第18回 東京オリンピック

昭和39年 社会人になる
先輩に連れられ 毎日 「営業」のイロハ
お客と先輩のやりとり 脇から見て覚える 知る

秋のある日 「今日は初台のお客に挨拶に行くよ !」 「ハイ」

初台の駅から甲州街道まで 人混みを歩く
先輩 「この辺でいいかな ?」
しばらく待つと マラソンの円谷選手を応援することができた

気さくな先輩に感謝した
 


 
 
●第18回オリンピック競技大会 
1964年(昭和39年)10月10日(後の体育の日)から10月24日までの15日間、日本の東京で開かれたオリンピック競技大会。一般的に東京オリンピックと呼称され、東京五輪と略称される。公用文では第十八回オリンピック競技大会の表記もみられる。
1940年東京オリンピックの開催権を返上した日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、当時は「有色人種」国家における史上初のオリンピックという意義を持っていた。また、アジアやアフリカにおける植民地の独立が相次いだこともあり、過去最高の出場国数となった。
歴史的には、1952年のヘルシンキ(フィンランド)、1960年のローマ(イタリア)に続いて旧枢軸国の首都で開催されたオリンピックでもあり、1940年東京オリンピックの開催権を返上した後に参戦した第二次世界大戦で敗戦したものの、その後急速な復活を遂げた日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持つとされる。
開会式は10月10日、閉会式は10月24日に行われた。開会式の10月10日は、1966年(昭和41年)以降「体育の日」として親しまれるようになったが、「体育の日」は2000年(平成12年)より10月の第2月曜日となった。

10月21日 陸上競技マラソンでアベベの優勝、史上初の連覇。円谷幸吉が銅メダル。  
●聖火
1964年8月21日にギリシャのオリンピア・ヘラ神殿で採火式が行われた。その後、アテネ(ギリシャ)、イスタンブール(トルコ)、ベイルート(レバノン)、テヘラン(イラン)、ラホール(パキスタン)、ニューデリー(インド)、ラングーン(ビルマ)、バンコク(タイ)、クアラルンプール(マレーシア)、マニラ(フィリピン)、香港(当時はイギリス領)、台北(中華民国台湾)、沖縄(当時はアメリカ合衆国の統治下)と、第二次世界大戦で日本軍が、それらの地域を植民地として支配していたヨーロッパ諸国やアメリカの軍隊と戦った地域を通り、平和のための聖火リレーを印象づけた。
アテネから沖縄までの各地は日本のフラッグキャリアの、日本航空のダグラスDC-6B、コンベア880M によって運搬された。
那覇から国内各地への輸送には、日本国産旅客機である日本航空機製造YS-11が使用された。その時の機体には「聖火号」と名づけられた。鹿児島市、宮崎市、千歳市の3カ所から聖火リレーが行われた。
1964年9月7日に日本国内最初の地として沖縄に到着した聖火は、第一ランナーの宮城勇や戦災遺児ランナーの金城安秀を多くの日の丸の小旗が応援した。アメリカ合衆国の統治下の沖縄では、日の丸は祝祭日以外は掲げられなかったが、聖火歓迎は日の丸の小旗で埋まった。
聖火リレーには、輪島大士、貴ノ花利彰、三遊亭小遊三、谷沢健一、山崎裕之(いずれも当時は中学生もしくは高校生)などの後の著名人もランナーとして参加・力走している。
聖火の最終ランナーは、1945年(昭和20年)8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属、後にフジテレビ社員)であった。原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。なお、本来は陸上選手の後藤(後に東京海上火災の社員)が走る予定であったが、「原爆投下の日に生まれた」というエピソードからぎりぎりで坂井に変更された。
聖火ランナー総数は、10万713人だった。
火の一部は大会終了後も鹿児島県立青少年研修センターにて希望の火として、職員らの手で2013年まで保管され続けた。
雨などで火が消えた際に備え予備の聖火をランナーの追走車に乗せることになったが、当時の日本は道路状況が悪く振動で消えることが予想されたため、予備の火を灯したランプは出前機に乗せられた。
9月25日の大阪(兵庫県庁-大阪府庁、29区間約40km)のルートは台風20号の接近により中止され、聖火は乗用車で輸送された。10月1日に西宮市教育委員会の配慮で走者を陸上競技場に集め模擬聖火リレーが開催されている。2020年に甲陽学院OBによりプロジェクト56年目のファーストランを計画している。  
 
 
オリンピックというと
すぐに この思い出が浮かぶ
 
 
社会経験のない若僧
先輩のやさしさ 気遣いを知る
 
 
その後も いろいろ教わる
営業 人間関係の上に成り立つもの
スタートは信頼関係づくり
商品 性能 良くて当たり前 
自分のスタイル
職人の世界 時代
技術と情報 理論理屈を商品にする
 
 
アベベ優勝 史上初の連覇
円谷幸吉 銅メダル
 
 
メキシコシティ五輪の開催年となった1968年(昭和43年)の、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自殺した。27歳没。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に
幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」
の言葉は、当時の世間に衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。さらに、同年のメキシコシティ五輪男子マラソンで銀メダルを獲得することになる君原も、大きなショックを受けたという。
川端康成は、円谷の遺書について、「相手ごと食べものごとに繰りかへされる〈美味しゆうございました〉といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り、「千万言も尽くせぬ哀切である」と評した。当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など様々な憶測が語られたが、三島由紀夫はこれらの無責任な発言に対し『円谷二尉の自刃』の中で、「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」と強い調子で批判し、最後に、「そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、“青空と雲”だけに属してゐるのである」と締めくくった。また、沢木耕太郎は「円谷の遺書には、(円谷が)幼いころ聞いたまじないや不気味な呪文のような響きがある」と述べている。
円谷と接した人は口を揃えて、まじめで責任感が強く礼儀正しい好青年だったと評する。人一倍の努力家であり、責任感も強かった、その性格はしばしば自らの不成績を責めるというかたちになって現れ、それを克服するためにオーバーワークを招きがちだったことが、自殺という悲劇につながったとする見方も強い(当時の日本陸上界は技術論より精神論を至上とすることがまだまだ多く、本人の意思にかかわらず過度の練習を美徳とする関係者の慣習もあった上、メンタル面でのサポートやケアなどは考えられていなかった)。また沢木耕太郎は上記の自著の中で、1968年の正月に帰郷した際に(上官のために破談に追い込まれた)かつての元婚約者が別の男性と結婚した事実を知ったことも、円谷が自殺に至った直接の引き金になったのではないか、という推論を述べている。
また後年、ピンク・ピクルスにより円谷の苦悩を描いた曲「一人の道」が発表された。
出身地の須賀川市では、業績を偲んで毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。また、実家には幸吉の没後に家族の手で開設された「円谷幸吉記念館」があったが、遺族の高齢化により、2006年(平成18年)6月に展示品を市に寄贈したのち秋に閉館した。その後、市によって市営須賀川アリーナに展示コーナーが設置され、2006年(平成18年)10月の「円谷幸吉メモリアルマラソン」開催記念の特別展示を経て、2007年(平成19年)1月7日より「円谷幸吉メモリアルホール」として正式に公開された。
円谷幸吉の自殺は日本のスポーツ史に最大級の痛恨事として記されている。円谷の悲劇の後、日本オリンピック委員会や一部競技統括団体では、オリンピック出場選手などのアスリートに対するメンタルサポートやメンタルヘルスケアが実施されるようになっているが、これは円谷の自殺が契機となった苦い教訓の産物でもある。
2020年3月12日、郡山市で行われた東京五輪マラソン代表選手らの記者会見を前に、選手関係者らによる墓参が行われた。  
 
 
バレーボール
東洋の魔女 大松博文監督
 
 


2020/3