童 わらべ

童 童子

わらわ わらは わらべ わらんべ わらはべ わろうべ
わらし わっぱ 
 


 
 
 
 
●童 / わらべ 
1 子供。児童。わらわ。
2 [「わらんべ」の撥音の無表記から] 子供。児童。わらわ。
3 「わらはべ」に同じ。
4 [わらべ、わらわ、わらんべ、わらし] 子供のこと。
5 わらわ(童)の複数形で、子供たちの意。
6 童子と書くことが多い。わらべ、またはわらしと読み、子供のことを意味する。漢字は音読みでドウと読み、これは「児童」「童謡」などの形で現在でも使用される。名前に入っているケースとしては、日本の霊的存在である「座敷童子」が挙げられる(広義では妖怪であるが、どちらかと言えば精霊に近い)。また「河童」にもこの字が入っている。
童 / 音読: ドウ、 トウ / 訓読: わらべ
侲 / 音読: シン / 訓読: わらべ、 よいわらべ、 うまかい、 はしため
僮 / 音読: ドウ、 トウ / 訓読: わらべ、 しもべ  
童歌 (わらべうた)
わらべうた。昔から子供に歌いつがれてきた歌。また、子供に歌って聞かせる歌。遊びに伴うものが多い。
 
 
●童 1 
わっぱ、わらし、わらべ、わらわ、わらわ わらは、わらわ〔わらは〕、わらわ・ぐわらはぐ、わらんべ
   どう   / 童画・童顔・童心・童貞・童話・悪童・学童・奇童・児童
          小童(しょうどう)・神童・村童・牧童・幼童
   わらべ / 童歌・京童
   河童(かっぱ)・小童(こわっぱ)
「わらわ」の音変化
1 子供をののしっていう語。また、子供。「道具捜しにまごつく―」〈露伴・五重塔〉
2 年少の奉公人。小僧。「傘を車の輪のように地上に廻して来る―もあれば」〈花袋・田舎教師〉
3 男子が自分のことを卑下していう語。「―に仰せ付けられば」〈浄・用明天王〉
4 横暴な人。あばれ者。乱暴者。「彼奴(きゃつ)、音に聞く不敵の―よな」〈浄・関八州繋馬〉
「わらんべ」の撥音の無表記から / 子供。児童。わらわ。
1 束ねないで、垂らしたままの髪。童形の髪。また、そうした10歳前後の子供。童児。また、童女。わらべ。「清げなる―(=童女)などあまたいで来て」〈源・若紫〉
2 使い走りの子供。召使い。「例の御文つかはさむとて、―参りたりやと問はせ給ふほどに」〈和泉式部日記〉
3 「五節(ごせち)の童女(わらわ)」に同じ。「(天皇ガ五節ノ舞ヲ)御覧の日の―の心地どもは、おろかならざるものを」〈紫式部日記〉
4 寺院で召し使う少年。「―の法師にならんとする名残とて」〈徒然・五三〉
「わらわべ」の音変化 / 「わらべ」に同じ。
「―に還り愚に及ぶ」〈根無草・後〉  
 
 
●童 2 
わらんべ、わらわ、わらわべ、わろうべともいい、童部とも表記した。普通には男女を問わず元服以前の児童(童子・子ども)をさした。童というのは10歳前後とする考え方もあるが、そのように限定してしまうと、かえって童の語にふくまれていた豊富な内容が見失われかねないともいえる。なぜならば、成人女性は謙遜して自分をさすのに〈わらわ〉の語をもちいたし、また、年齢的にはけっして児童ではないにもかかわらず、髪風もふくめて姿形が〈童形(どうぎよう)〉(後述)であるものを童・童子などと呼んだ。  
 
 
●童 3 
幼児より年長で未成年の子供の称。元服前の少年と裳着(もぎ)前の少女をいうが、10歳前後の者をさす場合が多く、女子をとくに区別して「女(め)の童」「童女(わらわめ)」などということもある。限定的には、雑役に従事したり、供として従う召使いの少年や、小間使いの少女などをさすほか、寺院の召使いとして雑用や給仕の任にあたる少年の称でもあった。また、これらの童は髪を束ねないで下げ垂らしていたので、この童形の髪型の称でもあった。 
 
 
●童 4 
〘名〙 (「わらわ(童)」の変化した語)
1 子どもをののしっていう語。また一般に、子どものこと。 ※曾我物語(南北朝頃)八「あのわっぱめを弟とおぼしめされ」
2 男子が、自分のことを卑下していう語。 ※幸若・烏帽子折(室町末‐近世初)「御身のなむもあるまじき、わっぱがとがものがるべし」
3 男をののしっていう語。 ※浄瑠璃・関八州繋馬(1724)四「音に聞く不敵のわっぱよな」
4 年少の奉公人。年若い下僕。 ※天草本平家(1592)四「ノトドノノ vappa(ワッパ) キクワウト ユウモノ」
〘名〙 子ども。小児。 ※人情本・春色梅美婦禰(1841‐42頃)二「女児(ワラシ)の身」
〘名〙 (「わらわべ」の変化した「わらんべ」の撥音「ん」の無表記から)
1 子ども。子どもら。児童。 ※名語記(1275)二「童部をば、わらべ、下部をば、しもべなど、よめり」
2 召し使う子ども。また、召し使う童姿の男女。 ※源氏(1001‐14頃)若菜下「ことに上らふにはあらぬわかき人、わらべなど、おのかじしものぬひけさうなどしつつ」
3 自分の妻をへりくだっていう語。 ※大鏡(12C前)一「これはそののちあひそひてはべるわらべなり」
[補注]
(1)2の挙例の「源氏物語」は「わらはべ」とする異本もあり、「わらべ」は作品成立時の語形ではないとする説がある。
(2)「日葡辞書」には、「Varabe(ワラベ)、または、ワランベ」とのせて、いずれも子どもの意とする。
〘名〙
1 稚児(ちご)より年長で、まだ元服しない者。一〇歳前後の子ども。童子。 ※万葉(8C後)一八・四〇九四「老人(おいひと)も 女(をみな)童児(わらは)も しが願ふ 心だらひに」 ※源氏(1001‐14頃)帚木「わらはに侍し時、女房などの物語よみしを聞きて、いとあはれにかなしく」
2 子どもの髪のように、束ねないで下げ垂らした髪。童形(どうぎょう)の髪。 ※万葉(8C後)一六・三七九一「蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を ま櫛もち ここにかき垂れ 取り束(つか)ね あげてもまきみ とき乱り 童児(わらは)になしみ」
3 召使の童男、童女。また、童姿の召使。相当な年齢の者にもいう。 ※万葉(8C後)一六・三八四二「小児(わらは)等(ども)草はな刈りそ八穂蓼(やほたで)を穂積の朝臣が腋草(わきくさ)を刈れ」 ※平家(13C前)二「無動寺法師乗円律師がわらは、鶴丸」
4 特に、五節(ごせち)の童女(わらわ)の称。 ※紫式部日記(1010頃か)寛弘五年一一月二二日「丹波の守のわらはの、青い白橡(しらつるばみ)の汗衫(かざみ)、をかしと思ひたるに」
5 寺院で召使う少年。 ※霊異記(810‐824)上「然して後に少子元興寺の童子(ワラハ)と作る〈興福寺本訓釈 童 和良波〉」 ※徒然草(1331頃)五三「これも仁和寺の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残りとて、おのおのあそぶ事ありけるに」
〘自ガ下二〙 子どものようにする。子どもっぽい様子をする。 ※源氏(1001‐14頃)朝顔「ちひさきは、わらはげて、よろこびはしるに」 
 
 
●童 5.  
…子どもという言葉と概念について考えようとする際に、まず注目されるのは、その意味の多様性であろう。現在最も一般的なのは、おとな(成人)の対概念としての子どもであり、この場合は、個体としての生命の発生から成人するまでのあらゆる段階にあるもの、すなわち、胎児、乳幼児、児童、少年少女などを総称する。次いで親の対概念としてのそれは、年齢や生物的・社会的成熟度とは無関係に、先行世代の個体によって生み出されたもの、もしくはそれと同等の役割をとる者の総称である。… 
 
 
●童 6 
…子どもという言葉と概念について考えようとする際に、まず注目されるのは、その意味の多様性であろう。現在最も一般的なのは、おとな(成人)の対概念としての子どもであり、この場合は、個体としての生命の発生から成人するまでのあらゆる段階にあるもの、すなわち、胎児、乳幼児、児童、少年少女などを総称する。次いで親の対概念としてのそれは、年齢や生物的・社会的成熟度とは無関係に、先行世代の個体によって生み出されたもの、もしくはそれと同等の役割をとる者の総称である。… 
 
 
●童 7 
…代表的な成年式として元服があり、男児が肉体的、精神的に一応の発達段階に達したと認められたときに行われる。平安時代の清和天皇の元服の折には4尺5寸以上の藤原氏の児童13人を加冠のうえ引見されたが、身長が一応の規準とされていたのは興味深く、身長を年齢の目安とするこの考え方は今日でも中国に生きている。平安時代の女子にあっては年ごろになると、歯を黒く染め(歯黒め)、眉毛を抜いて眉墨(黛)(まゆずみ)で眉をかいた(引き眉・かき眉)。… 
 
 
●童 8  
わらんべ、わらわ、わらわべ、わろうべともいい、童部とも表記した。普通には男女を問わず元服以前の児童(童子・子ども)をさした。童というのは10歳前後とする考え方もあるが、そのように限定してしまうと、かえって童の語にふくまれていた豊富な内容が見失われかねないともいえる。なぜならば、成人女性は謙遜して自分をさすのに〈わらわ〉の語をもちいたし、また、年齢的にはけっして児童ではないにもかかわらず、髪風もふくめて姿形が〈童形(どうぎよう)〉(後述)であるものを童・童子などと呼んだ。ちなみに、現行の法律、児童福祉法では満18歳未満のものを児童とし、乳児・幼児・少年に区分している。また、労働基準法では、特例を除き満15歳未満の児童を労働者として使用することを禁止している。ともに、法・制度によって健康保全・福祉の面で〈保護〉されるべき対象として児童を位置づけている。
児童が一般に〈童〉と称されていた時代には、それらは、こんにちの感覚では容易には推しはかれない意味をもって見られていた。とりわけて古代・中世においては、童のもつ自由奔放さ、闊達(かつたつ)さ、率直さ、いたずら好み、乱暴さかげんなどの特性が、信仰とも深く結びつきながら、現実の俗世間を超越した別世界にあいかよう力のあらわれと考えられ、童のつぶやき一つにもなにかの予兆をくみとり、成人には理解しかねるような童の不可思議な行動一つにも神の憑依(ひようい)を感じとっていた。そして、一定の年齢に達するまでは〈産神(うぶがみ)〉の加護のもとに童が置かれているものと信じ込んでいたのであった。その年齢は、おおむね7歳であり、これをすぎると〈産神〉の霊力が弱まり、危険に遭遇すると予測されていたらしい。また、女子の場合には、生理のことにかかわって、13歳が重視された。能楽の大成者として名高い世阿弥は、《風姿花伝》の〈年来稽古条々〉で芸と年ごろのことを説き、稽古始めの歳を7歳としたあとは、12、13歳、17、18歳、24、25歳というふうに区切っている。むろん、風情・体格・音声などの条件に照らしての区分ではあるが、こうした年齢階梯意識の基礎にも、奥深い習俗の世界が存在していたことが推察される。
血縁集団・地域社会において、童が一人前の成人として扱われるようになるのは、おおむね15、16歳であった。このことは、史上に聞こえた室町時代の〈山城国一揆〉にさいして、寄合の合議に参加した一揆衆の年齢の下限が15、16歳であった事実や、荘園領主のもとでの〈落書起請(らくしよきしよう)〉で責任能力者として認定されたのが、やはり同様の年ごろであった事実からも容易に察せられる。この年齢に達すると、各自が文書に添える〈書き判(花押・略押)〉が公的に効力を発したし、垂髪(長い垂れ髪)を特徴とする〈童形〉を脱して成人の風体へと変身したのである。この区切りは、近世社会にもうけつがれて、〈若者組〉への加入が認められもした。
実際には児童の域を超えているにもかかわらず〈童形〉姿のままで生きた人々もいて、これもやはり童・童子と呼ばれた。牛車(ぎつしや)を扱った〈牛飼童(うしかいのわらわ)〉もその一例であるが、ほかには公家・武家に仕えた小舎人童(こどねりわらわ)も児童(少年)に限らず、さらには大寺院には ・・・
仏教行事における童子
特定の仏教行事において、半僧半俗の立場で法要の進行を把握する重要な役割をいう。子どもを神聖視する思想からか童子と記すが、幼児が担当するとは限らない。むしろ複雑な作法を伴うので特定の家筋の成人による例が多く、〈堂子〉とも記す。悔過(けか)系の行事(東大寺修二会、薬師寺修二会など)には欠くことのできない役割で、東大寺修二会の場合は、参勤僧の随伴諸役の筆頭に堂童子が挙げられている。僧侶の掌握の及ばない堂の内外を整え、法要の進行に即してもろもろの所作をこなしていくが、東大寺修二会には単に童子と記す役も十数名設けられており、参勤僧と堂童子にも配属されて、上堂や下堂に付き従うなど蔭の仕事に従事する。四天王寺聖霊会の舞楽法要では、盛装した堂童子役の幼児を抱きあげて、行事の区切りとなる鐘を打たせる例が残されている。
また能面の〈童子〉と呼ばれる面は、妖精的な少年の面で、《田村》《小鍛冶》の前ジテなどに用いられる。 
 
 
●童、私、妾 / わらわ、わらは 9 
わらわらとしたオカッパ頭の髪型をした10歳前後の子供。複数形は「わらべ」。 「童」は目の上に入れ墨をされ、重い袋を背負わされた奴隷を表し、転じてわらべの意味をも表す。辛+目+重という形声。辛は入れ墨の針をかたどり、重は重い袋をかたどる。「妾」は、貴人に近づき奉仕する入れ墨をほどこされた女性・腰元(侍女)の意味。辛+女という会意。
「わらわ(童)」は大辞泉で以下の四つの意味が掲載されている。
1.束ねないで垂らしたままの髪。童形の髪。また、そうした10歳前後の子供。童児。童女。わらべ。
2.使い走りの子供。召使い。
3.五節の童女(ごせちのわらわ)。同音でも五節の童、五節の女と異なる漢字表記がある。五節の舞姫に付き従う童女で、舞姫1人に2人ずつ付く。
4.寺院で召し使う少年。
そして「わらわ(童)」の意から派生したのが、女性がへりくだって自分をいう語「わらわ(私、妾)」である。一人称の人代名詞であり、近世では特に武家の女性が用いた。  
 
 
●童 10
わらんべ、わらわ、わらわべ、わろうべともいい、童部とも表記した。普通には男女を問わず元服以前の児童(童子・子ども)をさした。童というのは10歳前後とする考え方もあるが、そのように限定してしまうと、かえって童の語にふくまれていた豊富な内容が見失われかねないともいえる。なぜならば、成人女性は謙遜して自分をさすのに〈わらわ〉の語をもちいたし、また、年齢的にはけっして児童ではないにもかかわらず、髪風もふくめて姿形が〈童形(どうぎよう)〉であるものを童・童子などと呼んだ。
童(わらし、わらんべ、わらわ、わっぱ)、童衆(わらし、わっぱ)。
字源 1 / 「語源 ・ 元々は、目を刃物で突きぬいて見えなくした男の奴隷。また、男の罪人を奴隷としたもの。」
童というのは従来の説では、奴隷を意味すると言うことになっています。奴隷は髪を結んでおらず、それが子供を連想させるからだそうです。
甲骨文字では童はどのような形をしているのでしょうか。とても複雑な形をしています。辛(針)+目+東(袋)+土です。従来は辛を奴隷の入れ墨と結びつけて解釈してきました。東は袋を意味するとされています。袋がどうして「ひがし」を意味するのが不思議ですが、甲骨文字で東を含む字には量と重がありまして、確かに両方とも「満杯の袋」の意味で東が使われています。童は入れ墨をされた奴隷が重い袋を背負わされているのだと解釈されてきました。しかし童が奴隷の意味で使われたことはありません。
童を含む字として瞳(ひとみ)があります。これはわかりやすいです。子供は瞳が大きいからです。では童も元々瞳という意味だったと考えてみてはどうでしょうか?童という字には「目」が含まれているのですから!
眼球は液体が詰まった袋です。眼球を納めたまぶたもまた袋になっています。瞳は眼球にあいた針穴のように小さな穴です。だから辛(針)+目+東(袋)で瞳なのです。土はおそらく「満杯」を意味する符号でしょう。山水蒙のところで説明しますが、春秋戦国時代には童は子供と瞳(のぞき窓・採光のための窓)の両方の意味で使われていたと考えられます。
字源 2 / 会意兼形声文字です(辛+目+重)。「入れ墨をする為の針」の象形と「人の目」の象形と「重い袋」の象形から、目の上に入れ墨をされ重い袋を背負わされた「どれい」を意味する「童」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て) 「未成年者(児童)」の意味も表すようになりました。
字源 3 / 罪を犯して奴隷階級にまで下がってしまった罪人。その「罪人」に歌わせていたのが「童謡」。昔の動揺に怖い裏付けがされるのはこのためとか。さらに、「働く(はたらく)」意味は「童(奴隷)」に「力」(農作業で使う「すき」を象った字)を使って働かせるので、「童+力」で『動(はたらき)』になる。さらに「人(権力者)」が監視して「働く」という字になる。
● …15歳で一人前となり、若者組へ加入することでその完成は示された。世代としての子どもは古い言葉では〈わらわ〉〈わらんべ〉〈わらし〉などであるが、それらはしだいに使用されなくなり、子どもが一般化してきたのは、もともとの〈こ〉〈こども〉の意味が変化拡大した結果と思われる。子どもの第2の意味である、〈親に対する存在としての子ども〉は〈こ〉という言葉のより古いあり方を示していよう。…
わらわ (童)
束ねないで、垂らしたままの髪。また、そうした10歳前後の子供。童児。わらべ。使い走りの子供。召使い。寺院で召し使う少年。
わらし (童)
(主に東北地方で)子供。わらべ。
わっぱ (童)
子供をののしっていう語。また、子供。年少の奉公人。小僧。男子が自分のことを卑下していう語。横暴な人。あばれ者。乱暴者。
 
 
●「童」熟語 11 
悪童(あくどう) / 悪戯好きの子供。いたずらっ子。
大童(おおわらわ) / 全力で努力したり、物事に取り組んだりすること。整えていた髪が子どもの髪型のように乱れる意から。
お河童(おかっぱ) / 女子の髪形の一つ。前髪を眉の上辺りで切りそろえ、それ以外を首の下辺りで切りそろえた髪形。
童男(おぐな) / 男の子。少年。おのわらわ。
怪童(かいどう) / 体が大きく力の強い男児。
河童(かっぱ) / 川や沼などに住むとされる想像上の怪物。全身が緑色で鱗に覆われ、背中には甲羅、口は嘴、頭は皿になっている。胡瓜が好物とされ、頭にある皿が乾くと死ぬとされている。
学童(がくどう) / 小学校に通っている学生。小学生。
奇童(きどう) /
京童(きょうわらべ・きょうわらんべ) /
小童(こわっぱ) / 子ども、または若輩者をののしっていう語。若造。小僧。
神童(しんどう) / 非常に優れた才能を持っている子ども。
児童(じどう) / 子ども。特に小学生をいう言葉。
侍童(じどう) /
村童(そんどう) /
童画(どうが) / 子どものために描いた絵画。子ども向けの絵。子どもが描いた絵。児童画。
童顔(どうがん) / 子どもの顔。
童形(どうぎょう) / 昔の、元服・結髪する前の子どもの姿。また、その子ども。稚児(チご)姿。
童詩(どうし) /
童心(どうしん) / 子どもの心。
童子(どうじ) / 「童(わらわ)」に同じ。
童女(どうじょ) / 女の子。幼女。少女。
童貞(どうてい) / 男性がまだ女性と性的な関係を持っていないこと。また、その男性。
童僕(どうぼく) / 召使いの男の子。
童蒙(どうもう) /
童幼(どうよう) /
童謡(どうよう) /
童話(どうわ) / 子どものために作られた物語。また、おとぎ話やイソップ物語などの寓話、伝説なども含まれる。
牧童(ぼくどう) /
幼童(ようどう) / 幼い子ども。幼児。
尸童(よりまし) / 修験者(しゅげんじゃ)や巫女(みこ)が、神意をうかがおうとする際に、一時的に霊をやどらせる童子や人形。
童謡(わざうた) / 古代、政治や社会を風刺、または予言したはやり歌。神が子どもの口を借りて歌わせると考えられた。上代歌謡の一種。
童(わっぱ) / 子どもをののしっていう言葉。
童(わらべ) / 子ども。子どもたち。児童。「わらわべ」から転じた「わらんべ」の「ん」の無表記から。
童歌(わらべうた) / 昔から子どもたちに歌いつがれてきた歌。また、子どもたちに歌って聞かせる歌。
童(わらわ) / 一〇歳前後の元服前の子ども。わらべ。 子どもの召使い。童男(わらわお)・童女(わらわめ)。
童巫子・童巫女(わらわみこ) / 子どものみこ。特に、巫(かんなぎ)などをつとめる少女。 
 
 
●こわっぱ (小童) 
NHKの大河ドラマ『真田丸』で使われたことばが話題になっているらしい。ご存じの方も大勢いらっしゃるであろう、「黙れ、こわっぱ」というやつである。
西村雅彦さん演じる室賀正武(むろがまさたけ)という信濃の武将が、真田信繁(幸村)の兄である大泉洋さん演じる真田信之に向かって、信之が軍議の場で何か発言をすると、そう怒鳴りつけるのである。西村さんの言い方と、そのときの大泉さんの表情が何ともおかしいのである。
「こわっぱ」とは、子ども、または若輩者をののしっていう語で、若造といった意味である。「こわらわ(小童)」の変化した語で、「こわらわ」とは幼い子ども、小さな子どものことである。
「わらは(童)」は、まだ元服していない、10歳前後の子どもを言う。なぜそれくらいの年齢の子どもを「わらわ」と呼ぶのかはよくわかっていないのだが、この年代の子どもは髪を束ねないで下げ垂らした髪型をしていて、それを「わらわ」と言ったことによるという説がある。ただし子どもと髪型の呼称のどちらが先なのかはよくわからない。
「わっぱ」はこの「わらわ(童)」が変化した語である。もちろん「わっぱ飯」などという、まげ物の弁当入れを言う「わっぱ」のことではないし、車輪や手錠などをいう「わっぱ」とも違う。それらはいずれも漢字で書くと「輪っぱ」である。
ちなみに、時代劇などで武家の女性の自称として使われる「わらわ(私・妾)」は、この「わらわ(童)」から生まれた語である。童(わらわ)のような未熟な者、幼稚な者といった意味なのであろう。また、「かっぱ(河童)」は、「かわわらは(河童)」の変化した「かわわっぱ」から生まれた語である。
なお、蛇足ではあるが、室賀正武は天正12年(1584)に、信之・信繁兄弟の父昌幸に殺害される。室賀正武に「こわっぱ」呼ばわりされる信之は永禄(えいろく)9年(1566)の生まれなのでこのときはまだ10歳代で、まさに「こわっぱ」と言える年頃である。ところがそれを演じる大泉洋さんの実年齢はというと、どう考えても20歳前とは言えないはずだが、まったく違和感がない。役者さんはすごいと思う。 
 
 
●おおわらわ (大童)
(1) 一生懸命になること。夢中になってことをすること。また、そのさま。
(2) 髷の結びが解けて髪がばらばらになっていること。また、そのさま。童は髪を結ばなかったところから、大きな童の意でいい、多く、ざんばら髪で奮戦するさまに用いる。  
一生懸命になること。夢中になってことをすること。
「童」は元服前の3〜10才の子供のこと。また子供のおかっぱ頭の髪形もいいます。戦場で兜を脱ぎ捨てると髪が乱れ、童のようになるところから、髪をふり乱して戦かうさまが「大きな童」で「大童」。「おおわらわ」に似た意味に「てんてこ舞い」があるが、これは太鼓の音に合わせて舞うこと。驚きあわてる表現に、「泡を食う」がある。
大童は、髪の乱れの形容から生まれた語である。「童」は元服前の子供(3歳から10歳くらい)のことであるが、子供が髪を束ねないで垂らしているその髪形もいう。大人はきちんと髪を結っているが、戦場で兜を脱ぎ捨てると髪が乱れ、童のようになることから、髪を乱して奮戦するさまを「大きな童」で「大童」と言うようになり、一心不乱になって行うさまも「大童」と言うようになった。「童」の語は「乱れる」という意味に由来するため、髪形に関係なく、取り乱して大慌てすることから「大童」になったとも考えられるが、『平治物語』の「冑も落ちて、おほわらわになり給ふ」など、髪の乱れをいったものが多いことから、子供のように乱れた髪に由来すると考えた方が良いであろう。 
昔は、元服すると、髪を結うことになっていました。それが成人したしるしだったのです。そして、子どもの間は、髪を垂らしていました。これを童髪(わらわがみ)といいました。武士が戦などで大奮闘して、髻(もとどり)がとれたり、兜(かぶと)が脱げたりして、ざんばら髪になることを大童(おおわらわ)といいます。大きなおかっぱ頭といったところでしょうか。
さて、師走を迎え、忙しい毎日、大童でがんばっていませんか。そんな時、髪の毛を振り乱したものすごい形相の武士を想像してみてください。思わす、ふっと、我に返ることができるのではないでしょうか。刀は折れ、矢も尽き、思わす倒れそうな武士に自分を重ねてみてください。ちょっと、笑いがこみあげてきませんか。武士が大童になるときは、たいてい敗戦が濃厚な時です。
「あいもせんば、こいもせんば、ああ、どぎゃんしゅうかにゃ!」と年の瀬に時間と格闘している大童の我が身、まさに敗戦濃厚! 敗戦間際の武将にならないように、余裕をもって、やがて来る年を、あれもしよう、これもしようとみんなで笑って楽しく迎えたいものです。どうぞ、忙しさを相手に、玉砕しないでくださいね。 
平家物語
能登殿は、はやわざやおとられたりけん、やがてつゞいてもとび給はず。いまはかうと思はれければ、太刀・長刀海へなげいれ、甲も脱いで捨てられけり。鎧の草ずりかなぐり捨て、胴ばかり着て、おほ童(わらは)になり、おほ手をひろげて立たれたり。
・・・ 武士が戦場で兜を失い、髪を頬や肩に垂らした姿になること。(源平合戦期あたりまで)頂辺の孔にくぐらせていた髻がほつれてざんばら髪の状態になり、萎烏帽子も脱げてしまうこと。(遅くとも元寇あたりから、兜の構造や緒の結び方が変化し)鎧直垂を着る前に「髪を乱す」(髻を解いてしまう。その上で萎烏帽子をかぶり鉢巻をする)場合、武装の際に肩や頬へ散らしておいた長い髪を兜の下からさらけ出すこと。あるいは、そうした状態で太刀を手に奮戦すること。源平合戦期までの兜は髻を立てたままかぶる様に作られていたようで、この直径も大きい。
   頂辺の孔(てへんのあな) = 兜鉢のほぼ中心にあいている丸い穴。
   萎烏帽子(なええぼし) = 兜の下にかぶる、柔らかく作った烏帽子。 
 
 
●京童
〈きょうわらわ・きょうわらんべ〉とも読み、複数形では〈京童部(きようわらわべ)〉になる。〈京の都に住む、口さがない無頼の若者〉の意味で、平安時代後期から江戸時代にかけて各種の文芸にあらわれている語。古くは11世紀初めころの新猿楽記(しんさるがくき)に猿楽の芸態の一つとして〈京童の虚左礼(そらざれ)〉がみえ、空戯(そらざれ)(ふざけごと)を弄する京童の姿がおもしろおかしく演じられて笑いを呼んだらしい。ちゃかし、ののしり、笑わせる京童というイメージは、その後も一貫して保たれ、痛烈な風刺・批判の言動とも結ばれ合いつつ、〈京童ノ口ズサミ(口遊)、十分一ヲモラスナリ〉で閉じる町衆としての成長をみせるまでの庶民にほかならない。室町時代以降は、〈京童〉の語は比喩的で情趣的な意味合いをしだいに強めていった。
きょうわらんべ、きょうわらわ、とも。京市中に住む無頼の若者の意で、物見高く口さがない者を表した。平安時代後期の《新猿楽記》には〈京童之虚左礼(そらざれ)(空戯=わざとふざけること)〉が猿楽の芸能の一つとして取り上げられる。ふざける 、口うるさくいいふらす行為は風刺につながり、〈京童ノ口ズサミ〉の形を借りて建武政権を批判・風刺した《二条河原落書》は著名。
きょうわらわ、きょうわらんべ、とも読み、複数形では京童部(きようわらわべ)になる。京の都に住む 、口さがない無頼の若者の意味で、平安時代後期から江戸時代にかけて各種の文芸にあらわれている語。古くは11世紀初めころの新猿楽記(しんさるがくき)に猿楽の芸態の一つとして京童の虚左礼(そらざれ)がみえ 、空戯(そらざれ)(ふざけごと)を弄する京童の姿がおもしろおかしく演じられて笑いを呼んだらしい。仮名草子、地誌。6巻6冊。中川喜雲作。1658年(明暦4)刊。部分 、また全体が復刻にかかる別版が3種存する。喜雲の処女作であり、近世初期に刊行された地誌・名所案内記に先鞭をつけたものであった。賢い少年に案内させて見物をする、という形式をとり 、京都を中心に山城国一円にわたる87ヵ所を、1ヵ所ずつ挿画を付し、古歌をひき、自作の狂歌、俳諧を添えて記している。喜雲は、続編として1667年(寛文7)に《京童跡追》を刊行し 、のちに両書の一部をつなぎ合わせて再構成した《都案内者》を1671年(寛文11)に刊行した。
仮名草子(かなぞうし)。6巻6冊。中川喜雲作。1658年(万治1)刊。京都市内、市外の名所旧跡、神社仏閣など、約88か所を取り上げ、その由来や伝説、さらには現状などを記して解説した啓蒙(けいもう)的な地誌。名所案内としての実用性をもつと同時に、随所に自作の狂歌、発句(ほっく)などを加え、各条ごとに挿絵を入れるなどして、読者の興味をひきつける娯楽性をも兼ね備えている。後続する「名所記」の先駆けとして注目される作品である。
[1] [名]=きょうわらわべ(京童部) ※古本説話集(1130頃か)四九「若男にてありける時、清水の橋殿にて、京わらべといさかひをしける」
[2] 六巻六冊。中川喜雲著。明暦四年(一六五八)刊。洛中・洛外の名所案内。名所毎に挿絵、発句や狂歌が付された、京都の名所記の嚆矢(こうし)であり、後続名所記に大きな影響を与えた。同著者による寛文七年(一六六七)刊の続編「京童跡追(あとおい)」六巻六冊がある。
 [名]=きょうわらわべ(京童部) ※義経記(室町中か)六「工藤左衛門〈略〉きゃうわらはにて口利にて候」
 [名] 「きょうわらわべ(京童部)」の変化した語。 ※金刀比羅本保元(1220頃か)中「されば京童(キャウワランベ)の申沙汰しける」
…その鬱々たる毎日の根底には、〈昔予若冠のころ愚父とさがにまかりし事有、いにしへはこゝの嵐山の城主はわが先祖のものなりしが 、今は城郭さへあとなく、石ずへ井戸のかたちばかりのこれり〉と自著《私可多咄(しかたばなし)》序に書き記したように、零落した家門の栄誉への執着と感傷があったと思われる。 1658年(万治1)刊行された処女作の名所記《京童(きようわらべ)》は 、のちの名所記流行の先駆となるものであり、実地に足を運んだ者でなければ書くことのできない詳細な記述は、地誌には欠くべからざる実用性をもたらすものであった。しかし 、一方《京童》の盛名は、そのような実用性だけでなく、諧謔精神に基づいた文芸性がいま一本の柱であった。… 
 
 
●悪童 
いたずらがはなはだしく、手に負えない子供。

・・・ 帰途大阪へ立ち寄って、盛んに冗談口を利いてキャッキャッ笑っている武田さんは、戦争前の武田さんそのままであった。悪童帰省すという感じであった。何か珍妙なデマを飛ばしたくてうずうずしているようだった。 案の定東京へ帰って間もなく、武田麟太郎・・・ 織田作之助「四月馬鹿」
・・・ ばからしい。悪童の如く学び舎を叛き去った。いま、そのことを思い出す時、わが胸は、張り裂けるばかりの思いがする!」と、地団駄踏んで、その遺言書に記してあったようだが、私も、いまは、その痛切な嘆きには一も二も無く共鳴したい。たかが熊本君ごときに・・・ 太宰治「乞食学生」
・・・ われ幼少の頃の話であるが、町のお祭礼などに曲馬団が来て小屋掛けを始める。悪童たちは待ち切れず、その小屋掛けの最中に押しかけて行ってテントの割れ目から小屋の内部を覗いて騒ぐ。私も、はにかみながら悪童たちの後について行って、おっかなび・・・ 太宰治「作家の手帖」
・・・ 国内戦時代のことで、そのような悪童的な放浪の道はたまたま赤軍の装甲列車にぶつかり、そこで汽鑵たき助手などやることがあったりした。そのサーニが、臓品分配のことから刃傷沙汰を起し、半殺しの目にあってシベリアの雪の中に倒れていたところを、その地元・・・ 宮本百合子「作品のテーマと人生のテーマ」
・・・ 悪童は、すっぱりと一つ喰らわされた。Yの洋装に田舎の子らしい反感を持ったのと、手下どもに己を誇示したかったのとが、偶然この少年をして「殴られる彼奴」にした原因だ。帰り、天主堂の坂下にその少年、他の仲間といたが、Yを認めると背中に括りつ・・・ 宮本百合子「長崎の印象」
・・・ 纏って討論する理路と機会とを持たなかった昔の庶人の間に発達したこの批評の直観的な形は、今日の社会生活の内容に向っての批評としては、議会などで、とかく規模が小さく個人へ向って放たれる悪童の吹き矢の範囲を出ないのが多い。 きのうなどで・・・ 宮本百合子「待呆け議会風景」 
 
 
●餓鬼 
仏教の世界観である六道において餓鬼道(餓鬼の世界)に生まれた者。原語の preta (プレータ)はかつては死者の霊を指したが、仏教において輪廻転生の生存形態である六道に組み込まれた。preta は鬼とも訳される。鬼は中国語で死者の霊・亡霊を意味している。餓鬼は、三途・五趣(五道)・六趣(六道)の一つ。餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる。ただし、天部と同じように福楽を受ける種類もいるとされる。子供は貪るように食べることがあるため、その蔑称・俗称として餓鬼(ガキ)が比喩的に広く用いられる。餓鬼大将・悪餓鬼など。
仏生前の罪の報いで餓鬼道に落ちた亡者。
仏六道の一つ餓鬼道の略。現世で欲の深かった者が死後に行くといわれ、飢えと渇きに苦しむ所。
子どもをののしる言葉。「なまいきな―だ」。
六道の辻
ガキ
仏教における餓鬼に由来する、子供の俗称。幼児、小学生、中学生を指す。主に高校生未満の者を指す。
ガキ大将
子供の集団で、最も力が強く、威張っている者を指す。多くは勉強が出来ず、腕力が強いだけで自分勝手な者が多いが、中には義侠心に富み、身を挺してでも自分の子分や周囲の仲間を守ろうとするものもいる。そうしたガキ大将を漫画や児童文学の主人公とした作品も多くみられ、創作物におけるひとつのキャラクター類型として取り上げられることが多い。  
 
 
●母語と異言語の狭間の苦闘 「翻訳」の世界  2019/12 
「巻を措く能わず」という言葉がある。あまりに面白くてページをめくる手がとまらない、最後まで一気読みしてしまう――それほどまでに中毒的な書物に対して使う慣用句だが、私にとって、子ども時代の「没入する」読書体験を久々に呼び起こしてくれたのが、まさにこの本だった。『悪童日記』。ハンガリー生まれの作家アゴタ・クリストフが1986年、母語ではないフランス語で発表した小説だ。無名の作家による50歳にしてのデビュー作品でありながら、世界中の読書好きの間で熱烈に支持され、やがて文学界を席巻するほどの評価を得る。日本でも91年に邦訳が刊行され、口コミでじわりじわりと評判が広まり40万部を超すベストセラーになったが、この訳書を手がけたのが、これまた当時まったくの無名で一介のフリー翻訳者だった堀茂樹・慶応義塾大名誉教授だ。堀さんの人生を変えたとも言える『悪童日記』との出会いはどんなものだったのか。私たちが「外国語」に接するという行為にはどんな意味があるのか。翻訳家という仕事とは? 突っ込んで聞いてみた。「騙されてみるか」。読み始めたら止まらなくなった。
『悪童日記』を初めて読んだときの興奮は忘れられませんが、堀さんにとってもこの作品との出会いは衝撃的なものだったらしいですね。
堀:忘れもしません、88年の初夏のことです。私は当時パリ18区の下町、どちらかといえば場末に近いような所に住んでいましたが、家の近くに、いかにも本好きの店主が自分の好きな本を並べるために開いた、といった風情の小さな本屋がありました。その「アスファルト書店」という名の本屋に、ある土曜日の夕方ぶらりと入ったときに、友人でもある店主から「こいつは掘り出し物だよ」と薦められたのが、『悪童日記』と続編の『ふたりの証拠』だったんです。彼が言うには、前年のクリスマスに、まだそれほど知られていなかった『悪童日記』を友人に贈ろうとしたら、相手がプレゼント用に持ってきた本も同じものだったらしい。目利きの読書人のあいだでは、すでに注目されていたということですね。そんなエピソードを少し割り引いて聞きながらも、「まあ騙されてみるか」と購入し、読み始めたら、とにかく止まらない。フランスはその季節、夜9時を過ぎても明るいんですけど、窓辺でページをめくる手が本当に止まらず、夜までに読み終えてしまった。この小説には人名や地名はまったく出てこない。舞台はおそらく、第2次大戦下の東欧の片田舎。語り手は双子の少年だ。戦禍を逃れ祖母に預けられた「ぼくら」は、人々を観察してサバイバル術を一から習得し、盗み、欺き、脅し、殺し、極限下を生き抜く。そして、目に映った事実のみを、ひとかけらの感情も込めずに「日記」に記していく。その即物的過ぎる文体の奥底には、しかし、強い倫理観とヒューマニズムがほとばしっている。
堀:心底、驚嘆しました。固有名詞はいっさい登場しないし、内面描写もまったくない。構成も文体も間違いなくオリジナルでした。でも何よりも感心したのは、そのラディカルさ。見せかけの、噓っぱちのラディカルさではない、本物のラディカルさです。これほどナルシシズムから遠い、徹底的に抑制された表現の小説があるだろうか、と思いました。それから朝までが長かった(笑)。パリの店は日曜日は休むのが普通ですが、アスファルト書店は日曜も午前中だけは営業しているのを知っていました。シャッターが開くのを待ち構え、開店と同時に飛び込んで『ふたりの証拠』も買い、やはりその日のうちに読み終えました。2作目はもっと強烈でした。このアゴタ・クリストフという人は紛れもなく本物だな、と確信しました。

おばあちゃんは、ぼくらをこう呼ぶ。「牝犬の子!」人びとは、ぼくらをこう呼ぶ。「〈魔女〉の子!淫売の子!」
罵詈雑言に、思いやりのない言葉に、慣れてしまいたい。ぼくらは台所で、テーブルを挟んで向かい合わせに席に着き、真っ向うから睨み合って、だんだんと惨さを増す言葉を浴びせ合う。  (中略) 言葉がもう頭に喰い込まなくなるまで、耳にさえ入らなくなるまで続ける。
しかし、以前に聞いて、記憶に残っている言葉もある。おかあさんは、ぼくらに言ったものだ。「私の愛しい子!最愛の子!私の秘蔵っ子!私の大切な、可愛い赤ちゃん!」
これらの言葉を思い出すと、ぼくらの目に涙があふれる。これらの言葉を、ぼくらは忘れなくてはならない。なぜなら、今では誰一人、同じたぐいの言葉をかけてはくれないし、それに、これらの言葉は切なすぎて、この先、とうてい胸に秘めてはいけないからだ。
そこでぼくらは、また別のやり方で練習を再開する。ぼくらは言う。「私の愛しい子!最愛の子!大好きよ……けっして離れないわ……かけがえのない私の子……永遠に……私の人生のすべて……」
いくども繰り返されて、言葉は少しずつ意味を失い、言葉のもたらす痛みも和らぐ。 
   (アゴタ・クリストフ『悪童日記』「精神を鍛える」より)

この本が日本に紹介されているのかどうか気になったので、フランスの版元に電話してみると、日本ではまだ翻訳権が取られていないとのことでした。それなら自分がやってみよう、と。出版できる当てはまったくなし。それでもやりたくて、場末のカフェで毎日、一夏かけて一気に訳しました。ワープロも原稿用紙もないので、ノートに縦書き用のマス目を引いて書き込みながら。翻訳を見下していた自分が翻訳を根本から考えた
それまでに翻訳の経験はあったのですか?
堀:当時日本は日の出の勢いの「経済大国」でしたからね、ビジネス方面でフランス語と日本語のあいだの仲介をする仕事はちょいちょいありました。通訳の方が多かったですが、いわゆる実務翻訳もアルバイトで少しやってました。でも文学作品を訳すのは『悪童日記』が初めてでした。私がパリに行ったのは78年で、19世紀前半の大作家バルザックを研究するためでした。「研究者たる者、翻訳などという二級の仕事に手を出すべきではない」という、いまから思えば実に浅はかな考えにとらわれていました。政府給費留学生試験の成績だけは抜きん出ていたので、自分はできるなどと勘違いして、翻訳を見下していたわけです。それでいて、フランスでの強烈なカルチャー・ショックで頭がクラクラして大学にあまり行かなくなり、街で出会ったフランス人らとの付き合いにのめり込み、アルバイトで食いつなぐという、まさにバルザックの小説に出てくるパリの巷の漂流者のようになっていた(笑)。そんなころ、アゴタ・クリストフの小説に遭遇したのです。翌89年、日本に帰ってから三つの出版社に『悪童日記』の企画を持ち込みました。運よくそのうちの1社の文芸編集者が本気で「本にします!」と言ってくれ、出版が決まりました。その段階で初めて、翻訳とはなんぞや、ということを根本的に考えることになった。というか、考えざるを得なくなりました。そして、全編を一から訳し直すことに決めました。
既に訳した原稿があったのに、ですか?
堀:最初の訳文は、直訳というのとは違うけど、原文重視がマニアック過ぎるというか、フランス語の字面に密着しすぎたものでした。いわゆる「直訳」は、辞書的に言葉を別の言語に置き換えているだけで、まったく「忠実な訳」とは言えません。では忠実な訳とは何かと言えば、ひとつひとつの単語や表現レベルで忠実ということではなくて、例えば『悪童日記』なら、そのフランス語のテクスト全体が含んでいる意味作用やイメージ喚起を、日本語の世界で起こすことに成功しているもののことです。センテンス単位で「これは名訳だ」とか評価することには、まったく意味がない。ちょっと分かりづらいかもしれませんが、本居宣長の言葉に「姿は似せがたく、意は似せやすし」というものがあります。翻訳はあくまで「模写」で、決してオリジナルにはなれません。でも、特に文芸翻訳は、テクストの意味だけでなく、姿まで似るように工夫しなければならない。それは、原作者がもし日本語で書いたらこう書くだろうという訳文を目指すということです。もっと厳密に言えば、原語のネイティヴがその本を読んでいる時に頭の中に意味やイメージが流れていきますね、その体験と近似的な体験を日本語の読者にもしてもらうように仕組むということです。
翻訳者は、読者にとっては国外の作品のメディエーター(仲介者)でもあり、責任重大ですね。それにしても、姿を似せるというのは、一番難しい作業です。
堀:そうなんです。身も蓋もないですが、これは結局、訳者の器量というか、読書歴や生活経験、人生といった全人格的なものに依っていると言うほかありません。それでいて、矛盾するようですが、翻訳者は自分を出してはいけない。自分を透明にしなければならないんです。翻訳者はあくまで黒子であり、読者をあちらの言語体系からこちらの言語体系へと橋渡しする役、つまり渡し船の渡守の役割に徹しなければならない。いわゆる「超訳」は、訳者の傲慢の産物です。上から目線でテクストを素材のようにこね回し、僭越にもわがまま自分の思うように日本語をでっち上げてしまっている。脇役でなければならないのに、自分が主役になろうとしてしまっている。超訳も、直訳同様、忠実な訳とは言えません。もちろん、努めて出さないようにしても、翻訳者の個性が出てしまうことはあります。同じ楽譜を演奏しても奏者によって全然違う音楽になるのと同じで、翻訳者によって作品の解釈(インタープリテーション)が違ってくることはあり得ます。ただ、わざと自分を出そうとするのはだめ。心がけとしては、常に自制的、禁欲的でなければならないんです。と言いつつ、実は私は性格的にあんまり翻訳に向いていないんですね。このとおり饒舌だし、自己主張も強い方だし。だからいつも訳書に長いあとがきを書いて、それで欲求不満を解消するわけです(笑)。外国語学習と翻訳は、他者性に対する「寛容の学校」
近ごろはGoogle翻訳も精度がかなり高まっていますが、AIが文学作品の翻訳をする日がやって来るのでしょうか。
堀:言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、積み重ねられた文化を担ったものです。というか、言語じたいが文化です。例えば一口に「雨」と言っても、北ヨーロッパの雨と日本の雨ではまるっきり違う経験を抱えている。日本文学のなかに登場する「雨」にも、フランス文学や英文学に出てくる「雨」にも、それぞれの風土で昔から描かれてきた蓄積がチャージされています。もちろん、雨をrainとかpluieとかに訳すのは間違いではない。でもそれらはある意味で「違うもの」なのだという意識を、文芸翻訳では常に持っていなければなりません。外国語というのは、つまるところ他者の母語なんです。数学や物理には文化や国籍を超えた普遍的な正しさがありますが、言葉というのは、そういう科学とは違う。言語の規範は、究極的には、それを現に使っているネイティヴの人の感覚に依存しています。いくら外国人から見て変だな、理屈が通らないな、と思うことがあっても、ふだんその言葉を母語として使っているネイティヴが「これが正しい運用だ」と言うなら、それをそのまま受け入れるしかない。それが「他者をあるがままに認める」ということで、外国語学習と翻訳は、言うなれば、他者性に対する深い意味での「寛容の学校」なのです。外国語というのは他者性を抱えたものです。母語が人間にとってこの上なく親密なものだとすれば、その反対のものと言ってもいい。無理やり押しつけられれば、強い反発を呼びます。アゴタ・クリストフは21歳でハンガリーから亡命し、スイスで生き延びていくために学ばざるを得なくなったフランス語のことを「敵語」と言っています。自分のアイデンティティーを脅かし、自分の中の母語を殺していくものだったからです。一方で、私たちは母語を選べませんが、外国語を自ら選んで学び、それを習得しようとすることができます。アイデンティティーというものは完全に閉じたものではなく、外に開かれたものでもあるということです。その意味で人間は、与えられたものと選び取るものの狭間に生きる存在です。とりわけ翻訳者は、母語と異言語の狭間での苦闘をメチエ(職業・流儀)とする存在です。かつて手作業だった洗濯が洗濯機に取って代わられたように、より洗練された機械が実務翻訳をこなすようにはなるかもしれません。でも、別の文化圏で生じた作品、その文化でしか生まれ得なかったテクストを、日本語の中に再現する営みである文芸翻訳を、AIができるようになるとは思えません。
原書を初めて読んだときの感動や、「これを絶対に翻訳したい!」という情熱も、人間ならではのものですね。
堀:美しい秋晴れや、豪雨のあとの虹を見たら、誰かに伝えたくなる。映画を観て感動したら、友達にも勧めたくなるじゃないですか。私がアゴタ・クリストフの作品を訳したのも、まったく同じです。自分が読んで本当にたまげたからですよ。「一体なんなんだ。このすごい作品は!」「日本の読者はまったく知らないでいる。だったら紹介しなくちゃ!」という思いです。人間というのは自己本位の生き物だけれど、そうは言っても、個人の中には他者との関係がくさびのように打ち込まれていると私は思う。なぜか感動を他者と共有したがる、そういう生き物なんです。それと、大事なことは、「作品」というものは、1回限りの、繰り返しの効かない偶然性に左右されることもあるということ。計算できない要素で売れたり、支持されたりすることも、ままあります。実は『悪童日記』は、版元の宣伝対象としては最低ランクでした。当時フランス文学はまったく売れないというのが相場だったし、著者は無名、訳者もどこの馬の骨か分からない(笑)。それでも結果としてあれだけの人に読まれたのは、やはり作品そのものの力なんです。日本では、これが売れそうだとか、あれが売れたから同じものを出そうとか、そんなことばかり言っているけど、似たようなものを紹介したって仕方ない。今だから言いますが、私が『悪童日記』を日本に紹介したいと思ったのは、そういう生ぬるい風潮に風穴を空け、本物の文学の持つ力で同胞たちにショックを与えたいという野心もあったからなんです。宣伝やマーケティングは大事だし、読まれるための努力も必要です。でも一番大切なことは、本当に良い作品を世に出したい、人に感動を伝えたいという信念ですよ。そこを見失ってはいけないんです。 
 
 
 
 
 
 
 

 
2021/2