何もしない
ぼーとしている
頭の中 空っぽにする
日光浴 散歩 昼寝
六道・輪廻転生・二河白道・・・ ■極楽浄土1・極楽浄土2・極楽浄土3・死後の世界・輪廻と浄土教・・・ ■死後の世界・輪廻転生・日本人の死後の世界・来世への生き方・死後の祭られ方・死後の世界探求・霊魂のゆくえ・あとがき・・・ |
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コロナ Stay Home ストレス テレビ 全局 毎日 感染者・死人報道 |
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自宅 引きこもり状態 このHP しばらくお休み できるものなら ・・・ |
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TV報道番組 話題は毎日コロナ いつものコメンテーター 各々の映るモニター 番組画面に並ぶ 枠 額 檻に閉じ込められる |
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気分が乗らない時 人の性 無精 ・ 不精 ・ 横着 ・ 骨惜しみ ・ 手抜き 投げ遣り ・ ほったらかし ・ 遣りっぱなし ・ ぐうたら ・ 物ぐさ ・ 怠惰 ・ 怠慢 ・ 怠け癖 |
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絵は描けても 仕事は組織 人任せ 世の中の常識 自分ではどうにもならない |
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口をはさむだけ
やり遂げられない 無力 無理 成果は手足 アイデアは認められない 無駄 余分なことは考えなくなった 無視 |
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記憶のかなた 縦横斜め 裏返し 神仏の世界 調べる |
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●六道 | |
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●釈尊誕生伝説
釈尊の誕生について様々な伝説があります。伝説は歴史的事実ではありません。しかし、単なる作り話ではなく、真実を伝えようとしたものです。 釈尊は誕生するとすぐに、七歩あるいて、右手で天を指し、左手で地を指して、「天上天下 唯我独尊(天にも地にもただ我独り尊し)」と宣言されたと伝えられています。そしてその時、天は感動し、甘露の雨を降らせたと言います。 釈尊の誕生について、様々な伝説が伝わっています。伝説ですから、歴史的事実ではありません。しかし、単なる作り話ではありません。伝説は、事実を伝えようとしているのではなく、真実を伝えようとしているのです。ですから、その伝説が何を伝えようとしているのかを受け取っていくことが大切なのです。 「七歩あるいた」ということば、迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を超えたということを表します。誕生と同時に迷いを超えて悟りを開いたわけではありませんが、後に悟りを開いて仏陀(目覚めた者)と成ったと言うことを、誕生の所に引き寄せて表現しているのです。 「天上天下 唯我独尊」という宣言は、決して「他人と比べて、この世の中で自分が一番尊い」という倣慢な意味ではありません。「私のいのちは、天にも地にも、この世の中にたった一つしかない、かけがえのないいのちである。しかも、このいのちは無限の意味内容を持っている。だからこそ私のいのちは尊い」という意味なのです。そして、これは、私のいのちにのみ言えることではなく、「すべてのいのちは、かけがえのない尊いものである」ということにつながるのです。 ●六道について 衆生(生きもの)がそれぞれの行為によって趣き往く迷いの世界のことで、六趣とも言います。 地獄−苦しみの極まった世界。 餓鬼−飢え渇きに苦しんでいる世界。 畜生−恥をしらない世界。 修羅(阿修羅)−争いの世界。 人間(人)。 天上(天)−喜びの世界。 (煩悩を離れていないので、やがて崩れる。これも迷いの世界)。 六道については、未来のこととしてではなく、今現在、そのような世界に趣くような心を満ち、行為をしているということを考えてみることが大切です。 |
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●十界
私達の心には十の世界があるといわれていますが、仏様の教えを聞くまでは六道と言って六つの世界を行ったり来たりしています。 ●六道 地獄界 / 怒りの心 餓鬼界 / 貪欲な心 畜生界 / 愚かな心 修羅界 / 争いの心 人界 / 穏やかな心 天上界 / 喜びで満たされている心 ●四聖 声聞界 / 仏様の教えを受けて世のわずらいを離れた者 縁覚界 / 仏様の教えを受けて更に自分の日々出合うところの出来事と思い 合わせてその縁に因って覚るように修行する人 菩薩界 / 自らも仏を目指して修行しながらも他者を慈悲の心で先に救おうとする人 仏界 / 絶対平安の境地にあり衆生を大慈大悲で救済する境界 人間は通常、人界に住しますので怒りや貪欲などを出さないように良識があり、平穏な心でいるのが本当ですが、仏様の教えを聞かなければ縁によって人を憎んだり怨みをもったり、愚痴をいったりと、悪い心を使ってしまいます。 天上界は神々の世界ですが、天上界も六道の中に入っているのは、何か嬉しいことがあり、天にも昇る思いをするかと思えば、次の瞬間に自分に不利なことが生じると、又縁によって怒りを出したりと、地獄界と天界を行ったり来たりするからです。 貪欲・瞋り・愚痴の三毒が、地獄・餓鬼・畜生の境界に相当しますが、お釈迦様はこれが苦しみのもとであると説かれました。 |
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「多欲の人は利をもとむること多きが故に、苦悩もまた多し。少欲の人は求むることなく、欲するところなければ、すなわちこの患いなし。直ちに少欲すら尚まさに修習べし。いかに況や、少欲のよく諸々の功徳を生ずるをや、少欲の人はすなわち諂曲(へつら)って人の意を求むることなく、また諸根のために牽(ひ)かれず、少欲を行う者は、心すなわち坦然(たんねん)として、憂い畏れるところなく、ことに触れて餘りあり。常に足らざることなし。少欲なる者にはすなわち涅槃あり。」(遺教経)
「多欲は苦なり、生死の疲労は貪欲よりおこる。少欲にして無為なれば身心自在なりと覚知せよ。」(八大人覚経) 「もし人、心足ることなければ、ただ多く求めて罪悪を増長す。菩薩はしからず、常に知足を念じ、貧に安んじ道を守り、ただ慧のみ是れ業なりと覚知す。」(八大人覚経) 「貪人多く集め得て、足れるおもいを生ぜず、無明の闇、心を顛倒して、常に侵して他を損せんことを念ず、現在は怨憎多く、身を捨てては悪道に堕つ、この故に智者はまさに知足を念ずべし。」(尼乾子経) 「瞋りをよく自ら制すること、走れる車を止めるが如くす、これを善きこととなす。迷いをすてて悟りにはいる。」(法句経) 「若し瞋恚をなくせば安穏に眠ることを得ん。瞋恚をなくせば人をして歓喜を得せしめん。瞋恚は毒の本なり。これをなくす者は我が褒めるところなり。」(雑阿含経) 「五欲に貪着して自ら放逸なる衆生は、為に不浄の境界を示現す。」(華厳経) 私達は身・口・意(しん・く・い)の三業で善業も悪業も積むことになりますが、悪業には身で三、口で四、意で三の十悪を説かれています。 十悪とは 身には三つ / 「殺生」「偸盗(ちゅうとう)」「邪淫」 口には四つ / 「悪口(あっく)」「妄語(嘘)」「両舌(二枚舌)」「綺語」 意には三つ / 「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴」 しかし、お釈迦様は、衆生がこのような悪業を積んでしまうのも無明によるとされ、釈尊の教えによって小さな我を捨て、本来の自己が「仏」であるこに気づくと、この世は仏性で満ち満ちていることがわかります。自然と周りの方々にも仏様に接するように感謝して仏性を拝みあって合掌礼拝していくようになれば、この世がそのまま浄土となるのです(娑婆即寂光土)。 |
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●輪廻転生 | |
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●六道輪廻
六道輪廻(ろくどう-りんね)は聞いたことがあると思います。実は六道輪廻はお釈迦さまが発見したことです。厳密にいえば、五道輪廻を発見され、後に阿修羅界が組み込まれて六道輪廻になっています。 お釈迦さま以前のインドでは、もちろん輪廻思想はありましたが、もっとシンプルな輪廻転生の思想です。天界と人間界と地獄の3つの世界を行き来する素朴な輪廻思想でした。 しかしお釈迦さまは「五(六)道輪廻」を言います。五(六)道輪廻とは、地獄、畜生、餓鬼、人間、天界の5つです。これに阿修羅を加えて六道です。 生命は、この6つの境界をグルグルと移り変わっていくといいます。 お釈迦さまは、宿命通と天眼通という超能力を持っておられました。現代でも「前世を知る」とかありますが、お釈迦さまの前世を見通す能力は、そんなレベルではありません。自分の過去世を何億回もさかのぼり、しかも自分自身の前世だけでなく、天眼通という能力であらゆる生命の前世をも数多くさかのぼり見通していかれました。このことは仏伝ほか、パーリ経典にはいくつも記録として残っています。 お釈迦さまものすごく数の多い生まれ変わりの様を見ていましたので、輪廻転生のパターンも読み切っていたのでしょう。ですので、お釈迦さまの言葉とは、こういう生命の輪廻の様を踏まえて言われた金言と受け止めた方が無難ではないかと思います。私は仏教をもっとも信頼するのも、お釈迦さまの透徹した洞察力があるからです。 ところで生命が輪廻する数は一体どれくらいなのでしょうか?よく輪廻転生の話しが出ますよね。過去世の記憶にさかのぼるワークとかセミナーもありますし、そういう療法もあります。大抵、「前世のあなたはどこどこで○○をしていましたあ」、といった感じですね。 相応部経典の中に、輪廻に関して言及したお経がいくつかあります。それを読みますと、お釈迦さまはこう言っておられます。 「人が死んで生まれ変わる間に流した涙の量は、海の量よりも多い」「指先につまんだ土を現世とするならば、人の輪廻は、この地上にある全ての土よりも多い」 ● 途方もない数の生まれ変わりです。まさに無限に近い輪廻を、生命は続けていることをお釈迦さまは言っておられます。 さらに、宇宙が生じて崩壊した後、最初の生命が誕生する話しも述べておられます。この辺りは、旧約聖書の創世記よりも詳細な描写になっています。 生命は、宇宙の生成崩壊も数え切れないほど体験していて、お釈迦さまは、宿命通と天眼通という神通力で見通されていました。 仏教(原始仏教)での教えとは、お釈迦さまのこういった非凡な能力を踏まえておっしゃっているところがあります。 |
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●仏教が説く輪廻はおそろしい
六道輪廻はお釈迦さまが最初に言われた輪廻の様ですが、お釈迦さまが説かれる輪廻は、世間一般に信じれらているのとは違うところがあります。 まず、生命は、何か目的を持って転生しているのではないということです。これを聞いただけでもショックを受ける方もいらっしゃるかもしれません。ですが仏教では、このように説きます。魂の成長をはかるため、とか、何か使命を帯びているため、というのは原則的にありません。 生命は、ただ「執着と無明の煩悩によって輪廻しているだけ」と喝破します。はっきりいって夢も希望もありません。メルヘンちっくな話しは、お釈迦さまの輪廻転生にはほとんどありません。 もっとも輪廻の中にも、変易生死(へんにゃく-しょうじ)というのがあります。変易生死とは、悟りの門に入った預流果以上の生命(聖者)が、悟りを得るために輪廻を続けることをいいます。変易生死は特殊なケースです。 一般的には分断生死(ぶんだん-しょうじ)といいます。ほぼすべての生命は執着や無明に基づいて、オートに輪廻転生を繰り返しています。分断生死の輪廻がほとんどすべてです。 この部分を書いただけでも、読んだ方は、暗い気持ちになるのではないかと思います。すので、この仏教的な輪廻の思想を生理的に拒絶すか方が多くなります。また言及されない方もいらっしゃいます。 ですが仏教は、一面、まずこの真実を受け止めた上で、修行しましょうと説きます。とはいいましても、輪廻の思想に耐えられない場合も出てくると思います。もしも不安や恐怖を感じる場合は、スルーしてください。前にも書きましたが、自分で確かめられないことは鵜呑みしない、という姿勢です。 真実とは鋭い刃のようであり、時として人を恐怖と不安に叩き落とします。仏教で説く輪廻転生には、実に、ブログでは書けないほどの恐ろしい話しもあります。書けば、ショックを受けてトラウマを抱える方も出てくると思います。ですので輪廻転生については慎重に書かざるをえなくなります。 しかし、お釈迦さまは、良き処に生まれ変わり続けるための、アドバイスを説かれています。しかもその気になれば、誰にでもできる人生上の注意点と処世術です。 お釈迦さまは、仏教徒以外でも誰でも幸せになれる方法を説かれています。ただ単に不安をかき立てるだけでなく、良き生命であるようにと、そのための生き方・処世術をしっかりとおっしゃっているのですね。 |
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●五戒・布施〜誰でもできる幸せになれる方法
仏教が説く輪廻転生は大変峻厳で、恐怖すら感じるときがあります。ですが、お釈迦さまは救われる方法もしっかりと説いておられます。しかも仏教を信じない人でも、誰でもできる幸せになれる方法です。 それが戒(五戒あるいは十善戒)と施(ほどこし)です。 そして、この「戒(五戒・十善戒)」と「施」に「修」というう瞑想修行を加えたものが「在家の仏教」になります。 ●戒(五戒・十善戒) まず戒(五戒・十善戒)です。 お釈迦さまは、在家には五戒、十善戒という戒律を守ること、人への施しをして心を清らかにすることを基本的な実践行として説かれています。 ●五戒とは、 1.むやみに生き物を殺さない 2.他人の物や心・与えられていない物・心を取らない 3.不倫をしない 4.嘘をつかない 5.酒を飲まない。 べからず集ではなく、肯定的な表現をすれば以下のような言い方もできると思います。 1.命を大切にする (生き物を殺さない) 2.必要なものだけで満足する (盗まない) 3.TPOを踏まえて本当のことを言う (嘘を言わない) 4.倫理道徳に根ざした恋愛をする (不倫をしない) 5.正常な判断力を保つようにする (酒を飲まない) ●十善戒とは、 1.むやみに生き物を殺さない 2.他人の物や心・与えられていない物・心を取らない 3.不倫をしない 4.嘘をつかない 5.つまらない話しや、調子の良いことやお世辞が過ぎることを言わない 6.粗野であったり乱暴な言葉を使わない 7.仲違いさせることを言わない 8.異常な欲を持たない 9.異常な怒りを持たない 10.因果を否定したり道徳を否定する、妄想的な誤った見解を持たない。 になります。十善戒は五戒のうち四戒を含んでいます。 ●施(せ) 「施」は文字通り、施しを行うことです。布施(ふせ)といいます。施しには、 1.財物をほどこす 2.精神的・心をほどこす 3.法施 この3種類があります。財物とは文字通り、物質になります。お金であったり、物であったりします。 精神や心も施すことができます。これは「無財の七施」といったのが有名です。無財の七施とは、 1.眼施(がんせ)・・・やさしいまなざし。ガンを付けたり睨むような目つきをしない。 2.和顔施(わげんせ)・・・にこやかな顔。微笑んだやさしい顔つき。上目使いの三白眼はナンセンスです。 3.愛語施(あいごせ)・・・やさしく、思いやりのある言葉使い。 4.身施(しんせ)・・・自分の体を使って他人のために動くこと。奉仕。 5.心施(しんせ)・・・他人のために気配りをしたり、喜びを共有する(随喜)こと。 6.床座施(しょうざせ)・・・席を譲ること。または自分の地位ですら後進や相手に譲ってしまう心。 7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・雨風をしのげる施しをすること。 ※房舎施は、昔は現代のように立派な建物は雨具は無かったため、列挙されているものと思います。現代のニュアンスで解釈しますと、「他人の苦痛を和らげるための配慮」ということになると思います。 これら7つは、昔から言われているお金のかからない心や体を使った施しとされています。そしてよく見ると、五戒や十善戒と似ているところがありますね。 最後の法施(ほうせ)とは、実はこれは仏教特有の施しになります。正しい仏法を施す行為をいいます。 |
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●生天の教え
ところで五戒にしても十善戒にしても現代では、なかなか守ることができない所もあります。そこで頑張り過ぎて守ってしまおうとすることもでてくるかもしれません。 しかし教条主義的になったり、頑張り過ぎるのはよろしくないようです。戒律は、リラックスする心を養うことと、悪に対する恐れの心(「慚愧」といいます)を培うことで、自然にできるようになります。 これらのことは念頭に置いて、できるだけ犯さないように注意したいですね。五戒と十善戒については、いずれの機会で説明もしたいと思います。 五戒と施(ほどこし)は、お釈迦さまが在家に説く、基本中の基本の教えです。「生天の教え」とも言われます。これらを守れば、仏教を信じていない者でも誰でも、死後、必ず善処(良い所)へ生まれ変わると、お釈迦さまは断言されています。 大変シンプルですが、この教えは、無限に続く輪廻の様を鋭く見抜いた上でのアドバイスなのでしょう。 |
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●在家の仏道とは
そうして、これらの五戒・十善戒と施に加えて仏教の瞑想を行えば、「仏道」になります。 在家の仏道とは、 ・戒(かい)・・・五戒・十善戒を行うこと ・施(せ)・・・布施の行為。仏教寺院や社会や人々にあまねく施しをすること。 ・修(しゅう)・・・瞑想を行うこと この3つを行うことになります。このうち、戒と施は、仏教でなくても言われていますし、誰でもできます。そして幸福になれます。仏教では、「仏教の瞑想」を行うことで悟りに至り、究極の幸せになれると説きます。 しかしそうはいっても、最初の「戒律」が「堅苦しい」「強制される・・・と思われて、毛嫌いされることがあります。 しかし、今の言葉で言えば、大霊能者といってもよいお釈迦さまが言われたことです。一応は耳を傾けたほうが良いように思います。 ご自分の前世を何億回もさかのぼって見通され、他の生命の無限の輪廻転生も見通された方です。お釈迦さまは輪廻転生のパターンを完全に読み切られています。ですので、そのアドバイスには耳を傾けるほうが賢明だと思います。 気が遠くなるような生まれ変わりをしているなら、できるだけ良い生命であり続けたいものですしね。 とはいいましても原始仏教では、近世の宗教団体のように教祖を絶対視することはしませんので、耳を傾ける傾けないは、各人の自由になります。ですが、無限に続く輪廻の旅の仕組みと、ここからの脱出方法を残されたお釈迦さまは、やはり偉大であり、その言葉には耳を傾ける価値があると思います。 「五戒・十善戒」と「施」は、宗教や宗派に関係なく、誰でも幸福になれる実践行です。 |
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●両親・親孝行を大切にする理由
家族とは人間関係の最小単位であって、誰もが最初に体験する人間関係のひな形ですね。 両親が仲良く、喧嘩の少ない関係であるなら、その子供も同じようなバランス感覚を培っていき、そして大人になって結婚し、両親と同じように喧嘩の少ない関係になりやすいものです。絶対にそうなるわけではありませんが、なりやすいですね。数多くの親子を長年にわたってみていきますと、上記のことは該当します。 親子とは大変、絆が深い関係です。良くも悪くも、子供は両親の影響を受けます。 両親について原始仏教では、どう説いているのでしょうか。今回は人間関係のひな形ともなる両親について説明したいと思います。 ●1.両親は梵天のように接せよ 原始仏教では、両親を非常に大切にする教えが数多くあります。両親に対しては、梵天に接するが如く敬いなさい、両親は大切に、親孝行はせよ、といった両親を大事にする教えが数多くなります。 その理由は明快です。親は子供を育てるために、自分の身を削ってまでも必死となって尽くすからだ、といいます。明快ですね。今の私たちがこうして生きていられるのも親の「お陰」である。だから大切にしないといけないのです。と明快にお釈迦さまは説かれます。 ●2.もしも両親を粗末にすると・・・ 反対に、両親を粗末にする場合、特に親を殺害した場合、大変な罪になるようです。その罪は極めて大きく、死後、最悪の地獄(無間地獄)へ行くとあります。これは相当怖いです。 「五逆罪」という罪があります。五逆罪とは、 1.母親を殺害する 2.父親を殺害する 3.ブッダを殺害する 4.ブッダに怪我を負わせる 5.正しい仏教教団を破壊(分裂)させる という罪です。これらを犯すと、悟りを得ることができなくなり、死後、必ず無間地獄へ行くと経典には書いてあります。両親、殊に、母親を殺害することは大変な罪のようです。ブッダを殺害するよりも罪が重たいともいいます。 ちなみに無間地獄(むけんじごく)は、1劫(ごう)という時間の間、存在しつづけるようです。1劫とは43億2000万年 といいます。43億2000万年の間、地獄にいることになるそうです。 ・・・・悪いことはしたくないですね。 ●3.両親との絆 怖い話しになりましたので、ちょっとここでファンタジーのようなお話を。 両親とは絆が強いわけですが、パーリ経典にとてもジーンと来る両親に関するお経があります。それは、あなたが今の両親の元に子供として生まれてくる回数はどれくらいでしょうか?という問いかけです。 今の両親の元に生まれてくる回数です。 この問いを聞くと、「え?」と思いませんか?今の両親の元に生まれてくる回数です。 そもそも、今の両親と同じ両親の前世ってあるの?と思いますよね。 ところがお釈迦さまは腰を抜かすようなことをおっしゃいます。 今の両親と同じ両親の元に生まれてきた回数は、大地の土の数よりも多い、というのです。 茫然自失・・・ 開いた口がふさがらなくなります。 なんという膨大な数なのでしょうか。確率からいっても、同じ両親の元に生まれてくるのは極めて少ないはずです。その少ない確率ですら、膨大な回数だと言うのです。 一体、人間の輪廻転生の数はどれくらいなのでしょうか。無限に近い回数ということはなんとなく分かるでしょう。 仏教の輪廻転生とは、このようにスケールが途方も無く大きなものです。 そうして、同じ両親の元に生まれてくる回数、この話し、どこかで聞いたことがありますよね。輪廻する回数の例えです。 輪廻の数もさることながら、「同じ両親の元に生まれてくる回数」も膨大だというこの教え。本当に、人の輪廻の回数は、気が遠くなるほど膨大なことが分かりますよね。なぜなら、同じ両親の元に生まれてくる回数すら、膨大なのですから。 ですが、このお釈迦さまのお話から、両親との絆はいかに深いかが分かると思います。両親との縁とは、信じられないくらい深く、いわば自分の一部のような存在なのでしょう。 ですので両親を殺害する罪が重たくもなるのかもしれません。 今のあなたの両親、過去世でも数え切れないくらい「両親」だったわけです。今と同じ職業や性格でなかったでしょうが、この絆は、来世においても再び結晶化していきます。いつかどこかで、再び、同じ両親の元に生まれてきます。 そう考えますと、両親とは「多生の縁」ではなく、「自分の一部」のような存在だと思います。 ●先祖や親が霊障になっている? 世間には、先祖が霊障を起こして子孫を苦しめている、運を悪くしている、問題の原因とといった教えを説くところもあります。しかし、お釈迦さまの言葉を鑑みますと、こういう考え方はいただけません。両親のそのまた両親である先祖が祟っているとか、霊障になっているというのがはちょっと酷い考え方です。先祖や両親を粗末(悪者扱い)しかねない考え方です。 確かに霊障といわれる似たケースが起きることもあるようです。しかしそれは稀です。本当が霊障ではなく餓鬼の関与です。 先祖や親はありがたい存在です。自分と絆の深い存在です。大事にしましょう。大切にしましょう。 いつか再び、また親子として巡り会います。またお世話になる方です。今度巡りあったとき、今生以上に大切に育てていただき、健全に育っていきたいものです。両親は本当に大切にする必要がありますね。大切にしましょう。 原始仏教で説かれる両親についてを知ったとき、感謝する気持ちで一杯になりました。この教えをもっと早くから知りたかったとも思いましたが、気付くに遅すぎることはないですね。精一杯の親孝行はしたいものです。 |
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●あなたの前世は何?
よく「あなたの前世は、どこどこで○○をしていた」と聞きますよね。そして大抵は「人間」の生活を述べます。 しかし本当の前世には、必ず「六道輪廻」の生命形態が出てくるものです。 生命は六道を輪廻しています。六道輪廻とは、 神、人間、阿修羅、餓鬼、動物、地獄 この6つをいいます。六道輪廻とは、「生命の形態」でもあります。実は全て、リアルに存在する生命なのです。 心の状態とか、境涯とかではなく、実在している生命なのです。本当に存在しているのですね。 ですので六道輪廻とは、この6つの生命の形態をグルグルと輪廻しているわけです。 人間は死後、人間に生まれ変わるという保証はなく、生前の行い(業)によって、六道のいずれかに必ず行きます。ノンストップです。死後、すぐに別の生命に転生します。 幽霊のようにさまよっていることはありません。すぐに別の生命に転生していきます。輪廻とは決して止まることの無い生命の循環になります。 ですから、あなたの前世は、神、人間、阿修羅、餓鬼、動物、地獄のいずれかの可能性があるのですね。決して「人間」だけではないのです。 したがって前世を透視する話しを聞いた場合、必ず六道輪廻の形態が出てくるのが本当です。もしも人間の時代の話ししか出ていない場合は不正確です。あるいは妄想や空想の可能性があります。 仏教の修行には「宿命通」と言って、前世を見通せるようになる修行があります。これを実際に体得した方の話しを聞きますと、前世は人間の時代だけでなく、動物(虫)、地獄、餓鬼、神、人間、といった生命であった時代をも見ることがあるようです。 前世が、海岸にうごめくフナムシだったという方もいます。これは妄想ではなく、実際に修行をして前世を見ている僧侶の話です。地獄に墜ちて40億年以上もただ「熱い熱い」と苦しみ続けた前世を見た方もいます。 リアルな前世とは、こういうものです。必ず六道輪廻を回っていることを発見し気付くようです。 仏教は体験主義であり、お釈迦さまだけでなく、その弟子達も追体験したものであることは、すでに述べています。 前世もそうです。 そうして本当に前世を見れば、過去世において人間だけでなく、動物や虫であったり、餓鬼であったり、時には梵天という神であったり、様々な生命の形態であったことが分かるようです。 ですから、よく「前世を見た」という話しなどもありますが、この体験が全て人間であるなら、眉唾の可能性が高くなります。 また先述の通り「霊」と言われる存在はありません。霊とは、六道輪廻にある生命を通俗的にとらえた表現になります。 |
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●生命はゴールの無い輪廻転生RPG(ロールプレイングゲーム)
このように生命が輪廻する六道輪廻の世界を垣間見てきました。地獄から餓鬼、畜生、阿修羅そして人間、天界(六欲界・色界・無色界)。 この六道をグルグルと回り続けているのが生命です。生命はゴールの無い輪廻転生RPG(ロールプレイングゲーム)のようです。 ゲームのRPGでは、主人公の勇者ロトは、モンスターを倒して経験値やMPをアップさせて、最後にはラスボスを倒してハッピーエンドで終わります。最後にファンファーレが流れてゲーム終了。主人公のHPを999までマックスに高めたりしてラスボスを倒して万感の思いにふけったりもします。 しかし人生は、終わりの無い、ゴールの無い輪廻転生です。善行を重ねて天界へと人間界を往復し、色界梵天や、無色界梵天の最高位に達しても、善業パワー(HP)はだんだんと減っていって、やがて人間以下に再び転生していきます。 善業(HP)は減っていますので、再び主人公は善業(HP)の経験値を積んでレベルアップしていきます。仮にレベル99のHP999になって、再び梵天になっても、善業が無くなればエネルギー切れで、また人間以下に戻って経験値を積んで・・・ この繰り返しです。隠し部屋的な「浄居天(じょうこてん)」に行けば、死後、涅槃に入れます。しかし浄居天に入る方法は仏法によるしかありません。普通に輪廻をしていれば、浄居天を発見しても、その部屋に入るカギが無いため入れません。 天界の幸運、幸福は人間の何千倍という大幸福感なわけですが、いつか天界での寿命も尽きて、善業も減って人間へ逆戻り。人間となって苦楽を味わいながら善行ができればいいのですが、実際は、悪心を起こして天界どころが地獄へ行ってしまうことも出てくるでしょう。 不確実性な輪廻。予想外、想定外の出来事に遭遇して輪廻を続けます。しかも厄介なことに、業(カルマ)は七分割されて、七世にわたって影響も及ぼします。 どこにトラップがあって、どんなカルマの結果を受けるか分からない人生。こうした輪廻をグルグルと無限に近い数、続けていると、ブッダを指摘します。 ため息の出そうな輪廻の旅です。 ですから仏教では、輪廻の鎖を断ち切り、涅槃へ赴くことを提唱します。輪廻の話しは、仏教圏でも説かないところもあります。また説かない比丘・僧侶もいます。タイは国家的に仏教が定められている影響もあって、生まれ変わり(輪廻転生)を説かないところもあります。輪廻を別の意味に置き換えて説明することもあります(転生を遠回しに否定もします)。一方、ミャンマーでは輪廻転生が前提です。生まれ変わりは当たり前として説いていく傾向です。 このように国のよっても輪廻転生の扱いは違ってきます。 しかし生まれ変わりは実在していると思います。転生が無いとするなら、この人間、生命の個性や違いをどう説明するのでしょうか。人間に生まれて、自己に気付いたとき、「自分はどこから来たのだろうか」という素朴な感慨を抱く人は多いでしょう。 生命は連続し続ける存在であり、死後もまた別の生命に瞬時に転生し、存続しつづけていきます。輪廻は存在します。転生は存在します。 そして不確実性過ぎる輪廻転生から脱出するために仏教があると言っても過言ではないでしょう。 |
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●二河白道 | |
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極楽浄土に往生したいと願う人の、入信から往生に至る道筋をたとえたもの。「二河」は南の火の川と、北の水の川。火の川は怒り、水の川はむさぼる心の象徴。その間に一筋の白い道が通っているが、両側から水火が迫って危険である。しかし、後ろからも追っ手が迫っていて退けず、一心に白道を進むと、ついに浄土にたどりついたという話。 煩悩にまみれた人でも、念仏一筋に努めれば、悟りの彼岸に至ることができることを説いている。 |
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●みづから一念発心せんよりほかには 三世諸仏の慈悲も済ふこと能はざるものなり | |
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●地獄
1 仏教における世界観の1つで最下層に位置する世界。欲界・冥界・六道、また十界の最下層である。一般的に、大いなる罪悪を犯した者が、死後に生まれる世界とされる。奈落迦、那落迦、捺落迦、那羅柯などと音写される。奈落迦が転訛して奈落(ならく)とも音写されるが、これが後に、演劇の舞台の下の空間である「奈落」を指して言うようになった。 サンスクリットのNiraya(ニラヤ)も地獄を指す同義語であり、こちらは泥犂、泥黎耶と音写される。 六道の下位である三悪趣(三悪道とも、地獄・餓鬼・畜生)の1つに数えられる。あるいは三悪趣に修羅を加えた四悪趣の1つ、また六道から修羅を除く五悪趣(五趣)の1つである。いずれもその最下層に位置する。 日本の仏教で信じられている処に拠れば、死後、人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔をはじめとする十王の7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる。 こうした地獄の構造は、イタリアのダンテの『神曲』地獄篇に記された九圏からなる地獄界とも共通することがたびたび指摘される。たとえば、ダンテの地獄には、三途の川に相当するアケローン川が流れ、この川を渡ることで地獄に行き着くのである。 『古事記』には地獄に似ている黄泉国が登場する。ただし、『日本書紀』の中に反映されている日本神話の世界では、地獄は登場しない。代わりに小野篁が地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説や、日蔵が蔵王菩薩の導きで、地獄へ行き罰をうける醍醐天皇とその臣下に逢う説話などが残されている。 ●地獄の色 東アジアの仏教では、地獄の色は道教的に、あるいはその影響を受けた陰陽道的に「黒」で表す。餓鬼は赤、畜生は黄、修羅は青、この三色を混ぜると地獄の黒になると言われる。また、節分で追われる赤鬼、黄鬼、青鬼はここから来ている。 ●種別 衆生が住む閻浮提の下、4万由旬を過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各2万由旬ある。 この無間地獄は阿鼻地獄と同意で、阿鼻はサンスクリットaviciを音写したものとされ、意味は共に「絶え間なく続く(地獄)」である。阿鼻地獄は一番下層にあり、父母殺害など最も罪の重い者が落ちる。そこへの落下に二千年も要し、四方八方火炎に包まれた、一番苦痛の激しい地獄である。 その上の1万9千由旬の中に、大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の7つの地獄が重層しているという。これを総称して八大(八熱)地獄という。これらの地獄にはそれぞれ性質があり、そこにいる衆生の寿命もまた異なるとされる。 また、この八熱地獄の4面に4門があり、門外に各4つの小地獄があり、これを合して十六遊増地獄という(四門地獄、十六小地獄ともいう)。八熱地獄と合せば百三十六地獄となる。また八熱地獄の横に八寒地獄または十地獄があるともいわれる。 また、山間廣野などに散在する地獄を孤独地獄という。 ●地獄思想の成立 元々は閻魔大王、牛頭、馬頭などの古代インドの民間信仰である死後の世界の思想が、中国に伝播して道教などと混交して、仏教伝来の際に日本に伝えられた。 そのため元来インド仏教には無かった閻魔大王を頂点とする官僚制度などが付け加えられた。その後、浄土思想の隆盛とともに地獄思想は広まり、民間信仰として定着した。 地獄は、日本の文化史の中では比較的新しいもので、これが特に強調されるようになったのは、平安時代の末法思想の流行からのことと思われる。この流行の中で恵心僧都源信がまとめたのが『往生要集』である。 地獄思想の目的は、一つには宗教の因果応報性であり、この世界で実現されない正義を形而上世界で実現させるという機能を持つ。 神道では、江戸後期に平田篤胤が禁書であったキリスト教関係の書物を参考にして、幽明審判思想を考案した。すなわちイエスの最後の審判のように、大国主命(おおくにぬしのみこと)が、死者を「祟り神」などに格付けしてゆくという発想である。 |
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●地獄 2
僧こたへていはく、六道を知らぬ人や候ふべき。今の世には五つ六つの幼きもの、いやしき下臈などもみな知りたるなり。しかれども、仏の御前にて、知りながら、よも問ひ給はじ、と思へば、かつがつ申すべし。六道と申すは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上これらを申すなり。無始生死よりもろもろの仏の利益にもれて、鳥の林をはなれず、車の庭にめぐるがごとくにして、六道に沈淪するは、仏法の宝をまうけざりしゆゑなり。法華経に、 墜堕三悪道 輪廻六趣中 とのべ給へり。この心は、三悪道におちて、六趣に輪廻す、とのたまへるなり、とかたりければ、この女、地獄・餓鬼・畜生のありさまこそ聞かまほしく候へ、といひければ、六道の事は、恵心僧都の一代聖教をひらいてえらび給ひつる、往生要集と申すものにこまかに記されたり。いまだ見給はずや。をろをろ申すべし。 ● 第一に地獄といふは、この閻浮提の下、一千由旬にあり。等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻大城なり。これを八大地獄といふなり。これにまたおのおの十六の別所を具したり。総じて一百三十六地獄なり。この山中海辺にも地獄あり、とぞ倶舎と申す文には見えたり。まことにさるやらん。越中国立山の地獄より、近江国愛智の大領と申すもののむすめが、山臥にことづけて親のもとへもの申しけるは、おほかた地獄の苦しみは、たとへを取るとも、百千万億の中に一も申しのべがたし、とぞいひおこせける。されば、仏も地獄の苦しみをくはしくとるは、聞かんものみな血をはきて死ぬべし、とぞのたまひける。 まづ、地獄のありさまをいふに、天には七重の網をはり、地には鉄城かたくとぢたり。熱鉄さかんにして、四面に刀林のやきば鋭くして、阿防羅刹のいかれるすがた見るに心まどひ、牛頭・馬頭のはげしきこゑ聞くにきもをうしなふ。天にあふげば、つるぎの林の葉ふりくだりて、まなこをさしやぶる。地にうつぶせば、猛火燃え出でて口に入る。なかむとすれば涙おちず。さけばんとすれども、こゑ出でず。須臾刹那の程も、くるしみならぬ隙なし。されば無隙とは、ひまなしとかけり。一日ならず、二日ならず、無量無数劫の間、くるしみを受く。一種ならず、二種ならず、百千万のかなしみしのびがたし。阿鼻大城のくるしみ、なかなか申すにをよばず。さかさまにおつる事、二千年なり。地獄のふかき事はこれにて知るべし。このくるしみを受くる間は、一中劫なり。一劫と申すは、たかさ四十里、ひろさ四十里の石を、三朱の天衣とて、きはめてかろき天の羽衣にて三年に一たびづつなづるに、紙一枚のあつさほどつぶるなり。これをみななでつくしてある時を、一劫といふなり。この間苦患をうけん事、申すもなかなかおろかなり。 されば、金峯山の日蔵上人、無言断食しておこなひけるあひだに、秘密瑜伽の鈴をにぎりながら、死に入りたりけるに、地獄にて延喜の帝にあひたてまつりければ、御門のたまひけるは、地獄に来たるものはかへる事はなけれども、なんぢはよみがへるべきものなり。我、父の寛平法皇の命をそむきたてまつる。無実によつて菅原右大臣を流したりし罪のむくひに、地獄におちて、苦患をうく。このよしを我が皇子にかたりて、このくるしみをすくふべし、とおほせければ、かしこまりてうけたまはりけるを、御門のたまひけるは、地獄にては罪なきものをもつて、あるじとす。上人われをうやまふことなかれ、とおほせありけるこそ、いとかなしくはおぼえ侍りけり。 されば、高岳の親王、かくぞよみ給へる、 いふならく奈落のそこにおちぬれば刹利も首陀もかはらざりけり この歌おもひあはせられて、あはれなり。 地獄のゑ、かきたる屏風を見て、和泉式部がよめる、 あさましやつるぎの枝のたはむまでこはなにのみのなれるなるらん |
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●和泉式部 「金葉和歌集」
和泉式部石山に参りけるに、大津に泊まりて夜ふけて聞きければ、人のけはひあまたしてのゝしりけるを尋ねければ、下人の米白げ侍るなりと申しければよめる 鷺のゐる松原いかに騒ぐらんしらげはうたて里響(さとゝよ)むなり (夜中、あまりに騒がしいから、起きて質すと、下層の女たちが、精米作業をしているというので。白鷺が琵琶湖岸の松原で寝ているだろうに、起きてしまうのではないかしら、心配だわ。以前の炭焼きを取り込んだ歌といい、この農婦に対する詞書といい、貴族階級の一般庶民に対する意識が、ここにもよく出ている。なお、江戸時代を迎えるまでは、職業分化は緩慢であった。しら(白)げば=一説に、夜が「白げ」に鷺の「白毛」をかける。さと=「里」に擬声語「さと」(わっと)をかける。とよ(響)みけり=『古語辞典』見出し語「とよむ」に、「響む、動む」が当てられる。「鳴り響く。響きわたる。大声をあげて騒ぐ。騒ぎたてる。」 派生形の「どよめく」「どよもす」は、現代語に残る。新潮版頭注によると、平安末期から濁音化した。) 小式部内侍亡せて後、上東門院より年ごろ賜はりける衣を亡きあとにもつかはしたりけるに、小式部と書き付けられて侍けるを見てよめる もろともに苔の下にも朽ちもせで埋(うづ)まれぬ名を見るぞ悲しき (一緒に苔の下に朽ちることなく、私ばかりが生き残ってしまって、埋もれることのない娘の名を見ることが悲しいのです。小式部内侍は生前上東門院(藤原彰子)に仕え、毎年衣を賜わっていたが、死んだ後も例年通り下賜された。その衣に小式部内侍の名が書き付けられていたのを見て詠んだ歌。亡骸は埋れて目に見えなくなっても、死者の名は埋れることなく目に触れ、悲しい追想を誘う。) 地獄絵に剣の枝に人の貫かれたるを見てよめる あさましや剣(つるぎ)の枝のたはむまでこは何の身のなれるなるらん (なんてひどい。剣の枝がたわむ程に身を貫かれて、これは一体どんな罪を犯した人がこうなったのであろう。「つるぎの枝」とは、地獄に生えているという剣の樹の枝。「つるぎ」に木を、「身」に実の意を掛け、「枝がたわむほど何の実がなったのか」の意を兼ねている。) |
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