とかくに人の世は住みにくい・・・

知に働けば角が立つ
情に棹させば流される
意地を通せば窮屈だ
とかくに人の世は住みにくい
・・・
 


「草枕」冒頭の言葉・・・
知に働けば角が立つ・・・
情に棹させば流される・・・
意地を通せば窮屈だ・・・
とかくに人の世は住みにくい・・・
「草枕」夏目漱石・・・あらすじ・・・
「草枕」 / 十一十二十三・・・ 夏目漱石
夏目漱石考 / 吾輩は猫である坊ちやん草枕野分虞美人草三四郎それから彼岸過迄行人こころ1こころ2道草明暗1明暗2彼岸過迄1-5文芸の哲学的基礎「虞美人草」の批評・・・ 夏目漱石書評・・・・
 
 
 

 

●知に働く
理性 知恵 知識 世の常識のみで動く
人間関係がぎすぎすすることを恐れない
 
 

 

●情に棹ささない
感情を殺す  情け無用
順調に進む 時流に乗る 好調に発展
 
 

 

●意地を通す
自分の考え 心に決めたこと 自分の主張 
頑固に推し進めていく
 
 

 

●夏目漱石 「草枕」 冒頭の言葉
 知に働けば角が立つ
 情に棹させば流される
 意地を通せば窮屈だ
 とかくに人の世は住みにくい・・・

 

理知的でいようとすると人間関係に角が立って生活が穏やかでなくなり、情を重んじれば、どこまでも感情にひきずられてしまう。

 

理屈だけで動いていると、人と衝突する。逆に人の気持ちを思いすぎて、情けだけで動いていると、自分の考えを伝えることができず、相手に対して折れてばかりになる。かといって、自分の意地を主張すると、この世は生きにくい。このように社会というのは、ままならないものだ。

 

理性的でいれば人間関係は窮屈であり、感情的であればどこまでも気持ちに流される人間関係になってしまう。「理性、感情、意志のどれに力をおいても、人間関係を楽に生きていけるものではない」という意味である。

 

なぜ逃げ恥を楽しんで観られたのかとかくに人の世は住みにくい / 恋愛ドラマやラブコメは一番苦手なジャンルで、ムズキュンとかアホかとしか思えないわけだか、なぜか「逃げ恥」は面白がって楽しめたのである。原作のファンだったとか、ガッキーの破壊力がハンパなかったからとか、その辺を抜きにして考えてみた。「とかくに人の世は住みにくい」からドラマになるわけだが、多くは「情に棹させば流される」と「意地を通せば窮屈だ」属性の集まりが余計なことやらかすだけの話であり、主人公はたいてい両方の属性を持ってるのである。いやはや情に棹さして意地を通せばエピソードひとつ出来上がり、だ。そんなお手軽感動で悦ぶ趣味はない。対して逃げ恥は、主人公が「智に働けば角が立つ」属性を持っており、周りにも智に働く系の人が多くて、情に棹さす系や意地を通す系の厄介さんがほとんどやらかさないのである。だから楽しめたのだ。勝手に腑に落ちたのでそういうこととする。でもこのシーンは好き。

 

夏目漱石『草枕』の一節。なるほどうまいこと言う。つまり、相対的な計らいがあるうちは、すべてうまくいかず、心の自由は得られないということ。では、どうするか? 禅で言う「放下着」だろう(ほうげじゃく、と読む)。下着を放り投げるという意味ではない。この場合の「着」は強調しているだけで、深い意味があるわけではない。どんどん捨てなさいということ。さあ、何を捨てようか。それを考え、実行した暁に心の自由度が高まっているのではないかと思っている。

 

どこかで聞いたことがある言葉ですが、「はて誰の言葉だったっけ?」と首をひねる人が多いのではないでしょうか。夏目漱石の・・・・・というと、「ああ、枕草子の一節」ではなく「草枕の一節だ」と思い出されるのではないでしょうか。知識をひけらかすといやみったらしくて、人から敬遠されがちです。上から目線でモノを言う人が多いですね。そういう私も人様から見るとその一人なのかも知れないと思いつつも「お節介焼き」が疼き、ついつい偉そうなことを言ってしまいます。「情に棹させば流される」人情に流されると酷い目に遭うことがあります。これも私への忠告かも知れません。ついつい、情にほだされて安請け合いしてしまいます。同情は、相手も迷惑に思っているかも知れないのに、くどくどと同情の言葉を連ねてしまいがちです。「意地を通せば窮屈だ」意地っ張りは、端から見ていても気持ちの良いモノではないですね。意地を通すと、他の人とぶつかることが多いですね。一方で、意地っ張りな人の多くは意志が強い人でもあるように思えます。意志が強いということは、我慢強いと言うことにも繋がるかも知れません。「石の上にも三年」と子供の頃、母からよく言われました。「兎角に人の世は住みにくい」人間というのは、皆それぞれ価値観も違えば、考え方も異なります。そのような人達が一緒に生活すれば当然摩擦も起こります。しかし、世の中には他人のことを思んばかったり、相手の立場を考えなかったりした振る舞いをする人が多いような気がします。東京駅を毎日のように利用しますが、中央のコンコースだけではなく、どこも人が溢れています。私の前方右の方からキャリーカートを引っ張りながら30代とも割れる男性がやって来ました。私の直前で右カーブを切ったモノですから、カートに私の足が引っかかってしまいました。柔道の受け身よろしく、ごろりと一回転。一回転したから骨折もせずに済みました。平素から、キャリーカートを引っ張る人がいるときには気をつけているのですが、その時は、私の右にいた人が財布からお金を落としたこともあり、前方からの男性に注意しなければいけないにもかかわらず、転がるお金を足で止めようとしたことが災いをしてしまったのです。急に進行方向を変えれば他の人に迷惑がかかるという意識が薄いのでしょうか。平素人の目の前を平気で横切る人がいますが、世の中は自分一人ではないのだから、思いやりが必要であることをもっと子供の頃から教えるべきではないでしょうか。兎角、近年は住みづらい世の中になってしまいました。

 

大切なお皿を自分で割った時、「あーあ、やっちゃった!もったいないけど、しかたないなあ。」と、割れたお皿を惜しみながらも諦める。ところが、自分以外の人がやってしまうと、瞬時にぶちキレて、「なんで割ったん。大事にしてたのに!!」と叫んでしまう。同じ行動のはずなのに、他人にはキレてしまった自分が後でいやになる。そんなことが何度か繰り返される内に、「形のあるものは壊れるんだ」と自分の中で消化できるようになり、他人の行動の失敗も許せるようになる。他人よりも、〈怒り〉を爆発させてしまうという自分がいちばん厄介な存在である。また最近、「おめでとうございます。あなた様は当方で実施した抽選において5000万円を当選されました。」という文面が、メールに届いた。ドキッとして、「えっ、もらえるの?5000万円あったら、家のローン払って、車も買って、海外旅行もできるなあ。」なんて、甘い夢を抱いてしまう自分がいる。しかし、現実はそんなに甘くもなく、そのメールには「あなたの銀行の通帳番号と誕生日を教えてください。」と書かれている。間違いなく詐欺だ。普段、暮らしていけるだけのお金があり、みんなが健康であったらいいやと、シンプルな生活が自分の中では居心地いいと思っていたのに、そんな欲深い自分が表れて恐ろしくなる。「お金」という人間が作りだしたものに振り回されている。人間というものは本当にややこしい。自分で正しいと思っていることも、他人の価値観と違えば、それは正義ではない。例えば、自分では相手のことを思い遣って行動しているつもりでも、相手が不快に思ってしまえば、迷惑な行動以外のなにものでもない。放っておけば、「誠意がない」と言われる。やりとりが上手くいかず、信用を失うと、がんじがらめになって、全く動けなくなる。夏目漱石は、上の文の続きに、「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画えができる。人の世をつくったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」とある。人でなしの国には行きたくないし、ただの人の世で、厄介なただの人である自分を見つめつつ暮らしていきたい。

 

僕らの住む人の世は窮屈で住みにくい。よく頭を使ってうまく立ち回ろうとすれば「せこい」とか「ずるい」とか「要領が良いだけ」とか「八方美人」とか「信用できない」とか「自分のことしか考えてない」とか「卑怯」とか言われてしまうし、感情に流されてしまうと反対に騙されたり、人目を気にしすぎてビクビクしてしまったり、自分が良い目にあうことに罪悪感を抱いてしまったり、関わるべきでないことに関わってしまったりして損をしてしまう、じゃあもう良いや自分は自分らしく生きよう、自分はこう思うからこうするんだと言い張って、自分を尊重しようと思ったらヒンシュクを買うばかりでかえって窮屈極まりない。もぅどないせっちゅうねん…人の世はルールブックの用意されていないゲームで、都度ルールが変わるゲームで、みんな勝ちたくて勝ちたくて仕方ないのに誰も勝っちゃいけないゲームみたいだ。じゃあそんな煩わしいルールのないところへ行こう。そこにはルールがないから…ああそうか、みんなやりたい放題でやったもん勝ちの弱肉強食の世界だ。そんな殺伐とした世界よりは、人の世の方がいくらか住みやすいに違いない。

 

人の世が住みにくいと思うなら、人の世が少しでも生きやすいところとなるように工夫しなきゃならないだろう。僕らはとにかく疲れている。人同士であることに。人と人は同じ心を持っていながら分かり合えないという事実に。人はみんな自分のことしか考えていないという疑心に。その心を少しでも寛がせるためにも、限られた命を素晴らしい経験にするためにも、芸術というものは必要である。なぜなら、心がなければ芸術を解することはできず、心があるからこそ生まれ出るものが芸術だから。我々の心が住みにくさを作っているのであれば、我々の心を肯定する人間が必要で、それが芸術家だろう。すべての芸術家は、人の心を長閑にして、人の心を豊かにするから尊い。

 

夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭の言葉である。夏目漱石は1867.2.9〜1916.12.9の生涯で、「草枕」は初期の頃の作品とのこと。明治39年9月の作品である。明治の頃も人間は世の中に対して、こんなことを思っていたと思うと感慨深い。人が世の中に対するものは、ある程度の普遍性をもっていると感じる。「近頃の若い者は・・・」という言葉が一説にはエジプトの小王朝の時代から使われているという話もある。(都市伝説との話もあるが)これと同じように人間と世の中に対する感覚は、時代や文化や豊かさ、科学を超えて、共通するのかもしれない。冒頭の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」という言葉を自分の中で理解できる言葉に直すと。理屈だけで動いていると、人と衝突する。逆に人の気持ちを思いすぎて、情けだけで動いていると、自分の考えを伝えることができず、相手に対して折れてばかりになる。かといって、自分の意地を主張すると、この世は行きにくい。このように社会というのは、ままならないものだ。納得できる話である。今の世の中も明治の時代と同じである。また、聖徳太子(574年2月7日−622年4月8日)の言葉に「世間虚仮(せけんこけ)」というのがある。これは「世間虚仮、唯仏是真」(せけんこけ ゆいぶつぜしん)の一部である。これは聖徳太子の死ぬときの言葉として知られている。世間虚仮とは「この世の中はなんと虚しい、仮のものよのう」という意味である。次に続く「唯仏是真」は、仏教的な教えで、「唯一仏のみがこれ真なり」となるが、私は「世間虚仮」の印象の方が強い。飛鳥時代に生きた、7人の人との会話を同時にできたといわれる、後に信仰の対象にまでなる聖徳太子ですら、死ぬときには「世間虚仮」とはいたのだという。世の中は虚しいと。世の中は基本的には今も昔も虚しいのです。シェイクスピア(1564年4月26日−1616年4月23日)のリア王という戯曲の中に「人は泣きながら生まれてくる」というセリフがあります。赤ん坊はこの辛い、厳しい世の中に出てくるときに、泣きながら生まれてくるんだ。それほど、この世の中は不安で厳しいのだよということです。私の好きな作家の一人である五木寛之さんは、よくこのセリフを引用されます。それでは、この生きにくくて、虚しくて、不安で厳しい、この世の中をどう生きればいいのでしょうか。私なりの答えは、社会とか他人とかは思い通りになることはありません。常に自分と社会にはギャップがあります。それは自分の思うようにならない=ままならないということです。また、そうであるからこそ、人は世間を虚しいと感じたり、不安に感じたりします。そういう社会が基本的にはあたりまえなのです。社会は自分の考えと同じではありませんから、程度の差こそあれ、ギャップというのは存在します。また、自分にとって正義であることが、他人にとって、社会にとって正義であるとは限りません(法律論以前の話)。また、他人に悪があるように見えても、その人の中では善かも知れませんし、悪は自分の中にあるかも知れません。正義、善悪の基準ですら、自分の主観に左右されるので、絶対の基準というのは存在しないのです。自分の正義すら、絶対ではないと客観視できるようになりたいです。それなら、どう生きるか。それは、上に書いたようなことを心得た上で、自分の基準を持つことです。自分の基準に照らし合わせて、どうだろうと考えることです。そして、自分の基準もときどき社会の基準にあっているかチェックしてみることです。自分の基準が独善的でないか、独りよがりではないか、社会の基準とどれだけ離れているか。ある人が言ったのですが、仏様は人をどう判断するのかと。どんなモノサシ(基準)で人を裁くのかと。相田みつをの詩に「そんかとくか 人間のものさし うそかまことか 仏さまのものさし」というのがあります。私が聞いた話では、仏様は絶対的なモノサシを持っていないとききました。人は自分が正しいと思うと、それを正義と思います。自分の基準を持つことは大事です。自分の基準がないことのほうが大きな誤りです。しかし、人は自分の基準を客観視しなければならない。実に難しい作業です。主観を客観的にみるということは。客観的にみるということすら、主観に左右されるわけですから、実に矛盾をはらんだ作業です。一つには人から見た自分を想像してみるということも大事でしょう。また、人の意見に耳をすますのも大事でしょう。時には妥協も大事でしょう。例えば、自分の主張が100あれば、口に出すのは10〜20。その中で社会に受け入れられるのは5以下かもしれません。しかし、その中にも自分の意見が受け入れられる部分というのがあれば、「感謝」しましょう。また、受け入れられないのであれば、自分の意見が間違っているのかも知れない。言い方が悪いのかもしれない。タイミングが早すぎるのかもしれないと省みましょう。「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ」と言ったのは、発明王エジソンです。挑戦し続けることは、大事です。人というのは、理屈だけではなく、感情で動いています。理論的に正しいことでも、感情的に受けれてもらえない場合があります。また、テストの点数でも60点で合格と思う人もいれば、80点、100点、時には120点とらないと満足できない人もいます。それは、それ、人の基準は、人それぞれモノサシが違うのです。人の基準が違うことと自分の基準が絶対ではないということを意識しましょう。最後に金子みすずの「わたしと小鳥と鈴」より、「みんな違って みんないい」という言葉で結ぼうと思います。仏様はモノサシをもっていない。人を比べないからという話を思い出しました。

 

夏目漱石の小説『草枕』の有名な書き出しである。『草枕』は漱石の他の小説とは異なった味わいをもつ小説で、好きな作品のひとつである。かつてレコードで愛聴していたカナダのピアニスト、グレン・グールド(1932〜82)が『草枕』に深く傾倒していたと知ったとき、愛好している二つのものが思いがけず結びついたことに、とてもうれしく思ったことがある。グールドはラジオ番組で、英訳本の『草枕』の朗読までしていたらしい。さて、この『草枕』の冒頭だが、皆さんはどのような意味だとお考えだろうか。「智に働けば角が立つ」は、理性や知恵だけで割り切って振る舞っていると、他人と摩擦を起こすといった意味である。これはあまり問題はないであろう。だが、「情に棹させば流される」はどうであろうか。この部分は、他人の感情を気遣ってばかりいると、足をすくわれるといった意味である。ところが、「棹さす」を「逆らう」という別の意味にとってしまう人がけっこういるらしいのだ。この「棹さす」は「流れに棹さす」の形で使われることが多いのだが、文化庁が発表した2012年(平成24年)度の「国語に関する世論調査」でも、本来の「機会をつかんで時流にのる、物事が思い通りに進行する」という意味で使うという人が23.4%、従来なかった「逆らう」「逆行する」の意味で使うという人が59.4%と、逆転した結果が出ている。ただ、面白いことに文化庁は数年おきにこの語の調査を行っているのだが、本来の意味で使うという人は2002年が12.4%、2006年が17.5%、そして2012年が23.4%と、調査の度にわずかながら増えている。ただ、意味がわからないという人も2012年調査では20代以上で10%を超えているので、このことば自体があまり使われなくなっているということも考えられる。「棹」は、水底を突いて船を前進させる竹や木の細長い棒のことで、「流れに棹さす」は流れに棹をつきさして船を進め下るように、好都合なことが重なり、物事が思うままに進むたとえから生まれた語である。たとえば南北朝時代の内乱を描いた軍記物語の『太平記』(14世紀後半)には、「内状を通じて、事の由を知らせたりければ、流れに棹(さほさす)と悦(よろこび)て、軈(やが)て同心してげり」という使用例がある。石塔義房(いしどうよしふさ)という武将が、内々の書状を通じて事の次第を知らされてきたので、良い機会を得たと喜んで、すぐさま(南朝方への加勢に)同意した、といった意味である。まさに物事の勢いを増すという意味で使われている。現時点では多くの辞典は、傾向に逆らうという従来なかった意味は認めておらず、『大辞泉』『広辞苑』『大辞林』などの中型の国語辞典もすべてこの意味で使うのは「誤り」だとしている。「流れに棹さす」は意味を間違いやすいことばの代表例として取り上げられることが多いためか、わずかながら従来の意味で使う人が増えているようではある。だが 、依然として多くの辞書が“誤用”としている意味で使っている人が60%近くもいる。この人たちをどう救うかは、辞書を編纂する者として今後の重要な課題であると思う。 

 

知に働くか 情に棹さすか
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。・・・
考えてみれば組織とか、組織における人間管理についても当てはまる。そして、させに、その管理も「知による管理」「情による管理」の二つに分けて考えることもできるだろう。「とかくに人の世は住みにくい」しかし、造り手が人だけに、いろいろな考えが前に出て、一様な管理方法で、統括するということはできない。人の世という言葉を、職場に置き換えてみれば、それを造っているのは、社員という人間である。会社で給料をもらい、仕事に生き甲斐を感じ、生涯のほとんどをその組織で送ろうとするなら、そこから逃げるわけにはいかない。したがって、どんなに逃げたいときでも、反転して、じっくりとその場に腰を落ち着け、どうすれば住みやすい職場になるのかを、皆で考える必要がある。特に上役と呼ばれる人たちは、知の管理、情の管理を駆使して、仕事に生き甲斐を持たせられるように、職場を淀んだ沼や池にせず、常に新しい水を流す清冽な川にする必要がある。
※清冽 (せいれつ) 水が清らかで冷たい・こと(さま)。  
 
 
 
 
  

 

●知に働けば角が立つ

 

智に働けば角が立つ
理性のみで動こうとすると、人間関係がぎすぎすするため穏やかに暮らせなくなるということ。  

 

知に働けば角が立つ…
理性を持って振る舞うと人間関係がうまくいかなくなる。だからといって、情を持ってうまく立ち回ろうとすると、結局周りに流されてしまう。(棹さす=調子を合わせて、うまく立ち回る。)  

 

知に働くか、情に棹さすか
「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。・・・」
考えてみれば組織とか、組織における人間管理についても当てはまる。
そして、その管理も「知による管理」「情による管理」の二つに分けて考えることもできるだろう。「とかくに人の世は住みにくい」。しかし、造り手が人だけに、いろいろな考えが前に出て、一様な管理方法で統括するということはできない。
人の世という言葉を職場に置き換えてみれば、それを造っているのは社員という人間である。会社で給料をもらい、仕事に生き甲斐を感じ、生涯のほとんどをその組織で送ろうとするなら、そこから逃げるわけにはいかない。
したがって、どんなに逃げたいときでも反転して、じっくりとその場に腰を落ち着け、どうすれば住みやすい職場になるのかを皆で考える必要がある。
特に上役と呼ばれる人たちは、知の管理、情の管理を駆使して、仕事に生き甲斐を持たせられるように、職場を淀んだ沼や池にせず、常に新しい水を流す清冽な川にする必要がある。  

 

智に働けば? 
以前に、森鴎外作「舞姫」が難解だという話をしました。この難しさの原因は、鴎外が文語文をあまり理解していないせいもある、というのが、僕の(ひどく不遜な)結論でした。しかし、口語体の小説でも、ちょっと古くなると読みにくいですね。世態風俗は年々変わるので、小説に書かれている情景が目に浮かびにくくなるのです。たとえば
「飯田橋へ来て電車に乗つた。電車は真直に走り出した。」
これは夏目漱石の「それから」の終局部分ですが、この「飯田橋」というのは、さっと読むと総武線の駅かと思います。実際はそうではなく、ましてや地下鉄東西線の駅でもなく、まあこれは市内電車の駅なのでしょう。歴史的には、このころ甲武鉄道(現・中央線)が飯田橋駅まで延びていたはずで、蒸気鉄道も走っていたと思いますが。 近代小説を読むとき、予備知識の不足を補ってくれるのが、文庫などの巻末に付いている「注釈」です。もっとも、これにもときどき不満をもちます。たとえば、やはり夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭に
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
とありますが、これを分かりやすく説明してくれる注釈がないんですね。今まで、幾人かをつかまえて「『智に働けば角が立つ』とは何か?」と聞いてみたところ、「地道に働けば人と摩擦を起こす」とか、「知恵が働けば人とそりが合わない」 とか、いろいろ意見が出ました。でも、それは違うでしょう。「智」に〈地道〉なんて意味はないし、また後者の説のように「智」は〈知恵〉だとしても、「知恵に」と「知恵が」では大違いだ。つまりよく理解されていない(僕も実は分からない)部分のようですが、新潮文庫の注では何も触れていない。注釈者にとっては自明すぎるのでしょうか?
岩波全集版の注解を見ると、次のようにあります。
「智・情・意地は知・情・意の三分方に従うもの。『文芸の哲学的基礎』の中で、〔漱石は〕「精神作用を知、情、意の三に区別します」と述べている。順に intellect, feeling, will に当たる。『文学論』では feeling を「情緒」としているが、井上哲次郎他編『哲学字彙』(明治十四年初版)では「感応」をあて、第三版(明治四十五年)になって「感応、感触、感情」とし、「情緒」は emotion の訳語にあてている。」
なるほど、単に漫然と句を並べているのではなく、「知・情・意」の3つを踏まえているのですね。それはいいんですが、では、この一節をもっと簡単に言えばどういうことなのか、やはり納得がゆかない。そこで、この部分を飛ばして先に行く。「情に棹させば流される」の「棹さす」は、よく「流れに逆らう」と誤解されますが、正しくは「棹を水底につきさして舟を進める」で、つまりここは「感情の方面に(感情にまかせて)突き進む」という意味でしょう。次の「意地を通せば窮屈だ」はそのままで説明不要でしょう。とすれば、「智に働けば角が立つ」も、続く部分に対応するはずです。さしずめ「理詰めの方向に突き進んでゆくと、他人と摩擦を起こす」ということではないでしょうか。「〜の方向に突き進む」ということを、「〜に働く」と表現することはできるのかどうか。漱石の他の作品を見てみますと、一見似た言い回しはあります。
「私は若かつた。けれども凡ての人間に対して、若い血が斯う素直に働かうとは思はなかつた。(「心」漱石全集 第9巻)」
「私は殆んど交際らしい交際を女に結んだ事がなかつた。それが源因か何うかは疑問だが、私の興味は往来で出合ふ知りもしない女に向つて多く働く丈であつた。(同)」
ただ、これらは「〜に対して〜が働く」という形だから、ちょっと違うのですね。結局、「智に働けば」がどういうことなのか、もうひとつすっきりしないのでありました。

ついでに、文庫本でみつけた不思議な注釈を一つ。芥川龍之介の『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫)にこういう個所があります。
「どうしたね? きょうは又妙にふさいでいるじゃないか?」 その火事のあった翌日です。僕は巻煙草を啣{くわ}えながら、僕の客間の椅子に腰をおろした学生のラップにこう言いました。実際又ラップは右の脚の上へ左の脚をのせたまま、腐った嘴{くちばし}も見えないほど、ぼんやり床の上ばかり見ていたのです。「ラップ君、どうしたねと言えば」 「いや、何、つまらないことなのですよ。――」(「河童」)
この「ラップ君、……言えば」に注釈者(たぶん吉田精一氏)がこういう注を付けています。
「初出雑誌・初版本などすべてこうなっており、“「ラップ君、どうしたね」と言えば”の誤りではない。」
と、納得がゆかないご様子。しかし、これは別に不思議じゃないんですね。今のことばでいえば「ラップ君、どうしたねってば」の「てば」に当たるもので、変でもなんでもないのです。「といえば」は、普通に使われたことばで、たとえば同じ吉田精一氏が注を付けている二葉亭四迷『浮雲』(新潮文庫)にもちゃんと出ています。
「ト跡でお勢が敵手{あいて}も無いに独りで熱気{やっき}となって悪口を並べ立てているところへ、何時の間に帰宅したかフと母親が這入って来た。 「どうしたんだえ」 「畜生……」 「どうしたんだと云えば」 「文三と喧嘩したんだよ……文三の畜生と……」(「浮雲」) 」
吉田先生、こっちは何も触れておられないけど、見逃したのかな?

その後、漱石の作品が多く電子テキスト化されたため、用例が格段に調べやすくなりました。「〜に働く」に関しては次の「吾輩は猫である」の例が参考になると思います。
「僕なんか、そんなむづかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義許りがいゝと思ふのは少々誤まつて居る様だ。現に君がいくら積極主義に働らいたつて、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないぢやないか。(漱石全集 第1巻)」
このちょっと前には「いつ迄積極的にやり通したつて、満足と云ふ域とか完全と云ふ境にいけるものぢやない。」とあり、また、ちょっと後には「どんなに積極的に出たつたて勝てつこないよ。」とあります。ほぼ同じ意味でしょう。つまり、「〜に働く」は、「〜にやり通す」「〜に出る」と近いものと思われます。してみれば、「智に働けば」も、「理詰めでやり通す」ということで、本文で述べた結論は変わらないようです。 

 

知に働けば角が立つ
「知に働けば角がたつ。情に棹させば流される」とは夏目漱石の小説に有名なものですが、確かに理屈を言うと角がたち、そうかといって情に訴えると流されると言われるとさすが漱石!という感じです。でも、私のこれまでの人生のいろいろな場面を振り返ってみると、知に働いたから角がたつのではなく、知に働いているのに情が絡むと角がたつという感じです。
たとえば、原発の問題で、原発推進派と反原発派の間で「知に働いたこと」は無かった様に思います。原発推進派は政府や権力者からの豊富な資金と権限をもって強引に原発を進めようとしましたし、それに対して反原発派も「知は要らない。運動だけ」ということで反原発運動を繰り返しました。
どちらが正しかったかというと、押し切ろうとした推進側が強引だったのが最初です。本当は国民が主人公なのですから、隠し事をせずに民主的手続きを貫く必要がありましたし、反原発側も民主主義の手続きを求める必要があり、その結果を尊重しないのは問題がありました。
日本では長く自民党が政権をとっていて、原発についてはハッキリと推進でした。ですから、全体として原発が推進されるのは民主的な国家として適切だったと思います。しかし、原発は作るけれど「核廃棄物の貯蔵所」はどこにも作れないという状態でした。
奇妙なことです。ある人がアパート経営を志して営業を開始したとします。その時に「部屋は快適ですが、トイレがついていません」と宣伝したら入居する人はほとんどいないでしょう。家主にとっては部屋は貸してもトイレがなければずいぶん、管理は容易になりますし、アパートも汚れません。
でも、「家賃は欲しいけれど、トイレを作るのはイヤだ」と言ったら、アパート経営アドバイザーから「それでは入居する人はいないでしょう。お金は欲しい。損はしたくないでは・・・」というでしょう。
大人なら原発を作って電気を買うなら核廃棄物の貯蔵所は必要です。私は「トイレの無いマンション」というのは反原発のスローガンとしては適切ではないと考えています。原発はトイレがないからダメというのではなく、原発も電気も核廃棄物貯蔵所も一緒に考えて賛否を言うようにしないと、いかにも子供のようです。

原発推進派と反原発派の人は「知に働くと角が立つ」ということで、まったく議論をせず、妥協点を探ることもしませんでした。この過程で原発の安全議論は硬直化し、「安全だ」という人と「危険だ」という人が感情的にいがみ合い、それが今度の福島の子供たちを被曝させる原因の一つになったのです。
かつての日本は社会が単純で、純情な人がほとんど、それにまれに見るほど庶民のことを考えるお殿様・・・という構成でした。だから、政治も人生もお殿様に任せておけば良かったのですが、今は違います。
選挙と代議員制度をとっている日本で、「何が民意なのか?」ということもハッキリしていないと感じます。歴代の首相の交代を見ても、マスコミが世論を形成するために特定の人の人気をあおり、その人が首相につくと突然マスコミが態度を豹変させて、悪いことばかりを報道するというのが続いています。
首相を選ぶときも政策的ではなく、選ばれた首相は直ちに考え方が変わるわけではないのに、マスコミは1ヶ月も経つと叩きにたたきます。今の原発再開問題も、「原発を再開するべきかどうか」についてのエネルギー、環境、安全性、温暖化などの主要な課題を議論することなく、「ストレステスト」なる用語だけが宙に浮いて活字が踊っているのでは、また同じことの繰り返しでしょう。
ここらへんで日本も「知に働いても角がたたない」という社会風土を作りたいものです。 
 
 
 
 

 

 
 

 

●情に棹させば流される

 

知に働けば角かどが立つ、情に棹さおさせば流される
理知的でいようとすると人間関係に角が立って生活が穏やかでなくなり、情を重んじれば、どこまでも感情にひきずられてしまう。 

 

流れに掉さす
「棹をさす」とは、船頭が長い棹で水底を押して、船を水流に乗せることをいいます。これによって勢いがついた船は流れに乗って早く進みます。それでは、なぜ間違った意味にとらえる人が多いのでしょうか。ひとつは、昔にくらべて、船頭が棹を操る舟に乗る機会が少なくなったからでしょう。棹をさす、という言葉から、流れを止めたり、逆らったりすることと想像してしまうのかもしれません。もうひとつの原因としては「水をさす」との混同が考えられます。「水をさす」は、うまくいっている物事を脇から邪魔をすることですが、「流れ」と「水」のイメージの近さに加え、同じ「さす」という言葉が入ることで、「流れに掉さす」にも「邪魔をする」というイメージが加わったのかもしれません。
先に紹介した夏目漱石の「情に掉させば流される」は、「情に逆らったり抗ったりしても流される」という意味なのではなく、「情を重んじれば流される」ということをいっています。観光地などで和船に乗る機会があれば、棹で舟を自在に操り、流れに乗せる船頭さんの技を楽しみながら、あらためて「流れに掉さす」という言葉や、漱石の「情に棹させば流される」という言葉を味わってみてはいかがでしょうか。 

 

流れに棹さす
流れに乗って川を下っている舟に、船頭がさらに棹をさして勢いをつけるという意味です。はい、ここで大事なことは、その情景を動画映像として頭に思い描くことです。今、舟は川の流れにまかせて川下に向かって進んでいます。舟の一番後ろに船頭さんがいます。その船頭さんが、棹を舟の後ろの方向に向けて川底に突きさしました。その棹を突きさしたままの方向にグーッと漕ぎました。その力の反動で、舟は自然に流されていた速さよりもさらにスピードが増しました。
つまり、棹をさしたことによって、舟はさらに勢いを増して進むということです。そこから、仕事などが順調に進んでいるところに、さらに好条件が加わって、いっそう仕事がうまく進むことや、時流にうまくのって好調に発展することなどに使われることばです。夏目漱石の 『草枕』 の冒頭に、 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角 (とかく) 人の世は住みにくい」 とあります。ここでは、〈世間の情に深入りしすぎて情に流されてしまう〉 → 〈人の世は住みにくい〉 と言おうとしているわけです。ところで、下の《参考図書》のほとんどは、この 「流れに棹さす」 が反対の意味に解釈されていると訴えています。つまり、 〈舟にブレーキをかける方向に棹をさす〉 、 それはすなわち 〈その場の状況の流れを止めようとする〉 〈時流に逆らう〉 というような意味でこのことばが使われることが多いと指摘しています。
そのことは、文化庁国語課が行った、平成 18 年度 「国語に関する世論調査」 によっても、はっきりと現れています。
(ア) 傾向に乗って、ある事柄の勢いを増す行為をすること。
(イ) 傾向に逆らって、ある事柄の勢いを失わせる行為をすること。
の選択肢を示して選ばせたところ、本来の意味の (ア) 17.5 % に対して、逆の意味の (イ) 62.2 % という結果になっています。
この誤解釈は、年代層が高くなってもあまり変わりません。つまり、 60 歳以上の年代層でも、半分以上の人が、間違った意味に解釈していることになります。まあ、私自身は、このことばを口にしたり書いたりすることはまずないのですが、皆さんも、何かでこのことばを聞いたり見たりしたら、本来の正しい意味で使われているか、逆の意味に誤解されて使われているか、ちょっと気にとめてみましょう。 

 

「情に棹させば」 
夏目漱石の「草枕」の文で『情に棹させば流される』の意味を、産経新聞の<産経抄>は、例を挙げて「情」と言う川に舟をうかべ、棹をさすようなことをすれば、一気に「情」に流され自分を見失ってしまう。「棹をさす」とは川底を棹で突いて、舟にスピ―ドをつけること、と解説している。
成程それはそれで良く分かりました。実は、慣用句の使い方につて、文化庁国語世論調査の結果、誤用が多いことがわかり、その誤用の中の一つに「掉さす」があった。
流れにさおさす
  正 ― 傾向に乗って勢いを増す行為   18%
  誤 ― 傾向に逆らい勢いを失わせる行為 62%
と、正解率が18%であったようだ。ところで、かく言うブロガ―は、確か高校二年であったと思うが、国語で習って以後この文章は部分的にも記憶しているが、情に掉させば、即ち人情に逆らうと逃げださなければならなくなるとの意味に解釈していた。後に、やすいところに引きこしたくなるの文があるからだが。「掉さす」は「逆らう」の意味と解していた。その証拠に、一作々日のこのブログ、「自分の年金にどれだけ関心をもっていたか」の文中に、<こんなことを言うと世上に棹差すようだが>は、要するに、世論が年金問題で非難するが、その非難に逆らっての意味で書き入れた。真意はそうであったが、掉さすの意味がそうであるなら、世間の年金問題の非難を背景にわれも非難に一役買うとでも云うような意味になっていまったようだ。まあしかし、それがそうなら、それはどちらでもよい。
わが愛読の産経新聞の<産経抄>は、川に舟を浮かべて----とは、なかなか粋な解説をしてくれた。掉さすとは、川底を棹で突いて、舟にスピ―ドをつけることである、と。なるほど、京都嵐山の観光<川くだり>で、船頭が棹で川底をついて船を動かしていたのをテレビで見た。いまはジ―ゼルかなんかの動力であるが。
船頭さんの漕ぐ渡し舟で通学したわが中学時代の思い出―。
四国の片田舎で生まれたこのブロガ―、四国三郎の異名のある吉野川の川向の学校への通学は、当時は渡し舟を利用していた。元々は橋が架かっていたのだが台風で増水の都度流されて、戦中戦後の長期間渡し舟であった。----舟は艪任せ、艪は歌任せ----と、端ヤンと白鳥みづえの歌「親子舟歌」同様に,波に揺られて、ギッチラコ、ギッチラコと、舟は艪で漕いでいたが、川岸に着くと船頭さんが、客の下船や乗船に便利なように「棹」で川底を突いて舟の向きを変えて舳先を岸につけていた。そのような棹の利用の仕方からすると、接岸用具か補助具であったのか、イヤハヤ言葉のル―ツは難しい。  
 
 

 

 

 
 

 

●意地を通せば窮屈だ

 

意地を通す
どこまでも自分の考えをおし通す。心に決めたことを他からの圧力に負けずに押し通すこと。どこまでも頑固に、自分の主張や考えを推し進めていく。 

 

意地を通す
娘と、仲直りするまでに数日を要するようなケンカをしました。あることで僕が娘を叱ったところ、娘はそれを不服として「自分は悪くない」と主張しました。娘の主張にも筋が通っているところがあるし、そもそも自分の主張を守るために、ちょっとくらいの脅迫的な態度には屈しないところは、褒めてあげたいぐらいでした。
子供の語彙力では大人の意見が理解できないということもあるでしょう。しかし、そもそも数学がそなえているような厳密性を、我々が日常的に使用する言語(自然言語)は持ち得ません。ですから、自分の意見と他者の意見が、どちらも「それなりの正しさ」を持ち、かつお茶を濁すということができない形でぶつかったとき、どうしても最後は「自分の意地を通す」か「相手の意見に折れる」かという局面に至ります。
「われわれのあらゆる認識と科学とがその上に乗って支えられている基礎は、説明不可能なものである。だから、いかなる説明も、多かれ少なかれいくつかの中間項目を通ってさかのぼりながら、結局はこの説明不可能なものにゆきつくわけである。(ショーペンハウエル『知性について』)」
しかし「自分の意地を通す」と決めることは、「その結果に責任を持つ」ということと常にセットなのです。僕自身も経験してきたことですが、常に自分の主張したいところに固執するような、ただどこまでも硬いばかりの心は、結果として自分も他者も幸せにすることはありません。
意地を通した結果として得たいものとはいったい何なのか、そしてそれを得る代わりに失うものは何なのか。それが解からないままに、自分の正しさばかりを主張することの危険性を、僕は娘に伝えたかったのです。結果としてそれは脅迫になってしまったのが、僕の持てる教育カードの貧弱さを示していました。しかし、現実にそれは怖いことなのです。 

 

「意地」
「意地」という言葉は、一般に、自分の思うことを通そうとする心という意味に使われている。日常、「横綱の意地にかけて」「男の意地」などという使われかたもあるが、だいたい「意地を張る」「意地を通す」「意地になる」、あるいは、「意地悪」など、「強情」と同義で、どちらかといえば、あまり良くない意味に使われているようである。
「意地」はもともと仏教用語であり、人間の五官による認識、(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)の次にくる第六意識(心)のことである。それは、あらゆるものを成立させる根源になる大地のようなものであるとされている。人間の心は、ちょうど大地のように、あらゆるものを生み出し、またおさめる無限の可能性をもっている。
しかし、人は、人間関係において、どうしても自分中心にものを考えるものである。その心が日常語でいういわゆる“意地”という感情を生み出し、それが思うようにならないとき、被害者意識がはたらき、怨みが発生し、そこに紛争が起こってゆく。
そのように、心は思い通りにならないということは、人間の歴史始まって以来の大きな問題であったろう。ブッダも、もちろんこの問題に真正面から取り組み、人生が思い通りにならないこと(苦)の生起する原理(縁起の理法)を発見した。ブッダは心について次のように説いている。
「遠くさすらい、独り行き、形もなく、洞窟に隠れた、この心を制御する人は、魔王の束縛より脱する。(『ダンマパダ』第三七偈)」
仏教は、まさにこの心の制御の道を教えるものである。人間の心を分析すると、誰にもあるたえず自己を愛してやまない領域の深層意識から、思い通りにならない心(意地)が生じ、それによって人生の様々なトラブルが発生していく。そのような紛争をもたらす自分の心をコントロールする方法を追求していくのが仏道である。その心を制御するのも、大地のような心に他ならない。
今日、いわゆる意地によって様々な紛争が起こっているが、実は、意地という言葉そのものの奥に、自らの心の制御という紛争解決の鍵が隠されているのである。 
 
 

 

 

 
 

 

●とかくに人の世は住みにくい  

 

理想と現実?とかくに人の世は住みにくい?
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『三四郎』など、教科書の常連、夏目漱石。学校で『坊ちゃん』を読まされた、という思い出を持っている人もいるのではないでしょうか。そんな夏目漱石の隠れた名作ともいえるのが、『野分』という小説です。
『野分』は『草枕』と同じ時期、1907年に書かれました。『野分』という題名は、秋から冬に吹く風、という意味の秋の季語であります。ちなみに、新潮文庫版には『二百十日』という作品が併録されていますが、その二百十日(立春から210日)ごろに吹く風が、野分と呼ばれます。
二人の主人公
作品には二人の主人公がいます。一人は学者、白井道也、もう一人は苦学生、高柳周作です。物語はこの二人の視点が並行して進行し、二つの視点の交錯点が物語の焦点を成しています。
理想家、白井道也
「道也」という名前からわかるように、妥協を許さぬ理想主義の持ち主です。彼は金儲けをいやしみ、学問によって人格を磨きあげることを尊ぶ考えから、世におもねらず、三度中学校教師の職を失います。一方で、実際家である彼の妻はことあるごとに、理想ばかりで生活費を稼げぬ夫をなじります。理想と現実にはさまれた道也は文筆家として身を立てることを決心します。  
悩める青年、高柳周作
高柳周作はようやく大学を卒業し「我々の生命はこれからなのに、これから先が厭になってしまう」将来に悩める青年です。漱石は『私の個人主義』で、進路の決まらなかった自分を「霧の中に閉じ込められた孤独の人間」と喩えていますが、高柳青年もまた、そうした青年の一人でした。
二人の出会い
物語の白眉は「金と学問」についての白井道也の演説です。この演説を聞いた高柳青年は、病気による自己の死を意識しながら、いかに世に生きた証を残すか、について考えます。漱石は高柳青年の決断を描きながら、「金と学問」「理想と現実」の問題について考えさせるクライマックスを築いています。
理想と現実のはざまで
理想家で現実に融通が利かない白井道也、将来と社会に不安を抱えている青年高柳周作。この二人の姿は、夏目漱石みずからの投影でもあり、現代人の投影でもあります。
「情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という言葉を残した漱石ですが、そうした生きにくい世の中の煩悶を抉り出した『野分』は、現代においてますます価値を帯びる小説です。  

 

とかくに人の世は住みにくい
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭です。別にこれで纏る話ではありませんが、最近この一文を目にする事が有って、抜き出しただけのこの文がひどく意識されました。
「初詣「ベビーカー自粛」要請で大騒ぎ 「差別」批判へ寺側の意外な言い分
初詣の際にそれまでの利用者のマナーの悪さ・事故・警察からの要請という事情を考慮した結果の「ベビーカー自粛」要請に対して、事情を考慮せず(どころか知ろうともせず一文のみに反応)騒ぎ立てる輩が続出。果ては「差別」の言葉を出してきて、関係の無い車椅子を含めた身体障がい者や少子高齢化問題にまで発展しました。飛躍し過ぎ、被害妄想酷過ぎ。
これはあくまで一例ですが、最近何かあると余りに簡単に炎上します。何よりたちが悪いのは、その状況や事情を斟酌しない輩が炎上させている事。叩ける要素が有れば嬉々として叩いています。以前までにいた、アンチが事情を見えないふりをして執拗に叩いているのはまた異なってきています。また、少しでも叩ける要素があると興味は無いけど叩いておけ!的な反応も非常に多い。血を求める山の藪蚊の如き勢いで群がっています。何がそんなに楽しいのか・・・?しかもその様はあまりに執拗で空っぽ。いつから日本は隣国の諺である「溺れた犬は棒で叩け」を実践する国になったのですかね・・・。
「君の名は。」への批判から新海誠監督自身への誹謗まで
大ヒットした「君の名は。」には注目されるようになってから誹謗中傷の如き異様にへたくそな批判が目につきます。下は最近の石田衣良氏の発言です。
「 「君の名は。」の監督の新海誠さんも若い子の気持ちを掴むのが上手いと思いました。たぶん新海さんは楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか。 それがテーマとして架空のまま、生涯のテーマとして活きている。青春時代の憧れを理想郷として追体験して白昼夢のようなものを作り出していく、恋愛しない人の恋愛小説のパターンなんです。
付き合ったこともセックスの経験もないままカッコイイ男の子を書いていく、少女漫画的世界と通底しています。 宮崎駿さんだったら何かしら、自然対人間とか、がっちりした実体験をつかめているんですが、新海さんはそういう実体験はないでしょうね。実体験がないからこそ作れる理想郷です。だからこそ今の若者の憧れの心を掴んだのかも知れません。 」
言いたい事は判らなくもないです。よく「楽しい恋愛小説を書けるのは実際のドロドロした面倒くさい恋愛を知らないからだ!」なんてことも言われますしね。実際、氏の小説は数点しか読んだことはありませんがどれもこれも小奇麗さとはかけ離れていましたし。しかし流石に言い様が酷い。内容が事実かどうかを横に置くとしても、仮にも小説家ならもう少し相手を慮った表現をするべきではないでしょうかね。流石にこれには監督本人も苦笑ものだったようですが・・・。
その上、江川達也氏を一とした評論家達も本当に酷い言い様。「プロから見ると全然面白くない」「作家性が薄くて、売れる要素ばっかりブチこんでいる、ちょっと軽い作品」 etc この方をはじめとして検索すればいくらでも醜悪な発言者が出てきます。商業作品に対して崇高な大御所芸術家でも気取っているのかもしれませんがね。実際新海監督本人も「自分の趣味ではないが、売れる要素を詰めた作品作りをした」的な発言はしています。しかし商業作品なんだから売れる事は極めて重要であり、何よりこの方たちの批判は作品だけでなく、それを見て楽しんだ方々の感性まで含めて罵倒している。
国内だけでなく海外でも受けているのにね。感性・批評の仕方は人其々なのになぜここまで言葉を選べないのか・・・。馬鹿にしようという先行目的から言葉を選んでいる様にすら感じます。天邪鬼を気取って注目を集めたいのかもしれませんがね。
逆に真っ当な反論をしていても、最初の例のように中身を判断せずに脊髄反射で噛みつく輩も極めて多い。思想の多元社会における、尊重される「寛容」の言葉も失われつつあるようです。
YouT○beの企業公式動画にコメントできない日本の特別仕様、信者とアンチの悪意溢れる空々しいAm○zonのレビューサイト。
インターネット、TiwitterやFacebook等で人と人との意思疎通の距離が縮まり、誰もが自由に意見を発する事が出来るようになった中で、それ故に良い部分と共に悪い部分がかなり目立ちます。特にここ最近は後者を意識する事が本当に多い。「出る杭は打たれる」や「赤信号、皆で歩けば怖くない」「同調圧力」等が混ざって醜悪な部分ばかりが目につく。有名税の言葉で片付けてしまっていいのでしょうかね。一方的に石を投げつけるだけの卑怯者のなんと多い事か。
草枕は冒頭の文から続いて、それが人の世なんだからしょうがない。楽しい世界に浸りたいからこそ、芸術・創作は素晴らしい的な文章が続きますが、ここまで醜悪だと、その楽しい世界さえも失われがちに感じてしまいますよ・・・。まぁその気持ちの上下が作品を生むとも続くのですが。
本当に住みづらい世の中になっていると思います。  

 

住みにくいかこの世は
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。・・・・・・人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。・・・・・・」
漱石は50にして逝去した。この文章のあと、35歳にして、人生の裏表に気づいたようなことを書いている。
この言葉で表現される問題で、切迫した対策が必要なのは何なのだろう。高齢化をせき止める方策はないが、少子化には継続的な施策が必要だし、放置されてはならない問題だと思う。
真剣に対策を考えるとしたら、入管法も含めて、広範な対策が必要であり、即効性のあるものでもない。が、避けて通るとこができない問題の筈である。
老人が一人で僻村で暮らしているのも、辛いが、古い学校で生徒が一人で勉強している姿は辛いというより、暗澹たる気持ちにする。
「研修生」が都市を目指して、田舎から逃亡しているというニュースがあった。「研修生」も逃げ出す程に荒廃した地域を活性される、それがほとんどの対策の大きな解決策ではないだろうか。
私たちの世代は数十年前に、この「研修生」たちと同じように、都市を目指したのだということは理解している。  

 

草枕から学ぶ
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て(くつろげて)、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。僕らの住む人の世は窮屈で住みにくい。

かの有名な夏目漱石の『草枕』の冒頭部分です。特に有名なのは、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」の部分かと思います。改めて、草枕を読みますと、今の世の中をよく反映しているように思えます。簡単に、解釈を加えますと・・・。
智「よく頭を使って上手く立ち回ろうとすると”せこい”とか”ずるい”とか”八方美人”とか言われてしまうし、」
情「感情に流されてしまうと反対に騙されたり、人目を気にしてみたり、関わらない方が良いことに首を突っ込んで損をしてしまったりする。」
意地「自分の意思(意地)を尊重しようとすれば、自分勝手とヒンシュクを買うばかりでかえって窮屈な思いをする。」
「とにかく人の世は生きにくいことばかりだ・・・。」
ここで、私は驚きました・・・。この有名な冒頭文で「完結」してしまっていたことに!?草枕を、この冒頭文だけで理解したような気持ちになっていました。実は、この冒頭文に続くところに夏目漱石が本当に伝えたかったことが書かれていました!

住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て(くつろげて)、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。僕らの住む人の世は窮屈で住みにくい。

「人の世が、こんなにも煩わしいものなのだとしたら、ルールのないところへ引っ越そう!しかし、どこへ引っ越そうが住みにくさは解消されないと悟った時、詩が生まれて、絵ができる。人の世を作ったのは、神でも鬼でもなく、向こう三軒両隣(つまり、自分の身近な人々)で構成されているのだ。そうした人たちで構成されている世の中が住みにくいと言ったところで、他に引っ越しするところもないだろう。あったとしても、そこは(そこにはルールがないから…)ああそうか、みんなやりたい放題でやったもん勝ちの弱肉強食の世界だ。そんな殺伐とした世界よりは、人の世の方がいくらか住みやすいに違いない。
引っ越す事ができないのであれば、少しでも周囲に寛容に、よりよく住むことをしないといけないだろう。だからこそ、この世に詩人という天職があり、画家という使命が生まれる。あらゆる芸術は、人の心を豊かにする事ができるから尊い。私たちに住む人の世は、窮屈で住みにくいな・・・」
と言ったところでしょうか?私なりの解釈ですから、様々な解釈があるかと思いますが、こうして改めて草枕を読み進めてみると、新たな発見がありました。本日お伝えしたかったことは、2つです。
1つは、「わかっているつもりでいた事が、案外ちゃんと理解出来ていないという事」 そして、もう1つは、「人の世は窮屈だけど、(住めば都ではないけれど)住む人それぞれが寛容になって、より良く生きる事を模索していく事」です。改めて、深く考える事で、「新たな発見があり、新たな考察が生まれる」  

 

「住みにくい世だからこそ」
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」。夏目漱石の『草枕』の冒頭だ。
最近年を取ったせいか、この世の中の出来事に不満ばかりが溜まっている。価値観の変化をはじめとして、パソコンやスマホを使いこなすことが当たり前のような生活、寛容性のないイライラした人の心、責任を伴わない言葉......。まったくイヤなことばかりで、自分自身イライラしながら、まさに「人の世は住みにくい」ことを感じている。漱石が生きた明治の時代も今も、人の心や在り方は何も変わっていないのだろう。変わっているのは、身の回りの物だけだ。
漱石は、冒頭にしめした『草枕』の言葉に続いて、ではどんな国に引っ越すことが住みよいかと問いながら、そんな国はないと言い、次のように続けている。
「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊にするが故に尊い」
晩秋から初冬の夜長、芸術や読書に親しみながら、いかにしたらこの世を住みやすくなるか考えてみたい。  

 

とかく人の世は住みにくい
会社、学校、アルバイト……生きている限り、人は何かしらのコミュニティに属します。ましてや他人との関わり合いを避けることはできません。しかし、君が自ら命を絶った海猫沢めろんさんの友人・K君のように、コミュニティに属することを苦とする人は少なくないはず。そんな人のための生き方を考えていきます。
「歪んだ鏡」は本当の自分を映さない
この章では、「自分は特別な人間だ」という自意識から自由になるにはどうすればいいのか、を考えましょう。ここでのキーワードは人間関係や社会とのつながり、つまりコミュニティです。
自意識も、健全なものは自己肯定力の源や、自由を獲得する力になり得ます。ですが問題は、「不自由な自意識」です。これは、自分と世間がうまくかみ合っていないときに生まれます。
他者の目や世間の評価を、自分の内面の声として受け取ってしまい、そのギャップに苦しむのです。これを寓話化した、みなさんも知っているお話があります。グリム童話にも収録されている『白雪姫』です。
ある王妃が魔法の鏡に向かって「世界でいちばん美しいのはだあれ?」と問いかけたところ、娘である「白雪姫」という答えが返ってきます。王妃はそのことに怒って、白雪姫を殺そうとするのです。
僕は、この王妃は、おそらくそれなりに美人だったのではないかと思います。なぜならそれまでは自分が「世界で一番美しい」なんて本気で信じていたわけですから。
その幻想を壊したのが魔法の鏡です。
これは一体なんなのでしょうか。僕は、魔法の鏡というのは王妃の自意識だと解釈しています。 ・・・  

 

とかくに人の世は住みにくいーー
三十歳の画工(絵描き)は、人の世の煩わしさから逃れるために旅に出ました。東京山の手から熊本へ。目的の那古井温泉へ行きつくには、峠を越えなければなりません。絵具箱を肩にかけ、山道を、一歩一歩踏みしめながら考えます。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
時代は、二十世紀の初め。日露戦争が始まったころ。空には雲雀が歌い、遠くの峰には山桜が棚引き、足元には蒲公英(たんぽぽ)が咲いています。
都会生活の人間関係に疲れちゃったのでしょう、たぶん。非人情の世界に身を置きたくて旅に出たようです。不人情ではなく、非人情。周囲がゴタゴタしても超然としていたい、そのためには、親しい人や利害関係のある人から離れなくちゃならんのです。途中、雨に降られ、ひたぶるに濡れて歩くわれの姿を、詩にもなる絵にもなるとうっとりするようなナルシストです。
立ち寄った茶店の婆さんに、那古井の宿の話を聞きました。宿は一軒しかなく、村の庄屋の隠居所のようなもの、戦争が始まってからは湯治の客もなくがらんとしているといいます。婆さんは、長良の乙女の伝説も物語ってくれました。二人の男に懸想され、どっちの男になびこうか迷ったあげく、淵川に身を投げて果ててしまったという乙女の悲話。那古井の宿には出戻りの嬢様がいて、長良の乙女と身の上がよく似ているというのです。
宿に着くと、しばらく泊り客がなく客室の掃除もしていないので、ふだん家の者が使っている部屋に泊まってくれという。そこは、出戻りの嬢様、那美の部屋でした。那美は、もし二人の男に思われたら二人とも情夫にしちゃうわ、というような女です。並の小説なら、出戻りの嬢様と抜き差しならぬ関係になって、手に手を取って山を越え……なんて展開になるのでしょうが、なんたってこれは、非人情の旅。愛だの恋だのどこ吹く風、劇的な事件はいっさい起きません。それでも宿の主人の若い甥(那美の従弟)が、日露の戦争に出征していくと聞いたときは、画工の心は激しく波立ちます。現実世界は、こんな山奥の村にまで迫っていることを思い知ったときでした。
主人公が画工なだけに、美しく目に浮かぶような自然の景観や情景の描写が随所にあり、読みながら何度も、ほーっとため息をつきました。  

 

とかくに人の世は住みにくい
この言葉は、夏目漱石の小説『草枕』の一節です。この小説<次の「 」内が引用で、( )内は送り仮名です)>には、「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と書いてあります。
私は、『草枕』のこの文章は学生の頃にかすかに読んだような記憶があるのですが、それは忘れてしまって、それよりも大阪時代の先輩が色々あった時に、たまにこの草枕の一節を何回も話されたことを鮮明に覚えています。特に、最後の方に力を入れて大阪弁風に「とにかく、人の世はな、住みにくいんよ」と。
それなりの年齢になっても、いつでもどこでも、いわないでいいことを言ってみたり、しないでいいことで失敗してばかりの私が大文豪である夏目先生の言葉を借りて何か人のためになるような話が出来る訳ありません。
ただ、私は全く逆の面から、この言葉は私のような者でも励ましてもらっているのかなあと思うことがあります。それは輝かしい経歴、日本近代文学を代表する作家と呼ばれるような人でも小説に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」と心境を吐露せずにはおられないような事柄が数多くあったのだなあと想像しました。
また、このような偉い方でも人の付き合いで様々なことがあり「とかくに人の世は住みにくい」と言わざるを得ないなら、私のような庶民なら色々と諸問題があっても当然で、むしろないのがおかしいと逆に思うようにしています。
私だけかどうかしりませんが、多くの方は日常できれば人の付き合いで波風立てずに、できれば平穏に誰とでも親しくしたいと思っておられると考えています。
しかし、何かの事柄が起こっても例えば仕事場で、あるいは住んでいる地域で、お互いに話せば今までの生きてきた環境、条件や感じ方の違いから、それこそ十人十色の意見でも対応でも違ってきます。ことと場合によっては「えー、なぜ何ですか?」と言い合ったりもして気まずい場面も出てしまいます。これらのことは、年齢に関係ないようにも思います。
その度に後になって「あの時はこう言えば良かった」とか思いながらも「あの人も日頃から言ってることとやっていることが違うじゃないか」などと様々な考えも巡ります。誰でもお互いに話しあえば何か目標や解決策も同じ方向を向いていても、そこに至る経過の中では様々あるのだなあと、いつも思います。このような時に、ふと浮かぶのが、今回のこの言葉でした。
ただし、夏目先生は『草枕』で続けて、「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」ともおしゃっておられます。
全て見通して「とかくに人の世は住みにくい」と書いておられるのです。色々あっても起こっても人の付き合いなのだと、言っておられるような気がします。  

 

とかくに人の世は住みにくい
「死ぬほど」と形容できるくらいの強い感情が、わたしの中にはふたつある。
一つめは、すきな人を好きだと想う気持ち。そしてもう一つは、この世に存在する虫たちに対する、たいへん激しい嫌忌である。
以前この記事でもちらりと書いたことがあるのだけれど、本当にほんとうに、ほんっっとうにそれはそれは虫が苦手。
キャーコワイ!みたいな、そんなかわいいやつではない。
むしろ他人に不快感を与えかねないレベルの過剰反応を叩き出し、場合によっては半狂乱に陥るほどに嫌いなんである。無理すぎるがゆえ誰よりもはやく発見してしまい、周りの人間を巻き込んだ経験も数知れず。
今から、本当にあった怖い話をします。
昨夜のこと。お風呂あがりに洗面所で髪を乾かしていると、テレビを見ていた恋人が静かにやってきた。
ドライヤーを止めたわたしに、こう告げる。
「多分、部屋にあなたが見てはいけないものが出たで」
すべての思考がフリーズした。
その言葉の意図するところを瞬時に理解するも、脳みそが受け入れを拒否してるみたい。言葉を発することも髪を乾かすことも忘れ、恋人が部屋に戻ったのちも数分間、わたしはその場で呆然と立ち尽くしていた。
外で見かけるのも相当嫌なのに、わたしの大好きなくつろぎの空間であるところに出現するなんて、ほんまにお願いやから、なんでもするからちょっとほんまに、勘弁して。
と、今更思ってももう遅い。底なしの絶望感が全身を駆け巡る。
わたしが部屋に戻ったあとの状況をかいつまんで説明すると、
・ひたすらに登場を怯える ・横切るのを見てしまう ・半狂乱になる ・泣きじゃくって怯える ・恋人が発見 ・恋人が退治 ・一安心するも、まだいるのではないかとなお怯える 
という感じであった。
冷静に思い返すと本当に、21歳としてどうかと思うくらい取り乱してしまったので、詳細は割愛させていただきたい。
普段は温厚な恋人だが、虫に関することとなると途端に容赦なく説いてくる。
わたしが虫をすごく嫌いなのはわかるけど、そこまでひどかったら日常生活困るやろうと。自分がいなかったらどうするのか。さわれなくてもせめて、スプレーで退治するくらいはできるようになってくれと言うのだ。
とっても厳しい話である。自分が情けなくて不甲斐なくて悔しくて、付き合ってから初めてなんじゃないかと思うくらい、わたしはめちゃくちゃ泣いた。
すでに日常生活に支障をきたしまくっているのだからそんなことはわたしにもわかっていて、でも本当に生理的にとても無理で、どうしたらいいのかわからない。
でも、恋人をこれ以上呆れさせるのはそれ以上に嫌である。
考えることだけは得意なので、わたしは一生けんめい考えた。
虫嫌いを克服する方法。生活していく上で、最低限の耐性をつける方法。
本当はググったら早いのだろうけど、いきなり画像とかが出てくるのが怖すぎてそれすらできない。なにせ、パッケージや教科書に出てくるイラストですら直視したくないレベルである。
ああ、なんて生きづらい世の中なんだろう!と、ついには世界のせいにしたわたしであったが、結論としてはそれが良かったのかもしれない。
とかくに人の世は住みにくい。
夏目漱石「草枕」の、あまりに有名な一文である。ふと浮かんだこのフレーズを検索してみると、青空文庫で読めるようになっていた。
恥ずかしながら未読であったため、冒頭部分を興味深く読んでみた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。
こんな情けない状況と心情をもってして、この文章にいたく感激する人間がいるとは、かの漱石先生もまさか想像しているまい。
虫は出るしゴミは出るし、天災は起こるし痴漢はいるし、悲惨な事件は絶えないし、ほんっとうにつくづく人の世は住みにくい。
そんなときこそ芸術が、人の心を豊かにしてくれるのである。逃避先があるからこそきちんと現実に向き合おうと思えるのだし、さらに逃避で得られたものは、この先も変わらぬ糧となりうるかもしれない。
つい先ほども、角田光代さんの旅エッセイが、G関連で荒んだ心を癒してくれたばかりである。つらい現実をしばし忘れ、異国を夢見るその時間が、今のわたしには確実に必要だった。
曰く「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界を目の当たりに写す」とのことだが、これをさらに発展させれば虫嫌い克服に繋がるのではないか?
わたしの場合、特に影響を受けやすいのが言葉である。というわけで、「万物を愛し、万物に感謝」的なものであるとか(それは多分無理だけど)、こう考えると結構気持ちが楽になるよ!わりとコミカルにやっていけるよ!
みたいな言葉に出逢う、あるいは自ら作り出すことによって、少しは嫌忌が薄れるのではないかという仮説。
殺さずに逃がしてやったというaikoのエピソードや、しげみさんが書いていたゴキブリに関する笑い話。
そんなものをいくら思い浮かべても、全然まったくだめだった。その程度じゃ、現実の破壊力には太刀打ちできないのだ。だから、もっと説得力のあるような、暗示にかかりやすいようなモノが必要なのである。
今のところ、わたしに思いついたのはそこまでだった。
必要最低限でいいから、苦手なモノを克服するのに効果的な方法。ご存知の方がいましたら、ぜひお知恵を拝借させてくださいませ………。めっちゃ見るとか触るとかいう荒療治は、極力避けたい所存でございます。
夏目漱石まで引っ張り出して、なんだかえらい壮大な話になってしまったが、要約すると
「なんとかして虫嫌いを克服したい」
この一文に尽きるのだった。うん、まとめたことで情けなさが際立ってしまったな。  
 
 

 

 

 
 

 

●「草枕」 夏目漱石

 

草枕
夏目漱石の小説。1906年(明治39年)に『新小説』に発表。「那古井温泉」(熊本県玉名市小天温泉がモデル)を舞台に、作者・漱石の言う「非人情」の世界を描いた作品である。
「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。」という一文に始まり、「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と続く冒頭部分が特に有名である。初期の名作と評価されている。
あらすじ
日露戦争のころ、30歳の洋画家である主人公が、山中の温泉宿に宿泊する。やがて宿の「若い奥様」の那美と知り合う。出戻りの彼女は、彼に「茫然たる事多時」と思わせる反面、「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」でもあった。そんな「非人情」な那美から、主人公は自分の画を描いてほしいと頼まれる。しかし、彼は彼女には「足りないところがある」と描かなかった。ある日、彼は那美と一緒に彼女の従兄弟(いとこ)で、再度満州の戦線へと徴集された久一の出発を見送りに駅まで行く。その時、ホームで偶然に「野武士」のような容貌をした、満州行きの為の「御金を(彼女に)貰いに来た」別れた夫と、那美は発車する汽車の窓ごしに瞬間見つめあった。そのとき那美の顔に浮かんだ「憐れ」を横で主人公はみてとり、感じて、「それだ、それだ、それが出れば画になりますよ」と「那美さんの肩を叩きながら小声に云う」という筋を背景に、漱石の芸術論を主人公の長い独白として織り交ぜながら、「久一」や「野武士(別れた夫)」の描写をとおして、戦死者が激増する現実、戦争のもたらすメリット、その様な戦争を生み出す西欧文化、それに対して、夏にまで鳴く山村の鶯(ウグイス)、田舎の人々との他愛のない会話などをとおして、東洋の芸術や文学について論じ漱石の感じる西欧化の波間の中の日本人がつづられている。また、漱石がこだわった「探偵」や「胃病」が脈絡無くキーワードとしてでる。
芸術論
「西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場(かんこうば)にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。」 「うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。…超然と出世間的(しゅっせけんてき)に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏(ひとりゆうこうのうちにざし)、弾琴復長嘯(きんをだんじてまたちょうしょうす)、深林人不知(しんりんひとしらず)、明月来相照(めいげつきたりてあいてらす)。ただ二十字のうちに優に別乾坤(べつけんこん)を建立(こんりゅう)している。…汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、全てを忘却してぐっすり寝込む様な功徳である。」と芸術を東洋(中国や日本)の自然の中の人間と西洋の人の中の人間としてそれを対比している。
"The Three-Cornered World" は、アラン・ターニー (Alan Turney) が草枕の英訳に付けた題名である。ターニーは序文で「直訳すると The Grass Pillow になるがそれでは意味をなさない為この作品のテーマと考えられる一部分を題名にした」といった意味の事を書いている。これは「三」にある「して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」を踏まえたものである。
日本の近代化(西洋文明の摂取)について
「二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛(うか)べてこの桃源に溯るものはないようだ。余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。」と批判している。
制作時期
関係者への書簡から、詳しい制作時期が判明している。1906年(明治39年)7月26日に執筆開始。同年8月9日脱稿。「吾輩は猫である」の脱稿から10日後に執筆を開始し、完成したのはその2週間後であった。
熊本で英語教師をしていた漱石は、1897年(明治30年)の大晦日に、友人であった山川信次郎とともに熊本の小天温泉に出かけ、そのときの体験をもとに『草枕』を執筆した。作品の中で登場する「峠の茶屋」は、熊本市街から小天温泉に至る途中の道にあったと考えられており、この当時にあった「鳥越(とりごえ)の峠」もしくは、「野出(のいで)の峠」にあった茶屋が、そのモデルであるとされる。現在の鳥越の峠には1989年(平成元年)に当時あった茶屋を復元したものが建てられており、園内に漱石の句碑が建てられている。また、当時の茶屋は現存していないが、野出の峠のほうにも茶屋跡の碑と漱石の句碑がある。
草枕
山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職できて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。・・・  

 

『草枕』の内容
夏目漱石が、1906年に「新小説」に発表した本作。1907年には「鶉籠(うずらかご)」にも収録されました。現在ではさまざまな出版社から販売されており、岩波書店が発行する岩波文庫版のものや、角川文庫が発行したものなどがあります。漱石が書いた文体は少し古く読みにくいと思われていますが、最近では、現代語訳も出ているので誰でも手に取りやすくなりました。本作の執筆当時、漱石は熊本で英語教師をしていました。1897年に、友人であった山川信次郎とともに小天温泉という温泉行った際の体験をもとにして書かれた小説が本作です。
本作といえば、この書き出しが有名です。
「山路を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
一生懸命働けば角が立つし、情にも流される。そして、意地を通せば窮屈になる。とにかく、この世は生きにくいというのです。
その後、この文章は次のように続きます。
「住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画えが出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
人の世界というのは生きにくいが、芸術の世界は心を豊かにすることができる。だからこそ尊いといっています。このように、本作のなかで、主人公が芸術に心酔している様子を伺い知ることができます。漱石が書いたさまざまな小説のなかでも、彼の道徳観を知ることができる作品となっているのです。
夏目漱石は大学時代に正岡子規と出会い、多くの俳句を学びました。帝国大学(現在の東京大学)の英文科を卒業。その後は松山で中学校の教師を務め、熊本では高等学校の教師を務めます。そして、イギリスへと留学しました。
イギリスから帰国した後は、大学の講師として英文学を講じながら『吾輩は猫である』を発表し、それが大変な評判となります。続いて発表した『ぼっちゃん』や『倫敦塔』などの作品で、人気作家の仲間入りを果たすことになるのです。
彼の作品は、人生をゆったりと眺めようとする傾向が色濃く反映されていたことから、余裕派と呼ばれるようになりました。
しかし1910年、『三四郎』『それから』に続く『門』を執筆している最中、彼は胃潰瘍で倒れて入院します。退院後、修善寺の菊屋旅館で療養しますがそこで胃疾になってしまい、800gにもおよぶ大吐血を起こし、生死の境を彷徨う危篤状態に陥ってしまうのです。
病気に悩まされながら、その後も『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』といった作品を次々に発表しましたが、1916年、自室で『明暗』を執筆している最中に倒れ、自宅で死去しました。
『草枕』の登場人物
本作では、主人公の名前は最後まで登場しません。作中では、主人公は自分のことを「余」と呼んでいます。日露戦争の頃に洋画家をしていた30歳の主人公が、とある温泉宿に宿泊した際、その旅館の若い女将であった「那美」と出会います。この2人が、本作の主な登場人物です。
登場人物ではありませんが、有名な絵も登場します。それがミレーが描いた『オフィーリア』です。主人公にとってこの作品は、「あのような絵を自分の持ち味で描いてみたい」と思い浮かべる存在となっていて、作品の重要な役割を果たしています。
『オフィーリア』は、シェイクスピアの『ハムレット』に登場するヒロインとして、世界的に有名な作品です。彼女は『シェイクスピア』の主人公であるハムレットの恋人です。復讐に身を焼かれたハムレットに無下に扱われたあげく、父も殺されてしまい、錯乱して川に落ち、溺死して最後を遂げます。
ミレーが描いたこの画は、川に落ちて溺死していく彼女の姿を描いたものなのです。
その他の登場人物として、作品の中で重要な役割を担っているのは、野武士のような男です。この男と那美が会っている場面を、主人公は目撃してしまいます。
本作は漱石の芸術観が、主人公の長い独白として織り交ぜられた作品です。漱石は本作の登場人物を描写することをとおして、戦争で増えていく戦死者や、その戦争によって発生するメリット、さらにそのような戦争を生み出す西欧文化を明確に描き出しました。
それと対比するように、夏にまで鳴く山村のうぐいす、田舎の人々との日常的な会話などを通じ、東洋の芸術や文学について論じています。このことによって、彼が感じていた日本の西欧化の波間のなかで生きる日本人を描き出したことが、文学作品として高く評価されています。
夏目漱石の世界観!「非人情」と「憐れ」
彼は数々の作品を発表していますが、本作が発表された明治39年は、彼が40歳の頃。『猫』『坊ちゃん』を発表して文壇に認められ、朝日新聞のお抱え作家として出発する直前の作品として位置づけられています。
そんな頃に書かれた本作について、彼自身は次のように語っています。
私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とはまったく反対の意味で書いたのである。唯一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロツトも無ければ、事件の発展もない。
つまり小説として重要なプロットもなければ、事件の展開もほとんど無いのです。では読者にとって、本作にはどんな魅力があるのでしょうか?
本作は、ある画家が俗世間に嫌気がさして、九州の山奥の温泉場にやってくるところから始まります。彼は対象にとらわれない非人情の目で世の中を見ようと心がけながら、宿泊先である温泉場の一軒宿の出戻り娘・那美に興味を持つのです。
ここで主人公は、彼女に絵を書いてほしいと頼まれますが、「何かがかけている」と感じられたことから、絵を描くことを断ります。主人公には、このとき、彼女に何が欠けているのかはわかりませんでした。
しかし物語の最後で、彼は女の表情に「憐れ」を感じられなかったから、彼女を絵にできなかったことに気づきます。つまり、漱石は憐れを描くことこそが、究極の芸術(小説)であると考えていたのです。
そして物語の途中、次のような一節が出てきます。ここは、主人公が那美と話をしている場面です。
「全くです。画工だから、小説なんか初から仕舞迄読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留して居るうちは毎日話をしたい位です。なんならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。然しいくらい惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初から仕舞迄読む必要があるんです」 「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」 「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいゝんです。かうして、御籤(おみくじ)を引くように、ぱつと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
このなかには芸術に対する姿勢のみならず、主人公の自然や物事に対する態度、つまりは、漱石自身の芸術に対する姿勢が示されています。
そのため本作を読者が楽しむための、最も重要なポイントは、彼の芸術観がどのようなものであるのかを考えながら読んでいくことになるのです。読者は、主人公が登場人物を通じて出会うことになる憐れについて、主人公がそれをどのように実践していくのかという点に興味を持ちながら本作を読み進めることが重要となるのではないでしょうか。  
 
 

 

 

 
 

 

●「草枕」 あらすじ  

 

●草枕
主要登場人物
余(よ) / 物語の語り手。 画家。
那美(なみ) / 結婚生活が破綻した後に実家に戻る。
志保田(しほだ) / 那美の父。温泉宿の主人。
久一(きゅういち) / 那美のいとこ。
野武士(のぶし) / 那美の元夫。 本名は不明。
あらすじ
各地を渡り歩いて自由気ままに絵を描いていた「余」が立ち寄ったのは、豊かな自然に恵まれた温泉地・那古井です。町にはたった1軒の温泉宿しかありませんが、心のこもったおもてなしと泉質の優れた温泉でリフレッシュしていきます。宿屋の主人の娘に当たる美しい女性・那美との交流を深めていくうちに、彼女に隠された過去を知ることになるのでした。
【起】 さすらいの絵描きと出戻りの美女
30歳になった今でも放浪を続けながら絵を描いている余は、ある時に山をこえた先にある那古井の温泉街にたどり着きました。
途中で雨に降られたために通りすがりの馬方に休憩場所を尋ねると、4キロほど先にある茶屋を紹介されます。
しばらくこの地に滞在することにしましたが、宿屋は志保田という人物が経営している1軒しかありません。
先ほどの馬方は源兵衛と名乗って、志保田一家とも前々から付き合いがあり余を宿まで案内してくれるようです。
道中で余は源兵衛から、志保田の娘・那美にまつわる身の上話を聞かされました。
5年前の那美の嫁入りの時に源兵衛が美しく着飾った彼女を馬に乗せて運んだこと、結婚相手は地元の城下町でも屈指のお金持ちであること、日露戦争によって夫の勤めている銀行が破綻したために現在は実家に出戻っていること。
余が初めて那美の姿を目撃したのは、宿に到着して早々と休んだ次の日の朝1番にお風呂に入っていた時のことです。
【承】 美しくも何かが足りない彼女
ろくに体を拭かないままで風呂場の扉を開けると、目の前には見知らぬ若い女性が立っていました。
「昨日はよく眠れましたか」と何事もなかったかのように背中に着物をかけてくれて、初対面の男の裸にも動じる事はありません。
うりざね顔に富士額の整った顔立ちは、絵にしたらさぞかし美しいことでしょう。
その一方では彼女の顔の中に、何かひとつ欠けているものを感じてしまいます。
那美は日中は針仕事をしたり、三味線を弾いたりと家の中で静かな暮らしを送っているようです。
2階建ての家屋に地下は作られていて温泉大浴場と家の中はずいぶんと広いようでしたが、お客さんは余を除いては見当たりません。
焼き魚に海老のお吸い物と朝食のメニューも豪華でしたが、那美ではなく年配のお手伝いさんが食事を部屋まで運んできました。
気の向くままに温泉に入ったり、目に止まった風景をスケッチしたりと居心地は快適です。
那美と会話を交わすチャンスを伺っていた余でしたが、思いの外彼女の方から客室まで訪ねてきます。
【転】 長良の乙女の伝説と那美の密会
部屋に戻った余が洋書を読んでいると、那美は誘われるままに中へと入ってきました。
今朝の湯上がりに手渡された着物のお礼をすると、那美からはご褒美として自分の絵を描いて欲しい頼まれます。
那美が見投げをした末に往生して水面に浮いているという、何とも不思議な構図の絵がお望みのようです。
戸惑いながらも余は、かつてふたりの男性に愛された果てに自らの生命を絶ったという、 長良の乙女の墓を見に行くことにしました。
山里を500メートルほど東へ下ると淵川という川が見えてきて、道端には長良の乙女を弔う建造物が見えてきます。
草むらに寝転がりながらスケッチブックに詩を書き付けていた余が見たのは、素足にげたを履いて野性的なひげを蓄えた野武士のような男です。
野武士は人目を気にしながら、どこからともなく現れた那美から財布を受け取ります。
野武士が立ち去った後に何食わぬ顔で那美と合流しましたが、那美は余が盗み見をしていたことをお見通しでした。
彼こそは那美を離縁した男であり、満州に渡る前の最後のあいさつに来た次第です。
【結】 この瞬間をキャンバスに焼き付ける
この温泉宿に来てから長いことになりましたが、余はいまだに那美と約束した絵を完成させていません。
それは人間にとって最も大切な 「あわれ」 の感情が、 彼女の表情の中からは抜け落ちているからです。
ある時に那美のいとこに当たる久一という青年の出征が決まったために、みんなで一緒に吉田の駅まで見送ることになりました。
荷物を運ぶのはいつものように源兵衛の役割で、余は単なる付き添いに過ぎません。
切符は前もって購入してあるために、駅の構内にある茶店でよもぎ餅を食べながらお茶を飲んだりとリラックスした様子です。
ベルが鳴って乗客が並び始めた頃に、ようやくプラットホームに出た一向は久一と言葉を交わしながら最後の時間を惜しみます。
列車が走り去る瞬間に余が目撃したのは、最後列の三等列車の車内から身を乗り出して那美の姿を探し回る野武士です。
野武士と一瞬だけ視線を交錯させた那美の顔に、余は初めて「あわれ」を見い出すのでした。
読んだ感想
30歳を迎えても自分の好きな風景や人物だけを描き続けて、洋画家としての社会的な成功を追い求めることのないストイックな主人公には共感できました。
偶然にも旅の途中でめぐり会った那美の、美しくもどこか危うい立ち振る舞いも忘れがたいです。
初めて顔を合わせたのが温泉の脱衣所で、那美よりも主人公の方がドギマギしてしまうシーンには心温まるものがありました。
那美と主人公が戦地に赴く久一を見送る停留所のシーンに登場する、「汽車ほど20世紀の文明を代表するものはあるまい」というセリフが印象深かったです。
人の群れが同じ顔で巨大な鉄の塊に乗り込んでいく様子に、著者はある種の不気味さを抱いていたのでしょう。  

 

●「草枕」
物語は、主人公がこの世は住みにくいが、かといって引っ越すところもないと憂いている場面から始まります。
芸術と人生を思う旅
日露戦争の頃、三十歳の画家である主人公は、芸術についての思いを巡らせながら山道を歩きます。途中で雨が降ってきたため、道中の茶屋に入って一休みすることに。主人公はその店の老婆に、ここから一厘ほど先の志保田屋という温泉宿に宿泊するというと、老婆は嫁入りしていった娘の話をしだします。その娘には想い人がいましたが、親の意向で金持ちの男の家に嫁がされたとのことでした。しかし、日露戦争で旦那の会社が潰れてしまい、現在は実家である宿へ戻って来ているのだといいます。老婆は娘についていろいろな話をしてくれましたが、これ以上聞くとせっかくの趣向が壊れると思い、挨拶を交わしてその茶屋をあとにしました。
温泉宿の娘との出会い
志保田屋に着き、やがて主人公は美しい娘、那美と出会います。那美は主人公が今まで見た中で、一番美しい所作をする女性でした。彼が部屋を出ている間に、途中まで書かれていた詩の続きを書き足しているなど、主人公は彼女にとても興味を惹かれるようになります。ある時、那美から近くにあるという鏡が池の話を聞きます。そして、近々その池に身を投げるかもしれないので、その様子を絵に描いて欲しいと頼まれます。主人公はその言葉に翻弄されながらも、彼女には何か足りないものがあると思い、その絵を描かずにいました。
満州へ向かう二人の人物
ある日、主人公は那美が野武士のような男と会っているのを偶然見かけます。その男は那美の元夫で、彼女に金を貰いに来ていたのです。務めていた銀行がなくなり貧しくなった彼は、日本で暮らすことができなくなったため、近いうちに満州へ渡るのだといいます。その帰り道、主人公は那美に誘われて彼女の従兄弟である久一に会いに行きます。そこで久一が、満州の戦へ徴集されたことを知ります。
足りなかったものに気づく主人公
主人公と那美たちは、久一の満州行きを見送るために駅のホームに来ていました。出発した列車から顔を出すのは、久一ともう一人、那美の元夫の男でした。その男と顔を合わせ、呆然とした表情を浮かべる那美を見た主人公は、その憐れさが絵を描くのには足りなかったのだと気づきます。思わず那美に「それだ」と声を掛けます。そしてついに、主人公の胸中の画面が完成したのでした。  

 

●「草枕」
草枕とは
1906年の小説「草枕」。
夏目漱石の中・長編小説としては、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」に続く作品で、全13章から成ります。
冒頭の「山路を登りながら、こう考えた。」で始まり、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と続く部分は有名ですね。
この冒頭部分の意味は、知識を披露すれば煙たがられる、感情に熱くなれば何もできなくなる、意地を張れば疲れてしまう…だから、とにかく現代社会は住みにくい。といった感じだと思います。
作中では、主人公の画家の男性が東京から熊本へ「非人情」の旅を行い、旅先での出会いや出来事、彼の感じたことや思ったことが綴られます。
「非人情」とは、薄情とか冷淡ではなく、普段の生活から離れる、俗世間から離れるといった意味になると思います。
作者の前2作は ぐうたらな猫や無鉄砲な坊っちゃんが文句ばかり言う作品でしたけど、今作はインテリの東京人が田舎でウンチクを(主に心の中で)語りまくる作品になっています。
あらすじ
1章
画家風の30才男性。俗世間から離れるため旅の途中。物思いにふけりながら目的地を目指していたが、道中、雨が降ってきて通りかかった馬子に休む場所を聞いたところ、茶屋があることを教えてもらう。
2章
雨宿りのため茶屋へ。店主のお婆さんによると、目的地の那古井にある温泉宿は志保田という人がやっている一軒だけ。そこの娘さんは結婚した時、振袖姿でこの茶屋の前を通った。その振袖姿を見てみたいと言ったら、お婆さんは娘さんに頼んでみたらと言う。ただ、娘さんにとっては望まない結婚で、さらに旦那が失業したこともあり離婚。今は嫁ぎ先から戻っており、薄情だ何だと色々な悪い噂を立てられているそうだ。そんな娘さんに興味を持ち、宿を出る。
3章
夜、那古井の温泉宿に着く。寝ている時、女の声を聞き、女の姿を見るという不思議な体験をする。それが夢か現実かわからない。朝、風呂から出た時に美しい女性に会う
4章
朝出会った女性のことを女中に聞くと、若い奥さん(=宿の旦那の娘さん)だと言う。今使っている部屋は、普段はその若い奥さんが使っている部屋だった。そして部屋に若い奥さんがやってくる。彼女は茶屋で話に聞いた志保田の娘さんで、昨夜部屋で見たのも、夢ではなく現実の彼女だった。
5章
散髪屋で店主に志保田の娘さんの話を聞く。彼女は、主人が失業して贅沢ができなくなったから、離婚して戻ってきた悪い女だと言う。宿泊中の宿は分家で、岡の上にある本家には、彼女と仲の悪い兄がいるらしい。
6章
夕暮れ、宿の部屋で物思いにふけっていると、志保田の娘さんが以前茶屋で見たいと言った振袖姿で現れ、目を奪われる。
7章
宿で風呂に入っていると、だれか入ってきた。なんと志保田の娘さんだ! 湯けむり越しのその姿に、しばし目を奪われるが、彼女はホホホと笑いながら出ていった。
8章
隠居している宿屋の旦那(志保田の娘さんの父)に茶を馳走になる。娘さんの知り合いである観音寺の和尚・大徹と娘さんの従弟・久一も一緒で、久一は数日後出征するそうだ。娘さんの名前が那美だと分かる。
9章
宿の部屋で那美さんと会話。振袖姿のことや風呂場でのことも話す。彼女に鏡が池で身投げして浮いているところを画に描いてくれと言われ驚く。
10章
鏡が池に来る。そこで、那古井へ来た時に雨中で出会った馬子の源兵衛に会う。彼から志保田家にまつわる話を聞く。
11章
たまたま足が向いた観海寺で、大徹和尚と話をする。
12章
那美さんが男に財布を渡しているところを偶然目撃。那美さんに見つかり、あれは私の元亭主だと言われ驚く。那美さんから、あなたはここに来てからまだ画を一枚も描いていないと指摘される。その後、那美さんと一緒に彼女の兄の家(本家)に行き、那美さんが久一に餞別の短刀を渡す。
13章
志保田家の面々と一緒に、出征する久一を見送るため駅に。久一を乗せた汽車がいよいよ出発する時、同じ汽車に那美さんの元亭主も乗っていることに気づく。元亭主と目が合った那美さんは茫然として、これまで見せたことのない「憐れ」な表情を見せる。その那美さんの表情を見て、ようやく画になるものを見つけるのだった。
感想
主人公の画家の、周囲の人や世の中、さらには芸術に対する考え方が綴られていて、文章の美しさを感じました。芸術論や詩歌(俳句・漢詩)がたくさん出てきて、正直、全ての内容は理解できませんけど、全部ちゃんと読めば賢くなった気分になれますよ。内容が面白いという作品ではないかな?主人公や周囲の人に特別な何かが起こるわけではなく、主人公とヒロインの那美さんの間にロマンスが起こるわけでもないので。まぁ那美さんの突拍子もない行動は色々と面白いですけど。そんな今作最大の見どころは、何といっても主人公と那美さんがお風呂場でばったり会うシーンです!間違いありません。何の前触れもなく、突然この場面がやってくるので、思わず二度読み、三度読みをしてしまうはず。しかもこれ、作者の実体験が元ということで、うらやましいですね〜。
草枕ゆかりの地
草枕は、作者が熊本で英語教師をしていた時に、岳林寺(熊本市島崎)から小水温泉(天水町)まで、山越えをして向かった経験を元にして執筆されたと言われています。作者が歩いた道や利用した温泉宿は現在、「草枕ハイキングコース」や「草枕の里」として整備されています。「草枕ハイキングコース」は、作者が歩いた岳林寺→草枕の里(全長15.8km)を辿っていける、以下のようなコースです。
岳林寺…漱石が天水町の温泉地に向けて出発した地点
→鎌研坂…冒頭「山路を登りながら、こう考えた」の山路
→鳥越峠・復元茶屋…主人公が利用した茶屋を復元
→金峰山…この山を越えて天水町へ
→石畳の道…当時の面影を残す道
→野出峠・茶屋跡…主人公が利用した茶屋の跡地
→草枕の里…目的地で小説の舞台
道中は案内板が立ててあるので、草枕の舞台となった場所をそのまま巡っていくことができます。物語中の名所も出てきますし、漱石もここを歩いたはず!と思えば、歩きがいもありますよね〜。
「草枕の里」は、漱石が宿泊した宿で物語の舞台でもある「前田家別邸(漱石館)」や、「草枕交流館」「草枕温泉てんすい」などが整備されている草枕の観光地です。「草枕の里」のすぐそばには、天水町もう一つの小天温泉「那古井館」があります。  

 

●「草枕」
日露戦争の時代、世の中に生きづらさを感じている30歳の画家は、一人、物思いにふけりながら田舎道を旅していました。
その途中に立ち寄った茶屋で、画家はこの土地の伝説「長良の乙女」の話を聞かされます。
さらに茶屋のお婆さんは、この先にある温泉宿「志保田」の娘が、まるで「長良の乙女」のようだと言い、画家はその娘に興味を持ちます。
「志保田」に到着した画家は、茶屋で聞いた娘、那美と出会います。
那美は望まない結婚した後、旦那の勤め先の倒産が原因で離婚しており、周囲から「薄情だ」などと、悪い噂を立てられていました。
美しいが風変わりな言動をする那美に戸惑いながらも、画家はますます関心を深めて行きます。
ある日、画家は那美から自分の絵を描いて欲しいと頼まれます。
しかし、「那美には何かが足りない」と感じた画家は、絵を描かずにいました。
果たして、那美に足りないものとは一体?
そして画家は那美の絵を描く事が出来るのでしょうか?
山里の自然と、そこに住む人々との触れ合いを通して、画家の美学が繰り広げられて行きます。
「草枕」の登場人物
余 / 東京出身の洋画家、30歳。本名は不明
那美 / 温泉宿「志保田」の美しい娘。出戻り
久一 / 那美の甥。日露戦争への出征が決まっている
野武士 / 那美の別れた夫  

 

●夏目漱石『草枕』
芥川賞を受賞した朝吹真理子の『きことわ』という作品があります。ストーリーよりも流れるような文章が印象的な小説です。その『きことわ』のコメント欄で、ともすけさんと少しやりとりがあって、エンタメ小説と文学との違い、そして文学に「筋」は必要かどうか、ということが話題になりました。そうしたテーマについてはここでは詳しく触れませんけども、そのやりとりの中であがってきたのが、この『草枕』です。いわゆる「筋」がない小説なのではないかと。そこで早速読み返してみました。
『草枕』というのは、以前読んだ時はすごく難解に感じたんです。それから泉鏡花の小説に似たおどろおどろしさのようなものも。どちらの印象も間違ってはいなかったですが、『草枕』は想像していたよりもずっと面白かったです。
昔は難解だと思っていた部分もわりと楽しめました。その難解さについては、後から細かく触れていきます。
『草枕』はたしかに「筋」のない小説の印象があるかもしれません。でもこの物語の構造自体は夏目漱石の他の小説とも類似していて、とりわけ「筋」がないとも言えないと思います。あるいは夏目漱石の小説全体に「筋」があまりないとも言えます。
『草枕』がどういう話かを簡単に言うと、1人の青年が山奥に行くんです。画家なので、絵を描きに。温泉のある宿に泊まる。お客はその青年だけです。その宿には出戻りの女がいます。青年とその女との不思議な関係を描いた小説です。
それは決して性的な関係ではなくて、青年の芸術論と関わってきます。つまり青年はずっと女のことがつかめないんですね。ずっと女が演技をしているように感じるんです。絵に描こうとしても描けない。
その女の中身というか本質というか、そういうものをつかもうとする話でもないんですが、まあその女の印象をつかめるのか、つかむとしたらどういう風につかむのか、ということに注目して読んでみてください。
この小説の〈筋〉のなさと言われるであろう部分とこの小説の難解さとは、大きく関わってきます。芸術論が書かれる部分は難解で、出来事の描写ではなく考えが書かれるわけですから、学術書に近い部分があります。
『草枕』は読みやすい部分と読みにくい部分にはっきり分かれます。読みやすい部分は会話の部分です。女との会話、和尚さんとの会話はコミカルかつユーモラスで楽しいです。
女と青年画家との会話はたとえばこんな感じです。女が話しかけるところから会話が始まっています。
   
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるんでしょうね」
「なあに」
「じゃあ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分からないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。只机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「何故?」
「何故って、小説なんか、そうして読む方が面白いです」(112ページ)
   
どうですか、ユーモラスでしょう? もし夏目漱石を難しいだろうなあと思って敬遠している方がいらっしゃったら、もったいないです。夏目漱石の小説はすごく面白いんですよ。文体はまあともかく、内容としてはさほど難しくはありません。ただ、深く読み込んでいける作家ではあります。
そうした会話の部分はやさしい一方で、読みづらく、難解さのある部分があります。これはもうはっきり分かれていて、つまり青年画家の1人称である〈余〉が1人で考えている部分です。
〈余〉は絵画を描こうとするのみならず、詩も作ろうとします。特に漢詩です。つまりそうした芸術全般、絵画や詩歌を作るためのなにか、モチーフというか、発想というかそうしたものをぐっとつかもうとしているわけです。そうしたものをつかめれば、もう芸術は成ったと同じことなわけです。
この〈余〉は絵を描くために山奥に行きますが、全然絵は描かないんです。ぷらぷらしているだけです。でもそれでいいんですね。イメージをとらえられればそれでいいわけです。〈余〉は画題として風景などをとらえようとしますが、その1つとして、女が出てくるわけです。
つまりこの小説は、女がメインではなくて、そうした芸術論の方がメインです。芸術論があって、風景など画題の中に女がいるという感じ。
〈余〉の考える芸術論についてはあまり深入りしませんが、海外の絵画や詩歌が頻繁に出てきます。この辺りは注を参照にして乗り切ってください。海外の色と日本の色は違うから、自ずから芸術は異なってくると考えたりもします。
この辺りの〈余〉が考えている部分の文体は、漢詩が多く引かれることもありますが、漢語というか、分かりやすく言えば二字熟語が多く使われていて、なかなかの読みづらさです。ぼくもほとんど分からない熟語が多かったです。新潮文庫だと注が丁寧についているので、確認しながらじっくり読んでみてください。
まあ難しいようでしたら、〈余〉の考えは、ある程度飛ばしながらでも大丈夫です。会話文が出てくるまでがんばってください。
ただ漢語のようなものは、調べてみるとすごく面白いです。たとえばこんな言葉が出てきます。「蜀犬日に吠え、呉牛月に喘ぐ」(146ページ)という言葉。『三国志演義』などが好きな方は多少ピンとくると思いますが、「蜀」という国の犬と「呉」という国の牛の話です。
短いながらもエピソードのようなものがあって、それが意味を持ってくるんですけど、興味のある方は『草枕』を読むか、調べるかしてみてください。そうした諺みたいなのを知っていく面白さが漢語にはあります。
注を見るだけではなくて、「こういう漢字の組み合わせだからこういう意味になるんだ」と納得しながらやっていくと、すごくいいと思います。
ここらで軽くまとめてみます。〈余〉が1人で考えている芸術論の部分は難解さがあります。内容としてもそうですし、文体として漢語が多く使われていること、漢詩などの引用が難解さに繋がっています。注を頼りに乗り切ってください。できれば楽しめるといいですね。
一方で、会話文はユーモラスで読みやすいです。そして単純に読める奥に深みがあります。どういうことかというと、女がどういう女かをみんなはそれぞれ言います。少しおかしいとか、立派な人だとか。それはすべてその人の語る女であって、女が本当はどんな女なのか、それは最後までよく分からないわけです。
夏目漱石にはそうした読みやすさと謎のようなものを兼ね備えた作家なんですよ。
あらすじ
書き出しは、日本文学屈指の名文です。みなさんもきっとどこかで聞いたことがあるのではないかと思います。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
まあそういって、山道を歩いていくんです。色々芸術論を考えながら。温泉宿に泊まります。この辺りから泉鏡花の『高野聖』のようなおどろおどろしさが出てきて、物語のバックグラウンドに怖ろしいイメージが流れ始めます。
人々から色んな話を聞くんです。「長良の乙女」という2人の男に求婚され、投身自殺をした女の話。実際にあった投身自殺の話。ミレイのオフィーリアの絵。オフィーリアというのは、『ハムレット』のヒロインです。ミレイという画家に有名な絵があるんです。
こうした〈死〉のイメージが重なりあって、鬱蒼としたその山奥が、冥界のような一種独特な空気を醸し出しています。そして、そこで出会った女。もうそれだけでただものではない雰囲気ですよね。一体なにものなんだろうと。
風呂場で〈余〉は謎の女と出会います。ここは難解な文章かもしれませんが、すごくいいです。こうした文体でしか書けないものですね。折角なので引用しておきます。
「黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞絨の如く柔かと見えて、足音を証にこれを律すれば、動かぬと評しても差支ない。が輪郭は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格に就いては、存外視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中に在る事を覚った。注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。漲ぎり渡る湯烟の、やわらかな光線を一分子毎に含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漂わす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈を、すらりと伸した女の姿を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のと云う感じは悉く、わが脳裏を去って、只ひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。」
この謎めいた女の正体は、しばらく夢かうつつかというような感じで描かれます。物語が進むにつれ、段々実体を持ったものになっていって、人々は色々この女について語ります。でもそれは女の本質にはたどり着かないんですね。
〈余〉は女の行動を演技じみたものに感じたりもします。自分が身投げして浮かんでいるところを絵に描いてくれと言い、びっくりした〈余〉に「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」(123ページ)と言う女。ある時、短刀を持っているところに出くわしたりします。なぜ女は短刀を持っていたのか?
〈余〉は山奥で芸術について考えを深めます。女だけが重要ではなく、景色なども重要です。特に椿をめぐる描写は、すごく生々しくて、鮮烈かつ幻想的なイメージを持っています。ここはちょっとすごいですね。長いので引用はしませんが、126ページくらいのところです。ぽとりと落ちる椿が魂のイメージと重なり、その赤い色は血のイメージと重なっていくんです。
果たして〈余〉の思う芸術は完成するのか?
とまあそんなお話です。固い芸術論の中に、おどろおどろしい雰囲気の山奥、謎めいた女が組み込まれています。読みにくさと読みやすさを同時に兼ね備えた小説です。
分かりやすいと同時に分かりづらい小説。〈余〉と女の関係を描いた小説ではなく、ひたすら〈余〉の中の芸術の話です。その辺りが〈筋〉がないと言われる由縁だろうと思います。  

 

●草枕
30歳の青年画家が、詩を求めて旅に出ています。出会う人たちを、自然の点景と認識し、能の仕組みや能役者たちの所作に見立て、美が美ではないかを鑑識することに決めました。青年は、そのような流儀を「非人情の旅」と名づけます。
青年は、茶屋で一休みをしました。茶屋の老婆と、源兵衛の話を耳にし、「那古井の嬢様」と「長良の乙女」のことを知ります。「那古井の嬢様」は、京都に好いた人がいましたが親が決めた城下の富豪の男へいったんは嫁ぎましたが、日露戦争の影響で男の勤め先の銀行がつぶれ実家に戻っているようです。源兵衛は、「那古井の嬢様」の城下への輿入れの時に「那古井の嬢様」が乗った馬を引いたそうです。また、「長良の乙女」は伝承の女性で、2人の男から想われて、どちらとも決めることができず、川へ身を投げたそうです。青年は、那古井へ向かいます。
那古井の志保田という宿屋に泊まることにした青年は、夜具の中で句を書きました。青年は、部屋を出ている間に、書き置いておいた句に下の句を書き足した宿のお嬢様・那美に会い、ひかれていきます。しかし、ひかれるといっても、非人情の旅ですので、心を通わせるような交流ではなく、観察しようとします。
青年は、床屋で理髪をしながら主人から志保田の出戻り娘は精神に異常をきたしているという話を聞いたり、那美が通っているという観音寺の住職・大徹に話を聞きに行ったり、観音寺の裏の谷を越えた先にある、先代の志保田のお嬢様が身を投げたという鏡が池へ行き「筒袖(つつそで)を着た男」に会ったりします。
那美は、思索にふける青年の部屋から見える縁側に振り袖姿で出現したり、風呂場から出た青年を待ち構えていたり、「御勉強ですか」と言って青年の部屋を訪れたりします。振り袖姿を見せたのは「山越えをなさった画の先生が、茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います」などと、青年が返事に窮することを口にしては、「ホホホホ」と笑います。また、近々身を投げるかもしれないのでその様子をきれいな絵に描いてくれなどとも告げ、青年を翻弄します。
青年は、あてもなく、野山を歩いている時に、那美が、野武士のような男と会っている姿を見かけます。那美から直接、男は那美の元夫で満州に行くことになり、那美に金をもらいに着たことを告げられます。青年は、那美に誘われて、那美の兄の家に立ち寄ります。
青年は、那美、那美の兄、那美の兄の家の老人、荷物を引く源兵衛と共に、出征する那美の兄の家の久一を、「吉田の停車場(ステーション)」まで見送りに行きます。汽車が走り始め、最後の車両が見送りの一行の前を通る時、那美が「名残惜しげに首を出した」野武士と、思わず顔を合わせた場面を目の当たりにしました。野武士の顔はすぐに消えて、那美は茫然として汽車を見送っています。「その茫然のうちには不思議にも今までかつて見たことのない『憐(あわ)れ』が一面に浮いているといい、「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と那美の肩たたき、「余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就したのである」との一文で、『草枕』は完結します。  
 
 

 

 

 
 

 

●「草枕」

 

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
智ちに働けば角かどが立つ。情じょうに棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画えが出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするが故ゆえに尊たっとい。
住みにくき世から、住みにくき煩わずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画えである。あるは音楽と彫刻である。こまかに云いえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧わく。着想を紙に落さぬとも※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)鏘きゅうそうの音おんは胸裏きょうりに起おこる。丹青たんせいは画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさいの絢爛けんらんは自おのずから心眼しんがんに映る。ただおのが住む世を、かく観かんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収め得うれば足たる。この故に無声むせいの詩人には一句なく、無色むしょくの画家には尺※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)せっけんなきも、かく人世じんせいを観じ得るの点において、かく煩悩ぼんのうを解脱げだつするの点において、かく清浄界しょうじょうかいに出入しゅつにゅうし得るの点において、またこの不同不二ふどうふじの乾坤けんこんを建立こんりゅうし得るの点において、我利私慾がりしよくの覊絆きはんを掃蕩そうとうするの点において、――千金せんきんの子よりも、万乗ばんじょうの君よりも、あらゆる俗界の寵児ちょうじよりも幸福である。
世に住むこと二十年にして、住むに甲斐かいある世と知った。二十五年にして明暗は表裏ひょうりのごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日こんにちはこう思うている。――喜びの深きとき憂うれいいよいよ深く、楽たのしみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片かたづけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖ふえれば寝ねる間まも心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支ささえている。背中せなかには重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽あき足たらぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
余よの考かんがえがここまで漂流して来た時に、余の右足うそくは突然坐すわりのわるい角石かくいしの端はしを踏み損そくなった。平衡へいこうを保つために、すわやと前に飛び出した左足さそくが、仕損しそんじの埋うめ合あわせをすると共に、余の腰は具合よく方ほう三尺ほどな岩の上に卸おりた。肩にかけた絵の具箱が腋わきの下から躍おどり出しただけで、幸いと何なんの事もなかった。
立ち上がる時に向うを見ると、路みちから左の方にバケツを伏せたような峰が聳そびえている。杉か檜ひのきか分からないが根元ねもとから頂いただきまでことごとく蒼黒あおぐろい中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引たなびいて、続つぎ目めが確しかと見えぬくらい靄もやが濃い。少し手前に禿山はげやまが一つ、群ぐんをぬきんでて眉まゆに逼せまる。禿はげた側面は巨人の斧おので削けずり去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋うずめている。天辺てっぺんに一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ判然はっきりしている。行く手は二丁ほどで切れているが、高い所から赤い毛布けっとが動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路はすこぶる難義なんぎだ。
土をならすだけならさほど手間てまも入いるまいが、土の中には大きな石がある。土は平たいらにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩ほりくずした土の上に悠然ゆうぜんと峙そばだって、吾らのために道を譲る景色けしきはない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌いわのない所でさえ歩あるきよくはない。左右が高くって、中心が窪くぼんで、まるで一間幅はばを三角に穿くって、その頂点が真中まんなかを貫つらぬいていると評してもよい。路を行くと云わんより川底を渉わたると云う方が適当だ。固もとより急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲ななまがりへかかる。
たちまち足の下で雲雀ひばりの声がし出した。谷を見下みおろしたが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙せわしく、絶間たえまなく鳴いている。方幾里ほういくりの空気が一面に蚤のみに刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音ねには瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句あげくは、流れて雲に入いって、漂ただようているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡うちに残るのかも知れない。
巌角いわかどを鋭どく廻って、按摩あんまなら真逆様まっさかさまに落つるところを、際きわどく右へ切れて、横に見下みおろすと、菜なの花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金こがねの原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、上あがる雲雀ひばりが十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦すれ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
春は眠くなる。猫は鼠を捕とる事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂たましいの居所いどころさえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒さめる。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然はんぜんする。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦あんしょうして見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。
   We look before and after
    And pine for what is not:
   Our sincerest laughter
    With some pain is fraught;
   Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
「前をみては、後しりえを見ては、物欲ものほしと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極きわみの歌に、悲しさの、極みの想おもい、籠こもるとぞ知れ」
なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳わけには行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛ばんこくの愁うれいなどと云う字がある。詩人だから万斛で素人しろうとなら一合ごうで済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨ぼんこつの倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲かなしみも多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
しばらくは路が平たいらで、右は雑木山ぞうきやま、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々蒲公英たんぽぽを踏みつける。鋸のこぎりのような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠たまを擁護している。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座ちんざしている。呑気のんきなものだ。また考えをつづける。
詩人に憂うれいはつきものかも知れないが、あの雲雀ひばりを聞く心持になれば微塵みじんの苦くもない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍おどるばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物けいぶつに接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥くたびれて、旨うまいものが食べられぬくらいの事だろう。
しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅ぷくの画えとして観み、一巻かんの詩として読むからである。画がであり詩である以上は地面じめんを貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲ひともうけする了見りょうけんも起らぬ。ただこの景色が――腹の足たしにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴ともなわぬのだろう。自然の力はここにおいて尊たっとい。吾人の性情を瞬刻に陶冶とうやして醇乎じゅんことして醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局きょくに当れば利害の旋風つむじに捲まき込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩くらんでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解げしかねる。
これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観みて面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚たなへ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。
それすら、普通の芝居や小説では人情を免まぬかれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄とりえは利慾が交まじらぬと云う点に存そんするかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒じょうしょは常よりは余計に活動するだろう。それが嫌いやだ。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通しとおして、飽々あきあきした。飽あき飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞こぶするようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界じんかいを離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌しいかの純粋なるものもこの境きょうを解脱げだつする事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世うきよの勧工場かんこうばにあるものだけで用を弁べんじている。いくら詩的になっても地面の上を馳かけてあるいて、銭ぜにの勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀ひばりを聞いて嘆息したのも無理はない。
うれしい事に東洋の詩歌しいかはそこを解脱げだつしたのがある。採菊きくをとる東籬下とうりのもと、悠然ゆうぜんとして見南山なんざんをみる。ただそれぎりの裏うちに暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗のぞいてる訳でもなければ、南山なんざんに親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的しゅっせけんてきに利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独ひとり坐幽篁裏ゆうこうのうちにざし、弾琴きんをだんじて復長嘯またちょうしょうす、深林しんりん人不知ひとしらず、明月来めいげつきたりて相照あいてらす。ただ二十字のうちに優ゆうに別乾坤べつけんこんを建立こんりゅうしている。この乾坤の功徳くどくは「不如帰ほととぎす」や「金色夜叉こんじきやしゃ」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後のちに、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気のんきな扁舟へんしゅうを泛うかべてこの桃源とうげんに溯さかのぼるものはないようだ。余は固もとより詩人を職業にしておらんから、王維おういや淵明えんめいの境界きょうがいを今の世に布教ふきょうして広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人ひとり絵の具箱と三脚几さんきゃくきを担かついで春の山路やまじをのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間までも非人情ひにんじょうの天地に逍遥しょうようしたいからの願ねがい。一つの酔興すいきょうだ。
もちろん人間の一分子いちぶんしだから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳わけには行かぬ。淵明だって年ねんが年中ねんじゅう南山なんざんを見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪たけやぶの中に蚊帳かやを釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生はえた筍たけのこは八百屋やおやへ払い下げたものと思う。こう云う余もその通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が募つのってはおらん。こんな所でも人間に逢あう。じんじん端折ばしょりの頬冠ほおかむりや、赤い腰巻こしまきの姉あねさんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。百万本の檜ひのきに取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑のんだり吐いたりしても、人の臭においはなかなか取れない。それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵こよいの宿は那古井なこいの温泉場おんせんばだ。
ただ、物は見様みようでどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言ことばに、あの鐘かねの音おとを聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第みようしだいでいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路うきよこうじの何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見おのうはいけんの時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。七騎落しちきおちでも、墨田川すみだがわでも泣かぬとは保証が出来ん。しかしあれは情じょう三分芸ぶげい七分で見せるわざだ。我らが能から享うけるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際てぎわから出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長ゆうちょうな振舞ふるまいをするからである。
しばらくこの旅中りょちゅうに起る出来事と、旅中に出逢であう人間を能の仕組しくみと能役者の所作しょさに見立てたらどうだろう。まるで人情を棄すてる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまでは漕こぎつけたいものだ。南山なんざんや幽篁ゆうこうとは性たちの違ったものに相違ないし、また雲雀ひばりや菜の花といっしょにする事も出来まいが、なるべくこれに近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視みてみたい。芭蕉ばしょうと云う男は枕元まくらもとへ馬が尿いばりするのをさえ雅がな事と見立てて発句ほっくにした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺じいさんも婆ばあさんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似まねをするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探さぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤じんじかっとうの詮議立せんぎだてをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差さし支つかえない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳わけに行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐ふところには容易に飛び込めない訳だから、つまりは画えの前へ立って、画中の人物が画面の中うちをあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間あいだ三尺も隔へだてていれば落ちついて見られる。あぶな気げなしに見られる。言ことばを換かえて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙あげて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識かんしきする事が出来る。
ここまで決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂もたれ懸かかっていたと思ったが、いつのまにか、崩くずれ出だして、四方しほうはただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾とくに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃こまやかでほとんど霧を欺あざむくくらいだから、隔へだたりはどれほどかわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背せが右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走っている所らしい。左はすぐ山の裾すそと見える。深く罩こめる雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
路は存外ぞんがい広くなって、かつ平たいらだから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から雨垂あまだれがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子まごがふうとあらわれた。
「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。だいぶ濡ぬれたね」
まだ十五丁かと、振り向いているうちに、馬子の姿は影画かげえのように雨につつまれて、またふうと消えた。
糠ぬかのように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋ひとすじごとに風に捲まかれる様さままでが目に入いる。羽織はとくに濡れ尽つくして肌着に浸しみ込んだ水が、身体からだの温度ぬくもりで生暖なまあたたかく感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行あるく。
茫々ぼうぼうたる薄墨色うすずみいろの世界を、幾条いくじょうの銀箭ぎんせんが斜ななめに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏よまれる。有体ありていなる己おのれを忘れ尽つくして純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保たもつ。ただ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われはすでに詩中の人にもあらず、画裡がりの人にもあらず。依然として市井しせいの一豎子じゅしに過ぎぬ。雲煙飛動の趣おもむきも眼に入いらぬ。落花啼鳥らっかていちょうの情けも心に浮ばぬ。蕭々しょうしょうとして独ひとり春山しゅんざんを行く吾われの、いかに美しきかはなおさらに解かいせぬ。初めは帽を傾けて歩行あるいた。後のちにはただ足の甲こうのみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目まんもくの樹梢じゅしょうを揺うごかして四方しほうより孤客こかくに逼せまる。非人情がちと強過ぎたようだ。  

 

二  
「おい」と声を掛けたが返事がない。
軒下のきしたから奥を覗のぞくと煤すすけた障子しょうじが立て切ってある。向う側は見えない。五六足の草鞋わらじが淋さびしそうに庇ひさしから吊つるされて、屈托気くったくげにふらりふらりと揺れる。下に駄菓子だがしの箱が三つばかり並んで、そばに五厘銭と文久銭ぶんきゅうせんが散らばっている。
「おい」とまた声をかける。土間の隅すみに片寄せてある臼うすの上に、ふくれていた鶏にわとりが、驚ろいて眼をさます。ククク、クククと騒ぎ出す。敷居の外に土竈どべっついが、今しがたの雨に濡れて、半分ほど色が変ってる上に、真黒な茶釜ちゃがまがかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。幸い下は焚たきつけてある。
返事がないから、無断でずっと這入はいって、床几しょうぎの上へ腰を卸おろした。鶏にわとりは羽摶はばたきをして臼うすから飛び下りる。今度は畳の上へあがった。障子しょうじがしめてなければ奥まで馳かけぬける気かも知れない。雄が太い声でこけっこっこと云うと、雌が細い声でけけっこっこと云う。まるで余を狐か狗いぬのように考えているらしい。床几の上には一升枡いっしょうますほどな煙草盆たばこぼんが閑静に控えて、中にはとぐろを捲まいた線香が、日の移るのを知らぬ顔で、すこぶる悠長ゆうちょうに燻いぶっている。雨はしだいに収まる。
しばらくすると、奥の方から足音がして、煤すすけた障子がさらりと開あく。なかから一人の婆さんが出る。
どうせ誰か出るだろうとは思っていた。竈へついに火は燃えている。菓子箱の上に銭が散らばっている。線香は呑気のんきに燻っている。どうせ出るにはきまっている。しかし自分の見世みせを明あけ放しても苦にならないと見えるところが、少し都とは違っている。返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
二三年前宝生ほうしょうの舞台で高砂たかさごを見た事がある。その時これはうつくしい活人画かつじんがだと思った。箒ほうきを担かついだ爺さんが橋懸はしがかりを五六歩来て、そろりと後向うしろむきになって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真まむきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。
「御婆さん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これは、いっこう存じませんで」
「だいぶ降ったね」
「あいにくな御天気で、さぞ御困りで御座んしょ。おおおおだいぶお濡ぬれなさった。今火を焚たいて乾かわかして上げましょ」
「そこをもう少し燃もしつけてくれれば、あたりながら乾かすよ。どうも少し休んだら寒くなった」
「へえ、ただいま焚いて上げます。まあ御茶を一つ」
と立ち上がりながら、しっしっと二声ふたこえで鶏にわとりを追い下さげる。ここここと馳かけ出した夫婦は、焦茶色こげちゃいろの畳から、駄菓子箱の中を踏みつけて、往来へ飛び出す。雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ糞ふんを垂たれた。
「まあ一つ」と婆さんはいつの間まにか刳くり抜き盆の上に茶碗をのせて出す。茶の色の黒く焦こげている底に、一筆ひとふでがきの梅の花が三輪無雑作むぞうさに焼き付けられている。
「御菓子を」と今度は鶏の踏みつけた胡麻ごまねじと微塵棒みじんぼうを持ってくる。糞ふんはどこぞに着いておらぬかと眺ながめて見たが、それは箱のなかに取り残されていた。
婆さんは袖無そでなしの上から、襷たすきをかけて、竈へっついの前へうずくまる。余は懐ふところから写生帖を取り出して、婆さんの横顔を写しながら、話しをしかける。
「閑静でいいね」
「へえ、御覧の通りの山里やまざとで」
「鶯うぐいすは鳴くかね」
「ええ毎日のように鳴きます。此辺ここらは夏も鳴きます」
「聞きたいな。ちっとも聞えないとなお聞きたい」
「あいにく今日きょうは――先刻さっきの雨でどこぞへ逃げました」
折りから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯さっと風を起して一尺あまり吹き出す。
「さあ、御おあたり。さぞ御寒かろ」と云う。軒端のきばを見ると青い煙りが、突き当って崩くずれながらに、微かすかな痕あとをまだ板庇いたびさしにからんでいる。
「ああ、好いい心持ちだ、御蔭おかげで生き返った」
「いい具合に雨も晴れました。そら天狗巌てんぐいわが見え出しました」
逡巡しゅんじゅんとして曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山ぜんざんの一角いっかくは、未練もなく晴れ尽して、老嫗ろううの指さす方かたに※(「山/贊」、第4水準2-8-72)※(「山+元」、第3水準1-47-69)さんがんと、あら削けずりの柱のごとく聳そびえるのが天狗岩だそうだ。
余はまず天狗巌を眺ながめて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々はんはんに両方を見比みくらべた。画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂たかさごの媼ばばと、蘆雪ろせつのかいた山姥やまうばのみである。蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは物凄ものすごいものだと感じた。紅葉もみじのなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。宝生ほうしょうの別会能べつかいのうを観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。あの面めんは定めて名人の刻んだものだろう。惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、穏おだやかに、あたたかに見える。金屏きんびょうにも、春風はるかぜにも、あるは桜にもあしらって差さし支つかえない道具である。余は天狗岩よりは、腰をのして、手を翳かざして、遠く向うを指ゆびさしている、袖無し姿の婆さんを、春の山路やまじの景物として恰好かっこうなものだと考えた。余が写生帖を取り上げて、今しばらくという途端とたんに、婆さんの姿勢は崩れた。
手持無沙汰てもちぶさたに写生帖を、火にあてて乾かわかしながら、
「御婆さん、丈夫そうだね」と訊たずねた。
「はい。ありがたい事に達者で――針も持ちます、苧おもうみます、御団子おだんごの粉こも磨ひきます」
この御婆さんに石臼いしうすを挽ひかして見たくなった。しかしそんな注文も出来ぬから、
「ここから那古井なこいまでは一里足たらずだったね」と別な事を聞いて見る。
「はい、二十八丁と申します。旦那だんなは湯治とうじに御越おこしで……」
「込み合わなければ、少し逗留とうりゅうしようかと思うが、まあ気が向けばさ」
「いえ、戦争が始まりましてから、頓とんと参るものは御座いません。まるで締め切り同様で御座います」
「妙な事だね。それじゃ泊とめてくれないかも知れんね」
「いえ、御頼みになればいつでも宿とめます」
「宿屋はたった一軒だったね」
「へえ、志保田しほださんと御聞きになればすぐわかります。村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」
「じゃ御客がなくても平気な訳だ」
「旦那は始めてで」
「いや、久しい以前ちょっと行った事がある」
会話はちょっと途切とぎれる。帳面をあけて先刻さっきの鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴きこえ出した。この声がおのずと、拍子ひょうしをとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。余は鶏の写生をやめて、同じページの端はじに、
   春風や惟然いねんが耳に馬の鈴
と書いて見た。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
やがて長閑のどかな馬子唄まごうたが、春に更ふけた空山一路くうざんいちろの夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画えにかいた声だ。
   馬子唄まごうたの鈴鹿すずか越ゆるや春の雨
と、今度は斜はすに書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。
「また誰ぞ来ました」と婆さんが半なかば独ひとり言ごとのように云う。
ただ一条ひとすじの春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。最前逢おうた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を下くだり、思われては山を登ったのだろう。路寂寞じゃくまくと古今ここんの春を貫つらぬいて、花を厭いとえば足を着くるに地なき小村こむらに、婆さんは幾年いくねんの昔からじゃらん、じゃらんを数え尽くして、今日こんにちの白頭はくとうに至ったのだろう。
   馬子まご唄や白髪しらがも染めで暮るる春
と次のページへ認したためたが、これでは自分の感じを云い終おおせない、もう少し工夫くふうのありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。何でも白髪という字を入れて、幾代の節と云う句を入れて、馬子唄という題も入れて、春の季きも加えて、それを十七字に纏まとめたいと工夫しているうちに、
「はい、今日は」と実物の馬子が店先に留とまって大きな声をかける。
「おや源さんか。また城下へ行くかい」
「何か買物があるなら頼まれて上げよ」
「そうさ、鍛冶町かじちょうを通ったら、娘に霊厳寺れいがんじの御札おふだを一枚もらってきておくれなさい」
「はい、貰ってきよ。一枚か。――御秋おあきさんは善よい所へ片づいて仕合せだ。な、御叔母おばさん」
「ありがたい事に今日こんにちには困りません。まあ仕合せと云うのだろか」
「仕合せとも、御前。あの那古井なこいの嬢さまと比べて御覧」
「本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい」
「なあに、相変らずさ」
「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。
「困るよう」と源さんが馬の鼻を撫なでる。
枝繁えだしげき山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の塊かたまりを、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、仮かりの住居すまいを、さらさらと転ころげ落ちる。馬は驚ろいて、長い鬣たてがみを上下うえしたに振る。
「コーラッ」と叱しかりつける源さんの声が、じゃらん、じゃらんと共に余の冥想めいそうを破る。
御婆さんが云う。「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前めさきに散らついている。裾模様すそもようの振袖ふりそでに、高島田たかしまだで、馬に乗って……」
「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、御叔母おばさん」
「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に斑ふが出来ました」
余はまた写生帖をあける。この景色は画えにもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
   花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装いしょうも髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影おもかげが忽然こつぜんと出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速さっそく取り崩くずす。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗きれいに立ち退のいたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧もうろうと胸の底に残って、棕梠箒しゅろぼうきで煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳ひく彗星すいせいの何となく妙な気になる。
「それじゃ、まあ御免」と源さんが挨拶あいさつする。
「帰りにまた御寄おより。あいにくの降りで七曲ななまがりは難義だろ」
「はい、少し骨が折れよ」と源さんは歩行あるき出す。源さんの馬も歩行出す。じゃらんじゃらん。
「あれは那古井なこいの男かい」
「はい、那古井の源兵衛で御座んす」
「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、峠とうげを越したのかい」
「志保田の嬢様が城下へ御輿入おこしいれのときに、嬢様を青馬あおに乗せて、源兵衛が覊絏はづなを牽ひいて通りました。――月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」
鏡に対むかうときのみ、わが頭の白きを喞かこつものは幸の部に属する人である。指を折って始めて、五年の流光に、転輪の疾とき趣おもむきを解し得たる婆さんは、人間としてはむしろ仙せんに近づける方だろう。余はこう答えた。
「さぞ美くしかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ今でも御覧になれます。湯治場とうじばへ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」
「はあ、今では里にいるのかい。やはり裾模様すそもようの振袖ふりそでを着て、高島田に結いっていればいいが」
「たのんで御覧なされ。着て見せましょ」
余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外真面目まじめである。非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。婆さんが云う。
「嬢様と長良ながらの乙女おとめとはよく似ております」
「顔がかい」
「いいえ。身の成り行きがで御座んす」
「へえ、その長良の乙女と云うのは何者かい」
「昔むかしこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者ちょうじゃの娘が御座りましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に懸想けそうして、あなた」
「なるほど」
「ささだ男に靡なびこうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩わずらったが、どちらへも靡きかねて、とうとう
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
と云う歌を咏よんで、淵川ふちかわへ身を投げて果はてました」
余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅こがな言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。
「これから五丁東へ下くだると、道端みちばたに五輪塔ごりんのとうが御座んす。ついでに長良ながらの乙女おとめの墓を見て御行きなされ」
余は心のうちに是非見て行こうと決心した。婆さんは、そのあとを語りつづける。
「那古井の嬢様にも二人の男が祟たたりました。一人は嬢様が京都へ修行に出て御出おいでの頃御逢おあいなさったので、一人はここの城下で随一の物持ちで御座んす」
「はあ、御嬢さんはどっちへ靡いたかい」
「御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを、そこには色々な理由わけもありましたろが、親ご様が無理にこちらへ取りきめて……」
「めでたく、淵川ふちかわへ身を投げんでも済んだ訳だね」
「ところが――先方さきでも器量望みで御貰おもらいなさったのだから、随分大事にはなさったかも知れませぬが、もともと強しいられて御出なさったのだから、どうも折合おりあいがわるくて、御親類でもだいぶ御心配の様子で御座んした。ところへ今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。それから嬢様はまた那古井の方へ御帰りになります。世間では嬢様の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。もとは極々ごくごく内気うちきの優しいかたが、この頃ではだいぶ気が荒くなって、何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します。……」
これからさきを聞くと、せっかくの趣向しゅこうが壊こわれる。ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て羽衣はごろもを帰せ帰せと催促さいそくするような気がする。七曲ななまがりの険を冒おかして、やっとの思おもいで、ここまで来たものを、そうむやみに俗界に引きずり下おろされては、飄然ひょうぜんと家を出た甲斐かいがない。世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の臭においが毛孔けあなから染込しみこんで、垢あかで身体からだが重くなる。
「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十銭銀貨を一枚床几しょうぎの上へかちりと投げ出して立ち上がる。
「長良ながらの五輪塔から右へ御下おくだりなさると、六丁ほどの近道になります。路みちはわるいが、御若い方にはその方ほうがよろしかろ。――これは多分に御茶代を――気をつけて御越しなされ」  

 

昨夕ゆうべは妙な気持ちがした。
宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の具合ぐあい庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。何だか廻廊のような所をしきりに引き廻されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。昔むかし来た時とはまるで見当が違う。晩餐ばんさんを済まして、湯に入いって、室へやへ帰って茶を飲んでいると、小女こおんなが来て床とこを延のべよかと云いう。
不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、晩食ばんめしの給仕も、湯壺ゆつぼへの案内も、床を敷く面倒も、ことごとくこの小女一人で弁じている。それで口は滅多めったにきかぬ。と云うて、田舎染いなかじみてもおらぬ。赤い帯を色気いろけなく結んで、古風な紙燭しそくをつけて、廊下のような、梯子段はしごだんのような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降おりて、湯壺へ連れて行かれた時は、すでに自分ながら、カンヴァスの中を往来しているような気がした。
給仕の時には、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段ふだん使っている部屋で我慢してくれと云った。床を延べる時にはゆるりと御休みと人間らしい、言葉を述べて、出て行ったが、その足音が、例の曲りくねった廊下を、次第に下の方へ遠とおざかった時に、あとがひっそりとして、人の気けがしないのが気になった。
生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔し房州ぼうしゅうを館山たてやまから向うへ突き抜けて、上総かずさから銚子ちょうしまで浜伝いに歩行あるいた事がある。その時ある晩、ある所へ宿とまった。ある所と云うよりほかに言いようがない。今では土地の名も宿の名も、まるで忘れてしまった。第一宿屋へとまったのかが問題である。棟むねの高い大きな家に女がたった二人いた。余がとめるかと聞いたとき、年を取った方がはいと云って、若い方がこちらへと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた、広い間まをいくつも通り越して一番奥の、中二階ちゅうにかいへ案内をした。三段登って廊下から部屋へ這入はいろうとすると、板庇いたびさしの下に傾かたむきかけていた一叢ひとむらの修竹しゅうちくが、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫なでたので、すでにひやりとした。椽板えんいたはすでに朽くちかかっている。来年は筍たけのこが椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら、若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。
その晩は例の竹が、枕元で婆娑ばさついて、寝られない。障子しょうじをあけたら、庭は一面の草原で、夏の夜の月明つきあきらかなるに、眼を走はしらせると、垣も塀へいもあらばこそ、まともに大きな草山に続いている。草山の向うはすぐ大海原おおうなばらでどどんどどんと大きな濤なみが人の世を威嚇おどかしに来る。余はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪し気な蚊帳かやのうちに辛防しんぼうしながら、まるで草双紙くさぞうしにでもありそうな事だと考えた。
その後ご旅もいろいろしたが、こんな気持になった事は、今夜この那古井へ宿るまではかつて無かった。
仰向あおむけに寝ながら、偶然目を開あけて見ると欄間らんまに、朱塗しゅぬりの縁ふちをとった額がくがかかっている。文字もじは寝ながらも竹影ちくえい払階かいをはらって塵不動ちりうごかずと明らかに読まれる。大徹だいてつという落款らっかんもたしかに見える。余は書においては皆無鑒識かいむかんしきのない男だが、平生から、黄檗おうばくの高泉和尚こうせんおしょうの筆致ひっちを愛している。隠元いんげんも即非そくひも木庵もくあんもそれぞれに面白味はあるが、高泉こうせんの字が一番蒼勁そうけいでしかも雅馴がじゅんである。今この七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。しかし現げんに大徹とあるからには別人だろう。ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかも知れぬ。それにしては紙の色が非常に新しい。どうしても昨今のものとしか受け取れない。
横を向く。床とこにかかっている若冲じゃくちゅうの鶴の図が目につく。これは商売柄しょうばいがらだけに、部屋に這入はいった時、すでに逸品いっぴんと認めた。若冲の図は大抵精緻せいちな彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼きがねなしの一筆ひとふでがきで、一本足ですらりと立った上に、卵形たまごなりの胴がふわっと乗のっかっている様子は、はなはだ吾意わがいを得て、飄逸ひょういつの趣おもむきは、長い嘴はしのさきまで籠こもっている。床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中には何があるか分らない。
すやすやと寝入る。夢に。
長良ながらの乙女おとめが振袖を着て、青馬あおに乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上のぼって、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿さおを持って、向島むこうじまを追懸おっかけて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末ゆくえも知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
そこで眼が醒さめた。腋わきの下から汗が出ている。妙に雅俗混淆がぞくこんこうな夢を見たものだと思った。昔し宋そうの大慧禅師だいえぜんじと云う人は、悟道の後のち、何事も意のごとくに出来ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。文芸を性命せいめいにするものは今少しうつくしい夢を見なければ幅はばが利きかない。こんな夢では大部分画にも詩にもならんと思いながら、寝返りを打つと、いつの間にか障子しょうじに月がさして、木の枝が二三本斜ななめに影をひたしている。冴さえるほどの春の夜よだ。
気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに紛まぎれ込んだのかと耳を峙そばだてる。たしかに誰かうたっている。細くかつ低い声には相違ないが、眠らんとする春の夜よに一縷いちるの脈をかすかに搏うたせつつある。不思議な事に、その調子はとにかく、文句をきくと――枕元でやってるのでないから、文句のわかりようはない。――その聞えぬはずのものが、よく聞える。あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと長良ながらの乙女おとめの歌を、繰り返し繰り返すように思われる。
初めのうちは椽えんに近く聞えた声が、しだいしだいに細く遠退とおのいて行く。突然とやむものには、突然の感はあるが、憐あわれはうすい。ふっつりと思い切ったる声をきく人の心には、やはりふっつりと思い切ったる感じが起る。これと云う句切りもなく自然じねんに細ほそりて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた秒びょうを縮め、分ふんを割さいて、心細さの細さが細る。死なんとしては、死なんとする病夫びょうふのごとく、消えんとしては、消えんとする灯火とうかのごとく、今やむか、やむかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨うらみをことごとく萃あつめたる調べがある。
今までは床とこの中に我慢して聞いていたが、聞く声の遠ざかるに連れて、わが耳は、釣り出さるると知りつつも、その声を追いかけたくなる。細くなればなるほど、耳だけになっても、あとを慕したって飛んで行きたい気がする。もうどう焦慮あせっても鼓膜こまくに応こたえはあるまいと思う一刹那いっせつなの前、余はたまらなくなって、われ知らず布団ふとんをすり抜けると共にさらりと障子しょうじを開あけた。途端とたんに自分の膝ひざから下が斜ななめに月の光りを浴びる。寝巻ねまきの上にも木の影が揺れながら落ちた。
障子をあけた時にはそんな事には気がつかなかった。あの声はと、耳の走る見当を見破ると――向うにいた。花ならば海棠かいどうかと思わるる幹を背せに、よそよそしくも月の光りを忍んで朦朧もうろうたる影法師かげぼうしがいた。あれかと思う意識さえ、確しかとは心にうつらぬ間に、黒いものは花の影を踏み砕くだいて右へ切れた。わがいる部屋つづきの棟むねの角かどが、すらりと動く、背せいの高い女姿を、すぐに遮さえぎってしまう。
借着かりぎの浴衣ゆかた一枚で、障子へつらまったまま、しばらく茫然ぼうぜんとしていたが、やがて我に帰ると、山里の春はなかなか寒いものと悟った。ともかくもと抜け出でた布団の穴に、再び帰参きさんして考え出した。括くくり枕まくらのしたから、袂時計たもとどけいを出して見ると、一時十分過ぎである。再び枕の下へ押し込んで考え出した。よもや化物ばけものではあるまい。化物でなければ人間で、人間とすれば女だ。あるいは此家ここの御嬢さんかも知れない。しかし出帰でがえりの御嬢さんとしては夜なかに山つづきの庭へ出るのがちと不穏当ふおんとうだ。何にしてもなかなか寝られない。枕の下にある時計までがちくちく口をきく。今まで懐中時計の音の気になった事はないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寝るな寝るなと忠告するごとく口をきく。怪けしからん。
怖こわいものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄すごい事も、己おのれを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画えになる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の宿やどるところやら、憂うれいのこもるところやら、一歩進めて云えば失恋の苦しみそのものの溢あふるるところやらを、単に客観的に眼前がんぜんに思い浮べるから文学美術の材料になる。世には有りもせぬ失恋を製造して、自みずから強しいて煩悶はんもんして、愉快を貪むさぼるものがある。常人じょうにんはこれを評して愚ぐだと云う、気違だと云う。しかし自から不幸の輪廓を描えがいて好このんでその中うちに起臥きがするのは、自から烏有うゆうの山水を刻画こくがして壺中こちゅうの天地てんちに歓喜すると、その芸術的の立脚地りっきゃくちを得たる点において全く等しいと云わねばならぬ。この点において世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。われわれは草鞋旅行わらじたびをする間あいだ、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向って曾遊そうゆうを説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々ちょうちょうして、したり顔である。これはあえて自みずから欺あざむくの、人を偽いつわるのと云う了見りょうけんではない。旅行をする間は常人の心持ちで、曾遊を語るときはすでに詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起る。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角いっかくを磨滅まめつして、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
この故ゆえに天然てんねんにあれ、人事にあれ、衆俗しゅうぞくの辟易へきえきして近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅りんろうを見、無上むじょうの宝※(「王+路」、第3水準1-88-29)ほうろを知る。俗にこれを名なづけて美化びかと云う。その実は美化でも何でもない。燦爛さんらんたる彩光さいこうは、炳乎へいことして昔から現象世界に実在している。ただ一翳いちえい眼に在あって空花乱墜くうげらんついするが故に、俗累ぞくるいの覊絏牢きせつろうとして絶たちがたきが故に、栄辱得喪えいじょくとくそうのわれに逼せまる事、念々切せつなるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙おうきょが幽霊を描えがくまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。
余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰だれが見ても、誰だれに聞かしても饒ゆたかに詩趣を帯びている。――孤村こそんの温泉、――春宵しゅんしょうの花影かえい、――月前げつぜんの低誦ていしょう、――朧夜おぼろよの姿――どれもこれも芸術家の好題目こうだいもくである。この好題目が眼前がんぜんにありながら、余は入いらざる詮義立せんぎだてをして、余計な探さぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟りくつの筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪わるさが踏みつけにしてしまった。こんな事なら、非人情も標榜ひょうぼうする価値がない。もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って吹聴ふいちょうする資格はつかぬ。昔し以太利亜イタリアの画家サルヴァトル・ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を賭かけにして、山賊の群むれに這入はいり込んだと聞いた事がある。飄然ひょうぜんと画帖を懐ふところにして家を出いでたからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしい事だ。
こんな時にどうすれば詩的な立脚地りっきゃくちに帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に据すえつけて、その感じから一歩退しりぞいて有体ありていに落ちついて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。詩人とは自分の屍骸しがいを、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近てぢかなのは何なんでも蚊かでも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠かわやに上のぼった時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直あんちょくに詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟さとりであるから軽便だと云って侮蔑ぶべつする必要はない。軽便であればあるほど功徳くどくになるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人ひとりが同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否いなやうれしくなる。涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離ゆうりして、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉うれしさだけの自分になる。
これが平生へいぜいから余の主張である。今夜も一つこの主張を実行して見ようと、夜具の中で例の事件を色々と句に仕立てる。出来たら書きつけないと散漫さんまんになっていかぬと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。
「海棠かいだうの露をふるふや物狂ものぐるひ」と真先まっさきに書き付けて読んで見ると、別に面白くもないが、さりとて気味のわるい事もない。次に「花の影、女の影の朧おぼろかな」とやったが、これは季が重かさなっている。しかし何でも構わない、気が落ちついて呑気のんきになればいい。それから「正一位しやういちゐ、女に化ばけて朧月おぼろづき」と作ったが、狂句めいて、自分ながらおかしくなった。
この調子なら大丈夫と乗気のりきになって出るだけの句をみなかき付ける。
   春の星を落して夜半よはのかざしかな
   春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪
   春や今宵こよひ歌つかまつる御姿
   海棠かいだうの精が出てくる月夜かな
   うた折々月下の春ををちこちす
   思ひ切つて更け行く春の独りかな
などと、試みているうち、いつしか、うとうと眠くなる。
恍惚こうこつと云うのが、こんな場合に用いるべき形容詞かと思う。熟睡のうちには何人なんびとも我を認め得ぬ。明覚めいかくの際には誰たれあって外界がいかいを忘るるものはなかろう。ただ両域の間に縷るのごとき幻境が横よこたわる。醒さめたりと云うには余り朧おぼろにて、眠ると評せんには少しく生気せいきを剰あます。起臥きがの二界を同瓶裏どうへいりに盛りて、詩歌しいかの彩管さいかんをもって、ひたすらに攪かき雑まぜたるがごとき状態を云うのである。自然の色を夢の手前てまえまでぼかして、ありのままの宇宙を一段、霞かすみの国へ押し流す。睡魔の妖腕ようわんをかりて、ありとある実相の角度を滑なめらかにすると共に、かく和やわらげられたる乾坤けんこんに、われからと微かすかに鈍にぶき脈を通わせる。地を這はう煙の飛ばんとして飛び得ざるごとく、わが魂たましいの、わが殻からを離れんとして離るるに忍びざる態ていである。抜け出いでんとして逡巡ためらい、逡巡いては抜け出でんとし、果はては魂と云う個体を、もぎどうに保たもちかねて、氤※(「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48)いんうんたる瞑氛めいふんが散るともなしに四肢五体に纏綿てんめんして、依々いいたり恋々れんれんたる心持ちである。
余が寤寐ごびの境さかいにかく逍遥しょうようしていると、入口の唐紙からかみがすうと開あいた。あいた所へまぼろしのごとく女の影がふうと現われた。余は驚きもせぬ。恐れもせぬ。ただ心地ここちよく眺ながめている。眺めると云うてはちと言葉が強過ぎる。余が閉とじている瞼まぶたの裏うちに幻影まぼろしの女が断ことわりもなく滑すべり込んで来たのである。まぼろしはそろりそろりと部屋のなかに這入はいる。仙女せんにょの波をわたるがごとく、畳の上には人らしい音も立たぬ。閉ずる眼まなこのなかから見る世の中だから確しかとは解らぬが、色の白い、髪の濃い、襟足えりあしの長い女である。近頃はやる、ぼかした写真を灯影ほかげにすかすような気がする。
まぼろしは戸棚とだなの前でとまる。戸棚があく。白い腕が袖そでをすべって暗闇くらやみのなかにほのめいた。戸棚がまたしまる。畳の波がおのずから幻影を渡し返す。入口の唐紙がひとりでに閉たたる。余が眠りはしだいに濃こまやかになる。人に死して、まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであろう。
いつまで人と馬の相中あいなかに寝ていたかわれは知らぬ。耳元にききっと女の笑い声がしたと思ったら眼がさめた。見れば夜の幕はとくに切り落されて、天下は隅すみから隅まで明るい。うららかな春日はるびが丸窓の竹格子たけごうしを黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議と云うものの潜ひそむ余地はなさそうだ。神秘は十万億土じゅうまんおくどへ帰って、三途さんずの川かわの向側むこうがわへ渡ったのだろう。
浴衣ゆかたのまま、風呂場ふろばへ下りて、五分ばかり偶然と湯壺ゆつぼのなかで顔を浮かしていた。洗う気にも、出る気にもならない。第一昨夕ゆうべはどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を界さかいにこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。
身体からだを拭ふくさえ退儀たいぎだから、いい加減にして、濡ぬれたまま上あがって、風呂場の戸を内から開あけると、また驚かされた。
「御早う。昨夕ゆうべはよく寝られましたか」
戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。人のいるさえ予期しておらぬ出合頭であいがしらの挨拶あいさつだから、さそくの返事も出る遑いとまさえないうちに、
「さ、御召おめしなさい」
と後うしろへ廻って、ふわりと余の背中せなかへ柔かい着物をかけた。ようやくの事「これはありがとう……」だけ出して、向き直る、途端とたんに女は二三歩退しりぞいた。
昔から小説家は必ず主人公の容貌ようぼうを極力描写することに相場がきまってる。古今東西の言語で、佳人かじんの品評ひんぴょうに使用せられたるものを列挙したならば、大蔵経だいぞうきょうとその量を争うかも知れぬ。この辟易へきえきすべき多量の形容詞中から、余と三歩の隔へだたりに立つ、体たいを斜ななめに捩ねじって、後目しりめに余が驚愕きょうがくと狼狽ろうばいを心地ここちよげに眺ながめている女を、もっとも適当に叙じょすべき用語を拾い来ったなら、どれほどの数になるか知れない。しかし生れて三十余年の今日こんにちに至るまで未いまだかつて、かかる表情を見た事がない。美術家の評によると、希臘ギリシャの彫刻の理想は、端粛たんしゅくの二字に帰きするそうである。端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。動けばどう変化するか、風雲ふううんか雷霆らいていか、見わけのつかぬところに余韻よいんが縹緲ひょうびょうと存するから含蓄がんちくの趣おもむきを百世ひゃくせいの後のちに伝うるのであろう。世上幾多の尊厳と威儀とはこの湛然たんぜんたる可能力の裏面に伏在している。動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった暁あかつきには、※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)泥帯水たでいたいすいの陋ろうを遺憾いかんなく示して、本来円満ほんらいえんまんの相そうに戻る訳には行かぬ。この故ゆえに動どうと名のつくものは必ず卑しい。運慶うんけいの仁王におうも、北斎ほくさいの漫画まんがも全くこの動の一字で失敗している。動か静か。これがわれら画工がこうの運命を支配する大問題である。古来美人の形容も大抵この二大範疇はんちゅうのいずれにか打ち込む事が出来べきはずだ。
ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで静しずかである。眼は五分ごぶのすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨しもぶくれの瓜実形うりざねがたで、豊かに落ちつきを見せているに引き易かえて、額ひたいは狭苦せまくるしくも、こせついて、いわゆる富士額ふじびたいの俗臭ぞくしゅうを帯びている。のみならず眉まゆは両方から逼せまって、中間に数滴の薄荷はっかを点じたるごとく、ぴくぴく焦慮じれている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画えにしたら美しかろう。かように別れ別れの道具が皆一癖ひとくせあって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。
元来は静せいであるべき大地だいちの一角に陥欠かんけつが起って、全体が思わず動いたが、動くは本来の性に背そむくと悟って、力つとめて往昔むかしの姿にもどろうとしたのを、平衡へいこうを失った機勢に制せられて、心ならずも動きつづけた今日こんにちは、やけだから無理でも動いて見せると云わぬばかりの有様が――そんな有様がもしあるとすればちょうどこの女を形容する事が出来る。
それだから軽侮けいぶの裏うらに、何となく人に縋すがりたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎つつしみ深い分別ふんべつがほのめいている。才に任せ、気を負おえば百人の男子を物の数とも思わぬ勢いきおいの下から温和おとなしい情なさけが吾知らず湧わいて出る。どうしても表情に一致がない。悟さとりと迷まよいが一軒の家うちに喧嘩けんかをしながらも同居している体ていだ。この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧おしつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。不仕合ふしあわせな女に違ない。
「ありがとう」と繰り返しながら、ちょっと会釈えしゃくした。
「ほほほほ御部屋は掃除そうじがしてあります。往いって御覧なさい。いずれ後のちほど」
と云うや否いなや、ひらりと、腰をひねって、廊下を軽気かろげに馳かけて行った。頭は銀杏返いちょうがえしに結いっている。白い襟えりがたぼの下から見える。帯の黒繻子くろじゅすは片側かたかわだけだろう。  

 

ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど奇麗きれいに掃除がしてある。ちょっと気がかりだから、念のため戸棚をあけて見る。下には小さな用箪笥ようだんすが見える。上から友禅ゆうぜんの扱帯しごきが半分垂たれかかって、いるのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。扱帯の上部はなまめかしい衣裳いしょうの間にかくれて先は見えない。片側には書物が少々詰めてある。一番上に白隠和尚はくいんおしょうの遠良天釜おらてがまと、伊勢物語いせものがたりの一巻が並んでる。昨夕ゆうべのうつつは事実かも知れないと思った。
何気なにげなく座布団ざぶとんの上へ坐ると、唐木からきの机の上に例の写生帖が、鉛筆を挟はさんだまま、大事そうにあけてある。夢中に書き流した句を、朝見たらどんな具合だろうと手に取る。
「海棠かいだうの露をふるふや物狂ものぐるひ」の下にだれだか「海棠の露をふるふや朝烏あさがらす」とかいたものがある。鉛筆だから、書体はしかと解わからんが、女にしては硬過かたすぎる、男にしては柔やわらか過ぎる。おやとまた吃驚びっくりする。次を見ると「花の影、女の影の朧おぼろかな」の下に「花の影女の影を重かさねけり」とつけてある。「正一位しやういちゐ女に化けて朧月おぼろづき」の下には「御曹子おんざうし女に化けて朧月」とある。真似まねをしたつもりか、添削てんさくした気か、風流の交まじわりか、馬鹿か、馬鹿にしたのか、余は思わず首を傾かたむけた。
後のちほどと云ったから、今に飯めしの時にでも出て来るかも知れない。出て来たら様子が少しは解るだろう。ときに何時だなと時計を見ると、もう十一時過ぎである。よく寝たものだ。これでは午飯ひるめしだけで間に合せる方が胃のためによかろう。
右側の障子しょうじをあけて、昨夜ゆうべの名残なごりはどの辺へんかなと眺める。海棠かいどうと鑑定したのははたして、海棠であるが、思ったよりも庭は狭い。五六枚の飛石とびいしを一面の青苔あおごけが埋めて、素足すあしで踏みつけたら、さも心持ちがよさそうだ。左は山つづきの崖がけに赤松が斜ななめに岩の間から庭の上へさし出している。海棠の後うしろにはちょっとした茂みがあって、奥は大竹藪おおたけやぶが十丈の翠みどりを春の日に曝さらしている。右手は屋やの棟むねで遮さえぎられて、見えぬけれども、地勢から察すると、だらだら下おりに風呂場の方へ落ちているに相違ない。
山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁ほどの平地へいちとなり、その平地が尽きて、海の底へもぐり込んで、十七里向うへ行ってまた隆然りゅうぜんと起き上って、周囲六里の摩耶島まやじまとなる。これが那古井なこいの地勢である。温泉場は岡の麓ふもとを出来るだけ崖がけへさしかけて、岨そばの景色を半分庭へ囲い込んだ一構ひとかまえであるから、前面は二階でも、後ろは平屋ひらやになる。椽えんから足をぶらさげれば、すぐと踵かかとは苔こけに着く。道理こそ昨夕は楷子段はしごだんをむやみに上のぼったり、下くだったり、異いな仕掛しかけの家うちと思ったはずだ。
今度は左り側の窓をあける。自然と凹くぼむ二畳ばかりの岩のなかに春の水がいつともなく、たまって静かに山桜の影を※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)ひたしている。二株三株ふたかぶみかぶの熊笹くまざさが岩の角を彩いろどる、向うに枸杞くことも見える生垣いけがきがあって、外は浜から、岡へ上る岨道そばみちか時々人声が聞える。往来の向うはだらだらと南下みなみさがりに蜜柑みかんを植えて、谷の窮きわまる所にまた大きな竹藪が、白く光る。竹の葉が遠くから見ると、白く光るとはこの時初めて知った。藪から上は、松の多い山で、赤い幹の間から石磴せきとうが五六段手にとるように見える。大方おおかた御寺だろう。
入口の襖ふすまをあけて椽えんへ出ると、欄干らんかんが四角に曲って、方角から云えば海の見ゆべきはずの所に、中庭を隔へだてて、表二階の一間ひとまがある。わが住む部屋も、欄干に倚よればやはり同じ高さの二階なのには興が催おされる。湯壺ゆつぼは地じの下にあるのだから、入湯にゅうとうと云う点から云えば、余は三層楼上に起臥きがする訳になる。
家は随分広いが、向う二階の一間と、余が欄干に添うて、右へ折れた一間のほかは、居室いま台所は知らず、客間と名がつきそうなのは大抵たいてい立て切ってある。客は、余をのぞくのほかほとんど皆無かいむなのだろう。〆しめた部屋は昼も雨戸あまどをあけず、あけた以上は夜も閉たてぬらしい。これでは表の戸締りさえ、するかしないか解らん。非人情の旅にはもって来いと云う屈強くっきょうな場所だ。
時計は十二時近くなったが飯めしを食わせる景色はさらにない。ようやく空腹を覚えて来たが、空山くうざん不見人ひとをみずと云う詩中にあると思うと、一とかたげぐらい倹約しても遺憾いかんはない。画えをかくのも面倒だ、俳句は作らんでもすでに俳三昧はいざんまいに入っているから、作るだけ野暮やぼだ。読もうと思って三脚几さんきゃくきに括くくりつけて来た二三冊の書籍もほどく気にならん。こうやって、煦々くくたる春日しゅんじつに背中せなかをあぶって、椽側えんがわに花の影と共に寝ころんでいるのが、天下の至楽しらくである。考えれば外道げどうに堕おちる。動くと危ない。出来るならば鼻から呼吸いきもしたくない。畳から根の生えた植物のようにじっとして二週間ばかり暮して見たい。
やがて、廊下に足音がして、段々下から誰か上あがってくる。近づくのを聞いていると、二人らしい。それが部屋の前でとまったなと思ったら、一人は何なんにも云わず、元の方へ引き返す。襖ふすまがあいたから、今朝の人と思ったら、やはり昨夜ゆうべの小女郎こじょろうである。何だか物足らぬ。
「遅くなりました」と膳ぜんを据すえる。朝食あさめしの言訳も何にも言わぬ。焼肴やきざかなに青いものをあしらって、椀わんの蓋ふたをとれば早蕨さわらびの中に、紅白に染め抜かれた、海老えびを沈ませてある。ああ好い色だと思って、椀の中を眺ながめていた。
「御嫌おきらいか」と下女が聞く。
「いいや、今に食う」と云ったが実際食うのは惜しい気がした。ターナーがある晩餐ばんさんの席で、皿に盛もるサラドを見詰めながら、涼しい色だ、これがわしの用いる色だと傍かたわらの人に話したと云う逸事をある書物で読んだ事があるが、この海老と蕨の色をちょっとターナーに見せてやりたい。いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。あればサラドと赤大根ぐらいなものだ。滋養の点から云ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。そこへ行くと日本の献立こんだては、吸物すいものでも、口取でも、刺身さしみでも物奇麗ものぎれいに出来る。会席膳かいせきぜんを前へ置いて、一箸ひとはしも着けずに、眺めたまま帰っても、目の保養から云えば、御茶屋へ上がった甲斐かいは充分ある。
「うちに若い女の人がいるだろう」と椀を置きながら、質問をかけた。
「へえ」
「ありゃ何だい」
「若い奥様でござんす」
「あのほかにまだ年寄の奥様がいるのかい」
「去年御亡おなくなりました」
「旦那さんは」
「おります。旦那さんの娘さんでござんす」
「あの若い人がかい」
「へえ」
「御客はいるかい」
「おりません」
「わたし一人かい」
「へえ」
「若い奥さんは毎日何をしているかい」
「針仕事を……」
「それから」
「三味しゃみを弾ひきます」
これは意外であった。面白いからまた
「それから」と聞いて見た。
「御寺へ行きます」と小女郎こじょろうが云う。
これはまた意外である。御寺と三味線は妙だ。
「御寺詣まいりをするのかい」
「いいえ、和尚様おしょうさまの所へ行きます」
「和尚さんが三味線でも習うのかい」
「いいえ」
「じゃ何をしに行くのだい」
「大徹様だいてつさまの所へ行きます」
なあるほど、大徹と云うのはこの額を書いた男に相違ない。この句から察すると何でも禅坊主ぜんぼうずらしい。戸棚に遠良天釜おらてがまがあったのは、全くあの女の所持品だろう。
「この部屋は普段誰か這入はいっている所かね」
「普段は奥様がおります」
「それじゃ、昨夕ゆうべ、わたしが来る時までここにいたのだね」
「へえ」
「それは御気の毒な事をした。それで大徹さんの所へ何をしに行くのだい」
「知りません」
「それから」
「何でござんす」
「それから、まだほかに何かするのだろう」
「それから、いろいろ……」
「いろいろって、どんな事を」
「知りません」
会話はこれで切れる。飯はようやく了おわる。膳を引くとき、小女郎が入口の襖ふすまを開あけたら、中庭の栽込うえこみを隔へだてて、向う二階の欄干らんかんに銀杏返いちょうがえしが頬杖ほおづえを突いて、開化した楊柳観音ようりゅうかんのんのように下を見詰めていた。今朝に引き替かえて、はなはだ静かな姿である。俯向うつむいて、瞳の働きが、こちらへ通わないから、相好そうごうにかほどな変化を来たしたものであろうか。昔の人は人に存するもの眸子ぼうしより良きはなしと云ったそうだが、なるほど人焉いずくんぞ※(「广+溲のつくり」、第3水準1-84-15)かくさんや、人間のうちで眼ほど活きている道具はない。寂然じゃくねんと倚よる亜字欄あじらんの下から、蝶々ちょうちょうが二羽寄りつ離れつ舞い上がる。途端とたんにわが部屋の襖ふすまはあいたのである。襖の音に、女は卒然と蝶から眼を余の方かたに転じた。視線は毒矢のごとく空くうを貫つらぬいて、会釈えしゃくもなく余が眉間みけんに落ちる。はっと思う間に、小女郎が、またはたと襖を立て切った。あとは至極しごく呑気のんきな春となる。
余はまたごろりと寝ころんだ。たちまち心に浮んだのは、
   Sadder than is the moon's lost light,
    Lost ere the kindling of dawn,
    To travellers journeying on,
   The shutting of thy fair face from my sight.
と云う句であった。もし余があの銀杏返いちょうがえしに懸想けそうして、身を砕くだいても逢わんと思う矢先に、今のような一瞥いちべつの別れを、魂消たまぎるまでに、嬉しとも、口惜くちおしとも感じたら、余は必ずこんな意味をこんな詩に作るだろう。その上に
   Might I look on thee in death,
   With bliss I would yield my breath.
と云う二句さえ、付け加えたかも知れぬ。幸い、普通ありふれた、恋とか愛とか云う境界きょうがいはすでに通り越して、そんな苦しみは感じたくても感じられない。しかし今の刹那せつなに起った出来事の詩趣はゆたかにこの五六行にあらわれている。余と銀杏返しの間柄あいだがらにこんな切せつない思おもいはないとしても、二人の今の関係を、この詩の中うちに適用あてはめて見るのは面白い。あるいはこの詩の意味をわれらの身の上に引きつけて解釈しても愉快だ。二人の間には、ある因果いんがの細い糸で、この詩にあらわれた境遇の一部分が、事実となって、括くくりつけられている。因果もこのくらい糸が細いと苦くにはならぬ。その上、ただの糸ではない。空を横切る虹にじの糸、野辺のべに棚引たなびく霞かすみの糸、露つゆにかがやく蜘蛛くもの糸。切ろうとすれば、すぐ切れて、見ているうちは勝すぐれてうつくしい。万一この糸が見る間に太くなって井戸縄いどなわのようにかたくなったら? そんな危険はない。余は画工である。先はただの女とは違う。
突然襖があいた。寝返ねがえりを打って入口を見ると、因果の相手のその銀杏返しが敷居の上に立って青磁せいじの鉢はちを盆に乗せたまま佇たたずんでいる。
「また寝ていらっしゃるか、昨夕ゆうべは御迷惑で御座んしたろう。何返なんべんも御邪魔をして、ほほほほ」と笑う。臆おくした景色けしきも、隠す景色も――恥ずる景色は無論ない。ただこちらが先せんを越されたのみである。
「今朝はありがとう」とまた礼を云った。考えると、丹前たんぜんの礼をこれで三返べん云った。しかも、三返ながら、ただ難有うと云う三字である。
女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くも坐って
「まあ寝ていらっしゃい。寝ていても話は出来ましょう」と、さも気作きさくに云う。余は全くだと考えたから、ひとまず腹這はらばいになって、両手で顎あごを支ささえ、しばし畳の上へ肘壺ひじつぼの柱を立てる。
「御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました」
「ありがとう」またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹ようかんが並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好すきだ。別段食いたくはないが、あの肌合はだあいが滑なめらかに、緻密ちみつに、しかも半透明はんとうめいに光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上ねりあげ方は、玉ぎょくと蝋石ろうせきの雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫なでて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと柔やわらかだが、少し重苦しい。ジェリは、一目いちもく宝石のように見えるが、ぶるぶる顫ふるえて、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断ごんごどうだんの沙汰である。
「うん、なかなか美事みごとだ」
「今しがた、源兵衛が買って帰りました。これならあなたに召し上がられるでしょう」
源兵衛は昨夕城下じょうかへ留とまったと見える。余は別段の返事もせず羊羹を見ていた。どこで誰れが買って来ても構う事はない。ただ美くしければ、美くしいと思うだけで充分満足である。
「この青磁の形は大変いい。色も美事だ。ほとんど羊羹に対して遜色そんしょくがない」
女はふふんと笑った。口元くちもとに侮あなどりの波が微かすかに揺ゆれた。余の言葉を洒落しゃれと解したのだろう。なるほど洒落とすれば、軽蔑けいべつされる価あたいはたしかにある。智慧ちえの足りない男が無理に洒落れた時には、よくこんな事を云うものだ。
「これは支那ですか」
「何ですか」と相手はまるで青磁を眼中に置いていない。
「どうも支那らしい」と皿を上げて底を眺ながめて見た。
「そんなものが、御好きなら、見せましょうか」
「ええ、見せて下さい」
「父が骨董こっとうが大好きですから、だいぶいろいろなものがあります。父にそう云って、いつか御茶でも上げましょう」
茶と聞いて少し辟易へきえきした。世間に茶人ちゃじんほどもったいぶった風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張なわばりをして、極きわめて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如きくきゅうじょとして、あぶくを飲んで結構がるものはいわゆる茶人である。あんな煩瑣はんさな規則のうちに雅味があるなら、麻布あざぶの聯隊れんたいのなかは雅味で鼻がつかえるだろう。廻れ右、前への連中はことごとく大茶人でなくてはならぬ。あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育のない連中が、どうするのが風流か見当がつかぬところから、器械的に利休りきゅう以後の規則を鵜呑うのみにして、これでおおかた風流なんだろう、とかえって真の風流人を馬鹿にするための芸である。
「御茶って、あの流儀のある茶ですかな」
「いいえ、流儀も何もありゃしません。御厭おいやなら飲まなくってもいい御茶です」
「そんなら、ついでに飲んでもいいですよ」
「ほほほほ。父は道具を人に見ていただくのが大好きなんですから……」
「褒ほめなくっちゃあ、いけませんか」
「年寄りだから、褒めてやれば、嬉しがりますよ」
「へえ、少しなら褒めて置きましょう」
「負けて、たくさん御褒めなさい」
「はははは、時にあなたの言葉は田舎いなかじゃない」
「人間は田舎なんですか」
「人間は田舎の方がいいのです」
「それじゃ幅はばが利ききます」
「しかし東京にいた事がありましょう」
「ええ、いました、京都にもいました。渡りものですから、方々にいました」
「ここと都と、どっちがいいですか」
「同じ事ですわ」
「こう云う静かな所が、かえって気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。蚤のみの国が厭いやになったって、蚊かの国へ引越ひっこしちゃ、何なんにもなりません」
「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出してちょうだい」と女は詰つめ寄せる。
「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち――無論とっさの筆使いだから、画えにはならない。ただ心持ちだけをさらさらと書いて、
「さあ、この中へ御這入おはいりなさい。蚤も蚊もいません」と鼻の前さきへ突きつけた。驚くか、恥ずかしがるか、この様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、ちょっと景色けしきを伺うかがうと、
「まあ、窮屈きゅうくつな世界だこと、横幅よこはばばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、まるで蟹かにね」と云って退のけた。余は
「わはははは」と笑う。軒端のきばに近く、啼なきかけた鶯うぐいすが、中途で声を崩くずして、遠き方かたへ枝移りをやる。両人ふたりはわざと対話をやめて、しばらく耳を峙そばだてたが、いったん鳴き損そこねた咽喉のどは容易に開あけぬ。
「昨日きのうは山で源兵衛に御逢おあいでしたろう」
「ええ」
「長良ながらの乙女おとめの五輪塔ごりんのとうを見ていらしったか」
「ええ」
「あきづけば、をばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」と説明もなく、女はすらりと節もつけずに歌だけ述べた。何のためか知らぬ。
「その歌はね、茶店で聞きましたよ」
「婆さんが教えましたか。あれはもと私のうちへ奉公したもので、私がまだ嫁に……」と云いかけて、これはと余よの顔を見たから、余は知らぬ風ふうをしていた。
「私がまだ若い時分でしたが、あれが来るたびに長良の話をして聞かせてやりました。うただけはなかなか覚えなかったのですが、何遍も聴きくうちに、とうとう何もかも諳誦あんしょうしてしまいました」
「どうれで、むずかしい事を知ってると思った。――しかしあの歌は憐あわれな歌ですね」
「憐れでしょうか。私ならあんな歌は咏よみませんね。第一、淵川ふちかわへ身を投げるなんて、つまらないじゃありませんか」
「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、男妾おとこめかけにするばかりですわ」
「両方ともですか」
「ええ」
「えらいな」
「えらかあない、当り前ですわ」
「なるほどそれじゃ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済む訳だ」
「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょう」
ほーう、ほけきょうと忘れかけた鶯うぐいすが、いつ勢いきおいを盛り返してか、時ならぬ高音たかねを不意に張った。一度立て直すと、あとは自然に出ると見える。身を逆さかしまにして、ふくらむ咽喉のどの底を震ふるわして、小さき口の張り裂くるばかりに、
ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうーと、つづけ様さまに囀さえずる。
「あれが本当の歌です」と女が余に教えた。  

 

「失礼ですが旦那だんなは、やっぱり東京ですか」
「東京と見えるかい」
「見えるかいって、一目ひとめ見りゃあ、――第一だいち言葉でわかりまさあ」
「東京はどこだか知れるかい」
「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも下町したまちじゃねえようだ。山やまの手てだね。山の手は麹町こうじまちかね。え? それじゃ、小石川こいしかわ? でなければ牛込うしごめか四谷よつやでしょう」
「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」
「こう見めえて、私わっちも江戸っ子だからね」
「道理どうれで生粋いなせだと思ったよ」
「えへへへへ。からっきし、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」
「何でまたこんな田舎いなかへ流れ込んで来たのだい」
「ちげえねえ、旦那のおっしゃる通りだ。全く流れ込んだんだからね。すっかり食い詰めっちまって……」
「もとから髪結床かみゆいどこの親方かね」
「親方じゃねえ、職人さ。え? 所かね。所は神田松永町かんだまつながちょうでさあ。なあに猫の額ひたい見たような小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえはずさ。あすこに竜閑橋りゅうかんばしてえ橋がありましょう。え? そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、名代なだいな橋だがね」
「おい、もう少し、石鹸しゃぼんを塗つけてくれないか、痛くって、いけない」
「痛うがすかい。私わっちゃ癇性かんしょうでね、どうも、こうやって、逆剃さかずりをかけて、一本一本髭ひげの穴を掘らなくっちゃ、気が済まねえんだから、――なあに今時いまどきの職人なあ、剃するんじゃねえ、撫なでるんだ。もう少しだ我慢おしなせえ」
「我慢は先さっきから、もうだいぶしたよ。御願だから、もう少し湯か石鹸をつけとくれ」
「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。全体ぜんてい、髭があんまり、延び過ぎてるんだ」
やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、棚たなの上から、薄うすっ片ぺらな赤い石鹸を取り卸おろして、水のなかにちょっと浸ひたしたと思ったら、それなり余の顔をまんべんなく一応撫で廻わした。裸石鹸を顔へ塗りつけられた事はあまりない。しかもそれを濡ぬらした水は、幾日前いくにちまえに汲くんだ、溜め置きかと考えると、余りぞっとしない。
すでに髪結床かみゆいどこである以上は、御客の権利として、余は鏡に向わなければならん。しかし余はさっきからこの権利を放棄したく考えている。鏡と云う道具は平たいらに出来て、なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ。もしこの性質が具そなわらない鏡を懸かけて、これに向えと強しいるならば、強いるものは下手へたな写真師と同じく、向うものの器量を故意に損害したと云わなければならぬ。虚栄心を挫くじくのは修養上一種の方便かも知れぬが、何も己おのれの真価以下の顔を見せて、これがあなたですよと、こちらを侮辱ぶじょくするには及ぶまい。今余が辛抱しんぼうして向き合うべく余儀なくされている鏡はたしかに最前から余を侮辱している。右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。仰向あおむくと蟇蛙ひきがえるを前から見たように真平まったいらに圧おし潰つぶされ、少しこごむと福禄寿ふくろくじゅの祈誓児もうしごのように頭がせり出してくる。いやしくもこの鏡に対する間あいだは一人でいろいろな化物ばけものを兼勤けんきんしなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬはまず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合や、銀紙の剥はげ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜体を極きわめている。小人しょうじんから罵詈ばりされるとき、罵詈それ自身は別に痛痒つうようを感ぜぬが、その小人しょうじんの面前に起臥きがしなければならぬとすれば、誰しも不愉快だろう。
その上この親方がただの親方ではない。そとから覗のぞいたときは、胡坐あぐらをかいて、長煙管ながぎせるで、おもちゃの日英同盟にちえいどうめい国旗の上へ、しきりに煙草たばこを吹きつけて、さも退屈気たいくつげに見えたが、這入はいって、わが首の所置を托する段になって驚ろいた。髭ひげを剃そる間は首の所有権は全く親方の手にあるのか、はた幾分かは余の上にも存するのか、一人で疑がい出したくらい、容赦ようしゃなく取り扱われる。余の首が肩の上に釘付くぎづけにされているにしてもこれでは永く持たない。
彼は髪剃かみそりを揮ふるうに当って、毫ごうも文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。揉もみ上あげの所ではぞきりと動脈が鳴った。顋あごのあたりに利刃りじんがひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱しもばしらを踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。
最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙な臭においがする。時々は異いな瓦斯ガスを余が鼻柱へ吹き掛ける。これではいつ何時なんどき、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。得心ずくで任せた顔だから、少しの怪我けがなら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って咽喉笛のどぶえでも掻かき切られては事だ。
「石鹸しゃぼんなんぞを、つけて、剃するなあ、腕が生なまなんだが、旦那のは、髭が髭だから仕方があるめえ」と云いながら親方は裸石鹸を、裸のまま棚の上へ放ほうり出すと、石鹸は親方の命令に背そむいて地面の上へ転ころがり落ちた。
「旦那あ、あんまり見受けねえようだが、何ですかい、近頃来なすったのかい」
「二三日にさんち前来たばかりさ」
「へえ、どこにいるんですい」
「志保田しほだに逗とまってるよ」
「うん、あすこの御客さんですか。おおかたそんな事こったろうと思ってた。実あ、私わっしもあの隠居さんを頼たよって来たんですよ。――なにね、あの隠居が東京にいた時分、わっしが近所にいて、――それで知ってるのさ。いい人でさあ。ものの解ったね。去年御新造ごしんぞが死んじまって、今じゃ道具ばかり捻ひねくってるんだが――何でも素晴らしいものが、有るてえますよ。売ったらよっぽどな金目かねめだろうって話さ」
「奇麗きれいな御嬢さんがいるじゃないか」
「あぶねえね」
「何が?」
「何がって。旦那の前めえだが、あれで出返でもどりですぜ」
「そうかい」
「そうかいどころの騒さわぎじゃねえんだね。全体なら出て来なくってもいいところをさ。――銀行が潰つぶれて贅沢ぜいたくが出来ねえって、出ちまったんだから、義理が悪わるいやね。隠居さんがああしているうちはいいが、もしもの事があった日にゃ、法返ほうがえしがつかねえ訳わけになりまさあ」
「そうかな」
「当あたり前めえでさあ。本家の兄あにきたあ、仲がわるしさ」
「本家があるのかい」
「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行って御覧なさい。景色のいい所ですよ」
「おい、もう一遍石鹸しゃぼんをつけてくれないか。また痛くなって来た」
「よく痛くなる髭ひげだね。髭が硬過こわすぎるからだ。旦那の髭じゃ、三日に一度は是非剃そりを当てなくっちゃ駄目ですぜ。わっしの剃で痛けりゃ、どこへ行ったって、我慢出来っこねえ」
「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
「そんなに長く逗留とうりゅうする気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。益もねえ事こった。碌ろくでもねえものに引っかかって、どんな目に逢うか解りませんぜ」
「どうして」
「旦那あの娘は面めんはいいようだが、本当はき印じるしですぜ」
「なぜ」
「なぜって、旦那。村のものは、みんな気狂きちげえだって云ってるんでさあ」
「そりゃ何かの間違だろう」
「だって、現げんに証拠があるんだから、御よしなせえ。けんのんだ」
「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
「おかしな話しさね。まあゆっくり、煙草たばこでも呑のんで御出おいでなせえ話すから。――頭あ洗いましょうか」
「頭はよそう」
「頭垢ふけだけ落して置くかね」
親方は垢あかの溜たまった十本の爪を、遠慮なく、余が頭蓋骨ずがいこつの上に並べて、断わりもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。この爪が、黒髪の根を一本ごとに押し分けて、不毛の境きょうを巨人の熊手くまでが疾風の速度で通るごとくに往来する。余が頭に何十万本の髪の毛が生はえているか知らんが、ありとある毛がことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫めめずばれにふくれ上った上、余勢が地磐じばんを通して、骨から脳味噌のうみそまで震盪しんとうを感じたくらい烈はげしく、親方は余の頭を掻き廻わした。
「どうです、好い心持でしょう」
「非常な辣腕らつわんだ」
「え? こうやると誰でもさっぱりするからね」
「首が抜けそうだよ」
「そんなに倦怠けったるうがすかい。全く陽気の加減だね。どうも春てえ奴やつあ、やに身体からだがなまけやがって――まあ一ぷく御上おあがんなさい。一人で志保田にいちゃ、退屈でしょう。ちと話しに御出おいでなせえ。どうも江戸っ子は江戸っ子同志でなくっちゃ、話しが合わねえものだから。何ですかい、やっぱりあの御嬢さんが、御愛想に出てきますかい。どうもさっぱし、見境みさけえのねえ女だから困っちまわあ」
「御嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったっけ」
「違ちげえねえ、がんがらがんだから、からっきし、話に締りがねえったらねえ。――そこでその坊主が逆のぼせちまって……」
「その坊主たあ、どの坊主だい」
「観海寺かんかいじの納所坊主なっしょぼうずがさ……」
「納所なっしょにも住持じゅうじにも、坊主はまだ一人も出て来ないんだ」
「そうか、急勝せっかちだから、いけねえ。苦味走にがんばしった、色の出来そうな坊主だったが、そいつが御前おまえさん、レコに参っちまって、とうとう文ふみをつけたんだ。――おや待てよ。口説くどいたんだっけかな。いんにゃ文だ。文に違ちげえねえ。すると――こうっと――何だか、行いきさつが少し変だぜ。うん、そうか、やっぱりそうか。するてえと奴やっこさん、驚ろいちまってからに……」
「誰が驚ろいたんだい」
「女がさ」
「女が文を受け取って驚ろいたんだね」
「ところが驚ろくような女なら、殊勝しおらしいんだが、驚ろくどころじゃねえ」
「じゃ誰が驚ろいたんだい」
「口説た方がさ」
「口説ないのじゃないか」
「ええ、じれってえ。間違ってらあ。文ふみをもらってさ」
「それじゃやっぱり女だろう」
「なあに男がさ」
「男なら、その坊主だろう」
「ええ、その坊主がさ」
「坊主がどうして驚ろいたのかい」
「どうしてって、本堂で和尚おしょうさんと御経を上げてると、突然いきなりあの女が飛び込んで来て――ウフフフフ。どうしても狂印きじるしだね」
「どうかしたのかい」
「そんなに可愛かわいいなら、仏様の前で、いっしょに寝ようって、出し抜けに、泰安たいあんさんの頸くびっ玉たまへかじりついたんでさあ」
「へええ」
「面喰めんくらったなあ、泰安さ。気狂きちげえに文をつけて、飛んだ恥を掻かかせられて、とうとう、その晩こっそり姿を隠して死んじまって……」
「死んだ?」
「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
「何とも云えない」
「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって冴さえねえから、ことによると生きてるかも知れねえね」
「なかなか面白い話だ」
「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、根ねが気が違ってるんだから、洒唖洒唖しゃあしゃあして平気なもんで――なあに旦那のようにしっかりしていりゃ大丈夫ですがね、相手が相手だから、滅多めったにからかったり何なんかすると、大変な目に逢いますよ」
「ちっと気をつけるかね。ははははは」
生温なまぬるい磯いそから、塩気のある春風はるかぜがふわりふわりと来て、親方の暖簾のれんを眠ねむたそうに煽あおる。身を斜はすにしてその下をくぐり抜ける燕つばめの姿が、ひらりと、鏡の裡うちに落ちて行く。向うの家うちでは六十ばかりの爺さんが、軒下に蹲踞うずくまりながら、だまって貝をむいている。かちゃりと、小刀があたるたびに、赤い味みが笊ざるのなかに隠れる。殻からはきらりと光りを放って、二尺あまりの陽炎かげろうを向むこうへ横切る。丘のごとくに堆うずたかく、積み上げられた、貝殻は牡蠣かきか、馬鹿ばかか、馬刀貝まてがいか。崩くずれた、幾分は砂川すながわの底に落ちて、浮世の表から、暗くらい国へ葬られる。葬られるあとから、すぐ新しい貝が、柳の下へたまる。爺さんは貝の行末ゆくえを考うる暇さえなく、ただ空むなしき殻を陽炎かげろうの上へ放ほうり出す。彼かれの笊ざるには支ささうべき底なくして、彼れの春の日は無尽蔵に長閑のどかと見える。
砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出合うあたりには、参差しんしとして幾尋いくひろの干網が、網の目を抜けて村へ吹く軟風に、腥なまぐさき微温ぬくもりを与えつつあるかと怪しまれる。その間から、鈍刀どんとうを溶とかして、気長にのたくらせたように見えるのが海の色だ。
この景色とこの親方とはとうてい調和しない。もしこの親方の人格が強烈で四辺しへんの風光と拮抗きっこうするほどの影響を余の頭脳に与えたならば、余は両者の間に立ってすこぶる円※(「木+吶のつくり」、第3水準1-85-54)方鑿えんぜいほうさくの感に打たれただろう。幸さいわいにして親方はさほど偉大な豪傑ではなかった。いくら江戸っ子でも、どれほどたんかを切っても、この渾然こんぜんとして駘蕩たいとうたる天地の大気象には叶かなわない。満腹の饒舌にょうぜつを弄ろうして、あくまでこの調子を破ろうとする親方は、早く一微塵いちみじんとなって、怡々いいたる春光しゅんこうの裏うちに浮遊している。矛盾とは、力において、量において、もしくは意気体躯たいくにおいて氷炭相容ひょうたんあいいるる能あたわずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在あって始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく※(「さんずい+斯」、第3水準1-87-16)※(「龍/石」、第3水準1-89-17)磨しじんろうまして、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。大人たいじんの手足しゅそくとなって才子が活動し、才子の股肱ここうとなって昧者まいしゃが活動し、昧者の心腹しんぷくとなって牛馬が活動し得るのはこれがためである。今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽こっけいを演じている。長閑のどかな春の感じを壊こわすべきはずの彼は、かえって長閑な春の感じを刻意に添えつつある。余は思わず弥生半やよいなかばに呑気のんきな弥次やじと近づきになったような気持ちになった。この極きわめて安価なる気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)家きえんかは、太平の象しょうを具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。
こう考えると、この親方もなかなか画えにも、詩にもなる男だから、とうに帰るべきところを、わざと尻しりを据すえて四方八方よもやまの話をしていた。ところへ暖簾のれんを滑すべって小さな坊主頭が
「御免、一つ剃そって貰おうか」
と這入はいって来る。白木綿の着物に同じ丸絎まるぐけの帯をしめて、上から蚊帳かやのように粗あらい法衣ころもを羽織って、すこぶる気楽に見える小坊主であった。
「了念りょうねんさん。どうだい、こないだあ道草あ、食って、和尚おしょうさんに叱しかられたろう」
「いんにゃ、褒ほめられた」
「使に出て、途中で魚なんか、とっていて、了念は感心だって、褒められたのかい」
「若いに似ず了念は、よく遊んで来て感心じゃ云うて、老師が褒められたのよ」
「道理どうれで頭に瘤こぶが出来てらあ。そんな不作法な頭あ、剃するなあ骨が折れていけねえ。今日は勘弁するから、この次から、捏こね直して来ねえ」
「捏ね直すくらいなら、ますこし上手な床屋へ行きます」
「はははは頭は凹凸ぼこでこだが、口だけは達者なもんだ」
「腕は鈍いが、酒だけ強いのは御前おまえだろ」
「箆棒べらぼうめ、腕が鈍いって……」
「わしが云うたのじゃない。老師が云われたのじゃ。そう怒るまい。年甲斐としがいもない」
「ヘン、面白くもねえ。――ねえ、旦那」
「ええ?」
「全体ぜんてえ坊主なんてえものは、高い石段の上に住んでやがって、屈托くったくがねえから、自然に口が達者になる訳ですかね。こんな小坊主までなかなか口幅くちはばってえ事を云いますぜ――おっと、もう少し頭どたまを寝かして――寝かすんだてえのに、――言う事を聴きかなけりゃ、切るよ、いいか、血が出るぜ」
「痛いがな。そう無茶をしては」
「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」
「坊主にはもうなっとるがな」
「まだ一人前いちにんめえじゃねえ。――時にあの泰安さんは、どうして死んだっけな、御小僧さん」
「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ? はてな。死んだはずだが」
「泰安さんは、その後のち発憤して、陸前りくぜんの大梅寺だいばいじへ行って、修業三昧しゅぎょうざんまいじゃ。今に智識ちしきになられよう。結構な事よ」
「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。御前おめえなんざ、よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――女ってえば、あの狂印きじるしはやっぱり和尚おしょうさんの所へ行くかい」
「狂印きじるしと云う女は聞いた事がない」
「通じねえ、味噌擂みそすりだ。行くのか、行かねえのか」
「狂印きじるしは来んが、志保田の娘さんなら来る」
「いくら、和尚さんの御祈祷ごきとうでもあればかりゃ、癒なおるめえ。全く先せんの旦那が祟たたってるんだ」
「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒ほめておられる」
「石段をあがると、何でも逆様さかさまだから叶かなわねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂きちげえは気狂きちげえだろう。――さあ剃すれたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いやもう少し遊んで行って賞ほめられよう」
「勝手にしろ、口の減へらねえ餓鬼がきだ」
「咄とつこの乾屎※(「木+厥」、第3水準1-86-15)かんしけつ」
「何だと?」
青い頭はすでに暖簾のれんをくぐって、春風しゅんぷうに吹かれている。

 

夕暮の机に向う。障子も襖ふすまも開あけ放はなつ。宿の人は多くもあらぬ上に、家は割合に広い。余が住む部屋は、多くもあらぬ人の、人らしく振舞ふるまう境きょうを、幾曲いくまがりの廊下に隔てたれば、物の音さえ思索の煩わずらいにはならぬ。今日は一層ひとしお静かである。主人も、娘も、下女も下男も、知らぬ間まに、われを残して、立ち退のいたかと思われる。立ち退いたとすればただの所へ立ち退きはせぬ。霞かすみの国か、雲の国かであろう。あるいは雲と水が自然に近づいて、舵かじをとるさえ懶ものうき海の上を、いつ流れたとも心づかぬ間に、白い帆が雲とも水とも見分け難き境さかいに漂ただよい来て、果はては帆みずからが、いずこに己おのれを雲と水より差別すべきかを苦しむあたりへ――そんな遥はるかな所へ立ち退いたと思われる。それでなければ卒然と春のなかに消え失せて、これまでの四大しだいが、今頃は目に見えぬ霊氛れいふんとなって、広い天地の間に、顕微鏡けんびきょうの力を藉かるとも、些さの名残なごりを留とどめぬようになったのであろう。あるいは雲雀ひばりに化して、菜なの花の黄きを鳴き尽したる後のち、夕暮深き紫のたなびくほとりへ行ったかも知れぬ。または永き日を、かつ永くする虻あぶのつとめを果したる後、蕋ずいに凝こる甘き露を吸い損そこねて、落椿おちつばきの下に、伏せられながら、世を香かんばしく眠っているかも知れぬ。とにかく静かなものだ。
空むなしき家を、空しく抜ける春風はるかぜの、抜けて行くは迎える人への義理でもない。拒こばむものへの面当つらあてでもない。自おのずから来きたりて、自から去る、公平なる宇宙の意こころである。掌たなごころに顎あごを支ささえたる余の心も、わが住む部屋のごとく空むなしければ、春風は招かぬに、遠慮もなく行き抜けるであろう。
踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣きづかいも起おこる。戴いただくは天と知る故に、稲妻いなずまの米噛こめかみに震ふるう怖おそれも出来る。人と争あらそわねば一分いちぶんが立たぬと浮世が催促するから、火宅かたくの苦くは免かれぬ。東西のある乾坤けんこんに住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎あだである。目に見る富は土である。握る名と奪える誉ほまれとは、小賢こざかしき蜂はちが甘く醸かもすと見せて、針を棄すて去る蜜のごときものであろう。いわゆる楽たのしみは物に着ちゃくするより起るが故ゆえに、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と画客がかくなるものあって、飽あくまでこの待対たいたい世界の精華を嚼かんで、徹骨徹髄てっこつてつずいの清きを知る。霞かすみを餐さんし、露を嚥のみ、紫しを品ひんし、紅こうを評ひょうして、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着ちゃくするのではない。同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々ぼうぼうたる大地を極きわめても見出みいだし得ぬ。自在じざいに泥団でいだんを放下ほうげして、破笠裏はりつりに無限むげんの青嵐せいらんを盛もる。いたずらにこの境遇を拈出ねんしゅつするのは、敢あえて市井しせいの銅臭児どうしゅうじの鬼嚇きかくして、好んで高く標置ひょうちするがためではない。ただ這裏しゃりの福音ふくいんを述べて、縁ある衆生しゅじょうを麾さしまねくのみである。有体ありていに云えば詩境と云い、画界と云うも皆人々具足にんにんぐそくの道である。春秋しゅんじゅうに指を折り尽して、白頭はくとうに呻吟しんぎんするの徒とといえども、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、かつては微光の臭骸しゅうがいに洩もれて、吾われを忘れし、拍手はくしゅの興きょうを喚よび起す事が出来よう。出来ぬと云わば生甲斐いきがいのない男である。
されど一事いちじに即そくし、一物いちぶつに化かするのみが詩人の感興とは云わぬ。ある時は一弁いちべんの花に化し、あるときは一双いっそうの蝶ちょうに化し、あるはウォーヅウォースのごとく、一団の水仙に化して、心を沢風たくふうの裏うちに撩乱りょうらんせしむる事もあろうが、何なんとも知れぬ四辺しへんの風光にわが心を奪われて、わが心を奪えるは那物なにものぞとも明瞭めいりょうに意識せぬ場合がある。ある人は天地の耿気こうきに触るると云うだろう。ある人は無絃むげんの琴きんを霊台れいだいに聴くと云うだろう。またある人は知りがたく、解しがたき故に無限の域に※(「にんべん+亶」、第3水準1-14-43)※(「にんべん+回」、第3水準1-14-18)せんかいして、縹緲ひょうびょうのちまたに彷徨ほうこうすると形容するかも知れぬ。何と云うも皆その人の自由である。わが、唐木からきの机に憑よりてぽかんとした心裡しんりの状態は正まさにこれである。
余は明あきらかに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。されども吾は動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍惚こうこつと動いている。
強しいて説明せよと云わるるならば、余が心はただ春と共に動いていると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙丹せんたんに練り上げて、それを蓬莱ほうらいの霊液れいえきに溶といて、桃源とうげんの日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間まに毛孔けあなから染しみ込んで、心が知覚せぬうちに飽和ほうわされてしまったと云いたい。普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか不分明ふぶんみょうであるから、毫ごうも刺激がない。刺激がないから、窈然ようぜんとして名状しがたい楽たのしみがある。風に揉もまれて上うわの空そらなる波を起す、軽薄で騒々しい趣おもむきとは違う。目に見えぬ幾尋いくひろの底を、大陸から大陸まで動いている※(「さんずい+(廣−广)」、第3水準1-87-13)洋こうようたる蒼海そうかいの有様と形容する事が出来る。ただそれほどに活力がないばかりだ。しかしそこにかえって幸福がある。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸念けねんが籠こもる。常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈はげしき力の銷磨しょうましはせぬかとの憂うれいを離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に捕とらえ難しと云う意味で、弱きに過ぎる虞おそれを含んではおらぬ。冲融ちゅうゆうとか澹蕩たんとうとか云う詩人の語はもっともこの境きょうを切実に言い了おおせたものだろう。
この境界きょうがいを画えにして見たらどうだろうと考えた。しかし普通の画にはならないにきまっている。われらが俗に画と称するものは、ただ眼前がんぜんの人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に漉過ろくかして、絵絹えぎぬの上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能事のうじは終ったものと考えられている。もしこの上に一頭地いっとうちを抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣おもむきを添えて、画布の上に淋漓りんりとして生動せいどうさせる。ある特別の感興を、己おのが捕えたる森羅しんらの裡うちに寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明瞭めいりょうに筆端に迸ほとばしっておらねば、画を製作したとは云わぬ。己おのれはしかじかの事を、しかじかに観み、しかじかに感じたり、その観方みかたも感じ方も、前人ぜんじんの籬下りかに立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
この二種の製作家に主客しゅかく深浅の区別はあるかも知れぬが、明瞭なる外界の刺激を待って、始めて手を下すのは双方共同一である。されど今、わが描かんとする題目は、さほどに分明ぶんみょうなものではない。あらん限りの感覚を鼓舞こぶして、これを心外に物色したところで、方円の形、紅緑こうろくの色は無論、濃淡の陰、洪繊こうせんの線すじを見出しかねる。わが感じは外から来たのではない、たとい来たとしても、わが視界に横よこたわる、一定の景物でないから、これが源因げんいんだと指を挙あげて明らかに人に示す訳わけに行かぬ。あるものはただ心持ちである。この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう――否いやこの心持ちをいかなる具体を藉かりて、人の合点がてんするように髣髴ほうふつせしめ得るかが問題である。
普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰好かっこうなる対象を択えらばなければならん。しかるにこの対象は容易に出て来ない。出て来ても容易に纏まとまらない。纏っても自然界に存するものとは丸まるで趣おもむきを異ことにする場合がある。したがって普通の人から見れば画とは受け取れない。描えがいた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん、ただ感興の上さした刻下の心持ちを幾分でも伝えて、多少の生命を※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)しょうきょうしがたきムードに与うれば大成功と心得ている。古来からこの難事業に全然の績いさおしを収め得たる画工があるかないか知らぬ。ある点までこの流派りゅうはに指を染め得たるものを挙あぐれば、文与可ぶんよかの竹である。雲谷うんこく門下の山水である。下って大雅堂たいがどうの景色けいしょくである。蕪村ぶそんの人物である。泰西たいせいの画家に至っては、多く眼を具象ぐしょう世界に馳はせて、神往しんおうの気韻きいんに傾倒せぬ者が大多数を占めているから、この種の筆墨に物外ぶつがいの神韻しんいんを伝え得るものははたして幾人あるか知らぬ。
惜しい事に雪舟せっしゅう、蕪村らの力つとめて描出びょうしゅつした一種の気韻は、あまりに単純でかつあまりに変化に乏しい。筆力の点から云えばとうていこれらの大家に及ぶ訳はないが、今わが画えにして見ようと思う心持ちはもう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。頬杖ほおづえをやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾子わがこを尋ね当てるため、六十余州を回国かいこくして、寝ねても寤さめても、忘れる間まがなかったある日、十字街頭にふと邂逅かいこうして、稲妻いなずまの遮さえぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと罵ののしられても恨うらみはない。いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の曲直きょくちょくがこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの風韻ふういんのどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、牛であれ馬であれ、ないしは牛でも馬でも、何でもないものであれ、厭いとわない。厭わないがどうも出来ない。写生帖を机の上へ置いて、両眼が帖じょうのなかへ落ち込むまで、工夫くふうしたが、とても物にならん。
鉛筆を置いて考えた。こんな抽象的ちゅうしょうてきな興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である。人間にそう変りはないから、多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう。
たちまち音楽の二字がぴかりと眼に映った。なるほど音楽はかかる時、かかる必要に逼せまられて生まれた自然の声であろう。楽がくは聴きくべきもの、習うべきものであると、始めて気がついたが、不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である。
次に詩にはなるまいかと、第三の領分に踏み込んで見る。レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領であるごとく論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てたように記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている境界きょうがいもとうてい物になりそうにない。余が嬉しいと感ずる心裏しんりの状況には時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、逓次ていじに展開すべき出来事の内容がない。一が去り、二が来きたり、二が消えて三が生まるるがために嬉うれしいのではない。初から窈然ようぜんとして同所どうしょに把住はじゅうする趣おもむきで嬉しいのである。すでに同所に把住する以上は、よしこれを普通の言語に翻訳したところで、必ずしも時間的に材料を按排あんばいする必要はあるまい。やはり絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来るだろう。ただいかなる景情けいじょうを詩中に持ち来って、この曠然こうぜんとして倚托きたくなき有様を写すかが問題で、すでにこれを捕とらえ得た以上はレッシングの説に従わんでも詩として成功する訳だ。ホーマーがどうでも、ヴァージルがどうでも構わない。もし詩が一種のムードをあらわすに適しているとすれば、このムードは時間の制限を受けて、順次に進捗しんちょくする出来事の助けを藉からずとも、単純に空間的なる絵画上の要件を充みたしさえすれば、言語をもって描えがき得るものと思う。
議論はどうでもよい。ラオコーンなどは大概忘れているのだから、よく調べたら、こっちが怪しくなるかも知れない。とにかく、画えにしそくなったから、一つ詩にして見よう、と写生帖の上へ、鉛筆を押しつけて、前後に身をゆすぶって見た。しばらくは、筆の先の尖とがった所を、どうにか運動させたいばかりで、毫ごうも運動させる訳わけに行かなかった。急に朋友ほうゆうの名を失念して、咽喉のどまで出かかっているのに、出てくれないような気がする。そこで諦あきらめると、出損でそくなった名は、ついに腹の底へ収まってしまう。
葛湯くずゆを練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸はしに手応てごたえがないものだ。そこを辛抱しんぼうすると、ようやく粘着ねばりが出て、攪かき淆まぜる手が少し重くなる。それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。しまいには鍋なべの中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。詩を作るのはまさにこれだ。
手掛てがかりのない鉛筆が少しずつ動くようになるのに勢を得て、かれこれ二三十分したら、
青春二三月。愁随芳草長。閑花落空庭。素琴横虚堂。※(「虫+蕭」、第4水準2-87-94)蛸掛不動。篆煙繞竹梁。
と云う六句だけ出来た。読み返して見ると、みな画になりそうな句ばかりである。これなら始めから、画にすればよかったと思う。なぜ画よりも詩の方が作り易やすかったかと思う。ここまで出たら、あとは大した苦もなく出そうだ。しかし画に出来ない情じょうを、次には咏うたって見たい。あれか、これかと思い煩わずらった末とうとう、
独坐無隻語。方寸認微光。人間徒多事。此境孰可忘。会得一日静。正知百年忙。遐懐寄何処。緬※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)白雲郷。
と出来た。もう一返いっぺん最初から読み直して見ると、ちょっと面白く読まれるが、どうも、自分が今しがた入はいった神境を写したものとすると、索然さくぜんとして物足りない。ついでだから、もう一首作って見ようかと、鉛筆を握ったまま、何の気もなしに、入口の方を見ると、襖ふすまを引いて、開あけ放はなった幅三尺の空間をちらりと、奇麗な影が通った。はてな。
余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、すでに引き開けた襖の影に半分かくれかけていた。しかもその姿は余が見ぬ前から、動いていたものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。
一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿ふりそですがたのすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側えんがわを寂然じゃくねんとして歩行あるいて行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。
花曇はなぐもりの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄干らんかんに、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間けんの中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭寥しょうりょうと見えつ、隠れつする。
女はもとより口も聞かぬ。傍目わきめも触ふらぬ。椽えんに引く裾すその音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩行あるいている。腰から下にぱっと色づく、裾模様すそもようは何を染め抜いたものか、遠くて解わからぬ。ただ無地むじと模様のつながる中が、おのずから暈ぼかされて、夜と昼との境のごとき心地ここちである。女はもとより夜と昼との境をあるいている。
この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装よそおいをして、この不思議な歩行あゆみをつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。逝ゆく春の恨うらみを訴うる所作しょさならば何が故ゆえにかくは無頓着むとんじゃくなる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺羅きらを飾れる。
暮れんとする春の色の、嬋媛せんえんとして、しばらくは冥※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)めいばくの戸口をまぼろしに彩いろどる中に、眼も醒さむるほどの帯地おびじは金襴きんらんか。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然そうぜんたる夕べのなかにつつまれて、幽闃ゆうげきのあなた、遼遠りょうえんのかしこへ一分ごとに消えて去る。燦きらめき渡る春の星の、暁あかつき近くに、紫深き空の底に陥おちいる趣おもむきである。
太玄たいげんの※(「門<昏」、第3水準1-93-52)もんおのずから開ひらけて、この華はなやかなる姿を、幽冥ゆうめいの府ふに吸い込まんとするとき、余はこう感じた。金屏きんびょうを背に、銀燭ぎんしょくを前に、春の宵の一刻を千金と、さざめき暮らしてこそしかるべきこの装よそおいの、厭いとう景色けしきもなく、争う様子も見えず、色相しきそう世界から薄れて行くのは、ある点において超自然の情景である。刻々と逼せまる黒き影を、すかして見ると女は粛然として、焦せきもせず、狼狽うろたえもせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘徊はいかいしているらしい。身に落ちかかる災わざわいを知らぬとすれば無邪気の極きわみである。知って、災と思わぬならば物凄ものすごい。黒い所が本来の住居すまいで、しばらくの幻影まぼろしを、元もとのままなる冥漠めいばくの裏うちに収めればこそ、かように間※(「靜のへん+見」、第3水準1-93-75)かんせいの態度で、有うと無むの間あいだに逍遥しょうようしているのだろう。女のつけた振袖に、紛ふんたる模様の尽きて、是非もなき磨墨するすみに流れ込むあたりに、おのが身の素性すじょうをほのめかしている。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚うつつのままで、この世の呼吸いきを引き取るときに、枕元に病やまいを護まもるわれらの心はさぞつらいだろう。四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐いきがいのない本人はもとより、傍はたに見ている親しい人も殺すが慈悲と諦あきらめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科とががあろう。眠りながら冥府よみに連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果はたすと同様である。どうせ殺すものなら、とても逃のがれぬ定業じょうごうと得心もさせ、断念もして、念仏を唱となえたい。死ぬべき条件が具そなわらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南無阿弥陀仏なむあみだぶつと回向えこうをする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。仮かりの眠りから、いつの間まとも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩悩ぼんのうの綱をむやみに引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、穏おだやかに寝かしてくれと思うかも知れぬ。それでも、われわれは呼び返したくなる。余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡うちから救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否いなや、何だか口が聴きけなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。なぜ何とも云えぬかと考うる途端とたんに、女はまた通る。こちらに窺うかがう人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微塵みじんも気に掛からぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、初手しょてから、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、蕭々しょうしょうと封じ了おわる。

 

寒い。手拭てぬぐいを下げて、湯壺ゆつぼへ下くだる。
三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は御影みかげで敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋とうふやほどな湯槽ゆぶねを据すえる。槽ふねとは云うもののやはり石で畳んである。鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入はいり心地ごこちがよい。折々は口にさえふくんで見るが別段の味も臭においもない。病気にも利きくそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。もとより別段の持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだ事がない。ただ這入はいる度に考え出すのは、白楽天はくらくてんの温泉おんせん水滑みずなめらかにして洗凝脂ぎょうしをあらうと云う句だけである。温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。
すぽりと浸つかると、乳のあたりまで這入はいる。湯はどこから湧わいて出るか知らぬが、常でも槽ふねの縁ふちを奇麗に越している。春の石は乾かわくひまなく濡ぬれて、あたたかに、踏む足の、心は穏おだやかに嬉しい。降る雨は、夜の目を掠かすめて、ひそかに春を潤うるおすほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやく繁しげく、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。立て籠こめられた湯気は、床ゆかから天井を隈くまなく埋うずめて、隙間すきまさえあれば、節穴ふしあなの細きを厭いとわず洩もれ出いでんとする景色けしきである。
秋の霧は冷やかに、たなびく靄もやは長閑のどかに、夕餉炊ゆうげたく、人の煙は青く立って、大いなる空に、わがはかなき姿を托す。様々の憐あわれはあるが、春の夜よの温泉でゆの曇りばかりは、浴ゆあみするものの肌を、柔やわらかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。眼に写るものの見えぬほど、濃くまつわりはせぬが、薄絹を一重ひとえ破れば、何の苦もなく、下界の人と、己おのれを見出すように、浅きものではない。一重破り、二重破り、幾重を破り尽すともこの煙りから出す事はならぬ顔に、四方よりわれ一人を、温あたたかき虹にじの中うちに埋うずめ去る。酒に酔うと云う言葉はあるが、煙りに酔うと云う語句を耳にした事がない。あるとすれば、霧には無論使えぬ、霞には少し強過ぎる。ただこの靄に、春宵しゅんしょうの二字を冠したるとき、始めて妥当なるを覚える。
余は湯槽ゆぶねのふちに仰向あおむけの頭を支ささえて、透すき徹とおる湯のなかの軽かろき身体からだを、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂ただよわして見た。ふわり、ふわりと魂たましいがくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽らくなものだ。分別ふんべつの錠前じょうまえを開あけて、執着しゅうじゃくの栓張しんばりをはずす。どうともせよと、湯泉ゆのなかで、湯泉ゆと同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督キリストの御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門どざえもんは風流ふうりゅうである。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択えらんだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画えになるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩ひゆになってしまう。痙攣的けいれんてきな苦悶くもんはもとより、全幅の精神をうち壊こわすが、全然色気いろけのない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以もって、一つ風流な土左衛門どざえもんをかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。
湯のなかに浮いたまま、今度は土左衛門どざえもんの賛さんを作って見る。
   雨が降ったら濡ぬれるだろう。
   霜しもが下おりたら冷つめたかろ。
   土のしたでは暗かろう。
   浮かば波の上、
   沈まば波の底、
   春の水なら苦はなかろ。
と口のうちで小声に誦じゅしつつ漫然まんぜんと浮いていると、どこかで弾ひく三味線の音ねが聞える。美術家だのにと云われると恐縮するが、実のところ、余がこの楽器における智識はすこぶる怪しいもので二が上がろうが、三が下がろうが、耳には余り影響を受けた試ためしがない。しかし、静かな春の夜に、雨さえ興を添える、山里の湯壺ゆつぼの中で、魂たましいまで春の温泉でゆに浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのははなはだ嬉しい。遠いから何を唄うたって、何を弾いているか無論わからない。そこに何だか趣おもむきがある。音色ねいろの落ちついているところから察すると、上方かみがたの検校けんぎょうさんの地唄じうたにでも聴かれそうな太棹ふとざおかとも思う。
小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に控ひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松は周まわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、苔こけ深き地を抽ぬいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、独ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかに膝ひざを容いるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠を睨にらめて、この草の香かを臭かいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
御倉さんはもう赤い手絡てがらの時代さえ通り越して、だいぶんと世帯しょたいじみた顔を、帳場へ曝さらしてるだろう。聟むことは折合おりあいがいいか知らん。燕つばくろは年々帰って来て、泥どろを啣ふくんだ嘴くちばしを、いそがしげに働かしているか知らん。燕と酒の香かとはどうしても想像から切り離せない。
三本の松はいまだに好いい恰好かっこうで残っているかしらん。鉄灯籠はもう壊れたに相違ない。春の草は、昔むかし、しゃがんだ人を覚えているだろうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。御倉おくらさんの旅の衣は鈴懸のと云う、日ひごとの声もよも聞き覚えがあるとは云うまい。
三味しゃみの音ねが思わぬパノラマを余の眼前がんぜんに展開するにつけ、余は床ゆかしい過去の面まのあたりに立って、二十年の昔に住む、頑是がんぜなき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと開あいた。
誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に注そそぐ。湯槽ゆぶねの縁ふちの最も入口から、隔へだたりたるに頭を乗せているから、槽ふねに下くだる段々は、間あいだ二丈を隔てて斜ななめに余が眼に入る。しかし見上げたる余の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒を遶めぐる雨垂あまだれの音のみが聞える。三味線はいつの間まにかやんでいた。
やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照てらすものは、ただ一つの小さき釣つり洋灯ランプのみであるから、この隔りでは澄切った空気を控ひかえてさえ、確しかと物色ぶっしょくはむずかしい。まして立ち上がる湯気の、濃こまやかなる雨に抑おさえられて、逃場にげばを失いたる今宵こよいの風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす灯影ほかげを浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。
黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞※(「毬」の「求」に代えて「戎」、第4水準2-78-11)びろうどのごとく柔やわらかと見えて、足音を証しょうにこれを律りっすれば、動かぬと評しても差支さしつかえない。が輪廓は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、存外ぞんがい視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中に在ある事を覚さとった。
注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺憾いかんなく、余が前に、早くもあらわれた。漲みなぎり渡る湯煙りの、やわらかな光線を一分子ぶんしごとに含んで、薄紅うすくれないの暖かに見える奥に、漾ただよわす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈せたけを、すらりと伸のした女の姿を見た時は、礼儀の、作法さほうの、風紀ふうきのと云う感じはことごとく、わが脳裏のうりを去って、ただひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。
古代希臘ギリシャの彫刻はいざ知らず、今世仏国きんせいふっこくの画家が命と頼む裸体画を見るたびに、あまりに露骨あからさまな肉の美を、極端まで描がき尽そうとする痕迹こんせきが、ありありと見えるので、どことなく気韻きいんに乏とぼしい心持が、今までわれを苦しめてならなかった。しかしその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが、解らぬ故ゆえ、吾知らず、答えを得るに煩悶はんもんして今日こんにちに至ったのだろう。肉を蔽おおえば、うつくしきものが隠れる。かくさねば卑いやしくなる。今の世の裸体画と云うはただかくさぬと云う卑しさに、技巧を留とどめておらぬ。衣ころもを奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬと見えて、飽あくまでも裸体はだかを、衣冠の世に押し出そうとする。服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、赤裸にすべての権能を附与せんと試みる。十分じゅうぶんで事足るべきを、十二分じゅうにぶんにも、十五分じゅうごぶんにも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞと云う感じを強く描出びょうしゅつしようとする。技巧がこの極端に達したる時、人はその観者かんじゃを強しうるを陋ろうとする。うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと焦あせるとき、うつくしきものはかえってその度どを減ずるが例である。人事についても満は損を招くとの諺ことわざはこれがためである。
放心ほうしんと無邪気とは余裕を示す。余裕は画えにおいて、詩において、もしくは文章において、必須ひっすうの条件である。今代芸術きんだいげいじゅつの一大弊竇へいとうは、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、拘々くくとして随処に齷齪あくそくたらしむるにある。裸体画はその好例であろう。都会に芸妓げいぎと云うものがある。色を売りて、人に媚こびるを商売にしている。彼らは嫖客ひょうかくに対する時、わが容姿のいかに相手の瞳子ひとみに映ずるかを顧慮こりょするのほか、何らの表情をも発揮はっきし得ぬ。年々に見るサロンの目録はこの芸妓に似たる裸体美人を以て充満している。彼らは一秒時も、わが裸体なるを忘るる能あたわざるのみならず、全身の筋肉をむずつかして、わが裸体なるを観者に示さんと力つとめている。
今余が面前に娉※(「女+亭」、第3水準1-15-85)ひょうていと現われたる姿には、一塵もこの俗埃ぞくあいの眼に遮さえぎるものを帯びておらぬ。常の人の纏まとえる衣装いしょうを脱ぎ捨てたる様さまと云えばすでに人界にんがいに堕在だざいする。始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる神代かみよの姿を雲のなかに呼び起したるがごとく自然である。
室を埋うずむる湯煙は、埋めつくしたる後あとから、絶えず湧わき上がる。春の夜よの灯ひを半透明に崩くずし拡げて、部屋一面の虹霓にじの世界が濃こまやかに揺れるなかに、朦朧もうろうと、黒きかとも思わるるほどの髪を暈ぼかして、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪廓りんかくを見よ。
頸筋くびすじを軽かろく内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分わかれるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑なめらかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢いきおいを後うしろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾かたむく。逆ぎゃくに受くる膝頭ひざがしらのこのたびは、立て直して、長きうねりの踵かかとにつく頃、平ひらたき足が、すべての葛藤かっとうを、二枚の蹠あしのうらに安々と始末する。世の中にこれほど錯雑さくざつした配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔やわらかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛れいふんのなかに髣髴ほうふつとして、十分じゅうぶんの美を奥床おくゆかしくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗へんりんを溌墨淋漓はつぼくりんりの間あいだに点じて、※(「虫+礼のつくり」、第3水準1-91-50)竜きゅうりょうの怪かいを、楮毫ちょごうのほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)めいばくなる調子とを具そなえている。六々三十六鱗りんを丁寧に描きたる竜りゅうの、滑稽こっけいに落つるが事実ならば、赤裸々せきららの肉を浄洒々じょうしゃしゃに眺めぬうちに神往の余韻よいんはある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂かつらの都みやこを逃れた月界げっかいの嫦娥じょうがが、彩虹にじの追手おってに取り囲まれて、しばらく躊躇ちゅうちょする姿と眺ながめた。
輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥じょうがが、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那せつなに、緑の髪は、波を切る霊亀れいきの尾のごとくに風を起して、莽ぼうと靡なびいた。渦捲うずまく煙りを劈つんざいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向むこうへ遠退とおのく。余はがぶりと湯を呑のんだまま槽ふねの中に突立つったつ。驚いた波が、胸へあたる。縁ふちを越す湯泉ゆの音がさあさあと鳴る。  

 

御茶の御馳走ごちそうになる。相客あいきゃくは僧一人、観海寺かんかいじの和尚おしょうで名は大徹だいてつと云うそうだ。俗ぞく一人、二十四五の若い男である。
老人の部屋は、余が室しつの廊下を右へ突き当って、左へ折れた行いき留どまりにある。大おおきさは六畳もあろう。大きな紫檀したんの机を真中に据すえてあるから、思ったより狭苦しい。それへと云う席を見ると、布団ふとんの代りに花毯かたんが敷いてある。無論支那製だろう。真中を六角に仕切しきって、妙な家と、妙な柳が織り出してある。周囲まわりは鉄色に近い藍あいで、四隅よすみに唐草からくさの模様を飾った茶の輪わを染め抜いてある。支那ではこれを座敷に用いたものか疑わしいが、こうやって布団に代用して見るとすこぶる面白い。印度インドの更紗さらさとか、ペルシャの壁掛かべかけとか号するものが、ちょっと間まが抜けているところに価値があるごとく、この花毯もこせつかないところに趣おもむきがある。花毯ばかりではない、すべて支那の器具は皆抜けている。どうしても馬鹿で気の長い人種の発明したものとほか取れない。見ているうちに、ぼおっとするところが尊とうとい。日本は巾着切きんちゃくきりの態度で美術品を作る。西洋は大きくて細こまかくて、そうしてどこまでも娑婆気しゃばっけがとれない。まずこう考えながら席に着く。若い男は余とならんで、花毯の半なかばを占領した。
和尚は虎の皮の上へ坐った。虎の皮の尻尾が余の膝ひざの傍を通り越して、頭は老人の臀しりの下に敷かれている。老人は頭の毛をことごとく抜いて、頬と顎あごへ移植したように、白い髯ひげをむしゃむしゃと生はやして、茶托ちゃたくへ載のせた茶碗を丁寧に机の上へならべる。
「今日きょうは久し振りで、うちへ御客が見えたから、御茶を上げようと思って、……」と坊さんの方を向くと、
「いや、御使おつかいをありがとう。わしも、だいぶ御無沙汰ごぶさたをしたから、今日ぐらい来て見ようかと思っとったところじゃ」と云う。この僧は六十近い、丸顔の、達磨だるまを草書そうしょに崩くずしたような容貌ようぼうを有している。老人とは平常ふだんからの昵懇じっこんと見える。
「この方かたが御客さんかな」
老人は首肯うなずきながら、朱泥しゅでいの急須きゅうすから、緑を含む琥珀色こはくいろの玉液ぎょくえきを、二三滴ずつ、茶碗の底へしたたらす。清い香かおりがかすかに鼻を襲おそう気分がした。
「こんな田舎いなかに一人ひとりでは御淋おさみしかろ」と和尚おしょうはすぐ余に話しかけた。
「はああ」となんともかとも要領を得ぬ返事をする。淋さびしいと云えば、偽いつわりである。淋しからずと云えば、長い説明が入る。
「なんの、和尚さん。このかたは画えを書かれるために来られたのじゃから、御忙おいそがしいくらいじゃ」
「おお左様さようか、それは結構だ。やはり南宗派なんそうはかな」
「いいえ」と今度は答えた。西洋画だなどと云っても、この和尚にはわかるまい。
「いや、例の西洋画じゃ」と老人は、主人役に、また半分引き受けてくれる。
「ははあ、洋画か。すると、あの久一きゅういちさんのやられるようなものかな。あれは、わしこの間始めて見たが、随分奇麗にかけたのう」
「いえ、詰らんものです」と若い男がこの時ようやく口を開いた。
「御前何ぞ和尚さんに見ていただいたか」と老人が若い男に聞く。言葉から云うても、様子から云うても、どうも親類らしい。
「なあに、見ていただいたんじゃないですが、鏡かがみが池いけで写生しているところを和尚さんに見つかったのです」
「ふん、そうか――さあ御茶が注つげたから、一杯」と老人は茶碗を各自めいめいの前に置く。茶の量は三四滴に過ぎぬが、茶碗はすこぶる大きい。生壁色なまかべいろの地へ、焦こげた丹たんと、薄い黄きで、絵だか、模様だか、鬼の面の模様になりかかったところか、ちょっと見当のつかないものが、べたに描かいてある。
「杢兵衛もくべえです」と老人が簡単に説明した。
「これは面白い」と余も簡単に賞ほめた。
「杢兵衛はどうも偽物にせものが多くて、――その糸底いとぞこを見て御覧なさい。銘めいがあるから」と云う。
取り上げて、障子しょうじの方へ向けて見る。障子には植木鉢の葉蘭はらんの影が暖かそうに写っている。首を曲まげて、覗のぞき込むと、杢もくの字が小さく見える。銘は観賞の上において、さのみ大切のものとは思わないが、好事者こうずしゃはよほどこれが気にかかるそうだ。茶碗を下へ置かないで、そのまま口へつけた。濃く甘あまく、湯加減ゆかげんに出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落して味あじわって見るのは閑人適意かんじんてきいの韻事いんじである。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。舌頭ぜっとうへぽたりと載のせて、清いものが四方へ散れば咽喉のどへ下くだるべき液はほとんどない。ただ馥郁ふくいくたる匂においが食道から胃のなかへ沁しみ渡るのみである。歯を用いるは卑いやしい。水はあまりに軽い。玉露ぎょくろに至っては濃こまやかなる事、淡水たんすいの境きょうを脱して、顎あごを疲らすほどの硬かたさを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。
老人はいつの間にやら、青玉せいぎょくの菓子皿を出した。大きな塊かたまりを、かくまで薄く、かくまで規則正しく、刳くりぬいた匠人しょうじんの手際てぎわは驚ろくべきものと思う。すかして見ると春の日影は一面に射さし込んで、射し込んだまま、逃のがれ出いずる路みちを失ったような感じである。中には何も盛らぬがいい。
「御客さんが、青磁せいじを賞ほめられたから、今日はちとばかり見せようと思うて、出して置きました」
「どの青磁を――うん、あの菓子鉢かな。あれは、わしも好すきじゃ。時にあなた、西洋画では襖ふすまなどはかけんものかな。かけるなら一つ頼みたいがな」
かいてくれなら、かかぬ事もないが、この和尚おしょうの気に入いるか入らぬかわからない。せっかく骨を折って、西洋画は駄目だなどと云われては、骨の折栄おりばえがない。
「襖には向かないでしょう」
「向かんかな。そうさな、この間あいだの久一さんの画えのようじゃ、少し派手はで過ぎるかも知れん」
「私のは駄目です。あれはまるでいたずらです」と若い男はしきりに、恥はずかしがって謙遜けんそんする。
「その何とか云う池はどこにあるんですか」と余は若い男に念のため尋ねて置く。
「ちょっと観海寺の裏の谷の所で、幽邃ゆうすいな所です。――なあに学校にいる時分、習ったから、退屈まぎれに、やって見ただけです」
「観海寺と云うと……」
「観海寺と云うと、わしのいる所じゃ。いい所じゃ、海を一目ひとめに見下みおろしての――まあ逗留とうりゅう中にちょっと来て御覧。なに、ここからはつい五六丁よ。あの廊下から、そら、寺の石段が見えるじゃろうが」
「いつか御邪魔に上あがってもいいですか」
「ああいいとも、いつでもいる。ここの御嬢さんも、よう、来られる。――御嬢さんと云えば今日は御那美おなみさんが見えんようだが――どうかされたかな、隠居さん」
「どこぞへ出ましたかな、久一きゅういち、御前の方へ行きはせんかな」
「いいや、見えません」
「また独ひとり散歩かな、ハハハハ。御那美さんはなかなか足が強い。この間あいだ法用で礪並となみまで行ったら、姿見橋すがたみばしの所で――どうも、善く似とると思ったら、御那美さんよ。尻を端折はしょって、草履ぞうりを穿はいて、和尚おしょうさん、何をぐずぐず、どこへ行きなさると、いきなり、驚ろかされたて、ハハハハ。御前はそんな形姿なりで地体じたいどこへ、行ったのぞいと聴くと、今芹摘せりつみに行った戻りじゃ、和尚さん少しやろうかと云うて、いきなりわしの袂たもとへ泥どろだらけの芹を押し込んで、ハハハハハ」
「どうも、……」と老人は苦笑にがわらいをしたが、急に立って「実はこれを御覧に入れるつもりで」と話をまた道具の方へそらした。
老人が紫檀したんの書架から、恭うやうやしく取り下おろした紋緞子もんどんすの古い袋は、何だか重そうなものである。
「和尚さん、あなたには、御目に懸かけた事があったかな」
「なんじゃ、一体」
「硯すずりよ」
「へえ、どんな硯かい」
「山陽さんようの愛蔵したと云う……」
「いいえ、そりゃまだ見ん」
「春水しゅんすいの替え蓋ぶたがついて……」
「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色あずきいろの四角な石が、ちらりと角かどを見せる。
「いい色合いろあいじゃのう。端渓たんけいかい」
「端渓で※(「句+鳥」、第3水準1-94-56)※(「谷+鳥」、第3水準1-94-60)眼くよくがんが九ここのつある」
「九つ?」と和尚大おおいに感じた様子である。
「これが春水の替え蓋」と老人は綸子りんずで張った薄い蓋を見せる。上に春水の字で七言絶句しちごんぜっくが書いてある。
「なるほど。春水はようかく。ようかくが、書しょは杏坪きょうへいの方が上手じょうずじゃて」
「やはり杏坪の方がいいかな」
「山陽さんようが一番まずいようだ。どうも才子肌さいしはだで俗気ぞくきがあって、いっこう面白うない」
「ハハハハ。和尚おしょうさんは、山陽が嫌きらいだから、今日は山陽の幅ふくを懸け替かえて置いた」
「ほんに」と和尚さんは後うしろを振り向く。床とこは平床ひらどこを鏡のようにふき込んで、※(「金+粛」、第3水準1-93-39)気さびけを吹いた古銅瓶こどうへいには、木蘭もくらんを二尺の高さに、活いけてある。軸じくは底光りのある古錦襴こきんらんに、装幀そうていの工夫くふうを籠こめた物徂徠ぶっそらいの大幅たいふくである。絹地ではないが、多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく、紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える。あの錦襴も織りたては、あれほどのゆかしさも無かったろうに、彩色さいしきが褪あせて、金糸きんしが沈んで、華麗はでなところが滅めり込んで、渋いところがせり出して、あんないい調子になったのだと思う。焦茶こげちゃの砂壁すなかべに、白い象牙ぞうげの軸じくが際立きわだって、両方に突張っている、手前に例の木蘭がふわりと浮き出されているほかは、床とこ全体の趣おもむきは落ちつき過ぎてむしろ陰気である。
「徂徠そらいかな」と和尚おしょうが、首を向けたまま云う。
「徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠の方が遥はるかにいい。享保きょうほ頃の学者の字はまずくても、どこぞに品ひんがある」
「広沢こうたくをして日本の能書のうしょならしめば、われはすなわち漢人の拙せつなるものと云うたのは、徂徠だったかな、和尚さん」
「わしは知らん。そう威張いばるほどの字でもないて、ワハハハハ」
「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしか。禅坊主ぜんぼうずは本も読まず、手習てならいもせんから、のう」
「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若い時に高泉こうせんの字を、少し稽古けいこした事がある。それぎりじゃ。それでも人に頼まれればいつでも、書きます。ワハハハハ。時にその端渓たんけいを一つ御見せ」と和尚が催促する。
とうとう緞子どんすの袋を取り除のける。一座の視線はことごとく硯すずりの上に落ちる。厚さはほとんど二寸に近いから、通例のものの倍はあろう。四寸に六寸の幅も長さもまず並なみと云ってよろしい。蓋ふたには、鱗うろこのかたに研みがきをかけた松の皮をそのまま用いて、上には朱漆しゅうるしで、わからぬ書体が二字ばかり書いてある。
「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる因縁いんねんがあろうと、画工として余はあまり感服は出来んから、
「松の蓋は少し俗ですな」
と云った。老人はまあと云わぬばかりに手を挙あげて、
「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。山陽さんようが広島におった時に庭に生えていた松の皮を剥はいで山陽が手ずから製したのですよ」
なるほど山陽さんようは俗な男だと思ったから、
「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこの鱗うろこのかたなどをぴかぴか研とぎ出さなくっても、よさそうに思われますが」と遠慮のないところを云って退のけた。
「ワハハハハ。そうよ、この蓋ふたはあまり安っぽいようだな」と和尚おしょうはたちまち余に賛成した。
若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌の体ていに蓋を払いのけた。下からいよいよ硯すずりが正体しょうたいをあらわす。
もしこの硯について人の眼を峙そばだつべき特異の点があるとすれば、その表面にあらわれたる匠人しょうじんの刻こくである。真中まんなかに袂時計たもとどけいほどな丸い肉が、縁ふちとすれすれの高さに彫ほり残されて、これを蜘蛛くもの背せに象かたどる。中央から四方に向って、八本の足が彎曲わんきょくして走ると見れば、先には各おのおの※(「句+鳥」、第3水準1-94-56)※(「谷+鳥」、第3水準1-94-60)眼くよくがんを抱かかえている。残る一個は背の真中に、黄きな汁しるをしたたらしたごとく煮染にじんで見える。背と足と縁を残して余る部分はほとんど一寸余の深さに掘り下げてある。墨を湛たたえる所は、よもやこの塹壕ざんごうの底ではあるまい。たとい一合の水を注ぐともこの深さを充みたすには足らぬ。思うに水盂すいうの中うちから、一滴の水を銀杓ぎんしゃくにて、蜘蛛くもの背に落したるを、貴とうとき墨に磨すり去るのだろう。それでなければ、名は硯でも、その実は純然たる文房用ぶんぼうようの装飾品に過ぎぬ。
老人は涎よだれの出そうな口をして云う。
「この肌合はだあいと、この眼がんを見て下さい」
なるほど見れば見るほどいい色だ。寒く潤沢じゅんたくを帯びたる肌の上に、はっと、一息懸ひといきかけたなら、直ただちに凝こって、一朶いちだの雲を起すだろうと思われる。ことに驚くべきは眼の色である。眼の色と云わんより、眼と地の相交あいまじわる所が、次第に色を取り替えて、いつ取り替えたか、ほとんど吾眼わがめの欺あざむかれたるを見出し得ぬ事である。形容して見ると紫色の蒸羊羹むしようかんの奥に、隠元豆いんげんまめを、透すいて見えるほどの深さに嵌はめ込んだようなものである。眼と云えば一個二個でも大変に珍重される。九個と云ったら、ほとんど類るいはあるまい。しかもその九個が整然と同距離に按排あんばいされて、あたかも人造のねりものと見違えらるるに至ってはもとより天下の逸品いっぴんをもって許さざるを得ない。
「なるほど結構です。観みて心持がいいばかりじゃありません。こうして触さわっても愉快です」と云いながら、余は隣りの若い男に硯を渡した。
「久一きゅういちに、そんなものが解るかい」と老人が笑いながら聞いて見る。久一君は、少々自棄やけの気味で、
「分りゃしません」と打ち遣やったように云い放ったが、わからん硯を、自分の前へ置いて、眺ながめていては、もったいないと気がついたものか、また取り上げて、余に返した。余はもう一遍ぺん丁寧に撫なで廻わした後のち、とうとうこれを恭うやうやしく禅師ぜんじに返却した。禅師はとくと掌ての上で見済ました末、それでは飽あき足らぬと考えたと見えて、鼠木綿ねずみもめんの着物の袖そでを容赦なく蜘蛛くもの背へこすりつけて、光沢つやの出た所をしきりに賞翫しょうがんしている。
「隠居さん、どうもこの色が実に善よいな。使うた事があるかの」
「いいや、滅多めったには使いとう、ないから、まだ買うたなりじゃ」
「そうじゃろ。こないなのは支那しなでも珍らしかろうな、隠居さん」
「左様さよう」
「わしも一つ欲しいものじゃ。何なら久一さんに頼もうか。どうかな、買うて来ておくれかな」
「へへへへ。硯すずりを見つけないうちに、死んでしまいそうです」
「本当に硯どころではないな。時にいつ御立ちか」
「二三日にさんちうちに立ちます」
「隠居さん。吉田まで送って御やり」
「普段なら、年は取っとるし、まあ見合みあわすところじゃが、ことによると、もう逢あえんかも、知れんから、送ってやろうと思うております」
「御伯父おじさんは送ってくれんでもいいです」
若い男はこの老人の甥おいと見える。なるほどどこか似ている。
「なあに、送って貰うがいい。川船かわふねで行けば訳はない。なあ隠居さん」
「はい、山越やまごしでは難義だが、廻り路でも船なら……」
若い男は今度は別に辞退もしない。ただ黙っている。
「支那の方へおいでですか」と余はちょっと聞いて見た。
「ええ」
ええの二字では少し物足らなかったが、その上掘って聞く必要もないから控ひかえた。障子しょうじを見ると、蘭らんの影が少し位置を変えている。
「なあに、あなた。やはり今度の戦争で――これがもと志願兵をやったものだから、それで召集されたので」
老人は当人に代って、満洲の野やに日ならず出征すべきこの青年の運命を余に語つげた。この夢のような詩のような春の里に、啼なくは鳥、落つるは花、湧わくは温泉いでゆのみと思い詰つめていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家へいけの後裔こうえいのみ住み古るしたる孤村にまで逼せまる。朔北さくほくの曠野こうやを染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から迸ほとばしる時が来るかも知れない。この青年の腰に吊つる長き剣つるぎの先から煙りとなって吹くかも知れない。しかしてその青年は、夢みる事よりほかに、何らの価値を、人生に認め得ざる一画工の隣りに坐っている。耳をそばだつれば彼が胸に打つ心臓の鼓動さえ聞き得るほど近くに坐っている。その鼓動のうちには、百里の平野を捲まく高き潮うしおが今すでに響いているかも知れぬ。運命は卒然そつぜんとしてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。  

 

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几さんきゃくきに縛しばりつけた、書物の一冊を抽ぬいて読んでいた。
「御這入おはいりなさい。ちっとも構いません」
女は遠慮する景色けしきもなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟はんえりの中から、恰好かっこうのいい頸くびの色が、あざやかに、抽ぬき出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開あけて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟りくつだ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然はっきりしない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌きらいだか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中うちを見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸ひとみは少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。可哀想かわいそうに」放した鷹たかはまたそれかかる。すこしも油断がならん。
「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚ほれたの、腫はれたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」
「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから画工えかきなんぞになれるんですね」
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留とうりゅうしているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情ふにんじょうな惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤おみくじを引くように、ぱっと開あけて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃ駄目です。画えだって話にしちゃ一文の価値ねうちもなくなるじゃありませんか」
「ホホホそれじゃ読んで下さい」
「英語でですか」
「いいえ日本語で」
「英語を日本語で読むのはつらいな」
「いいじゃありませんか、非人情で」
これも一興いっきょうだろうと思ったから、余は女の乞こいに応じて、例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した。もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。聴きく女ももとより非人情で聴いている。
「情なさけの風が女から吹く。声から、眼から、肌はだえから吹く。男に扶たすけられて舳ともに行く女は、夕暮のヴェニスを眺ながむるためか、扶くる男はわが脈みゃくに稲妻いなずまの血を走らすためか。――非人情だから、いい加減ですよ。ところどころ脱けるかも知れません」
「よござんすとも。御都合次第で、御足おたしなすっても構いません」
「女は男とならんで舷ふなばたに倚よる。二人の隔へだたりは、風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。女は男と共にヴェニスに去らばと云う。ヴェニスなるドウジの殿楼でんろうは今第二の日没のごとく、薄赤く消えて行く。……」
「ドージとは何です」
「何だって構やしません。昔むかしヴェニスを支配した人間の名ですよ。何代つづいたものですかね。その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです」
「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」
「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」
「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」
「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと探偵たんていになってしまうです」
「ホホホホじゃ聴きますまい」
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣おもむきがない」
「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」
「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹いちまつの淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石とんぼだまの空のなかに円まるき柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く聳そびえたる鐘楼しゅろうが沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏きせつの苦しみを与う。男と女は暗き湾の方かたに眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに揺ゆらぐ海は泡あわを濺そそがず。男は女の手を把とる。鳴りやまぬ弦ゆづるを握った心地ここちである。……」
「あんまり非人情でもないようですね」
「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし厭いやなら少々略しましょうか」
「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく六むずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」
「読みにくければ、御略おりゃくしなさい」
「ええ、いい加減にやりましょう。――この一夜ひとよと女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜いくよを重ねてこそと云う」
「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語ことばなんです。――真夜中の甲板かんぱんに帆綱を枕にして横よこたわりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確しかと把とりたる瞬時が大濤おおなみのごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強しいられたる結婚の淵ふちより、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉とずる。――」
「女は?」
「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様さまである。攫さらわれて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」
「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」
轟ごうと音がして山の樹きがことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端とたんに、机の上の一輪挿いちりんざしに活いけた、椿つばきがふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、膝ひざを崩くずして余の机に靠よりかかる。御互おたがいの身躯からだがすれすれに動く。キキーと鋭するどい羽摶はばたきをして一羽の雉子きじが藪やぶの中から飛び出す。
「雉子が」と余は窓の外を見て云う。
「どこに」と女は崩した、からだを擦寄すりよせる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸いきが余の髭ひげにさわった。
「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居いずまいを正しながら屹きっと云う。
「無論」と言下ごんかに余は答えた。
岩の凹くぼみに湛たたえた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと鈍ぬるく揺うごいている。地盤の響きに、満泓まんおうの波が底から動くのだから、表面が不規則に曲線を描くのみで、砕くだけた部分はどこにもない。円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。落ちついて影を※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)ひたしていた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする。しかしどう変化してもやはり明らかに桜の姿を保たもっているところが非常に面白い。
「こいつは愉快だ。奇麗きれいで、変化があって。こう云う風に動かなくっちゃ面白くない」
「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」
「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」
「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」
「あなた、だって嫌きらいな方じゃありますまい。昨日きのうの振袖ふりそでなんか……」と言いかけると、
「何か御褒美ごほうびをちょうだい」と女は急に甘あまえるように云った。
「なぜです」
「見たいとおっしゃったから、わざわざ、見せて上げたんじゃありませんか」
「わたしがですか」
「山越やまごえをなさった画えの先生が、茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います」
余は何と答えてよいやらちょっと挨拶あいさつが出なかった。女はすかさず、
「そんな忘れっぽい人に、いくら実じつをつくしても駄目ですわねえ」と嘲あざけるごとく、恨うらむがごとく、また真向まっこうから切りつけるがごとく二の矢をついだ。だんだん旗色はたいろがわるくなるが、どこで盛り返したものか、いったん機先を制せられると、なかなか隙すきを見出しにくい。
「じゃ昨夕ゆうべの風呂場も、全く御親切からなんですね」と際きわどいところでようやく立て直す。
女は黙っている。
「どうも済みません。御礼に何を上げましょう」と出来るだけ先へ出て置く。いくら出ても何の利目ききめもなかった。女は何喰わぬ顔で大徹和尚だいてつおしょうの額を眺ながめている。やがて、
「竹影ちくえい払階かいをはらって塵不動ちりうごかず」
と口のうちで静かに読み了おわって、また余の方へ向き直ったが、急に思い出したように、
「何ですって」
と、わざと大きな声で聞いた。その手は喰わない。
「その坊主にさっき逢あいましたよ」と地震に揺ゆれた池の水のように円満な動き方をして見せる。
「観海寺かんかいじの和尚ですか。肥ふとってるでしょう」
「西洋画で唐紙からかみをかいてくれって、云いましたよ。禅坊さんなんてものは随分訳わけのわからない事を云いますね」
「それだから、あんなに肥れるんでしょう」
「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」
「久一きゅういちでしょう」
「ええ久一君です」
「よく御存じです事」
「なに久一君だけ知ってるんです。そのほかには何にも知りゃしません。口を聞くのが嫌きらいな人ですね」
「なに、遠慮しているんです。まだ小供ですから……」
「小供って、あなたと同じくらいじゃありませんか」
「ホホホホそうですか。あれは私わたくしの従弟いとこですが、今度戦地へ行くので、暇乞いとまごいに来たのです」
「ここに留とまって、いるんですか」
「いいえ、兄の家うちにおります」
「じゃ、わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね」
「御茶より御白湯おゆの方が好すきなんですよ。父がよせばいいのに、呼ぶものですから。麻痺しびれが切れて困ったでしょう。私がおれば中途から帰してやったんですが……」
「あなたはどこへいらしったんです。和尚おしょうが聞いていましたぜ、また一人ひとり散歩かって」
「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「画えにかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々きんきん投げるかも知れません」
余りに女としては思い切った冗談じょうだんだから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧かえりみてにこりと笑った。茫然ぼうぜんたる事多時たじ。  

 

鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は二股ふたまたに岐わかれて、おのずから鏡が池の周囲となる。池の縁ふちには熊笹くまざさが多い。ある所は、左右から生おい重なって、ほとんど音を立てずには通れない。木の間から見ると、池の水は見えるが、どこで始まって、どこで終るか一応廻った上でないと見当がつかぬ。あるいて見ると存外小さい。三丁ほどよりあるまい。ただ非常に不規則な形かたちで、ところどころに岩が自然のまま水際みずぎわに横よこたわっている。縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に連つらねている。
池をめぐりては雑木ぞうきが多い。何百本あるか勘定かんじょうがし切れぬ。中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の繁こまない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、萌もえ出でた下草したぐささえある。壺菫つぼすみれの淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。
日本の菫は眠っている感じである。「天来てんらいの奇想のように」、と形容した西人せいじんの句はとうていあてはまるまい。こう思う途端とたんに余の足はとまった。足がとまれば、厭いやになるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民たみを乞食こじきと間違えて、掏摸すりの親分たる探偵たんていに高い月俸を払う所である。
余は草を茵しとねに太平の尻をそろりと卸おろした。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣きづかいはない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦ようしゃも未練みれんもない代りには、人に因よって取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩崎いわさきや三井みついを眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今ここん帝王の権威を風馬牛ふうばぎゅうし得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観びょうどうかんを無辺際むへんさいに樹立している。天下の羣小ぐんしょうを麾さしまねいで、いたずらにタイモンの憤いきどおりを招くよりは、蘭らんを九※(「田+宛」、第3水準1-88-43)えんに滋まき、※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)けいを百畦けいに樹うえて、独ひとりその裏うちに起臥きがする方が遥かに得策である。余は公平と云い無私むしと云う。さほど大事だいじなものならば、日に千人の小賊しょうぞくを戮りくして、満圃まんぽの草花を彼らの屍しかばねに培養つちかうがよかろう。
何だか考かんがえが理りに落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の観想かんそうを練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。袂たもとから煙草たばこを出して、寸燐マッチをシュッと擦する。手応てごたえはあったが火は見えない。敷島しきしまのさきに付けて吸ってみると、鼻から煙が出た。なるほど、吸ったんだなとようやく気がついた。寸燐マッチは短かい草のなかで、しばらく雨竜あまりょうのような細い煙りを吐いて、すぐ寂滅じゃくめつした。席をずらせてだんだん水際みずぎわまで出て見る。余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を浸ひたせば生温なまぬるい水につくかも知れぬと云う間際まぎわで、とまる。水を覗のぞいて見る。
眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い水草みずぐさが、往生おうじょうして沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄すすきなら靡なびく事を知っている。藻もの草ならば誘さそう波の情なさけを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調ととのえて、朝な夕なに、弄なぶらるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代いくよの思おもいを茎くきの先に籠こめながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。
余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。功徳くどくになると思ったから、眼の先へ、一つ抛ほうり込んでやる。ぶくぶくと泡あわが二つ浮いて、すぐ消えた。すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。すかして見ると、三茎みくきほどの長い髪が、慵ものうげに揺れかかっている。見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ。
今度は思い切って、懸命に真中まんなかへなげる。ぽかんと幽かすかに音がした。静かなるものは決して取り合わない。もう抛なげる気も無くなった。絵の具箱と帽子を置いたまま右手へ廻る。
二間余りを爪先上つまさきあがりに登る。頭の上には大きな樹きがかぶさって、身体からだが急に寒くなる。向う岸の暗い所に椿つばきが咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向ひなたで見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角いわかどを、奥へ二三間遠退とおのいて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑しんかんとして、かたまっている。その花が! 一日勘定かんじょうしても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮あざやかである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪とられた、後あとは何だか凄すごくなる。あれほど人を欺だます花はない。余は深山椿みやまつばきを見るたびにいつでも妖女ようじょの姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然えんぜんたる毒を血管に吹く。欺あざむかれたと悟さとった頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に入いった時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を醒さますほどの派出はでやかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。悄然しょうぜんとして萎しおれる雨中うちゅうの梨花りかには、ただ憐れな感じがする。冷やかに艶えんなる月下げっかの海棠かいどうには、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味みを帯びた調子である。この調子を底に持って、上部うわべはどこまでも派出に装よそおっている。しかも人に媚こぶる態さまもなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜せいそうを、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ一眼ひとめ見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際こんりんざい、免のがるる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。屠ほふられたる囚人しゅうじんの血が、自おのずから人の眼を惹ひいて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩くずれるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練みれんのないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺あたりは今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年々ねんねん落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶とけ出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間まに、落ちた椿のために、埋うずもれて、元の平地ひらちに戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人魂ひとだまのように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑のんで、ぼんやり考え込む。温泉場ゆばの御那美おなみさんが昨日きのう冗談じょうだんに云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪おおなみにのる一枚の板子いたごのように揺れる。あの顔を種たねにして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長とこしなえに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画えでかけるだろうか。かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に背そむいても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝ってはすべてを打うち壊こわしてしまう。と云ってむやみに気楽ではなお困る。一層いっそほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見るが、どうも思おもわしくない。やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾われながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り易かえる訳に行かない。あれに嫉※(「女+戸の旧字」、第3水準1-15-76)しっとを加えたら、どうだろう。嫉※(「女+戸の旧字」、第3水準1-15-76)では不安の感が多過ぎる。憎悪ぞうおはどうだろう。憎悪は烈はげし過ぎる。怒いかり? 怒では全然調和を破る。恨うらみ? 恨でも春恨しゅんこんとか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情緒じょうしょのうちで、憐あわれと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情じょうで、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟とっさの衝動で、この情があの女の眉宇びうにひらめいた瞬時に、わが画えは成就じょうじゅするであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑うすわらいと、勝とう、勝とうと焦あせる八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。
がさりがさりと足音がする。胸裏きょうりの図案は三分ぶ二で崩くずれた。見ると、筒袖つつそでを着た男が、背せへ薪まきを載のせて、熊笹くまざさのなかを観海寺の方へわたってくる。隣りの山からおりて来たのだろう。
「よい御天気で」と手拭てぬぐいをとって挨拶あいさつする。腰を屈かがめる途端とたんに、三尺帯に落おとした鉈なたの刃はがぴかりと光った。四十恰好がっこうの逞たくましい男である。どこかで見たようだ。男は旧知のように馴々なれなれしい。
「旦那だんなも画を御描おかきなさるか」余の絵の具箱は開あけてあった。
「ああ。この池でも画かこうと思って来て見たが、淋さみしい所だね。誰も通らない」
「はあい。まことに山の中で……旦那あ、峠とうげで御降おふられなさって、さぞ御困りでござんしたろ」
「え? うん御前おまえはあの時の馬子まごさんだね」
「はあい。こうやって薪たきぎを切っては城下じょうかへ持って出ます」と源兵衛は荷を卸おろして、その上へ腰をかける。煙草入たばこいれを出す。古いものだ。紙だか革かわだか分らない。余は寸燐マッチを借かしてやる。
「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。三日みっかに一返ぺん、ことによると四日目よっかめくらいになります」
「四日に一返ぺんでも御免だ」
「アハハハハ。馬が不憫ふびんですから四日目くらいにして置きます」
「そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ」
「それほどでもないんで……」
「時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい」
「昔からありますよ」
「昔から? どのくらい昔から?」
「なんでもよっぽど古い昔から」
「よっぽど古い昔しからか。なるほど」
「なんでも昔し、志保田しほだの嬢様が、身を投げた時分からありますよ」
「志保田って、あの温泉場ゆばのかい」
「はあい」
「御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか」
「いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が」
「ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは」
「なんでも、よほど昔しの嬢様で……」
「その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい」
「その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様」
「うん」
「すると、ある日、一人ひとりの梵論字ぼろんじが来て……」
「梵論字と云うと虚無僧こもそうの事かい」
「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の庄屋しょうやへ逗留とうりゅうしているうちに、その美くしい嬢様が、その梵論字を見染みそめて――因果いんがと申しますか、どうしてもいっしょになりたいと云うて、泣きました」
「泣きました。ふうん」
「ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は聟むこにはならんと云うて。とうとう追い出しました」
「その虚無僧こもそう[#ルビの「こもそう」は底本では「こむそう」]をかい」
「はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする」
「へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね」
「まことに怪けしからん事でござんす」
「何代くらい前の事かい。それは」
「なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん」
「何だい」
「あの志保田の家には、代々だいだい気狂きちがいが出来ます」
「へええ」
「全く祟たたりでござんす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が囃はやします」
「ハハハハそんな事はなかろう」
「ござんせんかな。しかしあの御袋様おふくろさまがやはり少し変でな」
「うちにいるのかい」
「いいえ、去年亡なくなりました」
「ふん」と余は煙草の吸殻すいがらから細い煙の立つのを見て、口を閉じた。源兵衛は薪まきを背せにして去る。
画えをかきに来て、こんな事を考えたり、こんな話しを聴くばかりでは、何日いくにちかかっても一枚も出来っこない。せっかく絵の具箱まで持ち出した以上、今日は義理にも下絵したえをとって行こう。幸さいわい、向側の景色は、あれなりで略纏ほぼまとまっている。あすこでも申もうし訳わけにちょっと描かこう。
一丈余りの蒼黒あおぐろい岩が、真直まっすぐに池の底から突き出して、濃こき水の折れ曲る角かどに、嵯々ささと構える右側には、例の熊笹くまざさが断崖だんがいの上から水際みずぎわまで、一寸いっすんの隙間すきまなく叢生そうせいしている。上には三抱みかかえほどの大きな松が、若蔦わかづたにからまれた幹を、斜ななめに捩ねじって、半分以上水の面おもてへ乗り出している。鏡を懐ふところにした女は、あの岩の上からでも飛んだものだろう。
三脚几さんきゃくきに尻しりを据すえて、面画に入るべき材料を見渡す。松と、笹と、岩と水であるが、さて水はどこでとめてよいか分らぬ。岩の高さが一丈あれば、影も一丈ある。熊笹は、水際でとまらずに、水の中まで茂り込んでいるかと怪あやしまるるくらい、鮮あざやかに水底まで写っている。松に至っては空に聳そびゆる高さが、見上げらるるだけ、影もまたすこぶる細長い。眼に写っただけの寸法ではとうてい収おさまりがつかない。一層いっその事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。どう工夫くふうをしたものだろうと、一心に池の面おもを見詰める。
奇体なもので、影だけ眺ながめていてはいっこう画にならん。実物と見比べて工夫がして見たくなる。余は水面から眸ひとみを転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。一丈の巌いわおを、影の先から、水際の継目つぎめまで眺めて、継目から次第に水の上に出る。潤沢じゅんたくの気合けあいから、皴皺しゅんしゅの模様を逐一ちくいち吟味ぎんみしてだんだんと登って行く。ようやく登り詰めて、余の双眼そうがんが今危巌きがんの頂いただきに達したるとき、余は蛇へびに睨にらまれた蟇ひきのごとく、はたりと画筆えふでを取り落した。
緑みどりの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩いろどる中に、楚然そぜんとして織り出されたる女の顔は、――花下かかに余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖ふりそでに余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。
余が視線は、蒼白あおじろき女の顔の真中まんなかにぐさと釘付くぎづけにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯たいくを伸のせるだけ伸して、高い巌いわおの上に一指も動かさずに立っている。この一刹那いっせつな!
余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は樹梢じゅしょうを掠かすめて、幽かすかに松の幹を染むる。熊笹はいよいよ青い。
また驚かされた。  

 

十一
山里やまざとの朧おぼろに乗じてそぞろ歩く。観海寺の石段を登りながら仰数あおぎかぞう春星しゅんせい一二三と云う句を得た。余は別に和尚おしょうに逢う用事もない。逢うて雑話をする気もない。偶然と宿を出いでて足の向くところに任せてぶらぶらするうち、ついこの石磴せきとうの下に出た。しばらく不許葷酒入山門くんしゅさんもんにいるをゆるさずと云う石を撫なでて立っていたが、急にうれしくなって、登り出したのである。
トリストラム・シャンデーと云う書物のなかに、この書物ほど神の御覚召おぼしめしに叶かのうた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力じりきで綴つづる。あとはひたすらに神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見当がつかぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。したがって責任は著者にはないそうだ。余が散歩もまたこの流儀を汲くんだ、無責任の散歩である。ただ神を頼まぬだけが一層の無責任である。スターンは自分の責任を免のがれると同時にこれを在天の神に嫁かした。引き受けてくれる神を持たぬ余はついにこれを泥溝どぶの中に棄すてた。
石段を登るにも骨を折っては登らない。骨が折れるくらいなら、すぐ引き返す。一段登って佇たたずむとき何となく愉快だ。それだから二段登る。二段目に詩が作りたくなる。黙然もくねんとして、吾影を見る。角石かくいしに遮さえぎられて三段に切れているのは妙だ。妙だからまた登る。仰いで天を望む。寝ぼけた奥から、小さい星がしきりに瞬まばたきをする。句になると思って、また登る。かくして、余はとうとう、上まで登り詰めた。
石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山ごさんなるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺えんがくじの塔頭たっちゅうであったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄きな法衣ころもを着た、頭の鉢はちの開いた坊主が出て来た。余は上のぼる、坊主は下くだる。すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ御出おいでなさると問うた。余はただ境内けいだいを拝見にと答えて、同時に足を停とめたら、坊主は直ただちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。あまり洒落しゃらくだから、余は少しく先せんを越された気味で、段上に立って、坊主を見送ると、坊主は、かの鉢の開いた頭を、振り立て振り立て、ついに姿を杉の木の間に隠した。その間あいだかつて一度も振り返った事はない。なるほど禅僧は面白い。きびきびしているなと、のっそり山門を這入はいって、見ると、広い庫裏くりも本堂も、がらんとして、人影はまるでない。余はその時に心からうれしく感じた。世の中にこんな洒落しゃらくな人があって、こんな洒落に、人を取り扱ってくれたかと思うと、何となく気分が晴々せいせいした。禅ぜんを心得ていたからと云う訳ではない。禅のぜの字もいまだに知らぬ。ただあの鉢の開いた坊主の所作しょさが気に入ったのである。
世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴やつで埋うずまっている。元来何しに世の中へ面つらを曝さらしているんだか、解げしかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の臀しりに探偵たんていをつけて、人のひる屁への勘定かんじょうをして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後うしろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々にんにん勝手である。ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差さし控ひかえるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。
こうやって、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。興来きたれば興来るをもって方針とする。興去れば興去るをもって方針とする。句を得れば、得たところに方針が立つ。得なければ、得ないところに方針が立つ。しかも誰の迷惑にもならない。これが真正の方針である。屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当防禦ぼうぎょの方針で、こうやって観海寺の石段を登るのは随縁放曠ずいえんほうこうの方針である。
仰数あおぎかぞう春星しゅんせい一二三の句を得て、石磴せきとうを登りつくしたる時、朧おぼろにひかる春の海が帯のごとくに見えた。山門を入る。絶句ぜっくは纏まとめる気にならなくなった。即座にやめにする方針を立てる。
石を甃たたんで庫裡くりに通ずる一筋道の右側は、岡つつじの生垣いけがきで、垣の向むこうは墓場であろう。左は本堂だ。屋根瓦やねがわらが高い所で、幽かすかに光る。数万の甍いらかに、数万の月が落ちたようだと見上みあげる。どこやらで鳩の声がしきりにする。棟むねの下にでも住んでいるらしい。気のせいか、廂ひさしのあたりに白いものが、点々見える。糞ふんかも知れぬ。
雨垂あまだれ落ちの所に、妙な影が一列に並んでいる。木とも見えぬ、草では無論ない。感じから云うと岩佐又兵衛いわさまたべえのかいた、鬼おにの念仏ねんぶつが、念仏をやめて、踊りを踊っている姿である。本堂の端はじから端まで、一列に行儀よく並んで躍おどっている。その影がまた本堂の端から端まで一列に行儀よく並んで躍っている。朧夜おぼろよにそそのかされて、鉦かねも撞木しゅもくも、奉加帳ほうがちょうも打ちすてて、誘さそい合あわせるや否やこの山寺やまでらへ踊りに来たのだろう。
近寄って見ると大きな覇王樹さぼてんである。高さは七八尺もあろう、糸瓜へちまほどな青い黄瓜きゅうりを、杓子しゃもじのように圧おしひしゃげて、柄えの方を下に、上へ上へと継つぎ合あわせたように見える。あの杓子がいくつ継つながったら、おしまいになるのか分らない。今夜のうちにも廂ひさしを突き破って、屋根瓦の上まで出そうだ。あの杓子が出来る時には、何でも不意に、どこからか出て来て、ぴしゃりと飛びつくに違いない。古い杓子が新しい小杓子を生んで、その小杓子が長い年月のうちにだんだん大きくなるようには思われない。杓子と杓子の連続がいかにも突飛とっぴである。こんな滑稽こっけいな樹きはたんとあるまい。しかも澄ましたものだ。いかなるこれ仏ぶつと問われて、庭前ていぜんの柏樹子はくじゅしと答えた僧があるよしだが、もし同様の問に接した場合には、余は一も二もなく、月下げっかの覇王樹はおうじゅと応こたえるであろう。
少時しょうじ、晁補之ちょうほしと云う人の記行文を読んで、いまだに暗誦あんしょうしている句がある。「時に九月天高く露清く、山空むなしく、月明あきらかに、仰いで星斗せいとを視みれば皆みな光大ひかりだい、たまたま人の上にあるがごとし、窓間そうかんの竹たけ数十竿かん、相摩戞まかつして声切々せつせつやまず。竹間ちくかんの梅棕ばいそう森然しんぜんとして鬼魅きびの離立笑※(「髟/眄のつくり」、第4水準2-93-21)りりつしょうひんの状じょうのごとし。二三子相顧あいかえりみ、魄はく動いて寝いぬるを得ず。遅明ちめい皆去る」とまた口の内で繰り返して見て、思わず笑った。この覇王樹さぼてんも時と場合によれば、余の魄はくを動かして、見るや否や山を追い下げたであろう。刺とげに手を触れて見ると、いらいらと指をさす。
石甃いしだたみを行き尽くして左へ折れると庫裏くりへ出る。庫裏の前に大きな木蓮もくれんがある。ほとんど一ひと抱かかえもあろう。高さは庫裏の屋根を抜いている。見上げると頭の上は枝である。枝の上も、また枝である。そうして枝の重なり合った上が月である。普通、枝がああ重なると、下から空は見えぬ。花があればなお見えぬ。木蓮の枝はいくら重なっても、枝と枝の間はほがらかに隙すいている。木蓮は樹下に立つ人の眼を乱すほどの細い枝をいたずらには張らぬ。花さえ明あきらかである。この遥かなる下から見上げても一輪の花は、はっきりと一輪に見える。その一輪がどこまで簇むらがって、どこまで咲いているか分らぬ。それにもかかわらず一輪はついに一輪で、一輪と一輪の間から、薄青い空が判然はんぜんと望まれる。花の色は無論純白ではない。いたずらに白いのは寒過ぎる。専もっぱらに白いのは、ことさらに人の眼を奪う巧たくみが見える。木蓮の色はそれではない。極度の白きをわざと避さけて、あたたかみのある淡黄たんこうに、奥床おくゆかしくも自みずからを卑下ひげしている。余は石甃いしだたみの上に立って、このおとなしい花が累々るいるいとどこまでも空裏くうりに蔓はびこる様さまを見上げて、しばらく茫然ぼうぜんとしていた。眼に落つるのは花ばかりである。葉は一枚もない。
   木蓮の花ばかりなる空を瞻みる
と云う句を得た。どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。
庫裏に入る。庫裏は明け放してある。盗人ぬすびとはおらぬ国と見える。狗いぬはもとより吠ほえぬ。
「御免」
と訪問おとずれる。森しんとして返事がない。
「頼む」
と案内を乞う。鳩の声がくううくううと聞える。
「頼みまああす」と大きな声を出す。
「おおおおおおお」と遥かの向むこうで答えたものがある。人の家を訪とうて、こんな返事を聞かされた事は決してない。やがて足音が廊下へ響くと、紙燭しそくの影が、衝立ついたての向側にさした。小坊主がひょこりとあらわれる。了念りょうねんであった。
「和尚おしょうさんはおいでかい」
「おられる。何しにござった」
「温泉にいる画工えかきが来たと、取次とりついでおくれ」
「画工さんか。それじゃ御上おあがり」
「断わらないでもいいのかい」
「よろしかろ」
余は下駄を脱いで上がる。
「行儀がわるい画工さんじゃな」
「なぜ」
「下駄を、よう御揃おそろえなさい。そらここを御覧」と紙燭を差しつける。黒い柱の真中に、土間から五尺ばかりの高さを見計みはからって、半紙を四つ切りにした上へ、何か認したためてある。
「そおら。読めたろ。脚下きゃっかを見よ、と書いてあるが」
「なるほど」と余は自分の下駄を丁寧に揃える。
和尚の室へやは廊下を鍵かぎの手てに曲まがって、本堂の横手にある。障子しょうじを恭うやうやしくあけて、恭しく敷居越しにつくばった了念が、
「あのう、志保田しほだから、画工さんが来られました」と云う。はなはだ恐縮の体ていである。余はちょっとおかしくなった。
「そうか、これへ」
余は了念と入れ代る。室がすこぶる狭い。中に囲炉裏いろりを切って、鉄瓶てつびんが鳴る。和尚は向側に書見しょけんをしていた。
「さあこれへ」と眼鏡めがねをはずして、書物を傍かたわらへおしやる。
「了念。りょううねええん」
「ははははい」
「座布団ざぶとんを上げんか」
「はははははい」と了念は遠くで、長い返事をする。
「よう、来られた。さぞ退屈だろ」
「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」と障子をあける。飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、平庭ひらにわの向うは、すぐ懸崖けんがいと見えて、眼の下に朧夜おぼろよの海がたちまちに開ける。急に気が大きくなったような心持である。漁火いさりびがここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に化ばけるつもりだろう。
「これはいい景色。和尚おしょうさん、障子をしめているのはもったいないじゃありませんか」
「そうよ。しかし毎晩見ているからな」
「何晩いくばん見てもいいですよ、この景色は。私なら寝ずに見ています」
「ハハハハ。もっともあなたは画工えかきだから、わしとは少し違うて」
「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」
「なるほどそれもそうじゃろ。わしも達磨だるまの画えぐらいはこれで、かくがの。そら、ここに掛けてある、この軸じくは先代がかかれたのじゃが、なかなかようかいとる」
なるほど達磨の画が小さい床とこに掛っている。しかし画としてはすこぶるまずいものだ。ただ俗気ぞっきがない。拙せつを蔽おおおうと力つとめているところが一つもない。無邪気な画だ。この先代もやはりこの画のような構わない人であったんだろう。
「無邪気な画ですね」
「わしらのかく画はそれで沢山じゃ。気象きしょうさえあらわれておれば……」
「上手で俗気があるのより、いいです」
「ははははまあ、そうでも、賞ほめて置いてもらおう。時に近頃は画工にも博士があるかの」
「画工の博士はありませんよ」
「あ、そうか。この間、何でも博士に一人逢おうた」
「へええ」
「博士と云うとえらいものじゃろな」
「ええ。えらいんでしょう」
「画工にも博士がありそうなものじゃがな。なぜ無いだろう」
「そういえば、和尚さんの方にも博士がなけりゃならないでしょう」
「ハハハハまあ、そんなものかな。――何とか云う人じゃったて、この間逢うた人は――どこぞに名刺があるはずだが……」
「どこで御逢いです、東京ですか」
「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、ちょっと乗って見たいような気がする」
「つまらんものですよ。やかましくって」
「そうかな。蜀犬しょっけん日に吠ほえ、呉牛ごぎゅう月に喘あえぐと云うから、わしのような田舎者いなかものは、かえって困るかも知れんてのう」
「困りゃしませんがね。つまらんですよ」
「そうかな」
鉄瓶てつびんの口から煙が盛さかんに出る。和尚おしょうは茶箪笥ちゃだんすから茶器を取り出して、茶を注ついでくれる。
「番茶を一つ御上おあがり。志保田の隠居さんのような甘うまい茶じゃない」
「いえ結構です」
「あなたは、そうやって、方々あるくように見受けるがやはり画えをかくためかの」
「ええ。道具だけは持ってあるきますが、画はかかないでも構わないんです」
「はあ、それじゃ遊び半分かの」
「そうですね。そう云っても善いいでしょう。屁への勘定かんじょうをされるのが、いやですからね」
さすがの禅僧も、この語だけは解げしかねたと見える。
「屁の勘定た何かな」
「東京に永くいると屁の勘定をされますよ」
「どうして」
「ハハハハハ勘定だけならいいですが。人の屁を分析して、臀しりの穴が三角だの、四角だのって余計な事をやりますよ」
「はあ、やはり衛生の方かな」
「衛生じゃありません。探偵たんていの方です」
「探偵? なるほど、それじゃ警察じゃの。いったい警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの」
「そうですね、画工えかきには入いりませんね」
「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の厄介やっかいになった事がない」
「そうでしょう」
「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。澄すましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな」
「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」
「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑ぞうふをさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済むようになる」
「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」
「それじゃ画工になり澄したらよかろ」
「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」
「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの泊とまっている、志保田の御那美さんも、嫁に入いって帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ法ほうを問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような訳わけのわかった女になったじゃて」
「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」
「いやなかなか機鋒きほうの鋭するどい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安たいあんと云う若僧にゃくそうも、あの女のために、ふとした事から大事だいじを窮明きゅうめいせんならん因縁いんねんに逢着ほうちゃくして――今によい智識ちしきになるようじゃ」
静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに応こたうるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶うやむやのうちに微かすかなる、耀かがやきを放つ。漁火いさりびは明滅す。
「あの松の影を御覧」
「奇麗きれいですな」
「ただ奇麗かな」
「ええ」
「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」
茶碗に余った渋茶を飲み干して、糸底いとぞこを上に、茶托ちゃたくへ伏せて、立ち上る。
「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が御帰おかえりだぞよ」
送られて、庫裏くりを出ると、鳩がくううくううと鳴く。
「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」
月はいよいよ明るい。しんしんとして、木蓮もくれんは幾朶いくだの雲華うんげを空裏くうりに※(「敬/手」、第3水準1-84-92)ささげている。※(「さんずい+鴪のへん」、第4水準2-78-39)寥けつりょうたる春夜しゅんやの真中まなかに、和尚ははたと掌たなごころを拍うつ。声は風中ふうちゅうに死して一羽の鳩も下りぬ。
「下りんかいな。下りそうなものじゃが」
了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。気楽なものだ。
山門の所で、余は二人に別れる。見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、石甃いしだたみの上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。  

 

十二
基督キリストは最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚おしょうのごときは、まさしくこの資格を有していると思う。趣味があると云う意味ではない。時勢に通じていると云う訳でもない。彼は画えと云う名のほとんど下くだすべからざる達磨だるまの幅ふくを掛けて、ようできたなどと得意である。彼は画工えかきに博士があるものと心得ている。彼は鳩の眼を夜でも利きくものと思っている。それにも関かかわらず、芸術家の資格があると云う。彼の心は底のない嚢ふくろのように行き抜けである。何にも停滞ていたいしておらん。随処ずいしょに動き去り、任意にんいに作なし去って、些さの塵滓じんしの腹部に沈澱ちんでんする景色けしきがない。もし彼の脳裏のうりに一点の趣味を貼ちょうし得たならば、彼は之ゆく所に同化して、行屎走尿こうしそうにょうの際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。余のごときは、探偵に屁への数を勘定かんじょうされる間は、とうてい画家にはなれない。画架がかに向う事は出来る。小手板こていたを握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色しゅんしょくのなかに五尺の痩躯そうくを埋うずめつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界きょうがいに入れば美の天下はわが有に帰する。尺素せきそを染めず、寸※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)すんけんを塗らざるも、われは第一流の大画工である。技ぎにおいて、ミケルアンゼロに及ばず、巧たくみなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武ほぶを斉ひとしゅうして、毫ごうも遜ゆずるところを見出し得ない。余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画えもかかない。絵の具箱は酔興すいきょうに、担かついできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤わらうかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う境きょうを得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
朝飯あさめしをすまして、一本の敷島しきしまをゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。日は霞かすみを離れて高く上のぼっている。障子しょうじをあけて、後うしろの山を眺ながめたら、蒼あおい樹きが非常にすき通って、例になく鮮あざやかに見えた。
余は常に空気と、物象と、彩色の関係を宇宙よのなかでもっとも興味ある研究の一と考えている。色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。画は少しの気合きあい一つでいろいろな調子が出る。この調子は画家自身の嗜好しこうで異なってくる。それは無論であるが、時と場所とで、自おのずから制限されるのもまた当前とうぜんである。英国人のかいた山水さんすいに明るいものは一つもない。明るい画が嫌きらいなのかも知れぬが、よし好きであっても、あの空気では、どうする事も出来ない。同じ英人でもグーダルなどは色の調子がまるで違う。違うはずである。彼は英人でありながら、かつて英国の景色けいしょくをかいた事がない。彼の画題は彼の郷土にはない。彼の本国に比すると、空気の透明の度の非常に勝まさっている、埃及エジプトまたは波斯辺ペルシャへんの光景のみを択えらんでいる。したがって彼のかいた画を、始めて見ると誰も驚ろく。英人にもこんな明かな色を出すものがあるかと疑うくらい判然はっきり出来上っている。
個人の嗜好しこうはどうする事も出来ん。しかし日本の山水を描くのが主意であるならば、吾々われわれもまた日本固有の空気と色を出さなければならん。いくら仏蘭西フランスの絵がうまいと云って、その色をそのままに写して、これが日本の景色けいしょくだとは云われない。やはり面まのあたり自然に接して、朝な夕なに雲容煙態うんようえんたいを研究したあげく、あの色こそと思ったとき、すぐ三脚几さんきゃくきを担いで飛び出さなければならん。色は刹那せつなに移る。一たび機を失しっすれば、同じ色は容易に眼には落ちぬ。余が今見上げた山の端はには、滅多めったにこの辺で見る事の出来ないほどな好いい色が充みちている。せっかく来て、あれを逃にがすのは惜しいものだ。ちょっと写してきよう。
襖ふすまをあけて、椽側えんがわへ出ると、向う二階の障子しょうじに身を倚もたして、那美さんが立っている。顋あごを襟えりのなかへ埋うずめて、横顔だけしか見えぬ。余が挨拶あいさつをしようと思う途端とたんに、女は、左の手を落としたまま、右の手を風のごとく動かした。閃ひらめくは稲妻いなずまか、二折ふたおれ三折みおれ胸のあたりを、するりと走るや否いなや、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。女の左り手には九寸すん五分ぶの白鞘しらさやがある。姿はたちまち障子の影に隠れた。余は朝っぱらから歌舞伎座かぶきざを覗のぞいた気で宿を出る。
門を出て、左へ切れると、すぐ岨道そばみちつづきの、爪上つまあがりになる。鶯うぐいすが所々ところどころで鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑みかんが一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い師走しわすの頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた生なりに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆いくつでも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹きの上で妙な節ふしの唄うたをうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋やくしゅやへ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃つつの音がする。何だと聞いたら、猟師りょうしが鴨かもをとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。
あの女を役者にしたら、立派な女形おんながたが出来る。普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家のなかで、常住じょうじゅう芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然しぜんてんねんに芝居をしている。あんなのを美的生活びてきせいかつとでも云うのだろう。あの女の御蔭おかげで画えの修業がだいぶ出来た。
あの女の所作しょさを芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日もいたたまれん。義理とか人情とか云う、尋常の道具立どうぐだてを背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に在あって、余とあの女の間に纏綿てんめんした一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語ごんごに絶するだろう。余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡めがねから、あの女を覗のぞいて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい。
こんな考かんがえをもつ余を、誤解してはならん。社会の公民として不適当だなどと評してはもっとも不届ふとどきである。善は行い難い、徳は施ほどこしにくい、節操は守り安からぬ、義のために命を捨てるのは惜しい。これらをあえてするのは何人なんびとに取っても苦痛である。その苦痛を冒おかすためには、苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに潜ひそんでおらねばならん。画と云うも、詩と云うも、あるは芝居と云うも、この悲酸ひさんのうちに籠こもる快感の別号に過ぎん。この趣おもむきを解し得て、始めて吾人ごじんの所作は壮烈にもなる、閑雅にもなる、すべての困苦に打ち勝って、胸中の一点の無上趣味を満足せしめたくなる。肉体の苦しみを度外に置いて、物質上の不便を物とも思わず、勇猛精進しょうじんの心を駆かって、人道のために、鼎※(「金+護のつくり」、第3水準1-93-41)ていかくに烹にらるるを面白く思う。もし人情なる狭せまき立脚地に立って、芸術の定義を下し得るとすれば、芸術は、われら教育ある士人の胸裏きょうりに潜ひそんで、邪じゃを避さけ正せいに就つき、曲きょくを斥しりぞけ直ちょくにくみし、弱じゃくを扶たすけ強きょうを挫くじかねば、どうしても堪たえられぬと云う一念の結晶して、燦さんとして白日はくじつを射返すものである。
芝居気があると人の行為を笑う事がある。うつくしき趣味を貫つらぬかんがために、不必要なる犠牲をあえてするの人情に遠きを嗤わらうのである。自然にうつくしき性格を発揮するの機会を待たずして、無理矢理に自己の趣味観を衒てらうの愚ぐを笑うのである。真に個中こちゅうの消息を解し得たるものの嗤うはその意を得ている。趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎げすげろうの、わが卑いやしき心根に比較して他たを賤いやしむに至っては許しがたい。昔し巌頭がんとうの吟ぎんを遺のこして、五十丈の飛瀑ひばくを直下して急湍きゅうたんに赴おもむいた青年がある。余の視みるところにては、彼の青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものは洵まことに壮烈である、ただその死を促うながすの動機に至っては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体し得ざるものが、いかにして藤村子ふじむらしの所作しょさを嗤い得べき。彼らは壮烈の最後を遂とぐるの情趣を味あじわい得ざるが故ゆえに、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。
余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在だざいするも、東西両隣りの没風流漢ぼつふうりゅうかんよりも高尚である。社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、画えなきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美くしき所作が出来る。人情世界にあって、美くしき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上において示すものは天下の公民の模範である。
しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中りょちゅうに人情界に帰る必要はない。あってはせっかくの旅が無駄になる。人情世界から、じゃりじゃりする砂をふるって、底にあまる、うつくしい金きんのみを眺めて暮さなければならぬ。余自みずからも社会の一員をもって任じてはおらぬ。純粋なる専門画家として、己おのれさえ、纏綿てんめんたる利害の累索るいさくを絶って、優ゆうに画布裏がふりに往来している。いわんや山をや水をや他人をや。那美さんの行為動作といえどもただそのままの姿と見るよりほかに致し方がない。
三丁ほど上のぼると、向うに白壁の一構ひとかまえが見える。蜜柑みかんのなかの住居すまいだなと思う。道は間もなく二筋に切れる。白壁を横に見て左りへ折れる時、振り返ったら、下から赤い腰巻こしまきをした娘が上あがってくる。腰巻がしだいに尽きて、下から茶色の脛はぎが出る。脛が出切できったら、藁草履わらぞうりになって、その藁草履がだんだん動いて来る。頭の上に山桜が落ちかかる。背中には光る海を負しょっている。
岨道そばみちを登り切ると、山の出鼻でばなの平たいらな所へ出た。北側は翠みどりを畳たたむ春の峰で、今朝椽えんから仰いだあたりかも知れない。南側には焼野とも云うべき地勢が幅半丁ほど広がって、末は崩くずれた崖がけとなる。崖の下は今過ぎた蜜柑山で、村を跨またいで向むこうを見れば、眼に入るものは言わずも知れた青海あおうみである。
路みちは幾筋もあるが、合うては別れ、別れては合うから、どれが本筋とも認められぬ。どれも路である代りに、どれも路でない。草のなかに、黒赤い地が、見えたり隠れたりして、どの筋につながるか見分みわけのつかぬところに変化があって面白い。
どこへ腰を据すえたものかと、草のなかを遠近おちこちと徘徊はいかいする。椽えんから見たときは画えになると思った景色も、いざとなると存外纏まとまらない。色もしだいに変ってくる。草原をのそつくうちに、いつしか描かく気がなくなった。描かぬとすれば、地位は構わん、どこへでも坐すわった所がわが住居すまいである。染しみ込んだ春の日が、深く草の根に籠こもって、どっかと尻を卸おろすと、眼に入らぬ陽炎かげろうを踏ふみ潰つぶしたような心持ちがする。
海は足の下に光る。遮ぎる雲の一片ひとひらさえ持たぬ春の日影は、普あまねく水の上を照らして、いつの間にかほとぼりは波の底まで浸しみ渡ったと思わるるほど暖かに見える。色は一刷毛ひとはけの紺青こんじょうを平らに流したる所々に、しろかねの細鱗さいりんを畳んで濃こまやかに動いている。春の日は限り無き天あめが下したを照らして、天が下は限りなき水を湛たたえたる間には、白き帆が小指の爪つめほどに見えるのみである。しかもその帆は全く動かない。往昔入貢そのかみにゅうこうの高麗船こまぶねが遠くから渡ってくるときには、あんなに見えたであろう。そのほかは大千だいせん世界を極きわめて、照らす日の世、照らさるる海の世のみである。
ごろりと寝ねる。帽子が額ひたいをすべって、やけに阿弥陀あみだとなる。所々の草を一二尺抽ぬいて、木瓜ぼけの小株が茂っている。余が顔はちょうどその一つの前に落ちた。木瓜ぼけは面白い花である。枝は頑固がんこで、かつて曲まがった事がない。そんなら真直まっすぐかと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜しゃに構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅べにだか白だか要領を得ぬ花が安閑あんかんと咲く。柔やわらかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚おろかにして悟さとったものであろう。世間には拙せつを守ると云う人がある。この人が来世らいせに生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。
小供のうち花の咲いた、葉のついた木瓜ぼけを切って、面白く枝振えだぶりを作って、筆架ひつかをこしらえた事がある。それへ二銭五厘の水筆すいひつを立てかけて、白い穂が花と葉の間から、隠見いんけんするのを机へ載のせて楽んだ。その日は木瓜ぼけの筆架ひつかばかり気にして寝た。あくる日、眼が覚さめるや否いなや、飛び起きて、机の前へ行って見ると、花は萎なえ葉は枯れて、白い穂だけが元のごとく光っている。あんなに奇麗なものが、どうして、こう一晩のうちに、枯れるだろうと、その時は不審ふしんの念に堪たえなかった。今思うとその時分の方がよほど出世間的しゅっせけんてきである。
寝ねるや否や眼についた木瓜は二十年来の旧知己である。見詰めているとしだいに気が遠くなって、いい心持ちになる。また詩興が浮ぶ。
寝ながら考える。一句を得るごとに写生帖に記しるして行く。しばらくして出来上ったようだ。始めから読み直して見る。
出門多所思。春風吹吾衣。芳草生車轍。廃道入霞微。停※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)而矚目。万象帯晴暉。聴黄鳥宛転。観落英紛霏。行尽平蕪遠。題詩古寺扉。孤愁高雲際。大空断鴻帰。寸心何窈窕。縹緲忘是非。三十我欲老。韶光猶依々。逍遥随物化。悠然対芬菲。
ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を観みて、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と唸うなりながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払せきばらいが聞えた。こいつは驚いた。
寝返ねがえりをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、雑木ぞうきの間から、一人の男があらわれた。
茶の中折なかおれを被かぶっている。中折れの形は崩くずれて、傾かたむく縁へりの下から眼が見える。眼の恰好かっこうはわからんが、たしかにきょろきょろときょろつくようだ。藍あいの縞物しまものの尻を端折はしょって、素足すあしに下駄がけの出いで立たちは、何だか鑑定がつかない。野生やせいの髯ひげだけで判断するとまさに野武士のぶしの価値はある。
男は岨道そばみちを下りるかと思いのほか、曲り角からまた引き返した。もと来た路へ姿をかくすかと思うと、そうでもない。またあるき直してくる。この草原を、散歩する人のほかに、こんなに行きつ戻りつするものはないはずだ。しかしあれが散歩の姿であろうか。またあんな男がこの近辺きんぺんに住んでいるとも考えられない。男は時々立ち留どまる。首を傾ける。または四方を見廻わす。大に考え込むようにもある。人を待ち合せる風にも取られる。何だかわからない。
余はこの物騒ぶっそうな男から、ついに吾眼をはなす事ができなかった。別に恐しいでもない、また画えにしようと云う気も出ない。ただ眼をはなす事ができなかった。右から左、左りから右と、男に添うて、眼を働かせているうちに、男ははたと留った。留ると共に、またひとりの人物が、余が視界に点出てんしゅつされた。
二人は双方そうほうで互に認識したように、しだいに双方から近づいて来る。余が視界はだんだん縮ちぢまって、原の真中で一点の狭せまき間に畳たたまれてしまう。二人は春の山を背せに、春の海を前に、ぴたりと向き合った。
男は無論例の野武士のぶしである。相手は? 相手は女である。那美なみさんである。
余は那美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。もしや懐ふところに呑のんでおりはせぬかと思ったら、さすが非人情ひにんじょうの余もただ、ひやりとした。
男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。動く景色けしきは見えぬ。口は動かしているかも知れんが、言葉はまるで聞えぬ。男はやがて首を垂たれた。女は山の方を向く。顔は余の眼に入らぬ。
山では鶯うぐいすが啼なく。女は鶯に耳を借して、いるとも見える。しばらくすると、男は屹きっと、垂れた首を挙げて、半なかば踵くびすを回めぐらしかける。尋常の様さまではない。女は颯さっと体を開いて、海の方へ向き直る。帯の間から頭を出しているのは懐剣かいけんらしい。男は昂然こうぜんとして、行きかかる。女は二歩ふたあしばかり、男の踵を縫ぬうて進む。女は草履ぞうりばきである。男の留とまったのは、呼び留められたのか。振り向く瞬間に女の右手めては帯の間へ落ちた。あぶない!
するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、財布さいふのような包み物である。差し出した白い手の下から、長い紐ひもがふらふらと春風しゅんぷうに揺れる。
片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸てくびに、紫の包。これだけの姿勢で充分画えにはなろう。
紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る男の体たいのこなし具合で、うまい按排あんばいにつながれている。不即不離ふそくふりとはこの刹那せつなの有様を形容すべき言葉と思う。女は前を引く態度で、男は後しりえに引かれた様子だ。しかもそれが実際に引いてもひかれてもおらん。両者の縁えんは紫の財布の尽くる所で、ふつりと切れている。
二人の姿勢がかくのごとく美妙びみょうな調和を保たもっていると同時に、両者の顔と、衣服にはあくまで、対照が認められるから、画として見ると一層の興味が深い。
背せのずんぐりした、色黒の、髯ひげづらと、くっきり締しまった細面ほそおもてに、襟えりの長い、撫肩なでがたの、華奢きゃしゃ姿。ぶっきらぼうに身をひねった下駄がけの野武士と、不断着ふだんぎの銘仙めいせんさえしなやかに着こなした上、腰から上を、おとなしく反そり身に控えたる痩形やさすがた。はげた茶の帽子に、藍縞あいじまの尻切しりきり出立でだちと、陽炎かげろうさえ燃やすべき櫛目くしめの通った鬢びんの色に、黒繻子くろじゅすのひかる奥から、ちらりと見せた帯上おびあげの、なまめかしさ。すべてが好画題こうがだいである。
男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ巧たくみに平均を保ちつつあった二人の位置はたちまち崩くずれる。女はもう引かぬ、男は引かりょうともせぬ。心的状態が絵を構成する上に、かほどの影響を与えようとは、画家ながら、今まで気がつかなかった。
二人は左右へ分かれる。双方に気合きあいがないから、もう画としては、支離滅裂しりめつれつである。雑木林ぞうきばやしの入口で男は一度振り返った。女は後あとをも見ぬ。すらすらと、こちらへ歩行あるいてくる。やがて余の真正面ましょうめんまで来て、
「先生、先生」
と二声ふたこえ掛けた。これはしたり、いつ目付めっかったろう。
「何です」
と余は木瓜ぼけの上へ顔を出す。帽子は草原へ落ちた。
「何をそんな所でしていらっしゃる」
「詩を作って寝ねていました」
「うそをおっしゃい。今のを御覧でしょう」
「今の? 今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」
「ホホホホ少々でなくても、たくさん御覧なさればいいのに」
「実のところはたくさん拝見しました」
「それ御覧なさい。まあちょっと、こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」
余は唯々いいとして木瓜の中から出て行く。
「まだ木瓜の中に御用があるんですか」
「もう無いんです。帰ろうかとも思うんです」
「それじゃごいっしょに参りましょうか」
「ええ」
余は再び唯々として、木瓜の中に退しりぞいて、帽子を被かぶり、絵の道具を纏まとめて、那美さんといっしょにあるき出す。
「画を御描きになったの」
「やめました」
「ここへいらしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」
「ええ」
「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっとも御かきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」
「なにつまってるんです」
「おやそう。なぜ?」
「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画なんぞ描かいたって、描かなくったって、つまるところは同おんなじ事でさあ」
「そりゃ洒落しゃれなの、ホホホホ随分呑気のんきですねえ」
「こんな所へくるからには、呑気にでもしなくっちゃ、来た甲斐かいがないじゃありませんか」
「なあにどこにいても、呑気にしなくっちゃ、生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても恥はずかしくも何とも思いません」
「思わんでもいいでしょう」
「そうですかね。あなたは今の男をいったい何だと御思いです」
「そうさな。どうもあまり、金持ちじゃありませんね」
「ホホホ善よくあたりました。あなたは占うらないの名人ですよ。あの男は、貧乏して、日本にいられないからって、私に御金を貰いに来たのです」
「へえ、どこから来たのです」
「城下じょうかから来ました」
「随分遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」
「何でも満洲へ行くそうです」
「何しに行くんですか」
「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、微かすかなる笑の影が消えかかりつつある。意味は解げせぬ。
「あれは、わたくしの亭主です」
迅雷じんらいを掩おおうに遑いとまあらず、女は突然として一太刀ひとたち浴びせかけた。余は全く不意撃ふいうちを喰くった。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで曝さらけ出そうとは考えていなかった。
「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。
「ええ、少々驚ろいた」
「今の亭主じゃありません、離縁りえんされた亭主です」
「なるほど、それで……」
「それぎりです」
「そうですか。――あの蜜柑山みかんやまに立派な白壁の家がありますね。ありゃ、いい地位にあるが、誰の家うちなんですか」
「あれが兄の家です。帰り路にちょっと寄って、行きましょう」
「用でもあるんですか」
「ええちっと頼まれものがあります」
「いっしょに行きましょう」
岨道そばみちの登り口へ出て、村へ下りずに、すぐ、右に折れて、また一丁ほどを登ると、門がある。門から玄関へかからずに、すぐ庭口へ廻る。女が無遠慮につかつか行くから、余も無遠慮につかつか行く。南向きの庭に、棕梠しゅろが三四本あって、土塀どべいの下はすぐ蜜柑畠である。
女はすぐ、椽鼻えんばなへ腰をかけて、云う。
「いい景色だ。御覧なさい」
「なるほど、いいですな」
障子のうちは、静かに人の気合けあいもせぬ。女は音おとのう景色もない。ただ腰をかけて、蜜柑畠を見下みおろして平気でいる。余は不思議に思った。元来何の用があるのかしら。
しまいには話もないから、両方共無言のままで蜜柑畠を見下している。午ごに逼せまる太陽は、まともに暖かい光線を、山一面にあびせて、眼に余る蜜柑の葉は、葉裏まで、蒸むし返かえされて耀かがやいている。やがて、裏の納屋なやの方で、鶏が大きな声を出して、こけこっこううと鳴く。
「おやもう。御午おひるですね。用事を忘れていた。――久一きゅういちさん、久一さん」
女は及および腰ごしになって、立て切った障子しょうじを、からりと開あける。内は空むなしき十畳敷に、狩野派かのうはの双幅そうふくが空しく春の床とこを飾っている。
「久一さん」
納屋なやの方でようやく返事がする。足音が襖ふすまの向むこうでとまって、からりと、開あくが早いか、白鞘しらさやの短刀たんとうが畳の上へ転ころがり出す。
「そら御伯父おじさんの餞別せんべつだよ」
帯の間に、いつ手が這入はいったか、余は少しも知らなかった。短刀は二三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの足下あしもとへ走る。作りがゆる過ぎたと見えて、ぴかりと、寒いものが一寸すんばかり光った。  

 

十三
川舟かわふねで久一さんを吉田の停車場ステーションまで見送る。舟のなかに坐ったものは、送られる久一さんと、送る老人と、那美さんと、那美さんの兄さんと、荷物の世話をする源兵衛と、それから余である。余は無論御招伴おしょうばんに過ぎん。
御招伴でも呼ばれれば行く。何の意味だか分らなくても行く。非人情の旅に思慮は入らぬ。舟は筏いかだに縁ふちをつけたように、底が平ひらたい。老人を中に、余と那美さんが艫とも、久一さんと、兄さんが、舳みよしに座をとった。源兵衛は荷物と共に独ひとり離れている。
「久一さん、軍いくさは好きか嫌いかい」と那美さんが聞く。
「出て見なければ分らんさ。苦しい事もあるだろうが、愉快な事も出て来るんだろう」と戦争を知らぬ久一さんが云う。
「いくら苦しくっても、国家のためだから」と老人が云う。
「短刀なんぞ貰うと、ちょっと戦争に出て見たくなりゃしないか」と女がまた妙な事を聞く。久一さんは、
「そうさね」
と軽かろく首肯うけがう。老人は髯ひげを掀かかげて笑う。兄さんは知らぬ顔をしている。
「そんな平気な事で、軍いくさが出来るかい」と女は、委細いさい構わず、白い顔を久一さんの前へ突き出す。久一さんと、兄さんがちょっと眼を見合せた。
「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」兄さんが妹に話しかけた第一の言葉はこれである。語調から察すると、ただの冗談じょうだんとも見えない。
「わたしが? わたしが軍人? わたしが軍人になれりゃとうになっています。今頃は死んでいます。久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞がいぶんがわるい」
「そんな乱暴な事を――まあまあ、めでたく凱旋がいせんをして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家のためではない。わしもまだ二三年は生きるつもりじゃ。まだ逢あえる」
老人の言葉の尾を長く手繰たぐると、尻が細くなって、末は涙の糸になる。ただ男だけにそこまではだまを出さない。久一さんは何も云わずに、横を向いて、岸の方を見た。
岸には大きな柳がある。下に小さな舟を繋つないで、一人の男がしきりに垂綸いとを見詰めている。一行の舟が、ゆるく波足なみあしを引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた両人ふたりの間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の鮒ふなも宿やどる余地がない。一行の舟は静かに太公望たいこうぼうの前を通り越す。
日本橋にほんばしを通る人の数は、一分ぷんに何百か知らぬ。もし橋畔きょうはんに立って、行く人の心に蟠わだかまる葛藤かっとうを一々に聞き得たならば、浮世うきよは目眩めまぐるしくて生きづらかろう。ただ知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句けっく日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何らの説明をも求めなかったのは幸さいわいである。顧かえり見ると、安心して浮標うきを見詰めている。おおかた日露戦争にちろせんそうが済むまで見詰める気だろう。
川幅かわはばはあまり広くない。底は浅い。流れはゆるやかである。舷ふなばたに倚よって、水の上を滑すべって、どこまで行くか、春が尽きて、人が騒いで、鉢はち合せをしたがるところまで行かねばやまぬ。腥なまぐさき一点の血を眉間みけんに印いんしたるこの青年は、余ら一行を容赦ようしゃなく引いて行く。運命の縄なわはこの青年を遠き、暗き、物凄ものすごき北の国まで引くが故ゆえに、ある日、ある月、ある年の因果いんがに、この青年と絡からみつけられたる吾われらは、その因果の尽くるところまでこの青年に引かれて行かねばならぬ。因果の尽くるとき、彼と吾らの間にふっと音がして、彼一人は否応いやおうなしに運命の手元てもとまで手繰たぐり寄せらるる。残る吾らも否応いやおうなしに残らねばならぬ。頼んでも、もがいても、引いていて貰う訳には行かぬ。
舟は面白いほどやすらかに流れる。左右の岸には土筆つくしでも生えておりそうな。土堤どての上には柳が多く見える。まばらに、低い家がその間から藁屋根わらやねを出し。煤すすけた窓を出し。時によると白い家鴨あひるを出す。家鴨はがあがあと鳴いて川の中まで出て来る。
柳と柳の間に的※(「白+樂」、第3水準1-88-69)てきれきと光るのは白桃しろももらしい。とんかたんと機はたを織る音が聞える。とんかたんの絶間たえまから女の唄うたが、はああい、いようう――と水の上まで響く。何を唄うのやらいっこう分らぬ。
「先生、わたくしの画えをかいて下さいな」と那美さんが注文する。久一さんは兄さんと、しきりに軍隊の話をしている。老人はいつか居眠りをはじめた。
「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、
   春風にそら解どけ繻子しゅすの銘は何
と書いて見せる。女は笑いながら、
「こんな一筆ひとふでがきでは、いけません。もっと私の気象きしょうの出るように、丁寧にかいて下さい」
「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画えにならない」
「御挨拶ごあいさつです事。それじゃ、どうすれば画になるんです」
「なに今でも画に出来ますがね。ただ少し足りないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」
「足りないたって、持って生れた顔だから仕方がありませんわ」
「持って生れた顔はいろいろになるものです」
「自分の勝手にですか」
「ええ」
「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」
「あなたが女だから、そんな馬鹿を云うのですよ」
「それじゃ、あなたの顔をいろいろにして見せてちょうだい」
「これほど毎日いろいろになってればたくさんだ」
女は黙って向むこうをむく。川縁かわべりはいつか、水とすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、一面いちめんのげんげんで埋うずまっている。鮮あざやかな紅べにの滴々てきてきが、いつの雨に流されてか、半分溶とけた花の海は霞かすみのなかに果はてしなく広がって、見上げる半空はんくうには崢※(「山+榮」、第3水準1-47-92)そうこうたる一峰ぽうが半腹はんぷくから微ほのかに春の雲を吐いている。
「あの山の向うを、あなたは越していらしった」と女が白い手を舷ふなばたから外へ出して、夢のような春の山を指さす。
「天狗岩てんぐいわはあの辺ですか」
「あの翠みどりの濃い下の、紫に見える所がありましょう」
「あの日影の所ですか」
「日影ですかしら。禿はげてるんでしょう」
「なあに凹くぼんでるんですよ。禿げていりゃ、もっと茶に見えます」
「そうでしょうか。ともかく、あの裏あたりになるそうです」
「そうすると、七曲ななまがりはもう少し左りになりますね」
「七曲りは、向うへ、ずっと外それます。あの山のまた一つ先きの山ですよ」
「なるほどそうだった。しかし見当から云うと、あのうすい雲が懸かかってるあたりでしょう」
「ええ、方角はあの辺へんです」
居眠をしていた老人は、舷こべりから、肘ひじを落して、ほいと眼をさます。
「まだ着かんかな」
胸膈きょうかくを前へ出して、右の肘ひじを後うしろへ張って、左り手を真直に伸のして、ううんと欠伸のびをするついでに、弓を攣ひく真似をして見せる。女はホホホと笑う。
「どうもこれが癖で、……」
「弓が御好おすきと見えますね」と余も笑いながら尋ねる。
「若いうちは七分五厘まで引きました。押おしは存外今でもたしかです」と左の肩を叩たたいて見せる。舳へさきでは戦争談が酣たけなわである。
舟はようやく町らしいなかへ這入はいる。腰障子に御肴おんさかなと書いた居酒屋が見える。古風こふうな縄暖簾なわのれんが見える。材木の置場が見える。人力車の音さえ時々聞える。乙鳥つばくろがちちと腹を返して飛ぶ。家鴨あひるががあがあ鳴く。一行は舟を捨てて停車場ステーションに向う。
いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟ごうと通る。情なさけ容赦ようしゃはない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)じょうきの恩沢おんたくに浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑けいべつしたものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前ひとりまえ何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵てっさくを設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇おどかすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅ほしいままにしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢いきおいである。憐あわれむべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛かみついて咆哮ほうこうしている。文明は個人に自由を与えて虎とらのごとく猛たけからしめたる後、これを檻穽かんせいの内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨にらめて、寝転ねころんでいると同様な平和である。檻おりの鉄棒が一本でも抜けたら――世はめちゃめちゃになる。第二の仏蘭西革命フランスかくめいはこの時に起るのであろう。個人の革命は今すでに日夜にちやに起りつつある。北欧の偉人イブセンはこの革命の起るべき状態についてつぶさにその例証を吾人ごじんに与えた。余は汽車の猛烈に、見界みさかいなく、すべての人を貨物同様に心得て走る様さまを見るたびに、客車のうちに閉とじ籠こめられたる個人と、個人の個性に寸毫すんごうの注意をだに払わざるこの鉄車てっしゃとを比較して、――あぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を衝つかれるくらい充満している。おさき真闇まっくらに盲動もうどうする汽車はあぶない標本の一つである。
停車場ステーション前の茶店に腰を下ろして、蓬餅よもぎもちを眺ながめながら汽車論を考えた。これは写生帖へかく訳にも行かず、人に話す必要もないから、だまって、餅を食いながら茶を飲む。
向うの床几しょうぎには二人かけている。等しく草鞋穿わらじばきで、一人は赤毛布あかげっと、一人は千草色ちくさいろの股引ももひきの膝頭ひざがしらに継布つぎをあてて、継布のあたった所を手で抑えている。
「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つが悪わるくなりゃ、切ってしまえば済むから」
この田舎者いなかものは胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風の臭においも知らぬ。現代文明の弊へいをも見認みとめぬ。革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。余は写生帖を出して、二人の姿を描かき取った。
じゃらんじゃらんと号鈴ベルが鳴る。切符きっぷはすでに買うてある。
「さあ、行きましょ」と那美さんが立つ。
「どうれ」と老人も立つ。一行は揃そろって改札場かいさつばを通り抜けて、プラットフォームへ出る。号鈴ベルがしきりに鳴る。
轟ごうと音がして、白く光る鉄路の上を、文明の長蛇ちょうだが蜿蜒のたくって来る。文明の長蛇は口から黒い煙を吐く。
「いよいよ御別かれか」と老人が云う。
「それでは御機嫌ごきげんよう」と久一さんが頭を下げる。
「死んで御出おいで」と那美さんが再び云う。
「荷物は来たかい」と兄さんが聞く。
蛇は吾々われわれの前でとまる。横腹の戸がいくつもあく。人が出たり、這入はいったりする。久一さんは乗った。老人も兄さんも、那美さんも、余もそとに立っている。
車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝えんしょうの臭においの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑すべって、むやみに転ころぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺ながめている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果いんがはここで切れる。もうすでに切れかかっている。車の戸と窓があいているだけで、御互おたがいの顔が見えるだけで、行く人と留まる人の間が六尺ばかり隔へだたっているだけで、因果はもう切れかかっている。
車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を閉たてながら、こちらへ走って来る。一つ閉てるごとに、行く人と、送る人の距離はますます遠くなる。やがて久一さんの車室の戸もぴしゃりとしまった。世界はもう二つに為なった。老人は思わず窓側まどぎわへ寄る。青年は窓から首を出す。
「あぶない。出ますよ」と云う声の下から、未練みれんのない鉄車てっしゃの音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。窓は一つ一つ、余等われわれの前を通る。久一さんの顔が小さくなって、最後の三等列車が、余の前を通るとき、窓の中から、また一つ顔が出た。
茶色のはげた中折帽の下から、髯ひげだらけな野武士が名残なごり惜気おしげに首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合みあわせた。鉄車てっしゃはごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然ぼうぜんとして、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐あわれ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画えになりますよ」と余は那美さんの肩を叩たたきながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟とっさの際に成就じょうじゅしたのである。  
 
 

 

●夏目漱石
[1867 - 1916] 日本の小説家、評論家、英文学者。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。
江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。
講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。
言語・文学・日本語 [1]
●経歴
幼少期
夏目金之助(後の漱石)は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、金之助は望まれない子として生まれたといえる。
名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。
金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。
金之助はその後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。
1874年(明治7年)、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学後、金之助は市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校)に入学したが、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため、中学には2年ほどの在籍で1881年(明治14年)に中退し、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学する。ただし、長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている。しかし、長兄・大助が文学を志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。
2年後の1883年(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学し、頭角を現した。
1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。その友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁となる中村是公がいる。予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、金之助は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。
正岡子規との出会い
1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。
同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。
1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退する。
イギリス留学
1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。
1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。
1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。
1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。
1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。9月10日に日本を出発。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。
1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという。
当時の漱石最後の下宿の反対側には、1984年(昭和59年)に恒松郁生によって「ロンドン漱石記念館」が設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの欧州連合(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館。漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開された。
作家への道と朝日新聞社入社
1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。
東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。
その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これがのちの「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閨E野上弥生子、さらにのちの新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。
1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。
1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
修善寺の大患
1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。1912年(大正元年)9月、痔の再手術。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。
死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)。
1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。
●年譜
1867年(慶応3年)1月5日 - 江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)に父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。夏目家は代々名主であったが、当時家運が衰えていたため、生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたものの、すぐに連れ戻される。
1868年(明治元年)11月 - 新宿の名主・塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。
1869年(明治2年) - 養父・昌之助、浅草の添年寄となり浅草三間町へ移転。
1870年(明治3年) - 種痘がもとで疱瘡を病み、顔に瘢痕(あばた)が残る。「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌に作られるほど、痘痕は目立った。
1874年(明治6年) - 養父・昌之助と養母・やすが不和になり、一時喜久井町の生家に引き取られた。浅草寿町戸田学校下等小学第八級(のち台東区立精華小学校。現・台東区立蔵前小学校)に入学。
1876年(明治9年) - 養母が塩原家を離縁され、塩原家在籍のまま養母とともに生家に移った。市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・新宿区立愛日小学校)に転校。
1878年(明治11年)
   2月 - 回覧雑誌に『正成論』を書く。
   10月 - 錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)・小学尋常科二級後期卒業。
1879年(明治12年) - 東京府第一中学校正則科(東京都立日比谷高等学校の前身)第七級に入学。
1881年(明治14年) - 1月 - 実母・千枝死去。府立一中を中退。私立二松學舍(現・二松學舍大学)に転校。
1883年(明治16年) - 9月 - 神田駿河台の成立学舎に入学。
1884年(明治17年) - 小石川極楽水の新福寺二階に橋本左五郎と下宿。自炊生活をしながら成立学舎に通学。
   9月 - 大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。同級に中村是公、芳賀矢一、正木直彦、橋本左五郎などがいた。
1885年(明治18年) - 中村是公、橋本左五郎ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。
1886年(明治19年)7月 - 腹膜炎のため落第。この落第が転機となり、のち卒業まで首席を通す。中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。
1887年(明治20年) - 3月に長兄・大助、6月に次兄・栄之助がともに肺病のため死去。急性トラホームを患い、自宅に帰る。夏に初めての富士登山。
1888年(明治21年)
   1月 - 塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。
   7月 - 第一高等中学校予科を卒業。
   9月 - 英文学専攻を決意し本科一部に入学。
1889年(明治22年)
   1月 - 正岡子規との親交が始まる。
   5月 - 子規の『七草集』の批評を書き、初めて“漱石”の筆名を用いる。
1890年(明治23年)
   7月 - 第一高等中学校本科を卒業。
   9月 - 帝国大学(のちの東京帝国大学)文科大学英文科入学。文部省の貸費生となる。
1891年(明治24年)
   7月 - 特待生となる。二度目の富士登山。
   12月 - 『方丈記』を英訳する。
1892年(明治25年)
   4月 - 分家。北海道後志国岩内郡吹上町に転籍する(徴兵を免れるためとの説がある)。
   5月 - 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。
1893年(明治26年)
   7月 - 帝国大学卒業、大学院に入学。
   10月 - 高等師範学校(のちの東京高等師範学校)の英語教師となる。高等師範の校長は講道館創設者として有名な嘉納治五郎という柔道の大家だった。
1894年(明治27年)2月 - 結核の徴候があり、療養に努める。
1895年(明治28年)
   4月 - 松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄の口添えで赴任。
   12月 - 貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いをし、婚約成立。
1896年(明治29年)
   4月 - 熊本県の第五高等学校講師となる。
   6月 - 中根鏡子と結婚。
   7月 - 教授となる。
1897年(明治30年)6月 - 実父・直克死去。
1898年(明治31年)10月 - 俳句結社「紫溟吟社」の主宰になる。
1899年(明治32年)5月 - 長女・筆子誕生。
1900年(明治33年)5月 - イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
1901年(明治34年)1月 - 次女・恒子誕生。
1902年(明治35年)9月 - 正岡子規没。
1903年(明治36年)
   4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
   10月 - 三女・栄子誕生。水彩画を始め、書もよくした。
1904年(明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。
1905年(明治38年)
   1月 - 『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。
   12月 - 四女・愛子誕生。
1906年(明治39年)4月 - 『坊っちゃん』を『ホトトギス』に発表。
1907年(明治40年)
   1月 - 『野分』を『ホトトギス』に発表。
   4月 - 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。
   6月 - 長男・純一誕生。『虞美人草』を『朝日新聞』に連載( - 10月)。
1908年(明治41年)
   1月『坑夫』( - 4月)、6月『文鳥』、7月『夢十夜』( - 8月)、9月『三四郎』( - 12月)を『朝日新聞』に連載。
   12月 - 次男・伸六誕生。
1909年(明治42年)3月 - 養父から金を無心され、そのような事件が11月まで続いた。
1910年(明治43年)
   3月 - 五女・雛子誕生。
   6月 - 胃潰瘍のため内幸町の長与胃腸病院に入院。
   8月 - 療養のため修善寺温泉に転地。同月24日夜、大吐血があり、一時危篤状態に陥る。
   10月 - 長与病院に入院。
1911年(明治44年)
   2月21日 - 文部省からの文学博士号授与を辞退。
   8月 - 朝日新聞社主催の講演会のために明石、和歌山、堺、大阪に行き、大阪で胃潰瘍が再発し、湯川胃腸病院に入院。
   11月29日 - 五女・雛子、原因不明の突然死。のちの漱石の遺体解剖の遠因となる。
1913年(大正2年)
   1月 - ひどいノイローゼが再発。
   3月 - 胃潰瘍再発。5月下旬まで自宅で病臥した。北海道から東京に再転籍する。
1914年(大正3年)
   4月 - 『こゝろ』を『朝日新聞』に連載( - 8月)。
   11月 - 「私の個人主義」を学習院輔仁会で講演。
1915年(大正4年)
   6月 - 『道草』を『朝日新聞』に連載( - 9月)。
   11月 - 中村是公と湯ヶ原に遊ぶ。
   12月 - 芥川龍之介、久米正雄が門下に加わった。このころからリウマチに悩む。
1916年(大正5年)
   1月 - リウマチの治療のため、湯ヶ原天野屋の中村是公のもとに転地。
   5月 - 『明暗』を『朝日新聞』に連載( - 12月)。
   12月9日 - 午後7時前、胃潰瘍により死去。戒名・文献院古道漱石居士。
(1984年(昭和59年)11月 - 千円札に肖像が採用される。)
●作品
中・長編小説
吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
坊っちゃん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)
短編小説・小品
倫敦塔(1905年1月、『帝国文学』/1906年、大倉書店・服部書店刊『漾虚集』収録)
幻影の盾(1905年4月、『ホトトギス』/『漾虚集』)
琴のそら音(1905年7月、『七人』/『漾虚集』収録)
一夜(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
薤露行(かいろこう)(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
趣味の遺伝(1906年1月、『帝国文学』/『漾虚集』収録)
文鳥(1908年6月、『大阪朝日』/1910年、春陽堂刊『四篇』収録)
夢十夜(1908年7月 - 8月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
永日小品(1909年1月 - 3月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
●家族
夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。
子供らの生年月は次のようになっている。
明治32年(1899年)5月 - 長女 筆子誕生。
明治34年(1901年)1月 - 次女 恒子誕生。
明治36年(1903年)11月 - 三女 栄子誕生。
明治38年(1905年)?月 - 四女 愛子誕生。
明治40年(1907年)6月 - 長男 純一誕生。
明治41年(1908年)12月 - 次男 伸六誕生。
明治43年(1910年)3月 - 五女 雛子誕生(1歳で死亡)。
夏目家
夏目家の系図(夏目氏系譜(武家家伝))によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年(元禄15年)旧暦4月、夏目兵衛直情の時、名主に任じられた。
現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。
家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。
父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった。『夏目漱石 人と作品3』 11頁によると、「遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をして過ごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋高橋長左衛門の妹として結婚したが、表向きは四谷大番町の鍵屋という質屋から嫁いだことにしていた。そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。
三兄・和三郎(夏目直矩)の孫に、芸能プロダクション経営者でVISAカードのCFで漱石役を演じた新田太郎がいる。
三兄・和三郎(夏目直矩)の別の孫に朝日新聞社員(『週刊朝日』副編集長、『アサヒカメラ』編集長、『図書』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の角田秀雄。
妻 - 夏目鏡子との間に2男5女。 次女・恒子は、『其面影』を著している。
四女・愛子は、津田青楓の少女像のモデルとなっている。
五女・雛子は1歳で亡くなっている。その臍の緒が発見され、東北大学が購入している。
●門下生
代表的なのは、安倍能成、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平で、四天王と称せられる。それに加えて、漱石と四天王が中心となって開いた「木曜会」に馳せ参じた文士がいわば漱石門下とされ、後に評論家・本多顕彰によって漱石山脈と命名されている。
赤木桁平 / 芥川龍之介 / 阿部次郎 / 安倍能成 / 内田百間 / 久米正雄 / 寺田寅彦 / 中勘助 / 松浦嘉一 / 野上豊一郎(臼川) / 野上弥生子 / 野間真綱 / 林原耒井 / 松岡譲 / 松根東洋城 / 皆川正禧 / 和辻哲郎
●思想
アジア観
1909年(明治42年)11月6日付の『満洲日日新聞』に掲載された漱石の随筆『韓満所感(下)』の記事において、「歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた。同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ」などと書いており、当時の漱石の「アジア観」が示されている。この一連の記事に対し、比較文学者の平川祐弘は、「漱石は植民地帝国の英国と張り合う気持ちが強かったせいか、ストレートに日本の植民地化事業を肯定し、在外邦人の活動を賀している。日韓併合に疑義を呈した石黒忠悳や上田敏のような政治的叡智は示していない。正直に『余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た』『余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた』と書いている。『まあ』に問題はあろうが、ともかくも日本帝国一員として発展を賀したのだ」と評している。
伊藤博文暗殺事件への反応
1909年(明治42年)11月5日付の『満洲日日新聞』に掲載された漱石の随筆『韓満所感(上)』の記事において、伊藤博文の暗殺事件に触れており、「昨夜久し振りに寸閑を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、筆を執りながら二三行認め出すと、伊藤公が哈爾浜で狙撃されたと云ふ号外が来た。哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、希有の兇変と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」などとしたうえで「余の如き政治上の門外漢は(中略)報道するの資格がないのだから極めて平凡な便り丈(だけ)に留めて置く」などと書いており、伊藤博文の暗殺事件に対する感想が綴られている。
●その他
漱石と病気
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。
酒は飲めなかったが、胃弱であるにもかかわらずビーフステーキや中華料理などの脂っこい食事を好んだ。大の甘党で、療養中には当時貴重品だったアイスクリームを欲しがり、ついには家族に無断で業務用アイスクリーム製造機を取り寄せ、妻と大喧嘩になったこともある。当時出回り始めたジャムもお気に入りで、毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという。
胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れ障子に風が吹きつける音にそっくりだったことから、「破障子」なる落款を作り、使用していたことがある。
また、漱石は天然痘(疱瘡)にかかっており、自分の容姿に劣等感を抱いていた。しかし当時は写真家が修正を加えることがよく行われており、今残っている写真には漱石が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。
精神医学上の研究対象
漱石は、神経衰弱やうつ病あるいは統合失調症を患っていたとされている。このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のインテリでもあった漱石の生涯および作品に対していかに影響を及ぼしているのかが、精神医学者の病跡学上の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。
漱石と鴎外
望まれぬ末子として江戸の町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(国家に反抗する姿勢)な態度を貫いたことに対して、津和野藩典医の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられた森鴎外は死ぬまで大日本帝国陸軍をはじめ国家官僚の職を歴任し、官側の人間であり続けた、という対照がある。夏目漱石は「余裕派」、森鴎外は「高踏派」と呼ばれた。
しかし、その一方では二人とも「自然主義文学の姿勢」とははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広い知識をもって文学活動を進め、歪んでいく近代化における価値観の主流においても自分たちの認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応の影響を与えた。
なお、鴎外が1890年から1年ほど過ごし、『文づかひ』などを執筆した千駄木の邸宅は、後にロンドンより帰国した漱石が1903年から約3年居住して『吾輩は猫である』を著した場所でもあったが、現在、同邸は愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されている。
神格化
「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、のちの多くの批評家・研究家によって語られた論評である。また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、『広辞苑』にも紹介されている。しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残したわけではなく、漱石の発言を弟子たちが書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない。
この点については、小宮豊隆の書いたもの、とりわけ『夏目漱石』(1938)も改めて精査する必要がある。
留学時の指導教授探し
熊本在住の英国人宣教師グレース・ノットの母親と親しくなり、また渡航の船でも相談していることは彼の日記にある。
言葉遊びと造語
漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字など言葉遊びの多用が見られる。漱石以前に使った形跡が見られない造単語や一般的に使われている漢字とは異なる別種の綴りがある。現在、下記の「浪漫」「沢山」のように一般用語化されたものも多いが、漢字検定の上級問題として用いられることも多い。
単簡(簡単)
笑談(冗談)
八釜しい(やかましい)
非道い(ひどい)
浪漫(ロマン)
沢山(たくさん)
月並み 東大予備門時代の同窓生・正岡子規が、旧派が毎月の一日に行う句会を「月並俳句」と呼んだことから、転じて「ありきたりで面白みに欠けるもの」という意味 が定着。
案排(あんばい) 普通は「塩梅」や「案配」と書く。ATOKなどのワープロで変換しても候補として出てこない。
烈敷(はげしく) 普通は「激しく」。そもそも引用元の「坑夫」は「鉱夫」と書くのが普通。
「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもあると言われている。しかし、漱石が生きた時代は現在では使われない当て字が多く用いられており、たとえば「バケツ」を「馬尻」と書くのも当時としてはごく一般的であり、「単簡」などは当時の軍隊用語であるなど、漱石固有の当て字や言葉遊びであるということは、漱石以前の全ての資料を確認しない限り、確定はできない。
「新陳代謝」「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩が凝る」などは漱石の造語であると言われているが、実際には漱石よりも古い用例がある。一例としては、漱石が「肩が凝る」という言葉を作ったとする説があるが、18世紀末頃(江戸時代後期)からの歌舞伎、滑稽本に用例が見られる。学術的に「漱石の造語」であると言える言葉はまだ一語も確認されていないが、「浪漫」については『教育と文芸』中に「適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きました」との記述がある。
漢詩
日本人が作った漢詩の中には平仄が合っていても中国語での声調まで意識していないものもあるため、中国語で吟じられた場合には優れた漢詩とされにくい場合がある。しかし、漱石の漢詩は中国語で吟じられても美しいとされ、2006年(平成17年)には『中国語で聞く 夏目漱石漢詩選』(耕文社)というCDつきの書籍も出版されている。
漱石の漢詩についての先駆的研究書としては、吉川幸次郎『漱石詩注』(1967年(昭和42年))があるが、これは漱石の造詣が深かった禅の用語などに関しては注釈がないなどの不備があるとされている(『週刊読書人』勝又浩)。またそれに先立ち、1946年(昭和21年)、娘婿の松岡讓が『漱石の漢詩』を出版している。2008年(平成20年)に作家の古井由吉により『漱石の漢詩』が発表された。禅の観点から注釈されたものとしては飯田利行『新訳 漱石詩集』がある。ほかに和田利男『漱石の漢詩』がある。2016年1月25日に二松学舎大学が、漱石直筆の漢詩文屏風を古書店から購入したと発表した。屏風は2枚折り1対、1枚が縦1m62、横80cm。内容は『禅林句集』から春夏秋冬の場面が選ばれていた。
日本国外での評価
日本での絶大な名声に比較すると、欧米での知名度はそれほど高いとは言えないものの、英語圏では主要な作品のいくつかが訳されており、一定の評価を得ている。
1960年代に、英国人アラン・ターニーによる『草枕』の英訳 "The Three Cornered World" が刊行された。これはカナダのピアニストのグレン・グールドが愛読するところとなり、晩年に、自らラジオ番組で一部分を朗読したことがある。
アメリカ合衆国の批評家のスーザン・ソンタグは、「死後の生 マシャード・デ・アシス」(『書くこと、ロラン・バルトについて』所収)の中で漱石について、「ヨーロッパ中心の世界文学観が端に押しやってしまったもうひとりの多才な天才、夏目漱石」と評している。
イギリスの批評家で、2005年に『倫敦塔』の翻訳 "The Tower of London" を刊行したダミアン・フラナガンは、漱石をシェイクスピアやゲーテなどに並ぶ世界的な文豪であると評価したうえで、イギリスなど欧米ではほとんど漱石が認知されておらず、その理由として、川端康成や三島由紀夫のような「日本らしさ」が漱石には感知されないためではないかとしている。しかしフラナガンによれば、漱石は単に「日本文学」を代表するのみならず、人間や心の普遍性を探求した世界文学であり、現在はそのように認知されていないが、シェイクスピアが世界的な評価を得るに至ったのは、レッシングやゲーテなどドイツ・ロマン派によるところが大きいことを引用しながら賞賛している。
アメリカの比較文学者ジェイ・ルービン(Jay Rubin)の英訳 "Sanshiro A Novel"(トロント大学出版局)に添付された自身執筆の評論 "SANSHIRO AND SOSEKI: A Critical Essay" は『三四郎』論として包括的で優れている。漱石全集の本文を厳密に引用・英訳するルビンの姿勢には、漱石が世界文学の仲間入りをしていることを如実に感じさせる。ルビンは他にも『坑夫』などを英訳している。
中国・台湾・韓国ではよく知られており、多くの作品が中国語や韓国語に訳されている。中国語圏では周作人により紹介されて以来、多くの読書人に愛されてきた。韓国でも古くから漱石作品が親しまれてきたが、1990年代以降特に人気が高まり、「漱石ブーム」と言われるほどになった。
作品における差別表現問題
『坑夫』における「芋中の穢多」(芋の中で最下等のもの、の意)との表現が問題視され、角川書店はこの語を伏字にしたが、巻末の注で「特殊部落の人々への蔑称」と記述したためにかえって問題となり、1981年初めに部落解放同盟から糾弾された。このくだりは、『夏目漱石全集4』(ちくま文庫)でも「芋中のヽヽ」と伏字になっている。
その他、1994年3月には『坊っちゃん』における「小使」(学校用務員)の語がNHK-FM放送の朗読の時間に問題となり、「それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ」などの文章をそのまま読み上げたうえで、朗読終了後にアナウンサーが弁解したことがある。しかし、1994年4月からの『吾輩は猫である』では「盲(めくら)」「跛(びっこ)」などの表現が問題となり、これらの語は飛ばして朗読された。
また、漱石は1913年から1914年にかけて、播州坂越の岩崎太郎次と名乗る者から缶入りの茶を贈られ、富士登山の絵に賛をしてくれ、赤穂義士に関する俳句を書いてくれとねだられたが断ったことがある。すると岩崎は「書かないなら茶を返せ」としつこく要求を繰り返した。漱石は岩崎の言動にあきれて「何(ど)うも穢多か猶太人でもなけりや、こんな鄙嗇(けち)なことは云はなかろう」と疑い、播州近くの男に岩崎の地元を調べさせた。すると「坂越と云ふは播州でも素封家の揃つて居る所ださうだ」との回答であった。
現在は、作者が故人でありかつ文学作品であることから、これらが差別用語であることを認めたうえで、そのまま掲載されていることが多い。このような取り扱いは他の故人の作家でも同様であることが多い。  
月並、月並み(つきなみ)
月次、月浪とも書き、元来「毎月の恒例」という意味で用いられていた言葉である。毎月の恒例行事や催しといったものは古くからあったが、俳句の世界においては、文化年間に爆発的人気を起こし明治中期まで続いた「月並句合」(つきなみくあわせ)と呼ばれる興行があった。これは俳諧の宗匠が毎月、兼題(前もって出しておく題)によって発句を集めて句会を開き、高得点句をまとめて出版する、というもので、手引書となる類題句集なども多く出版され盛んに開催されていた。明治中期、正岡子規はこのような月並句合で作られる、機知や風流振りを特徴とするありきたりな俳句を「月並調」と呼んで批判し、写生の方法を機軸とした俳句の近代化事業を推し進める中でこれを排斥した。今日「月並」の語が「陳腐、ありきたり、平凡」といった否定的な意味の日常語として用いられるのはこの子規の用法に由来する。
子規の月並調批判
子規が批判的な意味をこめて「月並」の語をはじめて用いたのは、『獺祭書屋俳話』(だっさいしゃおくはいわ)の1892年9月17日の記事においてである。ここでは旧派の俳人花の本芹舎(八木芹舎)の句「余の木皆手持無沙汰や花盛り」の句の「手持無沙汰」を「尤(もっとも)拙劣なる擬人法」として批判し、このようなものは月並句合の句集に多く見つかるものとして「余は私に之(これ)を称して月並流といふ」と記している。のちの『俳諧大要』(1899年)では、「天保以後の句は、概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並調といふ」と書き、こうした句を賞賛して恥を掻かないようにするためには月並の句も多少は知っておく必要がある、としている(「恥を掻かざらんと欲する者は月並調も少しは見るべし」)。天保以後の句とは、具体的には成田蒼虬、桜井梅室、田川鳳朗などに代表される俳人たちの句である。
『俳句問答』(1899年)では、子規は自身たちの進める新しい俳風(新派)と従来の月並俳句との違いを解説している。ここで述べられている月並俳句の特徴を要約すると以下のようになる。
 1.知識に訴える
 2.陳腐を好み、新規を嫌う
 3.言語の緊密を嫌う
 4.洋語を排斥するなど、狭い範囲の言葉を用いる
 5.流派が多い
これに対し、知識ではなく感情に訴えること、陳腐を嫌うこと、言語の弛みを嫌うこと、音調の調和する限りどんな言葉も用いること、流派がないことを新派の特徴とした。
『病牀六尺』1902年8月2日の記事では、この「月並調」という言葉が俳句の流行とともに世間に広まり、俳句と関係のない事柄にまで用いられるのを見るようになった、と子規自身が書いている。  
 
 

 



2020/1
 

 

● 夏目漱石考 

 

漱石の作品の研究はすでに大量に蓄積されており、重箱の隅をつつくような資料漁りや外国作品との比較といった外的な広がりに解決策を求める成熟した段階に到達している。研究の内容が漱石の作品から離れていくことは研究方法自体がもともと漱石の作品内容と関係のなかったことの現象的な証明である。実際漱石の作品分析はまだ始まってさえいない段階にあり作品の内容は手つかずの状態で残されている。手つかずの内容とは、漱石の作品の歴史的、社会的内容である。漱石は、日本が生み出した、日本に特有の意識を批判的に解明した点で日本的な作家であった。彼は明治時代に形成されたインテリないし小市民的精神の弱点の克服を意識的に課題としていた。彼は、日本の社会に蔓延する堅固な小市民根性に対して厳しい批判意識をはっきり表明している。しかし、漱石の他の作家と違った独自性、彼の批判意識の高度さと厳しさは、彼の作品の出発点である社会的批判意識や苛立ちを批判の対象としたことである。小市民根性に対する自己の批判意識自体が小市民根性に対して無力であり、小市民根性に侵されていることを理解したことが漱石の到達点であり、彼が偉大である所以であるとともに、彼が理解されない所以でもある。日本社会に普遍的な小市民根性とそれに対する現象的な批判意識は同一本質内部の対立であり、それが日本社会に広汎にはびこっている。それは、日本史の特徴として、ブルジョアの発達が送れており、それに対する小市民的立場からする道徳的な批判が現象的には現実性を持つからである。現実的根拠をもって発展したこの小市民的な価値観による道徳的批判意識を克服するには、現実の必然性に対する科学的な認識を獲得する必要があるが、それがどのように獲得されるかを描いたのが漱石である。
『吾輩は猫である』にはブルジョア的な成功を拒否するインテリが基本的には肯定的に描かれている。エリートインテリでありながら出世を拒否すること、あるいは出世の道から落ちこぼれることが漱石の精神の選択であり、その主体性を貧しい生活のなかでの精神的余裕として描いている。しかし、この作品に内在する課題は出世を拒否する者の精神の弱点を克服することである。漱石はすでにこの作品で、余裕のある精神を、社会の他の人間との関係において相対化する冷静な眼を持っている。俗な出世主義のはびこる世界では出世主義に対立する小市民根性も発達する。出世主義者に対する表面的な批判意識は出世主義に対する負け惜しみに過ぎず、出世主義的な価値観の一形態であることを理解しなければ、本当の精神的な力ないし余裕は生まれない。余裕の中に、この余裕を否定する要素がすでに描かれていなければ漱石の作品の魅力はないし、その後の作品の発展もない。したがってまたこの側面をを理解しないかぎり、漱石の作品の意味を理解することはできない。
『坊つちやん』には俗物出世主義者に対立する正直で一本気な青年が描かれている。しかし漱石は出世主義者に対する道徳的な批判意識が出世主義者に対して無力であることを理解しており、その結果坊ちゃんは滑稽に描かれている。彼が愛すべき実直さは意図の善良さ、主観に悪意がないこと以上を意味しないのであって、彼が憎む悪に対して無力であることが精神の本質的特徴となり、その観点からすれば、彼の愛すべき特質は自己満足という否定的側面を持つことになる。それが坊ちゃんの滑稽さの意味である。
『草枕』にはこのような小市民世界の対立形態を回避して芸術の世界に逃避する精神が描かれている。逃避は無力の意識化の結果であり、逃避を肯定する精神は小市民根性の本質である社会的な無力を徹底することである。その徹底において、この作品にもその限界が描写されており、それがこの作品の俗臭を消して、余裕派的な高尚な世界の印象を与えている。
初期三作品の基本的特徴は社会からの選択的な、主体的な孤立と、その肯定である。漱石は『野分』で初期三作品のこの傍観者的弱点を克服すべく社会に対して積極的に働きかける決意を表明している。それは決意の表明であり実質的に働きかけることではない。インテリとして社会に働きかけるには社会の必然性に対する知識や実践的な訓練が必要である。しかし、これまでの作品にではこの側面が欠けているのが、基本的特徴である。漱石の課題としうる社会的認識とは、漱石が描いた批判的インテリが社会に働きかける力量を持たないことの必然性の認識である。『野分』の段階ではまだ自己の無力を認識できず、孤立状態が社会的な批判意識の結果であると逆転して意識している。このような逆立ちも自己認識の出発点として必然的である。このような社会的批判意識が孤立状態の反映であることを認識することが精神の現実化であり足で立つことである。そして、そのような意識は、社会に積極的に働きかける決意の展開によってのみ獲得できる。
『虞美人草』はこの逆立ちを厳しく認識する契機となった作品である。『虞美人草』では道徳的な批判意識が具体的な人間関係に対して真理として適用され、勝利する過程が描かれている。このような非現実的なつくりものは文学作品として失敗する運命にある。漱石はこれまでの作品の総括としてこの作品を描くことで道徳的な精神に内在する本質的な矛盾を認識し、解決すべき課題とした。漱石は初期作品に内在していた道徳性の矛盾をこの作品で展開したのち、この矛盾の解決を課題としつづけ、後期の作品でこの矛盾を解決している。
『三四郎』が青春小説とされるのは三四郎が、非現実的な、若者らしい幻想を持ち、社会に対して影響力を持たない青年として登場するからである。三四郎の無知と素朴さは社会を無前提な認識対象とする意義を持っており、漱石は自分の意識をそのようなものとして再検討しようとしている。社会を批判対象とするのではなく、これから認識すべき無前提な対象として描いたことがこの作品の巨大な意義であり、それまでの作品とはちがった新鮮な印象を与える所以である。三四郎の素朴さや無知には、これまでの漱石の思想を否定するという内容豊かな白紙状態が投影されている。三四郎は激動する社会から取り残されていることを意識している。このような意識において初めてブルジョア的な成功の世界に生きる美禰子との主体的で発展的な分離が生じる。分離は思想の成果や結果ではなく、思想的発展の出発点となる。インテリにとって上流世界に生きる美禰子に対する批判意識や憧れを解消し、美禰子と分離した自己の必然性に一致した精神を獲得することは非常に困難である。美禰子の世界に憧れながらその世界に入ることができない場合には美禰子の世界に対するみじめな批判意識がうまれるが、この作品には、惨めさも決意もない。漱石は、初期作品の覚悟や諦観を経由したことによって、この分離を余裕をもってロマンチックに描いている。三四郎ではなく、美禰子の方が自分から離れていくことを、なんらの苦悩もなく容認し、受け入れている。
『それから』では社会的に孤立したインテリの批判意識がブルジョアに対して無力であるばかりでなく一般に社会的な無知、無力を意味することが明らかにされている。初期作品にくらべると、漱石の批判意識がブルジョア的な出世主義から分離しているのが、「三四郎」や「それから」によくでている。孤立した世界で生まれる精神は社会と交わるときに無力を証明されいっそう孤立化する。インテリの意識の内部だけにあったブルジョア的出世主義にとの対立的関係を描写する内容から排除した結果、代助はブルジョア世界から排除され孤立した世界に閉じ籠もる人物として描かれている。代助の破滅的な精神は孤立した世界で生じる精神が社会的な高度の批判意識であるという幻想を持っていた初期作品からの飛躍的な発展を示している。代助は社会的に孤立した現実により一致した精神を獲得したことにおいて実践的にも明確な孤立過程をたどることになる。精神も実践もより現実化している。「それから」は、漱石が本格的な小説を書き始めたと感じさせる作品である。
『門』にはブルジョア世界を排除された夫婦の静かな生活が描かれている。ブルジョア世界から生活的にも精神的にも排除され分離した成果はブルジョア世界に対する道徳的な批判意識を失ったことである。その現実的な精神によって夫婦だけの限定された世界の平安を獲得している。「猫」の世界の貧しさや余裕は幻想であり、漱石本来の精神的余裕はこのような生活とこのような形式でのみ現実的ありうる。それは自己の現実を逆立ちして反映した積極的な意識の幻想を廃棄した者の幸福である。しかしこの世界には孤立を確定し自覚した者に特有の淋しさという高度の矛盾が生じる。幻想を廃棄して孤立を意識化することは社会に対する積極的な精神の形成を意味しない。それは歴史的にはるかに遠い課題である。漱石はインテリ的な限界を越えた積極的な精神を描写できないことをこの作品ではっきり意識し、これまでに描いてきたインテリ的な精神の本質を描写することを自己の歴史的な課題とする決意をしている。ブルジョア世界は描写の対象ではないことが明確に意識され、社会的に孤立したインテリが批判的な描写の対象となる。歴史的に見てブルジョアを批判し対立する精神の描写は漱石の課題ではあり得ない。漱石の歴史的な課題はインテリがブルジョアと対立して社会全体のために役に立っているという幻想を解消することである。
『彼岸過迄』では財産を持つために、社会に出て人間関係に対して働きかける力を必要とせず、形成できなかった須永が自己の無力を自覚する過程が描かれている。須永は自分が社会的な成功を収められないことも、成功した田口に評価されておらず、自分が田口の娘の相手としてふさわしくないと思われているいことも理解している。しかしそれはまだ現実的な精神ではない。母や田口の娘である千代子は須永を高く評価しており、そのために須永の幻想は解消されていない。須永はこの幻想と現実の自分の社会的な地位や力量に生ずる矛盾を自覚し苦しんでいる。須永はこの幻想を重荷と感じており、幻想を廃棄し社会的に孤立した自己の無力を自覚し、本来の自己に復帰することを、この重荷からの解放とする傾向を持っている。そのためには現実的な打撃が、厳しい経験が必要である。現実的な打撃なしに頭の中だけでの認識作用によって自己の社会的無力を意識化することはできない。須永は自分の幻想を真に重荷としているから、自己の無力を表明したり、思考したりすることを解決とすることはできない。須永は迷った末の勇気をもって、自分に対する千代子の幻想を破壊することで自己の幻想を破壊する。その結果須永は自分の予想しなかった弱点に直面する。それは社会的に無力であり、積極的な活動を回避している自分が道徳的にも非難される状況に陥っていることである。それを千代子に指摘されることで、彼は決定的な衝撃を受ける。これは漱石自身にとっても大きな発見であったと思われる。漱石はこの作品で道徳的な精神の本質的な矛盾である道徳性と非道徳性の一致に到達する。
『行人』では真摯で道徳的な精神が自己の平穏な生活が実は人間関係の崩壊であることを認識した結果、その堅固な人間関係に波瀾を引き起こす試みが描かれている。それは小市民的、道徳的精神内部における道徳的精神の克服の試みである。しかし小市民的な人間関係の中で、その人間関係を反映した道徳的な精神による試行錯誤によって限界を克服することはできないことは、すでに「彼岸過迄」であきらかになっている。試行錯誤の成果は自分の苦悩と試行錯誤の全体が無力であり、人間関係の崩壊の必然性内部の運動形態であることを認識すること以外にない。一郎は、彼の精神や人間関係においてもっとも破壊的な言動を試みるが、彼の精神とそれを生み出す人間関係に変革的、破壊的に作用することは結局できない。その成果は、一郎が人間関係に対して積極的に働きかけることを諦め、自己の無力の本質をその苦しい試行錯誤に応じた高度の形態で認識することである。
『こころ』はこれまでの作品全体の総括として書かれている。インテリの孤立状態やそれを反映するすべての精神形態の本質は財産であることが明確に意識され描写されている。財産に規定され、財産に保護された社会的地位が無力なインテリや小市民的精神の社会的本質である。漱石はインテリのさまざまな精神形態を研究した後、その本質が財産であることを理解し、その本質との連関によってすべての精神形態を法則的な体系のもとに描写しているおり、そのことによって、驚くべき深い心理描写が可能になった。
『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』にはインテリの好みである三角関係が描かれているように思われる。三角関係は社会的に孤立したインテリ的、小市民的世界に広汎に生ずる典型的な人間関係である。しかし、これは、小市民的世界における人間関係の矛盾の現象形態であり、その本質的矛盾を覆い隠す形式である。したがって、漱石の描いた世界を、三角関係の様々の心理において理解することは、社会の必然性を認識できないインテリに特有の作品理解となり、作品の真の内容を理解することはできない。漱石は現実の本質的人間関係と現象的な三角関係の分離と両者の関係を認識しており、さらにその人間関係を三角関係として歪んで反映する精神との連関をも明らかにするというインテリには想像もつかない課題をこれらの作品で解決している。男女の三角関係を好み、この関係に人間関係上の悲劇が潜んでいると考える類の現実認識が現実と接触することによってその無力を証明され、その認識が実践を伴うほどの深刻な内容を持つ場合には破滅の必然性を持つことを描いている。『こころ』の先生とKは高度に真摯な精神において自己否定を獲得するのであって、三角関係の矛盾において破滅するのではない。先生はお嬢さんとの関係の破綻によって死ぬのではなく、お嬢さんとの関係を含めた人間関係一般を形成できないことにおいて自殺する。このような関係の内部では無力なインテリが好む三角関係とは次元の違う真摯な精神や情熱が展開されている。それを描写しているところに、三角関係そのものに興味を持って描いている三文小説との違いがある。漱石はこれをすでに意識しているが、そのことに触れることがなく、また描写においても、敢えてこの二重性が明らかにならないように意識して描写している。それは、彼の思想的発展のこれまでの経過からして、それは、単純に示唆しても理解されないと覚悟しているからであろう。漱石は『こころ』で小市民的な批判意識の形成と破滅の過程を先生の精神に投影して描写した後、その批判意識が明治の精神として葬り去られるべきことを宣言している。漱石にとってこの作品は自己内の道徳的な批判意識に対する判決でもあり、解決でもあった。漱石の成果はいまだに社会全体の獲得物になっていないが、歴史上の論理としては漱石によって日本的な小市民根性には、もっとも本質的な点において最終的な判決が与えられている。
『硝子戸の中』には自己意識の総括を終えた漱石の休息を対象化した落ち着きのある文章が綴られている。高度の文体が高度の思想によってのみ獲得できることがはっきりわかるすぐれた作品である。
『道草』は漱石が自分の人生の日常を高度な思想によって綿密に位置づけた作品である。この作品には『吾輩は猫である』以後の、小説家として獲得した自分の精神が客観的に描かれている。『猫』から『こころ』に至る作品は漱石が自己の精神を様々の側面から次第に本質的に認識するに至る過程であった。漱石はこの作品で自分の置かれた社会的な位置を認識し、つまり日本におけるインテリ的精神の現実の段階を認識し、その全体像を描く力を得ている。それを証明したのが『明暗』である。
『明暗』は漱石が作家としての力量を自覚し、これまでの成果のすべてを投入した傑作である。小市民のあらゆる対立形態と相互の連関、転化が客観的に描かれ、社会に対する批判や非難という形式はまったく消えている。本来の批判精神とは小市民的な精神の社会的運動法則を認識することである。小市民が自己の利益を追求し実現することが常に同時に没落への道であることが、津田の運命においてこの上なく見事に、須永と同一の精神を持つ小市民にはどうしても理解できないほど客観的に描かれている。その法則を小市民世界から落ちこぼれた小林が認識し説明しているが、それは小林の個性の言葉として描かれており、作家の判断として、真理として描かれているのではないために、津田の立場からみれば明らかに小林の弱点と見えるようになっている。小林には小市民世界の法則に対する漱石の高度の社会認識が対象化されており実に高度の内容をもっており、それが小林の個性と一致している。清子には小市民世界との分離を自覚したことによる冷静で端的な精神が描かれている。小市民世界に挑戦的な小林に対して、清子は対立する必要も感じない分離的な精神として設定されている。この両者こそ自己内の小市民的な批判意識が引き起こす矛盾に苦しんでいた漱石が理想としていた境地であり、小林は、歴史的に生まれつつある新しい精神の発見である。小市民的な不毛な矛盾を反映した不満や苛立ちを克服するには漱石の作品に描かれたすべての精神的発展過程を自己の契機として獲得し、小林や清子の精神を獲得する以外に方法はない。彼らの精神を継承することによってのみより高度の歴史的精神を獲得できる。
現在ではエリートインテリとしての社会的役割も失われインテリの社会的無力は理解しやすい現象になっている。しかしそれはインテリの無力と没落の法則を理解することとはまた別である。現象としての没落と法則としての没落はまったく違った姿を持っている。漱石はインテリがエリートとして国家建設の役割を担い、階級として積極的な意義を持っていた時代にその歴史的な能力において法則的な自己否定の契機を発見した。没落の現象においてもやはり、その現象とは二重化された法則を独自に発見しなければならないという側面からは、没落の現象は没落の法則を覆い隠すものであるとも言える。
バブル崩壊後、ようやく、ほぼこの30年間に、孤立的世界に生きて来た我々哀れむべき世代が、これまでの生きかたを放棄しなければならない社会的圧力を感じ、また新しい生きかたを模作する可能性が生まれたと感じることがてきるようになったと思われる。漱石を含めたすべての精神がまったく新たな視点のもとに規定し直される時代になったようである。 

 

●吾輩は猫である
「吾輩は猫である」、「坊つちやん」、「草枕」の初期三作品は社会的に孤立したインテリ生活を他に対する優位として肯定的に描写している。しかし、この自己肯定的な精神を否定し後期の作品に受け継がれる発展的な内容がこれらの作品の真の内容であり意義をなしている。現状以上の地位を得る可能性を持ちながら自ら貧しい生活を選択したとする高踏的な精神、出世主義と対立する余裕が漱石の精神の出発点であり保守的な側面である。漱石の課題はこの高踏派的、余裕派的な精神を否定することである。
吾輩と車屋の黒の対立に漱石の精神に内在する本質的な矛盾が反映している。車屋の黒には腕力と勇気がある。吾輩は腕力も勇気もないが知恵と余裕があると考えている。しかし度胸のないところに現実的な知恵はない。度胸のない者には度胸がないことを弁明するための知恵が発達する。それは精神における無能の発展である。吾輩には自分に鼠を取る能力や度胸がないことを自分の弱点として認識する能力がない。実践能力を持つ黒は吾輩と違った独自の余裕を持っており、黒の観点からは吾輩の精神は余裕ではなく無能とか臆病とか小心と規定される。
苦沙弥の家で交わされるインテリ的な作り話は無内容で退屈である。漱石は無駄話を描写しながらその無内容を意識している。しかし、それは誰もが知っている吾輩の批判的批評ではない。超然と澄ましている彼らも厳しく見ると俗骨と共通点を持つという吾輩の指摘は彼らの独自性の肯定である。俗骨との部分的共通点ではなく、俗骨と対立する彼らの独自性がそれ自体として俗で、無能で、退屈で、偏屈であり、社会的に孤立した精神の特徴であることを理解することが彼らに対する批判である。苦沙弥らと俗骨を同一視する吾輩の言葉が高踏派に対する漱石の批判的な眼だと考えるのは作品内容の無理解である。漱石の批判的な精神は俗骨と同じだという吾輩の評価にあるのではなく、彼らの会話の退屈さを感じとっている点にあり、退屈さを感じさせない黒の精神にある。
漱石は孤立世界の退屈な描写を克服すべく苦沙弥の世界に社会的な対立を取り込む努力をしている。それによって苦沙弥の生活の意義が外界との関係の想定によってより具体的に描写されている。漱石は鼻子との対立から鈴木、多々良との対立と次第に高度の関係を発見し、余裕派の精神を否定する精神を具体化している。
実業家の勢力に屈しない苦沙弥の余裕と意地は現状肯定的で保守的な側面であり、社会的な孤立、無力、無知の肯定的な意識化である。実業家に対するありもしない優位の幻想である。しかし、この作品の漱石らしい特徴は、批判意識によってブルジョアに高く評価されることを期待するロマン主義的な俗物根性を持たないことである。自分で自分の価値をかっているが、それが世間に認められないことが前提である。漱石は苦沙弥が金田を恐れないことが同時に社会的な無知を意味することを理解している。金田と対立して守るべき積極的利害を持たない苦沙弥は明確な理由もなく、具体的内容もなく意地で金田に抵抗している。このような対立の想定が漱石の優れた現実感覚である。
出世を拒否する欲望はエリート社会内部に発展する矛盾の反映として必然的に独自に形成される。しかし、エリートの地位を放棄することを肯定的に規定するのは非常に困難であり、多くの媒介項を必要とする。エリートの世界を拒否すること自体は出発点であって、積極的な具体的精神の獲得ではなく、出発点に位置することの特有の内容をもっている。ブルジョアに対する依存を拒否することは、エリート世界を拒否することの具体的な意義をまだ認識していない出発点としてのみ評価されねばならない。非妥協性は、この出発点の維持であり、それが滑稽に描写されることこそ、非妥協性を維持しつつこれを越える精神であり、拒否すること自体に道徳的優位を認めるロマン主義的意識を越えることである。それは漱石が金田や鈴木に対抗し得る現実的な成果をあげることの困難を意識し、したがって本質的な対立以外の対立を対立と認めない能力を持つことを示している。
苦沙弥の意地と金田の買収や嫌がらせという関係は漱石の初期の、彼の出発点としての社会認識である。現実のブルジョアとインテリにはこのようなインテリに有利な個別的対立関係は存在しない。さらに歴史はこのような対立がありえないことを、現実的に証明する。
ブルジョアのインテリに対する支配力はインテリを大量に形成しインテリ内部の競争を発展させることで形成される。苦沙弥の意地は嫌がらせによってではなく競争の組織によって廃棄される。ブルジョアはインテリから遠ざかり、媒介項つまり経済的強制力としての間接的手段を無数に形成することによって彼らから自由になるとともに彼らに対する支配力を強固にする。金田が寒月にこだわり、苦沙弥の意地に嫌がらせをするという甘い想定は相対的にインテリの価値が高い資本主義の形成期に一時的に根拠を持つだけである。教育機構を整備しインテリを大量に生産し彼らの労働の価値を一般の労働者のレベルに押し下げる法則がインテリに対する金の支配力である。このような社会関係の法則を理解すれば苦沙弥の意地と金田の社会的な圧力の対立という認識形態は廃棄される。
インテリを大量に形成し競争させれば金田は自分の利益を苦沙弥個人から引き出す必要がなくなる。金田の恩恵を拒否する苦沙弥の意地は苦沙弥に代わる出世主義的インテリ、つまり苦沙弥らが批判している連中によって無にされる。インテリの俗物批判は自分の地位を脅かすこの俗な競争者に対して自分の利益を主張する形式である。しかも出世主義者の欲望を苦沙弥らは抑えることができない。出世主義者との積極的競争を回避し、批判し、軽蔑する道徳的な意識は、競争に巻き込まれずにすむ歴史上の一時的な幸運な時代には余裕となる。しかし幻想を持ちうるこのわずかな期間が激動を本質とする資本主義社会に対する対応能力を麻痺させる。出世を拒否する苦沙弥の意地は社会的発展とともに無意義にされ、苦沙弥が金田との関係を拒否しているという側面が失われて金田が苦沙弥との関係を拒否し、苦沙弥が社会的に孤立しており、無意義であるという側面が表面化する。エリートの社会的地位の低下はこの作品で想定された金田との対立による自己肯定を廃棄させる社会的な圧力である。
苦沙弥の精神を偏屈な意地として描写するのは鈴木に対する苦沙弥の現実的な優位があり得ないことを理解する漱石の意識による。ブルジョア的な実力を持つ金田や鈴木に対する道徳的批判は真面目で自己肯定的であるほど滑稽で惨めであり、ヒステリックで独善的な偏狭さを感じさせる。苦沙弥の滑稽な意地が余裕を感じさせるのは彼が滑稽に、批判的に描かれているからであり、現実的な力を持つ金田や鈴木に対するあらゆる平凡な批判が無意味であることの理解を内包しているからである。自分の滑稽さを露わにすることが苦沙弥の段階の自己否定的な精神である。
出世を拒否する苦沙弥の観点からすると対立を避けて出世する鈴木の知恵は小利口に見える。出世主義者の知恵はブルジョアの腰巾着が考えているほどたいした能力ではない。しかし問題は彼らの利口さではない。鈴木流の利口さで獲得される金と地位は鈴木の精神とは独立した、社会的に巨大な力を持つ。鈴木の本質は鼻が鼻子の本質でないのと同様に極楽主義的な利口さではなく、彼の得る金と地位の社会的威力である。鼻子の鼻や鈴木の利口さという瑣末な現象形態との対立は苦沙弥が彼らの社会的な力に対抗する力を持たないことを証明しており、それが彼らの滑稽さの所以である。
客観的には対立を構成しているのは鈴木で対立を避けているのは苦沙弥である。社会的な対立を形成できない場合に苦沙弥流の実行のない口舌や、苦労や心配や争論が生まれる。鈴木が瑣末な対立を避けつつ獲得している地位は巨大な社会的対立を構成する。彼は金田や鼻子のような古いブルジョアを首尾よく出し抜いてより発展した対立を構成しつつある。鈴木の力は資本主義的な矛盾を発展させることで苦沙弥らを孤立させ、彼らの意地の無意義を社会的な規模で明らかにする。金田の娘が寒月に惚れるという甘い想定によって展開される瑣末な対立を解消するのが鈴木の社会的な力である。
鼻子、鈴木、多々良との対立の後では帽子や鋏についての作り話の無意味が明らかになり、ペーソスが生じる。インテリの駄弁から逃れた吾輩の鼠取りや蟷螂退治の描写も社会的内容を含まない自然主義的描写である。この現象的描写の退屈さを補うために単純な教訓や書物的な知識が付け加えられ、いっそう描写を退屈にしている。作品の展開の中で発展する漱石の現実感覚にとって「吾輩は猫である」の人間関係と個性の設定自体が限界に達している。
この小説に設定された基本矛盾の限界が苦沙弥の苛立ちを生み出している。苦沙弥は自分の経験する対立が時間と労力を浪費する「愚な抵抗」であることを理解して苛立っている。苦沙弥は金田の恩恵を拒否することに意義を置く精神の消極性、不毛性に苦しみはじめている。多々良の登場以後苦沙弥の世界の内部矛盾が主な問題になる。苦沙弥の内的矛盾が下巻の主な内容である。
金田や鈴木と妥協せず、しかも彼らとの瑣末な対立を肯定しない場合どこに自分の価値を見出すのかが漱石の本質的な課題である。金田との対立は苦沙弥にとって譲ることのできない精神の出発点である。しかし、金田や鈴木にとって現実的な力を持たない苦沙弥の意地は一人天下、小生意気、剛情、損得の観念に乏しい、痩我慢等々に過ぎないことが明らかになっている。実業家の恩恵を拒否すれば社会的に孤立する、のではなく、苦沙弥の孤立状態が実業家の恩恵を拒否するという社会的な意識を形成している。苦沙弥の孤立状態に内在する独自の矛盾が実業家の圧力の想定を必要としている。実業家との対立の結果苦沙弥の生活が不生産的になるのではない。実業家との関係を含めた社会一般との関係を持たないことが苦沙弥の生活を消耗的にしている。実業家との対立は現在の苦沙弥の生活にないものであり、苦沙弥の世界の消耗性の本質的な解決方法として獲得されねばならない課題である。
漱石の時代においてブルジョアとの本質的な対立は課題になり得ない。ブルジョアとの本質的対立を形成する方法を探究する過程でインテリが対立を形成できないことを認識することが漱石の歴史的な役割である。
金田との本質的な対立が形成されない段階では瑣末な対立を解消した理想として独仙の悟りが想定される。苦沙弥の苛立ちと独仙の対立は同じ精神の内部矛盾である。苦沙弥の精神は迷亭や独仙を矛盾の解消形態として他方に想定しつつ常に苛立ちの中にある。矛盾の解消を理想としながら矛盾の中に止まるのが漱石の精神の発展的な力である。
独仙は金持ちとの対立を諦めて現状に満足しろと結論している。対立一般を回避する独仙には最終的満足としての悟りが理想となる。しかしこの理想は実現されない。最終的な満足の実現は積極的な欲望の喪失としての絶望あるいは諦観である。独仙の悟りに対立する苦沙弥の苛立ちは自分の不平や意地が社会的な力を持たないことを自覚しながらなお対立を諦めない積極的な意識であり本質的対立の発見への衝動である。
苦沙弥は彼の世界に生ずるすべての対立が生産的でないと結論している。苦沙弥の優れた資質は、彼が想定し得る多様な結論のどれをも全的に否定も肯定もせずすべてを認めすべてを否定しつつ矛盾として持ち越す点である。苦沙弥の世界を多様な側面から分析し、その相互の矛盾をすべて自己内にとりこむのが苦沙弥の自己認識の発展形態である。苦沙弥が自分の世界を認識しようとするとき、その論理の組み立ては様々の経路をたどるであろうが「何条の径路をとつて進まうとも、遂に「何が何だか分らなくなる」丈は慥かである」という結論は物事を徹底的に考え抜く漱石らしい頭脳の明晰さの証である。下らない肯定的結論に到達せずにぐうぐう寝てしまうのは非常に高度の精神である。
よく知られている文明批判は漱石の意識の保守的側面であり、愚かしい結論に到達することが漱石の発展的な精神である。漱石は自分の社会認識から愚かな帰結を導き出すことで認識の非現実性を示している。彼らの論議には文明論の誤りを展開と結論の馬鹿さ加減で明らかにする以上の独自の内容的はない。インテリらしい無内容な、議論のための議論である。
社会認識の無力は自覚心、鋭敏、自己、人工的、窮屈、平等、文明等々の形式的な、しかも極端に少ない範疇を無批判的に展開することに現れている。社会から孤立した無力な階級の社会認識の特徴として利害の一致の側面が理解されておらず、範疇間の移行、一致を理解できない。したがって範疇自体の内容を問題にしないままに、単純で形式的な範疇を、そうして……から……なったんで……なったが……こうなると……で……さらになどと接続詞で繋げることで十行で展開されるような、風が吹けば桶屋が儲かる式のやり方で文明などという巨大なテーマを論じている。正直がいいとか技巧が悪いとかいう単純な思想をどのように展開しようと社会の本質には届かない。資本主義社会に展開し始めている文明の諸矛盾は苦沙弥らの手に負えない。彼らは個性の発達が結婚を不可能にするとか文明は皆金田になる等文明の未来に対して無責任な結論に導くことでこの問題の解決を放棄し結論を未来に持ち越している。非現実的な結論はその前提に対する批判である。こうした非現実的結論を真面目に受け取って、愛と美ほど尊いものはないという幼稚な意見を述べるのは新体詩を作って苦沙弥の世界でも馬鹿にされている東風君だけである。
この空論を否定する漱石の第二の対処は多々良の描写である。長引くほど下らなさが明らかになる文明論の退屈さは乱暴に登場する多々良に救われている。下らない思想遊びに割り込んでくる多々良の言動は生き生きしている。こうした文明論は無意味として踏みにじるのが正当な扱い方である。多々良は小理屈を蹴散らして現実に眼を向けさせる。非現実的教養を弄ぶインテリ世界に飛び込む現実性が多々良である。多々良の現実性はブルジョア的な利益の追求という限界を持っているが、孤立的な生活の内部から金田や鈴木を批判している苦沙弥の精神より現実的である。苦沙弥の精神は、孤立した苦沙弥の精神より多々良の精神の方が現実的であるという厳しい自己認識を獲得した時に独自の現実性を獲得できる。多々良を描く漱石にはその能力がある。
初めから回りくどい冗談を言うつもりでいる迷亭と寒月が結局弾きもしないバイオリンについて三十頁に亙る退屈な話をしている間に現実的で活動的な多々良は苦沙弥の世界の想定的矛盾をあらかた解決した。その結果「吾輩は猫である」の最終回には読者のすべてが感じとる独特のペーソスが漂っている。
この最後の反省はこれまでに展開された問題がすべて解決し順当に行き始めたことで生じている。漱石が苦沙弥の世界を面白くするために導入した金田との対立は多々良が解消した。金田の娘が寒月に惚れたことで偶然生じた金田に対する意地は必要なくなった。寒月も金田の娘とではなく国で結婚したことで金田との面倒な関係を回避した。それが順当の意味である。そして、このような展開が漱石にとっても最も自然に、現実的に感じられる。今や彼らは独自の責任で生きていかねばならない。金田との対立が解消されれば無名で貧しい生活を選んだことは苦沙弥の個別的趣味になり一般的意義は失われる。ブルジョアとの想定的対立と切り離された結果彼ら自身の世界の特徴である瑣末で消耗的な矛盾が露わになる。金田との対立の想定はこの彼ら独自の矛盾を覆い隠す幻想であった。彼らは自己内の矛盾を金田や鼻子との空想的関係に対象化していた。孤立した彼らにはブルジョアとの対立という現実はない。事態が順当に展開したというのは、自己肯定的に想定していた矛盾に積極的な意義を認めず、自己内の矛盾を新たに発見しようとする積極的な意識の反映である。苦沙弥の世界の矛盾が不毛で社会的な意義を持たないことを感じとることがペーソスである。このペーソスは積極的意志によって打破され、さらにその成果として不毛性が具体的に認識されねばならない。 

 

●坊ちやん
社会的な孤立状態をあり得た利益の断念という禁欲的形式で肯定的に評価するのが初期作品の特徴である。これは相対的に優位な地位にあるインテリが現状を守ろうとする保守的な意識である。坊ちゃんの場合それは正義感という形態をとる。瑣末な現象に対する道徳的な批判意識は現実に対する無力と消極性を肯定する意識形態の一つである。
坊ちゃんが教頭の声や赤シャツに注目するのは苦沙弥が鼻子の鼻に注目するのと同じで、教頭の社会的な力に媚びない気質を示すと同時に、赤シャツとの深い人間関係を形成する必要と意志と能力を持たず、赤シャツの社会的な力を認識する能力を持たないことでもある。媚を売らないという意志以上の積極的な意志も能力も持たない坊ちゃんには自分が客観的には本質的な対立を回避していることが認識できない。坊ちゃんは校長や教頭に従属することで得られる利益を拒否する形式で対立を避け、自分の現状を保守的に守っている。
できないことをできないと言う坊ちゃんの正直はできないことを誤魔化す者よりいくらかましであろう。しかし、幾何の問題を解決する実質的能力よりできないことを告白する正直の方が上等なわけではない。それは正直でないこととの比較によって自分の無能を弁明しているにすぎない。
生徒の悪ふざけは坊ちゃんの力量を試し、人間関係に組み込む過程である。しかし坊ちゃんは生徒の悪ふざけを人間関係を形成する契機とするのではなく、生徒を道徳的に批判し、田舎を嫌う契機にしている。坊ちゃんの道徳的意識は坊ちゃんが松山の人間関係に積極的に関与できず、分離されていることを肯定する意識である。
坊ちゃんが自分の価値観において人間関係の形成を拒否していると考えるのは『吾輩は猫である』と同じである。同様に、それによって人間関係が形成されると想定されている。坊ちゃんは蕎麦を食い天麩羅を食い温泉で泳ぐだけで注目されている。坊ちゃん対して外から人間関係が働きかけてくると想定されている。苦沙弥の世界に鼻子や金田が舞い込むのと同じ想定である。汚いことをしてまで利益を得る必要はないという正義感を発揮するには汚い手段で彼に利益を与えようとする外的な力が常に働いていなければならない。現実にはそのような都合のいい悪党がそうそうはびこっているものではない。
漱石は坊ちゃんの正直を肯定している。しかし具体的には正直の無力と滑稽を描写している。漱石は坊ちゃんの正直と知恵がないことの一致を理解している。正直には知恵がなく知恵のない正直に現実的な勝利はない。正直だと知恵がなくて困るが困っても負けずに意地を張るのが坊ちゃんの滑稽さの魅力である。坊ちゃんの弱点を知り、そのうえでそれを貫徹するのが漱石の現実的精神である。赤シャツや校長に対して現実的な勝利はありえず対立は滑稽と敗北であることを理解できるのが漱石の知恵である。赤シャツとの関係で、考え得るあらゆる勝利形態を本質的だと認めない現実認識によって赤シャツに対する非妥協的対立と無力の一致が描写される。この点においてはじめで、坊ちゃんの正直と非妥協性は精神の傾向性であり知恵の基礎となりうる。坊ちゃん的な正直と非妥協性なしに真の知恵はあり得ない。知恵のある漱石だからこそ知恵の出発点となる精神の傾向を正しく設定し、無限の発展の可能性を持つ内容を描写している。坊ちゃん的な正直が勝利することを想定するのは、智慧の度胸の欠如を意味しており、発展の可能性がないことを証明している。
坊ちゃんは現実に通用しない正直や純粋が軽蔑され単純や真率が笑われる世の中に反発している。しかし純粋や単純や真率が無力と同一である場合現実的な力を持つ赤シャツに笑われて当然である。笑われないためには正直で純粋であることを越えて社会的な能力を持たねばならない。赤シャツの笑いを受け入れることは正直が現実的な力を得ようとする衝動であり正直の真摯さの証である。正直でなおかつ赤シャツの社会的な力に対抗するには赤シャツの出世するための能力と質的に違った高度の能力を必要とする。その力を得るまでは正直な坊ちゃんが赤シャツを笑うことは現実にはあり得ない。坊ちゃんが赤シャツに笑われるのが現実であり、その現実が真理である。
このような基本的特徴において、人間関係と関わる程度に比例して坊ちゃんの消極的な道徳的精神は矛盾を抱え込む。悪い事をしないという消極的道徳を貫徹しようとするとひどい目にあう。消極的に現実に接する場合でも、ひどい眼にあわないように用心するには少なくとも人の悪いのを見抜く能力が必要である。自分が悪い事をしないという消極的な正直さには、むやみに人を信じあるいは疑うという臆病で非実践的な精神が必然となる。積極的な人間関係が形成されない孤立的な世界では、正直に生きて笑われるか嘘をついて成功するか、相手を正直だと信じるべきか疑ってかかるべきか等々の道徳性に特有の矛盾が生じる。この作品では道徳性に特有の矛盾はまだ具体的に意識されていない。しかし漱石が矛盾の巣窟である道徳性の本性を捉え、その本質を解明すべき使命を持っていることは、坊ちゃんの正直さを無力との同一性において描くこと、坊ちゃんの正直さを赤シャツとの関係で否定的に描写することに現れている。
校長か生徒か山嵐の誰が悪いのかという疑問は坊ちゃんに特有の現実認識である。現実には校長が悪いのでも生徒と山嵐が悪いのでもない。誰が悪いかなどという単純な問題は現実には存在しない。生徒に対する処分という現実的な問題では学校制度や学校を巡る社会的な関係が問題になる。社会的な人間関係に認識が及ばない坊ちゃんだけが誰が悪いかという個人の罪を問題にしている。善悪だけを問題にして生徒を厳しく処断するのは道徳家特有の意地の悪い復讐である。この低レベルの選択肢では坊ちゃんの主張を入れて全員を放校するより、偽善的な演説をし、下らない会議を続ける方が現実的である。生徒全員の放校という無責任な結論は松山の現実に深い関わりを持たない坊ちゃんの気まぐれなだぼらである。赤シャツや野だいこの理由づけがどんなに馬鹿げていても結論は坊ちゃんより松山の現実に即している。自分の主張を通す必要を感じていない坊ちゃんは自分の主張の結果にも主張を通すための方法にも関心を持たず「徹頭徹尾反対です」と断定することで満足している。現実の人間関係は坊ちゃんの正直にも校長や赤シャツの現象的な俗物根性にも関わりなく独立して展開している。彼らは無為無策である点で共通しており、校長や赤シャツが現実的利益を得て満足しているのに対して坊ちゃんは現実に対して不満を持つ自分に満足しているという違いがある。
坊ちゃんが宿直中に温泉に行ったことに対する山嵐の批判は、瑣末な現象を批判する道徳的な意識に特有の下らない公平さである。坊ちゃんは宿直中に温泉に行った自分の非を認め、自分の非を公に認める自分の道徳性を誇っている。坊ちゃんが認める非は公にしても問題にならないくらい内容が瑣末である。山嵐も坊ちゃんも生徒全員の放校という主張の愚かさには気づかないが宿直を抜け出して温泉に行った瑣末な過失では反省し、しかもその下らない反省によって自分の道徳性を肯定している。布団にバッタを入れたことが悪いか良いか、宿直中に温泉に行ったことが悪いか良いか、悪いことを公にできるかどうかなどという瑣末な価値観は、自分の非を認めることでしか自分を肯定できない無力な人間にとってのみ重要な意義を持っている。
坊ちゃんは自分が単純だと自称しているが単純であることの現実的な、否定的意義を理解していない。現実の複雑な人間関係を抽象的な善悪のカテゴリーに解消することは現実認識の単純化であり非現実化である。社会的、具体的規定を善悪という単純な形式に解消する坊ちゃんにはうらなり君を捨てて赤シャツを選ぶマドンナの行動が不合理に見える。「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがなもし」という下宿の婆さんの言葉はマドンナが赤シャツに靡く現実の説明であり多くの社会的内容を含んでいる。月給が多いことを評価しない坊ちゃんの価値観が現実認識を阻害する主観上の要因になっている。
坊ちゃんはマドンナが落ちぶれたうらなり君を捨てて赤シャツに靡く現実を受け入れない。赤シャツが悪人でうらなり君が善人であるから美しいマドンナは赤シャツと対立しうらなり君と結婚するのが当然だと坊ちゃんには思われる。しかし現実には赤シャツは、社会的地位が低く、独力で運命を切り開く可能性を極端に制限されている女性に対して、自分の美しさで高い地位を獲得しようとする欲望を梃子に強力な支配力を持っている。だから赤シャツは俗だから誰にも好かれず、まして美しい女性に好かれるはずがないのではなく、美しいお嬢さんであればこそ田舎の数少ない学士に靡くのが現実である。
このような人間関係を自分の利害に基づいて変革する必要がある場合は赤シャツの社会的な力の法則を肯定的に理解することが課題になる。しかし坊ちゃんにとっては不合理を感じること自体が結論であり自分の価値である。出世の可能性があり、出世しつつある赤シャツやマドンナを出世主義の点で批判することは坊ちゃんの自己満足、自己肯定であり、彼らに対して何の影響も持たない。マドンナが赤シャツを選ぶのは彼女の自由であり現実の必然を反映した合理性を持っている。彼らの欲望の実現は資本主義社会の発展の一過程である。赤シャツやマドンナの出世は同時に赤シャツの世界に入る可能性がなく、したがって赤シャツらと同質の精神を持ち得ない大多数の人々の形成を意味している。赤シャツらの力の増大が対立する勢力の拡大を同時に意味するのが資本主義の特徴である。その大多数の貧しい生活に法則的に形成される、出世と対立的な独自の人生の意義や楽しみは資本主義的成功を望みながら成功できず、可能性を失った生活の長年の蓄積によって形成される。赤シャツとマドンナの関係に対立して形成される人間関係を視野に持たない坊ちゃんは赤シャツとマドンナの関係の現実的合理性を認めることができない。現実を不合理とするのは坊ちゃんの単純な現実認識が現実を反映していないことの表明である。
マドンナが赤シャツに騙されたと考えるのは坊ちゃんと山嵐だけである。マドンナは赤シャツに騙されたのではなく赤シャツの金と地位に靡いた。だから問題にすべきは金と地位の力である。金と地位を得る利益以上の現実的利益を示すことも金と地位を得ることの矛盾を示すこともない道徳的な非難は無責任である。坊ちゃんにとって金と地位は道徳的な禁欲の対象であって認識の対象ではない。坊ちゃんの特殊な立場を反映した金と地位に対する禁欲的な価値観を坊ちゃんと違った立場にいる者に適用することはできない。
判断力より善意を重視する坊ちゃんは赤シャツの単純な策略にひっかかったことで自分の無能を反省するのではなく、赤シャツの腹黒さと自分の潔癖さの証明を発見し、赤シャツに対する怒りを増幅させている。赤シャツや野だいこの言動を地位や知恵の現実的威力としてではなく、策動や虚偽という悪意として批判するのは坊ちゃんの現実的な無力を正直とか信じやすいと評価することに対応している。騙す連中の意図の悪さと騙される人間の善良な信じやすさを対比するのは現実的に無力な者の負け惜しみである。赤シャツが裏表のある悪い奴だという認識にもとづいた彼等の対応は彼らの認識能力の無力を証明している。
彼らは自分の行動の客観的根拠を認識できず、自分の行動の社会的な意義を考慮することもなく単純に行動している。彼らは野だいこには軽蔑的に対処しており退治する必要を感じていない。卑劣で裏表があって気色悪い等々では共通する野だいことの赤シャツの違いは、うらなり君からマドンナを横取りし、うらなり君を日向に追いやり、坊ちゃんと山嵐を計略で酷い目にあわせ、新聞を使って中傷した上山嵐を辞職に追い込む社会的な力を持つことである。しかし赤シャツの社会的な力に対抗する能力を持たない彼らは赤シャツの瑣末な特徴に悪を発見して攻撃の根拠にしている。彼らの能力で攻撃できるところに悪を発見している。「到底智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力でなくつちや駄目だ。成程世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とゞの詰りは腕力だ」は彼らの能力に応じた結論である。地位と金の力に対抗する力は知恵である。彼らが知恵の必要のない個人的制裁に満足できるのは赤シャツらと深刻な関係にないからである。
「鉄拳制裁」という個人的制裁は社会的な力に対して何の効力も持たない。鉄拳制裁によって赤シャツが慎むことはないし、うらなり君や山嵐に対して反撃できなくなるほどに力関係が変化することもない。赤シャツを叩きつけるとはその俗物根性を物質的に支えている彼らの地位を破壊することである。後悔させるという主観に対する報復を目的にすることはすでに対立を回避している。赤シャツが露骨に俗であるほど赤シャツの力は強力で利害を脅かすのは難しく、したがって彼らを反省させたいという安易な個人的な報復が目的になりやすい。個人に対する報復は泥仕合を生み赤シャツの地位の安泰に力を貸すことになる。赤シャツは無知な善意を自分の利益のために利用する手段と能力を持つ点で坊ちゃんと対立しているから、坊ちゃん的正義感が瑣末な過失をつつき回すほど赤シャツの利益になる。赤シャツや野だいこは実質的な利益を獲得する。赤シャツの小理屈は現実的力関係の優位に立った居直りである。言葉巧みな弁解をさせないためには社会的な力関係を変えるための高度の知恵が必要である。
田舎の下衆野郎を罵倒して喧嘩して辞表を叩きつけて東京に帰るのは気分がいい。生きるために泣く泣く東京に引っ張り出される場合でさえ田舎に止まるより大抵は幸福である。逆に対立の結果が東京から赤シャツの住む田舎に飛ばされるような状況では無鉄砲を誇ることはできない。非妥協的であろうとすれば結果としての厳しい人生に対する覚悟と準備が必要になる。坊ちゃんが楽天的に無鉄砲を維持できるのは無鉄砲が運命を好転させるからである。無鉄砲は坊ちゃんが自分の利益を追求する特殊な形態である。無鉄砲が自分の利益を顧みないことだと考えるのは誤解である。坊ちゃんは自分の行動を自分の追求している利益の観点から理解することができない。それが禁欲主義的な自己認識の弱点である。
漱石の課題は坊ちゃんの正直が如何にして現実の具体的内容を獲得するかである。坊ちゃんの正直を肯定し赤シャツの俗物根性を否定することは、赤シャツの俗物根性を肯定し坊ちゃんの正直を否定することと同じであり、現象的な現実認識に止まることである。この同等な対立物のどちらを肯定するかは現実の情勢に規定される偶然事である。すれたインテリには正義を守ることで滑稽になるより赤シャツを肯定することの方が厳しい現実認識であると思われる。しかし論理的に坊ちゃんと赤シャツは同レベルであり両者の対立の段階にいる場合は両者の肯定と否定が常に同時に含まれている。両者を同時に否定しこの対立形態を廃棄する傾向を持たない限り坊ちゃんを擁護するか赤シャツを擁護するかは第二義的であり、両者とも俗物である。
赤シャツとの非妥協的な精神が同時に坊ちゃんに対する非妥協的な精神である場合にだけ坊ちゃんと赤シャツとの対立関係を克服する発展的な精神である。赤シャツの俗物根性の徹底した否定は坊ちゃんの正直の徹底した否定と同時的に描写されている。坊ちゃんを肯定することは赤シャツを肯定することであり、その逆も真である。赤シャツに対する批判意識の徹底は坊ちゃんの赤シャツに対する批判意識の徹底した批判である。坊ちゃんは赤シャツに勝つのでも負けるのでもなく赤シャツとの対立という自分の価値を自己自身において否定しなければならない。この自己否定こそ漱石を天才たらしめるものである。
坊ちゃんの意識の現実化、あるいは現実を坊ちゃんと赤シャツの対立とする現象的な認識を廃棄して現実的な認識を獲得することは非常に困難である。現実認識の具体化の過程はこの段階では漱石にもまったく予想もつかないほど複雑な過程をたどる。 

 

●草枕
この作品はインテリ的な社会的孤立を芸術の名において肯定した、初期作品ではもっとも批判意識のレベルの低い作品である。漱石は徹底した批判意識を獲得した『明暗』でこの作品と同じ温泉の場面を描写している。『草枕』と『明暗』を比較すれば、漱石が『草枕』の精神をいかに深刻に克服したかが、さらに芸術的な描写にいかに多くの内容が含まれているかがわかる。しかし画工と那美さんの会話と、津田と清子の会話の違いを理解するのは非常に困難である。その違いは『草枕』から『道草』までの作品の分析によって初めて理解できる複雑で深刻な内容の全体を意味している。『草枕』から『明暗』の最後の場面にいたる過程を理論的にたどることによって描写の深さを味わうと同時に理論認識と芸術的認識の内容上の一致を経験することができる。
画工は金田との関係による苦沙弥の苛立ちや赤シャツとの関係による坊ちゃんの滑稽さを人間関係から逃避することによって解消している。画工は人の世を住みにくいと感じ、人の世との関係を回避することを芸術の名において肯定している。この作品の冒頭の文章は資本主義が生み出したインテリ層の無力な社会認識を肯定的に定式化している。しかしこの作品で重要なのはインテリには名文として受け入れられているこの無内容で形式的な文章ではなく、人の世を住みにくいと感じ、人の世との関係を回避した画工の精神に生ずる特有の矛盾を描いていることである。
無力なインテリは現実の諸矛盾の旋風に巻き込まれることを恐れ矛盾を回避しようとする。諸矛盾から逃避し第三者の地位に立つことは画工には芸術家の特別の能力や権利に見える。しかし客観的には第三者の地位に立つのは現実の矛盾からの排除であり社会的な孤立である。人間関係から離れることでは人間関係に対する消極性を克服することはできない。世の中の矛盾から一時的に逃避すればいっそう瑣末な矛盾に悩まされることになる。下らない矛盾やその必然的な補完物である下らない理想を廃棄して俗世で平気になる方法は俗世に積極的に関わり現実の矛盾を自分の力とすることである。矛盾を本質化し発展させることが矛盾一般の解決方法である。
俗世の矛盾を回避した画工は二人の男に思われて悩んだ娘が淵に身を投げたという、社会的な矛盾を含まない単純な関係に典雅とか古雅とかいう趣味を感じている。峠の茶店は開け放ったままで人がいない、出て来た婆さんは素朴で、馬子が鈴を鳴らしながら通りかかって、これから行く宿に離婚した美しいお嬢さんがいて、婆さんがそのお嬢さんについて古雅な言葉で古雅な話をするなどという道具立は世俗の矛盾から逃避した軟弱で俗なインテリの好みである。人間とは、社会とは、芸術とはという巨大な主語に思いつきの述語を付け加えるのは具体的思考を知らない思想的無能である。イタリアのサルワトル・ロザ、中国の書家、万葉集、ターナー、レンブラント、シェレーなどと無闇に引用するのもインテリが現実社会に対する無知を覆い隠すために必要とする常套手段である。
積極的な矛盾から逃避して下らない矛盾の中で生きる画工には下らない矛盾を面白く解釈する趣味的な能力が発展する。希薄な人間関係を虹の糸だとか霞の糸だとか蜘蛛の糸だと解釈しても関係が面白くなることはない。興味深いとか面白いという表現自体感情の作為性を物語っている。無内容な彼らの精神は自分が興味深く面白い内容を持っていることを表明することを必要としている。
画工は那美さんに不幸を想定しているが同情の涙をかけるほど俗ではない。画工の非人情に対応して那美さんには同情を受け付けない精神が想定されており、そこに只の女でない那美さんとの「普通ありふれた」境界を通り越した因果の可能性があると感じるのが画工の因果である。しかし画工の那美さんに対する関心は関係の発展が生じないことを前提している。那美さんの積極性に対する画工の期待は無力なインテリに特有の色気であり、那美さんの積極性はその色気に媚びる性格を持っている。しかし、那美さんの積極性は画工の消極性に対応した特殊な積極性である。この特殊性の本質は相互の反発であり、相互否定である。彼らの相互の関心のありかたは発展しない人間関係に特有の形態である。画工と那美さんの関係の発展を夢想するロマン主義的な読者の期待をかき立てながらそれを実現させないのが漱石の現実感覚であり、『吾輩は猫である』以前のロマン主義的特徴を持ちながらロマン主義的傾向に流れない『草枕』の特徴である。ロマン主義の本質的な特徴はインテリの消極的な精神が形成する人間関係を積極性だと幻想することである。漱石の初期作品には消極的な精神が形成する人間関係を肯定する側面とその意義を認めない精神が対立しており、常に後者が優位を占め、自己否定的で発展的な精神として次の作品に受け継がれる。漱石はまだ画工と那美さんの分離の必然性を認識していないが直観的に一致の可能性がないことを理解している。分離の必然性は『三四郎』以降の作品で具体的に描写される。
自然主義者は女を見ると欲情した上で道徳や人生観を述べる。ロマン主義者は女を見ると不幸を発見して救世主の役を演じたがり、同情しているのか発情しているのか判別し難い。両方を嫌う余裕派の画工は那美さんを前にして羊羹の美しさを鑑賞する。いずれにしても積極的な人間関係を形成する可能性のない世界に特有の感情である。自分で因果をつける力を持たない画工は羊羹の話をしながら相手の方で因果を繋いでくれるのを期待している。那美さんはこういうロマン主義的な、因果とも言えない因果を求める臆病で自己保身的な画工のやり方を嘲笑している。因果を細くし羊羹を鑑賞することは俗な人間関係を端的にする方法ではない。下らない因果と細い因果は同義である。那美さんは画工の趣味を知って隠居した骨董好きの父を紹介し、画工の趣味が隠居にふさわしいと侮っている。羊羹の色はいいがゼリーは重みがないとか、青磁はいいが茶人はもったいぶっているなどと下らない詮議立てをするのは隠居の仕事である。
画工は身投げの悲劇を外から眺めて芸術的に鑑賞することで解決し、那美さんは二人を男妾にすることで解決する。人の世が住みにくいことは二人の共通の認識である。田舎や芸術を矛盾の逃避場所として求めている画工と、どこに住んでも住みにくいからどこでも同じだと考える那美さんが対立している。矛盾を回避する臆病と矛盾の中で生きる度胸が対置されている。臆病な画工と度胸のある那美さんの対立関係はインテリ精神の必然性を内包した本質的な対立関係であり『三四郎』以降の作品の基本的なテーマとなる。現実の矛盾に対して消極的に観察的に対処するか積極的に利害を貫徹するかという画工と那美さんの対立は、金田と苦沙弥の対立や赤シャツと坊ちゃんの対立として対象化されていたインテリ内部の矛盾をインテリの精神内部に取り戻した精神の現象形態である。漱石の作品内部の消極的な精神と積極的な精神の対立、臆病な精神と度胸のある精神の対立はインテリ内部に生ずるインテリ的精神とブルジョア的精神の対立である。
画工の退屈な生活には那美さんが必要である。現実には書斎的な退屈な世界に都合よく外界の人間関係が侵入してくることはない。苦沙弥の苛立ちには金田が必要であり坊ちゃんの正義感には赤シャツが必要であり、取り澄ました画工には大胆な美人が必要である。しかし那美さんが部屋の近くをうろうろすることを不思議だとか一種異様だとか超自然の情景だと感じることまでが画工の色気の限界であり、それが人間関係の糸口になり得ないと感じる現実感覚が漱石にはある。画工と那美さんを分離する漱石の現実感覚とはブルジョアとインテリの階級的対立を深く認識する能力であり、画工の那美さんに対する消極性と無力の理解である。一般に人間関係における階級的な対立を認識できないロマン主義的作品では単純な個人的感情が人間関係の本質とされ、階級的関係を越えた非現実的な人間関係が展開される。その場合の本質的な傾向はブルジョアに対するインテリの優位や勝利である。漱石の現実感覚の天才性はブルジョアに対するインテリの優位を決して認めないことである。
裸で風呂に入ってきた那美さんにどう対処するかという問題は、社会的に孤立した単純な人間関係の中で設定される選択肢であり、矛盾に積極的に対処すべきか観察的に対応すべきか、度胸か臆病か等々の対立の具体例である。この選択肢自体インテリ世界の人間関係の限界を反映しおり、露骨に裸を論ずることも裸を回避して羊羹や芸術論に逃げることも孤立したインテリ世界の限界内部の精神形態である。この対立関係、選択肢自体を越えることがインテリ精神の限界を越えることである。この対立関係を越えるとはこの抽象的な対立関係に現れたインテリの階級的な本質を具体的に認識することである。漱石は『三四郎』からその課題を明確に意識している。
人間関係を求めつつも決して発展的な関係が形成されないインテリの階級的本質を反映した画工と那美さんの関係は関係を形成できない自己を認識する出発点としての豊かな抽象である。両者の分離の必然性は現実の階級的本質を反映している。認識を本質化する能力のない臆病なインテリにとっては裸を露骨に論ずることや那美さんとの関係を積極的に展開することに臆病を越える大胆さがあると感じられる。そのような精神には人間関係の認識の本質化という飛躍はないし那美さんの大胆さを描写する力もない。漱石の人物像の特殊な魅力は無力なインテリが形成する道徳的な人間関係を越える緊張した対立的精神を対象化していることによる。画工と那美さんの対立自体に抽象的対立形態を越えて認識の具体化に発展する内容が含まれている。
画工が趣味に興じているとき那美さんは満州に行く夫と会っていた。那美さんと画工の対立は人間関係に関わると明確になる。人間関係を積極的に形成することは常に矛盾に身を投ずることである。人間関係の展開の中で自分の能力を発展させる度胸がなく、人間関係の矛盾を外から眺めることが画工の非人情である。現実的な可能性を積極的に追求するのではなく、身を引くことで関係を維持するのが画工の工夫である。これは画工の自由な選択によるのではない。画工の内的必然性によって強制された回避できない方法である。
作品の後半では画工と那美さんの対立は画工の否定性を明らかにする傾向に発展している。那美さんは久一さんが場違いな趣味人の席に座らせられたことを気遣っている。鏡の池に行っていた那美さんの精神は戦地に行く久一さんと一致している。那美さんが鏡の池へ行くことを和尚は散歩だと思っている。画工にとっては鏡の池は古雅な話を空想させる場所である。那美さんは画工の空想を挑発して身を投げるかも知れないと言うが現実は画工の好みのように展開していない。趣味人である画工の精神は夫や久一さんに関わる那美さんの世界に届かない。那美さんが夫と会っていた鏡の池で画工は椿について下らない詮索をし、鏡の池に美しい女が浮いていることを画材として空想している。画工の精神は鏡の池では滑稽の域に達している。那美さんは自殺する個性ではない。那美さんの自殺を想像する画工は那美さんの現実をまったく理解していない。自殺する必然性を持たない那美さんと那美さんに自殺を想定する画工の関係には現実的な力を持つブルジョア的精神と、その道徳的な破滅を期待する軟弱で非現実的なインテリ精神の階級的対立関係が反映している。
画工が求める憐れは那美さんとの関係に対する期待であり画工の保守的な精神である。那美さんに馬鹿にする微笑と勝とうとする意志を発見するのは自分が那美さんに拒否されていること、自分と那美さんの関係が発展し得ないことを理解する自己否定的で発展的な精神である。那美さんが憐れを持たないと感じるのは那美さんが画工の手に負えないこと、手が届かないことを感じとる能力である。この憐れが人間関係を展開させる契機となるのがロマン主義である。
戦地に行く久一さんの運命と関わりを持たず興味も持てない画工は趣味人らしく因果だとか浮世だとか葛藤だとかの退屈な言葉を並べている。重大な運命に際して感情を共有できずに書物的知識に頼った貧弱な感情しか持てないのは哀れである。画工がロマン主義的なわざとらしい同情の涙を浮かべないのは偽りのなさを示している。しかしそれは久一さんと深い人間関係を形成できず、一般に深い人間関係も深い感情も知らない画工にとって深い感情を示す涙はわざとらしくならざるを得ないという本質的弱点を意味している。那美さんの深刻な人間関係にとって画工は精神上の余所者である。彼は一般に真剣な問題が生ずるところでは無力な傍観者である。人間関係から排除されていることを煩いを避けたと肯定的に表現しても無力で退屈な人生を充実させることはできない。
画工は不幸でありながら同情を拒否する那美さんがもっとも深刻な運命に直面している場面で憐れを発見して満足している。漱石は画工の満足を最後の一瞬に画工の主観として描くだけである。しかしこのような妥協は画工と那美さんの未分離を反映している。漱石はこの作品では画工の精神に対する批判意識をまだ明確にしていない。漱石はこの後この最後の場面に現れたインテリ性の肯定的描写を厳しく総括することでインテリ的精神に対する批判的認識を具体化して行く。 

 

●野分
インテリ的な孤立生活を社会に対する知的な優位として肯定する意識には常に、孤立や無力を意識する自己否定的で現実的な意識がつきまとっている。インテリ的な地位に安住している場合は自己肯定的な意識を支配的な意識としつつこの単純な矛盾の様々の形態を変遷する。漱石の天才性はこの自己否定的な精神が常に優位にあって自己を発展させることである。『野分』の道也はこの矛盾から逃れるためにその矛盾を規定しているインテリの相対的に安定した地位を放棄する。地位の放棄は自己否定的な精神の徹底であり、発展のための前提である。したがって地位の放棄は、インテリ的な矛盾を解消するのではなく矛盾を深刻化するく。現実的解決とは常に矛盾の発展であり、漱石の作品の全体のながれはこの法則に貫かれている。安楽な地位に安住するインテリは漱石が獲得した深刻な矛盾と苦悩を免れていると同時に漱石を理解する可能性も精神の発展の可能性も失っている。しかし、いずれにせよインテリの安楽な生活は一時的であり、漱石が経験した苦悩は社会的必然性としてインテリ全体に強制的に押しつけられる。この矛盾を回避することは決してできない。矛盾を克服する唯一の方法はこの矛盾を受入れ速やかに通過することだけである。
『二百十日』は初期3作品に内在する無力感を克服するために社会に対して積極的に働きかける決意を自信に満ちた静かな形式で表明している。『野分』と『虞美人草』には啓蒙活動が地位の放棄との連関で描かれることによって、道徳的精神が必然的に到達する矛盾が描写されている。『野分』と『虞美人草』は漱石の初期の矛盾を突き詰めたものであり、この矛盾を突破できるかどうかが芸術を生み出したり理解できるかどうかの岐路になる。『野分』、『虞美人草』は漱石がインテリ的な自己満足から抜け出す試みをし、その不可能を現象的、経験的に理解する作品である。
インテリが社会的に積極的な役割を果たすための第一の関門は、社会に積極的に関わることの困難、あるいは現実には積極的な役割を果たしていないことを理解することである。インテリの階級的な必然性が社会的な孤立であり、その必然性を肯定的に反映した思想はすべて社会的に無意義であるという自己認識なしに社会的積極性はありえない。
インテリの社会的無力の自己認識は社会に対する積極的な働きかけによる現実との接触の成果として初めて獲得される。道也は金や地位に屈伏しない精神のために地方の有力者に排斥された結果東京に居を定めたと考えている。しかしこれは経験的事実ではない。道也のような道徳的確信を持つ個人をブルジョアが圧迫するという想定は孤立したインテリ特有の自己肯定的な社会認識であり自己認識である。学問を成功の道具としないことは権力者や金持ちに圧迫される意義を持つのではなく、インテリの社会的無知や無力を克服する第一歩としての意義を持つだけである。
道也は窮乏生活を選択し初期の余裕派的精神の物質的な基礎であった相対的に有利な社会的地位と生活を放棄した。それによって得た人間関係上の対立は権力者や金持ちとの対立ではなく妻や兄との対立である。妻や兄との対立は金田や鈴木や地方の有力者との空想的対立と違って具体的で現実的な内容を持っている。妻や兄との対立の意義はこの作品では理解されていない。この作品で肯定されている崇高な使命は道也の精神の保守的側面であり、崇高な使命の対立物として想定されている妻の価値観が発展的な精神である。妻との対立の社会的意義は多くの媒介項を経て『道草』で初めて明らかにされる。
漱石は窮乏生活を選択する道也の覚悟の意義を高柳と対比して描いている。道也と高柳の違いは客観的にはエリートの地位の低下の必然性に対処する方法にある。エリートの地位の没落に苦悩する高柳に対して道也はそれをインテリの崇高な使命のための条件として自ら選択した。道也はインテリの没落の社会的必然性を受け入れることでインテリの没落の必然性を自己意識化する現実的基盤を獲得している。
学問によってエリートコースを歩くか、資本主義の発展とともにエリート内部に生ずる矛盾から脱出して金や地位と対立する学問を追求するかは学問内容の階級的岐路である。裕福な地位にある中野に学問的成果の可能性はない。高柳はこの中間で中野と道也の両者を羨みつつ苦悩している。高柳には書く内容のある自分に金と時間がなく、余裕のある成金や中野は高価な煙草や趣味的な文章に金と時間を浪費していることが不合理に見える。貧しい生活の意義を理解できず学問のために余裕が必要だと考えて余裕のある中野の生活を羨むのが高柳の弱点である。中野との分離は初期作品に見られた余裕を廃棄する過程である。
現実には暇のある者は学問上何もやっていないしできない。積極性な学問の形成と著述のために金や余裕を求めることは矛盾する。社会的な矛盾から遠ざかることは学問から遠ざかることである。社会法則を対象にする学問の内容は高柳が抱えている生活上の諸困難である。学問の傾向は階級的利害によって規定されており、社会矛盾の具体的で現実的な理解のために社会矛盾を自分の利害として経験できる立場にいることが前提条件になる。
初期作品の発展としての道也の禁欲主義の徹底の意義は現象的批判意識の解消である。道也は個別的な現象を批判することで自己を肯定することを止め、自己自身において積極的な人格を形成することを課題としている。俗物との対立は自分の正しさを証明する契機にならない。道也は俗物と違った独自の課題を自分の責任で果たさねばならないという厳しい自己認識を得ている。俗物に対する批判意識の放棄は俗物との分離の始まりであり自己内の俗物根性の払拭の始まりである。
個別的な現象に対する批判を越えて社会全体を批判対象とし、その現実的な証明として窮乏生活を獲得した道也の精神は社会全体と対立するのではなく、道也の孤立した狭い生活圏であるインテリ世界と対立し孤立する。闘わず、失敗もせず、恥もかかず、頭の中での完全な準備にあくせくして道也の努力を嘲笑する臆病で高尚なインテリは精神の現実性を獲得できない。道也の敵はこのようなインテリであり自己内のこのような精神である。道也の精神は世間を自分の高さに引き上げるという非現実的な目的を実践的に追求する無謀な努力の中で彼の属する狭い現実と衝突し、それによって自己の本質を認識することができる。インテリの理想ではなく現実自体が真理である。現実を自分の高さに引き上げることではなく、自分の意識を現実にまで引き上げることがインテリの課題である。
現実的精神とは道也の崇高な使命の無力を理解し、彼が見下している現実を真理と認めることである。崇高な使命を掲げることが道也のように生活をかけるほどに真摯であれば、崇高な使命のために犠牲にした生活が、崇高な使命の無力を具体的に認識する契機となる。道也の掲げる崇高な使命の真実性は彼が孤立と窮乏を選択していること、その結果として妻との対立を生じたことにある。崇高な使命と窮乏生活と妻との対立が結びついていることが道也の精神の現実性であり偉大さである。崇高な使命感を持ち、窮乏生活に耐え、妻との対立といった人間関係上の矛盾を獲得し、その意義を認識することが真の崇高な使命である。窮乏生活と妻との対立の中にどれほど豊かな内容が含まれているかは漱石の後期の作品に描かれている。
漱石は道也の覚悟を繰り返し描いた後、道也の思想を演説の形式で展開している。内容を演説の形式で描写するところに道也の思想の抽象性と、この作品の文学としての未成熟がある。
道也の社会認識には国家主義も社会主義もない。道也は門閥や権勢に反対する覚悟をしていながら資本主義社会の基本矛盾の反映である電車事件に関心を持たない。明治の現状についての抽象的な言葉の羅列は電車事件を引き起こしている明治の現実からの認識の遅れを示している。道也の言う学問の理想とは学問の具体的内容を指すのではなく、金と成功を拒否することである。金や地位からの独立は、すでに金も地位も失い電車事件を起こしている労働者には関係のないインテリの課題である。電車事件を起こしている労働者から見れば道也の抽象的な理想や覚悟は子供染みている。道也が自分のインテリ的な偏見を廃棄して現実的精神を得るために非常に長い道のりを必要としていることがわかる。
道也は金持ちと学問の分離の理解を徹底していない。金や地位に従属する学問が学問でないなら学問が金や地位から独立すべきことを説く必要はない。学問は金と地位からすでに独立していると結論すべきである。金に支配された金持ちの弁護を目的にする学問は学問ではない。金持ちが学問の領域にのさばり出ることはありえない。道也の金や地位を持つ者に対する批判の内容はインテリの地位が低すぎることに対する抗議である。
金や地位のある者は社会に対して働きかける力を悪用しているから、学者がその使い方を教える必要があると道也は考えている。道也は金を自由に、意図に従って使用できると考えている。社会的に孤立した状態から積極的な活動の決意をしたばかりの道也は社会のメカニズムと、社会に対する活動の方法についてまったく無知であり、それを考察する必要すら知らない。社会のメカニズムから人格が独立した力であると考えるのは社会的に孤立し、社会的な活動を具体的に経験してない道也の無知であり偏見である。
客観的には社会に働きかける手段が働きかける主体の精神を規定しており、したがって金持ちや権力家と対立する内容を社会に与えるには特有の手段を必要とする。地位の高い者はその地位の必然性によって社会に働きかけている。道也は社会を個人の集合としてのみ認識した上で地位の高い者を啓蒙しようとしている。道也は金や地位を拒否して窮乏生活を選択したが、金や地位を持たない者が社会に働きかける便宜と力を持つとは思わず、地位の低い者を啓蒙の対象にしていない。道也は金と地位が発揮している現在の力を非難しながら、社会改良の力、社会を動かす力として金持ちや権力者だけを認め、金に執着しない人格である道也が彼らに正しい金の使い方を指定できると考えている。
金をインテリの理想によって使うことはできない。現実には逆に金の法則が金の正しい使い方や現実への正しい対処の仕方を指定する。正しい考え方とは価値法則との一致であって価値法則に外的に変更を加えることではなく、また加え得ない。金を思想に従わせるのではなく、思想を金に従わせなければならない。金を社会関係としてではなく購買の道具とのみ考えている道也にはそれは理解できない。金の使い方、作用の仕方は道也の希望に関わりなく生産関係、階級関係によって自然法則的に決定されている。だから金は現にあるような使い方以外はできない。資本主義社会では金のどんな使い方も金持ちの利益になる。金持ちの利益はインテリの没落であり、それが現実の発展である。道也の主張の客観的な内容はこの過程を緩和し、インテリの地位を高めることである。
道也は金持ちが別荘を建てたり高柳の月収を煙草で煙にしたりすることを堕落だと言う。彼は初期三作に共通な個人的消費形態に対する批判を踏襲している。消費形態の不合理を社会的規模で解決する方法は分配の平等である。道也は正しい分配の仕方を学者に任すべきだと言うが金の正しい使い方を具体的に考察しているわけではない。金の正しい使い方を研究する場合は、使い方を制限し規定する社会関係を研究する必要が生じ、結局道也の主張するインテリに有利な分配より、彼が抗議している現実の分配がより合理的であることが理解できる。インテリの報酬を押し下げるのは資本主義社会の合理的側面である。
道也が要求する報酬の平等の実践は慈善である。剰余価値の一部分を慈善として搾取された者に還流することの一般的意義は、剰余価値として搾取する複雑なメカニズムを覆い隠し、対立を緩和し、金持ちの力と恩恵を貧しい者に思い知らせるとともに金持ち自身に善意と力の満足を与えることである。だから金持ちが人格性を買うために費やす慈善は必然的に分配の極度の不平等を前提しており、しかも慈善の量は悲惨をなくさないごくわずかの量に限定されている。惨状にある人間に社会的な力を与えない限りにおいて個別的に助けることの意義は社会的、闘争的感情を抑え感謝の気持ちを持たせることである。慈善は貧しい人間を搾取される状態に維持するための投資である。したがって道也がこの慈善部分を引き受けようとするのは現実にはまったくの俗物根性になる。搾取は金持ちに任せて、恩恵を施す分配=正義=慈善部分だけは学者が受け持とうというのは卑しい魂胆である。その成果に甘んじるなら貧しい人間も堕落する。金持ちから恵んでもらおうとせずに、彼らが恵んでくれる金を蓄積する過程を批判し、蓄積させないことにおいて平等を獲得するための闘いが独立的人生というものである。恵み、恵まれるという関係自体が批判対象として認識されねばならない。
生産関係を問題にしない分配が感情レベルで引き起こす矛盾がこの作品に描写されている。慈善は高柳のように恩恵を受ける者にとって屈辱的である。卑屈さと絶望だけがこの屈辱に無感覚になれる。漱石が神経質にこだわる金銭や恩恵をめぐる自尊心の問題はその背後にある社会関係に深化するための入口になっている。
中野が高柳に与える百円が中野にとって負担でないほど高柳らの貧しい生活を前提しており、したがって彼らの生活にとって決定的な意義を持つ。高柳が一月生活するための二十円を商人は煙草の煙にしている。だから商人が煙草を我慢すれば高柳の一月の生活を保証し、商人は健康を害せずに済むから双方にとっても社会全体にとっても利益になるはずである。ところがこんな全体は階級社会では存在しない。一月二十円で生活する高柳には特有の社会的利害があり、商人には煙草を吸うことの特有の社会的利害がある。高柳は彼の欲望を実現するために決定的に重要なこの金を商人からは無論のこと、親友である中野からも「正しい」使い方として受け取ることができない。
高柳は学生時代は中野に金を貸せとか御馳走しろと言っていた。しかし社会に出て道也の言う分配の不平等がはっきりした結果この関係にひびが入った。大学時代は高柳も中野と同等とは言わないまでも一方的に恩を受ける関係ではなく、中野の親切が中野自身の利益であると高柳も感じることができたから中野の親切も負担ではなかった。卒業して職もなく肺病になって一方的に助けられる「不合理」な関係が生ずると同時に中野に金を貰うことが負担になる。
分配の平均化の観点からすれば貧富の差が大きいほど感謝と善意は一致し、施す方も貰う方も喜びが増すはずであるが事実は逆である。一方の余裕が大きく他方の貧しさが大きい場合高柳にとっての大きな意義が中野にとっての小さな意義と同等になる。この落差が大きくなると善意と感謝でなく侮辱と屈辱という感情が生じる。対立が大きいほど中野と高柳の感情のギャップも大きくなり道也の言う正しい使い方ができなくなる。高柳は慈善の対象になるより煙草で煙にされたり別荘で楽しまれた方がましだと感じるようになる。ブルジョアの利益の配分に与かるために卑屈さに耐えるより、ブルジョアと対立する独立的な学問の道に入る方を選択したいという感情が生まれてくる。道也の演説は高柳に描写された具体的感情と対立している。道也の一般論と感情のレベルが一致して善意、同情を売りものとして生きるのが平凡なインテリである。漱石の具体的感情はこの一般論を批判し破壊していく。中野にとって善意であり高柳にとって死活問題である百円はもともと中野の搾取によって生じた必要である。だからこの基本的関係を前提した上で金を貧しい人間に正しく、自然に流す方法はない。
では何が正しいのか。道也が思想的に抵抗している分離の発展である。この観点からのみ浪費や慈善の批判は意味を持つ。蓄積した金を個人消費に費やすことはブルジョア的利害からしても不生産的である。すべての富を生産的に消費するのがブルジョア的な合理性である。ブルジョアがブルジョアであり続けるためには怠惰な浪費家ではあり得ない。彼らはブルジョアとして生き残るために生産的に投資する。生産された価値の大部分は生産手段として、ブルジョアの社会的勢力の物質的基盤として蓄積される。ブルジョア世界ではすべての階級にとってこれがもっとも合理的な、法則によって規定された金の使い方である。したがってそれを不合理として反対する反動的な道也の啓蒙にもかかわらず事態はそのように発展している。生産手段として投資するとは、つまりブルジョア的に生産的な方法とはいっそう大規模に効率的に搾取する物質的基盤を蓄積することである。相対的にはますます贅沢を可能にし慈善も可能にするような、今まさに道也の眼前で進行し道也の批判意識を生み出している資本の万能の力を蓄積することである。この方法は矛盾を発展させる。現象的「弊害」はこの「弊害」を非難することによってではなく、この「弊害」を引き起こしている矛盾を発展させることで解決される。
資本主義社会の基本矛盾の理解は漱石の課題ではない。漱石の課題はその基本矛盾から相対的に独立し、社会発展から取り残された道也のようなインテリの運命の法則を理解することである。漱石はまだ自分の課題の歴史的な限定を理解しておらず、社会一般を啓蒙の対象としている。社会を全体として理解し、批判し、改革できると考えるのがこの時期の漱石の無知であり幻想である。このような批判意識は社会全体にではなくインテリの孤立世界で生じた、この世界にのみ通用する道徳的な教訓である。道徳的な教訓を具体的な現実に適用した場合の矛盾を描写したのが『虞美人草』である。 

 

●虞美人草
漱石はこの作品で道徳的な精神に内在する本質的な矛盾に到達している。漱石はこの矛盾を細部にわたって研究した後、『こころ』でそれまでの作品の総括としてこの矛盾を総体的に展開した
『野分』は個別的批判意識から社会全体に対する批判意識へと発展し、それによる孤立を自覚していた。『虞美人草』から孤立が社会的に高いという幻想に疑問が生じ、孤立が社会な無力であるとする自己否定的精神がはっきりしてくる。
道也の道徳的精神は自己内に沈潜する甲野の精神と、現実に対して積極的に働きかける宗近の精神に分割されている。宗近の実践的な精神は批判対象を改革する道也の意志を継承しており、必然性を問題にする甲野は批判対象との道義的な対立の本質を認識する精神に移行しつつある。
甲野は「人間の浮気」に対する正義の厳正な判決が人格的個人によってではなく死によって下されるとしている。自然的判決に対する信頼は「人間の浮気」の強固さとそれに対するインテリ的批判の無力の認識である。甲野は批判的インテリではなく死という客観的事実を善の推進力と考え始めた。死は社会的範疇である善悪や真理とは独立した生物学的必然性である。しかし道義の担い手であるインテリの主観からの分離という意味で客観的必然性への接近である。
甲野の課題は藤尾の世界とどのように関わるかである。藤尾との対立で勝利することはありえない。藤尾に関わりを持つことは不毛な戦いに引きずり込まれ、不毛な精神世界に生きることである。赤シャツとの対立の不毛性はすでに『坊つちやん』に描かれていた。富貴や栄誉や盛名を求める精神を批判することの無意義は『野分』で明らにかされた。金や地位を批判対象にせず自己内の思想世界に沈潜することは金や地位からの分離、独立の発展である。金や地位からの独立はこのように厳密な順序を経て獲得しなければならない非常に困難な課題である。
思想世界に沈潜した甲野にとって実践との関係が重要な問題になる。道也の段階では窮乏生活に耐えること自体が思想の実践であり正しさの証明であった。しかし、甲野は財産をめぐって現実的で深刻な対立をの抱えている。
甲野が自分の役割を認識だけに限定することは彼の認識の限界内に積極的な実践の可能性がない現実を反映している。漱石の作品の批判意識の発展は常に孤立化の徹底として描写されている。道也の場合崇高な使命による孤立は啓蒙による社会一般との一致を予期している。崇高な使命を持たない甲野の寂しさは人間関係からの孤立だけを意味している。批判対象は社会全体ではなく、母や藤尾に具体化されており、人間関係からの孤立は母や藤尾からの分離を意味している。批判対象の限定によって孤立の合理的な側面が同時に現象し始めている。
甲野は現象世界に対する批判を徹底した結果、自分が求めるものがどこにもなく、さらに何を求めているかも明らかでないという深い懐疑を獲得している。甲野は彼の世界において現象形態を問題にすべきでなく、まだ正体の何かわからない本質を問題にすべきであると考え始めた。自分の世界に本質がないという認識が甲野の獲得物である。甲野の世界には信頼すべき人間関係はない。したがって自己を含めた完全な否定だけが現実的な精神である。宗近に対する信頼は自己に対する信頼であり、自己否定の不徹底であり自分の属する世界に対する妥協である。
甲野と宗近の対立は藤尾と小夜子の対立に対する対応によって描き分けられている。小野と小夜子の分裂は資本主義的な階級の再構成の過程である。この過程を現実として受け入れてその必然性を肯定的に認識するか、それともその必然性に対して保守的な観点から道徳的に批判するかが現実認識の岐路になる。宗近は坊ちゃんのマドンナに対する批判意識を受け継いでおり、甲野は静観の立場を取っている。
資本主義の発展に伴って地方と都市は分離される。地方の古い人間関係は引き裂かれ、近代的生産を担うべく都会の新しい人間関係が形成される。道義とはこの分解過程から身を守ろうとする小市民の保守的な価値観である。甲野や宗近の小市民的な立場が矛盾のない道義的な状態と想定され、この分解過程に対してその観点から批判が行われる。客観的には小夜子と小野の分離は甲野や宗近の階級を分解して積極的な人間関係を形成する過程であり、不毛で不生産的な甲野や宗近の世界に内在する矛盾を解決する過程である。小夜子には宗近や甲野の理解し得ない、より高度な現実的精神が形成されている。
小野と小夜子の世界にあるとされる矛盾は甲野の世界にある現象的矛盾を対象化したものであり、小野と小夜子の分離には漱石が想定しているような道義的な矛盾は生じない。小野には古い恩義に対する道徳的な反省が想定され、小夜子には出世した小野に気後れし小野を羨む卑屈な感情が想定されている。出世した小野と分離して貧しい生活での幸福を追求することはこの段階の漱石の視野にない。貧しい生活は道也のようなインテリの人格性の証明として肯定されるだけで、社会的一般的状況としては肯定されず救うべき不幸と考えている。小夜子が無欲であり不憫であるから小市民の世界に引き上げてやるというのが道義である。我の強い藤尾とかよわい小夜子の対立を中間的地位よって解決するというのは道也が主張した分配の平等化という価値観の具体化である。
出世する者が貧しい者との古い関係にどう対処すべきかという問題は、本質的には資本主義の必然である小市民の没落にどのように対処すべきかというインテリ自身の本質的な課題である。文学史上では四迷、漱石、鴎外の三人の小説家がこの歴史的課題にその才能に応じて典型的な解答を与えた。『虞美人草』の甲野の煮え切らない態度は四迷と鴎外の中間に位置している。
四迷の『浮雲』や『其面影』には出世コースを選択すべきかどうかという道義的葛藤は現実認識ができない者の主観的な想定として描写され、現実にはそうした葛藤が存在しないことがはっきり描かれている。出世主義者の欲望とその可能性を失った者の欲望は明確に区別されている。出世コースを選択すべきかどうかは一般に選択可能な問題ではない。四迷の主人公は出世を望んでも得られない、貧しい生活を運命づけられた人間として貧しさの中で苦悩している。四迷の作品に描写された葛藤は『虞美人草』に描かれた葛藤とは比較にならないほど高度である。四迷は一般に小市民の道徳的な葛藤を越えた精神を持っていた。
『其面影』に引き続いて朝日新聞に連載された『虞美人草』は小野と小夜子の名前を『其面影』から引き継いでいる。漱石は『其面影』で提起された問題に文学的に解答を与えようとしている。四迷は小野と小夜子の分離を肯定し、その必然性において問題を提起し、解決している。しかし漱石にはそれがすでに解決であることが理解できない。漱石は小野と小夜子の分離を阻止し、小夜子の生活を引き上げることを道義的解決と考えている。『虞美人草』の描写によってこの試みに失敗した漱石は四迷の偉大さを再認識し現実理解を深めたと思われる。漱石がこの分離に満足の行く回答を与えたのは『明暗』である。
出世か貧しい生活かを道徳的価値観によって選択できると考えるのは漱石もまだ克服できない小市民的幻想である。この前提の上で小夜子を冷酷に捨てるべきか哀れな状況を助けるべきという選択肢が想定される。現実には選択肢は客観的、主体的条件によって規定されており、それを認識できない場合にこのような形態の悩みが生じる。道徳的な精神はどの選択肢にも対応できる形態をもっているから自ら道徳的な理由で選択したような幻想が生まれる。その幻想と客観的な状況の関係を理解して描写した場合にのみ芸術的な高度の作品になる。客観的な状況と主体の全体的な連関によってでなく、道徳的な葛藤によって人生を決定しているという想定の基に展開されるあらゆる心理は小市民の俗物根性である。小野や小夜子に想定された葛藤は平凡な作家が好んで展開する内容である。このような葛藤を描写すると同時に道徳的な説教の無力と、それをどのように克服すべきかの深刻な苦悩を描写しているところに漱石の特徴がある。
鴎外は同じ選択肢と葛藤を設定した上で出世主義を肯定した作家である。鴎外は道義的に、良心的にエリスを切り捨てる方法を描写したことで俗物インテリに高く評価されている。『舞姫』は小市民の最悪の精神を肯定的に描写した作品として大きな意義を持っている。
道徳的な葛藤を設定した場合どのような選択も小市民的俗物根性を免れることはない。資本主義社会で小市民的な立場を肯定することは不可能である。鴎外は道徳的非難を免れるために、自分の行動の意味を意識しないという善意=純粋意識に逃げ込む方法をとった。鴎外には豊太郎の主観的な善意や昏睡状態がエリスの破滅に対する責任を解消すると思われる。さらに責任を持ちえないことが無能や無力や孤立であることが理解できない。エリスが人間として破滅し、死ぬか気が狂うかすれば後は坊主か医者の仕事であって恋人の出る幕ではない。豊太郎はエリスを捨てたという道徳的非難を逃れるためにエリスが肉体的にか精神的に破滅することを必要とし、鴎外はそれを描写することを厭わない。豊太郎が道徳的で良心的であるほど小さな汚点を消すために大きな犠牲が必要になる。エリスの決定的な破滅によって、友を恨み、エリスのために悲しみ、友人のおせっかいとエリスの発狂のために自分の愛情や良心を証明するチャンスを失った犠牲者として甘い感傷に浸ることができる。
豊太郎は洋行しながら日本のブルジョア的発展を担うインテリの義務を果たしもせずにベルリンをうろついて貧乏人に金を恵んで得た愛情を楽しみ、なおたなぼた式出世を望んでいる。金と良心を持った気色の悪い俗物インテリに下層の愛情深い純な娘が惚れ込んだ上に都合よく気が狂うなどという想定は俗物官僚のロマン主義的空想である。自分の小さな小市民的評判に汲々としている小心で保身的な豊太郎はブルジョア階級にとっても役立たずのろくでなしである。ブルジョアは貧乏人を破滅させず有効に合理的に搾取しようとする。あるいは『其面影』の葉村のように小夜子を出世のために妾として利用しようとする。自分の道徳的評判のために破滅させることは利害の観点から不合理になる。貧乏人として生かすように、厳しい労働によって生きるように条件を整える必要があるからその条件に合った合理性を持っている。自分の体面のためにエリスを破滅させるような恥知らずな俗物根性が無能なインテリの良心の正体である。豊太郎の腐った良心は同類のインテリを引き寄せる汚物溜めであると同時に、豊太郎を弁護するための無意味で恥さらしな労力を強いることで腐った学者に対する罰をも与えている。
豊太郎は官僚的な出世を肯定することでより現実的であり、非現実的な当為を掲げる漱石と対立しているように見える。しかし現実的という概念は漱石にとっては現象世界と対立する本質という意義を持っている。現実の本質に到達するためには道徳的精神を克服しなければならない。それは出世に対する道徳的な非難の無力を理解し、小市民的な地位の客観的な矛盾を認識することである。小市民的な立場に対してまったく無批判的である鴎外には現実認識の可能性はない。小市民階級の自己認識は出世に対する批判意識の徹底としての自己否定の発展によってのみ形成される。自分の道徳性を証明しようとして道徳性の矛盾に翻弄されて無能と俗物根性を証明されるのが出世主義を肯定する鴎外の運命である。出世主義と非妥協的に闘おうとした漱石は道徳性の矛盾の中に勇敢に乗り込んで、道徳性の矛盾の必然性を明らかにするという歴史的な課題を成し遂げた。
宗近は道義的精神によって不安を解消し泰然とすることができると小野に説教している。不安と動揺はこの階級の本質であり彼らは常に安定と泰然たる精神を求めている。客観的には不安で泰然とできない階級的特徴が道義という形式の精神を形成する。彼らの道徳的意識は不安と動揺の反映である。学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている宗近が自信を持つのは、彼がまだ社会と接触しておらず、小市民的な安定状態で形成された無能を試される危機をまだ経験していないからである。宗近の自信と気楽さを保証しているのは財産であり、その財産が宗近の社会的な無能を規定している。
宗近の言う文明の改革とは藤尾に面当てをし、財産に対する執着が露骨でない小夜子に財産を与えることである。宗近は小市民内部の財産の分配に関わる下らない争いを社会正義だと考えている。こうした馬鹿げた思想を実践するには勇気が必要である。自分の立場の優位をもとにして小野に説教し藤尾を苛めるという真面目は実践しない方がよい。人の性格を直すなどというのは財産を持った無知なお坊ちゃんの余計なおせっかいである。財産を梃にして藤尾の我を攻撃することが宗近の目的であり、これが『坊ちゃん』に描かれた正義感の実体である。『坊ちゃん』の段階では正義感と財産の関係は意識されていなかった。
漱石は宗近の道義が藤尾の尊敬を勝ち取れず、藤尾との関係を形成する力にならないことを理解している。道義を認めない点で悪しき我の女である藤尾を懲らしめるには道義ではなく彼女の求めている高い地位や財産が必要である。漱石は藤尾と対立する条件が外交官試験に及第することであることを描いている。藤尾の我を批判する場合問題になるのは彼女の主観の二重性ではなく社会的な利害である。漱石は道義の単純な勝利を構成をするほど無能ではない。
道徳的であることしか取り柄のない宗近は藤尾に拒否されている。この分離は漱石の一貫した特徴である。宗近が藤尾を拒否するという想定は、藤尾が宗近を拒否するという現実の逆転した反映である。自分の利益を追求することも、藤尾との関係を形成することもできないことが無私の道義の本質である。初期作品に見られたインテリの逃避的な精神は非常に複雑になり、現実のインテリが持つ現象形態に近づいている。
漱石は藤尾の死を装飾的な文章で描写している。困難は藤尾の敗北の必然性を描くことである。道義が勝利し、奢る者が没落するという非現実的な教訓を具体的に描写することはできない。藤尾が宗近を求め、宗近に拒否されて藤尾が死ぬのではない。楽しみを諦めた甲野が安泰で楽しみのある藤尾が自殺するのではない。現実社会での人間関係の法則は逆である。漱石が無理な決着をつけているのは明らかである。この結末が教える教訓は、道義の勝利を無理に描くと通俗小説になることである。
宗近が中心になって展開する通俗小説の背後で甲野の深刻な思想的葛藤が描写されている。甲野の課題は現象的には母や藤尾にどう対処するかである。小夜子や小野は甲野の主な関心ではない。この分離の意味を明らかにする『彼岸過迄』の萌芽がここに見られる。
漱石は藤尾や母が甲野の期待通りに反省しないことを理解する現実感覚を持っている。彼女に反省を促す努力は、彼女と反省を促す者の双方を下らない対立に引きずり込んで堕落させるばかりである。だから彼女らの堕落を放置しておけば自然に罰が下ると考えている。しかし悪が道義的な罰によって滅ぶというのは希望的観測である。現実には彼女らは悪であることにおいてではなく、階級的な人間関係の独自の法則において没落する。その法則は悪でない甲野や宗近をも規定しているのであって没落と悪や善の規定は直接的で単純な関係にはないし、まして善悪が運命を決める本質ではない。
藤尾の生活の不毛性に対する批判意識の徹底は、その不毛性に対する道徳的批判意識の不毛性の認識である。没落は藤尾と甲野共通の運命である。その没落において悲劇を担うのは俗物である藤尾ではなく、道徳的で真摯な甲野である。この階級の人間関係や精神の不毛性を認識することによる不毛性の克服は、この階級の本質である没落の道を早めることである。甲野は藤尾や母の未来である没落の道を先取りしている。この作品では甲野の精神と藤尾や母の精神の同一性は意識されず、甲野の精神は藤尾や母の没落の必然を回避する力であると考えられている。破滅性の肯定的意義が理解されるのは『彼岸過迄』からである。
漱石の作品に一貫していた主観の二重性(表面と真意の違い)に対する批判意識の発展におけるこの作品の決定的な意義は、二重性の背後に隠された本質が財産であることが発見されたことである。この作品では財産と心理は執着するかしないかという直接的な関係にある。財産に執着する藤尾や母と、財産を放棄する覚悟をしている甲野が単純に対立している。小市民の世界では財産に規定された精神が無数の媒介項を形成して小市民的精神の体系を発展させる。漱石は小市民世界の現象的精神がすべて財産に規定されているという方法上の原理を発見した後、財産に規定されていながら財産による規定から遠く離れることを精神上の洗練とする小市民的精神の体系を具体的に描写していく。
母の二重性は財産に対する執着に基礎をおいた心理の一形態であるから、二重性の本質的な批判は同時に財産の批判でなければならない。したがって財産に関わる精神を批判する甲野が自分の批判精神を徹底する場合財産を放棄しなければならない。財産に規定された二重性を自己内から払拭するには財産の規定から逃れなければならない。財産や地位の放棄の覚悟は社会的な変革や文明の改革を意味するのではなく、小市民世界内部の二重性に対する批判意識であることがこの作品で明らかにされている。
しかし財産や地位の放棄は財産に規定された矛盾からの脱出ではない。財産を放棄すべきだという当為は財産に規定された、財産の運動内部の精神であり、小市民内部でのもっとも発展した対立形態である。財産や地位を持たない者にとって財産や地位に対する執着も、その執着を捨てるべきだという道徳的な規範も意味を持たない。財産に対する欲望を非道義とする批判意識は財産に対する執着である。母や藤尾を批判する道義は一般的規範として社会に適用されれば他人の財産を侵害すべきではないという意義を持ち、財産を守るための規範となる。
財産や地位の放棄は財産一般をなくすわけではない。地位や財産の放棄はそれを積極的に求める者にそれを引き渡し、彼らの欲望を満たすことになる。それは小夜子に対する同情と対立して、地位や財産を求めるものとそれを失うものの分離を促進することである。甲野はその一般的な意義を理解できないために、自分には財産の放棄が必要だとしながら、小夜子にはそれを認めていない。
矛盾一般の法則として矛盾の発展が矛盾の解決である。甲野は矛盾を形成しながらそれを徹底できず、危機が生じた段階で妥協している。財産の矛盾の発展とは、財産が集積される一方で小市民が財産を失う過程である。甲野にとってはその発展はいずれも悲惨に見える。財産を得ることは堕落であるし失うことは悲惨である。甲野は財産を放棄する自分の必要性の意味がまだ理解できず、その決意を徹底することができない。この不徹底こそ論理を飛躍することなく発展させる漱石の天才性である。財産が規定する不毛な人間関係は彼らにとって本質的なもっとも悲惨な事件である財産の喪失によって克服される。しかしその過程を必然性として認識することまったく別の過程である。
財産から切り離された労働者の歴史的に新しい精神は資本主義の誕生と同時に形成され発展する。財産の収奪に伴う苦悩と新しい精神の形成はすでに明治維新以来全国的に展開され、今も展開されている。漱石の道義の解消は明治維新以来発展していた原始蓄積を思想化する過程である。甲野の苦悩はその歴史過程に追いつこうとする努力である。エリートである漱石が歴史的に形成された現実的精神に追いつくためには、労働者階級の巨大な犠牲に相当するエリートに特有の思想的労苦が必要である。それは財産を放棄するという道徳的な決意と違った精神の歴史的な発展を担うことである。
現実社会から孤立している批判的インテリが問題にしているのは客観的には常に自分の階級内部の矛盾である。批判意識の対象がブルジョアであっても内容は小市民内部の精神である。自分の問題意識が小市民世界に限定されていることを認識することが現実的精神を獲得するための第一条件である。小市民が対象批判から自己認識へと復帰するのは、小市民的な立場を肯定する道義的な批判意識を越えてブルジョアと自分の関係を現実的に理解することである。ブルジョアに対する道義的な批判を解消するとはブルジョアの小市民に対する優位を認めることである。労働者との関係はより高度の歴史的な課題であり、この段階では問題にならない。それは道義的な課題ではなく、道義的な課題は自己のみを課題にしていることを理解しなければならない。
孤立と窮乏を覚悟した道也はインテリの階級的孤立とその反映である道義的批判意識を徹底することで甲野の必然性の認識への道を開いた。道也の覚悟を哲世界への沈潜として受け継いだ甲野の功績はブルジョアに対する批判と小夜子を助ける義務という、孤立を肯定する観念から自己を解き放ち、インテリ自身の自己認識を促したことである。インテリ内部の矛盾を社会全体の矛盾として対象化する道義はこの作品を最後に放棄され、インテリ世界は他の階級と分離し社会的に孤立した階級として独自に認識対象となる。自分の精神が客観的には何を対象としているのかを理解することが現実的な精神であり、限界を超えることである。『虞美人草』は漱石がインテリの社会的な孤立の肯定的自己認識から否定的自己認識へと移行する転換点である。 

 

●三四郎
漱石は金田や赤シャツや権力者一般との分離を掲げ、その結果貧しさとともに偏屈や滑稽や煮え切らない等々の小市民社会における否定的な性格を獲得した。これらの特徴を、金や権力者との非妥協性を貫徹することにおいて特有の形態で克服した結果、これまでの努力を内包した内容豊かな力強い精神が開花する。平凡で消耗的に見えるこれまでの努力の結果現実的精神を獲得し、一般に読まれるに値する作品となったのが『三四郎』である。『三四郎』以降の作品が芸術的価値を持つことの意味を理論的に理解することは非常に困難であるが、例えば似た設定にありながら漱石のこれまでの過程を経由することのなかった鴎外の『青年』と比較すれば違いは明らかである。
どのようなインテリにもブルジョア社会における不安定な地位の矛盾は反映する。漱石と鴎外の違いはその矛盾を下層に向かうことで解決するか、上昇することで解決するか、にある。上流に対して自分が非常に高い価値を持つことを主張し、あるいは想定する鴎外の精神は客観的にはブルジョア的出世に食い下がろうとする、上流の仲間に入ろうとする小市民的欲望である。
漱石の場合、金持ちや権力者に対する依存を拒否する真摯な、外的には子ども染みて見える決意によって、その決意が現実には無意味であることの認識が獲得される。漱石が当為として掲げた分離は自然的な過程であること、さらにそれはもともと分離しており現実には一致はないこと、これまではあったとする幻想を否定する努力をしていたのだということの理解にまで到達する。これまでの作品の内容は漱石自身のの幻想、誤解、無知との戦いであったことを知るのがこれまでの作品の課題であった。この自覚において初めてインテリは小市民的な偏見、幻想からの思想的な自由を獲得する。
『青年』の純一はこのような変遷をたどらない。家が金持ちで語学ができて美しい目をしていることですべての美しい女に気に入られるという純一の特徴が能力の証であるかのように描写されている。客観的にはこのような特徴は無能の証明である。常に自分に対する他人の評価を気にしていることにおいて独自の課題を持たないことを証明している。実際はこの無能において信頼関係を失い、人間関係が崩壊する。この否定的特徴は危機の時代には自覚を強制される。出世を求める人が人間関係を失ったことに気がつくのは出世の可能性がなくなったときである。それまでは出世が新しい、より高度の人間関係の形成過程であるように思われる。だれもが自分の能力を認め、羨み、関係を求めているが自分はそこから抜け出して、より高級な社会に入ろうとしていると幻想する。しかし実際はわずかの金と地位と引き換えにすべての人間関係を破壊するのであり、それに気がつくのは人間関係にの崩壊が悲惨な現実的結果を引き起し、取りかえしがつかなくなったときである。
漱石の人物も同じエリート的な地位の必然として人間関係の崩壊の道をたどる。漱石の場合自分の必然が人間関係の破壊であることを認識することで、いっそう人間関係の崩壊を促進するが、それはこの限界内での信頼関係の形成過程でもある。それがこの階級における信頼関係の唯一の形成過程であることを漱石は発見する。自己の没落の必然性を認識する悲劇的な人生においては信頼関係の崩壊の頂点が信頼関係の形成頂点と一致していることが『こころ』には感動的な形式で描かれている。どこまでも自己肯定に固執する鴎外においては信頼関係の形成は決してありえない。
作品の描写上の違いはさらに決定的に違っている。鴎外の作品は自然主義的な描写を抜け出すことができない。それはこの分離を認識できないからである。鴎外は人物を社会的に規定することができない。資本主義社会においてこの階級的分離過程を受け入れないかぎりどんな作家にも人物を社会的に描写することはできない。自然主義とリアリズムの違いはここにある。鴎外の小説にも作品系列全体にも展開の発展は生じないのは鴎外が小市民の主観の世界という狭い限界を越えないからである。漱石はこの作品から小市民の主観性の限界を抜け出し小市民の主観の二重性を客観的な必然性の規定のもとに描く方法を『三四郎』から確立している。それがどのような目ざましい成果をあげるのかはこれからの作品分析で明らかになる。漱石はこの作品から自分が何を描写しているかを明確に意識しており、各作品の冒頭にそれまでの作品の総括を描写している。このような自己意識がさらに作品内容を豊富にし発展を促進している。
「手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自ら波瀾が出来るだらうと思ふ」という漱石の予告は漱石の精神が道義の束縛から解放され、小説中の人物を道義から解き放ったことの宣言である。道徳性や趣味性等のインテリ精神が人物の価値基準になっていた『虞美人草』までの作品と違ってこの作品からは現実との関係が価値基準になる。人物を規定する方法が本質的に転換するとともに装飾的で形式的な文章が消えている。
『三四郎』では田舎と都会の分離は必然性として承認され、都会は矛盾に満ちたままの姿で客観的現実として前提され受け入れられている。都会を自分の精神から独立した未知の世界とする三四郎の無知や素朴にはこれまでのインテリ的偏見を解消した高度の精神が対象化されている。
この作品で初めて使われる「現実」という概念の第一の内容が汽車で会った女や爺さんの世界である。女の積極性に気後れする三四郎の精神は『草枕』の画工よりはるかに現実的である。女が風呂に入ってくる場面は那美さんと画工の関係を超えた力強い精神の誕生を示している。一瞬で身を翻す那美さんと違って、「ちいと流しませうか」というこの女は三四郎の臆病を否定し、三四郎の精神の発展を促している。狭苦しい人間関係を大胆で端的な関係と考えていた『草枕』の幻想はこの「ちいと流しませうか」の一言で破壊される。三四郎にはこの女の積極性に気後れする自分を臆病と感じる現実的な自己認識がある。自分を臆病と自覚する三四郎はそれを自覚できない画工よりはるかに高度の現実的精神である。
宿で一夜を過ごした後の「あなたは余つ程度胸のない方ですね」という女の言葉はこれまでのすべてのインテリ的登場人物の自惚れを破壊する、漱石の新しい思想的出発点である。漱石はこれまでに描かれたインテリ的精神と現実社会との関係を度胸という言葉で特徴づけている。度胸がないという規定はこれまでの登場人物のすべての特徴づけを契機に貶める本質的規定である。
エリートの世界の孤立性をはっきり意識した漱石は、エリート世界内部にもエリート世界と女や爺さんの対立を反映した対立を導入して広田を描いている。広田は出世コースを歩かないエリートである。日露戦争後の日本を「亡びる」と評価する広田の言葉は三四郎のエリート的楽観と対立している。これまでのすべての作品には日本の社会的な発展を自分の価値観によって指導できると考えるエリートの幻想があった。広田は日本の発展にエリートとして参画し出世することに幻想を持たない。日本を一等国と評価するのは日本の発展の中で出世による果実を得ることで満足し、文明化の矛盾を認識する必要のないエリート的価値観である。広田はその現実に対してどのように働きかけるべきかを認識できないこと、それが遠い課題であることを自覚している。現実と自分の距離の大きさを認識したことが広田の呑気さと余裕である。
野々宮や広田の活動は現実と直接関係してない。現実との本質的な一致のために現象と分離し現象世界の背後に沈み込むことが学問的精神である。現実社会がインテリ精神と独立して発展していることが現象として明らかになると、インテリ精神が現実社会と一致するためには現実の激烈な活動を背後で規定する必然性を認識する必要が生ずる。必然性の研究を前提しない道徳性や趣味性を啓蒙するのは理想家や偽善家である。ここで繰り返される「現実世界」という言葉はインテリ精神による社会発展の規定から、社会的必然性によるインテリ精神の規定への社会認識のコペルニクス的転回を意味する内容豊かな概念である。
自殺した女に対する同情的、直接的関心は三四郎の自己満足であり女にとって実質的な意味を持たない。自分と女の階級的な分離を理解できない三四郎は、現象的な直接的関心を超えた本質的一致のための努力をしている広田や野々宮の研究や関心を傍観者的態度と否定的に評価している。女の轢死という現象と広田の研究、妹の病気と野々宮の研究は直接的連関を持たない。しかし広田・野々宮は都会の人物としてすでに多くの悲惨な現象を経験し、現象に対する個別的同情の無意義を経験的に理解して、現象を本質的に理解しようとする高度の精神を持っている。轢死を見て無残と思い、広田を見て無事と思うのが無知な傍観者的批評である。悲惨な現象に同情を感じることを善とした『虞美人草』までの精神は現象の本質の認識を課題としない独善であり自己満足であった。善意の表明に満足せず、対象の具体的内容を理解するという困難な無限的課題の入口にいる広田と野々宮は同情の段階にある三四郎との対立において肯定されている。三四郎の批判的精神が軽薄であることは、彼が切実と言いながらすぐにとりとめのない空想に移行することで示されている。
三四郎は自分に与えられた世界を三つに分けている。この分け方と評価にはこれまでの作品と違った現実認識が反映している。
三四郎は田舎から抜け出しつつある。三四郎と田舎のお光さんの間には『虞美人草』の小野と小夜子に想定された喜劇は存在し得ない。都市と田舎の分離は前提され、初期作品にあった田舎への幻想は廃棄されている。
第二は書物の世界である。インテリ世界を他の階級から明確に区別された特殊な世界とすることは漱石の社会認識にとって決定的な意義を持っている。
第三は美禰子の世界である。初期作品ではこの世界にインテリが入れるというエリート的な偏見のもとに、この世界に入ることを批判していた。三四郎にとって研究世界も美禰子の現実世界もそれぞれの魅力を持っている。しかしその世界は自由に選択できるものではない。三四郎の運命も階級的に規定されている。
美禰子に対する憧れは美禰子の世界に近づくことができるという三四郎の未来に対する幻想である。すでに確定された人生を歩いている広田・野々宮には美禰子に対する幻想は生まれない。三四郎と美禰子は深まる可能性のない関係の中で互いに関心を持っている点では画工と那美さんの関係と同じである。逆に言えば画工の那美さんに対する臆病な関心の社会的な本質は階級的な分離であることが明らかにされている。
引っ越しの場面で漱石は三四郎と美禰子の関係が進展しそうで決して進展しないことを繰り返し描いている。三四郎と美禰子の希薄な関係を表す「PITYS AKINTO LOVE」はマドンナ、那美さん、藤尾、美禰子とインテリ精神の関係を本質的に総括した言葉である。「可哀想だた惚れたつて事よ」という与次郎の軽妙な訳語は美禰子のような美しさを描くのに堪能な漱石がすでにこの美しさから自由になったことを示している。マドンナと赤シャツの関係に矛盾や悲劇を想定するのはマドンナや美禰子に惚れたこと、つまりマドンナとの未分離を意味している。美禰子の美しさは彼女と同じ階級の人物にふさわしい美しさであり、三四郎や広田のような人生に結びつくことが不合理である。美禰子の美しさに魅力も哀れも感じない与次郎、広田、野々宮はすでにこの言葉の内容にすら関心を示さず、もっぱら訳し方に関心を持っている。
漱石はこの作品で初期作品にあった単純なカテゴリーを羅列的に並べて新たに位置づけている。初期作品では現象形態での対立したカテゴリーの一方を真理としていた。この作品ではすべての現象形態は本質と対立する現象形態として相互作用の観点から並列的に扱われている。ここで描写されているのは感情と理性、人情と研究の対立、研究と実践、準備の必要と実践の度胸の対立である。これについてはここでは説明しない。『虞美人草』で問題になっていた同情の問題についてだけ触れておこう。
同情の問題は哀願している乞食に誰も金をやらなかった事を契機に独立的に取り上げられている。
「遣る気にならない」というよし子の都会的な常識的感覚は三四郎にとって新鮮な感覚とされ、その意味が問われている。野々宮はよし子の心理を非難するのではなく分析しようとしている。『虞美人草』までは同情のないことが非難されていた。広田と野々宮は現実の現象を承認し、その社会的意義を認識しようとしている。この「何故」という疑問の形式は概念的ではないが、道徳的批判意識を克服した社会認識の始まりという意義を持っている。
美禰子はこの感情の原因を乞食の悪い意図や技巧つまり主観の形態に求める。乞食は社会現象として理解されず、乞食自体の責任が問われる。美禰子の同情の対象になるにはもっと哀れにならねばならない。美禰子は主観の現象形態を因果関係の形式に構成することでこの現象を認識したつもりでいる。初期作品と違って美禰子は派手とか形式的な洗練等々の上流の現象的特徴においてではなく、認識能力の階級的限界によって特徴づけられている。
広田と野々宮は主観の形態を離れ、客観的条件の分析に移行している。乞食の主観の形態から離れ、場所という客観的な条件を根拠とする広田の説明が十分でないことは野々宮の指摘からも明らかである。しかし社会現象を客観的に認識することを課題にすることにおいて美禰子と対立している。
この問題はさらに迷子に対する心理と対応の方法で検討されている。「子供は凡ての人の注意と同情を惹きつゝ、しきりに泣き号んで御婆さんを探してゐる。不可思議の現象である」この現象を不可思議とするのは高度の精神である。同情を善として掲げる道徳的意識にはこの不可思議の感覚はない。同情を掲げる当為から不可思議の感覚への移行は認識への関心の移行である。都会の大量の乞食や迷子を視野に置けば、この現象を悪とし助けるべきだという当為を掲げるのは自分の善意を示すだけの無責任な自己満足であることがわかる。個別的援助に満足することは一般的現象に対する無批判性であり、個別に対する対応も非本質的で偽善的になる。野々宮は広田の視点を転用して「これも場所が悪い所為ぢやないか」と言い、広田は「今に巡査が始末をつけるに極つてゐるから、みんな責任を逃れるんだね」と説明している。
巡査が始末をつけるから、というのは正しい。しかし責任を逃れるという説明は正しくない。巡査が始末をつけるのが都会の解決の仕方である。責任のとり方というのは個人的解決を前提にした表現であるが、社会問題の社会的解決が実際は問題になっている。迷子や乞食といった社会問題を個人の善意で個別的に解決することはできない。資本主義的矛盾の発展に伴って個人的責任の範囲が量的に拡大するのではなく、責任のとり方が質的に変化し、社会的責任、社会政策が登場する。その場合個人的責任の形式で言えば、社会的政策を発見し実現するための社会的責任が生まれる。したがってこの社会的責任のとり方と道義的責任のとり方が対置されるか、責任がもっぱら個別的道義の形で語られる場合は、社会的責任の放棄、隠蔽になる。社会問題を社会的に解決するための方策を発見し現実化する困難な課題が一般化していない日本では社会問題が個別的善意と個別的破滅の中に放置される。認識が遅れ偽善がはびこる。社会政策は階級社会では階級的利害に関わる問題であり、同情の延長の社会的実践として社会政策があるわけではなく両者は対立している。
資本主義的関係の発展した都会では人間関係の本質としての社会的関係が明確になる。個人と個人が相対的に直接的関係にある田舎では、個別的で直接的な人情と責任が資本主義的に整理されることなく歪んだ形式で残っている。田舎の関係を経験も理解もせずに、都会の矛盾からの逃避場所としてのみ田舎に憧れている都会人だけが遅れた人間関係を人情が厚い等と外的に評価する。現実には都会での人間関係とそこで形成される社会的責任感はより発展した合理的関係であり精神である。社会的保障を実現するための闘争は社会的発展の促進であり、社会的活動という一般性を媒介に関係する場合には、利益を与える場合も受ける場合も『野分』や『虞美人草』に描かれた歪みが生じない。この社会的関係が発展している場合は個別的関係もその精神の一部分になり、道義の持つ従属や優位の確認の側面が消えていく。この意味で同情や恩義という道義的感情が薄れていくのが人間関係の合理化、高度化である。広田・野々宮の結論が如何に短絡的でも彼らの観点から見れば甲野や宗近はすでに幼稚である。
競技会の場面では野々宮に対する美禰子の認識の誤りと、それによって美禰子と三四郎の分離が促進される過程が描かれている。
『野分』の道也の価値観が美禰子に受け継がれている。道也の禁欲的精神は形式上では華やかな美禰子の精神と対立するが認識レベルでは一致する。美禰子は野々宮の世界的名声と簡素な生活を形式的に評価している。広田・野々宮には自分に対する美禰子のこのような評価に関心がない。三四郎は野々宮と美禰子の対立関係を理解できず、学問的実力を持つ者が美禰子に近いと感じている。現実には広田・野々宮の学問的実力は美禰子との距離の大きさに比例する。三四郎は野々宮の評価をきっかけに自分に実力がないことと、美禰子との距離の大きさを理解する。現実的実績が問題になると無力な憧れは破壊される。
(九)から美禰子と三四郎の分離の描写が始まる。三四郎の意識は野々宮・広田、よし子、田舎の生活を再認識することによって美禰子と分離されていく。三四郎自身は分離を明確には自覚せず、彼の積極的働きかけによって分離するわけでもない。三四郎と美禰子の関係は積極的意志も活動もなしに認識の進展とともに自然に解消する。
三四郎は美禰子に金を返しに行く前に全員に会い、自分の生活と対比することで自己認識を得る。原口の家にいるという美禰子に会いに行く途中彼は病気だという広田を見舞って最後の対比を経験している。漱石にとって広田との対比がもっとも重要である。
野々宮は穴蔵で研究することで世界と関係をもっており、広田は貧乏教師の世界に人間関係を持っている。インフレを問題にする汽車の女や爺さんや広田やその友人の生活には美禰子を相手にダチョウのボーアがどうとかいう会話はあり得ない。汽車の女や野々宮や広田と友人の貧しい教師の生活の前では三四郎と美禰子の関係はまったく馬鹿げている。
美禰子の苦悶は三四郎の想定である。この苦悶を除く方法は美禰子に近づくことではなく退くことである。美禰子から分離すれば美禰子を美しい享楽のなかに生きる女性として客観的に、冷静に見ることができる。この段階では全体として美禰子との分離は当為として掲げられている。美禰子から退くことは現実には非常に困難な課題であり、多くの媒介項を経由しなければならない。それは漱石のこれ以後の作品すべての展開によって明らかにされる。
美禰子は野々宮や広田や三四郎と関係のない世界に生きる運命にある。まだ自分の人生を確定できない三四郎にはそれが理解できなかった。人生が未確定であることによって初めて生じた三四郎と美禰子の関係は時間の経過だけであっけなく終わる。広田を大学教授にするという与次郎の策動も策動の内容にふさわしく下らない結果に終わった。三四郎と美禰子の関係が解消すると同時に三四郎と広田の距離も明らかになる。広田と三四郎の主な関係は、三四郎が美禰子に関心を持ち、広田が持たないという対立にあった。美禰子を媒介にした三四郎と広田の関係が消えると、彼らもまたレベルの違った世界に生きていることが表面化する。美禰子との分離によってここには再びペーソスと孤独な決意が現れる。
演芸会の賑やかさと対比された広田の覚悟は道也の覚悟より堅固であり、悲壮感を解消している。新しい方法の確信に基づく覚悟の未来には道也の場合と違って無限の精神世界が広がっている。この出発点の意識の正しさは次の作品からの具体的描写によって証明されている。
美禰子の結婚が決まった後も美禰子の言葉に謎や深い意味や愛等々の内容が含まれていると感じる精神は現象的な認識の限界を越えることはできない。美禰子は三四郎との関係や結婚に関わりなくこうした曖昧な言葉を口にする曖昧な精神を持った女性である。曖昧さが本質であって、そこに深い意味や隠された意味はない。しかし美禰子の言葉の無意味さはそれ自体の観察によっては理解されない。美禰子の言葉の空虚さを理解するには、美禰子の世界から離れた、対立的な世界でのみ形成される具体的精神を獲得していなければならない。それが美禰子を理解する場合の困難である。広田・野々宮はまだその具体的精神を体現しておらず、美禰子との分離が先行している。分離は始まったばかりでありしたがってまだ分離していない状態にある。
ラストの場面でも広田・野々宮は美禰子を描いた絵の内容に関心を持たず、絵の技巧だけに関心を持つことで美禰子の世界や精神と分離していることが強調されている。美禰子の世界はそれ自体においては無意味である。美禰子の世界は批判されることで価値があるかのような外見を持ち、同時に批判する者はそれが無価値だと批判することにおいて自分の価値を持ち得ると幻想する。この相互依存関係を断ち切るのが広田・野々宮の決意である。具体的な社会認識の獲得と、美禰子の世界からの分離過程は一致している。漱石の社会認識は汽車の女や爺さんの世界と分離した世界内部での美禰子の世界と広田・野々宮の世界の分離にまで具体化している。社会を認識するための階級的な分割が始まった時点にあるこの作品では美禰子も広田も抽象的であり、広田に決意が残るのと同等に美禰子に空虚さが残る。美禰子の精神を空虚とする精神はその具体相を知らないと言う意味で同じく空虚であり、この分離において双方が抽象的である。それがこの作品の抽象性であり、淡い印象を残す所以である。 

 

●それから
漱石は『三四郎』でインテリ精神に対する現実の優位を認めると同時にインテリの階級的な孤立を明確に意識している。この作品からはインテリが現実の発展過程に積極的に参画し得ない、孤立し取り残されていく階級であることが具体的に描写される。それは同時にインテリの矛盾に満ちた精神の全体を社会的必然による規定の上で描くという、主観と社会的必然性の二重化の確立である。漱石は社会や父に対する批判意識や三千代に対する愛情等の大助のすべての主観的な積極的精神形態が客観的には消極性の現象形態であること、孤立と無力によってやむを得ず追い込まれた選択であることを明らかにしている。このような描写は小市民的な精神における積極的形態の廃棄が、客観的な現実と一致した、この階級に特有の精神的発展であり、真の積極性の獲得過程であることを明らかにする契機となる。漱石はこの作品に現れたこの決定的に重要な精神の発展形態を『彼岸過迄』から明確に意識して作品内容を飛躍させる。
代助は社会から孤立した生活と、その孤立状態を肯定する堅固な意識によってインテリの階級的特質を典型化している。代助の関心は椿の花、自分の身体的特徴、心臓の鼓動、歯並び、肌の色、髪等々に限定されている。心臓の鼓動に自分の生命と「自分を死に誘ふ警鐘」を感じとり、死がなければ「如何に自分は絶対に生を味はひ得るだらう」などという間の抜けた関心にインテリ特有の無能が現れている。
大学を卒業すると同時に親の援助を受けて高踏遊民生活を始めた大助と、生活のために社会に出た平岡が対比されている。平岡が期待に反して失職した結果、彼らの生活と意識は彼らの予想を越えて分離した。代助と平岡は違った現実と精神を持ち、対立している。
人は誰でもそうであるが、特にインテリは青年時代の甘い理想や一般論を掲げて現実に接し始め現実と衝突する。初期作品では現実との衝突を現実を不合理とする観点から描写していた。平岡は生きていくために現実が気に入ろうと入るまいとその現実を前提し、理解に先立つ批判を解消しなければならない。自分の精神に対する現実の優位を経験的にたたき込まれる。現実の人間関係がどんなに不合理に見えようとも現実である限りは肯定すべき前提である。平岡の上司が無能であるとしても、それも平岡の属する現実として認識し対処しなければならない。
大助は初期作品に見られた瑣末な現象に対する道徳的批判意識を解消している。批判意識は対象に対する妥協や無関心にとった代わった。社会的に孤立した世界では現象に対する道徳的な批判意識を克服して本質の認識へと飛躍することがはきない。代助に可能な進化は孤立状態を反映した自分の精神の優位の幻想を廃棄し、それぞれの精神を独自のものとして認めることである。代助の立場で他の階級を批判し対立し得ると考えるのは自分の無力を理解できない無能である。一つの段階を越えるといっそう非現実的で無力な精神が現れ、社会的な対立を深刻化するのが代助の階級の思想的発展である。
大助は『三四郎』から導入された現実との関係による価値規定である度胸を巡って父と対立している。父親の金で生活している代助にとって現実との積極的な関係を意味する度胸はもっとも不要な、決して形成されない能力である。それは社会から孤立していることを端的に示す本質的特徴である。代助には度胸はなくても度胸以上の能力があると思われる。代助にとっては度胸以上に必要なものがいくらでもある。しかし現実に対して積極的に働きかける必要のある他の階級にとっては、度胸がないことは本質的な弱点であり、無能を意味する。
激動期の競争を勝ち抜いた父には代助の本質的な弱点である度胸の欠如が明らかになりつつある。代助の精神は実質的内容を持たない不生産的な精神としてブルジョア世界でも認められない。しかし父の幻想は容易に解消されない。生活を援助することで教養を蓄積して社会的な活動ができると考えている。代助の父は自分で稼いだ金で代助を社会から隔離して、彼自身の言葉で言えば胆力のない青年に仕上げて家族内部の対立を引き起こして家族全体の没落の基礎を作っている。これは小市民ないしブルジョアの一般的運命である。
平岡は大助と対立的に自分の存在価値を「頭の中の世界と、頭の外の世界」の関係に、現実社会への影響力に求めている。しかも現実に対する積極性は働くか働かないかに要約されている。平岡は労働をしない代助の特徴を意志を発展させることができないこと、すべての変化や対応が頭の中で起きるに過ぎないこと、現実と不調和を生じていること等々としている。『三四郎』で発見された現実との関係という範疇自体が無為な代助を否定し労働する平岡の立場を肯定する思想である。現実との積極的関係を構成することにおいて自己をも変革することを人間の存在価値とした場合、外界と分離した代助は無力、無意義である。
代助が働かないのは日本の情勢によるのではなく父の金で生活できるからである。「切り詰めた教育」、「精神の困憊と、身体の衰弱」、「道徳の敗退も一所に来てゐる」等々の現実認識は、現実社会についてどんな思想的経験的知識も必要としない無為徒食の立場によって形成される。
「金に不自由しないから」「生活に困らないから」「坊ちやんだから」という平岡の大助批評は乱暴なようでも本質的で的確である。代助の世界と平岡の世界の分離という『三四郎』以後の成果によってこの力強い断定が可能になった。平岡のこの言葉は無内容なインテリ世界の全的な否定である。この批判に対する代助の自己弁護は、それが代助の生活に即した一貫した理屈であるからこそ平岡の観点から全体として否定される。父の金を消費するだけの代助には食うことを目的とした労働の意味は理解できないと結論するのが正しい。代助にとっては生きること、読書、音楽鑑賞等々それ自体が目的であり終点である。代助の自己満足であって社会的な意義はない。
代助は自分の世界での経験によって自分の無力や限界を認識する。しかしそれは現実的な意義を持たない。平岡が指摘した頭の中だけの変化である。世間並みになるには世間並みの労苦を経験しなければならない。漱石は代助の意識が現実的意味を持たないことを強調している。代助の意識の変化は生活の危機に規定されているが、代助のどのような意識形態も積極性に移行する契機にならない。代助が自分の消極性を認識することは消極性を発展させるだけである。代助の階級の不生産的で消耗的な矛盾は積極性に転化できないことを漱石は発見している。代助は漱石の作品でこの矛盾の巣窟からの出口が発見されないことを初めて自分の苦悩とした主人公である。
漱石は無為で消極的な代助の生活と意識の変化の背後に客観的な状況の変化を描写している。代助の階級的な根深い消極性に動揺を与えることができるのは現実的な危機だけである。代助の生活を変化させる強制力は父の会社であり、その会社の運命を決定しているのが社会的必然である。代助の無為な生活に危機をもたらすのは工業の発展である。工業の発展が遠くから決して逃すことなく代助の生活に危機をもたらす。代助は自分に迫っている危機を認識できないし対処する手段もない。自分の危機に対する対処を現実的に考慮することが決してできない代助の危機意識は愛に形を変える。
代助は財産を拒否する積極的価値観を持たない。しかし具体的な目的があるわけではないから財産に対する欲望も積極的ではない。代助が自分の利害、欲望に基づいて佐川との結婚を拒否するなら、それは積極的な人間関係の展開の一形態である。大助は父との対立を回避しようとしているが、それも大助の消極性の現象形態であり、それによって父と対立している。積極的な目的を持たない代助にとって対立一般が無意味である。しかし人を怒らせる気が少しもない代助は消極性の徹底によってもっとも人を怒らせる対応をしている。
現実的積極性を要請されてそれに応えられず、対応の方法がなくなったことを感じとる段階の代助の心理が、アンニュイである。代助は常に真摯に対応しているにもかかわらず、彼の立場の必然性の結果として次々に人間関係を破壊し、その意味を理解できないながら、結果を一般的不安として感じとっている。
代助は人間関係の崩壊をどうすることもできない事実として受け入れている。代助の階級にとって人間関係の崩壊と孤立自体はまだ危機ではない。彼らは人間関係の崩壊と孤立状態を様々に肯定的に解釈し、自分の地位に安住する能力を発展させる。無力な代助の危機は積極性を求められるときに生ずる。しかし危機を現実的に認識することはできない。危機意識は代助がこれまでに蓄積してきた教養的な意識の延長として展開する。鈴蘭の花の下に寝るという危機に対する対応はこれまでの彼の生活の合法則的な結果であり、この法則的な対応によって再び危機を深めるのが代助の没落の必然性である。
代助は自分の活力が充実していないことを自覚することも、行動に飢えることも、その中で疑義を繰り返すことの無意義を理解することもできる。しかし無為の内部で生ずるこのような意識は無為を否定する契機にならない。この消耗性を如何に克服するか、あるいはいかに克服されるかが孤立的状態にある階級一般の課題である。代助のこのような自覚自体、父の会社の危機によって無為で消耗的な生活が破壊される危機意識の転化形態である。父の要請を回避しようとする意識が無為な生活に退屈さを感じて積極性を求める意識として意識される。代助の三千代に対する愛情は無為な生活の危機を反映していることにおいて無為の生活から生まれる真実の愛情であり、その真実において大きな限界を持っている。
代助はこれまでの自分の生活欲を自分が抑制していたと解釈し、さらに自分の寝入った意識状態を自覚し、周囲の物をどうかする必要を感じ、その方法が三千代に逢うことだと意識している。この意識の内容と方向を決定するのは代助の持つ人間関係である。代助の意識の流れとそれを規定する背後の人間関係の流れの二重性が代助の社会的特徴である。代助自身は自分の意識の変化が外的要因に規定されていることを理解できずに客観的世界から独立した自分自信の意欲として行動している。
代助が直面している危機の内容を認識することは実は非常に困難である。代助の不安を描く漱石はこの状況における代助の必然性を深く認識している。父のブルジョア的な要請を拒否する理由が代助自身にも明らかでない。欺瞞的な目的意識や道徳的価値観を廃棄した代助にとって佐川との結婚を拒否して三千代を選択する根拠は三千代に対する愛以外にない。漱石はこのもっとも自然で自発的に見える感情と客観的な必然性の関係を明らかにしようとしている。
代助は佐川との結婚を回避して三千代を選択するのであるから、本来の危機は佐川の娘との結婚にある。代助は自分が佐川の娘との結婚を回避する必然性を意識できない。代助が意識できるのは回避の結果としての三千代の選択であり、選択の後の困難である。代助に意識されていない、代助の意識を規定する客観的な人間関係が代助の本質であり、それが分析されねばならない内容である。
代助が三千代を気の毒と思う感情は人間関係の希薄な生活から生まれる自然な感情である。しかしこの感情は三千代に対する愛情の必須条件ではない。三千代に対する同情が愛情という重要な意味を持つための必須条件は、無為な生活に生じた危機である。自分の危機を認識できない代助には三千代に対する同情が行動の動機に見える。三千代との関係の背後に佐川の娘との結婚がある。佐川の娘との結婚の拒否の背後には代助の現実に対する無力がある。代助の三千代に対する愛情を背後で支配する危機が理解されないのは、危機の認識が大助の能力や価値の本質的な否定を意味するからである。漱石のこの段階では過去の反省や同情という現象的な心理が行動の動機として扱われることはない。漱石が課題にしているのは無為の生活内部に生ずる様々な心理の客観的な本質である。
代助はジレンマに陥っているが客観的には代助に選択の自由はない。三千代を選択することは彼の属する社会の価値観と本質的に対立する。代助が三千代を選択することは、代助の利害、立場が彼の属する社会と本質的に対立していることの結果である。代助は父の求める積極性に応える能力を持たない。したがって代助が彼の属する階級内部で本質的な対立を引き起こす選択肢を発見し、選択することは必然である。
自然か意志か、自由か器械の様に束縛されるか等々はインテリの形式論議である。自由か束縛かではなく自由を求める代助の行動の社会的意味を理解しなければならない。三千代との結婚が自由と感じられ、佐川との結婚が自分を束縛すると感じられるのは何故かが問題である。
父の勧める結婚を拒否し三千代に対する愛に殉ずることが代助の消極性の現象形態であり、危険の回避であることの発見は漱石の作品の発展にとって決定的な意義を持っている。ブルジョア世界で生きるにはブルジョア的に積極的な能力が必要である。平岡の世界で生きるにも労働者としての能力が必要である。平岡に必要な能力を代助が持たないことは平岡との対立で明らかにされている。代助のような無為なインテリには、ブルジョアの世界に受け入れられずブルジョア世界での責任を分担できないことが自分の価値観によるブルジョア世界の拒否だと思われる。初期作品ではブルジョア世界と無関係な世界でこの価値観が維持されていた。漱石はブルジョアの父を持ち、ブルジョア世界での力量を試される地位にいる代助を設定することで初期作品の価値観の意味を明らかにしている。
代助はブルジョア的な責任の分担を要請されることで自分の価値観の現実性を問われている。父の世界で自分の能力を発展させる能力がない場合には父の積極性の要請が束縛と感じられる。ブルジョアとも平岡の世界とも分離されている代助は、どんな階級にも入らず、社会全体と対立し、完全に孤立する過程で三千代に対する愛情を形成する。代助に残されているのは孤立的な世界での人間関係だけである。道徳的な批判意識や愛情や使命感等々の積極的な形式をとるインテリ的精神の本質が社会的な孤立と社会的な無能であることが代助の心理によって具体的に描写されている。
無力な代助は他人と一致する利害を持ち得ない。父や兄や嫂や平岡との人間関係を絶つことがこれまでの生活で形成された代助の能力の必然性である。代助には社会的な孤立と無力の徹底が社会との闘争や困難の選択として意識される。無力によって排除されることが社会全体を敵に回して闘う勇気だと意識される。逆に言えば代助の困難の選択や闘う意志は無能による社会からの排除の歪んだ反映であり、これはインテリの意識の本質の暴露である。
代助の三千代に対する責任は他のすべてに対する責任回避である点で、父、兄、嫂、平岡さらに社会全体との対立を意味する。三千代に対する責任という意識が社会に対する責任の放棄を肯定的に認識する手段になるとしても、社会的に排除され完全に孤立化する事実は代助にも理解できる。人間関係を失い孤立化することは代助にとっても危機である。選択の余地のない危機が臆病者の勇気を生み出す。代助の責任感や勇気や胆力は代助の消極性が現実と接触する場合の現象形態であり、客観的には無責任、臆病、卑屈等々である。
代助の意識する自由は「個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な社会」と対立している。代助の自由は社会との対立、つまり孤立と無為を意味している。社会的な活動能力を持たない代助には自由は社会的活動の拡大として、社会的必然性との一致として意識されない。社会が自由を実現し保証する自由の実体として意識されない。社会的に積極的役割を果たせない者にとってのみ社会は自由を制限すると意識される。それは父の要請に応えられない場合に父の要請が自由の束縛だと感じられるのと同じである。代助が平岡に対して自分が社会的な活動をしないのは社会が悪いからだと解釈していたことの本当の意味は社会的役割を求められてもその任に堪えないことである。
現実の客観的な過程を反映しない道徳的な意識形態は代助が現実の必然性に翻弄される主体的な要因となる。代助にとって社会に対する道徳は三千代に対する非道徳であり、社会に対する非道徳は三千代に対する道徳である。すべての非道徳は対立物の道徳として肯定される。しかもこの単純な転化を道徳家は意識しない。したがって積極的能力のない道徳的な人間ほど、危機に追い込まれた場合に自分の行動の客観的意味を理解しないまま、その時の単純な利害によって行動する。道徳的規範は彼らの都合によってどのようにでも設定できる。彼らの実践の内容は彼らが追い込まれた状況と危機の客観的内容に依存するのであり、自分の行動を意識できない彼らの意識形態は実践の本質的な動機ではない。彼らはその行為によっていっそう孤立することで彼らの社会的無能を証明する。道徳的な意識は現実の客観的な状況を認識できない段階の自己肯定的な意識である。
代助が期待する端的な対立と単純な決着は代助の利益に即して事態を決着させることである。父にとって代助の結婚は会社の運命を決定する重大事である。現実の問題が代助の想定するように単純に決着しないことは複雑な人間関係を多少とも経験すれば誰でも理解できる。その複雑な社会関係に応じた決意や対応が蓄積される。代助は自分の道徳的な決意だけで現実問題が決着すると期待し、それが実現されないことに不満を持っている。衝突の結果を潔く受ける覚悟の内容は父の期待に応えないことであり、それはできないことをしない覚悟であるから実際に堅固である。しかしそれは現実の人間関係から逃避する勇気と同様、現実的な力量に裏つけられた堅固さと違った無内容と無力に特有の堅固さである。
代助の孤立生活から生まれる判断と行動は、父や兄の期待を裏切ることで代助についての誤った認識を破壊し、相互の分離を促進する。これは孤立的精神の必然性に内在する合理性であり、これからの作品の展開の基礎となる。代助の非社会性が徹底するほど幻滅と分離も徹底し厳しい結果による自己認識が発展する。父の世界で実践的に役に立たないことを明らかにし、父の世界から排除されることが父の世界との現実的な分離過程である。代助は排除されるべくして排除され、排除されるべき人間であることを認識する可能性を得ている。
「煮え切らずに前進する事は容易であつた」というのは状況の無理解である。代助は現実的能力を試される時に勇気を出して自分の無力を遺憾なく発揮する。必要のないときは曖昧に対応して期待を持たせ、必要が迫るときっぱりと断るのが代助の潔白さである。危機に規定されながら危機を認識できずに、「平生の自分から生れ変つた様に父の前に立つた」無能な人間を説き伏せることは決してできない。無能という現実的で強固な根拠を持つ代助の決意は無能を矯正することなしに変更することはできない。現実にはこうした豹変は常に現実的無力を証明しており、説き伏せる必要のなさを示している。だから彼らの決意はいずれにせよ現実的障害を突破する。つまりこの無能な人間の決意も分離の必然性が実現する一般的な形態である。
代助は父を気の毒だと思いながら期待に応えられないことを率直に話した。三千代にも物質上の責任は持てないと率直に話した。代助の誠実さは自分の無能を正直に表明することによって彼自身の不安や不満を解消することであり告白される相手には関わりを持たない。下らないことを実践し、その下らなさに応じた無意味な責任感で反省し、その反省に満足するという展開は無為な生活の限界内部の循環である。代助が責任感を真剣に意識するのは迫る危機から真剣に回避するときである。代助は主観的に誠実で、潔癖であろうとし、もっとも困難な選択の決意をするときにもっとも無責任な行動をとる。
代助は父や兄との関係を失うことに満足している。無能な代助にとって父の要請に応えるより三千代と二人で破滅することが本望である。代助の意識は破滅の必然性を本望としている。無力な小市民には怠け者に特有の自尊心が発展する。彼らにとって現実的な責任を求められることによって無力を証明されることが最大の危機である。彼らはそのような危機より、漂泊や飢餓や焼き殺されることが本望だと感じる。彼らにとって無為な中間的生活がすべてであり、それ以外はすべて破滅である。
兄や父との分離は代助にとっても兄や父にとっても合理的である。したがってその過程で生まれる意識も合理性を持っている。この分離の合法則性と合理性を代助は意識して推進するのではない。無意識的に必然性に支配されることが代助の段階の特徴である。小市民世界からの脱出は小市民の地位からの没落であるときに初めて真の脱出である。思想的な主体的な脱出こそは脱出の幻想であり、小市民の地位に止まる思想である。漱石のこれからの作品では主人公は小市民の典型的な矛盾の中に設定され、自己発展の過程が追求される。小市民の社会的孤立と無能はより深く社会的に規定されると同時に自己認識として蓄積され、その認識が小市民の没落の法則をいっそう押し進めるという法則的な展開が始まる。登場人物の行動は彼らの自己意識の発展に伴って次第に瑣末に、非社会的に、非道徳的になり、さらにそれが彼ら自身に意識される。これが小市民の精神の発展の法則であり小市民意識を払拭する現実的過程である。
現象としては極端に無力で堕落している代助の精神と行動は、初期作品に描かれた道徳的な批判意識や余裕や自信を持ったインテリよりはるかに現実的で高度である。道徳的な批判意識は無力の無自覚であり、無意識的な自己保身であり、彼らの意識と彼らの客観的立場の距離は代助よりはるかに大きい。道徳的批判意識を解消した代助の現実的な意識による実践は非常に明確な孤立と没落をもたらし、代助は道徳的な批判意識を社会的な力であるかのように幻想させる安定した地位を失う。彼の実践の無内容と結果としての没落が彼の認識の現実性を証明している。したがって代助を批判意識の欠如の観点から批判するのは、漱石からの、さらに代助からの後退であり無理解である。代助の精神の価値は彼が無為を可能な限り忠実に思想化しその無力を自ら実践しているところにある。
代助には現実に対して消極的に対処しながら、それを自分の主体的な選択とする自己肯定的な意識がある。この自己肯定的な意識を解消することがより現実的な精神である。小市民の自己認識の次の課題は没落の法則を実践すると同時に没落することを自己の法則として受入れ、認識することである。それによって始めて小市民の現実的な精神が形成される。 

 

●彼岸過迄
この作品から自己否定的精神による驚くべき内容が描写される。『彼岸過迄』と『行人』は事件のない地味な作品であるが、内的な変化は劇的である。これらの作品の内容は直観によっては理解しにくく、厳密な分析によって初めて理解される。これらの作品の分析なくしては『こころ』に描かれた悲劇的な激しい現象の意味が理解できない。
この作品では現象が高度に具体的に描写されており、その背後に社会法則としての人間関係が現れている。この人間関係の法則はこの人間関係内部にいれば、あるいはこの人間関係の法則に規定された精神を持つ場合は発見できない。インテリ的、小市民的精神にとってはこの現象形態そのものが真理であり、現実の本質であると見られ、現象形態が法則を隠す役割を果たしている。須永の現実の現象的な観察が敬太郎と松本の精神として描かれ、須永の自己認識と対比されている。この現象形態を外から眺める目が、二葉亭四迷を彷彿させる森本である。森本はこの作品に登場するすべての人々の運命を多くの媒介項を経て本質的に規定している。森本の立場からだけ明確に須永の運命を規定する法則が認識できることが『明暗』でははっきり書かれている。
須永と千代子の関係の展開中に特にインテリには馴染みの深い心理が描写されている。このような心理はインテリに対する無批判的な精神にとっては心理の機微とか内的苦悩とか、近代的苦悩として肯定的に評価されるが、漱石はそれをインテリ精神の崩壊の法則として描写している。
須永の客観的特徴は父の残した財産によって生活していることである。『それから』の代助との違いは自己の無力を自覚すると同時に、その自覚を確定しようと努力している点にある。須永は無力の状態から抜け出そうとしているのではなく、無力を自己の必然性として受け入れようとしている。
自己の無力を抽象的に承認することとその無力の現実の人間関係上の複雑な内容を具体的に理解することは違う。自己の無力を具体的に確定しようとする意識と、自分に対する肯定的評価を維持しようとする自尊心との矛盾が須永の葛藤の内容である。須永の本質的利益と能力の発展は残存する自尊心を破壊することである。須永の苦悩は彼の自尊心が現実的との衝突によって破壊される過程で生じており、その苦悩が再び自尊心を破壊する原動力になる。
経験豊富な田口は須永の価値を認めていない。須永に対する幻想を持っているのは母と千代子である。須永は自分に対する評価が幻想であることを理解しつつもその幻想が破れることを恐れている。さらに須永は幻想を維持するための努力にも疲れて幻想の崩壊を望むほどに幻想の崩壊の必然性を反映した意識を形成している。このような苦悩を抱えていることを須永自身理解している。須永の自己認識として現れた意識は彼の意識上の限界であり保守的部分である。漱石は須永の自己認識の上に、須永自身の認識を越えた須永の行動と人間関係の展開を描写することで須永の自己認識の発展形態を描写している。須永は常に自己認識を越えて行動し、その行動の結果によってさらに自己認識を深める過程を繰り返すという発展形態をとる。
綿密に描写されたこの作品を、全体にわたって紹介することはまったく不可能である。今回は要点をピックアップするだけのこれまでのやり方を変えて、この作品でのクライマックスに当たる、須永と千代子の最後の会話の部分だけを分析しておこう。
須永はこの会話の前に鎌倉で高木と自分と千代子の関係で嫉妬に似た複雑な葛藤を経験し、その葛藤に疲れて東京に帰る。須永には千代子に対する愛情もなく、高木と競争して千代子を得ようとする欲望も持たないにもかかわらず高木と千代子を並べると嫉妬のような感情がおこる。このインテリにありがちな平凡な心理はこれまでの作品に描写されてきたインテリ精神の総括であり、それが千代子の言葉で卑怯だと断定されている。この卑怯の意味を理解することがこの作品の課題である。
高木について千代子に質問することが須永自身にとって不純に見えるのは須永に不純な意図があるからではなく、高木と千代子に対して具体的利害や関心を持たないからである。須永は高木や千代子に対して具体的な欲望も具体的な関心も持たないにもかかわらず自己認識の契機として彼らに関わっている。相手に対する具体的関心はないが、須永は自分と現実の関係、自分と田口家との関係を認識するために千代子の判断を直接聞く必要がある。千代子の高木に対する判断は須永自身に対する判断である。須永は自分に対する千代子の判断を恐れると同時に求めている。高木との関係で生ずる葛藤は須永の客観的な姿と幻想の矛盾であり、高木との比較によって自分が決定的に否定されて、自分の置かれた客観的状況と意識が一致することで不毛な葛藤は解消される。自己の存在と自己の意識を一致させて二重性を解消するには現実の無力を自己認識として定着させねばならない。インテリの優位を非現実的と理解し、虚飾と感じる能力を持つ段階で初めて須永の苦悩が始まる。
須永は千代子や田口家の財産と関係する可能性がないことを理解している。だから須永の葛藤の責任が千代子の親切にあるというのは正しい。千代子の親切とは千代子が自分の地位によって須永を拒否しないことである。千代子は須永の能力に幻想を持ち、財産関係の対立を意識しない純粋さによって須永に自己肯定的幻想を抱かせる。それが須永の独立を妨げている。田口が社交家でなく、千代子が純粋でなく、ブルジョア的に厳しく須永を拒絶するなら須永に幻想はあり得ず葛藤もあり得ないという観点からは、千代子の親切は害悪になる。須永に対するブルジョアの厳しい態度が須永が田口や千代子に依存せずに独立して生きていくための条件である。あるいはインテリの精神的独立性とは客観的に存在するブルジョアとの厳しい対立の認識である。同情の果実を拒否する精神の独立性は道徳的決意によってではなくて、ブルジョアと現実的に厳しく分離されており、果実が現実にあり得ないことを具体的に認識することによって得られる。道徳的拒否は、欲しいが我慢するという禁欲である。あるいはどうせ貰えないものを拒否という自分の意志の形式に変える負け惜しみである。初期作品で分離的、独立的精神を想定した漱石は段階的にその精神を克服し、現実的独立に近づいている。須永に必要なのは残存する小市民的幻想を破る最後の一撃である。須永の苦悩には小市民が独立的思想を持つために必要なブルジョアとの厳しい現実的対立関係が日本では形成されておらず、望んでも自然には与えられないことが描写されている。小市民に幻想を持たせる要素が現実に多く存在し、非現実的で不生産的な精神レベルにおいても多数の小市民が自己肯定しやすい点で日本の現実は厳しい。したがって幻想を破るには主体的な勇気が必要となり、したがってその勇気は容易に形成されないという悪循環に須永は苦しんでいる。
須永は高木に対する関心を言葉にすることができずに千代子が言いだすのを待っている。しかし須永と同じ関心を持たない千代子には高木のことを話題にする必然性はない。この状況下で須永が千代子の技巧を疑い「甚だしい故意を認め」るのは、千代子に対する否定的評価の始まりではなく自己否定の最終段階である。須永の品格からすれば千代子の技巧を疑うのは堕落である。須永は千代子が開放的な率直な性格であることを理解した上で千代子を疑っている。これは千代子との関係で生まれるもっとも下らない心理であり、それが須永を苦しめている。そしてこの苦しみを押し進めることが彼の苦しみを克服する唯一の方法である。
須永は一つの問題を反芻することで堅固な自尊心を破壊するための精神的エネルギーを蓄積している。須永の葛藤は千代子がもっとも開放的な性格を発揮しているときに蓄積される。自分と千代子との関係についての須永の予測には根拠がない。あるいは同じことであるが須永にとってはすべてに根拠を想定できる。須永の葛藤は千代子と関係のない自己矛盾である。このような葛藤の繰り返し自体が葛藤の非現実性を示している。客観的には須永と千代子の関係を認識するための条件は揃っている。須永の地位と能力と、田口の地位とその地位が必要とする能力を冷静に判断すれば、他のどのような条件があろうと千代子との結婚は成立しない。だから問題は須永が田口家から拒否され、社会に対して積極的に働きかける能力を失っているという客観的な事実を、最終的な人生の結論としてどのように受け入れるかである。須永の苦しみは自分の現実における客観的な位置を受け入れることにあり、千代子が須永を苦しめようとしているわけではない。千代子の善意のために厳しい現実を受け入れられないことが須永の苦悩である。須永は自己肯定や粉飾を否定しており、常に矛盾を蓄積し展開することを自己矛盾の解決としている。須永の葛藤の肯定的側面を発見している漱石は須永の否定的な現象形態を確信をもって描いている。
須永は昨夜千代子の態度に対する下らない憶測で寝られなかった。須永は自分の様子に対する千代子の自然な言葉によって再び下らない葛藤を引き起こしている。インテリが想定する昂然とか、技巧家でないとか、自尊心が強い等々の言葉の現実的な意味がここに描写されている。ここでの須永の葛藤は鎌倉での葛藤を引き継いでいっそう下らなく、消耗的になっている。須永の精神の必然によれば「昨夕好く寐られなかつたんでせう」という平凡な言葉にどう答えても、答えなくても矛盾を生ずることになる。
千代子の親切な言葉によって須永の葛藤が非常に緊迫し始めている。これは漱石の小説家としての才能である。瑣末な現象に反応し始めた須永は葛藤の激化に耐えきれずに鎌倉から逃れたのと同じように二階に逃れている。千代子が二階に上がってきた時、須永には「僕は斯う盆槍屈托してゐる所を千代子に見られるのを屈辱の様に感じた。同時に傍にあつた書物を開けて、先刻から読んでゐた振をする程器用な機転を用ひるのを好まなかつた。」という小さな葛藤が生じている。そのあと二人に一致の感情が起こる。そして最終的な対立が生じる。
「素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がした」というのは、須永自身が素直な気分になったということである。須永がこの心理状態のまま何もしなければこれまでの状態が繰り返される。『つい不味い事』をするのは須永のこれまでの葛藤の自然な結末である。須永は千代子との関係に社会的地位の対立がなかった昔には戻れない。過去からの千代子との関係で生じる幻想と自分の現状との二重性に苦しんでいる須永はまさに彼らが形式的な一致に達したときに不毛な葛藤の根であるその一致を破壊した。須永は鎌倉に行くことで矛盾を蓄積し、矛盾は飛躍的な展開をすべき時期に来ていた。
「夫は外でもない」という言葉に須永の必然が現れている。須永が品格を保つために唯一言ってならないのは高木という言葉である。したがって唯一言われなければならないのも高木という言葉である。千代子との関係は鎌倉で高木が登場したことで決着される可能性が生じた。須永の不愉快な葛藤を前進させるかどうかは須永が高木を問題にするかどうかにかかっていた。須永は千代子が鎌倉に帰る瞬間に、千代子との矛盾を高木との関係で進展させる最後の機会を捉えて「用意の足りない躓づき方」をする勇気を出した。体面を失うこの「躓づき」を逃せば鎌倉で得た葛藤は無意味に終わる。須永はまだ自分の葛藤を前進させることの積極的意義を理解しているわけではなく、内的衝動として持つだけであるために、偶然的なつまづきという形式で勇気を出した。須永を苦しめていたのは千代子が須永に持つ幻想であった。須永は自分の無口が千代子に幻想を与えていたことを理解するほどすでに自己否定的な認識を得ている。現実との接触の機会を失っている須永の精神は現実に対して無力化し、無力が暴露される危機感を内包している。無力が暴露される恐怖は暴露されることでのみ解消される。幻想を維持することは危機を維持し増大することであり不安や恐怖を蓄積することである。須永の不安や恐怖は自分の言葉に対する千代子の反応を理解しているから生じたのであり、彼に不用意な言葉を吐かせたのもこの理解による不安と恐怖である。須永に高木の一言を避けさせる臆病さと言わせる勇気は同じである。
須永は高木の名前を口にすることが千代子にどんな結果をもたらすかを理解し、その結果を受け入れる勇気を出している。この矛盾の推進と受容に須永の能力がある。須永には千代子や母の自分に対する肯定的な評価を維持することが負担になっている。自分自身の幻想を払拭するには自分に対する千代子や母の幻想をなくさなければならない。千代子の軽蔑に身をさらすことが幻想を破壊する現実的で効果的な方法である。須永にとってこの現実をいつ受け入れるかだけが問題であった。幻想を持たれること自体が須永にとっては苦痛であった。幻想を維持する無駄な努力をするより自分の現実にあった意識を持つことで葛藤を解消することが須永の内的な欲望である。須永はすでに偶然を契機にいつでも幻想的な信頼関係を破壊する状態にあった。幻想を幻想と理解する力がない初期作品や松本にこういう衝動はない。須永の内的苦悩にとっては突然平手で打たれるほどの衝撃は現実との接触による真実の獲得であり、非現実的な葛藤の解消である。しかし勇気を持った実践による成果は幻想の解消に止まらない。
須永のいじけた態度が千代子に軽蔑されることは須永の内的な認識の現実的確認である。しかし自分が卑怯だという規定は彼の自己認識になかった。他の階級に属する千代子は須永が意識していた弱点を問題にせず須永の自己認識を越える否定的評価を下している。須永は千代子の予想外の驚くべき否定的規定を非常な恐怖と期待を持って誘発している。千代子のこの本質的に新しい批判的規定は須永の自己否定的認識に基づく行動の成果である。千代子の言葉は須永の行動の高度化を物語っている。高木の名前を口にした須永にはさらに「何故」という勇気がある。千代子に激語を使わなかったことの理由を須永がどのように考えていようと、彼の本質的関心は千代子の言葉である。彼にとってこの「何故」が必要である。千代子がそれを誤魔化しだと考えるのは彼女が須永を理解できないからである。千代子が須永を軽蔑する瞬間に千代子に対する須永の優位が現象化している。
須永は千代子の言う卑怯が自分の引っ込み思案や煮え切らないことを批判しているのでないことを理解できる。インテリの精神に度胸がないことは初期から指摘されていた単純な現象である。他を無教育の点で軽蔑するインテリの愚かさもインテリの真摯な道徳的批判意識によっても得られる自己認識である。しかし人間関係を持たず、無為で内的反省を事とするインテリが人を傷付け道義的卑怯になることはあり得ないと思われる。道義は無為なインテリの自己肯定の最後の拠り所であり、インテリの自己否定的認識の限界点である。自己否定はこの点にまで踏み込むことで初めて本質的である。漱石は須永の精神のあらゆる瑣末な弱点を展開し、それを自己認識として蓄積した後、最後にもっとも困難な道徳性の矛盾を突いている。これを破壊することが小市民性からの思想的開放である。須永の精神は自己否定を徹底し発展させることで道徳性の破壊にまで進む必然性を持っている。「つい用意の足りない躓づき方をした」須永の言葉と行動がそれを示している。無能で臆病なインテリにはこの「躓づき」ができない。逆に体裁を守り千代子の評価を得るために腐心することで道徳的な精神の限界に止まるのがインテリ一般の生き方である。
須永は思想的限界点において自分の弱点を意識することなく露呈している。これはすでに漱石が須永の限界を越えていることを示している。自分の弱点の認識の対立物として千代子を強い女だと認めていたが、自分を卑怯と言う千代子の精神を須永は肯定できない。自分が卑怯だとは考えつかない須永は自分の判断能力の外に出た千代子に対して、初期作品のように余裕と軽蔑をもって対応している。須永の無理解による横着な態度はこれまでの軽蔑的な態度の延長として千代子に悔しい思いをさせ、対立を激化させる。ここに千代子との本当の対立点がある。これは須永が自分の意識より先行している行動によって獲得したものである。
「『男は卑怯だから、さう云ふ下らない挨拶が出来るんです。高木さんは紳士
だから貴方を容れる雅量が幾何でもあるのに、貴方は高木さんを容れる事が決して出来ない。卑怯だからです』・・・」
言葉や仕打ちではなく須永の態度というのは、須永の意図ではなく全体的特徴を指している。愛してないのに何故嫉妬するのかは須永自身が不可解な自己として問題にしてきたことである。それが千代子によって卑怯だと指摘された。須永にどうしてもわからなかった自分の特徴は彼自身がまったく自己否定の要素と考えなかった自分の道徳性に関わっていた。この連関は須永にとってまったく意外である。これは作品の展開における漱石の発見であろう。須永のこの疑問は初期作品のすべてに通ずる疑問である。一般的に言えば現実に分離しており、積極的関係の可能性がなく、それを具体的に望んでいないものに対して何故関心を示すのか、勝つ見込みも能力もない場所に出てきて対立するのは何故か、近づくと遠ざかる、遠ざかると近づくという矛盾した態度をとるのは何故か、あるいはこれはどういう態度か、どういう社会的内容を表しているかである。これは苦沙弥が肯定的結果を引き起こす力もなく鼻子や金田に口出しをし、坊ちゃんが赤シャツとマドンナの関係に口出しをし、関係を持つ気もないのに画工が那美さんに関心を持ち、道也が実際は妻だけと対立しながら天下国家を相手にし、甲野が天下を見下しながら、責任を持つ気もないのに藤尾に下らない教訓を与えたのと同じである。『虞美人草』では宗近が下らない思想を現実化する勇気を持ったために馬鹿げた結果をもたらし小説としても俗な結末に終わった。この精神形態が須永の行動に集約されて総括されている。
彼らはすべて現実と積極的に関わっていない。関わる能力がなく、現実社会から分離したものに特有の内的葛藤を引き起こすだけである。初期作品では須永と違ってそれが内的な葛藤に過ぎないことを理解できないために楽天的であった。彼らは現実との接触を回避している自分を理解できずに逆に積極的だと幻想していた。須永は外界に対する積極的関係を形成できないことを理解している。須永が千代子や高木に接触するのはその認識を徹底するためである。須永にとって千代子や高木は自己認識の、しかも彼らとの分離を認識するための契機にすぎず、関係を結ぶことに具体的利益や欲望がまったくないにもかかわらず自己のためにのみ関わっている。須永の場合は関係を断絶するために接触するという関係がはっきりしている。須永の言動の非道徳性、非合理性は千代子にも理解できるほど明確になっている。須永自身も自己認識の直前に到達していた。
初期作品の人物にも須永にも悪意はない。無力で善良な彼らに悪意はあり得なかった。無知な彼らにとっては悪意こそ批判の対象であり、自己内に見出せないものであり、道徳性、人格性こそ彼らの優位であった。しかし彼らの言動は道義に反する。卑怯である。彼らが主観の二重性を対象化して他人の了見を疑うことも彼らに必然的な卑怯であるが、それは彼らの主観内部だけに生ずる瑣末な問題である。彼らが彼らの範疇で実際に道徳的で善良であっても彼らは卑怯である。招待に応じながら愉快にできないのは道義的に卑怯である。現実に接触する場合に必要な勇気、責任がないのに関心を示す。しかもそれは関心ではないという態度で、破れた場合の弁護を常に用意している。その臆病な用心が卑怯であり、他を侮辱する。積極性に応えて積極性を示すとすぐに臆病風に吹かれて逃げだす。積極的関係によって自分の能力が検証されることを恐れる代助や須永の対応は積極性を求める人間に侮辱を与える。彼らの行動は相手にとっては、逃げるための、消極的な、関係を結ばないために関係を結ぼうとする無意味な行動である。須永よりはるかに遠い地点から関わる道徳的批判意識は、より臆病で自己保身的で自己満足的であり、したがってより卑怯である。自己否定を実践している須永と品格の上で区別され、自尊心を保っているほど千代子の言う卑怯の度合いは大きくなる。
須永を卑怯とする千代子は高木に無批判的であり高木の視点から須永を批判している。初期作品ではブルジョアに対するインテリの精神的な優位が描かれた。ブルジョア的な地位や財力による社会的な力がインテリにないのは明らかである。物質的な富や地位を反映した精神と対立しその観点による軽蔑に身をさらすことはインテリの名誉とされていた。しかしこの作品ではこうした価値観自体が精神的・道徳的な堕落であることが示されている。現実との関係が価値基準となった『三四郎』からはインテリの精神的弱点として度胸のなさが描写された。『それから』では無為に伴う精神的弱点が描写され、須永では自分の弱点を認識した人物の行動に内在する弱点が描写され、この段階に至って初期作品での精神的拠り所であった道徳性が対立物に転化する必然性の端緒が発見された。
『三四郎』から導入された現実との関係を価値基準とすることの必然的な結果として須永に至るすべての人物の言動が卑怯と規定される。現実との接触を回避する無力な精神が人間関係と接触することは客観的に卑怯な関係になる。それは無力な人間が人を愚弄することである。現実に対する責任ある態度とは、現実に積極的に関係し、それによって生ずる必然的な矛盾に現実的連続的に対処することである。現実と関係する場合は一つのこの個別に対する勇気では片付かない。現実の人間関係は連続的な過程である。その過程に積極的に関与する能力を蓄積する機会を失った須永は、現実に対する関心を持つものの、責任ある対応ができない。彼らは矛盾の展開に耐えられない。しかし一般に自分の社会的存在価値を否定できない場合彼らは現実に対して臆病な関心を示し、しかも関係が生ずると責任を回避する。これは現実との関係ではもっとも自己保身的な卑怯な態度である。
展開の過程を見ればこの卑怯は道徳性に内在していること、インテリの道徳性が卑怯に転化する必然が理解できる。現実との積極的関係である実践においては道徳性を守ることはできない。あらゆる形態の利害が対立している現実社会に実践的に身を投じる場合は一方に対する道徳性は他方に対する非道徳である。人間関係は矛盾しており、それが本質であり力であり内容であるからこそ無力なインテリはそれを避け、関係の回避を道徳的な対応として肯定的に評価している。無為は悪ではなく善であり道徳的であると考えられる。厳しい批判精神を持つこの作品では無為な生活とそれを反映した精神こそが非道徳的であり卑怯であるとされている。悪を回避するという意味での完全な道徳性とは社会からの完全な分離、隠遁である。しかし道徳性は一般的社会的規範としてのみ意味があるのだからそれは道徳性の社会的価値を廃棄するものでありやはり矛盾する。その矛盾が須永の心理や行動として現象する。
このように須永の到達点はインテリの精神の発展によって彼らの本質的価値である道徳性がその対立物に転化すること、道徳性が非道徳性と同一であることを示している。『行人』、『こころ』ではこの転化の具体的過程が描写される。この作品までは現実との関係での自己肯定の幻想を破壊することを課題にしていた。次の作品からはブルジョアとの関係、須永にある内的ブルジョアとの関係もなくなり、インテリの世界の矛盾がインテリの世界内部で、インテリの意識がインテリの意識において純粋に展開され、その本質が明らかにされる。 

 

●行人
『彼岸過迄』の須永の行動は千代子に卑怯と言われた。『行人』の一郎は妻の節操を試すことを弟に依頼する。『こころ』の先生は親友を出し抜いてお嬢さんと結婚する。このような精神と行動は小市民的な価値観にとっては堕落や自己喪失として重大な関心の対象であると同時に、小市民的な価値観による束縛の破壊としても関心の対象となる。この三作品の葛藤は現象形態として小市民的な苦悩の典型であり、同時に小市民的な価値観の崩壊を意味しているからである。
インテリはこのような現象を前提としてあれこれと論評することを好む。この現象に対する無批判的精神にとっては、この現象が現実であり、動かしがたい事実であり、その現象をどのように評価するかだけが課題である。しかし漱石はこのように見える現象は実は現実ではなく、この現象形態の背後に、この現象の本質としての小市民的人間関係とその反映である精神が展開されていることを明らかにしている。卑怯や卑劣や裏切りというのは現実に対する小市民的な認識の形態であって客観的な人間関係の展開を反映していないというのが漱石の得た現実認識である。
現象形態では小市民的な現実認識にとって最悪な行動と精神が描写されています。しかし同時にそのような行動形態にもかかわらず高度の信頼関係が形成されていることも描写されている。現象形態におけるこの矛盾の統一に必然性が現れる。この両者が統一されていることが漱石の特徴である。
『行人』も細かな心理や行動が綿密な段階を経て描写されている作品であるので短くまとめることはできない。一郎と直の関係に絞って人間関係の一側面だけを問題にしよう。『彼岸過迄』と『行人』は事件のない分かりにくい作品であるために他の作品ほど広く読まれていないと思われるが、ここで頭を悩まさないと『こころ』では激しい現象形態に振り回されて本質に分け入っていくことができなくなる。『こころ』に描かれた現象と本質の対立と一致を理解するための前哨戦としてこの二作品は決定的な意義を持っている。
一郎の父が引退し社会的に孤立した後の長野家の人間関係は社会的に積極的内容を失い崩壊の危機を迎えている。長野家の危機を長野家内部で理解する場合、危機の根拠は一郎の陰気さであり、その原因は直との信頼関係の崩壊であり、その原因は直の二郎に対する好意である等々として長野家の人間関係の現象形態を単純な因果関係で結ぶことになる。
直が不貞を働き、一郎がそれを疑い、その結果長野家が陰気になり人間関係の全体が崩壊するという展開は長野家内部に特有の認識形態であり、現実の順序は逆である。現実には長野家の危機が直を疑う根拠である。長野家が没落していること、同時に書斎的な学者である一郎の生活が現実社会から隔離されていることが長野家の危機である。こうした社会的、歴史的、階級的な危機を長野家内部で解決することはできない。しかしだからこそ危機の原因も対策もこの世界内部で暫定的に想定される以外にない。直や一郎の性格的特徴は没落の必然の結果としての現象である。直と一郎の性格から彼らの関係へ、さらに彼らの関係の理解から長野家と社会の関係へ、さらに日本の社会の構造へと深化するのが認識の本質化であり、現象の本質的規定である。長野家の没落の本質が理解されない場合には長野家の没落の結果生ずる様々の現象が他の現象の原因に見える。漱石はこの作品で現象形態からの脱皮の形態を細かに描写することで読者の認識の現象形態から本質への深化を促している。
一郎は自分を家長として奉ることを人間関係の崩壊と考えている。一郎と直以外の家族は家長的関係の崩壊を人間関係の崩壊と考え、一郎を家長として尊敬しようとしている。直は一郎にとって自分を家長的、形式的に扱わない点でもっとも信頼できる人物である。しかし直との関係も一郎の思想世界で進行している人間関係に対する不信感を阻止できない。一郎が直との信頼関係を形成する唯一の方法は社会的な積極的な関係を直との間に形成することである。積極的な関係は直との単独の関係では形成されない。
一郎にとって、信頼関係が形成され得ないという長野家の本質を理解するための最後の障害が直である。節操を試すことも直に対する具体的な人格的疑いから起こったのではない。小市民世界の人間関係に対する疑惑が直に対する個別的な疑惑に先行しており、その疑惑の真偽を確かめることが直の節操を試すことである。一郎にとって直の節操を試すことは自分の思想を試すことであり、しかもその手段が馬鹿げており、したがって結果に期待できないことは明らかである。一郎の思想の発展が客観的にも一郎の破滅の過程と一致していることは須永が自分の不安の解消のために自己否定の勇気を必要としたのと同じである。このような疑惑は一郎の世界の人間関係一般に対する高度の批判意識であり、その意識の全体の流れは二郎には理解できない。一郎に卑劣な二重性がないことは正直な二郎には明らかであるから二郎にとっては一郎の言動が不可解になる。
倫理的な二郎にとっては一郎の試みは直の本心を策略で探ることや直を騙すことを意味している。しかし一郎は直の意志を試そうとしているのではない。一郎の疑惑は二重性のない直に対して初めて生ずる深刻な、思想上の疑惑である。一郎は主観の二重性など問題にしていない。疑惑の対象はこの階級内部の信頼関係である。一郎の精神はこの階級に特有の二重性に対する疑惑という二郎の考える常識的な本来の倫理の領域を越えている。
一郎の世界内部で主観の二重性に対する批判意識は主観に二重性がない状態を正当な人間関係と認める無批判性である。個人の二重性を批判し、それを正すという初期作品の段階の倫理はこの作品では問題にならない。一郎が直を試すことは直の二重性を疑うという非倫理的な行為ではない。直の節操を試すことが直の二重性、直の悪意を問題にしているのであれば、直に非倫理的な性格を想定することであり、想定も試すことも非倫理的である。
一郎は直の主観の背後にある現象形態の本質としての心を求めている。現象形態の背後に現象形態と対立する抽象的な心を求める一郎の思想は、決して主観の二重性の背後にある本質に到達できない。彼の求める「奥の奥の底」という純粋な抽象物の内容を一郎は規定することも説明することもできず、ましてそれを二郎に理解させることはできない。一郎は二郎と直の関係によってどんな現象が生じようとその現象形態の背後に「奥の奥の底」を想定することになる。現象形態に信を置かない一郎には「奥の奥の底」を理解する手段はない。自分の求める心が規定できず、それを確かめる手段もないことを理解するのが一郎の思想の発展であり、それは長野家や彼の階級内部に一郎が求める信頼関係を形成する人間関係があり得ないことの反映である。社会的発展から取り残された長野家では積極的信頼関係を形成する現実的材料が失われている。本質的には長野家に生ずる人間関係はどんな形態をとろうと、直を含めた全員の意志に関わりなく関係自体が信頼するに値しない。長野家で生じ得る人間関係自体が、それぞれの個性や精神と独立して疑われるべきものである。だから彼らは個人的には真摯で率直で悪意がない善良な人物であるにもかかわらず、その真摯さと率直さと正直さと相手に対する好意や信頼においてお互いを疑い、遠慮し、陰気に相手の意志を探りながら生きている。
二郎と直が和歌山に行くことは、沈滞した、積極的人間関係が失われた長野家に持ち込まれた波瀾である。一郎はこの試みの客観的意義を理解していないが、この試みは彼の危機意識と長野家の危機から必然的に出て来る帰結であり、その必然性に応じた合法則的で有効な結果をもたらす。直と二郎が和歌山に行くことが二郎や母に引き起こす動揺が沈滞した長野家の人間関係への対応の合理性を示している。この試みはわずかの人間関係の変化をも長野家の平穏を乱すものとして保守的に対応する二郎や母を動揺させている。一郎にとっては発展的な矛盾を失っていることが長野家の危機であり、二郎や母は危機を感じているものの矛盾をなくすことを危機の回避だと考えている。深刻な危機意識を持っている一郎や直にとってはこの行動自体は危機ではなく、危機の打開策である。したがって直は冷静であり、一郎を信頼して成り行きに任せるつもりでいる。和歌山に行くことは直にとっては一郎と同様倫理とは関係がない。しかしこの試みは長野家内部の人間関係の展開の必然性として倫理的な不合理のみが現象として現れる。二郎と和歌山に行くことが母や二郎にとって明らかに倫理的に不都合であることを理解し、他の合理的な説明ができないにもかかわらず節操を試し、それに従うのが一郎と直の思想上の度胸である。これは『彼岸過迄』に見られたこの階級内部の倫理性に対する合理的な挑戦である。この倫理こそ彼らの不安定で孤立的な生活を反映し、彼らを苦しめる精神的な要因である。
倫理的意識は長野家での矛盾の発展である長野家の崩壊を恐れる意識であり、長野家の危機の深刻さを理解できず、長野家の波瀾を食い止めることができると幻想することである。この意識に止まれば須永と同様の苦悩に翻弄される。瑣末で消耗的な矛盾が支配する人間関係の中で、矛盾の解消を目的とする臆病な倫理的危惧によっていっそう瑣末な矛盾が再生産されることは初期作品で明らかにされた。こうした保守的な対処は長野家の矛盾の発展を妨げ、長野家の保守的な人間関係に一郎を縛りつけようとする傾向である。母や妹や二郎は現在の一郎の形式的利益を守り一郎に従属することにおいて、一郎と対立しており、一郎の信頼を失っている。直だけがそうした保守的傾向を免れており、一郎を信頼するとともに一郎の信頼を得ている。長野家に不必要ないざこざを引き起こす一郎のわがままと、何事も穏便にすまそうとする家族の対立は、長野家の現状認識と危機に対処する基本的な対立である。
危機や矛盾を恐れる長野家の倫理思想の堅固さと一郎の不合理な言動の対立は長野家の危機の未成熟を反映している。長野家は没落の矛盾が激化する以前の沈滞した、発展性のない、無為で消極的な段階にある。一郎はその人間関係に動揺を与える必要を感じている。一郎が直の節操を試すのは直の不貞に対する期待であり、したがって直の不貞の可能性などあり得ないことを示している。直の節操が現実問題になるほど長野家の危機が発展している場合は不貞を阻止するか覆い隠すための対策が必要となる。だから長野家の危機が直の節操の一点に集約されていること自体、直の節操が現実問題にならず、長野家の危機も深刻に意識されていないことを意味している。危機の未成熟な段階では長野家の危機が直の節操という倫理的な問題にすり替えられ、危機が矮小化される。
社会での積極的な活動による社会的矛盾との連関が失われ、なおかつ崩壊が危機的・破壊的状況に達していない段階で、それを危機と反映し、長野家を立て直すことによってではなく、破壊的な危機を引き起こすことに積極的対策を見出だそうとする試みが直の節操を試すことの客観的な意義である。停滞的な人間関係こそが信頼関係の喪失であり社会的意義の喪失であるという価値観のもとに一郎は危機を先取りし、生み出そうとしている。『三四郎』で現実との関係を価値基準に据えた後、矛盾の解消ではなく矛盾の発展、深化を矛盾の解決とし始め、この作品では矛盾を発展させる立場と矛盾を解消しようとする立場の対立が明確になっている。現実との接触を失った長野家での、停滞した状況を危機と認識する一郎の高度の思想と、一郎のためにという形式で安定を望んでいる家族との対立は、作品の発展で言えば『虞美人草』までの思想と、『三四郎』でのコペルニクス的転回の後の激しく発展してきた思想との対立になる。一郎の精神は『虞美人草』までの作品に見られた形式主義を破壊し精神の自由を求めている。だから一郎の自己破壊的な行動が二郎には精神病と見える。
和歌山行きは長野家の全員にとって勇気を必要とする。勇気の内容は認識の段階によって違う。一郎にとって和歌山に行くことは自分の思想の正体を明らかにする思想的な勇気を必要とする。直は一郎との関係に危機意識を持っており、しかもその危機を打開する方法がわからないので、結果を恐れずに一郎の意志に従う勇気がある。一郎の思想には合理的な結果を生み出す力はない。一郎と直の信頼と彼らの能力が大きく度胸があるほど結果は否定的であり、したがって勇気も必要となる。一郎と直の勇気は節操を疑うという倫理的、個別的問題を越えた危機意識である。
倫理的な思想を持つ二郎には倫理的な勇気が必要である。直の節操を疑う観点から和歌山に行くのであれば、直との関係に対する危惧と、直を試すという卑劣な行為への危惧に対する勇気がいる。勇気とは倫理性に背くことである。したがって二郎が「自分には全く勇気がなかつた」と考えるのは彼の認識のレベルの低さと、その限界内部での誠実さを表している。
和歌山で二郎は落ち着かず直は平気である。直は現実を端的に捉え、二郎は二人の関係を倫理的に解釈している。長野家の危機を一郎と二郎と直の三角関係といった単純な関係に解消する倫理的な意識には、二郎と直の危機がまったく別のレベルで進んでいることが理解できない。倫理的俗物は病院での二郎と三沢に対してと同じく和歌山の場面にもあり得ない事件を期待する。しかし二郎の倫理的精神を越えて一郎のレベルに達するには『三四郎』以降の成果をすべて理解しなければならないし、一郎や直を越えた苦悩を現実的に経験していなければならない。したがって二郎の偏見を克服するのはインテリには非常に困難である。
二郎は和歌山に行ったことを眠れないほど気に病んだ。しかし直は冷静であったし、一郎も二郎の予想に反して冷静である。二郎と直が和歌山に泊まったあと一郎が冷静であることは直の節操を試そうとする一郎の精神の内容を示す本質的な現象である。その意義を認識できない二郎はこれを「天賦の能力」として性格的に特徴づけている。
「繰返していふが、我々は斯うして東京へ帰つたのである」という文章に続いて「東京の宅は平生の通り別にこれと云つて変つた様子もなかつた」と書かれている。倫理的精神にとってこの現象は矛盾している。一郎の精神を理解するには直の節操を試すこととこの精神状態の両者が一郎の必然性の契機として説明されなければならない。『兄』の全体を通して二郎の倫理的解釈や危惧の正しさを証明するかに見える材料が次々に与えられた。『帰つてから』の冒頭の、「繰返していふが、我々は斯うして東京へ帰つたのである」という言葉は二郎の解釈の誤りを証明する現象の始まりを示唆している。二郎は『兄』の章の事件の後に意外にも平穏が訪れたと考えるが、一郎の人生の連関の全体的な、そして論理的な順序は逆である。これといって変わった様子もない東京の平生から直の節操を試すという一郎の行動が出てくる。直の節操を試すという極端な現象の矛盾は理解しやすい。しかし平穏な日常での矛盾は発見しにくい。漱石は現象的な極端な矛盾から描写して、その矛盾を日常生活の中に発見できるように描いている。『帰つてから』の描写は『兄』に描かれた現象と新しい現象との統一的な理解を求めており、二郎の解釈の誤りを証明している。
一郎は書斎人であることにおいて他の家族との人間関係が希薄になっている。一郎の書斎生活に一郎の秘密がある。二郎は直が問題にされない平生は問題が解決されていると思い、その平穏が続くことを望んでいる。一郎や直が苦しんでいるのは長野家の平穏な無風状態による。この日常生活の不生産性、人間関係の喪失、それに伴う自分の価値の喪失に耐えきれずに何かを契機に一郎の癇癪が起こる。一郎の癇癪や節操を試す等々の非日常的な積極的行動は問題に対する対処であり問題そのものではない。一郎が口を利かなくなり、書斎に引き籠もることが直との関係を問題にする根拠であるから、一郎の関心を直から書斎の方へ転換させることができはしまいかという二郎の希望はまったく現実の進行と逆を行っている。二郎や母は一郎がこの状態を抜け出そうとする時、その行動を非倫理的とか病的と感じて元の状態に押し戻そうとする。彼らにはこんな瑣事で日を暮していることと直に対する一郎の特別の関心の連関が理解できない。
立派な講義より直や子供との関係を「肝心の人間らしい心持」として重視する一郎の価値観を理解するには、インテリ階級について初期作品からこれまでに積み重ねてきた多くの批判的考察が必要である。初期作品では一郎の書斎生活に示されるインテリ世界の相対的な安定状態とその反映である人間関係が肯定され、それと対立する生活は出世欲や、技巧を弄する虚偽に満ちた人間関係として否定されていた。インテリの相対的な安定状態こそが社会的発展から取り残され、孤立した、消耗的で不生産的な生活と精神であることが発見されるまでには非常に多くの考察が必要であった。
一郎は現在の書斎生活を不毛だと感じているが学問を放棄することで家庭生活の矛盾を解決しようとはしない。一郎は学問的生活と家庭生活の両方に同じ矛盾を持ち込んで苦しんでいる。学問的使命を放棄し家庭的幸福に甘んずれば『彼岸過迄』の松本になる。一郎は両方を放棄せずにすべてを失いつつある。
二郎は一郎の思想の進展に伴って長野家がさらに陰気になったことを嫌って家を出る。しかし長野家の陰気さが二郎を追い出すのではない。二郎が家を出るのは、「然し自分も既に一家を成して然るべき年輩だし、又小さい一軒の竈位は、現在の収入で何うか斯うか維持して行かれる地位」にあるからである。こうした条件下にない他の家族は長野家が陰気になっても出るわけにいかない。
お貞と二郎が出た後の長野家には二郎に知られない変化が起こっている。一郎は二郎や直を問題にしなくった。一郎が人間関係の一切を諦めた時現象的な対立が消える。直とも二郎とも関係なく苦悩は進んでいる。外的対象に関わることを止め、自分自身に戻り、苦悩の中に純粋に没入している。偏屈とか変人と言われていた人間関係もなくなっている。ここから二郎の無理解、誤解が繰り返し描かれる。無内容な純粋性に向かう一郎の思想の進展はそれ自身としては示されず、誤解との関係として描かれている。誤解との距離が一郎の思想の進展である。誤解の大きさが一郎の内容を影として反映する。
一郎直を通して外界と関係し、一郎の状態は直との関係で観察されていた。直との関係が切れた結果一郎を理解する材料が失われた。長野家の危機を先取りした危機意識が引き起こした一郎の行動が長野家の無風状態を覆い隠していた。一郎が長野家に積極的矛盾を形成する努力を諦めた結果、長野家の没落の必然性が現象しはじめ、長野家の全員がより深刻な状況に陥る。
この作品に二郎と直の愛情関係を期待すると「事の起りさうで起らない」進展のない小説になる。一郎の思想的苦悩を理解すると全員の誤解の中で事態が深刻に進展していることがわかる。長野家では、岡田、お兼、お貞に続いて二郎が家を出た。そして三沢にお重を貰う気がないこともはっきりした。こうして長野家では「事の起りさうで起らない」状況が確定している。事件を起こす力を失うのが長野家の危機の進展である。長野家の社会的孤立が明らかになり、一郎の苦しみを被い隠していた現象的対立が解消されると、一郎の苦しみは純粋な展開を始める。ここから二郎らの理解できない平凡でない事件が展開する。
直の節操を試すことは直に対する一郎の信頼を前提していた。一郎が思想的苦悩に沈潜した結果直との関係も失われている。直にとっても一郎の状態は理解し難くなった。二郎がすべての情報を一郎の神経衰弱の証明だと解釈するのはいかにも俗物的であるが、彼自身の形態での危機意識、一郎に対する配慮の発展である。無力な二郎は長野家や一郎に対して何ら働きかけることもできずに下らない妄想のなかで一人で悩んでいる。二郎の妄想と長野家の現実的危機はいずれ交差し、直と自分の関係についての単純な妄想は妄想として発展しているほど誤解が解かれやすくなる。それが父の訪問に関連した二郎の心理に描かれている。父の訪問によって二郎は和歌山に行った時と同じように様々の妄想をかき立てては打ち壊し、家に着いて初めて自分の考えがまったくの妄想であったことを思い知らされている。
一郎の苦悩は理解されておらず非難もされているが深く信頼されており、長野家ではもっとも重要な人物である。幸福な家庭で家長として尊敬される三沢にはこのような信頼関係はない。一郎は長野家の崩壊の危機を先取りする能力の現象形態において信頼され、関心の対象になっている。こうした深刻な関心が生じたのは長野家の崩壊と、それを意識する一郎の優れた能力の賜物である。長野家ではこれを成果として全員が獲得し、人生の前提条件としている。長野家にとって一郎は人生において決定的な意味を持っており、一郎との対立が彼ら相互の対立として現象していた。したがって一郎を重視するほど彼らにも深刻な対立関係が生まれる。これは長野家の崩壊の過程に伴う新しい人間関係の形成過程である。それは三沢の家庭に存在する地位や富による幸福を破壊した代償としての新たな獲得物である。
一郎が自分の関わる人間関係を虚偽だと考えるのは高度の批判精神である。批判精神の結果として直に手を下したり、二郎に節操を試すように頼むのは如何に馬鹿げていても思想的な試行錯誤として理解できる。彼の下らない試行錯誤はそれによって彼が積極的関係を自力で形成することのできないことを理解する現実的手段になり、彼の思想を進展させる。それは彼のとる手段が馬鹿馬鹿しいほど厳しい結果となって彼に降りかかり、手段のないことを確信する契機となる。
H氏は二郎と同様一郎の精神を理解できない精神の典型として描かれている。H氏は一郎の苦悩を高く評価し、その苦悩に対して一郎が否定しているH氏の階級の現実的果実を与えようとしている。H氏の一郎に対する賛辞はすべて無理解であり、一郎が学問世界においても孤立する必然性が旅行の過程で明らかにされている。
H氏の手紙の結末は二郎と直が和歌山に行った後の一郎の状態と同じである。一郎は長野家で可能な試行錯誤をやった後平穏になり、二郎が不審に思うほどすやすや眠っていた。H氏との旅行では、H氏が二郎に手紙を書く必要を感じたほどの調子の狂った言動を繰り返した後でぐっすり眠っている。一郎に必要なのは彼の言動の無意義の自己確認である。自分の苦悩や言動が理解され、評価され、自分も肯定する要素をすべて払拭することにのみ一郎の平穏はある。したがって馬鹿げた彼の言動が矛盾に満ち、馬鹿げているほど、一郎の精神は充実と満足を得る。一郎が理解し難い言動によってその苦悩の深さを評価されるその瞬間に一郎は平安を得て、彼らの肯定的評価を払拭する。二郎やH氏との対立は一郎にとって、彼の内部にある現実的果実を払拭するために必要な手続きである。その意味では須永にとって千代子や高木が彼の内部にあるブルジョア像を払拭するための契機であったのと同様H氏は一郎の内部にあるインテリ性を払拭するための契機である。 

 

●門
『それから』までの作品では自己肯定的な意識が支配的で、その意識と対立した客観的な状況がその意識を否定していく過程が精神の発展過程であった。この作品からは自己の無力を意識した、自己否定的な意識が支配的、表面的な意識となり、その意識にによって形成される状況を反映した精神の獲得として、自己否定的な精神が発展している。『門』はこれまでの自己肯定的精神を払拭したことによる激しい矛盾のない、平穏で侘しい生活を描いている。ここではまだ自己否定的な精神による実践がさらに自己を否定するという激しい矛盾はまだ生まれていない。この作品は激しい矛盾を描く前の、漱石の力をためる時代の作品で『硝子戸の中』と同じ独特の魅力を持っている。こうした静かな作品の奥深い意味は、それまでの作品の激しい矛盾の終着点であり、次のステップへの出発点であることを理解して初めて深く味わうことができる。
この作品には余裕のある生活から排除された宗助の平凡な生活が淡々と描かれている。代助の余裕を失った宗助は余裕を反映した非現実的な精神を解消している。代助のプチブル的な意識は彼の階級からの排除によって解消される。漱石はプチブル世界から排除されることで初めて獲得できる意識をこの作品に描写し、同時にその結論として自分が獲得し得る精神の歴史的限界も意識している。
宗助は国家や文明や責任や愛等々についての抽象的な一般性に対する興味を失い、平凡な日常生活の中に沈潜している。代助が誇った書物や芸術に対する趣味的な興味も失っている。厳しい労働と乏しい収入によって余裕のある生活に生まれる趣味的な欲望や非現実的な精神が失われている。宗助は没落したことで初めて自分が東京を知らず孤立状態にあることを知った。しかも宗助はそれに伴う淋しさを解消する手段を持たないことをも意識している。この淋しさは非現実的な抽象的を振り回していた代助の幻想を廃棄した成果である。この作品では社会的孤立を粉飾するインテリの一般論を廃棄した、現実の個別的現象と直接一致する精神が肯定的に位置づけられている。
宗助の生活は代助と違って「非精神的」である。宗助は仕事を生活のための義務、手段として果たしており、それ自体に積極的な価値を感じていない。宗助は自分の生活に精神的な意義を認める余裕がない。自分の積極性に対する幻想を失ったことが宗助の成果である。漱石は虚偽意識を解消した宗助に特有の落ち着きを描写しようとしている。それは初期作品の気負いを解消した漱石自身の精神でもある。
初期作品の現象的な批判意識や道徳的意識は生活の余裕の反映であった。苦沙弥は成金を馬鹿にする学者風の無駄話をする以上の活動はできなかったし、甲野は日記をつけ、宗近はいらざるお節介をしただけである。代助は日本を憂いながら門野の沸かした風呂に入っていた。余裕のない宗助は自分にできること以上の善を意識しない。小六のために善を尽くすことが当為として掲げられず、その当為による葛藤も生まれない。当為は宗助が現実に可能な手段を尽くしていることで解消されている。宗助の生活の実情は小六にも理解できるから信頼関係が破壊されることはない。小六が宗助を情愛が薄いと評価するのは、彼が若く、就職を控えて一時的に不平を持ったためだと注意されている。
社会問題に対するこれまでの関心も趣味性と同レベルに扱われている。宗助の社会的関心がどんなに現象的で傍観的であっても、余裕のあるインテリの好奇心より社会的事件と親密な関係にある。余裕がなく社会的変動の危機にさらされる生活をしている宗助にとって社会的事件は生活的な現実として彼の意識に反映される。余裕のある精神は社会的事件を精神的道楽の材料にするだけである。装飾的な意識を払拭した宗助の意識は社会的事件を深刻に受け入れる準備ができている。社会的事件と意識の一致が生活によるインテリ意識の解消の後に形成される現実的意識として予測されている。プチブル世界からの排除は意識の社会化の本質的な一過程である。
「生活状態に相応した程度」の会話は深刻ではないし、生活状態とかけ離れたインテリの幻想とも違う。労働自体に充実はないが労働から逃れた平凡な日常生活に充実が生まれている。厳しい労働の成果である休日の充実は代助にはなかった。代助のアンニュイを克服するには一週間の厳しい労働が必要である。代助の教養も趣味性も孤立と無力の反映に過ぎない。余裕から生まれる無力で無内容な精神を廃棄するには余裕を廃棄しなければならない。この地味で積極的な形式を持たない生活がこれまでの精神の克服形態であることを理解することがこの作品の課題である。
学生時代まで裕福に暮らしていた宗助は厳しい生活の中で過去を取り戻せないと確信させられている。過去の栄華は遠い思い出であり現在を左右する実践的な意識ではない。叔父の手にある自分の財産も苦しい生活の中で時折思い出されるだけである。財産に対する執着の解消は繰り返し描かれている。『こころ』に描かれる財産への執着による悲劇を宗助は免れている。現状の不満を現状の内部で解決しようとしているのであって、財産や地位を得ることは彼らにとって現実的な意味を持たなくなっている。
宗助は財産と地位と未来を奪われた。諦めや忍耐はプチブルからの分離的意識であり、彼らの現状の肯定である。宗助は財産や地位に対する執着とその反映である社会的な積極性の幻想を解消している。どれほど貧しい生活をしていても、未来に対するプチブル的な希望がある限りプチブル意識を解消することはできない。未来の成功に対する期待によって現在の貧しさに耐えるのはもっとも強固で貧弱なプチブル意識である。未来に対する希望を失った宗助の意識はプチブル的な意識の解消という非常に重要な意義を持っている。積極的で現実的な意識を獲得するにはプチブル的な幻想を解消しなければならない。初期作品のあらゆる積極性の幻想を否定してきた漱石は現実的な積極性を獲得することが如何に困難であるかを意識している。
苦沙弥は出世した鈴木に貧しさを選択した精神的余裕を対置していた。自分を出世の道から外れた失敗者と自覚するのが出世との現実的な分離的意識である。成功の可能性がないことを自分の運命として受け入れるには経験的なあるいは思想的な労苦を積み重ねなければならない。宗助の精神から成功の可能性が失われたこととその事実を宗助が意識化していることが繰り返し強調されている。
宗助は小六が学校をやめ出世を断念することを破滅だと思わない。余裕のある生活を基準にすれば出世の可能性を失った生活は悲惨と考えられ、それを抜け出すための忠告や教訓が社会的な一般的価値を持つ思想と考えられる。それは『虞美人草』の宗近レベルの精神である。
宗助は小六の幻想に対して冷淡なだけで、小六に冷淡ではない。夫婦は月々の収支を事細かに計算してできるだけの努力をしている。しかし全体として小六のためという意識は表面化しない。役にも立たない当為を掲げることを自分の価値とするのは現実的に無力で怠惰なインテリの特徴である。
宗助の関心事は成功や一般性ではなく歯の治療代や靴の破れである。余裕のある生活に生まれる社会一般や道徳に関する一般的範疇に対する関心より生活上の必要に対する宗助の関心の方が現実的であり内容豊富である。この作品の課題はインテリの意識の社会性の幻想の廃棄である。論語を読んで思いつく下らない理屈より穴の開いた靴の方がはるかに具体的な社会的内容を持つことを漱石は意識している。それを理解することが芸術家や思想家にとって本質性への跳躍点である。芸術の名に値する作品ではインテリは社会で持つ役割に相当した位置に描かれている。日本の貧相な芸術はインテリ社会を社会全体として、あるいはインテリ意識を一般的意識として描いており、高度の社会的意識ないし批判意識とは社会性を抽象的当為として掲げることとされている。この作品の独特の落ち着きは貧しい生活に覆いかぶさっていたインテリ的偏見を払拭した成果である。
宗助は自分の労働で得た金だけを頼りに生きており、それ以外の財産や人間関係に期待せず、現在の限定された生活に欲望を制限している。この欲望の現実化が消極性という形式を取るのは、宗助にまだ積極的な欲望が形成されていないからである。漱石は未来への新しい希望なしに古い希望を廃棄する淋しさを描いている。この感情は『吾輩は猫である』のラストと同様積極性を求める観点から現状を現状を否定的に評価する漱石に特有の批判意識である。
宗助夫婦にとってインフレという社会現象が生活上直接的で深刻な関心になっている。小六にはまだこのような社会的意識が形成されていない。宗助の意識の現実性はこうした単純な事実によって特徴づけられる。こうした単純な事実とそれを反映した日常的な意識の現実性と重要性を理解するのはインテリにとって非常に困難である。漱石はこのような事実を宗助の心理の重要な要素として書き込む力量を得ている。
宗助の生活には幸運より不幸の可能性の方が大きい。初期作品の人物は社会的変動に影響されず、影響も与え得ない生活の中で天下国家を論じていた。楽天的な初期作品の人物と違って宗助の生活は御米の病気や失職で脅かされている。それによってどんな危機にも日常的に対処する精神が形成される。しかし宗助の限界はいつも危機が迫るのを感じながら、その危機が偶然によって回避されることである。漱石には貧しい生活に生ずる恐ろしい悲劇を描くことはできない。漱石は貧しい人間が社会的変動に免れた宗助の生活を描写している。
宗助は社会的な活動から孤立した生活をしており、孤立を自覚している。宗助の意識は排除されたことを受け入れているが、没落して得た新しい生活を肯定的に反映する意識をまだ獲得していない。彼らにとって余裕のある階級から排斥されることが社会全体からの排斥になる。彼らが現在位置している階級の内部で自分の積極的な役割を発見できないことが倦怠である。そして彼らはかつての階級に特有の不毛な精神を解消して得た夫婦の孤立的愛情に充実を感じると同時に古い道徳的な意識によって自分の生活を肯定的に位置づけている。
財産関係を無視した恋愛は道徳的断罪の形式で非難される。彼等は現在の自分の生活を罪によって突き落とされた、未来を失った、社会に棄てられた人生と見ている。大学を自ら退学した事が人間らしい形式だと考える程上層の感覚を持っている。二人はかつて属した階級との関係を絶つ過程で非常に大きな苦しみを嘗めた。二人の苦しい経験は彼らが属していた階級の多くの精神を破壊した。しかし新しい積極的精神を獲得していない彼らにとって現在の生活は諦めであり、忍耐であり、静穏な生活は寂しさや孤独と同義である。彼らの孤立した生活には彼らの属した階級の本質的な特徴である道徳的意識が残っている。罪の意識は彼らの孤立した生活を肯定する保守的な意識である。新しい積極的な意識を獲得することで罪の意識を解消するには古い意識を解消する過程よりはるかに多くの労力と時間を必要とする。
宗助は自分を、世間並みの、可能な成功をしなかった、する権利のない人間であるとして否定的に評価すると同時に現在の自分の生活をそれ自体によってではなく、安井に対する過去の罪の意識によって肯定している。安井を本来あり得た生活から自分と同等かいっそう困難な生活に追いやる一因となったことに罪を感じるのは、過去の安楽な生活を肯定する保守的な価値観である。侘しい生活に充実を感じることができるようになった彼らは罪の意識を忘れていた。しかし彼らは現在の生活の現実的結果を成果として享受しているものの、それは現状の諦観的な肯定であって積極的な生活による積極的な意識ではない。安井と宗助は互いに偶然的な契機となって新しい人生を獲得した。得るものは失ったものと同量である。安井ほど多くを失わなかった宗助は新たに得るものも安井ほどではなかった。侘しい生活に満足する能力を得た宗助の次の課題は積極的な生活と意識を獲得することである。その積極的な生活とは彼の侘しいながら安定した生活と意識からより厳しい安井の生活と意識に接近することである。
宗助の生活は没落したとはいえ「冒険者」というほど不安定ではない。宗助は自分より厳しい生活をしている「冒険者」の生活を肯定的に認識できない。安井の生活を肯定的に評価できない場合に安井に対する罪の意識が残る。しかし宗助の罪の意識は安井のために行動する要因になるわけではないし、深刻な運命によって強靱で積極的な精神を形成する必要のある安井は宗助を責めることなく宗助に関係なく生きている。安井と関わりなく宗助の生活や価値観に対する危機意識が安井に対する罪の意識になる。宗助の生活にはインテリの下らない葛藤も積極的な矛盾もない。それが物足りなく侘しい。過去に対する罪の意識は現在の孤立した侘しい生活の弁護であると同時に積極性を求める観点による否定的な評価である。子供ができないことすら過去の罪にするのは過去にとっては濡れ衣である。過去が罪として現在に蘇るのは現在の生活のためであり、子供がないことは彼らの侘しい生活の結果として初めて侘しいものとして意識される。過去は現在において位置づけられる。
宗助は平穏であるが瑣末な現象に動揺しなければならない自分の生活を、「如何にも弱くて落付かなくつて、不安で不定で、度胸がなさ過ぎて希知」だと意識している。宗助は現在の消極的生活を罪の意識で肯定することに満足せず、「心の実質が太くなる」ことを求めている。それは現在の消極的生活とそれを肯定する過去の価値観を解消することであり、積極的生活とそれを反映した新しい精神を獲得することである。安井と同じ運命をたどれば嫌でも「心の実質が太く」なる。しかし宗助の罪の意識を解消し道徳的意識を越えた新しい精神を獲得する歴史的な課題は漱石の能力の限界外にある。漱石のこの時期の課題は「心の実質が太く」なる精神を描写することではなく、道徳的意識の限界を越えられないことの苦しみを描写することである。
ここで宗教が登場するのは、解決が簡単には見つからないことを示すためだけであり、それ自体に意味はない。山門に入ることは安井との接触を一時的に回避することであり、それは罪の意識を維持することである。寺で問題が解決しないこと、山門に入ることが一時的な逃避にすぎないことは宗助自身にも理解されている。不安にかられて多少の望みを抱いたがすでに積極性を求めている宗助はすぐに幻想を解消している。彼は世捨て人にはなれない。
小説のタイトルになっているこの『門』は漱石と現実の関係を象徴している。宗助の精神が現実との積極的関係を形成するためにはこの『門』を越えねばならない。漱石はインテリの道徳的意識や一般的精神が主体と現実を結ぶ障害となっていることを理解した。さらにこの思想的限界を非実践的な論理だけで越えることができないことを理解した。漱石はその状態を「無能無力に鎖ざされた」状態だと厳しく断定している。漱石が経験し具体的に理解し得る精神は宗助以上の階級の生活である。漱石はその階級の精神の批判を徹底してきた結果それを越える積極的な精神を描くことができないことを理解した。漱石は自分の置かれた状況をこのように理解した上で、自分がこれまでに描いてきた世界を再び新しい視点で位置づけるという非常に困難な課題を得ている。通れない『門』に近づいた矛盾とは自分の限界を意識することが限界の克服であることを意味している。『門』を意識した漱石は初期の作品の思想に戻ることはできない。「彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。」これが漱石の結論である。そしてこの後再び『門』に至る道のもっとも深刻な矛盾の展開を描写することを自分の使命とする。この『門』を通るのはプロレタリア文学である。その道を穿き清めたのが漱石である。プロレタリア文学もこの『門』の前に立つ漱石を理解しない限り、如何に困難な生活を経験していてもその生活の意義を認識することはできない。
過去の偶発的事件は宗助のプチブル的幻想を払拭したが、それ以上の危機をこれまで回避でき、したがってそれ以上の意識を形成できなかった。積極的意識の獲得の観点から言えば宗助が安井に会えなかったのは不幸である。彼が安井に会う機会を得たなら、罪の意識は安井と関わりがないことが明らかになる。そして下らない悩みが一つ減るとともに、現実の葛藤に積極的に関与するための一つの経験を蓄積できる。それが経験的度胸である。この度胸を形成する機会を逃げて回る限り安井に限らず瑣末な問題に悩まされ続ける。しかし宗助が自分の力で困難を受入れ、積極的に対処し、自己内化することはできない。この度胸を形成する機会を逃げて回る生活が可能である限り誰でも逃げて回り、その結果として瑣末な問題に悩まされ続ける。安井から逃げて回るのは宗助の意識と関わりのない生活的な必然である。この種の思想的変革はプチブルの主体性によってではなく、現実社会の圧力によって強制的に遂行される。それは宗助が安井に会うか会わないかという偶然的、個人的な問題ではない。この種の思想的変革は現実社会の発展によってのみ遂行される、天の事、歴史の仕事である。宗助が逃げて回っても歴史は必然性によって彼を捉える。この必然性と一致することもこの必然性から逃れることも個人の自由にはならない。
宗助は安井にも会わず、結局免職にもならなかった。月給が五円上がったことに宗助も御米も満足した。小六の問題も坂井の書生になることで片がついた。
この結末は漱石の厳しい自己認識を表している。四迷は明治二十年に首になった文三から書き始めた。道也は免職になったのではなく、自ら職を退いたエリートである。免職にならずに終わる宗助が自分の限界であることを漱石は理解している。漱石は自分の階級性を含めた歴史的限界を受け入れる決意をしている。小康状態の限界内にいることが如何に苦痛であっても、それを現実として受け入れねばならない。現実との関係という価値観においてここに『門』があり通り抜けることはできない。漱石は再びこの観点からこの『門』の前にいるインテリ世界をその没落の法則において描写していく。これまでの作品はプチブル世界の矛盾を解消する方向に努力が傾けられた。これからは逆に、矛盾を激化する法則をこの世界内部で具体的に規定していく。それが漱石の度胸である。 

 

●こころ 1
漱石は「虞美人草」までの初期作品でエリートインテリの社会に対する批判意識を肯定的に描写した後、「門」までの作品でその批判的な意識がエリートインテリの社会的孤立を反映した精神であることを明らかにし、「彼岸過迄」から自己の社会的な孤立と無力を意識化する過程を描写した。「こころ」によってインテリの自己否定的な精神が完結するとともにインテリ精神は自己の本質の認識という歴史的な意義を獲得する。
漱石は「先生と私」で先生の生活の外面的な観察を描写し、そこに現れた矛盾を先生を理解する鍵として与えている。
まず先生は「私」に対して静かで淋しく近づき難いと同時に近づきたいという印象を与えたとされている。初期作品では世間に対する超然とした態度は外界に対する高さを意味しており、それが特別の印象を与えるものとして描かれていたが、ここでは先生の超然とした態度は外界との断絶を意味しており、先生が世間より高いという意味は失われ、そのために先生と私の海岸での出会いは偶然であることが強調されている。
この印象は私が先生と近づくことによって新たな疑問に発展する。先生と奥さんは互いに愛し合い、互いの愛情を信じていると同時に深い溝が存在することが明らかになり、彼らの愛情の背後に恐ろしい悲劇が隠されていることが予告される。
Kの自殺は先生の思想を理解する鍵であると同時に特にインテリにとっては理解を妨げる最大の障害である。それは「彼岸過迄」や「行人」の三角関係が同じように彼等の人間関係や苦悩の現象形態であり、その本質の理解の障害となっていたのと同じである。Kと先生の自殺は異常な、あるいは特別な事件ではなく、Kと先生の人生の必然的な帰結であり日常性の一部分であることが理解されねばならない。悲劇性はこの死が回避できないことにある。Kの自殺を原因としてその後の先生の生活を解釈する場合は、先生とKの関係も彼らの精神の本質も理解できなくなる。
先生の奥さんは、「然し人間は親友を一人亡くした丈で、そんなに変化できるものでせうか」と私に疑問を投げかけている。読者もこの疑問に答えねばならない。Kの自殺を先生の自殺の原因としてさまざまの意見を述べることは、この作品までに漱石が描写してきたインテリの苦悩を理解しえない傍観者に止まることを意味している。奥さんのこの疑問は先生の精神をKの自殺に対する罪の意識と解釈することを否定している。親友を亡くしたことだけでは先生の精神は説明できない。Kの自殺が答えではなく、Kと先生の自殺の両者が同時にが説明さるべき課題である。
先生の精神を理解するためのより本質的な事件は、叔父による財産の横領である。この事件は先生の現在の精神をも本質的に規定していることが偶然の形式であるが、強い調子で描かれている。漱石は先生の生活が財産によって守られていること、財産に対する強い執着を持っていることを描くと同時に、財産との直接的関係から遠く離れたKとの友情や奥さんとの愛情を同じ精神の別の側面として描いている。財産の放棄を高度の精神だと考えていた「虞美人草」までの作品と違って、それらの作品の成果として、漱石はこの段階では財産に対する執着を深く反映し、取り込んだ精神が具体的で高度の精神であることをはっきり意識している。
財産の横領によって意識される善人や不徳義漢という抽象的な範疇は小市民的な財産に対する執着の反映として社会的に蓄積されている。漱石は先生の倫理的な精神の根拠として叔父の横領を想定することで倫理的な批判意識の本質が財産に対する執着であることを単純に示している。漱石の課題は小市民的な財産に規定された先生の精神がどのような運命をたどるのかを明らかにすることである。「虞美人草」の甲野は、財産に対して批判的であったが、思索の世界に逃避していた。漱石がまだ、財産との関係を具体的に理解していなかったからである。
先生の父親と叔父は小市民階級内部の典型的な対立関係にある。先生の父は財産を保守的に消費しており、肯定的には上品な嗜好とか篤実一方の人物と呼ばれ、財産を積極的に運用している叔父は、働きのある頼もしい人物と評価される。否定的に言えば、吝嗇であるとか貪欲であるとか評価され、利害が対立する場合にこの側面が現実化する。資本主義社会では、叔父の財産も先生の父の財産も安定的ではありえない。社会的な変動にさらされた場合に、まず身近な小市民内部で対立が生じる。叔父と先生の父の対立は、小市民の没落過程で生ずるもっとも醜い消耗的な対立であり、先生の運命もそのなかに取り込まれている。
先生の父と叔父の関係は小市民的世界に特有の関係である。横領は財産を前提にしている。したがって人間は誰でも叔父の立場に立てば叔父と同じ行動をとると仮定することはできない。大多数の人間はすでに奪われるべき財産を持っておらず、先生の父と叔父の関係から外れている。叔父の立場に立てばという仮定が成立しないことを認識できないのが先生の小市民的な認識の限界である。先生の父は横領されるべき財産をもっており、叔父は横領を必要とするような財産の運用をしている。これは、先生の父と叔父の関係というより財産自身の運動である。だから、財産のある小市民的な世界では誰でもこのような精神、心理が形成される、と考えるべきであって、「人間は誰でも」とは言えない。横領などが、個人の悪しき人格によって起こるという先生の倫理的社会意識は非現実的となる。倫理的な意識ではなく、科学的な認識が現実的精神として要求されるようになる。科学的認識とは叔父や先生の精神を規定している財産の客観的な運動法則を規定することである。それは、財産を持つ人間にとってはできないことであるが、先生の父の財産が収奪されることを社会的な発展の契機として肯定的に位置づけることである。
財産を運用する能力や意志のない須永が財産の運動から排除される過程が千代子との関係の苦悩の本質であった。代助や須永と同様財産を運用する能力のない先生も財産の積極的な展開から排除されている。叔父に対する憎しみや批判意識は財産の運動から排除されることへの恐怖や財産に対する執着の転化した意識である。社会に対する批判は自分の財産と地位を脅かす者に対する抗議であり、余裕は財産と地位への満足であり、感傷は財産と地位の危機に対する嘆きである。財産の運動は先生のすべての経験に内的に貫徹し、先生の精神を形作り、さらに新たな経験をその蓄積された非現実的な意識によって体系づけることで先生の意識と現実社会を分離し、先生の現実的無力を確定する。漱石はこのような関係を発見することによって緻密で微妙な心理を描き分ける力量を獲得している。
先生は誰もが金を見ると急に悪人になるという一般的な真理の実例として叔父を考えている。これは思想の形成過程と逆である。先生は叔父との特殊な関係の経験を一般化することで普通の人が急に悪人になるという教訓を得た。このような事件は非常に狭い世界でのみ日常的であり、人間一般の特徴ではない。社会は、世間はこのような欲望などを基本として展開しているのではない。先生は金を見て悪人になったのが人間一般ではなく叔父であることも、叔父が財産を横領するに至る無数の社会的事情も認識できず、財産を横領された事実を「普通のものが金を見て急に悪人になる」という単純な倫理思想に定式化している。
先生の精神は叔父の横領に縛りつけられている。先生が復讐的な情熱を解消し過去の苦い経験から自由になるには、過去の経験を思想の領域へ引き上げ、経験の個別性を克服しなければならない。叔父は悪人だ、人類は悪意に満ちている、用心しなければならない等々の倫理的な怒りによって先生は人間関係から断絶されている。叔父の行為を否定的に評価する先生の怒りが先生を破滅させる主体的要因である。財産を横領されたことを否定的に評価するのは当然だと思われるだろうが、それは現象的な意識であり、この意識を克服しないことにおいて先生は自殺したことを漱石は描いている。先生の破滅を回避するには、叔父の行為を社会的発展の一契機として肯定的に位置づけるという決定的に困難な認識上の飛躍を必要とする。叔父に対する怒りと自殺に至る先生の運命の必然的連関を理解することによって財産への執着としての倫理の矛盾を克服することができる。漱石は先生の財産に対する執着、叔父に対する憎悪、それを他の者に拡大した倫理思想への転化の経路を描くことで倫理思想の秘密を明らかにしている。倫理的な先生の運命の社会的な意義を認識することが倫理から科学的思想への移行である。
先生は財産の横領という苦しい経験の後、人間関係を回避して、財産の危機を生じない、彼に優位な人間関係である未亡人の下宿を選んでいる。その家を選択させその選択を可能にするのは先生の財産とエリート的地位である。先生はこのような選択を自分の社会的な威力として肯定的に評価している。財産によって人間関係が未亡人と一人娘との関係に限定されていることは先生には不自由としてではなく、平穏として意識されている。このような選択の社会的な意味はこの限定された人間関係に内在する矛盾が明らかになった後に初めて認識される。
漱石はまず、先生の心理や行動の基礎が叔父に対する憎悪があることを描写したのち、その基礎のうえにこれまでに描いてきたインテリ一般のよくある心理を積み上げている。財産と学歴のある先生は財産と学歴による余裕と自信がある。しかしその余裕と自信を保証している財産や学歴は先生と社会的人間関係を分離することによって、「三四郎」で初めて意識された臆病を形成している。先生の厭世的な気分、汽車での不安、奥さんや御嬢さんとの関係での緊張、そうした心理を持つ自分に対する嫌悪感等々の心理は財産によって社会から孤立した者の心理として先生に集約されている。
小市民の財産と地位に対して無批判的な作家はお嬢さんに対する先生の複雑な心理を男女の恋愛心理の機微として描写する。漱石はこのような心理をこれまでの作品で追求してきた結果、それが財産によって社会から分離された者に特有の心理であることを発見し、その特性において先生の心理を描写している。小説が芸術の領域に達するにはその愛や苦悩の社会的本質が明らかにされていなければならない。先生の不安と不自然な態度は恋愛に生ずる一般的感情ではなく、財産によって人間関係から隔離され、人間関係を回避する精神を形成してきた先生に特有の心理である。このような世界にいるか、あるいはこのような精神の限界内にいる場合は、これは一般的な、それ自身がすでに分析された特質であるかのように思えるが、それは誰でも金を見れば叔父と同じになると考えるのと同じ偏見である。
奥さんやお嬢さんに対する先生の信頼はすべて自分の財産の威力に対する信頼であるから、財産に対する警戒心をも引き起し、対立的なさまざまの心理を生み出す。先生は叔父に財産を横領されたという感傷的な不幸話で彼女たちと親密になった。先生は感傷的な話が受け入れられるような人間関係をすでに選択している。しかし先生との親密化は同時に財産への接近を意味しており、親密化は猜疑心への転化を内包している。先生は財産の力で人間関係を形成すると同時に同じ財産の力で人間関係を回避する傾向を持っている。
先生が財産を持ち、財産が資本主義社会に特有の力を持つ限り、人間関係の接近は財産への接近であり、財産を目的としていると考えられる。主観の形態に関わらず客観的な利害関係から考えれば先生と関係をつけることは奥さんの利益である。先生は奥さんや御嬢さんに信頼される根拠を財産以外に持たない。すくなくとも、先生が自分についてもっとも大きな関心をもっているのは、叔父に横領された財産と、残された財産である。財産を横領されたことは、残された財産に対する関心、逆に言えば財産による精神の束縛を強くしている。自分が財産以外に信頼される根拠を持たないこと、自分の主な関心が財産にあり、それは誰でも同じであるという理解が猜疑の根拠である。先生の人間的な価値ではなく財産を目当てにしているという先生の猜疑は現実的根拠のある自己不信である。先生はこの矛盾の中で身動きできない状態に陥っている。確定した意志や欲望を持てず、矛盾した憶測を繰り返すことの卑劣さや臆病をもつことを先生自身が自分でも理解し、それがさらに先生の心理を単純なままに複雑な形式をとるように錯綜している。この種の心理が繰り返し蓄積されることで、苦し紛れの現実的対応を引き起こすことは「彼岸過迄」の須永の場合と同じである。
御嬢さんと先生の身動きのとれない関係にKが登場することは、須永と千代子の関係に高木が登場するのと同じ意義を持っている。御嬢さんは「彼岸過迄」で須永と千代子の関係を促進して須永の本質を明らかにする役割を果たした高木の役割を果たしている。ただし、この作品では、まず先生とお嬢さんの関係の促進の媒介項としてKが登場するが、後に明らかになるのは、先生とKが本質的な関係にあり、御嬢さんは先生とKの関係の展開の媒介項になっていることである。先生とKはお互いに行き詰まった状況で御嬢さんとの関係を媒介に対立することでそれぞれの矛盾を発展させる。恋が罪悪であるという意味は先生とKの関係の必然的な展開を恋が媒介項となって激しく促進したことである。
先生とKは財産と直接的関係にある点で本質的に一致しており、財産による規定の内部で対立している。財産に執着する先生にとって財産の権利を放棄するKの禁欲主義は高度の精神に見える。道のためには養父母を欺くことも罪ではないとするKの自信は、財産を放棄することの意義を高く評価した初期作品の価値観による自己肯定的な意識である。財産を放棄するKの禁欲主義的な勇気や力は財産に固執する先生の警戒心や猜疑の対象にならない。したがってKの禁欲主義は先生の財産にとって信頼すべきであると同時に財産との関係において力を持たない無害で無力な精神でもある。
Kは家族との人間関係を絶って孤立した後は自分の体を苛め、貧しい生活に耐えることに自分の価値を見出している。瑣末で消耗的な彼の家庭的人間関係を拒否し克服しようとするKの禁欲主義は人間関係を回避することで矛盾をいっそう瑣末に消耗的にしている。財産によって社会から隔離され、その矛盾を反映した精神がさらに自分を社会から隔離する要因になることがKと先生の同一性である。財産に基礎をもち、そのために社会的孤立に陥っていることが本質的な一致であり、財産に執着するか拒否するかが、その内部の対立になっている。漱石は「虞美人草」を描くことによって、財産を単純に拒否するKの禁欲主義が財産に規定された、内部的精神であることを理解したのであろう。このような一致に置いて描かれている先生はまだこの同一性を認識できず、自分とKを現象的な対立において認識している。Kの否定的側面において先生が肯定され、Kの肯定的側面において先生が否定される関係は先生の父と叔父の関係と同じである。先生のように臆病に自分を破壊するかKのように積極的に自分を破壊するかは他の階級にとっては本質的な意義を持たない。彼らの同一性こそ他の階級と彼らを分離する本質的特徴である。
Kの禁欲主義と先生の精神の対立関係は財産や地位に対する初期作品の批判意識を代表するKの精神とそれを発展させた「三四郎」以降の作品の精神の関係である。先生はKの財産や地位に対する非妥協的な拒否を高く評価すると同時にその社会的な孤立と無力を同時に認識している。財産や地位に対する批判意識はKの禁欲主義を経て、社会的な孤立を自覚する先生の精神を経た後、その両方の精神が小市民的な財産や地位の運動を反映した同一の精神であることの認識に到達することで、本質的自己認識となる。漱石はこの作品ではこれまでの作品全体の総括として財産を拒否する禁欲主義と財産に執着した臆病な猜疑心との表面的な対立から出発して、その同一性を法則的、具体的に描写している。
Kと同じ矛盾を持つ先生は自分の厭世的な気分に有効であった奥さんや御嬢さんとの関係をKの苦悩の解決策としている。恋は人間関係に対して用心深く臆病になっている彼らを人間関係に引きずり込む力を持っている。彼等が恐れ、回避している人間関係に引き込むことが恋の罪悪である。恋愛関係は彼らの本質である財産という社会的基礎と独立した男女の個別的な感情的な関係と思われる。しかし、人間関係にが生ずる限り、その展開の中で彼等が恐れている矛盾が展開せずにはいない。恋愛感情は社会的な本質に規定されたもっとも本質的な感情であるから、その矛盾もまた深刻に、運命に対して絶対的、支配的に展開する。お嬢さんへの接近は彼らの意図を越えた現実的な結果を引き起こす。叔父との関係の崩壊には利己心が契機となった。Kとの関係の悲劇の契機になるのは善意である。人間関係の崩壊は彼らの悪意や善意というあらゆる主観の形態を越えた彼らの関係自体の客観的な必然性である。
御嬢さんとの関係にKが登場することによって先生には御嬢さんとの関係で新しい感情が生じている。先生はそれを嫉妬だと感じているが客観的にはこの感情は嫉妬ではない。これは財産に対する猜疑から身動きがとれなくなっていた御嬢さんとの関係を発展させる契機として生じた先生の特殊な感情である。インテリの趣味である嫉妬が、どれほど複雑な内容を、しかもインテリにとって暴露されたくない内容を含んでいるかを漱石はすでに「彼岸過迄」でと「行人」あきらかにしており、この種の先生の心理は如何に錯綜していても漱石にとってすでに扱いなれたものである。先生は御嬢さんのと関係を阻害するものが猜疑心という先生自身の内的な障害ではなくKであるかのような幻想を生み出している。御嬢さんとの関係で生ずる感情はKとの関係を経由することで財産から離れ、嫉妬という形態をとる。しかし、嫉妬こそは、人間関係を回避した小市民にとって、深い、端的な、強い愛情とともに持つことのできない感情である。嫉妬に狂うことではなく愛や嫉妬を持てないことが彼等の不幸であり弱点である。
「彼岸過迄」では須永に生ずる嫉妬に似た心理が実際は高木を対象としていないことが明らかにされていた。先生の嫉妬もKを対象にしていない。千代子との関係を断絶しようとしていた須永と違って御嬢さんとの関係を形成しようとしている先生は自分の感情を嫉妬と解釈し、嫉妬を梃にして御嬢さんに対する猜疑心を打ち消そうとしている。先生の感情は形成された愛情の結果としてのKに対する嫉妬ではない。先生が御嬢さんとの関係と御嬢さんに対する感情を発展させられなくなった段階でKとの関係が生じた。財産に対する猜疑心を解消する手段を持たない先生にとって、Kとの関係によって複雑で不可解な心理が形成されることは財産に対する猜疑心を糊塗する意義を持っている。先生は自分の心理や行動と財産の関係を見失うことによってお嬢さんに近づく勇気を得ようとしている。客観的には先生は御嬢さんとの関係を発展させることも、御嬢さんに対する積極的感情を形成することもできない。御嬢さんに接近するためにKとの関係を必要とすること自体御嬢さんとの関係の形成が不可能であることを物語っている。そして、それは、財産の力によって容易に形成できるお嬢さんとの関係に対する先生の不信感である。
御嬢さんとの関係を深める努力は、もともと深い信頼関係にある先生とKの関係を無意識的に発展させる。自分の存在意義を肯定する価値観において相互に補完関係にある彼らの関係は御嬢さんとの関係と違って決定的な意義を持っている。彼らは御嬢さんとの関係を求めしかも積極的な関係を形成できない同一の矛盾を自己内に抱えている。先生は財産が形成する人間関係に対する不信感によって、Kは財産を拒否する禁欲主義によってお嬢さんと端的な関係を形成できない。彼等には互いに自分の臆病、躊躇がよく理解できる関係にある。
先生はKのお嬢さんに対する態度の具体的内容を自分の都合で解釈している。先生にとって、Kがお嬢さんとの関係の障害になるのではない。逆である。先生はKが学問や事業ではなく御嬢さんに向かっているという危機意識を御嬢さんとの関係の発展のために必要としている。先生はKを疑い、Kの自信の性質を明らかにしたいと考えながら、それを確かめることはごく簡単であるにもかかわらず、それを確かめようとしない。先生とKのいずれが御嬢さんに接近するかという競争は現実には形成されない。先生とKの関係からすれば、彼等が一人の女性をめぐって競争し嫉妬しあうなどということは、実際馬鹿馬鹿しいほどありえないことである。
先生がKに御嬢さんに対する愛情を打ち明けない理由は先生自身にも理解できない。打ち明けることへの外的障害はない。しかし先生がKに打ち明ければ先生とKの対立、したがって先生の嫉妬心は解消される。御嬢さんとの関係を阻んでいるのがKであればそれが解決である。しかしお嬢さんとの関係を阻害しているのはKではなく先生自身の内的矛盾である。先生は御嬢さんとの関係を形成するためにKとの関係を必要としているのであって、御嬢さんとの関係のためにKを排除しようとしているのではない。先生がKに御嬢さんとの関係を告白することはKが登場する前の身動きのとれない状態に戻るに過ぎないことは明らかである。
先生は御嬢さんとの関係にKとの関係と同様の高度の信頼関係を求めている。御嬢さんに対する告白を躊躇させるのは先生の非妥協的で真摯な精神である。それは自分が信頼に値する人間関係を形成できないことにたいする深刻な反省である。この高度の批判的精神を先生は放棄することも克服することもできずに苦しんでいる。
先生とKが旅行から帰ったのち、御嬢さんは先生に対して好意的な態度を示すが先生はそれを認めようとしない。御嬢さんの先生に対する好意は初めから明らかであり、問題はそれに対する不信感を払拭できないことである。先生の困難は先生が自分の財産以外に御嬢さんに愛される根拠を持たず、それを自分の弱点として意識していることである。先生にとって小市民的な人間関係の形成には何の困難もないが、それは叔父との関係と同じ関係を御嬢さんと形成することである。
先生は御嬢さんが自分に対して好意的になったことではなく、Kの部屋に御嬢さんがいたこと、Kの部屋に炭が入っていたが自分の部屋には入っていなかったこと、Kと御嬢さんが二人で歩いているところに出会わせたこと等々の偶然を重視している。先生は御嬢さんとの関係を発展させるために自分との現在の関係を否定する契機を必要としている。否定的な条件を乗り越えることに愛の内容を見出そうとしている。 

 

●こころ 2
先生は叔父との関係で人間関係に不信感を持ち、残った財産によってその不信感を維持している。御嬢さんとの関係を発展させる障害はこの不信感である。世間から隔離された先生は、財産によって結びついているのではないかという不信感を解消し、御嬢さんの愛情を確信する契機となる現実的な困難を共有する機会を持てなかった。
財産による人間関係への不信感は、財産を独欲に守るという明確な意識をとるのではない。そうなれば単純な貪欲とか、吝嗇として明確で単純な自己意識となり、複雑で錯綜した人生の主体的要因とはならない。しかし、財産は社会的地位を規定するものとして、その地位にふさわしい人間関係をもっており、それによって複雑な、財産とはかかわりのない、上品なとか教養のあるとか、上流的なとか洗練されたとかの様々の人間関係と心理を生み出し、財産による規定の側面は多くの媒介によって覆い隠され、その媒介項が諸関係と心理を複雑にするのであり、先生とお嬢さんとKの関係も恋愛感情に反映した財産の運動の一典型として描写されている。
すでに信頼され、愛されており、愛情を確信するために必要な何らの現実的困難もなく、単純に獲得された信頼や愛情の真実性を改めて確認する手段もない。そこにKが登場することが悲劇を生み出す。
Kは財産に対する執着のない真摯さにおいて先生に信頼されている。先生はKがその禁欲主義において破滅に向かっていることを理解しているが、先生はKが破滅に向かうほど徹底していることにおいてこころから信頼している。破滅に向かう必然性を徹底することにおいてお互いを信頼していることが、彼らの関係の真理である。先生もKも御嬢さんとの関係には深く踏み込むことができないが、先生とKの関係は本質的であり、相互の運命を規定するだけの深い関係にある。それが御嬢さんとの関係でこの後展開される。
旅行から帰ってからの描写では、策略を用いて御嬢さんに結婚を申し込んだこと、その後Kが自殺したことに関して先生が道徳的な罪を受け入れないことが先生の高度の精神であり、先生とKの信頼関係の反映であることを理解することが肝要である。
愛情が深くなり、関係が接近すればより高度の矛盾によって身動きできなくなる状態を克服する方法は矛盾を激化することである。内的な矛盾の蓄積による飛躍を自分の矛盾の克服の契機とするのは須永や一郎と同じである。それが彼等に共通する真摯さであり、その真摯さを生み出すのは、自分の運命を本質的に規定する程に高度に形成された彼等の批判意識である
Kは先生に御嬢さんに対する愛情を告白した。具体的な内容をまったく持たないKは実践にあたって常に勇気を必要とし、したがって勇気を持っている。しかし先生はKに告白することができなかった。先生にはそれが偶然的な障害によって繰り延べられたように思われる。実際は先生に御嬢さんやKに告白する度胸がないことは非常に複雑な社会的矛盾に規定されている。
人間関係の拒否を自分の価値とするKにとって御嬢さんへの接近は現実との妥協であり、価値観の崩壊である。Kは御嬢さんとの関係を形成することが不可能であること、御嬢さんとの人間関係に耐えきれないこと、これまでに形成した価値観が失われたことを理解した。禁欲主義が破綻した結果として御嬢さんに対する愛情が形成されたのであり、禁欲主義への復帰はすでに不可能である。Kが先生の批判を求めるのは自分の価値観の破綻を確認するためである。彼らは互いに自分の必要とする、必然に応じた解答を得られる関係にある。だから先生に批評を求める段階ですでにKの意志は確定している。愛するに至ったことは、自分の価値観、人生が終わったことを宣言しているのであって、愛情を実現しようとする意志があるのではない。Kにとってもお嬢さんは問題ではなく、愛情をもったことは自分自身についての告白以上の意味を持たない。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉は先生とKには重要な意味を持っている。このよう重要な価値観においては、先生はKに対して利己的ではあり得ない。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉はKの求めていた禁欲主義的な価値観を肯定する言葉である。それはこれまでに蓄積されたKの価値観と一致しており、Kの利害と対立しない。Kのこれまでの生活の必然性としてKが急に生活の方向を転換して先生の利害と衝突することもあり得ない。自分がKに対して利己的であり、Kに対して策略を弄している、と自分に対してわざわざ否定的に評価していることは、Kを自分と御嬢さんとの関係から排除しようとする意志から先生が行動しているのではなく、自分がKを排除している、排除しなければKに先をこされるという危機意識が必要なためであることをよく示している。先生にとってのここでの真の問題は、偽善的として非難すべきものを求めるなら、Kとの関係においてなんらの策略も何らの罪もないにも関わらず、それを反省していることである。したがって、道徳的反省において不徹底であることが先生の倫理的なまじめさを示している。
先生がKを突き詰めればそれが明らかになる。御嬢さんとの関係のためにKとの対立を必要としている先生はKを深く追及しない。先生はKに対する不信感を必要としているのであって、それが明らかになることが先生にとっては、Kにとって自分の禁欲主義的価値観が崩壊したのと同じ悲劇性をもつことになり、ここではそれが回避されている。先生はここでは自分を策略や利己心を非難することにおいて自分の本質的な罪を覆い隠している点で、無意識的であるが偽善的と言えるのである。
先生とKはすでに互いの対立を独自の運命を促進するための契機としてのみ扱っている。先生はKに対して必要な批評を与えて禁欲主義への復帰を促し、Kは禁欲主義的な決断力を示すことで先生の結婚に対する決意を促している。先生はKの苦悩の状態に関心を持たず、Kも先生の苦悩に関心を持たない。
先生の言葉の悲劇性はKを犠牲にして自分の利益を追求していることにおいてではなく、Kの利害と一致しKの運命を促進させることにある。先生の言葉はKの必然性と一致することにおいて先生の意図以上の悲劇的な結果を引き起こす。彼らの対立がそれぞれの必然性を促進する役割を持ち得ることは彼らの立場の客観的な一致と深い人間関係、信頼関係を反映している。
Kを利用し、Kを騙し打ちにしても構わないというのは先生のもっとも表面的な意識である。Kを騙すとかKに対して罪深いという意識は先生とKの客観的関係を反映していない。御嬢さんを獲得するために心から策略を必要とするほどの激情に身を任せることができるなら、先生にとっても先生にだまされる結果となるKにとってもどれほど幸福であろう。それは平凡な恋の駆け引きであり、人間関係の充実した展開の一つである。彼等の不幸、悲劇性は彼らにとって平凡な恋の駆け引きなどあり得ないことであり、その点において共通していることが彼等の深く、悲劇的な信頼関係を形成している。それを先生はこの段階では意識できないが彼等の関係の展開自身が特殊な内容を持っており、それを認識するべく展開している。
瑣末な倫理的軌範に厳格に忠実であることは、人間関係、対人関係を重視する外見をもっているが、客観的な展開を見れば、現実にいつも経験することであるが、そうではないことがわかる。人間関係ができない現実を反映した軌範であるから、それを守ることは人間関係の不動性を確定することを意味する。もしこれが策動を許容する人間関係であればすべては矛盾を含みつつも、平穏に終わったであろう。その展開を不可能にしているのが瑣末に厳格な先生の道徳軌範である。彼等は現実の関係の発展よりこの保守的軌範を守るようにすべてを規定され、それが真摯でであることによって人間関係を展開できなくなっている。初期にはまったく逆であったが、その徹底によって形式上(発展であるから、別のものではない)逆の形をとっている。単純な対立よりはるかに克服が困難であり、初期の批判が非現実的で単純であったことがわかる。
軌範に縛られて、動きが取れない苦悩である。それをさらに倫理的に、批判するなら、あまりにも狭量であり、先生の思想レベルから遥かに送れているといえる。しかし、倫理的であることは日本の思想の特徴であるから、思想的、先生に対立せざるをえず、先生は厳しく評価されることになる。
先生にはKに対して卑怯な策動をしているという危機意識が必要である。だから自分が卑怯な策動をしていることを強く意識しながらそれを解消しようとせず自分を卑怯と意識しつつ卑怯な策動を蓄積している。このような策動はKとの信頼関係を前提している。倫理的な先生は深い信頼関係にあるKに対してでなければ策略を用いることはあり得ない。またKに対する策略がKの不利益でないことが前提でなければ先生と御嬢さんの結婚に新たな障害をもたらす。策略はKを手段にしているだけで策略の対象はKではなく先生自身である。だから先生が御嬢さんをKから奪うことについての利己心の反省は深刻ではあり得ない。道徳的な反省の裏に隠されているのは先生とKの社会的必然性である。
Kが覚悟という言葉を使った時点で先生とKの運命は確定し、御嬢さんを媒介にした対立は消えている。しかしKとの対立の解消、Kがお嬢さんとの関係から離れて、本来の自分の覚悟に復帰することは、Kとの対立を契機に御嬢さんとの関係を形成しようとする先生にとって真の危機である。漱石はKが御嬢さんに接近するのではないかという先生の猜疑と、Kがお嬢さんとの関係を先生への告白という形で断ち切る覚悟をすることの外面上の一致を非常にうまく構成している。先生にとっての危機は、Kがお嬢さんに接近することではなく、お嬢さんとの関係を離れて再び自分の世界に閉じこもることである。
「Kの果断に富んだ性格は私によく知れてゐました。・・所が「覚悟」といふ彼の言葉を、頭の中で何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだんだん色を失なつて、仕舞にはぐらぐら揺き始めるやうになりました。・・・さうした新らしい光で覚悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼でした。私はたゞKが御嬢さんに対して進んで行くといふ意味に其言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのが即ち彼の覚悟だらうと一図に思ひ込んでしまつたのです。
私は私にも最後の決断が必要だといふ声を心の耳で聞きました。私はすぐ其声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。私は黙つて機会を覘つてゐました。・・・
一週間の後私はとうとう堪え切れなくなつて仮病を遣ひました。」
先生はKの「覚悟」という言葉を御嬢さんと結びつけようとしている。しかしKの覚悟は御嬢さんに対する関心ではなく、それまでの価値観の徹底としての人間関係一切からの逃避である。したがって先生にとってこの時がKとの緊張関係を御嬢さんに接近する梃にする最後の機会である。これは「彼岸過迄」の須永が千代子が鎌倉に帰る間際に決定的な言葉を口にした状況と同じである。先生はこのときKの言葉を咀嚼して自分の必要に応じて解釈している。Kがすべての関係を断って自殺する覚悟をしたことと、その覚悟を契機に先生が御嬢さんに対する猜疑を乗り越える覚悟をしたことが一致している。先生とKもそれぞれに必要な最後の決断をしている。彼らはこの決意の後に一週間迷っている。彼らの実践の遅れはそれぞれの矛盾を深刻にする役割を果たしている。
御嬢さんと先生との結婚にはどんな外的障害もなかった。障害は先生自身にあった。先生は結婚を申し込んだ結果Kとの関係を離れて再び御嬢さんとの直接的な関係に突き当たっている。だからKとの関係は先生の主な関心ではない。先生はKとの関係を策略や罪として認識しているもののそれを内的な苦悩に止めており、謝罪しない。道義的な意識にとっては先生とKの信頼関係や先生の道義的な真摯さとKに詫びないことは矛盾する。道義的な意識を持つ先生にとっても自分の言動は理解し難い。客観的には先生がKに詫びないことは先生とKの信頼関係と先生の批判意識の非妥協性の現象形態である。Kに対する策略とKに詫びないことの肯定的な意義を理解することが先生の本質を理解することである。問題は、先生のこれまでの行動には策略も罪もなかったことである。それにもかかわらず策略や罪を、深い信頼関係に有るKに対して克服するなどという偽善は先生にできることではない。先生は説明するのが厭になっている。この説明することが厭になることが先生の本質を理解する契機となる現象の一つである。Kに説明しないことの合理的な理由が見当たらないにもかかわらず説明が厭になることの意味が合理的に説明されなくてはならない。
先生は「坊つちやん」のように倫理的に反省することで倫理的な正直者として自己肯定して生きることはできない。先生は倫理的な反省を受け入れず、御嬢さんとの関係で立ち竦んだのと同様Kとの関係の前に立ち竦んでいる。先生が倫理的な反省をしないことは倫理的な関係を越えたKとの関係を反映している。須永も一郎も先生も深刻な苦悩の必然的な結果として、自己の倫理的な価値観に反した行動をとる。彼らはその結果を倫理的に反省することで再び倫理性に復帰することはなく、自分の行動を必然性として肯定的に認識しようとしている。自己の非倫理的な行動を倫理的に非難せず必然性として肯定することは倫理的な意識にとって非常に困難である。先生は倫理的な意識と行動において、したがって非倫理的な意識と行動においてもっとも徹底しており、その成果として自己の必然性をもっとも深く理解する人物である。
漱石は初期作品では小市民に生ずる倫理的な苦悩を本質的な批判的精神であると考えていた。漱石は道徳的な批判意識から出発してその批判意識自体を克服して現実的な自己認識に到達した過程を先生に投影している。先生は倫理的葛藤からより深い自己認識へと深化する。先生を倫理的葛藤において評価する精神はすべて倫理的な精神に必然的な偽善であり卑怯である。Kに詫びない先生は倫理的には卑怯であり偽善的であるが、認識の発展というより本質的で高度な精神において真摯で勇敢である。そして倫理という形式で言えば、より高度の倫理性の獲得である
先生が自分の策動との比較においてKの潔さを肯定することは先生の倫理的な反省による自己肯定と一致している。しかしKは禁欲主義の破綻を意識して自殺した。だからKの禁欲主義を否定することがKの自殺を選んだ到達点に対する肯定的評価である。Kを倫理的に肯定することは自殺したKの価値を貶めることでありKとの信頼関係に反する。漱石は「彼岸過迄」と「行人」で臆病な精神の展開が自己認識の獲得でもあるという側面を描いた後に初めてKと先生を同一の精神として具体的に描くことができた。Kの禁欲主義を高く評価する幻想から解放されることは小市民的な価値観内部の対立物に移行することではなく小市民的な自尊心を破壊すること、小市民的な価値観において本質的に堕落することが自己認識の発展であること、自己破壊が自己発展であることの認識を意味している。
簡単で抽象的な遺書はKの人生にふさわしい。人間関係を断ち切る禁欲主義を自分の価値としているKの自己判断は単純である。Kにとって重要なことは覚悟である。自分が現実との関係を持ち得ないこと、現実社会にとって無意義であることの理解の単純さと単純な実践が一致している。自己の無意義を現象的に理解し、その理解の証明として自殺するのがKの禁欲主義の真実性の証明である。だからKの反省は決断が遅れたことにある。Kは決断するために先生のような具体的認識の労苦を必要としない。財産を持つ先生は財産の持つ具体的な矛盾に塗れることによって自己の破滅性を具体的に認識しなければならない。それはKの残した抽象的な言葉の意味を理解することである。先生と本質を同じくするKは先生の到達すべき論理の帰結を実践によって示し、先生の思想を導いている。ここでは「虞美人草」の甲野と宗近の関係が思い出される。初期の作品の単純な関係は、複雑な螺旋状の発展の成果としてこれほどに高度の関係を獲得している。
先生は財産に規定されて叔父に対する道徳的批判意識を形成した。先生の道徳的批判意識によって信頼関係を形成できるのは本質的な同一性の下にあり対立的な意識を持つKだけである。そしてその信頼関係の必然的な、しかし彼らには意識されない結果が、つまり先生自身の本質が今先生の前にKの自殺として現実化している。Kの自殺によって自分の運命の恐ろしさを感じるのはKとの価値観の一致と、その自己認識の反映である。
Kの死によって決定的な打撃を受けながらその意味をまだ肯定的に認識することができない先生はKに対する罪の意識に一時的に身を任せている。懺悔や悲しみは先生の苦悩を癒してくれる一時的な心理状態である。しかし、先生もKも懺悔によって自己肯定するほど軟弱ではないし彼らの苦悩は懺悔で解消できるほど浅薄でもない。彼らの関係の展開の全体とKの自殺自体が懺悔と矛盾している。Kも先生も倫理的な苦悩以上の悲劇的な人生を獲得しており、それによって倫理的な真摯さを本質的に越えた深刻な印象を読者に与える。先生とKは自己肯定において、自己の価値観の貫徹において自殺するのであって価値観の破綻や敗北によって自己を否定するのではない。自殺は倫理的な価値観を越えた思想の帰結である。
Kがどうして自殺したのかという問題は先生にとって自己認識という大きな課題でもある。先生の策略がKを自殺させたのではない。しかし先生とKの自殺は必然的な連関を持っており、Kの自殺と自分を結びつけることは自己認識にとって重要な意味を持っている。先生はまずKを自殺に追いやったのが自分であるという形式でKの自殺と自分を結びつけるがその結びつきを倫理的な関係に解消しない。Kの自殺を失恋による絶望としてではなく御嬢さんとも先生とも関わりのないK自身の必然性として肯定的に理解することがKの本質の理解であり、それは社会的な孤立という先生との同一性においてKを理解することである。彼らにとって御嬢さんとの関係は一般に人間関係を形成できないことの一現象形態である。Kは御嬢さんとの関係の経験によって自己の必然性を理解して自殺したのであり、先生の課題もKと自分と御嬢さんとの関係において自己の本質を理解することである。
先生は妻に対して何の不足も感じないが、小市民的人間関係一般に対する批判意識が妻との関係に影を落としている。先生が御嬢さんとの結婚で期待した変化は客観的には叔父に対する批判意識や恨みを解消することである。叔父への道徳的な批判意識がKに対する信頼を意味しているという側面から見ればそれはKとの信頼関係を解消することでもある。先生はKに対する信頼と叔父への憎しみを解消することはできないし解消する必要を感じていない。叔父や社会に対する批判意識とKに対する信頼を越える人間関係や精神を獲得できない状況ではこの精神内部の発展によって現在の矛盾を解決しなければならない。それが先生の置かれた状況である。先生の生活はKとの関係を策略という単純な関係に解消できない矛盾を現在も持ち、先生の精神はその矛盾を反映している。先生との断絶を感じている妻の疑惑を罪の告白によって一時的に解消しても本質的な問題は残り、妻の記憶に暗黒な一点を印するだけである。妻に対する配慮は罪の告白が何ら問題を解決しないことを反映した対処である。道徳的な罪にとらわれている場合、策略を弄した自分の弱点を告白することが妻に暗黒な一点を印すことになるという、よくある自己弁護として先生を理解することになる。しかし、そのような愚かしい印象を与えないのが先生の全体像であることを理解すべきであろう。
先生はKに対する罪の意識を持つ段階では自分の社会的な意義を否定せず、罪の意識の形態をとった不安を社会的な活動によって打ち消そうとしている。しかし先生もKもすでに書物的に生きる努力の無意味を経験している。社会的な孤立を反映した先生の精神は解消されるのではなく、発展し自己の本質として認識される段階に達している。社会的な孤立と社会的な無意義を認識することによってのみ高度化した精神の不安は解消される。孤立生活の積極的な意義づけの試みに満足しない先生はその試みを積極的な活動が不可能であることの認識の契機とする。
先生はKに対する罪の意識から叔父と自分の同一性を認識している。これは倫理的な自己の内部に反倫理性を認める視点として誰もが認めたい側面であるが、Kとの関係の一側面を策略として否定的、現象的に反省することと叔父と自分の同一性の認識は同じである。倫理思想の内部に対立物を発見することは倫理思想の一形態であり困難ではない。それは「虞美人草」の段階の思想である。Kが登場しない「虞美人草」の段階ではこの矛盾を解決するために財産の放棄が問題になっていた。しかしこの段階では財産を放棄する禁欲主義も財産による規定を逃れているわけではないことが先生とKの同一性に示されている。先生の不安は本質的にはKに対する策略が先生と叔父の同一性を明らかにしたからではなく、叔父とまったく対立的であるKが自己の必然性において自殺したことにある。Kに策略を用いた点で叔父と一致しているならば先生はKと対立しているのであるからKの悲劇を免れている。先生は自分の中に叔父を見出して自己批判することで自分の倫理的な正しさの証とする俗物ではない。叔父との同一性の発見は叔父との対立が倫理思想の内的な対立であることの発見であり、自分と叔父の違いを理解し、その上での自分の限界を克服する契機となる。先生と叔父の共通点の発見は結論ではなく先生の自己認識の一契機であり、倫理的精神の崩壊の第一歩である。
先生がKの死因を繰り返し考えること自体Kの死因が失恋ではないことを理解する能力を示している。「同じ現象に向つて見ると」という言葉に現象と本質を分離する漱石の現実理解の深さが現れている。Kの死や御嬢さんとの関係をKの人生全体の一契機として理解することが本質的な理解である。先生はKの死を社会的無力の認識の結果として肯定的に位置づけると同時にそれがまだ生きている自分を本質的に否定する思想であることを直観的に理解している。Kに対する罪の意識の解消はKの死の肯定的な評価と一致しており、それは先生をも自殺において肯定することを意味する。
先生は明治の精神の終焉として自分の死を歴史的に位置づけている。先生の自己否定的な精神は歴史的精神の名に値する。叔父の活動を批判する小市民的道義が社会的思想的意義を持たないことを理解するのがインテリの歴史的課題になった。漱石が初期作品で描いていた明治に生まれたインテリ的価値観を自ら葬り去る時代になった。小市民的な財産に規定された先生の父と叔父の闘いは歴史的な意義を失いそれを反映した倫理思想も歴史的な意義を失っている。
先生は自分が明治の精神に殉死するという歴史的な位置づけによって、自己否定の肯定的な位置づけによって自殺を覚悟している。先生の必然性が求めていた結論は自己否定の徹底における、合法則的な自己肯定である。Kとの同一性による歴史的精神との一致が先生の思想の論理的な結末である。
先生は自分の精神の必然性を思想的に規定することはできないが、経験的な事実の連続として自己の必然性を明らかにしようとしている。社会的な存在意義を求める先生は自分の社会的価値の喪失を示すことで自己肯定している。しかし自殺自体は彼らの個別的な解決の方法であり彼らの自殺によって自殺という個人的な否定自体が否定される。死に至る倫理思想の運命を示した先生の運命は破滅的な倫理思想を越えて積極的な思想を形成する課題を残している。Kの自殺が先生の遺書に生きたように先生の自殺は明治の精神を越える後の世代の精神の中に生きる運命にある。先生は先生自身にとっても不可思議と思えるほど必然性に支配された、先生の意図や意志を越えた人生を経験した。先生自身にとって自分の人生の展開自体が不可思議な、認識さるべき課題である。先生が残したいのは先生にも不可思議な、彼の人生を必然性として貫徹している時代精神である。
先生は自分やKの悲劇的な運命を小市民の没落の必然性の実例として記録し次の世代である「私」に残すことによって自殺を決意している。「妻のために、命を引きずつて世の中を歩いて来た」のは先生が自分の死の意義を認識するために必要な時間を意味している。妻のためという配慮の背後に常に先生自身の必然性が隠されている。先生は自殺に至る自分の運命を意義あるものとして記録できる段階に達した時、妻に対する不憫さにもかかわらず自殺を決意している。先生を自殺に導く力が同時に先生に歴史的な遺書を書かせる力である。
先生の精神は階級的必然性を時代に先取りして反映している点で特殊であり孤立的である。先生は小市民階級の没落の必然性を反映した自分の精神と妻の精神の分離を前提して妻に配慮している。先生の反映した小市民の没落が一般的な現象として実現し、多くの小市民が没落の危機を反映するとき先生の精神は特殊性と孤立性を解消する。小市民の矛盾が発展し現象化することによって先生の精神は小市民の精神の本質として理解される。先生の悲劇性は小市民の没落の本質を、特別な個人として、特別な認識能力の成果として反映していることである。小市民の階級的な孤立を反映した精神は小市民の安定を反映した精神内部では孤立する運命にある。法則としての没落の理解は、現象形態における小市民世界の安定と深く対立している。先生の批判意識と小市民世界の現状肯定的な精神の分離が先生と妻を分離している。日本の精神の一般的発展段階の限界として、妻が自分の本来の悲劇を、自分の行動の意味を理解することはできない、と判断している。
先生は自分の運命を歴史的な精神の発展の生贄にできることに満足している。しかし先生は自分の死の意義を理解することを次の世代に委ねている。先生は妻と自分の悲劇を共有せず、妻には小市民的な幸福を与えることで自分と分離しようとしている。妻に対する最大限の愛情が自分との分離であることに先生の精神の孤立性、先生の精神を特殊化する日本の精神のレベルの低さ、さらに日本の小市民階級が歴史的に広範に形成され堅固であることが現れている。漱石にとって、また先生の必然性にとって妻と分離した孤独な死は歴史的な必然性による厳しい止むを得ない選択である。先生の精神が社会的に孤立し、一般的な価値が理解されないことはその後の歴史によって証明されている。漱石は小市民世界の堅固さを理解しそれに対する小市民的な形式的批判の無力を理解し、小市民世界の法則的な没落を認識した。しかも小市民世界に対する批判意識はもっとも小市民的な精神であり、その批判は自己否定に到達することで完結し、小市民世界を客観的に、外部から批判できるようになる。小市民世界に対する内的な批判はこの作品で完了し、漱石は小市民世界を自分と分離して客観的に描写するようになる。小市民世界の客観的な描写がどのような意味を持つかは「道草」以後の作品で明らかになる。 

 

●道草
漱石は「こころ」を書いた後、「硝子戸の中」でもこの「道草」でも非常に味わい深い文章を書いている。この奥深さは漱石が自己肯定に到達したことを示している。漱石の自己肯定とは、苦悩に満ちた人生を自己の必然的な運命として受け入れることである。このような境地は一般のインテリとまったく逆の苦悩に満ちた人生によってのみ獲得される。一般のインテリと逆の人生とは、学問の障害となると思われる日常の患いを避け、学問に専念できる地位と環境を確保することである。この作品で漱石は島田を嫌悪しながら島田との関係を断絶しようとしない。逆に島田を受入れ、島田を嫌悪する自分を批判的に認識する努力をしている。このような努力を一時的にではなく、人生全体にわたって実践することはインテリにとって非常に困難である。その意義は長年の蓄積ののちに始めて理解されるからである。漱石は意地として、直観的な道義的義務としてエリート的な環境に閉じこもることを拒否し、その結果としての厳しい生活を長年蓄積した後に、この作品でようやくその意義を理解するに至った。淡々と書かれたこの自伝的文章では日常的な事件が高度の社会的意義において捕らえられている。漱石が自分の日常を理解するには「こころ」までの思想的展開を経由する必要があった。漱石と対立的な人生を選択するインテリがこの作品を理解できないことは、夏目鏡子の「漱石の思い出」に対する低い評価にも表れています。夏目鏡子は漱石を理解できない悪妻の典型のように評価されているが、「漱石の思い出」を読めば彼女がたぐいまれな能力が恵まれた女性であることがわかる。彼女を低く評価している批評家などは彼女に遠く及びません。しかしあの伝記を理解するには「道草」までの作品の内容を理解していなければならないので、今後もなかなか理解されないだろう。
健三は学者としての出発点から大きな矛盾を抱えている。洋行の時代も厳しい生活を送り、洋行から帰っても豊かな生活は保証されなかった。このことによって健三はインテリ的な無知無能を確定する運命を免れ、現実的な精神を得る可能性を得た。健三が自分の家庭の厳しい状態にすぐに現実的に対応できるのは彼の洋行時代の厳しい生活の成果である。健三の妻も健三を煩わさずに厳しい現実に耐える能力を持っており、健三の気質と一致している。これがこの作品を理解する上での前提である。
漱石は「こころ」までの作品で獲得した高度の精神によって自分の日常生活のすべてを新たに位置づけている。その一つ一つを網羅的に分析することはできませんので、ここではごく一部分について、特に島田とお常との関係の部分だけを紹介しよう。
健三は学問のために社交を避け、人間を避けて活字との交渉だけに生きることが「温かい人間の血を枯らしに行く」ことでもあること、学問生活の過程で古い人間関係と疎遠になることを認識している。しかし古い人間関係を回復することは長い期間人間関係を絶ってきた健三にとって簡単ではない。このような孤立は姉や兄や島田の生活を否定すべきでないという道徳的な当為では克服されない。字も知らない姉の生活と比較して洋行までした健三の生活が特別に充実しているわけではなく、比田夫婦と健三の夫婦関係にはそれぞれ特有の矛盾があり、基本的には健三の生活がより深刻で不毛な矛盾を抱えていることを認識できなければならない。
健三は書斎生活での苦しみを誰にも理解されずに苛立っている。その苛立ちによる健三と妻の対立はすでに学問的な権威と書斎生活が破壊されていることを示している。健三は自ら書斎生活の矛盾を家庭生活に持ち込み、細君との対立を自己否定的認識の契機として取り込んでいる。したがって彼らの対立はすでに積極的な意義を持っており、それがまだ肯定的に認識されていないだけである。
健三が嫌悪感を持ちながらも島田との関係を維持するのは健三の価値観にとって正しいからであり、義理によるのではない。島田との関係を拒否する形式的理由は兄や姉の言う通りいくらでも発見できる。健三が島田を受け入れるのは、彼が島田の人格に対する嫌悪感に合理性を認めていないことを意味している。健三が島田に会うことは客観的にはインテリ的価値観を否定する意義を持っている。健三がその実践の意義を理解できず、妻に説明することもできないためにそれは健三の偏屈や意地という形式をとる。この偏屈や意地には非常に高度の批判意識が内包されている。島田との交際が厭で堪らないにもかかわらず島田との交際を拒絶しないのはエリートインテリである健三だけに生ずる内的な矛盾である。
島田との関係を受け入れることを正しいとする健三も受け入れることの具体的、現実的意義を理解しているわけではない。健三の理性的選択は学者的、書斎的価値観や自尊心を破壊する試みである。健三が問題にしているのは島田ではなく島田に対する自分の嫌悪感である。自分の試みがどのような結果をもたらすか明らかではないが、島田との関係が現在の自分にとって不愉快であるほどその不愉快を現実との新しい接点として受け入れる決意をしている。島田を受け入れる健三の精神は矛盾に満ちており、健三自身にとっても自然な感情はまったくない。
初期作品では島田の特徴は人間の本質的弱点として批判の対象になった。この作品では島田の態度を不愉快に思った健三の精神が批判の対象である。健三は島田のけち臭さを批判するのではなく、島田のけち臭さに対する神経質な自分の感覚に批判的関心を持ち、自分の嫌悪感の社会的本質を理解しようとしている。島田の特徴が島田と健三を分離するのではなく、島田の人格に対する批判意識が島田と健三を分離している。島田との個別的関係を回復することが健三の課題ではない。島田との関係に現れた自分のインテリ的な批判意識を解消することが健三の課題であり、健三はあらゆる人間関係をその契機として受け入れている。
孤立的な書斎生活が不毛であること、インテリ的学問に内容がないこと等のインテリの特質の否定的認識がどのような経路で獲得されるのかは非常に重要な問題である。インテリが純粋な論理的展開自体によって自己否定を得ることはあり得ない。インテリの自己否定的思想の原動力はインテリの地位の破壊であり、それによる現実との接触とその思想化である。
漱石の批判的意識は常に自分のエリート的生活基盤を破壊する方向で発展してきた。まず意地として実践した結果を思想化し、その思想の力で再び自分のエリート的地位を破壊することの繰り返しによって思想は発展する。健三の古い思想の破壊は生活の破壊から後れてやってくる。思想の改革によって生活を改善するのではない。生活破壊の偶然や結果を自己に取り込むことで思想が発展する。漱石の思想の主体性は現状からインテリ的に抜け出す手段があるにもかかわらずそれを選択しないことにあり、インテリ的でない思想をまず獲得するのではない。自分がインテリ的な限界を越えていると考えるのはインテリ的な偏見であり、それこそが生活的経験で破壊されていく精神である。
この困難な選択を続けることが漱石の主体性であり、自己維持である。漱石と対照的な位置にある鴎外は漱石とは逆の意味で思想的に厳しい運命をたどっている。漱石が破壊しようとしたエリート的地位にしがみつき、エリート的価値観を維持する努力の中で思想的生命を失いつつ、著述のためには思想的生命力をどこからか得なければならない。自己の必然的な死を押し止めるための不毛な戦いが連続する。このような自己破壊の観点から鴎外を位置づければインテリの精神の展開はどのような形態を取ろうとすべて必然的に自己破壊であり、その破壊を意識化することによってのみ積極的、発展的であり得ることがわかる。
このような発展した思想によって漱石はこれまでの自分の精神を具体的に総括している。例えば、島田夫婦に対する健三の批判意識に対する批判である。
「夫婦は健三を可愛がつてゐた。けれども其愛情のうちには変な報酬が予期されてゐた。・・・
同時に健三の気質も損はれた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込ん
で行つた。さうして其陥缺を補ふものは強情の二字に外ならなかつた。」
島田夫婦の恩着せがましい親切は健三との関係を破壊すると同時にその関係を反映した健三の精神も損なった。島田の親切に対する健三の反発は子供らしい、もっとも表面的で現象的な意識である。こうした単純な認識と感情は現実の複雑な人間関係に接触することで解消される。しかし複雑な人間関係を経験できないインテリの内面ではこの認識と感情が社会的な批判意識として発展する。島田夫婦の打算に対応した、同レベルの批判意識がインテリにとっては本質的な精神となる。初期作品で肯定されていた島田夫婦のような精神に対する批判意識自体がここでは批判的に検討される。それは健三の子供時代についての感傷的な回想ではなく、現在の彼の気質、精神についての深刻な反省である。
健三は島田やお常との関係で形成した偽善や吝嗇や技巧や嘘等々の二重性に対する批判意識を書斎生活で培養した。島田に対する批判意識は「坊つちやん」から「虞美人草」までの作品では一般的心理として描かれていた。お常の性格的弱点に対する批判意識が強いほど健三の精神の限界が大きい。島田夫婦の二重性に対する批判意識は広い現実社会の中では瑣末な性格的特徴に対する偏屈な批判意識となる。お常に対する嫌悪感は健三が過去に形成した道徳的批判意識の残存物である。インテリである健三が道徳的批判意識を克服する方法はその意識形態を具体的に認識することである。健三はインテリに特有の馬鹿げた心理を無数の経験的衝撃で破壊しなければならない。
島田は自分の排他的利益のために手段を選ばない。しかし彼に可能な手段は彼の地位と能力によって限定されている。健三は島田がランプを気にする小さな特徴から過去に遡って、島田を吝嗇とか、邪悪という道徳的側面から批判することを止め、現象を社会的に分析している。島田の吝嗇が社会関係の中で、人生全体としては損をしている必然性が理解されればは道徳的批判の対象ではなくなる。島田の吝嗇は資本主義的生産形態が発展し、労働の生産性が高くなるにつれて不合理になる。商品の価値が小さくなると瑣末な商品への固執は滑稽になる。目に見えない損とは資本主義社会の発展によって新しく生じた損である。島田夫婦の恩着せがましい言動に対する道徳的批判はより深い社会的認識によってのみ克服される。島田夫婦は無数の下らない意図にもかかわらず結局貧しい生活に止まっている。むしろ被害者である島田を人格とか虚偽とか技巧の側面から社会的悪として批判する偏狭なインテリ精神も社会性を失い、島田が吝嗇によって損をするのと同様、批判意識によって不毛な思想を形成しつつ島田と同様に没落する。
「宅の人はあんまり正直過ぎるんで」というお藤さんの弁解を健三は肯定的に位置づけている。道徳的意識を本質とする意識には島田が正直であるという規定は受け入れ難い。島田を正直とするお藤の評価には社会的経験が生きている。島田に対する道徳的批判の方が偏屈で不当で非現実的である。現在の健三の評価は島田の悪い意図を越えた客観的認識となることでより高度にお藤の現実的認識と一致している。健三はこの認識によって島田を気の毒と思い、道徳的嫌悪を緩和している。島田を規定する上において島田の意図ではなく島田の置かれている客観的状況を問題にすることで島田に対する冷静で公正な判断が生まれる。島田の意図は島田の客観的規定においては本質的ではないことが社会的認識の発展とともに理解される。
島田に対するこうした寛大で冷静な判断は健三にとって思想的な成果の一部分である。健三の主な関心は自分自身にある。
島田は守銭奴としてわずかな金に対する欲によってわずかな金と共に生きている。健三は書斎的な学問のために人生を費やしてきた。健三には書斎生活が瑣末な執着を示す島田の生活や精神より高度でも充実しているわけでもないと思われる。書斎生活の不毛性を知ることで島田の生活の不毛性に対する道徳的批判や嫌悪の不当性を認識できる。島田に対する健三の対応の変化は健三の自己認識の発展が基礎になっている。その認識が島田や姉や兄との人間関係を受け入れることによっていっそう発展し現実性を得る。時間の浪費を嫌って精進した書斎生活が現実との関係を失う過程でもあることを理解した健三の精神は今現実性の獲得に向かっている。
健三が自分の思想的限界を克服するためには島田との関係をまず実践的に受け入れねばならない。島田に対する偏見を解消した上で島田との関係を結ぶという順序はあり得ない。言葉遣いが崩れるだけでインテリの自尊心が生じて島田を排除しようとする心理が沸いてくる。健三が自分の感情を抑えると再び島田は嫌悪の念を引き起こすような態度をとって踏み込んでくる。健三はこのような心理的葛藤を繰り返すことでその瑣末な現象の背後にある普遍性を理解し、この葛藤を克服しようとしている。
健三が再びお常に会った時の心理によって、島田やお常と健三を隔てるものが島田やお常の性格や精神ではなく健三自身の特徴であることが明らかにされている。健三のインテリ的な意識は現実と衝突しておりそれを自覚する能力を健三は持っている。
健三がもっとも俗で強固な否定的な特徴を持つと考えていたお常も現実的経験によって大きく変化した。エリートに特有の利害と孤立した生活によって発展した偏見は現実の人間関係を反映できない。健三にはお常に対する道徳的批判意識を否定する精神が形成されている。しかしそれを解消するほどの積極的な精神はまだ形成されていない。健三は三十年間も子供時代の価値観を守り、同じ価値観でお常に接している。漱石が「こころ」に描いた時代精神からの脱落がこのような具体的な人間関係上の矛盾に現象している。お常の変化は健三の価値観に矛盾を生じさせ健三の過去の思想を反省する契機になっている。非現実的な思想体系を形成する必要のない妻は厄介な道徳的批判意識を持たず、端的に目の前の現実に対処している。
島田は健三の過去と切り離せない存在である。その過去は健三にとって新しい自己を形成するための自己認識の契機となっている。島田との関係を回避しないことはこのような健三の認識の広がりの中の一部分である。
「健三は驚いて逃げ帰つた。酷薄といふ感じが子供心に淡い恐ろしさを与へた。其時の彼は幾歳だつたか能く覚えてゐないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になつて世間に出なければならないといふ慾が、もう十分萌してゐる頃であつた。「給仕になんぞされては大変だ」
彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。幸ひにして其言葉は徒労に繰り返されなかつた。彼は何うか斯うか給仕にならずに済んだ。「然し今の自分は何うして出来上つたのだらう」
彼は斯う考へると不思議でならなかつた。其不思議のうちには、自分の周囲と能く闘ひ終せたものだといふ誇りも大分交つてゐた。さうしてまだ出来上らないものを、既に出来上つたやうに見る得意も無論含まれてゐた。彼は過去と現在との対照を見た。過去が何うして此現在に発展して来たかを疑つた。しかも其現在の為に苦しんでゐる自分には丸で気が付かなかつた。
彼と島田との関係が破裂したのは、此現在の御蔭であつた。彼がお常を忌むのも、姉や兄と同化し得ないのも此現在の御蔭であつた。細君の父と段々離れて行くのも亦此現在の御蔭に違なかつた。一方から見ると、他と反が合はなくなるやうに、現在の自分を作り上げた彼は気の毒なものであつた」
実父には邪魔者として、島田には単なる投資の対象として育てられた健三がその中で破滅せずインテリとして成長したことは第一の成果である。しかしその成果を再び発展的に否定する闘いはこれまでよりはるかに困難である。健三が実父や養父との関係から批判意識とともに脱け出した結果は、健三の予想と違って積極的な人間関係を形成しなかった。健三は実父や養父から逃れた世界の現在に苦しんでいる。立派な人間になることは島田やお常や姉や兄との人間関係を破壊する側面を持っていた。インテリ的な批判意識を持つことは健三の人間関係の喪失と一致していた。実父や養父に対する子供時代の反感は彼らとの関係の反映である。したがって彼らとの人間関係を克服してより積極的な人間関係を形成するにはその批判意識を克服したより高度の精神を獲得しなければならない。それは社会から孤立した関係を反映した批判意識を克服することである。その場合同時に批判意識を発展させてきたインテリ的な孤立生活を克服することが深刻な課題となる。健三はその両者を克服する努力をしている。
健三が父や島田の世界から脱け出して立派な人間になる場合階級的内容を受けとり社会的な対立を形成する。生活と学問によって島田や姉と分離する傾向は健三の階級的な本質である。インテリはこの階級的な矛盾を克服するための自己認識を階級的使命としている。この認識がない場合にはインテリ世界で形成されるあらゆる思想は無内容である。漱石の作品の全体はこの自己認識を如何に獲得するかというインテリの本質的な課題に直接取り組んでいる。島田やお常との関係はインテリの本質や、インテリの社会的な使命から遠い現象に見える。しかしそのような認識こそがインテリ的な非現実的精神の証である。
健三は比田や兄や妻にとってはどうでもいいことを非常に重視している。偶然的に一度約束を破ったことを侮辱として忘れずにいる。銀時計を失ったことより比田が約束を破ったことを問題にしている。比田が時計を兄に遣ったことが健三の人生で大きな比重を占めるほど健三の人生は限定されている。健三はこの狭い価値観を破壊するだけの現実的な人間関係を形成できなかった。だから古い価値観が執念深さとして残っている。比田との過去の経験は健三のインテリ的自尊心として残っている。健三がどうしてもインテリ的な自尊心を超えることができないのは「こころ」の先生が自分の人間関係に生ずる矛盾を感じ、自分の未来がないことを理解しながらも、財産に対する執着や叔父に対する恨みを克服できなかったことと同じである。このような健三の心理には小市民階級の深い矛盾が潜んでいる。健三には「こころ」の先生を悲劇に導いた同じ矛盾が内包されている。小市民に特有のこの悲劇を小市民内部で克服する方法は、このような感情を形成し発展させ、その矛盾の法則を発見することである。健三と島田や姉が別の必然性に生きていることを前提し、彼らに対する批判意識をすべて自己に特有のものとして自己内に取り戻し、その批判意識を越える意識を自己の内部で形成することが健三の課題である。
「気分を紛らさうとして絵を描いた。然し其絵があまり不味いので、写生は却つて彼を自棄にする丈であつた。彼は重たい足を引摺つて又宅へ帰つて来た。途中で島田に遣るべき金の事を考へて、不図何か書いて見やうといふ気を起こした。・・・」
健三が物を書いたのは文士的な気楽な動機によるのではなく島田に金を遣るためである。健三がこれまでに蓄積してきた矛盾が猛烈な仕事の衝動力であり内容である。健三の耐え難い苦痛を伴うほどの矛盾が「吾輩は猫である」からの作品に対象化されている。島田との関係を拒否せず書斎生活を苦痛と感じている精神が小説の内容を生み出す力になる。しかし漱石がこの作品で描写した厳しい状況で描き始める小説は、健三の置かれた状況からはるかに遠い「吾輩は猫である」から始まる。漱石が自分の状況と精神の意義を認識して健三の意識の形態で描写するには「吾輩は猫である」から「硝子戸の中」に至るまでの作品の系列が必要であった。現実的な自己認識は現象的形態から多くの媒介項を順に経て獲得されねばならない。出発点ですでに非常に深い矛盾を得ていたために「吾輩は猫である」からわずか十年の間に健三自身の置かれた立場の認識に至る多くの内容を描写することができた。金を得た段階でも健三は島田を拒否しない。彼はあくまで自分に可能な矛盾をすべて受け入れる傾向を維持している。
島田に百円遣るのは体面によるのでも島田を避けるためでもない。健三自身にも明らかでない理由から金を与えている。インテリに特有の矛盾を蓄積することがインテリ特有の成果を生むことを漱石はこの段階では肯定的に認識して描いている。しかしこのような意義は長期間の労苦の蓄積によって明らかになるのであって、その成果を予定して、その成果の代償として払われるのではない。必然は蓄積されることで自分の本質を明らかにする。それまでは外部のあらゆる誤解や自己懐疑に耐えなければならない。それがインテリ的な成果の一般的特徴である。
「ぢや何うすれば本当に片付くんです」「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起つた事は何時迄も続くのさ。たゞ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」健三の口調は吐き出す様に苦々しかつた。細君は黙つて赤ん坊を抱上げた。「おゝ好い子だ々々。御父さまの仰しやる事は何だかちつとも分りやしないわね」
細君は斯う云ひ々々、幾度か赤い頬に接吻した。」
健三と妻の日常生活と会話にはこれまでに描かれた深刻な矛盾が含まれている。矛盾を片づけないことを自分の必然性として確定していることがこの会話の意義である。漱石は穏やかな日常の中で同類の対立が繰り返されることを作品の最終部分に描写している。それは矛盾を片づけようとしない健三の精神に即した描写方法である。学問の内容も芸術の内容も社会的な矛盾である。島田との関係は一段落したとしても島田との関係も含めて人間関係のすべてが片づいた状態にはならない。健三の言う片づかないと細君が言う片づいたは一致している。一つの矛盾が片づいた後の新しい矛盾を現実として受け入れることは妻の前提であり、健三はそれを連続として意識している。すべての矛盾を受け入れる長い経験の後にすべての矛盾を受け入れる力量が獲得される。それが豊富な経験を積んだ者に特有の落ち着きであり精神の力である。「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない」という言葉に漱石の到達した自己肯定の境地が集約されている。漱石は自己をこのように確定した後、その立場からこれまで描写してきた世界を突き放して「明暗」を描写している。 

 

●明暗 1
『明暗』で漱石は小市民世界一般を客観的に外から描写している。この作品には漱石はいない。津田とお延が自分の価値観において生活を守り、向上させるための努力によって没落する過程を総合的に描写している。漱石はこのとき津田やお延の人生の全体を完全にものにしており、彼らを彼ら自身の必然性において自由自在に描く能力を獲得していた。漱石があと数カ月生きていたら津田やお延や吉川夫人に対する、社会的な法則による判決を描写していただろう。漱石が彼らの運命の結末を描写していれば、日本文学史のみならず、日本精神史の発展により明確な影響を与えたでしょう。すでに書かれている内容によってこの小説の行方を抽象的に予測することはできるが、小説においては問題は具体的な展開であり、それは漱石にしかできない。せめてもの救いは、漱石が清子との対立を描きおわったことである。漱石にとっては小林と清子を津田の対立物として描くことが非常に重要な意義をもっていた。それが漱石の到達した肯定的精神だったからである。
ここではこの小説でもっとも重要な意味を持つ小林については触れない。厳密に規定された、非常に高度な小林の精神を限られたスペースで説明することはできないから。
この作品の人間関係はそれぞれの社会的な特質を展開すべく設定されており、関係の設定自体が、漱石の獲得した高度の現実感覚をしめしている。津田とお延は結婚してまもないにもかかわらず、互いに不信感を持っている。それは性格的な、偶然的な疑いではなく、彼らの社会的な人間関係の必然性として描写されている。
津田とお延は勤労的な生活を嫌い、贅沢な、見栄えのよい生活を望み、そのような生活をしていることを世間に示す必要があると考える虚栄心を持つ点で、またそのための手段が限られている点で共通している。津田はそのような生活のために吉川夫人の勧めに従ってお延と結婚した。津田がお延を大事にしているように世間に見せかけているのは、それによって吉川や岡本との関係が維持できるという打算にもとづいている。
お延は津田とは逆に、自分と津田の実力によって成功しようと考えており、その力を津田が持つと信じて津田を選んだ。このような誤解も自分の地位に不相応な欲望を持つお延の特徴である。お延の立場では津田のような、実際には実力がないが、あるように見せかける実力をもっている男を選択する以外にない。実際にお延が望むような出世主義的な実力を持つ男が、出世を望んでいるだけで出世の手段となりえないお延のような女性を選択する可能性はないからである。津田はこのお延の期待に値しないことを見抜かれないように常に用心しており、それが彼らの不信感になっている。
このように非常に根の深い相互の不信感は彼らの生活の日常性であり、それは彼らにとっての不幸でも、苦痛でもないし、それよって彼らの生活が破壊されることもない。彼らが危機を深刻に感じるのは常に地位や金の危機においてである。漱石はこのような不信感に満ちた世界が、生活上の危機を孕みはじめた状態から描きはじめている。冒頭に描かれた津田の不安は病気を契機にした、自分の運命に対する不安である。津田は運命が自分の思うように運んでいないことを意識しはじめている。
漱石は初期作品では津田とお延の互いを探り合う関係を批判し、克服すべきだと考えていた。しかしこのような意識上の対立は小市民的な人間関係の反映であり、その個別の意識形態を批判によって克服することは不可能であり、その人間関係の崩壊のみがこの矛盾の解決であることがこの小説では明らかにされている。津田の危機は彼が依存している人間関係自体の必然性によって生じる。小金をため込んだ津田の父が自分の金をけち臭く守ろうとすることによって生じる津田の危機は、もともと津田がそのような小市民的な人間関係に依存して生きていることに根拠を持っている。津田が京都の父や吉川夫人に依存できることは彼の余裕の保証であると同時にその人間関係に特有の危機を孕んでいる。津田の力で依存できるような人間関係はもともと危機を孕んだ、流動的なものである。このような小市民的な関係からの脱出のみが危機の克服である。
小林の精神は津田の世界の危機を脱出し、津田の世界から分離された、『こころ』で否定された明治の精神によって生まれた新しい時代精神である。パンを追いかけて歩かなければならない小林と違って津田には余裕がある。しかしこの余裕には特有の不安がある。両者ともそれぞれの階級に特有の矛盾を抱えている。違いは津田が破滅的な矛盾を持ち、小林が発展的な矛盾を持つことである。その内容を小林はこの作品で繰り返し説明している。小林は津田には特有の危機があることを理解しているが津田には自分の生活の危機が認識できない。これが津田に対する小林の優位である。
小林は都落ちをして朝鮮に渡るかどうかで悩んでいる。津田にとっては門を閉めたのが偶然かお延の意志かが重要な問題である。小林の抱える矛盾も津田の抱える矛盾も彼らの運命にとって決定的な意義を持つ必然的矛盾である。「暖かい家庭の燈火を慕つて、それを目標に足を運んだ」という小市民的な幸福感が信頼関係の崩壊を意味していることは、門が閉まっているだけでその幸福に対する裏切りが意識されることに現れている。彼らの温かい小さな幸福には大きな人間不信と不幸が内包されている。津田はこうした些細な矛盾を乗り切るために全神経を使い、そのための能力を蓄積しているがその些細な矛盾を支配している社会的な巨大な必然性に対処することはできない。些細な矛盾に対する津田の些細な対処自体が没落の巨大な必然性に規定された内部的運動である。
吉川夫人に関わりを持つ場合、対抗する場合も取り入る場合も破壊される危険がある。破壊されることが気に入られることである。社交的な技術で従順さを示そうとしているお延の態度を吉川夫人は認めない。吉川夫人に従順さを認められるには津田がそうであったように、吉川夫人との違いを現実的に厳しく思い知らされる必要がある。人生全体を通して従順であることを形式的にではなく実践的に確認した後に初めて吉川夫人は自分との関係を認める。お延はその経験をまだ積んでおらず、自分の頭の良さで対抗できると信じている段階にある。
お延は見合いの席で岡本や吉川婦人とのさらに継子との階級的な違いを経験した。このような孤独感に襲われたとき、彼女は自分の味方が津田だけであると感じている。しかし吉川夫人や岡本との関係こそお延と津田の関係を分離する力である。津田にとってお延は吉川夫人と一致する手段として、お延にとって津田は社交場で成功するための手段として本質的な意義を持っている。その吉川夫人にとって津田やお延は人生を弄ぶ道楽の手段であり積極的な人間関係としての意義はない。わずかの財産と地位だけが彼らの人生の目的であり人間関係は手段とされることにおいて崩壊している。積極的な人間関係の形成とは吉川夫人との関係を絶つことである。しかし吉川夫人との関係こそ二人の基本的な欲望であり二人を結びつける共通の価値観であるから、二人の関係は二人の欲望の実現過程で破壊される。彼らにとって危機は決意を固め緊張関係を形成する原動力でもある。しかし行動の結果はいっそう危機を発展させ、彼らが孤立を感じる回数と時間と深刻さは大きくなる。お延に生じた偶発的な覚醒は繰り返され、長くなることで必然性であることが明らかになる。
岡本の家の空気で育てられたお延は結婚して岡本から独立することで、彼女の社会的地位にふさわしい人間関係に入り、その関係に必要な精神を獲得する。お延は今自分の社会的地位の意味を経験させられている過程にある。お延に生ずる緊張や充実や孤立感は津田の個性によって生ずるのではなく、彼女の持つ社会的人間関係と彼女自身の欲望による。彼らの欲望は常に非現実的である。彼らの欲望は地位や能力と一致していない。小林にも岡本や吉川にも彼らの地位に応じた現実的な欲望が形成される。津田やお延は現実的な準備や根拠を持たずに成功を望み、その観点からあらゆる現実的な努力や諸関係の認識を拒否し軽蔑する。それが彼らの色気である。彼らは自分の欲望を現実化しようとする努力によって、現実と衝突し破局を迎える必然性を持っている。
津田の没落のために重要な役割を果たすのがお秀である。お秀が自分の生活に満足していれば他の生活に対する干渉は必要ない。しかし小市民的な生活には一般にそれ自身における充実がない。彼らは相互の干渉的な対立においてのみ充実する。対立が本質であり小市民的な生活のあらゆる現象は対立の契機になる。所帯染みたお秀にとっては、お延の派手さが気に入らない。お秀もお延も津田も自分の置かれた状況を肯定的に評価する精神を持たない。どのような世界にも矛盾があるが、小市民世界での矛盾は瑣末であることと、その矛盾に保守的に対処することが一般的な特徴である。
人間関係が崩壊している小市民世界ではダイヤや立派な家や容姿は特殊な意味を持っている。彼らの物質的な豊かさは決して幸福の保証にならない。人間関係の崩壊を反映した彼らの物質的欲望のあり方は人間関係に反作用し、人間関係を崩壊させる契機になる。物質的な富に対する彼らの関心も実際は人間関係に対する関心であり、しかもその関心は破壊的である。お延の指輪に対するお秀の好奇心のあり方は彼らの人間関係に規定されている。指輪を契機にした誤解は彼らの人間関係の法則の現象形態である。誤解が彼らの下らない行動を引き起こすのではない。彼らの世界では人間関係の客観的な認識は一般にあり得ない。小市民世界では誤解は偶然ではなく認識能力の必然的形態の一つである。瑣末な対立を本質とする世界ではお秀の誤解を解消する意義はない。誤解も対立形態の一つであり誤解によらない対立と同等である。だからお秀もその誤解を解消する努力をしていない。お秀の主観にとっても誤解を解くことではなく対立を発展させる契機が必要なだけである。誤解は彼らの人間関係上の必要物としてどのような状況でも形成される。誤解を避ける努力も瑣末な対立を形成する要素となるだけである。このような閉じた円環が小市民の必然的な崩壊過程である。
瑣末な利害を契機に下らない人間関係が展開するのが小市民世界の人間関係の法則の反映であり、その世界内部でこの対立を克服することはできない。津田の横着をなくし、同じことであるがお秀が津田を横着な点で批判しなくなること等々は小市民世界から逃れることであるが、それは岡本や小林になることである。しかし彼らの意志と努力によって岡本になることは不可能であるし小林になることはいっそう不可能である。現在の地位にしがみつき、現在の人間関係を維持しようと努力することにおける小市民世界の矛盾の解決を漱石は描写している。初期作品では漱石はこの対立を批判し解消しようと努力していた。しかし客観的にはその努力もこの世界の内部対立の一つとして消耗的な対立を発展させることであった。この対立形態を克服する方法はこの内部的対立の発展だけがそれ自身に即した法則的な解決であることを認識し、この世界の矛盾の解決をこの世界の自由な意志による対立の発展に任せることである。
津田とお延は吉川夫人によって結び付けられ吉川夫人によって引き裂かれる。彼らは対立し引き裂かれるように結びつけられている。彼らは吉川夫人に依存した関係を形成し、そのような内容の欲望を形成し、さらに吉川夫人に依存することで関係と欲望を発展させようとしている。彼らには自分自身の矛盾が吉川夫人との関係において生じていることが理解できず、自分の矛盾を解決するものとして吉川夫人を思いついている。彼らには吉川夫人との関係に内在している破滅的な危機は認識できない。労苦を回避することには回避することの利益がある。そして労苦を回避することの結果が合法則的に明らかになるのは、労苦を回避する努力を繰り返し、短期的な利益を蓄積した成果としてである。彼らは労苦を回避することの利益を追求することにおいて、その利益を蓄積することの必然的な結果を認識する能力を失っている。目先の利益の蓄積がその利益の対立物に転化するのが小市民世界の法則である。
津田が中間的な地位の安定を守るためには対立を避けなければならない。矛盾と対立を避けることが津田の人間関係上の本性であり、その反映として小市民に特有の無能や臆病や卑怯が形成される。しかし矛盾や対立を避けることができないことも無能や臆病や卑怯の特徴であるし、彼らの人間関係はその転化形態である自尊心や怒りをも同時に生み出し、無能や臆病や卑怯に特有の対立を形成する。お秀は津田の置かれた状況を知って金の力で津田の弱みを突いて日頃の鬱憤を晴らす契機にした。しかしお延の金で力関係が急に変化したためにお秀を怒らせた。その結果すべての内部的な計算を無にする関係が生じている。
お秀の怒りは津田の計算以上の実践を引き起こした。しかしお秀の計算が津田より現実的なわけではない。お秀の計算も客観的な関係の発展と一致することはない。人間関係は常に彼らの計算を越えて展開される。津田は吉川との関係の前に媒介項として吉川夫人やお秀やお延と関係を持っている。この関係にひびが入れば彼が目的としている岡本や吉川の庇護が失われる。したがって津田の用意周到な人生は津田が軽蔑しているお秀に依存している。必然性が津田の没落のために何を契機として使うかはわからない。漱石はこの関係をうまく掴んで小説の展開を面白くしている。津田はお秀に駆け込まれた吉川夫人をうまく取り扱わねばならない。そのためには夫人と差し向かいで話をする必要があり、お延が病院に来ないように処置しなければならない。吉川夫人に対する気遣いがお延に対する気遣いをおろそかにする。だからその処置がまた意外な展開を生む、等々。
吉川夫人の成り金趣味は趣味の悪い宝石や骨董を集めたりペットを相手にするのではなく、人のプライバシーに首を突っ込み、金と地位の力で人の運命を弄ぶことである。お秀が金で感謝を求める場合は俗物的であるが、地位が高く犠牲と報酬が大きい点で吉川夫人は俗物的であるだけでなく暴君的である。彼女には物質的な利益を与えることが人の精神や運命を弄ぶ権利を与えると思われる。実際そうした取引をする津田のような人物が存在し、吉川夫人に好まれる。これも津田の京都の父がけち臭く小金を溜めて趣味に生きるのと同様この階級内部の金の典型的な消費形態であり、取得形態であり、循環形態の一つである。厳しい労働を嫌い、精神的に従属することで物質的な報酬を得るのもこの世界に発達する生きるための能力である。
吉川夫人に人生を弄ばれることを辛抱することで報酬を得るのはそれほどうまい話ではない。まず気まぐれな夫人の気分を損ねないこと自体非常に難しい。さらに本質的には吉川夫人の主観と客観的な人間関係の二重性がある。吉川夫人の気まぐれが現実の人間関係と接触する場合どんな結果をもたらすかは吉川夫人自身にもわからないし夫人はそれに関心を持たない。しかし津田は夫人の気まぐれによる危機が吉川夫人の善意によって回復されると信じている。夫人には自分の与えた損失を物質的に回復する良心がある。だから津田は夫人による損失によって夫人から離れるのではなく、より大きな報酬を期待していっそう強く依存する。吉川夫人に依存することに特殊化された津田はあらゆる危機を吉川夫人への依存を強めることによって解決する以外にない。津田と吉川夫人の相互の依存関係のこのような円環が破れる危機が生じている。吉川夫人と津田は相互に依存することで何を失ったかを経験しなければならない。その経験のための策動をするのは吉川夫人自身である。
吉川夫人とお延の対立は津田の計算になかった。この現象は新しい関係として形成されたものであり、決して予測できるものではない。お延に対する批判意識は吉川夫人自身にとっても新しい感情である。それは津田とお延の結婚後に形成された新しい関係を反映している。この新しい人間関係に対する吉川夫人の対処に再び津田は対処しなければならない。津田の予測以上に変化することは吉川夫人の気まぐれな楽しみの一つであると同時に吉川夫人の社会的地位の必然性でもある。
津田が自分とお延の関係を幸福に見せたことはお秀や吉川夫人の嫉妬の対象になり破壊的な情熱を生み出す。彼女らには津田とお延の間にある矛盾が理解できない。さらに津田とお延の関係の客観的な認識はもともと彼女らに必要なく関心がない。干渉すること自体が彼女らの目的である。彼女らはこの見せかけの幸福に矛盾を持ち込もうとして客観的に存在する矛盾を発展させる。
吉川夫人がお延を「根から先へ療治」する手段はまず津田とお延を分離し孤立させることである。吉川夫人に依存し、吉川夫人を媒介しない独自の利害や愛情が形成されない津田とお延の関係はすでに吉川夫人の誘導と一致している。吉川夫人はその場の都合で津田とお延の関係を想定しているが、津田はその都合と一致するように過去の人生を組み立ててきた。津田は夫人の道楽のためにあらゆる点で好都合な性格を持っている。津田が自分の与える利益に期待していることを知っている夫人の気まぐれは常に津田の意志として貫徹される。津田の内面で生ずる葛藤は吉川夫人の意志を津田が貫徹する際の意識形態であり、吉川夫人の意志と対立する内容をまったく持たない。
お延の人生を弄ぼうとする吉川夫人と岡本は対立する。この側面で吉川夫人との関係を肯定する場合津田は岡本と対立する。津田には吉川夫人と吉川・岡本の対立を教えられても吉川夫人と対立して吉川や岡本との関係を選択する能力はない。吉川夫人との関係が深くなり、吉川夫人の気まぐれに従うほど吉川や岡本との対立的傾向が深まる。
人間関係の展開の中で津田が関係しているのは吉川夫人だけである。津田が吉川や岡本との対立を覚悟して吉川夫人に個人的な利益を期待する場合は、吉川夫人との関係を含めたあらゆる信頼関係を喪失する危険がある。お延を孤立させる過程は津田の孤立の過程でもある。津田は吉川夫人を利用する形式をとりながら吉川夫人の道楽の材料になり大きな犠牲を払うことになる。吉川夫人との関係の必然的な破滅を吉川夫人の善意で回避することはできない。地獄への道は善意で敷きつめられているというのはこの世界の真理である。
吉川夫人自身の破滅は彼女の地位を反映した、津田と別の形態をとる。彼女の破滅は津田の破滅の一般化の上に形成される。吉川夫人は津田が破滅すれば新たな津田を探すことができる。吉川夫人の限界は次々に新しい津田を求め、より希薄な、信頼関係のない関係を連続することであり、津田のような打算的な人間にさえ見捨てられる危険を長い期間に蓄積することである。地位の高い吉川夫人は単純な危険を金と地位の力で回避できる。その回避によって危機を積み重ねることが吉川夫人の危機の法則である。
吉川夫人の親切や好意の純粋さとは、自分の気まぐれを親切や好意として疑いなく、結果を気にかけずに実践することである。津田は夫人の性格的な弱点を理解し夫人の意志に従うことの危険を理解している。しかしそれは吉川夫人に従う場合の危険を回避するための知恵であって批判意識ではない。吉川夫人には有閑マダム的な性格的弱点がある、だから関係を拒否する、ではなく、だからどのように対処すれば利益を引き出せるかが津田の関心である。吉川夫人の弱点の認識はその弱点に徹底して従属するための手段として必要である。津田は吉川夫人の気まぐれの内部で利害を天秤にかけており、吉川夫人との関係の外に出ることはあり得ない。
吉川夫人はお延の精神を弄ぶための豊富な経験を持っており、その技巧を実践するための地位と金もある。吉川夫人がお延の人生を弄ぶにはお延が不安定な、不安な状況にいるのが好都合である。この不安定な状況も吉川夫人と津田によって形成されている。結婚後の津田との関係に疑問を持ち始めその原因を探ろうとするお延の行動の結果がお延の孤立をもたらした。破滅的な必然性が姿を現しつつある。お延に恩恵を与えるには恩恵を必要とする不幸が前提になる。吉川夫人はまずお延に孤立感、不安を与えてそれを手段として打撃を与え、その後に恩恵を施そうとしている。吉川夫人の与える恩恵の本質がそれを与える手段に現れている。
人を従属させることに慣れた俗物有閑マダムにとっての決定的打撃は、お延のように夫人に内部的に対立することではなく、彼女を見捨て、彼女が支配するこの矛盾の巣窟から抜け出すこと、小林が津田に対処しているように分離を確定することである。清子は突然、怒ったのでもなく意地を張ったのでもなく、断ち切るように平気で彼らの前から消えてしまった。清子が背を向けたことで吉川夫人の有閑マダム的なわがままと、金持ちと特別の関係を持つことを背景にした津田の自惚れが破壊された。吉川夫人にとっても津田にとっても清子の行動は共通の不可解な謎として残されている。清子の行動は彼らの本質に関わる重要な問題であるから彼らは関わらずにはおれないが、実は本質に関わる問題であるから関わってはならない秘密である。そこには彼らの没落の秘密と危機がある。
吉川夫人と津田は自分の行動から作意を消し、天然自然に清子に会いに行く形態を整えたいと思っている。しかし天然自然に会うという形態を整える必要があること自体不自然な関係であることを示している。清子と独立に病気のためだけに温泉に行くのであれば清子のいる温泉に行くことも天然自然である。しかし彼らは目的を持たないという形式の裏に目的を隠している。彼らの天然自然は自分の意志を明確にしない、常に逃避場所を用意しておく臆病で卑怯な方法である。清子と関係のない独立的な、天然自然の行動として温泉に行く形式を整えること自体が不自然であること、清子に会うことの明確な意志を持つと同時にその意志を明確に示す行動をとること自体が積極性であり能力であり、端的な天然自然と言うべき態度であることが彼らにはわからない。彼らには特別な関心を持たずに会うことが天然自然に見える必然性がある。
津田が清子のいる温泉に行くことは彼らの置かれた状況での必要事をすべて満足させる最善策として自然に見える。津田が清子に会いに行くことは、手術後の療養のためにも、お延を津田から切り離し孤立化するためにも、突然身を翻した清子との関係に決着をつけるためにも有効である。この世界の人間関係の展開をうまく組み合わせた吉川夫人の機転はこの世界の俗物的な人間関係の展開に即しており、この世界の矛盾をもっとも深刻に発展させる。この世界内部ではこうした馬鹿げた連鎖が合理的に見える。清子に会うこともお延を教育することも吉川夫人の金で療養に行くことも外部から見ればすべて馬鹿げた目的であり、その手段も卑劣であるがこの世界ではそれが天然自然である。吉川夫人の機転が活躍するにふさわしい人間関係がすでにできており、それにふさわしい機知がこの世界ではいくらでも形成される。それが破滅的世界の必然性の現象形態であり、この策動自体すでに人間関係の崩壊であり精神の破滅を示している。
津田は清子が温泉に一人で行っており関がいないことを確かめてから温泉に行く決意を最終的に固めている。 

 

●明暗 2
漱石は津田と清子の対立を描くに先立って、津田が清子との積極的な人間関係を形成する必要も欲望も持たないことを明らかにしている。清子に会いに行くことが清子との関係では不自然であることが津田には判っており、そのために清子と偶然に会う形式を整える必要があると考えている。清子に会うことの明確な意志を持たない場合どんな形態をとっても会うことが不自然であることが彼らには理解できない。
津田がお延を吉川夫人の手に引き渡し、清子に対する自分の好奇心を満足させることは吉川夫人との関係では彼の利益を守ることであるが、全体としては危機の深化である。津田は清子と会うことで自分が彼女にとってまったく無価値であること、彼を信頼しているのはお延だけであることを思い知らされ、その同じ時に吉川夫人は、津田と清子の関係を使ってお延を窮地に追い込んでいる。お延が完全に孤立したと思い込めば吉川夫人に従うことは意味を持たなくなる。吉川夫人は清子の場合と同じように痛めつけるだけで、後の慈善を与える機会を失うだろう。津田はお延との対立によって吉川、岡本と対立し、援助を断とうとしている京都の父に口実を与えることになるという全体的な連関を理解していないし、この関係の進展に逆らう能力を持たない。
清子に対する愛情によってお延に対する愛情が失われたわけではなく、津田が一般的に愛情を持ち得ないことの現象形態の一つとしてお延との溝がある。津田は吉川や岡本に対する打算によってお延と結びついている。津田の打算がお延には過去の秘密に見える。清子は津田の打算を否定したことにおいて津田がお延に心を開かないのは何故かという疑問の本質的な答えを握っており、津田の人間関係の必然性の秘密を握っている。漱石は、小林との会話で津田の必然性について長々と説明したあと、清子の端的な対応によって再び津田の必然性を描いている。実際ここにおいて津田の運命の秘密が暴露されている。
清子に会いに行くに当たって津田はこの小説の冒頭の自己認識を繰り返している。津田は清子に背を向けられた後に、偶然性に支配され、夢のような状態で生きる人生を確定した。自己喪失とは吉川夫人や京都の父やお秀との関係に依存して生きることである。プチブル的な対立関係に規定されることが現象的には自己の立場が明確でなく、落ち付かず、色気の多い人生になる。プチブルの絶対的な不安定の内部での相対的な安定状態を彼らは余裕として肯定的に評価し、危機が現象化するときに不安定、動揺、無力、不確定等々の否定的形態で意識する。
独立的で強固な自己を形成しておらず、自己の必然性の対象として執着すべき対象を持たず、情熱という自己を持たないことが清子との関係で明らかになる。津田は清子に対する愛情によって会いに行くのではない。吉川夫人に強制されて会うのでもない。津田は吉川夫人から独立した意志を持たないし、お延やお秀から独立した意志も持たない。一般に独立的な意志を持たない津田が清子に会うための明確な意志を持つことはあり得ない。津田は清子に会うことで清子にとっての自分の無意義を経験できる。それは色気の多い津田にとって清子による第二の打撃である。しかしその打撃の意味を反映する能力はそれまでの現実的な矛盾の蓄積に規定されている。津田が現実的な打撃を自己の能力として形成するには小林と同様の血の代を払わねばならない。清子に会うだけで自己喪失の不安定状態がからりと覚めるのかという期待自体が非現実的で馬鹿げている。
津田は小林や清子との関係で自分の孤立を体験し、自分が吉川夫人やお延との関係で生きていく以外にないことを認識させられる。清子が自分と完全に分離しているという厳しい現実を知ることがどんな意味を持つかは東京での吉川夫人とお延の関係の展開で明らかになる。東京での孤立を描写した後に清子と津田の分離を描くことは漱石にとっても楽しい作業であっただろう。
津田は目的地に着いてもまだ清子に会いに来たのか療治を目的に来たのか決めかねている。清子に会いに来たとも独自に療養に来たとも解釈できることはどうにも確定できない不自由な状態であることを津田は経験している。人間の意志は一般的に必然性に規定されている。津田の場合意志を確定できないように必然性によって規定されている。だから津田は自分に特有の自由を自分の意志で放り出すことはできない。清子に会いに行きながらいつでも療治を目的に来たと逃げを打つことができる状態を自由だと考えること自体確定した意志を持てない彼らの不自由である。
津田が清子に会いに行くことは客観的に見るとまったく馬鹿げた行動である。しかし漱石は津田の心理に沿って独特の緊張感を描いている。それは臆病なプチブルに特有の不安であり動揺であり色気に満ちた無意味な好奇心である。清子のいる温泉ではこれまでの吉川夫人やお延やお秀との下らない対立を抜け出した新しい人間関係の展開を経験できるという期待がある。その期待と緊張を漱石は力を込めてゆっくり描写している。これまでの展開と違った人間関係に対する津田の期待と、実際に清子との関係で展開される予想外の展開とのギャップが客観的な緊張感を生み出している。この緊張によって何も起こらないことの重要な意味が描かれる。何も起こらないことが津田の必然性であり、津田の無力、破滅性の証明である。何も起こらないことがプチブルの常識を破るもっとも本質的な展開である。そこに凡俗のプチブル的作家と漱石の天才の違いがある。
津田と清子の出会いの場面は清子が津田から身を翻した必然性を深く理解した漱石の素晴らしい構成である。津田は清子と偶然会うことを期待しながらそれが果たせず、清子のことを考えていない時に突然出会った。この偶然的な出会いは津田の緊張を高めている。この偶然は津田が清子に対して自己の必然性を明らかにする契機になっている。漱石は津田の自己肯定の要因となる偶然を蓄積することによって津田と清子の分離の効果を高めている。
「此見当だと心得てさへゐたならば、あゝ不意打を食ふぢやなかつたのに」という感想は津田の現実認識の特徴を高度に表している。常に瑣末な計算をして生きている津田は不意打ちを食えばうろたえて何もできない。清子に会うことを明確な目的としていない津田の無力がここに現れている。しかしそれは不意打ちを食ったことが津田の不運であることを意味するのではない。この偶然は自分の都合のよいように解釈する余地を津田に与えた。この偶然は津田の期待と好奇心に材料を与えた。不意の出会いは津田にとってむしろ幸運であった。しかしその幸運をもより大きな不運の契機として蓄積するのが津田の必然性である。
現実の材料は客観的にはすべて清子と津田の絶縁を示している。この時の清子を観察するまでもなく、このような瑣末な偶然事を材料とするまでもなく、結婚を前に彼女が突然身を翻したことが決定的に津田との絶縁を示している。にもかかわらず清子との絶縁を理解できないのは、津田の認識能力の欠如と、彼の認識を無能たらしめる彼の地位による。津田は清子を愛しているわけではなく未練も生じない。したがって津田はどのような現象をも清子の自分に対する愛情とも拒絶とも認識できない。それは材料が不足しているからではなく津田の欲望自身が清子との関係をいずれにも確定する必要を持たないからである。偶然的な材料を契機に清子の腹の中を探ること自体、予測し、悩み、探りを入れること自体が津田の目的である。津田は清子に対して愛情を持たないにもかかわらず自分に対する清子の愛情に関心がある。津田は清子に愛情や特別の利害がないにもかかわらずこのような詮索をするのではなく、愛情を持たず特別の利害関係を持たないからこそ、このような確定しようのない詮索をしている。清子が津田を悩ましているのではない。津田が清子を契機に下らない悩みを持つだけである。このような二重性の連関が津田の世界では無限に展開される。清子はこの二重性に二重性で応えない。津田の二重性は津田の二重性として終わる。それが津田に特有のプチブル的な緊張を解いている。
「津田の知つてゐる清子は決してせゝこましい女でなかつた。彼女は何時でも優悠してゐた。何方かと云へば寧ろ緩漫といふのが、彼女の気質、又は其気質から出る彼女の動作に就いて下し得る特色かも知れなかつた。彼は常に其特色に信を置いてゐた。さうして其特色に信を置き過ぎたため、却つて裏切られた。少くとも彼はさう解釈した。さう解釈しつゝも当時に出来上つた信はまだ不自覚の間に残つてゐた。突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻がへす燕のやうに早かつたかも知れないが、それはそれ、是は是であつた。二つのものを結び付けて矛盾なく考へようとする時、脳乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であつた如く、乙も矢ツ張り本当でなければならなかつた。」
清子が二重性を持たないことが津田には緩慢な性格として形式的に理解されている。津田が形式的に感じる清子の肯定的な性格は津田の世界の二重性を持たないことにある。漱石は清子のようなさっぱりした性格をこの世界の葛藤全体から切り離した。あるいは、さっぱりした性格という形式の内容が津田の世界では形成されないこと、それが津田に理解されないことを発見した。津田には清子が何故身を翻したか理解できない。自分に緊張を強いることのない清子の特徴と自分を裏切ったことの同一性が津田には理解できない。清子の緩慢な精神と津田を裏切ることは吉川夫人との関係を受け入れないことにおいて一致している。
本質的には清子も津田も変わっていない。しかし津田には清子が変わったように見える。結婚を機に吉川夫人との関係で津田と清子のそれぞれの本質の違いが明らかになったのであって清子が変化したのではない。清子にとっては津田も自分も同じ人間であり変わっていない。しかし清子の行動の意味がわからない津田にはそれは形式的な、わけのわからない突然の変化に見える。
清子は依存的な人生を拒否して自己の必然性を肯定して生きることにおいて一致できる相手を選択した。吉川夫人に依存し、相手の自分に対する評価を常に気にしながら生きることの煩わしさを拒否することが清子の自由なこだわらない性格である。津田に平安を与える清子は津田の前から姿を消し、津田に緊張を強いるお延は津田に能力を発見し津田を愛することが必然である。津田がお延やお秀との対立関係を逃れるには吉川夫人との関係や京都の父や岡本との関係で獲得される物質的な余裕を断念し生活のための労働に身をさらさなければならない。清子の端的な性格と津田の疑り深い性格の違いは本質的な階級的な対立を内包しており、お延との関係の現象的矛盾の認識によって越えられるものではない。
津田の世界の精神は二重性を本質的な特徴としている。彼らは本当の関係は言葉にされない内面にあると意識しているが、客観的には二重性を持つこと自体が本質であって隠された内面が本質なのではない。漱石は清子に津田との無意識的な分離的精神を想定することで小林との意識的対立関係によって明らかにした津田の二重性を別の側面から描こうとしている。清子が津田に夫のことを端的に話すことは津田との過去の関係を問題にしていないこと、津田との過去は現在において何の意味も持たないことを意味している。しかし津田は飽くまで現在の清子に自分との関係の名残りを探している。津田との過去の関係を完全に払拭した精神を描くことは漱石のこれまでき作品の成果によって始めて可能になった非常に高度の課題である。それは津田を拒否することも批判することも避けることもなく、津田との分離を事実として端的に受け入れることである。このような対処には小林が繰り返し説明した事実という概念の高度の認識が生きている。自分との関係の名残りを過去の記憶に求めることができなかった津田はより瑣末な現象に幻想の拠り所を求めている。
津田の世界では探りを入れ、相手の心理を憶測し、自分も憶測されるという関係以上の関係は形成されない。だから津田はある目的を持ってこのような探りを入れるのではない。このような方法自体が津田の人間関係のあり方であり、これが結果である。しかし清子の端的な言葉は津田の二重性を反射せず、津田が二重性を対象化する余地を次第に少なくしている。より端的な対処が津田との関係の拒否になる。下らない関係を解消することが人間関係の喪失を意味するのが津田の必然性である。津田と清子の会話の進展によって彼らの合理的で必然的な関係が次第に現実化する。
清子は温泉に来たことも昨夕清子に会ったことも津田の意志であると考えている。清子のこの誤解は津田にとっては会話を進展させる契機になる。偶然を故意と認められたことが津田に精気を与えている。津田は昨夕偶然会ったことを、他意のない自己を説明する機会だと考えている。しかし津田に他意がなく、清子に偶然会ったことは津田の行動を自然にするのではなく、より大きな不自然を形成するだけである。津田や吉川夫人にとって自然に見える関係の全体が清子や小林にとっては不自然である。津田が清子の誤解を解くことによって津田と清子の本質的な対立が明らかになる。
「『僕が待ち伏せをしてゐたとでも思つてるんですか、冗談ぢやない。いくら僕の鼻が万能だつて、貴女の湯泉に入る時間迄分りやしませんよ』『成程、そりや左右ね』清子の口にした成程といふ言葉が、如何にも成程と合点したらしい調子を帯びてゐるので、津田は思はず吹き出した。『一体何だつて、そんな事を疑つてゐらつしやるんです』『そりや申し上げないだつて、お解りになつてる筈ですわ』『解りつこないぢやありませんか』『ぢや解らないでも構はないわ。説明する必要のない事だから』」
清子は津田の必然性として津田が待ち伏せしたと考えている。それはこれまでの関係で確定された本質的な認識である。しかし津田は昨夕清子に会ったことの偶然性だけを問題にしている。津田には清子の誤解を解くことが清子との関係の前進であるように見える。しかし清子は自分の誤解を単純に認めている。昨夕の偶然は津田の必然性の認識を変化させるものではない。昨夕の偶然は単純な偶然として理解され、それで終わりである。津田は自己の必然性を吉川夫人との関係で示し、清子は津田を裏切ることで津田の必然性に対する判断を示した。だから自分の津田に対する判断はわかっている筈であると清子は考えている。清子は必然性内部の細目に関わろうとしない。このような偶然性だけを問題にするのが津田の世界の人間関係であり、それを偶然性として処理し、津田の必然性だけを問題にするのが小林や清子である。清子は津田の必然性を小林のように認識的に問題にしていないが、経験的直観的に津田の必然性だけを問題にしている。津田の行動の瑣末な解釈を問題にしないことが清子の端的な態度である。清子の世界の人間関係を反映した経験的精神と津田の精神の無意識的なすれ違いが生じている。二重性を清子は持たないし、二重性を本質とする津田の心理の細目に関心を持たない。それが対立関係の発展によって自然に明らかになる。小林は津田の社会的な必然性を説明することで津田を苛立たせ、その苛立ちを再び必然性として説明していた。清子は津田を安心させ期待させながら対立を発展させている。
津田が何のために清子を待ち伏せしていたのかは、清子にはわからない。基本的には関心がない。だから話せない。遠慮し、胸の中にあることを話さないのではない。遠慮をせず、胸の中に何もないことが清子の人間関係の反映である。待ち伏せする人間の目的など清子にとっては津田の自由でありどうでもいいことである。
「『そんならさうと早く仰やれば可いのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由は何でもないのよ。たゞ貴方はさういふ事をなさる方なのよ』『待伏せをですか』『えゝ』『馬鹿にしちや不可せん』『でも私の見た貴方はさういふ方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの』『成程』津田は腕を拱いて下を向いた。」
清子が津田を疑ることは津田にとっては人間関係の手掛かりである。しかし津田の本質に対する判断を終わっている清子にとって津田の二重性に対する疑いは生じない。疑る結果になったのは偶然によってである。清子は津田の必然性に対する断定によってその偶然を問題にしていない。どういう理由から津田を疑ったのかと言う疑問は清子の疑いの質を問う新しい疑問である。津田は昨日偶然会った個別的事件だけを問題にし、清子は津田の全体、必然性を問題にしている。津田の個別的行動を問題にすることと津田の必然性を問題にすることの違いが津田には理解できない。津田は自分を疑うことを自分の二重性を想定すること、自分の本心を問題にすることだと考えている。津田が昨日どのような理由で待ち伏せしたか、あるいは待ち伏せしたかしないかは清子の関心ではない。疑いの根拠は津田が待ち伏せする男であるという確定した判断による。清子は津田の二重性を規定する津田の人間関係全体を、疑る性格と判断している。津田は個々別々には相応の理由をつけられる行動の全体によって自分の必然性が判断されていることが理解できない。それは小林との会話でも同じであった。津田が「成程」と感じるのは、その意味は理解できないが清子の端的な断定によってそれが結論であることを理解したからである。
お延と津田は常に表面的に対立している。しかし彼らは本質的な一致の内部で対立しており分離的で本質的な対立はあり得ない。津田と清子の会話は瑣末な対立から本質的な対立に必然的に深化する。話が具体的になるほど認識能力の質の違いによる食い違いが明らかになり議論が生じる。清子の前で津田が自由を感じたのは誤解である。津田と清子はお延よりはるかに本質的な対立関係にある。清子の端的な性格は津田との本質的な対立の現象形態である。その必然性を理解できない彼らには偶然話が議論になったと感じられる。両者に議論する意志がないにもかかわらず議論になるのは彼らの対立の本質を描写した小説の構成上の勝利である。小林はこの対立に自分の優位を感じて意識的に論争を挑んでいた。清子との関係でも本質的な対立が現象することによって小林との対立が偶然的な、小林の挑戦的な個性によるものではなく、彼らの階級的な対立の現象形態であることが明らかになる。小林の挑戦的な態度は津田との古い人間関係による小林の親切であり友情である。清子と津田にも過去に人間関係はあるがそれは現在に何の痕跡も残していない。清子の津田に対する否定的判断は確定しており、隠す必要のない事実として率直に表明されている。議論が故意ではないことは彼らの関係の断絶を意味している。しかし津田にはそれは妥協的な、津田を受け入れる態度に見える。このような色気は認識能力の限界に規定された津田の本質であり限界が認識されることも克服されることもない。
「『昨夕そんなに驚ろいた貴女が、今朝は又何うしてそんなに平気でゐられる
んでせう』清子は俯向いた儘答へた。『何故』『僕には其心理作用が解らないから伺ふんです』清子は矢つ張り津田を見ずに答へた。『心理作用なんて六づかしいものは私にも解らないわ。たゞ昨夕はあゝで、今朝は斯うなの。それ丈よ』『説明はそれ丈なんですか』『えゝそれ丈よ』」
清子は昨夕津田を見て驚いた、しかしそれは偶然的な、突然会ったことの驚き以上の内容を持たない。昨夕偶然に会ったことも偶然として処理され、津田は清子との関係の手掛かりを失いつつある。津田の無意味な質問に率直に単純に対処することが津田との関係の合理的な拒否である。清子には津田との個別的な関係を拒否する積極的な意志はない。しかし清子の強固な必然性が津田との関係で現象化している。清子の静かで緩慢な精神には吉川夫人と津田を単純に見捨てた確固たる主体性が貫徹している。
清子は津田には独立して温泉に来る必要があったという説明を聞いて納得している。清子にとって津田がここに来た事情は「何うでも構わない」し、「頓着してゐない」ことである。清子は無意味な話題を切上げ津田の病気に話題を移している。それは津田との過去の関係を無視し、津田を単なる療治客として扱うことであり、津田がこの温泉に来たことの無意味を実践的に証明することである。
小林に対して津田は温泉に行くことが自分の余裕だと誇っていた。清子にも結構ねと言われている。これは吉川夫人に依存することで安楽に生活しようとする津田との分離的意識である。小林と清子は津田との階級的分離を生活として確定すると同時にその現実を思想的、経験的に認識している。津田との階級的分離の認識が彼らの精神の歴史的な獲得物である。清子の夫は忙しい。仕事を休んで金を貰つて温泉に来れる身分ではない。その忙しい生活を清子は自分の人生として受け入れている。その労苦を逃れるのが津田である。この両者の間に決定的な溝があることを認識することは小林や関の人生を受け入れるかどうかの問題であり津田には不可能な課題である。
津田は清子の端的な対応によって孤立状態に放り出されながらも自分の幻想を払拭することができず、自分の地位の不確かさと不安をより深くしている。津田がこの不安を持っている時、東京では吉川夫人とお延の対立が津田の決定的な破滅を準備している。 

 

●彼岸過迄  
1
「作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めてゐない。実をいふと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しば々々耳にするネオ浪漫派の作家では猶更ない。自分は是等の主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹く程に、自分の作物が固定した色に染附けられてゐるといふ自信を持ち得ぬものである。又そんな自信を不必要とするものである。・・・
東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上つてゐる。其の内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、其の何人かの大部分は恐らく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くたゞの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈だらうと思ふ。自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じてゐる。」
この「彼岸過迄に就て」には「門」にたどりついた漱石の力が感じられる。漱石は抽象的な主義主張で述べることができないほど具体的で豊富な内容を描写する能力を蓄積した。漱石はこれまでの作品の系列の帰結としてこの作品の社会的位置を強く意識して 「面白いもの}を書きたいと宣言している。精神のレベルによって面白さは違う。漱石の言う「面白いもの」は「主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹く」ことと対立している。抽象的な主義主張の標榜から具体的内容の描写への進展は文壇やインテリ精神との訣別を意味している。作品内容が高度化し具体化した結果インテリにではなく、「全くたゞの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈」の人間に作品の理解を期待している。面白さとは社会を実質的に動かしている大衆の関心と理解力に応えるだけの具体的内容を持つことである。文壇やインテリにこの作品の理解を期待できないことを漱石は意識している。
漱石はまず表面的な面白さを求めている敬太郎を描写している。生活に余裕があり高等教育を受けている敬太郎は現実社会に接する必要に迫られておらず、社会に対する具体的な関心を持たない。彼はすでに現実社会で人間関係を形成し、それぞれの人生を歩いている人々に表面的に関係する紹介者の役割を果たしている。田口、松本、須永、森本はそれぞれ独自の矛盾を持っている。人間関係の表面的な観察とは独自の矛盾の展開における連関を理解できずに、現象的な特徴によって関係をつけることである。
森本は敬太郎ともっとも遠い社会的地位におり、敬太郎の認識能力の限界の彼方にいる。この距離の大きさは漱石の社会認識の深さを示している。漱石の作品では後期になるほど下層の人物の精神とインテリ的な主人公との距離が大きくなる。
「二人の間に出来た子供の死んだ話も聞いた。「餓鬼が死んで呉れたんで、まあ助かつたやうなもんでさあ。山神の祟には実際恐れを作してゐたんですからね」と云つた彼の言葉を、敬太郎は未だに覚えてゐる。其時しかも山神が分らなくつて、何だと聞き返したら、山の神の漢語ぢやありませんかと教へられた可笑さ迄まだ記憶に残つてゐる。夫等を思ひ出しても、敬太郎から見ると、凡て森本の過去には一種ロマンスの臭が、箒星の尻尾の様にぼうつと掩被さつて怪しい光を放つてゐる。」
敬太郎の関心は子供が死ぬことや、それを助かったと言う森本の生活や精神の内容に届かない。森本の話の中で山神という言葉の使い方だけに面白さを感じるのがインテリ的な敬太郎の関心の限界である。敬太郎には貧相な体格をし、現在免職の危機にある森本が気楽に見える。敬太郎は森本の免職の話を「話が理に落ちて面白くない」と感じている。森本に資本主義社会の本質を経験的にたたき込む免職は、大学を出てこの脅威から相対的に遠い世界にいる敬太郎の精神にとって現実的な意義を持たない。職を探している点では森本と同じであるがエリートである敬太郎の困難は一時的である。「南洋の蛸狩」や「新嘉坡の護謨林栽培」等の非現実な空想に関心を持つ敬太郎は「平凡を忌む浪漫趣味の青年」とされている。
「『貴方なんざあ、失礼ながら、まだ学校を出た許で本当の世の中は御存じないんだからね。いくら学士で御座いの、博士で候のつて、肩書ばかり振り廻したつて、僕は慴えない積だ。此方やちやんと実地を踏んで来てゐるんだもの」と、さつき迄教育に対して多大の尊敬を払つてゐた事は丸で忘れた様な風で、無遠慮な極め付け方をした。さうかと思ふと噫の様な溜息を洩らして自分の無学をさも情なささうに恨んだ。
「まあ手つ取り早く云やあ、此世の中を猿同然渡つて来たんでさあ。斯う申しちや可笑しいが、貴方より十層倍の経験は慥かに積んでる積です。それでゐて、未だに此通り解脱が出来ないのは、全く無学即ち学がないからです。尤も教育があつちや、斯う無暗矢鱈と変化する訳にも行かないやうなもんかも知れませんよ』」
エリートである敬太郎と「実地を踏んで来てゐる」森本の人生の対立は代助と平岡の対立を継承している。敬太郎に対する森本の真面目な言葉は酒の勢いで初めて出てきた。彼らは没交渉の精神として対比されており、平岡と代助にあった思想的対立関係もここにはない。教育が保証するエリートの地位は具体的内容に富んだ森本の経験と精神を理解する能力を失わせる。しかも森本は敬太郎の階級的優位の観点から評価すれば自分の経験が「世の中を猿同然渡つて来た」ことになることを理解している。敬太郎のエリート的地位に対する森本の優位は明確ではないがこの作品ですでに描かれはじめている。
「だが田川さん、世の中には大風に限らず随分面白い事が沢山あるし、又貴方なんざあ其面白い事に打つからう打つからうと苦労して御出なさる御様子だが、大学を卒業しちやもう駄目ですよ。いざとなると大抵は自分の身分を思ひますからね。よしんば自分でいくら身を落す積で掛つても、まさか親の敵討ぢやなしね、さう真剣に自分の位地を棄てゝ漂浪するほどの物数寄も今の世にはありませんからね。第一傍がさう為せないから大丈夫です」
森本は敬太郎の好奇心を真面目に扱っていない。大学を出ては森本の言う世の中の面白いことを経験できないことが階級的な制限として断定されている。森本と敬太郎の階級的分離は主体的な意志では越えられないことを前提し、現実との関係における森本の優位が確信されている。認識能力に対する地位の規定性は決定的である。敬太郎の地位に規定された森本の生活に対する関心はどんな形態をとっても好奇心の域を出ない。それが敬太郎の現実認識の限界である。
「敬太郎は此失踪者の友人として、彼の香ばしからぬ行為に立ち入つた関係でもあるかの如く主人から取扱はれるのを甚だ迷惑に思つた。成程事実をいへば、つい此間迄或意味の嘆賞を懐にして森本に近づいてゐたには違ないが、こんな実際問題に迄秘密の打ち合せがあるやうに見做されては、未来を有つ青年として大いなる不面目だと感じた。・・・
「僕はね、御承知の通り学校を出た許でまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、是でも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のやうな浮浪の徒と一所に見られちや、少し体面に係はる。』」
敬太郎の森本に対する「或意味の嘆賞」は些細な実際問題で修正される。敬太郎の学歴は社会的威力を持っており、敬太郎は生活上の利害に関われば森本との関係を否定する。こうした日常的な利害関係の経験の蓄積によって敬太郎は青年期を脱し、社会人としての具体的階級的精神を形成する。敬太郎のこの階級的利害は彼の性格や意図とは独立した、彼の精神を規定する客観的本質である。敬太郎の意識がこの地位による規定を越えることはできないという端的な描写はこれまでの作品の成果による高度の規定である。漱石はこの現実認識に基づいてこれからの作品で非常に大きな成果を上げている。
「敬太郎に須永といふ友達があつた。是は軍人の子でありながら軍人が大嫌で、法律を修めながら役人にも会社員にもなる気のない、至つて退嬰主義の男であつた。少くとも敬太郎にはさう見えた。尤も父は余程以前に死んだとかで、今では母とたつた二人ぎり、淋しいやうな、又床しいやうな生活を送つてゐる。父は主計官として大分好い地位に迄昇つた上、元来が貨殖の道に明らかな人であつた丈、今では母子共衣食の上に不安の憂を知らない好い身分である。彼の退嬰主義も半ばは此安泰な境遇に慣れて、奮闘の刺戟を失つた結果とも見られる。といふものは、父が比較的立派な地位にゐた所為か、彼には世間体の好い許でなく、実際為になる親類があつて、幾何でも出世の世話をして遣らうといふのに、彼は何だ蚊だと手前勝手許並べて、今以て愚図々々してゐるのを見ても分る。」
須永のように生活に余裕のある人物は社会に出る可能性をより多く持ちながら余裕のためにそれを拒否しているように思われる。余裕のある地位にいる者自身もこのように考える。しかしそれは須永の表面的な観察であり須永の現実はまったく違った矛盾を孕んでいる。現実には須永のように余裕のある地位にある者は自分の地位と状況を自由に選択しているのではない。敬太郎に自由と見える須永こそもっとも地位に規定された不自由な選択肢の限度内を生きている。須永は余裕のある生活に特有の矛盾を認識することによって「虞美人草」の甲野に内在する悲劇を体現し始める人物であり、退嬰主義とはまったくかけ離れた人物である。
「彼は此時忽ち森本の二字を思ひ浮かべた。すると其二字の周囲にある空想が妙に色を変へた。彼は物好にも自ら進んで此後ろ暗い奇人に握手を求めた結果として、もう少しで飛んだ迷惑を蒙むる所であつた。…と、斯う考へると、彼の空中に編み上げる勝手な浪漫が急に温味を失つて、醜くい想像から出来上つた雲の峯同様に、意味もなく崩れて仕舞つた。けれども其奥に口髭をだらしなく垂らした二重瞼の痩ぎすの森本の顔丈は粘り強く残つてゐた。彼は其顔を愛したいやうな、侮りたいやうな、又憐みたいやうな心持になつた。さうして此凡庸な顔の後に解すべからざる怪しい物がぼんやり立つてゐるやうに思つた。」
森本は敬太郎にも須永にも直接的には関係ない。しかし「恐らくはのたれ死といふ終りを告げる」森本は、敬太郎が観察するすべての人々の運命と多くの媒介項を経て本質的に関係している。敬太郎にとって森本が現実的な意味を持たず、ぼんやりした印象しか持たないとされているのは彼ら相互の距離の大きさを示している。須永の世界の具体的認識と、森本の世界との距離の理解は現実社会の認識の同一的な発展過程である。
「報告」では、恋愛の社会的理解の方法が解説されている。森本の残したステッキの謎や、占いや、田口の依頼による探偵事件等に対する敬太郎の関心は現実の人間関係に届かない。敬太郎はステッキを通して自分の行動に森本との関係をつけ、やはり空想によって、田口、松本、須永、千代子に関連をつけている。田口は敬太郎をからかって松本と千代子の関係について、どんな性質か、素人か玄人か、夫婦か兄弟か細君か情婦か、処女か細君か、夫婦ではないにしても肉体関係があるかどうか、等々と質問している。これは現象に対する表面的観察の実例であり、「主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹く」愚かなインテリの感じ得る面白さのレベルに対応している。
「肉と肉の間に起る此関係を外にして、研究に価する交渉は男女の間に起り得るものでないと主張する程彼は理論家ではなかつたが、暖たかい血を有つた青年の常として、此観察点から男女を眺めるときに、始めて男女らしい心持が湧いて来るとは思つてゐたので、成るべく其所を離れずに世の中を見渡したかつたのである。年の若い彼の眼には、人間といふ大きな世界があまり判切分らない代りに、男女といふ小さな宇宙は斯く鮮やかに映つた。従つて彼は大抵の社会的関係を、出来る丈此一点迄切落して楽んでゐた。停留所で逢つた二人の関係も、敬太郎の気の付かない頭の奥では、既に斯ういふ一対の男女として最初から結び付けられてゐたらしかつた。」
社会的な人間関係を経験していない敬太郎は男女関係を社会的関係としてではなく肉と肉の関係として観察している。敬太郎の関心は無経験で「暖たかい血を有つた青年の」自然な観察として「肉と肉の間に起る此関係を外にして、研究に価する交渉は男女の間に起り得るものではないと主張する」愚かなインテリと区別されている。この作品では須永と千代子の関係は「男女といふ小さな宇宙」とはっきり区別されるほど深く社会的に描かれている。漱石は無経験な若者や無能なインテリには「人間といふ大きな世界」と「男女といふ小さな宇宙」を区別することが困難であり、この作品が理解されないであろうことを予期している。
敬太郎の目には須永と千代子はよい夫婦になると思われる。しかし「知らない人から見ると一寸さう見えるでせうがね。裏面には色々複雑な事情もある様ですから」と言われる通りの深刻な対立関係が潜んでいる。停留所での敬太郎にとって松本と千代子の関係も秘密であった。この秘密は後に田口の説明で明らかになる。須永と千代子の関係には知らされていないという意味とは違った秘密がある。現象の背後に沈潜している法則が秘密である。須永はその秘密を理解しようと苦悩している。顕現しているすべての現象を分析することで須永と千代子の関係とは何か、須永とは何かを現象の背後に潜む客観的な法則として理解することが須永自身の課題である。
須永の父が早く死んだことは須永を規定する重要な要素である。それは父を失った不幸においてではなく、父の残した財産が須永から社会と接触する機会を奪った点においてである。須永は父の残した財産によって孤立状態を徹底することで孤立状態に内在する矛盾を純化し、それを自己の本質として認識しようとしている。
須永は自分を説明するためにまず家庭の状況を分析している。社会的活動から隔離されている須永にとって自分を理解するための主な材料は家庭の状況である。須永の狭い生活環境から彼を規定する本質的な社会的要素を抽出するのは非常に困難である。須永の自己認識は自分の出生の秘密に惑わされて容易に社会的本質に届かない。須永は現実社会からの孤立を確定するとともに自己懐疑に陥り、その結果自分の出生に対する疑惑を持つようになった。社会的孤立の自覚と、その克服のための自己認識の衝動が出生に対する疑惑として現象している。
「其時は夫で済んだが、両親に対する僕の記憶を、生長の後に至つて、遠くの方で曇らすものは、二人の此時の言葉であるといふ感じが其後次第々々に強く明らかになつて来た。何の意味も付ける必要のない彼等の言葉に、僕は何故厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見ても丸で説明が付かなかつた。」
須永が母の言葉に疑惑を持つ理由を秘密があったからとするのは愚かな同語反復である。出生の秘密を持つことと疑惑を持つことは直接的関係にない。須永の出生に対する疑惑は現時点での自己認識の試みである。現在の須永の社会的本質は千代子との関係で明らかになる。千代子との関係は須永が持つ主要な社会的関係である。千代子との関係に現象する須永の社会的本質を覆い隠すのが、母との関係と出生の秘密である。出生の秘密が須永の性格を規定しているのではなく、彼の現在の人間関係が出生の秘密に対する疑惑を生み出している。須永と母との関係は円満であり、家庭の状況には出生の秘密を問題にする原因がないこともはっきり書かれている。
須永は父と妹を亡くし、母と二人だけの愛情に満ちた生活をしている。須永は自分に対する愛情だけを支えに生きている母のためにできるだけのことをしたいと考えているが、須永が母の希望に沿えない二つの事情がある。それは社会的な成功と千代子との結婚である。須永はまず自分が社会的な成功を収められない事情を説明している。
「現に一度はある方面から人選の依託を受けた某教授に呼ばれて意向を聞かれた記憶さへ有つてゐる。夫だのに僕は動かなかつた。固より自慢で斯う云ふ話をするのではない。真底を打ち明ければ寧ろ自慢の反対で、全く信念の欠乏から来た引込み思案なのだから不愉快である。が、朝から晩迄気骨を折つて、世の中に持て囃された所で、何処が何うしたんだといふ横着は、無論断わる時から付け纏つてゐた。僕は時めくために生れた男ではないと思ふ。・・・
斯ういふ僕の我儘を我儘なりに通して呉れるものは、云ふ迄もなく父が遺して行つた僅ばかりの財産である。もし此財産がなかつたら、僕は何んな苦しい思をしても、法学士の肩書を利用して、世間と戦かはなければならないのだと考へると、僕は死んだ父に対して改ためて感謝の念を捧げたくなると同時に、自分の我儘は此財産のためにやつと存在を許されてゐるのだから余程腰の坐らない浅墓なものに違ないと推断する。さうして其犠牲にされてゐる母が一層気の毒になる。」
財産や地位の保護下にある状態を余裕だとか高尚だとか自由だと肯定的に評価するのは代助までである。須永は財産の庇護下にある自分の精神を信念の欠乏、横着、わがまま等々と否定的に評価している。須永は自分の意志が対立や困難の中で貫徹する力を持たず、財産に保護された範囲に限定されていることを理解し、自分の自由を腰の座らない浅はかなものだと言っている。社会に出て時めくことは批判の対象ではなく、財産のために不必要になり能力として不可能になったことが意識されている。これが須永の現象認識のレベルであり、自己認識の出発点である。
「僕は如何なる意味に於ても家名を揚げ得る男ではない。たゞ汚さない丈の見識を頭に入れて置く許である。さうして其見識は母に見せて喜こんで貰へる所か、彼女とは丸で懸け離れた縁のないものなのだから、母も心細いだらう。僕も淋しい。
僕が母に掛ける心配の数あるうちで、第一に挙げなければならないのは、今話した通りの僕の欠点である。然し此欠点を矯めずに母と不足なく暮らして行かれる程、母は僕を愛してゐて呉れるのだから、唯済まないと思ふ心を失なはずに、此儘で押せば押せない事もないが、此我儘よりももつと鋭どい失望を母に与へさうなので、僕が私かに胸を痛めてゐるのは結婚問題である。結婚問題と云ふより僕と千代子を取り巻く周囲の事情と云つた方が適当かも知れない。夫を説明するには話の順序として先づ千代子の生れない当時に溯ぼる必要がある。」
須永は財産によって社会から隔離された結果家名を揚げる能力を失ったことを自覚している。これは「それから」の代助の本質であった。代助の秘密であった社会的な無力を須永は自分の弱点として自覚しており、それは弱点であっても母にとっても須永自身にとっても本質的ではないとされている。しかし家名を揚げ得ないという須永の本質的な特徴は現実社会では人間関係上の複雑で無限的な内容を持っている。家名を揚げ得ないこととして現象する須永の社会的特徴が具体的にどのような意味を持つかを理解するのは非常に困難である。自分の無力を抽象的に無力として承認することと無力を具体的に理解することは違う。千代子との関係は須永の現実に対する無力を具体的に明らかにする人間関係である。
須永はまず千代子との古い絆が「頗る怪しい絆であつた」こと、更にお互いに男女としての愛情を感じていないことを理解している。しかし彼らの結婚には古い絆や男女としての愛情とは違った社会的問題が内在している。彼らの結婚がどのような問題を含んでいるかは須永自身にも明らかでない。母も須永も千代子との結婚について自分の主張を明確にしていない。須永にも母にもそれを明確にできない事情、それぞれ質の違う秘密を持っている。須永が「従妹は血属だから厭だと答へた」とわざわざ書いているのは母にとって血属でないことが千代子との結婚を勧める理由であることを示している。
「斯ういふ事情で、今迄母一人で懐に抱いてゐた問題を、其後は僕も抱かなければならなくなつた。田口は又田口流に、同じ問題を孵しつゝあるのではなからうか。仮令千代子を外へ縁付けるにしても、いざと云ふ場合には一応此方の承諾を得る必要があるとすれば、叔父も気掛りに違ひない。
僕は不安になつた。母の顔を見る度に、彼女を欺むいて其日々々を姑息に送つてゐる様な気がして済まなかつた。一頃は思ひ直して出来得るならば母の希望通り千代子を貰つて遣りたいとも考へた。僕は其為にわざわざ用もない田口の家へ遊びに行つて夫となく叔父や叔母の様子を見た。」
母が千代子が生まれると間もなく千代子を須永の嫁にと田口に頼んだのは須永の出生の秘密に関わる問題である。古風な精神を持つ彼女はそれを須永のためと思って現在も希望している。しかし「斯ういふ事情で、今迄母一人で懐に抱いてゐた問題を、其後は僕も抱かなければならなくなつた」という須永の言葉は真実ではない。過去の事情を知らされていない須永が千代子との結婚を問題にするのはまったく別の事情による。
須永は千代子との関係を明らかにするために母の希望を経由して、母の意志の形式をとって千代子に接近する。母の意志はすべて須永の意志である。母に対する愛情は母に想定された須永の価値観である。母の希望と須永の希望の対立は須永自身の内的な対立であるから、母との関係で決着されることはない。須永はまず母の希望や意志を想定し、その希望の現実性を確かめようとしている。須永と千代子の結婚で現実に問題になるのは社会的、階級的関係である。父の財産を消費することに人生を費やすことで社会的能力を失い、孤立しつつある須永の本質が、社会的に成功しつつある田口との関係で明らかになる。須永の母が須永と千代子の結婚を望むのは須永の成功や財産との結びつきを考えているからではない。したがって母には階級関係は反映せず、母は須永が持つ葛藤を持たない。
須永にとって家名を揚げることはすでに切実な欲望ではないし母の愛情の形式でも望まれていない。須永は千代子との結婚やそれによる田口の財産や出世を具体的に望んでいるわけではない。自分と千代子の関係の正体がわからないからこそ母の希望を経由して千代子に関心を持っている。須永は自分と千代子の関係で生ずる自分の感情に自分の本質、秘密があると感じている。彼は自分にも理解できない心理的葛藤に苦しんでおり、それを克服するために千代子と自分の関係を明らかにしようとしている。
「けれども彼等の娘の未来の夫として、僕が彼等の眼に如何に憐れむべく映じてゐたかは、遠き前から僕の見抜いてゐた所と、ちつとも変化を来さないばかりか、近頃になつて益其傾が著るしくなる様に思はれた。彼等は第一に僕の弱々しい体格と僕の蒼白い顔色とを婿として肯がはない積らしかつた。尤も僕は神経の鋭どく動く性質だから、物を誇大に考へ過したり、要らぬ僻みを起して見たりする弊がよくあるので、自分の胸に収めた委しい叔父叔母の観察を遠慮なく此所に述べる非礼は憚かりたい。たゞ一言で云ふと、彼等は其当時千代子を僕の嫁にしやうと明言したのだらう。少なくとも遣つても可い位には考へてゐたのだらう。が、其後彼等の社会に占め得た地位と、彼等とは脊中合せに進んで行く僕の性格が、二重に実行の便宜を奪つて、たゞ惚けかゝつた空しい義理の抜殻を、彼等の頭の何処かに置き去りにして行つたと思へば差支ないのである。」
無能なインテリはブルジョア的出世の可能性も能力もないことを出世の拒否だとか出世に対する批判意識だと感じる。インテリ的特質を他階級への優位だと考えていた初期作品と違って、自分のインテリ的特徴が田口に貧弱に見えることを須永は理解している。須永には「弱々しい体格と僕の蒼白い顔色」は知性の証明ではなく無力の証明に見える。須永はこの自己認識を彼の心理のあらゆる細部にわたって検証しようとしている。須永と千代子の過去の因縁による個人的関係に須永の社会的孤立と田口の成功という社会的な要因が入り込むことによって須永の心理の階級的な意味が具体的に描写されている。
孤立したインテリの無力は「それから」の代助で明らかにされていた。この作品の課題はその無力が具体的にどのような心理を生み出しているかを理解すること、あるいはインテリの様々の不毛な心理を社会的な孤立と無能を基礎にしてブルジョアとの関係で階級的に体系づけることである。須永は自分が田口家から評価されていないと感じているものの、それは須永の内的予測にすぎず現実に証明されていない。内的な予測と現実的な証明との間には非常に大きな溝がある。ここにこそ困難があり、この溝は具体的な認識によってしか越えられない。須永の抽象的自己認識を現実化し具体化するには厳しい現実的打撃を経験する必要がある。結婚問題が母を失望させると考えるのはそれが須永自身に自己否定的認識の現実化を強いるからである。千代子との結婚問題は須永の自己否定的認識の具体化を促進するための契機である。
「形式を具へない断りを云はれたと解釈した僕はしばらくして又席を立つた。
此事件後僕は同じ問題に関して母の満足を買ふための努力を益屑よしとしなくなつた。自尊心の強い父の子として、僕の神経は斯ういふ点に於て自分でも驚ろく位過敏なのである。勿論僕は其折の叔母に対して決して感情を害しはしなかつた。」
須永の自尊心は自分が田口家の娘に値するかどうかという評価に対して敏感である。漱石はこの自尊心を具体的に分析しようとしている。須永の自尊心は田口による拒否を現実的に経験することを回避しようとする臆病であり、彼の内部の古い価値観、つまり田口や千代子による肯定的評価への期待を意味している。拒否の予測は現在の須永を発展的に否定する新しい意識である。孤立し社会的に無用であることを確証し自己意識に定着させるには現実的な排除の意味を具体的に経験する必要がある。内的確信に止まるとき幻想が残る。幻想が現実化の衝動を持ち、それが少しでも障害に突き当たると自己保身的な自尊心が働き、確認を恐れる臆病な心理が展開する。
「僕は其時の千代子の言葉や様子から察して、彼女が僕の所へ来たがつてゐない事丈は、従前通り慥に認めたが、同時に、もし差し向ひで僕の母にしんみり話し込まれでもしたら、えゝさういふ訳なら御嫁に来て上げませうと、其場ですぐ承知しないとも限るまいと思つて、私かに掛念を抱いた位である。彼女はさう云ふ時に、平気で自分の利害や親の意思を犠牲に供し得る極めて純粋の女だと僕は常から信じてゐたからである。」
千代子と須永は基本的に結婚する可能性はない。しかし千代子の性格は須永と田口の間に横たわる階級的な溝を飛び越える可能性があると須永は予測している。須永の懸念は期待と恐れの両方を含んでいる。須永の意識の表面にはまず千代子が母の希望を受け入れることを恐れる気持ちが現れている。しかし須永は懸念を持ちつつも事態を確定するための行動を取らない。千代子との関係を断念することを望んでいるのか、関係の進展を望んでいるのか須永自身にとっても明確でない。この矛盾した心理の社会的特質を明らかにすることが、須永自身意識せずに客観的に目指している目的である。
「其時僕は適当な機会を利用してわざと叔父に「千代子さんの縁談はまだ纏まりませんか」と聞いた。それは固より僕が千代子に対して他意のないといふ事を示すためであつた。が又一方では、一日も早く此問題の解決が着けば、自分も安心だし、千代子も幸福だと考へたからである。」
「僕は果して叔父が斯う軽く此事件を解釈してゐるなら、母の為に少し弁じて遣らうかと考へた。が、もし是が世慣れた人の巧妙な覚らせ振だとすれば、一口でも云ふ丈が愚だと思ひ直して黙つた。叔父は親切な人で又世慣れた人である。彼の此時の言葉は何方の眼で見て可いのか、僕には今以て解らない。たゞ僕が其時以来千代子を貰はない方へ愈傾いたのは事実である。」
須永は自分で主体的に決着をつける努力をせず、自分の価値が現実に試される決定的な経験なしに事態が決着することを望んでいる。しかしそれも矛盾した一方の心理であって須永は千代子の関係が自分との関係において決着することを必要としている。須永は自分と関わりのない千代子の結婚を暗に望むだけである。田口家や千代子との人間関係が自分と関わりなく断絶することは須永の価値を決定する契機にならない。それは須永が千代子との関係によって自分を理解する機会を失うことである。
須永の現実社会における無価値は客観的にはすでに確定している。しかし現実的人間関係における自分の肯定的役割を諦めるのは困難である。多少でも可能性があれば自分の積極性を肯定する欲望は抑えきれない。須永の実践的傾向は田口家の拒否を受け入れる傾向を持ち、その認識を阻むのが希望や自尊心や母の価値観という形式をとった古い意識である。須永の本質的利益と能力の発展は彼に残された希望や自尊心を破壊することである。自尊心の維持と破壊の欲望がせめぎあっている。インテリ的な希望や自尊心は現実的な幻滅の経験によってのみ破壊される。現実的経験によって厳しく破壊されない限り幻想と希望が残り不可解な、不快な葛藤に悩まされる。須永の苦悩によって彼に残る自尊心を破壊することが如何に困難であり、如何に重要であるかが理解できる。  
2

 

「本当の所をいふと、僕には少し陽気過ぎたのである。従つて腹の中が常に空虚な努力に疲れてゐた。鋭どい眼で注意したら、何処かに偽の影が射して、本来の自分を醜く彩つてゐたらうと思ふ。其内で自分の気分と自分の言葉が、半紙の裏表の様にぴたりと合つた愉快を感じた覚が唯一遍ある。」
陽気さに疲れ、腹の中が空虚な努力に疲れることは社会的に孤立したプチブルによくある心理である。積極的な能力を失い、信頼関係を形成できないことを経験的に理解している須永は端的で素直な欲望や意志を持てなくなっている。無力な須永は自分に対する評価を気に掛けるだけで自分の能力を証明することができない。須永は自分に対する否定的証明を恐れて積極的人間関係を回避しようとする。無能と判断されることも期待されることも不安である。さらに須永は自分の能力の限界を理解しながらそれをまだ現実として確定しておらず、自分の価値に対する肯定的評価を棄てきれない状態に生ずる空虚な葛藤に苦しみ、それを解消したいと考えている。
須永は千代子が病気のために消極的な気分になっているとき、あるいは須永がそう感じたときに内的な葛藤を逃れて平安な心理を得ている。これが自己肯定的な心理であることは初期作品を経過してきた漱石にとって前提であり、須永にとっては千代子との一致は重要な意味を持たない。千代子に素直に接するとは自分の無力を意識せずに接することである。しかし須永にとって自分の無力を具体的に認識すること、つまり千代子との関係で生じる素直でない心理的葛藤を発展させることが基本的傾向である。
須永と千代子はかつて端的な関係にあった。現在は須永の端的な感情が失われ二重性が形成されている。社会的に孤立し積極的な能力を失った結果千代子との関係に距離を生じ、距離を感じさせられ、内面的な二重性を形成するのは須永である。この二重性は千代子や田口に評価される力量をつけるか、千代子や田口に評価される可能性のないことを現実として受け入れることで解消される。須永が田口に評価される能力を蓄積する可能性はない。そのような欲望がすでに解消されている。須永の発展の方向は田口に評価される可能性のないことを現実として認識することだけである。それは須永の階級的必然性の認識である。
「今迄自分の安心を得る最後の手段として、一日も早く彼女の縁談が纏まれば好いがと念じてゐた僕の心臓は、此答と共にどきんと音のする浪を打つた。さうして毛穴から這ひ出す様な膏汗が、脊中と腋の下を不意に襲つた。千代子は文庫を抱いて立ち上つた。障子を開けるとき、上から僕を見下して、「嘘よ」と一口判切云ひ切つた儘、自分の室の方へ出て行つた。
僕は動く考もなく故の席に坐つてゐた。僕の胸には忌々しい何物も宿らなかつた。千代子の嫁に行く行かないが、僕に何う影響するかを、此時始めて実際に自覚する事の出来た僕は、それを自覚させて呉れた彼女の翻弄に対して感謝した。僕は今迄気が付かずに彼女を愛してゐたのかも知れなかつた。或は彼女が気が付かないうちに僕を愛してゐたのかも知れなかつた。---僕は自分といふ正体が、夫程解り悪い怖いものなのだらうかと考へて、しばらく茫然としてゐた。」
財産や地位に対する批判意識の背後には地位や財産に対する執着が潜んでいた。田口家との関係の断絶が確定している須永は偶然的な千代子の言葉によって千代子に対する積極的関心を自分で発見している。千代子に対する積極的関心がすでに失われつつある意識であることと、それが容易に解消できない心理であることが描かれている。自分の不可解な心理の動きに苦しんでいる須永にとって、自分の内部に千代子に対する積極的関心が根強く残っていることを発見したことは自分を理解するための重要な材料になる。須永は千代子との関係で現れる心理のうちで千代子に対する積極的関心に代表される、現状を肯定しようとする精神を関心の対象とするほど自己肯定的な心理から遠ざかっている。この精神を具体的に捉え、この精神の残滓を徹底して払拭するのが須永の傾向である。田口との関係を反映する様々の心理は田口の地位や財産に対する直接的な関心と違って須永自身の階級的本質としての根強い心理であり、具体的な段階を経て払拭しなければならない。
「斯ういふ光景が若し今より一年前に起つたならと僕は其後何遍も繰り返し繰り返し思つた。さう思ふ度に、もう遅過ぎる、時機は既に去つたと運命から宣告される様な気がした。今からでも斯ういふ光景を二度三度と重ねる機会は捉まへられるではないかと、同じ運命が暗に僕を唆のかす日もあつた。成程二人の情愛を互ひに反射させ合ふためにのみ眼の光を使ふ手段を憚からなかつたなら、千代子と僕とは其日を基点として出立しても、今頃は人間の利害で割く事の出来ない愛に陥つてゐたかも知れない。たゞ僕はそれと反対の方針を取つたのである。」
須永の孤立的人生が確定せず自己認識が未成熟であったときは、千代子との関係を男と女の愛情だけで決定し、その後の運命を成り行きに任すこともできた。しかし須永は千代子と自分の距離を苦い経験によって思い知らされる前に内的反省によって認識し始めた。人間関係の必然性を自分の方針とした。深刻な自己批判に基づいて自分と千代子の結びつきはあり得ないこと、愛情だけに頼って個人的な結びつきを求めても悲劇に終わることを理解した。須永は自分と千代子が他の事情を別にした二人だけの関係としては一緒になる見込みのないものとはっきり理解している。須永はダヌンチオがプレゼントしたハンカチを火の中に投げ込んだ少女の実例によって自分の好意が裏切られたときの打撃を説明している。実際の力を求めて止まない千代子のような端的な性格との関係は須永の無力のために必ず破綻する。千代子が自分と結婚すれば幻滅し軽蔑することを予測する能力のある須永はその結果に対する恐怖から千代子と結婚することはできない。それを自己の必然性として確定し認識することが須永の課題である。
須永は千代子を「猛烈過ぎる」と評価する松本の評価を「眼識に疑を挟さみたくなる」と否定し、千代子を肯定的に評価し直している。
「千代子の言語なり挙動なりが時に猛烈に見えるのは、彼女が女らしくない粗野な所を内に蔵してゐるからではなくつて、余り女らしい優しい感情に前後を忘れて自分を投げ掛けるからだと僕は固く信じて疑がはないのである。彼女の有つてゐる善悪是非の分別は殆んど学問や経験と独立してゐる。たゞ直覚的に相手を目当に燃え出す丈である。夫だから相手は時によると稲妻に打たれた様な思ひをする。当りの強く烈しく来るのは、彼女の胸から純粋な塊まりが一度に多量に飛んで出るといふ意味で、刺だの毒だの腐蝕剤だのを吹き掛けたり浴びせ掛けたりするのとは丸で訳が違ふ。其証拠にはたとひ何れ程烈しく怒られても、僕は彼女から清いもので自分の腸を洗はれた様な気持のした場合が今迄に何遍もあつた。気高いものに出会つたといふ感じさへ稀には起した位である。」
松本の見識は初期作品の「我」の強い女性に対する批判的評価である。須永はそれを自分との関係で自己否定的、対象肯定的評価に変更している。千代子の端的で積極的な性格を、自分の無力を暴露されることを恐れる臆病から否定的に評価すれば毒を含むという解釈になる。それは彼女との関係で生じる自分の二重性を単純で純粋な相手に対象化したものである。自分の二重性や無力を理解している須永は自分と千代子の関係を初期作品と逆に理解している。それが現実の人間関係をより正確に反映したより現実的な自己認識である。
須永は千代子を肯定的に評価しているにもかかわらず結婚できない理由を次のように深く分析している。千代子の肯定的評価は否定的自己認識であり、千代子と自分の分離の必然性を受け入れることを意味している。
「是程好く思つてゐる千代子を妻として何処が不都合なのか。−−実は僕も自分で自分の胸に斯う聞いた事がある。其時理由も何もまだ考へない先に、僕はまづ恐ろしくなつた。さうして夫婦としての二人を長く眼前に想像するに堪へなかつた。…
僕は常に考へてゐる。「純粋な感情程美くしいものはない。美くしいもの程強いものはない」と。強いものが恐れないのは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪へられないだらう。其光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。僕は屹度其光の為に射竦められるに極つてゐる。それと同程度或はより以上の輝くものを、返礼として彼女に与へるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰つても、それを味はひ尽くす資格を持たない下戸として、今日迄世間から教育されて来たのである。
千代子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい天賦の感情を、有るに任せて惜気もなく夫の上に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違ひない。年の行かない、学問の乏しい、見識の狭い点から見ると気の毒と評して然るべき彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで、肉眼で指す事の出来る権力か財力を攫まなくつては男子でないと考へてゐる。単純な彼女は、たとひ僕の所へ嫁に来ても、矢張さう云ふ働き振を僕から要求し、又要求さへすれば僕に出来るものとのみ思ひ詰めてゐる。二人の間に横たはる根本的の不幸は此所に存在すると云つても差支ないのである。僕は今云つた通り、妻としての彼女の美くしい感情を、さう多量に受け入れる事の出来ない至つて燻ぶつた性質なのだが、よし焼石に水を濺いだ時の様に、それを悉く吸ひ込んだ所で、彼女の望み通りに利用する訳には到底も行かない。もし純粋な彼女の影響が僕の何処かに表はれるとすれば、それは幾何説明しても彼女には全く分らない所に、思ひも寄らぬ形となつて発現する丈である。万一彼女の眼に留まつても、彼女はそれをコスメチツクで塗り堅めた僕の頭や羽二重の足袋で包んだ僕の足よりも難有がらないだらう。要するに彼女から云へば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、次第々々に結婚の不幸を嘆くに過ぎないのである。」
須永は千代子の客観的な姿を認識しようとしているのではない。須永は千代子との関係で自己認識の対象化としての千代子像を形成している。対象認識が対象の客観性に届かず、自己の対象化に止まるのはこれまでの作品すべての特徴であるが、須永は対象肯定的で自己否定的である点でこれまでの作品と違っている。須永は自分の能力が千代子にふさわしくないとする観点から千代子を高く評価している。千代子の肯定的評価は千代子との関係の分離を反映している。このような分離がインテリに特有の独立性である。千代子に対する批判的評価は千代子との関係で自己を肯定することである。千代子批判には自分が千代子を拒否するという錯誤があり、それは千代子に受け入れられることを自分の価値とした上での拒否である。須永の場合は独立が先行している。須永は千代子をよく思っているにもかかわらず妻にできないのではなく、妻にするのが不都合なことが厳しく意識されていることによって千代子は高く評価されている。対象肯定的で自己否定的な現実認識は分離の必然性の認識の結果である。
須永は純粋でなく美しくなく弱く臆病である。それは千代子の価値観における積極性に応えられないことである。千代子の純粋さや単純さとは地位や財力を求めることであり、その能力を須永が持つと幻想することである。須永は千代子の評価を幻想だと理解しつつその幻想が破れることを恐れている。それは地位や財産を得る能力がないことを自分の必然として受入れ、さらにその必然性の反映として地位や財産を自分の価値観として必要としないことを確定できないことを意味している。須永は幻想を維持するための努力にも疲れて幻想の崩壊を望むほどに幻想の崩壊の必然性を反映した意識を形成している。しかし実世間で権力か財力を手にすることを求められればその面での須永の無力は明らかになる。須永の立場に形成された独自の精神的獲得物は千代子にはもちろん彼の世界の誰にも理解されない。その能力は須永の階級の自己否定であるから自己肯定的な意識すべての軽蔑の対象になる。自己肯定的意識である愚かな自惚れの方がまだ千代子には理解できる。インテリの無知な自惚れを解消し自分の無力を知った須永の精神的価値は千代子には理解できない。千代子の須永に対する幻想は須永が現在獲得しつつある高度の意識と対立関係にある。これは初期作品に描かれた想定的な対立と違って現実的な対立形態であり、その結果は須永にとって孤立と田口や千代子との対立という厳しい現実を受入れることになる。その厳しい現実を受け入れることができるか、その能力を持つかどうかが、千代子との分離千代子の自分に対する幻想を破ることができるかどうかを決定するための須永の主体的な条件である。
「僕に云はせると、恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思ひ切つた事の出来ずに愚図々々してゐるのは、何より先に結果を考へて取越苦労をするからである。千代子が風の如く自由に振舞ふのは、先の見えない程強い感情が一度に胸に湧き出るからである。彼女は僕の知つてゐる人間のうちで、最も恐れない一人である。だから恐れる僕を軽蔑するのである。僕は又感情といふ自分の重みで蹴爪付きさうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く憐れむのである。否時によると彼女の為に戦慄するのである。」
詩人とか哲人とか恐れるとか恐れない等々の抽象的な自己批評は松本に触発された形式的規定である。須永はまだ自己認識を確定していない。愚図々々するのが取り越し苦労をするからだとか、自由なのは強い感情が一度に湧き出るからだというのは、同じことを別の形式で表現した上で因果関係で結ぶ同語反復である。積極的な千代子が「蹴爪付く」というのも同類の表現である。初期作品によく見られたこうした形式規定を漱石はすでに認めていない。それが敬太郎の感想として書き込まれている。
「須永の話の末段は少し敬太郎の理解力を苦しめた。事実を云へば彼は又彼なりに詩人とも哲学者とも云ひ得る男なのかも知れなかつた。然し夫は傍から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身は決して何方とも思つてゐなかつた。従つて詩とか哲学とかいふ文字も、月の世界でなければ役に立たない夢の様なものとして、殆んど一顧に値しない位に見限つてゐた。其上彼は理窟が大嫌ひであつた。右か左へ自分の身体を動かし得ない唯の理窟は、いくら旨く出来ても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であつた。従つて恐れる男とか恐れない女とかいふ辻占に似た文句を、黙つて聞いてゐる筈はなかつたのだが、しつとりと潤つた身の上話の続きとして、感想が其所へ流れ込んで来たものだから、敬太郎も能く解らないながら素直に耳を傾むけなければ済まなかつたのである。」
敬太郎の感想は正しく、須永の自己分析はこれ以上進展しない。恐れる男とか恐れない女という言葉は須永の自己分析が行き詰まっていることを示している。須永もそれを意識して「話が理窟張つて六づかしくなつて来たね」と言っている。
ここまでは「それから」以前の作品の総括を意味する須永自身の自己認識の記録である。須永の自己認識はまだ自分の客観的状態に届かない。彼の自己認識として現れた意識は彼の意識上の限界であり保守的部分を示している。漱石はここから須永の自己認識の上に、須永自身の認識を越えた須永の行動と人間関係の展開を描写している。須永の具体的経験は須永の自己認識より多くを語る。須永は常に自己認識を越えて行動しており、その行動の結果によってさらに自己認識を深める過程を繰り返している。高木と千代子をめぐる具体的人間関係によって須永の自己認識と客観的法則との関係が明らかになる。
須永は鎌倉に行くことについても矛盾した欲望を持った上で結局積極的に行く方を選んでいる。この行動の意義は須永には明らかでない。
「変窟な僕からいふと、さう混雑した所へ二人で押し掛けるのは、世話にならないにしても気の毒で厭だつた。けれども母は行きたい様な顔をした。さうして夫が僕の為に行きたい様な顔に見えるので僕は益厭になつた。が、とゞの詰りとうとう行く事にした。斯う云つても人には通じないかも知れないが、僕は意地の強い男で、又意地の弱い男なのである。」
千代子のいる鎌倉へ行きたくないという須永の表面的な意識と、それでもなお行く実践的選択の矛盾が須永の本質であり、実践的選択は自己否定的傾向である。彼が挙げる行動の理由は彼の認識の限界内部での思いつきである。瑣末な状況によって単純に動揺することにおいて強くもあり弱くもあるのが意地の特徴である。意志と欲望が具体的な内容を持つ場合は意地は問題にならない。鎌倉に行くのは千代子との関係を決定し、実践的に自分の正体を理解する機会を求めることである。下らない動揺を克服する正しい方法は矛盾を発展させることである。須永は自分の行動の意義を理解できないが、自分にとって煩わしい矛盾の中に入る勇気が彼にはある。その勇気を生み出すほどに彼の自己否定的認識は進んでいる。
鎌倉では「浴衣掛の男」を見かけただけで須永らしい消耗的で内向的な葛藤が始まる。須永は日常的にこうした心理を抱えているわけではない。千代子と関わりのない母との生活では敬太郎が羨むほどの奥ゆかしい若旦那として静かに生きている。屈折した心理は千代子と接触するときに生まれる。須永は葛藤を求めて鎌倉に来たにもかかわらずこの結果を見てすぐに帰ろうとしている。しかし須永は結局この葛藤の中に止まる。須永は自分の不毛な葛藤を脱するために葛藤を求めたのであるから葛藤を嫌悪することと葛藤を求める基本的な傾向は矛盾しない。鎌倉に来て「浴衣掛の男」を見かけただけで帰ろうとし、結局止まるという葛藤を持つこと自体が須永の本質である。母や千代子には須永のこの心理が理解できない。須永の行動は須永自身にとっても理解し難く、容認し難く、端的に行動する千代子を羨んでいる。須永はこの屈折した、自分にも統御できない心理を克服するためにこの葛藤の中でその正体を理解しようとしている。彼は自分が鎌倉に止まった根拠を「要するに僕は千代子の捕虜になつたのである」と説明している。根拠は彼の思いつきであり自分の行動の必然性を須永は理解していない。
「夫程親しみの薄い、顔さへ見た事のない男の住居に何の興味があつて、僕はわざわざ砂の焼ける暑さを冒して外出したのだらう。僕は今日迄その理由を誰にも話さずにゐた。自分自身にも其時には能く説明が出来なかつた。たゞ遠くの方にある一種の不安が、僕の身体を動かしに来たといふ漠たる感じが胸に射した許であつた。それが鎌倉で暮らした二日の間に、紛れもないある形を取つて発展した結果を見て、僕を散歩に誘ひ出したのも矢張同じ力に違ひないと今から思ふのである。」
須永が鎌倉に出かけ、高木の住居をわざわざ見るのは「遠くの方にある一種の不安」に接してその正体を理解し、不安を取り除くためである。須永の不安は「遠くの方にある一種の不安」と表現されるに値する本質的な奥深い心理である。この不安の形態自体がすでに彼が高木との接触によって生じる矛盾を回避しないこと、この葛藤を求めていること、葛藤の展開の中にいることを自己認識の契機として求めていることを示している。
「彼は見るからに肉の緊つた血色の好い青年であつた。年から云ふと、或は僕より上かも知れないと思つたが、其きびきびした顔付を形容するには、是非共青年といふ文字が必要になつた位彼は生気に充ちてゐた。僕は此男を始めて見た時、是は自然が反対を比較する為に、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなからうかと疑ぐつた。無論其不利益な方面を代表するのが僕なのだから、斯う改たまつて引き合はされるのが、僕にはたゞ悪い洒落としか受取られなかつた。
二人の容貌が既に意地の好くない対照を与へた。然し様子とか応対振とかになると僕は更に甚しい相違を自覚しない訳に行かなかつた。…彼は自由に遠慮なく、しかも或程度の品格を落す危険なしに己を取扱かふ術を心得てゐたのである。…彼は十分と経たないうちに、凡ての会話を僕の手から奪つた。さうして夫を悉く一身に集めて仕舞つた。其代り僕を除け物にしないための注意を払つて、時々僕に一句か二句の言葉を与へた。」
高木の評価は千代子の評価と同じで高木自体を規定することが目的ではない。須永は自分と高木を比較して自分を否定的に評価している。高木自身の正確な規定ができないのは中間的立場の必然である。彼らが社会や人間を客観的に規定できるようになるには自己否定的認識が形成されていなければならない。彼らの自己認識とは自己の中間階級としての階級的無力を認識することである。高木に対する不当に肯定的な評価も正確な自己認識を得るために必要な過程であって、高木自体の正確な理解はその次の課題である。高木自体は複雑な規定を持つわけではない。須永にとっての自己認識が困難であり、自己認識が獲得されれば高木の批判的な認識は困難ではない。
須永の高木評価の特徴は自分のインテリ的特徴を否定的に評価することである。インテリの特徴に対する批判的認識がなかった初期作品では高木をこのように評価することは決してできなかったし、こうした人物を設定することもできなかった。ここに描かれた高木のすべての特徴はインテリの優位の観点からは無能や俗物として描かれる。小市民根性の根強い日本ではインテリの立場が社会的にもっとも積極的で高度の精神を持っているという幻想が現象的な意識であり、インテリの劣位が本質として発見されねばならない。ブルジョアに対するインテリの優位が無批判的な現実認識である。
高木を否定的に評価し自己を肯定的に評価するのは高木と現実に競争することなく自己を肯定するインテリ意識である。高木を肯定的に評価し、その特質が自分にないことを認識するのは自己内のブルジョア的価値観を廃棄するブルジョアとの分離的意識である。須永はすでに高木と競争して千代子と結婚することを望んでいるわけではない。須永にとって高木や千代子は自己認識の契機以上の価値はない。須永にとって客観的に存在する高木や千代子自体は問題ではなく、高木や千代子はブルジョア的精神一般としてのみ意味がある。須永に接するブルジョア的個性は須永の必然性によっていずれにせよ高木と同じように肯定的に評価される。須永にとって高木や千代子が自己否定のための契機としての意義を持つのは初期作品のブルジョア的な俗物がインテリを肯定する契機としてのブルジョア像であったのと同じである。須永にとっては自分よりブルジョア的価値観において優位にあるものだけが自分の葛藤の展開の契機として現実的意味を持っている。高木を肯定的に評価することで生ずる歪んだ心理は、高木を否定し、軽蔑し、嫌悪することよりはるかに現実的な精神である。初期作品での俗物に対する否定的精神はインテリ精神の表面的形態であり、彼らの精神の客観的構造とはまったく別であった。自己肯定していた初期作品は自己の社会的否定性を知らない段階の精神である。漱石はこの作品に至ってようやく端的な精神を理想とした初期作品の段階を克服し、僻み根性が高木と分離する傾向を反映した心理であるという肯定的側面を発見し、その側面を綿密に描いている。
「僕は初めて彼の容貌を見た時から既に羨ましかつた。話をする所を聞いて、すぐ及ばないと思つた。夫丈でも此場合に僕を不愉快にするには充分だつたかも知れない。けれども段々彼を観察してゐるうちに、彼は自分の得意な点を、劣者の僕に見せ付ける様な態度で、誇り顔に発揮するのではなからうかといふ疑が起つた。其時僕は急に彼を憎み出した。さうして僕の口を利くべき機会が廻つて来てもわざと沈黙を守つた。
落ち付いた今の気分で其時の事を回顧して見ると、斯う解釈したのは或は僕の僻みだつたかも分らない。僕はよく人を疑ぐる代りに、疑ぐる自分も同時に疑がはずには居られない性質だから、結局他に話をする時にも何方か判然した所が云ひ悪くなるが、若し夫が本当に僕の僻み根性だとすれば、其裏面には未凝結した形にならない嫉妬が潜んでゐたのである。」
ここでは須永の心理の順番に意味がある。須永はまず自分が高木に及ばないことを確認した後、高木の態度が高木の悪意に基づくのではないかと自己肯定的な意識を持つ。漱石は高木の自惚れに対する批判意識が高木の言動に基づくのではなく、須永の内部で形成された僻み根性であることを須永の心理の展開によって明らかにしている。しかしそれはこの作品の課題ではない。須永はこの疑問をも疑う状態にある。須永は自分に生まれる自己肯定的な意識にも自己否定的な意識にも自己を確定することができずに動揺し、さらにその動揺する心理状態に苦しんでいる。須永は自分の高木に対する評価が自分の僻みではないかとして自己分析を進め、その背後に嫉妬を認め、さらにこの嫉妬を分析している。これは嫉妬と呼ばれているが嫉妬ではない。高木や千代子と分離している須永には嫉妬といった積極的具体的関係を意味する精神は生まれない。
「僕は其時高木から受けた名状し難い不快を明らかに覚えてゐる。さうして自分の所有でもない、又所有にする気もない千代子が源因で、此嫉妬心が燃え出したのだと思つた時、僕は何うしても僕の嫉妬心を抑え付けなければ自分の人格に対して申し訳がない様な気がした。僕は存在の権利を失つた嫉妬心を抱いて、誰にも見えない腹の中で苦悶し始めた。」
須永の名状し難い不愉快は嫉妬ではない。嫉妬は積極的感情である。須永には嫉妬の根拠となる千代子に対する愛情がなく、高木と競争して千代子を得ようとするどんな欲望も持たない。彼にはまだこの心理が何であるか理解できない。これまでに嫉妬を感じたことがない須永がこれを嫉妬と想定しているだけである。現象としてはっきりしているのは千代子と高木に接することで歪んだ感情が触発されること、自分の言動が千代子に「相変らず偏窟ね貴方は。丸で腕白小僧見たいだわ」と言われるほど馬鹿げていることである。彼自身不愉快になるほど馬鹿げた感情が無意識的に強烈に沸いてくる。須永の心理が彼自身にも不愉快になるほど馬鹿げていることと、彼がこれを解消する段階にあることは同じである。プチブルの保守的な精神は肯定的な形式を持っている。あるいはプチブルの保守的な意識は自分を否定的な精神にまで発展させることができない。
「二人が斯んな話をしてゐる内、僕は殆んど一口も口を利かなかつた。唯上部から見て平生の調子と何の変る所もない母が、此際高木と僕を比較して、腹の中で何う思つてゐるだらうと考へると、僕は母に対して気の毒でも あり又恨めしくもあつた。同じ母が、千代子対僕と云ふ古い関係を一方に置いて、更に千代子対高木といふ新らしい関係を一方に想像するなら、果して何んな心持になるだらうと思ふと、仮令少しの不安でも、避け得られる所をわざと与へるために彼女を連れ出したも同じ事になるので、僕は唯でさへ不愉快な上に、年寄に済まないといふ苦痛をもう一つ重ねた。」
須永が母を媒介にして自己意識を展開していることがよくわかる描写である。須永は母に対しても高木を優位に置く価値観を想定している。須永と高木の能力を比較する必要のない母には須永が想定する比較や葛藤は生じない。自己の否定的側面から高木と比較するのは須永であり、「仮令少しの不安でも、避け得られる所をわざと与へるために」鎌倉に来て苦痛を味わっているのも須永自身である。これは彼だけに生じる葛藤であるから外には出せずに内的葛藤として須永に鬱積している。これが須永の行動の原動力になる。
「途中迄来た頃、千代子は思ひ出した様に突然留つて、「あつ高木さんを誘ふのを忘れた」と云つた。…
「最う遅いわよ貴方。高木さん、もし入らつしやる積なら屹度一人でも入らしつてよ。後から忘れましたつて詫まつたら夫で好かないの」…
高木は百代子の予言通りまだ汽車の着かないうちに急ぎ足で構内へ這入つて来て、姉妹に、何うも非道い、あれ程頼んで置くのにと云つた。」
須永はこうした高木や千代子の現実との接し方、人間関係の形成ができないことを意識して苦しんでいる。することを望まないのではなく、望んでもできないのであり、問題は何故できないかである。あるいはできないことには現実の人間関係としてどんな意味が含まれているかである。この平凡なインテリ的な心理には複雑で深刻な社会的意味が含まれている。
須永は非生産的、消耗的心理に悩まされ、これを解消したいと考えている。漱石はインテリによく見られる瑣末な自尊心の葛藤の実例をいくつか示して分析している。こうした瑣末な事件による不安定な心理の蓄積こそ須永の実践の目的であり、それを原動力に須永は決定的な認識を得るための実践的勇気を得ようとしている。それだけが彼に可能な方法であり、したがって合理的な方法である。須永が千代子との関係を一挙に解決する方法を取らないことは、須永の否定性の具体的な形態をすべて経由するという肯定的な側面をもっている。これがプチブルに特有の無謀と違った漱石特有の勇気であり度胸である。具体的な媒介項を飛躍した一挙の解決は須永の精神に具体的に定着しない。具体的な葛藤を蓄積することが真の飛躍の前提である。  
3

 

「閑静な膳に慣れた母は、此賑やかさの中に実際叔父の言葉通り愉快らしい顔をしてゐた。母は内気な癖に斯ういふ陽気な席が好きなのである。」
これは高木に対する「嫉妬」と同じである。須永は自分が不愉快な気分に悩まされている時に母が陽気にしているのが気に入らない。そして須永は自分が陽気になれないことを否定的に観察している。
「気楽さうに見える叔父は其内大きな鼾声をかき始めた。吾一もすやすや寐入つた。たゞ僕丈は開いてゐる眼をわざと閉ぢて、更ける迄色々な事を考へた。」
須永に色々なことを考えるのは和歌山に行った時の二郎と同じである。現実との関係が確定していないために生ずる非現実的な妄想の展開がインテリには思索的に見える。須永は自分の思索に価値を認めていない。こういう無力な心理的葛藤を逃れたいと考えている。思索を誇りながら一方で不毛な思索に疲れて端的な心理や人間関係を求めていた初期作品では、矛盾を避けること、ないと思い込むこと、都合よく解釈することが解決策とされていた。これは矛盾をなくすことではなく粉飾することであるから、再び激化した矛盾が現実化する。矛盾を取り込み展開することによって矛盾をより高度な矛盾に発展させる須永の方法が唯一の現実的な方法である。
「僕は一度振り返つて見たが、二人は後れた事に一向頓着しない様子で、毫も追ひ付かうとする努力を示さなかつた。僕には夫がわざと後から来る高木を待ち合せる為の様にしか取れなかつた。それは誘つた人に対する礼儀として、彼等の取るべき当然の所作だつたのだらう。然し其時の僕にはさう思へなかつた。さう思ふ余地があつても、さうは感ぜられなかつた。早く来いといふ合図をしやうといふ考で振り向いた僕は、合図を止めて又叔父と歩き出した。」
「彼は突然彼の体格に相応した大きな声を出して姉妹を呼んだ。自白するが、僕は夫迄に何度も後を振り返つて見やうとしたのである。けれども気が咎めると云ふのか、自尊心が許さないと云ふのか、振り向かうとする毎に、首が猪の様に堅くなつて後へ回らなかつたのである。・・・
叔父と僕は崖の鼻に立つて彼等の近寄るのを待つた。彼等は叔父に呼ばれた後も呼ばれない前と同じ遅い歩調で、何か話しながら上つて来た。僕には夫が尋常でなくつて、大いに巫山戯てゐる様に見えた。・・・」
「僕は此呑気な教へ方と、同じく呑気な聞き方を、如何にも余裕なくこせついてゐる自分と比べて見て、妙に羨ましく思つた。」
須永は下らない心理的経験を蓄積すると同時に対照的な端的な心理を観察することでも自分の葛藤に対する否定的評価を蓄積している。プチブルに見られるこの下らない心理を誤魔化すことなく自己の本質として直視するのが須永の精神の真摯さでありレベルの高さである。
「同時に此無意味な行動のうちに、意味ある劇の大切な一幕が、ある男とある女の間に暗に演ぜられつゝあるのでは無からうかと疑ぐつた。さうして其一幕の中で、自分の務めなければならない役割が若し有るとすれば、穏かな顔をした運命に、軽く翻弄される役割より外にあるまいと考へた。最後に何事も打算しないで唯無雑作に遣つて除ける叔父が、人に気の付かないうちに、此幕を完成するとしたら、彼こそ比類のない巧妙な手際を有つた作者と云はなければなるまいといふ気を起した。」
田口にも母にも千代子にも須永が想定する心理はない。高木や田口や千代子と接することで常に沸きだす憶測はインテリに特有の二重性である。須永はこの心理が無意味で非現実的であり、対象と関係しないことをすでに理解して苦しんでいる。しかし須永の葛藤はそれが無意味であることを理解しても解消されない。この心理を解消するには自己肯定的な意識に決定的な打撃を与えなければならない。須永はこの打撃を回避しようとする自己保身的な精神と闘いながらこの打撃を受け入れる努力をしている。
「僕は始めから千代子と一つ薄縁の上に坐るのを快よく思はなかつた。僕の高木に対して嫉妬を起した事は既に明かに自白して置いた。其嫉妬は程度に於て昨日も今日も同じだつたかも知れないが、それと共に競争心は未だ甞て微塵も僕の胸に萌さなかつたのである。僕も男だから是から先いつ何んな女を的に劇烈な恋に陥らないとも限らない。然し僕は断言する。若し其恋と同じ度合の劇烈な競争を敢てしなければ思ふ人が手に入らないなら、僕は何んな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして恋人を見棄てゝ仕舞ふ積でゐる。男らしくないとも、勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したら何うにでも評されるだらう。けれども夫程切ない競争をしなければ吾有に出来にくい程、何方へ動いても好い女なら、夫程切ない競争に価しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡かない女を無理に抱く喜こびよりは、相手の恋を自由の野に放つて遣つた時の男らしい気分で、わが失恋の瘡痕を淋しく見詰めてゐる方が、何の位良心に対して満足が多いか分らないのである。」
高木に対して競争心が起こらないこと、さらに一般に競争をするより敗北を選ぶことは須永の基本的傾向である。競争による積極的な関係の意義を経験できず、またその能力を蓄積しなかった須永は競争を否定的に評価し競争を回避している。競争を回避する理由は須永の思いつきに過ぎない。須永は自分の能力が競争において検証されることを恐れ、現状を維持することをそのままで認め合える人間関係を望んでいる。自分の価値を疑問を持つ須永には自分の価値に少しでも疑問を持つような女はいらないという自尊心が生まれる。「超然と手を懐ろにして」、自分が犠牲を忍び、相手を自由にしているという肯定的評価で自分の無力に耐えること、それを男らしいと呼ぶこと、こうした心理は多くの軟弱なインテリの苦しい自己弁護である。現実的敗北を経験することを避けるために敗北を自分の選択と解釈するのが彼らの自衛的自尊心である。須永が競争という言葉で否定的に表現している人間関係は一般に矛盾の中で発展する。人間関係は自分の価値や能力を発揮し発展させる場所である。資本主義的な競争が生み出す矛盾は須永の認識などまったく届かない遠い課題であり、須永はまず自分か競争に敗北する地位にあることを認識しなければならない。しかも財産によって社会的に孤立している須永は自分の無力を現実に接する機会を失ったままの状態で認識しなければならない。財産の庇護下で瑣末で不毛な葛藤の展開によって自己を破滅に導き、財産によって社会から隔離されている限り積極性を獲得できないという結論を得ることが須永の自己認識の発展過程である。
「僕は何故母が彼等の勧める儘に、人を好く落ち付いてゐるのだらうと、鋭どく磨がれた自分の神経から推して、悠長過ぎる彼女を歯痒く思つた。
高木には夫から以後ついぞ顔を合せた事がなかつた。千代子と僕に高木を加へて三つ巴を描いた一種の関係が、夫限発展しないで、其中の劣敗者に当る僕が、恰も運命の先途を予知した如き態度で、中途から渦巻の外に逃れたのは、此話を聞くものに取つて、定めし不本意であらう。僕自身も幾分か火の手のまだ収まらないうちに、取り急いで纏を撤した様な心持がする。と云ふと、僕に始からある目論見があつて、わざわざ鎌倉へ出掛けたとも取れるが、嫉妬心だけあつて競争心を有たない僕にも相応の己惚は陰気な暗い胸の何処かで時々ちらちら陽炎つたのである。僕は自分の矛盾をよく研究した。さうして千代子に対する己惚を飽迄積極的に利用し切らせない為に、他の思想やら感情やらが、入れ代り立ち替り雑然として吾心を奪ひに来る煩らはしさに悩んだのである。」
母は須永と同じ葛藤を持たない。千代子と須永と高木が三つ巴の関係になったこともない。中途から渦巻きの外に逃れたというのは須永が自分の内的葛藤から逃れたことだけを意味する。客観的にはブルジョア的財産に関わる結婚において高木と須永が競争することはあり得ない。高木や田口は須永を問題にしていない。高木との競争も競争の回避も須永の空想の中でのみ生じる。須永は自分の内的葛藤に耐えきれなかったことを不本意と感じている。しかしいくら物足りなくても須永には千代子との関係をこれ以上進展させることはできない。須永には千代子に接近するための具体的な欲望も、したがって具体的な行動もない。須永は千代子との接近で可能な葛藤をすべて経験し、しかもそれ以上の展開がないことを理解して東京に帰ったことになる。
ブルジョア的果実に望みを持たない須永を悩ますのは須永の精神に反映したブルジョア的価値観である。千代子との結婚をめぐるブルジョア的競争で須永が優位に立つことはあり得ない。須永の課題は彼の内部に存在する高木や千代子、即ちブルジョア的価値観の払拭である。しかしブルジョア的価値観における自己否定は田口や千代子との分離を意味しており、その結果は自己の社会的価値の否定であり社会的孤立である。だから動揺は必然である。この動揺の意義を理解できずに、単に動揺として批判するのは代助ないし初期作品への後退である。初期作品の人物が自己確信を持っていたのは自己とブルジョアの関係についての無知による。自己の没落を自己の本質として受け入れることが「門」を前にした漱石の覚悟であった。自己内のブルジョア的な価値観を否定することが全的な自己否定となるためにプチブルの立場からブルジョアを批判するのは非常に困難である。しかしこの困難な課題の後に始めてプチブルの自己肯定が可能になる。
「彼女は時によると、天下に只一人の僕を愛してゐる様に見えた。僕は夫でも進む訳に行かないのである。然し未来に眼を塞いで、思ひ切つた態度に出やうかと思案してゐるうちに、彼女は忽ち僕の手から逃れて、全くの他人と違はない顔になつて仕舞ふのが常であつた。僕が鎌倉で暮した二日の間に、斯ういふ潮の満干は既に二三度あつた。或時は自分の意志で此変化を支配しつゝ、わざと近寄つたり、わざと遠退いたりするのでなからうかといふ微かな疑惑をさへ、僕の胸に烟らせた。それ許ではない。僕は彼女の言行を、一の意味に解釈し終つたすぐ後から、丸で反対の意味に同じものを又解釈して、其実何方が正しいのか分らない徒づらな忌々しさを感じた例も少なくはなかつた。
僕は此二日間に娶る積のない女に釣られさうになつた。さうして高木といふ男が苟しくも眼の前に出没する限りは、厭でも仕舞迄釣られて行きさうな心持がした。僕は高木に対して競争心を有たないと先に断つたが、誤解を防ぐために、もう一度同じ言葉を繰り返したい。もし千代子と高木と僕と三人が巴になつて恋か愛か人情かの旋風の中に狂ふならば、其時僕を動かす力は高木に勝たうといふ競争心でない事を僕は断言する。夫は高い塔の上から下を見た時、恐ろしくなると共に、飛び下りなければ居られない神経作用と同じ物だと断言する。結果が高木に対して勝つか負けるかに帰着する上部から云へば、競争と見えるかも知れないが、動力は全く独立した一種の働きである。しかも其動力は高木が居さへしなければ決して僕を襲つて来ないのである。僕は其二日間に、此怪しい力の閃を物凄く感じた。さうして強い決心と共にすぐ鎌倉を去つた。」
高木は現実の高木ではなく須永の内部にある高木であり、彼が問題にしているのは自分自身である。須永が無意識的に問題にしているのはブルジョアにとっての自分の価値であり、彼の屈折した心理は高木や千代子との関係によってのみ生ずるから、その心理の正体を理解しようとする須永には高木や千代子は自己認識の契機として必要である。客観的には千代子が須永を愛しているという根拠はないし須永も千代子の愛情を求めていない。だから彼は偶然によって千代子が自分を愛していると感じても、彼女が自分を愛していないという想定が現れて実践的な力を削ぐことになる。須永も時にはこの動揺が千代子の意図した態度によるのではないかと馬鹿げた解釈を下すことはあるが、それはすでに須永にとってもっとも説得力を持たない偶然的な思いつきの一つである。
須永が言明しているように須永に高木との競争心はない。したがって「もし千代子と高木と僕と三人が巴になって恋か愛か人情かの旋風の中に狂ふならば」というのは非現実的な想定である。須永の認識内部においても高木との競争などあり得ないほど勝敗ははっきりしている。須永は自分の内面で競争の危機を想定することで自己内の高木との競争心を解消する以外にない。須永には高木との現実的な競争の機会はない。競争を経験できない者だけが非現実的な激しい競争を想定し、その激しさを自分が避けていると想定する。須永が経験している不毛な葛藤は激しい競争を経験できる場合は生じない。須永の不幸は財産の庇護下にあるために激しい競争に追い込まれる可能性がなく、その能力を形成する機会を持たなかったことである。激しい競争内部で生じる矛盾の解決は激しい競争を経験し、その必然的な否定形式を発見することによってのみ可能であり、競争から外れている須永の課題ではない。
「僕は強い刺戟に充ちた小説を読むに堪へない程弱い男である。強い刺戟に充ちた小説を実行する事は猶更出来ない男である。僕は自分の気分が小説になり掛けた刹那に驚ろいて、東京へ引き返したのである。だから汽車の中の僕は、半分は優者で半分は劣者であつた。比較的乗客の少ない中等列車のうちで、僕は自分と書き出して自分と裂き棄てた様な此小説の続きを色々に想像した。其所には海があり、月があり、磯があつた。若い男の影と若い女の影があつた。始めは男が激して女が泣いた。後では女が激して男が宥めた。終には二人手を引き合つて音のしない砂の上を歩いた。或は額があり、畳があり、凉しい風が吹いた。二人の若い男が其所で意味のない口論をした。それが段々熱い血を頬に呼び寄せて、終には二人共自分の人格に拘はる様な言葉使ひをしなければ済まなくなつた。果は立ち上つて拳を揮ひ合つた。或は……。芝居に似た光景は幾幕となく眼の前に描かれた。僕は其何れをも甞め試ろみる機会を失つて却つて自分の為に喜んだ。人は僕を老人見た様だと云つて嘲けるだらう。もし詩に訴へてのみ世の中を渡らないのが老人なら、僕は嘲けられても満足である。けれども若し詩に涸れて乾びたのが老人なら、僕は此品評に甘んじたくない。僕は始終詩を求めて藻掻いてゐるのである。」
強い刺戟とか弱い男といった形式規定には自分の具体的規定を避けようとする消極性が現れている。須永は自分の社会的特徴を規定できない。高木と千代子と須永には須永が想定するような関係は生じておらず、彼が空想するような対立関係もあり得ない。これは現実的矛盾に塗れることができない者の、自分を肯定するための想定である。無為な代助が処刑の場面を空想するのと同じ傾向である。こうした事態を避けるために身を引いたのではなく、身を引いたことを弁護するためにこうした空想を生み出した。須永には守るべき具体的な利益がなく、闘う必要がなく、したがって対立を闘い抜く勇気がない。千代子を愛しておらず、千代子との結婚を利害としても必要としていない須永に高木と激しく闘う意志も能力もあり得ない。須永の弱点は彼が危険を冒して闘って守るべき利益と、それを反映した具体的欲望、情熱を持たないことである。激しい対立を回避したことを自分の為に喜ぶのは実際憐れむべき心理である。そして須永がまだ干からびた老人ではなく、まだ詩を求めてもがいている段階にあることがこうした空想に現れているが、同時にそれは彼が干からびた老人になりつつあること、それ以外に可能性が残されていないことを物語っている。詩を求めてもがくことは干からびた老人でないことを証明するのではなく干からびた老人になる過程にあることを示している。誰もがこのようにもがきつつ精神を干からびさせて行く。
「僕は東京へ帰つてからの気分を想像して、或は刺戟を眼の前に控へた鎌倉にゐるよりも却つて焦燥つきはしまいかと心配した。さうして相手もなく一人焦燥つく事の甚しい苦痛を徒らに胸の中に描いて見た。偶然にも結果は他の一方に外れた。僕は僕の希望した通り、平生に近い落付と冷静と無頓着とを、比較的容易に、淋しいわが二階の上に齎らし帰る事が出来た。」
須永が鎌倉に刺激を求めて行ったことがここに書かれている。刺激に疲れた結果孤独な生活が平安に感じられる。須永は人間関係に接するとき不毛な葛藤に苦しめられる。だから人間関係から逃れることで葛藤のない平安を得られる。しかしこの冷静と無頓着は鎌倉での屈折した感情と同一である。人間関係を喪失した孤立状態の中で平安の不安から必然的に鎌倉での対立を望む心理が形成される。この繰り返しは須永が高木や千代子を相手に繰り返す葛藤の波長を大きくしただけで本質的には同じである。須永の精神の展開の形式は非常に限定されている。
「僕はかつて此男と小説の話をして、思慮の勝つたものは、万事に考へ込む丈で、一向華やかな行動を仕切る勇気がないから、小説に書いても詰らないだらうと云つた。僕の平生からあまり小説を愛読しないのは、僕に小説中の人物になる資格が乏しいので、資格が乏しいのは、考へ々々して愚図つく所為だらうと兼々思つてゐたから、僕はつい斯ういふ質問が掛けて見たくなつたのである。」
現実と積極的関係を形成し得ず現実から遊離した内的葛藤を引き起こすだけの人物を小説にしても詰まらないだろうという須永の感想は漱石のこの時期の小説の意義を示している。非現実的なインテリ精神が現実的影響力を持つと考えていた初期作品ではインテリ精神の社会的な影響力を構成する必要があった。その場合インテリの社会的積極性を強く想定するほど小説は滑稽になり芸術的価値を失う。インテリ精神の無力を理解した漱石は現実社会と分離した内省的な精神の展開を描写しなければならなくなった。漱石の作品の発展はインテリ精神の非現実性を描くことにおいて現実性と歴史性を獲得している。
「僕の頭は僕の胸を抑える為に出来てゐた。行動の結果から見て、甚しい悔を遺さない過去を顧みると、是が人間の常体かとも思ふ。けれども胸が熱しかける度に、厳粛な頭の威力を無理に加へられるのは、普通誰でも経験する通り、甚しい苦痛である。僕は意地張といふ点に於て、何方かといふと寧ろ陰性の癇癪持だから、発作に心を襲はれた人が急に理性の為に喰ひ留められて、劇しい自動車の速力を即時に殺す様な苦痛は滅多に嘗めた事がない。夫ですら或場合には命の心棒を無理に曲げられるとでも云はなければ形容しやうのない活力の燃焼を内に感じた。二つの争ひが起る度に、常に頭の命令に屈従して来た僕は、或時は僕の頭が強いから屈従させ得るのだと思ひ、或時は僕の胸が弱いから屈従するのだとも思つたが、何うしても此争ひは生活の為の争ひでありながら、人知れず、わが命を削る争ひだといふ畏怖の念から解脱する事が出来なかつた。」
これは人間一般の常態ではない。頭と胸の対立は現実と積極的関係を持ち得ないインテリ的精神に特有の葛藤である。現実社会から孤立した無力な彼らは現実社会に実践的に対処する前に形式的にのみ激しい頭と胸の葛藤に苦しむ。現実社会から遊離し孤立した彼らの理性も情熱も現実的な内容を持たず、実践的な力を持たない。彼らの頭と胸の葛藤の全体が現実と対立している。現実的な精神においては頭と胸、情熱と理性は一致しており対立関係にない。頭と胸の対立の苦悩の本質は現実に対する無力である。
「親友の命を虫の息の様に軽く見る彼は、理と情との間に何等の矛盾をも扞格をも認めなかつた。彼の有する凡ての知力は、悉く復讐の燃料となつて、残忍な凶行を手際よく仕遂げる方便に供せられながら、豪も悔ゆる事を知らなかつた。・・・僕は平生の自分と比較して、斯う顧慮なく一心に振舞へるゲダンケの主人公が大いに羨ましかつた。同時に汗の滴る程恐ろしかつた。出来たら嘸痛快だらうと思つた。出来した後は定めし堪へがたい良心の拷問に逢ふだらうと思つた。」
理と情の一致した状態が親友の命を虫の息の様に軽く見ることであることが彼らの理と情の非現実性を示している。親友の命を虫の息のように軽く見る主人公を想定するのは作家の精神の貧しさを示している。別の男を愛した女に復讐することは現実的でも実践的もない。現実との積極的な関係を失った陰気で臆病な精神だけが、現実になんら積極的な意義を持たない残忍な個人的復讐心を育てることができる。下らない非現実的な空想を現実化することはいっそう非現実的な精神である。プチブル的な陰気な空想を小説化したゲダンケのロマン主義的な小説に芸術的な価値はない。「非常に目覚しい思慮と、恐ろしく凄まじい思ひ切つた行動」を描いたゲダンケの小説は十分準備した上で冷静に復讐するだけの非現実的な空想小説である。歴史的法則を反映している須永の葛藤を描写したこの小説の意義はゲダンケのような空想的な展開に身を任せないことにある。漱石は現実に存在するプチブルの葛藤の法則を描いている。無行動の須永の描写の方が現実的であり、歴史的な意義を持っている。
「けれども若し僕の高木に対する嫉妬がある不可思議の経路を取つて、向後今の数十倍に烈敷身を焼くなら何うだらうと僕は考へた。然し僕は其時の自分を自分で想像する事が出来なかつた。始めは人間の元来からの作りが違ふんだから、到底も斯んな真似は為得まいといふ見地から、直此問題を棄却しやうとした。次には、僕でも同じ程度の復讐が充分遣つて除けられるに違ひないといふ気がし出した。最後には、僕の様に平生は頭と胸の争ひに悩んで愚図ついてゐるものにして始めて斯んな猛烈な凶行を、冷静に打算的に、且つ組織的に、逞ましうするのだと思ひ出した。僕は最後に何故斯う思つたのか自分にも分らない。たゞ斯う思つた時に急に変な心持に襲はれた。其心持は純然たる恐怖でも不安でも不快でもなく、夫等よりは遙かに複雑なものに見えた。が、纏つて心に現はれた状態から云へば、丁度大人なしい人が酒の為に大胆になつて、是なら何でも遣れるといふ満足を感じつゝ、同時に酔に打ち勝たれた自分は、品性の上に於て平生の自分より遙に堕落したのだと気が付いて、さうして堕落は酒の影響だから何処へ何う避けても人間として到底も逃れる事は出来ないのだと沈痛に諦らめを付けたと同じ様な変な心持であつた。」
須永はゲダンケの小説で引き起こされた自分の印象を分析してゲダンケとそれを肯定する自分を本質的に否定する結論に達している。須永はまず自分がゲダンケの小説の主人公と同じ行動をとれないと感じ、次には可能だと感じ、最後には愚図ついた精神だけがこうした空想を逞しくするのだと考え、この葛藤全体を自分の無力との同一性において否定的に評価している。理性を肯定するか情熱を肯定するかという葛藤に価値を認めること自体が非現実的な精神の肯定である。この葛藤全体が下らないものだとすることだけが自己否定的認識である。平生から愚図ついている精神は猛烈な凶行を想像することを好むと同時に下らない凶行を実践する可能性がある。危機に追い込まれた臆病な精神は自分の行為の現実的意義を理解できないために、現実的精神にはあり得ない凶行を実践する。彼らには無為でいるか馬鹿げた行動をとるかの選択肢しかない。無為を理性的だと評価し、下らない行動を情熱的だと評価するのは彼らの精神と行動の自己弁護である。彼らは理性的であることも情熱的であることもできない。
「今しがたゲダンケを読んだ自分と、今黒塗の盆を持つて畏まつてゐる彼女とを比較して、自分の腹は何故斯う執濃い油絵の様に複雑なのだらうと呆れたからである。白状すると僕は高等教育を受けた証拠として、今日迄自分の頭が他より複雑に働らくのを自慢にしてゐた。所が何時か其働らきに疲れてゐた。何の因果で斯う迄事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと考へて情なかつた。僕は茶碗を膳の上に置きながら、作の顔を見て尊とい感じを起した。」
須永はゲダンケを読む自分の心理が陰気でしつこいことを理解している。作にはこうした陰気でしつこい心理がない。それは作の精神が単純だからではなく現実的だからである。作の運命も精神も実際は須永が考えるほど単純ではない。作のような女には自分自身の生活と大抵の場合親や兄弟の運命がかかっている。現実的で深刻な人間関係の中に生きている作には具体的な判断力と欲望が形成される。人間関係の希薄な須永には現実的な意味を持たない単なる「考え」が生まれる。須永が教育によって蓄積した知識と知的能力は現実の人間関係から隔離された場合は、非現実的な空想を生み出す材料になるだけである。漱石は作に「あつても知慧が御座いませんから、筋道が立ちません。全く駄目で御座います」と作らしくない理屈っぽい言葉を言わせている。作がどれほど複雑な問題を労苦をもってこなしているかを須永は理解できない。須永にとって作は森本同様遠い存在である。須永と高木や千代子の対立の背後に森本や作がいる。作との階級的分離ははっきりしており、人間関係を生ずる可能性がない。したがって作は須永にとって遠い理想であり、現実的で切実な意味を持たない。作の印象による平安は千代子の登場によって簡単に廃棄される。須永にとって千代子との関係の方が積極的で重要な意義を持っている。森本や作が視野にあって初めて須永が高木と分離して自己認識を課題にできる。社会において高木や田口と現実的に対立しているのは森本であり、須永ではない。森本が視野にないとき高木と須永が対立していると誤解される。
「自白すれば僕は其所へ坐つて十分と経たないうちに、又眼の前にゐる彼女の言語動作を一種の立場から観察したり、評価したり、解釈したりしなければならない様になつたのである。僕はそこに気が付いた時、非常な不愉快を感じた。又さういふ努力には自分の神経が疲れ切つてゐる事も感じた。僕は自分が自分に逆らつて余儀なく斯う心を働かすのか。或は千代子が厭がる僕を無理に強ひて動く様にするのか。何方にしても僕は腹立たしかつた。」
須永は千代子との関係で生ずる葛藤に疲れている。それは彼自身が生み出す心理であるが、作や母や松本との関係によってではなく、千代子との関係によって初めて生じるので千代子が須永に強制しているように感じられる。しかも作との関係で平安を得た直後であるために平穏な心理に対照されて葛藤が非常に大きくなっている。作との関係による平安はこの葛藤の中へ踏み込む力を溜める意義を持っている。
「『高木は何うしたらう」といふ問が僕の口元迄屡出た。けれども単なる消息の興味以外に、何か為にする不純なものが自分を前に押し出すので、其都度卑怯だと遠くで罵られる為か、つい聞くのを屑よしとしなくなつた。夫に千代子が帰つて母丈になりさへすれば、彼の話は遠慮なく出来るのだからとも考へた。然し実を云ふと、僕は千代子の口から直下に高木の事を聞きたかつたのである。さうして彼女が彼を何う思つてゐるか、夫を判切胸に畳み込んで置きたかつたのである。是は嫉妬の作用なのだらうか。もし此話を聞くものが、嫉妬だといふなら、僕には少しも異存がない。今の料簡で考へて見ても、何うも外の名は付け悪いやうである。それなら僕が夫程千代子に恋してゐたのだらうか。問題がさう推移すると、僕も返事に窮するより外に仕方がなくなる。僕は実際彼女に対して、そんなに熱烈な愛を脈拍の上に感じてゐなかつたからである。すると僕は人より二倍も三倍も嫉妬深い訳になるが、或はさうかも知れない。然しもつと適当に評したら、恐らく僕本来の我儘が源因なのだらうと思ふ。たゞ僕は一言それに付け加へて置きたい。僕から云はせると、既に鎌倉を去つた後猶高木に対しての嫉妬心が斯う燃えるなら、それは僕の性情に欠陥があつたばかりでなく、千代子自身に重い責任があつたのである。相手が千代子だから、僕の弱点が是程に濃く胸を染めたのだと僕は明言して憚らない。では千代子の何の部分が僕の人格を堕落させるのだらうか。夫は到底も分らない。或は彼女の親切ぢやないかとも考へてゐる。」
千代子に対して自分の価値を守ろうとする自尊心が高木について端的に口にだすことを押し止めている。高木についての質問が彼にとって不純に見えるのは須永に不純な意図があるからではなく、高木と千代子に対して具体的利害や関心を持たないからである。須永は高木や千代子に対して具体的な欲望も具体的な関心も持たないにもかかわらず自己認識の契機として彼らに関わっている。しかも自分の行動の意味を自分で理解していないために「何か為にする不純なもの」をあれこれと想定しなければならない。相手に対する具体的関心がないにもかかわらず関心が生じていることに不純さが感じられる。
須永は自分と現実の関係、自分と田口家との関係を認識するために千代子の判断を直接聞く必要がある。千代子の高木に対する判断は須永自身に対する判断である。須永は千代子の自分に対する千代子の判断を恐れると同時に求めている。自分と千代子との客観的な関係を知ることが須永の関心である。愛情がないのであるから千代子に対する関心は嫉妬ではない。愛していないのに嫉妬するのはそれだけ嫉妬が強いなどというのは人間関係を説明する範疇として愛情という主観の形態しか知らない無能である。
須永が自分の心理を自分の本来の我儘だというのは、須永個人の関心であるという意味で正しい自己認識である。須永は自分を千代子から分離する過程で高木との比較を必要としている。分離の確定が客観的必然であり、それとの一致に須永の認識は進んでいる。高木との関係で生ずる葛藤は須永の客観的な姿と幻想の矛盾であり、高木との比較によって自分が決定的に否定されて、自分の置かれた客観的状況と意識が一致することで不毛な葛藤は解消される。自己の存在と自己の意識を一致させて二重性を解消するには現実の無力を自己認識として定着させねばならない。自分の無力を理解した須永にとって虚飾は無駄な労力を必要とする。インテリの優位を非現実的と理解し、虚飾と感じる能力を持つ段階で初めて須永の苦悩が始まる。
須永は千代子や田口家の財産と関係する可能性がないことを理解している。だから須永の葛藤の責任が千代子の親切にあるというのは正しい。千代子の親切とは千代子が自分の地位によって須永を拒否しないことである。千代子は須永の能力に幻想を持ち、財産関係の対立を意識しない純粋さによって須永に自己肯定的幻想を抱かせる。それが須永の独立を妨げている。「虞美人草」に見られたように同情は対象の独立性を否定する意識であり同情を受け入れるのは独立性を失い依存的精神を持つことである。千代子との関係では須永が同情を受ける弱い立場にいる。千代子の親切は須永の独立性を否定する。分離と独立を望む段階にいる須永は千代子の同情的精神と対立している。田口が社交家でなく、千代子が純粋でなく、ブルジョア的に厳しく須永を拒絶するなら須永に幻想はあり得ず葛藤もあり得ないという観点からは、千代子の親切は害悪になる。須永に対するブルジョアの厳しい態度が須永が田口や千代子に依存せずに独立して生きていくための条件である。あるいはインテリの精神的独立性とは客観的に存在するブルジョアとの厳しい対立の認識である。同情の果実を拒否する精神の独立性は道徳的決意によってではなくて、ブルジョアと現実的に厳しく分離されており、果実が現実にあり得ないことを具体的に認識することによって得られる。道徳的拒否は欲しいが我慢するという禁欲である。あるいはどうせ貰えないものを拒否という自分の意志の形式に変える負け惜しみである。初期作品で分離的、独立的精神を想定した漱石は段階的にその精神を克服し、現実的独立に近づいている。須永は田口家に対する批判、自己内にあるブルジョア的価値観を払拭して自己自身のもとに回帰しようとしている。須永に必要なのは残存するプチブル的幻想を破る最後の一撃である。須永の苦悩にはプチブルが独立的思想を持つために必要なブルジョアとの厳しい現実的対立関係が日本では形成されておらず、望んでも自然には与えられないことが描写されている。プチブルに幻想を持たせる要素が現実に多く存在し、非現実的で不生産的な精神レベルにおいても多数のプチブルが自己肯定しやすい点で日本の現実は厳しい。したがって幻想を破るには主体的な勇気が必要となり、したがってその勇気は容易に形成されないという悪循環に須永は苦しんでいる。 
4

 

「ふと縁側の椅子に腰を掛けてゐる僕を顧みて、市さんもさう云ふ御転婆は嫌でせうと聞いた。僕は唯、あんまり好きぢやないと云つて、月の光の隈なく落ちる表を眺めてゐた。もし僕が自分の品格に対して尊敬を払ふ事を忘れたなら、「然し高木さんには気に入るんだらう」といふ言葉を其後に屹度付け加へたに違ない。其所迄引き摺られなかつたのは、僕の体面上まだ仕合せであつた。」
「然し高木さんには気に入るんだらう」という言葉は高木との競争があり得ない力関係の中では客観的にも馬鹿げており、須永の体面を失わせる内容を持っている。この馬鹿げた言葉を言わせない須永の品格は自己保身的な精神である。体面や品格とは須永の場合千代子、田口に肯定的に評価されることである。この品格に反する言葉を口にしようとするのが須永の自己否定的精神である。この言葉を口にすれば須永の信頼は失われる。あるいはすでに信頼関係が失われていることが明らかになる。品格は千代子の軽蔑を受け入れる勇気と対立する保守的精神である。須永は自己内のこの対立関係を意識している。
「千代子は斯くの如く明けつ放しであつた。けれども…高木の事をとうとう一口も話題に上せなかつた。其所に僕は甚だしい故意を認めた。…鎌倉へ行く迄千代子を天下の女性のうちで、最も純粋な一人と信じてゐた僕は、鎌倉で暮した僅か二日の間に、始めて彼女の技巧を疑ひ出したのである。」
須永は高木に対する関心を言葉にすることができずに千代子が言いだすのを待っている。しかし須永と同じ関心を持たない千代子には高木のことを話題にする必然性はない。この状況下で須永が千代子の技巧を疑い「甚だしい故意を認め」るのは、千代子に対する否定的評価の始まりではなく自己否定の最終段階である。須永の品格からすれは千代子の技巧を疑うのは堕落である。須永は千代子が開放的な率直な性格であることを理解した上で千代子を疑っている。これは千代子との関係で生まれるもっとも下らない心理であり、それが須永を苦しめている。そしてこの苦しみを押し進めることが彼の苦しみを克服する唯一の方法である。
「僕が斯うして同じ問題を色々に考へてゐるうちに、同じ問題が僕には色々に見えた。高木の名前を口へ出さないのは、全く彼女の僕に対する好意に過ぎない。僕に気を悪くさせまいと思ふ親切から彼女はわざとそれ丈を遠慮したのである。斯う解釈すると鎌倉にゐた時の僕は、あれ程単純な彼女をして、僕の前に高木の二字を公けにする勇気を失はしめた程、不合理に機嫌を悪く振舞つたのだらう。もし左様だとすれば、自分は人の気を悪くする為に、人の中へ出る、不愉快な動物である。宅へ引込んで交際さへ為なければ夫で宜い。けれども若し親切を冠らない技巧が彼女の本義なら……。僕は技巧といふ二字を細かに割つて考へた。高木を媒鳥に僕を釣る積か。釣るのは、最後の目的もない癖に、唯僕の彼女に対する愛情を一時的に刺戟して楽しむ積か。或は僕にある意味で高木の様になれといふ積か。さうすれば僕を愛しても好いといふ積か。或は高木と僕と戦ふ所を眺めて面白かつたといふ積か。又は高木を僕の眼の前に出して、斯ういふ人がゐるのだから、早く思ひ切れといふ積か。--僕は技巧の二字を何処迄も割つて考へた。さうして技巧なら戦争だと考へた。戦争なら何うしても勝負に終るべきだと考へた。
僕は寐付かれないで負けてゐる自分を口惜しく思つた。・・・僕は眼の見えない所に眼を明けて頭丈働らかす苦痛に堪へなくなつた。寐返りさへ慎んで我慢してゐた僕は、急に起つて室を明るくした。」
須永は一つの問題を反芻することで堅固な自尊心を破壊するための精神的エネルギーを蓄積している。須永の葛藤は千代子がもっとも開放的な性格を発揮しているときに蓄積される。自分と千代子との関係についての須永の予測には根拠がない。あるいは同じことであるが須永にとってはすべてに根拠を想定できる。須永の葛藤は千代子と関係のない自己矛盾である。このような葛藤の繰り返し自体が葛藤の非現実性と無意義を示している。客観的には須永と千代子の関係を認識するための条件は揃っている。須永の地位と能力と、田口の地位とその地位が必要とする能力を冷静に判断すれば、他のどのような条件があろうと千代子との結婚は成立しない。だから問題は須永が田口家から拒否され、社会に対して積極的に働きかける能力を失っているという客観的な事実を、最終的な人生の結論としてどのように受け入れるかである。須永の苦しみは自分の現実における客観的な位置を受け入れることにあり、千代子が須永を苦しめようとしているわけではない。千代子の善意のために厳しい現実を受け入れられないことが須永の苦悩である。須永は自己肯定や粉飾を否定しており、常に矛盾を蓄積し展開することを自己矛盾の解決としている。須永の葛藤の肯定的側面を発見している漱石は須永の否定的な現象形態を確信をもって描いている。
「母は何処へ行つたのかと聞いたが、後から、色沢が好くないよ、何うか御仕かいと尋ねた。
「昨夕好く寐られなかつたんでせう」
僕は千代子の此言葉に対して答ふべき術を知らなかつた。実を云ふと、昂然としてなに好く寐られたよと云ひたかつたのである。不幸にして僕は夫程の技巧家でなかつた。と云つて、正直に寐られなかつたと自白するには余り自尊心が強過ぎた。僕は遂に何も答へなかつた。」
須永は昨夜千代子の態度に対する下らない憶測で寝られなかった。須永は自分の様子に対する千代子の自然な言葉によって再び下らない葛藤を引き起こしている。インテリが想定する昂然とか、技巧家でないとか、自尊心が強い等々の言葉の現実的な意味がここに描写されている。ここでの須永の葛藤は鎌倉での葛藤を引き継いでいっそう下らなく、消耗的になっている。須永の精神の必然によれば「昨夕好く寐られなかったんでしよう」という平凡な言葉にどう答えても、答えなくても矛盾を生ずることになる。
「此場合何時もの僕なら、千代ちやんも序に結つて御貰ひなと屹度勧める所であつた。然し今の僕にはそんな親しげな要求を彼女に向つて投げ掛ける気が出悪かつた。・・・
「貴方何が好き」
「旦那様も島田が好きだと屹度仰しやいますよ」
僕はぎくりとした。千代子は丸で平気の様に見えた。わざと僕の方を振り返つて、「ぢや島田に結つて見せたげませうか」と笑つた。「好いだらう」と答へた僕の声は如何にも鈍に聞こえた。」
千代子の親切な言葉によって須永の葛藤が非常に緊迫し始めている。これは漱石の小説家としての才能である。瑣末な現象に反応し始めた須永は葛藤の激化に耐えきれずに鎌倉から逃れたのと同じように二階に逃れている。漱石はここで須永の瑣末に見える葛藤の弁明をさせている。
「僕は自分で自分の事を彼是取り繕ろつて好く聞えるやうに話したくない。然し僕如きものでも長火鉢の傍で起るこんな戦術よりはもう少し高尚な問題に頭を使ひ得る積でゐる。たゞ其所迄引き摺り落された時、僕の弱点として何うしても脱線する気になれないのである。僕は自分でその詰らなさ加減をよく心得てゐた丈に、それを敢てする僕を自分で憎み自分で鞭うつた。
僕は空威張を卑劣と同じく嫌ふ人間であるから、低くても小さくても、自分らしい自分を話すのを名誉と信じて成るべく隠さない。けれども、世の中で認めてゐる偉い人とか高い人とかいふものは、悉く長火鉢や台所の卑しい人生の葛藤を超越してゐるのだらうか。・・・恐らくそんな偉い人高い人は何時の世にも存在してゐないのではなからうか」
「高尚な問題に頭を使」うというのは初期作品を思い出させる。初期作品に見られた高尚な問題は須永の瑣末な苦悩より非現実的であり低レベルである。須永の瑣末な苦悩はより現実的で一般的価値を持っている。自分の苦悩のつまらなさを理解できることとそれををあえてし、さらにその自分を憎み自分で鞭打つのが須永の必然である。瑣末な苦悩に塗れることがプチブル的限界を越える方法である。「卑しい人生の葛藤を超越して」いる初期作品の人物は自分の無力を理解できず、自分の無力を証明される機会を持たない安全な地位にいた。この作品では松本がその特徴を継承している。より高度の精神を持つ須永は松本の特徴を的確に捉えている。
「僕は松本の叔父を尊敬してゐる。けれども露骨な事を云へば、あの叔父の様なのは偉く見える人、高く見せる人と評すれば夫で足りてゐると思ふ。僕は僕の敬愛する叔父に対しては偽物贋物の名を加へる非礼と僻見とを憚かりたい。が、事実上彼は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥してゐるのである。小事に齷齪しない手を拱ぬいで、頭の奥で齷齪してゐるのである。外へ出さない丈が、普通より品が好いと云つて僕は讃辞を呈したく思つてゐる。さうして其外へ出さないのは財産の御蔭、年齢の御蔭、学問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れてゐるからでもあり、彼と社会の関係が逆な様で実は順に行くからでもある。−−話がつい横道へ外れた。僕は僕の屑々した所を余り長く弁護し過ぎたかも知れない。」
須永はここで自分の精神的特徴を肯定的、発展的に位置づけている。須永は松本と自分がインテリとして本質的に同一であるという観点の上で自分との違いを分析している。須永によれば松本と須永の精神の違いは彼らの階級的本質を自己認識できるかできないかである。漱石はまず自分の階級に必然的な拘泥を解消することを課題とし、初期作品では拘泥をなくした状態を小説に描こうとしていた。しかし初期作品に描かれた余裕や非人情や道徳的決意や哲学的思索等々の形式は、拘泥がないと自他に見せかけていたのであって拘泥を解消したわけではなかつた。拘泥の解消と見えたのは生活状態の安定と、家庭的順境への満足であった。安定している間彼らの本質である拘泥は他の階級に対象化されていた。初期作品では自己の本質は対象化されて高木の属性とされており、自己の姿は見失われていた。須永は外界に対する批判意識を解消し、批判意識を自己に取り込むことで、深刻な拘泥を経験している。高木や千代子と対立し、独立しているという意識の非現実性を意識することが須永の拘泥である。この作品ではこの階級に特徴的な拘泥がこの階級の危機の反映であり、自己否定的な発展的な意識である側面が発見されている。須永の課題は自己の否定性を認識すること、つまり拘泥を徹底することで拘泥を解消することである。この自己回帰は歴史的にはインテリの相対的弱化の時代に繰り返し強制される。
精神の拘泥と動揺はプチブルの本質である。資本主義の発展によってこの階級は分解され破壊される。須永は自分の階級的な動揺と不安定性を自己の本質として意識し、それを克服しようとしている。松本的方法は必然性の一時的粉飾である。真の解決は無力の認識としての自己否定である。須永の葛藤は矛盾の解消、悟り、回避、逃避ではなく矛盾の発展を真理とする立場への移行によって得られた積極的な精神である。
須永が松本と区別された後、この作品の到達点である矛盾が描写されている。千代子が二階に上がってきた時、須永には「僕は斯う盆槍屈托してゐる所を千代子に見られるのを屈辱の様に感じた。同時に傍にあつた書物を開けて、先刻から読んでゐた振をする程器用な機転を用ひるのを好まなかつた。」という小さな葛藤が生じている。そのあと一致の感情が起こる。そして最終的な対立が生じる。
「斯んな事を聞いたり答へたり三四返してゐるうちに、僕は何時の間にか昔と同じ様に美くしい素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がし出した。…もし此気易い状態が一二時間も長く続いたなら、或は僕の彼女に対して抱いた変な疑惑を、過去に溯ぼつて当初から真直に黒い棒で誤解といふ名の下に消し去る事が出来たかも知れない。所が僕はつい不味い事をしたのである。」
「素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がした」というのは、須永自身が素直な気分になったということである。須永がこの心理状態のまま何もしなければこれまでの状態が繰り返される。つい不味いことをするのは須永のこれまでの葛藤の自然な結末である。須永は千代子との関係に社会的地位の対立がなかった昔には戻れない。過去からの千代子との関係で生じる幻想と自分の現状との二重性に苦しんでいる須永はまさに彼らが形式的な一致に達したときに不毛な葛藤の根であるその一致を破壊した。須永は鎌倉に行くことで矛盾を蓄積し、矛盾は飛躍的な展開をすべき時期に来ていた。
「夫は外でもない。少時千代子と話してゐるうちに、彼女が単に頭を見せに上つて来た許でなく、今日是から鎌倉へ帰るので、其左様ならを云ひに一寸顔を出したのだと云ふ事を知つた時、僕はつい用意の足りない躓づき方をしたのである。
…「まだみんな鎌倉に居るのかい」と僕が聞いた。
「えゝ。何故」と千代子が聞き返した。
「高木さんも」と僕が又聞いた。
高木といふ名前は今迄千代子も口にせず、僕も話頭に上すのをわざと憚かつてゐたのである。が、何かの機会で、平生通りの打ち解けた遠慮のない気分が復活したので、其中に引き込まれた矢先、つい何の気も付かずに使つて仕舞つたのである。僕はふらふらと此問を掛けて彼女の顔を見た時忽ち後悔した。
僕が煮え切らない又捌けない男として彼女から一種の軽蔑を受けてゐる事は、僕の疾うに話した通りで、実を云へば二人の交際は此黙許を認め合つた上の親しみに過ぎなかつた。其代り千代子が常に畏れる点を、幸にして僕はたゞ一つ有つてゐた。夫は僕の無口である。彼女の様に万事明けつ放しに腹を見せなければ気の済まない者から云ふと、何時でも、しんねりむつつりと構へてゐる僕などの態度は、決して気に入る筈がないのだが、其所に又妙に見透かせない心の存在が仄めくので、彼女は昔から僕を全然知り抜く事の出来ない、従つて軽蔑しながらも何処かに恐ろしい所を有つた男として、或る意味の尊敬を払つてゐたのである。」
「夫は外でもない」という言葉に須永の必然が現れている。須永が品格を保つために唯一言ってならないのは高木という言葉である。したがって唯一言われなければならないのも高木という言葉である。千代子との関係は鎌倉で高木が登場したことで決着される可能性が生じた。須永の不愉快な葛藤を前進させるかどうかは須永が高木を問題にするかどうかにかかっていた。須永は千代子が鎌倉に帰る瞬間に、千代子との矛盾を高木との関係で進展させる最後の機会を捉えて「用意の足りない躓づき方」をする勇気を出した。体面を失うこの「躓づき」を逃せば鎌倉で得た葛藤は無意味に終わる。須永はまだ自分の葛藤を前進させることの積極的意義を理解しているわけではなく、内的衝動として持つだけであるために、偶然的なつまづきという形式で勇気を出した。須永を苦しめていたのは千代子が須永に持つ幻想であった。須永は自分の無口が千代子に幻想を与えていたことを理解するほどすでに自己否定的な認識を得ている。現実との接触の機会を失っている須永の精神は現実に対して無力化し、無力が暴露される危機感を内包している。無力が暴露される恐怖は暴露されることでのみ解消される。幻想を維持することは危機を維持し増大することであり不安や恐怖を蓄積することである。須永の不安や恐怖は自分の言葉に対する千代子の反応を理解しているから生じたのであり、彼に不用意な言葉を吐かせたのもこの理解による不安と恐怖である。須永に高木の一言を避けさせる臆病さと言わせる勇気は同じである。
「所が偶然高木の名前を口にした時、僕は忽ち此尊敬を永久千代子に奪ひ返された様な心持がした。と云ふのは、「高木さんも」といふ僕の問を聞いた千代子の表情が急に変化したのである。僕はそれを強ちに勝利の表情とは認めたくない。けれども彼女の眼のうちに、今迄僕が未だ甞て彼女に見出した試しのない、一種の侮蔑が輝やいたのは疑ひもない事実であつた。僕は予期しない瞬間に、平手で横面を力任せに打たれた人の如くにぴたりと止まつた。
「あなた夫程高木さんの事が気になるの」
彼女は斯う云つて、僕が両手で耳を抑へたい位な高笑ひをした。僕は其時鋭どい侮辱を感じた。けれども咄嗟の場合何といふ返事も出し得なかつた。」
須永は高木の名前を口にすることが千代子にどんな結果をもたらすかを理解し、その結果を受け入れる勇気を出している。この矛盾の推進と受容に須永の能力がある。須永には千代子や母の自分に対する肯定的な評価を維持することが負担になっている。自分自身の幻想を払拭するには自分に対する千代子や母の幻想をなくさなければならない。千代子の軽蔑に身をさらすことが幻想を破壊する現実的で効果的な方法である。須永にとってこの現実をいつ受け入れるかだけが問題であった。幻想を持たれること自体が須永にとっては苦痛であった。幻想を維持する無駄な努力をするより自分の現実にあった意識を持つことで葛藤を解消することが須永の内的な欲望である。須永はすでに偶然を契機にいつでも幻想的な信頼関係を破壊する状態にあった。幻想を幻想と理解する力がない初期作品や松本にこういう衝動はない。須永の内的苦悩にとっては突然平手で打たれるほどの衝撃は現実との接触による真実の獲得であり、非現実的な葛藤の解消である。しかし勇気を持った実践による成果は幻想の解消に止まらない。
「『貴方は卑怯だ」と彼女が次に云つた。此突然な形容詞にも僕は全く驚ろかされた。僕は、御前こそ卑怯だ、呼ばないでもの所へわざわざ人を呼び付けて、と云つて遣りたかつた。けれども年弱な女に対して、向ふと同じ程度の激語を使ふのはまだ早過ぎると思つて我慢した。千代子もそれなり黙つた。僕は漸くにして「何故」といふ僅か二字の問を掛けた。すると千代子の濃い眉が動いた。彼女は、僕自身で僕の卑怯な意味を充分自覚してゐながら、たまたま他の指摘を受けると、自分の弱点を相手に隠す為に、取り繕ろつて空つ遠惚けるものと此問を解釈したらしい。」
須永のいじけた態度が千代子に軽蔑されることは須永の内的な認識の現実的確認である。しかし自分が卑怯だという規定は彼の自己認識になかった。他の階級に属する千代子は須永が意識していた弱点を問題にせず須永の自己認識を越える否定的評価を下している。須永は千代子の予想外の驚くべき否定的規定を非常な恐怖と期待を持って誘発している。千代子のこの本質的に新しい批判的規定は須永の自己否定的認識に基づく行動の成果である。千代子の言葉は須永の行動の高度化を物語っている。高木の名前を口にした須永にはさらに「何故」という勇気がある。千代子に激語を使わなかったことの理由を須永がどのように考えていようと、彼の本質的関心は千代子の言葉である。彼にとってこの「何故」が必要である。千代子がそれを誤魔化しだと考えるのは彼女が須永を理解できないからである。千代子が須永を軽蔑する瞬間に千代子に対する須永の優位が現象化している。
「『千代ちやんの様な活溌な人から見たら、僕見たいに引込思案なものは無論卑怯なんだらう。僕は思つた事をすぐ口へ出したり、又は其儘所作にあらはしたりする勇気のない、極めて因循な男なんだから。其点で卑怯だと云ふなら云はれても仕方がないが……」
「そんな事を誰が卑怯と云ふもんですか」
「然し軽蔑はしてゐるだらう。僕はちやんと知つてる」
「貴方こそ妾を軽蔑してゐるぢやありませんか。妾の方が余つ程よく知つてるわ」
僕は殊更に彼女の此言葉を肯定する必要を認めなかつたから、わざと返事を控えた。
「貴方は妾を学問のない、理屈の解らない、取るに足らない女だと思つて、腹の中で馬鹿にし切つてるんです」
「それは御前が僕を愚図と見縊つてるのと同じ事だよ。僕は御前から卑怯と云はれても構はない積だが、苟しくも徳義上の意味で卑怯といふなら、そりや御前の方が間違つてゐる。僕は少なくとも千代ちやんに関係ある事柄に就いて、道徳上卑怯な振舞をした覚はない筈だ。愚図とか煮え切らないとかいふべき所に、卑怯といふ言葉を使はれては、何だか道義的勇気を欠いた−−といふより、徳義を解しない下劣な人物の様に聞えて甚だ心持が悪いから訂正して貰ひたい。夫とも今いつた意味で、僕が何か千代ちやんに対して済まない事でもしたのなら遠慮なく話して貰はう』」
須永は千代子の言う卑怯が自分の引っ込み思案や煮え切らないことを批判しているのでないことを理解できる。インテリの精神に度胸がないことは初期から指摘されていた単純な現象である。他を無教育の点で軽蔑するインテリの愚かさもインテリの真摯な道徳的批判意識によっても得られる自己認識である。しかし人間関係を持たず、無為で内的反省を事とするインテリが人を傷付け道義的卑怯になることはあり得ないと思われる。道義は無為なインテリの自己肯定の最後の拠り所であり、インテリの自己否定的認識の限界点である。自己否定はこの点にまで踏み込むことで初めて本質的である。漱石は須永の精神のあらゆる瑣末な弱点を展開し、それを自己認識として蓄積した後、最後にもっとも困難な道徳性の矛盾を突いている。これを破壊することがプチブル性からの思想的開放である。須永の精神は自己否定を徹底し発展させることで道徳性の破壊にまで進む必然性を持っている。「つい用意の足りない躓づき方をした」須永の言葉と行動がそれを示している。無能で臆病なインテリにはこの「躓づき」ができない。逆に体裁を守り千代子の評価を得るために腐心することで道徳的な精神の限界に止まるのがインテリ一般の生き方である。
「『ぢや卑怯の意味を話して上げます」と云つて千代子は泣き出した。僕は是迄千代子を自分より強い女と認めてゐた。けれども彼女の強さは単に優しい一図から出る女気の凝り塊りとのみ解釈してゐた。所が今僕の前に現はれた彼女は、唯勝気に充ちた丈の、世間に有りふれた、俗つぽい婦人としか見えなかつた。僕は心を動かす所なく、彼女の涙の間から如何なる説明が出るだらうと待ち設けた。彼女の唇を洩れるものは、自己の体面を飾る強弁より外に何も有る筈がないと、僕は固く信じてゐたからである。」
須永は思想的限界点において自分の弱点を意識することなく露呈している。これはすでに漱石が須永の限界を越えていることを示している。須永のこの言葉に自己否定的精神はない。自分の弱点の認識の対立物として千代子を強い女だと認めていたが、自分を卑怯と言う千代子の精神を須永は肯定できない。自分が卑怯だとは考えつかない須永は自分の判断能力の外に出た千代子に対して、初期作品のように余裕と軽蔑をもって対応している。須永の無理解による横着な態度はこれまでの軽蔑的な態度の延長として千代子に悔しい思いをさせ、対立を激化させる。ここに千代子との本当の対立点がある。これは須永が自分の意識より先行している行動によって獲得したものである。
「『そんなら夫で宜う御座んす。何も貰つて下さいとは云やしません。唯何故愛してもゐず、細君にもしやうと思つてゐない妾に対して……」
彼女は此所へ来て急に口籠つた。不敏な僕は其後へ何が出て来るのか、まだ覚れなかつた。「御前に対して」と半ば彼女を促がす様に問を掛けた。彼女は突然物を衝き破つた風に、「何故嫉妬なさるんです」と云ひ切つて、前よりは劇しく泣き出した。僕はさつと血が顔に上る時の熱りを両方の頬に感じた。彼女は殆んど夫を注意しないかの如くに見えた。
「貴方は卑怯です、徳義的に卑怯です。妾が叔母さんと貴方を鎌倉へ招待した料簡さへ貴方は既に疑つて居らつしやる。それが既に卑怯です。が、それは問題ぢやありません。貴方は他の招待に応じて置きながら、何故平生の様に愉快にして下さる事が出来ないんです。妾は貴方を招待した為に恥を掻いたも同じ事です。貴方は妾の宅の客に侮辱を与へた結果、妾にも侮辱を与へてゐます」
「侮辱を与へた覚はない」
「あります。言葉や仕打は何うでも構はないんです。貴方の態度が侮辱を与へてゐるんです。態度が与へてゐないでも、貴方の心が与へてゐるんです」
「そんな立ち入つた批評を受ける義務は僕にないよ」
「男は卑怯だから、さう云ふ下らない挨拶が出来るんです。高木さんは紳士だから貴方を容れる雅量が幾何でもあるのに、貴方は高木さんを容れる事が決して出来ない。卑怯だからです」・・・」
言葉や仕打ちではなく須永の態度というのは、須永の意図ではなく全体的特徴を指している。愛してないのに何故嫉妬するのかは須永自身が不可解な自己として問題にしてきたことである。それが千代子によって卑怯だと指摘された。須永にどうしてもわからなかった自分の特徴は彼自身がまったく自己否定の要素と考えなかった自分の道徳性に関わっていた。この連関は須永にとってまったく意外である。これは作品の展開における漱石の発見であろう。須永のこの疑問は初期作品のすべてに通ずる疑問である。一般的に言えば現実に分離しており、積極的関係の可能性がなく、それを具体的に望んでいないものに対して何故関心を示すのか、勝つ見込みも能力もない場所に出てきて対立するのは何故か、近づくと遠ざかる、遠ざかると近づくという矛盾した態度をとるのは何故か、あるいはこれはどういう態度か、どういう社会的内容を表しているかである。これは苦沙弥が肯定的結果を引き起こす力もなく鼻子や金田に口出しをし、坊ちゃんが赤シャツとマドンナの関係に口出しをし、関係を持つ気もないのに画工が那美さんに関心を持ち、道也が実際は妻だけと対立しながら天下国家を相手にし、甲野が天下を見下しながら、責任を持つ気もないのに藤尾に下らない教訓を与えたのと同じである。「虞美人草」では宗近が下らない思想を現実化する勇気を持ったために馬鹿げた結果をもたらし小説としても俗な結末に終わった。この精神形態が須永の行動に集約されて総括されている。
彼らはすべて現実と積極的に関わっていない。関わる能力がなく、現実社会から分離したものに特有の内的葛藤を引き起こすだけである。初期作品では須永と違ってそれが内的な葛藤に過ぎないことを理解できないために楽天的であった。彼らは現実との接触を回避している自分を理解できずに逆に積極的だと幻想していた。須永は外界に対する積極的関係を形成できないことを理解している。須永が千代子や高木に接触するのはその認識を徹底するためである。須永にとって千代子や高木は自己認識の、しかも彼らとの分離を認識するための契機にすぎず、関係を結ぶことに具体的利益や欲望がまったくないにもかかわらず自己のためにのみ関わっている。須永の場合は関係を断絶するために接触するという関係がはっきりしている。須永の言動の非道徳性、非合理性は千代子にも理解できるほど明確になっている。須永自身も自己認識の直前に到達していた。
初期作品の人物にも須永にも悪意はない。無力で善良な彼らに悪意はあり得なかった。無知な彼らにとっては悪意こそ批判の対象であり、自己内に見出せないものであり、道徳性、人格性こそ彼らの優位であった。しかし彼らの言動は道義に反する。卑怯である。彼らが主観の二重性を対象化して他人の了見を疑うことも彼らに必然的な卑怯であるが、それは彼等の主観内部だけに生ずる瑣末な問題である。彼らが彼らの範疇で実際に道徳的で善良であっても彼らは卑怯である。招待に応じながら愉快にできないのは道義的に卑怯である。現実に接触する場合に必要な勇気、責任がないのに関心を示す。しかもそれは関心ではないという態度で、破れた場合の弁護を常に用意している。その臆病な用心が卑怯であり、他を侮辱する。積極性に応えて積極性を示すとすぐに臆病風に吹かれて逃げだす。積極的関係によって自分の能力が検証されることを恐れる代助や須永の対応は積極性を求める人間に侮辱を与える。彼らの行動は相手にとっては、逃げるための、消極的な、関係を結ばないために関係を結ぼうとする無意味な行動である。須永よりはるかに遠い地点から関わる道徳的批判意識は、より臆病で自己保身的で自己満足的であり、したがってより卑怯である。自己否定を実践している須永と品格の上で区別され、自尊心を保っているほど千代子の言う卑怯の度合いは大きくなる。
須永を卑怯とする千代子は高木に無批判的であり高木の視点から須永を批判している。初期作品ではブルジョアに対するインテリの精神的な優位が描かれた。ブルジョア的な地位や財力による社会的な力がインテリにないのは明らかである。物質的な富や地位を反映した精神と対立しその観点による軽蔑に身をさらすことはインテリの名誉とされていた。しかしこの作品ではこうした価値観自体が精神的・道徳的な堕落であることが示されている。現実との関係が価値基準となった「三四郎」からはインテリの精神的弱点として度胸のなさが描写された。「それから」では無為に伴う精神的弱点が描写され、須永では自分の弱点を認識した人物の行動に内在する弱点が描写され、この段階に至って初期作品での精神的拠り所であった道徳性が対立物に転化する必然性の端緒が発見された。
「三四郎」から導入された現実との関係を価値基準とすることの必然的な結果として須永に至すべての人物の言動が卑怯と規定される。現実との接触を回避する無力な精神が人間関係と接触することは客観的に卑怯な関係になる。それは無力な人間が人を愚弄することである。現実に対する責任ある態度とは、現実に積極的に関係し、それによって生ずる必然的な矛盾に現実的連続的に対処することである。現実と関係する場合は一つのこの個別に対する勇気では片付かない。現実の人間関係は連続的な過程である。その過程に積極的に関与する能力を蓄積する機会を失った須永は、現実に対する関心を持つものの、責任ある対応ができない。彼らは矛盾の展開に耐えられない。しかし一般に自分の社会的存在価値を否定できない場合彼らは現実に対して臆病な関心を示し、しかも関係が生ずると責任を回避する。これは現実との関係ではもっとも自己保身的な卑怯な態度である。
展開の過程を見ればこの卑怯は道徳性に内在していること、インテリの道徳性が卑怯に転化する必然が理解できる。現実との積極的関係である実践においては道徳性を守ることはできない。あらゆる形態の利害が対立している現実社会に実践的に身を投じる場合は一方に対する道徳性は他方に対する非道徳である。人間関係は矛盾しており、それが本質であり力であり内容であるからこそ無力なインテリはそれを避け、関係の回避を道徳的な対応として肯定的に評価している。無為は悪ではなく善であり道徳的であると考えられる。厳しい批判精神を持つこの作品では無為な生活とそれを反映した精神こそが非道徳的であり卑怯であるとされている。悪を回避するという意味での完全な道徳性とは社会からの完全な分離、隠遁である。しかし道徳性は一般的社会的規範としてのみ意味があるのだからそれは道徳性の社会的価値を廃棄するものでありやはり矛盾する。その矛盾が須永の心理や行動として現象する。
このように須永の到達点はインテリの精神の発展によって彼らの本質的価値である道徳性がその対立物に転化すること、道徳性が非道徳性と同一であることを示している。「行人」、「こころ」ではこの転化の具体的過程が描写される。この作品までは現実との関係での自己肯定の幻想を破壊することを課題にしていた。次の作品からはブルジョアとの関係、須永にある内的ブルジョアとの関係もなくなり、インテリの世界の矛盾がインテリの世界内部で、インテリの意識がインテリの意識において純粋に展開され、その本質が明らかにされる。 
5

 

〔松本の話〕 
須永はインテリ階級の没落を自己意識化した高度の意識を持つ特殊な人物である。須永の精神に対立する自己肯定的な精神が松本に描写されている。松本は初期作品より高度な精神が設定されているが、須永の精神構造をまったく理解できない教養的で平凡なインテリの限界を示しており、その点が須永と対照されている。
松本は高等遊民を自認している。彼は雨の降る日に客を断ることを余裕と考え、世の中に求めることのある田口にはその余裕がないと言う。「いくら他の感情を害したつて、困りやしないといふ」高等遊民の余裕とは世間に期待せず世間に期待されないことである。彼らが社会とか人生観とかについて妙な理屈を並べるのを好みながら「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」とされているのは、彼らが社会から孤立していく無為無力な階級であることの生活的な証明である。松本の社会批評、人物批評は敬太郎にとっても松本自身にとっても社会的な意義を持たない。社会から孤立した彼の批評は人間関係に影響を及ぼす内容を持たない。松本の須永についての説明は田口や自分についての説明と同じレベルにあり、須永の矛盾の深さにまったく届かない。
「夫から市蔵と千代子との間が何うなつたか僕は知らない。別に何うもならないんだらう。少なくとも傍で見てゐると、二人の関係は昔から今日に至る迄全く変らない様だ。二人に聞けば色々な事を云ふだらうが、夫は其時限りの気分に制せられて、真しやかに前後に通じない嘘を、永久の価値ある如く話すのだと思へば間違ない。」
松本の観察は表面的な現象追認である。須永と千代子の間がどうにもならないことはどうにもならなかったのだからはっきりしている。しかし外見上何の変化もなく分離していった千代子との関係の背後に須永の葛藤があった。須永の心理的葛藤には歴史的な意義があり、永久の価値があり、そのとき限りの気分に制せられた嘘ではない。
「所が不幸にも二人は或る意味で密接に引き付けられてゐる。しかも其引き付けられ方が又傍のものに何うする権威もない宿命の力で支配されてゐるんだから恐ろしい。取り澄ました警句を用ひると、彼等は離れる為に合ひ、合ふ為に離れると云つた風の気の毒な一対を形づくつてゐる。」
「市蔵といふ男は世の中と接触する度に内へとぐろを巻き込む性質である。だから一つ刺戟を受けると、其刺戟が夫から夫へと廻転して、段々深く細かく心の奥に喰ひ込んで行く。さうして何処迄喰ひ込んで行つても際限を知らない同じ作用が連続して、彼を苦しめる。仕舞には何うかして此内面の活動から逃れたいと祈る位に気を悩ますのだけれども、自分の力では如何ともすべからざる呪ひの如くに引つ張られて行く。さうして何時か此努力の為に斃れなければならない、たつた一人で斃れなければならないといふ怖れを抱くやうになる。さうして気狂の様に疲れる。是が市蔵の命根に横はる一大不幸である。この不幸を転じて幸とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外へとぐろを捲き出させるより外に仕方がない。・・・天下にたつた一つで好いから、自分の心を奪ひ取るやうな偉いものか、美くしいものか、優しいものか、を見出さなければならない。一口に云へば、もつと浮気にならなければならない。市蔵は始め浮気を軽蔑して懸つた。今は其浮気を渇望してゐる。彼は自己の幸福のために、何うかして翩々たる軽薄才子になりたいと心から神に念じてゐるのである。軽薄に浮かれ得るより外に彼を救ふ途は天下に一つもない事を、彼は、僕が彼に忠告する前に、既に承知してゐた。けれども実行は未だに出来ないで藻掻いてゐる。」
初期の漱石はこのような「取り澄ました警句」を吐くことが哲学的だとか文学的だと考えていた。須永が際限なく内へ巻く傾向がある、だから外へ巻くべきだとか、軽薄になれないから浮気になるべきだ等々はどうにでも言える形式論議である。松本は内へとぐろを巻くという現象や浮気になるということが社会的にどういう意味を持つのかを考える能力を持たない。松本は須永の状況を救うべきだと考え、浮気になることが可能でもありよいことだと考えている。彼は繰り返し須永の能力を自分より高いと形式的に評価しているが須永の精神の肯定的価値を具体的に理解しているわけではない。具体的な規定はすべて否定的であり、肯定的評価は須永に対する好意の表明にすぎない。つまり須永の肯定的評価は自分が好意的であるという松本自身の肯定的評価である。
「彼は社会を考へる種に使ふけれども、僕は社会の考へに此方から乗り移つて行く丈である。其所に彼の長所があり、かねて彼の不幸が潜んでゐる。其所に僕の短所があり又僕の幸福が宿つてゐる。僕は茶の湯をやれば静かな心持になり、骨董を捻くれば寂びた心持になる。・・・其結果あまり眼前の事物に心を奪はれ過ぎるので、自然に己なき空疎な感に打たれざるを得ない。だから斯んな超然生活を営んで強ひて自我を押し立てやうとするのである。所が市蔵は自我より外に当初から何物も有つてゐない男である。・・・彼の不幸を切り詰める生活の徑路は、唯内に潜り込まないで外に応ずるより外に仕方がないのである。」
須永の社会性は松本が何もないと考えている千代子との関係にある。須永は松本の趣味性に満足せず千代子との社会的関係の認識に向けられている。内とか外というのは精神の社会性を解消する形式規定である。松本の人生は趣味性に限定されており、自分の社会的地位と能力に対する批判的な意識を持たない。松本は自分の現在の生活と能力に満足しており、田口や千代子との現在の人間関係に満足している。それが須永との違いである。
須永は道徳的批判意識や趣味性という初期作品に見られたインテリ的精神に安住できない。須永の苦悩を趣味性によって解決するのは初期作品や松本のレベルに須永を引き下ろすことである。この世界の内部で批判意識や趣味性に意義を認めず、しかもそれに代わる積極的価値が発見できない須永は松本には不幸に見える。客観的にこの世界には自分の無意義を理解する以上の積極的な精神はない。社会的な積極的な価値を真摯に求める成果として自分の無意義が認識されるのが須永の体現するこの階級の本質的矛盾である。須永は自分が現実社会と積極的な関係を持ち得ないことを認識することでさらに現実との関係を断ち切ることになる。
「僕は彼に何うしても母を満足させる気はないかと尋ねた。彼は何事によらず母を満足させたいのは山々であると答へた。けれども千代子を貰はうとは決して云はなかつた。意地づくで貰はないのかと聞いたら、或はさうかも知れないと云ひ切つた。もし田口が遣つても好いと云ひ、千代子が来ても好いと云つたら何うだと念を押したら、市蔵は返事をしずに黙つて僕の顔を眺めてゐた。僕は彼の此顔を見ると、決して話を先へ進める気になれないのである。畏怖といふと仰山すぎるし、同情といふと丸で憐れつぽく聞こえるし、此顔から受ける僕の心持は、何と云つて可いか殆んど分らないが、永久に相手を諦らめて仕舞はなければならない絶望に、ある凄味と優し味を付け加へた特殊の表情であつた。
市蔵はしばらくして自分は何故斯う人に嫌はれるんだらうと突然意外な述懐をした。僕は其時ならないのと平生の市蔵に似合しからないのとで驚ろかされた。何故そんな愚痴を零すのかと窘なめる様な調子で反問を加へた。」
須永の葛藤は「もし田口が遣つても好いと云ひ、千代子が来ても好いと云つたら」という仮定が成立しないことを認識したことによって生じた。松本の「もし」という仮定が須永の葛藤の本質に関係したために須永は突然深刻に松本の顔を眺め、松本の答えを期待している。須永の表情から深刻さを読みとることはできるがその内容を理解できない松本は須永の深刻な表情を前にして黙った。それを須永は松本が自分を嫌っているために言うのをためらったと誤解した。松本は須永に対する好意に偽りがないことを説明した後自分が馬鹿らしい対応をしていることに気づき、須永の求めに応じるべく性格論を展開している。
「「御前は相応の教育もあり、相応の頭もある癖に、何だか妙に一種の僻みがあるよ。夫が御前の弱点だ。是非直さなくつちや不可ない。傍から見てゐても不愉快だ」
・・・「僻みさへさらりと棄てゝ仕舞へば何でもないぢやないか」と僕は左も事もなげに云つて退けた。
「僕に僻があるでせうか」と市蔵は落付いて聞いた。・・・
「僕は僻んでゐるでせうか。慥に僻んでゐるでせう。貴方が仰しやらないでも、能く知つてゐる積です。僕は僻んでゐます。僕は貴方からそんな注意を受けないでも、能く知つてゐます。僕はたゞ何うして斯うなつたか其訳が知りたいのです。いゝえ母でも、田口の叔母でも、貴方でも、みんな能く其訳を知つてゐるのです。唯僕丈が知らないのです。唯僕丈に知らせないのです。僕は世の中の人間の中で貴方を一番信用してゐるから聞いたのです。貴方はそれを残酷に拒絶した。僕は是から生涯の敵として貴方を呪ひます」
市蔵は立ち上つた。僕は其咄嗟の際に決心をした。さうして彼を呼び留めた。」
須永は自分が積極的な人間関係を形成できないことを経験的に理解している。それを須永の僻み根性が嫌われていることと解釈し、何故自分が嫌われるのか、僻みを持つのは何故かと自問している。松本にとって僻みという性格規定は結論であって僻みとは何かという問いはない。この疑問を持つことが須永の精神の高さである。現状に満足した松本は自己否定的な須永の危機意識を性格的な僻みと評価し同情している。この階級の保守的な意識には批判意識や趣味性を否定した須永の苦悩は性格的弱点に見える。松本と須永の精神はこの階級内部の本質的な対立関係にある。須永の危機意識はこの階級内部での孤立を意味し、須永の階級的苦悩は彼の階級では共有されずに性格的な歪みとして排除される必然性を持っている。
須永は自分の関係する階級内部で孤立し、理解されず、彼らと分離していく過程にある。須永の僻みは自分の世界との分離的な意識という積極的な意義を持っている。須永はその意義を理解しておらず、その精神の成果として孤立している。自分を嫌い、僻みを持たない者が自分の僻みの正体を知っていると考えるのは、須永に残る積極的な人間関係に対する期待の現れであり自己否定的認識の未熟さである。
「僕は誰にでも明言して憚からない通り、一切の秘密はそれを開放した時始めて自然に復る落着を見る事が出来るといふ主義を抱いてゐるので、穏便とか現状維持とかいふ言葉には一般の人ほど重きを置いてゐない。・・・一口でいふと、彼等は本当の母子ではないのである。猶誤解のないやうに一言付け加へると、本当の母子よりも遙かに仲の好い継母と継子なのである。・・・何んな魔の振る斧の刃でも此糸を絶ち切る訳に行かないのだから、何んな秘密を打ち明けても怖がる必要は更にないのである。夫だのに姉は非常に恐れてゐた。市蔵も非常に恐れてゐた。姉は秘密を手に握つた儘、市蔵は秘密を手に握らせられるだらうと待ち受けた儘、二人して非常に恐れてゐた。僕はとうとう彼の恐れるものゝの正体を取り出して、彼の前に他意なく並べて遣つたのである。」
「一切の秘密はそれを開放した時始めて自然に復る落着を見る事が出来るといふ主義」は初期作品の段階の精神である。漱石は敬太郎と田口の会話にも「あんな小刀細工をして後なんか跟けるより、直に会つて聞きたい事丈遠慮なく聞いた方が、まだ手数が省けて、さうして動かない確かな所が分りやしないかと思ふのです」、「貴方のいふ方法は最も迂闊の様で、最も簡便な又最も正当な方法ですよ。其所に気が付いて居れば人間として立派なものです」という初期作品では教養のある立派な人間の特徴と見ていた会話を入れている。このレベルの精神は須永の苦悩を経過すると重要な意義を持たない。
「一切の秘密はそれを開放した時始めて自然に復る落着を見る事が出来る」というのは真理である。信頼関係が形成されない松本の世界では隠し事をしないことが道徳的意義を持っている。その観点から松本は須永と母の秘密を出生の秘密と考え、それを隠すべきでないと考えている。しかし須永の問題にしている「秘密」は松本や母の問題にしている秘密と違う。松本の秘密とは須永に打ち明けられなかった、腹に納めていた隠し事のことであり、松本は隠し事をすべきでないという道徳的な意識によってその秘密を打ち明けようとしている。須永が問題にしている秘密は、すべての明らかになっている現象の背後に潜む法則である。須永の苦悩もやはりその秘密を明らかにすることで解決する。したがって松本の言葉と須永のすれ違いは秘密の意味にある。松本の秘密は主観内部の秘密であり、須永の秘密は法則としての秘密であり、須永の社会的必然性である。
須永の精神を社会的規定において理解する能力を持たない松本は、無能なインテリの常套手段として単純な現象を因果関係で結びつけることを事態の説明だと考える。松本は須永の僻みの根拠を出生の秘密に求めている。こうした松本の現実理解に基づく打ち明け話と良心的な対応は須永にとって松本の精神の限界を理解する契機となる。精神の社会的規定に無知なインテリにとっては出生の秘密は須永の精神を理解する鍵に見える。限定された人間関係の中で生きる須永と母にとって出生の秘密は大きい。特に母にとって重要な問題である。しかしそれは須永の苦悩とはまったく関係がない。須永は松本に秘密を打ち明けられた後は松本の言葉に母との関係に限定して関心を示している。
「「おれは左う思ふんだ。だから少しも隠す必要を認めてゐない。御前だつて健全な精神を持つてゐるなら、おれと同じ様に思ふべき筈ぢやないか。もし左う思ふ事が出来ないといふなら、夫が即ち御前の僻みだ。解つたかな」
「解りました。善く解りました」と市蔵が答へた。僕は「解つたら夫で好い、もう其問題に就て彼是といふのは止しにしやうよ」と云つた。
「もう止します。もう決して此事に就いて、貴方を煩らはす日は来ないでせう。成程貴方の仰しやる通り僕は僻んだ解釈ばかりしてゐたのです。僕は貴方の御話を聞く迄は非常に怖かつたです。胸の肉が縮まる程怖かつたです。けれども御話を聞いて凡てが明白になつたら、却つて安心して気が楽になりました。もう怖い事も不安な事もありません。其代り何だか急に心細くなりました。淋しいです。世の中にたつた一人立つてゐる様な気がします。」
「だつて御母さんは元の通りの御母さんなんだよ。おれだつて今迄のおれだよ。誰も御前に対して変るものはありやしないんだよ。神経を起しちや不可ない」
「神経は起さなくつても淋しいんだから仕方がありません。僕は是から宅へ帰つて母の顔を見ると屹度泣くに極つてゐます。今から其時の涙を予想しても淋しくつて堪りません」」
須永は松本を信頼して自分の悩みを打ち明けた結果、意外に単純な結果を得た。松本が自分の僻みの原因として知っている秘密は継母の問題である。自分の出生に秘密があったことは須永にとって第二義的な問題である。その第二義的な問題が自分と松本や母を隔てていた秘密であることが理解され、その秘密が打ち明けられて松本が問題を解決したと考えている今、須永の苦悩は彼一人が抱えているもので松本にも誰にも決して解決されないことがわかった。松本の知る秘密が出生の秘密であればそれ以上聞くことはない。出生の秘密に関しては松本にとっては打ち明けることが、須永にとってはそれを知ることが結論である。須永は自分の僻みについて松本がどう解釈しているかを理解し、松本の見解を問題にする必要がないことを理解した。須永は自分の苦悩を抱えたまま、対処の方法がなくなったことを理解し孤独感を深くしている。
「「御母さんが是非千代ちやんを貰へといふのも、矢つ張血統上の考へから、身縁のものを僕の嫁にしたいといふ意味なんでせうね」
「全く其所だ。外に何にもないんだ」
市蔵は夫では貰はうとも云はなかつた。僕もそれなら貰ふかとも聞かなかつた。」
母の希望は出生の秘密に関わるものであり、須永の葛藤とは別であることがわかった。母の希望として、あるいは高木との関係で須永が想定した母の心理はすべて須永自身の葛藤であることが須永自身にも理解された。須永はそれをわざわざ確認している。須永は自分と同じ価値観を母に想定した上で、自分の無力の証明が母を失望させると考えて母に対する責任を感じていた。母が千代子との結婚を望む理由が出生の事情だけであれば須永が千代子と結婚できないことは須永の価値の否定ではないから母にとっても須永にとっても大きな問題ではなくなる。
「此会見は僕にとつて美くしい経験の一つであつた。双方で腹蔵なく凡てを打ち明け合ふ事が出来たといふ点に於て、いまだに僕の貧しい過去を飾つてゐる。相手の市蔵から見ても、或は生れて始めての慰藉ではなかつたかと思ふ。兎に角彼が帰つたあとの僕の頭には、善い功徳を施こしたといふ愉快な感じが残つたのである。
「万事おれが引き受けて遣るから心配しないがいゝ」
僕は彼を玄関に送り出しながら、最後に斯ういふ言葉を彼の背に暖かく掛けて遣つた。」
万事引き受けた松本の処置とは須永の母に卒業まで待つように説得すること、田口に須永の卒業までに縁談が運ぶように話すことである。松本の処置は打ち明け話も含めてすべて誠実で、彼に可能な限りの好意を示している。この対応によって須永は松本が自分を嫌っているのでなく、最大限の好意を持っていることを理解した。しかし同時に須永の思想的な苦悩に対して松本が無能であることも明らかになった。インテリにとっては松本のような率直な態度でさえ困難であり、松本も自分の率直な態度に満足している。須永は平凡なインテリの思想的限界である道徳性を越えて思想的な苦悩にたどり着いている。だから道徳的な好意は役に立たない。思想的苦悩に対しては思想的な対処が必要であり、それは能力の問題であるから好意で報いることはできない。松本はこの会見で自分が須永の苦悩に関わり合えないことを明らかにし、この問題に関しては須永に見放された。
松本は須永に対する配慮から、「前の年鎌倉の避暑地とかで市蔵が会つて気を悪くしたといふ高木」についても田口に尋ねて「高木は始めから候補者として打つて出たのではない」として特別の意味を持った男ではないという情報をもたらしている。松本は須永の高木との関係での苦悩が須永自身の思想的な苦悩であることを改めて示す役割を果たしている。須永の苦悩は出生の秘密でも、母の希望に添うための葛藤でも、千代子との結婚を巡る高木との競争でもないことが明らかにされている。
これ以降は須永と松本のすれ違いを、すでにすれ違いを須永が問題にしなくなった端的な関係において単純に描いている。須永は松本との会見の後自分の運命には自分で対処する以外にないと諦め、冷静に対処している。須永は千代子との関係も松本との関係も彼に可能な範囲ですでに決着をつけ、なすべきことを失った結果旅行に出かけている。彼にとって出生の秘密を知った今、母が気の毒になって母との関係が一時的に苦痛であることも旅行に出る動機であり、それが再び松本を誤解させる契機になる。松本はすべてを出生の点から観察している。
「市蔵は僕の言葉を聞いて実際安心したらしく見えた。僕も稍安心した。けれども一方では、此位根のない慰藉の言葉が、明晰な頭脳を有つた市蔵に、是程の影響を与へたとすれば、それは彼の神経が何処か調子を失なつてゐる為ではなからうかといふ疑も起つた。僕は突然極端の出来事を予想して、一人身の旅行を危ぶみ始めた。」
松本の言葉で安心したのは出生の問題を重視しておらず、母のことは松本の世話だけで解決できることだからである。松本は須永の独自の葛藤と切り離して母との関係においてのみ信頼されている。母と須永の継母の問題に神経質になっているのは松本である。それについて大人の態度をとっているのは須永である。松本は須永に対する無理解の延長として、須永の神経の変調を予測し始めている。
「市蔵が帰つた後でも、しばらくは彼の事が変に気に掛つた。暗い秘密を彼の頭に判で押した以上、それから出る一切の責任は、当然僕が背負つて立たなければならない気がしたからである。・・・(彼の妻は)貴方があんまり余計な御喋舌をなさるからですよと云つて、始めは殆んど取り合はなかつたが、仕舞に、なんで市さんに間違があるもんですか、市さんは年こそ若いが、貴方より余程分別のある人ですものと、独りで受合つてゐた。
「すると市蔵の方で、却つておれの事を心配してゐる訳になるんだね」
「さうですとも、誰だつて貴方の懐手ばかりして、舶来のパイプをくはへてゐる所を見れば、心配になりますわ」」
須永の出生の問題を暗い秘密として重視し、須永の神経の変調や自殺を予測するのは松本の精神の特徴である。須永は法則を問題にする思想的苦悩を発展させ、松本は現象にとらわれたインテリ的な偏見を蓄えていくという自然的な分離が進展している。松本の妻の言葉は松本に対する深い批判的観点を示している。没落の法則としての深刻な秘密を持ちながら、その秘密の存在すら理解せずに変調しているのは松本である。須永は松本の「懐手ばかりして、舶来のパイプをくはへてゐる」生活に内在する崩壊の法則を危機意識として先取りしている。したがって須永は松本の生活や精神の行方を心配していることになる。孤立した趣味的生活に満足している松本の精神は社会の発展に取り残されており、その危機はいずれ現象化する。妻も須永の母も須永も出生の秘密について松本のように大げさに考えておらず、楽観的である。現実を知らない松本には自分が出生を大問題にすることの非現実性が理解できない。彼は危機が須永や須永の母にあると信じて、須永に旅先から手紙を出すようにと、須永と母の関係にとっては言うまでもない、したがって害のない善意に満ちた忠告をしている。
「端書に満足した僕は、彼の封筒入の書翰に接し出した時更に眉を開いた。といふのは、僕の恐れを抱いてゐた彼の手が、陰鬱な色に巻紙を染めた痕迹が、その何処にも見出せなかつたからである。」
須永は自分の抱える問題から一時的に逃れるために旅に出た。松本は深刻な問題の相談相手にならないことも明らかになっている。だから手紙は須永の深刻な問題について書いているはずがない。松本の誤った予測が現実化しなかったことで松本の須永理解の誤りが示されている。
「唯僕丈は、--斯ういふと又あの問題を持ち出したなと早合点なさるかも知れませんが、僕はもうあの事に就いて叔父さんの心配なさる程屈托して居ない積ですから安心して下さい。唯僕丈はと断るのは決して苦い意味で云ふのではありません。僕は此点に於て、叔父さんとも母とも生れ付が違つてゐると申したいのです。僕は比較的楽に育つた、物質的に幸福な子だから、贅沢と知らずに贅沢をして平気で居ました。…けれども夫は永く習慣に養はれた結果、自分で知らない不明から出るので、一度其所に気が付くと、急に不安になります。着物や食事はまあ何うでも可いとして、僕は此間ある富豪の無暗に金を使ふ様子を聞いて恐ろしくなつた事があります…僕は其話を聞いた時無論彼を悪みました。けれども気概に乏しい僕は、悪むよりも寧ろ恐れました。僕から彼の所行を見ると、強盗が白刃の抜身を畳に突き立てゝ良民を脅迫してゐるのと同じ様な感じになるのです。僕は実に天とか、人道とか、もしくは神仏とかに対して申し訳がないといふ、真正に宗教的な意味に於て恐れたのです。僕は是程臆病な人間なのです。驕奢に近づかない先から、驕奢の絶頂に達して踊り狂ふ人の、一転化の後を想像して、怖くて堪らないのであります。」
須永は旅先からの葉書で松本や母を気づかっている。須永は松本と違って出生の秘密に屈託していないこと、自分の不安は贅沢な生活に呑気でいられないこと、贅沢な余裕のある生活の一転の後の没落を常に必然性として感じることであると説明している。裕福な生活は現実社会に対する無力つまり没落の必然性を内包している。その必然性を感じとる須永の危機意識は、人間関係から逃避し、自分と社会の関係についての考察を迫られることのない旅の間は一時的に平穏でいられる。彼の苦悩は本質的であるから一時的、偶然的に解決されても生活上の人間関係が始まれば再び問題が生じる。これで松本が安心するのは松本が須永の苦悩の質を知らないからである。
須永の旅行先の平穏な心理状態は彼が鎌倉から東京に帰ってきたときの状態と同じである。大きな波で考えれば、この作品全体を通して須永が自分の精神の発展を千代子に「卑怯」だと指摘させるまでに押し進めた結果の休息である。この休息の後再び必然的な思想的葛藤がいっそう高度の矛盾のもとに展開する。須永の苦悩もすでに余裕のある松本のようなインテリの能力では理解不可能である。だから漱石は須永の精神の面白さは「主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹く」ような文壇のインテリには理解されないと断っている。須永の精神に対する文壇インテリの精神の関係は、「結末」で示された敬太郎の「世間」に対する関係と同じである。
「要するに人世に対して彼の有する最近の知識感情は悉く鼓膜の働らきから来てゐる。森本に始まつて松本に終る幾席かの長話は、最初広く薄く彼を動かしつゝ漸々深く狭く彼を動かすに至つて突如として已んだ。けれども彼は逐に其中に這入れなかつたのである。其所が彼に物足らない所で、同時に彼の仕合せな所である。」
この最後の言葉を逆に言えば、漱石はこの作品から不幸で同時に充実した世界に入る覚悟をしている。同時に彼は「全くたゞの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈」の読者をこの深い苦悩の理解者と想定している。作品内容の高度化が同時にインテリや文壇の理解力を越えることであると漱石は意識している。  

 

●「文芸の哲学的基礎」について (明治四十年五月四日〜六月四日、朝日新聞)
漱石はまず、常識的な現実認識を根本的に考え直す、という視点から、主観的観念論の図式を説明している。要点は、客観的な世界があって、それを我々が認識しているのではない、客観的な世界は存在せず、あるのは意識の連続だけである、意識の連続という限りは意識の分化と統一が含まれている。そして、さまざまに分化する精神がそれぞれの理想を生み出す、ということである。
「野分」を書いた直後の漱石は、現実に対する理想の優位を確信しており、客観的な現実の存在を考慮する必要はなかった。そのために主観的観念論の目新しい図式は好都合であった。しかし、「虞美人草」書いた後の「創作家の態度」では、客観的世界を問題にせざるをえなくなり、主観的観念論の図式は捨てられている。漱石はここではまず単純な結論をもっていて、その結論が正しいと信じており、それを根拠づける道具として主観的観念論の図式を利用しているにすぎない。文芸の哲学的基礎付けとして面倒で理屈っぼい説明をしている部分には内容はない。単純な意識が多様な価値観に分化し、それが選択の自由を広げるという主張は目新しいものではない。漱石の独自性は、「野分」の道也と同様、文学者の独立性を主張しており、その独立性が主に地位や金の力と対立していることにある。この基本的な態度が多くの内容を生み出す力である。
意識の材料が多ければ多いほど、選択の自由が利いて、ある意識の連続を容易に実行できる――即ち自己の理想を実行しやすい地位に立つ――人と云わなければならぬから、融通の利く人と申すのであります。単に色ばかりではありません。例えば思想の乏しい人の送る内生涯と云うものも色における吾々と同じく、気の毒なほど憐なものです。いくら金銭に不自由がなくても、いくら地位門閥が高くても、意識の連続は単調で、平凡で、豪も理想がなくて、高、下、雅、俗、正、邪、曲、直の区別さえ分らなくて昏々濛々としてアミーバのような生活を送ります。こんな連中は人間さえ見れば誰も彼もみな同じ物だと思って働きかけます。それは頭が不明暸なんだからだと注意してやると、かえって吾々を軽蔑したり、罵倒したりするから厄介です――しかしこれはここで云う事ではない。演説の足が滑って泥溝の中へちょっと落ちたのです。すぐ這い上って真直に進行します。 
これは横道にそれたのではない。漱石の主張の主な内容はこの社会認識を基礎にして展開されている。しかし、漱石はこの基本的な社会認識が理論や作品においてどのような具体性成果をもたらすかをまだ理解していない。それを発見解するための準備的な思想がここにまとめられている。漱石にとって、文学の価値は社会に対して変革的で啓蒙的な意義を持つことにある。漱石の主張する多様性はこの啓蒙的な意識を基礎に構成されている。漱石は、金や地位の価値だけを認める価値観に対して、そうではない人間の生き方、価値観を多様性として対置しており、金や地位のある者はその多様性を持たないとしている。「人間を識別する能力」、「人間と云うものは、こんなものであると云う新事実」を教え、「開化の進路にあたる一叢の荊棘を切り開」くのが文学者の仕事である。漱石はこの使命を哲学的に基礎付けようとしており、そして、「野分」と「虞美人草」と同様、結果としては、この主張の基礎付けができず、この結論自体の意義を問い直さなければならなくなる。それが漱石の現実認識の発展の形式である。
このあと、我を「知、情、意」に分かち、「知」=「哲学者もしくは科学者」、「情」=「文学者もしくは芸術家」、「意」=「軍人とか、政治家とか、豆腐屋とか、大工とか」、に大きく分類した上で、文学者の理想は何かという精神の分化を導き出している。文学者は、「物の関係を明め」る点では哲学者と同じである。しかし、情の活動を通してそれを行うのが特徴である。しかも、「どこまでも具体的のものに即して、情を働かせる、具体の性質を破壊せぬ範囲内において知、意を働かせる」のが文学の特徴である。
ここから文芸家の理想も四つに分類される。
「これで文芸家の理想の種類及びその説明はまず一と通り済みました。概括すると、一が感覚物そのものに対する情緒。(その代表は美的理想)二が感覚物を通じて知、情、意の三作用が働く場合でこれを分って、(い)知の働く場合(代表は真に対する理想)(ろ)情の働く場合(代表は愛に対する理想及び道義に対する理想)(は)意志の働く場合(代表は荘厳に対する理想)となります。 
文学の理想はこのように分化しており、この四つのうちどれを理想とするかは、人によって時代によって違う。それぞれが独立の価値をもっており、等級をつけることはできない。漱石の基本的な立場は理想を分離することである。
この四種の理想が歴史的に消長する。現代文芸の理想は美ではない、と漱石は認識している。善や愛の理想は幾多の作物中に織り込まれているが、これを現代の理想だと云うには微弱すぎるし、荘厳は現代の世にはない。したがって「現代文芸の理想が美にもあらず、善にもあらずまた荘厳にもあらざる以上は、その理想は真の一字にあるに相違ない」としている。現代の文芸の理想が真を描くことにあることを認めた上で、漱石は次のように主張している。
「・・四種の理想は皆同等の権利を有して人生をあるいている。あるくのは御随意だが、権利が同等であるときまったなら、衝突しそうな場合には御互に示談をして、好い加減に折り合をつけなければならない訳です。・・
真を重んずるの結果、真に到着すれば何を書いても構わない事となる。真を発揮するの結果、美を構わない、善を構わない、荘厳を構わないまではよいが、一歩を超えて真のために美を傷つける、善をそこなう、荘厳を踏み潰すとなっては、真派の人はそれで万歳をあげる気かも知れぬが美党、善党、荘厳党は指を啣えて、ごもっともと屏息している訳には行くまいと思います。目的が違うんだから仕方がないと云うのは、他に累を及ぼさない範囲内において云う事であります。 
漱石が文芸の哲学的基礎として、文芸の理想を四つに分類し、その同等性を主張しているのは、この四つの理想が対立し、真を重視する結果として善と美が傷つけられていると考えているからである。漱石は真だけが重んじられる現状の中で、時代にあわない荘厳はべつとして、美と善の理想の意義を基礎付けその意義の復権を主張している。漱石は、真を描く自然主義には美と善がないこと、そして、日本の現実にはこの美と善が必要であり、そうした作品を作るのが日本の文芸の、あるいは自分のこれからの課題である、と考えている。文芸の価値についてのこうした位置づけは、漱石の現実認識を基礎にしている。
一般の世の中が腐敗して道義の観念が薄くなればなるほどこの種の理想は低くなります。つまり一般の人間の徳義的感覚が鈍くなるから、作家批評家の理想も他の方面へ走って、こちらは御留守になる。ついに善などはどうでも真さえあらわせばと云う気分になるんではありますまいか。 
漱石の基本的な立場は理想の立場から堕落した現実を啓蒙し変革することである。漱石は現実を変革と啓蒙を必要とするものとしてとらえており、そのなかで文学の意義と使命を位置づけようとしている。漱石のこの立場からすれば、理想を欠いた、真を重んずるだけの作品はこの現状の追認にすぎず、この現状に欠如している美や善を描写する使命を持っていない。それだけでなく、真のみを描く結果として、必然的に、美や善を傷つける結果に陥っている。真さえ現せば、という理想は、道義的な精神を欠如している。漱石は基本的には、真の描写と善・美の描写が対立関係にあると考えており、さらに善と美の描写の優位を確信しているが、真の描写が優位にある現状に対して、四つの理想を並立させることで善・美の描写の意義を強調している。
漱石は、文芸の四つの理想がそれぞれ何を意味しているか、したがって、相互にどんな関係にあるかを問題にしていない。この四つの理想が対立しているという現状認識から、その関係を具体的に認識するのではなく、まず、それそれを分離し、独立的な意義を認めるべきである、と考えている。こうした分離は、真を描くことと他の理想を描くことがどのような関係にあるかを理解するための前提として重要な意義を持っている。芸術を表面的に観察した場合にまず目についてくるそれらの理想の意義を認めた上で、それぞれの価値を廃棄することなく、一元的な統一の基に理解することが芸術理論の課題となる。漱石は文芸の理想が四つあり、真だけを理想とする自然主義には美と善がかけており、真の描写の徹底が美と善を傷つける関係にあることを理解していながら、なお、四つの理想の併存を主張するという折衷的な立場に立っている。
漱石が文芸の四つの理想の相互関係を問題にすることができず、四つに分類し分離するにとどまっているのは、漱石の真・美・善がこの時点では非常に狭い内容に限定されており、相互の関係は偶然的であり、分離することが可能な程度の内容しか持たないからである。特に漱石が重視している善=道義の内容が非常に狭く、漱石の自由な思考を拘束しており、同時にそれが漱石の現実認識を飛躍させる契機となっている。
漱石が「文芸の哲学的基礎」の直前に書いた「野分」には漱石の道義的な意識が道也の意識として描かれている。しかし、「野分」でも道也の精神は他の精神との対立において描かれており、道義的な意識も多くの矛盾を抱えている。それは漱石がこの「文芸の哲学的基礎」において、四つの理想の並立を主張しながら、主な内容として相互の対立関係について書いているのと同じ矛盾である。そして、この直に持っていた漱石の道義的な意識は「虞美人草」において決定的な矛盾に突き当たり、漱石はこの道義を一度放棄せざるを得なくなった。
「虞美人草」に見られるこの時期の漱石の道義的な精神の狭さは、モーパッサンの作品の評価にはっきりと書かれている。漱石の真も美も善も、すべてがまだ高級インテリの狭い精神世界の限界を超えていない。
漱石は、イプセンの描いた女を「何の不足もないのに、人を欺いたり、苦しめたり、馬鹿にしたり、ひどい真似をやる、徹頭徹尾不愉快な女で」と書き、ゾラの作品については、「御爺さん」と結婚した「若い御嫁さん」の不道徳を批判している。漱石は、彼らが描いている中産階級に対する批判意識をまだ理解できない。
モーパッサンの「首飾り」についての漱石の理解は漱石の道徳的意識の限界をよく示している。まず、「大変に虚栄心に富んだ女房を持った腰弁がありました。」という作品のとらえ方からして、禁欲的な狭い道徳的意識であることがうかがえる。地位や金に対する批判意識がすぐさま、華美や贅沢を嫌い、さらには個人の欲望をも否定する傾向を持つのが漱石の道徳的な意識の特徴である。これは「虞美人草」では藤尾に対する批判意識として描かれている。
華美や贅沢に対する形式的な批判意識は、貧しい生活を肯定できない、貧しい生活の意義を認識できない、という下層世界との関係における限界を持っている。漱石のこの中間的な道義意識が、特にモーパッサンの作品を不愉快に感じさせている。漱石はこの価値観に基づいて、「虞美人草」では華美や贅沢を好む藤尾を懲らしめ、貧しい生活から小夜子を救いだすことを道義として描いた。しかし、それは結果として藤尾の精神をも小夜子をも否定することを意味し、肯定的な精神を見失う結果となった。
「よくせきの場合だから細君が虚栄心を折って、田舎育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗に返したのは立派な心がけで立派な行動であるからして、もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少くともこの細君の心行きを活かしてやらなければすまない訳でありましょう。ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。積極的にと云うと言い過ぎるかも知れぬけれども、暗に人から瞞されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気た働きをした事になっているから、奥さんの実着な勤勉は、精神的にも、物質的にも何らの報酬をモーパッサン氏もしくは読者から得る事ができないようになってしまいます。同情を表してやりたくても馬鹿気ているから、表されないのです。それと云うのは最後の一句があって、作者が妙に穿った軽薄な落ちを作ったからであります。この一句のために、モーパッサン氏は徳義心に富める天下の読者をして、適当なる目的物に同情を表する事ができないようにしてしまいました。同情を表すべき善行をかきながら、同情を表してはならぬと禁じたのがこの作であります。いくら真相を穿つにしても、善の理想をこう害しては、私には賛成できません。」
漱石の徳義は借金を返すための夫婦の努力を「立派な心がけで立派な行動」として高く評価している。しかし、漱石の道義は、この生活をまず、「田舎育ちの山出し女とまで成り下」がることと否定的に評価することを前提としている。そして、そこまで成り下がるほどの立派な心がけに対して褒美を与えることを道義と考えている。「田舎育ちの山出し女とまで成り下」がる立派な心がけと立派な行動そのものに現実的な成果があることを理解できず、それに対して別の褒美を与えることが、その生活から抜け出すこと、つまり中産階級的な利益を与えることが漱石の徳義である。「無理に馬鹿げた働きをした事になっている」というのは苦労をした夫婦の現実的な果実を理解することのできない漱石の解釈であって、モーパッサンが描写している内容ではない。この時の漱石は物質的な報酬を得られなかったマチルドだけが得ることのできる精神的な報酬をどうしても理解することができない。漱石は、虚栄心にとんだ女房としてマチルドを不必要に否定的に評価していながら、マチルドが労苦の末にその虚栄心をもまったく払拭していることにすら気づかず、ましてそれが新しい精神世界を得ていることにはまったく思い至らない。そのために漱石には、モーパッサンが、どんな努力にも関わらず報われない現実を真として、あえてその報われないことだけを強調しているように見えた。それは漱石の現実認識の狭さによる理解である。
「虞美人草」を経験していない漱石の道義は、日本の高級インテリの生活の限界を超えていない。そのために、モーパッサンの描写が、真であり現実ではあっても、徳義を欠いた作品に見え、不愉快を感じる。つまり、漱石には「首飾り」は真であり、徳義は別の現実に、別の生活にある、と考えており、漱石の現実認識において真と善が分離している。しかし、この直後に書いた「虞美人草」で、モーパッサンの現実に対立する徳義の優位を描写しようとした結果、漱石自身の現実感覚の深化と矛盾することになり、作品としての破綻を含むことになった。漱石の狭い道義を描写することは、漱石自身が認識している現実のあり方にも反しており、真に反しており、真が道義を傷つけるのではなく、道義が真を傷つけ、不自然で強引な結末を描写する結果になった。「文芸の哲学的基礎」に書いている善と、「野分」の道也の善の、真に対する優位は「虞美人草」において崩壊する。しかし、それによって漱石は道義的意識を放棄するわけではなく、ここにあげた四つの理想のそれぞれの意味と相互の関係を考察するための重要な契機を得ることなる。ここでの漱石は真を自然主義的な意味での真とだけ考えており、美と善を高級インテリの価値観としてのみ考えており、そのために四つの理想が並列されている。漱石は現実感覚としても芸術理論としても、対立する価値観との分離を意識しており、自分の価値観による現実認識と理論の統一を意図していない。それは現実認識の限界であると同時に、漱石がその限界を直感的に意識していることでもある。漱石の現実認識の限界を超えて、真と美と善の意味がそれぞれより深く広く理解されるてはじめて、これらのすべては一元的に位置づけられることになる。
漱石が「虞美人草」でぶつかる課題はつぎのように意識されている。
「偉大なる人格を発揮するためにある技術を使ってこれを他の頭上に浴せかけた時、始めて文芸の功果は炳焉として末代までも輝き渡るのであります。輝き渡るとは何も作家の名前が伝わるとか、世間からわいわい騒がれると云う意味で云うのではありません。作家の偉大なる人格が、読者、観者もしくは聴者の心に浸み渡って、その血となり肉となって彼らの子々孫々まで伝わると云う意味であります。 
漱石は自分の道義的理想自体の限界を意識しておらず、それを貫くことだけを困難なが課題だと思っている。漱石のこの時期の道義、人格は、末代まで輝きわたることはない。この直後に書いた「虞美人草」によって、自分の道義と現実との関係が意識され、道義自身が批判的な検討の対象になる。漱石の道義は、華美や虚栄を嫌うことであり、金や地位拒否して貧しい生活に耐えることである。それは実践的な課題であり、その実践の社会的な意味の認識は課題になっていない。作品によって有名になるのではないとか、後世に名前を残すためではない、というの作品内容ではなく、作品を書くにあたっての作家の心構えである。この心構えが生み出す社会的な矛盾を漱石は「野分」と「虞美人草」に描写しているが、まだそれを思想的な形式ではとらえていない。
漱石は、文学は理想を描き、そのことによって社会を啓蒙すべきである、と考えている。それは漱石の当為である。その限界はその当為を実践する過程で現実化する。漱石は「野分」では、道義的な理想を持つことは、世間に排除され孤立することになる、と書いている。そして、そうした覚悟によって人格を形成し、その成果として啓蒙が可能になる、と考えている。その場合、その道義の理想はどのように描くことができるだろうか、という疑問ないし課題が生ずる。
だからして技巧の力を藉りて理想を実現するのは人格の一部を実現するのである。人格にない事を、ただ句を綴り章を繋いで、上滑りのするようにかきこなしたって、閑人に過ぎません。・・ただ新しい理想か、深い理想か、広い理想があって、これを世の中に実現しようと思っても、世の中が馬鹿でこれを実現させない時に、技巧は始めてこの人のため至大な用をなすのであります。一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわるるほかに路がないのであります。そうして百人に一人でも、千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥より閃めき出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸家の精神気魄は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完うしたるものであります。
漱石はこの文章に含まれている重大を矛盾を意識していない。
漱石の道義は現実と対立している。作家の理想が新しく、深く、広く、世の中が馬鹿でこれを実現させないときに、それを理解させる技巧がありうるだろうか。芸術の技巧は、ある理想を馬鹿な世の中にあうように加工する技術であろうか。馬鹿な世の中が理解できるように巧く描かれた理想が啓蒙の力を持つであろうか。馬鹿な世の中が理解できるように描くとは理想を馬鹿な世の中に合わせることであろう。啓蒙のためには、結局「ある程度以上に意識の連続において一致」しなければならない。しかし、漱石の理想は、馬鹿な世の中と全般的に非妥協的に対立することに意義を求めていたのであり、それが現実との一致を目指すところにはじめから深刻な矛盾を孕んでおり、それがさまざまな矛盾を引き起し、そのもっとも分かりやすい成果が、「虞美人草」の破綻した結末である。漱石は現実と分離した理想を現実と一致させる技巧がありうると考えているが、分離した内容を一致させる技巧はありえない。それは技巧によって内容を破壊することであり、技巧が破綻することでもある。
漱石はありのままの、みたままの現実を「真」と考えており、自分の価値観による道義を、現実を変革するための理想と考え、その一致を課題にしている。漱石が見ている現実は漱石の価値観による現実であり、漱石の目はモーパッサンが見る現実を見ることができない。そこには道義がないように見える。したがって漱石の考える道義は下層の世界にはない道義である。漱石が真と善の対立を意識しながら並立を主張しているのは、漱石の見ることのできる現実と道義が分離しているからである。漱石は自分の立場の反映である現実と道義の分離を認識しており、その分離的意識の上で、道義の優位を主張し、この道義の優位の意識に基づいて自分の現実認識を変革していく。漱石が「真」としている現実世界とは何かを考える上で、道義的な批判意識は重要な意味を持っている。漱石は、インテリ的な現実認識の限界をインテリ的な道義的意識の矛盾の展開によって克服し、現実の「真」の新しい規定を発見する。それが漱石の精神の発展形式である。 

 

●「虞美人草」の批評 
●正宗白鳥の漱石論--「野分」、「虞美人草」に関連して--
「夏目漱石論」 (明治41年3月1日 中央公論に発表)
漱石氏は流石に學殖があるだけ、鏡花ほど淺薄でもないが、その人生に対する考へは一種の道學先生である。『野分』や『二百十日』を見れば常識的道徳小説の臭ひが漲つてゐる。氏はイプセンなどに比ぶれば、「退き場所を持つてる丈えらい。」と悟つた風な口を利いてゐれど、吾人にはさう信じられぬ。氏の作を見ると、氏は與へられたる道徳に跼蹐してる人で、今の家庭小読家と多く異なる所がない。若しも氏がその自ら云ふ如く禅的態度で、眞に世上紛々の事、老病死苦に超越してるのなら、何で『野分』等の娑婆臭い者が書けよう。要するに氏は超越したつもりなのだ。吾人も現實に苦しんでるよりは、出來る事なら超越したいが、生きてる間は出來ぬ相談だ。超越してると思つてる時は、それは己れを欺いてるので、現實に接触すれば直ぐ壊れてしまふ。
同じ俳人でも戸川残花氏の如きは多少現實を離れて「退き場所」を持つてゐる。少なくも超越的分子に於いては漱石氏と段違ひだ。「露とくとく試みに浮世すゝがばや」の滋味を多少解してゐる。「浮世三分五厘」の域に住んでゐる。夏目氏はここまで達してゐない。だから第二義道徳の境にうろうろして、『坊つちやん』をして、その所謂俗物を罵倒せしめ、『野分』や『二百十日』に於いて岩崎などを氣にしてゐる。しかしまだ悟れないから小説も書けるんだらう。終りに云ふ氏の從來の作中では、『幻の盾』「猫」等が佳作で、評到の『草枕』は部分々々に佳い所もあるが、全体として感心せぬ。(p27)
漱石は学殖があり、浅薄でなく、道学者でもなかった。学殖があるだけ道学者になる、という考え方は浅薄である。漱石は「退き場所を持」っているとは思わなかったし持とうともしなかった。「常識的道徳小説の臭ひ」は漱石の小説の臭いではなく、白鳥自身の臭みである。
漱石の掲げる道義の世界は白鳥には理解できず、白鳥の想像すらとどかない。道徳的に俗を超越して自らを高く置くことなど問題外である。現実世界を俗として批判し、俗界から離れ、孤立し、超越しようとするのは、すべてに対する徹底した批判意識を獲得し、その独自の立場に基づいて社会に働きかけ、具体的な新しい精神を形成するためである。漱石の立場は、日常生活のあれこれに不満を持ち不平を感じながら、無批判的に現実にまみれることを人生だとする自然主義とは違う。現実と精神のあれこれに物知り顔で適当に批判することで自己を高く保とうとするほど愚かでもない。漱石は、現実社会と対立しつつ、その現実にふさわしい新しい精神を創り出そうとしていた。
白鳥には道也の超俗が社会と深く関わるための方便であり経路であることが理解できない。漱石のような批判意識を持たない白鳥に、漱石の批判的な立場の理解を求めることは無理な注文である。漱石と白鳥はそのようなレベルの対立関係にはない。白鳥は漱石の作品のごく表面的な特徴に引っ掛かって反発を感じている。
白鳥は「坊ちゃん」は類型的人物だ、と書いている。白鳥は、自分が漱石の道徳臭さが気に入らないのだと思っている。それは、白鳥の理解力と感受性が、漱石の作品の表面的な道徳的形式にしか届かないからであり、そのみじめな理解力においても漱石に反発を感じるからである。漱石の表面的な道徳的意識の特徴は、白鳥が指摘しているとおり、俗物を罵倒し、岩崎を気にすることである。俗物を批判して、岩崎を批判してなんになるのか、と白鳥は思う。俗物を批判し岩崎を非妥協的に批判し、その批判意識を貫くことの意味は、「明暗」に至る漱石のすべての作品に示されている。俗物を批判し岩崎を気にすることを娑婆気だとして批判する白鳥には社会的な批判意識の発展の意味は理解できない。だから、「虞美人草」を超えると白鳥は漱石の作品にとっかかりさえつかめなくなる。
白鳥の批評を読むと、漱石の作品には白鳥の求めるもの、認めるもの、理解しうるものがまったくないことがわかる。漱石の作品は白鳥の精神と接点を持たない。このことからも、漱石の俗物に対する批判がいかに徹底していたかがわかる。白鳥にこのように批判されていることは、漱石の作品の成果であり、社会的な批判意識の深さの証明である。
夏目漱石論【「中央公論」昭和3年6月1日に発表】
白鳥は「虞美人草」が気に入らないらしく、面白くなく退屈である、と書いている。「どのぺージにも頑張つてゐる理窟に、私はうんざりした」とも書いている。よほど気に入らないのであろう。白鳥が気に入らないのは漱石の道義的な社会的批判意識である。これが本能的に気に入らない。
宗近の如きも、作者の道徳心から造り上げられた人物で、伏姫傳受の玉の一つを有つてゐる犬江犬川の徒と同一覗すべきものである。『虞美人草』を通して見られる作者漱石が、疑問のない頑強なる道徳心を保持してゐることは、八犬傳を通して見られる曲亭馬琴と同様である。知識階級の通俗読者が、漱石の作品を愛読する一半の理由は、この通常道徳が作品の基調となつてゐるのに本づくのではあるまいか。
「虞美人草」は通常道徳が基調になっているわけではない。宗近が道義を持ち出すのは最後の場面だけである。それにもかかわらず、白鳥が八犬伝までもちだして、「虞美人草」を無理にも通常道徳の小説だと主張するのは、白鳥が作品の内容を理解できないにもかかわらず、作品の批判意識が白鳥の感性と対立し、刺激するからである。「虞美人草」が古くさい道義を基調にした通俗小説であるなら、白鳥もこれほど力んで批判する必要はないであろう。
「虞美人草」は、「野分」を引き継いでいるものの、道義はすでに表に出ておらず、甲野の精神は道徳的批判意識の徹底として、道義を自分の意志から自然の意志へと移しかえており、道義の自然的勝利に期待している。白鳥は、道義の形式をとった批判意識であろうと、必然の傍観という形式をとった批判意識であろうと気に入らず、いずれにしても漱石の批判意識の傾向性と闘っている。しかし、白鳥が漱石をとらえることができるのは、古い道義の形式をもっている、という側面からだけである。白鳥は、漱石が道義的な意識を脱ぎ捨て始めている作品だからこそ、強いてその古い道徳性を強調し、自分の視野の中につなぎ止める努力をしている。 白鳥は、通俗小説であることが美辞麗句に幻惑されてわからないのであろう、と書いているがそうではない。通俗的に見えるのは、美辞麗句を連ねている部分である。通俗的な美辞麗句を書き込んでいるにもかかわらず、その他の部分に描かれている深い内容が読ませる力をもち、白鳥にながながと罵倒する必要を感じさせている。しかし、白鳥にはその内容の部分は理解できない。漱石は白鳥の視界から消えつつある。
白鳥は「三四郎」についてつぎのように書いている。
『虞美人草』ほどに随筆的美文的でなかつたに關らず、一篇の筋立てさへ心に残つてゐない。読者を感激させる魅力のない長篇小設を讃み通すことのいかに困難なるかを、その時感じたことだけ、今思ひ出してゐる。
白鳥は「虞美人草」の道義や美辞麗句を批判することができた。つまり白鳥は、「虞美人草」については、道義的であることと美辞麗句であることしか感じ取ることができなかった。道義も美辞麗句も消えた「三四郎」については何も感じ取ることも理解することもできず、作品が白鳥の精神世界から切り離されてしまった、ということである。もともと内容としては接点を持っておらず、漱石の道徳的な批判形式と美辞麗句だけが白鳥の精神を漱石の作品に結びつけていたにすぎない。
しかし、四十以後に小説修業の途に上つた彼れは、根本に於いて変化を來すことはなかつた。時代の流行に附和雷同することもなかつたし、左顧右眄煩悶苦悩するところもなかつた。乙女小説から『蒲團』に転じた田山花袋のやうな自己革命など無論経験しなかつた。
漱石ほど深刻な煩悶苦悩を描き、漱石ほど劇的な、分かりやすい、しかも自覚を伴った自己革命を経験した作家はいない。白鳥には、漱石の作品が一作品ごとに劇的に変化していることがさっぱり感じ取れない。白鳥が理解できる自己革命というのは、恋に恋する乙女小説から、性欲の告白の描写といった、ごく表面的で形式的な変化のことである。同じ自然主義の田山花袋の作品でさえこの程度の形式的な理解しかできないのであるから、まして漱石の作品を理解できるはずがない。ただ、直感的に、本能的に漱石を批判する必要を感じており、しかも理解が届かないために形式的な罵倒を書き並べるしかなかったのであろう。
彼れの作品の殆んど全部を読み去り読み來つた私は、最後の『明暗』に於いて、こんな人間が、水に油を點したやうにぽつりと現出してゐるのに、甚だ興味を感じた。漱石としては、柄にない人物を創造した訳で、取り扱ひ方も上手ではない。しかし、社会主義か共産主義か、さういつた假色を使ふ人間を、ブルヂヨア仲間へ割り込ませたところに、時代に關心する作者の氣持が分るやうに思はれる。
この、「明暗」についての批評は、白鳥が小林を批判する必要を本能的に感じた結果であろう。小林は、白鳥が通常道徳を基調としていると批判した「虞美人草」の内的矛盾が生み出す必然的な人物像である。それが白鳥には、「水に油を點したやうにぽつりと現出してゐる」ように見える。むろん白鳥が「明暗」も小林も理解できるはずがない。しかし、小林を、漱石の作品系列の中の、そして、「明暗」の中の異質な人物像であり、時代の関心から偶然書き添えているかのように解釈しているのは白鳥らしい感性である。小林を漱石にとって偶然的な人物として、さらに漱石を「社会主義か共産主義か」といったものから切り離す必要を感じているのは、白鳥の思想の立場が漱石と基本的に対立しているからであり、「虞美人草」や「野分」の批判意識を古い道義として否定する必要を感じているのと同じである。  
●漱石概観 唐木順三著 (昭和六年執筆、七年発行)

 

要するに『猫』と『坊つちやん』は、調子にのつた漱石の、出まかせの余技にすぎない。ヒステリックな、日頃の鬱憤の爆発にすぎない。が、爆発にしろ、余技にしろ、本音でないとは言へない。そこに匂ひ出てゐる封建的正義感と癇癪は、同時に彼の骨にくつついてゐるものに外ならない。漱石は、勃興期のブルジョアジイの必然的にかもし出す暴君的勢力を憎んで、それに封建イデオロギイを対立せしめた。同一平面に於けるこの対立の仕方は、必然的に漱石の敗北に帰するは見えすいた理である。一切の生産機関と、それから起る支配機關とを具備して愈々発展しつつあつた日露戦争後の日本ブルジョアジイに対して、何等の地盤をもたず、何等の団結をもたない封建イデオロギイが互角に封抗しえよう筈がない。それから來る必然的な敗北は漱石を益々偏窟にさせる。--窮屈に、依枯地にさせる。--後の博士號拒絶問題、西園寺文相の文士招待拒絶問題等は、その偏窟と依怙地から來る必然的な結果に外ならない。--この敗北にも拘はらず、「愉快、不愉快を唯一の尺度として詩の國を建てんとするとき、勢ひ対象を制限せざるを得なくなるのは理の當然である。
唐木氏の主張は基本的に正宗白鳥の主張と同じである。唐木氏はそれを一歩進めて、漱石の作品と実践の特徴を階級的に規定している。支配階級としての機構を整えつつあるブルジョアジイとの対立において、すでに現実的基盤を失った封建的イデオロギーの敗北は必然である、言う説明は説得力を持っており、分かりやすい。ただし、漱石の作品と実践を、日頃の鬱憤だとか偏窟だとか依怙地と解釈した上で、それを古いイデオロギーと現実社会との対立として説明しているだけだから、わかりにくく書く方が無理であろう。唐木氏の説明が分かりやすいのは、漱石が偏窟で依怙地だったと指摘しているにすぎないからである。たとえ理由付けは難しげな言葉を使っていても結論は誰にでもわかる性格付けである。
このあと、この基本規定からの必然的な帰結の形式をとって、風が吹けば桶屋が儲かる式の因果関係を連ねて漱石が「野分」を書かざるを得なかったと説明している。この部分は恣意的な推論だから特に問題にする必要はない。
『野分』は『草枕』と『坊つちやん』の二傾向の綜合であると同時に、先に言つた如くまたひとつの転向点であり、新しい出発点でもある。その意味はかうである。『猫』『坊つちやん』に於けるブルジョアジイに対する反抗は、要するに無鉄砲と癇癪に始まり、自己の優越感と快哉に終つてゐるのに対し、『野分』の主人公の対立は常に「瓢然として去る」を特徴とする。道也先生は決して無鉄砲と癇癪で動くことをしない。高柳との問答はこの消息を明示してゐる。
階級規定とも弁証法ともとれるような大げさな文章が少々滑稽味を帯びている。根拠は社会的で階級的であるにしても、そして何やら総合を問題にしているにしても、ようするに、さすがに漱石も癇癪持ちで依怙地だけではやっていけなくて、飄然として去る精神となる、という作品の表面的な特徴を並べているにすぎないからである。これはどういう話になるのであろうか。
かくして漱石は、『坊つちやん』に於ける無鉄砲な正面衝突から『野分』の解脱へ移つた。
だが、これは明らかにブルジョアジイに対する敗北を意味する。一切の人格、教養を無視し、或はそれを利用することによつて剰余価値の蓄積に余念のないブルジョア社会機構内に於て、「わたしは痩せてゐる。痩せては居るが大丈夫」といふ道也先生の「人格論」は、痩我慢であると同時に、社会の中心機構から疎外されたインテリゲンチアの唯一の逃避場である。
自己の一面を道也先生に於て理想化し、「一人坊つちの崇高」を説いた漱石は、ひるがへつて、現實の自己に注意を向けざるを得なくなつた。自ら凌雲閣に登つて、仙人と共に岩崎を罵倒して人格の尊嚴を説いた道也先生から眼をうつして、ブルジョアジイにしばられ、社会と俗念にとらはれ、拘泥の沼に沈吟する現實の人間に眼を移さざるを得なくなつた。「高い、暗い、日のあたらぬ所から、うらゝかな春の世を、寄り付けぬ遠くに眺めてゐる」(二一頁)『虞美人草』の甲野を経て、『三四郎』『それから』『門』『行人』『心』への推移は、我々にこの消息を示すであらう。
『虞美人草』(四十年六月以後)に多くの頁をさくことは、我々には愚である。はじめての新聞小説のために、固くなつてゐると同時に、読者を倦かせないために筋を面白くはこばせようとする意識に煩はされて、我々を退屈させる。美辞麗句の洪水、伏線への関心、其処から生れる匠氣、なんとなく品のない、また思想のない小説である。
これが落ちの部分である。結論は正宗白鳥と同じで、唐木氏の理解は『虞美人草』を含めた漱石の作品の内的な思想に届かないということである。唐木氏は、漱石が癇癪持ちで偏窟で依怙地であるといった程度のつまらない話をイデオロギー的な形式でくるんでいるにすぎない。そして、そのイデオロギー的な図式もそのつまらない内容にふさわしいものである。漱石は封建的イデオロギーの持ち主ではなかった。漱石は日本における進歩的なブルジョア的精神の典型である。だから、ブルジョアと対立する封建的イデオロギーというのは二重に間違っている。「一切の人格、教養を無視し、或はそれを利用することによつて剰余価値の蓄積に余念のないブルジョア社会機構」というのは馬鹿げている。無視することと利用することはまったく対立している。剰余価値を生み出すためには、支配の機構としても、搾取の対象である労働者の育成にしてもブルジョア的な人格と教養が必要である。それを形成すること自体がブルジョア的な課題である。
漱石が求めていたのは封建的な人格ではなく、ブルジョア的な人格であり教養である。初期から独占的な性格を持っていた日本のブルジョアジーは、藩閥政府の力によって農民を搾取し、あるいはアジアを侵略することによって資本を蓄積した。日清戦争後ようやく資本が自己運動する力を得たとは言え、日露戦争を経由して資本はますます独占的であると同時に軍事的性格を強めている。そうした日本特有の歪んだ資本主義にとって、「剰余価値の蓄積に余念のないブルジョア社会機構」を創り出すことは困難な課題であった。
漱石の道也は、目の前の社会をブルジョア的な観点から堕落と考えており、蓄積された富のブルジョア的に合理的な分配を求めている。富を堕落のために使うべきではない、と考えており、富の収奪や蓄積に反対しているわけではないし、富自体を批判しているわけではない。『虞美人草』でいえば、漱石はブルジョア的な成果を、孤堂や小夜子にも及ぼすべきだと考えている。小夜子は貧しい階級として肯定されているのではなく、小夜子はブルジョア的な富の分配を受けるべきである、という視点から肯定されている。「野分」の道也が自分自身の利益をすべて放棄することによって、この合理的な分配を求めているのは、道也が、社会的な道徳的な形式をとって自分の利益を求めているのではないことを証明する必要があると漱石が考えるからである。自分の利益ではなく、社会的に合理的な分配を、社会的発展のために、思想的に学問的にのみ求める立場にいることを実践で示す必要があったからである。
漱石が道也の禁欲主義的な道義的人格の実践的徹底を必要としたのは、日本の資本蓄積が、非常に分かりやすい道徳的腐敗の形式をとっており、それに対する道徳的批判が社会に受け入れられやすく、資本主義の発展に伴ってますます拡大していくプチブル的な、特にインテリの地位の分配を求める思想がこの批判意識の形式をとるからである。四迷が「浮雲」で描いた昇のような出世主義者と、それに対する道徳的な批判意識が同等に形成され、それぞれが資本主義の発展の中に組み込まれていく過程が進行しており、漱石はそのすべてに対して批判的であろうとした。それが人格的な孤立である。それは、やせ我慢ではなく、逃避でもなく、ブルジョア的精神の発展の一つの形成過程である。
道也の禁欲主義も、甲野の必然に対する期待も実は非常に楽観的であった。しかし、そうした楽観的な社会認識は日露戦争の結果とともに崩壊するのであり、そうした社会認識自体は根本的に問い直されねばならなくなる。腐敗した金持ちを批判し、貧しい小夜子を助けるという道義は、漱石が批判している日本の資本主義が生み出す特有のプチブル的な現実認識ではないか、ということが批判的認識の対象となる。それが「三四郎」以下の作品である。
正宗白鳥や唐木氏が漱石の道也や甲野を激しく批判するのにはそれなりの理由がある。漱石はまず「野分」で、自分の批判意識を、現実社会のすべての実践と精神のありかたに対する非妥協的な批判にまで徹底し、抽象化した。それを出発点として、その成果として、「虞美人草」では、自分の批判意識が、実際は、日本の堕落したブルジョアに隷属するインテリの精神に対する批判という限界を持っている、という具体的課題の獲得であった。それは、漱石が正宗白鳥や唐木氏を、ブルジョア的な視点から批判対象としてはっきり捕らえたということであり、それが彼らの批評によって証明されている。批判の矛先が自分の方に向かってきていることを感じ取って、彼らはそれがあたかも漱石の敗北であり、逃避であるかのように説明し、自分自身に対する批判を回避しようとしている。それは彼らの階級的な本能である。
このあと唐木氏は、漱石の朝日新聞入社に関連して「俗人的な喜びを露はに示している」だとかの、下司のかんぐり程度の批評を並べている。もともと漱石の作品に対する階級的反発があり、漱石を思想として扱うことはできず、漱石の主観の二重性を指摘くらいが能力の限界であり、その貧弱な思想を単純な階級的図式や大げさな言葉で飾っているにすぎない。漱石が道也や甲野の孤立の過程を精神の成果として描いているにも関わらず、彼らにはその過程が、敗北にしか見えないし、その敗北の中で自己を肯定していることはやせ我慢にしか見えない。それは下司のかんぐりではなく認識能力の限界のために実際にそのように感じられそのように見えている。「野分」と「虞美人草」を読んで、道也や甲野が世俗的な意味での勝利者でないことがわからない人間などいるはずがないにもかかわらず、多くの批評はこの言うまでもない現象をさまざまに説明している。漱石の精神の成果が、批評の無能を100年にも渡って暴露し続けている、ということになる。残念ながら道也の覚悟は必要であり効果的であった。 
●「夏目漱石の作品」片岡良一著

 

一つの転機--『二百十日』と『野分』-- (昭和二十八年八月)
片岡氏は、『野分』と『虞美人草』の批評において、漱石の批判意識と激しく対立している。漱石の作品の登場以来、そして特に戦後のこの時期に、日本のインテリにとって、漱石の道徳的な批判意識の発展を批判することが非常に重要な課題であったことがよくわかる。この伝統は21世紀の今日まで受け継がれている。すべての批判の要点は、漱石の批判意識の現実的無力を指摘することである。漱石は、批判意識の徹底のために現実的に無力化し孤立する過程を描いているのであるから、批判意識の現実的無力を指摘するためには理論的な無知以外に多くを必要としない。批判の意志を持つだけで十分である。片岡氏は、表面的な因果関係を連ねることで必然性の形式をとっているものの、内容は支離滅裂である。しかし、要点は単純であるから、細かな点をすべてにわたって批判する必要はないだろう。
こうして『野分」は予定通り四十年一月のホトトギスに発表されたのであったが、それほどの熱意と意気込みとをもって書かれたものでありながら、作品としてはさしたる成功を収め得なかった。第一そこに描かれた道也の勝利は、勝利というにはむしろあまりにみじめなものでしかあり得なかった。まともな闘いを姿勢しただけリアリスティツクになったのであった作者が、どちらかといえば私小説風な身辺事情に即して、不当に抑圧的な力を代表するものとして道也の兄や細君のような人々を選んだことが、そういう結果を必至としたのであった。それは一面いえば不可能な勝利を可能のかたちに形象化するための、昔の浮瑠璃や歌舞伎の手法などにも似たところのあるような描ぎ方であったが、とにかく兄も細君もそういう役割を担うにふさわしいほどの人物ではなく、同じ金力や権力に圧しつぶされた卑小な俗物に過ぎないのである。そういういわば端役のような人たちとの小競合いでしかないのだから、道也の勝利も当然みじめさのかげを帯びざるを得なくなっているのである。
漱石は道也の現実的勝利を問題にしていない。現実的勝利がないことを理解しつつなお批判意識を徹底することが漱石の覚悟である。だから勝利を描いておらず、敗北を描いていることにおいて、対立の成果は惨めではなかったし、闘いはまともであった。片岡氏が現実的なまともな闘いを知らず、認めていないだけである。一介の教師であった道也が地方の有力者を個人として批判して勝利するはずがない。道也の批判が誰にも支持されず、道也が孤立したことを漱石は批判意識の成果だと考えており、道也もそのように意識している。漱石は、兄や細君を不当な抑圧者として描写していないし、彼らに対して勝利したとも書いていない。兄や細君からも批判され、信頼を失うことが道也の成果である、と漱石は描いている。ただ、彼らは道也の道徳的な批判意識の実践の結果として具体的に対立しており、漱石は、そこに生じた成果の意義をまだ認識できていない。しかし、この新しい関係を創り出したのは道也の主体的で実践な批判意識である。
金や地位に対する批判意識を徹底して、実践的に金や地位を失った結果として、道也は現実的で具体的な対立を獲得し、それを意識化する課題を得る。それは自分自身の批判意識の再検討でもあり発展である。批判意識によって実践的に新しい人間関係を創り出し、同時に新しい精神を形成している。社会的な批判意識は、地方の有力者との関係を経由して兄や細君との関係の中に生きている。それが漱石の批判意識の現実的な成果である。地位や金との闘いを、社会一般や金持ちや権力者に対する抽象的な批判としてのみ持つのではなく、現実的な具体的な人間関係における対立まで押し進めることが道也の力であるにもかかわらず、それが片岡氏には惨めさに見える。しかし、実際は、金力や権力との抽象的な闘いを掲げて具体的な生活において妥協する場合に、闘いはみじめさのかげを帯びる。それは、漱石の批判意識を抽象的に批判する片岡氏の意識がみじめさを帯びていることによくあらわれている。といっても、片岡氏の場合は、闘いではなく、闘ってはならない、という主張による漱石との闘いであるから、闘いの惨めさではなく、金や権力との関係でいえば、闘わない惨めさ、従属の惨めさである。
漱石は、道也が社会的な批判意識を徹底した結果として、地位と収入を失い孤立する過程を描いているのであるから、それを惨めというのなら惨めという以外にない。漱石はこういう破滅的な人生を選択することによって得られる新たな精神を探求している。片岡氏にはそれが理解できないし関心も持たないから、地位と収入を失い孤立したことを惨めとしか感じ取れない。しかし、それにも関わらず、それが惨めであることを強調しているのは、道也が惨めな気分に陥っておらず、批判的な意識によって自己肯定しているために、道也の精神が惨めである、と指摘する必要を感じているからである。道也が本当に惨めな運命に陥り、成果もなく破滅するのなら、片岡氏が、惨めだとか通俗小説だとか、浅露なひびきだとかの惨めな解釈をする必要を感じなかったであろう。
道也の実践には精神的には多くの果実があった。それだけではない。道也の実践の過程は、現実との関係においてその批判意識の限界を超えた普遍的価値を持っている。実践の過程の方がはるかに多くを含んでおり、その実践を意識化する過程は実践からはるかに遅れてついていくのであり、その内容豊かな実践を創り出しているのが道也の批判意識である。道也が金持ちや権力者と真剣に闘う場合、現実的な敗北と孤立が徹底するほど批判意識は徹底している。それが真剣であり徹底するほど孤立することが漱石には分かっているからこそ、漱石はその過程を勝利の過程として描いている。誰であろうと、真面目に考察するなら真剣な闘の結果を孤立の過程として想定する以外になく、またこうした闘いにのみ成果がある。それが真剣な闘いであり、成果のある闘いであるからこそ片岡氏はそれが惨めな闘いだと指摘している。片岡氏を含めて、道也の闘いの惨めさの証明のために、どれほど多くの批評家がどれほど多くの文章を書いてきたかを思えば、それだけでも巨大な成果である。
つまり作者は、正面きった闘いの情熱に憑かれたかわりに、十分な沈潜と従って自分自身の主張や内面を吟味しようとする厳しさを失っていたのである。深く吟味すれば無力感や闘いの不可能を思う気もちが出て来る自分の内面生活であることを忘れ、そういう内面生活を正しく整理することを忘れて、それだけまだ整理されきらぬ気もちの上に立って、果敢な闘いを姿勢することになっていたのである。闘いの情熱にうわずって暗い現実への沈潜的な格闘を欠いたのだともいえよう。 
片岡氏は、現実的な敗北と孤立を惨めさであると指摘した後に、ここでは、漱石の精神を否定的に評価している。漱石の社会的批判意識と対立する片岡氏の無批判性の告白である。
片岡氏は、正面きった闘いの情熱抜きに自分の内面の吟味が可能であると思っているだけでなく、闘いと内面の吟味が対立すると考え、内面の吟味を優位においており、内面の吟味によって正面切った闘いの情熱を否定している。闘っても無力感と闘いの不可能を思う気持ちが出てくるだけだから、闘う前に、あるいは無意味な闘いをやめて、まず気持ちを整理するべきだ、と考えている。闘いによって得られる無力感や闘いの不可能の認識と、闘わずに得られる無力感や闘いの不可能の認識はまったく違う。闘いによって得られる闘いの不可能の認識だけが深刻で具体的な現実認識でありまた自己認識である。闘わずに、深く吟味して得られる無力感や闘いの不可能の認識を肯定するのは、闘う意識がなく、闘う意識と闘おうとする意識に生まれる現実認識である。そうした自己認識は独自の無限性を持つが、それは闘うための現実認識ではなく、闘わないための現実認識の系列を創り出すのであり、片岡氏はそれを求めており、それを持たない漱石に対して非常な不満を持っている。
自分自身の世界を全面的につき詰めようとするかわりに--つきつめてそこからつき抜けようと努めるかわりに、そうしてつき詰め足りないままの一面的な主張をかざして、周囲に対する闘いを挑もうとしたのであってみれば、そこに或る種の浅露さが生れて来るというのも、むしろ是非ない結果であったことになろう。前に作者の開眼という丈字を使って来たし、事実これはこの作者における逃避的態度から積極的態度への転換にともなう、文学意識の切りかえを示す、その意味で極めて重要な意義を持つ作品であったことにはなるのだけれど、この時の作者はこうしてまだ自分自身の問題(生の道)を追求するのが文学の道だという自覚にまでは到達していなかったのであり、従ってその闘いも批判も自分自身に向けられるというものにはならず、もっぱら他を裁くという浅さにおいてのみ示されるということにならざるを得なくなっていたのである。そこにこの期の転換の未だしさがあったことになるのであった。 
これが片岡氏の結論である。漱石は社会に対する批判意識を徹底し、それが生み出す人間関係の矛盾を深刻に受け止めることで、自分自身の世界を全面的に突き詰めて、そこから突き抜けようと努力して、突き抜けることができた。その過程を片岡氏は理解できず、さらにその過程と対立する思想を持っているために、それが「他を裁くという浅露さ」に見えるし通俗的に見える。片岡氏には漱石の社会的な批判意識は浅薄で通俗的に見えるし、漱石の批判意識の立場に立てば、片岡氏の批評こそ、「他を裁くという浅露さ」に見えるし通俗的に見える。片岡氏には、社会的な批判意識を欠いた自然主義文壇の作品が「作者自身が当面する問題と全面的に取り組むことによって、いかに行くべきかの道を探求」しているように見えて、漱石が人生のすべてをかけて「いかに行くべきかの道を探求」している作品が通俗的に見える。それは片岡氏の社会的価値観によるのであり、片岡氏は漱石の社会的批判意識が非現実的で無意味に見えるだけでなく、そうであることを指摘し、明らかにしなければならない、という思想的な使命をも感じているのである。 (昭和二十八年八月)
『虞美人草』の世界 (昭和二十五年五月春陽堂文庫解説)
片岡氏の「野分」「虞美人草」に対する評価の基本的な特徴は、ふたつの作品で得られている精神の内容を理解できないことである。片岡氏は、甲野の「予想した悲劇を、為すが儘の発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である」という文章を引用して、「こういう悲劇論の書出しが、甲野さんの無力感を端的に示すものであることは、もとよりいうまでもあるまい。」としている。漱石はここで「野分」の道也から一歩前進した甲野の現実認識を示している。「隻手の無能なるを知る」というのは、個別的な闘いの無意味を知ったという、新しい現実認識の表明である。「隻手の無能なるを知る」のは知る能力であって無力感ではない。知ることを無力だと思うのは片岡氏の無能である。
片岡氏は、甲野の知の力を無力感だと解釈した上で、それを「時代的なものの照り返しであった」としている。時代を「閉塞」的ととらえて、甲野を暗い無力感にとらえられていると考えて両者を関連づけるのは単純なこじつけである。
片岡氏の『虞美人草』理解は矛盾撞着が甚だしく、支離滅裂といっていいほどである。しかし、これは、漱石のこの二作品を道義的作品として批判する場合に例外なく追い込まれる矛盾であるから、長い引用を紹介して、その矛盾の要点だけを指摘しておこう。
・・彼は、この作に描かれているほど悲しく沈んだ思索人なのでありながら、そういう自意識から来る疑惑や苦悩や自己省察などは少しも持たない、常に周囲に対する優越意識を生き通して、「驚くうちは楽みがある。女は仕合ぜなものだ。」などという、意地悪く侮蔑的な言葉を冷然と口にすることも出来る人間になっているのである。つまり、この作の場合には、明るく調和的な人間生活に対する否定的要素であるところの、「業」とか「我執」とかいうものへの追求が、作者自身をもこめた人間一般の問題としてなされるかわりに、藤尾なりその母なりという特定の人間だけの問題として、従ってもっぱらきびしくそういう人間たちを裁こうとするだけの意識をもって、なされているのである。それがこの作を、作者自身の求道的情熱の上にある、第一義の純丈学であらせるかわりに、他を裁き或は教えようとするだけの啓蒙的情熱に上釣った、通俗的作為の物語にしてしまったのであると同時に、『坊つちやん』以来のこの作者を特徴づけた姿勢が、そこにいよいよはっきりと認められることにもなったのである。それを衆愚意識の上に立った優越意識ないしは指導者意識のあらわれといっても、人間否定にも連なりかねない怒りの発現といってもよかろう。豊隆への手紙によれば、作者ははじめから藤尾を殺すつもりであったという。彼女と一しょに道を求めるのではなく、自分の信ずる道のために、邪魔になるいやな奴などこの世から抹殺してしまおうとせずにはいられぬほどの、はげしい怒りである。人聞をおもちゃのように操って、善玉悪玉の対立する通俗世界を作為することなど、そうした心境からいえばもとより極めて容易なーむしろ必然的なことであったろう。
しかも、そういう悪玉は人間の力をもってどうすることも出来ず、従って悲劇的な破局は必至だというのが、「虞美人草』に示された漱石の感懐の一面だった。そうして殺すよりほか仕方がないとか、死ななきゃなおらないとかいうのは、すでに見て来た人間におけるよき道義的可能性への信仰とは、明かに矛盾するものではないか。その意味で漱石の悲劇論は明白な矛盾の上にあるものだったのであり、それを必至としたものが、当時の漱石における人間への信頼と、道を愛するが故に人間を憎まずにはいられなかった気もちとの、はっきりした分裂にあったのである。人間のために道を求める丈学者の苦悩ではなくて、道のために人間を裁く道学者の怒りが、それを必至としたともいえよう。 
甲野の思索は自己に向かっている。藤尾や母親を批判することの無力を理解しているからである。藤尾や母親との対立関係における苦悩や自己省察が甲野の特徴である。「藤尾なりその母なりという特定の人間だけの問題として」いるのであれば、「衆愚意識の上に立った優越意識」ではないであろう。さらに、「隻手の無能なるを知る」無力感が甲野の特徴であるなら、「指導者意識」も論外である。「隻手の無能なるを知る」という甲野の現実認識は、「他を裁き或は教えようとするだけの啓蒙的情熱に上釣った、通俗的作為の物語」ではないことを示している。さらに「人間をおもちゃのように操って、善玉悪玉の対立する通俗世界を作為する」ことも甲野の言葉と矛盾している。漱石が甲野を「隻手の無能なるを知る」人物として描いているのは、藤尾と母親が、道義的意識によって操ることができない人物であること、彼女たちは独立した強い個性であって、甲野の批判意識が通用しない人物として描かれていることと対応している。甲野がこのような意識を持つことは、漱石が、藤尾と母親を甲野の批判を受け入れるのではなく、甲野の精神の価値をまったく否定し軽蔑する個性として描く自由と力を意味している。だからこそ、彼女たちを否定する必要を感じている漱石が、無理な結末をつけて藤尾の死を描かなければならなかった。だから道義が勝利する無理な結末こそ、漱石が藤尾や母親をおもちゃとして扱ったのではなく、道義的な意識の干渉を一切拒否する現実的な力として描いていることを示している。
片岡氏の指摘は支離滅裂である。しかし、その支離滅裂な指摘にも必然の流れがある。それは、漱石の道徳的批判意識が、「野分」では金持ちや権力者を批判対象にしており、『虞美人草』では、藤尾や母親を批判対象するにいたった現実認識の具体化、批判意識の発展を否定していることである。漱石の批判意識のこの社会的傾向が片岡氏には受け入れがたい。特定の対象に対する批判意識を解消し、人間の「業」や「我執」といった人間一般の課題に取り組むべきだ、としている。しかし、これも実は片岡氏が自分では理解することのできない虚偽意識である。
片岡氏自身は、人間の「業」や「我執」を問題にしているのではなく、藤尾や母親を批判する漱石の意識を批判している。そして、藤尾や母親と対立する甲野や宗近や小夜子を批判している。それが片岡氏の現実感覚であり、この点で漱石と敵対的に対立しており、漱石の批判意識に捕らえられている。
漱石のこの時期の藤尾や母親との関係の限界は、十分に藤尾や母親を批判的にとらえることができず、したがって甲野や小夜子を肯定的な独立的個性として描くことができず、両者が十分に分離しておらず、相互に依存的な関係を抜け出すことができなかったことである。そのために、漱石は意志として、意図として批判する必要を感じており、その批判意識が表にでることになり、藤尾や母親に対する否定的な説明と小夜子についての肯定的説明が目立つことになっている。そうした弱点にも関わらず、すでに特に藤尾や母親を個性的・独立的に描いており、それを否定しきれないことに漱石はいらだっていた。片岡氏は、そうした漱石の苦労も理解できず、漱石が藤尾や母親を道義によって否定し、「人間をおもちゃのように操って」いると感じている。漱石が書簡でうったえているのは、藤尾や母親を道義によって否定することができず、書けば書くほどのさばってくる、という必然のことである。
そういう封建的なるものへの好みに強くひかれていた漱石であったからこそ、彼の愛する女性は、はっきりした自我もなければ積極的な生の目標もなく、男が結婚などするなといえばそんなものかと思いこもうとするだけの、いわゆるすなおさにのみ生きる糸子や、漠然とした男への期待に生きて、いつまでも佗しげに待ち続ける小夜子のような入たちでしかなかったのである。そういう好みが、京人形や都おどりを或る意味では第一義だとする観察などとも結びつく。強く積極的に生きようとする藤尾が、殺すよりほか仕方のない「我執の女」としてしか映らぬのも、これでは止むを得ぬことになろう。保津川の激濡に第一義の壮快を感ずる激情が、そんな女など殺してしまえ、そんな人聞にとって悲劇は必然なのだと考えるほどの強い我執に転化しているのであることを、甲野さんが鋭く反省ぜずにはいられなくなるほどの自照性がこの作にあったら、上記のような作者の整理されない心境的矛盾こそが、直接的に甲野さんの無力感と結びつくべきものであることなども、すぐに明瞭になったのではないかと思う。
片岡氏の言う、封建的なるものへの好みという歴史認識は、京人形や都おどりと結びつく程度の話である。華美と贅沢のための財産を求める藤尾と母親を、積極的に生きようとすると評価し、それに対立する糸子や小夜子を、消極的と対比するならともかく、「自我もなければ積極的な生の目標もなく」と否定するのは片岡氏の好みによる恣意的な否定である。そして、「隻手の無能なるを知る」甲野は、「そんな女など殺してしまえ」などと思うはずはなく、藤尾や母親は謎として捕らえられている。甲野にとって藤尾も母親も批判対象であると同時にそれが何であるかも対処の方法もわからない謎となっており、謎として現実世界を我が物顔に生きている。殺してしまえ、ではなく、批判してしまえですらなく、それが何かわからなくなっている。批判意識のこうした深化が、「隻手の無能なるを知る」ことであり、悲劇の必然に期待することである。しかし、片岡氏は、「殺してしまえ」、と考えることと、悲劇が必然だと考えることの批判意識の決定的な違いを理解できず、これを同等と考えている。漱石は藤尾や母親を独立的な個性として描き、それを謎とする甲野を描き、悲劇の必然に期待することを言葉として描いたが、悲劇の必然を描くことはできなかった。だから、作家として、殺してしまわなければならない、と考え、不自然であってもあえて藤尾の死を描いた。この矛盾がこの作品によって得た漱石の大きな成果である。
片岡氏はこうしした理解のもとで、漱石を封建的な意識の持ち主とし、さらにそれを「市民的道義の確立を阻んでいた絶対主義治下の封建的残滓の問題である。」としている。明治の社会を、閉塞状態だとか、絶対主義治下の封建的残滓、という言葉で表現していても、明治の社会に対する批判意識を意味するものではないことの実例である。片岡氏が、悲劇論だとか喜劇論だとか絶対主義だとか市民的道義だとかの言葉を連ねるのは、明治の社会に対する批判意識ではない。こうした言葉は、明治の社会に対して深刻に批判的であった甲野と漱石の批判意識を批判するためのまやかしの言葉である。片岡氏は、「淋しく沈んだ人間として造型しようとした甲野さんが、陰性の優越意識に安住した、意地悪くキザな、ニュアンスの乏しい人間ともならざるを得なかったのである。」とまず感じ取っており、その感性と同等の理屈を大げさな言葉を使って説明しているにすぎない。甲野が優越意識に安住した、意地悪くキザな男であることを説明するための理屈などどう工夫しても内容は知れている。だから、大げさな言葉が必要なのである。
片岡氏は、甲野に対するこの軽薄な批判に続けて、次のように書いている。
このことは、また一方からいえば、丈学は作者自身の新しい生の道を求めるためのものではあっても、わかりきった道をひとのために説くものではないのだという近代文学的自覚が、まだ漱石のものになっていなかったのであることをも、端的に反映する事実になっていたのであった。
漱石がわかりきった道をひとのために説いているのではないことは、片岡氏が作品をまったく理解していないことからも明らかである。近代文学を「作者自身の新しい生の道を求めるためのもの」などと規定できるものではない。芸術家がそのように自覚することもあろうし、そのような側面を持つこともあるが、それは近代文学的自覚の一般的特徴ではない。そして、このような側面から見た場合、漱石の作品こそ「作者自身の新しい生の道を求めるためのもの」としての著しい特徴を持っているにもかかわらず、それを理解していないのだから、片岡氏は、自分の書いている文章の意味を理解しておらず、その意味を問う必要をも理解していない。片岡氏の文章は非常に大雑把で、作品の理解に何の役にもたたず、分かりやすいようでいながら何を主張しているのかさっぱりわからない。それは、文章が一行ごとに、段落ごとに矛盾撞着しているにもかかわらず、それに気づかずに論理的で必然の形式をとりながら文章を書き進めているからである。全体として罵倒と、意識的でないにせよ誹謗や中傷としか思えないような文章のあとに、漱石の作品に対する国民的な支持に正面から抵抗することもできず、肯定的な評価を付け加えている。これもまた片岡氏の主張をわかりにくく、統一性のないものにしている。 
●「夏目漱石」 瀬沼茂樹著 1962年(1970年7月)

 

瀬沼氏は、「野分」について、次のように好意的に評価している。
『野分』は、前記の手紙が証するように、秋霜烈日の意気をこめた烈風にも似た、青年に訴える思想小説である。鈴木三重吉に与えた「教訓の手紙」の趣意をみずから具体化してみせたイプセン流の問題小説でもある。小説としては技巧が拙劣で、人物も風俗も生彩に乏しいが、白井道也の思想、換言すれば漱石の思想が直截に語られ、初期の作品のなかでも、重要でもあれば、また愛すべき作品である。 
瀬沼氏は、『野分』を肯定的に評価している。思想小説であり、問題小説であり、愛すべき作品である、と書いている。しかし、小説としては技巧が拙劣で、人物も風俗も生彩に乏しい、としている。この対立的な評価はどんな関係にあるのか。
瀬沼氏は肯定的に評価する点では唐木順三などと違っている。しかし、具体的な評価の点では同じであり、否定的評価が具体化している点に違いがある。愛すべき作品と感じ取っていても、その肯定的な意義を規定することの難しさが瀬沼氏の批評に現れている。
ところで、道也の「正しい道」とは何であろうか、敢て「一人坊つち」をよしとし、「動くべき社会をわがカにて動かす」のを「天職」とまで考え、「人格」をつくりあげている「道」とはなんであろうか。
瀬沼氏は、漱石と道也の思想を肯定的に評価する観点からこのように問いかけている。多くの批評家が道也に対してこの疑問を投げかける。この疑問を投げかける場合、一般にこの問いの答えがありえない、ということを理解しておかねばならない。道也の特徴は、その「道」を発見していないことにあるのではない。ない「道」を発見しようとする意志と、そのために実践的に努力していることが道也の特徴である。道也の特徴はこの目標を実現しようとする手段の中にあることを示さねばならない。その意義を批評が発見することができない場合には、道也に「道」をことは求め、示していないことをもって道也の努力の意義を否定することになる。
瀬沼氏は、道也の思想をその演説の中に捕らえ(道也の演説は道也の精神としてはもっとも貧しい部分である)、その理想、人格、道の内容が不分明に終わっていることを指摘した後次のように指摘している。
道也は「高く、偉いなる、公なる、あるもの」に仕え、「人の為にする」ことにおいて「一人坊つちの崇高」に、喬木のように自由で独立でありえた。すくなくともその人格の光は貧困と病気とに社会を呪いつつ「一人坊つちの病気」にすさんでゆく高柳周作を絶望から救いあげる力となり、あるいは道也の兄や妻のような卑小な俗物の自利的態度を超えて行く勝利を結果してはいるが、果していうように暗黒の世界、「金以上の趣味とか文学とか人生とか社会とか云ふ問題」について、実に「金を儲ける為めに金を使ふ」--この資本家的営利精神について、その根源である金権の力そのものにさかのぼって、道徳的自制にまで滲透して、光明をもたらすものであろうか。はたして、この問題は各人の「賢明なる自利心」にまたなければならぬ道徳的自制--「人格」論で解きうるものであろうか。道也の「人格論」は、このままでは、現実社会からはじきだされながら、その故に赤貧と孤独との中に追いつめられながら、「わたしは痩せてゐる。痩せてはゐるが大丈夫」と、痩せ肩をそびやかす福沢諭吉のいわゆる「痩我慢の説」に終始するにとどまるであろう。しかし漱石は三重吉に与えた「教訓の手紙」と同じ口調で、次のように文学または文学者の特質をいうことで、この解決されない問題を文学の核心または文学者の責務として、実人生の内容的価値として、文学の中に真正面からとりあげようとする一つの地点にまでたどりついていた。
「文学は人生其物である。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、凡そ人生の行路にあたるものは即ち文学で、それ等を嘗め得たものが文学者である。文学者と云ふものは(中略)円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆面なく取り捌いたり、感得したりする普通以上の吾々を指すのであります。(中略)ほかの学問が出来得る限り研究を妨害する事物を避けて、次第に人生に遠ざかるに引き易へて文学者は進んで此障害の中に飛び込むのであります」
漱石は白井道也をかりてこの障害の中に一歩とびこんだのである。文学はもはや漱石にとって大学講師の余技であることを、彼自身の内面的要求からしても許さないところまできていることを自覚しはじめたのである。
道也を敗北と孤立によって特徴づけるのではなく、自由で独立的で、高柳周作を絶望から救いあげる力を持ち、自利的態度を超えていた、と評価した後、しかし、と瀬沼氏は反転している。瀬沼死は、道也にないものを求めてそれを道也の限界としている。道也の「道」は、暗黒の世界に光明をもたらすものであろうか、という疑問は、この疑問が何を意味しているかによって答えが違ってくる。道也の「道」が社会の暗黒を解決してしまうことができるのか、という意味ならば、答えは、できない、である。それは道也の「道」だけではなく、誰のどんな「道」であろうと理想であろうと理論であろうと、そんなことはできない。だから、それができないことは道也の精神の限界ではない。道也が、社会的な変革、自己の変革の端緒に立っており、これが正当な出発点であり、その第一歩を踏み出しており、「明暗」に至る道がここに踏み出されている、という意味では、暗黒の世界に光明をもたらしている、と応えることができる。この作品の意義はこの点にある。
瀬沼氏は道也の積極的な成果には触れておらず、正宗白鳥や唐木順三の評価を継承して、地位と収入を失い孤立する道成の思想は、「痩せ我慢の説」に終始するにとどまるのではないか、と危惧している。痩せ我慢の説である、と結論してはいないが、痩せ我慢の説ではない、という説明はない。そして、そのあと、「この解決されない問題を文学の核心または文学者の責務として、実人生の内容的価値として、文学の中に真正面からとりあげようとする一つの地点にまでたどりついていた。」として再び「野分」の到達点を肯定的に評価している。瀬沼氏は、道也の決意が、小説家の道を踏み出した漱石の決意と重なっていることを指摘しているが、それは作品の評価ではない。
瀬沼氏は、「野分」を肯定的に評価するのか否定的に評価するのか、つまり具体的にどのように評価するのかがはっきりしておらず、判断を迷っている。道也の生き方が、文学に真正面に取り組み始めた漱石と同じだとして高く評価しているものの、それが道を示しておらず、「このままでは」痩せ我慢の説になる以外にない、と評価する点では、つまり道也の努力に成果はありえない、とする点では、疑問符をつけながら同意している。道也、漱石が文学者としての人生に真剣に取り組んでいる、しかし、成果ははっきりしない、ということである。実際はこれは、批評としてはっきりさせることができない、ということであるが、道也の成果がない、と想定されている。道也は「道」を示すために人生に真正面から取り組んでいるが、「道」は発見されず、示すこともできない。しかし、「道」以外の何が成果として得られているか、というのがこの作品を肯定的に評価するための課題である。
『虞美人草』の評価では、唐木順三や片岡良一の評価を超えることが、つまり肯定的に評価することがさらに困難であることがわかる。瀬沼氏はこれらの諸氏の評価から一歩も出ていない。
瀬沼氏は、「野分」の道也の演説に注目したのと同様、『虞美人草』については、甲野の「哲学」的な日記に注目している。しかし、これは道也、甲野の思想の形式をとった抽象的な図式であり、哲学というほどのものではなく、自分なりに思想を整理した部分ではあるものの、精神の一部分にすぎない。だからそれは、部分として扱うべきであって、それを道也の、また甲野の、まして漱石の思想と見なしてはならない。
この哲学について瀬沼氏は次のように指摘している。
ここで、漱石はむしろ「業深き人」を暗い眼でみて、なんとかしなければならぬと考えはじめている。「業」や「我」は日常的生に深くかかわっているにせよ、人間的生にとって「三世に跨がる」ような根源的条件でもあるのではないか、それは人間内部の問題として「道義」とどう関係するのであるか、生存欲と道義欲との問題はまだ深く関係づけられて考えられてはいない。
道義の問題を深く捕らえるというのは、道義欲と生存欲がどんな関係にあるかを考えることではない。片岡氏も瀬沼氏もそのように考えているが漱石はそうした方向には進まなかったし、この作品でもそんなことには触れていない。だから瀬沼氏はないものを、そしてある必要のないものを求めているのであり、自分の価値観が描写されていないと指摘しているにすぎない。瀬沼氏は、政宗白鳥や唐木順三や片岡良一とともに、この作品を道義的な作品と見た上で、自分の道義的な価値観に基づいてその限界を語っている。しかし、『虞美人草』は、道義を超えようとする、超える過程で生ずる矛盾を描いた作品であって、決して道義的な作品ではない。
小説『虞美人草』は、この悲劇の哲学を含意して、一切の結構がたてられたとすれば、道義と我執との問題は小説の中にこそとかるべきことがらであるかもしれぬ。小説の主題は藤尾とその母に代表せられる我の世界と甲野欽吾や宗近兄妹に代表せられる道義の世界の葛藤であり、道義が我に勝を制する一種の勧懲小説の趣をみせ、結構の形式からいえば、悲劇のセオリの趣旨を貫徹しているかにみえる。
この仮定は成り立たない。『虞美人草』には悲劇の哲学は貫徹していない。漱石は貫徹しようとしたができなかった。哲学的な単純なセオリーが貫徹できないように描いたのが漱石の力量でありそれが、漱石の精神の自己否定的で発展的な内容である。道義と我の対立という抽象的な図式を一方に掲げつつ、漱石はそうした抽象的思想と対立する内容を多く描き込んでおり、その両者の関係の全体が作品の内容である。善が悪に勝利するとか、道義が我執に勝利するなどという図式が現実的な内容を持つことはできない。漱石はそんな単純なことを書いていない。甲野の図式以外の内容を読み取ることができない場合に、この作品は勧善懲悪の作品に見える。
「紫の女」であるような高慢な虚栄心が、そのなかに蔵する「悪」または「罪」の自覚によって、死に赴いた、すなわち「虚栄の毒に斃れた」と解釈せられるにせよ、自己に対する関係において、「第二義以下の活動の無意味なる事」を自覚した上でのことであったろうか。作者の道義意識が藤尾を罰したということはできても、藤尾の主体において、後の『こころ』の先生が自己を罰したように罪の意識を含んでいないのであれば、道義そのものの主体としての人間的自己はその生存の「必要な条件」をみたしたことにはなるまい。
第二に、藤尾の死が他人に対する関係で自己の出立点にたちかえり、業の深さを悟ったとしても、わずかに「謎の女」であるその母においてだけである。しかもその母の「不行届」は「未来に於けるわが運命の自覚」において我を抑える功利的な気配をもつものであって、「根抵から洗はれる」ような質をふくんでいるとは読みとれない。いわんやその他の作中人物において、悲劇の厳粛な意義が道義の渋滞のない運行を「脳裡に樹立する」ような内的葛藤において発展してはいない。
瀬沼氏は、そうした発展を求めているのであろうか。そうした発展がありうると考えているのであろうか。そうした発展を描けば、批評家の指摘する勧善懲悪小説になったであろう。そのようになっていないことがこの小説の価値である。だから、そのような発展をこの小説のセオリーとして読み取り、その発展を基準にして作品を評価することは批評家の特徴であって作品の特徴ではない。そうした批評の求める内容を描いていないところに作品の価値があり、内容がある。
母も藤尾も根底から洗われることはない。藤尾の死も母親の反省も、作品の流れからすると無理な描写である。しかし、無理な描写には無理になるだけの理由があり、無理になることの意味を理解すべきである。無理な結末になるように作品が構成されていることこそ積極的な内容である。漱石が自分の価値観から藤尾を無理な死に追いやった、というのは、藤尾の個性が漱石に無理な死を描くように追いやったということであり、漱石の中に藤尾や母親の個性が現実的な力をもって生きていたということである。さらに、その現実的な力に対抗しうる批判的精神を求めていた漱石が、この段階ではそれを発見できず、また、また発見できないからこそ道義的批判という形式をとるのであり、したがって彼女達の精神を反省させる方法など発見できるはずもなく、藤尾や母親の現実性と、それに対する道義的批判の無効性をこの小説で描くことになった。最後の場面は、そのような破綻を示してもなお道義的意志を貫くべきであるという漱石の意志を示しているのであり、それにもまた現実的な意義がある。『虞美人草』は単純な勧善懲悪小説ではない。漱石がこれまでに経験的に得たすべての精神がまだ明確な規定を持たずに投入されており、「明暗」にいたるすべての作品を萌芽として含んでいる。内容が明確でないままに非常に複雑な含んでおり、それが理解できないために批評は甲野の単純なセオリーや漱石の書簡を手がかりにしてこの小説を勧善懲悪小説と見なそうとする無理な努力をしている。瀬沼氏の批評ではすでに余りにも時代錯誤的な封建的道徳意識という批判は消えている。しかし、勧善懲悪小説であるという評価は受け継がれている。
瀬沼氏は、片岡氏の言う人間の「業」や「我」を捕らえることが根源的である、という指摘と、唐木氏の、漱石が古い因習的な道義的意識に囚われている、という指摘を継承しており、『虞美人草』を肯定的に捕らえることができていない。しかし、意志としては肯定的に捕らえようとしており、白鳥、唐木、片岡諸氏に見られた、悪意を含んだ批判意識は感じられない。「野分」「虞美人草」を肯定的に評価しようとする数少ない批評の一つである。 
●「虞美人草」論 平岡敏夫著 (昭和40年5月「日本近代文学」)

 

平岡氏は、『虞美人草』に批判的な正宗白鳥と唐木順三の批評と、『虞美人草』を高く評価する読者や評家の文章を対照した後、次のように問題提起している。
「リアリズム小説のものさし」を荒氏は指摘したが、現在の作品評価の基軸にいまなお自然主義文学史観があり、それは昭和初期の明治文学研究熱のなかでプロレタリア文学の影響と相俟って定着してきたのではないかと予想される。すなわち前掲の白鳥(昭3)・唐木(昭六年執筆、昭七年発表)・小宮(昭和十年)の「虞美人草」評価に、共通するものを認めうるゆえんである。湯地孝氏の漱石戯作者論(昭七年)も同様の基盤に属する。この仮定の当否はさておくとしても、現在ようやく活発となってきた新しい近代文学史のイメージ、文学史の書きかえの問題、なおざりにされていた可能性の発掘の作業は、文学史家の主体にもとづく個々の作品の読みなおし、価値転換による再評価ということをぬきにしては不可能ということがある。そこでは作品評価の「ものさし」としての文学史観それ自体の再検討の作業と併行しつつ、ひとつひとつの作品をいわゆる「定説」から解放することがなされねばならぬのである。
平岡氏の問題提起は、「文学史観それ自体の再検討の作業」の一つとしてこの『虞美人草』を取り上げていることにおいても、それがリアリズムと自然主義の関係の再検討であることを指摘していることにおいても決定的に重要である。1965年にはこうした機運が見られたのであろうか。
『虞美人草』に対する批判の要点は、通俗的道徳を描いた勧善懲悪である、という点と、それと関連して美文調の文章が目立つことである。平岡氏は、この特徴を認めた上で、その内容を再検討し、肯定的に理解しようとしている。
「虞美人草」が一種の勧懲小説であることは動かぬところであろう。問題は「勧懲」の意味であり、その基準たる「道義」の内容にある。「徳義心が欠乏した女」藤尾を「仕舞に殺すのが、篇の主意」であり、最後につけた哲学「セオリーを説明する為めに全篇をかいてゐる」という周知の自解(小宮宛書簡明治四十年七月十九日)があるが、「悲劇」すなわち「生死の大問題」を打ち出すことで「人生の第一義は道義にありとの命題」を樹立せんとするのが一篇の主題であることは明白である。
平岡氏は、「一種の」という条件付きで「虞美人草」が勧懲小説であることを認めている。これは古い批評に引きずられているとも言えるが、すでに影響力を持っている批評から出発し、その否定によって作品に接近することは、批評の歴史としての意義を持っている。『野分』・『虞美人草』が古い道義を描いた勧善懲悪小説である、というのは、作品とはかかわりのない批評家の拵え物である。平岡氏は、は作品の内容の理解を直接的な課題にしているのではなく、この時代錯誤の批評の否定を課題にしている。作品を全的に否定する政宗白鳥、唐木順三の批評に対して、その評価を否定して作品を全的に肯定しようとしており、そのために作品に対して無批判的になる傾向をもっている。
平岡氏がこの作品を勧善懲悪小説であることを認めるのは、漱石の書簡と甲野の言葉を根拠にしている。そして、「生死の大問題」を打ち出し、「人生の第一義は道義にありとの命題」を樹立せんとするのが一篇の主題であるとした上で、この道義の内容を作品の内容に則して規定している。正宗白鳥や唐木順三の批評に対する批判が作品の具体的な理解を必要としており可能にしている。『虞美人草』の理解が文学史観の再検討でもあることが平岡氏の論理の進行からもよくわかる。
それに関して注意すべきは善と悪の対立が「虞美人草」の場合、「過去」と「文明」(当世)の対立と重なっている事実である。ここを見逃すか否かで勧懲の意味が異なる。馬琴と同一視する白鳥の場合にはこの視点が入っていない。「過去」である小夜子、孤堂先生が上京し、「文明の淑女」たる藤尾にひかれる「尤も当世なもの」小野と出会うとき、「小説は是から始まる」(九)。小野は「過去」につながれながら「文明」にひかれている。従来この小夜子・孤堂先生を実体のない影法師的なものに受けとっていたようだが、実はかぎりない同情・共感を漱石はこの「過去」に注いでいるのである。 
『虞美人草』が勧懲小説であるとしても、それは古い封建的道義ではなく、「過去」と「文明」(当世)の対立という明治の社会を内容としている。平岡氏のこの指摘によって初めて『虞美人草』が描写している明治社会の複雑な矛盾の理解が課題になる。「過去」と「文明」の対立によって、漱石は明治社会をどのように認識しているのか、がこの作品を理解するための課題である。
「過去」と「文明」の対立というのは抽象的な図式である。藤尾や甲野を含めたすべての人間が「過去」を持っている。漱石が問題にしているのは、小野の過去であり、当世風の生活に取り残された、つまり資本主義の発展に取り残された小夜子の生活である。その生活を救うこと、その生活のなかにあった信頼関係を救うことがこの作品の善である。『虞美人草』が封建的な道義を描いているのではないことを明らかにするためには、『虞美人草』が何を善としているかを問題にしなければならず、その善は小夜子を救うことである。だからこそ、封建的な道義を描いているとして作品を否定する批評は、孤堂親子を影法師のように扱い、特に小夜子を否定的に評価する傾向を持っている。
この否定的評価を批判する平岡氏は、『虞美人草』の善である過去=小夜子を肯定的に評価するために、漱石が小夜子をいかに好意的に、同情的に描いているかを多くの引用によって示している。そして、小夜子に対する同情と藤尾に対する反発が対応していることを指摘し、さらに、この関係が『虞美人草』の大きな特徴である「美文調」に関係していることを読み取っている。
・・この「美文」は作者の「過去」に向けられたシンパシイの深さが要求したものなのであり、漱石は心をこめてのびのびと書いている。モチーフをそのままに展開させる文章に息苦しさがあろうはずがないのだ。このことを逆にいえば反感の場合も「美文」は成立する。強烈なアンチパシイをそのままに展開させる場合はそれほど多くはないが、藤尾と謎の女(母)の会話を叙して「此作者は趣なき会話を嫌ふ」と作中に述べ、「毫端に泥を含んで双手に筆を運らし難き心地がする」「嬉しからぬ親子の反面を最も簡短に除するは此作者の切なき義務である」(八)といい、「謎の女」の宗近の父への話を写しては「筆は、一歩も前へ進むことが厭だと云ふ」(十)などと記すのはその明瞭なあらわれで、人事・自然を問わず、善悪好悪をはっきり示す主観の露出が「美文」をなしているのである。雅俗折衷体の一変型ともみられるが、漱石の場合、平均的一般的性格の散文をとりえないほどに強烈な主体があるわけで、「勧懲」と「美文」は見合っていることになる。「美文」の有効性とはこのモチーフの強烈さ・真率さが人をひぎつけることをいうのだ。 
非常に正しく、しかも間違った指摘である。漱石の道義的な当為を主観的に吐露する部分が美文である。美文には漱石のこの時点での啓蒙的な意志が込められている。しかし、これは『虞美人草』の弱点である。漱石のこの美文が、たとえ他の作家の文章と比較して、のびのびとした知的な文章としての味わいを持っているとしても、漱石自身の精神においては明らかな弱点をなすものであり、作品の中ではもっとも表面的な、漱石が具体的に対象を認識できない部分であり、その意味で主観的な情緒や知識の世界に流されている部分である。
漱石は小野の「過去」でもある小夜子の生活に深い同情を感じており、それを描こうとする強い意志を持っている。しかし、他方で漱石は、漱石と甲野のこの同情を藤尾や母親が心底嘲笑していることを知っている。彼女達にとって過去に対するこの同情こそ甲野や宗近の愚かしく不可解な精神である。小夜子に対する同情によって藤尾と対立することはできないことは誰の目にも明らかであり、それどころか、それによって軽蔑されるのであることを漱石はよく知っていた。「美文」において漱石は、この動かしがたい現実を克服する具体的内容を現実の中に見いだせないことの感慨を吐露している。漱石が後に嫌ったのは、後の作品では内容としても文体としても消えていくこの部分であり、この美文にはインテリの甘い感傷が含まれている。
平岡氏が、『虞美人草』を否定する白鳥や唐木順三と対立して、『虞美人草』を肯定的に評価しようとする場合、非常に複雑な課題に突き当たる。平岡氏が孤堂・小夜子を肯定的に評価するとき、漱石が突き当たったのと同じ矛盾に巻き込まれる。漱石の道義は「野分」以来深刻な矛盾を次々に展開しており、それが道義の内容であり現実認識の内容である。そのために、道義の側面から、あるいは「過去」の側面から漱石の道義を肯定的に捕らえている場合、この矛盾を見逃し、自分自身がこの矛盾の中に巻き込まれてしまうことになる。
平岡氏は、小夜子との結婚を断るが経済的援助をするという小野の申し出に対する孤堂の怒りを引用し、その怒りに共感して、道義の意味をさらに具体化して次のように説明している。
右の孤堂先生の怒りを正当とできるかどうかが評価のわかれ目である。ここにある対立をあげれば、博士・法律・金・物質的に対して貧乏人・活物・人一人・徳義・好意ということになるが、この「文明」対「過去」において、「過去」の意味をたんに形式としての「封建的」ということで切り捨てることができるかどうか。五年間、命よりも明らかに誠の恋を抱いて生きてきた小夜子なれはこそ、小野一人をたよりとして孤堂先生は上京を決意したのであり、「人一人殺しても博士になる気か」と怒ったのだ。こうした「過去」をふみにじろうとする「文明」はむろん批判されねばならない。「徳義」の実体はここにあり、博士・法律・金・物質的、さてはその象徴たる金時計の皮相な外面は否定されたのである。「虞美人草」の「勧懲」が文明批判のかたちをとっているという事実は、何よりもその「道義」が通俗道徳ではないことを意味する。通俗とは皮相な「文明」にそのままのっかっていることだからである。 
平岡氏は漱石と甲野のセオリーの部分を全面的に肯定している。否定的な評価に対立した肯定的な評価であり、この作品を矛盾の全体によって評価していない。「右の孤堂先生の怒りを正当とできるかどうかが評価のわかれ目である。」というのは、正宗白鳥や唐木順三の評価との分かれ目である、という点では正しい。「封建的」ということで切り捨てているのは、実際は孤堂親子に対する同情であるという指摘も正しい。孤堂の怒りを正面から肯定することは非常に勇気のいることであり、平岡氏のそうしたストレートな道義的価値観が『虞美人草』に多くの内容を発見させている。孤堂親子に対する同情が道義であり、この同情を感じない場合は『虞美人草』の肯定的評価はありえず、理解もあり得ない。しかし、孤堂の怒りを正当と認める場合には、すぐさま、この怒りの現実的な意味を問う必要が生じる。
漱石の言う「文明」は「過去」をどのよそうに踏みにじっているのか。「文明」を道徳的に批判することは、通俗的でないであろうか。皮相な文明の道義的批判は皮相である。「『虞美人草』の『勧懲』が文明批判のかたちをとっているという事実は、何よりもその『道義』が通俗道徳でないことを意味する」のではなく、この部分は通俗的である。また「通俗とは皮相な『文明』にそのままのっかっていること」である。皮相な「文明」がはびこっている場合にこそ、皮相な『文明』を現実とする皮相な表面的な批判が生ずる。現実がいかに皮相な「文明」に満ちていても、現実は矛盾を含んでいるのであり、現実の全体が皮相ではあり得ない。だから、皮相な「文明」に満ちている場合にこそ、それを否定する現実を見いださすことだけが皮相な「文明」に対する現実的な批判であり、現実を皮相な「文明」として批判することは、その皮相な「文明」の一部分をなすにすぎない。
平岡氏は漱石の「文明」批判を批判的に理解していないが、『虞美人草』を肯定的に評価することからする論理は自然に伸びており、非常に重要な意味を持つから、続く文章も引用しておこう。
藤尾を殺すことで「人生の第一義は道義にありとの命題」をうち出す主題それ自体が反通俗であることは、藤尾を救ってくれという読者の願いや、前掲小宮宛書簡で、藤尾をけっしていいと思ってはいけない(つまり、進行途中にせよ、小宮氏さえも藤尾に同情、共感を示した)としている事実からも知れよう。つまり漱石は読者に反してあえて「文明」の淑女たる藤尾を殺し、「文明」批判を成就したのである。しかし、作品構造としては「過去」は「文明」を直接反省せしめる力はなく、宗近らのはたらきで小野は悔悟し、藤尾は死ぬことになるわけだが、その動因は孤堂先生の怒りにあり、宗近らは「過去」に共感しうるもの、むしろ「過去」と一体のものと見うるだろう。この点を唐木氏は、「宗近の義理と人情の封建的正義感の、ブルジョア的軽薄に対する勝利」とし、旧式道徳とみて否定したのだが、この道徳、勝利の意味が唐木氏とは逆になるわけである。
『虞美人草』の肯定的評価が唐木氏に引きずられ、その逆になってていることの限界がここに現れている。唐木氏の評価は作品とかかわりを持たないのであるから、まったく関わりのない評価になることが作品に則した理解である。藤尾を殺すこと、それを第一義の道義とすることは通俗的である。このために、この小説を古い道義を説く勧懲小説であるという批判が影響力を持っている。藤尾を無理に殺すことは通俗的であり、藤尾を救ってくれという読者の願いは通俗的ではない。そしてこのような読者の願いを引き出すことにおいて『虞美人草』は通俗的ではない。
藤尾は道義によって殺されるべき人物ではなく、道義から独立した生きた個性である。藤尾の個性は日本の資本主義が形成した当世風の新しい個性であり、これを「過去」の名において打ち倒すことなどできないし倒すことに正当性もない。漱石は「「藤尾が一人出ると昨夕のような女を五人殺します」と書いているが、藤尾は小夜子と直接的な関係にはない。藤尾の贅沢と小夜子の貧しい生活を直接結びつけているのは、現実を華やかな世界とつつましい世界が対立し、その中間に小野がいる、という漱石の非常に表面的で単純な現実認識である。現実はこのような関係になっていない。藤尾は日本の資本主義が生み出した成果であり、それをますます多く生み出すことが資本主義の必然であり、それを殺すことが資本主義社会の課題ではありえない。読者は藤尾が生きることを願っており、生きることを願うような個性として描く能力を漱石は持っていた。そして、藤尾の個性をこのように描く能力は、本質的には漱石特有の道義的現実認識の力である。
平岡氏の指摘の通り「作品構造としては『過去』は『文明』を直接反省せしめる力はなく、宗近らのはたらきで小野は悔悟し、藤尾は死ぬことになるわけ」である。藤尾が死ぬことは作品構造に反した無理な結末である。したがって、その動因である孤堂の怒りは藤尾との関係では非現実的であり、彼らに共感する宗近の心情も実は藤尾に対しては現実的な力を持たない。宗近の勝利は不可能であることが作品の基本的な構造になっており、そのことが甲野の精神に投影されている。それにもかかわらず、というより、そのような構造の基に無理な勝利を付け加えたことが、つまり無理が分かりやすい結末をつけたために、特にその場面が通俗的だという批判の根拠として取り上げられている。
「宗近の義理と人情の封建的正義感の、ブルジョア的精神軽薄に対する勝利」とする唐木氏の指摘は間違いである。宗近による無理な結末はブルジョア的精神に対するプチブル的、より正確にはインテリ的な正義感の勝利である。そして、作品の基本的構造は、結末の部分とは逆に、インテリ的な正義感に対するブルジョア的精神の勝利になっている。そして、さらに重要なことは、漱石の批判意識は、このインテリ的な批判意識の敗北によってのみ発展する、ということである。漱石がブルジョア的精神を持ち、その強固さを知っており、それに対するインテリ的な批判意識は、発展のたびにブルジョア的な現実だけでなく、ブルジョア的な精神にも敗北することで初めて具体的内容を持つことができる。それは実際の過程としては日本のインテリの精神の法則の具体的で批判的な認識の過程である。
平岡氏はこの段落の終わりに「『虞美人草』は何よりも『文明』批判小説として読まねばならない」と指摘している。『文明』批判小説として読むことは、唐木氏の批評との関係では作品の内容に一致している、と言える。しかし、この作品を『文明』批判小説として読むことはこの小説を通俗化することであり、唐木氏の批評への接近である。それは作品の弱点を作品の価値として肯定することになり、批判の視点を与えることになるからである。・・・
小野が自分の「過去」でもある孤堂・小夜子との信頼関係を真面目な人生として選ぶことを道義とするところに、漱石の精神の矛盾がはっきり現れる。この部分についても、平岡氏は漱石の道義の一面を肯定的に評価している。この部分は片岡氏の批評と対立しており、やはり重要な指摘である。
むろん問題は右の概観ではまだかたづかない。宗近にいわれた小野が「真面日な処置は、出来る丈早く、小夜子と結婚するのです。」(十八)と答えて小夜子に帰るのは、「生命の第一義的な燃焼である恋愛を否定して、心にもない義理に生きるのが『道』だといおうと(12)している」と片岡良一氏も説く。これは「虞美人草」批判の眼目をなす一点で唐木説にも重なろう。だが、藤尾と小野はそういう「恋愛」で結ばれているのではない。「藤尾は己れの為にする愛を解する。人の為にする愛の、存在し得るやと考へた事もない。詩趣はある。道義はない。」「成立つものは原則を外れた恋」「変則の愛」(十一、)だと作者は述べている。小野の場合は金であり書斎であり金時計である。それらのあるところに成立した「恋」なのだ。「道義」にはずれた「恋」を漱石は認めていないが、それは「生命の第一義的な燃焼である恋愛」でもなかったのだ。「道義」にはずれた「恋」とは、前記をくり返せば、貧乏人・活物・人一人・徳義・好意等に対立する博士・法律・金・物質的等にもとづく「恋」である。「文明は人の神経を髪剃に削つて、人の精神を榴木と鈍くする」(十一)が、そこに成立しようとする、精神のない皮相な「文明」の「恋」だからこそ否定されるのであり、そういう虚偽より目覚めたとき、小野は藤尾を捨てえたのである。 
小野の過去には貧しい生活の中で形成された信頼関係があった。孤堂も小夜子もそれが小野の中にもまだあるものと信じていた。彼らは小野の出世が金時計と藤尾の財産に対する欲望を生み出していることを知らない。金時計の現実的な意味・威力を知らない。小野と藤尾の関係を結ぶものは、金と書斎と金時計の名誉である。そこには孤堂・小夜子との生活にあった信頼関係はない。それを引き裂くのが金時計の力であり、藤尾の贅沢を生み出す資本主義の発展の力である。たとえそれが漱石の目に皮相な「文明」の恋であると見えたとしても、それを虚偽だと感じているとしても、この発展の力を否定することはできない。したがって、小野が虚偽から目覚めることはなく、小野が藤尾を捨て得ないのが現実である。現実には道義の力で小野と藤尾を引き離し、道義の力で倒すことはできない。この力に抵抗する現実的な方法を発見できない場合に、この現象の逆の方向が道徳的当為として立てられる。
『虞美人草』の結末の不自然さは、藤尾が道義の力によって殺されることであるが、それは、小野を藤尾から引き離すことによるのであり、結末の不自然さは、小野と藤尾を引き離すことの不自然さによる。小野と藤尾の分離を自然にするために漱石は自分の価値観、希望によって小野について不自然な想定をしなければならなかった。小野は藤尾と小夜子の対立の媒介項であり、独立した個性ではありえない。小野は藤尾と切り離されるために藤尾に近づいているのでありながら、自分自身の意志として離れるのでなければ操り人形になる。たとえ宗近に説得されたとしても、説得を受け入れるのは自分の意志であり、受け入れる意志が働くように漱石は描いている。それが不自然になる。
小野は中間的であり、金時計と藤尾の財産に対する欲望と、孤堂親子との信頼関係の両方を同等の精神として持つように想定されている。基本的には金時計と藤尾の財産に対する欲望が優位にあるが、心の奥で孤堂親子との過去の信頼関係を重視するように想定されている。小野は藤尾と小夜子の両者から肯定され、従って両者から否定され、自分自身も両者を肯定し、同時に両者を否定している。これは、小野と小夜子の分離過程、小野に則して言えば、小野の貧しい過去と、出世した現在の分離過程を漱石が社会的必然として認めようとしないことによる無理な想定である。漱石はここでは、両者の分離を、過去と当世の分離として形式的に理解しており、社会的な威力としての分離であることを理解していない。正確にはこの分離の現実を認めてそれに反対しており、この分離が人間関係の破壊であると考え、それを虚偽と考えている。そして、この分離の発展に抵抗して、過去の人間関係を復権しようとしているのが道義である。しかし、分離への抵抗も中途半端である。もし、分離への反対を徹底するならば、小野は金時計も博士もあきらめて、もとの貧しい生活に戻り、過去の人間関係に戻らねばならない。それは明らかな時代錯誤である。漱石はやはり「過去」を捨てて、小夜子を小野の現在に近づける。だから、漱石の否定は、藤尾の贅沢と我の強さにまでしか届いていない。贅沢と我の強さだけであれば藤尾を殺す必要はない。しかし、漱石は藤尾の贅沢と我の強さが小夜子と対立する、と考えて藤尾を非妥協的に否定することを道義だと思っている。
漱石が現実に知っているのは藤尾の贅沢であり華美であり、金時計を求める小野である。これが漱石の言う皮相な「文明」である。彼等の欲望は今形成されつつあり、いま発展の途上にある。それが現実を支配しつつあり、ますます力を蓄え、拡大している。資本主義の発展の過程の中で、いままさにこうした欲望を形成しつつある人間に注目し、その欲望を抑えるべきである、と主張することは皮相である。漱石は資本主義の発展の現実の中で、自分の狭い世界の中で特に目立つ存在である藤尾の華美な贅沢な生活に皮相に囚われていることになる。贅沢と財産を好む藤尾や小野に貧しい生活や慎ましさの大切さを教えるのは無理であるとともに余計な仕事である。現実の人間関係の再編は、古い関係をすべて破壊しつつ、新しい信頼関係を形成していく。その過程を認識することを課題にするのではなく、皮相な「文明」を批判することは皮相である。
そして、この分離が不可能であることを知っているのもまた漱石の道義の内容である。それは、この分離を現実的な力と認め、それを抽象的に否定することが道義であり、したがって、この分離を阻止することができないことの承認という側面を持つからである。漱石の道義的批判意識だけが藤尾を描くことができる。藤尾は漱石の中の漱石らしい精神であり、藤尾は皮相な「文明」批判が皮相であることをよく知っている。漱石が現実社会を批判的に認識する場合、この藤尾に嘲笑されないほどの、藤尾の我に対抗できるほどの内容を得なければならない。この時点での漱石の現実認識の力関係は、あきらかに藤尾の優位にあり、道義は藤尾に通用しない。そのために、漱石としては、藤尾は無理に殺す以外になかった。道義が勝てないことを知っていても、なお勝つべきだと思っていたからである。
平岡氏は、小夜子を単純に否定する片岡氏の批評を批判するために、漱石がいかに小夜子に同情していたかを重ねて指摘している。しかし、藤尾の否定が矛盾を含んでいるのと同様小夜子の肯定も矛盾を含んでいる。漱石の道義は小夜子と一致できない。孤堂は小野が金時計と藤尾を求めていることを知ると、それが自分と小夜子にとっていかにつらいことであっても、それを受け入れる覚悟ができているし、実際その結果を受け入れねばならない。「野分」を書いた漱石にはその覚悟がよくわかる。しかし、その覚悟は道義に生きる覚悟をしている道也に必要ではあっても、貧しく孤独な孤堂親子にその覚悟を求めることは漱石の道義ではない。漱石の道義は、孤堂と小夜子を銀時計の小野の世界に導くことである。孤堂親子の過去の生活と精神は否定されている。この作品では、藤尾の肯定と否定、小夜子の肯定と否定が相互に関連しながら混在している。貧しい生活の体現者であり、エリートインテリの道義的価値観の持ち主でもある漱石は、まだ自分の経験とそこに形成された複雑な精神の意味をはっきり認識することができなかった。漱石はこの作品を書くことによって、自分の現実認識の限界を見極め、藤尾の世界とも小夜子の世界とも分離した世界を自分の世界として批判的に描くことを課題にすることができた。したがって、この作品を肯定的に理解することは、藤尾に対する批判と小夜子に対する同情を明らかにすることではなく、その当為のもとで、藤尾を否定することも小夜子を肯定することもできていないことが漱石の重要な現実認識であること、そしてその現実認識はこの道徳的当為のもとでのみなされており、道徳的批判意識なしには、藤尾の個性は創造されない、ということである。
漱石は、小野と小夜子が引き裂かれる資本主義的な現実を、派手な華やかな世界と貧しく慎ましい世界の対立と見ているが、現実はそのような関係にあるのではない。そのことはこの作品からも見て取れる。藤尾は独立した個性として派手に華やかに生きている。孤堂と小夜子も自分の慎ましい生活に充実を感じている。その中間にいる甲野と小野は自分の居場所を見いだせず、確定できない。小野はその立場を反映してふらついており、甲野はそのはっきりしない立場を自覚している。しかし、それははっきりしないことの自覚であるから、藤尾や母親には、ますますはっきりしない精神として認識され、それは甲野と漱石の自覚でもある。これが作品の基本構造であり、その相互のかかわりはインテリ世界の縮図としての意義を持っている。そのことを漱石はこの作品を描くことで認識することができた。その作品を封建的な道義に収束させようとするのは明らかな歪曲であるが、それを文明批判として明治社会に則した道義に読み変えても、漱石の具体的な現実感覚と、それを一般化した認識との矛盾を見逃すことになる。この矛盾は漱石の現実認識の発展の原動力であり、この矛盾こそが漱石の現実認識の全体である。平岡氏は、正宗白鳥や唐木順三、片岡良一氏の批評を批判する結果として、作品を全的に肯定しようとしており、その矛盾を認識していない。平岡氏の問題提起を一歩進めるためには、この全的肯定を、その肯定において批判しなければならない。
最後に平岡氏は、漱石の「文芸の哲学的基礎」から、「いかに生きてしかるべきかの解釈を与えて、平民に生存の意義を教える事」を文学者の使命である、という言葉を引用して、政治小説以来の明治文学の骨格としての意義を認めている。しかし、この意識は漱石の幻想であり、士族の商法と同様に資本主義の発展と共に崩壊する運命にある。平民に生存の意義を教える事などできるはずがなく、藤尾に生存の意義を教えることもできないし必要がない。漱石はこのことをこの作品で理解したのであり、それが「三四郎」への移行の契機となっている。この意味で、漱石の作品系列における『虞美人草』の意義についての平岡氏の次の指摘は修正されねばならない。
つまり「虞美人草」は漱石が作品として「文明」にアクティブに立ち向かった最後の作品とみられるのだ。「勧懲」と「美文」の、以後の諸作に消えるという事実をもってそれを証すこともできよう。漱石が「道義」の存在を信じえなくなったとはけっしてみないが、個人的・内面的傾向を見せていることは事実である。
「文明」にアクティブに立ち向かうことは、社会にアクティブに立ち向かうことではなく、対立を回避することである。主観的には人生をかけるほど真剣であっても無意識的に正面からの対立を避けており、度胸が足りない。だから、現実社会との批判意識の対立という意味では、漱石はこの作品を超えることで初めてアクティブに対立することができるようになる。それが個人的・内面的傾向を持つことになるのは、社会におけるインテリの地位を、社会的発展の中での孤立化の過程として認識し、その法則を明らかにすることを課題にし得たからである。しかし、それは社会全体に対する批判意識を基礎にしてのみ可能である。社会全体との関係では、藤尾とも小夜子とも分離された特殊な立場に位置するものとしてインテリの特質を捕らえることができるからである。社会全体を、そして「文明」を真剣に批判した結果としてのみ漱石は自分の精神を社会全体のなかの一部分として規定することができた。だから、漱石は常にアクティブであり、『虞美人草』は、その跳躍点となっている作品である。 
●『野分』 越智治雄著 (一九六九年四月) 

 

越智氏は冒頭で作品を扱う方法についてまず次のように述べている。
「野分」は明治四十年一月に発表された作品だが、ほぼ同時期の漱石の現実の生の様相は、のちの『道草』(大四・六〜九)に描かれていると言ってよいだろう。もっとも、『道草』をもってただちに「野分」創作前後の漱石の心事をうかがうことは危険であるに相違ない。
このやり方は非常に危険で、方法として致命的である。越智氏はこの方法がいかに危険であるかを理解しておらず、そのために、この方法を実践することでそれがいかに危険であるかを示している。漱石の他の作品や実生活から細切れの材料を寄せ集めて「野分」を論ずることは、作品の内容を解体し破壊することである。そして、「野分」や『虞美人草』に描かれた社会的な批判意識を解体し破壊することが越智氏の批評以後の基本的な課題となっている。
越智氏の長い批評には、思想的な内容はまったくない。生活者の論理を道也に対置する批評に思想的な内容がないことは誰にでもわかるし、そのことに著者自身も異存はないであろう。道義や理想や思想ではなく、日常生活を重視することが論旨であるから、その批評に思想が含まれる必要はないし、含まれていない。だから、全体として批判するに足る内容は含まれていないが、この方法が生み出す特有の読み方についてだけ紹介しておこう。
もとより、「野分」の場合、夫婦の対話は一種の滑稽味に包まれている点はみのがせない。しかしともかく、文学者道也の論理を相対化できる妻の論理が対置されていたことは否定できまい。なるほど、「細君の姿勢は中途半把」(十)なのだが、それが生活者の論理でもあるのではないか。したがって、妻に「御前は主義が嫌だと云ふのかね」(三)という道也の言葉は、考えてみれば滑稽だろう。もちろん先述のごとく、作意は現代の青年に訴える道也の一つの主義にあった。それは『虞美人草』(明治四〇・六〜一○)を一つのセオリーをもって支えようとした漱石とも、無関係ではない。しかし、作者漱石の生活者としての実感から発した描写が、十分意識的とは言えぬにしても、主義と対置されて現われるところに、むしろ問題はある。言うまでもなくここで問おうとしているのは作者の私生活とこの作品との関連ではない。主義で押し切った「野分」の背後に、漱石の現実感覚、生活感覚が暗々に働いていた点にある。「干乾にならぬ余程前から妻君は既に不平である」(一)という視点の強力さを最もよく知っているのは、ほかならぬ作者漱石であったのだ。
越智氏は、道也の思想が漱石の思想で、道也の周囲の人間関係として描かれた部分は経験的な直感によって「暗々裏に」捕らえられたものだと思っている。そうではない、道也の人間関係として描かれた部分は、漱石の道徳的な批判意識によって想定された人間関係であり、道義の具体的な内容である。
道也の道義の内容は妻や兄との関係である。道也の社会的な批判意識は、地方の有力者に対する批判として形成され、その後その批判意識は、自分の持つ個別の人間関係に矛盾を持ちこむまで徹底されている。地方の有力者に対する批判意識が現実的な内容を持ち得ないことは前提されており、その対立の結果として地位と収入を失うことに道義の意義があり、そのことによって、自分の個人的な人間関係に矛盾を生み出し、現実的な内容を獲得することが道也の道義的な意識の発展である。抽象的な社会的批判意識において自己を肯定する道学者や批判的な学者と違うゆえんである。
道也が日常生活のなかで生み出す妻との対立は、その道義的な意識が創り出す人間関係としてのみ描写されている。道也の道義的な批判意識が創り出した人間関係だからこそ、「道草」の段階ではそれがより高度の批判意識による再認識へと発展する必然性を持っている。
妻や兄との対立は、道義的意識を持つことによる偶然的成果でないことを道也は次のように説明している。
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違になる事が出来て来ます。妻にまで馬鹿にされる事があります。しまいに下女までからかいます」
「私はそんなになったら、不愉快で生きていられないだろうと思います」
「それじゃ、文学者にはなれないです」(六)
妻に馬鹿にされ下女にからかわれるまで批判意識を徹底することが文学者になることである。この妻と下女との関係は文学者としての道也の決意が創り出したものであり、この人間関係を創り出すことが道也の主体性である。だから、「生活感覚が暗々に働いていた」のではない。
越智氏は道也の道義的な意識と妻との関係を分離したのち、作品を通じて漱石の病気と狂気を読み取っている。作品の内容を理解することではなく、作品を通して漱石の私生活や病気に関心を持つ人のための批評である。
だから、志士的文学を語った漱石が「野分」に最も大きく影を落としているのは、すでに再三にわたってみてきたように、「自己」の定立という作品の論理を必至とした彼の重苦しい生の実相、実感がそれまでのどの作品とも異なる現実性をもって暗々に語られている点であることをこそむしろ認めるべきだろう。文学は人生そのものだという道也の主張はそういう形でこの作品に実際に具現されていたと言えるのだ。
越智氏は長い文章をこのようにまとめている。大げさで、混乱した、意味のない文章である。
喜劇の時代(1968/9) --『虞美人草』--
越智氏は、『虞美人草』を理解するために、喜劇と悲劇の問題を重視している。甲野の言う喜劇とは、道義心を持たずに日常に無批判的に生きることであり、悲劇とはその日常に突然死が訪れる、という単純な意味をもつだけである。この意味での悲劇を甲野は期待しているが、道義を意識せずに生きている人間に突然の悲劇が訪れる必然はない。この訪れることの無い悲劇を期待する立場から初めて可能になる現実認識が『虞美人草』には描かれている。越智氏は、現実には悲劇が訪れないことから、世界が喜劇の世界であると結論し、『虞美人草』全体を喜劇とし、結論として甲野を喜劇的な人物として描き出している。『虞美人草』の中でも、もっとも単純で抽象的な喜劇と悲劇という言葉をつかって甲野の批判意識を喜劇に解消することが越智氏の批評の意味である。「野分」の道也と『虞美人草』の甲野に現実的な成果がない、という批評は単に成果を理解できないということである。
越智氏の『虞美人草』批評は時期としては『野分』批評より早いが、ここでも、「漱石の生活者としての無意識的な実感」と道義的な批判意識が対立的に捕らえられ、この対立において批判意識が否定されている。
彼にとってもおそらく第一義の活動(十八)であったはずのものが、彼をいやおうなく喜劇の世界に誘うとしてもよいのである。宗近君の「煮え切らない」という批評に対して、甲野さんは「浮世の鍋の中で」「生きてる所為」(十七)だと答えるが、こういうとき、彼は、まさに煮え切らぬのが現実の性格であり、その中で生きなければならぬ自分であることを、意識してもいると言ってよい。そしてそれは漱石の生活者としての実感の投影が無意識に行なわれている結果であろう。たとえそうした感覚がなお十分強固ではないにしても、悲劇という「偉大なる」(十九)形式を侵蝕する現実に、漱石がまったく気づいていないはずはないのである。
もちろん漱石は悲劇を信じているだろう。そしてそうである以上、漱石に悲劇の存在は疑われていなかったと言ってもよい。その成立を容易に許さない現実の諸条件にうち克って、悲劇を現前させることにも確信があったはずである。
越智氏の批評は、漱石が描いている内容とは関係の無い恣意的な憶測ばかりである。越智氏が漱石とはまったく現実認識をもつために、漱石の描いた内容が実際にそのよそうに見えるのであろう。甲野は「煮え切らぬのが現実の性格である」とは意識していない。甲野は現実の世界に生きていかねばならない、と思っているのではなく、現実の世界でどのように生きるべきかを問題にしている。それは、自分の生きている現実世界に対して批判的だからである。そして、その世界と自分の関係について、その世界に対する主体的な批判が無力であり、その批判対象である現実がどのようなものであるかを理解することができず、現実を謎としてしか認識できないことを自覚しているからである。この自覚が「煮え切らぬ」ことの内容である。甲野が「煮え切らぬ」ことは、「漱石の生活者としての実感の投影が無意識的に行われている結果」ではなくて、現実に対する道徳的な批判意識の発展であり、現実認識の深化である。現実に対する積極的な働きかけを内的な衝動とする精神に特有の現実認識である。
漱石は「猫」以来、批判的意識の対象である現実がいかに強固な力をもっているかをはっきり認識しており、批判意識によって否定される現実を描いたことはなかった。漱石の批判意識の発展は、批判意識が発展すると共に、批判対象がいかに強固であるかを具体的に認識することでもある。
甲野にとって悲劇、すなわち道義の勝利は当為である。漱石にとっても、甲野にとっても、この道義的な当為が、自己を支えるもっとも重要な価値観である。このことを越智氏は強調している。「繰り返して言えば、喜劇の時代に悲劇を成立させること、『虞美人草』における漱石の賭けはそれを措いては考えられない。」と越智氏は書いている。越智氏にとって、他の多くの評家と同様、この道徳的批判意識が現実に対して勝利できないことが、道徳的批判意識の敗北であり、道也、甲野、さらには漱石の批判意識の敗北であり、この敗北する批判意識において喜劇的であるかのように見える。そのように見えるのは、現実的な敗北の過程が現実認識の発展過程であることを理解できないからである。それは漱石・甲野の敗北、無力ではなく批評の無力である。
道義的な批判意識が現実と衝突することによって崩壊することは、批判意識の発展であって敗北ではない。漱石は道義的な批判意識によって現実に接触し、現実を認識し、それを作品に描いている。作品は無意識的にではなく、高度の批判意識によって構成されている。道義的な批判意識が現実と衝突することによって崩壊する過程は、漱石の批判意識の発展として意識されている。そして、それを可能にしているのは、漱石のブルジョア的な現実認識である。漱石はブルジョア世界に対するインテリ的な批判意識の無力を理解していた。そして、その無力を知っていたために、敗北を覚悟し、敗北を前提しても闘う覚悟をしており、その闘いによって批判対象と、その批判意識の全体像の発展を必然として描写し続けている。これが、道義的な批判意識の発展の過程であり、勝利の過程である。現実に対するインテリ的な批判意識が現実的な勝利という形式をとることはありえない。それを想定しないのが漱石のブルジョア的な感性である。それは無意識的な過程ではなく、インテリ的な批判意識とブルジョア的な意識の対立という形式によって、深刻に、意識的に取り組まれた認識の発展過程である。
越智氏は、悲劇を成立させようとした漱石の批判意識が、現実と衝突することを、敗北としてのみ理解している。そして、それは非現実的であり、敗北であり、喜劇的である、と結論する。敗北の過程が具体的な認識の発展過程であることを理解できない。
越智氏のこの長い批評は繰り返しの長さである。登場人物のすべてが文明の中に生きており、喜劇の体現者だ、ということを説明している。こんなことは長く説明するまでもないことで、その矛盾の具体想が人間関係の内容である。越智氏は、すべての人物を取り上げて、あれもこれも喜劇であり、喜劇であることは現実にまみれることである、としている。すべての人間は現実と関わっており、甲野はもっとも深刻に関わっている。しかし、現実とのこの普遍的な意識におけるかかわりの意味が越智氏には理解できない。だから、その批判意識が崩壊し、解消されることが現実と関わることだと考えている。正宗白鳥、唐木順三、片岡良一諸氏が、甲野の批判意識が封建的で通俗的である点で非現実的である、とした批判を、喜劇と悲劇という甲野の言葉をてがかりに、古い、封建的である、という規定を修正したものであり、1965年の平岡氏の批評に対する反批判である。
越智氏は、すべてを喜劇に解消しながらも、藤尾を肯定し、孤堂・小夜子を批判している。「藤尾にもまたこの詩趣と道義の一致しうる瞬間はあってよいので」と書き、「人間が統一的な存在でありえないところに近代の本質があるとすれば、藤尾もまたその不幸を負っているのにほかならない」と書き、平岡氏が重視した過去の内実について「孤堂先生の身勝手さを批判している部分さえあるのだ」と書き、「小夜子にもまた、日本の文明の様相をみてもよいのである。過去と文明は、小野さんや小夜子の場合、ただ対立しているのではない。その背馳する二つをかかえて彷徨するのが、漱石のみた現実の様相だったのだ。」として、すべてを文明の様相として同質化している。しかし、その文明の現実の中で、小夜子や甲野を敗者とするのが越智氏の批判の要点である。
こうした準備の後、越智氏は、甲野の批判意識を現実から追い出し、そのことによって甲野をも文明の中の喜劇の演者にしていく。その場合、甲野は「明らかに観念家」である、しかし、現実に対して無力である、という同じ結論が繰り返される。
宗近老人に言わせれば、これからの人間は生きながら八つ裂の刑を受けることになるのだが(十六)、甲野さんと宗近君を分裂させねばならず、しかもそれを小説の終結部で統一しようと試みている漱石もまた、そのような実感を持っていたのに違いない。そして、認識と行為の乖離、およびそれぞれの限界に漱石が気づかねばならぬとしたら、実は漱石は甲野さんの哲学がとうてい現実の動態を領略できぬことに暗々に気づいていたという推測も不可能ではあるまい。思えば、甲野さんが家を出るという決意を翻して現実世界に踏み止まることを思わせる、末尾の暗示の意味するものは深いのである。
これは作為的な読み違えに見えるほど愚かしい解釈である。甲野と宗近を分裂させことには「野分」の描写によって得られた漱石の深い現実認識があり、それは甲野と宗近の会話に描かれている。それは喜劇と悲劇という単純な規定と違って非常に複雑な内容を持っており、越智氏の理解力の及ぶところではない。漱石は宗近のような実践的精神の重要性をはっきり意識している。だからこそ、主体的行動の不可能をはっきり認識する甲野の精神も重要であった。実践的精神が重要であっても、その実践の内容を認識しなければならず、実践の対象を認識しなければ、実践の意義がわからない。漱石が甲野と宗近を分裂させたのは、実践の必要と実践の意義を問う必要を理解した漱石の現実認識の、道也からの合法則的な発展である。「現実の動態を領略できぬことに暗々に気づいていたという推測」は馬鹿げている。甲野は主体的行動の無力を認識していることにおいて宗近親子と分離されており、それこそが甲野の批判的意識の特徴である。漱石の課題は、道也のような啓蒙的な活動によっても、また藤尾との個別の対立によっても現実の軽薄を克服することができないことを認識した結果として創造された個性である。「暗々にきづいていた」のではなく、それこそがもっとも重要な現実認識であった。
漱石は作中に自註を加えて、「此作者は趣なき会話を嫌ふ」(八)と述べた。作者はなるほど詩趣を求めているのだろう。確かに漱石は「世に疲れたる筆」(十)を持っていたのだ。しかしだからと言って、彼は重い現実から完全に目をそらすことはでぎない。「地球は昔しより回転する。明暗は昼夜を捨てぬ。嬉しからぬ親子の半面を最も簡単に叙するは此作者の切なき義務である」(八)と言うのだから、藤尾とその母の示す文明の毒を見ないわけには行かなかった。漱石の内部にもひびが入っていることは疑えまい。こうした註釈は一種の平衡操作だと言ってもよいのである。しかもそれらの自註はほぽ小説の前半で姿を消す。漱石は、『虞美人草』の筆を進めながら、何かが自分の内部で崩れて行くことに気づいているのではなかったか。創作の過程で自己否定が行なわれ、自己発見に達する、かような体験はそれ以前の漱石にはない。 
漱石は、現実から眼をそらそうとしたことはない。現実との積極的な関係を形成することのみが関心である。道也と甲野の意識も現実との積極的な関係を形成する過程であり、その過程としての成果を蓄積している。「藤尾とその母の示す文明の毒をみないわけには行かなかった」という文章は故意の読み違いである。藤尾とその母こそが批判対象であり、「みないわけには行かなかった」ような対象ではない。漱石の内部で何かが崩れていたのではなく、急速で積極的な思想の形成過程があり、漱石はそれを自覚していた。越智氏はそれを全く理解していない。思想の崩壊過程にあるのは越智氏自身である。越智氏は、まず『虞美人草』を、漱石の批判意識が崩壊していく過程であると捕らえ、批判意識の崩壊が固定的な思想からの自由であると解釈した上で、「創作の過程で自己否定が行なわれ、自己発見に達する」として、批判意識の崩壊を肯定している。越智氏の関心は、原理・原則を否定することである。
・・悲劇は藤尾の死のみに収敏する。つまり、甲野さんがひき受けねばならぬはずの不定形な現実に向かうよりは、むしろそれに対立する一つの原則の確立に作者の力は注がれていると言ってよい。
漱石は原則、原理をもって現実を定形化しようとする。「草枕」と同様に極度に人工的な文体もまた、徹底した意識家が観念によって現実をねじ伏せようとするための方法にほかならぬ。そしてそれなくしてはこの作品はとうてい完成をみることなく破綻したに違いないのである。・・(中略)・・悲劇はまさに人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏に樹立する(十九)。甲野さんは悲劇の性格について述べたのだが、それでは悲劇の成立する契機はどこにあるのだろう。流動する不定形な現実と一つの原則の対立こそがそれでなければなるまい。甲野さんが「理形」を見ることのできる存在だったことは偶然ではないのだ。・・(中略)・・喜劇の現実性と対比するとき、悲劇は本来観念の世界に近いと言ってよいだろうが、甲野さんの哲学自体も観念として整合してはいても、必ずしも現実に対して強力ではないのである。同様にあの人工的な文体は現実の深い相の見え始めた後の漱石の嫌厭の情を誘わずにはおかなかったのだ。
省略したのは、現実との関係による敗北の部分である。敗北の過程で発展している認識の内容を理解できない越智氏は、原則、原理と現実との関係を理解していない。越智氏は、現実と原則・原理が対立すると思っている。あるいは、現実と観念が対立していると思っており、漱石の原則、原理、観念と現実が対立しており、前者が崩壊して後者が勝利する過程が、漱石の意識内で暗々裏に進んでいると考えている。
原則、原理、観念は現実認識の内容である。現実に非現実として対立するのではない。それは現実の普遍的な反映として経験的な反映と対立しているが、現実と対立しているのではない。経験的な認識を普遍的な認識に高めるのが現実認識の発展である。越智氏は、経験的な意識が現実と一致し、原則、原理、観念は現実と対立すると素朴に信じている。こうした極端な無知によってのみ、「生活者の論理」などという無意味な言葉によって道也や甲野を批判できる。現実が常に変化し発展するという意味では不定形である。そして、原則、原理、観念も同じ意味で不定形である。原理、原則、観念が固定的で現実が不定形である、というのは越智氏の偏見である。現実の反映としての原則、原理は常に他方の現実の反映としての経験的意識と対立し、その対立において発展し、その発展は両者の一致の過程でもある。その過程を漱石が描いているにもかかわらず、越智氏は認識の発展過程を、つまり認識と現実の一致の過程を、あくまで現実と観念の対立として捕らえ、「原則、原理をもって現実を定形化しようとする」と捕らえる。「原則、原理をもって現実を定形化しようとする」努力において、原則、原理は変化するのであって、第一義が道義にある、という甲野の原理はこの作品によって破綻しており、破綻させたのも漱石の現実認識であり、その破綻はもともと甲野の意識に組み込まれている。そして、こうした矛盾こそが現実認識の内容であり、現実との一致の過程であって、観念の崩壊ではない。
越智氏は、甲野について「その哲学にしても彼の救いになりうるか、どうか」と書いている。越智氏は、「救いになる」ことがどんなことかを考えるべきである。越智氏が求めている救いにはならないだろうし、甲野も漱石もそんな救いを求めていない。「確かに、誠も真面日も欠くことはでぎぬにしても、それが喜劇の世界で絶対に有効だという保証はあるまい。むしろ喜劇の残酷さはそれらをさえ笑殺しかねない」と書いている。越智氏は、「有効」という言葉の意味を考えるべきである。越智氏の考える有効を甲野も漱石も有効と認めていない。そして、漱石の誠と真面目は、「野分」によって、喜劇と対立し、喜劇に笑殺されるものとして意識的に形成されている。そこにこそ意義があり、その意義こそ越智氏に理解できないものである。
・・かくて、あの一つのフィルターをとおした場合、「虞美人草』中の生き残った若い世代は、すべて喜劇の人物である。世界は原則を持たない。統一は失われたままなのだ。
漱石はおそらくそうした発見に到達していたはずなのである。もはや単純な意識の勝利はない。江藤淳氏は『夏目漱石』(昭.三一・一)において次の指摘をしている。「代助は既に甲野の人格主義が一つの我執であることを知っている」。換言すれば、甲野さんは自己のエゴイズムに対する否定を行いえていないということになるだろう。確かにそうだ。しかし甲野さんがもし喜劇を引ぎ受ける決意を固めるとすれば、そこに初めて自己否定が現われるはずである。また、宗近君の「アクション」は第一義の発露として絶対的な意味を保証されていたのだが、喜劇の世界でどれだけその意味を確保できるだろう。彼は自身の小野さんに対する行為はエゴイズムから発したものでないことを繰り返し強調するが(十八〕、それを疑えば彼の行為は完全に意味を変じないではいられまい。同様に甲野さんが(16)自身のエゴイズムを意識すれば、悲劇の哲学はとうてい語れない。悲劇の哲学も実に危うい場所にまとめられているので、悲劇のみな(p59)らず、その哲学も崩壊の可能性は十分考えられるのである。(17)もちろんそれは世界の意味の崩壊とアナロジーをなしていると言ってよい。
すべて喜劇の人物である、というのは、すべて現実のなかで生きているということである。生きていて現実の中で生きていなことがあろうか。愚かなフィルターによる愚かな結論である。『虞美人草』には非常に複雑な精神の展開が描かれており、単純な意識の勝利などはじめから問題になっていない。どんな意識もどんな主義も自己に発する点からすればすべて主観であり我執であり、エゴイズムである。そして、甲野ほど深刻に人格主義を否定する能力を持つ人物はいない。人格主義の具体的な否定と発展は、主観的な意識としてのエゴイズムという抽象体に解消することとはまったく違った課題である。すべての意識は主観的であるから、それをエゴイズムや我執に解消することほど楽な仕事は無い。漱石が現実認識の発展を具体的に、非常に綿密に規定していることをまったく理解できず、目につくものをなにもかもエゴイズムのごみために投げ込むことが越智氏の批評である。しかし、その目につくものは非常に少なくまた貧弱であり、ごみために投げ込んでも惜しくないものである。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

●夏目漱石書評
●「こころ」
朝日がこの(2014年の)四月から九月にかけて、漱石の小説「こころ」を連載していたのを読んだ。「こころ」の連載が始まったのはちょうど百年前の四月だった。朝日はそれを連載した新聞社として、百年経った記念に、百年前とそっくり同じ体裁で再連載をしたということだったが、筆者はその連載を一日も欠かさずに読んだ、熱心な読者のひとりだった。
筆者が漱石の小説を読んだのは高校生の頃のことである。それ以来、読み返したことはなかった。そんなわけで、ほぼ半世紀ぶりの読み返しになったわけだが、それにしても再読の印象は強烈だった。まず、筆者はこれを、再読したというよりは、初めて読んだような印象を受けた。つまり、高校生時代に読んだ際の記憶がすっぽりと抜け落ちていたわけだ。筆者は漱石について、ひとかどの理解をしていたつもりだったので、これはショックだった。筆者は「こころ」に何が書かれていたか、正確な知識をまったく持ち合わせないままに、漱石を理解したつもりになっていたということだからだ。
そんなわけで、今後も漱石についていっぱしに語ろうとするなら、漱石を読み直さねばならないという気持ちになった。だからこの度は、「こころ」を初めて読んだというような気持ちで、読んだ感想を書いてみようと思う。「こころ」が終わったあとは、他の作品についても、順次読書と批評とを積み重ねていきたいものだ。
読後感を書くにあたっては、いくつか批評の基準あるいは視点のようなものを用意しておきたいと思う。ひとつは国際人としての視点だ。つまり、日本人ではなく、東アジアの人や欧米の人から見たら、漱石はどのように映るだろうか、という視点からこれを読み解くということである。もう一つは、現代人としての視点だ。これは最初の視点とも深くかかわるが、現代に生きる日本人の目から見たら、漱石はどのように映るだろうか、というような視点である。これは、漱石が時代を超えた普遍性を持つだろうかという問題意識とかかわる。言い換えれば漱石の今日性ということである。そのほか漱石のエクリチュールの特徴とか、小説の構成上の特徴とか、技術的な視点もいくつかあるが、それらは感想を記述していく中で、適宜交えていくこととしたい。
このような問題意識から「こころ」を読み解くと、いくつかの要素がおのずから浮かび上がってくる。まず、殉死の問題だ。この小説のなかの最大のテーマが「殉死」だということは、発表直後から言われてきたことだ。この小説は、明治天皇の死に対する乃木希典の殉死に触発されて書かれたと世間は思い、漱石もまたそれを否定しなかったようだから、そのような受け取り方が流布したのは不思議ではない。乃木の殉死は鴎外もこれを取り上げ、「興津弥五右衛門の遺書」はじめいくつかの短編小説を書いている。当時は乃木の死が引き金になって、殉死を論じることがひとつの社会現象になっていたほどであるから、漱石がこれを小説の中で取り上げたのは、ある意味自然なことだったともいえる。
しかし、現代の日本人あるいは現代の外国人の目からすれば、殉死というのは特異な問題領域の事柄だろう。日本人なら、殉死を特殊日本的なことながらも、一時代においては自然な事柄だったと解釈することができるかもしれないが、他のアジア人や、ましてや欧米文化圏の目から見れば、殉死はまったく異常なことである。とくにキリスト教を信じる人々にとっては、殉死は意味のない自殺行為くらいにしか映らないだろう。その殉死を漱石は正面から取り上げて、しかもそれを批判するのではなく、美化しようとするようなところがある。しかも、特定の人間への殉死と言うだけでなく、明治という過ぎ行く時代への殉死だなどというわかりづらいことまで漱石は書いている。時代に準じて死を選ぶなどという発想は、他の国民には絶対にありえないこととして映るだけだ。
こういうような姿勢は、鴎外と比較しても、理解を得がたい面を持っているといえる。鴎外も殉死を取り上げたが、鴎外は殉死を美化するつもりはまったくといってよいほど持ち合わせなかった。鴎外は殉死を、道徳の問題としてではなく、武士の意地(それもどちらかというとつまらない意地)の問題に属する事柄だと捉えていたのである。尤も鴎外は、意地を、人間を動かす動機の中でも最も強烈なものと捉えてはいたが。
次に目に付く要素は友情をめぐるものだろう。「こころ」の主人公である先生を死に至らしめた直接の動機は乃木将軍の殉死への共感であるが、その伏線として、友人を裏切ったことに対する罪悪感というものがあった。この罪悪感が強く働いて、先生は自分を責めるようになり、それがきっかけで世間からドロップアウトしてしまった。その挙句に、この世に自分のいる場所を確保できなくなり、ついには自殺を考えるようになる。乃木の殉死は、その覚悟を後押ししただけという面もある。そこで、先生とその友人との友情が問題になるわけだが、彼らの友情を引き裂いたのは一人の女性をめぐる葛藤なのであった。先生は友人のKがある女性を深く愛していることを知りながら、そしてそのことでKが自分に相談したり信頼感を持っていることを知りながら、その女性を自分のものにしてしまった。友人のKはそれが原因となって自殺してしまうのだが、そのことが先生に癒しがたい心の傷を残し、この世からドロップアウトする要因になった。
しかし、男というものは、女を他の男に取られたくらいで、果たして自殺できるようなものなのか。大いに疑問のわくところだ。そんな男のことに感心するような人間は、いまの日本にもいないだろう。もっともゲーテのウェルテルは恋の病から自殺したのであったが、その限りでは、失恋から自殺という流れは欧米圏の人々の目には不自然ではないのかもしれないが、少なくとも現代の日本人には、失恋から自殺するような男は、アホとしかいいようがないだろう。
その失恋をもたらした男女の恋愛について、この小説が書いているところは殆どないといってよい。ウェルテルの場合には、ウェルテルの恋愛感情が延々と語られるのだが、この小説では、男が女に言い寄るわけでもなく、また女が男の申し出にイエスと答えるわけでもない。友人のKの場合には、自分の気持ちを相手の女に伝えるでもなく、友達の先生に打ち明けるだけであるし、その先生も相手の女性を直接口説くわけでもない。女性の母親に向かって、娘さんを自分の嫁に欲しいというだけだ。これが果たして恋愛と呼べるだろうか。
こうして見ると、漱石が描いた人間関係というのは、極めてあっさりしたものだとの印象を与える。その割には、語り手である「私」の先生に対する思い入れは異常なほど強いものとして描かれている。それはあたかも、同性愛を思わせるような、精神の密着ぶりといえる。漱石には同性愛の趣味はなかったと思われるが、その漱石にしてこのような同性愛的な人間関係を描き分けたことの不思議さに打たれないではおれない。
同性愛的な関係を除けば、残余の人間関係はきわめてあっさりとしたものだ。家族間の関係でさえ、きわめてあっさりと描かれている。「私」にとっては、父の死に対する配慮よりも、先生の死に対する憂慮のほうが優先している、というように描かれている。その一方で、親類も含めて他人に対する警戒心というものが、何度も繰り返し語られる。人間は常に構えていなければ、簡単にだまされてしまう。だから他人に対しては絶対に気を許してはならない、といったような言葉が何度も語られる。それを読んだ者は人間不信を加速されるのを感ずるだろう。
こんなわけで、「こころ」の描いている世界は、かなり特異な世界だというような印象を持たされる。だからといって、筆者はこれを駄作とは思わない。やはり傑作だと思う。それはこの小説が、結構において堅固であり、エクリチュールに独自な艶があるからだと思う。その辺については、後日別途述べてみたい。  
●「坑夫」
「坑夫」は「吾輩は猫である」に始まる漱石の遊戯的な作品の系列の最後に位置するものである。この作品の後に「三四郎」を書き、そこで試みた小説の手法を深化させていくことで、漱石独自の深みのある文学を確立していくわけであるが、この作品「坑夫」」には、三四郎以降の展開を予想させるようなものは殆ど感じられない。その意味で、前期の遊戯的な作品の系列の最後に位置するものだと言ったわけである。
遊戯的なと言うには、二重の意味合いがこもっている。ひとつは読者サービスということだ。これは新聞社の雇われ作家になった漱石にとっては、いかにして読者を喜ばせるかという問題意識から出ている。幸い漱石には、「猫」や「草枕」で、読者を大いに喜ばせたという自負があった。だから、その延長上で小説を書いていれば、失敗する恐れは少なかったわけだ。それは遊びの要素に富んだもので、その遊びの精神が読者を捉えたのだと言える。
もうひとつは、漱石のその遊びの精神が、日本伝統の俳諧の精神に裏打ちされているということだ。俳諧とは本来、諧謔を通じて人を喜ばせることを言う。諧謔であるから、批判の精神も当然含んでいるが、初期の漱石の場合には、批判精神を表に立てることはない。まじめなことがらを茶化すことで笑いを誘うというような要素が強い。これは、漱石が俳諧と並んで落語を好んでいたこととも関係があるだろう。
ともかく、この「坑夫」という小説にも、深刻なテーマを扱っている割合には、深刻なところは少しもない。それは主人公である語り手が19歳の少年だということにも理由があろう。19歳の少年を主人公にし、しかもそれが語る一人称の小説という体裁をとっていることからして、深刻になりようがない。なりようがあることといえば、それは恋愛をめぐる深刻な事情くらいしか考えられないが、この小説では恋愛を正面から取り上げているわけでもない。主人公が、若くして世をはかなみ、この世からドロップアウトしようと決心するに際して、女性との関わりがあったことが暗示されているのだが、かといって、その恋愛が重要な意義をもっているわけでもない。こんなわけで、この小説は深刻さとは最も縁遠い世界を描いたものなのである。
筋書きを簡単にいうと次のとおりである。19歳の少年が、生きているのが嫌になり、死ぬつもりで家出をする。その事情というのには二人の女性がからんでいるようだが、それがなぜ彼を死ぬ気にさせたのか、どうもよくわからない。わかるのは、この少年がどうやら短慮から家出をしたということだけだ。少年は、金持の御曹司のくせに、一文無しに近いような状態で家を出た。このことからも彼の短慮ぶりがわかろうというものだ。
少年は東京の家を出たあと、板橋街道というから、要するに中山道を北へ向かって歩いて行く。どうせ死ぬ気でいるから、何処を歩いて何処へ向かうのか、心積もりはない。どうでもよいのだ。死ぬきっかけさえあれば、そこで死ぬ気でいる。ところが、思いがけないことが起こって、少年は死ぬことを中断し、「坑夫」になることを決心する。なぜ坑夫なのか。そこに必然性などというものはない。偶然の行きがかりでそうなってしまっただけの話だ。この少年は、中山道を歩いているうちに中年の男と出会い、その男から坑夫の働き口を進められて、深い思慮もなく、坑夫になるように流されていくのだ。
その働き口のある鉱山というのは、どうやら足尾銅山らしい。少年は周旋屋の男に連れられて前橋まで歩いて行き、そこから電車に乗ってある駅で降り、さらにそこから徒歩で山越えをして鉱山にたどり着くということになっているが、その電車というのは、両毛線のようである。下りた駅と言うのは桐生か、そのひとつ手前の駅らしい。足尾銅山方面には、現在では桐生から私鉄が伸びているが、この小説の時代にはそんなものはまだできていない。だから彼らは山越えの道を歩いて銅山に向かったわけだ。
徒歩で銅山に向かう途中、周旋屋は別に二人の少年に声をかけて、一緒に連れて行くことにする。この二人の少年があまりにもあっさりと周旋屋の手に落ちてしまうのを、当の少年は複雑な目で見る。自分もあまり面倒をかけずに周旋屋の言うことを聞く羽目になったが、この二人はもっと簡単に周旋屋の言うままになった。というのは、彼らが乞食も同然で、住む家も食うものもなく、その日その日を生きていくのに精一杯だからだ。鉱山といえども、寝床と飯にありつけるところなら、どこでもよいのだ。そんな二人の様子を少年は軽蔑の眼差しで見ている。自分はこいつらとは違うんだ、というエリート意識が、この少年の眼差しを傲慢なものにするのだ。
少年の傲慢な眼差しは、鉱山の労働者たちにも向けられる。彼らを一目見た時から少年は、彼らを獰猛な獣のようなものだと軽蔑し、こんな連中と一緒にされるのはまっぴらだと思う。そのあたりの場面をちょっと引用しておくと、「この塊の部分が、申し合わせたように、こっちを向いた。その顔が〜実はその顔で全く萎縮してしまった。というのはその顔がただの顔じゃない。ただの人間の顔じゃない、純然たる坑夫の顔であった。そういうより別に形容しようがない・・・まあ一口でいうと獰猛だ」といった具合である。
だが、少年はそう思っただけで、無論口には出さない。もし口に出したとしたら、袋叩きの目にあっただろう。いくら無分別の少年でも、それくらいのことは心得ているわけである。
結局少年は、同行していた二人の少年と離れ離れになり、とある飯場に放り込まれる。ここへ来る前は、この二人と一緒なら幾分は心強いかもしれないと期待していたのだが、周旋屋はそんなことはお構いない。三人をそれぞれ別の飯場に紹介するつもりなのだ。飯場の親方は少年を見て、こんなところで働こうなどと馬鹿なことは考えずに家に帰れと忠告するが、意地になった少年は反発して是非ここで働かせてくれと言う。どうせ死ぬ気でいるのだから、どんなところにいて、どんなことをしていようが、大した意味はないのだ。
しかし、飯場の中はあまりにもひどい状態だった。まず、飯。これが飯と言うよりも泥と言った方がいいほどひどい代物だった。こんなものを、ここにいる連中は喰っているが、よくもそんなものが食えるものだ。それはこいつらが獣だからだろうと、少年はここでも同僚たちを軽蔑する。もっと我慢が出来ないのは、南京虫だった。布団の中にいるこの虫に体中を刺されて寝ることができない。そこで少年は布団から飛び出して、柱に凭れて転寝をするのだ。
少年は先輩に連れられて坑内の視察に出かける。この先輩と言うのが性悪な男で、少年をたびたび恐ろしい目に会わせた挙句、坑内に置き去りにして消えてしまう。少年は途方にくれるが、そこで思わぬ男と出会う。この男は安さんと言って、少年の身の上ばなしを聞いたうえで、いろいろアドバイスをしてくれる。ここにはまともなことも考えられない獣のような連中しかいないと思っていた少年にとって、安さんの登場は晴天の霹靂になった。彼と出会ったおかげで、少年はもう一度生き直そうとする決心をするのである。
こんな訳で、これは一人の少年が、いったんは自殺しようと決意したが、立派な先輩の導きによって、自殺するのをやめ、社会人として生きて行こうと決意するところを描いている。それはこの少年の自立の過程を描いたということでもあるから、その点は一種の教養小説の体裁をとっているともいえる。しかし、少年の成長ぶりを描くという意気込みよりも、少年の目を通して下層社会のえげつなさを面白おかしく描くことに比重が偏っており、その点ではやはり、遊戯文学の域を脱していないといえよう。
この小説における漱石の文体は、「草枕」同様かなり理屈がかっている。理屈っぽいというのは、小説にとっては致命的な欠陥になるから、本格的な小説を書こうとすれば、克服しなくてはならない。実際漱石は、「三四郎」以降、文体の徹底的な練り直しということに力を注いでいったわけである。
なおこの作品で漱石は、鉱山労働者の実態をかなりリアルに描き出している。相当な取材をおこなったはずだ。少年の目を通して描くという制約はあるが、日本社会の吹き溜まりとしての鉱山の実態が生々しく描かれてくる。そこで働いている人間は、並みの日本人から二等も三等も劣っている。それは彼らが、貧農や末端労働者の家に生まれ、ろくな教育も受けられないまま世間に放り出された結果だ。実際主人公の少年が知り合った二人の少年も、宿無しで食うものにも事欠く存在として描かれている。そんな人間にとっては、日々を生きることだけが関心の的であり、鉱山でもどこでも。生きてさえいられれば、のたれ死ぬよりはましなのである。
鉱山の労働は過酷で、一万人からいる労働者のうち、毎日何人もが事故や病気で死んでいる。この世の地獄と言ってよい。そんなテーマを描くわけだから、おのずから社会的な広がりを含んでいるはずなのだが、漱石には鉱山労働を社会問題として捉えようとする視点はない。  
●「それから」
半世紀ぶりに漱石の「それから」を読んだ。半世紀前の筆者はまだ高校生だったわけだが、その高校生が「それから」を読んだ印象というのは、一途な恋愛を描いた単純な恋愛小説といったものだった。この小説の中で漱石が描いている恋愛感情を単純だと感じたのは、筆者が若すぎて、恋愛の何たるかについて、まだ十分な理解をもっていなかったからだろう。老年になって改めてこの小説を読んでみると、たしかに恋愛小説には違いないが、単純な恋愛を描いたものといえるほどに、単純なものではないということがわかった。
周知のようにこの小説は、ある種の不倫関係を描いたものである。一人の男が友人の細君に横恋慕し、挙句の果てにその女を横取りしようとする。これは、漱石がこの小説を書いた時代にあっては、公序良俗を破壊する反社会的行為とみなされていたから、当然のことながら、自分の家族を含めた社会というものから、猛烈なリアクションが来る。主人公の男とその思い人は、そのリアクションに敢然と立ち向かい、命を犠牲にしてでも自分たちの一途な思いを貫こうとする。こんなわけだから、これは大恋愛小説といってもよいような結構を備えているわけだが、その割には、恋愛一般が漂わせている、あの甘美な雰囲気が伝わってこない。伝わってくるのは、なにやらわけのわからぬ人間の情念だけだ、といった感もする。
筆者がわけがわからぬと感じた理由は、主人公代助の行動の不可解さにある。代助は友人平岡の妻美千代に対する恋愛感情が高まるのを感じ、それをどう扱ってよいか苦しむというのが、この小説の発端で、その苦しみをもたらす葛藤を、美千代を自分のものにすることで解消しようとする。彼が美千代を愛し始めたのは、昨日や今日のことではなく、代助がまだ学生の頃から彼女を愛しており、美千代のほうもまた、代助の自分に対する愛情を受け止めていたということになっている。それがどういうわけか、代助と美千代のいる空間に加わってきた平岡が、美千代を妻にしたいといったとき、代助は平岡の感情を尊重して、自分の美千代への感情を抑圧して、美千代を平岡に譲った。しかも、自分で平岡のために媒酌の労までとってやったのだ。
そんな経緯があったにもかかわらず、代助が再び美千代への思いを深めるのは、美千代が幸福でないと感じたからだということになっている。その挙句、美千代を幸福にできるのは自分だけだと考えるようになる。考えるだけならまだしも、自分の思いを美千代に打ち明けて、美千代も自分を愛していることを確かめた上で、美千代を自分の妻にすべく、平岡や自分の家族との戦いに入っていく。戦いというのは大げさな言い方ではない。当時の日本では、代助のしていることは姦通の片割れなのであり(姦通というのはもっぱら女の行為について言われた)、したがって社会の制裁を覚悟すべきものであった。その制裁に対して戦う覚悟ができていなければ、亭主持ちの女を自分のものにすることはできなかったのである。
姦通というのは世界中どこでもある話で、文学の分野でも姦通を題材にした小説はいくらでもある。フローベールの「ボヴァリー夫人」やロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」などはその代表的なものだ。だが、この二つをはじめ、ヨーロッパの大方の小説にあっては、姦通というものは主として女の視点から書かれるのがふつうだ。姦通という概念が主に女を対象にしたものであることから、これはある意味自然なここともいえる。ところが漱石の場合には、その姦通を男の視点から描いている。そこがちょっと変わったところだ。
漱石がこの小説で描きたかったのは、男女の恋愛だったのだろうと思う。日本では、男女の恋愛をテーマにした文芸というものはなかなか根付かなかった。徳川時代に、近松が多くの心中物を描いたが、それはたしかに男女の恋愛を描いたものではあったけれど、主題は男女同士の愛というより、その愛を貫くために社会と戦わなければならなかったその理不尽さだったように思う。恋愛が恋愛として正面からまじめに取り上げられることはなかったのだ。西鶴の如きは、男女の性的関係は恋愛なしでも成り立ちうるものだというシニシズムに立っているくらいだ。
しかし何故漱石は、男女の恋愛を描くのに姦通という形を以てしたのか。これは漱石文学を読み解く上での大きな問いになるかもしれない。
代助という人物の造形も変わっている。漱石の小説に登場する人物の多くが、何も仕事をせずにぶらぶら暮らしているところから、高等遊民だなどという言葉がかぶされたことがあるが、代助はその名に相応しく何もしないで日々ぶらぶらしながら暮らしている。それが可能なのは、彼の実家が金持ちで、父親が息子の遊んで暮らすことを許しているからだ。代助の生活は父親の金で成り立っている。だから何らかの事情で父親の金がもらえなくなると、自分の生活に脅威を覚えなくてはならなくなる。そこのところが、ロシア文学に登場する遊民たちとは違うところだ。ロシア文学に登場する遊民たちは、地主や貴族の端くれで、自分自身生活の基盤を持っている。だから遊んでいられるわけだ。しかし代助には、そんな基盤はない。父親や兄の情けにすがって生きているだけだ。だから、代助が姦通の片割れを働き、社会の指弾を浴びるようなことになれば、親兄弟はあっさりと義絶することを選ぶだろう。実際代助が、社会のリアクションの中でもっとも困難なものと認識したのが、親兄弟からの義絶であったわけだ。この時代の社会の制裁は、最も身近な肉親を通してせまってきたというわけであろう。
代助は、毎日仕事もせずにぶらぶら暮らしていることについて、自分なりの理屈を持っている。ひとつは、食うために働くのは卑しいことだとする身勝手な理屈である。働かなくても食える人間は何も働かなくてもよい。仕事に費やす無駄なエネルギーを、もっと別の有意義なことに費やすほうが、よほど高等な人間である。自分は、幸いに働かなくても食っていけるのだから、無理して働かなくてもよいのだ、という理屈だ。しかしこの理屈では、理屈としてどこか薄弱なところがある。そこで、もう一つ別の理屈を設ける。それは、社会の堕落だ。いまの日本の社会は軽佻浮薄以外のものではない。欧化主義に毒されて日本古来の美徳を忘れ、人々は一様に拝金主義のような考えに毒されている。そんな社会と妥協するのは人間としての堕落だ、というような理屈である。
その堕落に陥っている人間の代表格が自分の父親だ、と代助は思う。この父親は、幕末から維新にかけて青少年時代を送った人物で、旧時代の古い道徳観念が染み付いているにもかかわらず、いまの世の中にうまく適応して、ひとかどの財産も形成した。そんな父親が、息子の自分に対して結婚を強要する。その結婚は父親一流の打算に裏打ちされてのものだ。相手の娘は自分の恩人の子孫で、この娘を嫁にすることはその恩人の恩に報いることなのだと古風な理屈を並べながら、実はその娘の財産にも強い関心を持っている。その娘の家は地方の大地主で、大地主と婚姻関係になればなにかと都合がよい、そんな思惑も持っているのだが、そうした打算的なところが代助には気に入らない。だがいまの世の中は、こうした打算でもしなければうまく渡っていけないのもまた事実だ。代助には、そんなところも世の中と妥協できない一つの理由になっている。
実家の人間たちの中で代助が一番気を許しているのは嫂だ。決して教養が高いわけでもなさそうだが、世の中を覚めた眼で見ることができ、なにかと代助の話し相手にもなる。嫂の存在は最後の小説「明暗」でも大きくとり扱われるようになるが、漱石は義理の弟と嫂という、ある種特別な関係に強い関心をもっていたのだろう。
代助は結局、嫂も含めた家族全員の期待に逆らって美千代と結ばれようと決心する。それは社会全体を敵にして戦うことを意味する。代助もそのことはよく理解している。だから彼の決意は悲壮な趣を呈する。漱石もそんな代助の悲壮な決意を、それこそ鬼気迫ったトーンで描いていく。
男女が結ばれることに、こんな悲壮感が伴うとは、他の国の文学では、ほとんどありえないことではないか。男女のこんな悲壮な間柄は、むしろ徳川時代の心中物と共通するところが大きい。  
●「それから」から見る明治末の東京
漱石は東京で生まれ東京で育ち、かつ幾度となく東京市域内での転居を繰り返したこともあって、東京の地理には明るかった。そんなこともあって、漱石は東京についての自分の知識を、小説の中で遺憾なく披露した。東京を語った作家といえば、荷風散人があまりにも有名だが、漱石もそれに劣らず東京を語っている。ここでは、「それから」を題材にとって、漱石の眼で見た明治末の東京を俯瞰してみよう。
小説の主人公である代助は、牛込の一角に家を構えていることになっている。場所を特定するのは難しいが、神楽坂を登りきったあたりで、上り方向に向かって左手(西側)のようだ。市谷方面から外堀沿いを飯田橋方面へ歩く途中、砂土原町へ通ずる坂道を登るのが近道だという記述があることからも、それは伺える。だとすれば、現在地下鉄牛込神楽坂駅がある周辺だと考えられる。
東京へ出てきた平岡夫妻が、神田での仮住まいを経て一家を構えたのは、小石川の一角である。伝通院の西隣のようだ。安藤坂から上ってきて、伝通院の焼け跡前を左に曲がるという記述が出てくるので、こう特定できるわけだ。代助は美千代と会うのが目的で、幾度となくこの家に足を運んでいる。その道筋は、牛込の家から北の方角に向かって歩き、五軒町あたりで江戸川(神田川のこと)に出、白鳥橋を渡って安藤坂を登るというのが最短のものだったようだ。そのほかに代助は、飯田橋方面から江戸川に沿って遡上し、白鳥橋のたもとから安藤坂を上っていくこともあった。
代助の実家は青山にある。現在青山墓地がある辺りだろうと思われる。牛込の家から実家に行くには、神楽坂を下りて飯田橋で赤坂方面生きの市電(外堀線)に乗り、弁慶橋で青山方面行きの市電に乗り換えるというのが最短コースだったようだ。代助はこの他のルートもとっている。青山からの帰り道、わざわざ塩町行きの市電に乗って四谷三丁目の交差点で下車したあと、津守坂を下りて士官学校前(現在防衛庁のある辺り)に出、そこを右に曲がって堀端に出ている。その後代助は、砂土原町に折れる自宅への近道を通り過ぎて、飯田橋に向かって歩いて行くのである。
この三つの地点が代助の活動の拠点となるもので、代助はこの三箇所をぐるぐると回りながら、暇をつぶして生きているわけである。行動範囲が狭いこともあって、代助の移動の手段は市電が中心だが、時折人力車も使っている。麻布のさる邸の園遊会に、兄と一緒に招待されたあと、二人で金杉橋まで鰻を食いに行く場面が出てくるが、その際に二人は車で金杉橋まで移動したということになっている。この車とは人力車のことだと思われるのだ。
「それから」がカバーしている時代には、山手線はまだ開通していなかった。中央線の方はすでに開通していて、「三四郎」の中でも、三四郎が御茶ノ水から中野行きの電車に乗って大久保まで行く場面が出てくるが、「それから」の中では、代助も他の登場人物も、なぜかこの電車には乗らない。やはり、市電のほうが身近で便利だと思われていたのだろう。
市電の中でも外堀線というのは特別のものだったようだ。これは文字通り外堀沿いを一周するというもので、都市内環状線として、山手線の先祖みたいなものだ。代助は度々この電車に乗るが、それは移動が目的だ。だが、最後の場面では、移動することが目的ではなく、ただあてどもなく時間を潰すためにこの電車に乗る。今でも、時間潰しのために山手線に乗る人がいるように、当時の東京人にもそうした人がいてもおかしくはない。それに代助の場合には、進退窮まって頭が混乱している折でもあり、電車に乗ってぐるぐる東京を回転するというのにも、それなりの事情があったわけだ。
東京の街の表情を、漱石はどう描いているか。まず街並の様子だが、これが意外と描写に乏しい。代助が神楽坂を上って行くときに、地震に遭遇する場面があって、そのなかに神楽坂の街の佇まいのようなものが描写されているが、それによれば、当時の神楽坂は狭い坂道を挟んで木造の低い家並が立ち並んでいるということになっている。おそらく神楽坂に限らず、東京の町屋の殆どがそんな感じだったのではないか。
代助はよく散歩しているが、散歩の途中で見た風景にはあまり注意を払っていない。あるとき代助は、神楽坂を下りて堀端に出、堀沿いに市谷方向に向かって歩きながら、新見附の橋を渡って招魂社の傍らを過ぎ、番町方面へと足を向ける。ここで招魂社と言っているのは、今で言う靖国神社のことだ。この神社はもともと薩長藩閥の肝いりで作られたもので、江戸っ子にとっては縁のないものだったが、日清・日露両戦争の戦死者を祀るようになってからは、普通の庶民にも縁が深くなりつつあった。その招魂社(靖国神社)について、代助即ち漱石は全く敬意を払っていない。やはり、江戸っ子の意地が多少は働いているのかもしれない。
話題を元に(東京の街の表情に)戻して、街を歩いている人たちの表情はどうか。服装は相変わらず和服が主流だ。それは「何時の間にか、人が絽の羽織を着て歩くようになった」といった何気ない記述にも伺われる。人が和服姿で歩いていることは、当然の前提となっているのだ。代助も、普段着は和服だ。和服に帽子をかぶるといったいでたちをしている。洋服を着るのは、園遊会に招かれた時などの、ハレの場面に限られる。男でさえそうなのだから、女は晴れの場でも和服姿だったろう。
「それから」が描いている世界は、明治維新からわずか四十年しか経っていない。たった四十年では、人間というものはそんなに変われるものではない。代助の父親は、徳川時代の考え方のままに生きているし、嫂も天保時代との連続性を感じさせるような趣を漂わせている。衣装でさえ旧態依然なのだから、まして心の中がそんなに変われるものではない。漱石はそのように感じていたに違いないのだ。  
●「こころ」と「それから」
漱石の二つの小説「こころ」と「それから」は、色々な面で深くつながったところがある。まずテーマが似ている。両者とも男女の三角関係のもつれを扱っている。二人の男が一人の女を巡って不幸な関係に陥るというものだ。ただ多少の違いはある。「それから」では、主人公の代助が友人の平岡に対していったん女を譲った後で、その女を奪い返すという風になっているのに対して、「こころ」では、女への愛を告白した友人を出し抜く形で女を自分の物にした男が、そのことで良心の呵責を感じ続けるということになっている。つまりベクトルが違う方向を向いているといえるわけだが、男女の三角関係という構図は共通しているわけだ。
「それから」の代助は、美千代という女を心から愛しており、美千代のほうもその愛に応えたいと思っていたにかかわらず、後から彼らに加わった平岡が美千代を自分の妻にした。そのときに代助は、平岡から美千代を守ろうとしなかったばかりか、自分が仲人の労をとって二人を結ばせてやった。そのことで、美千代は代助に捨てられたと思ったのである。しかし、代助には捨てたという意識はない、捨てたのではなく友人に譲ったという気持ちである。しかし、その気持ちが、美千代が必ずしも幸福でなさそうな様子を見るにつけ揺らいでくる。その揺らぎが美千代への強い愛となって高まっていく。挙句の果てに代助は、美千代に姦通を犯させるような形で、彼女を奪い返すのだ。
一方、「こころ」の若き「先生」は、友人のKとともにある未亡人の家に下宿している。その未亡人の美しい娘を先生は愛するようになる。ところがKのほうも彼女を愛していて、そのことを先生に告白する。そうすることで、先生に仲人の労をとってもらいたかったのもしれない。丁度、代助が平岡の為に仲人の労をとったように。だが先生はその労をとらなかった。とらなかったばかりか、自分が先回りをして、未亡人にお嬢さんを嫁に欲しいと申し入れ、母親の後ろ盾を得る形で娘を自分のものにする。そのことで、Kは自殺してしまうのである。
このストーリーは、見方によれば、「それから」で展開したストーリーを逆にしたものだといえる。代助の場合にも、平岡の愛を尻目にして美千代を自分のものにする選択があったわけだ。もしそうしたとして、その選択の結果がどうなったか、それのひとつの可能なあり方として、「こころ」を書いたと言えなくもない。
「こころ」の先生は、自分が友人を出し抜いたおかげで友人を死なせてしまったと思い込むようになり、世の中に対して負い目を感じるようになる。愛する女性との結婚生活が楽しくないわけではないが、それを素直に喜べない。自分がもし幸福だとして、自分はそれに値しない。そんな自責の念にしょっちゅう苛まれているわけである。
こうしてみると、「それから」と「こころ」の、二つの小説に描かれた、同じような色彩の男女の愛には、理想的な結末というものがありえたのか、という疑問も湧く。男と女が愛し合うのに、人間はこんなにも理不尽な事態に直面しなければならないのか、と現代人の多くは感じることだろう。いくら親しい友人だからといって、自分の心から愛する女をくれてやるというのは、我々現代人にはなかなか理解できないし、ましてや好きな女を他の男に取られたからといって、自殺するような柔な男は現代社会には存在しないだろう。漱石がこの二つの小説で描いた男女関係というのは、いかにも旧時代的で、感情移入できないところがある。
この二つの小説は、何も仕事をしないでブラブラしている人間を描いているところも似ている。動機には多少の違いはある。代助のほうは、世の中の愚劣さと付き合うのは馬鹿げているという高慢な理由をつけている。一方先生のほうは、自分は世の中に大きな顔向けはできない、自分にはその資格はない、自分は世の中の日陰者としてひっそり暮らしているのが似合っている、という言い訳をする。代助は世の中をなめてかかり、先生は世の中を前に恐れおののくのである。
こうした二人の姿勢は、時代認識に大いにかかわりをもつ。代助は、明治という時代に積極的な意味を認めることができない。人々の頭の中は天保時代と全く変わらないのに、欧化の波に押し流されて、齷齪として生きている。だから自分はそんな時代とはかかわりたくないのだということになる。ところが先生のほうは、自分は結局時代の生んだ子なのだというような意識をどこかで持っている。明治天皇が亡くなったときに、先生が一つの時代が終わったのを感じ、その時代への殉死を思いつくのは、先生が自分を時代と強く結びつけて考えていたからだ。
この二つの小説で一番違っているところは東京の地理への言及の仕方だろう。「それから」では、代助が歩き回る道筋が、今日でも地図で一々たどれるほどに詳しく描かれている。その内容は先稿で紹介したとおりだ。「こころ」での地理への言及は、これに対して至極あっさりとしている。先生が雑司が谷墓地からさほど遠くないところに住んでいるらしいことは、行間から伝わってくるが、そこがどこなのかはわからない。また主人公の語り手がどこに住んでいるのかもよくはわからない。先生の家を夜の十時に辞して自分の下宿先に帰るという記述があるところから、先生の家からさほど遠くないところに住んでいると推測されるが、それがどこなのか良くわからない。
先生と語り手の二人が二度ばかり連れ立って歩くところが出てくる。一つは上野の動物園の周囲を歩き回るところ、もうひとつは郊外へ一時間ほどかけて歩いていく場面だ。上野のほうはともかくとして、後者の郊外がどこをさすのか、具体的な記述がない。ただ、先生の家から徒歩で一時間ばかりで、植木屋があるところということになっている。この植木屋は一軒だけ孤立しているというより、何軒か並んでいるようにも思えるから、もしそうだとしたら、駒込あたりではないかと推測される。徳川時代後期から明治時代にかけて、駒込あたりには植木屋が集まっていた。二人はまだ田園地帯の面影を残す駒込まで足を運んだのではないか。  
●「門」
夏目漱石は「それから」で、友人の妻を奪う話を書いた。「門」は、友人から妻を奪った男が、世間を憚りながら、妻と一緒にひっそりとした愛を育てる話である。「それから」の代助は、もととも愛していた女を一旦友人にゆずりながら、後でそのことを悔いて、女を奪い返す。女のほうも代助に奪われることを望む。「門」の宗助は、友人の恋人らしい女を奪ったように書かれているが、どのようにして奪ったのか、詳しいことは触れられていない。ただ、女を奪われた友人との間に深刻な事態を生じ、それがもとで宗助はその友人の影におびえながら暮らさなければならない羽目に陥った。しかしそのことが、宗助と妻の、二人の結びつきを一層深める。そんな具合に書かれている。
これと並んで、財産を巡る親族との葛藤が、もうひとつの大きなテーマになっている。親族によって財産を食い物にされたために人間不信に陥るというテーマは、「こころ」でも大きく取り上げられるわけだが、そのテーマがこの小説で始めて出て来た形だ。「こころ」の中では、先生の父親の財産を食いつぶした叔父は、悪意のある人物として描かれているが、この小説では、そういう悪意は感じさせない。財産の処分を任された叔父は、思慮の足りないためにそれを失ったことになっている。決して甥を騙そうと思ったわけではない。この叔父は、甥の一人で宗助の弟にあたる小六を引き取って、十年間も育て上げ、高等学校にも通わせている。その叔父が財産を失ったうえに死んでしまったので、宗助は小六を引き取ったうえ、彼の身の上のことまで背負い込まなければならなくなる。だが、宗助はそれを迷惑なことだと考えながらも、叔父とその家族を深く恨むわけでもない。
こんな調子で、小説の前半は、宗助が小六の身の上に頭を悩ませながら、妻の御米と睦まじく暮らす様子を描いている。彼らは山の手の一角にある小さな借家にひっそりと暮らしている。場所がどこかは、詳しく書かれていない。駿河台下から西方向の市電に乗って終点で下り、そこから歩いて二十分ほどの所にあるというのみである。その終点というのは、どうやら九段下のようだ。宗助の住む借家は、崖地の斜面の下に立っているということになっているから、九段下から歩いて二十分範囲のところで、しかも崖地のあるような起伏に富んだ場所ということになる。「それから」の舞台にもなった小石川界隈かもしれない。
宗助は、丸の内にある役所に勤めているということになっている。丸の内には中央官庁はなかったから、おそらく東京府庁あたりではないかと考えられる。この役所に通うのに、宗助は九段下から市電に乗り、神田須田町で乗り換えて銀座方面に向かい、京橋で下りて府庁に入ったのだと思われる。もっとも小説の中ではそんなことは書かれていない。あくまで筆者の想像だ。
宗助の給料は低額で、その日暮らしがやっとというふうに書かれている。なにしろ穴の開いた靴をいつまでも穿きつづけなければならないほどなのだ。だから、小六のために学資を用意するというのは論外だ。といいつつ、家の中に下女を置いている。御米が華奢な体で家事に耐えないということもあろうが、下女を雇うのはたいした出費ではなかったようだ。当時の下女の相場を調べたところ、三食付で一円ほどの小遣を渡せばよいという情報を見つけた。
宗助はひょんなことから大家の坂井と親しくなる。この男は大学出のインテリで、卒業後は職業につかず、毎日を遊んで暮らしている。先祖代々の財産で食っていけるのだ。沢山の子どもにも恵まれ、世の中に聊かの不満も持たない。その男が何故か、宗助に関心を示し、宗助の方も打ち解けて話すようになる。そのうちにこの男が、宗助にとって大きな意味を持つ存在となる。
一つには、この男を介して、自分が今まであれほど避けてきた友人と鉢合わせをしそうになったことだ。満州にいる坂井の弟が金策のために日本に戻ってきたが、安井という友人を一緒に連れてきた。近いうちに彼らがここにやって来るからあなたも会って見ないかと言われたのだ。その安井という男こそ、宗助が御米を奪った当の友人なのだ。
宗助はこの友人とのことを忘れるために今までとてつもない努力をしてきた。結局それを忘れるために役立ったのは時間の流れだけだった。いままでに費やしたこの時間の流れが、一瞬で逆戻りしかねないことに、宗助は大いに驚き、どうしたらよいか分別を失いそうになる。彼が禅寺にこもって座禅をする気になったのは、友人との不幸な過去が、それによって少しでも忘れることができるかもしれないと思ったからだ。
結局宗助は、この友人と鉢合わせする危機を逃れることができた。それのみならず、坂井から弟の小六を書生に置いて面倒を見ようと申し入れられた。そのことによって宗助は、弟の未来が開けるのを感じることができたばかりか、小六の存在によって乱されていた家内の平安と夫婦の絆を取り戻すこともできるのだ。
こんなわけで、この小説は、節目節目でちょっとした波乱を立てながらも、宗助と御米という一対の夫婦が、仲睦まじく暮らしていく様子をほのぼのと描いている。途中御米が狭心症の発作を起こし、あわやという事態に直面するが、それがまた夫婦の絆を更に深めることになる。そんな御米に宗助は、安井が近くに現れたということを一切語らない。一人でそれによる危機を乗り切っていく。それ故、この小説では、夫婦の深い絆は強調されているが、その絆は男である宗助の視点を介して伝わって来るだけで、女である御米の視点は考慮されていないともいえる。女はあくまでも、男の視線の先にある存在として描かれている。  
●「門」に見る漱石と禅
小説「門」の後半は、宗助の参禅を中心に展開する。漱石自身参禅の経験があるので、この場面は自身の経験をもとに書いたのだと考えられる。漱石は、明治二十七年(二十七歳)の暮から正月にかけての十日ほどの間、鎌倉円覚寺の帰源院に滞在して参禅しているが、その動機は神経衰弱を鎮めたいということのようであった。参禅がどのような効果につながったのか、筆者にはよくわからないが、あるいはこの時の体験を書きたくて、漱石は「門」を書いたのかもしれない。そうだとすれば漱石は、この参禅によって直接的な効果を得ることはできなかったようだ。というのも、宗助の参禅も、彼に大した効果は及ぼさなかったように書かれているからである。
宗助が参禅する気になったのは、負い目のある人物である安井の影が身近に迫ってきて、忘れようとしていた過去に直面しそうになったからである。折角長い時間をかけて忘れかけて来たものが、一瞬にして逆流し、自分の精神を失調させようとしている。その危機を乗り切る方法として、あるいは参禅が有効に働くかもしれない。宗助はそう思って、知人の紹介状を持って、円覚寺の一窓庵を訪ねるのである。宗助の動機が精神の危機であるところが、漱石自身の参禅の動機と類似している。なお、小説の中で一窓庵とされているのは帰源院、そこをまかされている宜道という若僧は雲水の釈宗活、禅の指導をする老僧は円覚寺の管長釈宗演がモデルである。
円覚寺を始めて訪ねた時の様子は、次のように書かれている。「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の寒気を催した」
ここで山門と書かれているのは総門のことで、それを潜って右手の丘の上に帰源院がある。小説の中で蓮池と呼ばれているのは妙香池のことで、仏殿の左手をずっと奥に入ったところにある。そして池の先の小高い丘を上ったところに禅堂がある。漱石はこの帰源院と禅堂を往復しながら参禅の日々を過ごしたわけだが、小説のなかの宗助もほぼ同じような毎日を送ったのだと考えてよいだろう。
宗助は、宜道が若年に関わらず自己を厳しく律し、世間から超脱していることに強い印象を受ける。自分にはとてもそんな真似はできないと思う。実際、宗助はこの若い僧になにからなにまで任せきりで、自分自身は何もできないばかりなのに、宜道の方では、宗助の面倒を見ながら、自分の修行も怠らないのである。そんな宜道に対する驚きの感情は、漱石が実際雲水の釈宗活に対して抱いた感情と同じものだったのだろう。
宗助が老師から貰った公案は「父母未生以前本来の面目」というものだった。この公案への見解を寺に滞在する十日程の間に見つけなければならない。宜道は十日間でも見つけられるかもしれないので、あせらずに努力するように進める。かりに見解に達しなくても、努力した分だけいいことがあるから、あきらめるには及ばないと励ます。
禅の公案と言うのは、理屈で答えられるものではない、ということになっている。それは理屈で納得するのではなく、体得するのだとよく言われる。ところが宗助は理屈で以て考え、理屈で以て説明しようとする。そこを老師に厳しく批判される。宗助は結局理屈の限界を超えることができなかった。それ故、公案への見解に達することができなかった。それでも宜道は、座禅したことに意義があったとして慰めるが、宗助には自分にどんな意義があったのか、納得することができない。もやもやとした気分のまま、山を下りざるを得ない。
この時の宗助のやるせない感情は、次のように書かれている。「自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、『敲いても駄目だ。一人で開けて入れ』と云う声が聞えただけであった」
「門」という題名は、この場面に淵源しているのだろう。つまり、この小説は、解脱を求める苦行者が自分を迎え入れてくれる世界の門を求める話だというわけなのだろう。門は他人に開けてもらうものではなく、自分で開けて入るものだと。
ところで、宗助の精神的苦境は、ひょんなことで解消される。自分を苦しめてきた友人の安井が、宗助の参禅している間に、大陸へ戻ることになり、彼と接近する危険性が遠のいたのだ。また、弟の小六の身の置き所も決まって、宗助はそっちの悩みからも解放されることになった。つまり、今まで自分を苦しめてきた煩悩のタネが一挙に消えてなくなったのだ。
これは参禅とはなんの係わりもなく、偶然になったことであるが、しかし宗助にとっては重大ななりゆきであった。いまや煩悩から解放された宗助は、愛する妻の御米と共に、ひっそりとした、しかし幸福な毎日を、送っていくことができるようになったのだ。  
●「彼岸過迄」
新聞連載小説「彼岸過迄」を開始するにあたって漱石は、諸言というか前置きというか、読者への言訳のような文章を載せている。「門」連載終了後に大病をわずらい、しばらく仕事を中断したが、ようやく再開できる段取りとなった、ついては、久しぶりのことでもあり、なるべく面白いものを書かなければならないと思っている、というような趣旨のものだ。そんな思い入れがあるためだろうか、この小説は漱石の後期の作品群の中では、ちょっとした毛色の違いを感じさせる。「猫」以来の例の諧謔趣味が復活して、遊びの精神とも言うべきものが再び表面化しているのだ。これを「それから」や「門」と「行人」以降の作品群との間に挟んで比較してみれば、作風の相違は一目瞭然である。
「彼岸過迄」という題名の由来や小説の構成についても、漱石はわざわざ触れている。
「『彼岸過迄』というのは元日から始めて、彼岸過まで書くつもりだから単にそう名付けたまでに過ぎない実は空しい標題である。かねてから自分は個々の短編小説を重ねた末に、その個々の短編が相合して一長編を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしまいだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日まで過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならばこの『彼岸過迄』をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている」
まず、「彼岸過迄」という題名が小説の内容とは無関係な、便宜的に名づけたものだというのが面白い。このあたりにもこの小説が遊びの精神から出ていることを感じさせる。実際には、この小説は明治四十五年の正月に連載を開始して、その年の春の彼岸を過ぎて、陽春の四月に終了したのであった。
漱石はまた、いくつかの短編小説を重ねて一つの長編小説を構成するように仕組みたいと言っている。その言葉どおりこの小説は、一応は独立性の高い、つまり短編としてそれなりに完結している六つの話からなっている。といってもそれらは互いに係わりを持たないわけではない。啓太郎という、大学を出たばかりで適当な就職先を探している青年を主人公にして、この青年と彼を取り囲む人物たちとの係わり合いを描いているという点で、それぞれの話は共通の接点を持っている。しかも、主人公と関わりを持つ人々と云うのが、主人公の親しい友人とその家族や親戚たちなのである。
六つの話の表題はそれぞれ、風呂の後、停留所、報告、雨の降る日、須永の話、松本の話、となっている。しょっぱなに出てくる「風呂の話」は、それだけで完結しており、他の話とは大きなつながりは持たないが、他の五つは、それぞれが相互に関わりあっている。これらはすべて、啓太郎の友人須永と彼の家族や親戚に関わる話だからである。
この須永という友人が、それ自体で変わった人物像として描かれているが、この小説群の中でもっとも変わった人物は須永の二人いる叔父のうちの松本という人物だ。この人物は大学を出たインテリとされている点、生業を持たず毎日遊んで暮らしている点で、例の高等遊民の一人である。松本は自分自身のことをさして高等遊民だといっているが、この言葉を漱石が小説の登場人物に吐かせたのはこれが最初だと思う。
六つの話の中で一番力のこもっているのは「須永の話」だろう。これは須永と彼の従妹千代子との一種独特の関係を、須永自身が語ったという形を取っているものだ。須永の母親は、自分の妹が生んだ千代子を息子の嫁に貰うつもりでいる。千代子のほうも須永に嫁いでもよいと考えているフシがある。ところが須永自身は千代子と結婚する気にならない。何故ならないのか、その理由は須永自身にもはっきりしない。だから、千代子や母親に向かって明確に拒絶の意思を示すこともない。この曖昧な態度が千代子と母親を苦しめる、というような一風変わった設定の話だ。
この話で現代人の興味を引くのは、従兄妹同士の結婚がテーマになっている点だ。かつての日本では、従兄妹同士の結婚は珍しいことではなかった。だがそれは世界的に見れば珍しい方なので、世界には従兄妹婚をタブー視する文化の方が多い。従兄妹婚を許容する文化でも、その範囲は交叉従兄妹に限るケースが多く、並行従兄妹婚は忌避されるのが普通である。ところがこの小説の中では、須永と千代子は並行従兄妹の関係にありながら、彼らの間で結婚話が進行している。実際には、須永と千代子とは血のつながった従兄妹ではなかったということが明らかにされるが、それは事後の話で、小説の進行過程の中では、彼らの結婚は道義的な問題とはされていない。
ともあれ、須永と千代子との間で繰り広げられる不思議な関係は、現代の読者の目には、かったるく映るのではないか。現代人は、男女の関係をこんなにもつれた感情では扱わないものだ。いくら日本人が恋愛に対して淡泊な民族だとはいえ、相手が好きなのか嫌いなのか、それもわからないような馬鹿でもあるまい。ところがこの小説の中の若い男女は、そんな馬鹿な人間たちとして描かれている、としか思いようがない。  
●「彼岸過迄」に見る東京の地理
漱石は「三四郎」と「それから」の中で、主人公の行動にあわせて東京の地理をかなり詳しく描いた後、「門」では一変して暗示するにとどめ、詳しく書くことはなかった。それで筆者などは、宗助の住んでいる場所を、九段下から徒歩二十分ばかりの傾斜地だろうとばかり推測するほかはなかった。ところが、「彼岸過迄」では一変して漱石は、東京の地理を再び詳しく描いている。これも久しぶりの読者サービスだったのかもしれない。
まず主人公たる啓太郎の住んでいるところ。これは本郷の下宿だとなっているが、本郷通り近くの東大と通りを隔てた反対側の住宅街のようである。この辺りには学生相手の下宿が集まっていて、大学を卒業したばかりで未だ定職のない啓太郎が、学生時代の延長でずるずる住み続けているということになっている。
啓太郎の友人須永が住んでいるところは、小川町の一角である。須田町のほうから歩いて来て、右へ入った路地に面しているといっているから、今でいう小川町交差点の北東にあたる一角である。啓太郎の下宿とは、本郷通りでまっすぐつながっているから、啓太郎は本郷通りを走る市電に乗って行き来することができるわけである。
須永の母方の叔父田口は内幸町に住んでいる。これも本郷通りの先に伸びる日比谷通り沿いにある。須永のもう一人の母方の叔父松本は牛込の矢来町に住んでいる。啓太郎は、田口に命じられた仕事で松本を尾行しているうちに、市電で江戸川(今の地下鉄江戸川橋駅付近)に至り、そこから雨の中を、人力車を飛ばして矢来町まで来たのだった。
田口に命じられた仕事というのは、小川町の交差点に立って、三田方面から来た市電から下りたある男性を尾行して、その行動を報告せよというものだった。そこで啓太郎は、三田方面から来る市電の停留所を探すのだが、これが二か所あるということがわかった。ひとつは交差点の北東側にあって、これは本所亀沢町方面行きの停留所である。もう一つは交差点の南西側にあって、こちらは巣鴨方面行きの市電がとまる。つまり、市電の小川町停留所は、三田方面から来た電車が、そこで東西に枝分かれする分岐点になっているわけである。
「門」では、宗助が丸の内方面から市電に乗って神田で乗り換え、九段方面行きの終点で下りて自宅へ向かうというように書かれていた。それを筆者は、丸の内の役所(東京府庁)につとめる宗助が京橋辺りから市電に乗り、神田須田町で九段方面行きに乗り換えたというふうに解釈したわけだが、もしかしたら宗助は、馬場先門から市電に乗り、小川町で乗り換えた可能性もある。その場合には、宗助の乗った市電は江戸川まで行ったはずだから、宗助もやはり牛込矢来町あたりに住んでいた可能性が高い。宗助のみならず、「それから」の代助も矢来町に住んでいた可能性がきわめて高い。そのように設定したほうが、代助の行動がより合理的に説明がつく。
啓太郎はあまり行動的な方ではないが、ひとつ浅草方面へ遊びに出かける場面がある。その場面で啓太郎は、下谷車坂から浅草へ向かって伸びる大通りを歩いていく。この大通りは今でいう浅草通りのことで、車坂はその起点となったところ、今の上野駅の浅草口のあるあたりである。
浅草通りは、いまでも仏具屋が軒を並べているが、それは明治末でも変わらなかったようで、漱石はそんな通りの様子を次のように書いている。
「彼は久しぶりに下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋だの、古臭い生薬屋だの、徳川時代のがらくたを埃といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡の中を抜けて、奴鰻の角へ出た」
ここで門跡といっているのは東本願寺のこと、奴鰻の角は、雷門通りが国際通りにぶつかるところである。
浅草を出た啓太郎は浅草橋に向かって歩きながら、占師を探す。蔵前のあたりまで来て占の看板をみつけた啓太郎は、そこへ入って自分の未来を占ってもらう。啓太郎は、占師といえば髭を生やした爺さんとばかり思いこんでいたのだが、その思いに反して小柄な婆さんが現れて占ってくれた。その占いというのが、文銭占といって、九枚の穴のあいた文銭を様々に並べ替えて、その並び具合から人の命運を占うというものだった。そんな占は、現代人はすっかり信用しなくなったが、明治末の日本人はいまだ信じていたわけで、それは啓太郎のような帝国大学を出たインテリでも変わらなかったということらしい。何はともかく、この占いは啓太郎のその後の命運をよく言い当てていたのである。
「雨の降る日」と題する一段では、松本の末娘宵子の死と送葬とが描かれるが、その中で須永を含めた一行が、矢来町の家から上落合の火葬場まで骨上げに行く場面がある。矢来町の家から火葬場のある上落合までは、今でいう早稲田通りで一直線につながっている。どういうわけか漱石は、火葬場は柏木のステーションから二丁ばかりのところにあると書いているが、実際には一キロ(十丁)近くあるはずだ。もっとも須永らの一行は柏木のステーションを利用せずに、矢来町の家から車(人力車)に乗って早稲田通りを走ったわけであるが。その早稲田通り沿いの風景を漱石は次のように書いている。
「火葬場の経験は千代子にとって生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色も忘れ物を思い出したように嬉しかった。眼に入るものは青い麦畑と青い大根畑と常盤木の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色だった。前へ行く須永は時々後を振り返って、穴八幡だの諏訪の森だのを千代子に教えた」  
●「彼岸過迄」
「彼岸過迄」の「雨の降る日」と題した章は、松本の末娘宵子の死と送葬が主なテーマだ。まだあどけない宵子は、千代子の目の前で、まるで変死のような変った死に方をした後、火葬に付される。その火葬を描いたところが現代人の我々には興味深く映る。
前稿で言及した通り、火葬場は上落合にある。その火葬場は、徳川時代の昔からそこにあり、21世紀の今でもその場所にある。その名称は落合斎場といって東京博善という民間会社が運営している。日本の火葬場は自治体が運営するのが普通だが、東京だけは、徳川時代から民間が運営してきた経緯があって、それが今日まで続いているわけである。博善が運営する火葬場は、この落合の外、町屋、四ツ木、堀の内、桐ケ谷、代々幡の合せて六ヶ所である。
宵子は、自宅での通夜や寺での読経を終えた後火葬場に運ばれて火葬炉に入れられ、一晩かけて焼かれる。今では、火葬に要する時間は一時間ほどで、送葬者は死者が骨になるまで待合室で待つというのが普通だが、明治時代の末頃には、まだ薪で焼いていたために、火葬には長い時間がかかったのだ。
面白いのは、火葬炉に等級があることだ。宵子は上等の炉で焼かれている。並等と上等とでどのような相違があるのか、漱石の文章からはわからない。ただ、宵子の炉には、扉の錠前をあける鍵や、錠前の封印といった記述があるから、あるいはこうした部分で差別化を図っているのかもしれない。今の東京では、瑞江葬儀所などの公営の火葬場ではこうした差別化はしていないが、博善の火葬場だけは、今でも炉に等級を設けているようだ。等級を設けたからといって、焼き方に相違があるわけではないのだが。
骨上の場面では火葬場の職員が三人出てくる。この職員のことを漱石は、伝統的用語を用いて御坊と呼んでいる。御坊は隠坊とも書く。徳川時代からあった職業だ。徳川時代にはこの人々が、野に積み上げた薪の上に棺を乗せ、一晩かけて焼いたものだ。野焼のことだから、煙が周辺まで漂い出た。したがって火葬場というものは、非常に嫌われたものだった。
今の火葬場は、火葬炉の中に棺を入れ、それをガスで焼く。ガスの温度は高温で七百度乃至九百度もある。だから大人でも一時間余りで焼けるのだし、宵子のような子供なら三十分もあれば十分なはずだ。それが、一晩を要したというのは、火葬炉の中で薪を燃やしたからだろう。それを燃やし続けたのは、ここで御坊と呼ばれる職員だったはずである。
今では、火葬後の骨はまっ白い綺麗な状態で焼きあがるが、宵子の場合には、あまりきれいな状態ではなく、しかも原形をかなりとどめている。たとえば、「例のお供えに似てふっくらと膨らんだ宵子の頭蓋骨が、生きていた時そのままの状態で残っているのを認めて・・・」というような記述があるし、歯もそのままの状態で残っている。歯などというものは、今では形を残さず焼け尽きてしまうものだ。
骨を拾うのに木箸と竹箸を一本ずつ用いるのは、この時代の東京の風習だろう。面白いのは、その箸をめいめいがそれぞれ持っていることで、これは一対の箸を皆で使い回しする今日の風習とは違っているところだ。
火葬炉の内部がどうなっているのかについては分からない。ただ、棺を乗せた台車を、レールを用いて引っ張り出すという記述があるから、おそらく腰の高い、金属製の棒で編んだ台車の上に棺を乗せて炉内に収容し、背後から人が炉の底のほうに薪を放り込んで焼いたのであろう。今では、バーナーは炉内の上部にあり、棺に向かって上から炎を浴びせる、というふうになっている。
この場面を書くために漱石は、火葬場に直に赴いて、その構造やら方法やらについて、綿密な調査をしたのだろうと思う。  
●「行人」
「行人」はいろいろなエピソードが盛られているので賑やかな結構の小説のようにも読めるが、枝葉を落して根幹を取り出してみると、人間の狂気についての漱石なりの考えを述べたものだというように受け取れる。その狂気は、そんなに大袈裟なものではない。一種のノイローゼ(神経症)ともいえるようなものだ。そういうノイローゼなら、漱石自身が自ら体験したこともあったのだろうと思われる。これは憶測だが、「行人」とは漱石自身のノイローゼ体験を描いたものなのではないか。
ノイローゼになっているのは小説の語り手(「自分」と自称している)の兄ということになっている。この兄の言動が、弟の「自分」の眼には不可解に映る。兄は、精神病になったらさぞ生きるのが楽になるだろうというようなことを言って「自分」を混乱させたあと、妻が弟に不倫の感情を持っているのではないかと疑い、妻の貞操を確かめるよう弟に迫ったりする。また、妻を始め家人に対しても異常な行動をするようになり、次第に周囲から迷惑がられるようになる。
そこで弟である語り手は、第三者の目を通じて確かめたいとも思い、兄の友人を説得して兄を旅行に連れ出してもらい、旅行中の兄に異常な言動が見られないかどうか、よく観察して欲しいと依頼する。小説のかなり長い末尾は、この友人から語り手宛にしたためられた手紙と言う体裁をとっている。その手紙の中で、友人もまた、兄がノイローゼに罹っていることを確認するわけである。ただしこの友人は、兄のノイローゼを否定的には捉えていない。それを精神の高貴さから起こる病だというように捉えている。
こんなわけでこの小説は、語り手の兄の心の病を、いくつかの角度からあぶりだしたもの、という体裁を取っている。だが、そのいくつかの角度に、あまり強い関連はない。小説の前半では、兄によって嫂の貞操を確認するように命じられた語り手が、嫂と二人きりでハイキングに出かけ、ふとしたことから一夜を共にする場面が描かれるが、この場面では、兄の狂気よりも、語り手とその嫂とのもつれた関係の方が表面に出ている。兄は自分の妻が弟である語り手に惚れているのではないかと疑っているのだが、語り手の弟の方も、嫂と接しているうちに、嫂から濃厚な色気がただよってくるのを感じ、思わずセクシャルな気持ちを抱くようになるといった、別の物語に摺れ変っている。この部分だけを読めば、漱石一流の、姦通のバリエーションと思えるほどだ。
友人からの手紙の中で描かれた兄の姿は、心を病んでいるということを彷彿させるのみで、語り手や嫂がこの兄に対して日頃抱いていたものと、あまり深い関連がない。兄は弟に対して、自分の妻がお前に惚れているに違いないから、それを確認しろと無理に迫ったにかかわらず、手紙のなかではそうしたことは一切話題に上らない。手紙の中での兄は、妻を殴ったというように書かれているが、どのような理由で殴ったのかは触れられていないし、ましてや、妻の不倫を疑っているなどということは一切言及がない。つまり、兄と言う人物を取り巻いて、その弟やら妻やら友人やらが、さまざまな観察をするわけだが、それぞれが勝手な見方をしているだけで、その間に共通するところがないのだ。
狂気と言うことでは、この小説にはもう一人の、これは本物の狂人が登場する。これは語り手の友人三沢という男に関わりのある女で、嫁入り後まもなく、気が狂ったことを理由に追い出された女性なのだが、それが三沢と言う男に向かって、夫婦めいた態度を示した、というものだ。この女がそんなことをできたのは、気が狂っているからであって、正気ではとてもできなかっただろう。だから、その女が三沢と言う男に惚れていたということが本当なら、狂っていることは、その女にとっては幸いなことだったのだ、というような見方も示される。つまり、この挿話の中でも、狂うということは、一概に悪い事ばかりともいえない、と言われているわけである。
こんな次第で、この小説にはやたらに狂気の話が出てくる、といった印象を与える。といっても、小説全体が狂気を中心に展開していく、というわけでもない。語り手と嫂との危うい関係や、語り手の兄弟とその父親とのすれ違いの間柄など、小説の本筋とは関係のないところで、読ませる工夫がなされている。しかしその工夫が微に入り過ぎて、小説全体としてまとまりのない印象がある。これはおそらく小説の構成術にかかわるところだ。漱石はこの小説を当初、「彼岸過迄」と同じように、いくつかのエピソードをつなげていくつもりで書きだしたのではないか。それ故、それぞれのエピソードにかなりな自立性があって、エピソード同士が互いに緩やかにつながっている、といった印象を与えるのではないか。
登場人物の中でもっとも存在感のあるのは、嫂だろう。この小説の前半は、この嫂と語り手との関係が中心になっている。その関係はあやうく不倫の域にはみ出しそうにもなるが、そこは語り手の自重が働いて、逸脱せずに済む。だが、そのことを、嫂の方では不服そうに捉えているフシがある。彼女には、語り手と不倫をしてもかまわないというような意気込みが感じられる。その意気ごみが、彼女を強い女に見せ、彼女の存在感を強めているわけだ。だが漱石は、彼女の意気込みをあまり深く追求することはなかった。小説の前半で強い存在感を示していた彼女が、小説の後半では全く影をひそめてしまうのだ。  
●「行人」と「こころ」
「行人」と「こころ」は、どちらも長い手紙で終っているところが共通している。「行人」の場合には、語り手からその兄の言動を観察して欲しいと依頼された人物が、自分の観察したところを、依頼主である語り手に手紙と言う形でつぶさに報告するということになっており、一方「こころ」の場合では、自殺を決意した「先生」が、自分の半生について語り手たる「わたし」に語って聞かせるということになっている。
「行人」の手紙を書いている者は、小説のなかではいきなり登場してきた人物で、それも友人の弟から友人の言動について観察して欲しいと頼まれたことになっている。この友人は、その観察の結果を手紙の中で披露しているわけだが、親しい友人とはいえ他人の言動にかかわる観察であるから、その手紙の内容は勢い外面的なものになりがちである。一方「こころ」の手紙を書いている者は、自殺を決意した人物であり、その人物がいわば遺書のような形で己の半生を語るのであるから、その内容はある意味鬼気迫ったものがある。この鬼気迫った趣が、「こころ」という小説を更に引締める効果を発揮している。ところが「行人」の手紙は、何故ここに置かれなければならなかったか、必ずしも必然性があるとはいえず、また一篇を引き締めるような効果にも乏しい。むしろ、小説の構成としては、このような形で終っていることは、中途半端な印象を与えるともいえる。
こうした訳で、漱石本人も「行人」における手紙の位置づけに不如意なものを感じたのだろうと思われる。それ故にこそ、「こころ」の中でもう一度手紙を使うことにしながら、その使い方に工夫を加えたのではないか。そうした意味合いでは、「行人」と「こころ」とは、手紙を通じて緊密に結びつきあった姉妹小説だといえなくもない。もっともそれは、あくまでも形式面でのことであり、小説で描かれている内容はかなり異なった趣のものではあるが。
「行人」と「こころ」が似ているのは、「手紙」を有効に使うという構成上の工夫に置いてであるが、それ以外に構成上の共通性には乏しい。「こころ」の方は、かなり厳密な構成に基づいて、計画的に書き進められたというような印象を与えるのに対して、「行人」の方は、そのような印象が弱い。これは一つの骨太のプランに基づいて計画的に書き進められたというよりは、相互にあまり緊密な関連を持たないいくつかのプロットを羅列し、それらプロット相互の間に最小限の関連性を持たせようと、あとから思いついたような形になっている。つまり、「こころ」が厳密なプランに基づく統合性の高い小説なのに対して、「行人」の方は、かなり遊びの要素の強い作品だと言える。漱石はこの小説を、恐らく書きながら考えるというような態度で書き進めたのだと思われるほどだ。
ところで、「行人」が友人の長い手紙で終っていることについて、違和感のようなものを感じるのは筆者のみではあるまい。この手紙は、語り手の依頼に答えるという形で書かれたものなのだが、語り手が何故そのような依頼をなすに至ったか、については必ずしも説得的に書かれてはいない。むしろ、片手間でもよいから、できたら知らせて欲しいというような書き方になっている。それに対して依頼に応えた手紙は、いわば必要以上の詳細さで以て書かれている。いくら友人でも、この詳細さへの動機はどこから来たのか、というような不思議な念を催させる。しかもその詳細な報告に、依頼主たる語り手がどのような気持ちを抱いたか、それが全く触れられないまま、いきなり小説が終ってしまう。そこのところは、読者にとっては聊かフラストレーションのタネになるところだろう。
これに対して「こころ」における先生の手紙には、小説の進行上の必然性というようなものがある。先生は小説の進行する中で、語り手に対して自分の半生をいつか語って聞かせると約束していた。この手紙はその約束を果たしたものなのである。また、その内容には、死を決意した人物の書いたものとして、鬼気迫るものがある。自分は明治と言う時代の終りに殉じたのだというような言い分に対しては、違和感が残らないではないが、先生がこのような手紙を書かずにいられなくなった気持ちは十分に伝わってくる。それがあるからこそ、この手紙が小説の結末をなすのが不自然に感じられない。
しかし、「行人」における友人の手紙には、進行上の必然性も希薄ならば、内容に鬼気迫るものもない。そこには、語り手の兄の心の惑いが触れられてはいるのだが、その心の惑いは第三者の目から見られたものなので、その説明には、精神科医師のそっけない診断のような冷たさがある。文学的な表現と言うよりも、科学的な文章だといった具合である。
こんなわけで、「行人」と「こころ」における手紙の扱い方には、小説構成上に置いても、内容の面においても、大きな隔たりがあると言わねばならない。  
●「行人」に見る漱石の権威的人間観
「こうして岡田夫人として改まって会って見ると、そう馴れ馴れしい応対も出来なかった。それで自分は自分と同階級に属する未知の女に対する如く、畏まった言語をぽつぽつ使った」
これは「行人」の冒頭に近い部分で、主人公の「自分」が大阪の知人の家を訪ね、その知人の妻と向かい合った時の場面である。知人と言うのは、昔自分の家に書生として居候していた男で、その妻というのは、やはり自分の家で仲働きとして仕えていた女性である。その女性と久しぶりに会った自分は、どういう風に接してよいかわからないまま、その女性をとりあえず自分と同等の階級に属する女として取り扱った、というのである。ここには、人間関係を巡る漱石の権威的な見方が示されているといえよう。
明治時代の日本の作家で、漱石ほど権威的な人間観にこだわった者はいないのではないか。漱石の小説に出てくる主人公たちは、ほぼ例外なく、相手を階級の上下を基準にして自分と比較し、それに見合った接し方をしている。「坑夫」に出てくる未成年の主人公ですら、相手の階級を自分と比較し、相手が上だと思えば卑屈になるし、相手が下だと思えば尊大になっている。
「行人」には、そうした権威的な部分はあまり露骨には表れていないが、それでも注意深く読んでいると、主人公がいかに権威的な人間観に囚われているか、それがよく伝わってくる。
たとえば、上述の知人岡田との関係。岡田は母の甥と言うことになっており、自分にとっては年上の従兄にあたるわけだが、岡田は自分の家の書生であったことの手前、自分に対して目下として振る舞ってきた。そして自分もまたそれを当然のことのように受け止めていた。だから、岡田が第三者の前で、自分と同等の身分か、場合によっては自分より目上の者のように振る舞うのに接すると、それを意外に感じ、また多少の不服も感じる。その感じ方が、権威的な人間観に裏打ちされているのはいうまでもあるまい。
漱石の小説には、書生と並んで下女が必ず出てくる。「門」の主人公宗助の家のように、その日暮らしの貧しい世帯ですら下女を置いている。これは、明治時代には家事が大変であったことに理由があるのだと思われるが、それ以上に、権威的な社会のあり方と言うものに根差していたことなのだろう。つまり、一定以上の階級に属する人間は、下女を置くのが当たり前なのであり、それを置けないのは、自分が下層階級の人間だということを公言しているに等しい。それ故、多少の無理をしても下女を置く、と言うことなのではないか。最も、当時の下女は、費用的には大した負担にはならなかったようだ。三食付で、幾分かの小遣い銭を与えればそれですむ。下女の方も、主人の家で働いて賃金を貰っているというような意識より、主人の家で面倒を見てもらっているといった意識でいたようである。
だから、主人と下女との関係は、ドライな契約関係というよりは、家族の延長のような関係であった。この小説の中には、お貞さんという下女の結婚をめぐって、自分の両親たちがあれこれ骨を折る話が出てくる。これは、主人と下女との関係が、契約関係ではなく身分的な結びつきの関係であったことを物語るのであろう。
結婚と言えば、それは男女の自由な結びつきというよりは、家同士の結びつきであった。それ故、「それから」では、代助の父親は息子を地方の名士の娘と結婚させることで、自分の社会的な地位の向上を図ろうと企んだりもする。「行人」の中では、自分がある女と見合いしたと両親に話した途端、両親の方では、肝心の女性本人よりも、彼女が属する階級や、その家の財産のことばかりを気に掛ける。これなども、彼らがいかに権威的な人間観に囚われているかということの表れと言えよう。
漱石が小説を書いていた時代は、明治の御一新から幾許も経っていない時代であったから、人々の意識には、徳川時代の封建的な考え方がまだ色濃く残っていた。そしてその封建的な考え方の最たるものとしての権威的人間観を、漱石自身も共有していたということなのだろう。
だが、同時代の作家と比較して、漱石の権威的人間観は行き過ぎたものがあるのではないか。たとえば、数年年長の森鷗外と比較しても、そんな感じを受ける。鴎外の小説には、権威的な人間観が露骨に現れているところは殆どないと言ってよい。  
●「三四郎」
朝日が「こころ」に続いて再連載していた「三四郎」を、筆者は「こころ」の時と同様毎日欠かさずに読み続けた。連載で読むというのは、単行本で読むのとはまた違った趣がある。普通は連載で読んだ後に、その余韻を再び味わいたくて、単行本になったものを読み返すという段取りをとるもので、一度単行本で読んだことのあるものを、再連載されたもので読み返すのはおかしなことだと思われないでもないが、やはりそこにはそれなりの趣がある。実際筆者は、毎日、初めて読む文章のように、再連載された文章を味読したものである。
筆者が「三四郎」を読んだのは高校生のときで、もう半世紀も前のことだ。それ以来一度も読んでいない。そこで半世紀ぶりに読んでの印象だが、筆者はこれが失恋小説だということに初めて気づいた。これは田舎から出て来たうぶな青年が、都会の洗練された令嬢に恋心を抱いたものの、田舎者のこととてスマートに振る舞うこともできず、ぐずぐずしている間に、相手に捨てられてしまうという物語だった。そのことを今回再読して、改めて思い知ったのであった。
このことに気づく前には、筆者はこの小説をどのように受け取っていたのか。なにしろ読んだのが半世紀も前のことで、しかもまだ成人になる前のことであったから、読書の感想は大方忘れてしまっていたが、少なくともこれを、失恋小説だとは受け取っていなかった。田舎から出て来た青年が、様々な人間関係に揉まれながら、次第に成長していく過程を描いた、一種の教養小説のように受け取っていたのである。
しかし、これを失恋小説と受け取り直したことで、この小説が何故、「それから」及び「門」と並んで三部作と言われているのか、その事情が判ったような気がした。この三部作は、男女の恋愛の不幸な流れを、継時的に取り上げて問題にしているのだ。つまり、「三四郎」は男が女を失う話、「それから」は、一度失った女を、女に姦通の罪を犯させても、取り返す話、「門」は、友人から取りかえした女と、生きるのをやり直す話、と言う具合に、この三作は縦につながっているわけである。
そこで、この「三四郎」を、男が女を失う話だと受け取れば、三四郎は何故女を失う羽目になったのか、三四郎に愛された女は、果して三四郎を愛していたのか、などということが大きなテーマとなって前面に出てくる。まず、女を失うためには、少なくとも一度はその女を所有していなければならない。自分の所有でもない者を失ういわれはないからだ。で、三四郎は美弥子を所有したことがあったのだろうか、ということが問題になる。小説を読んだ限りでは、それは明確には伝わってこない。男が女を所有するというのは、文字通りフィジカルに所有する場合と、メンタル(=精神的)に所有する場合とがある。精神的に所有するというのは、女の心を自分の虜にすることだ。そこで、美弥子は果して三四郎の虜になっていたのかが改めて問題になるが、テクストからはどうもそのようには読み取れない。美弥子は三四郎を相手に意味深長な言動を繰り返すが、どうもそれは三四郎の虜になった女の言動とは受け取れぬ。
虜になっているのはむしろ三四郎の方なのだ。なにしろ三四郎は、例の大学の池のほとりで美弥子の姿をちらりと見て以来、彼女の虜になってしまったと言ってもよい。この場面以降の三四郎は、のべつまくなしに美弥子のことばかり考えている。それは、女の虜になった気の毒な男の姿そのものと言ってよい。こういうわけで、三四郎が美弥子を失った、というのは適当な表現ではない。美弥子はもともと三四郎の所有ではなかったわけだし、無論三四郎を愛していたわけでもない。つまり、美弥子に対する三四郎の思いは、一方的な片思いであったわけだ。だから、美弥子が三四郎の前からとりあえずいなくなるのは、失われたというよりも、消えていなくなったというのが相応しい言い方だろう。
それにもかかわらず、である。三四郎には美弥子を失ったという感情がまといついて離れない。この感情が有効であるがために、失った女を取り戻す話である「そらから」や、取り戻した女と新たな生活を始める「門」へとつながっていくわけである。男女の間柄と言うのは、理屈で割り切れるものではない。客観的に見れば男が女を所有しているわけでもないのに、男の方では女を所有している気持ちになる、ということは十分にあり得ることだ。そういう事情のもとでなら、男が女を失ったという気持になるのには、それなりの理由がある。
それにしても、美弥子の結婚話は変わっている。美弥子の夫になる人は、兄の友人と言うことになっているが、どういう人物なのか、小説の中ではほとんど言及がない。この男は、始め野々宮さんの妹のよし子と結婚するつもりでいたのを、美弥子に乗り換えたということになっている。美弥子の方では、親友であるよし子の許嫁を横取りする形になるわけだが、それについては余り罪の意識を持っていない。というよりか、そもそもその男とどういうわけで結婚する気になったのか、テスクトからは全く伝わってこない。だから、三四郎にとってみれば、何故美弥子が自分から遠ざかってしまったのか、訳がわからないということになる。この小説が、半世紀前の筆者のように、まだ若くて経験の乏しい者には、一種の恋愛小説だと見えないのも、三四郎と美弥子の間柄が、すっきりと伝わってこないからだろう。
ところで、小説の始めのほうで、三四郎が汽車の中で出会った女と一夜を共に過ごす場面があるが、漱石はあれをどういうつもりで入れたのだろうか。この女は、夫を戦場に送り出している間、子どもを育てながら家庭を守っているということになっている。その女が所要で実家へ帰る道筋、車内で偶然出会った三四郎と名古屋で途中下車し、一緒に旅館に泊まるのである。旅館側では二人を夫婦と勘違いして、それなりの待遇をし、布団も一組しか敷かない。迷惑に思った三四郎は、女を一人で布団に入らせ、自分は敷布かなんかを被って畳の上で寝てしまう。それを翌日女から冷やかされ、あなたは度胸のない人だ、などと揶揄される。全くいいところなしであるが、それにしても、こんな女が、漱石の時代には珍しくなかったということなのか。
この二人が知り合ったきっかけと言うのがまた面白い。三四郎が食い終わった弁当箱を列車の窓から投げ捨てたところ、その弁当ガラが風に乗って女の顔を直撃したというのだ。なんとも色気のない話である。
なお、朝日はこの再連載シリーズの人気の高さに気をよくしたらしく、次は「それから」を連載するそうである。こちらは先日単行本で読んだばかりだが、再連載のほうも是非読んでみようと思う。  
●「道草」
「道草」は、漱石の自伝的色彩の強い小説だという評が定着している。それにしても暗い、というのが読者一般の印象ではなかろうか。漱石自身の半生が暗かったからこんな暗い話になったのか、それとも意識的にこんな暗い話を書こうとしたのであって、自分自身の自伝的要素はそれに色を添えたに過ぎないのか、どちらにしても暗い話である。
漱石の半生は、たしかに余り明るいとは言えない。生まれてすぐに里子に出されたりして、親から愛されたという形跡はないようだし、一歳の時に養子に出された先とは、不幸な関係に陥った。養父母が離婚した後、漱石は養母とともに実家に戻ったが、その後養子縁組を正式に解消しないままに、成人になった。成人になった後も、養父母との腐れ縁は続いていたようで、漱石は養父に金を無心され続けたという。道草に描かれた世界は、そんな自分と養父母との不幸な関係を、そのまま描き出したと思われるのである。
漱石の化身と思しき小説の主人公健三は、世の中と角を突き合わせるようにして生きている。彼は自分の妻子とさえ尋常な関係を結べない。小説の中で、三女が生まれるシーンが出て来るが、健三はその我が子に対しても、父親らしい感情を持つことがない。妻との間では年がら年中感情の齟齬が生じている。その原因を健三は自分自身に求めることをせず、ただひたすら妻の強情のせいにしている。ひとりよがりで、自分勝手な性分なのだ。
そんな性分になってしまったわけは、彼が生まれ育ってきた過去にある、というのが、この小説のテーマのように見える。その過去は、健三にとっては両義的な感情に満ちたものであった。健三を養子として引き取った男女は、将来養子に面倒を見てもらうという打算があった一方、彼らなりの仕方で健三を愛しもした。産みの親から愛されたことのない健三にとってみれば、彼らの愛が親の愛そのものであったわけだ。だが、その愛にはねじくれたところがあった。だから、額面通りに受け取るわけにはいかないが、かといって、全面的に否定できるわけのものでもない。それを全面的に否定するというのは、自分の存在そのものを否定することに他ならないわけだから。
だから、健三が成人した後で、まず養父だった男が、ついで養母だった女が金の無心にやってくる、そうした事態に直面して、健三は両義的な感情に苛まれるのだ。理屈や形式の上では、健三にはもはや養父母だった男女を養わねばならない理由はない。だが健三の感情が、彼らを放り出すことを許さない。なんとかかんとか工夫をつけて、彼らに金を与え続けるのだ。
この小説には、養父母だった男女の外にも健三に金をせびる人々が出てくる。まず、姉だ。この姉は夫からろくすっぽ金を貰っていないと見えて、自分の小遣銭くらいは弟の健三に依存している。姉が弟に小遣をせびるというのは、今の感覚からすれば奇異にうつるが、明治の頃までは当たり前だったのだろう。家族の中で、羽振りの良い者が困った者の面倒を見るのは当然のこととされていたようなのだ。
また、妻の父までが、婿の健三に金をせびりに来る。この父親は、高級官僚だったということになっており、官僚時代には羽振りのよい生活をしていたのだが、退職後急速に落ちぶれて、毎日の暮しにもさしつかえるようになった。そこで、恥を忍んで婿に金を借りに来る。この父親の無心は、小説の中では一度きりになっているが、その金で父親の窮状が抜本的に解決するわけではないので、いつまた借りに来られないとも限らない。
この父親は、漱石の妻鏡子の父をモデルにしたのであろうというのが、大方の見方である。鏡子の父中根重一は貴族院書記官長を勤めた人間で、官僚としては出世したほうだが、世間知には疎かったのかもしれない。彼を描く漱石の筆致には無残なところがある。
こんなわけで、健三の周辺には、彼の懐をあてにしている人間が大勢いる。健三はそれを迷惑なことと思いながらも、ドライに切り捨てるわけでもない。小説の終り近くで、これが最後だといって養父だった男の無心を容れる場面があるが、健三本人はそれが本当の最後になるだろうとは思っていない。彼らが生きている限り、全く縁を切るなどと言うことはできない相談だ、と割り切っている。この割り切りがどこから来るのか、それを考えれば、昔の日本人の生き方の一端が深く理解できるかもしれない。
ともあれこの小説は、健三の懐をあてにする人たちと健三との腐れ縁ともいえる関係を延々と書きつづっていく。小説らしい筋立は無いに等しい。しかも、書かれていることがあまりにも特殊な人間関係なので、現代の読者にはピンとこないところが多いに違いない。ましてや、外国人の読者に訴えかけるところは乏しいのではないか。  
●漱石夫妻と「道草」
「道草」は漱石の自伝的小説とされていることもあって、そこに描かれた主人公の健三とその細君との関係は、実際の漱石夫妻の姿をかなり反映したものと思われてきた。たしかに、小説の中の「細君」の履歴は、現実の漱石夫人鏡子のそれと殆ど同じである。高級官僚の家に生まれたこと、公教育は小学校だけであとは家庭の中で教育されたこと、その結果世間知らずで我儘な女になったらしいことなどだ。また健三が田舎に赴任している間にこの女性と見合い結婚したとなっていることは、漱石が五高の教師として熊本にいる時に鏡子と見合い結婚したことと重なるし、健三が海外留学するについて実家に妻子を預かってもらったというのも、漱石夫妻の間に実際にあったことだ。
こういうわけだから、この小説の中の細君の姿が、実際の鏡子夫人と重ねられて、鏡子夫人はこのような女性だったのだろうという臆見が独り歩きしたのだろう。漱石の死後、鏡子夫人は悪妻だったという評判が立ったのには、ひとつは彼女が亡夫について語った不用意な発言にも理由があるが、大部分はこの小説に描かれた健三の細君像に根差していると言える。それほどこの小説の中の細君は、悪妻と呼ばれてもおかしくないようなところがある。
とにかく、小説を読んでの印象は、この夫婦は心が通じ合っていないのではないか、ということだ。すでに小説の冒頭の部分で、「機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事のほかけっして口を利かない女であった」というような文章が出てくる。夫の健三には、機嫌の良い時など殆どないわけだし、細君は細君でそんな夫に口を利いても無駄だと悟りきっているようなのである。
互いに口を利かないくらいなら、まだそんなにひどいとは言えない。この二人が口を利く時は、ほとんどが罵りあいと言っていいような殺伐とした会話に終始するのである。
二人は、自分たちの仲がよくないのは、相手の所為だと互いに思っている。健三は同情に乏しい細君を冷淡な女だと思い、「細君の方ではまた夫がなぜ自分に何もかも隔意なく話して、能動的に細君らしくふるまわせないのかと、その方をかえって不愉快に思った・・・そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技量も自分に十分具えていないという事実には全く無頓着であった」といった具合なのである。
そこで二人とも相手が悪い理由を、自分なりに解釈する。健三にとっては、細君が悪いのは教育が足りないからだということになる。細君は無教育で頭が馬鹿だから何を言っても甲斐がない、というわけだ。一方細君の方では、夫が悪いのは、夫が世の中と調和することができない偏屈な人間だからだと解釈する。どうも、細君には、男の理想は自分の父親の姿にあるので、夫をそれと比較して評価しているフシがある。父親は高級官僚をつとめた人間で、世の中の事情にはそれなりに通じており、人付き合いも如才ない。それに対して夫の健三は、世の中と調和できずに自分の殻に閉じこもっている、というわけである。
細君にとって、夫の最も気に入らないところは、その権威的な態度のようである。夫の健三には、我々読者の目にも権柄づくなところがある。彼は、女というものは男に従属した存在なので、男を喜ばせるのが当たり前だ、それを、妻として夫を喜ばせないばかりか、ふてくされて夫をいらいらさせるようではけしからぬ、というようなところを常に漂わせている。それが細君には鼻持ちならない。
細君は比較的自由な雰囲気の中で育ったというようなことになっている。だから因習的な物の見方に毒されていない。女が男の付属物だとか、男の言うなりになるべきだとかは考えない。だから健三が、「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属するものだ」と構えるのに対して、「いくら女だって、そう踏みつけにされてたまるか」と反発する。それを見た健三は、「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ。尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵えるがよい」と言って、いっそうイライラを募らせるのである。それに対して細君も、「あなたに気にいる人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」と憎まれ口を叩くわけである。
だが二人の反発は決定的な事態にまでは発展しない。「幸いにして自然は緩和剤としてのヒステリーを細君に与えた。発作は都合よく二人の関係が緊張した間際に起った」からである。妻がヒステリーで倒れれば、健三でなくとも、世の中の夫なら大概が心配してやさしくするように努めるだろう。
夫の健三が、昔の養父母と再会して、いろいろ面倒に巻き込まれていく過程を、細君は脇で冷やかに見ている。健三にとって養父母は、嫌な思いばかりまとわりついたような存在だが、それでも育ててもらったことに伴う、ある種のノスタルジーのようなものを感じることも禁じ得ない。両義的な感情に襲われているのだ。ところが細君のほうでは、そういう微妙な事情に同情する気配はない。この養父母は、法的にも世間的にも全く縁の切れた人々で、今さら相手にする必要はない。だから自分としては、この二人に全く関心を示す言われもないわけだ。そしてそういうような思いを、行為にも出す。彼女にとって今更に現れた夫のかつての養父母は疫病神以外のものではない。だが、健三の方ではそんなに簡単に割り切れるものではないと言う感情がある。この二人の感情のすれ違いが、小説の最後の所でクローズアップされる。
夫が養父に金を渡して、一応因縁に決着がついたところで、細君が「安心よ、すっかり片付いちゃったんですもの」と言うのに対して、健三が「片付いたのは上部だけじゃないか。だからお前は形式ばった女だというんだ」とたしなめる。これに対して細君の顔には不審と反抗の色が見えたが、すぐに気を取り直して生まれたばかりの子どもをあやしにかかる。これ以上夫に何を言っても、唇が寒くなるばかりだといわんばかりに。
こんなわけでこの小説における健三と細君との関係は、最初から最後まで擦れ違いのままである。もしこの関係が漱石と鏡子夫人との関係においてもその通りだったとすれば、あるいは鏡子夫人は悪妻のそしりを免れないかもしれない。  
●「明暗」
漱石が男女の間をテーマに小説を書く時には、一人の女と二人の男の物語という体裁をとるのが常道だった。その関係は、「それから」や「門」にあっては姦通と言う形をとり、「こころ」においては友人を出し抜いての女の略奪という形をとったわけだが、いずれにしても、三角関係をテーマとしたものには違いなかった。漱石の遺作となった「明暗」も、男と女の関係を主なテーマとしているが、それ以前とは多少異なった結構になっている。この小説では、一人の男と二人の女との関係がテーマになっているのである。
だからこれもある種の三角関係を描いたものに違いはないのだが、普通の三角関係とは多少趣を異にする。三角関係というのは、通常当事者の全員が互いに他の二人を意識しているものだが、この小説に出てくる二人の女は、互いに相手を見たこともない。二人の女は、主人公の津田と言う男を通じて、間接的につながっているだけなのだ。だから、彼女らの間には嫉妬の感情も介在しなければ、そもそも相手の存在そのものを気にすることもない。彼女らはただ、津田という男の頭の中で、空想的な関係を取り結ぶだけなのである。
それ故この小説は、現実を描いたものではなく、空想という非現実を描いたものだと言えなくもない。無論、小説に出てくる人物たちの言動は現実のものなのだが、その行動の意味ということになると、ほとんどナンセンスと言うに近い。彼らには、自分の行動の意味が十分にはわかっていないし、また訳も分からぬままに行動している節もある。それはとりもなおさず、非現実的な関係を巡ってなされることから来る効果なのだと思う。
津田という主人公の設定からして非現実的である。彼は「それから」の代助の延長上にある高等遊民の一人だ。代助とは違って職業を持っているということになっているが、それはまともな職業というよりは道楽のようなものとされている。第一、津田夫婦の生活費用を賄うに値しない。それ故津田は、いい年をしていまだに親の仕送りに頼っている始末なのだ。
そんな中途半端な人間が、一人前の面をして、世の中を渡って行こうとする。だが、もともと中途半端な人間に、本当に一人前なことはできない。その証拠に、息子たる津田の無能ぶりに愛想をつかした父親が、仕送りを停止すると宣言した瞬間に、彼の日常には狂いが出てくる。この小説は、男女の(非現実的・非顕示的な)三角関係を主なテーマにしながらも、高等遊民たる主人公の、無意味でふしだらな生き方を描くことにもなっている。
津田のふしだらな生き方を象徴するのは、妻お延との関係だ。津田はこの女を心から愛していない。何故そんな女と結婚したのか、小説は一切語らない。小説が語っているのは、余り愛のない夫婦が、互いに相手を苦しめる、不毛な戦いに夢中になっているということだ。この戦いを凄惨なものにしているのは、妻お延の姿勢だ。彼女は夫に愛されるだけでなく、夫を自分の意思のもとに屈服させることを願っている。そんな妻の表立った挑戦に、夫の方はぎごちなく応える。彼には、妻をおおらかに抱擁することで、妻を自然と自分の意に従わせるというような芸当ができないのだ。つまり、世の中の事情に疎いボンボンなのである。彼のボンボンぶりは、小林という男との関係においてもっとも典型的に示される。この小林という男は、ある種のアナーキストで、世の中を斜めに見ているのだが、そんな小林が自分に向って発する批判的な言動に対しても、津田は有効に対処することができない。ただ相手から投げられた侮辱の言葉に腹をたてているばかりなのだ。
津田は自立しそこなった人間だから、甘えん坊的なところを残している。彼がその甘えん坊ぶりを最も遺憾なく発揮するのは、吉川夫人が相手の時だ。吉川夫人は、津田に対しては後見的な立場にあり、その立場を足掛かりにして、津田に対しては母性丸出しで接して来るのだが、津田の方もそれを、都合のいいこととして受け取っている。挙句の果ては、この夫人のおせっかいに乗せられる形で、三角関係のもう一方の女である清子との再会を画策するのである。
この清子という女は、小説のだいぶ後の部分で登場し、登場したと思ったら、小説が突然中断してしまうので、十分には描かれ切っていない。だから、読者としては、何とも評価のしようもないのだが、一応は三角関係の当事者ということになっているわけだから、それなりに中身のある女に違いないのだろう。この女は、自分の方から津田を捨てたということになっている。この女に捨てられた津田は、その直後にお延と結婚し、かろうじて体面を保った形にはなったが、女に捨てられたという心の中のわだかまりはなかなか収まらない。彼が吉川夫人をダシにして清子との再会を画策するのは、そのわだかまりに或る程度の始末をつけることが目的だったと思われるのであるが、如何せん小説は、津田が伊豆の温泉で清子と顔を合わせる場面で終ってしまうので、深い事情が展開され説明されることはなかった。
こんな訳でこの小説は、一人の男と二人の女を巡る三角関係を描くことを目的としながらも、三角関係のキーパーソンである清子という女が、そのさわりしか言及されていないために、中途半端なものに終わっている。筋の展開と言う点ではそうなのだが、小説として読ませるところが多いのは、漱石の小説家としての技量のなせるところだろう。じっさい、この小説の中には、いくつかの独立性の高いプロットが嵌め込まれていて、それなりにまとまった話として読ませるのである。
独立性の高いプロットということでいえば、この小説の視点の扱い方にも注目すべきところがある。漱石のそれまでの小説は、基本的には主人公の視点に立った単眼的な視線を通じて描かれていたのだが、この小説の場合には、プロットごとに主人公が交代し、そのたびに視線の変更が行なわれるので、厳密な意味では複眼的とは言えないまでも、視線の多様化と言う効果は発揮されている。視線の多様化は、小説の展開に幅と深みをもたらすと言えるので、これは漱石にとって、かなり重要な意義があったものと考えてよい。
もしも漱石が、いましばらく生きながらえて小説を書き続けたなら、彼はこの視線の多様化ということをもっと追究したのではないか。そんなふうにも思われ、漱石のためにも、日本文学のためにも、遺憾の念を禁じ得ないところだ。  
●「明暗」のお延
漱石の小説に出てくる女性たちは、どちらかというと個性のない陽炎のような存在と言うイメージが強い。「虞美人草」の藤尾や「三四郎」の美弥子のような、多少の個性を感じさせる女性もいないではないが、彼女らの個性も、彼女ら自らの強い意思に従って、彼女らの内部から発せられるというよりは、男の視線を通じて浮かび上がってきたような在り方としてである。どちらにしても漱石の描いた女性たちは、男にとっての従属的な存在だというイメージを拭えない。そんな中で、「明暗」のお延だけは独特の光を放っている。彼女は、男との関係で初めて女性であるのではなく、それ自身で自立した女性として描かれている。この女性は、色々な面で複雑な性格を感じさせるのだが、その複雑性は、彼女が自立している事の反映というような具合に描かれているのである。
お延の自立性は、彼女の容貌にも反映している。漱石の女性たちは、明示的に言及されていない場合でも、二重瞼の涼しげな眼を持ち、我を抑えた控えめな表情をしている。一方、お延のほうは、一重まぶたの細い目を持ち、その眼で時折夫をじろりと見るような、意思の強さを感じさせる。彼女が津田と結婚したのも、彼女自身が津田を選んだ結果だった。「津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼のもとに嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女は何時までも彼女の主人公であった。又責任者であった。自分の料簡を余所にして、他人の考えなどを頼りたがった覚えはいまだ嘗てなかった」のである。
自分の意思で津田と結婚したお延は、世間一般の細君の地位に安住しては居られなかった。彼女は、自分が夫を愛しているのと同じような強さを以て、夫が自分を愛することを求めた。だが、夫は時折自分をぞんざいに扱うことがあるし、また、自分が彼を愛しているほど、自分のことを愛していないようにも感じられる。そこのところが彼女には耐えられない。夫は全身全霊を以て自分を愛するべきなのだ、と信じて疑わない。だから、夫の愛を独占できない自分が、「世間には津田よりも何層倍か気むづかしい男を、すぐ手のうちに丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人を綾なしていけないのは、畢竟知恵がないからだ」と世間から思われるのが癪に障るのである。
女のこういう心構えは、当時の日本にあっては、噴飯ものというべきものであった。女というものは、嫁いだからには、夫の愛を受動的に受け入れて、自分の境遇に満足していなければならないものと考えられた。男というものは、多少の浮気をするくらいは当たり前で、女房が独占して置けるはずのものではない。女房というものは、夫の愛の一部分を振り向けてもらえば、それに満足するべきであって、夫の愛を独占したいなどとは、たわごとと言うべきである、という風に考えられていた。だからこそ、津田の妹のお秀の目にも、お延は、「津田の愛に満足することを知らない横着者か、さもなければ、自分が十分津田を手の内へ丸め込んで置きながら、わざと其処に気の付かないような振りをする、空々しい女」という風に映るのである。
こんな訳だから、お延と津田との間にはいつも緊張感が漂っている。お延のほうでは、常に夫を自分の意のままに操りたいという意思が働く。その意思は時に征服欲を思わせるような大袈裟な様相を呈することもある。何がお延をそれほどまでにさせたのか。こうしたお延の性向は、世間では「女上位」と称されるもので、とかく女が強い家に生まれた女に見られやすいものだ。女が強い家とは、女が男を婿に取った家で、そういう家では、男はとかく女の尻に敷かれやすく、女は亦亭主に対して居丈高になりやすい。そういう家に育って、いつも母親が威張っている姿を見ながら育った娘は、自然亭主を尻に引くのが当たり前と思うようになるものだ。
ところが、お延はそういう家に育ったわけでもないらしい。彼女の生家のことは小説ではほとんど触れられておらず、その代わりに彼女を引き取って面倒を見た保護者の家のことが書かれている。それによれば、保護者である岡本の家は、夫のほうがリード役で、決して女上位の家柄ではない。その岡本はなかなか如才ない男で、その如才のなさをお延も受け継いだということになっているが、それがどうお延の性格形成に関わりがあったか、については言及がない。
夫に対しては要求が高いお延だが、自分自身に対しては大変甘いところがある。夫が手術のために入院しているというのに、見舞いをさぼって保護者の吉本家族と、芝居見物に現をぬかしている有様だ。そして吉本から自分あてに貰った小遣を、夫のために貰ったと嘘をついて恩に着せようとする。なかなかしたたかな女なのだ。
お延のしたたかさは、彼女自身の言葉によって語られることで、余計に迫力を以て読者に迫る。「明暗」という小説の一つの大きな特徴は、複数の視線から描かれているということにあるが、その視線の一つとしてお延のそれがある。お延は、他の小説に出てくる女性たちのように、男の視線の先にある受動的な存在ではなく、視線の発し手として、自分の目から世の中を見るような形になっているのである。
津田のほうにしても、お延の視線の対象として、受け身であるばかりではない。津田もまた、自分自身の視線を以てお延を観察している。彼の視線の先にあるお延は、結婚したての可愛い女であるには違いないが、したがって自分の保護すべき弱い存在のはずなのだが、時には、自分の領域の中にずけずけと入り込んできて、自分をまごつかせることもある、なかなか手ごわい存在としても映っている。だからこそ津田は、お延に対して多くの隠し事をするようにもなる。その最たるものは、捨てられた女と縒りを戻そうとすることなのである。
この、津田を捨てた清子という女が、この未完の小説の最終部分で突然出てくるのであるが、その女の影を、お延も何時かしら意識するようになる。はじめの方では比較的気持に余裕があるように書かれていたお延が、途中からいやに勘繰りたがるようになるのは、夫に愛人がいたらしいことを感づくようになってからのことだ。お延はそのことを、小林から吹き込まれたらしいのだが、小説はその辺をわざとぼやかしている。ただ、お延が急に嫉妬深くなったというように書いてあるだけである。
こんな具合で、この小説の醍醐味の一つは、津田とお延という一対の新婚夫婦の、これから先の人生の主導権をめぐる駆け引きにあるということができよう。  
●「明暗」の書かれなかった部分
漱石の最後の小説「明暗」は、病み上がりの津田が伊豆の温泉に湯治名目で出かけて行って、そこでかつての恋人清子と再会する場面で終っている。この小説は、先稿でも言及したように、主人公の二人の女性との関係を軸に展開していくもので、清子はその二人の女性の一人として、重要な位置づけのキャラクターだ。その重要な人物との関係がどのように展開していくか、読者としては大いに関心をそそられるところだが、その関心が盛り上がったところで、小説はいきなり中断してしまうのだ。いうまでもなく、執筆者の漱石自身が、大病に襲われて死んでしまったからだ。
漱石が、この小説に対して特別な思い入れを抱いていたことは、多くの研究者が指摘しているところだ。漱石は、自分の健康状態からいって、或はこれが最後の作品になるかも知れないと予感していたともいう。それ故、死の直前に病気が悪化した際に、かかりつけの医師に向って、「真鍋君どうかしてくれ、死ぬと困るから」と言ったのであろう。死んでしまえば、別に困ることもないわけだが、それでは小説に結末を与えることが出来なくなる。それでは、自分はともかく、読者が残念だろう、と漱石は慮ったのであろう。
こんなにも漱石の思い入れの詰まったこの小説が、もし漱石があと少し生きられたなら、どんな結末を与えられたか。これまでに、多くの漱石ファンたちが、その謎にこだわってきた。そこで様々な推測がなされてきたわけだが、漱石自身が大した手がかりを残さなかったものだから、どれも説得力のある説明にはなりえていない。そんな中で筆者が感心したのは、最近読んだ大岡昇平の見解だ。大岡は、津田と清子との新たな関係を、姦通と言う形での、恋愛のやり直しだ(あるいはそうなるべきはずのものだった)と見ているのだ(大岡昇平「『明暗』の結末について」)。
大岡は、そう考える根拠を二つ挙げている。一つは吉川夫人の津田へのけしかけだ。吉川夫人は、津田と清子との関係をずっと知り尽している一方、津田とお延との結びつきにも一役買っている。そんな夫人が津田に対して、清子との姦通を勧めるというところに、大岡は着目する。大岡は、吉川夫人については、不道徳で浅墓な人間として、あまり重きを置いていないのだが、彼女の津田に対する支配力については評価していて、その支配力を行使して、津田を清子との姦通に駆り立てたというのである。彼女をそうさせた理由は、お延への反感と言うことらしい。
もう一つは、ほかならぬ清子が、津田に向って姦通をけしかけているとする見方だ。伊豆の旅館で思いがけず津田と再会した清子は、最初は驚いて取り乱したりするが、やがて意を決して津田と会うこととする。ひとつには、津田が吉川夫人の差し金でわざわざ自分を目当てにやって来たということを了解したからだし、また、病み上がりの無聊を、かつての恋人に慰めてもらいたいという思惑があったからかもしれない。そんな彼女が、津田に再開して早々、思わせぶりなことを言う。この旅館にはいつごろまで滞在するつもりかとの津田の問いかけに、夫から電報が来ればすぐ帰らなければならないと答えるのだが、彼女は一方では、旅館の女中に、夫が近いうちに見舞に来ると告げているので、この言葉は不自然だ、と大岡は言う。つまり、早く私にアタックしなさいと、津田に向ってけしかけているのではないかと言うのである。
清子が津田を捨てて他の男に嫁入りした理由は、小説の中では触れられていない。しかし、その結婚はあまり幸福なものとは描かれていない。清子がこの温泉に来たのは流産の後の療養のためということになっているが、夫との退屈な生活に耐えられないで、避難して来たのだというようにも伝わって来る。つまり、清子の方では、かつての恋人とヤケボックイになる条件が熟しているというのだ。
漱石は、男女の恋愛をもっぱら姦通と言う形で描いてきた非常に珍しい作家だ。その姦通による恋愛と言うテーマが、最後の小説でもある「明暗」においても繰り返されている、というのが大岡の見立てなのだが、その見立ては筆者も賛成できる。ただ、「明暗」はただの姦通小説ではない。姦通小説といえば、一対の男女の間の関係を描くということになるが、「明暗」と言う小説は、もっと複雑な世界を描いている。少なくとも、津田と清子との関係に並行して、あるいはそれ以上に重要なテーマとしての位置づけにおいて、津田とお延との関係も描かれている。その点では、冒頭で指摘したとおり、男女の不思議な三角関係を描いた小説だともいえる。
さて、津田と清子との新たな関係が姦通であるということになれば、それはどのような展開になっただろうか。その辺についても、大岡は想像力を逞しくしている。姦通であるから無論、あまり格好のいい結末にはならない。お延は当然傷つく、そこで漱石はお延を自殺させようと考えていたかもしれない。その自殺の方法にもいろいろある。例えば、小説の中で暗示されているように、津田と清子が不動の滝の見物に出かけたところに、突然お延が現れる。彼女は彼女なりに、様々な糸を手繰りながら夫の不倫現場にたどり着くと言うわけだ。
いや、そうではなく、自殺するのは清子だとする方向も成り立つ。大岡は、この方が自然だと言っている。というのも、そんなに簡単にお延を自殺させてしまっては、それまでに延々と描かれてきた彼女の小説の中での存在感が、あまり根拠のないものとなってしまうだろうというのだ。というより、漱石は、このお延という女性にかなり感情移入しているところがあり、どちらかといえば彼女の味方である、その味方である漱石が、愛する女性を簡単に死なすわけがない、と大岡は作家魂を発揮させながら、想像を逞しくするというわけなのだ。
ところで、この最後の場面の舞台となる伊豆の温泉のことだが、筆者はそこがどこかわからなかった。小説では、軽便で行くということになっているので、中伊豆の修善寺周辺かとも思ったのだが、それにしては辻褄の合わないところが多い。そう思っていたところへ、これもやはり大岡昇平が教えてくれた。この温泉は湯河原温泉だというのだ。湯河原はいまでこそ東海道線が通っている便利な場所にあるが、漱石がこの小説を書いた頃には、まだ東海道線は通っておらず、そこへ行くには、国府津で電車に乗り換えて小田原まで行き、小田原から軽便に乗って行かなければならなかったので、一日がかりの旅だったというのだ。その情報をもとにして読み直せば、なるほどと納得できる。なお、漱石は湯河原温泉の天乃屋という旅館をモデルにしているそうだが、その旅館は廃業して、今は存在しないという。  
●ロンドン滞在日記
夏目漱石は33歳の年(明治33年)にイギリス留学を命じられ、その年の10月から明治35年の12月まで、2年あまりの間ロンドンに滞在した。その時の事情を漱石は日記のようなメモに残しているが、あまり組織立ったものではなく、ほんの備忘録程度のものなので、読んで面白いものではない。しかもその記録は明治34年の11月で途切れており、その後の事情については何の記録もない。漱石はロンドン留学の後半はひどいノイローゼに悩まされていたので、日記をつける気にもならなかったのだろう。
これを森鴎外のドイツ留学記と比較すると、両者の間には歴然たる差がある。鴎外は始めからこの留学の記録を発表する意思を持っていたらしく、毎日の見聞を漢文を以て整然と記録した。そしてその一部については、帰国後直ちに発表している。本体ともいうべき「独逸日記」については、そのままの形で発表するのをためらい、漢文で記した原文を和文に直して発表に備えたが、生前にはついに発表することがなかった。
しかし鴎外の日記は文学者が発表を前提に書いたものだけに、読んで実に面白いのである。鴎外はドイツ到着後いち早く現地の人々に溶け込み、毎日を楽しく過ごしている。その様子が日記からはひしひしと伝わってくる。
これに対して漱石の日記は、自分自身のためにだけ書いたメモのようなもので、無味乾燥に近いといってよく、読んでもほとんど感興を起こさせない代物である。時たま、面白いと感じさせるところがあれば、それは外国人に対して漱石が感じた人種的なコンプレックスとか、漱石の苛立ちとかが伝わってくる部分であって、溌剌とした気分とは縁遠い。
鴎外と漱石、この両者の日記を支配しているムードの相違は、両者がそれぞれ留学したときの事情の相違にももとづいているであろう。鴎外がドイツに留学したのは23歳のときであり、自分の人生に対して明るい未来を感じていた、しかもその時期は明治の10年代であり、日本がまだ国家として若々しさに満ちていた時代であった。こうした公私にわたる環境条件が鴎外の日記にも反映していると思えるのだ。
それに対して漱石が留学したのは33歳という中年前期のことであり、漱石はすでに妻帯して一家を構えていた。また日本の国も日清戦争を経て国威が高揚し、なんでもかんでも外国から学ぼうという草創期の若々しさからは脱却しかけていた。
これに鴎外の人見知りしない積極的な性格に対して、引っ込み思案な漱石の性格を重ね合わせれば、彼の日記が鴎外のように面白くならなかった理由の一端が納得できるのかもしれない。
漱石はおそらくこの留学旅行のために用意したのであろう手帳に、イギリスに向けて横浜の港から旅立った日のことを書き入れることで、ロンドン滞在記を開始した。時に明治33年9月8日のことである。その日の記事は、次のとおりである。
「八日 横浜発遠州灘にて船少しく揺ぐ晩餐を喫する能はず」
たったこれだけである。とてもこれから大航海をするのだという意気込みは伝わってこない。
漱石を乗せた船は途中、上海、香港、シンガポール、コロンボに立ち寄り、スエズ運河を通過して、10月18日にナポリに到着する。この船の中で漱石は、周りが西洋人ばかりなのに辟易する一方、アジアの港で出合ったアジア人たちには変な優越感を示している。この優越感は成島柳北が感じたものと根を同じくしている。鴎外には、少なくとも表向きは見られなかったものだ。
漱石はさらにジェノヴァから列車に乗ってパリに至り、そこで万国博覧会を何回か見物している。しかしこの展覧会で、文明の華を目にした印象については殆ど語るところがない。
ロンドンに到着したときの記事は次のようである。
「10月28日 巴里を発し倫敦に至る船中風多して苦し晩に倫敦に着す」
これも実にあっけない記述である。
ロンドンに落ち着いた漱石は、下宿を探し、英語の家庭教師としてクレイグという人物を雇った。だが日常の生活について語るところが少ないのは依然である。途中英語でしたためた断片を数編さしはさんでいるが、そこにはおせっかいなイギリス女性にうんざりしたような様子が描かれている。
ロンドンの街が漱石に最も強く印象付けたことといえば、それは空気の汚さであった。到着翌年の正月に漱石はそのことを三日続けて次のように書いている。
「1月3日 倫敦の街にて霧ある日太陽を見よ黒赤くして血の如し、鳶色の地に血を以て染め抜きたる太陽は此地にあらずば見る能はざらん
1月4日 倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ真黒なる塊りの出るに驚くべし何百万の市民は此煤煙と此塵埃を吸収して毎日彼等の肺臓を染めつつあるなり我ながら鼻をかみ痰するときは気の引けるほど気味悪きなり
1月5日 此煤煙中に住む人間が何故美しきかや解し難し思ふに全く気候の為ならん太陽の光薄き為ならん」
これはかつてのロンドン名物であったスモッグに、漱石も悩まされたことの貴重な証言だ。19世紀末のロンドンは、街中から排出される煤煙のために空は常に黒く覆われ、そこに霧が出ると膨大なスモッグが発生し、咫尺を弁じないほど視界をさえぎった。
こんな街にすむイギリスの女性が何故美しいのか漱石は驚いている。そしてそれは太陽の光線が弱いために、彼らの肌が薄いからなのだろうと納得している。
これに対比して、日本人の肌が黄色いことに、漱石は改めて気づかされる。1月5日の日記には続いて、あの有名な箇所が出てくる。
「往来に向ふから背の低き妙なきたない奴が来たと思へば我姿の鏡にうつりしなり、我々の黄なるは当地に来て始めて成程と合点するなり」
気位が高く心のうちではイギリス人に負けないと自負していた漱石も、己の姿ばかりは、イギリス人に比較しようもないと思ったのだろうか、この文章には彼のやりきれない気持ちが、自嘲のベールをまとって述べられている。  
●日欧文明比較
漱石は二年余りに及ぶイギリス滞在中、ついにイギリス人とその社会に溶け込むことができなかった。あまつさえその後半の一年ほどは、ひどいノイローゼも作用して、下宿に閉じこもって日本人との交際もしなくなった。このため漱石はついに狂ったのだという風評が立ち、それが本国にも聞こえて、学業半ばにして、帰国を命じられるのである。
だがこの帰国は漱石にとっては、救いの藁であったかもしれない。帰国の直前には親友の正岡子規が死に、だいぶショックを受けたらしい。これ以上イギリスにとどまり続けたら、あるいは本格的な精神異常に陥ったかもしれない。
そんな漱石が、イギリス滞在中にしたためた日記風のメモには、時折交際したイギリス人たちの印象やら、イギリス文化に対する感想が盛られている。決して多い量ではなく、また断片的で前後の脈絡もないが、それらをぽつぽつと読むことで、漱石の日欧の文明の相違に対する本音の見方が伝わってくる。
漱石のイギリス人に対する観察は、まず彼らのエチケットやら人間関係のあり方に向けられる。もっとも早い言及があるのは、明治34年の正月である。
「彼等は人に席を譲る本邦人の如く我儘ならず 彼等は己の権利を主張す本邦人の如く面倒くさがらず 彼等は英国を自慢す本邦人の日本を自慢するが如し 何れが自慢する価値ありや試みに思へ」
漱石はここで、英国人のエチケットと彼らの権利意識の高さに着目している、それに対して日本人はエチケットを軽視し、また権利を主張して我を張ることがないといっている。しかしてどちらが優れているか、よく考えよといっているが、彼自身はどちらともいえないような気持でいたようだ
彼我のエチケットの相違については、同年4月15日の記事にも出てくる。
「西洋の etiquette はいやに六つかしきなり 日本はこれに反して丸で礼儀なきなり 窮屈にするは我儘を防ぐなり 但し artificiality を免れず 日本は礼儀なし 而も artificiality あり 且無作法に伴ふ vulgarity あり 礼なくして spontaneity あればまだしもなり 其利なく其害あるのみならず礼の害をも兼有せり馬鹿馬鹿敷」
漱石はイギリス人が礼儀にうるさいのは、我儘を抑えて人間関係を円滑にするためだと受け止めた、これに対して日本人は礼儀を知らず、たまたま礼儀を行なうときには、そこには自然さがなく、いやみばかりが目に付くという
あれだけ気位の高く、かつ日本の文化に愛着を持っていた漱石が、礼儀の面では同胞人をこき下ろしているわけである。
一方イギリス人の人間関係については、そのしつこいまでの濃厚さに、漱石は着目している。同年3月12日の日記には次のような記述がある。
「西洋人は執濃いことがすきだ 華麗なることが好きだ 芝居を見ても分る 食物を見ても分る 建築及び飾装を見ても分る 夫婦間の接吻や抱き合ふのを見ても分る 是が皆文学に返照して居る故に洒落超脱の趣に乏しい 出頭天外し観よといふ様な様に乏しい 又笑而不答心自閑と云ふ趣に乏しい」
人間関係については漱石自身淡白なほうであったから、イギリス人のように濃厚な人間関係のあり方は、窮屈だと感じたのである。
それでも漱石は、西欧の文明が優れていることは認めざるを得なかったようだ。なにしろイギリス文学を飯の種に選んだのであるし、その文学に流れているものが、人間関係を始めとした文化のあり方そのものの返照だと、認めざるを得ないからだ。
そこで漱石は西欧の文明と日本の文明の、過去今日未来について比較しつつ語る。
「3月21日 英人は天下一の強国と思へり 仏人も天下一の強国と思へり 独乙人もしか思へり 彼等は過去に歴史あることを忘れつつあるなり 羅馬は滅びたり 希臘も滅びたり 今の英国仏国独乙は滅ぶるの期なきか、日本は過去に於て比較的に満足なる歴史を有したり 比較的に満足なる現在を有しつつあり、 未来は如何あるべきか、自ら得意になる勿れ、自ら棄る勿れ、黙々として牛の如くせよ 汲々として鶏の如くせよ、内を虚にして大呼する勿れ、真面目に考へよ 誠実に語れ 真摯に行へ 汝の現今に播く種はやがて汝の収むべき未来となって現なるべし」
漱石は西欧文明といえども永遠のものではあるまいというかたわら、日本についても西欧と同じ轍を踏むこととなりかねない、そうならぬためには、日本人が謙虚になって、地味な努力を続けなければならぬと反省している、恐らく日清戦争に勝って国威大いに発揚し、一流民族としての誇りに酔っていた当時の同胞たちを戒めたかったのだろう。
実際当時の日本人は、中国人をはじめアジアの人々を見下しているところがあったようだ。こんな風潮に対しては、漱石は次のようなことを言って、戒めている。
「3月15日 日本人を見て支那人と云はれると嫌がるは如何、支那人は日本人よりも名誉ある国民なり、只不幸にして目下不振の有様に沈倫せるなり、心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人と云はるるを名誉とすべきなり、仮令然らざるにせよ日本は今迄どれ程支那の厄介になりしか、少しは考へて見るがよからう、西洋人はややもすると御世辞に支那人は嫌だが日本人は好だと云ふ、これを聞き嬉しがるは 世話になった隣の悪口を面白いと思って 自分が景気がよいと云ふ御世辞を有難がる軽薄な根性なり。」
漱石は若い頃から漢学に親しんできた。ところが明治になって漢学は省みられなくなり、また日本が中国との戦争に勝ったこともあって、中国の文化に対する日本人の尊敬が著しく弱くなっていた。漱石はそんな風潮に釘を刺したかったのだろう。
ともあれ、勢いのよかった当時の日本のあり方に対して、漱石はもっと謙虚になることを求めたかった。そんな思いが3月16日の日記に覗いている。
「3月16日 日本は三十年前に覚めたりと云ふ 然れども半鐘の声で飛び起きたるなり 其覚めたるは本当の覚めたるにあらず 狼狽しつつあるなり 只西洋から吸収するに急にして消化するに暇なきなり、文学も政治も商業も皆然らん 日本は真に目が覚めねばだめだ」
最後の断定的な言葉に、漱石の強い思いが込められているようである。  
●大岡昇平の行人論
筆者は前稿「『行人』と『心』:漱石を読む」の中で、この二つの小説がともに長い手紙で終っていることに触れ、「心」の場合にはその位置付けに必然性のようなものが見られるのに対して、「行人」の場合には、「なぜここに置かれなければならなかったか、必ずしも必然性があるとはいえず、また一篇を引き締めるような効果にも乏しい。むしろ、小説の構成としては、このような形で終っていることは、中途半端な印象を与えるともいえる」と、とまどいの気持を表明したところだが、その謎の一端を、大岡昇平が解明してくれた。
大岡昇平は、「文学と思想」という小論(「小説家夏目漱石」所収)の中で「行人」を論じ、二郎と嫂の関係を中心に進んできた前段の部分と、「塵労」と題する手紙の部分との間には、大きな断絶があるとしたうえで、その断絶は漱石の病気(胃潰瘍)と関係があるという。前段では、二郎と嫂との関係が次第に進行し、不倫と言う結末に向って進んでいたに違いないのが、胃潰瘍の悪化によって中断し、それを再開した時には、当初抱いていたに違いない構想を変更して、現存のような形にした。そうすることによって、「小説として立てつけが悪くなる」のを漱石は知っていたに違いない。それでもこうした訳は、つまりこの二人に不倫をさせなかったのは、「やはりそれを書くのがいやだった」からだというのである。このいやだという気持と、やはり書かねばならぬという気持が大きな葛藤をもたらし、それが漱石の持病である胃潰瘍を悪化させたというわけである。
筆者は、なるほどそんな推理も成り立つのかと思って、改めてこの小説の執筆経過にあたってみたところ、たしかに前段と後段との間に五か月の中断期間がある。大岡は、この五か月の間に、漱石の気持に大きな変化が生じ、その構想を改めたと推測するわけだが、そう言われればそうかもしれぬ、と迂闊ながら思った次第だ。
大岡は、この推理を、伊豆俊彦の「行人」と題する論文をヒントにして思いついたと言っている。伊豆に寄れば、当初の構想は、あくまでも二郎と嫂の関係を軸に進むことになっており、この二人は姦通の成立まで突き進む。つまり、この小説も、「門」以前の三部作同様、姦通のテーマの延長線上にあった作品として出発したというのである。伊豆は、二人の不倫を知った一郎が発狂したうえ、妻のお直を殺し、自分も死ぬというような段取りを想定したが、大岡は、それでは通俗的過ぎると言って、一郎は一人で自殺してしまうのではないかなどと、あらぬ空想を働かせている。
ともあれ、どういう結論になろうとも、この小説が姦通をテーマに書き始められたことはたしかであり、それが長い中断を挟んで、現存のような形に変更されたことは間違いない、と大岡は推論する。その結果、小説にカタストロフィが生じず、中途半端な始末に終わってしまったわけだが、そうすると、何故漱石は、そのような選択を取らざるをえなかったのかという疑問が湧いてくる。
大岡はそれを次のように推論している。漱石にはもうひとつの持病として神経衰弱というものがあった。漱石には、この病気に対する自覚があったようで、小説の中でその苦しみを描くことで、自分自身の精神的な苦しみを軽減しようと試みる傾向があった。その漱石が、「行人」執筆の直前、かなり深刻な神経衰弱に陥った。そこで、ここでも一郎を介して自分の神経衰弱の症状を描きながら、小説としては従前の姦通のテーマを描こうとした。ところが、小説の進行に伴い、神経衰弱の症状が緩和されるどころか却って悪化し、又それに伴って胃潰瘍の症状も深刻化した。そうした状況に直面して、漱石はこの小説を、当初の構想通り書き継ぐことができなくなり、現存のような形で妥協せざるを得なくなった。大岡は、こんな風に推論するのである。
こう整理されると、この小説が漱石自身の精神疾患を反映したものだと考える筆者の見方とつながるところが出てくる。筆者も、これは漱石が自分の精神的な体験を材料にしていると推測したわけだが、しかしそれが、自分の精神症状を緩和させるための自家療法の試みだったとまでは思い至らなかった。もし漱石が本気でそう考えていたとしたら、漱石には精神分析の知識があったということになるが、果してどうなのだろうか。
ともあれ、この小説が、二郎と嫂の関係を中心にした前段の部分と、一郎の友人Hの手紙の形をとった後段の部分との間で、深い断絶があることは、大方の研究者が指摘するところらしい。彼らの抱いた疑問を、筆者もまた抱いたというわけなのだろう。
なお、この小説の中での、一郎の妄想には鬼気迫るものがある。上述の推論に理由があるとすれば、その妄想は、漱石自身の妄想であった可能性が強いということになる。漱石は深刻な被害妄想の症状に何度か見舞われているが、「行人」執筆中にもその症状があらわれ、日常生活のうちでも、妻や女中に対して、自分に対して何か企んでいる、といったような被害妄想を抱いたようだ。そんな妄想が、小説の中の一郎の異常な行動につながっている可能性は十分考えられる。
ところで、大岡のこの小論は、題名にもあるとおり、漱石における「思想」の意義についての考察である。その「思想」を大岡は、「思想の担い手自身を幸福にするにも役立たず、むしろその人間を食い尽くすものとして提示されています」と総括しているが、この言葉の意味を解説するためには、もう一つ別の論稿が必要となろう。