枯し紋次郎。すぐそのことを忘れられるといいんだけどねえ」
殺された恋人の意趣返しで14人の百姓を殺害したお縫は、女子供には手出しをしないという紋次郎の跳ね上げた長脇差を胸に受け、命を落とします。そのシーンでの会話ですが、絶品です。
ちなみに原作では、「あっしには、昨日という日がありません。明日がもし来るようだったら、振り返って思い出すようなことは何もねえんでしょうよ」となっています。
さらにそのセリフに先立ち、次のように説明しています。
"過ぎ去ったことは、次の瞬間に忘れる。過去も未来も『無』に等しい。あるのは、現在だけである。 それが紋次郎の、生き方というものだった。いまはただ、白く浮き上がる道に目を凝らして漆黒の闇の中を歩き続けるのみだった"
生きてゆくには、忘れることは大切です。悲しいことも時が経つことで忘れることができます。(どこかで聞いた内容ですね。「やくざ映画に学べ!ビジネス、そして人生」の「関の弥太っぺ」ですね)すべての出来事を鮮明に覚えていて、忘れられないのが、人間だとすると、とてもではありませんが、生きてゆくのがつらいでしょう。まあ、紋次郎のように極端でなくてもいいですが・・・
しかし、若き日の大原麗子、奇麗ですね。同様、若き日の樹木希林(当時は悠木千帆でしたが)も出ています。  

 

●第22話 「地獄を嗤う日光路」
原作は「木枯し紋次郎シリーズ」ではなく「小仏の新三郎」が主人公である4話完結編のシリーズである。このシリーズは「オール読物」に発表された連作股旅小説であり、すでに第1シーズンの第15話 「背を陽に向けた房州路」、第16話 「月夜に吼えた遠州路」が放映されている。この作品は新三郎シリーズの完結編となるもので、表題作品という重要な位置を占めている。しかし、紋次郎と新三郎とは旅を続けるスタンスが違うので、自ずと展開を変えざるを得ない。大きく違うのはどの回でもそうなのだが、お染の存在である。新三郎は余命幾ばくもない病の身、恩あるお染に借りを返すためだけに旅を続けている一匹狼である。
原作の原型はほとんどとどめておらず、別物となっている。アバンタイトルで二人の農民が殺され、被っていた陣笠が奪われる。下手人は「蠍の藤八」という三下。火野正平が演じている。この頃の名前は二瓶康一である。第1話 「川留めの……」のとき、無抵抗の紋次郎を痛めつけたヤクザ者として出演しているが、今回は役名もあり台詞もある。この後彼は「跳べ!必殺うら殺し」で中村氏と共演している。仕事以外でも中村氏と彼とはつきあいがあり、遊び友達だったとか……。
雨に降り込まれ、難儀をする紋次郎に納屋を提供する千代吉。しかしその夜、千代吉は何者か二人に襲われる。斬られた千代吉を介抱し、話を聞く紋次郎。床から起き上がった千代吉に、そっとかい巻きを背中にかけたり、亡骸に丁寧に蒲団をかけてやるなど紋次郎の優しさが垣間見られる。千代吉は金塊を許婚のお鶴に届け身請けをしてやって欲しいと頼む。千代吉は自分の境遇を話す中で芥川氏のナレーションが入る。佐渡の金山の過酷な話である。そのナレーションの中で、佐渡での労働の悲惨さを「この世の地獄」としている。ここで作品のタイトルの文言が、提示されている。因みにドサ帰りをバックボーンとする渡世人としては、長次郎が主人公の「中山峠に地獄をみた」という作品がある。この作品も結末は今回と同じように女の変貌と裏切りがあり、テレビ版はこの作品もベースにしている感があり「地獄」というキーワードも同じである。
話を本編に戻す。原作は心臓発作を起こした新三郎を介抱した女とその兄が殺され、その意趣返しをするため下手人を捜すという設定であるので随分違う。
紋次郎が関わるきっかけはいくつかある。紋次郎が頼みをきく場合のポイント
1恩義があること / 2今際の頼みであること / 3島帰りの者の頼みであること / 4間引きに関するとき / 5自分の不始末で事が起こったとき / 6姉のお光を彷彿とさせる何かがあるとき
ただし3は紋次郎が島帰りという設定である原作のみ効果あり 自分の境遇と重なるため
今回の場合は 1雨をしのぐため納屋を借り受けた恩義 / 2依頼者はこの後亡くなった / 3依頼者はドサ帰り、しかも無実の罪で流罪となる(原作の紋次郎と同じ境遇)
上記の理由があるため、紋次郎は千代吉の頼みをきくことになる。
しかし紋次郎は逡巡する。千代吉が事切れたあと珍しく迷ったように考え込むシーンがある。いつものように「引き受けた」とは一言も発していない。しかし意を決したように金塊を袱紗に包み、立ち上がる。
蠍の藤八と千代吉を襲った二人組はグルであり、藤八は農民から奪った陣笠を手渡す。この時点でこの二人は盗賊夫婦だと察しがつく。
紋次郎は「房の川戸」と呼ばれている関所を通らねば、矢板にたどり着けない。ここで関所の様子が、詳しく映像化されている。原作では金塊を届けるという設定ではないので、あっさり書かれているのだが、テレビ版はこの場面は見所の一つである。金塊をいかに隠して、関所を無事通り抜けるかというところである。この関所は北へ向かう女だけは通行手形が必要だが、男は不要とされている。人相面体を確認され、荷物と身につけている物を検められる。視聴者はここでドキドキする。あの金塊を一体どこに隠したのだろうか、見つけられたらどうなるのか、などヤキモキするのだがどこにも見当たらない。関所を越えて人目のないところで、紋次郎は頭の髷から金塊を取り出す。「こんなところに隠していたのか」と驚いてしまう。実際あの位の金塊だとかなり重いだろうが、髷に隠して平然と歩けるものなんだろうかと疑問を持つが、細かいことは目をつぶろう。ストーリー上関所を外すことはできないので、(日光神領の民の陣笠があれば、特権としてお調べなく関所を通れることは重要点)このアイディアは苦肉の策だったろうと思う。実際、自分ならどこに隠すかと問われても思いつかない。
陣笠を被った盗賊に呼び止められたあと、木の陰から藤八が飛び出し、紋次郎に斬りかかるがあっさり殺される。千代吉の情報をかぎ回ったり陣笠を奪い取ったり、盗賊の手先として動き回ったが、この藤八は原作には出てこない。テレビ版で藤八は必要だったのだろうか、と思う。約1年前は役名もないチョイ役だったことから考えると、存在感はあったし彼にとっては良かったことだろうが……。
渡し船ではこの二人組の一人が女であることがばれる。その女を「緑魔子」が演じている。魔子と言う芸名の通り魔性の女の雰囲気はあるが、それも現代劇でのこと。時代劇となるとそのオーラはあまり感じられず、何となくちぐはぐな印象を受けてしまう。
矢板の宿にたどり着き、お鶴が酌女として働いているという「若紫」という店を紋次郎は訪れる。ここでのやりとりは結構面白い。店にいる酌女たちも崩れた感じで現実味がある。紋次郎は丁寧に挨拶をしてお鶴との面会を乞う。奧から出てくる偽お鶴はポーッとしていて面白いが、女将のしどろもどろの慌てぶりも面白い。紋次郎はここでも落ち着いていて聡明である。「袱紗の柄は?」の問いに二人の女は答えられない。本物のお鶴は袱紗のことをどうして教えておかなかったのか、重要なポイントだったのにと思う。女将はあわてふためいた後に、「お鶴は死んだ」というウソをついて紋次郎を寺に行かせる。原作でも新三郎が探し当てた「お染」は既に死んでいると言われて、墓のある寺に向かう。
寺で待っていたのは本物のお鶴。千代吉はお鶴がずっと待っていてくれると信じ、島抜けまでしたが、当のお鶴はさっさと身請けされて民蔵と夫婦になり、盗人働きをするほどの悪女に成り下がっていた。このパターンは第14話 「水神祭りに……」の惣助とお敬の関係に似ている。女は一途に男を待てない、月日が経つと心変わりをする、昔の男なんか歯牙にもかけない……笹沢氏が抱く女性像なのだろうか、このパターンが多いように感じる。「水神祭りに……」のお敬には金を渡したが、紋次郎はお鶴には金塊を渡さない。どう考えてもお敬よりお鶴は質が悪い。何もかも真相を、紋次郎は推理してみせる。そこで民蔵と矢板の治兵衛一家が現れる。矢板の治兵衛?誰だっけ……と言った感じだがチラッと民蔵のいとこ、とか言っていたような。民蔵とお鶴だけを敵に回しての殺陣では迫力不足なので、やはり頭数は必要である。
墓地での立ち廻りである。罰当たりといえば罰当たりなことであるが、多勢を敵に回すにはうってつけの場所とも言える。墓石の陰に隠れたり、石を投げて注意力をそらしたり、場数を踏んだ紋次郎の戦法である。その後、竹林での立ち廻りに移る。竹林は実に清廉としていて美しい。右や左に体をかわしながらの殺陣の動きは素早くて、観ていても気持ちがいい。その動きの中でストップモーションが3回かかる。タイトルロールではお馴染みの手法である。民蔵が紋次郎に「宝をお鶴に渡さず横取りするつもりだろうが、そうはさせねえぜ!」と叫ぶが、愚問である。横取りするつもりなら、手にした時点で持ち逃げしているだろうが……とつっこみを入れる。
民蔵とお鶴は結局、刺し違えて二人とも命を落とす。悪女はやはり死ぬ筋書きである。紋次郎の長ドスは使わせずに悪女を殺すとなると、男と一緒に死ぬこのパターンである。原作は全く違うので比べようがないのだが、悪女お染は死なずに新三郎の方が刺されて息を引き取る。刺されてというより、自分から刺されることを望んだような形になっている。「放っておいても長くはねえ身体、お蔭で楽になれやすぜ」「おめえさんとは会わずじまいで終わったほうが、よかったような気が致しやす。人の世とは、そんなものかもしれやせん」 
お鶴に会わずに息を引き取った千代吉だったが、その方がよかったのかもしれない。お鶴の変貌ぶりを知らずあの世に行った千代吉。その千代吉の供養のためにと紋次郎は金塊を住職に手渡し、鶴の柄が入った袱紗を宙に投げ上げ、楊枝を飛ばしてお鶴の亡骸近くに留める。よく耳を澄ますとシンとした中、虫の声が聞こえ、それが一層寂寥感を表し無常観を漂わす。
欲にかられ、命を落とした者とは対極にある紋次郎の孤高な姿は夕景の中に消える。 

 

●第23話 「夜泣石は霧に濡れた」
お気に入りの作品の一つである。それはなぜか? いつもは完全無欠かと思われるほど、絶対的な強さを持っている紋次郎だが、今回は空腹というどうにもならない苦境に初めから立たされている。女性ファンとしては母性本能というか、空腹でフラフラしている紋次郎を見るのが忍びなく、それでいて見守ってあげたいという気持ちに駆られたりするのだ。始まって早々ピンチという作品も珍しい。
原作とテレビ版とはほぼ同じ展開である。飢えに苦しみながら山を下りてきたところで、紋次郎は一人の男の子を見かける。原作では「色が白くて、目が大きい。母親が、美人なのかもしれない。」と書かれているが、テレビ版の子どもは原作よりもっと素朴で、日向の匂いがしそうな子どもらしい子役であり、私は好ましく感じる。紋次郎に声をかける百姓女、お民役に「渚 まゆみ」。原作では「健康そうで、可愛らしい顔をした女だった。人がよさそうで、単純で陽気な女という感じであった。」とあり、イメージにピッタリである。彼女も日向の匂いが似合いそうな風情である。
主題歌の後、お民が木の丼を手にしてかけ寄ってくる。紋次郎は木の下でぐったりしているが、原作では「長脇差を背後に置いて地面の上に正座した。」とあるので、原作よりテレビ版はダメージが大きいようである。丼の中の蒟蒻を目にしたとたん、できるだけ蒟蒻から視線をそらすようにする紋次郎の演技は、本当に難しい。「心は死んだ」とされている紋次郎の感情を、無表情の中でも表現されなければならない。言葉や表情で表せるのなら、演技を勉強した者であれば可能だが、表情を作らず心の動きを表さなければならないし、小説のように心情の説明もない。そうなると視線であったり、目に込める力であったりしかない。「目は口ほどにものを言い」とは良く言ったものである。
「折角ではござんすが、お気持ちだけを頂いておきやす」丁重な断り方である。この言い方を覚えておくと、人間関係も上手くいくだろう。紋次郎は立ち上がり、右に左に揺れながら歩いていく。その後ろ姿を立ち上がり見つめる男の子に、「清坊(せいぼう)」と声をかけるお民であるが、原作では「清坊(きよぼう)」とルビがふってある。音読みと訓読みの違いであるが、なぜ呼び方を変えたか?。この後で分かることなのだが、この清坊の母親の名前が「お清(おきよ)」であるが、テレビ版では「おせい」になっている。第20話に出てくる蝮の勘兵衛の娘の名前が「お清(おきよ)」だったので、混同しないためか。そう言えば紋次郎のシリーズに登場する女性の名前は、時々同じ名前が出てきて混同することがある。とにかく長期にわたるシリーズであったので、登場人物の数は半端ではない。その主要人物に、それぞれ名前を付けるのであるから致し方ないだろう。
アイパッチの貸し元「勘八」が、村人から礼を言われている。非合法で何かをやっていると察しがつく。その後、店の親父が持ってきた煮物の中の小さな蒟蒻をつまみ出し、顔をしかめる。紋次郎と同じく蒟蒻嫌いという設定であり、これが後の展開の伏線となる。
足もとが定まらない紋次郎の前に、清坊が現れ背後に持っていた物を紋次郎に差し出す。山葡萄である。二人は無言であるが、お互いの気持ちは通じ合っている。紋次郎はその山葡萄を房ごと一気に頬張る。視聴者は「良かった、食べ物に少しでもありつけた」と思うのだが、あっという間の食べっぷりである。私も当時、その食べっぷりが印象に残っていて、葡萄を房ごと食べた記憶がある。しかし、人前ではやらない方が良い。
後を追ってきた吾作とお民に、清坊は紋次郎の子どもだと言われて返す台詞。「どこの土地だろうと、娘さんを手籠めにできるような悠長な旅は、この紋次郎には一日だってあったことはござんせん」原作とほぼ同じ台詞に、女性ファンはホッと一安心する。大体そんなことがあるはずがない。
紋次郎の後を黙ってついて行く清坊が可愛らしい。物を言わないという設定だが、その辺も紋次郎の幼少時と同じである。紋次郎は8歳の頃、すぐ上の兄から間引かれ損なった存在だったと聞かされ、それ以来口をきかない子どもとなった。似通った境遇が故に、清坊は紋次郎に同じ匂いを感じ取っているのかもしれない。原作にはない居酒屋での一コマ。食する物が何かないかと居酒屋に立ち寄るが、そこで勘八の子分達の「間引き」を囃した唄を紋次郎は耳にする。結局ここでも蒟蒻しかないと言われ、空腹を満たすことはできず、店の主人から勘八も蒟蒻嫌いであることや、地元の者ではなく流れ者であることなどを知る。また、勘八の子分達の不穏な動きなども感じ取る。
タイトルに出てくる夜泣石の前で、紋次郎はお民に蒟蒻嫌いの訳を話す。夜泣石にもたれかかる紋次郎の背後に芽ぶいた双葉が見える。苔むした石の間に種が落ちて、芽ぶいたのだろう。私にはそれが清坊に思える。本当なら手籠めにされて生まれた赤子なのだから、間引かれても仕方がないところだが、お清は手を合わせて育てさせてくれと頼んだそうだ。逆境の中でも、この小さな命を生かせたいというお清の思いが、この双葉に表されているのではないかと思う。この紋次郎の語りで、視聴者は紋次郎の背負う宿命を知り、清坊と紋次郎を重ね合わせる重要なシーンである。紋次郎の伏せた目と三度笠から見える鼻から下のシルエットが、たまらなく切なく胸を打つ。紋次郎の魅力は、敵と対峙したときの獣のような表情と俊敏な動きだが、このシンとした哀切のこもった佇まいにも惹かれるものがある。静と動……どちらも表現できる中村氏が兼ね備えた魅力であろう。
原作もテレビ版も、紋次郎は湯原の勘八宅に向かうところは同じ。しかし目的が違う。原作では、勘八が蒟蒻嫌いという提示はしていないので、一飯にありつくためという理由で敷居を跨ぐ。しかしテレビ版の紋次郎は、目にしたこと、耳にしたことを総て繋ぎ合わせて、既に何かを感じている。その推理を実証するため、「勘八親分とやらに、会ってみてえ気になりやした」と口にして清坊が先導する道を進む。
勘八の敷居内で紋次郎は仁義をきり、「親分さんに、いささかお尋ね致したい件がございまして、推参仕りました」と用件を言う。「推参仕る」武家言葉のように感じるが、渡世人言葉なんだろうかと少し違和感を覚える。この後、紋次郎にとっては耐え難い蒟蒻責めの膳部が出るわけであるが、蒟蒻嫌いを知っている者は限られている。この時点で聡明な紋次郎は、勘八が誰なのか分かったはずである。ここでも空腹を満たすことができず、清坊が差し出す稗飯も断る紋次郎に、視聴者までが空腹感を覚えてしまう。
湯原の勘八役に「平田昭彦」。基本的には二枚目俳優さんだが今回は顔に大きな傷、アイパッチという出で立ち。お民と勘八のやりとりで化けの皮が剥がされ紋次郎は勘八のことを「弁蔵さん」と呼ぶ。大前田英五郎の後ろ盾がある一家の貸し元、というプライドを持ちながら、名を上げ貫禄も十分な紋次郎にコンプレックスを持つという、度量の小さい人物……にしては、平田氏は貫禄がある。
原作とテレビ版では台詞が若干違う。「どうしても、許せねえことが二つある。一つは、手めえの伜を間引き仕事の手先に使ったこと。もう一つは、おめえさんが平気な面をして、蒟蒻を扱えるってことだ」(原作)「弁蔵、許せねえことが二つある。一つは自分の伜を使って間引き仕事の手先に使っていること。もう一つは、百姓衆から血のにじみ出るような小銭まで巻きあげて、間引きの弱みを押さえ、手めえの縄張りを固めてることだ」(ドラマ)
二つめの理由が少し違う。原作は蒟蒻が食べられない勘八という設定はしていないので、平気な顔をして蒟蒻料理を作らせたことを指している。テレビ版では、縄張り固めの手段に間引きを使っていることに怒りを持ち、貧しく弱い百姓の側に立っている紋次郎の姿が鮮明であり、より人間的である。また、テレビ版での勘八は自分の持論を喋る。「手めえにそんなことを言われる筋合いはねえ。俺の弟だって金さえあれば、間引かれねえで済んだんだ。世の中こっちが間引くか相手に間引かれるかだ。俺は渡世の道にへえってからも、そいつを嫌ってほど教えられたぜ。おい、紋次郎。手めえだって間引かれ損なった男のくせに、何を甘っちょろいことをぬかしてやがる」(ドラマ)
間引くか間引かれるか、しのぎを削ってこの渡世をのし上がり、大前田の大親分に上手く取り入ったのだろう。流れ者の一匹狼とはワケが違うと言いたいのだろうが、一家を構えても日々食うか食われるかの修羅場であり、なんら違いはないのである。所詮ヤクザは心が安まる日はないのである。しかしテレビ版の勘八の方が、原作よりは間引かれた弟のことを心に留めていることは確かだ。紋次郎と同じく蒟蒻が食べられないし、弟の間引かれた理由である貧しさを憎んではいる。勘八は自分の弟を亡くし、紋次郎は己が、それぞれ間引きというやりきれなく哀しい体験をした。原点は同じと言っても良く、同じような宿命を背負っているのに、この二人は明らかに立つ位置が違う。何がこの二人を両極に分けたのだろうか、と思う。
今回のカメラワークには、いろいろとこだわりが見られる。カメラアングルは、いつもより低い位置からが多いように感じる。これはあくまでも私の感じ方なのだが、それが清坊の目線のように感じるのだ。まるで清坊が、物陰から一部始終を見ているような気がするのだ。それとフレームの撮り方。総てを見せるのではなくいろんな物を使ってフレーム感を出している。それが障子であったり、軒先であったり、縁の下であったりと様々なパターンが出てくる。雨のシーンは、セットとロケを併用しているか。今回は殺陣の間はBGMがなく、雨音が中心でよかった。スローモーションを使い、雨と泥にまみれた臨場感ある映像であり、映像からも雨と泥の匂いが漂ってきそうだ。今回の紋次郎は飢餓感と怒りとで、いつになく表情に野性味が見える。逃げる勘八を追う紋次郎、二人の姿をローアングルでスピード感を出してカメラが移動する。白い霧が流れ、モズの甲高い鳴き声が響き渡り、もの哀しい晩秋の雰囲気である。「幼馴染みが、やがては果たし合いかい」「世の中ってモンはそんなモンでえ……」(ドラマ)こんな至近距離で、己が斬った者と言葉を交わす紋次郎も珍しい。幼馴染みへのせめてもの餞なのか……。
しかし紋次郎にとって、幼馴染みなどは何の意味も持たないのだ。勘八は幼馴染みの紋次郎が、名前を売り出し噂が高いことに嫉妬した。その結果、お清に「自分は紋次郎だ」と騙ってしまったのだ。幼馴染みや友人、同僚に嫉妬する……きわめて人間らしい感情で、誰にでも起こりうることであろう。しかし、戒めたい感情でもある。「人は人、あっしはあっしということにしておくんなさい」である。
今回の楊枝は、十文銭を夜泣き石に引っ掛ける。間引かれた赤子の供養か、過去のしがらみからの決別か。山葡萄以外、何も口にせず独り旅立つ紋次郎の背中に、口をきかなかった清坊の声、「おいちゃん、あばよー」。「女人講の……」でのお加代といい、清坊といい、幸薄い幼子が紋次郎には心を開く。やはり、それぞれが背負う同じ宿命を持っているからか。
夜泣石に芽ぶいた双葉のように、貧しくとも精一杯、清坊には生きて欲しい。 

 

●第24話 「女郎蜘蛛が泥に這う」
テレビ版作品で大きな比重を占めるものは、何といってもお甲役の「北林谷栄」の存在感だろう。老婆役を演じたら、右に出る者がいないという程の名女優である。私が物心ついたときから、すでに老婆役をされていた。演技力もさることながら、語り口も独特のものがあり、実に味のある女優さんだ。語り口と言えば「となりのトトロ」で、気のいい優しいおばあちゃんの声を演じておられた。
市川監督作品の「炎上」では主人公吾一の母親で、住職の夫がありながら不倫をする役を演じている。女の嫌な部分を、実に上手く演じておられたのが印象的だった。今回は、その「母親の嫌な部分」が前面に出ているような演技である。
テレビ版と原作での展開は、大きな流れにおいて同じだが、細部に相違点がある。
まずアバンタイトルでの紋次郎と千代松との関わり。原作では、梅吉夫婦が千代松に金を奪われそうになるところを紋次郎が助ける。テレビ版では間違った道を教えたため、千代松に出遭い、左腕を斬られ金を奪われ崖から落ちた商人の意趣返しのため千代松を捜す。
テレビ版での紋次郎は、千代松の顔を見ていないので、商人が話した朱色の鞘を腰に落としているということが、識別できるポイントとなる。原作では、梅吉夫婦を助ける前に紋次郎は二人の子どもを連れた母親に会っている。その母親に間違えた道を教えてしまったため、千代松に襲われ左腕を斬り落とされてしまった。紋次郎はなんの関わりもないその母親の意趣返しのため、千代松の左腕をもらい受けると言い放つ。基本的には、自分の落ち度を償うために千代松を斬るという目的を持つことは同じである。
テレビ版ではアバンタイトルで紋次郎はお甲とすれ違い声をかけられている。「捜している伜と同じ色の鞘なもんで……」朱鞘を腰にする老婆の伜と、商人を襲った男が同一人物ということがわかる。
テレビ版では立ち寄った与吉郎の賭場で、紋次郎は朱鞘が刀懸にあるのを見つける。そこにお勝が現れ、与吉郎の妹であることが提示される。賭場を後にした紋次郎は、民家の間をすり抜けて歩いていくのだが、その夜の風景が実に美しい。ぼんやりと灯火がともる街道を足早に抜けていく一瞬なのに、かなり凝った映像である。萱葺きの家や石垣が見えるので屋外ロケと思われる。
野宿するために立ち寄った社で、紋次郎は千代松とお勝が逢い引きしているところに出くわす。原作では千代松の風貌は40歳ぐらいの雲を突くような大男で、鍔のでかい長脇差を腰にしているとあるが、テレビ版で演じるのは「寺田農」。どちらかというと痩せ型で華奢な感じの俳優さんである。母親に頭が上がらない気弱な伜という雰囲気をストレートに出したキャスティングである。後に「水滸伝」で寺田氏と中村氏は共演しているが、味のある脇役さんである。
朱色の鞘を見て商人を殺した男とわかった紋次郎は、二人の前に姿を現す。鬱蒼とした木々の合間から紋次郎のシルエットが見え、そのバックに白い霧が流れる。映像的にも印象的なシーンである。千代松とお勝を前にしての台詞。
「……あっしさえ間違えなかったら、あんな事にはならなかったんだ。どうしてもその左腕をもらわなくちゃ、あの商人に申し訳が立たねぇ。」(ドラマ)「……あの母親はおめえに襲われ取り返しのつかねえことになっちまったわけだ。この紋次郎のお蔭で、あの母親は左腕を失くした。その左腕をおめえから、取り返すことにさせてもらうぜ」(原作)
どちらも紋次郎にとっては、縁もゆかりもなく何の関わり合いもない人間だが、間違った道を教えたために人生が狂ってしまったのである。そのことに紋次郎は責任を感じている。己の不始末は己でケリをつけるというのは、自身の鉄則である。この鉄則に従う紋次郎は実に厳しい。
しかしその厳しい鉄則さえ揺らぐぐらいの、お甲の真に迫る演技である。北林谷栄の哀れな老母の姿は、観る者を一気に引き寄せる。さすがの紋次郎もたじろぐ勢いである。すがるお甲が口にした、ある台詞に紋次郎は反応する。「お前さまにも、おっかさんというものがおありのはず……。子を想う母親の気持というものを、汲んでやって下さいまし」
「あっしには、おふくろなんてものはござんせん」「生まれたばかりの赤子を殺そうとしたおふくろなんて、いねえも同じ道理でござんしょう」「へい。ですから、あっしにはおふくろなんてものは、おりやせん。会いたくもなけりゃあ、思い出したこともねえ。生きているやら死んだものやら、あっしの知ったことじゃあござんせん」(原作)
「あっしにはおふくろなんてござんせんよ」「生まれたばかりの赤ん坊を、間引きで殺そうとしたおふくろなんて、いねえも同然でござんす」(ドラマ)
テレビ版の方が台詞も短く淡々と答えている。それだけに殺伐としたやりきれない想いが胸に去来する。原作では「世の中にはやっぱり、おふくろというものがいるんでござんすね。あっしは、初めて教えてもらいやしたぜ」と背中で言って紋次郎は立ち去る。
テレビ版では抜いた刀を鞘に収め立ち去る紋次郎を見送った後、お甲は真顔に戻り、千代松を思いっきりひっぱたく。気の強い老婆であり、観る者はここで、あれ?と思う。
この後テレビ版の紋次郎は戸板で運ばれる死人を目にし、道行く者の話から、また千代松が悪事を働いた事を知ることになる。余談だが、その時紋次郎の前を通り過ぎる村人のはるか向こうに、白い小さい影が右から左に動く。かなりのスピードで一直線……? 多分遠くの道を走る車輌だろう。
橋の上でお甲は、大金を手にして千代松に次の盗人働きを命令している。やはりそうだったのか、と妙に納得する。何と言っても紋次郎作品であるので、親子の情愛など端からあろうはずがない。親子の縁を切るなら死んでやる、と目隠しをして橋から飛び降りるふりをするお甲を尻目に、千代松は逃げていく。テレビ版のこの絡みは笑いを誘う。
原作のお甲とテレビ版のお甲とは設定がかなり違う。明らかにテレビ版の方がずっと性根が悪く、強欲である。原作ではお甲も千代松も、元は裕福な名主の出である。しかしお勝の兄、与吉郎が、不帰依を訴えたため没落の憂き目にあう。その恨みでお甲はお勝を毛嫌いし、昔のような贅沢がしたくて千代松に盗人働きをさせている、といった設定である。名主という名家出身なので、原作でのお甲は「顔に気品のある老婆だった」と風貌の説明があるが、テレビ版のお甲は女郎をしながら苦労して千代松を育てたという設定になっているので、北林女史には気品を求めていない。
なぜ、お甲の出自を変更しているのか。題名である「女郎蜘蛛……」から女郎を連想したのだろう。原作の人間関係は、かなり複雑であり、お甲がお勝を毛嫌いするのも頷ける。しかしテレビ版のお甲は原作より数倍凄まじい。金づるの千代松を取られそうになったため、お勝を殺し紋次郎の仕業だと与吉郎に吹き込む。そしてお甲は、お勝のこの言葉にカッとなる。「あの人のおっかあは、今日から私なんだ!」
本当にお勝は千代松にとって母親のような存在であり、お甲よりずっと健気で母親らしい。お勝を殺したのは欲深さだけでなく、自分の伜を女に取られることに対する嫌悪感の方が強かったからだろう。その上その罪を紋次郎に着せることで、千代松の腕は斬り落とされずにすむ訳である。よく考えられており、原作よりおもしろい展開である。与吉郎一家で紋次郎は、お勝を殺したのは紋次郎だと名のる生き証人としてお甲を目にする。
このときの紋次郎の驚いた顔は、無表情であることが多い中、珍しい。その後紋次郎は、くわえていた楊枝を投げ捨てる。かなり怒っているようである。裏切ったお甲に対しての怒りか、お甲を信じた甘い自分に対する怒りなのか。与吉郎の「言い分があったら聞くぜ」の言葉に、「言い訳する気もござんせんよ」と返す。「新木枯し紋次郎」の決め台詞「あっしには言い訳なんぞござんせん」と似ているが、言い訳する気も失せるほど惨憺たる状況である。
原作ではお勝は殺されることはなく、与吉郎一家の子分を使って紋次郎を襲わせる強気な女である。また最後まで、お甲が陰で千代松を操っていたことを知らずにいる。テレビ版の与吉郎は、妹のお勝が紋次郎に手籠めにされ殺されたと思いこみ、意趣返しのため刃を向ける。
この時の紋次郎の殺陣のスピードはすばらしい。紋次郎の殺陣はロケ現場の山野や田んぼ、河原を走り回り転げ回るダイナミックなシーンで有名だが、この作品はセット内での撮影である。まず峰打ちである。峰打ちの方が刀で殴りつける感じで荒々しく、私は好きである。狭い部屋の中、子分たちが入り乱れ、紋次郎は動き続ける。狭い階段をかけ上がり、下り際には前転をする。長脇差を持ったままである。よくケガをしないものだと感心する。この階段はもしかしたら、第1回の放映「川留めの……」のアバンタイトルで使われたものか。
カメラは梁の上から見下ろすアングルで回り続ける。庭に降り立った後の殺陣も俊敏な動きで目が奪われる。一瞬にして敵をたたき伏せ、与吉郎に長脇差の切っ先を向ける。「峰打ちだ。お勝さんを殺したのはあっしじゃねえぜ。」素早く刀を鞘に収め合羽を翻して去る紋次郎に、呆気にとられる与吉郎の顔。ため息が出るほどかっこいい。合羽が翻るときの音は効果的で、私は大好きである。
今回のテレビ版の紋次郎は、一人も命を奪っていない。お甲の虚言に踊らされて向かってきた敵であるので、殺すことはしない。無益な殺生はしないのが基本である。原作でも「命を粗末に、するんじゃあねえ。今度は、峰を使わねえぜ」と警告している。それでも敵は襲ってくるので、やむを得ず長脇差を振るう。そして千代松も大声で喚きながら巨体をぶつけてくるところを、紋次郎の諸手突きに倒れる。そして自分一人では何もできず、母親に怒鳴られて悪事を働いていたこと、盗んだ金は全部母親の懐で自分は一文も持っていないことなどを告白して事切れる。
テレビ版での千代松は、母親としぶしぶ連れだって歩く。紋次郎は追分で立ち止まり呟く。「どっちへ行くか……いずれにしてもあの親子には二度と会いたくはねえ。」しかし、この先会ってしまい、また独り言。「いけねえ、会いたくねえのに会っちまった。」
今回の紋次郎はよく呟く。アバンタイトルでも商人に間違った道を教えてしまい「いけねえ、間違えた。」と口にする。小説であれば、紋次郎の心内を書き表すことができるが、ドラマではそうはいかない。芥川氏のナレーションも事実だけの説明で、人物の心内には触れないので、自然と独り言になってしまう。
本当に紋次郎にとっては会いたくなかった二人なのだ。利己的で独占欲の塊のようなお甲に、一時はコロッと紋次郎は騙されたのである。またそんな母親に頭が上がらず、惚れた女一人も守れなかった千代松の情けない程の自立心のなさ……言い訳する気も起こらない空虚さの元凶はこの二人なのだ。
「食うものも食わず、育てた」「自分の思い通りにしてどこが悪い」「親孝行してもらってどこが悪い」と居直るお甲に、紋次郎は「間引こうと盗人させようと、親なら構わねえと言いなさるんでぇ?」と自分の生い立ちも含めて尋ねる。「ああ、決まってるよ。」との答えと同時に鞘走り、千代松の左腕は斬り落とされる。
この後のお甲の顔は、本当に鬼気迫るものがあり怖い。メイキャップも随分変えてあるのだろうが、ゾッとする目だ。睨みつけるお甲の横にツーッと女郎蜘蛛が降りてくる。紋次郎はお甲のかわりに、女郎蜘蛛に楊枝を飛ばす。お甲は女郎蜘蛛であり、女郎蜘蛛はお甲だったのだ。自分の伜千代松をお甲は、血の繋がりという糸で縛り付けていたのである。
千代松は左腕を失った。しかしこれで大した悪事はできないだろうから、母親の呪縛から解かれるかもしれない。今回は一番のワルであるお甲は、命を落とすことも傷を負うこともない。紋次郎の鉄則からいくと「堅気、女、年寄り」ということで、ドスを向けることはなかったが、お甲の一番大事な千代松の左腕を叩き斬った。原作より私は、テレビ版のケリのつけ方のほうがしっくりきて好きである。この後この母子は、どんな生き方をするのだろうかと想像を膨らます。人の情けに縋って、泥に這いずるようにして生きていくのだろうか。
「やっぱりこの世の中、おふくろなんてものはありやしやせんでした。」「やっぱり」の言葉が哀しく虚しく響く。無償の愛というものは、幻影でしかないのだろうか? 

 

●第25話 「海鳴りに運命を聞いた」
原作からは、かなり内容が変更されていて、別物に近い感がする。アバンタイトルからして全く別物。原作を読んだ者からすると、「えっ、こんな話あったっけ?」
大きく違うのはヒロイン、お袖の設定である。原作とは違いお袖は偽物である。お袖の本名はお栄で、お袖と同じ宿場の酌女だった。本物のお袖から母親の形見の簪を盗み、胸に証となる赤い痣をつくり、不動堂の太兵衛と結託してお袖になりすました。酌女をしていたときの馴染みの客が、丸谷の銀造。お栄にとっては、太兵衛と銀造は目の上のたんこぶという訳である。お栄役に「早瀬久美」。「新木枯し紋次郎」では「お笛」として再度登場している。我々の年代、アラ・フィフ世代(こんな言い回しがあるか定かでないが)では「おれは男だ!」の「吉川くん」で有名な女優さんである。やはり知的な清純派といった雰囲気があり、悪女としての妖艶さは感じられないが、その方が意外性があって効果的である。森田健作氏は見事(なのか?)な変貌ぶりであるが、早瀬女史は2002年に女優業に復帰され、現役で活躍されている。
テレビ版のお栄と原作のお袖。どちらも悪女には違いない。さあ、どちらがより悪女であるか。原作のお袖は、太兵衛の若いモン同士の殺し合いを紋次郎の仕業にする。出漁の合図の布を変え、楊枝を置いていく。将来の婿、清三郎の父親や兄殺しを頼む等々……。かなりの悪女である。「そうさ。わたしはただ、彦十郎に負けたくなかった。おとっつぁんが網主としてやって行けなくなったら、また貧しい漁師の暮らしに戻るんじゃないかと思って……」と語っている。何となく動機がはっきりしない。もともと清三郎と所帯を持つつもりでいるのに、なぜ清三郎の父親である彦十郎を殺す意味があったのかと思う。逢い引きしている箇所を読んでいると、日本版「ロミオとジュリエット」かと思わせる向きもあったが、実情は大違い……。やはり女は怖い。その辺の釈然としない筋書きのせいか、テレビ版はかなりストーリー変更が見られる。
テレビ版のお栄は、盗人で騙りである……と言ってしまえば身も蓋もないが、身の上を聞くと可哀想な女でもある。昔の素性を知る銀造が現れなかったら、こんな急展開にはならなかったろうが……。どちらにしても共犯の太兵衛にはこの後、強請られるのは必至であろう。紋次郎はお栄と清三郎が逢い引きしているとき「お袖」という名前を耳にしているが、何の反応も示していない。聡明な紋次郎であれば、聞き逃さないはずなのだが……。その上簪の持ち主を銀造に尋ねられ、剛左衛門の娘だと教えたのは何故か。直接教えたシーンはないが、銀造が剛左衛門宅を訪れ、お栄と顔を合わしていることから分かる。あんな得体の知れない怪しい男に、簪の持ち主として居場所を教えたことに疑問は残る。
清三郎が逆上して銀造を殺すことを想定して、清三郎に文を送りつけるという確率の低い賭に出るが、清三郎はまんまと思惑通り銀造を銛で襲う。我に返って自分の犯したことに恐れおののく清三郎を、母親のように抱きしめて頭を撫でるお栄。「よくやった。」といったところか。太兵衛に脅されていたこと、銀造が昔のよしみでまとわりつくことなどをあげつらい「渡世人なんて、みんな人間の屑よ。ダニみたいなもんだわ。」と言い放つ。その渡世人を使って人を騙し、お嬢様として収まっていることは棚に上げて……。
瀕死の銀造に銛で突かれて最期を遂げるところは、凶器と動機は違えど原作と結末は同じ。この結末は、江口紋次郎のリメイク版「童唄を……」に似ている。本物のお袖も可哀想であるが、お栄も幸せになりたかったのだ。剛左右衛門は騙せても紋次郎とお天道さんは騙せなかったのか、自業自得の最期となった。
この回の紋次郎の関わり方は、以前にポイントを示したが「今際の頼み」である。行き倒れの女を背おい、岬に静かに下ろす。事切れて何も見えなくなった虚ろな女の両目を、そっと閉じさせる紋次郎の優しさ。女性ファンがクラッとするところである。
砂浜で二人のやくざモンが死闘を繰り広げている。原作ではこの二人は共に太兵衛一家の若い者で、仲違いをしての斬り合いとしている。お互いが相討ちになり、哀れな死にざまを紋次郎は見おろす。
「同情も憐憫も軽蔑も、渡世人の表情から読み取ることはできなかった。空しさだけが、感じられた。何のために、殺し合ったのか。どうして、殺さなければならなかったのか。果ては、二人とも死んだ。同じ長脇差を持つ身として、命のやりとりをする空しさに捉われているのに違いなかった」
そして二人の骸の間に、楊枝を飛ばしたのである。説明がなければ、不用意に飛ばしたというだけに終わってしまうが、あの楊枝には、無駄死にをした若いやくざたちに手向けた、無常観が表現されているのだ。
テレビ版では、太兵衛と勘蔵一家の若いモン同士の喧嘩となっているし、紋次郎が楊枝を飛ばすところの心中も語られていない。それどころか、原作には「蓮沼の勘蔵」は出てこない。テレビ版では二人の死骸はそのまま何も細工はされず、楊枝が刺さっていたところから、紋次郎がやったということになってしまう。楊枝を利用して罪を着せるところは、「月夜に吼えた……」と同じだが、今回は現場に飛ばしたのは紋次郎本人ではある。原作では、突き刺し合った太兵衛の身内の骸から、長脇差を抜いて細工したのはお袖である。気丈というか機転が利くというか、大した悪女である。
丸谷の銀造役に「睦五郎」。一癖もふた癖もありそうな役どころである。何かと紋次郎に付きまとうが、紋次郎はかなりウンザリ気味。テレビ版では、この銀造が出漁の布を取り替え楊枝を残す。太兵衛に雇われてのことである。銀造は顔に似合わず純情派。昔惚れた酌女お栄をずっと探し続けていたという設定。金で雇われ悪事を働く割には、恋には純情で、最期はお栄と無理心中となる。
本物の海でのロケは初めて。それまでは多分、琵琶湖での撮影だったと思われる。琵琶湖ではあれだけの白波は、よほどでない限り立たない。今回の殺陣は波打ち際。砂に足は取られる、着物や合羽は水に濡れると、かなりハードな殺陣である。チャンバラの間に地引き網に、紋次郎は絡め取られる。太兵衛一家にとっては大チャンスなのに、なぜか紋次郎を一斉に刺さない。ヒーローが刺されては、終わってしまうからだろうが、「ちょっとなあ」という感じがする。しかし、あれだけ長い距離を走り回るのには相当な体力がないと務まらないだろう。斬られ役の人も大変だったろう。因みにこの秋、鳥取砂丘を訪問したのだが、ただ歩くというだけで疲れ果て、翌日足の筋肉が痛かったという情けない有様だった。収録後はグッタリだったのではないだろうか。
最後は、剛左衛門に実の娘「お袖」の遺言を紋次郎は告げ、任務遂行となる。剛左衛門は昔捨てた娘に会いたくなって探した。「暁の追分に立つ」でも、与三郎は娘を捨てた。「流れ船は帰らず」では逆に息子の十兵衛は父親を捨てた。どれらもハッピーエンドにはならず、恨みと虚しさだけが残った。他にも親子がからむ話はたくさん出てくるのだが、どれもこれも親子の情愛を感じるものはない。本当に徹底しているといっても過言ではない。
今回の作品は、原作もテレビ版も、私にとっては何となくしっくりこない。クォリティーとしては十分なのだが、この時期に来ると微妙である。
行きずりの女の、今際の頼みを引き受ける。楊枝のせいで、いわれのない恨みをかう。騙すのは女、騙されるのは男。
形式化された中でストーリーが展開されていくようで、意外性が感じられない。いや、視聴者の方が「木枯し紋次郎」の展開に慣れてきたからかもしれない。マンネリ化まではいかないにしても、ストーリー展開がここまで来ると定着されつつあるのは確かである。
このシリーズが世に出たときは、今までの時代劇の概念と全く違う魅力があり、人々はその斬新さに飛びついた。しかし、それも回を重ねるにつれて慣れが出てくる。「多分この女は、裏切るんだろうな」「善人顔をしているけれど、黒幕だったりして……」とパターン化されたストーリーを勝手に想像してしまう。著者である笹沢氏も、そのあたりが悩みのタネだったに違いない。
意外性が意外性でなくなったとき、ここから新たな産みの苦しみが出てくるのだろう。 

 

●第26話 「獣道に涙を棄てた」
「木枯し紋次郎」のシリーズがブラウン管に登場して、2度目の正月を迎えた。1年前の元旦の夜、殆ど無名に近かった中村敦夫氏が1年後、国民的な知名度と圧倒的な人気を得て、メガホンを取るまでになるとは誰が予想しただろう。舞台演出の経験は俳優座時代にあるとはいえ、30歳過ぎの一俳優に監督を任せるのであるから、この世界では前代未聞の事であろう。市川監督のあらゆる映像手法を間近に見た中村氏は、俳優としてだけでなく、これから先の映像作りの糧となる大きなプレゼントをもらったわけである。
今回のテレビ版のテーマを、中村氏は「差別」とした。村から疎外された若い夫婦に焦点を当てるという目的で、混血のタレントを起用したのにも驚いた。当時この二人を見たときは、首をひねった。「この時代に、混血がいるのかなあ。バテレン関係かなあ。」と、眠狂四郎を連想したものだった。差別される者の象徴として、混血タレントを使ったわけで、劇中で混血という設定ではない。このあたりは、中村氏がアメリカで遊学したという経験が背景に感じられる。
アバンタイトルの出だしから紅蓮の炎。農家を二軒建て、全焼させるという、予算を考えない演出のため、市川監督演出の作品が1本飛んだという。その炎の中から、火だるまで一人、男が飛び出してくる。今でこそ安全を期してのスタントだろうが、当時はどうだったのだろうか。とにかく火を使うシーンは、経費もさることながら危険が伴うので、細心の注意が必要であるが、映像効果はバッチリである。いわゆる「つかみはOK!」である。
パッと切り替わって、採石場のような荒涼とした所にぽつんと据わる女の姿を、ロングショットからズームアップしている。アバンタイトル全体が舞台演出っぽく感じるのは、やはり俳優座出身である中村氏の片鱗か。しばらくは無言劇である。ズームアップでとらえる女の虚ろな表情と回想シーンが、インサート・ショット……このあたりは、見事に市川監督の映像テクニックを踏襲している。視力がない女という設定なので、聞こえる音が頼りである。視聴者は女の目の美しさを感じながらも、女と同化する。ザッザッと足音だけが響き、紋次郎が前を通り過ぎるその時、初めて女が口を開く。この後も二人劇が続く。舞台が殺伐とした荒れ地で、無機的なところは、叙情的な背景を重視する市川映像とは違う中村氏のこだわりが見える。アバンタイトルを観るだけで、「いつもと違うな。」と感じさせるところは、さすがである。
話の展開で大きく違うのは、紋次郎が命を狙われる理由である。紋次郎が見聞きしたものが原作とテレビ版では大きく違う。原作では、善左衛門と息子の嫁とが人目を忍んで不義をしている現場を目にする。しかしテレビ版では、善左衛門が7年前赤牛の招き火と称して、商売がたきに火を放った事を紋次郎は耳にする。とにかく露見しては大変ということで、源蔵一家に紋次郎を殺すよう依頼するところは同じ。
今回の作品には、いくつかコミカルなところも見られ、この辺は市川監督演出の「流れ舟は帰らず」と少し通じるところがある。一番はじめにフッと笑ったのは、紋次郎の動きである。お鈴を加納屋に連れて行き立ち去ろうとしたとき、金で口止めしようと、加納屋が追いかけて来るところ。路地の内側からカメラが回っているのだが、呼び止められたとたん、急に足を速めるところがスリット状に見える。呼び止められる理由が百も承知で、この後の手の打ち方も見え透いていて、紋次郎にとっては一番嫌なパターンであることがよく分かる。
その後、金をつかまそうと路地に押し込められるのだが、よく見ていると押されながら、板壁ぞいにクルリと身体を回している。いつもかっこいい動きを披露しているのに、何となく緊張感がない。太吉に追われながらのシーンは、明らかに笑いを狙っている。太吉の着物も、背中に派手な般若の顔がありおもしろい。着物の柄でのインパクトでいくと、「川留めの水は……」でのお勝のペーズリー柄といい勝負である。原作の太吉にはこんなコミカルさは当然無いし、テレビ版よりもっと酷い火傷痕が広がる醜い顔となっている。
原作では藤岡の源蔵であるが、テレビ版では「鴉の源蔵」と異名が付いている。なぜ鴉か……源蔵一家の出で立ちが黒ずくめだからである。源蔵役には「阿藤 海」(現、阿藤 快)。彼には申し訳ないが、普通でもかなりインパクトのある方なのに、今回は不気味な白塗りのメーキャップである。病的で非情な感じがあり、「鴉」から「死神」を連想する風体である。山道で太吉と歩いているとき源蔵たちに襲われる。早朝の霧の中という設定だろうが、スモークの量が激しすぎで白煙の塊がモクモク……といった感じで、もう少し神経を使って欲しかった。
紋次郎襲撃に失敗した太吉が、自暴自棄になって「どうせよそ者なんだ」「人並みに扱ってもらえねえ」「死ぬことだって怖くねぇんだ」などと、雨の中座り込んで叫ぶ。周りの町の者たちは、物珍しそうに太吉の醜い顔を見たり、ちんぴらに痛めつけられているのを嘲笑したりで、助けようともしない。ボコボコに痛めつけられ「殺せ!どうせ生きてたってしょうがないんだ。殺せ!」の騒ぎ声を聞きつけて、お鈴が太吉を見つけてすがりつく。無言で紋次郎はその二人を眺めている。「紋次郎さん、いつからそこにいなすったんで?」「紋次郎さん、いつまでこの辺りで足を止めていなさるんで?」と突っ込みを入れたくなる。
原作での太吉は、紋次郎の行方をずっと追うように源蔵から命じられている。紋次郎は言う。「あっしはこれから、武州大宮郷へ足を向けやすぜ」大宮郷は太吉夫婦の故郷であるので、自然と3人で旅することになる。口にはしないが、太吉夫婦を送り届けたいという紋次郎の優しさである。しかし、テレビ版の紋次郎はなぜ、太吉夫婦と一緒にいるのかが不明である。
今回の紋次郎は、いつになくよく関わる。加納屋にお鈴を送り届けたり、太吉に追われていながらも、一緒に野宿をして太吉の身の上話まで聞いたりする。この夫婦には何の恩義もないのだから、さっさと振り切って行けばいいのにと思う。
旅籠では紋次郎と太吉、お鈴、小間物の行商人の4人が相部屋となる。特に小間物屋が太吉たちを胡散臭そうに見やり、せわしなく木箱を片付ける音が部屋に響く。視聴者の耳は、目の見えないお鈴の耳となる。アバンタイトルの足音と同じ効果を狙っている。
お鈴はしきりに「家に帰ろうよ。野菊も咲いたんだよ。」と太吉に帰郷を勧める。「野菊?」と太吉は問い直し、お鈴やお京たちと一緒に幸せに暮らしていた過去を思い出す。もちろんこのあたりは原作にはない。因みに「野菊」は紋次郎にとっては、姉のお光を思い出す大事なアイテムである。若い三人が美しい故郷で笑いながら暮らしている様は、さながら爽やかな青春ドラマを観ているようである。
回想シーンの始まりで野菊や萱葺きの家、柿の木などが提示されるが、その中で納屋の中に吊された玉葱がある。これは、NGではないだろうか。たしか、玉葱は食用として栽培された始まりは、明治に入ってからである。従って紋次郎の時代では、農家は玉葱など栽培はおろか、見たこともないはずである。
この後大宮郷に向かう途中で、三人は鴉の源蔵一家に襲われる。稲刈りが済んだ広大な水田跡である。撮影場所は京都郊外の亀岡。この大がかりな殺陣のシーンは、シリーズの中でも屈指のものであろう。この作品の撮影初日がこのシーン撮りからだったそうだ。大クレーン車にトラックやバス、取材車などが集結したようで、中村氏著書「俳優人生」によると、さながら大名行列だったそうだ。1本のテレビ番組のシーンを撮るのにこの騒ぎである。静かな田園地帯が一変したことだろう。
「朝から晩まで走り続けるのだから、普通の俳優さんでは無理だった。やくざ群には竜谷大学のラグビー部を起用した。演技を知らない若者たちだから、逃げる私を本気で追いかけ、やたら滅多に刀をたたきつけてくる。足には自信のあった私もほうほうのていだったが、それだけリアルな演技になった。」
素人のラグビー部員を起用したことと、当時お鈴役の鰐淵さんが妊娠していたということは、ファンの間では有名なエピソードである。
鴉のアップがインサート・ショットで何度か現れ、何かが始まる予感の後、地面からわき出るかのように黒い軍団が出現する。この出方も面白い。鴉軍団は総勢約20人、これだけの衣装を揃えるのも大変だったのではないだろうか。三度笠から見えるそれぞれの並んだ顔……「地蔵峠の……」のクライマックスシーンに似ている。
自由に走り回っているようだが、緻密なフォーメーションを考えたようである。以前、「帰って来た木枯し紋次郎」の殺陣フォーメーション図を中村氏がテレビで見せていたが、一人一人の動きが複雑な矢印で示されてあり、驚いた。モール状態で押し合っている中、スルリと脱けて敵を欺き走り去るところは痛快である。
例えが的確ではないが、このダイナミックでちょっとコミカルな追いかけっこは、まるで「ルパン3世」。ルパンと銭形警部や部下たちの追いつ追われつのアニメ劇を連想した。もちろんコメディーではないが、このシーンはこの回の一番の見所である。
みんな同じような出で立ちなので、どれが紋次郎かわからないという課題を克服するために、敵は全員黒い衣装と三度笠。これなら、いくら黒ずんだ紋次郎の三度笠であろうと、見分けはつく。名作だが見分けがつかないといえば「地蔵峠の……」の殺陣シーンであろう。雨の中、スローモーションでの映像は傑作ではあるが薄暗く、どれが紋次郎か分かりにくい。もっとも、ハイビジョン化された映像だと区別は付くのだろうが、その反省から(勝手な想像)敵を黒にした。黒から連想するものといえば、「鴉」……ということで「鴉の源蔵」という呼び名を付けた。演繹法か帰納法か分からないが、私はこの色彩のこだわり演出も、中村氏のアイディアだと思う。
なぜか太吉の家まで紋次郎はついていき、納屋で泊まることになる。この後の鰐淵女史の演技は、圧巻である。鬼気迫るものを感じる。白装束のような夜着にざんばらの髪、長ドスを片手に納屋に入ってくる様は、まさに包丁を持った山姥のようである。長ドスを振り回したり、大声で叫んだり、テレビ版のお鈴は原作と違い凄まじい。
原作では、お鈴は長ドスを持って忍び込んだところで紋次郎に声を掛けられ、詫びながら号泣する。紋次郎を襲おうとした経緯や、自らの手で目を潰した訳を泣きながらも語る。
「みずから失明させたというお鈴の目の下で、大粒の涙がキラッと光った。それは、星の輝きを映した夜露のように、美しかった。紋次郎はそのお鈴の涙を目で捉えていた。」
紋次郎の目には、美しい涙に見えたのである。こんな表現は、原作の中でも珍しい。いつも男と女の関係はドロドロしたもので、純愛など存在するはずはない、というスタンスでのストーリーばかりであった。笹沢氏の男女の見方は、不信で始まり不信で終わるとばかり思っていたのに、この展開は意外である。きっと女は裏切る、と見透かす習慣をつけていた紋次郎フリークにとっては、逆にこの展開は新鮮である。しかし一途に太吉を信じ、健気に太吉を愛していたお鈴の姿を目の当たりにした太吉は、どんでん返しを口にする。そして太吉は自分の罪を明かし、納屋に火をつけ舌をかみ切って自害する。お鈴の純愛に応えてやれなかった自戒の念を込めて……。そしてお鈴も続いて、長ドスで喉を突いて自害する。「お前さん、死ぬときも一緒だよ」の言葉……最期まで健気である。二人の死骸は手を触れ合っていなかったが、紋次郎は楊枝を飛ばし、お鈴の袂と太吉の袖とを重ねて縫いつけてやる。泣ける。
原作では最後に紋次郎は重要なセリフを口にしている。「命を大切にして藤岡に戻った者がいたら、加納屋善左衛門にこう伝えて頂きやしょう。世の中には、心で睦み合う男と女もいるもんだってね。藤岡へ戻りたくねえ者は、死んでもらいますぜ。今朝の紋次郎は、容赦することを知らねえんでござんすよ」
「心で睦み合う男と女もいる」と、源蔵一家に紋次郎は言っているがその実、自分に言いきかせているのだ。紋次郎は、太吉とお鈴のような夫婦はこの世の中に存在するはずはないと思っていたが、いたのだ。しかし二人とも死んだ。
原作のテーマは、「肉欲と無償の愛との対比」であるのだ。かたや息子の嫁と不倫をし金で口止めできないと見るやすぐさま、ヤクザに頼んで闇に葬ろうとする加納屋善左衛門。肉欲と保身に走り、何でも金で処理しようとする。明らかに自分を筆頭に、人は金で動くものだと思い込んでいる。
一方、醜い顔になった夫の気持ちを、少しでも楽にさせようと自ら失明させたお鈴。その真意を知り、自分の過ちに死をもって報いようとする太吉。この対比を狙った原作を敢えて変え、よそ者への差別、キャスティングの妙、ダイナミックな殺陣のほうに中村氏はシフトしたのである。私としてはこの対比は重要なテーマだと思うので、原作の路線でも良かったのにと思う。
テレビ版では鰐淵女史の迫真の演技。太吉の裏切りを聞き、逆上したお鈴は太吉を刺し殺す。そして、「これは太吉ではない」と叫び、哀しみと悔しさに満ちた演技が始まる。このあたりは舞台演出に近い。カメラは長回し、スポットはお鈴一人、アングラ劇の雰囲気もある。
太吉との絆を信じていたのに、裏切られた思いの強さをテレビ版は訴えている。お鈴を裏切った情けない自分を、「腐り芋」「地獄に堕ちればいいんだ」と罵り、舌を噛み切った原作の太吉とは違い、テレビ版の太吉はお鈴にあっさり殺されるのが情けない。その後お鈴は納屋に火を付け、手首を切り後追い自殺をする。
「今の私にはたった一つだけ見えるんですよ、赤い牛が」「私が待っていたのはお前さんなんだろうか、それとも赤い牛だったんだろうか」テレビ版のお鈴のセリフであるが、何を言わんとしていたのか。赤い牛は、お鈴にとって何だったのか。赤い牛が来てまた火事が起こると、太吉への疑いが晴れる。それは村人が抱いた太吉への疑いではなく、実はお鈴が抱いた太吉への疑いであったのではないか。お鈴はうすうす、太吉と妹のことに感づいていたのではないだろうか。原作ではつい出来心で、太吉はお鈴の妹を襲おうとする。しかし、テレビ版は明らかに不倫が継続している。「目が見えていても、何にも見えてないことがあるんですね」このセリフはそのことを表していると、私は思う。そして目まで潰したことは、一抹の疑念を消し去ろうとする覚悟の表れだったのではないだろうか。
原作にはない上記のセリフを入れることで、より複雑なお鈴の心情が想像できる。村人たちに、赤い牛の存在を認めさせるのが第一義ではなく、太吉への確固たる信頼が自分には欲しかったのだ。
紋次郎は倒れたお鈴に言い聞かす。「赤い牛はいる。お鈴さん、赤い牛はいるんでござんすよ」
テレビ版はこの場面では楊枝を飛ばさず、紅蓮の炎をバックに敵との殺陣になる。炎をバックにというと市川氏演出の「流れ舟は帰らず」が有名である。赤い布をまとって炎の中から現れる紋次郎のBGMは、フラメンコギター。牛・赤い布・フラメンコ……まさに連想ゲーム。ラストの殺陣シーンは、バックに小屋を炎上させるという大がかりな割には、時間的に短くあっさり終わっている。前半部の山場のため、時間的に無理があったのかもしれない。原作では、火事の半鐘が響き人の声が近づく中、赤い布を巻き付け紋次郎は走る。村人達に赤い牛が来たことを知らしめるため。必然的に山に逃げ込み、獣道をたどるのである。
テレビ版では村人は来ないのだが、何故か紋次郎は山に入り獣道を行く。「赤い牛はいる」と、お鈴の死に際に言ったのであれば、村人達に見せてアピールして欲しかったのだが……。ラストは赤い布を投げ上げ、楊枝を飛ばして幹に留め付ける。原作では太吉とお鈴の純愛の象徴として楊枝を飛ばし二人を結びつけたが、テレビ版では赤い牛である赤い布に楊枝を飛ばした。その瞬間、木々の間から鹿が飛び出し獣道という提示がなされる。しかし、「涙」には触れられていない。その点原作は余韻がある。
「獣道を走りながら、木枯し紋次郎はお鈴の頬に光った涙を思い浮かべていた。」
テレビ版だけを観ていると、どうしても説明不足のため、タイトルの意味がわからないときがある。そのあたりは、映像と小説との大きな相違点かもしれない。できたらこの辺にインサート・ショットで、お鈴の涙を映像化してほしかった。
しかしテレビ版でのエンディング映像は、なかなか風情があってよかった。樹木の太い幹で斜めに画面がカットされていたり、獣道の奥深く歩いて行く紋次郎の姿が、次第に霧の中に消えていったり……。しみじみとした自然の映像美があまり見られなかった今回だが、いつもの紋次郎作品らしい風情あるエンディングを踏襲していたと思う。 

 

●第27話 「錦絵は十五夜に泣いた」
紋次郎を助けようとして命を落とす女……湯女の「お久」(湯煙に月は砕けた)に並んで今回の女は「お糸」。お久は湯女ということで、ズブの素人ではないが、お糸は歴とした素人娘である。その点でも注目すべき作品の一つであろう。
展開は原作とテレビ版はほとんど同じであるが、テレビ版では小悪党、女衒の多之吉(穂積隆信)が登場する。アバンタイトルはポージングするお糸の姿から始まる。しどけない姿で様々なアングル、ライティングで撮影されている。初めから扇情的な映像というのも珍しい。放映が1月13日、撮影時はライバル番組、「必殺仕掛人」が先行して放映を始めている。少なからずスタッフ陣も脅威を感じていたのかもしれない。この収録時点で、紋次郎の放映は始まっていたのだろうか。この後、視聴率の競い合いは熾烈となる。
何故か多之吉がお糸の絵を持って、「この女を知らないか」と道行く者に訊いている。紋次郎にも訊いてくるが、いつもながら取りあわずに先を急ぐ。美人画にはホクロがあり、金が絡む企みがありそうなことが提示される。
お糸役に「光川環世」。彼女は第1シーズン「背を陽に向けた房州路」でも出演している。清楚な感じのする女優さんで、素人娘にはピッタリである。素人というと、今度はその逆……玄人筋の女は「お紺」。演じているのは「小山明子」、大島渚監督の夫人である。原作では25〜26歳くらいの粋な感じのする中年増とあるが、実際の小山女史は10歳は年上である。しかし「やい、紋次郎!」と言えるくらいの女となると、小山女史くらいの貫禄がないといけないか。伝法肌の姐御役を好演していて、役作りが上手い。
お糸が悪漢に追われ、助けを求めようと紋次郎の合羽に縋りつくシーン。紋次郎の貫禄に怖じ気づいて、三人がすごすごと逃げていくところは気持ちがいい。すがりついている合羽には、鉤裂きを直した痕が見られ、リアリティーさを感じる。
いつもは道連れをつくらない紋次郎だが、今回は二人の女連れである。しかも一人は素人娘であるので、およそ紋次郎には似つかわしくない。紋次郎が歩く後ろを二人の女が小走り状態でついて行く。紋次郎は女の足に合わせようという気はないようである。「女人講の……」では子連れの女「お筆」と連れだって歩くとき、随分ゆっくり歩いていた紋次郎だが、今回は違う。あまり関わりたくはないのであろう。
原作では十三夜の月明かりの下、三人は夜旅を続け渋峠を越える。その風景を叙情的に表現されているが、テレビ版にはそれがない。それどころか月の片鱗も見えない。話を先に進めるが、原作の十五夜はクライマックスにも出てこない。タイトルが十五夜なのになぜ、月影一つ映像化されないのか、と不思議に思う。
紋次郎とお糸が祠で語り合うシーンは、しっとりとした雰囲気でいい感じなのだが、どう見ても月夜には見えない。お糸のセリフで一番ステキなのは「旅人さんって男っぽい。何でも、できるんでしょうね」である。男っぽい……今となっては死語に近い言葉かもしれない。事実私自身、どう逆立ちしても「女っぽい」類ではない。紋次郎は男っぽい。男の色気と哀愁が漂う。原作でも全く同じセリフであるが、テレビ版だと女性ファンの代弁だと錯覚してしまいそうである。
「何でも、できる」とはどうことなのか。お糸は何でもできると言ったが、無宿の渡世人には実際、何もできない。博奕を打って旅を続け、降りかかった火の粉を振り払うように人を斬る事しかできない。一所に落ち着くこともできず、人を信じることもできない、明日という日の保証もない、人別帳にものらない……。お糸の認識不足は甚だしく、紋次郎は、お糸が発した言葉に反論する気もないので、会話は成立しない。堅気の素人娘と紋次郎とは、どこまで行っても絶対に理解し合えないし平行線のままである。
テレビ版ではその言葉を紋次郎が聞いていたかはわからないが、原作では既に寝息を立てていたので、このお糸の告白にも似た言葉を全く聞いていない。お紺が紋次郎に、お糸は紋次郎に惚れているようだと進言するが、全く取りあわない。それどころか、「自分を利用しようとしている」とまで口にする。平行線どころか次元が違うし住む世界が違う。無理もない。今までどれだけ堅気の者に裏切られてきたことか。
お糸を描いた絵を目にして、テレビ版の紋次郎は、多之吉が持っていた絵のことを思い出した。興味がなさそうに振る舞っているが、紋次郎の記憶力と観察眼の鋭さには恐れ入る。
三人は二泊目を野宿する。原作ではお紺が饅頭を取り出し「お月見をしようじゃないか」と言うほど、月夜が美しい情景が描かれている。ススキ、白い満月、月光を浴びたお糸の姿……。返す返すも放映日が1月というのが何とも惜しい。原作では今の暦で9月、中秋である。1月に外で月見はないだろうし、暖を取る方が正解であろう。
お紺がお糸の不運を嘆き、紋次郎に同意を求めたそうなのに、紋次郎が発する言葉は「もっと不運で、辛え思いをしている者がおりやすよ」である。その通りである。お糸が期待を込めて「私をどこか遠くへ……」と訊いても、「甘ったれちゃあいけやせん。ひとりぼっちは、誰もがお互いさまですぜ」これもその通りである。紋次郎の生き様を鑑みると、当然のセリフである。が、見方によっては冷たすぎる。自分の生き様に徹しているのはわかるが、堅気の世間知らずな娘に、自分のポリシーを言って聞かせるのは酷な話である。
しかし百歩譲って、もし紋次郎がお糸を異境の地に連れ出したとしても、お糸にどんな生き方があるだろうか?野良犬のように、疎まれる渡世人に連れてこられた身元の分からない娘……食べていくとしたら、それこそ女衒に売り飛ばされるしかないだろう。紋次郎について行っても、明るい未来はない。それに「泣きぼくろがあるから幸せになれない」などと呪文に縛られているような生き方では、不幸にとりつかれるに違いない。紋次郎はロマンチストではない。冷静に考え、行く末を見ている。だから軽々しく関わろうとはしないし、手を差し伸べようともしない。これが紋次郎自身の不始末で、堅気の娘が不幸な目に遭ってしまったのなら、話は別かもしれない。きっと命を張ってでも片をつけるであろう。
「木枯しの音に消えた」のお志乃でさえ、紋次郎は飯盛女の境遇から救おうとは思ってもいない。
「救い出しようがないのである。遠くから眺める。それで何事もなくすむ。それが、常に紋次郎の望むところだったのである。」
ましては行きずりの、何の恩義も縁もない娘である。所詮紋次郎には何もできないのである。理詰めで考えるとそうなのだが……。
お糸と若旦那が出会う。若旦那の後ろ盾の善九郎の身内は、「女に手を出した」と問答無用で紋次郎に襲いかかる。やはりそうなるのだ。渡世人は端から申し開きなどできないし、紋次郎は話す気もない。降りかかる火の粉を払ったはずが、身内の一人が転げた拍子に自分のドスで死んでしまう。紋次郎とお紺は、お糸を残し無言で立ち去る。紋次郎が無言なのはわかるが、あんなに世話を焼いていたお紺まで、なぜ無言なのか。「お糸さん、達者で暮らしなさいよ」ぐらいの声はかけてほしかったが、そそくさと紋次郎の後を追っていく。
煮売屋でお紺と紋次郎は会話する。渋川への足が鈍くなったお紺は「いっそ紋次郎さんと旅でも続けようか」と冗談ごかしで言うが、実のところは半分本気なのだ。「旅なんてものはどこにも落ち着くことを許されねえ人間のするこってござんすよ」と紋次郎。「みんな自由になりたいのさ、みんなね。お糸さんだって……」とお紺は沈黙する。お紺の真剣な横顔と、紋次郎の三度笠から見える口許とが交互に映し出され、お互い沈黙が続く。どこにも定住できない渡世人と、一所から離れられない女主人……立場は全く逆ではあるが、共通するところはどちらもあきらめがあり、虚しさがあるというところか。
煮売屋を二人は出て別れることになるのだが、お紺は「見送るよ」と名残惜しそうである。原作では、別れは月夜の下であるがテレビ版では昼間である。ここでもテレビ版は月夜をはずしている。月夜という設定での撮影は照明技術上無理だったのか。クライマックスぐらいは月を登場させてほしかった。
お糸が危険を知らせに来たのに、紋次郎はまだその純情をくみ取ろうとはしない。倒れ込んだお糸の背中にドスが刺さっているのを目にしたとき、初めて紋次郎は自分の間違いに気づく。ドスを抜きそっと身体を抱き起こす紋次郎に、お糸は「いいんです……私にはこの泣きぼくろがあるんだし……でもこれでやっと遠いところへ行けます」と呟いて事切れる。抱き起こしてお糸の顔を見つめていた紋次郎は無言であるが、その目と口許に感情が表されている。そして三度笠の陰から見える楊枝は歯でかんでいるのか、発する言葉の代わり微かに動く。原作では、お糸の目の中に満月があり、眠るように閉じた瞬間、そこにあった十五夜の月も消える。タイトルの意味がここでわかるのだが、テレビ版では抜けるような昼間の青空である。これでは「なんで、十五夜?」である。
自分の尺度で人を推し量り、お糸を疑った自分への怒りが、追ってきた善九郎の子分たちに向けられる。優しくお糸の亡骸を横たえてから敵の気配を感じ立ち上がり、道中合羽の前を怒りに満ちた動作で開く。重そうな錆朱色の長ドスの鍔に手をかけ鯉口を切る。合羽の空気を裂く音、長ドスを構える音、耳から入る世界も私は大好きでゾクゾクする。
紋次郎は怒っている。お糸の純情を疑った自分に、そして死に追いやった一家の者に。紋次郎が構えた長ドスが光り、怒りに満ちた顔を照らす。戦意をなくして逃げる者にも容赦はしない。刀を取り落とし、丸腰になった者も長ドスで斬る。いつもの殺生は好まない紋次郎ではないのだ。そして、一家の者を全員、息の音を止めた後の紋次郎の表情は、虚しさと哀しさに満ちている。
多之吉は企みを全部ばらして逃げていく。あの女衒は生き延びるのだ。できれば斬り捨てて欲しかったのだが……。お糸の亡骸に駆け寄る大黒屋の目の前に、長ドスが刺さり「手を触れてもらいたくねえんで」と紋次郎。このセリフは原作にはない。清い心のままで死んだお糸に、指一本でも触れてほしくないという、紋次郎のせめてもの抗議である。
堅気の大黒屋に長ドスは向けられないのだ。こうして、一番のワルも生き延びるのである。紋次郎のかわりにお紺が雄弁にまくし立て、溜飲が下がる思いである。お紺が、紋次郎にお糸をつれだしてほしいと頼んだ事情を説明する。なぜお紺はもっと早く、このことを紋次郎に明かさなかったのか。そんなことならお紺が引き取って、店の水仕女にでも置いてやれば良かったのに……、と矛盾を感じる。お糸の紋次郎への恋心を優先させたかったのか。
もしかしたらお紺は、お糸に自分を重ね、無理かも知れないが一縷の望みを託したのではないか。心を寄せる紋次郎に連れ出されるお糸を自分に見立て、希望を持ちたかったのではないか。お糸とは全く正反対の、気丈な女主人のお紺。しかし、自由のない一人の女ということには変わりがなかったのだ。
お糸の絵に紋次郎は楊枝を飛ばして、泣きぼくろを消し去る。紋次郎ができるせめてもの償いか、それとも懺悔か。明日のない無宿の渡世人には、いくら男っぽく腕が立っても、生身の女を幸せにすることはできないのである。
話は変わるが主題歌「誰かが風の中で」での歌詞、「誰か」とは一体誰を指すのか、という議論は今までもファンの中ではよくされてきた。どなたの説も頷けるところがあり、私自身は各々が抱いたイメージが正解だと思っている。
私は「お糸なら、もしかしたら『風の中で』紋次郎を待ち続けるのではないか」と思う。紋次郎の素性も、渡世の風評も何も知らない世間知らずな娘だからこそ、一途に惚れてしまう。お紺が口にしたことは当たっている。
あり得ないことだが、もし紋次郎が「娘さん、必ずあっしが迎えにめえりやすから、ここで待っていておくんなさいよ」などとお糸に言ったとしたら、きっとお糸はその言葉を信じて何年も待ち続けるだろう。あんなに冷たくあしらわれた紋次郎なのに、命をかけて助けようと走り寄ってくるお糸なのだから。「風の中で待っているのは、お糸さんのような女性だったかもしれないのに……紋次郎さん、酷なことをしなすったね」という気持ちになる。
最後にお紺は胸の内を明かす。「お糸さん、あたしもしくじっちまったよ。道中の間、あたしも紋次郎さんにくっついてどっか遠くへ行っちまうきっかけを、ずっとさがしてたんだけどねえ。所詮女は、一つ場所を動けないものなのかねえ」
女性ファンの代弁である。紋次郎のあとなら、危険や苦労があってもついて行きたい。「私だってついて行きたいわよ」と、テレビの前の女性ファンの声が聞こえそうである。実は私もついて行きたい。
二人の女を残し、紋次郎はまた流れていく。自由という名ばかりの、不自由さと虚しさを背負って……。 
錦絵は十五夜に泣いた
「旅なんてものは、どこにも落ち着くことを許されねえ人間のすることでござんすよ」
長野と群馬の境の渋峠で道連れになったお糸(光川環世)、お紺(小山明子)。お糸は、奉公先から逃げてきた女、お紺は女郎を引き取りにゆく女。その女ふたりが、紋次郎の当てのない旅に憧れます。しかし、紋次郎は、こう云い放ちます。
現代では、レジャー、ビジネスといった所用の旅が殆どですが、当時は一部のひとのお伊勢参りという程度ですから、渡世人の旅はそんなものだったのでしょう。とくに家や土地に縛られる女にとっては、旅に"自由"を求める願望を重ね合わせていたかもしれません。
人間、ふとどこか遠くへ行ってしまいたい気持ちになることもあるでしょう。しかし、そんな現実逃避では、ことは解決しません。真っ向から現実に立ち向かってこそ解決の糸口も見出せるものです。よく云うではありませんか、当たって砕けろ。
本作は、テレビ草創期の連続ドラマ「若者たち」を演出した森川時久の作品です。当時の女の生き方を全編を通して訴えており、名シーン、名セリフの連続です。
渋川の奉公先である大黒屋の知恵遅れの若旦那に錦絵のモデルとして拘束されているお糸に遠くへ連れて行ってほしいと懇願されると、紋次郎は云います。
お糸「紋次郎さん、本当にそんな気持ちを少しでも持っていてくれるんですか、あたしをどこか遠くへ・・・」
紋次郎「甘ったれちゃいけませんぜ、ひとりぼっちは誰もがお互いさまですぜ」
また、野宿したお堂で、お糸は自分の泣きぼくろについて心情を吐露します。
「おっかさんによく云われました。おまえは生涯幸せになれないかもしれないねって。たとえ幸せになりかけても、その後で泣かなければならないんですって。この泣きぼくろのせいだっていうから仕方ありませんね」
この泣きぼくろのエピソードを受けて、ラストシーンでは、若旦那が描いたお糸の錦絵の泣きぼくろを紋次郎は吹いた楊枝で穴を空けることで消します。そして、その若旦那に刺されて死んだお糸を前にお紺がつぶやきます。
「お糸さん、あたしもしくじっちまったよ。道中の間、あたしも紋次郎さんにくっついて、どっか遠くへいっちまうきっかけをずっと探していたんだけどね・・・。所詮女はひとつ場所を動けないもんなのかね」 

 

●第28話 「飛んで火に入る相州路」
原作は「木枯し紋次郎」シリーズではなく、「地獄を嗤う日光路」に収録されている第3話である。主人公は小仏の新三郎、心臓に持病を持つ渡世人である。新三郎のこのシリーズもこれで最後となる。新三郎は恩ある女「お染」に、借りを返す事だけを生き甲斐に旅を続けている。「背を陽に向けた房州路」「月夜に吼えた遠州路」「地獄を嗤う日光路」は既に放映されている。「背を陽に……」では窮地を救ってくれた酌女「お染」の代わりとなる「みゆき」のため、借りを返すべく身を危険にさらした。「月夜に……」では原作はかなり変えられていた。「地獄を……」では「お染」に代わる女は想定せず、展開した。今回は原作のお染を、姉「お光」に置き換えての放映となった。お光を想定する展開としては「川留めの……」でのお勝以来である。
姉のお光を彷彿とさせるのは、初回以来である。そのためアバンタイトルで、瞽女に紋次郎の姉が好きだった唄を唄わせている。瞽女が街道を疾走する馬に乗った武士に突き飛ばされ、落とした三味線を紋次郎が手渡す。「あっしの姉が好きな唄でござんすよ」幼かった紋次郎が、この唄を覚えていたというのはすごい記憶力である。瞽女の唄う声はなんとも寂しく、郷愁を誘う。
街道筋で宿人足に絡まれている旅商人と出会う。旅商人は「下元 勉」氏。「龍胆は……」での出演もあり、今回で2回目である。柔和な感じのベテラン俳優さんである。
「余計なことを申しやすが、お素人衆はあっしみてえな渡世人には関わりを持たねえほうがよろしゅうござんすよ」このセリフは実にかっこいいが、原作とほとんど同じである。テレビ版ではこの後楊枝を飛ばして、人足の襟と息杖を貫き留める。「てめえは、木枯し紋次郎!」と人足が驚き、素性が明かされる。原作の新三郎は当然楊枝ではなく、銀の平打ちの簪で人足の顔を刺す。
その後旅商人、久兵衛と紋次郎は相部屋となる。紋次郎が旅籠に泊まることは珍しいが、久兵衛が無理矢理、さっきの礼だということで宿をとる。お決まりのように、酒の勧めを断るのだが、この断り方がまたすばらしい。「お心遣いだけ、いただいておきやす」このセリフはいろんな場面で使える。覚えておきたい。この時の紋次郎はいつもの「紋次郎喰い」ではなく、きちんとした作法で食べている。とは言え、食欲旺盛な食べっぷりである。
久兵衛が話す見晴らし茶屋に立てこもる鬼面党については、原作とほとんど同じ。人質になった茶屋のおかみに自分は恩があるから、何とか助け出して欲しいと五十両もの大金を紋次郎の目の前に用意するが、これは原作にはない。原作はただ、うわさ話を聞かせるだけで、人質のおかみの名前が「お染」と聞いて、新三郎は助けに行こうとする。
紋次郎は「一度だけの介抱に五十両とは……」といぶかしげで、話には乗ろうとしない。しかし、久兵衛の口から「お光」という名前が出て、初めて反応する。そして自分の姉の名前もお光だったが、とうの昔にこの世を去ったという事を、呟くように久兵衛に明かす。紋次郎はそんなことまで、見ず知らずの男に明かすだろうか……私にとっては疑問である。しかし原作を紋次郎の世界に合わせようとすると、このセリフがないと展開がない。「あっしには関わりのねえこってござんす」とは口にしているが、紋次郎の表情には哀愁があり、明らかに姉のお光のことを思い出している。
夜の宿場で紋次郎は、人質になっているお光の噂を耳にし、またあの瞽女の唄を聴く。賭場にいてもお光のことを思い出している。回想シーンではシルエットで、お光が男に引っ張られながら「紋次郎、紋次郎」と呼んでいる。足もとには白い野菊。お光は嫁に行ったという設定のはずだったが、あのシーンはどう見ても、女衒に連れられて身売りされるといった感じである。
原作の新三郎は、この世に存在している「お染」を捜し、恩を返すことに生き甲斐を見いだしているので、こういう伏線は必要ない。しかし紋次郎の姉のお光は、この世には存在していない。亡くなっているお光と同じ名前というだけで、何とか紋次郎を突き動かさないといけない。「川留めの……」のお勝は、容貌がお光にそっくりというインパクトがあるので、結構すんなりといったが……。このあたりは脚本家も色々考えて手を打ったといったところか。
賭場から帰ってきた紋次郎は部屋の前で倒れている女を助け起こす。お浅役に「吉田日出子」。「流れ舟は帰らず」の素っ頓狂な役ではないものの、なぜこのキャスト? 原作では「二十五、六だろうか。地味な感じはするが、色白の美人であった。切れ長の目と、ふっくらとした唇に色気がある。」と書かれているが、ちょっと違うと思うのだが……。何を狙ってのキャスティングだったのか。
二人は渡し舟に乗る。「流れ舟は……」では紋次郎が舟を操ったが、今回は客である。原作のお浅は恥じらうように顔を伏せて新三郎と言葉を交わし、楚々とした感じがするのだが、吉田のお浅はその逆。伝法肌で、どう見てもひと癖ありそうな雰囲気である。探るように紋次郎に興味を持つので、「鬼面党と関係あり」とばらしているようなものである。
原作の新三郎は、ケガをしてか弱く女っぽいお浅に「お染」を重ね合わせ、頼まれてもいないのにお浅に背中を貸す。お浅は遠慮深く断るが、結局心臓発作を起こしてまでも新三郎は背負って行く。「蓑毛へ行かれても、無茶なことはなさらないで下さいよ」「見晴らし茶屋に近づいたりしないで下さい。それじゃあ、まるで死ぬために出向いて行くようなものですからねえ」と、とにかく優しい声をかける。不安そうなお浅に新三郎は暗い眼差しで答える。「飛んで火に入る夏の虫、ですかい。あっしたちの死に様なんて、所詮はそんなものでござんすよ」ここでタイトル提示となる。このあたりの原作のしっとりとした展開は、結末のどんでん返しを思うと切ない。
しかしテレビ版は違う。「待っておくれな!」と、大声で後ろから追いかけてくるお浅に、紋次郎は辟易している。「いたあい!」と過剰に痛みを訴えるし、終いには「やい!紋次郎!」である。このセリフは前作「錦絵は……」のお紺姐さんと全く同じ。紋次郎は、姐御肌の女の「やい!紋次郎!」には、からっきし弱い。
紋次郎の背中でお浅は身の上話をし、儲け話があるなら聞かせてくれと頼む。俄然怪しい。「なんでその見も知らない女のことが気になるのさ」の問いに、亡くなった姉の名がお光であること、間引かれそうになったのを姉が救ってくれたこと、その上お浅が差し出す野菊を手にし、「あっしの姉も野菊が好きでござんした」とまで口にする。身の上話をいつもは聞く側だった紋次郎が、今回はあちこちに喋っていることに違和感を覚える。背に負われているお浅の心が紋次郎に傾きつつあることは、言葉遣いや態度でわかる。紋次郎の姉への思慕や、名前が同じというだけで女を助けに命を張るという愚直な姿に、「唐変木」と言いながらも心が動きかけている。
テレビ版のお浅も、見晴らし茶屋に行ってもがっかりするだけかもしれない、鬼面党に殺されるから行くな、と勧めている。原作では、心臓発作で倒れた新三郎の胸に菜の花を置いてお浅は姿を消しているが、テレビ版では白い野菊。「峠に哭いた……」でも紋次郎は野菊を手渡されている。野菊を見つめ、お光のことを思い出す紋次郎の表情は、いつになく甘く優しい。
紋次郎は見晴らし茶屋に忍び込むため崖に近づくが、鬼面党の市助から銃で狙われる。危ういところなのに懐から野菊の花を取り出し、香りを確かめる。この余裕はどこからくるのだろう。今回の紋次郎は、まるで姉のお光に本当に会いに行くような雰囲気である。市助と言葉を交わしているのは浪人の村上一角。演ずるは、「内田勝正」氏……今回で3度目である。「龍胆は……」では喜連川の八蔵、「流れ舟は……」では鬼の十兵衛、そして今回となる。その一角の口から「飛んで火に入る夏の虫か……」と近づく紋次郎をせせら笑う。
空井戸から顔を出すお浅。やはり一味だったのだ……どんでん返しの意外性がここで一気になくなった。最後まで伏せておいてほしかった。夜桜の金蔵を殺した経緯も全部わかり、何のことはない、あの空井戸から一味は出たり入ったりしているのだ。(大関の友治郎は別だが)それじゃあ、あんな所に立てこもってないで空井戸から逃げて、金蔵をしめあげてお宝の隠し場所を吐かせたら良かったのに……。
お浅のセリフの中で気になったことは、お頭のことを「金蔵」と呼んだり「久兵衛」と呼んだりで統一性がなかったことだ。脚本のせい?監督のせい?緻密さにほころびが見える。テレビ版では、訴人して一味を壊滅させて、お浅だけは助けるという金蔵の算段。そのために紋次郎に五十両もの大金を差し出そうするぐらいなら、金が欲しいと言っていたお浅に事の次第を全部話し、端から協力させれば良かったに……。といろいろ首をひねる点が出てくる。
原作では金蔵がお浅の他に新しい女をつくり、自分可愛さに仲間を裏切った。それに立腹したお浅が、女の所に帰ろうとする金蔵を殺し、三千両の隠し場所の図面を盗むという展開の違いがある。それにテレビ版とは違い、金蔵を殺すのはお浅ひとりである。
空井戸に繋がる洞窟で紋次郎は一人目の敵、影法師の宗吉と遭遇する。演じるのは「石橋蓮司」氏。独特の雰囲気のある俳優で、存在感があるのだが、道中合羽で手裏剣をかわされ呆気なくやられてしまう。もう少し見たかった。井戸から出てきて中の様子を窺うと一角と絡む女の姿。顔が見えて、お浅とわかる。しかし紋次郎は、予想していたのかあまり驚かない。この後、仲間割れが始まる展開は原作と違う。
なぜ仲間割れをさせたのか?せっかく鬼面党はいろんな特徴のある輩を集めたのに、できたら一人一人と紋次郎は戦って欲しかった。手裏剣、大力、鉄砲、刀……趣向を凝らした殺法を見てみたかった。ということで、随分昔に観たブルース・リーの「死亡遊戯」の映画をふと思い出した。一人ずつ強敵を倒して、塔を登っていくというアクション映画だった。結局今回は紋次郎に斬られたのは、たったの二人ということになる。原作ではお染の亭主とされていた市助が出現し、最後にお染はお浅だったと明かされ、たたみかけるようなどんでん返しがある。しかしテレビ版では、お浅がお光ということはうすうす分かってしまっている。結構凝った展開の原作だったが、紋次郎のドラマに転換させる方に力がかかりすぎて、詳細なところでちぐはぐさが目立つ。
最後は紋次郎と一角との戦いになるが、なかなか一角は強敵。殺陣の途中で、一角の刀がしなるところはつっこみどころかもしれないが、撮り直しはなかったのか。今回は大勢を相手にした殺陣はなく、この一騎打ちが唯一の見せ場である。緊迫感を持って見ていたいのだが、BGMはギターのみのまったり演奏。BGM必要か?パーカッション系の方が良かったのでは……と思ったりする。
今回の作品は、規模が大きかった。大勢の藩兵のエキストラ、屋外のセット、ロケ地を捜すのもむずかしかったはずだ。だからというわけではないが、細部の緻密さが欠けていたように感じる。原作のお浅は新三郎を庇うことはせず、よろけた仲間の長ドスに刺されて命を落とす。あんなにズタズタに裏切られたのに、新三郎はお浅に菜の花を手向ける。テレビ版でのお浅は紋次郎を庇い、一角の長ドスで殺される。やはり女は命を落とす。しかし原作よりはお浅に感情移入させている。虫の息となったお浅を紋次郎は背負う。背負ってどこに連れて行こうとしたのだろう。
「あっしに昨日という日があるんなら、それは姉のお光のことだけでござんすよ」お光という名前に動かされ、逢えっこない人に逢えるかもしれないと思った紋次郎。しばしの間姉を思い、感慨に身を委ねたかったのか。「私だって、野菊の花が好きなんだよ」「きれいだね、蛍の灯みたいだよ」紋次郎の背中で、お光と名乗ったお浅が静かに息を引き取る。紋次郎の表情に哀しみが宿る。紋次郎の背中で息を引き取る女としては、お妙以来二人目となる。姉が好きだった唄が流れ、紋次郎はお浅の死顔に「お光さん」と呼びかける。「お浅さん」ではなく「お光さん」である。紋次郎にとっては、お光でいて欲しかったのだ。脚本家さんは「ねえさん」と呼ばせずに良かったと思う。結局、お光を救うことができなかった虚しさに、紋次郎は白い野菊を髪に楊枝で留めてやる。救えたのは人質に取られていた重鎮だけ……そして三千両。体制側だけが喜ぶ結果となり、武士や藩兵の無能ぶりは紋次郎と対照的で不甲斐ない。
何事もなかったかのように、また振り返る昨日もなく、紋次郎の孤独な旅は続く。 

 

●第29話 「駈入寺に道は果てた」
前回では、紋次郎の姉「お光」と同じ名前の女が出てきた。今回は紋次郎と同じ名前の男が出てくる。内容は全く違うのだが、この放映の順番でよかったのか?と素朴な疑問。
テレビ版の出だしは紋次郎が草鞋を履くアップ。履き方の手順がわかる貴重な映像だが、実際草鞋を履くのは難しいようだ。(私は実際に履いたことがないが)履き方の説明をサイトで見たことがあるのだが、現代人においては特に難しく見えた。しかしその一連が、実にスムーズに手慣れた様子で映し出されている。紋次郎のしなやかな指は実に美しく、とても雨風に晒された指には見えない。
煮売屋の主に源兵衛の賭場を勧められるのだが、原作では道すがらの老百姓に声を掛けられている。この後同じ名前の住吉屋の紋次郎殺害に関してこの老百姓が「楊枝の渡世人が住吉屋の旦那を見殺しにした」と騒ぎ立てることで、紋次郎はこの一件に関わざるを得なくなる。テレビ版では、紋次郎が頼みを断るとき誰もその場にいない。だのに源兵衛の子分、巳之吉は、紋次郎が頼みを断ったことを詳しく知っている。聡明な紋次郎と視聴者は、この時点で、この一家が住吉屋の紋次郎を殺害したことに気づく。
テレビ版ではお染の父親、山形屋がクローズアップされている。山形屋に「織本順吉」氏。お馴染みの名脇役さんで、人の好いおじさんといった感じ。この山形屋は、お染から手紙を受け取り先を急ぐところを、源兵衛の子分に斬られる。なぜ原作にはない展開にしたか。
原作では巳之吉に頼まれ、お染を連れ戻すことを引き受けているのだ。
「だが、紋次郎は巳之吉の胸中を察したから、あるいは源兵衛のためを思って、お染のあとを追うのではなかった。お前が動かしたものなのだからお前が元のように直せ、と言われてその通りにする。ただ、それだけのことであった。」原作の理由はかっこいい。人情をからめない乾いた紋次郎の哲学が見える。
しかしテレビ版では、瀕死のお染の父親から源兵衛の悪事(関所破りの手引き)や、お染の悲恋を聞く。そして「お染を守ってくれ」という頼みに耳を貸す。「引き受けた」とは口にしないが死に際の頼みは断らない路線である。このあたりは原作と比較すると、テレビ版では人情肌の紋次郎像をつくろうとしている。原作通りにすると「お前が動かしたものなのだからお前が元のように直せ、と言われてその通りにする。ただ、それだけのことであった。」という説明が難しいのは確かだ。原作はお染を連れ戻すために、テレビ版ではお染を守るために……全く逆の目的である。
お染はお松という下女と駈入寺「満徳寺」を目指している。テレビ版では、捜そうとはしていないのだが、紋次郎の作ったたき火に二人は偶然にもあたりに来る。下女のお松は冷えのため腹痛を起こしている。その二人を気遣って火に近づかせ、腹薬を与えたり自分の合羽を着せかけたり……テレビ版の紋次郎は限りなく優しい。この腹薬は多分「熊膽丸」(熊胆)と思われる。熊胆は“胆汁を含んだままの熊の胆嚢を干した物。味苦く、腹痛・気付・強壮用として珍重。”と広辞苑では説明されている。細かなところまで時代考証され再現されているところはさすがである。
お染は姉さんかぶり、お松は髷を結わずに洗い髪である。紋次郎はこの時点でこの二人の女をどう見ていたのだろうか。父親から頼まれたように、「満徳寺」まで無事送り届けようと思っていたのだろうか。お染に名前を聞かれてあっさり「上州無宿の紋次郎と申しやす」と名乗る。こんなことも珍しいが、名前を聞いて二人の女が動揺することで、この二人がお染とお松ということははっきりする、が視聴者は初めからわかっているのだが……。原作では急ぐ二人に紋次郎は追いついて、「お貸元のおかみさんでござんすね」と確かめている。名前を訊かれても「名を明かしたところで、致し方ござんせん。あっしはただ、おかみさんを連れ戻すように言われて、参りやしたもので……」と一言も「紋次郎」とは名乗っていない。やはりこちらの方が自然で、紋次郎らしい。
テレビ版では、紋次郎が薬を飲むための水を汲みに行っている間に、二人は姿を消す。振分け荷物の上には山茶花の花。これとよく似たシチュエーションは、前回の「飛んで火に入る相州路」の原作。気を失った新三郎の胸の上に、お浅は菜の花を置いて感謝の意を表し姿を消している。やはり脚本家さんは他の原作もかなり読み込んで、使えるところはしっかりチェックされている。前回と今回、花続きである。
源兵衛一家がお染たちを捜すシーンは、霧が立ちこめた田園風景。この霧はスモークではなく自然な感じがするので、多分京都の郊外、亀岡であろう。そのことを裏付ける資料があるので紹介したい。
1973年にサンケイ新聞社出版局から「紋次郎の独白」〜旅と女と三度笠〜という笹沢氏のエッセイ集が発刊された。この書籍は1972年9月26日から1973年2月25日まで、夕刊フジに掲載されたものである。その中での「寒いロケ現場」から抜粋する。
『 前略
プロデューサーと一緒にロケ現場へと出発した。テレビの紋次郎が再開されて、3日後のことである。そうした時期でもあり、関係者が何よりも気にしていたのは再開第1回の紋次郎の視聴率についてであった。
6ヶ月のブランクもあったし、同時にあるテレビ番組から挑戦も受けていた。そのために、口にこそ出さないが誰もが再開紋次郎の吉凶を、心の中で気にしていたのだ。
挑戦状を突きつけたあるテレビ番組は、30分前から放映を始めたりでかなり具体的な打倒紋次郎の策を、固めていたのであった。紋次郎はその番組より、1ヶ月半も出遅れて再開された。そんなこともあって、不安と心配が関係者の胸のうちに置かれていたのである。だが、現場ではただ黙々と、制作を続けるほかはないのであった。しかも、苦労は重なるばかりだった。
何しろ、ロケの多いドラマである。一度使ってしまったロケ地は、もう二度と使えない。それで、ロケ地を捜してその範囲は、京都近郊からどんどん拡大される。つまり、山奥へはいり込むわけである。
京都市右京区にあるスタジオを出発して、やがて亀岡市を抜けた。車は山奥へ、曲がりくねった道を走り続ける。1時間半後に、それらしきところに到着した。
山の中である。人家もなければ、人影も見当たらない。たまにトラックが、走るだけであった。車を降りたとたんに、肌を刺すような寒気にぼくは震え上がった。道から谷底へ下って行く間、歯がカチカチと鳴りっ放しだった。
谷底では森一生監督、中村紋次郎と二人の女優さん、ほかに40人からのスタッフが撮影を続けていた。寒気で鼻を赤くしながら、どの顔も真剣そのものだった。震えているのはぼくだけで、恥ずかしいくらいだった。
「寒さが辛くなるのは、これからですよ。川の中のシーンもあるし…」
中村紋次郎が、ボソボソと言う。こんな寒いところへ、果物を持って慰問に来る馬鹿野郎がと、ぼくは自分を怒鳴った。熱い味噌汁と湯気が立つ饅頭でも持って来なければ、慰問にはならないような寒さなのである。
ロケ現場には、15分ぐらいしかいられなかった。寒さの余り、ぼくは車へ戻ってそのまま引き揚げることにしたのだった。夕方になって帰りついた京都市内のスタジオでは、ビデオ・リサーチによる視聴率の結果が待っていた。紋次郎25.2%、挑戦番組14.9%
「ロケは、まだやっているんだろうな」
ストーブの前にいた人が、ポツリと言った。やがてロケ現場から、スタッフが帰ってくる。そして知る25.2%という数字が、スタッフにとって何よりの慰問になるのに違いないと思いながら、ぼくは京都駅へ向かった。新幹線の車内で、なぜか目頭が熱くなるのを覚えた。』
紋次郎は、目を伏せて言う。「何かと、ありがとうさんにござんす」
放映が再開して3日後なので11月21日、晩秋の頃のロケである。森監督、2人の女優さん、川のシーンということでこの「駈入寺に道は果てた」かと思われる。ロケ現場の厳しさと苦労がよく分かる。しかしあらためて再開された紋次郎の視聴率の高さには驚く。みんなが真剣にいい作品をつくろうとしている姿、そして紋次郎を本当に愛している人が集まる現場を見て目頭を熱くする笹沢氏。作家冥利に尽きることであり、彼も心に温かいものを持った人だったと思う。
さて本題に戻る。下女のお松が、なぜか紋次郎の三度笠と合羽を身にまとっている。この時点で、お松とお染は入れ替わっているということがわかる。それ以前に、紋次郎が名前を明かしたときのリアクションで、どちらがお染かということはうすうすわかるのだが……。お染役には「江夏夕子」。芯がしっかりした感じを受ける女優さんで、この後映画で共演した目黒祐樹氏と結婚される。健気に思い詰めた表情が印象的な演技だった。身長158センチのお染が紋次郎の合羽を身に付けると、足首近くまで隠れる。私が身にまとうと確実に裾を踏んづけてひっくり返り、「カ〜ットー!」と撮影が中断されるだろう。(実際あり得ない話です)もちろん、お染が三度笠と合羽を身につけて逃げる設定は、原作にはない。
そしてお松役は「青柳三枝子」。「土煙に絵馬が舞う」でのお花役は有名である。原作ではお松は茶屋でお染を先に行かせている。その後床几に座って紋次郎と言葉を交わしている最中に、茶屋の奧から飛び出した追っ手に殺される。テレビ版では追っ手が迫ってくるので自分が身代わりになり、子分に斬られて倒れる。お松はお染の願いを叶えるために、自分の意志で命をなげうったのである。下女といえど忠義心に厚く、というよりお染を自分の妹のように想うお松の行動は、実にあっぱれである。
紋次郎は走る。今回は三度笠も合羽もないので、実に軽やかに走り殺陣もよりスピーディーだ。振分け荷物が見当たらないが、どこに置いてきたのか。しかし、振分け荷物を肩から提げて合羽無しで走るシーンは、映像的にあまりいただけないのでこの方が良い。
お松をお染と間違って斬りつけた子分は、山形屋を斬ってしまった子分と同一人物。この人、かなりおっちょこちょいである。斬られたお松を紋次郎は抱き起こし、事の顛末を聞く。お松の死に際の頼みである「お嬢さんを頼みます」の言葉を紋次郎は噛みしめる。このとき、お松の横顔には涙の流れた痕が見てとれる。青柳女史の迫真の演技である。
登場する女は、珍しく二人とも純粋で健気。お染もお松も、筋の通った心意気の持ち主で、立派な生き様である。それだけに紋次郎の怒りは、強いものだった。原作では「具体的に理由が判然としない怒り」としているが、これが本来の紋次郎が持っている心根なのだろう。
渡し舟の上で紋次郎はじりじりとしている。視聴者も焦燥感に駆られる思いである。舟から飛び降り浅瀬を紋次郎は走る。前述の、「寒いロケ現場」で言及されている川の中のシーンというのは、このことであろう。水面が逆光にキラキラ光り、美しくしぶきが舞うのだが、相当の冷え込みの中での辛い撮影だったのである。
か弱い女を斬る貸元、源兵衛役に「浜田寅彦」氏。「背を陽に向けた房州路」では狡猾な農民の役であったが、今回も小心で卑怯な役。原作では、源兵衛は評判のいい貸元で、堅気からも褒められ「仏の源兵衛」と言われている。お旦那博奕打ちで、温情な人柄、筋道を通す事を重んじ、堅気に対しては礼儀正しい。子分たちの喧嘩、乱暴を絶対許さないという義理人情に厚い人物とされている。だから、裏でそんな悪行に手を染めていたり、嫉妬で人殺しをしたりするなんて、という意外性があるのだが、テレビ版ではそのインパクトは弱い。それは、初めから源兵衛が好人物には見えていないからだ。
住吉屋の紋次郎が殺されるシーンでも、だれが犯人かバレバレである。原作では鍬で脳天を割られているから、犯人は特定しにくい。運悪く追いはぎにやられたのではなく、源兵衛が嫉妬から子分に殺させた……という意外性も中途半端。唯一お染と下女が入れ替わっていたというどんでん返しも、途中から分かってしまう……。今回は謎解きやどんでん返しより、紋次郎と二人の女との心の交流に重きを置いたようである。
子分の巳之吉が「駈込み女の助っ人で、渡世の義理を踏み外す気か?」との問いも、「同じ名前のよしみで、紋次郎さんの意趣晴らしということにしておきやしょう」と返すセリフも、原作にはない。「渡世の義理」とはいうが、紋次郎はお染を連れ戻すことは断っているので、義理はないはずである。
ところでなぜ笹沢氏は、紋次郎と同じ名前に住吉屋をしたのだろう。登場する女二人は最期まで紋次郎の名前を知らずに死んでいくのに……。敢えて言うなら、お染が最期に口にする言葉が「紋次郎さん……」である。もちろん住吉屋の紋次郎の方だが、余韻としての効果はある。テレビ版はその点、同じ名前ということを最大限利用しているようだ。
三度笠と合羽のない殺陣はこのシリーズではめずらしい。いつもは合羽で隠されているが、長脇差の使い方や身体の動きがよく見える。トレードマークが全部ないのもちょっと……ということで口の楊枝はずっと咥えたままである。竹の楊枝を咥えての殺陣は危険だということで、殺陣の時は萱を咥えての撮影だったという。笠に隠れた紋次郎の顔も魅力的なのだが、今回はすべての表情がよく見えるので、原作にはないサービスショットである。
テレビ版でのお染と紋次郎の会話。「無断で笠に合羽とお借りして……」「あんな汚ねえもんでもお役に立ちやしたんで……山茶花が匂っておりやしたよ」もちろん原作にはないセリフだが、しっとりとした心の交流が見られグッとくるところだ。紋次郎の優しさが心にしみいる。
今回の紋次郎はお染を横抱きににして、満徳寺まで運ぶ。女を今まで何人も運んだが、横抱きは今回初めてではないだろうか。原作でも横抱きである。満徳寺までの一本道はうっすらと霧がかかっていて大変美しい。満徳寺の門前に大きな欅の樹がそびえている……かのように映像では見えるが、美術さんの仕事である。山門で樹の全体像は見えず、大木の根元付近の穴が寺の境内から見える。本当に上手く作られており、作り物には見えない。
うっすら霧がかかった中での一連のシーンは本当に情趣に富み、映像の美しさとして心に残る。「紋次郎さん……」と呟いて、お染は息を引き取る。お染の目尻から涙が一筋見える。縁切り欅の穴の前にそっと亡骸を下ろし、髪の毛の包みを置く。
今回の飛んだ楊枝の先は、お染の髪の毛の包み。このあたりの楊枝を飛ばすシーンになると、かなり撮影も自然で違和感なく定着している。楊枝の先に針が仕込まれていて、小さな弓で飛ばしているという。テレビ版の紋次郎は無言であるが、原作では「お染さん、おめえさんはもう独り身と、変わりはござんせんよ」と表情のない顔で言葉をこぼす。
自分が関われば死なずにすんだかもしれない「紋次郎」が死んだことで、お染もお松も死んだ。いや、源兵衛一家も死なずにすんだのかもしれない。そして、「今日が命日だ」といつも思っている紋次郎だけが生き延びる。
満徳寺とお染に背を向けて、紋次郎は霧の中を一人去っていく。いつもながら、胸に迫り来るものを感じる後ろ姿である。 

 

●第30話 「九頭竜に折鶴は散った」
「本編は原作になく、他の笹沢作品の翻案でもない。脚本家・服部佳子のオリジナルストーリーだ。大ヒット中の『木枯し紋次郎』の撮影をウチで、とフジテレビ系列の福井テレビから、タイアップの企画があったが、時代考証的に福井県では渡世人の旅は成立しないので一度話が流れた。だが、その後再び話が浮上し、原作者の笹沢左保が脚本を監修することで製作に至った経緯がある。九頭竜川、鉄砲、手裏剣が交錯する芦原での立ち回り。結局、福井での急ぎ旅となった。」
シリーズの中では珍しい誕生の仕方である。本来、福井(越前)は大名領であるので、渡世人が大手を振って歩くことは許されない。
1 関わらなかったことが元で、事件に巻き込まれる
2 今際の際の頼み事は引き受ける
3 ドンデン返し
上記の件を踏襲して作品は作られている。テレビドラマでの紋次郎シリーズは、「水戸黄門」や「銭形平次」などとは違い、原作者の手から離れて作られることはなかった。もしそれを良しとするのであればもっと長寿番組になっていただろうが、笹沢氏も中村氏もそれは選択肢になかった。それ故、今なお伝説的な価値を見いだすことができるのであろうが……。
アバンタイトルで、道ばたの地蔵に目を留め過去の事件を思い出す紋次郎。美濃の分限者の屋敷が盗賊に襲われ、助けを求められたのに断って立ち去ったのだ。しかし立ち止まった場所には屋敷はなく、朽ち果てた廃屋のみ残る状態。中に入り込むと奧からうめき声のような呼びかけが聞こえ、紋次郎は答える。
「堅気さんのお住まいに断り無く入って、申し訳ござんせん」どう見ても空き家の廃屋なのに、紋次郎はきちんと挨拶をして律儀である。廃屋の内部の様子がリアルで、蜘蛛の巣がいたる処に張り巡らされている。この廃屋の撮影はセットかロケか?息が白く見え、かなり寒そうである。
ここで喜助という男から「屋敷の娘、お春が越前三国で遊女をしているから、三十両で身請けしてやってほしい」と頼まれる。今際の際の頼み事であり、自分が関わらなかったことで運命が狂った悲劇でもある。紋次郎は「引き受けた」と言葉を発することはないが動き出す。
九頭竜川の説明があり、眼下に川を見ながら歩く姿……この川は九頭竜川?それとも保津川?峠の茶屋で怪しい動き。このあたりは渡世人が旅する所ではない、と清吉が訝しがる。全くその通りである。この後、山道を歩く紋次郎に銃弾が浴びせられる。かなりの数の銃であるが、当時の無頼集団は銃を手にしていたのか、という疑問があった。
「江戸のアウトロー」〜無宿と博徒〜 阿部 昭著書  で調べてみた。弘化年間 下総国香取郡の万歳村 無宿佐助(貸元 勢力)率いる一味は長鉄砲7挺、短筒3挺は持っていたと資料にはある。無頼の徒の武装は、当時想像以上に進んでいたようである。前回、「飛んで火に入る……」でも長鉄砲が用いられていた。時代考証的には合致しているようであるが、作品の雰囲気からいうと違和感はある。
長鉄砲を手にした一味に取り囲まれ紋次郎は「通りがかりの者でござんす」と答えるが、「渡世人が入り込んでも稼業が成り立たねえところだぜ」と返される。その通りである。だから笹沢氏も越前に紋次郎を歩かせることに躊躇したのである。
その後隠し銀山に連行され、頭目の女「お秀」の前に連れ出される。お秀役に赤座美代子。「水神祭りに死を呼んだ」では、お敬という女を演じていた。今回は銀山を取り仕切り、頭の留守を守る姐御役である。「水神祭りに……」のお敬とは違い男勝りであるが、愁いがあり翳のある女である。お秀が咥えている楊枝に目を留めて尋ねる。「何だい?その楊枝は?」「ただの癖ってもんで……」手荒に連れて行かれるのに、わざわざ振り返って紋次郎は答える。この楊枝でお秀は昔のことを思い出すのであるが、取り上げられた錆朱色の長ドスを目にしてはっとする。
仕置き小屋に閉じこめられていた紋次郎の所に行き、お秀は昔の所業をなじる。ここでお秀とお春を間違えてしまい、紋次郎は三十両を渡してしまう。誰も娘が二人いたとは言っていないのだから、間違えるのも当然である。この仕置き小屋もセットだろうか?吐く息が白く見える。
後でこっそり清吉がやって来て、探していたお春は三国女郎で自分が請け出そうとしている女だ、銀山を抜け出す手助けをしてくれるなら逃がしてやると、話を持ちかける。ここで紋次郎は人まちがいに気づく。
「預かった三十両を取り返さなきゃ、仏の頼みは果たせねえ」「あの金は喜助さんが命を縮めて作った金でござんす」と言う紋次郎に「お前さん、妙な男だな」と清吉は首をかしげる。
並の人間には、紋次郎の生き様が分からないのだ。紋次郎は自分が関わらなかったことへの懺悔より、喜助の心意気に答えたかったのだ。生きている人間は人を騙すが、死んだ人間は人を騙さない。死んだ人間の頼みなんか放っておいて、三十両だけを持ち逃げしてもよさそうなものだが、紋次郎は決してそれはしない。死に際に、どこの誰かも知らない者を信頼して頼む。信を持って託されたことには、信を持ってやり通す。本来、日本人が持っていた国民性だったはずだ。しかし今はどうだろう……?いや、グチになるのでやめておこう。
清吉が心張りを外しておいたので、紋次郎は仕置き小屋から抜け出す。部屋に入ったところで、お秀に見つかり手裏剣が足もとに飛ぶ。
「頼れる者は手めえとドスだけでござんすよ。」「女には手を出さねえことにしておりやす。」
紋次郎の台詞であるが、どうも定番化されているセリフばかりが耳につく。脚本家の服部女史は、オリジナルであるが故、紋次郎シリーズにできるだけ近づけようとしている感がする。
お秀は紋次郎が小屋を抜け出しているのに、手下を呼ぼうともしない。そして、お前がやって来たので、忘れていたはずの過去を思い出してしまったと紋次郎をなじる。紋次郎も過去を棄てている。しかしお秀は忘れたと言ってはいるが、棄てきれないでいる。その証拠に屋敷が跡形もなく、お春の悲劇や両親の死を知らされると、愕然とする。
「喜助さんの三十両は、きっと返してもらいやすぜ。」
驚いたことに、紋次郎はまた元の仕置き小屋に自分で戻っている。「三十両返してもらう。」と言われ、仕置き小屋から抜け出した紋次郎に、お秀は厳重な見張りを付けようともしない。紋次郎とお秀の行動には疑問が残る。
女には手を出せないから、今はゴリ押しをしない。それより清吉の言うとおり、夜明けまで待って舟で逃げる方が得策と考えたのだろうか。清吉が脱出する手助けをしないと、義理が立たないというのか。お秀は肉親の悲劇を知り、呆然としていたからか。お秀にとっては三十両はどうでもよさそうであることは確かだ。金に執着しているのなら、わざわざすぐに分かるような手文庫に入れておくことはしないだろう。いやもしかしたら、紋次郎にお春の身請けをしてもらいたかったのかもしれない。だから敢えて目をつぶったのかもしれない。
紋次郎はまた、舟に乗る。実写と合成を駆使して急流を下っていく。やはりこのあたりは保津川に見える。「急流で舟を操れるのは俺だけだ。」と清吉は豪語していたが、あっさり素人の紋次郎は舟を操ってしまう。スーパーマンである。
下流になり流れが穏やかになる。芥川氏のナレーションで永平寺、越前松島、東尋坊などの観光名所が紹介される。その観光基地として芦原温泉の名称が出て、宣伝効果を狙っている。因みに私の住まいする所は、「あし」とは言わず「よし」と呼んでいる。「悪し」ではなく「良し」の読みの方が縁起がいいということである。
紋次郎は清吉を小屋に残し、お春を請け出しに三国湊へ向かう。三国湊は、北前船交易で繁栄した豪商を数多く輩出した処である。当然花街もあり、その格式の高さは五本の指に入るほどだったという。折鶴がつり下げ飾られた部屋で、紋次郎はお春を待つ。手前には合わせ鏡、色とりどりの折鶴が揺れ、紋次郎が片膝を立てて動かない。当時、かなりの種類の折り紙は考案されていたらしいが、紙そのものが貴重品なので庶民にはあまり普及しなかったらしい。分限者の娘だったので、幼い頃から折り紙には親しんでいたのであろうが、遊女の身になった今でも、高級な紙を入手できていたのだろうか。それともその位の格式がある遊女屋だったのか。
ドラマのワン・シーンであるが、構図としてのバランスや色彩が絶妙で、額装して鑑賞したいぐらいすばらしい映像である。襖が開いてお春が入ってくる。分限者の娘ということなので、遊女といってもどことなく品がある風情である。しかし何とも無表情なのが気になるし、淡々とした演技に見える。自分の身の上を話し姉のことに触れると、紋次郎の表情がかすかに動く。姉お秀のことを紋次郎は明かさない。「美濃の分限者の娘も堕ちたもんだ」と、自嘲的に笑うお秀のことを思い出したのだろう。清吉と暮らすはずであろうお春に、姉の変わり果てた姿を知らすこともないということだろう。
「どんな暮らしでも、無事でいてくれるといいんですけど……」意味深な言葉が続くが、紋次郎は折鶴に目を向ける。「辛いとき哀しいとき、鶴を折ってると気が休まるんです」紋次郎は愁いのある目で遠くを見やるような表情。二人の転落した哀しい人生を思ってのことか。本当にいい表情で、胸に迫るものがある。
遊女屋の主人が挨拶に来る。回想シーンで、馬に乗ってお秀をさらっていった盗賊と同一人物。俳優は「新田昌玄」氏。「月夜に吼えた遠州路」で、清吉役を演じていたソフトな感じの二枚目俳優さんである。姉妹を不幸に落とした盗賊の頭と遊女屋の主人が同一人物というのは、ドンデン返しの一つのはずだが、この時点で分かってしまい惜しい。馬でさらうシーンは顔を伏せておけばよかったのでは。遊女の身あらい祝言の言葉が主人の口から出る。「お志だけをいただいておきやす」この紋次郎のセリフも以前の作品で使っていた。
紋次郎とお春が越前海岸の砂浜を歩く。日本海の荒波である。陰鬱な寒々とした暗い海に白波が立ち、二人のシルエットが遠くに見える。波打ち際には白く水煙が立ち上がり、霧のようにあたりが霞んでいる。この回の印象的なシーンである。このシーンはやはり越前海岸でしか撮れず、琵琶湖ではこんなに波は立たない。私はこのシーンが好きで、場所を特定したかったのだが、わからなかった。しかし、よく似た場所にこの冬行ってきたので、次回映像を掲載したいと思っている。お春にとっては、遊女が夢見た目出たい身請け話なのに、この暗さ……やはりこの後の展開を暗示しているかのようである。
清吉が待つ葦原の小屋にたどり着いたが、すでに清吉は何者かに殺されていた。二度と瞬きをしない清吉の両眼を紋次郎はそっと閉じさせてやる。「海鳴りに……」で冒頭、死んだ「お袖」のシーン以来二度目。仏に対して紋次郎はいつも優しく丁重に扱う。「小春さんのことは忘れなせえ。」遊女屋でこの隠れ家を教えたお春の姿が消えた今、紋次郎は確信した。
葦原での立ち回り。ドラマでは九頭竜川下流に広がる葦原となっているが、ロケは琵琶湖沿岸の葦原。遠景の山並み、葦原の向こうは、多分琵琶湖が広がっているのだろう。
空は重苦しく鉛色の雲が低く覆っている。木枯らしの寒々とした効果音をBGMにしての殺陣。カメラアングルは三度笠越しに敵を見回す紋次郎の目線と重なる。葦に見え隠れしながらドスが冷たく鋭く光る。色彩がないだけにその光が強調される。
所々に立木が見え、その木の陰からお春が様子を窺っている。この場面、私がよく訪れる地元の水郷にそっくりである。もしかしたらこの地に紋次郎が?と考えただけでドキドキしてしまう。葦原の間を舟で進むシーンもあったが、それも水郷に間違いない。今でこそロケ地はタイトルロールで協力という形で示されるが、当時はロケ地の紹介はなかったので、推理するしかない。
お春を呼び出し「十兵衛の一味だったとは、道々気がついておりやしたよ。」と口にする。海岸で後をつけられていると気づいた時点で分かったのだろうか。「女を斬るドスは持ち合わせていやせん。」と、お秀に言ったセリフと同じ言葉を発する。お春からことの顛末を聞き、恨みを晴らすために命がけで惚れぬいた男を道具に使ったのかと問い詰めるが、お春は所詮女はそういうものだとうそぶく。やはり女は恐ろしい。そして清吉は哀れである。
「今なら十兵衛は油断しているに決まっている、お前さん、引き返して」と叫んだとたん、お春は銃弾に倒れる。油断している十兵衛を殺すなら今がチャンスだから、引き返して欲しいと懇願した直後である。十兵衛は油断どころか、すぐ近くまで来ていたのである。十兵衛は銃口を向けるが、手裏剣が手元に突き刺さり、紋次郎はすかさずドスで斬り捨てる。十兵衛役の新田さん、今回の出演時間は驚くほど短かく、悪役の中では最短記録かもしれない。しかし、黒幕ということで姿を見せなかったのだから仕方ないか。
手裏剣を飛ばしたのはお秀。山でのもんぺ姿ではなく、粋な着物姿である。手裏剣の血を拭って髷に差そうとするが、思い直してやめる。十兵衛との過去からの決別である。変わり果てた妹との再会に、愁いのある眼差し向け佇む紋次郎。三度笠の縁と目線を揃えるという、一番かっこいい角度である。画面の手前に合羽と足もとの一部がずっと映し出されていて、身じろぎせず冥福を祈るかのような紋次郎の姿を想像する。
父親違いであっても、周囲の扱いが違っていても、お秀の妹はお春しかなく唯一残る肉親だったのだ。こうしてお秀も文字通り天涯孤独な身になった。形見になってしまったと、取り出した折鶴に紋次郎は楊枝を飛ばす。「昨日のことは戻っちゃきやせんよ」その後の紋次郎の台詞。「あっしは独り旅と決めておりやすんで」「命と明日の天気のことは、誰にもわかりゃしやせんよ」
いかにも紋次郎が口にしそうな台詞、オンパレードである。前述したがオリジナル作品であるので、何となく今までの作品を踏襲しているといった感が否めない。無難な台詞といったところか。葦原での会話のバックはやはり木枯らしの音。寒々とした雰囲気であるのはいいのだが、できれば葦も木枯らしに吹かれて揺れてほしかった。
せめて名前だけでもとお秀に乞われ「紋次郎と申しやす、御免なすって」と背を向ける。このあたりも型にはまりすぎている。手前に枯れた葦、左奧にお秀の立ち姿……構図がよく美しい映像、まるで岩田専太郎氏の挿絵のような風情である。葦原を横切り去っていく紋次郎の姿。その遠景には山脈が見え、中腹には雲が帯の様にたなびいている。よく見ると葦原の向こうには水面が……やはり琵琶湖?地元のファンとしては、そう信じたい。
いつもと違う街道を歩く紋次郎、捕らわれの身、脱出劇、山中と色街の対比、銃と手裏剣、大時化の海と広がる葦原、折鶴に託されたそれぞれの想い……設定としてはバラエティーに富み、広がりが見られたところはエンターティメントとして面白かった。反面、台詞が形式的になぞりがちだったことと、行方知れずの姉妹が、お互い十兵衛という仇敵と繋がっていたという偶然の重なりは、少し残念な気がする。
しかしそれに余りあるのは、日本海の荒波の映像美であり、紋次郎が見せる成熟した表情のかっこよさである。 

 

●第31話 「怨念坂を蛍が越えた」
私がこの作品を気に入っている理由はキャスティングである。私にとってシリーズ内、登場する女優さんの中で一番印象的なのは、この回の「お六」役、「太地喜和子」さんである。一番色っぽくて、濃い化粧が似合っている。場末の雰囲気でありながら艶やか、ミステリアスなのだが一途でかわいいという異種多様な面を持ちながら、それが調和している。非常に魅力的な女優さんで、存在感は抜群である。
その対称的な存在が大総代のご新造、お冬役の「斉藤美和」女史。冷たく無表情で、気位が高い女を演じている。光沢のある絹ものの着物で身を包み、いかにも上品ないでたちである。お六の姿は胸を大きく開けしどけない着付けだが、お冬はキリッとして隙のない着こなし。お六の真っ赤な襦袢が襟元に扇情的に見えるが、お冬の着物は真っ白……何もかもが対照的である。
ご新造さんと対照的といえば、蛍の源吉もそうである。演じるのは「高橋長英」氏。中村氏より2歳年下で、中村氏と同じく俳優座養成所に入り、上智大学法学部を中退しているというインテリ俳優さんである。「地蔵峠の雨に消える」の十太役で出演しているので共演は2作目。因みに「新・木枯らし紋次郎」の「明日も無宿の次男坊」でも共演している。味のある名脇役さんで、演技派である。大変身なりが汚く、むさくるしい。乱暴で、人を脅したりゆすったりするチンピラであるがどこか憎めない愛嬌がある。
飲んだくれで「千に三つしか真がない」と言われている酌女、どこの馬の骨かわからない無宿のチンピラ、押しも押されぬ大総代のご新造さん……それぞれ接点は考えられないという設定である。この三人のキャラ立ちがすばらしく、作品の質を高めていると言ってもいいだろう。
アバンタイトルからこの三人は登場しており、三者三様の一見無関係な者たちが、悲惨な終末に向かっていく序章である。紋次郎の登場の仕方はいつになくかっこいい。原作とほとんど同じ出だしだが、紋次郎はずっと無言である。
原作にはないが紋次郎は居酒屋に入り飯を喰う。お冬から執拗に名前を尋ねられるが、その合間に源吉が割って入るのが滑稽である。目は真剣で何かを訴えているが、お冬の目は逆に冷たく歯牙にも掛けない風情。このあたりの演出は、原作以上に状況がよくわかる。俳優の高橋氏。丸くいたずらっぽい目が印象的で、目の表情で演技をされる方だと思う。
「ちょっと聞いとくれよ旅の人、恐ろしい話……」で始まるお六の怨念坂の話。紋次郎にとってはどうでもいい話だが、ドラマでは必要不可欠である。以上の点から、やはり紋次郎は、居酒屋で飯を喰わなければならなかった訳である。
根も葉もないことを言いふらすなと、お六と源吉に二朱金を渡すお冬だが、源吉は憮然とした面持ちである。原作では「嬉しそうに掌の上の二朱金に目を近づけた。まるで生まれて初めて、二朱金を見るみたいな源吉だった。」とある。しかしテレビ版では、憮然としている。「旅に出るのなら、もっとあげてもいいんですよ」と言うお冬に、「虫けらみたいなおいらだから、大総代のご新造さんの、目障りになるとでも言うのかい」原作にはない台詞である。このときお冬は、ハッとした複雑な表情で振り返る。原作では実にサラッと書かれているのだが、テレビ版では心の動きが見え、視聴者はこの二人に何かあると感じる。
居酒屋を出て行く紋次郎を源吉は追いかけ、自分のねぐらで泊まるように紋次郎に勧める。。「おれっち、変に寂しくなっちまってよ。一人になりたかねえ、気分なんだ。」と口にし、大総代の屋敷を見やり感慨深く二朱金を眺める源吉。源吉の気持ちを思いやると本当に切ない。
それにしても大総代の屋敷にしろ源吉のねぐらの廃屋にしろ、ロケ地でよく撮影できるものだと感心する。美術の西岡さんは、しっかりそのあたりをチェックされ、実際にある建造物をできるだけ使用されている。だからあのリアリティーが出るのである。
原作にはない伏線。お六が怨念坂に急ぎ、お冬が待ち構えていて密会。利害関係があるとは思えないこの二人がなぜ?ミステリアスとサスペンス要素が、原作以上に感じられる。
大総代の屋敷内は細部にわたり実に重厚である。お冬とあるじとの会話の後、襖の形に切り取られた映像が映し出されるが、まるでフェルメールの名画のようで実に趣深い。お冬の言動は、あるじ以上に大総代という身分に固執していて、頑なである。
源吉と紋次郎がたき火を囲んで過ごす夜のシーンも印象的である。いつものことだが、身の上話を聞かされる紋次郎。しかし、ここまでの紋次郎の台詞数はどれだけだろう。本当に少ないし、どちらかというと紋次郎が脇役に徹しているといっても過言ではない。
源吉と姉お冬との別れのシーンは、紋次郎と姉お光とのシーンを彷彿とさせる。「養女にもらわれていくお冬にカエルの死骸を投げつけた。抱きしめて欲しかった……」テレビ版での源吉の述懐は原作にはない。脚本家は本当は姉を慕っている源吉の心の内を提示している。自分の姉お光を思い出すか、と思われるような話であるが、紋次郎は全く意に介さず、途中で眠ってしまう。
翌朝お六がやって来る。紋次郎は眠っているようだが、さっと長脇差を引き寄せる。しかし危険な人物ではないと気配でわかり、緊張を解く。これから先の太地喜和子の演技はすばらしい。「やっぱり化け物はいるんだよ!」と騒ぎ、村人たちを煽る。お冬と画策した通りに芝居をするわけだが、垣間見せる後ろめたさを感じる演技が上手い。源吉はまんまと乗せられて、化け物を確かめに行くと言いだす。お冬が袂で涙をふくシーンでは、お六が「よくやるよ」と言わんばかりの様子である。自分の保身のために、血を分けた弟を殺そうと怨念坂に行かせる……なんと酷い姉かと思いながらも、お六も自分が惚れた男のために芝居を打つ。
原作ではお六とお冬の繋がりは、はっきりわからない。「2〜3日前に酔ったお六が口走った」とだけ告白している。テレビ版では怨念坂にさしかかり、紋次郎は源吉にすべてを言い当てる。お冬が源吉の実の姉であること、困らせてやろうとわざと差配内で暴れたこと、本当は抱きしめて欲しかったこと……
紋次郎はいつも無関心な態度だが、人の話を聞いている。頷いたり、相づちを打つことがなくても聞いているのだ。そして言う。「何かを探して誰かを待っている。そんな人の目は、あっしにはよくわかるんでござんす。」原作にはない台詞だが、明らかに主題歌の歌詞のテーマだ。あっしにはよくわかる……自分と同じ境遇であると暗に明かしているわけである。
「おめえさん、長脇差は使えるんでござんすかい。」かっこいい台詞である。普通なら「とうとう正体を現しやがったな。」ぐらいしか思いつかないが、笹沢氏は本当に紋次郎には最高の台詞を用意する。紋次郎は無口である。それ故、口にする言葉には細心の注意が払われている。余分なものを削り取って、研ぎ澄まされた台詞をいつも与えている。
浪人者が5人、紋次郎たちの前後を塞ぐ。片眼が刀傷でつぶれた浪人がお六の情夫であったこと、怨念坂の化け物の仕業とみせかけていたことなどをばらす。紋次郎はどこまで気づいていたのだろう。お六のことを聞いたとき、咥えていた楊枝がかすかに動くので、少なからず驚いたと見える。
眼下は崖、険しく細い山道での殺陣は見ている方もドキドキする。足を滑らせたら転げ落ちそうであるが、果敢に攻める。この回の監督は大洲斉氏。中村氏がアキレス腱を断裂した、「一里塚に風を断つ」のときの監督である。状況はよく似ているが、度胸のいる思い切った演出である。活動屋の根性というか、このシーンを攻めきって撮ることで意趣返しをしたような感じである。多分スタントマンは起用していないだろう。
原作と大きく違うところは、源吉が姉の裏切りを知らずに死ぬこと、お六が鉄砲で殺されることである。源吉は「帰らなくちゃ、いけねえんだ。」と、最期まで姉のために力を尽くしたつもりで事切れるが、原作の仕打ちはもっと酷い。
原作では死期が迫った源吉の傷をのぞき込んだお冬がうっかり、「浪人者に斬られたのですか」と尋ね、紋次郎にどうして浪人者だとわかるのかと詰問される。そして源吉は、お冬の裏切りを知ることとなる。
「紋次郎さん、おめえさんの勝ちだなあ。他人さまのことは信じねぇ。確かに、その通りだったぜ。それにしても、紋次郎さんって人はまるで蛍みてえだ。燃えてるように光っていても、蛍ってのは芯から冷えていらあな」
蛍と、紋次郎の人間不信の心とを掛け合わせている。この回のタイトルの「蛍が越えた」の蛍は源吉ではなく、紋次郎そのものだったのかもしれない。燃えているが、芯は冷えている……名言である。
源吉についてはテレビ版のほうが少しは救われるが、お六についてはテレビ版の方が酷い。お六はお冬が放った者に、鉄砲で撃たれる。鉄砲で撃たれたお六を、片眼の浪人の許に寄せてやる紋次郎。死期が迫る者に対して、紋次郎は限りなく優しい。
お六は息も絶え絶えの中、生き残った方が鉄砲で殺されることになっていたと明かす。そして、自分のちっぽけな幸せのために、人の命をおもちゃにした報いだから助かっちゃいけない身だと言う。あげくの果てに源吉をこんな目に遭わせてと、お冬の企みを紋次郎に語り始める。(映像はここまでなので、多分語ったのだと思う)
テレビ版の紋次郎は源吉の亡骸を担ぎ、大総代の屋敷の前まで運び、お六から聞いた事の真相を明かす。紋次郎にしては異例の長台詞であるが、これは絶対に言わねばならない。一度は恨んで困らせてやろうとした源吉だったが、心の底では姉の愛情が欲しかったのだ。その姉のために命を賭けて怨念坂に向かったのにこの仕打ち……。口封じのため、お六の命も奪ったお冬を許せない一念で、紋次郎は雄弁になる。
「何かを探して誰かを待っている」と源吉を称した紋次郎は、源吉の姿に自分を重ねていたのだ。もしかしたら、あとでこっそりと涙の対面が……などと思っていたのかもしれない。
下からのライトアップで映し出されたお冬の呆然とした顔。騒ぎ出す村人たち。紋次郎が飛ばした楊枝はお冬が持っていた提灯の家紋を射抜き、提灯は落ちて燃え上がる。大総代である木村家の滅亡であり、その炎は蛍の灯のようにも思える。
「ご新造さん、せめて一言蛍の源吉と呼んでやんなせえ。」凍りついたように、表情を変えないお冬に声をかけ紋次郎は背を向ける。テレビ版の紋次郎は、原作よりずっと温かい心の持ち主である。
血縁も地縁も縁というものを一切信じない紋次郎だが、同じような境遇や哀しみを背負った者には心を寄せる。しかし、やはり報われない。「燃えているが芯は冷えている」と評されるように、そうならざるを得なかった今日も過去となった。儚く光る蛍は、寂しく独り去っていく。 

 

●第32話 「明鴉に死地を射た」
この回の印象は不条理劇を彷彿とさせる台詞と、白い霧がかかる映像美である。テレビ版の展開と原作とはほぼ同じだが、受ける印象は大きく違う。脚本中に原作にはない台詞を、千鶴に与えているからである。
大きな柱としては、紋次郎とお熊婆との約束、義理。武家としての体面。肉親であることの哀しさ。もちろん最後のどんでん返しは、ちゃんと用意されている。
小川のほとりで、髪をすいている千鶴を目にする紋次郎からドラマは始まる。千鶴役に「日色ともゑ」。清純派タイプの上品な女優さんである。着物の柄も淡い色合いに菊の花が品良くあしらわれている。やくざ風の男たちが持ってきた、酒入りの瓢を手にする千鶴。およそ縁のなさそうな組み合わせである。兄が「先生」と呼ばれていて、和泉の貸元の用心棒であることが会話からわかる。
紋次郎は和泉の仙右衛門の子分たちにからまれそうになるが、取り合わず向きを変えて歩き出す。ここで芥川氏のナレーションが入る。「その日木枯し紋次郎が佐倉、成田道を北へ向かったのはさしたる理由があった訳ではなかった。」今まで、街道や宿場の説明がほとんどだったナレーションなのに、今回は紋次郎の行動を説明している。さしたる理由はなく、このストーリーは始まったという前置きは珍しい。
新木戸の宗吉の子分を6人斬ったと言われているアル中の浪人、日下又兵衛役に「菅貫太郎」。この俳優さんは「大江戸の夜を走れ」で、善人面をしたワル役で出演している。ちなみに「新・木枯し紋次郎」にも出演しているので計3回。前回の高橋長英氏と同じく、最多出演となる。狂気の役や、一癖ある役作りには定評のあるベテラン俳優である。中村氏と同じく俳優座出身で、「はんらん狂奏曲」を上演して退団している。いわゆる中村氏とは同志。惜しくも1994年、交通事故で59歳という若さでお亡くなりになっている。
「だれも又兵衛が斬っているのを見たことがない」と村人達は噂しているが、ここはポイントである。
そこへ仙右衛門の肩を持つお熊婆が出てきて、まくし立てる。「仙右衛門親分のことを悪く言う奴は、おらが許さねえだ!」威勢のいい婆さん役に「三戸部スエ」。時代劇に出てくる元気な婆さんの名前に、よく「お熊」が出てくるのは気のせいか……。
又兵衛が、村人達に向かって刀を振り回し追いかける先に、紋次郎が突っ立っている。全く無表情だが、三度笠を少し傾け通り過ぎようとする。一応浪人に目礼をし礼儀正しい紋次郎である。又兵衛が斬りかかるが合羽を翻し転がるようによける。刀と合羽の風切り音が交互に聞こえ、カッコイイ。又兵衛は石に蹴躓き、無様に転び刀を取り落とす。その眼前に、いつ抜いたかわからない程素早い動きで長ドスを突き出す紋次郎。楊枝を銜えたままだが、戦闘モードの表情がこれまたカッコイイ。
お熊婆が飛び出してきて、「又兵衛に刃を向けてくれるな、和泉の親分には大恩がある、どうしてもと言うならおらを斬ってくれ。」と紋次郎に頼む。紋次郎としては、お熊婆の頼みがなかろうと又兵衛を斬ることはしないだろう。それに通りがかっただけの関係なのだから、さして重要な頼みではない(はずだった)。まさかこの後何度も又兵衛に遭遇するなど考えもしなかっただろう。
無言で立ちすくむ千鶴を一顧だにせず、紋次郎は足早に通り過ぎていく。霧が全体に薄くかかり、風情のある映像である。
去っていく紋次郎に追いついて、一言礼を言いたいとお熊婆が話しかける。ロケ地は京都郊外の川の土手だろうか。霧が出やすい所としたら亀岡辺りかもしれない。二人が歩く向こうに山並みが見え、中腹には帯状に雲がたなびいている。一方的に喋るお熊婆のために、紋次郎は歩を緩める。お熊婆に「仙右衛門に大恩がある、いい人だから草鞋を脱げばいいのに。」と紋次郎は勧められるが断る。草鞋を脱ぐと「一宿一飯の恩義」が生じ、その貸元に無条件で加勢しなければいけないからだ。以前紋次郎は苦い経験をしている、という設定でもある。(「地蔵峠の雨に消える」の回想シーンから)
仙右衛門に恩義があるからと、義理を貫き人を信じる、純粋なお熊婆。一方恩義を交わすことを極端に嫌い、人を信じない紋次郎。相反するようではあるが、紋次郎はお熊婆のまっすぐな人柄にウマが合うと感じている。
物陰から出てきた宗吉の子分から「草鞋を脱いでくれ」と頼まれる紋次郎。また「草鞋を脱げ」である。宗吉の子分である英次から、又兵衛の出自を聞かされるこのシーンは原作にはない。このシーンを入れることで又兵衛の説明がなされている。又兵衛が竜虎と呼ばれるほどの剣の使い手であること、許嫁を誤って斬ってしまい、妹と関八州を5年も流れ歩いているとのこと。視聴者はここで、「許嫁を自分の手で殺してしまった」という暗い過去を持つ又兵衛に少なからず同情する。
この後、出会った村人に「この先には行かない方がいい。役人たちが逗留している。」と教えられ、来た道を引き返す。ここで再び、芥川氏のナレーションが入る。「そこで紋次郎が、今来た道をとって返したのも、またさしたる理由があってのことではなかった。」「さしたる理由はない」と強調することで、この後出遭うはずではなかった者たちと、また関わってしまう宿命的なものを感じさせる。
寒そうに合羽の前を合わせ、野宿する先を探す紋次郎の姿も珍しい。一軒の百姓家が見え、灯りが漏れている。このシーンも美しく、まるで「日本昔話」の世界である。母屋の離れの納屋に紋次郎は潜り込むのだが、この家の主に見つけられる。「無断で入り込みやして申し訳ござんせん。」とわびるが「盗人だ!」と騒ぎ立てられ、納屋を出る。納屋ぐらい一晩貸してやればいいものを……と思うのだが、堅気衆は流れ者には冷たい。
「やはり他人の家の軒下を借りようというのは、虫のよすぎる考えであった。そんなことをしなくても、無宿の渡世人は盗人の扱いを受けるのだった。甘ったれちゃあいけねえぜと、紋次郎は自分に言った。」(原作より抜粋)
冷たい仕打ちにも、紋次郎は決して他人を恨まないし傷つくことはない。身の程をわきまえているし、もうこんなことは何度も経験している。
仕方なく木の根本に腰を下ろす。原作では高さ二十メートルの楠の大木とされているが、ロケ地にそれらしき大木がなかったのか、野宿するには頼りなさげな木である。お熊婆がやって来る。「紋次郎?!やっぱりおめぇだったか。」と呼び捨てにするお熊婆の人柄には、温かみがある。普通は無宿の渡世人には、あまり関わりたくないものであるが、お熊婆は紋次郎に親しみを抱いている。今まで「紋次郎」と呼び捨てにした女と言えば「錦絵は……」のお紺と「飛んで火に入る……」のお浅ぐらいか……。しかしこの二人は、薄情な紋次郎に業を煮やして「やい!紋次郎!」と叫んでいるので、本質的にはお熊婆のそれとは違う。「頼みを聞いてくれたのに何もしてやれない。せめてこれでも食べろ。」とたまたま持ってきた煮物を差し出す。テレビ版では椀の中身が何か見えないが、原作では「味噌で赤く煮詰めた大根の切干し」とある。
ここで、原作にはない杉の苗木の話をお熊婆は始める。「じいさまは死んだが木は育つ。今にその木ほど育ってくれるぞ。」と紋次郎の頭上の木を指す。仙右衛門に助けられたじいさまが植えた苗木がここまで育ち、この先も大きく育つと話すお熊婆だが、この先の自分の運命は知るよしもない。その話を聞いている紋次郎は、ずっと大事そうに木の椀を両掌で抱き、礼儀として箸をつけない。「何をしてる、早く喰え。じゃあな、紋次郎。」と立ち去るお熊婆に礼を述べてから、紋次郎は煮物を食べ始める。視聴者としては中身がわからないので、「よかった、蒟蒻でなくて。」とホッとする。
この時の紋次郎はいわゆる「紋次郎喰い」ではなく、きちんと箸を持って食べているし、掻きこむというより味わって食べている。大根の美味さと一緒にお熊婆の人情も一緒に味わっているといった表情である。こんなにしみじみと食べるシーンも珍しい。
しみじみしたこのシーンに水をさすようで申し訳ないのだが、この箸が気になる。映像で見る限り、どうも割り箸に見えてしまうのだ。原作では木の丼と長い箸を、お熊婆は手にしている。「炉端で煮物をしていた」とあるから長い箸は菜箸であろう。原作の紋次郎は「指で摘まんだ大根の切干しを口へ運んだ。」とあるので、菜箸で食べてはいないし、指で摘まんでいる。しかしテレビ版では箸を使っている。小道具さんが割り箸を用意したのだろうか、それとも本来使うべき箸を用意し忘れたのだろうか。
私が箸で感心したのは、「水車は夕映えに……」で蕎麦をすする紋次郎が手にしていた箸である。記事でも触れたが、枝から削り出したかのような手の込んだ箸だった。しかし今回はその箸は用意されず、まるでロケ弁当に付いていたような割り箸である。当時、「紋次郎喰い」が教育上よろしくないと批判されていたらしいが、それに輪をかけて手で食べるとは……、というクレーム対処か。脚本上では原作通りだったが、現場で急遽「これはまずいのでは?」となったのか、いずれにしても既製品が出てきたので気になった。
さて本題に戻ろう。このシーンのBGMに使われているメロディーは大好きである。この哀愁満ちたメロディーを聴くたびに、数々のシーンを思い出して涙ぐみそうになる。いつ聴いても名曲だと思う。私の車内のBGMはずっと紋次郎のCDエンドレスである。
夜が明けて木の上で鴉が鳴く。タイトルの明鴉とはまさしくこのことで、明け方に鳴く鴉のことである。目覚めた紋次郎はカラの木の椀を懐に入れる。何のため?お熊婆に返したくても多分、家には近づけないだろう。渡世人は一宿一飯の際、出されたものは総て食べなければならず、食べられない魚の骨などは懐紙に包んで自分の懐に入れるという作法がある。それに則っての習慣かもしれないが、この行為が後に生死を左右することになろうとは……。
霧の中を歩く紋次郎は、又兵衛が新木戸の宗吉一家の子分を斬り捨てるところに遭遇する。本来なら街道の先を進んでいるはずだから出遭うことはなかったのだが……。紋次郎の姿を認めた千鶴の表情は「なぜ?また舞い戻ったの?」である。さしたる理由はないのであるから、宿命なのである。英次を又兵衛が斬るが、一刀両断とはいかない。
原作では「地上に倒れ込んだ渡世人は、四肢を痙攣させて苦悶していた。その喉へ日下又兵衛が、慌てて刀を突き立てた。」としている。テレビ版ではさほど慌てていない。又兵衛が刀を浴びせてから、おもむろに倒れた渡世人を殺している。千鶴は紋次郎が先を行くのを止める。
「兄がかわいそうです……あなたは見たはずです……兄はあれだけの人……お酒を飲んで人を斬る、人間じゃない……それだけで人間の形を保っている……あなたは見たはずです、わかったはずです」何を見て、何をわかったのか?紋次郎でなくても全くわからない。まるで禅問答である。
原作には千鶴のこの台詞はなく、紋次郎を押しとどめようともしていない。そしてこのまま、又兵衛のリンチが始まるのである。あえてテレビ版はこの台詞を千鶴に与え、兄を想う妹の存在を強調したのだろうか。
又兵衛の腕前がどうであろうと、紋次郎には全く関わりがないことである。千鶴が止めたのは、紋次郎の腕前なら、兄は逆に斬られるとわかったからだろう。最初の出会いの一瞬の身のこなしで、千鶴は紋次郎の実力を察知したのだ。さすが武芸者である。人を見る目がある。しかし紋次郎の腕前を見通せても、心の内までは見通せなかった千鶴は、この後大胆な行動に出る。
あんなに頼んだのに、紋次郎はやはり先に進む。ある意味頑固者である。印旛沼を調べに役人が来ているから、行かない方がいいという忠告は聞いたのに……。そういえば他の回でも、「行くな」と言われても聞かずに進む。前回の「怨念坂を……」でもそうだった。
又兵衛の理不尽なリンチが始まる。お熊婆との約束を守るために、一切手出しをせず耐える紋次郎の姿は、崇高ではあるがファンとしては見るに忍びない。リンチといえば「川留めの……」「湯煙に……」があり、この後も「和田峠に……」で痛い目に遭っている。「雪に花散る……」では屈辱的な扱いを受ける。今回は四つん這いにさせられ、つばを顔にかけられる。その上左手を、下駄の歯で思い切り踏みにじられる。しかし原作はもっとひどい。喉を刃で傷つけられ、つばを吐かれる。読んでいてこちらも脂汗が出そうなのは、左手の甲を刀で貫かれ、地面に縫いつけられたままで、顔を蹴られる。そこまでお熊婆のために我慢するのか、と紋次郎の心の強さを感じる。テレビ版はそこまでのリンチは残酷だということで、刀で刺される代わりに下駄で踏みつけられる。
傷ついた体を休め歩く紋次郎の前に、千鶴は陵辱される姿を見せる。千鶴と紋次郎の顔が交互に映し出されるが、紋次郎はずっと無表情のままである。千鶴にとってはまさに身を挺した演技だったが、紋次郎には全く効いていない。いわゆる「濡れ場」と言われるシーンだが、日色ともゑのイメージを壊さないためか顔のアップのみでインパクトがなかった。
嫁入りの列を荒らし回る仙右衛門一家の子分たち。助けを頼まれる紋次郎だが、ここでもまた又兵衛と出遭ってしまう。偶然とはいえ一体何回縁があるのだろう。4人の子分たちに追われ、逃げる紋次郎。こんな三下であれば一瞬に峰打ちにでもして倒せるのだが、ここでもお熊婆との約束を守り長ドスを抜かない。走る先にお熊婆が畑にいる。「やめろ!」と手を広げるお熊婆を子分は斬り捨てる。目を開けたままの死顔は「信じられない」といった表情である。その死顔に紋次郎は声をかける。
「おめえさんに長脇差を振るったのは、和泉のお貸元の身内衆なんでござんすよ。人を庇いだてする目に、狂いがあったようで……。あっしもこれで、おめえさんの頼みに縛られなくてもようござんすね」
やっとここで封印は解かれ、4人の子分たちを紋次郎は斬る。この殺陣で目新しかったのは、走りながら長ドスを空中に投げ、逆手に取り直して後ろに繰り出すところだ。原作では「逆手に持ち替えた」としか書かれていないので、殺陣師さんが考えたのだろう。
又兵衛と紋次郎の会話が実にカッコイイ。
「やるな……今朝はあれほど、無様に命乞いをしおったくせにな」「命乞いなんかじゃあねえ」「命が、惜しくはないか」「惜しくはありやせんが、おめえさんには差し上げたくねえんで……」
この会話を成立させるには、お互いの貫禄が拮抗していないといけない。その点、菅貫太郎氏はうってつけの俳優だったと思う。左手を負傷している中、三下4人は片付けたが、使い手である又兵衛となるとそうはいかない。紋次郎は一旦、その場を後にする。逃げるわけではないし、逃げられるはずもなかった。
その夜紋次郎はお熊婆の畑に戻り、昨夜と同じ場所で過ごす。杉の苗を踏まないように歩くが、その苗をうれしそうに育てていたお熊婆はもうこの世にいない。信じていた者に裏切られ、あっさり死んでしまったお熊婆。「おめえさんの信じていたものは、一体何だったんでござんすかい?」と言いたげな紋次郎の表情である。
同じ夜を千鶴は又兵衛と過ごす。夜のシーンが、蒼くもの哀しく美しい。このシーンや台詞は原作にはない。
「とっくに昔の兄さんも私も死んだはずなのに、過去だけが生きている。」と千鶴はつぶやき、高いびきで寝る又兵衛の胸に、刀の切っ先を向ける。「肉親って何?」兄のあまりにも変わり果てた姿に「いっそこのまま……」と思う千鶴。
この先いつまで、この兄と同じ日々を過ごすのか。先が見えない生活を持ちこたえているのは、血のつながりだけである。自問自答する千鶴のやるせない台詞を、テレビ版は挿入している。
夜が明けて一睡もしなかった紋次郎の前に、又兵衛と千鶴が現れる。この景色にも霧が流れるが、こちらは明らかにスモークを焚いた霧である。
紋次郎と又兵衛は無言で対峙する。いわゆる決闘である。落ちぶれたとはいえ、江戸で竜虎と呼ばれた剣の使い手であるので、尋常な戦いでは勝ち目がない。紋次郎は又兵衛の周りを駆け回る。5周ほど回ったとき、足下の瓢を又兵衛の顔めがけて蹴り上げ、避けた隙を狙って、紋次郎は長ドスを繰り出す。又兵衛は呆気なくその場に倒れる。
一部始終を見ていた千鶴が口を開く。前半の台詞は原作とほとんど同じだが、後半は原作にはない台詞が入っている。
千鶴「誤って許嫁を殺してしまったという、つまらない過去です。その過去を消すために、二人で5年間努力しました。でも結局過去というものは、その人間が死ななければ消えないものでした。」紋次郎「明日のねぇ人間には、昨日もねぇはずで……」千鶴「昨日があるから、明日がある。明日という日が来るから、明日という日が嫌でもやって来るから、昨日を忘れようとするんです。思い出だけが、考えることのすべてであったという、無惨な人間を、あなたは理解できますか。」紋次郎「おめぇさん方とあっしとは、どうやら別の人間のようで……」千鶴「それだけにあなたが憎い。あなたには昨日も明日もないと言うのなら、私はそれだけであなたを斬らなければなりません。」紋次郎「そんなことは、あっしに関わりござんせん。」千鶴「では、兄の仇討ちです。」
時代劇らしからぬ台詞回しで、前衛劇を見ているような趣である。一種の不条理劇でもある。
昔の、人間の心があった頃の兄も私も死んだ。しかし許嫁を殺したという過去は消せなかった。そして過去を消せない自分がいるということで、かろうじて生きながらえている。生きる屍である自分たちは、無限ループ地獄に陥っている。そんな中、千鶴は兄の武士としての面目を保とうとする。自分が辱めを受けてでも、兄を守ろうとする。だがいつまでも、守りきれるものではなかったのだ。生きる屍に引導を渡したのは、昨日も明日もない紋次郎だったのだ。やはりこの二人は死をもってしか、過去から解放される術はなかったのだ。
紋次郎は過去を捨てている。紋次郎の過去も、この二人と同じぐらい過酷で悲惨である。明日も昨日もない今だけを、紋次郎は生き抜いてきた。過去をずっと引きずって、武家の面目も引きずって、そして血のつながりに縛られて、この兄妹は生きてきた。全く別の人間であるのは確かだ。
「あっしの長脇差は女の血を吸ったことがありやせん。ですが、おめえさんだけはどうやら別のようですねぇ。おめえさんは、刀で何人も斬った。女じゃあござんせん」
過去には二人の女を、結果的に殺めてしまったことはあるが、殺意を持って女と対峙するのは、作品中これが初めてである。女じゃない、と言うより人間じゃないのかもしれない。兄のことを「それだけで人間の形を保っている」と千鶴は言ったが、千鶴も既に心は人間ではなく生ける屍なのだ。
紋次郎が楊枝を飛ばした茂みから鴉が飛び立ち、千鶴に一瞬の隙が生まれる。紋次郎は千鶴の横を駆け抜け、二人は刀を抜いたまま交差する。紋次郎の懐から、真っ二つに割れた木の椀が転がり落ち、千鶴は倒れる。
このシーンはまさしくマカロニウエスタン、「荒野の1ドル銀貨」である。(ちなみに私は、ジェンマのファンでした)
「過去は、その人間が死ななければ消えないものでした」と千鶴は言ったが、その通りだった。さしたる理由はなく、偶然に紋次郎とこの兄妹は出会ったのだが、こうなることは宿命だったのだ。この兄妹を、過去の呪縛から解き放つために、紋次郎と出会うべくして出会ったのだ。
「お熊婆さん、世の中とはこんなもんでござんしょうよ」「こんなもん」とはどんなもんか?
お熊婆は、庇い立てした者に殺され、一刀両断に人殺しをしていたのは、か弱そうに見えた千鶴だった。「まさか」と思うことが、真実だったということか。そしてもう一つ……昨日があるから明日があると言った者が死に、昨日も明日もないと言った紋次郎が皮肉にも生き残る。
原作より深い無常を与えた脚本家、佐々木守氏の斬新な試みを見た感がする。 

 

●第33話 「木っ端が燃えた上州路」
原作は「木枯し紋次郎シリーズ」と同時期に書かれた4作品を収録した「雪に花散る奥州路」の中の一作品である。この姉妹シリーズには「地獄を嗤う日光路」がある。「雪に花散る……」に収録の内、3作品が紋次郎に翻案されている。残りの「狂女が唄う信州路」は、中村氏が負傷のため放映が一時休止となり、そのピンチヒッター番組として放映された。別作品の翻案ということで、脚本家もかなり苦労されたのではないだろうか。
原作とテレビ版は、所々パーツは同じだが、出来上がったモノは全く別物といった感がする。使ったパーツとしては、恩を受けた相手の人違い、落とした達磨の根付け、親分の女と通じて毒殺させるやり方、子分の裏切りなどである。
ほとんどが、貫禄ある腕の立つ渡世人が主人公である中、この作品はめずらしく原作の主人公は勢五郎という三下である。テレビ版では勢五郎ではなく、伝八という名前に変えてある。「伝八」、いかにも弱そうなネーミングである。名前から受ける印象は大きなものがある。
テレビ版での紋次郎の設定は難しく、時には勢五郎、時には紋次郎と一人二役を果たしている。アバンタイトルは、逢い引きの場に居合わせてしまう紋次郎から始まる。会話から、男は親分の女とできていて、夢中になった女はその男と夫婦になりたいがため、一服盛ろうとしているということを紋次郎は知る。男女が出て行った後、男が落としていった達磨の根付けを拾い、紋次郎は思い出す。以前高熱で苦しんでいたとき、通りすがりの親分から薬を恵んでもらったことを……。そのとき見えた達磨の根付けと同じものである。薬を恵んでもらうのは「一里塚に風を断つ」以来2回目。そのときの親分の名前は「上州は藤岡の勘蔵、人呼んで鬼勘」と告げられる。
原作では逢い引きを目撃するのは勢五郎で、薬を恵まれるのは勢五郎の父親である。とにかくテレビ版では、紋次郎は鬼勘には恩義があるということである。テレビ版では根付けを探しに男が帰ってきて、紋次郎と顔を合わせてしまう。ここで早くも楊枝が飛ぶので、男は「木枯し紋次郎」に密約を聞かれたことを知る。男は斬りかかるが、手強い紋次郎に歯が立たずその場を去る。
原作での勢五郎は、声は聞くが顔は見ていないので、密会相手がだれなのかわからないという設定である。この後紋次郎は、三人の渡世人に斬りつけられる。三人中二人は旅姿、一人はどう見ても地元の三下である。この旅姿の渡世人の一人が「流れ舟は帰らず」で、十兵衛といつも一緒にいた「白痴」と呼ばれていた男と同じ俳優さんで「吉田晴一」さん。紋次郎と確認してから襲っているので明らかに根付けを落とした男の差し金であることがわかる。二人が斬られたのを見て怖じ気づいた三下は逃げる。この三下が「伝八」である。役を演じるのは「高田直久」さん。「見かえり峠の落日」で「忠七」の役をしていたが、どちらも頼りない臆病な若者役である。
逃げ帰った伝八は、勘蔵一家の兄貴分から「親分から盃が欲しけりゃ、紋次郎を叩っ斬れ」とどやしつけられる。伝八は勘蔵一家の三下で、この兄貴分は逢い引きの男である。さっき紋次郎を襲った旅人は、この一家に草鞋を脱いだ一宿一飯の輩であろう。三下はもとより、子分は親分の命令には絶対服従である。白くても、親分が黒と言えば、絶対黒なのである。だから伝八は「なぜ、紋次郎を殺さなければならないのか?」などとは疑問に思わないし、身内に加えてもらえるとなると必死である。「一宿一飯の恩義」についても同じで、一家に草鞋を脱いだ限りは親分の命令には従わないといけない。何の恨みがなくても、「やれ!」と言われればやらないといけない。ただ、卯之吉は一家の親分ではなく代貸しであるので、「親分の命令だ!」とでも言ったのだろう。
紋次郎は勘蔵一家に訪れ、ひと月前に薬を恵んでもらったので礼を言いに来たと丁寧に挨拶する。原作での勢五郎は、父親が鬼勘から薬を恵んでもらったよしみで一家に加えて欲しいと頼み、三下として修行を積むことになる。紋次郎は礼を告げた後、鬼勘の根付けが達磨でないことに気づき、薬をもらったのは鬼勘ではなく人違いをしたと気づく。原作では鬼勘の根付けは達磨になっている。
テレビ版の鬼勘役に「井上昭文」氏。「湯煙に月は……」での悪役、権三を演じていた。いわゆる悪役顔であり今回の鬼勘にはピッタリである。しかしその顔はよく見ると、なんとなく愛嬌があって鬼瓦に見えてしまうのは失礼だろうか。
原作では逢い引きしていた男女の顔はわからず、誰がどちらの親分の女と通じているのか、わからない。親分とその女、そしてそのどちらかの一家の男……と入り乱れて、誰が裏切っているのかというミステリー部分が大きい。しかし、テレビ版では男は勘蔵一家の代貸し、卯之吉だとわかる。そうなると、情を通じているのは敵対する武兵衛の女。勘蔵は子分の卯之吉を使って武兵衛の女をたらしこみ、毒を盛らそうという算段か……という推理となる。
さてテレビ版に登場する伝八は、原作には全く登場しないようなキャラクターである。何とか盃をもらい一端の渡世人になりたいと思っているが、根が気弱で腕っぷしも強くない。とてもヤクザには向いていない。煮売り屋の娘「お鶴」と所帯を持とうとしているが、お鶴の方がよっぽどしっかりしていて、度胸がある。お鶴は伝八に堅気の暮らしをするように頼むが、伝八はなかなか踏み切れない。「自分は水飲み百姓で、このままでは一生うだつが上がらない。渡世人になって男を上げる。」という伝八に「義理に縛られての明け暮れ、一体何が面白いの?」と正論を吐く。この時代の農村は、飢饉や世情の不安定さで荒廃し、博打に手を出す農民も多く、土地を離れて無頼の徒になる者も多かったと資料にはある。
今回ロケ地として特筆すべきなのは、小川と土橋である。お鶴と伝八が語り合う小川のさざ波の美しさ、何度と渡る土橋の風情……。たぶんもう、この風景は失われているだろう。今や小川は三面張りのコンクリート、橋については安全が重視され、コンクリートと鉄骨で重装備されている。仕方ないことであるが、何となく寂しいものがある。水面にきらきらと光が反射し、お鶴の素直で素朴なかわいらしさが引き立つ。
原作のお鶴は勢五郎と同じく、翳りのある無口な女という設定である。三下の弥助から「勢五郎さんよ、おめえ口数が少ねえな。おめえさんとお鶴ちゃんが二人だけでいたら、壁や天井が話を始めるぜ」と、からかわれるぐらいである。
「もしお前さんにその気があるなら、わたしも一緒に行くよ。二人でほかの生き方を、考えてみようじゃないか」と勢五郎に言うぐらいで、テレビ版のお鶴ほど積極的に足を洗うことを勧めたりはしない。ひどい目に遭わされた親分のために死にたいのか、と言うお鶴に、勢五郎は「おれたちは死ぬときを待って、生きているようなもんじゃねえか」と答える。紋次郎の死生観と同じで,、原作の勢五郎は若いながら人生を達観している。
さてテレビ版での伝八は、紋次郎を斬って子分にしてもらう……と斬りつけるが、全く相手にならない。それどころか言わなくてもいいことを、ポロポロ言ってしまう。そして煮売り屋の客から、その達磨の根付けは武兵衛のために作らせたものだと聞かされる紋次郎。ということは、密会していた卯之吉は武兵衛と通じているということになる?!卯之吉は敵方の武兵衛側について、自分の親分を毒殺しようとしているということになるのだ。もうこのあたりからは、原作とテレビ版とを比べてもあまり共通するところはなく別物である。
紋次郎は本庄の武兵衛に会いに行く。薬を恵んでもらった礼を言うためか?ただそれだけのために、通りがかったついでではあるが足を運ぶ。毒を盛るだの縄張り争いだのと、きな臭いにおいがするのに向かう。
一方、勘蔵の女お筆に伴って本庄まで来た伝八であるが、武兵衛の子分たちに見つかって痛めつけられている。そこに武兵衛がやってきて止めに入る。太っ腹な態度で「仏の武兵衛」と呼ばれるゆえんである。鬼勘とは態度も顔つきも違う。
そこへ紋次郎が現れ、薬のこと、達磨の根付けのことを確かめる。薬を恵んだのは本当は武兵衛だが、当てつけのために「鬼勘」と名乗ってしまったため、紋次郎は人違いをしてしまったことがわかる。
そこまでならよかったのだが、紋次郎は武兵衛と同じ達磨の根付けを、とんでもないところで見つけたと話す。明らかに武兵衛の表情が変わる。何か企みを持っているのは確かである。武兵衛に不安感を与えるだけで、紋次郎は本庄を後にしようとするが、ここでまたお鶴に出会い「伝八に足を洗うように諭して欲しい」と懇願されるが、断る。伝八に命を狙われているのに、足を洗うように意見をしろと頼まれても無理な話である。
しかしお鶴の伝八を想うけなげな姿は、紋次郎の気持ちに少なからず変化を与えたようである。その証拠に一度は断ったはずなのにやはり紋次郎は藤岡に戻っていた。紋次郎は村外れの祠で、伝八に達磨の根付けを渡し、この持ち主のことを探るようにと示唆する。そのほかの詳しいことは一切話さない。
なぜか。紋次郎には所詮関わりのないことだからである。紋次郎にとっては、縄張り争いや親分子分の裏切りなど、珍しくもない出来事なのである。伝八はヤクザになり男を上げる、などと言ってはいるが、この世界は義理と人情からは遠く離れた汚い世界なのだ。その真実を伝八の目で確かめさせたかったのだ。言葉を駆使して言い聞かせるより、自分の目で見て耳で聞き、自分の頭で考えることの方が重要なのである。だからそれ以上は一切関わらない。伝八に自己責任の取らせ方を委ねる。
紋次郎は「童唄を雨に……」で、百姓上がりの三下から子分にしてくれと頼まれたとき、「馬鹿野郎!」と一喝して横っ面を張り飛ばし、目を覚まさせようとする。故郷にはお前を心配する親兄弟がいるし、帰りを待つ者もいるのに馬鹿なまねをするなと、諭す。
紋次郎には帰るべき故郷がない。天涯孤独である。自分が死んだところで誰も嘆き悲しむ者がいない。だから旅から旅に身を置くしかないのである。しかし伝八には心配してくれるお鶴がいる。それもわからず、汚いヤクザの道に足を踏み入れるのか。どんな汚い世界なのか、己で思い知れと言いたかったのではないだろうか。
もちろんこの展開はテレビ版だけであるが、帰るところのある若者がこんな世界に身を置くことを良しとはしない紋次郎である。見捨てているようで、見捨てていない。紋次郎独特のやり方であり、明らかに第一シーズンより大人の対応である。
伝八は勘蔵の元に帰るが、時すでに遅し……勘蔵はお筆に毒殺され、そのお筆も卯之吉に殺されてしまう。伝八は卯之吉と武兵衛が落ち合う社まで走って行く。親分の敵討ちのためにである。冷静に考えればこれを機に、嫌気がさして関わりを捨てればいいのだが、伝八は自分の腕っぷしのことも忘れ走る。
原作では、一家同士の喧嘩仲直りの儀式の最中に勢五郎は現れる。「自分の命は今日限りだ」と覚悟して、一流とされている親分の前で真実を暴露する。
この場面は大前田英五郎の出現や儀式の手順などが紹介されていて、かなり史実に忠実である。笹沢氏のリアリズムを追求する姿勢がよく表出されている。ただ原作は毒殺はまだ実行されておらず、未遂である。テレビ版には出てこない勢五郎と同じ初老の三下「弥助」が、この陰謀に巻き込まれ命を落としている。親身にしてくれていた弥助の意趣返しのために、勢五郎は命を張るのである。こちらの方が、テレビ版より崇高な心意気を感じる。
伝八は三下なので長ドスは持っていない。匕首だけを振り回し必死である。あんなにひどい仕打ちをされたのに伝八は、「親分の仇だ。」と卯之吉に向かっていく。武兵衛は高見の見物。どちらか生き残った方を殺せと子分に言う。とんだ「仏の武兵衛」である。そこに紋次郎が偶然通りかかる。「野郎!まだうろついてやがったか!」と武兵衛。視聴者としても同じ思いであるが、ここはこの展開にしないと殺陣シーンがなくなる。
「恩を仇で返すわけにはめぇりやせん。行かせてもらいやす。」とズンズン進んでいく紋次郎に「やっちまえ!」の一声。降りかかる火の粉は払わねばならず、結局紋次郎は、卑怯な真似をした武兵衛一家と戦うこととなる。一方伝八は、卯之吉と子分と死闘状態。どちらの殺陣もスマートではなく、非常に泥臭い。しかしなぜか、BGMはさわやかなトランペットの音色。選曲ミスのような気がする。なぜこんなにリアルな殺し合いなのに、主題歌の旋律をメロディックに明るく流すのだろう。残酷なシーンに、敢えて美しいクラシックをBGMに使用すると印象に残る、というテクニックを聞いたことがあるが……。「三下め!」と馬鹿にしていた卯之吉だが、必死の形相の伝八に手こずっている。実際のドスを手にすると、カッコイイどころかこんな状態なんだろうと思う。
紋次郎は「仏の武兵衛」の死に際に一言。「仏が鬼の命を狙う。世の中逆さまじゃねえですかい。」原作では、大前田英五郎の台詞である。
捨て身の伝八は卯之吉と子分を殺して、その場で仰向けに倒れ込む。「紋次郎さん、やっぱり来てくれたんですかい。」紋次郎は無言である。伝八を助けに来たのではなく、たまたま通りかかっただけである。結果的には伝八に加勢したことになるが、伝八は己の意思で最終決着をつけたのである。
お鶴が伝八の元に駆け寄り助け起こす。「おらぁ、もうやめた!」伝八は手にしていた長ドスを放り上げる。落ちた先には達磨の根付け。紋次郎は楊枝を根付けに飛ばし、持ち主……死んだ卯之吉の動かなくなった手に戻す。
紋次郎は、説教じみたことは一言も言わない。無言であるが、「この二人ならきっと真っ当にやっていける」と見届けたのではないだろうか。お鶴に支えられながら、伝八は小さな土橋を渡る。新たな二人の旅立ちである。
紋次郎には寄り添う者も、新たなるものもなく、ただ独り旅が続くだけである。
テレビ版での伝八は、ヤクザの世界から足を洗い、めでたしめでたし…というめずらしく希望の見える結末になっている。この作品には、いくつかどんでん返しがあったが、この結末が一番大きなどんでん返しだったのかもしれない。
原作では、大前田英五郎に惜しまれながら勢五郎は命を落とし、報われない結末となる。虚しく終わる笹沢世界は、小説内では健在であった。 

 

●第34話 「和田峠に地獄火を見た」
この作品は全くのテレビ用のオリジナルである。表題はいかにも笹沢作品である。「中山峠に地獄を見た」という笹沢作品があるが、本当にややこしい。笹沢氏が監修しているということで、「九頭竜に折鶴は散った」と同じく原作はない。「九頭竜に……」は、福井テレビからタイアップしたいという希望があったから……という経緯があるが、こちらはなぜ?原作が底をついた感がある。この回以後の作品はあと四話。
第37話 「冥土の花嫁を討て」に至っては、1月下旬に「小説現代」に掲載され、放送が3月下旬という一番スレスレの状態である。翻案するにも他作品が見あたらなかったようである。それならば、いっそのことということで作られたのではないだろうか。脚本は菊島隆三氏。「女郎蜘蛛が泥に這う」の脚本も手がけておられる。
名主の喜右衛門の嫁、さと役に「市原悦子」女史。本シリーズでは「見かえり峠の落日」以来2作目である。市原女史と中村氏は同じ俳優座に所属していたが「はんらん狂騒曲」上演と共に俳優座を脱退する。いわゆる同志の関係である。名主のご新造さまということもあり、上品な着物である。「見かえり峠……」では、出戻り娘(?)の役で妹の祝言に向けてなにかと采配をふるうしっかり者。今回は母親役である。眉を落としお歯黒という当時の風習通りであるが、それだけに何かしら表情にとらえどころがなく不気味。
名主の喜右衛門の屋敷から怪しい渡世人が出てきて、匕首を門口のお札に突き立てるところから話が始まる。何やら不穏な出だしである。近在を通りかかった一人の渡世人が理由もわからず殺され、所持していた煙草入れと火打ち袋を盗られる。たまたま通りがかった紋次郎に、煙草入れを盗られたことを告げ、息絶える渡世人。最期の言葉は、「渡世人はいつかどこかで、こんな目に遭うんだねぇ。」紋次郎はその言葉をかみしめるように聞き、楊枝を吹き鳴らす。憂いのある横顔には、野垂れ死んだ渡世人と我が身を重ねるかのような風情が漂う。
喜右衛門からの依頼で渡世人を殺したヤクザの音松は、その褒美として十手を預かる。「二足草鞋」の説明が、芥川氏のナレーションで入る。「二足草鞋」が登場するのは「見かえり峠の……」と今回で2回目。「同じ穴の狢」を使って、犯罪者を取り締まるというものであったが、罪を見逃す代わりに金を無心したり、罪もない者をしょっ引いたり、と「二足草鞋」は民衆からは嫌われていた。もちろん紋次郎も嫌っている。
名主の邸宅はいつもながら、しつらえが重厚である。台所で使用人の老婆が居眠りをしているが、この婆さん「九頭竜に……」の小春が身請けされ、店を後にするとき見送った婆さん。竈で煙草入れと火打ち石袋を燃やす、さと。このセットは「錦絵は……」でも使われていたかもしれない。立派な仏壇も見える。
紋次郎は煮売り屋でほうとうを食べ終え店を出たところ、音松たちに囲まれる。渡世人殺しの下手人だと言われるが、言い訳は通用するはずもなく紋次郎は応戦する。音松は紋次郎に、罪をかぶせようとしている。明らかに十手風を吹かすということだ。
名主の娘「加代」は祝言を控えているが、実は作男の定吉と恋仲であり、忍ぶ恋という設定。その加代は定吉と参拝に行く途中何者かにさらわれる。さらったのはアバンタイトルに出てきた渡世人らしい。殺された渡世人は人違いをされたようである。
加代はその渡世人から、我が身の呪われた出生の経緯を知らされ愕然とする。自分は父親が女中のお町に生ませた娘であること。その時、母親であるさとも手を貸したということ。お町は手切れ金を渡され、里帰りした三日後に死んだこと。
呪われた出生と言えば「女人講の……」を思い出す。ただ「女人講の……」は招かれざる客だったが今回の加代は招かれた客である。後継ぎが必要とされる名主の家柄であるから、子どもを授からないというのは大きな問題であるがひどい話である。
加代をさらった渡世人佐太郎は、脅迫文を送りつける。音松は殺した相手が人違いだったことを知り、焦る。喜右衛門は苦しいときの神頼み。神様もこんなときばかり担ぎ出されるのも迷惑な話だ。
加代がさらわれて押し込められた木こり小屋に、紋次郎は偶然たどり着く。佐太郎が殺された渡世人と同じ煙草入れを持っているのを見て、紋次郎は立ちはだかり問い詰める。普通なら、娘を助けるという行為が優先されるのだが、紋次郎は違う。理由もなく、後ろから襲われた渡世人の方に、思い入れがあるのだ。「自分じゃない、音松が殺した」と明かして、佐太郎は加代につかみかかる。娘とは関わりがないとは言ったが、紋次郎は佐太郎を制止する。いくら何でも娘を見捨てることはやはりできない紋次郎に視聴者はほっとする。
佐太郎は紋次郎に斬りつける。降りかかった火の粉は払わねばならず、紋次郎は佐太郎を殺し、結果的に加代を助けることになる。紋次郎はこの後尋ねられもしないのに「上州生まれの、紋次郎と申しやす。」と自分から名乗る。およそ紋次郎らしからぬところである。その上、「斬るつもりはありやせんでした。」なんでそんな言い訳じみた言葉を口にするのだろう?この台詞にも紋次郎らしからぬところがある。
これも普通なら、加代を家まで送り届けるのが筋だろうが、紋次郎はこのまま去ろうとする。あてはないが、この土地から離れるだけと答える。「二足草鞋」が自分を追っているという厄介さから逃れるためである。「二足草鞋」がどれほど理不尽で執念深いかを、紋次郎は経験上よく知っている。
加代は自分の出生にショックを受け、「家に帰りたくない、このまま私をどこかに連れ出してほしい」と紋次郎に頼む。紋次郎でなくても言うだろう……「お断り致しやす。」この展開は「錦絵は十五夜に……」とよく似ている。自分の境遇を恨み、どこか誰も知らないところに連れて行ってほしい……誰が考えても夢物語である。
やはり加代は純で世間知らずなお嬢様だ。自分をさらった佐太郎と同類の渡世人に頼むようなことだろうか。それとも短時間に紋次郎の人格を加代は読み取ったか?
「あっしには関わりねえこって、御免なすって。」紋次郎は加代を置いて足早に去る。
加代は小走りでついてくるが、歩をゆるめることなく進む紋次郎。しかし後ろの気配がなくなったことを感じ取り、踵を返す。関わりないと言いながらも、やはり気にしているのだ。うずくまって泣く加代に「家に帰るのが分別ってもんでござんすよ。」と諭す紋次郎に、大人の男の優しさを感じる。
「放っておいて、自分の好きなようにするから。」の答えに、紋次郎はまた先を進みかけるが、再び後ろを振り返る。虫の知らせか、さっき別れた場所に駆け戻ると加代の姿がない。加代は崖から身投げをしたのだ。紋次郎は急いで崖を駆け降り、加代を助ける。このあたりは「見かえり峠の……」と全く同じシチュエーション。
急な崖を降りるシーンは、ファンとしてはヒヤヒヤするものだ。草鞋がけの足もとで、尖った石や木の根などが覆う崖を一気に降りるのだから、危険が伴うはずだ。踏ん張る脚力とバランス感覚、そして何より勇気が必要だろう。
紋次郎は加代を炭焼き小屋に運び介抱する。ついて来ることを拒んだ一見冷たい紋次郎だが、加代の思い詰めた娘心に少なからず心が動く。紋次郎とは全く別の世界に育った娘である。紋次郎が味わった貧しさや飢餓、惨めな生活などとは縁のない裕福な娘であるが、心の哀しみには貧富の差はない。
しかし、介抱のために手ぬぐいを濡らしに川に降りたところを、紋次郎は音松たちに拉致される。いくら腕が立つとはいえ、長筒の鉄砲で狙われては従うしかない。
一方名主宅では気をもむ喜右衛門に、さとが「そんなに気に病まず……」とお茶を勧める。喜右衛門は悠長に構えるさとに怒り「腹を痛めた娘じゃないから、お前は心配じゃないんだろう」とののしる。その言葉に無表情だったさとは一変する。喜右衛門は女を道具としか考えていない。名主の血筋を絶やさないためなら、人の心など微塵にも顧みない。さとは積年の哀しみやくやしさ、辛さを一気にまくしたてる。喜右衛門の返事は、さとの頬への平手打ちのみ。まあ、そういうことだろう。この男には、返す言葉などあろうはずがない。
土蔵では紋次郎へのリンチが行われている。「加代の居所を吐け。」とめった打ちにされるが、口を割らない紋次郎である。音松たちもあの川岸の周辺を捜索したら、すぐに見つけられたろうになあ、と思うのだが……。やはり捜索は「足で稼ぐ」が基本であろう。
「どっちみち殺されるんだったら、言ったってしかたねえや。」道理である。居場所を答えたら、その場で殺されるに違いない。しかし紋次郎は、時間を稼ぐために口を割らないのではない。
一つは加代自身の宿命、「生まれ落ちた哀しみ」への共感。紋次郎としては、この哀しみに打ちひしがれた加代を、もう少しそってしておいてほしいという気持ちがあったのではないか。生まれ落ちた哀しみという部分においては、紋次郎の出生と重なる部分も大きい。確かに紋次郎も自分の出生を知らされた時のショックは大きかった。以来口をきかない子どもになったぐらいだ。
そしてもう一つは「二足草鞋」への嫌悪感だと思う。何の落ち度もない渡世人を、闇討ちという卑怯な方法で殺した音松が許せないのだ。アバンタイトルで、野垂れ死んだ渡世人と自分の行く末とを重ね、楊枝を吹き鳴らした紋次郎。無常観漂うストーリーのオープニングであるので、やはり比重は大きい。そしてもう一つ重ねたいのは、その卑怯な音松を操る名主への憎悪。十手片手にお上の威信を振りかざす、家系存続のため使用人の将来をつぶす……どれもこれも権力に裏打ちされた暴挙である。口には出さないが意地でも吐かない。無言の抵抗である。
私としては、加代に対する想いと、理不尽に殺された渡世人への哀れみとの比は、4対6ぐらいだと感じている。普通の感覚なら、加代に対する同情がほとんどを占めるだろうが、私の中での紋次郎はもっとクールである。これについては観る人によって感じ方が違うので、個々の受け取り方に委ねたい。
意地でも絶対口を割らない紋次郎に、リンチを加える側が疲れてしまい、紋次郎は土蔵に監禁される。息が白くなるほど冷え込んだ土蔵の中、上半身の着物は脱がされたまま、柱に縛り付けられた紋次郎はぐったりしている。そこへ加代が心を寄せているこの屋敷の作男、定吉が忍び込んで、「加代の居所を教えてくれたら逃がしてやる。」と持ちかける。いぶかしげな紋次郎に、定吉は真相を明かす。
幼なじみの定太郎に、加代を掠わせたのは自分だと告白する定吉に、紋次郎は「見当はついておりやしたよ。」と、平然としている。私としては「えーっ!」である。どんな見当がついていたのだ?この定吉とは初対面ではなかったか?ということは、因縁のあるお町の関係者の仕業ということは察知していたということか。恐るべし、紋次郎の推理力である。
復讐のために我が身を偽って近づき、機会を窺っているうちに娘と恋仲になってしまう……というのは「女人講の……」とよく似ている。女人講の巳之吉も今回の定吉も、娘を愛してしまい復讐することをあきらめようとする。定吉の打ち明け話でいくと、加代とは親子ほど年が離れていることになる。話の設定としては年齢的にぎりぎりという線か。定吉は加代に情が移ってしまい、自分の手では実行できないので人に頼んだというのだ。定吉は加代を掠ってから一体どうしようと思っていたのだろう。何か釈然としないものがある。
この土蔵の中の照明効果がすばらしい。月明かりが入り、室内に黒い影が落とされる。傷ついた紋次郎の体が痛々しいが、光と影が本当に美しい。
「大映京都流の照明とは、多くのテレビのような、画面を見やすくするための照明ではなく、むしろ、描線を淡くさせる照明であり、それは画面を自然の情感に近づけるためのものである。そしてもう一つ、映像京都には大映以来の伝統で、撮影部にも照明部にも「魅力的な黒」こそが時代劇の画面を引き立たせるというポリシーがある。(中略)カメラマンも照明技師も、「自分なりの黒」を作れたときに初めて一人前なのだという。『木枯し紋次郎』の画面もまた、「魅力ある黒」によって引き立っている。夕景の河原で風になびくススキの黒、遠くに見える山々の黒、月明かりに照らされた土壁の陰にできる黒、行燈に照らされた人物の影の黒……。」
映像の中での黒は、本当に重要であることがよくわかる。
定吉も土蔵に閉じこめられてしまい、やむなく土蔵に火を放つ定吉。火が燃え上がる中を脱出するシーンは、他に「土煙に……」と「獣道に……」にある。燃え上がる屋敷、逃げまどう使用人、半狂乱の名主夫婦。半鐘が鳴り響く中、紋次郎は音吉たちを斬り捨てていく。セットでの撮影だが、樹木が生い茂り違和感がない。あんなに痛めつけられてぐったりしていた紋次郎だが、長ドスを手にすると見違えるほどの体の動きである。屋敷の中から出入り口をフレームとして、殺陣シーンが撮影されている。
遠くに屋敷が燃え上がるのが見え、定吉が加代を背負い紋次郎と歩いている。定吉は、加代を自分の郷里に送り届けてほしい、自分は番所に行くと言う。加代は定吉の背中で「紋次郎さん、あたしや……定吉はどうしたらいいの?」と尋ねる。「甘ったれるんじゃありやせんよ。……加代さん、おめぇさんはあの火付けは、木枯し紋次郎の仕業だと言いてぇんじゃねぇんですかい?」「あっしのような者に、シミ一つ増えたところで、あっしには関わりのねぇことでござんすよ。」紋次郎の声はいつになく、低く虚しい響きがある。ゆっくり振り返り、加代の顔に向ける紋次郎のまっすぐな視線に、加代は思わず目をそらす。紋次郎に見透かされている心の内を、否定することもない。
堅気の者のエゴなど、紋次郎にとっては珍しくもない。無宿人は人間としての扱いをされないのはわかっているが、あまりにも哀しい。紋次郎はおもむろに顔を上げ、楊枝を虚空に向かってまっすぐ飛ばす。いつもは何かに向けて飛ばすのに、今回は虚空。諦観の境地である。動きかけた定吉の足許に楊枝が突き刺さり、二人は身動きを止める。楊枝は『結界』となる。堅気の二人と紋次郎とは、所詮住む世界が違うのだ。紋次郎は二人に背を向け去っていく。翻る合羽の風切り音が寂しく、チラリと見える錆朱色の鞘が、薄暗い映像の中印象的である。
今回も前回に引き続き、恋仲の二人は生き残る。今までのパターンでいくと、少なくてもどちらかは命を落とすことが多かった。ハッピーエンドとはいかないが、とにかくこの二人は手に手をとって生き延びるのだろう。紋次郎が罪をかぶるにしては、火付けはあまりにも重罪である。本当に理不尽で、割に合わない。
エンディングのシーンは手ぬぐいを川で洗う、合羽を繕う、雨の中での斬り合い、うどんを掻き込む……紋次郎の日常シーンが、去りゆく孤影と重なり合う。改めて、紋次郎は一人きりなのだと痛感し、泣けてくる。学生の頃、授業で習った「咳をしても一人」を思い出した。他の詩は忘れたが、これだけは覚えている。
利用され、裏切られ、疎まれる……宿命とはいえいつも報われず、紋次郎の独り旅は今日も虚空の下で続く。 

 

●第35話 「雪に花散る奥州路」
表題作の他、「狂女が唄う信州路」「木っ端が燃えた上州路」「峠に哭いた甲州路」が収録されている。三作品は既に放映されており、最後に残ったのがこの作品である。
笹沢作品には、何人か紋次郎とよく似た渡世人が出てくる。今回、原作に出てくる渡世人は「二本桐の武吉」。二本桐というのは武吉の生まれた土地の名である。しかし、左腕にある二本の入墨に刀傷があるので、「にほんぎり」とも噂されるような、貫禄ある凄腕の渡世人である。今回はこの武吉が紋次郎に翻案されている。「雪に……」と表題にあるぐらいなので、撮影や放映時期には限界がある。今回と次回作「雪燈籠に……」は、やっと日の目を見たという感じだ。
話の展開はほとんど同じだが、出だしと結末が違う。アバンタイトルは、雪に覆われた崖を滑り落ちる紋次郎の姿から始まる。かなり長い間、滑り落ちるシーンがロングショットで撮られている。危険なシーンであるが、多分スタントマンではなく中村氏本人だと思われる。白い雪に朱い血がにじみ、紋次郎が負傷しているのがわかる。
気がつくと布団の中。「越堀の仁五郎」の家に担ぎ込まれ、その娘のお絹に介抱されている。猪に襲われ、右腕を牙で突かれ崖から落ちたのを助けられたとのこと。体を起こし長ドスを抜こうとするが、痛みに顔をゆがめる紋次郎。紋次郎、ピンチ!から始まる。
原作での武吉は、二十前の若い渡世人に背後から命を狙われての負傷である。高名な「二本桐の武吉」を殺し、名を上げたいと狙う渡世人が大勢いるということであった。猪の牙と長ドスの違いはあれど、右腕が使えないという設定は同じである。
原作の出だしは、湯治場に滞在する武吉に客人が訪ねるところから始まる。傷を癒すために長逗留する武吉の元にやって来るのは「橋場の勘助」であり、テレビ版と同じ。ただ勘助の位置づけが微妙に違う。原作では勘助は時次郎という軍師で、仁五郎の縄張りを狙う「佐久山の竹蔵」の片腕。時次郎は、仁五郎の娘お絹を口説き夫婦になり、ゆくゆくは仁五郎の縄張りを奪う計画である。
仁五郎とは懇意の中で、お絹と所帯を持てと勧められたことがある武吉であるが、紋次郎は違う。仁五郎やお絹に借りをつくらないとこの先の展開はないので、命を助けられる設定が必要だったわけである。実際、当時はよく山道で獣に襲われる旅人は、数多くいたようである。
お絹役に「新橋耐子」さん。色っぽい身のこなしと思ったら、東京の花柳界で育ち小さい頃から三味線を習得とのこと。意外だったのは、中村氏と同じく俳優座の養成所におられたということである。
仁五郎役に「松村達雄」氏。柔和な風貌で、とてもヤクザの親分には見えない。持病のぜんそくを患っていて、身内も少なく落ち目の親分である。なぜか仁五郎は、紋次郎に大変なご執心。自分の跡取りとして、縄張りを譲ってもいいとまで申し出る。風評を聞いたり、何度か賭場で見かけたというだけで、身内でもないし草鞋を脱いだこともない旅の一渡世人にシマを譲ろうとするのだろうか……ちょっと疑問である。
仁五郎が、紋次郎にこの地に留まってほしいと頼むシーン。「火の気があるねぐらやあったけぇ飯、お絹の女心がまんざらでもなかったら、草鞋を雪駄に履き替えてはくれめえか……」グッとくる言葉である。すべて紋次郎にとっては、一度も味わったことがない世界である。辛い旅に疲れ果てた者であれば、誰もが望む生活であるが、紋次郎はあっさり断る。
「あっしの旅は、終わりはねぇものと思っておりやす」「てめぇの寿命を、てめぇで判じられねぇ渡世でござんす」「今日まで生きてきたからって、明日命があるとは限りやせん」「明日も生きてぇと思うようになりゃ、今日を無様に生き延びることを考えるようになりやすよ」
紋次郎の死生観、オン・パレードである。この台詞はほとんど、原作に書かれている武吉の考えと同じである。
原作では、武吉は仁五郎宅にはちょいちょい草鞋を脱いでおり、ウマが合うと感じている。「仁五郎が娘の婿にと考えようと、当のお絹が思いを寄せようと、関係ない」と書かれているが、紋次郎より関係が深いのは確かである。
二晩、仁五郎のもとで養生をした紋次郎は、お絹に見送られて甲州の湯治場に向かうが、その途中に佐久山の竹蔵一家に襲われる。てっきり仁五郎の助っ人だと思われたようだ。紋次郎は右手が使えないので、長ドスを抜くことにも手間取ってしまう。
一方お絹の許には、5年前の恋人であった勘助が戻ってきた。この勘助に「大林丈史」さん。紋次郎ファンにとっては、ある意味有名な俳優さんである。「一里塚に風を断つ」の撮影中にアキレス腱を断裂した中村氏の代役を務めた人である。中村氏より2歳年下、同じく東京外国語大学出身、俳優座……ということで、まるで中村氏の後を追うかの来歴である。代役を務めていたときは、残念ながらキャストとして名前はテロップには出なかった。しかし今回は準主役であり、奇しくも紋次郎と入れ替わる役。心憎いキャスティングである。中村氏よりは若干身長は低く、全体的に一回り小さい紋次郎さんである。
仁五郎は全く勘助を認めないし、「敷居は跨がせない!」と激昂している。三下の頃にお絹を手籠めにしたと怒っているのだが、実際はお絹とは相思相愛の仲だったのだ。お絹は年が明けると24歳になるという。当時であれば、適齢期も過ぎ年増……。結婚に対する焦りもある……そんな折りに紋次郎と勘助がやってきてお絹の心は揺れ動く。とはいえ、お絹と紋次郎はなんの交流もなく「手、一つ握らなかったよ」と言ったとおり。
父親の目をかすめ、勘助とお絹は出会う。このときのお絹の言動が複雑である。勘助のことは好きなんだろうが、心の底では頼り切れていない。まだ三下という気持ちが残っているので、紋次郎の実力や貫禄と比べて口にする。勘助でなくても紋次郎と比べられたら、どんな男でもかすんでしまう。貸元のお嬢さんだけあって、どことなく上から目線。
勘助は紋次郎を連れ戻しに行く……そうしたら仁五郎も自分を見直すだろう。……う〜ん、そうかなぁ。私はそうは思わない。なんで、いわゆる恋敵の紋次郎を連れ戻そうとする?「決着をつけてやる」なんの決着?どちらがお絹にふさわしいか?端から紋次郎にはそんな気はないので決着の意味がわからない。「3日で20人を集める」と豪語する勘助に、「紋次郎なら一人で20人分の働きをするよ」と、思わせぶりなお絹。勘助をうまく手玉に取っている。「紋次郎は生かしちゃおけねぇ」紋次郎にとっては本当に迷惑な話である。自分にあずかり知らないところで勝手に事が進んでいる。
甲州、下部の温泉で湯治をする紋次郎の許に勘助がやってきて、「仁五郎が竹蔵一家にやられてしまう、力を貸してほしい」と頼む。原作ではこのシーンから始まっているのだ。紋次郎は百姓家の物置に寝泊まりし、草鞋を作り湯に入らせてもらっているという。どこまでも質素であるし、リアリティーを感じる。調べてみたら当時の草鞋は一足12文(220〜230円)ぐらい。すぐに履きつぶすわりには結構高額である。
勘助は、自分と紋次郎が入れ替わって旅をするという提案をする。紋次郎は左頬に刀傷。原作の武吉には左腕に二本の入れ墨とそれを断ち切るような刀傷。少し違うが、本人になりきるために、刀で我が身を傷つけるところは同じ。三度笠と合羽を入れ替えて二人は敵地を通り抜けて、野州の越堀まで道中を急ぐ。
遠目で見ると、さすがに代役を務めただけあり、大林さんは紋次郎に見える。というか、やはりあの大きな三度笠と長い合羽のシルエットが、紋次郎を決定づけている。一方勘助の出で立ちは「饅頭笠」に通常の丈の合羽。ファンであっても、遠目からは見分けはつかないだろう。
楊枝をくわえ、「しゃべりにくいもんでござんすねぇ」とはご愛嬌である。代役を務めても、楊枝をくわえて台詞を言うことはなかっただろうから、初めての経験だろう。紋次郎になりきった勘助は実にうれしそう。軽い三下という雰囲気をよく出している。たった2歳しか紋次郎と歳が違わないのだが、貫禄には大きな差がある。
道ばたでヤクザに絡まれている男を、紋次郎だとひけらかして助けてしまう勘助。自分に酔った義侠心を振りかざす勘助に、紋次郎は釘を刺すがあまり効いていない様子。その後の二人の会話の中で「命の洗濯」という言葉が出てきて、紋次郎が「飯盛女ですかい?」と口にする。紋次郎の口からこの手の言葉を聞くと、ドキッとしてしまう。
「女を抱いちゃあ、ドスを抱いて寝ることはできやせん」「女は信用できやせん」名言である。勘助の声は明るくはつらつとしているが、紋次郎の声は低くくぐもっているのが対照的である。
野木宿に宿をとる二人。布団を敷きに来た出居女と勘助は一夜の約束を取り決めたようであるが、紋次郎は自分の夜具を隣の部屋に引っ張り込んで一言。「人は人、手めぇは手めぇと思っておりやすんで……」良かった……こうでなくてはいけない。正しい紋次郎の生き方である。
実際、野木宿のような小さい宿場でも、話をつければ一夜妻に不自由はなかったようである。原作では「女は信用できねぇ」の言葉通り、勘助の相手をした女は敵方に通じており、紋次郎たちの動向は筒抜けだった。
先を急ぐ二人に追っ手が前後に付き、いつの間にか周囲は雪景色となる。追っ手が紋次郎たちを取り囲み威嚇する。勘助の腕はからっきしだと聞いている紋次郎は、勘助に長ドスを抜かせたくない一心で芝居を打つ。屈辱的な仕打ちを受けながらも紋次郎は自分が勘助だと言い張り、勘助をかばおうとする。テレビ版だと時間の制約があるのでこのシーンだけで終わるが、原作はもっとひどいモノがある。一度目は熱い甘酒を手の甲にかけられ、八方から蹴られる。二度目は顔に唾を吐かれ、草鞋で踏みにじられる。挙げ句の果てに十人もの男の股をくぐれと強要する。武吉はひたすら我慢する。これも勘助のため、いや仁五郎のためである。命を助けてもらった恩義に報いるため、痛みに歯を食いしばり屈辱に耐える。
隙を見て二人は雪の中を逃げる。テレビ版での勘助は、三下時代の屈辱的な扱いを思い出し口にする。10歳の時父親が行き倒れ、勘助は仁五郎一家の三下となる。奇しくも紋次郎も10歳の時、故郷を捨てている。勘助はとにかく、一人前の渡世人になりたいのだ。腕と度胸のある渡世人になって、仁五郎やお絹に認められたいのだ。この設定は原作とは随分違う。
原作の勘助の実の名前は「橋場の時次郎」。仁五郎の縄張りを狙う竹蔵一家の軍師である。竹蔵は仁五郎に武吉がいる限り、なかなか手出しができない。そこで時次郎はお絹を口説き落とし、婿に入って縄張りを奪おうと策を弄する。原作ではその経緯が明るみに出て、どんでん返しとなる。またお絹は時次郎とのことを父の仁五郎にばれて、家に閉じこめられ会えないことを苦にして首をくくって死んでしまう。
雪景色が美しく、遠景は墨絵のような風情である。一面白い雪の中、渡世人たちの姿がシルエットとなる。佐久山の竹蔵役に「戸浦六宏」氏。「木枯しの音に消えた」以来の登場である。竹蔵は「仁五郎が喘息で死んだ。お絹も世を儚んで首をくくった。」と口にする。勘助の驚いた顔……一方紋次郎は表情を変えず対照的である。怒り狂った勘助は竹蔵一家に斬りかかっていく。竹槍が四方八方から繰り出されるが、なかなかのドスさばき。「腕は、からっきしダメ」と言っていたが、敵と戦う姿は違う。
紋次郎はその様子をじっと見据えていたが、一人で大勢の敵に向かって行った勘助の心意気に触れ、左手で長ドスを抜き竹蔵と対峙する。戸浦氏の今回の出番は少なく、雪原に赤い血をまき散らし敢えなく命を落とす。
今回の紋次郎の殺陣は、利き腕でない左の逆手でドスを振り回す。遠目で見るとまるで「座頭市」の殺陣のようだ。雪がかなり深く、足さばきも重いはずであるが、紋次郎の動きは止まることがない。
何人かは雪の上に倒れ、残りの3人は這々の体で逃げていく。そこへ、殺されたかと思った勘助が無事に現れる。自分は「橋場の時次郎」という流れ者で、世話になった仁五郎に恩返しをするために舞い戻ったが、未だに三下扱いである。紋次郎を倒さないと自分はいつまで経っても三下のままだと言う。勘助はお絹とのことで仁五郎から破門され、修羅場をくぐる5年間の流れ旅で、腕を上げたのである。勘助から時次郎に、名を変えて旅をしていたということになる。どう考えても、勘助より時次郎の方が「強い名前」ではある。勘助という名前には貫禄は感じない。
仁五郎もお絹も死んだ今となっては、あてというものもない。紋次郎を斬ってそのまま成り代わるというのも面白い……と時次郎は紋次郎に挑む。
この5年間は、仁五郎に腕と度胸のある渡世人になったと認めてもらい、晴れてお絹と所帯を持ち、越堀一家を盛り立てようという一念で修行を積んだのだろう。しかし水の泡である。明らかに自暴自棄に陥っている。
「三下に木枯らし紋次郎を名乗らせる訳にはいかねぇ」紋次郎のかっこいい台詞である。「あっしが猪の牙で傷を負ったことは医者にも口止めしたはずだ。それをなぜか佐久山の竹蔵は知ってたぜ。このからくりに気づかねぇおめぇは、やっぱり三下だ。」
この「三下」という言葉に勘助は怒り心頭である。「バック・トゥー・ザ・フューチャー」で「チキン!」と呼ばれる度に頭に血が上るマーフィーと同じ。
原作では時次郎は三下とは呼ばれていないし、武吉と名乗りたいとも思っていないので、テレビ版だけの思いつきである。斬り合っている最中、遠くに女の人影。死んだはずのお絹の姿である。「勘助ー!」と叫ぶ声が耳に届いたか……、その時、勘助は紋次郎のドスに倒れる。お絹は生きていたのである。口から出任せの竹蔵の言葉を真に受け、勘助は命を落としてしまう。
紋次郎の傷の事を吹聴したのはお絹。負傷した紋次郎に竹蔵を向かわせ、紋次郎に斬り捨ててもらい、勘助の手柄にさせようとした。そうでもしないと父親は、勘助を認めないだろうとお絹は言う。傷を負っていても、紋次郎には竹蔵一家を倒す力があると踏んでいたのか。そうなると一緒にいる勘助にも危険が及ぶのだが……。この展開は釈然としない。
原作でのお絹は一切言葉を発していないし、存在感は薄い。裏切り行為もない。しかしテレビ版では女優が必要であり、何らかの形で裏切るというストーリーにしないといけないので、お絹にスポットを当て展開や結末を変えている。
勘助に紋次郎の影をちらちら見せて、焼き餅を焼かせ奮起させようとしたお絹は、なかなかの策士だった。原作では時次郎が策士だったので、逆の立場であるというのも面白い。結局、「策士、策に溺れる」ということになった。見方によっては、「ロミオとジュリエット」の悲恋にも近いが、お絹はジュリエットのように、命を絶つことはしないだろう。紋次郎の楊枝をへし折るぐらいの気の強さである。
「勘助さんは、まるで獣みてぇに奴らに斬りかかっていきやしたよ。おめぇさんが首をくくっって死んだと聞かされたからでござんしょう。」紋次郎は、勘助の気持ちを痛いほどわかっていたのだ。冷たい、薄情者、といつも思われがちな紋次郎だが、人の哀しみをすくい取る心を本当は持っている。愛する者をなくすことの辛さは、紋次郎も姉のお光をなくし経験している。
「明日になったら血で雪を真っ赤に染めるのは、あっしの番かも知れやせんよ」風で飛ばされかけた勘助の笠を紋次郎は楊枝で留める。紋次郎は、お絹の視線を背中に感じながら去っていく。
原作では何十人もの渡世人を相手にした武吉だが、時次郎から頼まれたお絹の墓参りの折に、中年のしがない渡世人に命を狙われ差し違えて命を落とす。「鮮血が点々と雪の上に散り、それが深紅の花弁のように見えた。」表題に繋がる記述であり、あまりにあっけない主人公の最期であるが、そこが笹沢氏らしい死生観であろう。
テレビ版の紋次郎の姿は、降りしきる雪の向こうに消えていく。この雪は実に自然に見えるが、人工雪なのだろうか。紋次郎が進む先は、まるで水墨画のような林と山。実に寂しげではあるが、人を拒むような美しさでもある。
寒々とした冬空と色彩のない地上の境目を、独り去る紋次郎のシルエットは、雪景色の一部となる。 
雪に花散る奥州路
「あっしの旅には、終りはねえものと思っておりやす。てめえでてめえの寿命を判じられねえ渡世でござんす。今日まで生きてきたからって、明日の命があるとは限りやせん。明日も生きてえと思うようになりゃ、今日無様に生きのびることを考えるようになりやす」
雪の山道でイノシシに襲われ倒れていた紋次郎は、奥州街道の野州越堀の仁五郎親分の娘の絹に救われる。喘息もちの親分に、旅の渡世人もいつかは旅を終えなくてはならない、そのとき自分の跡目を継ぐことを懇願された。そのときのセリフです。いつもの紋次郎の死生観。
タイトルを見てわかるように街道シリーズ「雪に花散る奥州路」に収められた表題作です。原作の主人公の渡世人である二本桐の武吉を紋次郎に置き換えています。上記のセリフは、原作では説明しています。
以前の回にも語ったことがあるかと思いますが、明日もあると思わず、今日できることは今日済ませてしまう。それを信条に仕事に向かうと、惰性でない生き方ができます。
とは云っても、残業してもその日のうちには片付かない仕事もあります。それはしかたありませんので、処理スケジュールを作りましょう。そのときのポイント。余裕をもったスケジュールにすること。計画が達成できないことがストレスになってしまいます。逆にスケジュールより先行できることで余裕が生まれ、精神的にもよい。
ついでながら、複数の仕事を抱えてしまったときのポイント。重要度より難易度(とくに時間)を基準として、時間面で早くかたづけられる仕事から着手します。
仕事の数の面からも次々と処理され減ってゆくので、精神的にゆとりが生まれ、ミスも減ります。ぜひお試しあれ。 

 

●第36話 「雪燈籠に血が燃えた」
原作では比較的早い時期に書かれた作品で、本来なら第1シーズンで放映されてもおかしくない。しかし季節的に合わなかったようで、この第2シーズンの雪の季節まで温存されてきた感がする。話の展開はもとより、雪の風情が気に入っている作品である。前回に続き、雪景色が美しく目に焼き付いてしまう。原作とテレビ版とはほぼ同じ進行であるが、若干テレビ版の方がふくらみを持たせている印象がある。
ヒロインのお春役には「宇都宮雅代」さん。紋次郎シリーズでは事実上、記念すべき第1作目のヒロインに抜擢された女優さんである。「地蔵峠の雨に消える」では憂いある人妻役で、紋次郎がポッとなってしまうくらいの美貌の持ち主。今回は、結婚適齢期を過ぎた寂しげな村娘役である。「地蔵峠の……」では青いアイシャドーが印象的だったが、今回はさすがに村娘なので素顔に近いメーキャップである。素朴な美しさも魅力的である。
オープニングから寂寥感のある雪景色が美しい。
「一夜限りの雪だった。宵の口から降り出して、翌朝日の出前にはやんでいた。気紛れ女の一夜の浮気のように、激しく降ってあっさりと上がった。牡丹雪であった。」
芥川氏の名調子である。原作と同じナレーションだが、実に趣がありしっとりとしている。「気紛れ女の一夜の浮気のように」……雪の表現でこんなたとえは、読んだことがない。笹沢氏の大人の書きぶりには参ってしまう。
紋次郎は立ち寄った一膳飯屋で、村の者が「昨夜、塩の荷駄から四俵だけ盗まれた」という、うわさ話をしているのを耳にする。いくらにもならない塩を盗むなんて不思議な話だ、というところから始まり、これが最後にはなるほど……という結末になる。
居酒屋から飛び出してきた男に紋次郎はぶつかり、そのはずみで長ドスの「こじり」が女の腰に当たる。女はうずくまり、幼い男の子が「ねえちゃん!」と叫ぶ。このときの紋次郎の台詞がまたかっこいい。
「このままでようござんすかい」「もののはずみというものでござんした。許してやっておくんなさい」
紋次郎はいつもきちんと謝罪する。相手が誰であろうと誠実に謝るところは実に謙虚である。
飛び出して転がった男は宿場人足で、凄みを効かそうとするが、相手が木枯し紋次郎と気づくと怖じ気づく。紋次郎は歩き出すのだが、女が気になり振り返る。ここがまた紋次郎らしい。「このままでようござんすかい」と念を押したが、やはり気になるのだ。うずくまったままの女を目にした紋次郎は、少し逡巡するが引き返し、女の前にしゃがみ背を向ける。
この後の紋次郎の台詞がまた痺れる。「遠慮はしねえで、おくんなさい。あっしに関わりのねえことなら、こんな真似は致しやせん」「手めえの不始末に、カタをつけるだけでござんす。さあ……」
私も含めて、女性ファンなら誰もが紋次郎に背負われることを夢見る。あの肩幅があり頼もしい広い背中に、自分の体を預けることができるのなら、骨の一本や二本、折れたっていい……と思うほどである。(少し大げさですが)
紋次郎は、自分に関わりがないことについては、「あっしには関わりのねえことで……」と足早に去っていく。しかしひとたび、自分のために何か事が起こったときは、律儀なほどに関わり、自分の得心のいくまでやり遂げる。「あっしには関わりのねえこって」の台詞が一人歩きして、薄情で利己的なように一般では思われていた紋次郎だが、それについては絶対に違うと声を大にして言いたい。
紋次郎は軽々と女を背負い、いつもと変わらない速さで歩く。実に頼もしい。秀坊と呼ばれた子どもが、またかわいらしい。黒目がちの大きな目で、色白の愛くるしい子役である。今までに子役は何人か出てきているが、この子はどこか垢抜けた感じがする。原作には「色が白く、目がパッチリと大きかった。京雛のような顔で、愛らしかった。」と書かれており、イメージそのままである。
居酒屋から宿場人足たちが顔を出し、女を背負っていく紋次郎を見てあざけり笑う。「あれが紋次郎かい、ざまぁねぇや!」その内の一人はさっきの男、留造。「山谷初男」氏である。随分昔、京都の「宵々山コンサート」で山谷さんの「秋田音頭」を聴いたことがある。秋田弁がぴったりの風貌で、土のにおいがする庶民的な役者さんで、とても楽しいコンサートだった。もう一人はおなじみの顔「山本一郎」氏。何度目の出演だろう。もしかしたら紋次郎シリーズでは最多出演かもしれない。このお二人、どう見ても根っからの悪人には見えない。
女は「お春」という名前で、紋次郎の背中で身の上を話す。語り口は原作とほとんど同じである。紋次郎は、秀坊が母親をなくしていることを言い当て「自分にも身に覚えがある」と話す。明らかに自分の生い立ちと重ねている。
原作にはない台詞「母親をなくした子どもって、やっぱりわかりますかねぇ。あんなになついているようでも……」と、寂しそうに口にするお春に、「気にしないでおくんなせぇ」と紋次郎が答える。自分とよく似た境遇である秀坊だから、紋次郎はよくわかるのである。
秀坊はお春の姉の子であるが、正式に夫婦にもなっていないのに生まれた子どもである。父となる男は行方をくらまし、秀坊の母親は産後の肥立ちが悪く死んでしまった。それが不憫で、お春は母親代わりをしている。村でのお春一家に対しての風当たりは強そうである。封建的な村人にとっては、ふしだらな家だと映るのであろう。
雪の中、紋次郎の前を遮るようにはしゃぐ秀坊をたしなめるお春に、紋次郎は珍しく自分からしゃべる。「放っておきなせぇ。親のない子は人目につくことをしたがるもんだ」「旅人さんもそうでした?……気に障ったらごめんなさい」このあたりの台詞も原作にはない。
親のない子だけではない。寂しい思いをする子はよく目立ったことや、人を困らせることをする。いわゆる「注目反応」と呼ばれるもので、総じて「構ってもらいたい」のである。叱られてもいいのだ。それさえも、自分に意識が向いている証だと思ってしまうのだ。今の世の中、このタイプの子どもが実に多いように思われる。
テレビ版での秀坊は、紋次郎によく話しかける。そして紋次郎も口数少ないがそれに答えている。しかし原作の紋次郎は、秀坊が笑いかけても愛想の一つもなく無表情である。紋次郎は小さい子どもは苦手である。苦手というか、深く関わってしまうと思い入れが強くなるに違いないので、あえて敬遠している。思い入れが強くなるというのは、やはり自分の生い立ちのトラウマからくるものだろう。
雪の中、お春を背負って歩く紋次郎の背景は水墨画のような雪景色である。背景をうまくぼかし、近景と遠景とのコントラストをつけている。雪の中、何もなく誰もいない。三人の姿だけがポツンと見える。
武石村に着き、雪燈籠が並ぶ。この光景は屋外セットである。「おいら一人で作ったんだ。おいらの雪燈籠だ」と、秀坊は自分の雪燈籠を見せる。父なし子は白眼視され、子どもの世界でも仲間はずれにされるのだと、お春は言う。
「おめぇさん、あの子の母親で終わるつもりですかい」「さあ、わかりません。姉が姉なら妹もと思い込むのが世間の目ですから……」(テレビ版より)
紋次郎が、女の行く末を尋ねるということは性格上珍しいことだが、テレビ版では台詞に入れないと説明がなされないので敢えて入れたのだろう。
お春の家はロケ地での家屋であろう。茅葺きの屋根の向こうにうっすらと雪をかぶった山が見える。お春の母親が煎餅布団にくるまって寝ており、手前には糸車の黒いシルエット。向こうはすすけた障子紙の障子。百姓家のリアルさは、美術さんの凝った仕事ぶりである。雪明かりとも言えるうっすらとした外光、障子にお春の影が映る。
お春の母親、お鹿婆は紋次郎に礼を言い、「泊まっていけ」と勧める。「折角のお言葉ですが、アテのねえ旅でも急がずにはいられねえ性分でして……」紋次郎らしい台詞である。お春は一言も泊まってほしいとは言わないが、何かもの言いたげな風情ではある。
その時秀坊が紋次郎に紙切れを持って来る。「命をもらい受ける。今夜にでも、そこを襲うから覚悟しやがれ。金の字」という文言が目に入る。紋次郎は一読しただけで紙切れを丸める。紋次郎は字が読める……以前から字を読むシーンはあったが、比較的長文を素早く読める能力を備えている。謎の渡世人の影がチラリと見える。これで2回目。
珍しく芥川さんのナレーションで紋次郎の胸の内が説明される。「全く身に覚えがないことで、金の字というのにも心当たりがない。今夜にでも襲われたらお春や秀坊に迷惑がかかるから、家を辞した。」という内容である。「やはり、一か所にのんびりと留まってはいられないのが、渡世人の宿命であった。」という、フレーズで締めくくっているのは原作通り。わかってはいるが、漂流せざるを得ない紋次郎を表していて切ない。
雪燈籠に灯が灯っていて美しい。しかし秀坊の燈籠には灯りがない。テレビ版の紋次郎は、雪燈籠を目にして自分が幼い時をふと思い出す。ちょうど秀坊ぐらいの5歳頃か……。紋次郎の知られざる、幼少時の貴重な映像である。「お姉ちゃーん。」と雪の中、叫ぶ幼い紋次郎の姿。姉、お光の思い出をたぐり寄せているのか。子役の顔は切れ長の目で、紋次郎にどこか似通っている気はする。
「紋次郎に、雪燈籠を作った経験はなかった。それでも、こうした雪燈籠を見ると、子どもの頃のことを振り返ってみたくなる。だが、思い出など、一つも残ってはいなかった。忘れたいことばかりだから、過去のない渡世人であるのだと紋次郎はふと自嘲した。」(原作より抜粋)
原作には、お光についてのことは触れられてはいないが、テレビ版ではかなり比重をかけている。テレビ版での紋次郎の思い出は、必ずと言っていいほどお光と絡めてある。間引かれ損ねたという事実を兄から聞かされ、口をきかない子どもとなり、お光が死んだと聞かされた十歳に、故郷を捨てた紋次郎である。お光との思い出はほんのわずかだっただろうが、紋次郎にとっては幸せな時期だったのかも知れない。
「父なし子でも、母親がいなくても、誰にも相手にされなくても、たったひとりで雪燈籠を作らなければならなかったとしても、いまの秀坊でいられればそれでいい。あとになって思い出すことが一つでもあれば、それが生き甲斐のタシになる。」(原作より抜粋)
「いまの秀坊でいられればいい」……ささやかな希望といえるが、それさえも哀しく叶えられないとは、その時の紋次郎は知る由もない。
テレビ版では、お春の家の様子が映し出される。秀坊が何かと紋次郎のことを尋ね、興味を持っている様子。口では引き留めたお鹿婆だが、「渡世人には、関わらない方がいい。」と言う。村の者から差別されている者が、また他の者を差別する構図が見られる。
秀坊がお春に「渡世人ってなあに?」と尋ねる。「旅の人のことよ。」と答えるお春。「どうして関わらない方がいいの?」との問いに寂しそうに答えるお春が印象的である。「行ってしまう人だからよ。」お春の切ない気持ちを表しているようだが、これはどうなんだろう。お春は紋次郎に、心を動かされたとみなすべきか?
少なくともお春は、男性に背負われたのは生まれて初めてだろう。初めて出会った男性であっても、優しくされ背負われて…… それも男っぽい紋次郎の広い背中である……ポーッとなるのも当然だろう。紋次郎に恋する……というより、異性に胸ときめかすといった感じだろうか。原作にはお春や秀坊の会話はなく、淡々と話は進行する。原作よりテレビ版は、お春の女心に含みを持たせてある。
そんな折りに「夜明け前にちんじゅの社で待つ」と書かれた付け文が、お春の許に届く。さっき紋次郎のところに、付け文が来たところなのにまた続けて?と思うが、これはテレビ版だけで、原作では既に若い男とお春は逢い引きする手はずが整っているという設定である。
テレビ版では、背負われた紋次郎の首筋から肩にかけての後ろ姿をお春は思い出している。ということは、あの付け文は紋次郎から……とお春は錯覚しているということになる。原作を知っている者としては、「ああ、なんて罪作りな設定に変えてあるんだ?」と思ってしまう。原作では、紋次郎にお春は反応していない。
紋次郎は一晩野宿しようとしている処で、お春をたぶらかそうとしている若い男たちの話を聞いてしまう。「姉も姉なら……」と話す二人の若い男たちの声にいたたまれなくなったか、紋次郎はその場を離れる。お春が騙されるとわかっていながら、紋次郎は関わらない。これは、原作通りである。テレビを観ている者は、薄情だと感じるだろう。
「お春は別に淫乱な女ではないと、歩きながら紋次郎は思った。ただ、焦っているだけなのだ。何とかして、縁付きたいのである。そのためには、多少の欠点がある男でも、あえて身を任せてもいいと思っているのだろう。縁談は、一つもない。二十をすぎて、一つ一つ年をとって行く。それが、何よりもやりきれないのだ。女にとっては、寂しいことなのに違いない。だからこそ、焦った挙句に騙されるのであった。明日の夜明け前、弄ぶつもりの若者にお春は抱かれるのだ。お春には気の毒だが、なるようにしかならないのである。それに、紋次郎の知ったことではなかった。」(原作より抜粋)
一読すると冷たい紋次郎であるが、「なるようにしかならない」のは事実である。たまたまその場に居合わせて、期せずして耳にしてしまっただけである。ここで紋次郎が、この男たちに意見したとしても、お春の将来まで保証はできない。お春の許にとって返し「誘いに乗るな」と知らせたとして、その場だけのことでお春の行く末まで見届けるはずもない。
以前「童唄を雨に流せ」では、おまんにいくらかの金を渡したが、結局おまんは自殺、赤子は道連れだった。紋次郎は、安易なその場限りの情けをかけた自分に腹を立てる。「木枯しに消えた」では、苦界に身を沈めたお志乃の姿を、遠くからそっと見るつもりだけで足を運んだ。紋次郎はその場だけの無責任な情けをかけ、自己満足して立ち去ることはよしとしないのだ。
紋次郎は野宿することはやめ、昼間酔っぱらいの宿場人足が飛び出してきた居酒屋に入る。居酒屋には大勢の男たちが酔っぱらって声高にしゃべっている。塩が盗まれた話や儲け話などで盛り上がっていたが、紋次郎の存在に気づいて気まずい雰囲気でぞろぞろ店を出て行く。その中に昼間の宿場人足、留造も混じっている。紋次郎は店の主人に、一晩、店で過ごさせてほしいと有り金全部を渡す。
眠りについた紋次郎の前に現れたのは「金の字」らしい渡世人。「死んでもらうぜ。」と言うわりに、あっさり姿を消してしまう。紋次郎やお春の様子を、陰から覗っていた謎の渡世人が「金の字」?
その後「金の字」と居酒屋にいた男が密談している。「荷物を、お鹿婆のところに運ぶんだ。」「合点だ。」やはり荷物というのは盗まれた塩のことか?
店の中で紋次郎は考える。「狙いはおれじゃねえ。」お鹿婆、お春、秀坊の顔が浮かぶ。そのとたん、もう紋次郎は立ち上がって店を後にしている。原作では紋次郎の心の動きが詳細に描かれている。
「《余計な世話を、焼くんじゃねえ》紋次郎は、そう呟いた。いつもの自分では、ないみたいだった。何かが、気になっているのだ。(中略)秀坊のことは、あのままそっとしておいてやりたい。紋次郎は、そのことにひどくこだわっていた。秀坊は、不幸な子どもであった。紋次郎の場合とは、意味も違うし形も別だった。しかし、不幸であるという点では、共通しているのである。紋次郎は秀坊の姿に、幼い頃の残影を見出したのであった。《関わりのねえことに、脇目を振るのが嫌いな性分だったはずだぜ》」
塩を担いだ人足たちと「金の字」、秀坊の家に急ぐ紋次郎、家を抜け出して社に向かうお春。それぞれが悲劇に向かって動き出す。
「《秀坊は、おれがあれぐらいのときと、よく似ている》紋次郎は、改めてそう感じた。十歳になってからの自分は、少しも大切にしたいと思わない。だが、もっと幼いときの自分は、別格であった。自分では、なかったような気がするのだった。自分でないことが、貴重であるみたいに思えるのである。」
秀坊は小用のために起き出し、外に出たとたん、「金の字」に斬り殺される。お鹿婆がその物音に気づき雪の上に倒れた秀坊に取りすがって泣きわめく姿を、紋次郎は目にする。遅かった……。
幼子を手にかけておきながら、「もののはずみだ。」とうそぶく「金の字」だが、お鹿婆を「おっかさん」と呼ぶ。正体は、お春の姉を弄ませて出奔した政吉だったのだ。
紋次郎は自分の推理を披露する。政吉は盗人で、塩に盗んだ金を隠して運び、面識のあるお鹿婆のところに運び込むつもりだった。しかし紋次郎が邪魔なので、脅迫文を渡し、立ち退かせた。
紋次郎は猛烈に怒っている。そのためか、いつになく雄弁である。テレビ版の紋次郎は、声のトーンもいつもと違い、感情的である。咥えた楊枝越しに見える白い歯がよく目立つので、かなり語気を強めていることが映像的にもよくわかる。
テレビ版では政吉(ヤマカガシの赤助)から尋ねられる。
「おめえがここまでおれたちを追ってきたからには、それなりの訳があるはずだ。言い分を聞くぜ。」「あっしが塩の中のものを目当てにしているとでの思ってるのかい?」「じゃ、なぜ追ってきた?」
最後の問いには紋次郎は答えない。その訳を言ったところでこの連中にはわかるはずがないし、言って聞かせるだけの値打ちがある輩ではないのだ。その答えの代わりに紋次郎は周りを見渡し、空恐ろしい台詞を吐く。
「おめえたちも容赦はしねえから、そのつもりでいてくんな。」
「木枯し紋次郎は、無益な殺生はしねえって聞いたぜ。」
「それが今は、むやみな殺生がしたくなってんのさぁ。」
その後の殺陣は実に激しい。怒りにまかせた攻撃である。普段の紋次郎は向かってきた敵には長ドスを振るうが、今回は違う。人足たちはドスを振り回しているが、どちらかというと堅気に近い。そんな素人に対して、手加減するどころか文字通り容赦なく殺していく。考えれば金で雇われ、小判を隠した塩俵を運んだだけの男たちである。
紋次郎は、この件に関わってしまった自分にも、相当腹を立てている。それらもひっくるめて、怒りの対象として男たちに長ドスを振るう。BGMは一切なく、刃を交える金属音、合羽の風切り音、悲鳴、雪を踏みしめる音……紋次郎の悲愴感とやり場のない怒りが、リアリティーを持って演出されている。小道具も使わないし、過度な演出もないだけに、余計に殺伐とした虚無感が漂う。
山谷さん演じる留造も斬られ、山本一郎さんも人足たちの中では最後に斬られ、雪の中、ズルズルと身を沈める。
政吉は一人、塩俵を運んでいるところを紋次郎に見つけられ対峙する。
「おめえみたいな野郎でも、死ぬのがやっぱり怖いのかい。」……中略……
「秀坊が誰の子だか知ってるのかい。」
「ここの婆さまの上の娘さんと、おめえとの間に生まれた子どもだ!!」(テレビ版より)
徐々に台詞のトーンにクレシェンドがかかっている。こんなに語気を強めた紋次郎は今までになかった。中村氏の地声は紋次郎のそれとは違うので、かなり意識して低い声を使っている。それが今にもひっくり返りそうな位、声を張り上げて演じている。テレビ版の政吉はその事実を聞き、少したじろぐがすぐに言い放つ。
「おれの子ならなおのこと、生かそうと殺そうと構わねえだろう!」
「女郎蜘蛛が……」でのお甲の台詞とよく似ている。紋次郎は「間引こうと盗人させようと、親なら構わねえと言いなさるんでぇ?」と身勝手なお甲に尋ね、「ああ、決まってるよ。」との答えに、千代松の左腕を斬り落とす。
政吉の答えに「そうかい。おめえは死ななくちゃならねえ人間だぜ。」と、静かに紋次郎は口にした直後斬り捨てる。
原作は、我が子を手にかけてしまったことを政吉に知らせていない。
「紋次郎は自嘲的な気持になっていた。《やっぱり、関わりのねえことに、目を向けちゃあならねえ》紋次郎は自分に囁いていた。関わりのないことに目を向けたばっかりに、秀坊の死を知ってしまった。それだけではない。父親が実の子どもを殺すという何とも言えない場面にもでっくわさなければならなかったのだ。」
原作の紋次郎は、自分の長ドスを使う気にもならず、落ちていた長ドスで政吉を斬り捨てる。まさに、外道を見た気持ちだったのだろう。
秀坊が実の父親に殺された……という事実は、秀坊がかわいそうという単純なものではない。紋次郎にとっては、自分が幼かったときの「自分ではなかった貴重なもの」まで、秀坊と一緒に葬られた気持ちなのだ。
紋次郎は、秀坊が一人で作った雪灯籠の灯を楊枝で消す。文字通り命の灯が消え、紋次郎がかろうじて秀坊に託していた「ささやかな希望」も消えた。
「もう二度と、関わりのないことには目を向けねぇ。」と暗澹たる気持ちで雪道を歩く目の前に、着物をはだけ髷も崩れたお春が現れる。
「家まで、連れてってください……」と訴えるが、紋次郎は「これ以上関わりを持ちたくねえんで、……御免なすって」と、お春を置いていく。お春は雪の上に倒れ、じっと紋次郎の後ろ姿を見つめる。宇都宮さんの、まっすぐな目の表情が印象的である。置いて行かれたお春だが、紋次郎の背中を見つめたままゆっくり立ち上がる。私は立ち上がってくれて良かったと思う。この後お春は、絶望的な事実を知らされるだろう。しかし最後のシーンが倒れたままでなく、立ち上がって紋次郎を見送ることで、お春も自分の足で立ち、自分の人生を生きてほしいと願わずにはいられない。
お春を置いて行く紋次郎は冷たいのかもしれないが、紋次郎の心はこの悲劇を目の当たりにして、冷え切ってしまったのだ。まるで降りしきる雪のように寒々とした心をかかえ、紋次郎は雪の中を遠ざかって行く。しかしこの悲劇も過去となり、降り積もる雪が隠すように、紋次郎の心から消えていくのかもしれない。 

 

●第37話 「冥土の花嫁を討て」
「小説現代」に掲載されて2ヶ月後に放映という綱渡り状態の作品である。原作は10月という設定であるが、放映は3月。従って紋次郎たちが遭遇する自然災害は大雨ではなく、雪崩という違いが出てくる。苦しい脚本の変更ではあるが、それもやむを得ない。
アバンタイトルは、茶店の娘が息を切らせて走ってきて、道中姿の武士を呼び止めるシーンから始まる。「もうすぐお侍さんが捜していた男が来る。頬に刀傷があり、年は三十過ぎ……」と娘は話すが、視聴者は明らかに紋次郎のことだとわかる。原作では、知らせにやって来るのは宿人足。褌に襦袢だけの四十過ぎの男……やはり映像的には茶店の娘の方がよい。
武士が見やる山道の向こうから、三度笠姿の紋次郎が近づいてくる。武士は急いで身支度を、戦闘モードに整える。たすきがけをし、額にはちまき、刀の柄に唾を吐きかけ手から滑らないように念を入れる。……これってもしかして、仇討ち?…… なんで紋次郎が、武士から仇と目されるのか?と首をかしげた直後、主題歌が流れる。
主題歌の後、武士が水たまりを蹴散らして、紋次郎目指して疾走するシーンが映し出される。武士は紋次郎の前に立ちふさがり、声高に、「土橋征之進だ!」と名乗る。「父の殺害、縫殿をかどわかし逃亡……許せん!」と凄い剣幕である。一方紋次郎は、全くの無表情で対照的。「親の仇を討つのは武士の道。観念しろ!」問答無用に斬りつけてくる征之進の刀は、紋次郎の合羽を切り裂く。紋次郎は長ドスを抜かず、ひたすら体をかわし続ける。刀が空を斬る音は鋭く、征之進の腕前もなかなかである。
この征之進役は「横光勝彦」さん。征之進の生真面目さがよく出ている。現在は「克彦」と一字変え、衆議院の民主党の議員職。奇しくも将来、政界に身を投じることになる二人が、対峙したことになる。先日民主党の集まりの中、壇上に横光氏をチラリと見たが、精力的に政治活動をされているようだ。
紋次郎を「小平太」と呼び、「年の頃は三十、背丈があり、左の頬に刀傷」と外見がそろっていると言う。「捨てても惜しい命とは思いやせんが、人違いで斬られるのは真っ平ごめんにござんす」この台詞は紋次郎らしい。
「小平太」と言う名前を聞いて、物陰でこの騒動を見ていた男がハッと気づき走り去る。この男は原作には登場しない。小平太を仇とする征之進の出現を当の小平太に知らせに行く。男が走る棚田は「峠に哭いた甲州路」で、紋次郎が一気に駈け上がった所だろうか。よく似ている。
足早に歩く紋次郎の後を征之進はついて行く。見物していた酔っぱらいの男、旅姿の一人の女も同じ道を行く。芥川氏のナレーションで「中津川、細久手、大久手、大井、十三峠」などの地名が出てくる。原作にも出てくるが、このあたりの木曽路は幅が狭く険阻な悪路が続くとある。
実際かなり急な山道を紋次郎はサクサクと上っていく。その少し後ろに征之進。ここから後の話はしばらく、テレビ版だけのオリジナルとなる。
見通しの悪い道の陰から、急に小平太の子分たちが何人も飛び出し、紋次郎に斬りかかる。その時の紋次郎の反応は実に素早い。狭い山道の撮影であるので危険が伴う。斬られ役の役者さんも大変だったろう。征之進も斬りつけられるがかわし、難を避けた…と思いきや急に苦しみ出し、バッタリ倒れる。「おこり」の発作である。紋次郎は躊躇なく、大柄な征之進をヒョイと担ぐと坂道を行く。担ぎ上げるだけでも大変なのに、短時間ではあるがふらつかず登れる中村氏の足腰の強さは大学野球で鍛えた賜物か。
紋次郎は征之進をおろし、枯れ草を集めて火をおこそうとするが、なかなか火がつかず、振分け荷物から新しい草鞋を出して燃やす。「おこり」には体を温めるのがいいということである。「仇として斬りつけたのに、すまん」と謝る征之進に「済んだことはあっしにはなかったことと同じで……」と、紋次郎は相手に気遣いさせたくない様子である。
旅の身にあるとはいえ、武士が無宿の渡世人に手をついて謝るなど普通は考えられない。征之進の、実直で誠実な人柄がうかがわれる。
「地べたで冷えると、ますます体に障りやすぜ」とたき火にあたるように勧める紋次郎。
紋次郎はなぜ、ここまでこの武士に親切なんだろうか。人違いをされて殺されかけ、その上待ち伏せされて襲われて……。この征之進はどちらかと言うと「疫病神」なのである。
「まだ疑っていたのに助太刀までしてもらい、かたじけない」と言う征之進に「あっしは自分の身を防いだだけのことで……」と、恩着せがましいことは一切口にしない紋次郎である。
「本懐を遂げるまでは石にかじりついても生きたい」と言う征之進に、「過ぎた日の恨みを、生きる支えにしていなさるんですかい」と紋次郎は少し批判気味である。紋次郎は「済んだことはなかったことと同じ」としか思っていない。「水車は夕映えに軋んだ」でも、許嫁を殺された意趣返しを続けるお縫(偶然同じ名前)に、「もう忘れてやりなせえ」と諭す。
征之進は自分の身の上を語る。紋次郎はひたすら聞き役。紋次郎を前にすると、どういう訳か誰もが身の上話をしたくなるようである。
屋敷にいた渡り中間の小平太が、征之進の許嫁の縫を手籠めにしようとしたところを征之進の父に見とがめられる。すると小平太は父親を殺し、縫をさらって逃亡したというのだ。その時の傷が左の頬にあるらしいが、征之進は小平太の顔を見たことがなく、それどころか縫の顔も知らない。江戸詰中に決まった縁談なので、全く相手がわからないということ。しかし、自分の伴侶は縫と決めているという頑なさで一途である。
征之進は紋次郎に「長旅のめあては?」と尋ねるが紋次郎は「あっしはただ通るだけの旅、あてはござんせんよ」と答えるのみ。「あても支えもなく、難儀な旅をしているというのか」と征之進は理解しがたい様子。「仇討ちの旅でもあてのねえ旅でも、生きているうちは続けるしか仕方のねえようで……」
紋次郎の旅は目的ではなく生きる手段であり、生活そのものなのである。生きていることが旅なのであり、旅が終わることは「死」を意味する。「ひょっとすると、お侍さんもあっしも、同じ道を行くのかもしれやせんねえ」同じ道を行くとはどういうことか?行き着く道の先は同じく「死」、ということか。
二人が小平太の子分に襲われたり、征之進が「おこり」の持病があったり、紋次郎がその征之進を助けたり……という設定は原作にはない。
紋次郎と征之進が進む先には、さっきの酔っぱらいの男がいて、何かとうるさくつきまとう。雪が降り始め、それを避けるように女が三人かたまって座り込んでいる。一人は仇討ち騒ぎの時見物していた玄人風の女、一人は尼さん、そしてもう一人は堅気風の女、これが「樫山文枝」さん。清楚な感じの女優さんである。崖崩れで大井宿まで行けないし、雪が激しく降るし……ということで、酔っぱらいの男が崖下の空き小屋に案内する。原作では豪雨に見舞われて、ということになり小屋に入る人間はテレビ版より男が一人多く7人。原作では10月であるので、この大雨はいわゆる雨台風であろう。
児玉幸多氏の著書「宿場と街道」を読むと興味深いことが書かれていた。
天保7年に本草学者大窪昌章が、木曾方面に藩命で旅をしたときの記録が残っている。八月のことである。
「……その間の大雨で、妻籠と馬籠の間は山抜けして橋が半分落ちて廻り道をする。落合の橋も流れて……(中略)……中津川の橋も落ち、川下へ一里ほど廻って大井宿に出る。大久手宿では、入り口の山が大風で崩れ、小屋五軒を押し崩し、七十余の老女が死んだ。……(後略)」
実際この付近は川がよく氾濫し、崖崩れも多々あったようである。作者笹沢氏は、そのあたりも良く調べておられるということがわかる。史実では天保7年、小説では10年との違いはあるが、笹沢氏はこの資料を読んで自然災害に遭遇するというストーリーを考えたのかもしれない。原作では豪雨を避けるために入った小屋は「法師茶屋」。木曽川の支流、大井川近くの岩棚にある、休憩所のような無人の小屋である。増水した大井川の水面がどんどん小屋に迫ってくるといった恐怖の中、小屋の者たちの人間模様が描かれている。
テレビ版は、吹雪。小屋の中で酔っぱらいの男は自分のことを語り始める。名前は「うわばみの卯兵衛」。木曾谷の伯楽の頭で、何人もの若いモンをあごで使っていると、威張って大酒を喰らっている。この後、女たちの身の上が語られる。玄人っぽい女は「お時」といい、御嵩で酌女をしているが元は武家の娘だったと語る。二人目の堅気風の女も武家の娘で名前は「お咲」。連れ添った亭主が鬼のようなひどい男で、そこから逃げてきたという。大井宿の旅籠で下働きでもしようと、道中しているという。
三人目の尼さんは「妙心」。三井寺まで修行に行くというが何やら訳あり。卯兵衛をもって「尼さんこそお武家の娘だ」と言わしめるくらい気品があり、格式高い武家出身の趣がある。「過ぎた昔のことでございますから……」と目を伏せるということは、認めたということである。
三人の女の中では樫山さんが一番知名度があるので、お咲がこの後、キーポイントになるということが明らか。三人とも知名度がある女優を揃えるということは、最終回の一作前ということもあり、ギャラを考えると無理であろう。
原作では、三人の女が武家出身という設定はない。テレビ版は、この三人の中に征之進の許嫁の縫がいるかもしれないという趣向だが、配役からすると「丸わかり」である。原作のように淡々と進める方が良かったと私は思う。
それぞれが身の上を話す中、紋次郎だけはその輪に入らず、一人黙々と征之進に斬り裂かれた合羽を器用な手つきで繕う。「流れ舟は帰らず」で繕っている姿以来、二度目。お時が、私がやってあげるとの申し出に「てめぇのことは、てめぇでいたしやす」と、とりつく島もない。「旅人さん、その長楊枝はなんのおまじないだい」「こいつはただの癖ってもんで……」そっけない返事にお時の「変な癖だねえ……見てると田楽でも食べたくなるよ」の返しはお笑いである。このあたりの台詞はテレビオリジナルである。
テレビ版はこの後雪崩が起こり、小屋から脱出不可能となる。この先、もう一度雪崩が起こったら、小屋は跡形もなく押しつぶされるという恐怖が続く。原作は豪雨により大井川が増水。小屋にどんどん水が上がってきて最後は濁流に呑み込まれ溺れるか、岩礁に激突し頭を割られて命を落とすか。どちらかを選べと言われても、どちらともお断りしたいが、私は原作の水位がジワジワ上がってくる方に、より恐怖を感じる。原作には、テレビ版にはない商人の男が一人含まれている。この男は泳ぎが達者だからと夜の濁流の中を飛び込み、あっという間に流され、岩に激突して水中に没する。
原作もテレビ版も密室劇である。死への恐怖からみんな苛立ち、平常心を失っていく。比較的落ち着いているのは征之進。紋次郎だけは全く動じていない。
「渡世人には、明日という日がござんせん。今日がいつも、おしめえの日だと思っておりやすんで……」原作と同じ台詞だが、原作ではその前に「なるようにしかなりやせん。そう思っているだけでござんす」と答えている。
「なるようにしかならない」大自然の猛威には、所詮、人間の力など取るに足らないものなのである。要するに、腹をくくってジタバタしないということなのだ。死ぬときが来たらどうあがいても死ぬだろうし、生き延びようと思わなくても、命を長らえることもある。結局は「なるようにしかならない」のは真理であり、無我の境地なのだ。
テレビ版での征之進は、尼僧の妙心が自分の許嫁の縫ではないか、と感じる。「親の仇討ちで命を落とさないでほしい」とか「成就するようお祈りします」など、征之進の身の上を心配するし、おこりの発作で苦しむ征之進に薬を分け与える。一心不乱に経を唱える妙心に征之進は、縫に購ったという扇子を見せて「見覚えはないか」と尋ねる。しかし、このあたりから妙心の精神は壊れかかっている。小屋の中のたき火が消えるのと同時に、妙心はけたたましい声をあげて笑い、とうとう狂ってしまう。
「仏に仕える身で、どうして死ぬことが怖ろしいのであろう」「弱えからでしょう」「何かにすがり頼ろうとするのは弱いというのか」「頼れる者は手めえだけでござんす。その手めえに頼れなくなったら冥土から迎えがくるんじゃねえんですかい
ここで初めてタイトルの「冥土」という文言が出てくる。
紋次郎と征之進が会話している間に、妙心は小屋の窓から身を投じ悲鳴と共に崖下に墜ちていく。テレビ版の崖に転落も怖いが、原作はもっと不気味である。暗い水の中、笑いながらフラフラと歩き、丸太の柵を越えようとする妙心を、止めなくてもいいのかと征之進は問う。紋次郎の答えは「狂っちまえばもう死人と変わりねえ……」である。一見冷たい答えであるが、これも「なるようにしかならない」のである。しかしこの台詞は絶対にテレビでは流せないだろう。妙心は闇の中、濁流に流され姿を消す。征之進は「自分も弱い人間だ。親の仇も討てずここで命を落とすくらいなら、潔く腹を切るしかない」と呟く。
酒が切れた伯楽の卯兵衛は、妙心が飛び降りたことにショックを受けたか、「死にたくない!」と恐怖におののき、泣き出す始末。お時はそんな卯兵衛を罵り「お前がこんな所に連れてきたせいだ!」と髪を振り乱しつかみかかる。「ちきしょう!もう、我慢できないよ!」と最後は卯兵衛の道中差しを取り上げ、卯兵衛を刺す。卯兵衛はよろけてお時に覆い被さり、お時はそのはずみで窓から崖に墜ちる。原作もお時が卯兵衛を刺し、二人ともよろけて柵に当たり体が水中にフワッと浮く。同時にそのまま二人は濁流に運ばれて、姿を消す。原作の設定の方が、ジワジワと迫り来る恐怖感が強い。
極限状態になった人間の弱さを密室劇で見せる手法である。こういう場合、大体一人減り二人減り……と、どんどん誰かが死んでゆく。紋次郎シリーズでの第一作目、「赦免花は散った」では、三宅島から紋次郎たちは島抜けをするが、舟の上で殺し合いが始まる。これも密室劇であった。
残った人間は紋次郎の他に二人。しかし、紋次郎が屋根裏から階下に戻ってきた時、既に征之進は死んでいた。喉を脇差しで突いて自害したと見える。しかし、どう考えても征之進が喉を突いて自害するはずはない。女ならわかるが、武士は切腹のはずである。紋次郎でなくても視聴者はお咲を疑うだろう。しかし原作はよく考えられていて、水位が上がり屋根と岩盤の間に身を潜めていたため、切腹するスペースがなかったという設定。これなら、説得力はある。
お咲は征之進の死体が目の前にあるのに、「お腹が減った、もうだめ動けません」と放心状態。この期に及んでお腹が減ったか、さすが女は強かだなあと思う。
夜は明けていて、雪もやんでいた。紋次郎は征之進の胸の上にあった扇子を懐に入れると、窓から屋根を上り雪の急斜面を登っていく。お咲には助けの手一つ貸さない。
画面いっぱいに広がる雪山は圧巻である。撮影現場はどこだろうか。比較的近いところでは、滋賀県の比良山系あたりか。真っ白な斜面に鞘の錆朱色がよく引き立つ。紋次郎は長ドスをピッケル代わりにして、何度か滑り落ちそうになりながらも登っていく。その後ろにはお咲が斜面にしがみつくようにして、ついて来る。「もうだめ動けません」どころか、執念で登ってくる。再度、女は強いと思う。
雪はかなり深く、雪だまりに足を踏み入れると、体が埋もれそうなくらいである。この雪山での撮影は相当大変だったろうと思う。演じる者も撮影スタッフも重労働の上、この寒さである。また、機材を運ぶ苦労も考えると脚本化の時点で、雨バージョンにするか、雪バージョンにするか葛藤があったのではないだろうか。恐怖感では雨、視覚的には雪といった感じである。雪中の撮影としては今回で3回連続……さすがにこの回が、一番ハードだったのではないだろうか。
斜面を登りきったとき、左頬に刀傷が見える渡世人とその子分がやって来る。小平太である。小平太役に「蟹江敬三」氏。現在大河ドラマ「龍馬伝」では、岩崎弥太郎の父親役で個性的な演技で出演されている。共演された人が今も活躍されていることは、やはりうれしいものがある。
ご子息は蟹江一平さん。「劒岳 点の記」に出演するなど、俳優としての実力も発揮中である。蟹江さんは第1シーズン「六地蔵の影を斬る」で本のチョイ役で出演したが、今回は大分貫禄を増した悪役に昇格。この後の活躍を考えると、片鱗を窺わせる出演だったわけである。
「土橋征之進は死ぬまであっしと一緒でござんした」「それ以上は、あっしに関わりねえことでござんすよ」と紋次郎は言うが、小平太は「生かしちゃおけねえ」と襲ってくる。関わりないと言っているのだから、そのまま見過ごしておけば紋次郎は訴えに出たり、吹聴したりはしない。しかし決まって、口封じのために殺そうとする。そうなるとまた紋次郎も、無意味な殺生をせざるを得ない。
雪の斜面は新雪のようであるから、撮り直しはせず一発勝負ではないだろうか。なぜか紋次郎は、敵の喉ばかりを狙って長ドスを振るう。乱闘の中、お咲が小平太に「あんた!」と叫び小平太はお咲を「お縫!」と呼ぶ。やはりお咲は、征之進の許嫁の縫だったのだ。
紋次郎と敵は、雪の斜面を何度も滑り落ちながらの殺陣。深い雪に足をとられながらも、斜面を登る中村氏の脚力の強さはさすがである。小平太の「喉ばかり狙いやがって」の台詞に紋次郎は「お侍も喉を刺されやしたんで」と返す。やはり紋次郎は、すべて気づいていたのだ。縫は小平太にかどわかされたどころか、小平太のために武家の身分を捨て、愛する小平太のために征之進を殺したのだ。やはり、女は怖い、そして強い。
「女を斬るドスは持たねえんで」紋次郎のいつもの台詞である。
「お侍が探しなすった縫殿は、もう2年前から冥土の花嫁になったようで、同じ縫でも小平太の女房なんかじゃねえ!」ここで「冥土の花嫁」というタイトルに関わる文言がハッキリと出てくる。
「土橋に何の義理で!」と必死の形相で小平太が訊く。「何もござんせんよ、あっしにもまだ人の心が少しは残っていただけのことかもしれやせん」
まだ人の心が少しは残っていた……征之進の律儀で一途な思いを、闇討ちのような卑怯なやり方で踏みにじった縫、そしてそれをあっぱれだと言い放った小平太。紋次郎が何の義理もない他人のためにここまで怒り、喉ばかりを狙うという意思を持つことは珍しい。紋次郎の行為はいつも報われない。しかし自分が報われないからといって、人が報われなくてもいいとは思っていない。純粋に生きる人間が報われないことに、紋次郎は怒りを持つ。それが「人の心」なのだ。
小平太は喉を刺され、縫と共に崖から墜ちる。女を斬るドスは持たなかったが、結果的には女も死んだ。純粋な男を裏切った女は、男と命を落とすというパターンである。
紋次郎は懐から、征之進が肌身離さず持っていた扇子を広げ宙に投げ、楊枝を飛ばす。楊枝が刺さった扇子は、ゆっくりと雪に覆われた谷に落ちていく。名実ともに冥土の花嫁になった縫と、一足早く先立った征之進への手向けか。しかし冥土でも、この二人は決して巡り会うことはないだろう。
あの密室の中、生き残ったのは紋次郎ただ一人だった。しかし紋次郎にとっては、「おしめえの日」が一日延びただけのことなのである。どこにいても、死と隣り合わせの身であることには変わりないのだ。紋次郎にとっては毎日が、『メメント・モリ』(死を想え)であるのだ。何かにすがるのではなく、自分で考え自分の意思で決断する。自分の心を強く鍛えておかなければ、紋次郎のように「頼れるのは手めえだけでござんす」の境地には至れない。
いつもながら紋次郎の生き様には、学ぶところが大きい。 

 

●第38話 「上州新田郡三日月村」
「木枯し紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたという……」
毎回エンディングで、紋次郎の後ろ姿と共にナレーションされていたフレーズである。従って熱烈なファンならずとも、三日月村が紋次郎の出生地であることは、誰もが周知のとおりである。その出生地がタイトルになっている作品が、最終回となるのも頷ける。これまでの紋次郎シリーズで、翻案作品以外、名詞止めのタイトルはこの回だけである。
アバンタイトルの出だしはいつもと違い、芥川氏のナレーションから始まる。それはいつも原作で語られる、紋次郎の出で立ちである。三度笠、道中合羽、手甲脚絆、錆朱色の長脇差……すべて原作通りである。このオープニングからして、「ああ、最終回なんだ……」という気持ちを抱かせる。特に紋次郎の足元、泥だらけの脚絆と草鞋の映像は、過酷な旅をたった一人で重ねてきた証であり切なくなる。ただ、芥川氏のナレーションで気になったのは、長脇差(ながドス)を「ながわきざし」と読んだところ。原作では「ながどす」とルビがふってあるし「信じるものはただ一つ、己の腕と腰のドス」なのだから、ここはやはり「ながドス」と読んでほしかった。
寒々とした荒れ地を歩く紋次郎に、一人の商人が道を尋ねる。「新田郡三日月村というのは、どちらの方角か、ご存知ではございませんか?」菅笠に頬被りのこの商人は、ご存知「山本一郎さん」。最終回にもご出演というか、最終回だからご出演というか、心憎いキャスティングである。初回の「川留めの水は濁った」にも出演されているので、初めと締めくくりの記念すべき作品にはやはりこの方なんだろう。
紋次郎は平然と道を教える。「この道を十丁ほど……三日月村でございやす」(テレビ)「……三日月村ってところがあると聞いておりやすよ」(原作)
ほとんど同じ台詞だが、原作の方がより三日月村への想いがなく、まるで他人事のような答え方である。テレビ版の紋次郎はしばし佇み、商人の行く先を眺めやる姿は、三日月村への感慨があるかのように見える。追分では敢えて三日月村への道は選ばず、道標に太田宿と書かれた道を選ぶ。敢えて選ばないというのは、裏を返せば意識しているということであろう。原作では追分で道を選ぶということはせず、街道を真っ直ぐ歩いて行く。
不意に大粒の雨が降り出し、雷鳴が轟く。空の荷車を引いた貧しい身なりの娘が、降り出した雨空を見上げ道を急ぐ。直後、紋次郎の行く手にある一本松に突然落雷し、その幹は火柱とともに裂ける。紋次郎の体は一瞬硬直して、どうっと倒れる。危うし!紋次郎!と、ここで主題歌が入る。
いろりの火が燃える掘っ立て小屋に、紋次郎は横たわっていた。室内にはこの屋の主が石工らしく、石材が置かれている。明かりは油ではなく、「肥松」(こえまつ)を燃やして灯火としている。貧しくて油も買えないという設定か。美術さんの芸の細かいところである。
気を失っていた紋次郎は目を覚ます。上体をゆっくり起こして、おもむろに楊枝を咥える。「随分とお世話をかけやしたようで……」と正座して、片方の拳をついて丁寧に礼を述べる。この礼儀正しさは、いつもの紋次郎である。礼を言われた老人は「与作」と名乗り、紋次郎を助けたのは孫娘の「お市」だと話す。あの荷車を引いていた娘である。
与作役に「嵐寛寿郎」さん。さすがに最終回である。大御所のお出ましである。当時、寛寿郎さんは69歳。比べるのは申し訳ないが、現在の敦夫さんもほとんど同年代。敦夫さん、若い!と思ってしまう。あの大剣劇スターの「アラカン」がテレビに特別出演?!かなり評判になったことだろう。当時、リアルタイムで観ていた私は、「アラカン」さんの偉大さが今ひとつわからなかったのだが、それでも「すごいなあ!」と思った記憶がある。お市役に服部妙子さん。華やかさはないが、純朴でかわいげのある孫娘役を演じている。
与作は三日月村の村人たちが、「木枯し紋次郎だ」と顔をのぞき込んで騒いでいたことを紋次郎に告げる。「おめえさんは知らねえうちに、生まれ故郷へ帰ってきちまったってわけだ」と与作に言われても、紋次郎は無表情で「そうですかい」と答えるのみ。
テレビ版でのお市は、紋次郎が生まれ故郷に執着していないことが理解できない様子である。与作は一方的に自分の身の上を紋次郎に語る。自分は流れ石切り人足で無宿者。置き去りにした娘が桑名で飯盛をしていて父なし子を産んだ。その子がお市で、二十日前に母親が死んだので、与作を捜してこの上州までやってきた、と言うのだ。ここにきて、また紋次郎は身の上話を聞かされる。今回のポイントは与作も紋次郎と同じ無宿者で、流れ者であるということだ。
原作では、与作と紋次郎の心の交流が、しっとりとした雰囲気で描かれている。いろりにかけられた鍋の中は「骨董粥」。米と麦に荒布、木芽を加えて、塩と味噌で味をつけ、じっくりと煮込んだ粥である、と詳しく書かれている。天保の飢饉の際、伊勢の津にいた草奉行「平松楽斎」が考案した救荒粥だということで、決して贅沢なものではない。静かな掘っ立て小屋の中、いろりでは「ほた」が燃える音と、三人の粥をすする音だけが聞こえる。紋次郎は二本の小枝を箸代わりにして、骨董粥を二杯掻き込む。「もっと食ったらどうだね」と勧める与作に、紋次郎は凄い台詞を発する。
「腹八分を決めておかねえと、ひもじいときに辛い思いを致しやすんで……」究極の苦労人である。こんな救荒粥ですら腹八分で押さえて、危機的状況に備えて自分を甘やかさない。紋次郎が飢餓に強いのは、我慢強いだけでなく、日頃の鍛錬の賜物なのである。本当に畏れ入る。
「泥亀の喜三郎」のうわさ話がお市の口から出る。テレビ版では、一瞬与作のノミの動きがアップされ、戸惑いの動きが見て取れる。与作と喜三郎……関わりがあるのか?と視聴者は感じる。泥亀……いかにも年季の入った盗人という異名で、歳を重ねている印象を受けるが、極悪非道な喜三郎と与作の穏やかな言動とは一致しない(ようには思われる)。
「いい顔のお地蔵さんでござんすね。大した腕を、お持ちで……」と、地蔵様を彫る与作に紋次郎は声をかける。「石切り人足の道楽だあな。無宿の流れ者も年をとると心細くなって、妙にこういうものを作りたくなるんだ」このあたりはテレビ版と原作はほとんど同じなのだが、テレビ版では続きがある。
「お前さん、間引き地蔵を知ってるかい?」紋次郎は暗い眼差しで与作の話を聞く。原作には間引き地蔵の話は出てこないし、与作の彫る地蔵様は普通の石仏である。テレビ版では石切場の途中に、間引き地蔵が百地蔵として並んでいる。与作は、その間引き地蔵の前を通ると胸が痛むと言う。地蔵様のアップに続いて映像はモノクロに変わる。紋次郎の大きなトラウマ、「間引き」。「心は昔死んだ」はずであるが、この出生にまつわる暗い過去は、紋次郎の心の奥底に澱のように存在している。
破った障子紙を水で濡らし、生まれたばかりの赤児の口と鼻を塞ぐのである。「飢え死にさすよりマシだ」「5人目だし、村の衆にも言い訳がたたねえ」……父の言葉である。我が子という個人的な家庭事情でも、村の衆からとやかく言われるという設定である。まさにその行為が行われようとした時、戸がガラッと開いて十歳のお光が思い詰めた表情で立っている……と見えた瞬間、母の手から幼い紋次郎を奪い去ると外に飛び出す映像。前述したが、原作にはそういうシーンは描かれていない。
もう一つ大きく原作と違うのは、しんみりした雰囲気の中、来訪者が立て続けに現れるところだ。掘っ立て小屋に入ってきたのは「お粂」という女。「私を覚えているかい?」と馴れ馴れしく紋次郎に声をかける。紋次郎の姉のお光の友だちだったと話すが、実は与作が捨てたもう一人の娘であるという設定。「えーっ、与作にはまだ娘がいたのか?!」と、原作にはない展開にびっくり。ということは、お市の叔母にあたるわけである。
「姉をご存知なんで?」いつもはほとんど無表情だが、このときばかりはさすがに紋次郎も驚く。よそ者の私に、お光さんはとても優しくしてくれたとしみじみと紋次郎に話す。6歳のとき三日月村に置き去りにされ、子守として働き、その後亭主と流れ歩いたが別れ、結局舞い戻ってきたお粂。お粂が故郷と言えるのは、捨てられた地であるがこの三日月村しかないのである。その地に実の父親、自分を置き去りにした与作が1ヶ月前にやってきたというのだ。こんな偶然があるのだろうか?与作とお市、二人だけでひっそりと住んでいてほしかったのだが、なぜ原作にはないややこしい展開にしたのか?
この展開は、生まれ故郷の三日月村に郷愁を与えようとしたのだろう。間引き地蔵といいお光の面影といい、三日月村に特別な思いを視聴者に抱かせよういうことだろう。原作はもっとクールでドライ。淡々と進められている。
テレビ版は、紋次郎の心の奥にある「間引き」と「お光」をからめて、随分ウエットな展開に変更している。しかし私は、お粂の出番はなくてもよかったと思う。それより原作のように、静かに粥をすすりながら、言葉少なだが与作との心の交流をもっと描いてほしかった。
お粂は紋次郎に「なんで三日月村に帰ってきたんだい?」と尋ねるが、紋次郎は「あっしは別にここに帰ってきたわけじゃねえ。あっしみてぇな渡世人には、歩く道のほかには何もござんせん」と答える。「与作さんも無宿だとおっしゃいましたね。だったらおわかりだと思いやす。無宿の渡世人に、故郷なんてものがあるんでござんしょうかねえ」与作も人別帳外にされて35年も経つのだ。
ここでまた回想シーンが始まる。赤児を抱いたお光は村はずれの絵馬堂で一夜を過ごし、翌日家に戻って村人たちに「この子は今日生まれたんだ」と告げる。この日は村の祭礼日であり、祭礼は功徳日だから間引きは行われないということをお光は知っていたのだ。賢く勇気のあるお光の機転で、紋次郎は間引かれずに済んだのである。この村の中で、紋次郎を救ってくれたのはお光だけなのである。
「5人目だし、村の衆にも言い訳がたたねえ」と、テレビ版での父親の言葉が示すように、貧しい村では「間引き」は必要悪として存在し黙認されてきた。「間引き」がテーマとして展開されたのは、「童唄を雨に流せ」と「夜泣石は霧に濡れた」である。どちらも紋次郎は特別な想いで、深く関わってしまう。
お粂は嫁入りするために村を離れるお光のことを、「ちっとも、幸せそうじゃなかった」と寂しく呟く。この世で唯一の自分の味方だったお光をテーマにした作品もいくつかある。
初回「川留めの水は濁った」では、お光とそっくりな女お勝と、お光の亭主佐太郎が登場する。「峠に哭いた甲州路」では「たった一人会いたい人がいるが、会えっこねえ。この世にはもういねぇんだから……」と、お光のことを口にしている。「飛んで火に入る相州路」では、姉と同じ名前というだけで見知らぬ女を助けに行こうとする。紋次郎のアイデンティティを形成する大きな要素が、この2点なのである。従って最終回も絶対に外せない。そのために原作には登場しないお粂がナビゲーター役を果たす訳である。
お市は「根無し草の生活が嫌だ。自分はこの三日月村でこの後も暮らしたい」と言い、お粂に「あんた、好きで流れているみたいだ」と批判めいた口調で責める。お粂は「好きも嫌いもない。どこの土地にも根の無い者は、流れなきゃならない潮時があるもんだ。どうせ残ったって他所者扱いさ」とあきらめ口調。お市は根をはる土地を望み、お粂は流れ歩いてこの土地に帰ってきた。そして紋次郎はれっきとした生まれ故郷を捨て、今も素通りしょうとしている。三者三様の生き様である。そして与作はどうなのか?
原作で紋次郎は与作との語らいの中で生まれ故郷についての思いを語っている「何かを思い出せるうちは、まだ心が繋がっているんでござんしょう。生まれ故郷もほかの知らねえ土地と同じものになっちまえば、もう思い出すようなことさえありやせん」「そうだなあ、その通りだ。わしの生まれ故郷は伊勢の松阪だが、いまになって振り返ってみても思い出すことはなにもねえ。懐かしいとも、思わねえ。無宿人とは、そんなものかもしれねえなあ」
与作も紋次郎に同調している。与作が故郷と繋がっているのは、地元の救荒粥である「骨董粥」だけなのかもしれない。原作はテレビ版より、ふたりは同じ境遇であるということを強調している。
もう一人訪問者がいる。戸をたたき「お頭、いなさるんですかい?手配りはすべて済ませやした」と声をかける男。緊張が走るが、与作は「間違えちゃいけねえ。ここをどこだと思ってやがるんだ?」と落ち着き払っている。お粂は「泥亀だ!」と恐れおののく。果たして押し入ってきたのは冒頭部、紋次郎に道を尋ねた山本一郎さん、あの商人だった。お粂は隙を見て外に逃げ、与作は家の隅で頭を抱えてうずくまる。脇差しを抜いて襲ってくる男と紋次郎はもみ合うが、男は腕を斬られ逃げていく。
この展開もテレビ版だけである。通りすがりの商人だと思っていたが、どうやら泥亀の一味だったようだ。「紋次郎さん、怪我はなかったかい?大した腕だ」と与作は感心して、「泥亀一味がこの村を狙っているのは本当かもしれん。困ったもんだねえ」と静かに呟く。この後また訪問者が現れる。短時間に連続しての訪問者で、落ち着く暇もない。
原作では訪問者はなく、紋次郎は一晩与作の小屋で静かな夜を過ごし、翌朝明け六つに小屋を後にする。
「大層、お世話になりやした」「もう二度と、会うこともねえだろうが、達者に過しなせえよ」「ごめんなすって……」
生まれた土地を故郷とも感じないひとりの渡世人が、その村を素通りするように去って行く。逆にそこへ仮住まいを設けた老いたる流れ者が、その渡世人を見送るのであった。
別れは至極あっさりしたものであったが、それだけに無宿人同士の言葉にはならない心の触れ合いを感じる。この後のどんでん返しが信じられない、静かな別れである。原作ではこの後お市が見送りについて行き、その途中に三日月村の村人たちに出会い、紋次郎は行く手を遮られるのである。
しかしテレビ版は時間的に余裕がないのか、その夜の間に組頭の徳左衛門と善蔵が与作の家に現れる。「泥亀一味が三日月村に寄進された大金を狙っている。なんとか、力を貸してもらえないか」と紋次郎に頼む。しかし紋次郎は、自分は他所者だしただの通りすがりの者だから力は貸せないと断る。徳左衛門と善蔵は、紋次郎の薄情な答えに驚く。「お前の家族だって、村ではいろいろ世話になったはずだ」「なんで水くさいことを……」「食いたい物をたらふく食わせ、地酒も飲み放題。女も何とかするし、1両か2両ぐらいの礼も出す」と、いろいろと口にするが紋次郎は固辞する。このやりとりはほとんど原作通りだが、原作の方がずっとインパクトがある。
まず頼みに来る人数が違う。テレビ版ではふたりだが、原作は十数人が強風と土煙の中で紋次郎を取り囲み、口々に昔話を持ち出しては頼み込む。挙げ句の果ては、村人の家にまで紋次郎を引っ張り込み説得しようとする。極めつけは、老婆が紋次郎の頬を平手打ちして怒るところだ。
「この小僧が……」老婆が、唸るような声で罵った。「知ったふうなことを、吐かしおって……、やい、紋次郎!この婆アはな、痩せこけた餓鬼の時分のおめえに何度も、粥の残りや芋のシッポを食わせてやったことがあっただ。その度におめえは、涙を浮かべてガツガツと喰らいやがった。それが、何でぇ!見も知らねえだの、通りすがりだのって……。いまでこそ行方知らずになってこの土地にはいねえが、おめえの親兄弟だって昔は何かと村の衆の世話になっていただあ。ひとりで生きのびて来たみてえな、でけえ口を叩くんじゃねえ!」
「何と申されやしても、あっしのような無宿人には、人と人との繋がりがござんせん」紋次郎は、軽く目を閉じるようにした。
「通りすがりの者でも、他人さまの難儀を黙って見ちゃあいられねえって男は何人もいるだよ!この情け知らずめが、とっとと出て行きやがれ!」老婆はペッと、紋次郎の顔に唾を吐きかけた。
「へい。ご免を、被らせて頂きやす」
何とも威勢のいい婆さんである。普通、老婆がまくし立てたことは正論であるし道理である。紋次郎のことを「小僧」と呼べるのは、この老婆だけであろう。今までの時代劇のヒーローが、薄情な奴に向かって口にするような台詞である。ところがこの作品は、ヒーローが婆さんからこの台詞を投げつけられ、横っ面をひっぱたかれている。最後まで、型破りな時代劇のヒーローぶりをアピールするのなら、ここはやはり原作通り、老婆の出番がほしかった。「堅気、女、年寄り」、三拍子揃った者からの頼みでさえあっさり断る、紋次郎の頑なさを見せてほしかった。
テレビ版は別れのシーンもなく、二人が眠っている間に紋次郎は掘っ立て小屋を後にする。律儀に、礼として二十文を包んで布団の上に置いたようだ。与作はできあがった地蔵様を村はずれの百地蔵の場所まで運びに行く。お市が畑を耕しているとお粂がやって来る。お粂は、敦賀でいい話があるから行くけど、お市も行かないかと誘うが、お市は断る。お市はこの地に根を張るんだ、と明るく答える。他所者としか見なされないだろうが、自分はこの地で暮らしていく覚悟のようだ。暗いドラマの中ではめずらしく前向きで明るいお市のキャラクターであるが、これもテレビ版だけの設定であり原作にはない。
一方与作は、百地蔵様の下に隠されていた金を偶然見つける。そのときの与作の表情は、目つき鋭く眼光に力があり、さすがアラカンさん、ガラッと表情が変わる。「心が痛むよ」と言っていたはずなのに、何のことはない。地蔵様をひっくり返して台座の下を掘る与作。ここで視聴者は与作が泥亀の喜三郎だと気づく。脚本上仕方がないことだが、ラストまで引っ張ってほしかった。
原作では紋次郎はこのまま中山道の方に向かうが、風と砂塵が行く手を塞ぎ一歩も進めない状態。掛け茶屋で風を避けているところに、お市が風に吹き飛ばされそうになりながらも走ってくる。「泥亀の一味が襲ってきた。石切り跡に金が隠されていることを知って、そっちへ向かったが、その道中におじいちゃんの小屋がある。おじいちゃんはきっと殺されてしまう!」「村の者は他所者だからって、誰も助けてはくれない。他所者は見殺しにされるんだ。旅人さんもおじいちゃんと同じ無宿人だし、流れ者だし、他所者なんだろう!」紋次郎は助けを求められ、即座に石切り跡に走り出す。紋次郎が突き動かされたのは、生まれ故郷の村人より、一晩だけ縁があった流れ無宿人への思いからだったのだ。もちろん助けてもらったという恩義もあるだろう。
テレビ版は違う。紋次郎はまだ村はずれの絵馬堂にいた。この絵馬堂は、お光が赤児の紋次郎を抱いて一晩過ごしたところだろう。ここで回想シーン。紋次郎は兄に、自分が間引きそこないの子どもだったと聞かされ「おめえは間違って生きているんだ」と残酷な言葉を浴びせられる。ほどなく姉のお光が嫁ぎ先で死んだと村人が伝えに来る。その瞬間、幼い紋次郎は家を飛び出る。実際は8歳のときに、兄から間引きされるはずの子だったがお光に助けられたと聞き、それ以来紋次郎は口をきかない子どもとなった。そして2年後10歳のとき、お光が死んだことを知り、三日月村を捨てたのである。
絵馬堂にいる紋次郎の姿、表情には孤独感が漂っている。「木枯しの音に消えた」で紋次郎は「おめえさんのことは思い出しもしねえが、忘れもしやせん」とお志乃に言ったが、まさにこの出生の事実は、「思い出しもしないが忘れない」トラウマなのである。
紋次郎は、間引き地蔵が並ぶ村はずれに足を運んでいた。「間引き」という言葉に動かされたのだろう。そこへお市がやって来る。「与作さんの地蔵で三十六体になりやしたね」と紋次郎はお市に声をかける。本当なら紋次郎も、その内の一体になっていたのかもしれない。
「あてのねえ旅でも、心に引っかかるところが一つや二つはあるもんでござんすよ」心に引っかかるところ……一つはお光が匿ってくれた絵馬堂。そしてもう一つは、自分も間引き地蔵になってここに並んでいたかもしれないというこの地。お市はここでもまた、一所に落ち着いて自分の故郷を持ちたいと話す。
「そんな気持ち、わからねえじゃござんせんが、旅する身となれば空と地面があるっきり。雨が降るか雪が積もるか、風が吹くか陽があるかの違ぇぐれぇで、どこにいても大した変わりはねぇって気になってくるんでござんすよ」
「疲れた手足を伸ばす。眠る、明るくなるのを待つ。今日が過ぎれば明日が来る。そこに道があれば、歩くだけじゃあいけねぇんですかい」
珍しく、無口な紋次郎にしては長い台詞を口にする。原作では台詞としてはないが、紋次郎の生き様として書かれているので、脚本家はこのシーンを入れて紋次郎を語らせたのだ。「旅人さん、村の衆の願いごとをきいてやってくれろ」お市は三日月村の者たちからは「他所者」と言われているのに、紋次郎に頼む。三日月村に根を張ろうと決めたが故か。それとも、頑なに生まれ故郷を否定する紋次郎に「生まれ故郷ってそんなもんじゃないだろう?人としての情けをかけてやって」と諭すつもりか。原作のお市は決して「村を救ってくれ」とは言わない。それどころか「他所者は見殺しなんだ。おじいちゃんを助けて」である。村人と同化しようとは思っていない。
紋次郎はお市の頼みに無言であるが、そこに泥亀の一味がやって来る。原作ではヤクザ者ばかり十人だが、テレビ版は全員浪人くずれで五人である。第一シリーズの最終回「流れ舟は帰らず」でも武士を斬り捨てているが、今回も浪人とはいえ武士相手である。最終回でもあるので、敵のレベルを上げたか。
浪人者に「金目当てか?」と尋ねられるが「あっしには、金を盗むも隠すもどうでもいいことでござんすよ」と取り合わない。しかし金を探すため、地蔵様を倒したり足蹴にしたりする浪人たちの姿を目にして、いつもは冷めた紋次郎の表情に怒りが現れてくる。「おめえさんたち、それを何だと思っていなさるんでぇ?」浪人たちはその問いを全く無視して、地蔵様への冒涜をやめない。ついに紋次郎は声を荒げ、魂の叫びのような台詞を吐く。「おめえたちにはただの石っころでも、石で刻んだこの地蔵様たちには死んだ者、生き残った者の精いっぺぇの恨みや哀しみがこもってるんだ!」
こんな長台詞を、これほど力のこもった声で叫んだ紋次郎は、後にも先にも初めてである。地蔵様の件がなければ、紋次郎は本当に関わらずに去ってしまったかもしれない。しかしテレビ版の紋次郎は、村人のためでも与作のためでもなく地蔵様のため……死んだ者、生き残った者の恨みや哀しみのために怒りの長ドスを抜く。
石ころと岩、倒木があちこちに見え、足もとの危険な状態での殺陣を見ていると、未だに足を取られて怪我をしないかとヒヤヒヤする。死闘を繰り広げているのに、一人の浪人だけは戦わずに必死で金のありかを探し、土を掘っている。浅ましい姿であるが、とうとう小判の詰まった箱を見つけ声を上げる。しかしその男は小判の入った箱をぶちまけるのと同時に、紋次郎に斬られる。袴がざっくり切られ血しぶきと共に倒れる姿は、山本一郎さんが腕を斬られるのと同じバージョンで、リアル感がある。がけの上から見下ろすアングルも珍しい。
紋次郎は輝きを放つ小判には全く目もくれず、跪いて倒れた地蔵様を起こす。その背後に迫る長ドス……斬りつけてきたのはなんと与作。そして自分が泥亀の喜三郎だと名乗る。展開上予測はついていたが、「1500両のうち、500両で手を貸さねえか」にはガッカリである。もちろん紋次郎は即座に「お断りしやす」である。紋次郎は「百地蔵を見ると胸が痛む。娘が死んだの知らせに地蔵菩薩を彫った。あれは本心だったのか?」と喜三郎(与作)に尋ねる。このときの紋次郎の目は、潤んでいるように私には見える。
喜三郎は「本心だ。だがこのお宝がお地蔵様の足元にあるとなっては、話が違う」と言い放ち、紋次郎に斬りかかってくる。アラカンさんの気迫の演技だが、さすがに殺陣は代役のようで、後ろ姿しか見えない。紋次郎も応戦するが、喜三郎は地蔵様に激突して命を落とす。紋次郎の長ドスは喜三郎の血を吸わず、敢えて言うなら地蔵菩薩の思し召し。死をもって因業な世界から抜け出させようとしたか。
喜三郎の最後の台詞は実に重い。正直な胸の内であり、人の業であろう。捨てた娘が死んだと話す中で「ワシも因業な男よなあ」としみじみ呟いたシーンが前半にあったが、これも因業な所業である。娘を捨て、その死も知らなかった自分に対する罪の意識。また、孫のお市をかわいがる愛情。すべて本心だったのだろうが、金が絡むと話が別となる。
今の世の中も同じである……というか、人間はすべて業に支配されているのかも知れない。だから宗教が生まれたのだろう。特に紋次郎の作品には仏教の教えが色濃く、哀しい人の業がどの作品にも横たわっていた。だからこそ、紋次郎の孤高な姿が際立ったのであり、自分の姿を顧みて「あんな風に生きられたらカッコイイだろうなあ」と憧れるのである。
さて原作の方は、クールである。紋次郎は与作の小屋に向かって走っていく中で、泥亀の手下のヤクザ者十人を斬り捨てる。その中の一人が与作の小屋に入り込むのを見て、すかさず紋次郎は入り口の蓆ごしに長ドスを繰り出す。手応えがあって中に入ると、血だらけの与作(喜三郎)の姿と散らばった小判が目に入る。この意外性はテレビ版より強烈である。
一晩だけだが、ふたりの心の触れ合いがあったかのように見えたが、紋次郎にもその正体はわからなかった。村人の頼みは聞かなかったのに、与作を助けるために泥亀一味を叩き斬った。しかしその同じ長ドスで、知らなかったとはいえ与作を斬ってしまったのだ。
ふと哀しそうな暗さが紋次郎の目に宿る。与作は「お市は自分の正体を知らない」と言う。そして「泥亀の喜三郎には違えねえが、おれが無宿の流れ者で生まれ故郷も忘れちまったってことだけは、おめえさんと同じさ」と薄ら笑いを浮かべ、囲炉裏の中に倒れ込む。鍋がひっくり返り骨董粥の残りが飛び散る。同じような境遇であったが、与作と紋次郎の歩んだ道は全く違った。これも因業というのだろうか。
紋次郎は与作が完成させた地蔵を外に運び出し、椀に骨董粥を盛って供える。短い合掌の後、楊枝を椀に向かって飛ばす。楊枝は盛られた粥の真ん中に突き刺さり、それはまるで箸のように見えた。遠くに見えるお市の姿、村人たちが背後で紋次郎の名前を呼ぶ声、それらに一切関わらず、紋次郎は無言で三日月村を後にする。それらの一連の展開は、淡々と静かに進む。それだけに、原作の方が虚無感や喪失感が大きい。
一方テレビ版のお市は、一部始終を陰から見ていたようだ。与作の亡骸にすがり泣きじゃくりながらも、「これで村に引き水ができるんだね」と紋次郎を見上げる。与作が実は血も涙もない大悪党だったこと、そして目の前で死んでしまったことには触れず、この台詞はないだろうと思う。お市はもう村の一員という存在なのか。寄進された大金で引き水がされ、貧しい村にも水田ができるというわけである。
テレビ版の紋次郎は遠くに村人の姿が見えたとき、与作が握っている小判に楊枝を飛ばし手放させる。「与作さんも泥亀一味に殺られなすった」与作は泥亀の喜三郎ではなく、石切人足の与作のまま死んだ。精一杯の紋次郎の優しさである。
倒れた地蔵菩薩を起こしている紋次郎の脇をすり抜け、村人たちは大金が守られたことに大喜びする。全く紋次郎のことは気にとめない。それどころか倒れた地蔵にも気づかない。もはや村人たちにとっても「間引き地蔵」はただの石っころなのだ。だいたい地蔵菩薩の台座の下に、小判を隠すこと自体許されないことだろう。テレビ版の紋次郎は、与作の正体に騙され、地蔵菩薩に寄せる心情も裏切られ、最後に村人にも裏切られる。暗澹たる気持ちになるが、救いはお市の前向きな生き方だけか。
与作は異境の地で骨を埋め、お粂は敦賀に流れていく。そしてお市はこの地に根を下ろす。そして紋次郎は昨日と同じようにあてのない旅を続ける。紋次郎は生まれ故郷で二回間引かれたようなものである。一度は両親から、そして今回は村人たちから。結局村人のために泥亀一味から寄進の大金を守ったのだが、誰一人紋次郎に礼を言わない。紋次郎は決して、礼を言われないことに立腹することはないし、期待もしない。やはり生まれ故郷などは、端からなかったのである。
「お市さん、また会うこともねえでしょうが随分とお達者で……」お市に向かって言った言葉だが、これは明らかに視聴者に向かっての言葉である。正面を向いて紋次郎は私たちに挨拶をした。切ない……胸が締め付けられる。また会うこともないなんて、哀しすぎる言葉である。お市は何かを言いたげだが、言葉にならない。その姿は視聴者代表である。
最後に夫婦者の旅人に、紋次郎は三日月村への道を尋ねられる。紋次郎は一瞬、遠い目をする。そして哀しみとあきらめが浮かぶ目を落とし「申し訳ござんせん。あっしはただの通りすがりの者で……」と三度笠を傾けて答える。
遠ざかる紋次郎の姿を、白い霧が隠していく。「ああ、もう紋次郎さんに会えないのか……」とDVDで何度も見られる今となっても、当時抱いた気持ちと変わらず哀しい。
未だに、お市の代わりに紋次郎にかける言葉を探している。答えはまだ、見つからない。 
 

 

●木枯し紋次郎・諸話
●木枯し紋次郎 1
笹沢左保の股旅物時代小説。その主人公の異名。上記小説を原作とし、フジテレビ系列で1972年1月1日より放映されたテレビドラマ。同じく同小説を原作とした、1972年東映制作の映画。菅原文太の主演で『木枯し紋次郎』、『木枯し紋次郎 関わりござんせん』の2本が制作された。ドラマと直接の関連性はなく、アクション中心のストーリー仕立てになっている。
テレビ局が制作費を調達して下請けの制作会社に支給する「自主制作作品」とは異なり、放送枠を買った広告代理店が制作費を調達して制作会社に支給する「持ち込み制作作品」で、広告代理店は電通、制作は電通の関連企業であるC.A.Lに一任された。
1971年の春頃、既にシリーズ監修と演出に決定していた市川崑からの要請で、電通ラジオ・テレビ局企画室・プロデューサーの松前洋一が、部下の坂梨港(大映東京宣伝部出身)を通じて、大映京都撮影所の美術監督だった西岡善信に本作への協力を打診した。この打診には、市川が古巣の大映京都で撮りたいと希望していたことと、大映本社の倒産危機、という切迫した状況でも制作可能か?という確認の意味も含まれていた。乞われるままに西岡が上京してみると制作準備はかなり進行しており、フジテレビジョンで『浮世絵 女ねずみ小僧』の後番組として、放送枠が「土曜日22時30分開始の1時間枠」であることやC.A.Lの制作、中村敦夫の主演も決定済みだった。市川は、大映京都撮影所の協力も決定したオールスタッフ打ち合わせの席で「好きに遊んでくれ(自分たちのやりたいようにやれ)」と激励し、当時20代から30代の若手がほとんどだった各パートを奮い立たせる。しかし、第1部の2話分を撮り終えた1971年11月21日に大映が倒産。管財人による大映京都撮影所の差し押さえで、制作中断の危機に遭う。制作に参加した93人の大映京都撮影所スタッフ(大映の契約スタッフ)は、倒産した会社から給与も支払われず、早朝から深夜まで仕事を続行。「完成まで、仕事をさせて下さい。私たちに残っているのは活動屋根性だけです」という世間の常識を超えた西岡の訴えに根負けして、管財人は撮影所の差し押さえを1か月間延期する。その間の年明け早々には東映の紹介で、地元のレンタルスタジオだった日本京映撮影所で制作を継続。西岡たちは別資本の新会社「映像京都」も設立し、映像京都には、森一生、三隅研次、安田公義、池広一夫、井上昭ら10人の監督や、美術の内藤昭、撮影の宮川一夫、森田富士郎、照明の中岡源権、録音の大谷巌以外にも、中村努や徳田良雄などの大映社員が参加した。
番組は「市川崑劇場」と銘打たれ、1972年の元日に放送開始された。市川は監修と、第1部の第1話から3話、18話の演出(監督)を務めている。
原作者の笹沢は元来、紋次郎を田宮二郎をモデルにイメージしていたが、「主役は新人で」という市川の意向により、元・俳優座の若手実力派で、準主役級の俳優として活躍していながら、一般的な知名度は必ずしも高くはなかった、中村敦夫が紋次郎役に抜擢された。
劇中で、紋次郎が口にする決め台詞「あっしには関わりのないことでござんす」が流行語になった。しかし、テレビ版は「あっしにゃぁ関わりのねぇこって…」と答えるのが定番で、紋次郎の台詞の「ねぇ」が「ない」に替わり さらに、無宿の渡世人という設定から語尾に「…ござんす」が付けられ、誤って流布したものである。菅原文太主演の東映版では「…ござんす」となっており、結果として、東映版の決め台詞が普及したことになる。
主題歌「だれかが風の中で」は、市川の妻で、市川監督作品のほぼ全てに関わった脚本家の和田夏十が作詞し、フォークバンド「六文銭」を率いるフォークシンガーの小室等が作曲した。その力強く希望に満ちた歌詞と、西部劇のテーマ曲を思わせるような軽快なメロディーは、上條恒彦の歌声と相まって、時代劇には似つかわしくないものだったが、その新鮮さが幅広い支持を得ることになり、結果的に1972年だけで、シングル23万枚を売り上げる、同年度屈指の大ヒット曲となった。
本作品は、これまでの股旅物の主流であった「義理人情に厚く腕に覚えのある旅の博徒(無宿人)が、旅先の街を牛耳る地回りや役人らを次々に倒し、善良な市井の人々を救い、立ち去っていく」といった定番スタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫のクールな佇まいが見事にマッチした。22時30分開始というゴールデンタイムから外れた時間帯にもかかわらず、第1シーズンでは毎週の視聴率が30パーセントを超え、最高視聴率が38パーセントを記録する大人気番組になった。殺陣師の美山晋八は、それまでの時代劇にありがちだったスタイリッシュな殺陣を捨て、ひたすら走り抜ける紋次郎など、博徒の喧嘩も想定した殺陣を独自に考案した。当時の博徒が銘のある刀を持つことなどありえず、刀の手入れをすることもないため、通常時代劇に見られる「相手が斬りかかってきた時に、刀で受ける」などの行為は自分の刀が折れてしまうので行わず、また、正式な剣術を身につけていないため、刀は斬るというより、振り回しながら叩きつけたり、剣先で突き刺すといった目的で使われるなど、リアリティを重視した擬斗がシリーズ全編を通して展開されている。主演の中村敦夫が途中でアキレス腱を切る事故に見舞われたが、その後のスタンドインを大林丈史と阿藤海が務めることで制作は続行された。
ノンクレジットで参加したフジテレビジョン編成部の金子満プロデューサーは、過去にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーでアシスタント・プロデューサーも担当した経験から「テレビで血を見せると絶対に茶の間から拒否され、ヒットしない」という信念を持っており、第1話の試写でも市川崑が演出した凄惨なアクション シーンに「これでは受け取れません」と、毅然とした態度でNGを告げて周りを仰天させる。テレビ番組における金子の持論に対し、市川も「そういう方針もあるよね。ようし、それでいこう」と理解することで、金子は「血はともかく、映像は素晴らしいものだった」と当時を回願する。近年の金子はシナリオ制作に必要なリマインダーの存在も指摘しており、「喧嘩の仕方や衣裳、食事もヤクザらしいリアリティを持たせて描き、最初と最後には情緒たっぷりのナレーションを毎回、同じ時間に同じ場所で流す」本作品ならではの特色をポジティブ・リマインダー、「絶対に血のアップを撮らせない」特色をネガティブ・リマインダーと命名した。後者のネガティブ・リマインダーを守れなかった後の作品は、フジテレビ版より人気を得られなかったと分析している。
1977年には『新・木枯し紋次郎』(全26話)が製作され、東京12チャンネルで放映された。中村敦夫は主演だけでなく、やしきたかじんが歌う主題歌「焼けた道」(作曲:猪俣公章)の作詞も手がけたが、ヒットには至らなかった。本作の紋次郎の決め台詞は「あっしには言い訳なんざ、ござんせん」だったが、これも前作ほどの話題とはならなかった。
1993年には、中村敦夫主演で映画『帰って来た木枯し紋次郎』が東宝配給で制作された。こちらは従来の中村敦夫主演のテレビ版の続編であり、このために原作者の笹沢左保が新たにシノプシスを書き下ろし(小説としては発表されていない)、監督も市川崑が務めた。主題歌も、テレビ版の『だれかが風の中で』が使われている。この作品は紋次郎の台詞が、東映版に準じた「あっしには関わりのねぇことでござんす」となっている。フジテレビ系列で、後にテレビ放映された。
1990年には岩城滉一、2009年には江口洋介の主演で、単発のスペシャル ドラマが製作された。  

 

●木枯し紋次郎 2
赦免花は散った
「人間には一生に一度や二度、計算に合わなくてもやらなればならねえことがあるもんだ」三度笠に汚れた道中合羽、手甲脚絆。頑丈一辺倒の長脇差とトレードマークの長い楊枝。……幼馴染みの兄弟分に裏切られ、罠におちた紋次郎の頬の刀傷がひきつった。くわえ楊枝が震えて、木枯しに似た乾いた音が、高く鋭く鳴った。時代小説のスーパー・ヒーロー、待望の登場。
女人講の闇を裂く
貧しい農家の六番目に生まれた紋次郎は、母親の手で間引きされる運命だった。姉のお光の機転で救われた幼い命は、しかし孤独と虚無を育んでいった。……人を頼るから裏切られる。頼られてしまえば裏切ることもある。ならばいっそ何事にも関わりを持たず独りのほうがいい。くわえた楊枝が木枯しに似た音を出す。木枯し紋次郎の孤独な旅は、まだ始まったばかりだ。
六地蔵の影を斬る
「あっしには、かかわりのねえことでござんす」その渡世人の左頬には、古い刀傷の跡がある。さらに彼は唇の左端に十五センチほどの手製の楊枝をくわえている。紋次郎のこのトレードマークは、十二、三年前、彼がまだ二十歳前のある出来事に由来していた……。上州新田郡三日月村の貧農の息子は、まさにこの瞬間から、永遠のヒーローに生まれ変わったのである。
無縁仏に明日をみた
「あっしは人を信じねえ代わりに、人から信じられるのも嫌えな性分です」天保の改革、大塩平八郎の乱、米船の浦賀への入港……。しかし紋次郎に限らず、農民も商人もやくざな稼業の者も、時勢の変動を感知することなく、その日の生活に追われていた。俗世に係わらず、義理にも人情にも煩わされずという生き方こそ、紋次郎がそこで学んだことであった。
夜泣石は霧に濡れた
「生きる張り合いも、生き甲斐もなかった。その日が去れば昨日だし、その日が来れば今日だった。明日という日は、ないのである」渡世人・紋次郎が今日生きる自分を守るのは、刃渡り二尺の頑丈な刀。道中合羽で刀を隠し、大勢を相手に変幻自在の戦法を取る。……漠とした不安ただよう天保年間を駆けぬけた紋次郎が、21世紀の現代に時代を超えて甦る。
上州新田郡三日月村
道中支度の長身、風雨に晒されて黒く変色した三度笠が大粒の雨を弾き返している。次の瞬間、大音響が轟いた。渡世人は落雷の衝撃で意識を失った。二十年ぶりに生まれ故郷の三日月村を訪れた紋次郎であった。石切り人足与作の孫娘に助けられて回復した紋次郎は、与作老人が、実は盗賊泥亀の喜三郎の仮の姿だと知る……。サスペンスと鮮やかなどんでん返し!
木枯しは三度吹く
紋次郎は、死を直視していた。非情冷徹な彼が、狂女の言葉を信じ、あざむかれたのだ。追っ手は二十四人。助かる見込みは万に一つもない。紋次郎の意識は朦朧とした。またある日、紋次郎は六人の大男を相手に決然と立ち向かった。全員を泥田の中に倒し去って行く。「あっしには、今日しかございませんよ」現代的な放浪感覚と、ミステリー仕掛けのどんでん返しが圧巻。
命は一度捨てるもの
うっそうとした木々、蝉の声に包まれた山道に突如降りつける夏の驟雨……。木曽路を進む木枯し紋次郎はそんな時、幼馴染みの長兵衛とお鶴に出会った。久しぶりの三人が巻き込まれる一大事!? 身を引き裂かれるような状況に立たされる紋次郎。ついにその長脇差は、情容赦なく光った! 全編みなぎる斬新な趣向と密度濃いドラマ。人の魂を震わす、感動の物語。
三途の川は独りで渡れ
「三途の川は、独りで渡るもんでござんす」冷ややかな目でそう言うと、渡世人は長脇差を鞘に納めた。北国街道を行く紋次郎の顔に表情はない。……行きずりの男から託された荷物、間に合わなければ子供が間引かれるという。紋次郎は騙されたのか!? なかに二百両の小判が入っていた。──虚無と孤独が色濃く漂う時代劇のスーパーヒーローが、今日も街道を足早に通り過ぎる。
虚空に賭けた賽一つ
上州の亀穴峠を行く木枯し紋次郎は突如襲われた。相手は山で育った八人兄弟。山刀、槍、弓矢、それぞれ独自の武器を使い、鍛錬を積んでいる。……行く手には「無」、引き返してもやはり「無」。無宿の流れ者、渡世人はそれでも、命を狙う者たちへ向かって前へ進むほかはない。――非情な紋次郎と哀しい女たちのドラマを描いて、股旅小説に斬新な世界を拓いた伝説のシリーズ。
お百度に心で詫びた紋次郎
紋次郎は夕焼けを眺めながら、峠路を下る。五、六歩行ってから振り返り、唇の中心に移した楊枝に息を集めた。木枯しに似た音とともに、楊枝は吹き矢のように飛んだ。峠路を下る木枯し紋次郎の顔に、表情はない。……人を冷たく引き離しながら、密接に関わってしまう紋次郎。その乾いた心情の底にある人間の温かみ。旅はまだ終わらない。道の先にはどんな風景が……?
奥州路・七日の疾走
奥州路、そこは賭場も親分衆の住まいもなく、渡世人にとっては禁断の土地であった。しかし、清水港から千石船で銚子に向かった紋次郎は、途中暴風雨にあい、八戸に流れついてしまった。一日も早く関八州に抜けなければならない。――紋次郎を追う、侠客・大前田栄五郎がはなった三十人の刺客と一刀流の達人。紋次郎に勝ち目はない。シリーズ初の長編大作。
人斬りに紋日は暮れた
渡世人の一団に追われた紋次郎は、霧の中で突然弓矢の攻撃を受けた。勘だけを頼りに人影に斬りつけると、相手は意外にも猟師の親娘。娘はその傷のために嫁入り話が破談となった。償いをしようとあせる紋次郎は、五十両で「人斬り」を請け負うのだが、殺す人物はなんと……!? 人の世の哀しさ、わびしさ、そこにきらりと光る紋次郎の優しさ。詩情あふれる見事な時代小説。
女の向こうは一本道
木枯し紋次郎の前に、最強のライバルが立ちはだかった。直心影(じきしんかげ)流の達人で武家崩れの渡世人・峠花の小文太は、行方不明の妹が紋次郎のため女郎に売られたと聞く。五年ぶりに再会したその妹は、死の床にあった。小文太は紋次郎を斬り刻むことを誓った。恐るべき宿敵。「明日のおのれを見通せねえ身にござんす。先のことはあっしにもわかりやせん」紋次郎危うし。
さらば峠の紋次郎
木枯し紋次郎は歩きながら、長脇差(ながどす)の下げ緒を結び直した。錆(さび)朱色の鞘を、鉄環と鉄鐺(てつこじり)で固めた長脇差は、かなり重い。足早に歩くときしっかり固定されていないと邪魔になるのであった。夕闇の中に、菜の花畑が広がっている。……最強のライバル・峠花の小文太との死闘。その行方は?……。シリーズ遂に堂々の完結。紋次郎はしかし、街道を急ぐ。今日も、そして明日も。 

 

●帰ってきた木枯し紋次郎 3
笹沢左保原作の股旅小説を、市川崑演出、中村敦夫主演でテレビ・ドラマ化した人気時代劇『木枯し紋次郎』(72〜73年)の二十周年を記念して、同じトリオによって新たに35ミリフィルムによる長編として撮られた作品。笹沢左保が今回の長編のためにオリジナル・シノプシスを執筆し、市川と中村敦夫、中村勝行が共同で脚色。テレビ放映に先立って、劇場で特別公開された。

弘化三年。溯ること五年前に賊に襲われて崖から落ちて死んだと思われていた渡世人、木枯し紋次郎は、きこりの伝吉に助けられ杣人(そまびと)となって働いていた。ある時、事故で怪我をした伝吉は、木曽一帯を支配している貸元、木崎の五郎蔵一家に入った息子の小平次を連れ戻してくれと頼む。五郎蔵は幕府と農民とで騒ぎになっている運上(税)問題の間に入って、役人・商人とともに私服を肥やしていた。一家には紋次郎を親の敵と追っているお真知の姿もあった。紋次郎は伝吉の娘が止めるのを振り切って再び草鞋を履くことになる。小平次はすぐに見つけ出すが、お真知に邪魔されて逃げられてしまう。お真知は五郎蔵一家の加勢を得て川辺で紋次郎を殺そうとするが、川の流れを利用した紋次郎の方が勝つ。その時、お真知は紋次郎が敵ではなかったことを知る。一方、小平次も五郎蔵のからくりに気づき、単身一家に乗り込むが逆に半殺しにあい、紋次郎とお真知に助けられた。だが、廃屋で小平次の介抱をしているところを一家に取り囲まれ、対決となる紋次郎。今度は闇を利用して討ち勝つと、小平次に伝吉のもとに帰るよう言う。そしてそのまま彼は渡世の旅に出るのだった。  

 

●帰って来た木枯し紋次郎 4
木曽路の掛け茶屋の横手に、上州新田郡三日月村で生まれた天涯孤独の渡世人・木枯し紋次郎の墓がある。五年前、紋次郎は付近の崖で男に襲われ、男もろとも木曽川に転落し死んだものと思われていた。だが、紋次郎は、木曽の山中で杣人と呼ばれる樵となって生きていた。ある時、紋次郎は、杣人の頭領・伝吉に、伝吉の息子で上州・木崎の渡世人・五郎蔵親分の子分になった小平次を木曽に連れ戻してくれと頼まれ、上州へ向かった。その頃、上州では主要産業の絹をめぐり騒ぎが起きていた。お上が絹糸や反物から運上金を取り立てようとし、織元の旦那衆は、木崎一家と組んで百姓一揆をでっちあげ運上金を取り止めにしようと企んでいた。五郎蔵は、旦那衆から礼金をせしめ、更に一揆に乗じて金品を略奪しようという腹である。五郎蔵の家にはお真知という女がいる。五年前に殺された貸元・十兵衛の養女である。五郎蔵は、十兵衛亡き後、十兵衛のシマとお真知を引き取った。他人に見えないことを見透す力があるお真知が、上州にやって来た紋次郎の姿を見透し、父の仇と紋次郎を追う。お真知の知らせで五郎蔵の子分たち多勢が紋次郎を襲うが、子分たちはお真知の命をも狙う。五年前、五郎蔵は十兵衛を殺しその咎を紋次郎になすりつけた。そして今度の運上金騒動では、一揆首謀の罪を小平次らに被せようとしていた…。小平次を連れ戻しにやって来た紋次郎が、五郎蔵一家の奇襲を受け、長脇差しを抜く。お真知を欺き、小平次を銭儲けの為に利用した五郎蔵に振り下ろされる一刀、五郎蔵は断末魔の悲鳴を上げて倒れる。紋次郎は、堅気にはなれぬさだめと、小平次をお真知に託し去って行く。 

 

●木枯し紋次郎 「生まれは、上州新田郡三日月村」 5
木枯らし紋次郎は新田の出身という設定になっている。ここは旧藪塚本町で、現在合併して、群馬県太田市になっています。このあたりは以前「市川崑、死去と藪塚温泉」で書きました。
そのときの記事
『「あっしには関わりのねぇことで・・・」の名文句で一世を風靡した、あの「木枯し紋次郎」の碑がここに。紋次郎の生みの親、笹沢左保氏の著名がはいった由来記と、旅人姿の紋次郎の姿が彫られている。木枯紋次郎といえば、笹沢左保原作、市川崑監督の人気時代劇。道中合羽に三度笠、長い楊枝をくわえてさすらう木枯紋次郎は当時の社会現象になったほどで、数十年たった今も紋次郎ファンの輪は絶えることがない。紋次郎ファンも、紋次郎を知らない方も、石碑に刻まれた紋次郎と記念写真でもいかが?』(やぶ塚温泉案内より)と、この藪塚温泉は、義貞が鎌倉攻めの折り、傷ついた兵をここで療養させたことから「新田義貞の隠し湯」と言われています。行基が開湯したという伝説があるくらいですから、古くからあったことは確か。義貞だけではなく新田一族も利用したのではないでしょうか。」
そして、笹沢佐保と藪塚の関係はかなり深い。藪塚温泉の「三日月村」、そこに「木枯らし紋次郎記念館」がある。藪塚温泉のホテル「ふせじま」の社長が仲人をしたとかなんとかといった話も聞いたこともある。笹沢佐保原作の「悪魔の部屋」は映画化もされたが、これはホテル王・伏島一族の話ということで、この縁もあるだろう。そう、全国放送で「太田市には温泉がない」と発言した現職市長が、猛抗議を受けたのがこの藪塚温泉です。ドラマでは「木枯らし紋次郎」を「無口でめっぽう喧嘩が強いなんだってな」と言わせていました。そう考えると、上州の空っ風にさらされている新田荘の出身者は、どこか朴訥な勝負師といった雰囲気があるような気もする。モントリオールオリンピック・レスリング金メダルの高田裕司や、名手といわれた騎手・岡部 幸雄、斎藤佑樹やテニスの森田あゆみ…などなど。
テレビ番組紹介の記事は、毎日新聞がよかったので転載しておきます。

ドラマ:「21世紀版」木枯し紋次郎、江口洋介主演で復活−−5月1日、フジテレビ系
◇無頼ヒーロー、現代でも受けるか
長い楊枝(ようじ)を口にくわえたあの男が帰ってきた。「あっしにはかかわりのねぇこって」のセリフが大流行したニヒルな時代劇ヒーロー、木枯し紋次郎。無宿渡世人の活躍を描いた笹沢左保の原作を、市川崑監督が72年に連続ドラマにして、当時無名だった中村敦夫が演じて大ヒットした作品だ。21世紀版は江口洋介がバトンタッチ、2時間ドラマ「木枯し紋次郎」(フジテレビ系、5月1日午後9時)でよみがえる。【網谷隆司郎】
「子供のとき見てインパクトがあったし、大人のヒーローを感じた。中村さんのイメージを壊さないように、でも今回はおれなりのアプローチで大暴れさせてもらいます」と初の股旅(またたび)ものに江口は意気込む。
場所は京都・太秦の東映京都撮影所。93年制作以来16年ぶりの紋次郎ドラマだ。居酒屋で飲む老人役で1シーンだけ出る中村敦夫は「中途半端に私をまねするより独自の紋次郎でやったほうがいい」とエールを送る。
笹沢左保が作ったキャラクターは上州新田郡三日月村の貧農の生まれ。飢饉(ききん)のため間引きされる寸前のところ姉の情けで生き残り、10歳で諸国を歩き回るヤクザ者になった、という略歴。日ごろは他人とのかかわりを極力拒む虚無の顔を見せるが、ギリギリのところで貧しい者に力を貸す。そのギャップがそれまでの正統派ヒーローにない無頼の魅力だった。
「市川監督は当時はやっていたマカロニウエスタンの格好でやろうと、史実とは違うけど、マントのような長い合羽(かっぱ)を着せられました」と記憶をたどる中村は、「立ち回りもきれいな殺陣でなく喧嘩(けんか)殺法。大勢に囲まれた紋次郎はとにかく走り回って、1対1になって一人ずつ斬(き)るというやり方。よく息が切れましたよ」と笑う。トレードマークにもなった長い楊枝を口から飛ばすのも大変だったというと、長さ20センチの竹製楊枝を口にした江口が「今回はCGでピッと飛ばします」という。 学園紛争の余燼(よじん)が漂う72年は、反体制、はぐれ者、一匹オオカミ、孤高の人といった紋次郎像に支持が集まったが、09年はどうか。江口が語る。「今の世の中、孤独な人が多い。紋次郎も孤独でかかわり合いを持たないように生きているが、人間、自分の人生を歩いていると必ず事件に遭遇する。孤独で困っている人を見ると、孤独な人ゆえに余計助けようという気が起きるのではないか。そんな時代性を感じる」
中村も今日的意義を説く。「紋次郎は間引き、つまり社会に最初から参加するのを拒否されかけた人間。格差社会の今も最初から参加できない若い人がいる。極めて現代的なドラマだと思う」 

 

●木枯し紋次郎 6 
色あせた紺の合羽に三度笠、長い楊枝に左ほおの優。股旅小説に新風を吹きこみ、テレビ化し話題となった、笹沢左保原作の映画化。脚本は「日本悪人伝 地獄の道づれ」の山田隆之、監督は、脚本も執筆している「現代やくざ 血桜三兄弟」の中島貞夫・撮影は「純子引退記念映画 関東緋桜一家」のわし尾元也がそれぞれ担当。

上州無宿紋次郎は、日野宿の貸元、井筒屋仙松殺害の罪で三宅島に流された。紋次郎は日野宿にある兄弟分の左文治の家に滞在していたのだが、ある日、紋次郎が心秘かに思いを寄せていたお夕が、井筒屋仙松に手ごめにされそうになり、左文治が斬殺してしまった。紋次郎は、左文治が、病床の母を思い嘆くのを聞き、死水をとるまでと、身替りに自首することにしたのである。島の生活は苦しく、悲惨であった。飢えをしのぐ道は、島民の情にすがり仕事を与えて貰うだけだった。果てしない海に突き出た断崖の上の二本の蘇鉄。流人たちは、この蘇鉄に赤い花が咲くと御赦免船が来ると信じ、赦免花と呼び最後の夢を賭けていた。流人の中に、女郎あがりで、妊娠している、お夕という女かいた。男たちは誰ひとりとして寄りつこうとしなかったが、紋次郎は、日野のお夕への心の負担をやわらげろため、何くれとなく面倒をみてやるのだった。半年振りに、流人船が島に着いた。が、お夕への赦免状はなかった。最後の夢を打ち砕かれたお夕は、断崖の上から身を投げた。新入りの流人亀蔵は、意外な事を紋次郎に告げた。左文治の母は、数力月前にすでに死亡しているというのだ。紋次郎は、以前から島抜けを計画していた拾吉、清五郎、源太、お花らの誘いを受けることにした。その夜、三宅島の火山が大噴火を起した。彼らは、船着場の船を奪う。五人は脱走に成功した。ところが、島抜けを成功させるには、秘密を知る人間が多すぎた。絡み合う源太とお花を、捨吉のドスが串刺しにする。睨み合う三人を乗せた船は、伊豆の浜辺に打ちあげられた。捨吉は清五郎にも斬りつけたが、紋次郎に叩き斬られる。ひん死の清五郎は、左文治に紋次郎殺害を依頼されていたことを告げ息をひきとった。紋次郎の表情には、虚無感か広がってゆく。襟に縫いつけてあった一分銭を元手に、長脇差と旅支度を整え日野へと急いだ。一方、紋次郎の島抜けを知った左文治は、一家の者たちを甲州街道に配し、紋次郎を待ち伏せした。紋次郎は、そのほとんどを斬り捨てると、左文治一家に乗り込む。左文治は、紋次郎の目に殺気を見た。そして、全ての筋書がお夕の書いたものであると白状した。かたわらには、赤ん坊を抱いたお夕が、恐怖におののき立っている。左文治が長脇差を抜こうとしたのと、紋次郎の長脇差が左文治の胸に突き立てられたのは、ほとんど同時であった。お夕が悲鳴をあげて左文治の身に取りすがった。三日後、紋次郎の姿は中仙道熊谷の北にあった。歩きながら紋次郎は楊枝をくわえた口の隙間からヒューと木枯しに似た音を鳴らした。紋次郎の目に浮ぶのは三宅島から見た海と、女流人のお夕の姿であった。 

 

●木枯し紋次郎 7
左文治との出会い
上州無宿の紋次郎はある雨の夜、一宿一飯の渡世の恩義に報いるべく、やくざの出入りの助っ人になる。その晩紋次郎と相部屋だったのでやはり助っ人をした日野の左文治と親しくなり、日野に行き左文字の家に逗留することにする。 ところが紋次郎は、日野宿の貸元で十手預かりの井筒屋仙松殺害の罪で三宅島に流されることとなる。
紋次郎流人となる
流人の生活は苦しい。飢えをしのぐためには島民に仕事を貰わなければならない。だが、ある者は体を売り、別のある者は泥棒をはたらかざるを得ない。海に面した断崖の上の二本の蘇鉄の木に赤い花が咲くと御赦免船が来ると信じ、流人たちは赦免花と呼んで希望を託していた。あるいは島抜けをたくらむ者もいる。計画が発覚すると死罪、そしてほとんど誰も島抜けに成功した者はいなかったにもかかわらず。天保6年、清五郎は元漁師の捨吉をリーダーとする島抜けの一味に彼が兄貴と慕う紋次郎を引き入れようとしていたが、紋次郎は承知しなかった。紋次郎には島抜けをできない理由があった。実は井筒屋仙松を殺害したのは左文治だった。紋次郎が心秘かに思いを寄せていた両替屋の娘、お夕が仙松に手ごめにされかけたところを左文治が救ったのだった。紋次郎は、紋次郎に病気の母親を託して自首しようとする左文治に同情して身代わりに自首した。左文治は病床の母の死に水を取ったら自首すると約束した。紋次郎、清五郎たち流人を乗せて三宅島へ向けて旅立った船に、お夕を乗せた小舟が近づく。紋次郎はお夕が入水自殺するのを目撃する。
もう一人のお夕
紋次郎にはもう一つ島抜けをできない理由があった。流人の中に、死んだお夕と同じ名の女がいた。彼女は愛する男のために身売りしたのに男に裏切られたために男を殺したのだった。紋次郎は妊娠しているお夕の面倒をみてやっていたのだ。お夕は伝馬町の牢屋で役人に、お前はいつか情状が酌量されて赦免されると言われたことに希望をかけていた。半年振りに、流人船が島に着いたが、お夕への赦免状はない。お夕は「赦免花はとうとう咲かなかった」と紋次郎に言い残して崖から身を投げた。
悲惨な島抜け
一方、新しく来た流人の亀蔵から紋次郎は、左文治の母が前年の暮れに既に死んでいたことを知る。左文治に疑惑を抱いた紋次郎は、拾吉、清五郎、性犯罪でつかまった源太、元遊女で放火犯のお花に、いっしょに島抜けをすると申し出る。その時、三宅島の火山が大噴火を起す。彼らは、混乱に乗じて舟を奪い海に漕ぎ出す。島抜けは成功したかに思えたが、舟の上ではいがみ合いが続く。そして絡み合う源太とお花を捨吉はひとまとめに殺してしまう。島抜けの秘密を知る者が少ないほどいいというのが捨吉の考えであった。嵐が起き、三人は伊豆の浜辺に漂着する。先に起き上った清五郎は捨吉の刀を奪おうとするが、逆に捨吉に斬られる。紋次郎は小刀で捨吉を殺して、水車小屋で清五郎の応急治療をする。賭場で金を稼いで帰ってきた紋次郎になぜか清五郎は斬りかかる。そして小屋の外には紋次郎を狙う男たちが。賭場で紋次郎の顔を覚えていた男がいたのだ。清五郎は、赦免と引き換えに紋次郎を殺害することを流人船に乗る前に牢番から依頼されていたことを告白して息を引き取る。黒幕は誰なのか。
明かされる真実
紋次郎は日野を目指して歩く。途中で紋次郎は命を狙われるが切り抜ける。そして左文治が紋次郎殺害を指示していたことを知る。ついに左文治の家に着いた。紋次郎は実はお夕は生きていて左文治の嫁になっていたことを知る。仙松を殺害したときにお夕は既に左文治の子供を胎に宿していた。左文治とお夕が紋次郎をだましたのはそのためだった。しかし、紋次郎は仙松に代わって十手を預かり権力を笠に着る左文治を許さず、長楊枝で左文治の目を潰した上に斬り殺す。「父なし児を育てていけない。私とこの子を斬れ」とお夕は訴えるが、「あっしにはかかわりあいのないことでこざんす」と言い残して紋次郎は去っていく。 

 

●木枯し紋次郎 8
木枯し紋次郎
縞の合羽が 越え行く峠 後姿が きにかかる 
口の楊枝が 風に鳴りゃ 恋もうらみも かかわりないが 
斬るぜ 木枯し紋次郎
   赤い血潮が とび散る宿場 情無用の 雨が降る
    ・・・
   あれは 木枯し紋次郎  
雲が飛ぶ飛ぶ あの空あたり 俺の墓場は 野の果てか 
生まれ故郷は 上州か 誰がつたえる あいつの噂 
さらば 木枯し紋次郎  
   「上州新田郡三日月村に生れ 十才の時一家は離散したと伝えられるが
   天涯孤独の紋次郎が 何故無宿渡世の世界に入ったかは定かでない」 
だれかが風の中で
どこかで だれかが きっと待っていてくれる
くもは焼け 道は乾き 陽はいつまでも沈まない
こころはむかし死んだ ほほえみには 会ったこともない
きのうなんか知らない きょうは旅をひとり
    ・・・
どこかで だれかが きっと待っていてくれる
血は流れ 皮は裂ける 痛みは 生きているしるしだ
いくつ 峠をこえた どこにもふるさとはない
泣くやつはだれだ このうえ何がほしい
焼けた道
誰も知らない 愛がどこにあるのか
空の角にも 焼けた道にも
人を愛した奴はいない 野に香るゆりの花
教えておくれ 愛がどこにあるのか
   誰も知らない 自由がどこにすむのか
    ・・・
   教えておくれ 自由がどこにすむのか
誰も知らない 人は何で生きるか
食べるためにか 殺すためにか
それを知ってる奴はいない 吹きすさぶ木枯しよ
教えておくれ 人は何で生きるか  
けもの道 
風が走りぬける 野の花を吹きわけて
錆びた血の匂いが そのあとを追って行く
けもの道 おれのふるさと 生きる道 ひとりぼっちで
どこでとぎれるのか この細いけもの道
   影が走りぬける 枯れ草を吹きわけて
   ・・・
   誰も待ちはしない さすらいのけもの道
夢が走りぬける 思い出を吹きわけて
閉じた目の中だけ 血の色がよみがえる
けもの道 おれのふるさと 帰れない もう戻れない
どこでとぎれるのか この胸のけもの道 

 

●「昭和の時代劇」悪役・アウトローの圧倒的魅力
いちばん好きな時代劇は何ですか? ──時代劇研究家を名乗ってから25年、この質問を何度受けたか。毎日時代劇を見続けていると、過去の作品に新たな魅力を見出すことも多いし、素晴らしい新作に出会うこともある。よってランキングはいつも変化する。ということで、今回挙げたのは2020年初頭版ベスト3である。
挙げた3作品には共通点がある。1つは1970年代の作品であること。もう1つはアウトローが中心人物ということである。
『週刊TVガイド』が創刊された1962年に生まれ、テレビの申し子のごとく成長した筆者の世代は、斬新なアウトロー時代劇に出会う運命にあったといえる。
テレビ時代劇の第1号は、NHKで本放送が始まった昭和28(1953)年の7月1日に放送された笈川武夫主演の「半七捕物帳」であった。時代劇は黎明期からのテレビの重要コンテンツだった。その後、時代劇の放送本数は急増。新しいタッチの作品が求められる時代になった。
最初に注目されたのは「三匹の侍」
民放制作の時代劇で最初に注目されたのは、1963年スタートの「三匹の侍」(フジテレビ)だった。柴左近(丹波哲郎)、桔梗鋭之介(平幹二朗)、桜京十郎(長門勇)、3人の浪人が旅をしながら、敵を斬る。監督は後に多くの映画作品を手がけた五社英雄。
荒涼とした道を行くロードムービーを局のスタジオで撮影していたことにも驚くが、ニッポン放送出身の5社は肉や野菜を切る音を集め、「ズバッ」「ドサッ」など史上初めて人を斬る「音」を入れて視聴者を驚かせた。
関係者に聞くと徹夜も多く、スタッフは局の廊下で横たわって仮眠の日々。長門勇は当時まったく無名で、五社は企画書にわざと「長門」と苗字だけ記し、人気映画俳優の長門裕之と思わせて企画を通したとの逸話も残る。無茶苦茶だが、とにかく熱い。晩酌する祖父の膝の上で見た私もその熱だけは感じ取った記憶がある。
とはいえ、当時時代劇の中心地・京都では映画が「本編」で、テレビは「電気紙芝居」と言われ格下扱い。テレビに配属されると「気の毒に」と言われたのだという。しかし、はぐれ者といわれた面々が創りあげたこの時期の「テレビ映画」時代劇が実に面白いのである。
例えば司馬遼太郎原作の「新選組血風録」(NET、主演・栗塚旭)は、セットが使えるのは映画撮影の合い間だけ。録音スタッフがつけられず、オールアフレコで収録されている。
有名な池田屋騒動は、建て替えが決まった料亭で撮影された。本物の狭い廊下や階段で襖や障子をぶち破って戦うのだから、リアルなのは当たり前だ。小学校から飛んで帰り、午後の再放送でこのモノクロ時代劇に見入った私は、春日八郎の行進曲のような主題歌『新選組の旗は行く』とともに、土方歳三の栗塚旭の男っぷりにもシビれた。
シビれた子どもは私だけではなかったらしく、後年大河ドラマ「新選組!」には、栗塚旭が土方歳三の盲目の兄の役で出演。1961年生まれの作者・三谷幸喜氏たっての希望だったという。
「新選組血風録」が、悲惨な戦争を体験し反骨精神にあふれた脚本家・結束信二、監督・河野寿一、プロデューサーの上月信二の3人が「下に見られるテレビですごいものを作ろう」と心血を注いだ作品だったと知ったのは、平成に入ってからのことであった。
そうした中で、いよいよ出てきた「木枯し紋次郎」もまた、アウトロー中のアウトローである。1972年正月。大きな破れ三度笠に、汚れた道中合羽を身に着けた長身の渡世人。つむじ風のように現れた紋次郎(中村敦夫)は、長い爪楊枝をくわえたままつぶやく「あっしには関わりのねぇこって……」の名ゼリフとともに、たちまちブームを巻き起こした。
さまざまな逸話が残る「木枯し紋次郎」
「木枯し紋次郎」にはさまざまな逸話が残る。市川崑監督による撮影が始まった直後、制作の大映が倒産、管財人により撮影所が閉鎖されてしまう。同作品はフリーになった元大映のスタッフが中心になって急遽立ち上げた制作会社「映像京都」が手がけることになった。なんとか再開したものの、はじめは小さな貸しスタジオでの撮影。給料がきちんと支払われる保証もない。先が見えない中で、最後の映画職人たちが生き残りをかけた作品だったのだ。
冒頭。孤独な紋次郎がひとり山道を歩く。市川監督はオープニングタイトルだけで、ドラマ3本分くらいの手間をかけた。他のスタッフも斬新なシーンのためにアイデアを出し合う。ゲストにも荒木一郎、原田芳雄ら曲者が揃う。これで面白くないわけがない。放送当時の私は裏事情など知る由もなかったが、人と関わりたくないのに裏切られ、陥れられ、人を斬ることになる紋次郎を見ながら、「世の中って怖い」と衝撃を受けた。そして、カッコいいと思った。その気持ちは今も変わっていない。
映像京都は2010年の解散まで、「鬼平犯科帳」「御家人斬九郎」「剣客商売」と昭和、平成を代表する時代劇を手がけることになる。
紋次郎の強力なライバルとして登場したのが、闇の世界の殺し屋たちを主人公にした「必殺」シリーズ(朝日放送)である。1975年の「必殺必中仕事屋稼業」はその第5弾であった。
元締めである飛脚問屋の女主・おせい(草笛光子)の依頼を受けて、蕎麦屋の半兵衛(緒形拳)と元武家の遊び人・政吉(林隆三)が、悪人たちを始末する。それまでの「必殺」と大きく違うのは、2人が博打好きのダメ男で、殺しについてはやたらアマチュアっぽいところだった。
シリーズ第1弾「必殺仕掛人」では鍼医の藤枝梅安(緒形拳)が、狙った相手の急所に平然と鍼を突き刺し、第2弾「必殺仕置人」では奉行所同心の中村主水(藤田まこと)が無表情のまま暗がりでぶすりとやる。どちらもプロの技だった。ところが、半兵衛も政吉も殺しの現場では焦りまくり、しばしばミスもする。人を殺し、女を食い物にする悪の親玉のほうが断然強そうなのである。この緊張感が魅力だった。
実際、時代劇を面白くするのは強烈な悪人だ。「必殺」シリーズには天知茂、三國連太郎、中尾彬らが悪役で出演。彼らが見せるダークな顔は人々をビビらせた。「仕事屋稼業」の最終回では、私が愛する政吉を拷問した挙句、死に追いやった奉行所同心役の大木実の「悪」ぶりは酷かった! 後にまったく別の時代劇で大木実ご本人のインタビューを引き受けた私は、「仕事屋稼業の最終回で泣かされました」と、つい告白し、心優しき名優(ホントにいい方だった)を困惑させたのであった。
近年の時代劇にいちばん足りないのは、ガツンと迫力のある悪役だということはよく言われる。過激な場面を放送するのは難しくなっているから、悪の顔を作りにくいのもよくわかる。しかし、時代劇はバッサバッサと悪を成敗するのがヒーローと称えられる。現実離れしているからこそ成り立ってきたのだ。「必殺」で人気を得た藤田まことも時代劇の危機を感じ、晩年自ら提案して「世直し順庵!人情剣」(時代劇専門チャンネル3月放送)で密かに悪人を成敗する医師を演じた。現在、「必殺」シリーズは東山紀之らに引き継がれているが、視聴者の期待に応える「悪」を造形できるかが勝負どころだろう。
「忍者」と「盗賊」が時代劇をザワつかせる
「忍者」と「盗賊」も、時代劇ならではのキャラクターとして長く人気を博してきた。昨年亡くなった神先頌尚さん(元東映太秦映像社長)は、「水戸黄門」「大岡越前」などナショナル劇場(TBS)の長寿シリーズを手がけた名プロデューサーだった。その神先さんが「忘れられない」と語ってくれたのは、1967〜68年放送の「仮面の忍者 赤影」(関西テレビ)だった。
横山光輝原作のマンガをドラマ化した子ども向け番組だが、テレビドラマに慣れていないスタッフは映画と同じ手間と時間をかけて凝った撮影を繰り返す。出演者も赤影役の坂口祐三郎はじめ、映画で鍛えられたベテランが多い。特に敵方忍者には、原健策、汐路章、天津敏、舟橋元(前述した「新選組血風録」では近藤勇役)など名悪役たちが本気でお茶の間の子どもたちを怖がらせる。最後には巨大な怪獣やUFOまで飛び出して、完全に予算オーバー。だが、それだけに素晴らしい内容で大人気となり、今も多くのファンを持つ。
その後も東映では千葉真一の「影の軍団」シリーズなど忍者の名シリーズが制作された。若き日の真田広之、伊原剛志らもここで育てられた。東映京都撮影所では昨年、時代劇専門チャンネルによる特撮アクション時代劇「BLACKFOX:Age of the Ninja」の撮影が行われた。監督・アクション監督はアメリカで技術を磨き、「ウルトラマン」「仮面ライダー」「スーパー戦隊」など日本が誇る特撮シリーズにすべて関わった坂本浩一。
私は現場取材で、父の仇を追う女忍者・石堂律花(山本千尋)が狭い道を全速力で走りながら、刀を抜き、多くの敵とぶち当たるシーンを繰り返すのを見て、忍者魂は受け継がれているなあと感心した。CGなど映像技術が進化したからこそ生身の人間のアクションを前面に出して、痛みや心情を伝えたいという監督の意向がビシビシと伝わってきた。
「黄金の日日」の魅力もまたアウトローたち
最後に取り上げる「黄金の日日」は1978年放送の大河ドラマ。CGなどは使われていない時代の作品である。原作は城山三郎、脚本は市川森一。戦国の世、最先端の自由都市・堺を舞台に南蛮貿易に身を投じた呂宋助左衛門を市川染五郎、現・松本白鸚が熱演。大海原に夢を広げる壮大なストーリー、大河ドラマ初の海外ロケをした話題作であった。
この作品で都市にうごめく怪しげな戦国アウトローを演じたのは唐十郎、李礼仙などアングラ系俳優たち。中でも人気となったのは川谷拓三演じる杉谷善住坊と、根津甚八演じる石川五右衛門だ。
堺を支配しようとした織田信長の狙撃に失敗した善住坊は、地中に埋められ、通りがかる人々に竹の鋸で少しずつ首を斬られる残酷な刑に処せられる。権力者に逆らった見せしめだ。大盗賊として知られる五右衛門は、助左と出会い、一度は盗賊から足を洗って船に乗ったが、老いてなお朝鮮で無謀な戦を仕掛ける豊臣秀吉に怒り、仲間と伏見城に潜入して暗殺を計画する。仲間5人に「地獄で会おうぜ」と声をかける五右衛門。
だが、秀吉の寝所まであとふすま1枚のところで捕縛されてしまう。血まみれの五右衛門は、どれほど責め立てられても助左らを守るため「船だの海だの大嫌いの大苦手」と口を割らない。根津が凄みのある声で「夜ごと寝耳を驚かす盗賊と相成りました……」と一人語りし、微笑みながら煮えたぎる大釜の湯に身を投げる場面は、語り継がれる名シーンだ。
底辺に生きるアウトローたちは社会の矛盾や権力者の横暴を、自ら鏡となって映し出す。史実にとらわれず作家が思う存分書き込める彼らによって、ドラマが盛り上がったのだとよくわかる。
自由とは、戦とは、生きるとは。時代劇だから描けるテーマにガッツリと向き合い、泣き笑いのストーリーの中で見る者に考えさせる。私はずっとそんな時代劇を愛してきたし、これからも見たい。配信など世界視野で展開できる今、日本の強力コンテンツとして、未来があるはずだ。 

 

●木枯し紋次郎・雑記
笹沢左保の名言 
愛の証はお互いの誠意しかない。そして、人間と人間をささえあうのはその誠意で立証された「愛」だ。
自然界は、愛が循環していく世界です。
人間だけでなく、自然界で暮らす全ての存在が、愛で支え合う世界ですね。
自然界での、真の夢の実現も、大切な人に愛を届けて、幸せを実現していくことです。
どれだけの人に愛を届けられるか、幸せを感じてもらえるか。
また、一人の人に、どれだけ深い愛を届けられるか、深い幸せを感じてもらえるかですね。
それは、純粋な想いでしか、まさに、誠意でしか、実現していかないものでしょう。
恋とは報われない犠牲を払うこと。報われるということを期待しない犠牲ということ。
人とも、夢や能力とも、恋におちて、そこから愛に育んでいくことが、とても大切なことですね。
そして、そのどちらも、循環させることが最重要なことです。恋はもちろんのこと、愛しあうということも、相手に愛を求め始めると、途端に苦しいものになってしまいます。
人生の一大事業である、夢へのチャレンジが、苦しいものになっては、あまり結果は期待できないでしょう。
もちろん、夢へのチャレンジは、楽しいことばかりではありませんが、楽しくないことも、愉しんでいけてこそ、夢の実現が、どんどん近づいてくるものですね。
誠意も自らが尽くしていれば、誰にも求める必要はありません。
必ずその愛、誠意は循環して、大きな愛として届いてきます。求めない方が、届かない人などに、無理をさせたり、わずらわせたりすることなく、スムーズに愛の受け取りに、繋がっていくことを、実感していくことですね。
求めてしまって、自ら、せっかくの夢のチャレンジや大きな愛の受け取りを、妨げてしまっては、もったいないですね。
自然界の愛は、循環して、大きくなること、一方的に届けていく循環を起こしていくことで、どんどん増幅していくことを、ぜひ、体感、体得していってくださいね。この状態に至るまでの、チャレンジが、まず、何はさておいても、必要なことです。 
木枯し紋次郎
「木枯し紋次郎」はご存知ですか? 今から40年前に放映されたテレビの時代劇。原作は笹沢佐保。
無宿渡世人の紋次郎が他人との関わりを極力避け、己の腕一本で旅を続けるちょっと暗い感じのする時代劇でした。キメ言葉は「あっしには関わりねえことでござんす」それに口には長楊枝。
小学生の時によく放映を見ていました。紋次郎ごっこもやりました。。三度笠はさすがに無いけど道中合羽の代わりに風呂敷かぶって口には長楊枝(当時駄菓子屋で売ってた)。
その後大人になってからは小説も読んでけっこうハマりましたね。それで三日月村です。紋次郎の設定上の故郷が上州新田郡三日月村。現在の群馬県太田市藪塚町三日月村。三日月村の地名は本当にあるんですね。そこに木枯し紋次郎のテーマパーク?「三日月村」があります。
三日月村の歴史
「三日月村」とは、今から 40 年以上前の昭和 47 年に新田郡薮塚本町(今の太田市薮塚町)観光協会会長伏島武一(ふせじま ぶいち)さんが、たくさんの人たちに薮塚温泉に来てもらいたいとの想いで、町の人たちと協力してつくった日本でも有名なテーマパークです。
三日月村という名前は、当時大変人気のあったテレビ番組「木枯らし紋次郎」(こがらし もんじろう)の主人公、紋次郎の生まれが「上州新田三日月村」という設定でした。伏島さんは、私達の町である太田市薮塚町に三日月村をつくればたくさんの人達に来てもらえ太田市薮塚町の宣伝になると思い、すぐに物語の作者である笹沢左保(ささざわ さほ)さんに相談しました。
最初は、「ブームに乗った建設は反対」と笹沢さんに言われてしまいました。しかし、伏島さんや薮塚の観光協会のみなさん達は、ねばり強い話し合いをして、ようやく7年後の昭和 55 年に笹沢さんに思いが伝わり、ついに私達の町、太田市薮塚町に三日月村が誕生したのです。三日月村の開園には、当時のテレビスターや群馬県知事、新聞社など、たくさんの人達がお祝いにかけつけ、その年の1年間に薮塚温泉にやってきたお客さんは、103 万人(今の薮塚の人口は2万人です)以上を記録し、たいへんな賑わいをみせたのです。
その後、たくさんの会社が三日月村を模範して、日本各地に三日月村のようなテーマパークが増えていきました。今では、薮塚温泉や三日月村は全国でも有名な温泉地になってテレビのバラエティー番組やドラマ、映画の撮影地としても使われています。
また、子供のころ三日月村に遊びに来た人達が、大人になって自分の子供をつれてきてくれる、そんなみんながたのしめる場所になりました。 
金田一耕助と木枯し紋次郎
『女王蜂』の記事で書いた「市川崑の金田一耕助像の原点は紋次郎」について詳しく述べていきましょう。
『女王蜂』は秋のロケーションがとても鮮烈ですが、そのトーンは『木枯し紋次郎』のタイトルバックに極めて似ています。色彩的にもそうですが、主人公をロングショットの中に小さく入れ込む構図がそっくりです。そして、それぞれの主人公のキャラクター造形においても、明らかに共通点があります。
まず、「市川金田一は原作に忠実」と言われますが、厳密には違います。確かに風体は原作に寄せてますが、人物造形は市川崑のオリジナルです。
市川崑や石坂浩二は、金田一を「天使」「神様」などと解釈しているとのことですが、確かに市川金田一は、どこから来て、どこに帰っていくのか分かりません。まずその点が、紋次郎的であり、さらには3人の若い渡世人を主人公にした『股旅』(1973年)にも通じるものがあります。『股旅』の渡世人たちが旅するロングショットなどは、『悪魔の手毬唄』で金田一が仙人峠を越える場面とカメラワークが酷似しています。
また、紋次郎と金田一を結びつけるかなり具体的な場面も存在します。
『獄門島』の後半で、鬼頭早苗(大原麗子)が金田一に「島から連れ出して欲しい」と言います。それに対して金田一は「どこへ行ってもあまり変わりありませんよ」と素っ気なく答える。これとほぼ同じやり取りが『木枯し紋次郎』第3話「峠に哭いた甲州路」に出てきます。脚が悪くて峠を越えたことのない少女に、紋次郎がそう言うのです。(このセリフは、さらに『病院坂の首縊りの家』で、横溝正史本人に言わせています)
後述するディスカバージャパン・ブームの最中に、その要素たっぷりの作品でありながら主人公に逆のことを言わせるというのは、市川崑らしいヘソの曲がり方という感じですが(笑)、甲州路の少女といい獄門島の早苗といい、他の場所への憧れをバッサリ否定されたことにより、その孤独感がさらに強調されているとも思えるので、単なる逆説でもないのかもしれません。
当時、木枯し紋次郎のキャラクターが受けた要因としては、高度経済成長が踊り場に差し掛かり、どこにも所属しない自由気ままな旅人の姿が、あくせく働くことからの現実逃避のファンタジーとして機能した、ということが考えられます。ある日突然いなくなる「蒸発」という言葉が定着したのもこの時期です。1970年の万博の直後には、国鉄のキャンペーン「ディスカバージャパン」が開始。そのコンセプトは「日本を発見し、自分自身を再発見する」というもの。日本各地を旅する紋次郎や、戦後の農村を舞台にした金田一シリーズのヒットも、ディスカバージャパンの文脈で語られていました。その意味では『男はつらいよ』の車寅次郎なんも、けっこう近いキャラクター造形と言えるかもしれません。トランクを持って田園風景をさすらう姿は、かなり似ています。もっと言えばTBSのドラマ『水戸黄門』も、全国を旅するドラマですよね。
原作の金田一は、銀座に事務所を構えている、わりと有名な探偵という設定ですから、かなり大きな変更が加えられていると言ってもいいでしょう。いずれにせよ、「原作通り」と言われている市川金田一は、終戦直後に書かれたキャラクターを、実はその時代にふさわしい設定に変換したものである、ということです。
ちなみに、1996年に金田一=豊川悦司で市川がメガホンをとった『八つ墓村』のエンディングには、小室等の『青空に向かって』が使われています。小室等と言えば『木枯し紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」の作曲者です。これはもう、《市川金田一、紋次郎起源説》は、かなり当たってるんじゃないかと思いますけどね。
木枯し紋次郎
・・・ 本作は市川 崑監修によるテレビ時代劇。無宿渡世の流れ者が、行く先々で悪い奴らとチャンバラするという、いわゆる股旅ものなわけだが、しかしそこは日本映画界を代表するモダニスト、市川 崑大先生の鋭い眼が光るのだから、「勧善懲悪、人情ベタベタ、お涙頂戴」というわけにはいかない。ごくごく大雑把に言ってしまえば、本作はある意味で「アメリカン・ニューシネマ」に対する市川 崑流の回答だと言えよう(当人がアメリカン・ニューシネマを意識していたかは分からぬが)。
同時期に作られた市川 崑監督のATG作品『股旅』(1973年)も、既存の股旅ものとは大きく趣を異にした、リアリティー重視の乾いた傑作であるが、本作『木枯し紋次郎』もまた、そのリアリティー重視の乾いたスタイルを貫徹した、まさに「ニューシネマ」的ロード・ムーヴィーだ。
上州、新田群(にったごおり)は三日月村の貧しい農家に生まれた主人公・紋次郎(中村敦夫)は、実の母親に「間引き」されそうになったところを姉によって救われるという暗い過去を持つ。そんな彼は10歳の時に家を捨て、その後は無宿の渡世人となった。ボロボロの三度笠に薄汚れた道中合羽、そしてトレードマークの長い楊枝。信じられるのはテメェ自身と長ドス一本。
通常、渡世人は行く先々の土地の親分さんのところへ草鞋を脱いでご厄介になるのだが、いわゆる「一宿一飯の恩義」のために、何の怨みもない相手を斬らなければならないこともあり、それが嫌で紋次郎はどの土地でも草鞋を脱がず、他人との関わり合いを極力避け、「あっしには関わりのねぇこって……」と面倒事に自ら足を突っ込むようなことは決してしない。
しかしそんな徹底したニヒリストでありながらも、無宿渡世の裏街道を歩く者としての「一本筋の通った」矜持は持ち合わせている。堅気の衆(特に女子供)を傷付けることはなく(ただ、あまりにも外道な相手の場合には、女であっても例外的にドスを抜くことがある)、一度受けた恩や渡世の義理に対してはどこまでも律儀かつ忠実なスタンスを貫いている。
そんな紋次郎は、若い頃から己の腕一本を頼りに険しい裏街道を歩いてきたとあって、長ドスを使う腕前はかなりのもの。といっても、それはあくまで渡世人の「喧嘩テクニック」としての腕前なので、武士のような「剣術」としての強さには程遠いのだが、しかしながら足場の悪い山道などで、数人の(多い時には十数人の)敵に囲まれたとしても、場数を踏んだその見事なドス捌きで、迫り来る敵をまたたく間に返り討ちにしてしまうほどの強さがある。
街道筋では、この長い楊枝をくわえた渡世人「木枯し紋次郎」の名はかなり知れ渡っており、それゆえ、紋次郎自身がいくら他人との関わり合いを避けようと思っても、災難や面倒事は向こうの方からやって来るのだ。いくら「あっしには関わりのねぇこって……」と面倒事を素通りしようとしても、その身の因果が面倒事や厄介事を招き寄せてしまうのである。
そして結局は抜くつもりのなかったドスを抜く羽目になり、時には斬りたくない相手を斬らざるを得ない状況にまで追い詰められる。
「チャンバラ活劇」としての爽快感はほぼ皆無。どのエピソードも徹底して暗く陰惨で、登場人物が誰一人として救われない結末を迎える話がほとんどである。昨今のテレビ事情からは考えられないことだが、これが1972年当時の「シラケ世代」を中心に大ブームになったというのだから驚きだ(紋次郎の口癖である「あっしには関わりのねぇこって」は流行語になったとか)。
日本の時代劇におけるアンチヒーローといえば、やはり勝新の座頭市が有名だが、同じ無宿の流れ者でありながら、座頭市は紋次郎に比べて遥かに「放っちゃおけねぇ」精神が強く、もし若い娘さんが手篭めにされそうであれば、まず見捨てることなく助けに入る。
が、それが紋次郎となると、「あっしには関わりのねぇこって……」とあっさり見捨てて行ってしまうのである(助ける時もあるが、それは「人としての道義」というよりは、「渡世人としての道義」に適った場合であることが多い)。
感情を極力表に出さず、人を信用せず、同情せず、恩義も受けず、女にも惚れず、自分自身と長ドス一本を頼りに、何の当てもない孤独な旅を続ける紋次郎。そしていつかやって来るであろう自分の「死」を静かに待っている……。
先述したように、渡世人としての「一本筋の通った」矜持は持ち合わせているので、「下衆い野郎は許せねぇ」という男気で人非人をぶった斬ることもあるのだが、しかしそれで誰かが救われるという流れにはほとんどならない。紋次郎本人にはもちろんのこと、健気に生きる女子供老人にまで、基本的に救いらしい救いはないのである。それどころか、健気に生きていると思った善人が実は……というドロドロとした人間の暗部を描いているエピソードがかなり多い。
しかしそれほどまでに暗く陰惨な内容でありながら、見る者の心をグイグイ惹きつける圧倒的な力強さを本シリーズは持っている。
『新・木枯し紋次郎』シリーズは未見なので何とも言えないのだが、今回ご紹介した旧シリーズ(2シーズン合わせて全38話)に関しては、どれも掛け値なしに面白い。
個人的なお気に入りは第1シーズン第3話『峠に哭いた甲州路』。これまた例に漏れず陰惨な話なのだが、私としては特に黒沢のり子演じる片足のないヒロインと、原田芳雄演じる片腕のないヤクザ者の存在に強烈に脳髄を撃ち抜かれた。登場しただけで見る者をドキッとさせるような、美しくも残酷な存在感を、この二人の登場人物は持っている。
別に暗くて陰惨な話ばかりが好きなわけでもないのだが、しかしながら見る者の心根に深い爪痕を残すような、そんな作り手側の骨太な心意気が画面を通しビシビシと伝わってくるようなTVドラマを、今の時代にも見ることができたらどんなに素晴らしいことか。
もちろん、今だってそういった骨太なTVドラマが全く作られていないというわけではないのだろうが、しかし少しでも「過激」であったり「陰惨」であったりするような作品は、どうあがいても深夜枠へ回されてしまうというのが現状だろう。
まぁ、あっしには関わりのねぇこってすが……。 
木枯し紋次郎と私
最近、笹沢左保の往年の名作「木枯し紋次郎」シリーズを数作読んだ。このシリーズは完全なフィクションであるが多くの時代小説の類に漏れず、一度ハマると癖になるような快感を伴い、シリーズ中の他の作品も連続して読みたくなるほど強く興味を引かれるものである。きょうは紋次郎の魅力について述べたい。
彼は作品の中で堅気でない渡世人という境遇であり、一見やくざを想像するがそうでもない。彼の生き方を正確に描写するなら孤高な一匹狼という言葉がもっとも適切である。一匹狼は以前から某の自覚するものなので、同じ境遇の身としてここに強く惹かれるのである。
多くのかたがご存知のとおり紋次郎は寡黙な人物であるが、少ないセリフの中で非常にインパクトの強い言葉が存在する。代表的なものでは「あっしには関わりのねえことでござんす」とか「堅気衆にお教えできるような名は持ち合わせてござんせん」といったところである。
一見クールで感情がないとも思える紋次郎だが、ストーリーの進行とともに変化していくものとなる。紋次郎はいつも自分の意志とは裏腹に徐々に事件に巻き込まれ、振り払い切れないしがらみに纒わりつかれるのである。紋次郎は消して自分から手は出さないし、口先だけの挑発にも乗らない。刀(長脇差)を抜くのは相手から斬りかかられた場合のみである。しかしこれは正確な言い方でない。彼は出来る相手(剣術に優れた相手)が斬りかかってきたときのみ刀を抜くのである。
そして刀を抜いた時に、これまで人間離れした無機質な神経の持ち主と思われていた彼にも感情が存在するのに気づくのである。やはり彼も血のかよった人間だったのだ。某はここに逆の意味で胸を撫で下ろす次第である。
相手の腕が取るに足らない時は峰打ち(刀の刃の反対方向で打つこと)や鞘打ち(刀の鞘ごと相手を打つこと)によって無用な殺生を避けるようにしているのである。但しこの峰打ちや鞘打ちの破壊力はただものでない。もし肩に入れば肩の骨を粉砕し、脇腹に入れば肋骨を折るほど威力があるのである。このような重い刀には何か秘密があるにほかならない。実は彼の愛用している変わった長脇差は全作品の中で「錆朱色の鞘を鉄環と鉄鐺(てつこじり)で固めた半太刀拵え」という注釈が書き添えられている。これは一体どんな長脇差なのだろうか?論より証拠、インターネットから借用した紋次郎の長脇差のレプリカをご覧頂きたい。
鉄環とは鞘に二つほど付いている鉄の輪っか、鉄鐺とは鞘の先端部(写真では白い部分)のことである。恐らくこの長脇差は普通の刀よりも相当重いのでないだろうか?逆に言えばパワーがないと振り回せないとも言えるものである。従って紋次郎は単にテクニックのみでなく、パワー(瞬発力)にも秀でたものがあると伺いとることができるのである。また上の写真に写っている縞模様の道中合羽も紋次郎のトレードマークとなっている。
ところで昨今の某はこの紋次郎の格好をファッションに取り入れている。綿の開襟シャツは紺と白の縦縞で紋次郎の道中合羽を多分に意識したものである。それと万年筆も紋次郎の長脇差と同じ色の錆朱色である。紋次郎の武器が長脇差であるならば、某の武器はペンである。
自分はこのペンを武器に、これからも殺伐とした無宿渡世の道を突き進んでいくことだろう。

 

●仁義を切る
任侠、テキヤ、香具師、博徒、渡世人などが、初対面の際に交わす挨拶の形式を表現する言葉。「仁義」の元の意義としては、人間の行動規範の根本として孔子の説く博愛を意味する「仁」に正義を意味する「義」を合わせて最高の徳として孟子の説いたものである。ただし、江戸時代であっても博徒は必ず仁義を切るものでもなく、鉱山等において過酷な重労働に従事する労働者の人足部屋(飯場、寄宿舎)では仁義を切って銭をもらったという話もある。
転じて、事をなすにあたって、先任者・関係先などに挨拶することや事情を説明しておくこと、事前に連絡を入れておくことも指す。政治の世界においては、あいさつや説明責任の意味あいとなることもある。
上述のように任侠、テキヤ、香具師、博徒、渡世人などが、初対面の際に自己紹介の手段として用いられる。口上がよどみなく歯切れの良い口調であるか、気の利いた台詞や言い回しであるかで、当人の力量が判断される儀式ともなっている。形にはまった形式も多く、形式から大きく逸脱することは許されておらず、管理社会から縁遠いと言われる渡世人の世界のほうがしきたりや束縛が強いという矛盾をはらんでいる。ヤクザ社会においても同様で、厳しい束縛やしきたりが多い。ただし、現在では名刺などで自己紹介を行うことも多く、軒先で仁義を切って自己紹介を行うようなことは廃れている。
テレビドラマ、および映画シリーズの『男はつらいよ』では渥美清が演ずる主人公「車寅次郎」が自己紹介を行う際に何度か行われている。第5作『男はつらいよ 望郷篇』では寅次郎の舎弟である「川又登」(演・津坂匡章)と仁義を切り合う場面がある。初対面の挨拶として仁義を切ることは、実際の挨拶というよりも、芝居や舞台の中における「見せ場」の1つとして用いられている。
一身上の都合で旅人(たびにん。旅から旅に渡り歩く者)となった者も、手拭1本あればその土地土地の親分を訪ね、一宿一飯の恩を蒙り、草鞋銭(わらじせん)を得て旅行することができたという。ただし、一言でも言い間違えたり、所作に間違いがあった場合は「騙り」とみなされ、袋叩きになって追い出され、殺されても不思議ではなかった。
識字率が低かった時代の身分証明の手段でもあり、前近代では幅広い層で行われた習慣の一つであり、厳格な所作は同業の者であると確認するための目安であった。現在では任侠・テキヤも名刺を用いるようになったため、挨拶法としては行われていない。

旅人「何某の貸元の御宅はこちらでござりまするか」。
家の者が出てきて、
家の者「手前です。お入りなされ」。
旅人は荷物を門口に置き、裾をはしょったまま羽織の紐を解き、両手の親指にはさんで、
旅人「御敷居内、御免下されまし」
と入り、紐を親指にはさんだまま框に両手をつき、頭を下げ腰をかがめ、
旅人「親分様でござりまするか」。
家の者「若い者でござんすから御頼み申します」
とすわり、左手を下げ逆につき、右手は膝から下げ三つ指をつき、
家の者「自分より発します。御控えください」
旅人はとどめて、
旅人「どういたしまして、御控えください。私は旅のしがないものでござんす。御控えください」。
家の者「下拙(げせつ)も当家のしがない者でござんす。御控えください」。
旅人「さよう仰せられ。御言葉の重るばかりでござんす。御控えくだされまし」。
家の者「再三の御言葉に従いまして控えます。前後を間違いましたら御免くださいまし」。
旅人「早速御控えあってありがとうござんす。陰ながら親分さんで御免なさんせ。姉上さんで御免なさんせ。折合いましたる上々様御免なさんせ。斯様土足裾取りまして御挨拶、失礼さんでござんすが御免なさんせ。向いましたる上さんと今回初めての御目通でござんす。自分には何地住居某一家何誰若い者何と発し、御賢察の通、しがなき者にござんす。後日に御見知り置かれ行末万端御熟懇(ゆくすえばんたんごじっこん。発音通り)に願います」。
家の者「御言葉御丁寧にござんす。申し後れまして高うはござんすが、御免を蒙ります。仰の如く貴方さんとは初の貴見にござんすが、自分儀は当家に暮します渡世にとっては何々一家誰という若い者、何某と発しまして御賢察の通り、しがない若い数ならぬ者でござんす。行末永く御別懇に願います。御引きなさい」
旅人「貴方より引きなさい」
と先程同様におよそ3回問答、相引に手を引く。
旅人は前に厄介になった親分の名を言い、礼の伝言を頼み、
旅人「懐中御免蒙ります」
と手拭いを出し、
旅人「粗末ながら」
と差し出すのを家の者が受け取り、あるいは一宿あるいは一飯させ、出立の際、草鞋銭と前の手拭いを
家の者「包直す筈なれど略しまして」
と返し、行先の親分を教え、帳面に名を記して出立させる。 

 

●仁義
広辞苑をひもといてみると、「仁義」とは、「人の踏み行うべき道」、「世間の義理、人情」の意であるとありますが、暴力団社会でいうところの「仁義」には2つの意味があります。
その1つは、暴力団社会固有の支配的倫理観としての「仁義」です。
これまでの暴力団は、弱きを助け強きをくじき、「仁義」を重んずる「仁侠集団」を標榜してきましたが、そうした建前とは裏腹にその実体は、弱きを苦しめ一般市民に危害を加える暴力集団にほかならず、現実に、この日本社会には仁侠集団は存在せず、芝居や講談の世界にしかみられないものです。
また、彼らのいうところの「仁義」も、暴力団社会特有の倫理観に基づいた、「ヤクザとして踏み行うべき道」、「ヤクザ社会における義理、人情」であって、しょせん、一般社会では当抵受け入れられないものです。
その上、最近では暴力団員の価値観も次第に変化し、いわば「ドライ」になってきており、「仁義」のかけらさえ見当たらなくなっているのが現状です。
また、「仁義」についてのもう1つの意味合としては、暴力団社会における初対面の挨拶として行う特定の儀礼様式(対外儀礼)のことを指します。
この意味での「仁義」という言葉は、もともと「辞宜」が転訛したという説と、「時宜」であるという説がありますが定かでありません。何れにしても、こうした「仁義」が博徒や的屋仲間など、いわゆるヤクザ社会で行われるようになったのは、遠く江戸時代にまでさかのぼるといわれ、「仁義」を行うことを「仁義をきる」といい習わしてきました。
この対外儀礼としての「仁義」には、「渡世人の七仁義」といわれる7種の「仁義」があるといわれています。
すなわち、1)伝達の仁義、2)大道の仁義、3)初対面の仁義、4)一宿一飯の仁義、5)楽旅の仁義、6)急ぎ旅(早や旅)の仁義、7)伊達別の仁義といわれるのがそれですが、これらの「仁義」を博徒仲間では、正式には「チカヅキ」(近づきの仁義)、的屋仲間では「メンツー」(面通)とか「アイツキ」(テキヤ用語、アイツキ仁義)といっていたようです。
具体的な仁義のきり方について、いちいち説明する余裕はありませんが、映画や芝居などで、旅のヤクザが訪問先の玄関口で笠を左脇にかかえ、右手を拳にして玄関の敷居につき、腰をかがめて仁義をきるところをよく目にすることがありますので、その恰好を知っておられる方も多いと思います。
今は故人となった俳優の渥美清が演ずるあの「寅さん映画」でも、的屋稼業の寅さんが、「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天(たいしゃくてん)で産湯(うぶゆ)をつかいました根っからの江戸っ子、姓は車(くるま)名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。」と「アイツキ仁義」をきる場面があるのを記憶されている方もあると思いますが、「仁義」の口上では、面識のない相手方に対し、独特の言い廻しで先ず自己の姓名所属団体等を披瀝した上、用向きを述べるわけです。
例えば、「手前、いたって不調法、あげますことは前後間違いましたらご免なお許しを蒙ります。手前、生国は出雲の国は松江でござんす。手前、縁もちまして親分と発しまするは○○一家二代目○○○○の若い者でござんす。姓名の儀声高に発しまするは失礼さんにござんす。姓は松江、名は太郎と申す。しがないかけだしもんにござんす。行く末、お見知りおかれましてお取り立ての程お願い申し上げます。・・・」といったように口上を述べるわけです。
しかし、今の暴力団社会では、「仁義をきる」習慣はほとんど廃れてきているといわれており、最近では、仁義をきらず名刺を用いて初対面の挨拶をするのが一般化しているようです。

時代劇のヤクザ映画をみていると、旅の博徒が「おひけえなすって」にはじまる仁義を切るシーンがよくあった。フーテンの寅さんがよくやる香具師やテキ屋の口上もこの流れを汲むものであろうか。
渡世人の口上が実際にどのような内容のものか歴史的文献ではあまり探せなかったが、愛知県の伊六万歳師、中村源若三代目の仁義が残っている。明治20年ころのものである。
おひかえなさんせ、おひかえなさんせ、早速おひかえあって、ありがとうござんす。手前、生国と申しまするは、尾州は尾張の国、海部郡は佐藤村、字草平新田、番地は六十二番区に住居をかまえております。渡世上についての親分と申しまするは、同じ尾州の国、海部郡は佐織村、字草平新田、番地は六十一番区に住居をかまえておりまする。名前発しまするは失礼にござんす、本名は加藤源七にござんす。二代目と申しますのが加藤源内、芸名発しまするは失礼さんにござんす、中村源若二代目。手前は、中村源若三代目つがさしております。いずれの土地へあがりましてもお師匠さま、またお友達の厄介、粗相になりがちの手前にござんす。行く末万端、ご昵懇(じっこん)にて、よろしくお引き立てのほど願っておきます。

〇「ご当家、軒下の仁義、失礼ですがお控えくだすって・・・」
「有難う御座いやす。軒下の仁義は失礼さんにござんすが、手前控えさせて頂きやす。」
腰を中腰に落とし、右手の手のひらを見せるように前へ突き出し、そのままの姿勢で、
〇「早速ながら、ご当家、三尺三寸借り受けまして、稼業、仁義を発します。」
「手前、当家の若い者で御座います。どうぞ、お控えなすって下さい。」
〇「手前、旅中の者で御座います。是非とも、お兄いさんからお控え下すって・・・」
「有難う御座います。再三のお言葉、逆位とは心得ますが、手前、これにて控えさせて頂きます。」
〇「早速、お控え下すって有難う御座います。手前、粗忽者ゆえ、仁義、前後を間違いましたる節は、まっぴらご容赦願います。向かいましたるお兄いさんには、初のお目見えと心得ます。手前、生国は大日本帝国、日光 筑波 東北関東は吹き降ろし。野州は宇都宮で御座います。稼業、縁持ちまして、身の片親(かたや)と発しますは、野州宇都宮に住まいを構えます、十文字一家三代目を継承致します坂本牛太郎に従います若い者で御座います。姓は風間、名は重吉。稼業、昨今の駆出し者で御座います。以後、万事万端、お願いなんして、ざっくばらんにお頼申します。」
「有難う御座います。ご丁寧なるお言葉。申し遅れて失礼さんにござんす。手前、当神津組四代目川田源之助に従います若い者。姓は江藤、名は昌吉。稼業、未熟の駆出し者。以後、万事万端、宜しくお頼申します。
〇「有難う御座います。どうか、お手をお上げなすって・・・」
「あんさんから、お上げなすって・・・」
〇「それでは困ります。」
「では、ご一緒にお手をお上げなすって・・・」
〇「有難う御座います。」
「有難う御座いました。」
「御座います」は「ござんす」と発音しております。 

 

●「一宿一飯」の恩義にあずかるための渡世人の掟
江戸時代には、任侠の世界に生きる「渡世人」と呼ばれる人たちがいた。大前田英五郎、新門辰五郎、清水次郎長、国定忠治らは、いずれも渡世人の親分たちだ。
テレビドラマの木枯らし紋次郎もたえず旅をしていたように、渡世人には旅がつきものだった。渡世人の旅は、時代劇では諸国漫遊の冒険活劇のように描かれがちだが、現実はそんなお気楽なものではなかった。渡世人の多くは、地元で不始末をしでかしたあと、ほとぼりがさめるまでの逃避行だったのだ。そんな渡世人の旅だけに、そこは厳しい掟が存在した。
旅に出た渡世人は、同じ渡世人の元に厄介になる。渡世人どうしの約束で、午後4時以降に渡世人の訪問を受けたら、地元の親分は一宿一飯の世話をしなければならない。これで、渡世人は宿と食事を確保できるが、それ以上の歓迎はない。また、客として、ルールを守らなければならない。
渡世人は、まず玄関の敷居で笠を脱ぎ、右手拳を敷居について「御免なさい」とやる。家の者は「旅人お出なさいました」と返すから、そのあと定型のやりとりをしたあと、「かよう不様にて失礼ですがお控えなさい。自分のことは・・・・・」と仁義を切る。このとき、言い損ねたり、詰まったりしたら、もうそこで相手にされなかったという。
また、夕食の「おかわり」にも制限があった。”一宿一飯”とはいえ、二膳目まではOKだったが、三膳目を食べることは許されなかった。いくら勧められても「体の調子が悪いので」と辞退するのがルールだった。
こうした掟を破ると、たちまち追い出されたという。 
 
 

 

 
 
 

 


 
2021/4
 

 

●新木枯し紋次郎 

 

●「新木枯し紋次郎」への道
紋次郎が三日月村を後にして、霧の向こうに去ってから4年半……。木枯し紋次郎は帰ってきた。
4年半という年月を、人は長いと感じるだろうか、それとも短いと感じるのだろうか。当時の私は、紋次郎への想いからすると長すぎた。多分、現時点の4年半なら短く感じただろう。流れる年月は歳を重ねるほど速く過ぎると感じるらしい。
紋次郎フリークとしては申し訳ないのだが、「新……」については「何で、今頃?」と思ってしまったことは確かだ。この4年半の間に紋次郎も私自身も変わった。そして中村敦夫氏も変わった。中村氏は紋次郎後、数々のドラマに出演。自身もプロダクションを設立、また家族も増え(未確認ですが、多分)、守るモノが増えた。
「木枯し紋次郎」の企画は、電通。中村氏を紋次郎にと市川監督に紹介したのは、電通のプロデューサー「松前洋一氏」。広告代理店の電通は、テレビ局の市場拡大上、弱小局東京12チャンネル(現・テレビ東京)のテコ入れを画策。スポンサーの付きやすい目玉番組として「木枯し紋次郎」が選ばれたということである。恩義ある電通からのオファーとあれば、なかなか断りにくい状況である。制作会社は電通系列のCALで、中村氏のプロダクションとも親交がある。
そしてもう一つ、私は中村氏の実験的な挑戦魂があったと思っている。市川監督監修の紋次郎のすばらしさは、誰もが認めるところである。だがそれだけに、前シリーズ内では世界観を変えることができないという制約があっただろう。今回は市川監督の冠はない。それだけに自由に作れる……中村氏の心が動いたのも頷ける。
制約と言えば、制作費と制作日数……。今回の制作費は1本が一千万強……5年前のフジテレビの半分以下だったという。これはかなりきつい。「映像京都」の幹部は、仕事がない状態なので、労費を削り資材の都合をつけてでもしたいという回答。「映像京都」はその時期でも、やはり逼迫していたのだ。
監督選び、キャスティングなど問題は山積。俳優の送り迎えのため、中村氏は自費で中古のワゴン車を購入し、ハイヤー代わりに使ったという。自費というところに、彼の必死さがうかがえる。
倹約の極みは、中村氏本人が脚本を書きメガホンをとるというところだろう。そこで彼は、平均6日間はかかる撮影を、3日のロケで撮るという離れ業を編み出す。山、川、森、田んぼを備えたロケ地を伏見で見つけ、移動なしで各シーンを撮るのである。交通費や移動費がカットできる。経費削減という点では、「仕分け人」顔負けであろう。
効率よい作り方とはいえるが、俳優さんも実験的な試みで目を丸くしたのではないだろうか。どの演技がどれに繋がっているのか、わからないのである。それがわかるのは監督だけである。中村氏の頭の中はどうなっているのだろう。物事をあらゆる方向から関知し、3D的に組み立てる能力を備えていることに驚嘆する。また彼には、市川監督のもとで撮影技術を身につけたという強みがある。彼はそれをラッキーだったと回顧しているが、きっと貪欲に吸収したのだろう。
中村氏が再び草鞋を履いてくれと頼まれたのが、その年の夏だったということだから、放映に至るまでの準備期間も短い。その短期間のうちに腹を決め、問題をクリアしていった彼の行動力はすばらしい。また低予算にも関わらず、制作に協力する人々を集められたのは、彼の人徳と人脈、熱い情熱の賜物であろう。
こうして「新 木枯し紋次郎」は1977年10月5日、夜9時、東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放映される。 

 

●「タイトルロールの斬新さ」
とにかくビックリした。そして次に呆気にとられた。初めて新木枯し紋次郎のタイトルロールロールを見た時のことだ。一言で言うと「ナンジャ、コリャ?!」である。
当時CMディレクターとして売れっ子だった「大林宣彦氏」が、デザインと撮影を任された。彼は同じ年の7月に、「HOUSE ハウス」というホラーファンタジーを劇場作品としてデビューさせている。ちなみに原作者の笹沢左保氏は、この作品に「木枯」という役名で鰐淵晴子さんと出演している。彼の作品の特徴は、映像には必ず特撮が取り入れられ、色彩も豊富……どう考えても今までの紋次郎の世界とは全く異なる。対極にあると言ってもいいだろう。
市川監督の映像も斬新であったが、コンセプトが違う。市川氏は、素材の美しさを組み合わせたり分割したり、スピードやアングルに変化をつけたりとスタイリッシュなタイトルロール作りであった。しかし大林氏の作品は、映像の中に実像と虚像が同居している。まるで幻覚を見ているかのようで、これを「トリップ」というのだろうか。とにかく、前作を知っている者には、「新……」は前シリーズとは全く違うのだということを宣告された一瞬であった。
アバンタイトルの後のタイトルは赤文字の活字体。前作品は青文字であった。主題曲は「やしきたかじん氏」が歌う「焼けた道」。作詞は中村氏本人である。今でこそ、たかじんの知名度は高く、特に関西地区では圧倒的な人気度を誇っているが、当時の私にとっては?であった。ただ、歌唱力はあるなあ、と素人ながら感じた。作曲は「猪俣公章氏」で、ヒット曲を量産している作曲者である。マイナー曲であり、前作とは雰囲気が随分違い、どちらかというと内に向かっている感じがする。
前奏のトランペット、炎に包まれながら転がる木製の車輪、明らかにマカロニウエスタン調である。斬新なのは映像だけでなく効果音の取り入れ方にも見て取れる。鴉の鳴き声、雨・風・水・雷と主題歌にかぶせて聞こえてくる。前作と同じように紋次郎は向こうからやって来るが、今回は荒涼とした土地。緑が重なる山々は見あたらず、どこかアメリカ西部の雰囲気が漂う。正面からの顔のアップ。さすがに貫禄が増していて、圧倒される。
スタッフロールには前作に名前を連ねていた方々の懐かしい名前が見え、少しホッとする。目まぐるしく映像が変わる中、どのシーンにも合成が入っている。草鞋の紐を締め直し、路傍の小さな花を手に取ろうとする(指先しか見えませんが)カットは、私は好きだ。紋次郎の横顔のアップ。くわえた楊枝の先に雨のしずくが光る。心なしか左頬の刀傷が余り目立たない。この後、合成は加速していく。
セットで撮影かと思われる、いかにも虚像の夕焼け。打ち寄せる波しぶきは赤く燃え、まるでマグマの流れのように見える。その中で紋次郎は見えない敵と戦っているのか、それとも己の心と葛藤しているのか、激しい動き。滝は青く水は逆流し、その真ん中を紋次郎は歩く。冷たく冷え切った心を象徴しているのか。紋次郎の口許のアップ。さすがにこのあたりは合成はない。紋次郎の顔のパーツとして私が一番心惹かれるのは、楊枝をくわえた口許である。端正な引き締まった口許の線が非常に美しいので、このシーンはかなりの高得点である。合羽を翻したり敵と戦うシーンにかぶせて、なぜかサイケデリックなアニメーションの蝶が舞う。最後はあっと驚く趣向が待っている。
オープニングと同じように向こうから歩いてくるのだが、奥に見えるのは花札の山と満月の絵。景色の中に虚像が組み込まれている。一本道を独り歩く紋次郎が、合羽を翻しさっと片膝をついてしゃがみ込む。この動きのスムーズさは、やはり長年紋次郎を経験していないとできないかっこよさである。「う〜ん、終わった〜」と、わかったようなわからないような余韻に浸ろうと思った瞬間、水面に映る満月に楊枝が走り、水中から錦鯉がピョンと飛び出す。それもご丁寧に効果音までつけて……。せっかく紋次郎の最後の決めポーズで、納得しようと思ったのにやはり?が飛び出して終わる。
私の頭の中は、かなり混乱してしまった。しかし大林監督は映像作りを楽しんだだろうなあと思う。あらゆるものを詰め込んだ、コラージュ的な芸術作品である。ちなみにタイトルロール制作費が1000万円、撮影現場は妙義山山中、最後の錦鯉は5万円だそうだ。個性的なものであるが故に、好き嫌いは激しかっただろう。特に昔の紋次郎を知っているファンにとっては、複雑な想いであったことは事実である。私もその一人だった。
初めと終わりだけは、紋次郎がこちらに歩いてくるというオマージュ。しかし、伝説的な市川監督のタイトルロールの風情とは全く違った映像に、「新……」にかける意気込みやこだわりが凝縮されているのは確かだ。
当時はあまりにも人工的な映像にとまどったが、今こうしてDVDで何度か見ていると、見方も変わってきた。わからないことが多いだけに、色々とイマジネーションが広がる。このタイトルロールは、紋次郎の心象風景、もしくは深層心理。映像は虚像であり、夢の中の世界である。しかし所詮この世も仮の宿。儚く消える夢と同じなのかもしれない、などと哲学的に、また仏教的に考えたりもする。これも歳を重ねた見方だろう。
「新木枯し紋次郎」は、驚くべきタイトルロールの変貌という仁義をきった。 

 

●第1話 「霧雨に二度哭いた」
「新木枯し紋次郎」の記念すべき第1作目である。監督は藤田敏八氏。東大文学部を卒業後、日活撮影所に助監督として入社。「赤い鳥逃げた?」「赤ちょうちん」「妹」などの現代の若者を描いた作品や、ロマンポルノなども数多く撮っている。しかし時代劇は初めてということで、この起用に新しい感覚でスタートしたいという意気込みが感じられる。
アバンタイトルから始まることは踏襲されているが、画質が随分違うことに違和感を覚える。それと、三度笠の傷み具合と色が一目で違うとわかる。衣装は前作と同じだそうだ。撮影は森田富士郎氏、照明は中岡源権氏、美術は西岡善信氏、殺陣は美山晋八氏と、元大映の重厚なスタッフがそろい踏みで、クォリティーの高さは保たれている。照明の中岡源権さんは、2009年の3月8日にお亡くなりになった。記事を見たときは、寂しかった。
ストーリーは原作とほとんど同じ。ゲストは小天狗の勇吉役に、目黒祐樹さん、お六役に萩尾みどりさん。敦夫さんは、目黒さんと1971年、紋次郎が始まる前に「弥次喜多隠密道中」というドラマで共演している。
アバンタイトルで勇吉が「由井の清蔵」を殺害するところを、紋次郎はたまたま目にしてしまう。闇の中うっそりと佇む紋次郎のシルエットは、4年半前とほとんど同じ雰囲気でホッとする。紋次郎には全く関わりのないことなので、咎めることも他言することもありえない。しかし勇吉は紋次郎に斬りかかる。刀の切っ先で斬られた楊枝が、勇吉の手の甲に飛ぶ。前作の紋次郎は、武器として人には楊枝を飛ばさなかったが、「新……」では違う。その点では原作に近い。「やはり、市川紋次郎とは違うんだ」ということである。勇吉は手の甲を押さえ楊枝に気づき呟く。「木枯し紋次郎……」こうして、「新木枯し紋次郎」シリーズが始まる。
タイトルロールの後、道ばたで苦しむ壷振りのお政を勇吉が助ける。ちょい役のお政だが、艶っぽく美しい女優さんである。勇吉が子細を訊いているところは、かなり色っぽくて、藤田監督好みである。勇吉はお政を背負い、三里半を歩き「沓掛の多兵衛」のところまで送り届ける。このあたりは、勇吉が悪者とは思えずむしろ親切な渡世人というところか。目黒さんの今までの役どころだと、悪役はあまりなかったように思う。
ナレーターは前シリーズと同じく芥川さん。名調子で紋次郎の紹介が始まる。多くの者に名を知られた渡世人であることと、出自の説明がなされる。そこで二つ気になるところ。1 渡世人の中では良い評判ではない / 2 一家の離散とともに村を追われ……である。
一つ目の「良い評判ではない」というのはどういうことか。人と関わりを持たないことか、それとも薄情なところ?しかし少なくとも原作中では、紋次郎のことを悪い評判でもって語る渡世人はいなかったと思う。「上州長脇差」(じょうしゅうながどす)と畏敬の念を持って語られる紋次郎のはずだが……。原作にもそのような書きぶりはなかったように思う。
二つ目、「一家の離散とともに村を追われ」は正しくない。紋次郎は10歳のときに村を出奔し、その後家族はちりぢりになったのであるから、後先逆である。細かいところだが、気になった。
紋次郎の過去が回想シーンとして出てくるが、浮浪者そのものの姿でショッキングである。ヤクザに痛めつけられたり、へっぴり腰で刀を振り回したり、村人たちに石持て追われたり、無宿人の中でも最下層の生き様である。多分、実際はそうだろうと思う。しかし回想シーンとはいえ、紋次郎のそういう姿を見るのは忍びない。それに、どう見ても紋次郎は実年齢相当である。できれば紋次郎の少年期あたりの回想シーンであってほしかった。
杉木立のシルエット越しに紋次郎が足早に歩くシーンが、美しい。突然目の前に百姓女が飛び出し、紋次郎のことを清蔵ではないかと尋ねる。お六という女を演じるのは萩尾みどりさん。私としては、「ポーラテレビ小説」にヒロインとして出演されていた頃の清純な印象が強い。
許婚の清蔵の帰りを待っているが、もう間に合わない。このままだと自分の両親は殺されてしまうから、助けてほしいと、一気にまくし立てて紋次郎にすがりつく。何のことだかさっぱりわからないが、どちらにしても紋次郎は一切関わらずに振り切ろうとする。
お六は最終手段として、「おらを差し上げますだ。とってやってくだせえ。」と真剣な顔で着物の襟元を開き、白い胸元を露わにする。なかなか扇情的な撮り方で、蝉の鳴き声とお六の額の汗、足許の大きな水たまり、白日夢のような雰囲気である。
この台詞と展開は原作にはない。原作のお六は「お礼なら、できるだけのことをさせてもれえます。……何でも欲しいものを、差し上げますだ。お願いします。お頼み申します」と必死に頼む。この「何でも欲しいものを……」という台詞がテレビ版では「おらを差し上げますだ」になったようである。いかにも男目線であるし、急にこの台詞が入るので視聴者は少し混乱するだろう。もう少し丁寧なつなぎの脚本作りをして欲しかった。
色仕掛けに紋次郎はフラフラしない。このあたりは「新……」も貫いている。「お気の毒とは存じやすが、お役に立つことはねえようで……」と低い声で答えると、足早に去っていく。お六は恨みのこもった目で紋次郎を見送る。
「この男の生き方は変わっていない。が、やはり歳月とともに多少の変化はある。渡世人らしく土地の貸元のもとに草鞋を脱ぐ。かつて、この男にはない習慣であった。」と芥川さんのナレーションが入るが、原作でも多兵衛親分のところに草鞋を脱ぐ。テレビ版でこのように断っているのは、やはり前シリーズの縛りがあるからであろう。前シリーズでは、貸元の所には草鞋を脱がないことになっているからだが、原作では全くないということはない。
テレビ版だけの紋次郎の仁義。形式に則ってはいるが、楊枝をくわえたままで口上を述べてよいものだろうか。親分不在ということなので、そのまま立ち去ろうとする紋次郎を子分が必死で止める。結局草鞋を脱ぐことになるのだが、ここで人斬りを目撃された小天狗の勇吉と再会する。勇吉は現場を見られたことがばれないか、紋次郎に探りを入れるが、紋次郎は全く無関心。
二人は揃って膳部の前に座り夕食をとる。一宿一飯の作法に則って粛々と食べ進む。原作通りであり、市川雷蔵主演映画、「ひとり狼」でのシーンと同じである。テレビドラマであっても、その部分は省略せずに見せているのはリアル感があっていい。当然、いつもの「紋次郎喰い」ではなく美しい所作で食べ終わる。
この後多兵衛に二人は呼ばれて酒を勧められ、紋次郎は茶碗酒を口にする。原作には酒のことは何も書かれていないので、脚色したようであるが、前シリーズを知っている者にとっては「おやっ?」である。紋次郎は酒を飲まないことにしていたからだ。親分に勧められて、客人として酒を断ることはできないだろうが、この点もナレーションにあった「歳月とともに多少の変化はある」の内の一つか。
多兵衛の娘「お七」が入ってくるが、この娘、村はずれで見たお六と瓜二つ。それもそのはずで二人は双子。双子は当時忌み嫌われていて、お六は村の百姓にもらわれたのである。お七は来月、「駒形新田の虎八」と祝言を挙げることになっている。虎八は大前田の英五郎の懐刀。多兵衛が喜色満面なのも当然である。お七は嫁入り前なので、追分まで行儀見習いに毎日通っている。お七も届いた着物を嬉しそうに手にして、祝言を待ち遠しそうである。
境遇があまりにも違う二人だが、部屋を出た紋次郎は廊下でお七に呼び止められてなじられる。追分に行く途中でお六に出会った。楊枝をくわえた旅人に助けを求めたのに、断られたと言っていた。なんて薄情なのか、とお六と同じ言葉でお七は非難する。お六にも非難され、お七にもなじられ、一介の通りすがりの流れ者に過ぎないのに、損な役回りである。詰問するお七のライティングは、障子からの明かりに照らされ、鬼気迫るものを感じる。照明の中岡さんの職人技である。
勇吉が担ぎ込んだお政が、手当のかいもなく離れで息を引き取る。その夜、紋次郎は珍しく夢を見る。夢を見ると言えば、第1シーズンの「無縁仏に……」での悪夢。死神のような不気味な男が出てきて、紋次郎は長ドスで刺されるという不吉な夢。
しかし今回はお七。打掛けを羽織りスローモーションで走り、脱ぎ捨てた姿は全裸。逆光の後ろ姿であるが、なぜお七の全裸が必要だったのかは疑問。大胆な演出だが、女性ファンとしてはショックである。男性から言わせると、紋次郎の人間くささが垣間見え、親近感を持つというものか。放送時間が夜の9時……。お色気シーンを流すにはちょっと早いような気がするのだが……。
お七とお六が振り返るシーンが何回か繰り返される。「癖?」「癖?」と第3話 「峠に哭いた……」のお妙の台詞が繰り返されたシーンとよく似ている。夢の中の二人の恨みのこもった目にうなされる紋次郎。口ではああ言ったものの、後ろめたさを感じているのだろうか。原作にはそういうシーンはない。
テレビ版でもう一つ気になったところは、紋次郎と勇吉が二人とも、抱えた長ドスを右下にして寝ているところだ。渡世人なら、左を下にして横向きで寝るはずである。そうでないと、右手でドスがすぐには抜けない。前シリーズのタイトルロールで、社の舞殿で紋次郎が横になっているシーン。あのときは、ちゃんと左が下になっている。なぜ誰も監督に言わなかったのだろう。あの時のスタッフも残っているのに……。
夢にうなされて目を覚ました紋次郎は、隣で眠っていた勇吉がそっと寝床に帰ってきて、金が入っている巾着を布団に落とすのを目にする。
翌朝、出立するとき見送る子分から、昨夜お六とその養い親二人が焼け死んだことを聞かされる。焼け跡から骸が三つ、見つかったという。紋次郎は驚きの表情を見せるが、草鞋銭を懐に入れると無言で立ち去る。
原作では霧雨が降っているのだが、テレビ版では日が差している。申し訳程度にスモークで靄のようなものが少し流れるが、とても霧雨という風情ではない。霧雨はタイトルにもあるぐらい重要なアイテムなのに、なぜ?である。
お六と最初に出会ったあたりで、お七がうずくまって泣いているのに出会う。お七は紋次郎に恨みがこもった目を向け「なぜ、お六の頼みを聞かなかったのか」と再度罵る。無言ですり抜けようとする紋次郎の足許にしがみついてお七は意外な言葉を口にする。「待って、私を連れて逃げて!」その上真相まで口にする。お六たちは多兵衛たちに殺された。骸には刺し傷があった。多兵衛が三人を殺させたのだと……。推理部分が早くもネタ明かしである。祝言もあげたくない、虎八や大前田の目の届かない所に連れて行って欲しい……届いた晴れ着を多兵衛に見せに来て、あんなに嬉しそうな顔をしていたのに、どうしたことか……。
「あんたが助けないからみんなが死んだんだわ。その罪滅ぼしのためにも私を……」「あっしには罪なことをしたって覚えはござんせんよ」道理である。罪なのは殺した下手人であって、紋次郎には関わりはない。
そこへ多兵衛と子分の京助が息を切らせてやって来る。「虎八親分がやって来たからすぐに家へ戻れ」と言うが、お七は頑として聞き入れずに「私は紋次郎さんと行きます」と叫ぶ始末。その物言いに、京助はお七を殴りつける。あろうことか親分の娘に手を上げるとは……。原作にはないことだが、このあたりからお七の正体が少し見えてくる。
とにかく紋次郎は、このゴタゴタに早くケリをつけて去りたいのは山々なのに、また人が増える。「待ちやがれ!」と声をかけたのは駒形新田の虎八……子分を3人連れている。虎八役に今井健二さん。この方、よく悪役で出演されていた。三度笠から顔が覗いたとき、思わず「ザ・ガードマン」と「キイハンター」を思い出した。数え切れないほどたくさん悪役で出演されていた。虎八の顔アップから紋次郎の顔にカメラがターンしたとき、中村氏の面長を再確認する。
虎八は「恥をかかせた」と立腹。ひざまずいて言い訳をする多兵衛に向かって、長ドスを振り下ろす。血しぶきと共に多兵衛の首が一刀両断で転がり落ちる。えーっ!である。残酷シーンは今まであまりなかっただけに、驚きであるが、実際は原作とほぼ同じ。原作はもっと虎八は凄腕で、なんと首の皮1枚だけ残すという離れ業を見せる。子分の京助は虎八の凄腕に恐怖の色を見せ、お七は声一つ上げず呆然と座り込んだまま。
親分の仇とばかり斬りかかっていく下っ端を、軽く斬り捨てて虎八は「大前田八人衆の一人を敵に回すとは、不運な男だなあ」と紋次郎に言う。「何から何まであっしの知ったこっちゃあござんせんよ」原作と同じ台詞。新シリーズの決め台詞か?
立ち去ろうとする紋次郎を、虎八の子分たちが取り囲む。この決闘の場、原作だと濃い霧の中で繰り広げられる。視界5メートル、足元は濡れて滑りやすい状態。まるで雲の切れ間から、急に敵が襲いかかってくる感じが読み取れる。しかし、テレビ版はピーカン状態。多分撮影日数が足りなかったのだろう。思わしい天候になるまで待てなかったと見える。そんな中で、いくらスモークを焚いたところで無理。霧雨の風情はあきらめた。
合羽の前を閉じ、相手に長ドスの動きを見せない紋次郎に、3人の子分は怖じ気づいている。合羽を開いた時は既に長ドスは抜かれている。今回の紋次郎の構えは、長ドスを逆手に持つというパターン。木も生えていない荒れ地を、ゴロゴロと転がって殺陣は続く。紋次郎は終始、逆手で応戦し3人を片付ける。残るは駒形新田の虎八。紋次郎の隣には多兵衛一家の京助が長ドスを抜く。当然紋次郎に加勢するかと思いきや……虎八の「目力ビーム!」が赤く光り、紋次郎に急に襲いかかる京助。予期せぬ事態のためか、紋次郎は防ぎきれず左腕を刺される。
予期せぬ事態は視聴者に対してもである。虎八の両目が赤く光った時は我が目を疑った。フラッシュで写真を撮ったとき、赤目になることがあるが、まさかそんなことはあるまい。目配せだけでは、威力が発揮できなかったとみえる。今後の路線はどうなるのかと、一抹の不安。
京助に台詞がないので、まるで以前から虎八と繋がっていたかのように思えてしまう。しかし原作では、「己の親分を殺した者に加勢をするんですかい」の紋次郎の問いに「やかましいやい!強い者に加勢しなけりゃあ、生きていけねえんだ!」と怒鳴って返す。なんて卑怯な……しかし現代社会にもよく似たことが……と思ってしまう。
原作では紋次郎は負傷せず、京助を斬り捨てる。テレビ版の紋次郎は、左腕に京助のドスが刺さったままという全く不利な状態である。二人が対峙しているところに、なぜか小天狗の勇吉がドスを抜いて現れる。勇吉は一体どちらの味方なのか?三人はトライアングルフォーメーション。結局、紋次郎は負傷というハンデがありながら、捨て身の突きを入れ虎八は信じられないと言った表情で地面に倒れる。
しかし、しかしだ。確かに倒れたはずなのに、次のショットでは虎八は立ち上がっていて勇吉に斬られる。おかしい。倒れたシーンとの繋がりがどう考えてもチグハグである。編集時にだれも気づかなかったのだろうか。やはり、時間が足りなかったのか。疑問である。
勇吉が虎八にもう一太刀……というところに、紋次郎が割って入りとどめをさす。それもけっこう執拗に……。なんとなく殺伐とした雰囲気が漂う。大前田の英五郎の片腕ともいえる駒形新田の虎八を殺したということで、この後紋次郎は追われる身となる……らしい。初回がこの展開だったので、この後も英五郎の手下が続々と出てくるのかとてっきり思ってしまった。
この後紋次郎は、あばら屋で傷の手当てをする。勇吉とお七も一緒にいる。三人がそれぞれ会話する中で、一連のミステリー劇場が終結する。お七は多兵衛の不注意で事故死したこと。身代わりとしてお六が呼び寄せられ、一人二役をしていたこと。祝言間近になったので、お六の養い親たちが邪魔になった。お六の焼死体としてお政の遺体が使われ、養い親ともども三人は焼け死んだとカモフラージュしたこと。
紋次郎は目の前にいるお七が実はお六であることを、言い当てる。お六の養い親が死んだときの哀しみぶりと、多兵衛が死んだときの呆然とした様子の違い。その手が、野良仕事をしたものであること。この二つが推理の根拠である。そしてもう一つ、お六の養い親二人を斬殺したのは、小天狗の勇吉であることも推理する。あの夜、寝床を抜け出し帰って来た後小判10枚を数えていた姿を見たという。
勇吉は肯定も否定もせず、小屋を後にする。お七に化けていたお六は、恨みのこもった目で勇吉を睨み、紋次郎を振り返るが紋次郎は背を向けたまま。「どうしてあいつを叩き斬ってくれなかったの!」と紋次郎をなじるが「あっしには関わりのねえこって」と、取り合わない。あくまでもお六には冷たい紋次郎である。「あっしには関わりのねえこって」の台詞は、新シリーズにも使われるのか、と思った。既出の「何から何まであっしの知ったこっちゃあござんせんよ」じゃあ、なかったのか。
なにもかも失ったお六は、「あとは、清蔵さんの帰りを待つしかないみたい」と呟くが、清蔵は勇吉に殺されたと、残酷な真実を去り際に紋次郎が伝える。「なぜ、そのことを早く教えてくれなかったの!本当に紋次郎さんは薄情な……」と、言葉を投げつけるお六に紋次郎が言った台詞。「あっしには、言い訳なんぞござんせん」えっ、これが今回の決め台詞?最後に発したのだから、やはりこれか。言い訳は言わないのはわかっているが、今回の紋次郎は結構よく喋る。
小屋を出たとたん、去ったはずの勇吉の長ドスが紋次郎の三度笠をかすめ、三度笠は前半分が斬り落とされる。半分になった三度笠、丸見えになった顔……こんな不格好な紋次郎ありなんですか?と聞きたいぐらいである。今まで如何に撮ったら格好良く見えるかを意識していたはずなのに、新シリーズはそうではないようである。リアルさを追求すると、格好良くないこともあるはずだし、聖人君子のはずもない。原作の等身大に近い紋次郎が、新シリーズのコンセプトのような気がする。
勇吉は、卑怯にも不意討ちで紋次郎を狙ったが、右腕を斬り落とされる、というより斬り飛ばされる。長ドスを握ったままの右腕が空中を飛ぶ。首がゴロゴロ転がったり、腕が飛んだり、前述したがかなり残酷であり殺伐としている。しかしあくまでも、これは原作通りである。
原作と違うのは、ミステリーの謎解きの順番。テレビ版では勇吉が謎解きに口をはさみ、すべてが明らかになってから殺されているが、原作では勇吉が死んだ後お六と紋次郎、二人っきりになってから謎解きが始まる。原作では野良仕事をしていた手……というくだりで、紋次郎は杉の木の幹に置かれたお六の指の間に楊枝を飛ばす。しかしテレビ版では、お決まりの楊枝は飛ばなかったし、楊枝からは木枯しの音も聞かれなかった。楊枝は紋次郎の心情を象徴するものだっただけに、残念である。
無言で三度笠の切れ端を拾い上げ、紋次郎はお六を残して去っていく。呆然と見送るお六。道中を急ぐ紋次郎の姿だが、不格好につなぎ合わせた三度笠には驚いた。いくらもの持ちがいいと言っても限度があるだろうに……。繕った合羽を身にまとうのはわかるが、三度笠をつなぎ合わせてまでかぶるとは……。
最後に去っていく紋次郎の後ろ姿に、やっと白い霧が流れる。霧雨よ、ちょっと遅すぎたのではないか?エンディングの芥川さんのナレーションは、原作と同じく記録の史料内容。前シリーズのパターンはやめ、原作の締めくくり方に則っている。タイトルと完の文字もない。
新シリーズの第一話であるがかなりハードで、情をはさむ余地もないようである。まるで劇画コミックを観る思いがした。腕から滴り落ちる血とボロボロの三度笠が、紋次郎の過酷な旅の始まりを予感する。 
霧雨に二度哭いた
「あっしには、云い訳はござんせん」
さて、紋次郎の決めセリフといえば、「あっしには関わりのねえことでござんす」ですが、第3シリーズの1作目のラストは、このセリフです。ちなみに原作でもこのセリフは使われていました。
世の中、自分を正当化するために云い分けをするひとがいます。人間、少なからず自分が可愛いし、自分が全てでもあるので、その傾向があるのは当然です。あなたは決して悪くはないのよ、なんてことをいうのは、子供を甘やかす親くらいなもので、云い訳をしたところで、それを誰も真に受けて、庇ってくれるわけでもありません。
年老いて、例えば水道の水が出しっぱなしを注意すれば、"わたしは知らない"、"そんな筈はない"、すべて云い訳をするひとがいます。あなたがしなければ、誰がするのか!普段から云い分けをする癖は、年老いてなお、エスカレートするようです。
とにかく素直に非を認めてしまうほうが好感がもたれます。さらに、云い分けをしない生き方のほうが潔い。意識してそんな生き方をしましょう。
テレビ放映の紋次郎も第2シリーズ終了の1973年3月から、第3シリーズ開始の1977年10月まで、5年弱の間隔がありました。その間、原作も回を重ねてします。放映するテレビ局もフジテレビから東京12チャンネルへ。それまで冠してした"市川崑劇場"のタイトルも消え、新しい船出となりました。
なお、本作の監督は藤田敏八。日活末期の名作「八月の濡れた砂」(1971)で注目を浴び、日活ロマンポルノでも数々の秀作を作り、本作の翌年、青春映画の名作「帰らざる日々」(1978)を生み出しました。そして本作で時代劇初めての演出でしたが、なかなか良かったと思います。
また新シリーズのタイトルバックは、大林宣彦監督ということで、当時彼が作った映画「ハウス」(1977)の感覚です。当時としては斬新だったかもしれませんが、旧シリーズのほうが情緒がありました。宿場、街道といった風景も紋次郎に劣らず主人公でした。
また、この作品で初めて紋次郎は地元の貸元のところに草鞋を脱ぎます。いままでそんなことはなかったのですが、テレビ版のみを見ていると、経過した歳月で紋次郎にも変化があったように感じられます。しかし、原作はシリーズには分かれていませんので、ときにはそういうこともあったという理解です。 

 

●第2話 「年に一度の手向草」
「新……」の2作目にこの原作を選んだのは、やはり亡き姉お光を絡めないと始まらないということだろう。1話の「霧雨に……」から数えると、原作は大分後に書かれている。紋次郎にとってお光はどういう存在であるかということは、前シリーズを知らない視聴者にも明らかにしておかなければならない。そのためナレーションや回想シーンを入れて、紋次郎の出自について時間をかけている。
紋次郎の生まれ落ちた経緯は重いテーマであって、ずっと彼のトラウマとして影を引きずる。変な言い方かもしれないが、生まれたときから死んでいるのである。そして彼は10歳のとき、姉お光の死とともに故郷を捨て無宿人となった。これは二度目の死。渡世人となり、幼な友達のため無実の罪で三宅島に流されるも島抜けをする。しかしその途中、仲間割れが起こり紋次郎以外は全員命を落とし、紋次郎も記録上死んだことになっている。「赦免花は散った」のときには、既に三度目の死を迎えたことになる。
映像化されていないが原作としては、一旦「唄を数えた……」で紋次郎は死んでいる。これで四度目の死。紋次郎の死生観は徹底している。生きていて良かったと感じたことは、多分一度もない人生である。しかし紋次郎は生き続けた。姉お光によって、生かされた命を一日一日つないできた。
「へえ。紋次郎さんには、人として生まれて来てこの世でただひとり、人と思えるのがその姉さんだということらしゅうごぜえますよ」墓参のときにいつも立ち寄る、茶店の亭主の言葉である。紋次郎が人と思えるのはお光だけ……言い替えれば、お光だけが紋次郎を人として認めてくれたのである。間引かれる運命だった紋次郎を救ったお光の心だけが、紋次郎の生きる支えである。
竜胆の花を手にした紋次郎の姿に、野良仕事の老婆が呟く。「無宿もんが花なんか持って……」アバンタイトルの始まりである。出だしから無宿者に対する村人の蔑みが見て取れる。
紋次郎は毎年お光の墓参りのため、上州伊勢崎の南一里にある「美呂村」にやって来る。紋次郎が19歳のときから数えて、今年で15回目になるというから紋次郎は33歳という設定である。茶店には土地の若い渡世人が三人、店の亭主と紋次郎のうわさ話をしている。その中の一人、梅吉役に「東野英心さん」。丸い顔と丸い鼻、ちっちゃい目は人なつっこい感じがする。
紋次郎の三度笠はかなりの傷み具合である。さすがに前回のつなぎ合わせた三度笠ではないが、隙間のあき方が半端ではない。茶屋の亭主から線香を買って墓に向かう紋次郎。お光の墓は粗末な石が置かれているだけ……よく見ると素人が彫った「みつ」という文字がうっすら見える。
花と線香を供え手を合わせる紋次郎だが、ふと何かを見つけ墓石の周囲の土を掘り返す。だれかが墓を暴いた形跡があることに気づいた紋次郎の表情には、驚きと怒りの感情が見てとれる。ほとんど感情を表に出さない紋次郎が、茶店に駆け戻り「鍬を貸しておくんなせえ」と声を荒げ、慌てている様はかつてない光景である。こんなに焦っている紋次郎を見たのは初めてである。それだけ紋次郎にとっては、信じられない出来事だった。すぐにでも現場に戻りたい紋次郎の前に、梅吉が「伊勢崎の太兵衛一家の者でござんす」と仁義を切る。紋次郎にとってはそれどころではないので、軽くかわしてお光の墓に駆け戻り墓を掘り返す。額に汗して掘り返す紋次郎を、少し離れた所から眺める梅吉の表情には、紋次郎に対する親近感のようなものが感じられる。
果たしてお光の墓から、女の死体が出てくる。茶店の亭主と梅吉が死体の悪臭に閉口しているのに対して、紋次郎は一向に構わず、女の死体の確認のために必死に掘り返す。女の胸には刺し傷が見え、誰かに殺されたことがわかる。隠し場所としては一番適していると言った茶店の亭主の言葉に思い出したことがある。死体を隠すのに一番ばれないのは、戦場であるということ。誰だったか、海外の推理小説家の言葉だったように思う。話を戻す。
かすかに死臭を感知してやって来た蝿の羽音が聞こえる。芸の細かいところである。泥にまみれた女の顔をのぞき込んで、梅吉が死体の主を言い当てる。梅吉の生まれた村……亀井村の名主の娘、お千だというのだ。お千は二十二、十六で江戸の領主屋敷に奉公に出て十九のときに亀井村に戻ってきたが、詳しいことはわからないと梅吉は言う。
「紋次郎さんと、同じってことになります。あっしが亀井村を飛び出したのはとっくの昔で、その後親兄弟が死に絶えやしてね。いまでも亀井村へ足を向けちゃあおりやすが、村人からは他所者(よそもの)の扱いを受けやす。村の連中ってのは他所者に、余計なことを喋りたがらねえもんなんですよ」穴の中の死骸に目を落として、梅吉は自嘲的に笑った。
台詞は原作と同じだが、テレビ版の梅吉は自嘲的には笑わない。むしろ紋次郎に村人の薄情さを訴え、同調してほしい様子。しかし紋次郎は、そんな梅吉のことを全く意に介さず、ふたりに言う。「このことはふたりの胸の内だけに納めておいておくんなせえ。どこのどいつが何のつもりでこんなことをしたのか、その償いをさせるつもりでござんす。」紋次郎が、自分の決意を他人に聞かせるなど滅多にないことである。
原作にも「珍しく熱い気持ちになっていた、これだけは絶対に許せないことだ」と、自分に言い聞かせてはいるが無言である。
紋次郎は亀井村を目指す。亀井村は美呂村の隣、茶屋からは東へ一里という設定になっている。竹林を抜けて歩く姿はいい感じであるが、どことなく頼りなげで確固たる意志は感じられない。あまりのことで、ショックを受けているのか?
亀井村での第一村人発見。声をかけるも全く無反応。二人目の村人も無言で去っていく。他所者には冷たいという梅吉の言葉通りか。三人目の老人がやっと口をきいてくれたが、名主の娘お千なら生きていて昨日も今日も見かけている、でたらめを言うな、と全く取り合わない。いつの間にかゾロゾロと村人たちも集まってきたが、お千について老人に異を唱える者はいない。この村人たち、何となく生気がなく、まるでゾンビのようで不気味である。
いつの間にか梅吉がその場にいて、あの死骸は確かにお千だと老人に言うが「おめえはもう、他所者だ。おらは亀井村の者だ。どっちがお千さんの顔を見馴れているか、わかりきっていることだ。」と、はねつけられる。村人の中には「お千さんなら、さっき見かけたばかりだ。」と言い出す者もいる。梅吉は必死で紋次郎に自分のほうが正しいと主張する。
このあたりまでは、原作とテレビ版はほぼ同じように進行しているが、違うのは梅吉の設定。テレビ版の梅吉は、亀井村への憎悪が原作よりかなり大きい。急に雨が降り出し、紋次郎と梅吉はともに雨宿りをする。このシーンは原作にはない。梅吉は怒りに任せて「あいつら一人残らず叩っ斬ってやりてえ!」と叫ぶと、紋次郎に身の上話を始める。
梅吉は口減らしのための奉公で村を出たのに、帰ってきたら他所者扱い。「生きながら間引かれたようなものだ」と言う。この「間引き」という言葉に、紋次郎は少なからず反応する。梅吉は紋次郎ならこの悔しさがわかってもらえると思っているが、紋次郎は故郷の三日月村には何の感慨も持っていない。梅吉と紋次郎は全く精神構造が違うのである。
梅吉は喋っている途中、急に長ドスを抜いて足元に出てきた蛇を刺し殺す。その際、刀の切っ先が紋次郎の楊枝をかすめ、切られた楊枝はポトリと落ちる。紋次郎よ、油断しすぎではないか。これが蛇でなく紋次郎の太ももあたりなら、前回に次いでの負傷になってしまうところだ。この蛇、可哀想だが本物のようである。でもなぜ、原作にはない蛇を刺し殺すのか?梅吉の風貌とは違う、隠された残虐性を表しているのか。蛇は梅吉の怨念の象徴なのか。
それにしても土砂降りの雨……の割には、空が明るい。雨宿りにしても全く雨が避けられていないようで、ふたりともずぶ濡れ状態。梅吉は蛇を突き刺したままの長ドスを掲げ、笑いながら去っていく。紋次郎は短くなった楊枝を捨て、梅吉を無言で見送る。前作に続いて楊枝が切られるシーンである。
貧しい村の閉鎖性は今までに何度も出てきた。「峠に哭いた……」「土煙に……」「背を陽に向けた……」「上州新田郡……」等々、数えだしたらきりがない。テレビ版ではあまり触れられていないが、この亀井村そのものが周囲から間引かれたような貧しい村なのである。
梅吉から教えてもらった名主の家を、干し魚を囓りながら窺う紋次郎。名主の家では役人が、「お千さまは変わりないと伝えよう」と言い、差し出された金を受け取る。いわゆる「袖の下」のようである。この役人の武士はなんと、「山本一郎さん」。「新……」にもご出演とは嬉しい限りである。
名主の家からお千らしい娘が出てきたので、紋次郎は声をかける。娘は「お千」だと答える。紋次郎は逡巡する。「どちらかが嘘をついている」と途方に暮れてため息をつく。
こんな紋次郎の姿もまた珍しい。今までの紋次郎の姿で、「迷う」「悩む」などの姿はほとんどなかった。「新……」での紋次郎は、人間くさい一面が見える。「紋次郎も悩むことがあるんだ」と親近感を持つ一瞬である。村の社で野宿しようと腰を下ろしたところで、村人たちの声が聞こえる。
「太兵衛一家の者が名主のところに脅しに来た。」「米を50俵よこせと言っている。」「名主さまが承知したことだから仕方ない。」「太兵衛たちはまだ何もつかんでいない。」「伊勢崎の市田屋に行かれては大事だ。」「お咲さんのよー。」
断片的な声だが、紋次郎は何かに気づき伊勢崎へと道を急ぐ。行く手には太兵衛とその子分の姿が見え、距離を縮めようとするがその前に、梅吉が飛び出して道をふさぐ。「他言無用の約束を破ったのは、村の奴らに恨みの一つでも言いたかったからだ。」と、何もかも自分をないがしろにした村人たちへの報復だとぶちまける。
「あっしは、裏切り者だ、おめえさんへの仁義より村への恨みのほうが勝ってしまったんでさあ。」「これで胸がすっとした。もう何にも言うことはねえや。」梅吉は自分の思いの丈を一気に喋りまくり、走り去る。本当に勝手な男である。その間紋次郎はずっと無言。原作にはこの絡みはなし。
伊勢崎の市田屋という荒物屋を発見するも、夜のため一旦野宿をする紋次郎。またしても梅吉がやって来る。この梅吉、とにかく構ってもらいたくてしょうがないようである。自分は紋次郎と同じ境遇であるから、紋次郎に共感して欲しくてたまらないのだ。そして紋次郎に対して憧れに似たものを感じている。思えば、お光の墓を掘り起こしていた紋次郎を見つめる梅吉の目は憧れだったのか。
さっきの別れ際に「もう何も言うことはねえや。」と言っておきながら「どうしても聞いておきたいことがあった」とまた野宿先にやって来る。聞いておきたいのは「自分の故郷についてどう思っているのか?」ということ。紋次郎に尋ねているのに「あっしと同じように憎んでいるんだろう。おめえさんは弱い者いじめをしないと言うがどうも解せない。その弱い百姓におれはいじめられた。これから先も仕返しをしてやる。」またしても自分のことを一方的に喋って、握り飯を置いて嬉しそうに去っていく。紋次郎はその握り飯を口にするが、その表情には柔らかいものがある。なぜ?梅吉が憎めないのか。
市田屋のおかみにお咲の所在を尋ねるが、お咲は市田屋に嫁に来たが亭主が死んだので亀井村に返した。その後どうなったかは知らないとのこと。お咲は22、お千も22、死んだ姉のお光も22。そして紋次郎が故郷を捨てて22年が過ぎようとしている、という共通点に紋次郎は気づく。亀井村に戻る紋次郎の目前にまたしても梅吉。梅吉は旅に出るという。この後やっと梅吉と紋次郎は会話をするのだが、このあたりの脚本がどうもスッキリしない。「自分のまいた種に決着をつける」と言う梅吉。決着とはどういう意味か。
「梅吉さん、いったん旅に出たら終わりってものがねぇんでござんすよ。あっしはこれで二十二年流れ歩いておりやす。今度こそあてのねぇ旅に結末をつけようと思って来やした。墓参りにはとんだ邪魔が入ってしまいやしたが、実のところ姉のお光とじっくりと話し合いてぇと思っておりやした。どっかで休みてぇ、じっくりと腰を落ち着けてぇ、そのことをお光に告げるつもりでおりやした」
「紋次郎さん、そいつは弱音かい、弱音ですかい」(テレビ)
「弱音」と言われて、紋次郎は表情を変える。この回の紋次郎は、いつになく感情が表情に出る。クールな紋次郎が珍しく動揺している。
そもそも紋次郎が梅吉という掴みどころのない男に、自分の胸の内を明かすはずがない。もちろん原作には、梅吉相手にそんなことは喋らない。しかし原作内には紋次郎の胸の内が書かれている。
「もうそろそろ、流れ旅に終止符を打つときが訪れても、いいのではないか。」
アテのない流れ旅の歳月を、紋次郎はしっかり数えている。昨日も明日もないはずの紋次郎が、過去を数え明日からのことを考えている。お光の墓が暴かれたことがなかったら、もしかしたら紋次郎は、ここで旅を終えていたかもしれない。弱音がはけるのは、お光の前だけなのだ。
紋次郎は再び名主の屋敷まで行き、出てきたお千に「お咲さん。」と呼び止める。思わず「はい。」と返事をしてしまったお千に近づいたとき、名主の伊左衛門が出てきて他言しない約束ですべてを話す。
3日前にお千は行方知らずになったが、そのことを村人全員に、騒ぎ立ててはいけない、お咲をお千の身代わりにすると申しつけた。お千は江戸屋敷に奉公にあがり、領主の子どもを産んだ。その後子どもは領主に引き取られ、領主と亀井村との間に密約が成された。お千が亀井村で生きている間は知行分を一公九民にする、という貧しい亀井村にとっては夢のような報酬だった。
亀井村全体のために、お千の死には目をつぶり隠し通そうとしたと言うのだ。村人全員はそれに協力したのである。名主たち一家は哀しみと悔しさに気も狂わんばかりだと、涙ながらに紋次郎に訴える。そして、そのことをかぎつけた太兵衛たちが米を50俵よこせとゆすりに来たと、紋次郎は背中で聞く。
名主の屋敷を後にする紋次郎に、梅吉がニヤニヤ笑いながらついてくる。この男は一体何を考えているのか。紋次郎もなぜ、梅吉に何も言わないのか。梅吉が百姓たちに報復をしようとしていることに目をつぶるのか。梅吉がお千を殺し、お光の墓に隠したことに気づいているはずだが、なぜ怒らない?償いをさせるつもりではなかったのか。
原作では荷車を引いて来る太兵衛と子分三人に出くわす。その中には梅吉がいる。その梅吉に紋次郎は冷ややかに「手籠めにした上に刺し殺して、墓に埋めて死骸を隠したってわけですかい」と問いただす。梅吉は「他所者扱いする亀井村の連中に、腹が立ったんで弄んでやった。そしたら顔を覚えていて喚き立てたんで殺した。」と白状し抜刀する。「いずれにしても、あの墓を荒らしたのはおめえだ。あの墓を荒らした者は、どんな事情があろうと許せねえ」紋次郎は「悪かったよ。勘弁してくれ」とすくみ上がった梅吉の袖を引き寄せ、その腹に長ドスを突き入れ蹴倒す。原作の紋次郎は激しく怒っている。
テレビ版でもこの台詞と怒りが欲しかったが、梅吉は紋次郎に斬られる前に崖から墜ち、紋次郎の手には梅吉の破れた片袖が残る。梅吉が墜ちた崖を見下ろした紋次郎の顔は、複雑な表情である。怒りではなく、哀れみのような表情である。梅吉が故郷の村人たちから疎まれ、他所者扱いをされたことに、一抹の同情があったのだろうか。
紋次郎は原作では、「これだけは絶対に許せないことだ」と珍しく熱く心を高ぶらせていたが、テレビ版では結局自分のドスでは斬っていない。向こうから斬りつけてきたので、応戦はしたがはずみで崖から墜ちたのである。紋次郎は、怒っていなかったのだろうか。
原作に比べて明らかに梅吉のキャラクターに違いがある。梅吉は同じ境遇ということで、紋次郎に親近感を持っている。梅吉は生まれ故郷の亀井村を恨んでいたが、裏を返せば亀井村に執着していたのだ。愛して欲しいのに振り向いてくれない、それどころか冷たい仕打ちの村人たち。養女にもらわれていく姉にカエルの死骸をわざと投げつけ、困らせてやろうとした「蛍の源吉」(怨念坂を蛍が越えた)のようである。多分梅吉は、本来なら人なつっこく世話好きで気持ちの優しい人物だったのだろう。環境が人を変えた。それは紋次郎にも当てはまることである。だからテレビ版の紋次郎は、梅吉の言い分を否定していない。
テレビ版の紋次郎は、墓前でお光に語りかけている。「ねえさん、お千さんってのはな、親に死骸も引き取ってもらえねぇ可哀相な女なんだよ。お千さんも一緒に入れてやってくれ。」紋次郎の人間らしい温かみのある声と言葉を初めて聞いた。人として思える唯一の存在……お光の前では、紋次郎は人になるのである。
「土地が貧しいと悲しい話が多いもんだと思いやしてね」……これは前シリーズの第3話 「峠に哭いた……」での紋次郎の台詞である。まさしくその通りで、お千は貧しい村のために哀しみの中帰郷し、理不尽に殺され、死後も肉親に供養されないのである。お光も身ごもっていたのに殺され、赤子には縁がなかった。お千も我が子として赤子を抱くことも会うことも叶わず死んだ。二人とも薄幸な人生だった
姉に供えた竜胆の花に、お千の分の花(秋海棠)を供える紋次郎は、梅吉の片袖も墓前に置き楊枝を飛ばして地面にぬいつける。前回にはなかった、楊枝を最後に飛ばすシーン。原作通り、また前シリーズを踏襲していた点は良かったと思う。このあたりは原作と同じだが、テレビ版しかない台詞。「こいつはおかしな奴でござんしてね。」本当に梅吉はおかしな奴だった。この一言で片袖の意味も変わる。まるで梅吉も薄幸な被害者で、一緒に弔っているように思われる。
テレビ版の梅吉が随所で紋次郎に絡むところは、「六地蔵の影を斬る」の「小判鮫の金蔵」を彷彿とさせた。しかし金蔵より屈折していて、つかみ所がない感じがした。
今回も前回に続き、女が替え玉だったという設定。放映の順番はこれで良かったのだろうか。ただ、「新……」にしては珍しく、大物ゲスト女優はいなかったし、お色気シーンもなかった。助演女優賞は、土中から掘り出されるお千役の方。この後また埋められるという過酷で地味な役柄で終わり、報われなかったようである。
やはりここでも紋次郎の流浪の旅は、終わらなかった。この後何回、お光とお千の墓前に花が供えられたのかは、私は知らない。 

 

●第3話 「四つの峠に日が沈む」
紋次郎と同名の男が殺されドラマが始まったのは、第29話 「駈入寺に道は果てた」だったが、今回も同名のモノが出てくる。しかし人物ではなく犬……赤犬で、名前は「紋次郎」。お民が飼っている犬である。
アバンタイトルは火事のシーンから始まる。村に火災が起こり、お民と舅は焼け出される。足元には子犬がまとわりつく。これが「紋次郎」のようである。飛騨の匠の説明が、ナレーションされる。江戸に賦役で奉仕に行っていた匠の一行が村に帰ってくるが、お民の亭主の小太郎はいない。必死で小太郎の消息を訊きに回る、お民。回顧シーンである。
主題歌の後、山中に響き渡る犬の声と女の泣き声がする。紋次郎はその近くを通るが、「紋次郎!」と犬を呼ぶ声にハッとなり足を留める。しかし犬と泣き伏せる女の姿を認めただけで、また足早に通り過ぎていく。この女は一体何者で、なぜこんなに嘆き哀しんでいるのか。この何気ないワンシーンが、テレビ版だけの意外なラストにつながる。
その先で土地の渡世人たちに追いかけられ、「柏屋の清八と申します。これを、お民に……」と小判を手にした男に、紋次郎は遭遇する。追ってきた渡世人たちに「男から何か聞いたか?」と問われるが「関わりねえこって……」とこれも通り過ぎる。その背後で男は渡世人たちに殺される。この渡世人たちも紋次郎がまだ近くにいるのに、なぜこの男を殺すのか。「現場を見られた」と後で慌てたりしていたが、殺しを見せてはいけないだろう。
原作では、木曽川の岸辺にある「岩屋観音」の前で柏屋の若旦那、清八が殺され、賭場で手にした六十両を奪われる。どうも賭場で勝ち逃げした金を、取り返されたようである。その騒ぎは、近くの舟小屋で野宿していた紋次郎の耳に入る。楊枝をくわえた紋次郎の姿に驚いた渡世人たちは、脱兎の如く逃げ出す。こちらのほうが自然である。
岩屋観音から半里で太田宿である。紋次郎はこの太田宿の煮売屋で朝飯をとる。お民が店にやって来て、亭主の小太郎が下呂にいるようだと店の客から聞かされる。お民役に「池波志乃さん」。ご存知、中尾彬さんの奥様である。失礼だが、すごい美人ではないが艶っぽい女優さんで、目元と口許に特徴がある。
店の女から「お民さん……」と呼ばれているのに、テレビ版の紋次郎は全く反応しない。あの若旦那が殺される間際に「これを、お民に……」と口走ったことなど、関係ないというのか。気づいていないのか、全く無視しているのか。太田宿に入ってすぐ、「柏屋」の看板には目を留めた紋次郎なのだが……。
亭主の小太郎は腕を負傷し、江戸から帰らず行方不明……お民は病の舅を抱え「太田の源蔵」から借金をし、利子がふくらみ六十両。返す期限は三日後に迫っているという。下呂の湯治場にいる小太郎は、名前を「彦市」と変えていると店の客は言う。ああ、なぜここで「彦市」という名を明かすのか。お民の亭主小太郎と彦市を、どうして同一人物だとここでばらしてしまうのか?脚本としては残念である。
小太郎に会いに行け、と店の女「お杉」と客に勧められるが迷うお民。
紋次郎はとろろ飯を食べ終わったところで、源蔵一家の者が店にやって来て、「親分の使いでやって来た。是非とも賭場に寄って欲しい。」と紋次郎を誘う。紋次郎としては素通りして金山宿に急ぎたいと断るのだが、源蔵の子分半兵衛の強引な案内で、仕方なく源蔵に会いに行く。
テレビ版の紋次郎の三度笠は、今回もかなり隙間があいてひどい傷み具合である。前シリーズの三度笠とは初めの作りからして違うように思う。前シリーズの三度笠はもっと重厚なつくりで、色も日に焼け飴色だったように思うが、本シリーズの三度笠には古さが感じられない。笠の編み方も何となく粗くて薄っぺらく感じてしまうのは気のせいだろうか。
そう言えば、源蔵の子分とのやりとり中、紋次郎からは貫禄や凄みが感じられないのも気のせいか。まるで子分たちに取り囲まれて、連れて行かれるような雰囲気であるが、原作では、半兵衛は哀願し何度も頭を下げる。テレビ版では半兵衛が、足元の犬の紋次郎に「どけ!紋次郎!」と怒鳴るシーンがある。このときの紋次郎の表情が、何とも「紋次郎らしからぬ感」で、面白い。
源蔵の住まいに案内され、一応は挨拶をするが、すぐにでもこの場を後にしたい紋次郎。殺しの現場を見られたことを源蔵は知っているのだから、紋次郎にとっては油断ができない相手である。紋次郎が賭場に誘われ住まいを出て行った後、飛脚が源蔵の元に来る。下呂の宿にいる女衒の彦市からで、お民に百両の値がついたという知らせであった。
待てよ、彦市はお民の亭主の小太郎ではなかったか。もしそうだとしたら小太郎(彦市)は、実の女房を女郎に売り飛ばすという算段ということになる。テレビ版なのだから、ここまで手の内を見せても良いという感じなのか。おそらく監督も脚本家もテレビ版オリジナルのクライマックスに自信を持っているのだろう。
三度笠の隙間から紋次郎の目がチラリと見え、その目は奥にいる浪人に向けられている。隙間からの視線……前シリーズでも何度か使われた撮り方である。
紋次郎が野天で博奕を打っている間、お民の家には源蔵の姿。舅が病に伏せっている中、源蔵はお民を陵辱する。原作にはない濡れ場ではあるが、池波志乃さんを起用となると、こういう展開になるようだ。あからさまな描写はないが、お民のあきらめきったような憂い顔と山中を泣きながら彷徨っていた姿がオーバーラップする。「新……」にはどうもお色気シーンがお約束のようだ。女性ファンとしては、どうもなあ……と憂慮する。
原作では源蔵の住まいで、口止め料として小判が入った包みを差し出される。草鞋銭と言われるが、「敷居を跨いだだけで草鞋銭とは、妙な話でござんすねえ」と、背を向ける。金ではなびかない紋次郎に、次は脅しをかける。浪人が美濃紙を空中に投げ、刀を二度振るってきれいに四角に切り取るという凄腕を見せる。そしてその紙に、蛤の貝殻に入った「万能膏」を塗れ、と妙なことを命令する。
テレビ版での紋次郎は、野天の賭場で四両近く勝ったが、半分ほど胴元に返し賭場を後にしようとする。このあたりの作法はしっかりしている。立ち去ろうとする紋次郎は、貸元の源蔵に呼び止められる。原作とは場所が違うが上記と同じことが野天で行われる。原作との相違点は二つ。
一つ目は、テレビ版では源蔵が大前田英五郎の名前を出すところである。第一話で大前田の子分、駒形新田の虎八を叩っ斬ったという経緯があり、回状が回っているという設定。
「宿場を無事通り抜けられるのも、この太田の源蔵の志だってことを忘れねえでもらいてえな」草鞋銭に目もくれない紋次郎に源蔵は横柄な態度で言う。
そうだった。第一話のことを忘れていた。大前田英五郎を敵に回しているのだった。ここでテレビ版の紋次郎は源蔵に軽く頭を下げる。「回状が回っているのに、見逃してもらってありがたい」とでも言うのだろうか。そうなると、柏屋の若旦那殺しについて目をつぶることとの取引が成立してしまうのではないか。回状が回るという渡世の掟は、やはり厳しいと見える。
二つ目は、軟膏を塗った紙を空中に投げ、楊枝を飛ばして浪人の足元に縫いつけるところである。今回はここで一回、楊枝を飛ばした。万能膏を調べてみると、下呂に「奥田屋下呂膏」という貼り薬が現在も製造されている。この作品と関係するかどうかはわからないが、もしかしたら秘薬として昔から伝わっているのかもしれない。
テレビ版と原作との大きな違いは、お民が一人で(赤犬はついて行くが)小太郎が逗留している下呂に向かうところだ。原作では煮売屋の女房、お杉が同伴する。女衒の彦市に身売りされる前に、小太郎に一目会っておくべきだとお民に勧めた行きがかり上、お杉は同行する。泣ける話である。原作では、女衒の彦市と小太郎が同一人物と感じられるものは何もない。
二人の女は、慣れない山道を喘ぎながら下呂に急ぐが、その途上紋次郎に出会う。いつもの事ながら同行を頼まれるも断る紋次郎。しかし道すがら、柏屋の清八がお民の為に金を工面しようとしたが、源蔵一家に殺されたことを二人に告げ、危険が迫っていることを教える。
原作では紋次郎は二人の女より先に進み、金山宿の旅籠に泊まる。そこへ後れてお民たちが到着し、結局同じ旅籠に泊まることになる。貧しい食事を一緒にとる中で、お杉は「考えようによっちゃあ、お民さんは果報者ってことになるんだよ」と意味深長なことを言う。お民の望み次第で、幾通りかの生き方が選べたんだから、と四つの生き方を提示する。
1.柏屋の若旦那の情けに縋って借金を何とかしてもらい、若旦那と一緒になる。
2.借金の肩代わりを若旦那にしてもらい、これまで通り舅や姑と一緒に暮らす。
3.源蔵親分に引き取られた後、遊女暮らし。衣食住には不自由しないし、住めば都かもしれない。
4.小太郎とどこか遠くに逃げる。
普通は一つの生きようしかないのに、好きな生きようが選べたんだから……と言うのだ。四つの生き方ではあるが、前二つは若旦那が死んだので不可能である。残る二つとなると、やはり小太郎と手に手を取って道行きか……。しかしお民は、小太郎に会った翌朝には太田宿に引き返すと言う。小太郎と逃げると、残された病の舅に迷惑が及ぶし、証文がある限りどうにもならない。
お杉が「あの人、あの人って、そんなに奉らなければならない小太郎さんかねえ。四年もの間、小太郎さんにほっぽっておかれたために、お民さんひとりが泣きを見ることになったんじゃないか」と不満そうに言う。「そんなことは、構わないんです。あの人はわたしの生涯でただひとり、大事しておきたい人なんだから……」とお民は、頬を綻ばせる。原作のお民は薄幸ではあるが、健気に四年間も小太郎を信じ続けたのである。
テレビ版では飛騨街道を行く紋次郎の前に犬の「紋次郎」が飛び出し、吠えたてる。お民が「どうしたんでしょうねえ、あんなに懐いていたのに。」と言いながら現れる。「余計なことかも知れやせんが下田宿に戻ったほうがよくありませんか。金山宿まで三里近くありやす。山越えの夜道はとても女の足じゃあ……。」と、珍しく紋次郎がアドバイスする。「今夜下田に泊まってやり過ごし、明日の朝、太田宿に戻ったほうが……。」さすが、紋次郎。大人の分別であるが、それではドラマにならない。
その後はいつものパターンで、「私も連れて行ってください。」と頼まれるが「連れは作らない。」と断り、お民を置いて先を急ぐ。深い山の緑の中、取り残されたお民と犬の姿が小さくぽつんと見える。この光景はかなり印象的で絵画的である。
山小屋で紋次郎は野宿。繕い物をしているところに、お民が来る。今度は吠えない犬の紋次郎に、さっきは万能膏の匂いがしたからだろうと、紋次郎が答える。
紋次郎は夜道を歩いてきたお民に少しいぶかしげであるが、話題を変えるようにお民は「私にやらせてください。」と繕い物をかってでる。しかしいつもの台詞「慣れておりやすから。」と断る。前シリーズでは、「流れ舟は……」と「冥土の花嫁……」でも断っているが、紋次郎の表情はいつになく柔らかい。
お民が自分の身の上を語り出す。自分はひとりぼっちで、亭主の小太郎は出奔したので無宿人になってしまった。自分はもう小太郎とは縁が切れているけれど、明日こそ、明日こそ帰ってくると思い続け四年も経ってしまった。何度も探しに行ったが、今度が最後であること。飛騨の匠の小太郎のことは、私しか……今でも一番大事な人なんですと語る内容は原作と同じである。
この山小屋の中で泣けるのは、眠っていたお民がふと目を覚ますと、自分の身体の上に紋次郎の合羽がかけられているところだ。お民の向こうに紋次郎が板壁にもたれて眠っている姿が見える。青白い焚き火の煙がうっすらと部屋に流れ、鳴く虫の声が聞こえる。何とも情緒深くしっとりとした場面である。紋次郎の優しさをかみしめるようにお民は合羽をぎゅっと胸に抱く。
夜が明け再び目を覚ましたお民には、もう合羽はかけられておらず、紋次郎の姿もない。慌てて飛び起き、焚き火を消すお民。眠っていた時は小さい炎だったのに今は大きく炎が揺れていた。普通、消えるが……と思ったが、紋次郎がきっと立ち去る前にお民のために「ほた」をくべておいたのだろう。「急いで追いつかなくっちゃ」と思い詰めた表情のお民。なぜ、紋次郎に追いつかないといけないのかと疑問がわくが、これがラストのどんでん返しにもつながる。
紋次郎の後を追いかけるお民と、山中泣きながら歩いていた初めのシーンが重なる。お民の強い意志を示す表情には、か弱さは微塵もなく、歩く姿には執念のようなものを感じる。原作のお民像とは随分違う。
先陣を行く源蔵一家の子分たちが紋次郎を見つけ、斬りかかってくる。崖のような急な山道を紋次郎が駆け下りてくるシーンは、スローモーション。川の音、合羽の風切り音、駆け下りる足音……なかなか格好いい。
簡易に架けられた小さな橋での殺陣。バランス感覚が無いと難しいであろう。橋の上で「助けてくれ。」と土下座する男は、「後6人いる。浪人も親分と一緒だ。」と紋次郎に教える。この後が面白い。「立て!」と怒鳴る紋次郎。「頼む、殺さないでくれ!」と土下座を続ける男に「おめえが行かねえと通れねえんだよ!」ともっともなことを言う紋次郎に苦笑する。
ふと振り返るとお民の姿が崖の上に……。隙を見せたと思ったのか男が襲いかかってくるが、橋の上に仰向けになりながら応戦。男は刺されて川に落ちる。もう一度振り返った先にはもうお民の姿はない。お民はなにか、変である。
変と言えば次のシーンも変である。紋次郎は川で身体を拭いている。そこに小太郎(彦市)が偶然やってくる。「えっ、もう下呂に着いたのか?」と二人の言葉のやりとりでわかった。そう言えば河原に板塀の囲いがあり、湯気らしきものが流れている。何の説明もなく急に小太郎が現れて、紋次郎と会話する。偶然と言えばそれまでだが、探すまでもなく向こうからやって来たわけである。この出会いの展開は原作にはない。それはなぜか。
小太郎の胸の内を語らせるためである。右腕を負傷した小太郎は、匠の道も閉ざされ自暴自棄になり、酒、女、博奕と江戸で荒んだ生活を送った。
「もともと、大した能もねえのに名人の跡継ぎに生まれたばっかりにずいぶん期待されちまってね。怪我のおかげで気楽になった。てめぇだけのために、面白おかしく生きていこうなんて開き直っちまったもんね。旅人さんの傷とは比べものにならないけど……。」
上半身裸の紋次郎には、いたるところに刀傷が見える。
「体に傷を受けてる者は心にも傷を受けてると言いやすからね。」「あぁ、そうかもしれないねぇ。北へ向かって行きなさんのかい?」「へい、そのつもりで……。」「旅してるといろいろ面白いことがあるでしょう。」「よくわかりやせんが、明日という日に望みを抱いても裏切られることの方が多いようでござんすよ。」(テレビ)
原作ではこの「明日という日に望みを抱いても裏切られることの方が多いようでござんすよ。」の台詞は、お民に対して呟いているものである。この台詞はやはり小太郎ではなく、お民にこそふさわしい。
「旅人さん、その楊枝は何のまじないなんで?」「ただの癖ってもんでござんすよ。ごめんなすって。」「達者でね。」(テレビ)
前シリーズを踏襲する決まり文句がここで出た。
一方お民は、源蔵たち一行に見つけられて追いかけられている。それにしても犬の「紋次郎」は忠犬かもしれないが、至る所でよく吠えるので、お民の居場所がすぐにわかってしまう。困ったものだ。源蔵たち一行の最後尾は、あの浪人。原作では凄腕というふれこみだが、足を引きずりながらヒョコヒョコ走る様は、どうもそうは見えない。第一、貫禄がない。
身支度を調え河原を行く紋次郎の前にお民が走り寄り「助けてください。捕まったら、殺されてしまいます。」とすがりつく。「あっしは道連れをお断りしたはずだ。」と顔を背ける紋次郎。お民は殺されることはないはずだ。お民は高額で遊女として売られるのだから、源蔵は商品を無駄にする馬鹿なことはしない。
「紋次郎だ!やっちまえ。」と川の中での殺陣。胸近くまで川に入ってのシーンは、前シリーズでも何作かあった。残った一人を追いかけるシーンは、スローモーション。何となく逃げる男を追いかけて斬るというのは、紋次郎らしからぬ非情さを感じてしまう。川面には赤い血が帯状になって流れていく。このあたりも、前シリーズにはあまりない、リアルな映像。源蔵は形勢不利となり浪人を呼ぶ。例の浪人、河原をヒョコヒョコやって来る。
川の中から紋次郎は、犬の紋次郎に「紋次郎!」と叫ぶ。犬は、大嫌いな万能膏の匂いがする浪人に噛みつき、浪人は犬の背中に刀を突き立てる。その隙をついて、紋次郎は浪人の首に長ドスを振るう。このあたりの戦法は、原作と同じ。「紋次郎!」と叫び、倒れた犬にお民は駆け寄る。
その騒ぎに小太郎がやって来る。「お前さん、来ちゃいけない、来ちゃいけないよう!」お民が叫ぶ。小太郎も驚いて「お民!」と叫ぶ。
ああ、万事休す。源蔵は小太郎の顔を知らないから大丈夫とお民は言っていたのに、あからさまにばらしてしまっては……。果たして源蔵は怒り狂って、小太郎のもとに走りその懐に刀を突き立てる。あくまでもお民を呼び出した元亭主「小太郎」に対して、源蔵は行動したのだ。刺された瞬間お民はガックリ肩を落とし、眉間を曇らせて成り行きを見守る。ここでどんでん返し、とはいうものの、テレビ版では煮売屋の客が小太郎の別名を彦市と言ってしまっているのでどんでん半返しか。小太郎は実は女衒の彦市で、自分の女房を売り飛ばしに来たというのだ。
「女衒には、女房も娘もねえ。女はみんな、商売の品物よ。おれも、お民のことならよく知っている。これほどの上玉は滅多にいねえと売り込んで、潮来の遊女屋から百五十両って金を出させる話もまとまっていた。だが、これで何もかも、おしめえさ」
源蔵は驚いて、自分の早とちりの失敗を紋次郎にぶつける。「くそっ、やい、紋次郎、てめぇのせいだぞ。関わりはねえとほざきやがって、お民、かばい立てしやがって!」「あっしには言い訳なんぞござんせん。」と紋次郎は、刀を振り上げた源蔵の右腕を切り落とし、腹に長ドスを埋める。原作には上記の台詞はない。テレビ版ではやはりこの「あっしには言い訳なんぞ……」を決め台詞として続けるようである。
「私を連れて行ってください。うちの人は私を遊女へ……もうとっくに夫婦なんかじゃないんです。」お民は紋次郎に訴えるが、ここから紋次郎の推理が語られる。この結末は原作とは大きく違う。
亭主に会ったのはこれで二度目。一度目は獣道で赤犬を抱いて泣いていたあの時。女衒となった亭主の姿に出会い、泣きながら獣道を歩いていた。山育ちであるのだから、慣れた道であろう。その早足で紋次郎の後先になり、源蔵をおびき寄せ、紋次郎にぶつからせて殺すというもくろみだったのでは……というのだ。
紋次郎は続きを語らなかったが、お民は小太郎も殺したかったのではないか。源蔵の前で「お前さん!」と叫ぶ。刺された犬の紋次郎には、叫んで駆け寄り嘆くのに、死んだ小太郎のもとには近づきもしないし涙も見せない。
「私の夫は、飛騨の匠の小太郎です。あの男はうちの人じゃない。」と言い切る。このあたりの雰囲気は、前シリーズの「獣道に……」のお鈴とよく似た心情なのかもしれない。ずっと信じていたのに夫は裏切った。目の前にいるのは、別人なのだと自分に言いきかせるかのようである。
どう考えても「未必の故意」にあたるのではないか。お民を、純粋に健気で薄幸な女で終わらせたくないという監督、脚本家の思いのようである。自分の女房を遊女に売る彦市が小太郎であった、というどんでん返しより、か弱く健気なお民が実は策略家だったという意外性の方にシフトしたわけである。
私としては原作のままの方が、夫婦の脆さ、人間の無常さ、お民の哀しみが表されていて良かったのではと思う。テレビ版は複雑すぎる。
さて「四つの峠……」と題しながら、テレビ版では全く説明がされなかったので、視聴者は?だったのではないだろうか。それもそのはずで、原作でしか登場しない煮売屋の女房「お杉」が提唱した四通りの生き方に関係するからだ。
「『もう、柏屋さんの若旦那もいない。太田の住まいにも戻れない。小太郎も死んでしまった。実の親のところへ帰りたくても、口減らしのほうが肝腎なくらいに貧しい。わたしの行くところは、どこにもないんだ』
お民はぼんやりと、そんなふうに呟いた。お民が失った四つの生活の場を暗示するかのように、夕日を浴びた四つの山がこの下呂の宿を囲んでいた。北に仏ヶ尾山、東に湯ヶ峰、南に舞台峠、西に八尾山と四つの山が日没を待っているのだった。」
原作のお民はテレビ版とは違い「連れて行ってください。」とは言わない。テレビ版の紋次郎は、やたら女性から連れて行ってくれと頼まれる。敦夫さんの容貌の良さから、女性ファンなら誰しも口にしたい台詞ではあろうが……。連れて行かれたところで、何の希望もないはずであるのに、女は「連れて行って欲しい」と言うように設定されている。
「私も越後へ行きたい。」と頼むお民に「越後に行っても、遊女に身を落とすしかない。」と紋次郎は答える。「亭主に売り飛ばされるくらいならその方がまし。」と、食い下がるお民だが、紋次郎は「御免なすって……。」と背を向け歩き出す。足元には黄色い女郎花が見える。紋次郎は通り過ぎた後振り返り、その女郎花の茎に楊枝を飛ばす。くずれるようにひざまずく、お民の姿が遠景に見える。
遊女と女郎花……語呂合わせはちょうど良い。エンディングのナレーションは「下呂に忠犬の石碑があるが、そのいわれを語りたがる宿民はいない」という内容で締めくくられている。ススキの向こうに紋次郎が去っていく姿が見える。
今回の監督は「安田 公義」さん、脚本は「服部 佳」さん。お二人とも前シリーズから紋次郎には関わってこられ、「九頭竜に……」は、このコンビで作品を作っておられる。それだけに、紋次郎の世界はよくつかんでおられる。逆によく知っているだけに、「女は強かで実は怖い」という路線に導いたのかもしれないが、やはり複雑すぎた。
健気で純粋な女は、紋次郎の作品にはやはり似合わないのだろうか。 

 

●第4話 「雷神が二度吼えた」
この作品には二つポイントがある。一つは長脇差が折れること。もう一つは、大ピンチの時、自然現象が紋次郎に味方することである。長脇差が折れるピンチは「一里塚に風を断つ」で経験しているが、実際のところ何度も折れているはずである。「一里塚に……」で譲り受けた直光の刀より今回は数段上物である。原作からすると「唄を数えた……」でも、折れている。
今回のゲスト女優は「鮎川いづみ」さん。鮎川さんというと「必殺シリーズ」には欠かせないキャラクターの方だ。この後、1978年12月から放映される「翔べ! 必殺うらごろし」では中村氏と共演されている。「必殺」では結構しっかりとメーキャップされているが、今回のお里役の鮎川さんは、あっさりメーキャップ。素顔に近い初々しささえ感じ、本作品では町娘といった雰囲気である。
アバンタイトルでは、旅人に難癖をつけて強請をする街道筋のヤクザ集団。近くを通り過ぎる紋次郎だが、堅気の難儀を見ても全く無視である。
「秋葉山道」という東海道を避ける裏街道を行く、お里。遠州、森町にいる病気の伯父の元に急いでいるという設定。女の一人旅はあるまじきこと……と言われるほど当時は珍しい。そのお里にちょっかいを出す若い渡世人、亀吉。「この裏街道は、乾の重蔵の縄張りで物騒だから、道連れをつくった方がいい。」と勧める。
峠の掛け茶屋にたどり着く直前に、急に出現した武士が「拙者も道連れになろう。」と声をかける。この武士は「堀田又兵衛と申す。」と名乗るが、テレビ版の進行は不自然である。原作では、お里と亀吉の先を行く紋次郎と又兵衛の姿があり、街道上で亀吉は紋次郎を認め、同行を頼む。紋次郎は無言で歩き続けるが、又兵衛は亀吉の言葉を聞き取って応じるという進行である。テレビ版のように急に又兵衛が出てきたりはしない。
案の定お里は、茶屋にたむろしていた重蔵一家の者に絡まれて襲われそうになる。亀吉一人の手には負えないので、亀吉は紋次郎に頼むが、原作でもテレビ版でもあっさりスルーされてしまうのは同じ。テレビ版では、茶屋を通り過ぎていく紋次郎を亀吉が呼びとめ、助けを請う。「折角ではござんすが、御免被ります。あっしには関わりのねえこって……」と亀吉に目礼をして去っていく。
「あいつが木枯し紋次郎だってよ」「木枯し紋次郎だと?薄汚ねぇ野郎だ」重蔵一家の者は、紋次郎の背中に言葉を投げつける。「新……」では、必要以上に流れ渡世人の紋次郎を貶める台詞が出てくるように感じる。
原作の紋次郎は床几に腰をおろし、重蔵一家の男たちに背をむけて茶をすすり、亀吉の頼みを断る。そして何事もなかったように、黄な粉餅を頬張っている。女が男たちに囲まれて悲鳴をあげている最中に黄な粉餅……。このギャップを想像すると、余計に殺伐とした感じがする。
亀吉は仕方なく堀田又兵衛に助けを求めるが、彼もなかなか動かない。しかし意を決したように立ち上がると、抱えていた刀を袋ごと手にして大音声で狼藉者を一喝する。「試し斬りにしてやるから、そこに首を並べろ!」その剣幕に驚いた男たちはお里から離れると、蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。実は又兵衛の迫真の演技なのであるが……。
亀吉、お里、又兵衛たち一行は、野宿のため廃屋に入り、先客である紋次郎に気づく。紋次郎は板壁にもたれ眠りにつこうとしている様子である。亀吉は四人揃ったのが嬉しそうで、干芋を取り出してみんなに配る。ただ紋次郎にだけは、「構わねえでおくんなさい」と断られる。原作では干芋のやりとりはない。
森町まで同行してほしいと亀吉は言うが、紋次郎は無言。
又兵衛と亀吉の会話が始まる。又兵衛が大事に抱えている刀は主君に献上する名刀で、岡崎の研ぎ師の許から返ってきた大した業物であるとのこと。この後の会話は、原作では又兵衛と亀吉のものではない。原作ではかの有名な国定忠治と子分浅次郎との雑談であり、紋次郎はこの後、窮地に立たされたとき、ふと思い出したのだ。
要約すると
1.刀は譲り受けるより自分で買った方がよい。
2.頼りにならない刀だから人に譲るのに、譲られた方は業物だと勘違いする。
3.いざというときに、使い物にならない刀だったら、自分が死ぬだけだ。
4.武士だろうと渡世人だろうと、頼りになる業物を持つのが当然。
5.自分の命を守りたかったら、頼りになる刀を持つこと。
忠治と浅次郎の会話だが、テレビ版ではまだ忠治と紋次郎は出会っていないので、又兵衛に語らせたのである。毎日が修羅場の忠治と、主君に仕える又兵衛とは全く立場が違うので、同じ内容でも大分ニュアンスに差がある。だが仕方ない。
テレビ版の紋次郎は閉じていた目を開けて、又兵衛の話に聞き入る。楊枝を咥え、遠い目をしながらその言葉を聞く紋次郎の顔のアップは、バックの暗闇の中ライティングも良く、紋次郎らしい雰囲気である。
話の合間を縫って、お里が思い詰めた顔で尋ねる。
「堀田様、死ぬということは怖いことですか?」
唐突な問いに、又兵衛はハッとし咳払いをするだけで答えない。視聴者はお里に、何か曰くがあると察する。テレビ版だけのこの台詞は、第一ヒントである。
「話は変わるが……」と、又兵衛は「なぜ重蔵から狙われるのか?」と亀吉に尋ねる。亀吉は「お里、次が懐中物、そのあと強請やたかり」と答える。秋葉山道を縄張りにはしているが、目ぼしい賭場がないので、山賊まがいだと言う。
1年前重蔵は、自分の親分を裏切って殺し、一家を乗っ取った。5年前には、伊那の弥右衛門のところにひとりで殴り込み、親分をはじめ7人を殺した上親分の娘を手籠めにして引き揚げた強者だということだ。
回想シーンは全体的に赤紫色のトーン。弥右衛門一家をぶった斬る重蔵の姿。親分の娘が重蔵に組み伏せられるシーンは、娘の顔はあからさまではないが、誰なのかは想像できそうである。このシーンは第二ヒント。とにかく亀吉はペラペラとよく喋るが、対照的にお里と紋次郎は無言である。紋次郎は無表情だが、お里は緊張した顔で話を聞いている。
良く喋るふたりに閉口したのか紋次郎はひとり小屋を出て小川に水を飲みに行く。お里もその後を追って、「できることならこれからの道中、ご一緒願えると心強いんですが……」と頼むが紋次郎はいつもの台詞で断る。「あっしは道連れをつくらねえようにしておりやす。」
お里がしゃがんで水を飲もうとしたとき、髪にさしていたツゲの櫛が川に落ち、紋次郎はそれを手渡す。ここは第三ヒント。この紋次郎とお里のしっとりしたシーンは、テレビ版だけで原作にはない。川面に月光が反射して、美しい映像である。四人が野宿する廃屋内は、かなり朽ちた感じが出ている。よく見ると蜘蛛の巣の光る糸が見え、美術さんのこだわりを感じる。
夜が明け、紋次郎はひとり静かに廃屋を後にする。お里だけが気がつき「紋次郎さん……」と後ろ姿に声をかける。紋次郎は一瞬立ち止まり振り返るが、無言で霧の中を去っていく。亀吉、お里、又兵衛たち三人はススキが揺れる秋葉山道を行く。途中、亀吉はお里に迫ろうとするが拒まれての台詞。「おいら、決して悪い野郎じゃねえぜ!」女に勝手に懸想して、嫌がっているのに引っ張り込もうとした癖に、その台詞はないだろうと思うのだが……。自分はこう見えてもまだ無宿人じゃなく、故郷の遠州掛川に帰るところだと、早足で先を行くお里の背中に叫ぶ。何となく原作よりテレビ版の亀吉は、情けない存在のように見える。原作では亀吉はお里に迫ったりしない。
何もかもが、紋次郎の境遇と正反対だった。男を磨きたいと憧れて入った渡世の世界だが、甘いこと、この上ないのは確かである。
紋次郎はひとり杉木立の中で野宿をする。焚火をして腰を下ろす紋次郎は、又兵衛の言葉を思い出す。「自分の命を守りたかったら、頼りになる刀を持つことだな」
その夜重蔵とひとりの子分が闇討ちされる。襲った者は誰かはわからないが一刀両断、鮮やかな刀さばきである。村人たちがその死骸に群がっている中を、紋次郎は通りがかる。村人たちは一様に重蔵が殺されたことには情けもかけていないようであるが、一体誰が殺したのかと噂をしている。「よほど腕が立たねえとな……」「斬ったのはお侍かもしれねえな」紋次郎はそのまま立ち去ろうとするが、足元に割れたツゲの櫛を見つける。
ああ、なぜそんなヒントをテレビ版は与えるのだろう!もちろんそんな安易な展開は、原作にはない。いつも思うのだが、原作通りに脚本が作られている場合は良しとして、そうでない場合、原作者笹沢氏には許しを得ているのだろうか?笹沢氏はドラマをどうご覧になっていたのだろうか?
それを言いかけると今更だが、一旦五年前に終わったのに新シリーズとして始まったことについては、どのように感じておられたのだろう。この後、笹沢氏本人がドラマに出演されるところを見ると、結構寛大な姿勢で構えておられたようにも思えるが……。
街道を行く紋次郎の後を、六人のヤクザ者がつけ狙う。紋次郎は気づいてはいるが、関わらない。空は雲行きが怪しくなり雷鳴が聞こえる。降り出した雨を避けるため三人は朽ちた祠に身を寄せるが、またまた紋次郎が先客。三人は昨夜別々の宿をとった、と亀吉は紋次郎に話す。昨夜の行動はそれぞれの者は知り得ないということである。
亀吉の故郷の掛川までは後十二里。自分は掛川の紺屋の次男で、兄は病人であとを継げない。父親は隠居するというので、故郷に帰ることになった。稼業を継ぐために足を洗うのはみっともない……と言いながらも、嬉しそうな様子を紋次郎も目にしている。
「おいらみてえな半端野郎に、何ができるかって心配でたまらねえんだ」と不安げな亀吉にお里は「何とかなりますよ」と励ます。
「『これが最後の旅だと思うと、何となく嬉しくなっちまうのよ』と、晴れ晴れとした声で、亀吉が言った。それもまた紋次郎にとっては、無縁の言葉であった。」
文字通り亀吉の旅は、このあと最後の旅になると思うと切ない。
雨がやみ四人は外に出たが、紋次郎は危険を察知する。「おめえさんたちには気の毒だが、そうたやすくはゆきやせんぜ」紋次郎の引き締まった横顔がかっこいい。
四人はどうも重蔵一家の追っ手に囲まれたらしい。重蔵とその子分芳松を殺ったのは誰か。秋葉山道に入った者で重蔵に刃向かえる者は、又兵衛か紋次郎ぐらいだと子分の佐十郎が言う。佐十郎は槍の使い手なのか、背丈より長い槍を持っている。名乗り出ないと、四人とも仲間と見て残らずなぶり殺しにする、と脅す。
紋次郎は「この四人は仲間なんかじゃねえ、ただのゆきずりでござんすよ」と答える。他の三人は仲間意識を持っていただろうが、紋次郎は初めから仲間だとは思っていない。考えようによっては、ゴタゴタで三人を危険な目に遭わせたくなかったからそう言ったのかもしれない。
亀吉が「仲間なんかじゃねえんだよ」と前に進み出たところを、佐十郎の槍にいきなり腹を刺される。苦悶する亀吉は「紋次郎さん、たとえいきずりでも仲間になれておいら、嬉しかったお里さん、おいらやっぱり紺屋の跡取りっていうがらじゃあねえや……」と苦しい息の中、最期の旅を終える。
「なんでこの若えモンを殺した!」紋次郎は亀吉が理不尽に殺されたことに怒りの言葉を吐く。仲間じゃねぇ、と紋次郎は言ったが、堅気になろうとしていた亀吉の将来を踏みにじったことが許せなかったのだ。
お里は突然のことに泣き崩れその場にしゃがみ込む。又兵衛は献上刀を胸に抱いて後ずさりして物陰に隠れる。三者三様の態の中、紋次郎だけが重蔵一家に近づき抜刀する。小川に架けられた古びた木の橋から飛び降りると、水しぶきをあげての殺陣。
泣き崩れていたお里だが一変、覚悟を決めたかの表情になり、倒れている男の手から長脇差を奪い取り敵に向かって走っていく。そして見事な刀さばきで、二人の男を一瞬に倒す。ああ、やっぱりそうだったのだ。お里は剣の使い手だったのだ、ということは……。
小川を走り、振り向きざまに男を斬ったとき、紋次郎の長脇差の白刃が柄から抜けかかる。目釘が飛んでしまったらしい。雷鳴が轟く中、紋次郎は咄嗟に楊枝を折り、目釘代わり差し込む。目釘は木製で、斬り合いに臨むときは抜けないように湿らせるとのことである。目釘が抜けてはいくら腕が立つ者でも使い物にはならない。
「目釘が抜ける」と言えば、テレビ版紋次郎フリークならご存知の第一シーズン第二話、「地蔵峠の雨に消える」であろう。お千代に長脇差の目釘を抜かれたことに気づいた紋次郎は、庭にある梅の小枝を目釘代わりにする。「おかみさん、目釘代わりに庭の梅の小枝をもらいやしたぜ」実にかっこいい台詞である。
今回は梅の小枝よりもずっと頼りない楊枝である。いつ何どき抜けるかわからない。
原作では紋次郎と共にお里も雨の中を走り続ける。その途中でお里は、紋次郎が斬り殺した男の長脇差を拾う。そして真相を明かす。自分は五年前、重蔵に父親をはじめ身内を殺された挙句、手籠めにされた弥右衛門の娘であり、昨夜その意趣返しをした。居合抜きの稽古をつけてもらい本懐を遂げたが、自分が重蔵を手にかけたとは言えなかった。そのために亀吉が死んでしまったことは悔やまれてならない。
「『こうなったらもう、亀吉さんだけを冥土へ旅立たせたりはしないよ』苦しそうに喘ぎながら、お里はそう言った。『へい』お里が死ぬのは当然と思ったわけではないが、紋次郎はそのように声で応じていた。お里は、死ぬ気でいる。だが、紋次郎はあえて、それを黙視するつもりだった、いまは生きようとしても、それが許されないかもしれないのである。」
原作を読んだとき、「お里、かっこいい!」と思ったが、テレビ版では展開が違うので残念である。原作ではこのあと、紋次郎が三人ほどを手にかけている間に、お里は四、五人の男たちに滅多斬りにされ泥まみれで事切れる。今際の言葉も残さない。紋次郎は近づくこともできず、傍観者のように眺めるしかなかったのだ。さすがに原作通りに展開するには、あまりにも残酷なのか、テレビ版でのお里はもう少し長生きする。
第一のピンチ、長脇差の目釘が抜けることについては応急修理でクリアしたが、第二のピンチは深刻である。刀が折れたのだ。
第1シーズン第8話 「一里塚に風を断つ」では、折れた刀の代わりに直光が鍛えた刀を紋次郎は譲り受ける。今回は敵から刀を奪えばいいのだが、敵も然る者……原作では刀を奪われないように、落ちている刀を敵は崖から捨てている。素手で、刀を振りかざした十人ほどの敵に対峙した紋次郎の姿は初めてであろう。原作ではこのとき、既出の国定忠治の言葉を紋次郎は思い出すのである。その上絶体絶命のピンチが頭上から降りかかろうとする。
「『死んでもらうぜ』崖の上から、声が飛んできた。九人のほかに、もうひとりいたのだった。それは、崖の上に仁王立ちになった佐十郎であった。佐十郎は両足を踏ん張って、槍を肩に担ぐようにしていた。」
テレビ版はそこまで切羽詰まっていないように感じるのは、槍の佐十郎の存在が薄いからだ。崖の上から紋次郎を狙ってはなくて、他の子分たちと同じように紋次郎を囲んでいるひとりである。突然、閃光が槍の穂先に走り、佐十郎の煤にまみれた顔が映る。落雷である。原作では崖の上という、紋次郎より高い位置にいるので落雷することについてはうなずけるが、テレビ版では不自然である。
前シリーズの最終回「上州新田郡三日月村」での落雷シーンは、迫力があるものだったが、今回は火花も何となくチープな感じだった。「えっ!今のがカミナリ?」というぐらいだったのが残念。周囲の敵は全員、落雷の衝撃に倒れるが、紋次郎はすぐに立ち上がって走る。佐十郎とは至近距離にいたのに……である。「上州新田郡三日月村」で落雷によって気を失う紋次郎だが、免疫や抵抗力がついたとは思えないのだが……。このあたりはもう少し丁寧に扱って欲しかった。
さて話は変わるが、槍に落雷する展開で私が覚えているのはドラキュラの映画である。記憶が定かでなかったので、改めて調べてみると確かに「ドラキュラ復活 血のエクソシズム」でクリストファー・リーが演じるドラキュラは刺さった槍に雷が落ちて焼け死んでいる。1970年作であるがテレビでしか放映されていないようだ。もしかしたら笹沢氏はご覧になっていたかもしれない、などと想像するのも楽しい。
落雷のどさくさに紛れて紋次郎は走り出す。寺の朽ちた堂を見つけて入り込むときには、雨は上がり陽が差している。堂内には先客がいた。堀田又兵衛である。紋次郎は又兵衛に刀を貸して欲しいと頼むが、断られる。そして驚くべき真実を話す。
自分が腰に差していた大小は竹ベラであり、使い物にはならないというのだ。佐十郎に槍で突かれたあとなんとかここまでたどり着いた、と又兵衛は血で染まった手ぬぐいを見せる。自分は生来の臆病者で、若いとき、暗闇から急に飛び出してきた者に斬りつけた。相手は、ふざけて脅かそうとした自分の弟だった。弟は右手の深手のため、未だに不自由な生活を送っている。
父親から「恐ろしさが先に立つ臆病者ほど、闇雲に刀を抜きたがる」と、厳しく叱責され以来、大小の中身は竹ベラである。進んで道連れになったのは心細さから、東海道ではなく秋葉山道を選んだのは、武士同士の争いを避けるためだったという。
又兵衛の顔は次第に苦しそうになる。そして献上の刀を差し出し、「持って行け」という。「どうせここで死ぬ身だし、武士にあるまじき死にざまということで無縁仏になるだろう。無縁仏とともに、天下の名刀が消えても不思議はない」又兵衛にとっては命を懸けた、勇気ある決断である。又兵衛はうめき声とともに上半身が傾き、そのまま横に倒れ絶命する。
紋次郎は錦織の袋から刀を取り出し、白鞘から少し白刃を抜いて確認する。映像で見る限り、冷たく光る名刀である。堂は既に追っ手に囲まれている。紋次郎は急いで草鞋の紐を締め直す。
このあたりは緊迫感の中、リアリティーがあり、紋次郎の覚悟のほどがわかる。破れ障子から外の敵が見える。堂の戸を開け紋次郎は飛び出すと同時に、もう一人を斬っている。鍔がなく柄も白いので、まるで座頭市が持つ仕込み杖のような感じである。従って刀の持ち方も座頭市のようである。一瞬のうちに10人は叩き斬っている。スローモーションながら30秒ほどの早技である。
原作では名刀の切れ味の鋭さを表現する言葉が随所に出てくる。一番はじめに斬られた男の首は、宙に飛んでいるほどである。テレビ版ではさすがに無理だろうが、あまりにもあっさりと殺陣が終わり、名刀を手にした感慨もない。
原作はここでまた、忠治の言葉を入れているのだ。「頼れるものはただひとつ、己の腕と腰のドス」有名な紋次郎のコピーであるが、ときどき聞かれる意見「ただひとつと言っておきながら、腕とドス……ふたつあるではないか」その答えが原作の忠治の言葉にある。
以下は原作の台詞である。話の相手は、浅次郎である。
「抱き寝をするだろう」「長脇差をですかい」「そうだ。どうして長脇差を抱いて寝るのか、おめえにはわかっちゃあいねえんだろうよ」「見損わねえでおくんなさいよ。そのくれえのことは、百も承知でさあ」「だったら、言ってみねえ」「わかりきっているじゃあねえですかい。寝ている間も、用心のために長脇差を手放さねえってことでしょう」「やっぱり、わかっちゃあいねえよ」「何か、ほかにあるんですかい」「寝ている間も用心するなんて、そんな心構えは当たりめえのことじゃあねえかい」「だったら、どうして長脇差を抱いて寝るんです」「おめえは寝ている間、、腕や脚をはずすのかい」「冗談じゃあねえですよ」「長脇差だって、同じことだろうよ。腕や脚と変わらねえんだ。長脇差は、手めえの五体の一部なんだぜ」「へい」「腕や脚をはずして寝ねえのと同じように、長脇差を抱いて寝るんじゃあねえかい」「わかりやした」「おれにとっちゃあ長脇差は、親子よりも深い間柄なんだ。情も湧くぜ」
自分と結びつきが一番強いのが長脇差であり、親子以上の間柄とは、いかに過酷で安らぎのない人生であるかがわかる。忠治の言葉をかみしめる紋次郎も、同じ人生であるのは確かだ。
原作でのお里は、紋次郎と共に行動し斬殺されるが、テレビ版ではこのあと小川の近くで紋次郎に再会する。ここでお里は意趣返しの為苦労した5年間を話し、自分のために亀吉が死んだことを悔やむ。
そのとき敵の残党が現れて紋次郎の背後から襲いかかるが、紋次郎は斬り捨てる。しかしその男の刀がお里の体を貫く。お里は紋次郎の腕の中で「嘘をついてごめんなさい」という言葉を残して息絶える。紋次郎はお里の髪から割れたツゲの櫛を抜く。そして拾った櫛の破片と共に川に投げ込み、楊枝を飛ばす。
さて、また話が飛ぶが三重県亀山市に関という宿場があり、「関の小万」の話が残っている。鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女の身で父の仇討ちをしたという。小万は女の身でありながら剣術の稽古をし、仇に巡り会って見事本懐を遂げる。今回のお里とは境遇も違うが、彷彿とさせる話である。
エンディングのナレーションでは、「堀田某、主君への名刀を奪って逐電。堀田某の縁者に切腹、閉門の裁断がなされ、当人は行方知れず。名刀は志津三郎兼氏の作」とある。ちなみに志津三郎兼氏は南北朝期の名刀工。正宗の門人で、美濃国志津で作刀したので志津三郎と称されている。
名刀は紋次郎の腰に落とされ、体の一部となった。命を落とした三人の生き様も、刀に染み込んでいるのだろうか。しかし紋次郎にとっては、過ぎたことはなかったことに等しいのかもしれない。紋次郎は心の中でも道連れはつくらないのだから……。  

 

●第5話 「賽を二度振る急ぎ旅」
アバンタイトルから格好いい。格好いいのは紋次郎ではなく綿引洪氏演じる「稲妻の音右衛門」。現在綿引氏は、本名である「勝彦」と名前を変えておられる。奥様は女優、樫山文恵さん。樫山さんは前シリーズ「冥土の……」で、お縫(お咲)役として既に出演されている。これでご夫婦揃って紋次郎シリーズに出演された訳である。他にご夫婦で出演となったのは、「霧雨に……」の目黒祐樹さんと「駈入寺に……」の江夏夕子さん。さて調べていて少し驚いたのは綿引氏は当時32歳だったということである。中村氏は37歳で5歳年上。しかしドラマで見る限り綿引氏の方が年上に見えるほどの貫禄である。実際、原作では紋次郎より年上という設定である。
「年の頃は、三十七、八で、赤銅色の肌をしている。精悍な顔つきだが、冷酷さといったものが感じられた。背はそれほど高くないが、骨格がたくましくてがっしりとした身体つきであった。」
イメージ通りのキャスティングといえよう。眼光鋭く凄みのある音右衛門にピッタリである。三人をあっさりと叩っ斬った音右衛門だが、刀を合わすこともなく長脇差を振り回して終わったので、凄腕の程がわからなかったのが残念。斬られた三人は浪人崩れが一人、後の二人は弱そうなチンピラ……原作では三人の浪人だったのだが……。
見物人が「お手配中の音右衛門だ。」「礼金首だって言うぜ。」と噂する。その中に旅の猿回しもいる。猿が赤い口を開け、牙をむいて啼く。今回は猿がポイントである。第3話は犬であったが、ここで雉が出てくると「桃太郎」の家来が全員集合なのだが、雉の出番は無し。紋次郎は三人があっという間に倒れる様を目にするが、音右衛門には一瞥もせず脇をすり抜ける。
「木枯し紋次郎さんで……」と声をかけ、紋次郎の後を猿回しがついてくる。弥助と名乗る四十過ぎの男は、郷土を捨てて20年。猿を相手に旅を続けているが、噂に聞く人と同じ道を歩けるのが楽しみで……と一方的に話し続けるが、紋次郎は無言。二人が行く先には富士山が見える。明らかに合成であるが、当時としてはこれでも精一杯であろう。身延山道をゆく二人と一匹の後ろを音右衛門が追ってくる。音右衛門の姿は通常の大きさの三度笠、合羽の丈も通常のものと思われる。普段、紋次郎の姿を見馴れている者にとっては、その姿に違和感を覚える。三度笠の大きさと深さ、合羽の丈の長さなど、ほんの少し違うだけなのに、全体像としてこんなに差が出るものだと改めて思う。この絶妙なバランスの基を作り上げた、市川監督の美的感覚はやはりすばらしい、と言わざるを得ない。
夜になり、野宿となった。紋次郎と弥助のもとに音右衛門がやって来る。
「木枯し紋次郎さんで……。」「あっしは、稲妻の音右衛門と申しやす。」綿引氏の声は中村氏と同じく低く、よく響く。渡世人言葉も板についていて、さすがである。
「ご一緒させていただきやす。」「好きなようにしておくんなはい。」
紋次郎の台詞まわしで時々気になること。「おくんなさい」「おくんなせぇ」は、今までよく聞いたが、今回は「おくんなはい」で語尾が違う。原作の台詞は「お好きなように……」となっており語尾がないが、同じく第11巻に収録されている「白刃を縛る……」の語尾はすべて「おくんなさい」である。細かいことだが、気になる。
虫の声、焚火が燃える音……シンとした中、音右衛門と弥助の話し声が静かに続く。
このあとの行き先を弥助に尋ねられ「凶状持ちには、あてなんかござんせんよ。」と虚無的に答える音右衛門。「それじゃあ、紋次郎さんと同様ってことでございますね。」
紋次郎は二人には全く関わらず、焚火の明かりを頼りに繕い物をしている。弥助は思い出したように竹の皮を開き、握り飯を取り出して音右衛門に勧める。音右衛門は「頂きやす。」と手にとるが、紋次郎は「せっかくでござんすが……。」と断る。弥助は猿にも握り飯を与える。一方紋次郎は、竹皮に包んだ豆餅を取り出して食べる。貫禄ある渡世人二人だが、共に無口であるので、弥助も間が持たない雰囲気である。
「お先に失礼しやす。」と挨拶をして、紋次郎は長脇差を抱いて眠りにつく。
「松野宿の外れで、三人の浪人を手にかけられましたね。」と音右衛門に尋ねる弥助。
エッ、あれで三人とも浪人だったのか?そうは見えなかった。原作では三人の食い詰め浪人となってはいるが……。脚本ミスではないだろうか。
二人の会話で音右衛門の境遇がわかる。音右衛門の首を武州八王子の和泉屋へ持って行けば、二十五両を手にすることができる。礼金首がついたのは、和泉屋のひとり息子に深手を負わせたためらしい。自分も人の親だから、和泉屋の気持ちがわからないこともないと言う。音右衛門は武家出身で、かなりの使い手である。原作では23歳で鏡新明智流の免許皆伝となったと書かれている。
甲州や武州には音右衛門の首を欲しがっている者が大勢いるらしい。敢えて危険な地に向かうのは、逃げ回ることに飽きたし、凶状持ちとして死ぬまで人を斬り続けることに疲れたこともある。この気持ちは、大前田親分の回状が全国に回っている紋次郎には、わかってもらえるはずだろう、と音右衛門は呟く。ここでも大前田一家を敵に回している紋次郎の存在が出てきたが、原作ではそのことは触れていない。テレビ版はどうも、第1作目の駒形新田の虎八の意趣返しを引っ張りたいらしい。
嬶やガキのことはもうどうでもいいことだし、戻ってもどうにもならない……と自嘲的に呟く音右衛門だが。合羽の下では、曰くありげな守り袋を手にしている。音右衛門の合羽は、大分手のこんだ物である。布の補強の為に刺し子が施されているが、すり切れた部分も見え、かなり年季の入った様子が表されている。
夜も更けて、秋の虫の代わりにフクロウの声。三人が眠りについている静寂の中、突然猿の甲高い声が響く。礼金目当ての男の夜襲である。音右衛門はその声に目覚め、襲ってきた男の足を薙いだ。映像の切り替えが早いのでわかりにくいが、足が切断されてゴロリと落ちたようにも見える。その後音右衛門は正面から男に長脇差を浴びせ、斬り捨てる。音右衛門の厳しい表情とは対照的に、楊枝を咥えた紋次郎は無表情である。血が滴り落ちる刀の切っ先……非情さが漂う。
「もう少しで不覚をとるところでござんした。弥助さんには大きな借りができやした。」と礼を言う音右衛門に、「猿が起こしてくれたんでごぜえやす。」と、弥助は恐怖に震えながら答える。おちおち眠ることもできない凶状旅の厳しさである。
翌朝、三人と一匹は同じ方向を進む。先頭は紋次郎、その後ろに音右衛門、弥助と続く。間道を選ぶ紋次郎は、「あっしは、道連れを作らねえことにしておりやす。」と暗に同行を拒むが、「同じ方向に足並みを揃えて歩く分には、差し支えねえんでござんしょう?」と食い下がる音右衛門。この台詞は原作では弥助の台詞である。テレビ版で見る木馬道はすばらしく、ロケ地はどこだろうと思う。今もあるのだろうか。弥助は通常の道を行くようである。なぜ音右衛門は、紋次郎を追うのか……笹沢氏の仕掛けた謎である。
川の渡し場で再び弥助に出会い、紋次郎と音右衛門は同じ舟に乗る。舟が出る直前に、手拭いを被った姐御風の女と若い男が乗り込んでくる。原作では女ひとりで、若い男はついていない。音右衛門はその女に挨拶をする。「こんなところで出会うなんて、わたしがお上の手先じゃなくってよかったねえ。」
女は楊枝を咥える紋次郎をじっと見つめ、「失礼だけど、お前さん、木枯し紋次郎さんじゃないかい。」と声をかける。この「木枯し……」のイントネーションが変である。「木枯し」と「紋次郎」とが別々に聞こえて不自然だが、撮り直しは無かったようである。
「お楽」役に町田祥子さん。襟足から見える首筋や、粋に手拭いを被る風情が色っぽい女優さんである。お楽は武州小仏の貸元、巳之吉親分の情婦。巳之吉の名代で鰍沢の貸元のところに行き、その帰りだと言う。巳之吉は心の臓が悪くて寝たきりとのこと。
舟から下りて男三人は同じ道を行くが、その後ろにはお楽の姿。付き添っていた子分にお楽は何やら耳打ちをして、別れる。一人になったお楽は「待っておくれよ。」と先を進む紋次郎たちに追いつこうと小走りになる。弥助とお楽の会話は、「生涯、急ぎ旅を続けるなんてせつなくなるよ。」とお楽の言葉で終わるが、何となく白々しい感がする。途中で子分と別れたことも怪しいお楽である。原作では、はじめからひとり旅であるのでそういうシーンはない。
笹子峠の無人の茶屋に人影がある。紋次郎は気づいたようだが、そのまま先に進む。音右衛門が近づいたとき、バラバラと数人の男たちが長脇差を手に取り囲む。音右衛門の首をねらう黒野田の貸元の身内だと名乗りを上げ、十手をを預かる親分だから刃向かうなと叫ぶ。地元の貸元で十手持ち……いわゆる二足草鞋であるが、所詮二十五両欲しさに現れたのは明白。
やはりこの辺りには、音右衛門の首をねらう輩はウヨウヨいるようである。先を行く紋次郎は、草鞋が切れたので履き替えようと歩を止めるが、後ろの騒ぎに振り返ろうともしない。お楽が、「紋次郎さん、お前さん音右衛門さんを助けないのかい!」と走り寄って叫ぶが、その時にはもう勝負がついていた。子分が4人と音右衛門とは腕が違いすぎる。あっという間に地面には、四つの骸が転がっている。
原作では紋次郎の草鞋は切れないし、お楽に呼び止められもせず歩を緩めることもない。
「叫び声が立て続けに静寂を裂き、その余韻が紋次郎のあとを追って来た。あのような若造が十人や十五人まとまっても、音右衛門を斃すことは不可能だった。勝てるはずはないと、わかりきっている。鏡新明智流の達人の剣の前には、ひとたまりもない。音右衛門の腕前は、目で見て知っている。紋次郎にしても、自分の喧嘩剣法が音右衛門の鏡新明智流の剣に、通用するとは思っていなかった。」
紋次郎にとっては、自分の身に火の粉が降りかかってないのだから、関わることはない。それに加勢するまでもなく、音右衛門が斬り捨てるに違いないのである。
一行は御堂で野宿することになる。男三人に女ひとり……と猿。猿を除けば、前回の「雷神が二度吼えた」と同じ組み合わせである。道連れは作らない主義の紋次郎だが、続けての道連れ劇。しかし今回の道連れ仲間は、緊張感がある。それはとりもなおさず、音右衛門の存在である。音右衛門がなぜ紋次郎を追うのかがわからないし、音右衛門と道中を共にするとろくなことがなさそうである。
原作では、紋次郎と音右衛門は向かい合って壁にもたれて腰を下ろしているが、テレビ版では同じ側の壁にもたれかかり、少し間隔を開けて隣同士に座る。二人の横顔が並び、お互い一度も目を合わすことはない。
綿引氏の音右衛門が原作と違うのは、しゃべり方だと思う。綿引音右衛門のしゃべり方は中村紋次郎とよく似ていて、抑揚はあまりない。原作の音右衛門は(あくまでも文章表現からであるが)、もっと感情が声に出て抑揚があるように思うのだが……。
御堂の中での音右衛門の第一声「紋次郎さんよ、何とも気に入らねえな。」の台詞は、テレビ版では凄みはあるが静かなトーンである。
原作では違う。「不意に、反対側の壁際にいた音右衛門が、大きな声で言った。厳しい顔つきであり、言葉遣いも一変している。紋次郎は黙って、冷ややかな目を音右衛門へ向けていた。」
この後の二人の会話はほとんど原作と同じであるが、音右衛門の台詞の語尾には !(感嘆符)が付いている。しかしテレビ版での台詞まわしは声を荒げる様子はない。それだけに逆に威圧感があり凄みがある。この会話の台詞は原作とほとんど同じである。音右衛門は、自分が峠で襲われたとき、紋次郎が関わらずに去って行ったことが仁義に反すると立腹する。
「おめえさんに仁義を尽くすほどの義理は、あっしにはござんせんよ」「この野郎……」「あっしにとって、おめえさんは何の関わり合いもねえお人でござんす」
この後も二人の会話は続く。紋次郎が誰かと言い争うという事態は、今までほとんどなかったことなので珍しい。
「身延山道の松野から、一緒の道中を続けて来たってえのにか」「そいつは、おめえさんの勝手ってもんですぜ」「何だと!」「おっしは道連れを作らねえことにしていると、はっきり申し上げたつもりでござんすがね」「おい、紋次郎。この稲妻の音右衛門に、それだけのことを言える貫禄が、おめえにはあると思っているのかい!」
ここで音右衛門は長脇差を引き寄せ、一触即発の雰囲気となる。そこへ弥助が仲裁に入る。渡世人同士のもめ事なのに、堅気に仲裁をされたということで、一旦音右衛は収めることにする。しかし、次の台詞。「だがこの決着は必ずつけさせてもらいやすよ。」
原作ではこの後の紋次郎の心内が書かれている。
「紋次郎は顔を伏せていて、何の反応も示さなかった。だが、気が重くなっていたことは、事実だった。どうしてこう、面倒なことに巻き込まれるのだろうかと、うんざりしていたのである。(中略)音右衛門より更に、紋次郎のほうが面倒に巻き込まれる運命にあるのかもしれなかった。だからこそ紋次郎は常に、連れを作らないひとり旅、関わりのないことには知らん顔、を心掛けているのだった。しかし、無理に道連れとなった音右衛門から、関わりのないことに知らん顔でいたために、面倒な喧嘩を売られたのであった。その皮肉な結果に、気が重くなるのも無理はなかった。」
音右衛門との決着というのは、どこかで刀を合わせ決闘するということである。紋次郎も憂鬱になることがあるのだ、と新鮮な気持ちでこの文章を読んだ。しかし私たちが日常抱える気の重さとは、全く次元の違うレベルである。命をやりとりするほどの気の重さなどは、普通あり得ない。紋次郎のそれに比べると、私たちに起こる厄介なことなど取るに足らないものであろう。
そして原作の紋次郎は「死」を予感する。
「鏡新明智流の達人の腕前。経験。この二点は、音右衛門のほうがはるかに上回っている。五分五分なのは、度胸だけだろう。あと紋次郎が味方するものは、運命であった。斬り合いの場で起る奇跡、と言ってもいい。」
この紋次郎の心中を表す映像として、テレビ版では夢の中で音右衛門に斬られる紋次郎が出てくる。必死で長脇差を抜こうとするのだが、どうしても抜けない。その紋次郎に音右衛門が迫ってくる。焦る紋次郎の顔、音右衛門の迫り来る脅威……。
夢の中で斬られるシーンは前シリーズの「無縁仏に……」でもあった。あのときも今回と同じく、長脇差が鞘から抜けないという設定だった。夢の中ではあるが、紋次郎が焦る姿や、音右衛門に斬られる様を見るのはファンとしてはショックである。
夢にうなされて目覚めるテレビ版の紋次郎と違い、原作の紋次郎はその緊張感から何度となく目を覚まし、五度目に目を覚ましたとき異変に気づく。
眠っているはずの弥助の姿がないのだ。弥助は猿を連れて、脇差を片手に音右衛門に近づいている。紋次郎は咄嗟に長脇差を抜いて、猿がつながれている縄を斬る。弥助は同時に天井の梁まで飛び上がる。このシーンはテレビだから可能であって、原作にはそこまで忍者のような姿はない。弥助は堅気ではなく「猿(ましら)の弥助」と名乗り、二十五両がお目当てだと叫ぶ。飛び降りた弥助を紋次郎は斬り捨て、無言で壁にもたれてもうひと眠りという体勢。音右衛門もまた無言である。人をひとり叩き斬って、眠りにつく神経はいかがなものか。
原作ではここで起き出して、出立の身支度をする。霧が流れる夜明けに紋次郎と音右衛門は肩を並べて歩く。今回の映像の霧は自然に見える。回によっては明らかにスモーク……というときがあるが、今回は広範囲に霧が出ているので良かった。
肩を並べて歩くシーンは珍しい。紋次郎が左、音右衛門が右に並ぶ。相手の右側に立つ、というのは危険なことであるが、音右衛門ほどの腕があればそれも問題ない。言い替えれば、後ろから近づき相手の左に立つと、斬られても文句は言えないということである。これは刀を左腰に差して右手で抜くからであるということを、どこかで読んだ記憶がある。
二人の会話は原作通り。印象的な会話を原作から抜粋する。
「弥助の手にかかるようなおれじゃねえとわかっていて、どうしておめえは助っ人の真似事をしたんだい」「好きなように、受け取っておいておくんなさい」「おめえには、関わりのねえことだろう」「多分、弥助の猿を道具に使うってやり方が、気に入らなかったんでござんしょうよ」
ちょっとここで突っ込み……猿を道具に使うやり方が云々とあるが、紋次郎は「四つの峠に……」で、赤犬の紋次郎を使ったではないか?あれはいいんですね。
「いずれにしても、貸し借りはなしだ。今日のうちに決着をつけるって考えには、何の変わりもねえぜ」ああ、まだ紋次郎の憂鬱は続きそうである。なぜ、音右衛門ともあろう者が、こんな些細なことで決着をつけたがっているのか。
二人は茶屋で丼飯を食べる。紋次郎より若干音右衛門の方が繊細な箸の使い方である。ところでお楽の姿は見えないが、どこへ行ったのか。原作ではずっとお楽も一緒なのだが……。
今度は音右衛門が先を行き、紋次郎が後を行く。木が一本も生えていない荒野を歩く二人のBGMは、かき鳴らすギター演奏。マカロニウエスタン風の決闘をイメージする。相州と武州の国境である小仏峠の頂上で、音右衛門は歩みを止める。
「このあたりにしようぜ」空は抜けるように青く、白っぽい山肌とのコントラストを見せている。鴉が、枯れた木の根っこの上でコツコツと何かをついばむ。吹きすさぶ風の音。荒涼とした景色の中、二人のシルエットを遮る物は何もない。
音右衛門は、振分け荷物を無造作に投げ落とす。続いて紋次郎の振分け荷物も地面に落とされる。振分け荷物については、敵と戦う時、どうしているのか疑問に思ったことがあったが、やはり適当なところに下ろしているようである。
峠の下からお楽が二人の様子を見上げている。やはり何か狙いがあるようである。
音右衛門が刀を抜き構える。紋次郎は楊枝を捨てるのと同時に抜刀して音右衛門に向かって走る。テレビ版は展開が早い。音右衛門と対峙してジリジリしながら隙を窺う様子など見られない。原作の紋次郎は、もっと音右衛門の脅威を感じている。手に汗握るという感じである。
「自己流の喧嘩剣法と、鏡新明智流の剣術との差が、すでにはっきりと表れていた。紋次郎のほうから、斬り込むことはできなかった。相手に隙がないというか、どうにも手が出ないのである。カー。かあ。二人の頭上に、五、六羽の鴉がいた。その声が、紋次郎の焦燥感を煽った。脂汗で、全身が濡れていた。どっちにしろ死ぬのだから落着けと、紋次郎は何度も自分に言い聞かせた。」
こんな紋次郎は初めてである。「焦燥感」「脂汗」「落着けと自分に言い聞かせる」……この後も紋次郎らしからぬ言葉が記されている。「必死になって」「よろけて」「腰砕け」「苦しまぎれに」……こんなマイナスイメージの紋次郎は今までなかったのではないだろうか。それだけ音右衛門の威圧感が半端でないという証明であろう。
テレビ版の紋次郎は、音右衛門と刀を交えたとき、その勢いに負けて自分の長脇差を落とす。前シリーズでも演技でなく、思わず刀を取り落とすシーンがあったが、今回は演出であることはよくわかる。紋次郎は拾った長脇差を咄嗟に諸手突きで繰り出す。そんな攻撃など難なくかわせるはずなのに、その瞬間大手を広げて身体で紋次郎の長脇差を受ける音右衛門。意外な展開である。
原作とテレビ版との大きな違いはこの後である。原作の紋次郎は、その展開に狼狽したように背中まで突き抜けた長脇差を引き抜くが、テレビ版は違う。刺された瞬間、音右衛門は紋次郎を突き飛ばし、腹に刺さった刀に手を添えより深く刺す。あたかもそれは武士の切腹のようである。音右衛門が元武士だったということから、そういう展開にしたのだろう。切腹というのはある意味、名誉な死でもあるのだ。テレビ版の音右衛門に、武士としてのプライドを持たせたかったのか。この場でそのプライドは必要だったのか……微妙なところである。
もう一つ原作と違うのは、この場にお楽がいないということである。原作では、音右衛門がなぜ紋次郎に斬られたのかという経緯をお楽に話している。お楽は、音右衛門に親身な様子で話を訊き出している。しかしテレビ版では、お楽は離れたところから様子を窺っているだけで、話をする相手は紋次郎である。
自分はもうとっくに死んだも同然だ。自分の首に二十五両の値がついたと知ったとき、斬られてもいい相手がいたら斬られようと思った。そしてその金は自分の妻子に渡したい。しかし出会う奴は礼金目当てばかりで、とても金が妻子に渡るとは思えない。紋次郎なら自分の思いを察してくれるだろうと見込んだ、というのである。
今回のタイトルは「賽を二度振る……」だが、賽を振るとは何か?「人生の上で、重大なこと決める」という意味だと思うのだが、その決断を二度するというのだ。二度とはいつか。テレビ版を観る限りわからない。実は原作をざっと読んでもわからなかった。
音右衛門は急ぎ旅に疲れ、自分の首に二十五両の値が付いたとき、その金を残してきた妻子に渡したいと決めた。まさに命を懸けた決断である。それが賽を振る一度目。
二度目は、斬られたい相手を紋次郎と決め、紋次郎に頼みを委ねたときであろう。はじめ私は「二度」ということで、寝込みを二度襲われたことに関係して……と思ったのだが、「賽を振る」とは辻褄が合わない。このあたりの事情は、テレビ版はあっさり流しているので気づきにくいが、原作では音右衛門とお楽の会話で明かされている。その説明がテレビ版ではなされていないのは残念である。
原作での音右衛門は金を妻子に渡して欲しいと告げて、ボロボロになった守り札を握りしめ、口許に微かな笑いを漂わせて息を引き取る。紋次郎はお楽を離れた所に行かせて、音右衛門の首を斬る。
テレビ版では守り袋を懐に入れ、切腹状態の刀を抜き取った後、紋次郎はまだ息のある音右衛門の首に刀を振りおろす。いわゆる介錯である。さすがにその様子は映像化されておらず、音だけであるが、遠目でお楽がその様子を見ている。紋次郎に刺されたとはいえ、切腹して介錯となれば、何も紋次郎に喧嘩をふっかけなくても良かったのに……と、またいらぬ突っ込みを入れたくなる。
苦しい息の中、咳込みながらの綿引音右衛門の演技はジリジリと迫るものがあり、虚無的な中村紋次郎とは対照的だった。
原作ではこの後、紋次郎はお楽の誘惑をはねつけて、首を八王子の和泉屋に持って行くが、テレビ版ではこの後立ち回りがある。二十五両を山分けしようと持ちかけられるが、お楽も音右衛門の首をねらって、使いの者を黒野田一家にに走らせ笹子峠で待ち伏せをさせたのだろうと、紋次郎は問いただす。一連の怪しい行動から視聴者はおおよそ見当をつけていたことであろう。
そこへ黒野田一家の者たちが斬りかかってくる。原作通りだと紋次郎の殺陣がないままとなってしまうので、脚本家は付け足したようである。樹木のない禿山での戦いである。脆い山肌、砂埃、迷路のように入り組んだ所を、敵と紋次郎が走り抜ける。日本の風景美や情趣など、一切を排除した乾ききった映像である。どちらかと言うとマカロニウエスタン調であり、それはそれでいいのだが、絶対に許せないことがある。
殺陣の中で、道中合羽に包んだ音右衛門の首をまるでラグビーのように扱うところだ。よりによって、感動的なシーンの要である音右衛門の首を、そんな風に扱う演出には私はついて行けない。音右衛門に切腹まで用意して元武士の意地を見せたのに、首がラグビーボールというのはあまりにも情けない。
原作では、「畜生!」「馬鹿野郎!」と罵声を浴びせるだけのお楽だが、テレビ版では、紋次郎の背後を匕首で襲うもかわされて崖から墜ちる。
もう一つ情けないのは、紋次郎が和泉屋に訪れたときである。無言の和泉屋に小判を投げつけられるのだ。格子越しに紋次郎が小判を拾う姿と上がり框に置かれた音右衛門の首が見える。原作ではそのやりとりを「嘉兵衛は、二十五両を差し出した。」と書かれていて、投げつけてはいない。ここでも「新……」の無宿人に対する蔑みを感じる。
ラストの極めつけは、音右衛門の妻、お春の変貌ぶりである。紋次郎が訪ねたときは、男との睦みごとの真っ最中。あられもない姿のお春を目にしても、紋次郎は表情一つ変えない。「これは稲妻の音右衛門さんが命に代えての二十五両、確かにお渡し致しやす。」と小判を置く。「あの人、死んだのかい。」とだけ言ってお春は男に、この金を元手にして賭場へ行こうと誘う。こんな女のために、音右衛門は死んだのかと思うとやるせないが、紋次郎フリークなら「ああ、やっぱりね。」という展開でもある。男は残してきた女のために命をかけるのに、当の女はすっかり様変わりをしている……というバージョンは今までに何回もある。女性不信になること、この上ないのが紋次郎のシリーズである。
紋次郎は、音右衛門に託された守り袋を川に流し楊枝を飛ばす。「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず」方丈記の冒頭部分を思い出す。川は、人生の無常をまさに表している。そう言えば紋次郎のシリーズでは、よくいろいろな物を川に流す。そしてその大体が遺品である。前回もそうだった。
昔のままの人間などいないのだ。時が過ぎ、環境が変わり生活が変わり、人格も変わるのである。誰もそれを責めることはできないのである。光る川面をバックにして、紋次郎のシルエットが足早に去っていく。
音右衛門は無駄死にだったのか……無駄に死ぬより、無駄に生きることのほうが音右衛門にとっては耐えられなかった。としたら、これもよしとするべきかもしれない。 

 

●第6話 「三途の川は独りで渡れ」
この作品の脚本は「中村勝行」さん。中村敦夫氏の2歳違いの実弟である。1975年に脚本家としての仕事を始め、その後「必殺シリーズ」でも数多くの脚本を書いておられる。また時代小説を執筆されるときは、「黒崎裕一郎」というペンネーム。講談社の主催により行われた時代小説大賞に1995年「蘭と狗」で受賞されている。「冥府の刺客シリーズ」は、「幻十郎必殺剣」としてテレビ東京で放映され、中村敦夫氏は「楽翁」役で出演されている。「新木枯し紋次郎シリーズ」での脚本は、この作品以外にあと4話手がけておられる。才能溢れるご兄弟である。
この作品で興味深いのは、登場人物「お国」の扱い方である。お国役は「新橋耐子」さん。前シリーズ「木枯し紋次郎」の第35話 「雪に花散る奥州路」で、お絹役を演じておられるので共演は2回目ということになる。今回の役どころは、女壷振り「丁目のお国」。テレビ版では原作にはない「丁目」という通り名が使われているが、いかさま博奕で思い通りに丁目が出せる壷振りとなっている。このお国の役どころが原作とは大分違うのだが、これは脚本家の手によるものだろう。
紋次郎の弱みはいくつかあるが、今回はその中でも「間引き」がキーワードである。前シリーズを観ていない視聴者のために、「年に一度の……」で出生のトラウマを提示してあるが、初めてこの回を観た人は「間引き」に紋次郎が過剰に反応する意味がわかるだろうか。
ドラマは黒井の賭場から始まる。お国が壷を振っている賭場で、紋次郎は博奕に負けてスッテンテンになった見ず知らずの百姓に、黙って一両を手渡す。百姓が「今夜にも五人目の子が生まれるが、このまま銭無しで帰ると、子を育てるどころか間引くほかはねえ」と、鍬をカタに金を貸してくれと代貸に懇願しているのを目にしたからである。一両というと大金である。原作を見ると、二両勝った内の一両を紋次郎は差し出している。無言で渡す紋次郎の優しさ……このシーンが、後の展開に大きく関わるのである。
越後の高田「高砂屋」で六人が斬殺され、二百両が盗まれたがテレビ版ではなぜか百両になっている。押し込みの人数は五人。店の前での人だかりを全く無視して、紋次郎は道を急ぐ。原作での季節は冬。高田の御城下は20センチの積雪とあるが、テレビ版は草木がまだ青々としていて冬の北国街道の様子はない。撮影は多分10月初旬くらいだから仕方がない。
街道を行く紋次郎に声をかける者がいる。道ばたの地蔵の近くにへたり込んでいる貧しい身なりの男である。小諸の在、小県郡の芝生田村の百姓で「卯吉」だと名乗る。この卯吉役に「小坂一也」さん。この方は独特の雰囲気がある。いわゆるソフトムードで小心な善人タイプ。原作の卯吉の雰囲気にはピッタリで、キャスティングは絶妙だと思う。卯吉は布の包みを差し出しながら、自分は心の臓の持病が出て動けなくなった。自分の代わりに里の女房にこの荷物を届けて欲しいと紋次郎に頼む。紋次郎はいつものように断るのだが、その背で聞いた言葉に立ち止まる。「間引き」である。
卯吉の女房は今日か明日には赤子を産むが、自分が家に戻らないと絶望して間引きをするに違いない。しかし、自分はそれまでにとても帰れそうにない。赤子が間引かれる前に、この荷物さえ届けば……と荷物の布をほどく。出稼ぎで半年分蓄えた給金と土産の品々である。原作には子供用の古着が6枚ほどと、円形に柄をつけたような黒塗りの箱とある。この箱の中身は鏡掛けに置いて使われる、青銅を磨き込んだ手鏡だろうと書かれてある。テレビ版では中身はあまりハッキリ見せていないので、布きれぐらいしか見えない。問題の手鏡をなぜ見せなかったのか。
「あっしがそれを持ち逃げするとは、思ってもみねえんですかい?」もっともな問いである。紋次郎にものを頼む人間は誰もが「絶対にこの男なら……」と、全幅の信頼をおく。頼み人が善人であろうが、悪人であろうが……である。見る目があるというのか、自然とにじみ出る紋次郎の人間性か……。紋次郎は安請け合いはしないし、まず関わらない。そのかわり、一旦引き受けたことはどんな困難なことでも遂行する。愚直なまでに自己犠牲を払ってやり遂げるのだが、決まってそれは儚く、哀しい結末となる。
結局紋次郎は引き受ける。「赤子を間引かせたくねえんで引き受けたんでござんすよ。」と、あくまでも間引きにこだわっている。
小県郡の芝生田村までは二十一里で、普通なら三日をかける距離である。が、明後日の朝にはたどり着かないと、赤子が間引かれる確率は高いという。三日が過ぎれば情が湧いて死なせたくなくなる、と芥川さんのナレーションが入る。タイムリミットがある中、紋次郎は道を急ぐ。テレビ版ではその途中でお国に出会うのである。
茶店で甘酒と豆餅が運ばれたとき、お国が賽子を片手に声をかける。丁目のお国というだけあって、丁目ばかりを出してみせる。いかさま賽子だろう。原作と同じように道連れを頼むが、その最中四人の旅商人風の男たちが通りかかるのを見て、身を隠す。「いかさま博奕が見つかって追われているから、助けて欲しい」と言うのだ。
「私を見殺しにしようってのかい。」「関わりのねえことでござんす。」店にお国を残して紋次郎は先を急ぐ。
しかし原作のお国が紋次郎に声をかけるのは、卯吉に出会う前である。黒井の賭場で紋次郎を見かけ、「一目惚れ」をしたと言うのだ。追分宿まで方角が同じだから、道連れにしてくれと媚びるようにして迫る。今で言う「肉食系女子」である。しかし紋次郎は歯牙にも掛けない。
「関わりたくないって言うけど、黒井の賭場で百姓に一両も恵んだのはどういう訳だい?」とお国に尋ねられ、自分は間引かれ損いの男だと答える紋次郎。お国はそれを聞いて少し神妙になる。しかしとりつく島もない紋次郎に、お国は逆上し紋次郎に罵声浴びせる。
「……この唐変木!女に恥をかかせておいて、一人前の男って面をするんじゃないよ!……紋次郎に関わりがあるのは、間引きだけってわけかい!……」
お国は銭を茶屋の奥に向かって投げつけ、ひとり憤然と歩き出し先を行く。「かわいさ余って憎さ百倍」というところだろう。紋次郎は知らん顔で豆餅を噛み続ける。このあたりの対比が面白い。
先を急ぐ紋次郎の前にそれを邪魔するものが出てくる。原作では松本の貸元、弥九郎に背負われたお国に出会う。お国は酔っぱらって紋次郎を罵る。ふられた女の恨みはかなりのもののようだ。
弥九郎は紋次郎にからみかかり、通して欲しかったら土下座をしろと言い放つ。弥九郎のバックには五郎兵衛という貸元もいるらしい。ここでもめ事を起こすと、芝生田村へは大幅に遅れることになる。紋次郎は雪の中、土下座をし頭を下げる。子分に肩を蹴られ、お国に唾を吐かれても紋次郎は先を急ぐことを優先する。この展開はテレビ版にはない。
土下座をすると言えば、「明鴉に……」と「雪に花散る……」があった。腕が立つ紋次郎が、敢えて屈辱に耐えるというこれらの場面は、胸を打つものがある。真に強い男は、薄っぺらいプライドなど持ち合わさない。価値観が違うし、どんなときでも冷静である。瞬時に状況を判断をし、自重すべきときはそれに従い観念する。紋次郎の生き方のひとつでもある。
若い二人の渡世人が、五郎兵衛一家に追われている。賭場荒らしの疑いをかけられたということで助けを求めるが、紋次郎は関わらない。紋次郎の背後で二人の断末魔の叫び声が聞こえるが、紋次郎は歩を緩めない。とにかく先を急ぎ、間引きを止めねばならない。
テレビ版では関所抜けをする姿があるが、原作は関所が閉まる前に無事に通り抜けている。小田原提灯に火を点し、夜の雪道を行く紋次郎の過酷な旅は、原作でないとわからない。
原作とテレビ版との違いでいつも感じることなのだが、道中の行程がテレビ版では伝わらないということである。原作では、雪の中の北国街道を急ぐ紋次郎である。
一日に十里は歩かないと間に合わない。雪の北国街道なので、晴天の東海道に換算すると一日十五里の強行軍に匹敵するという。旅慣れた紋次郎でも滅多にやらない強行軍だが、いまは敢えて挑まなければならないと書かれている。テレビ版では稲刈りが終わった秋。道のりは同じでも、その道中の過酷な様子は表しきれていない。
テレビ版では、お国が居酒屋でひとり酒を飲んでいるところに五郎兵衛一家の者たちがやって来る。お国は一家の者と取引をする。紋次郎を殺してくれたら、壷振りで損はさせない……何なら私の身体でも……と艶っぽい仕草。かくしてテレビ版のお国は、五郎兵衛一家の者と一緒に紋次郎を追うことになる。
廃屋を見つけた紋次郎は野宿をする。火打ち石で火をおこし、振り分け荷物の中から紙に包んだ煮干しを取り出す。前シリーズと同じく、荷物の中身にはリアル性を持たせてあるのはうれしい。蛤の貝殻が見えるが中身は傷薬の軟膏だろう。煮干しをあぶって囓る紋次郎。原作では豆餅を囓っている。火を消して眠りにつこうとしたとき、旅商人風の男四人がやって来るが、紋次郎には気づかない様子である。この男たちは、お国を追っていた男たちのようである。
紋次郎は男たちの会話から、「定六」という男を捜していることを知る。この男たちは高砂屋に押し入って金を奪った連中のようである。定六とやらを数に入れると丁度五人で数も符合する。しかし気になるのは会話に出てきた「小県郡」という地名である。紋次郎は考え込むような横顔になる。テレビ版は、ヒントを与えすぎであるが、原作ではそこまでは明かしていない。
夜が明け紋次郎は廃屋を後にするが、ほどなく五郎兵衛一家の者に遭遇するも健脚で逃げ切る。相変わらず中村氏の脚力は衰えていない。テレビ版の紋次郎は、もめ事を起こすより逃げるという選択をした。
取り逃がしたということで、お国は怒り「お前たちには頼まないよ。」と立ち去ろうとする。兄貴格の男が「約束は約束だ!」と、お国を荒々しく羽交い締めにするが、そのとたん「わかってるよ。お返しは私の身体でするよ。」と高笑いすると身体を任せる。強かな女であるが、これは全く原作とは違う設定である。しかし私はこの設定には落胆する。女の誘いには絶対乗らない紋次郎とは真逆である、ということを強調したかったのか。
さて、こうまでして紋次郎を執拗に追うのはなぜか。茶店で道連れを断られただけで、ここまでの執念を見せるはずはないので、他に目的があるのは明確である。
原作のお国は切ない扱われ方である。いい気になって弥九郎に背負われていたお国だったが、結局貸元の弥九郎ではなく、ただの凶状旅のヤクザだったのだ。この男たち二人の狙いはお国の持ち金十両とお国の身体だったのである。化けの皮を脱ぎ捨て、街道の狼になった男二人に襲われるお国の叫び声を耳にしながらも、紋次郎は通り過ぎる。紋次郎が近くを通り過ぎたことに、お国は気づかない。
「『紋次郎……!』 不意に、お国の叫び声が聞こえた、お国は近くに紋次郎がいることを知らずに、名を呼んでいるのだった。それは現実に救いを求めているのではなく、お国の胸のうちにいる紋次郎に呼びかけているのに違いなかった。『紋次郎さあん、来ておくれよう!木枯し紋次郎許しておくれよう!』と、お国の叫び声が、遠くまで響き渡った。」
「紋次郎よ、なぜ助けてやらないのだ!明らかに、ただのチンピラ二人なのだから、一瞬にして斬り捨てられるだろうに……。」と思うのだが、原作の紋次郎は一瞥しただけで街道を通り過ぎる。
お国の設定の違いは大きい。テレビ版のお国は強かで、男を色仕掛けで手玉にとっている。原作のお国は今で言うとツンデレであるが、あまりにも無防備であり無知だった。中村勝行氏は前者を選び、笹沢左保氏は後者を選んだのである。同性からすると、どちらの展開も後味の悪いのは確かである。
原作のお国は紋次郎を追って急ぐ。どうもお国と、盗賊が捜している定六とは深い関係があるようだ。
紋次郎が善光寺を午前5時に通過とナレーションが入ったときのシーンは、京都の今宮神社の東参道である。見える茶店は「かざりや」さんというお店。スモークを流した斜光の中を歩いていると、まさに早朝といった感じがするが、影の向きから実際は夕方の撮影だと想像する。この場所は今でもよく時代劇のロケに使われる所である。残念ながら、私はまだ訪れたことがないのだが、このお店の「あぶり餅」は一度味わってみたい。
紋次郎は芝生田村にようやくたどり着き、卯吉の住まいを訪ねる。卯吉の女房のお梅はまだ赤子を産み落としてはいなかった。
「まだ生まれていない、間に合った―― と、紋次郎は音を立てて長い溜め息をついていた。肩の荷がおりたとはこの気分を言うのだと、紋次郎は全身の力が抜けるのを覚えたのだった。」
テレビ版は至極あっさりしたものである。紋次郎の安堵感もなく、淡々と進められているのは残念である。頼まれた物を届けに来ただけの雰囲気で、間引きのことを視聴者もうっかり忘れてしまいそうになるぐらいだ。道中、難儀をし犠牲を払いながらも間引かさないために急いで来たのに……せめて溜め息ぐらいはついてほしかった。
お梅に納屋で休ませてもらいたいと頼み、紋次郎はやっと熟睡する。目覚めて納屋を後にする紋次郎は、お梅と話す男の声に気づく。聞き覚えのある声は確かに卯吉である。話の内容から、どうも卯吉と名乗っていた男はお梅の兄であるようだ。なぜそんな嘘をついたのか。ここで初めて、紋次郎が運んだ荷物の中身に漆塗りの手鏡の箱が出てくる。男にはお咲という女がいるようで、この手鏡は土産だという。
男は手鏡を持ってお咲に会いに行く。お咲は水際で足で洗濯物を踏んでいる。どうも少し知恵が足らない様子である。男とお咲は再会を喜び抱き合っているところに、紋次郎が声を掛ける。「無粋な真似を、させてもらえやすぜ。」ホントに無粋と言えば無粋である。前回も、音右衛門の女房と男がいちゃついているところを邪魔している。
「いってえどんな下心があって、あっしを騙したんですかい。間引きを口実に、あっしを騙すなんて悪い了見ですぜ。」(テレビ版の台詞より)
原作とよく似た台詞を口にしているが、原作はもっと重い。紋次郎の魂の叫びとも言える。
「おめえさんの悪い了見のために、あっしの道中で何人かが、生き方を変えなけりゃあならなかったんですぜ。その上、あっしにとっては何よりも惨い騙しようでござんした」
紋次郎の道中で……ひとつは賭場荒らしの疑いを掛けられて理不尽に殺された若い渡世人たち。そして騙されて襲われたお国……紋次郎が関わらなかったが故、人生を狂わされた者たちのことを指しているのだ。
先を急ぐために見殺しにしたといえば、「見返り峠の落日」が挙げられよう。
テレビ版はここで、お国の哄笑が入る。五十両の為に、自分は身体を張ってここまで来た。女も抱けない紋次郎にはわからないだろう。だけど自分は金の為なら男に抱かれたって平気だ、とまくし立てる。紋次郎はお国が、男の名前を「やい!定六!」と呼んだときすべてを悟る。
卯吉と名乗っていたこの男は、高田の高砂屋を襲った盗賊の一味で、金を持ち逃げした定六だったのだ。定六はお国にそそのかされて、金を持ち逃げし山分けをする算段だったのだ。定六は、「お咲に楽な暮らしをさせてやりたかった。騙して悪かった、許してくれ。」と紋次郎に詫びる。定六はお咲に惚れ込んでいるのだ。
紋次郎が「間引き」という言葉に弱いことをお国は賭場で知り、定六に入れ知恵をして紋次郎を騙した。すべての筋書きはお国が考えたのである。その上お国は紋次郎に近づき、百両を独り占めしようとしたのであるから、定六よりたちが悪い。テレビ版はやはり、女が後ろで糸を引くという展開に持って行きたいようである。
定六とお国は手鏡の箱を取り合い、中から小判がばらまかれる。手鏡の箱に百両?百両と言えば、かなりのかさと重さがあるのではないか。しかも原作では二百両である。
「漆塗りの手鏡の箱に重ねて詰め込めば、二百両ははいる。小判一枚の量目は三匁五分、二百枚入れても青銅の鏡と重さは大して変わらない。」
換算すると二百両は約2.6s。従って百両は約1.3s。もっと重いと思っていたが、そんなものなのか……。それなら紋次郎が、疑いもなく運んでも不思議ではない。
二人が浅ましくも小判を取り合うのは見苦しいことだが、もしかしたら視聴者自身の姿かもしれない。ブラウン管の(当時はそうでした)むこうから、「あなたもそうではありませんか。」と内省を促される。
小判に目もくれない人間が二人。ひとりは紋次郎、そしてもうひとりはお咲。お咲は目の前で散らばった小判を取り合っているのに、全く無関心で地面に座り込んだまま。
お咲を見ていて思い出した。小判に目もくれない人間と言うと、「土煙に……」のお花がいた。お花は気が触れた娘だった。正気でない者には欲がないのだろうが、欲のために正気でなくなるということも皮肉な話である。
紋次郎はそんな二人の様子に虚無的な横顔を見せて、その場を立ち去ろうとする。
そこへ盗賊の四人組がやって来て瞬時にお国を殺す。続いて定六にも刀を振り下ろす。紋次郎は……というと、そんな騒動には無関係とばかりに背を向けて遠ざかっていく。盗賊たちはよせばいいのに、去りゆく紋次郎をわざわざ追いかけていく。盗賊の顔のアップをはさんで紋次郎の後ろ姿が撮られているのだが、どうも上手く繋がっていないようで気になった。
原作では、定六と紋次郎に四人組が襲いかかる。
「紋次郎は、長脇差を抜き放った。紋次郎としては珍しく、好戦的で強引だった。」と原作にはあるが、なぜそんなに荒々しいのか。怒っているのである。では何に対してか。
「間引き」という言葉を軽々しく使い、人の心を踏みにじった怒り。間引きをやめさせようとした紋次郎の行為は、とりもなおさず姉お光と同じ行為だった。だのに運んだものは人を殺して盗んだ悪銭……。紋次郎にとっては、お光を汚されたような思いだったのではないだろうか。間引きをとめることを最優先し、助けを求められた人間を無視して道中を急いだことも胸中をよぎっただろう。
それら諸々の怒りを盗賊四人にぶつけたのであって、定六を助けるという意味ではない。しかし、テレビ版には怒りという感情はあまり感じられない。どちらかというと、この事態にもうこれ以上関わりたくないといった雰囲気である。
今回の殺陣はすべて逆手に長脇差を持っている。道中合羽が紋次郎の身体の回転と共に見事に翻り弧を描く。スピード感がある。合羽の風切り音や、刀が空を斬る音が頻繁に入っているので余計にそう思えるのかもしれない。血が飛び散ったり、首に刀が刺さったりと、ハードな映像もある意味原作に近いと言える。四人を斬りすてた紋次郎の背に虫の息で定六は言う。
「旅人さん、なぜおらを見殺しにしただ。なぜ助けてくれなかっただ。殺されるのを黙って見ているなんて、情けのかけらもねえんですかい。」この台詞は原作にはない。楊枝を咥え紋次郎は答える。
「あっしには言い訳なんぞござんせんよ。」
この決め台詞を引き出したいが為の展開である。しかし定六が自分を見殺しにしたと責める展開のために、間引きを口実に騙した報いのようになってしまうのはいかがなものか。紋次郎が手を下したのではないが、関わらなかったが故に定六は命を落とす。
しかし定六が生き延びて、一家を皆殺しにして手に入れた百両がそっくり手に渡るということは許されないだろう。やはり定六は死ぬ運命なのだ。
お咲を残して死にたくない。お咲の喉を刺してやってほしい。二人で一緒に死にたい。お咲を連れてあの世に旅立ちたい。と、お咲の腰紐を引っ張りながら繰り返し呟く定六。しかし紋次郎はその腰紐に楊枝を飛ばして、定六の願いと共にプッツリと断ち切る。
「三途の川は独りで渡るもんでござんすよ。」
その通りである。お咲は死ぬ運命ではないのだ。不憫だからと勝手に人の命を絶つことは許されない。無辜であるお咲を殺すことは、純粋無垢な赤子を間引くことと変わらないのではないだろうか。無理心中をする現代人にも聞かせてやりたい名台詞、名コピーである。
紋次郎は小判には目もくれず、立ち去る。自分の金ではないので当然だが、全く執着していない。人間が出来ている。
「しかしあの後、百両はどうなったのだろう。」とチラッと考えてしまう私は、やはり俗人である。 

 

●第7話 「四度渡った泪橋」
前作の脚本は、中村氏の実弟であったが今回はご本人がペンをとる。ペンネームは「白鳥浩一」。中村氏が大の競輪ファンであることは有名な話である。このペンネームは、競輪選手の白鳥伸雄さんと中野浩一さんの名前をシャッフルして付けたもの。この白鳥浩一さんは、「人斬りに紋日は暮れた」の脚本も書いておられる。そして監督もご本人。脚本に監督、主演と、文字通り八面六臂の活躍である……と言うか、せざるを得ない状態だったようだ。
この新シリーズと前シリーズとの大きな違いは制作費であろう。予算は前シリーズのフジテレビ制作の半分以下。そんな逼迫した予算なので倹約は必至。中村氏は自費で中古のワゴン車を購入し、運転手をつけてメインの俳優たちを送り迎えしたという。ハイヤーでロケ地までの往復費用に比べると、大きな節約になるのは確かだ。
「倹約しながらやってはみたが、どんどん赤字が出る。しかも、脚本が遅れると追いつめられる。困った挙句、私が毎日原稿を書き、その日の分だけスタッフに渡すようなこともあった。期日までに監督が決まらないというケースもあり、急遽、私がやることもあった。」(「俳優人生」)
まさに書かれている通りの状態である。既に第6話で弟に脚本を頼み、この第7話で本人が監督、脚本……船出はしたものの、前途多難であったことがうかがい知れる。中村氏が脚本を……ということで注目してみると原作との違いがかなり見えてくる。大まかな筋は原作通りなのだが、テーマや登場人物の設定がかなり違う。中村氏が作品を通して何を訴えたかったのかが見えてくる。
今回共演する土屋嘉男さん演じる「白井(しろい)の伊兵衛」には、原作にない哀愁漂う性格付けがなされている。山中の川縁に咲く白い百合の花。山百合である。そう言えば、「新……」の主題歌「焼けた道」の歌詞にも百合の花が出てくる。紋次郎の作品の中で花が象徴的なのはいくつかある。「赦免花」「山桜」「竜胆」「秋海棠」「野菊」「山茶花」…… 今回は百合の花であるが、原作では昼顔である。山百合であれば花期は夏であろう。11月が放映時期であるのだが、百合を選択したのはなぜか?やはり歌詞に出てくるからか、それとも「白い」と「白井」をひっかけてのことか(笑)。
谷川で足袋を洗っている紋次郎は、上流で白髪染めをしている初老の渡世人に出会う。伊兵衛と名乗る渡世人と会話する紋次郎は、問われるままに自分の年齢を「36歳」と答える。伊兵衛は「そろそろ髪に白いものが出てくる歳」だと言う。ほとんど実年齢であるだけに、この脚色における紋次郎は中村氏自身を投影しているように見えてしまう。
テレビ版の伊兵衛に与えられた台詞は結構重いものがある。
「この歳になるまで生きてこられたが、ある意味不幸なことだ。堅気の者からもなめられ、一宿一飯の恩義に与るにも、喧嘩の助っ人にもならないのでは、草鞋銭にもありつけない。せめて髪でも黒ければ、若くは見られるだろう」といった内容のことを自嘲的に口にする。
そして川縁に咲く山百合を眺め「山百合はきれいだ。あんな花を見ながら、行き斃れて成仏するのが自分の儚い夢だ」と、胸の内を吐露する。伊兵衛は終始、寂しく笑っている。人生を達観している姿である。
この土屋さんは前シリーズの第8話 「一里塚に風を断つ」で 刀鍛冶、北村直光を演じているので、今回で2回目の共演である。黒澤映画には欠かせない名優で、「七人の侍」がデビュー作であったというのは驚きである。中村氏とは一回りほど歳の差があるので撮影当時は50歳に近い。流れ渡世人にしては品がある風情である。多趣味な方で、特にフラメンコギターの名手である。この作品のBGMは、土屋さん本人の作曲でありギター演奏であるというのも目玉かもしれない。
この伊兵衛とは、その後再会し、展開上重要な位置を占める。原作では、伊兵衛とは面識がないまま淡々と進んでいく。
紋次郎の姿を、一人の老婆が捉える。この老婆、実に奇怪な姿で、町の者からは「やまんば」と呼ばれ蔑まれている。多分町から離れた山に住まいする者だろう。老婆ではあるが、その動きは尋常ではないすばしこさである。この老婆の設定もテレビ版だけのものであり、原作にも老婆が出てくるが、全く別物である。
「やまんば」は「中津の友蔵」一家まで走り、子分に「木枯し紋次郎が、市助の意趣返しにやって来た」と密告する。なぜか、「赤鬼のように怒り狂って、今にもここに乗り込んでくる」などと嘘をつき子分たちをたきつける。駄賃をねだって「これだけかい」と、文句を言う「やまんば」は、全くなぞの人物である。敵か味方か。
紋次郎は1年前、食あたりで苦しんでいるところを市助たち兄弟に助けられたのだ。謂わば紋次郎の恩人である。
テレビ版では、紋次郎が意趣返しに来るということを友蔵は村はずれの小屋で子分から聞く。友蔵役に「蜷川幸雄さん」。蜷川さんと言えば、今や有名な演出家第一人者。海外でも評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれる大御所であるが、俳優さんだったことを失念していた。
この小屋で友蔵は女と密会していた様子。女の裸身は上半身の後ろ姿のみなので、顔はわからない。ここがミソ。「亭主が帰る前に戻っといたほうがういいぜ。」という友蔵の呼びかけから、この女、亭主持ちということがわかる。紋次郎はかなり手強いから、迂闊に手出しが出来ない、と友蔵は警戒している。ここでも大前田英五郎の八人衆、駒形新田の虎八殺しを口にする。そこで登場するのが友蔵の客人である「管槍の猿太郎」。
この友蔵はあくどい高利貸しで、高額な利子をふっかけ、返せないときは女子どもを売り飛ばす。今までに何人もそれを苦にして首を吊っている。その悪事を、代官陣屋に訴えに行こうとした惣領の市助は友蔵一味に殺された。続いて次男の梅吉、三男の与作も一緒に連れだって訴人となるが、途中で殺されてしまった。
原作では一人ずつ訴人に行くのだが、なぜかテレビ版では梅吉と与作が連れ立って行っている。従って、泪橋を葬列が渡る映像は一度目は市助、二度目は梅吉と与作……このままで行くとタイトルの「四度渡った……」には一度足りない。これは中村氏が脚色したからで、最後に辻褄が合うようになっている。
一部始終を話した後、「市助ら兄弟が友蔵に殺されたのだから、意趣返しをするのだろう?」と「やまんば」は紋次郎に言うのだが、紋次郎は「線香をあげるだけだ」と答える。薄情な紋次郎に「やまんば」は「意気地なし!」と罵倒するが、動じない紋次郎である。しかし、市助らが殺されたことを聞いた紋次郎は、少なからずショックを受けた表情ではあった。
この老婆、友蔵に密告したり紋次郎に友蔵の悪行を教えたりと、やはり不可解な行動である。原作にも老婆は出てきて、薄情な紋次郎を罵倒する。しかしそれは、伊兵衛が理不尽に殺されたのに「不運なことで……」と立ち去ろうとしたので、義憤に駆られて口にしたものだ。下心はなく、純粋に怒っている。
原作の老婆は茶屋を営んでおり、その茶屋に伊兵衛が立ち寄ったのであった。伊兵衛は、身許や名前を明かさずその老婆と世間話をする。その中で友蔵の話が出て市助たち兄弟の不幸が語られる。
伊兵衛は泪橋で紋次郎と間違われ、友蔵が放った刺客の猿太郎に槍で殺される。倒れた伊兵衛は、駆け寄った老婆に初めて自分の名を告げて言う。
「『なあに、死のうと生きようと、一向に構わねえ。十五年もアテのねえ旅を続けていりゃあ、いいかげん疲れるぜ。これでもう、どこへ行かずともすむんだ。お蔭で、楽ができるってものよ』白井の伊兵衛という渡世人は、口許に笑いを漂わせた。『昼顔が綺麗じゃあねえかい』」
息を引き取った後に紋次郎が通りかかるのであるから、存命中の伊兵衛を知らない。唯一伊兵衛との接点は昼顔の花であろう。テレビ版では山百合である。
原作の紋次郎は珍しく綺麗だと思って一輪だけ手折ったのが昼顔の花。そして見ず知らずの渡世人が、今際の際で綺麗だと言ったのも昼顔の花。この不思議な一致だけが、紋次郎と伊兵衛とをつなぐ糸である。
茶屋の老婆は伊兵衛の死に際の潔さと昼顔の話を訴え、紋次郎に食ってかかったのだ。伊兵衛は紋次郎に間違われ、何の関わりもないのに見ず知らずの者に殺されたというのに、無視して通り過ぎるのか!人情から言うと、老婆の抗議はもっともである。しかし紋次郎には人情は通じないし、人と人とのしがらみで行動しようとはしない。
紋次郎に間違われて殺されたと言えば、「無縁仏に明日をみた」に出てくる所帯持ちの渡世人「力蔵」がいる。結果的には力蔵の意趣返しになったが、このときの紋次郎は力蔵の忘れ形見の「一太郎」の純粋さに少なからず心を動かされている。今回はどうか。
テレビ版での紋次郎は今際の際の伊兵衛を看取っている。泪橋を一直線に伊兵衛目指して疾走する姿は力強く、とても37歳には思えない。この泪橋、原作では吊り橋なのだが、ロケ地は京都、木津の流れ橋。時代劇に出てくる橋の中ではもっとも有名であろう。
抱き起こされた伊兵衛は「紋次郎に間違われたらしい、おめえさんだけでも白髪になるまで生き延びて欲しい、山百合の花を見ながら往生しておくんなせえ」と、紋次郎に「白髪染め」を手渡す。遺品が「白髪染め」とは全く予期しなかった。
伊兵衛の亡骸を背負い橋を歩いて行く後ろ姿に、「やまんば」と呼ばれた老婆が「友蔵に意趣返しをしろ!」とけしかけるが、紋次郎は無言。「やまんば」は、自分の思惑で友蔵と紋次郎とを戦わせたいことは明らかである。
友蔵は紋次郎殺害を失敗したことを知り、潜伏先と見られる山狩りをしようとする。そこへ「やまんば」は道案内をかってでる。紋次郎は鴉が騒ぐ声に危険を察知し、樹上に身を隠しやり過ごす。野性の勘といったところか。テレビ版の紋次郎はその足で市助の家を訪ね、末っ子の梅吉とその女房「お清」に出会っている。
門口で紋次郎は声を発するのだが、自分で「木枯し紋次郎」と異名を名乗る。これは滅多にないことで、珍しい。ここで初めて梅吉の女房として「お清」が登場する。「お清」役に三浦真弓さん。よくテレビドラマに出演される女優さんである。清純派の女優さんではなく、どちらかというと悪女役かサスペンスでは策を弄する役柄が多いので、何となく展開が読めそうな感じである。紋次郎は「お久しぶりでござんす」と頭を下げ、市助たち三人の位牌に線香を上げる。
捨吉は兄たちの無念を晴らすために喪が明けた今日、訴人に行くと言う。紋次郎の「友蔵たちは山狩りに疲れて今朝は寝入っているだろう……」の知らせに、捨吉は喜ぶ。
朝霧が流れる中、紋次郎は別れを告げる。稲刈り後の田んぼ、少し下がったところに茅葺きの大きな屋根が見える。美山か……「必殺仕事人2010」でもよく似たシーンがあったような気がする。
「捨吉さん、どうぞお気をつけなすって」と頭を下げ去りゆく紋次郎に、お清は声をかける。
「紋次郎さん、またきっと来てくださいね」
目を潤ませるお清に、紋次郎は軽く会釈をして背を向ける。
この後、お清の顔のアップと紋次郎の後ろ姿が交互に切り替わる。この撮り方は市川監督ばりであり、お清の微妙な感情の交錯が表されている。しかし、いい雰囲気でススキ原を行く紋次郎の前に現れるのがまたしても「やまんば」。
本当に「やまんば」が異質すぎて、落ち着かない。しっとりした風情になるかと思えば急に出てきて、前衛的な雰囲気になる。
ススキ原が美しく、前シリーズ「馬子唄に……」のお政のシーンを思い出される。茅葺きの家やススキ原を考えると、ロケ地はやはり美山ではないだろうか。それにしてもあまりにもシチュエーションが違う。光輝くススキ原で紋次郎は「やまんば」を追いかけ、捕まえ、そしてあろうことか襟首を締め上げる。いくら良からぬ魂胆があるにしても、「堅気・女・年寄り」と三拍子揃った「やまんば」にその所業はないだろう。このあたりは白鳥さん、もう少し考えて欲しかった。
「あっしをたきつけ、友蔵をけしかけて、いらねえ修羅場を作ろうってのはどういう了見だ!」
「苦しい……!放してくれたら教えてやる!」(テレビ)
こんなに怒って老婆を締め上げるとは、「新……」の紋次郎も随分変貌したものである。
「やまんば」は、村人たちからひどい扱いをされたことを恨んでいる。紋次郎に対しても尋ねる。
「てめえは無宿人と呼ばれて石をぶつけられたり、村を追い立てられたりしたことはなかったか!」
紋次郎の顔のアップと重なる。紋次郎も同じような扱いは今まで何度もされてきた。「新……」シリーズの初回、紋次郎がまだ若いときの回想シーンで、石を投げつけられ村から追い出される映像は、観る者にはショックだった。
山奥に住んでいるというだけで蔑まれ排除され、名前さえ呼ばれず……。あろうことか本人でさえ、自分の名前を忘れてしまったらしい。嘆き哀しみ、怒る「やまんば」に紋次郎は声をかける。「憎しみばっかりで生きている者にゃ、自分を見失うことがありやすよ」
この言葉は原作には当然ない。白鳥さんの創作である。以前にも「済んだことはなかったことと同じ」とか「もう忘れてやりなせえ」とか、いつまでも過去の恨みを引きずることを良しとしない紋次郎であるのでこの台詞は頷ける。
「やまんば」の恨みつらみはまだ続く。そして握り拳を固めて言う。「挙げ句の果て、おらのたった一つの大事にしていたもんも、おらの手から離れていっただ!」それが何かという紋次郎の問いには「口が裂けても言えねえ」と、頑なな様子。大事にしていたものとは何か?これはラストに大きく関係するものである。
「ヤクザ者同士が殺し合って村人たちの血が流れ、みんな死んでしまうことが自分の生き甲斐だ、それが復讐だ」と憎々しげに笑う「やまんば」。「お前さんに、今日はうろつかれたら困るんだ。夕暮れまであっしと一緒にいてもらうぜ」と両手首を捕まえようとする紋次郎だが、「やまんば」はその手にガブリと噛みつくとするりと逃げ去っていく。捨吉が今日、「訴人」に赴くのだが「やまんば」がからみそうである。
山奥に住む者に対するいわれなき差別。無宿者に対する偏見。高齢者の生きにくさ。これらの視点は、中村氏が現代社会における問題を訴えるものである。そういえば前シリーズで監督をした「獣道……」でも、「差別意識」の問題を太吉を通して提起している。さすが「アムネスティ・インターナショナル」(国際人権救援機構)に携わった経験のある中村氏であり、その精神が見事に脚本化されている訳である。
柔らかい陽差しが美しい竹林を歩く紋次郎の姿。足取りはあまり進んでいない。捨吉の思い詰めた顔と潤んだ瞳で見送ってくれたお清の姿が脳裏に浮かぶ。草鞋の紐が切れ足を留めた紋次郎は不吉なものを感じる。
一方、なぜか「やまんば」がお清の前に現れる。馴れ馴れしい態度と言葉遣い。お清は「またあんたなの。この家に近づかないでって言ったでしょう。犬みたいに嗅ぎ回らないで!」と邪険な言いようである。「やまんば」は、その態度に怒り「覚えてやがれ!」と呪いの言葉を吐く。
紋次郎は捨吉の安否を確かめに疾走していた。しかし、道ばたに斬り捨てられた骸を見つける。やはり捨吉だったのだ。またしても訴人に行くことが友蔵には筒抜けだったのだ。一体誰が漏らしているのか。
捨吉の葬列が泪橋を渡る。お清が葬列でこの橋を渡るのはこれで三度目となる。その後ろに「やまんば」がついて行くのだが、橋の途中で友蔵一家に捕まり「紋次郎の居場所はどこだ」と、夜まで暴行を加えられ放り出される。
紋次郎はその夜、お清の家を訪ねる。お清はなぜか襦袢姿で、鏡に映して紅を引いている。紋次郎もその姿とひっくり返って倒れたままの位牌に目をやり、いぶかしげである。お清は明らかに狼狽している。「捨吉と祝言を挙げて以来一年ぶりに化粧をした。今夜はそんなことを思い出したりしているのだ」と、何となく言い訳じみた言葉で取り繕っている。紋次郎は「自分が止めなかったから、捨吉は殺されてしまった。自分が殺したようなものだ」とお清に詫びる。
「これも仕方がありません。あの人やあの人の兄弟たちの運命(さだめ)なのかもしれません」と、呟くお清に「捨吉さんが亡くなられたのに、哀しくねえんですかい」と紋次郎は尋ねる。お清が泪一つ見せないからであろう。
お清は言う。「あなたは女の気持ちを知らないんです。女が本当に哀しいときにはいくら泣いても泪なんか出っこないんです……紋次郎さんは、私のことをどう思っておいでですか。もし、ほんの少しでも哀れだと思う気持ちがあったなら、私を助けてください。」
どう思うと言われても、紋次郎には答えようがないだろう。紋次郎は黙ったまま、三度笠を傾けうつむいている。ああ、何だかこの雰囲気、嫌だなあ……またあのパターンかなあ……と思ったらやはりそうだった。
お清は襦袢をスルリと脱ぎ捨て、半身をさらし腰巻き姿になる。「紋次郎さん、私を抱いてください。そして私をどっか遠い知らないところへ連れて行ってください。私はこれ以上この村で生きていくことはできないのです」三浦さんの思い切った演技である。原作からは随分離れているので、白鳥さんの脚色であろう。テレビ版の紋次郎は、原作より明らかにモテるし、よく迫られる。
前シリーズの深夜枠と違い、10時からの放映でもトップレスが許されていた時代だったようだ。男性陣の視聴率を上げようというもくろみかもしれないが、この展開は必要だったのか疑問は残る。。原作のお清は、類い希な器量よしではあるが、友蔵と関係を持ったり紋次郎に裸身をさらしたりはしない。
しかし「御免なすって……」と、視線を落としたまま紋次郎はお清を後にする。正しい対応でした(笑)。
紋次郎が行く先にまたしても「やまんば」が飛び出す。「やまんば」は「捨吉や市助たちを売ったのは、おらじゃあねえ!」と叫び「お清が友蔵一家に襲われたぞ!」とまたけしかける。紋次郎が確かめにお清の家に駆け戻ると、もぬけの殻。やはり友蔵一家に掠われたのか。紋次郎はお清を取り戻すために友蔵一家に乗り込む。
ここまではテレビ版の展開。原作はもっとシンプルである。「やまんば」のけしかけもないし、お清の誘惑もない。
茶屋の老婆に「渡世人のくせに義理も弁えないのか。恩を返そうとしないのか。意趣返しをしないのか!」となじられる。紋次郎は「恩は忘れないが、意趣返しなんてものは生きている者が勝手に考えることで、愚かなことだ。意趣返しをしたところで、死人は生き返らない」と反論する。きわめて科学的であり冷静である。
市助たち4人に線香をあげることもないし、お清の家を訪ねることもない。原作の紋次郎の足を鈍らせたのは、昼顔の花だった。
《死のうと生きようと、一向に構わねえ。十五年もアテのねえ旅をつづけていりゃあ、いいかげん疲れるぜ。これでもう、どこへ行かずともすむ。お蔭で、楽ができるってものよ。昼顔が綺麗だ……》
茶店の老婆から聞いた伊兵衛の最期の言葉が、紋次郎の頭をよぎる。伊兵衛の言葉なのか、それとも紋次郎自身のつぶやきなのか。紋次郎は橋の袂の崖っぷちに咲く昼顔を一輪手折る。そして今来た道を無表情で引き返し、友蔵一家を目指す。
テレビ版の紋次郎が友蔵一家に乗り込む理由は、「お清を助けるため」であるが、原作は微妙であり必然性がない。どちらがどうだ、というものでもないが、テレビ版ではもう伊兵衛の印象は薄れている。
友蔵一家に乗り込む紋次郎の姿は、テレビ版も原作も格好いい。行燈に灯が入る夕刻に親分宅を訪れることは作法にかなっていない。三度笠や合羽もとらず敷居を跨ぐ。一家の若い者が声高に騒ぐのを尻目に、物静かだが凄みのある言動をとる。
「仔細あって、挨拶は抜きにさせて頂きやす」この台詞は何度聞いても格好いいし、貫禄ある人物でないと似合わない。
原作の台詞は更に格好いい。「今日の昼間、あっしの連れが友蔵親分のお身内衆の手にかかって、果てたそうにござんす」「お前の連れだと……?」「伊兵衛と申しやす」「そのための挨拶に、罷り越したとでも吐かしやがるのか!」「へい。ただいまから、伊兵衛を冥土に送ってもらった礼を、させて頂きやす」
紋次郎は、見も知らない伊兵衛を連れだと言う。冥土に送ってもらった礼……伊兵衛の意趣返しである。生きている者が勝手に考える愚かなことだ、と茶屋の老婆に言ったのに…… 他人のために、自ら火の粉をかぶりに来た紋次郎というのも珍しい。
室内での殺陣は「新……」では初めてではないだろうか。狭い部屋の中での荒々しい動き。コマ撮りはせず長撮りでカメラを回している。紋次郎の動きを追うかのようなカメラワークで、臨場感がある。テレビ版では「お清さん!」と大声で叫び、子分たちを次々に叩っ斬る。お清はここにはいないようである。最後に残った代貸から友蔵とお清の居場所を訊き出し、紋次郎は宿場外れの小屋に向かう。
小屋の前には槍の使い手「猿太郎」が見張っている。紋次郎は石を投げて木立の中に誘い込む。木に身を隠しながら、攻撃しようという作戦。猿太郎も狙いをつけにくそうであるが槍が飛び、紋次郎の道中合羽が幹に縫いつけられる。猿太郎が槍を抜きに近づくが、紋次郎は長ドスを振り回して応戦。しかし合羽がこのままだと身動きとれない。振り回した刀が槍の柄を斜めに切り落とす。猿太郎はその鋭利な柄の先端を、紋次郎にめがけて繰り出そうとするが、一瞬速く紋次郎の長ドスがうなる。猿太郎は倒れ、紋次郎の道中合羽は槍の柄からスルリと抜ける。
短い間のかけ引きだったが、なかなか凝った演出だった。ふと、市川監督がよくやる手法。人物が部屋から出るとき、着物の端っこが挟まったまま障子が閉められ、その後スルッと引っ張られる映像。何かが終わった後の余韻というか……。
小屋に入ると友蔵と逢い引きしていた女が紋次郎に気づく。何と女は、紋次郎が助けようとしていた「お清」だった。紋次郎の驚きを尻目に、お清は冷めた口調で言う。「紋次郎さん、何しにここに来たんです?あなたには関わりのないことじゃないですか。」
友蔵は、市助たち兄弟が訴人に走る度に知らせに来たのはこのお清だ。その度に金をせしめた大した女だ、と顛末を話す。そして、これでお前が俺に言いがかりをつける筋合いはなくなったはずだ、と言い放つ。
「それでもあっしは、おめえさんを斬らなくちゃあならねえ」「おめえ、一体誰のために俺を斬ろうってんだ!?」「山百合の為でござんす」「たわけたことを抜かしやがって!」(テレビ)
友蔵が壁に掛けてあった長筒を持ち出すのと同時に、紋次郎の長ドスは友蔵の体を貫く。銃声が鳴り響き、戸口にいた「やまんば」に流れ弾が命中する。
「おっかさん!」お清が叫ぶ。
なんと「やまんば」はお清の実の母親だったのだ。「やまんば」を抱き起こしすがるお清。急展開の連続である。話の複雑さについていくのがやっと。義兄弟や自分の夫を金のために売ったのがお清。そして何かと怪しい動きでからんでいた「やまんば」がお清の母親。
「お清、何でおらを捨てて山を下りていっただ?」と苦しい息の中「やまんば」はお清に尋ねる。お清は、山を下りて人並みの暮らしをしたかった。いつまでもおっかさんと暮らしていたらわたしも「やまんば」になってしまう。私はお金がほしかった、と答える。「ごめんよ、おっかさん、一人で寂しかったろう、堪忍しておくれ」とお清は母を抱く。「もういい……やっとおめえが……おらの許に戻ってきてくれただ……」「やまんば」と呼ばれ続けたお清の母親は、自分を捨てた娘の胸で静かに息を引き取る。
「おらのたった一つの大事にしていたもんも、おらの手から離れていっただ!」と紋次郎に言った大事なものとは、娘お清だったのだ。原作にはない、もう一つのどんでん返しである。
親子であるが故の憎しみや嫌悪もあったろうが、最後になってお互いの情愛が通じ合うという親子ドラマが一つ終わった、
原作でのお清の言い分には開いた口が塞がらない。「江戸で暮らしてみたいと、思っていた」「貧乏暮らしが、いやだったんだ。生まれたときから一度だって、小判を拝んだことがないという暮らし……」「おらは器量よしだ」「誰だってそう言う。おまえは甲州一の別嬪だと……、江戸にでも生まれていたら、きっと玉の輿に乗ったことだろうって……」「器量がいいのは、女の宝だ」「甲州一の器量よしだっておらが、どうして百姓の女房でいなけりゃあならねえんだ。どうして野良着だけの貧しい暮らしで、我慢していなけりゃならねえんだ」「器量のいい女には、それに相応しい生き方がある」「梅吉、市助、与作、捨吉、みんな死んじまえば、おらはもう自由だ。百姓女でいなくても、すむようになる」
身勝手なナルシストの極みと言えるが、現代にもこういう女はいる。美貌を武器にしてのし上がろうとする……美醜で人の値打ちを決めようとする……笹沢氏が執筆したときより今の方がその傾向が強いのではないだろうか。時代小説の形をとっているが、これは明らかに現代小説である。
テレビ版のお清も理由はどうであれ、夫や義理の兄たちを金で売ったのだからそう変わりはない。
「私のことを許してくれないでしょうね。」と問うお清に答える中村紋次郎。
「おめえさんを責めるには、貧しい村の哀しい話を、見過ぎてきたようでござんすよ」
貧しい村の哀しい話……その通りである。「木枯し紋次郎シリーズ」で視聴者も、見過ぎてきた。紋次郎はお清を責めないというのか。
「でもお清さん、おまえさん一つだけ大嘘をつきなすったね。女が本当に哀しいときは泪が出ねえなんて、今の泪は偽りだと言うんですかい」指摘されるほど、お清は泪が出ていないのは残念。ここは号泣して欲しい。
「あのとき、あなたに見透かされて私は怖かった。だから咄嗟にでたらめを言った。でも、肌をさらして遠くへ連れてってくれと頼んだ私は必死だった。なぜ紋次郎さん、それがなぜ、わからないんですか?なぜ、なぜなの?」「あっしには、言い訳なんぞはござんせんよ。」
ここで「言い訳なんぞ……」の台詞が出たが、お清の問いに対しての答えにはなっていない。遠くへ連れて行って欲しい……?四人を売った金を懐にして、紋次郎と逃避行?それとも自分に嫌気がさして、生まれ変わるために遠くに行く?もともと山暮らしが嫌だから、母親を捨てて村に下りてきたはずなのに、その境遇にも嫌気がさしたというのか。お清の真意がわからない。その点原作のお清のほうが単純でわかりやすい。
原作でもこの「言い訳なんぞ……」を口にしているが、内容は大分違う。相手は茶屋の老婆である。
「だがな、いってえ誰のために、紋次郎さんは急にやる気になったんだね」「誰のためでもござんせん」「そんなことはねえだろうよ。市助のための意趣返しか」「いや……」「じゃあ、中津村や初狩の人のためを思ってかね」「とんでもござんせん」「伊兵衛って渡世人のためにかね」「いや……」「だったら、どうして気が変わったのか、言い訳でもいいから聞かせてもらいたいね」「あっしには、言い訳なんぞござんせん」「そうかい」
紋次郎は友蔵一家には一応、伊兵衛のお礼参りだと言って一家に乗り込んでいる。しかし、友蔵には「昼顔のためでござんす」と答えているので、老婆に伊兵衛のためではないと言っていることは頷ける。
それでは「昼顔」とは何を表しているのだろうか。原作では紋次郎と伊兵衛とは何の面識もなく、繋がりは昼顔が美しいと感じたことだけ。
一方テレビ版では、伊兵衛の生きざまと山百合にかける想いを紋次郎は静かに聞いている。最終的には「お清」を助けに行くのが殴り込みの大部分となり、「それでもあっしは……」と付け加えのような感じとなってしまっているのは残念な気がする。
原作は伊兵衛とのしがらみがなく、「昼顔」のみの繋がりだけにその比重は大きい。昼顔は紋次郎の本来の姿なのではないだろうか。紋次郎の生きざまは周知の通りであるが、私は後天的なものであると思っている。生きざまということは、生きていく上での方策であるので当然後天的と言えよう。従って紋次郎の本質ではないのである。紋次郎の本来の姿はその逆……姉のお光と似通っているはずである。見返りのない無償の愛であり、真情の発露なのである。だから誰のためでもない、自分自身の正直な気持ちに従ったのである。本来の紋次郎の姿が昼顔を美しいと想った瞬間、蘇ったのである。本来の自分の姿に戻るアイテムが、昼顔だったのであろう。
さて、テレビ版のお清は四度目の泪橋を渡る。「やまんば」と呼ばれた自分の母親の葬列である。原作ではお清の母親は出てこないので、当然葬列もない。四度目に用意されたのは、お清の母親なので、次男と三男を一緒に訴人に走らせた謎がここで解ける。
無表情で位牌を胸に、真っ直ぐ歩くお清と紋次郎はすれ違うが、お清は全く紋次郎に視線を移さない。逆に紋次郎の方がお清の姿に目を留める。お清はこの後どんな生き方をするのだろうか。
その後紋次郎は、伊兵衛を葬った土饅頭に墓標を立てる。『伊兵衛の墓』……墨色鮮やかな達筆である。紋次郎が自ら書いたか?としたら、かなりの腕前であり文化人である。墓前には白い山百合。
「伊兵衛さん、山百合どころかこれを使う日まで生きていられるかどうか、あっしにはわからねえんでござんすよ」(テレビ)
紋次郎は楊枝を飛ばして白髪染めを木の幹に留める。白髪染めの黒い飛沫が百合の花を黒く染めるエンディングは、なかなか渋い演出である。原作ではもちろん昼顔に楊枝を飛ばし、川に流す。
白鳥浩一さん、お疲れ様でした……と言うぐらい、凝りに凝った脚色でカメラワークも斬新なところや計算されたところもあり、意欲的な作品だった。
「見所満載、お色気いっぱい、アッと驚くどんでん返し。メランコリックなギターの音色に、あやしい「やまんば」地を駆ける。山百合に、かけた想いは己の姿。明日は我が身か誰の身か。次週、新木枯し紋次郎をご期待ください!」と言ったところか……。  

 

●第8話 「念仏は五度まで」
オープニングは死骸の取り調べから始まる。死骸の身元は、台ヶ原の増田屋のあるじ忠七だという。増田屋は大きな茶屋で、「六兵衛の蕎麦饅頭」をよく売る店である。刃物で背中から一突きされたのが致命傷だが、首筋に細い物で突き刺したような傷跡がある。群衆の中のひとりが「流れ渡世人で楊枝を飛ばす木枯し紋次郎が、甲州路を西に向かった」という情報を役人に話す。楊枝をくわえているが故の「濡れ衣シリーズ」。今までも何回かあったが、傷跡から間違われるのは初めてだろう。
今回の流れ渡世人は盲目で子連れという設定である。盲目と言えば前シリーズ「獣道に涙を棄てた」のお鈴以来である。「子連れ狼」と「座頭市」をミックスした感じである。
盲目の渡世人、信州無宿、一ノ沢の彦三郎役に長谷川明男さん。長谷川さんといえばいわゆる紋次郎シリーズの常連さんである。前シリーズでは「湯煙に……」「雪燈籠に……」に出演されているので今回で三作目である。前作はどれもあまり腕が立つ役ではなかったが、今回はどうか。
道ばたで彦三郎とその倅、友吉が談笑している。この二人は友吉の母を捜している。友吉は母の顔を知らないし、彦三郎は盲目のため顔を見分けられない。しかし彦三郎は声を聞けばわかるという。宿場の茶屋で蕎麦饅頭を頬張る友吉。彦三郎は店の女に「お縫という女を知らないか?」と尋ねる。捜している女の名は「お縫」という。友吉はなかなか鼻っ柱の強そうな子で、「無縁仏に……」の一太郎を彷彿とさせる。
この近辺は「茅野の徳蔵」という貸元の縄張りで、徳蔵は「二足草鞋」という設定になっているが、これはテレビ版だけ。原作は三十をすぎたばかりの若造で「二足草鞋」ではない。徳蔵は、下手人としての紋次郎を殺し、名を上げたいと子分たちにハッパをかけているが、どうも心許ない。徳蔵は「六兵衛の旦那のところに相談に行く」と子分たちに話をしている。
居酒屋では、店の親爺と増田屋殺しの噂をする男が一人。和泉屋の主人らしい。店の親爺は「下手人は木枯し紋次郎らしい」と言っているので、噂はかなり広がっている。
和泉屋友右衛門も増田屋と同じく、大きな茶屋を営んでいる。この友右衛門に店の親爺は「六兵衛さんの若い後添えと、いい仲なんじゃないか」と冗談ごかしに話している。友右衛門は商売上世話になっているだけだと、慌てて言うが怪しい。六兵衛は高齢で心の臓を病んでいて伏せっているらしい。若おかみは商用で、鰍沢まで名代で出かけているとも話す。
またしても「六兵衛」の名前が口にのぼる。忠七、徳蔵、友右衛門に共通するのは「六兵衛」であるのだ。
店を出たとたん友右衛門は誰かに殺される。チラリと逃げていく影を見た居酒屋の親爺は呟く。「木枯し紋次郎……」
紋次郎と彦三郎親子との出会いは、原作とテレビ版では違う。原作では、紋次郎が河原にいる時にこの親子がやって来る。彦三郎は挨拶をしてお縫という自分の女房を捜していることを話す。友吉が二歳になったとき、お縫は消えた。自分は目を患っていて動きがとれなかったが、友吉とお縫を捜し始めて2年になるという。そしてすでにお縫が消えて5年半。お縫を捜し出すことが自分の残されたたった一つの生き甲斐だとも言う。
テレビ版での出会いは賭場。彦三郎が人一倍研ぎ澄まされた聴力でいかさま博奕を見破る。騒然となったとき、紋次郎は咄嗟に楊枝を飛ばして、ろうそくの火を消す。暗闇の混乱の中、紋次郎は彦三郎親子を逃がすため、いかさま連中を痛めつけている。この時点で紋次郎は、彦三郎親子に情をかけている。
「大丈夫。ここまでは、追ってこねえでしょう。」
たどり着いた破れ堂宇の戸を閉めて、紋次郎は彦三郎親子に声をかける。この声のかけ方も、随分親しみが込められている。紋次郎は彦三郎から話を聞かされる。彦三郎の身の上話は原作とほとんど同じである。友吉の口から「縫ってのはおいらのおっかあなんだ。」という言葉が出たときだけ、紋次郎の表情が変わる。板壁にもたれて腰を下ろしている紋次郎だが、しまいには話の途中で眠ってしまっている。
この破れ堂宇の中での照明はすばらしい。照明は「山下礼二郎さん」。前シリーズから、特に第2シーズンはほとんど山下さんが照明を担当されている。月光が堂宇の隙間から入り込み、板張りの床を照らしている。その光は斑紋となって、薄暗い室内に儚く浮かび上がる。光と影を意識した効果である。夜が明けて今度は早朝の陽の光。一目で朝日だとわかる色調と射し込む角度。計算し尽くした照明の妙である。
普通渡世人は長ドスを抱き寝するのだが、彦三郎は友吉を抱き寝している。苦楽を共にする、父子の情愛を感じる。眠っている二人を後にして、そっと出て行く紋次郎。朝霧が流れる川で顔を洗っているところに友吉がやって来る。
「もう行っちまうのかい?せっかく知り合いになれたのに……」「達者でな。」「紋次郎さん、手配書が回ってるぜ、気をつけてな。」「必ずおっかさんを見つけろよ。」「うん。」
今回のテレビ版紋次郎は、いつになく優しい言葉をかけている。友吉に感情移入しているようである。原作の紋次郎は友吉とは口をきいていない。
蕎麦饅頭で財を成した六兵衛の説明がナレーションされ、立派なお屋敷や蔵が映る。伏せっているのは65歳の六兵衛でその傍らに茅野の徳蔵が座る。六兵衛はお得意様の増田屋や和泉屋が次々に殺されるのは、江戸の商売敵の仕業かも知れない。下手人の木枯し紋次郎を早く捕まえろ、と徳蔵に指示を出す。徳蔵は六兵衛に「おかみさんはまだお帰りでは?」と尋ねる。六兵衛は天井に向けていた視線を徳蔵の方に向ける。その目は皮肉がこめられたように見える。
「気に掛けてくれて、ありがとう。お藤は無事に帰って来るさ、明日にもね」
意味深長な雰囲気ではある。テレビ版では六兵衛と徳蔵との会話は記述されていない。
そこへ徳蔵の子分が紋次郎の目撃談を知らせに来る。徳蔵たちは六兵衛の屋敷を後にする。一方紋次郎は上諏訪に向かっている。その行く手を遮ったのは友吉。
このまま上諏訪に行くのは危ない。目明かしの徳蔵が待ち伏せている。茶屋で徳蔵の子分が話しているのを父親の彦三朗が聞いた。その父から知らせに行け、と言われて来たと言うのだ。
「おめえ、それを言うためにここまで走ってきたのかい」「おいら紋次郎さん、好きなんだもん」「ありがとうよ、恩に着るぜ」
と先を行こうとする紋次郎に、後ろから徳蔵一家の追っ手がやってくる。
「どいておくんなはい、あっしはおめえさんたちと争う理由は何一つござんせんよ」
しかし子分たちは襲いかかってくる。紋次郎は長ドスは抜かず鞘に収めたままで3人を打ちのめすと、街道を走っていく。
友吉は草むらから姿を見せ、紋次郎が一瞬で3人を倒したことに感嘆する。「強ぇ……」紋次郎の真似をして口には笹竹を咥えている。友吉は紋次郎に憧れを持つ。
一方徳蔵は一人で林の中を歩いているが、誰かの気配を感じる。徳蔵の足音の他に微かな足音が聞こえるのは確かである。急に徳蔵の目の前に現れたのは三度笠姿。シルエットだけなので誰かはわからないが、紋次郎以外で三度笠というと見当はつく。しかし……なぜ?……どのようにして?
するとどこからか竹串状のものが飛んできて、徳蔵の片眼に突き刺さる。突き刺さる様子は合成処理……必殺シリーズが頭をよぎる。悲鳴をあげて逃げる徳蔵は追い詰められ、背中から刀で刺される。血しぶきが画面に広がる……これも何となく安直な感じ。
今までの一連の殺しはこういう手順であったのだが、今ひとつからくりがわからない。
テレビ版の紋次郎はこの後、野宿先の廃屋で濡れ場を目撃する。原作ではもっとこの場面は早い。先に紋次郎はこの廃屋にいたのだが、そこにやって来たのは信州一の長者と言われる玉井屋六兵衛の後添え「お藤」と手代の「国太郎」。旅籠を抜け出してここで逢い引きということである。上諏訪の屋敷に帰ったらもうこんなことは出来ないんだから……ということだろう。
お藤役に「赤座美代子」さん。この女優さんも紋次郎シリーズの常連さんである。前シリーズでは第14話 「水神祭に死を呼んだ」と第30話 「九頭竜に折り鶴は散った」に共演。今回で長谷川さんと同じく3回目の出演となる。いつもながら着物姿がよく似合う女優さんで、安心して見ていられる。「新シリーズ」の見せ場でもあるお色気シーンだが、実は原作の方がもっとあからさまな性描写である。(そちらに興味がある方は原作をご一読ください)
「年増女の凄絶な美しさ」(年増と言っても25歳くらいだが)「寒気がするほどの淫蕩さ」「睦み合うことに、執念を燃やしているみたい」「そこには業火が見られた」「まさに狂態」と様々な表現が並んで記述されている。
赤座美代子さんの演技が……というより、キャスティングとしてもっと肉感的な女優さんの方が良かったのではとも思う。赤座さんはどちらかというとキリッとした感じで、姐御肌。色情狂いというタイプではない。
原作とテレビ版の大きな違いは、逢い引きのあと、紋次郎がこの二人に見つかってしまうところである。原作では紋次郎がいることを、最後まで気づかずに二人は廃屋を後にする。テレビ版では気づかれてしまい、お藤だけが残って紋次郎と言葉を交わす。なぜか紋次郎は、他人の身の上話を聞かせられやすい。相づちを打つこともなく、場合によっては寝てしまっていることもある。根掘り葉掘り詮索されないから、話しやすいのかもしれない。原作では、お藤の境遇が記述されてはいるが、紋次郎に打ち明けることはない。
どうしようもない……自分で自分がどうにもならないのだから。それでも5年半前には、博奕打ちを亭主に持って苦労もしたが耐え忍んでいた。しかし急に、そんなことがばかばかしくなって何もかも放り出してしまった。一度しかない短い命を、自分のためにだけ好きに生きたい。魔が差した挙げ句の果てが、信州一の長者の後添え、男狂いの明け暮れ……でも後悔なんてしていない。どうせ明日という日は誰にもわからないのだから、せめて今日だけでも生きてるという証が欲しい……。
紋次郎はお藤の話を聞いて、「もしや……」と口にするがそれを飲み込む。話は友吉が捜している母、「お縫」と符合するのだ。亭主が博奕打ち、姿を消してから5年半。しかし紋次郎は、それ以上に尋ねることはしない。そして口にした言葉は「人にはそれぞれの生きざまがあるんでござんすよ。」だった。
それぞれの生きざまがあるのだから、お藤の生きざまの善し悪しは問わないというのだろうか。どうせ明日という日は誰にもわからないのだから……せめて今日だけでも……紋次郎の生きざまと同じではある。しかし明らかに違うのは、生きてるという証である。お藤の場合は男との享楽であるが、夜も日も明けないというのなら、これはいわゆる依存症とも言える。
強迫性を持ち、心の空虚感を埋めるためために、性衝動を自分でコントロールできなくなり、その行為にとりつかれるという症状である。まさしくお藤そのものである。しかし結局、その行為では心の空虚感は癒されない。そのためまた、誰かと性行為……この繰り返しである。
お藤には生き甲斐がなかったのだろう。亭主のため、我が子のため、いつも自分がずっと我慢してきた。その上亭主は目を患った。その生活には喜びがなく、自分の苦労に報われることもなく、心理的に苦しいときふと魔が差した。一時的でもその苦しさから解放されたのだろう。そして転がるように、依存症は重度化していったのに違いない。
「旅人さん、冷たいお人。あんたの胸の中も空っ風だねえ。」
お藤は紋次郎の心の空虚感を見透かしている。自分と同じものを感じるのだろう。しかし紋次郎は、心の空虚を満たすために何かに依存することはない。そもそも空虚さを満たそうという気がないのである。空虚は空虚として受け入れる……心が満たされるなどというものは、初めからないのであるから人には求めない。逆に、人には関わらない。ひとつだけ紋次郎に依存症があるとするならば、それは楊枝くわえることだろう。楊枝をくわえることで、心の安定を保っているのかもしれない。
お藤は旅籠に一人で戻ったが、先に帰ったはずの手代の国太郎はまだ姿を見せていなかった。国太郎はやはり、帰途の途中で何者かに殺されていた。紋次郎はその亡骸を見届けてから、河原に腰を下ろす。川面に小石を投げ、珍しく他人のことを考えている。お藤の言葉を思い出しているのだ。「あたしは後悔なんかしてないよ。どうせ明日という日は誰にもわかりゃしない。だったらせめて今日だけでも……空しいけどね。冷たいお人……あんたの胸の中も空っ風だね。」
原作でも河原に腰を下ろして小石を投げている。しかし考えることはお藤のことではなく、国太郎のことである。お藤からは身の上話を聞かされていないので当然だが、国太郎があっさり死んだことに儚さを感じている。
主人との不義密通は死罪であるが、国太郎は発覚する前に殺された。死罪を恐れながらも不義密通をやめず、罪に問われたわけでもないのに、あっさりと殺される。しかし、そんな滑稽ななこともゆとり持っている人間の場合だと、胸の内で紋次郎は呟いている。
「生きることに、まったく余裕がなければ、不義密通に現を抜かしたりはしない。また、あっさり殺されることもない。生きるために必死になって戦い、何とか危機を脱しようとするだろう。ちゃんとした明日がある人間に限って、命を粗末にしたがるのだ。明日があるという保証もない紋次郎だが、何としても今日だけは生き抜こうとする。まるで、逆であった。命が惜しいわけでもない。死ぬときが来たら、いつでも死ぬという覚悟もできている。だからこそ、生きようと努めるのだ。同時に明日のない身で、今日を全うしようとすることが、ひどく空しいのであった。」
お藤は、明日という日は誰にもわからないんだから、今日を自分の好きに生きる……と言う。不義密通という大罪であっても構わない。今日が良ければそれでいいという刹那的な生き方である。しかし紋次郎は死ぬときが来るまで、精一杯生きようとする。今日を生ききることに努めるのである。紋次郎はいつも、今日が自分の最期の日だと思って生きている。
これはなかなかできることではないだろう。明日のない身となれば普通は、自暴自棄になって欲望のおもむくままになるだろう。どちらかというと人はお藤の生き方を選びがちかもしれない。
紋次郎の生きざまは、まさしく仏教の教えそのものである。蓮如上人の『白骨の御文章』……「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」を彷彿とさせる。
お藤と紋次郎の生きざまは、真逆とも言える。しかし紋次郎は、そんなお藤を批判しない。前回「四度渡った……」のお清に対しても、紋次郎は一定の理解を示している。実のところ紋次郎が人を批判したり、咎めたりするということは滅多にあり得ないのだが……。「人は人、あっしはあっしと思って生きておりやすんで」とお志乃に答えたのは、前シリーズの「木枯しの音に消えた」であった。世間一般の情に、流されることがない確固たる自分がいる。しかし、それを人には当てはめないし、求めることもない。
河原で再び彦三郎と友吉に出会う。紋次郎は彦三郎に待ち伏せを知らせてくれた礼を告げ、立ち去ろうとする。彦三郎に紋次郎は道連れを頼まれるがあっさり断る。そして、友吉が紋次郎の背中に「おじちゃん!」と叫ぶのに、振り返ることもなく歩を緩めることもない。
テレビ版の紋次郎は気づいているはずである。友吉が捜している母親は玉井屋の女房「お藤」であることを……。だがそれを教えたところで、どうにもならないことも知っている。だから敢えて関わらない。この場を早く立ち去りたいのだ。
街道を急ぐ紋次郎の前にまた徳蔵一家の子分が四人現れる。長ドスを抜くと「徳蔵親分の意趣返しだ!」と叫ぶ。楊枝が突き刺さったような痕が発見されたからだろう。鋭く細い刺し傷の痕がある遺体が、これでもう四人目となる。子分たちは紋次郎を取り囲むが、刀は震えているしへっぴり腰である。紋次郎はそんな連中に「つまらない見当違いから、命を粗末にすることはねえでしょう」と取り合わず長ドスも抜かない。そこにお藤が止めに入る。「この方はそんなことをするお人じゃない、それより私と一緒に上諏訪の屋敷まで来て、旦那様に聞けば何もかもはっきりするはず……」と言う。お藤は誰の差し金で、この事件が続いているのかに気づいたようである。
突然お藤たちの背後から声がする。「その女、玉井屋六兵衛の女房、お藤に違いあるめえな!」
振り向いたお藤はその声の主を見て、驚きのためか言葉を失う。声の主は彦三郎だったのだ。と同時に、彦三郎は傍らにいる友吉に筒状の物を手渡す。どうも吹矢らしい。友吉は慣れた手つきで吹矢を飛ばし、お藤の首筋に突き刺さる。お藤のうめき声を頼りに彦三郎は正確に歩いていき、お藤の胸を逆手に持った長ドスで一突きにする。刺された直後から、お藤の動きがスローモーションとなる。
「着物の裾が乱れて、胸がはだけた。白い手甲脚絆をつけた腕や脚、それに胸のふくらみの色と対照的な鮮血が、お藤の着物にシミとなって広がった。そんなお藤の姿も、また淫蕩的であった。紋次郎の脳裡に、国太郎に抱かれて狂乱を極めているお藤の姿が甦った。お藤はまだ、絶息していなかった。まるで男を求めるみたいに、お藤は腰をよじっていた。」
原作の記述を再現する手法として、監督はスローモーションを使ったようである。なるほど、痛みに悶える様は悦楽の境地をさ迷う姿と似てなくはない。しかし何となく悪趣味だなあ、と食傷気味に感じてしまうのは女の目から見ているからか。
「すんだぜ、全部……」と口にする彦三郎は、事の顛末を話し始める。殺された4人の男はみんな玉井屋に目を掛けられて出入りしていた。そして玉井屋の主人六兵衛の女房お藤と不義密通。お藤は根っからの淫乱女。年老いた六兵衛だけで満足するはずもなく、4人の男と関係を持った。自分は六兵衛から4人の男を殺し、最後にはお藤も殺すように命じられた。一人につき二十両、5人合わせて百両という仕事を引き受けたのだと言う。かわいさ余って憎さ百倍とでも言うのだろうか。
友吉の母親を捜す、ほのぼのとした親子と思っていたら大間違いで、親子でタッグを組んだ殺し屋稼業だったのだ。いつからこの親子はそんな裏稼業を始めたのか。今回が最初とは思えないほど、友吉も熟練しているし二人の息もピッタリである。しかし子どもまで殺しに使うとは、笹沢氏の意外性狙いもここまで来たかと思わせる。
しかしこの親子に、百両の金が必要だったのだろうか。母捜しと報酬百両の殺しの仕事……この親子のキャラクターからすると、かなりギャップがあるのだが……。
子分の4人の矛先は紋次郎から彦三郎に変わった。親分の敵とばかりに彦三郎に斬りかかってくる。だのにテレビ版の紋次郎は、この親子を助けることもなくクルリと背を向けるとその場を去って行く。「えーっ!この親子を見殺しにする気なの?友吉には感情移入してたんじゃなかったの?」である。
「餓鬼も、敵の片割れだ!構わねえから、叩っ斬れ!」友吉にも危険が及ぶのだが、紋次郎にはその声が聞こえているはずなのにまだ助けに来ない。友吉は地面に突き飛ばされ大声で叫ぶ。「おじちゃーん!!」その声が耳に届いたとたん、紋次郎は踵を返して長ドスを抜く。そんなことなら初めから助けてやればいいのに……と突っ込みを入れたくなる。一度去ったのだから、友吉の声が耳に入っても少しは逡巡してほしい。一旦関わりないと去るが、やはり情が動いて助けてしまう……というパターンを、無理矢理踏襲しているように思えてしまう。
原作の紋次郎は、窮地に立たされた親子を置いて立ち去ろうとはしていない。友吉に助けを請われるまでもなく、叩っ斬っている。テレビ版では刀を持ったままの腕を斬り落としているが、これは原作と同じ。4人の男たちはあっという間に紋次郎に斬られて倒れる。今回の殺陣の時間は短く、呆気なく終わる。
「ちゃん!」と駆け寄る友吉を抱きしめ無事を確かめる彦三郎の耳に入ったのはお藤の声。「おまえさん……いっしょにいるのは友吉だねえ。わたしは、お縫だよ……」
おおよそ見当はついていたが、やはりお藤は友吉の母親で彦三郎の女房、「お縫」だったのだ。
「わたしは亭主と我が子の手にかかって、地獄に堕ちるんだねえ……」
その声に驚いた彦三郎は手探りでお縫の近くに這いずり、虫の息の女房を抱き起こす。「縫!お前、お縫か!」「お前さん、やっぱり目はダメだったんだねえ」「おめえ……死ぬな!死んじゃあならねえぞ!」「身勝手にずっといた罪の報いさ。恨んじゃいない……」
彦三郎の腕の中で、お縫は息を引き取る。残酷な結末である。「友吉の為にも死ぬな!」と彦三郎は叫ぶが、テレビ版の友吉は「こんな女はおっかあじゃない!」と、涙ぐみながら否定する。
原作の友吉も同じくおっかあじゃないと否定するが、その声はひどく陽気であった、とある。これはちゃんの思い違いだ、声を聞いても気がつかなかったんだから、と良い方に解釈しようとしている。
しかし監督はテレビ版の友吉に、口では否定しているが肯定せざるを得ない現実を、涙と共に与えた。友吉の、勝ち気そうな涙ぐんだ真っ直ぐな目が印象的である。
「紋次郎さん……この始末は一体どうつけたらよござんしょうねえ。たった一つの生き甲斐も消えちまいました。今まで何をしてきたのやら……紋次郎さん、今生の名残にあっしの言い訳を聞いておくんなさい」「生きている限り、あっしには言い訳なんてござんせん。だから他人さまの言い訳も聞きたくはねえんでござんすよ」(テレビ)
ほとんど原作と同じ会話である。ただ原作では「今生の」という言葉から、彦三郎は自害すると紋次郎は察しているが、敢えて留め立てはしない。生き甲斐とか言い訳とかに頼っている流れ者は所詮、長くは生きられないのであった、と切り捨てている。ここで言い訳を聞いて彦三郎を慰めて、友吉にこの女はお縫じゃないと言ったとしても、現実は何一つ変わりはしないということを紋次郎は知っている。因果には抗うことができないのである。だから紋次郎は気配を消すが如く、関わらない。多分、関わろうが関わらまいが結果はさほど変わらないのであろう。お縫が言った罪の報い……因果応報の教えなのである。
テレビ版の紋次郎はこの最後の台詞を、しっかり顔を上げて言っている。ブラウン管を通して、視聴者に向かって言っているようにも思える。違和感を覚える。決まり文句ではあるが真正面を向いて口にする台詞ではないだろう。三度笠からわずかに見える口許だけで良かったのに、こうも堂々と言われると「ちょっとなあ……」と思ってしまうのは私だけか……。
紋次郎が去っていく姿にかぶさって友吉の悲痛な声が聞こえる。「ちゃんっ!」多分彦三郎は友吉を置いて、お縫の亡骸の近くで自害したのだろう。生き甲斐を持つものはそれが失われたとき、呆気なくもろく崩れてしまうのだ。結局生き甲斐がない紋次郎の方が、何も求めないだけに裏切られることもなく、その日を生き抜いていく。紋次郎は友吉の声に振り返ろうとはせず、去っていく。茶屋に翻る「六兵衛の蕎麦饅頭」とある幟に飛ばした楊枝が、この悲劇の幕引きとなる。
せめてもの救いはエンディングのナレーション。「玉井屋の家系図によると『八代目・六兵衛』とあってその次に、『九代目・養子友吉』と記されている」
謂わば親の敵である六兵衛の許ではあるが、友吉は生き抜いたのである。しかし友吉の胸の中も、空っ風だったに違いない。 
念仏は五度まで
ちゃんとした明日がある人間に限って、今日の命を粗末にしたがるのだ。明日があるという保証もない紋次郎だが、何としても今日だけは生き抜こうとする。まるで、逆であった。命が惜しいわけでもない。死ぬときがきたら、いつでも死ぬという覚悟はできている。だからこそ、生きようと努めるのだ。同時に明日のない身で、今日を全うしようとすることが、ひどく空しいのであった。
今回、冒頭の文言はセリフではありません。原作の本文中の説明です。ということで、今回は、テレビドラマからではなく、笹沢佐保原作の小説が出典です。
これは紋次郎の生き方の原点ですが、いつもの虚無的な姿勢に終始せず、命を大切にしていることがわかります。奈良の元薬師寺管長で、「心」、「己に克つ」等の著書のある高田好胤の語る、明日があると思わず、その一瞬一瞬を真剣に生きるということに通じます。
ともすると、私たちは当然のように明日があると信じて、日々を生きてしまいがちです。しかし、実は明日はわからないです。だからこそ、いまこのときを大切に、精いっぱい生きるということです。
本作のタイトルは、「念仏は五度まで」。これは、盲目のやくざ一ノ沢の彦三郎(長谷川明男)が殺害した、別れた女房を弄んだ男四人、そしてその女房を含めた五人という人数に依っています。
この頃になると、タイトルも観念的になってきて、なかなかタイトルから、その内を推測するのが難しい。さらにテレビドラマを観終わった後、または小説を読み終わった後、タイトルの意味を考えてしまいます。
「霧雨に二度哭いた」、「四つの峠に日が沈む」、「雷神が二度吼えた」、「賽を二度振る急ぎ旅」、
「四度渡った泪橋」・・・
ちなみに殺害された女房のお藤を演じた赤座美代子は、本シリーズ再登板です。そして、シリーズ第3期の第1作「霧雨に二度哭いた」を監督した藤田敏八の元妻でもあります。
本作の安田公義監督は、大映で座頭市シリーズ、眠狂四郎シリーズを撮り、市川雷蔵の遺作「博徒一代 血祭り不動」の監督でもありました。 

 

●第9話 「旅立ちは三日後に」
三日……この言葉で連想するものと言えば「三日坊主」「三日天下」「三日〜おくれ〜の〜♪ 便り〜を〜のせて〜♪」(古っ)三日という期間をみなさんは長いと感じるか、短いと感じるか?紋次郎にとっては束の間であったろうか、それとも長居をしたと感じたろうか?
紋次郎の魅力は、なんといっても流れ人であることだ。地縁も血縁もないさすらい人であること。だれもが自分の置かれている諸々の煩わしさから、一時でも離れたいと思ったことがあるだろう。家族や親類、職場や近所にいる者たちから隔絶した処へ行きたい……。しかし現実問題、不可能であろう。だからフィクションである紋次郎に憧れるという人も多かったはずだ。
定住が許されず、街道をねぐらとして二十年以上続いた紋次郎の独り旅。憧れはあるものの、多分それこそ三日も私は保たないだろう。
オープニングは信州追分宿での2年前の紋次郎。宿場女郎を痛めつけていた男を、紋次郎が懲らしめている。どういう関わりでそうなったのかはわからないが、宿場の女郎たちは一様にその成り行きを喜んでいる。店の陰から一部始終を見ていた女郎がひとり……紋次郎の足元に、自分の簪を投げ落とす。胸のすく思いと紋次郎への憧れか、女の情がそうさせたのか……紋次郎は一瞬立ち止まり女の顔を見るが、そのまま行き過ぎる。この飯盛女役に「佐藤友美」さん。白い首がほっそりと長く面長で、粋な感じの女優さんである。今回のヒロインであることは確か。
今回、紋次郎の心の中にずっと影を落とす人物は三州無宿、「権田の重蔵」という四十ぐらいの乞食渡世人である。この人物との出会いが原作とテレビ版とでは少し違う。
原作では百姓たちの人垣の中、重蔵が二人の男女を脅している。この男女、かなり百姓の中でも裕福そう。重蔵はこの二人から金を盗ろうとしている。紋次郎は、ただその人垣をかき分けて道を進もうとしたのだが、当然重蔵の悪行を邪魔することになる。重蔵の長脇差の切先が紋次郎の喉元に向けられ、紋次郎は言う。「大概にしなせえ。真っ昼間から辻盗人を働いた上に、通りがかりの者に八当たりするとは悪戯も度がすぎるんじゃあねえんですかい」
ここで重蔵は意味深な言葉を吐く。「他人事みてえに言うねえ。たとえ木枯し紋次郎だろうと、いつまでも流れ者でいてみろい。このおれみてえに、成れの果てになるんだぜ。意地も体面も捨てて、辻盗人になろうってもんよ」
紋次郎はその後、重蔵の長脇差を取り上げ峰打ちで叩き伏せる。と同時に周囲の百姓衆がいきり立ち、紋次郎が止めるのも聞かずに鍬や鋤を振り下ろす。重蔵は無抵抗なまま滅多打ちにされて、命を落とす。紋次郎はぼんやりと、肉塊にも似た重蔵の亡骸を見守る。
テレビ版での重蔵は、紋次郎が食べる握り飯を恵んでくれと哀願する。よほどの空腹なのだろう。ためらいもなく差し出す紋次郎を、「おめえはいい奴だ」としきりに褒め、稼ぎ話があると企みを持ちかける。もうすぐここに、大金を持った駆け落ち者がやって来る。その二人を脅して金をせしめるから、仲間にならないかというのだ。この重蔵役は「江幡高志」さん。いつも悪役が多い役者さんだが、何となく憎めない小心者といった雰囲気。多分あの大きな目のせいだろう。紋次郎は重蔵の長脇差をさっと鞘から抜き取り、「こんな竹細工で人を斬れる訳がない。止した方がいいぜ。」と竹光であることを見破る。
しかしこの後、重蔵は計画通り駆け落ち者を襲うのだが、騒ぎを聞きつけた通りがかりの百姓衆に取り囲まれ、滅多打ちにされて殺される。紋次郎の忠告を聞いておけば良かったのだが、遅かれ早かれ、そういう運命だったのだろう。紋次郎がたまたま休んでいた寺の墓場に、百姓たちの手によって重蔵は葬られる。紋次郎はわざわざその場に出向き「卒塔婆の一本でも建ててもらえるのなら、権田の重蔵と書いてやってくれ。」と告げる。駆け落ちしようとした二人も菊の花を持ってずっと墓穴を掘るのを見守っている。紋次郎はその二人を一瞥してその場を去る。
重蔵との出会いに違いはあるものの、共通していることは、「無宿人」の命は虫けら以下であることだ。悪戯(わるさ)をした流れ無宿人を殺したところで、何のお咎めもない。それどころか手間が省けたと思われるぐらいなのだ。たとえ相手が無抵抗であろうが、過剰防衛だろうが関係ない。無宿人は存在自体が悪と見なされている。
原作の紋次郎は「卒塔婆に名前でも……」までは言わないが、重蔵が葬られた寺の前を通り過ぎるとき、歩きながら瞑目して片手で拝む。
「他人事と思うな。紋次郎であろうといつまでも無宿の流れ者でいれば、年をとっての成れの果てとなる。なりふり構わず、金にありつこうとする――。と、権田の重蔵の言葉が甦り、それが痛いほど深く紋次郎の胸にしみた。」
辻盗人は悪事であることは確かだし、自業自得と言われればその通りではある。しかし重蔵の成れの果てと、我が身の行く末とを重ねてしまう紋次郎の心内が、この作品のベースになっている。
テレビ版ではこの後賭場のシーンになる。原作では真っ昼間から、「沼田の鉄五郎」の配下の賭場に誘われる紋次郎だが、テレビ版では夜である。三度笠の隙間ごしに賭場に誘う若い者の顔が見える。この撮影の方法は前シリーズでも何回かあったように記憶している。
紋次郎の懐には一朱金が一枚……一朱は一両の16分の1であるので、換算すると3125円……。これはさすがに懐具合がさびしい。ということで賭場への案内を受けるがあまりツキがなく、ご祝儀を渡したあとの儲けは三百文。しかもその貴重な儲けの内の百文を、見ず知らずの百姓の爺さん、吾作に恵んでやろうとする。吾作は博奕が唯一の楽しみだと言い、胴元に百文でいいから貸してくれと泣きついていたのだ。
紋次郎の行動には鉄則とも言うべき揺るぎないものがあるが、一方気紛れかと思われるものもある。この吾作の件はその後者であろう。原作にもどういう心の動きで……という注釈はないが、もしかしたら重蔵への供養の意味もあったのかもしれない。
賭場での金の貸し借りはご法度だ、と息巻く胴元だが、恵むのだから構わないだろうと紋次郎は答えて賭場をあとにする。しかしこの後、予期せぬことが起こる。
吾作爺さんが賭場の入り口から叩き出され、外で草鞋の紐を結び直す紋次郎に体当たりしてしまうのだ。紋次郎の身体は傾き、崖から滑り落ちる。紋次郎ともあろう者が、なぜかわせなかったのかと思うのだが背中を向けていたのだから仕方ないとも言える。
紋次郎が崖から落ちるシーンと被さって、追分宿の飯盛女、佐藤友美さんの顔がインサートショットで入る。紋次郎は崖から落ち、吾作の家に担ぎ込まれたようである。佐藤さん役の元飯盛女は、吾作の孫娘「お澄」という設定で、紋次郎に付き添ってずっと介抱していたようである。
紋次郎が誰かに介抱されて目を覚ますのはこれで3回目。「雪に花散る……」では猪に突かれての負傷、「上州新田郡……」では落雷で気を失う。そして今回は崖から落ちる。そう言えば介抱ではなく拉致される「土煙に絵馬が……」では、崖から岩を落とされたこともあった。この後も何回か、紋次郎は危険な目に遭ってはいるものの、何とか助かっている。
テレビ版は原作にはない、紋次郎へのいたわりを示すお澄の姿が演出されている。気がついた紋次郎の額に手をやったり、起きようとする紋次郎を抱きかかえるようにしたり……。女性ファンとしては、羨ましい限りである。しっとりした中での会話が続く。
「行かなくちゃ、いけねえ。あっしは堅気の衆にお世話になれるような身分じゃねえんだ。」「紋次郎さん、あんたも頑固なお人だねえ。」(テレビの台詞より)
ここで紋次郎はお澄がなぜ自分の名前を知っているのか、疑問に思う。視聴者はオープニングの宿場の場面を知っているので、お澄が何者かはわかっているが、紋次郎にとっては2年前、通り過ぎただけのできごとなのだ。
一方、ここ大原村では大変な事態に陥っていた。村の組頭の倅が二百両という大金を盗んで逃げたのだ。この金は、村人たちが血のにじむような思いをして貯めたいわゆる「賄賂金」。以前格下げされた大原村を、元の宿場町に引きあげてもらうための大事な袖の下なのだ。それがあろうことか組頭、吉右衛門の倅「孝太郎」が持ち逃げしたというのだ。村人に知れたら大事になる……何とか秘密裏に孝太郎を見つけ出し二百両を取り戻してくれ、と吉右衛門は沼田の鉄五郎に懇願している。
組頭と地元のヤクザ……結構持ちつ持たれつの仲のようである。賄賂金がらみといえば、前シリーズの最終回「上州新田郡三日月村」を思い出される。あのときは三日月村の田に引き水を……というための賄賂金だった。
紋次郎は身体を起こし、やはり旅立とうとする。左肩を大分痛めているようで、立ち上がろうとするがよろけてしまう。そこへ吾作が駆け寄り出立を止める。「命の恩人をこのまま旅立たせる訳には行かない。どうしても行くのなら、自分を叩っ斬ってからにしてくれ。」と強い口調で押しとどめる。お澄は「せめて三日でいいから、ここにいて。三日あれば傷も元通りになるだろうから。」と提案する。二人の強い言葉に紋次郎はしぶしぶ承諾する。
「お言葉に甘えて、三日後に旅立たせていただきやす。」この台詞から今回の作品名が生まれた。
翌日はテレビ版では雨だが、原作はうららかな春の空にちぎれ雲というのどかさである。原作の一日目、紋次郎の姿は終日縁側にあった。柱にもたれかかり、川と渓谷と山の景色を眺めるという、日頃の紋次郎の生活では考えられない平和な時間が流れている。
「敵というものがいない。常に背後を警戒し、眠っていても物音を気にするといった神経の消耗がなかった。安心して、息ができる。飢えることもない。そして常に、話したり笑ったりする相手がいるのだ。」
普通に生活する者にとっては、何の不思議もなく変わりばえのない日々なのだが、紋次郎にとっては夢のような生活なのだ。
テレビ版の一日目は秋雨。縁側にはつるし柿がぶら下がっている。紋次郎の肩の湿布をお澄が張り替えている。ここで紋次郎は昨日疑問に思ったことを尋ねている。
「娘さん、一つだけ訊きてえことがあるんだ。」娘さん?ちょっと引っかかる。佐藤さんは当時36歳……悪いがどう見ても娘さんには見えない。原作のお澄は「二十六、七だろうか。洗い髪にしていて、化粧っ気はない。病人の顔色をしていた。身体が骨と皮だけみたいに、痩せ細っている。顔立ちの整った美人だけに、凄惨で痛々しいくらいであった。」と記述されている。原作ほど痩せ細ったり顔色が悪かったりはないが、憂い顔で声が魅力的なのはいい感じ。年の頃としても、紋次郎とはお似合いかもしれない。
「おめえさん、なんであっしの名前を知ってなすった?」
ここでお澄の過去が語られる。オープニングで、紋次郎が追分宿で女衒の為吉を叩きのめした話が語られる。
「上州三日月村の 人呼んで木枯し紋次郎……2年前信州追分宿の宿場女はみんな、あんたの名前に胸をときめかしたもんさ」紋次郎に憧れる女がそんなにいたのか……と、テレビ版での紋次郎のモテ度には驚きである。よほどこの女衒は嫌われていたようだが、それを往来の真ん中で痛めつけたのだから「ざまあみろ!」と溜飲を下げる思いだったのはわかるような気がする。当時宿場には飯盛女が200人はいたという。その誰もが、紋次郎の名前を知っていたということになる。大したものである。
紋次郎は遠い目をする。お澄の話を聞いても、あまり覚えていないようである。
あのとき簪を投げたのが私だが、あんたは振り向きもせず行ってしまった。十五で売られて二十五で年季明け。その後、おい働きで二年を女郎として過ごし、何千もの男に抱かれたが誰一人名前を覚えていない。だのにあのときのあんたの名前だけは、忘れることができなかった……ばかな話だねえ……。
雨脚が白く光る映像、お澄は坐って縁側から外を眺め、その後ろには紋次郎が視線を落として黙っている。ある意味、お澄の告白である。紋次郎としては黙って話を聞いているより仕方がないだろう。雨という設定もあるのだが、何となく湿っぽい感じがして閉塞感がある。
原作は二人きりのあいだで、話はなされていないし簪を投げたという事実もない。お澄と吾作が会話をしながら、自分たちのことを紋次郎に聞かせているので、あまり深刻には感じられず、むしろ明るく屈託がない。
組頭に頼まれて、沼田の鉄五郎一家の者は孝太郎を捜しているが以前見つからない様子である。
吾作がお澄に、孝太郎とお秀が駆け落ちをして村の金を持ち逃げしたことを話している。もう噂が広まったらしい。おおかた、賑やかな町ででも暮らしたかったんだろうよ、と返事するお澄に紋次郎は尋ねる。「あれは村の金だったんですかい?」
お澄にその二人にどこで出会ったのかを訊かれ「嶋古井村で……」と紋次郎は答える。お澄は居場所を組頭に教えてやろうと吾作に勧めるが、吾作は渋い顔である。吾作は村の者たちに恨みを持っている。二十年前に畑を鉄砲水で流されたとき、誰も助けてはくれなかった。もともと村の中でははぐれ者だったが、村のつきあいはちゃんとしていた。だのに畑を流されたのは罰が当たったんだと言って誰も助けてくれなかった。だから娘も婿も死んでしまったし、孫のお澄を売らなければならなくなった。そんな憎い村の奴らの金なんかどうでもいい。ざまあ、見ろだ!と恨み辛みを一気にまくし立てるテレビ版の吾作。
原作は違う。吾作は博奕狂いがたたり、本家から見放され、村中に不義理を働いたため村八分になる。村のはずれにある地主のいない、やせた土地に移り住むも、一家は餓死寸前となり、仕方なくお澄を女郎に売ったというのである。原作の吾作やお澄は、村人たちに憎しみは持っていない。村八分ということを甘んじて受けている。
貧しい村では金のために娘を女郎に売るということは、親や家族のためと思われがちだが、女郎であれば一応衣食住は保証される。餓死させるよりは女郎で働かす方がましだ、と考える親もあったとされる史料を読んだことがある。苦界より苦しい貧村での生活が、実際にあったことに胸が痛む。
二日目、紋次郎は杖を突きながらお澄と村はずれを歩いている。着物の裾を下ろした着流し風の紋次郎の姿も珍しい。お澄は紋次郎に「百姓は嫌いかい?」と尋ねる。「べつに……ただ、十の時に村を飛び出してから鍬を握ったことがござんせんよ。」「旅が好きなんだねえ……そうだろ?」
お澄は何もわかっていない。好きで紋次郎が旅を続けているのではない。続けざるを得ないのだ。紋次郎は無言である。お澄は静かに話す。うちの畑は蕎麦しかできないやせた土地だが、自分は百姓が好きだ。十二年、宿場を流れ流れやっと生まれ故郷に帰ってきた。どんな辛いことがあってもこの畑にしがみついてここで生きていく。身体が元に戻ったら、肥やしを担ぎ、水を引いて米も作ってみせる。そう覚悟している。女は強い……と感じる。この強さは「上州新田郡三日月村」で見せるお市の姿と重なる。
腰を下ろしお澄を見上げて話を聞く紋次郎の表情は、およそいつもの紋次郎ではない。凄みもなく、毒気を抜かれたような、ただの男の顔である。言い方が悪いが、ちっとも魅力的ではない。「百姓は嫌いかい?どうしても明日行っちゃうのかい?紋次郎さん……」逆光の中、振り返って紋次郎を見つめるお澄。お澄としては、二回目の告白である。紋次郎は答えないが、代わりにくわえた楊枝が微かに動く。
原作ではこういうシーンはない。原作の二日目の紋次郎は、自然にできた河原の湯壺に浸かり目を閉じる。お澄と二人きりとも書かれていないし、実に淡々と書かれている。貧しいが、平和な三人の昼飯のときに、吾作から、「ここに住みついて、百姓をやる気にはならないか?」と勧められている。「大原村の村人たちと関わりを持たなくても生きていける。それに大原の村の衆は、揃って心が広い者ばかりだから、一年もすれば誰も気にとめなくなるし、もう他所者じゃなくなるだろう。」
テレビ版とは逆で、吾作たちは村人を憎んでもいないし恨んでもいない。吾作とお澄との会話もほのぼのとしていて、テレビ版のような暗さやとげとげしさはない。さらに吾作の「お澄と夫婦になれば、もう他所者だなんて思う者はないだろう。」との言葉に、「およしよ、爺ちゃん。気が早すぎるじゃないか。」とお澄が止めに入る。原作のお澄はかわいげがある。二人に交互に勧められる紋次郎だが、「お情けだけをちょうだい致しやす。」と断ってしまう。
「ただの他所者と無宿人じゃあ、天と地ほどの違いがありやす。たとえあっしがここに暮らしの根をおろしてえと望んだところで、世間とお天道さんがそいつを許しちゃあくれやせん。それが無宿の流れ者ってものなんでござんす」
無宿の流れ者に対する世間の冷たさを、紋次郎は今までに何度となく味わってきている。
原作のお澄はかわいげがあると書いたが、それはあることを実験しようとするからだ。大原村のあちこちを紋次郎と連れだって歩き回り、村人たちに無理に注目されようとする。
「ねえ、みんなが見てるよ」「でもね、見馴れてしまえば、誰も気にしなくなるさ」お澄はそう言うと、声を殺して笑うのだ。
「正直に言っちまうけど、わたしは紋次郎さんと一緒に暮らしたい。あの追分宿で見た木枯し紋次郎と、こうして一緒にいるってことだけでも、わたしは夢を見ているような気になっちまうのさ。こんな女の身体を持たないわたしに、妙なことを言われて迷惑だと思っているのかい」
お澄の気持ちはよくわかる。もし自分がずっと憧れている人が目の前にいて、その人の世話をし、一つ屋根の下で時間を過ごす……誰もが夢心地になるだろう。お澄は長年の女郎生活のため身体を壊し、女の身体ではなくなっている。しかし気長に養生すれば、元の身体を取り戻せるだろう、と言う。
「そうなったら紋次郎さんだって、女のわたしを可愛がってやりたいって気になるかもしれないよ」「いまのお澄さんは、もう堅気なんでござんすからね。そんな言い方は、しねえほうがようござんす」
紋次郎はどんな出自であろうと、どんな低位に置かれた人でも、決して差別しないし色眼鏡で見たりはしない。子どもであろうが年老いた者であろうが、同じように接する。年季が明けた半病人同様の女でも、決してぞんざいに扱わないし尊重する。ヒューマニストなのである。
テレビ版では紋次郎とお澄の前に、村人と鉄五郎の一家が訪れる。孝太郎を捜しているので、吾作にも力を貸すようにと言うが、お澄はつれない返事。鉄五郎の子分がお澄に手荒な真似をしようとするのを見かねて、紋次郎は「嶋古井村で見かけた。」と教える。その日の夕方、孝太郎たちは見つかったようで、吾作は「放っておけばよかったのに……」と機嫌が悪い。
お澄は紋次郎に「気にすることはないし、わたしはあれで良かったと思っている。金が戻れば村の衆も、少しはわたしたちを見直すだろう。」と呟く。そして紋次郎に、河原に湧いている湯に行こうと誘う。
河原からは湯気(ドライアイス)が上がり、周囲は白い霧状態の中でのシーン。上半身裸の紋次郎の背中を、お澄が手拭いで流している。混浴でもするのか、とも思ったがここは勘ぐりすぎ。河原の湯壺に入るという設定だったろうが、「湯煙に月は砕けた」とは違い屋外ロケ……それも本当の湯には浸かってはいないので、きっと寒かっただろう。これも多分、経費節約のため。「湯煙に……」は大がかりなセットでの撮影だったが、やはり格差がある。
お澄は紋次郎の背中をこすりながら「昼間の話は、忘れてほしい。」と言い、「本当は一緒に暮らしたい……でもわたしはそんな人並みの幸せを望める女じゃない。」と話を一方的に続ける。身体をこわし、男に抱かれるような女ではなくなってしまった……と三度目の告白してしまう。自嘲的に「なんてバカなんだろう……こんな話までして……」と泣き笑いで語るお澄に背中を見せながら、紋次郎はただ無言のまま。紋次郎よ、何も言うことはないのか?「今夜はどうかしてるわねえ……」と切ない表情で、お澄は紋次郎の背中に身体を寄せ顔を埋める。紋次郎はかける言葉の代わりに、背中から回したお澄の手に自分の右手を添える。
女性ファンならこのシーンをどう見るか?私としては一言で言うと「複雑な気持ち」である。
女に心を許す、いや、人に心を許すなどということはあってはならないこと。「お澄さん、紋次郎の旅をとめることはやめてー!」「紋次郎の心を惑わすような真似はしないでー!」「紋次郎は永遠に、誰のものにもならないでほしい!」簡単に言うと嫉妬である。
もう一つは、お澄と自分をオーバーラップする気持ち。一度しかお目にかかれなかった憧れの人……他の男の名前は全部忘れたのに、ただ一人忘れられない名前の人。夢の中の人が今、目の前にいて、手を伸ばせば触れられるという信じられない現実。そして明日は約束の三日目。ここで別れたら、一生逢うことはないだろう。だから、行かないで……。わかる、大いにわかる。
主観的に、客観的に、相反する視点が入り乱れるので複雑な心境になるのだ。
渓谷を流れる白いしぶき、紋次郎の浅黒い背中と顔、紋次郎の背に押し当てるお澄の白い顔、闇が迫る中のコントラストのシーンは印象的である。
その夜、紋次郎は夢にうなされる。嶋古井村の百姓たちに、鍬や鋤で殺される重蔵の姿……お澄の白い顔……重蔵の姿がいつのまにか紋次郎にすり替わる。このまま根無し草のような生活を続けていると、自分も重蔵のような成れの果てになるだろう。
テレビ版の紋次郎は、一度もお澄にこの地に留まることを名言していないが、原作では曖昧だが答えている。「へい。許されることなら、あっしに異存はござんせん」紋次郎は二日後の夕刻、家の前でお澄の提案を承諾した。「本当だね」お澄の顔がパッと明るくなる。そしてこの日がお澄にとって最良の日となる。
翌朝、組頭の倅の孝太郎は二百両の行方を父親から詰問され、「楊枝をくわえた流れ者に盗まれた。」と、朦朧とした中で言う。視聴者は嘘であることはよくわかっているのだが、この時点で紋次郎に危険が迫ることもわかる。
テレビ版も三日目の朝を迎える。なんと紋次郎は、石臼を回して大豆を粉にひいている。それをじっと見つめるお澄……その視線を感じて振り返る紋次郎の目には今までにない穏やかな光が宿っていて、見ようによってはお澄に微笑みかけているようにも思える。これがテレビ版の、紋次郎が示す承諾の姿なのか。ああ、紋次郎よ!そんな穏やかな顔をここで見せていいのか?複雑な気持ちになる。
さて突っ込みを入れることは他にもある。お澄の後ろに玉ネギがたくさん吊されているが、この時代、玉ネギが栽培されていたのか?という疑問である。調べてみたら、どうも明治以降に栽培されたようであるので、この時代に村では植えられていないだろう。
平和な時間も束の間、遠目に集団で男たちがこちらに向かってくるのが見える。その瞬間、紋次郎は危険を察知して身を翻し、旅装にとりかかる。脚絆を身につける姿を、お澄は放心状態で見守る。お澄には悪いが、視聴者としては「やっぱり、そう来なくっちゃ!」と思ってしまう。
「娘さん、火の粉が降りかからねえ暮らしなんて、夢のまた夢なんでござんすねえ。」テレビ版の紋次郎の台詞である。未だに「お澄」という名前を紋次郎は呼んでいない。お澄は自分の名前を告げなかったのか……。
吾作は意を決したかのような表情で、紋次郎に新しい草鞋を差し出す。紋次郎は礼を言って草鞋を受け取り、家の中を振り返る。お澄のうなだれた後ろ姿が奥に見える。「お世話になりやした。」紋次郎はお澄に向かって軽く頭を下げると、戸口から合羽を翻して出て行く。お澄は無言ではあったが、その寂しそうな落とした肩のシルエットがすべてを物語っている。
紋次郎は野性の勘で危険予知をするが、なぜ吾作とお澄はすべてを悟ったかのようなそぶりなのか。群衆が何のために、この家を目指してくるのか明かされていないのだが……。
原作では三日目に吾作が悪い噂を聞いてくる。孝太郎が二百両を、楊枝をくわえた渡世人に盗られたと言っているというのだ。そうこうしているうちに村の衆たちが押し寄せて来る。手早く身支度を調える紋次郎にお澄は声をかける。「紋次郎さん、行っちまうのかい」「もう、試してみたじゃあねえですかい。やっぱり、火の粉の降りかからねえ暮らしってのは、夢のまたその夢なんでござんすよ」
大原村の群衆は五、六十人。口々に紋次郎を罵っている。「お世話になりやした」頭を下げる紋次郎に、お澄は未練があるようである。「何とかならないんだろうかね、紋次郎さん」「無宿者は、悪事を働く、堅気の衆はどなたさんも、そう決めてかかっていなさるんでござんすよ。叩っ殺したところで、無宿者はたかが虫ケラ一匹でござんすからね」
原作の紋次郎の台詞は、堅気衆への辛辣な言葉であるが、現実なのである。そしてやはり、他所者と無宿人とは境遇が違うのである。
原作もテレビ版も「沼田の鉄五郎」一家が長ドスを振り回して、紋次郎に「二百両の金、どこに隠した?!」と襲いかかる。「何とか言ったらどうなんでえ!」とテレビ版では胸ぐらを掴まれて、定番の台詞「あっしには言い訳なんぞござんせんよ」を口にする。少しチグハグなやりとりである。さすがに原作にはない。
テレビ版のロケ地は、一体どこだろうか。山間部の廃村のような雰囲気である。段々畑があり、茅葺きの廃屋や物置があり、屋外ロケ地としては打ってつけの場所である。
荒々しい殺陣ではあるが、以前のような地面に転がって……というシーンはない。その代わり、かなり効果音が多用されてはいる。ただ、あまりそれも多用すると安直に感じてしまうので、バランスが難しいところだ。
「金を返してくれ!」と懇願する組頭に紋次郎は「駆け落ちした二人に、嶋古井の西蓮寺の墓場まで来るように伝えてやっておくんなせえ」と言い残して、村人たちが遠巻きにする中を去って行く。お澄も見守っている。西蓮寺に村人たちが集まる。孝太郎が「あんな流れ者のことを信用するなんて、どうかしている」と言いふらす中、木枯らしの音……。「新木枯し紋次郎」では、なぜか紋次郎は楊枝を吹き鳴らさないが、今回は微かに木枯しの音が聞こえる。
紋次郎が厳しい面持ちで孝太郎の元に近づく。三度笠の下から見える顔は、お澄の前で見せた穏やかさはなく、いつもの表情。ちょっとホッとする。
「こいつなんだよ!金を盗ったのはこいつなんだよ!」と往生際の悪い孝太郎の顔ををすり抜けて楊枝が飛ぶ。しかし飛び方があまり良いとは思わない。一直線にというより、かなりブレ気味。あれでは失速して落ちてしまうだろう。心配をよそに、楊枝は重蔵の墓標に突き刺さる。墓標はあんなに酷い扱い方をされた割りには立派であり、達筆で墨の色も鮮やかに名前が記されている。
「その墓を掘ってもらいやしょう。」その後、種明かしをする。
野良犬のようなみすぼらしい男に花を供えたりするのは、堅気の旦那としてはおかしいと思った。だから自分は残って、この二人のすることを最後まで見ていた、と言うのだ。
「えーっ?!見ていたのー?!あのまま去っていったんじゃなかったのー?!」である。それじゃあ全然推理でもないじゃないですか?
「さあ、皆の衆、墓を掘っておくんなはい。」驚いたことにテレビ版の紋次郎は、村人たちを煽動している。そして、二百両が掘り起こされるのを留まって見届ける。その上、父親に罵られ殴打される孝太郎の姿までも、確認してから去っていく。
原作は、そのあたりは粛々と進行する。墓を掘り返してみろと紋次郎に言われ、腰が抜けたように座り込む駆け落ちした二人をそのままに、重蔵の墓標に楊枝を飛ばして去っていく。
私としては、原作の方が好きである。紋次郎にとって、事の顛末はどうでもいいはずである。テレビ版の紋次郎は、墓から二百両が出てくることがわかっているのに、その場に留まるというのがどうしても納得いかない。自分の正当性を村人たちに示したかったのだろうか。
去りゆく紋次郎をお澄が追いかける。かなりの距離をお澄は走ってくる。けっこう健脚で、とても体を壊しているようには見えません。
「紋次郎さん……行っちまうんだね。今度こそホントに行っちまうんだね。」二人は一瞬見つめ合う。「お澄さん、旅立ちは三日後にと申しやしたね。その通りになっただけじゃござんせんか。」(テレビ)
切ない二人の別れである。紋次郎は初めて「お澄さん……」と名前で呼ぶ。今までは「娘さん」だったのに……。
「御免なすって。」この時の紋次郎の無表情ぶりと、抑揚のない台詞まわしは良かったと思う。「紋次郎よ!コレでいいのだ。」と第三者的な見方と、お澄に感情移入して胸が締め付けられる想いが交錯する。
流れ無宿人、重蔵のような辻盗人に紋次郎がなるはずはない。しかしこの先このままの生活では、行く末はあまり変わらないものかもしれない。紋次郎にとっては、最初で最後のチャンスだったが、やはり世間とお天道さんが許してくれなかった。
「女人講の……」では、紋次郎はお筆と夜道を歩き、講の寄合に加わる自分の姿を想像するが一瞬に打ち消す。(原作)
「年に一度の……」では、姉お光にあてのない旅に結末をつけ、じっくりと腰を落ち着けたいと告げに来たと梅吉に言う。(テレビ)
そして今回、条件は揃いすぎるほど揃ったのだが、やはり旅を終えることはできなかった。紋次郎の平和な日々は三日も保たなかった。私たちは、普通の生活を享受することを当然と思っている。しかし日常生活の大切さを振り返るべきだと、最近特に思っている。
テレビ版のエンディングのナレーションは原作の締めの言葉と同じだが、最後に付け加えがある。
「その後紋次郎が、この地に立ち寄った形跡はない……」
この付け加えは必要だったのだろうか。エンディングに、紋次郎の消息を伝えるというバージョンは他にあっただろうか。私としては蛇足だと考える。
紋次郎にとって、ただの通過点となった大原村とお澄。大原村の申し出は代官から却下され続け、お澄は吾作と百姓を続ける。紋次郎が来る前と去った後では、何も大きくは変わらなかった。
敢えて言うなら、お澄の心に、紋次郎への切ない想い出だけが残ったぐらいだろう。
紋次郎にとってお澄のことは、「思い出しもしないが忘れもしない」存在となったのだろうか……。 

 

●第10話 「鴉が三羽の身代金」
紋次郎の行動範囲にはある程度の制約があり、拙ブログ「日々紋次郎『紋次郎兄貴の道中範囲』」を参照いただきたい。その限られた中でも、今回は中山道から見える琵琶湖の風景描写から原作は始まっている。その記述に、私はドキドキするのである。それは私が住まいするのが近江の国だからだ。
琵琶湖、比良山地、伊吹山地、高宮、彦根、鳥居本、すりはり峠。そして番場宿、醒ヶ井宿は中山道の61番目、62番目の宿場で、現在は米原市である。この近江の国に、紋次郎が足を踏み入れたということだけで胸が高まる。呆れられそうだが、ファンとしては、少しでも紋次郎を身近に感じられるだけで幸せなのだ。しかし残念ながらテレビ版は全く風景描写を無視している。せめて原作の一行分だけでも、美しい琵琶湖を映像にして欲しかった。笹沢氏の筆による表現は絶品なのに……。
テレビ版での脚本は「中村勝行」さん。中村敦夫さんの実弟で、「三途の川は……」でも脚本を書かれた。監督は「中村敦夫」さん、ご本人。普通なら才能あるご兄弟の共作ということで、微笑ましさすら感じるところだろうが、制作の苦労話を知っているだけに、なんとなく切羽詰まり感が(笑)漂ってくる。
市川監督監修の前シリーズから、ずっと踏襲されてきたテーマソング前のアバンタイトルが、今回からなくなる。前ふりがなく突然話が始まり、面食らう。近江と美濃の国境の峠を越えようとしている三人の渡世人は、何人かの旅人が血相を変えて戻ってくるのに出会う。この先の街道に異変が起こったらしい。
大垣の御城下で牢破りをした連中が、この先の峠をふさいでいる。今も二人の旅人が連中につかまったらしい、引き返した方がいいと怖ろしげな様子で若い渡世人に告げる男。三人の渡世人は構わず先を進む。辺りは無数の鴉の鳴き声。採石場かと思われるような岩がゴロゴロした風景。いかにも不穏な雰囲気である。
進む先で三人が目にしたのは浪人崩れの凶暴な輩7〜8人と、帯で首をつながれた褌姿の男二人。この時点で私は、まず引いてしまった。帯を首にしたまま男二人は逃げだすが、浪人二人に背中からバッサリ斬られる。まさしくリンチである。身ぐるみはがされ……というのはわかるが、なぜ帯を首に巻きつける必要があるのかわからない。私としては不快なシーンである。
三人の渡世人の内、一番の若造が「おいらは舞木の佐七だ。今からそこを突き抜けるから覚悟しやがれ!」と大声で虚勢を張る。ちなみにDVDのブックレットは「佐吉」となっているが、正しくは「佐七」である。意気がる若造を二人の渡世人が止め、ひとまず戻ることになる。出だしから妙な印象を受ける。唐突すぎる。
原作では、茶屋で三人の渡世人が出会う。五十五、六の老渡世人「溜池の勘吉」、関ヶ原の嘉兵衛の代貸「野上の重蔵」、まだ年若い三州無宿「舞木の佐七」。三人はそれぞれ名乗り合い世間話をする。重蔵はもうすぐ親分の娘と祝言を挙げると言う。要するに跡目を継ぐ身である。その話を聞いて勘吉は自分のことのように喜ぶ。
勘吉は三十年前に今須で藤三郎というヤクザを殺した。この藤三郎は庄屋の若嫁、菊乃を手籠めにした上強請をはかったのだ。庄屋の西川家に勘吉は少なからず恩義があった。庄屋に何とかして欲しいと頼まれ、意気がった若かりし勘吉は藤三郎を叩っ斬った。無宿人になった勘吉は、その後江戸で捕らえられ八丈島に島流し。三十年近く後、御赦免となり戻ってきたという。辛酸をなめ尽くした者だからこそ、重蔵の将来を心から祝えると言うのだ。勘吉は、人生の半分以上を八丈島で過ごしたことになる。
さてテレビ版は番場の宿。ならず者が峠をふさいでいるので、足止めになった旅人たちで旅籠はごった返している。その中に佐七、勘吉、重蔵も他の旅人たちと同じ部屋に詰め込まれている。佐七はよっぽど頭に来ているのか、峠越えを止めた勘吉、重蔵に食ってかかっている。渡世人のくせに臆病だと、罵る佐七をたしなめる勘吉。この老渡世人の勘吉役に「市村昌治」さん。脇役ではあるが、いつも印象に残る存在感あるベテラン俳優さん。原作のイメージにはピッタリのキャスティングである。
「明日になればあいつらを叩っ斬ってやる!」と意気巻く佐七に、「何を目当ての急ぎ旅だ?」と勘吉は尋ねる。佐七は「目当てなんかあるもんか!死に場所探しての武者修行だ!」とふてくされて答える。ここで重蔵が自分の身元を明かし、明後日には親分の娘との祝言……何としても明日は峠を越えたいと打ち明ける。佐七は峠越えの連れができたことに喜んでいる。勘吉は自分の名前を明かし、遠い昔に今須の地に関わりがあったことをほのめかす。
とそこに、紋次郎が部屋に入ってくる。紋次郎が旅籠に泊まるというシチュエーションはあまりないのだが、テレビ版はここで三人との関わりが生じる。紋次郎を「木枯し紋次郎」と気づいた佐七は、明日紋次郎が峠を越えることを知り、俄然張り切る。
「おい、おいぼれ。渡世人でここに残るには、おめえ一人だけになったぜ。」
「若えの、今気づいたんだが、おめえの顔どっかで見覚えがある。」
この勘吉の台詞は、その後の展開で明らかになる。この旅籠のすし詰め状態はひどくて、一人一畳もないくらいの混みようである。原作では、紋次郎が三人と旅籠に泊まるという設定はない。紋次郎なら野宿のほうが相応しいだろう。
テレビ版の話の展開は、大筋原作と同じだが、いくつか気にいらない点がある。
原作での紋次郎は、牢破りをしたならず者には出遭わず峠を越えている。紋次郎と三人の渡世人は同じ道を行くのだが、勘吉が紋次郎に声をかけている。「紋次郎さんとやら、おめえさん死に急いでいなさるのかい」「そうでなけりゃあ、たったひとりで先を急ぐはずはねえ」無言で無表情な紋次郎に「無茶は、いけねえよ」と諭す。「おれは三十年も地獄で生きて来た島帰りの年寄りだが、その繰り言だと思って耳を貸してやってくんねえ。紋次郎さんとやら、命は粗末にするものじゃあねえぜ」勘吉が島帰りと聞いて、紋次郎の表情が一瞬変わる。
命を粗末に扱っているわけではなく、これが自分の日常であると答える紋次郎に、勘吉はすべてを悟ったかのように絶句する。「それに、他人(ひと)さまの世話を焼くより、まずはわが身を守ることでござんしょうよ」と足を早め紋次郎は先を行く。紋次郎の姿が小さくなった後、三人の頭上に崖から岩が落ちてきて、峠に陣取っていたならず者に拉致されるのである。
テレビ版では佐七を先頭に、三人が歩く。道すがら勘吉は重蔵に、今須に昔の連れ合いがいることを話すが名前だけは伏せる。「あの女の無事を陰から一目拝んで、そっとずらかる魂胆さね。老いぼれ鴉の最後の思い出にな、ハハハ……」(テレビ)
そしてその後、原作とは違い、落ちてくるのは網である。網に絡まりもがく三人に、襲いかかるならず者たち。岩より網のほうが容易に撮影はできるし、美術の人は発泡スチロールを削って着色することもない。しかし急きょ峠に立てこもった輩がよく網を入手できたものである。
テレビ版での紋次郎は、網で捕らえられる三人より早く、長筒を持った輩たちに捕まっている。多勢に無勢……わからないではないが、飛び道具を突きつけられ、長ドスを鞘ごと敵に渡してしまう紋次郎。飛び道具が出てくるのは、私の中では「反則」の範疇であるし、呆気なく悪漢の手に落ちる紋次郎にも不満がある。
テレビ版の気に入らない部分は、こちらの方が大きい。網で捕らえられた三人が、逆さ吊りにされて拷問にかけられるシーン。紋次郎は岩に縛られ、黙ってそれを見ている。峠をどうしても越えようとする理由を聞き出そうとするならず者の頭。
浪人崩れのこの頭役に「内田勝正」さん。紋次郎シリーズでは常連さんである。三人が縄で縛られ谷間に吊されているのは、見るに忍びない。リンチである。一番に音を上げて自分の素性を明かすのは重蔵。
勘吉は「殺せ!殺してくれ!」と叫ぶ。この市村さんの声が真に迫っているだけに、見るに忍びない。苦痛に身をよじる勘吉を見かねて、重蔵は勘吉の女房が今須にいることをしゃべってしまう。謝る重蔵に「お前さんがやさしいってことだからな……」と許し、勘吉は観念して女房の名前は「お杉」だと言ってしまう。その名前を聞いて重蔵は驚く。お杉は金貸しになっているというのだ。勘吉は、お杉と別れてからは音信不通なので知らなかったのだ。
ここでとうとう、佐七が泣き叫ぶ。「おっかさーん!」大きな口をたたいていた佐七だが、情けない有様である。おまけに、頭に「お前は誰の子なんだ?」と聞かれて、「今須村の庄屋の女房、菊乃の落とし子だ!」とまで明かしてしまう。本当に根性がない。佐七の素性を知ってハッとする勘吉。
その後回想シーンとなる。
藤三郎の悪行と勘吉が藤三郎を殺すシーン。ナレーションで「今から20年前の秋……」と言っているので、佐七の設定は20歳。原作では30歳である。道理でテレビ版の佐七は、原作より幼いし肝っ玉が据わっていない。ペラペラ喋ってしまうので、本来なら最後のどんでん返しのはずが本人の口からネタがばれてしまった。おもしろくない。
原作では勘吉が重蔵に喋っている話の内容から、佐七は勘吉が父親の敵であることを気づく。しかしそのことについては佐七は一切触れないし、人質にとられても菊乃の子どもだとは明かさない。したがって原作では脅迫文にその旨が書かれていない。
拉致されたテレビ版紋次郎は、人質の三人の身代金を要求する脅迫文を持って行くように命令される。当然紋次郎は断る。頭が「命が惜しくないのか!」と脅すが「もとより明日をも知れぬひとり旅。今日果てようと明日露になろうと変わりはない」と冷めた口調で答える。
そのやりとりを聞いていた勘吉が、「自分も同じく命は惜しくない。しかし若い二人を見ていると辛い。この老いぼれに免じて、言うことを聞いてやってくれ。この二人の為だったら庄屋も親分も何とか力になってくれるだろう」と言って、紋次郎に頼む。
「てめえの命と引き替えに、他人様を騒ぎに巻き込むのは渡世の筋じゃござんせんよ」紋次郎の返答に勘吉は、最後の切り札を出す。「わかった。それ言えるのはお前さん、ただ者じゃねえな。おい、あっしの手甲をめくってくれ」と言って、めくられた勘吉の二の腕には二筋の入れ墨が……。紋次郎はそれを見て反応する。続いて勘吉は周囲の者に命令する。
「このお人の手甲も外すんだ」なんと紋次郎の二の腕にも二筋の入れ墨が現れる。それにしても、周囲の悪漢も人質の言うことをよく聞いて、手甲をめくってくれたものである。
そのあと、ナレーションが入る。「二の腕に二筋の入れ墨は重罪を犯して島送りになった者の烙印である……」ここで、「入れ墨があればすべて島送りだったっけ?」という疑問が起こる。二筋の入れ墨は江戸での初犯のとき、処されるものだったと思うのだが……。
「佐渡送り」についてはカタカナで「サ」と彫られるのだが、八丈島や三宅島はどうだったのだろうか。「運良く娑婆に戻れた者は、渡世人仲間に一種の畏敬と恐れをもって……」このあたりは頷けるのだが……。
二人は顔を見合わせ、暗黙の「以心伝心」。そして、紋次郎は引き受けることにする……というのが、テレビ版の流れである。
紋次郎は殺人の罪(幼なじみの身代わり)で三宅島に遠島になり、島抜けをした経験がある。(「赦免花は散った」)ただ前シリーズでは市川監督の意向があり、紋次郎が島抜けしたという設定は提示されていない。
「暁の追分に立つ」では五郎蔵の子分から「二十年も島送りになっていたとっつぁんの願いというのを……」の言葉に振り返り、「島送り……?」と聞き直す。そして結局五郎蔵の頼みを聞くことになる。
「新木枯し紋次郎」では原作通り、紋次郎は「島抜け」の経験者である。そして今回、二の腕の入れ墨まで見せている。私の中での「紋次郎像」が崩れ落ちた瞬間である。
かくして紋次郎は縁もゆかりもない渡世人三人のため釈放され、脅迫文を庄屋に届けに行くことになる。一般人なら届けずに、「関わりのないこと」としてそのまま去っていくだろうが、紋次郎は絶対にあり得ない。なんせ「地蔵峠の……」では、「自分を殺せ」と書かれた書き付けを、内容を知った上で届けに行くぐらいの人物なのだから……。菊乃に案内されて庄屋の家に向かう映像は、京都「摩気の橋」。特徴的な石燈籠も後で映し出されるので、これは確か。
原作での紋次郎は全く疑いもなく書き付けを届けている。
「紋次郎は、金剛ヶ淵の岸辺で、一息入れていたのである。そこへ、ひとりの乞食浪人が現れて、今須の庄屋の屋敷へ届けてくれと紋次郎に書き付けを渡したのだ。断る理由もなかったし、どうせ通り道だからと、紋次郎は使いの役を引き受けた。」
この原作の展開もどうかと思う。聡明な紋次郎なら、この周辺で立てこもり事件が起こっているのだから、怪しいと気づきそうなものだろうが……。
紋次郎は何も知らず書き付けを届け、無頼の徒の仲間と見られ、庄屋の納屋に監禁されてしまう。とんだとばっちりである。
庄屋の家に二人が呼び出され、橋を渡って駆けつけるシーン。一人は重蔵の親分「嘉兵衛」。もう一人は勘吉の女房「金貸しのお杉」。このシーンの時のBGMがひどい。一瞬、耳を疑った。深刻なシーンなのに、まるでおちゃらけの時代劇のような曲調。がっかりした。
峠に立てこもる牢破りの連中は、「越前の鬼」と名乗って義民ぶっているがその実は全く違う。テレビ版では内田さんが声高にアジっている映像があるが、これも違和感を持つ。政治体制に反対して徒党を組み、人質をとって自分たちの要求を通そうとするこの姿はまさに1977年の世相そのままである。この年の9月28日、赤軍派による日航機ハイジャック事件が勃発。犯人グループ5人は、人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時約16億円)と、同志の釈放などを要求した。
この回の展開は、まさにこの事件とリンクしている。中村氏は、ただの時代劇に終わらせることはしない方針なので、彼らしいといえばそうなのだが、私は好まない。ハイジャック事件は人質が無事解放されるが、こちらは原作もテレビ版も、人質三人は見殺しにされる。
重蔵は、縁組みまでされる信頼関係のはずが、親分から見放される。勘吉は、昔連れ添った女房から見捨てられる。庄屋で警護にあたる若い者たちは「どうせ虫ケラ同然の無宿者だ。殺されたって仕方がない」「もっとマシな人質を取ればいいのに……」と口々に言ってあざ笑う。紋次郎はそれを無表情で聞く。今に始まったことではないが、無宿人の命など誰も気にはしないのである。
佐七の存在は微妙ではある。原作は庄屋の嫁菊乃の落とし子とは明かされていないので、ただの通り者。しかしテレビ版では、菊乃の隠し子という存在で身代金を要求されたが、庄屋からは否定されている。菊乃の主人、庄屋の九郎右衛門は、菊乃には脅迫文をはっきり見せていない。しかし菊乃は、納屋に監禁されている紋次郎から話を聞き出し、佐七は我が子ではないかと思い悩む。菊乃の存在は、テレビ版での唯一の救いである。佐七は生まれてすぐ、舞木の知り合いにもらわれていったのだ。過去にあった不幸な出来事で生まれ落ちた我が子。しかし、我が子には変わりがない。渡世人になっていてもやはり子を思う気持ちがある。
「怨念坂を蛍が越えた」では、実の弟の源吉が無宿渡世人になって、庄屋のご新造さん「お冬」の前に現れた。お冬はこの事実を隠そうと画策し弟を亡き者にしようとした。今回とシチュエーションが似ているが、原作もテレビ版もそういう展開にはならなかった。ただ、テレビ版の方がずっと子を思う母親の情愛を前面に出している。
テレビ版の佐七の胸には、原作にはない母親が付けたお守りが揺れる。紋次郎は菊乃から、お守りの有無を尋ねられるが「気づきやせんでした」と曖昧な返事をする。そして菊乃に嘘をつく。「あっしの知っている佐七っていう男は、両親が三河で百姓をして、いまだに健在だと聞きやした。」
この嘘は紋次郎の優しさから来るものである。紋次郎は菊乃が純粋に我が子の心配をしていると読み取ったからである。いつもの紋次郎なら、こんな積極的に嘘まではついて否定しないだろう。紋次郎らしからぬところかもしれない。原作には、監禁されている紋次郎と菊乃の接触はないので、紋次郎がここで嘘をつくこともない。
身代金の件が承諾できない場合は、岸辺の二カ所で火を焚くという手はずになっている。果たして人質三人と「越前の鬼」たちが見守る中、焚き火をする煙が上がる。絶望的な三人の様子であるが、「お杉ー!」と叫ぶテレビ版の勘吉はいただけない。やはり未練があるのか、見殺しにするお杉を情けないと思ってか。勘吉にはグッとこらえて欲しかった。
一番に重蔵が銃で殺され、あっけなく崖下に落下。その瞬間、勘吉が銃を持った男に体当たりして佐七を逃がす。「あっしに無駄死にさせるんじゃねえ!おめえの親父を叩っ斬ったのは、この勘吉だ。借りを返させてもらうぜ!」勘吉は後ろ手に縛られたまま、暴れるが殺されてしまう。市村さんの鬼気迫る演技である。この俳優さんの表情もさることながら、振り絞った叫び声は胸に迫るものがある。佐七は驚いて呆然となるが、後ろ手のまま刀を口にくわえ(こんなことできるのだろうか?)逃げ出す。
原作の紋次郎は監禁されている納屋の小窓から、合図の焚き火を目にする。紋次郎は勘吉のことを考えていた。勘吉は三十年も八丈島で暮らし、運良くご赦免となり自由な身になった。しかし島帰りの老渡世人の生きる道は決して幸せなものではなかった。白髪の流れ渡世人としてしか生きる道はなく、せめて死ぬ前に生まれ故郷に……という想いで帰ってきたのにこの災難……。だれも救ってはくれないし味方はいない。紋次郎は勘吉と自分とを重ね合わせる。もとより覚悟はできているし、悟っている自分の行く末ではある。しかし哀しい。
テレビ版の佐七は自分一人で峠を下りてくるが、原作の佐七は崖から飛び降りた勘吉を見殺しにすることができず背負って下りてきた。原作の佐七はあっぱれである。佐七は背負った勘吉の骸をお杉の足許へ下ろす。お杉はびっくりしてその場に尻餅をつき、飲んでいた一升徳利を投げつける。
「おめえみてえな婆に見殺しにされるのが、惜しいくれえにいいお人だったぜ」と佐七はお杉の顔に唾を吐き、「勘吉のとっつぁんのためにも、許せねえんだ!」とお杉に斬りつけ殺害する。老婆が殺されるのは、あまり気持ちのいいものではない。
しかし原作のお杉は、かなり非道い婆さんである。強欲、守銭奴、金の亡者と言われ、周囲からは冷たい目で見られている。今須でお杉から借金をしない者はひとりもいないというぐらい、手広く金貸しをしている。このお杉の丁半博打の腕はかなりのもので、賭場が開かれると必ず出かける。大金は手にしないが一〜二両ほど儲けると引き上げ、それが25年も続いた。貯めこんだ金はなんと二千両!?
「無宿なんてものは人のうちに数えられねえものなんだ。世間にとっては、余計者の虫ケラよ。何の値打ちもねえんだから、さっさと冥土へ送られちまったほうが、人助けってもんさ。わしは殺されたって、一文も出しはしねえからな」と要求をはねつける。
おまけに紋次郎に向かって「畜生!無宿人ばかり、こうして揃いやがって……。わしは金の亡者でも、お前たちと違って人のうちにはいるんだぞ!」と喚き立て、紋次郎の顔に唾をカッと吐きかける。自分は人として存在するが、無宿人は人間ではないというのである。全く持って許せない婆さんである。だから殺されても仕方ない、と言われればそれまでであるが……。
その点テレビ版のお杉の人物設定は薄い。そこまで悪い婆さんではないように思えてしまう。原作と違って、テレビ版の女優さんは少し品が良すぎる。それ故に、佐七に殺されるシーンは残酷に見えてしまう。もう少しお杉の、血も涙もない憎たらしい守銭奴ぶりを表してほしかった。この婆さん殺しのシーンで、私はまた心が萎えてしまった。
庄屋を襲う「越前の鬼」の集団。無抵抗の堅気の衆が次々に殺されていく映像も残酷である。渡世人同士の斬り合いは、お互い刀を持っているのである程度わかるのだが、村人は全くの無抵抗。次々に越前の鬼集団に襲われるシーンは、気が滅入る。
監禁されている紋次郎のもとに菊乃が駆け込んで来る。「紋次郎さん!もうこの家はおしまいです。せめて紋次郎さんだけでも、逃げてください!」長ドスを渡されたとたん悪漢が飛び込んでくるが、紋次郎はすかさず斬りつけ外へ飛び出す。
「越前の鬼」の頭が庄屋の九郎右衛門を追い詰める。九郎右衛門は脇差を振り回している。さてこの九郎右衛門役は、「田口 計」さん。よく悪役でテレビに出演されていた有名な方。今回はその悪役ぶりがあまり発揮されず、もったいない感がある。
もったいないと言えば、頭役の内田さんも強烈なオーラが感じられず、中途半端な感じが否めない。「竜胆は夕映えに……」の喜連川の八蔵や「流れ舟は……」の鬼の十兵衛には、強烈な印象があったが、今回は役名すら与えられていない。残念である。
九郎右衛門がバッサリ斬られたところに、佐七が飛び込んでくる。「小僧、こんなところにいやっがたのか。」頭が圧倒的な強さで佐七に襲いかかるが、ここで紋次郎が割ってはいる。その隙に佐七はその場を逃げ、蔵の近くで菊乃と出会う。二人は凝然として見つめ合う。親子の対面である。ようやく、菊乃は「佐七かい?」と尋ねるが、佐七が答える間もなく敵が斬りつけてくる。
佐七はそれっきり菊乃の姿を見ることもなく、屋敷を出たところで悪漢たちに斬り殺されてしまう。紋次郎はそれに気づいて駆け寄るが時すでに遅く、今際の際で赤い守り袋を渡される。「紋次郎さん……菊乃に、いや……おっかさんに、こいつを渡してくれ……」逡巡して紋次郎が懐に守り袋を入れると同時に、後ろから襲いかかる最後の敵である頭。振り向きざまに紋次郎の長ドスが弧を描き、頭の内田さんは刈り取り後の田んぼにバッタリと倒れる。
今回の紋次郎の殺陣の時間は短かった。あんまりいいところはなかったなあ、という印象で、紋次郎の圧倒的な存在感が無かった。監督業のほうが忙しかったので、それどころではなかったのかもしれない。
原作では、庄屋の周辺に火が放たれ、その中で死闘が繰り広げられる大スペクタクルである。佐七もテレビ版よりずっと腕が立ち、嘉兵衛の子分たちも何人か叩っ斬っている。原作の佐七が何回か口にしている台詞に「勘吉のとっつぁんの意趣返し」がある。佐七は人質の身から解放されたというのに、自らまた危険な地に足を踏み入れる。それは「母親に会いたい」などという甘い考えではなく、「勘吉の意趣返し」のためなのである。勘吉は、いわば親の仇である。しかし親の仇から命を助けられ、人質二人は殺されてしまった。殺した「越前の鬼」たちも憎いが、見殺しにした奴等も憎い。九郎右衛門にとっては、佐七だけではなく勘吉も死んでもらう方が都合が良かったわけである。何もかもが怒りの対象になる佐七であるが、テレビ版はその辺にはあまりスポットを当てていないようである。
原作の紋次郎は、佐七が担いで来た勘吉の死骸を見下ろす。
「紋次郎は勘吉の死に顔に、目を落としたままであった。三十年ぶりに地獄を抜け出した男の顔だと、紋次郎は思った。しかし、戻って来た娑婆も、地獄と変わりなかったのだ。」
このあたりで、紋次郎は佐七に加勢しようと考えたのだろう。宿場内が炎に包まれる中、紋次郎は長ドスだけでなく、竹槍も使いながら佐七と共に敵を倒す。
テレビ版は予算的には無理であるので、火事になる設定は当初から想定なし。そして浪人崩れが8人もいるわりには、紋次郎は苦労せずすべてあっさり倒している。多分、予算だけでなく尺も足らなかったのだろう。
佇む紋次郎に菊乃が近づいて尋ねる。「そのお人は何を言い残して死んでいったのですか?もしや、身の上についてなにか……?」「おめえさん方とは住んでいる世の中が違うと、ただそう言っただけで……」
テレビ版の紋次郎は、なんの躊躇もなくこの台詞をスラスラと言ってしまうので、視聴者は「えーっ?」である。今作品、紋次郎がついた二つ目の嘘である。
原作での佐七は今際の際に紋次郎だけに打ち明ける。自分は庄屋の嫁菊乃の隠し子であることを……。ここがいわゆるどんでん返しである。
重蔵と勘吉の会話から、勘吉は自分の親を殺した男だと気づき、勘吉のことが気にいらなかったという。しかし身代金を出せないという煙の合図を見たとたん、三人は一緒に死のうと覚悟を決め心が通じ合った。勘吉は自分が殺した藤三郎の倅が佐七だと知らないまま、崖から飛び降り佐七を逃がしたのだ。「まだ若いんだから命を大切にしろ」と言って……。そういえば、紋次郎にも同じ言葉を口にした勘吉だった。
原作とテレビ版は逆だったのである。原作は佐七が気づいていて、勘吉は気づいていなかった。テレビ版では佐七は気づいていなくて、勘吉は気づいていた。
テレビ版の勘吉は、「借りを返す」という思いで佐七のために命を落とした。原作の勘吉は佐七の出自を知らないでいる。ただの鼻っ柱の強い若造だと思っている。しかし、どこの誰かとも知らない若者の命を散らさないために、自ら崖から身を躍らせた。どちらも、勇気ある尊い行為だと思う。
原作の佐七は「人質になっても菊乃の子どもだということは一言も言わなかった。そんなことを喋ったら九郎右衛門と菊乃に迷惑が及ぶだろうから。」と胸の内を語る。そこまで考えていたなんて、やはりこちらの方が大人である。しかしその仕打ちがこの有様である。薄情な奴等に怒り狂った理由は頷ける。
「だが、仕方がねえやな。住んでいる世の中ってものが、まるで違うんだ。死ぬまで、いや死んでからだって……」そう言って、佐七は息を引き取る。同じような台詞が胸をよぎる。前シリーズ、第一シーズンの「女人講の……」に出てくる巳之吉の台詞。お里への最後の言葉である。
「……生まれて来たときから、そう定められていたんだからな。お前とおれが、どうしても一緒になれなかったのと同じさ」
佐七も巳之吉もよく似た出自だった。陵辱されて生まれ落ちたこの二人には何の罪もないのだが、運命は容赦なく哀しい結末を用意するのである。
原作でも、菊乃は佐七の事を尋ねる。「初めて顔を合わせたのに、いきなり「菊乃さんかい?』と笑いかけた。この人の氏素性についてなにか言い残したのでは」と問う菊乃に「おめえさん方とは……」と答えるのである。
住んでいる世の中が違う……原作では佐七だったが、テレビ版では紋次郎の口から出た言葉である。テレビ版では、佐七の最期の頼みである守り袋を菊乃に渡すことはしない。「住んでいる世の中が違うのだ」という台詞を自らの言葉として、紋次郎は佐七に引導を渡した。
「紋次郎さんはなぜ隠し立てをなさるんです?」菊乃はお守りを探しながら、紋次郎に詰問する。「あっしには言い訳なんぞござんせん」
また何となくちぐはぐな感じである。原作にはこの決め台詞は書かれていない。
街道を往く紋次郎。歩く道が何となく舗装されているように見えるのは気のせいか?ヒメジョオンが咲く道ばたのお地蔵さん。ヒメジョオン……?帰化植物だったはずだが……。調べてみると、明治の初めに観葉植物として日本にやって来たようであるので、時代を先取り(笑)している。
お地蔵さんの首に佐七の赤いお守りをかけて、楊枝を飛ばす紋次郎。佐七の最期の願いを聞いてやれなかった償いのようにも思える。
原作の紋次郎は、風に舞う書き付けを、本陣の板塀に楊枝を飛ばして縫いつける。書き付けは「越前の鬼」からの脅迫文である。
最後のナレーションは原作と同じで「今須の騒動についての記載はないが、5年後の弘化3年に今須宿の西、金剛ヶ滝の底より甕につめた二千両を引き揚げたが、金貸しのお杉婆のものであったかは定かでない」という内容のものである。それはそれでいいのだが、BGMがない中でのナレーションなので余韻もなく殺伐とした感じの中、紋次郎は去っていく。
今回は中村兄弟の初の作品というふれこみがあったと思うのだが、正直落胆する部分が大きい。
その一 風景の美しさや映像美がなかった
その二 首をひねるリンチシーンが多い
その三 紋次郎の二の腕の入れ墨
その四 その当時の世相を意識しすぎ
その五 BGMが不適切
これもひとえに、制作日数と予算の少なさのためだと思っている。今回は大分辛口になってしまった。
印象に残るところは、勘吉の腹の底から振り絞る魂の叫びと、初めて菊乃と出会ったときの佐七の表情……。しかし、凝縮するとテーマはこの二つだったのだから、それで良かったのかと自分に言い聞かせている。 

 

●第11話 「笛の流れは三度まで」
原作名は「笛が流れた雁坂峠」である。小説の連載ではこの後の「唄を数えた鳴神峠」で、一旦紋次郎は街道から姿を消す。再開されたときは、タイトルに数が入るようになるが、この作品はその範疇に入っていない。「新……」シリーズには、数が入るタイトルを採用しているので改題されたのであろう。改題された作品としては、前シリーズに「龍胆は夕映えに降った」(原作は「噂の木枯し紋次郎」)がある。
テーマソングの後にすぐ、逆光に光るススキと紋次郎の姿。いい感じで始まるのだが、街道で道行く旅人に声をかけている土地の渡世人たちの映像はちょっとガッカリ。どう見ても舗装された道にしか見えないのである。景色はどこかの田舎の風景なのだが、未舗装の道はロケ地では探せなかったようである。
道行く渡世人たちに声をかけているのは、貸元「佐久の庄助」の身内の者。今、信州路を抜ける関所の改めが厳しく、手形があっても容易には通れない。渡世人ともなるとあらぬ疑いをかけられ面倒なことになるので、是非とも関所には足を向けないように……と忠告している。硝薬がお上の許しもなく信州佐久から流出したらしく、その詮議が厳しいのだという。佐久の代官陣屋の元締めはそれを苦にして自害までした。
庄助の身内たちの話やナレーションなどから、関所付近はどこでもピリピリしていることがわかる。佐久の庄助は代官陣屋に出入りできるいわゆる「二足草鞋」で、此の辺りでは大親分である。
紋次郎はそれを知った上で先を進むのだが、なぜか佐久の庄助一家に襲われる。テレビ版では、山を削ったような草木も生えていない荒涼とした地。このロケ地は「賽を二度振る……」で音右衛門の首ラグビー(笑)をした場所と同じように思う。もしかしたら前回の「鴉が三羽の……」もこの地かもしれない。
「命のやりとりをするような貸し借りが庄助一家にはないのに、なぜ?」という問いに「赤岩の源太郎」と名乗る代貸は意外な事を口にする。関所破りも覚悟の上でこの道を行くというのは、信州追分宿から逃げた五人の女郎たちが目当てだろう、と言うのだ。ちなみに原作では七人であるが、テレビ版では二人リストラされ(笑)、五人である。
逃げた女郎の中に「お笛」という女がいて、半年前に客になった木枯し紋次郎に、女郎のくせにぞっこん惚れ込んだ…… との代貸の言葉に、紋次郎は驚く。視聴者もコレには反応するだろう。「紋次郎が、追分宿の宿場女郎の客になっただと〜?!」あり得ない話である。作者笹沢氏は、紋次郎だって男なんだから、女を抱くこともある。相手としたら宿場女郎ぐらいがお似合いだろうと、著書「紋次郎の独白」にも書いている。ファンとしては、そういう艶っぽい話は聞きたくないので、お笛の言っていることはでたらめだということで却下。
硝煙流出と女郎の逃亡……全く繋がりが見られないが、キーポイントは「佐久の庄助」。さてこの二足草鞋の男は、一体何を企んでいるのか。
紋次郎にとっては身に覚えのない話であるが、丸太棒を持った男たちに囲まれ、袋だたき状態になる。丸太棒という凶器はなかなか効果的なようである。長ドスならはじき返せるが、丸太棒となると難しい。二人ほどは叩っ斬ったが、結局紋次郎は殴られ倒れ込み、気を失ってしまう。原作では、攻撃をかわしている内に山の斜面に転げ、崖から転落してしまう。
心配そうにのぞき込む女の顔が二つ、三つ。急にパッと映像が艶やかに変わる。女たちはその着こなしから女郎たちだとわかる。さっき襲った男が言っていた追分宿から逃げてきた宿場女郎の五人である。
今回のヒロインはお笛役の「早瀬久美」さん。前シリーズでは「海鳴りに運命を聞いた」のお袖役で共演しているので、これで二作目となる。役柄が宿場女郎ということもあるが、前回よりずっと大人の女としての魅力が備わっている。あれから5年も経っているので頷けるのだが……。
原作のお笛の容貌については以下の通り。「顔立ちが整っていて、勝ち気そうに引き締まってはいるが、なかなかのいい女であった。特に切れ長の目が、印象的である。しっかりしていて頭がよく、姐御肌の女という感じだった。宿場女郎としては大した上玉で、客の人気を集めていたのに違いない。その女だけが髷を崩し、洗い髪にしていた。」
切れ長の目と洗い髪だけは違うが、他はほとんど原作通りの雰囲気である。原作では二十二、三に見え、笑うとあどけなくて可愛らしいとある。
同じく一緒に逃げてきた女郎お千代には、「ホーン・ユキ」さん。適役である。お笛は比較的地味な着物をまとっているが、このお千代の着こなし方は女郎としてさすがに堂に入っている。襟元はかなり広く開けられ、豊満な胸元まで見えている。
原作のお千代は二十五、六に見え、この集団の中では最年長らしいとある。唇のすぐ下にホクロがあり、目つきが気味の悪いほど色っぽいともある。ホクロは見当たらないが色っぽさはなかなかである。女郎たちの中でも、お千代の着物だけが黒襟ではないあたりもよく考えられている。
ただこの二人の年齢順は逆で、テレビ版では、お笛の方がお千代より年上のようである。原作ではお笛がお千代を呼ぶときは「お千代さん」であるが、テレビ版では「お千代」と呼び捨てであるのでわかる。
気を失っていた紋次郎は、ぼんやりと目を覚ます。原作での紋次郎は反射的に長ドスを手にしようと周囲の地面を探るのであるが、テレビ版の紋次郎は長ドスがないことにしばらく気づかない。体を起こすと、女郎たちに間道を抜けてまでどこに行くのかと尋ねられる。
「あっしには進む道しかねえんでござんすよ。」行くあてなど端からない紋次郎だが、こんな状況でも先に進もうとする。本当にじっとすることがない、まるで回遊魚のような人間である。
「じゃあ山越えするほかないじゃないか。」とのお笛の言葉に、「そう致しやす。」と背中で答える紋次郎。
原作は野天であるが、テレビ版は山中の廃屋の中。板塀の隙間や破れ障子から外光が差し込み、なかなかいい感じの映像だなあ、と思ったら照明は中岡源権さん。超一流の職人さんである。前シリーズでは「大江戸の夜を走れ」、新シリーズでは「霧雨に二度哭いた」「鴉が三羽の身代金」などに参加されている。惜しくも2年前に他界された。監督は「大洲斉」さん。大洲さんといえば「一里塚の……」で、紋次郎シリーズ初監督。しかしこのロケ中、中村氏はアキレス腱断裂というアクシデントに見舞われる。かなり責任を感じておられたが、その後も数多く本シリーズに参加している。「新……」では今作品だけである。
お笛は楊枝を手にして、「お前さん、木枯し紋次郎だろ?これを見てすぐにわかったよ。」と素性を言い当てる。紋次郎の名前は、女郎界でも響き渡っているようで相当な有名人である。続けて「どうだろう、みんなも一緒に、連れてっておくれでないかい?」と頼まれるがすげなく断る紋次郎。「女に借りをつくって平気なのかね。」とたたみかけるお笛。そこで初めて紋次郎は腰にあるはずの長ドスがないことに気づく。紋次郎、女ということで油断したのか、気づくのが遅すぎる。
長ドスは鞘ごと無くなっている。原作では抜き身だけが見当たらない。テレビ版の紋次郎の狼狽ぶりに、こちらの方が狼狽してしまう。いつもは無表情で、動揺することなどほとんどないのだが、目が明らかに泳いでいる。長ドスは命の次に大事なものというのはわかるが、こんなに不安げな紋次郎の表情には正直驚いた。中村氏の演技力だとはわかるのだが、もう少し渋く(笑)動揺して欲しかった。「何かお探しかい?」お千代がねっとりとからかうように紋次郎に言う。
「女の足では無理だよ。」「やっかいな病人を抱えてるしね。」なるほど少し離れたところにグッタリした女と、それを抱きかかえる女がひとり。
ここでお笛の身の上話が始まる。紋次郎はいつものように「聞かねえことにしやしょう。」と断るのだが、「女ってなものは、同じような境遇の者に、身の上話を聞いてもらえば気が晴れるものなんだよ!」と、構わず話し続ける。「あんたは気が晴れるかも知れねえが、こちらは気が重くなるだけじゃねえですかい。」
追分宿の巴屋から足抜けした五人。風邪をこじらせた「お駒」へのひどい折檻に見かねて、お駒を連れて昨夜逃げ出したという。何度も水に顔を浸けられるリンチシーンは、やっぱり好まない。
夜陰に紛れて女たちは飯盛旅籠を抜けだし、宿場の帳の中を小走りに行く。暗いバックに着物の色彩が妖しく、乱れた髪や裾から見える脛の白さは扇情的である。宿場の闇と光が交錯する映像の美しさは、「大江戸を走れ」とよく似ている。中岡さんのライティングの妙である。
お笛の話の中で自分たちの請け人は「赤岩の源太郎」だと言う。さっき自分を襲ったのはその源太郎だと紋次郎が教えると、女郎たちは危険が迫っていることに怖れる。と同時に外で男たちの声が……。女郎たちを捜しに来たのは、さっきの赤岩の源太郎たちである。廃屋で息を殺す女たち。
それにしても追っ手の男たちは、なぜこの廃屋に気づかない?室内で焚き火をしているのを消しもしていないのだから、臭いでわかりそうなものなのだが……。みんなが息を殺す中、なぜか紋次郎はお笛の表情を見守っている。原作にはこの展開はなく、赤岩の源太郎たちの姿はずっと現れない。
連中が去った後、紋次郎はドスを返してくれとお笛に頼む。「連れて行く訳にはめいりやせんが、おめえさんたちがあっしの後をついてくるのは勝手ですぜ」
ここでやっと、紋次郎の長ドスが出現する。なんとお玉と呼ばれる大女が着物の裾をまくり上げると、そこから錆朱色の鞘が出てくる。「あたしゃさっきから、一歩も動けないで弱ってたところだよ。きっとよく斬れるよ。」
原作にはこのお玉の台詞はないが、なんとお玉は股間に抜き身の長ドスをはさんでいた。紋次郎の長ドスをこんな扱い方をしたのは、このお玉が最初で最後だろう。宿場女郎のお色気というより、生々しさを感じてしまう。
このお玉という女郎のキャラクターが私は好きである。原作でも「まるで女相撲みたいに大柄な身体」と書かれているが、まさにその通りである。「気は優しくて力持ち」を絵に描いたような女でユーモラスである。
対照的にお千代は淫蕩で自分勝手な面が見える。長ドスを腰に落とし、旅支度を整える紋次郎にしなだれかかって「お前さん、男っぽいね、今度一度抱いておくれ……」と誘惑する。やはり紋次郎は女郎には人気があるようだ。その様子に「ベタベタするんじゃないよ、お千代!そんな場合じゃないだろ!」とお笛がイライラして怒鳴る。「お千代はね、生まれつきの男好きさ、そう固いこといいなさんな。」原作は自分で「淫乱のお千代さ。」とケラケラ笑うほどの低俗ぶり。さすがに「淫乱」という言葉は、公の電波には乗らなかったようだ。瀕死のお駒を「死に損ない」と呼んで、連れて行くことにお千代は否定的である。お千代のほかの女たちは、お駒を連れて行くのに決まっていると意見する。
紋次郎はお笛の持つ横笛に気づき、名前を確認する。「笛を吹くからお笛。女郎の名前なんてそんないいかげんなもんさ。」と少しはにかむ表情のお笛。
先頭を行く紋次郎の後ろに女郎たち五人が続く。お駒は巨体のお玉に背負われている。連れはつくらないし、まして女の足に付き合うなどは滅多にない紋次郎である。複数の女連れといえば「錦絵は十五夜に……」での二人の女。連れではないが二人の女を追った「駈入寺……」があるが、こんなに大勢の女と共に行動することはかつて無い。場面が切り替わるたびにお駒を背負う女が変わる。交代でお駒を背負っての山越えである。
「さあ、頑張るんだよ!」お笛が、声で励ましている。「一日に十人の男の相手をさせられることを思えば、楽なもんじゃないか!」お笛は、そんなふうにも言った。「そうかねえ。あたいは三人の相手をしただけでも、このくらいはくたびれるよ」お千代が、気の抜けた声を出した。「お前さんは商売っ気を抜きにして、まともに客の相手をしちまうからだよ。抱かれる度にいちいち気を遣っていたら、くたびれるに決まっているじゃないか」お笛がそう言い返した。「こっちだって楽しまなくちゃあ、ああいう商売をしている甲斐がないじゃないか」お千代はエヘヘと奇妙な声を出して笑った。
この会話は当時の宿場女郎の苛酷な実態なのだろう。「木枯らしの音に……」で、お志乃が紋次郎に聞かせる話にもよく似た内容のものがあった。
「紋次郎さんに置いてかれるよ!」と叫ぶ先には、歩を緩めて振り返る紋次郎の姿がある。このあたり、やっぱり置いてはゆけないと思う、紋次郎の優しさを感じる。
連れてはいかないが、ついて来るのは勝手……と突き放した言い方をした紋次郎だが、切り替わった映像ではお駒を背負って川を渡っている。「ほらね、結局こういうことになるんだよね。」
底の薄い草鞋で、石ころだらけの河原を女ひとり背負い渡るのは容易ではない。映像を見るとかなりふらついているし、ただのかち渡りである女たちでも足元が定まらない。
野天での焚き火……ほたを抱えて来る紋次郎。焚き火の周囲は女たちに譲って、自分は少し離れた処に腰を下ろす。お玉が「腹が減ったねえ……」という切ない声に反応して、躊躇せず干し芋を差し出す紋次郎。
「こんなもんでも、腹のタシになりやすかい。」「ありがとうよ、あたいは何よりも、食い気なんでねえ。」
お玉は一切れの干し芋を小さく裂いて仲間に渡す。原作では独り占めするのだが、テレビ版のお玉は民主的だ。みんなに分け与えた後、紋次郎の分をおずおずと差し出すのだが、紋次郎に「あっしの分はおめえさんが食っておくんなさい。」と言われ、お玉はこの上なく嬉しそうな顔をする。紋次郎はフェミニストである。
一方、追っ手の男たちも焚き火をして話を交わしている。「女の足で山を越えられるはずはねえ。」「きっと木枯し紋次郎と一緒だぜ。」「明日あたり女狐のシッポを捕まえられやすぜ。」
この映像を見る限り、時間的には夜のはずだが、女たちが休息をとっている映像は明るく夜には見えない。お笛が紋次郎の元に来て「ちょっとだけ笛を吹いてきていいだろう?山の中だし、誰かに聞こえるはずはないもの。」と言い残し、草むらを分け入って行く。
「おいおい、こんな時に悠長な……。追っ手に聞かれたらどうするんだよ!」
か細い音色で笛の調べが流れる。お千代以外の女たちは涙を浮かべながら耳を傾ける。
原作でのこのシーンは、大変情趣深く描かれている。
「弱々しく澄んだ笛の音は月光の中を流れ、はるか遠くのほうへ吸い込まれるように消える。夜気を震わせ風に乗り、その音色は無常感とともに広大な空間を響き渡った。」
どうもロケ地では、月光の中での撮影は無理だったようである。
「重なり合った山に、黒々とした樹海が縞模様を描いている。そこへ月光が、銀色の雨を降らせていた。見渡す限り、青白い原野だった。」
こんな月光に照らされた美しい映像を見たかったのだが……。
お笛がいない間に、お千代が紋次郎にもたれかかるようにして関所封鎖の経緯を話す。
佐久の代官所元締、高島新之丞が多量の硝薬を勝手に何十人もの買い手に売りさばき、代金を手にする前に露見して自害。買い手は大儲けをしたのだという。
お千代は、山越えには瀕死のお駒が足手まといだと、きわめて現実的である。お駒にいつも寄り添っているお澄は「あたいは、引きずってでもお駒ちゃんを連れて行くよ!」と声高に怒る。
山間の細い道を一列になって歩く女郎たち。一番後ろのお笛は前を行くお澄を呼び止める。そして、髷に付いている赤い布がほどけそうなのを締め直してやる。なぜかその時のBGMが、衝撃的な曲調。「何かある?!」と誰でも思うだろう。
険しい崖伝いの道を恐る恐る進む一行だが、一番後ろのお澄が悲鳴と共に崖から谷川に落ちる。紋次郎は谷川に下りてお澄を助け上げる。お澄は息があるものの、顔面蒼白、紫色の唇。身体には紋次郎の合羽がかけられている。お笛とお千代はお澄が落ちた件で、一触即発状態である。お笛はお千代を怪しんでいる。
紋次郎のもとに、お玉が泣きそうな顔でやってきて、合羽を押しやる。「もういらなくなったんだよ!」紋次郎はお澄が死んだことに気づく。お玉は容貌はよくないし、色気より食い気といった感じの女郎だが、気持ちは一番純粋で人がよく好感が持てる。
お笛はお澄の髷にあった赤い布をお駒の髷に結ぶ。「お澄ちゃんの形見だよ。いっしょに相州まで連れて行っておやり。」またもや不安気なBGM……紋次郎の視線の先は赤い布を結ぶお笛の姿。
「ふん、おためごかし言いやがって!」お千代がふてくされて文句を言い出した。
そのうち一人ずつ死んでいくのだ。山越えが簡単にできるはずはない。苦界からあっさり抜け出せたお澄は幸せ者。泣こうがわめこうが救われることはない。女郎はそういう因果な生まれなのだ、とやけくそ気味に不満をぶちまけるお千代についにお笛はキレた。横っ面を平手でひっぱたくと、あとは二人のとっくみあい。このキャットファイトは、男性諸氏には大サービスだろう。「暁の……」以来だろうか。
着物の裾はかなり乱れ、太腿までチラリと見えたりする。その二人に「やめて〜!」と大声を出して割って入るのが巨漢のお玉。「邪魔するなよ!」の声と同時に、お玉は草むらに転がされる。裾が帯の下あたりまではだけて、お玉の太腿が露わになるが、こちらは艶めかしいというより生々しい(笑)。ホントにお玉さんはいい味を出している。
組んずほぐれつの二人の乱闘を尻目に、紋次郎は先を急ぐ。「置いてかれるよ〜!」とお玉の叫び声。
時々チラチラと映る、赤岩の源太たち一行。お笛たちを追っている。その頭上をかすかに流れる笛の音色。源太たちはニヤリと笑う。
原作では、二度目の笛も月夜である。
「岩に凭れて、笛を吹いているお笛だった。遠くから聞こえる笛の音は、強弱があって繊細に響き渡る。哀調をこめた曲であり、あるいはお笛の胸にお春とお染の冥福を念ずるものがあるのかもしれない。笛の音は沢を渡り、夜空に浮かび上がった山々に響き、月光の中に消えた。月夜と笛と宿場女郎がいま、自然と音と人間の不思議な調和美を見せていた。」
なんて美しい描写だろう。青白い月光に照らし出され、お笛の横顔が白く儚く浮かび上がる。青い色調の中、笛を吹くお笛のシルエットの美しさが目に浮かぶ。月光の淡い輝きとコバルトブルーの影。一幅の絵のような趣がある。
しかし残念ながらテレビ版の映像は、とても月夜には見えず明るい。時間設定がどうなっているのかわからないが、夕刻ということだろうか。上記のような幽玄美は感じられなかった。
お玉とお駒は眠っている。紋次郎は岩陰に腰を下ろしているのだが、そこへ男好きの(淫乱の)お千代がにじり寄ってくる。目的は紋次郎を誘惑するため。
テレビ版ではホーン・ユキさんがかわいくコケティッシュに演じているが、原作はより生々しくハードである。
「……抱いておくれ。可愛がっておくれな」
「女郎が銭もとらずに、可愛がってくれって頼んでいるんじゃないか。恥を、かかせないでおくれよ。このままでは、無事にすみっこない。どうせ、長くはないんだよ。だからさ、せめていい思いをしてから、あの世にいきたいのさ」
「さあ、見てごらんよ。あたいの肌だって、まだ捨てたもんでもないんだ。ねえ、二人一緒に極楽にいこうじゃあないか」
一連の台詞と共にお千代は大胆な行動をとる。着物の襟元を緩めて胸を露わにする、着物の裾を左右にはねのけ太腿をむき出しにする、蕩けるような目で紋次郎を見上げる、しまいには紋次郎の手を太腿に挟みつける。
「お願い、何とかしておくれ!」と言うお千代に紋次郎の言葉。
「いいかげんにしておくんなさい」「いや、このままじゃいやだよ。ね、頼むから火を消しておくれ!これだけの女を、触れもしないで死なせることはないじゃないか!あたいはもう、気がおかしくなりそうなんだよ」声を震わせ喘ぎながら、お千代は紋次郎に縋りついた。「まだ、死にはしねえんで……」紋次郎は、お千代を突き放して立ち上がった。
男性にとっては「据え膳食わぬは…」という状況なのだろうが、紋次郎は食わない。あっぱれ紋次郎である。
テレビ版ではこの後、紋次郎と追いすがるお千代をお笛が見とがめる。お千代のことを「盛りが付いた猫」呼ばわりし、紋次郎のことを「ただの男だったんだ」と批判する。お笛の言動は、紋次郎に対する自由奔放なお千代への嫉妬からくるように思える。
ここで紋次郎は、赤岩の源太郎が話していたことを問いただす。お笛が紋次郎を客にとった。それからずっとぞっこんだということ。紋次郎はお笛とは面識がないと言う。ここでお笛が、はにかみながら明かす。まるきりの嘘ではない。半年前追分宿で客に絡まれていたとき、紋次郎に助けてもらった。それ以来紋次郎のことが他人に思えなくなった、と言うのだ。このパターンは、前々回の「旅立ちは……」と同じ。紋次郎は全く覚えていないが、女が一目惚れをする……。
特に今回の紋次郎はよくもてる。お千代に言い寄られ、お笛に他人と思えないと告白され……。
後ろ姿のお千代の頭上から、パラパラと小石が降ってきたかと思うと、地響きのような音を立てて大岩が落ちてきた。お千代は悲鳴を上げるが足がすくんで一歩も動けない。紋次郎とお笛が駆け寄った時は、既に頭から血を流して虫の息のお千代。
紋次郎とお笛が見守る中「女郎の死に様なんてこんなもの。自分とお笛は相州出じゃないから、どうせ山越えしても行くあてはない。せめてお駒とお玉だけでも、頼む。男好きの私が、最後の夜にいい思いができずに口惜しい……でも紋次郎さんを恨みはしない。」と言い残し息を引き取る。
紋次郎を前にして死んでいく女は、紋次郎を恨まない……とよく口にする。少しは紋次郎も気が軽くなるというものか……。お笛もお玉も涙をこぼし哀しんでいる。
五人の女郎が三人になった。原作では七人の女郎が三人になり、信州から甲州に入る。原作では転落で二人、岩が落ちてきて一人、首をくくって一人次々に死んでいく。「そして誰もいなくなった」風に、一人また一人と命を落とす恐怖が感じられるのだが、テレビ版ではその点は薄い。
お玉は甲州の向こうは相州だと喜び、お駒を背中から下ろす。
「お笛さん、もう笛は吹かねえんですかい?」唐突に紋次郎はお笛に声をかける。お笛の表情が変わる。
「名残に笛を聞かせておくんなさい、と頼んでるんでござんすよ。」「ホントに笛だけでいいのかい?」笛だけでいい?お笛は本当に紋次郎の言葉を真に受けているのか?
「いつものあっしなら、とうに御免被っておりやすがね。」じゃあ、今回はなぜ違う?
原作では「ご免被りたくても、もう間に合わねえんで……十人は、おりやすね」と紋次郎は斜面をのぼって来る人影を数える。テレビ版では追っ手は七人。こちらも三人リストラされている(笑)。
「だったら、すぐに逃げておくれよ!」とお笛は慌てて言うが「連中はあっしやお玉さんを殺すつもりでおりやすよ。」と紋次郎。お笛の名前がないのはなぜ?
「いいから早く逃げて!お前さんやお玉ちゃんを死なせたくない、もうこれ以上死なせたくないんだよ!」
「何もかも端っからのカラクリだったと、認めるんでござんすね。」
紋次郎はお笛のカラクリを見抜いていた。お笛がすべてを話す。
お駒が折檻されたのをしおにみんなをそそのかして巴屋を抜け、信州から山越えする。しかし女だけではとても無理。道案内として旅慣れた者が必要となる。そこへ紋次郎が来たので、丸太棒で気を失わせてそれを助けて仲間に引き込む。そして山越えの途中で自分以外を殺し、口を塞ぐ。そこまで危険を冒して運びたかったのは、硝薬を買った者の血判がある書き付けで、まだ代金をもらってないからその証文を持って回れば何千両にもなるというのだ。これを計画したのは佐久の庄助で、自分は昔庄助の世話になっていた。礼金の三百両が欲しかったのだ。
三百両は大きい。しかし飯盛女郎に、三百両もの大金を佐久の庄助は払うだろうか。普通はお笛も、口封じのため殺されるだろう。
「逃げて!」と叫ぶお笛だが、テレビ版の紋次郎は「命がけで足抜けした女郎衆を、みすみす殺させるわけにはいかねえ。」と結局関わってしまう。
原作では「宿場女郎が、四人死んだ。目の前に助かるかもしれねえって光が射していて、みすみす殺されなきゃあならなかった。そのことが、あっしにはどうにも我慢できねえんでござんすよ」と言って長ドスを抜く。
テレビ版は生き残った女郎、お駒とお玉のために長ドスを抜く紋次郎である。しかし原作は、初めから死ぬ運命を背負い仏になった女郎たちのために怒りの長ドスを抜く。どちらの紋次郎も確か「連れては行かないが、ついて来るのは勝手」と言って、それ以上の関わりは拒んでいたのだが、結局紋次郎は関わりの無いことで命のやりとりをすることになるのである。
追ってきた連中はみんな竹槍を何本も持っていて、紋次郎めがけて投げつけてくる。丸太攻撃も苦戦したが、宙を飛んでくる竹槍もやっかいである。
紋次郎は、地面を転げ回って竹槍をかわす。この辺の動きは前シリーズから5年も経っているが、中村氏の動きは俊敏である。原作とテレビ版の違いは、お玉が連中の手に掛かって殺されてしまうところである。捕まえられた手から逃れて、紋次郎の許に逃げてくるところを後ろからバッサリ斬られてしまう。それと同時に、紋次郎の殺陣がスローモーションになる。これは大洲監督の演出であろう。道中合羽が翻ると共にバサッと効果音が入る。
しかしスローモーション映像なのでよく分かるのだが、合羽が翻りすぎて、本来後ろにあるはずが前に来て、いわゆるお地蔵さんの涎掛け(それも長めの)…笑)になってしまっているのはちょっとかっこ悪い。実際の斬り合いになったら、そういうこともあり得るということか。
七人の追っ手を斬り捨て、血で汚れた長ドスを血振りして鞘に収める。お笛は紋次郎に告白する。
半年前にチラッと見かけた紋次郎を男だな、と感じたのは嘘じゃなかった。宿場女郎が見る気紛れな夢さ。でも足を洗ってちっぽけな店でも持てるかも、と紋次郎より三百両の方に未練があった。宿場女郎なんてそんなものなのかねえ……。
「赤の他人同士、仕方ねえことでござんす。」
自分のエゴで、苦楽を共にした仲間を騙し、命を奪う片棒を担いだ女だが、紋次郎は咎める言葉を口にしない。仕方ないこと……惚れたところで、同じ釜の飯を食ったところで、所詮他人同士なのだ。だから自分可愛さで、他人を裏切っても仕方ないことと言うのか。
紋次郎は生まれてすぐ、肉親に間引かれそうになった。親子の縁があるものでさえ、エゴで裏切るこの世の中なのだ。他人なら、なおさら……なのかもしれない。
「ところでお前さん、その証文書き付けはどこにあるか察しはつくかい。」の問いに紋次郎は、楊枝を飛ばしてお駒の髷を結んでいる赤い布を落とす。お笛は「さすがだねえ。」と言わんばかりの表情でにっこりする。
お澄が死んだとき、形見分けだと言ってお駒の結綿の布をお澄のものと替えたが、あのときにカラクリが分かったと紋次郎は言う。視聴者もさすがに、あの効果音だから、「何かあるな?」と感じていただろう。5人の女郎がひとり、またひとりと姿を消して生き残るはお駒とお笛だけとなった。
お笛はおもむろに笛を吹く。テレビ版でははっきり明かしていなかったが、原作を読むと、笛の音は源太郎たちへの合図であったと記されている。すると、まるでその合図が聞こえたかのように、生き残っていた男が最後の力を振り絞って竹槍を投げる。竹槍はお笛の胸に吸い込まれるように突き刺さる、と同時に紋次郎は男にとどめをさす。お笛はやはり、死ぬ運命だったのである。
原作のお笛も殺されるのであるが、相手はお玉だった。お玉は、お笛の所業が許せなかったのだろう。源太郎が落とした長ドスを拾い上げ、お玉はお笛を刺したのだ。お笛は笛を吹いていたのだが膝から崩れ落ち、紋次郎に一目惚れしたのは本当だったと告白する。そして、証文がどこにあるかわかるか?と尋ねる。紋次郎は亡骸となったお駒の髷の赤布に楊枝を飛ばし、「ごめんなすって……」と去っていくのである。原作では、紋次郎とお玉だけが生き残ったということになる。
テレビ版での紋次郎は、事切れたお駒を背負って峠に下ろし、相州の方に向けてやる。「お駒さん、おめえさんの故郷ですぜ」デジャブである。市川監督の「峠に哭いた……」のエンディングのオマージュであろう。大洲監督はきっと、市川監督に憧れがあっったのだと思う。「峠に哭いた……」ではお妙を静かに下ろし、お妙の着物が風でめくれないように楊枝を飛ばす紋次郎だった。エンディングのすばらしさは一、二を争うクォリティーである。原作にはないこのシーンをやはり入れたかったようだ。
遠くで笛の音が流れる。お笛の最期の調べであるが、パタッとやむ。それは何を意味しているか……テレビ版の女郎たちは、「そして誰もいなくなった」というわけである。
峠からお駒の故郷の山並みが見える……しかし、よく見ると一番遠方の峰に鉄塔らしき影が二つほど見える。やはりロケで、時代劇を撮影するには難しい環境だったようだ。
芥川氏のナレーションと紋次郎が去っていく後ろ姿。「記録によると、信州追分宿の宿場女郎が解放されたのは明治五年のことである。そのときの人数は二百七人だったという。」
原作にも同じ文言で締めくくられているが、「宿場と飯盛女」(宇佐美ミサ子 著)によると、「めでたし、めでたし」とはいかなかったようである。解放されても女たちの親元は極貧であり、とても帰れる状態ではなかったこと。女たちは生活していくための術がなかったこと。
結局解放したものの新たな名目で、旧飯盛女を遊女として旅籠は雇用したとある。実質の解放とは言えなかったという哀しい女の歴史が、明治という時代になってもまだ続いたのである。 

 

●第12話 「朝霧に消えた女」
「本作に該当する原作が見当たらない。脚本を担当した田上和江のオリジナルではないかと推測される。」とDVDのブックレット解説に書かれている。田上さんは前作「笛の流れは……」のときも脚本を書かれている。オリジナル作品と言えば前シリーズ「九頭竜に折鶴は散った」で、この作品は笹沢氏が監修している。この「朝霧に……」はどういう経緯があったのだろう。笹沢氏の意向は……不明である。
「駒形新田の虎八」の名前が久々に出てくる。大前田英五郎の片腕だった虎八を紋次郎は斬っている。その後、回状が回り、紋次郎は追われる身となったのだった。すっかり失念していた。
この回は、「虎八の意趣返しだ!」と何人かの渡世人たちに囲まれる紋次郎から始まる。降りかかった火の粉を払いながら紋次郎は走り棚田を駆け下りる。
一方、街道筋はなにやらあわただしい。追分宿で目籠破りがあり、罪人が一人逃亡したというのだ。早馬が走り捕り方がせわしなく動く。追分宿では「信濃屋十蔵」が、目籠破りで罪人が逃げたことを役人から叱責されている。「追分宿で逃げられたのだから、お前たちにも責任がある」と言われているということは、「二足の草鞋」と見える。この十蔵役に「浜田寅彦」さん。浜田さんは前シリーズ「背を陽に向けた房州路」で村の組頭、庄左衛門役、「駈入寺に道は果てた」では源兵衛役で出演されているので今回で3回目の出演である。
追っ手から逃げ通せた紋次郎は、小川で身体を拭いている。その背後に蓆を被った人影が……。私は一瞬、「エレファント・マン」(笑)を連想してしまった。男は手を伸ばし、紋次郎の三度笠と合羽を奪うが、同時に紋次郎に気づかれてしまう。「紋次郎、気づくのが遅すぎ!もし、命を狙っている敵だったらどうする?!」……である。
男は三度笠と合羽を抱えたまま逃げるが、紋次郎に捕まえられる。「こいつを渡す訳にはいかねえんだ。」いくら物に執着しない紋次郎といえど、これは困る。しかし、相手も必死なのか道中合羽の引っ張り合いとなる。この引っ張り合い、大の男が真剣なだけに何となく笑えてしまう。そう言えば、紋次郎は前シリーズ「駈入寺に道は果てた」で、合羽と三度笠をお染に盗られている。このときはさすがに引っ張り合いではなく、「置き引き」であった。
もみ合っている内に男の腕に彫られた入墨が見える。「サ」の一文字であるが、それを見た途端紋次郎の表情が変わる。この入墨は佐渡送りの証明である。紋次郎の表情に驚きと憐憫の様が見えるのは、我が身も三宅島に島流しされた過去があるからだ。手甲に隠されてはいるが、紋次郎の腕にも二筋の入墨がある。
「見逃してくれ!」の言葉を残して、男は何も盗らず逃げていく。明らかに脱走した囚人である。この囚人役は「大出俊」さん。この方は前シリーズ「女人講の闇を裂く」で、巳之吉役として出演されているので今回で2回目となる。
その後紋次郎は、地元の賭場に誘われる。ということは、「信州屋十蔵」がしきる賭場である。虎八の子分たちが紋次郎の命を狙っているのに、地元の賭場にわざわざ寄るのだろうか。危機意識が欠けているように思う。
壷振りの女。やけに色っぽい。立て膝から白い太腿が見えるが、この色気で賭場の客の集中力を乱す……らしい。女はなぜか、紋次郎に秋波を送る。紋次郎もそれに気づきちらりと見るが、その後視線を落とす。この壷振りの女は席を外し、隣の部屋いる十蔵に「紋次郎を見つけた。」と知らせに行く。紋次郎の知名度はどうだったのか。賭場に誘う時点で、紋次郎だと気づいてもよさそうなのに、女壷振りに言われてやっと気づくのも相当おマヌケである。
「飛んで火に入る夏の虫か。さあ、わたしの仲間に知らせておくれよ!」女は十蔵に頼む。この女、虎八一家のものらしい。十蔵も虎八親分の敵討ちだから、加勢しなくては、と息巻く。しかし紋次郎は、いち早く賭場を後にする。やはり女壷振りの様子が怪しいと感じたようである……というより賭場の座敷と十蔵たちがいる部屋があまりにも近すぎ。耳を澄ませば、このやりとりが聞こえるぐらいの近さ。危険を察知する能力と言うより、聴力があれば気づける範疇。ここもおマヌケ。
神社の鳥居近くで先を行く紋次郎に女が追いつく。この女壷振り役は「高橋レナ」さん。日本人離れした現代的な顔立ちで美しい。ただ、台詞回しがいただけない。艶っぽくなく、字面をなぞっているという感じがする。まるで素人娘が喋っているような雰囲気で、姐さんらしさがないのは残念である。
ここで女は紋次郎を誘惑する。「今夜、あたしとつき合っておくれでないかい?」前回に続き女に言い寄られるが、こちらは魂胆があるに決まっているので誘惑にのるはずがない。
「博打打ち同士がおつき合いするのは、筋じゃござんせんぜ。」なかなかうまい返し方である。果たして女が合図すると、林から虎八の子分たちが出てくる。乱闘の間に子分は誤って自分たちの姐さんである女壷振りを刺してしまう。またまたおマヌケな話である。
その内今度は、十蔵一家の者たちが助っ人にやって来て、共に紋次郎を追う。紋次郎は走り、敵を振り切ろうとする。夜の宿場町に入る。追分宿だろうか。宿内は目籠抜け捜索のため捕り方が走る。宿内は虎八の子分、十蔵一家、捕り方が入り乱れ、対象人物は違うが走り回って捜索している。
追われる紋次郎は、ある一軒の飯盛旅籠に裏口から逃げ込む。中にいた宿場女郎が、二階に匿ってくれる。この女郎役に「松尾嘉代」さん。この女優さんの台詞回しは、さすがにうまい。けだるそうな物言いと、低いがよく響く艶っぽい声は安心して聞いていられる。
松尾さん演じる女郎の名前は「お加代」。(この時はまだ明かされていない)まんまじゃないですか、と突っ込みを入れたくなる。お加代は「外回し」をされている。「外回し」はいわゆる飯盛女のレンタル。旅籠の外には、女が逃げ出さないように見張りの男が二人、立っている。お加代は身体を壊しているのか咳き込んでいる。そして「古ぞうきんみたいにこき使われ、身体が悪くなりゃ投げ込み寺か、無縁墓地行きさ。」と愚痴をこぼす。
紋次郎は壁に寄りかかり片膝を抱えて坐っている。合羽は身につけたままである。膝を抱える中村氏の指の長さが目立つ。男性の指にしては細く長く、しなやかそうである。およそ長ドスを振り回す手には見えず、むしろ繊細である。
お加代は唐突に、目籠破りについて話し始める。もう捕まったのか?逃げられる思うか?お加代は興味がありそうである。紋次郎は獄衣を着ていれば目につくから、逃げるのは難しいと答える。自分がその囚人を見かけたことは一切話さない。
お加代は紋次郎に「一晩、自分を買いきってほしい」と頼む。「回し」は嫌だというのである。回しとは複数の客をとることである。見張りの男たちには小粒(銀)でもくれてやったら、見逃してくれると言う。紋次郎は無言で懐から財布を取り出し、そっくりお加代に渡す。太っ腹である。お加代は下で見張る男たちに二階の窓から金を投げ、「一杯やってきな」と促す。
部屋ではお加代と紋次郎が並んで座っている。酒を飲んでいるのはお加代だけ。紋次郎は周知の通り酒は口にしない。「冷えてきたから床に入ろう。」とお加代は誘うが、「おめえさん、先に休んでおくんなさい。」と紋次郎は取り合わない。私の手を触ってごらん冷たいから……とお加代は手を紋次郎の手の上に重ねるが、紋次郎はその手を握り返すどころかスッと外してしまう。紋次郎のストイックさが変わらないところはうれしい。
しかし女にとっては戸惑うところである。こちらから誘っているのになびかないなんて、そんなに自分のことが嫌なのか……と誰でも思ってしまうだろう。お加代は「誰かに心中立てしてるんだね。」と尋ね、咳き込む。「おめえさんも、身体が悪いようで……?」と紋次郎は気遣う。「構わないんだよ、どうせ長いことはないんだから……」 労咳かもしれない。「投げやりはいけやせんぜ。」 紋次郎の口から、こんな言葉が出るとは思わなかった。
「お前さんって優しいんだね。」 そう、この回も前回もかなり紋次郎は女郎に優しい。
「お前さんの好きな人ってどんな人なんだろう?」「そんな者はおりやせんよ。」「ほんとに?」「あっしの道連れはこの楊枝だけで……。」(ドラマ)
この紋次郎の答えがウケたのか、お加代は高笑いをする。「からかっちゃあいけないよ、うれしくなっちまうじゃないか。」その後急にお加代はしんみりして、自分にも好きな人がいたが、もう逢えないかも知れないと呟く。
紋次郎と宿場女郎がいる風景としては、今回で三回目。「木枯しの音に……」でお志乃と、「九頭竜に……」では小春と、そして今回。どの回も客としてではないのだが、女性ファンとしては、一種の緊張感を持って見てしまう。
虎八の子分たちは宿内の旅籠を調べている。信濃屋にも来たが、お加代がうまくあしらった。
一方十蔵は役人から明日中に囚人を捕らえなければ十手を取り上げると言われ、憤慨している。そこで誰かを身代わりに突き出そう……紋次郎が見つかれば一石二鳥なんだが、と捕らぬ狸の皮算用をしている。
一晩紋次郎は、お加代の機転で匿われることとなる。「すっかり借りをつくっちまって……。」「何を言ってんだい、今夜は私のいい人じゃないか……明日の朝まで離さないよ。」お加代は紋次郎にしなだれかかる……紋次郎はお加代を邪険に扱わないところを見れば、まんざらでもないのか。借りをつくった身だからか。
やきもきする展開になってきたが、割って入ったのが石つぶて。外から投げ込まれたようでお加代が窓を開けると下から幼子が手招きをしている。その子がお加代に渡したのは紙切れ。どうも誰かからの文のようである。
展開が読めてくる……というか、配役を見た時点で筋が読める。文は布きれに包まれていたが、その布は獄衣の切れ端。ああ、そこまでしなくてもいいのに、というくらいのネタばらしである。お加代は誰からの文かわかったとたん、思い詰めた表情で行動に走る。
自分をこの宿場から連れ出して欲しいというのである、いわゆる足抜け。「えーっ!また女郎の足抜け話?!」前回、集団足抜けがあったばかりなのに連続して?である。放映の順番はこれでよかったのだろうか、と疑問である。他にも数多くの原作があるのに、あえてオリジナル作品をここに入れるのはなぜかがわからない。
お加代は紋次郎に「八州さまが、咎人さがしに泊まり客を調べに来る!」と嘘をつく。すぐにこの場を立とうとする紋次郎を制してお加代は提案をする。
「逃げるんだったら明け方前、明け六つの鐘で見張り人が帰る。頼みがある。私をここから逃がしてくれ。宿場さえ脱けられりゃ、後は自分で何とかするから……見つかって殺されてもいい。ずっと手助けする人を待っていた。それに朝の道行きの方が却って怪しまれない。」一気に喋ってお加代は激しく咳き込む。病状は思わしくないようである。紋次郎はその肩を抱き起こす。引き受けたとは絶対に口にしない紋次郎だが、「引き受けてくれるんだね。」の問いには否定をしない。
お加代は紋次郎に抱きつき喜ぶ。「今夜はやっぱり、私にとっていい晩だった。」しかし、紋次郎は無表情。
白い霧の中、明け六つの鐘が鳴り響き宿場は朝を迎える。紋次郎とお加代には、何事もなかったと信じたい。
見張り人が帰るのを確かめ、二人はそっと旅籠を抜け出す。人目につかないよう歩く二人だが、宿場外れで野良に出かける農夫に出合う。じっと見られているのでお加代は先を急ぎ出す。
「急いじゃいけねぇ、ゆっくり歩きなせぇ。」紋次郎がお加代に注意する。二人は刈り取ったあとの田んぼに出る。藁が積まれている。
「しばらくここに隠れていておくんなはい。」その先には無人の廃屋が一軒、霧の中に建っている。お加代は中に入り込む。
紋次郎は一体どこに行くのか。一人どこかに駈けていく。お加代は文をもう一度読み返す。何と書いてあるのかはわからないが、思い詰めた様子である。
「百姓に野良着を分けてもらいやした。着替えた方がよござんしょう。」なんと紋次郎は、お加代のために逃走用の着替えを調達してきたのである。ここまでお加代のために積極的に関わるとは思わなかった。匿ってもらったという恩義の為とはわかっているが、いつもの紋次郎ではない。感情移入している。
着替えている最中に、十蔵一家の追っ手が廃屋にやって来る。「隠れろ!」と紋次郎はお加代に指示して二人は藁積みの中に隠れ、息を潜める。結局追っ手はいつものおマヌケぶりで、二人を見つけられず廃屋を後にする。
一方目籠破りの囚人、長吉(目籠に名前が書かれていた)は未だ獄衣のままで、今度は山で作業をしている男たちの着物を盗ろうとして見つかり、追いかけられている。お加代はあっさりと着替えられたのに、長吉の方はそうはいかないようである。
宿場からかなり離れたので、紋次郎はこの先の道を教えて別れようとする。そう、紋次郎よ!ここまでやれば十分である。お釣りが来るくらい、お加代には借りを返したはずだ。
別れようとする紋次郎に、やはりお加代はもう少し一緒にいてほしいと懇願する。「物にはついでってものがあるじゃないか!」この一言が効いたようである紋次郎は一瞬迷うが、何も言わずお加代が目指す道の方へ歩いていく。今回の紋次郎は本当に人が良すぎる。敵に追われている上に、見つかれば重罪になりかねない足抜け幇助。しかし紋次郎は敢えて危ない道を選ぶ。
一方十蔵は、足抜けの手引きが紋次郎と知り(なぜ知ったのかは不明)、虎八の子分たちと紋次郎を追うことになる。山道を行くお加代は「松尾の社を通るんだろ?」と紋次郎に尋ねる。「松尾の社」にこだわりがあるようである。「松尾?」この女優さんの名前の神社?どこまでも松尾嘉代さんに脚本家はこだわっているようだ。急な山道で音を上げるお加代を励まし、手まで貸してやるぐらい今回の紋次郎はヒューマニストである。
一歩も歩けないというお加代に、紋次郎から有り難い叱責。「もうちっと、辛抱しなせぇ。」しかしお加代の体力はもう限界のようで、「松尾の社まで引っ張っておくれ。そこから先は迷惑かけないから。」と喘ぐように頼む。やはり松尾の社に誰かが待っているようだ。紋次郎は無言で腰を落とし、広い背中をお加代に向ける。背負って行くというのだ。紋次郎に背負われる女は、これで何人目になるだろう。紋次郎が女を背負うというシーンは、ある程度定番になってきているようだ。
背負われて、お加代は礼を言う。「ありがとう。こんなとこで今更聞くのもおかしいけど、あんたの名前聞いてなかったよね。」「上州無宿の紋次郎と申しやす。」「ふーん、私の名前はお加代って言うんだよ。」ここでお互い、名前を名乗るのである。お互い名前などはどうでもよかったようだ。
「あんたの恩は一生忘れないよ。」「渡世人には、貸し借りなんぞござんせんよ。」「いい覚悟してるねぇ。ホントに惚れちまうじゃないか。」(ドラマ)
渡世人には貸し借りはない……言葉足らずである。堅気は渡世人に対して借りを返そうなどと思わなくていいし、渡世人は堅気に貸しをつくってやったなどとは思わない。「渡世人には」と言っているが、渡世人すべてがそんな覚悟を持っている訳ではない。いやそんな渡世人どころか、そんな人間はいないと言ってもいいだろう。これは紋次郎だけの覚悟なのであろう。
追っ手は合流してどんどん増えてくる。今回もBGMにはガッカリした。捕り方や追っ手が動き回るシーンになる度に、同じBGMが何度も流れる。大変耳障りである。いっそのことBGMはない方がいい。
紋次郎はお加代を背負ったまま、松尾の社を目指す。黄色い銀杏の葉で敷き詰められた参道を歩く姿は、なかなかいい。頭上には紅葉が見える。紋次郎は境内に入り、お加代を背中から下ろす。
「じゃあ、今度こそあっしはこれで……」ホント、今度こそである。なんやかんや言って結局最終目的地の松尾神社まで来てしまったわけである。
「ありがとう。」「お達者で……」
別れの言葉が終わるか終わらない内、紋次郎は誰かに背後から襲われる。灰色の獄衣をまとっているので、あの囚人である。お加代は驚いて目を見張るのだが、それが誰かがわかり大声で叫ぶ。
「あんた!」やっぱり……である。
紋次郎は耳に入ったその言葉に、驚いた表情でお加代を見る。「お加代、早くドスを取れ!」
長吉はお加代に叫ぶが、そんなことができるはずがないだろう。「なるほど、そういうことだったんでござんすかい。」紋次郎の言葉に、お加代は必死に否定する。
「ちがうよ……、こんなつもりじゃなかったんだよ。」お加代は、男に会いたかっただけなのだ。紋次郎が言うそういうこと……紋次郎を連れてきて、長ドスを奪え。紋次郎の命を奪う手助けをしろ、というつもりはお加代にはなかったのである。
「てめえの着物が欲しいんだよ、寄こせ!」よっぽど紋次郎の着物が気に入ったと見える、これで2回目(笑)。紙と筆で手紙を書き、凶器の鎌も手に入れたというのに、まだ着物が手に入らなかったとみえる。せっかくお加代に出会えたというのに、パニック状態。冷静に考えれば、紋次郎の着物を狙うよりお加代に頼んで着物を調達できるものを……と思ってしまうが、それでは話が進まない。「お加代!」「あんた!」とひしと抱き合い再会を喜んでいれば、紋次郎と争うこともなかったのに……である。
お加代は長吉を必死になって止めるが長吉は聞こうとしない。
結局長吉は鎌を振りかざし紋次郎を狙うが、腕が違いすぎるし鎌では絶対無理……。「やめなせえ、せっかく会ったんじゃねえですかい。おめえさんを斬るわけにはいかねえんだ」「うるせえ。」鎌は紋次郎をかすめ木の幹に突き刺さる。なおも素手で組みつこうとする長吉を、紋次郎はかわす。ところが長吉は勢い余って木の幹に激突し、運悪く刺さった鎌の刃で喉を切ってしまう。なんという結末だろう。スローモーションで倒れる長吉のもとに、叫び声を上げて走り寄るお加代。抱き起こされた長吉の顔には、もう死相が現れている。大出俊さんの一番の見せ場が、今際の場面というのも、もったいない話である。
お加代と初めて出会ったのがこの松尾の社だったようだ。お加代に一目出会えて死ねるなんてようやくツキが回ってきたようだ、と長吉は強がりを言っている。どうせ、佐渡に送られれば一生帰っては来られない……今度生まれてくるときには大きな星の下に生まれてくる……と言い残し、長吉はお加代に看取られ息を引き取る。
大出さんは「女人講……」のときも、自分の生まれを嘆いたが今回も同じである。このあたりも定番となりつつある。
お加代は世を儚んで、「好きな男と死ねるんなら本望だ!斬っとくれ!」と紋次郎に叫ぶ。「ものにはついでってもんがあるだろう!」と先ほどと同じ台詞を口にするが、ついでに人斬りまでさせるとは、人使いが荒いにも程がある。
まもなく十蔵たちがやってきて紋次郎は追われるのだが、今回のフォーメーションは面白かった。紋次郎が石段を何回も駆け上がり敵はそれについていけず、フラフラになるといった設定である。明らかに中村氏の脚力が見せ場である。ただ後の殺陣は、紋次郎らしかぬ華麗さが目立つ。紋次郎の殺陣は突きが中心で泥臭く、もっと獣じみた必死さがあったのだが、今回は流麗である。洗練されたといえばいいのかもしれないが、私は昔の殺陣の方が好きである。石段を下から一気に駆け上がりながら敵を斬っていく。戦意喪失で逃げようとする敵まで追って行って斬るのは、あまり好まないのだが……。石段の殺陣といえば、「背を陽に向けた……」を思い出す。もっと泥臭く臨場感があったように記憶しているが……。
「なぜわたしを斬ってくれなかったんだい。」お加代が紋次郎を詰る。「あっしには言い訳なんぞござんせんよ。」と決め台詞……しかしどちらかといえば「女、子どもを斬るドスは持っていねえんで……」の方が当てはまると思う。
紋次郎が視線を落とした先には、風で散りそうなお加代に宛てた手紙が……。紋次郎は楊枝を飛ばしてその手紙を地面に縫いつける。そして「御免なすって。」とお加代に背を向けて去っていく。
今回は原作がどこにもないという、全くのオリジナルだったせいか、盛り上がりに欠ける感じがしてあまり印象に残っていない。笹沢氏の鉄則である「ドンデン返し」がなかったのも、あっけない感じがした。「朝霧に……」というタイトルだったが、それも印象に残る映像はない。霧と言えば「明鴉……」だろう。タイトルに数詞が入らなかったが、なるほどこのストーリーだと難しい。
で、考えてみた。「一抜け二抜け三抜けた」なんていうのはどうだろう。目籠を抜けた長吉、足抜けをしたお加代、そして間抜けた親分十蔵……。
冗談はさておき、この後お加代はどうしたのだろう。やはり「朝霧に消えた」というからには、霧と共にこの世から、儚く消え去ったのだろうか。「投げやりはいけやせんぜ。」と、紋次郎はお加代の生き甲斐ともいえる足抜けを助けたのだが、哀しくあっけなくそれも消えた。
去っていく紋次郎の黒いシルエットは、朝日をぼんやりと受けて広がる雲をバックにだんだん小さくなっていく。エンディングの美しさで、一抹の安堵感は持つことができたのはよかったが、なんとなく宙ぶらりんで終わってしまったという感覚は埋められなかった。お加代は裏切らなかったところが、ファンから言わせると「裏切り」だったのかもしれない。 
朝霧に消えた女
「渡世人には、貸し借りなんぞござんせん」
紋次郎が宿場女郎の加代(松尾嘉代)が足抜きするのを手助けし、感謝する彼女に云うセリフです。
本作は、笹沢佐保の元作は存在しません。テレビドラマオリジナルの作品です。シリーズ中何本か、オリジナル作品が存在します。
紅葉の時期の撮影だったらしく、山間の土地(山道、神社、田畑)を舞台に、なかなか雰囲気もあり、楽しめる作品です。
さて、冒頭のセリフですが、無宿の渡世人の生き方として、その通りだろうし、そうせざるを得ないのでしょう。ところで現代のビジネス社会を生きるわたしたちですが、こんな孤高の生き方をしていたら、うまく世の中を渡ってゆけません。
貸しはつくっても、借りはつくらない、ということを信条にしているひとも多いと思います。しかし、それだけでは人間関係はうまく構築できません。ビジネスは、商品の良し悪し、価格の高低のみでまわってはいません。人間関係でビジネスはまわっています。そのためには、良い人間関係を築いてゆくことが必須です。
人間関係を貸し借りという側面でみてみると、貸しをつくって、借りはつくらず、というのは前述した通り、一見良さそうですが、ときには借りをつくることが大切です。
貸しがある状況が優位な立場にあるとすると、借りがある状況は一段低い立場となります。そこがポイント。ビジネスの相手とそういう立場関係をつくることで、より密接な関係がつくれるのです。
いつも食事の接待をしていたとします。しかし、相手はそのことで負い目を感じてしまっています。ときには、逆の立場になり、相手に借りをつくることで相手の立場を優位にしてあげるのです。
ときにより、これをうまく使ってみると、さらに良い人間関係がつくれますよ。 

 

●第13話 「明日も無宿の次男坊」
話の展開は原作をなぞっているが、ドンデン返しと人間関係がかなり違う。脚本は実弟の中村勝行氏。シリーズとしては今回で3作目である。
ゲスト出演は「高橋長英」さんと「宇都宮雅代」さん。となると、まさしく前シリーズ第2話 「地蔵峠の雨に消える」の再来である。奇しくもこのお二人、相思相愛の仲という設定も同じ。高橋さんは「地蔵峠……」「怨念坂……」と出演され、今回で3回目となる。宇都宮さんも同じく今回と「地蔵峠……」、「雪灯籠……」と3回の出演。ゲストとしてはおなじみの俳優さんである。それだけに安心して観ていられる。
テレビ版の出だしは大工の棟梁の座敷。平吉とお糸が並んで坐る後ろは障子なのだが、庭にある木の枝が、黒いシルエットで見えてなかなかいい感じ。映像にこだわりがありそうなので、調べると池広一夫監督。市川監督のもとで助監督として経験を積み、その後大映時代劇において無くてはならない存在となった名監督。映像京都にも参加し、前シリーズでは「童唄……」「湯煙……」の監督を務め、今作品で3作目となる。この作品を皮切りに、「新……」でもこの後何作もメガホンをとっていらっしゃる。ちなみに笹沢作品では、映画「無宿人 御子神の丈吉」三部作を監督されている。
材木問屋で尾張屋の惣領、平吉の人柄を最初からよく演出している。期限までに金が払えない大工の頭領に対して、無慈悲な態度をとる。25両に5両の利子、30両が払えないならと、頭領の女房を女衒に連れて行かせる。その一部始終を平吉の女房お糸が見ている、というか見させられている。このお糸役が宇都宮さん。平吉は、商売に情けは無用という冷酷な商人。お糸がいい暮らしができるのも、これだけ自分が苦労しているお蔭なんだということを知らしめるため。嫌な男である。
原作の平吉とはかなり受ける印象が違う。原作の惣領平吉は、親の言うことをよく聞くまじめな商人。あくどい商売をしている風には設定されていない。この出だしで、平吉の人柄とお糸に対する横柄な様子がうかがえる。お糸は豪商のご新造さんであっても、ちっとも幸せではないということがわかる。
女衒からの金を懐に家路につく二人。そこへ渡世人風の男が抜刀して襲いかかる。金目当ての男である。平吉は金に執着しているので抵抗し、結局斬られて深手を負う。
平吉は自分の邸宅で伏せっているが、怪我の状態は思わしくない。平吉の父親善右衛門は、平吉以上にお糸に対して冷たい態度である。お糸を近くに寄せ付けず、瀕死の平吉に付きっきりで、この災難には怒り心頭である。平吉は今際の際で、善右衛門に何かを伝えて事切れる。どうも下手人についてのことのようだ。善右衛門はその言葉を聞いて、復讐に燃える。
平吉の葬儀の日、善右衛門はお糸に家を出て行くようにと、言い渡す。「お前はどうせ、平吉が拾ってきた百姓の娘。その平吉が死んでしまったからには、もうこの尾張屋とは何の関わりもない。」お糸はその言葉に抵抗することなく承諾する。お糸役の宇都宮さん、紺色の地味な着物がよく似合う愁いのある美しさである。この女優さんは前作もそうだったが、耐える女としての役作りがうまい。
原作でのお糸は二十半ば、夫婦の間には子どもはいない。お糸の実家は没落したらしく、苦労したせいかよく気がつき下の者にも優しく評判がいい、となっている。善右衛門もお糸を信頼しているという設定で、虐げられた存在とはなっていない。したがって原作のお糸は、尾張屋から追い出されてはいない。
この憎たらしい善右衛門役に内田朝雄さん。大店の主人として、さすがに貫禄がある。無表情なのだが、その目からは冷徹なものを感じ、怖い。惣領の平吉が亡くなり、跡目が問題となる。尾張屋を血の繋がらない養子に譲るくらいなら、「宗助」を呼び戻すと番頭に告げる善右衛門。善右衛門にはもう一人息子がいるらしい。
この後やっと紋次郎が登場するが、何とも心許ない様子。というのも、懐具合が乏しいのだ。茶屋では行商人たちが、噂話に花を咲かせている。豪商、尾張屋が礼金百両で、勘当した次男坊「宗助」を探している。年の頃は三十一、二で渡世人。尾張屋は目が不自由で、顔を見ても分からないが、左手に大きな火傷の痕が目印……。
紋次郎は床几に腰を下ろすとうどんを一旦頼むが、やめて甘酒の値段を訊く。うどんの代金すら持ち合わせていないようだ。「七文でございます。召し上がりますか?」巾着から掌にのせられたのは文銭がたったの3枚。「生憎、持ち合わせがねえもんで……」うどんどころか、甘酒も口にできないまま紋次郎は茶屋を後にする。この展開は原作にはなく、中村勝行さんのオリジナルかと思われる。かっこ悪いのだが、こういう日もあっただろうなあ、と紋次郎の日常を見た気がして人間くささを感じる。
お糸も街道に姿があった。すれ違った旅人たちが「宗助探しに百両……」と噂話をしているのを聞き、ハッとして立ち止まる。お糸と宗助はどんな関係だったのか。
画面は急に、大きな茅葺きの屋根を載せた農家に切り替わり、中から鶏を2羽ぶら下げた薄汚い渡世人が飛び出てくる。その後ろを家主が追いかけ回している。紋次郎作品とはとても思えない剽軽なBGM。この盗人渡世人が高橋長英さん。キャラクターとしては、「怨念坂……」の源吉に似ている。コミカルな動きで、刈り取り後の田んぼを走り回るのはいいのだが、私としてはBGM無しの方が良かった。よく思うのだが、どうして誰もBGMにもっと注意を払わないのだろうか。同じ映像でもBGMの違いで、全く受ける印象が変わってしまうのは周知のことだろう。
この茅葺きの家は今もあるのだろうか。多分京都の郊外だろうが、実にりっぱな構えである。
結局この渡世人は、鶏を取り戻されヘロヘロになったところで紋次郎に出合う。この男、紋次郎以上にくたびれた身なりをしている。初対面の紋次郎に、「何か腹に入れる物は持っていないか」と丁重な言葉遣いで尋ねる。どうも金が無くて、食べ物にありついていないと見える。で、鶏を盗もうとしたのだろう。紋次郎は「ご同様でござんす。御免なすって」と、全く取り合わない。
紋次郎は、どんなに空腹であろうが文無しだろうが、決して人の物に手をつけることはしない。そんなぐらいなら、野垂れ死にすることを選ぶだろう。しかし、この男は朝から何も食べていないというだけで、盗人を働こうとするのだから情けない。この鶏泥棒の件も原作にはないが、男の人物設定上必要としたのだろう。
その後再びこの男は紋次郎と出会うことになる。夜の物置小屋、紋次郎は焚き火をし壁に寄りかかって眠ろうとしている。そこへやって来たのが件の男。焚き火の炎が揺れ、人の気配を感じ長ドスを引き寄せる紋次郎。原作では、ここで初めてこの男と出会うことになっている。原作の紋次郎は、常に隙のない心掛けをしている。
「長脇差を抱いて、板壁に凭れかかる。壁と背中のあいだに、厚みのある板をはさんでいた。それは小屋の外側から、板壁を通して刺されるという危険を、想定しての用心であった。」
見上げた心構えである。
入ってきたのは、昼間の男と認め紋次郎は緊張を解く。男は相宿を頼み、腹が減った様子。紋次郎も何も食べていないことを知り、食べ物にありつくことはあきらめる。そのうち長楊枝に気がつき、「木枯し紋次郎さんで?」と嬉しそうに声を上げる。紋次郎は仕方なく「へい」と答えるが、全く関わりたくない様子。男は立ち上がると腰を落とし仁義を切る。「……尾州無宿で、白帆の宗助と申しやす。」ここで紋次郎は、「宗助」という名前に反応する。空腹の中立ち寄った茶店で、一瞬耳にした話をしっかり聞いて覚えているのだ。いつもながらの記憶力には感心する。
「こんな恰好で御免被りやすよ。」宗助の仁義に返すこともしない紋次郎。宗助は構わず、自分の異名「白帆」についての講釈を語り始める。賭場で賽を見ると胸から腹にかけて汗が出る。その汗が流れ落ちるのを止めるために懐紙を貼るのだが、それがまるで「白帆」のように見えるので「白帆の……」と呼ばれるようになったと言うのだ。一方的に喋る宗助なのだが、ふと見ると当の紋次郎は目をつぶって眠っている。このシチュエーションも「怨念坂……」と全く同じ。取り合ってもらえない様子に宗吉は口をつぐみ、少し寂しそうに焚き火に小枝をくべる。そして、空腹のために力なくうずくまって眠りにつく。
夜が明けた。渓谷の流れにうっすら朝日が差し込む映像は、一瞬だが美しい。小屋にはもう宗助の姿はなく、紋次郎は身支度をして外に出る。紋次郎は渓谷の岩場から水面をじっと見ている。川魚が飛び跳ねているのを確認すると、狙いを定めて楊枝を飛ばす。なんと一発で魚に命中!恐るべし的中率である。楊枝の使い方もいろいろとあったが、ここでは芸当のような業を見せる。この離れ業は原作通りであり、スタッフのオリジナルではない。
「無縁仏に……」での紋次郎は長ドスで川魚を刺し、生のままで食らいつくが、今回は一応火を通して調理している。すると岩陰から苦しそうなうめき声と共に、宗助が這いずってくる。手には食べかけのキノコ。毒消しの薬を持っていたら分けてほしい……と腹を押さえ、喘ぎ喘ぎ頼む。紋次郎はキノコの臭いを嗅ぎ、毒キノコと認め薬を与える。薬はなぜか小さい竹筒から出される。紋次郎フリークからすると、ここは振分け荷物の中を見たかったのだが、省略されていて残念なところである。原作では振分け荷物を開いて、和紙に包んだ薬草を取り出しているし、その薬草の効能まで笹沢氏は記している。
宗助は川の水で薬を飲み下す。紋次郎はその場を立ち去ろうとするが、宗助が呼び止める。
「あっしを見捨てたまま、行ってしまうんうもりなんですかい?」「叶うだけの手当は済みやした。ここで一休みしている間に毒は消えやしょう。」「それまで一緒にいちゃあくれねえんですかい?」「これ以上は、あっしにゃあ関わりござんせんよ。」(テレビ)
その通り。紋次郎には全く関わりがないし、ずっと付きそういわれはない。大体、キノコを勝手に採って食べた宗助がいけないのである。貴重な薬まで分け与えたのだから、かなり関わった方である。
「宮の宿までこのあっしを連れて行っておくんなせぇ。」と頼む宗助。「折角でござんすがお断り致しやす。」と紋次郎。「そんな薄情な……」「お互い、誰にも頼りたくねえ、頼られたくねえ無宿の渡世人じゃござんせんか。他人をあてにしちゃあいけやせん。」(テレビ)
テレビ版の紋次郎と宗助は、ここで一旦別れる。宗助に、無宿渡世の鉄則を諭しても到底無理だろう。どう見ても宗助にはそんな覚悟は見えないし、今後も修行を積むような気配はない。
しかし原作では、紋次郎に少し責任を負わせている。原作の紋次郎は魚を食べた後、崖を上がる途中でキノコを見つける。紋次郎は賢明なので、その臭いから毒キノコだとわかったので道ばたに捨てた。それを後ろから見ていた宗助は、紋次郎が崖下でキノコをたらふく食べた後余ったのを捨てたと勝手に思いこみ、それを拾って食べたというのだ。とんだ言いがかりであると思うのだが、宗助の訴えに紋次郎は返す言葉がなく、無言である。
原作の宗助は、「一日も早く、宮の尾張屋まで行きたい。街道筋で評判になっている尋ね人の一件で、どうしても尾張屋へ行きたい。」と頼むのだった。紋次郎はこの男を尋ね人の宗助とは思わない。左手の火傷の痕がないし、年齢も合わないからだ。原作では尋ね人の宗助は三十一、二。目の前にいる宗助と名乗る男は、どう見ても二十八、九となっている。そしてこの後、ならず者の「山勘」が出てきて、自分が次男坊の宗助だと言って、白帆の宗助を痛めつけるのである。
テレビ版では、宮の宿の旅籠でお糸は働いている。街道を往き来する旅人に、目を走らせているがどうも宗助を待っているようである。
回顧シーンが出てきて、宗助とお糸は義理の姉弟ながら、心を寄せ合っていたことがわかる。回顧シーンでの宗助は高橋さんなので、白帆の宗助は正真正銘の尾張屋の次男だと分かる。原作にはない設定である。原作のお糸も、実は亭主以外の男と通じ合ってはいたが、宗助ではない。どうもテレビ版では、次男坊と兄嫁との悲恋に変わっているようだ。
一方尾張屋には、連日ニセ宗助がやって来る。善右衛門は目が不自由なので、左手の火傷の痕を手で確かめながら検分している。何人も自分の番が回って来るのを待っている中で、お馴染みの顔が見える。それは最多出演の「山本一郎さん」。やりとりの中で左手の親指、甲から手首にかけて火傷の痕があるのが宗助だと聞き、コソコソと列から離れる。一旦来たものの、自分はそれに当てはまらないとわかったからだろう。
このあと山本旅鴉は受難となる。ならず者たちにに襲われ金を盗られそうになるのだ。襲ってきた首領格の男が「山勘」。その山勘の手の甲に、火傷の痕があるので、命乞いをするためにいい話があると持ちかける。尾張屋が、百両の金をかけて勘当した次男の宗助を探している。その印が火傷の痕だから次男坊になりすますことができる……。しかし哀れ、山本旅鴉の話は命乞いにはならず、背後から斬られて川に突っ伏して命を落とす。山本さん、紋次郎以外の者に斬られるのは、今回が初めてではないだろうか。もうこの時期は、気温も下がり寒かったはずだ。お疲れ様でしたと言いたい。
原作では宗助になりすまそうとする山勘は、初めから街道の噂を聞きつけてやって来るので、この展開はない。わざわざこのシーンを入れたのはなぜだろうか。山本一郎さんの出番のためか、山勘の非道ぶりを表すためか。
橋のたもとで紋次郎と宗助はまた出合ってしまう。宗助は杖に縋ってフラフラと歩いて来る。足が速い紋次郎と足元が定まらない宗助がなぜ、同じ位置にいるのか不思議である。宗助は紋次郎に「宮の尾張屋が人探しをしているが、その件でどうしても宮まで行かなくちゃならねえんだ。あっしが……その……」と言いかけたとき、山勘たちならず者がその言葉を制する。「お前には手の甲に火傷の痕もないのに自分が宗助だなんて、間の抜けた騙りだ。本物の宗助は、この俺よ!」と火傷の痕を見せつけて、宗助を痛めつけ去っていく。
宗助は、自分が本当の尾張屋の次男坊なのだ。火傷の痕なんて何のことやらわからない。自分は尾張屋の身代が目当てじゃなく、女に逢いたいから宮へ行きたいのだ。兄嫁のお糸っていう女で、哀れな女だった。尾張屋なんかに嫁がなかったらきっといい女になっていたろうに……と述懐し回想する。
宗助はお糸に、簪を渡しているところを兄と父親に見とがめられ叱責される。「働きもせず酒や博奕に現を抜かし、この穀潰し!」と怒鳴られ、宗助も言い返す。「どいつもこいつも金の亡者みてえな顔をしやがって!」これには父、善右衛門も逆上して「出て行け!勘当だ!」と叫ぶ。それ以来宗助は12年間、尾張屋の敷居はまたいでいないのだ。
「……こうして無宿渡世に身を落としちまったからにゃ、堅気の暮らしに未練なんか持っちゃいやせん。ただあの女に一目だけでも逢いてえと思って尾張屋を訪ねてみようと思ったんで……引きずってでもあっしを尾張屋に連れてっておくんなせえ。」と宗助は必死で紋次郎に頼む。
紋次郎は暗い目をして宗助に言う。「宗助さん。渡世人には引き返す道なんかねえんでござんすよ。決して後戻りのできねえ道を、おめえさんはずっと歩いて来なすった。甘ぇ考えは、捨てた方が身の為ですぜ。」
親、兄弟、親類、身代、故郷に住む人々……あらゆるものを捨てて無宿となり、渡世の道に入った者は、元の暮らしには戻れない。いくら親が「許す。」と言ったところで、それは無理な話なのだ。後戻りできないので、渡世人は前に進むだけ……それが破滅的な道であろうが、危険な道であろうが……。そのぐらいの覚悟があって初めて、渡世人と呼ばれる身になれるのである。
「おめえさん、人情ってものを持ち合わせてねえのか……女に情を移したことねえのかよ!」
紋次郎は今まで嫌と言うほど人に裏切られ、住む世界が違うという悲劇を見てきた。人情だの女に情を持つだの、すべて無常の世界での出来事だと達観している。だから、絶対であったり永遠であったりはあり得ないのだ。
紋次郎は宗助に「本当にその女に逢いに行くだけなのか」と念を押す。そして宗助の「女に一目逢ったら宮を出て行く」という言葉を聞き、引き受ける。このときの紋次郎は宗助に視線を移すことがない。実に淡々と無表情で、まるでこの先の結末が予測できるかのようである。
紋次郎は宗助を背負って歩く。「地蔵峠……」と全く同じシチュエーション。高橋さんは腹痛に苦しみ、紋次郎に背負われる運命にあるようだ。原作も同じく、紋次郎は宗助を背負って宮の宿まで行くことを承諾する。しかしそれは、白帆の宗助が尾張屋には何の関わりもないということを、本人から聞いたからである。原作の宗助は、自分が何者かは明かしていない。ただ、名前が同じであるということだけである。自分が捨てた毒キノコを口にしたという、取るに足りない負い目だけで、原作の紋次郎は宗助を背負う。テレビ版のように、女への情や人情は背負わない。
中村紋次郎は大の大人を軽々と背負って歩く。歩を緩めることもなく、背中を丸めることもなく姿勢正しく歩く姿は頼もしくて格好いい。尾張屋ではまだニセ宗助が何人も来ているようで、「宗助には好き嫌いがあって、口にしない物があったがそれは何か?」と善右衛門から質問されている。男が、しどろもどろで答える。
「油揚げ!」ブブーッ!
「コンニャク!」ブブーッ!それは紋次郎が食べられない物ですね。
「長ネギ、ニラ、ラッキョウ!」ブブーッ!
さてこの三品は、実は中村敦夫さんが嫌いな物なのである。確か彼の著書「渡世人気質」のエッセイに書かれていた。さすが、敦夫さんの実弟が脚本を書いているだけあって、ここはこの兄弟だけの笑えるところなのかもしれない。もちろん、原作にはそんな記述はない。
二人は宮の宿に入る。旅籠で下働きをしているお糸が、その姿を目にして呼び止める。旅籠の裏で二人は語り合う。宗助はお糸が家を追い出されたことを知る。お糸は尋ね人の噂を聞いたら、宗助はきっと帰ってくると信じて旅籠で働きながら帰りを待っていた……と健気な想いを口にする。
宗助は、長い無宿人暮らしをしたが、所詮柄にあってない。つくづくこの渡世に愛想が尽きた。親爺が跡継ぎの自分を探しているようだから、尾張屋に戻る、と語る。お糸は「あなたは変わってしまった。私が待っていた宗助さんと違う。」と、きっぱり言う。自分が跡を継いだら、お糸を呼び戻してやると、尾張屋に戻れることを確信している宗助。お糸は尾張屋に戻ることなんかできない、行っても無駄だと語気を強めて諭す。しかし、宗助は聞く耳を持たない。
お糸は、がんじがらめの尾張屋の格式の中、逆らいながらも生き生きとしていた宗助が好きだったのだ。だのに帰ってきた宗助は、あんなに憎んでいた尾張屋の身代が欲しいと言う。やはり金が欲しいと言う。お糸が12年間も尾張屋の仕打ちに耐えてきたのも、宗吉への想いがあったからなのだ。お糸は、地位や財産に目がくらむことのない純粋な宗吉を待っていたのだった。
紋次郎は二人のやりとりを聞いていて、宗助が嘘をついていたことを知り詰問する。尾張屋の身代には興味がなさそうにしていたが、その実、意欲満々なのだから……。「宗助さん、やっぱり嘘をつきなすったね。おめえさん、ここへ連れてきたのはこの人に会うためじゃなかったんですかい?」宗助はばつの悪そうに笑いながら、「俺を運んでくれたら、百両の礼金がもらえるんだ。もうひと汗かいちゃくれめぇか。」と紋次郎に頼む。開き直ったようである。
「まだ、わからねえぇんですかい?」宗助のきょとんとした顔。「わからねぇんなら、お連れしやしょう」
お糸は尾張屋に長年嫁いでいたので、よくわかっているのだ。第一、手の甲の火傷の件はおかしな話だと、宗助を知る者は誰でもそう思うはずだ。尾張屋は何かを企んでいる。単に、宗吉を探しているのではないと……。
紋次郎もそのことに気づいている。渡世人には引き返す道はない……一度渡世の道に入った者には、帰る故郷はないのだ。住む世界が変わってしまうのだ。宗助だけがわかっていないのである。甘ちゃんなのだ。
「言ってもわからないなら、自分の目で確かめてみろ!」とでも言うべく、紋次郎は尾張屋に宗助を連れて行くことにする。尾張屋まで宗助を連れて行くという行動については、原作もテレビ版も同じではある。しかし、その経緯や紋次郎の思いには大分違いがある。
紋次郎にとって、渡世人の生き方とはどういうものなのか。「童唄……」で、「子分にしてくれ」と土下座する百姓の横っ面を殴りつけた紋次郎。心配する者がいてくれる親兄弟の元へ帰れ、と諭す。
「木っ端が……」では、渡世人が生きる世界はどんな汚い世界なのか、己で思い知れ、と三下の伝八に何かとヒントを与え、行動に走らせる。どちらもテレビ版だけの紋次郎の姿であり、渡世人に対する紋次郎の思いがよく出ているところだ。
尾張屋の貯木場の水面には、青空と山の稜線をバックに宗助を背負う紋次郎の姿が映る。なかなか巧みな撮影で趣深い。
尾張屋ではあの山勘が手下を連れて乗り込んでいる。山勘は気持ち悪い猫なで声で、善右衛門を「おとっつあん」と呼んでいる。しかし善右衛門はにこりともせず取り合わないし、山勘たちの周囲は、鳶口や手鉤を持った若い木場人足たちで包囲されている。火傷の痕があることを認めた上で、善右衛門は山勘を「厚かましい悪党」「神仏を恐れぬ極悪人」と呼ぶ。あくまでも宗助だとは認めない。そして質問をする。「七つの時に怪我をさせたのは誰か?」「乳をくれた人は誰か?」「初めて博奕に手を出したとき、ここに乗り込んできた代貸は誰か?」「亡くなったおっかさんはお前のことをどう呼んでいたか?」山勘はどれも答えられるはずがない。そしてとうとう善右衛門は、「火傷の話は作り話だ」と真実を話す。
総領息子は死ぬ間際に、自分を襲ったのは左手の甲に火傷のある男だと善右衛門に言い残す。善右衛門はその下手人をおびき寄せるため、番頭と結託してこのうわさ話を広めた。するとおびき寄せられ、まんまと下手人の山勘がやって来たというのだ。これはドンデン返しである。宗助探しだとばかり思っていたら、総領息子の平吉殺しの下手人捜しだったのだ。
「お前らごとき渡世人に、尾張屋の跡取りが殺されて到底許すわけにはいかんのじゃ!……何年かかろうと、尾張屋の身代を潰そうと、仇を討つと誓ったのじゃ!」
善右衛門の執念であり、総領息子への偏愛でもある。そしてこの後、山勘たちが暴れ回るというテレビ版の展開なのだが、原作はもう一ひねりドンデン返しがある。
山勘が悔し紛れに洗いざらい喋ってしまうのだ。実はお糸と番頭とは以前から不義密通の仲。平吉が邪魔になったので、山勘に頼んで襲わせたというのだ。平吉が死に、善右衛門も老い先短い。お糸は晴れて婿養子に番頭を迎えたら、うまくくいくという算段だったのだ。これには善右衛門も驚く。本当の厚かましい悪党、神仏を恐れぬ極悪人は身内にいたのだ。お糸と番頭はその場を逃げ出すが、乱闘の中、山勘たちに殺される。このお糸の扱い方が、テレビ版と原作で大きく違ったのである。今回のヒロインお糸は裏切ることはせず、待っていた宗助に逆に裏切られた感じである。
テレビ版の宗助は、山勘と善右衛門たちが一触即発の中に飛び込んでくる。「俺が宗助なんだ!噂を聞いて戻ってきたんだ!」これを合図のように、山勘たち一味は一斉に長脇差を抜いて人足たちに襲いかかる。
「誰にも渡すもんかい!親の身代、俺のもんだ!誰にも渡すもんかい!」と宗助は、善右衛門の前に出て長脇差を振り回し応戦する。紋次郎に背負われてきたのに、結構元気じゃないですか、とここでツッコミ。尾張屋の身代に執着する宗助の姿を、紋次郎は確かめるように見る。しかし宗助は、悪漢の一人に斬られてしまう。とその瞬間、紋次郎は宗助を斬った男に鞘走らせている。結局また関わってしまったわけである。
紋次郎は屋敷内から一味を遠ざけるつもりか、敷地内から外に走り出る。この後の殺陣はなかなかいい。広大な畑を走る。畑には何も栽培されてなく、長く畝が伸びているだけ。その畝に沿って一直線で疾走する紋次郎。後を追う男たち。斜光の中走る後ろ姿をロングで撮っている。
畑の向こうは刈り取った後の田んぼ。紋次郎が走る向きを変えた途端、追っていた男が一人、紋次郎の身体に当たって尻餅をつく。これは演出ではなく、突発的なものだったのではないか。とにかくスピード感がある。全速力で走って急に止まり、向きを変えたり転げたりする。勢い余った敵は身体をコントロールできないまま、紋次郎に斬られる。斜光に足元の雑草や三度笠が鈍く光るのも映像的には美しい。中村氏の身体のキレはよく、脚力が物を言う野性的な殺陣だったのが良かった。
屋敷の庭で宗助は、山勘が答えられなかった問いを苦しい息の中、全部答える。亡くなった母からは「親不孝者」としか呼ばれず、それが名前みたいになってしまった……という件には悲哀がこもっている。宗助の顔には死相が浮かんでいる。何とも言えない顔色だが、ちょっとメーキャップ過剰である。しかし善右衛門は無表情。
「言うことは、それだけですかね」「へい、ほかには別に……」
「でしたら、早々にお引き取り下さい。もう宗助という次男坊捜しの件は、終わったんですからね」「あっしは、何もそんなつもりで口をきいているわけじゃあござんせん」
「それなら、なおさらのことでしょう。さっさと、お引き取りを願いましょう。お前さんたちのような無宿人が、気安く敷居を跨げるような尾張屋ではないんですよ」「よくわかっておりやす」
「宗助などという次男は、とっくのむかしに死んでしまいました。たとえ尾張屋の血筋が絶えようとも、無宿人の出入りを許すよりもまだマシです」「へい」
「お前さん、工合が悪いようだから、これくらいのものならくれてやりやしょう」
そして善右衛門は、杖を宗助に投げる。原作の宗助は一言も、自分が跡取りの次男坊だと口にしていない。どうしても尾張屋に行かなくてはいけない……と、紋次郎に頼み込んだはずだったのに、強く主張しない。総領息子の仇を討つために、自分の噂を流しただけだったと知ったからか。父親、善右衛門の気持ちはちっとも変わっていなかった。それどころか、無慈悲にも追い出してしまう。一旦無宿人となった者は、血のつながりまでも拒絶されてしまうのである。宗助の胸の内には「もしかしたら」という一抹の甘い期待があったかもしれないが、現実は厳しかった。思い知らしたのは、実の父親だった。
原作の紋次郎の台詞は「参りやしょう。あっしが最初に念を押したように、わかりきっていたことじゃあござんせんかい」である。わかりきったこと……宗助は尾張屋には何の関わりもないという立場は、何も変わらなかったのである。
こうして宗助は、本当に退路を断たれた正真正銘の無宿人になった。善右衛門は厳しい父親だった。無宿人となった宗助が、この渡世でこれからも生きていくのであれば、甘えを捨てさせなければならない。紋次郎に背負われるような生きざまではいけないのだ。自分の足で歩けという意味で、杖を投げたのか。としたら、善右衛門は厳しいが父性があるのかも……と見方も変わってくる。
善右衛門は紋次郎に「こんな無宿人をなぜ運んできたのか。余計なことをしてくれると、文句の一つも言いたくなる。」と言う。そこでこの台詞「あっしには言い訳なんぞござんせん」となる。
原作の宗助はこの乱闘には加わらなかったので、怪我はしていない。杖に縋って立ち上がり、紋次郎が気づかないうちに姿を消す。街道に姿は見えず、そのかわりに紋次郎は天水桶に立てかけてある杖を見つける。紋次郎はその杖に楊枝を飛ばし、地面に転がす。原作の宗助はこのタイトル通り、「明日も無宿」のままであろう。「白帆の宗助」はこの後、この渡世で名を上げたかどうかは知らない。
さてテレビ版の宗助は、可哀相だがその後死んでしまう。息を引き取る前に宗助は、杖を貯木場の水路に投げ捨てる。後ろからゆっくり歩いていた紋次郎が、宗助に最後にかける台詞。
「だから言ったでござんしょう。渡世人に引き返す道なんか、端からなかったんでござんすよ」その言葉を背後で聞いて、宗助は息絶える。死に際の者にこの台詞は酷だなあ、と感じる。こうしてテレビ版の宗助には、二度と「明日」は来ない結末となった。この展開で宗助が生き残るとなると、お糸と夫婦になってハッピーエンドになり兼ねないので命を奪ったか。
亡骸を見下ろす紋次郎の背後でお糸が呼びかける。「紋次郎さんは、初めからこうなることを知っていたんですね」「なぜ?……なぜ、そうと知ってて尾張屋さんに宗助さん、連れてったんですか」
「あっしには言い訳なんぞござんせんよ……御免なすって」
テレビ版では、お糸にこの決め台詞を言い残し去っていく紋次郎。紋次郎が連れて行かなくても、遅かれ早かれ宗助は尾張屋を訪ね、同じような結果だったろうとは思う。(命を落としたかどうかはわからないが)因縁というか、因果というか。
紋次郎はお糸に別れを告げ橋を渡る。この橋が実に雰囲気のいい橋である。小さな橋には欄干がなく橋の下には水面は見えない。ただ枯れた葦が一面に広がる。紋次郎は水路の石に杖が引っかかっているのを目にし、楊枝を飛ばす。杖はゆっくり動き、流れに乗って視界から消える。
エンディングのナレーションで、その後尾張屋は、三河の豪商、三州屋から養子を迎えた……と締めくくっている。
中村勝行さんの脚本3本目であり、前回は「鴉が三羽……」。今回も前回に続き、奇しくも渡世人が血のつながりを頼って親を訪ねるという設定であった。そして二作とも、ほのぼのとした親子の対面は成されず、息子は死んでしまうという虚しい結末であった。
「渡世人には、引き返す道はない」紋次郎にとっては自明のことであるが、宗助にはわからなかった。そして命と引き替えに、無宿渡世人の厳しい世界を思い知った。なぜ、紋次郎とお糸の忠告を聞かなかったのかと言っても、後の祭りである。これほど高い授業料はなかっただろう。
原作では最後に、お糸と番頭の企みというどんでん返しが用意されていた。そして宗助は命を落とすことはなかった。テレビ版では、宗助を想うお糸という設定で情愛を感じる作品に仕上がっている。どちらもそれぞれ味わいがあるが、後者はやはり視聴者を意識した脚色となり、殺伐とした中にもしっとりとしたものを感じる。
今回の主役は明らかに高橋さん(宗助)で、脇役は紋次郎だった。生まれが豪商の跡取りであっても、寒村の一家離散者であろうと、紋次郎が言う通り渡世人には引き返す道はなかった。宗助も、「鴉が……」の佐七も、決してハッピーエンドにはならない原作の本質を、踏襲していたところはよかったと思う。
原作の宗助は、紋次郎が言った通り昨日と変わらない今日を迎え、明日も無宿のまま流浪の旅に出る。テレビ版の宗助は文字通り、引き返すことのできない道……死出の旅に赴くこととなる。 

 

●第14話 「白刃を縛る五日の掟」
この回の一番の目玉は「林与一」さんの出演であろう。よくぞこの番組に出てくださった、という思いである。金がらみの話で申し訳ないが、ギャラはどうだったのだろう、と思ったりもするぐらい高名な役者さん。「必殺仕掛人」は紋次郎のライバル番組だったが、そのときの出演者と共演……強力タッグである。
展開は原作とほとんど同じである。原作もテレビ版も賭場のシーンから始まる。この賭場は「板場の与右衛門」がしきっている。別名「仏の与右衛門」と言われるくらい、温厚な性格で喧嘩嫌い、長脇差を抜いたことがない。したがって土地の人々からも、慕われ好意を持たれていると原作では説明されている。
この賭場で紋次郎は、大勝ちをしていた。紋次郎の前に大量の駒札が積まれている。その額なんと約三十両。当時一両もあれば庶民が1ヶ月は暮らせると言われていたので、その30倍…… かなりの高額である。しかし、紋次郎らしからぬと言えば、らしからぬ……。ツキが回っていたと言っても、そこそこ稼いだらサッと引くのが本来の姿だろう。しかし、今回の紋次郎は違った……それがこの後、やっかいなことになるのである。
その紋次郎の前に穏やかな雰囲気で坐ったのが与右衛門である。与右衛門役は「岩田直二」さん。その風貌は、とてもヤクザの貸元には見えない。今までの貸元役でこの部類に入る人と言えば、「龍胆は夕映えに……」の文五郎役「下元勉」さん、「雪に花散る……」の仁五郎役「松村達雄」さんだろう。どこか商家の大旦那風。
この与右衛門が紋次郎に「サシの勝負」を申し出る。「サシの勝負」……いわゆる1対1の勝負であるが、思い出すのは記念すべき第1作目「川留め……」。この時は、女壷振りのお勝が「いかさま博奕」で実弟を勝たせた。
与右衛門は紋次郎に、風変わりな勝負を口にする。「自分が勝ったら、五日間、紋次郎は長脇差を抜かない、と誓約せよ」と言うのだ。奇妙な申し出である。テレビ版と原作では、紋次郎が負けたら長脇差封印……という趣向は同じだが、「エーッ!それじゃあ紋次郎サン、かわいそうじゃないですか!」と同情するのはテレビ版の方。
〇原作での与右衛門の提案
折角の勝ちを無しにすることはしない。手許の駒札には手をつけずに、勝負をする。自分は、二十両を賭ける。紋次郎が勝ったら当然、二十両は紋次郎のもの。しかし自分が勝ったら、向こう五日の間、どんなことがあろうと長脇差は抜かない。
〇テレビ版の与右衛門の提案
自分は四十両を賭ける。紋次郎が買ったら四十両は紋次郎のもの。(ということは締めて七十両の勝ち?!)しかし自分が勝ったら四十両、紋次郎からいただく。(しかし紋次郎は不足分の十両を持ち合わせていない)足りない十両の代わりに五日間、長脇差は抜かない。
テレビ版の案だが、持っている駒札以上の金額を賭けさせて勝負することは、この渡世で許されるのだろうか?という疑問が残る。原作はちょっとした気紛れからの提案といった感じだが、テレビ版は十両払えないなら、命を賭けろと言わんばかりである。どうして原作と変えたのだろうと思う。
「サシの勝負」が始まる。テレビ版では大勝負なので、壷振りは紋次郎に壷と賽子を検めさせる。このへんは納得。壷が振られた。息詰まる瞬間である。「半……」先に紋次郎、「丁……」続いて与右衛門の声。
未だにわからないのだが、サシの勝負の場合、どちらが先に言ってもいいものなのか、ということ。それともやはり、申し込まれた方が先に目が読めるのか。もし同時に、同じ目を読んだらどうなるのか。
結局、賽の目は「丁」で、紋次郎は勝負に負ける。
「年寄りに花を持たせてもらったな」と与右衛門は言葉を紋次郎にかける。「恐れ入りやした」と紋次郎。
原作では駒札はそのままということで、三十一両と二分を換金、その内六両二分を若い者への祝儀ということで紋次郎は返金している。
テレビ版では長脇差に封印をする様子が映像化されている。与右衛門の子分が「五日間長脇差を抜かない」という誓紙を細かく畳み、鍔と下げ緒に結びつける。その結び目に紋次郎は血判を押す。与右衛門は紋次郎の行き先が美濃と聞き、検分役として草鞋を脱いでいた客分をつけるので一緒に道中をしてくれと頼む。明け六つに刈谷原宿の高札場でその渡世人は待っているから……と付け加える。
「今夜はゆっくり休んでくれ」と声をかけられ、「今何どきで?」と紋次郎は尋ねる。「四つ半を過ぎた頃かと……」とそばの子分が答える。この辺は重要。
その後ナレーションが入る。「ゆきがかりとは言え、つまらぬ賭をしたと思った。だが負けたことには、別にこだわりはなかった。ただ一つだけ紋次郎の気分をを重くしたのは、吉五郎という検分役と道中をしなければならないということであった。」
三十両を手にできなかったことに、こだわりはなかったというテレビ版の紋次郎……さすが物欲のない姿である。むしろ長脇差を五日間抜けないということより、道連れをつくる方が気が重いという紋次郎に、紋次郎らしさが出ているようにも感じる。原作でも「五日間に限られているのだから、長脇差を抜けなくても不自由は感じないはずであった。」と記述してある。
しかしあれほど肌身離さず身につけ、自分の身体の一部のような長脇差が抜けないのに、危機感を覚えないのは不思議である。よほど自信があるのか、楽観的なのか……。前々回の紋次郎は、長脇差が見当たらないことに焦りの表情まで見せていたのだが、どうも抜けない長脇差であっても腰に落としていれば落ち着くようである。
場面は切り替わって寺の境内。映像を目にしただけで、懐かしさを覚えた。これは「駈入寺に……」のロケ地「丹波国分寺」である。「駈入寺に……」とはアングルが違うが、手前に銀杏の太い樹の幹が見え地面は黄色の絨毯である。この銀杏の樹は「オハツキイチョウ」(お葉つき銀杏)で、天然記念物に指定されている珍しい巨木である。別名「乳イチョウ」とも呼ばれ、枝から乳のように垂れ下がった形状のものが映像でも見てとれる。この後、墓石も見えるがこれもこの地での撮影だろう。白い霧が流れ、辺りは霞んでいるが、銀杏の落葉の様が美しく見え風情のある映像である。
寺の住職と与右衛門が、何やら親しく喋っている。傍らには、みすぼらしい恰好の小娘がいる。与右衛門は住職に、この娘のために往来切手をしたためてやってくれと頼む。住職は「まさかその娘を使いに立てるのでは?」と訊くが、与右衛門は否定する。
与右衛門と住職の話は続く。与右衛門のところに草鞋を脱いだ女壷振りが鳥居峠で斬殺され、遺体が薮原の極楽寺から送られてきたと言う。棺桶には女の亡骸。「女なら見逃すこともあると思ったが……可哀相なことをしました。」与右衛門が深刻な顔で呟く。「何とかせにゃあな、与右衛門……」と住職。
壷振り女が斬殺される様子の映像。何人かの渡世人たちに追い詰められ、滅多斬りにされる様は残酷で見ていられない。執拗に斬りつける演出は必要だったのか、とあまりいい気持ちはしない。殺される女の斜め後ろには、あの「福本清二」さんの顔が三度笠の下から覗く。
「その紋次郎とやらもさっきの小娘も、往来切手をしたためるのはいいのだが、棺桶に入って帰って来ないように祈らんとな。」と住職。「万に一つもそんなことは……」と与右衛門は答える。どうも今回の賭場での趣向は、ただの気紛れではなくからくりがありそうで、雲行きが怪しい。
小娘……と言っても、まるで少年のような身なり。この娘役に「服部妙子」さん。前シリーズの最終回「上州新田郡三日月村」で健気なお市の役で出演して以来、2作目となる。服部さんはあれから約5年経っているが、そのギャップは感じない。とは言え、原作では歳は十四、五とあるので、かなり無理があるように思う。できれば実年齢の子役を使ってほしかった。
宿場の高札場に向かう紋次郎。待っていたのは検分役の吉五郎。この吉五郎が「林与一」さん。同じ三度笠姿ではあるが紋次郎とは大分違う。一言で言うと。小綺麗である。
さすが二枚目役者と呼ばれるだけあって、林さんの容貌は美しい。顔のドーランの色は、紋次郎より2トーンは白いであろう。原作通りの吉五郎であれば、映像的にはガッカリだったので、林さんの起用はある意味、奥の手だったように感じる。原作の吉五郎の容貌は、以下の通りである。
「紋次郎も長身だが、吉五郎は更に背が高くて大男という感じであった。顔が馬のように長かった。見るからに好人物、という吉五郎の人相であった。」そして自らを「馬の吉五郎」と異名を明かしている。
林さんは中村紋次郎より10センチほど小柄、顔は面長だが紋次郎ほどではない。道中合羽の丈は、当然だが紋次郎よりは短めで、三度笠も小さめ。元歌舞伎役者で時代劇スターらしく、身のこなしや台詞回しには品があり、往年の正統派旅鴉である。異端児、紋次郎とは対照的ではあるが、作法や言葉遣いなど渡世人としてのわきまえはキチンとしていて、年季の入った風情である。吉五郎は、「何事も起こらなけりゃあいいんですがねぇ。」と言うが、起こらないはずがない。
二人は並んで歩く。同じように道中合羽を引き回しているが、吉五郎は合羽を背中に跳ね上げている。こちらの方がオーソドックス。一方紋次郎は、いつものように合羽の前を閉じている。明るく人の良さそうな吉五郎、暗く沈みきった様子の紋次郎……内面の違いを視覚的に表しているようにも見える。
途中、半端な流れ者3人組に「抜かずの紋次郎か!」と嘲弄されるが無視。五日間、長脇差を抜かないという噂は、あっという間に街道筋には伝わっているようである。紋次郎に恨みを持つ者にとっては、大きなチャンスである……と吉五郎も心配する。「与右衛門さんはあっしに、何か下心があったのでは?」と、吉五郎に尋ねる紋次郎。紋次郎、今頃気づくとは……。
その問いに吉五郎は、事情を話す。評判のいい「仏の与右衛門」をやっかむ連中がいる。それが「安原の鉄蔵一家」で、与右衛門のところに草鞋を脱いだ渡世人を、次々に叩っ斬っている。そのため、この半年賭場に立ち寄る者はいても、草鞋を脱ぐ旅人はいないと言うのだ。卑怯なやり方で、渡世から与右衛門一家を抹殺しようとしているのだ。
この無法ぶりを鉄蔵の親分筋にあたる、美濃にいる「駒場の留造」に文で知らせようと何度も使者を送っているが、いずれも途中で殺されている。先日も、頼んだ女壷振りが殺された。それで尾張に戻る吉五郎の身の上を案じて、与右衛門は紋次郎に吉五郎をつけたのだろう、と仔細を話す。
原作は「安原の鉄蔵」ではなく「太郎兵衛」。「太郎兵衛」ではいかにも弱そうな名前なので、鉄蔵としたのか。テレビ版では、温厚だが非力な与右衛門一家の縄張りを狙って、騒ぎを起こしては挑発行為を繰り返す太郎兵衛一家。無条件降伏を狙う太郎兵衛一家に話し合いなど望めそうにないし、事を荒げることも与右衛門はやりたくない。そこで、太郎兵衛が頭が上がらないとされている駒場の留造に窮状を訴え、手を下してもらおうと文を送ることになったが、いずれも失敗に終わっている。
やはり渡世の世界なので、縄張り争いの件をテレビ版も説明して欲しかった。
焚き火であぶった餅を二人は食べて、先を急ぐ。餅は当時の携帯食の一つである。
二日目、二人は騒ぎを起こしたくないので、安原を避けて通るがその姿を鉄蔵一家は捉える。鉄蔵は子分の三之助たちを刺客として放つ。三之助役に「草野大悟」さん。前シリーズ「背を陽に向けた……」では紋次郎にからみ、あっさり斬られる乞食渡世人役だったが、今回はちゃんと名前もある。
「紋次郎と吉五郎を、駒場の留造親分の所に絶対に走らせるな。何とかして紋次郎に長脇差を抜かせて、叩っ斬れ」とハッパを掛ける鉄蔵。
二人は一膳飯屋で昼飯を食べている。いつもの「紋次郎喰い」ではあるが、吉五郎という連れがいるので、少しはスピードダウンしている。吉五郎は行儀良く三度笠を外し、普通に食べている。店の奥には例の汚い小娘が、紋次郎顔負けの食べ方で飯を掻き込んでいる。与右衛門が食うだけ食わせ、三日ほど世話をして百文の金まで恵んだと吉五郎が話す。
紋次郎がさっさと食べ終わって小銭を置いたとたん、この小娘はそれをつかみ取って外に飛び出す。が、その瞬間吉五郎に足を懸けられ、転倒する。吉五郎に咎められるが、「盗まれる方がマヌケだ!」と憎まれ口を叩く。年端もいかない浮浪者が生きていくには盗みぐらい何とも思っていない様子である。「今日のところは許してやるよ」と寛大な吉五郎。紋次郎は無言で店を出る。
鳥居峠に向かう二人の後をつける三之助たち。今度はあの小娘は茶屋の豆餅をザルごとかっぱらって、店の者に追いかけられている。紋次郎の背後に隠れた小娘を吉五郎は、「今度は許せねえ!」と襟首をつかんで店主に引き渡そうとする。娘が「放せ!放せ!」と大声でわめいているところへ、紋次郎がスッと割って入り店主に代金を渡す。
「勘弁してやっておくんなはい」原作によると一分金。これはかなりの大金であるので店主は大喜び。吉五郎はそんな紋次郎の行動に驚いた様子である。原作の紋次郎は、賭場で勝った大金が懐にあるので、かなり太っ腹なところを見せるなあ、と思った。紋次郎は吉五郎の飯代も払っているのだ。テレビ版では儲けはなかったはずだが、金には執着しない紋次郎なので、大金があろうがなかろうが同じ事をしただろう。今回の紋次郎はこの小娘に、明らかに感情移入している。紋次郎は、故郷を捨て街道をねぐらとしていた、少年期の我が身を重ねている。
物陰からその様子を見ている三之助。子分からあの小娘が与右衛門の所で世話になっていたと聞き、小娘が使者かもしれないと目を付ける。紋次郎と吉五郎はお捨の用心棒かもしれない、とまで考えている。
娘は豆餅が入ったザルを抱えながら紋次郎たちの後ろを歩く。その内、自然と吉五郎と会話が始まる。娘の名前は「お捨」。その名の通り捨て子だったがうだつの上がらない流れ渡世人に拾われ一緒に旅をしていた。しかしその育ての親も2年前に死んだ。今際の際に、お捨は美濃の巻金という所で捨てられていたと聞かされ、生まれ故郷が見たくなり一人旅をしていると言う。
悲惨な境遇ではあるが、お捨は実にあっけらかんとしていてたくましい。紋次郎は、二人の会話を無言で背中で聞いている。お捨は二人の後先になりながら、一緒に道中するが、途中で三之助たち一行が後をつけていることに気づく。
三日目は大雨。飛び込んだ店で紋次郎は、お捨に簑笠を買ってやる。お捨は嬉しそう……こんな親切な紋次郎も珍しい。吉五郎はそんな紋次郎の意外な一面を見て、表情を和らげる。土砂降りの中、紋次郎たち三人と三之助たち一行が街道を往く。お捨は雨の中でもはしゃいでいる。峠で焚き火をし濡れた合羽を乾かしながら、紋次郎は初めてお捨に口をきく。「おめえさん、どうして美濃へ行きなさるんで……?」「ひょっとしたらそこに、おっかあがいるかもしれねえから……」
その夜、三人は旅籠に泊まる。テレビ版は、木賃宿ではなく平旅籠。繕い物をする紋次郎にお捨は訊く。「紋次郎さんは故郷(くに)に帰りたいと思わないか?」無言で針を動かす紋次郎にお捨は執拗に「どうしてさ?」と、顔をのぞき込むようにして尋ねる。吉五郎はお捨をたしなめる。「そんなこと訊くもんじゃねえ、人間誰だって話したくねえことがあるもんだ、」吉五郎はよく紋次郎のことがわかっている。そして自分にも、話したくないことがあると答える。紋次郎は、人に話したくないこと……と言うより、話したいことなど何一つないだろう。「あたいはよく故郷の夢を見るんだ!」お捨は純粋に故郷を見たいと思っている。見たところで、自分の境遇が一変することはないだろう。しかし自分のルーツを、この目で確かめたいと願っている。
部屋に三之助がやって来て、お捨は与右衛門の使いの者だからこっちへ引き渡せと要求する。使いの者だという証拠は?と吉五郎の問いにどこの馬の骨かわからない者にわざわざ往来切手を用意する馬鹿がいるか、と答える。
「この娘(こ)のために往来切手の面倒を見てやったのは与右衛門親分の慈悲の心でござんすよ。この娘は生まれ故郷を見たさに美濃まで道中する。ただそれだけでござんすよ。」「じゃあどうしてもこの娘は引き渡してくれねえってんですかい」「この娘を引き渡すのは、不承知でござんす」
無口な紋次郎にしては珍しく雄弁で、決意を述べる。
「このままではすまねぇものと、覚悟しておくんなさい。」三之助は荒々しく襖を開け放ったまま部屋を出て行く。
四日目の朝、紋次郎たちは旅籠を後にする。三之助たちは追ってきて抜刀し、紋次郎に長脇差を抜け!と威嚇する。吉五郎が長脇差を構えかけるが、紋次郎は首を振って制する。三之助はどうしても長脇差を抜かないのなら、お捨をこっちへ渡せと怒鳴る。
「あっしはこの娘の楯になりやす。あっしが生きてる限り、お捨はそっちの手に渡りやせん。」
なんという頼もしい言葉だろう。紋次郎が楯になるなんて最強である。「殺されても構わねえのか!」と迫る三之助を目の前にしても、紋次郎は顔色一つ変えない。そして理詰めで三之助を追い込む。
渡世の作法に従って、長脇差を封印した者を叩っ斬ったらどうなるか。抜けないことをいいことに手にかけたとなると、親分の顔を潰すことにもなる。それでもいいのか。紋次郎の冷静な言葉に、三之助はたじろぐ。
渡世人が臆病者という烙印を押されたらどうなるか、それは死を意味する……とナレーションが入る。
三之助は口惜しそうに捨て台詞を吐くと立ち去る。
このシーン、紋次郎の貫禄ある台詞回しにうっとり聞き惚れる。三度笠の縁が目の上すれすれという、一番格好良く見えるアングルもバッチリなのだが、残念なことに足元が悪い。どう見ても舗装されているようだし、おまけに白い溝蓋らしいものが画面に走っている。このあたりがチープに感じてしまう要因なのである。
その日の夕刻、お捨は峠から夕焼けを眺め「わあ、綺麗だ!」と感嘆の声を上げる。山々のシルエットが紺色に見え、空はうっすらと赤みを帯びている。お捨は嬉しそうに唄を口ずさむ。故郷が近づき嬉しいのだ。野宿のための焚き火と夕日に照らされ、紋次郎と吉五郎の姿も赤みがかかっている。「紋次郎さん、明日はいよいよ正念場ですよ。」吉五郎の言葉に、紋次郎は物憂い目を上げる。
五日目、一行は白い霧の中を往く。渓谷の音がする。右手は岩肌が見え眼下は崖という設定の中、三人は進む。お捨は一番後ろを怖々ついている。霧の中、三之助たちの襲来も警戒しながら歩を進める一行だったが、何も起こらずその内に霧も晴れる。
ここで十曲峠(十石峠)の説明がナレーションされる。原作でも説明があり、土地の者は十石峠と呼んでいるが一般には十曲峠(とおまがり峠)と聞こえているとある。「木曽路名所図会」にも書かれているので、笹沢氏は参考にされたのだと思う。お捨はこの峠を越えると美濃国なので嬉しくなって走っていく。三之助たちは現れなかったが、きっと霧で姿を見失ったのだろう。美濃に入れば奴等は手出しできない……と吉五郎は国境が眼前なのでホッとした様子。しかし紋次郎は「吉五郎さん、ここはまだ美濃じゃござんせんぜ。お捨を一人にしちゃあ、危ねぇ。」と言った途端、駆け出す。
しかし時既に遅し。お捨は峠の頂上で三之助たちにメッタ斬りにされる。あの女壷振りを執拗に斬ったのと同じである。その上スローモーションと叫び声入りという、残酷ぶり。小娘一人を殺るのに、大の男がここまでするか……とまたまた気分が悪くなった。
その点原作は良くできている。お捨が殺されるシーンは語られていない。
「霧の中の人影は、三度笠をかぶっていた。二つ、三つと人影は増えてゆく。峠路を、下って来るのだった。やはり、悪い予感が的中したのである。三之助一行は、十曲峠の頂上で待ち受けていたのであった。紋次郎は足をとめた。吉五郎も、それに倣った。二人は、霧を見つめた。黒い人影になったり、乳色に溶けたりしながら、男たちが道を下って来る。やがて二人の眼前に、最初のひとりが姿を現した。」
何が起こって何が終わったか……説明がないだけに、寂寥感と虚無感が漂う。せめてテレビ版も、白い霧でシーンを隠して欲しかった。
下りてきた三之助は、「紋次郎!とうとう小娘の楯にはなりきれなかったなぁ。あの小娘のことはすんじまったことだ。まあ、お互ぇ忘れようじゃねぇか。」と紋次郎に言う。「それでお捨は文のようなものを身に付けておりやしたかい」「いや、どうやら見込み違いだったらしいぜ」「見込み違いで殺されちゃあ、お捨も浮かばれやせんぜ」紋次郎の口調はどんどん怒りモードに入り、中村氏の声色も変わってくる。
「あっしは申し上げたはずですぜ。お捨は故郷を見たさに美濃に向かったって……」
その後三之助は、紋次郎か吉五郎が使いの者かと尋ねるが、とうとう紋次郎は堪忍袋の緒が切れる。「おめぇさんがた、どうやらドスを抜かねぇとわからねぇようでござんすね」
鍔に手をかける紋次郎に三之助は慌てる。「てめぇ、抜くつもりか!今日いっぱい、抜けねえはずじゃなかったのかい、おい!」
三之助が言うのももっともな話である。今日で五日目ではあるが、五日の間という掟だからまるまる五日は経っていない。さあ、この問題をどうクリアするか。
原作は、かなり狡いやり方と言えよう。
「吉五郎さん、霧が深くて見分けがつきやせん。もう今日という日はすぎて、夜中になっているんじゃあねえんですかい」「その通りでござんすよ、紋次郎さん」「すると、この封印はもう破ってもいいわけで……」「差し支えござんせん。検分役として、そう申し上げやすよ」「ありがとうござんす」
エエーッ!それでいいんですかい?紋次郎さん!というか、笹沢さん!どう考えても、夜中どころか夕刻でしょう。ファンとしては納得がいきやせん。
テレビ版はそこまでは露骨なズルはしていないが、それでも釈然としない。
「封印したのは子の刻前だった。その日を勘定にいれりゃあ、約定の五日間はすぎたんじゃねえんですかい?吉五郎さん」「その通りでござんすよ」
そう、あのとき紋次郎は与右衛門の子分に何刻かを訊いていた。「四つ半を過ぎた頃かと……」と答えているので今で言えば、夜の十一時を過ぎた頃。子の刻は十一時からの二時間を指すのである。日付が変わる前に封印したのだから、その日を一日目とすると今日は六日目になるというのか?これも何だかなあ、ではある。昔は数え歳、今は満年齢で数えるといった違いか。
とにかく紋次郎は、封印の誓紙を破って長脇差を抜き、三之助たちも全員ドスを抜き戦闘モード。吉五郎は地面に落ちた誓紙を、そっと袖の中に隠す。やっぱり……である。「笛の流れは……」とよく似たやり方で、文を運んでいたのである。
紋次郎は抜刀したかと思うと、すぐさま何人も叩っ斬っている。吉五郎もなかなか腕が立つようで、二人ほど斬り捨てている。殺陣のシーンは、呆気ないほど短い。カメラが動きを追っているのだが、臨場感を出すと言うよりあまりに細かくブレすぎて、画面を見ていると酔いそうになる。
三之助は追い詰められて崖を背に「待ってくれ!あんな流れモンの小娘ぐれぇ、どうでもいいじゃねぇか!」と長脇差を捨てて命乞いをするのだが、今回の紋次郎は容赦しない。「渡世人同士話せばわかること……」と両手を挙げて丸腰状態なのに、紋次郎は長脇差を三之助に振るう。その回数何と、八回も!である。よほど怒り心頭だったのはわかるが、これほど何回も冷静さを忘れて斬りつける紋次郎は初めてである。
女壷振り、お捨、三之助と、斬殺されるシーンはどれも後味が悪く、せっかく紋次郎の、心優しいノスタルジックな面が見えたのに残念である。
紋次郎と吉五郎はお捨の亡骸に駆け寄る。お捨は往来切手を右手で握りしめ、美濃の方へ向けて事切れている。
吉五郎が、お捨はただ生まれ故郷の美濃国へ向かうだけだと言ったが、なぜ紋次郎にはそれがわかったのか、と背後から訊く。「お捨は夕焼け空を飽かずに眺めておりやした。そいつは生まれ故郷を知らねえ者か生まれ故郷を捨てた者が、よくやることでござんすよ」と紋次郎は遠い目をする。原作とテレビ版の台詞は全く同じである。
紋次郎は十歳のときに故郷を捨てた。故郷を出てからどんな暮らしをしていたかは一切明かされていないので、想像の域は出ない。しかし、少年紋次郎はお捨と同じように、夕焼け空をよく眺めていたのだろう。まだそのときは、紋次郎の心は死んでいなかっただろうし、郷愁を誘う夕焼けを美しいと思う気持ちもあったのだろう。長年アテのない旅を続け、虚無的な心になってしまった紋次郎には、峠を越えたり夕焼けを目にしたりしても何一つ心は動かされない。
しかしお捨に出会い、自分がまだ人並みの心を持っていた頃のことを思い出したのだろう。そしてそれが、「お捨の楯になる」という言葉を言わしめたのである。紋次郎はお捨に自分を投影し、生まれ故郷を見たいという無垢な願いを叶えたかったのだ。お捨の楯になり、その純粋な気持ちを守りたかったのだ。
しかし結局、お捨を守りきれなかった……理不尽で残酷な死。ささやかな幸せも味わえずに、お捨の命は果てた。
吉五郎は「実は……」と事の顛末を話す。与右衛門に頼まれての使いは吉五郎だったのだ。原作では文は吉五郎が所持していたが、テレビ版では封印の誓紙がそれと入れ替わっていて、紋次郎が運んでいたことになっている。あのとき、紋次郎が目を離した隙に、子分が文と入れ替えたのか……そんなことできたのかなあ、という疑問は残るが。紋次郎はすべて推理していたようである。
吉五郎は「お別れいたしやす」と、ひとり先に峠を下りて去っていく。この吉五郎が後の「神戸の長吉」となり、荒神山で穴太徳次郎と血の雨を降らせるのである。実在した渡世人との接点が「新……」ではよく出てくる。
この後テレビ版の紋次郎は、原作にはない行動をとる。お捨を道標に凭れさせて、美濃の方に向けて坐らせてやる。このときの服部さんの演技は大したものである。お捨は目を開いたまま死んでいるので瞬きは許されない。そして口許は少し開いている。この死顔のあどけない表情を、ずっと維持しているのだ。
初めもっと若い子役の起用を……と書いたが、このあたりの演技はやはり場数を踏んだ女優さんが必要だったようだ。「お捨さん、おめぇさんの故郷ですぜ」と顔をそちらに向けてやり、散りそうな往来切手に楊枝を飛ばす。「峠に哭いた……」から始まり、最近では「笛の流れは……」でもあった一連のお約束バージョンである。BGMは電子ピアノの音色。現代劇のホームドラマで使われそうな曲想である。やはり前シリーズの方が泣ける……。
去っていく紋次郎の姿。逆光の中、手前にはススキが白く光り、黒いシルエットは足早に遠ざかる。BGMはなく、木枯らしの音。これはなかなか良い。
今回で惜しむらくは、残酷な斬殺シーンに尽きる。この演出がなければ随分良くなったのにと思う。それと原作でも問題だと思うのだが、長脇差五日間の封印。日数の数え方であったり、霧のため時刻不明だったり……紋次郎には卑怯な真似をしてほしくなかった。
紋次郎ほどの腕前であれば、長脇差を抜かずとも鞘で敵を倒せたはずである。「抜かずの丈八」もいたではないか。ズシリと重い頑丈な鞘なのだから、致命傷ぐらいは負わせられただろう。そちらの路線で切りぬけて欲しかったと思うのは、私だけだろうか。 

 

●第15話 「人斬りに紋日は暮れた」
「紋日」と言われてもピンと来ない人が多いのではないだろうか?紋日は物日(ものび)とも呼ばれ、年中行事や冠婚葬祭などが行われる日……「ハレの日」のことである。ちなみにその逆は日常という意味で、「ケの日」となる。今回のタイトルには数詞は出てこないが、「三日で七両」という言葉がずっと紋次郎に重くのしかかる。
原作とテレビ版では大分テイストが変わっている。脚本は白鳥浩一さん……と言えば中村敦夫さんのペンネーム。中村氏が脚本を書き、監督は池広一夫さん。「新……」での監督は2回目で、前作は「明日も無宿の……」である。テイストが違うのは、登場人物のキャラクターとクライマックスの演出である。
出だしは、白い霧が立ちこめる山中。深い霧の中、浮かび上がる紋次郎のシルエットは、映画版のように縦長。池広監督の意表を突く演出でかっこいい。原作では、紋次郎の首を狙うある一家の子分たちに追われているため、林の中で身を隠して夜を過ごす。その野宿の仕方が凄いのである。季節は晩秋、初雪も降ろうかという寒さの中、山中で一晩過ごすにはどうすればいいか。
紋次郎はさすがに旅慣れているし、多分今までもそういう経験があったのだろう。ためらうことなく、淡々と作業をする。長脇差を使って地面を掘り、その穴の中に膝を立ててすわるのである。三度笠はかぶったままであるので、地面から頭と三度笠が生えているような感じ……ちょっと森のキノコっぽい。穴の周囲に落葉や枯れた枝をまき、人間や獣が近づいたらそれを踏みしめる音で気づけるようにまで念を入れている。まさにサバイバル。これで凍死は防げるとあるので、もしもの時は(そんな時があるかどうかは?)この手を使おうと思う。
穴の中で長脇差を抱き、イモの切干しをゆっくりかじり眠りにつく。しかしかすかな音で反射的に目をあけ、素早く楊枝をくわえる。野性の研ぎ澄まされた能力であるが、こんなときでもまず楊枝をくわえるところが凄い。
弓矢が飛んできて、紋次郎は肩を負傷。霧の中、近づく相手を確認できないままふるった長脇差が誰かを斬る。テレビ版では穴を掘ったり、一家に追われているという設定を作ったりはしていない。霧の山の中を歩く紋次郎に、いきなり弓矢が飛んできて誰かが飛び出してくる。穴を掘る手間と時間が惜しかったのだろう(笑)。
斬った瞬間「キャーッ!」という女の悲鳴。明らかに敵ではないというのがわかり、紋次郎は驚く。肩を押さえてうずくまる紋次郎と、胸のあたりを斬られて倒れる娘。駆け寄ってくるのは弓を放った猟師の弓勘。猪と人間を間違えるなんて、と自分の落ち度を詫びながら先に紋次郎の傷の手当てをしようとするあたり、テレビ版の弓勘の律儀さがうかがえる。
紋次郎は「それより娘さんを先に あっしも早まったことをしちまった」「……娘さんを先に、あっしは慣れておりやすから」と傷つけた娘の気遣いをする。あっしは慣れておりやすから……の台詞が紋次郎らしい。その言葉で初めて弓勘は娘のお香のもとへ駆け寄る。襟元を広げると、傷は浅いが胸に一直線に走る刀傷が見える。原作のお香は気を失っているが、テレビ版のお香は弓を射られた紋次郎の方を気遣う。さすがに弓勘の娘だけあって気丈である。「気持ちのいいお人でなあ、自分の傷よりおめえのことを心配してくだすっている」と弓勘。
弓勘……名は勘太郎。的を外したことがない名物男として、弓勘で通っている。弓勘役に「鈴木瑞穂」さん。重厚な役者さんで頑固一徹な猟師といった感じである。原作の弓勘は、人のいい素朴な老猟師風で、キャラクターが違う。
弓勘の娘は、お香で「秋野暢子」さん。この時、秋野さんは21歳。紋次郎の相手役としては、今までになくかなり若い。原作では、17〜18歳の色白で、可愛い顔立ちと記されている。秋野さんは今と違って幾分ふっくらとされている。素朴でありながら、キリッとした一途な雰囲気がある。
弓勘はお香を背負って、紋次郎と共に道まで下り別れを告げる。
「ここでお別れさせていただきます。」「詫びても取り返しのつかねえことでござんすが、あっしになんかできることがありやしたら言っておくんなはい。」「とんでもねえ、こっちが殺されても文句を言えねえような間違いを犯したんでごぜえますから、どうか後のことは心配なさらねえでおくんなさいまし。」
「お香さん、どうぞお達者で……」「紋次郎さんもお達者で……」(ドラマ)背負われている弓勘の肩越しに、紋次郎を見るお香の目には、はにかみと甘えが感じられる。秋野さん、若いながらなかなかの演技力である。
テレビ版の紋次郎が、お香に初めて声をかけた言葉は「どうぞお達者で」という別れの言葉。この台詞がいつもながらいい響きであるし、温かみのある言葉である。お香も同じように返しているし、紋次郎の名前まで口にしている。紋次郎はどうも名前を明かしたようである。原作では
「では、そのお言葉に甘えさせて頂きやす。堅気の衆にお聞かせするような名は持ち合わせておりやせんので、名乗らずにこの場から引き取りやす。ごめんなすって……。」と名前を明かさないまま、一旦別れている。そして、お香には一言も言葉をかけていない。原作のお香は気を失ったままであるので、仕方ないが……。
この三人は、お互いを気遣っている。誰も相手を責めようとはせず、へりくだった物言いである。原作でも弓勘は、お互いさまの災難だったということで、忘れたほうが気が楽になるから案じるな、と言っている。今の日本では、考えられないことであろう。「訴えてやる!」(笑)とばかり、お互いの非を罵り合いそうな例である。
笛吹川の橋作りのため、人足たちが忙しく働く作業場をすり抜ける紋次郎。「人手が足りないから働かないか?」と声をかけられるも、「先を急いでおりやすんで。」と断り行き過ぎる。細かい雪が斜めに降っていて、足元にもうっすら雪が見える。伐採する映像や丸太が積まれたりしているので、北山あたりの撮影かもしれない。
ここで芥川氏のナレーションが入る。冬の間だけ使われる笛吹川の仮橋作りが行われ、橋が完成したら3日間笛吹川神社で祭礼が行われる。その期間は殺生禁断ということで狩猟と漁獲が禁じられ「紋日」とされた。
祭礼の幟や太鼓、酒樽が見え、笛吹川神社とされる映像。一目でわかったが、この社は「鳥居本八幡宮」である。全く当時と変わっていないロケ地であることがうれしい。
実はお香は大きな旅籠を営む甲州屋の跡取りとの祝言が控えていたのだったが、胸の傷で破談になってしまう。テレビ版の弓勘は、わざわざお香の胸の傷まで甲州屋に見せ、包み隠すことをしない。潔いとは思うのだが、お香の気持ちを考えると残酷な筋の通し方である。甲州屋は、疵ものになった娘を嫁に迎えるなど言語道断、即刻破談とし、いたわりの言葉もない。それどころか、弓勘に貸していた十両を4日以内に返せと言う。
「金の切れ目が縁の切れ目」とよく言うが、これはその逆、「縁の切れ目が金の切れ目」である。主人の横には跡取り息子が控えてはいるものの、強く父親に反抗もしない。急に十両を返せと言われ、おまけに紋日は狩猟ができない……弓勘は苦渋の表情を浮かべる。元はと言えば、自分が紋次郎と猪とを見間違ったために招いた不幸である。
テレビ版では借金は十両となっているが、原作では二十両。弓勘は家族の者が流行病に冒され、その薬代に、ということで甲州屋から金を借りた。甲州屋は、お香と息子とが祝言をあげるという前提で出した金だが、破談となり赤の他人になったのだから返せと言う。原作も同じく薄情なものである。
テレビ版は弓勘とお香が帰るのを、甲州屋の息子が呼び止めて謝るのだが、それは口先だけのことだった。お香は「私と駆け落ちして。」と迫るが、「それはできない。」と跡取り息子は断る。好きだ、惚れたとは言っても、所詮それくらいのものだったのだ。お香は「あなたのところに嫁がなくてよかった、」と、自ら別れを告げる。
一部始終を聞いていた弓勘は、「おめえは立派だった。やっぱりおめえは俺の娘だ。強い強い娘だ。これぐらいのことで泣くような弱虫じゃねえぞ……俺の娘は……。」と一言一言をかみしめるようにお香に言う。しかしそれを聞いた途端、お香は木の陰で涙を流すのである。あんな強がりを言ったものの、やはり若い娘としては身体の疵とそれに伴う精神的ショックは大きい。
テレビ版の紋次郎は、茶屋で「紋次郎喰い」をしている最中、弓勘の噂を聞く。お香が破談になったこと。弓勘は借金で困っていること。お香の怪我は、転んだ拍子に山刀が刺さった事になっていること。紋次郎の箸が止まり、三度笠の下から見える表情には複雑な思いが読み取れる。客の噂話を聞きながら、紋次郎は猛烈なスピードで食べ終わる。そしてすぐさま金を置いて外へ飛び出し、弓勘の家に急ぐのである。
戸外で声を発する紋次郎。お香の「どなたさんで?」の問いかけに「霧の中でお会いした紋次郎でござんす。」と答える。「霧の中でお会いした………」なかなか粋な言い方である。「紋次郎」と名前を聞いてお香は嬉しそうに戸を開ける。
先日の詫びを入れ、お香が「どうぞ中へ……」の言葉に、敷居を跨ぎかける紋次郎に鋭い弓勘の声。「入っちゃならねえ!」「一端の渡世人ならわかるはず。ヤクザが堅気の家の敷居を跨げるはずがない、甘ったれるな!」……の厳しい言葉に、紋次郎ははじかれたように顔を上げる。そして「失礼しやした。」と、まるで叱られた学生のように深々と頭を下げる。「お互いの傷のことは決着がついているはず。貧しい造りだがここは堅気の猟師の家。無宿者にこれ以上、用はない!」と、取り付く島もない。
毛皮を売っても足りないという七両を何とか工面したい、と申し出る紋次郎に無宿もんにそんな金ができるはずがない、と断る弓勘。「自分の責任でなってしまったことで、お前さんには何の関わりもないこと。おめえさんみたいな輩のことは信じられない。とっとと帰ってくれ!」
弓勘は、紋次郎を頑なに拒絶するが、それは相手に対する思いやりの裏返しだと思う。狙った獲物を外したことがない、と言われるほどの自分がしくじったのである。自分に対しての怒りが感情を支配しているのであって、紋次郎に怒っているのではないのだ。原作にはない、頑固で自分に厳しい誇り高き男として、テレビ版の弓勘は性格付けされている。その姿はまるで孤高の武士。俳優、鈴木瑞穂さんが纏う佇まいが為せる業であろう。
「わかりやした。あっしはあっしで己に落とし前をつけさせていただきやす……ごめんなすって」
この台詞は、テレビ版オリジナルである。紋次郎と弓勘の意地と意地がぶつかり合う、なかなかいい台詞である。
原作の紋次郎は噂を耳にはするが、弓勘の家を訪ねたりはしていない。何とかしなければならないと、弓勘には秘密裏で償いの金を作ろうとする。
弓勘はお香の祝言のことは一言も紋次郎に言っていない。そしてお香は、山で転んで自分の山刀で怪我をしたと言って、紋次郎に斬られたことは伏せているようだ。
「そうした父娘の心意気に、知らん顔をしてはいられない。他人のせいにして責任を押しつけたり、償いを求めたりする連中と、心の中の美しさが違っている。だからこそ、余計に紋次郎の胸は痛むのであった。これまでにない大きな借りを、 返さなければならなかった。金で償いきれるものではないが、ほかに方法がなかった。」
紋次郎は、人の美しい心に共鳴する。それは、紋次郎も同じ波長の心を持っているからだと私は思う。同じ波長の心が共鳴し合うことで、紋次郎はより確固たる目的を持って行動を始める。
「借金分二十両と、今後のお香のためにせめて十両ぐらい、全部で三十両の金を渡して、それで償いをすませたことにしてもらおう。」と、紋次郎は考えるのである。
テレビ版では、お互いの意地と意地とがぶつかり合い「己に落とし前をつける」と、弓勘に公言する紋次郎。原作では、素朴で美しい心が共鳴し合い、父娘の心意気に応えようと己に借りを課す紋次郎。テレビ版も原作もご存知であるファンは、どちらがお好みだろうか。テレビ版ではこの後、お香との展開や最後の決闘も用意されているので、紋次郎は弓勘の家に姿を見せる必要があったわけである。
私としては、原作の方がより紋次郎らしいと思う。紋次郎としては、弓勘に余計な気を遣わせたくないから、自分が何とかする!と、本人の前で言い切ることはないだろう。
敷居を跨ぐことなく紋次郎は去っていくのだが、その後をお香が追う。「ほっとけ!」と呼び止める父親の言葉を無視して……。追いついたお香は、紋次郎の少し後ろを歩きながら父親の非礼を詫びる。
「弓勘さんは立派なお人でござんすよ。」
「あっしは足元にも及ばねえ。」
「無宿もんなんて、人様の顔をまともに見られた身分じゃねえんでござんすよ。」
紋次郎にしては雄弁である。すると今まで背中に話しかけていたお香が、思い切ったように紋次郎の前に回り込み面と向かう。
「紋次郎さん、私にはわかるんです。紋次郎さんが優しい人だって。ね、そうでしょ?本当はとっても優しい人なんでしょ?」
この台詞には引っかかる。「本当は優しい人」と言えるのは、紋次郎が人との関わりを断る薄情で冷たい渡世人……という巷の噂を知っている者だけであろう。お香はそれを知り得ていたか。まず考えられない。
「とんでもねえ、ただ自分勝手な考えで動き回っているだけでござんす。」
「自分が心の優しい人だってことを恥ずかしがっている。山の中で育ったわたしにはその気持ちがよくわかるんです。」
自分が優しいということを恥ずかしがっている……紋次郎をこのように評した人物はいないだろうし、それをストレートに本人に言うとは……紋次郎も面食らったことだろう。
「お香さん、帰っておくんなはい。おとっつぁんが心配しておりやす。」
「きっとまた、来てくれるでしょ?」
「約束のものが都合が付いたら、必ず。」
「そうじゃなくって……私の為に……」
私の為に……これはお香の告白である。お香はどの場面で、紋次郎に心を引かれたのだろうか。金を工面すると、再び会いに来たときか。とすれば、あまりにも告白までがスピーディーすぎる。あと考えられるのは、お香が斬られ倒れたとき、父親から「気持ちのいいお人でなあ、自分の傷よりおめえのことを心配してくだすっている」と言われたときか。破談になり、許婚を失ってから人恋しくなったのか。お香が人を見分けるのに長けているのは何となくわかるが、それならあんな許婚の男の本性をもっと早く気づくべきである。まあそれはいいとして、紋次郎にとっては、苦手なシチューエーションであることは確かである。
それを振り切るように「ごめんなすって」と、頭を下げる。
「紋次郎さん、私の傷のこと、心配しないで……」そんな風に言われると、余計に気になってしまうではないか。紋次郎はゆっくり振り返り、目礼して歩き始める。ここで主題歌「焼けた道」が流れる。「新……」でバックにこの歌が流れるのは今回が初めてである。紋次郎は木馬道のような木の橋を渡っていく。
紋次郎は歩く。山道には落葉が舞い散る。後ろ姿を少し俯瞰するように歩調に合わせての撮影。珍しいアングルである。手前にはきれいに耕された畑。向こうには水面が見え、その間を歩く姿はオープニングと同じく、映画のような撮り方である。落葉した木々と紋次郎の姿は黒いシルエットとなり、水面の反射とのコントラストが美しい。紋次郎は懐から持ち金を掌に載せる。文銭が5〜6枚という懐具合では、三日で七両は程遠い。
一方、下石田の徳之助の賭場では素人の商人が大勝ちをして四十両を手にする。「勝ち逃げですかい?」と嫌みを言われるが、いっこうに気にしていない。案の定、商人は旅先で徳之助一家の者に斬殺され、金を奪い返される。しかしその悪行を目撃していた者がいる。原作では、その目撃者が誰であるかはずっと伏せてあり、どんでん返しになるのだが、テレビ版ではその後ろ姿から弓勘だと明かしている。徳之助は子分に、「弓勘に金をつかませて口封じしろ。それでもうまくいかなかったら、殺害しろ。」と命じる。
結局紋次郎は、博奕で金を稼ぐことにする、というか、それしか術がない。徳之助の賭場で有り金を全部駒札に変え、勝負に出る。テレビ版ではあっさり負けて、駒札を全部取られるのだが、原作はもう少し長丁場である。それに休憩中、弓勘の窮状を耳にし、紋次郎は居ても立ってもいられずまた勝負に出る。いつもは博奕に冷静な紋次郎だが、今回は違う。それを原作では「これほど勝負に熱くなったのは、恐らく初めてのことだろう。」と記述している。一進一退ながらもジリ貧となり、とうとう夜が明けたときには一文なしになっていた。元手がないと、どうにもならない。
紋次郎が、笛吹川の橋を作る人足となるのは、原作もテレビ版も同じなのだが、原作ではその間に悩ましい誘惑がある。無一文になって賭場を後にした紋次郎は、雑木林で今まさに心中しようとしている男女に出くわす。声からすると、商家の娘とその奉公人。しかも娘は「おコウ」と呼ばれている。紋次郎は「お香」と重ねてギクリとなり、雑木林に飛び込む。紋次郎が目にしたのは息絶えた男女の姿と、散らばった小判。胴巻きからこぼれ落ちたものらしく、四十両はあろうかという大金である。
「喉から手が出るほどとは、こういう気持ちを言うのだろう。 誘惑を感じた。自分のものにするわけではない。この四十両で、同じおコウという名前の娘が、少しはしあわせになるのだ。そうした意味で役に立つのであれば、死んだおコウの供養にもなるはずだった。手を伸ばした。だが、紋次郎は思い留まった。やはり、盗みはできない。」
ファンとしては、紋次郎が一瞬でもそんなことを考えるなど思いたくない。しかし、紋次郎も聖人君子ではなく生身の人間なのだ。窮すれば、揺らぐのは当然であろう。「土煙に絵馬が舞う」では、絵馬に隠された百両もの小判には見向きもしなかった紋次郎。金に対して「喉から手が出る」感覚を持ったのは、初めてであろう。
紋次郎は諦めて博奕の資金作りのため、仮橋作りの人足になる。日当は百文である。百文が現代ではいくらぐらいになるか?米価で換算すると、千円前後。大工の賃金から換算すると、、一万円足らず……さてどちらを採用するか?原作では「一日だけ働いて百文になるんだから、悪い話じゃあないよ」と噂している記述がある。とすれば、この場合一万円ぐらいの方が妥当だろうか。
テレビ版の紋次郎は原作よりずっと仕事は楽である。原作の仕事は木を切り出す仕事ではなく、冷たい川の中に入っての作業である。十二月の二十日過ぎという設定であるから、かなりの重労働。さすがにテレビ版では、水の中での撮影は避け、杣人風に変更されている。「杣人」と言えば、「帰って来た…`」での紋次郎が頭に浮かぶ。原作の紋次郎はゾッとする寒さの中、苦労して得た百文銭をじっくり見やり、祈りたい気持ちになる。
テレビ版の紋次郎は、ゾッとする水の冷たさどころか、ほんのり温かい雰囲気である。作業場に姿を見せたのはお香。風呂敷包みの弁当を胸に抱き、紋次郎に手を振る姿はまるで新妻気取りである。二人が腰を下ろす河原の向こうには、滝が見える。この滝は北山、清滝川の支流菩提川から落ちる「菩提の滝」と見られる。
手渡されたわっぱ弁当を開けると麦飯、丸干しの魚、大根の漬物、煮物、梅干し……となかなかの力作。お香は箸を手渡し、長楊枝を紋次郎の口から抜き取り預かる。一連の動きが実に自然で、まるで長年連れ添っているかのように見える。こんなことをしてもいいのか、と尋ねる紋次郎に、おとっつぁんには怒られるだろうが、そっと来たから大丈夫と答えるお香。
人足頭から、ここで働いているということを聞いたらしい。弓勘は、「あの旅鴉、できもしねぇことを本気でやるつもりだな。」と紋次郎を評しているという。原作の金額はちょっと無理かも知れないが、七両ぐらいなら紋次郎にツキが回っていればできないことはない。前回の「白刃を……」では、一晩で四十両を稼いだ(元金は不明)紋次郎の腕である。
お香は毎晩、賭場で勝負している紋次郎の噂も聞き及んでいて、「無茶なお人」と評している。「でも私、そんな紋次郎さんが、好きです。私のために一生懸命なんですもん。」
果たして、紋次郎はお香のために一生懸命なのか?私は少し違うように思う。お香への同情もあるだろうが、「自分が動かしてしまった駒は、自分で元に戻す」という信念の方が大きいのではないだろうか。不可抗力とはいえ、お香の将来を動かしてしまった。元に戻すことはとても無理である。せめて金で償えるなら……と七両を稼ごうとする。しかし考えようによっては、七両では借金を返しただけであるので、償いにはならない。お香の将来という駒を動かしてしまったことに責任を感じるなら、原作のようにもっと金を上積みしないといけないのではないだろうか。
しかしこのお香は、なんて自分の気持ちに正直なのだろう。大胆な内容をあっさりと紋次郎に聞かせている。しかし当の紋次郎と言えば、そんな大胆告白なのに大きな反応もなく、箸を動かしている。まるでそんな言葉は、耳に入っていないかのようであるが、演出はこれで良かったのだろうか。箸をとめて顔を上げて見つめ合う……というシチュエーションはあり得ないが、何らかの反応はほしかった。
紋次郎にとってお香の告白より衝撃を受けたのは、弓勘が命より大事な弓を手放し、金に換える覚悟をした、ということである。それは猟師をやめるということを意味する。その話を聞かされたとき、驚いた顔のアップとなる。
「私たちとお百姓して暮らしません?……私の旦那様になればいい。」「とんでもねえこって。お香さんがあっしを憎んでいねえってことだけで、あっしには過分の情けでござんすよ。」「世の中、やってできないことないでしょ。」
この展開は何となく「旅立ちは三日後に」に似ている。足を洗って百姓になる……温かい家庭を持ち、流浪の旅を終える。それも相手女性からのお誘いである。「新……」での紋次郎は、前シリーズよりよくモテる。「やってできないことはない」とお香に言われるが、「旅立ちは……」ではやはり安住の地は得られなかった。三日も保たなかったのである。
「お香さん、旅の者にみだりに心を許しちゃいけやせんよ。」この言葉にお香は、寂しそうな顔をする。実質、断られたようなものである。「今すぐ返事くれなくてもいいんです。また来ますから……」お香は紋次郎の背後で言葉を告げる。
この二人きりのシーンでの紋次郎の演技は、難しいところだったのではないだろうか。中村氏が書いた脚本のはずだが、彼本人が苦手とする場面のように思えてならない。中村氏の表情は、「旅立ちは……」のときと同じで、いつもの紋次郎らしさが全く消えている。身につけているものも作業着風だからかも知れないが、純朴な杣人そのものである。
今回の原作と大きく違うところは、お香が深く紋次郎に関わるように描かれていることである。それも紋次郎に思いを寄せるというバージョン。もう一つは弓勘の描き方。以下はテレビ版の展開である。
徳之助一家の者が弓勘の口封じにやって来る。役人が商人殺しの下手人を捜しているので、バレたら大事になるのだ。弓勘は自分から代官所に訴えには行かないが、尋ねられたら話すと言う。「仕事はだれの仕事でも、敬意を払わなくちゃあならねえ。」と役人の仕事のことを指しているが、これは自分の仕事である猟師に対する誇りも言っている。子分は借金の肩代わりだと、小判を積むが「痩せても枯れてもこの弓勘。金で己は売らねえ!」と一蹴する。気骨ある武士そのものである。
その夜弓勘は、徳之助一家の者に襲撃される。しかし弓と刀であっさり撃退する。弓の腕だけでなく刀の扱いも大したもので、一味の腕が長脇差を握ったまま、ゴロリと落とされる。
一方紋次郎は、また百文をすべて駒札に替えて賭場に坐る。壷振りは前回と違っていかにも一癖ある男。徳之助に、自分を売り込みに来ていた流れ壷振りでかなりの腕前……要するにいかさま壷振りなのである。向かい合う紋次郎と壷振り。二人の視線がぶつかり合う。紋次郎は気づいている。結局紋次郎は、立て続けに2回負けて賭場を後にする。「あと、二日……」紋次郎の呟き。
徳之助は弓勘の口封じを失敗して焦っている。弓勘に太刀打ちできる子分はいそうにない。そこにさっきの壷振り「金蔵」が、賭場に来る紋次郎がどうも金に困っているらしいから、使えるのではないか、と助言する。金蔵は以前紋次郎が一瞬にして、敵を叩っ斬ったのを見たことがあると言って回想シーン。このシーンは「笛の流れは……」での、合羽が前にクルンと回ってしまった「道中合羽が涎掛け」の殺陣。ここでも徳之助が、「大前田の八人衆、駒形の虎八を叩っ斬った野郎か?」と紋次郎を評している。どこまでも引っ張るらしい。
次の日の賭場で紋次郎は、壷振りの金蔵のいかさまを見破る。楊枝を飛ばして真っ二つに割れた賽子。中にはおもりが入っている。重心を変えて、決まった目が出やすく細工されたいかさま賽子である。見破られた徳之助一家は、紋次郎を拉致して縛り上げ、リンチ。
「金に困っているようだが、人斬りをしたらその金を用立てる」と徳之助は話を持ちかける。「誰を殺るのか?」と紋次郎は問う。そしてその相手が「弓勘」と聞いて、なんと紋次郎はその人斬りを引き受ける。もし自分が死んでもその金は手に入るのか、と念押しをして前金を手にする約束をさせる。命を奪う相手が弓勘ということを知る、テレビ版の紋次郎。
取引を交わした紋次郎の表情は、「死」を覚悟している。七両のために、弓勘に殺されてもいいと思っている顔だ。かくして弓勘の元にも「決闘状」が届き、弓勘も相手が紋次郎だと知る。お香は「これにはきっと裏がある」と必死に止めるが、弓勘は怒りの言葉を吐き決闘に臨む。
紋次郎が、人斬りを引き受ける……あり得ない展開である。しかし、原作も引き受けているのだ。原作では、いかさま博奕云々はない。ある親分の賭場に行くが、負けて一文無しになる。その後、心中者の所持金に心が動くが結局手を付けない。そして人足で稼いだ百文を元手に再び賭場へ……と思ったところへ、徳之助の子分が賭場に誘う。紋次郎は近場の徳之助の賭場に足を向けるのだが、賭場は開かれていない。徳之助は金に困っている紋次郎を賭場を口実に誘い込み、敷居を跨がせたのである。敷居を跨いだ紋次郎は、徳之助から「客人」と呼ばれる。親分の元に草鞋を脱いだ者は「客人」となり、親分の頼み事は無条件で聞かなければならないのが、渡世の掟である。
原作での徳之助は、「渡世の掟」を口実にして紋次郎に人斬りを引き受けさせるのである。以下は原作での紋次郎の心の動きである。
「二十五両の切餅が二つ、合わせて五十両であった。紋次郎の目は、二つの切餅に吸い寄せられた。長いあいだ捜し回っていたものを、いま見つけたというような気持ちだった。紋次郎の頭の一部が、痺れ始めていた。」
「礼金をもらって人斬りの役を引き受けたのは、これまでに一度もなかった。迷うというよりも、紋次郎には一大決心が必要であった。しかし紋次郎の気持は切羽詰まっていたし、目の前の五十両を逃がしたら二度と大金には縁がないだろうと、思えてならなかったのだ。」
そして紋次郎は、懐中にある百文銭で賭場に行き、三十両を稼げる可能性は千に一つもない、と考える。
「それより、目の前にある五十両を勘太郎父娘に渡したほうが、問題にならないくらい確かだった。そうすべきである。いや、そうしなければならないのだ。」
しかし、相手が誰であるのかは伏せてあるので、読者もわからず、その後の「どんでん返し」につながる。この時点で、原作の紋次郎には正直失望した。相手が誰であろうと、「五十両」という前金で人斬りを引き受ける紋次郎。なぜ引き受けたのか。弓勘やお香に義理立てするのはわかるが、だからと言って見ず知らずの誰かの暗殺を引き受けるのだろうか。どうしても納得いかない。この回の紋次郎は、私の中では別人である。
この脚本を書いた中村氏も、その点が納得いかなかったのではないだろうか。原作の紋次郎のままでは、いくら客人としての渡世の掟があるにしても、人斬りを引き受ける道理がないということで、大幅に変更したのではないか。
そしてテレビ版の紋次郎は決闘の場面を迎える。何度も渡った例の橋である。徳之助一家は弓勘に見つからないように、身を隠して成り行きを見届けようとする。
弓勘と紋次郎の一騎打ちである。紋次郎は弓勘に「一の矢を避けることができたら、二の矢をつがえる前にお前さんを斬る!本当に斬りやすぜ!」と宣戦布告。「つべこべ言うな!」と弓勘は矢をつがえる。紋次郎も長脇差を抜く。斜め下からのアングルは格好いいが、どのようにして撮影されたのだろう。橋の下から?下は川のはずである。弓勘を絶対に斬るはずがない紋次郎が、この台詞を敢えて言うのは、弓勘のプライドを尊重してのことだろう。
この設定は、まさに西部劇の決闘シーン。限られた範囲で紋次郎は、合羽を翻し的を絞られないように激しく動きながら弓勘に迫る。弓勘もその動きに惑わされ一の矢を放つが、合羽を床板に縫いつけるのみ。紋次郎はその言葉通り、弓勘に向かって突進するが、弓勘の放った二の矢が鋭く胸に突き刺さり橋の上に倒れる。お香の叫び声「紋次郎さん!」と視聴者の心の叫びが重なる。倒れた紋次郎の背後から、バラバラと徳之助一家が現れる。弓勘はその連中に向かって弓を放とうとするが、なんと紋次郎は起き上がってそれを制する。
矢は紋次郎の胸ではなく、振分け荷物に刺さっていたのだ。まさにマカロニウエスタン「荒野の用心棒」である。さすがに鉄板ではないが、振分け荷物とはよく考えたものである。もともとテレビ版紋次郎は、マカロニウエスタンの要素が、そこかしこに散りばめられているのは確かである。この手のオマージュは、今までにも数多くあった。「荒野の1ドル銀貨」もその類であろう。
この後紋次郎は、「弓勘さん、おめえさんは堅気だ。人なんか殺しちゃあいけねえ。ここはあっしにに任せておくんなさい。」と言って、徳之助一家に向き直る。
「裏切りやがったな!」と徳之助は驚いて叫ぶ。「弓勘さんとの勝負はあっしの負けだ。あっしは一度死んだ男だ。おれはおめえさんとの約束は果たしたぜ!」「いかさまやりやがって!」「これがいかさまだったら、おめえさんの賭場のいかさまも命取りになるぜ。」
このやりとりは、もちろん原作にはない。原作では人斬りを引き受け、偽の呼び出しで橋を渡ってくる相手が弓勘と知って驚く紋次郎。弓勘は何も知らずにやって来て、懐かしそうな笑顔を見せる。紋次郎は咄嗟に嘘をつく。……呼び出したのは自分だ。弓勘の窮地を救おうとする甲府の旦那衆から金を預かったので、受け取って欲しい……と、徳之助から前金で手にした五十両を渡す。
紋次郎の裏切りを知った徳之助は、紋次郎の行く手を待ち受ける。
「渡世人の風上にも置けねえ野郎だ!」徳之助が、そう怒鳴った。「殺生禁断の紋日でござんしょう」表情のない顔で、紋次郎は言った。「やかましいやい!こっちが束になってかかっても、勝ち目はねえ紋次郎だとはわかっているが、渡世の道を踏みにじるようないかさま野郎を、黙って見逃すわけにはいかねえんだ!やい、紋次郎!おめえのほうに、言い分があるのかい!」
原作ではこの徳之助の問いに、例の答えを口にしている。「あっしには、言い訳なんぞござんせん」
徳之助が吼えるのももっともである。渡世の道を外すことなどおよそ考えられない紋次郎が、頼んだ人斬りを反故にしたどころか前金を弓勘にそっくり渡している。原作の紋次郎の判断と行動については、徳之助に対して少し同情してしまう。どう見ても「勝ち目がない紋次郎」に対して、長脇差を抜く徳之助たちは悲愴である。結果徳之助一家は、紋次郎に倒されてしまう。
さてテレビ版に戻るが、徳之助を原作より卑怯な人物にしておかないと、紋次郎が掟を破ったことに正当性がなくなる。したがって、商人殺しだけでなくいかさま博奕という罪状を上乗せしている。いかさま博奕がばれたら、「ナマス斬り」にされても文句は言えないという渡世の掟があるくらいだからだ。
今回の殺陣はかなりハードである。狭い橋の上での殺陣から始まり、この寒い中、三人ほど橋から川へ落下している。この橋はかなりの高さであるから、スタントマンが起用されたか。斜面を使っての殺陣もスピード感があった。いかさま壷師「金蔵」、続いて徳之助も紋次郎の手により命を落とす。徳之助の死ぬ間際の台詞は、「紋次郎……てめぇ、か……」であるが、これは徳之助の最期の抗議であろう。「紋次郎、てめえ、騙りをしやがって……」と言いたかったのではないだろうか。
紋次郎とお香が佇むシルエット、向こうにはうっすら雪を散らした山肌が見え、情趣がある。
「……紋次郎さんに対する気持ちは、変わっていません。」「そいつは叶わねえことでござんすよ。あっしら無宿人は、心も体も傷だらけの半端もんでござんすからね。」「わたしはちっとも気になんかしてません。」「お香さん、おめえさんの体には傷はあるが、心はまっさらにきれいなままでござんすよ。」「紋次郎さん、まだなにもこたえてくれない。」
「あっしには、言い訳なんぞござんせんよ。」(テレビ)
本当に、紋次郎はお香が聞きたいことに何も答えていない。お香は、「私の事が好きか?」とだけを聞きたいのである。無宿人として所帯が持てない云々ではなく、男と女としてどうなんだ?というところを聞きたいのに、「心はまっさらにきれい」と言われてもどうなんだろう。そして最後は「言い訳なんぞ……」となるのだから、お香の気持ちは宙ぶらりんのままである。
遠くにかすかな祭り囃子が聞こえる中、静かな会話が続いたが、最後は「御免なすって……」で締めくくられる。紋次郎は、お香に背を向けて去っていく。お香は小判を握った手で涙を拭く。やはりお香にとっても叶わぬ夢だった。
今回の原作は、かなり理不尽さが残るが、テレビ版ではその点は大分薄められている。弓勘とお香のキャラクターを変え、武士道、マカロニウエスタン調の決闘、お香の悲恋を織り交ぜた作品になった。中村氏の苦労のあとが見られる。私個人としては、この脚色の中で、弓勘との決闘場面を中村氏は一番楽しんだのではないかと思っている。万人受けするような作品づくりを、テレビ界は要求する。今回の脚色はその結果だったと思う。
最後に芥川氏のナレーションは、「いつの日にも、紋次郎には紋日という日はなかった。」で締めくくっている。紋次郎にとっての「紋日」は、姉お光の「命日」だけだろう。月命日のその日、紋次郎は人と争うことを避け、殴られてもずっと我慢する。この姿は、第1話 「川留めの水は濁った」で見せている。しかし結局、お光を死に追いやった元亭主を手に掛けている。やはり、紋日は存在しなかった。
紋次郎は紋日とされた村祭りの前日に生まれた。間引かれる運命だった紋次郎を、姉のお光が連れ去り、翌日村中に「今日生まれたんだよ!」と触れ回った。祭の日は紋日とされ間引きはできず、紋次郎は紋日に救われ生を受けたのである。
その代償として、紋次郎には「紋日」という日は与えられなかったのかもしれない。  

 

●第16話 「二度と拝めぬ三日月」
「木枯し紋次郎」の生みの母(父?)は、言わずと知れた笹沢左保氏であるが、今回の大物ゲストはまさにこの人。それも実在した大侠客「国定忠治」役である。これはこの「新……」シリーズでの超目玉と言えよう。今でこそ作家が、芸能界に顔を出しても不自然さはないが、当時はかなり異色作家だったのではないだろうか。
笹沢氏は、それまでにも映画やドラマには出演されている。興味深いのは、東映映画の「木枯し紋次郎」。1972年作品の「赦免花は散った」で、主演は菅原文太さんである。
「やがて、映画の一作目に、ぼくが出演することになった。宣伝のために協力するという程度だから、ほんのチョイ出である。冒頭のシーンに数カット、姿が見え隠れするだけだった。雨の中の乱闘で四人か五人を斬り、そのあと菅原紋次郎に刺し殺されるアップがあって終わりである。もちろん、役名など不要であった。だが、形だけの役名をもらった。春霞の紋太郎という男で、木枯し紋次郎をもじりながらおよそシマリのない名前だった。しかし、演技は真剣そのもので、ズブ濡れになる雨の中の数時間だった。」(笹沢左保著「紋次郎の独白」)
この「紋次郎の独白」には、この一年、本業以外にどんなことをしたかが書かれている。その中で映画出演が3本、テレビドラマ出演や文士劇、ステージ歌手までつとめている。作詞を2作品、展覧会に書と油絵を出品、テレビやラジオにゲスト出演10回等々……マルチな才能ぶりには舌を巻く。
笹沢氏は、その中でも役者になることは、ストレス解消法だと述べている。睡眠時間を削り、肉体を酷使してまでも役者を引き受けるのは、演技をしている間作家を忘れることができるからだというのだ。本業ではないので無責任でいられるし、無責任でいられるほど楽しいものはない。ストレス解消の良策は、無責任になりきれる時間をつくることだと記述している。裏を返せば、それだけ笹沢氏は、作家としての重責を人一倍感じていたということだろう。
しかし笹沢氏の演技力はなかなかのもので、無責任どころかしっかり演じきっておられるといえよう。この忠治役も、なかなかの貫禄である。
テレビ版は原作とほぼ同じ展開であるが、細かい箇所は違う。原作では、「まぼろしの銀次」という十手持ちは誰か?というミステリーに重点を置いてあるのだが、テレビ版ではその点は薄い。テレビ版の出だしは、峠の頂で構える関八州取締出役の中山誠一郎と捕方たち。そこに駆け寄る密偵の男、十手持ちの「銀の字」。褒賞金二百両がかかる大物が、明日にも上州に足を踏み入れると報告に来る。既にこの時点で「銀の字」が姿を見せている。
そこへやって来るのが「お銀」と呼ばれる女。今回のヒロイン役に「江波杏子」さん。ちなみに江波さんは、笹沢氏が出演した映画「赦免花は散った」でお夕役で出演している。江波さんはさすがの貫禄。画面に姿を現しただけで、オーラを感じる。大映出身の女優さんで、「女賭博師」シリーズでは「昇り竜のお銀」として看板をはったヒロイン。お銀つながりというのも、何かの縁か。
堅気には見えない姐御風。銀の字はお銀を見て驚く。どうもお互いは知り合いのようである。お銀は銀の字をしがない十手持ち、とあざ笑う。八州さまの中山が「斬れ!」と命じるのを、銀の字は必死でかばい立てする。どうもこの二人は曰くありげな仲のようである。原作は「まぼろしの銀の字」はずっと伏せられているので、このような場面はない。
さて、テレビ版ではこの関八州取締出役たちが追っている大物は一体誰か、ということになる。
紋次郎は茶店で、二人の男たちと同席している。この二人は行商人風。原作では、茶店で同席する前にも、道祖神の祠で一緒に野宿をしている。二人の会話で国定忠治がこの近く、信州の中野あたりに潜伏している噂があることを紋次郎は知る。忠治は信州にいくつか隠れ家を持っており、上州で取り締まりが厳しくなると信州に逃げ込み、ほとぼりを冷ます。八州が権限を持つのは、関八州のみなので、信州に逃げ込まれると手出しができない。したがって、何とか忠治を上州におびき寄せたいと、画策しているらしい。
この二人の男、喜助は「蟹江敬三」さん、伊作は「大和田獏」さんが演じている。蟹江さんと言えば、前シリーズを含めて三度目の出演である。大和田さんはまだ初々しくて、当時は28歳。茶店で二人は会話しているのだが、どうも紋次郎を意識している様子である。明らかに何か魂胆がある雰囲気。何かを探ろうとしているようである。しまいには背を向けて豆餅を食べている紋次郎に、「親分さんも、とばっちりを食いたくなかったら、中野へは寄らない方がいいんじゃありませんか」などと忠告する。
そこに茶店近くで、騒ぎが起こる。酔っぱらった女がチンピラにからまれ、嬌声を上げている。やがて女は帯を解かれそうになり、その声は悲鳴に変わる。その光景を目にして、喜助は紋次郎に助けを求める。しかし、その頼みに対して吐いた紋次郎の台詞が洒落ている。
「あっしは、とばっちりが嫌いなほうでござんして……。」
「とばっちり」つながりの気の利いた台詞であるが、これは脚本家のオリジナルである。
見るに見かねて伊作が、チンピラたちに素手で向かっていく。その時点で、彼はただの堅気の商人ではないことがわかる。まさに、「義を見てせざるは勇無きなり」とばかりの心意気である。原作では伊作は女を助けには行かないのだが、脚本家さんは彼に、一本気な性格を与えたようである。このキャラクターは、この後にもからんでくる。
何とかチンピラたちは追い払われ、髷を崩し乱れた着物姿で女がフラフラとこちらにやって来る。この女は、オープニングに出ていた女、お銀である。髷を崩し、しどけない姿であるが江波さんは色っぽくて美しい。紋次郎はその姿を目にして、表情を変える。紋次郎が知っている女だからだ。テレビ版は4年前の回想シーンとなる。ちなみに原作は、2年前となる。
【紋次郎は苦しそうに身体をよじりながら山道を行く。どうも腹痛のようである。よろけた拍子に崖からすべり落ち、咄嗟に掴んだのは木の根っこ。眼下は木曽川の激流。木の根っこが重みに耐えかねて、抜けそうになるその時、山道を通りかかったのがお銀だった。お銀は帯をほどいて紋次郎に掴まらせ、転落から救ったのである。その時から、お銀は紋次郎の命の恩人になった。それにしても、命の恩人もよく出現……。崖から引き揚げられるシーンは、多分清滝川、保津峡の崖だと思う。帯の間から落ちた十手に気づく紋次郎に、お銀は「おとっつあんの形見だ。」と答える。昔、若い渡世人に惚れて子どもができたが、育てられず里子に出し、それ以来酌女として男から男、宿場から宿場を流れ歩いていると言う。】(回想)
紋次郎はお銀に中野宿まで同行してほしいと言う。4年前の恩返しに「帯」を買いたいと言うのだ。喜助と伊作は「お銀」という名前と形見の十手、中野宿……ということで気色ばむ。お銀は「そんなこともあったっけねえ。あの頃のことは何もかもが、懐かしいねえ。」と高笑いをするが、すぐに表情がこわばる。喜助と伊作が豹変したのだ。二人は紋次郎とお銀に匕首を突きつける。が、その前に紋次郎の錆朱色の長脇差を喜助が手にしている。
「えーっ!長脇差は肌身離さずじゃ、なかったの?!」である。で、リバースして見てみた。床几に腰掛けて豆餅を食べている紋次郎は、腰から長脇差を抜いて立てかけている。ダメじゃないですか!「ただの行商人じゃないと思っていたが……」と、口にする前にもっと警戒すべきだったんじゃないんですか、紋次郎サン。命の恩人に出逢って、思わずいつもの警戒心を解いてしまったのだろうか。
二人は匕首で脅されながら、中野宿まで連行される。中野宿では忠治の子分たちに取り囲まれる。どうもお銀は、密偵「まぼろしの銀の字では?」と疑われているようである。視聴者はオープニングで、お銀が密偵「銀の字」ではないことを知っているので、興味は半減である。では、紋次郎はなぜ一緒に拉致されたか。
「八州の手先になって、売り出しているのは、けしからん、」というのだ。
八州の手先?売り出す?……う〜ん、わからん。八州の手先といえば「二足草鞋」を意味するが、「売り出す」の意味がわからない。渡世人が売り出すと言えば、一家を構えて縄張りを広げることであろう。紋次郎のような、街道をねぐらとする無宿渡世人が何を売り出すというのだろう。二足草鞋となり、八州の道案内をする見かえりに、賭場を黙認するとか抗争に目をつぶるとか言うのならわかるが……。
原作では、紋次郎は道連れを嫌うし口もきかない得体の知れない渡世人……銀の字かもしれないお銀と知り合いのようだが、金で雇われた仲間ではないか。それに、忠治が潜伏している中野宿を目指しているというのは、怪しいということで拉致されている。
土蔵の二階にいる男が声をかける。「鹿安、板割りの浅……帰えったか。」喜助は鹿安、伊作は板割りの淺……両名とも忠治の有名な子分。ということは、声の主は「国定忠治」。急な階段越しに見えるのは、笹沢左保氏が演じる忠治親分。なかなかの貫禄だし、カツラがよく似合っている。その姿を目にしたお銀は、驚きの目を見張る。知り合いのようである。お銀の表情の変化を紋次郎は見逃さない。淺太郎が日光の円蔵からの書状を忠治に渡す。ろうそくの灯りを頼りに書状に目を通す笹沢忠治。目の動きといい落ち着いた態度といい、堂に入った演技で全く違和感がない。
「1年ほど前だったかなあ、境町の軍造を殺って男を上げたのは……」と笹沢忠治は紋次郎に尋ねる。「えーっ?!それって、つながりがわからないと思うんですけど……。」である。
原作では前回は「桜が隠す嘘二つ」。この作品は映像化されていないので、原作を読んだ人しかわからないのだが、そこで実は紋次郎と忠治は会っているのである。いや忠治どころか、当時の大親分のお歴々の前で紋次郎は自分の推理を披露して忠治からも一目置かれた。「境町の軍造」という親分も出てくるが、紋次郎が殺したわけでもないし、話は全く別物である。大体紋次郎が、「男を上げる」などと考えるはずがない。が、しかし渡世では、紋次郎の名前は知れ渡っているのは確かであり、畏敬の対象にはなっている。
その一件が紋次郎一人の力なら、大したもんだが、八州の指図によるものなら許さねぇ……というのだ。渡世人つぶしの為に、八州が渡世人を養っているという噂もあるとか。はーん、この説明でやっとわかった。テレビ版は少しややこしい。
「あっしには言い訳なんぞござんせんよ。」
「言い訳」なんて台詞を口にしたら、認めているようなものではないか。ここで、こんな台詞を言うべきではない。案の定、子分の一人が長脇差を抜きにかかる。それを制して子分の七兵衛が「八州取締出役の中山誠一郎が、まぼろしの銀の字をはじめ手勢を信州に送り込んでいるが、銀の字がどんな面かはわからない。お前は、十手を持っているお銀と本当に知り合いなのか?」と尋ねる。
ここで「出役」のことを「でやく」と言っているが、正しくは「しゅつやく」である。この間違いは時々耳にする。漢字の読み方は本当に難しい。
「申し開きをしろ!」と命令されても、「何の言い訳もない」と紋次郎は突っぱねる。ここで業を煮やした忠治が、「手前が十手持ちの女の仲間でねえと言うのなら……女を叩っ斬れ」とドスのきいた声で命令する。「叩っ斬らないなら、お前と女二人の素っ首刎ねて、八州の中山誠一郎に届けてやる。」と凄み、何度か「叩っ斬れ!」と大音声で叫ぶが紋次郎は「お断りいたしやす。」の一点張り。
笹沢さんは作家になる前の若い頃、ヤクザとも渡り合ったという猛者である。それだけに、このシーンの台詞回しには凄みと貫禄が備わっている。人間、何が功を奏するかわからない(笑)。ちなみに当時の忠治は原作によると31歳なので、紋次郎よりは年下となるが、ここはやはり10歳ぐらいは年上にしておかないと雰囲気は出ないだろう。
原作での忠治の容貌である。「正面に、小太りの男が腰を据えている。色が白くて、髭が濃い。月代を、伸ばしていた。凄まじいほどの威圧感が、その貫禄に感じられた。青白いような眼光を放ち、目の鋭さが異様であった。睨まれただけで一人前の渡世人が、緊張の余り震え出すと、言われるだけのことはある。」
実際史料によると「身長は5尺5分(152p)、体重は23貫(86s)、色白で顔がまるく鼻筋が通り、月代、眉は濃く太り気味で、相撲取りのようである。」という風貌である。意外と身長は低かったようだ。笹沢さんは確か、170pの身長だったと思うので、実際の忠治よりはずっとスマートでいらっしゃる。
忠治はもうすぐ、大事な来客があるという。命の次に大事な、大恩ある客人を迎えるらしい。「お銀さんは、親分さんのお客人以上に、あっしにとっちゃあ大事なお人だ。たとえ八つ裂きにされようと、刃を向けられねぇお人なんでござんすよ。」
原作では紋次郎と忠治のやりとりがもう少し続く。
「おめえには死んでもらうぜ」「お好きなように、なすっておくんなさい」「おれに逆らう者は、生かしちゃあおけねえのさ」「ただ一度、国定の親分さんに、申し上げてえことがござんす」「ああ、聞いてやるとも。渡世人も、死ねば仏だ。堅気衆と同じように、遺言ってものがあってもいいはずだからなあ」「はっきり、申し上げておきやす。人にはたとえ八つ裂きにされようと、刃を向けることができねえ相手ってのがござんす」「言い訳は、よしねえ。泣き言にも、受け取れるぜ」「親分さんにも、必ずそうした相手がおりやすでしょう」「笑わせるねえ。おれには、敵か味方かそのどっちかなんだ。味方のためには、力を貸してやる。敵となりゃあ、笑いながらでも叩っ斬ってやるぜ」「何もかも、そのようにうまくゆけば、ようござんすがね」
原作では、この問答がこの後重く忠治にのしかかることになる
泣く子も黙る国定忠治の命令に、一歩も退かず強く拒む、紋次郎の意地。この時点で紋次郎は忠治に殺されても不思議ではないのだが、そこへ客人の「助右衛門」が到着したという知らせが入り、始末は明日に延期となる。
一方、土蔵に監禁されているお銀の元に、板割りの淺太郎がやって来る。テレビ版ではこの淺太郎に、情のある好青年というキャラクターを与えている。チンピラに絡まれているお銀を助けたのも淺太郎だった。もしかしたらお銀に惚れたか、と思えるほどの肩の入れようである。「自分はまだ若造でかけ出し者だが、人を見る目はあるほうだ。十手を持っている本当の訳は?忠治親分とかかわりがあるのでは?」とお銀に尋ね、お銀の縄目をほどく。柱に縛り付けられている江波さんのうなじが、ハッとする程美しい。少し乱れた髷の後れ毛と襟の抜き方が絶妙で、同性が見ても艶っぽい。お銀の曖昧な返事に、淺太郎は語る。「本当のことを言ってくれないとお銀も紋次郎も殺されてしまう。それに、女を斬る役は一番若い自分の役になるだろうが、それこそぞっとしない話だ。」
そこへ紋次郎が連れて来られる。子分の七兵衛が淺太郎に「親分に、小諸の助右衛門さんが客人として来たので、座敷に来い。」と話す。それを聞いて表情が変わり、助右衛門の名前を呟くお銀を紋次郎は見逃さない。どう見ても、忠治とかかわりがあるのは明らかである。淺太郎はそれを聞いて土蔵から出て行くのだが、錠前を閉めていないようだがそれでよかったのか……。
テレビ版での回想シーンで、お銀が身の上を語った内容を思い出す。……若い渡世人に惚れて、子どもをもうけたが里子に出した……。
一方、お銀と忠治の関係は、八州の中山に問われて、十手持ちの「銀の字」の口から語られる。
この語りの中で、原作との違いも少しある。原作では、忠治が浅太郎に経緯を語っている。
【原作】お銀の父仙太郎は、二足草鞋の博奕打ちで追分宿で忠治とぶつかる。仮にも十手持ちを殺したら追っ手がかかるので……ということでサイコロ勝負となり、忠治が60両ほど勝った。しかし、仙太郎は最後の勝負に娘のお銀の身体を賭け、結局忠治は勝ちお銀を抱いた。その後仙太郎はつまらない喧嘩で斬り殺され、お銀は子どもができたことに気づく。しかし育てられないので、小諸に住む荒物屋の助右衛門に里子に出した。その子は忠太といって、助右衛門が育てていたが、善光寺に来たついでに会いたいと連絡が入った。大事な客人は助右衛門であり、今日は我が子忠太との初対面となる。
【テレビ版】父仙太郎はまじめな堅気の十手持ち。大物の忠治をお縄にする意地があったが捕縛に失敗する。そして、忠治にサイコロ勝負に勝ったら捕まってやってもいいが、負けたら娘を差し出せと持ちかけられる。勝負はあっさり負け、娘は忠治のものになる。泣き叫ぶお銀の声を耳にし、仙太郎はそれを苦にして自害。今際の際に駆けつけた仲間の「銀の字」はお銀の名付け親で、同じく十手持ち。仇をとって忠治をお縄にしてくれという遺言を聞き、それ以来忠治捕縛に執念を燃やす。
テレビ版では、父仙太郎の十手持ちの意地や、友情にも似た「銀の字」の執念が織り込まれていて、美談に変わっている。原作では「銀の字」は、テレビ版と同じくお銀の名付け親にはなっているが、姿は一切見せずミステリーのままで進行する。
一方蔵の中では、紋次郎はいつの間にかお銀から身の上話を聞かされている。「ふふふ……女ってな、どんな生きものなんだろうねぇ……」自嘲気味にお銀が笑う。この後の台詞回しは江波さんは本当にお上手である。
一夜限りの、それも無理矢理の契りだったのに、その忠治に惚れてしまった女。女ってものは……とひとくくりにされるのは同性として業腹ではあるが、そんなことは絶対にあり得ないとも言い切れないので、まあ良しとする。
父の形見の十手を持ち、惚れた忠治を追って上州と信州を流れ歩く身……馬鹿な母親だと呟く。
紋次郎は、その里子に出した助右衛門が来ている事をお銀の話で知る。
原作の紋次郎はお銀から身の上は聞かされない。なぜなら、監禁されているところが別だからだ。テレビ版は、お銀が身の上を喋った時点で、ミステリー性が完全になくなった。銀の字がお銀ではないこと。お銀は一体何者なのかも、わかってしまっている。
その代わりにと言うのも変だが、テレビ版では、原作にはない親子の対面シーンがある。笹沢忠治は我が子、忠太の顔をまじまじと眺め「今日までほったらかしにして申し訳ござんせん」と畳に額をすりつけて、助右衛門に詫びを入れる。子分たちも膝を揃えて畏まっている。忠治は我が子の存在は知っていたが、せっかく堅気に育てられているのだから……と会わずにいた。しかし一昨日、急に助右衛門から会いたいと使いが来た。上州に墓参りに行くついでがあるらしい。忠治は上州に墓参りに行く助右衛門たちを送るために、ついて行くと言い出した。これには子分たちは驚いた。今、上州に足を踏み入れたら八州が待ちかまえている。円蔵がせっかく文でそのことを教えたのに、危険だと必死に止めるが忠治は不義理はできないと、聞く耳を持たない。
夜が明けて、紋次郎はお銀を斬ることを命じられたまま、蔵から出される。お銀は「忠治があたしを殺すのも、悪くない趣向だねえ」と自嘲的に笑い、捨てばち気味である。原作ではこの台詞を聞いて、紋次郎はお銀の正体に気づく。
忠治は鹿安が止めるのを聞かず、旅支度をして出立しようとする。そこへ蔵から出されたお銀が叫ぶ。「忠治は死にたいんだろ?!行かせておやりよ!」
周囲の者すべてがその言葉に驚く。そして助右衛門もギクリとする。お銀は助右衛門に、思わせぶりな挨拶をする。その姿に忠治はハッとするが、お銀は構わずまくし立てる。江波さんの流れるような啖呵はさすが、お見事!聞き惚れてしまう。あんな胸のすくような啖呵を、一度でいいから切ってみたいものだ。忠治はハッとして近寄り、お銀に触れようとするが「触るんじゃないよ!」と手を振り払われる。
「おめえは……」
「分かるもんかい!穴のあくように見たってね。七年前に、たった一度河原で抱いた女のことなんざ、思い出すはずがあるまい。」
原作では、夜の暗い河原での出来事として、思い出すどころか顔さえはっきり見ていないという設定である。しかしテレビ版は不自然としたのか、撮影技術上難しかったのか、まだ日が高いうちの河原での出来事となっている。
お銀の剣幕に、さすがの忠治もタジタジであるのが、面白い。
忠治はやっとお銀が誰なのか気づく。
「どうだい。てめぇの子を産んだ女の首、刎ねようって朝の気分はさ。」
忠治は答えられない。
「そんな不実な男のために、こっちは大変な知らせ、何とか間に合わせようと、上州から信州、信州から上州駆けずり回ってさ。バカな話さ。」
そしてすごい勢いで叫ぶ。「バカ野郎!!」
このときの江波さんの表情は半端ではない。激昂しているのだが目が据わっている。今まで溜め込んでいた苦しみや哀しみを、一気に吐きだしたかのような演技である。このただならぬ様子を制したのは紋次郎である。
「お銀さん、よしなせぇ。言えばなおさら、惨めになるだけでござんすよ。」
しかしお銀は、一生に一度のことなんだから言わせておくれよ、と返す。一生に一度……この後の、お銀の宿命を暗示しているかのようである。
笹沢忠治はお銀に詫びる。十手持ちの仙太郎の娘の名がお銀だったことさえ知らなかった。子どもができたこともずっと後になるまで知らなかったと……。実生活では、浮き名を随分流した笹沢さんである。もしかしたら私生活でも、こんなやりとりがあったのではないか、と想像するのは不謹慎だろうか。
天下の忠治が詫びをいれたが、お銀は勢いが止まらない。「はん!茶化をおやりでないよ。あたしゃね、忠治って男の死に様を見て笑ってやりたいね。死ぬがいいんだ。死ぬ気で、行きやがれ!上州を!」
この忠治を恐れぬ言いぐさに、腹を立てた子分のひとりが、お銀を黙らせようと襲いかかるが、紋次郎が楯になる。もみ合った相手の長脇差を奪い取ると、浅太郎が斬り込んでくる。
「これで勝負は、五分と五分だぜ。」そう言うと、浅太郎は紋次郎と鍔迫り合いを演じる。浅太郎が肩入れをしていたお銀を助けようとしているのに、紋次郎に向かってくるのはどうなのかと思うが、ここは忠治一家の面子にかかわるらしい。
原作には、忠治の子分と紋次郎の争いはない。テレビ版では「忠治一家に楯つく気か!」と、子分に言われている。その通りで、ここで楯ついて子分の何人かを叩っ斬ったら、歴史が変わってしまう。
今回の紋次郎はほとんど動いていない。このシーンで初めて殺陣らしい動きを見た。子分に追われて、紋次郎はその場から一旦去る。残されたのは忠治とお銀、助右衛門。お銀はすべてを語り出す。
「八州一の切れ者、中山誠一郎の手先がまぼろしの銀の字で、自分の名付け親。その銀の字が一年前から、助右衛門の家に現れるようになった。伜の忠太を餌にして、忠治を上州までおびき寄せる。うまくいけば二百両、そして助右衛門を代官所で雇い上げるという約束になっている。」
切羽詰まった助右衛門は、道中差しを構えてお銀に体当たりする。刺されたお銀は、板塀の壁伝いに身体を二転三転する。スローモーションで無音。お銀の髷が、崩れて揺れるのも効果的である。ストンと崩れ落ちたお銀に駆け寄ったのは紋次郎。時すでに遅し……「しっかりしなせぇ!」と抱き起こすも、お銀には死相が現れている。忠治も「お銀……」と、静かに声をかける。
お銀は木彫りの鈴を取り出す。この鈴は忠治がお銀を抱いたあの日に残していった鈴。お銀は忠太を助右衛門に預けたとき、この鈴を形見として託した。年に一度は忠太をそっと見に行っていたが去年、忠太の姿はなく新しい土饅頭の上にこの鈴が置いてあった。忠太は亡くなっていたのである。憎い忠治だが、可愛い忠太の父親……まぼろしの銀の字の企みを伝えたかった……。長台詞を、息も絶え絶えの中続ける江波さんの演技力はすばらしく、集中して見入ってしまう。
お銀は忠治の胸に顔を埋めて、事切れる。
「お銀さん!」紋次郎はお銀に呼びかけると同時に、憤怒の形相で助右衛門に斬りかかり、助右衛門の首を刎ねる。首は宙を飛び、助右衛門の身体は血しぶきを噴き出しながら倒れる。一瞬の出来事なので、見ている者はビックリである。久しぶりの「首チョンパ」である(笑)。
原作での紋次郎は鹿安の腰の長脇差を引き抜き、無造作に助右衛門の首を斜めに断ち割り、続いて脇腹、とどめは無表情で喉を抉っている。読んでいるとこちらの方が残酷に感じる。それも無表情というところが、怖い。
実は私は、何冊か当時の台本を所有している。原作と台本と映像との違いを考察するコーナーも、立ち上げようかと思ったのだが、とてもエネルギーが足らず(というか筆力と分析力が足らず)当分無理。で、それはまたの機会にして、この回の台本での大きな違いは、この「首チョンパ」である。台本では原作通りのとどめの刺し方なのだが、実際はご覧の通りである。忠治が、お銀の首を刎ねろと命じたのに掛けて、監督が「首を刎ねる」に変更したのだろうか。結構特撮なので、美術さんや小道具のスタッフさんはご苦労されたのでは……と思う。
テレビ版は大分省略して、紋次郎はすぐに助右衛門を斬っているが、これはどうも尺が足りなくなったからだろう。原作では忠治と紋次郎の押し問答がある。
「国定の親分、助右衛門を叩っ斬らねえんでござんすかい」 紋次郎が言った。忠治は、返事をしなかった。七人の子分も、凝然と突っ立っているだけだった。「助右衛門は、叩っ斬っても構わねえ野郎ですぜ。それも親分が、斬らなくちゃあならねえ相手でござんしょう」 紋次郎は、忠治の横顔を見やった。「斬れねえ。助右衛門は一年前に死ぬまでの忠太を、わが子と変わりなく育て上げてくれたお人だ。おれには、助右衛門に義理がある。義理がある相手は、どんな事情があろうと手めえは斬れねえ」 忠治が、蒼白な顔で答えた。「さっきとは大分、話が違うようでござんすね」「いじめるんじゃあねえ、紋次郎」「そうですかい」
全く立場が逆転している。忠治をいじめたのは、後にも先にも紋次郎だけではないだろうか。紋次郎は、忠治に助右衛門を叩っ斬る気がないことを確認し、自分がその代わりを務める。もちろん自分の怒りもあるだろうが、忠治の意を酌んでの行動だった。
テレビ版のままだと、紋次郎の怒りだけが先行して、堅気を斬ったことになってしまう。ここは原作を尊重して、なぜ紋次郎が助右衛門を斬ったのかを……それこそ言い訳をしてほしかった。
この後原作では、街道に忠治と紋次郎だけの姿がある。そして紋次郎は、三日月を見上げる忠治の頬に光るものを見る。
「国定忠治の涙を見た者は、おめえひとりだけだろうよ」「だが、今宵だけよ。こんなふうに霞む三日月を見ることは、二度とあるめえ。明日からは、また国定忠治だ」と紋次郎に背を向ける。
テレビ版では紋次郎と忠治の語らいがある。紋次郎の生みの親である笹沢氏と、紋次郎で一世を風靡した中村敦夫さんがツーショットで演じることは「二度とあるめえ」である。空には三日月がかかる。この三日月はどうも夕月のようで、辺りはまだ明るい。
このロケ地は多分広沢池であろう。広沢池は、12月の初めに水が抜かれ「鯉揚げ」が行われる。その後、翌春まで水底が見える状態となる。この映像は、ちょうど水が抜かれた後であろう。
忠治は、紋次郎を八州の手先と疑ったことを詫び、決まった女がいるのかと問う。紋次郎に、そんな女がいるはずがない。
「お銀はおれに、死ねって言いやがった。だがおれには見えてたぜ。あん時、本当に死にたがってたなぁ、お銀よ。そうとわかっていて、おれにはお銀を生かすことも、殺すこともできなかった。」「二度と拝めぬ三日月か。」
「あっしもこんな風に、三日月を見るのは生涯二度とありますめえ。」
「国定忠治の涙を見た者は、おめえひとりだけだろうよ。」
紋次郎は忠治に最後の言葉をかける。「親分さん、随分とお達者で……」
そして忠治に、深々と頭を下げる。忠治は紋次郎に背を向けて去っていく。
原作の紋次郎は、しなびた八つ手の葉を頭上に放り上げ、楊枝を飛ばす。お銀は、忠太の墓の上に舞い落ちていた八つ手の葉を、大事に持っていたのだった。テレビ版のような鈴は、出てこない。そしてこの話は終わるのだが、テレビ版はまだまだ続く。
紋次郎は忠治と別れた後、宿場で帯を買い求める。華やかな帯が並ぶ店には場違いの紋次郎が、無造作に赤い帯を選び値段を訊く。
「これは……いかほどで?」
「百文でございます。」
「百文……」
と復唱した紋次郎の声が、裏返っているのが、何となくおかしい。巾着からゴソゴソと金子を出している紋次郎を、健気で可愛いと見るのは、私がオバチャンになった証拠だろうか。
国境の峠にさしかかった紋次郎は、バラバラと八州の捕方たちに囲まれる。歩いている道にバラスが敷かれていたり、自動車の轍らしきものが見えていたりして、少し残念である。本来なら手はず通り、忠治がやって来るはずだが紋次郎である。まぼろしの銀の字は「違う!こいつは上州新田郡の木枯しの紋次郎だ!」と叫ぶ。銀の字、紋次郎の特徴もしっかり把握しているようである。あなどれない。
紋次郎は銀の字を確認して、お銀と助右衛門が死んだことを告げる。銀の字は驚くが、ここで八州の中山が、ネチネチとやって来る。この役は「石山雄大」さん。前シリーズ「背を陽に向けた……」でお町の恋人、茂兵衛役で出演されている。前回は百姓の若者だったが、今回は腕利きの八州さまである。随分と役柄が変わったが、こちらも年月が経ち貫禄がついた結果か。
中山は、信州中野で紋次郎が忠治に会ったことを確認して、「我らと組んで、忠治召し捕りに力を貸さぬか?礼金だけでなく我ら陰の八州の力で、忠治に代わる上州一の大親分に仕立ててやるぞ」と卑怯な誘惑をする。紋次郎の顔が怒りでゆがむ。
紋次郎は怒りにまかせて長脇差を抜き、次々に八州の捕方たち、銀の字、そして中山誠一郎までを叩っ斬る……が、これは現実ではなく紋次郎の妄想。もしそんなことになったら、この先のシリーズの展開はとんでもないことになる。どんな悪人であっても、役人を斬り捨てることはあり得ない。
ただ一度、前シリーズのテレビ版最終回、「流れ舟は帰らず」で、紋次郎は橋奉行出役を斬っている。最終回だから、この後の展開は考えなくてもよかったからであろうが、今回はそうはいかない。実は、台本では実際に斬るように脚色されているが、やはりこれはマズイと考えたか、鉛筆で「イメージ」とメモ書きされている。
この付け足しは、やはり殺陣のシーンがあまりにも少なかったからだろう。紋次郎は凝然と立ちつくし、怒りをグッと押し込め一言だけ口にして立ち去る。
「あっしには関わりのねえこって」
この場面でこの台詞は大当たりである。
さて、この中山誠一郎は実在の人物で、1850年(嘉永3年)8月24日未明に、忠治を上州田部井村で召し捕っている。この作品の設定は天保11年であるので(1840年)である。と言うことは、この10年後に忠治はこの中山に捕縛されるのである。
「お銀さん。とうとう借りは返せなかったようで……」
紋次郎は心の中で呟き、赤い帯を空中に放り上げ、楊枝を飛ばす。
「木枯し紋次郎のその声を、木枯し紋次郎は耳にしたような気がした。」
芥川氏のナレーションが入るのだが、どこかおかしい。自分の心の呟きを、本人が耳にした?!単細胞の私の脳みそでは意味がわからない。しかも、台本にもその通りの記述がある。
原作を読んでみる。前述した八つ手の葉に楊枝を飛ばした紋次郎。
お銀さん、とうとう、借りを返すことはできなかったようで…… 木枯し紋次郎のそうした声を、忠治は耳にした気がした、とある。これなら理解できる。紋次郎の気持ちを察して、忠治が心の耳で聞き取ったのだろう。
私としては、忠治と別れ去っていく紋次郎……微かに鈴の音がするので振り返ると、お銀の墓に供えていた鈴が風に揺れて転がり落ちそうになる。そこへ楊枝が飛んで、鈴の紐を土饅頭に縫いつける……としてあっさり、終わって欲しかった。その後の八州に出合うシーンや、紋次郎の妄想シーンもなくてもよかった。紋次郎の、反体制の精神はわからないではないが、この場面は必要なかったのでは、と思う。
今回の紋次郎が、実際に手にかけた相手はたった一人、助右衛門だけだった。これも珍しい。アクションシーンが少なくても、銀の字はだれか?お銀は何者か?裏切り者はだれか?というミステリーに重点を置き、忠治やお銀の人間模様をからめるだけで十分見応えはあったと思うのだが……。ミステリー性が薄められたのと、エンディングまでが間延びしたのが残念である。
一番印象に残ったのは、やはりゲスト出演の笹沢さん……玄人はだしの演技とカツラがよく似合う男っぷり。そして江波杏子さんの、伝法肌の姐さんっぷりと今際の際の演技。紋次郎は助演男優賞に終わった感がする。 

 

●第17話 「女が二度泣く水車小屋」
DVDのブックレットによると、原作は「狐火を六つ数えた」と言うことだが、首をひねる。どこに原作のかけらがあるかと、かなり探さないと見つからない。なんとか、かけらを拾い集めてみた。
○ 舞台が原作と同じく飯田宿、大平街道などの地名が出てくる。
○ 登場人物の名前が原作と同じ……お夏、お常、中津川の音蔵、松尾の茂兵衛、与吉など
○ 水車小屋が出てくる。
○ 追っ手に追われ、助けを求める子(赤子)連れの女を見殺しにする。
○ お夏は三つ子を産む。
上記の点は、ストーリー展開にはほとんど関係がなく、今回はオリジナル作品といってもいいのではないだろうか。
しかし他の作品で、本展開のいくつかの材料は見られる。
目籠破りをする……「朝霧に消えた女」
子どもからなじられる……「無縁仏に明日をみた」
女が子どもを宿している……「赦免花は散った」
掠われた女が、情を移す……「冥土の花嫁を討て」
仇討ちをしようとする……「雷神が二度吼えた」「冥土の花嫁を討て」
手の甲に本人という証拠がある……「明日も無宿の次男坊」
ではどうして原作の「狐火……」を映像化しなかったのか……。これについては想像するしかない。
1.知的に遅れがある女をレイプ
2.母と赤子を斬殺
3.妊婦をリンチ
4.老婆を斬殺
かなり残酷な内容であるのは確かである。しかし、1.については「土煙に絵馬が舞う」で映像化している。2と3はやはりハードである。それに紋次郎が、老婆に長ドスを振るうというのはあまり考えられない。もっとも、この老婆はかなりの「ワル」なので、紋次郎の掟からは外れているともいえる。とにかく、脚色は無理と考えたのだろうか。全く話は別物となった。
ブックレットには「死神が六つ数えた」というサブタイトルが用意されていたとあるが、結局本タイトルに落ち着いたようである。
今回は原作と呼ばれるものから、かなり展開が離れているので、台本と比較しながら進めていきたいと思う。台本のタイトルは「狐火を六つ数えた」のままであるので、いつ本タイトルに変更されたのだろうか。台本の最後には注釈がある。
☆サヴ・タイトルが、「女が二度泣く水車小屋」「死神が六つ数えた」に変更されるかも知れません。(台本)
そして鉛筆書きで、「女が二度……」の方が丸で囲まれているから、最終こちらに決定したのであろう。タイトルというのは、結構ギリギリまで変更がきくようである。
脚本は津田幸於氏で、津田氏の脚本は今回だけである。津田氏はテレビドラマの「水戸黄門」や「大岡越前」を、最初に手がけた高名な脚本家さん。恥ずかしながら、今回調べて初めて知った。現代劇も書かれておられ「七人の刑事」「部長刑事」も、津田氏が書かれていたということである。
オープニングは土砂降りの雨。その中を旅姿の渡世人が走ってくる。その男は伊佐吉と呼ばれていて、鳥居をくぐり小屋に駆け込む。この雨のシーンは白く煙っていてなかなか美しい。
中には二人の渡世人、銀次と武七。どうもこの二人の親分である音蔵の目籠破りを企てているようである。伊佐吉はその助っ人で音蔵の兄弟分、松尾の茂兵衛の身内の者である。あまりはっきり顔が分からないのだが、この武七役は「阿藤海(快)」さんで、中村氏がよく世話をしていた役者さんである。
伊佐吉役は「平泉征」さん。最近ではNHKの「サラリーマンNEO」で新たな個性を発揮され、楽しませてもらった俳優さんである。ブックレットにはなぜか「九吉」と書かれているが台本には「伊佐吉」とあり、ドラマ内でもそう呼ばれているので、ブックレットは間違いである。
ちなみに同じくブックレットには、「正太」とあるが台本では「庄太」、「倉之助」は正しくは「倉之介」である。ブックレットの解説を書いておられる人は、何を資料にされたのだろうか。
たった三人で、佐渡送りの目籠破りができるのかと銀次も心配しているが、私も無茶な話だと思う。正式な剣法の修行を積んでいないヤクザが、仮にも武士が付きそう目籠を簡単に破れるものだろうか。
台本では、この密談を紋次郎が小屋の奥で聞いている。銀次が「生かしちゃおけねえ!」といきり立つが、「あっしには関わりござんせんよ。」と紋次郎は取り合わない。今までにもよくあるパターンだったが、今回は台本にはあるがテレビ版では割愛されている。
目籠を襲撃するシーンは、「流れ橋」である。この後もこの橋は何度か出てくる。台本では「目つぶしの粉」を使うように書かれているが、実際には使われていなかった。たった3人ではあるが長脇差を振り回し、護送役人たちを叩っ斬り音蔵奪回を果たす。台本ではこの時にも紋次郎が姿を見せている。もちろん何も関わらずに去っていくだけではあるが、ドラマでは割愛されている。密談も目籠破りも、その都度紋次郎が姿を見せるというのは、偶然とはいえ不自然ではあるので頷ける。
4人は走り続けて竹林に入る。台本のメモには「北嵯峨」と書かれているので、ロケ地であろう。竹林の映像が一瞬、縦長モードになり映画の一コマの雰囲気。この竹林はさすがに美しく、清廉さを感じる。目籠破りを成功させて一息ついたその時、「母ちゃーん、待ってー。」と子どもの声。旅姿の母子(お常・庄太)の姿を、4人は認める。とたんに音蔵の目の色が変わる。「女を連れてこい!」
ああ、また例のパターンである。どうしてこうも、男は女を見ると襲いかかりたくなるのか。それも生きるか死ぬかの瀬戸際を、かいくぐってきた直後にである。子分たち3人も視聴者も呆れるほど、音蔵の愚かな所業である。幼い男の子は両手を縛られ、猿ぐつわで地面に転がされている。女は小屋に連れ込まれているが、台本では水車小屋と明記されている。しかし鉛筆で水車という文字が消され、ただの小屋となっているので変更されたようである。小屋の中は藁が積まれていて、女は必死で抵抗するが、音蔵は野獣の如く襲いかかる。
その後映像は小屋の表に切り替わり、女の悲鳴と共に板戸が倒れフラフラと出てきたのは、なんと音蔵。首筋を真っ赤に染めてどうっと倒れる。小屋の中からは着物を乱し、手に道中差しを握ったお常が呆然として出てくる。まさしく「窮鼠猫を噛む」である。
子分たち3人は倒れた音蔵のもとに駆け寄るが、為す術もない。「庄太〜!」お常は我が子の名前を呼び、脇差を振り回しながら逃げるが、子分たちに捕まる。お常の叫び声と着物の乱れ方はかなりのもので、臨場感があり、見ている側もドキドキする。
竹林の小径を紋次郎がやって来る。ここで初めて登場。目の前にお常は飛び出して、紋次郎に助けを乞う。「助けてください!お願いです、助けてください!」引きずられながらも、何度も紋次郎に縋りつこうと必死のお常だが、紋次郎は佇むだけである。
女の叫び声に男の怒号が重なり、修羅場シーンのはずだが、竹林にはうっすらと陽が差し込み、空気まで緑に染まるかのような美しい映像である。お常は拉致されて引きずられていくのだが、紋次郎は何事も無かったかのように歩を進める。
もがく庄太は、猿ぐつわがやっとはずれて、大声で叫ぶ。「母ちゃ〜ん!」
ここでやっと紋次郎は顔を上げ、反応らしき表情を見せるが、行動には移さない。お常は悲鳴と共に斬られ、駆け寄った庄太は縛られたままの姿で蹴り飛ばされる。地面に転がった庄太の背にあった玩具の兜が、踏みつけられる。この玩具の兜は台本上はなかったので、後で付け加えられたもの。紋次郎の優しさを表すグッズとして、後で重要な役目を果たす。
しかしこの時の紋次郎は、無慈悲にもその脇を無言ですり抜けていく。
「えーっ?!なぜ、助けないの?子どもだよ!子どもが大変な目に遭っているのに、そのまま行っちゃうの?」
ちょっと、ガッカリである。
原作では、浮気をした夫を思いあまって殺してしまったお常。追っ手に掴まれ、お常は助けを求めるのだが、紋次郎は断る。その時草むらから赤ん坊の泣き声が聞こえ、紋次郎は振り返り猛然と駆け戻るのである。お常ひとりだけなら関わらなかった紋次郎だが、赤ん坊がいたとわかるや否や、助けに行くのである。しかし間に合わず、お常も赤ん坊も殺されてしまう。
「最初から赤ン坊がいるとわかっていたら、紋次郎も何とかしたはずだった。他人の面倒を見ないというのが、紋次郎の生きていくための手段ではあっても、相手が赤ン坊であれば話は別なのである。」
赤ん坊なら助けるが、子どもはだめ?いや、そんなはずはないだろう、と台本を見るとテレビ版の展開とはやはり違っていた。
「母ちゃん!」と叫んだ庄太を認めると、紋次郎はすぐさま駆け戻る。泣き叫ぶ庄太を斬ろうとする武七に楊枝を飛ばし、腕に突き刺さる。その後、武七と銀次は紋次郎に斬られて倒される。(台本)
市川監督版の紋次郎は、決して人に向かっては楊枝を飛ばさない。「新……」では、人に向かって楊枝を飛ばす紋次郎はあったが、今回はなかった。他にも、斬られたお常が今際の際で印籠を紋次郎に手渡すとか、命を救った庄太から「人殺し」呼ばわりするとかは割愛されている。
実際のテレビ版は、お常殺しを目撃されたという口封じのために、子分たち3人は紋次郎に長脇差を抜く。竹林の殺陣を見るのも久しぶりだが、やはり美しくて私は好きである。結局テレビ版での紋次郎は、自分から怒りの長脇差は抜かず、降りかかった火の粉を払ったという形で終わっている。音蔵一家の子分である銀次と武七を斬り、伊佐吉を残して紋次郎はその場を逃げるように去る。縛られて倒れた庄太をそのままにである。やはり納得いかない。
一方伊佐吉は、松尾の茂兵衛一家のもとに戻り、事の仔細を報告する。茂兵衛は音蔵の縄張りを乗っ取り、岡場所をつくろうと画策していたのだ。目籠破りで音蔵に恩を着せるつもりだったが、音蔵が死んでもっけの幸いである。用心棒の浪人が「濡れ手に粟だな。」と言葉を発したとたん、咳き込む。どうも病持ちのようである。茂兵衛が「旦那、身体大事にしておくんなはいよ、でないとお夏さんが可哀相ですぜ。」と声をかける。ここで、「お夏」の名前が出てくる。要チェックである。「俺に、命なんてものがあったのかねえ……」と自嘲気味に呟き、浪人は席を立つ。
茂兵衛役に「井上昭文」さん。いわゆる悪役の俳優さんである。前シリーズでは「湯煙に……」で「奈良井の権三」役、「木っ端が……」では「鬼勘」役で好演された方である。安心して悪役を堪能できる俳優さんである。旦那と呼ばれた浪人は、「倉田源之介」という役名で「清水紘治」さん。長身で痩せ形、頬がこけている。鋭いが虚無的な目をされていて、何となく原作に記述されている紋次郎に似通った印象を受ける。この咳の様子では多分、「労咳」……当時だと不治の病とされている。
伊佐吉はその後も、報告を続ける。「助けた音蔵親分を、妙な渡世人に見られた。」と言うのだ。う〜ん、紋次郎は音蔵をしっかり見たのだろうか。紋次郎があの現場を通り過ぎたときは、もうすでに音蔵は殺されて倒れていたはずだが……。灰色の獄衣を身につけていたから、気づかないこともないだろうが……。そんなことより、お常の殺害を見られたほうが気になるのでは……。しかし茂兵衛はあくまでも、自分が目籠破りに関わったことが知られるほうがやっかいなことになる、と考えている。
紋次郎の後を追う庄太の姿と共に、芥川氏のナレーションが入る。その中で、「大平街道」を「おおひら街道」と呼んでいるが、原作には「おおだいら」とルビが振ってある。調べてみると原作通り、「おおだいら」と読むようであるが、台本は「おおひら」とルビが振ってある。なぜだろう?
庄太は紋次郎の背中に、「人殺し!」という言葉を浴びせる。紋次郎は一瞬立ち止まり逡巡するが、また無言で歩き始める。庄太の背中には、壊れた玩具の兜が揺れ、チリチリと鈴が鳴る。紋次郎は石仏や墓石が並んだ道ばたに腰を下ろし、刀で楊枝を削っている。このシーンの台本には鉛筆書きで「観空寺、水子地蔵」とロケ地が書かれている。しかし、映像では水子地蔵には見えず、無縁仏や墓石が無造作に集められているような感じである。庄太は紋次郎をにらんだ後、後ろ姿を見せて走り去る。チリチリと鳴る鈴に紋次郎は顔を上げ、物憂い目で見送る。
一膳飯屋に紋次郎の姿がある。無心に飯を掻き込む紋次郎だが、いつもの紋次郎食いではないようだ。飯の上に魚をのせ味噌汁をぶっかけて……ではなく、飯だけを食べているようで、後れて店の親爺が味噌汁らしきものを持ってくる。「お連れさんで?」と尋ねる親爺の声に外を見ると、のれんの陰からじっと突っ立った庄太の姿。
「こっちで一緒に喰わねえか。」初めて紋次郎が声をかけるが、庄太の鋭い声が返ってくる。
「人殺し!なんで母ちゃんを助けてくれなかったんだ!人殺し!」
直接手にかけた訳ではないが、子どもにこれだけなじられるのは「無縁仏に……」の一太郎以来だろう。
伊佐吉たち6人は旅姿で紋次郎を追う。この映像がなかなかいい。堤道を堤下からローアングルで、スピード感を持って撮影している。急ぎ足で歩く人物のシルエットに、緊張感が高まる。
紋次郎は庄太のために、店の親爺に頼んで自分の飯を握り飯にする。流れ橋の下、紋次郎は焚き火をして暖を取る。庄太の気配を察して、握り飯をそっと置く紋次郎は心憎い。眠るふりをする紋次郎の背後からサッと握り飯を取り、かぶりつく庄太に声をかける紋次郎。「坊主、ゆっくり噛んで食いねえ。」
その後焚き火の近くに庄太を座らせ、足を温めてやる。庄太は握り飯を食べながらポツポツと話し出す。名前は庄太、飯田まで行って父親の仇を討つつもりだ。1年前に押し込み強盗に父親は殺された、と言う。
ここで回想シーン。夏、蚊帳、雷……台本のメモ通りの設定。庄太の父の手には賊の物とされる印籠が握りしめられ、庄太は小判をかき集める男の手の甲に傷痕を認める。刀で切られたような痕である。回想シーンが終わり、庄太の話が続く。薬売りが来て、手に傷がある侍を飯田で見たと言うので、母と確かめに旅に出たがこの災難に遭ってしまった。庄太は紋次郎に印籠を見せ、こんな時お夏姉ちゃんがいてくれたらと話す。お夏は庄太の母の妹、押し込みの賊に掠われて行方不明と言う。
「お夏?!」(視聴者の陰の声)鋭い視聴者なら、もう大体の筋は読めているのではないだろうか。もちろんこの時の庄太と紋次郎には、知る由もない。庄太は紋次郎に、仇を討ってくれないか?と口にするがすぐに取り消し、「でも、おいら、きっと仇を討つんだ!」と健気な表情で言い切る。紋次郎はそんな庄太に言い聞かせるように静かに言う。
「坊主、たとえ親のためであろうと、死んだ人間のために命を張るなんてくだらねえこった。仇討ちなんか忘れるんだ。」印象的な紋次郎の台詞であるが、実は台本にはない。脚本家の津田氏は、紋次郎の仇討ちに関する諸々はご存知なかったのかもしれない。仇討ちの話は今までに何作かあり、紋次郎はその都度止めようとしている。
「水車は夕映えに……」では、許嫁を殺された仇を討つと言うお縫に「もう忘れてやりなせえ。」と諭し、「冥土の花嫁を……」では父の仇討ちをするという征之進に「過ぎた日の恨みを、生きる支えにしていなさるんですかい。」と批判する。
紋次郎は仇討ちは無意味なものだと思っている。死んだ者のために、生きている者が命を懸けるなんて愚かなことだとしている。また恨みを生き甲斐にすることの哀しさや、恨みを晴らしたところで、何も生まれないことも、達観している。仏の教えと通じるところがあるのだ。
今までの紋次郎の姿勢を知っている、昔からのスタッフが、この台詞を入れた方がいいと進言したのかもしれない。いやもしかしたら、中村氏本人がアドリブで入れたのかもしれない。台本には鉛筆の書き込みも見当たらない。
「何言ってるんだい!おじちゃん、本当は怖いんだろう?!」と庄太が言い返すと同時に、敵が襲ってくる。伊佐吉たち、茂兵衛一家の6人である。紋次郎は素早く庄太をかばい、応戦する。川砂が広がり葦が生える河原での殺陣。紋次郎の腕にはかなわないと見たか、身内を一人殺され、茂兵衛一家の5人は逃げていく。庄太も逃げたのか、紋次郎は探すが姿はない。
茂兵衛の元には紋次郎に手傷を負わされた子分たち。「歯がたたねえ!」と訴える中、「俺が斬ろう。」と源之介が刀に手を掛ける。その甲には刀傷。庄太が探し求める仇討ちの相手である。茂兵衛は飯田宿の外れに岡場所をつくるため、奉行所にも許可を取り付けている中、騒ぎを起こすとやっかいなことになるのでしばらく様子を見る……と制する。
紋次郎は独り街道を往く。堤道で空が広い。ふと庄太のことが頭をよぎり、躊躇する紋次郎。結局クルリと踵を返し、飯田宿へ向かう。関わらないはずの紋次郎が、関わるパターンであるが、そんなことならもっと早く関わるべきだった……という反省も込めてか。
飯田宿に向かう途中で村人がうわさ話をしているのを耳にする。庄太は高熱で倒れ、森田屋に世話になっているらしい。
森田屋は馬継ぎ宿で、主人は弥兵衛という老人。茂兵衛一家の者に立ち退きを迫られ、脅されている。そこに紋次郎がうっそりと佇む。連中は歯が立たない紋次郎と騒ぎを起こすことを避け、去っていく。紋次郎は庄太と再会する。紋次郎は、庄太が手にする玩具の兜が壊れているのを見て、悔恨の表情を浮かべる。庄太とその母お常が襲われたとき、壊れたものだ。紋次郎は古道具屋に出向き兜の値を訊く。「一分二朱」と聞いて「失礼しやした。」と頭を下げて店を離れる。前作の帯に比べるとかなりの高額である。実は、台本には兜の件は書かれていない。
内職のお面が長屋の部屋に並べられていて、お夏が憂い顔で待つ。源之介が咳き込みながら帰ってくる。源之介に……と薬湯を用意するが、源之介は刀の鞘で払い落とし、お夏の手から茶碗が飛ぶ。源之介は「酒をくれ!」と、止めるお夏を振り払う。倒れてうずくまるお夏は、口を押さえて吐き気を催す。源之介はその様子をじっと見て、ハッと気づく。「お前、まさか、子どもが……」無言のお夏に残酷な一言。「子ども、始末しろよ。」「いやっ!」「それじゃあ、おめえ、地獄じゃねえかよ。」「どんな地獄だっていい、あたしあんたの子供が欲しい。どんなに苦しくたって、どんなに辛くたって、子供だけは……」
源之介は押し込みに入って、お夏の姉、お常の亭主を殺した。お常に仇と狙われる身……もしお常が現れたら、黙って討たれてもいいと、源之介は心の内を明かす。どうせ死神にとっつかれた身だ……と哀しくあきらめた口調で言う。お夏は必死になって「あんたが死ぬんだったら、あたしも死ぬ。どこかへ逃げよう!お常姉さんに頼んで堪忍してもらう!」と源之介にすがりつく。
どう考えてもこの二人は、幸せになれそうではないし、源之介にはハッキリと死亡フラグが立っている(笑)。
押し込みに入った人殺しに掠われたのに、その憎むべき男に惚れてしまった女の性。「冥土の花嫁を討て」のお縫と同じではあるが、お夏の方がずっと健気ではある。
茂兵衛のところに奉行所の役人が来て、目籠破りの一件を疑う。切羽詰まってきた茂兵衛だが、「紋次郎の居場所がわかった!」と子分が走り込んでくる。
紋次郎は野天のムシロがけの賭場にいた。どうも地元のチンピラが勝手に賭場を張っていたようである。台本では、茂兵衛の賭場となっていたが、それはいくら何でもおかしいので、「ロケ」と鉛筆で書き換えられている。紋次郎が茂兵衛の賭場に顔を出しては、「飛んで火に入る……」であろう。チンピラたちは蹴散らされたが、紋次郎は「自分が勝った分だから」と断ってから、賭場の金を懐に入れる。えらく金に執着しているなあ、と思ったが、庄太に兜を買ってやるためということが後でわかる。
茂兵衛がニヤニヤとやって来て、紋次郎に口止め料として、小判を何枚か握らせようとする。おまけに新しい縄張りを仕切ってくれてもいいのだが……とまで言うが、紋次郎は取り合わない。しつこい茂兵衛に業を煮やしたか、紋次郎は小判を地面に叩きつけて「あっしには関わりがござんせんよ!」と道中合羽を翻して走り去る。
その先で、紋次郎は源之介と出合う。源之介は紋次郎をじっと見つめ、鍔にかけた手の甲には刀傷が見える。ここで二人は初めて相手を認識した訳である。このロケ地、葦が生えていて浅瀬の様子。台本では「広沢」とメモ書きされているので広沢池であろう。鯉揚げのために、水が抜かれた状態である。二人は意識しながらも、そのまま別れる。
庄太は、世話になった森田屋弥兵衛と神社の祭りに出かける。その姿を茂兵衛の子分たちが見つけ、茂兵衛に知らせる。どうも弥兵衛の孫と勘違いしているようで、庄太を立ち退きの人質にとろうとしているようだ。
神社はお祭色で賑わっているが、この神社は嵯峨の愛宕神社と台本でメモ書きされている。愛宕神社といえば、私は幼い頃父親と訪れた記憶がある。目的は、火伏せのお札を授かりにいくため。いわゆる「愛宕講」で、代表者が愛宕山にお参りし、お札を村の愛宕の祠に納めるというものである。清滝から登ったと思うのだが、かなりしんどかったという記憶だけが残っている。撮影陣はあの距離を登ったのだろうか。だとしたら、かなりの強行軍である。しかし、実際の映像では本の一瞬である。庄太は弥兵衛と別れて祭の露天を見て回っている。足を留めたのは面売りの店。ここで庄太の母の妹、「お夏」と再会する。
庄太はお夏の長屋に連れてこられる。お夏は庄太から、姉のお常が旅の途中、悪漢に捕まって殺されたことを知る。そして、庄太の父を殺した侍が飯田にいると聞いて、仇を討つべく旅をしていたと言われ驚く。庄太から「お夏姉ちゃん、飯田にいるなら、その侍を見たことがねえかい?」と尋ねられ、お夏は動揺しながらも否定する。
そこへ、源之介が帰ってくる。水を飲むために柄杓を持つ手には、刀傷が見える。庄太はじっとそれを見ていて、いきなり懐から印籠を掴んで、源之介に投げつける。庄太は気づいたのだ。そして印籠を手にした源之介も、庄太が何者なのか気づく。
外に走り出る庄太をお夏が追いかける。冬枯れの田んぼ道を走る庄太、名前を呼びながら追いかけるお夏。そこに紋次郎の姿。「庄太〜!」と呼ぶ声にハッとして顔を上げる紋次郎に、庄太は「おじちゃん!」と駆け寄る。「仇の侍を見つけた。姉ちゃんは知らないって言ったけど、なぜあの侍が姉ちゃんの家にいるのか。なぜ、ちゃんの仇を討ってくれないんだ!」と一気にお夏に叫んで、また走っていく。紋次郎はお夏の辛そうな顔を見る。
庄太は「おじいちゃ〜ん!」と叫びながら、森田屋弥兵衛の家を目指して走るのだが、待ち構えていた茂兵衛一家の者に捕まってしまう。
紋次郎とお夏は、川縁にいる。水面がきらきら光り、二人の黒いシルエットを際立たせて美しい映像である。台本には「嵐山」と書かれている。お夏は静かに胸の内を紋次郎に話す。
源之介とこんなことになるなんて思ってもみなかった。何度死のうと思ったか……でも死ねなかった。そして男と女の間なんて、そんな残酷なことから結ばれることもあるんだと知った。血を吐く源之介を見て、この人と一緒にいよう、ついて行こうと決心した。なぜだかはわからない。でもその時は、お義兄さんを殺したことも姉さんのことも、私の中にはなかった……私と源之介の命は蜘蛛の糸のように細い儚いものなのかもしれないが、私はその細い糸に一生懸命しがみついている……。
紋次郎は無言で聞いていたが、ここでやっと口を開く。「お夏さん。あっしは面倒くせえことはわかりやせんがただ一つ、身寄りのねえ庄太が可哀相だと思いやしてね。」お夏は、ハッとする。「あんなちっちぇえ命を、ひとりぼっちにしておいちゃあ、いけねぇんじゃねぇんですかい。」
紋次郎にとっては、源之介とお夏のことに、とやかく言う筋合いはない。男と女の結びつきなど、どんな背景であろうと悪縁だろうと所詮、男と女。紋次郎にとっては一番面倒くさい話であり、ひとりぼっちになった庄太の方がずっと気がかりなのだ。自分たちのことばかり考えているお夏に、チクリと一言釘を刺した紋次郎である。
茂兵衛たちは庄太を人質にとって、弥兵衛を立ち退かすつもりである。脅迫文を読んだ弥兵衛はすぐさま指定された水車小屋に急ぐ。一足後に弥兵衛の家を訪ねた紋次郎も、置かれていた脅迫文を目にして外に飛び出す。庄太のために買ってやった、玩具の兜を上がり口に置いて……。紋次郎は、野天の賭場で稼いだ金で兜を買ったようである。
柱に縛られ暴れる庄太を見て、伊佐吉が「こいつはじいさんの孫じゃねえ、音蔵親分を殺した女の子どもだ!」と気づく。庄太も伊佐吉に向かって「人殺し!母ちゃんを殺した人殺し!」と叫ぶ。庄太を助けに紋次郎が来るかも知れない、と恐れる伊佐吉だが、「今更しようがない、その時はその時だ。紋次郎を叩っ斬るほかねえ。誰か源之介の旦那を呼んでこい!」と茂兵衛は子分に命令する。
そこへ弥兵衛がやって来る。弥兵衛は「庄太の代わりに自分を殺せ!」と子分たちに叫ぶ。この弥兵衛じいさん、血のつながりのない庄太だが、身体を張って護ろうとする見上げた人物である。茂兵衛なんかに先祖伝来の土地を渡すぐらいなら、死んだ方がマシだとも言う。なかなか気骨のある老人である。
茂兵衛の言うことを聞かない強情ぶりに、とうとう「仕方ない、子どもの命をもらおうとするか。」と庄太に危機が迫る。弥兵衛は身体で護ろうとするが、子分の刀が振り下ろされるまさにその時、木枯しの音と共に楊枝が飛んできて刀を持つ手に突き刺さる。このあたりの展開は、お茶の間時代劇風でオーソドックスである。今回の楊枝は、人に向かって飛んだことになる。ギリギリ間に合ったが、いつもであれば、弥兵衛も庄太も命はなかっただろう。
アコースティックギターの音色はどこかフラメンコ調で、BGMとしてはなかなかいい……と思った矢先、曲調が変わりいつものBGM……ガッカリである。この時の殺陣は動きがあり、それを追うカメラワークもよく、スピード感がある。立木や水車小屋を使っての殺陣はいい感じなので、音を消しての鑑賞をお薦めする。伊佐吉との対峙は曲調がまた変わり、エレキギターの音色でマカロニウエスタン調になる。このBGMも何となく作為的であまり好まない。
水車小屋の前で伊佐吉は紋次郎に斬られて倒れる。茂兵衛は卑怯にも、小屋の中で息を潜めている。紋次郎が水車小屋に近づいたところ、壁板の隙間から長脇差を繰り出して刺そうとするもかわされ、逆に紋次郎に刺される。親分のわりには呆気ない死に方である。
水車小屋が出てくる作品としては「水車は夕映えに軋んだ」が有名である。大原麗子さんの帯が、水車に巻き込まれていくシーンは絶品で、印象的な演出だったが、今回はあまり印象には残らない。作品のタイトルがなかなか決まらなかったせいもあるだろうが……。タイトル候補の「死神が六つ数えた」を匂わす台詞が台本には書かれている。
紋「狐火は、とっくに消えましたぜ」源「(自嘲的に笑う)笑っていやがる。ほら!見ろよ、おめえさんの脚もとで笑っていやがる」と源之介冷笑ー咳き込む。紋次郎ーじっと源之介を見る。源「紋次郎さん……死神の野郎が六つ数えたら、いくぜ……(と咳き込む)一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……」(台本)
テレビ版では、上記のような台詞は全部カットされている。賢明な判断である。これより後はテレビ版の展開である。
水車の陰から咳き込む声がする。うっそりと源之介が姿を見せる。「おじちゃん、その侍だ!ちゃんを殺した侍だ!」と庄太が声を上げる。源之介の後ろからお夏が駆け寄ってくる。「お願いです!源之介さんを斬らないで!助けてください!」源之介の前に回ってかばおうとするお夏を「どけ!」と押しのけて近づく源之介。地面に這いつくばりながら、必死に紋次郎に頼むお夏。「私のお腹の中には、この人の子どもがいるんです!」
源之介は鞘ごと刀を腰から抜いて、片手でぶら下げている。鯉口が切られ、鞘が地面に落ちる。二度と鞘には刀が収められない……源之介は死を覚悟している。源之介は斬り込んでくるが、紋次郎はあっさりかわす。紋次郎には、源之介と刀を合わす気がないのだ。二度三度、体をかわしたとき、源之介が激しく咳き込み、口を手で押さえよろける。それを見た庄太は、落ちていた長脇差を手にして、「ちきしょうー!」と源之介めがけて突進する。「庄太!」紋次郎は庄太を止める。「はなせ!はなしてくれよー!」抱きかかえるようにして、紋次郎は庄太の仇討ちを阻止する。たとえ仇討ちだろうが、庄太を人殺しにはさせたくないのだ。庄太にはまっすぐ、まっとうな道を歩ませたいと紋次郎は願っている。
台本には、庄太が源之介に刀を向けるような展開はないので、これは監督が挿入したのだろうか。私はこの、紋次郎が庄太を押しとどめたことに、大きな意味があると思う。紋次郎のスタンスに一貫性があってよかった。
台本では庄太との絡みはなく、「紋次郎さん、すまねえ」と言い残し、そのまま源之介は血を吐いて事切れる。
実際のドラマでは、ヨロヨロと源之介は立ち上がり、抜き身の刀を振り上げようとするが後ろに崩れ落ちる。源之介は何かを言おうとするが弱々しく首を振り、口許に冷笑を滲ませて息絶える。何かを訴えようとした清水さんの目の演技が印象的で、存在感のある役者さんである。この清水さんは、中村氏と同じく俳優座出身の方なので、親交があったかもしれない。
お夏の、哀しみ絞り出すような演技は胸を打つものがある。お夏役の倉野章子さんは、文学座で現在も活躍されているが、さすがこの若さでもかなりの演技力である。
エンディングのロケ地はまた流れ橋。庄太が橋の上から紋次郎を呼ぶ。「おじちゃーん!おじちゃーん!」何度も何度も叫ぶ声の向こうに、紋次郎の姿が見える。庄太の手には新しい兜の玩具が光っている。紋次郎が買ったものである。堤道を独り歩く紋次郎は、一度も振り返らず去っていく。このシーンは、和製「シェーン」の佇まいである。
芥川さんのナレーションの中に「……上飯田村の森田屋弥兵衛の養女なつ、三つ子を出産せしは珍しきことなり……」という文言は原作と同じである。こんなに展開が原作から離れているのに、三つ子を出産するところは踏襲するのかとズッコケた。
この後お夏は、弥兵衛の元で三人の子どもを育てるというわけだが、多分庄太も引き取られたのだろう。作品としては珍しく明るさが見られるエンディングだった。とにかく、庄太が死ななかったのが良かった。
結局、「女が二度泣く水車小屋」というタイトルになった曰わく付きの作品である。台本では、水車でお常が襲われて泣く。そしてその妹のお夏が、源之介の死を目にして水車小屋で泣く。そういう意味で二度泣く……という設定のようだったが、お常が襲われたのは水車小屋の予定が、ただの小屋に変更されている時点で、そうではなくなった。となると、お夏が二度泣くということになる。では一度目はいつ?やはり源之介に義兄を殺され、掠われたときであろう。「狐火を六つ数えた」「死神が六つ数えた」よりは、ストーリーにそったタイトルではあったと思う。
ここで一つ謎があるのだが、台本の表紙に鉛筆書きで18という書き込みがあるのだ。ちなみに前回の「二度と拝めぬ……」の台本には、17とも書かれてある。一話分ずれているのはどういうことだろう。手持ちの台本には限りがあるので確かめようがないが、台本にはあったが放映されなかった作品があったのだろうか。それともただ単に放映順が入れ替わっただけか。謎は謎のままで終わりそうだが、それこそ「狐につままれた」感がする。 

 

●第18話 「砕けた波に影一つ」
今回も、原作からは大分離れた展開で脚本化されている。ブックレットにもあったが、これが原作通りの展開とすると、とても制作費が足りないであろう。原作は海上での密室劇……乗っ取られた七里の渡し船での展開である。これが映像化されると、菅原紋次郎版「赦免花は散った」以上のスペクタクル映画になるだろう。
脚本は佐藤繁子さん。紋次郎シリーズでは初めての脚色作品である。脚本家はいろいろな制約の中、苦労して作品を生み出しておられるので、大変だなあとつくづく思う。今回の制約は「船は使えない」ということである。これは大きな問題である。この原作の一番の売りが使えないのである。ということで、スペクタクルは諦めた代わりに路線を変え、ストーリーは原作を離れ複雑になる。
テレビ版の出だしは船が嵐で難破。一瞬、ミニチュアの船が波に翻弄される映像があるが、いかにも……という特撮。当時はせいぜいこのぐらいだったのだろうか。チープ感が見えて残念。場面が変わり海岸の砂浜。女がひとりで穴を掘っている。どうも誰かの墓穴のようで、横たわる男の亡骸を引きずり入れて砂をかぶせる。「あばよだね、お前さん……」女の亭主だったのか、この男は誰なのか、なぜ死んだのか、なぜここに葬られるのか。
海岸を紋次郎が行く。松原やえりが見えるので、ロケ地は明らかに琵琶湖、近江舞子と見られる。松の木陰からひとり男が出てきて紋次郎を呼び止める。男は紋次郎を「勝五郎」と呼ぶ。どうも人違いをしているようだ。怪訝な顔をする紋次郎に構わず男は話し続ける。「あの難破船に仲間と乗っていたことはわかっていたが、生きていたんだな……」紋次郎は男に、人違いをしていると指摘して去ろうとするが、男はなおもしつこく食い下がる。十手をちらつかせ、「お縄にしようとは思っていない……話によっちゃあ……」などと言って、実に怪しい。
紋次郎はそんな男を無視してすり抜けようとするが、男は「野郎!なめやがって!」と組みつこうとする。しかし紋次郎は、長脇差の柄で男の鳩尾を一突きにし「あっしは勝五郎じゃあござんせんよ」と言って去っていく。男は腹を押さえてうずくまる。この男、太兵衛を「小松方正さん」が演じている。方正さん、これで前シリーズを含めて三度目の出演。「見かえり峠の落日」では二足草鞋の十手持ちで、今回とイメージがオーバーラップする。
浜では道行く者たちが、噂話に花を咲かせている。沖で七里の渡し船が難破して、土左衛門があちこちで上がっているという。「七里の渡しとは、東海道宮の宿から桑名宿までを結ぶ海上七里の船路である」と芥川さんのナレーションが入る。浜に打ち上げられた屍を、太兵衛は調べている。誰かを捜しているようである。女房を亡くし、悔しがる商人風の男……一緒に乗船していたが、夫の方は助かったらしい。
茶屋で行商人風の男ふたりがうどんをすすりながら、噂話。難破したのは、盗賊集団の「お高祖頭巾の勝五郎一味」に乗っ取られた船だったと言う。お高祖頭巾の勝五郎たちは、近江、伊勢にかけて荒らし回っていた凶暴な盗賊だと喋る商人は、過剰なまでの大阪弁。この地が関西に近いという雰囲気を出している。ここで、紋次郎が間違えられた勝五郎の素性が視聴者にはわかる。ここまではテレビ版だけの展開である。
茶屋には、先ほど墓穴を掘っていた女が、一人床几に腰を下ろしている。そして近づいて来る紋次郎の顔を見て、「あっ!」という顔をして見守っている。すると、男が木陰から飛び出して、紋次郎に匕首で襲いかかろうとする。女は咄嗟に「あぶない!」と声を上げ、紋次郎はそれに気づいて身体をかわす。襲ったのは浜で女房を亡くし悔しがっていたあの男であった。「てめえたちのために女房を……女房を返せ!」「何かの間違いでござんしょう。」と紋次郎は静かに言い、取り上げた匕首を鞘に収める。男は「こいつが船を乗っ取った盗人の頭だ!」と指をさして大声で叫び、道行く者たちに「加勢してくれ!」と頼むが、いずれの者も遠巻きにするだけ。紋次郎は左腕を負傷したようで、匕首を懐にして群衆から離れていく。
このあたりでやっと原作とリンクする。原作では冒頭に、紋次郎が若者に襲われる。「三州無宿の吾助だろう!」と、人違いをされるのである。このときもテレビ版と同じく女が叫び声を上げたお蔭で、腕を負傷しただけで済んだ。そして、襲った若者から奪い取った匕首を、胸の晒しの内側に差し込む。この匕首がこの後重要な役割を果たすのであるが……。道行く旅人は紋次郎を畏怖して誰も近寄ろうとしない中、声を上げた女だけが近づく。
「大丈夫ですか」女は草の上に両膝を突くと、渡世人の左腕を覗き込んだ。商家の女房ふうで、二十二、三の年増であった。色が雪のように白くて、小さな唇が可憐な美人である。富士額が、絵に描いたようだった。餅肌の白さが目にしみて、女っぽさが匂うようであった。いつもながら、原作者笹沢氏のお好みの女性像である。
テレビ版の女とは随分雰囲気が違う。テレビ版では「吉行和子さん」が演じている。名前は原作と同じく「お甲」であるが、商家の女房には見えない。原作より10歳は年増で、どことなく崩れた感じはある。原作では若い手代の弥吉が供についているが、テレビ版ではお甲ひとりきりである。後でお甲は大垣の商家の者だと言うが、この時代、商家の女のひとり旅はあり得ないので、やはり不自然ではある。
テレビ版のお甲は、首に巻いた布で紋次郎の傷口の手当をする。「もったいない」と言う紋次郎に、「死んだ男にもらった物で、私が持っていても仕方がない」とお甲は言う。テレビ版では包帯にして巻くだけだが、原作は手厚い手当である。まず、焼酎で消毒。次に「黒竜膏」なるものを塗る。水色のしごき帯を抜き取り左腕に巻き、首に回して腕を吊る状態にする。
紋次郎は命を救ってもらった上、手当までしてもらったことに恩義を感じ、いつか機会があれば借りを返すと礼を言う。テレビ版のお甲は生まれ在所の気賀村という漁師村に、急に思い立って墓参りに行く途中だと告げる。そして、身延へ足を向けると言う紋次郎に、新居の関は詮議が厳しいだろうと教える。例の「お高祖頭巾の勝五郎一味」の件のためである。
お甲と別れた紋次郎は、お甲の忠告通り新居の関所を避け、浜名湖を迂回する。
原作の紋次郎は東海道の「宮」から伊勢に向かおうとする。紋次郎が、伊勢に足を伸ばそうとするのは意外である。テレビ版と原作では、紋次郎が向かおうとする方面はまったく逆である。宮から伊勢湾を渡り、桑名へ向かう海路が「七里の渡し」であり、その船が運悪くシージャックされるのである。どうも紋次郎は船との相性があまりよくなく、「赦免花は……」では島抜けした船で殺戮が起こり、「奥州路・七日の疾走」では台風に遭って、とんでもないところまで流される。
テレビ版の紋次郎は、浜名湖沿いを歩いている。そこへヒョイと太兵衛が飛び出して声をかける。まだ紋次郎を「お高祖頭巾の勝五郎」だと思っているようである。そして懐から「手配書」を取り出して見せる。なるほど、紋次郎に似ている……と言うより、紋次郎本人の人相書であると言ってもよい。「見かえり峠の落日」以来のソックリぶり(笑)である。太兵衛が間違えるのも無理はない。しかし人相書の方が若干紋次郎より若い感じではある。
太兵衛の調べによると、勝五郎の仲間たちは難破したものの全員助かったようで、上陸しているらしい。太兵衛は十手をちらつかせてはいるが、どうも魂胆があるようで、しつこく紋次郎を追う。
結局、紋次郎と太兵衛は一緒に野宿をする。原作にも、太兵衛という十手持ちは登場するが。テレビ版とは全く違う。紋次郎と言葉を交わすこともない。テレビ版の太兵衛の狙いは、勝五郎たちが奪った金である。三千両とも言われている金を、手下と山分けせず自分と山分けしないか、と持ちかけるのである。手下含めて四人で分けるより、取り分が増える……山分けじゃなくて自分は千両、勝五郎は二千両ではどうか?何なら勝五郎は溺れ死んだと届けてやってもいい、とまで持ちかける。
「おめえさんの狙いは銭ですかい。」紋次郎は藁で縄をないながら、少し呆れて言う。「銭だい!ああ、銭だよ!」太兵衛は開き直って怒鳴る。紋次郎は今まで、ろくな十手持ちにしか会っていない。大体が二足草鞋か、卑怯で姑息な十手持ちばかりである。今回も正義感などかけらもない、典型的な嫌な十手持ちである。
小屋の中で焚き火をし、太兵衛は野鳥を丸焼きにしている。そして何度も、「食わねえか?」と機嫌を取る。紋次郎はもう反論する気もないし、食い物には目もくれない。しまいには目を閉じて眠ってしまうほど、紋次郎にとってはどうでもいい話である。
翌朝、湖畔を歩く紋次郎、小走りに追う太兵衛の目の前に、瀕死の村娘がフラフラとやって来る。浜からは真っ黒な煙が流れてくる。「助けてください……」と倒れる娘の話では、気賀村が襲われて皆殺しになってしまうと言うのだ。娘を太兵衛に任せて離れていく紋次郎だが、「気賀村」と聞いて立ち止まる。気賀村といえば、お甲の生まれ在所で墓参りをすると言っていた村である。紋次郎は、気賀村目指して浜を走り出す。
村が襲われているから助けて欲しいと頼まれるシーンと言えば、前シリーズの「峠に哭いた……」であろう。あのときの紋次郎は少し逡巡する。それは、その村はただの通りすがりの村だったからである。しかし結局、意を決して村に戻り関わってしまったのだが……。今回は違う。借りを返さねばならないお甲が向かった村が襲われている。紋次郎は迷うことなく疾走する。
借りのある女のために、自ら敵地に向かうパターンも今までにあった。「背を陽に向けた……」では、「深雪」という恩義ある女の名前に騙されて、人質救出に向かう。「飛んで火に入る……」では姉「お光」と同じ名前である女を助けに向かう。そして今回であるので、もうこんなパターンはいくらなんでもやり過ぎであろう。
で、ここで追い打ちをかけるようであるが、残念なシーンがある。太兵衛が村娘を抱き起こし話を訊いているとき、バックに何と「電柱」が映り込んでいる。近江舞子の浜であるが、結構近くにある電柱のようで形状まではっきりわかる。チェックが不十分だったと見え作品づくりに粗さが見える。
なかなか原作との比較には入れない。原作では乗合船の中、周囲は海という絶望的な閉塞感。その中で起こる様々な人間ドラマが、緊迫感があり面白かったのだが、今回は遮断された漁師村である。どちらかというと、村人たちのエゴが見え隠れするといった展開である。
村に入る手前で、紋次郎は村人たちに囲まれ、村に入ることを拒まれる。村人たちは家族を人質に取られている。よそ者に入られたり、村が乗っ取られていることを知られたくない様子。紋次郎はお甲の所在を訊くと、お甲も村で人質に取られていると教えられる。紋次郎は村人に長脇差を渡し、村に連行される。このシーンは屋外ロケで青空が見える。台本には鵜川とメモ書きされているので、高島市の鵜川であろう。近江舞子を北東に進んだ琵琶湖沿いである。村では浪人風の男三人が狼藉を働き、村人をいたぶっている。人質を逃がしたということで、村の男が手を刀で貫かれたり、死体が吊されたりと、陰湿で残酷なシーン。
もっとも原作もかなり残酷で、絶望的な雰囲気ではある。船を乗っ取った三人はいずれも浪人者で、小綺麗な袴をはき月代は伸ばしているものの、髭は生やしていない。はじめに江戸っ子の職人三人が抵抗したため斬殺され、海に投げ込まれる。そして、乗客の武器になりそうなものも全部海に捨てられる。高槻藩士二人の大小の刀は捨てられるが、紋次郎の長脇差は「捨てるのは惜しい」と言われ、浪人の腰に落とされる。
この時期の紋次郎の長脇差は、直光作の名刀だったのではないだろうか。浪人の目利きが良かったせいで紋次郎の長脇差は海の藻屑になることは避けられた。この乗っ取られた船に、たまたまお甲も一緒に乗っていたという訳である。したがって、テレビ版のように自分から窮地に赴くことはない。
村に着いた紋次郎は、浪人の前に突き出される。先ほどの屋外ロケの続きが、屋内セットでの撮影になるのだが、画面の質感の違いに違和感を覚える。ただ三度笠姿の紋次郎のかっこよさは健在である。かっこよく見せる撮り方は心得ている。
部屋の奥に村の女たちが集められていて、お甲の顔が見える。お甲は紋次郎の姿に驚く。
「無宿者が何のようだ?」と問われ、村人が代わりに、そこにいる旅の女、お甲の知り合いだと答える。「貴様その女とはどういう間柄だ。」「一度命を助けられておりやす。」
浪人は、紋次郎の三度笠を刀の鞘で持ち上げる。三度笠の下から覗く紋次郎の顔を見て浪人は驚く。「勝五郎?!」「似ておる、この頬の疵さえなければ……」
ここで完全に、この浪人たちは勝五郎一味だとわかる。他の二人も、紋次郎が勝五郎に似ていることに驚く。ちなみに最初に出てきた男は兵馬、坊主頭の男は貞之介、一番奥に控えるのは源之丞という名。兵馬は村人から、紋次郎の長脇差を受け取り白刃を抜く。「無宿者の腰には似合わぬ代物だ。」と、原作と同じく紋次郎の刀の値打ちに気づく。テレビ版では「志津三郎兼氏作」であろう。その刃で、紋次郎の三度笠の結び紐を切ると、斬りつけようとするが、源之丞に止められる。「今夜は勝五郎の通夜だ。」貞之介も「斬っては寝覚めが悪いぞ。」と同調する。ここで気になるのは、源之丞がチラチラとお甲の顔を見ることである。視聴者は何かある?と感じるところである。
先ほどの展開でいくと、この一味のリーダー格の勝五郎はもうこの世を去っていることになる。というと、オープニングの墓穴に埋められた男が勝五郎……墓穴を掘っていたお甲は勝五郎の女?と賢明な視聴者なら気づくところである。
ここで一つ疑問点がある。勝五郎の通夜ということは、勝五郎が既に死んでいることをこの手下たちは知っている……しかし墓穴を掘ったのはお甲である……ということは、首領である勝五郎の屍を放っておいたことになる。テレビ版の主従関係は原作よりかなり薄いような印象を受ける。
「上がれ!」と言われて紋次郎は草鞋を脱ぎかけるが、兵馬に左腕の怪我を見つけられる。「これは?」「これがどうかしなすったんですかい。」兵馬は腕の傷より、血が滲んだ布を気にしているようである。兵馬は紋次郎の傷口を鷲掴みにして引っ張り上げ、屋敷の奥に連れて行く。
残った2人の前に網元がおずおずと前に進み出る。網元役に「織本順吉さん」。前シリーズ「駈入寺に……」では、山形屋で出演されていた、温和な雰囲気の俳優さんである。毎日漁に出て、魚を市にかけるのに今日は一艘も舟を出していない。この後もそれが続くと役人が不審がるのでは、と言うのである。
源之丞は「いつもと同じように漁に出ればいい。余計なことを喋って役人が来たら、ここにいる人質が死ぬだけだ。」と、しばらく居座るつもりである。兵馬は、「ここは居心地がいい。」と言って人質の村娘を抱き寄せる。網元は苦渋の表情である。お甲が紋次郎の許ににじり寄って、なぜここに来たのか、と訊く。紋次郎は「借りは返すと約束しやした。」と答える。お甲は「あれだけのことに、命をかけて?」と、紋次郎の義理堅さに驚き、紋次郎の顔をジッと見つめる。
村人の一人がわめきながら飛び出して行く。村人たちがバラバラと追いかける、「おら、もうこんなとこさいたかねえ!」この状況に、居たたまれなくなったと見える。「あいつら、このまま居座るつもりなんだぞ!おめえらそれでもいいのか!」走る男に、村人たちが止めに走る。
このあたりは鵜川のロケ地に切り替わり、背後に青い琵琶湖が光る。湖沿いに、堂々とした茅葺きの屋根が見えるが、これはさすがにセットではないだろう。「おら、お役人、呼んでくる!」と叫ぶ男を村人たちは一斉に押さえかかる。「おらのカカァが殺されるだ! 五平の妹だって!」村から助けを呼びに出ることは、家族が殺されることになるのである。結局、助けを呼びに行こうとした男は、村人の手によって連れ戻される。村人自らが、密室を作ってしまっている。
乗っ取られ閉鎖された村……となると前シリーズ「湯煙に……」とよく似ている。山奥の湯治場に押し入った悪党、足の怪我で身動き取れない上に、長脇差を取り上げられた紋次郎。類似点は多い。
村人たちが浜辺で騒いでいるのを物陰から覗いていた太兵衛は、兵馬に見つかり連行される。そして座敷の隅に座る紋次郎の姿を見つけ、やっと勝五郎ではないことに気づく。「さっぱり当て外れだぜ。」とせせら笑い、いきなり兵馬の脇差を奪い取ろうとする。しかし、瞬時に貞之介が刀を振り降ろし、太兵衛の手首が板の間に飛ぶ。首コロンならぬ、手首コロン(笑)である。作り物の手が、血だらけでゴロリと転がるシーンは、見ていてもあまりいい気持ちのものではない。悲鳴を上げて転げ回る太兵衛に、トドメを刺す様も残酷である。今回の小松方正さんは、小悪党で終わってちょっとお気の毒だった。
しかし残酷度のレベルでいくと、原作の方がはるかに上である。原作では、太兵衛も同じ舟に乗船していた。乗っ取られた最初は、お高祖頭巾の一味だとは知らずに、訊かれるままに答えている。頭目である勝五郎の顔を知っているというのだ。五十日ほど前、熱病にかかった浪人が町医者に来た。たまたまその町医者を覗いたら、十手を見たその浪人が慌てて逃げた。怪しいので町医者に訊くと、五十両も出して、いちばんの良薬と手当を頼んだという。その浪人の名は小出勝五郎と名乗った……ということは、お高祖頭巾の勝五郎に違いないと睨んだと、ペラペラと喋ってしまった。これが太兵衛の運の尽きである。
実は勝五郎は五十日ばかり前に、悪性の熱病で死んでしまった。医者に手当てと薬を得ようと一人で出かけたが、目明かしに邪魔をされその三日後に病死した。その憎い十手持ちが太兵衛だったのだ。
その事実を聞かされても太平衛は逃げることができない。周囲は海なのである。そして乗客は、全員武器になるようなものを取り上げられている。太兵衛は哀れ、源之丞と兵馬からリンチを受ける。連中にとっては、頭目を殺された仇討ちという気持ちもあるだろうが、見せしめという意味もある。
太兵衛は帆柱を抱いたまま、一本ずつ体に脇差を刺される。トドメは、背中から心の臓に突き刺された五本目であった。この残酷さに比べたらテレビ版の方がよっぽどましかもしれない。想像しただけで、自分の身が冷たい刃で貫かれていくようでゾッとする。
帆柱のほうを見ている者はひとりもいなかった。両手で顔を被うか、上体を折って頭をかかえるかしていた。紋次郎は海へ、視線を投げていた、いまのところは、どうしようという考えもなかった。この先、どうなるかわからない。助かるなら、それで問題はない。どうしても逃げられずに殺されることになるのなら、それもまた仕方がないのである。いつかは、必ず死ぬ。その死ぬときが、訪れただけにすぎないのであった。
紋次郎の肝が据わっているというか、常に死を覚悟している冷静な精神状態には、いつもながら驚いてしまう。しかし凡人はそういうわけにはいかない。太兵衛の惨殺によって、乗客たちは動揺し始める。いわゆるパニック状態になる。商家の主人と奉公人、それに誘われて行商人が海に飛び込む。しかし、たちまち波にもまれて海に没してしまう。陸地まではたっぷり一里半、おまけに潮の流れが入り組み、泳ぎが達者な者でも流されてしまうと船頭は言う。陸地に泳ぎ着くことは不可能だとわかっていても、また男がひとり海に飛び込む。「冥土の花嫁を……」の原作でも、増水する濁流の恐怖に、正常な判断を失う者が続出した。死を怖れる者が、一番死に近づくという皮肉な結果になるのである。
テレビ版では、お高祖頭巾の連中に立ち退いてもらうため、村人たちは網元にそれぞれ金を持ってくる。その金を渡して、何とか穏便に済まそうというのだ。村人たちは一見、団結しているようでありながら、お互いが疑心暗鬼な様子。網元は、安全に逃げられるよう道案内もするからと、集めた金を差し出すが、源之丞は聞き入れない。なんと、その上に二百両出せというのである。連中は、ここに居座っても立ち去っても、どちらでもいいことだと言う。「酒と女には不自由しないからな。」という、ステレオタイプな台詞が続く。
テレビ版では、この二百両という大金が要求されてから、話がややこしくなってくる。これから先の展開は、ドラマだけのオリジナルとなる。網元はお甲の近くににじり寄って「あの金を出してくれ!」と頼む。親の供養塔を建てるための大金を、お甲は持っていると言うのだ。「親御の供養は、村人たちが永代、粗末にはせんから、頼む……。」と頭を下げるのである。お甲は懐からふくさに包まれた小判を出すも、それは二十五両ほどでとても二百両には届かない。
網元は、お甲が死んだ親の供養塔を建てるんだと言って、二百両見せてくれた、もっと持っているはずだと叫ぶ。女のひとり旅だけでも怪しいのに、そんな大金を持っていたとは尋常ではない。しかしお甲は、「何かの見間違いでしょう。」と言って取り合わない。「嘘だ!」となおも網元が食い下がる。源之丞は酒をあおり干し魚をかじりながら、お甲に向かって「女、脱げ!脱ぐのだ。」と命じる。視聴者としては、「やっぱりそう来たか!」といった感じである。
紋次郎は、お甲の顔をじっと見る。無言であるが、紋次郎の居たたまれない気持ちがわかる表情である。楊枝が微かに動き、紋次郎は行動に移そうとするが、それを見てお甲が咄嗟に「あたしなんか……」と声を発して制する。「命を懸けるほどの女じゃないんですよ。」お甲は寂しげな表情で、紋次郎に静かに声をかける。紋次郎は動きを止め凝視する。お甲はあきらめきった様子ですっくと立ち、帯を解き始める。その後ろ姿に、紋次郎は目を伏せる。障子越しの、柔らかい光をバックにしての映像は、殺伐とした中で叙情的ではある。
その成り行きに目を伏せている紋次郎に、兵馬がからむ。「貴様、あの女に命を助けられたとか言ったな。借りを返すなら今の内だぞ。なんなら、これを返してやろうか。」と紋次郎の長脇差を差し出そうとするが、源之丞に「やめとけ!」と止められる。いらだった兵馬は「腰抜け!」と怒鳴り、柄で紋次郎の肩を殴りつける。どうにもならない状況で助けることもできず、無抵抗でいることの辛さ……。「湯煙に……」で、陵辱されるお市の姿を見せつけられた紋次郎と通じるものがある。襟元に手をかけようとする兵馬に、平手打ちをくらわすお甲。せめてもの誇りのあらわれであろう。
「いい眺めだ。勝五郎どのにも見せてやりたかったな。あの女の裸を……」「ここに、まるで生き写しの男がいるではないか。」と、高笑いをする男たち。紋次郎は肩を押さえ、暗然とした目でお甲の顔を見て静かに視線をはずす。お甲は後ろ向きになり、着物をハラリと滑り落とす。女性の全裸シーンは、「新……」シリーズの初回以来である。この姿はご本人のものと見られるが、美しいシルエットである。確かこの時期に、映画「愛の亡霊」で全裸シーンがあったはず。この作品では、このシーンが目玉だったのかもしれないが、なぜこのシーンが必要だったのかは疑問。
結局、金は出てこなかった。夕刻までに二百両用意しないと、皆殺しにすると脅され、網元と村人はお甲が昔住んでいた家を家捜しする。金を隠すならここしかないということで、既に廃屋と化した家だが、壊すぐらいの勢いで必死に捜している。しかし、やはり見つからない。
一方、一味は依然網元の家で好き勝手をしている。源之丞は酒を喰らい、兵馬と貞之介は女を追い回している。紋次郎は、そんな痴態を見かねて動きかけるが、お甲が止める。「動いちゃダメですよ!自分の命を引き替えに助けようなんて、そんな値打ちは誰にもありゃあしないんですから……」「あっしはただ、おめぇさんに借りを返してぇだけでござんすよ。おめぇさんが望むんなら、このままおさめやすがね。」とじりじりした様子である。兵馬が村の女では飽きたらず、お甲に目をつけて近寄るが、源之丞が「その女に手を出すな!」と止める。勝五郎亡き後の頭は、自分だ、と言うのである。この自信からすると、源之丞が一番腕が立つようである。
原作ではお甲と紋次郎はそう近くにはいないので、言葉を交わすこともできない。いわゆるアイ・コンタクトである。
もちろん、お甲は笑いのない顔でいる。助けを求めているようには見えないが、固い表情をしていた。真摯な眼差しだった。助けてもらいたいとは、願っているだろう。だが、どうにもならないということも、わかっているのである。機会(おり)があったら、必ず借りを返す――。お甲には、そう約束したはずだった。いまが、その機会なのではないか。何とかしなければならないと、紋次郎の心に初めて『動』が生じた。眠りから覚めたように、紋次郎はみずからの意志を感じたのであった。目的は借りを返す、ただそれだけのことである。助けようとか、助かろうとかする気持ちはなかった。お甲への借りを返すことが、たまたま浪人たちを斃すという行為に通ずるだけなのであった。
紋次郎の行動を見ていると気づくことであるが、オンとオフがはっきりしている。オフ状態のときは、心を無にして無表情、無感動。そして、できるだけ関わりを持たないようにしている。「いちいち関わっていたら、命がいくつあっても足らねぇ。」という境地である。しかし一旦オンになったら、ありとあらゆる感性を働かせ、ほんの小さな可能性にも命を賭ける。まさに全身全霊を傾けるという感じであろう。「眠りから覚めたように、紋次郎はみずからの意志を感じた」とあるが、まさにその通りである。原作の紋次郎が、テレビ版より不利であることは、貞之介が「火縄銃」という飛び道具を持っているということである。いくら紋次郎が腕が立つと言っても、飛び道具にはかなわないだろう。
船上の紋次郎は、冷静に状況把握をする。
無腰の武士二人は戦意喪失、二人の雲水は念仏を唱えているだけ。行商人は頭をかかえて、ブルブル震え、お甲と一緒にいた手代の弥吉は両足を投げ出して目を閉じている。隣にいる若い町人は日暮れの海をぼんやり眺めている。およそ紋次郎に加勢しそうな者はいない。ここでもまた、孤軍奮闘を覚悟しないといけない。相手は三人の浪人。全員腕が立つし飛び道具もある。紋次郎は長脇差はとられているし、左腕は十分に使えない。
夜になり、海上に月が出る。兵馬が若い町人の連れである「お清」を、手籠めにしようとする。この町人「一太郎」は、妻帯者でありながら遠縁にあたるお清とかけおち。死を覚悟での出奔だと紋次郎に話す。死を覚悟しているので、どうなろうと構わないという一太郎である。お清も同じ覚悟であるのか、泣き叫んで救いを求めたりしない。その状況を紋次郎は、冷静に分析して機をうかがう。
「いざというときには、二人一緒に死ねばいい。(中略)野呂木兵馬が具体的な行動に出れば、お清は舌を噛み切ってでも死のうとする。同時に一太郎も何らかの動きを示すことになる。その一瞬に、紋次郎はすべてを賭けるのである。それのほかには、チャンスなどありはしなかった。」(原作より抜粋)
と、ここで紋次郎は晒に突っ込んでいた白鞘の匕首に気づく。(ちょっと遅いように思うが……)人違いをされて、斬りつけられたとき取り上げたものだ。浪人たちは、この匕首までは気づかなかったのである。紋次郎は一太郎の顔に、緊張感と決意の色を見て取り身構える。死を決意した、二人の行動をチャンスと待つ紋次郎……。しかし生と死は紙一重なのである。
果たして「一太郎さん、参ります!」兵馬の腕の中でお清が叫び、舌を噛み切る。兵馬は慌てるが手の施しようがなく、お清は一足先に冥土に旅立った。兵馬が残念そうに所在なく舳先の方へ歩いていくそのとき、一太郎が行動を起こす。お清の死骸を抱いて、そのまま海に飛び込もうとしたのである。「戻れ!」という声も聞かず、お清を抱いて船縁に近づく一太郎に、貞之介が銃の引き金を引く。弾丸は命中し、一太郎はお清を抱いたまま海中に落ちる。
紋次郎にとっては、千載一遇のチャンスである。火縄銃は一度発砲すると、二発目までには手間がかかるのである。源之丞は持病があるのか、激しく咳き込んでいる。狙いは源之丞。紋次郎は船縁に駆けのぼり、背後から源之丞の脇腹を匕首で抉った。そして、源之丞の腰にあった自分の長脇差を手にする。
あと二人。貞之介、兵馬は揺れる船上で足元がふらつく。刀を上段に構えては、紋次郎の低い姿勢からの攻撃や、船板を転げての動きにはついて行けず、二人の浪人も命を落とす。原作の紋次郎は、敵の情報を的確に把握し、臨機応変な戦法で勝利する。
テレビ版では、網元が何度もお甲に「金を出してくれ。」と頼むが、お甲の表情は固い。網元の娘が兵馬に引きずられていく中、お甲が網元に恨み言を投げつける。二十年前の悲劇である。お甲が十一の頃、網元の家に賊が押し入ってお甲の母親が人質にとられた。金を出せば助けてもらえたのに、見殺しにされ、助けに行った父親も殺されてしまった。網元や、村人たちのエゴが見える。そして、今はまるでその逆になったと言うのである。お甲には、そんな哀しく辛い過去があったのだ。お甲にしてみれば、意趣返しなのである。この状況は、偶然なのか仕組まれたものなのか……まだ、わからない。
テレビ版では、兵馬に襲われ舌を噛み切るのは網元の娘である。網元は娘の急変に驚き、素手で兵馬に組みつく。その一瞬を紋次郎は逃さず、攻撃に転じる。懐にあった匕首の存在は、あまり提示されていないので、視聴者は忘れてしまっているかもしれない。今回はずっと動きがない展開だったので、やっと殺陣が始まったという感じがする。兵馬は呆気なく斃される。屋内の殺陣なので走り回るということはないが、紋次郎は床を横っ飛びに転げ、自分の長脇差を手にする。素早い動きを見る限り、左腕の負傷はハンデにはなっていないようだ。
残る相手は浪人二人。逆手に長脇差を持ち、低い姿勢の紋次郎のいつもの構えである。貞之介ともみ合いになり、井戸に押しつけられるが体を入れ替え、斃す。
源之丞は、卑怯にもお甲に刃を突きつけ、命の恩人の女を殺されたくなかったら刀を捨てろと脅す。お甲は首筋に刀を押し当てられたまま、じっと紋次郎を見る。紋次郎もお甲を見つめる……が、行動に移さない。驚いたことに、源之丞にはお甲が斬れないはずだと言い放つ。そして、紋次郎は手当てしてもらったお甲の布をほどき、楊枝で柱に縫いつける。「この布は、勝五郎にもらったものでござんすね。」続けて、お甲は勝五郎の情婦だと言い当てる。目の前に切っ先を突きつけられても、真っ直ぐ紋次郎を見ていたのはおかしい、というのだ。普通なら、切っ先の方に目がいくはずだ、というのだが、何となく説得力に欠ける推理である。
原作では、お甲は一緒にいた手代の弥吉に人質にとられる。実は町人と思われていた弥吉もお高祖頭巾の仲間で、本名を弥平次という。原作も、グルであることはすぐにバレる。同行していた者同士なのだから、同じ穴の狢に決まっているだろう。自分の味方を楯に取り、刀を捨てろとはあったもんじゃない。弥平次は若輩ということで、連中の中では下に見られていた。勝五郎に、お甲を連れて逃げろと言われ、ずっと素性を隠していたのだ。しかし、仲間がみんな死んだら、自分が大金を独り占めできる……だから助っ人にも加わらなかった。狡猾な考え方である。
テレビ版では、お甲が全部しくんだのだと白状する。お甲は20年前の復讐をするために、お高祖頭巾の連中と乗り込んだというのか。しかし状況を見ていると、お甲に「脱げ!」と命令していることはおかしいが、グルではないことを強調するためにわざと脱いだのか。兵馬がお甲に手を出そうとしたとき、源之丞は止めているが、この二人はできているのか。説明不足なので、ドンデン返しのはずが妙に引っかかって、しっかりひっくり返らない(笑)。
お甲は20年の恨みを網元にぶつける。脇差で襲いかかるも網元に抵抗され、最後は相打ちになる。一方紋次郎は、源之丞との戦いだが、室内セットのため殺陣シーンの迫力は半減。今回はやはり殺陣シーンはイマイチだった。
致命傷を負ったお甲は、紋次郎に「借りを返しておくれ……勝五郎の墓まで連れて行っておくれ。この村じゃ死にたくないんだ。」と頼む。紋次郎はお甲を背負う。いつものパターン。村人たちは、そんなお甲と紋次郎に石を投げつける。「出て行けー。とっとと消え失せろ!この疫病神!」まさに、「石持て追われる」そのものである。村人を救った紋次郎にも、同様の仕打ちで感謝の気持ちなど毛頭ない。
お甲は紋次郎の背中で語る。「あったかいんだねえ、お前さんの背中は……勝五郎の身体はいつも冷たかったよ……あたしゃ、心底惚れていたのさ。」お甲は勝五郎に心底惚れていたというのなら、源之丞との関係はなさそうである。勝五郎の最期を看取った後、瓜二つの紋次郎を見て、世話を焼きたくなったのだと言う。11歳で両親をなくし、20年間、女が流れ歩いて生き抜く中、村に対する恨みが大きくなったのだと話すお甲。紋次郎にも生まれ故郷を尋ね、「そこで生まれたってだけのこと」という答えを背中で聞く。そして儚げに「お前さんも……」と、最期の言葉を言い終わらず、息を引き取るのである。
原作のお甲の最期は、より印象的である。
「これで、みんな死んじまった」お甲が、弥平次の死骸に目を落として、そう呟いた。「小出勝五郎がみんなに、わたしも連れて逃げるようにと言い遺したんで、それぞれがよくやってくれたんだけど……。でも所詮は、小出勝五郎がいないこの世に、わたしが生きていたって仕方がないってことなのさ」そう言ってお甲は、小走りに船縁へ上がって行った。躊躇も逡巡もなく、まるで道を真直ぐ行くように、お甲は海へ身を躍らせたのであった。
紋次郎は海面に、お甲の解けた帯を目にする。月光に砕ける白い波……その中で漂う帯に楊枝を飛ばす紋次郎。船縁に立ちつくす紋次郎の孤影と、月光に照らされた銀波とのコントラスト。寂寥感漂う情景の美しさが、映像として頭に浮かび上がってくる。この想像上の映像は、テレビ版のものとは比べようがない。
両親を見殺しにされた恨みを20年間持ち続け、情夫「勝五郎」が死んだのをきっかけにして意趣返しをするお甲。紋次郎と勝五郎が瓜二つだという設定だけはそのままで、全く別物の話となったテレビ版。前回の「女が二度泣く……」に続く、原作からの大リフォームとなった。しかしこのリフォームは大分突貫工事だったようだ。あちこちにひずみが見られ、首をひねる場面が多い。原作を大きく変更するには時間と手間と整合性が必要だが、どれも確保されていなかったようで、綱渡り状態だったのではないだろうか。
テレビ版では、勝五郎の葬られた隣りにお甲の土饅頭が並び、紋次郎の後ろ姿が遠ざかるラストである。タイトルである「砕けた波に影一つ」が生きてこないのが残念である。いっそ、「人を呪わば穴二つ」と改題してもいいのではないだろうか。 

 

●第19話 「女郎にはたった一言」
原作の登場人物は、紋次郎以外は誰も彼もがいけ好かないヤツばかりである。いや、下手をすると紋次郎サンにもその矛先が向けられるかもしれません(笑)。無口にも程がある紋次郎サン……言い訳はないにしても、説明はした方がいいと思います。
実弟の中村勝行氏、四作目の脚本作品である。監督は名匠、池広一夫氏。
テレビ版のオープニングは、白波が立つ海をバックに2対2で長脇差を振り回す男たち。片や地元のヤクザの子分、片や遊び人風の男で、賭場でのいざこざが原因らしい。「金を払え!」「いかさま博奕!」とお互いに叫び合っている。この喧嘩の様子がひどい……と言うか、実際はこんな感じなのだろう。長脇差を構えてはいるがへっぴり腰だし、お互い恐怖心が先立っているので、かっこ悪い体たらくである。市川監督の作品である「股旅」を、彷彿とさせるリアリティである。こういう場合は、度胸がある方か勢いがある方に軍配が上がるようで、博奕の金を払え!と言われていた男二人が生き残る。
地元の子分二人を斬殺したのは「兄貴」と呼ばれていた長五郎。その弟分は広吉。二人の会話からここは清水であることがわかる。二人も殺害したとなれば、この地に留まってはいられない。兄貴分の長五郎は、渡世人として男を磨く!三年後は駿河一の大親分になる!と豪語して清水を離れる。この若者が後の「清水の次郎長」と呼ばれる大侠客となる……とナレーションが入る。
長五郎役に「大門正明」さん。鼻っ柱の強い長五郎役には丁度良い。弟分の広吉には「丹古母鬼馬二」さん。変わった芸名の俳優さんだが、確か「悪役商会」のメンバーだったと記憶している。二人も手に掛けたとなると、この清水には居られないということで、旅に出てどこかの貸元の子分にしてもらおうと二人は算段をする。原作にもこの二人は登場するが、前段の喧嘩の件は出てこない。これは脚本家の勝行氏の創作である。
「新……」には、実在した侠客の名前が何人か登場する。「大前田栄五郎」「神戸の長吉」「国定忠治」そしてこの「次郎長」である。今回の次郎長はまだ売り出す前の23歳という設定である。ウィキペディアで調べてみると、23歳のとき喧嘩が元で人を斬り、家督を姉夫婦に譲って出奔している。その後、無宿人になった長五郎は諸国を流れ歩き、渡世人としての修行を積んだ……となっている。草鞋を履く羽目になった喧嘩が、テレビ版でのオープニングとなったわけである。
テレビ版は原作をそのまま踏襲はできない。なぜかと言えばタイトル通り、紋次郎はたった一言しか発していないからである。紋次郎の台詞がたった一言?!……いくら無口な役柄とはいえ、これではドラマは成立しない。だから……と言うわけではないだろうが、骨子は原作であっても肉付けは随分と違う。
原作は、今までと比較すると特異な感じである。それぞれの登場人物は、時系列や方向は同じだが平行線上にいる。絡み合っているようだが、当事者は気づかない。紋次郎作品としては、実験的な感じである。
尾張名古屋で二人の貸元が縄張りについて会談している。桑名の十蔵と三河の佐七。勢力は十蔵の方が上であり、佐七には勝ち目がないという状況。十蔵はより広い縄張りを提示し、受け入れられないなら力ずくで……と脅される佐七。穏便に事を収めたい佐七は一計をめぐらす。大親分である大前田栄五郎に喧嘩の仲裁を頼むというのだ。栄五郎とは縁もゆかりもないが、尾張の町奉行に添状を書いて持っていけば上手くいくと話を続ける。
栄五郎はむかし、箱根山で尾張の御用金を奪った盗賊を退治したのが縁で、尾張の家臣とはつながりがあるらしい。奉行所は、桑名と岡崎の積年のいざこざが収まるならそれに越したことはないと、添状を書いて佐七に手渡す。この添状がドラマの重要な鍵となる。「大前田栄五郎」という侠客は、関東随一の大親分で、その貫禄で渡世の喧嘩の仲裁役として君臨している。その大親分に泣きつこうというのである。
テレビ版での長五郎と広吉は、旅姿の桑名の十蔵たち一行を見つけ、子分にして欲しいと頼むが相手にされない。原作では「桑名の多郎右衛門」となっているので、名前を変更したようである。しかし長五郎はあきらめない。今度は「三河の佐七」一家を訪ね、身内に加えてほしいと頼むが門前払いをくらい、佐七親分は旅に出ていると聞かされる。
十蔵にも佐七にも断られ、広吉から文句を言われる長五郎。長五郎と、後を追う広吉のシルエットが水面に映り込む。絶妙のバランスでの映像作りで、さすが池広監督である。自分はどこかの一家の身内で終わろうとは思っていない。3年後には駿州一の大親分になる。これからの渡世人は知恵と裁量が大事なんだ、と拗ねる広吉に喝を入れる長五郎。
長五郎と広吉は茶屋で、佐七と十蔵の状況を店の客から知る。佐七が添状を持って子分を連れて上州の大前田栄五郎に会いに行くと聞き、急いで店から出る。佐七たちを追う二人は、紋次郎を殺して名を上げようと長脇差を抜く男の姿を見る。この男は山本一郎さん。久々の登場である。二人は喧嘩の仲裁に入る……と言っても、紋次郎は端から関わる気は毛頭無いのだが。止めに入った長五郎は、そのまま仁義をきりかけるが、「先を急ぎやすんで……」と紋次郎はその場をさっさと去っていく。
長五郎は紋次郎の実力を知っていて、知り合っておいて損のない男だと言う。残された男から、佐七が大前田栄五郎に会いに行く理由を聞き、長五郎は情報元だったその男を斬り捨てる。弟分の広吉は「何も殺さなくても……」と驚くが、長五郎の表情には期するものがあるようだ。「広吉、よく見とけ。これから俺が何をするかな。」長五郎の策略が始まる。
原作では、全く違う世界が淡々と同時進行する。赤坂の蔦屋で女郎をしていたお秀と、身請けした駿河屋の若旦那が仲むつまじく東海道を東に向かっている。そして同じ街道を添状を持った佐七一家、長五郎、広吉、紋次郎が歩いている。一見、何の接点もない者同士であるが、ある一点で繋がる。それが例の添状である。
原作では、初めからお秀と駿河屋の彦十郎が登場している。この二人が往く途上で事件が起こるのであるが、当の本人たちは何一つ知らないという特異な展開なのである。二人のイチャイチャぶりは読んでいても甘ったるくて、私なんかは微笑ましいどころか気分が悪くなるぐらいである。相当私も底意地が悪いのかもしれないが……。脚本家の中村勝行氏も、そう感じたかは知らないが、テレビ版の展開の方がより紋次郎らしい結末へと向かっていく。
テレビ版での場面は、甲州鰍沢の宿場となる。飯盛旅籠である「蔦屋」でのお秀は上機嫌であった。今夜にも、信州の生糸問屋の彦十郎が身請けに来てくれるというからだ。原作とは所在地と職種が変えてあるが、若旦那の名前は彦十郎である。このお秀役に「伊佐山ひろ子」さん。日活ロマンポルノ出身の個性派女優さん。整った顔の美人ではないが、存在感のある魅力的な女優さんで、こういう場末の女を演じれば天下一品の方である。
飯盛女たちが店に出る支度をしている。部屋の障子が夕日に染まり、女たちの声で賑やかだが叙情的で美しい映像である。照明さんの素晴らしい仕事ぶりである……と思って調べてみると、さすが中岡源権さんであった。夕日の傾き工合まで計算してあり、まさに職人技である。
驚いたことに、この飯盛旅籠に紋次郎が宿泊しているのである。野宿や木賃宿ではなく、飯盛旅籠に泊まるということは珍しい。その部屋に、長五郎が訪ねてくる。同じ宿をとっていたのだ。長五郎は、佐七一家が尾張奉行所の添状を懐に、大前田栄五郎の元に喧嘩の仲裁を頼みに忍び旅をしていることを明かす。そして、この話がうまく行かなかったら佐七一家は破滅すると言う。佐七一家を潰せば十蔵親分に貸しが作れるし、名を売ることができ、またとない機会……これからの渡世人は喧嘩や博奕が強いだけではダメだ。名のある貸元衆に顔を売って、裁量一つで一家身内を動かせるようにならないと大物にはのし上がれない……と持論を紋次郎にぶつける。そして紋次郎に力を貸してくれないかと話を持ちかける。
紋次郎にとっては、全く興味のない話である。相手の目を見て聞いているが無言。そして。無表情のまま「お断りいたしやす。」である。長五郎は、「木枯し紋次郎」の名前と、筋金入りの渡世人ということは知っていたようだが、中身まではリサーチ不足だったようである。こんな話に紋次郎が乗るはずがない。
笹沢氏は、「国定忠治」の対極に「清水次郎長」を置いているように感じる。実像はどうだったのかはわからないが、次郎長の駈け出しの頃の人物像を策士に仕立て上げていることは興味深い。実際、忠治は磔となり早世したが、次郎長は長生きをして明治の御代まで生き、大物政治家たちと親交を深めている。創作とはいえ、その片鱗が感じられる。
この飯盛旅籠には、佐七一家も宿をとっている。佐七、長五郎、お秀、紋次郎……テレビ版では、すべての駒が偶然にもここに集まっているのである。少し強引な設定ではあるが、勝行氏の脚色はなかなか手が込んでいる。
原作は旅籠ではなく、茶屋である。昼飯を食べる旅人たちでごった返す中に、お秀と彦十郎、佐七一家、長五郎たちが同席している。紋次郎はその場にはいない。ここでお秀は、彦十郎が勘定を払いに席を立った隙に、商人風の男に声をかけられる。どうも宿場女郎だったお秀が、以前とった客のようだ。お秀にとっては気分が悪いものではあったが、駿州一と言われる大店の内儀になるんだと得意満面で笑みを浮かべる。その様子は、全く上から目線で鼻につく。
普通、女郎が身請けされるということは稀である。その上囲い者ではなく、大店の内儀として納まるなど、千人にひとりも望めない幸運と記述されている。地獄から極楽、夢心地ともある。お秀が浮かれるのも当然であろう。
お秀たちが店を後にした20分後、佐七は添状を盗まれたことに気づく。振分け荷物の上に油紙に包んで置いていたのが、消えたというのだ。ごった返した茶店なのに何とも不用心ではある。背中合わせに座っていたお秀たちの仕業に違いない!と、佐七と子分たちは街道を東に走る。その様子を、好奇の目で見ていたのは長五郎と広吉で、この二人も佐七たちの後を追う。わずか20分遅れであったが、川を渡る舟が連中を待たずに行ってしまったり、早めに旅籠に入った二人を追い越してしまったりで、佐七たちはお秀と彦十郎を見つけることができない。
佐七たちは追い抜いてしまったことに気づき、来た道を引き返すのだが、お秀たちは分岐点で東海道から外れて寄り道をする。彦十郎の伯父に挨拶に行くというのだ。そのまま東海道を進んでいれば、戻ってきた佐七たちと鉢合わせになるはずだったが免れる。「何も知らずにいる者には、好運が訪れる。」と原作には書かれているが、本当に「知らぬが仏」である。
その脇道を、紋次郎は足早に歩いていた。早春の村は温かく、蝶が飛び交い、ヒバリが鳴くようなのどかな様子であるが、紋次郎はそんな風情にも全く関心を払わず、ひたすら歩いている。その先にお秀と彦十郎が、イチャイチャと歩いている。ここでお秀のクシが折れなかったら、この二人の命はなかっただろう。理由はこの後の展開で明らかになる。
お秀は斜めに折れたクシを草むらに捨てていく。そのクシが、なんと紋次郎の左足の裏に突き刺さるのである。お秀にとっては好運のクシだったろうが、紋次郎にとっては疫病神である。軟膏を塗り、手拭いを巻き付けて歩く紋次郎の歩く速度はぐっと遅くなった。そして否が応でもお秀たちの後を辿る羽目になり、そのことがお秀を逆上させるのである。
テレビ版では、佐七と子分が添状について話をしているとき、お秀が酒を運びに入ってくる。「酌をしろ。」と言われて近づいたお秀を抱きすくめ、「今夜一晩買い切ってやろうか。」と佐七が迫る。今夜にも身請けされようとしているんだから客は取らない、とお秀は突っぱねるが、なおもしつこく佐七が抱きつく。本当にもう!男ってヤツは……である。お秀は部屋を飛び出して逃げるが、子分が追いかける。廊下を駆けるお秀と子分の姿を、長五郎と広吉は何事かといぶかしげである。
お秀が「かくまっておくれ!」と飛び込んだ部屋に紋次郎の姿。針仕事をする紋次郎に、お秀は驚く。紋次郎が繕いをするシーンは何度も出てきているが、厳密に言うと、夜に行燈の光だけでは手許が暗くてとてもできるものではない。しかし今回、紋次郎がとった部屋はかなり上等である。相部屋ではないし、布袋さんの置物なんかも見える。「旅人さん、器用なんだねえ。」「所帯を持ったことがあるのかい?」「持ちたいと思わないのかい?」矢継ぎ早に尋ねるお秀にやっと口を開く紋次郎。「考えたこともござんせんよ。」部屋の外はまた、お秀を捜す子分の足音がドタドタと聞こえる。お秀は紋次郎に身の上話を聞かせる。
十五のとき、この旅籠に売られ宿場女郎として5年……(というと、現在20歳という設定)。人並みに所帯を持てるなんて思わなかったが、1ヶ月前に信州の生糸問屋「信濃屋」の若旦那に見初められ、今夜にもその若旦那が金を持って身請けに来てくれる……と言うのだ。興奮気味に喋るお秀の顔は明るく、幸せいっぱいである。お秀は途中で紋次郎の手から繕い物を取り上げ、代わりに仕上げてしまう。以前であれば「手前のことは手前でいたしやす。」とむげに断ることが多かったのだが、今回は素直に渡している。紋次郎に身の上話を聞かせるのに、面と向かって……というのも不自然なので、繕い物で場を「取り繕う」ことにしたのだろう(笑)。
ここでお秀が紋次郎に「今夜ここに置いておくれ。」と頼む。若旦那が迎えに来るまでは、綺麗な身体でいたい、一晩買い切ってくれればあの嫌な客も諦める、と言うのだが紋次郎はあっさり断る。理由は「持ち合わせがない」ということ。お秀は一晩でなくても一刻半(約3時間)でいいから……五百文払ってくれればいいから、と頼むが「宿代払うのが精一杯でござんすよ。」と無い袖は振れない状態。
「五百文も払えないって言うのかい?!」お秀は呆れ顔で詰め寄る。五百文といえば、今なら1万円ぐらいだろうか。女から、金のことで呆れられた紋次郎は、少し狼狽した表情を見せる。どうせ断るのなら、ここは無表情でいてほしかった。「そんな薄情な男にはもう頼みはしないよ!お前さん、あたいの幸せ妬んでるんだろ?!だったらそんなケチな根性、捨てるんだね!」ケチな根性と言われるが、縁もゆかりもない宿場女郎に、何の見かえりもなしで五百文払え、というのも相当厚かましいのではないだろうか。
お秀はポンポンと啖呵をきって、部屋を出て行こうと襖を開けると長五郎が立っていた。長五郎はその五百文を自分が払うと言って、お秀を部屋に呼び込む。まるで紋次郎への当てつけのような振る舞いであるが、それには魂胆があってのことだった。
酒の相手をしてくれるだけでいいから……と長五郎はお秀を部屋に残し、酒を頼みに行く。お秀は、もうすぐ迎えに来る彦十郎との約束を回想している。原作では野外の濡れ場が赤裸々に記述されているが、さすがにテレビ版は回想という形であっさりと映像化している。人物に照明を当て、バックは黒一色。そのせいもあり、お秀と彦十郎の吐く息が白く見える。上半身の肌が大分露出しているのに、撮影現場は随分寒かったようだ。
うっとり思い出しているお秀の背後から佐七が忍び寄り、猿ぐつわをかませて襲う。もがくお秀の脚と、からみつく佐七の脚。どうも長五郎が手引きしたようである。
一方子分たちは部屋で、いつの間にか意気投合した広吉と酒盛りをして騒いでいる。その隙に、長五郎が添状のある次の部屋にそっと忍び込んだとき、代貸が入ってきた。咄嗟に、この旅籠に桑名の十蔵の回し者、紋次郎が泊まっている……と口にする長五郎。機転が利くというか、小賢しい男である。長五郎の口から出任せに、子分たちはいきり立つ。こうして全く関係のない紋次郎だが、佐七一家から命を狙われることになる。
長五郎の案内で子分たちが紋次郎の部屋を襲うが、さすがに紋次郎。異変に気づき、抱き寝の長脇差ごと布団をはねのけ、三度笠と振分け荷物を抱えると窓から逃げる。子分たちも追いかけるが見失ってしまう。せっかくまともな旅籠に泊まるはずだったのに、今回も受難の紋次郎である。こういうゴタゴタに巻き込まれる確率が高いので、やはり紋次郎には野宿がお薦めである。
原作では、クシで脚を負傷した紋次郎はお秀たちとつかず離れずで道中する。野外で二人がイチャついているときも、我関せずで松原で休憩し干し魚を囓っている。しかしその姿を長五郎たちは、添状を奪った二人の用心棒だと勘違いする。紋次郎に聞こえよがしにその噂をするのだが、紋次郎は無言。肯定も否定もしない。関わり合うのもバカバカしいのだ。腕の立つ渡世人紋次郎が、用心棒としてお秀たちについている……この勘違いの情報が、広吉によって佐七にもたらされる。
お秀は少し後ろを歩く紋次郎の姿に疑いを持つ。さっき村で見かけて随分になるのに、なぜ私たちを追い抜いていないのだろう。あとをつけて来ているのではないだろうか、と彦十郎に訊く。しかし彦十郎は、左足を引きずっているようだから、足を怪我しているのだろう。だから早くは歩けないのだ、とお秀の疑念を打ち消す。そのあとに言うお秀の言葉がなんとも腹立たしい。
「また旅馴れている渡世人が、何だって足に傷を負ったりするんだろう。ドジな話だねえ」「そんな言い方をするのは、やめなさいよ。お秀……」 当人たちは声をひそめて話しているつもりなのだろうが、後から行く紋次郎の耳にははっきりと聞こえていた。東から微風が吹いて来ているし、あたりが静かすぎて声の通りがいいのである。
「紋次郎の足の怪我は、誰のせいなんだよ〜!」とこちらも声を荒げてお秀に言い返したいぐらいである。どうかすると、女郎の本性がつい出てくるお秀の言葉遣いでは、大店のお内儀がつとまるのか、甚だ疑問である。
紋次郎は二人の会話が聞こえていても、全く無反応、無表情で聞き流している。
このあとの二人の会話も甘ったるくて、聞いていられない(読んでいられない)。この二人の周りだけは、春爛漫なのである。原作の季節は春……紋次郎作品にしては珍しく、のどかでホンワカとした風情の中、まるで新婚旅行さながらの二人の熱々ぶりである。
じゃれ合ってお秀は、彦十郎にしがみついたのだが、その彦十郎がよろけた。この若旦那は、二十七、八で、色白の二枚目、いかにも華奢な男と記述されている。しがみつかれたぐらいでよろけるとは、この男もこれから先、大店を切り盛りできるのか心配である。ホントに頼りない。身体を預けたもののその主がよろけたので、お秀は両膝を地面に強く打ち付け悲鳴を上げる。読者は(いや意地の悪い私だけか)、ドジだねえ、ざまあ見ろ!と思う。
四つん這いになって動けないお秀……近づいてくる紋次郎。転んだ腹立たしさが、無様な恰好を見られたということで怒りに変わるお秀。
「やいやい、この唐変木の間抜けめ!」お秀は逆上気味に、木枯し紋次郎を怒鳴りつけた。紋次郎は立ちどまって、冷ややかな目を女に向けた。「どうして、わたしたちのあとを、つけてくるんだよ!さっさと先へ行くなり、ほかの道を行くなりすればいいじゃないか!」
原作には「カッとなったりしたときには、人間の地というものが出てしまう」と書かれているがその通りである。お秀のその振る舞いは、まさに宿場女郎そのものである。人間、隠そうとしても地が出てしまうのである。さすがに若旦那の彦十郎は、丁重にわびを入れる。彦十郎も、どうしてこんな女を選んだのだろうか、と呆れてしまう。
並の男だったら謂われのない因縁に腹を立てるところだろうが、紋次郎は心を動かさない。聞こえてはいても、心に届いていなければ、その悪口は無に等しい。紋次郎は、無言で無表情のまま二人を先に行かせ、姿が見えなくなってからまた歩き出す。本当に、この二人連れはめんどくさい。
一方テレビ版のお秀には同情する。「信州の若旦那に会うまでは、きれいな身体でいたい。」と宿場女郎ながら操を守ろうとしたお秀だが、佐七が無理矢理その思いを奪ってしまったのだ。遣り手婆さんが若旦那が迎えに来た、と知らせに来るも浮かない表情。テレビ番のお秀は、原作よりずっと健気でかわいげがある。若旦那が身請けの金を渡したところにお秀が涙ぐんでやって来る。そして本当に迎えに来てくれたことを実感し、堰を切ったように若旦那の胸でワッと泣き出す。1ヶ月前の口約束だけを頼りにしていたお秀なので、実はずっと心配していたのだろう。
翌朝、朝靄の中お秀と彦十郎は店の主人に見送られ信州に向かう。「幸せにな。」という言葉を背中で聞く二人の行く末は……どう考えても幸せにはならない予感……死亡フラグが明らかに立っている。一方、佐七も旅立つ準備をしている。命より大事な添状を確かめようと文箱を開けると、なんと空っぽ!佐七たち一行は大騒ぎである。
宿を出て行ったのがお秀と若旦那と聞いて、佐七は「昨日の腹いせに盗んだのに違いない!」と憤る。このあたりのストーリー展開は、勝行さんはうまい。原作よりずっと必然性がある。その様子を盗み聞きしていた、長五郎と広吉は大笑いをしている。この二人が、添状を盗んだのは明らかである。テレビ版では誰が盗んだかが早くにわかるが、原作は最後である。
二人は、あずかり知らぬところで大変な事になっているとは露知らず、仲良く歩いている。殺風景な荒野である。山を切り崩した造成地のようにも見える。原作では、春めいたのどかな景色が印象的だが、テレビ版は荒涼たる景色……ますます二人の行く末が案じられる。
二人が座って休憩をしていると、佐七一家が追いついて「添状を返せ!」と怒鳴る。殴られ倒れた彦十郎の懐から身請けの証文が見える。佐七はそれを添状と勘違いする。彦十郎は証文を盗られまいと抵抗するが、あっさり斬られてしまう。
身請け証文が命取りになってしまったわけである。ここで疑問。なぜ彦十郎が身請け証文を持っているのか。女郎を身請けするときは、抱主に「身請け証文」を一札入れることになっている。ということは、身請けした彦十郎が、証文を持っていてはおかしいのではないか。詳しいことはわからないので、どなたか教えていただきたい。
さっきまで幸せの絶頂だったお秀だったが、最愛の彦十郎が目の前で惨殺され、奈落の底に突き落とされる。全く理不尽な「死」である。しかし視聴者は、この「死」を少なからず予感していたはず。ここは紋次郎ワールドだから……この二人がこのままで済むはずがない。しかし驚いたことに、原作はこのままで済んでしまうのだ。お秀と彦十郎はどちらもケガひとつせず、それどころか佐七一家に遭遇することもなく、旅を続けるのである。紋次郎ファンからすると、こちらの展開の方がずっと理不尽であろう 。
テレビ版のお秀は泣き叫び狂乱する。「ひと殺し!人間の屑!地獄に堕ちろ!」罵詈雑言を浴びせるお秀。しまいには「殺せ!この人と冥土に行けるなら本望だ!さあ、殺せ!」と叫ぶ。
長脇差を振りかざした子分を制して、佐七は一点を見る。視線の先には、うっそりと立つ紋次郎の姿。子分たちは色めき立つ。「やっぱり後をつけて来やがった。」「十蔵一家の回し者だ!」追い打ちを掛けるようにお秀が言う。「あいつだ!その添状ってやつを盗んだのはあいつだよ!」余計なことを言うものだが、お秀にとっては紋次郎の印象はあまりよくないので腹いせに……というところだろう。紋次郎にとってはさっぱり何のことやら、であるが、降りかかった火の粉は払わねばならない。
今回の殺陣は、荒野を走る、崖を駆け下りるという結構脚力が物を言う設定。疾走して、追っ手をちりぢりにする作戦である。この荒野は「首ラグビー」をした「賽を二度振る……」と同じロケ地ではないだろうか。崩れた山肌は脆く足場も悪い中、追う者追われる者の修羅場は続く。
普通、追われる者のほうが形勢が悪いのだが、紋次郎ワールドでは全く逆であるのが面白い。今回は、何もない荒野なので仕方がないかもしれないが、殺陣にあまりハッとする演出がなされていない。ここに来て、紋次郎の殺陣のマンネリ化を感じる。第一、第二シーズンではそれぞれ格好いい演出がされていたのだが、「新……」もこのあたりになると「流れでお願いします。」のような感じになってきていて、印象に残らないのが残念である。
原作での修羅場は、なんと西日がさす菜の花畑である。佐七一家の5人を敵に回し、足をひきずる紋次郎が咄嗟に駆け込んだのが菜の花畑だったのだ。紋次郎の周囲には、紋白蝶が舞う。菜の花畑に入り日、紋白蝶……こんな牧歌的な風景の中で、殺し合いが始まるのである。
紋次郎は後退した。紋白蝶も、一緒について来た。黄色い海の中に、六つの人影が浮かんでいるような光景であった。そのうちの五つが徐々に、一つへと距離を縮めていく。太陽は西日になっていた、黄色い海の中で何本もの白刃が、キラリキラリと西日に映えて光を散らす。
原作での一番の見せ場である。臨場感ある記述に、その光景や菜の花の香まで読者は疑似体験する。のどかな菜の花畑と殺戮光景の意外な対比……白日夢を見るが如く感覚を読者に与える笹沢氏の筆致である。菜の花の黄色い海、光る白刃と紋白蝶、血しぶきと西日……。ひとりまたひとりと、血潮とともに黄色い海に没していく佐七と子分たち。黄色い海からはい上がってきたのは、紋次郎だけである。
赤く染まった菜の花の色は、夕日の輝きと変わらなかった。太陽は虹色となって、西の空にあった。その光線に映えて、菜の花の全体が鮮血を浴びたような色になっていた。そのうえを、紋白蝶が事もなげに群れ飛んでいた。
これほど色彩的に鮮やかな印象が残るシーンは、なかなかないように思う。
長五郎と広吉はこの修羅場を眺めている。長五郎は紋次郎が斬られることを願っていたが、裏目に出た……と広吉に話す。原作の長五郎は、テレビ版よりまだ少しマシな考えである。自分がこれから売り出すには、有力な親分衆や腕の立つ渡世人が一人でも少なくなれば有利だというのである。そしてこの結末の引き金になった添状を、ここで懐から初めて出す。驚く広吉を尻目に、仏になった佐七の墓に一緒に埋めてやろうと言う。
テレビ版の長五郎と広吉も、高みの見物をしていた。とくに長五郎の台詞の「上から目線」には呆れる。「広吉、よく見とけ。本物の渡世人同士のドスさばきを……」オープニングの長五郎のドスさばきもひどかったのに、兄貴風吹かせてよく言うわ……である。しかし紋次郎の、百戦錬磨の俊敏な動きに圧倒され「スゲエ……さすがに紋次郎だ。」と呟くところは許してやろう。長五郎が「ここまで巧くいくとは思わなかった。」と呟いているところをみると、すべて計算づくだったことがわかる。
お秀は、紋次郎と佐七一家の殺し合いに、「渡世人なんか、どいつもこいつも死んじまえ!」と何度も叫び、山砂を投げつける。お秀の気持ちはよくわかる。渡世人に対しての悪口を女が叫ぶと言えば、「月夜に吼えた……」でのお春。「ヤクザなんてみんな虫けらだよ!」そう言えばお秀役の伊佐山さんの声質も、お春役の女優さんと似ていて、耳に残る。最近の女優さんで言えば「賀来千香子さん」の声質に近い。
BGMに、お秀の「死んじまえ!死んじまえ!」の連呼が重なる。紋次郎もお秀の言う「どいつもこいつも」の範疇だったのだが、佐七を斬り捨てて一人生き残る。
高見の見物をしていた長五郎と広吉が、「大したもんでござんすねえ。」と紋次郎に声をかける。「添状を盗んだのはおめえさんたちでござんすね。」と、冷静な声で尋ねる紋次郎。長五郎はあっさり認め添状を懐から取り出す。桑名の十蔵親分のところに持っていけば、いいみやげになる、と得意げに話す長五郎。「この渡世で身を立てるということは、そういうことだったんでござんすね。」
これからの渡世人は、腕が立つだけでは大物にはなれない、それなりの知恵や器量がいる……長五郎が再び持論を口にする。全く、嫌なヤツである。知恵は悪知恵、器量は奸計と読み替えたいぐらいだ。
「おめえさんたち、それで済むと思ってるんですかい!?」と、紋次郎は鯉口を切りかける。紋次郎の方から、斬りかかろうと身構えるのは珍しいことである。視聴者は「こんなヤツ、殺っちゃってください。」と期待するも、はたと「次郎長」だったということに気づく。そうだった、ここで冥土に送ってしまっては歴史が変わってしまう……。ドラマの初めに、長五郎は後の次郎長と明かしてしまっている以上、殺されることはないとわかってしまうのが残念。「あっしを斬ろうってんですかい!?」たじろぐ長五郎。
「斬り合うんだ!みんな斬り合って死んじまえ!」お秀は罵声を浴びせかける。
「冗談じゃねえ、こんなところで死んでたまるか!」と叫ぶやいなや、長五郎は一目散に逃げていく。頭の回転も速いが逃げ足も速い。紋次郎は追わない。基本的に相手が襲ってこない限り、自分から殺すということはしない紋次郎である。しかし視聴者としては、手にした添状に楊枝を飛ばし、谷底にでも舞い落とすぐらいして欲しかった。
足早に去る紋次郎にお秀の声が降ってくる。「一体、あたいはどうなるんだよ。お前ら何の恨みがあってあたいたちの幸せをぶちこわしにするんだ!何とか言ったらどうなんだよ。また宿場女郎に戻れっていうのかい!?渡世人って何だよ!人間のクズじゃないか!クズッ!」
随分な言われようである。すべての渡世人への恨みつらみを、全部紋次郎にぶつけるお秀。無理もない。千人に一人かといわれた幸運を、全くのとばっちりでフイにしてしまったのだから……。直接紋次郎は関わっていない……どころか、彦十郎を殺した憎い佐七一家を斃したのであるが、紋次郎はこの屈辱的な言葉を甘んじて受ける。
そしてお秀に聞かせることもなく、呟く。「あっしには言い訳なんぞござんせんよ。」そう、紋次郎は自分のことを「人間のクズ」と言われても、反論する術を持たない。
原作では、乗った駄馬が動かなくなり、立ち往生しているお秀と彦十郎に再び紋次郎は会う。お秀はヒステリックに叫ぶ。
「やい、この野郎!いったい、どういう了見なんだよ!ついてくるなって言ったのが、わかんないのかい!」
ここで紋次郎は、お秀が捨てた折れたクシの半分を宙に投げ上げ、楊枝で道標に縫いつける。お秀は事の次第がさっぱりわかっていない。
「へん、今度は脅そうってのかい!それが何の真似だってんだよ、このくたばり損ないめが!さあ、返答おしよ!理由を、聞かせてもらおうじゃないか!」怒り心頭のお秀に、冷たい眼差しで紋次郎は言う。
「あっしに、言い訳なんぞござんせん」
この一言が、この日の紋次郎が口にした唯一の言葉だった……と記述されている。文字通り「女郎にはたった一言」である。それにしても、原作のお秀は最後まで憎たらしい女だった。
テレビ版ではエンディングのナレーションで、少しお秀は救われる。その後、身延山道に「お秀茶屋」という味自慢の茶屋が繁盛したが、女主人は渡世人だけは客にしなかった、という締めくくりである。
後に次郎長という大親分になる長五郎……腕と度胸は別にして、時勢を読む才覚に長け、人脈を利用して世渡りが巧かったとみえる。まさに、一頃流行った「勝ち組」と言えよう。この真逆となる「負け組」が、山本一郎さん演じるうだつの上がらない渡世人。腕も度胸もないのに、無謀にも紋次郎を殺して名を上げようとする。また有力な情報を持っているのに、ペラペラと長五郎に教えてしまう。そして紋次郎と言えば……全く別次元の存在である。勝ちも負けもないどころか、初めから何も求めない。人並みの幸せすら望もうとはしない。全く長五郎たちとは相容れない、孤高の姿が今回は際立ったと思う。
話は変わるが、その後紋次郎は次郎長の子分になる!?……と言うのは、1981年に西郷輝彦さんが次郎長役で「清水次郎長」という番組がオンエアされ、敦夫さんは「大政」を演じているからである。 

 

●第20話 「甲州路の黒い影」
原作「さすらい街道」が翻案された作品は今回だけである。「さすらい街道」は1970年(昭和45年)11月〜1971年(昭和46年)8月まで地方紙に連載された小説である。ちなみにこの1970年の4月に、「見かえり峠の落日」が「小説現代」で発表され、これが笹沢氏の時代小説の先駆けである。「見かえり峠……」は短編であったが、この「さすらい街道」は6話からなる長編である。丹次郎が登場して4ヶ月後の、1971年(昭和46年)3月に「木枯し紋次郎」は登場する。
主人公は「夜番の丹次郎」という渡世人。夜番という俗称は下総(千葉県北部の香取郡)に夜番という地名の村落があり出身地であるとされているが、一風変わった名前ではある。私はてっきり、作者の創作だと思ったのだが、ネットで調べてみると、実際に成田市に今も「夜番」という地名が残っていたのでビックリである。
余談だが後の作品、「無宿人 御子神の丈吉」の「御子神」も、房州(千葉県 南房総市)にある地名である。竜舞の銀次の「龍舞」は群馬県太田市に地名がある。笹沢作品に出てくる渡世人であるので、やはりそれなりにかっこいい俗称が必要であっただろう。笹沢氏は名前を付けるため、当時の地名を史料から探しストックされていたのかもしれない。
丹次郎の容貌は紋次郎の原型でもあるので、相似点が多い。
道中合羽は茶色の棒縞 / 長身 痩せている / 抑揚のない低い声 / 年は30歳 / 青白い顔は病人のよう / 切れ長の目が涼しく、眼差しが陰鬱に暗い / 鼻筋が通っていて、薄い唇だが口許は引き締まっている / 面長でこけた頬 / 整った顔立ちだが、無表情 / 虚無的な暗さ / 月代がのびていて 無精髭が目立つ
そして丹次郎の特徴を決定的にするものに、顔の左半分の大きな傷がある。左耳が刃物で削ぎ落とされ、三分の一しか残っていないのである。そして傷跡は耳から頬を通り顎まで達している。紋次郎の左頬の疵よりは随分と目立つものであるが、この疵が丹次郎に影を落としていることは容易にわかる。
さて前段が長くなってしまった。この作品の目玉は、監督が中村敦夫氏本人であることと、実験的な映像処理を施しているというところであろう。いつもながら、中村氏が監督する作品は一風変わっている。オーソドックスという枠を嫌う傾向があり、今回も面白い趣向ではあるがやはりチープ感は否めない。しかし、当時としては精一杯の技術だったのだろう。
主人公が丹次郎であるので、ストーリーは変更されてはいるが、「笹子の天狗」という化け物(らしきもの)は登場する。しかし正体は、原作とテレビ版では大きく違う。もう一つ原作と違うのは、行方不明の息子を捜す母親が出てくるところである。
話は、甲州路の笹子峠に天狗が出て、人を襲うといううわさ話から始まる。原作では上諏訪の「鍋屋」という旅籠屋で、行商人が相宿となった連中に奇怪な話を聞かせる。
「1年ほど前から、笹子峠と勝沼宿の間で七人の男と女が恐ろしい死にざまをしている。手足を折られ、喉を食いちぎられた上、金を奪われている。けものなら金を盗まないだろうし、盗賊としても手足を折る、喉を食いちぎるなど尋常ではない。そこで笹子の天狗だという噂が広まっている。」というのだ。
奇怪な話や言い伝えと言えば、「女人講……」「怨念坂……」「獣道……」が思い起こされる。敢えて比較すれば、テレビ版の展開では「怨念坂……」が一番近いと言えよう。
テレビ版は、山中で村人たちが焚き火を囲みながらうわさ話をしている。内容は原作とほぼ同じである。その近くの川で紋次郎は足袋を洗っていて、焚き火に足袋をかざしにくる。そして否が応でも、その奇談を聞くことになるのだ。紋次郎が足袋を脱いで、川で洗濯するというのは初めて見る。何気ない日常を見るようで、興味深い。
笹子の天狗の奇怪な話の合間に、化け物が旅人を襲う映像がはさまれている。天狗と言われている化け物は、どう見ても人間である。毛むくじゃらの身体に振り乱した髪、身につけているものは猟師風。獣のような叫び声、鋭い爪、身軽な動きなど、ブックレットにあるようにまさに「猿人系未確認生物」である。
原作の記述でも「四つ足で歩いたり、二本の足で立ったりする。猿といった感じだった。」とあるので、あながち唐突な創造物ではない。しかし原作での身なりは、「白い襦袢と白袴」となっていて、その出で立ちが天狗のようでもあった……とあるので、テレビ版でも再現して欲しかった。
天狗の奇怪な姿もさることながら、ゆがむテレビ画像もかなり前衛的である。見方によっては、「仮面ライダー」に出てくる怪人出現のようでもある。
原作での丹次郎は「群雲の伝兵衛」を追っている。伝兵衛は丹次郎にとって、仇討ちの相手であるのだ。行商人の話から、笹子の天狗に伝兵衛が関与しているかもしれないということで、丹次郎は話に興味を持ち確かめに行く……という関わり方である。
一方テレビ版は、紋次郎が歩く足元に笹子の天狗に襲われた旅人が転がり落ちてくる。体中血だらけの瀕死の男は江戸の呉服商の手代、松吉と名乗る。宿場外れにある温泉宿「笹屋」に湯治に来ている主人に五十両を届けに来たが、笹子の天狗に襲われた。このことをご隠居に伝えて欲しい、というのが最期の言葉だった。その言葉を言い終わる直前、飛び出してきた天狗に紋次郎は腕に手傷を負わされる。一瞬のことだったので、紋次郎も防ぐことができなかったようだ。紋次郎が人の頼みを聞く条件として、今際の際というのがある。今回はまさにその通り。ここで接点を作っておかないと、展開はない。
原作にはない人物で老女が出てくる、この婆さんは「三戸部スエさん」。前シリーズ、「明鴉に死地を射た」でお熊婆役で共演した女優さんである。この婆さんは自分の伜を捜していて、峠に日長一日座り、通る旅人を呼び止めては声をかけている。20年前に行方知れずになった伜は、右手に傷があるので確かめさせてもらえないか、と言うのだ。紋次郎は右手を差し出すが、もとより人違いであるのはわかっている。婆さんは紋次郎の右手の甲をしげしげと見て、伜ではないとわかり丁重に謝る。この峠は保津峡の落合の崖上がロケ地ではないだろうか。松が崖にへばりつくように生えている。
紋次郎は、死んだ松吉に頼まれた言付けのために、湯宿の「笹屋」を訪ねる。笹屋の屋内のセットは重厚で、美術さんのこだわりが見られる。入り口の腰高障子を開けて入る紋次郎の姿を、屋内から逆光気味で撮影している。いろりの間の床が光っていて美しく、紋次郎の三度笠姿もかっこいい。
紋次郎の声に、奥から出てきたのは「大谷直子さん」演じるお美代という女主人。大谷さんは、清楚だが芯のある未亡人といった感じである。黒目より、少し明るい目の色が印象的な美しい女優さんである。
原作では、湯宿や江戸の呉服商も出てこない。丹次郎は伝兵衛の行方を探るために、伝兵衛が宿泊したというお美代の家を訪ねる。このお美代が、非常にミステリアスな未亡人なのである。宿場外れの大きな一軒家に、一人でひっそり住み、日暮れから朝までは小料理屋で働いている。このお美代の亭主が、一番最初に天狗に襲われた被害者である。
伝兵衛は、お美代の亭主の仇討ちをしてやると言って峠に向かったが、天狗に出遭い這々の体で逃げ帰ってきた。その後お美代の家で4日も逗留したという。丹次郎は4日も逗留したことに不信感を抱く。なぜ、見ず知らずの伝兵衛をそんなに長く泊めたのか。その上伝兵衛はその後、地元の久蔵という貸元の家にも草鞋を脱いでいる。天狗を退治するどころか、逃げ帰ってきたのに、接待を受けるのはやはりおかしい……。原作の丹次郎はまるで探偵のようで、謎を解くためにあちこち聞き込みをする行動派である。
天狗のために未亡人となったお美代、という設定は同じだが、テレビ版ではお美代の実母(峠で伜を捜していた)が絡んだり、一軒家ではなく湯宿であったりと、少しふくらみを持たせ変えてある。紋次郎はお美代に「手代の松吉が死んだと、呉服屋のご隠居に伝えてくれ」と言って出て行こうとするが、お美代が押しとどめる。手傷を負っているのにも気づき、手当をするので上がってくれと頼む。いろりの間で傷の手当てを受けているとき、地元の貸元、久蔵が訪ねてくる。
お美代の死んだ亭主は、以前久蔵に世話になっていたので、時々様子を見に訪ねているという。久蔵と一緒にいた子分が、紋次郎に因縁をつけかかるのを久蔵が制する。久蔵はお美代に「おっかさんは?」と尋ねるが、いつものように峠に出かけている……と答えるお美代。
久蔵が帰ってから現れたのは、さっき峠で出逢った老婆だった。老婆は紋次郎に、行方不明の伜の姿を重ねたようで、是非泊まってくれと頼み紋次郎の荷物をさっさと持っていく。前作のお熊婆さんもそうだったが、紋次郎に親近感を持つ優しげな老婆である。
川釣りをしていたご隠居が帰ってきて、手代の松吉が天狗に殺されたことを聞かされるが、天狗の仕業なら仕方がないと諦める。お上も手の下しようがないらしい。この時代はまだ、迷信や噂を信じる風潮だったようだ。しかし紋次郎だけは「天狗の仕業にしては、金を持っている者ばかり襲うのは奇妙だ」と疑いを口にする。複雑な表情で給仕をしているお美代の姿に、紋次郎は何かを感じ取っている。
呉服屋のご隠居は、松吉からの仕送りの五十両が途絶えたので、鶴瀬宿の甲州屋に用立ててもらいに行くと言い出す。お美代から夕刻までには帰れる距離だと聞かされ、お供の手代、茂平衛を連れて出かける。二人を見送ったお美代は、その後こっそりと誰かと密会している。その姿をたまたま紋次郎が目にする。お美代、怪しさ全開である。
甲州屋で五十両を用立ててもらい、軒灯が灯る頃二人は帰路につく。しかし、湯宿の笹屋には無事に帰れなかった。二人は天狗に襲われる。紋次郎は笹屋の一室で長脇差を抱き寝しているが、戸外の異変に本能的に気づく。起き上がって雨戸を開けると、遠くからご隠居の悲鳴が聞こえた。紋次郎は声がした方へ急ぐ。辺りは明るく、まだ夕刻かと思われるので、紋次郎、いくら何でも早寝しすぎだろう。
果たして紋次郎は倒れている手代の茂平衛を見つけるが、そこには頬かぶりをした若い男が小判を手にしてしゃがんでいた。紋次郎は男の顔をはっきり見る。男はその場から走って逃げ、久蔵一家に駆け戻る。久蔵が陰で糸を引いているのだ。久蔵はドジを踏んだ子分をしかりとばし、もうひとっ走りするよう命じる。さてどこへひとっ走りするのか。
一方紋次郎は瀕死のご隠居を見つける。切り立った大きな岩が見える河原は、保津峡であろう。血だらけのご隠居は声をふり絞り「笹子の天狗に……」とだけ伝えて事切れる。倒れている河原の石ころの下から、古い布の切れ端が見つかり、紋次郎は「とも吉」と書かれているのを確認する。
後でわかるのだが、「とも吉」というのは、行方不明のお美代の弟の名前である。笹子の天狗、金を盗む久蔵の子分、不審な動きのお美代、そして行方不明のお美代の弟、とも吉。(原作ではお美代の兄になっている)それぞれはどういう糸で結ばれているのか。
原作ではご隠居は出てこないのだが、大工の留吉が酒を飲んでの帰宅中に天狗に襲われる。逃げてくる留吉に丹次郎は偶然出合い、追いかけてきた天狗にも遭遇する。原作に書かれている天狗はまさに怪物である。
「とたんに丹次郎の背筋を、悪寒が走った。いや、全身が総毛立った。今日まで、これほど醜怪な生き物を見たことはなかった。狼のように鋭く光る両眼、裂けた口、皮膚の色は鉛色だった。牙のような尖った歯を、剥き出している。血走った目は、野獣のように凄まじい光を放っていた。クモの巣みたいな髪の毛がのび放題で、肩まで垂れている。その間から、顔が覗いているのだった。」
丹次郎は長脇差で何度か突きを入れ、微かな手応えを感じる。怪物の悲鳴がしたので、どこかに傷を負わせたようである。原作では、天狗に襲われながらも生き延びた目撃者留吉が、その後自宅で何者かに殺される。原作はかなりサスペンス性が強い。新聞に連載された小説であるので、次々と謎が用意されている訳である。探偵(笑)丹次郎は捜査の結果、留吉を殺害したのは久蔵の子分であることを突き止める。
テレビ版に戻る。紋次郎が笹屋に戻って部屋に入ると、お美代が襦袢姿で布団の上に座っていた。白地に麻の葉文様が美しく、桃色の三尺も艶っぽい。大谷さんのいつもの役どころとは違うので、そのギャップが印象的である。思い詰めたような表情で、ご隠居たちが天狗に殺されたことを告げられても、全く驚かないお美代。
紋次郎は、「笹子の天狗を操っている誰かに……」と言い直しているので、天狗の所業に疑いを持っていることがわかる。「おめえさん、何か知っているんでござんしょう。それを話そうとここで待ってたんじゃねえんですかい。」このときの紋次郎の台詞回しや振る舞いは実に優しく、ジェントルマンである。
しかしお美代は、その紋次郎の言葉を遮るように急に「抱いてください。」と紋次郎にしがみつき、身体を預ける。「紋次郎さんが好きです。」紋次郎は、そのお美代の白い手をふりほどこうとする。「嘘はいけやせん。」「嘘じゃありません。」
このシーン、なかなかドキドキする。と言うのも、これほど紋次郎と接近して誘惑する女は、いないからである。今までだと「大江戸の夜……」のお小夜、「見かえり峠……」のお初、「笛の流れは……」のお千代が結構大胆に紋次郎を誘惑しているが、こんな清楚な感じの女は初めてではないだろうか。
お美代の身体が下になり、紋次郎は覆い被さるような姿勢……ますますドキドキする。「紋次郎、誘惑に負けちゃダメ!これには絶対罠がある!」と心の中で呟く視聴者(私)だが、お美代の白い手が紋次郎の長脇差に伸びるシーンで、「やっぱり……」となる。
「無理な芝居はよしなせえ。」と冷静な声と共にお美代の手を制する紋次郎。さすがその手には乗らない(笑)紋次郎である。
それにしても、この時の中村紋次郎の演技は固い。紋次郎が堅気の女と間違いを起こすなど、絶対あり得ないから……とはいえ、こういうシーンはどうも敦夫さんは苦手なようである。自分が監督なので、「カット!もう一度やり直し!」ということは、なかったのかもしれないが、あまり自身には比重をかけていないように思う。
原作でのお美代も、色仕掛けで丹次郎の口封じをしようするが失敗する。原作では、伝兵衛が天狗の正体を知ってしまったので、口封じのために4日間、お美代は身を投げ出している。そこまでして、何を隠そうとしているのか。
紋次郎は部屋の外で人の気配を察知する。頬被りをした久蔵一家の男たちが襲ってくる。紋次郎は着流し姿に裸足で外に飛び出す。相手は匕首、紋次郎は長ドスは抜かず鞘で応戦する。屋内セットから屋外の林に切り替わっての殺陣。確か紋次郎は裸足だったのだが、よく見ると雪駄を履いている。いつの間に履いたのでしょう。
さて、その身内衆の中に、恐ろしく身の軽い男が一人いる。クルクルと空中で一回転するのだ。この身のこなしの軽さは、「賽を二度振る……」に出てくる猿回しの弥助以来か(笑)。紋次郎はその男の顔を、頬被りの下からではあるが確認する。
ここが、原作との違いの伏線である。久蔵一家が逃げ去った後、一人気を失って倒れている男に水をぶっかけて、紋次郎は問い詰める。笹子の天狗のカラクリを白状しろ、と言うのだ。知らないと答える子分に、「しらばっくれると、その首刎ねるぞ!」と締め上げる。
こんな紋次郎は珍しい……というか、あり得ない。笹子の天狗のカラクリなんて、紋次郎にとってはどうでもいいことである。頼まれた伝言の件は終わったし、殺されたご隠居には何の義理もない。なのに、なぜこんなに熱くなる?敢えて言うなら、伜をずっと捜している老母の存在か。原作が、伝蔵を追う丹次郎なので仕方がないが、それこそ人が変わったような、紋次郎である。
哀しそうな表情でお美代が話し始める。
お美代の夫は旅から帰ってくる途中、化け物に襲われて命を落とす。その現場に居合わせたお美代は驚愕するが、自分を襲わず手に持つ鈴を振る化け物に、誘われるようについていく。その鈴には「とも吉」と記されていて、とも吉はお美代の行方不明になった弟であった。毛むくじゃらの化け物とフラフラと追うお美代のツーショットは異様ではあるが、大谷直子さんは斜光の中、美しく撮影されている。
たどり着いた先は岩陰にある洞穴で、人が住んでいたような形跡があり、足元にはさっきの鈴と古ぼけた独楽が落ちていた。変わり果てた弟の姿に哀しむお美代……。そこに久蔵がやって来て、一部始終をばらされたくなかったら言うことを聞け!と、お美代を襲う。いつもの男のパターンである。この久蔵役に「新田昌玄さん」。前シリーズでは「月夜に吼えた……」と「九頭竜に折鶴は……」で共演しているので、今回で3度目となる。悪役での出演が多いが、どちらかというとソフトな感じで、武闘派タイプではない。柔和な顔の裏で狡く立ち回るという役が多いように思う。
お美代は世間に知られるより、自分の母親に知られるのが辛いと言う。帰りを待つ伜が、化け物のようになってしまった浅ましい姿を母が見たら、どんなに嘆き哀しむか。お美代はとも吉はきっと山犬に育てられたのだと言う。
それからというもの、お美代は久蔵に言われるまま、宿に金持ちが泊まり笹子峠に向かったら知らせを入れるようになった。そし笹子の天狗を使って、旅人の金品と命を奪う久蔵の片棒を担ぐことになった。お美代は自分の罪深さを懺悔する。
しかしこの話を一番聞かせたくなかった老母が立ち聞きをしてしまい、自分のせいでお美代を苦しめたと詫びるのである。そしてどんな浅ましい姿になろうとも、伜には変わりない、一目会いたい。会ってとも吉に詫びたら、お美代ととも吉の罪咎を全部自分が引き受けて、自訴する。だから伜を何とか久蔵から奪い返してくれと、紋次郎に頼む。親子の情愛を絡めたテレビ版だけのオリジナル展開である。
紋次郎は大体、老婆に弱い。子どもを思う母の願いに後押しされて、紋次郎は動き出す。お美代に久蔵のところへ走らせ、明日の明け六つ過ぎに鴉の森を紋次郎が通ることを伝えさせる。待ち伏せをさせろと言うのだ。きっとそこに笹子の天狗も現れるだろう。他人のために策略を練るという紋次郎は、やはりいつもの人物像からは離れているが仕方ない。
明け六つ、朝霧が流れる中紋次郎が宿を出て鴉の森に向かう。その時のBGMというか効果音というか、これがなかなか面白い。歌舞伎や時代劇の舞台で使われるような効果音なのだ。なんだか化け物退治の演目舞台のようで、この演出はきっと中村氏のものであろう。一瞬、「江戸特捜指令」を思い出した。
この効果音の中、足早に歩く紋次郎、森の中で待ち伏せする久蔵一家、笹屋の囲炉裏端でじっと成り行きを案じて座るお美代とその母。それぞれの姿が映し出され、なかなか渋くてかっこよかったのだが、森に到着して本番の殺陣が始まるといつものBGM……。ドテッである。紋次郎は久蔵一家のメンバーをグルリと見回し「一人、数が足りやせんねぇ。」と言うところを見ると、このカラクリを全部見切っているのか。圧倒的な強さで子分たちを斃す紋次郎だが、久蔵を追い詰めたとき天狗が木の上から襲ってくる。
木の枝にぶら下がったりするその姿から、紋次郎は見せ物小屋の軽業師を連想する。天狗が加勢してから紋次郎は不利な状況になり、足を負傷する。逃げる紋次郎は、転げるように崖を滑り降りる。危険きわまりないシーンであるが、スタントマンはいつも使わない。経費削減というより、中村氏のポリシーだろう。生傷が絶えなかったに違いない。
足の傷を布で縛る紋次郎だが、この布はどこから出てきたのだろうか。振分け荷物は見当たらないし、懐にでもあったのだろうか……余計なことは考えないで次に進もう。
結局、襲ってくる天狗に長ドスを投げて斃し、正体を見破る紋次郎である。天狗の正体はお美代の弟ではなく、軽業師の六助であった。紋次郎の口から唐突に「六助」という名前が出てくるので少々面食らってしまう。あのときの連想シーンは回想で、この軽業師のことを紋次郎は知っていたのか。この辺の展開は結構粗くなっているが、気にせず次に進もう。
ここで、原作とテレビ版の圧倒的な違いが出てくる。原作では、怪物のように変わり果てたのは、やはりお美代の兄の「友吉」であった。丹次郎は、その友吉の野性的な攻撃を受け、死闘を繰り広げる。その様相は人間に対するものではなく、まさしく獣との戦いであった。頭上を軽々と舞いながら攻撃する怪物に、丹次郎は左肩をやられる。その動きを止めるために、丹次郎は怪物の四肢を狙う。まず左足、そして左手……怪物は唸り声をあげ苦悶する。起き上がれず地上に転がっている怪物は、長ドスで胸と腹を刺され悲しげに吼えた。読者は、この怪物への同情を禁じ得ない。しかし、他に手段がなかったのは確かである。笹子の天狗と呼ばれた友吉は、崖から落ちて死ぬ。
「お美代の兄の友吉は十歳のときに神隠しに遭っている。人買いにでも、連れ去られたのだろう。ところが笹子峠で何かが起こり、人買いは友吉を手放した。逃げ出した友吉は、足を滑らせて崖の下へ転落した。奇跡的に命は助かったが、大怪我はしたはずである。そのとき頭でも打って、友吉は自分が誰であるかも忘れてしまったのに違いない。その友吉を救ったのは山犬だとお美代は信じている。その理由は、友吉が棲んでいた岩の割れ目のすぐ脇で、四つ足動物の骨を見つけたからである。」
狼に育てられたと言われる「アマラとカマラ」の話を彷彿とさせる。しかしこの話は、学会では信憑性に欠けるということで、疑わしい部分が多いらしいが……。笹沢氏が、この話をベースにしたかはわからないが、10歳以降であれば山中で生き長らえることは可能かもしれない。
友吉は酒好きでたびたびお美代の所に来るが、それを久蔵一家の者に見られてしまい、久蔵のいいなりになってしまったという件は大体同じである。
テレビ版では「とも吉」は、とうの昔に死んでいた。ご隠居が殺された河原で、とも吉と書かれていた布の切れ端を紋次郎は見つけたが、あの近くにとも吉の鈴や独楽もあった。それを久蔵は見つけ、軽業師上がりの六助を笹子の天狗に仕立てた。お美代にはとも吉だと思わせお美代を強請り、有力な情報を得ては金を奪う。実に手が込んだ脚色であるが、矛盾点も出てくる。殺された者たちは、「手足が折られ、喉を食いちぎられている」という状態のはずだが、それも偽装したということか。面倒くさい手口である。
しかし紋次郎が、哀しい獣を殺すということを回避できたのはよかったと思う。やはり原作が、「紋次郎」でないというのは、なかなか難しいようである。人物設定が違うので、紋次郎に近づけるにはどう改変すればいいか……というところから始まるのだろう。脚本家の辻景子さんも、ご苦労されたこととお察しする。
さてテレビ版では、久蔵の笹子の天狗のでっち上げも解明され、久蔵も紋次郎の手で斃される。事の仔細を、お美代と老母に話すがそれも残酷な話ではある。お美代は大勢の旅人の命を奪った片棒を担いでしまったが、それも実の弟や母のため。しかしそれがすべて久蔵の企みだった訳である。老母は、伜はもうこの世にはいないだろうと聞かされ、怒りを紋次郎にぶつける。多分、頭ではわかっていても、心情的に認めたくなかったのだろう。
結局紋次郎は、すべてを解明したものの誰からも感謝はされず、それどころかとも吉の母親からなじられ、笹屋を後にする。お美代はそんな紋次郎に、破れた三度笠の代わりに、宿にあった替わりの三度笠を手渡す。
紋次郎が出て行った後、お美代は逡巡するが、意を決して紋次郎の後を追う。嘆き悲しむ老母のそばに居るか、紋次郎を追うか……迷う大谷直子さんの複雑な表情は、女の気持ちとしてよくわかる。三度笠を手渡すということは、紋次郎を旅立たせるということではあるが、お美代はこのまま、別れたくなかったのだ。
お美代は、先を行く紋次郎の名を叫ぶ。そして再度、あの怪物は本当に弟ではなかったのか、と念を押して尋ねる。
「弟じゃなかったら、久蔵の辱めにも耐え、人殺しの手引きをしたこともみんな無駄だった。そうとも知らずたくさんの人を殺めてしまって、死んだ人になんてお詫びをしたらいいのか。私は地獄に落ちることもできない。紋次郎さん、教えてください、私、どうしたらいいのか……。」泣き崩れるお美代に紋次郎は静かに答える。
「あっしには、教える資格なんぞござんせんよ。あっしも今まで、随分と人を殺めてめぇりやした。それでもあっしには、言い訳なんぞござんせんよ。」
ここであの「言い訳なんぞ」という決め台詞が出てくる。この返事では、お美代の問いの答えにはならないだろう。むしろ、逆効果であろう。ここは、「お美代さん、済んでしまったことは、なかったことと同じでござんすよ。」の方がよかったのではないだろうか。
「紋次郎さん、行ってしまうんですね。」お美代は、明らかに紋次郎に心を寄せている。紋次郎に、襦袢姿で身体を預けたことは、8割以上本気だったと私は見た。未亡人に心を寄せられるのは、前シリーズ「女人講の闇を……」以来か。お美代にとっても切ない別れになった。
正直今回の作品は、ザッと観た当初は、ゲテモノ趣味感全開で(笑)取り上げたくなかった。しかし、長期にわたり(というか、グズグズしていたのだが)関わっているうちに、救いは「大谷直子さん」の清楚で正統派の美しさということがわかり、ゲテモノ感も相殺されたように今となっては感じる。思い詰めて縋った襦袢姿と、裾を大きくはだけながらも思わず追いかけたラストの姿……どちらもお美代の健気な姿が見えて、この作品のクォリティーが上がったと思う。キャスティングは大切だと、思った次第である。
紋次郎が去っていくその視線の先には、お美代の母親の姿があった。崖っぷちで伜のとも吉を待つ姿は、依然と変わらなかった。子を想う母の気持ちを、紋次郎はどう感じたのだろう。紋次郎は家族に恵まれなかった。生まれてすぐ、両親の手で間引かれそうになったという、暗い過去がある。姉のお光の機転で救われたが、その後も愛情を注がれることはなかっただろう。そんな紋次郎にとって、母親やお美代の存在はどのように映ったのだろうか。
「やっぱりこの世の中、おふくろなんてものはありやしやせんでした。」この台詞は、前シリーズ「女郎蜘蛛が泥に這う」で、お甲の鬼婆ぶりを評して言った紋次郎の言葉であった。その後も何人か、母親は出てきたが、母親らしい母親はほとんど登場しなかっただけに、今回は珍しい。しかしこの世では絶対、親子の対面は望めない結末はやはり寂しいものである。 

 

●第21話 「命は一度捨てるもの」
テレビ版は、「のっけからのけぞく」(笑)。女郎屋のシーンから始まるからだ。女郎の一人が客に噂話をしている。紋次郎が地元のヤクザ五人に喧嘩を売られたが、てんで勝負にならなかった。さしずめ五羽のスズメが、(台詞では五匹と言っているが)鷲に食ってかかるようなもの……。この女郎はその様子を見ていたような口ぶりだが、大体、宿場女郎が勝手に宿場外れにフラフラ行けるものなのだろうか。
原作では同じような噂話を、塩尻に買い出しにでかけた吾市が長兵衛に話している。長兵衛は、旅籠で使う座布団の見本と砥石を、洗馬から持ち帰るところであった。二人は奈良井宿の住人である。「同じような」と書いたが、原作とテレビ版とでは大きく違う。原作での紋次郎は、喧嘩を買おうとはしなかった。小僧を相手に、長脇差は抜けないというスタンス。これは正しい紋次郎であろう。紋次郎はむやみに長脇差は抜かないし、降りかかった火の粉は最小限に防ぐ。なのにテレビ版はなぜ、ここで一気に斬り捨てていくのだろう。原作の紋次郎のように無意味な殺生はせず、全く取り合わない姿であって欲しかった。
ストップモーションで、紋次郎の殺陣シーンが撮られている。その合間に竹林が、風にザワザワと揺れる画像が差し込まれている。このあたりはなかなかいい感じで、市川監督の作り方を意識しているようであるが、いかんせん女郎屋の閨房である。せっかくの風情もあまりよく伝わらない。
二人の女郎が客を取っている。男は長兵衛と吾市である。女郎部屋といっても、間仕切りが申し訳程度にあるだけで、実際そうだったらしい。お互いの声は丸聞こえなのである。長兵衛は、吾市を相手にしている女郎から「木枯し紋次郎」という名前を聞いて驚く。紋次郎なら知っている、幼馴染みだというのである。その紋次郎は西に向かったと聞き、「明日は早立ちでここを出立する」と吾市に叫んでいる。長兵衛と吾市は何者なのか。長兵衛は紋次郎に、何の用があるのか。
原作の出だしは、山道の情景が見事に臨場感をもって表されている。
「白昼の驟雨であった。」という簡潔な一文から始まって、夏に降る夕立の様子が実に細やかに表現されている。巻末の解説にもあるように、五感で感じたままの書き込みがされている。
樹木の葉ずれの音・土埃の匂い・蝉の声が嘘みたいに止み、雨の音だけが聞こえる・逃げまどい雨宿りをする旅人・銀色に霞む樹海・谷間からの冷気……等々。本当にその山道で、自分も雨で足止めをされているかのような錯覚に陥る。その雨宿りに使った絵馬堂の軒下で、長兵衛と吾市が会話をしている。そして、吾市が紋次郎の目撃談をするのである。二人の会話の様子では、吾市は朴訥な感じのする男だし、長兵衛も穏やかな印象である。しかしテレビ版では、二人は女郎買い仲間。胡散臭い雰囲気は否めない。この長兵衛が、紋次郎の幼馴染みという設定は原作と同じであるが、後に出てくるお鶴との関係は違う。
奈良井宿の東外れに紋次郎はさしかかる。掛け茶屋で紋次郎を呼び止めたのは、原作とテレビ版とでは違う人物である。原作では、最初に声をかけたのは長兵衛。年の頃は三十五、六とあるので、紋次郎よりは若干年上である。次がお鶴。お鶴は紋次郎とは同い年となっている。紋次郎が故郷を捨てた七年目に、お鶴は奈良井宿の大徳屋に嫁いだ。二人は幼馴染みの紋次郎に出会ったことで、興奮気味に喋るが、紋次郎は全く無感動、無関心である。
長兵衛は江戸に奉公に出たものの、盗みの疑いをかけられ店を飛び出し放浪の身。奈良井にたどり着いて旅籠で無銭飲食……半殺しの目に遭わされそうになったとき、大徳屋の内儀、お鶴に助けられたという。幼馴染みのよしみでお鶴は長兵衛を助け、いまは旅籠の番頭に納まっているのである。延々と続くこれらの身の上話を、紋次郎は無理矢理聞かされている。
「長兵衛とお鶴は、やりとりを続けている。その二人の幼馴染みの話を、紋次郎は退屈を覚えながら耳にしていた。紋次郎には、幼馴染みという言葉さえ、ピンと来ないのである。無縁の言葉であり、違和感を覚えるだけであった。幼馴染みの存在は、過去のことだった。紋次郎には、明日もない代わりに、昨日もないのである。過去を捨て去った男に、幼馴染みも何もあったものではない。過去の記憶はあっても、それに心が向くということはないのだった。」
三人は三日月村で幼少の頃を共に過ごしたのであるが、紋次郎だけがテンションが異常に低いのである。「先を急いでおりやす。」と振り切ろうとする紋次郎を長兵衛は腕を掴み、自分が働いている旅籠に無理矢理泊まらせる。紋次郎が断り切れなかったのは、長兵衛に借りがあったからである。紋次郎は幼いとき、本百姓の長兵衛の家で、時々食い物にありついていた、とある。
「それらを口の中に押し込んでいるときが、何よりも幸福であった。子ども心にも感謝したし、恩を忘れまいと思った。だから頼まれなくても紋次郎は、仁左衛門(長兵衛の父親)のところの牛を洗ったり、犬の死骸を片付けたりした。」
紋次郎は幼いときからすでに、恩義を感じそれに報いようとする精神が宿っていたのである。紋次郎のコアな部分を垣間見る思いであり、「三つ子の魂百まで。」とも言えるのではないだろうか。
さてテレビ版で紋次郎を待ち受けていたのは、お鶴の亭主である「大徳屋 佐之助」であった。原作では四十年輩でなかなかの貫禄、とあるが、テレビ版の佐之助はもっと高齢で、六十過ぎといった違いがある。このお鶴と佐之助との年の差が、原作のストーリー展開との違いに繋がる。
大徳屋は奈良井宿で、問屋場の長を務める実力者である。テレビ版ではあまり触れられていないが、この大徳屋は、奈良井のひのき細工、曲げ物を総括する元締めで、宿場にとっては無くてはならない人物なのである。大徳屋は自分の女房に頼まれて紋次郎を呼び止め、是非とも家に立ち寄って欲しいと丁寧に頼む。こんな宿場の大物に「あなた様は、木枯し紋次郎さんでいらっしゃいますか?」という言葉を掛けられることは滅多にないことである。紋次郎はその場を去ろうとするが、番頭から「おかみさんは、紋次郎さんと米粒の話をしたいと仰っています」と言われ、足を留める。「お鶴」と「米粒」で、紋次郎はお鶴のことを思い出したのだろうか。目の前にいないお鶴であるので、確認のしようがないが、テレビ版の紋次郎はとりあえず会ってみようと思ったのか、大徳屋と共に奈良井宿に向かう。その姿を見送るように、三人の浪人が木の陰から姿を見せる。この浪人たちは、あとで関わりが出てくる。
大徳屋の敷居を跨ぐ紋次郎。店の奥から出てきたのは、お鶴であった。お鶴役に「新谷のり子」さん。新谷さんは歌手で、「フランシーヌの場合」という反戦をテーマにした歌を1969年にヒットさせている。なぜ、女優を使わないで歌手の新谷さんなのだろう……と当時、思った記憶がある。着物姿はなかなか美しいのだが、演技がぎこちなく、原作のような小悪魔的な妖艶さは感じられない。せめて原作どおり、唇の右脇にホクロがあってほしかった。
お鶴は「紋次郎さん、お鶴ですよ。上新田のお鶴坊です。紋次郎さん。」と、紋次郎を見つめて呼びかける。紋次郎はそこで「お鶴さん……」と、思い出したように呟く。そして、お鶴から上がってくださいと言われ、紋次郎は何の躊躇もなく腰を下ろし草鞋を脱ぐ。
そのあたりの展開が、私は納得いかない。請われたからといっても、堅気の、それも問屋場の長の家に上がり込む紋次郎だろうか。ここは紋次郎、固辞してほしかった。そのとき、お鶴は口許を押さえて座り込む。気分が悪くなったようであるが、いつものパターン。つわりである。どうしていつも、ドラマでのつわりシーンはワンパターンなのだろうか、と思うが仕方がない。
佐之助は紋次郎を離れに通して深刻な表情で話をする。「お鶴は身ごもっているが、実は自分の子どもではない。もうこの歳だから子どもはできないが、跡取りは欲しい。お鶴とも相談して、ある男の子種を買ったのだが、その男から礼金百両の上、五百両という大金を強請られている。何とかしてもらえないだろうか。」というのである。原作とは違う展開である。
若い嫁に男をあてがって、身籠もらせる。……前シリーズ「和田峠……」の逆バージョンである。「何だかなあ……」といった感じ。お鶴を抱く男の姿は、後ろ姿なので誰かはわからないが、何となく見当はつく。自分の女房が男に抱かれ悶えている姿を、襖一枚越しに苦渋の表情で亭主が見ているなんて、悪趣味きわまりない。この悪趣味ぶりが「新……」では時々見られるが、お茶の間で親子で視聴するには毒が強すぎる。このあたりもいけません。
男から五百両を強請られていることをお鶴は知らず、佐之助は独断で紋次郎に頼んでいるようである。何とかして欲しいと言ってはいるが、結局暴力でカタを付けて欲しいということである。またしても紋次郎は利用されそうになる。テレビ版の紋次郎は佐之助の頼みを断る。
「あっしには関わりのねえことでござんすよ。」
「新……」で、この台詞を口にすることはほとんど無かったので、今回は珍しい。紋次郎はさっさと部屋を出て行くのだが、佐之助は必死で呼び戻そうとする。
「紋次郎さま!」
紋次郎が堅気衆から「さま」扱いを受けるのは初めてではないだろうか。堅気の者というのは、渡世人や無宿者には概して冷たく毛嫌いするが、利用するときになると「さま」扱いになると見える。
大徳屋を後にし、宿場内を歩いている紋次郎に次に声をかけたのは、長兵衛である。続けさまに幼馴染みに声をかけられるなんて、紋次郎にとっては不運であろう。是非とも自分が働く旅籠に泊まってくれ、と誘う長兵衛。今夜は旅籠「高砂屋」に泊まって、明日大徳屋のお鶴と三人でつもる話をしよう、と言うのだ。
暖簾越しにカメラが、二人の姿を捉えている。紋次郎の横顔からは、明らかにうんざりした表情が見て取れる。「暖簾越し」の撮影という手法はなかなか面白く、視聴者が店からのぞき見をしているような感覚になる。「先を急いでいる」「旅籠に泊まれる身分じゃない」と断るも、長兵衛は腕を抱えて歩き出す。そして道すがら、自分の身の上話をし始める。紋次郎は全く興味なし。この身の上話は原作とほとんど同じであるが、江戸で間違いを起こし、男を殺めてしまった。その男の親が仇を討つといって、自分の命を狙っているので助けて欲しい、と付け加える。長兵衛……お前もか……(笑)。しばらくここに留まって守って欲しい……というのである。腰を下ろしている紋次郎の遠景に三人の浪人姿……茶屋で姿を見せていた例の三人。長兵衛の命を狙う者たちか……と思わせてはいるが……?
原作には強請られている大徳屋、命を狙われている長兵衛という設定はなく、これはテレビ版だけの展開である。「噂じゃおめぇ、滅法強いっていうじゃないか。幼馴染みじゃないか。」と頼む長兵衛。「長兵衛さん、あっしは手めぇ一人生きるのが精いっぱいで、とても他人様のことまで……」と断ろうとする紋次郎の言葉を遮って、長兵衛は紋次郎が貧しく幼かった頃のことを話し出す。空腹で道に倒れている紋次郎に、タクアンと握り飯を持ってきてやったという昔話である。紋次郎は無表情だが、遠い目をする。思い出しているのだろうか。「ごめんよ、こんな話をして……」と長兵衛は謝るが、恩に着せている何ものでもない。
軒灯に灯がともる頃、結局紋次郎は高砂屋で泊まることになる。相部屋ではあるが、旅籠に泊まるのは珍しいことであろう。不思議なのは、高砂屋にあの浪人たちも宿泊しているようで、こちらを窺う影が見える。
画面は切り替わり、大徳屋佐之助が、取引先の店から供の者と帰るところ。かなりの土砂降りの中、提灯を掲げているので夜という設定なのだろうが、どう見ても日は高そうである。自然の陽差しなのか、ライティングのせいなのか光の反射が強く、灯籠を明るく照らしすぎているのが残念。店の者を先に帰らせたところで、大徳屋は何者かに襲われる。簔笠姿の男三人がダンビラを振りかざすのであるから、あの浪人たちだとわかる。しかし、驚いて逃げる大徳屋を実際に襲うのは違う男。脇差しで大徳屋に突進して、刺す。大徳屋は「お前は……。」と末期の言葉。顔見知りの犯行であることがわかる。
その犯行を見てしまった男がいた。それは、吾市である。番傘をさして立ちすくむ吾市に近寄る犯人は、何か一言二言吾市に話す。吾市は怯えた目で頷く。これも顔見知りのようである。ここまで来るとこの犯人は誰なのか、想像出来てしまう。テレビ版、このあたりも残念。
原作では大徳屋は殺されてはいない。ひのき曲げ物を大量に、江戸と大坂の商人に横流しをしていると誰かが尾張藩の役人に密告したのである。曲げ物というのは、ヒノキや杉の薄い板を曲げて丸い器に作った物で自由取引きは禁止されているのだ。藩にとっては税金の対象であるので、由々しき問題である。大徳屋は夜明け前に、陣屋に引っ立てられる。しかし佐之助の行為は不正であるが、奈良井宿の諸経費を助けるためで公然の秘密であった。宿民の中で、その秘密を密告するなんて言語道断である。
テレビ版では殺され、原作では陣屋に引っ立てられる大徳屋である。宿民の誰もがその犯人を憎み、捜し出そうとする。テレビ版では、戸板に乗せられて運び込まれた大徳屋佐之助にお鶴は嘆き悲しみ、縋って泣く。
程なくして現れた長兵衛は、「下手人の見当は大体付いている……しかしそいつの名前を言ったらとんでもないことになる。きっとみんなはそいつを、嬲り殺しにするだろう。そうなるとお咎めを受けるのはこの宿のみんなになる。役人が来るまで、今夜のところは静かに引き取ったほうがいい。」と言い出す。
遅れて吾市もやって来て、事の成り行きに呆然としている。宿の者から「法事であの近くを通りかかったはずだから、下手人を見たはずだ!」と詰問されるが何も答えない。あのとき、犯人から口止めをされているからだ。
原作でも密告者を見たのは、長兵衛と吾市とされている。ただその成り行きがどうだったのか、また吾市が口止めされていたのかは記述されていない。
ショックで伏せっているお鶴の枕元に長兵衛は座り、「必ずわたしが下手人を見つけ出す。高砂屋の番頭でいられるのも、あんたのおかげだ。恩は忘れない。心配しないで気を休めて……。三年前、奈良井宿に来てお鶴さんに会ったことを思い出す。幼馴染みっていいもんだ。」としみじみと話す。お鶴は「ありがとう、長兵衛さん。」と背中を向けたままだが礼を言う。
外は土砂降り。障子越しに雨が降っている様子がシルエット状に映る。実際、そんな風に映るはずはないのだが、なかなか映像としては趣がある。長兵衛は大雨の中、番傘をさして大徳屋を後にする。
翌朝早く紋次郎は旅籠の高砂屋を後にする。店の者から、長兵衛は夕べから熱を出して伏せっている、と聞かされるが、紋次郎は長兵衛に会わずに出立する。
その頃、宿場外れで惨殺された吾市の遺体が宿の者たちに発見される。吾市は大徳屋殺しの下手人を知っていたのに違いない、だからそいつに殺されたんだとみんなは騒ぎだす。そして、下手人を知るのは長兵衛だけとなる。
ここで原作とテレビ版との違いで大きな不満がある。テレビ番では、吾市が殺されることに紋次郎が関わらないことである。いや原作でも関わらなかったのだが……(笑)。ややこしい話である。
原作での紋次郎は、奈良井宿の西の外れで騒動に出遭う。吾市が乞食浪人たちに絡まれていて、十数人の人々がそれを取り囲んで見守っているのだ。浪人にぶつかって刀に触れたということで、浪人二人が吾市に絡んでいるのである。紋次郎は脇をすり抜けようとしたが、吾市から助けを求められ脚に縋りつかれる。泣き出しそうな声で哀願する吾市。そして見物人の一人からも頼まれる。「ある出来事に絡んでの大切な生き証人だから、何とか助けてやって欲しい。」と言うのだ。
奈良井宿を抜けるとき、大徳屋が陣屋に引っ立てられたことで騒然となっていたことを、紋次郎は知ってはいた。しかしそれと吾市とのつながりは知る由もない。紋次郎は無言で助けを求める吾市の手をはずし、浪人たちの嘲りも無視をして先を急ぐ。結果、大切な生き証人だった吾市は殺されてしまう。
この件の原作は、無情で淡々としていて乾いた感じの筆致である。
「二人の浪人が、吾市を追いかけた。次の瞬間、吾市の絶叫が突っ走り、成り行きを見守っていた男女の何人かが悲鳴を上げた。紋次郎は振り返った。…(中略)…路上の飛び散った血が、乾いた土にたちまち吸い込まれた。…(中略)…十数人の男女が、吾市のところへ一斉に駆け寄った。蝉が鳴き出した。草むらにのめり込んだ吾市は、そのまま動かずにいた。唸り声も、漏らさなかった。死んでいるのである。早くも、蝿が集まって来ていた。奈良井宿の人々は、呆然と吾市の死骸を見おろしていた。」
人の命の儚さを想う。さっきまで助けを求め、紋次郎の脚にしがみついていた命ある者が、一瞬にして命を絶たれ物言わぬ骸になったのである。「蝉が鳴きだした。」の表現で、静寂が破られたはずなのに、しんとした無常観が漂う。
宿の人々は紋次郎に、抗議と非難の視線を浴びせるが、紋次郎は無表情である。宿民が交わす会話から紋次郎は、吾市は大徳屋を密告した者を知る生き証人だったこと、残された生き証人は長兵衛ただ一人なのだが、彼は夜中に高熱が出て助かる見込みがないほど重病であることを知る。長兵衛を助けるためには福島にいる名医「多田玄斎」を呼ぶしかないが、玄斎は足が不自由で福島から出たことがない……もはや風前の灯火の長兵衛の命だということである。
紋次郎は宿民たちを後にして歩き出す。鳥居峠を越えたところで、吾市を殺した浪人たちに出遭い、ヘラヘラ笑う二人を無言で一瞬にして斃す。そんなことなら、吾市を簡単に助けることができたのに……と思う。いつもそうなのである。面倒なことに関わりたくないために、拒否して通り過ぎることを選択するも、そのことで更に面倒なことになってしまうのである。
浪人を斃し鳥居峠を下り、薮原、宮の越を通り過ぎ、福島宿に着く。原作では、その間の紋次郎の心情は一切書かれていない。淡々と紋次郎の行動を追うだけである。紋次郎は福島の多田玄斎の住まいを訪ねる。紋次郎を突き動かしたのは、吾市を見捨てたために事態が悪化したことへの自分に対するけじめである。
テレビ版でも同じく、玄斎の元へ急ぐ紋次郎ではあるが、微妙にその原動力が違う。お鶴が紋次郎を追いかけて走ってくる。「おい、おい、身重なのにそんなに走っていいのかいな。」と余計な突っ込みを入れたくなる。「もう少し宿に留まって欲しい。主人を殺した者をどうしても見つけ出したい。下手人の糸口を知っているのは長兵衛さんだけだが、高熱で口もきけない状態。吾市さんも殺されたと聞いた。長兵衛さんを助けるために、福島宿の玄斎先生を奈良井宿に連れてきて欲しい。」と頼むお鶴に「御免なすって」と背を向ける紋次郎。その背中にお鶴は叫ぶ。「長兵衛さんは紋次郎さんに鯉を食べさせようとして大雨の中、弁天池へ……。二十年ぶりに会った紋次郎さんを喜ばせてやろうとして、それであんな病気になってしまったんだよ。幼馴染みを見捨てるつもりだろう!紋次郎さん!紋次郎さん!」
この台詞を背中で聞いて、テレビ版の紋次郎は福島宿に向かう。テレビ版の紋次郎は、吾市を見殺しにしたという負い目はないので、明らかに二人の幼馴染みのために動き出している。それとも鯉の話を聞いたからか。
撮影時はよほど寒かったと見え、紋次郎が歩く水際には薄く氷が張っている。その氷の端が曲線を描き、鈍く光るのをバックにして紋次郎は歩く。
この原作で私が一番気に入っているのは、玄斎と紋次郎の根比べのところである。約二十キロの道のりを五時間かけて歩き、やっと福島宿に着いた紋次郎は玄斎を訪ねるが、全く相手にされない。玄斎は名医ではあるがかなりの変わり者で、外へは一歩も出ず独り暮らしである。何度も目の前にいる玄斎に声をかけるが全く無視。
紋次郎は夏の陽光を浴びながらも地面に座り込む。盛り上がった入道雲が夕立を運んでくる。身の回りの世話をする老婆が障子を閉めるが、紋次郎は夕立の中、地面に座ったままである。長い夕立が上がり西の空の夕焼けも残光を消す。夜になり、玄斎が食事をする姿が障子に映るが、紋次郎はまだ座っている。行燈の火が消え、紋次郎は桐の木の下に場所を移して、木にもたれかかって眠る。
夜が明けて、また紋次郎は元の場所に座る。玄斎が姿を現し濡れ縁に薬草を並べるが、紋次郎には目もくれない。朝飯を食べた後、玄斎は読書。正午過ぎに薬草いじりを始めた玄斎は初めて紋次郎に声をかける。「ちょうど、まる一日がすぎたな」
その後、病人が奈良井宿にいると聞いて、玄斎は「こちらからは出向かん。諦めろ。愚かだったな。」と、部屋の中に戻ってしまう。夕方になり二晩目……同じく桐の木の下で夜を過ごし、明け方濡れ縁の下に座る紋次郎。早朝5時頃、障子が開き玄斎が病人の様子を尋ねて、かなりの重病だと知る。そしてとうとう、「わしは、お前の頑固さに負けた。」と奈良井に出向くことを承知する。馬も駕籠も酔ってしまって乗れないと言う玄斎に紋次郎は言う。「あっしが、背負って参りやす」
鳥居峠は標高1197メートル。中山道最大の難所を越えることは普通でも大変であるのに、大人ひとりを背負って越えるなどとは常人では考えられない。しかし紋次郎は敢行する。二晩を木の下で野宿し、食べ物も口にしないままである。紋次郎の、強靱な身体と精神力には驚愕する。見方によっては、吾市を見殺しにしたことへの贖罪とも言える。
テレビ版での見物はなんと言っても玄斎役の「常田富士男」さんだろう。常田さんと言えば、前シリーズ第10話 「土煙に絵馬が舞う」での黒部の銀蔵。個性的な悪役を演じられていたが、今回は変わり者の漢方医役である。常田さんの怪演ぶりで、玄斎が実に面白いキャラクターの持ち主になっているのが見物。
テレビ版は原作ほどではないが、それでも一晩、紋次郎は粘る。翌朝になっても紋次郎がその場を去っていないので、玄斎は不思議そうな表情でいる。紋次郎を「相当頑固な男だな……変人?奇人?」と評する。「いやいや、よっぽど先生のほうが変人、奇人ですよ」と言いたいのだが、この尋常ではない粘り腰に玄斎は共感したのか、大声で叫ぶ。「よし!参ろう!」
ここで「やしきたかじん」さんが歌う主題歌「焼けた道」の三番が流れる。歌詞入りで劇中に使われるのは初めて。それも三番って……とも思うが、歌詞の内容がタイトルである「命は一度捨てるもの」にリンクしているからか。「だれも知らない 人はなんで生きるか 食べるためにか 殺すためにか」
なかなか意味深な歌詞である。今まで何回も人を背負って歩いた紋次郎だが、今回が一番距離が長かったのではないだろうか。鳥居峠を、お妻を背負って越えたのは「無縁仏に明日を見た」だが、これは峠を越えただけであった。そして背負ったのがほとんど女だったが、今回は男……「地蔵峠の雨に消える」の十太以来か。中村氏はさすがに足腰が強く、常田さんを背負ってもふらつくこともなく、歩幅もスピードも平常と変わらず歩く。
玄斎を高砂屋に運び入れてから、紋次郎は宿場の一膳飯屋で飯にありつく。久々に紋次郎食いが見られるかと思いきや、縄のれんの向こうにお鶴の姿が見え、場面が変わる。原作では、一昨日の朝飯から何も食べていないが暴飲暴食はせず一人前の飯を食べただけで店を出る。「これも長年の経験から得た知恵で、空腹に対する訓練というものを常に心掛けているのだった。」と原作には説明されている。大したものである。ぜひ見習いたい。
水辺に座る、お鶴と紋次郎。このロケ地、今回は幾度となく出てくるが、スタッフもお気に入りだったのか。それともロケ地移動の時間と経費を、惜しんだのだろうか(笑)。
「やっぱり私の頼みを聞いてくれたんですね。」「あっしはただ、義理を果たしただけでござんすよ。」「それだけじゃないでしょう?」その後お鶴は、幼い頃の三日月村でのことを話し始める。
あの頃は、紋次郎のおかみさんになるんだと心の中で決めていたこと。そのために恥ずかしいこともした。、肌を見せつけたりもした。わたしのここ(胸)に初めて触れたのも紋次郎さんだった……と言って、紋次郎の手を胸に押しつけるお鶴。紋次郎、明らかに困惑気味。「胸に触れた?!」何もわからない者にとっては、「えーっ?そんなことあったの?」であるが、原作ではお鶴のことを「ひどく早熟であった」と書かれてある。
「上新田のお鶴坊は、ひどく早熟であった。紋次郎を物蔭に誘い込んで、まだふくらんでいない胸を触らせたり、笑いながら股を開いて見せたりした。……そのお鶴は、幼いときから器量よしであった。いまに水呑みでもお鶴のお蔭で楽が出来るようになると、上新田ではもっぱらの評判だった。お鶴が娘になったら玉の輿に乗るか、大金持ちの囲い者になるかだと、誰もが決め込んでいたのである。」
しかし申し訳ないが新谷さん、あまりにも演技が稚拙過ぎて、どうしても違和感がぬぐえない。歌手業の方だから仕方ないのかもしれないが、原作のお鶴を彷彿とはできない。原作のお鶴は、もっと妖艶に紋次郎を誘う。
「いってぇこれは、どういう意味でござんすかい?」(テレビ)
「いってぇ、何の魂胆があってのことなんですかい」(原作)
どちらも立ち上がって、お鶴を拒絶する紋次郎。それでこそ正しい紋次郎サンです。よかった……。
テレビ版でのお鶴は紋次郎に、「寂しい、心細い」「強い男に縋りたいもの」「江戸に連れて行って欲しい」「お金なら飛脚問屋に三千両ある」「こんな田舎は飽き飽き」と言って、極めつけは「江戸に行ってふたりで暮らそう」である。こんな田舎って……奈良井宿は三日月村に比べたらずっと都会じゃないですか。「私をどこかへ連れて行ってくださいバージョン」は以前にもあったが、久々に同窓会で出会い、懐かしさでポッとなりよろめく女のようである。それにお鶴さん、お腹の赤子はどうするおつもりなんで……?
テレビ版の紋次郎の台詞「どういう意味?」のお鶴の答えは、「昔ちょっと好きだった男を口説いて、この状況から抜け出したい」である。お鶴は、身籠もった相手の男が大徳屋を強請っていたことを知らなかったという設定のようだから、それ以上深い策略はなかったと思う。
一方原作のお鶴の魂胆は……?については、どんでん返しのところで考えたいと思う。
さて、どちらのお鶴も簪に米粒をぶら下げている。紋次郎が七つか八つのとき、拾った米粒に針で穴を開け糸で通すという細工に興じたことがあった。それをお鶴にあげたらしく、その米粒を後生大事に結びつけているという。幼い頃の淡い気持ちを、二十年以上抱き続けていたというのだろうか。それが本当なら、お鶴の本質は純情な女といえるが……どうなのだろう。
映像では、幼い頃の紋次郎とお鶴が登場する。紋次郎はさておき、お鶴ちゃん、お世辞にも器量よしとは言えない(笑)。真っ黒の顔に乱れた髪の毛、貧しさは十分表現できているが、原作の雰囲気とは随分違い、早熟どころか幼なすぎる。
「遠い昔のことなんでござんすよ」紋次郎にとってはそれ以上の言葉はないし、感慨もない。
この後、テレビ版の紋次郎と玄斎のやりとりはかなり面白い。紋次郎は高砂屋の女中に呼び戻される。長兵衛が伏せっている部屋には玄斎がおり、紋次郎をしかりつける。
「どこへ行っておったのだ!おまえは!」「あっしはこれで、お暇しようと思いやして……」紋次郎は頭を下げて、申し訳なさそうな様子。
「出立する?馬鹿を申すな!」玄斎は紋次郎の三度笠と長脇差をすごい勢いで取り上げる。紋次郎はその剣幕に全く押され気味。
「このワシを、福島くんだりからわざわざ引っ張り出しておきながらひとりで出立?!」玄斎、今度は紋次郎の道中合羽をグイッと引っ張る。「こうなったらお前も、始末を最後までよくつけなきゃならん!ワシの手伝いをして、病人が良くなったらワシを背負って福島まで送り届ける!」
玄斎の言い分ももっともである。あの貫禄と凄みのある紋次郎が、玄斎の前では校長室に呼び出された学生のように見える。紋次郎は玄斎の助手となり、指示通りにせっせと働く。二人は長兵衛の看病に徹夜までする。
それにしても、笹沢氏の漢方薬や医術の知識はかなりのものだと感心する。当時の史料を元にして書かれているのであろうが、専門的である。ちなみに姫四郎シリーズでは、ブッラク=ジャック顔負けの様相を呈している。
夜が明けて、長兵衛は回復して熱も下がる。玄斎と紋次郎は並んで朝飯を食べるのだが、ここで久々に紋次郎食いが見られる。長兵衛は紋次郎に礼を言う。
「幼馴染みってのは本当にありがたいもんだ。二十年前、食べ物を恵んでやったなんて変な話をして悪かった。今度は命拾いをした。お前は命の恩人だ。ありがとう。」紋次郎は無言である。
ここで長兵衛は高砂屋の主人から、大徳屋を殺した下手人を知っているのは長兵衛と吾市だけ。知っていることをみんなに話してくれ、と頼まれる。
長兵衛は「吾市はどうなりましたか?」と聞き、誰かに殺されたことを知る。そして、なにも話さずに死んだのか、と主人に尋ねる。そのやりとりを紋次郎と玄斎はそれとなく聞いていたのだが、この短い会話が重要なのである。
高砂屋に押しかける宿民たちを前にして長兵衛は、下手人はもうこの世にはいない。それは吾市だと告発する。みんなは一様に驚くが、玄斎がおもむろに異議を申し立てる。
それは長兵衛の「どうなりましたか?」に引っかかっているのだ。「吾市はどこにいますか?どうしていますか?」ではなくて、「どうなりましたか?」。尋ね方がおかしいというのだ。まるでどうかなるのを予見していたかのようだ、と言うのだ。それに吾市が殺されたと聞いても全く驚かず、何も喋らなかったかを確認している。吾市じゃなく長兵衛が下手人じゃないのか、と推理してみせるのである。
このどんでん返しを、全くの部外者が短時間で推理して明かす。一見風采の上がらない、常田さん演じる玄斎だが名推理である。長兵衛さん、「口は災いの元」である。
長兵衛は顔色が変わりあわてふためく。宿民たちは「長兵衛だ!長兵衛がやったんだ!」と騒ぎ始める。長兵衛は逆上して「殺してやる!」と、玄斎の胸ぐらを掴みかけるが同時に紋次郎が飛びかかる。
「幼馴染みの長兵衛さんよ。土砂降りの中、あっしに食わせる鯉はどこにあるんですかい!」(テレビ)紋次郎、やはり鯉にこだわっていた。大徳屋を殺したのは長兵衛で、それを見ていた吾市も口封じに殺した。子種を餌に大徳屋を強請ったのも長兵衛だ!と玄斎に続き、見事な連係プレーである。しかし子種のことまで宿民に発表してもよかったのだろうか。
テレビ版ではクライマックスでの殺陣が必要なので、ここで浪人たちが出てくる。もしかしたら、クライマックスのために逆算して、浪人たちを今まで生かしておいたのかもしれない。浪人たちと紋次郎の殺陣は、あまり目を見張る趣向はなかった。
ところで長兵衛は紋次郎に出会ったとき、江戸で殺めた男の親から命を狙われて…云々と喋っていたが、それはこの浪人たちを指しているのかもしれない。うまく事が進み、最後に雇った浪人たちを紋次郎に始末させよう、と考えていたのではないだろうか。そんな話をして、紋次郎を引き留めようとする展開は原作にはない。
テレビ版の長兵衛は、原作よりかなり罪が重い。原作ではお鶴と通じていて、横流しを密告する。それを目撃された吾市を浪人たちに頼んで殺す。
テレビ版では、子種の件で大徳屋を強請る、大徳屋と吾市を自分の手で殺す、紋次郎を騙して雇った浪人たちをも始末してもらおうと企てる、紋次郎のために鯉を捕りに行ったと嘘をつく。ここまで重罪にしておかないと、最後に丸腰の長兵衛を一刀両断で殺せないと考えたのだろうか。
長兵衛は紋次郎に震える声で言う。「お前には俺を殺せねぇよ。三日間かかって助けた俺を、半日で殺すってのかい?俺を殺したら、この三日間の血の滲むようなおめえの努力が水の泡になるんだぜ。それでも俺を殺そうってのかい?」「それでもあっしははおめえさんを斬りやすぜ。」「なぜなんだよ!」「あっしには言い訳なんぞござんせんよ。」(テレビ)
原作でもほとんど同じような台詞であるが、「言い訳なんぞ……」は口にしていない。この台詞をどうしても入れたいがための展開のようだが、この台詞回しはあまりいただけない。紋次郎の方から、「斬る!」と宣言することに違和感を覚える。
「おめえは死ななくちゃならねえ人間だぜ。」この台詞を「雪燈籠に……」で、紋次郎は政吉に言っている。実の伜である幼子、「秀坊」を手にかけた政吉に対しての台詞は、私は納得できる。
「昔、食い物をさんざん恵んでもらったという借りがあるのに、恩を忘れたか!」と原作の長兵衛は叫ぶが、「この三日間で借りは返した。」と答える紋次郎。実際この三日間の紋次郎の働きは、凄まじいものがあったと思う。昔の長兵衛に対しての恩返しは終わり、今、目の前にいる長兵衛は全く別人と考えているかのようだ。
「長兵衛を、殺しちまえ!」「嬲り殺しにしろ!」といきり立つ宿民たちをバックにし、「嬲り殺しよりは、楽でごさんしょうよ」と長脇差を振りおろす紋次郎。リンチで殺されるより、ましな引導の渡し方とでも言うのだろうか。
テレビ版の長兵衛の台詞にもあったが、もし宿民が長兵衛を怒りにまかせて嬲り殺しにしたら、宿民に罪が科されるのは必至。それより、地縁のない流れ者の紋次郎がバッサリ殺る方がいい、と言うことで、紋次郎自らがその役を引き受けたかのようにも思える。
しかし、どちらにしても丸腰で、戦闘意欲のない男を手に掛けるというあたりは私は好まない。せめて、懐に隠し持っていた脇差で紋次郎に襲いかかる長兵衛を、斬り捨てる紋次郎であって欲しかった。
事の成り行きを見ていたお鶴の正体も釈然としない。原作ではお鶴と長兵衛は秘密裏で繋がっていて、共謀して大徳屋を陥れ身代を乗っ取るつもりだったという設定である。では、紋次郎を誘惑したお鶴の思惑は何だったのだろう?紋次郎は長兵衛に、「お鶴さんはあっしにまで、色目を使いやしたぜ」と言葉をかけたが、この企みの主導権はどちらが握っていたのだろうか。それともただの色情狂だったのだろうか。
テレビ版のお鶴は長兵衛の子種を宿すことにはなったが、長兵衛が大徳屋を強請っていたことは知らなかったようだし、共謀したとも考えられない。私としては、お鶴は悪女であってほしかったので、原作の展開の方が好きである。幼馴染みのしがらみのためでなく、吾市を見殺しにした償いのため、苛酷な試練に耐えた紋次郎のほうが好きである。そしてその苛酷な三日間を、あっさり無駄にしてしまう紋次郎は潔い。
「生き返らせておいてすぐ殺すとは、わしも無駄骨を折ったし、お前さんの三日間の苦労も水の泡となったな」と言う玄斎に「命ってのは、一度は捨てるもんでござんす」と無表情で答える紋次郎。そして、立ちつくすお鶴の簪に揺れる、糸に繋いだ米粒。幼馴染みとの決別の意味を込めて、楊枝を飛ばして落とす紋次郎。これも紋次郎が作って、自ら壊す。
生あるものは必ず一度は死ぬもの。出会った者は必ずいずれ別れるもの。まさに「生者必滅 会者定離」である。それが早いか遅いかで、さほどの違いはないのかもしれない。
幼馴染みと相まみえて、命のやりとりをするのは「夜泣石は……」での弁蔵以来……。
「幼馴染みが、やがては果たし合いかい」「世の中ってモンはそんなモンでぇ……」幼馴染みが、長い年月を経て再会することの残酷さがあった。
紋次郎にとって、幼馴染みは何の意味も持たなかった。振り返る過去があり、懐かしい思い出があってこそ幼馴染みの良さがある訳で、紋次郎には全く関わりないものであった。いや考えてみれば、第一作目「赦免花は散った」での幼馴染みの裏切りから、紋次郎のシリーズが始まったのであるので、この結末は当然と言える。 

 

●第22話 「鬼が一匹関わった」
前回に続き「お鶴」が出てくる。実にややこしいが、今回のお鶴は幼女である。原作の脚本化の順番は、これで良かったのだろうか、とも思ってしまう。よりによって続いて同名の登場人物を出すこともなかったろうに……。
原作はなかなか複雑で、頭があまり回らない私は、1回読んだだけではわからなかった。テレビ版の本筋は原作と同じだが、お照の扱い方が全く違う。
オープニングは滝のシーンから始まる。この滝は形状から考えると、鷹峯にある「菩提の滝」と見られる。この滝は「人斬りは紋日に暮れた」でも使用されている、落差約10メートルの美しい滝である。この滝口に紋次郎の姿が見える。当時と違い、今は白いガードレールがアングルによっては見えてしまうようである。この山中、原作では碓氷峠という設定である。
この滝の近くで紋次郎は幼女を目にする。この子が「お鶴」であるのだが、なかなか子役のキャスティングがよい。目で演技が出来る子である。滝の音が響く中、なぜかお鶴は岩場を登っている。お鶴のそばにはうらぶれた渡世人が一人、紋次郎に声をかける。
「紋次郎さんだろ?」と声をかけられるところを見ると、外見や風貌で特定できるほど紋次郎は有名なようである。この渡世人は榛名の弥一郎と名乗り、もとは堅気、それも榛名の十文字屋敷の主だったと、苦しい息で話を始める。2年前から心の臓を患い、もう余命幾ばくもなさそうだ。しかし死ぬ前に、お鶴を十文字屋敷にどうしても連れて行きたいのだが、とても無理なので何とかあの子を連れて行ってもらえないか、と紋次郎に頼む。今の当主は弟の金三郎、その嫁お照は元はと言えば弥一郎の妻だったとも付け加える。お鶴は実は自分のの子ではない……いや自分の子なんだが……と、全く反対のことを口にするが、紋次郎は取り合わずにもう歩き出している。
ざっと聞いただけでも複雑で、紋次郎でなくてもお断りしたくなる内容である。紋次郎に断られた弥一郎は、お鶴の姿が見えないことに気づき、慌てる。そう言えばさっきまで岩場を登っていたお鶴の姿がない。弥一郎は大声で紋次郎に助けを求める。「送り届けることは諦めた。せめてあの子を探すことだけ手伝ってくれ!」と叫び、お鶴の名を呼ぶ。紋次郎もその声を背中で聞き、足を留め少し躊躇するが、結局お鶴を探しにもどってくる。滝口の上に伸びる狭い未舗装の道を、紋次郎は走ってくるのだが、残念なことに轍が見える。せめて映り込んでしまうところだけでも、トンボをかけて均しておいてほしかった。このあたりが「新……」での粗さと言える。
紋次郎が子どもに弱いことはファンの中では周知である。紋次郎は岩場や崖を探していたが、椿の枝を持ち座り込むお鶴を見つけ出す。……と同時に弥一郎の悲鳴が滝の付近で聞こえる。どうも滝壺にでも転落したようで、それっきり弥一郎の気配は全く感じられなくなる。お鶴一人が残されることになった。
原作では、弥一郎とお鶴に出会う前にひと悶着起こっている。十文字屋敷で差配をしている奉公人の作兵衛が財布を落としてしまい、道中人足と金を巡っていざこざが起こっている。通りかかった紋次郎は作兵衛に呼び止められて、「百文を貸して欲しい」と懇願されるも、却下。すげなく断っているようだが、その時の紋次郎の所持金が丁度百文。所持金を全部貸してくれ、と言われては紋次郎でなくとも断るであろう。
その代わり、次に通りかかった「闇雲の唐吉」という渡世人が、用立てることになった。この唐吉がこの後再び出てきて、展開に絡んでくるのである。唐吉は紋次郎のことを、「一切、他人事には関わり合いを持ちたがらない」という噂を聞いているから、いくら頼んでも無駄だと作兵衛に言っている。紋次郎、かなり巷では周知されている。唐吉は百文も貸せない紋次郎を哄笑するが、紋次郎は一切気にせず去っていく。
テレビ版はこの展開は省略している。
原作はこの後、行き倒れ寸前の弥一郎とお鶴に出会う。テレビ版と原作はほとんど同じだが、弥一郎は心の臓の病に加えて足を負傷している設定。自分の女房が村の者に手籠めにされたことに逆上して、その相手の男を斬り殺してしまった。しかしそれは人違いであったということで、村を出奔して無宿となったことを、紋次郎に話している。その後の展開は同じだが、お鶴は岩場の上で妙なことを言う。「おとうが登れって言ったもん」
弥一郎は叫び声を残して姿を消す。崖下に落下したのか、木の枝から雪が舞い落ちるのを紋次郎は目撃する。テレビ版では、お鶴は弥一郎が落ちたことを知るが、原作では気づかず「おとうは、どこへ行ったの?」と人懐っこい笑いを紋次郎に見せる。紋次郎は仕方なく嘘をつく。優しい嘘である。「一足、先に出かけちまったのさ」「だったら、追いかけようよ」と、無邪気に紋次郎の手を引っ張るお鶴。紋次郎は黙ってお鶴の前にしゃがみ込んで、背中に負ぶう。
テレビ版では、紋次郎の後をトボトボと歩くお鶴の姿。チラチラと何度か振り向き、お鶴を気遣う紋次郎。このツーショットの映像がなかなかいい。フッと柔和な表情を浮かべ、紋次郎はお鶴に背中を向けてしゃがみ込む。前回はむさい(笑)初老の医者を背負ったが、今回はいたいけない幼女である。何人か背負ってきた中では、最年少、最軽量であろう。お鶴は紋次郎の背中で、「お月さま、いくつ♪〜」の童唄を口ずさむ。調べてみたが、確かに江戸時代にはあちこちで歌われていたようで、地方によって少しずつ歌詞が違う。
このまま碓氷の関所をお咎めなしで通り抜けているのだが、無宿者が幼女を連れていること自体は問題がないようである。下りについての男は、手形不要ということだが、親子と見えたのだろうか。子連れ狼ならぬ、子連れ紋次郎は掛け茶屋に入り二人でうどんをすする。お鶴は嬉しそうな目で紋次郎を見る。とっつきにくそうな紋次郎だが、なぜかいつも子どもには好かれる。
紋次郎は川の水で濡らした手拭いで、お鶴の顔を拭いてやる。実に面倒見がよい紋次郎である。ここで芥川さんのナレーションが入る。「この天女のような子が、惨劇の引き金となる鬼っ子であることを、無論まだ紋次郎は知る由もなかった。」
鬼っ子?!ということは、タイトルの「鬼が一匹……」の鬼はこのお鶴のことなのか。惨劇、鬼っ子、不穏な響きのある言葉が続く。
原作のお鶴は紋次郎の背中で歌わないが、かわりになかなか雄弁であり聡明である。紋次郎が嘘をついていることを、しっかり見透かしているのだ。足を負傷した父親が、先に行けるはずがない、と言うのだ。そしてもう一つ気になることを紋次郎に教える。あの足の傷は、父親自身が自分の長脇差で切ってしまった、おっちょこちょいだ、と紋次郎の背中で話す。
テレビ版では十文字屋敷が映し出される。明らかに、摩気の橋と橋のたもとの白壁が美しい民家である。今は橋は架け替えられているが、当時は立派な木製の橋である。人里に、生活の橋として普通にあったのが不思議な気がする。このロケ地は、「鴉が三羽の……」でも使用されている。
紋次郎はお鶴を背負ったまま、裏門に回って家人に声をかける。表門でなく裏門というのは、堅気の家を訪ねる渡世人の正しい作法である。声を聞いて中から出てきたのは、一人の水仕女。紋次郎は丁重に金三郎か、お照に取り次いでほしいと頼む。「お鶴来たって、金三郎に言っとくれよ。」お鶴は紋次郎の背中から水仕女に声をかける。原作とほとんど同じ台詞だが、このお鶴、なかなか上から目線である(笑)。紋次郎は背中からお鶴を下ろすと、そっと頬被りを取ってやる。この所作に紋次郎の優しさが見え、いつもと違って本当に面倒見がよい。
原作ではこの十文字屋敷に、闇雲の唐吉がゴロツキのような仲間を四人連れて来ていた。百文貸した作兵衛が、屋敷に呼び入れたのだが、仲間が四人もいるとは知らなかったようであった。結局百文借りただけだったのが、二両も無心されてしまい、作兵衛はぶつぶつ文句を言っている。この唐吉、親切どころかとんだ食わせ者。作兵衛は紋次郎の姿を見てあっという顔になった。百文がらみがここにも居たとは……。
原作の紋次郎はそれも無視して、お鶴と手を繋いだままじっと動かずにいた。お鶴と手を繋いでいる紋次郎の姿……想像するだけでも興味深い。原作の紋次郎も、いつになく関わっている。今回の関わり方は、実に自然である。どうしようか、とさほど迷うことなく、気がつけば関わってしまっていたという感じである。弥一郎の最期の頼みということもあるが、これも相手が幼子だったからであろう。
テレビ版では金三郎とその女房、お照が屋敷の奥から出てくる。それを待つ、紋次郎とお鶴のシルエットがいい感じである。金三郎役に「辻萬長」さん。整った顔立ちで眉もしっかり、くっきり……なのに、ちょっとオネエキャラが入っているのが面白い。もとは弥一郎の女房、今はその弟である金三郎の女房になっているお照に「泉晶子」さん。クセのない、控えめな感じの着物がよく似合う女優さんである。
弥一郎の子どもであるお鶴を、確かに送り届けたので……と、紋次郎は役目を果たし、去ろうとするが金三郎はパニクる。「こりゃ、一体何の真似だね。冗談もほどほどにしてくださいよ。」「冗談?冗談でこんなことできる道理はござんせんよ!」紋次郎、いつになく語気を強め、感情的な台詞回しである。
「本当に弥一郎さまの子なのですか?」お照も、自分の夫だった弥一郎の子として、目の前にいるお鶴に動揺する。複雑な思いであることは確かである。「弥一郎さまは?」と尋ねるお照。お鶴に弥一郎の悲劇を聞かせたくない……という優しさで、紋次郎は「長旅でこの子は疲れているので、水の一杯でも……」と頼む。お鶴は水仕女の「お浜」に連れて行かれる。土間でのこのシーンは、手前に格子戸と巨大な酒樽を配しフレーム感があり、屋内の雰囲気をよく出している。。紋次郎は弥一郎が死んだことを告げる。お照は軽く目を閉じ、金三郎は逆に目を見張り一様に驚く。
一方、お鶴はお浜に自分の母親はお鶴と言う名前だと明かす。「やっぱり、生き写しだもんねえ。」お浜は母親のお鶴を知っていたようである。このお浜役に「岡本麗」さん。どこかで見たことがあるなあ、と思ったら「はぐれ刑事純情派」で藤田まことさんと共演されていた。まだこの時は、(失礼!)初々しく若々しい姿である。当時はあまり知らなかったのだが、日活ロマンポルノを支えた女優さんだったようだ。
ここで回想シーン。金三郎は水仕女のお鶴と深い仲になり、お鶴は子を宿す。しかし金三郎は、端から一緒になる気はないので、お鶴を屋敷から追い出す。泣きながら屋敷を出て行くお鶴を見送るお浜。この時点でもう、お鶴は金三郎の子だということを視聴者にばらしている……ドンデン返しになるところなのに、ここで明かすシナリオでよかったのか。
このお鶴役は「早川絵美」さん。いかにも幸薄い、か弱き女性……という風情だが、プロフィールを調べてビックリ!特技は少林寺拳法で、腕前は初段。デビュー作は映画『女必殺拳』での女空手家役……アクションスターだったのだ。夫は誠直也さん。人は見かけによらないものである。
金三郎は紋次郎に五両を渡し、お鶴とこの屋敷を出るように言い放つ。あくまでもお鶴を弥一郎の子どもだとは認めない。紋次郎は頼まれたことを果たしただけで、そんな金は受け取れないと言う。紋次郎、ここでも感情的な台詞回しで、いつもよりかなり熱くなっている。この十文字屋敷は上州は元より、江戸にまで名が知れ渡った造り酒屋……誰でもがこの屋敷のことを知っているのだから、その男が本当に弥一郎なのかもわかったもんじゃない、と金三郎は取り合わない。
そこへお鶴を連れて唐吉が入ってくる。どうもテレビ版での唐吉は、十文字屋敷に出入りするヤクザで、用心棒という設定のようである。お鶴に脇差しを突きつけて出て行くように脅す。お鶴は怖がりもせず、金三郎たちに向かって叫ぶ。「このうちには死神がいる!死神だ、死神でいっぱいだ!」不吉な言葉に金三郎とお照はたじろぐ。「疫病神!その子を追っ払うんだ!塩をまいて追っ払うんだ!」
お鶴は急になぜこの言葉を叫んだのか?お鶴がお浜に「あたいは、おっかさんの生まれ変わりなんだ。」と喋っていたこととリンクして、怨念めいた雰囲気になる。お鶴の物怖じしない据わった目も怖い。まるで、死んだ母親が乗り移ったかのような様相である。
唐吉や店の使用人たちが取り囲む中、紋次郎はお鶴を抱き上げ一旦屋敷を出て行く。その後を追いかける女がいた。さっき、お鶴と喋っていた水仕女のお浜である。こんな屋敷にはいたくない、連れて行って欲しい、お鶴の面倒は私が見る、と言うのだ。お浜はお鶴とは同郷で幼馴染み。お鶴はここの奉公人で、金三郎との間に出来たのがお鶴だと紋次郎に教える。(同名なので、実にややこしい)ここで初めて紋次郎は、お鶴が弥一郎の子ではなく、金三郎の実の子だと知る。
お照はどうしてお鶴を追い返しのか、と金三郎に尋ねる。本当に弥一郎の子どもかも知れないのに……と言うのだが、逆にもしそうだったら引き取るのか?と問いただされる。お照は、「あの子の名前がお鶴というのは、もしかして……」と言葉を飲み込む。金三郎は、お鶴などありふれた名前だと否定する。お照は、ここから出て行った奉公人のお鶴と弥一郎がどこかで出会い一緒になり、お鶴が生まれたと思っているのだろう。
しかし、少なくとも金三郎は知っているはずである。あのお鶴の子どもであれば、自分の子どもだということを……。金三郎は、元亭主への罪滅ぼしだと考えているのか、それともまだ未練があるからか、とお照に言うが、罪を作ったのは金三郎の方である。
ここから、回想シーンとなる。金三郎は兄嫁のお照に横恋慕をして、無理矢理手籠めにする。乱れた着物を取り繕っているところを弥一郎に見とがめられ、弥一郎は逆上する。誰に襲われたのかと詰問するも、お照は明かさない。というか、明かせない。「お許しを……」とひたすら詫びるお照。屋敷の使用人はみんな誰が手籠めにしたのかを知っていたが、弥一郎だけは気づかなかった。「知らぬは亭主ばかりなり……」だった。
弥一郎は黄楊の櫛を取り出し、使えば使うほど艶が出る黄楊の櫛のように、末永く夫婦善哉で暮らそうと思ったものを……と悔しがる。襲われたのはお照であるのだから、被害者ではないか。だのにお照を慰めることもせずに、責めるとは……隙を作った女の方が悪いという考えである。テレビ版の展開は作られた当時の世相なのか、言語道断である。
江戸時代は姦通について、かなり重い罪になっている。不倫した妻と男を夫が殺しても罪にならない。また、人妻を強姦した場合は「押して不義」という罪名で、男は極刑である。しかし実際の話、女の方から訴え出るということがなされていたのかはわからない。
その夜、弥一郎は誰かにそそのかされ、犯人を使用人の弥助だと勘違いして殺害してしまい、出奔する。棚からボタモチで、金三郎は屋敷の当主になり、お照を自分の女房にしてしまう。お照という女の設定が原作とは違っている。原作のお照については、ラストで明らかになる。義弟に手籠めにされ、それが元で夫は殺人犯になり出奔したのに、そのまま金三郎の女房になれるのか?テレビ版のお照は、男に翻弄されるにも程がある、自分を持たない女である。
「あの屋敷には鬼が棲んでいるんです。鬼がみんなを狂わせてしまうんです。」とお浜が口にする。ここでも鬼が出てくる。
金三郎は当主になり、お照と夫婦になるが、「その蔭には、犬猫のように捨てられた、あの子の……お鶴ちゃんのおっかさんがいたって訳で……」とお浜が暗い顔で紋次郎に話す。その向こうで、お鶴が「お月さま、いくつ〜♪」と唄を口ずさむ。「あの子を産んで〜この子を産んで〜だれに抱かしょ〜♪」無心に砂山を作って遊ぶお鶴ではあるが、怨念のこもった唄にも聞こえる。頭をよぎるのは、金田一シリーズの「悪魔の手鞠唄」というタイトル。ちなみに「悪魔の手鞠唄」は、この放映の5ヶ月前の作品で、紋次郎作品と同じく「映像京都」が手がけている。
原作では、紋次郎とお鶴が一旦十文字屋敷を後にして出直すという件がない。弥一郎の出奔についての大体の経緯は、土地の百姓から紋次郎は話を聞く。その百姓の代わりをテレビ版ではお浜がしている。お浜は屋敷を出て、私が死んだお鶴ちゃんの代わりにあの子を育てるから……と言うが、紋次郎は長脇差を腰に落として立ち上がる。「あの子を育てなけりゃならねぇのは、どうやら別のお人のようで……」
紋次郎、本当にここまで関わっていいのか、と思ってしまう。お鶴を屋敷の子どもにすることが、本当に幸せとは到底考えられない。いくら弥一郎に頼まれたとは言え、そこまでこだわる必要があるのだろうか。頼まれたことを果たすだけのはずだったのに、テレビ版の紋次郎は、自分の意志で再度十文字屋敷にお鶴を連れて行く。紋次郎らしからぬ行動である。
一方金三郎は、お鶴が「死神だ!」と不気味な言葉を叫んだことを気にしている。「あんな鬼っ子のことだから、大きくなってまたひょっこりと、この屋敷に姿を現すかもしれない。」お鶴の存在そのものが、心配のタネなのである。お照は金三郎の胸中を察して言う。「おまえさん、まさかあの子を……。」
その予想通り金三郎は唐吉に、何人か呼んでくるように命令する。
紋次郎はお鶴を背負い、二度目の訪問で橋を渡る。屋敷には、金三郎から頼まれた唐吉たちが待ち構えるが、紋次郎は強硬に押しのけて今度は表門から入る。
騒ぎを聞いて出てきたのはお照。「お待ちなさい!唐吉、滅多なことでこのお屋敷を血で汚すようなことはあってはなりません。下がっていなさい。……用があったら呼びます。」
「お照さん、何も聞かずに、この子の母親になっちゃあくれますまいか。」
「訳もわからず、そんなこと……。」
「お照さん、口はばってぇ言い方をしやすが、人が生きていく上にゃ知らねえ方が幸せってこともござんす。口に出しちゃあ、おしめぇってことも……。おめえさん、誰よりもそのことをよくご存知のはずで……。」
口はばったい、と一応断ってはいるが、こんな説教めいた台詞が紋次郎の口から出るとは思わなかった。知らない方が幸せ……ということは、知ってしまえば不幸になるということが現にあるということである。そんなことを言われると、余計に気になってしまうではないか。口に出しちゃあ、おしめぇ……まるで「それを言っちゃあ、おしめぇよ。」フーテンの寅さんの名言である(笑)。お照にとって言ってはいけないこととは、手籠めにされた相手は金三郎だったということか?何を今さら……?この屋敷の奉公人は、みんなその事実を知っていたというではないか。それに今は、金三郎の女房になってしまっているのだから、誰にそれを言うというのか?
しかし頼んだのに、お照は尋ねてしまう。
「お前のおっかさんの名は?」紋次郎はハッとする。
「お鶴。あたいはおっかさんの生まれ変わりだい!あたいはこの家の子だい!」
「何も聞かずに、とお願いしたはずですぜ。」と紋次郎がお照を咎める。
いやいや紋次郎よ、お鶴は聞かれなくとも、この台詞を九官鳥のように、始終口にするであろう(笑)。
お照は、目の前の子の母親が、元奉公人のお鶴だったということにそんなにショックを受けるだろうか。それを弥一郎の裏切り、と思うのだろうか。「私というものがありながら、奉公人のお鶴とできていたなんて……。私が手籠めにされたことに逆上したのに、一体これはどういうこと?」ぐらいは考えるだろうが……。だが事実は、弥一郎の子ではなく金三郎の子なのであるが、そのことはまだ明かされてはいない。
紋次郎は知らない方が幸せ……と言うが、私は今回についてはすべてを知った方がいいと思う。金三郎が生ませて、弥一郎が育てた子なのだから、すべてを知った方が受け入れられると思うのだが……。それにテレビ版は原作と違い、お照と金三郎の間に子どもはいないようである。養女として迎えてもいいのでは……と思うのだが、金三郎はどうだか。
「この十文字屋敷をなんだと思っているんだ!たかが渡世人に、ひっくり回されるような身代ではない!脅しや強請りがきかないってことを、見せてやる!」と金三郎はお鶴に脇差を突きつける。「殺しましょう、見事にこの子を殺してみせましょう!」と興奮気味の金三郎。
「殺しなせぇ。5年前のあにさんの殺しと同じように。あん時は、誰にそそのかされたかは知らないが、人違いの殺しだ。だが今度は違う。金三郎さん、おめえさん、一体誰を殺そうとなさってるんでぇ、一体、どうやって殺そうってんで?」紋次郎、今回も台詞のセンテンスが長すぎで雄弁である。
ここで、テレビ版唯一のドンデン返しが出てくる。てっきり崖から滑落して、命を落としたと思っていた弥一郎が入ってくるのである。テレビ版では、屋敷に入る前の姿を短く入れてある。この修羅場に、忽然と現れる方がドンデン返しなのだが、脚色上惜しい。「てめえの娘、我が手で殺めたかったら、俺の目の前でバッサリやりな。」弥一郎はお鶴を腕で抱きながら、金三郎に向かって言う。お照、「やっぱり……」という表情。「崖から落ちたのに死にきれなかった。死んだお鶴の魂が、俺をここまで連れてきたのかもしれねえな。」
死んだお鶴の魂……またまた、怨念めいてきた。
金三郎は、水仕女のお鶴に手を出して、孕ましてしまった。だが、邪魔になって追い出してしまう。親元にも帰れず、酌女になった身重のお鶴。人殺しをして無宿人になった弥一郎。この二人が偶然にも出会ってしまい、弥一郎はお鶴から話を聞いてすべてを知る。やがてお鶴は女の子を生む。お鶴の願い通り、赤ん坊は「お鶴」と名付けられるが、産後の肥立ちが悪く命を落とす。弥一郎は身寄りのない赤ん坊を、苦労して育て上げ、いつかは十文字屋敷に連れて行くと心に誓う。
そしてその道中、テレビ版での弥一郎は崖から落ちているが、原作では違う。原作では弥一郎は芝居を打つ。自分の足を自分で傷つけ、傷を化膿させる。お鶴に命じて崖を登らせる。誰かが通りかかったら、お鶴を十文字屋敷に連れて行って欲しいと頼み、お鶴を探させる間に崖から自分が落ちたように装う……という芝居である。その場に誰が通りかかっても良かったのである。なぜ、そんな込み入った事をしたのか。
「……おれと一緒の流れ旅より鳩十(十文字屋敷の屋号)の娘として育ったほうがいいってのは当たりめえだ。だが、それもお前に邪慳に扱われるんだったら、お鶴坊が可哀相だ。それで一つ、実の父娘の血と情がどれほど濃いものか、試してやろうって気になったのさ」
ここで言う「父娘の血と情を試す」の意味が今ひとつわからない。弥一郎本人ではなく、誰かにお鶴を連れて行ってもらい、実の父娘が涙の対面を果たすというはずだったのか。しかし、あまりにも無謀な賭けだったのではないだろうか。原作ではこの一芝居もドンデン返しだったのだ。テレビ版はその芝居は削除して、掛け値なしのうっかりミスで崖落ちをしている。
テレビ版の弥一郎はお照を責める。「この五年の間に心根もかわってしまったのか。せめてお前だけは、おれの子だと言ったら黙って受け入れてくれると思ったが、どうやら甘かったようだぜ。」いや、五年も音信不通だった前夫から、急に「おれの子だ、引き取ってくれ。」と言われて「はい、そうですか。」と受け入れる方がおかしい。しかしお照は、黙ってうつむいたままである。
金三郎はお鶴が自分の子だとわかっても、「あれは端から遊びだったんだ。あんな女が産んだ子なんか認めない。」と突っぱねる。弥一郎は、「お鶴はおれが10年、20年かかっても立派に育て上げる。」とお鶴の手を引いて出て行こうとする。そのままスッと出て行けば修羅場は回避されたのだが、そうは行かなかった。お鶴がまたあの唄を口ずさむ。「お月さま、いくつ〜♪ 十三、七つ、まだ歳ゃ若いな〜♪」それも金三郎を上目で睨みながら……この童唄は、母親のお鶴がいつも口ずさんでいたのだ。
テレビ版での映像は、一挙に怪談もどきになる。唄うお鶴と、死んだお鶴の顔が重なり合う。BGMは不吉な曲想。下からのライティングが、お鶴の顔に施される。すっかり、怨み節になっている。
「鬼だ……鬼だ……この子は鬼の子だ!」金三郎は、死んだお鶴の幻影を見たのか恐怖に駆られて狂ったように叫ぶ。「殺せ、殺せ!このあにさんも、薄汚いこの子も、紋次郎も、みんな殺せ!」
奥からバラバラと唐吉たち一味が出てきて、殺陣となる。今回は動きが少なかっただけに、やっと来ましたか!という思いである。
しかし殺陣の時間は短かった。小物を使うでもなく、走り回るでもなく、あっという間に終わってしまった。ただ、紋次郎をハッキリ映さず、黒いシルエット状になるように工夫はされていた。部屋の奥から逆光になるように映されているのだ。殺陣そのものはスピーディで、激しい感じはするし紋次郎の身のこなしもシャープである。ただ、合間に真っ赤な血しぶきが映し出されるのは、ちょっとびっくりした。黒いシルエットと真っ赤な血しぶきというコントラスト。暖簾、白壁が血で染まるという映像は、「もうここでは酒は作れない!」と正気を失ったような金三郎の表情を裏付ける効果にはなっている。
原作の紋次郎もかなり激しいのは確かである。首が落ちたり手首が飛んだり、逃げる男までも追って殺している。なぜこんなに激しいのか。それは、お鶴の行く末を尋ねられた唐吉の答えが導火線になったからだ。「おめえの知ったことじゃあねえだろう。まあどっち道、生きちゃあいられねえさ。おれたちが、もう十五両ほど頂いて、始末をつけてやるぜ」この台詞に紋次郎の怒りは爆発し、激しい行動となって表出する。
さて、テレビ版の金三郎は我が子とわかっても「殺せ!」と叫んだが、原作は違う。「行かせない。お鶴は、わたしの娘だ」と、金三郎は我が子と知った途端にお鶴を抱きしめる。そして刃を向けたのは、事情を知らなかったせいだと弁解する。
弥一郎は言う。「おい、お照が恐ろしい目つきで睨んでるぜ。手めえが腹を痛めた子でもねえし、お前が昔の女の生ませた娘だってんで、その鬼みてえなお照がお鶴坊にどんな仕打ちをするかわからねえもんな」お照……私は原作のこの女こそが鬼ではないか、と思う。テレビ版のお照は男たちに翻弄される被害者であるが、原作のお照は、稀代の悪女である。
お照と金三郎は以前から、不義を働いていたのだ。そして前々から、一緒になって弥一郎を追い出したいと思っていた。たまたま、逢い引きした後の姿を弥一郎に見とがめられたお照は、咄嗟に奸計をめぐらす。誰にやられたかは言わないまでも、うまく誘導して、茂助が犯人のように印象づける。弥一郎はお照の芝居に引っかかって、罪のない茂助を殺してしまい家を出る。家を出るように進言したのは金三郎。この二人の企みに、弥一郎は面白いようにはまってしまったのである。
原作の弥一郎は金三郎に尋ねる。「お前は、お鶴のことに、そんなに関わりを持ちてえのかい」「当たり前だ」「鬼が一匹、関わったか」ここでタイトルの「鬼が一匹関わった」が出てくるのである。弥一郎は金三郎を鬼としているが、そうだとすると、私の勘定では鬼は一匹どころか二匹になる。しかし、今まで一言も「鬼」という言葉が出ていないのに、急にここで鬼が一匹、と言うのも唐突ではある。
テレビ版の金三郎は、血のつながりがあろうが、水仕女ごときの娘など殺してしまえ!と叫ぶ血も涙もない鬼である。しかし原作の金三郎はこの時点で、弥一郎が試したいと言っていた血と情を感じたのではないだろうか。実の父娘だから、関わりを持ちたくなったのである。少しはテレビ版よりは、人間的にマシかもしれない。原作は「鬼」より、「関わる」の言葉に重きを置いたのかもしれない。
紋次郎は作兵衛に百文貸してほしいと頼まれたが、関わらなかった。金三郎は、その言葉をそっくり返上すると言って、お鶴のことは何の関わりもないことだと当初は言い放つ。唐吉はその言葉に続けて「……よく聞いたかい、関わりねえとさ。どうだい、他人からそう言われたときの気分は……」と、紋次郎に当てこすっている。
テレビ版では「鬼が一匹、関わったか」という弥一郎の台詞はない。脚本家さんは、タイトルに直結するこの台詞を、なかったことにしている。しかしこの台詞がなかったら、タイトルはどこから付けたのか、ということになるので「鬼」はやはり必要である。そこで、十文字屋敷を「鬼の棲み家」とお浜に言わせ、お鶴のことを「鬼っ子」と金三郎に呼ばせた。原作では、お鶴の母親の恨み辛みがあまり前面に出ていないが、テレビ版はこの部分を一つの柱として膨らませた。
原作では、紋次郎に斬られた唐吉が金三郎に折り重なり、金三郎は命を落とす。はっきり書かれていないが、多分唐吉の長脇差が身体を貫いたのだろう。弥一郎は懐中から黄楊の櫛を取り出し、お照の足元に投げる。「あの晩、おめえが土間に落した櫛だ。どういうつもりか今日まで持ち歩いていたが、もう用はねえ」と言って、弥一郎とお鶴は街道に姿を消す。その櫛にお鶴は手を伸ばそうとするが、紋次郎の楊枝がはじき飛ばし、お照の手元から遠くに飛ぶ。お照には、その櫛を手にする資格がないとでも言うように……。
テレビ版での紋次郎は、血で穢されたこの地では酒がもう作れないと、うろたえる金三郎を置いて屋敷を出る。お鶴と手を繋いで橋を渡る弥一郎を、お照が追いかける。「待ってください、弥一郎さま。」と前に回り地面に跪く。弥一郎はそこで懐から櫛を取り出し、「どういう訳だか今まで持っていたが、もう、用はない。」とお照の前に投げ落とし去っていく。弥一郎よ、お照のために殺人まで起こした恋女房だったのに、あんたも随分冷たいねえ、と思う。うなだれて肩を落とすお照は、ここでも弥一郎に向かって何も言わない。お照は弥一郎を呼び止めて、本当は何を言いたかったのだろう。
「待ってくださーい!」その前を走って来るお浜の姿。お浜は小さな風呂敷包みを手にしている。「旦那さま、わたしを連れて行ってください!わたしに、お鶴ちゃんの世話をさせてください!」と頼み、三人は連れだって歩いていく。その気配を、お照は背中で感じ取っている。先を越されたという感じである。
お浜とお照は対照的である。お浜は自分に置かれた状況を、何とか打破しようと思っている。そのために行動的である。紋次郎にも弥一郎にも、「私を連れて行ってください。」とはっきり口に出して言っている。そして結局、弥一郎とお鶴と共に旅に出る。一方お照は何事も受け身である。これは原作と違い、金三郎に無理矢理、手籠めにされたという設定から始まる。相手が誰かを言えなかったことから、この受け身体質が確定してしまった。
三人はお照を置き去りにして去って行き、お照は黄楊の櫛を手にして立ち上がる。十文字屋敷の立派な板壁と白壁……下からのアングルなのでその重厚さが際立つ。本当に、この摩気にあるお屋敷はロケ地としてうってつけである。お照が屋敷をバックにしてゆっくり歩く。
「ひどい…私が何をしたって言うんだ、あのとき、手籠めにされたあと、私は心底詫びていたのに……。そのことをわかろうともしないで、人殺しまでしてしまって、馬鹿な弥一郎。二人の女の心を弄んだ、馬鹿な金三郎。人が忘れようとしていることを、わざわざほじくり返しにやって来た、お節介な馬鹿。十文字屋敷に鬼の子一匹持ち込んで……お節介な、馬鹿……。」(テレビ)
お照の独り言である。お節介な馬鹿というのは、もちろん紋次郎である。紋次郎の後ろ姿が映し出される。薄情な紋次郎がお節介と言われるのは、初めてではないだろうか。お照よ、なぜそれを本人たちに叫ばなかったのだ?と歯がゆい思いである。
封建的な大屋敷、骨肉の争い、跡取り、生まれ変わり、童唄、鬼、死神などのパーツを組み合わせ、テレビ版では死んだお鶴にスポットを当てて、怪談めいた怨念話に仕立てたが、私は原作の方が好きである。原作のクライマックスは、連続して様々なことが明かされていくスピード感があり、幾重にもドンデン返しが用意されていたのに、テレビ版では全部明かしている。これでは、笹沢作品の魅力が半減である。
原作もテレビ版も、屋敷にお照が火を放つ。テレビ版のお照が火を付けるシーンは、お照の姿がスーッと横滑りに動き、一瞬だが怖い……幽霊的な動き。紅蓮の炎の中、「私の十文字屋敷が燃える!」と叫びながら、金三郎は倒れ、その上に屋敷が崩れる。焼け落ちた屋敷を眺めながら、お照の繰り言が始まる。ちょっとしつこいです、この繰り返しは……。原作とは違うお照という女の哀しみも、今回の柱であったのはわかるが。
一方お鶴たち一行は、幸せそうに道を行く。お鶴はお浜に新しい草鞋を履かせてもらう。履き古した草鞋は、今までの過去と一緒に道ばたに捨てられる。新しい生活が始まる暗示である。結局今回の紋次郎は、楊枝を鳴らさず、飛ばしもしなかった。
紋次郎作品としての、いくつかのこだわりや鉄則が、崩れていることに違和感を覚える。今回も前回と同じく、女が被害者にすり替わっている。「新……」シリーズでの脚色では、虐げられる女、お涙頂戴路線が随所に出てくるが、私としては悪女は悪女のまま全うして欲しかった。そして、ドンデン返しはやはり明かさないで欲しい。これでは普通の時代劇と、何ら変わりがない。新シリーズも終わりに近づき、手詰まり感から作品の軸がブレているように感じるのは私だけだろうか。 

 

●第23話 「笹子峠の月に映えた」
原作が紋次郎ではない、という作品はいくつかある。今回は「潮来の伊太郎」である。笹沢氏が描いた渡世人は数知れず……架空もあれば実際に名の知れた渡世人もいるが、この潮来の伊太郎はちょっと珍しいのではないだろうか。1960年(昭和35年)の8月に橋幸夫さんが歌った「潮来笠」が大ヒット。当時を知らない人も、「潮来の伊太郎〜ちょっと見なれ〜ば〜♪」の歌詞とメロディーのさわりぐらいはご存知だろう。漫才ブームのときはよく「ぼんち」のおさむちゃんが、橋幸夫さんの真似をして笑いをとっていたのを思い出す。
作詞は佐伯孝夫氏、作曲は吉田 正氏である。この歌ができた経緯は知らないが、当然フィクションである。したがって、笹沢氏が生み出した伊太郎もフィクションには間違いないが、小説界に伊太郎がデビューする13年前に歌謡界に彼はいたのである。歌詞は3番まであるのだが、伊太郎の素性も姿形も特定されていない。「薄情そうな渡り鳥」とあるので、旅鴉として街道をさすらう渡世人であることはわかる。
その歌謡界にいた伊太郎を、笹沢氏は小説界に登場させたのである。
中肉中背でほっそりとしてはいるが、逞しい身体つき。年の頃は28〜29歳。精悍な顔で目つきが鋭く、眉毛は濃くて男っぽい。日焼けがしみて、浅黒い肌。眼差しが暗く沈みきった表情。道中合羽は萌黄色に黒縞。黒鞘の長脇差は半太刀拵え。
ここまでは今までの渡世人と共通している部分が多いが、大きく違うのが右手に鹿皮で作った「弓懸け」を着用していることである。以前に負った傷の後遺症の痺れが、右腕を襲うことが弱点である。また他には、右腕の半ばから背中にかけて、般若の彫物があるのが特徴である。
「潮来笠」の伊太郎ではあるが、ほとんどは笹沢氏が肉付けをしている。さて、この小説を書くのにあたって、笹沢氏はだれに許可を取ったのだろうか。「登録商標」なるものがあったのだろうか(笑)。少なくとも、「潮来の伊太郎」の名前の認知度は非常に高いので、本屋で目にした者が興味を持つことは確かであろう。
「笹子峠」と言えば、「天狗」と連想してしまうのは、第20話の「甲州路の黒い影」のせいだ。記憶力が乏しい私は、よく混同してしまう。
今回のテレビ版の展開も、複雑で難しい。多分ザッと観ただけでは、訳がわからない。今でこそ何回も繰り返し観ることができるのだが、当時は1回限り。「なんだかストンと落ちないなあ。」と思いつつ、あの頃はテレビを消していたのではないだろうか。
オープニングは、原作もテレビ版も「人捜し」から始まる。行方がわからなくなったのは「お袖」という女。原作の伊太郎は「お袖」を捜して、旅を続けている。捜すお袖とは別人であるのは、わかっているのだが伊太郎は気にかける。原作のお袖は、笹子峠近くの村に住む十七になる娘。日暮れ前までは居たのに、急に神隠しに遭ったかのように忽然と姿が消えたというのだ。村人たちが総出で捜している最中に、伊太郎は村を通りかかるのである。
テレビ版も居なくなったのは「お袖」だが、捜しているのはその弟の留吉。十歳くらいの男の子で、堂宇に腰掛けて姉の帰りを待っている。留吉の独楽が紋次郎の足もとにころがったので、それを拾ってやる紋次郎。「姉のお袖が黙ってどこかへ行ってしまった。お袖は三味線を持っている。もし見かけたら、戻ってくるように伝えてほしい。」と紋次郎に頼む留吉。紋次郎は、出会ったら伝えると約束して遠い目をする。
芥川氏のナレーションが入る。「今は遠い昔である。紋次郎が故郷を捨て旅に出たのは、丁度留吉と同じ年頃の、霜柱の立つ朝であった。」姉の帰りを一人で待つ留吉に、幼い頃の我が身を重ねている紋次郎、という設定である。
甲州街道一の難所である笹子峠を往く紋次郎の足元には、雪が見える。その後場面は切り替わり、今までに何度も出てきた清滝川落合の崖上。ここでは雪は見えないので、別の日に撮影されたようである。
「随分と待たせるじゃねえか、天神の勢五郎!」男が長脇差をかざして、紋次郎に襲いかかる。身に覚えがないし、人違いをしているのは明らかである。すると組み合っているときにもうひとり人影が横切り、悲鳴と共に崖下に転落する。どうも女らしい。しかしテレビ版だと、なぜ急に飛び出して落ちていったのかわからない。あまりに唐突すぎる。
原作では夜の峠越えである。暗闇の中だが、小柄な人影が手にする匕首が光る。「お嬢さん!」と呼ばれた女は「卑怯者、覚悟しろ!」と声を張り上げ向かってくるところを、伊太郎は避ける。女は目標を見失い勢い余って崖下に転落する。
その後、人違いをしていることがわかるのだが、崖から落ちた女は命を落とした事に変わりない。襲った男は黒野田の佐兵衛の身内で留吉と言い、侘びを入れる。原作での「留吉」という名前をテレビ版はお袖の弟に拝借したようである。
テレビ版は夜ではないので、崖下の大きな岩に娘が仰向けで倒れているのが見える。「お嬢さん!お嬢さーん!」と子分が崖を下りていく。
原作がテレビ版に生かされているのは、このオープニングぐらいである。女が仇討ちを仕掛けたが人違いをし、命を落とす。しかし落ちた女の正体は……どんでん返しがラストに用意されている。最初と最後のドンデン返しは、原作を踏襲しているが、その間の展開は全く違う。例えるなら、サンドイッチのパンは同じだが、中にはさんでいる具材やトッピングが違うといった感じである。
「なんでお仲さんを手に掛けたんだい?木枯し紋次郎は名前も知らない女を殺すってのかい?!」
テレビ版は、岩陰から出てきた女が紋次郎に立ちはだかって言う。女は三味線を小脇に抱えている。紋次郎は女の問いには答えずに立ち去ろうとするが、女の「逃げるのかい!」の言葉に振り返る。
「おめえさん、ひょっとしてお袖さんじゃねぇんですかい?」女はハッとする。当たり!である。紋次郎は留吉が宿場はずれで待っている事を告げる。去ろうとする紋次郎にお袖は、お仲を殺した理由をまだ聞いていないと引き下がらない。
紋次郎が殺したと言うが、飛び出して落ちるまで2秒足らず。紋次郎は匕首を持ってつっかかってきたのが娘さんだとはわかったが、落ちていくのはとめられなかった、と言う。道理である。視聴者はあの一瞬で、匕首を持っていたことやそれが娘だったなどとは絶対にわからない。無言で突進してそのまま落ちたのだから、紋次郎が責められるのも酷な話である。
このお袖役は、「范 文雀さん」。ジュン=サンダースさんである(笑)。国籍は台湾だが、東京生まれの広島育ちで、中国語は話せなかったらしい。目に力があり、意志の強そうな印象を受ける美しい女優さんである。才色兼備な女優さんだったが、惜しくも2002年、54歳という若さで早世されている。
「待っておくれよ!」お袖は紋次郎に声をかけ、その後ふたりは野宿をし、黒野田の佐兵衛の娘であるお仲が、なぜ天神の勢五郎の命を狙うのか……その経緯をお袖が話す。
お仲とお袖は5年前までは三島の女郎仲間。お仲が行き倒れになったのを助けたのが黒野田の佐兵衛で、その後養女となる。佐兵衛のシマを狙う鰍沢の勢五郎に佐兵衛は闇討ちにされ、その仇を討とうとしたが敢えなく人違いをした上に、命を失ってしまう。お袖とお仲は一緒に足抜けをしたが、お仲は貸元の養女、お袖は鳥追い女。境遇の違いに、お袖はお仲を羨ましく思ったが、そのお仲が死んでしまった。
「人の運命って侘びしいもんだねえ。」とお袖は、紋次郎に語りかける。紋次郎としてはそんな女二人の境遇より、お袖の帰りを待つ留吉の方が気になるようで、「戻っちゃやらねぇんですかい?」と尋ねる。お袖は寂しそうな表情を浮かべるものの、「お仲の口利きで、堅気の商人に引き取ってもらうことになっているので、その方がいい。」と言う。
鳥追い女として流れ歩く姉と、一緒に居るよりはいい……道理である。
さて鳥追い女とはどんな存在なのか……。広辞苑によると、江戸時代の年始に、女太夫が編み笠をかぶり鳥追い歌を歌い三味線を弾き、人家の門前で合力を乞うたとある。鳥追いとは田畑の害になる鳥や獣を追い払うことで、唄や拍子木を打つ正月の行事だったようだ。
しかしお袖の話では「男の手垢にまみれ……」と言っているので、もう一つの意味である売春婦としての存在だったようである。江戸時代、売春婦なる存在は、たくさんあったようである。今回のテレビ版のヒロインは、范 文雀さんであることは確か。しかし原作では、目立ったヒロインはいない。お茶の間のテレビ番組として、ヒロインがいないというのは、あまりに華がないので、原作を大分変えてある。
原作ではお袖とお仲は全く無関係。お袖はただの行方不明の村娘であり、最後まで行方不明……というか、最後の種明かしで行方不明の意味がわかる。
暗い小屋の中、お袖が小枝を焚き火にくべる。紋次郎が身延山道を進み鰍沢を通ると知ったお袖だが、紋次郎が勢五郎とやり合う気持ちがないことに、愕然とする。「お仲ちゃんの、無念晴らしをしてやる気がないってんのかい?それじゃ、あんまりお仲がかわいそうだ。」と言うお袖に「あっしにゃ、……」と、紋次郎は口にする。前シリーズのトレードマーク的な台詞「関わりのねえこって……」だが、「新……」になってからは、あまり口にしていない。その言葉の続きを、お袖は怒りに満ちた声で言い放ち、憤然として立ち上がる。
「やい!紋次郎!黙って聞いてりゃ気取りやがって。お前もちっとは名の知れた渡世人なら、渡世人の意地と気っぷがあろうってもんじゃないか!お仲ちゃんを殺したのは、お前なんだ。お仲ちゃんはきっと泣いているよ!お前みたいな男に殺されて!」
久しぶりに聞く「やい!紋次郎!」である(笑)。なかなか范 文雀さん、啖呵の切り方が小気味いい。紋次郎は無言で、横顔を見せるだけである。
さて、敦夫さんには申し訳ないが、幾分頬のラインのシャープさが感じられない。そう、この頃はもう38歳。紋次郎が初めてテレビ界に現れたときは、32歳。6年の月日の間に、確実に表情や輪郭は変化している。若い頃の、削いだような頬ではなくなっているのがよくわかる。
原作の伊太郎は、お仲と一緒にいた黒野田の佐兵衛の身内から、経緯を聞いている。仇の相手は同じく「天神の勢五郎」であるが、一家の貸元ではなく完全な一匹狼。悪名高い流れ渡世人で、凄腕である。年は三十四か五、浪人くずれという評判で居合い抜きの心得があるという。賭場荒らしを重ねているので、貸元の間では疫病神とされている。
この勢五郎が、佐兵衛の賭場に現れて手目博奕だと因縁をつけ、親分の佐兵衛を刺し殺した上に三十両を奪って逃げた。佐兵衛の娘のお仲と子分の留吉は、勢五郎の後を追って、待ち伏せしていたが、間違って伊太郎に斬りかかった、というのである。暗闇の中での出来事でもあり、伊太郎も咄嗟に身をかわした結果のお仲の死である。
紋次郎は、関わりないとお袖に言ったが伊太郎は違う。
「あっしはこれから、急ぎの用があって鰍沢まで参ります。途中、天神の勢五郎に出合うようなことがありやしたら、それ相応の話をつけることに致しやしょう」「そいつは、本当ですかい!」「乗りかかった舟というより、死んだお仲さんに義理ができたようでござんす」「ありがてえ!潮来の伊太郎さんが味方についておくんなさるなら、天神の勢五郎にしてもそう恐ろしい相手じゃあござんせん!」
伊太郎は、死んだお仲に義理立てしようとする。そのあたりが紋次郎とは違う。紋次郎よりは熱いものを持っている。
テレビ版では翌朝、紋次郎は先に出立する。冷たい雨が降る中、紋次郎は木陰で雨宿りをしているところへ、お袖もやって来る。「待っていてくれたのかい……」昨夜と違い、お袖の物言いが柔らかい。ああは言ったものの、さりげない紋次郎の気遣いに気がついたようである。紋次郎は、この先に雨がしのげる小屋があると、お袖を案内する。雨がやんで、画面手前には白い梅の花が見える。
「あの子はまだ、街道に出て待ってるのだろうか。」と、弟の留吉を思うお袖。「留坊がおめえさんを忘れることはねえでしょうよ。」に続き、珍しく自分から語り出す紋次郎。「あっしにも気遣ってくれる姉が一人おりやした。遠くの村に嫁いで、もう戻っちゃ来ねえと知りながらも、毎日村はずれで待ってたもんでござんすよ。」「その姉さんは?」「死にやした。その日があっしが村を捨てる日になりやしたよ。」
紋次郎は、留吉の心情を代弁している。所詮、頼れるのも信じられるのも自分だけ、と心に刻んでいる紋次郎だが、留吉を代弁して家族の情の重要性を訴えている。なかなかこの辺の展開は巧いと思う。
この先、紋次郎は鰍沢で泊まると告げるが、天神の勢五郎とのことは敢えて触れない。お袖も明確に尋ねない。しかし、急げばそのまま抜けられるのに、お袖を待っていたところを見ると、「もしかしたらお仲の無念を……」と淡い期待が見え隠れする。二人の渡世人が走っていくのを、お袖は見る。何となく意味深。
お袖は鰍沢に行って、勢五郎に会うのが腹立たしいから行かない。韮崎を抜けて上諏訪の方へ行く、と言う。そして、別れ際に紋次郎を呼び止めて、近くに咲く白い「寒の梅」の小枝を折って渡す。こんなものしか渡せないが、悪態のお詫び。寒の梅は私たちによく似ている、春を待ちきれずに散り急ぐ……とお仲がよく言っていた。もう、お仲の無念晴らしをしてくれとは言わないけど、ときどきこんな可哀相な花もあったんだと思い出してほしい……と昨夜とは打って変わった殊勝な態度。紋次郎は、梅の小枝を受け取ると歩き出す。
この後追分で、一瞬立ち止まり逡巡するが、お袖の顔が浮かぶ。やはりお仲を死に追いやったことに、少なからず義理を感じているのである。お袖が奏でる三味線の音を背中で聞き、紋次郎は鰍沢への道を歩く。三味線のかすかな音にかぶさり、やしきたかじんさんが歌う「焼けた道」の一番が流れる。
雪がうっすら積もる山中、木の橋の途中で歩を緩め、手にしていた梅の小枝を川に投げ落とす。川面は冷たそうで、水しぶきが川縁の小枝につららを作っている。きらきら光って美しい。そして、お袖の愁い顔と楊枝を咥える紋次郎の口許のアップ。三度笠に隠れた顔は、楊枝と口許だけは見えるが、その表情はわからない。このアップのアングルは実にいいし、撮り方を心得ていて格好いい。
テレビ版で、紋次郎が天神の勢五郎と初めて出合うのは、宿場はずれ。いかさま博奕をしたという若い渡世人を、子分たちに命じて、ナマス斬りにした直後である。現場近くに紋次郎がうっそりと立っているのに気づいた勢五郎。
勢五郎役に「睦 五郎さん」。睦さんは、前シリーズの「海鳴りに運命を聞いた」で丸谷の銀造を演じた俳優さんである。あのときは、紋次郎に何かとつきまとう、得体の知れないチンピラヤクザだったが、今回はなかなかの貫禄ぶり。出世したものである(笑)。
勢五郎は紋次郎の噂を聞いていたようで、大した貫禄だ、と好意的。小料理屋『お仲』という店の奥で、賭場を開いているので寄って行ってくれと誘う。『お仲』という店の名前には、聞き覚えがある。崖から落ちた佐兵衛の娘『お仲』と同じ名前である。偶然の一致なのか、それとも……。
原作の勢五郎は大幅に違う。伊太郎は探し求めていた「お袖」の手がかりが鰍沢にあるので、足を伸ばす。向かった先は小料理屋「喜久屋」。小料理屋と言っても酌女が十五、六人もいて、少し金を積むと床を共にする女にもなるという店である。酌女からお袖の情報は聞けたのだが、結局ここにはもういないということ。
すると伊太郎がいる部屋の向かいから、客と酌女の甘い声が聞こえる。その客が「天神の勢五郎」だったのである。原作での状況はなかなか扇情的で、宿場女郎の商売っ気たっぷりの台詞が続く。その内に女の声が叫び声になり、悲鳴にに変わり、ただならぬ雰囲気になる。
女の悲鳴に階下にいた若い衆が助けに入ろうとするが、勢五郎が女に異常なリンチを加えていることに、度肝を抜かれる。紙面に掲載することが憚れるので、ここでは伏せておくが、異常な性癖であることは確かである。
この場面で伊太郎と勢五郎は出合い、長脇差を抜くことになる。かなりの強敵相手で勝負は五分五分かというとき、伊太郎の最大の弱点が予期せずして起こる。それは右腕を襲う痺れである。古傷の後遺症で、発作のようにいつ起こるかわからない。よりによってこんなときに……伊太郎は窮地に陥る。この弱みは誰にも知られていないし、もちろん勢五郎にも気づかれてはいけない。さあ、伊太郎どう立ち向かう?!このあたりが原作では山場になり、読者はドキドキしながらページを繰るのである。
伊太郎は左手で、長脇差を鞘ごと抜き取る。その様子に勢五郎はややこしいことをするじゃねえか、と言いながらも悠然と構えている。動けない伊太郎に、勢五郎は自分からは仕掛けず挑発する。伊太郎は、恐ろしいほどの威圧感に呼吸が乱れ始め、脂汗が流れる。勢五郎は自信満々であるが、伊太郎の右手から目を離さない。右手が使えないとは、夢にも思っていないからである。勢五郎の目が光り静寂が破られた。勢五郎が気合いもろとも抜刀したのである。居合抜きは瞬発力が命である。
「伊太郎は、無心の状態にあった。右手は使えないし、どうすることもできないのである。咄嗟の防御本能に、すべてを任せるほかはなかった。」
何の術も持たない者の最後の手段……自分の本能的な動きに、命運をかけたのである。
「伊太郎は左手で、長脇差の柄を掴んだ。逆手である。そのまま、長脇差を投げ出すように打ち振った。鞘がすっぽ抜けて、左手には抜き身が残った。伊太郎は、勢五郎の向かって右側を駆け抜けた。そのとき、勢五郎の長脇差も鞘走っていた。勢五郎の長脇差は左の腰から走り、伊太郎も左手で長脇差を抜いたのである。互いに、左側に長脇差を定めて交差したのであった。二本の長脇差が、触れ合うのは当然のことである。ガッと音がして火花が散り、一瞬後に二人は入れ違っていた。」
息詰まる一瞬である。居合抜きの最初の一撃をかわしたことで、勢五郎の恐ろしさは半減した。その後同時に二人は向き直ったのだが、勢五郎は居合抜きを弾き返されたことで一瞬、隙を見せる。伊太郎は間髪入れず体当たりを入れる。勢五郎はそれを避けようと半歩だけ逃げるのだが、伊太郎の長脇差が左手に握られていること忘れていた。結果伊太郎の長脇差は勢五郎の胃袋当たりに埋まり、背中に突き抜ける。
伊太郎に、右腕の麻痺が起こっていなかったら、倒れたのは伊太郎の方だったのかもしれない。原作では、伊太郎には弱点があるためアクションシーンが山場になるが、紋次郎には翻案できない。
刺された勢五郎は、死ぬ間際に意外なことを口にする。伊太郎は考え違いをしている。佐兵衛を殺ったのは間違いないが、賭場荒らしなどしていない。佐兵衛は本当に、細工賽を使って手目博奕をしていた、と言うのだ。その事実が世間に知れたら、黒野田一家の恥でもある。一家の者は、どうしても勢五郎の口を封じたかったので、待ち伏せをしていたのだろうと付け加える。しかし理由がどうであれ、勢五郎のためにお仲が死んだのは確か……勢五郎を何とかしてくれと、お仲から命をかけて頼まれたと思っている……伊太郎は自分に言い聞かせるのだが……。
勢五郎が息を引き取り、伊太郎は鰍沢を出て笹子峠を越え黒野田宿に急ぐ。自分の推理を確かめるためである。死んだ佐兵衛の住まいで、伊太郎が目にした者は……でドンデン返しとなる。
テレビ版は、サンドイッチの具が違うと述べたが、この具材がなかなか豊富である。
紋次郎は、宿場にある小料理屋「お仲」を訪ねる。宿場の男たちが酒を飲みながら噂話をしている。紋次郎が、黒野田の佐兵衛親分の娘お仲を、崖から突き落とした……というのだ。えらく話が変わっているし、悪意が込められている。誰がそんな噂を流しているのか。
紋次郎が夜の宿場で小料理屋に足を向け、部屋をとるというのも珍しい。さすがに酌女の姿は見えない。部屋の壁には白い寒梅が飾られている。花に目を留める紋次郎は、お袖の言葉を思い出す。「散り急いでしまった、可哀相な花のことを……」勢五郎と積極的に接触を図る紋次郎である。しかし、手だては全く考えていない。
部屋で旅装を解いたところで、勢五郎の子分が部屋にやって来る。「親分がぜひ一献差し上げたいと申しているので、よろしければおいでいただきとうござんす。」丁寧な態度で若い子分が口上を述べるのだが、紋次郎は男の手が震えているのを見逃さなかった。ただの酒席への案内で、こんなに緊張するのはおかしい。これは何かある、と思いつつも紋次郎は付いて行く。
子分が持つ提灯の灯りで、紋次郎は竹林を進む。その間、竹林が風に揺れる映像が入る。前シリーズ、新シリーズと今までに何回、この竹林が風に騒ぐシーンの放映があったのだろうか。紋次郎ファンであれば、竹林シーンは絶対はずせない。
「もう用は済んだんじゃねえんですかい。迎えが来たようですぜ。」紋次郎が足を留めるのと同時に、バラバラと勢五郎の一家の者が出てくる。
「おまえと差し向かいで、熱いとこキューッと一杯やりたかったぜ。噂を聞くまではな。」やはり勢五郎が出てきた。勢五郎はお仲を殺したという噂を聞いて、怒り心頭である。お仲が死んだことで仇である勢五郎が怒るのも変な話ではある。闇討ちされた佐兵衛の仇である勢五郎に、間違われて襲ってきたのをかわしただけだ、と答える紋次郎。しかし、その答えを聞いた瞬間、勢五郎は抜刀する。なるほど佐兵衛を殺したのは自分だが、お仲が自分を狙うはずがないと言うのだ。と言うことは、仇討ち話はデタラメ?というのか。おれを襲うはずがねぇ、と豪語するところをみると、お仲と勢五郎は通じていたことになる。全くおかしな話である。紋次郎は、勢五郎の一家の者たちに追われる。その様子を物陰から確かめている二人の渡世人。お袖が一度チラリと見た連中である。どういう関係があるのか。
夜の宿場を走る男たち。狭い路地を走り抜け、逃げる紋次郎。紋次郎を見失ったという知らせに、勢五郎は怒り、「敷居を跨がせねぇ!」と子分たちを叱責。そのくせ自分は、料理屋「お仲」の酌女(といっても女郎)と部屋でしけこんでいる。よっぽど、死んだお仲にはご執心だったようで、紋次郎を切り刻みたいほど憎んでいる。「お仲のことなんか、わたしが忘れさせてあげるよ。」と勢五郎の首っ玉にしがみつく女郎。
勢五郎はふと動きを止める。耳にかすかな物音……実は楊枝の音なのだが、ほとんど聞き取れない。「新……」では楊枝を鳴らすシーンが少なかったので、紋次郎よ、鳴らし方を忘れたか?(笑)ここはしっかり、木枯しの音を入れて欲しかった。勢五郎の背後を狙った長脇差は、畳にブスッと突き刺さる。恐れおののく勢五郎の前に現れたのは、三度笠姿の紋次郎。「えーっ?この恰好で、料理屋に忍び込めるの〜?」と突っ込みを入れたいところだが、堅いことは言わず先に進む。紋次郎は抜いた長脇差を突きつけて、お仲と勢五郎の関係を訊く。勢五郎の話は意外なものだった。
お仲は佐兵衛の養女どころか妾だった。妾だと賭場に来る旦那衆の気を引くことができないので、養女としていたということ。佐兵衛は、有力な者にはお仲をあてがって賭場に足を運ばせるという、女を道具としか扱わない非道な貸元だった。そんな佐兵衛から逃れたくて、手引きして勢五郎に殺させたというのだ。だからお仲が俺を仇討ちにするはずがない。お仲は俺の女になるはずだった。だからこの店の名前も「お仲」にしてやったのに……。お袖が紋次郎に話した内容とは全く違っている。
勢五郎の話は続く。「お仲は可愛い女だったんだ……なにかっていうと餓鬼みてぇに、爪噛みやがってよ……」
爪を噛むクセ?
ここで紋次郎は、お袖を思い出す。確かに何度か爪を噛む仕草をしていた。しばらく考えを巡らす紋次郎だが、「どうやらこの話には、もう一つ裏があるようでござんすね。」と言い残し、部屋を飛び出す。
紋次郎はひた走る。来た道をとって返しているのだ。笹子峠をまた越えることになる。ロケ地は雪が見え、つららが下がり寒そうだ。氷で閉ざされたような岩は、いかにも冷たくそびえ、京都の底冷えを思う。かなり勾配のきつい山道を、一気に上がる紋次郎。さすが敦夫さんの野球で鍛えた足腰は強く、健在である。
「留吉〜!」「留坊〜!」峠付近で、留吉を呼ぶ黒野田一家の男たちの声。お袖の姿もある。留吉がいなくなってしまった、と言う。「ああは言ったものの、もう一度あの子に会いたくなっちまってね。」と言い訳がましいお袖に、「実の弟でもねえ、留坊にですかい?」とチクリと一刺し。お袖は思わず爪を噛みかけるが、「爪を噛むのはあまりいいクセじゃござんせんね。」と二刺し目を入れ、トドメの一言「お仲さん。」と呼びかける。
気色ばむ子分たちを制して、お袖になりすましていたお仲は「紋次郎さん、いかにもあたしはお仲さんですよ。」とあっさり認める。あのとき、崖から落ちたのがお袖だったのか、の問いにも「わたしの身代わりにね。」と答える。後ろで子分の弥七が「いや、そうじゃねぇ、あれは……」と、言いかけるのを制してお仲は続ける。「おまえさんの気を引くために死んでもらったのさ。わたしの身内には、勢五郎を斬れるほどの男がいなくってね。噂に高い木枯し紋次郎ならひょっとして……と思ったのさ。」
「死んだ女が別人で、入れ替わっていた」というドンデン返しは、今までにも何作かあった。今回は、「爪を噛むクセ」でばれてしまうというテレビ版オリジナル。
紋次郎は勢五郎との事を訊くが、佐兵衛を殺すために勢五郎を手引きしたことには触れなかった。ここでそんなことがばれてしまっては、佐兵衛一家の子分たちにお仲はナマス斬りにされてしまうだろう。あくまでもここは仇討ちの手段として、紋次郎を使いたかったという件だけでとどめたい。勢五郎のことを「あんなやつ、わたしの体を弄んだだけの男さ。」と憎々しく言い捨てて、紋次郎に挑みかかる。
「どうしたい、紋次郎、わたしを斬ろうってのかい?!木枯し紋次郎は、女子どもには手をかけないんだろ。」
「それを嘘っぱちだと噂を流したのは、おめえさん自身だったんじゃねえんですかい?」
「斬る気かい?!」
「どうせ、人さまの裏街道を歩く渡世でござんすよ。裏切られるのは馴れっこになっておりやす。でもお袖さんを待つ留坊の気持ちまで、あっしをたきつける道具になすったね。おまえさん、まさか留坊までどうかしちまったんじゃねえんでしょうね。」
そこへ子分の弥七が割って入って事情を説明する。留吉は、弥七がお袖の話をしているのを聞いてしまったというのだ。お袖が死んだというショックで、その場から居なくなってしまったらしい。紋次郎が姉のお光が死んだ、と聞かされたその日に、故郷を捨てたのと同じである。
命がけであの子を守るとお袖に約束したお仲は、紋次郎に留吉を捜して欲しいと頼む。間もなく留吉は崖下で見つかる。命に別状はないが気を失っている。その後、お仲は留吉の看病をしながら、ポツリポツリと身の上話を始める。
実は、この計画はすべてお袖が考えたもの。ひと月前に、フラリと現れたお袖。5年ぶりの再会だった。お袖の両親は足抜けした娘のことを責められ、首をくくって死んでしまうし、我が身は病で余命幾ばくもない。お仲のそばで死にたいとやって来たのに、佐兵衛に手籠めにされてしまうお袖。
紋次郎作品に出てくる女は、よく男に手籠めにされる。今までに何回あったことか。そう言えば前回も、手籠めになった人妻が出てきた。男は女を襲い、女は男に陵辱される。本当にやりきれないし、暗澹たる気持ちになる。
男は汚い。女を取引の道具にする。そんな卑怯な男への復讐に、お袖は自分の命を使ってくれとお仲に申し出た。春を待ちきれずに死ぬのは一人でいい、お仲には幸せになってほしいと……。
范 文雀さん、長い台詞だが実に巧い。長時間、カメラが回り続けている中、切々としっとり演技する。
手前に白梅、開けた障子には夕日がうっすら色をつける。照明さんの腕の見せどころである。照明の色や角度など、ちゃんと計算づくめのはずである。
テレビ版では、佐兵衛も勢五郎も結局、女に手玉に取られている。いや紋次郎でさえ、とばっちりを被ってしまった訳である。紋次郎が噂に高くなかったら、こんなややこしいことは起こらなかっただろう。腕が立つ渡世人、という噂だけが先行していたのだろうか。紋次郎が、余計なことには関わらないという噂は聞いていなかったのだろうか。
原作の伊太郎はブックレットにもあるが、男っぷりのある渡世人である。従って、お仲の無念を晴らそうとする確率は高い。しかし紋次郎は、当初は「勢五郎とやり合うつもりはない。」と言ったくらい、関わりたくはなかったのだ。そんな五分五分の賭けに、お袖は命をかけたのである。
別人として自分の命を差し出す……と言えば、テレビ版前シリーズ第11話 「龍胆は夕映えに……」での喜連川の八蔵。八蔵は、紋次郎として殺されることを選んだ。それは病弱な妹のためであった。その女版が、今回のお袖という感じである。監督さんも脚本家さんも、今までの紋次郎の作品を研究されての変更なのだろう。こういう風に変更したら、紋次郎作品らしくなる……といった思惑も感じられる。
苦しそうにうなされる留吉を心配するお仲を、命に関わるような怪我ではないから大丈夫だという紋次郎。そのとき、屋敷内が騒がしくなり、乱闘の物音と共に障子を突き破る血だらけの手。天神の勢五郎一家が、黒野田一家に殴り込みに来たのである。紋次郎は長脇差を引き寄せ、下緒をパンッと手で張る。その仕草が堂に入っていて格好いい。降りかかった火の粉であるが、向かってくる者はやはり敵である。長脇差を逆手に持ち、低い姿勢から攻撃に出る。殺陣師の美山さん曰く、「黒豹戦法」。主題歌の「焼けた道」の歌詞にも「密林の黒豹」と出てくるが、黒豹つながりで関係があるのだろうか。
勢五郎一家は殴り込み体制なので、鉢巻きにタスキがけ姿。紋次郎、あっという間に7〜8人を斬り捨てる。ここで勢五郎が登場。お仲に「全部、話は弥七から聞いた。お前だけは生かしておけねぇ。」と怒りの表情。お仲は「覚悟は出来ているよ。けど紋次郎さんは、何の関わりもないんだから……。」と紋次郎をかばう。
勢五郎は、「こんなあばずれのために、命のやり取りかい。」と自嘲的である。勢五郎の腕前は、原作とは違い普通(笑)。居合抜きに長けているという設定ではないので、紋次郎の方が有利。勢五郎の抜き身が畳に突き刺さり、ズブズブッと埋め込まれる。このシーンは勢五郎が子分に命じて、いかさまをした渡世人をいたぶるときにもあった。あのときは地面に抜き身が垂直に突き刺さり、埋め込まれたが……。長脇差を使えなくなった勢五郎は呆気なく、紋次郎に背後から斬られる。「紋次郎さんよ、おめえさんと二人で、サシで一杯……」と言い終わらないうちに、息絶える。
結局紋次郎は、お袖とお仲が願ったとおりの結末へと導いたわけである。
原作の伊太郎は、鰍沢でお袖を捜すために入った店で勢五郎と鉢合った。右腕の痺れというアクシデントがあったが勢五郎を斃し、その勢五郎から意外な話を聞く。黒野田一家の子分から聞いた話とは違う……これが紋次郎だったら、引き返して真実を暴こうとはしなかっただろう。伊太郎は侠気があり、まだ心に熱いものを持っている。黒野田一家の敷居を跨ぐと案の定、死んだといわれていた本物のお仲がいた。いかさま博奕の件が勢五郎の口から噂になるのを畏れ、殺害を企てたが腕が立つ子分がいない。そこで村娘のお袖をお仲の身代わりに崖から突き落とし、伊太郎に仇討ちを頼む。原作は、無辜の娘の命を絶っているのでテレビ版より罪が重い。伊太郎は刃向かってきた黒野田一家の子分を叩っ斬って、月光が映える夜道に消える。
紋次郎も多分、留吉のことがなかったら再び笹子峠を越えることはなかっただろう。お袖やお仲のこともあったが、紋次郎にとっては、自分を重ねた留吉のことが気がかりだったのだろう。留吉の安否を確かめるために、ひた走る紋次郎という設定はよかったと思う。
テレビ版では、お仲と紋次郎の別れのシーン。手前には白い寒梅が配され、二人の姿を程よく隠す。「紋次郎さん……」と呼びとめるお仲に、「二度とおめえさんにも、会うことはねぇでしょう。御免なすって。」と三度笠を傾け背を向ける紋次郎。
「どうして、あたしなんかを助けてくれたんだい?」お仲や死んだお袖を通り抜けた男たちはみんな、女を利用し、自分の欲望を満たすだけの獣ばかりだった。しかし、こんな男もいたのである。紋次郎は無言で振り返り、楊枝を飛ばして白い梅の花を一輪落とす。「春を待たずに散り急ぐ……」と言った、哀しい女の身の上に情をかけた紋次郎だった。
ラストシーンは雪が舞い散る空に三日月がかかり、紋次郎の孤影が足早に遠くなり、木枯しの音。これはなかなか良かったのではないだろうか。
テレビ版は原作に比べると、かなり人情的に翻案されていて複雑になっている。やはり主人公が伊太郎と紋次郎ということで、性格が少し違うからであろう。サンドイッチの具は結構量が多く、下手をすると消化不足になり兼ねない。味わうには何度も繰り返し観て、咀嚼する必要があった。当時はそれが叶わなかったので、一度観ただけではなかなか筋がつかめなかったかもしれない。
今回は珍しく、いわゆる「ハッピーエンド」であった。留吉もお仲も存命だったからだ。普通なら、お仲は勢五郎に殺されていただろう。紋次郎に斬られた勢五郎は、フラフラとよろけながらもお仲に体ごとぶつかる。そのとき、勢五郎の長脇差がお仲の胸を貫き……お仲は紋次郎に抱きかかえられるが、息を引き取る……のようなラストが考えられるが、今回のお仲は生き延びた。留吉の為にも、生かしておきたかったのだろう。
脚本家の佐藤繁子さん、お疲れ様でした、と言いたい。佐藤さんが手がけた前作は「砕けた波に影一つ」だったが、あのときも原作をベースにしながら、かなり展開を変えていた。脚本家さんのご苦労が窺われる作品だったと思う。 

 

●第24話 「虚空に賭けた賽一つ」
タイトルに賽がつく作品はもう一つあり、ややこしい。「新……」の第5話 「賽を二度振る急ぎ旅」で、この作品も今回も同じく脚本は「新田郡」さん。「新田郡」と言えば、ファンなら誰でも知る紋次郎の生国である。当然ペンネームで、C.A.Lのプロデューサーの「宮本進」さんが書かれた脚本である。原作とほとんど展開は同じであるが、少し人物設定に工夫が見られる。
さて、「賽」と聞いて一番に思い浮かぶのは、「賽は投げられた」である。そして次に浮かぶのは、ペドロ&カプリシャスの「ジョニーへの伝言」。あの歌詞の中に「賽は投げられた」という一節がある。ネットで調べてみると「古代ローマ時代、ポンペイウスと対立したカエサル(シーザー)がルビコン川を渡ってローマへ進軍するときに言った言葉」とある。意外にも古く、またカエサルの言葉だったとは……ちょっと驚きであった。投げられた賽の目は変えられない……事は既に始まっているのだから、考えている余裕はない、もはや断行するしかないのだということ。このストーリーにも通じるところがある。
この回は、いつも賽を肌身離さず持っている渡世人「賽の目の重兵衛」が出てくる。ストーリー展開上、あまり重要な人物ではないのだが、薬味といった雰囲気か。
久しぶりにアバンタイトル……と思ったら、トンデモ映像が目に飛び込んで来る。「全く、もうっ!」である。むさ苦しい、獣のような男たちに追いかけられる村娘。挙げ句の果ては押し倒され着物を全部はぎ取られ、全裸(後ろ姿だが)で野外を逃げる。当時の、夜9時台のテレビドラマで、この破廉恥なシーンが許されていたことに驚く。これをもし「つかみはOK!」と考えていたなら、相当ガッカリである。
その後も、男たちの狼藉シーンが続く。相当悪い奴等……という印象である。村人たちは窮状を、陣屋に訴え出てくれ、と名主に頼む。しかし名主は、訴えたら昔、村人たちが男たちを虐待した事を追求され、咎を受けるのに違いないから訴えられないと拒む。村人と、この無法な集団との関係は……?ここでアバンタイトルは終わる。
主題歌が終わり、女郎と客の会話。客の男は女郎に、「藤岡に家を持たせてやる代わりに、約束を守ってもらうよ」と話す。声の主である男の顔は見えない。次のシーンは女が代官所から人目を避けるように出てくる。そして身なりの酷い若い男が、大勢の捕史に取り囲まれ捕縛されるシーン。「御用」と書かれた提灯は、時代劇ではよく見られる小道具である。この形状の提灯は、実は御用提灯ではなかったという。(名和弓雄著「間違いだらけの時代劇」)さて、この3つのシーンが関係していることは明らかである。
原作の出だしはなかなか渋い。「闇である。」から始まる。紋次郎は、陣屋の仮牢の中にいる。その牢内の闇を、視覚的なものだけでなく、心の中も『無』として表現されている。この闇とタイトルの虚空とが呼応しているように感じる。テレビ版も原作のように、渋い始まりにしてほしかったが、残念である。
この牢の闇の中に、紋次郎を含めた三人がいる。一人は若い渡世人、もう一人は「賽の目の重兵衛」という渡世人。若い男の方は、入牢した経験がないので落ち着きがないが、重兵衛は余裕綽々である。重兵衛は何度か入牢しているようで、今回も「訴人の引っかけ」だから、すぐに放免されると見ている。
「訴人の引っかけ」……凶悪犯に対する訴人があった場合、その犯人を油断をさせるために、何もしていない連中を牢屋に投げ込むのである。世間の目をそちらに向かせ、凶悪犯人が油断している隙に、大捕物の準備をするというやり方だという。そういうターゲットになるのが、旅の渡世人であり、紋次郎もたまたまそれにひっかかってしまったということである。「無宿人狩り」でなくて良かった。いつもながら原作者、笹沢氏の知識の深さには驚いてしまう。当時の、警察力や組織についての調べ上げは本当に凄い。
テレビ版での牢内は、さすがに映像上漆黒の闇とはいかない。紋次郎たち三人が入れられている牢に、さっき御用になった男も放り込まれる。かなり痛めつけられたようで、気を失っているのか、倒れたままである。紋次郎は板塀にもたれかかり、目を閉じて眠っているようである。渡世人たち二人はそばにいるのが、木枯し紋次郎であることを知っていて、特に重兵衛は憧れがあるのか、同じ牢内にいることを喜んでいる。
この重兵衛役に「橋本 功」さん。最近お目にかからないと思っていたら、2000年に58歳という若さで亡くなっておられた。知らなかった。敦夫さんと同じく俳優座出身で、時代劇にも現代劇にも幅広く活躍された味のある俳優さんだった。今回はいつも賽を持ち歩き、行く末も賽を振って決めるような博奕好きの渡世人役。人のよい、人情味のある役どころである。
紋次郎は目を覚まし、懐から竹皮に包んだ塩を口に含み指で歯を磨く。このシーンは原作にはないが、牢内であっても正しい生活習慣である(笑)。確か、前シリーズの第3話 「峠に哭いた……」でも塩で歯を磨いていたと思う。清潔感とまではいかないまでも、牢内の紋次郎には、むさ苦しさは感じられない。ただいつもと違い、ヒゲがうっすら影を落としているように見えるのは、気のせいだろうか。口をゆすいだ後、今度は懐から楊枝を取り出して咥えるのだが、牢内によく持ち込めたものである。
重兵衛の話が続く。訴人の引っかけで、召し捕ろうとしているのは亀穴峠の八人兄弟。この連中は、人目につくところには姿を現さず、兄弟が生まれ育った山辺村の者たちだけに悪さをしている。子どもの頃、村の者たちに酷い扱いをされたので、村を飛び出し、峠に小屋がけをして兄弟で住みついている。八人はみんな男兄弟で、太郎を筆頭に、次郎、三郎、四郎、五郎、六郎、七郎、八郎と年子だという。その末っ子の八郎が、倉賀野に出てきたところを誰かに訴人され、捕まったらしい……というところで、さっき牢に放り込まれ気を失っている男の姿……視聴者は八郎であると推察できる。八郎の年齢は、原作では16〜17歳、テレビ版では17〜18歳として「まだ餓鬼じゃねえか。」とされているが、テレビ版の八郎はどう見ても5〜6歳は年上に見える。
亀穴峠で、八郎を待つ兄たちの姿。八郎を探しに行った七郎も、帰って来ないのでみんな苛立っている。指揮をとっているのは長兄の太郎で、浮き足立つ兄弟たちを諫めている。さすがにみんな年子というだけあって、上下が不明で誰が誰だかわからない(笑)。そして揃いも揃って、みんな汚い……その中で太郎だけは、えらく派手な色の着物を纏っている。原作通りだと24〜25歳だが、どう見ても30歳は過ぎているだろう。
八人兄弟の子どもの頃の回想シーン。お春という姉を持つ八人の兄弟。母は死に、父も兄弟たちを残して死ぬ。貧しいが故にお春は、三島宿の女郎として女衒に売られていく。お春は弟たちに「年季が明けて帰ってくるまでは父母の墓は守ること、名主の言うことはきくこと」と言い残し、去っていく。このお春の少女役をしている女の子は、演技がなかなか達者である。他の子役の男の子と比べると数段上である。多分年齢も設定通りで、素朴な感じの少女である。原作ではお春ではなく、お里になっている。なぜ、名前を変える必要があったのかは、不明。原作では、17〜18歳で年季は八年、三両二分で売られたと記されている。相場で考えると、そこそこ高い値がついた方ではないだろうか。テレビ版では「あれから10年……」と口にしているので、原作より年季が2年長い。
しかし原作でも言えることだが、年子でゾロゾロ男ばかりで八人とは……。笹沢さんもさすがに、八人の名付け親になるのは嫌だったようで(笑)、太郎、次郎……と順番に名前が続く。「貧乏人の子だくさん」とはよく言われるが「子だくさんが故に貧乏人」とも言える。その中でも末っ子の八郎が、一番面倒をかけたし、八郎も姉を慕っていた。別れのシーンは、八郎がお春にしがみつき、お春は何度も振り返る。幼い紋次郎と姉のお光を、どうしても重ね合わせてしまう。
テレビ版ではその後、兄弟たちが村の者に引き取られ、虐待されるシーンが入る。村社会の相互扶助とは程遠い有様である。八人兄弟はその後それぞれの家を飛び出し、亀穴峠の中腹に小屋がけをして住むようになる。
「兄弟は木の実、草の根のほかに、夜になってから山辺村へ行き、畑の作物を盗んで来て食糧とした。山辺村の村人たちは、兄弟たちをそのままに放置しておいた。厄介者払いができたのだし、そのために多少の作物が荒らされても仕方がないと割り切っていたのである。」
このあたりは、兄弟たちの悪さはさほど問題になっていない。村人たちの酷い扱いに比べれば、許される範囲だと思う。しかしその関係が、悪化する。八人兄弟の両親の墓があるところに、道をつけるという計画が持ち上がった。兄弟たちは、姉のお里(春)の言いつけには忠実であった。絶対に許すことはできない……ということで、兄弟は村人たちに抵抗し、実力行使をする。百姓家に乗り込んで脅迫し、煮炊きしてある野菜や米を強奪する。村の自警団と衝突して、大乱闘となる。原作ではこの3ヶ月に山辺村の男女二人が死亡、三十人が負傷したとある。また、八人兄弟のほうが村人から金品を強奪したり、娘を犯したりする悪党ではないだけに……ともある。このあたりを読む限り、原作の八人兄弟のほうがテレビ版よりは道徳的である。
テレビ版での兄弟たちの会話は続く。八郎は10年の年季が明ける姉を迎えるために、倉賀野に勝手に行ったらしい。10年という長い歳月でお互いの顔がわからないかもしれないからと、死んだ父親の「格子木綿の片袖」を目印に持って行った八郎。その八郎を連れ戻すために向かった七郎が、戻ってきた。草木一本も生えていない岩場を、縄梯子で上ってくる七郎。この岩場は採石場だろうか、切り立った険しい崖である。今までも何回か、ロケ地に使われているような気がする。縄梯子は頼りなくユラユラ揺れるし、崖はいかにも脆そうで、七郎が上ってくるシーンは見ていてもヒヤヒヤする。多分、命綱もなかったと思うので、七郎役の役者さんも体を張っての演技だったろう。
七郎は八郎が誰かに訴人されて、陣屋の牢に入れられたことを兄弟たちに知らせる。太郎は一斉にみんなが助けに下山したら、役人たちに捕まえられてしまうに違いないので、五郎と六郎だけに様子を見に行かせる。なかなか太郎は冷静に物事を考えている。村人は、自分たちが昔にした所業がバレることを畏れているので、訴人したりはしない。では、一体誰が訴人をしたのか?……。
これがこの作品の一番の謎であるのだが、ドラマでは冒頭部分で、何となくわかるような伏線が敷かれているので、ドンデン返しの衝撃も少し弱くなる。
一方、こちらは陣屋の牢内。重兵衛と若い渡世人は、気楽に賽子を転がしている。紋次郎は無言で座っている。朝を迎え重兵衛の予想通り、紋次郎を含めた三人は放免となる。当然、八郎と見られる男は、そのまま牢内に置かれたままである。紋次郎たちは自分の着物を身につけ、表門から出る。そのとき、紋次郎だけが呼び止められる。お前が落としたものだろうと言って、見せられたものは天保一分銀が3枚。テレビ版の紋次郎は、その中から1枚だけを手に取り、「お納めなすって……」と言う。残りの2枚は呼びとめた役人のものとなる。「賄賂」とまでは言わないが、それが作法というのだろうか。賭場では賭札を換金した後、半分近くを返すのだが、それに近いものなのだろうか。原作では一分銀2枚を落とし、2枚をそのまま受け取っているので、テレビ版だけのお心遣いである。この一連の動きが、この後大きな誤解を生むことになるとは……。
物陰から様子を窺う五郎と六郎。「奴だ。奴が金目当てに、八郎を訴人したんだ!」大きな勘違いである。紋次郎は自分の金を受け取っただけなのだが、傍目には報酬金をもらったかのように見えたのだ。原作では兄弟の内の一人だけが様子を窺っているのだが、紋次郎はそれを察知しているが、気にはしていない。
紋次郎が歩く後ろを、重兵衛が追いかける。ロケ地は多分、京都の郊外。亀岡あたりではないだろうか。刈り取られた稲が稲架(はさ)がけされている。最近ではほとんど見られなくなったが、私が子どもの頃は田舎での日常風景だった。主にハンノキが稲架がけに利用されており、夏は程よい木陰をつくり、休憩するにはうってつけの木である。
ここで、撮影時期が気になった。稲刈り後の稲架がけは、多分10月。しかし放映は3月。大分タイムラグがあるのだが、どういうことだろうか。前回は梅が咲いていたのだから、季節がまるで逆行していることになる。
重兵衛は紋次郎に行き先を訊く。「西へ行く」という答えは、つまりは亀穴峠に向かうことを意味する。重兵衛は、亀穴峠に向かうことは避けた方がいいと進言するが、紋次郎はそのつもりはないと断る。「とばっちりを受けることもあるかもしれないから……」と、なおも食い下がるが「いちいち気にしていたら旅なんかできやせんよ」と頑なな紋次郎である。「あっしはただ、紋次郎さんの貫禄にあやかりてぇと思いやしてね」と重兵衛は紋次郎の後をついて行く。
原作も同じであるが重兵衛の台詞がもう少し長い。
「あっしは一切、道連れを作らねえことにしておりやすんで……」
「紋次郎さんが、そうだってことは、百も承知しておりやすよ。だから、道連れにはならねえ。おいらはただ、おめえさんと同じ道を、同じ方角へ向かうってだけなんで……。もの好きな野郎だと思われるかもしれねえが、この世に退屈しきっておりやしてね。ちょいと紋次郎さんの貫禄に肖って旅がしてみてえと、まあこう思いやしてね」
ここで注目したい言葉が「この世に退屈しきっておりやしてね。」である。今までも何人か、この世に退屈した渡世人が出てきた。この世に退屈するというのは、昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日があると思っているからである。紋次郎にとっては、昨日は無かった事に等しいし、明日があるとも思っていない。いや、今日があるとも思っていないだろう。あるのは、今だけである。この世に退屈するという余裕も無いはずである。
この重兵衛は、「小判鮫の金蔵」とよく似ている。紋次郎と同じ牢に居たということで、テンションが上がり、憧れを持って一緒に道中する。そのいっときは、退屈ではないのだろう。考えてみれば退屈な人生ほど、面白みのないものはない。それがいつまで続くのかが、わからない。そんなことなら自分の人生を、賽子に賭けてもいいのではないか、と思う重兵衛の気持ちもわからなくはない。
なぜ危険な状況になるかもしれないのに、その道を行くのか。原作と同じ説明が、芥川さんのナレーションで行われる。渡世人というものは、表街道ばかりを歩くとは限らない。とにかく最短距離を行くのが鉄則である。そのためには抜け道や間道の悪路、難路でも行くし、川も歩くし山越えもする。亀穴峠の麓の山辺村を通過する道を選ぶと、十石峠街道を行くよりは、3分の1ぐらいに距離が短くなる。
二人は同じ道を行き、掛け茶屋に入る。紋次郎は「豆餅と煮込みうどんを……」と店の親爺に頼む。重兵衛も「あっしも、おんなじ物を頼むわ。」と「おんなじ物」を強調するあたり、紋次郎への憧れが見える。店には先客がいて、店の親爺と亀穴峠の八郎の話をしている。紋次郎は重兵衛と床几に座り、聞くとはなしに聞いている。
紋次郎が脚を組んで座っていることに、違和感を覚える。敦夫さんは脚が長いので、その姿はそれで美しいのだが、今まで床几に脚を組んで座ったことがあっただろうか、と細かい事だが疑問に思った。
先客は60歳過ぎの身なりのきちんとした男で、八郎が召し捕られた様子を喋っている。年季が明ける姉のお春を迎えに、倉賀野の宿外れで一人突っ立っていたのを訴人され捕まった。八郎は、死んだ父親の格子柄の片袖を掲げて、目印としていた。ここで映像が入る。
(大分歳を食った……笑)八郎が遠くを眺めやるようにして立っている。手にする棒きれには、木綿の茶色の片袖がくくりつけられている。日没後の空の色合いが美しい。藍色のグラデーションは、下方にいくに従ってうっすら赤みを帯びている。八郎の足元は照明が施されているが、バックの山の稜線や八郎のシルエットなどが影絵のように美しく、叙情的である。
亀穴峠の兄弟たちは、姉の年季明けを、一日千秋の思いで待ち続けていた。その中でも末っ子の八郎は姉に可愛がられていただけに、姉への思慕が強く単独行動に出てしまったのである。八郎を捕らえたあとは、残りの兄弟たちもおびき寄せて一網打尽……というのが、代官陣屋の考えだろう、怖ろしい話だ……と客は噂話を終える。そのとき、向こうから軽い旅装の女がやって来る。粋な感じの年増……多分水商売の女。
「すいませんね、旦那様。」と華やかに笑い、床几に腰を下ろす。旦那様と呼ばれた客は声をひそめて女に確認する。「うまく運んだようだな。」ここでドラマの冒頭のシーンとつながり、この女の正体が大体わかる。
原作では先客としてこの二人は初めから一緒にいて、八郎の話はこの女が店の親爺に喋っている。
「いじらしい心根じゃありませんか」「それを訴人するなんて、世の中には薄情者もいるもんですねえ」と同情する風情で、女はずっとしゃべり続ける。同席する男は「藤岡の織物問屋、田原屋」の隠居で、金持ちで有名とある。女はその隠居の囲い者のようである。
掛け茶屋を出た二人は竹林を歩く。この竹林はかなり整備されていて、大切に育てられている様子が見える。ロケ地はどこだろうか。洛西あたりの竹林だろうか。道端に見える小屋は土壁に瓦葺き……しかし瓦がかなり新しく現代風である。
ここで重兵衛が「どうしても、こっちの道を行きなさるんで?」と紋次郎に訊く。紋次郎の意志は堅い。「ひとつ、あっしの賽に尋ねてみやしょう。」と賽を振って手の甲に伏せる。丁なら考え直す、半なら前に進むと決めるが、出た目は「三六の半」。「半になるように仕掛けたんでござんしょう?」と紋次郎がすかさず言うが、「いかさまはいけねえや」と重兵衛は認めない。危険であっても、重兵衛は紋次郎と旅を続けたいのであろう。退屈な重兵衛にとっては、スリルを味わうのも暇つぶしにはいいのだろう。
前に進んですぐに、風切り音が聞こえ矢が飛んでくる。二人は咄嗟に身をかわす。どうも亀穴峠の兄弟が放った矢らしい。しかしどうして兄弟たちから命を狙われるのかが、わからない。重兵衛は心細そうに「胸騒ぎがするので、もう一度賽に訊いてみやしょう。」と賽を振って手の甲に伏せる。「四と二」。いわゆる「死に目」という縁起の悪い目が出る。「今からでも遅くはねえ。引き返しやしょうよ。」と震える声で引き留める重兵衛に、「そんな訳にはめえりやせんよ。」と取り合わない紋次郎。
ひそめていた身体を起こし立ち上がった瞬間、「危ねえ!」という重兵衛の声。紋次郎は咄嗟に横に身体をかわすが、同時に重兵衛の胸板に竹槍が突き刺さる。竹槍は完全に胸を貫通している。紋次郎が身をかわした結果、重兵衛に竹槍が刺さったことになる。竹林の中を走って逃げていく人影。紋次郎はそのことを詫びるが、重兵衛は「気することはねえ……紋次郎さんの身代わりに死ねるなんてのは、悪かねえ気分ですぜ……。」と苦しい息の中、答える。連中は明らかに紋次郎の命を狙っている。陣屋の門を出たところで、手代から金を受け取った紋次郎の姿が、訴人して報酬をもっらているように見えたのだろう、と重兵衛は解いてみせる。脂汗が光り苦悶する重兵衛の顔。橋本さんの熱演である。「おいらの賽のいうことも、満更じゃねえでがんしょ?賽の目の重兵衛、これで思い残すことはねえ……。」と言い残し、事切れる。
原作での重兵衛も台詞はよく似ているが、その表情には微かな笑いが漂っている。そして苦しい息の中でありながら、紋次郎に諭している。
「おいらにしたって、おめえさん同様に明日をも知らねえ流れ旅の毎日だったが、命を粗末に扱ったことは一度もねえ。好んで危ねえ橋を、渡らねえでおくんなせえ」「へい」「おいらの賽の言うことも、ちっとは聞いてやってもれえてえ」「へい」「紋次郎さん、おいらもこれで死ぬほど退屈しなくてもすむことになりそうだ」
死ぬ間際にありながら、紋次郎を気遣う重兵衛である。そして退屈だった日々も終わる。紋次郎の身代わりで死んだ者は何人もいるが、誰も未練がましいことを言わないところに救いがある。
紋次郎は無言で、落ちていた賽子の一つを重兵衛に握らせ、もう一つを自分で握りしめる。
だが、あれほど重兵衛が「この先は行かない方がいい」と賽の目で訴えたのに、結局紋次郎は前に進む。テレビ版では、紋次郎の心内がわからないので、頑固者としか映らないだろう。原作では、なぜ紋次郎がそれでも引き返さないかが述べられている。
「この道が危険だからと引き返せば、安心できるというものではなかった。前へ進んでも危険なら、後退しても無事ではすまない。つまり、安心ばかりを選んで生きるということはできないのが、無宿の流れ者、渡世人なのである。行く手にあるのも『無』、引き返してもやはり『無』であった。だからこそ、前へ進むほかないのである。妨げる者がいたら斃し、自分が逆に斃されたら死ぬまでのことだった。」
厳しい生き方である。いつも死を覚悟していなければ、生きていけない。賽の目通りに動こうが、無視しようが、どっちにしろ『無』の世界を歩く身なのである。原作の冒頭部分にあった『闇』と同じである。闇の中であれば、前も後ろもない。見えないから、他人がいるのかもわからない。あるのは『今』であり『我が身』だけなのである。しかし、何もない『闇』の世界にいる自分も、本当に存在しているのか疑わしくなる。哲学的である。
この後、亀穴峠の兄弟7人と紋次郎との死闘が繰り広げられる。元はと言えば、誤解から始まった闘いであるので、紋次郎にとっては理不尽なことである。そして理不尽なことで、全く関係のない重兵衛が死んだ。しかし、紋次郎がいくら説明をしたところで、連中は冷静に耳を貸すこともないだろう。まさに「賽は投げられた」状態である。
原作では、それぞれ独自の武器を使い、鍛錬を積んでいるとしている。
24歳の太郎は、山刀 / 23歳の次郎は、木か竹の槍 / 22歳の三郎は、樫の棒 / 21歳の四郎は、石投げ / 20歳の五郎と、19歳の六郎はともに手製の弓矢 / 18歳の七郎は、木か竹の槍 / 17歳の八郎は、山刀
テレビ版ではいちいちそんな紹介もしていられないので、種々雑多な攻撃を仕掛けてくる。今回の殺陣はとにかく体力勝負である。竹林の中を紋次郎は走る。竹に石つぶてが当たる乾いた音がする。起伏したところを跳躍する。3〜4メートルは跳んでいるだろう。竹林には木洩れ日が影を落とし、なかなかいい映像である。
竹林から荒れ地に変わる。セイタカアワダチソウが見える。この植物は明治時代末期に海外から持ち込まれた帰化植物なので、当然紋次郎の時代では存在していない。今でこそ大分勢いは衰退したが、昭和40年代のセイタカアワダチソウの繁茂はすごかった。ススキを駆逐する勢いだったので、今回映像化されてもやむを得ないところがある。
弓矢が飛んでくるのを、道中合羽ではたき落とすが、その内の1本が紋次郎の左肩に突き刺さる。この負傷は原作と同じ。紋次郎といえど7対1、相手は結束の堅いチームワーク。飛び道具もあるし、屈強な若者たち。かなり苦戦を強いられる。まず二人を逆手に持った長脇差で斃すが、地面に倒れた拍子に刀を取り落とす。男に組み伏せられ、棍棒で押さえつけられる。武器がない紋次郎だが、咄嗟に肩に刺さっている矢を引き抜いて男の首に突き立てる。
「三郎〜!」と他の兄弟が叫ぶ。三郎の武器は樫の棒…原作通りである。紋次郎は刀を拾い上げ、腕を押さえながらも疾走する。三人が後ろから追いかけてくる。崖の上から駆け下りてくる一人を、長脇差で斃す。植樹されている背の低い松原で身を隠し、近づいた太郎につかみかかり胸に長脇差を突き立てる。「あにちゃー!」狂ったように竹槍を振りかざして襲ってくる二人。次郎と七郎である。次郎の竹槍が紋次郎の合羽を地面に縫いつける。「七郎〜!突け〜!突け〜!」必死の形相で叫ぶ次郎。槍を振り下ろそうとする七郎の胸に長脇差を叩きつけ、身体を回転させて次郎に体ごとぶつかる。斬られた七郎と次郎は、お互いの体を支え合うようにしてうずくまる。
「あにちゃ〜。」「七郎……」「いてぇよう。」「おらもだ……」「あねちゃんに、叱られる〜。」「みんなで謝ればいい……」「今は眠りてぇ。」「おらも……」
二人は折り重なるように倒れ、静かになる。今回の殺陣は、いつもより動きが激しく長い時間だったが、原作も緊迫する場面の連続だった。一番のピンチは太郎と対峙したときである。操る山刀は頑丈で、もし長脇差が触れたら折れてしまう。刀を合わせることが出来ないのでよけるしかない。しかし立ち上がると、矢と石が飛んでくる。
「咄嗟に紋次郎は、身を伏せていた。そうしながら紋次郎は、これで終わりだと死を意識していた。当然、太郎の山刀が振りおろされると、思ったからである。それに対して紋次郎は、無抵抗な状態にあったのだ。」(原作より抜粋)
死まで意識した紋次郎だが、太郎の山刀は結局、振りおろされなかった。太郎の背中に矢が刺さったのである。……ということは、同士討ち?ということだろうか。その一瞬を狙って、紋次郎は太郎の腹に長脇差を埋める。
紋次郎が死闘の末、7人を斃したのだが、全く後味が悪い。紋次郎が、この兄弟たちを手にかける理由がないのだ。兄弟たちが勝手に思い違いをして、襲ってきた……降りかかる火の粉を払ったまでなのである。山辺村に危害を加えているといっても、兄弟たちの生い立ちを考えると因果応報ともいえる。紋次郎とは全く関係がないことなのである。
ヨモギをもんで傷口にあて、手拭いでしばる。今回は、何かと細かいディテールにこだわりが見える。
通りかかった村人たちが噂話をしている。陣屋の牢内にいた八郎が、逃げたというのだ。鉄砲隊が出張っているともいう。亀穴峠の兄弟たちは、みんなもういない。残っているのは、八郎だけなのである。
紋次郎は気にも留めずに街道を急ぐ。その前に急に現れたのは掛け茶屋で同席した旦那様と呼ばれた男である。紋次郎の身体に突き当たって、土下座をして助けを求める。そして、自分は山辺村の名主の治兵衛だと明かす。その名主の後ろを後ずさりしながら近づいてきたのは、連れの女。牢を抜け出した八郎が、抜き身を手にして迫ってきていた。
女は必死に八郎に謝っている。治兵衛は紋次郎にしがみつき、「金ならここに……足らなければ村に帰って……」と、助けを求めるが「折角でござんすが、お断りいたしやす。」と紋次郎はすげない返事である。「八郎!」「あねちゃん!」とお互いを呼ぶので、ここで完全に姉と弟ということがわかる。
姉のお春役に「弓恵子」さん。撮影当時の年齢は41歳。失礼だが、少なくても20年は年季が必要であろう。あの太郎の姉なので、このぐらいの年齢詐称は仕方がないかもしれない。お春は八郎が陣屋に捕まったのに、知らん顔をしていたことを謝る。
「私は二度と昔の暮らしに戻りたく無かったんだよ。生まれ変わったつもりで、新しく出直したかったんだよ。昔とはもう縁を切りたかったんだ。私は村とも八人の弟とも何の関わりもないんだ。私は、生まれ変わったお春になりたかったんだよ。」「昔のあねちゃんとは、まるで違うだ」「十年も女郎をやっててごらんな。考え方だってまるっきり変わってしまうんだ。人は元々変わるもんじゃないか。それが人間ってもんじゃないか。」「俺たちは、変わらなかっただ。十年前からずっと墓を守り続けただ。あねちゃんの帰りを待って。」(ドラマ)
この二人の主張は、どちらも頷ける。「変わってしまった哀しさ」と「変われなかった哀しさ」。ここで出合ってしまい、溝は深まるだけである。その上お春は、八郎たちがあんなに憎んでいた山辺村の名主に身請けされたのである。この設定は、原作とは違って凝ったものになっている。八郎の怒りの火に、油を注ぐようなものである。
名主の治兵衛は迫ってくる八郎に怯えて、紋次郎に「お助けを!」としがみつくが、「あっしには関わりねえこって。」とさっさと歩き出す。このいつもの台詞は、原作には出てこない。原作では、名主ではなく大店の隠居なので、八郎の怒りを買うこともなく、紋次郎に助けを求めるシーンもない。
八郎は最後に詰問する。訴人したのは姉のお春だと……。残酷なドンデン返しなのだが、テレビ版では冒頭部分に暗示されているので、驚きもない。原作では、掛け茶屋で八人兄弟の噂をして、「いじらしい」だの「訴人した薄情者」だのと言っていたあの女が……。実の姉であり、弟たちを裏切ったなんて……と衝撃を受けるのだが……。
その場を去りかけた紋次郎は、姉が訴人したと聞いて、足を留め振り返る。陣屋の元締めから姉の裏切りの話を聞き、八郎は怒りのため牢から逃げた。そのために何人かを殺めてしまった。もう自分は生きてはいられない。
「あにさんたちもみんな殺されただ、陣屋の役人たちに……」と叫ぶ八郎。紋次郎はその言葉を否定する。手に掛けたのは自分だと……。自分が殺したなどと、愚直にも告白してしまうなんて……と思うが、そこが紋次郎である。自分を訴人だと思ったからだろうと、説明する紋次郎に、怒って向かってきたのは、意外にもお春だった。
「なんてことを!」と声を荒げたかと思うと、紋次郎の横っ面をひっぱたく。こんなに気持ちよくひっぱたかれる紋次郎もめずらしい。
「七人の弟たちを殺すことはなかったじゃないか!」
「あっしには、言い訳なんぞござんせんよ。」
今回のテレビ版は「あっしには関わりねえこって。」と、「言い訳なんぞござんせん。」の決め台詞が2種類出てくるが、原作にはどちらも出てこない。原作ではお春と紋次郎の絡みはないので、「言い訳なんぞ……」の台詞を入れんがために、付け加えた展開かと思ってしまう。紋次郎に怒るお春の心情は、複雑だ。訴人して、弟たちが捕縛されたらまず死罪は免れないだろう。訴人した、自分の罪の重さがわかっていないのだろうか。
「この人でなし!なんて酷いことを!」
お春さん、あんたがそんなこと言えた義理かい?と言いたくなるが、それを代弁するのが八郎である。
「酷いのは、あねちゃんの方だ!」そう、その通りである。そして八郎はお春をあの世に連れて行く、と言う。八郎の覚悟の形相に、お春と名主は醜い罪のなすり合いをする。見苦しい二人に、八郎は怒りの刃を振り下ろす。名主の治兵衛が悲鳴を上げて倒れる。
お春は恐怖に顔を引きつらせながら「お前を、我が子のように可愛がったこの私を殺すなんて!」と後ずさりをするが、八郎は容赦しなかった。紋次郎は振り返ったまま、成り行きを見ているがやるせない表情である。ひたすら姉を慕い、姉の帰り待っていた兄弟の姿に、紋次郎は自分を重ねていたかもしれない。しかし、お春の変貌を責めることもできないし、そんな感情も持っていないだろう。人を信じるから、裏切られるのである。だから人を信じない紋次郎である。とは言え、一抹の「信じたい」という気持ちも、封印してはいるがあるはずである。だが、今回も「やはり、信じられない」という結果に終わってしまった。
斬られたお春は、スローモーションで倒れる。八郎の悲痛な表情と叫び……意を決した八郎は、自分も姉の後を追うつもりで刃を自分に向けるが……。原作では、そのまま自刃して姉のお里(お春)と重なり合って果てるが、テレビ版はもう一ひねりしている。
銃声と共に八郎が倒れるのである。倒れる八郎の姿もスローモーション。竹林が風にざわめき、笹の葉が舞い落ち、なかなか印象的な映像である。しかしここで、陣屋という権力側がしゃしゃり出てくるのは、唐突な気がする。
名主の治兵衛とお春と八郎……三つの屍の上に、なおも笹の葉が降り注ぐ。紋次郎はその場に背を向けて、去っていく。原作では去り際に、八郎の手から離れて飛んでいきそうな木綿の片袖に、楊枝を飛ばす紋次郎である。テレビ版の紋次郎は、重兵衛が持っていた賽子の一つを空に投げ、楊枝で真っ二つにする。タイトルを意識した楊枝の使い方である。
所詮、虚空には何を賭けたところで「無」なのである。すべてそういう宿命であり、その虚空の中で人間は生きている。「人は元々変わるもんじゃないか。それが人間ってもんじゃないか。」と叫んだお春。人間だけでなく、すべてのものは無常なのである。
今回の作品は、考えれば考えるほど重いものがあった。いつものことだが、誰も幸せにはならなかったし、希望も見えなかった。どちらの作品も、「亀穴峠に八匹の妖怪が棲むとの噂……云々」で締めくくられている。妖怪退治が、権力者ではなく無宿人だったので、うやむやにされたのであろうが、変わる者は「人」とされ、変わらぬ者は人ではなくなり「妖怪」とされてしまった。
一途に変わらなかった、哀しき妖怪たちであった。 

 

●第25話 「生国は地獄にござんす」
今回の主人公は、紋次郎ではなく明らかに忠七である。この忠七役に「菅貫太郎さん」。菅さんと言えば、前シリーズ「大江戸の……」の十六夜小僧、「明鴉に……」の日下又兵衛と、今回で3回目の共演である。十六夜小僧では、人の良さそうな男が豹変するドンデン返しが見事だった。日下又兵衛は、何を考えているのかわからない不気味な役作りが圧巻だった。今までに何度か共演してきた俳優さんの中で、この菅さんが、一番存在感があると私は思っている。どんな役でもピタッと決めてくれる演技派の名優さんだったが、惜しくも59歳の若さで、交通事故で急逝されている。俳優座養成所に籍を置くも、敦夫さんらと共に1971年に劇団を脱退しているので、いわば盟友であろう。
脚本は、敦夫さんの弟である中村勝行さん、演出は黒田義之さん、撮影は森田富士郎さん。調べてみると黒田監督と森田氏は小学校の同級生だったというから、興味深いコンビである。この次の最終回も、同級生コンビで制作されている。
展開は原作と、ほとんど同じである。原作は第13巻の最後に収録されており(光文社文庫)、ここで一旦第2期は終了する。他に収録されている作品は「人斬りに紋日は暮れた」「明日も無宿の次男坊」「女郎にはたった一言」である。ここで今までと違うのは、タイトルに数詞が入っていないということである。なぜ、最後の巻だけ鉄則を守らなかったのだろうか。「明日も無宿……」は無宿なので「無し」、「女郎には……」は一言なので、「一」と考えられなくはないが、やはり無理がある。ということで、今回のタイトルには数詞が入っていない。数詞が入らなかっただけでなく、「ござんす」で終わるタイトルは珍しい。「一体だれの台詞なのだろう?」と想像してしまう。
今回のテレビ版での異色の目玉は「やしきたかじん」さんの出演であろう。今でこそ関西地区では知らない人がいないほどの人気アーティストだが、当時はまだそれほど名前が売れていなかったのではないだろうか。歌唱力があり、少ないギャラで歌ってくれそうなシンガーということで、敦夫さんが白羽の矢を立てたということであるが、飲み仲間だったとも聞いている。のっけから、このたかじんさんの出演となる。
「旅人さん、待っておくんなせえ。」山道を行く紋次郎の前にいる旅人を呼び止める声。声の主は、たかじんさんが演じる三下風の渡世人。「貫禄十分の旅人さんと見込んで、お頼みいたしやす。飯田の先まで、道連れにしてやっておくんなせえ。」呼び止められた貫禄ある旅人が菅さん。飯田の半兵衛の身内に恨みをかっているので、自分一人では心許ない。貫禄ある旅人と同行したら、子分たちも手出しをしないはず、と言うのである。
たかじんさん、必死の演技であるが、どうしても素人くささ全開(笑)。いつもサングラスをかけているたかじんさんが、素の顔で登場するのは、後にも先にもないのではないだろうか。確か、カメラが回るというのにたかじんさんはメガネをかけていて、監督さんに注意されたと聞いている。彼のテンパリ具合がわかる。たかじんさんに縋りつかれても、その渡世人は取り合わない。
「とにかくそこをどいてやっておくんなせえ。」「あっしの知ったことじゃねえでしょう。」「あっしは人様のことに、関わりを持ちたくねえんでござんすよ。」「あっしは金輪際、道連れってものをつくらねえように心掛けておりやす。」
まるで紋次郎の台詞そのもの。このやり取りの最中に、紋次郎はさっさと脇をすり抜けて行く。たかじんさん、この時点で急に大阪弁にシフト。ここで、やっと彼らしさが出て大阪弁でまくし立てる。しかし、何とも中途半端である。たかじんさんは、シナリオのある台詞よりアドリブが本来の姿なのだろう。
彼はこのときの演技があまりにも酷すぎたのがトラウマになり、以後一切ドラマには出演していない。「人生最大の汚点」と言わしめる出演だったのである。同じように主題歌を歌って、その後ドラマに出演した上條恒彦さんとは対照的である。上條さんはそのあと気を良くして、俳優業でも活躍された。
大阪弁のたかじんさんはその後も吠える。紋次郎の真似をしやがって、どうせ真似をするなら長い楊枝を咥えろと……。しかし当の本人は、紋次郎には会ったことがないし名前も聞いたこともないと答える。この渡世で紋次郎のことを知らないなんて大したことがない……という言葉を背中で聞いて旅人は去っていく。
紋次郎のドラマもあと僅かとなったので、主題歌を歌うたかじんさんの出演となったのだろう。さてたかじんさんだが、昨年食道ガンが発見され手術を受け、現在は病気療養中。復帰の時期は未定ということだが、早く芸能界に戻って来ていただきたいと思っている。
原作では、紋次郎とよく似た言動をとるあたりは同じだが、若い三下に合う前にもう一つエピソードが入っている。紋次郎の200〜300メートル後ろを、ずっと半日も同じスピードで歩く渡世人。つかず離れずで歩く渡世人は、年の頃は36〜37歳で、紋次郎と同じくらいの貫禄を身につけている。ただ決定的に違うのは、荒みきった顔に自嘲的な薄ら笑いを浮かべていること。
掛け茶屋で、生爪をはがして歩けない子連れの女を背負って峠を下りて欲しいと、客の男たちにその旅人は頼まれる。しかし上記と同じような台詞で断るのである。客の男たちは断った旅人が紋次郎の名前を知らないということに不信感を抱き、島帰りの忠七ではないか、と噂をする。忠七は17年間島流しだったが、半年前に御赦免船で三宅島から帰ってきた。もし今の旅人が忠七だったら、伊那の唐木は大騒ぎになるだろう……という会話を紋次郎はそれとなく聞いている。そして茶屋を後にする前に、茶屋の亭主に持っていた傷薬を手渡している。このあたりの紋次郎の優しさは心憎いし格好いい。
テレビ版ではこのあと紋次郎は掛け茶屋で忠七の噂を聞く。この先の唐木の町では、忠七という渡世人が意趣返しにやって来るとかでピリピリしているから、立ち寄らない方がいいと茶屋の女が忠告する。この人の良さそうな茶屋の女……見たことがある……「お玉さん」である。「笛の流れは……」での巨漢女郎役で、インパクトのあったお玉さん。「船場牡丹さん」という女優さんである。ここで出会えてなんだか嬉しい。相変わらず、ふくよかな体つきは愛嬌がある。
紋次郎は一人足早に歩く。山中の一本道や冬枯れの野原、瓦を載せた土塀や川に沿って歩く姿はなかなかいいのだが、そのBGMにギョッとなる。いつもは演奏だけだったBGMに歌詞がついているのだ。少し不安定な音程で歌う女性ボーカルは一体だれなのだろうか?いやそれ以上にミステリアスなのはその歌詞である。
   あかい山から 風が吹く 枯葉集めて やって来る    
   鳥が羽ばたき 風に歯向かう 鳥が突き刺しゃ 風がふくれて    
   風がふくれりゃ 鳥が墜落 川が逆巻き 鳥が流れる    
   枯葉が追いかけ 鳥の葬式
   山が遠のきゃ 鳥がなく 山が遠のきゃ 鳥がなく
意味不明で前衛的な挿入歌であり、これが流れるのは最初で最後である。こうして歌詞を採録してみて、ふと思ったのは「マザーグースの歌」。何となく世界観が似ている。誰が作詞したのかは不明。
唐木の町外れ、橋の上で助造の子分たちが、通行人を手荒いやり方で調べている。この木造の橋が秀逸である。頑丈な橋ではないが、ロケ地に美術さんが作ったものだろうか?それとも実際に使われていたものだろうか?時代劇にピッタリのすばらしい橋である。
男たちは、忠七かどうか検めているのである。その脇を、手下に囲まれながら若い女が通り抜ける。「変わったことはないかい?様子の怪しい者を見かけたら、すぐに知らせるんだよ!」伝法な口の利き方、腕を組んで歩く姿……唐木の親分の娘らしい。この娘は「お市」という名前で、手下が後ろから声をかける。「お嬢さん、どちらへ?」「どこへ行こうとあたしの勝手じゃないか!」
どうもこの女優さんの演技は引っかかる。台詞回しも板に付いていないし、動きもぎこちない。失礼だが容貌も今ひとつである。
ただこの後のテレビ版オリジナルの展開はなかなかいいと思う。お市の行き先は町外れの小屋である。この小屋がなかなか味わい深い。茅葺きと瓦の屋根にうっすら雪が積もっている。手前には小さな木の橋がかかっていて、画面の奥は薄紫の煙がたなびいている。小屋といいさっきの橋といい、ロケ地で見つけた場所はどれもすばらしい。当時はまだこんな趣深い地があったのだ。なんだか羨ましい。
お市には恋人が居たというオリジナル設定。恋人は地元の親分の娘には似つかわしくない素朴な百姓の青年。雰囲気としては、祝福されそうにない感じである。お市は「太吉!」と呼んで、「夕方、八幡さまの境内で待ってるわね。」と約束する。
一方、唐木の助造の元には町の有力者たちが集まっている。忠七が三宅島から御赦免船で帰ってきて、こちらに向かっている。町に火をつけて皆殺しにするというのも、あながち噂だけではない……と戦々恐々。頼りになるのは、助造親分の身内たちだからと頼み込んで帰って行く。
この助造の女房がお仙。およそ一家の姐さんには見えない、上品な愁い顔。助造は娘のお市に、都合のいい縁談話があるのに、百姓の太吉に逢いに行っていることにイライラしている。母親であるお仙は、好き合っているんだから親は口出ししない方が……と、若い二人に理解を示す。しかし助造は許せない。子分によからぬことを命ずる。
太吉は、約束通りに八幡さまでお市が来るのを待っているが、あっけなく助造一家の身内に殺されてしまう。一足遅れてやって来たお市は、変わり果てた太吉に縋りついて、号泣する。そして見つけた置き手紙「忠七 みなごろし」……自分の父親の差し金であることに、気づくはずもなく、忠七に恨みを抱くというテレビ版オリジナルストーリーである。勝行さんの脚色は、原作を越えてよく考えられていると思う。
テレビ版での紋次郎は、薬売りの男と木賃宿の相部屋で泊まっている。木賃宿と掲げているが、布団や畳が見えるので、商人宿の類であろう。ここに先ほどの渡世人も遅れて、相部屋となる。原作では宿には泊まらず、二人は野宿で二晩一緒になる。同じ街道を往く二人の歩くスピードが、全く同じなのである。したがって、自然に道連れになってしまったのである。貫禄ある二人の渡世人が同じスピードで歩く映像を観たかった。
テレビ版ではこの薬売りが、問わず語りに忠七のことを話し始める。原作では、二人が立ち寄った煮売屋で同席した老農夫が忠七の話をする。18年前(原作では17年前)の唐木で起こった事件である。
居酒屋で土地の者と喧嘩をして、代官陣屋の十手持ちが殺されてしまった。十手持ちを殺したとなると、住民すべてがお咎めになる。町の有力者たちは慌てて大野屋吉兵衛のもとに集まって善後策を協議をした。大野屋は町一番の有力者で、その腰巾着に助造が出入りしてしていた。その結果、事件に関わらなかった人間を下手人として代官所に差し出そうと、大野屋が提案する。謂わば、その一人が人身御供となるのである。人選は大野屋に任せるということで、協議は終わる。そしてその罪を被せられたのが忠七なのである。
百姓の忠七は、大野屋吉兵衛の娘お仙と恋仲だったのだが、それを快く思っていなかった吉兵衛は、二人を引き裂くのに丁度良いと思ったからである。吉兵衛は助造たちを使って、罪のない忠七を捕まえ、代官所につき出した……というのである。その後吉兵衛は病死して、娘のお仙は助造に引き取られ姐さんと呼ばれる身、お市という娘もいるということで、この話は終わる。
大分省略されてはいるが、原作に書かれた骨子は述べられている。省略された部分とは、五両で忠七の両親や兄は、忠七が罪人になることを認めたということである。忠七の家はそこまで窮乏していたのである。忠七が十手持ちを殺したところを見たという証人は、助造とその子分が引き受けた。忠七が罪を認めたのは、親兄弟をはじめ唐木の住民全員がそれで納得していると、知らされたからである、と原作には書かれている。その時の忠七の落胆ぶりはいかほどだったろう。生まれ故郷の者だけでなく、肉親にまで見放され裏切られるとは……残酷である。忠七とお仙の悲恋は、お仙の娘のお市と農夫との悲恋に重なる。テレビ版オリジナルに脚本化されている訳である。
五両を手にした忠七の父親と兄は雷に打たれて死に、母は井戸に落ちて死ぬ。二人の妹は身売りをし、15年前から行方不明……忠七の家は一家離散している。大野屋吉兵衛はその後失火で家は全焼し一文無しとなり、その上暴れ馬に蹴られて死ぬ。忠七の祟りだと唐木では大騒ぎだったそうだ。このあたりを読むと、忠七が意趣返しをしなくても、十分な報復である。
テレビ版では、薬売りが話している間、紋次郎は繕い物をしている。遅れて宿に入った例の旅人は、荷物の始末をしながら、淡々とした表情で掴みどころがない。そんな辛酸をなめた忠七が、意趣返しに唐木に向かっているという噂にピリピリしているから、近寄らないほうがいいと薬売りは忠告するのである。
原作の忠七は話をする老農夫に質問したり、合いの手を入れたりしている。そしてテレビ版と決定的に違うのは、ニヤリと自嘲的に笑うところである。しかし、菅貫さんは笑わない。実に淡々としていて、諦観した表情である。
翌朝、薬売りは先に出立し、紋次郎と旅人は二人きりになる。ここで初めて二人の会話になる。「楊枝を咥えてなさるんで、もしかしたら紋次郎さんと……」という言葉から会話が始まる。紋次郎はそれを認めて名前を明かす。「娑婆に疎いもんで……」と謝る旅人に「おめえさん、生国はどちらで?」と紋次郎が訊く。ここで初めて、タイトルにある「生国」が出てくる。
旅人は脚絆を着けようとしていたが、正座をし直して答える。「失礼さんでござんすが、あっしには生国なんてものはねえもんだって、受け取ってやっておくんなせえ。」物腰や口調は実直で丁寧であるが、「生国なんてものはない」と言う返事は、複雑なものがある。生国を捨てたのか、生国からはじかれたのか、……哀しく虚しい響きがある。
紋次郎は旅人の左腕に、2本の入れ墨が入っていることに目を留める。
「おめえさん、三宅島での島割りは南ですかい、北ですかい?」旅人の動きが止まるが、無言。「あっしは神着ってとこを知っていやすよ。」「そうだったんですかい……あっしは南の端の坪田村ってとこに……。」
前シリーズの市川監督は、紋次郎が三宅島に流されたことにはしていない。新シリーズでは、紋次郎の腕に二本の入れ墨が入っていて、原作を踏襲している。原作での紋次郎は、旅人の腕の入れ墨は見ていない。
紋次郎が三宅島にいた期間は短いが、それなりの苦渋の日々であった。忠七は17年間も無実の罪で苛酷な島流し生活を強いられた。この二人の共通点は、無実の罪でということと、裏切られたということである。そして紋次郎は貧しさゆえ、両親に間引かれそうになったし、忠七はたった五両で家族に引導を渡された。この二人の境遇はよく似ており、自ずと似たもの同士に見えてしまう。
「じゃあ、おめえさんの名は忠七さんって受け取ってもよござんすかい。」「名前なんてぇは、どうつけようと大して変わりは致しやせん。忠七でも何でも結構でござんす。」否定しないということは、やはりこの旅人は忠七なのだ。
「伊那谷の唐木に寄ると聞きやしたが……」「紋次郎さん、ゆんべの話は忘れておくんなせえ。島帰りのおめえさんだったら察しがつくと思いやすが、島に18年もいると恨み心も憎しみも枯れ果ててしまうもんで……。今更唐木に乗り込んで意趣返しをしようなんて気は毛頭ござんせん。」
「だったら何の為に唐木に寄るんで?」
このときの答えが、謎となって最後まで尾を引くのである。忠七は「ただ命を見てぇ一心から唐木に立ち寄るだけのことなんで……。」と答えるのみ。「命」……全く意味がわからない。命とは誰かの命なのだろうか?
ここで頭をよぎるのは、「みちのくの母のいのちを一目見ん 一目みんとぞただにいそげる」病に伏せる母の元へ駆けつけようとする、斎藤茂吉の有名な短歌である。誰かの命が、風前の灯火なのだろうか、と思ってしまう。
自分の生まれ故郷に恨みを持って、意趣返しをしようとするストーリーは、今までに何回かあった。「峠に哭いた甲州路」「女人講の闇を裂く」「砕けた波に影一つ」 等々……。今回もその類かもしれない。忠七は意趣返しは考えていないと言ってはいるが、油断をさせておいて豹変するかも……と思ってしまうのは、菅貫さんの「十六夜小僧」役があるからである。善人のふりをして、実は……というドンデン返しがあったからである。
しかし、菅貫さんの演技は実に巧い。渡世人言葉の台詞回しも板に付いているし、声色も渋い。抑揚がなく、感情が死んでいる。
テレビ版は時間的に制約があるので仕方がないが、紋次郎と忠七が共有する時間をもっと長くして欲しかった。原作では舟小屋で共に野宿をしている。ここで互いの名前を明かす。忠七は、他人さまのことに関わりたくないのは、生きるための知恵であって、薄情なようだが頼み事には一切耳を貸さないのだと持論を語る。全く紋次郎と同じ考えである。紋次郎も、同じ考えの無宿者はこの世に数限りなくいるだろうと、同調する。
そして、忠七は唐木に寄るのは「命」を見たいだけで、他意はないと答える。眠りにつく直前、紋次郎は忠七が引き寄せる長脇差の頑丈な造りを目にする。武器として、かなり存在感のある長脇差……クライマックスへの布石でもある。
舟小屋を二人は午前4時に出立する。まだ暗い中を二人は歩く。
「人気のない街道を、二人は北へ向かった。速度が同じなので、紋次郎と忠七は肩を並べて歩くことになる。二人の渡世人が足を揃えて疾風の如くに歩いて行く姿は、端目にも緊張感を強いられるような凄みがあった。」
このツーショットを頭に思い浮かべるだけでも、鳥肌が立つ思いである。やはり、映像化してほしかった。
二人はお互い、道連れを拒む同士でありながら道連れになる。紋次郎が道連れを作ったのは、これが初めて……と原作にある。こちらが望まないのに、相手が一方的についてきたり、結果的に連れ立つことになったことはあるが、紋次郎が拒まず黙認した相手というのは、忠七が初めてだということになる。「この忠七に対しては、どうもいつもの紋次郎とは違うようだった」とも原作にあるが、これを親近感というのだろうか。もしそうだとしたら、これは全く希有なことである。心が通じ合うというより、波長が合うといった方がいいのかもしれない。この後二人は揃って煮売屋に入り、飯を無言で腹に流し込む。その食し方も同じである。そしてここで、前述した老農夫が忠七の話を聞かせるのである。
二人は野宿での二泊目を、薬師堂で迎える。紋次郎は豆餅を、忠七は干魚をそれぞれ焚火に焙って食べる。ここでも忠七は、道連れになった奇遇を口にする。紋次郎は「道連れにしてもお荷物にはならねえ相手だと、互いにわかっているからでしょうよ」と答える。そして「あっしは未だに、おめえさんの胸のうちが読み取れやせんが……」と続ける。
本当に、今回の原作での紋次郎は雄弁である。縁もゆかりもない忠七が、唐木に立ち寄る理由である「命を見る」ことに、珍しくこだわっている。これは判じ物を解きたい、という軽い好奇心ではない。忠七に紋次郎は自分を重ねている。
自分と同じような境遇である忠七が、一体何のために自分の生国である唐木に、立ち寄ろうとしているのか。紋次郎も以前、生国である三日月村に立ち寄ったことがある。しかしそれは、無目的でありただの通過点であった。他の村と比べて、特別な感情もなかった。
そんな紋次郎にとって、敢えて災難が待ち受けている生国に立ち寄るという忠七の思惑が、計り知れないのである。何がそこまで忠七を動かすのか。そしてこのままで行くと、忠七の件に関わってしまうのは火を見るより明らかなのに、紋次郎も唐木に足を向けるのである。
さてテレビ版では、オリジナルストーリーであるお市の仇討ちが絡んでくる。お市は家を勝手に飛び出して、太吉を殺した忠七を捜している。お市は葦原の先に歩く渡世人の姿を認め、匕首を手に襲いかかる。しかし相手は紋次郎。軽くあしらわれてしまう。紋次郎から自分は忠七ではないし、忠七が太吉を殺したのではない、と言われ傲然とするお市。その様子をこっそり見ていた助造の子分たち。
助造は子分から話を聞き、紋次郎が忠七の助っ人になったのではと疑い、村人に警護を強めるようにと使いを走らせる。恋人の太吉を殺され、沈み込んでいるお市の元に、母親であるお仙がそっと寄り添う。太吉を殺したのは忠七ではないし、18年前の人殺しも忠七は無実だとお市に話す。そして娘にまで、自分と同じ運命であることを嘆く。
忠七は、村はずれの冬枯れの田圃道を一人歩く。原作とは違い、単独行動である。雪がちらつき冷たい風が吹いている。荒涼とした雰囲気はまさに紋次郎ワールド。一人の老農夫が、忠七を見つけて声をかける。この農夫も忠七が、意趣返しに帰ってきたと勘違いしている。忠七は何の恨みも持っていない、ただ「命」を見たいだけだ……と答える。「それなら余計に唐木に近寄らない方がいい。みんな頭から忠七が仕返しに来ると思って構えている。無事には済まない……」と必死に止めるが、忠七は「承知の上でござんす。御免なすって。」と前に進む。
例の橋の上には唐木の住民たちがバリケードを築いて、忠七の襲撃に備えている。鎌を持つ者、竹槍を手にする者など、緊迫した様子である。忠七はそれを見て、山の急斜面を登っていく。それを見ていた薪拾いに来ていた男が、助造の元に報告に行く。「八幡さまのほうへ、向かっておりますだ。」助造たちは八幡神社に向かう。
原作では紋次郎と忠七が連れ立って歩いている。行く手に現れたのは、元名主の伊左衛門と若い雇い人。伊左衛門は恨みを晴らすなら、自分を斬れ、だから唐木の町の衆には手を出さないでくれ、と小判を十枚ほど見せる。忠七は町の衆にも親にもお仙にも、恨みはない、ただ「命」を見たいだけだと言って伊左衛門を押しのけて進む。進む伊那谷の田園風景は、テレビ版と違ってのどかで美しい。梨の花、山吹の花、藤の花が咲いている、とある。この穏やかな田舎町で、この後血なまぐさい修羅場が……ギャップが大きい。
原作では、忠七たちを待ちかまえる先鋒はお市である。初めての登場である。「色白で町娘らしい装いだが、可愛い顔がいかにもきつそうであった。鉄火肌の娘という感じで、敵意をむき出しにした目つきである。」
そのお市の敵意というのは、「自分の父母に対して手出ししたら承知しない」という単純なものである。ここでも忠七は、長脇差は抜かない、唐木には小半時も留まらない、唐木の八幡さまに寄って命を見たいだけだと、お市に繰り返す。お市にとっても「命」の意味はわからないが、「話して聞かせるだけの義理はない。」と忠七は打ち明けない。
忠七にとって目の前にいるお市は、昔惚れていたお仙の娘であるのだが、全く感慨はなさそうである。普通なら、自分に関わりがないとしても、しげしげと見たりお仙の面影を探したりするものだろうが、その記述は全く見当たらない。やはり、昔のことにはこだわっていないのだろうか。恨み心だけでなく、感情そのものも三宅島に置いてきてしまったのだろうか。忠七の心も昔に死んでいるのだ。しかし、「命」だけは見たい……忠七の感情は、その一点だけなのである。
原作では、忠七と紋次郎が肩を並べて歩く後ろにお市と若い者五人がついていく。唐木八幡社の鳥居の前に土地の渡世人が四人、そして助造とお仙が忠七たちを待ちかまえる。忠七は助造に小腰を屈めてあいさつをする。
「これはこれはお仙さん、いや姐さんも、お久しゅうござんす」忠七は、助造の背後の女に笑顔を向けた。忠七の笑いも言葉も決して嫌味なものではなかったが、女は慌てて助造の蔭に隠れるようにして目を伏せていた。(原作より抜粋)
笑顔でお仙に挨拶ができるほど、忠七の心にはわだかまりがない。傍にいるのが紋次郎とわかると、助造たちは浮き足立つ。緊迫した中、忠七は構わず神殿に近づく。「ここにおめえさんが見てえという命があるんですかい」と訊く紋次郎に「へい」と忠七は答えてニヤリとする。そこへお仙が追ってきて、何かを言いたそうにするが、目を伏せる。忠七は「まあ、いいってことよ。お仙さんは、あっちにいてくんねえな」と言って少し荒っぽく押しやったが、その拍子にお仙は足を滑らせて転倒する。それに逆上したのは、意外にもお市だった。背を向けて神殿に近づく忠七目がけて身体ごとぶつかる。両手には長脇差が握られていた。
テレビ版では、忠七はひとりで八幡宮にやって来る。ロケ地は、最初のシーンは鳥居本八幡宮である。しかし立ち回りをするシーンは、どうも別の神社のようである。明らかに鳥居本八幡宮より、新しく大きなお社である。またじっくり考察したいと思う。
忠七は社の裏から石段を下りて、助造たちと出合う。「もう、あっしの用は済みやした。」と口にしているところを見ると、「命」を見終わったようである。忠七は助造に意趣返しに来たのではなく、命を見るために立ち寄っただけ、もう二度と三州街道には足を向けないので見逃してほしいと静かに言うが、助造は取り合わない。忠七が生きている限り、唐木の町の者は安心して眠れない、死んでもらうぜという言葉と同時に、子分たちが一斉に抜刀して襲いかかる。
忠七は石段を駆け上がり、建物の蔭に回り込むが、突然背後からお市に匕首で刺される。うめき声と共に後ろを振り返ったときの菅貫さんの目の演技は迫真に迫っている。刺した相手を確かめる見開いた目に、光が反射している。カメラワーク、照明と、計算された映像作りである。
「太吉の仇だ!」とお市が叫ぶ。血が付いた切っ先をかざしながら、お市は忠七と対峙する。カメラはお市と忠七の動きと共に、背後からゆっくりターンする。ここも見事。「いってえ、何の真似なんだよ。」「仇だよ!太吉の仇を討つんだよ!」
原作では、母親を押しやって転ばせた……という些細なことに逆上してお市は忠七を刺す。これはあまりにも短絡的すぎて、釈然としなかったが、テレビ版の展開なら必然性があるし頷ける。
お市は再度金切り声を上げて忠七に向かっていく。忠七はかろうじて攻撃を避ける。「てめえたち、まだわかんねのかい。」と腰の長脇差を鞘ごと抜いて、無造作に投げ落とす忠七。子分が拾い上げて確かめると、何とそれは竹光だった。原作では、最強の武器と思われた大刀にも似た長脇差は、木刀であった。どちらも意外な展開であるが、原作のほうが驚きが大きい。
渡世人が、人を斬れない竹光や木刀を腰にしているとは、普通考えられないだろう。それも、相当貫禄のある渡世人であるにもかかわらずである。竹光を腰にしていたと言えば、「雷神が二度吼えた」での堀田又兵衛。武士でありながら又兵衛は、自分が臆病者であるが故に竹光を差していた。
「恨み心も枯れ果てて、人を斬る気にもならねえ者に、刃物なんぞは要らねえのさ。十七年も地獄で暮らしていりゃあ、おめえたちみてえな生臭い心はなくなるぜ」原作での忠七の言い分である。私は、地獄のような島での生活もさることながら、赦免され上陸してからの半年は、どんな生活だったのだろうかと想像する。無宿者で島帰りの身となれば、渡世人としてしか、生きていけないだろう。しかし、たったの半年で、渡世人としての立ち居振る舞いが身につき、貫禄が滲み出るようになるのだろうか、とちょっと疑問。この世の地獄を経験した者は、娑婆での出来事など取るに足らないぐらいに思える程、肝が据わっているのだろう。
一つ目のドンデン返しは忠七の長脇差だが、クライマックスのドンデン返しはお仙の口から発せられる。「お待ち!そのお人は、お前のおとっつぁんなんだよ!」いい加減なことを……と忠七は、痛みをこらえて言う。「本当なんだよ、忠七さん。十八年前、忠七さんがお召捕りになる前の晩に、あとにも先にもただ一度だけ、肌で契りを交わしたじゃないか。そのときのお前さんのタネを宿して、生まれたのがこのお市なんだよ。今日までこのことは、誰にも打ち明けなかったけど……」
驚きの展開である。テレビ版ではこのあとすぐに助造が、「今までだましやがって!」とお仙を荒々しく引き寄せると、長脇差を胸に突き立てる。柱に縋りついて崩れ落ちるお仙に、お市は取り縋る。原作では忠七が見たかった「命」とは何だったのかが明らかになり、忠七が事切れたあと、お仙が殺されるのだが、テレビ版では若干順番を変えてある。原作の紋次郎は、お仙の死骸に助造が唾を吐きかけたのと同時に助造に体当たりをして、長脇差で何度も突き刺す。
「紋次郎が、忠七さんの意趣返しを致しやす。容赦はしねえから、そのつもりでいておくんなはい」表情のない顔で、紋次郎は周囲の男たちを見回した。
紋次郎は傍にいながら、お仙を救えなかったのだろうか、とちょっとくやしい。お仙だけでも生きていれば浮かばれるだろうが、そこがやはり紋次郎ワールドである。このあとの紋次郎の暴れっぷりは、ハンパではない。戦意喪失の者であろうと、手を合わせて助けを乞う者でさえ容赦はしなかった。かなりのハードバイオレンスである。
テレビ版では、助造が「忠七、てめえも死にやがれ!」と抜き身の長脇差を振るう直前に、紋次郎が姿を現す。「待ってました!紋次郎!」と言った感じである。
「紋次郎、てめえやっぱり忠七の助っ人だったんだな。」「あっしは、命を見ようと思っただけでござんすよ。」「命?」「忠七さんの言っていた命ってものを拝見しようと思いやしてね。」「訳のわからねえことをほざくんじゃねえやい!」「そうですかい。じゃあ、あっしが忠七さんの意趣返しをさせてもらいやすぜ。容赦しねえからそのつもりでいておくんなはい。」
その後の殺陣はスピーディーである。逆手に持った長脇差で、次々に敵を斃す。神社の社殿裏の狭い空間での殺陣なので、転がったり走り回ったりはないが、斬られる者との息が合っていないと難しそうである。容赦しないと言ってから助造が斬られ、紋次郎が長脇差を鞘に収めるまでの時間1分18秒。数値以上に早く終わってしまった印象を受ける。
「紋次郎さん」と忠七は呼び止める。「唐木の町の衆に売られたこのあっしが、今度は実の娘に殺されるとは島も地獄ならここも地獄にござんすよ。」「忠七さん、おめえさんが死ぬのも覚悟の上で見たがっていた命ってぇのは、一体どこのあるんですかい?」忠七は痛みにうめきながら、「この柱に刻み込んでおりやす。」と答える。「こんなものが見たくってこの唐木くんだりまで来たのかと、どうぞ笑ってやっておくんなせえ。」
紋次郎の視線の先にあるのは神殿の柱に刻まれた文字だった。
「ちゅうしちさん いのち おせん」
なんと、忠七が言っていた「命」とは、柱に刻まれた文字だったのだ。なるほど、「いのち」と彫ってある。今でもよく観光地に行くと、恋人たちの名前が彫られているが、まさか……の展開である。しかし、映像でそれを見た途端「えっ?!」と思ったのは、その刻まれた文字があまりに達筆で美しく、新しい(笑)ことだ。まるでプロの彫刻家と思うほどの腕の良さである。それも相当大きい。ああいうものは、目立たないようにひっそり書くべきである(笑)。出来ればもっと稚拙に彫られたものであってほしかった。
お仙が、忠七との愛を誓った証の文字には、二人が幸せに暮らしていた思い出が凝縮されている。渡世人が自分の命を守るために必要な長脇差を持たなかった時点で、忠七はいつ死んでもいいと思っていた。しかし、どこかで野垂れ死ぬ前に、どうしても見ておきたかったのだ。自分が生きていた証を、この目で確かめたかったのだろう。お仙に逢いたいというのではなく、自分さがしをしていたともいえる。しかし皮肉にも、生きていた証だった実の娘に命を奪われるとは、なんて因果な結末だろうか。
島から生きて帰れないと思っていたのが、図らずも御赦免で地獄から帰ってきた。しかし、この生まれ故郷も地獄と変わりがなかった。「紋次郎さん、問われるままになっているあっしの生国を申し上げやしょう……。」ここからの菅貫さんの演技が胸を打つ。
死相が現れて焦点も定まっていない表情で、顎紐を力なくほどいて三度笠をパラリと落とす。最後の力を振り絞ってヨロヨロと立ち上がる。腰を屈めて仁義をきる姿勢で、声を張り上げる。「手前生国は、地獄にござんす……地獄にござんす……」1回目は紋次郎に向かって、2回目の弱々しい声は自分に言い聞かせるかのように。そしてパタリと前のめりに倒れて動かなくなる。
初めから最後まで、主役は菅貫さんの忠七だった。終始ニコリともしない、虚無的な表情で演じた菅貫さんの忠七は、原作よりも悲哀がこもっていた。紋次郎は静かに忠七に視線を落とし、背を向けて去ろうとする。その背後から、お市の泣き叫ぶ声。「殺して!私も殺して!」
紋次郎は足を留め振り返って、楊枝を柱に飛ばす。楊枝は刻まれた「いのち」の「の」の横に突き刺さる。「ちゅうしち いち おせん」と読み取れた。刻まれた文字に、楊枝を飛ばしたことは「無縁仏に明日を見た」でもあった。あの時は2本の楊枝が飛んだが今回は1本。原作では、助造や身内までを殺した紋次郎を罵るお市に、「あっしには、言い訳なんぞござんせんよ」といつもの台詞が書かれているが、テレビ版はなし。なくて良かった。
エンディングのナレーションで「紋次郎が他人の意趣返しをやったのは、初めてであった。」とある。今までは降りかかった火の粉を払ってきた紋次郎であったが、今回は自分の意志で他人のために長脇差を振るったことになる。忠七を殺したのはお市だが、お市は突発的であって、実際は助造たちが忠七を殺そうと待ちかまえていたわけである。従って、忠七の仇討ちの相手であると言ってもいい。今回の紋次郎は、忠七に今までになく関わりすぎた。忠七が見たかったという「命」にも、興味を持った。他人のことに興味を持つという紋次郎は珍しい。
紋次郎は忠七の、愚直なまでの純粋さに惹かれたのである。しかし、恨みも憎しみも欲もない忠七が、なんで理不尽にも殺されてしまうのか。この理不尽さや、子が親を殺すという抗えない因果に怒っている。それを「忠七の意趣返し」に置き換え、容赦なく怒りの長脇差を振るった。
初めて道連れとなった忠七……せめてあの世だけは、極楽への道を歩いていてほしい。 

 

●第26話 「お百度に心で詫びた紋次郎」
とうとうシリーズも最終回となった。
原作の出だしは「雪」を印象的に表している。「雪が降る。」「雪が舞う。」「雪の街道に、人影はない。」「雪は荒れ狂う。」「雪が赤く染まる。」「雪の中に、提燈が浮かび上がる。」
簡潔な描写の中に、ドラマチックな始まりがある。一人の渡世人が、深手を負いながら敵に追われ、息も絶え絶えに身を潜める。原作は松の木の根元に倒れる渡世人だが、テレビ版では岩陰であり、雪は申し訳程度にうっすらとしか見えない。
「大丈夫ですかい?」と声をかけるのが紋次郎である。倒れ込んだ渡世人は、顔を上げる気力もないくらい疲れ切っているが、喋り始める。「追っ手は間々田の六右衛門一家。六右衛門は野州で二番目の大親分で、大前田栄五郎が後ろ盾に控えている。六右衛門は執念深く、歯向かった者を容赦なく追いつめる男である。関わり合いを持つと、生きちゃいられなくなるから、ここから離れた方がいい。」と忠告する。男は武州無宿、「小津川の定吉」と名乗る。紋次郎もそれを聞いて、自分の名を告げる。定吉は相手が噂に高い木枯し紋次郎と聞いて、「地獄で仏」と喜ぶ。しかし紋次郎は、「何の役にも、立たねえでしょうよ。」とすげない態度で立ち去ろうとする。
そんな紋次郎がその後、定吉の話を聞こうとしたのは、「あてのない旅にケリをつけて、一つところに落ち着きたいと思ったことはないかい?」と尋ねられたからである。紋次郎は本音を言う。「ねえと言ったら、嘘になりやしょう。」紋次郎は、旅に疲れているという設定か。昨日も明日もない、あてのない旅に終止符を打ちたいと、紋次郎が考えているとは……。意外ではあるが、以前もそれらしきことは何回かあった。
「一里塚……」では加代の清純さに触れ、「もしも自分が堅気であって加代のような妹がいたら、と紋次郎は漠然とした想像に捉われていた。」とある。「女人講……」ではお筆が住む宿場外れを歩きながら、土地の人々と共に寄り合いに加わっている自分を想像したりもしている。また「年に一度の……」では、「もうそろそろ、流れ旅に終止符を打つときが訪れても、いいのではないか。」と、弱音を吐きかけたりしている。原作での展開ではないが、テレビ版の「人斬りに……」では、お香に言い寄られている。そして極めつけは、「旅立ちは三日後に」での紋次郎。「許されるなら、異存はない。」とまで、お澄に返答する。しかしいずれも叶わぬ夢となり、紋次郎はまた草鞋を履くのである。
定吉は紋次郎の本音を聞いて、「そうと聞いて、安心したぜ。木枯し紋次郎も、おれたちと変わらねえ人の子だ。」と言って話を続ける。自分も八年の長旅に疲れて果て、落ち着く先も決まっていたが、六右衛門一家とのいざこざで、それも叶わないようだ。その落ち着く先だった房州館山の南にある那古へ足を伸ばして伝言を……と紋次郎に頼む。
「折角のお招きではござんしたが、どうやら遅すぎたようでござんす。小津川の定吉、日光道中は野木の宿はずれで二十八年の生涯を閉じやした。」という口上だった。那古村の清兵衛にその口上を述べてほしい……原作ではその昔、那古の清兵衛は関八州では名の知れた人物だったとも付け加える。テレビ版では、その部分は伏せてあるが、清兵衛が堅気ではなかったという意味である。
テレビ版も原作も、紋次郎は引き受け動き始める。その行く手を阻んだのが、六右衛門一家に草鞋を脱いだ「熊川の勘八」である。いわゆる一宿一飯の仁義という訳である。一家に客人として草鞋を脱いだ者は、渡世の義理として、その親分の命令には従わなければならない。
熊川の勘八は六右衛門の命令で、賭場でいざこざを起こした定吉を追って一家の者と一緒にここまで来たのである。勘八は定吉とは面識がないので、紋次郎を定吉と間違え長脇差を抜く。紋次郎は人違いだと教えたが、結局降りかかる火の粉という形で、勘八を殺してしまう。この時点で、紋次郎の運命は変わってしまった。
紋次郎は房州に向かう。テレビ版では、ただ街道を急ぐ姿だけであるが、原作を読むとかなりの行程であることがわかる。野木から境町まで、徹夜で走り続けた距離は十里半、約42q。フルマラソンの距離である。おまけに雪の中である。いつも思うのだが、草鞋履きで雪道が進めるのだろうか。雪の足元の装備については、原作でも言及されていないのでわからない。
その後舟を乗り継ぎ江戸川を下り、野州から房州へと急ぐ。紋次郎が房州まで足を伸ばすことは珍しい。「背を陽に向けた房州路」(小仏の新三郎 翻案)と「海鳴りに運命を聞いた」ぐらいだろうか。房州は、渡世人にはあまり縁のない土地柄だったとある。
人との関わりを拒む紋次郎が、頼みを聞くパターンとして「今際の際の頼み」というのがある。今回はそれにあたるのだが、原作にはその心情が詳しく書かれている。
「小津川の定吉の気持が、他人事のようには思えなかったからである。当てのない旅にケリをつけて、一つところに落着きたい。それは、流れ旅を続けている渡世人たちの、共通した願望なのだ。〜(中略)〜小津川の定吉は、八年間の流れ旅で疲れ果てたと言っていた。その上、腰を落着けるところまで、決まっていたというのである。定吉は、好運だったのだ。紋次郎は八年の倍も流れ旅を続けているが、未だにケリをつけるなど夢のまた夢であった。しかし、小津川の定吉は折角の機会を、ふいにしてしまったのである。その口惜しさ、もったいなさが、紋次郎には他人事と思えなかったのだ。それで定吉の頼みを、あっさりと引き受けたのであった。」
紋次郎は八年の倍も流れ旅……とあるが、十歳から数えると倍どころか3倍になるはずだが……。他人との関わりは持たないという哲学で生きてきた紋次郎が、定吉のことを他人事と思えないとは……。そう言えば、渡世の世界から足を洗おうとする者を、紋次郎は今まで大事にしてきた。
第1シーズン「童唄……」では、子分にしてくれと頼む若者の横っ面を殴りつけ、親兄弟のところへ帰れと諭している。第2シーズン「木っ端が……」での三下の伝八は、最後に足を洗う決心をする。新シリーズでの「雷神……」では、堅気に戻ろうと郷里に向かう亀吉と同行し、結果的には亀吉の意趣返しをする。テレビ版だけのオリジナルの部分もあるが、紋次郎は渡世人としての生き方は、敢えてするものではないと考えている。    
テレビ版での紋次郎の歩く姿は、比較的のんびりモード。原作のような必死さはあまり感じられない。その後、間々田の六右衛門が子分に指図をしているシーン。「近頃、大前田栄五郎の采配に逆らう不届き者が増えてきた。この際そいつらを始末しろというのが大前田の小父貴の指図だ。各地に散らばっている、裏切り者から血祭りに上げることにする。」と子分たちに命じる。この展開はテレビ版のオリジナルである。六右衛門一家が、那古に乗り込んで来る理由が原作とは違うのである。
場面が切り替わり、紋次郎が歩く姿……那古村ののどかな田園風景、広がる青空、長い木製の橋を渡る。打ち寄せる波が穏やかな砂浜で、砂山を作って遊んでいる女の子に紋次郎は声をかけられる。人なつこく声をかける子どもに、原作の紋次郎は戸惑っている。那古村の村人は、見知らぬ渡世人に対しても知らん顔で、逃げる気配もない。今までは、警戒したり逃げ出したりする土地ばかりだっただけに、紋次郎はこの村を「別天地」だと思う。
「おいちゃん、どこへ行くんだい」と声をかけた女の子は五歳くらいで名前は「お弓」。清兵衛の家を尋ねると、紋次郎のことを「定吉だろう?」と言う。この子は清兵衛に縁のある子らしい。子役の女の子は利発そうな目をした子で、五歳にしてはしっかりしすぎている。紋次郎は自分は定吉ではなく、定吉に頼まれて来たと言うと、お弓は「じいちゃまに訊いて来る」と言って駆け出す。その後を歩く紋次郎は、神社の石段を登っていく女の姿をチラリと見る。
お弓が案内した清兵衛の家は、立派な構えである。お弓は清兵衛の孫娘だった。原作では茅葺きの百姓家で、中二階まであると記述されているが、テレビ版では瓦葺きで立派な長屋門がある。茅葺きの大きな屋敷は、なかなか当時のロケ地でも見つからなかったのかもしれない。
清兵衛役には「水島道太郎」さん。ヤクザ映画では悪役での出演が多かったが、さすがの貫禄。ただ者ではないという清兵衛役には、うってつけである。
紋次郎は清兵衛に、定吉からの口上を述べる。原作では三度笠をはずし、道中合羽と振分け荷物も地面に置いて一礼しているが、テレビ版では三度笠姿そのままである。作法上、どうなのかなあと思ったが、テレビ版ではまだ清兵衛の地所には足を踏み入れていないので、それでいいのか、と思ったりする。
腰を屈めて口上を述べる紋次郎。いつ聞いても敦夫さんの声はいい。聞き惚れてしまう。「ええっ?」清兵衛は驚き、顔を曇らせる。紋次郎はそのまま立ち去ろうとするが、結局引き留められ屋敷に招かれる。「おいちゃん、どうぞ、どうぞ!」お弓が紋次郎の道中合羽をを引っ張るのである。お弓を見下ろす、紋次郎の眼差しが柔らかい。紋次郎は子どもには弱いのである。
「おっかあ!」とお弓が呼ぶ先には、神社の石段で見かけた女……お弓の母親、清兵衛の娘の「お久」である。お久役に「中島葵」さん。原作では二十三、四歳とあるが、十歳は年上という設定であろう。控え目で薄幸な感じのする女優さんである。ネットで調べてみると45歳で早世されている。有島武郎の孫ともあり、認知はされていないが父は俳優、森雅之氏。
原作では、お久の容貌についてかなり詳しく魅力的に書いてある。「色は浅黒いが、横顔が整った女が恥じ入るように目をそむけて、井戸端へ釜を運んで行ったのである。女っぽいふくらはぎが紋次郎の目に触れた。」ふくらはぎに紋次郎は目を奪われたわけではないだろうが、意味深な出だしである。
「歳は二十三、四あろう。女っぽさを秘めながら、女っぽさが匂うような年増であった。色が浅黒いのは当然だろうが、顔立ちが実に美しかった。もちろん色気など表面に出すはずもないが、目や鼻が可愛いせいか、内気で控え目なりに女を感じさせる。唇も形がよくて、可憐であった。無口で甲斐甲斐しく働く女である。ひどく恥ずかしがり屋なのか、女房というよりも娘みたいであった。」
結構笹沢さん好みの女性像に仕上がっている。
清兵衛の団らんの場に紋次郎も坐る。囲炉裏を囲んでの食事である。清兵衛、お久、お弓、そして下男の姫太郎。この姫太郎は元渡世人で、足を洗ってここで堅気になっている。本来ならこの場に定吉もいたはずなのであるが……。穏やかな時間が流れる。紋次郎もいつもの「紋次郎食い」ではない。正しい作法で、ゆったりと味わっている。姫太郎は昔を思い出して、しみじみと語る。「ここは極楽だ。今夜の野宿する場所、明日の路銀、枯れ草の落ちる音にもびくついて……。あのまま渡世人でいたら、今頃はもう、拾ってくれる者もいない骨になっていただろう。」
テレビ版では、清兵衛の出自が明かされていない。裕福な堅気の大百姓で、流れ旅を続ける渡世人の世話をして堅気として住まわせている。これが生き甲斐だとも言う。しかし原作では、「那古の清兵衛」として名の知られた元渡世人で、姫太郎はいわば子分だったのである。三年前に清兵衛は足を洗い、姫太郎と一緒に生まれ故郷の那古に帰ってきたとある。その那古村に、間々田の六右衛門の身内衆が向かっている。不穏な動きである。
食事の合間に珍しく、紋次郎の方からお久に声をかける。「ここへ来る途中、八幡さまの境内でお久さんをお見かけしやした。」「おっかあはね、毎日お百度を踏んでいるの。どうぞちゃんが生きていますようにって、拝んでるんだってさ。」答えたのはお弓だった。清兵衛の話から、お久の亭主も長い間旅の草鞋を履いていて、帰ってくる当てもないらしい。
この後テレビ版では、紋次郎の入浴シーン。風呂が沸かせるほど、裕福な家らしい。お久は釜戸に火をくべながら、紋次郎に話しかける。原作のお久はひどく内気で、まともに紋次郎の顔も見られないような女であるが、テレビ版では紋次郎とよく会話をしている。お久だけではなく、紋次郎自身も今回はよく喋っている。セリフが多い方の作品ではないだろうか。お久は紋次郎に、流れ旅というのは本当に楽しくも何ともないのかと尋ねる。紋次郎は、死ぬか生きるかの瀬戸際が毎日だと答える。
「それなのにどうして、旅に出たがるんでしょうねえ。」自分の亭主のことを言っている。「生まれた土地がどんなにいいかということに、気づかねえからでござんしょう。」
「紋次郎さんもそうだったんですか。」「あっしには、生まれた土地なんてござんせんよ。」と、話を打ち切り「まあ、そのうちきっと帰って来なさる。」と紋次郎はお久を慰める。
生まれ故郷をあとにして旅に出る者には、様々な背景がある。故郷を追われて出奔した者もいるだろうし、男を磨くという目的で敢えて旅に出る者もいるだろう。帰るべき故郷があるのに、また、帰りを待つ者がいるのに、敢えて旅に出る者について紋次郎は語っている。
この入浴はテレビ版だけで、この後お弓が着替えの着物を持ってくる。「着古しで申し訳ありません。よろしければ……」と実に丁寧な言い回し……清兵衛から言付かったのだろう。無宿の渡世人である紋次郎が、こんな丁寧な言葉をかけられたのは初めてはないだろうか。
夜、お弓が寝入った後、紋次郎は清兵衛と囲炉裏を囲んで酒を酌み交わす。「えーっ?!酒を飲むんですか!」であるが、ここは「新……」ワールドだった。板の間が黒く光り、磨き込まれた重厚感がある。行燈の明かりもほのかに配置され、しっとりしたと静かな夜の様子を醸し出している。
清兵衛が、ここへ来るはずだった小津川の定吉との経緯を話す。成田不動に参りに行ったとき定吉と知り合い、定吉が流れ旅にケリをつけたいと言うので、自分のところへ来ないかと誘ったという。気っ風のいい男で、自分の若い頃を見るような思いだったと、定吉への親近感を明かす。
ここで紋次郎は、定吉の頼みを聞いたときの自分の思いを口にする。原作では胸の内だけが書かれているが、テレビ版では清兵衛に問われてはいないのに、静かに話し始める。それは視聴者にとっては、定吉のことではなく、まさに紋次郎自身のことを吐露しているように聞こえるのだ。今回の紋次郎はいつになく情が深く、定吉が言ったとおり「人の子」である。しみじみとした雰囲気で見せる紋次郎の横顔は、穏やかで余裕がありまるで別人のようである。ファンとしても別人格の紋次郎を見る思いである。
この席でお久がポツリと言う。「紋次郎さんに、ここに落ち着いてもらえばいいのに……」この言葉に紋次郎は、ハッとお久の方に顔を向ける。清兵衛も勧めるが、紋次郎はやんわりと断る。「へえ、そうしてぇのは山々でござんすが、落としても落としきれねぇ、垢やシミがいっぺぇの身体なんで……」紋次郎は目を落とし、盃を手に取りグッと飲み干す。
その後、スローモーションで映し出されるのは、敵と戦う紋次郎のイメージ映像。敵に刺されて苦痛の表情の紋次郎……うなされて目覚める……悪夢を見ていたようである。敵に刺される悪夢といえば、第一シーズン「無縁仏……」の不気味な映像が印象に残っている。「死」をいつも身近に感じ、死ぬときがくれば黙って死ぬだけ……とは思っていても、やはり「死」に対する恐怖心が夢という形で現れる。それが本能というものであろう。ハッして上半身を起こす紋次郎だが、どうも長脇差を抱いて寝てはいなかったようである。それも夜はとっくに明けている。久しぶりに口にした前夜の酒のせいか(笑)……大丈夫か、紋次郎。
今までであれば、翌日には出立しているだろうが、今回は誘いを固辞することもなく逗留する紋次郎である。そのあたりの経緯が原作にもテレビ版にもなく、次のシーンでは既に数日が過ぎている。
原作では那古に来て三日目の朝に、紋次郎は野良着を着て畑仕事をする。紋次郎は慣れない手つきで鍬を振るっている。長脇差は、意のままに扱えるのに、鍬はそうはいかないようである。那古村は温暖な土地ということで、のどかで明るい陽差しが降り注ぐ。ここでは、持ってきている長脇差が場違いのようである。
「心が休まる。小津川の定吉の代わりに、ここに腰を落着けようか。疲れている。もう流れ旅には、終止符を打ちたい。この機を逃がしたら、もう二度と落着けるときは訪れないだろう。この那古にいれば、世捨人にもなりきれるかもしれない。」
いつになく弱気になっている紋次郎には、渡世人としての凄みは感じられない。そんな紋次郎に、軽い失望感を覚える。
原作では、渡世人が足を洗ってどこかの土地に落ち着くことの難しさと、その条件が書かれている。
1.過去との絆を断ち切るため、世間一般から隔絶された土地であること
2.その土地に住む人々から白眼視されたり、迫害を受けないこと
3.その土地で人に頼らず自活できること
それらがクリアできる場所は滅多にないのだが、この那古はそれに当てはまる希有な土地なのだ。房州に渡世人は用がない……親分がいないし遊興の場もないので、過去のしがらみからは影響を受けない。従って、那古の人々は渡世人という者をあまり知らない。外海に面しているので、難破船や漂流する者を助けたりし、他所者に対しては鷹揚であるので、渡世人を毛嫌いすることはない。そして那古には、食べていける手段がある。畑があり海があり、人手不足ですらあるのだ。こんなに条件が揃った土地に縁ができたのは、紋次郎にとって初めてであろう。
原作のお弓はケラケラと笑う。紋次郎の、ぎこちない鍬さばきがおかしいらしい。テレビ版での紋次郎は漁に使う網の繕いをしている。その様子をお弓が眺めて、「下手くそだねえ、おいちゃん。」と評する。「あっ!じいちゃまもあれとおんなじの、持ってたよ。」紋次郎の傍らに立てかけられた長脇差を指さして、お弓が言う。紋次郎はハッとして、「清兵衛さんがかい?」と思わず訊く。「姫太郎おじちゃんも持ってたよ。でも今は持ってないの。捨てちゃったの。」
ここでテレビ版は初めて、清兵衛も元渡世人だとわかる。軽いドンデン返しである。紋次郎は繕いの手を止めて、思いを巡らしている。
「おいちゃん、どうしてあれがここにあるの?」「用心のためにさ。」「用心て何なの?」「誰かが襲いかかってきたときのな。」「誰が襲いかかるの?」「さあ、そいつはわからねえ。」そう、今まではそうだった。まさかと思う者に命を狙われたり、裏切られたり、不意討ちをされたりしてきた紋次郎である。子どもにまで、命を狙われたのであるから……誰も信じることはできない渡世で長年生きてきたのだ。
「でもおいちゃん強いんでしょう?」「さあなあ……。」「じいちゃまと姫太郎おじちゃんが、そう話していたよ。」さすがに足を洗ったとは言え、元渡世人の二人は、紋次郎の噂と腕前を承知していたようだ。
お弓は紋次郎の野良着に差してある楊枝に指を差して「これ、なに?」と訊く。紋次郎はここでは楊枝を咥えていない。初めて清兵衛に会って口上を述べたときは、楊枝を咥えていたが、それっきり咥えていなかったようである。紋次郎は「笛だ。」と答える。原作での紋次郎は楊枝を咥えて休息をとっているときに、お弓に尋ねられる。相手が大人なら「これは、癖ってもんで……。」と答えるところだろうが、相手が幼子だからか、「笛」だと答える。おまけにお弓にねだられて、楊枝を二度も鳴らしてみせる。
テレビ版では「わたしに貸して。」と頼むお弓に、紋次郎は楊枝を渡している。小判鮫の金蔵がねだっても絶対渡さなかった(笑)楊枝だが、お弓にはいとも簡単に手渡している。「人斬りに……」ではお香が、咥えている紋次郎の口からサッと抜きさったことはあったが……。お弓が楊枝を咥えて鳴らそうとするが、全く鳴らない。
このシーンは第一シーズン、「木枯しの音に消えた」の志乃との交流のオマージュであろう。あのときは志乃が楊枝を笛のように吹き鳴らし、紋次郎に教えていた。お志乃と紋次郎に、平和で温かい時間が流れていた。今回は立場が逆であるが、この二人にもゆったりとした時間が流れている。お弓が楊枝を吹いて「鳴らない。」と言ったとき、紋次郎の横顔には少し笑みがこぼれる。目元に微笑んだときに現れるシワが見える。最終回にして紋次郎は、幼子に微笑んだ(と私は見た)のである
原作ではお弓は紋次郎の楊枝をねだったりはしないが、無邪気に紋次郎と会話をしている。「どこにも行かず、ここで暮らしてほしい。そうしたら毎日笛を鳴らしてもらえる。あたいのちゃんになってくれればいい……」お弓は実に子どもらしい。そして、草の上で仰向けに寝そべる紋次郎の耳を引っ張って、笑うのだ。原作での紋次郎も、まるで毒気を抜かれたような状態で、無防備である。
テレビ版では次に切り替わって、海辺のシーン。紋次郎と姫太郎が海藻を採っているところへ、村人がやって来て紋次郎に声をかける。「精が出るなあ!おめえさんは、清兵衛さんところのお客だろ? 戻りにはおらのところ寄っていかれ……茶でも飲んでいくがいい。」「ありがとうございやす。」紋次郎は立ち上がって礼を言う。この礼の言い方や物腰が、いつもとまるきり違う。すっかり、村人Aになりきっている(笑)。珍しそうな表情で村人を見送る紋次郎は、楊枝を口にしていない。そして頭には三度笠ではなく、菅笠。何となく不思議な感じがする。
紋次郎は今まで、どこへ行っても白い眼で見られ、冷たい仕打ちをされてきたのに、ここでは違う……。姫太郎もこの土地の住みやすさをしみじみと語る。紋次郎はこの後、誘われた村人の家に寄ってお茶したのだろうか。
紋次郎が清兵衛の家に帰ってくると、お久が紋次郎の着物を物干し竿に掛けている。黒い足袋も一緒に洗ったようである。さすがに下着類は干されていない(笑)。紋次郎はその様子に驚いて、「私、余計なことをしたんでしょうか。」と詫びるお久に、「とんでもねえ。世話になりすぎて心苦しいんで……。」と答える。
テレビ版のお久は、すっかり女房風情である。お弓はかけ寄って「お帰り。」と紋次郎を出迎える。紋次郎は他人から、「お帰り。」などと声をかけられたことはない。紋次郎を待つのはだれか……前シリーズの主題歌「だれかが風の中で」では、紋次郎の心象風景を歌ったものかと思っていたが、意外にも、純真な幼子が紋次郎の帰りを待っていた。紋次郎はお弓の肩に手をかけ、二人並んで屋敷へ向かう。その様子にお久の表情が和む。これが「木枯し紋次郎」のドラマか、と目を疑いたくなる。「瞬く間に二日が過ぎた。畑で鍬をふるい、浜辺で海藻を拾い、裏山で薪を集め、それが紋次郎の日課であった。ほかはお弓に楊枝の笛を聞かせてやるのが、仕事と言えば仕事であった。」(芥川氏のナレーション)
そんな平和な時間と平行して、六右衛門が放った七人の子分たちが、那古村を目指して歩き続けている。無言で足早に一列になって歩く姿は、まさしく風雲急を告げる。
この後、紋次郎とお弓が裏山で薪を拾うシーンとなる。ここで原作のようにお弓が「おいちゃん、もうどこへも行かないね。」と紋次郎に言う。「さあな。」と、紋次郎は明言を避ける。紋次郎に「ちゃん」になって欲しい、本当の「ちゃん」は、信州で死んだってじいちゃまが言った、とお弓は拗ねたように言う。この子役は実に滑舌がよく、しっかりしている。素朴な幼子というより、躾が行き届いた優等生といったタイプである。
紋次郎は複雑な表情で、お弓を見守る。薪を背負って帰路につく紋次郎の腰には、長脇差はない。原作でも、初めてお弓に楊枝を鳴らした後の三日間、長脇差を家の中に置いて仕事に出ている。紋次郎がこんなに長く、長脇差を手放したことがあっただろうか。それも外部からの力ではなく、自らの判断で、我が身から長脇差を遠ざけるとは……。
途中でお久がお百度参りをしているのに出合う。亭主のことはあきらめろと清兵衛から言われてはいるのだが……。長年の旅を続けられるほどの器量がある男ではないから、今頃はどこかで無縁仏になっているだろうと……。お久の話を紋次郎は、海辺で黙って聞いている。日が暮れて薄暗い中、波の音が聞こえる。丹後地方の日本海がロケ地だろうか。
たいまつを手に、夜道を往く六右衛門一家の列。ヒタヒタと迫り来る恐怖。
朝、畑仕事を終え、農具を洗う紋次郎に清兵衛は声をかける。そろそろ那古の土になることを決断しないか、と……。紋次郎は無言で、作業を続ける。その姿を清兵衛はにこやかな顔で眺めている。すっかり百姓姿が身についてしまった紋次郎は、牙を抜かれた獣のようである。テレビ版では明確な返答はしていないが、原作ではハッキリと言っている。
「へい。もしお邪魔でねえようでしたら、しばらくはご厄介になろうかと、そんな気でおりやす」紋次郎は、用意されていたわけでもない言葉を、ひどく素直に口にしていた。だが、ここにしばらく厄介になるということには、まだ実感が伴っていなかったのである。
姫太郎が館山から帰ってくる。館山には姫太郎の許婚がいて、近々祝言を挙げるという。原作にはそういう設定はない。原作より姫太郎がより堅気に近づいているだけに、この後の展開が腹立たしい。姫太郎は物騒な話を聞き込んでくる。雑穀問屋の「杉田屋」が襲われたというのだ。夫婦と娘二人が殺されたというのである。
「杉田屋……そこまで来やがったか……。」いつもは柔和な表情を見せている清兵衛が、厳しい顔つきで呟く。その曰くありげな様子に、紋次郎は反応する。このときの紋次郎の表情は、引き締まっていて、渡世人としての勘が働いている。
この後、杉田屋が襲われるシーン。障子に血しぶきが飛び散ったり、女が陵辱されたりで、あまりいい気持ちのものではない。襲っているのは、旅姿の渡世人たち。六右衛門一家の輩である。杉田屋の女房が大きく口を開けて叫んでいるアップ……残念ながら、金歯が見える(笑)。時代劇でのキャスティングは、口の中までチェックしておくべきであろう。
なぜ、雑穀問屋の杉田屋が六右衛門たちに襲われ、清兵衛はまるで予見していたかのような素振りなのか……。土地の者の仕業ではないだろう……と言う紋次郎に同意した清兵衛は、固い表情のまま話を続ける。「お久の婿も馬鹿な奴です。度胸も腕もない半端者が『熊川の勘八』などと名乗っていて……。」
「勘八」……紋次郎は驚きの表情を見せる。定吉と間違われて斬りつけられ、やむを得ず応戦した相手が確かに「熊川の勘八」と名乗っていた。紋次郎は、世話になっている清兵衛の娘婿を殺してしまったのである。サスペンスドラマだと、ここで衝撃の効果音が入るところである(笑)。
ああ!しかしなぜ、テレビ版はここで最大のドンデン返しを持ってくるのだろうか。原作ではこの皮肉な因果を、ラストシーンで明らかにしているというのに……。紋次郎は抗えない運命を聞かされたというのに、この後、川で桶を洗うお久に呼び止められて会話をしている。それもお久は、亭主のことを「今頃どこを歩いているんだろう。」などと喋っているのだ。普通なら、清兵衛から話を聞いた途端、草鞋を履いて出立するのが筋だろう。おかしい。どう考えても紋次郎のアイデンティティーから外れている。
紋次郎は仕事をするためお久と別れ、浜で待つ姫太郎の元に向かう。しかしそこには、血にまみれて倒れる姫太郎の姿があった。「長脇差を……七人……旦那さまが……」とうとう六右衛門一家が那古にやって来た。六右衛門が那古に刺客を放った理由が、テレビ版と原作では違う。テレビ版では、大前田栄五郎の命を受けて、裏切り者を消すために、足を洗った清兵衛を狙って来た。杉田屋も元は渡世人だったので、血祭りに上げられたという設定である。したがって、紋次郎には直接関わりがないことになる。
しかし原作では、六右衛門の子分と客人を殺した意趣返しのため、執念深く紋次郎を追ってきたという設定である。それにしても、かなり遅れて来たものである。そこで疑問に思うのだが、一家を預かる親分が、子分や客人のために意趣返しをするものなのだろうか。親分の仇を取るために、子分が意趣返しをするということはありそうだが……。それとも、客人が殺されたということが面子に関わる重大なことなのだろうか。原作の理由となると、紋次郎が災いを引き寄せたことになる。言い替えれば、紋次郎さえ来なければ……ということになるが、これは紋次郎にとっては辛いことである。
紋次郎は清兵衛の身に危険が迫っていることを察知して、野良着姿で屋敷まで疾走する。部屋に入るやいなや野良着を脱ぎ捨て、お久が洗ってたたんでくれた着物を手早く身に纏う。もう少し時間があれば、「地蔵峠……」のときのような、流れるような無駄のない身支度シーンを見られたのだが……すぐに場面が切り替わってしまい、残念。着物と一緒に三度笠と長脇差も道中合羽もきちんと揃えられている。やはり再び、この姿にならざるを得ない状態になる。しかし、ファンは嬉しい。「待ってました、紋次郎!」である。
清兵衛は浜にいた。「許さねえ。てめえたちがここへ来ることは、許さねえぞ。」「死んでもらうぜ!」「逃げることはできねえんで!」原作では、六右衛門の十人衆が清兵衛に襲いかかるが、テレビ版では七人。あと三人分のギャラが出せなかったのか。
海は荒れ狂い、空は低く暗雲がたれ込めている。冬の海の、陰鬱な雰囲気である。さすがに「那古の清兵衛」として名を馳せただけあり、大勢に長脇差を向けられても気骨ある風格の清兵衛である。しかし多勢に無勢……清兵衛は連中に、斬られてしまう。清兵衛役の水島さんの演技は凄みがある。斬られた後でも倒れずに、敵をキッと見据え体制を立て直す。しかし何度か斬られたり刺されたりして、とうとう砂浜に倒れる。吹きすさぶ海風は、木枯しのように聞こえる。そこへ紋次郎が白波を蹴散らして疾走してくる。
「来やがったな。」「待っていたんで!」テレビ版は清兵衛だけが標的かと思っていたが、ここで紋次郎の存在も敵は知っていたということがわかる。
冬場のロケである。画面をよく見ると白いものがチラチラ見える。みぞれか、雪であろう。極寒の中の海辺の殺陣。想像しただけでも背筋がゾクゾクする。ここでテレビ版は、清兵衛の遺言とも言えるセリフが用意されている。「紋次郎さん、あたしゃねぇ、畳の上で死のうと決心したんだが、所詮ヤクザはヤクザ。こうなるんですねえ……。」この言葉で、紋次郎にスイッチが入った。最後の殺陣である。BGMには主題歌の一番が流れる。一度ヤクザの世界に身を置いた者は、畳の上では死ねない……ということである。このあたりは、「水神祭……」の「人斬り伝蔵」こと、茂左衛門の最期にも通ずるものがある。
原作での紋次郎の怒りは、恐ろしいほどである。
「紋次郎は怒った。紋次郎は、清兵衛のそばを離れた。いま、紋次郎は殺意を抱いていた。これまでは常に、わが身を守るために相手を斬った。みずからを生かすために、防ぐ者を殺した。だが、いまは違う。紋次郎は、殺してやると思った。殺すことが、目的であった。殺せば、いいのである。逃げる者も、追いかける。命乞いをされようと、耳は貸さない。何が何でも、殺してやる。ひとり残らず、殺してやる。みな殺しである。」
こんなに明確な殺意を抱いた紋次郎は、「川留めの……」以来かもしれない。「これほど怒ったのは、生まれて初めてかもしれない。紋次郎は、自分が恐ろしくさえあった。」(「川留めの水は濁った」)
紋次郎の怒りは、激しく爆発していた。十人全員が名乗りを上げる。紋次郎は黙って、名前と顔を確認している。心は怒りで頂点に達していただろうが、頭は冷静である。そのことが、余計に空恐ろしい。
志津三郎兼氏の名刀がうなりを上げる。天下の業物が、殺意を持った紋次郎の手にあるのである。「鬼に金棒」ではないが、いまの紋次郎には十人など恐るるに足らない。原作では、何人かの首が飛ぶが、さすがにテレビ版は抑えてある。
敵と対峙して、紋次郎はくわえていた楊枝を投げ捨てる。良かった、いつもの紋次郎に戻っている。合羽を翻し、敵に向かって走る紋次郎。波打ち際での殺陣である。風が強く波が高い。映像がスローモーションに変わる。冷たい水しぶきが飛び散り、映像効果を上げる。冬に海辺の殺陣は、普通、遠慮したいものである。しかし敢行するところに、最終回作品への愛情とプライドを感じる。たかじんさんが歌う「焼けた道」がBGM、打ち寄せる波の音や吹きすさぶ風の音が荒涼感を演出している。空が暗く、白波が背景となり、紋次郎や敵のシルエットが際立つ。コントラストがあって、なかなか良かった。しかし、全身ずぶ濡れで寒かっただろうなあ、とご苦労を思う。
全員を斃した後、紋次郎は清兵衛の亡骸に跪いて瞠目する。例の神社では、何も知らずにお百度参りをするお久の姿が見える。原作では心の中で「勘八さんは、もう戻っちゃあ参りやせんよ。お久さん、許してやっておくんなさい」と紋次郎は詫びている。テレビ版では、チラリとお久を遠くから見上げ、ゆっくりと背を向けて歩いて行く。浜にはお弓がいて「おいちゃん、もうどこにも行かないって言ったじゃないか。」と、紋次郎に言葉を投げかけるが、紋次郎は無言で去っていく。その背中にお弓の声が響く。「おいちゃーん!」
「シェーン!カムバック!」状態である(笑)。全紋次郎シリーズの最後、紋次郎を見送ったのは、なんと、年端もいかない幼子だった。エンディングの芥川さんのナレーションは原作と同じである。「この後の木枯し紋次郎の足どりは定かでない。天保十一年の房州と上総のあらゆる記録を調べても、木枯し紋次郎らしき渡世人の行動については、まったく触れられていない。」最終回にふさわしいナレーションである。
また、紋次郎は旅を続ける。厳密に言えば、続けざるを得なくなる。原作では敵を皆殺しにした後、清兵衛から衝撃的な事実を聞かされる。お久が帰りを待ち続けた亭主、勘八を、自分が殺してしまった皮肉な運命を知ることになる。「因果は巡る」とは、よくいったものだ。足を洗う最大のチャンスを、自らの手で断ち切ってしまった。しかし、叶わぬ願いであることを知らず、お百度をふむお久への悔恨のほうが大きい。
那古で過ごした平和な生活は、結局儚い夢であった。紋次郎はまた、孤独な旅路に戻る。それが宿命なのだ。この後、テレビ版での紋次郎の足どりも定かではなく、再び帰って来たときは、テレビではなく映画であり、紋次郎自身も壮年期を過ぎていた。帯ドラマとしての紋次郎は、この回が最後となる。1978年の3月29日の最終回を、35年後の今日、こうして記事にして締めくくるとは思いもよらなかった。
皆様、長い間おつき合いくだすってありがとうござんした。御免なすって……。