初日の出

初日の出 新しい年の始まり
今年も 良い年でありますように・・・

手を合わす 祈る

家族を思う 
友を思う 
地域 住いの知人を思う
 


新年の挨拶 / 挨拶1挨拶2挨拶3挨拶4挨拶5挨拶6・・・
正月飾り / 正月飾り門松しめ縄しめ飾り鏡餅破魔矢・・・
お正月 / お正月1お正月2お正月3初日の出歳神様歳徳神・・・
初詣 / 初詣1初詣2初詣3初詣4初詣5初詣6・・・
御節料理 / 御節1御節2御節3お雑煮七草粥お屠蘇若水祝い箸お節諸話・・・
大晦日 / 大晦日1大晦日2大晦日3大晦日4年越しそば除夜の鐘・・・
恵方縁起仏陀・・・
 
 
 

 

●新年の挨拶

 

●ご挨拶 1
あけましておめでとうございます
新年 明けましておめでとうございます
謹んで新春をお祝い申し上げます
謹んで新春の祝詞を申し上げます
謹賀新年 旧年中は温かいご指導をありがとうございました
皆さま健やかに新春をお迎えのこととお慶び申し上げます 
賀詞
年賀状で表記される賀詞とは、年賀状の文頭に書く新年のお祝いの言葉の事を言います。多様な種類があり、その意味もそれぞれ異なります。年賀状を送る相手に合わせて選ぶ必要があります。特に目上の方に「寿」「賀正」などの一文字、二文字の賀詞は簡略化した表現で、丁寧さや敬意が欠けるとされているため使用する事ができません。種類により使用できる、相手の異なる賀詞の早見表をご用意しましたので参考にしてください。
目上の人に使う賀詞 / 「謹賀新年」「謹賀新春」「恭賀新年」「敬頌新禧」「謹んで新年のお慶びを申し上げます」
目下の人に使う賀詞 / 「寿」「賀」「春」「禧」「賀正」「賀春」「頌春」「迎春」「慶春」「寿春」「初春」「新春」
親しい人に使う賀詞 / 「あけましておめでとう」「Happy New Year」
どなたにでも使える賀詞 / 「明けましておめでとうございます」「謹んで新年をお祝いします」「新年おめでとうございます」「新春のお慶びを申し上げます」「謹んで初春のお慶びを申し上げます」「謹んで新春のご祝詞を申し上げます」「Happy New Year」  
年賀状文例集
一般
平素のご無沙汰をお詫び申し上げます皆様にとりまして幸多き一年となりますよう心からお祈りいたします
皆様のご健康とご多幸を心からお祈りいたします本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
すばらしい一年になりますよう心からお祈り申し上げます本年もどうぞよろしくお願いいたします
昨年中はいろいろとお世話になり心よりお礼申し上げます今年もどうぞよろしくお願いいたします
旧年中は色々とご交誼をいただき誠に有り難うございました本年もよろしくお願い申し上げます
幸多き新春をお迎えのこととお喜び申し上げます昨年は大変お世話になりありがとうございました皆様のご多幸を心よりお祈りいたします
お健やかに初春をお迎えのことと存じます旧年中はいろいろとお世話になり誠に有り難うございました本年も何卒よろしくお願い申し上げます
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
今年もよろしくお願いいたします
商売
旧年中のご愛顧を感謝申し上げます皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます
旧年中は格別のお引き立てを賜り厚く御礼申し上げます本年も相変わらずご愛顧の程お願い申し上げます
毎々格別なお引き立てに預かり有難く厚く御礼申し上げます本年も相変わりませずご愛顧の程お願い申し上げます
友人
元気ですか?身体に気をつけてお互い頑張りましょう今年もよろしくお願いします
新しい年の幕開けですあなたにとって素敵な一年になりますように今年もよろしくお願いします
新しい年が幸せな一年でありますように
定年
在職中はいろいろとお世話になり心よりお礼申し上げます今年も変わらぬご指導の程よろしくお願い申し上げます
昨年定年退職をいたしました在職中はいろいろとお世話になりありがとうございました本年もどうぞよろしくお願いいたします
家族
家族揃って楽しいお正月を迎えました今年もよろしくお願い申し上げます
昨年はいろいろとお世話になりました わが家では家族が増えにぎやかな新年を迎えております今年もよろしくお願い申し上げます
転居
新しい住居に移転し心新たに新年を迎えました本年もどうぞよろしくお願い申し上げますお近くへお越しの節は是非お立ち寄りください
住所が変わりましたのでお知らせいたしますお近くにお越しの際には是非お立ち寄りください
結婚
昨年入籍し新しい住所に転居いたしました今後とも末永くご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます
二人で迎えるはじめてのお正月ですよい年になるよう頑張りたいと思います皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます

明るい一年となりますようお祈りいたします今年もよろしくお願いいたします
笑顔のあふれる年となりますように
いつもありがとうの気持ちでいっぱいです少しずつ一歩一歩前進していきましょう
皆様にとって希望に溢れる一年となりますよう心からお祈り申し上げます今年もよろしくお願いいたします
支え合いの気持ちを忘れず歩んで参ります今年もよろしくお願いいたします
昨年も皆様の絆に支えられた一年でした今年もよろしくお願いいたします
みんなの優しさで日本が明るくなりますように
昨年も皆様の優しさに支えられ一年を過ごすことができました本年も何卒よろしくお願いいたします
新しい年が始まりましたより良い未来に向かって頑張りましょう
力を合わせ今年一年をより良い年にしていきましょう本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
皆様との絆を大切に日々を過ごそうと思います本年もよろしくお願いいたします
今年も助け合い支え合い明るい未来をつくっていきましょう
同僚
新年を迎え初夢が待遠しい今日この頃ハッピーなお正月をお過ごしですか?今年もよろしくお願いいたします
今年もガンバリます!どうぞよろしく!
昨年は大変お世話になりました今年も素敵な年になるといいですねまたどこかに遊びに行きましょう
旧年中は素敵なご縁をありがとうございましたまたお会いできます時を楽しみにしております
昨年中は大変お世話になりました今年もお互いにとってますます良い一年になりますように!
春が来る前にぜひ一度会いましょうお互い寒さに負けず頑張ろう!
今年も健やかにお正月を迎えることができました暮らしぶりはまったく変わらず体型だけはメタボの見本のようです皆々様のご健康をお祈り申し上げます
上司
清々しい新年をお迎えのことと存じます本年もどうぞよろしくご指導頂きますようお願い申し上げます皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします
旧年中のご縁に感謝いたします本年もご指導の程何卒よろしくお願い申し上げます
旧年中は大変お世話になりました昨年よりも一層の努力をして成果を上げられるよう励んでまいります本年もご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます
日頃の親身なご指導に深く感謝申し上げます昨年の経験を生かしご期待に応えるべく精進する所存でおりますこれからも変わらぬご指導をお願い申し上げます
昨年中はお世話になりありがとうございました日頃のご指導に感謝いたしますとともにご期待に応えられる一年にしたいと思います今年もどうぞよろしくお願いいたします
感謝
皆様お揃いで新年を迎えられたことお慶び申し上げます私共も良き新年を迎えることができました今年も昨年同様よろしくお願い申し上げます
旧年中はお世話になりありがとうございました当方も良き新年を迎えることができました本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします
昨年中は大変お世話になりました感謝の気持ちを込め心より御礼申し上げます今年もどうぞよろしくお願いいたします
昨年中は大変お世話になりました私共も家族そろって新年を迎えることができ心より御礼申し上げます今年もよろしくお願いいたします
家族みな健在で新年を迎えております皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます
旧年中はひとかたならぬご厚誼を賜り誠にありがとうございました私共も家族一同元気に過ごしております本年も何卒よろしくお願い申し上げます
抱負
昨年は人のあたたかさを実感した一年となりました今年はもっと優しい人間になれるよう頑張ります
身も心もリフレッシュして新年を迎えました今年も頑張りますので宜しくお願いいたします
新年の幕が開きました気張らずマイペースで過ごしたいと思います今年もよろしくお願いいたします
トライ&チャレンジ!今年の目標です良い年になるようお互いにガンバリましょう!
昨年はいろいろとお世話になりました今年は私にとって新しいスタートの年でもあり充実した年にしたいとはりきっています今年もどうぞよろしくお願いいたします
昨年は貴重な経験をさせていただきましたこの経験を活かし人間的に成長したいと思います今年もよろしくお願いします
ご無沙汰
平素の疎遠をお詫び申し上げます皆々様のご多幸をお祈りいたします
平素のご無沙汰をお詫び申し上げますと共に尚一層のご交誼をお願い申し上げます
ご無沙汰していますその後変わりなくお過ごしですか今年こそ再会できますように!お互いの幸せを願って!
ご無沙汰しておりますがお元気ですか今年こそ会えるといいですね本年がお互いにとって良い年でありますように
その後いかがお過ごしですか私は元気にやっております今年もよろしくお願いいたします
ご無沙汰しておりますがお元気ですか私は相変らずバタバタ毎日暮らしています今年も良い年でありますよう心からお祈りいたします
お健やかによいお年をお迎えのことと思います日頃のご無沙汰をお詫びいたしますとともに今後ともご交誼のほどお願い申し上げます
未来
今年がより良い年でありますよう心よりお祈り申し上げます今年もどうぞよろしくお願いいたします
明るく平和な一年でありますようお祈りいたします今年もよろしくお願い申し上げます
希望に輝く新年を迎え皆々様のご多幸をお祈り申し上げます
今年こそはと希望に胸をふくらませておりますどうぞよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます
良いお年を迎えになられたことと存じます新春の照りはえる陽は明るく希望と夢に満ちております皆様にとって素敵な幸運が訪れますように
新陽の光を受けて今年もご活躍ご発展の程お祈り申し上げます  
年賀状のNGワード
年賀状を書く際にはいくつか注意が必要な言葉があります。新しい年の最初のご挨拶には、忌み言葉を使わないように注意しなければいけません。忌み言葉とは、おめでたい場では避けなければいけない言葉の事を言います。
年賀状を書く際のNGワードとしては「去る」「滅びる」「絶える」「衰える」「破れる」「失う」「枯れる」「倒れる」「病む」等があります。これらを年賀状に使うのはタブーとされています。
更に、「去」には「別れる」「離れる」という意味があるので、「去」が含まれる「去年」という言葉は使わずに、「昨年」「旧年」などと言い換えると良いでしょう。
お祝いの場にはふさわしくないこれらの言葉には注意して文章を作成しましょう。 
子年の由来
2020年子年は新たな十二支のサイクルがスタートする年です。漢書によると元々は「孳」(増えるの意)で新しい生命成長に向かって種子が膨らみ始める状態を表しているとされ、未来への可能性を秘めた干支と云われています。また、「ねずみ算」と言う言葉があるほど、子を産み数を増やしていくことから「子孫繁栄」の象徴でもあります。
子年は上げ相場になるといわれています。 
年賀状とは?
年賀状とは奈良時代よりある年始回りを起源に長く続く日本独自の習慣です。
日頃お世話になっている方々に感謝の気持ちを込めて、新年をお祝いする言葉を用い昨年の感謝と新しい時も変わらないお付き合いを依願する挨拶状を贈ります。
日本では昔から、新年を迎えると目上の人の所に出向きお祝いのご挨拶をする「年始の挨拶回り」という習慣がありました。ところが交際の範囲が広がってゆくにつれ、遠く離れてしまいご挨拶を行えない遠方の人には年始回りの代わりとして、新年への思いを込めて賀状を書いて送りました。明治時代に郵便制度が整い、郵便はがきが発行されると「はがきで年賀状を送る」という習慣が急速に広まっていき遠方の方のみならず近しい方へも新年に送る年賀状の文化として定着し今日まで続いています。
近年はメールの普及に伴い、新年の挨拶をメールで済ませるという人も増える中、配達件数が激減していないという現状は、お正月に届く年賀状が日本人として特別な思いのある書状として位置づけられているからかもしれません。
年賀状を書くという事は、過去にお世話になった人、親しかった人との思い出に心をはせる瞬間でもあり、相手を思い自然と心が通じる機会でもあります。
歴史ある年賀状という習慣での人との繋がりに感謝し、贈りたいものです。 

 

●新年の挨拶 2
年始の挨拶の基本
日本では、年始に各家庭へ年神様と呼ばれる神が訪れるとされており、そのお祝いとして家人同士で挨拶を行うのがしきたりとなっています。
そのため、年末年始に休暇をとる企業は多く、ビジネスにおいても1年の始まりの挨拶として年始に挨拶を行うのが慣習となってきました。取引先や上司、同僚に対して直接挨拶を行うのが基本ですが、直接挨拶にうかがえない場合はメールを利用するのも一手です。
ただし、メールを送る際でも年始の挨拶は松の内(1月7日)までに送信するようにしましょう。仮に、テンプレートを利用する場合でも"一斉メール"ではなく、1つずつ送信することをオススメします。
下記では、年始の挨拶における基本的なルールはをご紹介します。
年始の挨拶の例文
一般的な新年の挨拶
「 謹んで新春をお祝い申し上げます。
旧年中は大変お世話になり、誠にありがとうございました。今年のお正月はお孫さんも交えて、にぎやかに、楽しくお過ごしのことと存じます。今年は趣味のゴルフに限らず、本業においても気持ち新たにして真剣に取り組む所存でございますので、変わらぬ御指導を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
本年も皆様が御健勝で御多幸でありますよう、心からお祈り申し上げます。
平成○○年 元旦 」
上記は一般的な新年の挨拶の例文です。これをもとにして、以下のように相手を気遣う文章や自分の近況を伝えてみましょう。
「 謹んで新春をお祝い申し上げます。
旧年中は大変お世話になり、誠にありがとうございました。○○様におかれましては、今年のお正月も、ご家族と共に楽しくお過ごしのことと存じます。今年は○○事業部に異動となり、心機一転、あらためて業務に努めていく所存でございます。今年も変わらぬご指導ご鞭撻のほど何卒よろしくお願い申し上げます。
本年も御家族の皆様のご多幸を心からお祈り申し上げます。
平成三十年 元旦 」
取引先や顧客に対して 取引先や顧客に対して、よりフォーマルな挨拶を行いたい時は、以下のようにビジネスにおける言い回しの定型文を利用して挨拶文を作成します。
「 謹んで新春の祝詞を申し上げます。
昨年は弊社の□□をご契約いただき誠にありがとうございます。〇〇様のご要望に少しでもお応えできましたこと大変光栄に存じます。本年もさらなるサービス向上に向け、気持ちを新たに取り組んでまいりますので、お気付きのことは何なりとご指導いただければ幸いです。
変わらぬご愛顧のほど心よりお願い申し上げます。
平成三十年 元旦 」
この時、以下のような取引先ごとの挨拶を添えると、より丁寧です。
「旧年中は、弊社の商品をご購入いただき誠にありがとうございました。」
「旧年中は○○の件につきまして、ご対応いただき感謝いたします。」
また、年始にいつから業務を開始するのかお知らせしたい時は以下のように、業務開始の年月日と、休業に対する謝罪を併記しましょう。
「 謹んで新春の祝詞を申し上げます。
昨年は格別なご高配を賜り厚く御礼申し上げます。さて、弊社では1月4日より通常営業を行っております。誠に勝手ながら、下記の期間は冬季休業とさせていただきます。お不便をおかけしてしまい申し訳ありませんが、ご了承のほどお願い申し上げます。
貴社の益々のご繁栄をお祈り申し上げますとともに本年も倍旧のお引き立てのほどひとえにお願い申し上げます。
平成三十年 元旦 」
上司に対して
「 謹賀新年
旧年中は温かいご指導をありがとうございました。
〇〇さんの機転の利く対応に日々多くのことを学ばせていただいております。今年はプレゼン担当という成長のチャンスを活かしさらなる飛躍の年とするべく一層努力してまいります。引き続きご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
寒い日が続きますがご自愛ください。
平成三十年 元旦 」
上司に対しては上記のように、1年間にお世話になったことや今後の抱負を記載して、送信します。目上の方に対しては「謹賀新年」「謹んで新年のお慶びを申し上げます」「謹んで新春の寿ぎを申し上げます」といったフォーマルな言葉を選んで文頭につけるようにしましょう。
例えば、Web担当者が上長に対して送信するのであれば、以下のような文章が考えられます。
「 謹んで新春のお慶びを申し上げます。
旧年中は温かいご指導をありがとうございました。マーケティング部に異動してから日も浅い中、〇〇さんの温かくも的確なご指摘や対応に日々多くのことを学ばせていただいております。今年は新しい特設ページの企画から開設、運営までの担当として、今まで以上に一層努力し、ご期待に添えるよう精進いたします。至らない点や知識の足りない面もあるかと思いますが、引き続きご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
寒い日が続きますがご自愛ください。
平成三十年 元旦 」
部下に対して
「 皆さま健やかに新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年は○○などの大きなプロジェクトを成功させ、皆さま一人ひとりの個性と結束力に感動する年でありました。一年間の皆さまの努力に心から感謝いたします。優秀な社員と仕事に取り組むことができ、社長として冥利に尽きます。
今年はさらなる勝負の年、社員一丸となって力を合わせて前進していきましょう。
平成三十年 元旦 」
経営者から社員に対してや上司から部下に対して挨拶したい場合は、上記のように1年間の仕事に対するねぎらいと、来年度に向けた期待を記載します。
よりフランクな印象を与えたいのであれば、以下のように個人的なメッセージを載せるのもいいでしょう。
「 皆さま健やかに新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年の○○のプロジェクトでは、SNSの企画担当お疲れさまでした。不慣れな業務ながら、創意工夫を常に行い、とても活躍していましたね。今年はさらに新しいプロジェクトが発足します。
ぜひ△△さんの力を生かし、部署のメンバー一丸となって力を合わせていきましょう。
平成三十年 元旦 」
同僚に対して
「 あけましておめでとうございます。お正月はどのようにお過ごしですか。
昨年はいろいろな相談に乗ってくれて、本当にありがとうございました。○○さんの細やかな気配りと的確なアドバイスにいつも助けられています。何か力になれることがあればいつでも言ってくださいね。今年も一緒に頑張りましょう!
○○さんにとって幸多き一年となりますように。
平成三十年 元旦 」
同僚に対して送る際には、上記のように関係性に合わせた言葉遣いを選び、日々の感謝やねぎらいの言葉を添えます。もし仲の良い同僚であれば、以下のように相手の家族のことも書き添えてもいいでしょう。
「 明けましておめでとうございます。お正月は新しい家族も交えて、楽しく過ごしているかと思います。
昨年の○○プロジェクトでは大変お世話になりました。△△さんのサポートにはいつも助けられてばかりです。今年も一緒に頑張りましょう。ぜひ今後一緒にランチにでも行きましょうね。
△△さんにとって幸多き一年となりますように。
平成三十年 元旦 」
ホームページに掲載する年始の挨拶
Web担当者であれば自身が行う挨拶だけではなく、ホームページに掲載する挨拶も考えなくてはいけません。企業によっては代表取締役からの挨拶として掲載する場合もあるでしょう。ここでは、ホームページに掲載する一般的な挨拶の例文を紹介します。
一般的な新年の挨拶
「新年、明けましておめでとうございます。
皆様におかれましては輝かしい新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
また、旧年中は、多大なるご尽力をいただき、本年も、更なるサービスの向上に努めて参りますので、より一層のご支援、お引立てを賜りますようお願い申し上げます。
皆様のご健康とご多幸をお祈りし、新年のご挨拶とさせていただきます。 」
上記のように、1年間のお礼と来年度に向けた挨拶を簡単に掲載します。なお、年始の休暇を併記する場合は以下のように、休暇の年月日を明確に記載しましょう。
「 新年、明けましておめでとうございます。
皆様におかれましては輝かしい新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。誠に勝手ながら、下記の期間は冬季休業とさせていただきます。
ご不便をおかけいたしますが、ご了承のほどお願い申し上げます。
[冬季休業期間]1月1日(月)〜1月3日(水)
なお、1月4日(木)9:00より通常営業開始となります。
本年も、○○事業をはじめ、より一層のサービス向上に努めて参りますので、変わらぬお引立てを賜りますようお願い申し上げます。 」
抱負や目標を記載する場合
企業の抱負や目標を記載する場合、以下の例文などを参考に書くといいでしょう。
「新年明けましておめでとうございます!
皆様には、健やかに新春を迎えられたことと、お慶び申し上げます。また、旧年中はひとかたならぬご厚情を頂きありがとうございます。2018年は「○○」など、社員一同一丸となりサービス向上に尽力して参ります。皆様のご健勝とご発展をお祈り申し上げます。
本年も宜しくお願い申し上げます。 」
例えば、会員制のサイトを運営している企業の場合、以下のような文章が考えられます。
「 新年あけましておめでとうございます。
旧年中は当サイトのご利用、誠にありがとうございました。2018年は「より会員にとって使いやすく、毎日見てもらえるようなサイトに」をモットーに、社員一同一丸となって、Webサイトのデザインや操作方法の改善に尽力して参ります。
皆様のご健勝とご発展をお祈り申し上げます。本年も宜しくお願い申し上げます。 」
まとめ
年始の挨拶はビジネスにおいて節目となるタイミングでもあります。取引先はもちろん、上司や同僚などお世話になった方には挨拶を忘れないようにしましょう。
その際には、相手に合わせた言葉遣いを選ぶのが重要です。取引先や上司といった目上の方へはフォーマルな年賀の挨拶を行う必要がありますが、親しい関係の同僚に対してであれば、特別な言葉遣いを行わなくても構いません。どのような相手に対しても素直に感謝を伝える姿勢は忘れないようにしましょう。  

 

●年賀状 3
一般年賀状
「新春のお喜びを申し上げます
皆様おすこやかに新春をお迎えのことと存じます。
昨年は何かとお世話になりまして、大変ありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。」
「謹んで新年のお祝辞を申し上げます
旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました。
本年も相変わらず、よろしくお願いいたします。
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げま。」
「新年おめでとうございます
よき新春をお迎えのことと、お喜び申し上げます。
私共も家族一同元気に過ごしております。
旧年中はひとかたならぬご厚誼を賜りまして、大変ありがとうございました。
本年も何とぞよろしくお願い申し上げます。」
「謹んで新年のお祝いを申し上げます
昨年は何かとお世話になりまして、ありがとうございました。
おかげさまで良き新年を迎えることができました。
本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます。
皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。」
宛先別・年賀状
上司へ
「謹賀新年
ご家族ご一同様には、幸多き新春を迎えられたこととお喜び申し上げます。
旧年中は格別のご厚情を賜り、誠にありがとうございました。
本年も昨年同様、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。」
「新春のおよろこびを申し上げます
良き新年をお迎えのことと存じます。
昨年中は並々ならぬご厚情を賜り、厚く御礼申し上げます。
本年も昨年同様、ご指導の程よろしくお願いいたします。
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。」
「謹んで新年のご祝辞を申し上げます
旧年中は公私にわたって大変お世話になり、心より感謝申し上げます。
昨年中は並々ならぬご厚情を賜り、厚く御礼申し上げます。
本年も昨年同様、ご指導の程よろしくお願いいたします。
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。」
恩師へ
「謹賀新年
よき新春をお迎えのこととお喜び申し上げます。
大変ご無沙汰しておりますが、先生におかれましてはお元気で過ごされていることと存じます。
どうぞご自愛の上、より一層のご活躍のほどを期待しております。
本年もよろしくお願い申し上げます。」
「謹んで新年のご祝辞を申し上げます
先生にはごきげんよく、新年をお迎えのことと存じます。
今年も新緑の頃に同窓会を企画しております。お目にかかれることを心より待ち望んでおります。
ますますのご健康をお祈り申し上げます。」
親から先生へ
「謹んで新春のお喜びを申し上げます
旧年中は【子供の名前】がたいへんお世話になりました。
帰宅後に授業やクラブ活動の話をし、学校が楽しくて仕方ないという様子を見せてくれますのは、親として何よりうれしく存じます。これも先生のご指導の賜物、本当にありがとうございます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。」
親戚へ
「新春のおよろこびを申し上げます
皆様お揃いで、よき新春を迎えられたことと存じます。
昨年、【相手続柄・敬称】にはひとかたならぬご厚情をいただき、深く感謝いたしております。
本年も、なにとぞよろしくお願い申し上げます。」
仲人へ
「新年おめでとうございます
よき新春を迎えられたことと、謹んでお喜び申し上げます。
昨年は大変お世話になりまして、ありがとうございました。
まだまだ未熟者の二人ではありますが、今後ともよろしくご指導のほどをお願いいたします。
皆様に幸多き年となりますように。」
親から仲人へ
「新年おめでとうございます
よき新春を迎えられたことと、謹んでお喜び申し上げます。
昨年は大変お世話になりまして、ありがとうございました。
まだまだ未熟者の二人ではありますが、今後ともよろしくご指導のほどをお願いいたします。
皆様に幸多き年となりますように。」
結婚の報告を兼ねて
「新春を寿ぎ謹んでお慶びを申し上げます
昨秋、私どもは結婚式を挙げ、新生活に入りました。
未熟者の二人ではございますが、今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。」
被災地への年賀状・見舞状
年頭の挨拶として
「年頭のご挨拶を申し上げます。
【災害の内容】以来、何かとご不自由な日々を送られていることと存じます。当方でお役に立てることがありましたら、何なりとお申し付けください。一日も早く生活が回復され、明るい年となりますよう祈念いたします。
おかげさまで、こちらは一同無事に過ごしております。
向寒の折、どうかお体大切にお過ごしください。」
年内に見舞状として
「先日の【災害の内容】には、衷心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く普段の生活に戻れますよう、お祈りしております。
何か必要なものや、私どもに出来ることなど、お申し付けくださいましたら幸いです。
寒さが日々増していく折から、皆様くれぐれもお体にお気を付けください。
来年は良い年となりますよう、心からお祈り申し上げます。」
寒中見舞として
「寒中お見舞い申し上げます。
昨年の【災害の内容】以来、回復に向けての毎日には、さぞお疲れのことと存じます。
何か必要なものや、私どもに出来ることなど、お申し付けくださいましたら幸いです。
一日も早く以前の生活に戻れますよう、心からお祈り申し上げます。
厳寒のみぎり、何より皆様ご自愛ください。」
ビジネス年賀状
「謹賀新年
旧年中はひとかたならぬご愛顧にあずかり、誠にありがとうございました。
本年も一層のサービス向上を目指し、社員一同誠心誠意努める覚悟でございます。
なにとぞ本年も倍旧のご支援のほどお願い申し上げます。」
「恭賀新年
昨年中は格別のご用命を賜り厚く御礼申し上げます。
なにとぞ本年もよろしくご愛顧のほどひとえにお願い申し上げます。」
「謹んで新春のご祝詞を申し上げます
昨年中は格別のご厚情にあずかり、心より御礼申し上げます。
御社のますますのご発展を祈念しますとともに、本年もなお一層のお引き立てを賜りますようお願い申し上げます。」
「謹賀新年
ご丁寧にも賀状を戴きまして恐縮に存じます。
昨年末は例年になく多忙をきわめ、誠に不本意ながらどなたにも年賀状をお出しできずにおりました。
遅ればせながら、御社のご繁栄をお祈り申し上げるとともに、本年も引き続きご芳情を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。」
年賀状に使える俳句
正月や よき旅をして 海を見る (碧悟桐)
霜除に 菜の花黄なり お正月 (鬼城)
元日や はれて雀の ものがたり (嵐雪)
元日や 都の春の 置炬燵 (子規)
元日や 手を洗ひをる 夕ごころ (龍之介)
元日や 子供等は皆 人となり (寅彦)
初空や 鳥はよし野の かたへ行く (千代女)
木に草に 麦に先づ見る 初日かな (来山)
門松や おもへば一夜 三十年 (芭蕉)
松立てて 空ほのぼのと 明る門 (漱石)
年玉の さいそくに来る 孫子かな (一茶)
元朝の 見るものにせむ 富士の山 (宗鑑)  

 

●新年の挨拶・メールや年賀状 4
「新年の挨拶」のポイント
「新年の挨拶の言葉」の基本
新年の挨拶は、新年を祝い、旧年中お世話になったことに感謝し、今年一年のお付き合いを願う言葉や今年の抱負を述べるのが基本です。直接の挨拶やスピーチ、メールや年賀状で書く挨拶ともに基本の内容は同じです。また、相手がビジネスの取引先であったり、上司や同僚などでも基本的な内容は同じですが、相手に適した言葉づかいや慣用句を用いるようにします。
「年賀状」は松の内までに届くように出す
年賀状は1月7日まで(関西は1月15日までのところもある)の松の内までに届くように出します。松の内を過ぎてしまったら「寒中見舞い」を出します。
「メール」は松の内までに出す
メールで新年の挨拶を送る場合も松の内までに送ります。
「新年の挨拶」文例
年賀状の文例
一般的な文例
「あけましておめでとうございます
皆様には、幸多き新春をお迎えのこととお喜び申し上げます。
旧年中は大変お世話になりまして、まことにありがとうございました。
本年もよろしくお付き合いいただけますよう、お願い申し上げます。
〇〇年一月一日」
ビジネス(取引先)文例
「謹賀新年
昨年中は格別のご愛顧を賜り、厚くお礼申し上げます。
本年も皆様のご要望にお応えし、いっそう社業に精励いたす決意です。
なにとぞ変わらぬご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
〇年元旦」
ビジネス(お客様)文例
「あけましておめでとうございます
旧年中は格別のお引き立てをいただき、誠にありがとうございました。
当店は本年も、皆様により一層ご満足いただけるサロンをめざします。今後とも変わらぬご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。
なお、新年は〇日より営業いたしております。皆様のご来店を心よりお待ち申し上げております。
〇〇年 元旦」
「メール」の文例
ビジネス(取引先の担当者宛て)文例
「件名:新年のご挨拶
〇〇株式会社
△△様
新春のお慶びを申し上げます。
株式会社〇〇の△△です。
旧年中はひとかたならぬお世話になりまして、誠にありがとうございました。
本年も御社のご発展に寄与できますよう、業務に精励いたす所存でございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
(メール署名)」
上司へ送る文例
上司への新年の挨拶は直接行うのが基本ですが、直接会えない場合はメールを送ることがあります。また、近年は年賀状を出さずに年始の休暇中にメールを送ることもあります。
「件名:新年のご挨拶
〇〇部長
新年あけましておめでとうございます。
◯◯部の〇〇です。
昨年は大変お世話になり、ありがとうございました。おかげさまで家族一同、元気に新年を迎えることができました。新たな年を迎え、気持ちを引き締めて業務に臨む所存です。
今年も引き続き、変わらぬご指導ご鞭撻をいただければ幸いです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
(メール署名)」
「新年の挨拶」に使える慣用句
漢語調の「新年の挨拶」
謹賀新年
恭賀新年
※「賀正」「賀春」「迎春」などは、正月や新春をお祝いする言葉ですが、相手に対する敬意が含まれていないため、目上の人や取引先には使わないようにします。もちろん親しい人へ使うのは問題ありません。
口語調の「新年の挨拶」
謹んで新春のおよろこびを申し上げます
謹んで年頭のご挨拶を申し上げます
あけましておめでとうございます
新春の御祝詞(ごしゅくし)を申し上げます
健康と幸福を喜ぶ言葉
幸多き新春をお迎えのこととお喜び申し上げます。
年頭にあたり、皆様のご健康とご多幸をお喜び申し上げます。
〇〇様にはお健やかに新春をお迎えのこととお喜び申し上げます。
旧年中お世話になったお礼の言葉
旧年中は大変お世話になりまして、ありがとうございました。
旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、厚くお礼申し上げます。
   ビジネス用
昨年中は格別のお引き立てを賜り、まことにありがとうございます。
旧年中はひとかたならぬご愛顧(ご高配)を賜り、厚くお礼申し上げます。
旧年中は格別のご厚誼にあずかり、心からお礼申し上げます。
今年のお付き合いを願う言葉・結びの言葉
本年も変わらぬご交誼のほど、お願い申し上げます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
本年もよろしくお付き合いいただけますようお願い申し上げます。
本年もご指導ご鞭撻を賜りますようよろしくお願いいたします。
   ビジネス用
本年もご期待にかなうよう努力する所存です。なにとぞ倍旧のお引き立てを賜りますようお願い申し上げます。
新しき年、皆様のご要望により一層お応えできるようさらに精励してまいります。本年もご厚誼のほどお願い申し上げます。
本年もお引き立てのほど宜しくお願い申し上げます。
「喪中」の場合の新年の挨拶
喪中の人へは「年始状」または「寒中見舞い」を出す
相手が喪中で新年の挨拶状を出せない場合は「年始状」または「寒中見舞い」を出します。
「年始状」は最初の挨拶文を「新年のご挨拶を申し上げます」「謹んで年頭のご挨拶を申し上げます」などとします。祝う言葉は避けます。
寒中見舞いは「寒中お見舞い申し上げます」という挨拶文で始め、「寒の入り」(毎年1月6日頃)から「立春」(毎年2月4日頃)までの間に届けます。
自分が喪中の場合は「喪中はがき」を出しておく
自分が喪中に服している場合は、12月上旬までに喪中欠礼のはがきを出しておきます。喪中の連絡が間に合わずに年賀状を頂いてしまった場合は、年賀状を出せない理由を添えた返事を「寒中見舞い」として出すこともできます。
まとめ
「新年の挨拶」は、まず新春を祝う言葉を述べ、続いて相手の健康と幸福を祈り、旧年中のお礼や、今年のお付き合いを願う言葉を述べるのが基本です。本記事で紹介した、相手や状況にふさわしい慣用句を選ぶとともに、具体的なエピソードも簡潔に盛り込むことで心のこもった挨拶を行うことができます。  

 

●新年の挨拶 年始の挨拶例文 5
ホームページやSNSに掲載する2019年度版 新年の挨拶 年始の挨拶例文のご紹介です。年始に掲載する新年の挨拶 年始の挨拶例文ですので、1月1日に掲載したほうがよろしいのですが、ご無理なら仕事始めに掲載したほうが良いと考えます。他にも、句読点を書かない事が慣習?やあけましておめでとうはいつまで?と疑問に思う事項もまとめてあります。
新年の挨拶 年始の挨拶の他に、新年のご挨拶メール例文も併せて用意してありますので年始にお客様へ送るメール文が必要な場合にはぜひ例文のひな形としてご使用ください。新年の挨拶 年始の挨拶例文は、例文以外に、メール例文、お知らせ用PDF、編集可能なWord、POP貼り紙用のWord、AIデータをご用意しています。
句読点を書かない事が慣習なの?
基本的に挨拶文では句読点( 、 。 )は書きません。これは日本の古い慣習であり、毛筆時代の日本では句読点を入れませんでした。失礼にあたる、子ども扱いしているという事で、句読点を書かないと言われております。
また、句読点には文章を「切る」という意味があり、「縁が切れないよう」に句読点入れないという方もいらっしゃいます。ですが、近年の横書き時代では句読点を入れる方も多く、必ず抜かないといけないというわけではありません。
HOMETENでご紹介している。新年の挨拶 年始の挨拶例文は句読点を入れておりますので、気になる方は削除してご使用ください。
あけましておめでとうはいつまで?
あけましておめでとうはいつまでに?と言う、正確な決まりはないようです。
ですが、一般的には1月15日の松の内あたりと言われています。
また、1月15日が小正月という事もあり、1月15日あたりまでは、あけましておめでとうを言っても失礼にはあたらないと思います。
ですが、地域により松の内が1月20日とされている地域もございますので、
・仕事始めから1週間は 「明けましておめでとうございます」
・仕事始めから1週間以降は 「今年も宜しくお願い致します」と、上手に使い分けしてみてください。
例文1(標準1)新年の挨拶 年始の挨拶例文
新年のご挨拶
「新年、明けましておめでとうございます。
平素はご愛顧を賜わり、厚く御礼申し上げます。
旧年中は、多大なるご尽力をいただき、誠にありがとうございます。
2019年も、より一層のご支援、お引立てを賜りますようお願い申し上げます。
本年も宜しくお願い申し上げます。」
新年のご挨拶
「〇〇株式会社
〇〇様
新年あけましておめでとうございます。
旧年中は格別なご高配を賜り、まことに有難く厚く御礼申し上げます。
本年もより一層のご支援を賜りますよう心よりお願い申し上げます。」
新年の挨拶 年始の挨拶例文 標準版です。一般的な新年のご挨拶ですので使いやすいと思います。新年のご挨拶メールも標準的な新年のご挨拶ですので、加筆してご使用ください。
例文2(標準2)新年の挨拶 年始の挨拶例文
新年のご挨拶
「あけましておめでとうございます。
皆様方におかれましては、新春を晴々しい気持ちでお迎えのこととお慶び申し上げます。
旧年中は、格別のご支援を賜り、厚く御礼申し上げます。
2019年も、より一層のご支援を賜りますよう、社員一同心よりお願い申し上げます。」
お知らせメール用テキスト例文
「新年のご挨拶
〇〇株式会社
〇〇様
昨年は、大変お世話になりありがとうございました。
今年も精一杯の対応をさせていただきますので、ご指導ご鞭撻をいただければ幸いです。
新年のご挨拶が遅くなり恐縮ですが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。」
新年の挨拶 年始の挨拶例文 標準版2です。例文1と同じく一般的な新年のご挨拶ですので使いやすいと思います。新年のメール例文も比較的使いやすい文例ですのでひな形としてご使用ください。
例文3(挨拶)新年の挨拶 年始の挨拶例文
新年のご挨拶
「新年、明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になり、社員一同心より御礼申し上げます。
本年も、更なるサービスの向上に努めて参りますので、より一層のご支援、お引立てを賜りますようお願い申し上げます。
皆様のご健康とご多幸をお祈りし、新年のご挨拶とさせていただきます。
本年も宜しくお願い申し上げます。}
お知らせメール用テキスト例文
「新年のご挨拶
〇〇株式会社
〇〇様
謹んで新年のお喜びを申し上げます。
旧年中は格別のお引き立てを賜り、厚く御礼申し上げます。
本年もより一層尽力して参りますので、ご指導、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
メールにて恐縮ではございますが、本年もどうぞ宜しくお願い致します。」
新年の挨拶 年始の挨拶例文 挨拶です。例文1、例文2とは違い「本年も、更なるサービスの向上に努めて参ります」等ご挨拶文が入っておりますので状況ごとにひな形としてご使用ください。
例文4(抱負)新年の挨拶 年始の挨拶例文
新年のご挨拶
「新年明けましておめでとうございます
皆様には、健やかに新春を迎えられたことと、お慶び申し上げます。
また、旧年中はひとかたならぬご厚情を頂きありがとうございます。
2019年は「○○○○今年の抱負をお書きください○○○○」など、社員一同一丸となりサービス向上に尽力して参ります。
皆様のご健勝とご発展をお祈り申し上げます。
本年も宜しくお願い申し上げます。」
新年の挨拶 年始の挨拶例文 豊富です。会社としての今年の抱負を書けるスペースを取っております。○○○○今年の抱負をお書きください○○○○の部分は今年の抱負を記載してください。
例文5(雛形)新年の挨拶 年始の挨拶例文
新年のご挨拶
「新年あけましておめでとうございます。
皆様には、健やかに新春を迎えられたことと、お慶び申し上げます。
旧年中はひとかたならぬご厚情をいただきありがとうございます。
本年も変わらぬお引き立ての程よろしくお願い申し上げます。
皆様のご健勝とご発展をお祈り申し上げます。」
新年の挨拶 年始の挨拶例文 雛形です。比較的ひな形にしやすいタイプの例文です。
例文6(年始のご挨拶 一般)新年の挨拶 年始の挨拶例文
年始のご挨拶
「新年あけましておめでとうございます。
旧年中は格別のご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。
本年も社員一同○○○○○を胸に、より一層のサービス向上を目指し、誠心誠意努力させていただく所存でございます。
今後ともご指導ご鞭撻のほど、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
末筆ながら皆さまのご健康とご多幸を心よりお祈りし、新年のご挨拶とさせていただきます。」
新年の挨拶 年始の挨拶例文 年始のご挨拶 一般です。こちらの文例は「新年のご挨拶」ではなく「年始のご挨拶」となっております。
例文7(年始のご挨拶 御礼)新年の挨拶 年始の挨拶例文
年始のご挨拶
「旧年中は格別の御厚情を賜り、厚く御礼を申し上げます。
本年も社員一同、○○○○○を心がける所存でございます。
皆様のご健勝と貴社の益々のご発展を心よりお祈り申し上げるとともに、本年も変わらずご愛顧を賜わりますようよろしくお願い申し上げます。」
新年の挨拶 年始の挨拶例文 年始のご挨拶 お礼です。こちらの例文も「年始のご挨拶」となっております。「○○○○○を心がける所存でございます。」の部分は使用の際に変更ください。
例文8(年始のご挨拶 短文)新年の挨拶 年始の挨拶例文
年始のご挨拶
「あけましておめでとうございます。
旧年中は格別のご厚情を賜り、誠にありがとうございました。
本年も社員一同力を合わせ、○○○○○を心がけてまいります。
末筆ながら皆さまのご健康とご多幸を心よりお祈りし、新年のご挨拶とさせていただきます。」
新年の挨拶 年始の挨拶例文 年始のご挨拶 短文です。「年始のご挨拶」となっております。短文でのご挨拶ですので取り急ぎの掲載の際にご使用ください。  

 

●年賀状の挨拶文 6
ほとんどの年賀状印刷では、挨拶文を自由に入れることができます。しかし、挨拶文を自分で考えるのは面倒だと思いますので、基本的な挨拶文を集めてみました。挨拶文で奇をてらうのはスマートではありません。年賀状で個性を出すのはデザインと手書きのメッセージ部分でいいと思いますよ。挨拶文は利用するシーンや表現の堅さで分類しています。
基本的な挨拶文
一般的な表現
あけましておめでとうございます
 旧年中は大変お世話になりました
 本年もよろしくお願い申し上げます
あけましておめでとうございます
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
昨年中は何かとお世話になりました
 本年もどうぞよろしくお願いいたします
旧年中はいろいろとお世話になり
 ありがとうございました
 本年もよろしくお願い申し上げます
これらがもっともベーシックな挨拶文でしょう。友人、親戚、仕事関係の相手に使っても問題ありません。少しそっけない印象を感じたら、手書きで一言添えるのがいいですね。
皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
すばらしい一年になりますよう
 心よりお祈り申し上げます
 本年もどうぞよろしくお願いいたします
昨年中はいろいろとお世話になり
 心よりお礼申し上げます
 今年もどうぞよろしくお願いいたします
この新しい一年がさらによい年でありますよう
 心からお祈り申し上げます
昨年中はいろいろとお世話になり
 心よりお礼申し上げます
 今年もどうぞよろしくお願いいたします
少し丁寧な表現になっていますが、このような格式張った定型文を自分なりにアレンジすることで、年賀状らしさがでてきます
少し堅い表現
謹んで新年のご挨拶を申し上げます
 本年もどうぞよろしくお願いいたします
「謹んで」が含まれるので、目上の人に送る年賀状にふさわしいです。友達に送る場合でも、若干硬い表現ですが、不自然ではありません。
幸多き新春を迎えられたことと
 お慶び申し上げます
 皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします
平素のご無沙汰をお詫び申し上げます
 皆様にとりまして幸多き一年となりますよう
 心からお祈り致します
家族同士の付き合いがある場合はこちらがいいかもしれません。
輝かしき新春を迎え
 ご尊家皆々様のご清栄とご多幸を
 心よりお祈り申し上げます
ご一家皆様にはお揃いでよき新年をお迎えのことと こころよりお慶び申し上げます
 旧年中はいろいろとご厚情を賜り、厚く御礼申し上げます
 本年もよろしくご指導のほどお願い申し上げます
旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り
 誠にありがとうございました
 本年も相変わらずよろしくお願いいたします
 皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます
こちらは家族同士でもかなり丁寧な言葉遣いになっています。上司や目上の家族などに使うといいでしょう。
旧年中は色々とご交誼をいただき
 誠に有り難うございました
 本年もよろしくお願い申し上げます
昨年のご厚誼を深謝いたしますとともに
 本年も変わらぬご厚情のほど
 お願い申し上げます
友人などには「ご交誼」を。目上の人には「ご厚誼」を使いましょう。
少し軽い表現
明るく楽しい一年でありますように
 今年もよろしくお願いいたします
新年の幕が開きました
 気張らずマイペースで過ごしたいと思います
 今年もよろしくお願い致します
口語表現がベースになっているので、堅苦しさを感じません。頭の硬い方には、くだけすぎていると取られる可能性がありますので、仕事関係の方に送るのは避けたほうがいいでしょう。
他のバリエーション
挨拶文が他の方と被るのは別に恥ずかしいことではありません。(そもそも、バリエーションも限られていますから)しかし、できれば同じ挨拶文は使いたくないという気持ちも分かりますので、他のバリエーションを状況や送り先別に幾つか用意しました。
親類
貴家ご一同の本年のご多幸をお祈り申し上げます
ご家族おそろいでよいお正月をおむかえのことでしょう
 本年も宜しくお願いいたします
ご一家の皆様におかれましてはよき年を迎えられたことと存じます
 年に一度のお便りとなっておりますが
 今年こそお会いできますこと 楽しみにしております
遠い親戚など一年に数回しか会えない親類にはある程度丁寧な表現がオススメです。
上司・恩師
旧年中は公私にわたり大変お世話になりました
 本年もご指導の程 宜しくお願い申し上げます
旧年中は色々とお心遣いをいただき本当にありがとうございました
 本年も努力してまいりますのでご指導の程よろしくお願い申し上げます
旧年中は大変お世話になりありがとうございました
 覚えが悪い私に対してあきれることなく丁寧にご指導くださいまして
 深く感謝いたしております
 本年はご負担をお掛けしませんよう努めてまいりますので
 ご指導のほど何卒お願い申し上げます
上司や恩師など目上の人に向けた挨拶文になります。一番下はかなり言い方がくどいので、自分なりにアレンジしたほうが無難でしょう。
同僚・友人
旧年中は公私にわたり大変お世話になりました
 これからも一緒に仕事も飲み会も盛り上げていきましょう!
 本年もどうぞよろしくお願いします
旧年中は大変お世話になりました
 今年こそ一緒に遊びに行きましょう!
最初にしっかり挨拶をして、二行目からポップな文体にするのはいいかもしれません。親しみがこもっていて相手もちゃんと読んでくれそうですね。
美味しいものを食べ過ぎて
 太り過ぎないようご注意を(笑)
 今年もよろしくお願いします!
これはかなり親しい人向けですね
ユニーク挨拶文
(あ)たらしい年がはじまりました
 (け)つい新たに
 (お)仕事もプライベートも
 (め)いっぱいがんばります!
(い)つもお世話になっている皆さまにとって
 (ド)ラマティックな一年になりますように
 (し)んねんからお祈りしております
(い)ままでもこれからも
 (の)らりくらり自分のペースで
 (し)あわせをさがしながら
 (し)っかり地に足をつけて一年を過ごしていきます
(猪)のように
 (突)破口に向かって
 (猛)々しく突き進み
 (進)化し続ける一年にします!
ユニークなあいうえお作文的な挨拶文です。自分なりにアレンジしてみるのがいいでしょう。
ビジネス向けの挨拶文
一般的な表現
旧年中は格別のお引き立てを賜り
 誠にありがとうございました
 本年もなお一層のお引き立てを
 賜りますようお願い申し上げます。
旧年のお礼と今年の挨拶を含めた基本的な内容です。迷ったら、こちらの挨拶文を使っておけば、問題無いでしょう。
少し堅い表現
旧年中は格別のお引き立てを賜り厚く御礼申し上げます
 本年も倍旧のご愛顧の程お願い申し上げます
年頭に際し益々のご発展をお祈りいたします
 本年も尚一層のお引き立てとご愛顧の程
 お願い申し上げます
平素のご愛顧を深謝し本年も相変わらず
 よろしくお引立ての程お願い申し上げます
旧年中は格別のお引き立てを賜り厚く御礼申し上げます
 本年も相変わらずご愛顧の程お願い申し上げます
旧年中はひとかたならぬお引立てをいただきまして
 厚く御礼申し上げます
 皆様のご健康とご繁栄を心からお祈り申し上げます
 何卒本年もよろしくご指導とご鞭撻のほどお願い申し上げます
昨年中は格別のご厚情にあずかり
 心より御礼申し上げます
 御社のますますのご発展を祈念しますとともに
本年もなお一層のお引き立てを賜りますようお願い申し上げます。
昨年中は格別のご用命を賜り
 厚く御礼申し上げます
 本年もよろしくご愛顧のほどお願い申し上げます。
旧年中はひとかたならぬご愛顧にあずかり 誠にありがとうございました
 本年も一層のサービス向上を目指し 社員一同誠心誠意努める覚悟でございます
 本年もなにとぞ倍旧のご支援のほどお願い申し上げます
一般的な表現とあまり変わりませんが、それよりも少し格式ばった言い方になっています。かなり堅い言い方をしているものもありますが、取引先などはこれくらいでいいかもしれません。
少し軽い表現
本年も皆様のお役に立てますよう
 スタッフ一同頑張ってまいります
 どうぞよろしくお願い申し上げます
お客さん相手だったら、これくらいでも全く問題ないと思います。取引先などの場合はここにもうちょっと堅い表現を入れてもいいかもしれません。
他のバリエーション
挨拶文が他の方と被るのは別に恥ずかしいことではありません。(そもそも、バリエーションも限られていますから)しかし、できれば同じ挨拶文は使いたくないという気持ちも分かりますので、他のバリエーションを状況や送り先別に幾つか用意しました。
先輩・上司あて
昨年は大変お世話になりありがとうございます
 本年もご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます
昨年は大変お世話になりありがとうございます
 日々成長するよう励んでまいりますので
 ご支援のほどよろしくお願いいたします
旧年中は公私にわたってお世話になり心より感謝申し上げます
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
仕事上の先輩や上司にはこれを利用しましょう。追加で一文ほどプライベートなことを入れるとなおよしです。
同僚あて
昨年は大変お世話になりました
 今年も何かと面倒をかけるかと思いますが
 どうぞよろしくお願い申し上げます
新しい年の幕開けは新鮮ですね
 この一年もあなたにとって素敵な年になりますように…
仲の良さなどにもよりますが、同僚相手だったら堅い表現は入れずに好きなことを書いても問題なさそうです。
退職(定年退職)
昨年退職し新たな気持ちで新年を迎えました
 これからもどうぞよろしくお願い致します
昨年定年退職を致しました
 在職中はいろいろとお世話になり
 ありがとうございました
 本年もどうぞよろしくお願い致します
人生の折り返し点を過ぎ 新生活のスタートを無事に迎えることができそうです
 皆様のご支援の賜物と心より感謝申し上げます
昨年三月に三十一株式会社を退職いたしました
 これからは第二の人生を楽しみたいと思っております
 本年も何卒よろしくお願い申し上げます
このたび無事に定年を迎えることができました
 「光陰矢のごとし」と申しますが 月日が経つのは本当に早いものです
 いろいろございましたが 今となっては楽しかったことばかりが胸の中に残っております
 そんな良き経験が宝物だと思うと…今後の人生がさらに楽しみです
 何卒これからもよろしくお願いいたします
おかげさまで○○年間
 このたび無事定年退職を迎えることができました
 いろいろなことがあった○○年間でしたが いつも皆様に励まされ今日まで無事勤めてまいりました 本当にありがとうございました
 振り返れば束の間の時間であったようにも思えますが これからは趣味を生かした第二の人生を家族と共にのんびりと送ろうと思っております
 今後ともどうぞ宜しくお願いいたします
友人や同僚などに送る挨拶文としてはこれくらいの柔らかい表現がいいと思います。取引先や顧客などに送る場合はさらに形式ばった文言を入れてもいいかもしれません。
拝啓 時下ますますご健勝にお過ごしのこととお慶び申し上げます
 さて このたび一身上の都合により退職させていただくことになりました
 これまで公私にわたり色々とお世話になりましたことを心より感謝致します まずは略儀ながら 取り急ぎ書中をもちましてお礼かたがたごあいさつ申し上げます 敬具
拝啓 ○○の候 皆様にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます
 さて このたび○月○日をもちまして○○株式会社を定年退職致しました
 永きにわたり皆様方からいただきました公私にわたるご指導とご鞭撻によりまして無事に職務を果たせました事はこの先の一生忘れる事のできない思い出であります
 また退職にあたり何かとお世話になりましたことにも厚く御礼申し上げます
 まずは右略儀ながら書中をもって お礼かたがたごあいさつ申し上げます 敬具
拝啓 時下ますますご清栄のことと存じます
 さて 私こと このたび○月○日をもちまして○○株式会社を定年退職いたしました
 昭和○年の入社以来 四十二年の長きにわたり 皆様には言葉に尽くせないほどの
 ご厚情ご指導をいただき 厚く御礼申し上げます
 この間 時代を取り巻く環境は大きく変化いたしましたが
 幸いにもつつがなく無事に今日まで勤め上げることができましたのも
 ひとえに皆様のおかげと あらためて感謝する次第でございます
 幸いにも健康には恵まれておりますので 今後は各方面の福祉活動を通じて
 微力ながら社会に恩返しができればと考えております
 皆様には今後とも変わらぬご厚誼を賜れば この上のない幸せに存じます
 まずは 略儀ながら書中をもちましてごあいさつ申し上げます 敬具
定年退職用は読む人の年齢層も考えて、かなり堅い表現を用意しました。ここから不要な部分を添削して作り上げていくのがいいでしょう。
退職(出産)
拝啓 新緑の候 皆様にはいよいよご健勝のこととお喜び申し上げます
 さて 私こと○月○日をもちまして○○株式会社を円満に退社いたしました
年前に結婚して以来 仕事と家庭の両立を標榜してまいりましたが
 出産して母になるのを機会に 家庭に入ることになりました
 在勤中は 皆様のあたたかいご指導を受け たいへん充実した仕事することができ
 言葉に尽くせないほど感謝しております ほんとうにありがとうございました
 皆様に教えられたこと 仕事で得た経験を礎に これからの家庭生活に生かしてまいります
 立場は変わりますが 皆様には今後ともよろしくご教示とご厚誼のほどを
 心よりお願い申し上げます
 末筆ながら 皆様のますますのご健康とご多幸をお祈り申し上げまして
 御礼のごあいさつとさせていただきます 敬具
女性の寿退社用のビジネス挨拶文になります。年上の上司や取引先などを念頭に作られています。
人事異動
拝啓 ○○の候 ますますご清栄のこととお喜び申し上げます
 このたび○○勤務を命ぜられ 過日着任いたしました
 ○○在勤中は公私ともに一方ならぬご厚情を賜り心より厚くお礼申し上げます
 今後とも倍旧のご指導ご鞭撻を賜りますようよろしくお願い申し上げます 敬具
拝啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます
 さてこのたびの異動により○○○○勤務を命ぜられ○月○日より着任致しました
 ○○○○在勤中はご厚情を賜り誠にありがとうございました 厚くお礼申し上げます 新任地におきましてもますます努力精進致す所存でございますので 今後ともよろしくご指導とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます
 まずは右略儀ながらお礼かたがたごあいさつ申し上げます 敬具
拝啓 時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます
 さて 私こと
 このたび○月○日付で ○○支店に転勤することになりました
 ○○支店在任中は大変お世話になり厚くお礼申し上げます
 本来ごあいさつに伺うべきところですが 急なことで申しわけなく存じております 悪しからずご了承ください
 微力ではありますが新たな勤務地にて努力致す所存でございますので 何卒今後ともご支援のほどお願い申し上げます
 略儀ながら まずは書中をもってごあいさつ申し上げます 敬具
拝啓 時下いよいよご清祥のことと存じます
 さて 私こと このたび大阪支社への勤務を命ぜられました
 東京支社在勤中は ひとかならぬご芳情をいただき あらためて厚く御礼申し上げます
 本来であれば伺いましてお礼のごあいさつを申し上げるべきところ
 急務のため発令と同時に赴任いたしました
 たいへん失礼とは存じましたが 事情ご賢察の上
 どうかご了承くださいますようお願い申し上げます
 なお 私の後任には 前・本社営業係長○○○○が着任いたしました
 担当業務につきましては遺漏なく引き継ぎを行いましたので
 どうか従前同様のお引き立てとご指導のほどをよろしくお願い申し上げます
 まずは 略儀ながらおわびかたがごあいさつ申し上げます 敬具
人事異動の場合は転勤が決まった時にはこれまでお世話になった相手へのお礼と転勤したことを知らせることが大事になります。
拝啓 ○○の候 皆様におかれましてはますますご健勝のこととお喜び申し上げます
 この春の人事異動により○○学校勤務を命じられ過日着任いたしました
 ○○学校在職中は 公私ともに一方ならぬ指導ご支援を賜り誠にありがとうございました 新任校におきましても 皆様より頂きました数々のご教示を活かし 微力ではございますが精一杯努力をいたす所存でございます
 今後とも相変わらぬご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます
 末筆ながら皆様のご健康とご多幸をお祈りし お礼かたがたご挨拶申し上げます  敬具
こちらは教職員用の人事異動挨拶文になります。
拝啓 ○○の候 皆様ますますご健勝のこととお喜び申し上げます
 このたび社命により○月○日付けで○○○○に赴任いたしました
 約○年間の予定で 弊社の○○進出の足がかりをつくるため当地で鋭意努力いたす覚悟でおります
 異国の生活に慣れるまでには 少し時間がかかりそうですが 皆様より頂きました数々のご教示を当地での業務に活かしていく所存です
 今後も倍旧のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます
 まずはとりあえず 書中をもってご挨拶申し上げます 敬具 
こちらは海外赴任用の人事異動挨拶文になります。
転職
拝啓 ○○の候 ますますご清祥のこととお慶び申し上げます
 さて このたび○○株式会社を円満退職し○○株式会社に勤務致すことになりました
 ○○株式会社在勤中は長年にわたり格別のご厚情を賜り厚くお礼申し上げます
 今後は新しい職場でこれまで以上に一生懸命努力していく覚悟でございますので 何卒一層のご愛顧を賜りますようお願い申し上げます
 まずは右略儀ながらお礼かたがたごあいさつ申し上げます 敬具
拝啓 皆様方におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます
 平素は格別のご厚情をいただき心よりお礼申し上げます
 このたび○月○日付で○○株式会社を退職し○○株式会社に入社することとなりました 自分の持てる可能性をさらに伸ばしてゆきたいという決意の転職ですが 今後ともご指導ご支援のほどよろしくお願い申し上げます
 まずは略儀ながら書中をもってお礼かたがたごあいさつ申し上げます 敬具
転職もこれまでお世話になった取引先や顧客向けになるので、堅い表現が多いです。ここに個人的な表現を加えるとより記憶に残る挨拶文になると思います。
独立開業
謹啓 ○○○の候 皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます
 さて このたび私どもは左記の通り新会社として○○○○株式会社を設立いたしました
 今後は社員一丸となって社業発展に精進する所存ですので 一層のご愛顧を賜りますようお願い申し上げます 敬白
拝啓 ○○の候 皆様ますますご清祥のこととお喜び申し上げます
 ○月○日をもちまして ○年にわたり勤務いたしました○○株式会社を円満退職いたしました 在職中はひとかたならぬご厚情を賜り誠にありがとうございました 今後は独立開業のため○○に事務所を構える予定でございます
 皆様にはどうかこれからも変わらぬご指導を賜りますよう心よりお願い申し上げます 開業の際はあらためてご通知いたします
 略儀ながら書中にてごあいさつとさせていただきます 敬具
拝啓 貴社ますますご清栄のこととお慶び申し上げます
 平素は格別のご愛顧を賜り厚く御礼申し上げます                           
 この度○○に株式会社○○○○○を設立いたしました
 これもひとえにみなさまのご支援とご厚情によるものと心より感謝いたしております 何卒格別のお引き立てならびに商品のご用命を賜りますよう 今後ともよろしくお願い申し上げます
 まずは略儀ながら書中をもってごあいさつを申し上げます 敬具
独立する際はこれまでの人間関係も重要になってくるので、テンプレだけでなく、相手を思いやる一文を加えましょう。
閉店・廃業挨拶
拝啓 ○○の候 ますますご清栄のこととお慶び申し上げます
 さて この度一身上の都合により○○月○○日付で廃業することとなりました
 創業以来○○年の長きに渡り 皆様方には並々ならぬご厚志を賜り誠にありがたく厚くお礼申し上げます
 つきましては早速参上の上 親しくお礼申し上げるべきではございますが誠に勝手ながら書面にてご挨拶申し上げます 敬具
拝啓 貴社ますますご盛栄のこととお慶び申し上げます
 さて 突然ではございますが創業以来○○年余に渡りお引き立ていただきました○○○○○を諸般の事情により廃業することとなりました
 これまで皆様の温かいご支援をいただきながら誠に申し訳ございません
 万策尽きて苦渋の選択となりましたことを何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます 
 皆様の長年に渡るご愛顧に心から感謝申し上げるとともに 今後のますますのご健勝をお祈り申し上げます
 略儀ながら書面にて廃業のご挨拶を申し上げます 敬具
結婚報告を兼ねた挨拶文
一般的な表現
謹んで新春のお慶びを申し上げます
 おかげ様で結婚して初めての正月を迎えることができました
 未熟な二人ですが 本年も宜しくご指導賜りますようお願い申し上げます
 新しい年が明るく希望に満ちた年でありますよう お祈りいたしております
「新年の挨拶+結婚の報告+よろしくお願いします+お祈りします」を含めた基本的な型だと思います。少し長いようなら、以下のように刈り込むことも出来ます。
結婚して初めての正月を迎えることができました
 本年も宜しくご指導賜りますようお願い申し上げます
 本年もよろしくお願いいたします
おかげさまで私達一同つつがなく越年いたしました
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
結婚して初めてのお正月を迎えました
 これから二人ともども末長いお付き合いを 
 お願いいたします
少し堅い表現
謹賀新年
 昨年は私どもの結婚に際しまして
 ご多忙中にもかかわらず多大なご配慮を頂き誠にありがとうございました
 まだまだ未熟な私達ですが
 どうぞ本年も変わらぬご指導のほどお願い申し上げます
おかげさまで二人の門出の春を迎えました
 今後共ご指導とご鞭撻くださいますよう
 お願い申し上げます
結婚して初めてのお正月を迎えました
 今後とも末永くご指導ご鞭撻の程
 よろしくお願い申し上げます
とくに目上の方に宛てた年賀状では、このくらい堅い表現でもいいかもしれませんね。友人に送る場合は、ちょっとよそよそしく感じられるかもしれません。
少し軽い表現
昨年結婚いたしました
 二人で助け合い力を合わせて頑張ります
 今後ともよろしくお願いいたします
私たち結婚しました!
 二人で力を合わせて
 明るい家庭を築いていきたいと思います。
 これからもどうぞよろしくお願いいたします。
友達や仲の良い人ならこれくらいでも全く問題ありません。
挙式したことを知らせる
明けましておめでとうございます
 旧年中は大変お世話になりました
 昨年○月に(場所)にて結婚式を挙げました
 本年もよろしくお願いいたします
さて ○月○日に わたしたちは結婚いたしました
 これからは二人で助け合って暖かい家庭を築いていくつもりです
 まだまだ未熟な二人ですが 今まで同様、変わらぬお付き合いのほど
 よろしくお願い申し上げます
挙式を知らせていない方には、挙式したことを伝えたほうがいいでしょう。とくに、写真年賀状で結婚式の写真を使う場合は、挙式に関する一文を入れた方が無難です。
引越報告を兼ねた挨拶文
去年、引越をした場合は、住所録を変更してもらう必要があるので、しっかりと引越したことを伝えたほうがベターです。
一般的な表現
明けましておめでとうございます
 昨年 下記の住所に転居いたしました
 お近くへお越しの節は是非お立ち寄り下さい
社交辞令ですが、新居へのお誘いを添えるのが一般的です。
住所が変わりましたのでお知らせいたします
 お近くにお越しの際にはぜひお立ち寄りください
新住所に移転し心も新たに新春を迎えました
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
このたび私達は○月○日に○○○へ引越しました
 お近くにお越しの際は ぜひお立ち寄りください
引っ越しましたのでお知らせ致します
 緑も多く 静かで環境の良い所です
 お近くにお越しの際は ぜひお立ち寄りください
この度 下記の住所へ転居いたしました
 ○○駅から10分くらいの 静かで環境の良い所です
 お近くにお越しの節は ぜひお立ち寄りください
引越を知らせる
謹賀新年
 旧年中は大変お世話になりました
 ご報告が遅くなりましたが
 昨年○月に転居し新しい住まいで新年を迎えました
 本年もよろしくお願いいたします
まだ、引越を知らせていない場合は、一言お詫びを含めた方が角が立ちにくいです。
出産報告、ファミリー向けの挨拶文
家族揃って楽しいお正月を迎えました
 今年もよろしくお願い申し上げます
新たな家族が仲間入りして
 賑やかな一年になりそうです
 本年も親子共々よろしくお願いいたします
このたび我が家に新しい家族が仲間入りしました
 親子共々どうぞよろしくお願い申し上げます
出産をした年の年賀状は出産報告をするのが通例です。ただ、人によってはあまりいい思いをしない場合もあるので、強い主張はやめたほうがいいかもしれません。
昨年はいろいろとお世話になりました
 わが家では家族が増えにぎやかな新年を迎えております
 今年もよろしくお願い申し上げます
わが家に新しい家族が仲間入りしました
 今年もよろしくお願いいたします
我が家に待望の赤ちゃんが生まれました
 とってもかわいい女の子で 名前は○○です
 お近くにお越しの際は ぜひ会いに来てください
○月○日に待望の赤ちゃんが生まれました
 名前は○○○で とても元気な男の子 (女の子) です
 お近くにお越しの際は ぜひ遊びにいらしてください
わが家に待望の男子「○○○」が誕生しました
 ぜひ一度 元気いっぱいの笑顔を見にきてください
 家族みんなでお待ちしています
 誕生日 平成○年○月○日
 体重  ○○○○g
わが家に家族が増えました!
 ○月○日、私たち夫婦に無事赤ちゃんが誕生し、
 名前は○○と名付けました。
 育児に追われながらも楽しい日々を送っています。
 今後とも、親子共々よろしくお願いします!  
 
 

 

 
 
 

 

●正月飾り 

 

●正月飾り 
正月飾りは“松の内”という期間の間に飾るものです。
・基本的な松の内の期間 / 12月13日〜1月7日
・関西の一部地域の松の内の期間 / 12月13日〜1月15日
正月の間に飾るのが目的なので、飾り始める時期は12月13日〜年末となりますが、この期間の中には特に縁起が良い日にち、逆に縁起が悪い日にちなどがあります。正月飾りを飾るのに縁起が良いとされるのは“28日”です。『28』は日本において幸運とされている末広がりの「八」が含まれるため、28日に正月飾りを飾るのが最適であると考えられています。これは、鏡餅、松門、しめ縄全てに共通することです。また、29日・31日に正月飾りを飾るのは、以下の理由で縁起が悪いと言われてます。
・29日 / 「9」は「苦」を連想させる。※「29=福」と捉えて、この日に飾る地域も一部ある
・31日 / 正月前日に飾るのは慌ただしく、神様に対して礼節を欠く行為であり、「一夜飾り」と言われている。「飾り方が葬儀を連想させる」とも。
というわけで、特に理由もなければ28日に飾りましょう。
正月飾りの飾り方
鏡餅の飾り方
   飾る場所
場所については、どこに飾れば縁起が良いなどの決まりは特にありませんし、複数飾っても問題ないとされています。神棚や玄関、台所、リビングなど、自分が大切だと感じる所に飾りましょう。
   飾り方
飾り方には地域によって様々ですが、一般的なものを紹介します。図のようにしてもらえばいいのですが、言葉で説明すると以下のようになります。
1.三方の上に四方紅を置く(図のように三方の正面に四方紅の角がくるようにする)
2.四方紅の上に裏白の葉を正面に垂れさせる置く
3.餅を置く
4.御幣を正面に垂れさせるように置く
5.橙を乗せる
6.末広を置く
御幣を餅の下に置いたり、末広を橙の上に置いたりする場合もよく見かけられます。
門松の飾り方
   飾る場所
門松は、家の門の前に飾るのが一般的ですが、マンションなどの場合は小さい門松を玄関に飾る人も増えています。
   飾り方
門松は門の両側に置きますが、3本組の門松の場合はそれぞれ2番めに長い竹が外側にくるようにします。つまり、門の外から見た時、門を挟んで下のイラストのように置きます。
しめ縄の飾り方
   飾る場所
しめ縄は玄関に飾るのが一般的で、神様を迎えるために玄関のドアに飾るのが良いとされています。
   飾り方
特に気をつけることもありませんが、玄関は綺麗にしてから28日に飾るのをお忘れなく。
破魔矢の飾り方
   飾る場所
破魔矢は「凶の方角に飾るのがいい」と言われることもありますが、基本的には方角や飾る場所に厳密な決まりはありません。多くの場合は玄関や神棚、床の間などに飾るのが一般的です。
   飾り方
飾り方は特に注意する点はありませんが、飾る場所を清潔にした上で、目線よりも高い位置に飾るといいでしょう。また、前述した通り、特に理由もなければ28日に飾るのがいいです。
松の内とは?
松の内とは「門松を飾ってある期間」という意味で、門松などのお正月飾りを飾る期間を指し、松の内が過ぎたら門松を外します。また「神様に待っていただいてる期間」という由来もあります。この期間は年賀状の期間でもあり、この期間が過ぎたら挨拶状は“寒中見舞い”へと切り替わります。松の内の期間は全国の地域によって大きく異なり、つまり、お正月飾りを外す日は地域によって違うのです。主に、関東と関西で別れていますが、さらにその中でも細かく地域差があります。ちなみに一般的に「正月」と言うと松の内を指すことも多いです。 (正月三が日の場合もあり)
松の内の期間はいつからいつまで?
松の内の始まりは『12月13日』です。この日以降ならいつからお正月飾りを飾っても大丈夫ですが、 外す時期は前述した通り地域によって差異があります。松の内は、一般的には『1月7日まで』です。7日の朝に七草粥を食べて、門松、しめ縄を外す家庭が多いです。一方、関西は『1月15日まで』を松の内とし、その期間までお正月飾りを飾っているという地域が多いです。
鏡開きは日にちが異なる!
またややこしくなりますが、 門松やしめ縄などのお正月飾りは松の内が過ぎたら外しますが、鏡餅は別です。鏡開きは一般的に1月11日、関西を中心とした一部の地域では1月20日、この日に鏡餅を下げ、これを食べます。門松やしめ縄と混同しないようにしましょう。
松の内や鏡開きの日は、何故地域によって違いがあるのか?
元々関西だけでなく全国的に、松の内は1月15日までで鏡開きは1月20日と、日にちが定まっていました。しかし、徳川家光が亡くなったのが4月“20日”で、鏡開きの1月“20日”を忌日とし、1月11日に変更したものが幕府がある関東を中心に広まりました。これがきちんと伝わらなかった関西が今でも1月20日に鏡開きを行なっているのです。全国的には松の内(~15日)が過ぎた後に鏡開き(20日)を行なっていたのが、 松の内の期間の内(~15日)に鏡開き(11日)を行うように変更されたというわけです。「鏡開きを行なった後にも正月飾りを飾っておくのはおかしい」とされ、鏡開きの日にち変更にともなって松の内の期間も『〜15日→〜7日』と変更されました。鏡開きの日にちが変更されなかった関西では、松の内の日付を変更する必要もなかったのです。 

 

●門松
門松を飾る意味 / 「歳神様が降りてくる際の目印」や「歳神様が宿る依り代」などの意味がある
門松の由来 / 平安時代の正月の貴族による遊び「小松引き」
門松を飾る日にち / 12月13日〜大晦日(特に28日が縁起がよく、29日・31日は縁起が悪い)
門松を飾る場所 / 家の門の前や玄関を出たドアの前、マンションなどの場合は玄関でもOK
門松を外す日にち / 松の内の最終日(通常1月7日、関西など一部地域は1月15日)
門松を処分する方法 / 「どんど焼き」に持っていく、都合の良い日に神社やお寺に持っていく、一般ごみとして出す
門松の意味や由来
まず、門松は一体どういうものなのか、なぜ飾るのか、どういう由来があるのかなどを説明していきます。
門松を飾る意味
毎年、年が明けると家々に“歳神様がやってきて幸せを持ってきてくれる”と言われており、そのために門松などの正月飾りが重要になります。「木のこずえ(先端や枝)には神様が宿る」という思想が昔からあるので、門松を家の前に飾っておくことで歳神様を迎えるための依り代になると考えられているのです。また、門松が歳神様の目印になるとも言われます。
門松の由来
門松の由来は平安時代の貴族の遊びにあります。年が明けて最初の子(ね)の日に野山でこまつを引き抜く遊びを『小松引き』といい、当時は長寿を祈願して行われました。これが時代とともに徐々に変容していき、現在の門松を飾る風習に変わったと言われています。ちなみに、門松は3本の竹が斜めに切断されているものが一般的ですが、これは“徳川家康”に由来するという説があります。徳川家康は生涯で唯一敗北を喫したといわれる“三方ヶ原の戦い”のあと、敗れた相手の武田信玄に「次は斬る」という意味合いを込めて竹を斜めに切ったのがはじまりという説です。
「門松をいとなみたてるそのほどに春明がたに夜や成ぬらん」
- 平安時代後期の歌人藤原顕季の和歌。『堀河百首』収録。
「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
- 室町時代の僧一休宗純の狂歌とされる一方、一休と智蘊(蜷川親当)の道歌問答での「門松は冥途の旅の一里塚馬駕籠もなく泊まりやもなし」という歌が後に変容したものともされる。門松を飾る新年を迎えることはめでたいが、墓に向かっていく一里塚のようでもあるという意味。
「春立つやにほんめでたき門の松」
- 安土桃山時代・江戸時代初期の美濃国出身の武将・俳人である斎藤徳元の代表句。 
門松の飾り方
門松はいつから飾る?
門松に限らず正月飾りは松の内の間に飾ります。
松の内の期間
・一般的な松の内の期間 / 12月13日〜1月7日
・関西の松の内の期間 / 12月13日〜1月15日
正月の期間に飾っているのが重要なので、飾る日にちに関しては“上記の期間内”でなおかつ“年が明けるまで”なら構いません。つまり、『12月13日〜12月31日』です。ただし、例外的に特に縁起が良い日、逆に縁起が悪い日があります。
・28日(縁起が良い) / 日本において幸運を意味する末広がりの「8」を含む
・29日(縁起が悪い) / 『苦』を連想させる「9」が含む
・31日(縁起が悪い) / 正月前日は慌ただしく、神様に無礼だと考えられているおり、「一夜飾り」や「飾り方が葬儀を連想させる」と言われる
つまり、特別な理由がない限り『28日』に飾れば良いということです。正月飾りを飾る日に関しては、 門松だけでなくしめ縄や鏡餅、破魔矢なども同様。
門松はどこにどうやって飾る?
飾る場所については通常、門の前や玄関を出たドアの前に置きます。飾り方については門松には色々な種類があつため一概には言えませんが、門松は雄松と雌松の対になっており、左右にどっちを置くのかが決まっています。正面から門松を見た時、左側に雄松、右側に雌松を置くのですが、下図のように2番目に高い竹が外側に配置されるのを目印にすると良いでしょう。もしも門がなかったり、マンションなどでドアの前に門松を置くスペースがないと言う場合、家の中の玄関に門松を飾りましょう。
門松の処分方法
門松はいつ撤去する?
門松などの正月飾りは前述したように『松の内』の期間に飾るものなので、松の内の最終日に取り外します。松の内の最終日は通常は1月7日、関西では1月15日なので、この日になったら門松を撤去しましょう。これ以外にも地域によって日にちが違うこともあります。
門松はどうやって処分する?
正月飾りは翌年も使いまわす家庭も増えていますが、本来は毎年きちんと処分してその都度新しい正月飾りを飾るというのが決まりです。正月飾りの処分方法としては3つの方法があります。
1.どんど焼きに持っていく
2.都合の良い日に神社やお寺に持っていく
3.一般ごみとして出す
松の内の最終日に取り外した正月飾りは、きちんと丁寧に保管し、「どんど焼き」で焚き上げてもらうというのが正式な処分方法です。どんど焼きとは、1月中旬頃に神社やお寺もしくは自治体で行われている火祭りのことで、正月飾りや書き初めを焼く趣旨の行事のことを指します。名称は地域によって様々。(例:左義長、とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼き)
ただ、どんど焼きの日は都合が合わないという場合でも問題ありません。どんど焼きの日じゃなくても大抵の神社やお寺では正月飾りを持っていくときちんと焚き上げてくれます。また、適切に扱えば一般ごみに出すことも可能です。縁起物をゴミに出すのはためらわれる人も多いと思いますが、特に不謹慎というわけではなく一般的に行われています。ただ、以下のように適切に処分しましょう。
1.細かくする
2.塩で清める
3.丁寧に新聞紙で包む
4.ゴミに出す
また、地域によって燃えるゴミになるのか、粗大ごみとなるのかは違ってくるとので、その点だけは要注意です。 
 
●門松・諸話
門松 1
正月に家の門の前などに立てられる松や竹を用いた正月飾りである。松飾り、飾り松、立て松とも言う。新年の季語。古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。「松は千歳を契り、竹は万代を契る」と言われ、松と竹で神の依代の永遠を願う。
松は冬でも青々とした常緑高木で新しい生命力の象徴となっている。神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきた。
一説には唐代にみられた正月に松の枝を門に飾る風習が平安時代に日本に伝わったという(ただし中国で正月に松を飾る地域は限られている)。
平安時代の宮中では「小松引き」という行事が行われた。これは、初子の日に外出して松の小木を引き抜くという貴族の遊びで、持ち帰った「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣があり、門松はこれが変化したものと考えられている。現在も関西の旧家などでは、「根引きの松」という玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松(松の折枝は略式)が飾られる。
長治年間(1104年 - 1105年)に撰された『堀河百首』には藤原顕季が門松を詠んだ歌が収められており(#門松に関する作品参照)、この頃には京都で門松を飾る風習があったことが分かる。14世紀中頃の『徒然草』にも「大路のさま、松立てわたして、花やかにうしれげなるこそ、またあはれなれ」と記され、16世紀中頃の上杉本『洛中洛外図』にも門松が描かれている。
なお、中国では正月に松を飾る地域は限られており、一般的には邪気払いの力があるとされる桃の木の人形や札を飾る風習がみられた。日本に桃が伝来したとき既に日本では松を正月飾りにする風習が出来上がっていたため桃が入り込む余地がなかったといわれている。
   飾り付け様式
現在の門松は中心の竹が目立つが、その本体は名前で解るとおり「松」である。古くは松などの常緑樹を飾っていたが、鎌倉時代以後、竹も一緒に飾るようになった。
竹の先端部の形状は、斜めに切った「そぎ」と、真横に切った「寸胴(ずんどう)」の2種類がある。 一説では、「そぎ」は徳川家康が始めたもので、徳川家康の生涯唯一の敗北として知られる「三方ヶ原の戦い」(1572年)のあと、対戦相手の武田信玄に対して、次は斬るぞという念を込めたのが始まりとされる。
江戸期の門松は現在と異なり、松の先を切らずに地面からそのまま家屋の二階屋根まで届くような高さのものが飾られていた。仙台藩の武家では、松の枝を括り付けた高さ3m程のクリの木を門の両脇に立て、その間に竹を渡してしめ縄と藁の飾りをかけるというものだった。
門松の様式には、地方により差がある。関東では3本組の竹を中心に、周囲に短めの若松を配置し、下部をわらで巻く形態が多い。関西では3本組の竹を中心に、前面に葉牡丹(紅白)後方に長めの若松を添え、下部を竹で巻く。豪華になると梅老木や南天、熊笹やユズリハなどを添える。
   様々な門松
兵庫県西宮市の西宮神社では、十日えびすの宵宮で市中を巡幸するえびす様に葉先があたらないよう、松を下向きに付け替えて「逆さ門松」にする。地域の言い伝えにより松を使わない所もある。東京都府中市の大國魂神社では、「待つ」に通じることから、境内には松の木が1本もなく、府中では門松に松を用いない慣習が残っている。千葉県市原市の姉埼神社やその氏子も同様に松を嫌って「門榊」を飾る。兵庫県神戸市の生田神社では、水害で倒れた松の木が社殿を壊したとの言い伝えがあり「杉盛り」を飾る。
集合住宅の発達など社会環境の変化などから、画像の様な本格的な門松が設置されることは少なくなったが、一般家庭用に小さな寄せ植え風の門松などが年末に店頭に並ぶようになったため、このタイプの門松を置く場合がある。
さらに省略版として、枝振りのいい若松に、赤白や金銀の水引を蝶結びにし、門柱などに付ける方法もあり、手軽なことから多く使われる。
商店や会社では、門松などの図柄に、「賀正」「謹賀新年」等の賀詞、新年のあいさつ文や年末年始の休業期間を配したポスターを貼ることもある。松の木の保護や伝統文化の継承を目的に「門松カード」、「門松ポスター」、「紙門松」、「賀正紙」と呼ばれる門松を印刷した紙を自治体、公民館、町内会などで配布するところもある。利用者が減少したため、配布に代えてホームページからダウンロードできるようにしている場合もある。千葉県市原市には「門榊カード」も存在する。
生花店やホームセンター、造園業や工務店などでは、門松を造り、設置・撤去まで一括でおこなうサービスもある。毎年飾ることができる造花の門松(人工門松)もある。  
門松 2
門松の意味・由来
門松は一年の幸福をもたらしてくれる神様に、家に来てもらうための目印となる正月飾りだとご存知ですか?門松はそんな意味を持つからこそ、新しい一年の幸福を願い、きちんと飾り付けをしたいものです。今回は、門松について意味や由来を知っていただき、一年を縁起よく迎えるために、門松にまつわる様々な情報をご紹介します。
門松の意味:お正月に来る年神様の依り代
門松の意味を詳細に書くと、門松とは
・お正月にやってくる歳神様が迷わず家に来ていただくための目印となるもの
・歳神様が降りてこられた後、宿る依り代(よりしろ)になるもの
・一年の幸せ(昔は五穀豊穣)を願うもの
・長寿を願うもの
このような意味を持っている正月飾りです。ちなみに、元々松ではなく同じ常緑樹の杉や榊という木を使っていたところもあります。目印になるだけでなく、歳神様が門松の松に宿るとも考えられているため、処分の方法も正しくする必要があります。ちなみに門松は松飾り、飾り松、立て松とも呼ばれます。松飾りという言葉は、略式の門松とされる「門松用若松一対」という松飾りのイメージもありますが、お正月に松のついた飾りもの全般を意味します。
正月飾りの門松の由来や起源
門松をお正月に飾る飾るようになった起源となる行事は平安時代の宮廷儀礼の「小松引き」と考えられています。平安時代のころの門松は、「初子(はつね)」と呼ばれる、一年の最初の子の日に野に出て宴をする文化がありました。この日に子供が松を根ごと引っこ抜いて、その松を玄関に飾ったのが門松の由来とされています。
ちなみに関西圏の旧家で今知られる門松ではなく、「根引き松」等の松飾りを飾っているのはこの儀礼が由来となっています。
起源を見てみると、今の門松の主役は竹のように感じますが、実は松が重要な素材であることがわかりますね。ちなみに竹が門松に含まれるようになったのは室町時代とされています。その後江戸時代に入ってからは、武家も商家も農家も宮廷行事に倣い家の入り口に門松を飾るようになったそうで、江戸時代にはかなり豪勢な門松も見られます。
門松の種類と意味
門松を構成するものの意味
   門松の松の意味
松は常緑樹(一年を通して葉が生い茂り緑の葉を見ることができる木)であることやその名前から、門松の松に様々な意味が込められています。門松の松・・・
・松は古来より神様が宿る木と考えられている
・松は生命力が強く千代・千年の齢とされ、長寿の木と考えられている
・松は神を祀る(まつる)という言葉につながる
・松の葉は上を向き、さらに神様を「待つ」という言葉につながる
   門松の竹の意味
門松と言えば、竹というイメージが大きくなるほど存在感のある竹ですが、どのような意味が込められているのでしょうか。門松の竹・・・
・竹は万代をふるものとして長寿を願うもの
・竹は成長が早く、生命力の象徴、繁栄の象徴とされる
この他にも梅、南天、葉牡丹と言う植物や水引、紙垂、等々の縁起物が飾り付けられます。
門松の切り方の種類と意味とは?
門松を構成する素材にもたくさんの意味が込められていますが、その形状にも意味が込められています。実は以下の写真のように二つの門松の種類があるのをご存知ですか?左の切った後の断面が見える方が今では一般的によく見られますが、こちらを「そぎ」と言います。右側の門松は「寸胴」と言う切り方です。この切り方について見ていきましょう
   寸胴
門松の寸胴は水平に竹が切られている状態のものを指します。こちらの形が実は門松の本来の形状で、そぎの切り方は後ほど現れたです。元々は寸胴の方が一般的で、江戸時代以前は寸胴でした。江戸時代になっても武家の家では寸胴の門松が飾られたと言われています。それでは、そぎの切り口の門松はどのような由来で生まれたのでしょうか。
   そぎ
そぎは、現在最も一般的な門松の竹の切り口で、特に節の部分を切り口に含んで、笑った口のように見えるため、笑い口として縁起が良いとされています。そんなそぎは江戸時代になって広まった切り口です。この門松の由来は、戦国時代の徳川家康と武田信玄が戦った三方ヶ原の戦いです。この戦いで、武田信玄に全く歯が立たず、敗走した徳川家康勢は浜松城に逃げ込みます。すると武田方から、「松枯れて 竹類(たけたぐひ)なき 朝かな」(松は松平(徳川姓を名乗る前の家康の苗字)、竹は武田を意味し、「松平は衰え、武田は今後も繁栄していく」という意味の歌)を送られます。すると、松平方から、「松枯れで 武田首(たけだくび)なき 朝かな」(「松平は衰えず、武田の首は明日はない」という意味の歌)と、元の歌の「て、た、ひ」に濁点を付けただけで、真逆の意味の歌になります。この歌のやり取りが本当にあったか、なかったか、いずれにしても竹を武田の首に見立てて、斜めに、そぎの形で切り落としたというのがそぎの切り口の由来とされます。ちなみにこの当時の切腹後の介錯は首が足の上に落ちるのがきれいだとされそぎ切りでした。
門松の竹の長さ・数・並び方・大きさの意味
門松の竹は基本的に3つの長さの違う竹が並んでいます。本来は1本だったとされる門松ですが、3本の竹の長さが違うのは、長い竹は男、短い竹は女、真ん中の竹はその仲を取り持つ中間的な立ち位置を意味すると言われています。ちなみに、竹を縛る荒縄の結び方(門松の下のコモの部分の縛り方と同じ)にも数字の意味があり、縛り方は下から7回、5回、3回と結ばれます。この7,5,3は割り切れない縁起の良い数字と言われています。この長さの違う竹の並び方にも意味があります。三本の竹の二眼目に長い竹が2対の門松の外側に配置されているものを出飾り、逆に二番目に長い竹が内側に配置されているものを迎え飾りと呼びます。
   出飾り
上記の写真の右側が内側となる場合、これは出飾りとなります。内こぼれと呼ぶところもあります。門松の出飾りの意味・・・
門松が出飾りで飾られている場合
・子供が成長して独り立ちすることを願う
・結婚など門出を祝う・願う
・病院なら患者さんが早く元気になり退院できることを願う
   迎え飾り
逆に二番目に長い竹が内側にある場合は迎え飾りとなります。外こぼれと呼びます。門松の迎え飾りの意味・・・
門松が迎え飾りで飾られている場合
・招福の意味
・子供を授かりたいという願い
・デパートや商家ではお客さんがもっと来て商売繫盛するように
このような意味があります。ちなみに門松の大きさに関しては大きいほうが良いとされるなどはなく、マンション等で飾る小さな置物でも招福の力はあるとされます。
門松には松の雌雄の違いや種類の意味
竹は見た目にも分かりやすく、種類の差が出ますが、実は門松の主役となる松にも種類があります。一番大きな違いは門松の松に雌雄の違いがあるということです。雄松(おまつ)と雌松(めまつ)という松の違いがあり、雄松は黒っぽい黒松で入り口正面から見て左に、雌松は赤っぽい黒松で入り口から正面から見て右側に置くのが正しいとされます。ただし、最近では両方黒松になったりと簡略化されています。さらに、松は松でも若松という大きな木になる前の青々とした松が主に利用されます。
縁起物を付けて招福
門松は竹と松が基本的な素材ですが、他にも橙(だいだい)やエビを飾ったり様々なものを飾るようになりました。 
門松の由来と歴史 3
年神様をお迎えする依り代
   門松は新年を告げる年神様を降りてくる依り代
正月には、各家々に訪れる年神様(としがみさま)をお迎えしてお祀りしてきました。年神様とは、豊作や家内の安全を守る神様であり、ご先祖様でもあります。その年神様が訪れる目印として、門松をお飾りするのです。常磐木(ときわぎ=常緑樹)に神様が宿ると思われていたことから、お正月に家の門に常盤木をお飾りしたのが門松の始まりのようです。
   なぜ門松に「松」が使われるのでしょうか
神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いたようです。能舞台には背景として必ず描かれており(松羽目・まつばめ)、日本の文化を象徴する樹木ともなっています。逆に、門松に松以外の常緑樹で杉、楠(くすのき)、榊(さかき)などを用いるところもあります。神戸市の生田神社では杉を、神奈川県の箱根神社では榊や樒(しきみ)を用いています。
   門松の形
門松の形も、様々なものがあります。『日本の門松』では「関東」と「関西」をご紹介しています。「関東」では、松は竹よりも低く竹の足元に挿していますが、「関西」では、松は竹よりも高く、竹を扇型に囲むように挿します。 その他にも地方や習慣によって様々な形があるようです。同じ関西でも兵庫県西宮市の西宮神社では「逆さ門松」といって、松を上下逆さまに挿します。これは、神様が降りてくる際に松の針葉が刺さらないように下に向けるのだそうです。
門松の歴史
   平安時代から
門松が文献として現れるのは、平安時代の後期です。 惟宗孝言(これむねのたかとき 1034〜1096に活動)が『本朝無題詩(ほんちょうむだいし】)』に納められた詩に、次のように歌っています。“門を鎖しては賢木(さかき)もて貞松に換ふ” 門を閉じ賢木を松のかわりに挿したとして、その注釈に “近来の世俗皆松を以って門戸に挿す、而るに余賢木を以って換ふ” と述べていることから、平安時代後期には、すでに正月に「松を門戸に挿す」習慣が近来の風習となっていたことがわかります。また、松の代わりに常緑の賢木を飾ることもあったのでしょう。ずばり「門松」を最初に詠んだのは藤原顕季(ふじわらのあきすえ 1055〜1123)で『堀河百首(ほりかわひゃくしゅ) 除夜』に “門松をいとなみたてるそのほどに春明がたに夜や成ぬらん” 大晦日に門松をたてはじめ、元旦の明け方になってしまった、とのこと。どんな門松をたてようとしたのかと、おかしくもあり興味をそそられますね。
   鎌倉末期 吉田兼好「徒然草」では
鎌倉末期、吉田兼好(よしだ けんこう 1283〜1352頃)は京の都の元旦の情景を “大路のさま、松立てわたして花やかにうれしげなるこそ、又あはれなれ。”都大路には門松が立てつらなって、花やかに嬉しげだと感慨を深めています。
   室町時代 一休宗純は
出典は明らかではないようですが、あの一休和尚(1394〜1481)が詠んだとされる狂歌では “門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし”と、ちょっと斜に構えた歌ですが、お正月の街には門松が定着していた様子がわかりますね。
   江戸時代に
『日本歳時記』では正月14日に 門松注連縄(しめなわ)を去としていて、東京でも江戸時代の前期には、松の内は1月14、15日頃までだったようです。その後1662年に江戸幕府により、1月7日を以て飾り納めを指示する松の内短縮の通達が江戸城下に発せられ、それ以降関東では徐々に1月7日までが「松の内」になっていったと考えられます。江戸時代後期の『東都歳時記』で、正月1月6日のところで “今夕門松を取納む。承応の頃までは十五日に納めしとなり”とあることからもわかります。承応(じょうおう)は、松の内短縮の通達の出た1662年の数年前の年号。
一方、松の内短縮の通達に関係の無かった関西地方では、今でも1月15日までを「松の内」として、15日に門松を納めています。  
門松 4
1. 門松の由来
門松と言えば誰もが知る、お正月の飾り物です。「飾り松」「立て松」などの呼び名もあります。縁起物として慶ばれ、地域やその時代に合わせて形を変えながらも、基本を崩すことなく脈々と受け継がれており、そのルーツを知ることは日本文化を知ることにもつながります。
1−1.門松という名前の由来
その名は、読んで字のごとく、家の門口に松を立てることから「門松」と呼ばれるようになりました。元々お正月とは、万事の始まりと言う意味合いがあり、お正月になると「年神様」と呼ばれる神様が訪れて幸福をもたらす。と言われていました。太い竹を3本束ね、根元に若松の枝を差し、梅を添えた、「門松」は年神様を迎え入れる為に家の門口に飾られるようになりました。
1−2.門松の始まり
門松の始まりは平安時代からといわれています。もともと門松は生命力・不老長寿・繁栄の象徴とされていた松の木を、「子(ね)の日の※小松引き」といって、正月初めの「子の日」に野山の小松を引き抜いて、長寿を願う貴族たちの行事を元に、平安時代の末から鎌倉時代にかけて広がったと言われています。
・・・こまつひき【小松引き】…とは平安時代,正月最初の子(ね)の日に,野山に出かけ小松を引き抜いて長寿を願う遊びのことです。・・・
その当時の様子を描いた絵が残っています。平安の貴族たちは正月のはじめの子(ね)の日に、北野や船岡山など郊外の野辺に出かけ、自然の生命力といわれる小松を根ごと掘りとってきて、千代(ちよ)を祝い、摘み取った若菜を料理の食材に加え、皆で長寿を願い、和歌を詠むという宴を催していました。上の画像は,平安時代末期 「年中行事絵巻」に描かれている門松です。この時期になると正月に家の門の前に松を一対ではなく、一本立てて年神様に長寿・五穀豊穣(米の豊作)を祈願するという習慣となって根付いていきました。この時代の「門」とは家の出入り口ではなく、建物の前の庭の真ん中、つまり洗濯物を干すようなスペースを「門」と呼んでいました。「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」 一休和尚(1394〜1481) などのような句も詠まれており、門松が当時の人々にも特別な物であったことがうかがい知れます。次は,戦国時代に制作されたといわれる「上杉本 洛中洛外図」に描かれている門松です。家々の前には一文字の※注連縄(しめなわ)も張ってあります。
・・・注連縄(しめなわ)…しめ縄とは、稲わらを綯(な)って作られた縄を張ることで、その区画が神聖な場所であることを示すもの。しめ縄を張ることで、不浄なものが外から入らないようにする役目も果たすといわれています。お正月以外でも、神社でよく見かけられ、お祭りや能舞台などでも見かけます。・・・
しめ飾りとは、しめ縄を本体として、それに年神様に奉納するためのお飾りをつけたものです。特に正月に家々の入り口に掛けるしめ飾りは、門松と同様に各家々に訪れる年神様をお迎えするにあたり、清浄な場所であることを示すためのものでした。江戸時代になり都市部では、「松は千年、竹は万年を契るめでたいもの年の初めの祝い事」として考えられるようになり、大名屋敷などには巨大な門松が飾られていたようです。また、この頃から日本に竹が普及し、門松にも竹が使われるようになりました。同時にこの頃から、家の出入り口(門)の、左右に門松を配置し、「対」にするという習慣ができたようです。画像は元旦諸侯登城の図絵。大きな屋敷の前を江戸城に登城する大名行列が行く。大名屋敷に大きな門松が立っているのが目立ちます。このように門松は時代と共に進化を遂げ、迎春飾りとして古い歴史と共に日本に根付いていきました。また、年神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は神を「待つ」、神を「祀る」の意と、常緑であることからマトノキ「真常木」、久しきを「待つ」、「保つ」の意味もあります。毎年正月に各家にやってくる年神様が宿る安息所であり、また、神霊が下界に降りてくるときの目標物とも考えられていました。この年神様は、別名を「お正月さま」、「若年さま」、「歳徳神」とも呼ばれ、昔は白髪の福相の老人だと考えられていました。今でも、若者が白髪の老人に扮して、大晦日の夜、家々をまわって子供達を訪れ、お年玉として餅を与える風習の残っている地方もあるそうだとか。こうして元日から松を片付けるまでの期間を「松の内(まつのうち)」と呼ぶようになりました。
2.門松の構成と材料にまつわる由来
門松の構成は松・竹・梅が基本です。現代においては様々なアレンジの効いた門松も流通していますが、松と共に長寿の象徴である竹と、寒い時期にも花を咲かす梅を組み合わせ「松・竹・梅」の形を成している門松が、伝統のある一般的な門松の構成であると言えます。
2−1.それぞれの飾りの意味
地方によって様々な門松がありますが、それぞれに意味があります。容姿は違えど、使用されている材料はほぼ同じです。それぞれの材料にはおめでたい意味が込められていますので、一つずつ紹介していきます。
   ●2−1−1.松の由来
松は一年中葉を落とさない常緑樹としても知られており、「永遠の命」を意味するとも言われています。古代より、年神様が宿る神聖な木として、長寿のシンボルとなっていました。門松で使用される松は写真上の黒松(雄松(おまつ))が一般的です。黒松の枝の中でも若々し1m〜1.5m程度の“若松”が良く好まれています。若松は生長感をはらんだ若々しさと、生気のみなぎった端正さが慶ばれて、お正月の花にも用いられます。その他にも以下のような迎春飾りに活け込まれる松があります。左上から順に、盆栽で好まれる五葉松。少ない葉で年数を感じさせる三光松。葉が長く迫力ある大王松。びっしりと苔の生えた姿の苔松。丸型に葉が付き可愛らしいピンポン松。葉色の美しい虹の目松。などたくさんの品種の松があります。門松以外にも、生け花の迎春飾りでもよく使われています。
   2−1−2.竹の由来
竹は、とても生長が早く2・3日で身の丈程になり、真っ直ぐ上に伸びることから、生命力を象徴しているとされています。また、長寿であることから、長寿、繁栄の象徴ともされています。門松では、一般的に以下の写真の2種類、真竹(マダケ)・孟宗竹(モウソウチク)が使われています。写真(左)が真竹で、孟宗竹に比べ軽量で肉薄、艶があり磨くと青々と輝きます。真竹の生産は歴史的に竹工芸が盛んな九州の大分県が有名です。写真(右)は孟宗竹。日本中で採れますが、竹伐り業者の減少により年々入手しづらくなっています。真竹に比べ、趣のある色合いをしています。孟宗竹の名前は、冬に母の為に寒中筍を掘り採った三国時代の呉の人物、「孟宗」の名に由来します。また、竹は成長する過程の中で上の写真のような節目を作りながら成長します。節目を作って伸びるため、竹は強風で折れることなく、しなやかにまっすぐ天に向かって生長していきます。その姿は人生の節目(七五三・成人など)にもたとえられ、人生の節目を苦しい思いをしながら乗り越えていくことで、強くたくましく、しなやかな人になれることから、竹の様に生きよという言葉があります。困難を恐れず節目を作っていきたいものですね。
   2−1−3.梅の由来
梅は寒さに強く、年の中で最も早く花が咲く開花樹です。新春・一年の始まりを意味するとして、古代より日本人に親しまれ、実を付けることで大変縁起の良いものとされてきました。また、正月では、めでたい紅白色の紅梅や白梅を用いられることが一般的です。実際門松には、梅の枝を使用することが多いのですが松の内には梅の花は咲かないため、造花を使用することもあります。
   2−1−4.南天(ナンテン)
南天は、ナンテン(難転)「難を転ずる」に通じる縁起物として、正月飾りなどに用いられるようになりました。また、南天の他に「千両(下写真)」が使われることもあり、こちらは子孫繁栄やの象徴とされています。
   2−1−5.葉牡丹
葉牡丹は、花の少ない晩秋から冬にかけて鮮やかな葉の色で楽しませてくれる、冬花壇の代表的な草花で、幾重にも重なり合う葉が、「吉事を重なる」とされて、古くは江戸時代から楽しまれてきました。他にも丸葉やちりめん、切れ葉系、切り花用と様々なタイプがあり、美しく色づき幾重にも重なった葉は、まさに“ボタン(牡丹)”そのもので、 本来は赤と白のものを用い紅白でめでたい物として、正月の門松の飾り物として用いられてきました。
2−2.松竹梅の由来
慶事・吉祥のシンボルとして「松・竹・梅」の三点を組み合わせは、日本では祝い事の席で謡われ、引出物などの意匠にも使われるなど、「目出度い」の代名詞的な存在・象徴となっています。その歴史は中国にあり、宋代より始まった中国の文人画で好まれる画題のひとつ、「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」が元となっています。この歳寒三友は、具体的に松・竹・梅を意味し、それが平安時代に日本に伝わったのが始まりとされ、これを日本では「松竹梅(しょうちくばい)」と呼んだのが、始まりと言われています。松と竹は寒い冬でも色褪せず、また梅は寒中に花が開く。これは当時の日本人にとって「清廉潔白・節操」という、文人の理想を表現したものと認識したのでした。
2−3.竹の切り口の由来
門松の竹の先端は斜めに切る場合と真横に切る場合とがあり、上の写真・左を「そぎ」写真・右を「寸胴」と呼びます。「そぎ」は切る箇所によって切り口の形が変わり、 節のところで切ると,笑っているような切り口になります。
2−3−1.そぎの由来
「そぎ」を最初に始めたのは徳川家康だと言われています。元亀3年(1572)三方ヶ原の合戦において、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突し、家康は生涯最大の敗北を喫しました。武田軍2万5千に対して家康軍はわずか1万人足らず。家康も討ち死にを覚悟したとされ、家臣の夏目吉信が身代わりとなって敵をひきつけるなどしたおかげで、家康は浜松城に逃げ帰ることができたといいます。この時家康は、竹を武田家の首に見立てて斜めに切り落とし「(三方ヶ原では大敗したが)次は斬る」との意味合いを込めたとされています。これが「そぎ」の由来です。
3. 門松を飾る時期と仕舞う時期
続いては、「門松を飾る時期や仕舞い込む時期はいつがいいの?」と疑問に思っている方へ、はっきりとした時期をお伝えします。実は、門松に関わらず正月飾りを飾って良いとされている期間や、飾るのに適さない時期など、いくつかルールがあります。
3−1.門松を飾る日
門松の飾り初めは12月13日です。門松とは、新年を迎えるにあたり、年神の依り代(よりしろ)として門に松を飾るもの。その松ケ枝を山からとってくる「松迎え」が「正月事始め」で、12月13日に行います。ですから、それ以降はいつでも門松を設置してよいことになります。ところが近年クリスマスが一般化し、クリスマス以降に正月飾りをするのが普通になったため、12月26日が設置初めのところが多くなりました。
3−2.門松を飾ってはいけない日
門松は大晦日(12月31日)に設置するのは避けましょう。門松は神様の依り代としてお飾りするものです。新年の前日にあわてて飾ったのでは、神様をないがしろにしているとされ、に設置することを「一夜飾り」「一日飾り」とよばれ、縁起が悪いとされています。大晦日の設置はできる限り避けて下さい。遅くとも前々日の12月30日には設置を完了するようにしましょう。また、この他にも12月29日はゴロあわせで「9」が「苦」に通じるとして、12月29日の設置は、縁起が悪いとされています。「九松」とも言われます。とはいえ、多忙極まる現代ではそううまくいかないことも多いでしょう。あくまで参考程度に考えられておいてください。
3−3.門松を片づける日
門松をお飾りするのは、いわゆる正月「松の内」の間です。この「松の内」が地方によって異なるのは面白いことです。本来の「松の内」は1月15日の小正月までです。関西地方では今でも15日まで門松をお飾りしています。 一方、関東では、江戸時代に幕府より正月を1月7日で切上げる御触れがでて、それ以来、関東地方では1月7日をもって松の内とする「松七日」とも言われる習慣が定着したようです。その場合は6日の夕方や翌7日に片づける場合が多いようです。他にも地域によってさまざま習慣がありますので、門松を仕舞う日はお住まいの地域の習慣に合わせるようにするとよいでしょう。また、左義長(さぎちょう)と言われる、炊き上げをする儀式が地域によって存在します。それに合わせて仕舞うようにするのも良いでしょう左義長については、次項で詳しくご説明いたします。
3−4.門松の処分方法
続いては門松を外してからの処分方法です。大きく分けて2との方法があります。
・・・ 1.神社に奉納する・・・2.自分で処分する・・・
   3−4−1.神社で処分する
門松を処分するにあたり、一般的方法が、神社で行われる※左義長(さぎちょう)と言われる儀式です。上の写真は門松をお清めし、焚き上げを行う様子。左義長は1月15日の小正月が多いですが、地域や神社によって日時が異なる為、また、左義長を行っていない地域もあるため、事前に、各自の地域でご確認されることをお勧めいたします。左義長(さぎちょう)…別名:ドンド焼き・サイト焼き・ ホッケンギョウなどとも言い、正月に行われる火祭りのことです。1月14日の夜や1月15日の朝に行われ、この行事は、縁起物を焼いて、天に帰すと意味と、同時に亡者供養のための火祭でもあります。
   3−4−2.自分で処分する
神社に行く暇がない、お近くの神社で左義長を行っていない場合は「一般ゴミ」として処分することができます。一般ごみとはいっても、やはり神聖なものです。細かく分解して、お塩でお浄めして手を合わせ、丁寧に模造紙や新聞紙に包んで、他の生活ゴミが入った袋とは別の袋に入れて出しましょう。また、大きさによっては大型ゴミに分類されます。それぞれの地域のルールに従って分別して下さい。
4.地域ごとの門松
ここからは地域ごとに異なる門松を見ていきましょう。関東と関西ではそれぞれ大きく特徴が分かれているようです。
4−1.関東風
関東風では3本の竹の足元に短く切った松活け込み、それを菰で包むという形が基本で、すっきりとしたデザインに仕上げたものが多いようです。また竹の切り口は「寸胴」です。(そぎ切りの所も存在します)
4−2.関西風
関西では、3本の竹の足元に、長めの松を活けこみ、全面には、葉牡丹や笹など配し、足元を竹で蒔くと言うものが基本系です。迫力あるデザインに仕上げたものが多いように感じます。
4−3.個性が光る門松
続いて、現代における、おしゃれで個性的なアレンジ門松、また古くからの伝統を守り、当時から姿を変えることのない門松・世界一大きい門松などを幾つかご紹介いたします。
いつも見かける門松とはちょっぴり違う様々な容姿の門松があり、見ているだけでも何だか楽しくなってしまいます。 
 
 
 
 
 
 
 

 

●しめ縄・しめ飾り
しめ縄を飾る意味 / 「新年に内側に邪気が入らないようにする」という意味や「歳神様が安心して降りてこれるようにする」という意味
しめ縄の由来 / 日本神話「天岩屋戸」
しめ縄としめ飾りの違い / しめ飾りはしめ縄の一種。しめ縄に縁起物がついたものをしめ飾りと言う。
しめ縄を飾る日にち / 12月13日〜大晦日(特に28日が縁起がよく、29日・31日は縁起が悪い)
しめ縄を飾る場所 / 玄関正面(ドアの外側)が最も一般的
しめ縄を外す日にち / 松の内の最終日(通常1月7日、関西など一部地域は1月15日)
しめ縄を処分する方法 / 「どんど焼き」に持っていく、都合の良い日に神社やお寺に持っていく、一般ごみとして出す
しめ縄・しめ飾りの意味や由来
しめ縄(注連縄)の意味
新年になると各家に“歳神様がやってきて幸せを授けてくれる”といわれていますが、そのためにしめ縄などの正月飾りが重要になります。しめ縄は神聖な空間(神域)を現世と隔てる結界の意味合いがあり、中に不浄のものが侵入するのを防ぎます。これにより新年に歳神様が安心して降りてきてくださるのです。ちなみにしめ縄は漢字で『注連縄』と書きますが、“注連”とは中国語で「死霊が入らないように水を注いで清め連ねて張った縄」を意味します。
しめ縄の由来
しめ縄の由来・起源となっているのは、有名な日本神話「天岩屋戸(あまのいわやど)」です。天の岩戸に引きこもった天照大神(あまてらすおおみかみ)を外に出すために、説得するのではなく岩戸の前で八百万の神々が宴をしたりして楽しそうに騒いだという話ですね。天照大神が岩戸から外に出た際に、再び入ってしまうことを危惧したフトダマという神が、しめ縄を岩戸の入り口に張りました。これが現在のしめ縄の由来とされています。
しめ縄としめ飾りの違い
しめ縄としめ飾りは混同されることが多いのでこれらの違いを解説しておきます。例えば、神社などで見られる下のような縄は「しめ縄」ですが、「しめ飾り」ではありません。(ちなみに写真は日本最大級のしめ縄である、島根県にある出雲大社の大しめ縄) これに対し、下のように色々と装飾がされた一般家庭でよく見られるものは、「しめ飾り」と言われます。(「しめ縄」ともいう) 元々はしめ縄があり、そこからしめ飾りへと派生したという形なので、しめ飾りはしめ縄の一種です。しめ飾りはしめ縄に縁起物が付いているものを指します。ちなみに、しめ飾りのそれぞれの意味は以下の通りです。
しめ飾りの縁起物の意味
・紙垂(しで・かみしで) / 神様の降臨
・裏白 / 清廉潔白
・ユズリハ / 家計を譲って絶やさない⇒子孫繁栄
・橙(だいだい) / 代々栄えることを祈願
しめ縄の飾り方
しめ縄はいつから飾る?
正月飾りは松の内の期間に飾るというのが決まりです。
松の内の期間
・一般的な松の内の期間 / 12月13日〜1月7日
・関西の松の内の期間 / 12月13日〜1月15日
ただ、正月飾りは正月の期間に飾るのが目的なので、飾る日に関しては12月13日から大晦日までの期間に飾りましょう。ただし、中でも28日が特に縁起がよく、29日、31日は縁起が悪いとされています。これにはそれぞれ以下の理由があります。
・28日 / 日本において幸運とされる末広がりの「8」が含まれるので縁起が良い
・29日 / 『苦』を連想させる「9」が含まれているため縁起が悪い
・31日 / 正月前日に飾るのは慌ただしく、神様に対して礼節を欠く行為であり、「一夜飾り」と言われている。「飾り方が葬儀を連想させる」とも
特に理由が無ければ28日に飾ると良いでしょう。ちなみに飾る日に関してはしめ縄に限らず、鏡餅や門松、破魔矢なども同様です。
しめ縄はどこにどうやって飾る?
しめ縄を飾る場所についてですが、最も一般的なのは玄関正面(ドアの外側)です。前述したようにしめ縄は結界のような役割があるので、家の中に邪気が入らないようにするという意味で玄関が最適なのです。ただし、実際は厳密な決まりがあるわけではないので、そこまで厳密に考える必要もありません。神棚や水回り、車などに飾る人も多いです。その他の“向き”などは気にする必要ありません。
しめ縄の取り外し〜処分の方法
しめ縄はいつ外す?
正月飾りは鏡餅を除いて『松の内』の期間に飾るのが決まりなので、松の内の最終日に取り外します。(鏡餅は鏡開きの日に食べる。詳細⇒鏡開きの日にちはいつ?) 松の内の最終日は通常は1月7日、関西では1月15日です。この日にの内にしめ縄、門松、破魔矢などの正月飾りは取り外しましょう。
しめ縄はどうやって処分する?
正月飾りは翌年も使いまわす家庭も増えていますが、本来は毎年きちんと処分してその都度新しい正月飾りを飾るというのが決まりです。取り外した正月飾りの処分についてですが、最も一般的な方法は「どんど焼き」に持っていき焚き上げてもらうというものです。どんど焼きとは、1月中旬頃に神社やお寺もしくは自治体で行われている火祭りのことで、正月飾りや書き初めを焼く趣旨の行事を指します。地域によって名称は様々です。(例:左義長、とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼き) ただ、どんど焼きに行けないという場合でも問題ありません。どんど焼き以外の日でも神社やお寺に持っていけば、きちんと焚き上げてくれるところは多いです。また、きちんと清めて適切に扱えば一般ごみとして出すことも可能です。
1.細かくする
2.塩で清める
3.丁寧に新聞紙で包む
4.ゴミに出す
という手順になります。いずれにしてもしめ縄を取り外してから処分するまでは丁寧に扱うのが大事です。 
 
●しめ縄・しめ飾り 諸話
しめ縄・しめ飾り
そもそも正月行事というのは、年神様という新年の神様をお迎えするための行事です。年神様は家々にやってきて、生きる力や幸せを授けてくださると考えられています。そこで、お正月が近づくとしめ縄やしめ飾りを施し、年神様を迎える準備をします。
しめ縄(注連縄)には、神様をまつるのにふさわしい神聖な場所であることを示す意味があります。しめ縄が神の領域と現世を隔てる結界となり、その中に不浄なものが入らないようにする役目も果たします。その由来は、天照大神が天の岩戸から出た際に、再び天の岩戸に入らないようしめ縄で戸を塞いだという日本神話にあるとされ、「しめ」には神様の占める場所という意味があるといわれています。
しめ飾り(注連飾り)というのは、しめ縄に縁起物などの飾りをつけたものをいいます。代表的なのが、神様の降臨を表す「紙垂」(かみしで/しで)、清廉潔白を表す「裏白」、家系を譲って絶やさず子孫繁栄を願う「譲り葉」、代々栄えるよう願う「橙」などです。
もともとは、神社がしめ縄を張りめぐらせるのと同じ理由で、自分の家が年神様をお迎えするのにふさわしい神聖な場所であることを示すために始まったといわれています。しめ縄やしめ飾りを結界として施すことで、その内側が清らかな場所となり、魔除けにもなるため、年神様が安心してきてくださるわけです。 
注連縄
[しめなわ] 神道における神祭具で、糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄をさす。標縄・七五三縄・〆縄とも表記する。
現在の神社神道では「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を持つ。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓ったりする意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿る印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる。
御旅所や、山の大岩、湧水地(泉水)、巨木、海の岩礁の「奇岩」などにも注連縄が張られる。また日本の正月に、家々の門や、玄関や、出入り口、また、車や自転車などにする注連飾りも、注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、大相撲の最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが、締めることができる横綱も注連縄である。江戸時代、お蔭参りのために使わした「お蔭犬」にも、その目印として首に巻かれることがあった。現在でも水田などで雷(稲妻)が落ちた場所を青竹で囲い、注連縄を張って、五穀豊穣を願う慣わしが各地に残る。料理店などの調理場にかけられる玉暖簾も聖なる領域と俗なる領域を結界する注連縄の意を持っている。
起源
日本神話 / 天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(「尻久米縄」)で戸を塞いだのが起源とされる。
稲作信仰 / 稲作信仰は神道の根幹をなす一つであり、古くから古神道にも存在し、縄の材料は刈り取って干した稲藁、又は麻であり、稲作文化と関連の深い風習だと考えられる。
古神道 / 神が鎮座する(神留る・かんづまる)山や森を神奈備といい信仰した。後に森や木々の神籬(ひもろぎ)や山や岩の磐座(いわくら)も、神が降りて宿る場所あるいは神体として祀られ、その証に注連縄がまかれた。
語源 / 注連縄の「しめ」とは「占める」ことを指し、縄が神域と俗界を分けるものであることを表す。古語の「しりくめなわ」は、尻(端)を切らないで垂らしておく縄の意。なお、「注連縄」と書いた時の注連(ちゅうれん)とは、中国において死者が出た家の門に張る縄のことで、故人の霊が再び帰ってこないようにした風習である。これが門に縄を渡すさまや、霊的な結界であることが日本のしめ縄と似ているので字を当てたのである。
巻き方・注連方(しめかた)
縄を綯(な)う=「編む」向きにより、左綯え(ひだりなえ)と右綯えの二通りがある。左綯えは時計回りに綯い、右綯えは逆で、藁束を星々が北極星を周るのと同じ回転方向(反時計回り)で螺旋状に撚り合わせて糸の象形を作る。
左綯え(ひだりなえ)は、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。祀る神様により男性・女性がいて、なう方向を使い分ける場合がある。
大きなしめ縄は、細い縄を反時計回り(又は逆)にまわしながらしめ、それを時計回り(又は逆)に一緒にしていく。
形状
注連縄・注連飾りには、大根締め、ゴボウ締め、輪飾りなど色々な種類の形式がある。 大根締めは両端がつぼまり、ゴボウ締めは片側のみが細い。
材料
稲や麻などの藁や、葛の茎を煮て抽出した繊維が使われるが、近年の家庭用の注連飾りにはビニール製も増えてきた。神道としては、米を収穫したあとの藁ではなく、出穂前の青々とした稲を刈り取って乾燥させたものが本来の姿である。また、心材としてお米を収穫したあとの藁(芯わら)も使用するが、太さが必要な際には多くの芯わらを使用する。麻と糠を概ね1:5の割合で混ぜてよく揉んで油分を抜くことで注連縄に適した材質が生まれる。
なお、『日本書紀』には、弘計天皇の項に「取結縄葛者」とあり、葛縄が大変重要な建築資材であったことが記される。
また、江戸時代に、国学者塙保己一・塙忠宝親子が天帝の葛天氏は葛縄や糸や衣の発明者であったと講談し、葛縄や葛布が神聖視されたことを示した。
飾る時期
飾り始める日は松飾りの飾る期間と同じ扱いで良いが、地域によって異なり、現在では28日までに飾る。29日と31日に飾る事は縁起が悪いとされ、31日に飾る事を一夜飾りといい、迎え入れる神様に失礼であるとされる。飾りを外す日も地域によって異なり、1月7日に七草がゆを食べた後、若しくは15日の小正月の後に外すとされる。一方、三重県伊勢志摩地方や宮崎県高千穂町、熊本県天草地方などでは一年中注連縄が飾られる。
注連飾り
本来の意義は、各家庭が正月に迎える年神を祀るための依り代とするものである。現在でも注連飾りを玄関に飾る民家が多く見られる。形状は、神社等で飾られる注連縄の小型版に装飾を加えたもので、注連縄に、邪気を払い神域を示す紙垂をはじめ、子孫の連続を象徴するダイダイの実やユズリハの葉、誠実・清廉潔白を象徴するウラジロの葉などのほか、東京を中心にエビの頭部(のレプリカ)などが添付されることが多い。
これとは別に、東日本を中心に、長さ数十cmほどの細い注連縄を、直径数cm程度の輪形に結わえて、両端を垂らした簡易型の注連縄が広く見られる。これは京言葉で「ちょろ」、東京方言などで「輪飾り」、東海地方などで「輪締め」などと呼ばれている。近畿地方では台所の神の前に飾る程度だが、東日本では、門松に掛ける(東京周辺など)、玄関先に掛ける、鏡餅に掛けるなど、非常に広く用いられる。一般家庭では、本来の注連縄の代用とされる場合も多い。  
しめ縄
由来
しめ縄が始まったきっかけは、『日本神話』に書かれています。その昔、太陽の神である天照大神は、弟の須佐之雄命が悪さをすることに怒り、岩戸に隠れてしまいました。そのため、空も真っ暗になってしまったのです。困った人々は天照大神に出てきてもらうために、踊りました。その音に気が付いた天照大神が岩戸から出てくると、再び入ってしまわないように岩戸をしめ縄でしばったといわれています。それが、しめ縄の起源とされています。
漢字の由来
しめ縄は漢字で「注連縄」と書きます。「注連」という言葉は、中国にあった風習からきています。中国では、死んだ人が再び家に入ってくることがないよう、家の入口に水で清めた縄を連ねて張っておく風習がありました。日本にもあったしめ縄と、中国のこの習慣で使われていた縄が似ていたため、日本に「注連」という文字が定着するようになりました。
他の漢字表記
   標縄
万葉集にしめ縄をさすものが、「標」という言葉で出てくることに由来します。当時のしめ縄には主に3つの役割がありました。
・ある場所への立ち入りを禁止するために張り巡らせる
・道しるべとして、木の枝などに縛り付ける
・俗世と神聖な領域を分ける
例えば、万葉集にはこのような歌があります。「山守の ありける知らに その山に 標結ひ立てて 結ひの恥しつ」現代語訳にすると、「すでにこの山には番人がいるとも知らないで、自分の山にしようと標縄を張って恥をかいてしまいました」この場合の「標」は、場所への立ち入り禁止を示すためのしめ縄と解釈されます。このように、場所を区切る、という意味合いでしめ縄は使われていました。それが、現在の神社で、世俗と神の領域を分けるしめ縄の由来となったようです。
   七五三縄
この呼び名には諸説あります。
説1) 古代中国で七、五、三などの奇数は、良いことを表す陽数といわれていました。一方、偶数は悪いことを表す陰数とされていました。そのため、七、五、三という陽数によって、神社など神様の領域に陰が入らないようにするという意味があります。
説2) しめ縄には、〆の子という藁の装飾品がついています。この〆の子がしめ縄に3本、5本、7本と垂れ下がっているため、「七五三縄」と呼ばれるようになりました。
説3) 神社を建てる際、柱に縄をかけます。このとき3回巻いた後、逆に5回巻き、さらに逆に7回巻きます。この巻き方だと、建設が終わったときに縄がほどきやすいとされています。この巻く数から、三五七縄と表記されるようになったという説です。
   〆縄
「〆」という字は、「占める」「閉める」という意味合いがあります。しめ縄も特定の場所を占有する、他を締め出すという役割があるので、「〆」という漢字があてがわれる由来となりました
しめ縄の意味と飾り方
しめ縄は、神様がいる場所に飾ることで、その場所が世俗領域と神域の境目であることを示しています。神社などにしめ縄が張り巡らされているのは、そこが神様のいる場所であるからです。一方、お正月に一般家庭でしめ縄が飾られるのはなぜでしょうか。それは新年の神様である、歳神様をお迎えするためです。もともと、お正月は歳神様を招き、良い新年となるよう願う行事です。しめ縄を飾ることで「我が家は神様を迎えるのにふさわしい場所」であることを示しているのです。そのため、神様が入ってきやすい玄関に飾るのが一般的です。ただし、最近ではお守りがわりのようにも使われていますよね。車のナンバープレートの上につけている人も少なくないようです。 
しめ縄・しめ飾り
お正月の意味
しめ縄の意味と由来の前に「お正月」の意味を少しご説明致します。というのも、しめ縄はお正月という神道の行事のなかの、一つの要素になるからです。そもそも正月行事は、元旦に歳神様という神様がくるので、家にお迎えして、おもてなしをして、お送りするという行事になります。歳神様は今年1年の幸せと恵みを与えて下さる神様で、そこには色々な意味が含まれています。
しめ縄を飾る意味
年の瀬が迫ると、家にはしめ縄や鏡餅を飾りますが、これは歳神様をお迎えするための準備なのです。しめ縄を飾る意味は、そこが神様をまつるのにふさわしい神聖な場所であることを示すためで、そこが神の領域と現世を隔てる結界として機能します。更には、中に不浄なものが入らないようにするためでもあります。力士が相撲の土俵に上がる際はしめ縄をしていますが、これは土俵を清める意味が込められています。
古事記の神話「天の岩戸伝説」が起源!?
古事記や日本書紀には「天岩戸(あまのいわと)伝説」というものがあります。この物語の概略は次になります。
「天の岩戸伝説
天照大神(あまてらすおおみかみ)という神様の、弟である須佐之雄命(すさのおのみこと)が、悪さばかりを働くため、兄の天照大神は腹を立て天にある岩屋へと隠れてしまいました。太陽神である天照大神の力によって地上は明るく照らされていましたが、岩屋に隠れてしまったため地上は真っ暗になりました。この事態に神々は天照大神をなんとか岩屋から連れ出そうとし、岩屋のある岩戸の前で酒を飲んで踊ることにしたのです。そうすると、他の神々が何をやっているのかと様子を見に天照大神が岩屋から出てきた所を、天手力雄命(たじからおのみこと)が岩戸を開けて天照大神を外に連れ出しました。そこで他の神々は天照大神がまた岩屋に戻ってしまわないように岩戸をしめ縄で縛って塞ぎました。」
この神話がしめ縄を飾る起源であるという説が有力だとされています。太陽神である天照大神が岩戸に隠れないようにと、しめ縄を家に飾るのです。しかし、弟が悪さをしただけで、太陽神である自分の役割を放棄して岩戸に隠れるというのは、本当に神様なの?という疑問はありますが、、、、、
しめ飾りとは?
しめ飾りとは、しめ縄に縁起物などの飾りを付けたものをいいます。多く見られるのが、次の四つです。主な飾り・・・
・紙垂(かみしで/しで)→神様の降臨を表す、
・裏白(うらじろ)→清廉潔白を表す
・譲り葉(ゆずりば)→家系を譲って絶やさず子孫繁栄を願う
・橙(だいだい)→代々栄えるよう願う
・前垂れ(まえだれ)→五穀豊穣を願う
これらを飾る意味は、しめ縄と同じで、自分の家が歳神様をお迎えするためにふさわしく、神聖な場所であることを示すということにあります。しめ縄、しめ飾りをすることで結界をつくり、家の内側を清らかな場所に保ち、歳神様が安心してこられるような状態をつくるのです。
しめ縄・しめ飾りの種類
しめ縄・しめ飾りは、の種類は多種多様で、その地域や場所によって形や飾りが大きく異なります。家に結界をつくり、内側を清められた状態に保つために張るので、張る場所・張り方には色々と考え方、やり方がありましたが、今ではそれらは簡略化されて玄関・神棚に飾るというのが主流になっています。ここでは、一番主流になっている4種類の「しめ飾り」をご紹介致します。
   ごぼう注連
西日本で多く用いられている形で、神棚によく使われことが多く、「ごぼう」のようなのでこの名前が付いています。縄のねじりが、左へねじる「左綯い」(ひだりない)になっているのがお正月のしめ縄の特徴です。これは、左が神聖で右が俗(日常)と考えられてきたために、このようなねじりをします。縄の向きは、神様から見て左側(人から見ると向かって右側)が太いほうになるように飾ります。裏白、紙垂、譲り葉、橙などを付けることが多いです。
   ごぼう注連と前垂れ
ごぼう注連に、前垂れ(わらの垂)をつけるタイプです。飾りには紙垂、裏白、譲り葉、橙、前垂れを使うことが多いです。玄関先に飾られ、西日本でよく使われるタイプです。
   玉飾り
東日本で多く使われているタイプで、後ろのしめ縄が玉のような輪になっているのが特徴で、玄関先に飾られます。形は太いしめ縄を輪にし、前垂れ、裏白、紙垂、譲り葉、御幣、橙、水引、海老、扇など飾りを付けているものが多いです。
   輪飾り
細いしめ縄を輪にし、譲り葉、紙垂などをつけたタイプです。「輪飾りは」しめ縄を簡略化したもので、スペースが限られた、キッチン、トイレ、バスルームなどの水回りに飾ります。 
 
 
 
 
 
 

 

●鏡餅
鏡餅を飾る意味 / 歳神様のお供え物・依り代
鏡餅の由来 / 平安時代の宮中での正月行事「歯固め」
鏡餅の名称の由来 / 昔は神聖な物とされていた円形の鏡
鏡餅を飾る日にち / 12月13日〜大晦日(特に28日が縁起がよく、29日・31日は縁起が悪い)
鏡餅を飾る場所 / 床の間が最も一般的だが、特に厳格な決まりはない
鏡餅を外す(鏡開きの)日にち / 通常1月11日、関西は1月20日、京都や近隣の地域は1月4日
鏡餅の意味や由来
鏡餅を飾る意味
毎年、年が明けると家々に“歳神様がやってきて幸せを持ってきてくれる”と言われており、そのために鏡餅などの正月飾りが重要になります。鏡餅は歳神様へのお供え物であり、歳神様の依り代になるものなのです。お供えをした鏡餅には歳神様の生命力や霊力が宿っているため、これを鏡開きの日に食べることでその恩恵を頂けるという意味があるのです。
鏡餅の由来
平安時代に書かれた『源氏物語』に「餅鏡」の記載があり、これが確認できる最も古い書物なので、この時代が起源になっていると考えられています。当時は宮中の正月行事として、餅鏡や大根、押し鮎、イノシシ肉などを食べていました。これは“歯固め”といい、「年齢という字に歯が含まれていることから、健康的に年をとるには歯が重要」という考えのもと、健康や長寿を祈願した行事です。この頃はただ食べるだけであった鏡餅ですが、室町時代以降に床の間に具足(甲冑)とセットで鏡餅が備えられるようになりました。
鏡餅の名称の由来
なぜ「鏡餅」というのでしょうか。これは昔の鏡の形が鏡餅と同様に円形だったことに由来します。昔の鏡は円形でかつ青銅でできており、神事に使われる神聖なものとされていました。この神聖な鏡にあやかって「鏡餅」という名称になったというのが有力な説です。また、鏡餅は三種の神器を模した物であるとも言われています。円形の餅は八咫鏡(やたのかがみ)、橙は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、串柿が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。
鏡餅の飾り方(時期・場所・手順)
鏡餅はいつから飾るべきか?
鏡餅は飾るのが早くても問題ありませんが、基本的に他の正月飾り同様に松の内の期間に飾り始めるのが一般的です。
松の内の期間
・一般的な松の内の期間 / 12月13日〜1月7日
・関西の松の内の期間 / 12月13日〜1月15日
正月になるまでに飾る必要があるので、『12月13日〜12月31日』の期間ですね。ただし、この期間の中でも特に縁起が良い日、縁起が悪い日などあります。
・28日(縁起が良い) / 日本において幸運を意味する末広がりの「8」を含む
・29日(縁起が悪い) / 『苦』を連想させる「9」が含む
・31日(縁起が悪い) / 正月前日は慌ただしく、神様に無礼だと考えられているおり、「一夜飾り」や「飾り方が葬儀を連想させる」と言われる
特に事情がない場合、『28日』に鏡餅を飾るようにしましょう。早く飾りすぎても常温で餅を置いておくとカビが生えやすいですからね。
鏡餅を飾る場所
鏡餅を飾る場所についてですが、厳格な決まりはありません。ただ、元々床の間に具足とセットで飾られるようになったのが由来なので、“床の間”が最も適した場所と言えます。畳の敷いてある座敷部屋ですね。しかし、床の間がない家庭も多いと思うので、その場合は大事だと思っている場所に飾りましょう。具体的には、神棚や玄関、台所、リビングなどですね。繰り返しますが、鏡餅を飾る場所に厳密な決まりはないので、深く考える必要はありません。複数の場所に飾っても大丈夫です。
鏡餅の飾る手順
鏡餅は様々な種類があり、地方によって縁起物の装飾も変わってきます。ここでは一般的な鏡餅の一つの飾り方をご紹介するので、ぜひ参考にして下さい。図のようにしてもらえばいいのですが、言葉で説明すると以下のようになります。
1.三方の上に四方紅を置く(図のように三方の正面に四方紅の角がくるようにする)
2.四方紅の上に裏白の葉を正面に垂れさせる置く
3.その上に餅を2つ重ねて置く
4.御幣を正面に垂れさせるように置く
5.橙を乗せる
6.末広を置く
御幣を餅の下に置いたり、末広を橙の上に置いたりする場合もよく見かけられます。
鏡餅の処分方法
鏡餅はいつ取り外す?
門松やしめ縄など他の正月飾りは松の内の最終日に取り外しますが、 鏡餅は鏡開きの日に撤去して食べるのが決まりです。ただ、松の内同様に地域によって鏡開きの日にちが異なるので注意が必要です。
鏡開きの日にち
・一般的な鏡開き日にち / :1月11日
・関西の鏡開きの日にち / 1月20日
・京都や近隣の地域の鏡開きの日にち / 1月4日
鏡餅はどうやって処分する?
鏡餅は鏡開きの日に食べるのが決まりです。ただし、包丁などで餅を切るというのは切腹を連想させるため不謹慎とされており、槌で叩いて割るのが一般的です。食べ方については特に決まりはないので、焼いて食べてもお雑煮に入れて食べて構いません。
鏡開き
関東と関西の鏡開きの日にちが違う理由
昔の鏡開きは関西以外でも、“松の内”が終わった後の1月20日に行われていました。しかし、徳川家光が亡くなったのが4月“20日”だったので、 1月“20日”を忌日として避け、1月11日に行う風習徳川幕府のある関東を中心に広まりました。この風習が正確に広まらなかった関西の地域が、 1月20日に鏡開きを行っているのです。また、鏡開きの日にちの変更に伴い、 元々全国的に1月15日までだった“松の内”の期間も1月7日に変更されました。これは、 松の内の期間のうちに鏡開きをすること、 つまり、 「鏡開きの後もお正月飾りを飾っておくことがおかしい」とされたためです。元々鏡開きは松の内が終わった後に行われていましたからね。しかし、鏡開きの日にちが変わらなかった関西では、松の内の日にちを変える必要もないのです。
鏡開きの意味とは?
鏡開きとは、お正月に神様、仏様に供えていた鏡餅を下げ、 それを食べるという風習です。神様に供えた食べ物には力が備わると考えられ、 神様や仏様に感謝しながらそれを食べることによって、無病息災を祈願しています。
鏡開きのマナー
鏡餅を包丁で切るということは、切腹を連想させるので、 マナーに反すると考えられています。鏡餅は、一般的に木槌で開くことが縁起が良いとされています。 
 
●鏡餅・諸話
鏡餅 1
日本の伝統である、餅を神仏に供える正月飾り(床飾り)であり、 穀物神である「年神(歳神)」への供え物であり、「年神(歳神)」の依り代である。
鏡餅という名称は、昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものであった。三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。また、三種の神器の他の二つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿であるとされる。
平安時代には既に存在し、当時に書かれた源氏物語には『歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて』の一節がある。 鏡餅が現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降である。
武家では、床の間に具足(甲冑)を飾り、その前に鏡餅を供えた。鏡餅には、譲葉・熨斗鮑・海老・昆布・橙などを載せるのが通例となり、これは具足餅(武家餅)と呼ばれた。
和漢三才図会に掲載された御鏡
江戸時代1712年ごろ日本の百科事典として出版された和漢三才図会巻19には、天武天皇4年からの習俗として、「しとき餅」の項に「御鏡是也」と解説された祭餅の図がある。これは、稗や黍餅のことで、稗(きび)団子の類。古人は黍や稗を多用したが、江戸時代には鏡に似せて糯米で円形に作るため、俗に御鏡と呼ばれたとある。なお、「しとき」の語は日本北部のアイヌにも伝わった。アイヌ文化では、黍や粟の団子を「シト」と呼び、タマサイ(女性用の首飾り)のペンダントヘッドに相当する円い金属の板(円鏡)を「シトキ」と呼ぶ。
古事類苑に掲載された江戸前期の鏡餅は黒
明治29年から大正3年に百科事典として刊行された古事類苑‐歳時部‐歳暮‐餅搗の項に、江戸前期の京都周辺の民間の習俗を採録した「日次紀事」からの転載として、鏡餅についての解説がある。関係箇所を要約すると、次のとおり。旧暦の12月末の夜に、倭俗として円型や菱瓢箪型の餅を搗き、それを神仏に供えたり母方の親族に贈ることを鏡を据えるという。大きい円を鏡に似ていることから鏡と言い、その鏡餅の上に小さい円を載せることは義である。その形が天に相似ることから小さいものを星点という。なお、星空に似る星点を乗せた鏡餅の色は黒かったようだ。1943年4月10日の大阪毎日新聞に、「昔でも代用食研究 食糧問題の史的意義 本庄商大学長講演」と題する記事があり、そこには、江戸時代の初期国民は一般に雑炊または黒米飯を常食としたと記されている。また、江戸時代初期に活躍した松尾芭蕉の俳句に、「花にうき世我が酒白く飯黒し」がある。
明治時代の浮世絵に描かれた鏡餅は白
「血まみれ芳年」と称された浮世絵師月岡芳年が明治24年描いた作品に「金太郎蔵開絵」がある。ただし、画中には「くら美良喜」と記されている。この明治期の浮世絵に描かれた鏡餅は白く、乾燥したようにひびが入っていて、その鏡餅を割ろうとする金太郎の手には、血のりの付いた斧が握られている。そして、その金太郎の隣では、平安時代の装束の女性が鉢巻をして扇を持ち、金太郎に話しかけている。 
鏡餅 2
鏡餅は神仏にささげるものとも、神様と人間をつなぐものとも云われています。形状も一般的な丸いお餅をふたつ重ねたものだけでなく、三枚重ねたものや紅白と色違いで重ねたもの、またお砂糖を固めて象ってあるものなど地方によっても特色があるようです。語源は、お餅の形の丸さが昔の鏡に似ているところから「鏡餅」と名づけられたと云われています。鏡というのは「三種の神器」の一つで、天皇家が代々、受け継いできている神器のひとつにもあるように、日本人にとっては宝物の象徴の形ですね。また鏡には神様が宿るという言い伝えがありますから、鏡の形を象ったお飾りで一年の始めを神様と共にお祝いするというのも素敵な行事ですよね。
鏡餅と一口にいってもお餅の形状もさまざまなら飾り方も様々だそうです。基本的には天辺に橙、もしくはみかんを飾り、御幣(ごへい)・四手(しで)といった紅白の紙細工を橙の下に置き、お餅の下には縁を紅でとってある四方紅といった紙を敷きます。後は裏白といってシダの葉っぱをお餅の下だったりお餅とお餅の間に海老などを飾る場合は海老のバックにつけたりと飾るようです。それ以外にも金と銀の水引をたらしたり、扇をつけたり、昆布や熨斗あわび、干し柿、するめなどを一緒に飾ったり、地方によっては御幣の切り方に特徴があったりと様々な趣向があるとのこと。それぞれのお飾りに意味があるので全部は無理でもポイントはちゃんと押さえて飾った方がいいですね。基本形のお飾りの意味をご紹介しますね。
・橙(みかん)=子孫が代々(=橙)栄えるように。
・御幣、四手=四方に繁栄するように。赤と白を使うのは魔よけの意味もあるそう。
・裏白=古い葉と新しい葉が一緒に成長するシダの葉の特徴から末永く繁栄するように。
・四方紅=赤い縁取りが天地四方を守り一年の繁栄を願って。
他にもいろんなお飾りに各々意味がありますので、それぞれの地域のお飾りについてお子さんと一緒に調べてみるのもいい食育の時間になりますね。因みに鏡餅を載せる台については正式には「三方(さんぽう)」という昔から神事につかわれる台があります。これは三宝と表記される地方もあるようですね。台についてはこの三方をご用意されるのも一つですし、そこまではという場合には四角い形のお盆に飾られるのもいいでしょう。これはお餅が丸=陽の気を持っていますので四角=陰の着のお盆に載せることで場の気を「中庸」とするためです。
それでは鏡餅はいつ飾ったらよいのでしょうか? 一般的には末尾が8と末広がりとなっている12月28日が好ましいといわれています。29日は9という字を日本では苦しむといって嫌うので避ける地域が多いようですね。また門松などもそうですが、お正月のお飾りは一夜飾りはよくないといって31日に飾ることを避ける地域が多いようです。が、この一夜飾りというのは場所によっては敢えてされる飾り方である場合もあるようです。それは氏神さまの12月31日に創健されている場合。その場合は神様の流儀に合わせて一夜飾りにするそうです。せっかくのお祝いごとですから、自分の氏神さまがいつ創健されているかどうか解らない場合は地元の神社に聞いてみるといいですね。 
鏡餅 3
昔も今も祝いごとや祭りなどの時によく登場する餅。餅は稲の霊が宿るハレの日の食べもので、食べると生命力が与えられると考えられ、神様に捧げる神聖なものだったのです。正月には鏡餅を飾り、雑煮をいただきます。実は、鏡餅を知ることでお正月の本当の意味がわかってきます。
なぜ鏡餅を飾るの?
元旦には「年神様」(としがみさま)という新年の神様が、1年の幸福をもたらすために各家庭にやってくるとされています。お迎えした年神様の依り代(よりしろ)、つまり居場所が「鏡餅」なのです。年神様は祖霊神であり、田の神、山の神でもあります。そのため、子孫繁栄や五穀豊穣に深く関わり、人々に健康や幸福を授ける神様として、「正月様」、「歳徳神」(としとくじん)とも呼ばれて大切にされてきました。そもそも一連のお正月行事というのは、その年神様を迎え入れてお祝いし、たくさんの幸せを授けてもらうためのものなのです。
鏡餅の役割
年神様は、新しい年の幸福や恵みとともに、私たちに「魂」を分けてくださると考えられてきました。「魂ってなに?」と思うかもしれませんが、「魂」とは、私たちの生きる力、気力のようなものです。では、どうやって年神様から「魂」を分けていただくのでしょうか。年神様の「御魂」(みたま)は、年神様が依りつく鏡餅に宿るとされ、この鏡餅の餅玉を分けていただくことで「魂」をいただいたのです。その年の魂となる「年魂」をあらわす餅玉は、家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与えました。これがお年玉のルーツで、玉には「魂」という意味があります。そして、いただいた「魂」を体内に取り込むための料理が「雑煮」です。ですから、お雑煮には必ず餅が入っており、お雑煮を食べないと正月を迎えた気がしないというのも当然なのです。また、年神様に毎年分けていただく「魂」の数を数えれば年齢になります。母親のお腹の中にいるときにすでに魂があるから誕生時は1歳で、その後は元旦がくるたびにみんな一斉に年をとりました。それが「数え年」です。さらに、鏡餅には「歯固め」という意味もありました。丈夫な歯の持ち主は何でも食べられ、健康で長生きできます。そこで、新年の健康と良運とさらなる長寿を願う行事を「歯固め」といい、固くなった鏡餅を食べました。現在の鏡開きが「歯固め」の儀式にあたります。そういえば、「年齢」という言葉にも歯の字が含まれていますね。
鏡餅はなぜ丸い?
鏡餅が丸いのは、昔の鏡に由来します。昔の鏡は丸い形をした銅鏡でした。天照大神から授かった三種の神器※のひとつであり、伊勢神宮をはじめ、鏡をご神体としているところもたくさんあります。鏡餅は年神様の依り代ですから、ご神体としての鏡をお餅であらわし、「鏡餅」と呼ばれるようになったのです。鏡餅の丸い形は、昔の丸い鏡を模した「魂」の象徴で、大小2段で月と太陽、陰と陽を表していて、円満に年を重ねるという意味も込められています。 ※天照大神から授けられたとする鏡、剣、玉を指し、皇位継承の証として歴代天皇が継承している三種の宝物。 
鏡餅の由来 4
鏡餅(かがみもち)の原型はすでに平安時代から存在しており、『源氏物語』にも「歯固めの祝い」に鏡餅が供された記述がみられる。戦国時代には、床の間に具足(甲冑)が飾られ、その前に鏡餅が供えられたことから、「具足餅(ぐそくもち)」または「武家餅」などと呼ばれたという。
飾り付けの意味
現代日本の一般家庭における鏡餅は、二段のお餅の上にダイダイ(みかん)というシンプルな構成のものが一般的だが、伝統的な飾り付けとしては、次のような数々のお飾りが用いられてきた。その意味合いも含めて列挙してみた。
ダイダイ(みかん) 子孫が代々(だいだい)続くように願う語呂合わせ。また、日本古来の柑橘類・タチバナ(橘)は、日本書紀や古事記では、永遠の命をもたらす「非時香木実(非時香菓/ときじくのかぐのこのみ)」とされ、タチバナやダイダイなどの柑橘類には特別な意味合いが込められる。注連飾り(しめ飾り)にも使われる。
串柿(くしがき) 文字通り串に横一列に指した干し柿。幸せや財産をかき寄せるという意味合い。
お餅 神様が宿る「神鏡 しんきょう」が由来とされ、丸い形は魂を表し、二段重ねは「円満に年を重ねる」という意味がある。
ユズリハ(譲葉) 新しい葉が出ると、古い葉が譲るように落葉することから名付けられたユズリハ(譲葉)。親が子を育てて家が代々続いていく様を表す縁起物。
ウラジロ(裏白) 先年に出た二枚の葉の間から、さらに新たに二枚の葉が出て毎年積み重なるウラジロ。家が代々続いていく縁起を担いでいる。また、左右対称の形が夫婦円満を表すとも。注連飾り(しめ飾り)にも使われる。
ホンダワラ 神馬藻・玉藻 海の生き物の霊が宿るとされ、豊漁祈願の飾りとして用いられる。
昆布 こんぶ 「よろこぶ」の語呂合わせ。幸せを引き寄せる。おせち料理にも欠かせない。
三種の神器との関係
鏡餅(かがみもち)の飾り付けについては、日本神話に登場する「三種の神器(さんしゅのじんぎ/みくさのかんたから)」との関連性が指摘されることがあるようだ。具体的には、三種の神器のうち、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」がダイダイ(みかん)、「八咫鏡(やたのかがみ)」が丸いモチ、そして「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」が串柿と対応するという。「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」については、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」の異名のほかに、「八重垣剣(やえがきのつるぎ)」とも呼ばれるが、この「八重垣(やえがき)」が「八つの柿(かき)の吊るし」と語呂合わせになったとも説明される。なお、実際に鏡餅に添えられる串柿の数は、「八重垣」を意識した「八つの柿」になるとは限らず、2個多い10個の串柿となるケースもあるようだ。その理由としては、外側が2個ずつでニコニコ笑顔、内側が6つで「仲睦まじい(なかむつまじい)」の語呂合わせになっているという。 
鏡餅 5
稲魂(いなだま)
日本の文化を民俗学や歴史学の視点から調べてみると、稲や米がとても大切な意味をもつ食べ物であったことがわかります。秋の勤労感謝の日は、もとは新嘗祭(にいなめさい)の日でしたが、それは古代から続く稲の収穫感謝の祭りの日でした。稲には、稲魂(いなだま)とか穀霊(こくれい)という言葉があるように、人間の生命力を強化する霊力があると考えられてきました。春夏秋冬の季節のめぐりの中で、長い時間と労力をかけて気候の変動にも影響をうけながら、毎年一回ずつ収穫されるその年の新しいお米、それを炊いて食べることによって、人びとの生命力がひとつずつ強化され更新されると考えられたのです。
餅と白鳥
稲や米の霊力は、それを醸して造る酒や、搗き固めて作る餅の場合には、さらに倍増するとも考えられました。酒は百薬の長といわれ、医の正確な字である醫には酒をもって病いを治癒するという意味が含まれています。神社の祭りや冠婚葬祭では、お酒は欠かせない飲み物です。また、餅が古くから神妙な食べ物であったことを物語る伝説は、奈良時代に編纂された『豊後国風土記』や『山城国風土記』に残っています。餅を弓矢の的に見立てて射ようとしたところ、その餅は白鳥となって飛び去り、人びとは死に絶え水田も荒れ果てたというのです。白餅は白鳥に連想されており、決して粗末に扱ってはならないもの、神妙な霊性を宿すもの、と考えられていたのです。
歯固めと鏡餅
平安時代に書かれた紫式部の『源氏物語』には、正月行事について次のような記述があります。「ここかしこに群れゐつつ、歯固めの祝いして、餅鏡さへ取りよせて、千歳のかげにしるき年の内の祝い事どもして、そぼれあへるに、」 つまり、当時の宮中の正月行事では、新年の健康と良運とさらなる長寿を願う意味で、歯固めの祝いと餅鏡つまり鏡餅の祝い、とがセットになっていました。年齢という言葉に歯の字が含まれているように、健康と長寿のためには丈夫な歯が大切だと考えられていたのです。
お正月は先祖の御魂祭り
平安時代には、お正月は死者や先祖の御魂(みたま)が友人や子や孫たちのもとを訪れると考えられていました。曾禰好忠(そねのよしただ)という人の歌に次のようなものがあります。魂祭る 年の終わりになりにけり 今日にやまたも あはんとすらむ(『詞花和歌集』)。今年も死者や先祖の御魂を祭る歳末がやってきました、このお正月にはまた貴方にお会いできることでしょうね、というような意味の歌です。民間の行事でも、東北地方では近年までミダマメシなどといって、お正月には握り飯に箸を立てて仏壇に供えて、先祖の御魂をまつる行事が伝えられていました。それらは古風を残した民俗であったろうと考えられます。
年神様と歳徳神
一方、日本各地の多くの地方では、正月様とか年神様と呼ばれて、漠然と新年の良運と年齢を授けにやってくる神様だと考えられていました。また、陰陽道の信仰が民間にも広まった江戸時代には、町方を中心に、お正月の神様はその年の縁起の良い方角である恵方からやってくる歳徳神だという信仰が起こり、それも地方によっては広まっていました。お正月にやってくる神様にも、先祖の御魂、年神様、歳徳神というバリエーションがあり、それは時代ごとの人びとの理解の変化でもあったのです。そのお正月の神様は、人びとに年玉という年齢を授ける神様でもあり、同時に一年の良運を授ける神様でもあると考えられてきました。正月行事の基本は、生業の上でも、年齢の上でも、運気の上でも、すべてがリセットされるという点にあります。旧い一年に区切りをつけて、新しい年を迎え、年齢を一つ重ねて、運気を更新する、大切な節目だったのです。
鏡餅と伝統文化
鏡餅は、文字通り円い鏡の形をあらわしているとか、心臓の形をあらわしているとか、また丸く円満な人間の霊魂をかたどっているなどと言われていますが、同時に、年神様の神霊が宿る聖なる供物でもあります。そして、歯固めの願いが込められた硬い供物でもあります。新鮮で清らかな米から搗かれた鏡餅が、歳末から床の間などで正月飾りの中心として供えられ、新年の家々の厳粛さを支え、やがて鏡開きの日にぜんざいなどにして食され、その聖なる生命力とよい運気と歯固めの効力とが人びとに分かち与えられる、このような伝統的な行事は、歴史をふまえて考えるならば、なんともおくゆかしい日本の伝統文化といってよいでしょう。日本の伝統文化を考えるとき、重要で不可欠なことは外国にも当然大切にされている伝統文化があるということです。自分たちの歴史と文化を知るとともに、他の国の人たちの歴史と文化をよりよく知るということは、国際交流の上でもたいへん大切です。鏡餅という歴史の長い立派な奥ゆかしい日本の伝統文化を、外国の人たちにも紹介してみることも大切でしょう。そして、みずから鏡餅を飾りながら、味わいながら、新年の健康と幸運と平和を祈るとともに、諸外国の正月行事について調べてみるのも興味深いでしょう。日本の行事を実践するとともに世界の国々の伝統文化を知り、比較文化の視点でお互いの理解を深めていくことが大切でしょう。
お正月にお供えする理由
鏡餅の丸い形は人の魂(心臓)を模したものといわれ、また昔の鏡が円形だったことから「鏡餅」と呼ばれるようになりました。元禄8(1695)年に出版された「本朝食鑑」に「大円塊に作って鏡の形に擬(なぞら)える」との記載があることから、鏡餅は拝み見るべきものだったのかもしれません。大小2つ重ね合わせるのは、月(陰)と日(陽)を表しており、福徳が重なって縁起がいいと考えられたからとも伝えられています。鏡餅の呼び名は地方によって違います。お住まいの地域では鏡餅を何と呼んでいますか?もちろん「鏡餅」が一般的ですが、地域によってさまざまな呼び名があります。方言を集めた書物「物類称呼」(安永4年、1775)を紐解いてみましょう。「かがみ餅 諸国の通称也 円(まどか)なる形によるの名なりとかや 東国にてそなえと呼 又ふくでん共云 越後及信濃にてふくでと云」このように、「そなえ」「ふくでん」「ふくで」という名が昔の文書に記されています。他にも「具足(ぐそく)餅」「座り餅」という地域も。一方で、鏡餅に限らず正月に食べる餅を「年玉」と呼ぶ地方もあります。これは、年を取らせてくれる穀霊が餅に宿ることを意味しているからです。 
鏡餅 6
お正月になると当たり前のように飾る鏡餅。さて、そもそもなぜ飾るようになったのでしょう?丸いお餅を飾るってどういうことなんでしょう?しかも、2段重ねで飾っています。餅の周りにも様々な飾りがのっています。よくよく考えると、鏡餅ってわからないことばかりです。お正月には歳神様と言われる神様が家にやって来てくれます。歳神様が家に来ると一年間その家を守ってくれると言われています。実は、鏡餅はその歳神様へのお供えするためのものなんです。その鏡餅にお正月の間、歳神様が宿ってくれます。その鏡餅を鏡開きで食べると、歳神様の宿った力を分けていただけるとされ、一年間、無病息災(病気や災い無く健康にすごせる)になると言われています。そもそも、お正月の行事自体が歳神様を迎えるための行事なんです。例えば、お正月に飾る門松は歳神様が家に来てくれる目印、しめ飾りはこの家が清められている証拠、そして年末にする大掃除も歳神様が来ても失礼のないようにと大掃除するわけです。また、鏡餅には『歯固め』の意味もあります。今でも健康寿命は歯の寿命が大切なんて言いますが、昔から日本では丈夫な歯は健康で長寿には大切と考えられていたようです。だから、固い鏡餅を食べて健康と長寿を祈る『歯固め』の祝いも行っていました。
そもそも、白い餅は神聖な物として扱われていたようです。古来から日本では稲や米には人間を強くする霊力があると考えられていました。その霊力がある米をさらに凝縮させているのが餅です。米の霊力がつまっているのが、餅なので神聖にあつかわれたと言われています。平安時代には餅は行事のお祝いの食べ物として、欠かせない食べ物になっていたようです。そもそもなぜ丸い餅をかざるかというと、諸説あります。まず一つ目のなんですが、丸い餅は鏡を模していると言われています。今では四角の鏡も多いですが、昔は鏡というと丸い形でした。そして、鏡自体が祭事に使われる神聖なものと言われていました。3種の神器の一つである鏡を模したとも言われています。餅が満月を表しているという説もあります。中国からこよみが伝わる前は、少し春っぽくなった満月の夜が正月の始まりとされていました。満月の夜にハレの日として祝う習慣があり、餅を満月に見立ててお供えするのが良いとされました。それが鏡餅になったという説です。また、鏡餅は蛇がトグロをまいた形状を模したものという説もあります。蛇は脱皮を繰り返し再生し生命力があり、穀物を荒らすネズミをやっつけてくれる蛇は、神聖なものとして、古来の日本より祀られてきました。だから、神聖な蛇を模して、鏡餅を供えたという説です。他には、鏡餅が丸いのは、人の魂(心臓)をかたどったものという説もあります。また、鏡餅が大小の餅を2段に重ねるのは、月と太陽、陰と陽を表しており縁起が良いとされました。鏡餅の丸い形は円満を、重ねるのはかさねがさねを意味していて、「かさねがさね円満を(円満に年を重ねる)」とか「福を重ねる」とか、いろいろ言われています。
鏡餅に上にのっているみかんは?
鏡餅の上にのっているみかんは橙(だいだい)です。橙(だいだい)はその家が代々繁栄するという意味があります。橙は果実が長い期間、枝から落ちずに付いていることから、強い生命の象徴(不老不死)として長く家が繁栄するようにという願いが込めれられています。
鏡餅から垂れ下がっている紅白の名前や意味は?
鏡餅から垂れ下がっている紅白の稲妻のような形の紙は『御幣(ごへい)』と呼ばれています。御幣は4方向に手を大きく広げて神様をお迎えし、繁栄するという意味があります。また紅白の色は、魔よけの役割もあります。
鏡餅に敷いてある紅白の紙は?
鏡餅に敷いてある紅白の紙は『四方紅(しほうべに)』と呼ばれています。紅を四方で囲むことによって、災いをはらい、一年の繁栄を祈願するものです。
鏡餅をのせている台は?
鏡餅をのせている台は『三方(さんぽう)』と呼ばれます。鏡餅を台にのせて礼儀を持たせる意味があります。この三方は鏡餅などのお供えだけではなく、高貴な方への献上の礼儀作法としても使われています。
鏡餅に供えられている葉は何?
鏡餅に供えられている葉は『裏白(うらじろ)』と言います。シダの一種です。シダは古い葉っぱが落ちずに、新しい葉っぱが出てくるので家族繁栄を願っています。葉っぱが左右対称になっているところから、夫婦円満も意味しています。
日本には古来から餅をお供えする習慣があり、様々な諸説があるようでした。 

 

●破魔矢
破魔矢を飾る意味 / 「厄除け」や「幸運を射止める」などの意味がある
破魔矢の由来 / 宮中での正月行事「射礼(じゃらい)」
破魔矢を飾る日にち / 12月13日〜大晦日(特に28日が縁起がよく、29日・31日は縁起が悪い)
破魔矢を飾る場所 / 床の間や神棚が一般的だが、特に厳格な決まりはない
破魔矢の方角 / 方角に決まりはない
破魔矢を外す日にち / 松の内の最終日(通常1月7日、関西など一部地域は1月15日)
破魔矢を処分する方法 / 「どんど焼き」に持っていく、都合の良い日に神社やお寺に持っていく、一般ごみとして出す
破魔矢の意味・由来
破魔矢を飾る意味
破魔矢は他の正月飾りとは異なる意味合いで飾られます。門松やしめ縄、鏡餅などは歳神様の依り代として飾られますが、それに対して破魔矢は歳神様とは関係なく「厄除け」や「縁起物」として飾られるのです。厄除けに関しては“魔”を破るという名前通りで、これは後述する由来に関係します。そして、矢になぞらえて「幸運を射止める」という縁起物の意味として飾られることもあります。
破魔矢の由来
破魔矢の由来については、かつての宮中の正月行事「射礼(じゃらい)」が起源と言われています。この行事は『ハマ』という円形の的を「ハマ弓」「ハマ矢」で射抜くという競技です。時代とともにハマが魔を打ち破るという意味の“破魔”に通じるとして、正月に弓と矢をあわせた玩具を男児のいる家庭に贈るという風習になり、「破魔矢」「破魔弓(はまゆみ)」と呼ばれるようになりました。この風習がさらに変化していき、いつの間にか正月の一般的な厄除け、縁起物として他の正月飾りと同様に飾られるようになっていったのです。
破魔矢の飾り方
破魔矢を飾る日にち
破魔矢に限らず、正月飾りは松の内の期間に入ってから飾ります。
松の内の期間
・一般的な松の内の期間 / 12月13日〜1月7日
・関西の松の内の期間 / 12月13日〜1月15日
正月までに飾る必要があるので、
『12月13日〜12月31日』の期間内に飾ります。ただしこの期間の内、特に縁起が良い日、悪い日などあります。
・28日(縁起が良い) / 日本において幸運を意味する末広がりの「8」を含む
・29日(縁起が悪い) / 『苦』を連想させる「9」が含む
・31日(縁起が悪い) / 正月前日は慌ただしく、神様に無礼だと考えられているおり、「一夜飾り」や「飾り方が葬儀を連想させる」と言われる
特に理由がない限り『28日』に飾ると良いでしょう。これは破魔矢だけでなく他のしめ縄や門松、鏡餅などの正月飾りも同様です。
破魔矢を飾る場所
破魔矢は“神棚”や“床の間”に飾るのが一般的とされています。床の間とは、畳の敷いてある座敷部屋です。ただし、これに関しては厳密な決まりがあるわけではありませんし、神棚や床の間がない家も多いと思います。なので、玄関や台所、リビングなど、自分が重要に思っている場所であればどこでも構いません。ただし、見下してしまうのは不謹慎とされているので、大人の目線よりも高いところに飾るようにしましょう。
破魔矢を飾る方角
破魔矢は飾る方角を気にする人も多いですが、これも全く気にする必要はありません。「凶の方角を向けて飾ると良い」とも言われますが、凶方位というと五黄殺、暗剣殺、歳破、本命殺、本命的殺など色々ありますからね。破魔矢は飾ること自体に意味があり、凶方位の厄を祓うなどというものはないので、方角を気にする意味は無いのです。
破魔矢の処分方法
破魔矢を取り外す時期
正月飾りは松の内の期間に飾るものなので、破魔矢は松の内の最終日に取り外します。通常は1月7日、関西では1月15日です。これ以外にも地域によって違うこともあります。
破魔矢を処分する方法
破魔矢などの正月飾りは次の年も使いまわしにする人もいますが、毎年きちんと処分して1年毎に新しい正月飾りを飾るのが基本です。正月飾りを処分する方法は3つあります。
1.どんど焼きに持っていく
2.都合の良い日に神社やお寺に持っていく
3.一般ごみとして出す
取り外した正月飾りは丁寧に保管した後、「どんど焼き」に持っていき焚き上げてもらうというのが正式な処分方法です。どんど焼きとは、1月中旬頃に神社やお寺もしくは自治体で行われている火祭りのことで、正月飾りや書き初めを焼くのが趣旨の行事を指します。名称は地域によって様々です。(例:左義長、とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼き) ただ、どんど焼きに行かなくても処分する方法はあります。どんど焼きの日以外に神社やお寺に行っても、正月飾りをきちんと焚き上げてくれるところは多いです。また、それ以外の方法としては一般ごみとして出すというのでも構いません。縁起物の破魔矢をゴミとして出すのは不謹慎に思うかもしれませんが、適切に処分すれば問題ありませんし一般的に行われています。ゴミとして出す手順は以下の通り。
1.細かくする
2.塩で清める
3.丁寧に新聞紙で包む
4.ゴミに出す
いずれにしても破魔矢を取り外してから処分するまでは丁寧に扱うのが大事です。 
 
●破魔矢・諸話
破魔矢 1
破魔矢(はまや)は、お正月に初詣などの際に授与される「縁起を祝うための矢」のことをいいます。「破魔」という漢字が示すように、不幸や災いといった「魔」を破って、幸福に一年を過ごせますようにという願いや、破魔矢が「矢」の形状をしていることから、一年間の好機を射止められますように、といった願いの意味が込められています。
さて、この破魔矢の由来は、古くから正月に行われていた「射礼」という年占いにあるといわれています。この射礼とは、地区ごとに弓射を競って、勝った地区はその年豊作に恵まれるという占いのことです。射礼に使われる的を「ハマ」と呼び、矢を「ハマヤ」、弓を「ハマユミ」といい、ここからハマヤという呼び名が来ています。
この年占いがやがて形式化され、のちに、お正月に男児の成長を祝う縁起物としてハマヤとハマユミを贈るという行事になりました。その行事がさらに簡略化され、のちに矢だけが、家庭の安全を願うお正月の縁起物として、神社仏閣で授与されるようになったといわれます。 
破魔矢 2
正月の縁起物や神具として神社・寺院で授与される矢である。破魔弓(はまゆみ)と呼ばれる弓とセットにすることもある。
このほか、家屋を新築した際の上棟式に呪いとして鬼門に向けて棟の上に弓矢を立てる。新生児の初節句に親戚や知人から破魔矢・破魔弓を贈る習慣もある。
正月に行われていた弓の技を試す「射礼」(じゃらい)という行事に使われた弓矢に由来するとされている。元々「ハマ」は競技に用いられる的のことを指す。これを射る矢を「はま矢(浜矢)」、弓を「はま弓(浜弓)」と呼んだ。「はま」が「破魔」に通じるとして、正月に男児のいる家に弓矢を組み合わせた玩具を贈る風習が生まれた。後に、一年の好運を射止める縁起物として初詣で授与されるようになった。
仏教において、青面金剛に従う四夜叉の一人、烏摩勒伽(うまろきゃ)が持つ金の弓矢が破魔矢の発祥であるという伝承があり、烏摩勒伽ら四夜叉を祀る日光の輪王寺では、それにちなんだ龍神破魔矢が販売されている。
日本では古来、呪術をかける事は少ないが、呪術に対する破邪の慣習は多くある。一般に破魔矢の先が鋭く尖っていないのは、目標とする人や物自体ではなく邪魔が発する邪気・邪意・邪道・邪心等の妖気を破り浄化する用を為せばよいので、鋭利な刃物である必要が無い為である。
一般には破魔矢のみがよく流通しているが、正式には、破魔弓で射て初めて邪魔を破り浄化する効力を発揮する。一般人が破魔矢を持つ意味は、破魔弓は神や神主や破邪の能力を有する者が持って方向と力と気を定めて構え、破魔矢の所有者は破りたい魔に対する矢を提示する形で射られる、との仕組から来る。  
破魔矢 3
初詣で人気の「破魔矢(はまや)」。そのいわれを知って、幸多き年にしましょう。
「破魔矢」とは、魔除けをするための矢のことで、破魔矢を放つための弓を「破魔弓」といいます。正月の縁起物として社寺で授与されますが、男の子の初正月や初節句に贈ったり、新築の家の棟上式に立てたりする習わしもあります。
本来、弓矢は武器ですが、魔を祓う力もあると信じられていました。そのため、各地に弓を射る祭礼がみられますが、最も古いのが正月に行われていた破魔打(はまうち)と呼ばれる年占(としうら)の神事です。
これは、弓矢を持った子どもたちの前に藁縄で作った直径1尺くらいの的を投げ、中央を射抜かせるというものです。この弓矢を子どもの成長のまじないとして持ち帰ったのが縁起物としての破魔矢、破魔弓の始まりだといわれ、のちに正月の縁起物として初詣で授与されるようになりました。破魔矢の先が鋭く尖っていないのは、人や物を射るのではなく、邪の気を祓うためのものだからです。 
破魔矢 4
破魔矢の意味とは、様々な本や神社でも統一した意味と言うものはありません。しかし、文字通り「魔を破る」と読める破魔矢の一般的に知られる意味は、・・・厄除け・魔除けのための神具、お正月の縁起物として神社や寺院で授与されるもの、神社によっては、「守護矢、御神矢、鏑矢」と同意としているところがある。他にも男子の初節句や家の棟上(上棟式)等で厄除けとして飾る。・・・簡単にまとめるとこの様です。
破魔矢は特に正月に飾り付けるイメージを強く持っているようですが、本来神具の矢は厄除け・魔除けの力を持つと古くから考えられていたもので正月に限った飾りものではありません。
例えば、武運長久(現在は厄除け)の神様として、日本で最も有名な神社の一つである石清水八幡宮では、破魔矢とは言わずご神矢というお札として、古くから授与しています。
破魔矢が特にお正月と紐づいているのは、「破魔」という言葉の由来に関わるものです。
破魔矢の由来
正月の飾り物として有名な破魔矢を、ご神矢や守護矢と同じと考えて、その意味を解説いたしましたが、そもそも正月に飾り付けるお守りとしての破魔矢の由来はどんなものかをご紹介いたします。破魔矢の由来は、正月に行われていた破魔打(はまうち)という一年の吉凶(特に作物の豊凶)を占う神事とされています。破魔打では、弓矢を渡した子供たちの前にハマと呼ばれる的を置き、子供たちに弓を引かせます。このハマを射抜く矢をハマ矢が「浜矢」と漢字がついて、のちに「破魔矢」に転じたと言われます。
※行事の由来となる行事は他にも、射礼(じゃらい)、大射という子供たちの弓矢の腕を見る行事、宮中の弓で的を射る行事という説もあります。
宮中でも、日本の各地にも弓を射る、弓射(きゅうしゃ)の祭礼がありました。江戸時代のころに、それらの正月の祭礼で利用した弓矢を「破魔矢、破魔弓」として持ち帰るようになった、もしくは形式化され弓矢を飾るようになったのが、正月の破魔矢の由来と言われています。ちなみに破魔矢を神社で授与するようになったという発祥の地は東京都大田区の新田神社とされています。
破魔矢と破魔弓
破魔矢と破魔弓は元々一つのセットで、破魔弓から放たれる破魔矢で邪気、災厄、魔を破るとしていました。しかし現在ではお正月神社に参拝しても矢しかありません。今でも破魔弓を共に飾る風習もありますが、神社では矢に神力を込めて、矢を飾ることで魔を破る力があるとしているので、弓は飾らないようになっています。ちなみに、破魔弓は神や神主という破邪の力を持つものが矢を放つものであると考えられるため、一般の人は矢を頂くだけで十分なご利益にあずかることができるという考えもあるようです。ちなみに、破魔矢の先が尖っていないのは、その矢の目標が人やその他動物と言ったものではなく、厄、魔、邪気というものであるためです。 
破魔弓 1
破魔弓飾りとは、古く中国では、初正月の端午の節句に「鍾馗(しょうき)」と呼ばれる力の強い武神が現れ、古来では弓で悪霊を平らげるという言い伝えがあったといいます。このような風習が日本の宮中にも伝えられ、弓で的を射る「射礼」や「大射」などの儀式が行われていました。
平安の中期の頃、以降に神社などでは魔除けの意味での破魔弓神事や、年占い神事等が斎行されてまいりました。はまは弓矢でいる的、もしくは射的の競技を意味する語で、破魔弓の「破魔(ハマ)」の字をあて、にちに魔を射る矢と解されるようになりました。
天に向け、これらの神事が一般の人々の間に広まり、現在のように装飾品として飾られるようになったのは鎌倉時代からだといわれています。
江戸時代に入ると破魔弓は飾り物・贈り物・縁起物として盛んとなり、初正月飾りの代名詞として、いまも変わらず受け継がれ、男児の初正月には、雄々しく、力強く、健やかに育てとの願いをこめて破魔弓は飾られています。  
破魔弓 2
破魔弓(はまゆみ)とは、弓と破魔矢(はまや)のセットされた総称です。
破魔矢は、正月の縁起物や神具として寺院・神社で授与される矢です。男の子が生まれた家に贈る正月の破魔矢飾り このほか、家屋を新築した際の上棟式に呪いとして鬼門に向けて棟の上に弓矢を立てる風習があります。
新生児の初節句に親戚や知人から破魔矢・破魔弓を贈る習慣は、正月に行われていた弓の技を試す「射礼」(じゃらい)という行事に使われた弓矢に由来するとされています。元々「ハマ」は競技に用いられる的のことを指し、これを射る矢を「はま矢(浜矢)」、弓を「はま弓(浜弓)」と呼んでいました。
「はま」が「破魔」に通じるとして、正月に男児のいる家に弓矢を組み合わせた玩具を贈る風習が生まれました。
日本では古来、呪術をかける事は少ないのですが、呪術に対する破邪の慣習は多くあります。一般に破魔矢の先が鋭く尖っていないのは、目標とする人や物自体ではなく邪魔が発する邪気・邪意・邪道・邪心等の妖気を破り浄化する用を為せばよいので、鋭利な刃物である必要が無い為と言われています。
一般には破魔矢のみがよく流通していますが、正式には、破魔弓で射て初めて邪魔を破り浄化する効力を発揮するといわれています。一般人が破魔矢を持つ意味は、破魔弓は神や神主や破邪の能力を有する者が持って方向と力と気を定めて構え、破魔矢の所有者は破りたい魔に対する矢を提示する形で射られる、との仕組から来ています。
・武勇を表す己の力強さで未来へ向けての災いと邪気を払います。
・災厄を被い、幸福を祈る気持ちが込められた破魔弓が、 新年を迎える贈り物としてふさわしいものです。 
射礼 [じゃらい]
宮中において毎年正月17日に行われていた歩射(ぶしゃ/かちゆみ)の競技の1つ。
『日本書紀』によれば古来より宮中における弓競技が行われ、最古の例は清寧天皇4年9月1日(483年10月17日)とされている。射礼の原型は天武天皇4年1月17日(675年2月17日)に行われた儀式とされている。雑令においては、正月中旬に大的を射る大射(おおゆみ)の儀式として規定される、後に節度を重んじる意味で用いられた呼称が「射礼」であったという。
射礼が行われる2日前の15日に兵部省が親王以下五位以上の官人から射手候補30名を選抜し、更に調習を行って20名に絞る。これを兵部手結(てつがい)と呼ぶ。更にこれとは別に六衛府・東宮坊でもそれぞれに属する官人の中から手結を行って射手を選んだ。当日は天皇臨席のもと、豊楽殿において三重の円規を設けた2尺5寸の板的を南北2か所に設置、慣例として近衛府と左兵衛は北側、右兵衛と衛門府は南側を用いる例となっていた。射手は的から東へ36歩離れた場所から兵部省の官人の唱名に従って矢を射て優秀な者は天皇から禄を賜ったり、宴に招かれたりした。全ての射手が射終える前に日没を迎えた場合は翌日に射た。これを射遺(いのこし)と呼ぶ。
もっとも、後世になると豊楽殿の崩落によって場所が建礼門前の大庭に移され、天皇の出御も無くなり、奉行の上卿のみが取り仕切った。更に天皇の出御がないことを理由に親王・五位以上などの射礼は行われなくなり、もっぱら六衛府の官人のみが射るようになった。こうした状況下で射手の質も低下して、やむを得ない場合に行われるものであった射遺が恒例のように行われるようになった。それでも、北朝の後光厳天皇の時代の応安年間までは射礼は行われていたとみられるが、それ以後は廃絶してしまったという。  
 
 

 

 
 
 

 

●お正月

 

●お正月 1
本来「正月」は1月の別称ですが、1日が元旦、3日までを三が日、7日までを松の内といい、さらに1月15日(地方によっては20日)の「小正月」まで、さまざまなお正月行事が行われます。1月を「睦月」と呼ぶのも、正月に一家揃って睦みあう様子を表したもの。多くの方がお正月を家族で過ごし、当たり前のようにおせちを食べたり、お年玉のやりとりをしたりしていますが、一つ一つのものごとにも大切な意味が込められています。
お正月の由来
昔から、元旦には「年神様」(としがみさま)という新年の神様が、1年の幸福をもたらすために各家庭にやってくるとされています。年神様は祖霊神であり、田の神、山の神でもあります。そのため、年神様は子孫繁栄や五穀豊穣に深く関わり、人々に健康や幸福を授けるとされていて、「正月様」、「歳徳神」(としとくじん)とも呼ばれています。
その年神様を迎え入れてお祝いし、たくさんの幸せを授けてもらうために、様々な正月行事や風習が生まれました。
おなじみの「明けましておめでとうございます」という挨拶には、無事に年を越し年神様をお迎えできた慶びと感謝の気持ちが込められています。
新年を迎える準備
新しい年を"迎える"と表現したり、"一年の計は元旦にあり"と言ったりするのは、年神様を元旦にお迎えするからです。お正月の行事や風習には、年神様をめぐる一連のストーリーがあります。それはまるで、私たちが大事なお客様をお迎えするのと同じように、おもてなしの気持ちにあふれています。
時代が変わっても、受け継がれてきた正月行事や風習には、それぞれに深い意味が込められているのです。
正月事始め
12月13日は「正月事始め」といい、「煤払い」「松迎え」などの正月の準備にとりかかる日とされています。もともと12月中旬ぐらいから正月準備を始めていましたが、12月13日は婚礼以外は万事に大吉とされる「鬼宿日」にあたることから、年神様を迎える準備を始めるのにふさわしい日とされ、「正月事始め」として定着していきました。
   煤払い
正月に年神様を迎えるために、1年の汚れを払い、清めることが「煤払い」です。江戸城で12月13日に煤払いをしていたことから、江戸庶民もそれにならって煤払いに精を出したそうです。昔の火種は薪や炭だったので、天井や壁についた煤の汚れを落とすことが重要だったのでしょう。竹竿の先に藁を取り付けた「煤梵天」(すすぼんてん)という道具を使って、高いところの煤を払う習慣もありました。大店といわれる商家では、煤払いが終わると主人を胴上げし、祝宴を開いたといわれます。1年間の汚れを払い隅から隅まできれいにすると、年神様がたくさんのご利益を持って降りてくるといわれているので、煤払いも盛大で賑やかな暮らしの行事のひとつだったようです。
   松迎え
門松にする松やおせちを調理するための薪などを、12月13日に採りに行きました。これを「松迎え」といいます。また、お歳暮を12月13日頃から贈るのは、お歳暮が正月用のお供えものだったことの名残りです。「煤払い」や「松迎え」が済み、年神様やご先祖様を迎える態勢が整う頃に届けるというわけです。
   年男
その年の干支にあたる男性を「年男」と呼びますが、もともとはお正月の行事を取り仕切る人のことを「年男」と呼びました。昔は家長が「年男」を務め、暮れの大掃除、お正月の飾りつけ、年神様への供え物、おせち料理を作るなど、お正月全般を取り仕切っていました。このように、「年男」として大変忙しい役目を家長が担っていましたが、次第に長男や奉公人など、若い人が務めるようになりました。いまでは、お母さんが大活躍ですね。
煤払い・大掃除
現代の大掃除のもととなるのが、12月13日の「正月事始め」で行われていた「煤払い」です。お正月は年神様を家に招き入れる行事ですが、昔はご先祖様も帰ってくるとされていました。そこで、神棚や仏壇の掃除をして正月の準備をする習わしがあり、やがて家中を掃除して年神様をお迎えするようになりました。
   「煤払い」でご利益を授かる大掃除
正月に年神様を迎えるために、1年の汚れを払い、清めることが「煤払い」です。江戸時代、12月13日に江戸城では「煤払い」を行っていました。1年間の汚れを払い隅から隅まできれいにすると、年神様がたくさんのご利益を持って降りてくるといわれ、江戸城では城内や神棚を煤払いし、江戸庶民も煤払いに精を出しました。これが今日まで伝えられ、煤汚れとは無縁の生活になった現在でも、社寺などでは煤払い行事が残っています。一般の家庭でも、幸多き新年にするために、13日には大掃除をして正月準備を始めたいところですが、家中の掃除を終わらせるのは無理というもの。この日は神棚や仏壇などをきれいにし、大掃除の計画を立ててみてはいかがでしょう。本格的な大掃除は、もう少し日にちが経ってから、天気の良い日を選んで行います。
   大掃除のコツ
大掃除は準備と天気が大切です。晴れて、少し風のある日が最適。洗い物などで水を大量に使うのでお風呂の残り湯などをとっておくと節水になりますし、水温もぬるめで手がかじかむこともなく、作業もはかどります。雑巾やモップなどの掃除用品はもちろん、掃除用洗剤もあると思ったら途中でなくなった!なんてことがないように準備しておきましょう。掃除する順番は、天井→壁→床というように、上から下へ、また、押入れ→戸棚→テレビの下など、奥まったところから手前に掃除していくのが基本。こうすれば、はじめに掃除したところを汚してしまうこともありません。スッキリきれいな家で、新しい年を清々しく迎えましょう。
門松
門松は、新年に年神様が迷わずやってくるための目印です。立てる木には杉なども使われていましたが、平安時代に「常緑の松は神様が宿る木」であり、神様をお待ちするのにふさわしいと考えられ、松が使われるようになりました。後に、まっすぐに節を伸ばす竹と、新春一番に香り高く咲く梅が縁起ものとして添えられました。門松は門の前に飾るものですが、昔は庭に松などの常緑樹を一本立てて、年神様の依代にしていたといわれています。玄関前や門前に左右に対で立てるようになったのは、江戸時代頃からで、玄関に向かって左側に雄松、右側に雌松を用いました。
   正月飾りを飾るのにふさわしい日
門松を立てる日も選びます。29日に立てるのを「苦立て」、31日に立てるのを「一夜飾り」といって避ける風習があります。一夜飾りを避ける理由は、直前に飾るのは誠意に欠け失礼にあたり、また、葬式の一夜飾りに通じるので良くないからと考えられています。なお、昔は日没が1日の終りで、新年行事の始まりを日没としていたので、大晦日には年神様が来訪するとも考えられていました。こう考えると、門松を立てるのは、28日頃がよいと思われます。門松を飾っておく期間=年神様がいらっしゃる期間となるので、これを「松の内」(一般的には1月7日まで)といい、年始の挨拶や年賀状のやりとり、初詣をするのも松の内とされています。
注連縄・注連飾り
注連縄(注連飾り)も門松と同様、年神様を迎えるために飾りつけられるものです。ここは年神様をお迎えする神聖な場所という意味で、神棚、玄関、床の間などに注連縄を張ったり、注連飾りを飾ったりします。天照大神が岩戸に二度と隠れないよう縄を張ったという日本神話に由来し、縄で結界をつくることで神のしめる場所を表しています。さらに、そこに不浄なものが入らないよう魔除けの役割もあります。このように、もともとは神社と同じように、注連縄を張り巡らしましたが、次第に簡略化され、門や玄関などにしつらえるようになりました。いまでは、縁起のよい飾り物をたくさんつけた注連飾りや輪飾りなどがよく使われています。注連飾りには、ウラジロ(清廉潔白・長寿)やユズリハ(子孫繁栄)、ダイダイ(家運隆盛)など、縁起のよいものがあしらわれています。注連縄、注連飾りは松の内が終わったら外し、小正月の左義長(どんど焼き)で燃やします。
鏡餅
昔も今も祝いごとや祭りなどの時によく登場する餅。餅は稲の霊が宿るハレの日の食べもので、食べると生命力が与えられると考えられ、神様に捧げる神聖なものだったのです。正月には鏡餅を飾り、雑煮をいただきます。実は、鏡餅を知ることでお正月の本当の意味がわかってきます。
   なぜ鏡餅を飾るの?
元旦には「年神様」(としがみさま)という新年の神様が、1年の幸福をもたらすために各家庭にやってくるとされています。お迎えした年神様の依り代(よりしろ)、つまり居場所が「鏡餅」なのです。年神様は祖霊神であり、田の神、山の神でもあります。そのため、子孫繁栄や五穀豊穣に深く関わり、人々に健康や幸福を授ける神様として、「正月様」、「歳徳神」(としとくじん)とも呼ばれて大切にされてきました。そもそも一連のお正月行事というのは、その年神様を迎え入れてお祝いし、たくさんの幸せを授けてもらうためのものなのです。
   鏡餅の役割
年神様は、新しい年の幸福や恵みとともに、私たちに「魂」を分けてくださると考えられてきました。「魂ってなに?」と思うかもしれませんが、「魂」とは、私たちの生きる力、気力のようなものです。では、どうやって年神様から「魂」を分けていただくのでしょうか。年神様の「御魂」(みたま)は、年神様が依りつく鏡餅に宿るとされ、この鏡餅の餅玉を分けていただくことで「魂」をいただいたのです。その年の魂となる「年魂」をあらわす餅玉は、家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与えました。これがお年玉のルーツで、玉には「魂」という意味があります。そして、いただいた「魂」を体内に取り込むための料理が「雑煮」です。ですから、お雑煮には必ず餅が入っており、お雑煮を食べないと正月を迎えた気がしないというのも当然なのです。また、年神様に毎年分けていただく「魂」の数を数えれば年齢になります。母親のお腹の中にいるときにすでに魂があるから誕生時は1歳で、その後は元旦がくるたびにみんな一斉に年をとりました。それが「数え年」です。さらに、鏡餅には「歯固め」という意味もありました。丈夫な歯の持ち主は何でも食べられ、健康で長生きできます。そこで、新年の健康と良運とさらなる長寿を願う行事を「歯固め」といい、固くなった鏡餅を食べました。現在の鏡開きが「歯固め」の儀式にあたります。そういえば、「年齢」という言葉にも歯の字が含まれていますね。
   鏡餅はなぜ丸い?
鏡餅が丸いのは、昔の鏡に由来します。昔の鏡は丸い形をした銅鏡でした。天照大神から授かった三種の神器※のひとつであり、伊勢神宮をはじめ、鏡をご神体としているところもたくさんあります。鏡餅は年神様の依り代ですから、ご神体としての鏡をお餅であらわし、「鏡餅」と呼ばれるようになったのです。鏡餅の丸い形は、昔の丸い鏡を模した「魂」の象徴で、大小2段で月と太陽、陰と陽を表していて、円満に年を重ねるという意味も込められています。 ※天照大神から授けられたとする鏡、剣、玉を指し、皇位継承の証として歴代天皇が継承している三種の宝物。
大晦日
12月31日は大晦日。月末最後の日を晦日(つごもり)ともいうので「大つごもり」ともいいます。元旦には「年神様」(としがみさま)という新年の神様が、1年の幸福をもたらすために各家庭にやってくるので、年末最後の大晦日は、年神様を寝ないで待つ日とされていました。また、1日の境を日没の時としていた頃は、大晦日の日暮れとともに新年になりました。大晦日の夜、神社では境内で大祓えを行って罪やケガレを清め、寺院では除夜の鐘を鳴らします。
   年籠り(としごもり)
年神様は初日の出とともにやってくるという説もあるため、大晦日の夜に寝ないで「年神様」を待つことを年籠りといいます。うっかり寝てしまうと、「シワや白髪が増える」などという恐ろしい言い伝えもあります。どうしても眠くなったら「寝る」ではなく「稲積む」(いねつむ)というと、魔力から逃れられるといいます。
   年越しの祓
神社では、6月末日と12月末日に大祓の行事が行われます。 6月の大祓を「夏越しの祓」(なごしのはらえ)、12月の大祓を「年越しの祓」といいます。それぞれ、半年分のケガレを落とす行事で、白紙で作った人形(ひとがた)で身体の穢れを祓い、川や海へ流したり、かがり火を焚いたりして、健康と厄除けを祈願します。
   除夜の鐘
大晦日は、年神様を寝ずに待つ日とされていました。その前にお祓いをするために、寺院では深夜零時をまたいで108回鐘をつきます。怒りや嫉妬など人間にある108の煩悩を鐘の音で絶つためといわれています。中国で宋の時代から始まったもので、十二か月と二十四節気と七十二候を合わせた数で108という説もあります。一般的には、107回は旧年の内につき、残りの1回は新年につきます。
年越しそば / 1年の締めくくりに、そばのように細く長く長寿であるように願って「年越しそば」を食べます。
   年越しそば
細く長く長寿であるよう願い、大晦日に食べる蕎麦です。年越しそばを食べるのは、月末にそばを食べる「みそかそば(晦日蕎麦/三十日蕎麦)」という風習が大晦日だけに残ったもので、江戸時代の町人の間で始まったといわれています。また、年越しそばにはさまざまな呼び名と言い伝えがあります。
【寿命そば】 そばのように長くのびる(長生きできる)。
【運気そば】 鎌倉時代、博多の承天寺が町人にそばを振舞ったところ、翌年からみんなの運気が上がった。
【福そば】 金銀細工師が散らかった金粉を集めるのにそば粉を練った団子を使うので、そばは金を集める縁起物。
【縁切りそば】 そばがよく切れるように、1年の労苦を忘れられる。
そばに付き物のねぎは「ねぐ」といって「祈る」「労う」という意味もありますから、ぜひ入れてください。
初日の出
年神様は日の出とともにやってくると考えられていたため、初日の出は年神様の降臨を意味しています。明治以降には、元旦に見晴らしのいい場所へ出掛けて、その年最初の日の出を拝むことが盛んになりました。とくに山頂で迎える日の出を「御来光」といいます。
それ以前の元旦には、年神様を迎えるために家族で過ごし、「四方拝」といって東西南北を拝んでいました。「元旦」という言葉には、元日の朝という意味があります。
お正月の食べもの
お正月に、いつもと違う料理を食べるのはなぜでしょう? じつは、お正月の食べものも、年神様をお迎えし、幸多き年にするためのものばかり。由来を知って、心豊かにいただきましょう。
おせち料理
おせち料理は年神様に供えるための供物料理です。もともとは、季節の節目に行う節供の料理を「御節供」「御節料理」といい、やがて正月だけをさすようになりました。かまどの神様を休めるため作りおきできるものが中心で、家族の繁栄を願う縁起物が多く、めでたさが重なるよう重箱に詰めます。
   おせち料理の由来
平安時代、宮中で元旦や五節供などの大切な節日を祝うため、神様にお供えした食べものを「御節供」(おせちく)といいました。本来、おせち料理はお正月だけのものではありませんでしたが、江戸時代に一般大衆に広がると、節日の中で正月が最も重要だったため、「おせち料理」といえば正月の料理をさすようになりました。お正月は、五穀豊穣を司る年神様をお迎えし、新年の幸福を授けていただく行事です。そしておせち料理は年神様に供える縁起ものの料理ですから、五穀豊穣、家族の安全と健康、子孫繁栄の祈りを込めた、海の幸、山の幸を豊富に盛り込みます。もともとは収穫物の報告や感謝の意をこめ、その土地でとれたものをお供えしていましたが、暮らしや食文化が豊かになるに従って山海の幸を盛り込んだご馳走となり、現在のおせちの原型ができました。
   重詰の由来
重詰めのおせち料理が食卓に並ぶと、お正月気分も一気に盛り上がりますが、どうして重箱を使うのでしょうか。それにはこんな理由があるようです。
・重箱を重ねることが「福を重ねる」「めでたさが重なる」という意味につながる。
・昔は祝い肴を「喰積(くいつみ)」と呼び、重詰めにしていたことに由来。
・年賀に来るお客様にも振る舞いやすい。
また、正月3が日はおせち料理を食べることが通例で、保存が利くように重箱に詰めておくのが一般的でした。正式な重詰めは四段重ですが、五段重という場合もあります。その場合1段目から4段目までは料理を入れ、5段目は年神様から授かった福を詰める場所として空っぽにしておきます。現代では多くても三段重でしょう。各段ごとに詰める内容が異なり、各段の料理の数は、5種・7種・9種の吉数で詰めると縁起が良いとされています。
   おせち料理のいわれ
おせち料理には、たくさんの料理があります。栄養バランスや保存性の良さなど、まさに先人の知恵の結晶と言えますが、そのおせち料理の一つ一つにも縁起の良いいわれがあります。また、おせち料理やお雑煮をいただくときには、普段使いの箸ではなく、縁起の良い「祝い箸」を使います。
祝い箸の由来と使い方
おせち料理やお雑煮をいただくときは、「祝い箸」を使います。祝い箸は末広がりの八寸(約24センチ)で縁起がよく、「両口箸」「柳箸」「俵箸」とも呼ばれていて、祝い事には欠かせない箸なのです。
   祝い箸の由来
「祝い箸」は、両方の先端が細くなっていて、「両口箸」とも呼ばれます。それは、一方は神様用、もう一方を人が使うためで、"神人共食"を意味しています。おせち料理は年神様へお供えし、それを下げていただくもの。新年を祝い、1年の恩恵を授かる意味から年神様と食事を共にするわけです。両方とも使えるからといって、ひっくり返して取り箸にしたりするのはタブーです。その大事な箸がお祝いの席で折れたりするのを忌み嫌うため、丈夫で折れにくい柳の木が使われています。また、柳は水で清められた神聖な木とされ、春一番に芽吹くおめでたい木とされています。そのため「柳箸」ともいわれ、縁起良く「家内喜」と書くこともあります。また、「俵箸」と呼ばれるのは、五穀豊穣を願って米俵を模し、中ほどが太めにできているから。また、「はらみ箸」と呼んで子孫繁栄を表したり、「太箸(たいばし)」と呼ばれることもあります。
   祝い箸の使い方
お正月の祝い箸は、大晦日に家長が家族の名前をそれぞれの箸袋に記入し、箸を入れて神棚に供えておくのが習わしです。その箸を元旦に使ったら、自分で清めて(洗って)、松の内(1月7日まで)は同じ箸を使います。美しい箸袋に入った祝い箸もいろいろ市販されていますし、和紙や千代紙などを使って箸袋を自分で手作りしても楽しそうです。
お屠蘇
元日の朝、家族が顔を揃えて、新年のあいさつを済ませたらまずいただくのがお屠蘇です。御神酒(おみき)と同じ清酒のように思われがちですが、漢方薬を浸した薬酒で、家族の健康を願う気持ちが込められています。
   お屠蘇ってどんな飲み物?
中国で邪気を祓い不老長寿になれる薬酒として、大晦日に井戸の中に漢方薬をつるし、元旦に引き上げて酒に浸したものを年少者から順番に飲んだことに由来します。「お屠蘇」という名前には、邪気を屠(ほふ)り魂を蘇らせるという意味があります。日本には平安時代の宮中儀式として取り入れられ、江戸時代に庶民の間に広がりました。現在でも、山椒(さんしょう)や桔梗(ききょう)、肉桂(にっけい)、蜜柑の皮などを調合したお屠蘇の素が、「屠蘇散」「屠蘇延命散」として薬局やスーパーなどで販売されています。ティーパックのようになっている場合が多いので、これを大晦日に日本酒かみりんに浸し、元旦に引きあげればできあがりです。日本酒に浸すとスッキリ味、みりんに浸すと甘くなります。
   お屠蘇のいただき方
正式には屠蘇器と大・中・小の三つ重ねの盃でいただきます。銚子に水引きや正月飾りをつけると、小さな屠蘇に年神様が降りる目印になります。屠蘇器がなければ手持ちの酒器で構いません。飲む順番は、若い人から年長者へと順番に盃を進めていきます。若い人の生気を年長者に渡すという意味や毒見の名残で、これが中国伝来の正月ならではのしきたりですが、通常の祝杯に準じて、家長から年少者へと進める方法もあります。また、厄年以外の人が口にした杯には厄を祓う力があるとされており、厄年の人は最後に飲みます。飲み方は、まず最年長者が最年少者に屠蘇を注いで飲み干し、その最年少者が二番目に若い人に注ぐというように、飲み終えた人が次の人に注いでいきます。三つ重ねの盃の場合、正式には小・中・大の順番でそれぞれ1杯ずつ飲みますが、略式なら1つの盃に3回に分けて注ぎ、3回に分けて飲みます。アルコールが入っていますから、お子様や車の運転をする人は口をつけるだけの真似ごとで構いません。
雑煮
雑煮は、年神様にお供えした餅のご利益を頂戴するために、年神様の魂が宿った餅を野菜や鶏肉、魚介などといっしょに煮込んで作る、お正月には欠かせない料理です。地方色も豊かで、また、家庭ごとに我が家の味があるのも特徴です。
   雑煮の由来
もともとは正月だけのものではなく、室町時代に武家社会の儀礼的な宴で、本膳料理の前菜として出されたのが始まりです。あわびや里芋、山芋、大豆など健康によいもの7種を入れた煮物で、お酒を飲む前に食べて臓腑を保護・保養する意味があり、「保臓(ほうぞう)」と呼ばれ、「宝雑」「烹雑」と書くこともありました。江戸時代にお餅を入れて雑多なものを煮込む「雑煮」となり、各地にいろいろな雑煮が生まれました。また、雑煮を煮るときは、「若水」を使うのが本来の習わしです。「若水」とは元旦に初めて汲む水のことで、「初水」「福水」ともいい、これを飲むと1年の邪気が祓えるといわれています。昔は家長が井戸や湧水を汲みに行きました。
   雑煮の特色
雑煮は地方によっても様々で、材料も作り方も違います。さらに地域や家でも違うので、ひとくくりにすることはできませんが、主として次のような特色があります。
   関西風
地域:京都中心
特徴:白みそ仕立て/丸餅を焼かないで煮る /まったりした甘い味わい
京都文化の影響の強いところは、白みそ仕立てに丸餅が基本。餅が丸いのは、鏡餅を模しているからです。日本海側や山間部が赤みそなのは土地の食文化が融合した例でしょう。
   関東風
地域:関東/中国/九州地方に多い
特徴:しょうゆ仕立てのすまし汁/角餅(切り餅、のし餅)を焼いて入れる/すっきりした味わい
江戸文化の影響の強いところは、すまし汁に焼いた角餅が基本。加えてその土地ならではの具材が入ります。みそを使わないのは、武家社会では「味噌をつける」がしくじるという意味で縁起が悪いから。角餅なのは、丸める手間がかからず合理的で、焼いて膨らみ角が丸くなると解釈します。関西風・関東風は、関西地方・関東地方という単純なものではなく、その土地の礎を築いた人が京都文化・江戸文化どちらの影響を受けているかが反映されています。全国的にすまし汁が多いのは、参勤交代で地方に江戸文化が伝わったためです。
   多彩な雑煮、我が家の味を楽しみましょう
雑煮はとても郷土色豊かな料理で、材料や作り方も千差万別で多彩です。例えば・・・
【島根県】あずきを煮たおしるこのような雑煮
【香川県】あんころ餅を入れた白みそ仕立て
【新潟県】鮭とイクラの親子が入る
【福井県】赤みそ仕立てのかぶら雑煮
【岩手県】クルミだれをつけて食べる  などがあります。
海辺の町では魚が入り、山里では地元の野菜が入ります。香川などで小豆のあんころ餅を入れるのは、せめて正月には稀少な砂糖を食べたいという思いの表れです。地域性ばかりでなく、家によっても雑煮は違います。それは、祖先や親の出身地、結婚した相手の出身地、好みなどが融合して我が家の雑煮になっているからです。あらためて、我が家の雑煮を見なおしてみるのも面白いかもしれませんね。おせち料理をいただくとき、ぜひ使っていただきたいのが「祝い箸」です。
若水
新年に初めて汲む水のことで、これを飲むと1年の邪気が祓えるといわれています。別名「初水」「福水」といい、年神様に供えたり、雑煮を作ったり、茶をたてたりします。井戸水や湧水のほか、現代では水道水やペットボトルの水でもOKです。
   若水迎え
かつては、正月の準備をする「年男」がする重要な儀式のひとつに「若水迎え」がありました。元日の早朝 、なるべく遠くへ水をくみに出かけ、途中で人にあっても口を聞いてはいけないとされていました。そうやって汲んできた水を「若水」といい、まずは年神様に供え、あとは1年の邪気払いができるとして雑煮を煮たり、お茶を淹れるのに使ったりしていました。「年男」とは、お正月の行事を取り仕切る人のことで、昔は家長がこれを務め、 暮れの大掃除、お正月の飾りつけ、年神様への供え物、おせち料理作り、若水迎えなど、お正月全般を取り仕切っていました。昔の生活では、井戸や湧き水を汲みに行くのが普通ですが、今の生活では、なかなかそうはいきませんので、年神様にお供えする若水も、元日の朝一番の水道水やペットボトルの水を心をこめて汲んでください。
七草粥
お正月7日「人日の節供」に邪気を払うために食べるのが「七草粥」です。古代中国では元旦から7日目に人を占い、刑を行わず、7種の若菜を粥に入れて無病息災を願っていました。この風習が日本へ伝わり、日本古来の若草摘みという風習と結びついて七草粥となり、江戸時代に公式行事となりました。本来は7日の朝に食べるもので、前日の夜、未婚の乙女が摘んだ七草が「吉」とされていました。旧暦1月7日は今の2月。早春にいち早く芽吹く春の七草の生命力にあやかって、無病息災を祈る七草粥。ぜひ家族みんなで食べて、健やかな1年を祈りましょう。
   七草粥の作り方
お正月につい、いろいろ食べ過ぎて疲れた胃を休ませるのに、七草粥はぴったりです。市販の「七草セット」を使えば簡単ですので、ぜひ作ってみましょう。
【材料】(4人分) 
米1カップ、七草セット 1袋、塩少々
【作り方】
1といだ米を5〜7合の水に30〜60分ほどつけておく。
2厚手の鍋に1を入れてふたをし、強火にかける。
3沸騰したら弱火にし、ふたを少しずらして吹きこぼれないように弱火にし、さらに煮る。
※焦げ付かないように火加減に注意!
440〜60分ほどして米がやわらかくなったら、七草を細かく刻んで入れる。
5塩少々を入れて味を整え、火を止め、ふたをしてしばらく蒸らす。
鏡開きの由来と開き方
お正月の間、年神様の居場所になっているのが鏡餅。そのため、年神様がいらっしゃる松の内の間は飾っておき、松の内が過ぎたら下げて食べ、年神様をお送りします。年神様の依り代(よりしろ)である鏡餅には年神様の魂が宿っているとされるため、鏡餅を食べることでその力を授けてもらい、1年の家族の無病息災を願います。つまり、鏡餅は供えて、開いて、食べてこそ意味があるのです。
   松の内が終わったら鏡開き
松の内を1月7日までとする地方では11日に、関西など松の内を15日とする地方では15日に鏡開きを行う場合が多いようです。昔は「二十日正月」といって20日に鏡開きを行っていましたが、徳川三代将軍・徳川家光が慶安4年4月20日に亡くなったため、月命日の20日を避けて11日になったといわれています。
   なぜ鏡開きというの?
鏡開きはもともと武家から始まった行事なので、鏡餅に刃物を使うことは切腹を連想させるので禁物でした。そこで、手か木槌などで割ることになりましたが、「割る」という表現も縁起が悪いので、末広がりを意味する「開く」を使って「鏡開き」というようになりました。鏡開きで年神様を見送り、お正月に一区切りつけるということは、その年の仕事始めをするという意味がありました。剣道などの武道で、新年の道場開きに鏡開きとしてお汁粉をふるまったりするのは、その名残りです。
   なぜ樽酒を開けるのも鏡開きというの?
祝い事の時に振舞われる樽酒のふたを割ることも鏡開きといいますが、これは酒樽のふたのことを「鏡」と呼んでいたから。米からできる日本酒は神聖なものとされ、神事を営む際に神様に供えられ、祈願が済むと参列者で酒を酌み交わして祈願の成就を願う風習がありますので、やはり縁起の良い「開く」という表現を使っています。鏡餅の鏡開きも、樽酒の鏡開きも、新たな出発に際して健康や幸福などを祈願し、その成就を願うということは同じなのです。
   上手な鏡餅の開き方
今は個包装パックの餅が入っている便利な鏡餅が増え、とても便利になりました。でも、子どもたちに鏡開きは餅を開くのではなく、パックを開く・・・という意味に勘違いされては困ります。どんなに便利になっても、子どもたちに鏡開きの由来や意味はしっかり伝えていきたいものです。さて、伝統的な鏡餅の場合はやはり、木槌や金槌などで叩いて小さく割ります。固くなった餅を切らずに小さくするのは、なかなか大変ですが、カチカチに乾燥した鏡餅を少しずつ叩いて、ヒビが入ってから勢いよく叩くと、はじけるように割れます。しかし、餅が相当乾燥していないとなかなかうまくいきません。そんな時は、餅を半日ほど水に漬けてから、耐熱容器に入れてラップをし、電子レンジにかけて柔らかくしてから手でちぎるとよいようです。餅が熱いので、やけどに気をつけましょう。
   鏡開きのお餅メニュー
鏡餅の定番といえば、雑煮やお汁粉ですが、その他にもおいしい食べ方をご紹介します。
○おやつに「かき餅」 手や鎚で割ることを「欠き割る」ということから「欠き餅」(かきもち)になりました。一口大の餅を160度くらいの油で揚げて、塩や醤油をまぶすだけ。 揚げたては香ばしくて、おやつやおつまみにぴったりです。
○ごはんのおかずに「揚げだし風」 しょうゆ、酒、みりん、昆布を煮詰めただしを、揚げたての餅にたっぷりかけます。大根おろしを添えるとサッパリとします。市販のめんつゆを使っても手軽です。
○パンにもピッタリ「餅グラタン」 オーブントースターで焼いた餅をグラタン皿に並べ、ベーコン、ピーマン、みじん切りのにんにく、輪切りの玉ねぎなどをのせ、ホワイトソースとチーズをかけて、250度のオーブンでチーズが溶けるまで焼きます。
お正月の風物
お正月には独特の風習がたくさんありますが、お馴染みのお年玉や年賀状でも、考えてみるとわからないことが多いのではないでしょうか。いずれも新年の幕開けにふさわしいことなので、ポイントを押さえておきましょう。
お年玉
子どもたちの正月一番の楽しみで、重要な資金源になっている「お年玉」。いまでは、現金をぽち袋に入れて、大人から子どもに渡すものになっていますが、かつては全く違うものでした。もともとは、年神様から新年に授かる「新しい魂」を「年魂 」(としだま)といいました。いまでは誕生日がくるとひとつ年を取りますが、かつては正月に年神様から「年魂」をもらってみんなひとつ年をとったのです。これが数え年という年齢の数え方で、年神様の「年魂」をいただく、これが本来のお年玉です。では、どうやっていただいたのでしょうか。それは、年神様に供えた丸餅を食べることでした。年神様に供えて、御魂(みたま)が宿った餅玉を、家長が家族に分け与えた「御魂分け」が始まりです。この餅玉を「御年玉」「御年魂」と呼んだことから「お年玉」といいます。この餅を食べるための料理が雑煮なのです。また、「お年玉」はお父さんが子どもへ、主人から使用人へ、師匠から弟子へというように、目上の人から目下の人へ渡すものです。新年に目下のものが目上のものに何かをさし上げるときは「御年賀」「御年始」とします。
年賀状
年始の挨拶を簡略化したのが年賀はがき。年頭に祝賀を交わすために、当初は元日に出向いて年賀の挨拶をしていましたが、挨拶に行けない人は手紙を送るようになり、やがて現在のような年賀状を送る習慣となりました。その歴史は郵便制度が登場した明治時代からですから、もう百年以上になります。電話やメールで手軽に連絡ができる時代でも、手間暇かけて届いた年賀状には、ひと味違う喜びがあります。せっかく送るなら、年賀状作りを楽しんで、相手に真心が届く素敵な年賀状にしたいですね。
   年賀状は相手に応じて3タイプ
相手に応じて言葉使いや服装を気遣うように年賀状も相手によって使い分けると、上手にアプローチできます。大きく分けて次の3つのタイプに分けて考えてみましょう。
・フォーマルタイプ:仕事関係や目上の方向き
・カジュアルタイプ:プライベートで親しい方向き
・フリータイプ :フォーマルとカジュアルの中間
フォーマルタイプは格調高い伝統柄や、ハイセンスなオリジナルデザインなど、くだけすぎない範囲で楽しむのがポイント。カジュアルタイプは、自分の個性や好みを生かして自由に楽しみましょう。版画シリーズ、4コマ漫画シリーズなどのように、毎年シリーズ化しても印象に残る年賀状になりますし、昔懐かしいイモ判のように、自作の消しゴム判をペタンと押すだけでも味のある年賀状になります。デジカメの写真を取り込んで、画像加工ソフトで手を加えることも簡単にできるようになりました。シールやスタンプなどの年賀状作成アイテムもたくさん市販されていますから、活用しない手はありません。フリータイプは、フォーマルタイプではかしこまり過ぎているし、カジュアルタイプではくだけ過ぎという場合や、印刷文や絵柄の内容がそぐわない場合に(家族ネタはNG、この話題はNGなど)、無難に使えるものを用意しておくと重宝します。全て手作りするもよし、デジタル素材を組み合わせるもよし、既製品を使うもよし。タイプ別に目的がはっきりしているので、作成作業もスムーズに進みます。
   賀詞の選び方
年賀状には必ず賀詞を書きます。賀詞とは、年賀状に限らず、祝いの意を表すことばをさします。年賀状には、年始の挨拶としてふさわしい賀詞を選びましょう。
【文章の賀詞】
明けましておめでとうございます
新年おめでとうございます
新春のお慶びを申し上げます
謹んで初春のお慶びを申し上げます
謹んで新春のご祝詞を申し上げます
【4文字の賀詞】と意味
謹賀新年:謹んで新年をお祝い申し上げます
謹賀新春:謹んで新しい年をお祝い申し上げます
恭賀新年:うやうやしく新年をお祝い申し上げます
恭賀新春:うやうやしく新しい年をお祝い申し上げます
敬頌新禧(けいしょうしんき):うやうやしく新年のよろこびをおたたえ申し上げます
【2文字の賀詞】と意味
賀正:正月を祝う
賀春:新年を祝う
頌春(しょうしゅん):新年をたたえる
迎春:新年を迎える
慶春:新年をよろこぶ
寿春:新年を祝う
初春:新しい年、年の初め
新春:新しい年
【1文字の賀詞】と意味
寿:めでたい
福:幸せ
賀:祝い
春:新年、年の初め
禧:よろこび
○フォーマルタイプの場合の賀詞は?
賀詞は、礼儀にかなうよう「謹賀新年」のような4文字の賀詞か、「謹んで新春のご祝詞を申し上げます」などを使います。もともと、賀詞の基本は「謹賀新年」「恭賀新年」「敬頌新禧」などの4文字からなるもので、「謹(謹んで。相手を尊ぶ)」「恭(うやうやしく。礼儀正しく丁寧)」「敬(尊んで礼をつくす)」「頌(ほめたたえる)」といった相手の方への敬意と丁寧な気持ちを表す語が入ることで、礼儀にかなった挨拶の敬語になります。定型文であっても自分らしい文言を選ぶのがポイントです。
○カジュアルタイプの場合の賀詞は?
敬語や丁寧語を基本にしつつ、自分の言葉を綴りましょう。ユーモアを交えて近況報告を盛り込んだり、家族一人一人のセリフのように構成しても楽しいでしょう。賀詞は、相手を選ばず使える「明けましておめでとうございます」「Happy New Year」のほか、目上の方にはそぐわない「寿」「福」のような1文字の賀詞、「賀正」「迎春」のような2文字の賀詞も使えます。
○フリータイプの場合の賀詞は?
印刷文は一般的な文言にとどめておき、手書きのコメントでフォローするようにします。賀詞は、相手を選ばず使える「明けましておめでとうございます」「Happy New Year」や、目上の方向けを用いるとよいでしょう。
   賀詞の重複に注意
よくありがちなのが、「迎春」「謹賀新年」などの短い賀詞と「明けましておめでとうございます」などの文章の賀詞を重複して使ってしまうこと。賀詞を使ったら、添え書き(「今年もよろしく」などの文)には賀詞を書きません。
   手書きコメントを楽しみましょう
どのタイプの年賀状も、印刷文だけでは味気ないものです。手書きのコメントがあるかないかでは印象が全然違います。あらかじめコメント欄を設けて、ここに書くと想定して作成しておきましょう。短文にしたいなら、コメントスペースを小さめにしておくと気楽に取り組め、見た目のバランスもよくなります。手書きのコメントは年賀状の総仕上げであり、相手にとっても楽しみのひとつ。相手の心に届いたら、ますます縁(えにし)が深まることでしょう。
   年賀状の返事
年賀状をいただいたのに、こちらからはお送りしていないときは、すぐに返礼はがきを送りましょう。目上の方へは返礼というより、遅ればせであっても年賀状を出しますが、7日を過ぎて返事を出すときは、年賀状ではなく「寒中見舞い」として送ります。
書き初め
年頭に新年の抱負や目標をしたためます。「吉書」ともいい、元日の早朝に汲んだ神聖な水「若水」で墨をすり、年神様のいる恵方に向かって祝賀や詩歌を書いたことに由来します。恵方とは、その年万事に吉とされる方角で、毎年違います。江戸時代の寺子屋では、普段の練習用の紙ではなく白いきれいな紙に書き、壁などに貼って飾っていました。書き初めは1月2日に行なわれることが多く、古くは「吉書始め」という宮中行事も行なわれていました。書き初めを書いたら、15日の小正月の左義長で燃やします。正月飾りや書き初めなどを燃やす煙に乗って年神様が天上に帰って行くとされています。その炎が高く上がると字が上達するといわれています。
初夢
元日、または2日の夜に見る夢で、初夢にその年の運勢が表れるとされたことから、夢の内容で新年の運勢を占いました。吉夢を見るために宝船や獏の絵を枕の下に敷いたり、回文を唱えたりします。「一富士、二鷹、三茄子」が吉夢として有名です。
   初夢はいつ見た夢のこと?
現代では、「元日、または2日の夜に見る夢」とか「新年最初に見る夢」とされていますが、実は諸説ありました。昔は立春を正月としていたため、「節分の夜から立春の朝」までに見る夢を初夢と呼びました。やがて、暦が変わると「大晦日の夜」に見る夢ということになり、その後大晦日は年神様をお迎えするために眠らない習慣が定着すると「元日の夜」に見る夢ということになりました。さらに1月2日が物事をはじめる日であるという考えから、「2日の夜に見る夢」も一般的になっていきました。
   良い初夢とは?
「一富士、二鷹、三茄子(なすび)」が吉夢として有名ですが、いずれも縁起がよく、めでたいもののベスト3ということでしょうか。それぞれのいわれは次の通りです。
【富士】高くて美しい山で、高い目標や理想をかなえる立身出世を象徴。裾広がりも縁起がよい。
【鷹】高く、強く羽ばたき大空を舞うので、開運につながる。
【茄子】財を成す、子を成すなど、事を「成す」ことに通じて縁起がよい。
また、七福神が乗った宝船の夢も吉夢とされ、良い初夢を見るために、七福神を乗せた宝船の絵を枕の下に敷き、回文を唱える風習もあります。
初詣
初詣の言葉の定義としては、「年が明けてから初めての神社やお寺へのお参り」を指します。『詣』という漢字は「社寺をお参りする、参拝する」という意味があるので、初詣はそのままの意味ですね。
では、初詣にはどういう目的で行くのでしょうか?初詣へ行くと、神様に感謝を捧げ願い事をしたり、絵馬に願いを書いたり、お守りを買ったりします。つまり、初詣は旧年の感謝を捧げるとともに、新年が良い年になるように願掛けを社寺の神様に行うための行事です。ただ、お正月には正月飾りを飾ったりお雑煮を食べたりしますが、これらの正月行事も初詣と同様に神様への感謝を捧げて新年の願掛けをするためのものです。家で行う正月行事と初詣は何が違うのか、家で行うのなら初詣に行く必要はないのではないか?このように思う人も多いのではないでしょうか。実は、正月飾りに宿るとされる神様は“歳神様”であるのに対し、社寺の神様は“氏神様”なので、両者は異なる神様なのでそれぞれ違った意味合いがあるとされているのです。ちなみに歳神様と氏神様については以下の通り。
・歳神様 / 正月に各家に毎年やってくる神様。先祖の霊とみなされることもある。
・氏神様 / 同じ地域に住む人々によって共同で祀られる神様。
   初詣の歴史・由来
現在の初詣の形式は地方によって多少変わってきますが、大体が「正月に有名な神社や寺へ参拝する」というものです。これが日本において文化として定着していますが、この形になるまでは色んな歴史があります。まとめると以下の通り。
1.年籠り
2.除夜詣と元日詣
3.元日詣だけが残り、現在の初詣になる
   年籠り
初詣の元々の由来と言われているのは『年籠り』という行事です。年籠りとは、「村や家の長がその地域の氏神様が祀られている社寺に大晦日の夜から元日の朝まで寝ずに籠もること」を言います。一睡もせずに一晩中祈り続けるのが決まりですが、「うっかり寝てしまうと白髪やシワが増える」という言い伝えもありました。現在、日本には年籠りの風習は残っていませんが、中国の旧正月(春節)には前日の大晦日から眠らずに過ごす『守歳』という風習があります。
   除夜詣と元日詣
年籠りはやがて、大晦日の夜と元日の朝に社寺を参拝する行事の2つに分かれるようになりました。それぞれを『除夜詣』、『元日詣』と言います。この元日詣が後の初詣になるのですが、参拝する社寺に関して決まりがあったというのが大きな違いです。元日詣は住んでいる地域の氏神様が祀られている社寺、または家から見てその年の恵方の方角にある社寺に参拝するのが決まりでした。特に後者については『恵方詣り』と言います。また、地域によっては現在も除夜と元旦の2回社寺を参拝する風習もありますが、これを『二年参り』と言います。
   現在の初詣
除夜詣』と『元日詣』が行われていたのが、元日詣だけ風習が残り、さらに恵方に限らず「有名な社寺に自由に参拝する」というのが一般的になりました。『初詣』という言葉が使われるようになったのは大正時代になってからですが、恵方詣りの風習が薄れてきたのは大正時代末期です。風習の変化は「鉄道による交通の便が改善したこと」、そして「各鉄道会社の宣伝合戦によるもの」が挙げられます。交通の便がよくなったことで近くの恵方の社寺だけでなく、恵方にある有名な社寺に用意に参拝できるようになりました。しかし毎年正月になると各社がおのおのの沿線の神社仏閣を恵方であると宣伝したため、やがて恵方詣りの本来の意味が埋没してしまい人々は自由に社寺を参拝するようになったのです。
小正月・左義長
旧暦の1月15日は立春後の望月(もちづき。満月のこと)にあたり、その昔この日を正月としていたなごりで、元日を「大正月」、1月15日を「小正月」と呼ぶようになりました。大正月が年神様を迎える行事なのに対し、小正月は豊作祈願や家庭的な行事が多いのが特徴です。大正月を男正月、小正月を女正月ともいい、松の内に多忙をきわめた女性をねぎらう休息日でもありました。また、この日に正月飾りなどを焼く「左義長」を行い、正月行事に区切りをつけます。
   豊作を願う餅花
餅花を飾り、豊作を祈ります。餅花とは紅白の餅で、これを柳などの木に飾りつけ、農耕神の予祝の花とされている桜の花や、実った稲穂に見立てます。地方によっては餅ではなく繭を使い、繭玉と呼びます。餅花は小正月の正月飾りでもあります。
   小豆粥で無病息災
小正月には小豆粥を食べ、無病息災を祈ります。小豆のように赤い色の食べものは邪気を払うと考えられています。祝い事の席には、小豆を使った赤飯などがつきものですね。
   左義長
小正月に正月飾りや書き初めを燃やす行事で、その煙に乗って年神様が天上に帰ってゆくとされています。「左義長」は、三毬杖(さぎちょう)という青竹で正月飾りを焼いたことに由来しますが、「どんど焼き」「とんど」とも呼ばれ、その火で焼いたお餅などを食べると無病息災で過ごせるといわれています。このように年神様を見送って正月行事も無事終了となるので、1月15日を「正月事じまい」といい、15日までを「松の内」とする地方もあります。また、秋田の「なまはげ」や「かまくら」など、地方色豊かな行事も行われています。
○なまはげ
怠け者をいさめるため、鬼が家々を訪ねて子どもを脅す行事。本来は小正月の行事でしたが、今では大晦日に行われています。
○かまくら
雪のほこらを作って祭壇をもうけ、神様を祀る行事で、子どもたちが火を灯して遊びます。 

 

●正月 2
各暦の年初のことである。文化的には旧年が無事に終わったことと新年を祝う行事である。正月飾りをし、正月行事を行ったり御節料理を食べて、盛大に祝う。日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、実際には少なくとも3日までの三箇日は事実上の祝日と同じ状態となる。
日本の正月
正月の期間
「正月」とは、本来は旧暦1月の別名である。改暦後は新暦1月を意味することもある。現在は「三が日」または「松の内」という意味で使用することがある。
松の内は元々は1月15日までだったが、現在は一部地域では1月7日までに短縮している。寛文2年1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以ての飾り納めが指示される。最初の通達が江戸の城下に町触として発せられており、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられる。幕末の考証家である喜田川守貞は、この時同時に左義長も禁止されていることから、松の内短縮発令の理由を注連飾りを燃やすこの火祭りによる火災の予防の一環だとしている。
1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を二十日正月と呼ぶ。
新暦の元日を軸とする「大正月」(おおしょうがつ)と旧暦の15日を軸とする小正月(こしょうがつ)と呼ぶものがある。大正月はまた大年(おおどし)、男の正月と呼ぶのに対して、小正月を小年(こどし)、女の正月と言うところもある。
12月8日を「正月事始め」と称して、正月準備が始まる。
正月休み
1月1日は「元日」と命名された国民の祝日である。
行政機関は、行政機関の休日に関する法律(昭和63年法律第91号)第1条第1項第3号の規定により、12月29日から1月3日までを休日としており、一般企業でもこれに準じることが多い。銀行などの金融機関は、銀行法施行令(昭和57年政令第40号)第5条第1項第2号の規定により、12月31日から1月3日までを(ATM等を除いて)休日とすることが多く、システムメンテナンスを行うため長くなる事もある。公共交通機関はこの期間中は平日であっても休日ダイヤで運行する傾向にある。
一方、小売業では、1980年代前半までは松の内(関東)の頃(1月5-7日)まで休業していた店が多く、1980年頃まで百貨店・スーパーマーケットなどの大型店ですら正月三が日は休業していた。しかし、24時間営業のコンビニエンスストアの登場などの生活様式の変化により、開店日は早くなり、1990年代以降は元日のみ休業し、翌2日から短時間体制での営業を始める店が多い。大型店など店舗によっては、短時間体制ながらも元日も営業することも多くなった。2017年以降、国が推進する「働き方改革」や小売業の慢性的な人手不足を背景に、大手百貨店や飲食チェーンの一部に元日営業を見直す動きも見られるようになった。ほとんどの店舗の場合は4日ごろから平常営業に戻る。
正月の習慣
正月には前年お世話になった人や知人などに年賀状を送る習慣があり、お年玉つき年賀はがきの抽選日までを正月とする習慣も多い。元来は年の初めに「お年始」として家に挨拶に行ったり人が訪ねて来たりするはずのものが簡素化されたものとも言える。1990年代末頃から携帯電話が普及したこともあり、年賀状でなくメールなどで済まされることが多くなってきている。また、新年最初に会った人とは、「あけましておめでとう(ございます)」という挨拶が交わされる場合が多い。これは、英語圏の「ハッピー・ニューイヤー(Happy New Year)」が主に年末に言われるのとは異なり、新年になってからでなければ言われない。年末に、来年になるまで会わないだろう人とは、「よいお年を」という挨拶がよく交わされる。
かつては夏の盆と対応して、半年ごとに先祖を祀る行事であった。しかし、仏教の影響が強くなるにつれ、盆は仏教行事の盂蘭盆会と習合して先祖供養の行事とし、対する正月は年神を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」として位置付けられるようになった。
数え年では1月1日に歳を1つ加えていたことから、正月は無事に歳を重ねられたことを祝うものでもあった。満年齢を使うようになってからはそのような意味合いはなくなっていき、単に年が変わったこと(新年)を祝う行事となっている。
喪に服している場合は正月を行わない風習があり、この場合、事前に喪中欠礼の葉書を送った上で、年賀状を送ったり受けたりすることもなくなる。
正月の歴史
中国の“正月”は太陰暦の1月を指す。
古代ローマでは1年は10か月で March が初月、1st March が正月(新年初日)であった。
紀元前713年頃、ヌマ・ポンピリウスにより January と February が加えられ、1 January が正月(年の暦は、January から December、現代英語を含むラテン語派生系言語の7月から12月は、ラテン語:(例として英語では)September, 7番目、October, 8番目、November, 9番目、December, 10番目、の意味))になったが、執政官には紀元前153年まで使われなかった。
紀元前45年、ガイウス・ユリウス・カエサルがユリウス暦(閏年が無い)を導入、1 January がグレゴリオ暦同様、正月(新年初日)になった。
クリスマス様式の暦では、12月25日が正月で、ドイツとイングランドで13世紀迄使われており、スペインでは14 - 16世紀に導入された。
受胎告知(3月25日)を新年とする暦は、ルーマニアドブロジャ 生まれの僧侶、ディオニュシウス・エクシグウス により西暦525年に導入され、中世ヨーロッパの多くの地域で用いられていた。グレートブリテン王国では、1752年1月1日まで採用されていた(スコットランドを除く、スコットランドは1600年1月1日に、割礼祭様式の暦(1 January を正月とする)を用いていた)。後にイギリスはユリウス暦からグレゴリオ暦となるが、現在でもイギリスの税制年度は4月6日(3月25日+12日;11日はユリウス暦から、グレゴリオ暦への差日分、+1日は1900年の閏日)を新年としている。
イースター(復活祭)の土曜日(または聖金曜日)を正月とする暦は、フランスで11世紀 - 16世紀に使われていた イースターは移動祝日で、同じ日付は隔年ごとに来る。
古代のローマ暦の 1 March を正月とする暦は、ヴェネツィア共和国で1797年まで、ロシアで988年 - 15世紀の終わりまで用いられていた、ロシアでは15世紀の終わりから1700年の西暦導入まで、9月1日が正月だった(ロシアにおいては1700年以前は、『旧約聖書』の「創世記」において神が世界を創造したという「天地創造」のエピソードに基づく世界創造紀元を使用していた。)。
カトリック教会の典礼暦では待降節初日が一年の始まりとされてきた。
フランス共和暦(1793年 - 1805年まで用いられた)では、秋分(通常9月22日)を正月(新年初日)とした。
中国では「正月」は太陰暦の1月を指す。日本での正月は中国では「正月初一」または「大年初一」いわゆる春節である。
日本の旧正月
旧暦(日本では天保暦)の1月1日{立春前後、グレゴリオ暦(新暦)での2月頃}は旧正月と呼ばれる。中国・台湾・韓国・ベトナムなどでは、新暦の正月よりも旧正月の方が重視され、お年玉もこの日に渡される。中国では「春節」、「過年」、「農暦新年」といい、ベトナムでは「テト(ベトナム語: Tết )」といわれる。テトは「節」という漢字のベトナム語読みに相当する。また、旧暦1月のことを「正月」と呼び(旧暦では「正月」が正式名、「1月」が異名である)、旧正月を「正旦」ともいう。日本でも沖縄県や鹿児島県の奄美群島などの一部地域では旧正月を祝う地方がある。
お正月と年神様
「年神様」ってどんな神様?
元旦に、家々に新年の幸せをもたらすために、高い山から降りてくる神様が「年神様」。「正月様」「歳徳神(としとくじん)」とも呼ばれています。
昔の人は祖先の霊が田の神や山の神になり、正月には年神となって、子孫の繁栄を見守ってくれるのだと考えていました。そこで、たくさんの幸せを授かるために、年神様をお迎えしてお祝いする様々な風習や行事が生まれました。
「小正月」には小豆粥で邪気払い
「小正月」は旧暦の正月にあたり、その名残で元旦を「大正月」というのに対して1月15日を「小正月」といいます。地方によっては大正月に多忙だった女性をねぎらう日ということで「女正月」ともいわれます。
小正月には餅花を飾って豊作を祈願し、小豆粥を食べ、無病息災を願います。小豆のように赤い色の食べものは邪気を払うとされ、今でも祝い事には赤飯が供されます。
「左義長」は年神様を送る火祭り
小正月の頃、神社や寺の境内に、門松やしめ飾りなどを持ち寄って燃やす「左義長」。「どんど焼き」ともいわれます。
新年に訪れた年神様は、その煙に乗って天上に帰っていくとされ、その時の炎で焼いた餅を食べると無病息災、書き初めを燃やすと字が上手になるなど、様々な言い伝えがあります。また、秋田の「なまはげ」や「かまくら」など、地方色豊かな行事も行われています。 
正月三が日
1月1日(元日)・1月2日・1月3日の3日間である。単に三が日とも呼ばれる。
日本の官公庁や多くの企業では、正月三が日は休日となり、1月4日が仕事始めとなる。労働基準法上の扱いは、国民の祝日と同じ法定外休日である。
直前の数日間も休日となることが多く、いわゆる年末年始の連休を構成する。日本の官公庁の場合、1988年(昭和63年)12月13日法律第91号「行政機関の休日に関する法律」によって12月29日から1月3日まで6連休となり、多くの企業でもこれに準じた連休となる。
1873年(明治6年)1月7日太政官布告第2号「休暇日ヲ定ム」によって、以下の3連休が定められた。
   1月1日から1月3日まで - 正月三が日
   6月28日から6月30日まで - 夏越の大祓
   12月29日から12月31日まで - 年越の大祓
このうち、夏越の大祓の3連休が同年6月23日太政官布告第221号「第二号布吿中六月二十八日ヨリ三十日迄ノ休暇取消」によって取り消されたため、残った年越の大祓・正月三が日の連続する2つの3連休(実質的な6連休)が以降定着することになる。この法令は1947年(昭和22年)を限りに失効しているが、その後も慣例となり、行政機関限定ではあるものの、上述の法律によって再び法的根拠を得ている。
なお、1月3日は1874年(明治7年)から1948年(昭和23年)まで元始祭という祭日、1月1日は1949年(昭和24年)以降元日という祝日でもあるが、正月三が日の3連休ないし年末年始の6連休は、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」「休日ニ関スル件」「国民の祝日に関する法律」といった祭日・祝日を定める休日法に先んじて公布された「休暇日ヲ定ム」による連休であり、ゴールデンウィークのような祝日を活用した連休とは異なる。
大手小売業やサービス業、観光業、交代制勤務の職場などをはじめ、正月三が日が休日とならない事例も少なくない。また、コンピューターシステムの更新やメンテナンスといった、ゴールデンウィーク、お盆、年末年始にしか行えない作業に携わる人たちも同様である。
多くの公共交通機関は休日ダイヤとなり、1月4日から(土日でない場合)平日ダイヤとなる。ただし、1月1日のみ休日ダイヤとなる交通機関や、年末年始特別ダイヤを組む交通機関もある。大都市圏では、大晦日から元日にかけての夜に初詣客向けの終日運転がなされる交通機関もある。
各日の行事
1月1日 除夜の鐘 - 前日から。/元日/元旦 - 元日の朝の意。/初日の出/年賀状の配達/四方拝/歳旦祭
1月2日 書き初め/仕事始め - または4日。/初売り - または4日。/姫始め
1月3日 元始祭
季語
俳句では、「三が日」は新年の季語である。また、三が日の間のネズミのことをいう忌み詞「嫁が君」や三が日に降る雨や雪のことである「御降(おさがり)」も季語として用いられる。  

 

●お正月 3
お正月とは?
お正月とは旧暦の1月の呼び方をそのように呼ぶ事が元になっています。
三が日  1月1日〜3日までの間の事をそう呼ぶ
松の内  1月1日〜7日までの期間 ・・・地域によっては15日や20日(小正月)までを正月の行事を行う期間といしています。
鏡開き 1月11日は鏡開きを行う日として定着しています。以前は1月20日が鏡開きの日でしたが現在では11日に変更されています。
新年の初めの月で「睦月」と呼ばれる由来にも新年は家族で睦みあう様子を表したものとされています。その他にもおせちや、お年玉などにもきちんと由来するものがありそれらを知って見ると、お正月が大切な行事なんだと知る事ができますね、この日にはこんな意味があるんだというのを知ってから過ごすとまた違ったお正月になると思います。
お正月の由来を知ろう
お正月の元旦は年神様が新年の幸福をもたらすために各家庭に訪れるとされています。その目標物として門松やしめ飾り、そして鏡餅に宿ります。
その年神様を「正月様」「歳徳神」とも呼ばれています。
その神様をお迎えしてたくさんの幸せをもたらしてもらうために正月には様々な風習が生まれました。
元旦と元日の違いの簡単な覚え方
元日と元旦についてこんがらがっている人が以外と多いのですが簡単に覚える方法があります。
元旦とは1月1日の初日の出の事を表します。
1月1日の事を元日と言います。
元旦というのは「旦」の字の作りが地平線から日が出てきているものを表す感じです。そのままですね。
この事を覚えておけば元日と元旦の違いを簡単に覚える事ができますね。
お正月の過ごし方のランキング
お正月の過ごし方のなかでこれは鉄板かなと思えるものと、失敗した過ごし方を両方紹介したいと思います。
お正月を過ごしました!ランキング
1位 自宅でテレビを見ながら寝正月 39.5%
2位 神社や寺院に初詣でに行く 20.8%
3位 実家に帰省する 20.4%
4位 福袋や初売りに行く 14.6%
5位 おせちやお雑煮など正月料理を実家で楽しむ 14.0%
お正月を過ごしました!失敗した過ごし方ランキング
1位 食べ過ぎて太った
2位 寝正月
3位 家から一歩も外に出なかった
4位 気がついたら年越し
5位 お年玉を渡しすぎて金欠
お正月の歌と歌詞
   滝廉太郎『お正月』
もういくつねるとお正月
お正月には 凧あげて
こまをまわして 遊びましょう
はやくこいこいお正月
   もういくつねるとお正月
   お正月には まりついて
   おいばねついて 遊びましょう
   はやくこいこいお正月
お年玉
お年玉子供にとっては年末年始の最大の楽しみはそう「お年玉」です!しかし、ルールがあってなさそうなお年玉そんなお年玉のきになる大人の事情を集めてみました。
「お正月と歳神様」
新しい年を迎えてお祝いするお正月には、昔から伝えられた深い意味があることをご存知でしょうか。お正月とは、歳神様という大切な存在を実感するための行事でもあるのです。この一年の幸運を願い、歳神様をお迎えするために用意されるものがお正月飾りです。歳神様を知ることで、日本のお正月を改めて考えてみましょう。
歳神様といただくおせち料理
お正月のおせち料理おせち料理とは、歳神様にお供えするお料理だったそうです。歳神様と共にいただく料理ですから、家族がこの一年を無事に健康で幸せに過ごせるようにとの、多くの願いが込められています。その意味や由来を知ることで、お正月に食べるお節料理がいっそう楽しく感じられるでしょう。
元旦の行事
元旦とは一月一日の日の出を指して呼ぶようですが、歳神様は日の出と共に降臨される、と考えられていたようです。新しい歳を迎えた日には、どのような行事があったのでしょうか。昔からの流れを知ることで、新年の意味も深くなるかもしれません。
お正月の準備
お正月の準備お正月を迎えるためには、昔から行事として決められていることがあります。この行事にならって進めることで、滞りなくお正月準備は調っていくようです。 昔からの歳時記とも呼ばれている行事を知ることで、何かに追いかけられているような心せく気分も落ち着くでしょう。
お正月飾りの種類や意味について
お正月飾りお正月は、大切な一年の節目です。その風習や行事は、少しずつ変化していながらも長く受け継がれてきました。お正月飾りにも、歳神様をお迎えするための大切な意味合いがそれぞれにあります。その一つ一つを知ることで、お正月の大切さもよくわかってくることでしょう。
お正月飾りの処分の仕方
歳神様をお迎えしたお正月飾りは、どのように処分することが正しいのでしょうか。地域的なこともありますし、各家庭での習慣もあるでしょうが、知っておくことで安心できる方法もあります。心を込めて、最後までお正月をめでたく終わらせるために…。
お正月の遊び
一年の内、何回家族全員が揃うことでしょう。お正月は、そんな数少ない家族団らんのときが持てる休日でもあります。昔から伝えられてきた「伝統のお正月遊び」は数多くあります。その由来などを知ることで、家族全員で楽しんでみるのはいかがですか。
鏡開き
鏡開き鏡餅をお供えから下ろして食べるという、歳神様のお力をいただく正月明けの行事のひとつです。歳神様の拠り処ともされた大切な鏡餅です。最後まで大切に食することで、歳神様をお見送りし感謝をするとともに、その力をも頂いくという風習でもあるようです。
初日の出の由来や意味
お正月は、初日の出と共に訪れるといわれています。歳神様の降臨ともされている元日の日の出ですが、初日の出として拝む風習は古くからあったのでしょうか。この一年の幸福を祈願するこの風習は、意外に新しいものでもあるようなのですが…。
松の内
松の内という言葉には、お正月の最中という意味があるようです。地域によってその期間は違いがあるようですから、知っておくことは必要になってきます。知識として知ることと、実際に知って行動できることには違いがありますから、お正月の知識として覚えておきましょう。
書初め
現在でも、冬休みの宿題や三学期の授業にも残っている、数少ない学校の正月行事のひとつでもあります。古来から続けられてきたとても古い正月行事ですが、最近の活字離れと共に書道も廃れようとしているのかもしれません。その意味を知ることで、昔からの思いを新たにできるのでは…。
初詣
初詣の習慣も、昔の形とは違って発展したようです。お正月とは歳神様をお迎えする行事ですが、初詣は神社に参拝することです。その神様の違いはどこにあるのでしょうか。知ることで「お正月の意味」を、もっと明確に捉えられることでしょう。
干支
年末からお正月の時期に一番きになるのが、年賀状などに使われる「干支」 日本では特に自分の生まれた年の干支を覚えていたりその年の縁起物として大事にしてきた風習です。普段は12種類で覚えている干支ですが実は60種類あることを知っていますか?
お正月と節分
お正月なのにもう節分の話?と思われるかもしれませんが実は、お正月とはとても縁の深いのは節分です。元々は節分の日の次の日がお正月だった?厄年が始まるのは実はこの日?など現代ではなかなか馴染みのない行事の本当の意味がわかります。  

 

●初日の出
●初日の出 1
1月1日(元日)の日の出(太陽が水平線や地平線から姿を現す様)のこと。日本では一年に一度の最初の夜明けで『めでたい』とされ、初日の出参りを行う人は数多くいる。
初日の出の習慣は、日本古来のものであるが、人口百万を擁する大都市、江戸では盛んにおこなわれ、特に芝高輪の愛宕山と神田湯島が二大名所だった。全国では明治以降に盛んになったと言われている。四方拝という天皇の元旦の儀式が始まりで、それが庶民の間に現在の形で広まり、初日の出を拝むという習慣になった。
全国各地に初日の出スポットがある。水平線を見渡せる海岸や山頂、展望台、高層建築物(高層ビルや高層マンション、電波塔など)の最上階や屋上などである。
また、初日の出の際に、願い事やその年の決意などを祈ることが多い。季節柄、曇りや雨、雪の多い日本海側よりも、晴天の多い太平洋側の方が見られる確率が高い。  
●初日の出 2
突然ですが、この記事をご覧の皆さんは、新年最初のイベントと言えば何を想像するでしょうか。初詣? 福袋を買いに行くこと? 初夢? いえいえ、もっと前に何かないでしょうか。深夜から初詣に向かっている人は、もしかしたらそれよりも後になるかもしれませんが……明け方に起きる、新年ならではのイベント。そう、初日の出です。こんなことを書くと、初日の出ってイベントって呼べるものなのか、と反論されてしまいそうですが、初日の出を見るという今の日本人の習慣は、正真正銘「イベント」と呼んでよいものだと思います。というのも、もともと初日の出を見るという習慣は、ここまで盛んなものではなかったからです。初日の出を見るということがこんなにも一般的なものになってきたのは、明治以降のことだと言われています。もちろんそれまでにも、初日の出を個人的に見て新年への思いを新たにする人や、地域によっては昔から初日の出を拝んでいた人たちもいたかもしれないのですが、こうして当たり前のような習慣として人々に「初日の出」が馴染むようになったのは、歴史の上では比較的最近のことなのです。その起源は、天皇の元旦の儀式である「四方拝」という儀式が発端で、それが徐々に民衆のあいだにも伝わっていったのだと言われています。今では初日の出を見ると同時に、みな思い思いに新年の抱負を思い描いたり、新年叶えたい願いのことを考えたり、願掛けをしたりしていますよね。初日の出を見るのに適した場所は全国各地にたくさんありますが、一般的に人気なのは、山頂や海岸、展望台などですね。季節的な関係で、この時期には日本海側は曇りや雨の確率が高いため、日本海側に住んでいる人のなかには、晴天で初日の出がよく見える可能性の高い太平洋側に出掛ける人も多いようです。都内なら都庁の展望台や六本木ヒルズの展望台、お台場などが人気のスポットでしょうか。都内近郊ということなら、横浜や湘南なども人気かもしれませんね。最後にちょっとした初日の出についての豆知識をご紹介しましょう。日本でもっとも初日の出が見られる場所は、「南鳥島」、逆にもっとも初日の出が遅いのは「与那国島」なのだそうです。ただ、南鳥島は、日本の領土ではあるものの普通の人は立ち入ることが出来る範囲内でと考えると、いちばん早い初日の出は小笠原諸島の「母島」ということになるようです。小笠原諸島は、最近すこしブームなのか、メディアで観光地として取り上げられているのもよく見かけますね。初日の出を他の人よりも早く見たい、静かなところでゆっくり初日の出を見てみたい、という人は、思い切って観光も兼ねて、初日の出を見に小笠原諸島へ出掛けてみるのもよいかもしれません。 
●初日の出 3
年越しイベントで新年を迎え、その足で初詣へ――。そんな現代の正月は、寒さの厳しい冬の時期。しかし江戸時代は旧暦。元日といえば立春に一番近い新月の日にあたり、春の訪れを告げるものだった。これは「新春」という言葉からも窺える。
また今では当たり前になった有名寺社への初詣も、これが一般化したのは明治時代以降のこと。鉄道網などのインフラが整備され、深夜移動が可能になってから。江戸時代は、元日には祝いの膳を用意して、家族揃ってゆっくり過ごし、一月二日に初売りなどへ繰り出した。
初日の出(江戸時代) 〜江戸時代に庶民に定着〜
元日に日の出を見物するようになったのは、江戸中期以降とされる。潮干狩りの名所である洲崎(現在の東陽町付近)には、多くの人が詰めかけた。 東都名所「洲崎はつ日の出」(歌川広重)
猿曳(明治) 〜家々の前で芸を披露し新年を祝った〜
厩のお祓いとして初春に行われていたが、江戸中期以降は見世物として全国を巡業。明治時代には正月に家々を回って芸を見せては、おひねりをもらっていった。
初詣(大正) 〜鉄道の発達で郊外への参拝も可能に〜
初詣に向かうモガ(=モダンガール)も。鉄道網が発達するにつれて、着飾って有名な寺社へ足を運ぶ人が増えた。 
●絶景初日の出 4
ダイヤモンド初日の出
山頂が輝く、一瞬の奇跡。「ダイヤモンド初日の出」とは、山の山頂に太陽が重なる瞬間、まるでダイヤモンドのように太陽が輝く現象。時期、気候、位置など、さまざまな条件が重なったときにしか観測できない、非常にレアな初日の出だ。
<スポット>山梨県河口湖畔、鹿児島県城山展望台
雲海初日の出
空、雲、太陽。大自然の芸術。高い山の上から見渡す、雲の海。その中から初日の出が浮かび上がってくる光景は、現実のものとは思えないほど幻想的だ。さまざまな気象条件が揃わなければ出現しない雲海と、初日の出が生む、奇跡。
<スポット>千葉県九十九谷展望公園、兵庫県竹田城跡
名城初日の出
歴史を超える、感動とロマン。まばゆい光の中、そびえ立つ名城は圧巻。城は周囲を見張るために、平地よりも高い場所に建てられており、絶好の日の出スポットであることが多い。新しい時代のはじまりに、歴史に想いを馳せるのも悪くない。
<スポット>兵庫県姫路城、岡山県備中松山城
だるま初日の出
めったに出会えない、縁起物。だるまのような縁起の良い形をした初日の出。太陽が水平線を昇る時、冷たい空気と暖かい海面との温度差により、蜃気楼が起きることで現れる。「だるま太陽」や「だるま朝日」とも呼ばれる珍しいこの景色に出会えたら、いい年になるかも。
<スポット>愛知県伊良湖岬、高知県室戸岬
鳥居初日の出
神々しい景色に、思わず合掌。鳥居の背景に昇る初日の出。シンボリックな鳥居の造形が、逆光に映える。1年のはじまりの日に、初日の出と神社を同時に拝むことができたら、きっと幸先の良いスタートとなる。
<スポット>茨城県大洗海岸、滋賀県白ひげ浜
夫婦岩初日の出
大切な人のとなりで見たい。実は、全国各地に存在する夫婦岩。日の出の光が、男岩と女岩を明るく照らし出す。その光景を一緒に眺めるパートナーと、今年も仲良く居られることを願おう。
<スポット>三重県夫婦岩、大分県豊後二見ヶ浦
光の道初日の出
水平線上の太陽から伸びる、光の一本道。水平線から現れた太陽の高度が低い時だけ現れる。海面に映る美しい光の筋が、まるで道のように見える風景。海の波も輝いて、神秘的な絶景を作り出す。
<スポット>北海道納沙布岬、宮崎県堀切峠
地平線初日の出
シンプル・イズ・ビューティフル。余計なものが一切ない景色というものは、それだけでも美しい。まっすぐ引かれた地平線から徐々に姿を現す初日の出を、じっくり堪能できるなんて、贅沢の極みだ。
<スポット>東京都高尾山、大阪府/奈良県金剛山 

 

●歳神様 
●歳神様 1 
歳神様(年神様)とは、お正月にお迎えする、私たちの一年の一年の幸せをお祈りする大切な神様です。本来お正月とは、歳神様(年神様)をお迎えする行事で、お年玉やおせち等お正月の行事も元は歳神様(年神様)に関係するものです。
歳神様(年神様)はどんな神様か
「歳神様・年神様」は「としがみさま」と読みます。この神様は、
・日本の様々な地域で信仰された神様
・日本人の生活に重要であった農耕に関わる神様(神道の神様)
が長い年月をかけて、同一視され今の歳神様(年神様)になったと考えられています。そのため、様々な面を持つのですが、具体的にどのような神様と考えられているか解説いたします。
   穀物神
歳神様(年神様)は農耕民の多い日本において、とても重要な一年間の豊作・五穀豊穣をもたらしてくださる穀物神という神様として、祀られました。歳神様という名前の意味を、日本の国学を大成した江戸時代の国学者、本居宣長は次のように説明します。「歳とは、登志(とし)のことであり、登志(とし)とは穀物のことである」 つまり、歳神様の歳という字は元々、年を意味したものではないというのです。昔の人にとって特に重要な稲の豊作を願い、歳神様(年神様)を年初に拝んだとされます。
   来訪神
時代が経つにつれ、歳神様は、一年に一度お正月にやってくる年神様という側面が強くなります。この一年に一度のお正月にやってくる神様と言うことを、来訪神と言います。歳神様(年神様)は初日の出の太陽と共に来られる、山から下りてこられると一般に言われる現代ではこの来訪神としての側面が強く意識されているようです。ちなみに、現代では一年に一度来られると考えていますが、日本では古来より、現在の12カ月を2年と考え生活をしていました。(つまり、一年は二年に分かれており、歳神様(年神様)は2度来られたと考えられます) 今でも、一年が二年に分かれていたことに由来する行事が残っています。重要な祝詞の大祓詞が生まれた、年中行事の6月30日の夏越大祓と12月31日の大祓い(年越の祓)は一年の終わりの晦日に行われる行事です。つまり、古来日本では7月1日と1月1日がそれぞれ新年だと考えられていたのですね。
   神道の豊穣神(大歳神)
歳神様(年神様)は後述しますが、大歳神(その子神の御年神)という日本神話に出てくる神様と同一視されています。この神道の神様は、豊穣をもたらす豊穣神であり、日本の神社でご祭神として祀るところもあります。
   先祖の霊(祖霊)
また、民間信仰からから自然発生した、先祖の霊や様々な神々が習合した神様として、歳神様(年神様)という考え方があります。日本の民俗学者の第一人者である柳田國男が歳神様(年神様)について述べた言葉を簡潔にまとめると「歳棚に祭る神とは、家々の祖霊であって、福の神でもある」このように言いました。日本には八百万の神々がおられ、あらゆる自然(山、川、海、岩)や場所(家の中)、モノや動物、それらの神々のように、日本では様々な神様を祀る文化が根付いているのと同時に、仏教によって祖霊を祀る文化も混在しています。そういったものが混ざり合った結果、いずれにしても、季節の変わり目に勢力を運び込むものと昔の人々は考えたと柳田國男は述べています。
歳神様(年神様)をお迎えする意味
歳神様(年神様)はどの神様の説が正しいというのではなく、どの神様でもあるというのが日本らしいですね。そんな様々な側面を持つ歳神様(年神様)をお迎えする意味はそもそも何なのかというと、
・五穀豊穣
・長寿
・無病息災
・家内安全
・商売繫盛
今の私たちの生活に関わる様々な幸せを願うためにお迎えをするのです。後程解説する、どんど焼きやお年玉という歳神様(年神様)に関わる様々な行事や習慣は、本来私たちの幸せを祈願するものだったということが実は多いのです。
歳神様(年神様)の別名・読み方
歳神様(年神様)は地方の民間信仰で崇められていた神様も習合したことも関係してか、様々な別名、同一視される神様がおられます。それらの別名と読み方をご紹介します。
   歳徳神(としとくじん)
歳神様(年神様)と同一視される、陰陽道でその年の福徳を司る神様です。恵方巻で方角を意識するのは、この歳徳神のおられる、「この方角に向かって物事を行えば何事も成就する」と考えられる「あき方(恵方)」を向くためです。歳徳神は、恵方様、とんど様、おとんど、トシドシと言った呼称もあります。
   大歳神/大年神(おおとしがみ)
先ほど軽く説明した、日本神話にも出てくる神道の神様です。大歳神はスサノオノミコトとクシナダヒメの子の神様として神話の中で系図があります。稲荷社のご祭神で、五穀豊穣・商売繫盛の神としても有名なウカノミタマの兄弟神に当たる神様です。また、大歳神の子として系図にある御年神も歳神様(年神様)と同一視されます。さらに、大歳神の孫として古事記に現れる若年神(若年様)もまた歳神様(年神様)の別名として知られる神様です。いずれの神話に登場する神様も名前と系図のみが描かれ、どのような神様かは具体的にはわかりません。また、歳神様(年神様)はお正月様と言う別名もあります。
   大歳神/大年神を祀る神社
歳神様(年神様)は来訪神として家にお迎えする神様と一般に知られますが、同一視される大歳神がおられますので、祀られる神社もあります。
神部神社浅間神社大歳御祖神社(静岡県) / 水無神社(岐阜県) / 大歳神社(山口県)
等々があります。
歳神様(年神様)の迎え方
歳神様(年神様)は私たちの家に来られる神様ですので、正しい迎え方をしなければ、歳神様(年神様)が来られないということになります。そのため、歳神様(年神様)をお迎えするために必要な情報をまとめます。歳神様を迎えるポイント
・歳神様(年神様)がいつ来られるのか
・歳神様(年神様)のための正月飾りのそれぞれの意味と飾り方、飾る日 ※飾ってはいけない日があります
・歳神様(年神様)を祀る場所
・歳神様(年神様)をお送りする方法
これらを理解し、良い一年をお迎えください。
歳神様(年神様)はいつ来られるのか
歳神様(年神様)が来られる時間については、諸説あります。いずれの場合でも、お迎えする方法には変わりはありません。
   初日の出と共に来られる
皆さんは親や祖父母がお正月お天道様に向かい新年のご挨拶や祝詞を奏上しているところを見たことはありますでしょうか?私の家では毎年行われていたのですが、歳神様(年神様)は初日の出と共に来られるという考え方があり、初日の出を拝むという風習が日本にはあります。拝むということまではしなくても、富士山のご来光でも有名ですが、初日の出を山に見に行くということを行っている人は多いと思います。実は初日の出を見るというのは、歳神様(年神様)がお越しになられるのを見に行くということだったんですね。ちなみに、初日の出と共に来られるという考えの他にも、山から下りてこられるという考えもあります。ご来光を見るために、初日の出を山に見に行くと言うのは実はとても神聖な行動だったということです。ちなみに2019年の初日の出は東京近郊が6時50分。大阪近郊が7時10分です。
   大晦日の日没後
歳神様(年神様)が来られる時間は、12月31日の日没後という考え方もあります。ちなみに2018年12月31日の日没は、東京が16時37分で大阪が17時ちょうどだそうです。
正月事始めから歳神様(年神様)をお迎えするため大掃除
正月に向けて飾り付けの準備や大掃除を始める日と言うのが暦ではあることをご存知ですか?その日は12月13日(地域によって変わります)で、この日を
・正月事始め
・すす払い お正月に向け大掃除を始めることを意味
・松迎え お正月飾りの門松や松飾りに使う松を山に取りに行くことを意味
これらの呼び名があります。歳神様(年神様)を含む、神様は不浄を忌み嫌います。歳神様(年神様)をお迎えするにふさわしい清浄な場所にするため大掃除は大変ですが、頑張りたいものです。ちなみに、すす払いの手順としては、まず神棚を掃除してから、台所や各部屋の掃除を行うものとされています。
歳神様(年神様お迎えする正月飾りの飾り方
さて、大掃除はまだ行う日に決まりはありません。強いて言うと、歳神様(年神様)が来られると考えられる大晦日には終わらせるものですが、正月飾りは飾るのが良いとされる日、飾ってはいけない日などが存在します。また、それぞれの正月飾りには歳神様(年神様)にまつわる重要な意味がありますので、ご紹介をします。
門松・松飾りで歳神様(年神様)を案内
門や玄関の前に置く、門松(松飾り)は歳神様(年神様)に家に来ていただくための目印になるものです。また、歳神様(年神様)が宿る依り代にもなると考えられるため、扱いは雑にしてはいけません。門松、松飾りの正しい飾り方、飾ってはいけない日等詳しい解説はこちらをご覧ください。
しめ飾りは邪気を防ぎ、歳神様(年神様)にふさわしい場所に
しめ飾りは玄関や門の上部に飾り、不浄なモノや穢れが入りこまないようにする結界を意味する正月飾りです。しめ飾りをすることで、歳神様(年神様)を迎える場所にふさわしいということを意味します。
鏡餅は歳神様(年神様)の依り代に
鏡餅は神棚や床の間に飾る正月飾りで、こちらは家にお迎えした歳神様(年神様)が宿る依り代になり、正月が明けるまでこちらに歳神様(年神様)は居られるとされます。鏡餅がなぜ丸く、鏡という名前がついているのかと言うと、神様のご神体となる鏡の元祖である三種の神器の八咫鏡(ヤタノカガミ)を鏡餅で表現しているからです。
   鏡餅をいただくことは歳神様(年神様)にあやかるため
鏡餅は鏡開きという行事にて、適切な方法で食べるお餅の大きさにします。この鏡餅のお餅をいただくことは、歳神様(年神様)の宿った神聖なものをいただくということを意味し、無病息災や、子供の成長を願うという意味を持ちます。ちなみに、お年玉は元々はお餅を子供や目下の人に分けたことが由来となっています。このお年玉として渡すお餅も歳神様(年神様)の御霊が宿る、神聖なもので、一年の活力を授けるという意味を持っていました。
歳神様(年神様)へ失礼のない正しい飾り方
それぞれの正月飾りが重要な意味を持っていることを理解し、歳神様(年神様)に失礼のないように飾りましょう。
   正月飾りを飾って良い日と飾ってはいけない日
この門松や松飾りや以下で見るしめ飾り等、正月飾りを飾る日は12月28日が良いとされています。(12月13日~28日ならいつでもよい) ただし、29日、30日、31日に飾ることは縁起が良くない、もしくは歳神様(年神様)へ不敬とされます。29日に飾り立てることは、「苦立て」とされ、31日や30日(旧暦の大晦日)に正月飾りを飾ることは一夜飾りと言い、神様にたった一晩飾ったものでは、失礼に当たると言います。 ※30日を良いとする説もあります。こちらは皆さんの気持ちの問題ですので、この日を避けるかどうかはご家庭でお決めください。
おせちは歳神様(年神様)へのお供え物でもある
正月飾りと共に、お正月の代表的な風物詩のおせちは歳神様(年神様)へお供え物がそもそもの起源とされます。後に歳神様(年神様)へのお供え物という側面と、私たちの幸せを願うという側面の二つを持つものになります。
   祝箸も歳神様(年神様)と関係
お正月は箸の両端が細くなった祝箸を使います。この祝箸の形状や、祝箸を入れる箸紙に名前を入れることも歳神様(年神様)に関わることなのです。祝箸の両端が細いのは、片方が歳神様(年神様)が利用されるため、片方が私たちが食べるためです。また、祝箸の箸紙に私たちの名前を書くのは、歳神様(年神様)にこれから一年間の家族の幸せを願い、災厄から守っていただくというご利益にあやかるためです。このように神様と同じお箸で料理をいただくことを、「神人共食」と言います。
歳神様(年神様)の祀り方
歳神様(年神様)の祀り方に関して、ネット上では、神棚に祀りますと感じるような表記が多くあります。実際、地域(特に東北地方)によってそのようなところもあります。しかし歳神様(年神様)の一般的な祀り方は、神棚ではなく、基本は床の間にて、正しく鏡餅や飾りを配置することです。歳神様(年神様)の祀り方は床の間がある家では、次のように祀ります。鏡餅の祀り方・・・
・三方(さんぽう)という神前に物を備えるときに使う台の上に半紙を敷く
・裏白(うらじろ)もしくは、ゆずり葉という植物を敷く
・葉の上に鏡餅を乗せる
・昆布を餅の上に乗せる
・橙(だいだい)を昆布の上に乗せる
 ※昆布がない略式もあります。
 ※上記はあくまで一般的な飾り付けで地域によって他の縁起物を飾ったり、四方紅と言う和紙や紙垂を飾り付けるところもあります。
鏡餅を飾ったのち、床の間の幅が許すのであれば、
・右から、鏡餅、香炉、生け花を飾る
・生け花には松竹梅や福寿草と言った縁起の良い植物が適当
さらに掛け軸を生け花に飾った花以外のもので飾れば完成形とされます。
こうして、歳神様(年神様)の宿る鏡餅の設置は完了です。床の間がない場合は、家族が集まるリビング等の場所に飾ります。飾る場所は暗い場所で、見下ろすような低い場所はよくありません。明るい場所で、できれば棚の上などに飾り付けます。また飾る向きは神様ですので、神棚と同じ南向きもしくは東向きが良いとされます。また、鏡餅は複数飾っても良いとされ、小さなものを神棚や家の他の場所に飾り、歳神様(年神様)にそこに来ていただくということも可能です。
歳神様(年神様)の神棚の祀り方も
地域によっては、歳神様(年神様)を神棚に祀る地域もあり、宮城県神社庁では、歳神様(年神様)の神棚での祀り方について、詳しく解説をしてくださっています。また、地域によっては年神棚という独自の棚を造ったり、神棚とは別に歳神様(年神様)を祀る棚を作るところもあります。先ほどの床の間の飾り方はあくまで一般的な飾り方ですので、ご自身の地域の神社に確認をされるのがよいでしょう。
   歳神様(年神様)のお札
神棚に飾るお札は天照大御神のお札である神宮大麻、氏神様の祀られる神社のお札、家で特別ご参拝している上記以外の崇敬神社のお札を飾るが基本です。そこに地域によっては歳神様(年神様)のお札をお祀りするところもあるようです。皆さんの地域にはその文化があるのか、年末年始にお近くの神社で歳神様(年神様)を意味するお正月様と言った神様のお札があるかをご確認ください。
おせちは歳神様(年神様)へのお供え物
普段は米、水、塩の基本の三つだけというご家庭でも、新年には頂き物や季節の初物、野菜や果物を神棚にお供えすることもあると思います。それに加え、お正月を迎える大晦日にはおせちを神棚にお供えします。暮れにおせちを作るのは、煙が出る煮炊きと言った料理が歳神様(年神様)を迎えの妨げにならないよう慎むためです。お供えをして、年明けにおせちを食べ歳神様(年神様)をのご利益をいただきましょう。
新年は歳神様以外の神様にもご挨拶を忘れずに
歳神様(年神様)を祀る場所は基本神棚ではないにしても、新年に向けて神棚はしっかりと煤払いで掃除をして清め、神棚に新年のご挨拶は必ずしましょう。また初詣は氏神様という、家の建つ土地の神様への新年のご挨拶の行事です。歳神様をお迎えしただけではなく、しっかりと氏神様へのご挨拶は忘れずに。
歳神様(年神様)が来ない家にならないために
歳神様(年神様)に来ていただくため、お迎えの準備には次の点に気を付けましょう。歳神様をお迎えする時の注意点・・・
・不浄を嫌う神様ですので、掃除は28日までには終わらせておきましょう
・正月飾りも28日までに飾り付けましょう
歳神様(年神様)がいつまで居られるかとお送りの方法
歳神様(年神様)はお正月の間、鏡餅に宿り、家におられます。では、歳神様(年神様)がおられる、お正月はいつまでかをご存知でしょうか?歳神様(年神様)がおられるお正月の期間は松の内までと決まっています。ただし、この松の内は地域によって変わるのです。
歳神様(年神様)がいつまで居られるかは地域による
現在は一般的に松の内は1月7日の大正月とされていますが、関西では1月15日の小正月を松の内としています。家に来られた歳神様(年神様)のいる期間が地域によって変わるというのも変な感じですが、これには松の内の歴史が関係しています。
歳神様(年神様)の依り代となる門松等は松の内の間飾る
松の内の期間が変わるということは、歳神様(年神様)の居られる期間が変わるということと、正月飾りの片付ける日なども地域によって変わることを意味します。門松や松飾り、しめ飾りという正月飾りと一年間神棚に飾ったお札や破魔矢は松の内の終わりに適切に処分をする必要があります。
歳神様(年神様)はどんど焼きでお見送り
歳神様(年神様)はお正月の期間家に居られた後、どんど焼きという火祭りで空へお見送りをします。どんど焼きは左義長/お焚き上げなど様々な呼び名があり、地域によって火祭りと呼ばれたり、道祖神祭りと言うところもあります。どんど焼きは歳神様(年神様)をお見送りするだけでなく、火や煙に当たり厄を払う、悪霊を払うという意味や、どんど焼きで食べるお団子を食べて無病息災を願うなど、様々な祈りを込めるお祭りです。このお祭りで、門松や松飾り、しめ飾りと言った正月飾りやお札を焼いて処分します。神社や地域の自治体や、有志の人で行われるものです。本来は松の内の終わりの小正月に行うのが全国一律でしたが、松の内の期間が変わったことを受けて、地域によって1月7日や8日、1月の第二日曜や第二月曜日に行われます。もし、どんど焼きで処分ができなかった場合は、自宅でごみとして出すことになりますが、半紙の上において塩を振りお清めと感謝の念を込めて捨てるのが適切とされます。
歳神様(年神様)の依り代の鏡餅は鏡開きで
お正月に飾る鏡餅以外はどんど焼きにて処分しますが、鏡餅は別の行事で下げて、食べます。この行事を鏡開きと言い、鏡餅を食べられるように小さくして、それをおしるこやぜんざいという小豆と一緒に食べることで、一年の無病息災を願います。鏡餅を食べ歯固めをするというのも、古来の風習です。この鏡開きも地域によって1月11日や1月20日と違いがあります。ちなみに鏡開きでは、神様の依り代となった鏡餅を食べられるようにするのですが、包丁で切ったりしてはいけません。これは武家で切るということは切腹につながる言葉と考えられため、開くという「運が開ける」等縁起のよい言葉になったと言います。ちなみに、割るという言葉も忌み言葉として利用されません。包丁で切らない代わりに木槌なんかで叩いて小さくするのが、伝統的な鏡開きの方法です。
歳神様(年神様)を正しくお迎えし良い一年の祈願を
長くなりましたが、一年の始まりであるお正月は私たちに福をもたらしてくださる歳神様(年神様)をお迎えし、一緒に過ごす大切な年中行事です。正しくお迎え、お見送りをして、一年の幸せや厄払いを願い、良い一年のスタートを切りましょう。最後に、今回はなるべく、一般的な歳神様(年神様)の迎え方をご紹介し、なるべく地域のことにも触れるようにいたしましたが、ここに書いているのはあくまで、一般論。ご家庭や、地域のお迎えの仕方は存在し、それらは千差万別であると考えられます。 
●年神 2 
年神、大年神(としがみ、おおとしのかみ、歳神とも)、 日本神話、神道の神である。
日本神話では、『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カグヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。
系譜
大年神は他に多くの神の父とされる。
伊怒比売(いのひめ、神活須毘神(かむいくすび)の娘)との間の子
   大国御魂神(おほくにみたま) - 国土の神霊の意。国魂、大国主を参照。
   韓神(から) - 百済からの渡来氏族が信仰した神。園韓神社も参照。
   曾富理神(そふり) - 西田長男は、曽富理神が祀られたのは、平安京に遷都の行われた延暦13年10月20日以後のこととして、古事記の成立は平安遷都以後とした。また、新羅からの渡来神ともされる。
   白日神(しらひ) - 明るい太陽の神。
   聖神(ひじり) - 日を知る農耕神。
香用比売(かぐよひめ)との間の子
   大香山戸臣神(おほかぐやまとみ)
   御年神(みとし)
天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)との間の子
   奥津日子神(おきつひこ) - 熾の神。
   奥津比売命(おきつひめ) - 同上。別名 大戸比売神(おほへひめ)。竈神(かまど)の女神。
   大山咋神(おほやまくひ) - 別名 山末之大主神(やますゑのおほぬし)。比叡山の山の神で日吉大社・松尾大社の祭神。
   庭津日神(にはつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
   阿須波神(あすは) - 屋敷の神。
   波比岐神(はひき)
   香山戸臣神(かぐやまとみ)
   羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神。
   庭高津日神(にはたかつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
   大土神(おほつち) - 別名 土之御祖神(つちのみおやのかみ)。土の神。
羽山戸神と大気都比売神との間の子
   若山咋神(わかやまくい) - 山の神。
   若年神(わかとし)
   若狭那売神(わかさなめ) - 田植えをする早乙女の意。
   弥豆麻岐神(みづまき) - 水撒き・灌漑の神。
   夏高津日神(なつたかのひ) - 別名 夏之売神(なつのめ)。夏の高く照る日の神の意。
   秋毘売神(あきびめ) - 秋の女神。
   久久年神(くくとし) - 稲の茎が伸びることの意。
   久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなね) - 別名 若室葛根(わかむろつなね)。新しい室を建てて葛の綱で結ぶの意。新嘗祭のための屋舎を建てることと考えられる。
古語拾遺における記載
『記紀』には系譜以外の事績の記述がないが、『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある。
来方神
毎年正月に各家にやってくる来訪神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。
現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。
鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝わる年神は、トシドンとよばれる。
また陰陽家では、娑伽羅竜王(しゃがらりゅうおう)の娘、女神・頗梨采女(はりさいじょ)のことを年神といい、元旦に来訪する神霊という。のちに、これに先祖霊が加えられ、習合した。
穀物神
「年」は稲の実りのことで、穀物神である。本居宣長は「登志とは穀のことなり、其は神の御霊以て、田に成して、天皇に寄奉賜ふゆえに云り、田より寄すと云こころにて、穀を登志とはいうなり」と述べ、穀物、農耕神であるとした。
信仰の根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。
祖霊
また一方で、年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたため(山の神も参照)である。
柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
年徳神
中世ごろから、都市部で「年神(歳神)」は「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった。徳は得に通じ縁起が良いとされたためである。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言って縁起の良い方角とされた。
暦には女神の姿をした歳徳神が描かれているが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。元々民間信仰の神であり、その姿は様々に考えられていたということである。
正月の支度をしていると翁と出会い、待ち合わせをしていた童と交代で帰って行くのを見届ける為に数日が過ぎ、すっかり年が明けてしまったと思っていたら時間は経過しておらず、童が今年の年神である事に気付くという伝承がある。
祀る神社
   大歳御祖神社(静岡県静岡市葵区)
   飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)
等全国に多数。 また、特に西日本で大歳神社・大歳様として田の畔の祠などに祀られている。葛木御歳神社(奈良県御所市)が全国の御歳神(御年神)を祭る神社の総本社とされる。
大和神社(おおやまとじんじゃ)右殿でも祀られている。中殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。
日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神。『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神(大物主)・右殿を天照大神。『元要記一説』では右殿を稲倉魂神(ウカノミタマ)としている。  
●歳神様 3 
歳神様を知っていますか
難しい言葉で言うと「歳徳神・としとくじん」とも呼ばれている「歳神様」は「年神様」とも書かれます。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さん、などとも呼ばれているようです、地域性が感じられて楽しくなりますね。昔から新年になると、家々に幸せをもたらすために降りてくる、と言われていました。農業国でもあった日本では、「祖先の霊が田や山の神になり、新年には歳神ともなって子孫を見守ってくれる」と考えたようですが、この考え方が一番簡単で分かりやすいのも確かです。古事記から始まるこの「神様」は、調べだすと大変なことになりますが、『正月には門松やしめ飾り、鏡餅を飾って、心から歓迎する』ということだけは覚えておきましょう。
しめ飾りは神聖なもの
家々に歳神様をお迎えすることが「お正月」と言う行事ですから、「しめ飾り」は神様をまつる神聖な場所を示すことになります。「しめ縄」に縁起物の飾りをつけたものが、家々の門や玄関に飾られます。自分の家が、歳神様をお迎えするのにふさわしい神聖な場所に調えられていることを、示すために始まったとされています。暮れの大掃除も「年神様を迎えるための準備」「お正月を迎えるための清掃」と考えれば、充分に納得できますね。
鏡餅は歳神様へのお供え
昔から「鏡餅」は「お供えする」と言い習わされてきました。もっと深く意味を探れば、『年神様の御神体である』『年神様の拠り所である』ということになるそうです。『鏡餅』という名前自体に「その意味」が感じられますね。神様が宿るところとしての、神事に用いられる円形の鏡を表しているようです。大小二段の形は、「太陽と月」「陽と陰」を表してもいるとのことで、見慣れている形にも深い意味合いが込められているのですね。元旦に「歯固め」をするということで、「固い餅」を食べる儀式にも由来するようです。
初日の出は歳神様のおいでになる時
お正月の元旦に上る朝日が「初日の出」ですが、歳神様は日の出と共に降臨すると考えられていたようです。元日の朝には、歳神様を迎えるために家族が全員揃うことが、慣わしだったとか。今でも元日の朝は家族揃って食卓を囲みますから、その習わしは生きていることになります。明治以降は、元旦に見晴らしの良いところへ出向き、その年の最初の日の出を拝む習慣もできたようです。もちろん、お正月の準備は全て整えてからのことでしょうが、近年は暮れから正月に掛けての「旅行」や「ホテル滞在」なども流行っている様子です。そんな家でも、歳神様が迷うことなく降りていただけるように「お正月飾り」はきちんと調えてから出かけてください。
お年玉も歳神様から頂く
最近の「お年玉」の響きには、未成年の者には「物凄く嬉しいお小遣い」という風潮が一般的でしょう。でも元々は、お金ではなく「お餅」だったといわれています。鏡餅は神様の御神体とも考えられていましたから、『御霊』が宿っています。そして、それを「年魂」として家長が家族に分け与えたことから、「お年魂」「お年玉」となったとされています。現代の子供達は「お正月にお餅を食べるのは当たり前」ですから、きっとお餅のお年玉には怒り出すかも知れませんね。「歳神様から魂を分けて頂き、一年分の力を授かる」と言う意味合いがあるようです。新しい年の幸福や恵みと共に、魂をも分け与えてくださる、と考えられていたのでしょう。誕生日ではなく、新年に歳を重ねる「数え年」は、元旦の度に歳神様から魂を分けていただく、という考え方にもあります。 
●歳神様 4 
お正月に迎える歳神様について
お正月はそもそも、歳神様をお迎えしお祀りするためにあります。歳神様は初日の出と共に現れるという言い伝えから、日本では昔から初日の出をとても重要なものと位置付けてきましたし、中でも歳神様は高い山から下ってやってくるという話から、山の上で見る初日の出を『ご来光』と言って特に大切にしてきました。また門松は、歳神様が迷わないようにと目印として家の前に置くものです。さらに鏡餅は、家に入って来た歳神様がそこをよりどころとして再び山に帰る日までいらっしゃる場所となります。鏡開きの日には歳神様の力が宿ったこの鏡餅を家族で食べる事で、一年を健康に暮らせると言われているのです。
歳神様ってどんな神様?いつやってくるの?なぜ正月にお迎えするの?
歳神様の由来に関しては諸説あります。
・まず一つ目は、歳神様は神道の神様とされ、その数は八百万に及ぶと言われています。神道とは他宗教のように唯一の神の存在を信じるものではなく万物に神様は宿るという考えで、山や川、気象、森、野生動物といったものを崇拝するものです。
・次に二つ目は、日本は古来から農耕を行っていた事から一年の始めにその年の豊作を願うため、歳神様を「穀物神」として祀ってきました。歳神様の「とし」は穀物、主に稲が語源となっている事から、歳神様は稲の豊作をもたらす神様として日本では昔から大切に扱われていたとされています。
・そして三つ目は、家を災いから守ってくれる先祖の霊という説です。
二つ目と三つ目は庶民の暮らしに根付いたものですから、この二つを合わせたものが歳神様の由来としてもっとも有力とされているようです。歳神様は初日の出と共に山から下りて来て、各家にやってくると言われています。
迎える準備はどうすればいいの?
歳神様をお迎えするには、まずはお正月前に大掃除を始めましょう。日本では昔から12月13日を「すす払い」として家の中の塵や埃を払う行事が行われてきましたが、今現在は13日にこだわらず年末が近くなってきたら掃除を始める方も多いようです。または神棚のみ13日に掃除をするいう方もいらっしゃいます。そして、12月も最後の週になってきたら、お正月飾りを飾り始めます。門松、しめ縄、鏡餅などがこれに当たりますが、出来れば28日には出して飾って下さい。29日は9が苦を連想させるため避けるべきですし、31日では「一夜飾り」といって歳神様に失礼に当たります。さらに、31日にはおせち料理の準備も忘れてはいけません。
歳神様のまつり方
家の中に神棚がある場合は、神棚に御札やお供え物を上げましょう。神棚がない場合は、家の中でなるべく高い場所(本棚やタンスなど)にお供えをして歳神様をお祀りします。
祭る期間はいつからいつまで?
お正月には門松や鏡餅、しめ縄などを飾りますが、これらは全て歳神様をお迎えするためのもの。歳神様は、毎年お正月とお盆の2回やって来ると言われています。歳神様については、先祖や稲作(お米)の神様、または八百万の神など諸説ありますが、どちらにしても私達にとって大切な存在であるのは間違いないため、できる限りのおもてなしをする必要があります。門松は歳神様が山から下りてきた時に、目印となるものと言われています。また、鏡餅は歳神様が依り代として宿るものと言われています。このようにして歳神様を迎い入れる準備を万全に整えて初めて、新年の日の出とともに歳神様が我が家にやって来ます。そして、一般的には松の内が終わると歳神様は山へと帰られると考えられています。松の内は地域によって期間が異なり、関東地方では1月7日、関西地方では1月15日となっているので、住んでいる地域によって確認するのがよいでしょう。
お供えするものは何?ダメなものはある?
歳神様のお供え物として欠かせないのは、鏡餅です。鏡餅は歳神様の魂が宿るものと言われており、鏡開きの際に鏡餅を食べるのは、食べることで歳神様の力を頂くという意味があるからです。そのため、鏡餅は神棚に飾るか、神棚がない場合はできるだけ高い場所に飾るのが基本となります。床の間があればそこに、歳神棚や恵方棚を作り、お供え物をするとよいでしょう。また、この他にお米や野菜、果物などを飾ってもよいと言われています。歳神様は農作物の神様とも言われているので、このような食物を飾るのはOKとされています。ただし、神様へのお供え物として臭いのきついものはNGとなっています。にんにくなど臭いが出やすいものはお供えしないように気をつけましょう。 
●大年神 5 
大年神の別名
大歳神(おおとしがみ)/歳徳(としどく)/お歳徳(とんど)/正月様/恵方(えほう)様
大年神の御神徳
五穀豊穣/家内安全/家運繁栄
大年神の伝承地
島根県出雲市
大年神の継続
須佐之男命(父)/神大市比売(母)/宇迦之御魂神(妹または弟)/天知迦流美豆比売(妻)/香用比売(妻)/伊怒比売(妻)/御年神(子)/奥津日子神(子)
大年神の鎮座
大歳御祖神社(静岡県静岡市)/飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)/大歳神社(山口県下関市)/下谷神社(東京都台東区)/大穴持神社(鹿児島県霧島市)
大年神とは?
大年神とは、お正月を迎える神様です。大年の「年」は祈年祭の「年」であり、冬に種をまいて初冬に収穫する稲のことだといいます。これで大年神が稲作の神だということがわかります。正月に迎える神なので年徳神とされ、上記の別名の欄のように年徳さま、お正月様、恵方様などと言われております。年の変わり目にやってきて、豊年満作をやくそくし、家の安泰や繁栄を見守ってくれる豊穣の神様なのです。一方、一部の地方では農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、大年神様は家を守る神様として祀られているようになったようなのです。また、年徳様自体はもともと民間信仰の神様だとされ、同一化されるにつれて様々な信仰が増えて定着していったといわれといます
お正月の神様
ご存知の方もいるように、お正月の神様といえば大年神様がポピュラーでしょう。大年神様は、中世(平安時代末期から安土桃山時代あたり)から『年徳様』と都市部中心に呼ばれ始め、理由としては『徳』という字が縁起がよいものとされたためという。そもそも、日本人は年末を楽しむようにしており、お歳暮のやり取りや忘年会といった様々あります。関係ないように思える楽しい行事は、じつは関連があり、神道では人々が楽しく過ごすことによって、大年神様を含む様々な神様を喜ばせることにつながるようなのです。みんなが幸福に過ごし、大年神様を迎えることが大切なことだとわかります。また、正月の飾り物である門松は依代、鏡餅はお供え物だとされています。
なぜ、歳神から年神へ変わったか
正月行事はそもそも、農耕が盛んだった日本においてとても大切なものでした。古代では、一月一日、七月一日に農作をもたらす農耕神『歳神』と呼ばれる祖霊がやってくるとされていました。歳神の『とし』は、古代語で『稲の実り』という意味で、名からして農耕における大切な神様だったとされます。しかし、七月一日の祭は飛鳥時代からすたれはじめ、それは祖霊祭から盂蘭盆にかわっていきました。一方の一月一日の祖霊祭は大掛かりなものにかわり、その日に年が変わることから農耕の神である『歳神』から、年の始まりに訪れる意味の『年神』に変わったとされます。 

 

●歳徳神 
●歳徳神 1 
[としとくじん、とんどさん] 陰陽道で、その年の福徳を司る神である。年徳、歳神、正月さまなどとも言う。
ほとんどの暦では、最初の方のページに王妃のような姿の美しい姫神の歳徳神を記載している。歳徳神の由来には諸説あり、『簠簋内伝』では、牛頭天王の后・八将神の母の頗梨采女(はりさいじょ)であるとしているが、これはでたらめであるとの批判もある。また、牛頭天王が須佐之男尊と習合したことから、その妃の櫛稲田姫とも同一視される。
恵方
歳徳神の在する方位を恵方(えほう、吉方、兄方)、または明の方(あきのかた)と言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされる。本命星と恵方が同一になった場合は特に大吉となる。しかし、金神などの凶神が一緒にいる場合は凶方位になる。
歳徳神の在する方位(すなわち恵方)は、その年の十干によって決まる。
かつては、初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣があった(恵方詣り)。また、節分の行事として恵方を向いて「太巻きの丸かぶり」を行う恵方巻の風習が関西を中心に行なわれていたが、近年コンビニエンスストア等の宣伝やキャンペーンで全国に認知されつつある。なお、宣伝やキャンペーンにあたっては24方位ではなく日常的な16方位による簡便な説明が行われることが多い。  
●歳徳神 2 
節分の恵方巻でお馴染みの恵方(えほう)とは、歳徳神(としとくじん)のいる方角のことを言います。歳徳神は、年神(としがみ)、正月様とも言い、八将神の母とされ、一年の福徳をつかさどる神で、この方角に向かって事を行えば万事大吉とされています。歳徳神のいる方角を恵方(えほう)または明方(あきのかた)と称し、その方位にある神社に初詣することを恵方詣と言います。2020年(令和二)の干支は庚子(かのえね)なので、表の庚の行を見てみましょう。2020年は申・酉の中間の方位にある神社に初詣すると恵方詣となります。また、節分の恵方巻も歳徳神が来る方位を向いて食べます。八将神と金神は悪い方角を示す神様で、遊行期間などもあり複雑ですが、歳徳神は良い方角を示す神様で遊行期間もなく、伊勢暦や引札暦など旧暦の暦に記載されている神様の中で一番取っ付きやすいです。
歳徳神 明(あき)の方位
年の十干     /     明(あき)の方位
甲 己 東宮甲  寅・卯の中間  東北東と真東の間
乙 庚 西宮庚  申・酉の中間   西南西と真西の間
丙 辛 南宮丙  巳・午の中間   南南東と真南の間
丁 壬 北宮壬  亥・子の中間  北北西と真北の間
戊 癸 南宮丙  巳・午の中間  南南東と真南の間  
●歳徳神 3 
暦を開くと、たいてい八角形の「方位吉凶図」の近くに描かれている女神さまです。その年の福徳を司る神さまで、年徳、歳神、お正月さま、としとくさまなどと呼ばれます。正月に門松を立てたりして家の中に迎えるのは、この神さまです。「方位吉凶図」に「恵方」や「あき方」「明きの方」と書かれているのが歳徳神がいる吉方で、この方向の神社仏閣へ初詣(恵方参り)をすれば、その1年は安泰であるとされます。また何事も、この方向へ向かって行なえば成就するとされます。自分の本命星と歳徳神のいる方位が重なると、その年は大吉とされます。
暦によっては、歳徳神を牛頭天王の妃の頗梨采女(はりさいじょ)とするものがあります。  
 
 

 

 
 
 

 

●初詣

 

●初詣 1
年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。初参・初参り(はつまいり)ともいう。
歴史
元々は「年籠り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神神社に籠る習慣であった。やがて年籠りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今の初詣の原形となった。治承5年に源頼朝が鶴岡若宮に参詣したことが初詣が広まるきっかけになったとの指摘もある。
江戸時代末期までの元日の社寺参拝としては、氏神神社に参詣したり、居住地から見て恵方にあたる社寺に参詣(恵方詣り)したりといったことが行われた。
「年籠り」形式を踏まず、単に社寺に「元日詣」を行うだけの初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治中期のこととされている。また、氏神や恵方とは関係なく、有名な社寺に参詣することが一般的になった。俳句で「初詣」が季語として歳時記に採用されたのは明治末期であり、実際に「初詣」を詠んだ俳句が登場するのは大正時代以降であるという。
また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方がある。これを二年参りという。
近代以後の変容:恵方詣りから初詣へ
江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形である「初詣」が、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている。
関東では、1872年(明治5年)の東海道線開通により、従来から信仰のあった川崎大師などへのアクセスが容易になった。それまでの東京(江戸)市民の正月参詣は市内に限られていたが、郊外の有名社寺が正月の恵方詣りの対象とみなされるようになった。また、郊外への正月参詣は行楽も兼ねて行われた。平山によれば「初詣」という言葉は、それまでの恵方詣りとも縁日(21日の初大師)とも関係のない川崎大師への正月参詣を指すのに登場したといい、1885年(明治18年)の『万朝報』記事を管見の初出と紹介している。鉄道網の発達に伴い、成田山新勝寺など郊外・遠方の社寺にもアクセスは容易となり、また京成電鉄や京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社も登場した。競合する鉄道会社間(国鉄を含む)では正月の参詣客を誘引するために宣伝合戦とサービス競争が行われた。当初は鉄道による有名社寺への「恵方詣り」の利便性が押し出されたが、年ごとに変わる恵方に対して「初詣」という言葉がよく使われるようになり、大正時代以後は「初詣」が主に使用されるようになった。
関西では、もともと恵方詣りは元日よりも節分に盛んに行われていた。鉄道会社の集客競争の中で正月参詣にも恵方が持ち込まれるようになり、関西の人々は節分のほかに元日にも恵方詣りを行うようになった。しかしながら、鉄道会社が熾烈な競争の中で自社沿線の神社仏閣をめいめいに恵方であると宣伝し始めたため、やがて恵方の意味は埋没した。大正末期以降、関西では方角にこだわらない「初詣」が正月行事の代表として定着した。
風習
社寺へ参拝を行って、社務所でお守り、破魔矢、風車、熊手などを受けたり、絵馬に願い事や目標を書いたりして、今年一年がよい年であるよう祈る。昨年のお守りや破魔矢などは、このときに社寺に納めて焼いてもらう。また神社によっては境内で甘酒や神酒などが振るまわれる。
各地の初詣の模様は、12月31日より1月1日早朝にかけてNHK総合テレビの長寿番組『ゆく年くる年』などで毎年中継されている。
ルール
初詣の対象は神社・寺院のいずれでもかまわないとされている。これは明治時代初期に神仏分離が行われる前は、神道と大乗仏教ならびに祖霊信仰が一体化した神仏習合による信仰が一般化していたためである。つまり、初詣に限らず社寺への参詣に神道・仏教の区別はあまり無いとされていたことの名残である。
初詣には、定められた規定は特に無い。『デジタル大辞泉』の定義では年明け最初の参拝を初詣としている(時期や期間については触れていない)。「年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事」であるため、年内ならいつ参拝に行っても、その参拝が年内最初の参拝であれば「初詣」となる場合もある。
一般的には、正月三が日に参拝するのを初詣といっているが、1月中に参拝も初詣とする考え方もある。また、回数に関する規定も無い。多数の神社仏閣に参詣すれば色々なご利益があるという説もあり、その場合神社仏閣を特に問わない。例えば西日本の一部地域の様に「三社参り」などと言って正月三が日の内に複数(多くは3社程度)の神社に参拝するのが習慣となっている地域もある。宗派による考え方の違いが大きい。
恵方詣り
古来の正月行事の一つ。恵方参りとも書く。1月1日(元日)にその年の恵方にある社寺に参拝してその年の幸福を祈願する。恵方とは歳徳神が在位する方角で、十干に従って毎年変わる。今日では廃れた慣習である。
歴史
居住地から見て恵方に当たる社寺に参詣するのが、江戸時代までの恵方詣りの形であった。
明治以後、都市周辺に鉄道網が発達すると、恵方詣りの対象も郊外・遠方の有名社寺に広がるようになった。競合する鉄道会社間(国鉄を含む)では元日の参詣客を誘引するために宣伝合戦とサービス競争が行われた。こうしたことから、鉄道による郊外・遠方の有名社寺への「恵方詣り」は盛行を見せる。しかし、年ごとに変わる恵方に対して、方角に関係のない「初詣」という言葉が広告によく使われるようになり、大正時代以後は「初詣」が主に使用されるようになった。元日の参拝先を恵方に限定しない「初詣」の普及に置き換えられる形で、恵方詣りの慣習は衰退する。
バリエーション
毎年同じ神社に恵方詣りすることも可能である。方法は、一度、目標とする神社へ直接向かわず、神社が恵方の方角になる地点まで出向き、そこから神社に参拝するのである。これは簡単な方違えになる。これにより毎年、同じ氏神に詣る事が出来るとも言われている。
関西地方では、恵方詣りは元日よりも節分に盛んに行われていた。節分に恵方に向かって太巻きを食べる慣習(いわゆる「恵方巻」)は、関西で節分と恵方が結びついていた名残である。明治時代に鉄道会社の集客競争の中で節分以外にも恵方が持ち込まれるようになり、関西の人々は元日などにも恵方への参詣を行うようになった。しかしながら、鉄道会社が熾烈な競争の中で自社沿線の神社仏閣をめいめいに恵方であると宣伝し始めたため、やがて恵方の意味は埋没した。大正末期以降、関西では方角にこだわらない「初詣」が正月行事の代表として定着し、恵方詣りは衰退した。  

 

●初詣の由来 2
新年に神社やお寺に参拝する行事を「初詣」と言いますが、日本人にとって当たり前の風習です。しかし、実は時代とともに大きく変化してきた文化で、現在の形式が定着してからの歴史は浅いのです。
初詣の言葉の定義は、「年が明けてから初めての神社やお寺へのお参り」のことを指します。『詣』という漢字は「社寺をお参りする、参拝する」という意味があるので、初詣はそのままの意味です。
初詣へ行く目的は、旧年の感謝を捧げるとともに、新年が良い年になるように願掛けを社寺の神様に行うためです。初詣へ行くと、神様に感謝を捧げ願い事をしたり、絵馬に願いを書いたり、お守りを買ったりします。また、家庭では、お正月には正月飾りを飾ったりお雑煮を食べたりしますが、これらの正月行事も初詣と同様に神様への感謝を捧げて新年の願掛けをするためのものです。
では、家で行う正月行事と初詣は何が違うのかと思う人も多いのではないでしょうか?実は、正月飾りに宿るとされる神様は“歳神様”(正月に各家に毎年やってくる神様。先祖の霊とみなされることもある。)であるのに対し、社寺の神様は“氏神様”(同じ地域に住む人々によって共同で祀られる神様。)なので、両者は異なる神様なのでそれぞれ違った意味合いがあるとされているのです。
現在の初詣の形式は地方によって多少変わってきますが、大体が「正月に有名な神社や寺へ参拝する」というものです。これが日本において文化として定着していますが、この形になるまでは様々な歴史があります。
初詣の元々の由来と言われている行事の一つに『年籠り』があります。年籠りとは、「村や家の長がその地域の氏神様が祀られている社寺に大晦日の夜から元日の朝まで寝ずに籠もること」を言います。不眠不休で祈り続けるのが決まりですが、「うっかり寝てしまうと白髪やシワが増える」という言い伝えもありました。現在、日本には年籠りの風習は残っていませんが、中国の旧正月(春節)には前日の大晦日から眠らずに過ごす『守歳』という風習があります。年籠りはやがて、大晦日の夜と元日の朝に社寺を参拝する行事の2つに分かれるようになりました。
大晦日の夜の参拝を『除夜詣』、元日朝の参拝を『元日詣』と言います。この元日詣が後の初詣になるのですが、参拝する社寺に関して決まりがあったというのが大きな違いです。元日詣は住んでいる地域の氏神様が祀られている社寺、または家から見てその年の恵方の方角にある社寺に参拝するのが決まりでした。後者の『恵方詣り』は、関西地方発祥で、現在は全国でなじみのある恵方巻とも関係がありそうですね。また、地域によっては現在も除夜と元旦の2回社寺を参拝する風習もありますが、これを『二年参り』と言います。
『除夜詣』と『元日詣』が行われていたのが、元日詣だけ風習が残り、さらに恵方に限らず「有名な社寺に自由に参拝する」というのが一般的になりました。『初詣』という言葉が使われるようになったのは大正時代になってからですが、恵方詣りの風習が薄れてきたのは大正時代末期です。風習の変化は「鉄道による交通の便が改善したこと」、そして「各鉄道会社の宣伝によるもの」が考えられています。交通の便がよくなったことで近くの恵方の社寺だけでなく、遠方の有名な社寺に用意に参拝できるようになりました。しかし、毎年正月になると各社がおのおのの沿線の神社仏閣を恵方であると宣伝したため、やがて恵方詣りの本来の意味が埋没してしまい人々は自由に社寺を参拝するようになったのです。
当たり前のように行われている伝統的な初詣という文化も、実は歴史は浅く、時代とともに変化したものだったのです。初詣に限ったことではありませんが、交通事情や商業事情が文化に大きな影響をもたらしてきたというのは面白い歴史ですね。
現代では、有名な社寺から地域で長年親しまれている社寺など選択の幅が広がっています。都内の電車は、元日の深夜は動いておりますので、着物レンタルとあわせて大切なご家族、ご友人とともに参拝へおいで下さい。  

 

●初詣 3
初詣とは
まずはそもそも「初詣」とはどのような意味なのか、どういう由来があるのかといった基本的な内容です。
あらためて確認しておくと、「初詣」に対する理解や関心が更に深まっていくかもしれません。
初詣の意味
「初詣」は「年が明けてから初めての神社やお寺へのお参り」という意味があります。
「詣」という漢字には「社寺をお参りする、参拝する」という意味があり、年が明けてから「初めてお参りする」ので「初詣」になるというわけです。
また「初詣」では神様に感謝をしたりお願い事をしたり、絵馬に願い事を書いたりお守りを買ったりする人が多く見受けられます。これは「初詣」が旧年の感謝を捧げたり、新年が良い年になるようにと願掛けを社寺の神様に行うための行事だからです。
受験生が試験に合格するようにと願掛けをしたり、無病息災や交通安全のお守りを買ったりする人がいるのもこういった背景があるからだといえるでしょう。
また年明けには正月飾りを家に飾ったりお雑煮を食べたりしますが、実はこれらの行為も神様への感謝を示したり新年の願掛けをする意味があるのです。
ただそうすると家の中で済ませられるならわざわざ神社やお寺に行く必要はないと感じる人もいるかもしれません。
家の中と外での違いは、異なる神様が宿っているという点です。
正月飾りに宿るとされている神様は「歳神様」であるのに対し、社寺の神様は「氏神様」なのでそれぞれ違った意味合いがあるとされています。「歳神様」は「としがみさま」と読み、「正月に各家に毎年やってくる神様」や「先祖の霊」という意味です。
一方の「氏神様」の読み方は「うじがみさま」で、「同じ地域に住む人々によって共同で祀られる神様」という意味があります。
つまり家では「歳神様」、社寺では「氏神様」に感謝や願掛けをしているのでそれぞれ独立して存在しているというわけです。
初詣の由来
「初詣」の形式は地方によって多少変わりますが、そのほとんどは「正月に有名な神社や寺へ参拝する」というものです。
現代の日本においては文化としてすっかり定着している感がありますが、この形式になるまでには様々な歴史があります。
そもそも「初詣」の元々の由来といわれているのは、「年籠り」という行事です。
「年籠り」は「としごもり」と読み、「村や家の長がその地域の氏神様が祀られている社寺に行き、大晦日の夜から元日の朝まで寝ずに籠もること」を意味しています。
一睡もせずに一晩中祈り続けるという決まりがあり、もしこの間に寝てしまうと白髪やシワが増えてしまうとされていました。
なお今の日本では「年籠り」の風習は残っていませんが、中国の旧正月(春節)では前日の大晦日から眠らずに過ごす「守歳」(しゅさい)という風習があります。
その「年籠り」が時代の経過によって大晦日の夜と元日の朝に社寺を参拝する行事の2つに分かれていきました。
大晦日の夜に参拝するのは「除夜詣」(じょやもうで)、元日の朝にお参りすることを「元日詣」(がんじつもうで)といいます。
実はこの「元日詣」が現代の「初詣」になっていくのですが、参拝する社寺に関して決まりがあるというのが大きな違いだといえるでしょう。
「元日詣」は住んでいる地域の「氏神様」が祀られている社寺、あるいは家から見てその年の恵方の方角にある社寺に参拝するというのが元々の決まりで、後者は「恵方詣り」と呼ばれていました。
ちなみに現在も除夜と元旦の2回社寺を参拝する風習が残っている地域が見受けられますが、二年に渡ってお参りしているのでこれを「二年参り」といいます。
こうして「除夜詣」と「元日詣」がそれぞれ行われていましたが「元日詣」だけが風習として残り、恵方に限らず「有名な社寺に自由に参拝する」というのが次第に一般的になりました。
なお「初詣」という言葉が使われるようになったのは大正時代になってからだといわれていますが、「恵方詣り」の風習が薄れてきたのは大正時代末期です。
こうした風習の変化が起こった原因として鉄道による交通の便が改善したこと、そして各鉄道会社の宣伝合戦によるものが挙げられます。
これまでは物理的に遠方まで赴くのが難しいということもあり、近くの社寺を中心にお参りをしていたとされています。
それが交通の便がよくなったことで近くの恵方の社寺だけでなく、恵方にある有名な社寺にも労せず参拝できるようになりました。
しかし毎年正月になると各社が各々の沿線の神社仏閣を恵方であると宣伝した為、やがて「恵方詣り」の本来の意味が風化してしまい人々は自由に社寺を参拝するようになったというわけです。
初詣はいつ行くのか
「初詣」は人が多く行き交うということもあり、特定の日時に行くものだというイメージを持たれている人も少なからずいるかもしれません。
そこで「初詣」に行く時間帯や回数、喪中の時はどうしたら良いのかを確認しておきましょう。
初詣に行く時間帯
「初詣」に行く時間帯には特に決まりがありません。
二年参りをする為に大晦日からお参りするのが良いとする説もありますが、大晦日は家で「歳神様」に感謝や願掛けをし、元日にお雑煮を食べた後に社寺の「氏神様」へお参りするのが良いという意見もあります。
これといった明確な決まりがあるわけではないので、例えば人混みが苦手な人は人が少ない日時を選んで「初詣」に行くのが良いかもしれません。
なお「初詣」は何日までに行かなければならないという決まりも特にありませんが、元日から3日までの「三が日」か、7日までの「松の内」の間に詣でるのが一般的だとされています。
2回以上行っても問題ない?
「初詣」の回数や参拝先の組み合わせ方にルールはないので、2回以上行っても問題ないでしょう。
というのも日時を変えて家族や友人それぞれと「初詣」に行くというのは十分に考えられることだからです。
また先述のように「初詣」は「三が日」か「松の内」の間に詣でるのが一般的だとされているので、あまり頻繁に行くということもそうそうないでしょう。
その為「初詣」の回数についてはあまり深く考えなくても良いかもしれません。
喪中は初詣に行ってはいけない?
「喪中」は「もちゅう」と読み、「家族が亡くなって1年以内」という意味があります。
「喪中」は鏡餅や門松などの正月飾りといったことはせず、またおせち料理も作りません。
したがって「初詣」には行かないとされていますが、神社が授与するお札は毎年新しくすべきものだとされています。
忌明け(地域にもよりますが神道で五十日祭、仏教で四十九日の法要以降とされています)なら前年のお札を納め、新しいお札を受けに行ってもよいでしょう。
また忌中に年末年始を迎える場合は、忌明け後にお札を受けに行くのが良いとされています。
初詣は神社とお寺のどっちに行くべきか
「初詣」は神社とお寺のどちらか一方だけにするべきか、あるいは両方行っても問題ないかは特に気になるところかもしれませんが、結論からいうと神社とお寺の両方に行っても問題ないとされています。
なぜなら寺の敷地に神社があったり神社に隣接して寺が建てられていたりすることも少なからず見受けられる為、「初詣」で両方に参るのは不自然なことではないからです。
神社の氏子でなおかつ寺の檀家という家も決して珍しくはなく、その場合は両方に詣でるべきだといわれています。
江戸時代には「初詣」に七福神巡りを楽しむことが流行したということもあり、各地にある七福神巡りのコースには神社と寺が組み入れられているものが多いです。
初詣のお賽銭の金額
「初詣」のお賽銭の金額は、金額が多ければ多いほどその分ご利益も大きくなるというイメージがある人もいるかもしれません。
しかし実際はそのようなことはなく、お賽銭の額は自分の気持ちで決めても良いのです。
そもそも神社のお賽銭は神様への供え物、お寺ではお布施であり、欲や執着を捨てる施しの修行でもあります。
その趣旨を考えると、自分の気持ちに見合う額を納めることで何の問題もないでしょう。
逆に多くの見返りを期待してお賽銭の金額を増やすのは、この趣旨に反するということです。
金額の多寡についてはあまり深く考えず、自分の懐具合や気持ちで自由に決めると良いでしょう。
まとめ
○「初詣」は「「年が明けてから初めての神社やお寺へのお参り」という意味がある。
○年明けには正月飾りを家に飾ったりお雑煮を食べたりするのは、これらの行為も神様への感謝を示したり新年の願掛けをする意味があるからだといわれている。
○正月飾りに宿るとされている神様は「歳神様」であるのに対し、社寺の神様は「氏神様」なので家と社寺へのお参りでは別の意味がある。
○「初詣」の元々の由来は「年籠り」という行事だとされており、「年籠り」は「村や家の長がその地域の氏神様が祀られている社寺に行き、大晦日の夜から元日の朝まで寝ずに籠もること」を意味している。
○大晦日の夜に参拝するのは「除夜詣」(じょやもうで)、元日の朝にお参りすることを「元日詣」(がんじつもうで)といい、「元日詣」が現代の「初詣」に繋がっている。
○「初詣」の日時や時間帯には特に決まりはないが、元日から3日までの「三が日」か、7日までの「松の内」の間に詣でるのが一般的だとされている。
○「初詣」の回数や参拝先の組み合わせ方にルールはないので、2回以上行っても問題ない。
○「初詣」は神社とお寺の両方に行っても問題ないとされている。
○お賽銭の額は自分の気持ちで決めても良い。  

 

●初詣 4
初詣に行く理由・初詣の歴史
初詣とは
初詣の「詣」は詣でる=神社・寺・墓などにお参り(参詣)することを意味しています。初につていは初物などと同じく“その年に初めて”のことを指しているため、言葉の意味としては年が明けてから初めて神社やお寺にお参りすることを言います。
初詣と言うと神様に新年のお願いをしに行く・ご利益を頂くために行くという方も少なくありませんが、初詣というのは神様にお願いをしに行くだけの行事ではありません。過去の一年お守り頂いたことを感謝して、新年もまたよろしくおねがいしますという祈願をするのが元々の形だと言われています。
初詣に行く意味・歴史
日本古来の伝統のように感じられる初詣ですが、見方によってその歴史は平安以前とも、明治以降とも言われています。この幅の広さは初詣の起源である風習は古くから存在していたものの、初詣という言葉や自分の行きたい神社に参拝するということが定着した時期に差があるため。初詣をどの意味で捉えるかによって大幅に時代にズレが生じるというわけです。
初詣の起原には「年籠り(としごもり)」と呼ばれる、大晦日の夜から元日の朝にかけての期間を寺社に籠もって眠らずに過ごすという風習があると考えられています。いつ頃から行われていたかは定かではないものの、平安時代には既に年籠りが行われていた事が文献からわかっています。年籠りの仕方については地域差がありますが、簡単に言うと大晦日の夜を寝ずに過ごすこと。
余談ですが大晦日の夜は寝ないで過ごす・寝てしまうと白髪やシワが増えると言われているもの、この年籠り時代から続く伝統。0時(24時)で日付が変わる現代とは異なり、昔は日没が一日の終りと考えられていました。昼は人の時間・夜は神の時間であるという意識もありました。このため大晦日の夜は既に年が明けており新年(元日)に含まれていますし、一年の最初に当たる神様の時間でもあります。その大切な時間である大晦日の夜は、神様をお迎えするために起きていようということですね。
お家の中で年神様を待つという地域もありますが、夕方頃に氏神様のいらっしゃる所へ向って、夜明けまでそこに籠もって感謝を捧げたり祈願をするという方法が知られています。この場合は、家長のみが寺社に行き年籠りをするという地域が多かったようです。
この年籠りの風習は、時代と共に大晦日の夜の「除夜詣(じょやもうで)」と元日の朝の「元日詣(がんじつもうで)」という2つの行事へと別れていきます。この2つのうち元日詣が今日の初詣の原形となります。一般的に大晦日の夜の「除夜詣」は一年の感謝を捧げて古い一年を送り出すためのもの、夜明け後に行われる「元日詣」は旧年の感謝を捧げたり願掛けをするもの、と言われています。
初詣の原型となった「元日詣」は元々、お家の近所にある神社(地域の氏神)へお参りすることでした。それが江戸時代後半になると、その年の恵方に当たる寺社を詣でる「恵方参り(恵方詣)」という考え方が流行するようになります。恵方は古くは歳徳神が来臨する方向だったのですが、後に占術と合わさって「その方角に向かって事を行えば万事が吉」と考えられるようになったため、どうせ行くなら新年の恵方にある神社に行こうとなったわけですね。
江戸時代には自分の済む地域を守ってくれている氏神ではない神社を詣でる下地ができますが、それでも当時は家の近くの恵方にある寺社へ出向くことが多かったようです。遠くまでお参りに行くというのは一般的ではありませんでした。それが現在のように徒歩では難しいくらいのところまで足を伸ばすようになったのは明治以後、蒸気機関車などの鉄道が普及したことがきっかけという見方が主流です。初詣という言葉が使われるようになったのも大正にかけての頃のため、初詣という文化は明治以前には存在しなかったと解説されることもあります。
当時の人からすると鉄道に乗るというのは一大イベントでしたし、鉄道会社からも「汽車に乗って参拝に行くのが時代の最先端」というようなキャンペーンが行われていたそう。鉄道の目新しさとこの鉄道会社による宣伝が大当たりして、恵方にある有名な寺社まで初詣に行く方が増加したと言われています。しかし色々な沿線で神社仏閣が恵方として宣伝されたことで徐々に恵方に向くという感覚は薄れ、有名な神社に行くことが重視される傾向が強まっていきました。当時は旅行も気軽に楽しめるものではありませんでしから、初詣などの参拝を旅行の名目にしたという側面もあったような気がしますね。
ちなみに年籠りから分裂したもう片方である除夜詣。初詣が鉄道に乗って遠方まで出向くようになった明治中期以降は年籠り・除夜詣をせずに、元日詣(初詣)のみを行うことが増えたとも言われています。その後も除夜詣をして一旦家に戻り、元日詣に行くという「二年参り」が行われていた地域もありますが、現在は除夜詣という風習はほとんど残っていません。廃れたという言い方もできますが、大晦日の夜に神社に行って0時を過ぎ元日になったら参拝する…と初詣に内蔵された見方もできますね。「二年参り」についても一旦家に帰って再び出直すのではなく、深夜零時をまたいで神社仏閣に参拝・参詣することを指す言葉として使われています。
初詣はどこに、いつまでに行くべき?
初詣の期間
初詣という言葉だけを捉えると「年が明けてはじめての参拝は何時だって初詣」とも言えますが、2月や3月に初詣に行こうという方はほとんどいません。初詣という行事の起原である年籠り・元日詣ということを考えると、元日である1月1日に行くべきだと言う方もいらっしゃるでしょう。
が、しかし。実のところ初詣の期限というものはありません。
年籠りという行事が変化していって初詣に、明治には元日詣(初詣)のみでもOKという考え方になったという話をご紹介しましたが、初詣にいく時期についても時代と共に元旦でなくとも元日であれば良い、三が日中であれば良い、松の内であれば良いと伸びていきました。
現在は年神様がいらっしゃる松の内(1月7日もしくは15日)までに参拝するという考え方が主流ですが、1月中であれば良いとか、年明け最初の参拝であればいつでも初詣になるという捉え方もあります。遅れると縁起が悪いとか、運が低迷するということは無いと言われています。遅くなったとしても敬意を持ってお参りすれば認めてくれるでしょう。破魔矢や護符などお正月期間限定の授与物もありますので、欲しいものがある場合は早めにお参りをする方が良いでしょう。
初詣は神社とお寺どちらに行く?
結論から言いますと、神社でもお寺でもどちらでも初詣が出来ます。
神様は神社にいらっしゃるような印象もありますが、明治に入るまで日本では神道・仏教・民間信仰(祖霊信仰)を一体化した神仏習合と呼ばれる考え方が一般的でした。神仏習合についてはそれだけで一冊の本では足りないくらい様々な説や信仰の変遷があるので割愛しますが、ざっくり言うと「神(祖霊を含む)と仏は同じもの」として信仰していたということ。宗教戦争も珍しくない他国の方からすると驚くべき宗教観ですよね。この考え方から初詣は寺社を選ばす、どこに詣でても良いということになっています。
初詣は2回行っても良い?違う寺社でも良い?
初詣はお寺でも神社でもどちらでも構いませんが、最初に自分の住んでいる地域の氏神(家の近くの神社)、もしくは菩提寺に行くべきだという意見があります。普段お世話になっている神様・仏様をすっ飛ばすのは失礼だ、という考え方です。確かに常日頃見守ってあげているのに、肝心な時に挨拶もなければやる気を無くしてしまいますよね。
でも希望するご利益のある神社にもお参りにいきたい・友達や恋人とも初詣がしたい、と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。そこで初詣は何回行っても良いのか・去年と違う寺社にお参りしても良いのかという点が気になりますが、こちらも好きなだけ行けば良いというスタンス。ご利益ばかりを求める参拝については否定的な見解も多いですが、基本的に何回行こうと、何処に行こうとそれは個人の自由とされています。
神社のはしごは良くない・お参りする寺社の組み合わせについても祀られている神様の来歴などから「これは避けたほうが良い」という方もいらっしゃいますが、それはあくまでも個人的な見解と言えます。日本の宗教は寛大なので、神社やお寺の側から「あそこに行ったなら、うちには来ないで」と言うことは一切ありません。神仏に対する敬意と感謝さえ持っていれば問題ありませんので、あとは自分が納得できるかどうかだけ。浮気をしているような後ろめたい気分になるならば、お参りされる神仏にも悪いので避けましょうというくらいのものですね。
初詣の参拝マナー
初詣は神社仏閣どちらでも、日にちも何日までという決まりはなくいつでもOK。最初に氏神もしくは菩提寺に行くのが良いと言われていますが、こちらもマストと言い切れるものではありません。別のところにお参りに行っても良い・複数回行っても良いと自由度が高いと言えます。しかし初詣の全てがフリーダムというわけではありません。特に気をつけたいのは参拝時のマナー。神様に対してだけではなく他の参拝客の方にもご迷惑になりますから、基本的なルールは守るようにしましょう。
初詣の参拝作法・マナー(神社)
   鳥居をくぐって参道を歩く
神社に来たら、まず鳥居をくぐる前に一礼します。この礼は正式には「一揖(いちゆう)」と言い、軽くおじぎをすること。鳥居は神域である神社の境内との境界(結界)とされていますから、簡単に言えば鳥居をくぐるのは神様の領域に立ち入らせて頂くということ。もっと砕けて言えばお家に訪問するようなものなので、いきなりズケズケと入っていくのは礼を失することになります。同じ様にお参り後に出ていくときも一揖します。
鳥居をくぐると拝殿までの参道があります。参道を歩いてお参りに行くわけですが、参道の真ん中は「正中(せいちゅう)」と呼ばれる神様の通り道でもあります。このため参道のど真ん中は神様のために空け、私達は参道の端の方を通るようにします。手水舎の配置などでの関係で反対側に横断したい時には、軽く頭を下げながら通るか、神殿に一礼してから横切るようにするのがベストです。
よく「神社への参拝は上司のお宅に伺うような感覚」でと言われますが、これは非常に分かりやすい例えです。玄関でお邪魔しますも何もなく、廊下のど真ん中を大声で喋りながら入っていったら…印象悪いですよね。ここから先も色々と参拝の決まりがありますが、基本的には目上の方のお宅を訪ねているので失礼のないようにということを頭に入れておけば大きな失敗はしないはずです。
   手水舍で手水を行う
参道を進んでいくと手水舎と呼ばれる、水盤と柄杓が置かれた場所があります。手水舎は神様にお参りをする前に、心身を清めるための場所。単純に手を洗おうというわけではなく、目に見えない穢れであったり罪を払うための場所です。
本来は川などで全身を清める“禊(みそぎ)”を行ってから参拝をしていましたが、現在では立地や衛生面などの問題もあり難しくなりました。つまり手水舎は簡略化されていますが、禊を行う場所と言えます。有名な神社では鳥居の外まで行列が出来ていて、列から外れて手水とるのはちょっと勇気が必要なところもあります。が日本の神様はとにかく穢を嫌う(と言われています)から、きちんと身を清めてからお参りするようにしましょう。手水の手順は…
1.手水舎に一揖(一礼)する
2.右手で柄杓を持って水盤から水を掬う
3.掬った水を左手にかけることで清める
4.柄杓を左手に持ち替えて、右手を清める
5.柄杓を右手に持ち替え、左手に水を少しためる
6.静かに口をゆすいで、下に水を吐き出す
7.改めて左手を清める
8.柄杓を立てて、残った水を柄杓の柄に垂らし洗う
9.柄杓を下向きにして元の位置に置く
こう書くと沢山やることがあって覚えられない!と感じるかも知れませんが、左手→右手→左手で水をすくって口→口をつけた左手→自分が持っていた柄杓という順番で清めるだけ。左を最初に清めると覚えておけば、後は自然な流れで出来ますよ。最後の柄を洗うあたりが、後に使う方のこと考えた日本人らしい配慮を感じられて素晴らしいと思います。
注意点としては使用する水は柄杓一杯分のみということ。途中で汲み足すのは好ましくありませんので、各動作で使う水は少しずつでOKです。物質的にも綺麗なのに越したことはありませんが、手水は目には見えない穢れを清めるための行為。周囲の方に迷惑になるくらいバシャバシャと水を使う必要はありません。
また口を濯ぐ際に、柄杓に口をつけるというマナー違反な行為は絶対にしてはいけません。これは神様に対してだけではなく、後に使う方にとっても非常に迷惑な話。周囲の方や後に手水舎を使う方を不快にするような自己中な行為は、穢れが清められるのではなく上書きされることになりかねません。きちんと他の人のことも考えて、美しく心身を洗い清めるようにしましょう。
   神殿に参拝する
神社の前についたら一揖(軽く一礼)してから、鈴を鳴らして賽銭を入れます。鈴を鳴らすタイミングとお賽銭を入れるタイミングが逆にかかれている文献もありますが、これはどちらが先でも問題ありません。気をつける点は鈴とお賽銭の順番ではなく、お賽銭を投げ込まないということ。お賽銭は神様に献上するものですから、投げ入れるという行為は失礼に当たります。目上の方に差し上げることを意識しましょう。ちなみに鈴を鳴らす意味については、神様にお参りに来ましたということを伝えるためだという説と、鈴の音で邪気・悪霊を払うという説があります。
鈴を鳴らしてお賽銭を入れたら、神様に拝礼します。神社により違いがありますが、一般的な参拝の作法としては「二拝二拍手一拝」となっています。よく二礼二拍手一礼と言われますが、正式には礼ではなく「拝」です。この「拝」というのは腰を90度折った、深いお辞儀のこと。別に唱えながら行うわけではないのでどちらで覚えていても問題はありませんが、要は神様に敬意を払ってしっかりと深くお辞儀をするようにしましょう。
お祈りをするタイミングは二拍手の後。
まずしっかりと二度深く礼をして敬意を表した後、一度胸の高さで手を合わせてから右手を少し下にずらした状態で二回手を打ち合わせます。柏手を打ったら手をピッタリと合わせて、お祈りをします。祈り方については諸説ありますが、神様にひたすらお願い事を言うのは避けましょう。名前を名乗ってから日頃の感謝を伝えるのが第一で、なにか努力していることがある場合は「頑張っていますので成果が出るようにお導きください」という姿勢でいきましょう。
祈り終えたら祈りを聞いてくれたことに感謝しながら深く一礼して、神様をお送りします。その後はおみくじを引くなり、破魔矢や熊手を買うなり、お好きに境内で過ごしてください。帰る時には鳥居のところで再び一揖するのを忘れないようにだけ気をつけて下さいね。神様から頂いたパワー(ご利益)を逃さないように帰りは寄り道しないほうが良いという説もありますので、願掛けをした方はまっすぐ帰るようにすると良いかも知れません。
より正式な参拝方法には、社務所などで申し込みをして拝殿もしくは神楽殿で参拝する「昇殿参拝」というものもあります。こちらは神社や祈祷して頂く内容などにより作法にかなり違いがありますので、申込みの時に尋ねてみてください。また出雲大社の「二拝四拍手一拝」など作法が異なる神社もありますから、参拝作法が不安な場合も予め確認しておくようと確実です。
おみくじの引き方・結び方
初詣に行ったら、おみくじを引くという方も多いでしょう。おみくじを引く場合は参拝後が望ましいとされています。おみくじは漢字で御神籤もしくは神籤・仏籤などと書きます。籤には“人の直接の意志によって選ばない”という意味があり、その前に神や仏が付きますから「神様・仏様に選んで頂くもの」と捉えられます。籤(くじ)も古代は神様の意思を知るために使われていたものですので、おみくじを引くのは神様や仏様からのメッセージを受け取るという行為に通じるわけです。そのため神仏にきちんとお参りをしてから、おみくじを引くようにします。
また神様からのメッセージを貰ったことになるので、悪い結果か出たからと行っておみくじを引き直すのはNG。おみくじの凶というのは確かに嬉しくないことが書かれていますが、同時に「ここに注意しなさい」という戒めやアドバイスでもあります。折角それを教えてくれているのに、望んだ回答じゃないから聞きませんというのは単なる駄々っ子かクレーマー。日を改めれば良い結果が出るまで引き続けても良いという見解もありますので、どうしても引き直したいという場合は後日に。
引いた後のおみくじが沢山結ばれていますが、おみくじを結ぶべきかについては意見が分かれるところ。おみくじを結ぶ習慣や理由については諸説ありますが、神様との縁を結ぶ・利き腕と反対の手で結ぶと結果が逆転するという2つの説がよく紹介されますね。これ実はどちらも寺社側ではなく一般の人々が勝手に行った行為が定着したもの。このため神様から頂いたお言葉を持ち帰らないのは失礼とする意見もありますが、寺社側もおみくじを結ぶための場所を設置してくれていますから粗雑に扱わなければどちらでも良いでしょう。心のままに結ぶなり、持ち帰るなりしてください。
喪中の場合は初詣(参拝)を避けるべき?
身近な方に不幸があって喪中にあたる方の場合は、晴れがましいことを慎むべきという考え方があります。お正月の場合であれば年賀状ではなく喪中はがきを出すことが知られていますし、松飾りや鏡餅などのお正月飾りを飾る・おせちやお屠蘇も控えるという認識があります。喪中の間は初詣にも行ってはいけない・鳥居をくぐるのもダメと言われたことのある方もいらっしゃるかもしれませんが、実はこれは間違い。
身近な方が亡くなった後は喪に服しますが、この期間が全て喪中というわけではなく、日本では「忌中」と「喪中」という2つの期間があるという考え方をしています。明治時代などには政府が亡くした相手の近さから忌中と喪中の期間を定めていましたが、現在は忌引き休暇の規定こそあるものの忌中と喪中の明確な線引はなされていません。慣例から仏教では四十九日法要が終わったら、神道では50日祭を忌明けとするのが一般的です。
喪中に参拝してはいけないと言われる理由は、社会的事情もあり「故人の死を弔うのに専念するために神社にお参りするのは避けましょう」と言われますが、神社(神道)では死は穢れであるとして遠ざける考え方があることも大きいようです。余談ですが日本では死だけではなく血液も穢れに通じると考えられ、古くは妊娠・産褥中や月経期間中の女性が神聖な場所に立ち入ることが禁忌とされていた事実もありますね。
女性の穢れに対しては神道古来の考え方ではなく仏教が導入され入り混じったこと・男性優の社会形成になった関係などもありますが、とにかく昔の日本人は神仏問わず「穢れ」というものを大変恐れていました。死でも血でも、とにかく「穢れは遠ざけるべきである」という考え方があり、昔の貴族・上流階級の人々は穢れを避けるために必死だったと言っても過言ではありません。
現在はさすがに女性が穢れているとか、出産が穢れているとかいう残念な考え方は(一部の極端な方を除いて)ありませんが、死というのは穢れ・忌避するものという考え方は残っています。このため忌中には神域に入らない=鳥居をくぐらないようにという考え方も根付いています。しかし忌中ではなく、忌が開けた「喪中」の状態であれば、神社も参拝が認められています。なので身内に不幸があったとしても、50日以上日が経っているのならば初詣に行ったとしても問題ありません。
ただし喪中というのは“晴れやかなことを控える期間”とされています。通常の参拝ではなくお正月の初詣というのはハレの日という捉え方もできますので、周囲の人の考え方によっては「常識がない」と弾劾されてしまう可能性あります。お寺(仏教)では死を忌避しないとので喪中の初詣もOKという見解が多いですから、お寺に行ってお墓参り+参拝する方が良いかも知れません。忌中の最中でもお寺への初詣は問題ないという見解があります。このあたりは地域や各神社仏閣によっても捉え方が違いますので、気になる場合は問い合わせてみることをお勧めします。 

 

●初詣 5
毎年、新年を迎えると家族で「初詣」に出かける、という習慣を大切に継承してきた日本。初詣の辞書的な意味は、「年が明けてから初めての神社やお寺へのお参り」のことですが、その参拝には一体どのような意味が込められているのでしょうか。
「初詣は、地元の地域を守ってくれている神様に、新しい年になって初めてお参りし、旧年中の感謝を伝え、新年の祈願をするためのものです。最近では、遠くの有名な神社やお寺に行く方も増えていますが、本来は自分が住んでいるところの近くの神社に祀られた神様にもお参りしていただく方が良いですね」
先日のトレンドコラムでもご紹介したように、お正月は歳神様をお迎えする大切な行事。家にお迎えする歳神様と、地域を守ってくださる神様にそれぞれご挨拶をすることが、日本の良き文化なのです。
「初詣は神社とお寺のどちらに行ったらよいのですかとよく質問されますが、これに関しては、特別な決まりはありません。関西では、神社での初詣が主流のようですが、関東ではお寺も人気があります」
すでに初詣を済まされた方の中にも、「地元の神社やお寺に行っていない」という方は、ぜひ地元の寺社へ、あらためてご挨拶に訪れてみるのが良さそうですね。では、初詣で願い事はしてもいいのでしょうか。
「参拝のときに忘れてはいけないのは、感謝の気持ちです。今日ここに来ることができたことや、一年幸せに過ごせたことなどへの御礼をはじめに伝えてから、願い事をするのが良いと考えています」
つまり、地元の神社やお寺に出向き、感謝の心で一年の幸せを祈願する、これが初詣の本来の意味。願い事に関しては、神社やお寺によっても考え方はさまざまなのだそうですが、神様・仏様に失礼の無いように参拝することは最低限のルールです。
間違っていませんか? 神社とお寺の参拝方法の違い
神社やお寺へのお参りの仕方に関し、知っているようで、実は自信がない…という方も多いのではありませんか。しっかりと神仏に敬意を表し、ていねいにお参りしたいですよね。
「意外と間違える方が多いのですが、神社とお寺では、お参りの方法が異なります。まだ初詣に行かれていない方は、ぜひ正しいお参りの仕方を身につけ、お出かけください」
最低限知っておきたい参拝の仕方は下記のとおり。ぜひ参考になさってください。
   手水の仕方
神社にも、お寺にもある、御手洗。正しい作法は次のとおりです。
1.右手で柄杓(ひしゃく)を持ち、水を汲んで左手にかけ左手を清めます。
2.次に柄杓を左手に持ち替えて、同じように右手を清めます
3.再び柄杓を右手に持ち、左の手のひらに水を受けて口をすすぎます。
4.口をすすぎ終えたら、もう一度水を左手に流します。
5.最後に水の入った柄杓を立て、柄に水を流してから伏せて置きます。
   神社・拝礼の仕方
1.深いお辞儀(礼)を二回繰り返します。[ 二礼 ]
2.次に両手を胸の高さで合わせ、右手を少し手前に引き、肩幅程度に両手を開いて拍手を二回打ちます。[ 二拍手 ]
3.そのあとに両手をきちんと合わせながら心を込めて祈ります。
4.両手をおろし、最後にもう一度深いお辞儀(礼)をします。[ 一礼 ]
   お寺・参詣の仕方
1.常香炉があれば、煙で身体を清めます。
2.本尊と相対し、賽銭を入れます。
3.静かに手を合わせ、そのまま深くお辞儀をします。
4.両手をおろし、最後にもう一度深いお辞儀をします。
神社やお寺にお参りする際の作法には、厳格な決まりがあるわけではないとされますが、一人ひとりが、神仏に敬意を表する気持ちを持って参拝することが大切です。例えば、服装は目上の方を訪ねるときをイメージし、ラフすぎるものは避けること。神社の鳥居は、一礼してからくぐり、参拝を終えて境内を出る際にも、社殿の方に向き直って一礼する。神社の参道の中央は、神様が通る道とされることから避けて通るなど、知っていることで、失礼のない立ち振る舞いをすることができ、またこのような作法を知れば知るほど、参拝の際に自分の気持ちもより引き締まるように感じますね。
「お寺にはご本尊となる仏像が必ずあり、秘仏などで直接目にすることができない場合も、その仏像に向かってお参りします。働きや性質によって、さまざまな姿の仏像があります。一方、神道では、神様は目に見えない存在とされています。本殿には、『ご神体』が祀られ、それに向かってお参りしますが、それは神様そのものではなく、神様が宿るとされる『何らかのもの』です。これは、古代に、岩や山などの自然物を『神が降りるところ』として拝んできたことに由来します」
この神社の主祭神(※1)はどんな神様なんだろう? この寺のご本尊はどんな仏様かな?など、いつもとは違う視点を持って寺社を訪ねると、より意義深いものになるのではないでしょうか。まずは、正しい参拝の方法を身に着けて、初詣に出かけましょう。 ※1 主祭神とは、お寺で言えばご本尊に当たる、その神社に祀られる神様の中で、もっとも重要な神様のこと。  

 

●初詣 6 
初詣とは、初詣の由来
初詣とは、その年はじめて神社仏閣へお詣りし、新年の無病息災や平安無事などを祈ることで、元旦早朝から行われる風習です。
•年籠り(としごもり)の行事の元旦詣
•恵方詣
この2つが合わさったものといわれています。二つの風習を少し説明します。
年籠り(としごもり)の行事
まず、「年籠り(としごもり)」という風習について説明します。
古来日本は、日が暮れる頃が一日の終わりで、日が暮れた夕方からは一日の始まりとされていました。つまり、大晦日は夕方までで、日没後は新年だったのです。
   家長が氏神様を迎えに行く
年籠りとは、大晦日から元旦の朝にかけて、家長(かちょう:家を代表する者)が、氏神様をまつる神社に籠り、夜通しその年の豊作や家内安全などを祈願する行事です。境内で一晩中篝火(かがりび)を灯す場合もあります。氏神様に籠るのは、単に一年の安泰を祈願するためだけでなく、年の初めに氏神様の境内で身を清めて、ご先祖の御霊(みたま)がいらっしゃる鎮守の杜へ、年神様をお迎えに行くという意味があったそうで、鎮守の杜から年神様をお連れして、家に招いたら、再び神社にお参りし朝を迎えるのが「年籠り」です。やがて、年が明ける前のお参りを「除夜詣」、年が明けてからのお参りを「元旦詣」というようになりました。
恵方詣(えほうまいり)
年神様がいる方角にある神社にお参りすることを恵方参りといいます。関西方面では旧暦の正月(立春)に行われます。
恵方とは年神様のいらっしゃる方角のことで、毎年変わります。
年神様のいらっしゃる方角は、たたり神がいないと信じられているため、その方角を恵方といって、その方角の神社にお参りするのが良いとされていたのです。これを恵方詣といいます。
やがて、年籠りの元旦詣に恵方詣が合わさって、初詣になったといわれています。
明治以降・現在の初詣
江戸時代末期までの初詣は、「元日詣」のなごりで、元旦の早朝にその年の恵方にある神社仏閣に参拝する「恵方詣」が行われていました。
居住地から見て、その年に吉とされる方角にあたる神社仏閣へ、参詣していたため、年によって訪れる場所が違っていたようです。
しかし明治時代初期には、恵方にはこだわらずに、自宅の近くやご利益があると人気の神社や寺院など、人々の都合によって初詣に行く場所を選ぶようになります。
そして大勢の人出がある元旦をさけて、三が日(1日〜3日)にお詣りする人も増え、三が日までの参詣を「初詣」と呼ぶようになり、やがて松の内(関東は1日〜7日、関西は1日〜15日)までの参詣を「初詣」と呼ぶようになり、現在のスタイルになっています。
氏神と年神
神社にお参りに行かなくても、神様はお正月に家に来て下さるのではないのかなと、疑問に思われた方があるのではないでしょうか。
年神様はご先祖様
じつは、家に来てくださるのは年神様といって、亡くなって三十三回忌(地域によって四十九回忌、五十回忌のところもある)を終えたご先祖様の魂なのです。
最終の法要を終えると、「弔い上げ(とむらいあげ)」といって、その先は法要をせず魂は他の先祖の霊と一緒になって、祖霊神という神になります。
誰にでもご先祖様はいらっしゃるので、それぞれの家には必ず年神様(祖霊神)は来てくださいます。この神様は、田の神、山の神として豊作を司る神様なのですが、同時に子孫を見守る神様で、毎年お正月に子孫たちのところにやってきて、一年分の魂をくださるのです。
氏神様は地域の神様
一方、氏神様は、同じ地域に住む人々が共同で祀る神社の神様のことで、氏神様を祀る人々を氏子(うじこ)といいます。氏子、一人一人の一生を見守っている神様のことです。
そんなわけで、同じ神様に守られている氏子たちの絆は強く、お祭りや農作業なども助け合って行っていたのです。
参拝の作法
最近は、人気のある神社仏閣は、人出が多くて、後ろから押されるように境内に入ってしまいますが、本来は身を清めて参詣しなければなりません。参詣の作法を説明します。
神社の参拝の仕方
1.鳥居をくぐる前に、服装の乱れを整えます。(本来はここでコートやマフラー、手袋をとります)
2.神殿に向かって、一揖(いちゆう:浅いお辞儀)して鳥居をくぐり、境内の参道は真ん中を避けて左端を歩きます。お辞儀は、鳥居がたくさんあるときは一の鳥居の前だけでいいそうです。
3.手水舎(ちょうずや)で身を清めます。
 ◦右手に柄杓(ひしゃく)を持って水を汲み、左手を洗います。
 ◦左手に持ち替えて、右手を洗います。
 ◦右手に持ち替えて、左手のひらに水を受けて、口をすすぎます。柄杓に口を付けてはいけません。
 ◦左手のひらを洗います。
 ◦最後に柄杓を縦にして、持っていた部分に水が流れるようにして洗ったら、元の位置に戻します。できれば、水は汲み直さず、一杯の水で全行程を行いましょう。
4.神前に進み、賽銭箱に賽銭を入れます。
5.姿勢を正し、鈴を鳴らします。神様を呼ぶためのものです。鳴らした後は、神様の正面でなく少し外して立ちましょう。
6.姿勢を正して、二拝二拍手一拝の作法で礼拝します。(90度の最敬礼2回、拍手2回、90度の最敬礼1回)
7.帰りは境内の参道の右端を歩き、鳥居前で神殿に向き、軽く会釈し境内を出ます。
参道の歩き方
境内の参道の中心は「正中(せいちゅう)」といって、神様の歩く道になるので参道を歩く際は真ん中を避けて端を歩きます。
参道は左端から入っていきます。そして参拝後は参道の右端を歩いて出るようにします。このように参拝することで運気がまわるようになると言われていいます。
柏手(かしわで)について
拍手をうつのは、
•素手であること
•下心がないこと
これを神様に示すためのものです。
このとき、少し右手を下にずらして手を叩きましょう。手のひらが合わさることで神と人が一体になるのですが、こちらの清い気持ちを神様に証明する段階では、一体になるのは早いのです。
柏手の後にしっかり手のひらを合わせます。これで神と人が一体となり、神の力を得ることができるのです。
参拝はしっかりと
そして、次の手順で神様にお伝えしてお願いします。
1.自分の名前・住所
2.神様への感謝の言葉(いつもお守りくださってありがとうございます)
3.神様のさらなるご開運を祈ります。
4.「お願い事」ではなく「誓い」を伝えます。
お願い事では、どうしても欲深いものになってしまい神様に聴いてもらえませんので、「・・・のために精進努力する」といった誓いを伝えるようにしましょう!
最後に、自分と一体になって下さった神様を送り返す意味で一拝します。
ちなみに、出雲大社は「二拝四拍手一拝」、伊勢神宮は「八拝二拍手一拝」になります。
寺院の参拝の仕方
1.山門の前で一揖(いちゆう:浅いお辞儀)します。
2.手水舎で身を清めます。(清め方は神社と同じ)
3.お線香を上げます。(お線香がない場合は省略してもよい)
4.一揖し、お賽銭を入れて、あれば鈴を鳴らします。
5.胸の前で合掌して祈願します。(拍手は打ちません)
6.一揖します。
去年の破魔弓やお札
一年間お世話になったお礼の礼拝をして、白い紙や半紙などに包み、初詣の際に神社に持参します。
古いお札を奉納する場所がありますので、そこに預けてお焚き上げをしてもらいます。
遠方の神社のお札や旅行先などで頂いたお守りなども、同じように奉納すれば丁寧にお焚き上げしてくださいますので、家に放っておかないようにしましょう。
喪中の時の初詣
昔は忌中(きちゅう。49日のこと)の間は、穢れているといわれ神事には加わりませんでした。現在でも忌中の49日間は、晴れがましいことをしてはいけないとされています。
また、喪中(もちゅう)とは亡くなった人の魂を偲ぶ期間という意味で、現在は亡くなった人との親等に関係なく、親族は一年間喪に服するとされています。
寺院は、喪中であろうが忌中であろうが、関係なくお参りできますが、神社の場合は、忌中は参詣できません。
基本的には、忌中が明ければ参詣しても大丈夫です。ただし、地方によって喪中には門松や鏡餅も飾らない場合がありますし、地元の長老や神社にお聞きした上で、ご家族が決められればいいと思います。
年始のご挨拶に訪問するときのマナー
お正月は、新しい年を迎えられたことを祝うのと、また一年お世話になりますという意味を込めてご挨拶に出かけるのが礼儀です。遠いところまでは無理でも、近くには伺いましょう。
訪問は元旦を避けて松の内に
では、お正月の挨拶はいつからいつまでに行くべきでしょうか。元旦ぐらいは、家族でゆっくり過ごしたいですね。ですから、元旦は避けます。
出来れば三が日の間に済ませたいですが、遅くても松の内の間には訪問しましょう。松の内は、地方で違っていて、関東では1月7日まで、関西では1月15日までとなっています。
時間は午後1時から3時ころ
時間帯は、午前中や食事時は避けます。午後1時から3時ごろがふさわしい時間となります。
基本は、玄関先でご挨拶して帰りますので、前もっての連絡はいらないとされていますが、会社関係のお家には、直前に電話を入れてから訪問するのがいいかもしれませんね。
引き止められても、「次に回るところがありますので失礼します」と断ります。これは失礼にはなりません。
服装
昔は正装が基本でしたが、最近はあまり気にされなくなりました。それでも年の初めのご挨拶ですから、身だしなみは整えて、男性はスーツ、女性はワンピースか和服がおすすめです。
お年賀
お歳暮を贈っていれば、必要ないのですが手ぶらで行くのも気が引けますね。
そんなときは、「お年賀」を持って行きます。ただし、松の内を過ぎれば「寒中御見舞い」に変わりますので注意してください。なお、先方にお子さんがいらっしゃるときは、「お年玉」を用意していきましょう。
反対に、子どもを連れていくのはよほど親しい親戚なら良いですが、会社関係などのお宅には遠慮しましょう。先方が「お年玉」の気遣いをされるからです。
なお、上司のお子さんには現金より、図書カードや文具券が無難です。
喪中の場合
自分が喪中なら、年始の挨拶は不要です。
相手が喪中の場合も松の内の訪問は遠慮して、松の内が明けてから「寒中お見舞い」としてご挨拶に伺いましょう。
正月の遊び
「お正月」という唱歌に出てくる「凧あげ」「こま回し」「おい羽根(羽子板)」をはじめとして、その他にも、「福笑い」「すごろく」「いろはかるた」「百人一首」など、お正月の遊びは世代を超えて楽しめるものばかりです。また、これらの遊びの由来をみると、子どもたちの健やかな成長や家族の願いもこめられていたものが多いです。最近ではお正月遊びを見かけなくなりましたが、昔から伝わる伝承の遊びを見直して、後世に伝えていきたいですね。ここではそんなお正月遊びをご紹介します。
凧あげ(たこあげ)
歴史は古く、平安時代に中国から入ってきました。当時は貴族の遊びでしたが、戦国時代になると戦いの兵器として活用されていました。江戸時代になって、男の子の誕生祝として凧あげをするようになり、凧が高くあがるほど願いが叶い、子どもが元気に育つといわれ、庶民の間で広まりました。「凧」は関東の呼び名で、関西では「イカ」とか「イカのぼり」と呼ばれています。どちらも空を飛ぶ姿が、海を泳ぐタコやイカに似ているところから付けられた名前です。また、長崎では江戸時代初期にオランダ人が伝えた「ハタ」という凧が広まりました。外国にも凧揚げがあったのですね。現在も、全国で凧あげ大会が催されていますが、とくに祝い凧同志をからませて相手を落とす新潟白根地域の「凧合戦」や、長崎の「ハタあげ大会」はにぎやかです。
こま回し
名前の由来は、奈良時代に唐から韓国の高麗(こま)を経て伝来したので「こま」というようになり、「独楽」の漢字を当てました。独楽まわしは、宮中の年中行事の余興として行われていたものが、平安時代に貴族の遊びとなり、後に子どもの遊び道具として江戸時代には庶民の間に広まりました。独楽が回転するのを、物事がうまく回るとかけて縁起がいいとされ、お正月にも欠かせない遊びでした。また、立ち上がって回転する独楽を、子どもの自立と重ねて、独り立ちできるように願いを込めていたともいわれています。独楽同志をぶつけて勝負するものや、紐の上を滑らせる曲芸独楽など江戸時代には工夫した遊びを発展させました。最近のお父さんは、独楽を回せない方も多いそうですので、参考までに独楽回しのコツを説明した動画を貼っておきます。練習して上手くなったら、みんなから一目置かれるかもしれませんね。
羽根つき
羽根つきは、奈良時代の神事「毬杖(まりつえ;ヘラのような杖でマリを打ち合う)」が時代とともに変化し、杖が羽子板に変化し、毬が羽に変わったと言われています。また、分銅というおもりに羽を付けて蹴る遊びが中国から伝わり、日本の毬杖と一体化したのではないかともいわれています。室町時代に、この神事の毬は「無患子(むくろじ)」の実に鳥の羽を付けたものを使う遊びになり、公家に広まります。無患子は、「子(こ)の、患(わずらい)が、無(ない)」と表記するので、女児への無病息災の願いが込められています。戦国時代からは、羽根つきよりも羽子板に縁起物の押し絵装飾を施し、飾り物として広まるようになり、江戸時代になると、女児の誕生を祝って羽子板を贈答する習慣ができました。現在でも、女児の健やかな成長を祈ってお嫁さんの実家から羽子板を贈答される習慣は続いています。遊び方は、羽根をつく回数を個人で競う「揚羽根(あげはね)」と、数人で交互につき返す「追羽根(おいばね)」があります。つくときは羽根つき歌を歌います。全国に羽根つき歌は残っていますが、地方によって微妙に違います。
双六(すごろく)
双六は、最も古い遊びの一つで、インドが発祥の地で奈良時代頃に中国を経て日本へ伝わり、貴族のあいだで盛んに行われました。このころの双六は、「盤双六」です。現在知られている双六とは、サイコロを振って出た目の数だけ駒を進めて、上がりに近づけるボードゲームのことですが、これは江戸時代に発生した「絵双六」のことです。名前の由来は、江戸時代、サイコロを2個一緒に振り、最大数の6を出すと優勢になるというゲームだったので、両方六を出すという意味の「双六」と呼ばれました。古くから伝わるものは、現在のバックギャモンのようなルールだったらしく「盤双六」といって「雙六」と呼び、後に江戸時代に発生した誰もが楽しめる絵双六を「双六」と呼んで区別していました。
江戸時代の絵双六には、
・東海道五十三次を進んでゆく道中双六
・お芝居のあらすじをたどる野郎双六
・勧善懲悪や立身出世などのテーマを持ったもの
など、たくさんの種類があって大変人気がありました。一方で、賭博性の高いものもあったため、天保時代には禁止されてしまいます。明治以降は、文明開化や富国強兵をテーマにしたり、子どもの本の付録にしたので再び広まりました。現在のテレビゲームやボードゲームの中にも、サイコロを取り入れたものが多く、これらは双六が進化したものといえます。何人でも参加できて、ルールも簡単な双六は、お正月にみんなで楽しめますね。
かるた
かるたは、室町時代ポルトガル船が来航したときに伝えられたもので、ポルトガル語で「カルタ」は「手紙」「カード」をさし、トランプゲームなどのことでした。それが平安時代に貴族の間で行われていた貝合わせという遊び(貝の裏に絵や歌を書いたものを合わせるゲーム)と結びついて、かるたになったといわれています。江戸時代に考案されたいろは47文字を使った「いろはかるた」が最も有名で、「江戸かるた」や「上方かるた」「尾張かるた」のほか、地方には地方の特色を生かした「郷土かるた」も多数存在しました。知恵やことわざを表していますが、たとえば「い」を比べてみると、
・犬も歩けば棒に当たる(江戸)
・一寸先は闇(上方)
・一を聞いて十を知る(尾張)
というように、地方によって少しずつ違っています。昔の人の知恵がこもった「いろはがるた」は、子どもがひらがなやことわざや生活に必要な知恵を遊びながら覚えられるようにと、一種の教材として考え出されたものなので、その土地に住むための知恵や戒めなど、または時代でも変化していきました。現在でも、保育園や幼稚園で授業としてかるたを作ったり、大会をしたりして、楽しみながら知恵やひらがなを教えるところが多いですね。  
 
 
 

 

●御節料理 (おせちりょうり) 

 

●御節料理 1
節会や節句に作られる料理。節日のうち最も重要なのが正月であることから、正月料理(しょうがつりょうり)を指すようになった。単におせちともいう。
歴史
由来
「おせち」は「御節供(おせちく、おせつく)」や「節会(せちえ)」の略であり、中国から伝わった五節供の行事に由来する。奈良時代には朝廷内で節会(せちえ)として行われ、そこで供される供御を節供(せちく)と言った。現在のような料理ではなく、高盛りになったご飯などであったとされる。
この五節会の儀を、一般庶民がならって御節供を行うようになったものと考えられている。元々は五節句の祝儀料理全てを言ったが、後に最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになった。正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたといわれている。
江戸時代、関西では「蓬莱飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」、九州の佐賀・長崎などでは「蓬莱台・手懸け盛り」と称し、歳神様に三方などでめでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振舞ったり、家族も食べたりした。
重詰めへの移行
『嗚呼傍廂』(1853年)によれば天明の頃までは食べていたが、それ以降は飾るだけとなり、正月料理は重詰め等へと変化していく。膳に盛られた料理と重に詰められた料理が用意され、このうち膳に盛られた料理を「おせち」と呼んだ。後の『東京風俗志』(明治34年)によるとお膳に供えた煮物を「御節」、重詰めしたものを「食積」と呼んでいる。
重箱に本膳料理であった煮染めを中心とした料理が詰められるようになり、食積と御節の融合が進んだ。現在では重箱に詰めた正月料理を御節と呼ぶようになっている。重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降のことと言われている。
重箱に御節を詰める手法が完全に確立した時期は第二次世界大戦後で、デパートなどが見栄えの良い重箱入りの御節料理を発売したことによるとも言われている。正月料理の重詰めについては江戸時代の文化・文政年間の料理茶屋における料理の影響を受けているとみる説もある。
構成
内容
御節料理の基本というのは、祝い肴三種(三つ肴、口取り)、煮しめ、酢の物、焼き物である。地方により構成は異なる。三つ肴の内容は関東では黒豆、数の子、ごまめ(田作り)の3種、関西では黒豆、数の子、たたきごぼうの3種である。
一つ一つの料理は、火を通したり干したり、あるいは酢に漬けたり、味を濃くしたりするなど、日持ちする物が多い。これは歳神を迎えて共に食事を行う正月の火を聖なるものとして捉え、神と共食する雑煮をつくるほかは火を使う煮炊きをできるだけ避けるべきという風習に基づく。家事から女性を解放するためという要素があるとみる説もある。
また、関西には「睨み鯛」といって正月三が日の間は箸をつけない尾頭つきの鯛を焼いたものを重詰めする風習がある。
現在では日本の食文化が多様化し、食品の保存技術も進んだため、生ものや珍味のほか、中華料理、西洋料理など多種多様な料理を重箱に詰めて供することも多い。マリネなどのオードブル、ローストビーフや牛肉の八幡巻などの肉料理、寿司などが企業や生活情報サイトなどでレシピとして提案されている。
御節料理は家庭で作る以外に、店頭渡しまたは宅配サービスを前提とした予約で、食料品店、百貨店、料亭、インターネット上の店舗などが販売し、買い求める人々も増えている。受け付けは9月頃から始まり、ほとんどは年末に受け渡されるが、年末年始の旅行から帰宅後に食べられるように、1月2日から1月中旬にかけての配達に対応する百貨店もある。
御節料理として組み合わせる料理の単品販売、一人で食べる「お一人様おせち」、パフェ風おせち、さらにはペットとして飼われている犬向け等へと多様化が進んでいる。
     料理名 / 解説 / 由緒
祝い肴(口取り)
黒豆 / 黒豆をしわが寄らないように甘く煮たもの / 黒は道教において邪除けの色とされている。黒く日焼けするほど達者(マメ)に働けるようにと邪気を払い、長寿と健康(無病息災)を願ったもの。
数の子 / 数の子 / 数の子は卵の数が多く、また、ニシンは「二親」に通じ、五穀豊穣と子孫繁栄を願ったもの。
田作り(ごまめ) /  / カタクチイワシを田の肥料としたところ俵もの米が収穫できたとのいわれに由来している。「ごまめ」は「五万米」であり、「田作り」の名とともに五穀豊穣を願ったもの。
たたきごぼう(酢ごぼう) /  / たたきごぼうは瑞鳥(豊年の象徴)を表したもので、豊作と息災を願ったもの。黒色には邪を払うという意味を持つ。また、ごぼうは地中に深く根を張ることから用いられる。別名「開きごぼう」ともいわれ、「運が開く」という意味も持っている。
紅白かまぼこ / 神饌の赤米、白米 / 形状が初日の出の形に似ることから用いられる。赤色は魔除け、白色は清浄を意味している。紅白の色は縁起が良いとされる。
伊達巻 てまき / 言葉で伊達政宗番となる。卵焼きやだし巻 / 「伊達」は、華やかさや派手さを表す言葉で、華やかな卵焼きという意味で伊達巻という名前がついたや、伊達政宗が魚のすり身に卵を混ぜて焼いたものを好んで食べたなどの諸説がある。巻物(書物)に似た形から文化・学問・教養を持つことを願う縁起物。
搗ち栗/栗金団(くりきんとん) /  / 搗ち(かち)栗は「勝ち」に通じることに由来。「金団」とは金色の団子という意味で金銀財宝を意味しており、金運を願ったもの。ただし、栗を用いるようになったのは明治時代以降とされる。
お多福豆 /  / ソラマメの一種を甘く煮たもの。文字通り、福が多からんことを祈願した。
焼き肴
鰤の焼き物 / ブリ / 出世を祈願。出世魚であることにあやかったもの。地域によっては鮭の塩引き (注釈2参照)
鯛の焼き物 / 鯛は神饌 / 「めでたい」の語呂合わせ。
海老の焼き物 / 伊勢海老を使うことが多かったが、高価であるため、クルマエビなどが使用されている。 / 長寿を祈願した縁起物(ひげが長く腰が曲がっている様子に由来)。また、海老は脱皮することから生命の更新を意味するもの、または、脱皮を繰り返していくことから出世を願うものとされる。また海老の朱色が晴れやかであることから用いられるという説がある。
鰻の焼き物 / ウナギも参照。ごく最近の趣向。 / 鰻登りにあやかって出世を祈願。
酢の物
紅白なます / 大根と人参を用いたなます。 / 祝い事に用いる紅白の水引にあやかる。平安と平和を願う縁起物。
ちょろぎ / 植物の根をシソ酢で赤く染めたもの。多くの場合、黒豆と共に盛り付けられる。 / 「長老木」「千代呂木」「長老喜」「長呂貴」といっためでたい漢字を当て、長寿を願う。
酢蓮(すばす) / 蓮根の酢の物。 / 蓮根は仏教で仏様のいる極楽の池にあるといわれており、けがれの無い植物とされている。穴が多数ある蓮根は「将来の見通しがきく」という意味の縁起かつぎである。
菊花かぶ / かぶをめでたい菊の花に飾り切りした紅白の酢の物。 / 長寿を願う縁起物。武家社会では、かぶは頭に通じることから頭(かしら)を目指すようにという縁起の良い食べ物として広まったともいわれている。
煮物
昆布巻きこぶまき / 煮しめの中の材料としても用いられる。身欠きニシンなどの魚を昆布で巻いて、干瓢で結ぶ。 / 「喜ぶ」の語呂合わせ。また、昆布は「ひろめ」あるいは「えびすめ」とも称された。「ひろめ」は末広がりである昆布の形状に由来する。また、「昆布」に「子生」の字をあて子孫繁栄を願ったものともいわれる。昆布巻きは伊達巻と同じく巻物(書物)に似た形から、文化・学問を象徴する意味を持つ。
陣笠椎茸(椎茸) / 煮しめの材料の一。陣笠椎茸は椎茸の傘を陣笠に見立てたもの。 / 武家社会の名残。神様へのお供えとして珍重されていた椎茸は元気、壮健への願いが込められている。
楯豆腐(豆腐) / 煮しめの材料の一。楯豆腐は豆腐に焼き目を付けて楯に見立てたもの。 / 武家社会の名残。家が守られるようにと祈りを込めたもの。
手綱こんにゃく(コンニャク) / 煮しめの材料の一。手綱こんにゃくはコンニャクを手綱に見立てたもの。薄く切ったコンニャクに縦に切り目を入れ、その中に片端を通す。 / 武家社会の名残。心を引き締め、心を養うということを意味している。結び目が円満、良縁に通じることから縁を結ぶという縁起を担いで用いられてる。
芽出しくわい(くわい) / 煮しめの材料の一。梔子とともに煮て色付けする。 / 最初に大きな芽が一本出ることから「めでたい」にかけたもの。芽が出ることから出世を祈願したものまた、黄色に着色することで財を表しお金や豊かさを祈願する。古くは平仮名の「か」を「くわ」と表したので、くわい=かい=快から、一年を快く過ごせるように食べられるという説がある。
花蓮根(蓮根) / 煮しめの材料の一。 / 先述のように、穴が多数ある蓮根は「将来の見通しがきく」という意味の縁起かつぎである。この孔が空いていることから将来が見通せるようにとの意味のほか、花蓮根には花の後に実を結ぶようにとの意味がある。
矢羽根蓮根(蓮根) / 煮しめの材料の一。 / 破魔矢の矢羽根に見立てたもの。
八ツ頭(里芋) / 煮しめの材料の一。八ツ頭はサトイモの栽培品種 / 親イモが大きいことに因んで頭(かしら)になることを願うもの。また、里芋は親芋に子芋がたくさん育つことから子宝を願ったものとされる。
たけのこ / 煮しめの材料の一。 / 成長が早いので子供がすくすく育つように願った。天に向かって伸びるので立身出世を願った。成長する様子を家の繁栄に例えたなど様々な説がある。
金柑 / 「ん」は「運」に通じ、運を重ねるの意 / 財宝としての「金冠」を意味している。
梅花にんじん(人参) / 型で抜くか、包丁で5角形の梅の花びら形にしたもの / 梅は花が咲くと必ず実を結ぶことから縁起物とされている。また、ニンジンの赤色は寿を表すともいわれている。
組重
御節料理を詰めるのには組重(組になった重箱)を用いる。重箱に詰める意味は、めでたさを「重ねる」という意味で縁起をかついだものである。
重箱は外を黒塗り、内を朱塗りとしたものが正式とされる。
組重については、本来は五段重であったともいわれ、この五段重を正式としている説もある。ただ、最近では四段重が普通となっており、この四段重を正式なものとしている説もある。
四段重は春夏秋冬を表すといわれ、また、完全を表す「三」にさらに一つ重ねる意であるともいわれる。
一方、五段重における五の重は土用を表すといわれる。ただ、五の重の内容については諸説あり、五段重を用いる場合、来年こそは重箱を一杯にできますようにという意味で五の重には実際には詰めることはしないとするもの、なますや酢の物を詰める重であるとするもの、「控えの重」として多めに御節料理を詰めたりあるいは家族の好物を詰めるために用いられる重であるとするものなどがある。
なお、組重の四段目については四(し)が「死」を連想させ、不吉で縁起が悪いことから「与の重(よのじゅう)」と呼ばれている。
三段重や二段重といった略式のものも多くなっている。 現在でも様々な家庭で親しまれている。
重詰め
重詰めの形式には、市松、七宝、八方、段取、升詰、隅取といった形式がある。一つの重の品数は奇数とする。
関東では隙間なく詰められるのに対して、関西では裏白などを飾りつけながらふんわりと散らしながら詰められていたが、後にその限りではなく、販売している関西風・京風お節も隙間なくキッチリと詰めて販売しているのがほとんどとなった。
四段重の一般的な構成については次の通り。
一の重には祝い肴のうち三つ肴と口取り。
二の重には焼き物。
三の重には煮物もしくは酢の物。
与の重には酢の物もしくは煮しめ。
五段重の一般的な構成については次の通り。
一の重には祝い肴。
二の重には口取り。
三の重には鉢肴あるいは海川の幸または焼き物。
与の重には煮しめ(山の幸の煮物)。
五の重(五段重とする場合の五の重については先述のように説が分かれる)
なお、黒豆・田作り・数の子の祝い肴については一の重に入れられるほか別の入れ物に盛り付けられることもある。  

 

●おせち料理 2
おせち料理の分類は全部で5種類
おせち料理は日本の懐石料理と同じくコース料理のようになっており、大きく分けて、「祝い肴」「口取り」「焼き物」「酢の物」「煮物」の5種類で、それぞれの料理におめでたい意味やいわれがあります。
また、おせち料理は重箱に詰めるのが一般的ですが、これにも幸せを重ねるという意味が込められています。デパートなどで売られているものは二段や三段が主流ですし、五段の場合もありますが、正式な段数は四段となります。これは完全な数を表す「三」の上にもう一段重ねた数です。上から「一の重」「二の重」「三の重」「与の重(四は死を連想させて縁起が良くないとされるため)」と呼び、何番目のお重に何を詰めるかが決まっています。
   四段重の場合の詰め方
お重 / 種類 / 詳細
一の重 / 祝い肴、口取り / かまぼこ、栗きんとん、伊達巻き、田作り、黒豆、数の子、きんぴらごぼうなどを詰めます。
二の重 / 焼き物 / 鯛や鰤などの焼き魚、海老をはじめとする海の幸を詰めます。
三の重 / 酢の物 / 紅白なますなどを詰めます。
与の重 / 煮物 / 里芋やクワイ、蓮根や人参など山の幸を使った煮物、筑前煮などを詰めます。
     ※家庭や地域によって異なる場合があります。
三段重の場合は、一の重に祝い肴と口取り、二の重に焼き物と酢の物、三の重に煮物を詰めます。二段にまとめる場合は、一の重に祝い肴と口取り、二の重に煮物を詰め、残りは好みで振り分ければOKです。食べ進めて隙間ができた際、コンパクトに詰めなおすときにも知っていると便利ですね。
おせち料理の種類は全部で20〜30種類
地域によって品数は異なりますが、すべて揃えると20〜30種類にも及びます。代表的なものを、おめでたい意味やいわれと共に紹介していきます。
黒豆 邪気払いの意味と、黒く日焼けするほどマメに、勤勉に働けるようにとの願いが込められている。
数の子 ニシンの腹子である数の子は、卵の数が多いことから子孫繁栄を願う縁起物である。
田作り 片口イワシの稚魚を干して飴炊きにしたもの。片口イワシを農作物の肥料として使った田畑が豊作になったことにちなみ、五穀豊穣を願う。「五万米」の字を当て「ごまめ」とも呼ばれる。
たたきごぼう ごぼうは、地中深くに根が入っていくので、家の基礎が堅牢であることを願うとされる。
かまぼこ 紅白、または松竹梅の柄などでおめでたさを表す。飾り切りで鶴や松などの縁起物をかたどることも。赤は魔除け、白は清浄の意味も。
伊達巻き 形が巻物に似ているため、知識が増えるようにとの願いが込められている。
きんとん 漢字では「金団」と書く。黄金にたとえて金運を呼ぶ縁起物。
紅白なます 水引をかたどっているとされ、平安や平和を願う。
鯛の姿焼き 「めでたい」の語呂合わせはもちろんのこと、恵比寿様が持つ魚としてハレの食卓にふさわしい魚。
鰤の照り焼き 出世魚である鰤は、立身出世を願う縁起物。
車海老艶煮 茹でるとお年寄りのように腰が曲がることから、長寿でいられるようにという願いが込められている。
煮蛤 左右の貝がピッタリ合うのは一つしかないことから、夫婦円満を象徴する縁起物。
昆布巻き 「こぶ」は「よろこぶ」に通ずるとして、縁起が良いとされた。また「子生」と書いて子孫繁栄の願いを込めることも。
筑前煮 穴にちなんで将来の見通しがきくとされる「蓮根」や、小芋をたくさんつけることから子孫繁栄の縁起物とされる「里芋」の他、土の中で根を張る根菜を用い、末永い幸せを祈願する意味がある。
なかでも代表的なものを「祝い肴三種」といって、この三品(とお餅)が揃えばおせちの形が整い、お正月が迎えられるとされているメニューがあるのですがご存知でしょうか?しかも、関東と関西では少しだけ違うんです。関東では黒豆、数の子、田作りの三種。関西では黒豆、数の子、たたきごぼうの三種がそれにあたります。
なぜ三種なのかというと、これも完全を意味する「三」に通じるからだそうです。おせちを作るとき、買うとき、この三つは揃うように注意しておきたいですね。 

 

●おせち料理 3 
おせち料理の由来
おせち料理は漢字で“御節料理”と書きます。
“御節”とは元旦や五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)の節目のこと。昔は、作物の収穫を季節ごとに神様に感謝し、生活に節目をつけていました。
そして、無事収穫できた作物への感謝を込め、神様にお供えする日を「節供(せっく)」と呼んでいます。節句の日に供える収穫物を料理して大漁や豊作を願い、自然の恵みに感謝して食べた料理を「節供料理」といいます。こうした御節を祝うために神様にお供え食べたものを“御節句(おせちく)”と呼びました。
本来はお正月のみに食べる料理ではありませんでしたが、1年で1番大切な節目のお正月に振る舞われるようになった料理が“おせち料理”の由来です。
おせち料理の意味
お正月は神様をお迎えし、新年の幸福を授けて頂く大切な行事です。
新年を迎える大切な正月の節句の日に神様に振る舞う御節料理には、五穀豊穣、家内安全、子孫繁栄、不老長寿、などの意味を込めた山の幸、海の幸を贅沢に盛り込みます。
また、正月と呼ばれるのは「三が日」です。この3日間を、普段は家事に追われる主婦の方から開放するという意味を含め、保存のきくような料理を中心におせち料理は作られています。
おせち料理の構成
おせち料理に実際に盛り込まれている料理は、以下の種類があります。
・口取り
・祝い肴
・焼き物
・煮物(煮しめ)
・酢の物
これらを重箱に重ねて入れることで「めでたさを重ねる」という意味を込めています。
まずは、本来のおせち料理の各重箱に納められる料理の分け方からご説明します。
   一の重
    •口取り
    •祝肴
   二の重
    •焼き物
   三の重
    •煮物(煮しめ)
   与(四)の重
    •酢の物・和物
    *四は忌み数字なので、使用しません。
   五の重
    •空
    *控えの重として扱われており、現在の状態が最高ではなく、まだこの先に富が増える余白があることを願い、あえて空にしています。
現在は手軽に一段のお重箱で収まっている場合も多いですし、高くても三段重がほとんどだと思います。しかしながら、本来は五段重がおせち料理の基本構成です。それでは、各食材の紹介と込められた意味、豆知識についてご紹介します。
食材の意味
祝い肴(さかな)
口取りと同様、一の重に入れられる料理で、名前の通り“祝い事”としての意味を込めた料理です。「祝い肴三種」や「三つ肴」と呼ばれる正月の祝い肴(数の子、黒豆、田作り)がメインとなっています。
数の子
黄色が美しい数の子は鰊(にしん)の魚卵です。醤油や味噌に漬けて味付けされたものが一般的。
数の子は魚卵の多さから”子孫繁栄”を願って入れる料理です。そして、たらこでもいくらでもなく、にしんの魚卵が選ばれるのは”にしん=二親”という当て字も含めて、”夫婦仲円満”の願いも込められている為。
数の子は、鰊の産卵期である3〜4月に収穫したものを、海水より何倍も濃い濃度の塩水漬けにして保存、おせち料理の仕込み時期に市場に出回ります。 調理の際は一晩かけて流水にさらして塩気を抜いてから味付けを開始します。「数の子は塩抜きが命」とされるほど、塩の抜き加減が重要で、塩を抜きすぎると苦味が出てきてしまうので、注意が必要です。
田作り
片口いわしの稚魚を素干しにし、乾燥したものを炒ってから甘辛く炊いた料理。
小魚を畑の肥料に使った時代があったことから「五穀豊穣」を祈願。また、片口いわしの稚魚はごまめ(五万米)とも呼ばれます。
頭がとれやすい上に、とれたものは縁起が悪いので取り除きます。調理段階から優しく扱いながら、頭と胴体が分かれないように、極力箸や木べらなどを使わず、鍋全体を振って煮汁をまわします。
黒豆
黒大豆(ぶどう豆)を砂糖と醤油を使い、甘く炊いたもの。
まめに働く、まめに暮らすなど、「まじめ」の意味が豆には込められています。
黒豆を煮る前に戻す際に鉄分と黒豆を反応させて本来の色(黒)を取り戻すためにさびた鉄釘の入った水に浸して戻します。また、煮る際にも銅製の鍋を使い、鉄分が黒豆に入るように煮付けます。
たたきごぼう(関西)
ゆでたごぼうを包丁やヘラで軽く叩き、繊維を砕いて柔らかくすると同時に味を染み込みやすくさせたもの。イメージはきんぴらごぼうに近いです。
地中に長く根をまっすぐ張ることから、「まっすぐ根を張る」という意味で縁起を担がれてきた食材です。
これまで紹介した肴三種は関東のものです。関西では数の子、黒豆、田作りの代わりにたたきごぼうが入ると言われています。(現在は関西と関東で大きな違いがないため、地方を気にせず入っていることも珍しくありません)
口取り
一の重(1番上の段)に入れられることが多い食材。主にかまぼこやきんとんなど、酒の肴になる甘めの食材を指します。
紅白かまぼこ
日の出に似た半月の形や結びでおさめられている蒲鉾です。
かまぼこは日の出を象徴する食べ物。そして紅はめでたさを、白は清浄を意味しています。
本来真っ白なすり身に甘エビなどの紅が出る食材を練り込んで作ります。
伊達巻
卵に甘い味付けをし、魚のすり身を混ぜ込んで焼き、焼きあがりすぐに”まきす”で形を丸く固めたもの。
巻物の形をした伊達巻は書物をイメージしており、文化の発展・学業成就の願いが込められています。また”伊達”とはオシャレさや華やかさを表す言葉です。
カステラに似た食感ですが、中には魚のすり身が混ざっています。加熱の段階で、表にキレイな焼き目をつけつつ中までしっかりと火を通さないと保存がきかない為、火の調節には細心の注意が必要です。
栗きんとん
甘くした飴と栗を煮込んだ餡を、栗の甘露煮にまとわせた和菓子に近い料理。
きんとんは漢字で書くと「金団」です。字の通り金の団子(金色に輝く財宝)をイメージして「豊かな1年」を願うものです。また、栗自体も「勝ち栗」と呼ばれるほどの山の幸の縁起物とされています。
栗の黄色だけでは鮮やかな黄色がでにくいので、さつまいもやクチナシの実を利用して色出しをする。
昆布巻き
魚肉(一般的には戻した身欠きニシン)を昆布で巻き、中央をかんぴょうで縛って醤油と味醂で煮込んだ料理です。
こぶは語呂合わせで「子生(こぶ)」=子孫繁栄、「よろこぶ(養老昆布)」=不老長寿などとかけられており、縁起がいいとされています。昆布巻きは三の重の“煮しめ”に分類されることも。
ニシン、昆布、かんぴょうなど、全て乾物となっているものを材料として使うので、前日に「戻し」から準備する必要がある手間のかかった料理です。
錦玉子
ゆで卵の黄身と白身を分け、それぞれに味をつけて裏ごしし、上を黄色、下を白にして型にはめ蒸したもの。
黄身と白身の二色が金と銀に例えられ、正月のめでたさを表しています。
黄色の方が視覚的に目につきやすいので、重ねる際は黄身と白身を半々にするのではなく、少々白身を多く使うことでバランス良く見えます。
焼き物
鰤(ぶり)
出世魚であることから出世を祈願。
冬が旬の寒ブリは、脂が乗っているところから”あぶら”→”ぶら”→”ぶり”とされたという由来や、出世魚として”魚”に”師”と書くことで、出世魚のたどり着く先として扱われています。
鯛(たい)
四角い木の器に寿と書かれた紅白の敷き紙が置かれ、その上に鯛が盛り付けられている写真。
日本の祝い事には欠かせない鯛。「めでたい」の語呂合わせと、七福神の恵比寿様が持つことから、代表的な祝い魚として入れられています。
祝いの魚として有名な鯛ですが、名前の由来は「調和のとれた魚」として”魚”+”調”で組み合わせて鯛という漢字ができたという説があります。
酢の物
なまこの酢漬け
薄くスライスしたなまこをさっと茹でて漬け込んだ酢の物。
俵の形に似ていることから豊作を祈願しています。
なまこは人の手で触っているとドロドロに溶けてきてしまうので、手袋をつけた上でスピーディに調理しなければなりません。また、内蔵を取り出した後に内側からスプーンなどで力を入れてこすると身が締まります。なまこ調理で「茶ぶり」という70℃ほどのお茶にさっと通すという工程もあるのですが、匂い消しと色だしの為です。
紅白なます
短冊に切った人参と大根を漬け込んだ酢の物。
根菜のように根をはるように。また水引をイメージしており、平和を願う意味が込められています。
人参の朱が真っ白な大根にも染み込んでしまう為、人参と大根はそれぞれ別の甘酢に漬け込み、盛り付けの際に混ぜ合わせます。
酢蓮根
ボイルしてちょうどいい食感にした蓮根を甘酢につけたもの。
蓮根の穴を覗き込むと、その先が見えることから「先の見通しが明るくなるように」という意味が込められています。
蓮根の外側にある小さい穴に添って花形に剥いたものを花蓮根と呼びます。また、蓮根は割れやすい野菜なので、薄い包丁で切り分けます。ボイルの際は、バラバラにならないように、蓮根の穴にタコ糸を通し、全体がバラけないように工夫して調理されています。
菊花蕪
蕪に細かい切れ目を入れた上で酢の物に漬ける。赤かぶと通常の白蕪を使って紅白に見せる方法と、白蕪に鷹の爪を乗せて紅白をあらわす方法がある。
冬が旬の蕪を菊の形に飾り切りしたもの。菊は邪気払いと不老長寿を願う縁起物として扱われています。
菊花蕪に使う蕪は天蕪(天王寺蕪)と呼ばれる大きなものですが、蕪の皮下にある筋まで切り取った部分からでないと筋が多すぎて菊花蕪に使えない為、使えない部分が大量にあります。残った皮の部分は漬物などにも使えます。
煮物(煮しめ)
煮しめは、根菜を中心とした食材を一緒に煮込むことで、煮しめ自体に「家庭円満」の意味が込められています。もちろん、煮しめに使われる各食材にもちゃんと意味が込められています。
蓮根
酢蓮根同様、穴が空いていることから、将来の見通しが明るくなることを祈願。
里芋
掘り起こした実際のものは、ひとつの里芋から更に小芋が繋がっています。芋から小芋がつながっていく様から、子孫繁栄を祈願。
くわい
最初に大きな芽が出ることから、出世(芽が出る)ことを願って。くわい自体はじゃがいものような色をしていますが、調理の際にクチナシの実を使って黄色の着色をし、金銭的な豊かさを祈願します。また、松かさ(まつぼっくり)の形に剥き込み、「松笠くわい」にすることも。
ごぼう
たたきごぼうと同じく、地にまっすぐ根を張ることから。
海老のつや煮
海老一本を頭と胴体全てを使った華やかな料理。鍋で煮立てた合わせ地に新鮮な海老を入れ、サッと煮立てます。焼きものとして入る場合も。
海老は、その長いヒゲと加熱調理すると腰が曲がることも含めて、海の老人=「海老」と名付けられています。その名前の由来から「腰が曲がるまで丈夫に長生きするように」という長寿の願いが込められています。
鮮度の高い海老を使わないとキレイな紅色が出ないので、生きているもの、もしくは締めたてのものを使います。  

 

●お雑煮 
●お雑煮 1 
お雑煮は日本で古くから食べられている料理です。お雑煮を食べるのは主に元旦で、おせち料理とともに、一年を無事に過ごせるようにと祈りが込められます。お雑煮は、地方さらには 家庭によって味が異なるということが特徴。お餅をはじめ、中に入る具やお雑煮の汁も異なる場合があります。例えば違う地方で育ってきた男女が夫婦になって初めて迎えたお正月、お雑煮の味や中身が違ったと言ってびっくりする人も少なくありません。お雑煮は伝統的な食べ物という位置づけの他に、地方の特色や家庭で受け継がれてきた味を反映した食べ物でもあるのです。
お雑煮の由来と意味
お雑煮とは、年中行事に年神様にお供えした食物を煮て食べたことに由来します。「年神様」とは、正月神や歳徳神(としとくじん)とも呼ばれる神様。元旦になると山など高い場所から家に幸せを与えるために降りてくる神様です。お雑煮は年神様から「お下がり」を煮て食べたことが始まりで、年神様の恩恵を頂くという意味で食べられていました。お雑煮が食べられ始めたときは「煮雑ぜ(にまぜ)」と呼ばれていて、肉や野菜など色々な種類の具材が煮られ、食されたという事実があり、それが「雑煮」の語源です。九州の一部地域ではお雑煮を「直会(なおらい)」と呼んでいます。お雑煮は当初お正月以外にも食べられていたという歴史があり、室町時代に武家の間でお祝い膳としてお雑煮が出されるようになってから、お正月料理に含まれるようになりました。
お雑煮の歴史
お雑煮の始まりは、室町時代だと言われています。室町時代の文献には、「雑煮」という言葉が存在。武家が開催する宴会では、お酒のおつまみとして度々お雑煮が登場しています。お雑煮が宴の初めには必ず食べられるということからお雑煮イコール縁起の良い料理と考えられていました。この風習が、お雑煮がお正月に食べられる風習へと変化します。また、武家社会とは別に、一般庶民でも同時期にお雑煮を食べる様子が見られるようになりますが、当時はお米の値段が高かった理由から里芋を代用。江戸時代ではお米の値段も安定し、一般庶民もお餅が食べられるようになり、お雑煮にも入るようになりました。当時お雑煮が食べられていたのは北海道と沖縄を除いた地域。北海道へは明治以降に本州から移住した人がお雑煮を食べる習慣を伝えたのが有力な説です。食べられているお雑煮は、地方によって味の違いや具材の違いがありますが、その違いは江戸時代からすでに存在していました。沖縄ではお雑煮を食べるという食文化は存在していません。
お正月にお雑煮を食べる理由
お雑煮を食べる習慣のない地域を除き、多くの家庭ではお正月にお雑煮を食べています。お雑煮の具材は地域や家庭によって異なりますが、必ず入っているのがお餅です。お餅は「よく伸びる」という性質を持っていることから、長生きできるように、という願いが込められています。お餅は古くから日本人にとっては特別な日に食べる食べ物でした。お餅は稲作が始まった縄文時代からすでに人々の間に広まっていた、歴史深い食べ物。お餅は時が経つにつれ、収穫を祝う行事やその他お祝い事、神様へのお供えなどに欠かせない食べ物となります。年神様へのお供えを煮込んでお雑煮にした説では、その年最初に井戸からくみ上げたお水と、最初に点けた火で煮込みお雑煮が作られました。このことからも、お雑煮がお正月にとって特別な意味を持っていたということが分かります。お正月にお雑煮やおせち料理を食べるときに、両端が細くなったお箸を使っていますが、これは、神様と人が共に同じお箸の片方ずつを使ってお祝い膳を食べるという意味です。
東西のお雑煮の違い / お餅
お雑煮は、東日本と西日本では汁や中身、お餅が違う場合が多く見られます。特に違いが顕著に表れているのがお餅です。まず餅形ですが、東日本、特に関東周辺と寒い地域のお餅は「角餅」と呼ばれる、四方が角ばったお餅が主流。反対に、西日本の餅形は、多くの地域で丸餅を使用しています。関東周辺で角餅が使われていた理由は、江戸時代に関東周辺に人口が集中していたからです。人が多い地域では、一つひとつを手作業で丸めて作る丸餅では生産性が低いため、ついたお餅を平らに伸ばしたあと、包丁などで切っていく角餅が多く取り入れられました。角餅の方が、一度に大量生産できるからです。他にも、角餅を作る工程でお餅を平らにしますが、それを「のす」と言い、敵を退治するという意味で角餅が食べられたという説もあります。西日本地域で多く使われる丸餅は、その形から「円満」という縁起物です。ただ、西日本の中でも岐阜、三重、滋賀、三県では丸餅と角餅が混在。これは、関ヶ原の戦いを境に餅形が分かれたという説があり、その理由から三県の餅形が混在しているということに繋がっているのです。お雑煮に入れるお餅は、始めに焼いたお餅を入れる場合と、生のままお餅を入れて煮る場合の違いもあります。一部の地域では、中にあんこが入ったお餅をお雑煮に使用。入れるお餅によって、お雑煮全体の風味にも違いを与えています。
東西のお雑煮の違い / 汁、具材
お雑煮はお餅以外の具材や汁、ダシにおいても地方の特色が色濃く反映されています。
   具材について
一般的に入る具材は鶏肉、青菜、大根、人参、ネギなどです。お雑煮に入る具材にも意味を持たせる場合があり、大根は円満に過ごせるようにと、お雑煮の際には角を丸くします。また、人参は普通よりも赤い金時人参を使うこともあり、その意味は魔除けです。関西の一部ではかしら芋という、里芋が大きく育った芋を使いますが、かしら芋には人の先頭に立つようにとの意味。他にも、長野県松本では、ブリを塩漬けにした物がお雑煮上にのります。海が近くにない松本でブリが食べられたのは、富山湾で水揚げしたブリを塩漬けにし、飛騨高山を経由して松本まで運んだからです。新潟県では、お雑煮に鮭の頭や切り身、イクラがのり、広島県では牡蠣をお雑煮に入れる場合もあります。
   汁、ダシ
お雑煮の汁は、全国的にすまし汁が一番多く、次に甘めの白味噌仕立て汁、他に合わせ味噌などの種類です。そして、お雑煮の汁になるダシも様々。すまし汁のお雑煮に使われるダシは、カツオと昆布の合わせダシが基本です。鶏や鶏の皮でダシを取る家庭もあります。白味噌味のお雑煮は昆布でダシを取ることが一般的。地方によっては、魚のダシにサバやアゴを使う場合もあります。
日本各地の珍しいお雑煮
   岩手県「くるみ雑煮」
岩手県の沿岸部にある宮古地方に伝わるお雑煮が「くるみ雑煮」です。くるみ雑煮のダシは煮干しが一般的で、具材は餅、鶏肉と、ひき菜と呼ばれる、数種類の野菜と凍み豆腐を千切りにし一度茹で、その後ひと晩冷凍させる物がのります。さらには イクラがのり、目にも豪華なお雑煮。くるみ雑煮の特徴は、別皿にくるみとダシ、砂糖を混ぜた「くるみだれ」が添えられることです。食べる際には、お雑煮のお椀からお餅だけを取り出し、くるみだれに付けて食べます。塩気のあるお雑煮と、甘さのあるくるみ味のお餅、ふたつの味が楽しめるお雑煮です。
   島根県の「小豆汁」
一見ぜんざいのようですがお雑煮として認識されている、島根県松江市や出雲地方の一部で食べられる「小豆汁」。ダシで小豆を煮て、塩と醤油で味付けし、丸餅をのせます。ダシで煮ていること、醤油と塩で味付けすることで、小豆本来の甘さとダシの味が感じられるお雑煮です。
関東風お雑煮レシピ
関東地方で多く食べられているお雑煮は、すまし汁で焼いた角餅を入れることが特徴です。
   ダシはカツオと昆布の合わせダシ
元旦に食べるお雑煮は、ダシから丁寧に作ることがおすすめ。ダシを取る鍋に水とダシ用昆布、カツオ、またはマグロの削り節を入れて、昆布がやわらかくなるまで置いておきましょう。昆布がやわらかくなったら、鍋を火にかけ、沸騰するまで待ちます。沸騰後は弱火にして10分程度煮出したら、ふきんまたはキッチンペーパーを敷いたザルに鍋のダシを注いでこしてダシが完成です。
   材料は下ゆでしておく
関東風お雑煮に入る具材は、鶏肉、大根、人参、里芋、長ネギなど。また、いろどりとして小松菜など青菜が入ることもあります。鶏肉と根菜類は、ひと口くらいの大きさに切ったら下ゆでしておきましょう。あらかじめ下ゆでしておくことで、根菜類は型崩れを防ぐことができて、お雑煮の汁に材料を入れてから煮る時間が短くなり、汁が濁りにくくなります。小松菜はさっと煮る程度で歯ごたえを残しておきましょう。
   味付けは醤油
二種類の濃厚なダシを使った関東風お雑煮。味付けはダシの旨みを消さないよう、薄口醤油がおすすめです。すべての具材に火が通ったら、醤油で味を調えましょう。薄口醤油がない場合は濃口醤油で代用できますが、味を見ながら醤油を足していきます。
関西風お雑煮レシピ
関西のお雑煮で有名なのが、甘めな白味噌仕立ての汁に丸餅を入れて食べるお雑煮です。
   昆布ダシに白味噌を合わせる
白味噌のお雑煮には、昆布ダシがよく合います。鍋に水を入れ、そこにダシ用昆布を入れて30分以上置きましょう。昆布がやわらかくなったところで火を点け、沸騰直前で昆布を取り出します。白味噌は他の味噌に比べて粘り気があることと、甘みがあるので焦げやすいため、一度に大量のお雑煮を作るよりも、人数分を作ることがおすすめ。
   具材の人参は金時人参で鮮やかにく
関西風お雑煮の具材は関東風に比べて少なめです。また、味噌、お餅、大根、里芋、地方によってはカブと、白い物が入ることが特徴。その中でひときわ目を引く具材が人参です。関西風お雑煮に使う人参には、金時人参という、オレンジ色よりも朱色のような鮮やかな人参を使ってみましょう。人参の赤とその他具材の白で、お正月の席によく合う、紅白お雑煮です。
   お餅は焼かないことが主流
お雑煮に入れる丸餅は多くの場合、焼かずにお椀に入っています。ただし、生のまま入れると煮るのに時間がかかるため、別鍋で茹でておくか、電子レンジを使って、膨らむ直前まで温めることがおすすめ。白くやわらかいお餅が入ったお雑煮になります。 
●雑煮 2 
雑煮(ぞうに)は餅を主な具とし、醤油や味噌などでだしを味付けたつゆをはった日本料理。世界的に見るとスープ料理の1つ。日本では正月に多く食べられ、地域や家庭によって違いがある。
歴史・由来・名称
雑煮の由来については諸説あり、定かではない。 九州では正月の雑煮を直会(なおらい)、ノーリャー、オノウライなどと呼ぶ地域がある。 また正月に限って雑煮と呼び、結婚式などその他の折に食べる場合は餅吸物やおつけもちと呼び分ける例が多い。
有職料理
有職料理のひとつとして、焼き餅をそえた吸物がある。ここでは雑煮とはせず吸物とされている。
初出
室町時代に書かれた『鈴鹿家記』に初めて「雑煮」という言葉が登場する。これ以前の名称ないし形態については諸説あり、うち1つの名前は、烹雑(ほうぞう)といわれる。
武家社会における儀礼料理説
雑煮を元来は武家社会における料理であり、餅や野菜、乾燥食品などを一緒に煮込んだ野戦料理だったのではないかと考える説。この説によれば、正月に餅料理を食する慣習は古代より「歯固」の儀式と結び付いた形で存在しており、それと関連して発生した。雑煮は元は烹雑(ほうぞう)と呼ばれており、この料理が次第に武家社会において儀礼化していき、やがて一般庶民に普及したものとみられる。雑煮については、武家での儀礼である式三献での料理であるとする見解がある。しかし、室町将軍の御成記や武家故実書によれば、式三献は主殿(寝殿)で行われ、その後、会所に移り、ここで改めて初献から三献までの三献が出された後、五の膳もしくは七の膳までが据えられる膳部となり、さらに四献以下の献部となることがわかる。そして、この式三献では、初献に海月・梅干・打鮑、二献に鯉のうちみ(刺身)、三献にはわたいりが出されることが通例であるが、これらには箸をつけず、実際に食されることはない。一方、会所に席を移しての初献には、雑煮や五種の削り物が出されることが常である。つまり、雑煮は、式三献ではなく、これとは別の三献のうちの初献に出されるものであるということになる。
江戸時代、尾張藩を中心とした東海地方の諸藩では、武家の雑煮には餅菜(正月菜)と呼ばれる小松菜に近い在来の菜類(あいちの伝統野菜)のみを具とした。餅と菜を一緒に取り上げて食べるのが習わしで、「名(=菜)を持ち(=餅)上げる」という縁起担ぎだったという。なお、上記の習わしが武家社会一般の作法だったという説は、誤伝による俗説である(この影響もあり、現在でも名古屋市周辺では餅と餅菜のみの雑煮が見られる)。
民俗学による説明
一日は夕方から始まるとする考えがあり、元旦は大晦日の夕方から始まるとされていた。大晦日の夕方に神仏に供えた餅や飯を日の出後に降ろして、具を加えて煮た物が雑煮のルーツとされている。
畑作農耕社会における雑煮
近世以前においては、「餅なし正月」と呼ばれる、正月三箇日に餅を神仏に供えたり食することを禁忌とする風習が、畑作地帯を中心として広く存在していた。畑作地帯とは、水田を作るには不適当であったため、米以外の作物で定畑や焼畑を行っていた地域である。これらの地域では、米およびそれを原料とする餅は自己の土地からは生み出されない外来の食物であり、神仏に土地の豊饒を願う儀式の場において、こうした外来の食物を用いることは禁忌であった。畑作地帯では、蕎麦や里芋など自己の土地から産する作物を神仏に捧げ、またこうした食材を主体として雑煮などを作っていた。今日でも「餅を使わない雑煮」を作る地域には、かつてそうした餅食の禁忌があり、その痕跡が存したものではないかとも考えられている。こうした風習に代わって餅を主体とする雑煮が全国的に広がっていく背景には、交通や情報伝達の発達もさることながら、石高制に基づく幕藩制による米の生産への政治的・経済的な圧力が畑作地帯を含めて加えられ、実際に灌漑設備の整備や新田開発によって、こうした地域も米作地帯に転換していった影響が大きいとされている。
構成
雑煮は、餅とその他の「具」、だしと調味料による「つゆ」、盛り付ける「食器」で構成される。

雑煮に入れる餅は地域ごとに差異があり、日本の地方による食習慣の違いを表す例としてよく持ち出される。雑煮に入れる餅は汁に入れる前に焼いて香ばしさを意図したものと、生のまま汁に入れて煮るもの、また四角い餅と丸い餅とに細分される。焼いた四角形の切り餅(角餅)を使う人が一番多い。餅を焼かない地域は、奈良を除く関西地方、広島を除く中国地方が多い。角餅ではなく丸餅を使う地域は、糸魚川静岡構造線から西側(愛知・岐阜・三重・鹿児島は除く)である。北海道・富山・石川・福井は混在している。北海道では丸餅と角餅が混在しているが、これは明治以降に移り住んだ人たちによって全国各地の雑煮が持ち込まれたためであり、現代の北海道では角餅・すまし仕立てに統一される傾向にあるとも言われる。また、丸餅を使っていた関西・中国・四国の地域でも角餅を使う地域が広がっている。一方、「餅を使わない雑煮」を作る地方もあり、里芋や豆腐やすいとんなどが餅の代替となる。こうした雑煮は稲作の盛んでない山間部や島嶼部に残っている。
餅以外の具
代表的なものとして、豆腐類、いも類、鶏肉の切身または肉団子にしたもの・青味(小松菜、ほうれん草)・彩りを添えるための色気(人参、蒲鉾、海老)・香りに柚子、三ツ葉などがあるが、#地方による違いが大きい。
だし
だしの素材も地域によって様々であるが、昆布、鰹節、煮干し、スルメなどが主に使用される。
つゆ
つゆは地域によって色々なものがある。澄まし仕立てが68%と多く、次点は合わせ味噌仕立てであり、関西は白味噌仕立てが多い(全体で12%)。
食器
食器は、漆器の椀が多く使われるが、家庭や地方で様々である。正月に雑煮や御節料理を食べるのに用いる柳などの白木箸を、雑煮箸と呼ぶ。
地方による違い
東日本では角焼き餅を入れたすまし仕立て、西日本では丸餅を茹で味噌仕立てにするのが一般的ではあるが、地方による違いがある。 また土地の特産物を入れるなど、地域ごとに特色がある。明治〜大正に全国各地から移住者が来た北海道では、出身地(地域ごとの集団移住の場合は母村という)の作り方を引き継ぎ、近隣地域や近所の家と異なる雑煮が点在している。
海でとれた魚やその加工品を入れるのは岩手県、富山県など海沿いの各地にある。一方、海から遠い山地では野菜を多く使用する。
岩手県の三陸海岸地方では、醤油仕立ての雑煮にクルミをすり潰して作ったタレを添え、このタレに雑煮餅をつけて食す。
宮城県の仙台雑煮は伊達藩の華やかさを伝え、海の幸と山の幸をふんだんに使った豪華さで有名である。 松島湾で取れたはぜの焼き干しで出汁をとる。大根、人参、牛蒡の千切りを引き菜といい、これを冷凍しておく。昔は寒い冬の夜一晩中屋外に出して凍らせたという。それに凍み豆腐、からとり(里芋の茎を干したもの)、セリ、蒲鉾、はらこ等を入れる。餅は焼いた角餅で、醤油・塩・酒で調味する。
千葉県北部と茨城県の一部の下総雑煮は、角焼き餅を入れたすまし仕立てで、鶏肉、大根、人参、里芋、牛蒡、コンニャク、青菜などを入れ具沢山である。東京の江戸雑煮は、具の種類に椎茸、蒲鉾、鳴門巻きが加わるが、具は少なめで、茹でた小松菜と海苔をのせる。千葉県東部も、角焼き餅を入れたすまし仕立てだが、具は人参と油揚げの細切りを少々入れる程度で、ハバノリをたっぷりかけて食べる。
新潟県の越後雑煮は、鮭の頭や身・イクラに、大根、人参、牛蒡、長ネギ、コンニャク、銀杏などを入れ、切り餅を使った醤油仕立ての雑煮である。また、町おこしのためのイベントを開催する。
長野県の信州雑煮は、塩ブリを入れる。能登の塩ブリが飛騨高山を経て運ばれる。餅を茹でてから、大根、人参、里芋、三つ葉を入れ、味噌仕立てにする。なお、長野県の佐久地方雑煮は、素焼きしたウグイの稚魚とセリと焼角餅を入れ、醤油仕立て。
愛知県の雑煮は、削り節と醤油を合わせたすまし汁に、角餅と青菜(名古屋近辺では「餅菜」と呼ばれる小松菜によく似たもの、豊橋近辺では水菜)を入れて煮たあと削り節をかける。
京都の雑煮は、白味噌仕立てで、丸餅は焼かずに炊いておく。アワビ、ナマコ、大根、親イモ、子イモ、昆布、開き牛蒡を入れる。コンブはヨロコブに通じ、親イモは出世、子イモは子孫繁栄、大根は根を張って安定した生活、開き牛蒡は開運を願っている。材料が溶け込みこってりと甘く、京雑煮独特の味である。
奈良県の雑煮は、白味噌仕立てで、里芋、大根、豆腐を入れて白一色にする家庭と、人参を加えて紅白にする家庭がある。関西の他府県と同様の丸餅であるが、焼いて入れるのは奈良独特である。さらに奈良県の雑煮を特徴付けるのは「きな粉雑煮」である。餅を汁から取り出して別皿のきな粉を絡めて食べる。多くの奈良県民には当たり前の食べ方であるので、例えば、寿司に醤油をつけて食べるのを敢えて「醤油寿司」と言わないのと同様、通常は「きな粉雑煮」とは呼ばず、単に「雑煮」と呼んでいる。
島根や鳥取の一部では、小豆汁に餅を入れた「小豆雑煮」。また出雲の広い範囲ですまし汁に十六島海苔など海苔を載せた雑煮を食べる。
広島では、牡蠣が入る事もある。餅は丸餅で焼かずに茹でる。
徳島県と高知県の県境にある祖谷山では、マイモ(里芋の親芋)と豆腐だけが入ったイリコと昆布の出汁の澄まし汁を食べる。これはこの地では米が育たず餅が貴重品だった事に由来する。また、芋3つの上に、大きく切った豆腐を2つ十文字に重ねて載せるという特徴的な盛り付けをするが、これは平家が戦で刃を交えた様子を表しているといわれ、この見た目から「うちちがえ雑煮」と呼ばれていた。
香川県の一部では、白みそに餡餅入りの雑煮。しかし、食べる県民と食べない県民の比率は半々であり、好みが分かれる。
福岡県とその近隣では、焼きアゴでダシを取り、カツオ菜(高菜の一種)や塩ブリ等が入った博多雑煮を食べる。栗の木の枝の先端だけを削った「栗はい箸」で食べるのが伝統。
長崎県長崎市では、焼きアゴダシのすまし仕立てで、焼いた丸餅、ブリ、鶏肉、蒲鉾、白菜、人参、椎茸、唐人菜(長崎白菜)またはカツオ菜など、具を必ず奇数にして入れる。島原市近隣では具雑煮といって、季節にかかわらず通年食べられる。
熊本県では、鰹と昆布やスルメなどでだしを取り焼かない丸餅を入れ、大根、人参、牛蒡、里芋、椎茸、蒲鉾、三つ葉などが入り肥後野菜の水前寺もやしなども入る。鶏肉かブリ、地域によっては車エビや鯛、牡蠣、蛤などを入れる。
宮崎県では、猪(しし)肉入りの雑煮。
鹿児島県の「さつま雑煮」は焼きエビを出汁取りと具材に使う。
沖縄県には現在も正月に雑煮や餅を食べる風習はなく、祝時の汁物としてはイナムドゥチや中身汁がポピュラーである。しかし同じ琉球文化圏に属する鹿児島県奄美地方においては比較的普及している。 
●お雑煮 3 
お雑煮の由来
お正月に食べるお雑煮の歴史は古く、始まりは平安時代だといわれています。餅は古くから農耕民族である日本人にとって、お祝いごとや特別な「ハレの日」に食べる「ハレ」の食べ物でした。年神様に供えた餅や里芋、にんじん、大根などを、その年の最初に井戸や川から汲んだ「若水」と、新年最初の火で煮込み、元旦に食べたのが始まりといわれています。雑煮の語源は「煮雑ぜ(にまぜ)」で、色々な具材を煮合わせたことからきています。お正月の三が日におせちやお雑煮を食べる際には「祝い箸」という両方の先が細くなったお箸を使いますが、これは取り箸と食い箸の両方に使えるように……というわけではなく、一方を人が使い、もう片方は神様が使う「神人共食」を表したものです。このようにお水や箸にまでこだわりがみられるエピソードからも、雑煮がいかにハレの日の食べ物かがうかがえます。
お餅の入ったお雑煮を正月に食べる意味
お雑煮の具材や味付けは地方によって異なりますが、一つだけ必ず入っているものがお餅です。室町時代には武士の宴会で必ず一番初めに酒の肴として雑煮が振る舞われていましたが、当時は餅の原料となる米は高価なものであったため、庶民のお雑煮には、餅の代わりに里芋が入っているのが一般的だったようです。江戸時代に入り、一般庶民でも餅が簡単に手に入るようになる頃には、味噌や醤油などの味付けや、丸餅と角餅などの東西の違いがあったと考えられています。
汁の味付けについて
関西地方のお雑煮は特に京都が有名です。白味噌仕立てが多く、近畿を除く西日本と関東ではすまし汁仕立てが圧倒的に多いです。個性的なところでは、出雲地方では小豆雑煮と呼ばれるぜんざいのような見た目のお雑煮を食べたり、岩手では「くるみ雑煮」という、クルミを擦ったものに砂糖や醤油で味付けしたタレを添え、お雑煮の餅を付けて食べる二椀セットのお雑煮があります。
餅について
関西では丸餅、関東周辺や寒冷地では角餅が多い傾向にあります。関西では昔から「円満」を意味する縁起物の丸餅が主流ですが、江戸時代、人口が集中していた関東周辺では、ひとつずつ手で丸める丸餅よりも、一度に多く作れる角餅が使われるようになったからと考えられています。また、関ヶ原の戦いの影響で西日本が丸餅、東日本が角餅に分かれたという説もあります。岐阜県、三重県、滋賀県のあたりは同じ県内でも丸餅と角餅が混在しており、境目ならではの面白さかもしれません。また、香川や愛媛ではあんこの入った餅を使用します。さらに、形以外にも焼いて入れるか煮て入れるかの違いも、全体の風味や食感に大きな影響を与える重要なポイントとなっています。
具について
大根やにんじん、ネギなどの一般的な野菜の他にはその土地柄を感じさせる産物が入ります。東北の山菜やキノコ類、新潟の鮭やイクラ、千葉の青海苔、島根の岩海苔やハマグリ、広島の牡蠣などです。武家文化の強い関東では小松菜や鶏肉を入れ「菜鶏」→「名取り」とし、敵の大将の首を取って名乗りをあげるようにとの心意気が感じられ、一方、京都では「人の頭になって過ごせるように」との願いを込め、頭芋(かしらいも)を入れます。
鏡開きしたあとの餅はお雑煮にする?
同じお餅が主役のお正月アイテム、鏡餅ですが、1月11日の鏡開きの後はどうやって食べますか?インターネットで他府県のお雑煮のレシピを検索して作ってみるのも楽しそうですが、三が日のお雑煮続きの後ですから、さすがにもうお雑煮は…という人も多いのではないでしょうか。そこでおすすめの鏡餅のアレンジレシピをご紹介します!…とその前に、鏡開きの決まり事についてまとめてみました。
松の内が明けるまで食べない
鏡餅は年神様へのお供えであると同時に年神様の依り代ですので、神様におかえりいただく松の内が明けるまでは食べてはいけません。
包丁などの刃物を使わない
神様が宿っている鏡餅は包丁を使わずに木槌などで割って使います。最近は、あらかじめ小分けになった餅がケースに入っているのを開けるだけのものもあります。 
●雑煮の歴史と由来 4 
餅には神様の魂が宿る
日本人にとって、古くから餅はハレの日に食べるものでした。特に正月の餅は神(歳神様)が宿るものとして、家の中で一番格の高い床の間に飾られ、形は三種の神器、八咫鏡(やたのかがみ)の形に似ていることから、鏡餅と言われ、丸く形作られます。丸いものというのは望月信仰にもつながっていて、満月になぞらえ、お腹を満たす、生活性を満たすに通じるものでした。
餅の材料はもち米です。日本に最初に伝来した米は、うるち米ではなく、もち米系の品種と言われています。その後、うるち米が一般に広まった後も、うるち米より収穫量が少なく、高価であったもち米は、神に供える特別な食べ物としてふさわしいとされたのでしょう。関東では角餅が一般的ですが、これは関西から丸餅として入ったが、略式として江戸で角型になったと言われています。正月に餅を食べるのは平安時代、宮中で行なわれていた「歯固之儀(はがためのぎ)」が始まりで、その後、餅を入れて、各種の具材を入れた雑煮は、室町時代から食べられていたようです。
なぜ正月に「雑煮」を食べるのか?
雑煮の由来については、いろいろな説がありますが、私の祖父、柳原敏雄の著書『伝承日本料理』(NHK出版)ではこう紹介されています。
『雑煮は餅を主体にした羮で、もとは臓腑を保養するもので「保臓(ほぞう)」、それから「烹雑(ほうぞう)」へと変化したという説があります。また、九州で雑煮を「なおらい煮」とよぶところが多いのは、年越しの夜に神をむかえて行った祭りの直会(なおらい)として供饌の餅を下げ、雑煮を祝った事によると言われています。』(322頁)
昔は温かいものを食べ、お腹を温めることで胃腸などの五臓六腑を健康に保ち、病気にかからないという考え方がありました。このことを臓器を保つという意味で「保臓」(ほぞう、ほうぞう)と呼び、その「臓」が「雑」に転じて「雑煮」になった、と。神様の魂が宿る、縁起物の餅を加えた、温かい汁物を正月に食べることで、1年の無病息災を願ったのです。
温かい汁物のことを昔は「羮(こう・あつもの)」と言っていました。雑煮もこの羮の一種です。平安時代の貴族の食事を調べてみると、冷たい料理が多い。今では温かいものを温かく食べることは当たり前ですが、当時はできなかったのでしょう。羮は体によいご馳走だったのです。
なお、神様に供える鏡餅では、2つの餅を重ねて飾ります。これは奈良東大寺で行なわれる法会「お水取り」がルーツのひとつとされています。平成30年で1,267回目を数え、1回も滞りなく毎年続いている行事です。このお供えの餅を檀供(だんく)というのですが、餅を1,300個以上ついて丸め、高く重ねて十一面観音様にお供えします。その簡易版が、餅を2つ重ねる鏡餅として広まったとも言われています。
全国を回れば、こんなにユニークな雑煮も!
雑煮は地方によってさまざまな特色があり、餅の形も具材も、だしも作り方も違います。私の祖父、柳原敏雄は、日本の郷土料理の研究者でもありました。戦前から日本全国を回って郷土料理を研究していたのです。その中でも、もっとも色濃く地域の特色が出るのが、正月のおせち料理と雑煮でした。私も受け継いで今も研究し続けていますが、その中でも印象に残った雑煮がいくつかありますので紹介しましょう。
東北・岩手県の三陸海岸地方の「くるみ雑煮」。煮干しだしで、焼いた角餅の入る雑煮ですが、変わっているのは餅の食べ方です。ゆでたくるみをすりつぶして作った甘いくるみだれを作り、雑煮の餅をこのたれにつけて食べるのです。
四国・香川県の「あんもち雑煮」。甘いものが贅沢だった時代。和三盆で有名であった高松藩の土地柄を反映させている雑煮です。煮干しだしで白味噌仕立ての雑煮に、甘い小豆あん入りの丸餅を入れます。
九州・長崎の具雑煮。あご(トビウオ)だしのすまし仕立てで、焼いた丸餅。具は鶏肉、かまぼこ、白菜、人参、唐人菜など、必ず奇数(9種や13 種など)入れます。日本の雑煮の中でも、もっとも具だくさんで豪華とされています。具が多く、椀にすべての具が入るように、竹串にまとめて通しておき、一度に椀に入れます。
また、雑煮に青菜を入れるところは日本各地にありますが、食べる時に「名を上げる」という意味で青菜を持ち上げてから食べたり、「名を残す」という意味でわざと青菜だけ残すという風習もあります。武家時代の名残ですね。
徳島の祖谷(いや)地方では、餅を入れない「餅なし雑煮」もあります。干し椎茸でだしをとり醤油で味をととのえたすまし汁。昔は山奥で米があまりとれなかったため、餅の代わりに豆腐や里芋など、土地で採れたものを餅に見立てて入れるのです。
雑煮は地方によって、これほどの違いがありますから、家庭によっても少しずつ違ってくるもの。家によっては、元旦は旦那さんの家の雑煮、次の日は奥さんの実家の雑煮と、違う雑煮を作って食べる家もあるようです。あとは、雑煮を作るその家の奥さんの好みが反映されるでしょうね。たとえば関西なのに、東京出身の奥さんの好みで具や汁がだんだん江戸風になって、子供たちもそっちのほうがおいしいと味方したりして、ハイブリッドになっていくことも。そんなところも雑煮の面白さなんですね。 
●雑煮 5 
雑煮は、年神様にお供えした餅のご利益を頂戴するために、年神様の魂が宿った餅を野菜や鶏肉、魚介などといっしょに煮込んで作る、お正月には欠かせない料理です。地方色も豊かで、また、家庭ごとに我が家の味があるのも特徴です。
雑煮の由来
もともとは正月だけのものではなく、室町時代に武家社会の儀礼的な宴で、本膳料理の前菜として出されたのが始まりです。あわびや里芋、山芋、大豆など健康によいもの7種を入れた煮物で、お酒を飲む前に食べて臓腑を保護・保養する意味があり、「保臓(ほうぞう)」と呼ばれ、「宝雑」「烹雑」と書くこともありました。江戸時代にお餅を入れて雑多なものを煮込む「雑煮」となり、各地にいろいろな雑煮が生まれました。また、雑煮を煮るときは、「若水」を使うのが本来の習わしです。「若水」とは元旦に初めて汲む水のことで、「初水」「福水」ともいい、これを飲むと1年の邪気が祓えるといわれています。昔は家長が井戸や湧水を汲みに行きました。
雑煮の特色
雑煮は地方によっても様々で、材料も作り方も違います。さらに地域や家でも違うので、ひとくくりにすることはできませんが、主として次のような特色があります。
   関西風
地域:京都中心
特徴:白みそ仕立て/丸餅を焼かないで煮る /まったりした甘い味わい
京都文化の影響の強いところは、白みそ仕立てに丸餅が基本。餅が丸いのは、鏡餅を模しているからです。日本海側や山間部が赤みそなのは土地の食文化が融合した例でしょう。
   関東風
地域:関東/中国/九州地方に多い
特徴:しょうゆ仕立てのすまし汁/角餅(切り餅、のし餅)を焼いて入れる/すっきりした味わい
江戸文化の影響の強いところは、すまし汁に焼いた角餅が基本。加えてその土地ならではの具材が入ります。みそを使わないのは、武家社会では「味噌をつける」がしくじるという意味で縁起が悪いから。角餅なのは、丸める手間がかからず合理的で、焼いて膨らみ角が丸くなると解釈します。
関西風・関東風は、関西地方・関東地方という単純なものではなく、その土地の礎を築いた人が京都文化・江戸文化どちらの影響を受けているかが反映されています。全国的にすまし汁が多いのは、参勤交代で地方に江戸文化が伝わったためです。
多彩な雑煮、我が家の味を楽しみましょう
雑煮はとても郷土色豊かな料理で、材料や作り方も千差万別で多彩です。例えば・・・
【島根県】あずきを煮たおしるこのような雑煮
【香川県】あんころ餅を入れた白みそ仕立て
【新潟県】鮭とイクラの親子が入る
【福井県】赤みそ仕立てのかぶら雑煮
【岩手県】クルミだれをつけて食べる  などがあります。
海辺の町では魚が入り、山里では地元の野菜が入ります。香川などで小豆のあんころ餅を入れるのは、せめて正月には稀少な砂糖を食べたいという思いの表れです。地域性ばかりでなく、家によっても雑煮は違います。それは、祖先や親の出身地、結婚した相手の出身地、好みなどが融合して我が家の雑煮になっているからです。あらためて、我が家の雑煮を見なおしてみるのも面白いかもしれませんね。 

 

●七草粥  
●七草粥 1 
七草粥の由来・意味〜人日(じんじつ)の節句
七草粥は正月行事として定着していますが、本来は1月7日の「人日」の日に行われる「人日の節句」の行事で、五節句※のひとつです。
人日とは文字通り "人の日"という意味で、中国の前漢の時代に、元日は鶏、2日は狗(犬)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬、7日は人の日としてそれぞれの占いをたて、8日に穀を占って新年の運勢をみていたことに由来します。さらに唐の時代には、人日の日に「七種菜羹(ななしゅさいのかん/しちしゅのさいこう)」という7種類の若菜を入れた汁物を食べて、無病息災を願うようになりました。羹はあつもの、汁という意味です。また、官吏昇進を1月7日に決めたことから、その日の朝に七種菜羹を食べ、立身出世を願ったといいます。
この風習が奈良時代に日本へ伝わると、年のはじめに若菜を摘んで食べ生命力をいただく「若草摘み」という風習や、7種類の穀物でお粥を作る「七種粥」の風習などと結びつき、「七草粥」に変化していきました。
そして、江戸時代に「人日の節句」(七草の節句)として五節句※のひとつに定められると、人々の間に定着していきました。 ※五節句……江戸幕府が定めた式日で、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽をさします。
また、7日といえば松の内(一般的には1月1日〜1月7日)の最後の日にあたります。七草粥が定着した背景には、お正月のご馳走に疲れた胃腸をいたわり、青菜の不足しがちな冬場の栄養補給をする効用もあり、この日に七草粥を食べることで、新年の無病息災を願うようになりました。
春の七草の意味
では七草粥には何を入れたらいいのでしょう? 一般的に七草粥の七草は「春の七草」をさします。
・芹(せり)……水辺の山菜で香りがよく、食欲が増進。
・薺(なずな)……別称はペンペン草。江戸時代にはポピュラーな食材でした。
・御形(ごぎょう)……別称は母子草で、草餅の元祖。風邪予防や解熱に効果がある。
・繁縷(はこべら)……目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にもなった。
・仏の座(ほとけのざ)……別称はタビラコ。タンポポに似ていて、食物繊維が豊富。
・菘(すずな)……蕪(かぶ)のこと。ビタミンが豊富。
・蘿蔔(すずしろ)……大根(だいこん)のこと。消化を助け、風邪の予防にもなる。
七草粥は七種粥
七草粥は春の七草とは限りません。七草粥のルーツが「七種菜羹」や「七種粥」であるように、もともとは7種類のものであり、春の七草になったのは後世のこと。春の七草に限らず、7種類の野菜を入れて作る地方や、野菜以外の具やお餅を入れて7種類とするところもあります。
春の七草が手に入らなければ、冷蔵庫にあるネギ、ホウレンソウ、ミツバなど、お好きな野菜でOK。できるだけ新鮮な若菜を使うと、自然界から新しい生命力をいただくという本来のコンセプトにマッチします。
七草
芹(せり) / セリ科 1ヶ所に競り合って生えることから、「セリ」と呼ばれるようになった。田んぼや湿地など、水のあるところに自生しています。
薺(なずな) / アブラナ科 ペンペン草のこと。以前は都市部でも空き地によく生えていて、ガイドも子どものころ、ペンペン鳴らせて遊んだ記憶がありますが、最近は、あまり見かけなくなってしまいました。川の土手など、日当たりの良い草地などで見つかる可能性大。
御形(ごぎょう) / キク科 ハハコグサのこと。茎と葉は白い毛に覆われていて、やさしい印象があります。その先につぶつぶと見える黄色い花が咲くのですが、開花時期は4月の下旬頃なので、今の時期は、芽吹いたばかりの葉を手がかりに探してみましょう。
繁縷(はこべら) / なでしこ科 ハコベのこと。これも、ナズナと同様、かつては空き地によく生えていました。小学生のとき、家の近所でたくさん摘んで、学校で飼っていたニワトリのために持っていったことを思い出します。日当たりの良い空き地に、這うようにして生えている白いかわいい花を探してみてください。
仏の座(ほとけのざ) / キク科 タビラコのこと。田や畦などに自生し、葉が田の面に放射状に平らに広がることから「田平」子といわれています。小さなタンポポのようなイメージの草花です。
菘(すずな) / 蕪(かぶ)
蘿蔔(すずしろ) / 大根(だいこん) 
●春の七草と七草粥 2 
春の七草と七草粥の由来
春の七草とは、1月7日の朝にお粥にして食される7つの植物をさします。また、そのお粥を七草粥と呼びます。まずは、なぜこの風習が始まったのかを見ていきましょう。
始まりは中国
この風習の起源は古代中国にさかのぼります。前漢(紀元前206〜8年)の時代、新年に日にちを以下のように、動物や人に見立てた占いが行われていました。
・1月1日… 鶏
・1月2日… 犬
・1月3日… 猪
・1月4日… 羊
・1月5日… 牛
・1月6日… 馬
・1月7日… 人
・1月8日… 穀
唐の時代(618〜907年)になると、人の日(1月7日)に七種菜羹(ななしゅさいのかん)という7つの草や野菜を混ぜた汁物を食べる風習が始まりました。体に良い食材をとることで、無病息災を願ったといいます。また、立身出世への願いも込められていたそうですよ。これは1月7日に昇進の取り決めを行っていたことに由来します。
日本への伝来
この風習は奈良時代に日本に伝わったといわれています。当時、日本ではお正月に若菜を摘んで食べる「若菜摘み」という風習がありました。光孝天皇(830〜887年)はその風習を歌に詠んでいます。「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」 現代語訳にすると、「あなたのために春の野原に出て若菜を摘んでいると、春だというのに着物の袖に雪が降ってきた」といったところでしょう。この歌は百人一首にも入っています。また、1月15日には7種類の穀類をお粥にして食べる習慣もありました。穀類とは、米・粟・稗・黍・ミノ・胡麻・小豆です。平安時代になると、中国の七種菜羹と若菜摘み、7つの穀類を食べる風習が結びつき、現代の「七草粥」の原型になったのです。江戸時代になると、五節句の1つとなる「人日(じんじつ)の節句」が制定されました。五節句とは、宮廷で行われていた1年の節目となる節句のお祝いをさし、他に「桃の節句」「端午の節句」「七夕の節句」「重陽の節句」があります。この名前は、前述した中国の占いの「人の日」に由来します。そのため、江戸幕府は人日の節句の日にちも1月7日としました。この節句が「七草の節句」とも呼ばれるのはそのためです。この正式な制定により、人日の節句に七草粥を食べる風習が一般の人々にも定着するようなっていきました。また、1月7日は「松の内」と呼ばれる期間の最終日にあたります。「松の内」とは1月1日〜1月7日をさし、この間を一般的にお正月とします。お正月はおいしいご馳走を食べる日が続きますよね。七草粥には疲れた胃を休ませる、という目的もあったのです。
七草
この章では、七草の1つ1つの栄養価などを紹介します。七草をすべて合わせると約12種類の薬膳効果があり、含まれるビタミン・ミネラルは約7種類です。健胃効果・食欲増進・利尿作用・二日酔い解消・解熱・去痰・咳止め・気管支炎予防・扁桃腺炎予防・肝臓回復効果・そばかす予防・あかぎれ予防・心の安定効果などが期待されています。食べ過ぎやすいお正月という時期、または冬という風邪の多い季節にはうってつけの食材というわけです。また、なぜこの7つが「春の七草」となっているのかはさだかではありません。ただ、1つ1つにはとても縁起の良い意味が込められています。
セリ
セリ(芹)は、別名シロネグサとも呼ばれるセリ科の植物です。競り合うように生えていることから、この名がつきました。この名前に「競り勝つ」という意味をかけて、縁起物にされている食材です。独特の香りが食欲を刺激する効果があり、しかも栄養価が高いのも特徴です。血液をきれいに保ち、高血圧や動脈硬化の抑制にも作用します。さらには胃腸の調子を整えるという整腸効果も持っているという、まさにスーパー食材なのです。ビタミンA、ビタミンC、カルシウム、リン、カリウムが含まれる食材なので、積極的に食べたいですね。あえ物やおひたしにしてもいいですよ。
ナズナ
ナズナ(薺)は、麦栽培の伝来とともに日本に伝わったとされる史前帰化植物です。ナズナはぺんぺん草とも呼ばれています。花の下についている果物の形が、三味線のばち(弦楽器の弦をはじくための道具)に似ていることが、この呼び名に由来します。よく道端に生えているので、「ただの雑草」と思っている人も多いはず。でも実は、「なでて汚れをはらう」とされる縁起の良い食材なんですよ。古くから民間療法で用いられてきた植物でもあり、高血圧・解熱・便秘・利尿・解熱・止血作用に効果があるといわれています。特にビタミンKが豊富に含まれ、骨粗しょう症の改善効果が期待されています。煎じた汁で洗眼すると目の充血や痛みを和らげる効果があるともされています。
ゴギョウ
ゴギョウ(御形)はハハコグサとも呼ばれるキク科の植物です。朝鮮半島から伝わったとされています。「仏体」を表す縁起物とされています。明治時代ごろまで草餅の食材として利用されていました。茶にして飲むこともあり、咳止め・痰きり・喉の炎症・利尿・むくみに効果があるとされています。
ハコベラ
ハコベラ(繁縷)は、ハコベとも呼ばれるナデシコ科の植物です。「繁栄がはびこる」として、縁起のよい植物とされています。中国では古くから薬草として使われていました。効能は七草の中でも多く、利尿作用・止血作用・鎮痛作用をはじめ、歯槽膿漏の予防薬として使用されてきた歴史があります。ビタミンB群やビタミンC、カルシウム、カリウムに加え、カロテノイドやフラボノイド、サポニンが含まれる非常に栄養素の豊富な薬草です.
ホトケノザ
ホトケノザ(仏の座)は、正式名をコオニタビラコ(小鬼田平子)といい、キク科の植物です。まさに名前から縁起物であることが伝わりますね。効能として、健胃・整腸作用、高血圧予防などがあるとされています。食べ方としては塩ゆでした後に流水にさらし、苦みなどを取り除いてから使用します。しょうゆの炒め物や天ぷら、山椒を効かせた佃煮にも調理されています。また、シソ科でホトケノザという植物もありますが、これは全くの別ものです。キク科のホトケノザは黄色い花を咲かせるのに対し、シソ科のホトケノザはピンクの花を咲かせるので、見た目も異なります。なお、シソ科のホトケノザは食べられません。
スズナ
スズナ(菘・鈴菜)の正式名はカブ(蕪)で、アブラナ科の植物です。スズナは「神を呼ぶ鈴」として縁起物とされてきました。これは現在で一般的に食されているカブのことです。古代中国やギリシャの史料にも登場し、古くから人々に食されていました。カブは便秘・胃潰瘍・胃炎・風邪・骨粗鬆症・がんの予防に良いとされています。そのため、胃腸の調子が悪いときに食べられてきました。根の部分と葉っぱの部分でそれぞれ効能を持っており、特に葉にはビタミンA、B1、B2、C、カルシウム、鉄、食物繊維が豊富に含まれています。七草粥を作るときは両方入れるとよいでしょう。
スズシロ
スズシロ(晴白・蘿蔔)は、現代では大根としておなじみの食材です。その根は「汚れのない純白さ」を表しているとされ、スズシロと呼ばれるようになったとされます。栄養素としては、ビタミンA、C、食物繊維、ジアスターゼ、アミラーゼ、フラボノイドが含まれ、根と葉両方に栄養が詰まっています。消化不良や二日酔い、頭痛、発熱、冷え性、胃炎、便秘の解消など他にも様々な効能が期待されています。根の部分に特にジアスターゼが多く含まれ、食物の消化を促進してくれます。一方、葉にはビタミンやミネラルが多く含まれているため、両方とも七草粥に入れるといいですね。
七草粥の効果
この章では、七草粥に関する情報を紹介します。七草粥を食べる「人日の節句」は江戸時代に正式な行事と制定されたので、実は調理作法もしっかりあるんですよ。また、前章で七草粥に入れる食材を紹介しましたが、これは地域によって入れるものが異なります。意外と奥深い七草粥の世界をみてみましょう。
調理作法
七草粥は調理に関する際のルールも決まっています。まず、七草を1月6日の夜に用意し、恵方の方角を向きながら包丁で細かく刻みます。刻む際、まな板の上に7つの調理道具(薪・火箸・すりこぎ・杓子・おろし金・菜箸・火吹き竹)を置きます。刻みながら七草囃子という歌を歌います。七草囃子とは「七草なずな 唐土(とうど)の鳥と 日本の鳥と 渡らぬ先に トントントン トントントン」という歌です。ただし、この歌は地域によって歌詞が異なるようです。ちなみに唐土とは、当時の中国をさしています。七草を刻む際は、1種類につき7回ずつたたき、合計49回たたいて刻むのがルールとされています。ただし、この回数も地域によって異なるようです。お粥を作るだけといっても、とても細かい作法があったんですね。このような作法を踏まえて七草粥を作ることで、人々は1年間の無病息災を祈っていました。
地域による違い
七草粥に使われる食材は、2章で紹介したものだけではありません。地域によっては手に入らない七草もあり、それを他の食材で代用しています。例えば、東北地方ではゴボウや大根を入れたお粥がみられます。1月はまだ雪深く七草を摘めないため、他の食材で代用するようになったといわれています。山形県では、1月7日に七草汁を食べる風習があります。これは納豆、こんにゃく、ゴボウ、油揚げなどを入れたもので、一般的に納豆汁と呼ばれています。お米は入れないので、お粥ではありません。ただし、最上川(もがみがわ)流域では、独特の風習もあります。1月7日に握り飯を12個用意し、箕(み:木の川などで作られた農具。穀物をふるいにかけるときに使用する)にのせて柳の箸を刺して飾ります。そのあと、握り飯を野菜や梅干しなどと一緒に煮込み、それを「七草粥」としています。また、九州の一部地域では鶏肉を加えたり、四国では七草をお浸しにしたりして食べる地域もあります。味付けも醤油、味噌、鰹節など地域によって異なり、かなりバリエーション豊富なのがわかりますね。
最後に
春の七草の由来や、七草粥の効果などについて紹介しました。参考になりましたか?風習ときくと、「根拠のない言い伝え」と思う人も少なくないかもしれませんね。でも長く続く風習というものは、何かしらの理由があるもの。七草粥は、それぞれの食材に高い栄養素が含まれ、体によいことを昔の人々は知っていたのですね。まさに先人の知恵が詰まった健康食といえます。体に優しい七草粥を食べて、健康的な1年を過ごしましょう。 
●七草粥 3 
七草粥の由来
先にお伝えいたしますが、春の七草といって七草粥を食べる1月7日は、「人日じんじつの節句」と呼ばれ、五節句のひとつに数えられています。 ※五節句 / 1年に5回ある季節の節目の日(節日)のことで、1月7日(人日)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)を指していいます。
古来日本には、雪の間から芽を出した若菜を摘む「若菜摘み」という風習がありました。
お隣の中国を見てみると、前漢時代に「元旦は鶏、2日は狗(犬)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬、7日は人、8日は穀」と、それぞれを占って新年の運勢を見ると共に、占いの対象となるものを大切に扱っていました。中でも、7日の人の日は、人を大切にする「人日」という節句でした。また唐の時代には、人日の日に七種類の野菜を入れた汁物、「七種菜羹ななしゅさいのかん」を食べて、無病息災を祈りました。
時は流れて、平安時代になると、中国の風習や行事が多く日本に伝わってきます。すると「若菜摘み」と「七種菜羹」の風習が交わって、「七草粥」が食べられるようになりました。江戸時代になると、幕府が「人日の日」を「人日の節句」として五節句の1つに定めます。これによって「1月7日に七草粥を食べる」という風習が、民衆に広がり定着したと言われています。
春の七草の持つ意味と効果
ところで、七草粥の具材になる「春の七草」は、すべてご存知でしょうか?中には、現代で使わなくなった呼び名もあるので、これって何?と思うものがあっても不思議な事ではありません。いい機会なので、覚えてしまいましょう、それぞれの持つ意味と、主な効果も併せてどうぞ。
○芹(せり)=「競り勝つ」 解熱効果や胃を丈夫にする効果、整腸作用、利尿作用、食欲増進、血圧降下作用など、様々な効果があります。
○薺(なずな)=「撫でて汚れを除く」 別名をぺんぺん草といいます。利尿作用や解毒作用、止血作用を持ち、胃腸障害やむくみにも効果があるとされています。
○御形(ごぎょう)=「仏体」 母子草ははこぐさのことです。痰や咳に効果があり、のどの痛みもやわらげてくれます。
○繁縷(はこべら)=「反映がはびこる」 はこべとも呼ばれます。昔から腹痛薬として用いられており、胃炎に効果があります。歯槽膿漏にも効果があります。
○仏の座(ほとけのざ)=「仏の安座」 一般的に、子鬼田平子こおにたびらこを指します。胃を健康にし、食欲増進、歯痛にも効果があります。
○菘(すずな)=「神を呼ぶ鈴」 蕪かぶのことです。胃腸を整え、消化を促進します。しもやけやそばかすにも効果があります。
○蘿蔔(すずしろ)=「汚れのない清白」 大根のことです。風邪予防や美肌効果に優れています。 ※七草粥には、菘と蘿蔔は葉の部分を、薺は花芽を持つ前の若芽を利用します。
このように、七草には体にいい効果がたくさん含まれています。そんな七草を使った七草粥は、飲んだり食べたりで疲れているお正月明けの胃腸にもやさしい食べ物ということが出来ます。 
●七草  
人日の節句(1月7日)の朝に、7種の野草あるいは野菜が入った粥(七草粥)を食べる風習のこと。 元々の「七草」は秋の七草を指し、小正月1月15日のものは「七種」と書く。この七種も「ななくさ」と読み、一般には7日正月のものを七草と書くなど、現在では元々の意味がわからなくなり、風習だけが形式として残った。これらの事から、人日の風習と小正月の風習が混ざり、1月7日に「七草粥」が食べられるようになったと考えられる。
春の七種
よみ・名称 /現在の名称 /科名
せり・芹 セリ セリ科
なずな・薺 ナズナ(ぺんぺん草) アブラナ科
ごぎょう・御形 ハハコグサ(母子草) キク科
はこべら・繁縷 はこべ(繁縷、蘩蔞) ナデシコ科
ほとけのざ・仏の座 コオニタビラコ(小鬼田平子) キク科
すずな・菘 カブ(蕪) アブラナ科
すずしろ・蘿蔔 ダイコン(大根) アブラナ科
(注1)七草として市販されているものに含まれる「はこべら」は一般にコハコベが利用されている。コハコベは明治時代になって日本に入ってきたといわれている。2000年にコハコベは帰化植物とする研究者の見解が地方紙に出され生産農家に混乱が広がったが、コハコベが日本で江戸時代以前に畑などに生育していた可能性も指摘されている。ミドリハコベはもともと日本に生育していた種とされ、春の七草はミドリハコベとする文献もある。
(注2)「仏の座」はシソ科のホトケノザとは別の種。
(注3)すずな、すずしろに関しては異論もあり、辺見 金三郎は『食べられる野草(保育社)』(ISBN 4-586-50134-0)の中で‘すずな’はノビル、‘すずしろ’はヨメナとしている。
文化
この7種の野菜を刻んで入れたかゆを七草がゆといい、邪気を払い万病を除く占いとして食べる。呪術的な意味ばかりでなく、御節料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという効能もある。
七種は、前日の夜にまな板に乗せて囃し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れる。囃し歌は鳥追い歌に由来するものであり、これは七種がゆの行事と、豊作を祈る行事が結び付いたものと考えられている。歌の歌詞は「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、合わせて、バタクサバタクサ」など地方により多少の違いがある。
七種の行事は「子(ね)の日の遊び」とも呼ばれ、正月最初の子の日に野原に出て若菜を摘む風習があった。『枕草子』にも、「七日の若菜を人の六日にもて騒ぎ……」とある。
歴史
古代より日本では、年初に雪の間から芽を出した草を摘む「若菜摘み」という風習があり、これが七草の原点とされる。また六朝時代の中国の「荊楚歳時記」に「人日」(人を殺さない日)である旧暦1月7日に、「七種菜羹」という7種類の野菜を入れた羹(あつもの、とろみのある汁物)を食べて無病を祈る習慣が記載されており、「四季物語」には「七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや」とある。このことから今日行われている七草粥の風習は、中国の「七種菜羹」が日本において日本文化・日本の植生と習合することで生まれたものと考えられている。
日本では古くから七草を食す習慣が行われていたものの、特に古代において「七草」の詳細については記録によって違いが大きい。『延喜式』には餅がゆ(望がゆ)という名称で「七種粥」が登場し、かゆに入れていたのは米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物で、これとは別に一般官人には、米に小豆を入れただけの「御粥」が振舞われていた。この餅がゆは毎年1月15日に行われ、これを食すれば邪気を払えると考えられていた。なお、餅がゆの由来については不明な点が多いが、『小野宮年中行事』には弘仁主水式に既に記載されていたと記され、宇多天皇は自らが寛平年間に民間の風習を取り入れて宮中に導入したと記している(『宇多天皇宸記』寛平2年2月30日条)。この風習は『土佐日記』・『枕草子』にも登場する。
その後、旧暦の正月(現在の1月〜2月初旬ころ)に採れる野菜を入れるようになったが、その種類は諸説あり、また地方によっても異なっていた。現在の7種は、1362年頃に書かれた『河海抄(かかいしょう)』(四辻善成による『源氏物語』の注釈書)の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見とされる(ただし、歌の作者は不詳とされている)。これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりであり、今日における七種類の定義は日本の米作文化が遠因となっている。
江戸時代頃には武家や庶民にも定着し、幕府では公式行事として、将軍以下全ての武士が七種がゆを食べる儀礼を行っていた。
秋の七草
よみ・名称 /現在の名称 /科名
おみなえし・女郎花 オミナエシ オミナエシ科
おばな・尾花 ススキ イネ科
ききょう・桔梗 キキョウ キキョウ科
なでしこ・撫子 カワラナデシコ ナデシコ科
ふじばかま・藤袴 フジバカマ キク科
くず・葛 クズ マメ科
はぎ・萩 ハギ マメ科
山上憶良が詠んだ以下の2首の歌がその由来とされている(2首目は旋頭歌)。
○秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(万葉集・巻八 1537)
○萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花(万葉集・巻八 1538)
「朝貌の花」が何を指すかについては、朝顔、木槿(むくげ)、桔梗、昼顔など諸説あるが、桔梗とする説が最も有力である。
文化
春の七種と違い、秋の七草に直接何かをする行事は特にない。秋の野の花が咲き乱れる野原を「花野」(はなの)といい、花野を散策して短歌や俳句を詠むことが古来より行われていた。秋の七草はそれを摘んだり食べたりするものではなく観賞するためのものであり、ゆえに「秋の七草がゆ」というものも存在しない。なお、それぞれの草花には以下の薬効成分がある。
ハギ:咳止、去痰、胃痛、下痢など。
ススキ:利尿。
クズ:葛根湯として風邪薬に用いられる外、肩こりや神経痛にも効用がある。
ナデシコ:むくみ・高血圧。
オミナエシ:消炎・排膿。
フジバカマ:糖尿病・体のかゆみ。
キキョウ:咳止め、去痰、のどの痛み。
昔の七草
昔の七草とは、上記の「春の七種(はるのななくさ)」や「秋の七草(あきのななくさ)」と異なることを指す。
よみ・名称 /現在の名称 /科名
いね・稲 イネ イネ科
あわ・粟 アワ イネ科
きび・黍、稷 キビ イネ科
ひえ・稗 ヒエ イネ科
ごま・胡麻 ゴマ ゴマ科
あずき・小豆、荅 アズキ マメ科
みの・蓑米、葟 ムツオレグサ イネ科
夏の七草
夏の七草には後述の三種類がある。
1.昭和初期に勧修寺経雄が詠んだ和歌「涼しさは よし い おもだか ひつじぐさ はちす かわほね さぎそうの花」による夏の七草。
よみ・名称 /現在の名称 /科名
よし・葦 ヨシ イネ科
い・藺 イ イグサ科
おもだか・沢瀉 オモダカ オモダカ科
ひつじぐさ・未草 ヒツジグサ スイレン科
はちす・蓮 ハス ハス科
かわほね・河骨 コウホネ スイレン科
さぎそう・鷺草 サギソウ ラン科
2.1945年6月20日、日本学術振興会学術部・野生植物活用研究小委員会が、戦時中の食糧難の時節にも食べられる植物として、以下の7種類を「夏の七草」に選定している。さらに、戦後の1946年9月10日、雑誌と同じ内容のパンフレットが出版された。
よみ・名称 /現在の名称 /科名
あかざ・藜 アカザ アカザ科
いのこづち・猪子槌 イノコヅチ ヒユ科
ひゆ・莧 ヒユ(ハゲイトウ葉鶏頭) ヒユ科
すべりひゆ・滑莧 スベリヒユ スベリヒユ科
しろつめくさ・白詰草 シロツメクサ(クローバー) マメ科
ひめじょおん・姫女菀 ヒメジョオン キク科
つゆくさ・露草 ツユクサ ツユクサ科
3.自然写真家の亀田龍吉の著書「写真でわかる雑草の呼び名事典」にある夏の七草。
よみ・名称 /現在の名称 /科名
ちがや・白茅 チガヤ イネ科
ひるがお・昼顔 ヒルガオ ヒルガオ科
やぶかんぞう・藪萱草 ヤブカンゾウ ススキノキ科
どくだみ・蕺 ドクダミ ドクダミ科
みつば・三葉 ミツバ セリ科
のあざみ・野薊 ノアザミ キク科
つゆくさ・露草 ツユクサ ツユクサ科
冬の七草
冬の七草については諸説あって明確なものはないが、一例として以下のものがある。
冬至の七種(運が倍になるという意味で「ん」が2つ付く食べ物)
・カボチャ(なんきん)
・レンコン(れんこん)
・人参(にんじん)
・銀杏(ぎんなん)
・金柑(きんかん)
・寒天(かんてん)
・うどん(うんどん) 

 

●お屠蘇 
●お屠蘇 1 
屠蘇(とそ)、お屠蘇(おとそ)とは、一年間の邪気を払い長寿を願って正月に呑む縁起物の酒であり風習である。
「屠蘇」とは、「蘇」という悪鬼を屠(ほふ)るという説や、悪鬼を屠り魂を蘇生させるという説など、僅かに異なる解釈がいくつかある。数種の薬草を組み合わせた屠蘇散(とそさん)を赤酒・日本酒・みりんなどに浸して作る。
屠蘇は、通常、屠蘇器(とそき)と呼ばれる酒器揃えによって供される。屠蘇器は、屠蘇散と日本酒・味醂を入れる銚子(ちょうし)、屠蘇を注ぐ盃、重ねた盃をのせる盃台、これらを載せる盆からなる。屠蘇器には、漆器製、陶磁器製、ガラス製など様々な種類がある。
小・中・大の三種の盃を用いて飲むが、「一人これを呑めば一家病無く、一家これを呑めば一里病無し」と言われ、日本の正月の膳などに呑まれる。
元日の朝、年少の者から年長の者への順に頂く。
屠蘇散
屠蘇散の処方は『本草綱目』では赤朮・桂心・防風・菝葜・大黄・鳥頭・赤小豆を挙げている。現在では山椒・細辛・防風・肉桂・乾姜・白朮・桔梗を用いるのが一般的である。人により、健胃の効能があり、初期の風邪にも効くという。時代、地域などによって処方は異なる。
漢方薬と同様、ある人物の胃弱や風邪に効いたからといっても、他者にあてはめるのは危険である。白朮ひとつとっても、むくむほど水分滞留体質の人にはよいが、水分不足体質や水分代謝機能の高い体質の人が飲むと、炎症悪化や血行不良等につながる恐れがある。生薬や屠蘇散の処方に関する専門知識を有する者に、飲用の是非を尋ねることが望まれる。もしくは食用レベルにまで処方量を減らし、薄めることが無難である(疾病に対し医師より処方される医薬品漢方は、煎じ薬換算で=一日分量20g程度。これに対し市販の屠蘇散の一回量は1割程度の2g程度であるため、食用範囲であり、かつ医薬効能は見込めない“気休め”程度である)。
風習
正月に屠蘇を呑む習慣は、中国では唐の時代から確認できるが、現在の中国には見当たらない。 日本では平安時代から確認できる。
「廿九日、大湊にとまれり。くす師ふりはへて屠蘇白散酒加へてもて來たり。志あるに似たり。元日、なほ同じとまりなり。白散をあるもの夜のまとてふなやかたにさしはさめりければ、風に吹きならさせて海に入れてえ飮まずなりぬ。芋し(もカ)あらめも齒固めもなし。かやうの物もなき國なり。求めもおかず。唯おしあゆの口をのみぞ吸ふ。このすふ人々の口を押年魚もし思ふやうあらむや。今日は都のみぞ思ひやらるゝ。「九重の門のしりくめ繩のなよしの頭ひゝら木らいかに」とぞいひあへる。」— 紀貫之「土佐日記」
宮中では、一献目に屠蘇、二献目に白散、三献目は度嶂散を一献ずつ呑むのが決まりであった。貴族は屠蘇か白散のいずれかを用いており、後の室町幕府は白散を、江戸幕府は屠蘇を用いていた。この儀礼はやがて庶民の間にも伝わるようになり、医者が薬代の返礼にと屠蘇散を配るようになった。現在でも、薬店が年末の景品に屠蘇散を配る習慣として残っている。
年末が近くになると一部の薬局・薬店でティーバッグタイプの屠蘇散が販売・もしくは味醂に添付されている場合がある。日本酒・味醂などをコップなどの容器に注ぎ、袋に入った屠蘇散を大晦日の夜に浸けて元旦に頂く(生薬が原料で独特の香りと味がする。好みによって酒類や砂糖などの甘味を調製する)。  
●お屠蘇 2 
お屠蘇の由来と意味は
お正月に無病長寿を願って飲まれるお屠蘇の由来は、「蘇」という悪鬼を屠るという説や、邪を屠り生気を「蘇生」させるという説があります。現代ではお屠蘇を飲むというと、単に日本酒を飲むことを指す場合もありますが、本来、お屠蘇とは「屠蘇散(とそさん)」または「屠蘇延命散」と呼ばれる5〜10種類の材料を配合したようなものを漬け込んだお酒のことで、唐の時代の中国より伝えられ、平安貴族の正月行事に使われていたそうです。江戸時代には一般庶民の口にも入るようになるまで広まりました。
   屠蘇散の中身   原材料 / 説明
白朮(ビャクジュツ) キク科オケラまたはオオバオケラの根
山椒(サンショウ) サンショウの実
桔梗(キキョウ) キキョウの根
肉桂(ニッケイ) ニッケイの樹皮、シナモン
防風(ボウフウ) セリ科ボウフウの根
陳皮(チンピ) みかんの皮
お屠蘇の作り方
現代のお正月では日本酒がそのまま使われることが多いようですが、機会があればご家庭で作ってみてはいかがでしょうか?上記のような原材料を一から用意するのは大変ですが、屠蘇散としてまとまったものが売っているのでそれを使えば簡単に作ることができます。
   用意するもの
屠蘇散ドラッグストアやスーパーなどで1包200円前後で手に入ります。年末に日本酒や本みりんを買うと、屠蘇散が付いてくることもあります。酒お好みの日本酒をご用意ください。本みりん料理用のみりんだと塩分が入っている場合があるので、本みりんを使います。
   作り方とポイント
1.酒と本みりん合計300mlに、屠蘇散を浸します。酒を多くすると辛口な仕上がりに、本みりんの割合が多いと 甘口でまろやかな味わいになります。 素材が勝負。上質な本みりんや日本酒を選ぶことが肝要です。
2.抽出が終わったら屠蘇散を取り出します。屠蘇散の説明書きを参考にし、出来上がり時間から逆算して作り始めてください。 抽出時間が長すぎると、濁ったり沈殿物が出たりすることがあります。 抽出時間は、平均して5時間〜8時間が一般的です。
お屠蘇の作法
   飲む前に済ませておきたいこと
お屠蘇を飲む前には必ず若水(元日の朝に汲んだ、その年初めての水の意)で手を清め、神棚や仏壇を拝み、家族が揃ったら新年のあいさつを済ませます。お屠蘇はおせちを食べる前にいただきます。
   飲み方について
正式には屠蘇器という朱塗りのお銚子と三段重ねの盃でいただくのですが、現代の一般家庭にはなかなか無いものだと思いますので、ご家庭にある酒器の中で一番お正月にふさわしいものをお使いください。
飲むときは家族全員が東の方角を向きます。飲む人の右側から注ぎ、飲む順番は年少者から年長者へと進めていきます。これは若者の活発な生気を年長者が飲み取るという意味合いと、毒見の名残だと言われています。本来は三段重ねの盃で1杯ずつ3回に分けて飲みますが、略式では1つの盃に3回に分けて入れ、3回に分けて飲み干します。
厄年の人は厄年以外の人に厄を祓う力を分けてもらうため、最後に飲みます。
飲むときには、「一人これ飲めば一家苦しみなく、一家これ飲めば一里病なし」と唱えます。
一般的な作法や飲み方は上記の通りですが、地域や各家庭により差があります。 飲む順番については、年長者の英知を若人に分け与えるという意味で、年長者から先に飲む場合もあります。また、三段重ねの盃については、一人で三つとも使うのではなく、大を父親、中を母親、小を子供というように分けて使うこともあります。
未成年がお屠蘇を飲むのはNG?
未成年者飲酒禁止法によるとお屠蘇も雑酒になります。子供用にはアルコールを飛ばしたみりんで作るか、盃を傾け飲んだふりをするだけでも充分です。なにせ「一人これ飲めば一家苦しみなく、一家これ飲めば一里病なし」ですから、飲めなかったとしても大丈夫です。実践することももちろん大切なのですが、お屠蘇の由来や、どういった意味のある伝統行事なのかを伝えてあげることも同じく大切なことです。また、未成年に限らず、年始回りや初詣などに車で出かける予定がある場合は、運転手の方も口をつけずに、飲んだふりをするだけにしておきましょう。
お屠蘇のトリビア
各家庭に井戸があった頃は、お屠蘇を作る際に屠蘇散を絹の赤い三角形の袋に入れて井戸に吊るしてから酒やみりんに浸したそうです。お屠蘇を作った後の屠蘇散も捨てずに保管しておき、松の内が明けてから井戸に投げ入れたといいます。屠蘇散を投げ入れた水を飲むことで、一代の間は無病息災でいられると信じられていました。 
●お屠蘇 3 
お屠蘇の意味と由来
お屠蘇とは、酒やみりんに5〜10種類の生薬を浸け込んだ薬草酒で、一年間の邪気を払い、長寿を願ってお正月にいただく祝い酒です。屠蘇の「屠」は屠(ほふ)る、邪気を払うという意、「蘇」は魂を目覚め蘇らせると解釈し、邪気を払い生気を蘇生させるという意味だと言われています。お正月にお屠蘇を飲む習慣は中国で始まり、平安時代に日本へ伝わったと言われています。嵯峨天皇の頃に宮中正月行事として始められ、江戸時代には一般庶民に広まったそうです。
屠蘇散(お屠蘇の材料)の中身と効能
お屠蘇を作るときに使う薬草を屠蘇散(とそさん)、屠蘇延命散(とそえんめいさん)といい、漢方薬に使われる5〜10種類の生薬が用いられています。一般的によく使われる生薬には、下記のようなものがあります。
・白朮(ビャクジュツ) キク科オケラもしくは、オオバナオケラの根。
・山椒(サンショウ) サンショウの実。
・桔梗(キキョウ) キキョウの根。
・肉桂(ニッケイ) ニッケイの樹皮、シナモン。
・防風(ボウフウ) セリ科ボウフウの根。
無病長寿を願って飲むだけあり、体に良さそうな素材ですね。
お屠蘇の作り方
   準備するもの
・屠蘇散  スーパーやドラッグストアなどで手に入ります。
・日本酒 
・本みりん 料理用みりんではなく、本みりんを使います。
   作り方
1. 日本酒と本みりんを合計300ml程度にし、そこに屠蘇散を浸します。
  日本酒が多いと辛口に、本みりんが多いと甘口になります。お好みで調整してくださいね。
2. 7〜8時間漬け込みます。
3. 屠蘇散を取り出して完成です。
※ 日本酒&みりんの量が多い場合は、屠蘇散を長めに浸します。 ※ あまり長時間浸しすぎると濁ったり沈殿物ができたりすることがあります。様子を見て調節してくださいね。
伝統的なお屠蘇の作法
地域や各家庭によって異なりますが、一般的なお屠蘇の作法をご紹介します。お屠蘇を作るには時間がかかるので、大晦日の夜に屠蘇散を仕込み、元旦に屠蘇散を引き上げます。お屠蘇は、おせちやお雑煮などを食べる前に飲みます。正式には、朱塗りまたは白銀や錫などのお銚子と、朱塗りの三段重ねの盃を使います。ご家庭にない場合は、お正月にふさわしい酒器や、それ以外でも構いません。お屠蘇を飲むときは、若者の精気を年長者に渡すという意味で、年少者から年長者へと盃を順番にすすめます。さらに、東の方角を向いて飲むとよいとする説もあります。また、正月三が日の来客には、初献にお屠蘇をすすめて新年のお祝いの挨拶を交わすのが礼儀とされているそうです。
お屠蘇を飲む際の注意点
お屠蘇はアルコールです。未成年や車を運転する人、お酒が苦手な方は飲むふりにとどめましょう。せっかくのお祝い事なので、口をつける真似事などでお屠蘇の雰囲気を楽しんでくださいね。また、お屠蘇に含まれる生薬の効能は、少量では期待できません。生薬の効能を期待しての暴飲には気をつけてくださいね。  
●お屠蘇 4 
お屠蘇(とそ)の語源
「屠蘇」とは本来、「『蘇』という鬼を屠(ほふ)る(殺す)」ということだと言われています。「屠」には「死」「葬る」という意味があります。また、「邪を屠(ほふ)り、身体を蘇らせる」という意味からこの名がついたという説もあります。 *鬼=邪疫病魔=わるいはやりやまい *邪…風寒暑湿等の外因によって起こる疾病の病原、例えば、寒邪、湿邪
お屠蘇の由来
むかし嵯峨天皇の御代、弘仁年間(今より千百余年以前)、中国の博士・蘇明が和唐使として来朝のとき伝えたもので、天皇四方拝(元旦)の御式後、お酒にこの屠蘇を浸して御用いになりましたのが始まりです。 国民もこれに倣い、元旦に屠蘇を用いると一年中の邪気を除き、家内健康にして幸福を得られるとして、家ごとに必ず屠蘇酒を用いて新年のお祝いの儀式としていました。
お屠蘇の効用
健胃、強壮、咳、風邪、血液浄化、発汗促進などです。当然、酒やみりんにはブドウ糖、必須アミノ酸、ビタミン類も含まれており、さらに適度の天然アルコールは血行を促進させます。これらのことを考えると、お屠蘇は単なる正月の儀礼的な飲み物と言うより、先人達がたどりついた健康のための最高の妙薬と言えます。
お屠蘇の薬味
屠蘇散に調合されている薬草は7〜10数種類(製造元により多少の違いがあるため)。主なものとして、紅花、浜防風、蒼朮、陳皮、桔梗、丁子、山椒、茴香、甘草、桂皮などです。
お屠蘇の作り方
酒、みりん、あるいは酒とみりんを合わせたものをベースにします。(みりんを加えることにより、甘さと口当たりがよくなり、家族全員が飲めるようになる)。
1、用意したお酒やみりん300ml程度に
2、上記の生薬、各0.1〜0.5グラムを大晦日の晩に浸す。(テイーパックに入れる方が良い)
3、テイーパックを元旦に取り出す。
お屠蘇の正しい飲み方
元旦の朝、若水(元旦の早朝に汲んだ水)で身を浄め、初日や神棚、仏壇などを拝んだ後、家族全員が揃って新年の挨拶をし、雑煮の前にお屠蘇を飲みます。その時使用される器は朱塗りまたは白銀や錫などのお銚子と朱塗りの三段重ねの盃です。
飲む順序は一年の無病息災と延命長寿を願うところから、若者の活発な生気にあやかる意味で年少者より順次年長者へと盃をすすめるのが決まりです。また、正月三が日の間の来客者に対しても、まず、初献にお屠蘇をすすめて新年のお祝いの挨拶を交わすのが礼儀です。年々、正月らしさが失われていく現在、私たち日本人が伝えてきたお屠蘇の習慣は、家族の健康と精神的な絆を保つうえで是非、伝えていきたい行事の一つです。ただし、若水で身を浄めることに関しては風邪に注意してください。
寒中、お酒に入れて服用することで身体から邪気を追い払い、長寿を得られると伝えられてきました。
一般的な屠蘇散に入っている生薬
紅花・防風・蒼朮・陳皮・桔梗・丁字・山椒・甘草・桂枝・茴香の10種類です。
○ 紅花(べにばな):赤色の染料として色付けに使われますが、服用することで血行を良くしたり婦人科疾患によく用いられました。
○ 防風:セリ科の植物ですが、中国で使われてきたものは日本には自生していません。日本で同じような効能を持ち合わせているものとして、海岸に自生するセリ科のハマボウフウ(浜防風)を使用してきました。風邪などの邪気をはらって気を巡らせる働きがあります。
○ 蒼朮:はホソバオケラの根を使います。やはり、邪気を追い払い身体の余計な水分を取ると言われています。
○ 陳皮:ミカンの皮ですが、吐き気を止め消化不良を改善するなど、健胃作用があります。
○ 桔梗:痰を取り除き咳を止め、化膿をした時に排膿の目的で使用します。
○ 丁字:西洋でもクローブとして使われ、身体を温めるのに使います。寒い日などホットウイスキーに入れますね。
○ 山椒:ミカン科・サンショウの実の果皮の部分を薬用にします。やはり、お腹を温めて腸の蠕動運動を滑らかにします。昔は虫下しにも使われていました。ウナギを食べる時に振り掛けますね。脂っこいものの消化を助けるのでしょう。
○ 甘草:マメ科の植物ですが、日本には自生しません。味を調えたり甘みをつけたり、解毒や鎮痛に用います。
○ 桂枝:ニッケイの樹皮です。日本産の桂皮は時々お祭りなどで見ますが、気味が弱く八橋などのお菓子に使われます。中国南部、ベトナムに出来ます桂皮は上質で味も強く、桂通桂皮とか江南桂皮と呼ばれて薬に使われます。内臓の動きをよくして新陳代謝を亢進します。最も味のよい桂皮は、スリランカでセイロン桂皮の名前で栽培され収穫されています。
○ 茴香:ハーブの世界ではフェンネルと呼ばれて味付けに使われています。香りがよくて胃腸の働きをよくしますので、芳香性健胃薬として使われています。
 以上10種類の生薬を小さく切り刻んで調合したものが屠蘇散です。
正月で美味しいものをたくさん食べたり、お酒を飲んで胃腸に負担がかかりましたら、屠蘇散を服用してください。お酒に漬けて飲むのもいいですが、お酒を加えたお湯で煎じて服用するのもいいと思います。 

 

●若水 
●若水 1 
新年に初めて汲む水のことで、これを飲むと1年の邪気が祓えるといわれています。別名「初水」「福水」といい、年神様に供えたり、雑煮を作ったり、茶をたてたりします。井戸水や湧水のほか、現代では水道水やペットボトルの水でもOKです。
若水迎え
かつては、正月の準備をする「年男」がする重要な儀式のひとつに「若水迎え」がありました。
元日の早朝 、なるべく遠くへ水をくみに出かけ、途中で人にあっても口を聞いてはいけないとされていました。そうやって汲んできた水を「若水」といい、まずは年神様に供え、あとは1年の邪気払いができるとして雑煮を煮たり、お茶を淹れるのに使ったりしていました。
「年男」とは、お正月の行事を取り仕切る人のことで、昔は家長がこれを務め、 暮れの大掃除、お正月の飾りつけ、年神様への供え物、おせち料理作り、若水迎えなど、お正月全般を取り仕切っていました。
昔の生活では、井戸や湧き水を汲みに行くのが普通ですが、今の生活では、なかなかそうはいきませんので、年神様にお供えする若水も、元日の朝一番の水道水やペットボトルの水を心をこめて汲んでください。 
●若水 2 
往古、立春の日に宮中の主水司から天皇に奉じた水のもとを指した。後に元日の朝に初めて汲む水、井戸から水を汲んで神棚に供えることを指すこととなった。若水をハツミズ、アサミズと呼ぶところも存在する。
若水は邪気を除くと信じられ、神棚に供えた後、その水で年神への供物や家族の食事を作ったり、口を漱いだり茶を立てたりした。
元日の朝早く、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に会っても口をきかない仕来たりであった。若水を汲むのは年男の役目とされたり、その家の女性が汲んだりした。若水を汲む時には「黄金の水を汲みます」など縁起の良い言葉を唱えた。
君津地方では若水汲みは男性の役として女性にはまったく手を触れさせない。盆は女性、正月は男性の役といわれるように、元旦の若水汲みから3ヵ日、あるいは初卯の日までは炊事は男性がやるべきものとし、女性には水に触れさせないようにする所が多かった。  
●若水 3 
元日の早朝にその年初めて汲んだ水のこと。まずは神棚にお供えをし、それから雑煮を煮たり、大福茶をたてるのに用います。この水は、一年の邪気を払ってくれる縁起のよい水とされています。平安時代の宮中では立春の行事でしたが、後に元旦の行事になり、一般に浸透しました。
年頭最初の大事な行事で、若水を汲むのは年男の役目とされていますが、西日本などでは主婦の役割としている地方も多いようです。
若水を汲むことを若水迎えといい、できるだけ遠方に汲みに行くのが良いとされ、途中で人にあっても口を利くのは厳禁でした。水を汲む時は「黄金の水を汲みます」と唱えます。
現在では井戸から飲料水を汲むことはほとんどなくなりましたが、元日の夜明けに名水を汲みに行く方も多くおられるようです。夜明けに名水を汲みに出掛けるのも大変ですね。水道の蛇口にしめ飾りをかけておかれるといいのではないでしょうか。 新しい年を新たな気持ちで迎えるというけじめの意味が大きいと思いますから。
「一番水」「福水」とも呼ばれます。
大福茶 / 若水を沸かして入れたお茶のことで、邪気を払うとされています。煎茶やほうじ茶に梅干や結び昆布を入れます。空也上人ゆかりの六波羅蜜寺では、正月三ヶ日大福茶がふるまわれ、飲めば一年の悪疫から逃れられるといい大勢の参詣者で賑わいます。 
●若水・若水迎え 4 
新年最初にくむ水で「生(せい)」を改める
元日の未明に井戸や小川の水をくむ
元旦に初めてくむ水を「若水(わかみず)」、若水をくみに行くことを「若水迎え」「若水くみ」とよび、この水でお茶を沸かして飲んだり、雑煮をつくるなど煮炊きに使ったりすることで無病息災や長寿、1年の無事を祈る風習が、かつては日本全国に見られました。
元旦の未明、朝まだ暗いうちから井戸や近くの小川へ向かい、新しくおろした桶や柄杓(ひしゃく)で水をくみあげます。多くの場合、これを行うのは年男(正月の神迎えを取り仕切る斎王のことで、その家の主人や長男がつとめる)の役割でしたが、西日本の一部では主婦など女性が行いました。
海辺の地域では、井戸や小川の水ではなく海水をくみあげて神棚に供える例もありました。この場合は「若潮(わかしお)」「若潮迎え」などといいます。
日本の宝をくみあげろ
水をくむ際には水場に供え物をしたうえで言葉を唱えるなど作法が定められているケースもあり、唱えごとには「福どんぶり、徳どんぶり」(井戸で水をくみあげる道具「つるべ」の音から来ているらしい)、「よねくめ、松くめ、日本の宝をくみあげろ」(東京都西多摩)、「(米を供えたのちに)水おばくむまで、米をくむなり」(津軽)、「(柏手をふたつたたいて)ただいま若水をくみにきました。(と唱えてから米を供えて)こがねの水をくみます」といった例が見られました。
若水は若返りをもたらす月の水
この若水迎え、もとは平安時代に宮中で立春の早朝に行われていた儀式ですが、和暦の「わ」の字は、「若水」のわでみたとおり、その背景には、日本古来の月信仰の記憶が横たわっていると考えられます。
満ちては欠け、空からいったん消えたと思えば、またあらわれて再び満ちはじめ……と、消長を繰り返す月の姿に、かつての日本人は生命の死と再生を重ね合わせました。
   天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも
   月夜見(つくよみ)の 持てるをちみず い取り来て
   君に奉(まつ)りて をち得てしかも  (『万葉集』13巻3245)
上に引用した万葉歌では「天へと続く橋がもっと長くあってくれたら、高山ももっと高くあってくれたら、月夜見のもっている若水をとってきて、あなたを若返らせられるのに」といった内容が詠まれていますが、2行目「をちみず」という言葉の「をち」とは若返るという意味の動詞「をつ」の活用形で、「をちみず」とは「若水」をさしています。「月夜見」は月を擬人化したものですから、少なくともこの時代、月には若返りの力をもった水が存在しているという伝承がひとびとに広まっていたことがうかがえ、かつての日本人の月に対するある種の再生信仰が見てとれます。
このことから若水が「月の水」の象徴であり、これを飲むことで若返る、再生を得ることができるという思考がその根底にあったらしいことがわかります。
本来、若水とは若返りの水であり、だからこそ無病息災や長寿をもたらすと考えられたのでしょう。若水をくむとは、いわば「生」を改めること、真新しい「とき」を迎えることであり、正月の神迎えとひもづけられた儀礼といえます。 

 

●祝い箸 
●祝い箸 1 
おせち料理やお雑煮をいただくときは、「祝い箸」を使います。祝い箸は末広がりの八寸(約24センチ)で縁起がよく、「両口箸」「柳箸」「俵箸」とも呼ばれていて、祝い事には欠かせない箸なのです。
祝い箸の由来
「祝い箸」は、両方の先端が細くなっていて、「両口箸」とも呼ばれます。それは、一方は神様用、もう一方を人が使うためで、"神人共食"を意味しています。おせち料理は年神様へお供えし、それを下げていただくもの。新年を祝い、1年の恩恵を授かる意味から年神様と食事を共にするわけです。両方とも使えるからといって、ひっくり返して取り箸にしたりするのはタブーです。その大事な箸がお祝いの席で折れたりするのを忌み嫌うため、丈夫で折れにくい柳の木が使われています。また、柳は水で清められた神聖な木とされ、春一番に芽吹くおめでたい木とされています。そのため「柳箸」ともいわれ、縁起良く「家内喜」と書くこともあります。また、「俵箸」と呼ばれるのは、五穀豊穣を願って米俵を模し、中ほどが太めにできているから。また、「はらみ箸」と呼んで子孫繁栄を表したり、「太箸(たいばし)」と呼ばれることもあります。
祝い箸の使い方
お正月の祝い箸は、大晦日に家長が家族の名前をそれぞれの箸袋に記入し、箸を入れて神棚に供えておくのが習わしです。その箸を元旦に使ったら、自分で清めて(洗って)、松の内(1月7日まで)は同じ箸を使います。美しい箸袋に入った祝い箸もいろいろ市販されていますし、和紙や千代紙などを使って箸袋を自分で手作りしても楽しそうです。 
●祝い箸 2 
お正月のおせちを食べる時や、祝い事に使用する「祝い箸」ですが、お食い初めの時にも使用します。既に用意されている物は使った事はあるけど、そのお箸はどんな理由でお祝いの時に使用されるのか?と考える方もそんなに居ないのではないでしょうか。「お祝いの時にはこのお箸を使う」ぐらいにしか思ってない方もいらっしゃるかと思いますが、割り箸の違う種類、とかではなく「祝い箸」として呼び名が様々あったり、ちゃんと由来があるのです。皆さまは祝い箸と聞いて、イメージがつきますでしょうか?一番身近な行事では新年を迎えるお正月の時に使用している方が多いかと思います。それではお食い初めにも使われる祝い箸の基礎知識を紹介致します。
祝い箸とは?
普通の食器と違い、お祝いの時に用いられる縁起箸で、よく「寿」の文字が入った袋(箸袋)に包まれて用意されているかと思います。祝い箸の呼び名の他にも「両口箸」「丸箸」「俵箸」「柳箸」とも呼ばれ、そのそれぞれに由来があります。お箸の真ん中が太く、両側が細くなっていますが、両側使っていいという訳ではありませんので、注意しましょう。
祝い箸が用いられる主なシーン
皆さまが使用する頻度が高いのは、新年を迎えるお正月の時期が多いかと思いますが、お正月以外にも、お祝いの席で和食を食べる時は使用されています。お正月の三が日のおせち料理や、雑煮を食べる時に使用します。また婚礼の食事の際に用意されている物も祝い箸になります。そしてお食い初めについて調べている方ならご存知かも知れませんが、お食い初めの儀式で赤ちゃんにご飯を食べさせる真似をしますが、そこで使用するのも祝い箸となります。祝い箸には複数の呼び名が存在し、そのそれぞれに意味や願いが込められています。
祝い箸の主な特徴
祝い箸は柳の木から作られているお箸で、長さは24cm(八寸)となっています。この24cmという長さには意味があり、八寸の「八」の漢字が末広がりで縁起がいい事からその縁起をかつぎ24センチ(八寸)になったと言われています。また、箸の両端が細く、真ん中が太くなるように削られているのも特徴です。
祝い箸のいろいろな呼び名と由来
同じお箸でも、呼び名がいくつかあるので、もしかしたら地域や風習によってよく使われてる呼び方が違ったりすることもあるかもしれませんね。そんな呼び名と由来をお伝え致します。
   両口箸
祝い箸の両側の先端が細くなっていることから付いた呼び名です。なぜ両方が細くなっているのかと言うと、片側は人間(自分)が食べるのに使い、もう片方は神様が食べるのに使う為、とされています。これを「神人共食(しんじんきょうしょく)」と呼びます。神様と人が同じ食事を味わうことを言い、昔の方は神様が召し上がったものには特別な力が宿ると考えていたり、神様に捧げたお供えを人がいただき、ご利益を得ようとする考え方を指します。
   柳箸
祝い箸は主に柳の木が使われている為、そこから付いた呼び名です。
祝い箸に柳の木が用いられる理由 / 柳の木は立春の後、春一番に芽吹く為におめでたい木とされていたり、お祝いの席でお箸が折れると縁起が悪く、柳は水分を多く含みしなやかで箸が折れにくく丈夫な事から柳が用いられます。また、柳は邪気を祓うものとされている事からもお祝いに相応しい素材です。「家内喜(やなぎ)」の語呂合わせで縁起を担ぐためとも言われています。
   俵箸
祝い箸の中央のふくらみが米俵に見える為、そこからついた呼び名です。それだけではなく、五穀豊穣(ごこくほうじょう)との願いから俵箸と呼ばれる事もあります。
子孫繁栄を願った呼び名 / 子孫繁栄を願った呼び名はいくつかあり、お箸の見た目から、はらみ箸、腹太箸(はらぶとばし)、太箸と呼ばれます。
祝い箸の正しい使い方と入手方法
普通のお箸にも色々マナーがありますが、祝い箸にも使い方がありますので、ご紹介致します。
   祝い箸の使い方
普通のお箸は真ん中より上の部分を持ちますが、祝い箸の場合は箸の中央部分を持ち、箸先から3cm(一寸)の部分を使って箸先を汚さずに食事をすると言われています。また、大勢で集まる時にお箸をひっくり返して取り箸として使ってしまっている方もいるかもしれませんが、それはマナー違反です。祝い箸も同じで、片側は神様が食べる時に使うとされている為、気をつけましょう。
   お正月に祝い箸を使う場合
正月のおせちに使用する場合は、大晦日の12月31日に家長が箸袋に家族全員の名前を箸袋に記入して、神棚に供えます。神棚の無いお家は鏡餅の近くへお供えします。ただし、家長の物は「主人」と書き、取り分け用の箸には「海山」または「組重」などと書きます。伝統的な習わしでは元旦から松の内(1月7日や15日地域によって違う)まで同じ箸を自分で洗い、使い続けます。処分は自宅でするのではなく、感謝の気持ちを込め、天に返す「お焚き上げ」の際に一緒にしてもらうといいと言われていますので、時期をみて神社に持参してみるのがいいでしょう。
入手方法
百貨店や専門店で購入するのがおすすめです。大きなスーパーでしたら一年中売ってる場合もありますが、いざ用意する時に見つからない場合もありますので、早めに準備しましょう。お食い初めで使用する場合は歯固め石と一緒に神社で授かる事ができる場合もあります。また、お食い初め料理や祝い膳を提供している仕出し屋でも、歯固め石と祝い箸のセットで手に入る場合があります。
お祝いの席で失敗しないように
祝い箸について色々お伝えしましたが、普通のお箸にも色々ルールがありますよね。祝い箸の由来や使い方を知る事で、お祝いの席で間違えた使い方をしないように気をつけましょう。きちんとした作法で食事を食べれば、目上の方から「しっかりしているな」と思われるかもしれませんね。お食い初めの行事やお正月の時、祝い膳を召し上がる時に今年はこの記事を思い出してくださいね。 
●祝い箸 3 
祝い箸とは、祝い膳に用いる箸のことで、お正月や婚礼など晴れの日の席には欠かせない箸です。祝い箸の意味と由来を知っておくことで、きっとお食い初めのお祝いも意義深いものになることでしょう。
祝い箸の形や素材
箸の長さは「末広がりの八寸」(約24cm)で、柳の木で作られており、両端が細くなるように削った丸箸をいいます。「末広がりの八寸」とは、「八」という字が下のほうに向けてしだいに広がっていく末広がりの形をしていることから、日本や中国では幸運の数字とされており、祝い箸は縁起をかつぐ意味でこの長さで作られています。
祝い箸の別称とその由来
祝い箸は「両口箸」「柳箸」「俵箸」とも呼ばれ、それによって様々な意味や由来を持っています。
   両口箸(りょうくちばし)
祝い箸は両端が細くなっていますが、これは片方を人が食べるために使い、もう片方を神様が食べるために使うことを意味していることから両口箸とも呼ばれています。祝い膳には、神様に感謝しお供え物として捧げて、それを人がいただくことでその力やご利益を得る、という意味があります。これを「神人共食(しんじんきょうしょく)」といいます。
   柳箸(やなぎばし)
大事なお祝いの席で、万が一お箸が折れてしまうと縁起がよくありません。そのため、丈夫でしなやかな柳の木を縁起をかついで使うことから、柳箸とも呼ばれています。また、柳の木は水で清められた神聖な木として縁起が良いとされ、白木の香りが邪気を祓うといわれています。
   俵箸(たわらばし)
箸の中央が膨らんでいる形が米俵に見えることから、五穀豊穣を願って俵箸とも呼ばれています。また、子孫繁栄を表す「はらみ箸」や、「太箸(たいばし)」と呼ばれることもあります。
祝い箸はどこで手に入る?
お宮参りでご祈祷していただいた際に、神社によっては祝い箸や歯固め石を授かるところもあります。お店で購入する場合は、箸の専門店や百貨店などで取り扱っていますので、お店の方に聞いてみましょう。また、お正月の時期であればスーパーなどでも取り扱っていることがあります。箸袋のデザインは多種多様ですので、ご自分の好みで自由に選びましょう。
祝い箸の正しい使い方
箸の中央部分を手に持ち、お食事では箸の先から一寸(約3cm)の部分を使うようにしましょう。なお、箸の両端が細くなっていますが、これは片方を神様が食べるために使うためのものですので、間違っても箸の向きを変えて取り箸として使うことは避けましょう。
   お正月にあわせて祝い箸を使うとき
お食い初めをお正月と合わせて行うときは、祝い箸の箸袋に家族の名前を書いてから大晦日に神棚に供えておき、元旦から松の内(1月7日までの松飾りを飾る期間のこと)の間は自分の祝い箸をきれいに洗って使い続けるというのが正しい使い方です。使い終えた箸は、小正月(1月15日)に神社で行われる「どんど焼き」「お焚き上げ」などの火祭で、お正月飾りと共に燃やしてもらうのが正式とされています。 
●祝い箸 4 
おせち料理やお雑煮を食べる時には、慶事用の「祝い箸(いわいばし)」というものを使うのが日本の風習となっています。どうしておせちやお雑煮を食べるときに、普段使っているお箸ではなく「祝い箸」を使うのかというのは、その由来を知ることで理解出来るでしょう。まず、基本的な祝い箸というのは「末広がり」で八寸(約24cm)という長さであり、縁起をかついだ形をしています。そして祝い箸は、両口箸、柳箸、俵箸とも呼ばれることがありますが、それぞれの名前によっていろんな意味や由来を持っています。
両口箸(りょうくちばし)
両口箸というのは、先端と持ち手側の両方が細くなっているお箸で、片方は人が食べるために使うもの、もう片方は神様が食べるために使うもので、神人共食(しんじんきょうしょく)という意味をあらわしています。おせちやお雑煮などのお正月の祝い膳というのは、ただ人間がお祝いで食べるということだけではなく、無事に新年を迎えられたことへの神様への感謝のお供え物という意味もあるのです。そのお供えを分かち合って食べることで、素晴らしい年になるようにという願いが込められているのです。ですから、両口箸を使って、神様と食事を共にするのですね。
柳箸(やなぎばし)
と呼ばれるのは、その名のとおり柳で出来ている祝い箸だからです。お祝いの席というのは、何かものが壊れたりすると縁起が悪いので、どんなものでも出来る限り強靭なものを使います。柳箸も同様で、折れたりしないように、丈夫で折れにくい柳の木を使って作られています。折れにくいところから、縁起がよいとされています。
俵箸(たわらばし)
俵箸と呼ばれる由縁は、先端と持ち手の間が太目にできている(つまり、箸の中央の部分がふくらんでいる)からです。これは、豊作を祈って祝い箸に米俵を模したものですが、子孫繁栄を表しているとも捉えられることから「はらみ箸」や「太箸(たいばし)」と呼ばれることもあります。
祝い箸の使い方
お正月などのお祝いの席では、必ずといっていいほど使う「祝い箸」ですが、たまに間違った使い方をしてしまう方がいるようです。祝い箸というのは、普通のお箸と形状が異なっているだけではなく、使い方も違うものなのです。お祝いの席で恥をかかないためにも、せっかくのお祝いの雰囲気を壊さないためにも、正しい使い方を学んでおきましょう。おせち料理を食べるための祝い箸には、家族の名前がそれぞれのお箸袋に書かれています。それを大晦日に神棚に供えておき、元旦から使い始めるというのが昔からの風習です。まず、間違ってはいけないことのひとつが、この祝い箸というのは、割り箸などのように使い捨てにするものではないということです。使うたびに自分で洗って、松の内の間は自分の祝い箸を使い続ける、というのが基本的な「正しい」使い方になります。
両端が細くなっている理由
また、祝い箸というのは、先端も持ち手の方も両細りになっている形状をしていますが、これにもちゃんとした理由があります。日本人は、通常のお箸を使って大皿料理などを食べるときに、お箸の持ち手側の方を使って料理を取ったりすることがあるのですが、祝い箸を使うときでも同じように、片方は食べる用、片方は取り箸として使ってしまう方がいます。しかし、これは大きな間違いであって、先端と同じように祝い箸の持ち手側が細くなっているのは、料理を取り分けるためにそうなっているのではありません。もう片方(持ち手側)は、神様が使うために細くなっているのです。お正月というのは年神様が来ると言われていて、その年神様と一緒に、おせち料理やお雑煮を食べるために祝い箸を使うのです。神様と共に食事をすることで、神様のご加護を受けたり、神様と喜びを分かち合うというのが、祝い箸を使う最大の理由のひとつなのです。 

 

●お節・諸話
●お節料理
梅干し
梅干しの皺を老人の肌に見立てて、長寿への願い。また、梅の木は長寿であることも理由の1つ。
海老(えび)
髭をはやし腰が曲がった姿から「長生きの象徴」とされ、海老のように腰が曲がる年まで共に長生き出来るようにとの願いが込められています。
海老は腰が曲がるまで丈夫という長寿の願いが込められ、赤色は魔よけの色とも言われているから。魔よけとは別に朱色の晴れやかさから祝肴に使われるという説もあり。
華やかな色合いのえびは、おせち料理には欠かせない食材です。 豪華な見た目はもちろんのこと、えびに込められた意味も新年を迎えるのにふさわしいとされています。えびは漢字で「海老」と書くように、長いひげや体の曲がった様子が老人に例えられ、長寿の象徴だとされてきました。そのため、新しい1年を健康で過ごし、腰が曲がるまで長生きできますようにという願いを込めて、おせち料理の食材として使われているのです。
エビは腰を曲げているように見える姿から、腰が曲がるまで長生きできますようにと長寿を願う食べ物です。また、身の色が赤く美しいため、縁起物や魔除けとしての意味も含まれています。
お多福豆
文字通り福が多からんことを祈願した。
見た目がふっくらとしていて、おたふくの顔に似ていることから「お多福豆」と呼ばれています。その名の通り、たくさんの福を運んでくれる食べ物として、おせち料理はもちろん、お祝いの席でもよく使われています。
数の子(かずのこ)
にしんの卵である「子沢山」の数の子は、子供が沢山生れて家系がますます栄えるようにとの願いが込められています。にしんのことを「かど」とも言ったようで、その「かどの子」がいつしか数の子になったとも言われています。
数の子はニシンの卵のことです。ニシンは漢字で「二親」と当てることができ、非常に多くの卵を持つことから、「たくさんの子に恵まれますように」「我が家が代々栄えますように」と願っておせち料理に使われています。 数の子は定番中の定番のおせち料理で、地域差なく使われる具材として知られています。子宝や子孫繫栄のいわれがある縁起物として食べるのはもちろんのこと、塩気のある味はお酒にも相性がぴったりです。干し数の子と塩数の子の違い / 数の子は、干し数の子と塩数の子の2種類あります。干し数の子は、かちかちになるまでしっかりと天日干しされた数の子のことで、現代のように冷蔵庫がなかった時代に、よく使われていました。食べるときには米のとぎ汁に2〜3日浸けて戻します。戻すのに手間がかかることや製造コストが高いこともあって、現代ではなかなか選ばれなくなっています。一方、塩数の子は干さずに塩漬けしたもので、近代になってから普及しました。1日程度水に浸けて塩を抜けば食べることができ、干し数の子よりも手軽で調理もしやすく、安価に手に入るため、今ではほとんどの家庭で塩数の子が選ばれています。祝い肴とは? / 祝い肴とは、おせち料理のなかでも代表的な具材三種のことで、他のお祝い料理よりも最初に食べるのが習わしです。中身は、関東では「黒豆」「数の子」「田作り」、関西では「黒豆もしくは田作り」「数の子」「たたきごぼう」が選ばれます。数の子は関東・関西どちらの祝い肴にも含まれる具材で、お正月にはなくてはならないものとして重宝されています。手作りのおせち料理にチャレンジしようと考えているなら、数の子の使い方と味付け方法はしっかりとマスターしておきましょう。
ニシンの卵である数の子は、とてもたくさんの卵が付いていることから、子孫繁栄や子宝成就などの願いが込められています。
かちぐり
勝つの意味で縁起がいいから
蕪(かぶ)・菊花かぶ
日本では古くから親しまれてきた野菜。日本のカブの記録は「日本書紀」にまでさかのぼり、蕪青(あおな)という名で記載されています。また古くは「くくたち(茎立)」とも呼ばれていたようです。
菊は日本の国花で、昔から祝い事にもよく使われている花です。菊は邪気を払うといわれており、かぶを菊の花に見立てた「菊花かぶ」には長寿を願うという意味が込められています。
かまぼこ
かまぼこの半月型は「日の出」を表す形として、新年を迎えるのにふさわしい料理のひとつです。紅白かまぼこは見た目も鮮やかで縁起が良く、紅は魔除けや慶びなどを表し、白は神聖さを表しています。
菊花蕪(きっかかぶ)
かぶらを菊の花に似せて切り酢漬けにしたものですが、国花の菊であることから「おめでたの象徴」として正月料理にも用いられています。
金柑(きんかん)
金柑を宝物の「金冠」という字に当てはめて書き、きんとんと同様に財宝が貯まることを意味し、豊かな生活が送れるようにとの願いが込められています。
きんかんは「金冠」とも読めることから、金や宝などの財宝を意味しています。お正月に食べることで、生活の豊かさや金運を呼び込むという意味が込められています。
金平ごぼう(きんぴらごぼう)
怪力無双の豪傑の坂田金平*にちなんで強さや丈夫さを願って。*坂田金平と金平ごぼうの余談 / 金平ごぼうは江戸初期に誕生したごぼう料理ですが、当時、金太郎で有名な坂田の金時の息子といわれる坂田金平(きんぴら)の武勇伝が浄瑠璃で大ヒットしていた。その怪力無双の豪傑金平にちなんで、この滋養たっぷりのごぼう料理を金平ごぼうと呼ぶようになった。そこで強さや丈夫さを願って金平ごぼうがおせち料理に採用されたわけですね。(坂田金平は実在せず浄瑠璃上の架空の人物といわれている)
黒豆(くろまめ)
丈夫で健康に暮らせることを「まめに暮らす」ということから、家族揃って今年1年も無事に過ごせるように、また元気で働けますようにという願いが込められています。
「まめ」とは何事にも精を出すことや、体が丈夫なことを指す言葉です。そこから、黒豆にはまめに働き、1年元気に過ごせるようにという意味が込められています。 地域によって、わざとシワの寄るように黒豆を煮ることで、シワが出来るほど長生きできるようにと長寿の意味もあります。また、黒は魔除けの色とされ、1年の災いを祓うともいわれています。
栗金団(くりきんとん)
「きんとん」を金を集めたものという意味の「金団」と当て字して、財宝が貯まることを意味し、豊かな生活が送れるようにとの願いが込められています。元々は芋を用いて「きんとん」と称していたものを、明治中期以降には栗を用いるようになって「栗きんとん」と称するようになったようです。
きんとんは「金団」と書き、その色から黄金にみたてて財産を現し、富を得る縁起物とされている。今年も豊かでありますようにという願いをこめて。
栗きんとんの「きんとん(金団)」には金色の団子や座布団という意味があります。そこから転じて、栗きんとんは金銀財宝を連想させる縁起物として、昔から食べられてきました。特に、おめでたいお正月に栗きんとんを食べると、勝負運や金運などが上がり、商売繁盛が叶うと考えられています。
栗きんとんの「きんとん」は漢字にすると「金団」とも書き、お金や財宝、金の小判などを連想させる食べ物です。商売繁盛や金運を呼び寄せるという意味が込められています。
くわい
大きな芽が出ることから「めでたい」、芽が出る=出世を祈願。
くわいとは冬野菜のひとつで、大きな芽が出ることから出世の願いが込められています。また、「芽が出る」と「めでたい」をかけて縁起物としても用いられています。
くわいはおせちでしか見たことがないという人も多いと思いますが、冬野菜のひとつで「畑のくり」とも呼ばれています。くわいの形を見るとわかるように、大きな芽が出るので「めでたい」とかけて縁起物としてや出世などの願いが込められています。
紅白なます
お祝の水引きをかたどったもの。平安、平和を願う縁起物です。
紅白かまぼこ
半円形は日の出に似ていることから新たらしい門出にふさわしいから。紅は魔よけ、白は清浄を表す。
昆布巻(こぶまき)
喜ぶに通じ、昆は子孫の意味もあることから、子孫繁栄を願い喜ぶことの象徴とされています。また、「養老昆布」と書いて「よろこぶ」と読んで長寿に通じるなどともいわれ、古い中国では不老長寿の薬としても用いられていたようです。
「よろこぶ」という言葉にかけています。語呂合わせ。
昆布は縁起物として、煮しめや子持ち昆布などの様々なおせち料理に用いられていますが、なかでも欠かせないのは「昆布巻き」です。地域によっても異なりますが、昆布巻きには“にしん”を巻くというご家庭も多いのではないでしょうか。実は、昆布とにしんの組み合わせには、新年のお祝いにぴったりの意味が込められています。家族の健康と繁栄を願う「昆布」 / 昆布は、「よろこぶ」との語呂合わせで、昔から縁起物としておせち料理やお正月の鏡飾りとして用いられてきました。「養老昆布(よろこぶ)」とも書けることから、お祝いの意味の他にも不老長寿の願いが込められています。また、昆布に「子生(こぶ)」という当て字をすることで、子孫繁栄の意味もあると言われています。親に感謝し、命をつなぐ願いを込めた「にしん」 / 江戸時代の頃、北海道にあった松前藩は厳しい冬に採れるにしんを貴重な食料や年貢などに用いていました。お米の代わりとしても使われていたことから、にしんは「魚に非ず」とも言われ、漢字で「鯡」と書くようになりました。また、命を繋いでくれる親のように大切なものだったため、語呂合わせで「二親(にしん)」とも書きます。二親である両親からたくさんの子(数の子)が生まれることから、子宝成就や子孫繁栄の意味も込められています。縁起物の昆布とにしんを合わせた昆布巻きは、両親の末永い健康を願うとともに、子宝に恵まれ、子孫が続いていきますようにというとても深い願いが込められているのです。さらに、にしんの旬は秋から冬にかけての時期です。採れたてで脂の乗ったにしんを干して、身欠きにしんにしたものを昆布巻きに使うことができます。カルシウムやDHAなどの栄養も豊富なので、長寿を願って食べるのにもぴったりです。春を告げる魚とも言われており、新しい一年を迎えるのにふさわしい魚です。
昆布は「よろこぶ」との語呂合わせで、縁起物としてお正月の鏡飾りにも使われています。また昆布を「子生」の字を当て、子宝を願うという意味も込められています。おせち料理では、昆布巻きの他にも結び昆布などが入っています。
牛蒡(ごぼう)
ごぼうは根がしっかり根付く根野菜であることから家の土台がしっかりするようにとか、根気が付くようにとの願いがこめられています。地区産地の栽培種の違いから、東日本では「きんぴら牛蒡」、西日本では「たたき牛蒡」に料理されます。
ごぼうは、地中深くまでしっかりと根を張る野菜のため、そこから転じて家族や家業の土台が安定し、その土地に根を張って末永く繁栄するようにという意味が込められています。また、「たたきごぼう」は豊作を象徴する瑞鳥(ずいちょう)に似ていることから、豊作豊穣の意味も含まれています。
ごぼうは、土の中に根を張る野菜なので、家族の土台がしっかりするようにという意味や、家業がその土地に根付くようにという意味があります。
こんにゃく
真ん中がねじれたこんにゃくは、手綱に似ていることから「手綱こんにゃく」と呼ばれています。その結び目と “縁結び”をかけて、良縁や夫婦円満の縁起物として用いられています。また、武家社会の名残で、手綱を締めるように心を引き締めて、己を戒めるという意味も込められています。
真ん中がねじれた手綱こんにゃくには、手綱を締めるように心を引き締めて己を戒め、戦いに備える心を養うという武家社会のときの意味があります。近年では、結び目があることから、良縁や家庭円満などの縁起物としても食べられています。
里芋(さといも)・八つ頭
一つの親芋から沢山の小芋が収穫出来ることから、子どもが沢山生まれるようにと子孫繁栄の願いが込められています。
里芋は子芋がたくさん付くことから、子宝に恵まれますようにと願って。(八つ頭を使うとサトイモは使わない、どちらか一方のところが多い)
里芋は、種芋にたくさんの子芋が付くことから、子宝に恵まれますようにという願いが込められています。また、里芋の一種である八つ頭は、子宝や子孫繁栄の意味の他にも、「八」に末広がりの意味をかけ、縁起の良い食べ物として使われています。
里芋は、種イモを植えると、子イモがたくさん付くので、子宝に恵まれるようにという願いが込められています。
椎茸
昔は椎茸を採るのが難しく高級品だったため、祝い事や正月などの特別な日に縁起物として用いられてきました。おせちでも様々な料理に使用されており、六角形の形に飾り切りし、亀の甲羅に見立てて使われることも多いです。「鶴は千年、亀は万年」と言うように、亀は長寿の象徴とされており、長生きできるようにとの願いが込められています。
鯛(タイ)・鰤の焼き物
これは祝い事の定番の縁起物でメデタイに通じるから。
出世魚である事から出世を祈願したもの。
鯛は「めでたい」にかけて、お祝いの席では欠かせない縁起物です。姿形も美しく、色も鮮やか、味も良いので、祝い事にはぴったりの魚です。
橙(ダイダイ)
代々に通じる語呂合わせ。子孫が代々繁栄するように。
伊達巻(だてまき)・錦卵
伊達は江戸っ子の気質をいい、巻きとは巻き物のことを指して言った呼び名で、古い時代には書き物・読み物が巻き物になっていたことから、読み書きがしっかり出来る賢い人になれるようにとの願いが込められています。
「伊達」の由来は華やかさ派手さを表す言葉で伊達政宗の派手好きに由来することの他、諸説ある。見た目の豪華さで定番となる。巻物の形は書物に似た形から学問や文化を意味する。学問や習い事の成就を願って。
魚肉のすり身と卵を混ぜて、甘く調味してから焼いて巻いたのが伊達巻です。伊達巻の「伊達」は華やかさや派手さを表す言葉で、その黄色く輝く見た目から「伊達な(派手な)巻き卵」という意味があります。また、見た目が書物に似ていることから学問や文化が身に付くように、反物に似ていることから衣装に困らないように、という願いも込められているといわれています。
伊達巻には様々な説がありますが、元々は長崎で「カステラかまぼこ」と呼ばれていたものが、江戸に伝わった際に「見栄えが良く洒落ている」という意味の「伊達もの」から取って、「伊達(だて)巻」と呼ぶようになったともいわれています。巻物の形をしていることから、学問が成就するようにという意味も込められています。錦卵は黄身と白身の二色が金銀のように鮮やかな料理で、「二色(にしょく)」と「錦(にしき)」が語呂合わせになっているともいわれています。どちらも見た目が美しく、おせちを華やかにしてくれる料理として欠かせません。
田作り(たづくり)・ごまめ
かたくち鰯の小魚を干したもので、古い時代には細切れにしたものを灰に混入して田んぼの土壌改良の肥料として使われたことからこの名が残るが、五穀豊穣を祈願することから用いられた経緯から豊かな生活が送れるようにとの願いが込められています。「五万米」という字に当てはめられて「ごまめ」とも言います。
ごまめや田作りは、片口イワシなどの小魚を干して、醤油などで味付けした料理です。昔は、田んぼの肥料としてイワシを小さく刻んだものを灰に混ぜて使っていたことから、農作物の豊作を願う意味が込められています。
筑前煮(煮しめ)
根菜類と鶏肉などを一緒に煮た筑前煮や煮しめは、家族が仲良く一緒に結ばれるという意味を持っています。煮物に入れる具材にもそれぞれ意味があり、先ほど説明したれんこんや里芋も入っていることが多いです。
ちょろぎ
植物の根をシソ酢で赤く染めたもの。多くの場合、黒豆と共に盛り付けられる。
トコブシ
節句の神饌の一つ。別名「フクダメ」。福が溜まる事を願って。
膾(なます)
紅白色の人参と大根を細切りにして三杯酢で和えたもので、紅白の蒲鉾と同様には、「おめでたい喜びを表わすとされる紅色」と「清浄・神聖を表わすとされる白色」の紅白色が大変めでたい色合わせと言われています。
なますの中でも紅白なますは、めでたい配色でお祝いの水引にも見えることから、縁起の良い食べ物とされています。大根とニンジンはどちらも大地に根を張る野菜なので、家族の土台をしっかりと支えるという意味も含まれています。
ナマコ
形が俵に似ている事から俵子とも呼ばれる。豊作への願い。
錦たまご
おめでたく豪華な錦と卵の白味と黄味をわけて、ニ色でつくった料理の二色(ニシキ)との語呂合わせ。
卵を黄身と白身に分けて裏ごし、甘く味付けをしてから二層に重ねて蒸したのが錦卵です。 錦卵は、黄身と白身の色が金と銀に例えられることから、華やかで美しい錦のようだとしておせち料理に使われています。また、金銀の「二色」と「錦」を語呂合わせしているともいわれます。
人参
梅は、寒い冬から春にかけて他の花々よりも早く咲くことから、古来より縁起物として愛されてきました。そのようなおめでたい梅花の形になぞって人参を飾り切りしたものを「ねじり梅」といい、生活の豊かさを願う意味が込められています。
ぶり
ぶりは稚魚から成魚になるまでに呼び名が変わる出世魚です。そのため、ぶりを食べることで立身出世を願う意味があります。
干し柿
干し柿の皺を老人の肌に見立てて、長寿への願い。また、柿の木は長寿であることも理由の1つ。
八ツ頭
小芋がたくさんつくことから、子宝、子孫繁栄を願って。また、漢字の八に「末広がり」の意味をかけて。
蓮根(れんこん)
蓮根は沢山の穴が開いていることから、先が見える・見通しが良いとして、先をしっかり見通して今年一年を安泰に過ごせるようにしたいとの願いが込められています。
孔が空いていることから遠くが見えるように先見性のある一年を祈願。他にもれんこんには種が多いことから「多産」という意味もあり、縁起がよいとされている。
れんこんやふきは穴が空いていて先が見えることから、将来の見通しがよくなりますようにという意味が込められています。さらに、ふきは「富貴」とも書けることから、生活の豊かさを願う意味があります。
仏教では、仏様のいる極楽浄土の池には蓮の花が咲いているといわれていることから、れんこんはけがれのない植物だと考えられています。また、穴が多く空いているので先がよく見えることから、見通しの良い1年を祈るという意味も込められています。 
●緋のかぶら 
緋のからぶとは
「緋のかぶら」はアブラナ科に属するカブの仲間で正式な品種名は「伊予緋カブ」と言います。ヒカリカブ、聖護院カブが白いのに対して、根の表面と茎が赤いのが特徴です。また飛騨高山、長崎、秋田の赤カブとは異なり、アントシアニンという色素を多く含みます。
<歴史>
ひのかぶらは今から380年余り前(1627年)松山二代藩主に転封された蒲生忠知が、併領していた郷里の近江日野村から原種を取り寄せて栽培させたと言われています。又もう一説では三代藩主・松平走行が伊勢から転封のとき仕えていた日野村の鉄砲鍛冶・岡治兵衛吉定が種子を取り寄せ栽培したのが始まりとも伝えられています。いずれにしましても松山地方では古くから正月の祝勝には欠かせないものとして伝承されている食文化の逸品です。
<伝承・他>
お城山の天守閣が見える所でないと栽培出来ないとか、日招神社の太鼓の音の聞こえる所でないと獲れないとか、正月オセチ料理に初出しをしてカブの赤色が冴えている今年は縁起がよいと喜んだといいます。また松山の名物名所を歌った伊予節にも登場しています。伊予の松山名物名所、三津の朝市、道後の湯、薄墨桜や緋のかぶら
「緋のかぶら漬」の鮮紅色の秘密
カブに含まれている天然シアニンが酢の酸と反応するためで、人工着色ではありません。そして「緋のかぶら漬」を他より群を抜いて赤色に発色させるのは、「みかん王国・愛媛」にふさわしい柑橘の酢。柑橘の酢は香味・色沢の面で大変優れています。もちろん赤カブを柑橘の酢で漬けて漬物にしているのはめずらしいのでは。
「緋のかぶら漬」ができるまで
「緋のかぶら」はお盆過ぎから9月中旬にかけて種まきし、直径7〜10センチになる10月下旬から順次収穫します。漬け込みは11月から本番を迎えます。カブは葉を落とし、一晩水に浸けアクを抜き、5ミリくらいの輪切りにして一週間ほど塩漬けをします。その後、柑橘酢と砂糖、昆布出し等を合わせた中に漬けて熟成させます。カブの中に含まれているアントシアニンが酸に会うと赤くなってきます。じっくり熟成した後、周囲ばかりでなく全体が鮮やかに赤く発色すれば食べ頃です。人工着色では無い事を念のため申し添えます。
緋のかぶら辞典
「緋のかぶら漬」は地元・松山でしか育たないと言われる「伊予緋かぶ」と「ダイダイ酢(主にかぼす)」の組み合わせから生まれます。パリッとした歯ざわり、甘酸っぱい香味。 松山ではおせち料理にはかかせない漬物として、またお茶漬けや酒の肴にと多様に食され親しまれています。緋のかぶらの由来、色の秘密、製造方法や緋のかぶらを歌った「伊予節」や正岡子規の句を紹介・解説しています。ここに来れば、「緋のかぶら」のことが手に取るように分かっていただけるはず・・・。
「緋のかぶら」の由来
寛永四年(1627)松山城主に転封された蒲生忠知は、故郷である近江国日野(現在の滋賀県)も合わせて領有していたため、近江国日野の人々のうち松山に移住する者もありました。その際、「緋のかぶら」の原種である日野の赤カブ(日野菜カブ)が移植されたと言われています。また、忠知が近江国で慣れ親しんだその味が忘れられず、松山に取り寄せて栽培させたのが始まり、とも言われています。他にも忠知に次いで城主となった松平定行のころ、家臣岡治兵衛吉定が出身地の日野からその種子を取り寄せ、栽培に成功したとも言われている。
どちらにせよ「緋のかぶら」の原種は日野菜カブに間違いなさそうです。
近江から移植された日野菜カブは、「湯の町・道後」で温かく丸々と育ち、相当な年月を経て改良を遂げ、現在の「緋のかぶら」が生まれました。
「緋のかぶら」は、その昔、「お城山の天守閣が見える所でないと作れない(松山城が見える畑でないと育たない)」とも言われていたほど、松山の味としてこだわりがあったのです。
「伊予節」と「緋のかぶら」
江戸時代にできたといわれる、愛媛を代表する民謡が「伊予節」です。当時大阪で流行し、江戸へと移っていったと伝えられ、伊予の名物名所が巧みに詠み込まれています。その中にも登場するくらい、「緋のかぶら」は歴史的にも伝統ある野菜なのです。
「正岡子規」と「緋のかぶら」
お膳の上にのっていた「緋のかぶら」の鮮やかな赤色が、お膳の周りまで春色に染めてしまったというような、ほんわりとした情景が浮かび上がってくるよう。子規は他にも 「女ども 赤き蕪(かぶ)を 引いて居る」 という句もあります。「緋のかぶら」は俳人の心をもとりこにする美しさであると言えるでしょう。明治26年3月に愛媛県出身の俳人、正岡子規によって詠まれた句です。
「松村蒼石」と「緋のかぶら」
この句は昭和16年に滋賀県神崎郡五個荘(ごかしょう)町出身の松村蒼石によって詠まれたもの。五個荘町は日野菜カブの生産地である山沿いの日野よりも琵琶湖に近い町です。自身は13歳の時に京都の織物問屋に奉公に出たため、もっぱら、母が話してくれたふるさとの自然や風物についての話が俳句の源になったそう。緋のかぶらを漬けているふるさとの冬の情景、寒さの中でひときわ鮮やかなかぶらの紅色が目に見えるようです。
「緋のかぶら」ってどんなカブ?
「緋のかぶら」はアブラナ科に属するカブの仲間で正式な品種名は「伊予緋カブ」と言います。ヒカリカブ、聖護院カブが白いのに対して、根の表面と茎が赤いのが特徴です。また飛騨高山、長崎、秋田の赤カブとは異なり、アントシアニンという色素を多く含みます。「緋のかぶら」の生育の適温は15度〜20度。寒さには強いのですが、暑さに弱く、主に秋作として栽培されています。水はけが良く、適当に湿気のある砂壤土に良質なものが育ちます。生育期間は70〜80日。
「緋のかぶら漬」の鮮紅色の秘密
カブに含まれている天然シアニンが酢の酸と反応するためで、人工着色ではありません。そして「緋のかぶら漬」を他より群を抜いて赤色に発色させるのは、「みかん王国・愛媛」にふさわしいダイダイ酢。ダイダイ酢は香味・色沢の面で大変優れています。もちろん赤カブをダイダイ酢と合わせて漬物にしているのは愛媛県だけ。「緋のかぶら」の「緋」は緋色(赤の中でも最も鮮やかな色)を表しています。
「緋のかぶら漬」ができるまで
「緋のかぶら」はお盆過ぎから9月中旬にかけて種まきし、直径7〜10センチになる10月下旬から順次収穫します。漬け込みは11月から本番を迎えます。一般的な漬け方は、まず葉を落とし、一晩水につけてアクを抜き、5ミリ厚の輪切りにして、1週間ほど塩漬けにします。そしてダイダイ酢と砂糖を合わせた中に漬けて重しをします。その工程のなかで難しいのは、塩加減、酢加減。そして発色の具合です。塩漬け後の塩抜き、脱水、中漬けの仕方によって甘みと香りが微妙に変わりますから、原料の「緋のかぶら」の出来具合によって経験豊富な職人が調整します。しかし、色の方は人工着色料を使わない天然の発色なのでそうはいきません。カブそのものが気温15度以下の環境で育ったものでないと、色が定着しにくいため、季節が到来しなければ「緋のかぶら」は鮮紅色にはならないのです。いくら冷蔵庫で冷して漬けてもダメ。まさに自然から授かる恵みの色と言えます。 
●おせち料理の歴史 
おせち料理とは?由来や意味について
おせち料理の始まりは、節といわれる季節の変わり目ごとに、豊作を感謝して神様にお供え物をした「節供」に由来しています。お供え物として作物で作った料理が、おせち料理の始まりです。
五節句
五節句の「節」とは、もともとは中国の唐の時代に暦法で定められた季節の変わり目で、邪気を払う日でした。日本では人日(じんじつ)、上巳(じょうし)、端午(たんご)、七夕(しちせき)、重陽(ちょうよう)という節日に、邪気を払う宴会が宮中で催されるようになり、五節句と呼ばれるようになりました。
おせち料理の種類とそれぞれの意味・いわれ
食材・料理        意味
黒豆   邪気を払い、勤勉に働くことや健康で丈夫に過ごせることを願う。
数の子  ニシンの卵である数の子は数が多いことから子孫繁栄を願う。
田作り  片口イワシを撒いて豊作となった田畑があったことから、
     五穀豊穣を願う。
紅白かまぼこ  半月かまぼこは日の出を表す。
     赤は慶び、白は神聖の意味を持つ。
昆布巻  「喜ぶ」にかけて縁起をかつぎ、健康長寿を願う。
伊達巻  しゃれた身なりの伊達者にかまぼこが似ていたことに由来。
     書が巻物にされていたことから、知識が増えることを願う。
栗きんとん黄金色をしていることから財宝にたとえられ、金運を呼ぶ。
煮しめ  土の中で根を張る根菜が中心で、末永い幸せを願う。

おせち料理は、ひとつひとつの料理に意味が込められています。おせち料理の意味については、「おせち料理の意味と種類」で詳しく解説しています。
おせちの歴史
おせち料理は弥生時代に中国から伝わったことに始まり、江戸時代後期に現代に近い形になっています。おせち料理はどのような歴史をたどって、生まれたのでしょうか。
おせち料理のはじまりは弥生時代から
おせち料理の起源は、弥生時代まで遡ります。稲作が縄文時代の終わりに中国から日本に伝来し、弥生時代にかけて広まったことで、狩猟中心の社会から農耕中心の社会へと変わりました。中国から「節」を季節の変わり目とする暦ももたらされ、節ごとに収穫を神様に感謝して、「節供」といわれるお供え物をする風習が生まれたのです。「節供」として供えた作物を料理したものは「御節料理」と呼ばれ、おせち料理のもとになったとされています。
おせちが定着したのは奈良時代から平安時代
弥生時代では風習であったおせち料理が定着したのは、奈良時代から平安時代の時期に、節の儀式が宮中行事として執り行われるようになったことによります。唐の暦法にもとづいた節目の日である節日に、邪気を祓い、不老長寿を願う儀式として「節会(せちえ)」が催され、「御節供(おせちく)」と呼ばれるお祝い料理が振る舞われました。特に、五節句の日に開かれる節会は重要視され、五節会と言われていたといいます。
平安時代に五節会が開かれたのは、1月1日の元日と1月7日の白馬(あおうま)、1月16日の踏歌(とうか)と1月の3回に加えて、5月5日の端午(たんご)、11月の豊明(とよのあかり)に開かれていました。この時代は正月料理という位置づけではなく、五節句のお祝い料理すべてが、「御節供」と呼ばれていました。
おせちがお正月の定番として受け入れられ始めた江戸時代
江戸時代になると、五節句は祝日として定められ、幕府の公式行事として位置付けられました。江戸時代は人日の節句は1月7日、上巳の節句は3月3日、端午の節句は5月5日、七夕の節句は7月7日、重陽の節句は9月9日です。
そして、庶民の間にも「御節供」が民間行事として広まったことで、1年に5回ある節句で豪華な料理がふるまわれるようになっていきました。そして、五節句のうち新年を迎える最も重要な人日の節句の料理が、正月料理として定着しました。山や海の幸がおせち料理に取り入れられるようになり、江戸時代後期になると、現代のように料理一つひとつに意味が込められ、新年を祝うために食べるものとなりました。また、大みそかにおせち料理を作り、お正月に家族揃って食べる風習も生まれています。
また、おせち料理が重箱に詰めるスタイルとして確立したのは、江戸時代末期から明治時代にかけてのことです。重箱は、室町時代にすでに存在していたことが文献から分かっています。江戸時代の初期から中期にあたる寛永から元禄の時代は、酒宴では重箱が用いられていました。しかし、寛永の後の宝永の時代になると、徐々に硯蓋(すずりぶた)といわれる盆状の器が用いられ、おせち料理もお膳に乗っていました。ところが、再び江戸時代末期になって硯蓋が使用されなくなり、おせち料理は重箱に詰めるのが一般的になったのです。
おせちが重箱に詰められるようになった理由はいくつかあり、一つは「箱を重ねる=めでたさを重ねる」という意味によるものです。また、重箱に詰めることで場所をとらない、重箱に入れておくとお客様に振る舞いやすいといった理由も挙げられます。
「おせち」と呼ばれ始めた第二次世界大戦後
おせち料理は江戸時代末期には現代のものに近い形になりましたが、「おせち」と呼ばれるようになったのは、第二次世界大戦後のことです。それまで、おせちは、「食積(くいつみ)」、あるいは、「蓬莱」と呼ばれていました。
おせち料理は家庭で作られるものでしたが、終戦後はデパートで重箱入りのおせちが売り出されるようになりました。「おせち」という名称で売り出されたことが、広く一般的に「おせち」と呼ばれるようになったきっかけです。
現代ではおせち料理は伝統的なものだけではなく、洋風や中華風、和様折衷の料理が盛り込まれるなど、バラエティ豊かな商品が販売されています。有名シェフや有名レストランのプロデュースによる商品など、高級感あふれる商品もあります。また、百貨店やスーパー、ネット販売など、様々な方法でおせちを購入できる時代になりました。夫婦2人世帯など少人数向けの商品も展開されるなど人数や嗜好に合わせて、おせちを買いやすくなっています。また、自分で作ったものと購入したものを組み合わせて、重箱に詰めることも一般的です。
さいごに
おせち料理の歴史を振り返ると、節といわれる季節の変わり目に神様に収穫を感謝する風習の「節供」が起源です。奈良時代から平安時代にかけて「節会」として宮中行事となり、「御節供」が振る舞われ、おせちのもとになりました。そして、江戸時代に五節句が祝日となると、大衆にも民間行事として広まったことで、節句のうち正月料理がおせちとして位置づけられ、現代に近い形に変わっています。
現代では和洋折衷のおせちなどが登場し、おせちは伝統的な料理にとらわれないものとなりつつありますが、これからも時代に合わせて変化していくのかもしれません。  
●おせち料理 
おせちを食べる理由と歴史
おせち料理はいつ頃から食べられるようになったのでしょうか。その歴史は古く、奈良時代の頃まで遡ります。
中国から季節の節目を祝う「節」の文化が伝わると、奈良時代から平安時代にかけて、宮中では季節の節目に「節会(せちえ)」という宴が開かれるようになりました。節会では、節目のお祝いとして特別な料理である「節供(せちく)」が用いられており、それが今のおせちの起源となっています。
江戸時代になると、語呂合わせや縁起物を好む江戸の町人たちの間でこの風習が盛んに行われるようになり、五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)や新年を祝う節句が広く知られるようになりました。
そのなかでも重要だったお正月の料理は、特別に「御節供(おせちく)」と呼ばれ、大衆に広まるにつれて略して「おせち」と呼ばれるようになり、正月料理として定着していったといわれています。
今では、様々な縁起物や願いを込めた食べ物がおせち料理として振る舞われています。
祝い肴とは
ご紹介した料理のなかでも、お正月のおせちに、特に欠かせないのが「祝い肴」です。一般的に関東では「田作り、黒豆、数の子」の3つと餅があればお正月を迎えることができるとされており、3つを総称して「祝い肴三種」と呼ばれています。
田作りには五穀豊穣、黒豆には無病息災、数の子には子孫繁栄や子宝成就などの願いが込められており、お重に詰める際には一番上の重につめて新年を迎えます。 関西では、田作りや黒豆の代わりに、商売繁盛の願いが込められた「たたきごぼう」が祝い肴とする地域もあり、文化や風習の違いによっても地域独特の祝い肴があるのもおせち料理の良いところです。  
 
 
 

 

●大晦日

 

●大晦日 1
1年の最後の日。天保暦(旧暦)など日本の太陰太陽暦では12月30日、または12月29日である。現在のグレゴリオ暦(新暦)では12月31日。翌日は新年(1月1日)である。大つごもりともいう。日本では、年神を迎えることにちなむ行事が行われる。
旧暦では毎月の最終日を晦日(みそか)といった。晦日のうち、年内で最後の晦日、つまり12月(または閏12月)の晦日を大晦日といった。元々“みそ”は“三十”であり、“みそか”は30日の意味だった。ただし、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。後の新暦の12月31日を指すようになった。
大晦日を大つごもりともいった。「つごもり」は、晦日の別名であり、「月隠り(つきごもり)」が転じたものである。
文化
日本における大晦日という慣習は、日本文化に古くからある「歳神様」(としがみさま)、または「歳徳様」(としとくさま)への信仰に基づく儀礼から生じており、これらは歳徳神などとも呼ばれるその年一年間を司る神様である。年の初めから来られるため、「正月様」(しょうがつさま)とも呼ばれ、各年によって来られる方向が異なり、その方角は「恵方」と呼ばれる。この神様は神社のような宗教施設ではなく各家々に訪れると昔から信じられていたため、神様をお迎えし食事を共にしたりするために大晦日から「年籠り」(としごもり)をして(元旦に恵方にある近所の神社へ参拝する恵方詣りをすることもあるが)元旦も家で過ごすことが一般的であった。後に歳神様が家に来られるという観念がほとんど無くなり、一般庶民が正月三が日などに神様に願いを伝えるためにこちらから神社へ参賀する「初詣」を行うようになっているが、そのきっかけは、明治20年代に官公庁から始まった元旦に御真影を拝む「新年拝賀式」と、1891年(明治24年)の「小学校祝日大祭日儀式規定」により元旦に小学校へ登校する「元旦節」などを経て、関西の鉄道会社が正月三が日に(恵方とは無関係な方角の)神社へ初詣を行うというレジャー的な要素を含んだ行事を沿線住民に宣伝しこれが全国にまで広まったことで、年籠りという習慣は次第に失われたとされる。
日本の平安時代に行われていた大晦日の宮廷儀礼の1つに「鬼やらい」とも呼ばれる「追儺」(ついな)がある。年の変わり目という最大の節分において、「鬼」で表現される良くない何かを追い払うために方相氏(ほうそうし)と呼ばれる恐ろしい扮装・いでたちの導士によって執り行われる古い行事であるが、これが後の節分行事に変化したとされる。恐ろしい姿の演者としては、日本の郷土文化として大晦日や旧正月などに「なまはげ」などが行われている。
大晦日の行事
大晦日には、様々な年越しの行事が行われる。年越しの夜のことを除夜(じょや)とも言う。かつては、除夜は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になる、皺が寄るとかいった俗信があった。また、大晦日の伝統的な風習には以下のようなものがある。
   年越し蕎麦(地方によっては他の食事)
   除夜の鐘(108つの煩悩を祓う)
   二年参り(初詣)
   雑煮(古くは、大晦日の夜から一日が始まるため既に新年であり、正月の食事をとる家庭もある)
   お年取り(長野県などで行われるごちそうなどを食べる行事)
神社仏閣や各地方では伝統的な行事が行われ、その他にも年越しを祝うイベントが行われる。また、そういった行事やイベント、初日の出など元旦のイベントの為に移動する人が多いため、鉄道などの交通機関が日常は営業時間外となっている深夜に営業する事もある。  

 

●大晦日 2
一年を締めくくる最後の「晦日」が「大晦日」である
子どもの頃から誰しも使い慣れた言葉であっても、いざ本来の意味や由来を考えてみると意外と知らないものである。周知のとおり「大晦日(おおみそか)」は12月31日を指す言葉であるが、もとは「晦日(みそか)」からきていることはご存知だろうか。
晦日は旧暦の月の動きと大きく関係している。「晦」は月の満ち欠けが変化する様子を表わす言葉の1つで、月が隠れることを意味している。また、晦日は別名「つごもり」とも呼ばれ、同じく“月が隠れる”という意味の「月隠り(つきごもり)」が転じた読みである。
旧暦は月の満ち欠けで暦が決まっていた。新月を1日とし、月が隠れる「晦」の頃がおおよそ30日であったことから、30日を晦日と呼ぶようになったのだ。今でも30歳を“みそじ“ということがあるように、“みそ“がもともと30の読みであることをみるとわかりやすい。ところが新暦に変わると、ひと月が30日(または29日)で終わらず、31日まである月も出てきた。こうして晦日は、月の最終日となることが多かった“30日”という意味から、“月の最終日”という意味に変化したのである。
つまり、実際の日付が30日でなくとも毎月の末日を「晦日」と呼び、晦日の中でも1年を締めくくる12月には大をつけて「大晦日」と呼んでいるのだ。
大晦日は歳神様を迎え入れる準備をし、来訪を待つ日だった
大晦日の歴史はかなり古く、平安時代まで遡る。昔、大晦日は正月に迎え入れる歳神様(としがみさま)をまつるための準備の日であった。歳神様とは、稲の豊作をもたらすとされている神様のことで、農作物が豊かに実り、食べるものに不自由することなく暮らせるようにと、昔から大切に扱われてきた神様である。また、歳神様は各家庭にやってくることから、家を守ってくれる祖先の霊とも考えられていたようだ。
昔は1日が夜から始まって朝に続くとされており、大晦日の日暮れからすでに新年の始まりであった。そのため、大晦日の夜は歳神様を待ち、一晩中寝ずに起きておくという習わしがある。もしうっかり早く寝てしまうと、白髪になる、シワが寄るなどという女性にとっては恐ろしい言い伝えもあったそうだ。
新年を気持ちよく迎えるための大晦日の行事ごと
大切なお客様である歳神様を迎えるにあたって、家の掃除は不可欠である。大掃除は、地域によって異なるが、12月13日から始め大晦日までに終わらせるのが本来の時期だ。ただし12月29日は9という数字が苦に繋がることから縁起が悪いとされていて、掃除をしてはいけない。また、その年最後の掃き掃除のことを「掃き納め」と呼ぶが、元日に掃除をしてしまうとせっかく招いた歳神様を掃き出してしまうことになるため、新年に掃除は行わない。その他にも大晦日には伝統行事があり、身と心を清め新年を迎える準備をする。
   除夜の鐘
大晦日は「除夜」とも呼ばれており、大晦日の夜から1月1日にかけて鳴らす除夜の鐘は今でもよく知られている。鐘を撞く回数は人の煩悩の数を示す108回で、寒空の下で響く鐘の音に誰しも一度は耳を傾けたことがあるように、煩悩を取り去り、正しく清らかな心で新年を迎えることができるようにするものである。
   年の湯
大晦日の夜にお風呂に入ることを「年の湯」と言い、ここでしっかりと一年の垢を落とし、気持ち良く新年を迎える。今と違い、毎日入浴することが当たり前でなかった時代は、大晦日の入浴が特別なものであったに違いない。
   年越し蕎麦
「年越し蕎麦」を食べる習慣は比較的新しく、江戸時代から始まったと言われている。別名「つごもりそば」、「三十日そば」とも呼ばれ、細く長い見た目から長寿や健康を願って食べられるようになった。また、蕎麦の麺は切れやすいことから「一年の災厄を断ち切る」という意味もある。
現在では、一部地域で年越し蕎麦の代わりにうどんが食べられていることもあり、蕎麦、うどんともに、一年のうち12月31日に最も多く購入されている。(総務省統計局「家計簿からみた365日〜日別集計結果より」参照)
いよいよ新年の幕開け。大晦日の夜は家族みんなで祝う時間
昔は新年を迎えると、数え年で1つ年をとっていた。そのため新年に変わる大晦日の夜から、お頭付きの魚や雑煮などの縁起のいい食事を囲んで、一年の無事を感謝し、共に祝いながら家族団欒の時間を過ごしていたそうだ。
このように昔の大晦日は家族全員が集まることが当たり前であったが、今は全国各地でカウントダウンなどのイベントが行われるようになり、友人や恋人と過ごすという人も増えているように思う。しかし、一年の節目となる日だからこそ、今度の大晦日は自宅でゆっくりと過ごしてみてはどうだろうか。家族揃って一年を振り返り、新年の抱負などを語り合うのも、家族の絆を深める良い機会となるはずである。 

 

●大晦日 3
1 1年の最終の日。12月31日。おおつごもり。《季 冬》「―分別ばかり残りけり/許六」。
2 おおつごもり、大年(おおとし)とも。12月の最終日で総決算の日であり、元旦を控えてすべての正月準備を整える。年越しそばを食べ、除夜の鐘を聞く。
3 1年の最後の日を「大晦日〔おおみそか〕」または「大晦〔おおつごもり〕」とも呼びます。「晦日〔みそか〕」とは毎月の末日のことです。一方「晦〔つごも り〕」とは、"月が隠れる日"すなわち「月隠〔つきごもり〕」が訛ったもので、どちらも毎月の末日を指します。"1年の最後の特別な末日"を表すため、末 日を表す2つの言葉のそれぞれ「大」を付けて「大晦日」「大晦」と言います。
4 一年の最後の日。12月31日。おおつごもり。 [季] 冬。
5 ・・・また出雲大社の神幸祭においては、祭りの中心行事である8月14日夜の大国主命の神幸に際して、氏子は早くから門戸を閉じ、謹慎して戸外に出ないことにしている。これら心身ともに謹慎して、全員で神霊を迎えるという行事は、現在大晦日にそのなごりがみられ、以前には一般的におこなわれていたものと推察される。物忌(ものいみ)。・・・西鶴晩年(51歳)の傑作として有名な町人物で、副題に〈大晦日は一日千金〉とある。〈大晦日さだめなき世の定めかな〉と西鶴自身の句にもあるように、1年間の収支決算を迫られる大晦日は世の定めとしてきまってやってくるわけで、この日をどう切りぬけるかは町人にとって死活の問題であった。・・・オオトシ(大年)、トシノヨ(年の夜)などともいう。1年の境目の大晦日の夜のことで、年の改まりに際しての年神祭や年重ねに関する行事がある。古くは1日の境は夕暮れどきにあったといわれるが、年越しの行事も多くは大晦日の夕方から始まる。・・・  

 

●大晦日 4
大晦日の名称の由来・意味
・晦日 / 月の最終日
・大晦日 / 1年の最後の晦日。1年の最後の月の最終日。12月31日。
旧暦において晦日(みそか)は「月の最終日」という意味があり、これは毎月の最終日を指します。そして1年の最後の晦日、つまり1年の最後の月の最終日を大晦日と言います。現在の新暦(太陽暦)において「晦日」という言葉が使われることは殆どありませんが、1年の最後の日「大晦日」が引き続き使われているのです。
晦日の意味
「みそか」は元々「三十日」と書き、月の30番目の日という意味がありました。実際には新暦は1ヶ月が30日だけでなく29日の場合もありますが、その場合は「九日(くにち)みそか」と言います。そして、みそかは「月の最終日」という意味に変化して、現在の新暦において31日であっても晦日と言うのです。
もう一つ重要な意味として、晦日の「晦」という字は「月が隠れる」という意味があります。旧暦の暦法“太陰暦”は月の満ち欠けを1ヶ月の基準としており、毎月1日は新月から始まり、15日あたりで満月を迎えて最終日にはほぼ月が見えなくなります。
このことから旧暦において1ヶ月の最終日を「月が隠れる日」として晦日と言っていたのです。
まとめると、「みそか」には2つの意味があるということです。
・「三十日」=30日
・「晦」=月が隠れる
大晦日の行事の理由
大晦日には特別な行事がありますが、これが行われる理由や意味について解説していきます。大晦日の行事といえば、「除夜の鐘」や「年越しそば」が代表的です。
除夜の鐘の理由
・概要 / 12月31日の年明け前から1月1日の年明け後にまたがる時間帯に寺院の鐘を108回撞く(多くの寺院は年明け前に107回、年明けに1回)
「除夜」という言葉自体には“大晦日の夜”という意味があります。
さらに「除」という言葉について見てみると、除外、除草、除去、掃除、という熟語から、とりのける、はらう、きよめる、というような意味合いがあるのが分かるかと思います。
カレンダーを換えることから「暦を除く夜」、そして大晦日は新年を迎えるために掃除をしたりして清めることから「清める日の夜」として、大晦日の夜を除夜と言うようになったのです。
そして、除夜に撞く鐘だから「除夜の鐘」ということもありますが、人の煩悩を祓い清める目的から“除夜”の鐘と言うのです。
ちなみに鐘を撞く回数の“108”というのには色んな説があります。
一番有名なのが人間の煩悩の数は108あるため、それを一つ一つ祓うために108回鐘を撞くというもの。
他には以下の2つの説も有名です。
・四苦八苦(4989)⇒4×9+8×9=36+72=108
・1年は「12ヶ月」と「二十四節気」と「七十二候」がある⇒12+24+72=108
年越しそばの理由
・概要 / 12月31日の晩、年越しの前にそばを食べる
年越しそばはその名前の通り、年越しの際に食べるそばを指します。
食べるタイミングとしては、多くの家庭では夕食や除夜の鐘が鳴っている時などが大半ですが、地方によっては1月1日に食べるところもあります。
年越しそばを食べる理由についてもいくつか説がありますが、有名なのが以下の2つです。
・麺が細く長い⇒細く長く生きる⇒健康長寿
・他の麺よりも切れやすい⇒1年の災厄を断ち切る
あとがき
日本の行事は大晦日のように旧暦が関係することがあるので、旧暦については知っておくと何かと便利ですね。大晦日の行事についてはあまり興味がない人、特に意味を知らずにやっている人も多いと思いますが、きちんと意味や理由があるので、それを知ると興味深いものです。 

 

●年越しそば  
●年越しそば 1 
大晦日(12月31日)に縁起を担いで食べる蕎麦で、歳末の日本の風物詩ともなっている、日本の文化であり風習である。地域による特色があり、呼び方も晦日蕎麦、大年そば、つごもり蕎麦、運蕎麦、また、大晦日蕎麦、年取り蕎麦、年切り蕎麦、縁切り蕎麦、寿命蕎麦、福蕎麦、思案蕎麦と多くある。
江戸時代には定着した日本の文化であり、ソバは他の麺類よりも切れやすいことから「今年一年の災厄を断ち切る」という意味で、大晦日の晩の年越し前に食べる(#歴史と由来を参照)蕎麦である(地域差もある。後述)。2012年現在、大晦日に年越しそばを食べる人は57.6パーセントにのぼり、風習として深く定着していることが窺える。日本各地に見られる文化であり、地域の特色の現れたさまざまな形式のそばが存在する。
歴史と由来
1814年の大坂繁花風土記には、年越しそばに関する以下のような記述が残っている。
「十二月三十一日 晦日そばとて、皆々そば切をくろふ。当月節分、年越蕎麦とて食す。」「正月十四日 十四日年越とて、節分になぞらへ祝う。この日そば切を食ふ人多し。」
このことから、遅くとも1814年には大坂で年越しそばが、日本の文化として定着していたことが窺える。
さらに年越し蕎麦の起源をさかのぼると、江戸時代中期には商家に月の末日に蕎麦を食べる三十日蕎麦(みそかそば)という習慣があり、これが転じて大晦日だけに行われる年越し蕎麦になったと考えられている。 年越し蕎麦に関する記録は江戸中期ごろまで遡ることができ、その当時の江戸では江戸患い(脚気)が流行しており、「そばを食べている人は脚気にならない」という巷説が江戸での蕎麦の流行を後押しした。
年越し蕎麦に関する伝承としては、年を越してから食べることは縁起がよくないとするものや、蕎麦を残すと新年は金運に恵まれず小遣い銭にも事欠くことになるといったものがある。
1756年(宝暦6年)の眉斧日録には「闇をこねるか大年の蕎麦」と記述されている。明治時代・大正時代の大阪うどんの老舗では、商家でも「年越し蕎麦は注文が殺到した」と記述されている。1812年(文化9年)の旅行記によると、東北や甲信越では正月に祝い蕎麦を打つところもあった。
年越しそばの由来については諸説ある。
○蕎麦は細く長いことから延命・長寿を願ったものであるとする説
   ○そばが細く長いことに由来する年越しそばの長寿延命の意味は、引越し蕎麦の「末永く宜しく」と意味を通じる。
○金銀細工師が金箔を延ばす為にそば粉を用いたとする説
○金銀細工師が金粉銀粉を集める為にそば粉の団子を使用したことから金を集める縁起物であるとする説
○鎌倉時代の謝国明による承天寺の「世直しそば」に由来するという説
○ソバは風雨に叩かれてもその後の晴天で日光を浴びると元気になる事から健康の縁起を担ぐ説
○蕎麦が五臓の毒を取ると信じられていたことに由来するとの説
○蕎麦が切れやすいことから、一年間の苦労や借金を切り捨て翌年に持ち越さないよう願ったという説
○家族の縁が長く続くようにとの意味であるとの説
薬味のネギについては心和らげるという「労ぐ(ねぐ)」の意味、あるいは、神職の「祢宜」の言葉に掛けた語呂合わせであるともいわれる。
「蕎麦(そば)」と「側(そば)」とを掛け、一年の締めくくりである大晦日に家族で蕎麦と共に食卓を囲むことで「来年もソバにいよう」という意味を込めたものとされる説もある。
各地の年越し蕎麦と例外
日本では、一般的に年越しにあたり蕎麦を食べる「年越し蕎麦」が多いが、地方によって違いがある。また、地方によっては違う時期に蕎麦を食べて大晦日の夜は別の料理(鮭や鰯など)を食べる事もある。
うどんの名産地である香川県では「年越しうどん」を食べる家庭が多いが、四国学院大学の調査では年越し蕎麦の43%に対して、年越しうどんを食べる家庭は22%にとどまっている。
年越しそばを食べる理由
1 そばは細く長く伸びることから、縁起がいいという説。寿命を延ばし、家運を伸ばしたいという願いが込められています。こちらが最も有名な説です。
2 そばは切れやすい、ということから、一年の苦労や厄災をきれいさっぱり切り捨てようと食べる、という説。
3 元禄時代の書物『本朝食鑑』にも、そばは健康によい食べ物、といった意味のことが記されています。そこから、そばによって体内を清浄にして新年を迎える、という説。
4 金銀細工師は、飛び散った金銀の粉を集めるときにそば粉を使います。そこから、そばは「金を集める」という縁起で食べるようになった説。
5 鎌倉時代、博多の承天寺にて、年末を越せない町人に「世直しそば」と称してそば餅を振舞うと、その翌年から町人たちに運が向いてきたので、それ以来、大晦日にそばを食べる習慣ができたという説。  
●年越しそば 2 
年越しそばの歴史
その歴史は、鎌倉時代までさかのぼります。鎌倉時代に博多のお寺で年を越せない程貧しい人々に「そば餅」というそば粉で作った餅をふるまいました。すると翌年から、そば餅を食べた人々の運気が上がり、そば餅を食べれば良いことがあるという噂が広がりました。それから毎年食べられる様になり、それが現在でいう年越しそばとなったそうです。もともとお蕎麦は、お寺で精進料理として食べられていましたが、貴族や武士、そして庶民へと広まり、日本全国で食べられる様になったとされています。
年越しそばに込められた意味
そもそも、簡単に作れる料理である「そば」を何故大晦日に食べるのでしょうか?それは、年越しそばには込められた意味があるからなのです。
1.長生きできるように / お蕎麦のように細く長く過ごせる事を願って食べられます。
2.今年の不運を切り捨て、来年を幸運で迎えられる様に / お蕎麦は切れやすいため、今年の苦労や不運を綺麗に切り捨てて、新しい年を迎えるためと言われています。
3.金運が上がりますように / 昔の金銀細工師は、細工で散らかった金や銀を集めるために、そば粉を使っていたと言われています。そのため「そばで金を集める」から金運が上がるとされました。
4.来年も無病息災でありますように / 蕎麦は風雨にさらされても、日光を浴びると再び元気になります。そのためそばのように何度も元気に蘇るようにという願いが込められています。
また、中に入っている具にも大切な意味があります。エビ天は長寿のシンボル、油揚げは商売繁盛のシンボルなど、その具材によって新年への希望を表す事ができますよ。
地方で違う!年越しそば
・福井県 大根おろしでのばした濃いつゆを、蕎麦と鰹節とネギをたっぷり盛って食べる「越前そば」を食べます。
・沖縄県 麺が小麦粉で作られる「沖縄そば」を年越し蕎麦として食べます。具も三枚肉やかまぼこなどが使われます。
・香川県 年越しそばの代わりにうどんを食べます。
・岩手県 花巻・盛岡では年の数だけ「わんこそば」を食べます。
・北海道と京都府 魚のニシンをのせた「にしんそば」を食べます。
年越しそばを食べるタイミング
ちなみに新潟県では、元旦や小正月明けの1月14日に、福島県会津地方では元旦に年越しそばを食べる習慣があるそうです。しかし一般的には、12月の31日の晩御飯や昼食時、または「除夜の鐘を聞きながら食べる」という方が多いようです。「年越しそばを食べるタイミング」として良いのは、由来から考えるとやはり「年が明ける前」が良いですね。年越しそばを年が明けてから食べるのは、「新年から運を断ち切る」となりますので、一般的には避けた方が良いとされています。除夜の鐘を聞きながら食べる方は、年をまたがないように気をつけてくださいね。
年越しそばひと手間加えたアレンジ
シンプルな年越しそばももちろんいいけど、たまにはちょっと変わった年越しそばを楽しんでみませんか?ひと手間加えるといつもの年越しそばが劇的に変わりますよ!
ホットプレートを使って瓦そばに 年越しそばもホットプレートを使うと瓦そばに変身です。SNS映えもするので、若い人に好まれるかもしれません。
さっぱり味の年越しそば すだちを加えるとさっぱりとした年越しそばを楽しめます。年越しそばは夜遅い時間に食べる方も多いと思います。すだち年越しそばであれば、さっぱりしているので遅い時間に食べてもおススメですよ。
こんなのもあり?おしゃれにそばパスタ 縁起の良いエビと舞茸を炒め、茹でたそばと具材を絡ませ塩コショウと麺つゆで味付けをすれば、お洒落な年越しそばの完成です。最後に三つ葉をのせれば、彩りも華やかになりますよ。 
●年越し蕎麦 3 
年越しそば(年越し蕎麦)とは、大晦日(12月31日)に縁起をかついで蕎麦を食べる習慣のことを言います。蕎麦(そば)は長く伸ばして細く切って作る食べ物なので、細く長くということから「健康長寿」「家運長命」などの縁起をかついで食べるようになったという説が一般的です。つごもりそば(晦蕎麦)とか、みそかそば(晦日蕎麦)と呼ばれることもあります。
年越し蕎麦とは(年越しそばの歴史と由来・意味)
年越しそばとは、大晦日(12月31日)に縁起をかついで蕎麦を食べる習慣のことを言います。
[年越しそばを食べる理由・年越しそばのいわれ]
大晦日に年越し蕎麦を食べるという風習は江戸時代から定着したとされます。蕎麦(そば)は長く伸ばして細く切って作る食べ物なので、“細く長く”ということから「健康長寿」「家運長命」などの縁起をかついで食べるようになったのが起源である、という説が一般的です。
蕎麦は関東、うどんは関西というイメージがありますが、信州から江戸へという蕎麦の流通ルートが早くから確立したため、蕎麦の文化は江戸で花開きました。江戸っ子の蕎麦好きは有名な話です。そう言えば有名な古典落語の「時そば」の舞台も、江戸ですね。 (時そばのくだりは正確ではありません。この噺の出所は上方落語の「時うどん」です。江戸でうどんの噺は不都合でしたので蕎麦の筋立てに変えたものです。古典落語として「時そば」という噺が存在したのではありません。「時そば」の噺のもとは「時うどん」という上方落語がもとになっているのですね。)
長生きと言えば、蕎麦に含まれる代表的な栄養素に「ルチン」(以前はビタミンPと呼ばれていたこともある物質)があります。毛細血管の壁を強くする作用がある、高血圧を予防すると言われています。ルチンは水溶性なので、蕎麦を食べる時にはルチンが溶け出しているそば湯を飲んだ方が良いとされてきましたが、現在では、そばのルチンはほどんと溶出しないことがわかってきています。
さて。年越し蕎麦には、ほかにも諸説があり、一つだけ紹介しますと、他の麺類よりも切れやすいことから「今年一年の災厄を断ち切る」という意味もあるのだそうです。
子供の頃、紅白歌合戦を見ながらついついコタツでうたた寝をしていると「年越し蕎麦食べる?」といって起こされた思い出があります。
御利益の真偽はともかく、家族全員で食卓を囲み、この一年のいろいろな出来事に思いを馳せながら無事に新しい年を迎えられることに感謝するひと時は大切にしたいものですね。
年越し蕎麦はいつ食べるか?
年越しそばと言えば、大晦日(おおみそか=12月31日)に食べるのが一般的だと思っていましたが、会津地方(福島県)では昔から元旦(1月1日)に食べる習慣があるそうです。
この情報の裏を取ろうと思い調べてみたところ、あいづわかまつ市政だよりのバックナンバーには、実際に「…わが家では、そばを食べるのは元旦の朝。2日はもち、3日はとろろご飯と決まっています。実家もそうだったので、会津はどこもそうだと思っていました(以下略)」というくだりが掲載されていました。やはり地方によっていろいろな風習があるようです。
一般的には、12月31日の夕食の時に食べるか、もしくは12月31日のちょうど年越しの頃に…例えば除夜の鐘を聞きながら食べるか、いずれかのようです。上述の福島県の会津地方のような地方もあることから、食べる時間には厳密な決まりはないようですが、大半の人が外食として食べるのではなく自宅で食べるようです。
蕎麦ではないソバの話
筆者の友人にも蕎麦アレルギーの人がいます。この友人はうどんが大好きですが、一度、昼食を一緒に食べた際に、ソバと一緒の釜で茹でたうどんで、みるみる具合が悪くなったことがありました。蕎麦アレルギーは非常に重篤な症状を引き起こし、最悪の場合には命にかかわることもあります。幸い、友人はゆで汁からのごく少量の摂取だったために、短期間で回復しました。
上記は何年も前の話ですが、つい最近、福岡県のうどん専門店で、蕎麦アレルギーの人も食べられるそばを提供していることを知りました。このうどん専門店で提供しているのは、「蕎麦アレルギーの人が安心して食べられる」かつ「うどんと一緒の釜で茹でても、うどんを食べた人に迷惑がかからない」という蕎麦で、原料は「ライ麦」と「小豆(あずき)」だそうです。
お店のホームページには「そば粉を一切使用していませんが、食感は【蕎麦】であると自負しております」と書かれています。お取り寄せが可能かどうか調べましたが、今のところあいにく通信販売(通販)はしていないようです。 筆者は原物を食べたことがありませんが、蕎麦アレルギーの人で、福岡県および近郊にお住まいの方、年越しソバを未体験の人には朗報かもしれません。
年越し蕎麦は冷たい蕎麦か、温かい蕎麦か
この一年が無事に過ごせたことに感謝し、「細く長く」という縁起をかついで(長寿を祈って)食べる年越し蕎麦。この年越し蕎麦は、冷たい蕎麦、温かい蕎麦、どちらが良いのでしょう?
結論は、お好みでどちらを食べても構いません。上記で紹介している年越し蕎麦の由来から言っても、温かくても冷たくても蕎麦は蕎麦。細く長く切れやすいことには変わりはありません。しかし…。
じつはちょうど、11月〜12月が、新蕎麦が最も美味しい時期とされています。夏に種をまいて晩秋に収穫される蕎麦が、粉に加工されて出回るのがこの時期だからです。
スーパーで買って来た麺を自宅で調理する場合はさておき、お蕎麦の専門店で、この今年収穫された蕎麦の旨味を味わうなら、ざるそばで蕎麦そのものの風味を愛でる(めでる)というのが蕎麦好きの醍醐味です。お米は新米、蕎麦も新蕎麦がウマイというワケです。…ただ季節柄、やっぱり温かい方にも魅力を感じますけど、ね。
繰り返しになりますが、縁起をかついで食べるものなので温冷、お好きな方を召し上がって下さい。
手打ち蕎麦の作り方とレシピ
職場結婚したカップルから、新居に招いていただきました。なんとご主人が手打ち蕎麦を披露して下さるとのこと。「蕎麦を作ると無心になれる。何度もこねる作業にすっかりはまってしまった」というご主人は、道具も本格的に揃えてすっかり上機嫌。もともと麺類大好きというご主人は、蕎麦だけでなくパスタも作るそうで、「パスタマシン」まで見せてくれました。
二八蕎麦、二八そばなどと良く言われますが、これは「つなぎ2:そば粉8」の割合で配合された蕎麦のことをさします。つなぎとして最も良く用いられるのは小麦粉で、皆さんも良くご存じのグルテンが蕎麦粉どうしをくっつける役割を果 たすのです。薄力粉ではなく、強力粉を使います(または中力粉)。
ご主人から伝授された手打ち蕎麦の必勝レシピは以下のとおり。…彼も、本やネットでいろいろ調べて試したそうです。試食をさせて頂いた筆者の個人的な感想ですが、「切り方が結構大事。味は良いけど切り方をもっともっと練習してほしいなあ」「蕎麦は確かにおいしい。次回は【蕎麦つゆ】にも凝ってみて。」といったところです(ごめんね)。
手打ち蕎麦のレシピ 材料 作りやすい分量(だいたい4人分くらい)
   そば粉 400g
   小麦粉 100g
   水 季節や粉の状態によるが、だいたい200cc〜250cc
※このほかに、台にくっつかないようにするためのうち粉が必要です。ご主人はそば粉を使っていました。
※うち粉とは?=打ち粉。めん棒で生地などを延ばすときに、生地が台にくっつかないように撒く粉のこと。そば打ちの時だけでなく、パン生地づくりや、餅を丸めるときなどにも打ち粉をします。用途に応じて打ち粉にする粉の種類が異なります。
蕎麦の具の話
年越し蕎麦にどんな具を乗せるのか?明確な決まりはなく、各自お好みの食べ方で構わないのですが、もともと江戸で花開いたという蕎麦の文化も、地方によって食べ方に違いがあるようです。
1. 地方によって異なる蕎麦の具
2. 縁起の良い蕎麦の具 を解説します。
   1. 地方によって違う蕎麦の具(年越し蕎麦に限定しません)
地方 主な食べ方や特徴的な具
京都(および北海道) にしんそば にしんの甘露煮を乗せて食べる。温かいおそば
東京を中心とし全国 たぬきそば 天かすを乗せたそば。温かい蕎麦も冷たい蕎麦もある。たねがない天かすだから、種抜き→たぬきになったと、むかし祖母から聞いたことがあります。
京都など たぬきそば 油揚げをのせたあんかけそば。温かいおそば。
岩手 わんこそば そばを温かいそばつゆにくぐらせて椀にもりつけたもの。お椀一敗あたりのそばの量はとても少なく、7杯前後〜でかけそば一杯とも言われる。盛岡に住むの友人のお母さんから聞いた話では、昔は年齢の数と同じ杯数のわんこそばを食べる風習が残っている地域があったそうです。
関東を中心とした全国 きつねそば 甘辛く煮た油揚げを乗せたそば。温かいおそば。京都や大阪では油揚げを乗せたあんかけそばはたぬき蕎麦であり、油揚げをのせた「うどん」「がきつね、もしくはけつね。
東京を中心とし全国 おかめそば かまぼこ、しいたけ、卵焼き、ホウレン草など、上にいくつかの具を乗せることにより、おかめの顔に見えるから、こう名付けられたとされます。江戸発祥のおそば。現在では全国に広まっています。
東京を中心とし全国 天ぷら蕎麦 海老の天ぷら、車海老の天ぷらが乗った温かいおそば。かき揚げ天ぷらが乗った蕎麦もあります。冷たいおそばの場合には「天ざる」と、名称が変わります。事務局がある九州では、さつま揚げのことを「てんぷら」と呼びますが、さつま揚げが乗ったうどんやそばは「丸天うどん」「丸天そば」という名称になっていて、王道の海老の天ぷらとは区別されます。
福井 越前蕎麦 越前おろしそばとも言われ、ゆでた蕎麦に大根おろしをかけたり、大根おろしにそばつゆを加えてつけ麺として食べるなどの食べ方があります。冷たいお蕎麦として食べるのが主流ですが、温かい越前おろし蕎麦もあります。
※上記のほかに、もりそば、ざるそば、せいろそばなどの、いわゆる「王道」もあります。
   2. 事務局が考えた縁起の良い年越し蕎麦の具
年越し蕎麦の具には決まりはありません。また、わんこそばのようにその地方独自の風習がある地域もあります。そこで、「健康長寿」「家運長命」などの縁起をかついで食べるようになったという年越し蕎麦の由来や意味を尊重して、事務局でおすすめの年越し蕎麦を考えてみました。おせち料理と共通する材料も多く、大晦日に自宅で食べる際にも殖財を揃えやすいのではないでしょうか?
具 / 言われ / 蕎麦の具として
海老 / 
腰が曲がることから長寿のシンボルとして / かき揚げ、あるいは海老天ぷらなど。
紅白かまぼこ / 
紅白はおめでたさの象徴としてお祝い事全般に使われます。また材料となる白身魚は昔は非常に高価であり、白身魚で作る蒲鉾もまたご馳走でした。なまモノよりも保存がきく贅沢な海の幸とされます。 / 薄く切って乗せます。
卵焼き、または伊達巻き / 
黄色は金色に通じることから縁起が良いもの。特に伊達巻きは、高級魚である白身魚を原料とし、黄金色であることから神様への供物として考えられ、巻いている形状から反物(着物の布地)を連想させ、着るものに困らない、繁栄、繁盛の願いがこめられているとされます。 / 薄く切って乗せます。
春菊 / 
この時期に旬を迎える春菊。緑色はどんぶりに彩りを添えるためにも良いのですが、春→「旬」は盛りを意味します。 / 軽く茹でて乗せます。
油揚げ / 
ご商売をしているお宅であれば、きつねでしょう。お稲荷さんは商売繁昌の神様とされます。 / きつねそば風に甘辛く煮た油揚げをのせても。
喪中の場合の年越し蕎麦
喪中の場合には、年賀状を出すのを控えたり門松をたてないなどのしきたりがあります。しかし、年越しそばは、健康長寿を願い縁起を担いで食べるようになったとされるものです。わかりやすく表現すると、いま生きている家族の健康や長寿を祈るものですから、食べても良いのではないでしょうか。もちろん強制ではありません。ご家族の皆さんの気持ちを大切になさってください。  
●年越しそば 4 
なぜ大晦日にそばを食べるのか?
日本料理は、年中行事との関わりが強くあります。その中で最もなじみの深いのが、「年越しそば」や「雑煮」「おせち」などの年末年始に味わう行事食でしょう。
大晦日から元旦にかけての時間、また、その間の行事を「年越し」、または「年取り」といい、大晦日の夜にそばを食べる風習は日本全国にあります。その時に食べるそばを「年越しそば」と呼びますが、実は大晦日に食べるそばを「年越しそば」と呼ぶようになったのは明治になってから。
江戸時代中期頃から、江戸市中では毎月の晦日(月末)や節分にそばを食べる風習がありました。節分とは、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日で、年に4回の節分があり、今は立春の前日だけが主だっています。節分に食べるそばを「節分そば」と言い、今も東京・調布市にある深大寺などでは節分にそばを食べるイベントが行なわれています。
一方、大晦日に食べるそばは「晦日(みそか)そば」「年取りそば」と呼ばれていました。昔は「数え年」でしたので、正月を迎えると一歳年をとるとされていたことから、「年取り」と呼ばれたわけです。他にも「年取り魚」といって、鰤や鮭などを食べる風習のところもあります。川柳では「晦日そば」と詠まれているものが多いようですね。
「長く伸びる=長寿」「そばを打つ=相手を討つ」「切る=悪いものを断ち切る」
では、なぜこの日にそばを食べるのでしょうか。諸説あるようですが、そばは長く伸びることから、長寿への願いが込められていますし、災厄をすぱっと断ち切る意味もあります。あとはそばは「打つ」ものなので、「手打ち」ということで相手を討つ、つまり勝つ、という意味もあるようです。
また、江戸でこれだけそば打ちが普及した理由の一つは、年末の忙しい時でも手早く作れること。そばはうどんと違い、練ったら寝かせる必要がなく、すぐ切ってゆでて食べられるということも、江戸っ子の気質に合ったんでしょう。
正月のおせちに代表されるように、日本人は、料理の一つひとつに願いを込めてきました。大晦日、新しい年を迎えるにあたって、悪いものを断ち切り、長寿を願い、幸せを呼ぶ願いを込めて食べるのがこの「年越しそば」なんですね。忙しい中で、家族全員が集まる特別な時間に味わう「年越しそば」。せっかくですから、家庭で食べる場合はひと手間かけて、自家製のそばつゆを作ってみてはいかがでしょうか。そばのおいしさがぐんとアップしますよ。
そばの発祥は奈良時代以前。醤油やみりんの普及が「そば切り」の発展につながった
そばが日本に伝来したのは、奈良時代以前と言われています。最初は粒のまま粥に仕立てたり、そば粉をお湯で練った「そばがき」や、餅のようについて丸めた「そば餅」にしたりして食されました。またそばは米より保存性が高く、痩せた土地でも作付ができるために、「救荒食」として生産され、飢饉の時には多くの人の命をつなぎました。
そばが現在のそばに近い、麺の形に切ってゆでる「そば切り」となったのは、江戸時代になってから。当初は小麦粉が入らず、そば粉だけで作っていたことから、とても切れやすかったのだと思います。そばにお湯を入れてねばりを出して練ったものを伸ばして切ったそうです。
日本で最初のレシピ本と言われる『料理物語』(寛永20年(1643))にはそば切りの製法が記されており、米を炊く時に出る、ねばりのある湯を使ったり、豆腐を入れてつなぎにしていたりと、創意工夫が見られます。また少し時代がさがった『合類日用料理抄』(元禄2年(1689))には、そばの打ち方、ゆで方も丁寧に記されています。元禄8年(1695)の『本朝食鑑』では、そばの効能のほか、東北で多く作られており、信州産が特に良品だと記載されています。
江戸中期〜後期になると、小麦粉を混ぜた打ちやすく安価な「二八そば」が誕生し、さらに醤油とみりんが工業化され安価になったことで、急速に一般に普及しました。醤油やみりんを使う以前は、「煮貫(にぬき)」といって、味噌汁を煮詰めて漉して、鰹節を加えた汁でそばを食べていたそうです。私も作ってみましたが、これはこれで結構おいしいのですが、やはり醤油とみりんに砂糖を加えたそばつゆの方が奥深い味になります。改めてベースの「返し」ができたことで、大きく発展したのだと実感します。やはり、おいしいつゆの存在は大事ですね。
私の大好きな「そば屋さん」
江戸時代には年に4回の節分にそばを食べる「節分そば」という風習がありました。そばで有名な東京・調布市の深大寺では、2月の「節分そば」の風習が今も残っています。江戸後期に書かれた『江戸名所図会』では、深大寺の周りにはそば畑があり、栽培もされていたという記述があります。私の妻の実家が調布なので、ことあるごとに深大寺を訪れていますが、20軒以上のそば屋さんが軒を連ねていて、そば汁の香りに誘われ、つい、そばを食べてしまいます。 
●年越しそば 5 
年末の帰省の列車が混雑しているというニュースを耳にすると、いつも、ちょっと甘酸っぱい懐かしさに胸が包まれ、仕事をしている手が止まります。子供のころに過ごした故郷の風景が、風が吹きすぎるときの肌ざわりや、闇の彼方から聞こえてくる除夜の鐘の響きと共に、目の前に浮かんでくるのです。また、年越し蕎麦の時期になりましたね。
一年の締めくくりに、私たちは蕎麦を食べます。蕎麦ではなく、うどんを食べたり、地方によっては、蕎麦は元旦に食べるというところもありますが、一般的に年越しには蕎麦を食べる地域が多いようです。なぜ、年越し蕎麦の習慣は、ここまで広まったのでしょうか。誰が最初に言い出して、それがどのように広まっていったのかと想像してみると、なかなか興味深いものがあります。
年越しそばの起源についての、いろいろな説
年越し蕎麦の由来について、ネットなどに書き込む人が資料にするのは、多くの場合、新島繁さんの著書『蕎麦の事典』です。  この本は、現在、講談社から文庫本が発行されていて、本屋さんで手に入ります。光栄なことに、私、片山が、講談社版『蕎麦の事典』の解説を書かせていただいています。新島繁さんは年越しそばの起源について、この本の中に、概ね次のように記しています。
・年越し蕎麦は、江戸時代から庶民の間に定着した食習慣である。
・鎌倉時代、博多の承天寺で、年の瀬を越せない町人に、「世直しそば」と称して、そば餅をふるまったところ、翌年からみな運気が向いてきたため、大晦日に蕎麦を食べるならわしが生じた。
・室町時代、関東三長者のひとり、増渕民部が、大晦日に無事息災を祝い、家人ともども「そばがき」を食べたのがおこり。
・そば切りは、長くのびるので、延命長寿や、身代が細く長くのびるようにと願う形状説。
・逆にそばは切れやすいから、旧年の労苦や災厄を、きれいバッサリ切り捨てようと「縁切りそば」「年切りそば」を食べた。
・金銀細工師が散らかった金粉を寄せるのにそば粉を使うため、金を集める縁起で始まった。
・『本朝食鑑』に「蕎麦は気を降し腸をゆるくし、よく腸胃の滓穢積滞を錬る」とあり、新陳代謝により体内を清浄にして新年を迎えるという、そば効能説。
・ソバは少々の風雨に当たっても、翌日、陽がさせばすぐ起き直る。それにあやかって、来年こそはと、食べるという説。
面白いのは、年越しそばの起源として、「そば餅」をふるまったとか、「そばがき」を食べたと書かれたものがあることです。これは、蕎麦切りが食べられるようになるより前の時代の出来事と解釈することもでき、ある意味、この説の信憑性に、ちょっと重みを加えたりしています。
しかし、「諸説ある」ということは、言い換えれば、「良くわからない」ということでもあるのです。起源についての諸説というものは、あとの時代に作って、こじつけられることも多く、これが本当の由来なのだと言い切ることは、なかなか難しいのです。
これ以外にも、年越しそばの起源についての説は、いろいろありますが、それらを調べていくと、どの説にも共通する、似かよった部分があることに気づきます。
それは、年越し蕎麦を食べる理由として、多くの場合「蕎麦を食べると幸せになれる」という縁起に結びついている点です。縁起とは「前触れ」のことです。つまり「蕎麦」は、「幸せ」の前触れです。「蕎麦」を食べると、そのあとで「幸せ」が訪れるのです。
昔から、蕎麦は、人に幸せを運ぶ食べものだと、考えられてきました
我が国の歴史に初めて蕎麦が登場するのは、養老6年(722)年に発せられた元正(げんしょう)天皇の詔(みことのり)です。  その内容は、今年の夏は雨が少なくて稲の実りが悪いので、蕎麦や大麦、小麦を植えて、飢饉に備えなさいということでした。つまり、蕎麦は初めて歴史に登場したそのときから、飢えに直面した人々を救済する役割を担った食べ物だったのです。蕎麦が人に幸福をもたらすという考え方を、多くの人が信じるのは、人々が困難に直面したとき、蕎麦が助けてくれたという出来事が、長い歴史の中で何度も繰り返されてきたからだと思います。
蕎麦が飢饉に困窮する人々を救う切り札として、興味深い提案をしたのが、江戸後期の蘭学者、高野長英でした。蕎麦研究家であった新島繁さんによると、高野長英は、天保7年(1836)に著した「救荒二物考」の中で、播種してから約50日で熟して、一年に3回収穫できる早熟な蕎麦について詳しく記しているそうです。
一年に3度収穫できるこの蕎麦を栽培して、備蓄しておけば、食料に余裕ができ、大きな飢饉になっても対応できる。この蕎麦は天下の宝であると書いているのです。
高野長英が、これを書いのは、まさに天保の大飢饉の真っ最中でした。冷害や長雨などの異常気象が続いて作物が実らず、飢餓で村が全滅するような惨状が日本各地に広がっていました。荒れた大地に蕎麦の種を蒔いた人々は、どんな思いで、その成長を見守っていたことでしょう。これによって命を繋ぐことができた人も、少なからず、いたはずです。
かろうじて飢饉を乗り越えた人々が、いつかまた蕎麦を食べたとき、蕎麦はまさに人に幸せを運んでくれる食べ物だと、心の底から思ったことでしょう。だから東北地方の古い農家の天井から、飢饉のときの非常用食料、非常用種子として、俵に詰めた江戸時代の蕎麦が発見されたりするのです。
蕎麦は、人知の及ばない災害に見舞われたときの、一家の守り神ともいえる存在だったのです。蕎麦とは、ありがたいものだと、親は子に伝え、子は孫に伝えたに違いありません。このような、蕎麦と日本人との特殊な関係が根底にあって、蕎麦を食べると幸せになれるという考え方が、人々の心の中に根付いていったのではないでしょうか。
一年の締めくくり、あるいは初めに、人々は幸せの象徴である蕎麦を食べながら、これまでの無事を感謝し、これからの年の幸福を願ったのです。年越し蕎麦の由来については、いろいろな説がありますが、以上が、いわば片山虎之介の説なのです。
年越しそばと「晦日そば(みそかそば)」
老舗の蕎麦店のご主人のお話では、つい最近まで、毎月、月末に、みんなで蕎麦を食べる習慣が、日本にはあったそうです。その名は「晦日(みそか)そば」と言いました。毎月の最後の日を「晦日(みそか)」といいます。そして一年の最後の日が「大晦日(おおみそか)」です。この大晦日に「晦日そば」を食べる習慣だけが、年越し蕎麦として残り、毎月食べる「晦日そば」は、忘れられてしまったのです。蕎麦は、おいしいし、健康にも良いし、何よりも幸せの前触れです。こんなすばらしい食べ物を、年越しに食べるだけで終わらせてしまっては、もったいないですね。ぜひ、毎月の月末にも、"年越し蕎麦"ならぬ"月越し蕎麦"の「晦日そば」を召し上がってください。そして、毎月、幸せになりましょう。蕎麦は一年に12回、あなたに幸福を運んできてくれるに違いありません。
年越し蕎麦の起源
町の雰囲気が気ぜわしくなり、また日本人がこぞって蕎麦を食べる、あの日が近付いている。今年もなんとか、年越し蕎麦を食べることができそうで、よかったなあと思う。一年の終わりに蕎麦を食べると、この年を大過なく過ごせたという安堵の気持ちと、支えてくれた家族や仲間への感謝の気持ちが湧いてくる。そして、さあ、これからいよいよ新しい年が始まるのだと、体の奥から元気が生まれてくるような気がするのだ。
この思いは日本人が、ずっと長い間、持ち続けてきたものなのだろう。
年越し蕎麦の起源については諸説あり、どれが本当なのかは、わからない。わかっていることは、どの説も、蕎麦を食べると幸せになると言っているということだ。
諸説のひとつに、鎌倉時代の高僧・聖一国師(しょういちこくし)の「運そば説」がある。その昔、聖一国師が、年を越せない町人に「蕎麦餅」を振る舞ったところ、翌年から皆に運が向いてきたという話だ。これを契機に、年越し蕎麦を食べる習慣が生まれたと言われている。時代はいつかと考えると、聖一国師が博多に承天寺を開いたのは、仁治3年(1242年)のことだから、それ以降であり、それに近い年代の出来事だろうと思われる。
この話で「なるほど」と納得するのは、「蕎麦餅」を振る舞ったという下りだ。今では蕎麦といえば、細く切った麺線の「蕎麦切り」を指すが、聖一国師が承天寺を開いた時代、日本にはまだ蕎麦切りは普及していなかった。
初めて「蕎麦切り」の文字が、文献上で確認されたのが、天正2年(1574年)の定勝寺文書だ。聖一国師の説は、それより330年も前の出来事ということになる。
そもそも聖一国師が、同行していた二隻の船が暴風雨で沈没するという苛酷な状況を乗り越えて、水車製粉の図面を我が国に持ち帰ったのが、仁治2年なのだから、まだ麺の文化は普及していなくて当然だ。この「運そば説」は、そこのところをきちんとおさえていて、振る舞ったのは「蕎麦切り」ではなく「蕎麦餅」だという。このあたりに「運そば説」の説得力を、ちょっと感じるのである。
仮に、この説が本当だとしたら、770年以上昔から、日本人は、蕎麦が幸せを運んでくる食べ物だと考えていたことになる。古い文献を繙くと、蕎麦はいつの時代も、幸せを運ぶ食べ物として認識されている。曰く、細く長く縁が繋がる。寿命が延びる。運がつく。難を免れる。健康に良い。怪我をしない。病気にならない。厄を払う。お金が集まる。願いが叶うなど、ありとあらゆる幸せが、蕎麦を食べるとやってくるのだという。ここまで招福と結び付いた食べ物が、ほかにあるだろうか。
蕎麦は、昔、飢饉のときに、種を蒔いてから約75日で収穫できる、頼りになる救荒食であった。また、栄養バランスに優れ、通常の食事では摂りにくい微量のミネラルなども効率良く摂取できる、優れた健康食でもある。含まれているルチンや食物繊維は、生活習慣病の予防にも役立つ。
比叡山延暦寺の荒行、千日回峰行では、行者は蕎麦しか食べてはいけない期間があるなど、まさに命を繋ぐ食べ物であった。
蕎麦はいつも、人のそばに寄り添い、幸せに導いてくれる、ありがたい食べ物であったのだ。そう考えると確かに、蕎麦は健康を運び、福を呼ぶという評価は、正しい認識だといえる。
この縁起の良い蕎麦を食べる機会を、もっと増やして、私たちは今まで以上に幸せになろうではないか。
年配の方のお話では、ちょっと前まで日本では、毎月、月末に、蕎麦を食べる習慣があったという。その名は「晦日(みそか)蕎麦」。毎月の末を晦日といい、一年の最後の晦日を、大晦日と言う。大晦日に蕎麦を食べる習慣が、年越し蕎麦として、今も残っているのだ。
忘れられた毎月の「晦日蕎麦」を、もう一度、復活させて、一年に12回、蕎麦を食べることにしよう。そうすれば、今より12倍、幸福になれるに違いない。
蕎麦は幸せを運ぶ食べ物だ。770年以上の長きにわたり、私たちの祖先が信じて、実行してきたことなのだから、間違いはない。 

 

●除夜の鐘 
●除夜の鐘 1 
日本仏教にて年末年始に行われる年中行事の一つ。12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に、寺院の梵鐘を撞(つ)くことである。除夜の鐘は多くの寺で108回撞かれる。
日本以外に、韓国でも行われており、ソウルにある普信閣をはじめとする、各地で行われている。特に有名な普信閣で行われる除夜の鐘は、日本同様にテレビ中継される。また、回数が108回ではなく33回撞かれるのが特徴である(忉利天に由来する)。
108つの由来
除夜の鐘は多くの寺で108回撞かれる。この「108」という数の由来については、次のような複数の説がある。格別にどれが正しいということはないが、一般には煩悩説が有名である。
煩悩の数 / 眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)があって18類、この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、人間の煩悩の数を表す。
1年間 / 月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となり、1年間を表す。
なお、寺によって撞く回数は108回と決まらず、200回以上の場合などがある。
作法
鐘を撞く前には鐘に向かって合掌する。108回撞く寺院においては、108回のうち107回は旧年(12月31日)のうちに撞き、残りの1回を新年(1月1日)に撞くとする寺院もある。実際には撞き始めの時刻は23時00分、23時30分、23時45分など様々であり、年明けと同時の0時00分に一つめが撞かれる寺院も少なからず存在する。
除夜の鐘と放送
東京・上野の寛永寺にて1927年(昭和2年)、JOAK(NHK放送センターの前身である社団法人東京放送局)のラジオによって史上初めて中継放送された。これが「除夜の鐘」という風習が日本に広く定着するきっかけとなった。
NHK『ゆく年くる年』で、日本各地の寺院で除夜の鐘が撞かれながら年が明ける様子を全国中継しているが、『ゆく年くる年』の番組開始当初のタイトルこそ『除夜の鐘』であった。
その他
   ●朝夕の鐘
108回の鐘は本来、除夜(大晦日の夜)だけでなく、平日の朝夕にも撞かれるべきものである。しかし鳴鐘の習慣のない寺院も多くあり、これは常の鳴鐘が禁じられていた名残りである。明治以降、鳴鐘の習慣を復興した寺院では略して18回に留められる例が多い。まれに修行寺院などでは古式にのっとり、108回打っている事例もある。
   ●初夜の鐘(そやのかね)
午後8時、その日最初に撞かれる鐘。正岡子規が詠んだ「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の「鐘」は、奈良・東大寺の初夜の鐘であった。
   ●戦時の鐘
第二次世界大戦中、後には、多くの寺鐘が金属回収令により失われ、除夜の鐘が鳴らせなくなった。このため、一部寺院では、大太鼓を代わりとしていた。
   現状
大晦日深夜から初詣でにぎわうような有力寺院を中心として、21世紀においても年越しの風物詩として続いている。一方で、役僧・檀家の高齢化や近隣住民から騒音としての苦情により、大晦日の昼間に撞いたり、中止したりする寺もある。こうした動きに対しては「騒音ではなく、安易にやめる必要はない」「ラジオの普及で広まった文化であり、深夜にこだわる必要はない」という両論がある。  
●除夜の鐘 2 
除夜の鐘とは、大晦日(12月31日)の深夜0時をはさんでつく鐘のことを言います(ちょうど日付けが変わり新しい年になる時を鐘をつきながら迎えます)。人には百八つの煩悩(ぼんのう)があると言われ、その煩悩を祓うために、除夜の鐘をつく回数は108回とされています。煩悩とは、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのことを言い、仏教における考え方からきています。
除夜の鐘とは
除夜の鐘とは、大晦日(=おおみそか。12月31日)のちょうど日付けが変わり新しい年になる深夜0時をはさんでつく鐘のことを言います。
除夜の鐘の由来
除夜の鐘をつく理由は、人の心にある煩悩を祓うためと言われています。仏教では、人には百八つの煩悩(=ぼんのう)があると考えられてきました。その煩悩を祓うためにつく除夜の鐘の回数は108回とされています。煩悩とは、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのことを言います。
人の心の乱れ・汚れを煩悩とすると、代表的な煩悩には、1.欲望(肉体的および精神的なもの)、2.怒り、3.執着、4.猜疑などがあります。更に煩悩を細かく分類すると、三毒とか、百八煩悩とか、八万四千煩悩など、分類のしかたにもさまざまなものがあります。
筆者の中学生の時の担任のS先生は四苦八苦(4×9+8×9)という俗説を紹介して下さいましたが、まさに諸説紛々です。事務局でもいろいろと調べてみましたが、煩悩については諸説あり、具体的に108つの煩悩を挙げるよりも、百八という数は、「いわゆる沢山という意味」だと理解すればよいと考えています。
除夜の鐘の意味
さて、鐘をつく回数が108回という理由については、煩悩の数が108つあるからだと述べましたが、それでは、なぜ大晦日に鐘をつくのでしょうか。108回鐘をうきさえすれば大晦日でなくても良いのでは…と思いませんか? 大晦日に鐘をつく理由も諸説あります。このページは仏教について説明するのが目的ではないので簡単に紹介しますが、まず前提として、仏教では煩悩を祓うことにより解脱し、悟りを開くことができるとされています。
本来は、日頃から仏教の修行を積むことによりこれらの煩悩(心の乱れ)を取り除き、解脱することができるのですが(悩みや苦しみや迷いから解放されて人間として究極の理想的な状態になる、あるいは悟りを開くことができるのですが)、除夜の鐘には厳しい修行を積んでいない我々においてもこうした心の乱れや汚れを祓う力があるという信仰が現在まで伝わり、除夜の鐘の儀式となって続いています。だから、普通の日ではなく、除夜、つまり大晦日に鐘を打つのですね。
そもそも仏教寺院にある鐘は、梵鐘(ぼんしょう)と呼ばれるもので、仏具(仏教の儀式で用いる用具)のうちの重要な一つです。もともと仏教では、お正月には、お盆とならんで年に二回先祖を祀る儀式がありました。これが歴史を重ね時代を経るうちに「お正月は年神様(豊穣・豊作の神様)にその年の豊作を祈る」という神道の信仰へと移っていき、仏教の古い儀式としては夏のお盆のものだけが長く受け継がれています。もともとあった仏教の風習のうち、正月に関しては、除夜に鐘をつく風習だけが今に残っているようです。梵鐘の澄んだ音は、深夜の空気と相まって心にしみわたるような気がします。鐘を叩くことで私たちの魂が共鳴するような気持ちにさえなります。
お寺の梵鐘はふだんは朝夕の時報として用いられるほか(童謡「夕焼けこやけ」の歌詞に出てくるのは、梵鐘が夕刻の時報として使われている例ですね)、法要の開始を知らせる際などにも用いられます。ただし、こうした用途だけでなく、鐘の音そのものには、苦しみや悩みを断ち切る力が宿っていると考えられており、仏教の大切な道具として除夜の鐘にも用いられます。上の鐘の画像では良くわかりませんが、鐘の銘の部分には梵鐘の力(=功徳)が記載されています。鐘の回りに突起がありますが、これは「乳(ち)」と言われるもので、ほとんどの鐘についています。この乳の数も108つあるということです。
なお、除夜とは、除日(じょじつ)の夜のことを言います。「除」には、古いものを捨てて新しいものに移るという意味があります。除日とは、一年の一番最後の日という意味を表し、大晦日(おおみそか)のことをさします。
ちなみに、海外でも多数の国で新年を祝う祝賀が催されますが、欧米の大多数の国では人々が集まって音楽が奏でられ大規模に花火を打ち上げるようです。これらの国では仏教や神道とはかかわりが薄いせいかもしれません。ちなみに中国では旧正月を祝うため、日本のものとは異なるようです。日本の除夜の鐘だけが、静かに静かに静寂の中にしみわたるように響きます。戦時中は各地の寺社から鐘が供出されたため、除夜の鐘をつくことができないお寺もありました。除夜の鐘も平和の象徴の一つなのですね。
除夜の鐘はいつ撞く?
大晦日の夜、紅白歌合戦が終わる頃になるとなんとなく聞こえて来る除夜の鐘ですが、何時頃からつきはじめるのか…つきはじめの時間に決まりはあるのでしょうか?
大晦日の鐘をつくタイミング
除夜の鐘と言えば、大晦日(12月31日)の深夜24時(元旦の零時)の前後に耳にしますが、本来は、鐘をつくタイミングにも決まりがあるのだそうです。
107回目までは前年のうちに撞いて、最後の一回は新年になってからつく(深夜0時に最後の一回をつく)のが正式なつき方だそうです。百八つの煩悩をすべてきれいに祓って新しい年を迎えるということなのでしょう。きちんと24時に終了するという寺院では、鐘のつき始めを早めに設定し、22:40頃から開始される場合もあります。(近年は深夜の騒音を嫌がる風潮もあり、時刻についてはお寺ごとに柔軟に対応するようになってきています。)
大半の寺院は無料で除夜の鐘をつくことができますが、有名な寺院では、整理券を配布するところや、有料で鐘をつくかわりに、参拝者に破魔矢や甘酒や福豆がふるまわれることもあります。
日本三大鐘楼とされているのは、京都方広寺、京都知恩院、奈良東大寺だそうです。ちなみに三名鐘というと、平等院、三井寺、神護寺だそうです。鐘の音で選んだり、鐘の姿の美しさで選んだり、鐘の大きさで選んだり…これも諸説あります。
108つの煩悩の話
なぜ煩悩の数は108と言われるのか? 除夜の鐘は108回うちならすとされています。この108という数字については諸説あるので、筆者は108という数は『沢山』という意味だと思っています。しかし、サイトをご覧になった方からご要望が沢山寄せられるので、一番わかりやすいと思った説を一つご紹介します。
人間が持つ欲望や心の汚れは、すべて6つの感覚器官からもたらされ、それらが感じとる感覚からくる36個の煩悩に、前世、今世、来世の3つの時間軸をかけて108つあるという考え方です。
下記の表にわかりやすくまとめましたのでご覧下さい。表中で使われている仏語のうち、難しい語についてあらかじめ少しだけ説明します。
六根 (ろっこん)
人間が持つ感覚器官 / 感覚や意識を生じさせ、それによって人に迷いを起こさせる原因となる6つの器官のこと。眼(げん)、耳(に)、舌、鼻、身、意とされる。
六境 (ろっきょう)
人間が感覚によって識別できる対象 / 上記六根で識別する六識の対象となる6つの境界。六塵(ろくじん)とも言う。色境、声境、味境、香境、触境、法境とされる。
除夜の鐘はそれをつくことで、これらの108つの煩悩を打ち払うとされています。  
●除夜の鐘 3 
なぜ「除夜の鐘」っていうの?
実は除夜とは「除日(じょにち)の夜」という意味なんですね。では除日とは何か。除日とは、「旧年を除く日」という意味を持つ言葉になります。除くといっても「以外」という意味ではないんですよ。元々「除」という字は、古いものを捨てて新しいものを迎えるという意味を持つ漢字。つまりは、古い年を捨てて新しい年を迎える、大晦日のことを指す言葉なんです。
除夜の鐘はいつから始まった?
除夜の鐘は元々中国の宋で始まった、鬼払いの文化でした。宋は、日本でいうと平安時代から鎌倉時代あたりの王朝です。この「鬼払いに鐘を撞く」という文化が鎌倉時代に、禅宗と一緒に日本へ伝わったのが始まりだといわれています。なんと宋では「弱く撞くこと18回、強く撞くこと18回。それを3回繰りかえす」とたたき方まで伝わっています。(2種類×18回×3回繰り返す=108回!)元々は、禅寺で朝と夕方に二回撞いていました、室町時代には除夜だけになり、いつしか除夜の鐘を合図に社寺へ初詣する時報のような役割も兼ねていったわけですね。また鎌倉時代は、現在にも残るいろんな宗派が誕生した、仏教最盛期。除夜の鐘を鳴らすことで「ここに寺がありますよ」という布教活動も兼ねていたそうです。
除夜の鐘を撞くタイミングは?
そんな除日、大晦日に撞かれる除夜の鐘ですが、大晦日のいつ撞かれるかご存知ですか?多くのお寺では107回までを旧年、そして新年を迎えるタイミングで108回目をつくのが一般的です。では、なぜそんな年替わりの時間帯に撞くのか。元々は鬼を払うために撞かれていたとご紹介しましたが、「鬼門」ってご存知ですか?鬼門があるのは丑寅の方角。他にも丑の刻参りという言葉もあるように、「丑寅」は不吉なものとされています。この考えを月に当てはめると12月が丑、1月が寅になります。そのため12月から1月に代わる瞬間に撞くんですね。
108回に意味はあるの?
除夜の鐘は、煩悩の数である108回撞くというのがお決まりですが、この108という数字は、一体どこからきたのでしょうか。これに関しては、色んな説がありますが、私はすべて後付けではないかと感じています。なぜなら仏教が誕生したインドでは、108という数字は日本の「八百万」と同じで「たくさん」という意味を持つ数字。そのため煩悩が108個なのではなく、多くの煩悩という意味合いで108回撞きはじめたのではないでしょうか。そしてこの考えが伝わった中国では、この数字の内訳を「12カ月×24節×72候」という中国の暦で計算し、1年分の暦を打つと解釈しています。
日本の三大名鐘
そんな除夜の鐘が突かれる梵鐘の中でも、「日本三大名鐘」と呼ばれる梵鐘があるのをご存知ですか?梵鐘とは、煩悩を払うといわれている鐘のことで、仏教の大切な仏具の一つでもあります。
   京都「方広寺」の大梵鐘
方広寺は京都東山区にある、天台宗のお寺。豊臣秀吉が作った、廬舎那仏があることでも有名なお寺ですね。こちらが方広寺の重要文化財になっている「国家安康の鐘」です。徳川家康が、因縁をつけ、豊臣家を滅ぼすことに利用したという曰くつきの梵鐘でもあるんですね。大きさは直径2.8m、高さ4.2m。重さは82.7tと、三大名鐘の中では最大!大晦日は、初回は住職が撞きますが、その後は参拝者が撞くことが可能。
   京都「知恩院」の大梵鐘
同じく京都東山区にある、浄土宗の総本山である知恩院。創立者は、浄土宗の生みの親、法然です。広く民衆から、将軍家にまで信仰を集めた、京都でも有数のお寺。こちらも同じく重要文化財の梵鐘。釣鐘の重さは約70t、高さ3.27mで直径2.73mになります。特別なストーリーはありませんが、重要文化財や国宝も多くある寺院です。除夜の鐘は僧侶が撞くことになっていますが、「えーいほとつ、そーれ」という独特な掛け声は、京都の大晦日の名物にもなっています。
   奈良「東大寺」の大鐘
言わずとしれた「奈良の大仏」と呼ばれる廬舎那仏がある、修学旅行でも大人気な東大寺。古代から日本の仏教に大きな影響を与えてきた、日本仏教の父も言えるお寺です。こちらに最後の梵鐘があります。境内にあるものの大半が国宝という東大寺。こちらの梵鐘も国宝に認定されております。高さは3.86m、直径は2.76m。重さは26.4tになります。他の二つに比べると結構軽い梵鐘になりますね。その代わり、鐘を撞く棒、撞木(しゅもく)の長さは一番長い4.5m!そのため除夜の鐘の撞き方も独特です。撞木に8本綱をくくりつけ、先着順8名ずつその綱を引いて撞くそうな。 
●除夜の鐘 4 
意味と由来
元々仏教用語で除夜の鐘の「除」という単語は「古いものを捨て、新しいものを迎える」という意味があります。一年にあった出来事や新年に持ち越したくない思いなどを1年の最後の日である大晦日に取り除くと言う意味で、仏教では大晦日を「除日(じょじつ)」と表現します。
どうして除夜の鐘というの?
除夜の鐘とは、この除日の夜に鳴らす鐘という意味です。除日の夜に寺院の梵鐘を鳴らす事により、旧年あった出来事や思いを取り除き、新しい気持ちで新年を迎えられます。では除夜の鐘とは、いつから行われるようになったのでしょうか?
歴史と起源
除夜の鐘の起源は、中国の寺院で行われていた風習と言われています。仏教発祥の地インドでは梵鐘の起源と結びつくものが無く、梵鐘そのものは仏教用具として中国を中心とした東アジア広域で使用されてきました。そのため除夜の鐘の風習は古代中国で誕生した説が有力です。
仏教では悟りを得るために、あらゆる煩悩を祓わなければなりません。古代中国では梵鐘には「穢れや煩悩を祓う力がある」と信じられていたため、煩悩の隙間から鬼が入らないよう、艮(うしとら)を意識して寺院の梵鐘を鳴らしていました。艮とは中国由来の陰陽道から生まれた概念で、鬼が入りやすい方角として知られていますが、時刻や月を表す時にも使われていました。艮とは丑と寅の間に位置し、月に当てはめると丑が12月、寅は1月に属しますので、艮は年が移り変わる大晦日を指し示し、艮の時刻めがけて打ち鳴らす『除夜の鐘』が生まれたのです。
中国で生まれた除夜の鐘の風習が日本に伝わったのは、鎌倉時代と言われています。中国で宋が元に滅ぼされた頃、中国の禅僧が日本に渡ってきたことがきっかけです。日本に伝わった当初は3か所の寺院だけで梵鐘をつく事が許可されました。室町時代になると梵鐘を鳴らす風習は少しずつ広まっていき、江戸時代には現代のように多くの寺院で除夜の鐘をつくようになったのです。

そもそも「除夜の鐘」の「除」とは古いものを捨て、新しいものを迎えるという意味です。
除夜の鐘とは仏教用語で「除日の夜に鳴らす鐘」という意味です。
元々は鬼門を封じ込める為に中国の寺院で梵鐘を鳴らしていた風習が始まりとされています。
除夜の鐘は何時からつき始める?
ほとんどの寺院では22時過ぎから23時頃からつき始めると言われています。107回までを旧年に行い、最後の一回は新年になってから鳴らす事が正式な決まりです。毎年NHKで放送される「ゆく年くる年」では23時45分頃から除夜の鐘を鳴らしている最中の映像が始まり、深夜0時を過ぎてから108回目が鳴るまで放送されています。深夜、お寺まで行くのが大変な方は、テレビで除夜の鐘を聞いてみるのはいかがでしょうか。
除夜の鐘をつく回数の意味とその由来
除夜の鐘を打つ回数は108回です。なぜ108回鐘を鳴らすのでしょうか。諸説ありますが、一般的には煩悩を祓う為に行う説が有力だと言われています。
108という数字は人間の煩悩を表す
古代インドの語で煩悩を「クレーシャ」と言います。このクレーシャとは「苦しめる」「汚す」という意味があります。仏教では、クレーシャが「人間の苦しみの元になる考えや生き方、穢れた心そのもの」であるとしています。具体的には「妬み」や「憎しみ」、「執着」などがクレーシャー(煩悩)の代表として挙げられます。
クレーシャは人間を悩ませ、考え方をネガティブにさせます。この状態を仏教では不善の心と捉えています。煩悩は6つの感覚器官(目・鼻・耳・舌・身・意)の情報から生まれ(六根=6種類の煩悩)、感覚器官で受けた情報への心の状態(六根に対する好き・嫌い・どうでも良い=18種類の煩悩)、心の捉え方(六根に対するきれい、汚い=36種類の煩悩)が、繰り返される輪廻転生の中(過去世、現世、来世)で108個ずつ配分されると言われています。そのため除夜の鐘には、108個の煩悩を浄化する意味も持つとされています。
ちなみに人の持つ6つの感覚器官を「六根」と言い、仏教ではこの六根の対象にある執着を失くし、清らかな状態になることを「六根清浄」と言います。

除夜の鐘は22時過ぎ、または23時頃からつき始めます。
除夜の鐘は正式には107回を旧年の内に鳴らし、新年に108回目を一回鳴らすという決まりがあります。
仏教では、六根と呼ばれる感覚器官の情報から得た心の状態や捉え方、繰り返す輪廻転生の中で人は108個の煩悩を持っており、煩悩が苦しみの原因とされています。
除夜の鐘を打ち鳴らす回数には煩悩の数だけ浄化する意味もあります。 
●除夜の鐘 5 
除夜の鐘の歴史
日本の除夜の鐘は、中国の宋(960〜1279年)から伝わったそうで、もともとは、鬼門を封じるために鳴らしていました。鬼門とは、鬼が出入りする方角で、丑と寅の間(北東)を出入りします。月に直すと、丑が12月、寅が1月となり、この鬼が出入りするのを防ぐため除夜の鐘を打ち鳴らしていたのです。この中国の風習は鎌倉時代に伝来したのですが、それと同時に、臨済宗と曹洞宗の2つの禅宗も中国からもたらされました。そこから、仏教が進歩して様々な宗派ができていきます。新しい宗派は、その新しい寺の存在を知らせる、また信仰を増やすため、布教活動が必要になりましたが、その布教活動に除夜の鐘が含まれていました。大晦日の静かな夜に除夜の鐘を鳴らし始めると、室町時代にはあちこちに広まっていき、江戸時代になると一般の寺院でも鐘をつくようになっていました。このようにして、今日まで除夜の鐘が受け継がれてきたのです。
なぜ除夜の鐘は108回なのか
午前零時になる前に寺院で除夜の鐘を鳴らす風習は、中国から伝来したものです。もともとは中国の寺院では、毎月月末の夜に108回、除夜の鐘を打ちましたが、宋の時代になって大晦日だけになりました。宋が元に滅ぼされた鎌倉時代の末に、禅僧が来日します。この禅僧たちが日本の禅宗寺院で大晦日に除夜の鐘を殷々と打つようになったのです。除夜の鐘を108つ打つ理由には、二説あります。
一つ目は・・・中国では暦の12カ月、24節、72候(1候は5日)を合わせて108つ打ったという、1年分の暦を打ったという説です。
二つ目は・・・江戸時代、除夜の鐘が一般化しましたが、徳川家康が帰依したという浄土宗の説明が人口に膾炙されたのです。
つまりは、人間の過去、現在、未来に渡ってもっている108つの煩悩を鐘によって打ち払うという説です。108という数字・・・百・八は別の意味もあるのでしょうか?百は「もも」と読みます。百世は代々という意味になり、数えきれない長さを意味します。八はアジア大陸共通の聖数になり、長命な後世に残る人は、しばしば「百八歳」と呼びます。除夜の鐘は、大晦日から元旦にかけて打ち鳴らしますが、年の移行期に侵入しやすくなる魔を打ち払うため長々と打ち鳴らすのです。「長く、ありがたい」が意味で「百八」だったのでしょうか。そのために午前零時になる前から打ち始めるのですかね。
日本の伝統行事って、中国の伝統や暦が関係することが非常に多いですが、由来や意味を調べると、とても難しいですね。でも、一つ一つ興味を持って意味解いていくと、日本人のルーツ的なものが見え隠れして楽しくなりませんか? 
●除夜の鐘 6 
2016年の師走。既に年の瀬である。出来れば閏月でもう一ヶ月欲しいと思う今日この頃だが、皆さんは如何だろうか。残念ながら閏月はないものの、年が明けた2017年の1月1日に閏秒が追加される予定という。残り少なくなった2016年の日々を有意義に過ごしたいと思う。
年の瀬の最後。大晦日に行われる年中行事といえば、何を想起されるだろう。「年越し蕎麦」を手繰るか、若しくは「除夜の鐘」だろう。今回の写真は神奈川県小田原市の鐘楼であり、大晦日には撞く人々に賑わうという。除夜の鐘とは、除夜の12時をはさんで寺々の梵鐘を撞くことである。その数は108回とされ、煩悩を除き新年を迎えるためといわれている。さて、除夜の鐘について、変わったニュースが世間を賑わせたことをご存じだろうか。曰く、「“仏教の教え“で中止を決断? 「除夜の鐘」にうるさいとクレーム」などである。深夜に鐘を撞くことがうるさいと苦情が出て、自粛する寺院があるという。
NHKの紅白歌合戦のあと、「ゆく年、くる年」で除夜の鐘を撞く様子をリレー中継で放送するのは、大晦日の風物詩といってよいだろう。「ゆく年、くる年」という番組タイトルも元は「除夜の鐘」であり、1927年からラジオ放送で行われている長寿番組である。こうした日本の伝統的な年中行事を自粛するとは風情のないことだと、批判的に捉える人も多いのではないだろうか。季節の音色すら理解出来ない野暮といえよう。
だが歴史を学ぶ者として、野暮は承知の上で疑問がわき起こった。そもそも「除夜の鐘」とはどれくらい時代が遡れるのだろうか、と。除夜の鐘について、例えば『仏教文化事典』(佼成出版、1989年)などには「起源は中国の宋代。わが国では鎌倉時代以降禅寺で朝暮れの二回ついていたが、室町から除夜のみになり、いつしか除夜の鐘を合図に社寺へ初詣をするようになった。」とある。それでは寺院も多く史料も記されることが多い京都において、鎌倉時代や室町時代に「除夜の鐘」に関する史料はあるかというと、寡聞にして見たことがない。室町時代の『看聞日記』では「除夜」の記述はあるものの「鐘」の記述は皆無である。
また時代は下り、江戸時代の時刻とは、今日的な1日を24時間として等分する定時法ではなく、日の出から日の入りを6等分する不定時法である。日の出の六つから、五つ、四つ、九つで昼となり、八つ、七つ、六つで日の入りとなる。日の出、日の入りとは季節によって変化する。不定時法に依れば、夜明けの「明け六つ」から、日没の「暮れ六つ」は一年の中で長短が生ずるのであった。更に言えば江戸時代までの前近代の日本人は、日の出で一日の始まり、日の入りで一日の終わりと考えていた。日の出ている時間は人の一日であり、日の隠れた宵から暁までは神仏の一日と認識していた。そのため祭礼の多くは「宵暁」に行われる。
但し、定時法がなかった訳ではない。古代の『延喜式』から定時法は導入されているものの、日本人の時間感覚としては普及していなかった。江戸時代の暦を見てみると、世間では夜明けを一日のはじめとしているが、本来は「子」の正刻が正しいと天文方の役人が記している(「正子」。お昼の「正午」と対になる)。しかし、この理解は広がることはなかったようである。つまりは深夜の12時に日付が変更となる感覚は、近代まで待たなければならない。暮れ六つから明け六つまでは、神仏の時間である。夜も更けた「正子」に果たして除夜の鐘を打つだろうか。
そこで、先人が研究をされていないだろうかと調べたみたところ、西山松之助編『江戸町人の研究』6(吉川弘文館、2006年)に収められた浦井祥子「江戸の除夜の鐘について」という専論に出会い、学ぶことが出来た。浦井氏は史料を博捜して分析しており、次のような結論に達している。それは江戸時代の江戸において除夜の鐘について決まりがあった史料は見つからず、かつ、江戸において除夜の鐘を撞いたという事実は確認出来ないというものだ。唯一、江戸時代の鐘に関して信憑性が高い史料として高田与清の『松屋筆記』をあげている。
除夜ノ鐘ハ、元旦ノ鐘、元旦ノ寅ノ一点に撞キ始メ、百八声ツク、終ハレバ、昇堂ノ太鼓鳴リテ、読経始マル、送歳ナラズ、迎歳ナリ、
寅の一点とは、現在の午前四時頃。日の出に合わせて、歳を迎えるためとある。この事例が江戸で行われていたかは確定出来ないものの、「ゆく年」を送るではなく「くる年」を迎える行事があり得たことを示している。では大晦日の夜に除夜の鐘が撞かれたことはなかったのか。歴史学において「ない」ことを実証することは難しい。そのため推定となるが、大晦日の暮れ六つの「時の鐘」が、除夜の鐘として認識されていた可能性もありえるだろう。今後の研究が待たれる。
改めて結論を考えてみよう。「深夜12時」に新年を迎え、それにあわせて除夜の鐘を鳴らす行為は、とても近代的な感覚なのではないか。『仏教文化事典』にあった「年越」の項目には、除夜の鐘にあわせて初詣を行ったとある。しかしこの初詣という、新年を迎えて社寺を参詣するライフスタイルもまた、明治時代以降に普及する「新しい伝統文化」である。江戸時代までは「歳徳神」を自宅に迎えて元旦をすごすのが一般的であった。こう考えていくと、伝統的な年中行事と考えられてきた「除夜の鐘」も明治時代以降に「創られた伝統」の可能性が高い。
価値観が多様化している現代において、寺院の周辺に住むのは檀家だけない。寺院と住民との関係性が希薄になったからこそ、今回とりあげたような事例も起きるのであろう。伝統とは時代を経て変容していくものである。歴史を見つめ直し、何が地域コミュニティや住民にとって最善かを考える時代になったとえるだろう。 
 
 

 

 
 
 

 

 
 
 

 

 
 
 

 

●恵方 
●恵方 1 
1 吉方とも書く。古くは正月の歳神 (としがみ) の来臨する方向をいった。陰陽道が入ってのちは、その年の歳徳神 (としとくじん)、恵方神がおり 、たたり神のめぐってこない最もよい方向とされた。
2 その年の十干(じっかん)によって定められる、最もよいとされる方角。その方向に歳徳神(としとくじん)がいるとされる。吉方(きっぽう)。明(あ)きの方(かた)。《季 新年》「ひとすぢの道をあゆめる―かな/青畝」。恵方一覧・・・
年      恵方   方角          西暦換算
甲(きのえ)  寅卯の間、甲の方位 およそ東北東  下一桁が4の年
乙(きのと)  申酉の間、庚の方位 およそ西南西  下一桁が5の年
丙(ひのえ)  巳午の間、丙の方位 およそ南南東  下一桁が6の年
丁(ひのと)  亥子の間、壬の方位 およそ北北西  下一桁が7の年
戊(つちのえ) 巳午の間、丙の方位 およそ南南東  下一桁が8の年
己(つちのと) 寅卯の間、甲の方位 およそ東北東  下一桁が9の年
庚(かのえ)  申酉の間、庚の方位 およそ西南西  下一桁が0の年
辛(かのと)  巳午の間、丙の方位 およそ南南東  下一桁が1の年
壬(みずのえ) 亥子の間、壬の方位 およそ北北西  下一桁が2の年
癸(みずのと) 巳午の間、丙の方位 およそ南南東  下一桁が3の年

3 吉方、兄方とも書く。運勢判断において吉(きち)をもたらすとされる方角。年の干支(えと)により毎年異なり 、個人的には生年月日の干支により異なる。明きの方ともいい、歳徳神(としとくじん)がその方角からくるとして、恵方棚(えほうだな)を設け吉祥を祈る。正月には恵方参りといって恵方にある神社仏閣に参る。
4 陰陽道(おんみょうどう)に基づく方角の吉凶をいう俗信。吉方とも書き、明方(あきのかた、あきほう)ともいう。十干(じっかん)十二支の組合せによってその年の恵方を決める。陰陽道で歳徳神(としとくじん)のつかさどる方角をいったものであるが、日本では正月に歳神(としがみ)が訪れてくる方角と理解し、門松迎えには自分の山でなくとも、恵方の山から自由に切ってきてよいといったり、鍬(くわ)初めなどの仕事始めに際しても、恵方の田畑で儀式を行う。元日の朝早く牛小屋を見回り、そのとき牛の向いていた方角を恵方とする例もある。年の初めにあたって、その方角にある神社や寺に参拝するのを恵方参(えほうまい)りという。朝暗いうちから出かけ、人より先に行ってお札(ふだ)を頂いて帰ってくる。現在は、村氏神に参る初詣(はつもう)でと混同し、恵方の社寺に初詣でをしたり、また、社寺や交通業者の宣伝もあって、方角などには関係なく、有名な社寺に参ることが多い。
5 その年の縁起のよい方角。八卦法(はっかほう)による生気(しょうげ)・養者(ようじゃ)の方角。その第一は生気方で、養者方がそれに準じた。また、歳徳神(としとくじん)の宿る方角。明きの方。《季・新年》。※蜻蛉(974頃)中「いとよきことなり、てんげのえほうにもまさらん」。※咄本・醒睡笑(1628)一「商人(あきうど)、元日に恵方(エハウ)より持ち来たる若夷(わかえびす)を迎へんと思ひ」。[語誌] 近世以降「恵方」の表記が一般化した。平安朝の文献の「吉方」の表記は「よきかた・よきほう」などと訓読された可能性も強く、「えほう」の確証とする資料に乏しい。 
●恵方 2 
2020年 (令和2年)の恵方は西南西
正確には西南西のやや西で、スマホで確認する場合の方位角は255°です。2月3日(月)は節分。夜に恵方巻を食べる習慣も定着してきました。その年の恵方を向いて恵方巻(太巻き寿司)を無言で食べると縁起が良いそうです。ちなみに令和2年の2月3日は「一粒万倍日」と重なります。
恵方とは、その年の歳徳神が在する方位
歳徳神(としとくじん)は、陰陽道でその年の福徳を司る歳神(としがみ)様のこと。つまり今年の歳神様は西南西にいらっしゃるということですね。歳神様のいらっしゃる方向に向かって事を行えば、万事に吉だそうです。
ちなみに陰陽道(おんみょうどう)は、中国古代の宇宙観や世界観を起源とし、日本独自に発展した占いの体系のひとつ。また日本の占いでは立春(2月4日)から、その年の運勢の始まりとしている場合が多いようです。
ご自宅から西南西が吉方です。(北からの方位角・255°)
・宝くじを買う時は、西南西にある売り場を探す。
・旅行では西南西にある観光地を候補にする。
・お宮参り、ご祈願、ご祈祷は西南西にある神社で行う。
恵方巻の召し上がり方
節分(2月3日)の夜に、その年の恵方に向かって無言で願い事を思い浮かべて、丸かじりするのが習わしと言わています。また太巻きには7種類の具材を使うとされています。その数は商売繁盛や無病息災を願って七福神に因んだもので、福を巻き込むと意味付けされています。
恵方巻に使う7種の具材
具の種類は決ってないそうです。多く使われるものには・・・.あなご(または、うなぎ) / 玉子焼き / .しいたけ / でんぶ(または、おぼろ) / きゅうり / .かんぴょう / 人参
節分の豆まき
節分の日(2月3日)は、昔から大豆を撒く「豆まき」の風習もありますね。豆まきには季節の変わり目に生じる邪気を追い払い、一年の無病息災の願いが込められています。そして翌日の「立春」は新しい暦の始まりです。古くから邪気を鬼とみなしています。豆まきは、豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べると良いそうです。また自分の年齢より1つ多く食べると体が丈夫になり、風邪をひかないという習わしがある地域もあります。外に豆をまいた後は、鬼が家の中に入らないようにドアを早く閉めると良いそうです。
数え年とは・・
生まれた年を1才とし正月を迎えるたびに、年齢をひとつ重ねる数え方です。生まれた年が1才で元旦を迎えると2才になります。例えば2月3日の時点で満年齢が20歳であり、誕生日を迎えていない場合(4月が誕生日など)人は数え年で22歳になります。簡単な数え方は・・・その年の誕生日を迎えていない人:満年齢+2歳・・・すでにその年の誕生日を迎えた人:満年齢+1歳。 
●恵方巻き 
なぜ節分に恵方巻きを食べるの?
「恵方巻き」のルーツは関西にあるといわれています。節分の日に食べるようになった由来には諸説あり。有力な説としては、江戸時代から明治時代にかけて、大阪の花街で節分をお祝いしたり、商売繁盛を祈ったのがはじまりなのではとも言われています。また、もともとは「恵方巻き」という名前ではなかったのだとか。「丸かぶり寿司」や「太巻き寿司」などと呼ばれていたそうです。
7種類の具材の意味
「恵方巻き」の具材は、七福神にちなんで7種類入れるのが基本です。七福神とは、大黒天や毘沙門天、弁財天などの7つの神さまの総称。参拝すると「7つの災難が取り除かれて、7つの幸福を授かる」といわれている神さまたちです。代表的な具材は、かんぴょう、しいたけ、きゅうり、エビ、うなぎ、桜でんぶ、玉子焼きなど。最近ではサーモンやマグロなど、魚介などを入れた恵方巻きも増えています。具の種類はどうあれ、7つの具材を使うことで縁起を担いでいるのです。
いつ食べる?食べる日や時間
「恵方巻き」を食べるのは節分の日、つまり2月3日です。食べる時間帯については、これといった決まりはありませんが、基本的には夜だといわれています。豆まきで家のなかを清めたあとに、福を呼び込むために「恵方巻き」を食べるのがおすすめ!
2019年の方角や願い事は?食べ方のルール
「恵方巻き」の食べ方にはルールがあります。まずは太巻きをひとり1本ずつ用意しましょう。次に、「恵方」と呼ばれている、その年の福徳を司る神様がいる方角を向きます。そして、願い事しながら恵方巻きを食べるのです。
このとき、食べきるまで口をきいてはいけません。しゃべってしまうと運が逃げてしまうといわれています。「恵方巻き」を切らずにかぶりつく理由は、「縁を切らない」という意味があるのだとか。
2019年の恵方は「東北東」です。食べている途中によそ見をするとご利益に預かれないと言われているので、恵方を向いている間は黙々と食べましょう!  
 
 

 

●縁起 
●縁起 1 
「縁起」とは「すべての存在は無数無量といってよい程の因縁によって在り得ている」という、仏教の基本思想を表す重要な用語であるが、私たちの日常において用いられている仏教語の中で、これほど誤解されて用いられている言葉も珍しい。 その代表的なのが「縁起がよい、縁起が悪いと、縁起をかつぐ」という用いられ方で、吉凶の前兆として縁起という言葉が用いられていることである。どうしてこのようになったのであろうか。それは同じく縁起という言葉であっても、「縁起絵巻」といわれる場合のように、寺社などの由来・沿革・起源という意味で用いられる縁起という言葉とすり替わって、その由来などという意味が吉凶の前兆という意味となったことによるのであろうか。
しかし、そこにはもっと基本的な人間の問題があるのではなかろうか。仏教における縁起とは、私たちは因縁によって存在するのであって、それらの因縁を取り除いたら「私」と言われる確かな存在は塵垢ほどもないという意味である。それを「無我」というのであるが、それをそのように正確に了解せず、この私がたくさんの因縁を頂いて生かされているという通俗的な意味で了解されてしまったからではなかろうか。そうであれば、自分の都合だけを求めているこの私が先に存在しているのであるから、自分の都合のよい因縁だけを願うのは当然である。福は内、鬼は外となる。そこに縁起がよいとか悪いと「縁起をかつぐ」という構図がでてくる。
いうまでもなく、仏教の基本思想でいう縁起とは、私が先に存在しているのではなく、無量無数の因縁が私となっている、無量無数の因縁によって私が成り立っているという意味であるから、福も内、鬼も内である。福と鬼が私となっているという意味である。それがいつの間にか、縁起が吉凶の前兆を意味する、自分の都合を願う言葉になっいているとすれば、仏教の大切な教えすらも、自分に都合よく理解しようとする人 間の本質が見えてくる。 
●縁起 2 
他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。因縁生、縁生、因縁法、此縁性ともいう。
種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とするが、無明を根本原因とする12の項目からなる縁起説(十二因縁)が次第に定着した。後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた。
歴史的変遷
初期仏教および部派仏教までの段階の縁起説は、迷いの世界(有為)のみを説明するものであり、悟りの世界(無為)は縁起の中に含まれなかった[3]。この段階までの縁起説においては、悟りは縁起を超越し縁起の滅した世界であるとされた。
初期仏教
初期仏教時代の縁起説は、苦しみ悩む有情が主題であったため、老死という苦しみの原因を無明に求める十二支縁起(十二因縁)説が代表的なものであった[3]。
「全てのものは原因から現れ、その原因とその止滅を如来は説かれた。偉大なるサマナはこのように説かれた。—  律蔵大品」
   経典における扱い
経典によれば、釈迦は縁起について、「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」と述べた。またこの縁起の法は、「わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり」と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、[要出典]自らはそれを識知しただけであるという。縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。— 小部経典『自説経』」と説かれる。
部派仏教
部派仏教の時代になり、部派ごとにそれぞれのアビダルマ(論書)が書かれるようになるに伴い、釈迦が説いたとされる「十二支縁起」に対して、様々な解釈が考えられ、付与されていくようになった[要出典]。それらは概ね、衆生(有情、生物)の業(カルマ)を因とする「惑縁(煩悩)・業因→苦果」すなわち惑業苦(わくごうく)の因果関係と絡めて説かれるので、総じて業感縁起(ごうかんえんぎ)と呼ばれる[要出典]。
部派仏教の時代には、客観世界や客観的現象まで説明しうる縁起説として説一切有部の〈六因・四縁・五果〉や、南方上座部の二十四縁も説かれた[3]。
   説一切有部
説一切有部では、十二支縁起を過去世・現在世・未来世の三世に渡る業の因果関係とみる三世両重の業感縁起説が説かれた。
有力部派であった説一切有部においては、「十二支縁起」に対して、『識身足論』で 「同時的な系列」と見なす解釈と共に「時間的継起関係」と見なす解釈も表れ始め、『発智論』では十二支を「過去・現在・未来」に分割して割り振ることで輪廻のありようを示そうとするといった(後述する「三世両重(の)因果」の原型となる)解釈も示されるようになるなど、徐々に様々な解釈が醸成されていった。そして、『婆沙論』(及び『倶舎論』『順正理論』等)では、
・刹那縁起(せつなえんぎ)--- 刹那(瞬間)に十二支全てが備わる
・連縛縁起(れんばくえんぎ)--- 十二支が順に連続して、無媒介に因果を成していく
・分位縁起(ぶんいえんぎ)--- 五蘊のその時々の位相が十二支として表される
・遠続縁起(えんばくえんぎ)--- 遠い時間を隔てての因果の成立
といった4種の解釈が示されるようになったが、結局3つ目の分位縁起(ぶんいえんぎ)が他の解釈を駆逐するに至った。
   三世両重(の)因果
      過去因→現在果   現在因→未来果
因  惑  無明        愛・取
   業  行         有
果  苦  識         生
      名色・六処・触・受 老死

説一切有部では、この分位縁起に立脚しつつ、十二支を過去・現在・未来の3つ(正確には、過去因・現在果・現在因・未来果の4つ)に割り振って対応させ、過去→現在(過去因→現在果)と現在→未来(現在因→未来果)という2つの因果が、過去・現在・未来の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられた。
なお、この説一切有部の三世両重(の)因果と類似した考え方は、現存する唯一の部派仏教である南伝の上座部仏教、すなわちスリランカ仏教大寺派においても、同様に共有・継承されていることが知られている。
また、説一切有部では、こうした衆生(有情、生物)のありように限定された業感縁起だけではなく、『品類足論』に始まる、「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)のありようを表すもの、すなわち「一切有為法」としての縁起の考え方も存在し、一定の力を持っていた。
大乗仏教
大乗仏教においても、部派仏教で唱えられた様々な縁起説が批判的に継承されながら[要出典]、様々な縁起説が成立した。
   般若経典
初期の般若経典は、縁起する諸法の本質は空であるとし、個別の特徴を持たない(無相)とした[3]。それゆえに全ての執着を離れることが強調された[3]。
   龍樹
龍樹(ナーガールジュナ)は、説一切有部が諸法に固有の性質(自性)を認めたうえで縁起や因果を説明することを批判した[3]。龍樹は、諸法は空すなわち無自性であるから縁起し、また縁起するから自性をもたず空であるとした[3]。
龍樹は、『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの法有(五位七十五法)説に批判を加える形で、有為(現象、被造物)も無為(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した相依性(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる相依性縁起(そうえしょうえんぎ)を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた[要出典]。
中村元によれば、中論の主張する縁起は、有部の縁起論とは著しく相違するが、後世中国の華厳宗の法界縁起の思想には非常に類似しているという[7]。法界縁起の説においては、有為法・無為法を通じて一切法が縁起していると説かれるが、その思想の先駆は中論に見いだされるという[7]。
   唯識
唯識派では、縁起は識の転変の意味であるとし、阿頼耶識・末那識・六識が相互に因果となって転変することを指すとした阿頼耶識縁起が説かれた[3]。
『解深密経』では頼耶縁起が説かれる。阿頼耶識(あらやしき)からの縁起を唱える説[要出典]。
   如来蔵思想における縁起
現象世界を、真如(如来蔵)が縁に従って現れたものと見る真如縁起(如来像縁起)が如来像思想に見られる[3]。
   華厳宗・華厳経
現象世界をそのまま真如であると見る法界縁起(重々無尽縁起)が、中国の華厳宗において形成された。
華厳宗では縁起を、機縁説起という意味に解する[2]。この「機」は人間・衆生を意味し、「縁起」は人の素質の良し悪しに応じて説を起こすことを意味する[2]。縁起因分という。これは、さとりは、言語や思惟をこえて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起こすことをさす[要出典]。
『華厳経』十地品では唯心縁起が説かれる。三界(欲界・色界・無色界)の縁起を一心(唯心)の顕現として唱える説(三界一心、三界唯心)[要出典]。
   空海・修験道
それぞれに性質と作用を持つ六大(地・水・火・風・空・識)が、大日如来の本質として実在し、また世間の生物や事物としても実在して、相互に無碍融通しながら万法に偏在しているさまを六大縁起と呼ぶ[3]。空海が法界縁起説をふまえて六大縁起説を大成した[3]。修験道でも六大縁起が説かれる[要出典]。
転用
本記事で解説した仏教用語としての用法の他に、下記のような語義がある。『岩波仏教辞典』は、これらの語義は仏教用語としての「縁起」が転用されて生じたとしている[3]。
1.社寺、仏像、経典などの由来や沿革[3]。寺社縁起、縁起絵巻、縁起状など。
2.吉凶や幸不幸の、因由や前兆[3][8]。「縁起を担ぐ」、「縁起が良い」、「縁起が悪い」、縁起物、縁起直し、縁起棚など。 
●縁起 3 
「縁起がよい」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」という言葉をよく耳にします。茶柱が立ったら縁起がいい。黒猫やカラスに出会うと縁起が悪い。あるいはマナーとして贈り物には縁起のいいものを贈る。お見舞いに縁起の悪いものはダメ、など多かれ少なかれ縁起を気にして生活しています。「縁起」は元々仏教から出た言葉です。しかし現在使われている意味と元の意味とでは意味が変わっています。仏教で使われる「縁起」を説明したいと思います。
「縁起」の意味
1.物事の吉凶の前兆。きざし。前ぶれ。
「縁起がよい」「縁起が悪い」 「縁起をかつぐ」とは、吉凶にとらわれる、縁起がいいとか悪いとかを気にすることをいいます。
2.社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。また、それを記した文献。
「信貴山縁起」は有名です。「信貴山縁起(しぎさんえんぎ)は、平安時代末期の絵巻物で、2016年現在、日本の国宝に指定されている。『源氏物語絵巻』、『鳥獣人物戯画』、『伴大納言絵詞』と並ぶ四大絵巻物の1つと称される。朝護孫子寺が所蔵。「信貴山縁起絵巻」とも称する。」
3.事物の起源や由来。
4.因縁によってあらゆるものが生ずること。
縁起とは因縁生起(いんねんしょうき)を略したものです。すべてのものは、因縁によって生起するということです。経典には、以下のような言葉があります。
一切法は因縁生なり。『大乗入楞伽経(だいじょうにゅうりょうがきょう)』
一切法とは、万物、すべてのものです。すべてのものは、因縁によって生じているということです。これを因縁果(いんねんか)の道理ともいいます。どんな結果にも、必ず因と縁がある。因と縁がそろってはじめて結果が生じる。これが道理、いつでもどこでも成り立つことである。因だけでも結果は生じない、縁だけでも結果は現れない。因と縁がそろって結果が生じる。これが因縁果の道理です。米に例えると、米の因はモミダネです。モミダネだけでは、米はできません。モミダネが米になるには、水、土、日光などが必要です。これらを縁といいます。縁は、因が結果を生み出すのを助ける働きをいいます。
私たちの日常生活の因縁果の道理は、次のように教えられています。
   善因善果(ぜんいんぜんか)
   悪因悪果(あくいんあくか)
   自因自果(じいんじか)
よいタネをまけばよい結果が現れる。悪いタネをまけば悪い結果が現れる。大根のタネをまけば大根が出てくる。スイカのタネをまけばスイカが出てくる。まいたタネに応じたものが生えてくるということです。自因自果とは、自分のまいたタネの結果は自分がかりとらねばならないということです。
ここで、因とは行い、果はわかりやすくいうと運命です。よい行いをすればよい運命、悪い行いをすれば悪い運命が現れる。よいのも悪いのもすべて、自分に現れる運命は、すべて自分の行いが生み出したものである。
仏教では、「よい結果がほしければ、よい行いをしなさい。悪い結果が嫌ならば、悪い行いをやめなさい」と廃悪修善(はいあくしゅぜん)を教えられています。
仏教の「縁起」は「縁起がよい」「縁起が悪い」を否定する
因縁果の道理を仏教では「縁起」といいます。仏教の「縁起」は、吉(善果)は、よい行いが生み出すものであり、凶(悪果)は、悪い行いが原因であると教えます。ですから、仏教では、縁起をかつぎません。
仏教は、今日はもともといい日だった、もともと悪い日だったという日の善悪を否定しています。カレンダーに「仏滅」とあると、仏教と関係があると思いがちですが、仏教では、仏滅の日だからといって、悪い日とは教えていません。廃悪修善の心がけ次第、「日々これ好日(こうじつ)なり」、毎日、心がけ次第でよい日になる、これが仏教の「縁起」です。 
●釈迦の教え・縁起の法 4 
『縁起』の本当の意味とは…
私たちはよく「縁起がいい」「ご縁がある」などと言います。それは、運が良いとか、運命を感じるといった感覚でこの言葉を使っているのです。それでは「縁起」という言葉には、本来どんな意味があるのでしょう。実は、この縁起という言葉は、仏教を開かれたお釈迦さまの教えに由来しているのです。 縁起とは「縁(よ)って起こる」ということです。「この世のあらゆる物事には必ず原因と結果がある。」「物事がそれだけで存在することは無い」ということです。原因があるからすべての現象は存在する。その存在が原因となって次の結果がもたらされる。そうした因果関係を見極めたのが、お釈迦さまの悟られた境地の一つなのです。私たちのいのちも、生れ死に、死に生まれる。必ずどこかでつながっている。そのことを縁起という法則で説き明かしたのがお釈迦さまの教えです。
あらゆる物事は、何に縁って起こるのか? 
縁起の法を説明する時、次のように例えます。花は種がなければ咲くことはできません。また、土や水や温度や光がなければ、花を咲かせることはありません。この時の種が原因で、水や光などが条件となって、花は咲きます。縁起の法は、種を「因」、水や光などを「縁」、花が咲くことを「果」と呼びます。このように縁って起こる法則を縁起と名づけたのです。 縁起の法は「これがある時、それがある。これが生じる時、それが生じる。これが無い時、それが無い。これが滅する時、それが滅する。」と言い表わします。あらゆる物事はすべて因果関係で成り立っている、物事はそれ自体では存在しない、ということです。お釈迦さまは、思いどおりにならない苦しみから抜け出すには、どうしたらいいかと考えました。苦しみは何に縁って起こるのか?その問いかけから縁起の法に行き着いたのです。
どうすれば、苦は消滅できるのか? 
お釈迦さまの教えも、因果関係を意識したものになっています。四聖諦と八正道もそうです。四聖諦は、苦・集・滅・道の四つの真理から成り立っています。1.人生は思いどおりにならない苦である(苦)。2.苦は欲望を引き起こす煩悩である(集)。3.煩悩を滅した状態が涅槃である(滅)。4.涅槃に至るには修行の道がある(道)。というものです。 この苦と集、滅と道が因果関係となって説かれているのです。集が原因となって苦という結果を生む。道(=八正道) が原因となって滅という結果をもたらすというわけです。 お釈迦さまの教えは、苦を滅して解脱する、涅槃(悟り)に至ることを目的とします。苦の原因を探り、苦を滅することで生存の苦しみから抜け出すのです。つまり、渇愛が原因となって執着を生じ、執着することが原因で苦が生じるという因果関係を解き明かすのです。 
●縁起 5 
すべての物事は、縁よって、すなわち、相あい関連しあって起おこる、すなわち、発生しているという意味。梵語では、「縁」は「相互に関連しあって」の意、「起」は「発生・生起すること」の意。この縁起は、仏教初期の時代と、後世の発達した教義とでは、大きく意味・内容が変化している。まず、初期では『雑阿含経』に見られるように、十二縁起を説く。その内容は、以下のようである。心に、1無明むみょう(無知)というものがあって、2行ぎょう(その心が動き)、3識しき(意識が活動し)、4名色みょうしき(心が見聞きするものに、名と形がともない)、それらを、5六入ろくにゅう(眼げん・耳に・鼻び・舌ぜつ・身しん・意いの感覚器官)によって、6触そく(対象に触れ感じ取り)、7受じゅ(感受し)、それぞれに8愛あい(渇愛)が生じ、9取しゅ(執着)ができ、10有う(生存)があり、11生しょう、人生が展開し、やがて12老死ろうしに至る、と迷いが順次に人生を展開していって、やがて老死に至ると説明する。これは発生の順観じゅんかんという。逆に、その故に、老死を超えるには、無明を滅すれば、行が滅し、識、名色、六入と逆に滅していって、ついには老死もなくなる、とする。この修行努力の過程を逆観ぎゃくかんという。こうした縁起観は、人の心と生命が、無の存在から次第に感覚器官の活動により生命となって人生が展開、やがては、老、死に至る人間の生存を説明し、同時に、そのような煩悩の動きに迷わされぬことを示している。
後代になると、迷いの世界の説明より、世界と心の問題として、思想的、哲学的に深く説明されるようになり、種々の縁起説が展開し、日本では民衆、社会に大きな影響を与え、縁起の心と一々自覚されてはいないが、現在に至っている。その中、華厳宗で説く法界縁起は、一宗にとどまらず、今日に至るまで、広く影響を与えている。法界縁起は、四種に示されている。1事法界(事物観)、2理法界(真理の立場で観る)、3理事無礙法界りじむげほうかい(真理も事物も事・理不二の真理と観る)、4事事無礙法界じじむげほうかい(諦観すれば事物、それぞれ、そのままで相即そうそく、相互に関連しあうと観る)という見方である。例えば、庭を造るのに、漠然と岩石を運び入れても、ただ、ものが個々に、すなわち、事と事とが置かれてあるだけである。しかし、一定の発想、例えば極楽浄土の思いをかけて、石組みをし、配置すれば、見る人自ずから、その思いを読み取るであろう。語らぬ石も、自由に、無礙に語ることができるのである。造園の一石一石といえど、作者の発想に対して、無限の解釈もあり得ることが、一即一切、一切即一と表現される。法界縁起も、このように、よく通観、達観するものに悟得される。また真言宗では、全世界、全身を、地・水・火・風・空・識の六大ろくだいから成り立つ、とする縁起説がある。ちなみに『華厳経』は、仏教が日本に伝来して早々に国家安定の経として受用され、そこに説かれる法界縁起という構想が、太陽のような仏である盧舎那仏るしゃなぶつが国の政治の中央である奈良にあって国全体に慈悲の光明を放ち、守り育てるという考えに発展した。東大寺に盧舎那仏の大仏が安置され、法界縁起の教えが全国に広められ、国家統治の理念となった。今日、このことを注視する人は少ないが、注視するか否かにかかわらず法界縁起に基づく統治理念は日本の風土に定着しており、日本の政治、社会生活に対する影響を考慮する必要もあろう。  
●仏教:縁起の法 6  
仏教では、縁起の法が説かれます。よく私は因果の法と言いますが、同じような意味です。つまり、過去の原因によって、今の結果が生じているという原因と結果の結びつきを示した教えです。当然、過去の原因が無くなれば、今の結果も生じ得ない、ということになります。さて、お釈迦様の中にシャーリプトラという大変重要で大変高徳なお弟子さんがおられます。般若心経に出てくる、舎利子です。この方の逸話の中に、次のような詩を聞いただけで、瞬く間に悟ってしまったそうです。『諸法は因により生ず。如来はその因を説きたまふ。諸法の滅をもまた。大沙門はこのごとく説きたまふ。』 この縁起の法を理解することがどれだけ重要か、ということを理論的に示してみたいと思います。
まず、縁起の法をもう少し、分かり易く言いたいと思います。あればあるから、これがあり、あれがなければ、これもない。過去世において、生命に対してよきことをしてきたものは、現世において歓びを受け、また過去世において悪い事をしてこなかったものは、現世においてつらい思いをしない、ということです。
それで、この縁起の法を理解し、心に染み込ませることが如何に素晴らしいことなのかを示します。例えば、自分が大切にしていた物が、全く関係の無い人に奪われてしまう、という状況を想像してみます。普通なら、怒りがこみ上げ、友達などにぐちを言ったり、何とか取り戻そうと、実力行使をしたり、裁判で争ったりすると思います。その結果は、どうでしょうか。理由はどうあれ、自分の心の根底には、悪感情が常に生じているので、当然に行動も悪いものになります。そして、このような悪い身口意は、縁起の法により来世以降に、結果として自分自身に降掛かり、他の人からひどい対応をされることになります。なんて理不尽なと思わないで下さい。縁起の法は真理であり、理不尽だと思おうが、そんな理屈信じないと頑張ってみたところで、のれんに腕押しで、結果に変わりはありません。
さて次に、同じ例で、縁起の法を理解し、行動もそれに沿った人を見ていきましょう。自分の物が盗まれたということは、盗まれるだけの悪い事を自分自身がしたのであるのだから、さっぱりと忘れよう。多少つらいけど、ふざけやがって、などと怒りを生じたならば、自分へつらい報いがやってくるのだから、感情を抑え、耐え抜こうと考えました。その結果、来世において、これに係るひどい報いを受けることはありませんでした。
このように、恩恵の一つは、来世においてひどい報いを受けることを防ぐことができるということです。
さあ、次は執着がなくなるという恩恵です。これは、縁起の法をよくよく熟慮してみると、悪い事をすれば悪いことが生じると言うことであるが、悪い事をしてしまうのは、どうしてか。どうしたら、悪い事をしないようにできるのか。ということを考え、実行していくことが根本的に重要だと思い至ります。さて、なぜ我々は普通に悪い事をしてしまうのでしょうか。それは、自己に対するこだわり、執着心です。自分がこの上なく可愛いと思う心です。なお、自分が嫌いで嫌いでしょうがない人も自分が好きで好きでしょうがないことの裏返しですからね。それで、この執着心があると、自分がバカにされたりして怒り、自分の物が盗まれたりしてまた怒り、愛憎にまみれて、ひどいことをしてしまう。縁起の法を良く理解する人は、このような危険性、執着心による悪行の数々の犯し易さを理解し、その根本心理である執着心を捨てるという方向へ向かおうとするのです。それにより、今までより格段に悪い身口意をしないようになり、来世において苦しみを回避することができるのです。
さて、総括的なお話をしましょう。縁起の法を心から理解するものは、執着心が薄れていき、悪行から離れようとします。来世以降無数の生まれ変わりをしていくわけですが、その一つ一つの生において、自分が自由に選択できることが無数に存在するわけですが、その都度、無執着な人は悪行をしない選択をし、まあ良いことするだろうから、どんどんと境涯があがり、天界などのよきところへ進みます。一方、執着にまみれたものは、同じく無数の選択において、その都度、悪行を選択してしまい、その結果、地獄界のようなひどい苦しみしかないようなところへ進みます。つまり、縁起を知るものは、それだけでも終局的によきところへ行くことができるのです。縁起を知る者は法を知る、法を知る者は縁起を知る、と言われるほど、縁起の法は仏教の要なのです。そして、縁起の法を本当に理解するものは、涅槃に大きく一歩前進したといえるのです。
さあ、重い重い、自分が自分がというヨロイを脱ぎ捨てるために、自己から離れる瞑想をして寝ようかな。とっても気持ちの良いものです。  
●縁起 7  
お釈迦様は、すべてのものが、この世に存在をするためには、その状態を保っている要素があると教えています。そして、人間の存在を構成し、保っている要素を分析する事で、苦から脱却するための覚りに至っています。その分析内容を、教えにしたものを縁起と言います。果たして、どんな内容だったのか?さっそく、調べてみました。
縁起と因果関係
お釈迦様が教えを説くことから始まった仏教ですが、その教えを説く(物事の道理などを解説する)ことを説法(せっぽう)と呼びます。法(ほう)とは、サンスクリット語で「ダルマ」といい、「保つ」という意味になります。つまり、お釈迦様は、この世の中に存在している、すべての物事には、その状態を保っている要素があると考えました。それを解説することが、説法です。そして、人間とは何か?という、人間という存在を保っている要素(法)をお釈迦様は深く考えていくなかで、人という存在の在り方や、苦がおきる仕組みに思い至り、苦のない覚りの境地に達しました。
その存在の在り方や仕組みを理解する元となるものを縁起と呼びます。縁起とは、因果関係のことで、すべての存在は、原因(因)と条件(縁)によって、成立【結果(果)】するという考え方です。同様に、因縁(いんねん)とも類義します。
例えば、四諦(四聖諦)は、この因果関係で、説明できる代表のものです。
1.集諦が(原)因で、苦諦が(結)果
 1集諦(因):心の乱れを引き起こす煩悩が苦の原因
 2苦諦(果):人生は苦、思い通りにはならない
2.道諦が(原)因で、滅諦が(結)果
 1道諦(因):涅槃(覚り)に至るためには修行が必要
 2滅諦(果):煩悩が消え、苦を滅した状態が涅槃の境地
別の例え(お花を植える場合)で言い換えると、
 1花の種をまく(原因)
 2水や土の栄養(肥料)や太陽の光が十分に補給された(縁)
 3花が咲く(結果)
この場合、因と縁が変われば、結果も変わります。もし、まいた種が違う花の物であれば、違う花が咲き、水や肥料や太陽の光が十分でなければ、育ち方が違います。場合によっては、枯れてしまうこともあります。
お釈迦様は、人間の苦がこの様な因果関係から生じていると考え、その原因がなくなれば、結果である苦から抜け出せるとし、その苦ができる(原因)の成り立ちを12段階に分けて教えました。それを、12支縁起(じゅうにしえんぎ)と呼びます。
12支縁起
お釈迦様はお弟子さん達へ、この様な教えをしています。
縁起とは、何であろうか?
無明によって、行がある。行 によって、識がある。識 によって、名色がある。名色によって、六処がある。六処によって、触がある。触 によって、受がある。受 によって、愛がある。愛 によって、取がある。取 によって、有がある。有 によって、生がある。生によって、老師・愁・悲・苦・憂・悩が生じる。
かかるものが、すべて苦の集積によって起こるところである。これを、縁によって起こると言うのであると教えました。このうち、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・労死を12支縁起と呼びます。これらは、それぞれが原因・結果となり、人に苦をもたらせている(生じさせている)ということです。
無明(むみょう)
1.存在の在り方や本当の姿がわかっていない状態
2.無知・明るくないこと、迷妄(妄念)の中にいること
すべての苦は、真実を知らない迷いから発する、煩悩が原因です。迷いという暗闇を、智慧(正しく物事を認識し判断する力)という、光で照らすことにより、苦は消滅します。なお、お釈迦様は、この苦しみの元である無明を滅する方法を八正道で教えています。無明とは、自分の心を野放しにしている状態。いわゆる無管理のため、誤った考えに支配され、あらゆる事が起こりうる状態のこと。
行(ぎょう)
1.潜在的な意志(無明が生む欲望のままの心)の形成
2.心の働きがある方向に影響を与えること(動機)
3.行為、行動。物事がそのように為る力(業)
私が何か物事を認識し、それに対して何かしらの行動をした経験の積み重ねが習慣となり、その影響による考え方に行動が依存します。例えば、私がトマトのなっている状態を見て、収穫したり、料理をしてみようと思うことは、トマトの扱いに対する経験により、自然と意識が向かった結果の行動になります。つまり、今までに、自分が何を行い、何を話し、何を思ってきたか?という、身口意の三業により、何かに対する動機が変わってきます。行とは、野放しにした(欲望のままの)心の状態や誤った考え方(煩悩)により、生じる様々な動機のこと。言い換えると、行動を起こさせる欲求のこと。イメージは、食欲・名誉欲等
識(しき)
1.対象を識別する作用
2.好き嫌い、選別、差別につながること
行(欲求)は、識の行動に影響を与えます。例えば、食欲があると、食べ物に意識が集中します。何か食べ物はないか?、美味しいものが食べたい!好き嫌いで食べ物を選択するなど、食べ物に注意を奪われます。識とは、何に注目(意識)するのか?注意力と、その後の選別する働きのこと。それは、行(欲求)により意識する対象が影響を受け、変わってくることになります。言い換えると、目的意識とも言えます。
名色(みょうしき)
1.識別によってできあがる精神と肉体
2.対象の名前とその形(それが現れている形)
名色とは、名前と対象(概念)のことです。例えば、食べたい欲求(行)により、食べ物を意識した(識)時に、あれが食べたいという、具体的な食べ物の名前とイメージ(形)が現れてきます。つまり、行によって欲求が生じ、識により目的意識が生じ、その目的を満たすものは何か?それが、名色になります。言い換えると、その何かを思い浮かべた時に生じる、名前やイメージのことを言います。
六処(ろくしょ)
1.精神や肉体ができる際に生じる感覚器官(目・耳・鼻・舌・身・意の6つの感覚機能)
2.外界を受け取る6つの感覚の場所
六処とは、名色で、こころに思い浮かべたものに対して、働きが生じる感覚器官のことを意味します。例えば、食べ物であれば
目:食べ物を見つける / 耳:売っている人の声を聞く / 鼻:においを嗅ぐ / 舌:味わいを思い出す / 身:食感を楽しみにする(触覚) / 意:どうしたら手に入るか考える
言い換えると、名色により定まったものに対して、どの感覚器官を使うのかという認識のこと。まだ、この時点では、対象のものを思い浮かべ、どの感覚器官で探すかを意識する段階を意味します。
触(そく)
1.感覚機能(六処)が、それぞれ外界の感受対象と接触し、認識をすること。
触とは、六処で認識した感覚器官で実際の対象と接触すること。言い換えると、実際の対象と接触することで、具体的な味覚などが認識できます。
受(じゅ)
1.触による感受作用
受とは、触により接した時の感覚のこと。例えば、苦や楽、快不快、美味不味い等
愛(あい)
1.受によって起きる愛着や欲望
2.渇愛(満たされていない、ほしいという生命の根元的な欲望)
愛とは、受を再び得たいと思う強い欲求のこと。言い換えると、のどが渇いたものが、水を激しく求める様に、一度得た受を(肯定的・否定的なものがあるが)、再び得たいと思う欲求のこと。満たされたいという、強い思いが欲求となること。どの様な受であるかによって、愛も変わって来ます。
取(しゅ)
1.愛着したものや欲望の対象に対する執着
取とは、愛により生じた肯定的・否定的な強い欲求を取捨選択する態度(感情)のこと。言い換えると、強い欲求(愛)により生じる、好き嫌いという感情から発する、所有意識(排除意識)のこと。例えば、食べ物で言えば、もう一度食べたいもの(好きな食べ物)を手に入れたいと思うこと等
有(う)
1.執着によって起こる生存
2.存在・実在・生存
有とは、取によって発した所有意識(排除意識)により、こころの中に深く残る印象のこと。言い換えると、所有意識(排除意識)をもつことで、対象の物事は、こころに強く存在してしまうこと。強い存在感が生じてしまうこと!と言えます。例えば、食べ物で言うと、本当に食べたいと思うものが、こころから離れないで残ること。
生(しょう)
1.六道輪廻のいずれかに新たに生まれること
2.生まれ、生きること
生とは、有によって新たに生まれた(存在した)経験のこと。言い換えると、強い存在により、生じた思いに自分のこころが閉じ込められる(縛られる)こと。例えば、食べ物で言うと、強く渇愛し、所有意識を持ち、その存在を強く意識したときに、その食べ物の存在に、どうしてもそうなんだ(そうしたい)という思い。何と言おうと、こういう存在として消えない自分自身の思いが閉じ込められていると感じる。それが生になります。つまり、有として、どの様な存在を強く意識するかで、生も変わってくることになります。
老死(ろうし)
1.生まれた瞬間に始まる老死の苦
2.老いと死
老死とは、生によって生じた強い思いの囚われも、やがて衰退していく自覚のこと。言い換えると、強い存在感をもっている対象も、やがては衰退し、存在しなくなる苦しみを自覚すること。いつかは、無くなると思う、心配執着も同じです。つまり、縁起とは、無明という状態で何かしらの原因が発生し、途中の条件(縁)【行〜生】によって、老死という結果が生じる過程を述べています。
縁起とは?〜まとめ〜
1.縁起とは、因果関係のこと。
2.因果関係とは、すべての存在は、原因(因)と結果により成り立っていること。
3.人間の苦は因果関係から生じている。
4.その苦ができる(原因)の成り立ちを12段階に分けたのが12支縁起。
5.12支縁起は、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・労死のこと。
6.縁起とは、無明という状態で何かしらの原因が発生し、途中の条件(縁)【行〜生】によって、老死という結果が生じる過程を述べています。
お釈迦様は、思い通りにならないことを人生の苦と教えていますが、苦の成り立ちは複雑ではなく、それこそ12分割した単純なことの組み合わせで成り立っている。それを一度に考えてしまう事で、それぞれの因果関係が複雑に絡み合って見えてしまうだけだということです。ちなみに、因果関係とは、一方通行の関係です。無明から老死にいたるまで、すべての流れがあって苦の原因となります。したがって、縁起による苦しみから逃れるためには無明を解決するしかないという結論にいたります。
縁起が良いとは?幸せに結びつくこと。すこし、話が変わりますが、縁起とは、因果関係のことです。一般的に、縁起が良い悪いと言われる内容は、次の意味から生じています。
1.良い事や悪い事の前触れ
 1何か良い事があると思った時に、前段で何か良いイメージがあること。
 2良い結果がある前提では、良い原因があること)
 3善因善果、悪因悪果
2.物事の起源やその由来が、良かったり悪かったりすること。
例えば、商売繁盛をもたらせるという由来のものを手に入れると、これは縁起が良いものを手に入れたことになります。  
 
 

 

●仏陀 
縁起の法(仏教の世界観)
縁起の法は、仏教の根本的な教説である。仏教における縁起は、仏教の根幹をなす思想の一つである。縁起の法は、ブッダが自身の悟りの内容を、分りやすく表現しようとしたものとされている。この縁起の法は、「縁起を見る者は法を見る、法を見るものはわたしを見る」ともいわれる根本的な説である。
ここでいう「縁起」とは、縁によってて起こることを意味する。縁によってとは、条件によってという意味であり、現象あるいは存在の相互依存関係を表している。縁起の語は、「因縁生起」の略からきている。「因」とそのは原因のことであり、「縁」とはその生じる条件のことである。世界の一切は、直接にも間接にも、何らかのかたちで、それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指している。
「わたしの悟った縁起の法は、深甚微妙であり、一般の人の知りがたく、悟りがたいものである。」
縁起の法は、ブッダによって説かれた思想ではあるが、「この法則は、如来(ブッダ)が世に出ても出なくても、それに関係なく、法として定まり決定しているもの」とされる。つまり縁起の法は、すでに法則として、この世界に存在している法則自体であるということである。
縁起の法の基本となる考え方は、次の文章で示される。
   これあればかれあり、
   これ生ずるが故にかれ生ず。
   これなければかれなし、
   これ滅するが故にかれ滅す。
最初、この文章を読んだときには、当たり前のことすぎるようにも思え、これにどんな重要な意味があるのか、なかなか理解に苦しんだ。しかし「これあればかれあり」とは、「苦」の存在する理由、「これ滅するが故にかれ滅す」とは、「苦」を滅する「道」が存在することを示している。縁起の法があるからこそ、「苦」を「滅」する「道」であるニルヴァーナへと到る修行体系が生まれるのである。「これ滅するが故にかれ滅す」により、ニルヴァーナへと到り、解脱する方法がある。
縁起は、「これあればかれあり」「これなければかれなし」という二つの定理によって、簡潔に述べられうる。後者の「これなければかれなし」は、前者の「これあればかれあり」を証明し、補完するものである。具体的な例としては、「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死ぬこともないからである。
縁起の法から、次の四諦(四つの真理)と呼ばれる思想が生まれる。
四諦(四聖諦、苦集滅道)
四諦とは、ブッダが説いた、四つの真理(苦、集、滅、道)のことである。四諦は、四諦の法門、四聖諦とも呼ばれる。ここで「諦」とは「明らかにすること」、「真理」とでもいう意味で用いている。
四諦の各々について、もう少し詳しく解説しておこう。ブッダは基本的に、人間のこういう人生の真相を認識していたがゆえに、苦を滅した状態(ニルヴァーナ)へと到る方法を説いたのである。
1.苦諦(くたい)
苦諦とは、人生が苦であるということである。苦とは、人生の真相、現実であり、ブッダの人生観の根本である。そして、これこそ人間の生存自身のもつ必然的な姿である。このような人間存在の苦を示すために、仏教では四苦を説き、さらには四苦八苦を説いている。
四苦とは、次のものである。
1 生(生きること)
2 老(老いること)
3 病(病気になること)
4 死(死ぬこと)
さらに四苦八苦という場合には、次のものを付け加える。
5 愛別離苦(愛する対象と別れねばならない苦)
6 怨憎会苦(憎む対象に出会わなければならない苦)
7 求不得苦(求めても得られない苦)
8 五陰盛苦(人間の生存自身を示す苦、五陰を集めたものすべてが苦)
2.集諦(じゅうたい)
集諦とは、さまざまな悪因を集めたことによって、苦が現れたものであるということである。「集」とは招き集めることで、苦を招き集めるものが、煩悩であるというのである。仏教において、苦の原因の構造を示して表しているのは、十二因縁(十二縁起)である。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示している。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因である。
3.滅諦(めつたい)
滅諦とは、苦のなくなった状態のことである。苦の滅という状態が存在することであり、苦のなくなった状態とは、ニルヴァーナの境地であり、一切の煩悩から解放された境地であり、解脱といえる。
4.道諦(どうたい)
道諦とは、苦を滅した状態(ニルヴァーナ)を獲得する方法のことである。つまり、ニルヴァーナへと到る実践的な修行体系を指している。これが仏道と呼ばれるもの、すなわちブッダの体得した解脱への道である。その具体的な方法は、後で詳しく説明する七科三十七道品といわれる修行体系である。
三界(欲界、色界、無色界)
阿含経にある修行体系の説明の前に、仏教では解脱していない通常の人間が住むこの世界をどのように見ているかについて説明しておく必要があるだろう。仏教の世界観では、三界(欲界、色界、無色界)と呼ばれる3つの世界が、この世を構成している。色界、無色界は、禅定の説明でも出てくる言葉である。それゆえ、この三界についての概略は知っておくべきである。
仏教では、この世界は三界(欲界、色界、無色界)から成り立っていると考えている。三界は、欲界、色界、無色界の3つ世界の総称である。解脱していない通常の人間が、生死を繰り返しながら輪廻する世界が、この3つの世界である。
1.欲界(よくかい)
欲望にとらわれたものが住む世界である。欲界とは、欲のある世界という意味である。通常のわれわれ人間の住む世界は、この欲界に属する。普通の意味での地上世界は、欲界に属する。
2.色界(しきかい)
欲望はほとんど超越したが、まだ物質的な形のある世界(色)であり、形にとらわれたものが住む世界である。色界とは、欲はほとんどないが、まだ形のある世界という意味である。色界とは、形あるものの世界のことで、「色」とは形あるものの訳語として用いている。この形あるものは、変化し、壊れ、一定の空間を占めている世界である。現在語での誤解なきように書いておくが、色界とは、色恋沙汰や色情の世界のことではない。
3.無色界(むしきかい)
欲望も超越し、物質的な形もない世界(無色)であり、ただ精神作用のみがある世界である。無色界とは、欲もなくなり、すでに形もない世界という意味である。無色界とは、形なきものの世界のことで、形はないが精神作用のみが存在する世界である。
輪廻する者は、この3つの世界のどれかに住むと考えられている。たとえ、高い禅定の世界である無色界の住人であろうと、三界に住む者はまだ輪廻の渦中にあり、最終的な解脱は果たしていない。色界、無色界も、通常、人間が五感で感じられる世界ではなく、深い禅定(瞑想)の中でのみ感じられる世界である。人間の住む欲界と比べると、色界、無色界はかなり高い禅定の世界であり、天界と呼ばれる。ニルヴァーナへと到れば、この三界の住人ではなくなり、輪廻から解脱したことになる。
三宝(仏、法、僧)
仏教の三宝とは、仏教における3つの宝物(仏、法、僧)のことである。この三宝に帰依することで仏教徒とされる。仏、法、僧について、もう少し詳しく説明すると、次のようになる。
1.仏(ブッダ)
ニルヴァーナを達成した、ブッダ(仏)御自身のことを指している。何々如来、何々観音というような、後から考えられた仏様のことではない。
2.法(ダルマ)
仏陀の説いたダルマ(法)のことである。
3.僧(僧団、修行僧の集団)
仏教のサンガ(僧団、修行僧の集団)のことである。ブッダの教えを受けることで、四向四果(しこうしか)に達した者の集団である。一個人としての僧侶のことではない。修行の段階である四向四果については、後で説明する。
三毒(三不善根)
三毒(さんどく)とは、克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩のことである。すなわち、貪(どん)、瞋(じん)、癡(ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。
人間の諸悪・苦しみの根源とされている。最古の経典と推定される、南伝仏教のスッタニパータにも、貪、瞋、癡を克服すべきことが述べられている。更に中部経典においては「三不善根」として記され、3つがまとめて論じられている。三毒(三不善根)は悪の根源であり、それが展開されて十悪となる。
1.貪(どん、貪欲:どんよく)
むさぼり、必要以上に求める心のことである。
2.瞋(じん、瞋恚:しんに)
怒りの心のことである。
3.癡(ち、愚癡:ぐち)
真理に対する無知の心のことである。真理を知らないことである。
四向四果(解脱への階梯)
仏教における解脱へ向けた修行の階梯についても説明しておこう。仏教での修行の階梯が、どのように考えられていたかがよくわかる。四向四果(しこうしか)とは、もともとの仏教(上座部仏教)における修行の段階を表す階位である。「四向」の「向」とは、修行の目標に向かっている段階を指し、「四果」の「果」とは、修行の結果として到達した境地を示す。「向」と「果」の名称が同じであり、八種の段階が区別されている。
   聖者の四段階(四果)
仏教では、修行の結果として到達する四段階の結果(果)が存在する。
1.預流(よる、須陀洹:しゅだおん)
聖者の流れに入った者のことで、今生を終わった後に、最大7回まで、欲界の人と天の間を生れかわり、その後、ニルヴァーナに入る。須陀洹とも、預流(聖者の流れに入った者)とも呼ばれる。
2.一来(いちらい、斯陀含:しだごん)
今生を終わった後、1回だけ、欲界の人と天の間を往来して、ニルヴァーナに入る。斯陀含とも、一来(一度だけ戻って来る者)とも呼ぶ。
3.不還(ふげん、阿那含:あなごん)
今生を終わった後、欲界には再び戻ってこず、色界へと登り、色界の生を終わると同時に、そこからニルヴァーナに入る。欲界には生まれ変わらないが、今生の終わりでは、まだニルヴァーナには至っていない。阿那含とも、不還(二度と戻らない者)とも呼ぶ。
4.応供(おうぐ、阿羅漢:あらかん)
今生の終りと同時に、ニルヴァーナに入る。今生でニルヴァーナに至り、再び生まれ変わることのない者である。阿羅漢とも、応供(供養を受けるにふさわしい者)とも呼ばれる。
   四向四果(四双八輩)
修行の結果として到達した四段階(果)に加えて、各々に向かう段階(向)を考えて、四向四果となる。四向四果とも、四双八輩(しそうはっぱい)とも呼ぶ。
1.預流向(よるこう)
須陀洹(預流)へと向かっている者。
2.預流果(よるか)
須陀洹(預流)となった者。
3.一来向(いちらいこう)
須陀洹(預流)から、斯陀含(一来)へと向かっている者。
4.一来果(いちらいか)
斯陀含(一来)となった者。
5.不還向(ふげんこう)
斯陀含(一来)から、阿那含(不還)へと向かっている者。
6.不還果(ふげんか)
阿那含(不還)となった者。
7.応供向(おうぐこう)、または阿羅漢向(あらかんこう)
阿那含(不還)から、阿羅漢(応供)へと向かっている者。
8.応供果(おうぐか)、または阿羅漢果(あらかんか)
阿羅漢(応供)となった者。
そこへ到る途中の段階を加えて、4つの修行段階から、8つの修行段階へと拡張されたわけである。阿羅漢(応供)となった者は、ブッダ(覚者)である。阿羅漢(応供)は、死後、最高の段階であるニルヴァーナへと到る。仏教の修行階梯では、阿羅漢が最上位である。阿羅漢に至ると、最終的にニルヴァーナに入り、ブッダとなる。このことから、仏教は最終的には、阿羅漢(応供)となることを目指すものである。阿羅漢(応供)となる方法体系が、仏教の修行体系ということになる。
五下分結と五上分結
五下分結(ごげぶんけつ)、五上分結(ごじょうぶんけつ)とは、三界(欲界、色界、無色界)に、衆生(人)を結びつける束縛のことである。五下分結と五上分結を合わせて、十結(じゅっけつ)という。
ここで「結」とは、束縛のことで、煩悩の異名でもある。ここでの煩悩の内容は、日常語として使われている煩悩とは、かなり意味合いが異なっている。日常語では、煩悩は欲望と同義語として扱われることが多いが、欲望では煩悩の中の欲貪(よくとん)のことだけを指している。もともとの仏教語としての煩悩は、欲望のことだけではなく、普通の意味では欲望とはいえない意味をも含むものである。五下分結と五上分結は、四向四果(しこうしか、特に四果)の聖者の階梯と密接に関係している。
   五下分結
五下分結(ごげぶんけつ)は、五つの下位の束縛のことである。衆生(人)を俗界に結びつける五つの煩悩(結)である。三界のうち下方の世界である欲界(感覚で知ることができる世界)に衆生(人)を結びつけ、束縛している五種の煩悩(結)のことであるので、五下分結と名づける。五下分結のあるかぎり、衆生(人)は欲界に生を受ける。五下分結を完全に断滅すると、欲界には戻らない不還果(ふげんか)を得る。つまり五下分結を断滅すると、阿那含(アナゴン、不還)になる。五下分結は、次の5つである。
1.身見(しんけん:有身見)
私という不変の存在があるという見解のことである。私(私の身体、私という心身の集合体)など、とにかく私というものが変わらず存在すると思うことである。無知に分類される、誤った見解・邪見である。
2.疑惑(ぎわく:疑)
何が真実か分からない状態のことである。仏道の真実が分らない無知な状態といえる。
3.戒取(かいしゅ:戒禁取見)
こだわりに、とらわれることである。しきたりや苦行など、いろいろなことにとらわれ、こだわることである。
4.欲貪(よくとん)
激しい欲のことである。
5.瞋恚(しんに)
激しい怒りのことである。
   三結
三結(さんけつ)は、五下分結のうち仏教修行で最初に消える、最初に断ずることのできる三つの煩悩(結)である。三結を完全に断滅すると、預流果(よるか)を得る。つまり三結を断滅すると、須陀洹(シュダオン、預流)になる。さらに三結を完全に断滅し、五下分結の残り二つ(欲貪、瞋恚)が薄くなると、一来果(いちらいか)を得る。つまり三結を断滅し、欲貪と瞋恚が薄くなると、斯陀含(シダゴン、一来)になる。三結は、五下分結のうち、次の3つである。
1.身見
2.疑惑
3.戒取
   五上分結
五上分結(ごじょうぶんけつ)は、五つの上位の束縛のことである。衆生(人)を色界と無色界に結びつける、五つの煩悩(結)である。三界のうち上方の世界である、色界と無色界に結びつけて、解脱させない煩悩のことであるから、五上分結と名づける。五上分結を完全に断滅すると、応供果(おうぐか)を得る。つまり五上分結を断滅すると、阿羅漢(アラカン、応供)になる。仏教修行の最終段階で断滅することのできる、精妙な五つの煩悩(結)のことである。五上分結は、次の5つである。
1.色貪(しきとん)
色界に対する執着のことで、色界の禅定のすばらしさに対する執着である。
2.無色貪(むしきとん)
無色界に対する執着のことで、無色界の禅定のすばらしさに対する執着である。
3.掉挙(じょうこ)
私は到達した、というような心のたかぶりの感覚である。掉挙とはあまり使わない言葉であるが、心のたかぶりを指している。私はこの段階まで達したというような達成感のような、心のたかぶりの感覚である。欲界でも掉挙はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な心のたかぶりである。
4.我慢(がまん、慢)
私がなした、というような慢心の感覚である。ここでは、慢心のことを我慢と呼んでいる。欲界でも慢はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な慢心である。
5.無明(むみょう)
どうしても最後まで、僅かに残っている根本の無知のことである。
   四果と十結(五下分結、五上分結)の関係
仏教での聖者の段階である四果(しか)と、十結(五下分結、五上分結)の関係をまとめておこう。
1.須陀洹(シュダオン、預流)
五下分結のうち、三結(身見、疑惑、戒取)を完全に断滅すると、預流果(よるか)を得る。
2.斯陀含(シダゴン、一来)
五下分結のうち、三結(身見、疑惑、戒取)を完全に断滅し、五下分結の残り二つ(欲貪、瞋恚)が薄くなると、一来果(いちらいか)を得る。
3.阿那含(アナゴン、不還)
五下分結(身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚)を完全に断滅すると、不還果(ふげんか)を得る。
4.阿羅漢(アラカン、応供)
五下分結の断滅に加え、五上分結(色貪、無色貪、掉挙、我慢、無明)を完全に断滅すると、応供果(おうぐか)を得る。阿羅漢(アラカン)へ至るために、五上分結を断滅することはかなり難しい。
阿含経(最初期の経典)
漢訳経典には、多くの仏教経典(経典群)が存在する。その経典群をまとめて、大蔵経とよんでいる。大蔵経とは、一つの経典のことではなく、仏教経典(経典群)すべてをまとめて指す言葉である。
大蔵経の仏教経典(経典群)のすべてが、歴史上のブッダの説いたことを伝えるものではない。大乗仏教での経典は、ずっと後世になってから、文筆家、理論家たちによって新たに創作された経典である。それらの創作された経典も、本文内で「われはこう聞いた」というような書き出しで始まっているので、今でもすべての経典を歴史上のブッダが説いたことだと誤解している人も多い。大乗の教えは、ブッダの死後、約7百年後に龍樹(ナーガールジュナ)らによって、理論付けされたとされる。
大乗仏教で創作された代表的な大乗仏教の経典
・般若経(一つの経典ではなく経典群である)
・華厳経
・法華経
・涅槃経(大乗仏教の涅槃経)
・浄土三部経
・密教系経典(大日経、金剛頂経等の経典群)
ここでは、最初期の仏教での基本的な修行体系は何であるのかを分析したいので、大乗仏教の経典群は基本的に考察の対象とはしない。大蔵経の仏教経典(経典群)のすべてを読む必要はない。ブッダとなることを目指すなら、その目的に関係した経典だけを読めばよいのである。最初期の仏教経典は、阿含経と呼ばれるもののみである。阿含経と呼ばれるものも、一つの経典(文献)ではなく、いくつもの経典を集めた経典群である。阿含経という経典群の中には、長い経典(文献)から、短い経典(文献)まで、多くの経典が含まれている。
最初期の仏教経典
・阿含経(一つの経典ではなく経典群である)
阿含経とは、漢訳仏典中での名称であり、上座部仏教(南方仏教)には、阿含経に相当する仏典(南伝大蔵経)しか存在していない。上座部の南伝大蔵経は、すべてが漢訳の阿含経に相当した仏典のみということができる。大乗仏教の経典に相当する仏典は、上座部仏教(南方仏教)には存在しないのである。
最初期の仏典である阿含経をもとに、ブッダが説いた仏教の修行科目を考えてみたい。なぜなら、この修行科目こそが、ブッダが弟子たちを指導した内容であり、解脱(ニルヴァーナ)へと向かう道だからである。ブッダは単に哲学的な思想体系を説いたのではない。ニルヴァーナへと向かう実践的な方法を説いたのである。そのためには、最初期の仏典である阿含経をもとに、どのような修行体系が説かれているかをみるしかないのである。
ここでは阿含経をもとに、ブッダが何を説いたのか、どのような方法で弟子たちを指導したのか、仏教で最も大切な、解脱するための方法とはどのような方法であるのか、を中心として考えてみたい。つまり仏教の目的を達成するための方法とは何なのか、仏道とはどういうものなのか、を考察してみることにしたいと思う。
仏教の修行体系(失われた道)
阿含経に説かれている修行体系は、ニルヴァーナへと至るための失われた道である。日本の仏教では、ニルヴァーナへと至るための修行方法(道)が失われて久しい。いくら日本の仏教(伝統仏教から新興宗教の仏教まで)を一生懸命行ったところで、ニルヴァーナへと至ることはできないであろう。その途上にすら到達できないかもしれない。
ニルヴァーナへと至る失われた道(修行体系)とは、七科三十七道品と呼ばれるものであり、その各々の内容について分類し、解説していくことにしよう。
仏教の修行体系
1.七科三十七道品(阿含経の修行体系)
2.修行体系の分類(基本修行科目と総合修行科目)
3.基本修行科目
4.総合修行科目
阿含経には、七科三十七道品の修行科目の名称や項目は出てくるが、詳しい内容までは述べられていない。経典に記述されているのは、七科三十七道品の簡単な内容説明だけである。そのため後世には、七科三十七道品の修行科目の内容があいまいとなり、具体的には何を指しているのか、どのようにすればよいのかが、よく分らなくなってしまった。そのため同じ八正道を指していても、さまざまな解釈が生まれる余地が生じてしまったのである。七科三十七道品の具体的な内容については、仏教哲学(論蔵)であるアビダルマ論書の方にもう少し詳しい記述がある。
注)
仏教での三蔵とは、仏教文献全体を大きく三つに分類し、まとめたものを指している。「蔵」とは「くら」という意味で、仏教文献全体をまとめたカテゴリーである。三蔵とは、次のものを指す。
1.経蔵 ブッダの説いたとされる教えをまとめた文献。
2.律蔵 規則・道徳・生活様相(戒律)などをまとめた文献。
3.論蔵 経や律についての注釈や解釈などを集めた文献。
七科三十七道品(阿含経の修行体系)
唯一の原始仏典である阿含経に説かれている修行体系は、七科三十七道品と呼ばれている。三十七道品とは、ニルヴァーナに至るための、つまりは解脱するための、三十七種類の修行方法のことである。三十七種類の修行方法とは、四正断、四念処、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道の七科(七種類)に分かれるので、七科三十七道品とも、単に三十七菩提分法ともいう。七科(七種類)の修行方法のすべてを合計すると、三十七種類の修行方法となるので、三十七道品、三十七菩提分法と呼ぶのである。しかしながら七科三十七道品は、内容的には重複するものがあり、三十七種類すべての修行科目に取り組む必要があるわけではない。
七科三十七道品(三十七菩提分法)
1 四正断(四正勤)
2 四念処(四念住)
3 四如意足(四神足)
4 五根
5 五力
6 七覚支
7 八正道
これが阿含経に説かれているニルヴァーナへと到る、解脱のための修行体系である。ブッダが説いた思想、世界観には、縁起の法、四諦の法門、十二因縁などがあるが、ブッダが説いた修行体系としては、これしかないのである。
日本においては、一般に仏道という。仏道というと、何か仏教の修行というか、ブッダへの道があるように思えるが、実際には何が仏道なのか、何をすることが仏道と呼べるのか、僧侶にとってさえ、よく分らないのが実情ではないだろうか。そいう意味では日本で仏道は、仏教の失われた道となって久しい。もし仏道と呼べるものがあるとするなら、ニルヴァーナへと到る七科三十七道品、これしかないはずである。仏教に説かれている他の事柄は、思想であり概念に過ぎない。それらの思想なり、概念なりを知り理解したところで、ニルヴァーナへと至り最終的な解脱が果たせるわけではないのである。思想や概念で解脱できるなら、仏教の文献学者なら解脱できるはずである。しかし学者では、ニルヴァーナへと至る解脱は果たせない。仏教の失われた道があるとすれば、それは、この七科三十七道品の修行体系の中にしかないのである。
次に阿含経の修行体系を、基本修行科目と総合修行科目に分類したうえで、その各々について考察してみよう。
修行体系の分類(基本修行科目と総合修行科目)
仏教の基礎知識の説明は終わったので、修行体系である七科三十七道品の内容を詳しく分析してみることにしよう。
七科三十七道品の七科(七課)の修行科目を仔細にみてみると、七科は内容的に2つの種類に分けることができる。七科の修行科目のうち、3つは基本的な修行科目であり、残りの4つはその基本的な修行科目を含んだ総合的な修行科目となっていることに気がつく。総合的修行科目に、基本的修行科目は包含されていることになるのである。
1.基本修行科目
総合修行科目に含まれる、個別の基本的な修行科目である。基本修行科目、単独の修行でも、もちろん効果はあるが、通常は他の基本修行科目と組み合わせて取り組む修行科目である。これには、次の3つの修行科目がある。
1 四正断(四正勤)
2 四念処(四念住)
3 四如意足(四神足)
2.総合修行科目
基本修行科目を含む、網羅的、総合的な修行科目である。総合修行科目のいずれかに取り組めば、基本修行科目のすべてを含んでいることになる。そういうことから解脱のためには、総合修行科目のどれかを選んで実行させたものと思われる。これには、次の3つ(五根と五力を分ければ4つ)の修行科目がある。
1 五根と五力 (五根と五力は別々の修行科目というより、密接な関係性があるので、ここでは一体の修行科目として扱う)
2 七覚支
3 八正道
基本修行科目
総合修行科目に含まれる、基本的に大切な修行科目である。阿含経にある基本修行科目は、四正断、四念処、四如意足である。
1.四正断(四正勤)
四正断(四正勤)は、次の四つの修行科目である。
1 断断
2 律儀断
3 随護断
4 修断
総合修行科目のうち、「精進」と訳されたものが、四正断のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。五根と五力の「精進根・精進力」、七覚支の「精進覚支」、八正道の「正精進」が、このことを指す。四正断は「仏道に精進する、努力する」というような、あいまいな抽象的な内容ではない。
2.四念処(四念住)
四念処(四念住)は、次の四つの修行科目である。
1 身念処(身念住)
2 受念処(受念住)
3 心念処(心念住)
4 法念処(法念住)
総合修行科目のうち、「念」と訳されたものが、四念処のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。五根と五力の「念根・念力」、七覚支の「念覚支」、八正道の「正念」が、このことを指す。四念処は、色界の四つの禅定(四禅)に関係が深い。四念処は「心に仏を一心に念ずる」というような、何のことだか意味のよく分らない内容ではない。
3.四如意足(四神足)
四如意足(四神足)は、次の四つの修行科目である。
1 欲如意足(欲神足)
2 精進如意足(精進神足)
3 心如意足(心神足)
4 観如意足(観神足) 総合
修行科目のうち、「定」と訳されたものが、四如意足のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。五根と五力の「定根・定力」、七覚支の「定覚支」、八正道の「正定」が、このことを指す。定とは、禅定のことであるが、色界の四つの禅定(四禅)、無色界の四つの禅定がある。ただ、定はすべて四如意足のことかというとはっきりとしない点もある。色界、無色界の禅定をただ指している場合もあるかもしれない。とはいえ、ここでは定は、主に四如意足のことを指していると考えて説明しよう。四如意足は、特に無色界の四つの禅定に関係が深い。これを達成するために四如意足が使われる。定については、禅定のことと理解されているが、四如意足が意識されることは少ない。一般には座禅のようなものだけと思われている。
総合修行科目
基本的な修行科目をまとめて、網羅するようにした総合的な修行科目である。阿含経にある総合修行科目は、五根、五力、七覚支、八正道である。内容を仔細にみると各総合修行科目には、基本修行科目としての、四正断、四念処、四如意足が含まれている。
1.五根と五力
五根は、次の五つの修行科目である。
1 信根
2 精進根(四正断の根)
3 念根(四念処の根)
4 定根(四如意足の根)
5 慧根
五力は、次の五つの修行科目である。
1 信力
2 精進力(四正断の力)
3 念力(四念処の力)
4 定力(四如意足の力)
5 慧力
五根と五力は、末尾に付く「根」と「力」が違うだけで、まったく同じ修行科目を指している。五根と五力は、非常に関係性が深いので、ここでは一体の修行科目として扱う。つまり五根と五力は、まとめると次の五つの修行科目である。
1 信根・信力
2 精進根・精進力(四正断の根と力)
3 念根・念力(四念処の根と力)
4 定根・定力(四如意足の根と力)
5 慧根・慧力
2.七覚支
七覚支は、次の七つの修行科目である。
1 念覚支(四念処の覚支)
2 択法覚支
3 精進覚支(四正断の覚支)
4 喜覚支
5 軽安覚支
6 定覚支(四如意足の覚支)
7 捨覚支
3.八正道
八正道は、次の八つの修行科目である。
1 正見
2 正思惟
3 正語
4 正業
5 正命
6 正精進(正しい四正断)
7 正念(正しい四念処)
8 正定(正しい四如意足)
このように、五根と五力、七覚支、八正道は、内容的にそれぞれ重複したところがあり、そのどれかを修行すればよいようになっている。ブッダは修行者の気質をみて、五根と五力、七覚支、八正道のどれかに取り組まさせたものであろう。修行者の必要性にあわせて、四正断、四念処、四如意足については、個別に詳しく説明したものであると思われるのである。つまりは、五根と五力、七覚支、八正道のどれかを修行すれば、七科三十七道品の大切な基本修行科目はすべて含まれているのである。  
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 



2020/1
縁起 気になると調べずにいられない
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