寒月 月になった兎

3/13 寒空を見上げる きれい 満月か

兎の餅つき  月になった兎
童話 子供のころを思い出す

翌日 3/14 一転 雪が降る


寒月蕪村1蕪村2月になった兎1兎2兎3兎4兎5兎6-10兎11-15兎16-19
今昔物語集嫦娥1嫦娥2嫦娥3嫦娥4孟姜女孟姜女伝説1伝説2伝説3・・・
妙光寺・・・
 
 
  

●寒月
晩冬(2月〜3月上旬当たり)の季語。厳寒の空にさえざえとある月。満月に近い寒月の夜は、冷たい月光が降り注ぎ建物の影や自分の影が地面に黒々と落ちる。いよいよ寒さが身に滲みて、帰宅の足も自ずと早まる。
   寒月や開山堂の木の間より  蕪村
   寒月や門を敲ば沓の音  蕪村
   寒月や僧に行き合ふ橋の上  蕪村
   寒月や我ひとり行橋の音  太祗
   寒月の門へ火の飛ぶ鍛冶屋かな  太祗
   寒月に照りそふ関のとざしかな  几董
   寒月や喰ひつきさうな鬼瓦  一茶
   寒月のおおいなるかな藁廂  星野立子
   同じ湯にしづみて寒の月明り  飯田龍太  
●蕪村と「月」
春月や印金堂の木の間より
寒月や開山堂の木の間より
寒月や門なき寺の天高し
寒月や鋸岩のあからさま
寒月や枯木の中の竹三竿
寒月や衆徒の群議の過て後
寒月や門をたたけば沓(くつ)の音
寒月や僧に行き合ふ橋の上
瀟湘の雁のなみだやおぼろ月
女倶して内裏拜まんおぼろ月
藥盜む女やは有おぼろ月
よき人を宿す小家や朧月
さしぬきを足でぬぐ夜や朧月
おぼろ月大河をのぼる御舟(ぎよしう)かな
夜水とる里人の声や夏の月
堂守の小草ながめつ夏の月
ぬけがけの浅瀬わたるや夏の月
河童(かはたろ)の恋する宿や夏の月
名月や雨を溜たる池のうへ
名月やうさぎのわたる諏訪の海 
名月や露にぬれぬは露斗(ばか)リ
名月や夜は人住ぬ峰の茶屋
名月や神泉苑の魚躍る
名月にゑのころ捨る下部哉
仲丸の魂祭せむけふの月
かつまたの池は闇也けふの月
花守は野守に劣るけふの月
盗人の首領歌よむけふの月
後の月鴫たつあとの水の中
後の月かしこき人を訪ふ夜哉
水かれて池のひづみや後の月
山茶花の木間見せけり後の月
十月の今宵はしぐれ後の月
三井寺に緞子の夜着や後の月
唐人よ此花過てのちの月
五月雨や大河を前に家二軒
五月雨や御豆(みづ)の小家の寢覺がち
五月雨や滄海を衝(つく)濁り水

茸狩りや頭挙ぐれば峰の月
静かなるかしの木はらや冬の月
宗任に水仙見せよ神無月
初雪の底を叩ば竹の月
罷出たものは物ぐさ太郎月 
長き夜や通夜の連哥のこぼれ月
八朔や扨明日よりは二日月 
旅人よ笠嶋かたれ雨の月
雛祭る都はづれや桃の月

さくら散苗代水や星月夜
花火せよ淀の御茶屋の夕月夜
尼寺や能キかやたるゝ宵月夜
水仙に狐あそぶや宵月夜  
しら梅の枯木にもどる月夜哉
傘(からかさ)も化(ばけ)て目のある月夜哉  

梨の花月に書ミよむ女あり
菜の花や月は東に日は西に
藻の花や片われからの月もすむ
一輪の月投入れよ谷の水

泊る氣でひとり来ませり十三夜
身の闇の頭巾も通る月見かな
欠け欠けて月もなくなる夜寒哉
角文字のいざ月もよし牛祭
霜百里舟中に我月を領す
風雲の夜すがら月の千鳥哉
冬こだち月に隣をわすれたり
古傘の婆裟と月夜の時雨哉
牙寒き梁の月の鼠かな 
月今宵あるじの翁舞出よ
瓜小屋の月にやおはす隠君子
春雨やいさよふ月の海半(なかば)
水一筋月よりうつす桂河
中々にひとりあればぞ月を友
月天心貧しき町を通りけり
山の端や海を離るゝ月も今
庵の月主をとへば芋堀に
月見ればなみだに砕く千ゝの玉
一行の鴈や端山に月を印す
四五人に月落ちかゝるをどり哉
月に聞て蛙ながむる田面かな
歸る雁田ごとの月の曇る夜に
月に対す君に唐網(とあみ)の水煙
雨後の月誰ソや夜ぶりの脛白き
小田原で合羽買たり皐月雨
月今宵松にかへたるやどり哉
冬の月、寒の月、寒月、月冴ゆる
「月」は秋の季語だが、「冬の月」は身震いするような感覚や煌々と空にある月の様子が句に詠まれ、厳しさを加えている。江戸時代の歳時記では、「冬の月」は三冬(初冬、中冬、晩冬)、「寒月」は旧暦11月(新暦12月)の月としているが、実作例の時期はさほど厳密なものではない。空気が乾燥した冬の時期、夜空に冴え渡っている月であれば「寒月」としいい、という意見もある。
春の月
蕪村はおぼろ月を多く詠むが、春の月は次の一句のみである。
   春月や印金堂の木の間より
印金堂はインコンドウと読む。山城葛野郡妙光寺の山頂にあるという。この句は新古今和歌集の撰者の一人藤原雅経という人の和歌によるのだろうか。
   尋ね来て花に暮らせる木の間より 待つとしもなき山の端の月 
蕪村の句では、桜とは言わない。しかし、「木の間より」ということで、桜を想起させる。  
与謝蕪村 1 
[享保元年 - 天明3年(1716-1784)] 江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。
摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれた。京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子が蕪村とする伝承と、げんの墓が残る。同町にある施薬寺には、幼少の蕪村を一時預かり、後年、丹後に戻った蕪村が例として屏風絵を贈ったと口伝されている。
20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事して俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。
寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(現:茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲(俳号:竹渓)に招かれたもので、同地の俳人(真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴ら)と交流。『はしだてや』という草稿を残した。宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る(徐福を画題とした施薬寺所蔵『方士求不老父子薬図屏風』、江西寺所蔵『風竹図屏風』)。一方で、与謝野町の里人にせがまれて描いた絵の出来に後悔して、施薬寺に集めて燃やしてしまったとの伝承もある。
42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。
現在の京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。絵は独学であったと推測されている。
与謝蕪村 2
   秋もはや其の蜩(ひぐらし)の命かな
   立ち聞きのここちこそすれ鹿の声
   蜻(こほろぎ)や相如が絃のきるる時
秋の始まりの句だ。「其の蜩」は「その日暮らし」とも読めて、「その」が効いている。「相如が絃」は司馬相如が卓文君の恋情をもよおして弾いた琴のこと、その絃がぷつりと切れたかのようにコオロギが鳴きやんだという一瞬の趣向である。虫の音というもの、ずっと鳴いているときよりも、ぷつんと途絶えたときに、こちらの耳がぴくんと動く。こういう句を見ていると、蕪村は耳の人でもあったなと思えてくる。そうなのだ、蕪村は案外に耳の人なのである。雲裡が再興した幻住庵に暁台が旅寝をしているところに蕪村が寄ったとき、蕪村は「丸盆の椎に昔の音聞かむ」と詠んでいる。暁台の言葉も丸盆の椎の木目も、蕪村には音なのである。耳なのだ。大坂の松濤芙蓉花を訪れたときは詞書きを「浪花の一本亭に訪れて」として、「粽(ちまき)解いて蘆吹く風の音聞かん」と詠んだ。蕪村は耳を注ぐ。耳を傾けるのではなく、注ぐ。秋の句ではないが、「うぐひすの二声(ふたこえ)耳のほとりかな」や「うぐひすや耳は我が身の辺りかな」があった。鴬が耳に、耳が鴬になっていて、その耳と鴬のあいだの僅かな消息が動いている。その消息を聞く。そこには「耳のほとり」「耳のあたり」という微妙の界域がある。蕪村が耳の人だと思えたのは、このときだった。左脳でコオロギを聞いている日本人とかというケチな話ではない。これはレオノーラ・カリントンの『耳ラッパ』なのである。
一般には蕪村は目の人だと思われてきた。そう、むろん目の人である。ただし、この目にはいろいろの目がある。多様極上の目の人なのである。耳の蕪村が耳を注ぐのに対して、目の蕪村はゆっくりと全景をうけとめる。大きく見て、じっと捉える。あるいは較べる。この大きい目が捉えた句は他の俳人の追随を許さない。この大きさは、「菜の花や月は東に日は西に」や「さみだれや大河を前に家二軒」で知られてきたように、子供でもすぐわかる。その大きさにたまげる。わが国には古来より“日月図”というものがあるけれど、菜の花を前にして東の月と西の入り日を同時に描いた者など、いなかった。『山家鳥虫歌』に「月は東に昴は西に、いとし殿御は真ん中に」という俗曲があるけれど、まあ、そのくらいだろう。大河に吸いこまれるように降りつづける細い雨の全景に、二軒の家を配した者も、いなかった。これは水墨山水画そのものだ。しかし蕪村は、この大きさの肯定で終わるのではない。同じ菜の花や五月雨の印象を別のものにも変えていく。蕪村を知るには、むしろその変化も感じることである。たとえば、こうである。
   菜の花や鯨もよらず海暮れぬ
   さみだれや名もなき川のおそろしき
鯨のいない海。名前がついていない川。ここにはいわば「不在の大きさ」や「名ざせぬものの大きさ」が見えていて、さらにたまげる。蕪村にとっては、大きさと小ささ、遠さと近さは同じ目に写る世界なのである。存在と不在は同時に見えるものなのだ。ここには「負の蕪村」がいる。この「負の蕪村」こそがぼくが最近になって強調している蕪村なのであるが、そのことについてはここではふれないでおく。『山水思想』に指摘した「負の山水」についての見方を読んでもらいたい。一言だけいっておくと、ぼくはかつて、「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」に接したときに、一切を了解できたのだ。この人には「不在の存在学」があるということが――。つづいて、この句とともに次のような句をノートに抜き出して並べて、またまた深い溜息をついたものである。そのノートをさきほど引っ張りだしたら、こう、並んでいた。
   凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ
   秋の空きのふや鶴を放ちたる
   月天心貧しき町を通りけり
   欠けて欠けて月もなくなる夜寒かな
第1句。空を見上げても何もない。けれどもその空のあのあたりに、いや、そこに、昨日は凧が上がっていた。それが「きのふの空のありどころ」である。第2句。空を見ていると青空が広がっている。けれども昨日は、この空の只中に一羽の鶴が悠々と放たれていた。これが前2句の「見えないものが見えてくる観望」というものだ。後2句は、もう少し手がこんでいる。第3句が、ここには月光すべてがあからさまなのに、その月の光を浴びている町は何も答えていないという感興であり、第4句は、今夜は新月なのに、数日前からそこには月が欠けていって、いまさっきその月が欠けきって、心に染みるような夜寒だけが残ったという感興。これらは「負の存在の詠嘆」である。「負の視像の存在学」である。こういう句は蕪村にしか作れない。
大きい蕪村に驚いてばかりいてはいけない。蕪村には大きい目から小さい目への移動がある。大きい目が小さい目に移っていく引き算がある。このウツリの手法がうまかった。また秋の句にしておくが、たとえば萩と、山と、雨、である。また、咲き乱れる萩を包む景色のことである。そこを蕪村は「雨の萩山は動かぬ姿かな」「白萩は咲くより零す景色かな」というふうに詠む。カメラがまわってきて、萩や菊にすっと寄る。そうするとその「寄りの目」と「残りの目」の関係が“地”の光景のなかの点景の“図”のように浮かぶのだ。そこで、「雨の萩」「山は動かぬ」「その姿」「かな」というふうに詠む。この詠み方もまた蕪村の独壇場なのである。同じく秋の句、「秋風の吹きのこしてや鶏頭花」「秋風のうごかしてゆく案山子かな」「阿武隈や五十四郡のおとし水」など、蕪村の目がカメラの落とし水になっている。気をつけるべきは、蕪村のカメラのズーミングはプロセスをすっぱり省くことである。それもウツリの手法である。こういうときは寄ってからの細部だけで勝負する。そうしておいて「寄り」の次に見えてくる意外というものを、ふいに詠む。次のような秋の句はどうか。「蘭の香や菊よりくらきほとりより」「葛の葉のうらみがほなる細雨(こさめ)かな」。目の人は菊の葉の暗みよりも蘭の奥の闇の群に目をつけたのだ。蘭や菊や葛の「ほとり」や「あたり」に目をつけたのだ。まったく蕪村の目はカメラ・オブスキュラ(まさに暗箱)なのかと思いたくなるばかりだ。
いつのころだったか、松村月渓の『蕪村遺芳』を見ていたら、蕪村は眼鏡をかけていた。最初にこれを見たとき、へえ、そうだったのかと思った。月渓は松村呉春のこと、俳諧はむろん、絵のほうでも蕪村の弟子だった。さすがに蕪村を生き生きと描いている。他にも禿頭剃髪や頭巾姿の蕪村の肖像画はあるが、呉春にはおよばない。画題に「於夜半亭月渓拝写」とある。蕪村は頭巾をかぶってちょっと猫背、どこか横山エンタツを想わせる風貌だ。それで眼鏡をかけている。俳人というよりも、薬屋の主人という印象だ。本書を編んだ藤田真一の『蕪村』(岩波新書)では、蕪村は150センチくらいだったろうと想定されている。小柄だったのである。が、この丈(たけ)こそは蕪村にふさわしい。こういう蕪村が関西に出身して江戸に出て、そのうち目を及ぼす人となり、耳を注ぐ人となり、そのうち京都に落ち着いて眼鏡をかけ、ちょっと猫背の人になっていった。蕪村がこうなるまでには、蕪村は蕪村なりの“修行”をしつづけていた。それをおもうと、我が身の修行の不足をかこちたくなってくる。
蕪村は俳諧においても俳画においても、交友においても、準備をおさおさ怠らなかった人である。でなければ、あんな蕪村は生まれない。ただ、その準備を見せなかった。そのため、どうも蕪村はほんわりと受け取られたままになっている。苛酷な修行などそこから毫も感じられなくなっている。また、経緯を書き残さなかった人でもあったため、芭蕉の人生が知られているわりには、蕪村の人生はまだ日本人の「耳のほとり」や「目のくらやみ」まで来ていない。蕪村を知ることは日本人の身体感覚を“日月図”にすることなのに――。それに気がついたのは正岡子規だったが、子規以降、数々の蕪村論が書かれてきて、もう書くことなどきっと出尽くしたろうと思えるほどなのだが、いやいや、どうもそうでもないのである。なんだかみんながみんな蕪村を書きこみすぎて、日本人一人一人の蕪村がもっさりしてしまったのだ。ここに『蕪村全句集』をあげたのは、そういう蕪村の句を四季に分け、季題に振っていて、かつ最小限の校注を付してあるのが、おそらく蕪村をゆっくり読むのに最も適確な編集ではないかとおもわれるからだ。歳時記の分類ではなく、古今集以来の部立になっていて、流し読みしていると、蕪村が何をどのように発句にしてきたかが見えてくる。岩波文庫などでいったんは蕪村を時代順に読んできた読者が、さてもう一歩踏みこみたいというときの一冊にふさわしい。版元の「おうふう」は国文学に強い桜楓社のことで、最近になってこんな社名にしてしまった。桜楓社のほうがずっとよい。
芭蕉が元禄にさしかかって生きたように、蕪村が宝天(宝暦・天明)にさしかかって生きたことは、蕪村の準備を知るにも重要だ。 蕪村は享保元年(1716)に大坂の郊外だった毛馬に生まれて、天明3年(1783)に没した。吉宗が将軍に就いてから田沼意次の絶頂期までだった。世に宝天文化とよばれる元禄にも化政にもまさる爛熟期の前半に当たる。20歳で江戸に出た。書生になってついたのが師匠の早野巴人で、巴人は俳諧結社「夜半亭」を営んでいた。巴人は宋阿とも号した。そのころの蕪村は宰町ないしは宰鳥。ちょこまかと師匠の世話をした。けれども巴人は5〜6年後の67歳で没し(寛保2年)、蕪村は師を失った。それが27歳である。このあと蕪村がどのようにしたかというのが、蕪村の遍歴のスタートになっている。ここまでの蕪村は巴人についたとはいえ、俳諧師ではない。最近の研究でだんだんあきらかになってきたように、浄土宗の下っ端の僧体にいた。一応は俗塵を払うつもりの青春をおくってきた。これに対して、俳諧師は職業である。生業だ。今日のデザイナーや写真家が容易には食べられないように、俳諧師で糊口をしのぐとなるとそれなりの覚悟がいる。ということで、巴人が死んで夜半亭が閉じられたというのは、わかりやすくいえば蕪村が食いっぱぐれたということなのである。しかし蕪村はこれを機会に遊行に向かった。いつたん自分の拠点を捨てることにした。潭北の供をして上野国あたりをめぐり、そのあとは東北などに遊んだ。『新花摘』にそのへんのことがごくあっさりと綴られているが、ようするに27歳から36歳くらいの十年ほどをゆらゆらと遍歴していたのだ。これは蕪村の呑気のように見えて、実は、蕪村畢生の用意周到な武者修行だった。『賤のをだ巻』には、点者(俳諧の宗匠)になるには行脚をして万句をものしなければいけないと書いている。俳諧師としての悠然たる通過儀礼だったのだ。目の人となりえたのも、耳の人ともなったのも、この十年の通過儀礼の成果にかかっていた。
蕪村が本格的な俳諧師になっていった事情には、もうひとつ大きく絡んでいたことがある。寛保3年(1743)が芭蕉の五〇回忌にあたっていたということだ。各地でさかんに追善法要や追善句会や句集の編纂がおこなわれていたのだが、これをきっかけに全国的な芭蕉ブームともいうべきがおこっていく。蕪村が武者修行をあらかた終えたら、そこは「芭蕉の景色」で満開になっていたという風情なのである。とりわけ明和7年(1770)の『奥の細道』再版と、安永4年(1775)の芭蕉『去来抄』『三冊子』の初めての出版が大きい。芭蕉の「言ひおほせて何かある」「高く悟りて俗に変えるべし」は、これで初めて世に伝わった。「松のことは松に習へ」もここで初めて世に知られた。「不易流行」は流行語にすらなった。そればかりか明和8年には江戸深川に芭蕉庵が再建され、大津には幻住庵が再興された。そこへ暁台が止宿していると聞き、そこを訪れた蕪村が詠んだのがさきほどの「丸盆の椎に昔の音聞かむ」だった。こうして蕪村は芭蕉の研究に入っていったのである。これが第二の武者修行だったろう。『奥の細道』の足跡をたどって奥州一円も歩いた。江戸文化というものは、このように何度かの再生と復活によってやっと定着したものである。光琳だって百年後の酒井抱一でやっと定着した。そこは鎖国の強みでもあった。
蕪村の転回は36歳あたりにある。宝暦元年(1751)に蕪村は中山道を通って上方に向かう。ただ故郷(大坂)には向かわない。京都に入って知恩院の一隅に足をとめ(浄土宗だったから)、つづいて巴人の弟子の長老・望月宋屋に伺い、そこから洛中洛外の寺々を丹念に歩いた。こうして4年ほどを京に暮らして、それから丹後に赴き、数年を丹後・丹波・若狭・越前に遊行して、宝暦7年に京都に戻った。このとき蕪村は「与謝」を名のる。よほど丹後の地や与謝の景色が気にいったのである。丹後遊行は俳諧よりも、おそらく俳画修行のためだったとおもわれる。この姓名揃った「与謝蕪村」がいよいよ俳諧師として動き出したのが明和3年(1766)だった。大祇・召波・自笑・鉄僧らを連衆とした「三菓社句会」である。大祇は島原の郭に住み、召波は服部南郭に学んだ漢詩人、自笑は版元「八文字屋」の3代目、鉄僧は医者である。ぼくはいま未詳倶楽部や上方伝法塾や連塾などという「塾」や「連」や「部」を組んでいるが、これらを始めるとき、いつも思い出すのが、この蕪村の京洛での活動開始の場面だった。蕪村も覚悟して、このときから夜半亭を営むことにした。そのとたん、几董・月渓・百池らの主要メンバーとなった“八双組”が揃っていく。その後の蕪村がどのように動いたかは、18世紀の上方京洛の文人全体のネットワークの重なりを知るべきである。蕪村はその中心にいたわけではないが、かならずそのどこかに席を占めていた。また、そのどこかにかならず、頼山陽や池大雅や木村蒹葭堂や売茶翁がいた。そういうことについては、いつかまたふれてみたい。こうして蕪村はいっさいの準備を終えて、与謝蕪村を演じきれたのである。眼鏡もかけることになる。ここで注目するべきは、蕪村がよけいなテキストを書かなかったことである。蕪村のテキストは芭蕉でよかったからである。これは織部がつねに利休百カ条をもって大胆な試みに挑んでいったのと、よく似ている事情(計画)だったように思われる。
ところで、ぼくの蕪村についての印象や感想は、年々とはいわないまでも数年毎に変わってきた。それだけ蕪村が深いということであり、ぼくがいつも蕪村の全貌が見えず、のべつ驚いてきたということでもある。最初の蕪村との出会いは母が教えた牡丹の句であった。句会のあと、母が蕪村の牡丹を教えてくれたのだ。その子供時代のいきさつについてはすでに『遊学』(存在と精神の系譜)に書いたことなのでここではくりかえさないが、ともかくぼくの蕪村は牡丹の句に始まった。
   牡丹散りて打ちかさなりぬ二三片
   閻王(えんおう)の口や牡丹を吐かんとす
   地車のとどろと響く牡丹かな
   寂(せき)として客の絶間の牡丹かな
   散りてのちおもかげにたつ牡丹かな
   山蟻のあからさまなり白牡丹
いまもなお、すべて絶品であると思っている。牡丹の句はいまなお誰も超えられまい。もし何かを思い浮かべるなら、村上華岳の墨画の牡丹と、中川幸夫や川瀬敏郎の牡丹の立花くらいのものだろうか。次に萩原朔太郎の『郷愁の詩人・与謝野蕪村』と稲垣足穂の『僕の蕪村手帖』『新歳時記の物理学』にゆさぶられた。これで蕪村を本気で読むようになった。父がもっていた潁原退蔵の『蕪村全集』が、ぼくの自主的な蕪村参内だった。こんなわけなので、蕪村のこと、できれば1冊でも2冊でも長いものを書きたいと思っているのだが、ついついそのままになっている。そのままになっているだけでなくて、蕪村に対する見方が数年毎に変わってきているため、なかなか踏ん切りがつかないでいる。たとえば数年前に正木瓜村の『蕪村と毛馬』を読んでからは、またちょっと見え方が変わってきたのだが、まだ毛馬村にさえ行っていない。蕪村は毛馬に始まり毛馬に結んでいる人なのである。とくに『春風馬堤曲』はすべての蕪村の集約だった。あんな漢詩俳諧交じりの作品は、もう誰も書けない。かつて中村草田男が『春風馬堤曲』の漢文のところを片仮名まじりで書き下してみせたものだったが、それもいいが、なんといっても構想構成が断然である。和漢朗詠の日本史が到達した最高峰といっていいだろう。だいたい蕪村の「蕪なる村」という俳号が陶淵明なのである。蕪村は毛馬に発して毛馬の風として吹きつづけた人だった。まあ、こういうことを心おきなくいつか書いてみたいのだ。
というわけで、今日はこのくらいにしておくが、このような蕪村について言っておきたかったことで、おととい大阪で話したことがあるので、それについて一言加えておわりたい。いま、大阪の西天満のブックショップギヤラリー“amus”で、ぼくの「松岡正剛・千夜千冊・一冊一物」という小さなフェアが開かれている。老松通りに近い古びた大江ビルの地下にあるスペースである。そこでおととい、ぼくは「本を過客として」という談話を頼まれた。暑いなか、立見が溢れるような会になった。いろいろ話したのだが、かつて蕪村に学んだことをそこに交えた。本を「過客」として読む方法をあれこれ紹介してみたのだ。そのとき蕪村の「ふたもとの梅の遅速を愛すかな」と「梅をちこち南すべく北すべく」をあげ、ここには2冊の本を同時に読んでいる蕪村がいるんだという例を出した。いわば蕪村の「前後時間差攻撃」あるいは「異方同時攻撃」である。一句の中に時の相違や時間の変遷や二つの時刻にまたがる現象の比較を詠むという方法。これは読書の奥義にもつながる。そういう話をした。典型的な句を3句あげておく。「青墓は昼通りけり秋の旅」「名月やけさ見た人に行きちがひ」「きのふ花翌(あす)をもみじやけふの月」。最後の句など、高速である。「きのふ花」と「あすをもみじ」と「けふの月」の“三世実有”が、たった五七五の十七文字に入っている。読書というものは、このように「一冊の菜の花」に前後を感じ、四方を動かすことなのである。そして「過客」としての高速運転に入ることなのだ。蕪村、もっと知られるべきてある。  
 
 
震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって惜まれる小さな遺跡や建物がある。淡島寒月の向島の旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして旧廬の再興を志ざしているが、再興されても先代の椿岳の手沢の ・・・ 淡島椿岳 / 内田魯庵
・・・当時は正岡子規がマダ学生で世間に顔出しせず、紅葉が淡島寒月にかぶれて「稲妻や二尺八寸ソリャこそ抜いた」というような字余りの談林風を吹かして世間を煙に巻いていた時代であった。この時代を離れては緑雨のこの句の興味はないが、月落ち烏啼いての調子は ・・・ 斎藤緑雨 / 内田魯庵
・・・いよいよ済まぬ事をしたと、朝飯もソコソコに俥を飛ばして紹介者の淡嶋寒月を訪い、近来破天荒の大傑作であると口を極めて激賞して、この恐ろしい作者は如何なる人物かと訊いて、初めて幸田露伴というマダ青年の秀才の初めての試みであると解った。 翁は ・・・ 露伴の出世咄 / 内田魯庵
寒月かんげつ露伴ろはんの二氏にしも寄稿きかうした、而さうして挿絵さしゑは桂舟けいしうが担当たんとうするなど  ・・・ 硯友社の沿革 / 尾崎紅葉
・・・牛頭山前よりは共にと契りたる寒月子と打連れ立ちて、竹屋の渡りより浅草にかかる。午後二時というに上野を出でて高崎におもむく汽車に便りて熊谷まで行かんとするなれば、夏の日の真盛りの頃を歩むこととて、市中の塵埃のにおい、馬車の騒ぎあえるなど、見る  ・・・ 知々夫紀行 / 幸田露伴
寒月かんげつは谷を埋むる屍しかばねにまた冴えたらし或あるはうごくに  ・・・ 夢殿 / 北原白秋
しばらくすると下女が来て寒月かんげつさんがおいでになりましたという。  ・・・ 吾輩は猫である / 夏目漱石
ところへ寒月かんげつ君が先日は失礼しましたと這入はいって来る。  ・・・ 吾輩は猫である / 夏目漱石
僕先達せんだって赤坂へ出張して寒月かんげつ君と芸者をあげました。  ・・・ 漱石氏と私 / 高浜虚子
・・・これが『猫』の寒月君の話を導き出したものらしい。高浜さんは覚えておられるかどうか一度聞いてみたいと思っている。 虚子が小説を書き出した頃は、自分はもう一般に小説というものを読まなくなっていたので、随ってその作品も遺憾ながらほとんど読んで ・・・ 高浜さんと私 / 寺田寅彦
・・・子供の頃、寒月の冴えた夜などに友達の家から帰って来る途中で川沿いの道の真中をすかして見ると土の表面にちょうど飛石を並べたようにかすかに白っぽい色をした斑点が規則正しく一列に並んでいる。それは昔この道路の水準がずっと低かった頃に砂利をつめた土 ・・・ 追憶の冬夜 / 寺田寅彦
・・・の「首つりの力学」を論じた珍しい論文が見つかったので先生に報告したら、それはおもしろいから見せろというので学校から借りて来て用立てた。それが「猫」の寒月君の講演になって現われている。高等学校時代に数学の得意であった先生は、こういうものを読ん ・・・ 夏目漱石先生の追憶 / 寺田寅彦
寒月かんげつや鋸岩のこぎりいわのあからさま  ・・・ 郷愁の詩人 与謝蕪村 / 萩原朔太郎
・・・深夜ふと眼をさますと、枕元の硝子窓に幽暗な光がさしているので、夜があけたのかと思って、よくよく見定めると、宵の中には寒月が照渡っていたのに、いつの間にか降出した雪が庭の樹と隣の家の屋根とに積っていたのである。再び瓦斯ストーブに火をつけ、読み ・・・ 西瓜 / 永井荷風
・・・俳諧師には其角堂永機、小説家には饗庭篁村、幸田露伴、好事家には淡島寒月がある。皆一時の名士である。しかし明治四十三年八月初旬の水害以後永くその旧居に留ったものは幸田淡島其角堂の三家のみで、その他はこれより先既に世を去ったものが多かった。堤上 ・・・ 向嶋 / 永井荷風
・・・寒月の隈なく照り輝いた風のない静な晩、その蒼白い光と澄み渡る深い空の色とが、何というわけなく、われらの国土にノスタルジックな南方的情趣を帯びさせる夜、自分は公園の裏手なる池のほとりから、深い樹木に蔽われた丘の上に攀じ登って、二代将軍の ・・・ 霊廟 / 永井荷風
・・・朝比奈が曽我を訪ふ日や初鰹 雪信が蝿打ち払ふ硯かな 孑孑の水や長沙の裏長屋 追剥を弟子に剃りけり秋の旅  鬼貫や新酒の中の貧に処す 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 新右衛門蛇足をさそふ冬至かな 寒月や衆徒の群議の過ぎて後 ・・・ 俳人蕪村 / 正岡子規
 
 

 

月になった兎 1
昔、森の中に山犬とサルとカワウソとウサギの四匹が仲良く暮らしていました。ある秋の晩、四匹が集まっておしゃべりをしていると山犬が思い出したように言いました。「そうだ、明日は満月じゃないが。隣村から坊さんが托鉢(たくはる)に来る日だよ。何かお布施するものを用意しなくちゃ」 他の三匹もそれを聞いて同意し、遅くなったのでそれぞれ家に戻りました。翌朝、早起きした山犬は森の外の人が住む村にやって来ました。ある家の前まで来ると、串に刺した肉がたくさん干してありました。山犬はその干し肉を三本計り頂戴うれし、嬉しそうに森の棲み家に持ち帰りました。山犬が家に戻るとすぐ、お坊さんがやって来ました。山犬は托鉢があるのを忘れていました。そこで、今運んで来た干し肉の一本をお坊さ んにお布施しました。お坊さんは、「あなたの尊いお布施の気持ちを有難く戴きます。しかし私はこれから山の向こうのお釈迦さまの所へお詣りにいきますので、このお布施は帰りに戴きます。あなたの徳に、仏さまのお慈悲の光が差しますように」と言うと、口の中で何が呪文をつぶやきました。すると空から一筋の光が差し、山犬に当たりました。山犬は心の底から温くなったような、とても良い気持ちになりました。ワウソとサルも、托鉢のことなどすっかり忘れていましたが、カワウソはその日たくさんの魚を獲り、サルも枝一杯に実ったマンゴーの木を見つけましたので、尋ねてきたお坊さんにお布施することができました。お坊さんは礼を言うと、やはり呪文をとなえて光を当て、カワウソとサルもとても良い気持ちになりましたが、お布施の品は残して去っていきました。
ウサギは托鉢のことを忘れませんでした。なぜなら、ウサギは年をとっていて力がなく、また、要領も悪かったので、いつも托鉢の時に何もお布施することができないで来たことを気に病んでいたのです。今日ももう夕方になるのに、何も用意できませんでした。そこへあのお坊さんがやって来ました。ウサギは、ある決心をしてお坊さんに言いました。「私は、お布施できる品物は何も持っていません。ですから私の肉をさし上げます。しばらくどこかで待って頂ければ、その間に火を起こし、私を焼いておきますので、どうぞ取りにおいで下さい。」 その言葉を聞くとお坊さんは、口の中で呪文 を誦(とな)えました。するとウサギの目の前に大きな炎が現れました。炎の間から見えるお坊さんの顔は鬼のようです。ウサギは驚きましたが、このお坊さんは今、布施することを望んでいるのだと思いました。そして何のためらいもなく、炎の中に身を投げ入れました。ウサギは最期(さいき)を迎える覚悟で炎の熱に身をを委(ゆだ)ねました。しかしちっとも熱くありません。かたく閉じた目を開けると、炎などどこにもなく、草むらの上に寝ころんでいるだけでした。お坊さんはウサギの傍(かとわ)らに立っていましたが、ウサギが目を開けると右足を後ろに引いて地面に両ひざをつきました。そして額も地面につけ、仏さまにするようにウサギを礼拝(らいはい)しました。
「お坊さん、これは…」 ウサギが声をかけるとお坊さんは起き上がり、左膝を立てて立ちあがりました。するとお坊さんの背はずんずんと伸び、木の高さを越え、山の高さよりなお高くなって天を突き抜け、帝釈天(たいしゃくてん)のお姿になったのです。帝釈天は右手のひとさし指で月にウサギの姿を描き、山のむこうへ飛び去って行ったそうです。  
 
 

 

月の兎にまなぶ 2
月が美しくみえる季節になりました。古来より月には兎が住むといいます。実際に月を望遠鏡などでよく見ると、表面の模様が兎に見えてきます。兎はお釈迦様の時代から身近な動物なので、仏教説話の中にも多く登場します。その説話の中に、兎が月に住むきっかけになったお話があります。
この世の初めの頃、ある林に狐・猿・兎がおり、仲良くしていました。時に帝釈天がこの三匹の仲良しを試験しようとして、一人の老夫に姿を変え現れ、こう言いました、「私はいま腹が減っています。何か食べ物を下さい」。三匹は「ちょっと待って下さい、いま探してきます」と言って食物を探しに行きました。しばらくすると、狐は魚を、猿は果物を持ってやって来ましたが、兎だけは手ぶらで帰ってきて、そこら辺を跳んで遊んでいます。老夫は「あなた方は本当に仲良しではありません。狐と猿は十分に食べ物をくれましたが、兎は何もしていません。」と兎の悪口を言いました。それを聞いた兎は、狐と猿に「たくさん薪を集めて下さい。いま食べ物をご覧にいれましょう」と薪を集めさせて、それが堆く積み上がると火を点けさせました。兎は「ご老人、私はどうしても食べ物を探すことが出来ませんでした。どうか私のこの小さい身体をもって一度の食事に当てて下さい」と言い、火に飛び込みました。老夫は慌てて助け出しましたが、もう兎は生きてはいませんでした。老夫の身体から姿を変えた帝釈天は嘆息して、この事跡を滅ぼさないように月の中に兎を残しておいたといいます。そして、その兎は、釈尊がまだ世に出られる前に、兎となって修行をされていたお姿でした。(『大唐西域記』)
この壮絶な話は何を伝えようとしているのでしょうか?いろいろ解釈はあるでしょうが、私達は、普段生活している時、何でも狐や猿のように他から探して持って来ようとしていないでしょうか。あれがない、これがないと自分の外に理由を求めていないでしょうか。自分の幸福はどこにあるのか、と外ばかり探してはいないでしょうか。兎はそれがどこを探しても無かったが為に、自分の身に既に具わっていることに気付いたのです。気付いた兎はもう慌てることはありません。だから手ぶら(空手・くうしゅ)で、跳ねて遊んで(仏の行を“遊ぶ”とも表現する)いたのです。臨済禅師も「什麼をか欠少す(なにをかかんしょうす)」(『臨済録』)・ブッダと比べても何も欠落しているものはない、と言われています。月を見る時は兎に習って、すべてが具わっている自分に出会うため、生活を見直してみませんか。 
 
 

 

月の兎(つきのうさぎ) 3 
「月に兎がいる」という伝承に見られる想像上のウサギ。中国や日本では玉兔(ぎょくと、Yùtù、イートゥー)、月兔(げつと、Yuètù、ユェトゥー)などと呼ばれる。対となる存在(日にいるとされる)には金烏(きんう)がある。
月の影の模様が兎に見えることから、「月には兎がいる」という伝承はアジア各地で古くから言い伝えられている。また、兎の横に見える影は臼(うす)であるともされる。この臼については、中国では不老不死の薬の材料を手杵で打って粉にしているとされ、日本では餅をついている姿とされている。餅搗き(もちづき)と望月を掛けたとも俗に言われている。
中国戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前3世紀)の詩集『楚辞』天問では月(夜光)について語っている箇所に「夜光何コ 死則又育 厥利維何 而顧菟在腹」という文があり、「顧菟(こと)」という語が用いられている。ただしこの語の解釈については聞一多が「天問釈天」(『清華学報』9(4)、1933)でヒキガエルのこととするなど異説がある。王充『論衡』説日篇の中では「月の中に兎とヒキガエルがいる」という俗説について語っている。
古代インドの言語サンスクリットではシャシン(śaśin、「兎をもつもの」)、シャシャーンカ(śaśāṅka、「兎の印をもつもの」)などの語が月の別名として使われる。
日本における月の兎が描写された古い例には飛鳥時代(7世紀)に製作された『天寿国曼荼羅』の月に描かれたものなどがある。鎌倉・室町時代に仏教絵画として描かれた『十二天像』では日天・月天の持物としての日・月の中に烏と兎が描き込まれている作例もみられる。
満州(現在の中国東北部)では秋に満月を祝う「中秋節」に「月亮馬児」とよばれる木版刷りが壁に貼られたりするが、そこに兎は杵をもった姿で描かれていた。
ミャンマーの仏教絵画の中にも日のなかには孔雀、月のなかは兎が描かれており、須弥山を中心とした世界観を示した仏教絵画などを通じて各地で描かれていたこともうかがえる。タイでも月には兎が住んでいるという伝承があり、絵画などにも見られる。同国チャンタブリー県の県章(図参考)に見られる兎も、月の兎をデザインに配したものである。
アメリカ合衆国でもこの伝承は知られ、人類史上初の月面着陸をする前にアポロ11号の宇宙飛行士とNASAの管制官が月の兎に言及した記録が残っている。
仏教説話
月になぜ兎がいるのかを語る伝説にはインドに伝わる『ジャータカ』などの仏教説話に見られ、日本に渡来し『今昔物語集』などにも収録され多く語られている。その内容は以下のようなものである。
猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿、老人は光が弱々しくなった冬至前の太陽、帝釈天は光を取り戻した(=若返った)冬至後の太陽である、という解釈もなされている。
アメリカ先住民の民話
同様の伝説はメキシコの民話にも見られる。メキシコでも月の模様は兎と考えられていた。アステカの伝説では、地上で人間として生きていたケツァルコアトル神が旅に出て、長い間歩いたために飢えと疲れに襲われた。周囲に食物も水もなかったため、死にそうになっていた。そのとき近くで草を食べていた兎がケツァルコアトルを救うために自分自身を食物として差しだした。ケツァルコアトルは兎の高貴な贈り物に感じ、兎を月に上げた後、地上に降ろし、「お前はただの兎にすぎないが、光の中にお前の姿があるので誰でもいつでもそれを見てお前のことを思いだすだろう」と言った。一般にケツァルコアトルは金星神であると考えられているが、この民話の場合は徐々に光を失っていく太陽神であると考えられる。
別のメソアメリカの伝説では、第5の太陽の創造においてナナワツィン神が勇敢にも自分自身を火の中に投じて新しい太陽になった。しかしテクシステカトルの方は火の中に身を投じるまで4回ためらい、5回めにようやく自らを犠牲にして月になった。テクシステカトルが臆病であったため、神々は月が太陽より暗くなければならないと考え、神々のひとりが月に兎を投げつけて光を減らした。あるいは、テクシステカトル自身が兎の姿で自らを犠牲にして月になり、その姿が投影されているともいう。
ネイティブ・アメリカンのクリーはまた別の、月に昇りたいと思った若い兎の伝説を伝える。鶴だけが兎を運ぶことができたが、重い兎が鶴につかまっていたために鶴の脚は今見るように長く伸びてしまった。月に到着したときに兎が鶴の頭に血のついた脚で触ったため、鶴の頭には赤い模様が残ってしまった。この伝説によれば、晴れた夜には月の中に兎が乗っているのが今も見えるという。
創作物
上記のような月に兎が住んでいるという伝承や説話の影響から、日本の文芸・演芸・絵画・音楽などの創作物には、月の生活者として兎を用いた作品が多く見られる。
唱歌「兎の餅舂」(うさぎ の もちつき)(『幼年唱歌』 1912年)では、餅つきをしている月の世界の兎たちが登場して、大福餅をつくっている様子を描いている。  
ヒキガエル
兎のほか、古代中国では月には蟾蜍(せんじょ、(ヒキガエルのこと)が棲んでいるとされていた。前漢の馬王堆漢墓から出土した帛画のように、中国で製作された模様の中には月にいるものとして兎とヒキガエルを同じ画面内に収めて登場させているものも見られる。
 
 

 

月と兎 4 
月と兎の組み合わせは古来中国の思想である神仙思想に起源をもち、前漢時代(紀元前2世紀)には既に図案化されていた(長沙馬王堆漢墓の彩絵帛画など)。中国大陸では月兎(ユエトゥー、げっと)と呼ばれ、太陽神である八咫烏と対をなす関係であった。
本来、兎の季語は「冬」であるが、月の表面にある「海」と呼ばれる部分がうさぎの形に見えるため、月と兎がペアになる様子が多い。ちなみに、月の季語は「秋」である。  
 
 

 

月とウサギ昔話 5 
「お月様には、うさぎさんが住んでいて十五夜になると餅つきをするんだよ。」 「あそこが耳で、臼があって・・・」 と、子供の頃お月様を眺めていると不思議とうさぎさんが見えました。日本に古くから伝わるこの話は、お釈迦さまの過去世の修行の物語。
仲良く暮らす、うさぎときつねとさるが居ました。
3匹は、いつも 「自分達が獣の姿なのはなぜだろう?」 「前世で何か悪いことをしたからではないだろうか?」 「それならば、せめて今から人の役に立つことをしよう!」 ということを話し合っていました。この話を聞いていた帝釈天(たいしゃくてん)は、何か良いことをさせてあげようと思い老人に姿を変えて3匹の前に現れます。何も知らない3匹は、目の前の疲れ果てた老人が 「おなかがすいて動けない。何か食べ物を恵んでほしい。」 と、話すと、やっと人の役に立つことができる!と喜んで老人のために食べ物を集めに行きました。さるは木に登って木の実や果物を、きつねは魚を採ってきました。ところが、うさぎだけは一生懸命頑張っても何も持ってくることができません。
うさぎは、もう一度探しに行ってくるから火を焚いて待っていて欲しい。と、きつねとさるに話して出かけていきました。暫くすると、うさぎは手ぶらで戻ってきました。そんなうさぎを、きつねとさるは嘘つきだと攻め立てます。するとうさぎは、「私には、食べ物を採る力がありません。どうぞ私を食べてください。」 と言って火の中に飛び込み、自分の身を老人に捧げました。
これを見た老人は、すぐに帝釈天の姿に戻り 「お前達の優しい気持ちは、良く解った。今度生まれ変わる時には、きっと人間にしよう。それにしても、うさぎには可愛そうなことをした。月の中に、うさぎの姿を永遠に残してやろう。」 とおっしゃいました。こうして、月にはうさぎの姿が今でも残っているのです。
このような物語で、お釈迦さまは私たちに伝えています。 
 
 

 

●月うさぎ伝説 6 
月の模様の黒い部分は「海」と呼ばれる低地。その黒い部分で「餅をついているうさぎ」の姿を見立てます。こうして見ると...確かに月うさぎはお餅をついています。意外と知らない月うさぎ伝説。月うさぎ伝説にも諸説ありますが、一般的に言われているのは次のようなお話です。
『昔、あるところにうさぎときつねとさるがおりました。ある日、疲れ果てて食べ物を乞う老人に出会い、3匹は老人のために食べ物を集めます。さるは木の実を、きつねは魚をとってきましたが、うさぎは一生懸命頑張っても、何も持ってくることができませんでした。そこで悩んだうさぎは、「私を食べてください」といって火の中にとびこみ、自分の身を老人に捧げたのです。実は、その老人とは、3匹の行いを試そうとした帝釈天(タイシャクテン)という神様。帝釈天は、そんなうさぎを哀れみ、月の中に甦らせて、皆の手本にしたのです。』
これは、仏教説話からきているお話です。また、このお話には続きがあり、『うさぎを憐れんだ老人が、その焼けた皮を剥いで月に映し、皮を剥がれたうさぎは生き返る』という説もあります。だから、月の白い部分ではなく、黒い部分がうさぎなのですね。
では、なぜ餅をついているのでしょうか? 「うさぎが老人のために餅つきをしている」とか「うさぎが食べ物に困らないように」という説がありますが、中秋の名月が豊穣祝いであることを考えると、たくさんのお米がとれたことに感謝する意が込められているようです。 
●月とウサギ 7 

夜空に輝く「月」は、ご存知地球の衛星として知られています。地球からの距離38万4,400km。直径は、3,474km。地球の4分の1強の直径を持っていると言う事で、太陽系内ではかなり大きな星と言う位置付けです。まず地球にはもっとも身近で、古代よりずっと地球に寄り添ってきた星です。古くから地球にはとても身近な存在としてあった「月」ですが、やはり昔の人達も「月」には色々と考えを巡らせていた事でしょう。宇宙科学や物理的での「月」の存在が「うさぎ」と関係しているとする文献などには出会えませんでしたが(もっと調べれば出て来るかもですが)、一番しっくり来ると言うか、どんぴしゃ、そのままのお話が残されていました。
今昔物語
それは「今昔物語」でした。「今昔物語」は、平安時代末期に成立したとされる「説話集」です。インド、中国、日本と三国の約1000余りの説話が収録されている、かなりの長編でして、そして全ての説話が「今は昔」と言う書き出しから始められると言う事からの由来と言う事でした。この古代の説話集「天竺の部・巻五・第13話」に「月」と「うさぎ」にまつわる話がありました。
「天竺の部・巻五・第13話」
今は昔。天竺にて「うさぎ」、「きつね」、「さる」の三匹が菩薩修行をしながら仲良く暮らしていました。とても仲良く暮らしていた3匹ですが、いつも話している事がありました。
「前世では犯した罪によって、この様な卑しい獣の姿で生まれてしまった。今生では我が身を捨てて、善行を重ね立派に生きよう。」
この彼らの行いを「帝釈天」が観ていて、「彼らは獣の身でありながら、珍しく殊勝な姿である。では一つ試してみよう。」 とたちまち老翁に姿を変えました。力なくよぼよぼ姿で三匹の獣の居る所に表れ、「わしは年老い疲れ果ててしまっている。お前達でわしを養ってくれないか。」 と伺ってみたそうです。すると三匹は、「それこそ私たちの望む姿です。さっそく養って上げましょう。」 と言って、「さる」は木に登り、木の実や果物を取ってきては好きな物を食べさせ、「きつね」は、お墓に出向いて餅等の供物をくすねてきては、老翁の思うがままに食べさせてあげたそうです。老翁はすっかり満足し、「お前たち二匹は、実に慈悲深い。菩薩と言っても差し支え無い。」 と褒め、しかしこれを聞いた「うさぎ」は、一生懸命に成って食べ物を求め野山を駆け巡ったが、探す事が出来ませんでした。こうしているうちに人間に殺されたり、他の獣に喰われたりして、命を落とすのが関の山でなかろうかと、あれこれ悩んでいたそうです。
ある日、自分の決意の元に一つの考えを実行に移します。「私はこれから美味しい物を求めてきますので、木を拾い、火を焚いて待っていて下さい。」 この様に皆に伝えてその場から立ち去りました。そこで「さる」は木を集め、「きつね」は、火を持ってきて焚き付けて、「うさぎ」の帰りを待ちました。そこに手ぶらで帰ってきた「うさぎ」を見て、「お前は何も持ってきてはいないではないか。思っていた通り、うそをついて人を騙し、火を焚かせて自分が温まろうとと言う事だろう。憎らしい。」 と「さる」と「きつね」は言いました。そこで「うさぎ」が、「私は食物を求めて来る力がありません。ですから私の身体を焼いて食べて下さい。」 と言うなり、その火の中に飛び込んで焼け死んでしまったそうです。「うさぎ」はいっそのこと、今のこの身を老人に食べてもらい、永久に生死輪廻の世界に離脱しようと考えていたのです。その姿を見た帝釈天は元の姿に戻り、「うさぎ」が火の中に飛び込んだ姿を「月」に移し、あまねく一切の衆生に見せるため、月の中にとどめ置かれたと言う事です。そして、「月の表面にある雲のようなものは、この「うさぎ」が火に焼けた煙であり、月の中に「うさぎ」がいると言うのは、この「うさぎ」の姿である。誰も皆、月を見るたび、この「うさぎ」を思い浮かべるがよい」 と帝釈天が言ったと言う事です。

うさぎの選択   この話に出会った時、どうにも言葉を失ってしまいました。「うさぎ」が炎に飛び込む姿があまりに痛々しく、そしてせつないのですが、そうした事って日常的に果たして自分は出来るのだろうか?と本当に深く考えました。「死」と言う事実は「森羅万象」でしかないと思うのですが、「輪廻」の法則を知っていたとしても、果たしてこの「うさぎ」の様に出来るのだろうか?と思います。「月」と「うさぎ」にまつわるお話ですが、こんなに深いテーマだとは思いませんでした。 
●月うさぎ伝説 8 
月うさぎ伝説の由来
「お月様にはうさぎさんが住んでいて、十五夜になると餅つきをするんだよ。」 「あそこが耳で、臼があって・・・」 と、言われるままにお月様を眺めていると、不思議と杵を持ったうさぎさんが目に映った子供の頃。日本に古くから伝わる「月うさぎ伝説」には、どんな由来があるのでしょう?
月うさぎ伝説 もともとはインドの神話
月うさぎ伝説の由来には、いくつかの説がありますが、インドのジャータカ神話によるものがよく知られています。さすがに全文とはいきませんので、要約しました。
   昔むかしのインドの話・・・
仲良く暮らす、うさぎときつねとさるが居ました。3匹は、いつも 「自分達が獣の姿なのはなぜだろう?」  「前世で何か悪いことをしたからではないだろうか?」  「それならば、せめて今から人の役に立つことをしよう!」 ということを話し合っていました。この話を聞いていた帝釈天たいしゃくてんは、何かいいことをさせてあげようと思い、老人に姿を変えて3匹の前に現れます。(帝釈天=古代インド神話においては、最強神とされています。) 何も知らない3匹は、目の前の疲れ果てた老人が「おなかがすいて動けない。何か食べ物を恵んでほしい。」と話すと、やっと人の役に立つことができる!と喜んで、老人のために食べ物を集めに行きました。さるは木に登って木の実や果物を、きつねは魚を採ってきました。ところが、うさぎだけは一生懸命頑張ったのに、何も持ってくることができなかったのです。うさぎは、「もう一度探しに行ってくるから火を焚いて待っていて欲しい」そうきつねとさるに話すと、再び出かけていきました。暫くすると、うさぎはまた手ぶらで戻ってきました。そんなうさぎを、きつねとさるは嘘つきだ!と攻め立てます。するとうさぎは、「私には、食べ物を採る力がありません。どうぞ私を食べてください。」と言って火の中に飛び込み、自分の身を老人に捧げました。これを見た老人は、すぐに帝釈天の姿に戻ると、「お前達の優しい気持ちは、良く解った。今度生まれ変わる時には、きっと人間にしよう。それにしても、うさぎには可愛そうなことをした。月の中に、うさぎの姿を永遠に残してやろう。」とおっしゃいました。こうして、月にはうさぎの姿が残ることになりました。
この神話・・・読むたびごとに、むなしい気持ちになります。
   その後うさぎは生き返ったという説も!
先の話の最後の部分が違っている説もありますので、ご紹介いたします。うさぎが火の中に自分の身を投じ、黒焦げになった後のこと・・・うさぎを哀れんだ老人が、うさぎの焼けた皮を剥いで月に映すと、皮を剥がれたうさぎは生き返りました。という話です。
月うさぎ伝説 なぜ?うさぎは餅をつくの?!
うさぎの餅つきは、中国の神話に由来しています。このお話は、とてもたくさんの説があるので、ここでの紹介は割愛させていただきます。
古代中国において、月のうさぎは、杵を持って不老不死の薬をついていると考えられていました。これが、日本に伝わってから餅をつくに変化したと言われています。その理由を調べてみると、日本で満月を表す言葉の「望月もちづき」が転じて「餅つき」になったということです。また「老人のために餅つきをしている」とか「うさぎが食べ物に困らないように」という説もあります。ただ、お月見の行事が収穫祭であったことを考えると、たくさんのお米が採れたことに感謝するという意味も込められているのかもしれないなぁ〜と感じたりもしています。
月で餅つきをしているのはなぜ?
古代中国では、月のうさぎは杵を持って不老不死の薬をついていると考えられていました。これが、日本に伝わってから餅をつくに変化したと言われています。その理由は、日本で満月を表す言葉の「望月(もちづき)」が転じて「餅つき」になったということです。
日本では『古事記』のような系統だった神話が編纂されましたが、中国は地方や民族、時代によって様々な神話が生まれ、共存しています。月に住む兎にも多数の伝説が有ります。
   1、嫦娥の化身説
月に登った嫦娥は、兎に変身させられ、罰として満月の日になると天界の神々のために薬を作るよう命じられたといわれています。
   2、嫦娥のお伴説 一
ある時、三人の神仙が貧しい老人に化け、狐、猿、兎に食べ物を乞いました。狐と猿は食べ物を提供しましたが、兎は何も持っていません。そのため、兎は「私を食べてください」と言って火に飛び込みました。それを見て感動した神仙は兎を月に送り、孤独な嫦娥と一緒に薬を作るようにさせました。
   3、嫦娥のお伴説 二
遥か昔、修業をして仙術を見につけた兎がいました。ある日、この兎は、天帝の怒りに触れ月に送られる嫦娥に会いました。兎は嫦娥を哀れに思い、自分の一番小さい娘を月に送り、嫦娥のお伴をさせました。
*嫦娥伝説にも異説が有ります。有名なのは不老不死の薬を一人占めした罰でカエルになったという説ですが、仕方なく薬を盗んだという説も有ります。
   その一
嫦娥の夫・羿は9つの太陽を射落し天下の主となりました。しかし羿は強欲横暴な君主で人々から嫌われていました。ある日、羿は西王母から不老不死の薬をもらいます。それを知った人々は羿の天下が永遠に続くと思い嘆きました。嫦娥は見るに堪えず、人々を救うために薬を盗み自分で食べました。天帝は嫦娥が薬を盗んだ罪を責めて月に追放しました。
   その二
羿と嫦娥は仲の良い夫婦で、羿は不老不死の薬を嫦娥に預けました。ある日、羿の弟子蓬蒙が薬を盗みに嫦娥の部屋に侵入しました。嫦娥は蓬蒙に薬を渡さないために自分で食べました。その結果、体が軽くなり、天に登ったといいます。
これらの伝説では嫦娥は善人として描かれています。3の仙術を得た兎が嫦娥を同情したのはこういった話が前提になっていると思われます。兎の話に戻ります。
   4、羿の化身説
嫦娥が不老不死の薬を食べて月に行ったのを知り、羿はその後を追いました。この時、羿は嫦娥が好きだった兎に化けました。しかし嫦娥は自分のそばにいる兎が羿の化身だとは永遠に気がつかなかったそうです。
   5、伯邑考説
商(殷)の時代も終わる頃、当時勢力を拡大し始めた周の文王に伯邑考という長男がいました。商の紂王には妲己という有名な悪妻がおり、妲己は眉目秀麗な伯邑考に目をつけました。しかし伯邑考は悪女妲己を罵倒しました。妲己は怒り、夫紂王に伯邑考の悪口を言い、殺させました。しかも伯邑考の肉で饅頭を作り、父文王に食べさせました。その日、文王は気分が悪くなり、突然3羽の兎を口から吐き出しました。文王はそれが息子の魂だと知り嘆き悲しみます。夜、女神女媧の命令を受けた嫦娥が来て兎を連れて月に帰りました。

以上が兎と月の伝説です。ただしこれらは先に「月には兎がいる」という前提が有り、後から作られた話のように思えます。文献を見ると恐らく屈原の『天問』にある「顧菟在腹」というのが、月に動物がいるという記述の最も古いものだとされています。しかしこの「顧菟」が何かは諸説あります。
1、嫦娥の化身である蟾蜍(ヒキガエル)とする説。
2、「菟」は「兎」と同じで、「顧菟」とは兎の名前とする説。
3、1と2の折衷説で「顧」はヒキガエル、「菟」は兎とする説。
これらとは全く別の説も有ります。湖北省の曾侯乙墓(戦国時代の遺跡)から日月神獣の絵が発掘され、そこには虎のような絵が描かれているそうです。楚の地には虎信仰が有り、月の守り神として虎に似た「顧菟(楚の方言で菟は虎の意味)」という神獣がいたのではないか、屈原はそれを歌ったのではないか、という説です。こうなると兎とは全く関係なくなってしまうので、兎の話に戻ります。
漢代の絵などを見ると、月と一緒に描かれるのはカエルが多いそうです。陰陽五行思想でカエルは陽、兎は陰の代表で併存するという考えもありました(「月陰也、蟾蜍陽也、而与兔并」『五経通義』)。しかし後漢になると、カエルがほとんど見当たらなくなります。後漢の楽府『董逃行』に「白兔長跪搗薬虾蟆丸」とありますが薬を作っているのは兎だけです。恐らく、元々は月にいたのはカエルで、前漢の頃に併存するようになり、後漢には兎に変わるようになったのではないかと思います。なぜ薬を作っているのかというのはfrogman様おっしゃる通り、月の満ち欠けが不老不死を象徴しているからとか、嫦娥が盗んだのが不老不死の薬だったのでそれを償うためとも言われています。中国からしたら「なぜ日本ではお餅?」ということになるのでしょうね。この辺りの検証も面白そうですが、文字数が足りないので・・・。 
●中国の月の兎 9 
日本の月の兎は杵を持って餅を搗いているとされますが、中国の月の兎はやはり杵を持って不老不死の薬を搗いているとされます。月の満ちては欠け、欠けては満ちる様子が、不老不死・再生の思想と結びつけられたともされます。
不老不死の薬は、BC2世紀末の『淮南子』覧冥訓に、弓の名手・羿(げい)が西王母という女神からもらった不老不死の薬を、その妻・姮娥(こうが)が盗んで(飲んで)月へ逃げたという話があり『後漢書』には月で姮娥が蟾蜍(せんじょ・ひきがえる)に変身したとあります。日射神話とされます。
殷の宇宙観では、太陽の数は全部で10個あり、交代で空を廻っているとされました。殷の始祖とされる「帝俊(舜)」の3人の妻の一人「羲和」が生んだ息子とされます。「娥皇」が地上の国を産み、「嫦娥(じょうが)」が12人の娘(月)を生んだとされます。
10人の太陽は、堯(ぎょう)の時代に一度に天に現れます。人間は熱くてたまらず、作物も枯れてしまいます。五帝の堯の願いで「黄帝」が、天界から弓の名手の羿(げい)を派遣します。羿は9本の矢を使い9個の太陽を射落とし、太陽は1個になりました。
ところが天帝からすれば息子を射殺されたわけで怒って羿が天界に帰れなくしたため、彼は不老不死の力を失います。羿の妻は嫦娥なのですが、彼女も夫の罪を被って俗界に落とされますが、不平不満が募り羿に文句ばかりいいます。
羿はいたたまれなくなり放浪のたびに出て、崑崙山に住む「西王母」に相談します。彼女は哀れに思い羿に不老不死の薬を与えます。不死の薬は二人で分けて飲めば不死、一人で飲めば天に昇れ神になれる量でした。嫦娥は天界の暮らしが忘れられず、隙を見て全部飲んでしまい、天に上りますが、さすがに悪いと思ったのか途中の月に向かいますが、月に付いたとたんに蟾蜍・蛙に姿が変わってしまいました。ちなみに、羿は弓で獲物を狙っている最中に家僕に殺されてしまいます。
月の異称としての「れいせん」とも呼ばれ、漢字では「醴泉/霊蟾」と書きます。「蟾」はヒキガエルのことで、古来月に棲んでいると言われている生き物です。月に棲んでいる特別なヒキガエル(霊+蟾)という意味が変じて、「霊蟾」が月を指すようになったのだと思われます。
カエルが何故ウサギになったかは、漢字の誤りらしく、「蟾蜍」を「顧菟」と表記したために、「菟」がウサギと認識され、ヒキガエルからウサギへと取り違えられたことから来たというのが定説らしいです。
月の象徴の主役はヒキガエルからウサギへと変わり、紀元前3世紀の『楚辞』天問編に月中の兎のことが歌われ、湖南省で発見された紀元前2世紀の、馬王堆1・3号漢墓出土の、絹布に絵を描いた「帛画」に、月中に兎と蟾蜍(せんじょ・ひきがえるのこと)の図案が描かれています。
ちなみに、宋代の『後山叢談』は、地上の兎はすべて雌で、月の兎は逆に雄ばかりだから、地上の雌兎は月光をあびて妊娠するという俗説を収録しています。また古い中国の習俗では、陰暦8月15日(日本の十五夜、中国では中秋節)の際、「兎児爺」と呼ばれる兎の顔をした粘土製の武人像を飾るといいます。 
●月のウサギ 10 
むかし インドの山の中を ひとりの行者様が旅をして歩いていました。
行者様は だいぶ年を取っているようでしたが、長い間の修練で これほどの山道くらいは とくに困ることもなく 歩いていたのですが・・、ここ何日かは いつもよりも さらに険しい山道に、ゆっくりと体を横たえる場所もなく、ほんの少しの休息を取っては また 歩き始める・・ということの繰り返しをしていました。
そのためでしょう、その夜、とうとうその行者様は、人など決して通らないような奥深い森の中で 疲れ果てて倒れこんでしまいました。
どのくらいそうしていたのでしょう。どこか遠くのほうで かちかちと 何かを打ち合わせるような音がしています。だれか 人が近くにいるのかもしれない、と行者様は ゆっくりと顔を上げ、あたりをみまわしました。
見ると 一匹のウサギが 一生懸命 行者様の持っていた火打石をつかって 火をおこそうとしているところでした。
このウサギは道に倒れてすこしも動かない人間を見つけたので、友達のサルとキツネを呼んできて、どうしたらいいか 話し合ったのです。
「いきてるの?」 「うん。いきてるとおもう。」 「きっと おなかがすいてるんだよ。」 「そうだね、きっとそうだ。」 「なにか 食べるものがあるといいね。」 「じゃ、ぼく 川に行って魚を取ってくるよ。」 「ああ それはいいね。じゃ 僕は 木の実をたくさんとってこよう。」 「ぼくは 火をおこしておくよ。この人、きっとあったかいほうがいいだろうから・・。」 「そうだね。取ってきた魚も焼けるし、木の実もおいしく食べられる。じゃ 頼んだよ。」  そんな話の後、キツネは川へ、サルは木の実を取りに森に出かけいきました。
後に残ったウサギは、あちこちから木切れを集め、行者様の近くに積んで 行者様の持っていた火打石を一生懸命打ち合わせて 何とか火をおこそうとしていたのですが、火は ウサギにとっては 怖いもの。なかなか 上手にできません。「どれ、私がやろう。」 突然の行者様の声に ウサギはびっくりして 火打石を取り落としながら ぴょん!っと近くの草むらのむこうに 跳ねのきました。
「この、薪は・・ おまえがつんでくれたのかね?」 行者様の優しい声がそっとウサギの耳に聞こえたので、ウサギは耳の先を草むらからちょいと除かせ、はっぱの間から その赤い目で そうっと行者様をみてみました。行者様は カチカチと火打石を打ち合わせて、上手に薪に火をつけていました。そして 赤い炎が ちらちらとあがり、まきがぱちぱちいってくるころ、でかけていたサルとキツネが それぞれ たくさんの木の実や丸々した魚を持って 戻ってきました。
「行者様、これをどうぞ。」 「たくさん歩いて お疲れになられたのでしょう。どうぞ 召し上がってください。」 行者様は 自分の前に差し出された いろいろなおいしそうな木の実や魚をみて、とてもびっくりしていいました。「ああ、これは とてもありがたい。お前たちの心遣いには 本当に 感謝するよ。」 そして 木の実を薪の隙間にいれ、魚を焼こうとしました。そのとき、行者様の前に さっきのウサギがやってきて いいました。「行者様・・、申し訳ありません。私は サルさんやキツネさんのように おいしい木の実も太った魚も取ることができません。それどころか 行者様の体を温めるための 火をおこすことも とても 怖くて できませんでした。」 ウサギの目には 透き通った涙が浮かんでいました。
「行者様、でも 私も差し上げられるものがあります。どうぞ お受け取りください。」 そう言うか言わないかのうちに、ウサギは 火の中に飛び込んだのです。
キツネもサルも あっという間もありませんでした。それほど 突然のことだったのです。赤い炎に包まれたウサギを助けたくても もうそれはサルにもキツネにもできませんでした。すると そのとき 一緒にそれを見ていた行者様が火の中に手を突っ込んで、炎の中から 焼けたウサギを運び出しました。「ウサギよ、お前の思いは確かに受け取った。私は お前にその礼をしよう。」 そういいながら 行者様の体は どんどん大きくなっていき、その頭や顔は もう すっかり雲の上に出てしまうほどになりました。大きくなった行者様は かがんでひとつの山をすっかり握りとると、それをぎゅうっと押しつぶして 丸い形にしたのです。そして その丸いものを ぽ〜んと空に放り投げると それは 夜空にぽっかりと浮いて、とてもやさしく輝き始めました。
行者様は 手を高く上げて 輝く丸いものの上にウサギをのせて いいました。「お前はとても尊い行いをした。だから 私は お前を 永遠に輝く月に住まうことを その報いとして与えよう。」 こうして、月には ウサギがいるようになったということです。

このお話は ご存知の方 多いことと思います。ただ 毎度のことながら 遠藤が 少々 手を入れております。9月ですしね、お月見もあることだし・・ と考えていたら こういう話があったことを思い出しまして、ただ この際だからと あちこち 調べてみたら 結構 これが 決まった話ではないのだ ということがわかりまして・・。つまり もともとというのが かなりあいまいなお話のようなのですね。いわゆる 民間伝承というもののうちになるのだど思いますが、インドの昔話なのだ とか、行者様ではなくてお釈迦様なのだ、いやいや あれはキリスト様なのだ とか・・、三匹が 信心を起こしたというので、それを試しにやってきた天使いなのだ・・とかね。登場するのも ウサギは決まって出てはきますが、ほかにも リスだったりタヌキだったりの場合もあるようでした。まぁ、元の話がどうの と 追求するものでもありませんし、大事なことだけ、つまり 『月にウサギがいるわけ』だけがはっきりされればよいことなので、ほかのこまごましたことは 適当に遠藤が切ったり貼ったりして 今回のお話になった というものです。ただ 最後の行者様だかが 突然大きくなって 山を握りつぶして丸めたものが突きになって・・というところは、今回 あれこれ探してみて 初めて知り、とても 面白い発想だと思ったものですから、今月のお話は それも入れてみました。  
 
 

 

●月うさぎの由来 11 
お月見といえば中秋の名月(十五夜)ですが、この日に限らず、月を眺めていると心が和みます。何気なく見上げた夜空。輝く月……そんな時ふっと思い浮かぶのが「月うさぎ」。月でお餅をついているという、あの月うさぎです。
月の模様をみて、餅つきをする月うさぎの姿がわかりますか?
月を眺める4人組。こんな会話が交わされています。
A君 「月うさぎって2匹いる?」
Bさん「えっ、私は1匹だと思うけど」
C君 「オレ、どうしてもウサギが見つからない」
Dさん「私には、たぬきにしか見えないけど」
Bさん「だって、あの黒いところが臼で……」
C君 「白い所を見るんじゃないの!?」
あなただったら、何と言うでしょう?
月の模様の見方……確かに月うさぎはお餅をついています
意外とあやふやな月うさぎの存在。人それぞれ自分の思い込みが強く、誰に聞いても結局はっきりわからないというパターンも多いようです。それでは、ここでスッキリさせましょう。この画像が「月うさぎ」です。月の模様の黒い部分は「海」と呼ばれる低地。その黒い部分で「餅をついているうさぎ」の姿を見立てます。
意外と知らない!月でうさぎが餅をついている理由
ある親子の会話です。
子 「ねぇねぇ、どうして月にうさぎがいるの?どうしてお餅をついているの?」
親 「……」
子 「ねぇ、どうして?」
親 「きっと、餅つきが好きなのよ」
子 「……」
これでは親の面目が立ちません。
月うさぎの由来〜月うさぎ伝説
月うさぎ伝説にも諸説ありますが、1番ポピュラーな要約バージョンをご紹介しましょう。
『昔、あるところにウサギとキツネとサルがおりました。ある日、疲れ果てて食べ物を乞う老人に出会い、3匹は老人のために食べ物を集めます。サルは木の実を、キツネは魚をとってきましたが、ウサギは一生懸命頑張っても、何も持ってくることができませんでした。そこで悩んだウサギは、「私を食べてください」といって火の中にとびこみ、自分の身を老人に捧げたのです。実は、その老人とは、3匹の行いを試そうとした帝釈天(タイシャクテン)という神様。帝釈天は、そんなウサギを哀れみ、月の中に甦らせて、皆の手本にしたのです。』 これは、仏教説話からきているお話です。
また、このお話には続きがあり、『うさぎを憐れんだ老人が、その焼けた皮を剥いで月に映し、皮を剥がれたうさぎは生き返る』という説もあります。だから、月の白い部分ではなく、黒い部分がうさぎなんですね。
月でうさぎが餅つきをしているのはなぜ?
では、なぜ餅をついているのでしょうか? 「うさぎが老人のために餅つきをしている」とか「うさぎが食べ物に困らないように」という説がありますが、中秋の名月が豊穣祝いであることを考えると、たくさんのお米がとれたことに感謝する意が込められているようです。
月うさぎは万国共通ではない
お月見をしながら、国籍の違う3人がこんな話をしています。日本のAさん「月うさぎって、結構泣かせるわよね」 モンゴルのBさん「違うよ。あれは犬だよ。嘘をつくと月の犬が吠えるんだ」 アラビアのCさん「いいえ。あれはライオンが吠えているのさ」  三人三様の言い分ですが、これはどれも正しいのです。
日本以外では月の模様をどう見るの?
月は地球に対していつも同じ面を向けて回っているので、世界中どこで見ても同じ表面を見ています(見える角度に多少の違いはありますが)。しかし、月の模様をどう捉えるかは国によって様々です。韓国や中国では、日本同様ウサギに見えるそうですが、中国のウサギはお餅をついているのではなく、薬草を挽いています。また、中国の中でも、ウサギではなく大きなはさみをもった「カニ」という地域もあります。欧米では「女性の横顔」だと言われていますし、インドネシアでは「編物をしている女の人」、ベトナムは「木の下で休む男の人」、オーストリアでは「男性が灯りを点けたり消したりしている」のだそうです。他にも、「本を読むおばあさん」「ワニ」「ロバ」など実に様々。おもしろいですよ!
•日本=餅をつくうさぎ
•韓国=餅をつくうさぎ
•中国=薬草を挽くうさぎ
•中国の一部=大きなハサミのカニ
•モンゴル=イヌ
•インドネシア=編み物をしている女性
•ベトナム=木の下で休む男性
•インド=ワニ
•オーストリア=男性が灯りを点けたり消したりしている
•カナダの先住民=バケツを運ぶ少女
•中南米=ロバ
•北ヨーロッパ=本を読むおばあさん
•南ヨーロッパ=大きなはさみのカニ
•東ヨーロッパ=女性の横顔
•アラビア=吠えているライオン
•ドイツ=薪をかつぐ男
•バイキング=水をかつぐ男女 
●月兎 12 
中国 
   ●最初は蛤
月の満ち欠けと潮汐は関係がありますことから、月は水の精と考えられておりまして、 白で丸い蛤(漢語で「蚪蛤」トコウ)が住んでいたと考えられていたそうです。 これは古代中国の原始信仰であるそうです。  
   ●次はオタマジャクシ
蛤の古音を2字にしますと蝦蟆(カバ)又は蟾蜍(センジョ)となります。 これで蛤から蝦蟆(オタマジャクシ)又は蟾蜍(ガマガエル)に変身しました。
   ●3番目ガマと兎
蟾蜍の当て字として「蟾菟」と書き替えられまして、蟾と菟がともに月に住むようになったようですね。
   ●三蔵法師。645年インドから帰る。
仏教美術の月天は、十二天中の月宮殿に住む王で、兎がその使者とされています。 玄奘三蔵の「大唐西域記」に帝釈天の話が出ているので、 帝釈天のお話と月ウサギの語源とが唐の時代に一致しても不思議はないようですね。 しかし弥生時代の銅鐸(桜丘5号銅鐸)に月うさぎが描かれているので、もっと前の時代かもしれません。
   ●外来語説
ウサギの語源には古くから2つの外来語説があったようです。 古代朝鮮語の烏斯含(ウガサム)と梵語の舎舎迦(ササカ)の2種類です。 この2つはウサギに発音が似ていません。新村出博士によれば、 インドの古語サンスクリットでは月の一名を「ウサギ」と云うそうで、 「ウサギ」の意味は跳びはねる動作を云うそうです。
   ●月兎と帝釈天
インドのジャータカ神話から。昔「うさぎ」と「きつね」と「さる」の 三匹が仲良く暮らしておりました。三匹は前世の行いが悪いから今は動物の姿になっているので、 世のための人にためになるような良いことをしとうといつも話し合っておりました。帝釈天はこの話を聞いていて何か良いことをさせてあげようと、 老人の姿になって三匹の前に現れました。
三匹は老人のために色々世話をしてあげました。 さるは木に登って果物や木の実を採ってきてあげました。 きつねは川の魚を採ってきてあげました。しかしうさぎにはこれといった特技がありませんでした。うさぎは老人にたき火をしてもらい「私には何の特技もありませんので、 せめて私の身を焼いてその肉を召し上がってください」と言うや、 火の中に飛び込んで黒こげになってしましました。これを見た老人は帝釈天の姿に戻り「お前たち三匹はとても感心なもの達だ。 きっとこの次に生まれ変わったときには人間として生まれてくるようにしてあげよう。 とくにうさぎの心がけは立派なものだ。 この黒こげになった姿は永遠に月の中に置いてあげることにしよう」といったそうであります。こうして月には黒こげになったうさぎの姿が見えるそうです。
日本では今昔物語(平安末期の1077年頃書かれたもの)の、 「天竺の部・巻五・第13話」に月兎の話がありました。 天竺の部では、本生伝の形で世俗的な話が中心となっています。
   ●帝釈天と日蝕
古代インドで日蝕は、修羅が帝釈と戦い破れて、日月を掻き晦まして身を隠すため であるという話があるそうです。古代インド天文では、九つある惑星のうち、 第8と第9惑星が太陽と月を呑み込んでしまう悪神であると考えられておりました。 その悪神の名はラフ(Rahu)と言いまして次のようなお話があります。
ラフは、神々が乳海を攪拌して作った不老不死の酒を、饗宴にまぎれ入って盗み飲んでしまいました。 それを日神スリイアと月神チャンドラとが最高神ヴィシュヌに知らせました。 最高神ヴィシュヌは宝輪で悪神ラフの首と手足を断ち切ってしまいました。 ところが霊酒の奇特で、その後首も手足も不死の命をえて天を駆け回り、 時には告げ口をした日や月を呑んで、せめても鬱憤をはらしていると言うそうです
   ●九曜の8・9惑星
九曜 五行 方角 季節 干支
八白 土 北東 晩秋から初春 丑寅
九紫 火 南 夏 午
   ●第8第9がラゴ,ケイト(日月食をおこす架空の天体)
インド天文学 意味 音訳 読方
Rahu 竜頭 羅(目候) ラゴ
Ketu 竜尾 計都 ケイト
古代インドでは、「太陽の黄道」と「月の白道」の2つの交点に 竜頭(ラゴ)と竜尾の2竜神が住み、時々太陽や月を食べると考えられていたそうです。 このラゴウ・ケイトの二惑星はインド起源で、七曜(七星)に加えられ 九星となったそうであります。  「星空のロマンス」より     
日本
   ●飛鳥時代
法隆寺の中宮寺所蔵です。天寿国曼茶羅繍帳残欠(国宝)には月が描かれ 下左横に兎が両手を上げており、中央に薬壺が描かれています。662年。推古天皇の30年。聖徳太子の逝去をしのび橘大女郎が作らせたものとあります。 左上に月が描かれ、右に桂樹、中央に薬壺、右に兎が描かれております。これは古代中国において、月で兎が不死の薬を搗くと考えられていたものが、 日本に伝わってからは餅を搗くと変化したしたものと云われているそうです。 変化の理由は「満月」を「望月」と云いますが、これが「餅搗き」と転化したとのことです。その他月宮殿は古鏡に描かれていますが、年代が不明です。「鏡」と云う言葉も気にかかります。 不死の薬が餅に変化したことは、唐代と飛鳥時代で、一応時代的には矛盾しないようですね。
   ●望月から餅搗きへの転化
望月から餅搗きへの転化の説が書かれている本は他に『日本の食文化大系19 餅博物誌』 『日本伝説研究』 『たべもの語源辞典』などがあります。
カナダ
カナダ・インデアンのお話で、月にカエルがいるお話もあります。 月が色々な人を招待したのですが、多く呼び過ぎて妹のカエルの居場所がなくなったので、 兄の月の顔に張りついてしまったと言う話です。
もともとアジア起源のこの話が、シベリア・アラスカを経てカナダに伝わった説があるとのことです。 すると兎もカエルと一緒に、カナダへと渡ったのでしょうかね。
アフリカ・ホッテントット
月が、使い兎に「月は欠けてもまた満ちるように、人間が死んでもまた生き返ることができる」と 人間に伝えるように言いました。しかし兎は間違えて「月は欠けてもまた満ちるが、 人間は死んだら生き返れない」と言ってしまいました。怒った月は兎を棒で叩きました。 兎は爪で月を引っ掻きました。兎の口が割れているのはこのためで、 月に黒い字があるのはこのためであると言います。 アフリカでも兎が出てくるのには驚きです。ただ月の影は兎の姿ではなくて、ひっかき傷なのですね。 
●月の兎 13
「兎、兎なにみて跳ねる十五夜お月さん見て跳ねる」——、そんな歌を子供の頃口ずさみ、また月のうすぐらい影は月の中で兎が餅をついている姿だよと教えられた。
“月の兎”の物語は『今昔物語』巻五、また良寛はそれを万葉風の長歌にしている。その物語は、仏教思想の『ジャータカ』〔本生譚(ほんじょうたん)〕に由来している。ジャータカ物語とはお釈迦様が前世でウサギ、サル、また国王であっても先の世では“菩薩”であったことを表わしている話である。ジャータカ物語、ジャータカ図はインドでは紀元前一世紀頃に始まる。そして私たちは七世紀初めの頃の法隆寺の玉虫の厨子、『捨身飼虎図』、『雪山童子施身聞偈図』にてそのことを知る。
“月の兎”の話は『今昔物語』では、「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三(みつ)の獣ありて、共に誠の心を発(おこ)して菩薩の道(どう)を行ひけり。」と始まる。三匹の獣は身をやつした老人をみると、猿は木の実を拾い、狐は川原から魚をくわえ老人にささげた。ところが兎はあちこちを求め行けどもささげるものが何も見つからない。老人は何も持ってこない兎を見ると、「お前はほかの二人と心が違うな」となじった。兎はせつなく言う。猿に柴を刈ってきてくれ、狐にそれを焚いてくれと頼み、わが身を燃える火の中に投じささげた。捨身—、命を投じた慈悲行である。その時老人は、帝釈天となり、「此の兎の火に入たる形を月の中に移して、あまねく一切の衆生に見せしめむがために月の中に籠(こ)め給ひつ。然れば、月の面(おもて)に雲の様なる物のあるは此の兎の火に焼けたる煙なり、亦、月の中に兎の有るといふは此の兎の形なり。万(よろづ)の人、月を見むごとに此の兎の事思ひいづべし。」といったと示す。この話は、兎の捨身の心、慈悲行を物語っている。
人間が月面着陸(一九六九年)して以来、そのような伝説、神話は忘れられているが、この宇宙、銀河系のなか、地球に生命のある不思議さはいろいろと話題になっている。以前に『物語と人間の科学』(河合隼雄著)を読んだことがある。ある科学者の言葉により「科学は生命科学ではなくて生命誌でなくてはならない」といわれていた。“月の兎”は何かいのちの背景の生命誌を語っていはしないか。  
●インドにおける月のうさぎ 14
月のうさぎの関する古い話で、最もよく知られているのは、インドの仏教説話「ジャータカ」に含まれている兎本生譚(ササ・ジャータカ)です。
ササ・ジャータカでは、帝釈天がバラモンの姿となって,かわうそ,ジャッカル,猿,ウサギのそれぞれに施しを求めた際,差し出せるものが何もないウサギが,自分の体を焼いて施しにしようと火に飛びこみます。そして、この行為を讃えた帝釈天が,月面に山の汁でウサギの姿を描き、天へと帰って行きます。この話がいつ作られたのかについてははっきりとはしませんが、ジャータカに含まれるいくつかの説話の原型は紀元前3世紀ごろに成立したと考えられており、かなり古いことが分かります。
インドの文献で月のうさぎを述べているのは、ジャータカだけではありません。紀元前6世紀ごろに作られたと考えられ、バラモン教の祭祀を記述した、ブラーフマナとよばれる文献の中にも、月にうさぎがいるという記述が見られます。
ジャイミニーヤ・ブラーフマナの「月の中の兎の物語」には、「月の中にあるものは兎である。何となれば、月は万物を支配するからである」と書かれていますし、また、シャタパタ・ブラーフマナにも「月の中の兎」という記述があります。このように、インドでは、月のうさぎは極めて古い時代から、バラモン教の伝統を通して語り継がれてきたことが分かります。実際、ササ・ジャータカでは、帝釈天はバラモンに化けて動物たちに近づいており、バラモン教の考えが仏教説話であるジャータカのストーリーに影響を与えたのではないでしょうか。
兎を月の生き物とした理由は何なのでしょうか。ジャイミニーヤ・ブラーフマナの訳には原語(サンスクリット語)で兎のことを「シャシャ」といい、支配するを「シャース」ということが書かれています。つまり、月が万物を支配(シャース)することと、兎(シャシャ)の単語の類似が、両者を結びつけている要因となっているようです。サンスクリット語では、月のことをシャシン(兎を持つ者)とも呼ばれることがあると、訳者は述べています。
古代インドでは、月は祭祀を行う目安となっており、ブラーフマナ文献にも満月や新月の祭祀のことが詳しく述べられています。インドに限らず、月は古代の人々にとって重大な関心事だったようで、多くの地域で月が「死と再生」または「豊穣」のシンボルとなっていることを、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデが報告しています。欠けて消滅した後、再び現れるという月の性質が、生死の問題はもちろん、植物の生育とも対応づけられたようです。月が万物を支配するという考えは、バラモン教をはじめ古代のインドにとって大事な思想だったのでしょう。兎も繁殖力が強いことから、豊穣のシンボルとなり、似たような意味をもつ月と関連するようになったという考えも、兎と月を結びつける有力な説となっています。
古代インドでは祭祀の際、ソーマという興奮飲料が用いられました。このソーマは、インド神話において、インドラ(仏教では帝釈天)に活力を与えるとされ、また、月の神とみなされています。ソーマの原料については分かっていないようですが、インドの聖典「リグヴェーダ」には、ソーマは植物を圧搾して作られるという記述があります。ジャータカでは、帝釈天が山の汁で月に兎の模様を描いていますが、これももしかすると、ソーマとの関連があるのかもしれません。さらに、兎は先祖を喜ばせる食物の一つと見なされていたようで、火に飛び込んだ兎の話も、祭祀における供儀のような風習が影響しているのではないでしょうか。
言語(シャシャとシャース)とシンボルの意味(豊穣)のどちらが先なのか、またどのようにして両者が関連づけられていったのかは不明ですが、とにかく月のうさぎの起源としては、インドが有力な候補地であることは確かです。文献以外には、紀元前180年ごろ作られたと考えられているインドのコインの中に、月と兎の模様が施されたものが見られます。  
●中国における月のうさぎ 15
アジアの玉兎文化において中心的な役割を果たしてきたのは、何と言っても中国です。そもそも「玉兎」という月のうさぎの名称自体、西晋時代の傳玄が擬天問の中で「月中、何かある、白兎薬を搗く」と詠じたことから、玉のような色をした白兎が玉兎になったといわれています。唐の時代には、詩人たちが、玉兎のことを詩の中で取り上げるようになりました。
中国における月と兎の関係を示す有名な書物は、戦国時代の屈原が書いたとされる「楚辞」です。そのなかの天問に「厥の利維れ何ぞ, 而して顧菟腹に在り(何のよいことがあって,顧菟は月の中にいるのだろう)」という一文があり、このなかの顧菟(こと)がうさぎのことだと考えられてきました。もし本当に、顧菟がうさぎならば、中国では紀元前4-3世紀ごろには、月のうさぎが知られていたことになります。
しかし、このとき一つ注意しなければならないことがあります。というのも、中国の古典学者である聞一多(ぶんいった)が、顧菟はうさぎではなくヒキガエル(蟾蜍=せんじょ)のことを指していると指摘しているからです。聞一多説によれば、蟾蜍の蜍と兎の読み方が似ているため、月に兎がいると考えられるようになったようです。じじつ中国では、兎と共にヒキガエルも月の生き物として、古典や伝説の中で、長い間語り継がれてきました。
中国ではっきりと月のうさぎが確認できるものは、1970年代に馬王堆漢墓から発掘された、帛画(絹の上に描かれた絵)です(図1)。この帛画には、三日月と一緒にヒキガエルと兎の図柄が施されています。馬王堆漢墓は長沙国の丞相だった利蒼の墓であることが判明していることから、仮に楚辞の顧菟がヒキガエルを表しているとしても、紀元前2世紀には、月のうさぎが中国で知られていたことが分かります。
インドでは紀元前6世紀ごろすでに、月のうさぎがバラモン教の思想の中で語られています(インドにおける月のうさぎ参照)が、中国の玉兎はインドから伝わったのでしょうか。それとも、2つの場所で独立に発生したのでしょうか。聞一多はヒキガエルを表す顧菟が、兎と混同されることで、月のうさぎが誕生したとしていますが、仮に顧菟がヒキガエルだとしても、後の時代にインドから月のうさぎが中国に伝わった可能性もあります。
馬王堆漢墓の帛画の年代を考慮すると、もし月のうさぎが中国に伝わったならば、それは仏教伝来やシルクロード開拓以前である可能性が極めて高くなります。残念ながら、玉兎文化の伝搬に関する記録はありませんが、シルクロードの開拓以前における、中国と西方の国々との交流を示す記録や出土品ならばいくつか残されています。
まず、司馬遷による史記の大宛列伝には、月氏の匈奴討伐への協力を取り付けるため、張騫が西方に赴くと、大宛の人々は漢のことを知っていて、貿易を望んでいたと書かれています。さらに張騫は、大夏(バクトリア)の市場で邛の竹杖と蜀の布を見つけ、それらがインドから仕入れられていることを知ります。つまり、張騫が遠征を行う以前から、詳しいルートは分からないものの、インドを含めた西方の地域と中国は何らかの形で交流していたようなのです。また、中国にははるか昔より、西方から玉がもたらされ、崑崙の玉として珍重されていますし、インドとは少し場所が異なりますが、アルタイ山脈のバジリク古墳群からは中国産の絹織物が出土しています。バジリク古墳群の年代ははっきりとは分からないものの、紀元前5-4世紀、一部が紀元前3世紀と見積もられており、張騫の遠征以前であることは確かなようです。
これらの記録や出土品から、中国にはシルクロード開拓以前から、西方との交流があったと考えられるのではないでしょうか。だとすると、月のうさぎもまた、西方の文化として中国にもたらされたのかもしれません。中国の地方文化を詳細に分析したエバーハルトも、月のうさぎは中国の外から入ってきた観念ではないかと推測しています。もちろん、聞一多が指摘しているように、音の類似によって中国国内で玉兎が生まれた可能性も否定はできません。
中国では漢代になると、身分の高い人たちの墓室の石に、様々な模様が施されるようになりました。これらの石は画像石と呼ばれ、当時の文化を知る手がかりとなっています。そして、画像石の中には、玉兎が描かれているものも複数存在しています。また、漢代の鏡にも玉兎の紋様が施されていることから、起源がどうであれ、中国で月のうさぎが広まったのが漢代であることは確実なようです。
文献に月のうさぎが登場するようになるのもやはり漢代からで、前漢の学者である劉向が書いたとされる「五経通義」に「月中に兎と蟾蜍と有るは何ぞ」と月に兎がいることが述べられています。さらに、後漢の時代になると、張衡の「霊憲」や王充の「論衡」も月のうさぎのことを言及しています(ただし、王充は月にうさぎがいることには否定的ですが)。  
 
 

 

●餅つきと月のうさぎ 16
月に兎がいるという文化はアジアの各国で見られますが、日本の月のうさぎが特徴的なのは、餅を搗いているということです。詳しい年代は定かではありませんが、日本には飛鳥時代以前に、中国か高句麗から月のうさぎが伝わった可能性が高いようです(飛鳥時代に作られた天寿国繍帳という工芸品のとばりに玉兎の刺繍が施されています)。しかしながら、玉兎の本場中国では、兎が搗いているのは餅ではなく不死の仙薬です。中国で玉兎が広まった漢代の画像石には、「西王母(せいおうぼ)」という仙女の眷属として、玉兎が仙薬をくわえていたり、臼と杵で搗いていたりする図柄が見られます。兎以外に、ヒキガエルや九尾の狐も西王母の眷属として描かれることが多いようです。
中国では不老不死を求める「神仙思想」という考えが古くから信仰されており、西王母はその神仙思想における仙女とみなされています。西王母の本来の姿は、多くの研究があるにも関わらずよく分かっていません。中国古代の地理書である「山海経」からは、西王母は崑崙山(こんろんさん)という山に住み、豹の尻尾や虎の歯を持つ、怪物のような存在であることが分かります。この西王母が、神仙思想が高まるにつれ、怪物から次第に崑崙山の仙女になっていきました。崑崙山は中国では死者が昇る聖なる山と考えられていることから、西王母にも徐々に仙女の性格が加えられていったのでしょう。
それではなぜ、月のうさぎと西王母が結びついたのでしょうか。はっきりしたことは分かりませんが、西王母は仙女だけでなく、月神としての性格も兼ね備えているようです。そのため、月の中にいると考えられている兎とヒキガエルが西王母の眷属になったのかもしれません。
もう一つの考え方として興味深い点は、西王母が住むとされる崑崙山のいくつかの特徴(天地を結び、四つの川の水源となっているなど)には、インドの聖なる山である須弥山(しゅみせん)との共通点が見られるということです。そのため、決定的な証拠こそないものの、インドにおける須弥山の観念が漢代以前から中国に伝わっている可能性があるそうです。そして、その須弥山には、ジャータカで月に兎の絵を描いたインドラ(帝釈天)がいると考えられています。このことから、もし本当に崑崙山の観念に須弥山が影響を与えたならば、インドラと月のうさぎの関係(インドにおける月のうさぎ参照)が崑崙山の西王母にも取り入れられたと考えられるのではないでしょうか。
では、玉兎と仙薬の関係はどうでしょうか。単純に西王母が神仙思想における仙女になったため、眷属の玉兎が不死の仙薬を作るようになったとも考えられますが、ここでひとつ重要な研究報告があります。それは、漢代の画像石の図柄を詳しく調べてみると、玉兎の他に「羽人」という羽の生えた仙人が不死の仙薬を作っているということです。そして、この羽人は大きな耳を持っており、兎と姿が似ているのです。さらに、前漢時代の図像では、兎は月を表すものでしかなく、薬を作るという観念は薄いようです。これらの点から論文の著者は、もともと仙薬と関係が深かったのは羽人の方で、次第におなじ西王母の従者で姿が似ている玉兎が羽人と混同されることにより、玉兎も仙薬を作るようになったのではないかと指摘しています。もしかすると、月のうさぎが西王母と結びついていること自体も、羽人と混同されたことが原因なのかもしれません。
ただ残念ながら上述したように、西王母の起源や仙女になっていく過程、外来の文化の影響というようなことはよくわかっておらず、インド文化との関係も含め、さらなる研究に期待したいところです。例えば、インドの祭祀では、神々に不死をもたらすとされる「ソーマ」がインドラに捧げられていました。この思想は西王母と不死の仙薬との関係に似ています。聞一多の指摘によれば、中国の神仙思想は、西方に住んでいた羌族(きょうぞく)の風習がもとになっているようです。この説は確定的ではないようですが、神仙思想と西王母の発展に関する研究がさらに進めば、月のうさぎについても多くが明らかになると思われます。
ここまで玉兎と不死の仙薬の関係を見てきました。それではなぜ、日本では月のうさぎが餅を搗いていると考えられるようになったのでしょうか。一般的には、十五夜の満月を意味する「望月」と「餅」がかかっているからという説が知られているようですが、他にもいくつか考えるべき点があります。
日本で月のうさぎが頻繁に取り上げられるのは、十五夜のお月見の時ですが、興味深いのは、お月見の時に団子ではなくサトイモが供えられる風習があるということです。サトイモは焼畑農業で作られていた一般的な作物であるらしく、西日本や中国南部の焼畑を行っている地域の文化は「照葉樹林文化」と呼ばれ、稲作が伝わる以前の文化として注目されてきました。そして、この照葉樹林文化圏では、餅が積極的に利用されていることが報告されています。餅性の穀物を用いる地域というのは、日本以外では東南アジアや中国南部、台湾、韓国あたりに限られているらしく、その理由としては、焼畑農業で古くから栽培されていたサトイモのような粘性の高い食べ物が好まれたためではないかと指摘されています。
中国では唐の終わりから宋の時代にかけて、十五夜に収穫祭の性格が備わってきたようです。そして、この照葉樹林文化圏に住んでいるミャオ族やヤオ族の村々では、八月十五夜の日に、イモや餅を月に供えて収穫祭が行われていることが報告されています。日本でも、中国の古典に影響を受け、徐々に宮廷文化として行事化されていったお月見が、室町時代のころから収穫祭として庶民の間に広まっていきました。以上のことを考えると、日本では杵と臼で搗くものしてすぐに連想されるのは、薬ではなく餅であったみたいです。特に庶民にとっては、その傾向が強かったのではないかと思われます。
また、昔から日本では、餅は生命を更新・再生させてくれる特別な食べ物とみなされ、さまざまな儀礼(いわゆるハレの日)で食されたり、神様に捧げられたりしてきました。このような餅の性質は、インドのソーマや、中国の仙薬と極めて類似しています。つまり「中国では仙薬を搗いていた月のうさぎが日本では餅を搗くように変化した」というよりも、「日本では餅に仙薬のような役割もあった」といえるのではないでしょうか。 
●月に宿った永遠の命──美しくも悲しいウサギ 17
むかしむかし、遠い天竺(インド)に、ウサギと狐と猿の三匹の獣がいました。三匹はいつもお互いを敬い、何をするにも譲り合って暮らしていました。
彼らがこのように立派な生活をしていたのには理由がありました。前世では人間だったのに、生き物を大切にしなかったために獣の姿になって生まれかわったことを知っていたのです。
「われわれが獣の姿に生まれ変わったのは、前世の行いが悪かったからだ。このたびは自分のことは捨てて他人のために善い行いを心がけ、来世でふたたび人間に生まれ変わろうぞ!」
それが三匹の固い固い誓いでした。そんなある日、やせ衰えた老人が三匹の前にあらわれ、こう言いました。
老人「わしはこのように衰えてしまって、食べ物も手に入らぬ始末じゃ。そなた達は哀れみ深いと聞いたが、どうかわしを養ってくれぬか?」
これを聞いた三匹の獣は、「今こそ善行をする時だ!」と喜び、すすんで老人を養うようになりました。
木登り上手の猿はいろいろな果樹にのぼり、毎日たくさんの果実を取って老人に与えました。知恵のある狐は、人間が供えた餅や魚などを持ち帰り、好きなだけ老人の前に差し出しました。
ところがウサギだけは、野や山に行くと恐ろしさで腰がひけてしまい、全く食べ物を捜してくることができません。老人の役に立ちたいという一心で探しまわるのですが、いつも帰りは手ぶらでした。
ウサギ「今度こそ何があっても必ず美味しいものを捜してきます!猿さん狐さん、枯れ木をあつめて火をたいて待っていてください」
ウサギはある日、なにかを決意した顔つきでそう言って出てゆきましたが、やはり何も穫れずに手ぶらで帰ってきました。火をたいて待っていた狐と猿は怒りました。
狐「やっぱり嘘だったのだな!枯れ木拾いなどさせやがって」
猿「お前はこの火で暖まろうとして俺たちを使ったんだろう!!」
兎「いいえいいえ、そうではありません。私にははじめから、食べものを捜してくる甲斐性がないのです。ですからご老体――」
ウサギはそう言って老人のほうを振り向くと「どうか私の体を焼いて食べてください!!」 と、みずから火の中へ飛び込み、焼け死んでしまったのでした。
これを見た老人はにわかに凛々しい姿に変身しました。老人の本当の姿は、帝釈天(たいしゃくてん)だったのです。
帝釈天は、他人のために犠牲になったウサギの利他の精神に感じ入り、ウサギが火の中に飛び込もうとしたその姿を月の中に永遠に残したのでした。
帝釈天にはこんな思いがあったのでしょう。後世、人を含むすべての生きものが、月をながめるたびにこのウサギのことを思い出すように……。
そして他人のために自分を犠牲にしたウサギの尊い精神をふりかえり、世の中からきっと争いごとがなくなるように……。 
●なぜ月にウサギがいるのか? 18
なぜ月にはウサギがいると言われるのでしょう。日本では昔から、「月には兎がいて、餅をついている」と言われています。月の欠けたり満ちたりする特徴は生命力を感じ、縁起の良いものとして親しまれてきました。十五夜には中秋の名月を見ながらお団子を食べる風習もありますね。ウサギのように見える部分は、月の影の模様です。なぜウサギと言われるようになったのでしょう。その由来となる、例え話を紹介します。
僧侶と3匹の動物
ある日、1人の年老いた僧侶が山で倒れていました。偶然通りかかったのは3匹の動物、ウサギ、キツネ、サルでした。この3匹は相談し、僧侶を助ける事にしました。「まず食べるものを集めよう」という事になり、3匹はそれぞれ食料を取りに行きました。キツネは川で魚を捕まえ、サルは木の実をとってきました。しかし、ウサギは何も見つかりませんでした。僧侶を助けたいのに食料が見つからなかったウサギは、あることを思いつきました。それは、自分の体を捧げる事です。「私の体が焼けたら肉を食べ、修行を続けてください」ウサギは僧侶に言いました。そして迷う事なく火の中に飛び込もうとしたその時、年老いた僧侶は帝釈天へと姿を変えました。(帝釈天とは仏教の守護神です。)
年老いた僧侶のふりをして3匹を試していた帝釈天は、ウサギの固い決意に感動しました。帝釈天はウサギを褒め、ウサギの慈悲行を世界中に知らしめる為に、月に大きなウサギの絵を描きました。
お布施とは
ウサギは布施をする食料が見つかりませんでした。しかし、少しでも仏法に貢献したいと考え、自身の命を捧げようとしました。なかなか真似できるものではありませんね。そんな中、私たちでもできそうな布施があります。無財の七施(むざいのしちせ)・・・布施をする財がなくてもできる七つの布施
   眼施(げんせ)→優しい眼差しで人と接する、眼による布施
   和顔施(わげんせ)→和やかな顔で人と接する、顔による布施
   愛語施(あいごせ)→愛のある言葉を語る、言葉による布施
   身施(しんせ)→身体で人を助ける、体を使うことによる布施
   心施(しんせ)→思いやりの心を持つ、心くばりによる布施
   床座施(しょうざせ)→席や地位を次に譲る、場所を譲る布施
   房舎施(ぼうじゃせ)→自宅に人を迎え入れる、雨宿りなど助け合いの布施
これらの布施なら、私たちにもできそうですね。3匹の動物のように仲良く暮らすにはお互いを助け合うことが重要かもしれません。日々の生活の中で、怒りや嫉妬の心が生まれた時は、7つの布施を思い出してみるのも良いかもしれません。 
 
●ウサギの布施 19
昔、ある深い森にウサギとサルと山犬とカワウソが住んでいた。四匹の動物たちはとても賢く、お互い仲良く暮らしていた。ある日のこと、ウサギは他の三匹に「貧しくて困っている者に布施をしよう」と話した。翌日みんなは、食べ物を探し回り布施の用意をした。しかし、ウサギだけは用意する事が出来ませんでした。ウサギは、考えた末に自分の体を施すことにした。それを知った帝釈天は、ウサギの気持ちを試そうと僧侶の姿になり、施しを求めに現れた。ウサギは「薪を集めて火を起こしてください。わたしはその火の中に飛び込みますので、体が焼けたらその肉を食べて、修行に励んでください」と話し、僧侶に火を起こしてもらった。そして堂々と美しい微笑を浮かべながら、真っ赤な火の中に身を投じ、自らの身を犠牲にしようとした。僧侶はウサギの決意が固い事を確かめると、この立派な行いが世界のどこにまでも知れわたるように月の表面にウサギの姿を描き帝釈天の姿にもどって去っていった。その後、四匹の動物たちは月夜になると森の広場に集まり、明日からまた施しが出来るように働こうと誓ったのであった。

・ここには、ウサギの見返りを求めない布施の心が見てとれます。
・四種類の異なる動物たちが、仲良く生活している様子が描かれています。
・仏教では、布施について三輪清浄といわれます。三輪とは、「布施そのもの」と「布施する人」と「布施される人」のことです。それら三つが清浄であって、はじめて布施が成立するのです。
・「情けは人のためならず」といわれるように、私たちは、日常の生活において、人のために何かをしたり、何かを与えたりするときは、何らかの見返りを期待してはいないでしょうか。
・サルや山犬、カワウソは、美味しい食べ物を探してきて布施をしたと思われます。それは布施された「物」だけで考えるなら、ウサギが捧げた自らの体よりも大きな布施だったかもしれません。しかし、帝釈天が月に描いたのは、ウサギの姿でした。布施においては、施物そのもの以上に、少しでも仏法の興隆に貢献したいという布施者のまごころが、何よりも尊いものであることを示しています。
・仏道修行の中に六波羅蜜の行があります。その中に「布施」の行があります。私たちは自らを犠牲にし、他者のために施しをすることはなかなかできるものではありません。究極的な意味で布施の行を修めさとりを開いていくことは極めて困難です。
・阿弥陀如来はそのような私たちをご存知ですから、法蔵菩薩の因位において、自ら六波羅蜜の行を修めてくださいました。その功徳を南無阿弥陀仏と仕上げて、今、私たちに届けられています。
・無財の七施(財のない者ができる七つの布施。眼施、和顔施、愛語施、身施、心施、牀座施、房舎施の七つ)ということも言われます。仏法に出遇ったうえには、せめて施しのまねごとくらいはさせていただこうという心を持ちたいものです。 
 
 
 
 
 
 

 



2020/3/13-14
 
 
 

 

今昔物語集
焼身した兎 月の兎が生まれた話 (巻5第13話 三獣行菩薩道兎焼身語 第十三)
今は昔、天竺に兎・狐・猿、三匹の獣がいました。彼らは誠の心を起こして菩薩の修行をしていました。「わたしたちは前世に深く重い罪を負い、賤しい獣として生を受けた。これは前世に生きとし生ける者をあわれまず、財を惜しんで人に与えようとしなかったことの報いだ。だからこの生では、身を捨てて善いことをしよう」 3匹は最年長の者を親のように敬い、年長の者には兄のように接し、若い者を弟のように思って、自分よりほかの者を優先させました。
帝釈天はこれを見て、心を動かされました。「彼らは獣だが、たいへんありがたい心を持っている。人の身ながら、生ある者を殺し、財産を奪い、父母を殺し、兄弟を敵のように思い、笑顔で悪心を抱いたり、恋い慕っているように見えながら怒りを宿している者も多い。しかし、このような獣が誠の心を抱いているとは思えない。試してみよう」 帝釈天はたちまち老い疲れすべての能力を失ったような老人に姿を変え、3匹の獣のもとに現れました。「私は年老い疲れどうしようもありません。私を養ってください。私は子がなく、家がなく、食物もありません。あなたたちは深いあわれみの心を持っていると聞きました」 
3匹の獣はこれを聞いて、「わたしたちの望むところだ。すぐに養うことにしよう」と言いました。猿は木に登り、クリ・カキ・ナシ・ナツメ・ミカン・コクハ・イチイ・ムベ・アケビなどを取り、また里に出ては、ウリ・ナス・ダイズ・アズキ・ササゲ・アワ・ヒエ・キビなどを取ってきて、好みに応じて食べさせました。狐は墓小屋におもむき、供え物の餅やご飯、アワビやカツオや様々な魚を取ってきて思うままに食べさせました。老人はすっかり満腹しました。
数日後、老人は言いました。「猿と狐はたいへん深い心を持っている。すでに菩薩であると言ってもいいだろう」 兎は発奮し、灯をともし香をたいて、耳を高く腰を低くして、目を見開き前足は短く、尻の穴を大きく開いて、東西南北探し歩きましたが、ついに何も得ることができませんでした。
猿と狐、そして老人はあざ笑ったり辱めたり励ましたりしましたが、兎はやはり何も得られません。「私は老人を養うために野山に行ったけれども、野山は恐ろしい。人に殺され、獣に食われる危険もある。無駄に命を落としてしまう可能性が高い。ならば、今この身を捨てて老人の食物となり、この生を離れることにしよう」 兎は老人に言いました。「今、おいしいものを持ってきます。木を拾って火をおこして待っていてください」
猿は木を拾ってきました。狐はこれに火をつけて、兎が何か持ってくるかもしれないと待ちましたが、兎は手ぶらで帰ってきました。猿と狐は言いました。「俺たちはおまえが何か持ってくるというので、準備して待っていた。しかし、何もないではないか。ウソをついて木を拾わせ、火をたかせて、自分が暖まろうとしているのだ。憎らしい」 兎は言いました。「私は力が及ばず、食物を持ってくることができません。我が身を焼いて食べていただきます」 そう言って、火の中に入って焼け死にました。
このとき帝釈天はもとの姿に戻り、すべての人に見せるため、火に入った兎の形を月の中に移しました。月の中に雲のようなものがあるのはこの兎が火に焼けた煙であり、「月の中に兎がいる」といわれるのはこの兎の形です。すべての人は、月を見るごとにこの兎のことを思い出します。
 
 
三獣行菩薩道兎焼身語 第十三
今昔、天竺に兎・狐・猿、三の獣有て、共に誠の心を発して、菩薩の道を行ひけり。各思はく、「我等、前世に罪障深重にして、賤き獣と生たり。此れ、前世に生有る者を哀れまず、財物を惜て人に与へず、此の如くの罪み重くして、地獄に堕て、苦を久く受て、残の報にかく生れたる也。然れば、此の度び、此の身を捨てむ」。年し、我より老たるをば、祖の如くに敬ひ、年、我より少し進たるをば、兄の如くにし、年、我より少し劣たるをば、弟の如く哀び、自らの事をば捨てて、他の事を前とす。
天帝釈、此れを見給て、「此等、獣の身也と云へども、有難き心也。人の身を受たりと云へども、或は生たる者を殺し、或は人の財を奪ひ、或は父母を殺し、或は兄弟を讎敵の如く思ひ、或は咲(ゑみ)の内にも悪しき思ひ有り、或は慈(いつくしび)たる形にも嗔れる心深し。何況や、此の獣は、実の心深く思ひ難し。然らば試む」と思して、忽に老たる翁の、無力にして、羸(つか)れ術無気なる形に変じて、此の三の獣の有る所に至給て宣はく、「我れ、年老ひ羸れて、為む方無し。汝達三の獣、我れを養ひ給へ。我れ、子無く、家貧くして、食物無し。聞けば、汝達三の獣、哀びの心深く有り」と。
三の獣、此の事を聞て云く、「此れ、我等が本の心也。速に養ふべし」と云て、猿は、木に登て、栗・柿・梨子・菜(なつめ)・柑子・𦯉1)(こくは)・椿(はしばみ)・𣗖2)(いちひ)・郁子(むべ)・山女(あけび)等3)を取て持来り。里に出ては、苽(うり)・茄子・大豆・小豆・大角豆(ささげ)・粟・薭(ひえ)・黍(き)び等を取て、好みに随て食はしむ。狐は、墓屋(つかや)の辺に行て、人の祭り置たる粢(しとぎ)・炊交・鮑・鰹・種々の魚類を取て持来て、思ひに随て食はしむるに、翁、既に飽満しぬ。
此の如くして、日比を経るに、翁の云く、「此の二の獣は、実に深き心有りけり。此れ、既に菩薩也けり」と云ふに、兎は励の心を発して、灯を取り、香を取て、耳は高く、𤹪(くぐ)せにして、目は大きに、前の足短かく、尻の穴は大きに開て、東西南北求め行(あ)るけども、更に求め得たる物無し。然れば、猿・狐と翁と、且は恥しめ、且は蔑(あな)づり咲ひて励ませども、力及ばずして、兎の思はく、「我れ、翁を養はむが為に、野山に行くと云へども、野山、怖しく破(わり)無し。人に殺され、獣に噉はるべし。徒に心に非ず身を失ふ事量無し。只如かじ、我れ、今、此の身を捨てて、此の翁に食はれて、永く此の生を離れむ」と思て、翁の許に行て云く、「今、我れ、出でて甘美の物を求め奉らむとす。木を拾ひて、焼て待ち給へ」と。然れば、猿は木を拾ひて来ぬ。狐は火を取て来て、焼付けて、「若しや」と待つ程に、兎、持つ物無くして来れり。
其の時に、猿・狐ね、此れを見て云く、「汝ぢ、何物をか持て来らむ。此れ、思つる事也。虚言を以て人を謀て、木を拾はせ、火を焼せて、汝ぢ、火に温(あたたま)らむとて、穴憎く」と云へば、兎、「我れ、食物を求て持来るに力無し。然れば、只我が身を焼て、食ひ給ふべし」と云て、火の中に踊入て焼死ぬ。
其の時に、天帝釈、本の姿に復して、此の兎の火に入たる形を、月の中に移して、普く一切の衆生に見しむが為に、月の中に籠め給ひつ。
然れば、月の面に、雲の様なる物の有るは、此の兎の火に焼たる煙也。亦、「月の中に兎の有る」と云は、此の兎の形也。万の人、月を見む毎に、此の兎の事、思出すべし。(下文欠)
1) 草かんむりに伯
2) 木へんに栗
3) 底本頭注「菜ハ棗椿ハ榛𣗖ハ櫟ノ誤カ」 
 
 
 

 


 
 
 

 

嫦娥 (じょうが、こうが) 1 
中国神話に登場する人物。后羿の妻。古くは姮娥(こうが)と表記された。
『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月(月宮殿)に逃げ、蟾蜍(ヒキガエル)になったと伝えられる(嫦娥奔月)。
別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えている。
道教では、嫦娥を月神とみなし、「太陰星君」さらに「月宮黄華素曜元精聖後太陰元君」「月宮太陰皇君孝道明王」と呼び、中秋節に祀っている。
「姮娥」が本来の表記であったが、前漢の文帝の名が「恒」であるため、字形のよく似た「姮」を避諱して「嫦」を用いるようになった。のちに旁の「常」の影響を受けて読みも「じょうが」(に対応する中国語での発音)に変化した。
民間伝承
海南島などでは、8月15日(中秋節)の晩に少女たちが水をはった器の中に針を入れて嫦娥(月娘)に自分の運命の吉凶を示してもらう、という習俗があった。針がすっかり沈んでしまって少しも浮かばないと運命は凶であるという 。
「嫦娥」
嫦娥という単語は「月の女神」あるいは「天女」という語義で使用されることもある。アメリカで出版されたウィリアム・スウィントンによる英語のリーダー『Swinton's Fifth Reader and Speaker』(1883)では同書の17章にあたる「The Moon-Maiden」で、日本の駿河国(静岡県)を舞台として羽衣をもつ仙女を登場させ、それを「Moon-Maiden」の単語を用いて表現しているが、それを邦訳した『スウヰントン氏第五読本直訳』(1889)では、「Moon-Maiden」をすべて「嫦娥」と翻訳している。  
 
 

 

『嫦娥奔月』 (じょうがほんげつ) 2 
中国の神話伝説の一つとされている。
后羿の妻である嫦娥(姮娥)が、后羿が西王母から貰った不老不死の霊薬(または天上界へ行ける霊薬)を飲み1人月へ昇り月宮(広寒宮)で寂しく暮らすことになったという中秋節の故事である。嫦娥奔月とは「嫦娥、月に奔る」の意味。淮南子6巻の覧冥訓12節には嫦娥の物語として「譬若羿請不死之藥於西王母、姮娥竊以奔月、悵然有喪、無以續之。何則? 不知不死之藥所由生也。是故乞火不若取燧、寄汲不若鑿井」との記載がある。

昔々嫦娥という名前のそれはそれは美しい女性がいました。彼女は后羿(こうげい)という弓矢の名手の奥さんです。昔世界には太陽が10個もあったのだそうです。この10個の太陽に人々は苦しみ、それを救おうと后羿は9つを射落とします。そして残った太陽に毎日時間通りに昇り、時間通りに沈むように言い含めたそうです。この功績から彼は西王母から不老不死の薬をもらいます。
この薬を彼の妻嫦娥はこっそり一人で飲んでしまいます。なぜそんなことを?
ここにはいろいろな説があります。一つは嫦娥が身勝手な女で、天に昇りたくて夫の目を盗んで一人薬を飲んでしまったという説。これによって嫦娥は罰せられ月の宮殿で一人寂しく暮らしている、というのです。また罰として嫦娥は月でガマにされてしまったという説も。もう一つは夫の留守に悪者が不老不死の薬を盗もうとしたので仕方なく自分が飲んでしまったという説。さらにもう一つは夫の后羿は太陽を射落とした功績で高い地位を得るのですが、そのことですっかり舞い上がり暴虐な王になってしまうのです。こんな男が不老不死になったらたまったものではないというので、嫦娥は自分がこの薬を飲んだという説です。
いずれにせよ嫦娥は夫とは離れ離れになり、一人月に住む寂しい身の上になってしまいます。
月はとても寂しい場所だったようです。でも嫦娥以外誰もいなかったかというとそんなことはありません。呉剛という男とウサギとがいました。呉剛は罪を犯し、この罪も殺人とか仙人の修行の際の罪だとかいろいろな説があるのですが、ともあれ罰されて月に送られます。ここで月桂樹の木を伐採するよう命じられるのですが、この木は切っても切ってもまた生えてくるのです。呉剛は月の中で永遠にこの木を伐り続けているのだそうです。

ウサギは嫦娥のお伴という説もあれば嫦娥の化身だという説も。日本でウサギは月で餅つきをしていますが、中国から見える月では薬をついているのです。このウサギは玉兎とか月兎とか呼ばれています。
ところでこのウサギ、別の話の中でもけっこう活躍しています。昔北京で疫病が流行ります。人々が病を癒す祈りを捧げていると、月の嫦娥がこれを見て哀れみます。そこで月兎をこの世に送るのです。するとウサギは少女の姿になって人々の病を癒していきます。やがて疫病は終息するのですが、北京の人々はこれに感謝し毎年8月15日の中秋節になると“兔儿爷 tù’éryé”という泥人形を作ってお供えをするようになったと言われます。少女なのになぜ“爷”(爺)という言葉がついているかというと、“爷”(爺)は「爺様」という意味ではなく、位の高い人・神様という意味があるからです。“兔儿爷”は月に住む神様なんですね。その後“兔儿爷”は子供たちの玩具の一つになり、今ではおめでたい民間工芸品として売られています。 
 
 

 

嫦娥 (じょうが、姮娥 こうが とも呼ばれた) 3 
中国神話に登場する、月の女神。より正確には月に住む女神。
道教では太陰星君とも呼ばれている。弓の名手である英雄神・羿(げい、 后羿 こうげいとも呼ばれる)の妻。彼女と羿に関する神話はバリエーションが多いが、おおむね以下のようなものである。
かつて、天帝の息子に10羽の火烏(かう)がいた。火烏はそれぞれが交代して空を飛んで太陽となっていたのだが、ある日突然、10羽全ての火烏が地上に出現してしまう。10個もの太陽に晒され、地上は大きな災害に見舞われた。当然の事ながら神々はこの事態を収めるべく、火烏を元の業務に戻る様説得するが、火烏は聞き入れない。仕方なく、弓の名手である羿が呼ばれ、羿はその卓越した弓の業で9羽の火烏を撃ち落とし、地上を救った。その後も様々な妖怪や魔物を打倒し、人々から守護神として崇められた羿であったが、火烏達に非があると言え、息子を殺された恨みが晴れぬ天帝は羿と嫦娥の夫婦から神籍をはく奪し、地上に堕としてしまう。神でなくなった為に不老不死を失った二人は苦難を乗り越えて仙女の長である西王母に出会い、西王母から不死の薬を譲り受ける。しかし、神の地位に未練のあった嫦娥は、この薬を二人分飲めば神に戻れる事を知って、夫の分の薬まで飲んで天に昇ってしまった。再び神となった嫦娥であるが、夫を裏切った事で他の神々から糾弾され、月に逃げ込んでしまう。月に逃げた嫦娥の体は、その罪の為か醜い蟇蛙の姿になっており(後世の伝承ではこの設定はオミットされた)、薬を挽く兎が一匹いるだけの非常に寂しい世界で、嫦娥は孤独と後悔に苛まれながら暮らす事になったという。
日本では月には兎がいるという話が有名であるが、中国では蟇蛙が住むとされていた。中国で蟇蛙は顧菟と表記するのだが、この菟を兎と誤認した事から蟇蛙と兎が住むという話が生まれたと言われている。 
 
 

 

●嫦娥 (じょうが) 4 
1 中国、古代の伝説上の人物で、月に住む仙女。羿(げい)の妻で、夫が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に入ったといわれる。姮娥(こうが)。転じて、月の異称。
2 中国神話の月神。常娥、【こう】娥とも書く。夫の【げい】が西王母から得た不死の薬を盗み、月へ逃げた。そのまま月に住み蟾蜍(せんしょ)(ガマ)になったという。転じて月の異名。月兎譚、桂樹伝説、〈かぐや姫〉伝説の祖。
3 中国神話にみえる月神。常娥、常羲(じようぎ)などとも書く。《山海経(せんがいきよう)》大荒西経に、帝俊の妻常羲が月十二を生み、大荒の日月山で浴することがみえる。帝俊は文献にいう舜で、もと太陽神。《淮南子(えなんじ)》覧冥訓に、羿(げい)が不死の薬を西王母に求めたところ、嫦娥がこれを窃(ぬす)んで月に奔(はし)ったことがみえ、そこでは嫦娥は羿の妻と解されている。月に奔った嫦娥は月中の蟾蜍(せんじよ)(がま)となり、月の精となった。
4 〔淮南子 覧冥訓・後漢書 天女志〕 中国、古代伝説上の人物。夫の羿げいが西王母からもらいうけた不死の薬を盗み、月に逃げ込み蟇がまに変わったと伝えられる女。姮娥こうが。月の異名。
5 中国古代の伝説に登場する女性。娥(こうが)ともいい、弓の名人(げい)の妻。嫦娥は、夫のが崑崙(こんろん)山に住む女仙の西王母(せいおうぼ)からもらい受けた不死の薬を盗み出し、それを服用したのち、月世界へ昇ってガマガエルに化したと伝えられる。嫦娥を仲立ちとして不死の薬と月が結び付いたのは、人々が永遠に変わることなく満ち欠けを繰り返す月に不死性を感じ取ったためと思われる。またガマガエルに変身したというのも、月影をカエルに見立てた古代の中国人の観念によるものであろう。しかしのちになると、醜いカエルに化したという伝承は消失し、嫦娥はただ1人で月中に孤独をかこつ憂愁の美女と考えられるようになった。そうした嫦娥の姿を唐代の詩人たちは、しばしば詩に月を読み込むときの素材としている。
6 月の世界に住むといわれる仙女。転じて、月の異称。姮娥(こうが)。※経国集(827)一〇・奉和関山月〈滋野貞主〉「嫦娥如有レ意、応二照妾汎瀾一」。※草枕(1906)〈夏目漱石〉七「桂の都を逃れた月界の嫦娥が」 〔李商隠‐常娥詩〕。[補注] もと「姮娥(こうが)」といわれており、「淮南子‐覧冥訓」やその高誘注によると、羿(げい)の妻であったが、羿が西王母から得た不死の薬を盗んで飲み、月に逃げたという。漢の文帝の諱「桓」を避けて「姮」を「嫦(こう)」と書いたが、後にこの字が「ジョウ」と読まれるようになった。 
 
 

 


 
 
 

 

孟姜女 (もうきょうじょ) 
中国の民間伝承に登場する人物。秦の始皇帝時代の人。各地において様々なバリエーションの伝説が残されており、出生の方法などには無数の説がある。共通するところは、万里の長城を泣き崩したという点。
孟員外の家から育った瓜が、姜家の屋根で実を作った。そこで、孟姜の家が争うものの、瓜は二等分することで和解する。しかし、その瓜の中からは一人の女の子が出てきた。再び孟家・姜家で争いになるが、生まれたばかりの女の子が「孟姜女」と2つの家の姓を名乗り、姜婆さんも孟家で生活することで和解する。これ以外にも、ごく普通の生まれをする物語などもある。
成長した孟姜女は范喜良(または万喜良・万杞良)という男と結婚する。しかし、范喜良は万里の長城つくりの人夫として徴用されてしまう。夫の後を追いかけるが、時既に遅く、范喜良は過酷な工事に耐え切れず死亡していた。悲しみにくれた孟姜女が慟哭すると、万里の長城が数里に渡って崩壊し、長城に埋め込まれていた夫の亡骸が発見されるのであった。
夫の范喜良についても、凡夫ではなく、ある種の神性を持っていたという伝説もある。ある伝承によれば、万里の長城を建設するには、1里に付き1人の生贄が必要であったと言う。しかし、范喜良は生贄としては1万人分の価値がある特殊な人間であったため、国家及び生贄を免れたいと思う民から追跡を受けている途中で孟姜女と出会い、結婚したというものがある。この場合でも、范喜良が逃げ回っている間に過酷な工事のため、1万人の民が死んでおり、用済みになった范喜良は普通に人夫としての苦役の中で命を落とした、というものもある。
最終的に、長城を崩壊させたところに始皇帝が訪れるが、孟姜女を咎めるどころか孟姜女の美しさに心酔し、結婚を申し込むと言うエピソードが追加されている伝説もある。このエピソードにおいては、孟姜女が始皇帝に対し范喜良の埋葬など様々な要求を付きつけ、それが全て達成されたところで始皇帝を批判する捨て台詞を残して姿を消すとされている。特に、始皇帝と結婚して富貴を極める物語などはないようである。  
 
 

 

孟姜女の伝説 1 
中国にはよく知られた四大伝説があり、「孟姜女の伝説」はそのひとつです。
話は秦の時代に遡ります。江南地方のあるところ、孟という苗字の家の庭に瓜が一本植えてあり、その瓜の蔓が塀を越えて隣の姜という苗字の家の庭にも伸びてゆきました。秋になって瓜は大きく立派に実りましたので孟と姜の両家で半分つづ分けることにしました。
ところが瓜を割ってみますと、とても綺麗な可愛い女の子がいました。孟家には子供がいませんでしたので、孟夫妻はとても喜んで、女の子に「孟姜女」と名づけ自分たちで育てることにしました。
孟姜女は両親にそれはそれは可愛がられながら幸せに育ちました。そしてその後十何年か経ち、聡明で美しい女性に成長しました。
その頃はちょうど秦の始皇帝が万里の長城を建て始めたところでした。その為の労力が限りなく必要なため、役所はいたるところで労役に送る人を捕らえていました。ある時、範喜良という青年が危うく捕らえられそうになり、家から急ぎ逃げ出し、あちこち逃げているうちに知らずに孟家の庭に入ってしまい、そこで孟姜女に出会いました。
青年は真面目な書生のように見えましたので、孟姜女は可哀相に思い、両親と相談の上、青年に孟姜女の家でしばらく隠れてもらうことにしました。
範喜良は大変礼儀正しく立派な青年で、学問もあり、孟夫妻はこの青年が気に入って娘婿になってくれればどんなにいいだろうと考えるようになりました。そこで娘の孟姜女の気持ちを尋ねてみると、孟姜女もまた範喜良に少なからず好意を寄せていましたのでこの縁談を纏めることにし、良い日を選んで、結婚式を挙げました。
二人の結婚生活はこの上なく幸せでしたが長くは続きませんでした。範喜良はまるでそうなるのが運命であるかのように、結局役所が派遣した兵士に捕らえられ、遥か北方で万里の長城を造る労役に送られてしまいました。
孟姜女は夫のことを思い、毎日泣きながらその後ずっとたよりを待ち続けましたが、一年、二年経っても夫からの音信は全くなく、その消息は何も聞こえてきませんでした。
孟姜女は夜も寝ずに冬の服を作り上げ、それを携えて万里の長城の工事現場へ自ら夫を探しに行こうと心を決めました。
旅の道中、孟姜女は病気に罹かったり、悪人に虐められたり、疲労で倒れたりなど、108の苦難を乗り越えながら命がけで北へ北へと歩き続けて行きました。 
何ヶ月もの旅を続けて、やっと長城建設の工事現場に辿り着いた孟姜女は、人々に夫が何処にいるかを尋ねました。しかし、誰もが首を横に振って分からないと答えました。何十万人の労働者の中から夫一人を探し出すのは到底無理なのです。
それでも諦められない孟姜女は捜し続け、終にある老人から夫はすでに死んでしまっていると告げられ、その骨は万里長城の真下に埋められたという事実を知ると、孟姜女は長城の城壁を力いっぱい叩きながら胸を引き裂かんばかりの声で泣き始めました。
孟姜女が声を立てて泣きに泣き続けている間に、日や月は光を失い、天も地も暗くなり、寒風が吹き起こり、川にも荒い波が立ち始めました。そして突然、ごろごろと天地が裂け砕ける様な大音響が四方に轟き渡ると、万里の長城の数里が崩れ落ち、中から無数の白骨が現れました。孟姜女は泣きながら、それらの白骨の中から夫のものを見分けて拾い出すとお墓を造りたいと思いました。
折も折、万里の長城の工事状況を見回っていた始皇帝は、長城の一部が孟姜女の泣き声で崩れ落ちたことを伝え聞くと非常に怒り、兵士たちを引きつれて孟姜女の所に来、彼女を殺そうとしました。しかし、孟姜女はあまりに美しく、その美貌に心を奪われた始皇帝は、自分の妃にしようと側近の者に説得を命じました。けれども側近の者たちは誰も孟姜女を説得できず、やむなく始皇帝は自ら孟姜女の許に行き、「欲しいものがあるなら、なんでも与える。言ってみよ」と甘い言葉で懸命に説得を試みました。
孟姜女はこの機会を利用して、できるならこの暴君を殺し、夫を殺された恨みを晴らしたいと策を巡らせて言いました。
「三つのことをお願いできるなら承知します。一つ目、お墓を造り、石碑も立て、良い棺で夫を埋葬すること。二つ目、皇帝と官吏たちは、喪服姿で葬式に列席すること」。二つ目の望みを聞いた始皇帝は「皇帝が一般人の葬式に参列は出来ない。三つ目の望みを述べてみよ」と言いました。しかし、孟姜女は「二つ目の望みを叶えて下さらなければ、三つ目の望みを叶えることはできません」と答えました。
どうしてもこの美しい女性を失いたくない始皇帝は、「よかろう。三つ目はどんな望みなのだ?」と孟姜女に尋ねました。彼女は三つ目の願いとして、「海を三日間見たいのです」と伝え、始皇帝も「それは容易なことだ」と承知しました。
お墓を立て、棺を造り、夫を弔う為のいろいろな準備しました。そして葬式の日、始皇帝は孟姜女の望み通りに官吏達を引きつれ盛大な葬式を行いました。葬式が無事終わると、孟姜女は「次は海に行きましょう」と始皇帝一行を誘い、船に乗って海の沖へと出て行きました。
穏やかな美しい海でした。が、突然、孟姜女は自らの身を海に投じ、あっという間に波間に呑まれて行きました。と同時に海は大波が逆巻き大荒れになり、始皇帝は孟姜女を救うこともできず我が身大事と命からがら慌てふためいて逃げ帰りました。
始皇帝を殺すことこそ実現できませんでしたが、大胆に権力に反抗し、夫に対する愛情を貫いた孟姜女の精神はその後の人々に感動を与え続け、「孟姜女、万里の長城を泣き崩す」という物語となりました。この物語は音楽や芝居などいろいろな形で上演されていますし、中国の有名な観光地・山海関の東の鳳凰山には「孟姜女廟」が造られ、夫を想って海を眺める孟姜女の姿があります。 
 
 

 

孟姜女の伝説 2
中国史上初めての天下統一を成し遂げた秦(紀元前221-206)の始皇帝。彼が北方民族匈奴の侵入を防ぐために万里の長城を建設したことはあまりにも有名。この長城建設にまつわる1人の悲しい女性の伝説が残っている。原題は、「孟姜女哭倒万里長城(=孟姜女泣いて長城を倒す)」。長城をめぐる伝説が数多く残されている中で、この話は今も中国の人々に愛されて最も広まっているものの一つである。中国の中国故事集の類には必ず取り上げられているほどである
むかし、孟という家に孟姜女という美しい娘がいました。孟姜女は両親に大切に育てられ、家から一歩も外に出たことがありませんでした。ある日孟姜女が侍女たちと家の庭で遊んでいると、築山の影から1人の男が自分を見ているのに気づきました。孟姜女はびっくりして声を上げたので、侍女たちはこの男を取り押さえました。
「お許し下さい。お願いです。私は范喜良と申す者です。追っ手から逃れようとしていたら、誤ってこの庭に迷い込んでしまったのです」
当時秦の始皇帝が万里の長城建設のために全国から人々を連行し、労役を課していました。それは厳しい重労働で、飢えや疲労から命を失うものも多かったのです。書生であった范喜良もこの労役を命ぜられ、役人に捕まえられそうになって逃げ込んだのが、孟家の庭だったというわけです。
范喜良は事情を話して、許しを請いました。侍女たちは范喜良を問い詰めましたが、孟姜女は范喜良をかわいそうに思い、何とか助けてあげられないものかと考えました。
「お父さまのところへ、お連れして」 と、孟姜女は侍女たちに言いつけました。最初孟姜女の父親は彼をどうしたものかと迷いましたが、話してみると大変人柄もよく、学問にも通じているので、とりあえず孟家でかくまうことにしました。そのうち二人は相思相愛の仲になり、両親を説得して結婚の承諾まで取り付けたのでした。
幸福絶頂の二人に突然不幸が訪れたのは、結婚式の当日でした。親戚など大勢の人たちがお祝いに駆けつけ、まもなく式が終わろうとしていたとき、突然役人たちが踏み込んできて、范喜良を捕まえていってしまったのです。花婿が引っ立てられて行った後、孟家は大騒ぎになりました。孟姜女の悲しみようといったらありません。
「あの人は今頃どうしているかしら。どうして私たちはこんな目に合わなければならないの?」
寝ても覚めても夫を思い、夫からの便りを待ちわびていました。
待てど暮らせど夫からの便りはありません。春がすぎ夏になり、そして秋になり冬が近づきました。中国では昔から「寒衣を贈る」といって、家を離れている家族に冬着を届ける習慣があります。
「家でいつまでも待っていたって仕方ない。そうよ、私があの人に会いに行けばいいんだわ」
孟姜女は夫に冬着を届けるために、万里の長城に行く決心をしました。反対する両親を説得し、とうとう夫に会うために千里の道に旅立ったのです。
道中風雨に晒され、険しい山をいくつも越え、急流をいくつも渡り、女の一人旅は苦労の連続でした。お腹がすいたときは草木を食べ、靴は破れ裸足の足は傷だらけでした。それでも、「長城に行けば、あの人に会える」 という粘り強い気迫と夫への深い愛を支えに、歩き続けました。
「どんなに苦労をしても、あの人を捜してみせる。そして見つけたら絶対離れはしないわ」 と心の中で叫びながら、前に進みました。そしてやっと万里の長城にたどり着いたときには、既に雪が降り出す頃でした。
万里の長城に着いても、夫のいるところはどこかわかりません。孟姜女は長城に働く人々を訪ね、うわさを追うようにして、ようやく夫ことを知っている人を捜し当てました。
「それで、あの人はどこにいるのですか?」 「死んだよ。ちょうどこの当たりに埋められているはずだ」 「えっ? そんな!」
孟姜女はへたへたと座り込んでしまいました。ひたすら思いつづけていた人がもうこの世の人ではなくなっていたとは。今まで張り詰めていた糸が急に切れると、これまでの肉体的、精神的な疲れとどうしようもない絶望感が襲って来ました。
「どうして。どうして。私たちは一日も一緒に暮らしていないのに。あの人はどんな思いで死んでいったのだろう。私に何か言い残したいことはなかったのだろうか」 と夫の無念を思い、涙が流れ出しました。
「ああ、私はこれからどうして生きていったらいいのだろう」 夫がいないのだという空しさも襲って来て、涙は止めどなく溢れ、時間が経つのも忘れ泣き続けました。
孟姜女は悲しみのあまり、三日三晩泣き続けました。すると空が暗くなり雨がふりだしました。風が起こり強く吹き出しました。そして雷鳴が轟いたかと思うと、その轟音と共に孟姜女の目の前の万里の長城が、突然からがらと音を立てて崩れ落ちました。そして崩れたところから、何人もの遺体が現れたのです。孟姜女は目を見張りました。そして思い直すと、狂ったようにその遺体の中に夫の姿を捜し始めました。常人には考えられないまでの気丈さで、多くの死体の中から必死になって夫の遺体を捜しました。そしてとうとう、愛する夫の遺体を発見したのです。長い間脳裏から離れなかった夫との対面でした。
孟姜女は夫の遺体を抱え帰路に着きました。ところが悲しいことに、孟姜女はその途中で亡くなったと伝えられています。
山海関の絶壁から、夫と共に海に身を投げたという説もある。孟姜女が飛び込んだ場所には、お寺が建てられ、孟姜女寺(河北省秦皇島市海関、山海関から五キロほどのところ)と呼ばれてる。小高い山の108段の石段を登ると孟姜女の坐像があり、白い服で心配そうな顔をして海を見つめている。像の上に「万古流芳(=美名を後世に残す)」という文字が掲げられている。両脇には「秦皇安在哉 万里長城築怨 姜女未亡也 千秋片石銘貞(=秦の始皇帝は死して、万里の長城で恨みを築く。孟姜女は未だ死せず、永遠に貞女の名を残す)」という対聯が掛かっている。寺の両側には「海水朝朝朝朝朝朝朝落、浮雲長長長長長長長消」という有名な対聯がある。寺の後ろには人の背丈ほどの「望夫石」と刻まれた岩があり、その岩の頂までに大きな窪みがあって、孟姜女が夫を眺めて踏んだ足跡だと伝えられている。  
 
 

 

孟姜女の伝説 3
万里の長城-孟姜女的故事
你好、今日は昨日の万里の長城に絡めて、中国の故事を紹介したいと思います。やや長いので5回に分けてお届けします。今日は始めの部分なので長城と何が関係あるの?と思われるかもしれませんが最後までお読みいただけると長城を理解するのに納得できるのではと思います。では「孟姜女的故事」を始めます。

むかしむかし、隴西省同官県に姜という姓の家があり瓢箪を植えていた。その蔓は成長し隣の家の孟員外の家の庭まで伸びていましたが、その先でとても大きく素晴らしい瓢箪が実っていました。両方の家はどちらもこの瓢箪をほしがったので、包丁を持ってきてその瓢箪を割ると、意外にも中から一人の美しい娘が出てきました。この子に何と名前をつけてあげようか?両家の人々は一考し、この両家共同の子孫として、孟姜女と名付けました。

またたく間に十数年が過ぎ、孟姜女は賢く美しい娘へと成長しました。当時、秦の始皇帝がいたる所で年頃の男たちを捕まえ、長城の修理をさせていました。蘇州に範杞梁という書生がおり、彼は始皇帝がいたる所で人を捕え無理やりに働かせていると聞き、内心とても恐ろしくなり、名前を変え逃げようとしました。この夜、範杞梁は孟員外の裏庭に逃げ着き、孟姜女が女中と一緒に涼んでいるところにばったりと出くわしました。彼女は木の後ろに隠れる範杞梁に出てくるように言うと若い書生で容貌が優れているので、一目見るやいなや好意を抱きました。その後、範杞梁の詳しい話を聞くとさらに可哀そうに思い、そして孟員外の前に行き、一部始終を話しました。孟員外は範杞梁を娘婿とすることを決めました。

しかし、長いことなく範杞梁は人に見つかってしまい、県の役人から長城の修理に行くよう命令が下りました。範杞梁が捕まり連れて行かれてから、孟姜女は夫のことを非常に心配し、夫が帰ってくることを毎日待ち望んだが、範杞梁の消息は少しも分からず、彼女はとても苦しみました。春が過ぎ秋が来て、またたく間に11月になりました。気候はますます寒くなり、孟姜女は夫が連れて行かれた時、薄着であったため非常に心配し、夫に冬用の服を届けることを決めました。彼女は家族に別れを告げ、北へ向かって行きました。彼女は夫がどこにいるのか定かでなく、ただ北の方にいるということだけ知っていました。彼女は方向さえ間違っていなければ、必ず夫が修理する長城にたどり着けると思いました。

道すがら、孟姜女は山を越え川を渡り、千難万苦を経験し、やっとのことで長城付近へと到着しました。何をどう聞いても夫の行方は分かりませんでした。孟姜女は苦痛と絶望で長城の上にしゃがみこみ大声で泣き出しました。泣き出すや三日三晩、火がついたように泣くので、それが神々の心を動かしました。彼女が泣いていると突然、“どかん”と大きな音がして八百里ある長城が彼女の鳴き声でなぎ倒されました。長城の足元から突然、彼女の夫・範杞梁の亡骸が出てきました。孟姜女は夫の体に覆いかぶさり泣き続けると、夫に自ら作った綿の服を着させ、その後、傍らの石に頭を打ち付け夫の横で息絶えました。

後世の人々は孟姜女と範杞梁の忠節と愛情に感じ入り、また始皇帝の長城修理が民百姓たちに苦痛を与えていることに大きな不満を持っていたので、この故事はずっと語り継がれてきました。現在、河北省の秦皇島市の付近の山海関長城に孟姜女の廟が残されています。  
 
 

 


 

 

     春月や印金堂の木の間より   蕪村
     寒月や開山堂の木の間より
●正覚山妙光寺 
妙光寺は、京都市右京区鳴滝にある臨済宗建仁寺派の寺院です。仁和寺街道の西側の福王子の交差点300mほど北側に位置しています。山号は正覚山。弘安8年(1285)に無本覚心(1207〜98)によって開創されました。妙光寺は京都十刹の一つで、御室焼の陶工・仁清のものと伝えられる墓があります。  
京都府京都市右京区宇多野上ノ谷町にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号を正覚山(しょうかくざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花山院師継、開山は心地覚心(無本覚心/法燈国師)である。京都十刹の寺格を有する禅刹。本山・ 建仁寺が所有する「風神雷神図屏風」は、元々京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼し、その後、妙光寺から 建仁寺に寄贈されたものとされる。また京焼色絵陶器の大家・野々村仁清のものと伝えられる墓がある。開山の心地覚心は宋から味噌や醤油の技法を日本に伝えた人物といわれている。
草創期〜安土桃山
弘安8年(1285年)、当時の内大臣・花山院師継が長子の死を悼み、その山荘を寺院として心地覚心を開山に迎えて創建した。寺号は亡長男忠季の法名・妙光に由来。堂内に中国渡来の印金裂(いんきんぎれ)を貼りめぐらせたという壮麗な印金堂(開山堂)を有し、花山院家の菩提寺として広大な寺域を誇った。 持明院統・大覚寺統の天皇家の継承争いの際、花山院家は大覚寺派として後の南朝と結び付いたため、妙光寺は大覚寺統の亀山天皇、後醍醐天皇、後村上天皇の勅願寺となった。そのため、南北朝時代、建武年間には後醍醐天皇が三種の神器と共に妙光寺に逃れていたこともある。さらに室町時代、嘉吉年間(足利義教の時代)にも三種の神器は妙光寺に奉安されていた(このため本堂には「神器の間」がある)。その後、応仁の乱によって廃れた。
江戸時代〜昭和
寛永16年(1639年)、建仁寺の三江紹益(さんこうしょうえき)が豪商・糸屋の打它公軌らの財政的支援を得て再興する。糸屋らの支援は続き、江戸時代を通して末寺塔頭を複数かかえる大寺院として栄えた。さらに糸屋から寺後背の山林が寄贈され巨大な境内を有する寺院となった。しかし幕末の変革期に木戸孝允ら勤王派の一挙点となっていたことから、ほとんどすべての塔頭が新撰組の焼き討ちを受け焼失してしまう。幕末の住職が明治に入り暗殺されたことがさらに衰退に拍車をかけ無住となることが続いたため廃寺寸前となった。またさらには明治政府方針の上地令により寺域の大規模な縮小を余儀なくされた。その後、本堂は明治期に静岡県の鉄舟寺へ売却され(現在も本堂として健在)、山門は本山建仁寺の塔頭である建仁寺護国院(現・開山塔)に移築された。山麓に位置する当寺は、度重なる風水害により名のみ残る荒寺となってしまう。また南側の隣接地に宇多野小学校が建設され、この名刹も巨大な校舎の陰に隠れてしまい世から忘れさられてしまった。京都の名所として有名であった「印金堂」も昭和時代に倒壊し再建されなかった。
平成
平成16年(2004年)より、本山建仁寺の修行僧達が中心となって寺域の整備が行われており、方丈の枯山水庭園、開山堂などが新たに建立された。さいわいにも江戸時代からの庫裏と方丈(客殿)が残っていたため建仁寺より住職が派遣され、名刹再興に尽力している。平成16年(2004年)、枯山水の方丈(本堂)庭園が再興された。平成23年(2011年)には画家の井上文太により、下間の間の襖絵「干潮図」が完成した(平成23年(2011年)10月16日〜11月6日一般公開)。春には小鳥の囀りが聞こえる中、春爛漫を感じる桜の満開が見られ、また秋には少ないが何本かの見事な紅葉が見られるなど、以前の寺格にふさわしい姿を取り戻しつつある。  
開山堂(印金堂)
1780年、当寺の境内が記されている。山門、仏殿、方丈、庫裡、開山堂(印金堂)、数寄屋などが描かれている。(『都名所図会』)
1945年以降、印金堂は老朽により倒壊した。
建築 / かつて、「印金堂(いんきんどう、開山堂) 」があり、中国渡来の印金裂(いんきんぎれ) を四壁に貼っていた。与謝蕪村は当寺を訪れ、「春月や印金堂の木の間より」と詠んだ。印金裂は布面に糊置き金箔を貼り、糊から出た部分を掃き文様を表した。唐代に始まり宋代に盛んになる。薄い裂にも金箔の文様を表現することができた。日本には14世紀以降、袈裟裂や打敷(仏壇、仏具などの敷物) として流入している。
文学 / 江戸時代の俳人・画家・与謝蕪村(よさ-ぶそん、1716-1784)は、当寺の印金堂を訪ねて、「春月や印金堂の木の間より」と詠んでいる。内壁に印金を総貼りした歌聖堂は世に印金堂として知られ、 与謝蕪村が詠んだ句が残っています。  
開山無本覚心1 〜若き日の修行〜
妙光寺の開山は無本覚心(1207〜98)である。心地覚心とも称され、「法灯国師」の国師号を賜っている。
無本覚心の伝記は『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』1巻に現わされている。編者は無本覚心の法嗣で由良西方寺の住持聖薫である。彼は願性の筆録や、慈願上人の撰述した縁起、無本覚心の平素所持した記録、護国紀などを参照して編年体によって記述している。無本覚心は禅のみならず、密教・念仏といった多様性があるのだが、このは『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』では無本覚心の純禅的な部分を強調するあまり、これらの多様性は省かれてしまっている。『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』は『続群書類従』9上に所載されている。無本覚心の記述についてここでは主として『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』によったが、無本覚心の伝はほかに『紀州由良鷲峰山法灯円明国師之縁起』があり、『和歌山県史』中世史料2に翻刻されている。
無本覚心は信濃国近部の人であり、または神林の人ともいわれる。俗姓は恒氏で、または常澄ともいわれる。母は子が無かったため、戸に観音霊像を隠して子を祈り求めた。ある時観音大士が親ら手に灯を燃やして母に授けるという夢を見て、目覚めると妊娠していた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』前記)。承元元年(1207)に誕生した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』承元元年丁卯条)。15歳の時に近部の神宮院主に読み書きを習っている(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』承久3年辛巳条)。
嘉禎元年(1235)無本覚心は29歳の時、奈良東大寺にて得度・受戒した。その時の度牒には「嘉禎元年10月20日、東大寺戒壇院において受具す」云々とあり、戒牒には「信州近部県神宮寺の童行の覚心。本州本県の人の事。俗姓は恒氏、年29歳。当寺の住持僧の忠学律師に投じて、度牒を賜い、剃髪受具するものなり。嘉禎元年10月20日、左大史丹治吉成給す。」とあった。無本覚心はこの2通の度牒・戒牒を平生随身していたという。ついで高野山に登り、伝法院主の覚仏阿闍梨・禅定院住持の退耕行勇禅師(1163〜1241)・道範阿闍梨(1184〜1252)・金剛三昧院の前別当である願性(?〜1276)に密教の経典・儀軌を学んだ(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』嘉禎元年乙未条)。
無本覚心の師となった退耕行勇は、日本臨済宗の祖である明庵栄西(1141〜1215)の法嗣で、荘厳房ともよばれる。師の栄西がそうであったように、彼もまた禅密兼修の傾向が強かった。退耕行勇は、建久10年(1199)4月23日に持仏堂での源頼朝百箇日御忌辰に際して導師となったことをはじめてとして(『吾妻鏡』建久10年4月23日甲申条)、鎌倉と密接な関係を結んでいる。源頼朝の室北条政子が、頼朝の供養のため高野山に金剛三昧院を建立すると、退耕行勇はその開山となった。第3代将軍源実朝(1192〜1219)の退耕行勇への信任はきわめて篤く、公的仏事から仏教に関する私的な諮問にまで及んでいる。建暦3年(1213)3月30日に源実朝は寿福寺に参詣しているが、この時結城朝光(1167〜1254)が進上した大師伝絵を持参して、退耕行勇に銘字の誤謬を訂正させている(『吾妻鏡』建暦3年3月30日辛未条)。建保5年(1217)5月12日、寿福寺長老であった退耕行勇は将軍家御所に参じて、所領の相論について、将軍源実朝に訴えた。このことはすでに幾度にも及んでいたため、実朝の機嫌を損ねてしまい、(源実朝は)大江広元を通じて、「三宝の御帰依は甚だしく重いとはいえ、政道の事についてしきりに執申するというのは、僧徒の行いではない。早くこれを停めて、専ら修練されるべきである」といった。退耕行勇は心中これを恨み、泣いて寿福寺に帰って閉門してしまった(『吾妻鏡』建保5年5月12日己丑条)。15日に源実朝は寿福寺に入って退耕行勇の欝陶の事について慰めた。退耕行勇はことさらに恐れ申した。両者はしばらくの間禅室にて仏法の談話に及んだ(『吾妻鏡』建保5年5月15日壬辰条)。この説話は『沙石集』にもみえ、実朝に叱責された後寿福寺に70日間篭っていた退耕行勇のもとを実朝が訪れ、実朝は退耕行勇の足元に跪いて涙を流し、退耕行勇もまた涙を流して互いに語り合ったといい、この話を寿福寺の老僧や実朝に仕えていた老人が語っていたという(『沙石集』巻第9ノ13、師ニ礼アル事)。このように蜜月であった源実朝との関係は、源実朝の暗殺によって突如終りを迎えることとなる。文暦元年(1234)には正式に金剛三昧院長老職についているが、師栄西を嗣いで東大寺勧進上人となり、暦仁元年(1238)10月8日に東大寺大仏殿ににて千僧供養を行っている(『東大寺続要録』供養篇、本、大仏殿千僧供養事)。
延応元年(1239)退耕行勇は相模国(神奈川県)鎌倉の亀谷山寿福寺の住持となった。無本覚心は退耕行勇にしたがって寿福寺に赴いた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』暦仁2年己亥条)。翌2年(1240)には退耕行勇の命によって堂司に帰り、寿福寺の綱維を掌握した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』延応2年庚子条)。しかし翌年の仁治2年(1241)7月に師の退耕行勇が示寂しており(『延宝伝灯録』巻第6、相州稲荷山浄妙寺退耕行勇禅師伝)、無本覚心は寿福寺を去ったようである。  
開山無本覚心2 〜諸師遍歴〜
仁治3年(1242)、無本覚心36歳の時、山城国深草極楽寺の道元(1200〜53)から菩薩戒を受けた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』仁治3年壬寅条)。道元が無本覚心に授けた戒脈の原本は散佚したが、奥書の写本が豊後泉福寺に現存している。
それから4年間の無本覚心の消息はつかめないが、宝治元年(1247)無本覚心41歳の時、上野国(群馬県)世良田長楽寺にて夏安居(げあんご)を過した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』寛元5年丁未条)。夏安居とは、夏期3ヶ月間(4月16日〜7月15日)に修行者たちが一ヶ所に集団生活し、外出を避けて修行に専念することをいう。仏教発祥の地インドでは、春から夏にかけて約3ヶ月間の雨季の間は外出が不便であり、またこの時期に外出すると草木や虫を踏み殺してしまうことが多いため、この制度がはじまったといわれる。
無本覚心は長楽寺の住持釈円栄朝(?〜1247)に「法姪の礼」をつくした。無本覚心はここで釈円栄朝に「仏教の大意、いかが用心せん」と問い、釈円栄朝は「忍辱精進し、一塵財も蓄えざれ」と答えた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』寛元5年丁未条)。釈円栄朝はもとは密教を学んでいたが、明庵栄西に従って禅を学んだ。この経歴は無本覚心の師退耕行勇の経歴に酷似している。後に上野国長楽寺の開山となったが、多数の東方の道俗が釈円栄朝に帰依したという。宝治元年(1247)9月26日に示寂したが、その時長楽寺の寺内がはなはだしく明るくなったため、寺の傍らの民家は寺を見て失火だと思い急いで寺の内に入ってみると、釈円栄朝が丈室で坐して示寂しているのを見たという(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、長楽寺栄朝伝)。無本覚心が釈円栄朝の参禅したのは、釈円栄朝の師が明菴栄西であり、すなわち釈円栄朝は無本覚心の師退耕行勇の法弟にあたるためであったことが要因の一つであったと思われる。つまり「法姪(ほうてつ)の礼」というのは、無本覚心は法系上では釈円栄朝の姪(おい)にあたるからなのである。しかし無本覚心と釈円栄朝の関係は両者が出会った宝治元年(1247)の9月に釈円栄朝が示寂してしまったことによって、わずか1年にならないうちに終わってしまう。そのため無本覚心は、翌宝治2年(1248)に甲斐国(山梨県)の心行寺に滞在した。夏には寿福寺の悲願長老こと蔵叟朗誉(1194〜1277)が心行寺に夏安居のために来訪した。無本覚心は大殿の後ろにて竹床に坐し、昼夜坐禅した。ある夜、胸中より多くの小蛇が出てくる夢を見、目覚めた後に心の迷妄がにわかに解け、これまで学問的に理解してきたものが最善の法ではなかったことを知った(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝治2年戊申条)。
夏末(夏安居の終り)に京都に赴き、草河勝林寺の真観上人こと天祐思順(生没年不明)に謁して、彼のもとで日々仏法最奥の宗義について論じ、あきらかに手がかりを得ることが出来た(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝治2年戊申条)。天祐思順は、はじめ天台宗を学んでいたが、入宋して北澗居簡(1164〜1246)に参禅して、印記を受けた。在宋13年間の後帰国して、洛東に勝林寺を創建して居住したものの、晩年には門を閉じて面会謝絶したという(『延宝伝灯録』巻第1、京兆草河勝林寺天祐思順禅師伝)。また『沙石集』にみえる天台僧と問答した「真観老人」(『沙石集』巻第3の4、禅師ノ問答是非事)とは天祐思順のことである。 
開山無本覚心3 〜入宋〜
宝治3年(1249)正月16日、無本覚心は入宋の志がおこり、勝林寺を去った。天祐思順は2偈を送って激励している(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』淳祐10年庚戌条)。無本覚心に入宋を勧めたのは、かつて釈円栄朝のもとで学んでいた円爾(1202〜80)であり(『東福開山聖一国師年譜』建長元年己酉条)、また円爾は「あなたが無準師範(1178〜1249)に参じたら、必ずや悟るところがあるでしょう」といい、紹介状を与えたという(『本朝高僧伝』巻第20、浄禅3之2、紀州鷲峰山興国寺沙門覚心伝)。円爾と無本覚心の関係は、単に釈円栄朝に関連したものというだけではなく、無本覚心が退耕行勇示寂後の仁治3年(1242)から宝治元年(1247)までの間のある時期に円爾に参じていたという説がある(中尾1988)。
同宝治3年(1249)2月には願性の支援によって紀伊国由良浦(和歌山県由良町)より九州にむかい、3月28日博多津より宋にむけて出帆した。到着後、径山に赴いたものの無準師範はすでに示寂しており、かわって癡絶道沖(1169〜1250)のもとに参じたが、機縁は適わなかった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝治3年己酉条)。淳祐10年(1250)、荊叟如カク(王へん+玉。UNI73CF。&M020926;)(生没年不明)に謁して道場山(浙江省)にて夏安居を過した。夏末に四明(浙江省)の阿育王山に赴いて2年間滞在したが明師に巡り会うことはなかった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』淳祐10年庚戌条)。淳祐12年(1252)天台山に登り応真に礼した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』淳祐12年壬子条)。
宝祐元年(1253)2月28日、無本覚心47歳の時に大梅山に登って法常禅師(752〜839)の塔(墓所)に拝礼した。この時日本人僧の源心なる者に会い、無本覚心は同参の誼によって、「久しくこの方に参じているが、明眼の知識に遇うことはないか」と問うた。源心は「無門和尚は一代の明師である。ただちに赴いて参見すべきである」と答えた。そこで護国寺に赴き、無門慧開(1183〜1260)に面会した。
無門慧開「我が道裏に門はない。どこから入ってきたか?」
無本覚心「無門のところより入りました」
無門慧開「お前の名はなんだ」
無本覚心「覚心」
無門慧開は「心は即ちこれ仏。仏は即ちこれ心。心仏如々(もとのまま)にして、亘古亘今(永久)なり」という偈を送り、印可を与えた。無門慧開は「お前が来るのがはなはだ遅かったのではないか?」といい、扇子をあげて「見たか?」と問いかけた。これによって無本覚心は言下にして大いに悟った。9月28日のことであった。無門慧開は『対御録』2冊と袈裟1頂を無本覚心に与えた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝祐2年癸丑条)。このように無門慧開は無本覚心に袈裟を授けているが、妙光寺には無本覚心が無門慧開より授けられた伝法衣であるとの伝承がある九条袈裟が現存する。墨書で「入宋覚心」「仏法僧宝」「永仁二年(1294)十二月十日」の3銘があり、無本覚心が帰朝の際に宋から舶来された可能性が濃厚であるとされる(切畑1979)。
宝祐2年(1254)3月27日、無本覚心は再度護国寺に赴いて、無門慧開に帰国の意志を伝えた。無門慧開は達磨・寒山拾得の掛軸画賛3幀を与えた。29日には『月林録』『無門関』を授けられた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝祐2年甲寅条)。『無門関』は、『碧巌録』『従容録』とともに著名な中国宋代の公案書であるが、中国では伝本を絶って失われてしまい、日本において盛行したため、現在にまで伝えられることとなる。日本にはじめて請来したのは、無門慧開から直接与えられた無本覚心その人である。無本覚心の帰国後、「沙門相心」によって西方寺(興国寺)から「正卯仲春」に開版されたが(建仁寺大中院本『無門関』刊記)、この「正卯仲春」が正応4年辛卯(1291)5月であるとすると、『無門関』の開版は無本覚心存命中に行なわれたということになる(川瀬1970)。なおこの「正卯仲春」について、近世における臨済宗屈指の学僧無著道忠(1653〜1744)は正和4年乙卯(1315)とみている。『無門関』は無本覚心の指導法に多大な影響を与えており、とくに多く用いたのが「趙州無字話」であった。また有名な「趙州狗子話」も法嗣の恭翁運良(1267〜1341)に対して用いている(『越之中州黄竜山興化護国禅寺開山勅諡仏林恵日禅師塔銘』)。
無本覚心は礼して退き無門慧開と別れた。無本覚心は商舶に乗って帰国の途についたが、行程の半ばで風波が激しくなり、無本覚心は観音小像1幅を所持していたが、この時周囲の勧めによって念じたところ、にわかに瑞相があり、月輪が帆檣に現われて上下すること再四、風波がやすまり、博多津に到着することができたという。時に6月上旬であった。宋に滞在すること都合6年であった。そのまま船で葦屋津を出発して紀伊湊に到着して上陸した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝祐2年甲寅条)。その後、『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』によると、無本覚心はその後高野山の禅定院(金剛三昧院)にのぼり、「勇公」は即日、無本覚心を第一座にしたとあるが、退耕行勇は1241年に示寂しているから誤りであるとされ(新野1971)、また建長7年(1255)には禅定院の第一座となっていることから(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』建長7年乙卯条)、無本覚心が禅定院(金剛三昧院)の首座(第一座)となったのは第5代長老の廻心房真空(1204〜68)の時であるから(『金剛三昧院住持次第』第五長老真空廻心房条)、無本覚心を第一座としたのは退耕行勇ではなく真空であったらしい。
建長8年(1256)2月13日、無本覚心は師の無門慧開に書簡と水晶の念珠1連・金子1塊(12銭重)を贈っている(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』建長8年丙辰条)。翌年には3月13日付の無門慧開の返書が無本覚心のもとに届いている(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正嘉元年丁巳条)。のちの文応元年(1260)9月1日にも前年の宋開慶元年(1259)8月15日付の無門慧開の書簡を受け取っているように、師弟の交流は無本覚心帰国後も続いた。 
開山無本覚心4 〜西方寺建立〜
正嘉2年(1258)無本覚心は禅定院住持を罷め、由良鷲峰に遷り、功徳主の願性の要請によって、西方寺の開山住持となった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正嘉2年戊午条)。この願性は俗姓を葛山景倫といい、関東の武士であった。源実朝に仕えており、入宋の命令を受けて九州に渡宋のため滞在していたが、承久元年(1221)実朝が暗殺されたこと聞いて剃髪し、高野山に登った。西入なる者が実朝の頭蓋骨を入手し、将軍の母である鎌倉二品禅定尼真如(北条政子)が西入の恋慕追福の志を視て、由良荘の地頭職を賜った。松葉入道行円なる者が実朝の夢告を鎌倉に告げ、それによって願性は金剛三昧院を修理して別当職に補せられた。願性は紀伊国海部由良荘に実朝の頭蓋骨を安置する廟を建立し、田園を寄進して寺院とした。これが西方寺であり嘉禄3年(1227)10月15日のことであった。寺号は栂尾明恵(1173〜1232)の選定により、道元が扁額の篆字を書した。本尊阿弥陀像1鋪は、毘沙門堂明禅法印(1167〜1242)が開眼供養した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』嘉禄3年丁亥条)。文永元年(1264)8月9日に紀伊西方寺別当願性は寺務を無本覚心に譲り、由良荘を高野山金剛三昧院に寄進した(「葛山五郎入道願生寄進状」紀伊金剛三眛院文書〈鎌倉遺文9142〉)。さらに願性は文永3年(1266)正月27日に西方寺五箇条規式・造寺縁起などを誌して西方寺の寺規を整備していった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』文永3年丙寅条)。西法寺は熊野詣の路次の途上に位置しており、後世には無本覚心の名声と相俟って、熊野に詣でる者は鷲峰山(西方寺)に道をとり必ず無本覚心に礼謁しようとし、そうでなければ無意味であるとされるほどであった(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、鷲峰覚心伝)。西方寺は熊野信仰をベースに遁世僧・民間宗教者の参詣する寺院として機能していたとされる(原田1988)。
弘長4年(1264)正月1日より15日間、無本覚心は愛染明王法および五大尊法を修して山内の粛清を祈った。願性の檀命によるものであった。4月8日申時(午後3時)には聖達禅人(後鳥羽上皇)の亡魂が行者了智に託宣して、正月の修法を感謝するとともに、無本覚心の老母が信濃国に健在であることを伝えた。無本覚心は15歳の時に神宮院主に謁見して読み書きを習って以来、孝道を守ろうとしたとはいえ、仏法の為に世俗の愛情を割愛し、そのため親孝行することができなかった。日本・宋を遍歴して、仏法の大事を究明してきたため、親の労苦に報いようとしたものの、母の生死すらわからなかった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘長4年甲子条)。文永3年(1266)無本覚心は神託によって母に会いに信濃国にむかった。母に会うと由良に連れ帰った。旅の間無本覚心は緇衣(僧侶の衣服)を脱いで直衣(平常の服)を着て母堂の後ろを付き従った。2人は熊野に詣でた後由良に戻ったが、無本覚心は修禅尼寺を造営して母の法号を妙智とした(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』文永3年丙寅条)。文永4年(1267)4月、無本覚心の母妙智が示寂し、寺の東南の結界地に墳墓を設けて葬った。この地には無本覚心のの姉妹も葬られており、母の妙智の墳墓には宝篋印塔が、2姉には五輪塔が安置された。無本覚心は祭祀を怠ることはなく、裸足にて墓前に詣でて供諷し、これを日々の定式とした。大卒塔婆を建て、自ら梵漢の種子を書いて、育てられた恩に報いた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』文永4年丁卯条)。
文永5年(1268)鎌倉寿福寺の住持が空席になったため、無本覚心が住持に招かれたが、無本覚心は固辞して赴かなかった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』文永5年戊辰条)。
建治2年(1276)願性が病となったため無本覚心は始終周囲を離れず、臨終に際してつきっきりで看病したが、看病むなしく同年4月23日、願性が寺の南の大坊にて示寂した。願性と無本覚心が嘉禎元年(1235)に高野山にてはじめて出会って以来43年の歳月が流れていた。願性は鏡1面を無本覚心に遺したので、12月17日丑時(午前2時)、浜宮が神体を新宮に奉遷する際、無本覚心は願性が遺した鏡1面を神殿に納めた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』建治2年丙子条)。また弘安6年(1283)には西方寺の宝塔を創建し、4月23日の願性の諱日(命日)をもって落慶している(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安6年癸未条)。 

 

開山無本覚心5 〜妙光寺の草創〜
弘安4年(1281)、亀山上皇は三たび詔書を遣わして無本覚心を京都勝林寺に住まわせ、再度召して禅について尋ねた。無本覚心の回答に感心した天皇は皇居を改めて禅寺とし、「禅林」の勅額を賜った。天皇は無本覚心を開山第一祖としようとしたが、「貧道(僧の卑称)は無徳で王者の師となるには堪えられません。ましてや主上の寺院を創ることができましょうか」と謝絶した。しかし天皇は詔命によって許さなかったので、無本覚心は天皇を倦まずに教導したが、老齢のため応酬に堪えられなかった。そこで無本覚心は徒弟らと協議し、密かに遁走して南の西方寺に帰ってしまった(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安4年辛巳条)。
弘安8年(1285)、無本覚心79歳の時、内大臣花山院師継(1222〜81)が長男右少将忠季(生没年不明)の追修のため、北山仁和の別業を改めて妙光禅寺と号した。忠季の弟心性(別称は空岩)と弟の師信(1274〜1321)は父師継の命にしたがって、寺にて無本覚心を迎えることとし、無本覚心を開山とした(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安8年乙酉条)。花山院(かざんいん)家は、摂政藤原師実(1042〜1101)の子家忠(1062〜1136)を祖とる公家で、家忠が邸宅花山院を伝領したので家号となった。花山院家は妙光寺開基の師継とその兄定雅(1218〜94)の時に2家に分裂し、師継系の家は師信の子信賢(1301〜32)が南北朝の争乱の際に南朝に仕えていたため、南朝と命運をともにした。妙光寺には後醍醐天皇が幕府の追求を逃れて三種の神器とともに妙光寺に行幸したとの伝承があるが、花山院家と南朝の関係からみると、この伝承が自然的に発生したであろうことが頷ける。
妙光寺の徒衆は力をつくして妙光寺を造営し、さらに無本覚心の寿塔を建立した。この寿塔は後に改めて霊光院といった。しかし無本覚心は西方寺に留まったままで京都に来なかったため、徒衆は無本覚心がやって来て妙光寺の寿塔に留まることを望み、使を鷲峰(西方寺)に遣わした。西方寺では衆議が行なわれ、「前年に天皇のお心に背いて密かに西方寺に帰っておいて、今また寿塔のために上京し、かつ重ねて徒弟の私とするのであれば、礼においては不遜である」としたため、再三妙光寺の使はむなしく戻るだけであった。ある時、師はにわかに侍僧に告げて、「私は京北(妙光寺)に行って衆の望みを慰めたい」といったため、西方寺の衆は留まることを強いることができず、旅の支度を急いだ。しかし京北(妙光寺)の不平はやまなかった。議論して「今回も師(無本覚心)を請うたが、師がもし来られなかった場合、われわれは衣鉢を師に返還するにこしたことはない。塔院を破却したところで、鷲峰(西方寺)の徒に何の幸いがあろうか。北京(妙光寺)の徒に何の不幸があろうか」として、翌朝に請状の使を遣そうとして議席が夕刻に及んでいたところ、西門を急にコツコツと叩く音がして、行僕(あんぼく。行者従僕のことで、寺院の下まわりの勤めを行なう者)が声高に「鷲峰の老師が来臨された」と報告した。議席の衆は驚喜感泣し、多日の鬱憤が釈然と晴れた。(妙光寺)の衆は皆「師の慈悲の心が(われわれ妙光寺の衆の気持ちを)が感じられたのだ」といった。花山院師信は亀山上皇・後宇多天皇に奏上して、嵯峨亀山の皇居に輦車(手押し車)にて宮中に入り、天皇に謁見した。その後恩賜を蒙って南の西方寺に帰った(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安8年乙酉条)。 
無本覚心と曹洞宗・時宗・律宗・萱堂聖
無本覚心は禅宗のみならず、密教と深い関わりを持っていたが、他宗派との接点が非常に多いことでも知られる。つまり無本覚心は禅宗という枠組みにとらわれない広範囲の宗教者であったことを物語っている。無本覚心の基本伝記はこれまで引用してきた『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』であるが、前述したようにこの年譜は無本覚心の生涯を純禅的な部分を強調するあまり、他宗派との交流を削除してしまっている。また他宗派側でも、基本伝記にはみえず、むしろ後世に記された史料にみえることが多く、無本覚心と他宗派の交流が実際にあったかどうか、実証を困難にしている。
曹洞宗と無本覚心の関係は、仁治3年(1242)に無本覚心が道元より菩薩戒を受戒した時よりはじまるが、その後の関係は瑩山紹瑾(1268〜1325)を通じて説かれることが多い。瑩山紹瑾は、道元下4世で、曹洞宗の教団確立につとめ、後世には道元を高祖、瑩山を太祖として併せて両祖とされた。この瑩山紹瑾にも「法灯(無本覚心)が南紀の興国寺(西方寺)にいる時、師(瑩山紹瑾)は赴いた。(無本覚心は瑩山紹瑾を)一見して大いに称賛し、(瑩山紹瑾はここに)留まって冬を過した」(『日本洞上聨灯録』巻第2、能州洞谷山永光寺瑩山紹瑾禅師伝)とあるように、無本覚心参禅説話があるが、多くの瑩山紹瑾諸伝が触れていないため、積極的に両者の関係を見出すことは難しい。しかしながら、無本覚心の法嗣である恭翁運良・孤峰覚明(1287〜1361)は実際に瑩山紹瑾のもとに参禅しており、その後も無本覚心の法脈である法灯派と曹洞宗の関係は続くこととなる。
時宗の一遍智真(1239〜89)と無本覚心の邂逅について、それぞれの基本伝記である『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』や『一遍聖絵』・『一遍上人絵詞伝』にはみえない。そのようななかで一遍の異伝では無本覚心との説話が度々みえる。
建治元年(1275)一遍は熊野に詣でた後、紀州真光寺(西光寺か)に赴き、心地(無本覚心)にまみえた。無本覚心は「念起即覚の語」を示すと、一遍は和歌で、「唱うれば仏も吾もなかりけり南無阿弥陀仏」と示したが、無本覚心は「未徹在」といった。建治2年(1276)4月、一遍は再度熊野に詣でたが、路傍にたまたま律僧に出会った。(中略)一遍はなおも冥慮を仰がんとを欲して、証誠殿に詣でた。神は「三心のさはぐり有るべからず。凡そのこの心は善き時も悪き時も迷なる故に、出離の要とはならず。ただ南無阿弥陀仏が往生するぞ」といい、「西へゆく道にな入ぞ苦しきにもとの実りのあとを尋よ」という和歌を得た。ここにおいて一遍は解他力深義を領し、自力意楽を捨てた。再び紀州由良に戻って無本覚心にまみえて、和歌を呈した。「捨て果てて身は無きものと思いしに寒きぬれば風ぞ身にしむ。」 ついに印可を受け、手巾・薬篭を得た(『一遍上人行状』)。
弘安10年(1287)3月に一遍は兵庫に至り、結縁しようとする道俗の人々は一遍の周囲に群を形成していた。光明福寺の住持は和歌を呈した。同郡の宝満寺には由良の法灯国師(無本覚心)が在住していた。一遍は参謁しすると、(無本覚心は)念起則覚の話を掲げた。一遍は和歌で心のうちを述べたが、禅師は「未徹在」といって斥けた。一遍はまた和歌を述べると、禅師は手巾と薬篭を一遍に附属して印可とし、「この2物は信を表わしている。後人の標準としなさい」といった。一遍は踊念仏をした(『一遍上人年譜略』弘安10年条)。
この両伝記とも、無本覚心にまみえた年が建治元・2年(1275・1276)と、弘安10年(1287)と大幅に隔たっており、邂逅した場所も、紀州真光寺(西光寺か)と兵庫宝満寺(写真下)と異にしていることから、一遍と無本覚心との関係説話には疑問が持たれるところであるが、これらの説話について禅と念仏を結びつけるために五山禅僧によってつくられた説話とみられている。一遍は法語のなかに無本覚心の得法の機縁の語を引いており、一遍が無本覚心のことを知っていたことは事実であったという(原田1988)。また時宗四条派の祖である浄阿真観(1276〜1341)もまた無本覚心に参禅したという説話がある。浄阿は諸国を修行していたが、紀伊由良に到って心地(無本覚心)にまみえ、座下にあって禅法に励むこと6年間、端座して修行した。ある時無本覚心にむかって「長年修行しているとはいえ、いまだに一分の鼻孔すら得られません。なおも修行すべきでしょうか。又(何か)示されることはないのでしょうか」といった。無本覚心は「長年の工夫で得られなければ坐禅すべきではない。また法性というものは教外別伝であって、言説をもってのべるべきではない。ただ熊野に参詣して祈請しなさい」といった。そこで浄阿は熊野本宮に参詣して祈請してみたが効果はなかった。翌日に熊野新宮に参詣すると、夜夢に念仏の形木を賜って「この札を賦して衆生に利益しなさい。名は一阿弥陀仏と付けなさい」という神託に預かった。そこで由良に下向して無本覚心にまみえ「熊野に詣でて念仏の法を得ました」といった。無本覚心は「いかなるか念仏」と問いかけ、浄阿は「南無阿弥陀仏」と答えたが、無本覚心は「よしとするには不足である。また参詣しなさい」といった。また浄阿は熊野に参詣して下向した。無本覚心は「いかなるか念仏」と再度問いかけると、「南無阿弥陀仏」と答え、無本覚心は「よし」といった。それより浄阿は念仏を勧進して諸国を修行した(『浄阿上人伝』)。この説話について、浄阿を祖とする四条派が、対立する遊行派の七条道場に対する正当性を主張するため、浄阿の師の一遍と同じ宗教的体験をした説話が形成されたとされる(原田1988)。
律宗では久米多寺の道爾(1254〜1324)に無本覚心参禅説話がある。道爾は由良法灯国師(無本覚心)の道風を聞いて、興国寺(西方寺)のむかった。無本覚心はあらかじめ衆徒に「三日の後に嘉賓(よい客)がやって来るだろう」といった。禅爾がやって来たということを聞いて、無本覚心は歓喜し、禅爾に対して慇懃に接し、誠実に対応したため、禅爾は宗旨を理解することが出来た(『延宝伝灯録』巻第34、泉州久米田寺円戒禅爾法師伝)。
高野聖のうち萱堂聖は無本覚心を祖としている。高野聖とは別所に集団で居住して真言念仏や禅・時宗などを兼修しており、勧進を行ないつつ、後世には商業にも従事した。高野聖には萱堂聖・小田原谷聖・往生院谷聖があったが、このうち萱堂聖は無本覚心を祖とする説話がある。紀伊由良法灯国師(無本覚心)80歳の時である弘安9年(1286)、一人の俗人が西方寺にやって来て、国師に「私は塵累を厭う(出家を願う)志があります。願わくは和尚の弟子として下さい」といった。そこで髪を剃って「覚心」と名づけた。弟子として師の法諱を犯すことを恐れたが、国師は考えるところがあるとして許さず、「お前は高野山に縁がある。そこに行って萱原で念仏を唱えなさい」といって鉦鼓1口を与えた。覚心は「高野山は鳴器(楽器)を禁じています」といったが、国師は「ただ私の言うとおりのままにしなさい」といったので、高野山に登って念仏した。山中の大衆は鐘の音を聞き、驚き怪しんでその音の場所を探してみると、老人が萱の中にて鉦鼓をたたいて安座念仏していた。大衆は「お前は何をしているのだ。この山は古来より鳴物を禁止している」といった。覚心は「私は由良(西方寺)の開山の教えのままにしているだけである」といった。大衆は鉦鼓を捨てたが、この鉦鼓はたちまち空中に飛び上がって山や谷に鳴り渡り、ついに覚心の座わっている前に還ってきて、叩いていないにもかかわらず自ら鳴った。大衆達も不思議な思いをした。その夜高野山検校宿老の夢に、鉦鼓を許すべきの旨は祖師明神と由良開山(無本覚心)との契約である、と見たため、萱を引き結んで堂を建てて念仏三昧の場とした(『紀伊続風土記』巻之54、非事吏別、萱堂)。 
開山無本覚心6 〜報恩寺・護国寺の造営と示寂〜
無本覚心は晩年、紀国造氏の帰依を受け、報恩寺を造営した。紀国造氏とは、紀伊国名草郡を本拠として日前・国懸両神社の神主を務めた氏族で、『古事記』・『日本書紀』にも「木国造」「紀伊国造」として記載がみえる古代以来の豪族であった。この紀伊国造が報恩寺の造営した経緯は以下のようなものであった。紀国造氏は文永年間(1264〜75)神宮境内の執務の事について、国造前官である妙蓮(宣親、1216〜74)と、当職である淑文(生没年不明)の父子間で仲違いがあり、公に訴訟をおこしたが決裁つかず、亀山天皇が妙蓮の母である尼浄心(神祇権少副兼経の娘)に詔して、「妙蓮はお前の子であり、淑文はお前の孫である。不正をおもんねることを容認してはならない。孫・子のどちらが正しいのであろうか」と下問した。尼浄心は「国造の職は、素盞雄御尊(すさのおのみこと)以来、代をたがえて今に至っています。社務を譲って補された後、大小の事は当職の与奪に属しているのです。たとえ父であり前官であるからといって、その子の当職を越えるべきではありません。これはすなわち神自らの恥辱とはならないのです」と奏上した。この奏上を聞いた天皇は尼浄心のことを「この尼は賢くて正直である」と感嘆・称賛した。そのため子の淑文が理を得たがて、父妙蓮は志を失うこととなり、妙蓮はそのため境内三井川の西岸に隠居した。文永11年(1274)3月24日、妙蓮は59歳にて死去したが、憤激の念がやまず、魔となって人に託し、ほとんど家の世継が絶えなんとした。そのため淑文は報恩寺を造営して、冥福を祈ることとした(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正応4年辛卯条)。弘安7年(1284)紀三井報恩僧寺の大殿を造営した。檀越は紀国造前官の淑文(法諱は心浄)、当職の淑氏(法名は心法、生没年不明)の父子であった。父子は無本覚心に弟子の礼をとった。3月15日に上棟し、7月21日に落成した。師が賛をし、淑文も作文してともに喜んだ(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』弘安7年甲申条)。
紀国造淑氏の母である儀国覚禅尼は、久しく無本覚心に参じて衣法を受け、宗旨を領していた。そのため無本覚心は儀国覚禅尼を評して「この道人は生死を離れている」と称賛していた。正応2年(1289)に儀国覚禅尼の母の13回忌が報恩寺にて執り行われ、浄侶に命じて大乗経5部200余軸を書写させて読経などを行なっており、7月27日には無本覚心を招いて説法した(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正応2年己丑条)。正応4年(1291)3月19日午刻、無本覚心は衆のために陞座(しんぞ。法堂にあがって説法すること)した。白日の青空であったが、突然地に雷鳴がなり、寺の東南嶺に宝珠1顆が降って大地が震動し、その音は40里(120km)まで聞こえるほどであった。無本覚心はこの宝珠を山門に鎮め、淑文は「雨珠記」を作文した。4月5日には報恩寺にて梵漢種字経文などを卒塔婆に書き、妙蓮の怨魔の邪念を救っている(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正応4年辛卯条)。なお紀国造淑文はこの1年内に没したらしく、翌正応5年(1292)に無本覚心は「題淑文遺像」という文を記している(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』正応5年壬辰条)。
永仁5年(1297)5月2日、思遠庵の卵塔が棟上された。無本覚心はこの住持幹事心開となっている。5月3日には護国寺が棟上され、6月18日に落慶され地鎮祭が行なわれた。無本覚心は自ら筆をとって梵漢字を書き、師の無門慧開和尚を勧請開山とした。この護国寺は西湖行在霊洞護国寺を模倣したもので、そのため無門慧開を勧請開山として、自身は2世となったのであった。大殿に十一面観音立像を安置し、無本覚心が開眼供養を行ない、観音の背に種字(梵字)を記した。また母の妙智のために愛染明王像を造営し、上地堂に安置して寺門を鎮め安んじた(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』永仁5年丁酉条)。
永仁6年(1298)4月11日、無本覚心は病に罹った。この時無本覚心は92歳で当時としては非常に高齢であったことから、多くの僧俗が機縁を結ぼうと彼のもとを訪れて絶えることはなかった。月末に一旦病が和らいだため、同月24日に「西方寺規法七箇条」を記して遺誡とした。10月13日、朝から夕方まで僧俗と面会していたが、子時(午後11時)に威儀を正して寂然として端座したため、侍僧は「師は終りを告げるのですか」と問いかけると、無本覚心は「諾(そうだ)」とのみ答えて示寂した。享年92歳。護国寺の思遠庵に塔(葬る)された(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』永仁6年戊戌条)。  
普化宗の伝説と無本覚心1
以上みてきたように無本覚心は禅宗のみならず、密教と深い関わりを持ち、また一遍との交流を通じて時宗とも関係があった。また開山となった西方寺が熊野詣参詣路の途中にあって多くの参詣者を集め、託宣する者も多くいたであろうことは、無本覚心の母の説話からもみてとれる。そのようななかで、無本覚心は日本における普化宗(ふけしゅう)の祖として尊崇されており、妙光寺の門にも「本朝普化古道場」の看板が掛けられている。
普化宗とは近世における臨済宗の一末派で、慶長5年(1600)前後に虚無僧(こむそう)らが開創した一宗派であり、明治4年(1871)10月28日に廃宗となったが、間もなく明暗教会として再興されている。虚無僧とは中世・近世に存在した宗教者で、時代劇などでは胸に頭陀袋をかけ、頭には編笠をかぶり、尺八をもつ姿で描かれ、風雨・野宿を厭わず方々を遍歴した。中世には薦僧(こもそう)とも「ぼろぼろ」ともよばれており、『徒然草』にも「ぼろぼろ」が登場する。中世の薦僧は面桶(めんつう)と薦を持ち、尺八を吹いて門付(かどづけ)しており、宗教者というよりはむしろ下級芸能者の要素が強かった。普化宗は主な宗派として寄竹派・金先派・活総派・根笹派・小菊派の「普化宗六派」が知られているが、近世には活総(火下)派・金先(キン(〈勤−力〉+斤。UNI65B3。&M013591;)詮)派・寄竹派・梅士派・小菊(夏漂)派・根笹(小笹・司祖)派・不智派・養沢派・芝隣派・義文派・隠巴派・宗和派・錐南派・短尺派・野木派・児派の16派が存在していた(『普化宗門掟書』)。
普化宗の祖とされる普化(生没年不詳)は、中国・唐代の風狂の禅僧である。その伝は『祖堂集』(952)・『宋高僧伝』(988)・『景徳伝灯録』(1004)・『臨済録』(1120重刊序)などに記されている。『臨済録』には岩波文庫を含めた多くの訳注本があるからここでは詳細は割愛するが、以下に『祖堂集』・『宋高僧伝』・『景徳伝灯録』にみえる普化の伝記を掲げておく。
1 普化和尚、盤山に嗣ぐ、鎮州に在り。未だ行録を観ざれば化縁の始終を決せず。師は市中で馬歩使に出会うと相撲をとる格好をした。すると馬歩使は五棒くらわせる。師が云う、らしいことはらしいけれども、そうかといえばそうではない。師はひごろ日が暮れると墓場にやどり、朝になると市中に遊んで、鈴を持ちながら云うのだった、明頭に来ても打つ、暗頭に来ても打つ。林際和尚がこの話を聞いて侍者に師を探らせた。侍者が来て師に問う、明でもなく暗でもない時は、事はどうですか。師が云う、明日大悲院で斎会がある。侍者はもどって林際に挙似する。すると林際は歓喜して云う、どうしたらこの男に会えるかな。ほどもなく、普化の方から林際にやって来た。林際は歓喜して食事をしつらえ、対座して食べた。師はおかずだけを食べに食べる。林際が云う、普化の食べぶりはロバそっくりだ。すると師は座をおりて、両手を地についてロバの鳴き声をあげた。林際は無語である。師が云う、林際は小せがれ、片目あるのみ。のちある人がこの話を長慶に提示した。長慶は林際の無語に代わって語を進めて云う、まあそれはそれとしておこう、それから先はどうだ。今度は普化に代わって云う、あなたにこの一問を問われてすっかり酩酊いたしました。林際がまた問う、大悲の菩薩は千百億に分身する。どうか現れたまえ。師は机を地になげうち、舞いの様子をして吽吽といって出て行く。また、林際が上堂し、師が侍立したとき、ある僧が師の面前に立っていた。師は真っ向からその僧を林際の前におし倒した。すると林際は杖で三度たたいた。師が云う、林際は小せがれ、片目あるのみ。また、林際が師とともに聖僧を観ていたとき、林際が云った、凡夫か、聖者か。師が云う、聖者だ。すると林際は咄とどなった。師は手をうって大笑した。師はある日、手で棺桶をささげ持ち、外城をめぐって人々に告げて云った、わたしは遷化しに行くんだ。人々は雲集してついて 行った。師は東門から出て云う、今日は具合がわるい。二日目には南門で、三日目には西門でそうすると、人々はだんだんと少なくなり、誰も信じなくなった。四日目北門から出ると、もう一人もついて来るものがなかった。師は自分で墓の門を煉瓦で塞ぐと、遷化した(『祖堂集』巻第17、普化和尚伝。古賀英彦「訓注祖堂集」(花園大学国際禅学研究所『研究報告』8、2003年)694〜696頁より引用)。
2 釈普化はどこの人であるかわからない。性質は尋常ではなく、かつ多く天真のままで飾ることはなく、行ないは簡放であって言語にとらわれることはなかった。みずから盤山宝積禅師につかえ、密密に指教され深く堂奥に入った。盤山宝積の戒めによって仏道を保任したものの、発狂して常道にそむいた。かつて臨済義玄(?〜867)公とあい見みえたが、これに驢(ろば)の鳴きごえでこたえたので、傍らに侍る者で嘲笑しない者はいなかった。直時に歌舞して、ある時は悲号した。ある人が彼に接すれば、千変万態で、ほぼ同じということはなかった。ある日、棺木を捧げ持って街を巡り戸をめぐって告辞して、「普化明日死ぬぞ」といった。その時これを視た者は譏ってはならないことを知った。趙州の人は普化に従い送って城の東門に出たが、普化は声をあげて、「今日は具合がわるい」といい、二日たって南門から出た。人はまた従い送ったが、普化はまた、「明日がまさに吉である」といい、このようにして西門・北門に出てまた戻ってきた。人は煩わしくなり怠ってしまった。ある朝、郊野に坐して禅定に入るようであった。禅宗の著述する者は、普化のその発言や悟り(が普通の禅僧とは異なる)ため、普化を(禅僧の中から)排斥して散聖科(世俗を捨てた道人)の項目の中に入れた。そのこころは正員ではないからである(『宋高僧伝』巻第20、感通篇第6之2、唐真定府普化伝)。
3 鎮州の普化和尚ははどこの人であるかわからない。盤山に師事して密かに真訣を受けたが、偽って狂い、出る言葉には決まった定式がなかった。盤山が順世(示寂)するにおよんで北の地に遍歴して衆生を教え導いた。ある時は城市で、ある時は墓地で一鐸を振って、「それが明で来れば明で始末し、暗で来れば暗で始末する」といっていた。ある日臨済が僧を遣わしつかまえて、「そのどれでもなく来たらどうする」といわせた。(普化は)「明日は大悲院でお斎(とき)にありつける」といった。(普化は)人を見れば(身分の)上下関係無く皆鐸一声を振るっており、時の人は「普化和尚」と号した。ある時は鐸を持って人の耳のあたりでこれを振い、ある時は人の背中にくっついて、振り返る者がいたら即時手を伸ばして「我に一銭を乞う」といい、食事時でなくても食にありつければ食べた。かつて夕暮れ時に臨済の院に入って生野菜と飯を食べた。臨済は「この男は大いに一頭のロバに似ている」というなり、師(普化)はロバの鳴き真似をしたため、臨済は絶句してしまった。〔割書略〕 師(普化)は馬歩使が出て叱咤するのを見て、師(普化)もまた叱咤して相撲しようとした。馬歩使は人に(普化を)五棒討たせたが、普化は「らしいことはらしいけれども、そうかといえばそうではない」といった。師はかつて街の道路の間にて鐸をゆらして「どこか行くところを探しているが、得られない」と唱えていた。時に道吾がこれに遭遇し、ひっつかまえて「お前はどこに行こうとしているのだ」と問いかけたが、師は。「お前はどこから来たのか」といったので、道吾は絶句してしまった。師は手をひいて去っていった。臨済はある日河陽・木塔の二長老とともに僧堂内にて坐って、「普化は毎日街市の中で狂ったようなまねをしているが、これは凡夫なのだろうか、聖人なのだろうか」といったが、言い終わらぬうちに師(普化)が入ってきた。臨済はそこで「お前は凡夫なのか、聖人なのか」と問うた。普化は「お前もまた私が凡夫なのか聖人なのかいえ」といった。そこで臨済は一喝した。普化は三人を指さしながら「河陽は花嫁、木塔は老婆の禅、臨済は小僧っ子だが片目はそなわっている」といった。臨済は「この賊め」といい、師(普化)も「賊め、賊め」といって去っていった。普化は唐の咸通年間(860〜74)の初め、まさに示寂しようとして、市に入って人に「一衣の僧衣を施してくれ」といった。ある者は披襖を与え、ある者は布裘を与えたが、皆受けとらず鐸を振って去った。時に臨済は人に命じて一つの棺桶を送り与えた。師(普化)は笑って「臨済の小僧っ子は饒舌だ」といってこれを受け取った。そこで告辞して「普化は明日東門に去って死のう」といい、郡の人を率いて城を出たが、師(普化)は声をあげて「今日は具合がわるい」といい、二日目には「南門で死ぬぞ」といって人はまた付き従ったが、また「明日に西門の方角から出ると吉だ」といったので出る人は稀となってしまった。出ては帰ってくるので、人の意はようやく怠るようになった。四日目に自ら棺を持って北門から外に出て鐸を振って棺に入って逝去した。郡の人は走って城から出、棺の蓋をあげて視てみると、すでに見えなかなっており、ただ鐸の声が漸く遠くなるのを聞いたが、その理由はわからなかった(『景徳伝灯録』巻第10、鎮州普化和尚伝)。
以上のように普化と普化宗を結びつけるようなものは、普化の時代に近しいものからはみられないのであるが、鐸を市中にて鳴らして唱導する説話や、後世の禅僧からは禅僧とはみなされずに「散聖」とみなされていたことは、普化が市中にて唱導する聖(ヒジリ)のような類の僧であったことを示している。このように普化の説話からは積極的に普化宗の祖とみなし得る史料はないものの、後代の普化宗において、普化が伝説的始祖とみなし得ることができる要素を包括していたことが窺える。  
普化宗の伝説と無本覚心2
普化宗と普化の関係説話は、安永8年(1779)山本守秀編『虚鐸伝記国字解(きょたくでんきこくじかい)』3巻にみることができる。『虚鐸伝記国字解』は、『虚鐸伝記』なる本を山本守秀が注釈したものとされる。この『虚鐸伝記』自体も詳細は不明で、『国書総目録』第2巻に宮内庁書陵部に所蔵される(池底叢書27)とあるが実見していないため詳細は不明である。『虚鐸伝記国字解』は一部が「虚鐸伝記」として『古事類苑』宗教部1に引用されており、以降それによる。
遁翁がいうところによると、普化禅師は唐の人である。釈尊の教を継ぐこと38世にあたり、当世一大(一代)の知識(師家)である。鎮州にあっては自ら狂逸に甘んじて、鐸を振るい市に遊び、人に対するごとに「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打。四方八面来旋風打、虚空来連架打。(それが明で来れば明で始末し、暗で来れば暗で始末する。四方八方から来れば旋風のように応じ、虚空から来れば釣瓶打ちで片づける)」といっていた。ある日、河南府の張伯なる者がこの語を聞いて、大いに普化禅師の碩徳を慕い、普化に遊び従うことを要望したが、禅師は許さなかった。張伯はかつて管(楽器)をたしなんでおり、禅師の(鳴らす)鐸の音を聞くにおよんで、にわかに管をつくってこれを模倣した。つねにその音を愛好し、あえて他の曲を吹くことはなかった。管(楽器)をもって鐸の音としたのであるから、そのため名付けて「虚鐸」としたのである。代々その家に伝わること16世である。
張伯・張金・張範・張権〔字は大量〕・張亮・張陵・張冲・張玄・張思・張安・張堪・張廉・張産・張章〔字は子操〕・張雄
(張雄の)孫の参は、壮年にして既にこの音に熟達し、かつ人となりは仏教をたしなんでいた。(張参は)舒州霊洞護国寺に到り、禅を寺僧に学んでいた。日本僧の学心(無本覚心)なる者もまたここに遊学していた。同じく学んでともに唱和し、(無本覚心と)張参はよき友であった。ある時無駄話をしていて、話は代々虚鐸を伝えて今もなおその曲(が伝わっていること)に及び、この調(しらべ)を愛好して、一たび演奏すれば甚だ巧みであった。学心(無本覚心)は一賞しては三歎して跪き、「奇かな妙かな。世の中の多くの管(楽の中)に、いまだこのような清調を聞いたことがない。賞すべきにして愛すべきものである。伏して請い願うところは、一曲を教授して妙音を日本に伝え(て欲しい)」といった。そこで学心(無本覚心)のために再度演奏し、これを学心に学ばせた。日が過ぎていき、(無本覚心の)禅は熟達し曲も習得したので、張参に別れを告げて、舒州を去って明州に出航した。南宋の理宗帝の宝祐2年(1254)、船で日本に帰った。この時は後深草天皇の建長6年であった。これより学心は、ある時は高野山に入り、ある時は洛陽城(京都)に出て、さまよっては年月を経ていたが、一寺を紀州(和歌山県)に造立して、西方寺と名づけてついにここに住んだ。世の中はその碩徳(無本覚心のこと)を大禅師と号した。弟子は日々ますます増えていったが、門徒中に寄竹なる者がいた。禅(に対する)心はことさらに切であり、師(である無本覚心を)を敬うことはますます甚だしかった。学心〈無本覚心)もまた寄竹と昵懇であるころは他の弟子と異なっていた。ある時学心(無本覚心)は「宋にいる時、虚鐸の音を伝え得ており、今もなおよくこれを演奏することができるが、これを長くお前に授けて、この伝を継がせたい」と告げた。寄竹は躍り上がって(喜び)拝謝し、この音を伝えられて熟達すると愛好した。日を経ないうちに他の弟子の国作・理正・法普・宗恕の4人もまたこの管(楽)を学び、世の人は「四居士」と称した(『虚鐸伝記』上)。
上の文は前述の『虚鐸伝記国字解』であり、この部分は阿野中納言公縄(1728〜81)が遁翁なる者の語るところを記録したものといい、『虚鐸伝記国字解』の編者山本守秀は「初巻本文と19ヶ条は、阿野家より再伝して山本守秀が久しく護持してきたものである。しかしながら楠正勝が虚無僧の始であり、その主意を記しているとはいえ、ただ虚鐸の由来だけで、その詳細は略されている。これは(阿野公縄が)虚鐸のことに関わっていないためである」(意訳)と述べているように(『虚鐸伝記』上)、楠正勝伝承と虚鐸関連の記載を求める山本守秀にはこの伝承内容は不満であったらしい。このことから『虚鐸伝記』自体は山本守秀による創作ではないことは明らかであるが、この無本覚心と普化宗を結びつける伝説のもととなったものが一体何であるのかは判然としない。
普化宗と無本覚心との説話はほかにも宝暦2年(1752年)頃の『普化宗問答』にも示されている。『普化宗問答』は宝暦2年(1752)1月に岩山高康(生没年不明)が一月寺の隠居に虚無僧のことに関する疑問を箇条書きにして問いただしたものであり、『国文東方仏教叢書』第1輯、宗義に活字化されている。『古事類苑』宗教部1に引用される「普化宗門之掟」と文章が類似するから、あるいは同種異本なのかもしれない。
開山は金先古山禅師である。金先という者は、人王第88代の聖帝深草院の治天である建長年間(1249〜56)頃、紀州由良興国寺開山法灯国師(無本覚心)が入唐して帰朝する時、普化禅師の四居、宝伏・国佐・理正・僧恕が同船して我が朝に来たのである。宝伏居士は暫く山城国宇治の付近に居を定め、普化の禅を流布しようと庵室をつくって行住坐伏の法容、ひとえに普化の遺風を慕っていた。居士は専ら尺八を吹いており、(このことは)始祖(普化の)振鐸の話に準拠したものであった。ある時仲秋(8月)の夜、河辺にて一曲を演奏した。その夜は夜空に雲がなく、河の水を(月が)照らすことは、金竜が波に踊るのに似ていた。ここにおいてにわかに水辺を起こし、筆端をそめて「一天清光満地金竜躍波」との語句を記した。その頃、金先という頭陀(托鉢修行僧)がいて、宝伏の行なう法会に参加して、ともに尺八を演奏して、各地を行脚修行して所々をめぐって東に下り、下総国小金の宿にとどまって歳月が過ぎていった。しかし宝伏居士は年月を経て没してしまったため、金先がその法統を継いだが、妙音はまた奇なるものであり、聞いて五惑六欲への迷いを照らして本来無一物(であることを悟らせ、これによって)順縁(順当な善い縁で仏道に入ること)を結ぶ者が多かった。ここに一宇を造立し、宝伏の記した語句よって山号を金竜山と号し、寺号を一月寺とした。この時の執権北条経時は金先の碩徳を尊んで、造立の大檀那として営なみ、金竜山一月寺といった。この開山はすなわち金先禅師であり、金先を菰僧の基とした(『普化宗問答』菰僧始祖并開山之事)。
以上のように、普化宗始源説話には無本覚心が何らかの形で登場するのであるが、『虚鐸伝記国字解』と『普化宗問答』にみえる無本覚心の位置は、積極的な伝播者であるとする前者と、無本覚心の帰国に宝伏・国佐・理正・僧恕が随行しただけであるとする後者では異なっている。前者は普化宗諸派のうち、寄竹派に伝わった説話と思われ、後者は金先派に伝わった説話のようであり、これらの差異に含まれない無本覚心のキーワードは一見して、普化宗にもとから伝わった伝承であるようにみえる。しかし両者はいずれも近世に成立した記録であって、無本覚心の伝記史料である『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』および『紀州由良鷲峰山法灯円明国師之縁起』には虚鐸・尺八のみならず、普化に関連する説話はみられないのであるから、無本覚心と普化宗の関連説話は歴史上の事実を反映したものであるとは見なしがたい。
無本覚心と普化宗の関係は、無本覚心開創の興国寺(西方寺)が虚無僧の本寺であったことから生まれた伝承とみられ、興国寺(西方寺)は近世には普化宗寺院の本寺として一月寺をはじめとしたキン(〈勤−力〉+斤。UNI65B3。&M013591;)詮派13ヶ寺、鈴法寺をはじめとした括総派10ヶ寺、明暗寺をはじめとした寄竹派8ヶ寺、心月寺をはじめとした小菊派6ヶ寺、理光寺をはじめとした小笹派2ヶ寺、慈常寺をはじめとした梅地派13ヶ寺と、妙心寺派の寺院でありながら普化宗寺院52ヶ寺を末寺としていた(『普化宗雑記』上、日本国中宗門本寺連名寺号国所附)。興国寺は(西方寺)は近世には当知行13石で、妙心寺派における「日本四処道場」のひとつに数えられていたが、近世初期の段階では末寺として確認される歓喜寺・円満寺・長楽寺・法心寺・海雲寺のわずかに5ヶ寺であった(『正法山妙心禅寺末寺并末々帳』〈『大日本近世史料 諸宗末寺帳』上172頁〉)。しかし後には紀伊・山城・伊勢・志摩4ヶ国に末寺100ヶ寺を有する規模となっており(『寺院本末帳87(禅宗済家妙心寺派下寺院帳2)』〈『江戸時代寺院本末帳集成』中2165頁〉)、とくに51ヶ寺を有する普化宗の勢力は興国寺(西方寺)末寺の中にあっては一大勢力として異彩を放っていた。すなわり無本覚心と普化宗の関係説話は、無本覚心を開山とする興国寺(西方寺)が近世において普化宗寺院を末寺として獲得するにあたって、普化宗と無本覚心の関係説話が生み出されたものであるようである。
もっとも前述したように、無本覚心は萱堂聖の祖とみなされており、念仏と深い関係もあったことから、普化宗の直接的始祖でないにせよ、何らかの形で関係があることは否定できない。  

 

中世における妙光寺
無本覚心には多くの法嗣がおり、このうち何人かが妙光寺の住持となっている。法嗣で妙光寺入寺が確認されるのは高山慈照(1263〜1340)・東海竺源(1269/1270/1271〜1344)・孤峰覚明・無住思賢(生没年不明)の4人である。
高山慈照が妙光寺に遷っているのをはじめとして(『日本国京師建仁禅寺高山照禅師塔銘』)、東海竺源は建仁寺の住持を退いて妙光寺に退居し、病が軽かったにもかかわらず、ここを終焉の地にしようと医者を拒絶して康永3年(1344)10月16日に示寂し、建仁寺東北の隅にある大中庵(写真下)に葬られている(『謹具東海和尚行実』)。孤峰覚明は、貞和年間(1345〜50)の初めに鷲峰山(興国寺)の住持となっていたが、辞して妙光寺の住持となった。都の僧俗は争って拝謁し、その中には足利尊氏(1305〜58)・直義(1306〜52)兄弟もいた。(尊氏・直義兄弟は)後鳥羽院の古廟を改めて寺院とし、孤峰覚明を開山第一祖にしようと、孤峰覚明に再三要請していたが、孤峰覚明は拒絶して夜にひそかに遁走した(『孤峰和尚行実』)。無住思賢は紀伊国の興国寺の住持・妙光寺の住持を歴任し、後に聞修寺を開創して第一世となっている(『延宝伝灯録』巻第15、相州聞修寺無住思賢禅師伝)。
無本覚心の法嗣のみならず、法孫も妙光寺住持を務めている。東海竺源の法嗣在庵普在(1280〜1358)は妙光寺の住持を3年つとめたが、後に備前国常興寺に遷っている(『日本南禅寺仏恵広慈禅師在庵大和尚行業』)。ほかに高山慈照の法嗣に「妙光禅慧」なる人物がいた(『日本国京師建仁禅寺高山照禅師塔銘』)。
なお法灯派以外で妙光寺の住持となった者には、エン(「焔」の右+炎。UNI71C4。&M019395;)慧派の斗南永傑(生没年不明)がいる。斗南永傑は、「図南」とも表記され、妙光寺の住持となった「南斗祖傑」(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)は斗南永傑をさすらしい。入元しており、中国人より詩文を送られたり(『滄海遺珠』巻2、楊宗彝、謝斗南禅師慧竹杖)、『書史会要補遺』には「釈永傑、字は斗南、日本人なり。書は虞永南(虞世南)を宗とす」と名筆として名があげられたりした(『書史会要補遺』外域)。事件に連坐して配流されたともいい、『大理府志』によると、「雲南には“日本四僧塔”があり、龍泉峰の北澗の上に位置している。逮光古・斗南があり、その他の名はわからない。みな日本国の人である。元末に大理に配流された。みな詩や書を善くしたが、死んでしまった。郡の人は憐れんで葬った。」とあり、実際に今も雲南省大理には「日本四僧塔」がある(大理的日本四僧塔与到大理的日本僧人)。しかし妙光寺の住持になっていることから、斗南永傑は日本に帰ってくることができたらしい。
このように妙光寺は無本覚心の法嗣および門下(法灯派)によって住持されてきたが、至徳3年(1386)7月10日、幕府が五山の座位を定めた際に妙光寺が京師十刹の第8位に列せられたことによって、妙光寺は室町幕府管轄下の寺院に組み込まれた。官寺の住持の任期は概ね3年であったものの、応永28年(1421)に五山・十刹の住持の任期は2夏3年(満2年)に定められた。また幕府管掌下にある禅宗官寺の住持任免権は、幕府が掌握しており、住持任命の辞令は幕府が発給した。これが「公帖(こうじょう)」であり、「台帖」「公文」「鈞帖」ともよばれた。
公帖は、同門の先輩・所属する門派の本庵塔主の推挙によって僧録に提出され、蔭凉軒主が希望者の名を列記した書立(かきたて)を作成して将軍に披露される。将軍から蔭凉軒・鹿苑僧録に戻され、それを幕府奉行人が公帖を作成・清書し、将軍が花押して発給されるというシステムになっていた。妙光寺を例にしてみると、永享7年(1435)7月10日、妙光寺および丹波安国寺長老の退院の事が公表されると(『蔭涼軒日録』永享7年7月10日条)、同月26日、妙光寺塔頭の普済庵は永玉西堂を住持に推挙した(『蔭涼軒日録』永享7年7月26日条)。28日には妙光寺新住持として永玉西堂の公文(公帖)が発給された(『蔭涼軒日録』永享7年7月28日条)。その2年後の永享9年(1437)7月15日に妙光寺住持(おそらく永玉)が退院すると(『蔭涼軒日録』永享9年7月15日条)、今度は雲洞院(霊洞院か)が煕闡西堂を推挙(『蔭涼軒日録』永享9年7月24日条)、同月26日に妙光寺新住持の公帖が発給された(『蔭涼軒日録』永享9年7月26日条)。その2年後にはほぼ同様の手順で文玖西堂が妙光寺新住持となっている(『蔭涼軒日録』永享11年7月7日・9日条)。
その後、公帖が発給されて妙光寺住持となったものには、原韶西堂(『蔭涼軒日録』長禄4年7月19日条)・信庵永周(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・永ギン(門がまえ+言)西堂(『蔭涼軒日録』寛正3年8月13日条)・貞萼西堂(『蔭涼軒日録』寛正5年6月晦日条)・祖陞西堂(『蔭涼軒日録』寛正5年9月3日条。『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項の「南斗祖傑」と同一人物か)・等仲光倫(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・曇萼桂瑞西堂(『蔭涼軒日録』延徳3年12月4日条)・堅滝(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・希三宗サン(王へん+粲)(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・禅正(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・正瑛(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・玉成慈セン(王へん+旋)(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・宗承(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・寿チョウ(大かんむり+周)(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)・虎泉慈隆(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』妙光寺項)が確認される。 
妙光寺の荘園所領
妙光寺は荘園所領についても多くの荘園を有したのであろうが、それらについての詳細はわかっていない。わずかに康正2年(1456)5月28日に妙光寺領加賀国豊田荘から4貫470文を内裏造営の段銭として定められていることから(「康正二年造内裏段銭并国役引付」)、加賀国豊田(といた)荘(石川県金沢市)を有していたことが確認されるのみである。また文明10年(1478)4月7日には足利義政によって妙光寺の寺領と塔頭末寺領等を安堵されているが(『妙光雑記』〈『大日本史料』8編10冊407頁〉)、この時の寺領もどれほどのものであったのかは不明である。なお永享12年(1440)に妙光寺は「安堵の礼」のため蔭凉軒に参上しているが(『蔭涼軒日録』永享12年9月24日条)、何を安堵されたのか不明である。
この豊田荘であるが、文明10年(1478)6月15日に、妙光寺領加州豊田領家代官職の事について、妙光寺が中村次郎右衛門俊貞への借銭が多かったことから引き替えとして代官職に任命したが、「一乱」のため職務を停止した。そのため中村次郎右衛門俊貞は処務を全うするため幕府の奉書を求め、結果、契約の趣旨のままに職務を続行することとなった(『親元日記(政所賦銘引付)』文明10年6月15日引付)。さらに9月30日には妙光寺領加州豊田領家代官職の事について、旧借によって中村次郎右衛門俊貞の父に代官職を一回契約したが、なおも代官職を希望したため、幕府は旧借においては妙光寺は2倍にして返済し、代官職については職務を全うし、算用の事は糾明すべきであるとされた(『親元日記(政所賦銘引付)』文明10年9月30日引付)。
豊田荘がある加賀国は、長享2年(1488)の加賀一向一揆以来、100年近くにわたって一向一揆の支配する国となり、本願寺が国主とみなされるほどの勢力を有した。そのようななかで豊田荘に関する所領問題も、本願寺証如(1516〜54)のもとに持ち込まれている。天文6年(1537)8月7日、妙光寺の代官高畠神九郎は年貢納入の口添えを証如に依頼したが、証如は「豊田村領家職」は北野社領であるとして断っている(『天文日記』天文6年8月7日条)。9月1日には高畠神九郎方より以前申していた妙光寺領豊田荘の事について、豊田村のうち桜田村は北野社領ではない、との旨を書状で証如のもとに送ってきている(『天文日記』天文6年9月1日条)。さらに同月12日にも高畠甚九郎(神九郎)方より、妙光寺領のことは2度にわたって申し述べた通り相違ない、という書状も送ってきている(『天文日記』天文6年9月12日条)。高畠神九郎の主張が認められ、10月13日には妙光寺に対し書状にて寺領を管領させており、妙光寺の使僧は祝着のためと申して絹を証如に贈っている。また妙光寺領が紛れ無きものであることを武家の御判の奉書があり、豊田領家の長田村・東西桜田が妙光寺領であることが相違ないとした(『天文日記』天文6年10月13日条)。それでも高畠神九郎は不安に思ったのか、豊田領家長田村・東西桜田村が妙光寺領であるとする証拠の知行申付けの折紙を証如に対して所望したため、証如は折紙を高畠神九郎のもとに送っている(『天文日記』天文6年10月15日条)。このような妙光寺および高畠神九郎の再三努力にもかかわらず、中世の終焉とともに、豊田荘は妙光寺の手から離れてしまうことになるのである。 
 
 「印金堂」左上
近世の再興と三江紹益
妙光寺は応仁の乱にて焼失したとされる。もっとも前述したように、応仁の乱以降も妙光寺の活動はみえているから、どれほどの損害があったかはわからないが、近世初頭までには荒廃していたらしい。なお天正3年(1575)に織田信長が茶人・数寄者17人とともに茶会を妙光寺で開いたという記述がたまにみられるが、「妙覚寺」の誤りである(『信長公記』巻8、お茶会の事)。
妙光寺は寛永年間(1624〜44)に再興されたが、この再興に尽力したのが、三江紹益(1573〜1650)と打它公軌(?〜1647)である。
妙光寺が荒廃していることを嘆いて、最初に妙光寺の再建に着手したのは建仁寺霊洞院住持の才林慈俊(?〜1638)である。才林慈俊は檀越の打它公軌に相談して、妙光寺再建に着手した。寛永14年(1637)8月12日には両者の間で妙光寺に関する取り決めがあり、妙光寺は霊洞院と打它家の両者が預かること、打它家が代々檀越となること、妙光寺の住持は代々霊洞院に相談して決定すること、妙光寺敷地内には他宗の寺院は小寺であっても建てさせないことが取り決められた。さらに打它公軌は茂兵衛なる者から山林を銀10枚で購入し、それを妙光寺に寄進している(『正覚山妙光禅寺紀年集』寛永14年丁丑条。京都市歴史資料館写真帳妙光寺文書Z8うち。以下同じ)。この時購入した山林は、妙光寺の北にあたり、1町(100m)四方の山であった。このうち西の方3分の1を驚月庵に永代に付し、のちには良亭(公軌)の遺骨・祖父の宗貞の遺骨をおさめた石塔を建て、打它一門の墓に定めた(『正覚山妙光禅寺紀年集』慶安元年戊子9月13日条)。
打它公軌は江戸時代初期の歌人で、号は良亭で、代々糸屋十右衛門を名乗った。彼は木下長嘯子(1569〜1649)の門人として著名であった。打它公軌の父春軌(?〜1643)は敦賀の豪商で、日本海の米を大坂に廻して財をなした成り上がり富商であったとみられているが(小高1957)、公軌が歌道修行を志した際に父は48,000貫の大金を持たせて京都にむかわせたという。京都では烏丸三条下ル町に居を構え、のちに聚楽(堀川西下立売上付近)に引き篭った(『町人考見録』巻上、糸屋十右衛門)。打它公軌は豊富な財力をもって妙光寺を再建し、父が没するとここ葬っている。打它公軌は妙光寺を再建した際、妙光寺の傍らに驚月庵を造営しており、造営のはじめの年の8月15日の夜に3首を歌が詠まれている。そのうちの一首が「めつやいさ此世の外はしらくものたつ名みつてふ月の秋風」(詠人知らず)である(『挙白集』巻第2、秋哥)。この年は寛永14年(1637)8月15日であったといい、その日の夜は曇っているばかりか申刻(午後3時)より明けるまで雨が降っていたともされる(『難挙白集』中、挙白集不審、秋風)。
また打它公軌の師木下長嘯子は、もとは木下勝俊という名の大名であり、関ヶ原の合戦や弟木下利房との紛争のため改易となり、その余生を歌人として過していた。木下長嘯子は大名の格式から在家には赴かなかったものの、銀座者大坂屋徳順の子が東山長楽寺に庵を結んだところ、町人の身としてはじめて長嘯子を招くことができた。公軌はこれをうらやんで長嘯子を招くための庵をつくったという(『難挙白集』中、挙白集不審)。また公軌は亀屋何某(長崎問屋亀屋栄仁)の味噌屋肩衝茶入を金1,000枚で購入したが、その時この代金を車に積んで白昼引き周り、受け取りにいったという(『町人考見録』巻上、糸屋十右衛門)。また子の打它景軌(1648頃〜70)も歌人で、父公軌の意向によって多くの公家や歌人との交際を広げていた。このように打它公軌・景軌父子は豪奢な生活をしていたが、島津・細川といった西国大名に貸した金が焦げ付いて破産し、京都を去った。景軌の子光軌は相馬家に仕えて代々歌学の家となっていたが、6代目になって脱藩、捕縛・処刑されて公軌流の打它家は断絶した(小高1957)。打它家は他に敦賀に残った家があり、公軌流が断絶した後も妙光寺の檀越として、妙光寺の経営を支えた。
寛永15年(1638)8月21日に才林慈俊が示寂したため、三江紹益が妙光寺再建事業を継承した(『正覚山妙光禅寺紀年集』寛永15年戊酉条)。三江紹益の俗姓は奥村氏で、建仁寺塔頭常光院の明室宗ゴ(日へん+午。UNI65FF。&M013780;)の弟子となった。常光院は五山派でありながら関山派(妙心寺派)の法系につらなる塔頭であった。明室がほどなく示寂してしまったため、三江紹益は建仁寺において関山派の法系が途絶えることを惜しんで、妙心寺南化玄興(1538〜1604)に参禅し、印可を受けることとなる(加藤1970)。三江紹益は妙光寺の住持になった翌年の寛永16年(1639)10月3日に再建落成の法会を行い、供養拈香は三江紹益自身がおこなった(『正覚山妙光禅寺紀年集』寛永16年己卯条)。
三江紹益は妙光寺の住持を3年務め、その後は弟子の雲庵覚英(?〜1682)を妙光寺に派遣した(『正覚山妙光禅寺紀年集』慶安元年戊子9月13日条)。三江紹益は慶安3年(1650)8月23日に示寂したが、示寂の1ヶ月前の7月14日には霊洞院の所領のうち11石5斗4合を妙光寺に永代寄進している(『正覚山妙光禅寺紀年集』慶安3年庚寅条)。雲庵覚英が住持であった寛文6年(1666)には打它景規が山門を再建している(『正覚山妙光禅寺紀年集』寛文6年丙午条)。
寛永年間(1624〜44)に再建された妙光寺の建造物は、現在では客殿・玄関・庫裏・表門・書院(数寄屋)・茶室しか残されていないものの、近世中期の寺観は『都名所図絵』(下図)に描かれている。
客殿(方丈)・庫裏(厨)は現状の配置と同じであり、客殿の東には山門・仏殿(本堂)が直線上に配置されており、客殿(方丈)の南には腰袴の鐘楼があった。また後山には開山堂があり、堂内四方に印金を貼っていたため、「印金堂」と称されて著名であった(京都府教育委員会1983)。この印金堂は人麻呂の尊像を安置した人丸堂であるともいい、堂の内陣に印金を張ったから「鳴滝印金」と世に称されたという(『町人考見録』上、糸屋十右衛門)。承応3年(1654)には妙光寺に人丸社を建立したというが、人丸社の建立は父公軌が行なったとする見解(小高1957)の方が正しいようである。画家・俳人の与謝蕪村(1716〜83)も印金堂を訪れ、「春月や印金堂の木のまより」(『蕪村句集』)や、「寒月や開山堂の木の間より」(『新五子稿』)の俳句をのこしている。さらに印金堂は安永9年(1780)に刊行された『都名所図絵』に紹介されて著名となり、それを受けてか文化8年(1811)には印金堂の開帳が行なわれた(『正覚山妙光禅寺紀年集』文化8年辛未条)。妙光寺の塔頭には歳寒庵・応供軒・紫金庵・普済院・三光院(藻虫庵)・驚月庵があった。万治3年(1660)3月11日に後水尾上皇が仁和寺に御幸した際には、上皇一行が杖を携えて妙光寺へ6〜7町(6〜700m)程の距離を山越えし、妙光寺の山上にて風景を見物している(『隔メイ記』万治3年3月11日条)。
19世紀になると、妙光寺の建造物は幾度か改修が行なわれ、文政9年(1826)には客殿の小屋組を取替工事の際に、板屋根であったところを瓦屋根に改めている(『正覚山妙光禅寺紀年集』文政9年丙戌条)。また天保14年(1843)には諸堂が修理され(『正覚山妙光禅寺紀年集』天保14癸卯条)、弘化3年(1846)には山および諸建物が修理されている(『正覚山妙光禅寺紀年集』弘化3年丙午条)。 
近世妙光寺の住持達
妙光寺は近世期、建仁寺の末寺として朱印石高14石6斗7升であり(『寺院本末帳63〈禅宗済家東山建仁寺本末帳〉)』〈『江戸時代寺院本末帳集成』中1848頁〉)、妙光寺の住持は建仁寺の塔頭、とくに霊洞院の僧侶が就任することが多かった。しかしながら檀越打它家の意向も重視されていた。元禄3年(1690)11月2日付の打它十右衛門雲泉(?〜1721)の書状によると、妙光寺塔頭の驚月庵と山薮の一式が打它十右衛門雲泉に預けられているように(『正覚山妙光禅寺紀年集』元禄3年庚午11月2日条)、妙光寺は打它家の檀那寺としての位置づけが寺側の意識内にもあり、妙光寺では開山法灯国師無本覚心の遠忌と、中興の打它良亭(公軌)の遠忌が重要視された。
妙光寺の住持の中には、その後霊洞院などの建仁寺塔頭の院主となったり、本山建仁寺の住持を務める者も輩出した。例えば、元禄9年(1696)に妙光寺の住持となった東明覚ゲン(さんずい+元。UNI6C85。&M017186;)(1679〜1758)は、享保17年(1732)に朝鮮修文職に就任している(『正覚山妙光禅寺紀年集』享保17壬子条)。享保20年(1735)3月24日には建仁寺の公帖をうけて建仁寺住持となり、驚月庵の建物を移して居間書院とした(『正覚山妙光禅寺紀年集』享保20乙卯3月24四日条)。さらに元文元年(1736)には李氏朝鮮との外交事務の監察・往復書翰の管掌・外交文書の起草を担当する対馬の以酊庵の輪番住持(第59世)となり、同3年(1738)までその職にあった(『正覚山妙光禅寺紀年集』元文元年丙辰条)。翌元文4年(1739)10月29日には建仁寺に再住した(『正覚山妙光禅寺紀年集』元文4年己未10月29日条)。
また文化元年(1804)に第63世妙光寺住持となった全室慈保(?〜1862)は、文政元年(1818)4月15日になってからようやく秉払(ひんぽつ。首座が住持に代って払子を取り、法座にのぼって説法すること)している(『正覚山妙光禅寺紀年集』文政元年戊寅条)。本来ならば秉払を遂げてからまず諸山住持となり、その後十刹ついで五山の住持へと累進するのが通例であるのだが、妙光寺は十刹寺院であるとはいえ、このような例が散見される。先に十刹の妙光寺住持となってから秉払した例をこの寺に限ってみてみると、雲庵覚英(1658)・乙檀覚酉(1677)・全室慈保(1818)・了堂慈穏(1840)・徳峰慈ゲツ(王へん+月。UNI73A5。&M020867;)(1875)の5例が数えられる。全室慈保は秉払した翌年の文政2年(1819)には成興寺・真如寺の公帖を受け、十刹・諸山の公帖を受けた僧である西堂(本来は他山の前住を意味する)となっている(『正覚山妙光禅寺紀年集』文政2年乙卯条)。文政5年(1822)に全室慈保は霊洞院に転住したが、妙光寺の住持職は全室慈保の生徒である静庵慈怙(?〜1831)が継いでいる(『正覚山妙光禅寺紀年集』文政5年壬午条)。また寺伝によると、俵屋宗達の風神雷神図屏風(建仁寺蔵)は、もとは妙光寺の什物であり、全室慈保が文政12年(1829)に建仁寺に移る際に風神雷神図屏風を持っていって、それ以来建仁寺の所蔵となったという(相見1960)。全室慈保はその後霊洞院を中心に長きにわたって活動し、嘉永6年(1853)に霊洞院の客殿を改築したのも全室慈保であったという(京都府教育委員会1983)。
このように妙光寺の住持は、師のあとを受けて就任し、秉払して諸山・十刹の住持となる資格を得て、諸山・十刹の住持となって西堂を称し、霊洞院のような建仁寺の塔頭、あるいは本山建仁寺の住持となり、対馬以酊庵の輪番住持となったりし、妙光寺を退いたり示寂した際には、自身の弟子が妙光寺の住持となることが恒例化していた。
近世期において最後の妙光寺の住持となったのは天章慈英(1817〜71)である。天章慈英は杞憂庵とも竺堂とも号した。はじめ浄土宗の讃誉知肇(1774〜1843)の門に入り、法諱を英肇海といった。摩島松南(1797〜1839)・仁科白谷(1796〜1845)に学んだが、やがて禅宗に改めて全室慈保のもとで修行をつんだ(藤原1958)。文久2年(1862)に妙光寺住持の了堂慈穏が霊洞院に移ったため、妙光寺の住持となった(『正覚山妙光禅寺紀年集』文久2年壬戌条)。天章慈英は勤皇僧として有名であり、幕末・維新時には公家の大原重徳(1801〜79)のブレーンであった。大原重徳は文久2年(1862)勅使として江戸に下向し、攘夷決行を幕府に迫ったが、大原重徳が江戸に下向するよう画策したのが天章慈英であったため、天章慈英の名は天下に轟いた。その名声を慕って長州藩士の品川弥二郎(1843〜1900)や土佐浪士の田中顕助(光顕。1843〜1939)などの志士が妙光寺を訪れて教えを乞うたという(岩井1939)。明治維新がなって後の明治4年(1871)7月9日夜、妙光寺塔頭の歳寒庵にて読書中であった天章慈英を何者かが襲撃し、斬殺して去った。犯人はついにわからなかったが、天章慈英のもとに好物の黒砂糖を持ってきていた村人が下手人として疑われ、獄死するという事態になったともいわれる(岩井1939)。 
陶工仁清1
妙光寺には陶工仁清の墓と伝えられるものがある。仁清は江戸前期の京焼の陶工で、俗姓は野々村清右衛門。優れたろくろ技法による優美な成形と、華麗な色絵を得意とした。仁和寺御室門前に窯を開き、仁和寺の「仁」、俗名清右衛門の「清」をとって明和3年(1766)頃以降「仁清」を称した。仁清に評価する評価の高さは、日本陶磁の国宝5点のうち2点が仁清のものであることからも明らかである。しかしながらその生涯については詳細な生没年すらわかっていない。
妙光寺にある伝仁清墓(写真下)には「天和二年壬戊年/吟松庵元竜恵雲居士/三月五日」とのみ陰刻されており、「仁清」であるとうかがえるものではない。伝仁清の墓の横には雲庵覚英禅師が埋葬されており、妙光寺の過去帳によると、「雲庵覚英は、才林俊禅師に嗣法し久しく三江和尚に侍ってその印記を受けている。妙光寺第55世となり、天和2年(1682)2月19日に示寂して妙光の後山に葬られた。この年3月5日には恵雲居士も逝去した。(恵雲居士は)丹波国の人で、姓は野々村。雲庵和尚に参じて恵雲の号を賜り、吟松庵元竜と諡された。その遺志により雲庵の墓の側に葬られた」とある(『正覚山霊名簿』世代並法源同門篇、拾九日条。相見1961所引)。また仁清はたびたび妙光寺に出入りしていたといい、「寛文7年(1667)に打它景軌の同伴により、御室に出入りしている仁清が(妙光寺に)来臨した。丹波国の人である。雲庵が出て対話し、唐扇一柄を贈られ、麺を酒の肴とした」(『霊洞院本妙光紀年集』寛文7年丁未条。相見1961所引)とあり、延宝3年(1675)2月13日には霊泉(打它十右衛門雲泉)の同伴によって仁清が法号授与の礼をのべるために妙光寺に来て、茶碗1個・銀子3匁を寄進し、吸物を酒の肴とした(『霊洞院本妙光紀年集』延宝3年乙卯条。相見1961所引)。このように仁清と妙光寺の関係は妙光寺側の資料にみえるのであるが、これらの記事はいずれも仁清没後かなりの時代を経た史料にみえるのみであって信憑性は低く、妙光寺と仁清の関係はおろか、現在仁清の没年をこれによって確定することはできない。仁清の没年は通説では妙光寺側の記録にみえる天和2年(1682)ではなく、元禄7・8年(1694〜95)前後とみられている。  

 

陶工仁清2
仁清の出自は詳しいことは全くわかっていない。丹波国野々村に比定する説があり、南丹市美山町大野には野々村仁清の生家と伝わる家(写真下)があるが、伝承の域を出ないものであり、家の建築年代も江戸時代中期を溯ることはないようである。ただし仁清の本名が当時の諸記録から姓は野々村、名は清右衛門であったことはほぼ間違いない。なお金森得水(1786〜1865)の『本朝陶器攷証』(1857撰、1893刊)には「元丹波国野々村桑田郡の産にて、其姓名不分」(『本朝陶器攷証』巻2、山城国仁和寺村御室焼物仁清之義)とあるが、金森得水が『本朝陶器攷証』を撰述するにあたって情報源としたのが全国各地をめぐる伊勢の御師(おし)であったことから、伊勢の御師が仁清の口伝を同地より得た可能性は否定できない。仁清が丹波出身であるかどうかはともかくとしても、仁清が尾張国瀬戸に長らく滞在して茶入焼の稽古をしていたということを仁清が尾形乾山(1663〜1743)に話していることから(『陶磁製方(佐野伝書)』瀬戸薬。『日本の美術154 乾山』所引)、若き日の仁清は尾張国瀬戸にて焼物修行をしていたようである。
その後仁清は仁和寺の門前にて窯を開き、彼の焼物は「御室焼」とよばれていた。その御室焼は正保5年(1648)正月9日に鹿苑寺(金閣寺)鳳林承章 (1593〜1668) のもとに賀茂の関目民部が来て、御室焼の茶入1個を受け取っている(『隔メイ記』正保5年正月9日条)のが初出となっている。
御室焼開窯の時期について、記録が残っていないため詳細な年月はわかっていないが、諸説ある。伝仁清作の「染付銹絵菊七宝棗形茶入」の箱蓋書付(東京国立博物館蔵)に「一東福門院御好、仁清造、菊絵棗也、堀正意、字杏庵拝領、箱書黒川道祐正筆」とあることから、堀正意(1585〜1642)が没した寛永19年(1642)以前にこの作品が製造されていなければならないとする説(鈴木1956,10)、鳳林承章の日記である『隔メイ(くさかんむり+冥。UNI84C2。&M056277;)記』に御室焼初出記事がみえる正保5年(1648)の前年である正保4年(1647)であるとする説(田中1960)、山川文化財団所蔵の年未詳正月25日付「本多房州宛金森宗和書状」に「御室焼物今日いろゑ(色絵)出来申」とあり、この年未詳の書状を正保4年(1647)ものであるとして、正保4年(1647)には少なくとも焼物で色絵の作品がつくられており、正保4年(1647)正月を溯る少なくとも正保3年(1646)中、あるいはそれ以前とする説がある(河原1974。なおこの書状については慶安2年(1649)のものとみる説(岡1982)もある)。このように御室焼開窯の時期についての説は、寛永19年(1642)以前・正保4年(1647)・正保3年(1646)もしくはそれ以前の3説にわかれているのであるが、このうち後者2説は茶人金森宗和(1584〜1656)と御室焼の関係を前提として踏まえているのである。
御室焼の指導・斡旋に大きく関わっていたのが金森宗和(1584〜1656)である。金森宗和は飛騨高山城主の金森可重(1558〜1615)の長男であったが、父より勘当され茶人となり、宗和流の祖となった。金森宗和は後世「姫宗和」と称されたように、『槐記』などの記述によって宮廷を中心として活動した茶人とみなされるようになる。金森宗和の茶会においては御室焼が頻繁に登場しており、正保5年(1648)3月25日の茶会では茶弁当に入れるための胴が四方形の「仁和寺ヤキ」の水指が用いられている(『久重茶会記(松屋会記)』正保5年3月25日条)のをはじめとして、金森宗和の茶会では毎回のように御室焼が用いられる。金森宗和の茶会記関係の資料は谷晃校訂『金森宗和茶書(茶湯古典叢書4)』(思文閣出版、1997年8月)にまとめられて散見されるが、御室焼の登場はあまりに厖大なため割愛する。
金森宗和が「姫宗和」と称されたように、宮廷を中心として活動した茶人であり、その指導下にあった御室窯も公家好みの茶器を焼く窯であったとみなされてきたが、近年の研究では、金森宗和の茶器の需要層は、宮廷よりもむしろ武士・商人が多く、幅広い茶の湯需要層を対象としていたことが明らかとなっている(岡1982)。金森宗和は御室焼の焼物を方々に斡旋・販売していたが、御室窯開窯以前から既存の京焼の窯に対して茶器を制作させているが、寛永17年(1640)に粟田口作兵衛に茶入を作らせており(『隔メイ記』寛永17年11月8日条)、正保2年(1645)2月11日には南禅寺金地院の最岳元良(?〜1657)のもとに「フクベ壱ツ」をもたらしているように(『金地日録』正保2年2月11日条。岡1995所引)、御室窯開窯以前には他窯に焼物をつくらせ、方々に斡旋している。このように茶器の斡旋を通じて需要層の好みを熟知していた金森宗和が、仁清との出会によって自身の好みを具体化する窯の築窯に踏み切ったとみられている(岡1991)。承応2年(1653)のものとみられる閏6月7日付の堀利長(1601〜58)宛「金森宗和書状」には「御室焼物を求められているようで、茶入・茶碗はいくつほどいるのでしょうか。仰せになって下さい。焼物している者が昨日来て、注文が多く窯がつまってしまっている、と申しているので早く(注文を)申し付けて下さい。すべてが皆よいものではないのです。数の内にはよいものもあるのです。水指などはいかがでしょうか。」(「金森宗和書状」大和文華館蔵、中村直勝蒐集古文書267号)と御室焼を斡旋しているようすがみてとれる。さらに艶やかな色彩が施された仁清の色絵も、仁清の現存作例では単色釉のみを用いた作品や、釉薬を掛けずに焼き締めただけの作品も多く、また国内において競合すべき他窯との差異をつけるべく、豊富な種類の唐物写茶入生産に力を注いでいたことが指摘されている(梶山2004)。 
陶工仁清3
慶安2年(1649)8月24日、鹿苑寺(金閣寺)鳳林承章は金地院最岳元良・平賀清兵衛(生没年不明)・同吉権(生没年不明)・竜安寺の偏易(?〜1662)とともに仁和寺造営の奉行をつとめていた木下利当(1603〜62)のもとに赴いているが、御室窯にも赴いており、「焼物師清右衛門」に焼物をつくらせている。鳳林承章も自身の好みで水指・皿・茶碗などをつくらせている。また蓋・袋・桐箱・蓋の内張などの仕様や唐物似の丸壷を選びとっている(『隔メイ記』慶安2年8月24日条)。鳳林承章は御室焼を愛好しており、彼の日記『隔メイ記』にたびたび姿をみせる。また金地院最岳元良のもとにもたびたび御室焼が斡旋されており、承応3年(1654)正月1日には大名の桑山一玄(1611〜84)から12月19日付の書状と仁和寺焼(御室焼)の茶碗・皿16個が最岳元良のもと来たが、この内6つが破損していたため、返書を送っている(『金地日録』承応3年正月1日条。岡1995所引)。この桑山一玄も金森宗和同様、御室焼の仲介者であるとみられている(岡1995)が、桑山一玄が仲介した金地院は、「黒衣の宰相」と称された以心崇伝(1569〜1633)の時代に五山禅僧の統轄機関である僧録が移転されてから、僧録を歴代金地院の塔主が務めており、最岳元良も僧録の職務にあたっていた。すなわち禅宗の五山派における政治上の最有力者であり、このような有力者への販路拡大は御室焼の動向を決定づけることとなる。
仁清は「清右衛門」と称されているが、仁和寺では「丹波焼清右衛門」と表記されており(『御室御記』慶安3年10月19日条)、これが仁清が丹波国出自とする説の数少ない根拠とされているが、記録者の仁和寺の坊官が正確に仁清と丹波焼が何らかの関係があるか否かを認識できたとは考えにくい。さらに仁清は明暦元年(1655)9月26日に仁和寺の庭上にて焼物作成の実演をしているが、この時は「壷屋清右衛門」と称されていた(『御室御記』明暦元年9月26日条)。また翌明暦2年(1656)には播磨掾の官途名を名乗っていたらしく、御室窯跡より出土した明暦弐年銘をもつ破片には「野々村播磨(以下欠損)」とみえる。同年12月16日に金森宗和は没しているが、翌明暦3年(1657)正月に「仁清工人」は大徳寺江雪宗立(1595〜1666)に詩偈を求めており(「江雪宗立偈」。根津美術館2004所収)、また同明暦3年卯月(4月)4日作成銘をもつ「色絵輪宝羯磨文香炉」の高台内彫銘には「播磨入道」「仁清作」とあって、「清右衛門」は「仁清」と称しているとともに、「播磨入道」とあるように剃髪していることが確認される。仁清の剃髪の動機については、金森宗和が没していることを要因とする見解がある(田中1960)。なお藤田美術館には同形同銘の「色絵輪宝羯磨文香炉」が所蔵されるが、天保14年(1842)3月に大原野安養寺の住持実玄が記した箱蓋裏書付によると、仁清が若年の時、大原野安養寺の本尊に工業上達の祈願を行なったが、満願したため安養寺と本山御室宮(仁和寺)・槇尾(西明寺)の3ヶ所に香炉を奉納したものであるという(藤田美術館蔵「色絵輪宝羯磨文香炉箱蓋裏銘」)。
このように金森宗和の死は、御室焼がこれまでの金森宗和の斡旋・仲介を中心とした販路から、御室焼自身の名声によって金森宗和に頼らない販路創出への転機となった。仁清はその後作成の焼物の底に「仁清」の字を削銘して、仁清の焼物はブランド化していくこととなる。万治3年(1660)3月11日の後水尾上皇の仁和寺御幸において、上皇が任清(仁清)の焼物を御覧になっている(『隔メイ記』万治3年10月19日条)ように、世間の御室焼に対する評価は高まっていた。黒川道祐(?〜1691)が「近世仁和寺の門前に仁清が製造するものは、これを御室焼と称している。はじめは狩野探幽(1602〜74)と永真(1613〜85)らにその土の上に描かせて、その画様によって焼くものが多かった」(『雍州府志』巻第7、土産門下、服器部、磁器)とも、「近世この(仁和寺)の門前に陶家がいる。仁清と号して諸品の土器をつくっている。今茶人が愛玩するところである。御室焼の茶入・茶碗というのはこれである」(『嵯峨行程』)と、御室窯についてのべているように、京都では御室窯は注視される存在であった。また延宝6年(1678)12月に江戸を旅行した森田久右衛門(1641〜1715)が江戸町中にて御室焼の皿・鉢・茶入が売られているのを目撃しているように、江戸においても御室焼の販路は拡大していた(『森田久右衛門日記(江戸旅日記)』延宝6年12月朔日・2日条)。  
陶工仁清4
寛文7年(1667)閏2月11日、鳳林承章は御室の仁清の子安右衛門と初めて対面している(『隔メイ記』寛文7年閏2月11日条)。仁清の子が史料上に出てくるのはこれが初見であるが、この「安右衛門」は後の長男清右衛門であるとみられている(河原1974)。仁清には4人の息子がいたとされ、延宝2年(1674)12月29日の「金子借用証文写」には請人仁清のほか、借主清右衛門・名代清次郎がみえる(蜷川1947)。また延宝4年(1676)6月の「色絵狛犬彫銘」には一男野々村清右衛門政信・二男清次郎藤長・三男清八郎政貞がみられる(鈴木1957)。このように、仁清が名乗っていた「清右衛門」は嫡男が継いでおり、御室窯の実質的経営は仁清から子の清右衛門に移っていたようである。また藤田美術館蔵の年未詳2月11日付「仁清・清右衛門書状」、および年未詳2月24日付「仁清・清右衛門添状」には仁清・清右衛門の連署がみられる(望月1969)。さらに延宝6年(1678)8月20日に前述の森田久右衛門が京都見学の際に御室窯を訪れて、「同20日、御室焼を見物しに行った。特別に変ったということもなかった。釜(窯)所も見物した。釜(窯)は7つあった。唯今の焼手は野々村清右衛門という。(中略)御室焼は特別変ったことは(なく)釜(も変ったことは)なかった。掛花入は尺八であり、香炉にエビがあった。おし鳥・キジなどもあった」(『森田久右衛門日記(江戸旅日記)』延宝6年8月20日条)と御室窯の様子を見聞しているが、ここでも現在の焼手は野々村清右衛門であるとしており、仁清の姿はみえない。
ここで仁清がいつ頃没したのかが問題となるのであるが、尾形乾山が「元禄2年(1689)に洛陽北泉渓というところに閑居して陶器の製造を開始したが、京都の西北(乾)の方角にあたる地であるから、故に陶器の銘を「乾山」と記したのである。その時私が細工人として使っていた孫兵衛という者は、押小路焼の親族かつ弟子で、細工焼が巧みな者であるから、仁清の嫡男清右衛門ともども、私に(伝授してくれるよう)頼んだのである。この両人により押小路内窯焼・御室仁清焼の伝を受継いだのである。」(『陶工必用(江戸伝書)』内窯陶器)とのべていることから、元禄2年(1689)の段階では仁清は生存していたものとみなす説が一般的であり、前述した妙光寺に現存する伝仁清墓の銘文のように天和2年(1682)に没したとはみなされていない。
元禄8年(1695)、加賀藩主前田綱紀(1643〜1724)は将軍徳川綱吉母である桂昌院(1627〜1705)に書棚と香合を献上しようとしており、家老の前田貞親がその準備の統轄にあたっていた。香合は御室焼にすることとなったが、この献上品の準備について側近斎藤吉左衛門が前田綱紀に対して「三ノ丸様(桂昌院)へ(贈る)書棚および香合50を帳簿に記して(品には)白札を付けました。香合の内、黒蒔絵12個、梨子地蒔絵12個ができあがりました。ほかの香合は追々できあがります」と(前田綱紀に)申し上げたところ、「いつ時分(にできあがるのか)」とお尋ねになったので、「焼物香合などは殊の外日数がかかる、といっていたので9月時分にはできあがるでしょう」と申し上げたところ、「その時分では御用に役立たない。そうであるならば、その分は前の品に(するよう)協議しなさい」と仰せられた(『前田貞親覚書』元禄8年7月26日条)。それでも御室焼の完成を待つこととなったが、9月26日に御室焼の香合13個が京都より到着した。葛巻新蔵がこれを(前田綱紀に)たてまつったが、「事の外不出来で御用に役立たないから、どうにか焼き直させなさい」と仰せられたので、(葛川新蔵は)「千宗室(仙叟宗室、1622〜97)方からも“仁清は2代目になってから下手になったのです”との旨が申し伝えられているので、とにかく何方にもよく焼きあがっているものを合せて申しつけなさっては」との旨をお願い申し上げたところ、「とにかく御用に役立たないのであるから、返品しなさい」との旨を仰せられたので、右の通り宗室方へも申し遣し、返品すべきの旨を表納戸奉行へ申し渡した(『前田貞親覚書』元禄8年9月26日条)。結局御室焼の香合は返却され、伊万里焼の香合が注文された。これらのことから、前田家は当初は御室焼の焼成能力を疑っていなかったものの、届いた香合が予想外に不良品であり、その理由が「仁清は2代目になってから下手になった」であったことは、御室窯側において香合焼成時に不測の事態、すなわち仁清の死があったと考えられている(河原1974・岡1990)。この事件が契機となって御室焼の評判は落ち、凋落する契機となった。
元禄9年(1696)3月10日には仁清の3男野々村清八が2人扶持にて仁和寺坊官に召抱えられている(『御室御記』元禄9年3月10日条)。その後2代目仁清とみられる清右衛門であるが、元禄11年(1698)9月7日に仁和寺が「焼物師清右衛門」に松木10本を拝領しており(『御室御記』元禄11年9月7日条)、窯の燃料とする松を拝領して御室窯の経営を続行していることがみえるが、元禄12年(1699)8月13日に尾形乾山へ与えた伝書に署名(『陶工必用(江戸伝書)』仁清伝書の部、跋)して以降の行動はつかめていない。やがて御室窯も廃絶してしまった。
仁清の秘伝を受け継いだ尾形乾山は御室焼・押小路焼の技法に加えて自身の技法を大成させ、現在では京焼を代表する陶工の一人に数えられている。尾形乾山は仁清の子の猪八を養子にし、猪八は二代目乾山となって江戸に下り、武家に仕えて陶器を製造したというが(『古画備考』巻35、光悦流、乾山)、その猪八について尾形乾山は、継承した技法は猪八に伝えており、猪八は京都鴨川の東聖護院の宮の御門の境にて窯を開いていると述べている(『陶磁製方(佐野伝書)』内窯焼陶器之事)。
御室小学校の線路を挿んだ南側で、国道130号線の東側に映画監督の伊藤大輔監督(1898〜1981)の邸宅があったが、現在では分割されて数軒の個人住宅が「コ」字形に林立している。その分割時に多くの陶片が出土しており、この地が御室窯跡であると考えられている。現在では邸宅跡の国道130号線に面したやや北側に、「陶工仁清窯址」の石碑(写真下)が、宅地の間をさも片身の狭い思いをしているかのようにして佇んでいる。 
その後の妙光寺
江戸時代の寺院には境内地以外に、寺領として朱印石高を有する場合があった。しかしながら明治新政府は宗教政策の対策として、明治4年(1871)寺院などの土地を境内地・墓地のみに限って認めるものとし、境内地・墓地以外は上知(収公)した。結果、近世までは栄えていた寺院でも、明治期になると急速に衰退する場合があり、極端なところでは境内地の9割近くを失った寺院もあった。妙光寺の検地は明治5(1872)2月15日に行なわれた(『正覚山妙光禅寺紀年集』明治5年壬申2月15日条)。
妙光寺も寺領上知によって衰退の兆しがあったのか、明治7年(1874)には西村吉兵衛のもとへ霊洞院の僧が参向し、同家にて霊洞院の僧は久衛門に対して、打宅氏檀家などのことが中絶すること無いよう依頼している(『正覚山妙光禅寺紀年集』明治7年甲戌条)。このように寺領があてに出来ない以上は、寺領の収入に頼るのではなく、古来よりの檀越の支援を取り付けようとしている寺院側の努力がみてとれる。実際、打它氏は幕末になってから灯明料金として三百匹を寺納するなど、妙光寺に対する経済的支援をおこなっていたから(『正覚山妙光禅寺紀年集』文久2年壬戌条)、妙光寺や事実上の本寺である建仁寺霊洞院もそれをあてにしていたのだが、結局は妙光寺の衰退はとどまることはなかった。そこで妙光寺境内の建造物が売却される事態となった。
妙光寺の山門は明治18年(1885)2月に京都府に対して建仁寺への移転申請の許可が出たため、明治20年(1887)までに移転が完了している(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「葛野郡寺院明細帳」64)。現在は建仁寺塔頭護国院の山門となっており、護国院は開山塔となっているため、開山塔の山門宝陀閣となっている。
また法堂・鐘楼(梵鐘はなかった)は大破したため、明治25年(1887)12月9日に金100円(当時)での売却が申請・許可された(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「社寺明細帳附録」第3号72葉)。法堂は現在静岡県の鉄舟寺に移転されて現存する。
戦後多くの寺院がそうであったように、農地解放令によって経済的打撃をうけ、戦後困窮した。開山堂の印金堂も戦後の窮乏期に取り壊されてしまっている。このように完全に衰退し、かつての盛時は見る影もなくなってしまい、寺門を閉ざして参拝謝絶する事態となってしまった。妙光寺は建仁寺末寺であり、臨済宗建仁寺派管長兼任の寺院である。当代の建仁寺派の管長が妙光寺再建をめざし、それをうけた建仁寺の雲水たちが妙光寺を整備しており、平成20年(2008)5月に一週間の期間限定で妙光寺が公開され、本山建仁寺では妙光寺の寺宝を展示した「妙光寺展」が開催された。その後再度寺門は閉じられて妙光寺は第二の再興の途についたが、この名刹が一般に公開される日も、そう遠くはないだろう。