向日葵

季節外れの花を思う

ひまわり ヒマワリ
向日葵
日輪草
日車  日車草  日回り草
サンフラワー (英:Sunflower)  ソレイユ (仏:Soleil)    
 


ヒマワリ(向日葵) / 向日葵1向日葵2向日葵3向日葵4向日葵諸話5・・・
花言葉 / 花言葉1花言葉2花言葉3花言葉4花言葉5花言葉6・・・
諸話 / ゴッホ1ゴッホ2ゴッホ3ゴッホ4ゴッホの「ひまわり」ひまわり2ひまわり3ひまわり4ひまわり5ゴッホと浮世絵浮世絵2浮世絵3浮世絵4浮世絵5浮世絵6浮世絵7浮世絵8浮世絵9ゴッホとゴーギャン1ゴッホとゴーギャン2ゴーギャン・・・
小説や詩集に見る「向日葵・日輪草」 / 日輪草誰が何時何処で何をしたはしがき玩具の汽缶車かの女の朝藍色の蟇ひまわりの俳句と和歌獄中への手紙・・・
 
 
 

 

●ヒマワリ (向日葵)  

 

●ヒマワリ (向日葵) 1  
キク科の一年草である。日回りと表記されることもあり、また、ニチリンソウ(日輪草)、ヒグルマ(日車)、ヒグルマソウ(日車草)、ヒマワリソウ(日回り草)、サンフラワー(英:Sunflower)、ソレイユ(仏:Soleil)とも呼ばれる。種実を食用や油糧とするため、あるいは花を花卉として観賞するために広く栽培される。また、ヒマワリは夏の季語でもある。ロシアとペルーの国花になっている。
原産地は北アメリカ。高さ3mくらいまで生長し、夏から秋にかなり大きな黄色の花を咲かせる。また、ヒマワリの花の色の濃い部分はやや赤みがかった黄色(黄金っぽい黄色)をしている。
花弁は大きな1つの花のように見えるが、実際は頭状花序と呼ばれ、多数の花が集まって1つの花の形を形成している。これは、キク科の植物に見られる特徴である。外輪に黄色い花びらをつけた花を「舌状花」、内側の花びらがない花を「筒状花」と区別して呼ぶ場合がある。
和名の由来は、太陽の動きにつれてその方向を追うように花が回るといわれたことから。ただしこの動きは生長に伴うものであるため、実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけである。若いヒマワリの茎の上部の葉は太陽に正対になるように動き、朝には東を向いていたのが夕方には西を向く。日没後はまもなく起きあがり、夜明け前にはふたたび東に向く。この運動はつぼみを付ける頃まで続くが、つぼみが大きくなり花が開く頃には生長が止まるため動かなくなる。その過程で日中の西への動きがだんだん小さくなるにもかかわらず夜間に東へ戻る動きは変わらないため、完全に開いた花は基本的に東を向いたままほとんど動かない。なお、これは茎頂に一つだけ花をつける品種が遮るもののない日光を受けた場合のことであり、多数の花をつけるものや日光を遮るものがある場所では必ずしもこうはならない。
種は長卵形でやや平たい。種皮色は油料用品種が黒色であり、食用や観賞用品種には長軸方向に黒と白の縞模様がある。
歴史
ヒマワリの原産地は北アメリカ大陸西部であると考えられている。既に紀元前からインディアンの食用作物として重要な位置を占めていた。1510年、スペイン人がヒマワリの種を持ち帰り、マドリード植物園で栽培を開始した。マドリード植物園はダリアやコスモスが最初に栽培されたことでも有名である。
ヒマワリがスペイン国外に持ち出されるまで100年近くを要し、ようやく17世紀に至りフランス、次にロシアに伝わった。ロシアに到達してはじめて、その種子に大きな価値が認められた。
正教会は聖枝祭前の6週間を大斎とし[4]、食物品目の制限による斎(ものいみ)を行う。19世紀の初期にはほとんど全ての油脂食品が禁止食品のリストに載っていた。しかしヒマワリは教会の法学者に知られていなかったのか、そのリストにはなかったのである。こうした事情から、正教徒の多いロシア人たちは教会法と矛盾なく食用可能なヒマワリ種子を煎って常食としたのであった[4] 。その後、19世紀半ばには民衆に普及し、ロシアが食用ヒマワリ生産の世界の先進国となったのであった。
日本には17世紀に伝来している。
生産
OIL WORLD誌の統計によるとヒマワリの種子生産量は2006/07年産、油料用植物として大豆(234.98百万トン)、ナタネ(47.26百万トン)、綿実(44.15百万トン)に次ぐ、生産量(29.84百万トン)を誇る。 また、2006年 - 2007年の植物油生産量はパーム油(37,985千トン)、大豆油(36,716千トン)、ナタネ油(18,425千トン)、ヒマワリ油(11,171千トン)である。ヒマワリの生産地域はロシア周辺のヨーロッパに偏っている。5割強がヨーロッパ州に集中しており、アジア州と南アメリカ州がそれぞれ2割弱を生産している。
1.ウクライナ - 13630千トン
2.ロシア (ヒマワリはロシアの国花でもある)- 11010千トン
3.アルゼンチン - 3000千トン
4.中国 - 2590千トン
5.ルーマニア - 2030千トン
利用
食用
ヒマワリの種は痩果で、種の殻と呼ばれている部分は果皮であるが、本項では便宜上「種」「殻」と 記述する。
種は絞って搾油されヒマワリ油として利用される。ヒマワリ油には不飽和脂肪酸が多く含まれる。1990年代までリノール酸が70 - 80%、オレイン酸が10 - 20%のハイリノールタイプが主流であったがω-6系列の脂肪酸であるリノール酸の発ガンや高脂血症、アレルギー等との因果関係が報告されるにいたり、リノール酸が15 - 20%、オレイン酸が40 - 60%の中オレインタイプのNuSun品種が伝統的な交配育種法により育成され、2000年以降は主流となっている。
煎って食用とすることができる。特に中国や米国ではおやつとして好まれ、噛みタバコやガムと同様に大リーガーが試合中に食す嗜好品としても普及している[5]。
乾燥した種子を用いる生薬名は「向日葵子」(こうじつきし、ひゅうがあおいし)で、出血性下痢に用いられる[6]。
ペット(ハムスター、小鳥など)の餌に利用される。
ディーゼルエンジン用燃料(バイオディーゼル)として利用する研究も進められている。
観光地
村おこし・町おこしや、災害からの復興活動として、全国にヒマワリ畑があり、イベントも開催されている。
北海道 - 北竜町 ひまわりの里、網走市 大曲湖畔園地ひまわり畑
福島県 - 喜多方市 三ノ倉高原ひまわり畑
茨城県 - 筑西市 あけのひまわりフェスティバル
東京都 - 立川市・昭島市 国営昭和記念公園
神奈川県 - 座間市ひまわりまつり
山梨県 - 北杜市明野サンフラワーフェス
他、多数
除染効果
ヒマワリはカリウムなどと共に性質が類似するセシウムを吸収する性質を持つことから、原発事故などで放射能汚染された土地に植えたら除去できる(ファイトレメディエーション)という説が流布しているが、そのような効果は認められていない。そもそも、一般的に植物にとって必須元素であるカリウムの吸収が、放射性セシウムの除染のために価値がある程大きいのであれば、ヒマワリの生えた後の土壌は極端に貧栄養化しているはずである。また農林水産省は「ヒマワリはセシウムの吸収率が低く、除染に極めて長い時間がかかるため実用的ではない」としている。
日本における主な産地
これらの自治体ではヒマワリによる地域特産化を図り、油等食品、化粧品等のヒマワリ関連製品を販売している。北海道の標準播種期は5月上旬であり、霜や氷点下の気温にも耐性はある。
北海道名寄市 なよろひまわり畑
北海道北竜町 ひまわりの里
宮城県大崎市(旧・三本木町)
栃木県野木町
神奈川県座間市
長野県富士見町、信濃町、筑北村、諏訪市、阿南町
石川県津幡町 ひまわり村
兵庫県佐用町(旧・南光町)南光ヒマワリ畑
島根県出雲市(旧・斐川町)斐川ひまわり畑
香川県まんのう町(旧・仲南町)ひまわりの里 まんのう
岡山県笠岡市
日本における都道府県・市区町村の花
北海道:二海郡八雲町、虻田郡京極町、雨竜郡北竜町、紋別郡遠軽町
山形県:東村山郡中山町
茨城県:那珂市、鉾田市
栃木県:下都賀郡野木町
埼玉県:さいたま市南区
千葉県:船橋市、柏市、八街市
東京都:西東京市
神奈川県:横浜市港南区、座間市
山梨県:北杜市
長野県:下伊那郡平谷村
愛知県:名古屋市南区、豊田市、尾張旭市、豊明市、丹羽郡扶桑町
三重県:三重郡朝日町
京都府:向日市
大阪府:大阪市港区、泉南郡熊取町
兵庫県:小野市、神崎郡市川町、揖保郡太子町、佐用郡佐用町
奈良県:生駒郡三郷町、北葛城郡広陵町
和歌山県:日高郡美浜町
広島県:安芸郡海田町
徳島県:阿南市
愛媛県:伊予郡松前町
福岡県:北九州市、鞍手郡小竹町、嘉穂郡桂川町、田川郡川崎町
長崎県:南島原市
宮崎県:日向市
鹿児島県:志布志市、南九州市  

 

●ヒマワリ(向日葵) 2  
植物名   ヒマワリ(向日葵)
学名    Helianthus annuus
英名    Sunflower
和名    向日葵
科名    キク科
属名    ヒマワリ属
原産地   北アメリカ
ヒマワリ(向日葵)の特徴
北アメリカ原産の一年草ですくっと立ちあがった茎から太陽のような大輪の花をつけます。草丈の高いものばかりをイメージしがちですが、品種改良によって草丈10センチほどのプランター向きのものや八重咲き品種などもあり、バラエティに富んでいます。
いわゆる花びらの部分はその1枚1枚が独立した花(舌状花)でおしべはありません。また黒っぽい中心部分もひとつひとつが花(筒状花トウジョウカ)で、こちらはおしべとめしべの両方を持つため、タネが出来ます。学名のヘリアンサスは「太陽の花」という意味で、漢字で書くと「向日葵」となります。
園芸分類   草花
草丈・樹高  〜2m程度
耐寒性    弱い
耐暑性    強い
花色     黄、オレンジ、白など
開花時期   7月〜9月頃
ヒマワリ(向日葵)の種類
ヒマワリ 東北八重
ヒマワリ モネのヒマワリ
ヒマワリ ビンセントネーブル
ヒマワリ ビンセントクリアオレンジ
ヒマワリ ビンセントクリアレモン
ヒマワリ サンリッチバレンシア
ヒマワリ サンリッチオレンジ
ヒマワリ サンリッチレモン
ヒマワリ レモネード
ヒマワリ プロカットレッド
ヒマワリ プロカットプラム
育て方
育て方カレンダー
種まき  4-6月
肥料   5-7月
開花   7-9月
栽培環境
日当たり・置き場所
ひまわりはお日様が大好きな花です。日当たりがよく風通しのよい場所に植えましょう。風通しが悪いと、病害虫の害にあいやすくなります。
温度

用土
ひまわりは、土質を特に選ばなくても育つ丈夫な花です。土地が肥えているなら肥料がなくても育つ場合もあります。鉢植えの場合は、水はけが良く、排水性と適度な保水性のある土が適しています。市販の草花用培養土に腐葉土か堆肥を混ぜ込むとよいでしょう。肥料は植え付け時に元肥として緩行性の肥料を施します。以後使用している肥料の頻度を守って、追肥を行います。肥料が切れると下葉が黄色く枯れこんできますので目安にしましょう。
育て方のポイント
水やり
発芽から生育初期にかけては十分に根を張らせるため、表土が乾いたらたっぷりと水やりを行います。生育が進むにつれて徐々に水やりを減らします。草丈が高い品種は夏場に葉がしおれやすくなるのでほぼ毎日の水やりが必要です。
肥料
植え付け時に元肥として緩行性の化成肥料を施します。以後2週間に1回程度追肥を行います。肥料が切れると下葉が黄色く枯れこんできますので目安にしましょう。
病害虫
梅雨時にべと病にかかりやすくなります。確認でき次第薬剤散布を行います。できれば株元にマルチングをして土壌からの感染を防げるとよいでしょう。害虫はハダニやオンシツコナジラミが発生しやすいです。どちらも見つけたら薬剤散布で駆除します。
育て方
選び方
ひまわりの苗は、初夏〜8月ごろまで出回っています。本葉が5〜6枚までが移植のタイミングですので、苗を購入する際はあまり大きくなりすぎていないものを選びましょう。苗の選び方は、葉っぱが生き生きとした緑色で、つぼみがついているもの、花や葉の表と裏をよく見て病害虫の害がないかをチェックして、健康な苗を選ぶようにします。
種まき
ひまわりは種から育てることも比較的簡単です。最近は色々な品種があるので、こだわった色や咲き方のひまわりを育ててみたい方は種から育ててみてはいかがでしょうか。ひまわりは高性種から矮性種など、丈も様々です。また、1本立ちで咲くタイプから分枝して咲くタイプのものなど、成長の仕方も色々とあるので、自分の栽培スペースにあわせた背丈、成長の仕方のひまわりを選びましょう。
直播する場合は深さ1〜2センチ程度の穴をあけて種を2〜3粒まきます。株間は高性種は50〜60センチ、普通種は15〜20センチ程度あけるとよいでしょう。時期は発芽適温が20度から25度と高めなので4月下旬以降に種まきをします。
ひまわりは嫌光性なので、種まきは必ず覆土をすることが大切なポイントです。種には、発芽に光が必要なものと、光を嫌うものがあります。ひまわりのような光を嫌うタイプの種は、光を直接受けていると発芽しません。種を蒔いたら土をかぶせるのがポイントです。
摘芯 / 本葉が5〜6枚くらいになったら、芽の先を摘むと脇芽が出て丈が抑えられた花数の多い株になります。その分、ひとつひとつの花は小さくなります。ただし、1茎1花の1本立ちタイプのひまわりは摘芯は行いません。最近の品種は、分枝性のものや矮性種もあって、摘芯をしないでも枝分かれしてたくさんの花が咲くものもあります。それらは摘芯の必要はありません。
植え付け
ひまわりはお日様が大好きな花です。日当たりがよく風通しのよい場所に植えましょう。風通しが悪いと、病害虫の害にあいやすくなります。
ひまわりの性質で覚えておいた方がいい性質があります。それは、ひまわりは直根性の根の性質であることです。移植を嫌うので、何度も植え替えたりすることはできないと思った方がよいでしょう。ポット苗から植え替える時は、根を触らないように注意して植え替えます。
直根性とは・・・ / 根っこが地中深く枝分かれすることなく、まっすぐに伸びていく性質のことをいいます。地中深く伸びた後に分岐するものもありますが、基本的には太い根が下に伸びていく性質です。そのため直根性の植物は、太い根を少しでも痛めてしまうと植物のダメージが大きく、うまく根付きません。このことから植え替えの時に注意が必要な植物と言えます。買ってきた苗を植え付ける際には、根をほぐさず、そのまま土に埋める感じで植え替えましょう。
剪定・切り戻し
分枝性のタイプのひまわりは、花が終わったら花がらを摘んで、その下にある花に栄養を回すようにしましょう。
植え替え・鉢替え
1年草なので植え替えの必要はありません。

夏に開花します。夏場は嵐や台風など、気象が激しい日もあるので、丈の高い品種のひまわりは、支柱などで固定しておきましょう。
収穫
ひまわりのの種を収穫したい場合は、花がらを摘まずにそのままにしておくと、中心部分が種となります。
夏越し
暑さに強い花なので、特に対策を取る必要はありません。夏場は嵐や台風など、気象が激しい日もあるので、丈の高い品種のひまわりは、支柱などで固定しておきましょう。
冬越し
ひまわりは1年草なので秋までの寿命なので冬越しの必要はありません。
増やし方(株分け、挿し木、葉挿しなど)
種を採取して増やしていきます。  

 

●ヒマワリ(向日葵) 3  
ひまわりはキク科ヒマワリ属の一年草です。夏に大きな黄色い花を咲かせます。太陽を連想させる独特の花姿や、種が食用や油糧になることから、世界的に高い人気を誇り、多くの地域で栽培されています。夏の花の代表格とされ、映画や絵画などの芸術・創作作品の題材としてもよく用いられてきました。日本でもひまわりの名前を夏の季語としているほどです。
北アメリカ大陸西部が、ひまわりの原産地とされています。紀元前のころからネイティブアメリカンの食用作物として活用されていました。16世紀にコロンブスがアメリカ大陸を発見したことを機に、スペインにひまわりの種が持ち込まれます。さらに17世紀にはフランスやロシアに伝わり、ロシアに至っては食用として生産されたこともあって、国花となるほどの人気を獲得しました。
植物学上分類 キク科ヒマワリ属の一年草
和名       向日葵
英名       Sunflower(サンフラワー/太陽の花)
原産地     北アメリカ
開花時期    7月〜9月
ひまわりの特徴
ひまわりの特徴というと、一般的には2mから3m以上にまで生長し、黄色い巨大な花をつけることが知られています。しかし最近は品種改良技術の向上に加え、消費者のニーズの多様化もあって「ミニヒマワリ」と呼ばれる小さい品種が生まれました。そのため、以前は地植えが一般的でしたが、鉢植えやプランターで栽培されることが多くなっています。
花色も意外と豊富
ひまわりの花色というと明るい黄色が一般的ですが、実は赤、オレンジ、白、茶色、紫と、意外と種類豊富です。ひまわりの特徴的な花姿に加えて、珍しい花色はとても目を引きます。アクセントとしてうまく利用すれば、とても個性的な夏の花のガーデンができあがるでしょう。
ひまわりの別名
「日車(ヒグルマ)」「日輪草(ニチリンソウ)」「天蓋草(テンガイソウ)」「天蓋花(テンガイバナ)」「天竺葵(テンジクアオイ)」「日向葵(ヒュウガアオイ)」「照日葵(ショウジツキ)」「西蕃葵(サイバンキ)」「羞天花(シュウテンカ)」。ここにあげた名前は全て、ひまわりの別名です。「天」「日」という言葉が多く使用されていることからも分かるように、ひまわりの太陽を連想させる花姿が、名前の由来となっているのでしょう。
和名と英名の由来 / ひまわりの和名は「向日葵(ヒマワリ)」、英名は「Sunflower(サンフラワー)」です。どちらの名前も、ひまわりが太陽を連想させる花であることに由来してます。また、和名の由来には、ひまわりが太陽の動きに合わせて花の向きを変えるからという理由もあります。ただし、実際にひまわりが太陽を追って動くのは、生長の盛んな時期だけです。開花期には生長が止まってしまうため、花が太陽を追って動くことはありません。
ひまわりの花言葉
ひまわりの花言葉は別名と同じく複数あります。しかも花の色や、大きい花・小さい花と花の大きさによっても違う花言葉がついてきます。ここでは代表的な花言葉や、その他の花言葉について紹介しましょう。
ひまわり全般の花言葉
ひまわり全般をさす代表的な花言葉は「憧れ」「あなただけを見つめている」「愛慕」「熱愛」などです。これらの花言葉は、ひまわりが太陽を追って咲く花と思われていたことと、ひまわりの鮮やかで大きい花や真夏に咲き誇る姿が、真夏の熱い太陽を連想させることに由来しています。まさに真夏の花の代表格とされる花にふさわしい花言葉と言えるでしょう。
花言葉のもう一つの由来 / 「あなただけを見つめている」という花言葉は、ギリシャ神話が由来だとする説もあります。オリンポスきっての美青年である太陽神アポロンに恋い焦がれる女性は多く、この話の主人公・水の精クリュティエもその1人でした。しかしアポロンには別に熱愛する恋人がいたため、彼女の想いは届きません。届かぬ想いに苦しんだ末にクリュティエは、太陽の姿を追うひまわりの花に姿を変えてしまいました。
ネガティブな意味の花言葉
ひまわりの代表的な花言葉には、ネガティブな意味のものもあります。それが「偽りの富」「偽金貨」です。これは南米ペルーの歴史が関係しています。その昔、ペルーで栄えたインカ帝国は太陽信仰が盛んな国でした。ひまわりも太陽の花として大切にされ、儀式に使用する黄金の冠も、ひまわりをモチーフにしたほどです。しかしスペイン人の侵略によって国も冠も失われてしまいました。この悲劇が由来となっています。
色別のひまわりの花言葉
ひまわりの花色というと明るい黄色が一般的ですが、実際は赤、オレンジ、茶色など、意外と色彩が豊富です。そして同じ花でも、色によって違う花言葉がつく場合があります。ひまわりも例にもれず、花色によって違う意味の花言葉がついています。ここではひまわりの色別の花言葉を紹介します。
   白いひまわりの花言葉
白いひまわりの花言葉は「ほどよき恋愛」です。一般的なひまわりのそれと比べると、かなり控えめな印象を受ける花言葉ですね。白は高潔・清楚なイメージが強く、白い花の花言葉もそれに沿ったものが多い傾向があります。白いひまわりも黄色いひまわりと比べると、控えめで儚い印象を受けるため、控えめな意味合いの花言葉がつけられたのでしょう。
   赤・茶・紫のひまわりの花言葉
赤・茶・紫のひまわりの花言葉は「悲哀」です。かなりネガティブな意味の花言葉がつけられたのは、美しいけれど色が濃く、赤味がかった暗めの色合いが、一般的なひまわりが持つ陽気さや快活さとは正反対のイメージを彷彿とさせたからでしょう。
大輪種のひまわりの花言葉
大きいひまわりの花言葉は「偽りの愛」「偽金持ち」です。ひまわり全般の、ネガティブな意味合いの花言葉とほぼ同じ言葉がつけられています。大きいひまわりの花というと明るいイメージが強いだけに、意外に思った方もいるでしょう。ちなみに、ひまわりの大輪の基準は、花径8cmから13cmほどです。
小輪種のひまわりの花言葉
ミニヒマワリのように小さい、小輪種のひまわりの花言葉は「光輝」「愛慕」です。愛らしい印象の花言葉は、小さいサイズで太陽のような花を咲かせるところが、元気でかわいい子供のような印象を与えたのでしょう。なお、ひまわりの小輪種は、花径3cmから5cmくらいの花を指します。特にミニヒマワリは草丈も低いので、小さい鉢でも育てられる点が人気です。
ゴッホのひまわり
前にも触れたように、世界中から広く人気を得ているひまわりは、映画や絵画といった芸術分野でも題材として用いられてきました。なかでも有名な作品がオランダの巨匠ゴッホの描いたひまわりの絵です。正確には、ゴッホが花瓶に挿したひまわりを題材にして制作した作品群を指します。7点制作したことが確認されていますが、このうちの1点は戦災で失われたため、現存しているのは6点です。
戦火によって消失した幻のひまわりの絵ですが、徳島県の大塚国際美術館が当時の資料などを元に陶板名画という形で再現させました。大塚国際美術館は世界の名画を陶板を用いて原寸大で再現・展示する美術館として名高く、他のひまわりの絵画も再現・展示しています。オリジナルではないとはいえ、焼失した作品も含めたゴッホのひまわりの絵画7点全てを鑑賞できるのは、この美術館だけでしょう。
ひまわりの種類
ひまわりは3種類に大別できる / 「背が高く、黄色くて大きい花をつける植物」というイメージが強いひまわりですが、実際は花色や咲き方に大きさなど、品種によっていろいろと異なる特徴を持つ植物です。そして種類としては60種類の野生種があり、品種改良で生まれた園芸品種を合わせると100種類を超えます。そんなひまわりの種類を大きく分類すると、下記の3つに分けられます。
1:園芸用ひまわり
まずは園芸用ひまわりの紹介です。この種類は名前でわかるように、鑑賞目的で作られました。一般に販売されているひまわりのほとんどは、この種類に属します。鑑賞目的で作られたため、ミニヒマワリのような鉢植え向きの小さい品種、珍しい花色をしている品種、八重咲きの品種、枝分かれして複数の花をつける品種など、変わった特徴があったり、非常に見栄えがする品種だったりするなど、個性的で魅力的な品種が多いです。
2:食用ひまわり
食用とする種を収穫するためのひまわりです。ひまわりの種は栄養価が高く、コレステロール値の上昇を抑えたり、生活習慣病や高血圧を予防するなど健康効果もあります。アメリカや中国では、おやつとしてもよく食べられています。園芸用と比べて種が大きく、殻の部分に白黒の縞模様が入っているのが特徴です。高い健康効果から、種を乾燥させて生薬としても用いることもあります。
3:油糧用ひまわり
ひまわりの種からは油が取れます。ひまわりが油糧植物として栽培されるようになったのは、ひまわりの種がアメリカからヨーロッパに伝わった18世紀頃のことです。現在では品種改良によって、油脂分を多く含む種をつける品種も生まれています。美容・健康効果が高いオレイン酸やリノール酸、ビタミンEを豊富に含むひまわり油は、適度に摂れば美容と健康に素晴らしい効果を発揮してくれるでしょう。
人気の品種
ひまわりは、園芸用の品種だけでも結構な数がある植物です。「育ててみよう」と思って調べてみたら、その数の多さに驚いたという方もいるでしょう。そこでここでは、庭で抜群の存在感を示す大きい品種、鉢植えやプランター栽培向きの小さい品種、ゴッホやゴーギャンなど有名な画家の名前がつけられた品種など、それぞれ特徴別に分けた人気品種を紹介します。
1:ロシア
「ロシアひまわり」とも呼ばれている巨大輪の品種です。名前の由来は、ロシアで多く栽培されていることからきています。ロシア人にとても愛されている花ですが、日本でも人気が高い品種です。草丈約200cm、花径約25cmから30cm、満開時期には、太陽を彷彿とさせる明るい黄色の花をつけます。太陽を彷彿とさせる大きい花姿は、まさにひまわりの王道と言えるでしょう。
2:タイタン
ひまわりの大型種の中でも、最も大きいとされている品種の1つです。気候条件や栽培環境にもよりますが、うまく生長すれば草丈300cm以上、花径40cm以上になります。広い庭で群生させれば、大迫力のひまわり畑ができあがるでしょう。食用品種でもあるため、種もとても大きいです。炒ったり塩ゆでにしたりして食べます。
3:グッドスマイル(ミニヒマワリ)
グッドスマイルはミニヒマワリの人気品種の1つです。花粉が出ないため、中心部の黒褐色と濃い黄色の花びらとのコントラストがとても美しく映えます。草丈は40cmほどで、早めに摘心するとたくさんの花を咲かせ、しかも形よくまとまるという特徴があります。この特徴も人気の理由です。
4:小夏(ミニヒマワリ)
小夏はミニヒマワリの中でも小さい品種の1つです。上記のミニヒマワリ・グッドスマイルよりも小さく、草丈は20cmから25cmほどしか生長しません。花径は約10cmです。濃茶色の中心部と濃黄色の花びらとのコントラストが美しく、さらに花粉が出ず花もちがよいという特徴から、ミニヒマワリの中でも人気が高い品種でもあります。
5:テディベア
ミニヒマワリとは違いますが、矮小性の品種です。「テディーベア」と表記される場合もあります。草丈は約60cmから80cm、花径は10cmほどです。最大の特徴は丸く小さい八重咲きの花でしょう。もこもことした様子が、まるでぬいぐるみのテディベアのようであることから、この名前になりました。個性的でかわいい花姿から、やはり人気の高い品種です。
6:ゴッホのひまわり
前にも触れた画家・ゴッホの名前を冠した品種です。この品種はゴッホが描いたひまわりをイメージしていると言われています。1つの株から一重咲き、半八重咲き、八重咲きと、いろいろな形の花が咲くのが特徴です。オレンジイエローの花色も鮮やかで、とても華やかな雰囲気を持っています。花粉も出ないので切り花向きの花と言えるでしょう。草丈は150cmから180cm、花径は約15cmです。
7:ゴーギャンのひまわり
前述のゴッホとの関りが深いことでも知られる画家・ゴーギャンの名前を冠した品種です。草丈は120cmから150cm、枝分かれして咲く花の花径は約18cmになります。細長い花びらが不規則に伸びて咲く八重咲き品種で、ひまわりというよりは菊の花のような独特の雰囲気を持っています。
8:モネのひまわり
睡蓮の絵で有名な画家・モネの名前を冠した品種です。睡蓮の絵のイメージが非常に強いモネですが、実はひまわりの絵も描いており、この品種はその絵のひまわりのイメージに近いとされています。草丈は150cmから180cm、花径は約15cmです。八重咲き品種で、明るいレモンイエローの花びらと、緑色をした中心部とのコントラストが独特の透明感を生み出しています。
9:イタリアンホワイト
白系ひまわりの人気品種で、花びらの中心に近い部分に薄くレモン色がさしているのが特徴です。中心部が濃い茶色なのでコントラストがはっきりとしていて、通常のひまわりとはまた違う清涼感を醸し出しています。草丈は120cmから150cm、花径は7cmから10cmです。白系の品種ですが、環境によっては全体的にレモン色が強く出る場合があります。
10:プラドレッド
花びらは濃赤色、中心部は黒と、独特な色合いが強烈な印象を与える人気品種です。よく枝分かれするため、たくさんの花をつけます。草丈は120cmから140cm、花径は約15cmです。個性的な外見の品種は気難しく育てにくい場合がありますが、この品種は比較的育てやすく、その点も人気の理由になっています。
11:サンリッチシリーズ
サンリッチシリーズとは、サンリッチ系とも呼ばれている切り花向け品種のシリーズです。それぞれの品種に「サンリッチレモン」「サンリッチオレンジ」と、花色に合わせた名前がつけられます。草丈は品種によって違いますが、100cmから150cmと、あまり大きくなりません。切り花向け品種シリーズとして作られたため、枝分かれせずスッキリと一本立ちするのが共通の特徴です。
12:ビンセントシリーズ
サンリッチシリーズと同じく、切り花用ひまわりの品種シリーズです。上を向いて咲く特徴があるため、フラワーアレンジメントでよく利用されています。草丈は150cmから170cm、花径は約15cmです。それぞれに品種には、花色に合わせて「ビンセントオレンジ」「ビンセントネーブル」「ビンセントポメロ」と、フルーツのような名前がつけられています。 

 

●ヒマワリ(向日葵) 4
夏の風物詩のお花といえば、ひまわりが一般的にもポピュラーですよね。 夏の暑さにも負けず、そして地上に降りた太陽のようなまぶしい美しさは、ひまわりならではですよね。 ひまわりの花束なんかをもらったら、とっても元気になれそうです! 今回は、そんなひまわりについて詳しく紹介していきます。 ひまわりの花言葉や、ひまわりの持つ効能まで、みんなの好きなひまわりについてまとめますよ。
語源
ひまわりは、漢字で「向日葵」と書きますね。 皆さんもよくご存じのとおり、ひまわりの語源は太陽のほうを向いて咲く姿からきているといわれています。 「日を向く葵」と書くわけなんですね。 ひまわりが太陽のほうを向くのは、花が咲く前なんです。 花が咲いた状態で、お日様のほうへくるくると向きを変えることはまずありません。 茎が成長していく過程で、お日様がどのあたりから指して来るのかを体で感じているんですね。 太陽をめいっぱい浴びて輝くイエローは、見ごたえたっぷりです。
植物の特徴
ひまわりは、夏の季語で夏に大輪のイエローの花を咲かせます。 キク科の一年草で、花期は7月から8月中旬です。 ひまわりが好む土壌は、弱酸性から中性です。 日本の土は、放っておくと酸性になりがちなので赤玉土や石灰などを巻いて中和しておきます。 成長すると、背丈が1.8m〜3mにもなりとても大きくなります。 見事な花を咲かせるには、夏の台風で折れないこと・乾燥させすぎないこと・栄養を補給することが大事になってきます。 そのため、基本的に地植えするのが一般的でした。 近年での品種改良によって、プランターでも育てられるような中型品種や小型品種のひまわりもあります。 基本的には、一度植えてしまえば手入れはさほどかかりません。 手軽に自分の庭で、ひまわりが見れるのはとってもうれしいですよね。 ひまわりには、このような園芸用のひまわりと「食用のひまわり」「ひまわりオイル用ひまわり」の3つに区分されています。 次はひまわりの種類についてみていきましょう!
ひまわりの種類
ひまわりの種類は約300種もあるといわれています。 そんなひまわりの種類には3つの用途があったんです。 1園芸用 2食用 3ひまわり油用 です。 それぞれの花の特徴や花言葉を紹介していきます。
園芸用ひまわりの種類・皇帝ひまわり
園芸用のひまわりとしては、なかなかの知名度を持つ「皇帝ひまわり」です。 なんと高さは最大で5mにもなるんだとか! この皇帝ひまわりは、和名では新渡戸菊といいます。 キク科の非耐寒性多年草ですが、一般的に日本の気候では冬を越せず一年草扱いになっています。 花は夏ではなく、晩秋から開花して秋の終わりまで小ぶりなひまわりの花がたくさん咲きます。 葉はヤツデのようなで茎は太くて直立します。 よく枝分かれするので、いくつもの花が咲くのが人気のひまわり。 夏のひまわりと一緒に植えておけば、季節をまたいで入れ替わりでひまわりが咲き続けます。 小ぶりできれいな色味のひまわりなので、ブーケや花束にもよく使われています。
花言葉は「あこがれ」・「わたしの目はあなただけを見つめる」・「崇拝」・「熱愛」・「愛慕」・「光輝」です。 太陽をまっすぐに見上げる姿勢から連想する、きれいな花言葉ですね。
食用のひまわり
食用ひまわりの種類は、「食用ひまわり」という種から作ることができます。 食用といっても、多くは花が終わってできる種を食べることが多いです。 ひまわりの種は、ハムスターやリス・ウサギなどの小動物が食べるイメージが強いでしょうか? 実は、ひまわりの種は人間にとっても高い栄養価でスーパーフードといえるんです。 ひまわりの種の栄養価は、 ・葉酸 ・カリウム ・ビタミンE が豊富です。 しかし、カロリーは100gで約600キロカロリーなので食べすぎには注意が必要です。
「 種は絞って搾油されヒマワリ油として利用される。ヒマワリ油には不飽和脂肪酸が多く含まれる。1990年代までリノール酸が70 - 80%、オレイン酸が10 - 20%のハイリノールタイプが主流であったがω-6系列の脂肪酸であるリノール酸の発ガンや高脂血症、アレルギー等との因果関係が報告されるにいたり、リノール酸が15 - 20%、オレイン酸が40 - 60%の中オレインタイプのNuSun品種が伝統的な交配育種法により育成され、2000年以降は主流となっている。煎って食用とすることができる。乾燥した種子を用いる生薬名は「向日葵子」(こうじつきし)。また、ペット(ハムスター、小鳥など)の餌に利用される。ディーゼルエンジン用燃料(バイオディーゼル)として利用する研究も進められている 」
ひまわりの種のとり方は、花が下を向き枯れてきてからが収穫時期になります。 よく乾燥したひまわりを、網などにこすりつけるようにして左右に押し付けるとぽろぽろと取れていきます。 ひまわりには独特のとげのような痛い葉っぱがあるので、軍手必須で作業を行ってください。 ひまわりの種が取れたら、よく洗って再度乾燥させましょう。 そのあとは殻をむいて、フライパンで炒めるとおいしく食べられますよ!
ひまわり油用のひまわり・ロシアひまわり
ひまわりは、ロシアの国家でもあります。 昔のロシアでは、国家に深く根付いている正教会がほとんどの油脂食品を禁止していたことがあります。 しかし、ひまわりは禁止していなかったのでロシアではひまわりを常食するようになったのだそう。 そのため、ひまわり油の生産量もトップです。 そんなロシアひまわりは、背丈が2mほどにもなる大型種です。 大輪のひまわりの花からは、たくさんのひまわりの種が収穫できますよね。 ひまわり油は、ひまわりの種を使って作られています。 花言葉は「熱愛」です。  
ひまわりが持つ効能
女性の美しさに欠かせないものは、ひまわりが持つ効能で解決してみませんか? ここではヒマワリのもたらす効果や効能を紹介します。 ・動脈硬化を予防する ・コレステロールを下げる ・髪の毛の健康を保つ ・ミネラル・ビタミンEが効率よく摂取できる ・アンチエイジング作用がある ・活性酸素を除去する などです。 血行が良くなり、むくみの改善になったり ひまわりオイルを使ったドレッシングなどで効率よく美肌を目指すことが出来そうですね。 ひまわりオイルを使ったシャンプーHIMAWARIも人気になりました。 ミネラルのおかげで髪も生き生きとしてくるんです。 ひまわりは、きっと女性の心強い味方になってくれますよ。  

 

●ヒマワリ(向日葵)・諸話 5
●ヒマワリ
学名:Helianthus annuus
和名:ヒマワリ(向日葵)  
科名 / 属名:キク科 / ヒマワリ属
ヒマワリは明るく鮮やかな黄色い花が元気を与えてくれる植物です。草丈30cm程度の矮性品種から3mを超えるロシアヒマワリ、また切り花用など、さまざまな品種があります。花は黄色系の舌状花と、黒や茶色、黄色などの管状花からなり、小輪から大輪、一重咲きや八重咲きの品種など多種多様です。観賞以外にも、タネを炒って食用にしたり、油を搾ったり、飼料に利用することもあります。ポット苗も流通しますが、タネが大きいのでまきやすく、簡単に育てることができます。
園芸分類    草花
形態       一年草
原産地     北アメリカ
草丈/樹高  30〜300cm
開花期     7月〜9月
花色       オレンジ,黄,茶,複色
耐寒性     弱い
耐暑性     強い
特性・用途   初心者でも育てやすい
種類 (原種、園芸品種)
‘ソラヤ’Helianthus annuus‘Soraya’ 濃黄色の花がやや上向きに咲く。分枝性がよく、花首が硬いので、切り花にも向く。
‘ゴッホのひまわり’Helianthus annuus ゴッホの描いたヒマワリのイメージで、一重、半八重、八重などいろいろな花形が咲く。花粉がないので、花もちがよいうえ、切り花にしても汚れない。
‘モネのひまわり’Helianthus annuus‘Sun Flower of Glaide Monet’ 八重咲きで、レモンイエローの花弁が美しい。花粉がないので、花もちがよいうえ、切り花にしても汚れない。
‘テディーベア’Helianthus annuus‘Teddy bear’ 草丈80cm程度で、八重咲き。もこもことした雰囲気。
‘マンチキン’Helianthus annuus‘Munchkin’ 鮮やかな黄色。草丈70cm前後で、分枝性がよく、ボリューム感がある。
‘小夏’Helianthus annuus‘Konatu’ 極矮性品種で、草丈20cm程度。花はやや上を向くので、ボウルプランターや花壇の前側に植えるとよい。
‘グッド・スマイル’Helianthus annuus‘Good Smile’ 中心が黒褐色で濃黄色の花弁。草丈40cm程度で小さく、形よくまとまる。分枝性がよく、早期に摘心して側枝を出させると1株からたくさんの花が咲く。
「サンリッチ」シリーズHelianthus annuus Sunrich Series 葉があまり大きくならず、切り花に向く。花色、花形がとても美しい。花粉がないので、花もちがよいうえ、切り花にしても汚れない。  
●「ひまわり」の秘密
8月に入り、毎日のように厳しい夏の暑さを感じるようになってきました。
みなさんは、夏の風景といえば何を思い浮かべるでしょうか。白い砂浜と青い海でしょうか、それとも夜空を彩る花火でしょうか。夏のまぶしい太陽の下、一面に大輪の黄色い花を咲かせるひまわり、という人もいるでしょう。
太陽と強く結びついた花
ひまわりは、漢字で「向日葵」と書きます。太陽の動きにつれて、その方向に向かって成長して花も動くように見えることから、そう名づけられました。英語では「Sunflower(サンフラワー)」、フランス語では太陽を意味する「Soleil(ソレイユ)」と呼ばれます。
太陽と強く結びついた花というイメージは、世界共通のようです。向日葵は7月20日の誕生花であり、夏の季語でもあります。気象衛星の「ひまわり」という名前は、衛星が地球に対して常に同じ向きであることからつけられたものです。
太陽を追いかけて動くのは花が咲く前?
多くの方は、ひまわりの花は朝は東に、夕方には西にと、常に太陽に向かって回っていると思っているかもしれません。しかし、そのようにひまわりが太陽を追いかけて動くのは、実は花が咲く前の成長が盛んな時期までです。
開花して茎が硬くなると、通常の場合は東を向いたまま動かなくなってしまうのです。どうしてなのでしょうか。
植物にも動物と同じように、細胞の成長や調節に作用するホルモンがあります。ひまわりにはオーキシンという成長ホルモンがあり、このホルモンは光が当たらないと濃度が上がるという特徴を持っています。太陽が当たらない側の茎の部分ではオーキシンの濃度が上昇して成長が促進され、陰となった部分の伸長が早められます。
その結果、ヒマワリの頭は太陽に向かって屈曲することになります。このような性質は「光屈性」と呼ばれます。オーキシンの濃度は常に太陽と反対側の茎の部分で上昇するため、ひまわりは太陽を追いかけるかのように頭を回すことになるのです。そして、つぼみが育って花が咲くころになると、茎の成長が止まって硬くなり、太陽を追うこともなくなるのです。
なぜ、成長中のひまわりが太陽を追いかけるような動きをするのでしょうか。日光を常に浴びようとすることで光合成を盛んにし、より大きな花を咲かせるためとも言われますが、確たる答えはまだ出ていないそうです。
悲しい恋の言い伝えも
ひまわりの花言葉は「私はあなただけを見つめる」です。
ギリシア神話にこんな話があります。クリュティエという水の妖精が太陽神ヘリオス(アポロン)に恋をし、2人は愛し合うようになります。でも、皮肉なことに、恋多きヘリオスは他の女性へと心移りをしてしまいました。
悲しみにくれるクリュティエは、日輪車に乗って空へと昇り、天道を駆けるヘリオスの姿を9日9夜ひたすら見つめ続け、ついには1本のひまわりに姿を変えてしまう。クリュティエは花となっても太陽を見つめ続ける――。
夏の青空の下、明るく花を咲かせるひまわりには、こんな悲しい恋の言い伝えもあるのです。 
●旬花 夏を連れてくる花「ひまわり」
夏になると、あちらこちらで大輪のひまわりを見かけるようになりますね。「太陽王」と呼ばれるフランスのルイ14世はこの花を好み、自分の紋章にしています。ベルサイユ宮殿の正門には、今もひまわりが植えられています。ひまわりは観賞するだけでも素敵で、元気をもらえる花ですが、世界中で食料としても利用されています。夏の季節の花、ひまわりについてご紹介します。
ひまわりの名前の由来
ひまわりの名前の由来は、「太陽を追って咲く」ことに由来しています。漢字では「向日葵」と書き、太陽を向くことをあらわしていますね。これは、他の言語においても同様です。ひまわりを表す単語をみてみると、英語では「太陽の花」という意味を持ちます。また、フランス語でも「太陽をまわる花」というがあります。日本のみならず、世界でも太陽に向かって咲く花として有名です。古代メキシコやペルーなどでは、太陽の神様をあらわすものとして考えられていました。古代「ひまわりは太陽を追う花」とされてきたのです。
ひまわりの花言葉
「私はあなただけを見つめる」という花言葉も、太陽の動きを追う性質が由来となっています。その他にも「愛慕」・「崇拝」などがあります。「崇拝」に関しては、15世紀のインカ帝国でひまわりを太陽神の象徴としていたことに由来しているといいます。
ひまわりは本当に太陽を追うのか
名前の由来や花言葉でもみてきたように、ひまわりが太陽を追って咲くのは共通の認識のようです。では、本当に太陽を追うのでしょうか。実は、ひまわりの花は一度咲いてしまうと、ずっと東向きで動かなくなります。太陽を追うように東から西へと動くのは、本葉が開き、つぼみが開き始めるくらいまでのことです。若いひまわりがこのように動く理由は、一説によると葉にたくさんの光を受け、養分を多く作り出すことによって成長するためだといわれています。
ひまわりの原産地
ひまわりは北アメリカが原産の植物です。先住民のアメリカ・インディアンは儀式の際に使用したり、食料にしていたようです。アリゾナやニューメキシコ付近では5000年も前から栽培していたという記録もあります。日本には、17世紀頃に中国から観賞用として渡ってきました。当初はひまわりという名前ではなく、「丈菊(ジョウギク)」と呼ばれていたそうです。
ひまわりの利用法
現在、ひまわりの生産国として有名なのはロシア・ウクライナ・トルコなどです。ロシア・中国・中南米の国では、主に食料として栽培されています。食用になるのは、その種です。炒って食べたり、お菓子やパンに練り込んだりして食べています。また、種はそのまま食べるだけではなく、油を絞って「ひまわり油」として利用されます。ひまわり油は食用に使われる油として世界で第4位の生産量があり(2002年)、ヨーロッパではサラダやマリネに適しています。ヨーロッパでは大部分がひまわり油を使用しているそうです。ひまわり油にはリノール酸やビタミンEが多く含まれています。これらの成分は成人病の予防に効果があると言われています。私たちも積極的に摂取したい油の一つですね。
ひまわりの後の場所はよく作物が育つ?
昔から農業では、ひまわりを植えた後の場所に小麦を作ると、豊作になると伝えられてきました。これはVA菌根菌という菌の効果で生育が良くなるからです。この菌はカビの仲間で、周りの土からリン酸等の養分や水分を集めます。それらをひまわりに渡し、ひまわりから糖分などをもらうことで共生します。その後ひまわりが枯れ、土に戻ると栄養が豊富な肥料となり、次の作物がよく育つのです。このVA菌根菌との共生のため、ひまわりのそばに花や野菜を植えてもあまり育ちませんので注意が必要です。
ひまわりの品種
現在、日本で栽培されている油料用・食料用の品種は、ほとんどアメリカやヨーロッパからの輸入品種です。園芸用の品種は、大・中・小輪種のほか、八重咲き種・スプレー種(枝分かれして多くの小輪の花をつける品種)があります。また、花粉で汚れるのを防ぐために花粉が出ない品種もあります。野生のひまわりは、さほど大きな花をつけません。
ひまわりの花は一輪ではない。
咲いているひまわりの花は一輪に見えますが、実は何千ものたくさんの小さな花が集まった花の集団です。花によって役割分担をしており、虫を呼ぶ花、種をつくる花に分かれています。一番外側についている花びら状のものは舌状花といい、おしべやめしべがありません。これは虫をおびき寄せる役割を持っています。中心部にあるのが筒状花というおしべとめしべのある花があり、これが種になる花です。
ひまわりの育て方
ひまわりは基本的に強い植物のため、ほとんど手間がかかりません。暑さだけでなく寒さにも強く、4から5℃でも発芽するほどです。葉の色が薄かったり、茎が細かったりするときには、化成肥料を少しだけ株の間の土に軽く混ぜるくらいで様子をみましょう。水やりは土が乾ききらない程度で大丈夫です。ひまわりは連作のできない植物ですので、毎年同じ場所で育てることは避けたほうがよいでしょう。
ひまわりの種のまき時
ひまわりは一般的に背丈の高い植物なので、雨風に弱い性質があります。そのため、九州など暖かいところでは台風を避け、少し遅くまいてもよいでしょう。まくときは品種によって間隔が違います。背丈や花が大きいものは30から40cm、小さいものは20から30cm離します。種は、1ヶ所に2、3粒をまきましょう。種をまいたら、たっぷり水を与えます。7日くらいで発芽します。その後、本葉が出たら生育の良いものを残して、後を抜き取ります。
ひまわりの病気
強くて手間のかからないひまわりですが、病気にかかることもあります。主な病気は「菌核病」「空洞病」灰色かび病」などです。この中でも菌核病はマメ科、アブラナ科など、多くの植物に感染しますので、見つけたらすぐに抜いて処分しましょう。開花期に湿度が高いと、ひどい病気が出ることがあります。また、菌核病がマメ科からひまわりに感染することもあります。マメ科の作物を作った場所でひまわりを育てるのは、避けた方が無難です。

ひまわりは育てやすく、とてもキレイな花で、種を食べることもできます。夏の思い出に子どもと一緒に育てて楽しんでみるのも、素敵な思い出になりそうですね。 
●ひまわりを苗から育てる
ひまわりは、夏の暑さを吹き飛ばすように咲く、パワフルな花です。太陽の下で輝く黄色い花を見ているだけで、心が明るくなるという方も多いのではないでしょうか。今回は、ひまわりの特徴や育て方についてご紹介します。
夏を代表する花 ひまわり
ひまわりは7月から9月にかけて、大輪の花をつけます。草丈は30cmほどのものから3mを超す大型のものまでさまざまです。原産は北アメリカで、コロンブスの時代にヨーロッパへ伝わり、世界へ広がっていったとされます。ひまわりは漢字で「向日葵」と書きます。「向日」とあるように、ひまわりは太陽に花を向けて咲くことで知られています。ただ、品種にもよりますが、ひまわりが花首を日光のほうへ向けるのは成長途中の時期だけです。花がつくと、ほとんどのひまわりは動かなくなります。葵とはアオイ科の花の総称です。ひまわりはキク科ですが、太陽に向かって咲くところがアオイ科の花に似ているため、「向日葵」とつけられたのかもしれません。
ひまわりの苗を植えつけするには
ひまわりは種から育てるのも簡単ですが、花の時期が近いときには苗を植えて育てることもおすすめです。ここでは、ひまわりを苗から育てる方法をご紹介します。
苗の選び方
ひまわりの苗は初夏から8月頃に販売されています。植えつけするには育ちすぎていないほうが良いため、大きすぎるものは避けましょう。本葉が5〜6枚までであれば問題ありません。また、苗そのものが元気かどうかも大切です。緑が鮮やかで、葉がきれいなものを選びましょう。
植えつけ
所に植えるのが大切です。地植えの場合は畝立てすれば水はけが良くなります。株が蒸れないよう、風通しの良さも重視しましょう。
また、ひまわりには直根性があります。直根性とは、根が地中に向かってまっすぐに生長する性質のことです。ひまわりのように枝分かれせず太い根が伸びる直根性の植物もあれば、チューリップのように途中で枝分かれするタイプも存在します。
ひまわりの場合、植えつけ時に太い根を傷つけてしまうと、その後の生長に影響が出る可能性があります。育苗ポットから苗を出すときは慎重に抜き取り、できるだけほぐさないようにしましょう。無闇に植え替えしなくて済むよう、植える場所の環境は確かめておくのも大切です。
植えつけの際には、元肥として肥効期間が約1年間持続する『マグァンプK中粒』を土に混ぜ込みます。また、植えつけが終了したら根の活着促進のため植物用活力液『リキダス』を1,000倍に水にうすめて、たっぷりとあげましょう。
摘芯(必要なもののみ)
ひまわりには、種類によって一株にいくつかの花をつけるものがあります。花の数を増やしたいときは、摘芯を行いましょう。摘芯とは、植物の芽の先端を剪定することでほかの場所から出る「脇芽」を増やし、株を大きくさせたり花数を増やしたりする方法です。特にミニひまわりと呼ばれる小型の種類は、摘芯をして花数を増やすのが定番となっています。タイミングは、本葉が5〜6枚ついた頃が目安です。
ただ、最近の品種であれば摘芯をせずとも数多くの花をつけるものもあります。そういったものは、あえて摘心をしなくともかまいません。また、摘芯をしたひまわりは、花の大きさが小さくなります。花の大きさを維持したいときも摘芯は控えましょう。
花がら摘み
ひまわりの場合、種をとりたければ花がら摘みをする必要はありません。一茎に何本も咲く多花性の種類であれば、最初に枯れてきた花を摘み取ると、次の花が育ちやすくなります。花がら摘みの際は、思い切って脇芽の上を切り取ります。しおれてきた葉っぱも取り除きましょう。
支柱立て
ひまわりの花は大きいため、茎が重さに耐えられず折れてしまうことが多くなります。花の下部分まで長さのある支柱で、ひまわりを支えてあげましょう。
種の採取
ひまわりが育ち終わると、中心の茶色い部分を残して少しずつ花びらを散らしていきます。この中心部分から種がとれますが、花びらが散り終わった直後にすぐ採取することは控えましょう。種は、開花してから1〜2カ月かけて徐々につくられていくためです。茎全体が乾燥して茶色くなり、折れ曲がってきたら収穫時期です。その頃には種が黒くなっています。種の収穫時は、花首を直接切り取ります。注意したいのは湿気です。花がらが湿っているとカビが発生してしまいます。種の収穫は前日からずっと晴れている日を選びましょう。切り取った花がらは風通しが良い場所で何日か陰干しします。鳥に食べられることがあるため、室内に置いておくのがおすすめです。花がらは丁寧に並べ、カビ予防のために毎日ひっくり返しましょう。水分が抜けきったら陰干しは終了です。
花がらから種をとるときは、指やヘラでえぐり取るか、目の粗いふるいにこすりつけます。ひとつの花がらからは大量の種がとれますが、中には育ちきっていないものもあります。ふるいにかけて選別し、取り除きましょう。
こうして採取した種は、次の年にまくほか、食用として調理に使うこともできます。気になる方は洗浄して、よく乾燥させてから食べましょう。
太陽を連想させるひまわりの花言葉
ひまわりにはたくさんの花言葉があります。代表的なものだけでも「私はあなただけをみつめる」「憧れ」「愛慕」「情熱」など多数です。こういった花言葉は、ギリシア神話の恋物語のもとになっているといわれています。共通しているのは、ひまわりの向日性に人の気持を重ね合わせている点です。太陽をみつめるひまわりの姿に、人々は恋する気持ちを託してきたのかもしれません。
また、ひまわりは世界各国で異なる花言葉がつけられています。例えば、欧米には「偽りの富」というひまわりの花言葉があります。これは、太陽信仰があり、ひまわりを模した冠を使用していたペルーに、スペインの侵略があったことが由来とされているそうです。侵攻してきたスペイン人がひまわりを模した黄金の冠を奪ったことから、ひまわりに「偽りの富」という意味が持たされました。
ひまわりの花言葉は、花の色や品種によっても異なります。好きな花言葉の品種を選んで育ててみるのも面白そうです。花言葉を調べて、ひまわりにもっと親しんでみましょう。

明るい太陽が似合い、見る人の心を和ませてくれるひまわり。育てやすいため、お子さまと一緒に栽培するのにも向いています。種をとれば翌年以降も植えられるため、年々愛着がわいてきそうです。毎年の夏の楽しみに、ひまわり栽培をはじめてみてはいかがでしょうか。 
●ひまわりが太陽を追いかける
夏を象徴する花と言われたら、最初にイメージするのはやっぱりひまわりですよね。太陽を象徴するともいわれ、黄色く大きい花は多くの人の目を惹きつけます。ひまわりは現代のみならず、古代の人々にも愛されてきました。例えば、古代インカ帝国で、太陽神のシンボルとして崇められてきました。また、寒さの厳しい極東の国、ロシアの国花がひまわりなんですよ。 とても意外ですよね。そんなひまわりにはひとつの不思議があります。それは、太陽の方角を向いてくるくる花が回るということ。聞いたことはあるけど、どうしてなのか知っていますか?まるで意思をもって動いているかのようで、とても面白いですよね。この記事では、なぜひまわりが太陽を追うのかを説明します。ギリシャ神話にも関係し、この生態が名前の由来にもなっているんです。ひまわりを見るのがもっと面白くなりますよ。
1 ひまわりはなぜいつも太陽の方角を向いているの?
夏休みの自由研究などでひまわりの様子を観察した人もいますよね。いつも太陽のほうを見ているひまわりを、不思議な気持ちで見ていた人も多いはず。実際に若いひまわりは蕾をつける頃まで、朝は東、正午は真上、夕方は西と太陽を追って動きます。太陽に合わせてくるくる向きを変えるって面白いですよね。この動き、花が動いていると思っている人が多いようです。でも、実はこのメカニズムに関係しているのは、花ではなく茎なんですよ。ひまわりの茎にあるオーキシンという成長ホルモンは、太陽の光に大きく影響されます。このオーキシンは光が当たらない側に多く集まり、濃度が高くなると茎が伸長成長します。つまり、太陽の光が当たらない側の茎は、当たっている側の茎より伸びやすいということ。そして、光が当たっていない側の茎が伸長すると、自然にひまわりの花は太陽のある方角に曲がるのです。このように太陽に合わせて花の向きを変えることで、成長期のひまわりは葉に効率よく太陽の光を浴びて栄養分を作ることができます。太陽に向かって元気にグングンと伸びていくひまわりのイメージは成長ホルモンの作用だったのですね。
2 太陽の方を向いていないひまわりもあるのはなぜ?
でも、太陽の方角を向いていないひまわりもありますよね。それはどうしてでしょうか?前述の通り、太陽の方角を向くのは、まだひまわりが若い成長が盛んな時だけです。ですから、蕾が大きくなって開花する頃には成長が止まって茎が硬くなって動かなくなります。完全に花が開いてしまえば、東か西を向いたまま動かなくなります。若いひまわりは太陽を必死に追いかけているように見えますが、成熟したひまわりはドッシリと構えて動かないのです。
3 ギリシャ神話に見る ひまわりが太陽を追いかける理由
まわりが太陽を追いかける由来となったとされるエピソードが、ギリシャ神話にあります。かつて太陽神アポロンは、女神クリュティエを寵愛していました。でも、アポロンは美しいペルシアの王女レウコトエに夢中になってしまい、クリュティエへの想いはすっかり冷めてしまいました。突然のアポロンの心変わりに、クリュティエは激しく嫉妬します。まして相手のレウコトエは女神ではなく、ただの人間の女性。クリュティエは「神である自分を差し置いて、人間の小娘が太陽神に愛されるだなんて!」と怒り狂います。そして、レウコトエの父である王様に、レウコトエの悪い評判をでっちあげて「お前の娘はふしだらだ!」などとあることないことを吹き込みます。厳格な王様はクリュティエのウソの告発を信じ込んでしまいました。レウコトエに対して激高した王様は、娘レウコトエの言い訳も聞かぬまま大きな穴に彼女を生き埋めにしてしまったのです。それを聞きつけたアポロンが驚いてレウコトエを助けようとしますが、彼女はもう息絶えていました。うまく恋敵を抹殺したクリュティエですが、だからといってアポロンの心がクリュティエに戻ることはありませんでした。最愛の人を死に至らしめたクリュティエを、アポロンが許すはずもありません。愛するアポロンの愛も信頼も完全に失ってしまったクリュティエは、9日間天空を駆けるアポロンを涙とともに見つめ続けていました。いつしかクリュティエの足は大地に根を張り、身体は茎となり、美しい顔はひまわりの花となったのです。ひまわりが常に太陽の方向を見つめる理由は、クリュティエという女神のアポロンへの報われぬ苦しい恋心ゆえなのかもしれません。そんなひまわりの花言葉は「私はあなただけを見つめる」。この神話を聞くと、一層強いメッセージに感じられますね。
4 「太陽の花」 ひまわりの名前の由来は?
ひまわりの名前も、やはり太陽を追うその様子が由来しています。夏の太陽を思わせる元気いっぱいなひまわりは英語でSunflowerといいますよね。そう、「太陽の花」です。学名は「Helianthus annuus」で、語源はギリシャ語で、やはり「helios 太陽」と「 anthos 花」を意味します。和名では「向日葵(ヒマワリ)」ですが、名前の由来は太陽の移動につれて太陽を追いかけるように花が向きを変えることからきています。この動きがひまわりの特徴といってもいいくらいですよね。他にも「日輪草(ニチリンソウ)」、「日車草(ヒグルマソウ)」、「日回り草(ヒマワリソウ)」などの名前でも呼ばれています。また、食糧用ひまわりの世界一の生産量を誇るロシアでは、ひまわりは「подсолнечник (パトソールニチニク)」と言ってやはり太陽という意味の言葉が含まれた呼び名なのです。世界中で「太陽の花」と呼ばれるひまわりは太陽とは切っても切れない関係なのです。
5 ひまわり以外に太陽の方角を向く花はあるの?
実は、太陽を追いかける花はひまわりだけではありません。例えば、マリーゴールドも朝に花が咲くと太陽の方へと向き夕方に花を閉じます。また、ダリアや百日草もそうです。このように、光合成のために茎などが太陽光線の強い方へ向かって屈曲する性質を「向日性」といいます。程度の差はありますが、多くの花は太陽の光に反応して向きを変えたり、開花したり閉じたりします。つまり「向日性」とはひまわり特有の性質ではないということです。ひまわりはその動きがはっきりしているので、ひまわりだけにあるメカニズムだと誤解されていることもあるようですね。
6 最後に
ひまわりと太陽の関係をまとめました。いかがでしたか?ひまわりの太陽を追って咲その姿は、夏の風物詩でもあります。見ていると元気をもらえますよね。また、ひまわりは神話にも登場し、さまざまな映画、絵画、音楽などのテーマとしても取り上げられてきました。長いこと人々に愛されてきたことがわかります。明るさと情熱、そして強さを感じさせるひまわりの花は贈り物として喜ばれますし、元気いっぱいのビタミンカラーはお部屋のアクセントとしておすすめです。少し元気のない時は、ひまわりから太陽のパワーを分けてもらいましょう。 

 

 
 
 

 

●ひまわりの花言葉

 

●ひまわりの花言葉 1
ひまわり(向日葵)は、元気!ポジティブ!元気で明るいイメージの夏の花の代表花。ひまわり(向日葵)の花言葉についてご紹介。7月20日の誕生花。
ひまわり(向日葵)の花言葉
「ひまわり(向日葵)」の花言葉は「憧れ」「あなただけを見つめる」。
白のひまわり(向日葵)の花言葉は「程よき恋愛」。
紫のひまわり(向日葵)の花言葉は「悲哀」。
大輪のひまわり(向日葵)の花言葉は「偽りの愛」「にせ金持ち」。
小輪のひまわり(向日葵)の花言葉は「高貴」「愛慕」。  

 

●ひまわりの花言葉 2
ひまわりの花言葉は、 ・「あこがれ」・「あなたを見つめる」 などの太陽を追っていく性質からくる花言葉があります。 ・愛慕・敬慕・愛慕・崇拝・情熱・情熱などのまぶしい花言葉も。 ・敬老の日・光輝などの意味合いの花言葉で花束を贈るのもいいですね。 ・「あなたを幸福にする」・「あなたは素晴らしい」なんていうロマンチックな花言葉もあります。 思い人にはひまわりの花束をぜひ贈りたいですよね。
花言葉の意味
ひまわりの花言葉には、実は ・「いつわりの富」 ・「にせ金貨」 という花言葉もあるんです。この花言葉の由来というのが、南米ペルーでの逸話なんです。南米ペルーでは太陽信仰をしているので、毎日太陽を拝み、神聖なものであるとしてきました。そのため、ひまわりの花は神聖不可侵な花として、大切に崇拝されていました。黄金でひまわりを作り、冠にして拝んでいる習慣があったのですが、 ある時 神殿の巫女たちがその冠が盗まれていることに気づきました。 スペイン人に冠を盗まれた、という話が由来になり、 「偽りの富」・「にせ金貨」という花言葉が生まれたとされています。
花言葉は悲惨な愛が由来
ところで、ひまわりの花言葉には「怖い」とうわさされることもしばしばあります。「あなただけ見つめている」という花言葉には、ギリシャ神話の三角関係が由来になっている面もあります。 その昔、太陽の神だったアポロンと水の精だったクリュティエが結ばれていました。アポロンはハンサムでとても女癖が悪かったんだそうです。ある時、アポロンは美しいペルシャ国の女王エウコトレに出会います。アポロンはすぐにエウコトレに夢中になってしまいました。アポロンは姿を変え、エウコトレに近づきます。 それを知ったクリュティエは激怒しました。クリュティエはエウコトレの父親にこのことを告げ口したんです。エウコトレは国の王女として、父親が決めた人と結婚することが決まっていました。父親はエウコトレを厳しく罰し、なんと土に埋めてしまったんです。エウコトレが好きだったアポロンは、関係を邪魔したクリュティエを嫌悪するようになってしまいました。そんな悲しみの中、クリュティエはひたすらにアポロンを思い続けて 1本のひまわりになった。と言われています。 何とも悲しい恋の話でしたが、それほどまでに愛し、慕っていたんですね。ずっと太陽(アポロン)を見つめているんです。
ひまわりの花束を贈る花言葉の意味
バラの花束の本数で、意味が違うということを聞いたことがある人もいると思います。ひまわりも同じで、贈る花束の本数によって意味が変わってくるんです。 ・1本「一目惚れ」 ・3本「愛の告白」 ・7本「密かな愛」 ・11本「最愛」 ・99本「永遠の愛」「ずっと一緒にいよう」 ・108本「結婚しよう」 ・999本「何度生まれ変わっても貴方を愛す」 108本の「結婚しよう」は、ひまわりの持つ花言葉の「愛」の気持ちを込めて 何倍にも効果が期待できそうですね! ひまわりだけでは恥ずかしい、なんていう方はかわいらしい花言葉を持った花と一緒にプレゼントしてくださいね。
ひまわり×マーガレット花束の花言葉
ひまわりは、サンリッチオレンジ。白い花はマーガレットです。 サンリッチオレンジ「未来を見つめて」 白いマーガレット「心に秘めた愛」 です。一本のひまわりの花束なら、初恋の人に贈りたい花束ですね。
ひまわり×バラ花束の花言葉
ひまわりは、サンリッチレモンです。黄色のバラと合わせている花束ですね。サンリッチレモンの花言葉は、「願望」 黄色のバラは「あなたを恋します」 三本のひまわりの花束で、愛の告白というテーマの花束になっていますね。
ひまわり×カスミソウ花束の花言葉
大輪のひまわりの花言葉は、「あなたを幸福にする」です。カスミソウが爽やかにひらひら待っているかのような花束ですね。カスミソウの花言葉は、「永遠の愛・純潔」です。ひまわりが11本だと最愛という意味になるので、最愛の人に永遠の愛と幸せを宣言してくださいね。コントラストが美しい、ロマンチックな花束です。
ひまわりと花言葉で愛を育もう
ひまわりの意味や種類、そして様々な花言葉を紹介してきました。あなたに合ったひまわりの花束を作って、思い人にぜひプレゼントしてみてくださいね!ひまわりは育てやすく、ひまわりの種も良くなります。ひまわりを育てた方は、ひまわりの種を収穫して来年の春にまくのもよし 食べるのも自家製ひまわりオイルを作っても楽しめますよ。太陽の光をいっぱいに浴びたひまわりで、情熱的な生活が送れるとといいですね。  

 

●ひまわりの花言葉 3
Sunflower ひまわり / 夏(花期は7月〜9月)、あかるく鮮やかな黄色い花を咲かせ、人々に元気をあたえてくれるヒマワリ。その花言葉や誕生花などをご紹介します。
ヒマワリの花言葉と由来
ヒマワリの花言葉は「私はあなただけを見つめる」「愛慕」「崇拝」。
「私はあなただけを見つめる」の花言葉は、太陽の方向を追うように花が動く性質に由来します。
ヒマワリの英語の花言葉は「adoration(愛慕、崇拝)」「false riches(偽りの富)」。
「false riches(偽りの富)」の花言葉は、インカ帝国を征服したスペイン人が太陽の神殿に仕えた巫女のヒマワリを形どった純金の装身具など、金銀財宝を略奪したことにちなむといわれます。
なお、ヒマワリが太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけで、完全に開いた花は東を向いたままになります。
ヒマワリ全般の花言葉
「私はあなただけを見つめる」「愛慕」「崇拝」
英語の花言葉(西洋の花言葉)
「adoration(愛慕、崇拝)」「false riches(偽りの富)」
ヒマワリの誕生花
ヒマワリは以下の月日の誕生花です。
7月6日、7月20日、8月2日、8月5日、8月31日
ヒマワリとコロンブス
ヒマワリはイタリアの探検家コロンブス(1451〜1506)がアメリカ大陸を発見(1492年)した後にヨーロッパに持ち込まれた植物です。
当時はその花姿から「インディアンの太陽の花」「ペルーの黄金の花」と呼ばれていました。
インカ帝国では太陽神の象徴としてヒマワリを大切にしていたそうです。
同様にトウモロコシ、マリーゴールド、コスモス、カンナ、サボテンなどもアメリカ大陸発見後にヨーロッパに持ち込まれました。
ヒマワリの花言葉に関連する名言
「私はあなただけを見つめる」(ヒマワリ全般)
ライバルに不安をいだいたら女は負けです。デュ・バリー夫人(フランスのルイ15世の公妾 / 1743〜1793)  

 

●ひまわりの花言葉 4
黄色くて大きい太陽のようなヒマワリの花は、夏を代表する人気の花のひとつです。
ヒマワリの一般的な花言葉は「私はあなただけを見つめる・愛慕・崇拝・あこがれ・情熱・光輝」ですが、花の色や大きさによって花言葉が変わります。
向日葵(ヒマワリ)の豆知識
ヒマワリの原産地は北米と考えられており、コロンブスの新大陸発見後にヨーロッパに持ち込まれました。当時はヒマワリの花姿から「インディアンの太陽の花」「ペルーの黄金の花」と呼ばれていました。日本に伝わったのは17世紀になってからです。
「私はあなただけを見つめる」
ヒマワリの花言葉の由来のひとつは、常に太陽の方に向かう「向日性」を持つことです。
ヒマワリというと常に太陽の方を向いているイメージがありますね!しかし実は、それは花がさく前の成長期だけの性質で、立派な花が咲いたヒマワリはほとんど東を向いています。
そしてもうひとつ。ヒマワリの花言葉の由来とされる悲しいお話がギリシャ神話にあります。
太陽神アポロンに恋をした水の女神クリュティエ。しかしそれは決して叶うことのない片思いの恋でした。クリュティエは空を駆けるアポロンを毎日泣きながら見つめていました。やがて彼女の足は地面に根をはり、顔は花となり、ヒマワリに変わってしまったというお話です。
黄色のヒマワリの花言葉
花言葉は「願望・未来をみつめて など」
黄色のヒマワリには品種や大きさによって細かな花言葉がつけられています。
・ サンリッチレモンの花言葉は「願望」
・ サンリッチオレンジの花言葉は「未来をみつめて」
・ 少し小ぶりなサマーチャイルドの花言葉は「元気な子供」
・ 大輪の黄色のヒマワリの花言葉は「にせ金持ち」「憧れ」
しかし、ヒマワリというとやっぱり黄色の印象が強いので、黄色のヒマワリの花言葉=ヒマワリの一般的な花言葉(あなただけを見つめてる・愛慕など)でもいいと思います。
紫色(赤色)のヒマワリの花言葉
花言葉は「悲哀」
赤っぽい紫色のヒマワリの花言葉は「悲哀」。明るく元気なイメージの黄色のヒマワリとは対象的な花言葉ですね。
白色のヒマワリの花言葉
花言葉は「ほどよき恋愛」
日本ではめずらしいのですが、花びらの白いヒマワリもあります。白いヒマワリの花言葉は「ほどよき恋愛」。黄色に比べると控えめな花言葉です。
日本と世界のヒマワリの花言葉のちがい
日本では「あなただけを見つめる・愛慕」の印象の強いヒマワリの花言葉ですが、世界に目を向けると、花言葉も変わってきます。
韓国でのヒマワリの花言葉は「待っててね」。そして西洋では、ヒマワリに「偽りの富・にせ金貨」という花言葉があります。
その昔、ペルーではヒマワリは神聖な花とされており、太陽の神殿に仕える巫女は純金のヒマワリの冠を身につけていました。しかし、スペインが侵略した際に、ヒマワリの冠は奪われてしまったそうです。その歴史からヒマワリに「偽りの富」という花言葉がついたと言われています。  

 

●ひまわりの花言葉 5
夏になると黄色い大輪の花を咲かせ、私たちに元気を与えてくれる植物、「ひまわり」について解説していきます。これを機会に、「ひまわり」についてさらに理解を深めましょう。
「ひまわり」は、キク科の一年草で、北アメリカ原産です。夏に直径20pもの大型の花が咲き、茎には剛毛を生じて、高さは3m以上にも達する品種もあります。また、種を炒って食用にしたり、種子から油を搾った「ひまわり油」なども人気があり、様々な形で利用されています。
ひまわりは漢字で「向日葵」と書きます。これはその昔、太陽を追って花が回ると考えられていたことに由来しますが、実際には、開花後の花はほとんど動かないそうです。
さて、漢字についてご紹介しましたので、ここで、英語名もお知らせしますね。英語名は、「Sunflower(サンフラワー)」と表します。
花言葉
ひまわり(向日葵)全般の花言葉は、「私はあなただけを見つめる」「あなたを幸福にする」「あなたは素晴らしい」「愛慕」「崇拝」「熱愛」「偽りの富」などたくさんの花言葉がありますね。
花言葉の由来
花言葉がとても多いひまわりですが、その由来とされる、ちょっと怖いギリシャ神話と古代インカ帝国のお話についてご紹介しましょう。
海の精クリュティエは太陽の神アポロンに恋をしましたが、アポロンは他の女性に夢中でその恋は片思いでした。苦しい恋に嘆き悲しみながら、9日間も地面に立ち尽くし、アポロンを見つめ続けました。恋は実ることなく、とうとうクリュティエの足は地面に根付き、やがてひまわりになってしまったという神話です。この神話が、「私はあなただけを見つめる」などの花言葉と結びついたとされています。
もう一つは、「偽りの富」と結びつくとされる古代インカ帝国のお話です。太陽を信仰する風習があった古代インカ帝国(ペルー)では、ひまわりを神聖なお花として崇め、神殿の巫女たちはひまわりをかたどった黄金の装飾品を身に着けたりしていたのですが、それがスペイン人によって奪われてしまったということに由来するそうです。  

 

●ひまわりの花言葉 6
さて、熱く元気なイメージのひまわりですが、中には怖い意味があるとも言われています。実際、 怖い花言葉があるのか?といえば、人によっては怖いとは感じないと思います。でも、ひまわりの印象とは変わって来ると思いますよ。夏になるとよく見かけるので、見て楽しむだけじゃなく花言葉を知ってるのがオススメです!というわけで今回は、ひまわりの花言葉を色・品種・本数別や、その由来など、様々な種類で詳しく紹介していきたいと思います!
ひまわりの花言葉の意味は怖い?
父の日での贈り物としても人気が高いひまわりには、「どんな花言葉があるのか?」を知っておくとプレゼントの時にも役に立ちます。また、怖い意味があるなら避けたいですからね〜。まずは、ひまわり全体(黄色)の花言葉から、一緒にチェックしていきましょう!
ひまわり全体の花言葉は、
• あなただけを見つめる
• あなたを幸せにする
• あなたは素晴らしい
• 情熱
• 憧れ
• 崇拝
• 熱愛
• 光輝
です。んー、こうやって見てもひまわりの花言葉には、怖い意味がありませんね〜。どちらかといえば、ポジティブな意味の言葉が多く、怖いとは正反対と思ったんじゃないでしょうか。 ひまわりの花言葉が怖いと言われるのは、ネガティブな意味がある西洋での花言葉なんですよ。まぁ、国によって花に対する印象は、ガラッと変わって来るのも面白いんですけどね〜。
花言葉が怖いのは外国での意味!?
先ほど見ていただいた通り、日本ではポジティブな意味が多くありました。また、お隣の韓国でも「待っててね」とロマンチックな意味が込められています。しかし、西洋では全然違います。西洋でのひまわりの花言葉は、
• 偽りの富
• 偽物の金貨
など、お金に関するネガティブな要素があるんです。これが、「怖いか?怖くないか?」で言えばあまり怖く無いけど、良い意味でない印象ですよね? なので、これが「ひまわりの花言葉が怖いと言われる由来」だと思います。このように、西洋でのひまわりの花言葉が悪い意味なのは、後半でお伝えしている由来をチェックしていただければと思います。簡単に言えば、 「神話が元」になっているという事です。さて、ひまわり全体や海外での花言葉を見て来ました。また、冒頭でもお伝えしてように、色や品種などで花言葉の意味は変わるので、ぜひ知っておいて欲しいです!
ひまわりの花言葉は色や品種で違う!
白いひまわりの花言葉
まずは、イタリアンホワイトなどと、呼ばれる白いひまわりの意味からです。
白いひまわりの花言葉は、
• 程よき恋愛   です。
程よい恋愛と言われるとなんだか、テキトウな恋愛とイメージをしてしまいますよね。この「程よき」の意味が「いい加減な、という意味なのか?程度が良い、という意味なのか?」は分かりません。でも、白い花の印象から考えると 「私にはこのくらいが良いのよ」 と白いひまわりからは、少し控えめさを感じられませんかー?という事なので、私の中ではこの花言葉は「それほど悪い意味では無い」と解釈しています。
赤や紫のひまわりの花言葉
赤や紫色のひまわりの花言葉は、
• 悲哀   です。
悲哀とは「悲しく哀れな事」を指す言葉です。写真がなかったので、近い色のものを載せてました。実は、本当の色は結構暗めの色で黒色に近い雰囲気があります。なので人によっては、暗めの赤や紫と表されることも多いです。そのことから考えても、やはり「悲哀」という花言葉は他のひまわりと、色の雰囲気が違うことが由来だと考えられます。さて、以上の事が色別の花言葉となっています。しかし!「品種・大きさ・本数」など、ひまわりにはまだまだ花言葉があるんですよ。
花の大きさや品種別の花言葉!
ひまわりは色でも花言葉が全然違いましたね。他にも、品種や花の大きさでも違う素敵な意味の言葉があったりします!まぁ、中にはあまり良い意味じゃないものも、混じってはいますけどね。
1 .大輪…偽りの愛、にせ金持ち
2. 小輪…高貴・愛慕
さて、花の大きさ別の花言葉はどうでしょう? 簡単に言えば、
• 大輪ひまわりは「ウソ」
• 小輪ひまわりは「美しく愛に満ち溢れる」
とイメージした方が多いと思います。同じ花でも大きさが違うだけで、ここまで花言葉の意味が違うのは面白いと思いますよね!また、ひまわりの数ある品種の中で、花言葉が付いている物もあります。
   品種ごと
1. サンリッチレモン…「願望」
2. サンリッチオレンジ…「未来をみつめて」
3. サマーチャイルド…「元気な子供」
品種別に見てみると、「将来への希望」を感じさせる言葉が多いですね。「願望・未来を見たためて」もそうだし、「元気な子供」も未来を期待させるものがあります。さて、突然ですが花といえば花束で贈る事が多いですよね?バラなどは本数でも、めちゃくちゃ多くの意味があったりします。ただ、ひまわりも負けてなく量に応じて意味が変わります。
ひまわりの花言葉は本数でも違う!
花束を想像した時って、ほとんどの人がバラの花束を想像しますよね。有名で人気な花だし、それに花束の本数で意味が変わるというおまけ付きですから、頭に浮かぶかも頷けます。でも、ひまわりだった本数別に花言葉があるんですよ!
   本数別の花言葉
• 1本…「一目惚れ」
• 3本…「愛の告白」
• 7本…「密かな愛」
• 11本…「最愛」
• 99本…「永遠の愛」「ずっと一緒にいて下さい」
• 108本…「結婚しよう」
• 999本…「何度生まれ変わっても、あなたを愛します」
となっています。
バラにも劣らない良い意味があるので、プレゼントとしてはバッチリですよね!また、見てもらうもわかる通り「1〜11本は告白、それ以降の本数はカップルや夫婦」にぴったりな意味になってます。「バラの花束をプレゼントする。」となると、勇気がいるし目立つし恥ずかしさがありますよね。でも、ひまわりだと何だか緊張しなさそうな気がしませんか?さて、ここまではひまわりの花言葉をたくさん紹介しました。しかし、「なぜこの言葉が付けられたのか?」など、花言葉の由来が少し気になりませんかー?
ひまわりの花言葉の由来
さて、ここで紹介してきたひまわりの花言葉は27個ほどありましたね。その中でも、「なぜその花言葉になったのか?」と由来が分かっているものを紹介していきたいと思います!
•私はあなただけを見つめる
ひまわりは太陽の方へ向かうことは有名ですよね。このひまわり独特の植物的特徴が、この「私はあなただけを見つめる」と一途な恋の様な花言葉になった由来です。
• 崇拝・憧れ
崇拝や憧れなどは花言葉は、ひまわりが古代インカ帝国で神聖な花とされていた事が由来だとされています。
• 情熱、愛慕
温度が高く、暑い夏の日に元気に咲いている様子から来ているとされています。
• 偽りの富・偽物の金貨
西洋の花言葉の由来です。この花言葉は、先ほどの「崇拝・憧れ」と一緒で古代インカ帝国で神聖な花とされていた事が由来。当時は、祭壇や冠などに黄金のひまわりが装飾されていたと言われています。しかし!そんな時に、この国に悲劇が起こります。スペインによる侵略があり、その黄金の冠などは奪い去られます。それでこのネガティヴな花言葉が付けられました。
まとめ
まとめ1
1 あなただけを見つめる
2 あなたを幸せにする
3 あなたは素晴らしい
4 情熱
5 憧れ
6 崇拝
7 熱愛
8 光輝
9 偽りの富
10 偽物の金貨
11 白いひまわり…「程よき恋愛」
12 赤いひまわり…「悲哀」
まとめ2
1 大輪…「偽りの愛、にせ金持ち」
2 小輪…「高貴・愛慕」
3 サンリッチレモン…「願望」
4 サンリッチオレンジ…「未来をみつめて」
5 サマーチャイルド…「元気な子供」
まとめ3
1 1本…「一目惚れ」
2 3本…「愛の告白」
3 7本…「密かな愛」
4 11本…「最愛」
5 99本…「永遠の愛」「ずっと一緒にいて下さい」
6 108本…「結婚しよう」
7 999本…「何度生まれ変わっても、あなたを愛します」  

 

 
 
 

 

●諸話

 

●フィンセント・ファン・ゴッホ
●フィンセント・ファン・ゴッホ 1 
1888年2月、パリから南フランスのアルルに移ったゴッホは、その年の8月、ゴーギャンのアルル到着を待ちわびながら《ひまわり》の連作に着手しました。敬愛するゴーギャンの部屋を「ひまわり」の絵で飾ろうと考えたのです。
ゴッホはアルルで7点の「花瓶に生けたひまわり」を描いていますが、この作品はそのうちの1点で、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《(黄色い背景の)ひまわり》をもとに描かれています。
ロンドンの《ひまわり》と同じ構図で描かれていますが、全体的な色合いやタッチなど、細かい部分はロンドンのものと異なり、ゴッホが複製ではなく色彩やタッチの研究のひとつとしてこの作品に取り組んでいたことがうかがえます。
この作品のキャンヴァスには、ゴーギャンがアルルで購入した目の粗いジュート地、つまりゴーギャンの《アリスカンの並木路、アルル》と同じ生地が使われています。
年譜
1853年3月30日、オランダ南部のフロート・ズンデルトに、牧師の息子として生まれる。
1857年(4歳)弟テオ生まれる。テオは後に画商となり、生涯にわたりフィンセントを経済的、精神的に支える。
1869年(16歳)画商グーピル商会のハーグ支店で働き、多くの絵画に親しむ。
1873年(20歳)グーピル商会ロンドン支店に栄転。
1874年(21歳)下宿先の娘ウジェニー・ロワイエに求婚するが、断られる。聖書を読むことに没頭する。
1875年(22歳)グーピル商会パリ支店に移る。
1876年(23歳)グーピル商会を解雇される。イギリスで教師となるが、年末には辞職する。
1877年(24歳)オランダのドルトレヒトで書店の店員となる。牧師を目指し、神学部の受験勉強を始める。
1878年(25歳)神学部の受験をあきらめる。ベルギーのブリュッセルにある伝道師養成学校に入学し、ボリナージュの炭坑町で伝道活動を始める。
1879年(26歳)熱心する活動が常軌を逸しているとされ、教会から伝道活動を禁止される。
1880年(27歳)画家になる決心をする。
1881年(28歳)エッテンにいた両親のもとに戻る。ハーグに移り、従兄で画家のアントン・マウフェから絵を教わる。従姉のケイ・フォスに求婚するが拒まれる。
1882年(29歳)引き続きハーグでマウフェの指導を受けるが、意見が対立し決別する。身重の娼婦シーンと一緒に暮らす。
1883年(30歳)9月、オランダ北部のドレンテに移る。12月、両親のいるヌエネンに移る。
1885年(32歳)ベルギーのアントウェルペンに移る。
1886年(33歳)パリで働いていた弟テオのもとに転がり込む。アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックやポール・ゴーギャンらと知り合う。印象派を知り、色彩が明るくなる。浮世絵の影響が本格的になる。
1888年(35歳)2月、南フランスのアルルに移る。5月、「黄色い家」を借り、画家たちとの共同生活を構想する。10月、ゴーギャンとの共同生活が始まる。11‐12月、この頃《ひまわり》を描く。12月、ゴーギャンとの言い争いがもとで、発作的に自分の耳の一部を切り取り、アルルの病院に入院する。
1889年(36歳)1月、アルルの病院を退院し、制作を再開する。5月、サン=レミの精神病院に入院する。たびたび発作に苦しむ。
1890年(37歳)5月、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに移る。7月27日、ピストルで自分を撃ち、2日後の7月29日に死去。
1891年弟テオ、死去。
1892年アムステルダムでテオの未亡人ヨハンナの采配でゴッホの展覧会が開催される。
1901年パリのベルナイム・ジュヌ画廊で回顧展が開催される。モーリス・ド・ヴラマンクら、後のフォーヴの画家たちが感銘を受ける。
1905年アムステルダム国立美術館で、大回顧展が開催される。  
ひまわり
[フランス語: Les Tournesols、オランダ語: Zonnebloemen、英語: Sunflowers] 1888年8月から1890年1月にかけてフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた、花瓶に活けられた向日葵をモチーフとする複数の絵画の名称である。ファン・ゴッホにとっての向日葵は明るい南フランス(南仏)の太陽、ひいてはユートピアの象徴であったと言われている。 南仏のアルル滞在時に盛んに描いた向日葵を、精神が破綻して精神病院での療養が始まってからは描いていないこともその根拠とされる。
作品群としての『ひまわり』とその点数について
ファン・ゴッホの制作した「花瓶に挿された向日葵をモチーフとした油彩の絵画」という定義であれば、7点が制作されたことが広く認められている。このうち6点が現存している。
この他に、パリにおいて制作されたものを含めて合計で11点(または12点)とする定義があるが、これは花瓶に挿されていない構図も含めている。この項では主に前者の「花瓶に挿された向日葵」というほぼ同様の構図をとる作品群について述べる。
同様の構図の作品が複数ある理由については、アルルでの生活・制作の拠点であった「黄色い家」の部屋を飾るためであったとする説がある。
ファン・ゴッホは、『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」』という作品を中央にして、『ひまわり』(ミュンヘン、ロンドン、アムステルダム、東京にある4点)の何れか2点を両側に展示するというアイデアを手紙に記している。従って、これらの作品群は習作、不出来のもののやり直しというよりは、やはり複数が揃っていることに意味があったものと思われる。これは2003年に損保ジャパン東郷青児美術館(現・東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館)の企画展で実現した。
7点の「ひまわり」
7点とも構図はほぼ同様であるが、向日葵の本数は3本、5本、12本、15本と異なっている。
1 3本 1888年8月 個人蔵(アメリカ) 最初に制作されたと考えられている。
2 5本 1888年8月 焼失(山本顧彌太旧蔵) 2番目の作品とされる。1920年(大正9年)に実業家の山本顧彌太が、白樺派美術館の設立を考えていた武者小路実篤の依頼により、スイスにて7万フラン(当時の為替レートで約2万円、現在の価格に換算すると約2億円)で購入した。1921年(大正10年)、東京京橋の星製薬ビルで展覧会が行われている。1920年前後の同ビルでは、多くの芸術展覧会が開かれており、当時の公開においても「ファン・ゴッホのひまわり」が評判の作品として扱われていたことが分かる。1924年(大正13年)、大阪で通算3回目の展覧会が開かれたが、美術館設立の構想が頓挫したため、以降、兵庫県芦屋市の山本の自宅に飾られていたが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍の空襲(阪神大空襲)を受けて焼失した。2003年(平成15年)に兵庫県立美術館で開催された「ゴッホ展」において「芦屋のひまわり」というテーマで特集された。大塚国際美術館が原寸大の陶板で本作を再現し、2014年(平成26年)10月1日から展示している。
3 12本 1888年8月 ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン) 3番目の作品とされる。
4 15本 1888年8月 ナショナルギャラリー(ロンドン) ファン・ゴッホ自身が気に入った「12本のひまわり」(ミュンヘン作品)をもとに制作した4番目の作品とされる。
5 15本 1888年12月-1889年1月 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館(東京) 1888年12月の「耳切り事件」直前に描かれたとする説もある。1987年3月に安田火災海上(現・損害保険ジャパン日本興亜)が、ロンドンのクリスティーズで2250万ポンド(当時の為替レートで約53億円)で落札した(最終的な購入金額は手数料込みで約58億円)。当時の代表取締役であった後藤康男がバブル期とはいえ無理をして購入を推進した理由は、先々代の社長時代から世界的な名画が不在であった東郷青児美術館(現・東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館)の入館者が少なすぎる事が、社内で問題視されていたからである。1997年(平成9年)10月に英紙『サンデー・タイムズ』の報道で、エミール・シェフネッケルによる模作であるとする疑惑が持たれたが、1999年(平成11年)の研究調査によりゴッホの真筆と断定された。以降も贋作説が囁かれたものの、ゴッホ美術館の学芸員・修復技官らが再度調査を行った結果、やはり真筆であると報告されている。 
6 15本 1889年1月 ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム) ファン・ゴッホが病院から「黄色い家」に戻って、東京作品を模写したものと考えられている。振動や気温・湿度の変化による損傷を避けるため、館外への貸し出しは禁ずる措置がとられている。
7 12本 1889年1月 フィラデルフィア美術館(フィラデルフィア) アムステルダム作品と同時期に、ミュンヘン作品を模写したものとされる。  

 

●フィンセント・ファン・ゴッホ 2 
ゴッホの生涯(1)画家になるまで(1853年〜1881年)
ゴッホが紆余曲折を経て画家になったのは、27歳のことでした。画家になるまでのゴッホの人生を見てみましょう。
オランダで生まれ育つ
ゴッホは1853年、オランダのズンデルトで生まれました。フランスのイメージがあるゴッホですが、実はオランダ出身のオランダ人です。
ゴッホの生まれ故郷であるズンデルトは、今も人口2万人ほどの小さな村。秋には800万本ものダリアの花を使った花パレードが有名です。
ゴッホは37年の人生の中で、ひまわりをはじめ多くの花を描きました。いまも故郷に花が溢れていると知ると、なんだかうれしくなります。
ゴッホは6人兄弟の長男で、父は聖職者でした。4つ年下の弟テオドルス(通称テオ)は、生涯にわたってゴッホを支え続けます。
ゴッホは生前、一枚しか絵が売れませんでした。弟テオが経済的に、そして精神的にもゴッホを支えたからこそ、ゴッホの名作が生まれたのです。
そしてテオは、ゴッホの文通相手でもありました。良き理解者として多くの手紙を交わし、ゴッホの感情を受け止め続けました。
弟テオなくして、ゴッホなし。テオは“もう一人のフィンセント・ファン・ゴッホ”と言えるかもしれませんね。
人間関係がうまくいかず、職を転々とする
ゴッホは遅咲きの画家でした。画家になる27歳までの間、画商や教師、牧師などさまざまな職を転々とします。
ゴッホは気性が激しく、不器用な性格でした。折に触れてトラブルを起こしてしまいます。仕事を始めても、長続きしません。
失恋のショックから仕事に身が入らなくなり、退職を余儀なくされることもありました。巨匠のイメージからは遠い、繊細な“人間ゴッホ”を感じるエピソードですね。
職を変えたとはいえ、画商としての経験は“画家ゴッホ”の土台を築きました。
ゴッホが16歳から約7年間働いたのは、叔父が経営していた「グーピル商会」という美術商です。グーピル商会はパリに本店を構え、ハーグやブリッュセル、ロンドンに支店を置いた大美術商でした。
ゴッホはグーピル商会での仕事を通じて、多くの名画に触れました。そして趣味で絵を描くようになりました。本物に触れることで、ゴッホは感性を磨き、絵画への静かな情熱を燃やしたのでしょう。
細々と、農家や農民のスケッチを始める
職を失ったゴッホは、父親からの仕送りを受けながら生活をしていました。そして、農家や農民のスケッチを始めます。
ところが聖職者である父親は、働かないゴッホに業を煮やしました。ヘールにあった精神病院に入れようと考えるようになります。
そこで登場するキーパーソンが、当時グーピル商会で働いていた弟テオです。見かねて、ゴッホに金銭援助を始めたのです。
ゴッホの生涯(2)画家としてのスタート(1881年〜1886年)
ゴッホは27歳にして、ようやく画家を志すようになりました。4歳年下の弟テオからの支援を受けつつ独学でデッサンを学び、画家として描き始めます。
実家でスケッチを繰り返した日々
ゴッホは28歳のとき、実家のあるオランダ・エッテンに戻ります。この地でゴッホは、はじめて自分のアトリエを構えることができました。
エッテンは、ゴッホの生まれ故郷・ズンデルトの近くにある町です。ゴッホは田園風景や近くの農夫たちを素材に、素描や水彩画を描き続けました。
暗い色調時代
当時のゴッホが影響を受けていたのは、バルビゾン派の画家ミレーでした。ミレーは、農民の姿やその情景を描き続けたことで有名です。作品としては《晩鐘》や《落穂ひろい》が有名ですね。
ミレーの影響を受けたゴッホの絵は、当然ながら色調が暗くなります。たとえば《スフィニンゲンの海の眺め》。
暗いトーンで満ちていて、後年のゴッホからは想像もつきません。重苦しい雰囲気の絵を描いていた時代です。
ハーグ、ヌエネン、アントワープ……拠点を移し続ける
エッテンにある実家に戻ったゴッホでしたが、ずっと住んだわけではありませんでした。
オランダ・ハーグへ、そして父親が仕事のために移り済んだヌエネンへ。さらに、ベルギーのアントワープへと移りました。
住まいを移すきっかけには、いつも不器用な生きざまが関係しています。父親とささいなことで口論になって家を飛び出したり、教授と画風のことで意見が合わず学校を辞めてしまったり……。自分の感情に正直に、そしてまっすぐに生きた人だったのでしょう。
トラブルを起こすたびに落ち込み、傷心しての転居だったはず。でも決して無意味ではありませんでした。
たとえばオランダ・ハーグでは、ハーグ派の画家アントン・マウフェから、手ほどきを受けることができました。
後年恩師がこの世を去ったことを知ったゴッホは、当時アルルにいました。そのときに描き上げた作品が、別記事「ゴッホ作品《花咲く桃の木》とは?魅力と3つの鑑賞ポイント」で紹介しているこちらの作品です。
作品の左下を見てください。何か文字が書かれていますよね。これは「マウフェの思い出に、フィンセント」という内容です。ゴッホなりに感謝の気持ちを込めて書き添えたのでしょう。
ゴッホは回り道しながらも、それぞれの場所で恩師と出会ったり、少しずつ歩みを進めたりしたのです。
ゴッホの生涯(3)パリ時代(1886年〜1888年)
1881年、ゴッホは何の前触れもなく夜行列車でパリに向かいます。そしてモンマルトルにあった弟テオの部屋に住むようになりました。二人では手狭になり、その後アパルトマンに引っ越しています。
印象派と出会い、明るい色彩に目覚める
パリに移ったゴッホは、画風が一変しました。印象派の絵と出会い、明るい色彩に目覚めたのです。ゴッホはパリの街中で、レストランや公園などさまざまな風景を描きました。
たとえば、別記事「ゴッホ作品《レストランの内部》とは?魅力と3つの鑑賞ポイント」でも紹介した、こちらの絵は代表例です。
ゴッホはこの時期、モンマルトルの丘の風景画も多く描いています。
パリ時代のゴッホの絵は、とても明るくなりました。大地や農夫をモチーフとしていたオランダ時代のゴッホとは、まるで別人のようです。
花の絵を描き、色彩の研究をする
パリ時代のゴッホは、花の静物画をたくさん描きました。《ヒナギクとアネモネのある花瓶》は、パリ時代のゴッホが描いた代表作の一つです。
ゴッホは多くの花の絵を描くことで、色彩を学びました。黄色や赤、白などの色彩が、青の花瓶の中で一つにまとまっています。黄色と青という組み合わせにも、ゴッホらしさを感じる一枚です。
浮世絵を知り、模写しながら手法を学ぶ
パリでのゴッホの大きな収穫は、浮世絵の刺激を受けたことでした。当時のパリは、ジャポニスムが花開き、浮世絵が人気を集めていました。
ゴッホも、浮世絵に夢中になった一人です。大胆な構図や鮮やかな色彩、くっきりとした輪郭線……西洋絵画の常識を覆す日本の浮世絵に、大きな可能性を感じました。
600枚と伝わるほど多くの浮世絵を収集したり、浮世絵展を開いたり、模写したり。ゴッホは浮世絵に、心底惚れ込みました。浮世絵のエッセンスを吸収したゴッホは、続くアルル時代に名作を生み出すことになるのです。
ゴッホの生涯(4)南仏アルル時代(1888年〜1889年)
1888年、南仏の限りなく明るい陽光を求めて、ゴッホは南仏アルルへと旅立ちました。たった1年の滞在でしたが、数多くの名作を残しています。
才能の開花、名作誕生
南仏アルルに着いたゴッホは、一気に才能を開花させました。《夜のカフェテラス》や《アルルの跳ね橋》、そして名作《ひまわり》などは、すべてアルル時代の作品です。
オランダ時代に培った技法と、パリで学んだ印象派のスタイル、さらに浮世絵の研究。すべてを融合させたゴッホの前に、アルルの美しい風景が広がっていました。
いよいよゴッホ独自の新しい画風が花開き、名作が誕生する瞬間がきたのです。不器用な生き様でした。でもすべての出来事、すべての別れに意味があったのだと、感じざるを得ません。
ゴーギャンとの共同生活を夢見た「黄色い家」
ゴッホのアルル時代を語る上で、黄色い家の存在は外せません。
新天地アルルで、ゴッホは次々と新しい作品を描き上げました。パリから画家仲間を呼び寄せて、共同生活を送ろうと考えます。
ゴッホは、芸術家どうしがお互いに切磋琢磨し合える、いわば“芸術村”を作ろうと考えたのです。その舞台となったのが「黄色い家」でした。
ゴッホの名作《ひまわり》は、黄色い家の壁を飾るために描かれたものでした。黄色い家の中で輝く、黄色いひまわりの数々。南仏アルルの光の中で、ひときわ明るく光っていたことでしょう。
南仏アルルを去るきっかけになった「耳切り事件」
ゴッホの黄金時代ともいえるアルル滞在は、1年ほどという短い期間でした。終止符を打ったのは、かの有名な「耳切り事件」です。
黄色い家での生活に大きな夢を抱いていたゴッホですが、誘いに応じたのはゴーギャン一人だけ。しかもお互いに個性が強く、一歩もゆずりません。意見がぶつかり、口論ばかりを繰り返します。
そしてついに「耳切り事件」が置きました。ゴーギャンとの激しい口論の末、ゴッホは自分の左耳下部を切り落としてしまったのです。そしてゴッホはアルルの病院に入ることになりました。
その後退院したゴッホを、アルルの人々はこわがりました。80人の市民の署名により、ゴッホは南仏アルルを出ることになったのです。
ゴッホの生涯(5)サン=レミ時代(1889年〜1890年)
アルルを離れたゴッホは、南仏プロヴァンスの小さな町サン=レミへと移ります。ゴッホは精神病院で療養生活を送りながら、アルピーユ山脈やオリーブ畑などを題材に、多くの作品を描きました。
精神病院「サン・ポール・ド・モーゾール」に入院
ゴッホが入院していた病院の名を「サン・ポール・ド・モーゾール」と言います。元は修道院だった場所で、中庭には美しいラベンダー畑が広がっていました。
入院していたゴッホは、時折発作を起こしました。とはいえ、合間は落ち着いています。ゴッホは鉄格子の外に広がる、サン=レミの風景を描きました。付添い人が一緒なら外出も許されたため、屋外での作品も残しています。
ゴッホの絵に、渦やうねりが登場
サン=レミ時代、不安な気持ちを表すかのような渦やうねりが、ゴッホの作品に登場します。《星月夜》は、その代表的な例ですね。
ゴッホの絵から、パリやアルル時代のような明るさがなくなりました。木々も山も建物も、すべていびつに歪んでいます。
病気とたたかうゴッホは、不安に押しつぶされまいと必死だったのでしょう。そして、あり余る情熱や感情を何とかして表現したい、思いのたけをぶつけて自己主張したい……ゴッホの心の叫びが聞こえてくるかのようです。
ひまわりから「糸杉」へ
アルル時代はひまわりを好んで描いたゴッホでしたが、サン=レミに移った後は糸杉を多く描いています。
ひまわりには、太陽を想わせる華やかさがあります。一方の糸杉は、孤独を感じさせます。これもゴッホの心理状況を伝えてくれます。
ゴッホの生涯(6)オーヴェール・シュル・オワーズ時代(1890年)
ゴッホはパリ郊外にある美しい村、オーヴェール・シュル・オワーズへと移ります。この地でゴッホの人生に幕が下ろされます。
医師ガシェとの穏やかな日々
ゴッホが療養の地としてオーヴェールを選んだ理由に、精神科医ポール・ガシェの存在がありました。
ガシェは医師でありながら、自らも絵画をたしなむ“日曜画家”です。そして絵画のコレクターでもありました。ゴッホにとってガシェは、医師であると共に友人でもあり、良き理解者になったのです。
約70日の間に、80点もの作品を描く
ゴッホがオーヴェールで過ごしたのは、わずか70日ほどのことでした。ところがその短期間のうちに、およそ80点もの作品を描いたことが知られています。
70日で80枚の絵を描くわけですから、一日に1点ないし2点仕上げるペースです。考えられないような情熱と力が、ゴッホの中に渦巻いていたのでしょう。
希望に満ちた明るい絵の数々
オーヴェールは、ゴッホが最晩年を過ごした地です。しかも幕引きは、自分にピストルを向けるという悲しいものでした。でも最晩年にゴッホが描いた絵には、希望に満ちた明るい絵も多いのです。
たとえば、オーヴェールの何気ない日常を描いた《オーヴェールの家々》。
そして、別記事「ゴッホ作品《ドービニーの庭》とは?魅力と3つの鑑賞ポイント」で紹介した《ドービニーの庭》。緑溢れる初夏の光景が美しい作品です。
医師ガシェの娘・マルグリットの絵も描きました。
サン=レミでは鉄格子のはまった部屋で過ごしたゴッホでしたが、オーヴェールには陽光が降り注ぐ光景がありました。澄み切った空気と、どこまでも広がる田畑。ゴッホは晴れやかな気分を味わったことでしょう。
まとめ
ゴッホというと、天才というキーワードと共に、苦悩や狂気、孤独、壮絶、挫折……そんな言葉が並びます。たしかにゴッホはとても不器用でした。回り道をたくさんしました。でもすべてのエピソードが、ゴッホの繊細さと静かな情熱を伝えている気がするのです。
自分の可能性を模索した初期、明るい色彩に目覚めたパリ時代、数々の名作を残したアルル時代……その渦中にあるゴッホは、常に必死だったことでしょう。37年の人生をかけてゴッホが無我夢中で描いたと想うと、ゴッホ作品がより胸を打ちます。  

 

●フィンセント・ファン・ゴッホ 3 
ファン・ゴッホ 巡りゆく日本の夢 
19世紀中頃のパリ万国博覧で出品されたのをきっかけに、日本趣味の美術品の工芸品は格好の異国情緒として人気を博し、これがジャポニスムへと発展しました。その当時フランスでは、伝統的表現の枠から抜け出せず、ランスの伝統美術と全く異なった美意識の浮世絵をはじめとした日本絵画は。もがき苦しみながら新しい試みに挑戦していた当時の前衛画家にとっては突然救世主に出会ったような衝撃となりました。ジャポニスムに対し関心をしめした芸術家は数知れず、多くの作品にジャポニスムの影響が見られます。
ジャポニスムとの出会いにより、時系列で多角的にとらえ、19世紀後半から20世紀初頭までの画家たちが、いかに浮世絵と日本画から、色彩と画面の平面化、上から見下ろしたような「鳥の目画法」、画面を手前に引き延ばす画法、対象を黒い線で分割するクルワゾニスムなど、いかに表現するかといった問題に応用していきました。
ジャポニスムの与えた影響は芸術家により様々で、ドガやマネは、中心をずらした躍動的な構図を、ロートレックとゴーギャンは最初浮世絵を見て、輪郭線で囲み彩色する技法を学び自らの表現に取り入れました。モネは広重の図式と自然に対する融合に共感し、琳派の屏風絵にも影響されて、睡蓮の連作を描きました。
浮世絵の影響
1853年にオランダに生まれたフィンセント・ファン・ゴッホは、1886年にパリに移り、この地で印象派の画家たちなどから様々な刺激を受けて、自らの絵画表現を模索していました。日本の浮世絵との出会いも大きな刺激となりました。ゴッホの1887年以降の画業で日本美術への関心と日本に対する憧憬は、時とともにどのように深まり、どのように彼の作品の特質となっていいきました。浮世絵に触発されたゴッホは、浮世絵の魅力を自身の作品にどんどん取り入れていこうとしました。
なかでも広重の作品はゴッホにとって刺激的だったようで、歌川広重の『名所江戸百景大はしあたけの夕立』や『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』『五十三次名所図会 石薬師』、『冨士三十六景 さがみ川』などの作品を模写しています。ゴッホは浮世絵版画を収集し、それを模写した油彩画を描き、浮世絵の構図や透明な色使いの色彩感覚、花に対する細かい精密な表現塔を学び取ろうとしました。模写するだけでなく、効果的に構図を変え、自身の作品の中でより良く活かし表現をしています。
   ゴッホ『種まく人』
ルカの福音書8章4節ではイエス・キリストの次の言葉が記されている。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
ゴッホは生涯、農夫を描き続けることを視野に入れていて、彼はその後も麦の種まきや収穫をモチーフにした作品を描きました。「種まく人」は聖書のマルコの福音書4章3節から、そしてルカの福音書4章4節から8節までに登場し、種まく人の労苦が、人の成長や神の国へと至る道として述べられており、ゴッホが幼少の頃から聖職者として勉学に励んでいたころから親しんだ原風景でした。
1888年にアルルで完成した「種まく人」は、広重の『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』の大胆オな構図に学びながらも聖書の世界と重なりながら、宗教的な高揚感までをも表した作品として、画家ゴッホの代表作の一つとされています。 
歌麿、写楽、北斎、広重などの作品は、幕末、明治期に再版されたものが多いのに比べ国貞(三代豊国)以降の末期浮世絵は、シーボルトが在日中(文政6年〜12年。安政6年〜文久2年) に活躍していた絵師の作品で、シーボルトなどが多く収集し、大量に持ち帰ったお陰で本物の江戸摺りの作品を当時のフランスの画家も見ることができました。
歌川国貞は、神経の太いエネルギッシュな政策態度で幕末期の大衆社会の様相を典型的に描いて一世を風靡しました。人気浮世絵師・国貞の浮世絵は、おそらく何万という数に達する浮世絵師の中でも最高の作品量と考えられています。浮世絵版画の一版から200枚程度刷るのが画質的に限度と言われていますが、
歌川国貞の浮世絵は、それをはるかに超えるほど刷られ、粗悪な版が横行しました。国貞の濫作は良くも悪くも時代を象徴するものであり、幕末の大衆文化の興隆のエネルギーを秘めていました。ただ浮世絵の版画としての線の美しさを表現するには、最低限度の摺りに留めていなければならないはずなのですが、国貞の場合、初版が6〜7000部で、それが当たると更に版を重ね、一日何万の言う数が摺られていたようです。
明治期には、外国人の浮世絵人気に便乗して、刷り終わった版を彫りだし、すでに使い終わった版で大量の浮世絵が摺られました。そのため、歌麿、写楽、北斎、広重などの作品の大量に海外に出回り、海外の有名美術館では日本の浮世絵の代表作がほとんどそろっていることも珍しくありません。日本の本当の浮世絵愛好家は浮世絵の繊細な線の美しさに大切にしますが、本来の浮世絵の美しさを知らない外国人には、新しく色彩がきれいなより新しく刷られたものが好まれたようです。油彩画を描いていた西洋の画家たちでも、構図や色彩感覚の斬新に注目する人が主流で、ある意味で浮世絵の命ともいえる繊細な線の美しさまで注目した人は少なかったようです。
画商であり評論家のジークフリート・ビングは急速に拡大したジャポニスムの核となる存在でした。1888年から91年にかけて仏・英・独の各国語で『Le Japon artistique』(芸術の日本)という豪華雑誌を発行し、色刷りの図版で、浮世絵、金工、陶器から建築、歌舞伎に至るまでの多様なジャンルを紹介しました。ビングは1888年5月号で、「日本の芸術家は、自然がすべての事象の最も重要な要素を包摂していることをよく知っている。従って、創作の過程ではほんの小さな一片の草ですら、芸術の高尚な観念の中にその場所を見出すことが出来ないものは何もない、と考えている」と日本人の芸術感覚を賞賛しました。
   ゴッホ『花魁』(溪斎英泉による)、1887年 巻頭図 ファン・ゴッホ美術館
1880年代のパリは、ジャポニスム(日本趣味)の最盛期でした。ゴッホがパリに出てきた1886年には『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号が出版され、ゴッホはこの表紙に使われていた英泉の花魁図を拡大模写して『花魁』に描き込みました。
国貞以降の浮世絵画家・溪斎英泉は、歌麿の崩れた女をさらに崩して腐乱舌した退廃美を壮絶に描き出す画家で、色彩もどぎつく、歌麿らの最盛期の世絵美人画のとは一線を画すものでしたが、英泉の色彩感覚は油彩画と共鳴するところがあり、これを模写したゴッホ的な色彩感覚は、元の英泉の作品より素晴らしいと感じました。オブジェの配置も、日本の絵のオブシェをうまく利用しています。
この日本特集号の中に林忠正が書いた夢の国のように美化された日本紹介がありました。ビングや林忠正が書いた夢の国のように美化された日本紹介での日本の美しい風景の記述はゴッホにも、彼の同時代人にも、美しい日本のイメージを強く印象づけたことでしょう。この頃から、ゴッホは日本と日本人を理想化し始めていたと思われます。そして彼は、浮世絵の中の鮮やかな色彩世界を求めて、「フランスにおける日本」にあたる南仏へと旅立つことになりました。
ゴッホのユートピア「日本」、そしてアルル
ゴッホンは、アルル時代に、独自にして強固な日本のイメージを自らのうちに築き上げて行きました。 さらにゴッホは、浮世絵をはじめとする美術作品や日本を紹介した文章を咀嚼しながら、独自の日本イメージを醸成していきました。1888年には、芸術家たちの共同体を作ろうと南仏のアルル へ赴きました。大いなる期待を胸に訪れたこの地を、彼はしばしば日本と重ね合わせています。ゴッホにとって日本は、創意の源であり、夢にまで見た理想郷だったのでした。
   ゴッホ『寝室』 1888年 ファン・ゴッホ美術館  
ゴッホは「日本人はとても簡素な部屋で生活した。そしてその国には何と偉大な画家たちが生きていたことか」「陰影は消し去った。浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」と考えていました。ゴッホがアルルに造った黄色い家はそのイメージを具現化したものなのでしょうか。
   ゴッホ『雪景色』
アルル期のもっとも初期に描いた作品です。今までゴッホの作品似なかった白をしたいとした色彩感額が美しい作品でした、
以下は、「ゴッホ展巡りゆく日本の夢」公式サイトから引用させて頂きます。ファン・ゴッホは1888年2月20日の早朝、南仏に着きました。この時の列車の車中での気持ちをゴーギャンにこう伝えています。「この冬、パリからアルルへと向かう旅の途上でおぼえた胸の高鳴りは、今もいきいきと僕の記憶に残っている。〈日本にもう着くかもう着くか〉と心おどらせていた。子供みたいにね。」南仏での初日は、「60センチを超える」積雪とふりつづく雪の中で始まりました。それでも、アルルからの最初の手紙にファン・ゴッホは「まるでもう日本人の画家たちが描いた冬景色のようだった」と記しています。
ベルナール宛の手紙には「君に便りをする約束をしたので、まずこの土地が、空気の透明さと明るい色彩効果のためにぼくには日本のように美しく見えるということからはじめたい」と記しています。「ここではもう僕に浮世絵は必要ない。なぜなら、僕はずっとここ日本にいると思っているのだから。したがって、目を開けて目の前にあるものを描きさえすればそれでいい」「画家たちの天、国以上、まさに日本そのものだ」とまで言っています。夏にかけて陽光が明るくなるにつれて、ファン・ゴッホの絵も浮世絵のように鮮やかな色面で描き上げられるようになります。
また、日本の画家のようにデッサンできるようになりたいと願い、葦ペンを使った独自のデッサンも数多く描き、浮世絵風の大胆な構図も取り入れました。しかし、それだけではありません。彼はピエール・ロティの異国趣味小説『お菊さん』を読んで、日本を、そして日本人を理想化していました。
「日本美術を研究すると、明らかに賢く哲学的で、知的な人物に出会う。その人は何をして時を過ごしているのだろうか。地球と月の距離を研究しているのか。違う。ビスマルクの政策を研究しているのか。いや、違う。その人はただ一本の草の芽を研究している。(……)どうかね。まるで自分自身が花であるかのように自然の中に生きる。こんなに単純な日本人が教えてくれるものこそ、まずは真の宗教ではないだろうか。」
「日本の芸術家たちがお互い同士作品交換していたことにぼくは前々から心を打たれてきた。これら彼らがお互いに愛し合い、助け合っていて、彼らの間にはある種の調和が支配していたということの証拠だ。もちろん彼らはまさしく兄弟のような生活の中で暮らしたのであり、陰謀の中で生きたのではない。(……)また、日本人はごくわずかな金しか稼がず、素朴な労働者のような生活をしていたようだ。」ファン・ゴッホにとって日本人とは、自分自身が花であるかのように自然の中に生き、深い思想と真の宗教をもち、兄弟のような生活をする貧しく素朴な人間ということになります。つまり、ファン・ゴッホは日本人に自分自身のすべての理想、芸術的、社会的、宗教的理想を結晶化させていきました。そしてその理想を実現すべく、ゴーギャンと「黄色い家」での共同生活を始めました。 
もちろん、当時の日本はゴッホが考えていたような芸術家の理想郷ではありませんでした。浮世絵は、絵師が下絵を描き、彫師が彫った版木を用いて、刷師が紙に刷ることによって完成します。専門職によるこの分業が、分業ではなく共同と解釈されれば、その工程は、なにやら共同作業の色合いを帯びて映っても不思議はないかもしれません。
しかし現実は、当時の日本はゴッホが考えていたような芸術家の理想郷ではありませんでした。浮世絵画家は生活のため競って売れる絵を描くのに必死で、春画で生計を立てている浮世絵師が大部分で、美を追求していたのは限られた才能に恵まれた浮世絵画家だけでした。それでも、江戸庶民が買い手の浮世絵の価格は安く、写楽や歌麿クラスの錦絵でも1枚20文で400円程度でした。「写楽がそんなに安いはずはない!」というのは現代的な感覚で、庶民相手の商売ですので当時はかなり安い価格で売られていたようです。現代誰もが名前を知っている超一流の浮世絵画家でも、休みもなく月に30日働いて月収は30万円程度の生活がやっとだったそうです。現代浮世絵ファンなら知っているような浮世絵師でも、風邪などで熱があっても仕事を休んでしまうと、明日の食事にも事欠く生活をしていた人も少なくないようでした。
日本の浮世絵芸術家たちがお互い同士作品交換し、お互いに愛し合い助け合って生活していた優雅な「芸術サロン」のようなものなどあったはずもなく、皆生活していくために、ライバルの情報に眼を輝かせて、少しでも売れる作品を描くのに必死だったようです。
一般人の理解が追い付かない未来志向の芸術を求めていたゴッホが、未知の「黄金の国」日本を芸術家のユートピアと考えていたのは、共感できないまでも、気持ちとして分からないこともないでもないとは思います。
ただ、無謀にも何の根拠もなくアルルにユートピア「日本」を実現しようとしたゴッホの妄想ともいえる生活は、当然の成り行きかも知れませんが、1888年12月の有名な「耳切り事件」で崩壊してしまいます。
しかし、ゴッホが日本を夢見ていたわずか一年ほどの期間にゴッホは膨大な作品を描き、その中にはゴッホの画家生涯の傑作と言える作品もたくさん含まれていました。この短い夢に浸っていた時期は、ゴッホの生涯で最も創造力に満ち、おそらく最も幸福な時期だった野かも知れません。
   ゴッホ『糸杉の見える花咲く果樹園』
白をうまく使った画面構成が美しい作品。
   ゴッホ『アイリスの咲くアルルの風景』
アイリスの花だけが浮世絵風の輪郭線のある描き方をしていて、不気味な存在感を感じさせました。印象派の描法と浮世絵の描法を混在させる実験をしたかったのかもしれません。 
   ゴッホ『サント・マリーの海』
波の表現は、北斎風の表現試みているようです。麦畑は黄色とオレンジを主体とした本来のゴッホの表現で、やはり、自分の表現に浮世絵の表現を組み合わせることを試みていたように感じました。
   ゴッホ『ヴィラ運河にかかるグレース橋』
少しけばけばしい色彩は松木浮世絵の影響かも知れません。ゴッホの作品にしては赤や緑が強すぎ、全体のバランスを崩しているように感じました。
ゴッホは、最盛期の浮世絵の主流だった繊細な日本的色彩感覚より、派手な色彩を子のみ、溪斎英泉のような幕末の末期の浮世絵の色彩に共感していたようです。一般の西洋人も、シーボルトらが持ちこんなだ歌川国貞以降の浮世絵の派手な色彩感覚に人気があったようです。
   ゴッホ『アルルの女〈ジヌー夫人〉』
落ちついた色彩構成と穏やかな造形の心が温まる作品です。ゴッホは時折驚くほどやさしい癒される年配の女性像を描いています。多分モデルの女性も、ゴッホが派母性を感ずるような優しい人だったのでしょう。
   ゴッホ『男の肖像』
優しい女性とは対照的に、何か不安におびえる様な男性の肖像画でした。
   ゴッホ『タチュフコの乗合馬車』
ゴッホがお気に入りの小説に出てくる乗合馬車に関連する作品だそうです。南フランス特有の眩いばかりの太陽を浴びて、緑、赤、青、黄色など、鮮やかな色彩のコントラストが強調されています。斜めの高い水平線は、浮世絵の風景画の影響とも見られているそうです。
この作品の最大の魅力美しい色彩のバランスと、空間や配置をあえてバランスを崩し、画面に緊迫感を与えている絶妙の構図ではないでしょうか。馬車に立てかけられた梯子が、構図を引き締めるとともに、空間に絶妙の奥行きをもたらしています。
サン=レミ、オーヴェル=シュル・・遠ざかる夢 
フランス政府が日本に派遣した植民地画家デュムーランは日本主題の絵を発表しはじめ、ビングは1890年に国立美術学校で大浮世絵展を開き、翌1891年には日本美術が初めてルーヴル美術館に購入されました。ゴッホの「日本の夢」に火をつけたビングは、浮世絵展の功績により、レジオン・ドヌール勲章を授与されました。
日本は開国して明治政府ができ1889年に立憲国家になり、富国強兵政策をとりやがて軍事的脅威とみなされるようになります。西洋の人々は「日本の夢」から目覚め、日本は「楽園」としてではなく、現実として見られるようになりました。
「耳切り事件」の時に襲ってきた精神病の発作は、その後も度々ゴッホを襲いました。「黄色い家」の崩壊後は、「日本の夢」も遠ざかっていき、日本について語ることも無くなっていきました。しかし、ぶり返す発作の合間にもゴッホは描き続け、それらの作品の中にはまだなお浮世絵の影響を感じさせるものがありました。
サン・レミの精神病療養所に入ってからは、庭の片隅や植物を描いた作品も描かれ、は日本の花鳥画を思わせる作品もありました。また、アルル時代に日本の影響下に描いていた葦ペンデッサンを色彩と統合して、力強い筆のタッチを使った独自の油彩画へと発展させた作品もありました。
   ゴッホ『ポプラ林の中の二人』 1890年 シンシナティ美術館蔵
広重の浮世絵の風景画のような構図で、ゴッホのこのような構図は風景画は始めて見ました。作品としての良し悪しは別として、私が見た中でゴッホらしくない作品の一つだと思っていました。
ゴッホが亡くなる一ヶ月くらい前「麦の穂」呼ばれる作品を描いています。縦長の画面に、風にかすかに揺れる麦の穂が一面に描かれている。よく視ると薊が一輪、あるいは白い名もない花が描き込まれているが、一面緑色に塗り上げられたといってもいい静かな絵である。まさに「背景」だけを描いたような作品でした。
   ゴッホ『オリーヴ園』 1889年 クレラー=ミュラー美術館蔵
タッチがうねっているようで、錯乱する精神が描いた心象風景のようです。
   ゴッホ『渓谷(レ・ペイルレ』 1889年 クレラー=ミュラー美術館蔵
ゴッホは、広重の「東海道五十三次」山岳風景を思い浮かべて描いた作品という解説がついていました。確かに構図は広重と共通しているようにも見えますが、山を歩く人は風景に溶け込んでいるように小さく描かれています。タッチはうねり、アルルに来た時の楽園の風景と全く違った、心象風景になっています。
1890年7月28日、ゴッホは、オーヴェールの屋根裏部屋で腹に銃弾を抱えたまま瀕死で床に横たわって、翌29日、静かにこの世を去りました。

 

●ゴッホの生涯 4  
ゴッホは画家になるべくしてなったか、答えはノーである。青年時代は画商で働き、聖職者を目指したが志がかなわず、やむなく画家になった。1881年、ゴッホ28歳の遅い出発であった。自殺したのが37歳。わずか9年ほどのキャリアである。さらに言えば、日本で知られている「ひまわり」「星月夜」「夜のカフェテラス」など著名な作品は晩年3年ほどの作品である。
第1章 画家になるまで
1853年オランダ・ズンデルト村にてゴッホは生まれた。意外に思われるかもしれないがゴッホはフランス人ではなく生粋のオランダ人である。6人兄弟の長男として生まれ、父は聖職者であった。4つ下の弟テオドルス(通称テオ)はゴッホの人生を語る上でもっとも重要である。今後もたびたび出てくるので読者にはぜひ覚えて頂きたい。
1869年ゴッホ16歳のとき、伯父の設立した「グーピル商会」ハーグ支店(オランダ)で働くこととなった。最初は真面目に勤務していたが上司や伯父との折り合いが悪くなり、1873年にハーグからロンドンへと転勤することとなった。ロンドンで2年間勤務後、さらにパリ支店へ転勤したが拝金主義であったグーピル商会に嫌気が差し1876年4月、ゴッホは退職(解雇の可能性もあるが)した。約7年間勤務した。
グーピル商会を退職後、教師や書店店員となるがいずれも長続きはしなかった。趣味で素描(ペンでスケッチすること)程度はしていたが職業としては考えていなかった。父の影響で少年時代から聖書を専心に読んでいたので、聖職者へなりたい思いが強かったようだ。家族から金銭的援助を受けながらオランダ・アムステルダムの大学神学部を受験するため勉強をはじめるが、あまりの科目の多さに挫折してしまう。それでも聖職者になりたいゴッホは伝道師を目指し、ベルギー・ブリュッセルの伝道師養成学校に通うが、ベルギー人でないことから周りの生徒と同じ扱いは受けれないと通達を受け、南のボリナージュ炭鉱へ伝道へ向かった。労働者へのあまりにも献身的な態度が、伝道師協会には奇行に映り仮免が許可されることはなかった。
第2章 画家としての人生を決意
ボリナージュで伝道師への道を断たれたゴッホはボリナージュ近郊のクウェムでな毎日を過ごした。生活費は父親に送ってもらっていた。この頃ゴッホは自分を見つめなおし、自分が人よりできることは「絵を描くこと」だけと思い至り、農家や農民などスケッチをはじめた。しかし家族からは働かないゴッホに非難の目が向けられ、父親からはヘールの精神病院に入れようとしたことで口論となる(ヘール事件)。見かねた弟のテオ(グーピル商会に勤務)はゴッホに金銭援助をはじめた。
経済的な問題からゴッホは1881年(ゴッホ28歳)に実家のあるオランダ・エッテンに戻る。ゴッホは聖書の影響で、大地に根づき毎日を暮らしている農民こそ高貴な存在と考え、農夫や田園風景などをスケッチした(1850年代のフランスではすでにこの考えをもつ一派が登場し、田園のバルビゾン村に住み田園や農民を描いた。バルビゾン派と言われ、主な画家にジャン=フランソワ=ミレー、シャルル=フランソワ=ドービニー、カミーユ=コロー、テオドール=ルソーなど)。さらにバルビゾン派のミレーを尊敬し、ミレー作品の模写に努めた。
ゴッホの親族は絵画関係者が多く、その意味ではゴッホは恵まれていた。グーピル商会への就職時もそうだったが、親戚にアントン=マウフェがいた(彼は当時オランダで流行していた写実的な絵の一派のリーダー格でハーグ派と呼ばれた)。ゴッホは彼を頼り、単身ハーグでマウフェから指導を受ける。しかしわずか1年ほどでゴッホの女関係がもとで師マウフェとの関係が悪化する事態となった。
マウフェとの関係悪化の原因は『ゴッホが娼婦(通称シーンと呼ばれる)と同棲をはじめた』ことであった。現代の感覚もそうだが、家族が子供連れの娼婦と同棲をはじめた、と聞けばどうだろうか?もちろん反対するだろう。ゴッホ家も同様に弟テオをはじめ家族は猛反対した。しかしゴッホは「もし目の前に僕が助けなければ死んでしまう女性がいたら、そのまま見捨てるだろうか?僕にはそんな真似はできなかった」と弟テオの手紙に書き、1年余り同棲した。
しかし1883年9月家族の説得に応じシーンとの別れを決心する。シーンとの喧嘩が絶えず、生活するためにシーンが娼婦に戻ると言ったことが決定的だった。
バルビゾン村に旅立ったゴッホの尊敬する画家ミレーのように、同じく必要なものは大地で雄大に生きる農民の姿と考え、オランダ・ドレンテへと旅立った。
ドレンテでミレーのように農民風景を描いたりミレーの模写をしたりして1年余り過ごしたが、1883年末(ゴッホ30歳)家族の住むヌエネン(父親の仕事でエッテンから転居)に帰省した(金銭的な理由と思われるが詳しい理由はわかっていない)。
父とは折り合いが悪かったが、話し合いの末に実家の小部屋をアトリエとして使用することを許可してもらえた。さらに翌1884年初旬に母親が足を骨折し、ゴッホが献身的な介抱をするうちに家族との関係は好転した。
ゴッホは数年前から農夫を題材に油絵や素描を数多く描いたが、あくまで練習用の習作(エチュード)であり、他人に見せるものではなかった。そこで約1年をかけて原案を練りに練り、構成画(タブロー)を考えた。
それが、「ジャガイモを食べる人々」である。
日々の暮らしを一生懸命に生きる農民を主題に、大地から採れるじゃがいもを食べている姿こそゴッホにとって崇高な存在であった。じゃがいもを取る微細な手の動きまで入念にデッサンし作り上げた『ゴッホはじめての大作』であった。
しかし、絵の評価について、ゴッホ自身は満足したが周囲はそうではなかった。ベルギー時代の友人の画家ラッパルトには人物の描き方や遠近感など些細な点まで批判を受け、弟テオ(グーピル商会の画商としてパリで勤務)からは色彩が暗く、今の時代に即応していないと批判を受けた。さらに同年、父親が急死し、父親の信頼で契約していた部屋を打ち切られたことでヌエネンを去ることを余儀なくされた。
しかし、オランダを去りパリで最新の絵画に触れることで、ゴッホの才能が急速に開花するのである。
ヌエネンを離れたゴッホはベルギーのアントウェルペンに移り住んだ。ヌエネンに残された大量のゴッホの習作は母親によって処分されたという。誠にもったいない話である。アントウェルペンの学校で人物画や石膏の知識を学ぶがゴッホは気に入らなかったようだ。
アントウェルペンの学校が自分の思うような所でなくゴッホはがっかりした。そして何の前触れもなく弟テオの住まうパリへと夜行列車へ乗り込んだ。1886年3月ゴッホ33歳の時であった。
パリ到着をテオに知らせた走り書きの手紙が残されている。『まっすぐ来るつもりはなかったが、考えた結果だ。(中略)僕は正午からルーブルで待っている。だから早く来てほしい。』
第3章 パリで弟テオと同居
花の都パリというように1886年のパリは世界の最先端であった。ルイ・ヴィトンやエルメス、シャネルなどが創始したのも前後してこの時代である。上流階級の間ではフロックコートにシルクハットといったお洒落が流行し、男性はパリジャン、女性はパリジェンヌと呼ばれていた。芸術の分野では「印象派」と呼ばれたモネ・ルノワールらの作品が高騰し、印象派をより深化させようという才能ある若手画家も台頭しはじめていた。さらに1868年日本では文明開化で鎖国が解かれ、浮世絵や扇子といった日本独特の文化がパリで流行していた(日本趣味・ジャポネズリー)。詳しくは「19世紀の絵画の歴史と進化」をご覧ください
ゴッホはパリで3つのものに大きく影響を受けた。これがゴッホのスタイルとなり不朽の名作を生み出していったのである。
1 印象派から『色彩』を学ぶ
印象主義とは、絵の具はパレットで混ぜると暗く混ざる(例えば赤と青をパレット上で混ぜたとき、暗い紫色となる)が、赤と青の交互に並べ遠くから見ると明るい紫色に見える(この現象を視覚混合という)。それを利用してキャンバスで純色のみを使用し明るい色彩の絵画に仕上げた。モネとルノワールが祖とされ印象主義の一派を『印象派』と呼ぶ。
ゴッホはオランダやベルギー在住時代から印象派は知っていたが目の当たりにするのははじめてだった。印象派のまぶしいばかりの明るい絵を知ることにより、ゴッホは色彩に目覚める。色彩の練習としてかっこうのモチーフになったのが『花』であった。花瓶にいけられた花をゴッホは数多く描いた。美術展でゴッホの花瓶の花の絵を観たらパリ時代といっていいだろう。
前述の「じゃがいもを食べる人々」と比較すると色彩がかなり明るくなっていることがわかる。しかしまだまだ「ただ明るい」だけで「色の持つ意味合い」や「色の相互関係」はもっか研究中であった。
2 日本趣味から『速描』を学ぶ
パリで日本趣味(ジャポネズリー)が流行したのは前述のとおりであるが、ゴッホも同様に魅了された。中でも浮世絵に深く感心し、浮世絵を数多く模写した。
さらにゴッホは独学で浮世絵を研究、日本の画家たちは『はっきりとした輪郭線を描き、稲妻のようなすばやさでモチーフを描写する』と結論付けた。
その技法にしたがい、以後のゴッホの絵はじっくりとモチーフを観察し描写するのではなく、自分の気の向くままに感情を乗せて速やかに表現する「速描」の技法を重視した。ゴッホ独特のうねりのような筆触は後のことであるが、「絵画に画家の感情を表現する」画法はまさに画期的であった。
3 モンティセリから『厚塗り』を学ぶ
ゴッホはパリの画廊で南仏の画家アドルフ・モンティセリ(1824〜86年)の絵画を観て心を奪われた。大胆な筆致(筆さばき)に絵の具の厚塗り技法、まさに自分の思うような表現の絵画がそこにあったのである。
パリを離れてからも、ゴッホは厚塗りした絵画を次々に制作、絵の具が乾くのに1〜2ヶ月要したという。ゴッホは『自分は時々モンティセリの後継者ではないかと思うことがある』と述べている。 【アドルフ・モンティセリ】1824〜1886年 / 南フランスのマルセイユで生まれる。ロマン主義(中世の文化や異国情緒など浪漫を感じさせる主義)の巨匠ウージェーヌ・ドラクロワを崇敬し多くの影響を受けた。
ゴッホはパリで約2年間過ごした。最新の知識・知り合った画家など得たものはとても多かったが、ゴッホは徐々にパリの喧騒にストレスを感じていった。アブサン(高濃度のリキュール)や煙草をストレスのはけ口としたため身体がボロボロになり静養が必要と考えていた。静養地を南仏アルルに決め、1888年2月(ゴッホ34歳)に単身アルルへと旅立った。
ゴッホの友人画家については「ゴッホがパリで知り合った画家」をご覧ください。
アルルに到着したのは1888年2月、南仏アルルではめずらしく大雪が降っていた。それでもゴッホはここの土地の空気は澄み、水はきれいな斑紋を描き、毎日太陽は黄色く輝き、まるで日本のようだと感じた。そもそもなぜゴッホはアルルを選んだのか。友人ロートレックに薦められた、アルルのイベントがパリで開催し魅了された、など様々な理由があるが、ゴッホはパリ時代日本趣味に傾倒し、日本は太陽輝くまるでヒマワリを想わせる国だと感じ『フランスの日本』である温暖な南仏アルルに決めたのである。ゴッホにとってまさにアルルはユートピアだった。そして若手画家たちのコミュニティとしての計画も立てていた。耳切り事件でアルルを離れたのは至極残念である。
第4章 アルルの『黄色い家』 ゴッホのユートピア
1888年2月にアルルに移り、しばらくはレストランの2階で宿を取った(日本に例えると民宿のようなイメージ)。しかしよそ者のゴッホに法外な値段を請求され続け、同年5月に「黄色い家」を借りた(右絵の手前の右翼部分)。アトリエとしては使用したが、寝台や設備が整っていなかったことから実際に住むのは9月になってからである。
北仏にいるゴーギャンは借金に苦しんでいた。ゴッホはゴーギャンにアルルで同居すれば費用がかからないことを提案し、8月ゴーギャンは承諾、用意が出来次第アルルに向かうと約束した。ゴッホはゴーギャンが来るまでに自信作を仕上げておきたいとの気持ちから次々に作品を制作する。著名なものとしては「ひまわり4点」「黄色い家」「夜のカフェ」「夜のカフェテラス」「ゴッホの寝室」など。
   「夜のカフェ」 1888年9月 アルル
左の「夜のカフェ(当時のカフェとは居酒屋のこと)」はテオに『僕は赤と緑でもって人間の恐るべき情念を表現しようと努めた』と述べた。ゴッホは補色(赤と緑、黄と紫のように隣接しあうことで相互に引き立つ色関係)を研究した。毛糸玉を使って補色の毛糸を並べ引き立つことを確認していたという。さらに肖像画では色彩で、その人物そのものを表現しようと努めた。右の「パシアンス・エスカリエの肖像」では彼が農夫の仕事を灼熱の太陽の下で労働していることを表現し背景をオレンジ色に、「ウジェーヌ・ボックの肖像」では彼が詩人の神秘的な雰囲気を表現しようとウルトラマリン色に表現した。ちなみにゴッホは「夜のカフェ」の2階部分で9月まで宿をとった。
画家ポール・ゴーギャンとの共同生活は有名である。聞いたことのある人も多いのではないだろうか?ゴーギャンはゴッホの提案(先述参照)に応じて10月23日にアルルに到着した。2人は「黄色い家」で作品を制作したり、アルル周辺に出かけたりしていたが、価値観の不一致で2人の仲は次第に緊張した。12月23日付のテオ宛への手紙には『ゴーギャンはアルルの町に、僕らの仕事場の黄色い家に、とりわけこの僕にいくらか失望しているようだ』と述べた。そして翌24日ゴッホは自分の耳たぶをかみそりで切り失神している所を通報を受けた警察によって発見され病院に収容された。
24日にいったい何が起きたのか?
それはゴッホ自身も覚えておらず何も語ってはいない。ただ当時の病院の入院記録や、ゴーギャンの追憶、文献などからある程度の推察はできる。
病院収容後、ゴッホは実質軟禁状態であった。市民が「オランダ人が精神状態が不安定で市民に不安を与えているから見張っていてほしい」と数十名の嘆願書が警察署に送られたのである。さらに「黄色い家」の家主からも立ち退きを求められアルルを去らざるを得なくなった。さらに弟テオは今春に結婚するという。ゴーギャンは去り、アルルからは立ち退きを命じられ、テオの元にも戻れない。ゴッホは孤独感を抱いたままアルル北東のサン=レミの療養院を住み処として選んだ。
第5章 療養院で発作との戦い
サン=レミのサン=ポール療養院に1889年5月ゴッホ36歳のときに入院することとなった。耳たぶを切った後のゴッホは精神的に不安定な兆候があり突然気絶したり、絵の具を飲み込もうとしたという。療養院の病院長は「てんかん」との診断を下しているが、それだけでは説明できないことも多く、解明されていない。
サン=レミ時代以降ゴッホの代名詞とも言える独特の『うねり』の筆触が現れはじめた。一体ゴッホは何を思い、何を考え、何をしたかったのか考察していきたい。
ゴッホの代名詞ともいえる「うねり」。それはこのサン=レミ時代からはじまったものである。アルル時代は「色彩」を研究し、色を相互に引き立たせる補色の関係や、赤が情熱、青が冷淡といった「色」そのものの力を研究したが、サン=レミではモティーフをそのまま写実的にデッサンするのではなく、モティーフが持つ力そのものを自分なりに解釈して表現するスタイルを研究した。その結果、うねるような筆触でデッサンすることで、ゴッホの異常なまでのモティーフに対する情熱が表現されている。これは「表現主義」の先駆けであり、後のルオーやマティスに大きな影響を与えた。
アルル時代に好んで題材にしたものが「ひまわり」だった。ゴーギャン到着の前に黄色い家に飾ろうと心躍らせて制作したのだろう。まさに「太陽」を連想させるモティーフだった。しかしサン=レミでは一転「糸杉に心を惹かれている」、とゴッホは述べた。糸杉は「死」を連想させる木で、イエス=キリストが磔刑に処されたときの十字架は糸杉で作られたと言われている。聖職者になりたかったゴッホは知らないはずはなく、もしかしたらアルル時代に抱いていた「希望」や「夢」が儚いものとなり「死」や「孤独」がゴッホを支配していったのではないだろうか。
入院直後は療養院を「落ち着いた場所」と話し、気に入っていたようだが、半年もすると嫌気がさしてきた。まわりの重度の精神病患者を見ていると自分の発作はましに思えるが、同時に恐怖感にさいなまれることが多くなったという。弟テオはつてを頼って、印象派の画家カミーユ・ピサロの友人の精神科医ガッシェ医師に診てもらうようにゴッホに提案、医師のいるパリ近郊のオーヴェル=シュール=オワーズに転居することになった。1890年5月のことでサン=レミには約1年間の滞在であった。
終章 オーヴェル=シュール=オワーズにて
1890年5月下旬(ゴッホ37歳)にサン=レミの療養院を退院、数日間パリのテオのもとで過ごした。このとき初めてテオの妻ヨハンナ(通称ヨー)と産まれたばかりの赤ちゃんに会っている。しかし、パリの喧騒で精神状態が悪化し予定より早くオーヴェルに向かった。
オーヴェルでガッシェ医師と面会したゴッホは妹ヴィルに手紙で次のように書いた。『ガッシェ先生とは友人、いや新しい兄弟であるかのような何かを見出している。それほど僕らは身体的、精神的に似かよっている。も僕と同じメランコリック(憂鬱症)の特性を持っているようだ』
またガッシェ医師自身は日曜画家で、絵画のコレクターでもあった。ある専門家はガッシェ医師の能力不足・診断不足でゴッホを自殺に至らしめたと批判しているが、筆者はゴッホにとって良き理解者であり、友人であったと思っている。
ちなみに右の「ガッシェ医師の肖像」は1990年に日本人が当時史上最高落札額の124億で落札して話題になった。また落札者が「死んだら棺おけの中に入れてくれ」と言った台詞も有名である。
7月初旬、ゴッホは「極度の悲しみをキャンバスの上で表現した」と述べた。何があったのか?事の次第はこうだ。この数日前、テオから至急相談があるからパリに来てほしいと連絡を受けた。テオは待遇面で勤務しているブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会から名称変更)に不満があった。上役に相談して解消されないなら独立して、妻ヨーの兄アンドリース・ボンゲルと共に自営しようと考えた。しかし、ゴッホがパリに到着したときテオとボンゲルの妻二人は独立に大反対、議論は真っ二つに割れていた。その場を目の当たりにし、ゴッホは自分の存在こそが最大の重荷ではないかと危惧したのである。
ゴッホは7月29日にピストルによって自殺した。ゴッホ研究者たちによってさまざまな説が唱えられているがゴッホ美術館の公式見解によると「自殺」と認定されている。なぜ自殺したのか、当日のゴッホの行動など不明な点が多い。しかし、残されている書簡や当時の証言の記録などから、ゴッホの自殺について考察した。詳しくはゴッホ自殺の考察をご覧ください。
ゴッホ死後、弟テオも元来の病弱な身体にますます精神的に不安定となり、健康状態が悪化。わずか半年後に兄の後を追うようにテオもこの世を去った。ゴッホの友人たちによってゴッホの絵は徐々に世間に認知され、テオの妻ヨーは数年後にテオ宛に送られたゴッホの手紙を整理し書簡集として出版した。生前はわずか1枚しか売れなかった(しかもゴッホ自殺の1年前)ゴッホの絵は急速に価格が急騰していくことになる。  
ゴッホ・諸話
19世紀の絵画の歴史
19世紀はもっとも絵画が進化した時代と言っても過言ではない。現代絵画の巨匠ピカソやマティス、ムンク、シャガールなど全員がその影響を受けている。16世紀まではイタリアが、18世紀はフランスが芸術の最先端だった。
ゴッホは19世紀終わりの画家であり、敢えて言うなら『ポスト印象派(後期印象派とも)』に分類される。ゴッホがパリで絵画の変遷をみたことはまさに歴史の分岐点であった。運命に導かれたようにパリに行ったゴッホ。
簡単ではあるが19世紀の絵画の変遷を簡単に説明したい。
『印象派』が誕生するまで
サロンへの入選
19世紀初頭、政府による美術アカデミー「サロン」に入選し、名声を得ることが必須だった。そして入選するためには政府の役人が気に入りそうな絵画を描く必要があった。それが「宗教画」と「肖像画」である。今の感覚からすると考えられないが、宗教画や肖像画は知識や教養、気品があると見なし、それ以外は下賎な絵画という扱いだった。1600年初頭に流行した宗教画家ニコラ・プッサンの古典主義になぞらえ『新古典主義』と呼ばれた。
19世紀後半の画家たちの憧れ ウジェーヌ・ドラクロワの台頭
その新古典主義のアンチテーゼ(反定立)として台頭したのがロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワである。ロマン主義とはオリエンタリスム(異国主義)や感性や色彩を重視する主義で、後の印象派やゴッホに多大な影響を与えた。ゴッホはテオへの手紙にもドラクロワの単語は頻繁に出てきており尊敬している所がうかがえる。
余談であるが、左の『民衆を導く自由の女神』の右のピストルを持つ少年は、同年代の小説家ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の登場人物ガヴローシュの着想となったといわれている。『レ・ミゼラブル』は近年映画化されたのでご存知の人は多いのではないだろうか。ユゴーはこの時代のベストセラー作家だった。
田園風景を描いたバルビゾン派
バルビゾン派とは1830年代以降のパリの都会化によって田園風景に郷愁を求め、パリから約70キロ離れたバルビゾン村で田園風景を描いた一派である。主な画家はテオドール=ルソー、カミーユ=コロー、ジャン=フランソワ=ミレー、シャルル=フランソワ・ドービニーである。
ゴッホは牧歌的な農民を崇高に描くバルビゾン派の思想を強く賛同し、ミレーの作品を数多く模写した。またドービニーが遺した自宅(妻は健在だった)を描いた「ドービニーの庭」という作品を描いた(「2作の「ドービニーの庭」の比較」参照)。
バルビゾン派と印象派を繋いだ2人
若き印象派の画家たちが制作しはじめた頃、活躍していた2人の画家がいる。ギュスターヴ・クールベとエドゥアール・マネである。
クールベの写実主義(自分が見たままの世界を描く主義)は後の印象派に引き継がれ発展し、マネは若きモネやルノワール・ドガたちを牽引した指導者であった。マネの作品は初期印象派を思わせる筆致ながらも、印象派ではない。彼は印象派展には一度も参加せず、サロンの入選にこだわり続けていた。
『ポスト印象派』が誕生した19世紀末
ポスト印象派とは後世の人々が名付けた呼称である。印象派のような決まった様式ではなく、様々なオリジナルの技法を編み出した彼らをひとくくりにまとめてそう呼ぶのである。ゴッホもその中の一人である。
印象派の席巻
印象派とは見たものをその固有色で描くのではなく、時間のうつろいによって変わる光を描写した一派で、右絵下のモネの「印象 日の出」を評論家が「印象派画家」とシニカルに批評したことが呼ばれた由来。また印象派画家独特の『絵の具をパレット上で混ぜると暗くなるため、純色をキャンバスで並べ合わせることにより視覚的には暗くならずに混ざったように見える』色彩分割法(視覚混合法)は右絵上のルノワールの「ラ・グルヌイエール」がその技法を実践した最初の作品である。
それまで政府主催のサロンに絵画を応募していたが、同じ志の者たちが1874年に「第1回印象派展」を開いた。そのときの主要メンバーがクロード=モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー=ドガ、アルフレッド・シスレー、カミーユ・ピサロ、ベルト=モリゾなどである。
それから76年、77年、79年、80年、81年、82年と開かれ印象派画家たちはパトロンにも恵まれ印象派絵画は世間に広まっていった。
そして1888年、最後となる第8回印象派展が開かれた。印象派展とはついていたものの、モネやルノワールは参加せず、スーラ・シニャックといった若手画家たちが参加した。奇しくもこの年にゴッホはテオを頼ってパリへ来たのである。
ポスト印象派と呼ばれた画家たち
1880年代に入ると前衛的であった『印象派』はもう前衛的ではなくなっていた。印象派が開拓した絵画技法をさらに深化させていった若手画家たちが登場したからである。それがゴッホたち『ポスト印象派』である。
ジョルジュ・スーラとポール・シニャック / スーラとシニャックは点描という細かい点を敷き詰める技法を探究した。シニャックはゴッホと交流し、耳を切った直後アルルにお見舞いに行っている(「ゴッホがパリで知り合った画家」参照)。
ポール・ゴーギャン / ゴーギャンとの共同生活が耳切り事件のきっかけとなった。初期はクロワゾニズムと呼ばれる黒く太い輪郭線が特徴の絵画技法を開発、晩年のタヒチに渡り原住民を描いた絵が有名。
ポール・セザンヌ / 当初は印象派のメンバーと交流を持ったが、その技法を良しとせず独自の遠近感を感じさせない技法を探究した。「自然を円筒・球・円錐としてとらえる」という言葉が有名。
印象派とポスト印象派の影響で20世紀初頭世界中から才能ある画家が集まった。それを『エコール・ド・パリ』と呼ぶ。その中にはスペイン系のパブロ・ピカソ、イタリア系のアンリ・マティス、ロシア系のエドワルド・ムンクなどがいる。彼らが20世紀初頭の芸術運動の中心となった(アール・ヌーヴォー)。  
ゴッホの絵画の原点
ゴッホが本格的に画家になろうと決意したのが1880年(「ゴッホの生涯考察(画家としてスタート)」参照)。はじめは独学で素描やスケッチをしていた。
その頃故国オランダでは「ハーグ派」と呼ばれる一派が台頭していた。ハーグ派とはオランダ・ハーグを拠点とするありのままの風景や人々、動物などを描いた写実主義の一派である。
そしてハーグ派の中心的人物アントン・マウフェはゴッホの義理の従兄弟であり、彼はマウフェを頼りハーグに移った。
ゴッホの原点はこの「ハーグ派」である。
ハーグ派はバルビゾン派の影響を大きく受けている。バルビゾン派とは1830年代フランスのバルビゾン村に居を構え、自然をありのままに描いた一派でゴッホはバルビゾン派のミレーやドービニーを敬愛している。1860年代にバルビゾン派と同じようにハーグに居を構え、自然の事物を素早く描いた。アントン・マウフェ、イスラエルス、メスダッハ、ヤン・ヘンドリックなどがハーグ派であり、ゴッホは手紙に彼らの名前をたびたびあげ、南仏アルルに行ってからも敬愛の念は変わらなかった。
ハーグ派は暗い色調が特徴で濃紺色や灰色を使うことを好んだ。これはバルビゾン派と同様暗い色彩を使うことによって農民の生活を表現しているためである。
ゴッホはハーグ派のマウフェの指導を受け暗い色彩を使った農民や静物の絵を数多く描いた。そしてその集大成が「じゃがいもを食べる人々」である(「ゴッホの暗い色彩の作品」参照)。しかしすでにパリでは明るい色彩を好む印象派が台頭しており、パリに住む弟のテオはゴッホの暗い色調を批判した。  
ゴッホが尊敬した画家
アドルフ・モンティセリ (1824-1886/フランス)
フランスの南仏マルセイユの画家。ゴッホより30歳ほど年上の画家である。ゴッホはテオを頼りフランスのパリに来たとき初めてモンティセリの絵画を見て非常に感銘を受けた。その心酔ぶりは、ゴッホの遺した手紙がそれが読み取れる。特にモンティセリの絵の具を幾重にも重ねる『厚塗り』を模倣した。ゴッホの厚塗りの原点はモンティセリにあると言っても過言ではない。また南仏アルルに移住したのも南仏の画家モンティセリに憧憬を持っていたためとも言われる。
ウジェーヌ・ドラクロワ (1798-1863/フランス)
印象派が台頭する以前のロマン主義の画家。それまで神格化した宗教画を描く新古典主義の画家たちが台頭していたが、ドラクロワの登場によって印象派やバルビゾン派、写実主義といった絵画技法の自由を促した。代表作は『民衆を導く自由の女神』。ゴッホの手紙の中でもドラクロワはたびたび登場。パリで見たドラクロワの絵画を、自分と弟テオに当てはめながら述懐している。
ジャン=フランソワ=ミレー (1814-1875/フランス)
バルビゾン派の巨匠の一人。バルビゾン派とは産業革命で急激に都市化するパリを離れ、自然が残るバルビゾン村に移り自然を描いた画家たちのこと。ゴッホは聖職者を目指していたこともあり、聖書中に出てくる大地に根付く農夫こそが神聖なものだと考えた。その姿を生き生きとして描き出すバルビゾン派の画家、特にミレーには大きな私淑を抱いていたようだ。パリを離れてからも、テオにミレーの絵画の写真をたびたび送ってもらい模写している。
アントン=マウフェ (1838-1888/オランダ)
自然や農民を描く写実主義、オランダハーグ派の中心的存在(詳しくはこちら)。ゴッホはマウフェと親戚関係にあたり1年ほどマウフェに指示をした。初期の暗色を用いた農民画家はマウフェの影響に寄るところが大きい。しかし、ゴッホが娼婦と関係を持ったことから、マウフェとの仲は急速に悪化する。しかし、1888年(アルル滞在時)テオからマウフェが亡くなったことを聞かされると、マウフェを想い左記のモモの絵を描き、左下にサインと共に「マウフェの追憶」と記した。
ポール・ゴーギャン (1848-1903/フランス)
言わずと知れた、ゴッホの耳切り事件を引き起こした張本人。ゴッホはパリでゴーギャンと知り合いその才能にはずっと一目をおいていた。そしてアルルで画家の共同体を目指して発信したとき、それに同調したのはゴーギャン一人であった(そのゴーギャン自身も弟テオが自分の絵を高く売ってくれたことから断りにくかったと言われている)。ゴッホは同居前も中も後もゴーギャンの才能を高く評価していた。二人の天性の才能がぶつかり合ったことは残念と言うほかない。  
『ひまわり』
ひまわり ノイエ・ピナコテーク(ドイツ・ミュンヘン)蔵 1888年8月
ひまわり ナショナルギャラリー(イギリス・ロンドン)蔵 1888年8月
ひまわり 損保ジャパン東郷青児美術館(東京・新宿区)蔵 1889年1月
ひまわり ゴッホ美術館(オランダ・アムステルダム)蔵 1889年1月
ひまわり フィラデルフィア美術館(アメリカ・フィラデルフィア)蔵 1889年1月
「三輪のひまわり」1888年8月 アルル
「五輪のひまわり」1888年8月 アルル
『ひまわり』を制作するまでの構想は?
テオ宛への書簡の『ひまわり』の初出は8月初旬の第五二六信である。
「僕は今、マルセイユ人がブイヤベースを食べる時と同じ熱心さで仕事をしている。僕が描いているのは大きな『ひまわり』だとしても、君は別に驚かないだろうね。今、三枚の画布に取り掛かっている。一枚目は「緑の花瓶にさした三輪のひまわり」の十五号サイズ、二枚目は「濃紺の背景に種子のあるのと葉を取ったのと、つぼみの三輪のひまわり」で二十五号サイズ、三枚目は「黄色の花瓶にさした十二輪のひまわりとつぼみ」で三号サイズだ。三枚目のものは明るい色が明るい色に重なっており、これを一番良いものにしたい。もっと描きこんでいくつもりだ。」
とあり、続いて
「ゴーギャンが僕のアトリエで一緒に暮らすことを期待して、部屋の装飾をつくりたい。それも大きな『ひまわり』ばかりで。(中略)この計画を実行すれば全体が青と黄で一つのシンフォニーになるだろう。」
とある。最初はゴーギャンのために装飾画として右の『三輪のひまわり』と『五輪のひまわり』2点と、上のノイエ・ピナコテーク蔵の『ひまわり』を考えていたのがわかる。さらに数日後の第五二七信の手紙で
「僕は今、四枚目の『ひまわり』を描いている。この四枚目のものは、十四本の花の束で背景は黄色、昔描いたレモンの色と同じような色だ。」
と書いている。これはナショナルギャラリー蔵の『ひまわり』で、一枚目と角度を180度変えて制作しているのがわかる。一枚目が十二輪であるからつぼみが咲いたのだろうか。ゴーギャンに見せるために4枚の『ひまわり』を描いたのである。
耳切り事件後の『ひまわり』制作
ゴーギャンの装飾画のために『ひまわり』を飾ろうと計画したゴッホで、計画通りゴーギャンに見せたものと思われる。ではなぜ、ゴーギャンとの共同生活が破綻になった耳切り事件(1888年12月23日)後、の数週間後に『ひまわり』3点(上の5点の右3点)を描いたのだろうか?1889年1月はゴッホの発作がひどい時であまりテオへの手紙が書かれていない。1月23日付の手紙で『ゴーギャンは「ひまわり」を欲しがっている。この2点のうちどちらかを書いてあげよう』とある。
そして、その手紙に最後には『ジャナンには「芍薬」、コストには「立葵」、そして僕にはちょっとした「ひまわり」があるのだ』とある。ゴッホ自身『ひまわり』は自信作、代表作であった。少しでも自分の絵を売ろうと模写したのかもしれない。  
「耳切り事件」
耳切り事件−ゴッホファンならずとも知っている出来事であり、ゴッホを語る上で話題にのぼることがもっとも多い事件の一つである。左の「包帯をしてパイプをくわえた自画像」を知っている人は多いのではなかろうか?左の作品は耳切り事件後、アルルのアトリエで描かれたものである。
一般的に知られているのは、「画家ゴーギャンとの共同生活がうまくいかず自傷行為に至ったのではないか」ということである。それは概ね正しい。しかし、それはあくまで実際に起きた事実でありゴッホの気持ちの機微などにまったく触れられていない。ここでは「なぜゴーギャンとうまくいかなかったのか」「なぜ自傷行為に至ったのか」等、筆者なりに文献を研究して考察した。
ゴーギャンとの共同生活
ゴーギャンがアルルに来たのは1888年10月23日、耳切り事件は同年12月24日、約2ヶ月間ゴッホはゴーギャンと過ごした。ゴッホは当初テオに「2人はいっぱい仕事をして、生活が実に調子よくいっている」と書いた。それに対しゴーギャンは「ヴァンサン(ゴッホ)と私は意見が合わない。絵の技法に関しては特にそうだ」と書いた。事実ならまったく見解が異なっていることがわかる。ゴッホはテオに心配をかけまいとゴーギャンとの緊張を伏せたのか、本当にうまくいっていると思っていたのかは定かではないが、少なくとも2人が気持ちよく生活を送っていたわけではなさそうだ。ゴッホはゴーギャンとの共同生活で自分の思い描いた生活ではなく、ストレスを溜めていった可能性は大いにある。
事件の1週間ほど前ゴーギャンはかなりゴッホと白熱した議論を交わし、ゴーギャンはテオに『2人は一緒に住むことはできない。私たちに必要なのは心の平穏だ』と書いた。しかし数日前にアルル西の美術館に2人で行き、ゴーギャンはパリ行きを取りやめた。
そして当日の12月23日、ゴーギャンの回想録によると23日の夜『私が振り向くと、そこにヴァンサン(ゴッホ)がいた。ヴァンサンは私に言った。あなたは無口になった。だから僕も静かになるよ。と言って立ち去った。』という。ゴーギャンはホテルに宿泊し、翌24日に黄色い家に戻ると警察と人だかりができていた。また当時の新聞は夜の11時半に『ヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼婦に小さい箱を渡した。中を開けると血だらけの耳たぶの一部が入っており警察に通報した』という。
ゴッホの性格
テオとパリで共同生活したときに、テオはかなりゴッホにてこずらされたようだ。テオは妹ヴィルにあて『兄には2人の違う人間がいるようだ。一方は芝らしい才能で、立派で繊細だ。もう一方は利己的で無情だ。それが交互にあらわれ一方が語っていたかと思うと、もう一方の人格が顔を出す。兄は他人に対してだけでなく、自分自身に対しても人生を難しくしている。』と書いた。ゴッホは自分でも『我々現代人の病気はメランコリック(憂鬱症)とペシミズム(悲観主義)だ』と言っている。さらにゴッホは指導したアントン・マウフェやベルギーの芸術学院、パリの画塾など自分の思うとおりでないとあっさりやめている。
このことからゴッホは理性がある内は冷静に物事を判断でき、洞察力・判断力にも優れるが、いったん感情が高ぶり理性を上回ると歯止めが利かなくなり、自分の行動や思考を抑制するのが難しい性格に思える。

ゴッホは『いろんな画家たちとの共同生活』に憧れていた。むしろ『黄色い家』は共同生活のために借りたといっても良い。自分の部屋は白木の家具や寝具で質素なイメージにし、ゴーギャンには胡桃材のエレガントなイメージに仕立て上げた。そして待ちに待ったゴーギャンの到着でゴッホの夢の共同生活がはじまった。しかしその夢がゴーギャンとの議論の末、ゴーギャンがいなくなることではかなく消えようとした。感情が高ぶり、恐怖感にさいなまれたゴッホは錯乱状態となり、勢いで耳たぶを剃刀で切り落とした(もしかしたら自殺を考えていたのかもしれない)。
しかし、死ぬどころか気を失うこともできず、錯乱したゴッホはふらふらと馴染みの娼婦にその耳たぶを持っていくという奇行に出てしまった。帰ったゴッホは深夜ということもあり疲労困憊のまま睡眠した。
もちろん、「本当の事実」は今や誰にもわからない。ただこれを機にゴッホは頻繁に発作が起きるようになった。  
ゴッホの自殺
ゴッホは1890年7月29日オーヴェル=シュール=オワーズでピストル自殺で死んだ。しかしその自殺には謎があり、ピストルはどうやって入手したのか、、なぜ突然自殺したのかなど、わかっていないことが多い。専門家の中には他殺説まで出ているほどである。さすがにゴッホ美術館側は否定しているが、ピストルを撃ったという1890年7月27日に何が起きたのかは今となっては誰もわからない。
しかし、当時の文献や記録、ゴッホの手紙などを筆者が独自に研究し、考察した。あくまで筆者の推察であるから参考程度に読んでいただきたい。
ゴッホが滞在していた宿屋の主人の証言
オーヴェルでゴッホは「ラヴー」という宿屋で滞在していた。そこで皆に看取られ亡くなったのであるが、そのラヴーの主人の回想録によると、
「7月27日夕方遅くに彼(ゴッホ)はどこかに外出した。そして夜9時ごろ戻ってくると、彼は力なさそうに見えた。私は容態を聞くと「何でもない」と答え2階の自室に戻った。しかし唸り声が聞こえ、彼の部屋に入ると、彼はピストルで自分の胸を撃ったことを告白した。私はすぐさま村医者とガッシェ医師を呼びに行かせた。医者は銃弾を取り出すことは不可能と判断し、容体を見守ることにした。翌朝、弟のテオに知らせるとすぐオーヴェルに来た。彼(ゴッホ)は一日中ベッドに横たわりパイプをふかせていた。しかし翌29日早朝、容体が急変し息を引き取った。最後の言葉は『こうして死にたかった』だった。」
オーヴェルでのゴッホの体調は?
サン=レミの療養院では大きな発作に見舞われ絵の具を飲み込もうとしたこともあったが、オーヴェルに移ってからは大きな発作には見舞われていなかった。オーヴェル前にパリに立ち寄りゴッホの妻ヨーと初対面をしたとき、慢性的に喘息するテオより体つきががっちりしていて頑強そうな男性と感じたという。体調面から自殺を考えた可能性は低い。
7月初旬ゴッホは悲しみに暮れる
自殺する数週間前の7月初旬、テオからパリに至急来て欲しいと連絡を受けた。テオは給与面で不満があり独立を考えているという相談であった。妻ヨーは反対し議論は真っ二つに割れた。ゴッホはテオから金銭的援助を受けていることから重荷になっているのではと悲観した。
翌日オーヴェルに戻ったゴッホはテオに「(気持ちが滅入って)絵筆がほとんど手から落ちそうだった。しかしあれから三点の大きなキャンバスを描きあげた。それらは不穏な空の下の果てしない麦畑の広がりで、僕は気兼ねせず極度の悲しみと孤独を表現しようと努めた」と書いた。
それから数日後の母と妹宛の手紙では、不安や同様もかなり鎮まってきていると書いていることから、かなりの精神的不安がゴッホにのしかかっていたに違いない。
テオが昨年結婚し、子どもが産まれさらに給与面で不満を漏らしていたことを、ゴッホは自分がテオの重荷になっていると考え「もし自分がいなくなればテオに負担をかけることがなくなるのでは」と思いつめた可能性は十分に有り得る。

前置きしておくが、あくまで筆者個人の見解である。
ゴッホは上述の『テオの給与面での不満』について頭を抱えていた。「もうテオは独身貴族ではない。妻や子どももいる身だ。今までどおり仕送りなど到底不可能だろう」と。
さらに「僕の絵は売れるどころか、絵の具や画布でお金ばっかりかかっている。もはやこれ以上続けていくことはできない」
テオへの手紙に興味深い記述がある。『ミレーは死んでから作品が高騰した』
ゴッホも感じたかもしれない。「もしかしたら僕も死んでから作品が売れるのかも…」と。
そして件の7月27日決心したゴッホは引き鉄を引いた。  
ゴッホの死後の作品評価
ゴッホの絵と聞けば何億円、いや何十億円と想像するだろう。現代では間違いなく巨匠の一人となったゴッホであったが生前に売れた絵はたった一枚であった。(生前に唯一売れた作品参照)
ゴッホが自殺して以降ほとんどの作品は弟テオの元に残された。そのテオも半年後に病死(ゴッホの唯一の理解者 弟テオ参照)し、作品はテオの妻ヨハンナ(通称ヨー)が管理することとなった。
しかし、そのたった数十年後1枚数百万円の値がつくようになる。
その裏にはヨーやゴッホの友人の尽力があった。
1891年〜1900年
自殺したのは1890年7月末であるが、生前はまったく見向きをされなかったわけではない。先述したとおり1890年にパリで開かれたアンデパンダン展で1枚売れており、さらに1889年度のアンデパンダン展の出品作品はフランスの絵画評論家アルベール・オーリエや印象派の巨匠モネに高く称賛されている。
ちなみにゴッホは1889年度のアンデパンダン展に右絵の「アイリス(イチハツ)」を出品している。アイリスとは和名アヤメのこと。
テオを亡くしたヨハンナは金銭的な状況からフランスを去り故郷のオランダに戻らざるをえなかった。しかしゴッホの友人の中でもっとも手紙のやり取りをしていたエミール・ベルナール(ゴッホがパリで知り合った画家参照)が1893年に芸術作品広報誌メルキュール・ド・フランスに書簡を公表した。ゴッホ独自の色彩理論や作品に対する想いなどが公表されたことで『孤高の画家の自殺』として徐々に大衆に広まっていったのである。しかし、まだまだ取引価格は低くヨーは生活のために1点200〜300フラン(約5万円〜8万円程度)で売却していた。
1901年〜1910年
20世紀に入るとパリの芸術運動はますます盛んになり(アール・ヌーヴォー)、美術界は大きな活況となった。それが後押しとなり各地で展覧会が開かれ、ゴッホ作品もエミール・シェフネッケルら友人たちの尽力によって回顧展を数度開催した。アール・ヌーヴォーの影響で世界各国から若手画家たちが集結(エコール・ド・パリ)し、この回顧展を訪れたフォーヴィズムのアンリ・マティスやモーリス・ド・ヴラマンクが大きな影響を受けたといわれている。
さらにベルナールやヨハンナが相次いでゴッホの書簡集を発表・出版し、またたくまにそれが拡がった。価格も徐々に高騰し1点約1万フラン(約300万円)まで高騰した。
1911年〜1930年
作品が高騰するにつれ、いずれ相続する息子には莫大な相続税がかかることからオランダ国家に寄贈することとなった。これがゴッホ美術館の原型となる。また書簡集を基にアルルやオーヴェルで取材を行うゴッホ研究家たちが現れ、ゴッホの人生を『孤高の天才画家』『情熱の画家』として神格化したのもこの頃である。
1931年以降
小説家アーヴィング・ストーンが「炎の人ゴッホ」の伝記を発表。全米でゴッホの名が知られ世界中に広まった。1955年には「炎の人ゴッホ」が映画化されトップセラーになる。主演カーク・ダグラス演じるゴッホがカラスが飛ぶ麦畑の中で作品を描きあげた後、ピストル自殺するシーンはあまりにも有名である。
市場価格もモネやルノワールを凌駕するほどに高騰する。そして1987年に「ひまわり」、そして1990年に「ガシェ医師の肖像」を約124億円の当時の歴代最高落札額で日本人が落札したことで日本でもますますゴッホ人気は高まった、  

 

●ゴッホの「ひまわり」
●『ひまわり』を制作するまでの構想は?
テオ宛への書簡の『ひまわり』の初出は8月初旬の第五二六信である。
「僕は今、マルセイユ人がブイヤベースを食べる時と同じ熱心さで仕事をしている。僕が描いているのは大きな『ひまわり』だとしても、君は別に驚かないだろうね。今、三枚の画布に取り掛かっている。一枚目は「緑の花瓶にさした三輪のひまわり」の十五号サイズ、二枚目は「濃紺の背景に種子のあるのと葉を取ったのと、つぼみの三輪のひまわり」で二十五号サイズ、三枚目は「黄色の花瓶にさした十二輪のひまわりとつぼみ」で三号サイズだ。三枚目のものは明るい色が明るい色に重なっており、これを一番良いものにしたい。もっと描きこんでいくつもりだ。」
とあり、続いて
「ゴーギャンが僕のアトリエで一緒に暮らすことを期待して、部屋の装飾をつくりたい。それも大きな『ひまわり』ばかりで。(中略)この計画を実行すれば全体が青と黄で一つのシンフォニーになるだろう。」
とある。最初はゴーギャンのために装飾画として右の『三輪のひまわり』と『五輪のひまわり』2点と、上のノイエ・ピナコテーク蔵の『ひまわり』を考えていたのがわかる。さらに数日後の第五二七信の手紙で
「僕は今、四枚目の『ひまわり』を描いている。この四枚目のものは、十四本の花の束で背景は黄色、昔描いたレモンの色と同じような色だ。」
と書いている。これはナショナルギャラリー蔵の『ひまわり』で、一枚目と角度を180度変えて制作しているのがわかる。一枚目が十二輪であるからつぼみが咲いたのだろうか。ゴーギャンに見せるために4枚の『ひまわり』を描いたのである。
耳切り事件後の『ひまわり』制作
ゴーギャンの装飾画のために『ひまわり』を飾ろうと計画したゴッホで、計画通りゴーギャンに見せたものと思われる。ではなぜ、ゴーギャンとの共同生活が破綻になった耳切り事件(1888年12月23日)後、の数週間後に『ひまわり』3点(上の5点の右3点)を描いたのだろうか?1889年1月はゴッホの発作がひどい時であまりテオへの手紙が書かれていない。1月23日付の手紙で『ゴーギャンは「ひまわり」を欲しがっている。この2点のうちどちらかを書いてあげよう』とある。
そして、その手紙に最後には『ジャナンには「芍薬」、コストには「立葵」、そして僕にはちょっとした「ひまわり」があるのだ』とある。ゴッホ自身『ひまわり』は自信作、代表作であった。少しでも自分の絵を売ろうと模写したのかもしれない。  

 

●ゴッホのひまわり
ゴッホのプロフィール
本名: フィンセント・ファン・ゴッホ
誕生日: 1853年3月30日
出身: オランダ
死没: 1890年7月29日(37歳)
身長: 170cm
作風: ポスト印象派(後期印象派)
オランダのズンデルトという街で生まれたゴッホは、聖職者になることを目指して、1877年に、神学部へ進もうと勉強を始めます。しかし、受験勉強にあっさり挫折してしまいました。画家になろうと決めたのは、1878年以降だと言われています。その後、住む土地をオランダ内で変えたり、ベルギーへと移したり、転々とします。ベルギーでは、ゴッホの実の弟であるアントウェルペンの援助を受けて、画家としての活動を続けました。その後、フランスへと移り住み、ここで”ひまわり”を完成させます。そして、画家の協同組合を作ることを夢見たゴッホは、1888年に、画家のポール・ゴーギャンと共同生活を始めます。しかし、2人の生活はすぐに行き詰まます。そしてゴッホは、なんと”自分の耳を切ります”。これはのちに、ゴッホの”耳切り事件”として語り継がれます。その後体を悪くしたゴッホは病院の入退院を繰り返します。療養中も絵を描き続けたゴッホですが、7月27日に、自ら拳銃で自分を撃ち、自殺をしてしまいます。自分の耳を切ったり、最後は拳銃で自分を撃ったり、なんかもうめちゃくちゃな人ですね。このようなゴッホの生涯が影響して、良い芸術家はイかれた人生を送るものだというイメージが定着してしまったと言われています。
ゴッホの7枚のひまわり
ゴッホのひまわりは、コナンの映画にもなったので、知っている方はかなり多いと思います。誰がみても、ひまわりだと分かる絵ですね。この中で私が特に好きなひまわりは、こちらです。このひまわりは、見ての通り枯れかけです。しかし、どこか美しく、ひまわりの底知れない生命力を強く感じます。咲いている姿だけでなく、枯れて行く姿のにも魅力を感じ、その魅力を最大限に引き出された絵だと思います。それくらい、美しいものに関してピカソの感性が鋭かったのかなと思います。冒頭部分で、ひまわりは7枚だけではないと申し上げました。ついでなので、他のひまわりも、ご紹介させていただきます。
ピカソのひまわりは7枚以上存在した
ピカソのひまわりは、全部で11点あります。そして、ピカソのひまわりが7枚と言われているのは、花瓶に入ったひまわりが7枚であるからです。思えば、先ほどの7枚は全て花瓶に入ったひまわりでしたよね。花瓶に入っていないひまわりも含めると、ひまわりは11点存在するんです。7枚以外のひまわりは、、、こんな感じです。個人的には、花瓶に入っていないひまわりの方が好きです。花瓶に入ったひまわりの中で一番好きなひまわりが枯れているひまわりな理由と同じで、枯れているのに美しいというギャップもそうですが、より繊細にひまわりが描かれている所にとても惹かれます。ゴッホは、ひまわりをよく見て、理解し、正確に描くという技術が、本当に優れているなと感じます。
ゴッホのひまわりはどうして評価されているのか
ゴッホのひまわりがこんなにも世界中で評価されている理由は、一体なんなのでしょうか。私が、ゴッホの絵がすごいと思う点は、”気迫”を感じられる点です。ただひまわりという花を書いているだけなのに、そこにゴッホの生き様や絵に対する情熱や想いを感じざるをえないのです。おそらく、ゴッホの想いというものは、筆使いや色使いから感じられるのでしょう。ゴッホの絵は、ゴッホの想いがひしひしと見るものの心に伝わってくる点を、評価されていることは、間違い無いと思います。しかし、こんなにも世界中に評価されている理由は、他にもあると思います。ゴッホの絵が評価されている理由は、ゴッホの生涯と関係があると思います。ゴッホは、自分の耳を切り落とし、最後には拳銃で自殺しました。これほどクレイジーな人は、過去の芸術史をさかのぼってもそうそういるものではありません。ゴッホは、死後評価が跳ね上がった画家として有名です。これは、ゴッホという人間の、画家としての生き様を評価されたからだと思います。ひまわりだけでなく、ゴッホの絵が世界中から評価を得ているのは、絵の上手さ、絵にこもったゴッホの魂が見る人を魅了することだけでなく、ゴッホの生涯が、まさに芸術に捧げられたものだったからでしょう。  

 

●ひまわり
ひまわり(12本)
《ひまわり(12本)》は、画家のフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された作品。制作年は1888年から1888年で、ノイエ・ピナコテークに所蔵されている。
ゴッホは、1887年にパリで住んでいる時代にひまわりをモチーフに油彩制作を始めている。パリ時代に制作した幾つかの「ひまわり」は、枯れた大輪のひまわりの花の部分が地面に横たわっている構成になっている。ひまわりをモチーフにした作品は、その後アルルに移ってから構成を変えて続けられた。
アルル時代、3番目のひまわり
92センチ×72センチの「12本のひまわり」は1888年に制作され数多くのアルル時代の「ひまわり」の中、三番目に描かれたものである。アルル時代の「ひまわり」は花瓶に活けられた構成になっており、3本、5本、12本、15本と作品により花の本数が変わっている。花瓶に活けられたひまわりは枯れかけたものもあれば、まだ花が開き切っていないものもあり、熟し切っていない時から朽ちてしまうまでのひまわりの一生が描かれている。
ゴーギャンとの関係
ゴッホは一連の作品を制作するにあたり、パリ時代の「ひまわり」を二枚購入した友人の画家ポール・ゴーギャンを意識していた。ゴーギャンがゴッホのアルルの家を訪問ししばらく滞在する予定になっており、新たに制作した「ひまわり」をゴッホは友人が宿泊する客室の装飾に考えていた。アルル時代の「ひまわり」はどれも、新たに発明された顔料によりかつてなかった色彩で表現することが可能になったこともあり、黄色が様々な味わいを出していることで革新的な作品と言われている。
本作は、一連のひまわりの中でも特にゴッホが好んでいたと言われており、のちの《ひまわり(14本)》にも影響を与えている。
ひまわり(15本)
《ひまわり(15本)》は、画家のフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された作品。制作年は1888年から1888年で、ロンドン・ナショナルギャラリーに所蔵されている。
ひまわりの中の最高傑作
ゴッホはいくつか「ひまわり」を描いてきたが、いくつかは焼失したとされている。本作品はその中でも最高傑作と言われている。ゴッホ自身も好んでいた《ひまわり(12本)》をもとに制作したとされる。背景も含めて全体的に鮮やかな黄色で描かれており、それはゴッホが誘った画家達と共同生活をする為にアルルで借りた「黄色の家」を表しているという。また画中のひまわりの数は、ゴッホがアルルの家に呼ぶ予定だった画家の人数とゴーギャン、弟のテオドルスを表していると言われている。ゴッホはアルルで多くの画家達と画業に専念し、その中で生まれた画家達の作品をテオドルスが販売するというスタイルを取りたかったのかもしれない。
彫刻のような立体感
作品は全体的に絵具で厚く塗り重ねられており、そうすることでひまわりの強い生命力とたくましいボリューム感が表現され、まるで彫刻のような立体感が出ている。ゴッホは生き急ぐかのように2日1?2枚のペースで作品を描き続けてきた。そんな魂のこもった作品で注目すべき点としては作品の中心部分であり、限界を超えて身を滅ぼそうとせんばかりのひまわりの中に、左側には力尽きて枯れたひまわりが描かれている。
大量のアルコールとカフェイン
ゴッホはこのひまわりに関して、「このひまわりの黄色を再現するには、大量のアルコールとカフェインで極限にまで感性を高める必要がある」と述べている。また本作をはじめとした美しい黄色は、19世紀に製造された顔料の革新が生み出した。技術的進歩によってクロム・イエローのような新しい色が生まれたことで、ゴッホの本作品は、より生き生きとした魅力を獲得した。
ひまわり(14本) Tournesols (quatorze) 1888年
92×72.5cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー
後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホのおそらくは最も代表的な作品のひとつであろう『ひまわり(14本)』。本作は日本の浮世絵から強い影響を受け、同国を光に溢れた国だと想像し、そこへ赴くことを願ったゴッホが、ゴーギャンを始めとする同時代の画家達を誘い向かった、日差しの強い南仏の町アルルで描かれた作品で、本作を始めとする≪ひまわり≫を題材とした作品は、このアルル滞在時に6点、パリ時代には5点描かれていることが記録として残っている。画家の人生の中でも特に重要な時代であるアルル滞在時に手がけられた作品の中でも、最も傑出した作品のひとつでもある。本作の観る者の印象に強く残る鮮やかな黄色の使用については、ゴッホが誘った画家達と共同生活をするために南仏の町アルルで借りた、通称「黄色い家」を表し、そこに描かれるひまわりは、住むはずであった画家仲間たちを暗示したもであると指摘する研究者もいる。また、ひまわりの強い生命力と逞しいボリューム感を表現するために絵具を厚く塗り重ね描かれたが、それは同時に作品中に彫刻のような立体感を生み出すことにもなった。なおゴッホは1889年の1月に本作のヴァリエーションとなる作品を始めとして3点のレプリカ(フィラデルフィア美術館所蔵版、ファン・ゴッホ美術館所蔵版、損保ジャパン東郷青児美術館所蔵版)を描いているが、その意図や解釈については研究者の間で現在も議論されている。
【印象的な黄色の配色】 黄色い家の部屋を飾るためにゴッホが描いたひまわりの絵。本作の最も印象的にさせる黄色の使用について、ゴッホが誘った画家達と共同生活をするために南仏の町アルルで借りた、通称「黄色い家」を表し、そこに描かれるひまわりは住むはずであった共同体の仲間を暗示したものだとされている。
【大きな特徴でもある厚塗りの技法】 ゴッホが駆使した技法の大きな特徴でもある厚塗りの技法。ひまわりの強い生命力と逞しいボリューム感を表現するために絵具を厚く塗り重ね描かれたが、それは同時に作品中に彫刻のような立体感を生み出すことにもなった。
【青色で記された画家のサイン】 黄色の花瓶とは対照的な青色で記されたゴッホのサイン。ゴッホは1889年の1月に本作のヴァリエーションとなる作品を始めとして数点のレプリカを描いているが、その意味や解釈については、研究者の間で現在も議論されている。
ひまわり(5本) Tournesols (cinq) 1888年
98×69cm | 油彩・画布 | 山本顧弥太氏旧蔵(現在は焼失)
後期印象派の偉大なる画家フィンセント・ファン・ゴッホの、現在は失われてしまった代表作『ひまわり、5本』。かつて神戸の芦屋で貿易商を営んでいた実業家山本顧弥太氏が所蔵していたものの、第二次大戦の戦火で焼失してしまうという悲劇に見舞われた本作は、フィンセント・ファン・ゴッホが強烈な陽光に憧れ、強い希望を抱いて訪れた南仏アルルで制作された6点のひまわりを画題とした作品の中の一点である。アルル時代の『ひまわり』では、ロンドン・ナショナル・ギャラリーなどが所蔵する『ひまわり、14本』のような、ゴッホが誘った画家達と共同生活をするために南仏の町アルルで借りた、通称「黄色い家」を暗示する黄色の背景のものが最も知られているが、本作では描かれる向日葵の黄色や橙色と補色関係にある深い藍色が背景色に用いられており、向日葵の数から考察しても、現在米国の個人が所有する『ひまわり、3本』と共に本作はやや特異な存在であり、『ひまわり、14本』の構成に至る過程段階の作とも、明確な色彩対比による視覚的効果を目指したとも推測されている。しかし本作が他の作品らと決定的に異なっている点は、花瓶の足元二輪の向日葵の頭が配されている点である。本画題≪ひまわり(向日葵、ヒマワリ)≫は、南仏アルルに向かう前に滞在したパリでも5点制作されるなど画家にとって最も魅力的な画題のひとつであったが、アルル時代のひまわりには画家の抱いていた南仏アルルでの制作活動や生活に対する希望など(ある種の自画像的な)心理的内面がより明確に表れており、その意味では本作のやや陰鬱にすら感じられる(パリ時代に制作された向日葵に近い)色彩表現は特に注目に値する。また向日葵や花瓶の形体描写においてもアルル時代の『ひまわり』の中では最も単純化、そして平面化されており、クロワゾニスム(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写)を思わせる太く力強い輪郭線と共に、本作の解釈・考察する上で重要視されている。
【向日葵の強烈な橙色の色彩】 向日葵の強烈な橙色の色彩と絵の具の質感を感じさせる筆触。かつて神戸の芦屋で貿易商を営んでいた実業家山本顧弥太氏が所蔵していたものの、第二次大戦の戦火で焼失してしまうという悲劇に見舞われた本作は、フィンセント・ファン・ゴッホが強烈な陽光に憧れ、強い希望を抱いて訪れた南仏アルルで制作された6点のひまわりを画題とした作品の中の一点である。
【単純化された輪郭線による形体表現】 単純化された明確な輪郭線による形体表現。向日葵や花瓶の形体描写においてもアルル時代の『ひまわり』の中では最も単純化、そして平面化されており、クロワゾニスムを思わせる太く力強い輪郭線と共に、本作の解釈・考察する上で重要視される。
【花と補色関係にある深い藍色の背景色】 向日葵の黄色や橙色と補色関係にある深い藍色の背景色。アルル時代のひまわりには画家の抱いていた南仏アルルでの制作活動や生活に対する希望など(ある種の自画像的な)心理的内面がより明確に表れており、その意味では本作のやや陰鬱にすら感じられる(パリ時代に制作された向日葵に近い)色彩表現は特に注目に値する。  

 

●日本にあった幻の「ひまわり」
ゴッホの傑作「ひまわり」。日本でもバブル時代に購入された「ひまわり」を、損保ジャパン東郷青児美術館で見ることができます。 「ひまわり」は、全部で7点描かれていて、現存するのは6点。残りの失われた1点は、大正時代、日本人が購入した作品です。ここではこの幻の「ひまわり」についてご紹介します。
ゴッホの作品を守った義妹ヨハンナ
ゴッホは生存中、売れない画家として不遇のままこの世を去ります。ゴッホの死後、弟のテオは、相続したゴッホのほぼ全ての作品を不要なものだとして廃棄しようとしたのですが、妻ヨハンナがそれを阻止します。そして、後を追うようにテオも亡くなると、若き未亡人となった妻ヨハンナが、ゴッホの作品を相続。当時はまったく価値のなった作品を、彼女は兄弟の書簡集を発刊したり、回顧展を開催することによって、ゴッホの知名度の向上に成功します。残されたテオとの1人息子のために、奔放した才女ヨハンナのおかげで、ゴッホの絵は世界で最も人気のある絵画として評価が確立したのです。もし彼女の存在がなければ、ゴッホの作品はすべて幻になっていたところです。
アルル時代に製作した7点の「ひまわり」
ゴッホの作品の中でも、特に人気のあるのが「花瓶にさされたひまわりの花をモチーフとした油彩の絵画」である「ひまわり」。ひまわりの花の本数はそれぞれ異なりますが、南仏のアルルに滞在している時期、全部で7点制作されました。
印象派絵画の市場を激変させた日本マネー
1987年に安田保険海上火災が、53,900,000ドル、当時のレートで58億円という記録的な価格で「ひまわり」を購入し、世界中の話題となりました。5番目に作成されたとされるこの作品は、全体が黄色の濃淡で花瓶にさされた15本のひまわりが描かれています。
大正時代にすでに来日していた「ひまわり」
バブル時代を象徴する絵画の超高額取引をめぐって、日本中で話題になりましたが、実はすでに大正時代に「ひまわり」を購入していた日本人がいました。1888年ごろ2番目に描かれた作品は、ロイヤルブルーを背景に5本のひまわりが描かれていて、他の作品とは違う特徴的な「ひまわり」です。1919年に関西の実業家山本顧彌太氏が、7万フラン、当時のレートで2億円で日本へ運んできました。明治時代の末ころから、日本でも武者小路実篤らの白樺派が西洋美術を紹介し、美術館の設立を目指していました。そこで白樺派を支援していた山本氏が購入したのですが、結局美術館は実現しませんでした。
戦争で「ひまわり」が灰に…
第二次世界大戦中、山本氏は「ひまわり」を大阪の銀行へ預けようとしましたが、湿度などで作品が劣化するという理由で拒否されます。結局、山本氏の芦屋の自宅にあった「ひまわり」は、広島原爆の同日に芦屋の大空襲によって灰と消えてしまいました。
原寸大の陶板の姿で再現
実は、この幻の芦屋の「ひまわりは」、現在、徳島県の大塚美術館で見ることができます。世界中の名画を陶板に焼き付けて再現している同美術館が、失われた名画を再現させることに成功したのです。  

 

●「ひまわり」 激情の画家が“太陽の花”に求めたもの
ポスト印象派を代表する巨匠、フィンセント・ファン・ゴッホ。画業に全精力を注ぎ、数々の名作を手掛けながらも精神を病み、自ら耳をそぎ落としたうえに命まで断った激情の画家としても知られる彼の代表作は? 間違いなく、「ひまわり」の名を挙げる方が大半を占めることになるだろう。ゴッホといえばひまわり――。そんなイメージが強いことから、彼は“向日葵の画家”と呼ばれることもある。ゴッホは約10年間の短い画家生活のなかで、ひまわりをモチーフにした作品を11点制作した(12点という説もある)。ゴッホにとってのひまわりは、自らを映す鏡のようなものであり、夢や希望の象徴だった。精神的に不安定だったゴッホは、心の空洞を埋めるために、好んでひまわりの絵を描いたといわれている。11点の作品のうち、テーブルの上に置かれたひまわりを描いた4点はパリ時代に制作されたもので、一般的な知名度はそれほど高くない。いわゆる“ゴッホのひまわり”として認知されているのは、パリでの生活に疲れ、1888年2月に南仏のアルルに移り住んだのちに描いた7点(1点は第二次世界大戦中に日本で焼失。現存するのは6点)。これらはすべて、花瓶に活けられたひまわりが主役となっている。
7点すべてが「花瓶に活けられた花」
7点の「ひまわり」は、花瓶に活けられた花の輪数や背景の色など、それぞれが独自の趣をたたえているが、“テーブルの上に置かれた花瓶と、そこから顔をのぞかせるひまわりの花”を画面中央に配す構図はほとんど同じ。とりわけ後半に制作された5点は、全体像が非常に似通っている。ゴッホはいったいなぜ、似たような構図の「ひまわり」を連続して手掛けたのか?本人がその理由について語った記録はないため、真相は謎に包まれているが、ゴッホの特異な性格や、物心両面で彼を支えていた弟テオに宛てた手紙の文面などから、おおよそのいきさつを推測することはできる。理由の1つとして濃厚なのは、絵画技法の研究のため。色づかいやタッチを微妙に変えつつ、同じ構図の絵を描くことにより、効果や見栄えを比較していたことは想像に難くない。現代風に端的に表現すれば、ひまわりにハマり、ひまわりを究めることに心血を注ぐと同時に、絵描きとしてのウデを上げようとしていたということだ。また、この当時に「クロムイエロー」という新色の絵の具が開発され、その使い勝手を試すためにひまわりをモチーフにした黄色を基調とする作品に一時的にこだわっていた、という説もある。
ゴーギャン到着後もひまわりに固執
もう1つ確実視されているのは、のちにアルルのアトリエ(通称:黄色い家)に一緒に住み、共同制作をすることになるポール・ゴーギャンを迎え入れる部屋を装飾するため。ゴーギャンにラブコールを送り続けていたゴッホが、部屋全体をひまわりの絵で埋め尽くすことを計画していた事実は、テオ宛ての手紙に記されている。ひまわりは夏の花。ゴーギャンが到着する10月までに完成したのは4点にとどまり、ひまわりが咲くシーズンはとうに過ぎてしまったが、結果的に自らの作品に納得したゴッホは、それ以降もひまわりの絵を描き続けた。現物のひまわりを見られない時期にはお気に入りの一枚を模写したため、ほぼ同じ構図の作品が存在するのである。その生涯はわずか37年。画家として本格的に活動したのは後半の10年のみ。にもかかわらず、ゴッホは人種、性別、年齢を問わず、多くの人々の心を打つ名作をあまた世に送り出した。この数奇な運命に翻弄された不世出の天才が残した足跡は、TJ MOOK『もっと知りたい ゴッホの世界』でたどることができる。8月26日(土)から翌年3月4日(日)にかけては、札幌、東京、京都にて「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」が開催。ゴッホの燃える魂に触れることのできる、絶好の機会といえよう。  

 

●ゴッホと浮世絵  
●ゴッホは浮世絵から何を学んだか
ゴッホがなぜパリから南仏のアルルに行ったかは長い間謎になっていましたが、今回の美術展の解釈は説得力ありました。
今回のゴッホ展では、浮世絵がゴッホに与えた影響がいかに大きかったか、というストーリーで、浮世絵とゴッホの作品を並べて展示していました。確かにゴッホは浮世絵の構図やオブジェを度々活用し、幕末浮世絵のどきつい色彩を作品に導入したりしているのが見られました。しかし、ゴッホの絵は浮世絵によって画期的に変わったとは思えませんでした。模写作品を見ても、やはりそれはあくまで厚塗りの絵の具をこってりと描いたゴッホの作品そのものであり、繊細な線間美しさ生命とする広重など浮世絵全盛期の作品とは、似ても似つかぬもものだと思います、浮世絵の日本美術としての魅力である「繊細な美意識」は、ゴッホの作品に最後まで見ることはありませんでした。ゴッホも含め大部分の西洋人にとっては、幕末の退廃した雰囲気で、でぎらぎらした色彩感の溪斎英泉の浮世絵が。それとはまったくかけ離れた浮世絵全盛期の春信、清長、頭路の浮世絵とは全く別物だとは感じなかったように思われます。
日本絵画からの明確な影響の結果と言えるのは、最後の方に展示されていたゴッホが、花瓶や植木鉢に入った「静物画」から、道端やのに咲く花や植物を描き、小さな花や草を主題として描き出していることです。これは今までの西洋買いが出は類のないことだと考えられます。その姿勢は、大きな花を咲かせる『向日葵』の連作から、晩年の傑作『アイリス』を生む府警となっていると考えられます。
マルセル・プルーストは、冷静で客観的な眼で日本の美術の一番大きな本質を「繊細な美意識」ととらえていました。西洋の画家は日本画の様々な技法を学び自らの作品の中で発展させましたが、例えば歌麿美術の大切な要素である顔の表現を美しい繊細な線で表現することは、作品に取り入れた作品は生まれず、北斎の富嶽三十六景色に匹敵する「繊細な美意識」を追求した風景画は生まれませんでした。西洋人によりヨーロッパ化されたジャポニスムで画家たちは日本美術の自らの芸術に都合の良いところだけを吸収して、自らの芸術は発展させていったところで、日本美術から離れていきました。
しかし。ゴッホは他の西洋人画家と違って、日本美術に対し、深い思いがあったようです。 テオ宛の書簡に、「日本の芸術について勉強していると、疑いもなく賢者にして哲学者という知的な人間に出会う。(中略)彼は一本の草の芽を研究しているのだ。」として、「賢者にして哲学者という知的な」人物に、ゴッホは「北斎」を重ねています。実際に北斎が哲学者であったかは別として、北斎は、僅かな情報を鋭く摑みとり、そこから絵画の可能性を切り拓き考え出そうとする直観を持っていました。
ゴッホが北斎についてここまで書いているのは、初めて北斎の浮世絵を眼にした時、最果ての国・日本にこんなすごい芸術家がいて、従来の西洋絵画と全く異なる完成度の高い絵を描いていることを知って鮮烈な衝撃受けました。一方で、日本の仏教的思想から、自らが自然の一部であるという視点で絵を描く「無限」の境地で花鳥画を描く北斎のイメージに共感し、ゴッホも初心に帰って、自らの芸術をリセットすることを考えたのではないでしょうか。
これは無形のものかもしれませんが、晩年のゴッホが『夜のカフェテラス』『星月夜』『糸杉と星の見える道』『オーヴェールの教会』など比類ない傑作を残した原動力となったと考えるのは無理があるでしょうか。  

 

●ゴッホと浮世絵 名作を生んだその影響
ゴッホは、日本の浮世絵から影響を受けた画家として有名です。でも一体、なぜ浮世絵に惹かれたのでしょうか?浮世絵をどのように、自分の作品に生かしたのでしょうか?そのヒントとなるのが、「くっきりとした輪郭・平坦に塗られた色・大胆な構図」の3つです。ゴッホの名作をより愉しむために、ゴッホと浮世絵の関係をまとめました。
ゴッホと浮世絵の出会い
ゴッホは1886年、故郷のオランダを離れ、パリへと出てきました。
1886年といえば、エッフェル塔が完成する3年前のこと。当時のパリではジャポニスムが花開き、日本趣味が流行していました。
ゴッホは、日本から大量の浮世絵を持ち帰った画商ビングの店で、浮世絵と出会います。ゴッホにとって初めてみる浮世絵には、自由が溢れていました。
当時の西洋絵画では考えられない大胆な構図、明るい色彩、影のない風景……すべてに衝撃を受けたゴッホは、浮世絵に心底惚れ込んだのです。
浮世絵を知ったゴッホは……
浮世絵を知ったゴッホは、情熱と研究意欲を浮世絵に注ぎました。精力的に浮世絵を集め、模写するようになります。
(1)およそ600枚もの浮世絵を収集
浮世絵に惹かれたゴッホは、浮世絵を集め始めました。浮世絵のコレクターとなり、パリのカフェ「ル・タンブラン」で浮世絵展も開催します。
作品が売れず、弟テオに経済的にも精神的にも頼っていた頃です。当時はまだ安価だったとは言え、ゴッホにとって大きな出費です。にも関わらず、集めた数はおよそ600点とも言われています。
その膨大な数から、ゴッホの並々ならぬ知的好奇心と探求心が伝わってきます。そして弟テオの理解にも頭が下がります。
(2)浮世絵を模写
ゴッホは浮世絵を集めただけではありません。より深く学び、浮世絵のエッセンスを吸収しようと、浮世絵を模写しました。ゴッホがパリ時代に描いた模写作品が、現在も3点残っています。
   浮世絵の模写(1)《ジャポネズリー おいらん》
あでやかな色彩が印象的な作品です。渓斎英泉(けいさいえいせん)の《雲龍打掛の花魁》を掲載した『パリ・イリュストレ』誌(1886年5月号)の表紙を模写しました。ゴッホらしい鮮やかな色彩で描かれ、花魁の周囲には竹林や蓮などが描かれています。ただ模写しただけではなく、日本の風土や文化についても詳しく調べていたことが分かる一枚です。
   浮世絵の模写(2)《ジャポネズリー 雨の橋》
いかにも浮世絵らしい一枚です。歌川広重の《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》を模写しました。当時の西洋では、雨は描くものではありませんでした。雨を線で描く手法に、ゴッホをはじめとした当時の画家は驚いたと言われています。
   浮世絵の模写(3)《ジャポネズリー 梅の開花》
浮世絵らしい力強さがみなぎる作品です。歌川広重の《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》を模写しました。画面手前に大胆な幹を配する構図は、ゴッホにとって衝撃的でした。その見事な幹の存在感によって絵に奥行きが生まれ、印象的な一場面が描かれています。こうして浮世絵を模写することで、浮世絵の素晴らしさを自身の作品にどんどん取り入れていったのです。
ゴッホ作品に見る浮世絵の影響は?
ゴッホは積極的に、浮世絵の技法を学びました。そして西洋絵画の技法と融合させながら、自分の作品へと昇華させたのです。ゴッホ作品への浮世絵の影響を見てみましょう。
(1)浮世絵のモチーフを作品に散りばめる
ゴッホは、浮世絵のモチーフを散りばめた作品を描きました。有名な作品の一つが《タンギー爺さん》です。
タンギー爺さんは、ゴッホがお世話になった画材屋の主人です。背景の壁を見れば、浮世絵がたくさん貼られています。
当時の肖像画は、人を際立たせることを重視していました。ところがこの絵は、タンギー爺さんが主役なのか、背景が主役なのか……分からないほど華やかです。
歌川広重の風景画をはじめ、日本の美を色濃く盛り込んで、理想の美しい世界観を描いたのですね。
(2)浮世絵の手法を取り込む
ゴッホは、浮世絵ならではの手法を作品にうまく取り込みました。主な手法を紹介します。
   浮世絵の手法(1)輪郭線をくっきり描き込む
くっきりとした輪郭線は、ゴッホ作品には欠かせない手法です。たとえばゴッホの代表作《ひまわり》も、輪郭線が重要な役目を果たしています。もし輪郭線がなかったら、この絵はどう変わるでしょうか?恐らくぼんやりとした印象の絵になってしまうことでしょう。ところが実際には、ひまわりや花瓶のボリューム感ある黄色を、太くはっきりとした輪郭線が引き締めています。そのために黄色の存在感が際立つ名作に仕上がっています。
   浮世絵の手法(2)色を平坦に塗り込む
ゴッホは浮世絵から、彩色方法についても学びました。西洋絵画の常識といえば、陰影をつけること。ところがゴッホは一切の影を消し、鮮やかな色彩を塗り込むようになったのです。この絵には、まばゆい黄色や緑色など、鮮やかな色彩が平坦に塗られています。影は見当たりません。そのおかげで明るい印象に仕上がっています。さらに、美しい色彩のコントラストが生きた絵に仕上がっているのも魅力です。
   浮世絵の手法(3)大胆な構図
ゴッホは浮世絵から、大胆な構図も学びました。そして当時西洋で絶対視されていた遠近法を守ることをやめたのです。たとえば、ゴッホの代表作である《ファン・ゴッホの寝室》。とても分かりやすい例です。この作品でゴッホは、椅子をそれぞれ好きな大きさで描いています。ベッドの枠木も大きいですよね?黄色を広く塗りたかったのでしょう。ゴッホにとって大事なことは、正確さではありませんでした。「表現したい!」そんな気持ちを大事にしていました。だから強調したいもの、本当に描きたいものを、大きく、目立つように描いたのです。そのおかげで、一度見たら忘れられない印象的な一枚になっているのですね。
まとめ
ゴッホは浮世絵を知り、惚れ込みました。乏しい資金の中から浮世絵を買い集め、模写しました。浮世絵に大きな可能性を見出していたのでしょう。
もしも、ゴッホと浮世絵が出会わなかったら?もしも、弟テオが浮世絵の購入に反対していたら?私たちはゴッホの名作に出会えていなかったかもしれません。多くの偶然と必然に感謝せずにはいられません。  

 

●日本の浮世絵に影響を受けた海外芸術家
浮世絵と西洋画の技法を融合したゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年〜1890年)は、オランダ出身のポスト印象派画家です。
「タンギー爺さん」という画の背景を浮世絵で埋め尽くすほか、歌川広重の画を油絵で模写するなど積極的に浮世絵の技法を学び、西洋絵画の技法と融合させながら自分の作品として昇華させていきます。
ゴッホ兄弟として約500点もの浮世絵を収集するだけではなく、浮世絵を広く、より深く知ろうとしたのがゴッホです。ゴッホは浮世絵から日本の文化、宗教観など様々なことを感じ取り理解しようと努めました。
フランスの浮世絵師と呼ばれたアンリ・リヴィエール
アンリ・リヴィエール(1864年〜1951年)はフランス出身のポスト印象派画家です。
「フランスの浮世絵師」と謳われることも多く、ジャポニズムに影響を受けた画家です。収集した浮世絵から独学で木版画の技術を学び、優しくも印象的な作品を多く残しています。
葛飾北斎の「富嶽三十六景」をオマージュした「エッフェル塔三十六景」を製作。
妻に着物を着せて描いたモネ
クロード・モネ(1840年〜1926年)はフランス出身の印象派を代表する画家です。
睡蓮などで有名なモネは自宅の庭に日本風の橋をかけるなどした日本通。
32歳の若さで亡くなったカミーユ夫人が扇子を手に赤い着物を着ている場面を描いた「ラ・ジャポネーズ」は2mを超える大作であり、ボストン美術館に収蔵されています。「ラ・ジャポネーズ」は見返り美人風の構図で、当時のヨーロッパで感じ捉えられていたオリエンタルな雰囲気が表現されています。
春画に衝撃を受け、裸婦を描いたマネ
エドゥアール・マネ(1832年〜1883年)フランス出身であり印象派の中心的画家の一人。
「草上の昼食」や「オランピア」といった裸婦を描いた作品の発表で物議を醸したマネ。
自身のアトリエで描いた「エミール・ゾラの肖像」には、背景の一部として浮世絵などが描かれ、ジャポニズムを代表する一枚です。マネ自身も多くの浮世絵や日本画作品をコレクションしています。
裸婦や娼婦を描いたことで世間から多くの批判を受けたマネですが、多くのコレクションの中で堂々と性行為のシーンが描かれた「春画」にもっとも衝撃を受けたともいわれています。
北斎の「冨嶽三十六景」に影響され作曲したドビュッシー
クロード・アシル・ドビュッシー(1862年〜1918年)は、フランスの特徴的な作曲技法を用いた作曲家です。
ドビュッシーの代表曲の一つである交響曲「海」は、葛飾北斎の「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」に影響を受けて作曲されています。初版の「海」の表紙には、本人の希望により「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」が採用されており、ドビュッシーの自室にも同じ北斎の絵が飾られていました。

いかがでしたでしょうか。絵画ならまだしも、音楽にまで影響を与えているなんて凄いですよね。コミカルかつ迫力のある歌川国芳の浮世絵や、繊細でどこか憂いを感じる歌川国貞の浮世絵の様に、昔から多くの人々を魅了してきた浮世絵。現在でも欧米では日本のアニメや漫画が人気ですが、100年以上前から日本文化は世界で愛されてきたようです。

 

●ゴッホ 日本芸術の影響
天才画家として知られるフィンセント・ファン・ゴッホは日本の浮世絵に大きな影響を受けたことが知られています。ゴッホは一度も日本を訪れたことがなく、うわべだけの知識しか持たなかったからこそ、日本を現実の国というよりも「ユートピア」として思い描くことができたとのこと。その影響は作品だけでなくゴッホの人生そのものにも見られるとして、オランダのゴッホ美術家でゴッホと日本のつながりに焦点を置いた「日本のインスピレーション」展が開催され、ゴッホがいかに日本びいきだったのかが解説されています。
牧師の家に生まれ、神学部の受験勉強を始めるも挫折したゴッホは1882年に画家を目指すことに決めました。ゴッホは弟のテオに頻繁に手紙を書いており、芸術活動に必要なお金の無心などもしていますが、その内容は理性的であり積極性が感じられるもので、ゴッホに対するステレオタイプである「精神を病んでいた」「狂気の画家」というイメージとは異なるものになっているとのこと。1885年に送られた手紙には「面白い日本の絵画を壁に貼ったから部屋がまあまあになった」とも記されることもあり、この頃から日本絵画への傾倒が読み取れます。その後、1886〜1887年頃からゴッホはテオとパリで暮らし始め、手紙のやりとりは少なくなりました。
イギリスやフランスでは日本の芸術や文化が一大ブームとなったのは、ゴッホたち印象派が生きた19世紀後半。当時のパリにはジャポニズムが氾濫し、ゴッホや画家仲間であるエドガー・ドガ、クロード・モネたたちも大きな影響を受けました。ゴッホの集めた日本絵画のコレクションは膨大な量になり、ゴッホは当時の恋人とともにカフェでコレクションを販売してお金にしようとしたほどでした。
ゴッホは自分の作品の中にも日本絵画のテーマや技術を取り入れていきます。たとえば、「雨の橋」は歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」と……「おいらん」は渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」と驚くほどに一致しています。
この2つの特徴は、元となった日本絵画を、ゴッホが「描いた」額の中に入れたということ。当時の日本の絵画では、画面の端に描かれているものが故意に断ち切られたり、細部がズームされていたり、重要なものが枠を超えて誇張されることがありました。このような日本絵画を学ぶうちにゴッホたち画家は「伝統的な手法で、与えられたキャンバスの中に描く必要はない」という考えに至ったとのこと。
また、高い位置にある広大で歪んだ水平線も、日本絵画から取り入れたもの。「花咲く桃の木」というゴッホの作品は、まるで空中に静止して風景を見ているような感覚になります。
「サント=マリーの海の風景」は葛飾北斎の「富嶽三十六景」にインスピレーションを受けて、平行線・対角線の実験を試みています。この絵画に描かれている水平線は、青空から重さを受けているようなねじれが伺えるのも特徴です。
1888年、テオに向けた手紙の中でゴッホは「私たちは日本絵画を愛していて、日本絵画に影響を受けて実験を繰り返している。それが印象派の共通点だ。私たちは日本に行かないが、それに等しいことといえば、南に行くことだろうか?私は新しいアートの未来が南にあると考えているんだ」と記しており、ゴッホのいたパリからみて日本が南にあることから、南フランスへの移住を示唆しています。その後、ゴッホは実際に南フランスにあるアルルへと移住し、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出しました。
ゴッホがアルルに求めていたのは東洋の版画の中の明るい光や陽気な色彩効果でした。南フランスでアート活動を行う中で、ゴッホの作風はますます日本絵画の持つフラットさや様式を身につけていきました。例えば、歌川広重は「五十三次名所図会・宮 熱田の駅 七里の渡口」の中で、真っ青の空の下、港に立つ人物と無造作に留められた船を描きましたが、人物の前には真っ赤な鳥居が置かれています。このように人物と人工物を同等に扱う空間認識も、ゴッホが日本絵画から取り入れた要素の1つです。
アルルでの生活についてゴッホは「私はここ、日本にいる」とテオへの手紙で記しています。かつて、ゴッホは日本人について「花のように、自然の中で暮らしている」と描写しており、手紙の中でゴッホが記した「日本」という言葉は比喩的に使われたものとみられています。そしてゴッホの絵画では、植物、雨、風、海といった自然がますます描かれるようになりました。
しかし一方で、アルルの近隣住民は未婚でふらふらしているオランダ人画家があちこちに出没することに戸惑い、当局にゴッホを通報することがあったとのこと。また、当初思い描いた「ゴーギャンやベルナールら画家仲間とアーティスト専用の居住地を作る」という計画も頓挫したことから、ゴッホは孤独を深め、精神を病んでいきます。
ゴッホはたびたび発作を起こすようになり、1888年には耳を切り落として娼婦に手渡すという事件が発生しました。しかし、包帯を巻いたゴッホの自画像でさえ、日本の版画をほうふつとさせる鮮やかな背景に描かれていました。
ゴッホが亡くなる数カ月には「花咲くアーモンドの木の枝」という絵画が描かれました。これは、精神病院で療養していたゴッホが、テオに子どもが生まれたことを祝して描いたもの。主題、はっきりした輪郭線、フレームの外側から伸びている枝など、「私の作品は全てどこかしら日本風だ」というゴッホの言葉どおり、いたるところから日本絵画の影響が見られる作品となっています。  

 

●ゴッホは日本の美をいかに使い倒したか
筆致や色彩の荒々しさにくわえて、癇癪を起こし自分の耳を切り取ってしまったエピソードなどが相まって、ゴッホといえば破滅型アーティストの代表と思われがち。けれど実際のところ、勢いと激情だけで美術史に名を残す画業を残せるはずもない。理性に裏打ちされた探究心と勤勉さがアーティストの大成には必須であって、ゴッホもそうした面は大いに兼ね備えていた。
流通しているイメージとは異なる「知的なゴッホ」を感じ取れる展覧会が開催中だ。東京都美術館(1月20日からは京都国立近代美術館へ巡回)での「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」。
浮世絵に倣って空間を歪める
ゴッホは一時期、日本美術に心酔する。故郷のオランダを離れパリへ出た1886年以降、90年に没するまでのことだ。盛んに浮世絵を模写したり、日本風のモチーフを画面に取り入れて、理想郷と思い描いた日本の美を自身の作品に組み込んだ。
今展の出品作は、日本美術との関連性がよく見て取れるゴッホ作品を集めてある。会場でそれらを順に観ていくと気づく。ゴッホはなんと勉強熱心だったことか。
たとえば《花魁(溪斎英泉による)》。江戸の浮世絵師、溪斎英泉の版画作品を油彩画で模写している。花魁の身体ラインなど特徴をよくつかんでいるのは、よくよく絵を観察した結果だろう。
ただし、色はオリジナルと異なる。溪斎英泉作品の着物はモノトーンが基調なのに対して、ゴッホは赤と緑を大胆に配した。人物の背景も、ゴッホの手にかかると鮮やかな黄色になる。ここでゴッホは、色の組み合わせの効果をあれこれ試しているのが窺える。
さらに花魁の周囲には、脈絡なく蓮池、カエル、竹林がこまごまと描き足されている。当時出回っていた日本文化の紹介本や浮世絵から、日本らしいモチーフを拝借したものだ。隙あらば日本についての研究を深めてやろうとの意欲が垣間見える。
今展の目玉とされる《寝室》も日本流に仕上がっているのだけれど、こちらは日本の事物を描いているわけではないのでちょっとわかりづらい。
爽やかな色づかいで目を惹くものの、よく見れば《寝室》はかなり奇妙な絵だ。室内にどんと置かれたベッドは、一見ずんぐりしている。でも右手の壁面や二つの椅子との位置関係を考えれば、かなりの長さがないとおかしい。
左右のドアの立て付けも、いったいどうなっているのやら。開いているのか閉まっているのか判然としない。床だって平らじゃなく撓んで見えてしまう。全体的に空間が歪みまくっている。
この奇妙な表現も、ゴッホが日本美術から学んだことと関係する。空間が歪んで見えるのは、絵画内に奥行きと秩序をもたらす遠近法が正しく使われていないからなのだけど、そもそも遠近法を忠実に守って描いていたのは西洋絵画だけ。日本の絵画のほとんどは遠近法など我関せずで、注目したいモノや人のことは大きく描き、どうでもいい脇役モチーフは小さく描いたりしていた。
日本美術に倣ったゴッホは、遠近法の遵守などやめてしまい、椅子はそれぞれ好きな大きさで描き、黄色の面がたっぷり欲しければベッドの長さなど気にせず枠木を大きくした。画面が歪んだってかまわない。強調したいものや表現したいことがはっきりあるなら、それを目立たせるように描けばいいと考えたのだ。
日本美術がゴッホに自由をもたらした
色についても同じこと。《寝室》でゴッホが描いたのは、南仏アルルで先輩画家ゴーガンと共同生活する予定の部屋。そこが青色の壁と緑色の窓枠を持っていたかどうかは知らないが、ゴッホにとって希望を感じさせる大事な場だったのはまちがいなかろう、だから彼は清々しさを感じさせる色を画面に置いた。
描きたい感情を十全に表すためなら、かたちも色も思うがままにすればいい。遠近法や陰影法といった、西洋美術の伝統が培ってきたルールに縛られる必要なんてないのだ。絵画はもっと自由でいい。ゴッホはそんな考えを、西洋とはまったく異なる伝統と流儀を持った日本美術から学んだ。
《寝室》をいま一度見ると、画面にはいろいろなものが描かれているというのに、一切の影がないことにも気づく。それによって絵の印象がぐっと明るくなっている。モノの影を描かないというのも、日本美術の伝統であって、ゴッホはこの点でも日本を真似ている。
もうひとついえば、机も椅子もベッドもドアも、ゴッホはすべてのものに輪郭線をくっきり描きこんでいる。これも浮世絵をはじめとする日本美術に特徴的な手法。人のいない部屋の中で、モノの存在感を際立たせるために、よく目立つ輪郭線が引かれたのだろう。
なんと徹底していることか。日本美術に惚れ込み、これを手本にしようと決めたが最後、ゴッホは日本美術を大いに学び摂取して、そのエッセンスを見極めることに没頭した。そうして学びを自作に活かすべく、効果的な手法を短期間で編み出し実践していったのだった。
ゴッホ自身が激しく極端な性向だったのはたしかなようだけど、いつも情念に任せて筆をふるっていたとみなすのはちょっと違う。知的好奇心と探究心にあふれる面もはっきりあって、そんなゴッホの姿は、日本美術を色濃く反映した今展の作品群からはっきり浮かび上がる。
葛飾北斎、安藤広重、溪斎英泉らの浮世絵の数々も、ゴッホの絵とともに随所に並んでいる。適宜参照し、見比べながら会場を巡りたい。  

 

●印象派と浮世絵
(1) 印象派の技法とは
「印象派」という言葉、よく耳にしますよね。ゴッホ、モネ、ルノワール、セザンヌ…などなど。でも印象派って、そもそもどういうジャンルや技法を指すものなのか、お分かりですか? 自信を持って答えられる人は意外に少ないのではないかと思います。さて、印象派とは一体どういうものなのでしょうか?下のゴッホの絵にそのヒントがあります。
   「名所江戸百景・大はしあたけの夕立」 歌川広重 大判錦絵 安政四年(1857年)
   「雨の大橋」 Van Gogh, Vincent 油彩 カンヴァス 1887年
まずこの両作品、左が広重のオリジナルで、右側はそれを模写したゴッホの油絵作品です。
つづいてもう1点。
   「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」 歌川広重 大判錦絵 安政四年(1857年)
   「梅の花」 Van Gogh, Vincent 油彩 カンヴァス 1887年
これも同じく左が広重のオリジナル、右がゴッホの模写した作品です。
「ひまわり」で有名なあのゴッホが、こんなふうに浮世絵をそっくり模写していたってこと、ご存知でしたか? 彼はこうして浮世絵を真似ることで、その構図、色彩感覚、線描画法といった描画技術を学んでいたのです。
最初の絵で広重は、急な夕立に慌てる人々の様子をうまく捉え、次の梅の絵では、画面手前に印象的な梅の枝を大胆に配して絵の奥行きを表現しています。こうした日常の印象的な一場面を写真のように瞬間的に捉えるのが浮世絵の特徴で、それはそのまま「印象派」の技法にも通じるのです。
おわかりでしょうか?印象派絵画というのは、このように浮世絵風の構図、技法、色使いで日常の何気ない風景を印象的にとらえた画法のことを言うのです。つまり、「油絵として洋風に表現された浮世絵」のことだともいえるのです。
日本人の印象派好きは有名ですが、それは印象派の絵の中になつかしい浮世絵の世界を垣間見ているからなのかもしれませんね。
(2) 浮世絵の影響力
ところでゴッホは、なぜこんな風に浮世絵の模写なんかしたのでしょうか?単なる日本びいき?いえいえ、とんでもない。ゴッホだけではありません。モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロ、ゴーギャン、ロートレック。印象派を代表するこれら画家たちは、みな浮世絵の影響を大きく受け、浮世絵に学ぶことによって新たな絵画の可能性に目覚めていったという共通点を持つのです。
そのきっかけは、19世紀後半のフランスはパリを中心として、ヨーロッパ各国で開催された万国博覧会でした。浮世絵を中心とした日本の美術工芸品が大々的に紹介され、大変な日本ブームを巻き起こしたのです。人々は争って日本の美術品を求め、やがて浮世絵や伊万里を持つことが上流階級のステータスとされるまでになったのです。
それまでヨーロッパでは絵画といえば、戦争画や宗教画、貴族の肖像画ばかりでしたから、庶民の日常をのびのびと描く浮世絵の自由な画風や明るい色彩、大胆な構図は、ヨーロッパの人々には大変な驚きだったのです。「こんな絵があったのか!」と。
なにより大きなショックを受けたのは若い芸術家たちでした。いつの時代もそうですが、若い芸術家というのは伝統的なものに対して反発し、そのエネルギーが次の新しい芸術を生み出す原動力へとつながってゆくものです。後に印象派と呼ばれる、パリの若い芸術家たちもそうでした。彼らは皆、サロン絵画の古臭いセンスに飽き飽きしていて、いつも息苦しさと、新しい芸術への飢餓感を感じていました。
そこに出会ったのが日本の浮世絵です。皆、夢中になってこれに飛びつきました。ゴッホのようにそっくりそのままではないにしても、同じように浮世絵をお手本にしながら研究し、伝統絵画から脱却した新しい芸術を生み出そうと努力したのです。
そうして誕生したのがいわゆる「印象派」でした。
そう、印象派はまさしく日本の浮世絵が生み出したものなのです。
よく「浮世絵は印象派に影響を与えた」といわれますが、正確にはそれは正しくありません。影響を与えるもなにも、ヨーロッパには(浮世絵到来以前に)印象派そのものが誕生していなかったのですから。
正しくは、「浮世絵は19世紀の若い画家たちに」影響を与え、その結果として「印象派が誕生した」のです。だから、浮世絵は「印象派の生みの親」というのが正しい認識です。
アメリカのメトロポリタン美術館、シカゴ美術館、ボストン美術館はどれも印象派のコレクションが充実していることで有名です。これら美術館の印象派コーナーに立って、展示されている印象派の絵をぐるっと眺めていると、ヨーロッパの絵画でしかも油彩画なのに、なぜかどことなく日本風というか、浮世絵っぽい不思議な感覚を覚えます。まるで浮世絵の子供たちのよう。「浮世絵のDNAを引き継いでいる」という感じでしょうか。
そしてさらにそのDNAを引き継いで、アール・ヌーヴォーという次の和風芸術が後に誕生することになるのです。ビートルズの登場で世界の音楽が大きく変わったように、日本の浮世絵はヨーロッパ絵画を根底から変えてしまうほどの影響を与え、印象派に始まる近代芸術の大きな流れを形作ったというわけです。
残念ながら、浮世絵の生みの親である日本人自身がこの事実をあまり知らないのですけどね。
(3) モネのジャポニスム
「熱狂は全てのアトリエを、導火線を伝う炎にも似た速さで包んだ。人々は構図の意外さ、形状の巧みさ、色調の豊かさ、彩やかな絵画効果の独創性とともに、それらの効果を得るために用いられた手段の単純なことを賞賛して飽きることを知らなかった。 (エルネスト・シェノー/「パリのなかの日本」1878年)」
これは当時のパリにおける日本芸術に対する熱狂ぶりを伝えたものです。パリ万博をきっかけとして巻き起こった日本芸術熱は、もはやブームを超えた影響力を持ち始め、絵画だけに留まらず、工芸や建築、演劇、書物、ファッションなど多方面にまで及ぶようになりました。こうした日本芸術の影響を強く受けた文化現象を「ジャポニスム(ジャポニズム)」といいます。ここではジャポニスムの洗礼を最も強く受けた印象派の画家たちを中心に、彼らにとってのジャポニスムがどのようであったのかを見てみたいと思います。
まずはわかりやすいところから、モネの「ラ・ジャポネーズ」。モデルはモネ夫人のカミーユさんです。図録などでよく目にする作品ですが、これは高さが2m以上もある大作で、私もボストン美術館で初めて本物を見たとき、予想以上の大きさと迫力にびっくりしました。
やや後ろを振り返るポーズは、まさに英泉の美人画そのもの。派手なキモノに扇子にうちわと、「いかにも」な演出ではありますが、日本人のわれわれから見ると「和風」というよりは「エキゾチックな東洋趣味」てな感じを受けますね。しかしこのハデハデ感こそが、当時のヨーロッパの人々が感じた浮世絵に対する強い印象そのままでもあるのです。江戸後期から明治にかけての浮世絵は、多色刷りの技術が頂点を極めた時代で、まさに豪華絢爛。極彩色にあふれた世界でした。絵画にそんなハデハデしい色を使う習慣のなかった彼等が、その鮮やかなカラーを見たときの色彩のショックはそうとう強烈なものだったろうと思います。モネのこの絵はまさにその「色彩のカルチャーショック」を素直に表現したものだといえるでしょう。
(4) ルノワールのジャポニスム
さて、つづいてルノワールの作品を見てみましょう。ルノワールがまだ世に認められていなかった頃、彼を評価してくれた数少ない理解者のひとりがジョルジュ・シャルパンティエ氏で、この絵はその夫人と子供たちを描いたもの。これはルノワールがようやく世間に認められるようになる、そのきっかけとなった絵でもあります。で、これは一見なんでもない絵のように見えますが、よーく見ると背景に日本風のすだれや絵が飾られていたりして、当時の上流家庭への日本美術の浸透ぶりがうかがえますね。でも、この絵で大事なのは実はそこじゃありません。そうではなくて、全体の明るい色調の方に注目してもらいたいのです。現代のわれわれが見ると、「この絵のどこが特別なの?」と思ってしまうくらいあたりまえの描画なんですが、実はこのような明るい色使いは、当時のヨーロッパ絵画ではきわめて特殊なものだったんです。次の、マネの「エミール・ゾラの肖像」と比べてみてください。
全然明るさが違うでしょ?ヨーロッパの伝統的な写実主義、明暗法だとこんな暗い色調になるんです。ルノワールの作品がいかに明るくて華やかな色使いか、こうして比較して見るとよく分かると思います。
ちなみに余談ですがマネのこの作品、有名な「笛を吹く少年」がサロンで酷評されたとき、ゾラだけが浮世絵の技法を取り入れた新しい試みであると高く評価してくれた、その返礼として描かれたものです。絵自体は伝統的な手法で描かれていますが、背景にはさりげなく相撲錦絵(二代歌川国明「大鳴門灘右エ門」)が配されています。
で、ついでにその「笛を吹く少年」なんですが、これも言われないと浮世絵の影響を受けてるなんてこと、普通はわかんないでしょうね。
この絵の場合、平坦な色調と陰影を抑えたことで画面全体を浮世絵版画のような平面的な描写にしようとした努力がうかがえます。ズボンのラインをうまく使って、さりげなく浮世絵風の「ふちどり」っぽくしてありますね。しかし、まだ完全には伝統絵画から脱却できてはいないようです。まあ、伝統的な写実描写から浮世絵風の描写に脱皮しようとする過渡期といいますか、実験段階のものと見ていいと思います。
ついでですから、マネの作品についてもう少しつづけて見てみましょう。伝統絵画から印象派絵画への変遷の様子がよくわかりますので。
(5) マネのジャポニスム
「笛を吹く少年」から8年後の「舟遊び」になると、もうかなり浮世絵風といいますか、印象派風の画法を確立しているのがよくわかります。色使いもあきらかに明るくなっていますし、何よりもその構図のとり方に大きな成長が見られますね。ボートの二人を強調するために、画面の余分な部分を大胆に切り捨てて、遠近法にとらわれず、やや高めの視点から俯瞰するように描かれています。どちらも浮世絵ではよく見られる描画手法なのですが、この時代のマネは、それをうまく自分の技法として取り入れています。また、舟遊びというモチーフ自体が浮世絵の影響によるものなんですが、それについてはまた後で述べます。
もうひとついってみましょう。さらに3年後の1877年の作品。もうこの頃になるとカンペキですね。色使いはもっと華やかになってますし、対象物をより強調するために、右側の男性を画面から半分切り捨てるという大胆な描き方をしています。ヨーロッパの伝統的な手法では、人物をこのように絵から切り捨てるのはたいへん不吉なこととして嫌われていましたので、これは当時としては革新的な描き方なんです。女性のポーズも、これまた浮世絵の美人画を彷彿とさせますね。画面の背景には屏風も描かれていて、マネの日本美術に対する造詣の深さをうかがわせます。
(6) モネのジャポニスム2
今度は再びモネの作品を見てみましょう。
これも先ほどのマネの「舟遊び」と同じく、高めの視点から俯瞰する形で描かれており、実際、マネの影響もあるように言われていますが、いずれにせよこの「舟遊び」というモチーフ自体が浮世絵の影響によるものです。浮世絵によく描かれる優雅な舟遊びにヨーロッパの人々は強く憧れ、やがて上流階級のお嬢様たちにこうした舟遊びが広まっていったという背景があるのです。
ちなみにこの国芳の浮世絵、あのゴッホもこれと同じものを所有していました。(ただし三枚全てではなく、いちばん左の鴨と女性が描かれた部分の一枚だけです。) 浮世絵は版画なので、このようにゴッホをはじめ世界のコレクターと楽しみを共有できるというのも魅力のひとつです。
なお、これ以外にもゴッホが集めた500点近くの浮世絵の内、当サイトのコレクションにも含まれるものをいくつかピックアップして「ゴッホの浮世絵コレクション」のコーナーで紹介しています。ご興味のある方はどうぞ。
(7) ドガのジャポニスム
ドガは浮世絵から、構図のとり方という点で大きな影響を受けた画家です。 これもそうした作品のひとつですね。 「人物を中心に」「バランスのとれた構図を」というヨーロッパの伝統手法をまるっきり無視して、人物を画面途中からはずしてしまう、浮世絵風のアンバランスな構図を意識しています。
浮世絵はニ枚、三枚続きで描かれるものも多く、そうした続き物の絵から一枚だけを取り出すと、当然背景や人物が切れたりするわけですが、ドガら印象派画家が好んで取り入れた「トリミング」の手法は、こうした続き物の浮世絵からヒントを得たものかもしれません。
この「婦人と犬」では、人物の表情を帽子で隠してほとんど見せないという大胆な構図をとりつつ、浮世絵風のふちどりまで施しています。人物の顔の部分だけをクローズアップするという手法は、おそらくは浮世絵の美人大首絵の影響ではないかと思われます。
(8) ピサロのジャポニスム
ピサロも構図に関して浮世絵の影響を大きく受けています。一見なんでもない街の風景のように見えますが、このように高い位置から俯瞰する視点は、浮世絵では決して珍しくないものの、西洋絵画ではあまり使われない手法なんです。タイトルに「陽光」とあるとおり、幻想的に輝く朝の光の世界を、非常に明るい色使いで描いていますね。彼のこの色使いもやはり浮世絵から学んだものであることを、当時の詩人アルマン・シルヴェストルも指摘しています。
この絵も同じく、やや俯瞰する視点で描かれ(西洋の伝統手法では、必ず画家の目の高さから、遠近法を用いて描かれます)テーブルを画面から半分切り捨てたアンバランスな構図を取っています。よく見ると、壁には日本画も飾られていますね。
(9) ゴーギャンのジャポニスム
ゴーギャンはゴッホと並んで浮世絵の影響を特に強く受けた画家として知られます。ゴッホの場合、浮世絵を通してその背景にある日本文化や日本人の自然観といった精神的な部分を学ぼうとしたのに対し、ゴーギャンは構図、描画手法といった技術的な面で学んでいるような気がします。
この絵の場合、カラフルな色使いと「ふちどり」の描画手法、やや高めの位置からの視点、人物を中心からはずした構図、立体感を極力排除した平面的な画面構成などなど、浮世絵の手法のオンパレードで、まさしく「油絵で描いた浮世絵」という感じです。
(10) クリムトのジャポニスム
クリムトの独特な平面的・装飾的画法は、浮世絵だけでなく日本の着物などからも学んだものといわれていて、実際彼は日本の着物や衣装などもコレクションしていたそうです。こうしたカラフルで装飾的な模様は、確かに浮世絵の美人画などでよく見られますね。

 

●まだ見ぬ日本を愛した「ゴッホ」 (ゴッホ展)
ゴッホが見つめた浮世絵とゴッホの芸術
オランダのアムステルダムに1973年に開館した、国立美術館であるファン・ゴッホ美術館は、ゴッホ作品を中心に、ゴッホの絵画表現に多大な影響を与えた浮世絵作品も数多く所蔵している。この美術館は、ゴッホが日本の浮世絵から受けた影響について紹介する展覧会を開催したい、という夢を長い間抱いてきたが、今回、その夢が実現したものとなり、日本国内巡回後には、ファン・ゴッホ美術館でも開催される予定である。
ゴッホの名作の数々と葛飾北斎、歌川広重、渓斎英泉などの浮世絵を同時に展示しながら、ゴッホがいかに日本の美術、特に浮世絵に魅せられていたかという事実の検証がなされる展覧会となっている。
展覧会会場には、浮世絵自体がモチーフとしても度々登場するゴッホ作品とともに浮世絵が並べられるが、それぞれの比較において、なるほど、ゴッホの絵には隣接の浮世絵の影響が見て取れる、と一目瞭然なものとは多少言い難い。
それは、ゴッホが浮世絵から影響を受けた技法やモチーフ、あるいは精神性なども含めて、ゴッホならではの表現として再構築されているためではないだろうか。
浮世絵そのものが描き込まれた作品は分かりやすいが、そうでない作品も、細部を見ていくと、実際に検証によって導きだされている浮世絵の影響に、納得できる箇所が多々あり、かえって「浮世絵」が持つ特徴というものを改めて認識する機会にもなるのではないだろうか。
「・・・陰影は消し去った。浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」
例えば、こちらはゴッホの代表的な名作である《寝室》について、「・・・陰影は消し去った。浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」(書簡554/705)とゴッホ自身が語っている。
光や陰影による色調が特徴的であった印象派が誕生したこの時代、西洋絵画には、影が描かれない作品はあまり見られないであろう。確かにこの絵には陰影がなく、平面的であり、そして色彩や構図は、独創的である。これをゴッホ自らが、浮世絵を意識して描いたという事実、そして、この世界的名画に浮世絵との深い関わりを知ることは、わたしたち日本人にとっては大きな喜びではないだろうか。
浮世絵の影響を受けながら、より自由で活き活きとした絵画表現へ
歌川広重の名所江戸百景《亀戸梅屋舗》は、ゴッホが油彩で模写したことでも有名な浮世絵作品である。近景に木の幹が大胆に拡大されて画面全体を横切り、その奥に遠景が広がり、梅の木々や人々が小さく描かれている。遠近法を用いて奥行を感じさせる絵画技法は、もともと江戸時代後期に西洋から伝来し、浮世絵師たちによって誇張して用いられたものである。
浮世絵師たちが大胆に用いた遠近法による構図が、今度は再びヨーロッパにもたらされ、ファン・ゴッホを含む19世紀後半の画家たちに影響を与えることとなった。
ゴッホは、その後もしばしば木の幹で画面を分断するという特徴的な構図を用いており、この「種まく人」は、その一例である。左上から右下に向かう対角線上に配された樹木の幹の大胆な構図は、浮世絵からの影響といわれると、なるほどとうなずける。しかし、黄緑がかった空の広がり、黄色く輝く巨大な夕陽、種まく人の力強い右手、画面いっぱいにゴッホならではの表現が満ちていて、浮世絵が持つ情緒とは異次元の仕上がりである。
決して浮世絵のようなものを追い求めた芸術ではなく、浮世絵の影響を受けながら、より自由で活き活きとした絵画表現へと至っていくようである。
浮世絵への愛が詰まったゴッホの作品《花魁(おいらん)》
ゴッホの浮世絵への愛がいっぱいに詰まった、「花魁(渓斎英泉による)」は必見である。
こちらは、北斎の家にも良く出入りをしていた渓斎英泉(けいさいえいせん)のという浮世絵師の1820〜30年頃の作品「雲竜打掛の花魁」の模写を中心に据えて描いたものである。1853年にオランダで生まれたファン・ゴッホが、パリに移った1886年、ジャポニスム(日本趣味)の最盛期を迎えていた。ファン・ゴッホは、日本特集号が刊行された『パリ・イリュストレ』誌の表紙に使われていた英泉の花魁図を拡大模写して自身の作品《花魁》に描き込んだのだ。
※渓斎英泉の花魁図は雑誌に印刷される段階で、左右が反転してしまったようで、ゴッホの模写も、英泉の花魁とは顔の向きが逆となっている。
このゴッホの作品は、渓斎英泉の花魁が中心にあり、その背景には、竹と葦に囲まれた睡蓮が群生した水辺が描かれ、中央上部にはふたりの人物を乗せた舟、左側には2羽の鶴、中央下部には2匹の蛙が描き込まれている。2羽の鶴は、無名の絵師による浮世絵《芸者と富士》から、2匹の蛙は二代 歌川芳丸の《新板虫尽》からモティーフを引用していることが分かっているそうだ。
ゴッホがそれぞれの浮世絵を見て、どのように感じ、そしてどのようなイメージでこの一つの作品の中に、いくつもの浮世絵のモチーフを収めることになったのか、ゴッホの想いを想像してみるのは、とても楽しい。また、様々な浮世絵が創造の源とはなっているものの、花魁を描いたキャンバスが蛙の頭に乗ったような構図、鮮やかな色彩、力強い筆致など、まさにゴッホならではの芸術性に圧倒される。
一度も日本を実際に訪れたことのないゴッホが、浮世絵などの日本の芸術や文学に触れながら醸成してきた日本へのイメージや憧れは、どのようなものであったか。作品の中で出会う“ゴッホの日本”は大変興味深く、この展覧会の醍醐味ではないだろうか。
ファン・ゴッホ巡礼
また、この展覧会では、ゴッホ亡き後、1920〜30年代に、多くの日本の画家や知識人がゴッホに憧れ、ときに崇拝するほどに理想化したその画家の生涯を辿り、その作品を見るためにヨーロッパ各地を訪ね歩いていた、「ファン・ゴッホ巡礼」を取り上げている。
ファン・ゴッホの死から間もない時期、小説家の武者小路実篤、画家の斎藤與里や岸田劉生、美術史家の児島喜久雄ら「白樺派」及びその周辺の文学者や美術家たちが、その作品や生涯を日本で熱心に紹介している。熱狂の渦が徐々に広がり、大正から昭和初期にかけて、少なからぬ日本人がファン・ゴッホの生の軌跡を求めて、ゴッホの終焉の地となったパリ近郊のオーヴェールへと赴いている。
ゴッホの晩年の主治医であるガシェ家に残った芳名録によると、オーヴェールを訪れた記録を残した日本人は、約240人にのぼるという。その「芳名録」が公開されるとともに、約90点の資料によって巡礼の実相を辿る。
“時代”と“国境”を越えたファン・ゴッホと日本を巡る夢の変遷をたどる展覧会である。

 

●ゴッホが夢見た「日本」
パリを発った汽車は、一路南を目指した。1888年2月下旬――、目的地のアルルが近づくにつれ、車窓の景色を追っていた男の顔に欣然とした表情が浮かび、やがて、神々しいものを目の前にしたような粛然たる面持ちに変わった。ブドウ畑の彼方に、純白の雪をいただく山が輝いている。
その男、フィンセント・ファン・ゴッホは、2年間暮らしたパリを離れ、おのれの信じる新たな美の地平線を開くため、決然とした覚悟を胸にアルルを目指した。アルルに着くなり、車窓からの風景との出会いを、パリの弟テオに宛てた手紙で報告した。「雪のように明るく輝く空へと聳える白い峰の姿は、まるで日本人が描く冬景色のようだった」―。
ゴッホがアルルへ向かったのは、最も簡潔に、そして彼の気持ちに則して言えば、そこが「日本」だったからだ。パリで浮世絵に触れ、その虜になったゴッホは、光と色彩の溢れる「日本」に身を置くべく、アルルへと移った。そこは、彼の故郷である北方のオランダはもとより、パリとも違う世界だった。
「この土地の空気は澄んでいて、明るい色彩の印象は日本を思わせる。 水が美しいエメラルド色の斑紋をなして、まるでクレポン(浮世絵の縮緬絵)に見るような豊かな青を風景に添えている」――。アルル到着からひと月ほどして、画家のベルナールに宛てた手紙の一節だが、アルル到着時の雪景色との出会いが、ここでは春らしい水ぬるむ風景の魅力として語られている。どちらも自然の美が「日本」に重ねられた。アルルは、ゴッホにとっての芸術の理想郷「日本」そのものだったのだ。
その当時、ジャポニスムはパリの美術界を席巻していた。印象派の多くの画家たちが魅了され、新たな芸術へのヒントにしたが、わけてもゴッホのジャポニスム信奉は抜きん出ていた。経済的な困窮の中でも500枚もの浮世絵を所蔵していたというし、広重や英泉の浮世絵をそっくり油絵で模写しているが、こんなことは他の画家には見られない。
アムステルダムのゴッホ美術館を訪ねた日本人は、このゴッホ自身の手になる「浮世絵」の前で、必ずや足をとめざるを得なくなる。慣れ親しんだ風土(自然、絵画)から生まれた、しかし明らかにゴッホならではの濃密で過剰なさまに、簡単には整理のつかない衝撃を覚えてやまないからだ。
ゴッホは手紙魔と呼べるほどの筆まめで、特に画商であった弟のテオ宛てには600通もの便りが残されているが、そこでも「日本」についてはたびたび発言している。そこから見えてくるのは、遠近法や色彩、線や形といった絵画技術論を超えた「日本」への強い憧憬である。
ゴッホは若き日より苦悩を重ね、魂の彷徨を続けた人だった。いくつもの旅があり、世人から後ろ指をさされるような女との関係もあった。その果てにおのれの道として絵を選び、画業の行きつくところとして「日本」にたどり着いたのだ。言わば人生のすべてをかけて、「日本」にのめり込んだのである。
ゴッホのユートピア、「日本」――。東西美術史の中でも奇跡のような出会いの結晶であるゴッホのジャポニスムについて、今少し測深鉛をおろして見てみよう。

ゴッホとジャポニスムを語る際に、必ず登場する一枚の絵がある。「タンギー爺さん」――。どこか都会人らしからぬ無骨さを残す中に温和さを浮かべた初老の男は、パリの画材屋の主人で、ゴッホを初め無名画家たちのために便宜を図ってくれた人情味に富む好人物だった。。
驚くべきは、正面坐像の背景に、びっしりと浮世絵が並べられていることである。この絵に接した日本人は、どうしても背景に置かれた浮世絵が誰の何という作品なのか、その典拠が気になってしまうが、オリジナル探索だけに囚われていると、大事な点を見過ごしかねないことになる。
これは画材屋の店に実際に飾られていた浮世絵をスケッチしたというより、タンギー爺さんを描こうとしたゴッホが、意匠として背景に並べたと考えるべきかと思われる。すなわち、あたかもロシア正教寺院のイコンのような感覚で、聖者を囲む聖画のように浮世絵を配置して見せたのだ。
「タンギー爺さんは長年にわたって苦労し、堪え忍んできた人だ。だからどこか、昔の殉教者や奴隷に似たところがある。当世のパリの俗物どもとは全く違う。僕がもし長生きしたら、タンギー爺さんのようになるかも知れない」――。タンギー爺さんについて述べたゴッホ自身の言葉だが、その人となりを、羽振りをきかせるパリの俗物どもと対照的に扱っているのは要注目だ。
つまり、ひたすら利に走り、欲望のみに汲々とし、しのぎを削るような都会人の生き方への絶望と嫌悪が、タンギー爺さんを持ち上げ、敬慕する基礎になっているのである。「殉教者や奴隷」という表現はゴッホ一流の形容に違いないが、タンギー爺さんを評しつつ、ゴッホ自身の宗教的な真実への探求がエコーしていることは間違いない。
利と欲望のみに生きる個人を集大成すれば、国家とか文明というものになる。ゴッホにとって、虚偽に満ちた西洋文明に対するアンチテーゼが、ユートピア幻想としての「日本」であった。タンギー爺さんの背景が日本の浮世絵によるイコノスタ(多数のイコンで飾る聖壇の壁)となったのは、そうした理由による。
ゴッホは自画像を多く描いたことでも知られるが、その中に「ボンズ(坊主)としての自画像」と呼ばれる一点がある。アルルで共同生活を始めたゴーギャンに捧げられた作品でもあるが、明らかに自分の精神的求道性を日本の僧侶に重ねている。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」にも影響を与えたピエール・ロティの小説『お菊さん』をゴッホは熱読し、その挿絵に登場するボンズにヒントを得たと言われるが、ただの日本趣味のように思ってはいけないだろう。トゥールーズ=ロートレックに日本の伝統衣裳を着て撮った写真があるが、そのような遊び心とは意味が違う。この作品は浮世絵的な平面的手法が顕著な絵だが、それ以上に、「日本」に寄せるゴッホの深い精神を窺わせる。
ゴッホは伝道師を目指したこともあるほど、宗教的真実への喝仰は真剣だった。そのゴッホが、他ならぬ自画像を日本の「ボンズ」に重ねて描いたのである。絵画の革新のためのヒントをつかむという次元を超え、ゴッホは魂の彷徨者としてジャポニスムに出会い、奉じたのだった。

「ビングの複製図版の中では、『一茎の草』と『なでしこ』の素描、そして北斎が素晴らしいと思う。でも人が何と言おうと、平板な色調で彩色された、ごくありふれたクレポンが、僕にとってはルーベンスやヴェロネーゼと同じ理由で素晴らしいのだ」――。アルルに移って7カ月が過ぎた、1988年9月24日に弟テオに宛てて書かれた手紙の一節である。ゴッホの浮世絵愛好を示す資料として、しばしば引用される箇所でもある。
「クレポン」はゴッホの書簡にたびたび登場するが、もとのフランス語での意味は縮緬(ちりめん)のことで、美術用語としては大判の浮世絵を縮緬状の紙の上に縮めてプリントしたものをいう。上下左右、元絵の60パーセントくらいに縮小されるが、その分、色彩は圧縮されて強くなる。浮世絵の廉価普及版ともいえるこのクレポンを、ゴッホはこよなく愛した。西洋絵画の伝統の巨匠、ルーベンスやヴェロネーゼにも匹敵するというのだから、その執着ぶりが知れようというものだ。
だが、ゴッホの日本美術への愛着は、浮世絵だけに偏ったものではなかった。そのことを示すのが、引用の冒頭部で示された「一茎の草」と「なでしこ」である。どう見ても、浮世絵のタイトルとは思えない。
「ビングの複製図版」とあるのは、画商サミュエル・ビングが、日本美術を広く世に紹介するために発刊した月刊誌『芸術の日本』に載る複製版画のことを言っている。ビングはドイツ生まれのユダヤ人で、パリに日本の浮世絵や工芸品を扱う店を構え、そこはジャポニスムの先端基地となっていた。ゴッホもこの店の常連で、ビングを通して日本美術に親しんだ。
ゴッホの目にとまった「一茎の草」と「なでしこ」が一体どのような絵であったのか、私はどうしてもこの2点の絵を見てみたいと欲した。というのも、ゴッホは手紙の後半でも再びこの「一茎の草」を登場させ、そこから独自の日本観を展開しているからだ。
結論から言うと、『芸術の日本』に載った「一茎の草」と「なでしこ」は、どちらも植物画であった。川原慶賀の画風によく似ている。「なでしこ」は可憐な花々が咲き揃ったさまを描き、穂をつけたイネ科らしい草を描いた「一茎の草」は全体図に加えて部分アップまでが同一画面に添えられ、いかにも植物画らしい。江戸のボタニカル・アートそのものである。
私は新たに目を開かされる思いがした。ゴッホが惹かれたのは、いわゆる浮世絵ばかりではなかったのだ。彼のジャポニスムはもっと大きな、広い裾野をもつ「日本」への傾倒だったのである。
「日本の芸術を研究すると、紛れもなく賢明で、哲学的で、知性豊かな人物に出会う。彼は何をして時を過ごしているのか……。地球と月の距離を研究しているのか? 違う。ビスマルクの政策を研究しているのか? 違う。彼が研究するのは、たった一茎の草だ。しかし、この一茎の草がやがて彼にありとあらゆる植物を、そして四季を、田園の広々とした風景を、更には動物、そして人物を描けるようにさせるのだ。 彼はそのようにして生涯を送るが、すべてを描くには人生はあまりに短い。そう、これこそ――まるで自らが花であるかのように自然の中に生きる、かくも素朴な日本人が我々に教えてくれるものこそ、真の宗教といえるのではあるまいか」――。 
ゴッホが憧れた「日本」の核心部分がここに吐露されている。それは、自然と一体となったつつましい生き方であり、一木一草的なすべての命への共感である。植物にせよ動物にせよ、自然界の小さな命にまで、命をこだまさせるようにして向けられるあたたかな眼差し――。一茎の草に注がれるこの目と考えが、風景画や肖像画にまで敷衍されて、「日本」を形成している。
まさに自然観、芸術観、宗教観までをも統合した大きな哲学としての「日本」が、ゴッホの夢見たユートピアだったのだ。

「日本の芸術家たちがお互いの作品ををよく交換したことを聞いて、僕はずっと前から感動してきた。そのことは彼らの間に確かな調和があり、そこに絆が結ばれていた証拠なのだ」――。ゴッホが「一茎の草」を誉めたテオ宛ての手紙とほぼ同時期に書かれた、画家ベルナール宛ての書簡の一節である。
こうした「日本」観にもとづいて、ゴッホはアルルの家にゴーギャンを招き、共同生活を始める。ゴーギャンとの逸話は、強烈な個性がぶつかり合って迎えることになる悲劇的結末を中心に語られがちだが、実は共同生活を開始するきっかけに、「日本」が重要な役割を演じていたのだ。
2カ月ほどを経た共同生活の破綻、耳切り事件、そして精神病院への入院と、やがてゴッホは坂を転げ落ちるように人生の末路へ駆け進む。そうした転落の過程で、「日本」は霞み、遠のいて行く。潮が引いたように、彼の書簡の中から「日本」が消えた。ユートピア幻想の崩壊というより、真実にひたすら迫ろうとした芸術家の魂、ゴッホの求道性が、ジャポニスムを突き抜けてしまったのだろう。
ただ、死の5か月前に描かれた「花咲くアーモンドの枝」の絵に、わずかにユートピアとしての「日本」が幻のように蘇った感がある。この絵は、弟テオに子どもが生まれ、自分と同じフィンセントと命名されたことを聞いて、弟家族に贈ろうとして描いたものである。
1889年2月に精神病院に収容されて以降、死の近づいたゴッホの作品には独特の激しさ、息苦しさが脈打っているが、この「花咲くアーモンドの枝」は、例外的に何とも温和で静謐な絵である。「一茎の草」と同じく、植物の命と一体になってゴッホは心を澄まし、おだやかに息をしている。死の淵にあって、新しい家族の誕生を機に、いま一度生を蘇らせ、命をこだまさせた束の間の「日本」復活だったのかもしれない。
ゴッホが熱読した『お菊さん』の著者ロティは、フランス海軍士官でもあったので、2度にわたって日本を訪問した。ゴッホに日本美術の魅力を伝えたビングも、数次にわたって日本を訪れている。日本は既に開国し、普通の外国人も訪問が可能な国だった。
ゴッホの「日本」は南仏のアルルだった。実際の日本にまで足を向けなかったのは、まずは経済的な事情からだったに違いないが、或いは、彼の夢見た「日本」と現実の日本との差が露見してしまうことを怖れたためでもあったろうか。
もしゴッホが実際に日本を訪ねたら、どうだったろう……。こうした仮定が愚問にすぎないことは百も承知の上で、それでも発想の飛躍を誘惑してやまぬものがある。
胸を膨らませてきた「日本」への憧れは、近代化と富国強兵の道を急ぐ明治日本に幻滅し、ほどなく潰えてしまったろうか。或いはまたひょっとして、ラフカディオ・ハーンが小泉八雲と名乗り文学での東西の架け橋となったように、ゴッホも日本婦人と結婚して日本名を名乗り、絵画でのハーンとなったかもしれない。
仮にゴッホが現代の日本を訪れることができたなら、たいそう驚くことだろう。憧れてやまなかった「日本」の地で、ゴッホの絵は他の印象派の画家たちを圧するように愛されている。彼の信じたユートピアがなおも今の日本に残っているかどうかは別として、袋小路のようなところに追い込まれ自ら命を絶った悲劇の最期を思えば、せめて日本でのもてはやされかたを、草葉の陰のその人に伝えてあげたいように思うのは私だけではないだろう。   

 

●ファン・ゴッホ / 日本のインスピレーション
日本の版画芸術はファン・ゴッホの最も重要なインスピレーション源で、彼は熱心なコレクターでもありました。浮世絵版画は彼にとって刺激剤で、それまでとは違った物の見方を教えてくれました。 しかし、彼の作品はそれによって根本的に変化したのでしょうか?
「そしてぼくが思うに、もっと陽気で幸せにならなければ日本美術を研究することはできないだろう。日本美術は、因習にとらわれた教育や仕事からぼくたちを解き放ち、自然へと回帰させてくれる.」 1888年9月23日か24日、アルルにて、弟テオあての手紙
東洋芸術との出会い
19世紀後半、日本から渡来するものは何から何までもてはやされる時代でした。フィンセントもこの「ジャポニスム」の洗礼を受けました。
オランダで日本の芸術を研究する芸術家はほとんどいませんでしたが、パリでは大流行でした。フィンセントはパリで、西欧世界における東洋芸術のインパクトを目の当たりしました。当時、彼はまさに、絵画の近代化に取り組んでいました。
フィンセントが浮世絵版画のセットを初めて買ったのは、アントワープ滞在中のことでした。彼は室内の壁に版画を画鋲で留めて飾りました。そして、弟テオあての手紙に、自ら思い描いた異国の街の様子を書き綴りました。
「僕の仕事場はまあまだ。特にとても楽しい日本の版画を壁に貼ったおかげだ。ほら、庭で憩う女性とか、海辺、馬に乗る人、花や、節くれだったとげのある枝とかのだよ。」 1885年11月28日、アントワープにて、弟テオあての手紙
パリの日本
1886年の初めごろ、ファン・ゴッホはパリに住んでいた弟の元に身を寄せました。二人は一緒に版画を収集し、コレクションは相当な数に上りました。ファン・ゴッホはまもなくこれらの木版画に単なる楽しみ以上の意味を見出すようになります。彼は日本の版画を芸術的作例としてとらえ、西洋美術史上の傑作と同様に重要な作品とみなしました。
当時のファン・ゴッホのコレクションの点数は明らかではありません。手紙の中で彼自身は「数百点」と書いています。
「日本の芸術は、中世、ギリシャ時代、我がオランダの巨匠レンブラント、ポッター、ハルス、フェルメール、ファン・オスターデ、ライスダールの芸術と同じようなものだ。いつまでも生き続ける。」 1888年7月15日アルルにて、弟テオあての手紙
空間処理と色彩
日本の芸術家は、手前と奥の間の空間を構図の中から省くことがよくあります。手前にあるものはしばしば誇張して大きく描写されます。また、画面の枠外に地平線が設定されている例も多々あります。あるいは、画面の端で描かれているものを故意に断ち切ることもあります。
西欧の芸術家たちがこれらすべてから学んだことは、必ずしも伝統に則った手法で―除き箱をとおして見たように手前から画面の奥を覗くように画面を構成する必要はないということでした。
ファン・ゴッホは日本美術の中に発見したものを自らの作品に取り入れました。彼は、日本美術の特異な空間効果、強烈な色彩の広い平面、日常的な主題、そして自然の中の細部へのこだわりに魅力を感じました。また、その異国情緒や楽しげな様子も魅力的に感じました。
新しい様式
日本の版画を模写するだけではとどまりませんでした。ファン・ゴッホの芸術家仲間エミール・ベルナールは、近代芸術が向かうべき方向について新たな概念を発展させました。日本の版画を手本に、彼は自らの絵の様式化を進めました。彼は単純化した色彩の広い面と太い輪郭線を用いました。
ベルナールの影響を受け、ファン・ゴッホも目の錯覚を利用した画面の奥行き表現よりも平面的に描こうとしました。ファン・ゴッホは自らの作品の中で、渦巻くような筆致と組み合わせて平面性を追求しました。
「見てごらん、僕たちは日本の絵画芸術が好きなんだ、僕たちはその影響を受けているんだ―印象主義者はみな共通してその影響を受けている―では、日本に行かないならどうするか、日本と同じようなところ、南(フランス)だろうか?僕は新しい芸術は結局のところどうしたって南にあると思っている。」 1888年6月5日頃、アルルにて、弟テオあての手紙
南フランスの日本
二年のパリ滞在ののち、ファン・ゴッホは都会の雑踏を後に旅立ちました。南フランスのアルルに彼が向かったのは1888年2月のことです。彼がアルルに求めていたのは安らぎ以外に東洋の版画の中の明るい光、陽気な色彩効果でした。汽車の中でも「もう日本に着いたかもと外をずっと見ていたよ!」「子供じみているだろう?」と、同様に日本の版画の影響を受けていた友人の画家ゴーガンに書き送りました。
ゴーガン同様、ファン・ゴッホも芸術家は鮮やかな色彩を求めて南の未開の地へ向かうべきだと信じていました。彼がアルルに向かったのもそうした考えからでした。
「時が経つにつれものの見方が変わり、ますます日本人のようなものの見方をするようになり、色彩も違うように感じられてくる。僕の人格もここに長くいたら変わってくるに違いないと確信している。」 1888年6月5日アルルにて、弟テオあての手紙
夢破れる
ファン・ゴッホはアルルで芸術家の共同体を設立したい―日本の仏教僧たちのような共同生活をしたいと願いました。結局やってきたのはゴーガンひとりでした。彼は空想を用いて絵を描き、ファン・ゴッホにも絵を様式化するように勧めました。絵は、写真のようであってはならないというのが彼の意見でした。
しかし、ファン・ゴッホとゴーガンの意見はあまりに違いすぎました。数か月の共同生活の後、ゴーガンはパリに帰ってしまいます。
ファン・ゴッホの病の兆候はこの時初めて表れます。彼は病院、そして後に療養院に入院し、自信を失ってしまいました。未来の美術の発展に寄与するという夢はあまりに高い目標に思われました。手紙からも日本の版画芸術に関する記述が次第に消えていきました。
日本の作例に倣った再生
ファン・ゴッホは生涯を通じて自然を出発点として制作し続けました。日本の芸術家もそうであることに彼は気がつきました。それと同時に日本の版画は彼に近代化のために必要なものを提供してくれました。彼は近代的かつ、よりプリミティブな絵画芸術への時代の呼び声に応えたいと考えていました。日本美術はその大きな色面と様式によって、自然を起点に置いたままで進む道を彼に示したのでした。
「僕の作品はすべてどこかしらジャポネズリだ…」 1888年7月15日アルルにて、弟テオあての手紙  

 

●ゴッホとゴーギャン  
●ゴッホとゴーギャン 1  
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)とポール・ゴーギャン(1848-1903)は19世紀末に名を刻み、その後の美術史に大きな影響を与えました。この二人の個性的な天才画家が、南アルルで共同生活を送り、お互いにその後の画業に影響を与えました。しかし、共同生活は2か月で破綻しました。
二人の出会いはゴッホがパリで開いた個展にゴーギャンが訪れた時が始まりと言われています。都ゴッホの夢は、才能ある芸術家と共同生活を行いながら制作活動をすることでした。都会暮らしで体調を壊すことが多かったゴッホは、アルルに移り住み、彼が才能を認めていた画家たちに手紙を贈りました。この誘いに応じたのがゴッホより5歳年上のゴーギャンでした。ゴッホは尊敬するゴーギャンのために「黄色い家」にひまわりの絵で部屋を飾りました。
ゴッホとゴーギャンは、1888年10月、南仏アルルでゴッホが住んでいた「黄色い家」で共同生活を始めました。ゴッホからの度重なる要請にゴーギャンが折れた形で始まった生活は、強烈な個性がぶつかり合う絵画の実験場でした。ふたりは連れ立って、古代ローマの石棺が並ぶ「アリスカン」なる小道をモチーフに連作を描く。十一月はじめにはカフェの女主人をモデルに「アルルの女」を競作し、同月末にはお互いの椅子を、続いて郵便屋の一家を揃ってモチーフとした。ゴッホの耳切り事件で終わるまでの二カ月間、ゴッホは三十七点、ゴーギャンは二十一点の作品を描きました。速描きのゴッホはともあれ、ゴーギャンの制作量としては異例の多さに驚きます。点数だけをみても、共同生活がいかに濃密な時間であったかがよくわかります。
ゴッホにとってゴーギャンとの共同生活は少なくても当初は新鮮な体験で楽しい毎日でした。ゴッホはゴーギャンを「詩人」呼んでいました。ゴーギャンが想像や思考から絵画世界を広げていくアプローチに驚き、尊敬していました。ゴーギャンは「芸術は自然の象徴なのだ。自然の前で夢を見つつ、そこから抽象を作り出すのだ。」と言って、ゴッホに「完全に想像から描く」よう指導し、励まし続けました。記憶や想像から作品を制作することを好むゴーギャンの影響を受け、ゴッホも新たな表現に挑戦し、ゴッホが想像に基づく制作を試みる契機となりました。
ゴーギャンも新たな展開を見せ、広く平らな色面を用い、現実の形態や色彩を変え、想像に基づいて絵を描くことをさらに重視していきました。
   ゴッホ『グラスに生けた花咲くアーモンドの小枝』1888年77
ゴッホは花咲くアーモンドの小枝をホテルに持ち帰り、グラスに生けてこの作品を描きました。ゴッホが魅了されていた浮世絵の鮮やかな色彩と簡潔な洗練された構図の影響を認めることができます。      
   ゴーギャン『アルルの洗濯女』1888年
色面を用いた抽象的な画面で、高い視点を採用し洗濯する女性を見下ろすように描いています。日々の生活の情景、詩的に美しい絵画空間に高められ、夢の中の出来事のような印象を与えます。洗濯する女性を見つめる後ろの人物は、年齢を重ねた彼女自身のようにも見えます。前景にはゴーギャンが求めた素朴な農村らしさを強調するようにヤギが描かれています。   
   ゴッホ『アルルのダンスホール』1888年
ゴッホのアルル滞在期の代表的作例のひとつで、ゴーギャンと共に共同生活を送りながら制作活動をおこなっていた1888年に制作した作品で、アルルのレ・リス大通りに面するフォリー・アルレジエンヌ劇場祝祭の夕べの情景を描いた作品です。画面の手前から奥まで無数に描き込まれる人々が犇めき合う様にダンスホールで踊りに興じていて、独特の退廃性に溢れている印象を感じます。描かれる人々も、流行の衣服に身を包む人、伝統的な衣服を着こなす人など多様で混沌としています。画面右側に描かれている唯一観る人と視線を合わせる女性は、ゴッホがアルルを去るまで援助を続けていた郵便配達人ジョゼフ・ルーランの妻ルーラン夫人です。フォリー・アルレジエンヌ劇場の奥や二階にも無数の人々が配されると共に、原色の円で表現される黄色の光がそれらと効果的に呼応しています。一見ゴーギャンの作品と見間違うほど、ゴーギャンの画風を踏襲した作品です。
この作品にはゴーギャンに対する理解と共感を示すかのようなクロワゾニスム的表現が見られ、太く明確な輪郭線によって描写される人々は線と色面とが強烈に誇張され、極めて装飾的に表現となっています。奥行きを感じさせない平面性や日本趣味的な水平と垂直の強調、毒々しい印象すら抱かせる独自の奇抜で原色的な色彩の使用も、ゴッホのゴーギャンの個性に対する歩み寄り感じます。
   ゴッホ『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ』
建物の白や青、植物の緑など様々な絵の具が薄く塗られていて、パリ郊外のレストランの華やいだ情景を描いています。ゴッホの作品にしては肩の力が抜けたような 描き方で哀愁すら感じさせます。この作品にゴッホの晩年の作品のような張り詰めた緊張感はありません。パリの画家仲間らと親しく交わりながら筆を走らせた明るさが感じらくつろぎすら感じさせます。
しかし、ゴッホとゴーギャンの共同生活は2か月で破綻しました。この二人の関係がなぜ僅か2か月で破たんしてしまったのでしょうか。
ゴッホとゴーギャンの性格気質の違い 
ゴッホは生まれつき人付き合いが苦手な内向的で、他人に関心のない性格だったようです。このため友達ができず社交性や社会生活に対する神尾が得方も稚拙だったようです。孤独だったゴッホがパリでロートレック始め、バリの才能ある前衛画家と知り合って芸術を語る機会に恵まれたことは、ゴッホにとって今まで体験したことのない幸せでしたが。世間知らずのゴッホはこの喜びに舞い上がってしまい、芸術家の共同体をつくることを夢見てアルルに移り、次々とパリで知り合った芸術家たちに手紙を送りました。しかし、この飛躍的な発想に賛同する人はなく、唯一ゴーギャンだけがこの呼びかけに応じました。ゴーギャンがゴッホの呼びかけに応じたのは全く絵が売れず、ゴッホの弟で画商のテオからの金銭的援助を得たいという打算的もあったようです。
友を得ゴッホは、ゴーギャンと連れたって、古代ローマの石棺が並ぶ「アリスカン」なる小道をモチーフに連作を描き、フェの女主人をモデルに「アルルの女」を競作し同じモチーフで作品を描き、二人で一緒にイーゼルを並べて制作したかったのです。
しかし、本来ゴーギャンは静かにひとりで思策を重ねながら湧き出してくる創造力で作品を描くタイプの人でした。ゴーギャンは毎日ゴッホにつきまとわれ、ゴーギャンの制作過程を見られているのは苦痛でしかありませんでした。ゴーギャンから見ると、ゴッホはゴーギャンの絵を気に入っているようですが、”こことそことあそこが間違っている”というように口を出してくることもありました。ゴーギャンは自分の絵をいじられるのは我慢ならない性格で、日常生活の細かな点ではいろいろ衝突していた様です。結局ゴッホとゴーギャンのふたりが幸福な共同生活をおくること自体無理だったのです。
ゴーギャンはテオ宛ての手紙でこのように語っています。「フィンセントと私は性格の不一致から、トラブルなしに一緒に暮らすことが絶対できないからです。彼も私も自分の制作のために静けさが必要です。」
写実主義のゴッホと想像力にこだわるゴーギャンの考え方の違い
ゴーギャンは「自然をそのまま描くな」との信念を持っており、「万物の創造主である神のように創り出さなければならない」考えていた人でした。一方、ゴッホは「ぼくはモデルなしには仕事ができない。誇張もするし、時にはモチーフを変形もする。けれどもその結果、絵全体をでっちあげることはしない」とベルナール宛ての手紙と主張していました。これは明らかにゴーギャンに対する批判を意味しています。画家としての才能はあっても社会生活のバランス感覚に稚拙なゴッホには、自らの才能に自信を持って語るゴーギャンに、自分の美学を上手に伝えることなどできなかったのでしょう。ふたりの根本的な制作理念の衝突は、お互いの芸術理念を十分理解しきれず、認め合えなかったことが、奇たるべき「共同生活」の破たんの大きな要因だったいうのが一般的な理解のようです。
しかし私はゴッホとゴーギャンの絵画にはもう一つの大きな違いがあったと思っています。ゴーギャンにとって芸術が目指すものは、自然の前で夢を見つつ、そこから抽象を作り出すことでした。ゴッホは、記憶と創造力から絵を描く能力は高く評価していました、しかし、ゴーギャンには自らが率いたポン=タヴァン派の画風は、強く太い輪郭線によって対象の形態を捉え、平坦な色面で画面を構成する手法で、色彩、輪郭線、諸々の主観を「総合」し、「より単純化した形が作られる」という総合主義の主張として持っていました。ゴーギャンにとって色彩は独立した主張を持つものではなく、色面の中で隣り合う色彩の最適な調和を重視しました。
それに対して、ゴッホはその当時誰も発想しないような各々の強烈な色彩が絵画画面の中で主張し合う色彩が絵画画面を支配しているような作品を描いていました。ゴッホの色彩は今描いたばかりでゴーギャン絵具の匂いがすると感じるほどの生々し筆使いを感じますが、それに比べるとゴーギャンの色彩や筆遣いは何か渇いたような感じがします。これは私の私見ですが、ゴッホの生々し筆使いは、ゴーギャンの総合主義よりも前衛的で、のちにフォーヴィスムとして開花する極めて斬新な絵画手法ではなかったかと思います。しかしゴッホの色彩表現があまりに刺激的で時代を超越していたため、当時の美術界はもちろん、前衛化画家であるはずのゴーギャンさえも、自分と全く異なる絵画手法の価値を十分理解できなかったように思います。
後にゴッホ自身が自らについて「自分の作品が人を驚かせ当惑させるのは、意のままにならない自らの野生に他ならない。それは誰も真似ができないものだ」と語っています。ゴッホは自分の作品がフォーヴィスムに通ずることを無意識のうちに予感していたように思われます。
ゴッホとゴーギャンがともに絵画の次の時代を開く前衛的な天才であったにもかかわらず、2人の方向性が全く違っていたため、2か月の共同生活を経ても、お互いの芸術的価値の高さ、特にゴッホの絵画の前衛性と美樹的な凄さを真から理解し合えなかったのでないか思います。
それでもふたりの互いのことを思っていたという事実にこの芸術家の心情、友情の複雑さを感じます。2人の椅子、すなわちゴッホ『ゴーギャンの椅子』とゴーギャン『肘掛け椅子のひまわり』が象徴的でと言えます。
ゴッホが描いたゴーギャンとゴーギャンが描いたゴッホ
2人は互いのことを思っていたという事実にこの芸術家の心情、友情の複雑さを思った。2人の椅子(ゴッホ『ゴーギャンの椅子』とゴーギャン『肘掛け椅子のひまわり』が象徴的である。
   ゴッホは『ゴーギャンの椅子』
アルルでの共同生活が破綻する前を描いた作品です。ゴッホは生涯で1点しかゴーギャンの肖像画を描きませんでした。この作品では、ゴーギャンが使っていた椅子によって、そこに座るべきゴーギャン自身の存在が表現されていますゴーギャン自身の姿は描かれていませんが、座面の蝋燭、二冊の小説本、床のカーペットと壁のガス灯など配置されたモチーフは、ゴーギャンの都会趣味と知性的な嗜好を表現しています。ゴーギャンの色彩理論の影響と思われる隣り合う色彩の高度の調和を感じさせます。ゴーギャンの椅子を描くことでその存在感が感じられる貴重な「象徴的肖像画」として位置付けられ貴重な作品となりました。『ゴーギャンの椅子』に描かれている蝋燭は、象徴的な意味をもつと同時にゴッホの心象をも映しています。
   ゴーギャン『肘掛け椅子のひまわり』
ゴッホの死から11年後、ゴーギャンはタヒチでこの作品を描きました。ゴーギャンは友人に頼んでひまわりの種をヨーロッパからタヒチに取り寄せ、この作品を完成させました。ゴッホが好んで描いたモチーフノ「ひまわりは」ト「肘掛け椅子」を組み合わせることで亡き友に思いをはせました。この作品は、晩年のゴーギャンがゴッホを意識して描いた重要な作品といえます。アルルでの共同生活の後、再会がかなわなかったゴーギャンがゴッホに対する尊敬を込めた描いた傑作ではないでしょうか。
ゴッホの病気について
ゴッホの絵画は精神障害による激情や狂気が芸術的創造をもたらしたと考える人も多いように見られますので、ゴッホの絵画に魅力を感ずるものとして。ゴッホの名誉のため、ゴッホの絵画とゴッホの病気らについて正確な情報に基づき、ゴッホの絵画は、その知性と天賦の才能、絶えざる努力ゆえに晴らしく創造的で、精神障害による激情や狂気が芸術的創造の源ではないということを説明させていただきます。
アントワープでフィンセントは乏しい資金を画材やモデル代に回してしまったために満足に食事も摂れず、肉体的にぼろぼろになっていました。歯も10本以上が抜けかかっていました。栄養失調が原因でしょうが、他にも歯が抜ける理由があったようです。
歓楽の街アントワープでどうやら梅毒に罹患してしまったようなのです。アントワープ時代にゴッホが梅毒の診断を受けた時、既に彼は33歳でした。それから、アルルでのクリスマス直前の最初の発作性精神変調まで2年ちょっと経過しているにすぎません。
アルル時代の強烈な色彩は、軽躁状態と結びついているように考えられます。一方、発作性精神変調をくり返さなければ描かなかったかもしれないと感じさせる絵画もかなりあります。発作性精神変調の影響をはっきり指摘できるのは、サン・レミ時代の1890年3月から4月にかけて書いた「北の思い出」「農家(北の思い出)」「馬鈴薯を刈り入れる農夫」「雪に覆われた畑を掘る2人の農婦」などの作品群が考えられます。フィンセント特有の波打つ描線で描かれてはいますが、色彩の精気に乏しく、何だか、隙間だらけの印象を与える絵ばかりです。アルルでひどい発作性精神変調を起こして、2カ月間にわたって意識が充分に戻らなかった時期に描かれたものです。
発作の直前に描かれた「アルルの女(ジヌー夫人)」や「花咲くアーモンドの枝」にみられる見事な色彩と構成が一時失われています。しかし、その後しばらくしてから描かれた「黄色い背景の花瓶のアイリス」では、黄色い壁とテーブルを背景に花瓶、緑青色の葉、群青色の花が見事に構成され、強烈な輝きを放っています。この傑作から何らかの疾患へとつながる道を見つけることはできません。
ゴッホ最晩年の代表作『オーヴェールの教会(オーヴェールの聖堂)』はかの有名な耳切り事件後、精神的に不安定となったゴッホが、パリ北西のオーヴェール=シュル=オワーズで、画家の友人で精神科医のポール・ガシェのもとで治療・療養生活を過ごした最後の二ヶ月間で描かれた作品の中1点です。
空間が渦巻いた深い青色の空を背景に、逆光的に影の中に沈む重量感に溢れた『オーヴェールの教会』非常に厳めしい雰囲気を醸し出しています。構造的にほぼ正確に描かれていますが、波打つように激しく歪んでおり、教会の異様な近寄りがたい雰囲気を強調しています。これをゴッホの不安と苦痛に満ちた病的な心理・意識世界の反映と解釈する見方もありますが、私はこの作品を見て、ゴッホの画家として技術的・表現的な革新性溢れる個性的な表現と感じました。ゴッホ最晩年期の筆触の大きな特徴であるやや長めで直線的な筆使いと、この絵から感ずる精神的迫真性は比類ない迫力でした。画面中央から上部は暗く重々しい色彩ですが、下の部分は大地の生命力を感じさせる明瞭で鮮やか色彩が配されています。このような明確な色彩的対比はゴッホの作品の中でも秀逸で円熟期の作品のようにさえ思えてくるのです。
「その知性、天賦の才能、絶えざる努力ゆえにゴッホは素晴らしく創造的な人物であった。その疾病ゆえにではなく、その疾病にもかかわらず、かれは天才だった。この事実はゴッホの創造したものへの賞賛をいっそう高めることだろう」病気による発作に見舞われた後もその沈着な制作態度は変わりませんでした。彼の勢いのある筆使いタッチも「風景画のあるものは最大限の速さで描いたのに、僕の描いたものの中で一番いいのに気づいた。」という明瞭な自覚の上で行われたのです。ゴッホの作品の中に狂気を感ずる作品があることは事実ですが、それらの作品からゴッホの真の傑作を論ずるのは無意味だと思います。激情や狂気でゴッホの真の傑作は制作するのは不可能だと思います。激情や狂気が芸術的創造をもたらしたと認識するのは愚かな取り違えで、ゴッホの実像を大きくゆがめるものだと思います。
ゴッホが画家として本格的に活動したのは自殺する前の10年間程度でした。画家として名を知られ、絵を売れるまである程度時間がかかるのは当然で、ゴッホは生涯絵が売れなかった、と決めつけるのも短絡的だと思います。ゴッホが精神障害を発症したのは、さまざまな要因が重なった結果で、リキュールの一種「アブサン」などの過度の飲酒、乱れた食生活に加えて、ゴッホが敬愛したゴーギャンとの関係の悪化も原因と考えられています。耳切り事件の後、病気の症状が出るたびに再発するのではないかという恐れが強まり、その恐怖心が2年後の自殺につながったと考えられています。ゴッホが自信家で自己主張の強いゴーギャンと出会ったのは、もしかしたらゴッホの最大の不運だったのかもしれません。もちろん、これはゴーギャンの責任ではありませんが、精神的病気が悪化することなく、自殺せずにもっと長生きしていれば、ゴッホは多くの人に知られ、絵も売れて、また違った人生もあったかもしれません。しかし、これも運命なのでしょうね。  

 

●ゴッホとゴーギャン 2  
ゴッホとゴーギャンの共同生活が相互に与えた影響と成果について検証してみました。
オランダの牧師の家庭に育ったファン・ゴッホと南米ペルーで幼年期を過ごしたゴーギャンは、生い立ちや性格だけではなく、絵画表現も大きく異なっていました。ファン・ゴッホは現実の世界から着想を得て、力強い筆触と鮮やかな色彩による作品を生み出し、ゴーギャンは、装飾的な線と色面を用いて、目には見えない世界をも絵画に表現しようとしました。このゴッホとゴーギャンが、1888年南仏アルルで約2カ月の共同生活を送り、ともに制作し、激しい議論を重ねながら刺激を与え合う機会を持ったのは美術史上でも奇跡的な出来事言えます。
東京都美術館の『ゴッホとゴーギャン展』では、ファン・ゴッホとゴーギャンの初期から晩年にわたる油彩画約50点が展示されており、二人の画家画風の変遷と個性の違い、及びこの二人が2か月の共同生活で何を得たかを感じることができました。
フィンセント・ファン・ゴッホは27歳で画家を志しました。ミレーやカミーユ・コローらバルビゾン派の作品を好み手本とし、農民や労働者の日常生活を描きました。この時期の現実の世界に真摯に向かい合う姿勢は、ゴッホの制作活動の生涯を通しての根幹となりました。
ゴーギャンは株式仲買人として働く傍ら、画塾へ通い始めました。ゴッホと同様にバルビゾン派から影響を受けるとともに、画塾で知り合ったピサロの影響を受け、印象派の画風の作品を描いていました。34歳のときに仕事を辞め本格的に画家の道へ歩みました。この時期のゴーギャンの作品は写実的な画風で現実の世界を題材とした作品を描いていました。
   ゴッホ『古い教会の塔、ニューネン(「農民の墓地」)』 1885年、
1883年、オランダ北ブラバント州ニューネンに住む両親のもとへ戻ったゴッホは、アトリエで本格的に油彩画に取り組みました。本作は、この時期の代表作といえ、廃墟となった教会の塔とニューネンの農民が眠る墓地が描かれています。これはゴッホ家の住む牧師館の近くの現実の風景で、農民の生と死の営みと信仰のはかなさの対照を象徴的に描いています。
   ゴッホ『織機と織工』 1884年4-5月
全体として暗い色調で描かれ、窓から差し込む光が大きな織機を照らしています。ゴッホは貧しい労働者の姿の他に、「黒い怪物」と喩えた古い織機にも関心を持っていました。
   ゴーギャン『自画像』1885年前半
19世紀を代表する二人の天才画家の共同生活が生み出した成果_a0113718_14051651.jpg 株式仲買人を辞め画家の道を選んだゴーギャンですが、妻やその家族に理解されることはありませんでした。しかしゴーギャンの意志は固く、光の射す方を見つめ絵筆をとる姿に画家の強い決意が感じられます。  
   ゴーギャン『夢を見る子供』(習作)》1881年
ゴーギャンが自身の最高の作品を発表しようと望んだ第7回印象派展(1882年)に出品した作品で、印象派の技法で写実的に描かれていますが、タイトルに示唆されているように、想像や幻想、夢などへの高い関心を認めることができます。飛ぶ鳥の描かれる壁紙は、に装飾的、象徴的な要素を与えています。  
新しい絵画、新たな刺激と仲間との出会い
1886年、パリに出たゴッホは新しい絵画と出合い、前衛的な画家たちと交流をもつようになりました。印象派の輝く色彩や新印象派の点描技法等、幅広い様式と技法を吸収し、表現が急速に変化していきました。
   ゴッホ『パイプをくわえた自画像』 1886年
よい身なりで気品ある人物として描かれた自画像。ゴッホは、次第に明るく強い色調を試みます。
ゴッホはパリに滞在した2年間に30点近くもの自画像を描きました。それぞれ服装、表現方法、色調などが違う作品となっており、ファン・ゴッホが自画像を描く際にさまざまな表現を試みていたと考えられます。
1888年2月末、ゴッホは大都市パリの喧騒を離れ、南仏アルルに移り住みました。南仏の強い光のもと、鮮やかな色彩と激しい筆触を用い日常の現実に根ざしたテーマで絵を描きました。
   ゴッホ『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1886年
ゴッホはパリ滞在時に知り合い、よき友となったトゥールーズ=ロートレックらと共にしばしばムーラン・ド・ラ・ギャレットを描きました。パリの小高い丘の上にあり、モンマルトルの庶民的なキャバレー「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」。風車の付いた粉挽き小屋とダンスホールが備わった建物で、画面中央に配されるムーラン・ド・ラ・ギャレットの左側には数名の人がおり、やや離れた所に2名の人物の歩く姿が描き込まれています。やや退廃的で重々しく、荒涼とした雰囲気や、質素で貧困的印象は都会的な一面と田舎的な一面が混在した当時のモンマルトルの実態をよく示しています。
ゴーギャンは最後の第8回印象派展に参加した後、フランス北西部ブルターニュのポン=タヴェンに居を構えました。「野性的」、「原始的(プリミティヴ)」なものを見出し得る土地で独自の表現を探求していきます。また1887年にはカリブ海のマルティニク島に滞在し、更に大胆な色彩と多様な筆触を試み、新しい様式へ踏み出していきました。 
   ゴーギャン『ブルターニュの少年の水浴』1886年
最初のポン=タヴェン滞在で描かれた作品で、印象派の表現が色濃く残された細かい筆触により水浴する少年を描いています。ブルターニュに求めた農村の日常が表現されています。ゴーギャンは飾り気のない素朴な世界への憧憬を紹介持っていました。これは、ゴッホの思いと共通するものがあります。     
   ゴーギャン『マルティニク島の風景』1887年
入念に構成された構図に、鮮やかな色彩が熱帯の空気を伝えていまが、画家は熱帯の風景を忠実に描いたわけではありません。自然やプリミティヴな生活を求めて辿り着いた風景を描く際、この地点から見えたであろう町の姿は省かれています。ルティニク島の作品をファン・ゴッホは「大変詩的だ」と高く評価していました。 
ゴーギャンとゴッホのアルルでの共同生活
1888年2月末、ゴッホは大都市パリの喧騒を離れ、南仏アルルに移り住みました。南仏の強い光のもと、鮮やかな色彩と激しい筆触を用い日常の現実に根ざしたテーマで絵を描きました。10月には、ゴーギャンがファン・ゴッホの誘いに応じて合流し二人の共同生活が始まりました。時には二人で一緒にイーゼルを並べて制作し、互いの技法や表現を試み、強く刺激を受け合いました。
   ゴッホ『収穫』 1888年
種まきから刈り入れまで季節の移ろいとともに変化する小麦の栽培に魅了され、このテーマを繰り返し描きました。夏の小麦の収穫を描いたこの作品はこのテーマの作品群でも白眉と言える傑作で、ゴッホ自身が「他のすべての作品を圧倒する最高傑作」と認めた自信作です。小麦の実りや屋根の黄やオレンジと空や尾根、荷車の青の対比が美しい色彩のハーモニーを生み出しています。
   ポール・ゴーギャン『ブドウの収穫、人間の悲惨』1888年
ゴーギャンのアルル滞在期の代表作です。アルルで見たブドウの収穫の場面に、ブルターニュの女性、前景にはペルーのミイラのポーズをした悲嘆にくれる女性が描かれています。現実にはないこの光景は、ゴーギャンの記憶と想像から生み出された世界です。
このふたつの作品には、ゴッホとゴーギャンの農村を見る眼の違いが明確に表れています。ゴッホが雄大な農村風景を見ていたとき、ゴーギャンはそこで働く人々の悲惨さを見ていました。
ゴーギャンは、エミール・ベルナールへの手紙で、「このブドウ園はアルルで目にした風景だ。そこに実際にないブルターニュの女性を配してみた。今年描いた最高の絵画だ。」と書いています。ゴッホもこの作品を熱烈に称賛し、テオへの手紙で、「ゴーギャンは完全に記憶からブドウ園の女性たちを描いている。大変素晴らしいかつてない作品となるだろう」と書いています。ゴーギャンの作品はゴッホが想像に基づく制作を試みる契機となりました。
共同生活後のゴッホとゴーギャン
ゴッホとゴーギャンの共同生活は2か月で破綻しました。1888年12月末自身の耳の一部を切り取ったファン・ゴッホは、それ以後も精神障害による発作に苦しみ、アルルから二十数キロ離れたサン=レミの療養院に入院しました。アルルを去りパリに戻ったゴーギャンは、再びフランス北西部のブルターニュ戻りました。
ゴッホとゴーギャンの共同生活は破綻しましたが、友人で画家のエミール・ベルナールも交え三人の交流は書簡を通して続きました。3人の間で交わされた芸術論はゴッホとゴーギャンの作品の重要な刺激となりました。ゴーギャンとベルナールは、結局ゴッホが好まなかった象徴主義へと進みました。ゴッホは現実の世界に根ざした主題を描きながらも、ゴーギャンらの影響を受けて想像から制作する試みを行うこともありました。書簡を通じたゴッホとゴーギャンの交流はゴッホが亡くなるまで続きました。
   ゴッホ『タマネギの皿のある静物』 1889年
ゴッホが退院後すぐに描いた作品で、パイプ、タバコ、コーヒー、アブサンの瓶などゴッホが自身に許していた数少ない嗜好品やテオを想起させる手紙、封をするための蝋と蝋燭などが描かれています。日用品は象徴的な意味をもち、ある意味でファン・ゴッホの自画像ともいえる作品です。 
   ゴッホ『ジョゼフ・ルーランの肖像』 1889年アルル                              
ゴッホが以前描いた肖像画をもとにして制作されたこの作品は、写実的な描写を離れ、より自由な表現が見られます。背景には、ポピー、ヤグルマギク、デイジーなど夏の花々が装飾的に配されています。ここにもゴーギャンの影響が感じられます。
   ゴッホ『刈り入れをする人のいる麦畑』 1889年9月、
サン=レミの療養院の部屋から、ゴッホは小麦畑を見渡すことができました。ゴッホにとって、小麦の成長、成熟、収穫、種まきという毎年繰り返される農作業は、自然のサイクルと四季を象徴するものでした。ゴッホは刈り入れを描いたこの作品に「死」のイメージを見ていたようです。「刈り入れをする人を悪魔に、刈られる小麦を人間に喩える。あらゆるものを美しい黄金色に染める太陽のある白昼のもとで行われ、「死」は全く悲しいものではない」とテオに宛てた手紙に書いていました。
   ゴーギャン『ハム』1889年後半
19世紀を代表する二人の天才画家の共同生活が生み出した成果_a0113718_15110501.jpg ゴーギャンはセザンヌの作品から多くを学びその影響が見られます。大きく描かれたハムは、マネの作品から刺激を受けたものと考えられます。ゴーギャンはドガが入手したマネのハムの静物画を目ました。る本作は夢の中のような印象を与えるこの作品は、ゴッホ『タマネギの皿のある静物』都対照的で、ゴーギャンとゴッホの芸術観の違いが明確に現れています。
   ゴーギャン『紡ぐブルターニュの少女』1889年
ル・プルデュに移り住んだゴーギャンは、ほかの画家たちと一緒に小さな宿の装飾に取り組みました。壁紙に覆われ残されたこの作品は中央にブルターニュの伝統的な衣装に身を包んだ少女、空には黄色い雲から舞い下りる天使が見えます。この謎めいた作品の解釈は困難で、この少女は若き日のジャンヌ・ダルクとも、楽園を追放されたイヴとも、少女の右手は仏陀を参照したとも指摘されています 。  
タヒチのゴーギャン 
1891年、文明の影響から解放されて、「汚れなき自然」を求めたゴーギャンは、南太平洋に浮かぶタヒチへ赴きました。ヨーロッパで過ごしてきたゴーギャンのタヒチへの幻想と現実が融合し、ゴーギャンの象徴主義は複合的な要素を孕んでいきます。様式は一層大胆になりますが、ポン=タヴェン時代と比べて格段に華やかな色彩感覚の作品を残しているのは、ファン・ゴッホの影響と考えることもできます。
   ゴーギャン『タヒチの牧歌』1901年
ゴーギャンは文明化されていない素朴な世界を追求し続けた。現実のタヒチは西洋文明に汚染され幻滅することも多く、最愛の娘の死や悪化する健康状態に悩まされましたが、ゴーギャンは夢見ることをあきらめませんでした。この作品はタヒチで描かれた最後の作品のうちの一点で、簡素な草ぶきの小屋や人物の服装がそうした素朴な生活を描いています。
   ゴーギャン『タヒチの3人』1899年
熱帯らしい鮮やかな背景に、二人の女性と後ろ姿の男性が描かれています。二度目となるタヒチ滞在中に描かれた作品で、左の女性は左手に青いりんごを持つことから「悪」を、右の女性は花を差し出していることから「善」を象徴していると言われています。タヒチで制作されたゴーギャンの作品には、現地の文化とこうした西洋文化など異文化を融合させた構成も認められます。  

 

●ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン  
[ 1848 - 1903 ] フランスのポスト印象派の画家。姓は「ゴギャン」「ゴーガン」とも。
出生から少年時代
ポール・ゴーギャンは、1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父クローヴィス・ゴーギャンは、共和主義者のジャーナリストであった。母アリーヌ・マリア・シャザルの母(祖母)は、初期社会主義の主唱者でペルー人の父を持つフローラ・トリスタンであった。1851年、ナポレオン3世のクーデターで、共和主義者であった父クローヴィスは職を失い、一家は、パリを離れてペルーに向かった。しかし、父クローヴィスは、航海中に急死した。残されたポールとその母と姉は、リマで、ポールの叔父を頼って、4年間を過ごした。母アリーヌは、インカ帝国の陶芸品を好んで収集していた。
ポールが7歳の時、一家はフランスに戻り、父方の祖父を頼ってオルレアンで生活を始めた。ここはゴーギャン家が昔から住んでいた土地であり、スペイン語で育っていたポールは、ここでフランス語を身に付けた。
就職・結婚
ポールは、地元の学校に通った後、ラ・シャペル=サン=メマン(英語版)の格式あるカトリック系寄宿学校に3年間通った。1861年、13歳の時、パリの海軍予備校に入学しようとするが、試験に失敗し、オルレアンに戻ってリセ・ジャンヌ・ダルクを修了した。そして、商船の水先人見習いとなり世界中の海を巡る。1867年7月7日、母が亡くなったが、ポールは、数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知らなかった。その後、1868年、兵役でフランス海軍に入隊し、1870年まで、2年間勤めた。1871年、23歳の時、パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働くようになった。その後11年間にわたり、彼は、実業家として成功し、1879年には、株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていた。
1873年、ゴーギャンは、デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッド(1850年-1920年)と結婚した。2人の間には、エミール(1874年-1955年)、アリーヌ(1877年-97年)、クローヴィス(1879年-1900年)、ジャン・ルネ(1881年-1961年)、ポール・ロロン(1883年-1961年)の5人の子供が生まれた。
絵の修業
株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは、余暇に絵を描くようになった。彼が住むパリ9区には、印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは、画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしていた。カミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描いたりしていた。ピサロは、彼を、他の様々な画家たちにも紹介した。1876年、ゴーギャンの作品の一つがサロンに入選する。1877年、ゴーギャンは、川を渡って都心を離れたパリ15区ヴォージラールに引っ越し、この時、初めて家にアトリエを持った。元株式仲買人で画家を目指していた親友エミール・シェフネッケルも、近くに住んでいた。ゴーギャンは、1879年の第4回印象派展に息子エミールの彫像を出品していたが、1881年と1882年の印象派展には、絵を出展した。作品は、不評であった。
1882年、パリの株式市場が大暴落し、絵画市場も収縮した。ゴーギャンから絵を買い入れていた画商ポール・デュラン=リュエルも恐慌の影響を受け、絵の買付けを停止した。ゴーギャンの収入は急減し、彼は、その後の2年間、徐々に絵画を本業とすることを考えるようになった。ピサロや、時にはポール・セザンヌと一緒に絵を描いて過ごすこともあった。1883年10月、彼は、ピサロに、画業で暮らしていきたいという決心を伝え、助けを求める手紙を送っている。翌1884年1月、ゴーギャンは、家族とともに、生活費の安いルーアンに移り、生活の立て直しを図ったが、うまく行かず、その年のうちに、妻メットはデンマークのコペンハーゲンに戻ってしまった。ゴーギャンも、11月、作品を手にコペンハーゲンに向かった。
ゴーギャンは、コペンハーゲンで、防水布の外交販売を始めたが、言葉の壁にも阻まれ、失敗した。妻メットが、外交官候補生へのフランス語の授業を持って、家計を支える状態であった。ゴーギャンは、メットの求めを受けて、1885年、家族を残してパリに移った。
パリからポン=タヴァンへ(1885年-1886年)
ゴーギャンは、1885年6月、6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻った。その他の子は、コペンハーゲンのメットの元に残り、メットの稼ぎと家族・知人の助けで生活することとなった。ゴーギャンは、画家として生計を立てようと思ったが現実は厳しく、困窮して、雑多な雇われ仕事を余儀なくされている。クローヴィスは病気になり、ゴーギャンの姉マリーの支援で寄宿学校に行くことになった。パリ最初の1年に制作した作品は非常に少ない。1886年5月の第8回(最終回〉印象派展に19点の絵画と1点の木のレリーフを出展しているが、ほとんどがルーアンやコペンハーゲン時代の作品であり、唯一『水浴の女たち』が新たなモチーフを生み出した程度で、新味のあるものはほとんどなかった。それでも、フェリックス・ブラックモン(英語版)はゴーギャンの作品を1点購入している。この時の印象派展で前衛画家の旗手として台頭したのが、新印象派と呼ばれるジョルジュ・スーラであったが、ゴーギャンは、スーラの点描主義を侮蔑した。この年、ゴーギャンは、ピサロと反目し、ピサロはその後ゴーギャンに対して敵対的な態度をとるようになる。
ゴーギャンは、1886年夏、ブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らした。最初は、生活費が安いという理由で移ったのであるが、ここでの若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらした。シャルル・ラヴァルもその1人であり、彼は、後にパナマやマルティニーク島への旅をともにすることとなる。
この年の夏、ゴーギャンは、第8回印象派展で見たピサロやエドガー・ドガの手法をまねてヌードのパステル画を描いている。また、『ブルターニュの羊飼い』のように、人物が表れるものの主に風景を描いた作品を多く制作している。『水浴するブルターニュの少年』は、彼がポン=タヴァンを訪れる度に回帰するテーマであるが、デザインや純色の大胆な使用において、明らかにドガを模倣している。イギリスのイラストレーターランドルフ・コールデコットがブルターニュを描いた作品も、ポン=タヴァンの画家たちの想像力を刺激し、ゴーギャンは、ブルターニュの少女のスケッチで、意識的にコールデコットの作品を模倣している。ゴーギャンは、後にこの時のスケッチをパリのアトリエで油絵に仕上げているが、コールデコットの素朴さを取り入れることで、初期の印象派風の作品から脱皮したものとなっている。
ゴーギャンは、パナマやマルティニーク島から帰った後も、ポン=タヴァンを訪れており、エミール・ベルナール、シャルル・ラヴァル、エミール・シュフネッケル、その他多くの画家と交流した。このグループは、純色の大胆な使用と、象徴的な主題の選択が特徴であり、ポン=タヴァン派と呼ばれることになる。ゴーギャンは、印象派に至る伝統的なヨーロッパの絵画が余りに写実を重視し、象徴的な深みを欠いていることに反発していた。これに対し、アフリカやアジアの美術は、神話的な象徴性と活力に満ちあふれているように見えた。折しも、当時のヨーロッパでは、ジャポニズムに代表されるように、他文化への関心が高まっていた。
ゴーギャンの作品は、フォークアートと日本の浮世絵の影響を受けながら、クロワゾニスムに向かっていった。クロワゾニスムとは、批評家エドゥアール・デュジャルダン(英語版)が、ベルナールやゴーギャンによる、平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴とする描き方に対して付けた名前であり、中世の七宝焼き(クロワゾネ)の装飾技法から来ている。
クロワゾニスムの真髄と言われる1889年の『黄色いキリスト』では、重厚な黒い輪郭線で区切られた純色の色面が強調されている。そこでは、古典的な遠近法や、色の微妙なグラデーションといった、ルネサンス美術以来の重要な原則を捨て去っている。さらに、彼の作品は、形態と色彩のどちらかが優位に立つのではなく、両者が等しい役割を持つ綜合主義に向かっていく。
マルティニーク島
1887年、ゴーギャンは、パナマを訪れた後、6月から11月までの約半年、友人のシャルル・ラヴァルとともに、マルティニークのサン・ピエールに滞在した。ゴーギャンは、パナマ滞在中に破産し、当時のフランス法に従い、ラヴァルとともに、国の費用で本国に戻ることになった。しかし、2人は、マルティニークのサン・ピエール港で船を降りた。この下船が計画的なものだったのか、突発的なものだったのかについては、研究者の間で意見が分かれている。初め、2人は原住民の小屋に住んで人間観察を楽しんでいたが、夏になると暑く、雨漏りがした。ゴーギャンは、赤痢とマラリアにも苦しんだ。マルティニークにいる間、彼は12点前後の作品を制作した。戸外の情景を明るい色彩で描いたものである。島内を旅行して回り、インド系移民の村も訪れたと思われるが、彼の後の作品にはインド的モチーフが取り入れられている。
ゴッホとの共同生活
ゴーギャンのマルティニークでの作品は、絵具商アルセーヌ・ポワティエの店に展示された。ポワティエと取引のあったグーピル商会のテオドルス・ファン・ゴッホ(テオ)とその兄で画家のフィンセント・ファン・ゴッホは、その絵を見て感銘を受けた。テオはゴーギャンの絵を900フランで購入してグーピル商会に展示し、富裕な顧客に紹介した。同時に、フィンセントとゴーギャンも親しくなり、手紙で芸術論を戦わせた。グーピル商会との取引は、テオが1891年1月に亡くなった後も続いた。
1888年、ゴーギャンは、南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で、9週間にわたる共同生活を送った。しかし、2人の関係は次第に悪化し、ゴーギャンはここを去ることとした。12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生した。ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、同じ日の夜、ゴッホが左耳を切り、これを新聞に包んでラシェルという名の娼婦に手渡したのだという。翌日、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはアルルを去った。2人はその後二度と会うことはなかったが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは、1890年、アントウェルペンにアトリエを設けようという提案までしている。
ゴーギャンは、後に、アルルでゴッホに画家としての成長をもたらしたのは自分だと主張している。ゴッホ自身は、『エッテンの庭の想い出』で、想像に基づいて描くというゴーギャンの理論を試してみたことはあったものの、ゴッホには合わず、自然をモデルに描くという方法にすぐに回帰している。
最初のタヒチ滞在
1890年までには、ゴーギャンは、次の旅行先としてタヒチを思い描いていた。1891年2月にパリのオテル・ドゥルオー(英語版)で行った売立てが成功し、旅行資金ができた。この売立ての成功は、ゴーギャンに依頼されたオクターヴ・ミルボーが好意的な批評を書いたことによるものであった。コペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した。その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった。とはいえ、彼は、これまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった。
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごした。パペーテでレジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパペアリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)(英語版)』や、『イア・オラナ・マリア(カタルーニャ語版)』といった作品を描いた。後者は、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっている。
ゴーギャンの傑作の多くは、この時期以降に生み出されている。最初にタヒチ住民をモデルとした肖像画は、ポリネシア風のモチーフを取り入れた『ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)』と考えられる。彼は、この作品を、パトロンでシュフネッケルの友人ジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレイに送った。
ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイ(英語版)という独自の共同体やオロ (神)(英語版)神についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。その最初が『アレオイの種』であり、オロ神の現世での妻ヴァイラウマティを表している。
彼がパリの友人の画家モンフレーに送った絵は、全部で9点であり、これらは、コペンハーゲンで亡きゴッホの作品と一緒に展示された。売れたのはわずか2点で、ゴッホの作品と比べても不評だったものの、好評だったとの報告を聞いてゴーギャンは意を強くし、手元の70点ほどを携えて帰国しようと考えた。いずれにせよ、滞在資金は尽きており、国の費用で帰国するほかなかった。その上、健康も害しており、当地の医者に心臓病だとの診断を受けていた。梅毒の初期症状であったとの見方もある。
ゴーギャンは、後に、『ノアノア』という紀行文を書いている。当初は、自身の絵についての論評とタヒチでの体験を記したものと受け止められていたが、現在では、空想と剽窃が入り込んでいることが指摘されている。この本で、彼は、テハーマナ(通称テフラ)という13歳の少女を現地で妻としていたことを明かしている。1892年夏の時点で、彼女はゴーギャンの子を宿していたが、その後その子がどうなったかの記録はない。芸術新潮2009年7月号によれば、流産したとのことである。
フランスへの帰国
1893年8月、ゴーギャンはフランスに戻り、タヒチの題材を基に作品の制作を続けた。『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』、『ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)』などである。1894年11月にポール・デュラン=リュエルの画廊で開かれた展覧会はある程度の成功を見せ、展示された40のうち11点が相当の高値で売れた。ゴーギャンは、画家がよく訪れるモンパルナス地区の外れにアパルトマンを借り、毎週「サロン」と称して集まりを開いた。インド系とマレー系のハーフだという10代の少女を囲っており、『ジャワ女アンナ(カタルーニャ語版)』のモデルとしている。
11月の展覧会の成功にもかかわらず、ゴーギャンは、デュラン=リュエルとの取引を失っており、その理由は明らかでない。これによって、ゴーギャンは、アメリカ市場への売り込みの機会を失った。1894年初めには、紀行文『ノア・ノア』のために実験的手法による木版画を試みた。その年の夏には、ポン=タヴァンを再訪した。翌1895年、パリで作品の売立てを行ったが、これは失敗に終わった。同年3月、画商アンブロワーズ・ヴォラールが自分の画廊でゴーギャンの作品を展示したが、この時は2人は取引関係の合意には至らなかった。
また、同年4月に開会した国民美術協会のサロンに、冬の間に陶芸家エルネスト・シャプレ(フランス語版)の協力を得て焼き上げていた陶製彫像『オヴィリ(英語版)』を提出した。この作品はサロンに却下されたという説と、シャプレの後押しによってかろうじて入選したという説がある。
この頃には、妻メットとの破局は決定的になっていた。2人が会うことはなく、金銭問題をめぐって争い続けた。ゴーギャンは、叔父イシドアから1万3000フランの遺産を相続したものの、当初、妻に一銭も渡そうとしなかった。最終的に、メットには1500フランが分与されたものの、その後はシュフネッケルを通じてしか連絡をとろうとしなかった。
2度目のタヒチ滞在
ゴーギャンは、1895年6月28日、再びタヒチに向けて出発した。一つの原因は、『メルキュール・ド・フランス』誌の1895年6月号に、エミール・ベルナールとカミーユ・モークレール(英語版)がそろってゴーギャンを批判する記事を書いたことにある。パリで孤立したゴーギャンは、タヒチに逃げ場を求めるほかなかったといわれている。
同年9月にタヒチに着き、その後の6年間のほとんどを、パペーテ周辺の画家コミュニティで暮らした。徐々に絵の売上げも増加しつつあり、友人や支持者の支援もあったため、生活は安定するようになった。ただ、1898年から1899年にはパペーテで事務仕事をしなければならなかったようであるが、記録は余り残っていない。パペーテの東10マイルにある富裕なプナッアウイア(英語版)地区に家を建て、広大なアトリエを構えた。
好きな時には、パペーテに行って植民地の社交界に顔を出せるよう、馬車を持っていた。『メルキュール・ド・フランス』誌を購読し、パリの画家、画商、批評家、パトロンたちと熱心に手紙のやり取りをしていた。パペーテにいる間に、地元の政治では次第に大きな発言権を持つようになり、植民地政府に批判的な地元誌Les Guêpes(スズメバチ)誌に寄稿し、更には自ら月刊誌Le Sourire誌(後にJournal méchant)を編集・刊行するようになった。1900年2月には、Les Guêpes誌の編集者に就任し、1901年9月に島を去るまで続けた。彼が編集者を務めていた間の同誌は、知事と官僚に対する口汚い攻撃が特徴であったが、かといって原住民の権利を擁護しているわけでもなかった。
少なくとも最初の1年は、絵を描かず、彫刻に集中していることをモンフレーに伝えている。この時期の木彫りの彫刻が、モンフレーのコレクションに少数残っている。『十字架のキリスト』という、50センチメートルほどの円柱状の木の彫刻を仕上げているが、ブルターニュ地方のキリスト教彫刻の影響を受けたものと思われる。絵に復帰すると、『ネヴァモア』のように、性的イメージをはらんだヌードを描くようになる。この頃のゴーギャンが訴えようとした相手は、パリの鑑賞者ではなく、パペーテの植民者たちであった。
健康状態はますます悪くなり、何度も入院した。フランスにいた当時、彼はコンカルノーを訪れた際に酔ってけんかをし、足首を砕かれる怪我を負った。この時の骨折が完治していなかった。その治療にはヒ素が用いられた。また、ゴーギャンは湿疹を訴えていたが、現在では、これは梅毒の進行を示すものと推測されている。
1897年4月、彼は、最愛の娘アリーヌが肺炎で亡くなったとの知らせを受け取った。同じ月、彼は、土地が売却されたため家を立ち退かざるを得なくなった。銀行から借入れをして、今までよりも豪華な家を建てようとしたが、身の丈に合わない借入れにより、その年の末には銀行から担保権を行使されそうになった。悪化する健康と借金の重荷の中、絶望の縁に追い込まれた。その年、自ら畢生の傑作と認める大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。モンフレーへの手紙によれば、作品完成の後、自殺を試みたという。この作品は、翌1898年11月、ヴォラールの画廊で、関連作品8点とともに展示された。これは、1893年にデュラン=リュエル画廊で開いて以来の、パリでの個展であり、今度は批評家たちも肯定的な評価を下した。ただ、『われわれはどこから来たのか』は、賛否両論であり、ヴォラールはこれを売るのに苦労した。1901年にようやく2500フランで販売され、そのうちヴォラールの手数料は500フランであったという。
ヴォラールは、それまでジョルジュ・ショーデというパリの画商を通じてゴーギャンから絵を購入していたが、ショーデが1899年秋に死去すると、直接の契約を締結した。この契約で、ゴーギャンは、毎月300フランの前渡金を受け取るとともに、少なくとも25点の作品を各200フランで売り、その上、画材の提供を受けることになった。ゴーギャンは、これによって、より原始的な社会を求めてマルキーズ諸島に移住するという計画が実現できると考えた。そして、タヒチでの最後の数か月を、優雅に暮らした。
ゴーギャンは、タヒチで良い粘土を入手できなかったことから、陶器作品を続けることができなくなっていた。また、印刷機がなかったため、モノタイプ (版画)(英語版)を使わざるを得なかった。
ゴーギャンがタヒチにいる間に妻にしていたのは、プナッアウイア地区に住んでいたパウラという少女で、妻にした時に14歳半であった。彼女との間には2人の子供ができ、うち女の子は生後間もなく亡くなり、男の子はパウラが育てた。パウラは、ゴーギャンがマルキーズ諸島に行く時、同行するのを断った。
マルキーズ諸島
ゴーギャンは、最初にタヒチのパペーテを訪れた時から、マルキーズ諸島で作られた碗や武器を見て、マルキーズ諸島に行きたいという思いを持っていた。しかし、実際にマルキーズに行ってみて分かったのは、ここも、タヒチと同様、文化的な独自性を既に失っているということだった。太平洋の島々の中でも、マルキーズは、最も西欧の病気(特に結核)で汚染された島々だった。18世紀には8万人いたという人口は、当時4000人にまで落ち込んでいた。
ゴーギャンは、1901年9月16日、ヒバ・オア島に着き、アトゥオナの町に住み始めた。アトゥオナは、マルキーズ諸島全体の政庁がある所で、パペーテよりは開発が遅れていたが、パペーテとの間で汽船の定期便があった。医師がいたが、翌年2月にパペーテに去ってしまったため、ゴーギャンは、ベトナム人冒険家のングエン・ヴァン・カムと、プロテスタントの牧師で医学を学んだことがあるというポール・ヴェルニエに病気の治療を頼ることになり、2人と親しくなった。
ゴーギャンは、ミサに欠かさず通うことで地元の司教の機嫌をとってから、町の中心部にカトリック布教所から土地を買い取った。司教ジョセフ・マルタンは、当初、タヒチでゴーギャンがカトリック側を支持する言論活動を行っていたことから、ゴーギャンに好意的に振る舞った。
ゴーギャンは、この土地に2階建ての建物を建て、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけた。壁には、彼が集めたポルノ写真が飾られていた。初めの頃、この家には、写真を見ようと多くの地元住民が詰めかけた。このことだけでも司教には不快なことだったが、ゴーギャンは、その上、司教とその愛人と噂される召使を当てこすった2体の彫刻を階段の前に置いたり、カトリックのミッション・スクールの制度を批判したりしたことで、司教との関係は更に悪化した。
ゴーギャンは、ミッション・スクールから2マイル半以上離れた生徒は通学の義務がないと主張し、これによって多くの女生徒が学校に行かなくなってしまった。その中の1人、14歳の少女ヴァエホ(マリー=ローズとも呼ばれた)を、彼は妻とした。少女にとっては、健康状態のますます悪化したゴーギャンを毎日手当てしてやらなければならず、楽な仕事ではなかった。それでも、彼女はゴーギャンとの同居を選び、翌年には娘を生んだ。
1901年11月までに、新居を設け、ヴァエホ、料理人と2人の召使、犬のペゴー、猫1匹と暮らし始めた。ここでゴーギャンは制作に専念するようになり、翌1902年4月にはヴォラールに20枚のキャンバスを送っている。彼は、モンフレーに、マルキーズではモデルも見つけやすいので新しいモチーフを見つけることができると思うと書き送っている。
ゴーギャンは、タヒチ時代のテーマを避けて、風景画、静物画、人物の習作に取り組んだが、タヒチ時代の絵を深化させた『扇を持った若い女』、『赤いケープをまとったマルキーズの男』、『未開の物語』という3作品を制作している。
1902年には、ゴーギャンの健康状態は再び悪化し、足の痛み、動悸、全身の衰弱といった症状に悩まされた。9月には、足の怪我の痛みが激しくなり、モルヒネ注射をせざるを得なくなった。視力も悪化し、最後の自画像で、彼は眼鏡をかけている。
1902年7月、妊娠中だったヴァエホが、ゴーギャンのもとを去り、家族と友人のいる隣村で子供を産もうと、帰ってしまった。ヴァエホは、9月に子供を産んだが、戻ってくることはなかった。ゴーギャンは、その後、新たな「妻」を設けることはしていない。ちょうどこの時期に、ゴーギャンとマルタン司教との間でのミッション・スクールをめぐる論争が加熱していた。
12月には、病気のため、ほとんど絵の制作ができなくなった。『前語録 (Avant et après)』と題する自伝的回顧録を書き始め、2か月で完成させた。表題には、タヒチに来る前と後の体験を綴ったという意味と、祖母の回顧録『過去と未来』への敬意が含まれていると考えられる。ポリネシアでの生活、自分の生涯、文学・絵画への批評などが雑多に綴られたものである。その中には、地元当局や、マルタン司教、妻メットやデンマーク人一般などへの批判も盛り込まれている。
1903年初頭、ゴーギャンは、島の国家憲兵ジャン=ポール・クラヴェリーやその部下の無能力や汚職を告発する活動を始めた。ゴーギャンは、逆にクラヴェリーから名誉毀損で告発され、3月27日、罰金500フラン、禁錮3か月の判決を受けた。ゴーギャンはすぐにパペーテの裁判所に控訴し、その旅費の資金集めを始めたが、5月8日の朝、急死した。
死去
ゴーギャンは、名誉毀損で有罪判決を受けてから、その控訴のための準備をしていた。この時点で体力は落ち込んでおり、体の痛みも激しかった。彼は、再びモルヒネに頼るようになった。死は、1903年5月8日の朝、突然訪れた。それに先立ち、ゴーギャンは、ポール・ヴェルニエ牧師を呼び、ふらふらすると訴えている。ヴェルニエ牧師は、ゴーギャンと言葉を交わし、容態が安定していると考えて立ち去った。ところが、午前11時、近くの住人ティオカが、ゴーギャンが死んでいるのを発見した。そして、マルキーズ諸島の伝統的なやり方に則って、蘇りのために彼の頭を噛んだ。枕元には、アヘンチンキの空の瓶が置いてあり、その過剰摂取が死の原因ではないかと疑われることになった。他方、ヴェルニエは、心臓発作が死因だと考えている。
ゴーギャンは、翌9日の午後2時、カトリック教会のカルヴァリー墓地に埋葬された。1973年、彼の遺志に従って、『オヴィリ』のブロンズ像が横に置かれた。皮肉にも、ゴーギャンの墓の一番近くに埋葬されているのは、マルタン司教である。
ゴーギャン死亡の報は、1903年8月23日までフランスに届かなかった。遺言はなく、価値のない家財はアトゥオナで競売に付され、手紙、原稿、絵画は9月5日にパペーテで競売にかけられた。このように財産が速やかに処分されてしまったため、彼の晩年に関する情報が失われてしまったと指摘されている。メット・ゴーギャンが競売の売上金を受け取ったが、およそ4000フランであった。
後世
ポール・セザンヌに「中国の切り絵」と批評されるなど、同時代の画家たちからの受けは悪かったが、没後西洋と西洋絵画に深い問いを投げかけたゴーギャンの孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得していった。
イギリスの作家サマセット・モームの代表作『月と六ペンス』(初刊は1919年出版)の主人公の画家のモデルであった。
2015年2月7日 Nafea Faa Ipoipo(いつ結婚するの)1892年作が、プライベートセールにかけられ、史上最高額となる3億ドル(日本円でおよそ360億円)で落札された。  

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 



2019/12
 
 
 

 

●小説や詩集に見る・・・向日葵・日輪草・・・ 
 
向日葵
  ●ひまわり
○ 草夾竹桃くさけふちくたうの花はながもさ/\と茂しげつた儘まま向日葵ひまわりの側そばに列れつをなして居ゐる   土 / 長塚節
○ 昼間は雪を太陽がキラキラてらして、向日葵ひまわりの種売りの女が頭からかぶっている花模様のショールの赤や黄の北方風の色。   獄中への手紙 / 宮本百合子
○ そしていまや、その横町の両側の花畑には、向日葵ひまわりだの、ダリヤだの、その他さまざまの珍らしい花が真っさかりであった。   美しい村 / 堀辰雄
○ 向日葵ひまわりの花を見ようとするとわれわれの目にはすぐにヴァン・ゴーホの投げた強い伝統の光の目つぶしが飛んで来る。   備忘録 / 寺田寅彦
○ 彼は客間の窓から顔を出して中庭に咲いている向日葵ひまわりの花をぼんやり眺ながめていた。それは西洋人よりも脊高く伸びていた。   ルウベンスの偽画 / 堀辰雄
○ 「そんな小さいものじゃ指環の文字は読めるだろうが、此向日葵ひまわりの眼にはならないよ、しっかりおし、女探偵さん」   向日葵の眼 / 野村胡堂
○ 第一門の扉の飾りが向日葵ひまわり、一歩中へ入ると、庭の花壇は向日葵ひまわりと姫向日葵ひめひまわりだらけ。   向日葵の眼 / 野村胡堂
○ 曇暗どんあんの雲にかくれて、太陽の光も見えない夏の昼に、向日葵ひまわりはやはり日の道を追いながら、雨にしおれて傾いているのである。   郷愁の詩人 与謝蕪村 / 萩原朔太郎
○ 大きいまるで見知らぬ都会の景色のなかでナースチャになじみのあるのは向日葵ひまわりの種売りだけであった。   赤い貨車 / 宮本百合子
○ 向日葵ひまわりが日の光の方に延びて成長してゆくように、神様のめぐみの導きの方へむかってお進みなさい。   愛と認識との出発 / 倉田百三
○ 鳶色の肌をしたこの魔法使は、皆の見る前で砂を盛った植木鉢のなかに、一粒の向日葵ひまわりの種子を蒔く。   艸木虫魚 / 薄田泣菫
○ 夏の日ざかりに向日葵ひまわりが軒を越えるほど高く大きく咲いたのも愉快であったが、紫苑が枝や葉をひろげて高く咲き誇ったのも私をよろこばせた。   綺堂むかし語り / 岡本綺堂
○ 「新緑の間」だの「白鳥の間」だの「向日葵ひまわりの間」だの、へんに恥ずかしいくらい綺麗きれいな名前がそれぞれの病室に附せられてあるのだ。   パンドラの匣 / 太宰治
公園じゅうにアイスクリーム売りの手押車と向日葵ひまわりの種、糖果コンフエクトなどを売る籠一つ、あるいは二尺四方の愛嬌よき店がちらばった。   赤い貨車 / 宮本百合子
○ 大村も英二も、火星を覗きにかけつける筈になっていた天文台のことも忘れ、夕闇に浮んだ窓辺の向日葵ひまわりをしのぐ巨大な菊の花に見入っていた。   火星の魔術師 / 蘭郁二郎
○ 夏の日ざかりに向日葵ひまわりが軒を越えるほど高く大きく咲いたのも愉快であったが、紫苑が枝や葉をひろげて高く咲き誇ったのも私をよろこばせた。   郊外生活の一年:大久保にて / 岡本綺堂
○ 三藏の家の庭の向日葵ひまわりが一度𢌞ると三津の濱に二艘の汽船が著いて三藏は一册の小説を讀み終る。   俳諧師 / 高浜虚子
○ 側そばには長大ちやうだいな向日葵ひまわりが寧むしろ毒々どく/\しい程ほど一杯ぱいに開ひらいて周圍しうゐに誇ほこつて居ゐる。   土 / 長塚節
○ 箱の頂きには土が盛られ、そこに植えられた十本の薬草、花開いて黄金色こがねいろ、向日葵ひまわりのような形であったが、ユラユラと風に靡いている。   任侠二刀流 / 国枝史郎
○ もう一人の嫁のヷルヷーラは、開けはなした二階の窓際で、向日葵ひまわりの種子を齧かじっていた。   女房ども / アントン・チェーホフ
○ 向日葵ひまわりの種をかんで、そのからを雪の上へほき出しながら散歩のようにゆく少年がある。   道標 / 宮本百合子
○ 窓の下には背の低くて小さい向日葵ひまわりと、赤がちの黄の金盞花きんせんかが咲いていた。   フレップ・トリップ / 北原白秋
○ 語学的天才たる粟野さんはゴッホの向日葵ひまわりにも、ウォルフのリイドにも、乃至ないしはヴェルアアランの都会の詩にも頗すこぶる冷淡に出来上っている。   十円札 / 芥川竜之介
○ 「僕、昨夜、向日葵ひまわりの夢を見ました。暁方あけがたまでずっと見つづけましたよ。」と冷水につけた手で顔をごしごし擦こすり乍ながら氏は私に云う。   鶴は病みき / 岡本かの子
○ 向日葵ひまわりの苗を、試みにいろんな所に植えてみた。日当たりのいい塵塚ちりづかのそばに植えたのは、六尺以上に伸びて、みごとな盆大の花をたくさんに着けた。   柿の種 / 寺田寅彦
○ ホテルでは、夫人の部屋は二階にあって、向日葵ひまわりの咲いている中庭に面していた。   聖家族 / 堀辰雄
○ 光る鉄道線路を越えたり、群る向日葵ひまわりを処々の別荘の庭先に眺めたり、小松林や海岸の一端に出逢であったりして尋ね廻ったが、思い通りの家が見つからなかった。   鶴は病みき / 岡本かの子
○ 向日葵ひまわりと白蓮びゃくれんとが、血を含んで陽の中にふるえているようだ。   次郎物語:01 第一部 / 下村湖人
○ それは、輝く太陽よりも、咲誇る向日葵ひまわりよりも、鳴盛なきさかる蝉せみよりも、もっと打込んだ・裸身の・壮さかんな・没我的な・灼熱しゃくねつした美しさだ。   悟浄歎異:―沙門悟浄の手記― / 中島敦
  ●ひまはり
○ 向日葵ひまはりは蕾つぼみが非常ひじやうに膨ふくれて黄色きいろに成なつてから卯平うへいが植うゑたのであつた。   土 / 長塚節
○ ゴツホの向日葵ひまはりの写真版の今日こんにちもなほ愛翫あいぐわんせらるる、豈あに偶然の結果ならんや。   続野人生計事 / 芥川竜之介
○ 向日葵ひまはり、向日葵ひまはり、百日紅ひやくじつこうの昨日きのふも今日けふも、暑あつさは蟻ありの數かずを算かぞへて   月令十二態 / 泉鏡花
○ 向日葵ひまはりの花、磨き立てた銅盥かなだらひの輝きを持つて、によつきりと光と熱との中に咲いてゐる。   樹木とその葉:12 夏のよろこび / 若山牧水
○ くだんの美人はこの絶景に見とれて、途々根気よく頬ばつてゐた向日葵ひまはりの種の殻を吐きだすことも打ち忘れてぼんやりと考へこんでしまつた。   ディカーニカ近郷夜話 前篇:03 ソロチンツイの定期市 / ニコライ・ゴーゴリ
○ 丈たけひくき向日葵ひまはり童子どうじうちならび直ただに射さす日に面おもあげて佇たつ   白南風 / 北原白秋
○ 丈たけひくき向日葵ひまはり童子どうじうちならび直ただに射さす日に面おもあげて佇たつ   白南風 / 北原白秋
○ 日に向ふ向日葵ひまはり童子どうじ前なるがいといと小ちさし面おもて直ただにあげぬ   白南風 / 北原白秋
○ 日に向ふ向日葵ひまはり童子どうじ前なるがいといと小ちさし面おもて直ただにあげぬ   白南風 / 北原白秋
○ 向日葵ひまはりの花はなは高たかく蓮はすの葉はの如ごとく押被おつかぶさつて   星あかり / 泉鏡花
○ ホテルでは、夫人の部屋は二階にあつて、向日葵ひまはりの咲いてゐる中庭に面してゐた。   聖家族 / 堀辰雄
○ 壁には大きな向日葵ひまはりの花の中から黒牛くろうしが頭を出して居る絵もあつた。   巴里より / 与謝野寛、与謝野晶子
○ うち沈む黒き微塵みぢんの照りにして暑しよは果しなし金きんの向日葵ひまはり   黒檜 / 北原白秋
○ 卯平うへいがのつそりと大おほきな躯幹からだを立たてた傍そばに向日葵ひまはりは悉ことごとく日ひに背そむいて昂然かうぜんとして立たつて居ゐる。   土 / 長塚節
○ 向日葵ひまはりを一輪活けて幸ひのうちあふれたる青玉せいぎよくの壺   註釈与謝野寛全集 / 与謝野晶子
○ 向日葵ひまはりが垂れた首のやうに砂の中に立つてゐた。   榛名 / 横光利一
○ 大輪の向日葵ひまはりを斫らんとして、   晶子詩篇全集拾遺 / 与謝野晶子
○ と云つたやうな趣おもむきのある街で、土塀が崩くづれてゐたり家竝が傾きかかつてゐたり——勢ひのいいのは植物だけで時とすると吃驚びつくりさせるやうな向日葵ひまはりがあつたりカンナが咲いてゐたりする。   檸檬 / 梶井基次郎
○ 向日葵ひまはりの実を食はむ小鳥。   晶子詩篇全集 / 与謝野晶子
○ 狂院の向日葵ひまはりの種握りしめ   今日:02 今日 / 西東三鬼
○ 向日葵ひまはりの月に遊ぶや漁師達   普羅句集 / 前田普羅
○ 焦げて図太い向日葵ひまはりが   山羊の歌 / 中原中也
○ 直ぐに一輪、向日葵ひまはりの   晶子詩篇全集拾遺 / 与謝野晶子
○ 大きな窓が向日葵ひまはりの   晶子詩篇全集 / 与謝野晶子
○ 向日葵ひまはりは肩の上に   測量船 / 三好達治
○ 瑠璃子夫人は、あの太陽に向つて、豪然と咲き誇つてゐる向日葵ひまはりに譬へたならば、それとは全く反対に、鉢の中の尺寸の地の上に、楚々として慎やかに花を付けるあの可憐な雛罌粟ひなげしの花のやうな女性が、夫人の手近にゐることを、人々は忘れはしまい。   真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
○ 恰好のいい向日葵ひまはりのいつぱい咲き乱れた菜園の上には、翠玉石エメラルドいろ、黄玉石トッパーズいろ、青玉石サファイヤいろ等、色さまざまな、微細な羽虫が翔び交ひ、野づらには灰いろの乾草の堆積やまや黄金いろの麦束が、野営を布いたやうに、果しもなく遠近をちこちに散らばつてゐる。   ディカーニカ近郷夜話 前篇:03 ソロチンツイの定期市 / ニコライ・ゴーゴリ
  ●ひぐるま
○ 向日葵ひぐるま向日葵囚人馬車の隙間すきまより見えてくるくるかがやきにけれ   桐の花 / 北原白秋
○ われらいま黄金こがねなす向日葵ひぐるまのもとにうたふ。   思ひ出:抒情小曲集 / 北原白秋
○ 誓願せいぐわんは向日葵ひぐるまに——菩提ぼだいの東、   有明集 / 蒲原有明
○ 向日葵ひぐるまの蘂ずゐの粉の黄金こがねにまみれ、   有明集 / 蒲原有明
○ おしろい草の赤いのと、向日葵ひぐるまの黄いのと、松の青いのとを隔てゝ、白い服を着た男と、羽織袴の若い書生と、寺男らしい爺とが、庫裡で顔を合せて何か頻りに話してゐるのが絵か何ぞのやうに見えた。   百日紅 / 田山花袋、田山録弥
○ 光は薔薇いろ、向日葵ひぐるま、金色こんじき。   畑の祭 / 北原白秋
○ あはれ、あはれ、黄金こがね向日葵ひぐるま   邪宗門 / 北原白秋
○ 向日葵ひぐるま見たいに夕日を照りかへし、   思ひ出:抒情小曲集 / 北原白秋
○ 向日葵ひぐるまの日に蒸すにほひ、   邪宗門 / 北原白秋
  ●こうじつあおい
○ 麗子さん、今度はハッキリ読めそうよ、随分素晴らしい凸レンズね——聞いて頂戴、最初は向の字——その次は日の字——、それから葵という字——、向日葵こうじつあおいと書いて、ひまわりと読むんでしたね、その次は、に、眼め、を、与えよ——続けて読むと『向日葵ひまわりに眼を与えよ』となるワ。   向日葵の眼 / 野村胡堂
  ●向日葵 こうじつき(カウジツ‥)
「ひまわり(向日葵)」の漢名。
  ●葵 あおい(あふひ)
アオイ科の植物、タチアオイ、フユアオイ、ゼニアオイ、トロロアオイ、モミジアオイなどの俗称。「二葉葵」のこと。「立葵」のこと、現在「あおい」といえば、この植物をさす。《季・夏》。「寒葵」のこと。「天竺葵」のこと。襲(かさね)の色目の名。表は薄青、裏は薄紫。陰暦四月に着用する。葵の葉を図案化した模様。(「青いもの」の略か)蕎麦(そば)をいう女房詞。紋所の名。フタバアオイの葉を図案化したもの。徳川家の紋所の葵巴(あおいどもえ)。転じて、徳川家や江戸幕府をいう。「葵祭」の略。遊女が金銭をいう。
  ●双葉葵・二葉葵 ふたばあおい(‥あふひ)
ウマノスズクサ科の多年草。本州、四国、九州の山地や樹陰に生える。茎は地表をはい節ごとにひげ根をおろす。葉は茎の先端に二枚ずつ接近して互生し、心臓形で長柄をもつ。春、葉柄の間に淡紅紫色で径約1cmの鐘形花を一個下向きにつける。花弁はない。京都賀茂神社の神紋や徳川家の紋章に用いられた。かもあおい。ひかげぐさ。ふたばぐさ。《季・夏》。紋所の名。交差させた二本の蔓(つる)の先に一葉ずつの葵を付した紋。
  ●立葵 たちあおい(‥あふひ)
アオイ科の越年草。地中海地方原産で、観賞用に庭園に栽培される。高さ約2m。全体に毛を密生。葉は長柄をもち心臓状円形で浅く五〜七裂し、縁に鋸歯がある。初夏、葉腋に一個ずつ径10cmぐらいのらっぱ形の五弁花が咲く。花は赤・紅・白・黄・黒色などで八重咲きのものもある。漢名、蜀葵。はなあおい。つゆあおい。からあおい。《季・夏》。「えんれいそう(延齢草)」の異名。茎のある葵の葉三つを杉形(すぎなり)に立てた形を図案化した紋所。
  ●寒葵 かんあおい(‥あふひ)
ウマノスズクサ科の多年草。地下茎から二〜三葉を根生する。葉は長柄をもち、長さ約10cmの広卵形または心臓形で、しばしば白斑や白脈がはいる。冬、葉間から短い花柄が出て、先端が三裂した直径2cmほどの暗紫色の筒状花が開く。観賞用として栽培されるが、本州、四国、九州の山地の樹下に野生する。植物学上は数十種に分けられている。漢方では、根を利尿薬、また、かぜ薬などにする。つぶねぐさ。ふまがみ。ちょうじゃのかま。ちゃがまのき。おけばな。いしばさみ。べにちょく。《季・冬》。「ふゆあおい(冬葵)」の異名。
  ●天竺葵 てんじく‐あおい(テンヂクあふひ)
フウロソウ科の低木状多年草。南アフリカ原産で、観賞用に栽培される。高さ30〜50cm。全体に細毛を密布する。葉は長柄をもち円状腎臓形でふつう浅く七裂、裂方の縁に鈍鋸歯がある。夏、葉腋から長い花柄がのび、淡紅・濃紅・白色などの五弁花が集まって咲く。品種が多い。ゼラニウム。《季・夏》。 
日輪草
  ●ひまわりそう
○ 熊くまさんは、日輪草ひまわりそうのことを、ひめゆりと覚えていたので、その通りお内儀かみさんに言いました。   日輪草:日輪草は何故枯れたか / 竹久夢二
○ 「日輪草ひまわりそう」の熊くまさんも私の姿に違いありません。   はしがき / 竹久夢二
○ 「日輪草ひまわりそうさ」車掌さんが教えました。   日輪草:日輪草は何故枯れたか / 竹久夢二
○ 北の山の方から吹いてくる風が、子供部屋の小さい窓ガラスを、かたかたいわせたり、畑の唐もろこしの枯葉を、ざわざわゆすったり、実だけが真黒まっくろくなって竹垣によりかかって立っている日輪草ひまわりそうをびっくりさせて、垣根の竹の頭で、ぴゅうぴゅうと、笛をならしたりしました。   玩具の汽缶車 / 竹久夢二
  ●にちりんそう
○ 日輪草にちりんそうの花のような尨大ぼうだいな眼。   かの女の朝 / 岡本かの子
  ●ひまわり
○ けれど出窓のところに紅雀べにすずめがいたり、垣根のわきに日輪草ひまわりが咲いていたりすると、きっと立止って、珍らしそうに眺めたり、手に触れるものは、きっと触って見るのでした。   誰が・何時・何処で・何をした / 竹久夢二
日車
  ●ひぐる
○ 日車ひぐるまは莟つぼみを持っていまだ咲かず、牡丹ぼたんは既に散果てたが、姫芥子ひめげしの真紅まっかの花は、ちらちらと咲いて、姫がものを言う唇のように、芝生から畠を劃かぎって一面に咲いていた三色菫さんしきすみれの、紫と、白と、紅くれないが、勇美子のその衣紋えもんと、その衣きぬとの姿に似て綺麗である。   黒百合 / 泉鏡花
日向葵
  ●ひまわり
○ 漆の木、淡竹、虎杖いたどり、姫日向葵ひまわりの葉、そうした木草の枝葉が強い風に掻きまわされ、白い縄のような雨水に洗われて物凄かった。   変災序記 / 田中貢太郎
○ この樹木の多い緑深い静かな町のとある垣根を越えた幾本かの日向葵ひまわりの花が、しずかに朝日をあびながらゆらりと揺れているのが、特に山の手の朝らしく目に触れた。   或る少女の死まで / 室生犀星
○ あるいは庭に咲く日向葵ひまわり、日夜我らの親しむ親や子供の顔。   院展遠望 / 和辻哲郎
○ 陽ざかりの日向葵ひまわりの花のような、どこにも翳かげのない明るい顔だちは、以前とすこしも変わらないが、いったい、どんなお化粧の仕方をするのか、唇などはいかにも自然な色に塗られ、頬はしっとりと落ちついた新鮮な小麦色をしている。   キャラコさん:06 ぬすびと / 久生十蘭
  ●ひぐるま
○ 暮れてゆく夏の思と、日向葵ひぐるまの   邪宗門 / 北原白秋  
 

 

●日輪草 日輪草は何故枯れたか / 竹久夢二  
三宅坂の水揚ポンプのわきに、一本の日輪草が咲いていました。
「こんな所に日輪草が咲くとは、不思議じゃあありませんか」
そこを通る人達は、寺内将軍の銅像には気がつかない人でさえ、きっとこの花を見つけて、そう言合いました。
熊吉くまきちという水撒みずまき人夫がありました。お役所の紋のついた青い水撒車を引張って、毎日半蔵門の方から永田町へかけて、水を撒いて歩くのが、熊さんの仕事でした。
熊さんがこうして、毎日水を撒いてくれるから、この街筋の家では安心して、風を入れるために、障子を明けることも出来るし、学校の生徒たちも、窓を明けておいてお弁当を食べることが出来るのでした。
熊くまさんは、情なさけ深い男でしたから、道の傍そばの草一本にも気をつけて、労いたわるたちでした。
熊さんはある時、自分の仕事場の三宅坂の水揚ポンプの傍に、一本の草の芽が生えたのを見つけました。熊さんは朝晩その草の芽に水をやることを忘れませんでした。可愛かあいい芽は一日一日と育ってゆきました。青い丸爪まるづめのような葉が、日光のなかへ手をひろげたのは、それから間もないことでした。風が吹いても、倒れないように、熊さんは、竹の棒をたててやりました。
だが、それがどんな植物なのか、熊さんにはてんで見当がつきませんでした。円い葉のつぎに三角の葉が出て、やがて茎の端に、触角のある蕾つぼみを持ちはじめました。
「や、おかしな花だぞ、これは、蕾に角が生えてら」
つぎの日、熊さんが、三回目の水を揚げたポンプのところへやってくるとその草は、素晴らしい黄いろい花を咲かせて、太陽の方へ晴晴はればれと向いているのでした。熊さんは、感心してその見事な花を眺めました。熊さんは、電車道に立っている電車のポイントマンを連れてきて、その花を見せました。
「え、どうです」
「なるほどね」ポイントマンも感心しました。
「だが、なんという花だろうね、車掌さん」熊さんはききました。
「日輪草ひまわりそうさ」車掌さんが教えました。
「ほう、日輪草というだね」
「この花は、日盛りに咲いて、太陽が歩く方へついて廻まわるから日輪草って言うのさ」
熊さんはもう嬉うれしくてたまりませんでした。熊さんは、永田町の方へ水を運んでいっても、早く日輪草を見たいものだから、水撒車みずまきぐるまの綱をぐんぐん引いて、早く水をあけて、三宅坂へ少しでも早く帰るようにしました。だから熊さんの水撒車の通ったあとは、いくら暑い日でも涼しくて、どんな風の強い日でも、塵ほこり一ツ立ちませんでした。
太陽が清水谷しみずだに公園の森の向うへ沈んでしまうと、熊さんの日輪草も、つぼみました。
「さあ晩めしの水をやるぞい。おやお前さんはもう眠いんだね」
熊さんはそう言って、首をたれて寝ている花をしばらく眺めました。時によると、日が暮れてずっと暗くなるまで、じっと日輪草をながめていることがありました。
熊さんのお内儀かみさんは、馬鹿ばか正直なかわりに疑い深いたちでした。このごろ熊さんの帰りが晩おそいのに腹をたてていました。
「お前さんは今まで何処どこをうろついていたんだよ。いま何時だと思っているんだい」
「見ねえな、ほら八時よ」
「なんだって、まああきれて物が言えないよ、この人は、いったいこんなに晩おそくまでどこにいたんだよ」
「三宅坂よ」
「三宅坂だって! 嘘うそを言ったら承知しないよ。さ、どこにいたんだよ、誰だれといたんだよ」
「ひめゆりよ」
「ひめゆり! ?」
熊くまさんは、日輪草ひまわりそうのことを、ひめゆりと覚えていたので、その通りお内儀かみさんに言いました。それがそもそも事の起りで、熊さんよりも、力の強いお内儀さんは、熊さんを腰の立たないまで擲なぐりつけました。
「草だよ、草だよ」
熊さんがいくら言訳をしても、お内儀さんは、許すことが出来ませんでした。
翌日あくるひは好いい天気で、太陽は忘れないで、三宅坂の日輪草にも、光と熱とをおくりました。日輪草は眼めをさましましたが、どうしたことか、今日は熊さんがやって来ません。十時になっても、十二時が過ぎても、朝の御馳走ごちそうにありつけませんでした。日輪草は、太陽の方へ顔をあげている元気がなくなって、だんだん首をたれて、とうとうその晩のうちに枯れてしまいました。  
 

 

●誰が・何時・何処で・何をした / 竹久夢二  
二人の小さな中学生が、お茶の水橋の欄干にもたれて、じっと水を見ていました。
「君、この水はどこへ往いくんだろうね」
「海さ」
「そりゃ知ってるよ。だけど何川の支流とか、上流とか言うじゃないか」
「これは、神田川にして、隅田川に合がっして海に入るさ。」
「そう言えば、今頃いまごろは地理の時間だぜ、カイゼルが得意になって海洋奇談をやってる時分だね」
Aの方の学生がずるそうに、そう言い出したので、Bの方も無関心でいるわけにゆかないものですから、わざと気がなさそうに、
「ああ」と言いました。この二人の小さな中学生は、今日学校を脱出エスケープしたのです。というのは、この学校では八時の開講時間が一分遅れても、門をがたんと閉めて生徒を入れないほど万事やかましい学校でした。Aは昨夜ゆうべギンザ・シネマへいったので今日寝坊してしまったのです。大急ぎで学校へくる道で、学校の方から帰ってくるBに逢あいました。
「閉め出しだ」Bが言いました。
「君もおくれたの?」Aは、おなじ境遇におかれる友達が一人出来たのに力を得ながら言いました。
「家うちへ帰る?」
「家へなんか帰ったら余計にわるいよ。散歩しようじゃあないか、どこか」
「ああ」気の弱いAも、そうするより外ないと思って、Bのようにすることに決めました。
「ニコライへいって見ないか?」
「ああ」
そこで二人の小さな中学生は、大学の学生が大威張りで銀座を散歩するようなつもりで、もしその勇気があったら巻煙草まきたばこをくわえて肩をあげて、ついついという足どりで、歩いて見たいのでした。
「なあんだ、ニコライ堂は帽子を脱いでしまったじゃないか」
塔を見あげながら生意気らしくズボンのポケットに手を入れて、Bが言いました。
「ほんとだ、地震に降参しちゃったんだね」
Aはまだどうも学校へ講義をききに這入はいれなかったことが気になって、すっかり、散歩する気持になれないでいるのでした。
学校では、地理の教師のカイゼル(その髯ひげからのニックネーム)が、教壇の上で出席簿をつける。
「ミスタ、ヤマダ」
「ヒヤ」
「ミスタ、コバヤシ」
「ヒヤ」
「ミスタ、ヤマカワ」
「ヒイイズ、アブセン」
Aは、ニコライの柵さくのところから、東京の街を見おろしながら、ミスタ、ヤマカワと呼ばれたような気がして、ひやっとしたのです。
「山川やまかわ、銀座の方へ散歩しようじゃないか」
Bがそう言ったのです。
「うん」
「しっかりしろよ、もう学校はあきらめたんじゃないか」
「そんなこと考えてやしないよ。ただ……」
「ただ心配なんだろう。だって仕方がないよ。遅れたものは遅れたんだから」
「そうさ、銀座へゆこうよ」
二人の小さな中学生は歩き出しました。そこはこの季節によくある、もう春がきたのかしらと思われるような、ぽかぽかと何か柔かい暖かいものが、空気の中に浮いているような素晴らしい上天気でした。
須田町へくると、いろんな人間が忙せわしそうに歩いています。その間をすりぬけて、トラックだの乗合自働車じどうしゃが、ぶうぶうと走っているので、AもBも、すっかり元気づいて、前をちょこちょこ歩いてゆく女のねじパンのような束髪の上を、恰度ちょうど木馬を飛越とびこえる要領で、飛び越えてやりたいような衝動を感じるほど、二人は元気でした。わけもなくお祭のような気がして、気の弱いAも、なんだか嬉うれしくなってきたのです。
それに年末の売出しで、景気づけの紅提燈べにぢょうちんがずらりと歩道の上にかかって、洋品店のバルコニーでは楽隊がマーチをやっていました。中学生達は、口笛で、足拍子をとりながら、肩をくんで、たッたッたッと歩きました。
   けむりもみえずウ くももなく
    かアぜもおこらず なみたたず
    かがみのごときィ こうかいはァ
そうです。ふたりの学生は、一杯帆に風をはらんだ船のように、肺臓に一杯空気をふくらませて、出帆しました。
   かアぜもおこらず なみたたずウ
    たッ たッ たッ
小さな中学生達の航海は、大通おおどおりを真まっすぐに歩くことよりも、人の知らないような航路をとる方が面白いに違いないと思われました。それで、二人はそうしました。
「この芋の山はどうだい!」そこは青物市場で、白い大根や、蕪かぶや、赤い芋が、山のように積みあげてありました。
「ほう、こんな所に芋があるのかなあ」それは新しい発見でありました。
「君、ここは神田の鍛冶町かじちょうだよ、ほら、
   神田鍛冶町の
   角の乾物屋の勝栗かちぐりア
   堅くて噛かめない
   勝栗かちぐりア神田の……」
「は、は、は、あの乾物屋だね、きっと」
二人にとってはそんな風に、何もかも見るものすべて珍しく面白かった。どうしてだろう。学校を脱出エスケープすることは善いことではない。何故なぜ善いことでないか、それにははっきり答えることが出来ないのでした。それにもかかわらずこの航海は素敵におもしろいように見えるのでした。お祭よりも日曜日よりも、もっと、何かしら違った新しい誘惑がありました。
学校の休日やすみびでない日に、こうして街を歩くということは、今まで曾かつてないことでもあったし、冒険に似た心持がうれしいのだった。鎖を放たれた小犬のようにゆっくり歩くことが出来ないで、どんどんと駈かけだしました。けれど出窓のところに紅雀べにすずめがいたり、垣根のわきに日輪草ひまわりが咲いていたりすると、きっと立止って、珍らしそうに眺めたり、手に触れるものは、きっと触って見るのでした。
いつの間にか二人は、日本橋を渡っていました。それから二人はまた野犬のらいぬのように、あっちへ鼻をくっつけたり、こっちへ耳を立てて見たりしながら、どこをどう歩いたのか、大きな川のそばへ出ていました。
「隅田川だね」
「ああ」
ここまでやって来ると、もう二人ともすこし疲れて、それに腹がへっていましたから、ものを言うのさえ臆劫おっくうなのでした。だまって川の端の石の上へ腰をおろしました。
一銭蒸気がぼくぼくぼくと、首だけ出して犬が川を渡るような恰好かっこうをして川を上ったり下ったりしていました。
「お腹なかがすいたね」
「君は弁当持ってる?」
「持ってない、君持ってるの」
「パンがあるよ」
二人は一つの弁当をかわるがわるちぎって食べました。すると何か飲むものがほしくなりました。
眼めの前には沢山水が流れていましたが、黄いろい色をした泥水でした。道の向うに、赤いカーテンを窓にかけた喫茶店がありました。金さえ持っていれば、あすこの椅子いすへ腰をかけて、ソーダ水でもチョコレートでも飲めるのだということを、二人はこの時はじめて気がついたのでした。
「君お金ある?」
「ああ、二十五銭」
「ぼく五銭だ」
「お茶が一杯ずつのめるね」
二人は笑いませんでした。
「なんだか這入はいるのがきまりが悪いね」
「ああ、よそうよ」
二人は喫茶店の店先までそっと歩いていったが、恰度ちょうどその時、中から女の笑声わらいごえがしたので、びっくりして、小さい中学生達はどんどん逃げ出しました。
敵がどこまで追跡してくるかわからないような気がして、なんでも、横町を三つばかり曲って、時計屋の飾窓の下まできて、ほっとして足をとめました。二人は、もう大丈夫だと思ったのです。
   ちっくたっく   ちっくたく
    がっちゃこっと  がっちゃこっと
いろんな時計が、いろんな音をたててうごいているのです。そして八時十五分のもあれば、二時四十分のもありました。
「幾時頃ごろなんだろう」
「時計屋の時計はあてにならないね」
時計屋の隣の散髪屋の時計は、十二時を八分過ぎていました。その隣の果物屋のは、十二時五分前でした。なんしろ今頃学校にいれば午餐ひるをすまして、運動場でキャッチボールでもしている時間でした。
二人はもうちっとも幸福ではありませんでした。何かしら重い袋でも背負っているように、その袋の中に何かしらない心配がつまっているような心持でした。
学校がひける三時まで、こうして街を歩いているのが、とても苦しくて、罰をうけているようだと思われだしました。
「学校へいって見ようか」
「ああ」
二人は、来た道を逆にまた学校の方へ歩き出しました。二人が学校のあの街の方まで辿たどりついたのは、三時を過ぎた時間だったと見えて、もうその辺に知った生徒達の姿は一人も見あたりませんでした。
こわごわ門のとこまできてみると、大きな門はぴったり閉まって先生や小使が出入でいりする脇わきの小門だけが僅わずかに明いていました。
すると砂利を踏む足音が門の中から聞えてきました。
「来た!」
「先生だ!」
学校のわきが原っぱで、垣根の中にアカシヤの木が茂っていました。二人はその中へ飛込んで、死んだようにじっとして、眼めだけ動かしていました。
「あ、あれだ」
「山本先生だ」
それは体操の先生でした。いつもなら怖い山本先生が、今日はなんだか、急になつかしくなって、涙がぼろぼろと出てきました。
こんなことでAもBも、許されない冒険が、そんなに思ったほどたのしいものでないということを学びました。しかしこの経験は、すぐわすれてしまいましたが……。
それよりも、それから後にAが、あの時のことを思出おもいだして、ちょっと顔を赤くするほど恥はずかしかったことがありました。それはAがそのことを誰だれにも言わなかったから、つまり秘密のままでおいたからなのです。
それはこうです。その年が暮れて、あくる年のお正月のことでした。Aの家ではある晩のこと、親類や知人の家の子供達を集めて、一晩カルタやトランプなどをして遊んだことがありました。そのあとで“who, when, where, what”という遊びをしたのです。「誰がいつどこで何をした」と読みあげるのです。詳しく言えば、まず紙片かみきれを四枚ずつみんなに渡します。第一の紙片には、自分の名前を書きます。第二の紙片には、昨日とか、子供の時にとか、時を書きます。それから第三の紙片へは場所です。これも想像してなるべく奇想天外な場所を選んで書きいれるのです。そして最後の紙へ何をしたと書いて、それを誰にも見られないように、予あらかじめ定きめておいた第一の紙片を持つ人に名前の紙を、第二の紙を第二の人に、順々に渡して、みんな揃そろった所で、第一から第二、第三と、連絡をとって読みあげるのです。すると自分の書いた「時」がある人の「所」とくっついたり、人の書いた「したこと」が自分のところへ結びついたりして、思いがけない名文や珍文が出来あがるのです。
ところがその晩どうしたものか不思議にも、中学生Aのところへこんな文章が出てきたのです。
「かっちゃんは、去年の暮、ニコライの塔のてっぺんで、べそをかきました」
というのです。Aのことをみんなかっちゃんと呼んで居ましたから。
「かっちゃんたいへんね」とAの姉さんが言いました。みんなAの方を向いて笑いました。すると十一になる従妹いとこが
「かっちゃん本当?」
と訊ききました。訊く方はむろん冗談だったのですが、当人のかっちゃんは、旧悪が露見したような気がしてはっとしたのです。
「うそだい」
かっちゃんは元気らしくそう言いました。それでもすこし心配なので、そっとお母様の顔を見ました。するとお母様はすこしも感情を動かさない顔でしずかに笑っておいでだった。かっちゃんは、それでほっと助かりました。  
 

 

●はしがき / 竹久夢二  
少年達のため挿絵をかきながら、物語の方も自分でかいて見ようと思立おもいたって、その頃ころまだ私の手許てもとから小学校へ通っていた子供をめやすにかいたのが巻頭の数篇です。中学へ通うようになった時、「誰だれがいつどこで何をした?」をかいて見せました。これはフィリップがお手本になったのですが、「都の眼め」の留吉とめきちにしても「たどんの與太よたさん」の與太郎にしても、みんな私自身の少年の姿です。「日輪草ひまわりそう」の熊くまさんも私の姿に違いありません。
あとの方のお話は、雑誌の挿絵にそえたもので、少年の頃見たり聞いたりした話を思出おもいだしてかいたのです。
姉妹篇「凧たこ」に対して「春」という一字を撰えらんだのです。「春」という字は音が朗ほがらかで字画が好もしいため、本の名にしたわけです。
(千九百二十六年十月) 
 

 

●玩具の汽缶車 / 竹久夢二 
お庭の木の葉が、赤や菫すみれにそまったかとおもっていたら、一枚散り二枚落ちていって、お庭の木はみんな、裸体はだかになった子供のように、寒そうに手をひろげて、つったっていました。
   つづれさせさせ   はやさむなるに
あの歌も、もう聞かれなくなりました。北の山の方から吹いてくる風が、子供部屋の小さい窓ガラスを、かたかたいわせたり、畑の唐もろこしの枯葉を、ざわざわゆすったり、実だけが真黒まっくろくなって竹垣によりかかって立っている日輪草ひまわりそうをびっくりさせて、垣根の竹の頭で、ぴゅうぴゅうと、笛をならしたりしました。
「もう冬が来るぞい」
花子のおばあさんはそう言って、真綿のはいった袖なしを膝ひざのうえにかさねて、背中をまるくしました。
「おばあさん、冬はどこからくるの?」花子がたずねました。
「冬は北の方の山から来るわね。雁がんがさきぶれをして黒い車にのって来るといの」
「そうお。おばあさん、冬はなぜさむいの?」
「冬は北風にのって、銀の針をなげて通るからの」
「そうお。おばあさんは冬がお好き?」
「さればの、好きでもないし嫌いでもないわの。ただ寒いのにへいこうでの」
「そうお」
花子は、南の方の海に近い町に住んでいましたから、冬になると北の方の山国から、炭や薪まきをとりよせて、火鉢に火をいれたり、ストーブをたかねばならぬことを知っていました。おばあさんのために冬の用意をせねばならぬと、花子は考えました。そこで花子は薪と炭のとこへあてて手紙を書きました。
   ことしもまた冬がちかくなりました。おばあさんが寒がります。どうぞはやく来て下さいね。
      花子
   北山薪炭様
北山薪炭きたやましんたんは、花子の手紙を受取りました。
「そうだそうだ。もう冬だな、羽黒山に雪がおりたからな。花子さんのところへそろそろ行かずばなるまい」
北山薪炭はそう言って、山の炭焼小屋の中で、背のびをしました。
「どれ、ちょっくらいって、汽缶車の都合をきいて来ようか」
北山薪炭は、停車場へ出かけました。そこにはすばらしく大きな汽缶車がもくもくと黒い煙をはいているのを見かけました。
「汽缶車さん、ひとつおいらをのっけて、花子さんの町までいってくれないか」
北山薪炭が、そう言いました。
「いけねえ、いけねえ。今日はおめえ、知事さまをのっけて東京さへゆくだよ。そんな汚ねえ炭なんかのっけたら罰があたるよ」
汽缶車は、そう言って、けいきよくぶつぶつと出ていってしまいました。
すると、そこに中くらいの大おおきさの汽缶車が一ついました。北山薪炭はそばへよっていって、
「こんちは、君ひとつ花子さんの町までいって貰もらえないかね。花子さんはおいらを毎日待っていらっしゃるんだ」
と言いますと、いままで昼寝をしていた汽缶車は眼めをさまして、大儀そうに言うのでした。
「どうせ、遊んでいるんだからいってやってもいいが、なにかい、連中は大勢かい」
「そうさね、炭が三十俵に、薪まきが百束だ」
「そいつあいけねえ。そんな重いものを引っ張っていったら、脚も手も折れてしまわあ、せっかくだがお断りするよ」
「そんなことを言わないでいっておくれよ。花子さんが待ってるから」
「うるせえな、昼寝をしている方がよっぽど楽だからな」
そう言って、ぐうぐう眠ってしまいました。
そのとき、北山薪炭きたやましんたんの前へ、ちいさいちいさい、玩具おもちゃの汽缶車が出て来ました。
「薪炭さん、さっきからお話をきいていると、お気の毒ですね。ぼくがひとつやって見ましょうか」
そう呼びかけられて、見ると、とても小さい汽缶車です。
「実際困っているんだが、君いってくれますか。だけど見かけたところ、君はずいぶんちいさいね。これだけのものをひっぱってゆけるかね」
「ぼくもわからないが、なあに一生懸命やって見るよ」
「じゃあ、ひとつやって貰もらおうか。おれたちもせいぜい軽くのっかるからね」
玩具の汽缶車は、三十俵の炭と、百束の薪とを引っ張って、停車場を出発しました。停車場の近所の平地ひらちを走るときは楽だったが、国境の山へかかると路みちは急になって、玩具の汽缶車は汗をだらだらながして、うんうん言っています。
「なんださか、こんなさか、なんださか、こんなさか」
元気の好よいかけごえばかりで、汽缶車はなかなか進めないのです。玩具の汽缶車は、もう一生懸命です。どうかしてはやく花子さんのところへ薪炭をおくりたいという一心です。
「なんださか、こんなさか」
「汽缶車さん、気の毒だね、おもたくて」
「なあに、もすこしですよ。なんださか、こんなさか」
それでもやっとこさ、峠のうえまで、ちいさな汽缶車が大きな薪炭を引きあげました。
「やれ、やれ、骨がおれましたね」
「これからはらくですよ、下坂くだりざかですからね」
こんどはもうまるでらくらくと走ってゆきました。そしてすぐに花子さんの所へつきました。
「さあ、花子さん来ましたよ」
「はやく来られたわね」
そこで、花子さんも、おばあさんも、冬の用意が出来ました。  
 

 

●かの女の朝 / 岡本かの子  
K雑誌先月号に載ったあなたの小説を見ました。ママの処女作というのですね、これが。ママの意図いととしては、フランス人の性情せいじょうが、利に鋭いと同時に洗練された情感と怜悧れいりさで、敵国の女探偵を可愛かわゆく優美に待遇する微妙な境地を表現したつもりでしょう。フランス及およびフランス人をよく知る僕ぼくには——もちろんフランス人にも日本人として僕が同感し兼かねる性情も多分たぶんにありますが——それが実に明白に理解されます。そして此この作はその意味として可かなり成功したものでしょう。だが、これは僕自身としてのママへの希望ですが、ママは何故なぜ、ひとのことなんか書いて居いるのですか。ママにはもっと書くべき世界がある。ママの抒情じょじょう的世界、何故其処そこの女主人公にママはなり切らないのですか。ひとのこと処どころではないでしょう。ママがママの手を動かして自分の筆を運ぶ以上、もっと、ママに急迫きゅうはくする世界を書かずには居られないはずです。それを他国の国情など書いて居るのは、やっぱりママの小児性しょうにせいが、いくらか見せかけの気持ちに使われて居るからですよ。ママ! ママは自分の抒情的世界の女主人に、いつもいつもなって居なさい。幼稚ようちなアンビシューに支配されないで。でなければ、小説なんか書きなさいますなよ。
かの女の息子の手紙である。今、仏蘭西フランス巴里パリから着いたものである。朝の散歩に、主人逸作いっさくといつものように出掛でかけようとして居る処ところへ裏口から受け取った書生しょせいが、かの女の手に渡した。
逸作はもう、玄関に出て駒下駄こまげたを穿はいて居たのである。其処へ出合いがしらに来合わせた誰かと、玄関の扉とびらを開けた処で話し声をぼそぼそ立てて居た。
かの女は、まことに、息子に小児性と呼ばれた程ほどあって、小児の如ごとく堪こらえ性しょうが無なかった。
主人逸作が待って居いそうでもあったが、ひとと話をして居るのを好よいことにして、息子の手紙の封筒を破った。そして今のような文面にいきなり打突ぶつかった。
だが、かの女としては、それが息子の手紙でさえあれば、何でも好かった。小言こごとであろうと、ねだりであろうと、(だが、甘えの時は無かった。息子は二十三歳で、十代の時自分を生んだ母の、まして小児性を心得て居て、甘えるどころではなくて、母の甘えに逢あっては叱しかったり指導したりする役だった。普通生活には少しだらしなかったが、本当は感情的で頭の鋭い正直な男子だった。)そしてやっぱり一人息子にぞっこんな主人逸作への良き見舞品となる息子の手紙は、いつも彼女は自分が先さきに破るのだった。
——あら竹越さんなの。
逸作と玄関で話して居たのは、かの女の処ところへ原稿の用で来た「文明社」の記者であった。
——はあ、こんなに早く上あがって済みませんでしたけれど……。その代かわりめったにお目にかかれない御主人にお目にかかれまして……。
竹越氏が正直に下げる頭が大げさでもわざとらしくはなかった。逸作は好感から微笑してかの女と竹越との問答もんどうの済むのを待って、ゆっくり玄関口に立って居た。
竹越氏が帰って行った。二人は門を出て竹越氏の行った表通りとは反対の裏通りの方へ足を向けた。
——今の記者何処どこのだい。
——あら、知らないの、だって親し相そうに話して居なすったじゃないの。
——だって向むこうから親しそうに話すからさ。
——雑誌が大変よくってなんて仰おっしゃって居たじゃないの。
——だって、記者への挨拶あいさつならそれよりほか無いだろう。
——何処どこの雑誌か知らなくっても?
——そうさ、何処の雑誌だっておんなじだもの。
——あれだ、パパにゃかないませんよ。
かの女は自分のことと較くらべて考えた。かの女はいつか或ある劇場の廊下で或る男に挨拶あいさつされた。誰だか判わからなかったが、彼女は反射的に頭を下げた。だが、知らない人に頭をさげたことが気になった。そしてやっぱり反射的にその男のあとを追った。広い劇場の廊下の半町程はんちょうほどもその男のあとを追って
——あなたは、何誰どなたでしたか。
と真面目まじめで男の顔を見て訊きいた。男はかつて、かの女の処ところへは逸作の画業に就ついての用事で、或ある雑誌社から使いに来た人だった。男は、かの女が其その時の真面目くさって自分の名を訊いた顔を忘れないと方々ほうぼうで話したそうだ。だが、それも、五六年前だった。画業に於おいて人気者の逸作と、度々たびたび銀座を歩いて居るとき、逸作が知らない人達に挨拶をされても鷹揚おうように黙々と頭を一つ下げて通過するのを見習って、彼女もいつまで、自分のそんな野暮やぼなまじめを繰り返しても居いなかったが、今朝けさの逸作が竹越氏に対する適応性を見て、久しぶりで以前の愚直ぐちょくな自分を思い出した。
——痛いたっ。
かの女は駒下駄こまげたをひっくり返えした。町会で敷いた道路の敷石しきいしが、一つは角を土からにょっきりと立て、一つは反対にのめり込ませ、でこぼこな醜態しゅうたいに変かわっているのだ。裏町で一番広大で威張いばっている某富豪ふごうの家の普請ふしんに運ぶ土砂どしゃのトラックの蹂躙じゅうりんの為ために荒された道路だ、——良民りょうみんの為めに——の憤いきどおりも幾度か覚えた。だが、恩恵もあるのだ。
——ねえパパ、此このO家の為めに我々は新鮮な空気が吸える、と思えば気も納おさまるね。
——まあ、そんなものだ。
二人は歩きながら話す。
実際O家は此の町の一端何町四方を邸内に採っている。その邸内の何町四方は一いっぱいの樹海じゅかいだ。緑の波が澎湃ほうはいとして風にどよめき、太陽に輝やき立っているのである。ベルリンでは市民衛生の為ため市中に広大なチーヤガルデン公園を置く。此この富豪は我が町に緑樹の海を置いて居いる。富豪自身は期せずして良民の呼吸の為めにふんだんな酸素を分配して居るのである。——ものの利害はそんな処ところで相伴あいともない相償あいつぐなっているというものだ——と二人はお腹なかの中で思い合って歩いて居るのだ。
二三丁行くと、或ある重役邸の前門の建て換え場だ。半月も前からである。
——変な男女が、毎朝、同じ方向から出かけて来ると思ってるだろうね、人夫にんぷ達が。
と、かの女。
——ふん。
逸作は手を振って歩いて居る。中古の鼠色ねず縮緬ちりめんの兵児帯へこおびが、腰でだらしなくもなく、きりっとでもなく穏健おんけんに締しまっている。古いセルの単衣ひとえ、少し丈たけが長過ぎる。黒髪が人並よりぐっと黒いので、まれに交まじっているわずかな白髪が、銀砂子ぎんすなごのように奇麗きれいに光る。中背ちゅうぜいの撫なで肩がたの上にラファエルのマリア像のような線の首筋をたて、首から続く浄きよらかな顎あごの線を細い唇くちびるが締めくくり、その唇が少し前へ突き出している。足の上あがる度たびに脂肪あぶらの足跡が見える中古の駒下駄でばたりばたり歩く。
かの女は断髪だんぱつもウエーヴさえかけない至極しごく簡単なものである。凡およそ逸作とは違った体格である。何処どこにも延びている線は一つも無い。みんな短かくて括くくれている。日輪草にちりんそうの花のような尨大ぼうだいな眼。だが、気弱な頬ほおが月のようにはにかんでいる。無器用ぶきような小供こどものように卒直に歩く——実は長い洋行後駒下駄こまげたをまだ克よく穿はき馴なれて居ないのだ。朝の空気を吸う唇に紅べには付けないと言い切って居るその唇は、四十前後の体を身持みもちよく保って居る健康な女の唇の紅あかさだ。荒い銘仙絣めいせんがすりの単衣ひとえを短かく着て帯の結びばかり少し日本の伝統に添そっているけれど、あとは異人女が着物を着たようにぼやけた間の抜けた着かたをして居る。
——ね、あんたアミダ様、わたしカンノン様。
と、かの女は柔やわらかく光る逸作の小さい眼を指差し、自分の丸い額ひたいを指で突いて一寸ちょっと気取っては見たけれど、でも他人が見たら、およそ、おかしな一対いっついの男と女が、毎朝、何処どこへ、何しに行くと思うだろうとも気がさすのだった。うぬ惚ぼれの強いかの女はまた、莫迦ばか莫迦しくひがみ易やすくもある。だが結局人夫にんぷは人夫の稼業かぎょうから預けられた土塊つちくれや石柱を抱かかえ、それが彼等かれらの眼の中に一いっぱいつまっているのだ。その眼がたまたまぬすみ視した処ところが、それは別に意味も無い傍見わきみに過ぎないと、かの女は結論をひとりでつける。そして思いやり深くその労役ろうえきの彼等を、あべこべに此方こちらから見返えすのであった。
陽気で無邪気なかの女はまた、恐ろしく思索しさく好きだ。思索が遠い天心てんしんか、地軸にかかっている時もあり、優生学ゆうせいがくや、死後の問題でもあり、因果律いんがりつや自己の運命観にもいつかつながる。喰たべ度たいものや好よい着物についてもいつか考え込んで居いる。だが、直すぐ気が変かわって眼の前の売地の札ふだの前に立ちどまって自分の僅わずかな貯金と較くらべて価格を考えても見たりする。
かの女は今、自分の住宅の為ためにさして新あたらしい欲望を持って居ないのを逸作はよく知って居る。かの女が仮想かそうに楽しむ——巴里パリに居る独ひとり息子が帰ったら、此この辺あたりへ家を建てて遣やろうか、若もしくはいっかな帰ろうとしない息子にあんな家、斯こんな家でも建てて置いたら、そんな興味が両親への愛着にも交まじり、息子は巴里から帰りはしないか。あちらで相当な位置も得、どう考えてもあちらに向いて居る息子の芸術の性質を考えるとこちらへ帰って来るようには言えない。またかの女の芸術的良心というようなものが、それは息子の芸術へというばかりでないもっと根本の芸術の神様に対する冒涜ぼうとくをさえ感ずる。芸術的良心と、私的本能愛との戦いにかの女はまた辛つらくて涙が眼に滲にじむ。息子の居ない一ヶ所空からっぽうのような現実の生活と、息子の帰って来た生活のいろいろな張り合いのある仮想生活とがかの女の心に代かわる代がわる位置を占めるのである。かの女は雑草が好きだ。此の空地あきちにはふんだんに雑草が茂っている。なんぼ息子の為に建ててやる画室でも、かの女の好みの雑草は取ってしまうまい。人は何故なぜに雑草と庭樹にわきとを区別する権利があったのだろう。例えば天上の星のように、瑠璃るりを点ずる露草つゆくさや、金銀の色糸いろいとの刺繍ししゅうのような藪蔓草やぶつるくさの花をどうして薔薇ばらや紫陽花あじさいと誰が区別をつけたろう。優雅な蒲公英たんぽぽや可憐かれんな赤まま草を、罌粟けしや撫子なでしこと優劣ゆうれつをつけたろう。沢山たくさん生はえる、何処どこにもあるからということが価値の標準となるとすれば、飽あきっぽくて浅あさはかなのは人間それ自身なのではあるまいか。だが、かの女が草を除とらないことを頑張れば息子も甘酸あまずっぱく怒って、ことによったらかの女をスポーツ式に一つ位くらいはどやすだろう。そしたらまあ、仕方が無い、取っても宜よい。どやすと言えば、かの女が或時あるとき息子に言った。「ママも年とったらアイノコの孫を抱くのだね、楽しみだね」と、極々ごくごく座興ざきょう的ではあったけれど或時かの女がそれを息子の前で言ってどやされたことをかの女は思い出した。どやした息子の青年らしい拳こぶしの弾力が、かの女の背筋に今も懐かしく残っている。その時息子は言った。「子を生むようなフランス女とは結婚しませんよ。」それはフランス女を子を生む実用にしないと言うのか、或あるいは子を生むような実用的なフランス女は美的でないと言う若者の普通な美意識から出た言葉か知らなかったが、それも今では懐かしくかの女に思い返されるのであった。六年前連れて行ってかの女と逸作が一昨年帰かえる時、息子ばかりが巴里パリに残った。
かの女が分譲地の標札ひょうさつの前に停とまって、息子に対する妄想もうそうを逞たくましくして居いる間、逸作は二間程ほど離れておとなしく直立して居た。おとなしくと言っても逸作のは只ただのおとなしさではない。宇宙を小馬鹿こばかにしたような、ぬけぬけしいおとなしさだ。だから、太陽の光線とじか取引とりひきである。逸作のような端正たんせいな顔立ちには月光の照りが相応ふさわしそうで、実は逸作にはまだそれより現世に接近したひと皮がある。そのせいか逸作も太陽が好きだ。何処どこといって無駄な線のない顔面の初老に近い眼尻の微かすかな皺しわの奥までたっぷり太陽の光を吸っている。風が裾すそをあおって行こうと、自転車が、人が、犬が擦すり抜けて通って行こうと、逸作は頓着とんじゃくなしにぬけぬけと佇たちどまって居る。これを、宇宙を小馬鹿にした形と、かの女は内心で評して居る。
——もう宜いいのかい。
逸作の平静な声調せいちょうは木の葉のそよぎと同じである。「死の様ように静しずかだ」と曾かつて逸作を評したかの女の友人があった。その友人は、かの女を同情するような羨うらやむような口調で言った。だが、かの女はそれはまだ逸作に対する表面の批評だと思った。逸作の静寂せいじゃくは死魂の静寂ではない。仮かりに機械に喩たとえると此この機械は、一個所、非常に精鋭な部分があり、あとは使用を閑却かんきゃくされていると言って宜よい。無口で鈍重な逸作が、対社会的な画作に傑出けっしゅつして居るのは、その部分が機敏きびんに働く職能しょくのうの現れだからである。逸作のこの部分の働きの原動力、それはあるときは画業に対しある時はかの女に対する愛であると云いうよりほかない。そしてある時は画業に対しある時はかの女に対してその逸作の非常に精鋭な部分が機敏に働いているのである。かの女も亦またそれを確実に常に受け取って居いるのである。だから、かの女は自分の妄想もうそうまでが、領土を広く持っている気がするのである。自分の妄想までを傍そばで逸作の機敏な部分が、咀嚼そしゃくしていて呉くれる。咀嚼して消化こなれたそれは、逸作の心か体か知らないが、兎とに角かく逸作の閑却された他の部分の空間にまで滲しみて行く——つまり逸作が、かの女の自由な領土であるということだ。かの女が、逸作の傍で思い切って何でも言え、何でも妄想出来できるということが、逸作がかの女の領土である証拠であり、そういう両者の機能的関係が「円満な夫婦愛」などと、世人が言いふらすかの女等らの本体なのである。だが、かの女は「夫婦愛」などと言われるのは嫌いなのである。夫婦と言う字や発音は、なまなましい性欲の感じだ。「愛」と言うほのぼのとした言葉や字に相応しない、いやらしさをかの女は「夫婦」という字音に感じる。ただ、今はひとのことで或ある時、或る場合一寸ちょっと此この字が現われて来るのなら彼女は宜いと思う。芝居の仕草しぐさや、浄瑠璃じょうるりのリズムに伴ともない、「天下晴れての夫婦」などと若い水々みずみずしい男女の恋愛の結末の一場面のくぐりをつける時に、たった一つ位くらい此の言葉を使うのは、世話に砕くだけたなまめかしさを感じて宜いと彼女は思う。だが、もっと地味に、決定的に、質実に、その本質を指定することも出来ない組み合せになって相当、年月を経へた男女——少なくとも取り立てて男女などと感じなくなった自分達だけは、子の前などでは尚更なおさら「夫婦」なんてぷんぷんなまの性欲の匂においのする形容詞を着せられるのは恥はずかしい。よく年若としわかな夫が自分の若い妻を「うちの婆ばあさん」などと呼ぶ、あれも何となく気取って居いるように思われるが、でも人の前で、殊ことに器量きりょうの好よくない夫婦などが「われわれ夫婦」などと言うのを聞くのをかの女は好まない。新聞や雑誌などで、夫婦という字を散見さんけんしても、ひとのことどうでも宜よいようなものの、好もしいとはかの女は思わない。
逸作とかの女との散歩の道は進む。
——あたし、あなたに見せるものあるのよ。
——そうかい。
——何だか知ってる?
——知らない。
——あてなさい、な。
——あたらない。
——あれだ。太郎から手紙よ。
——おい、見せなさいよ。
——道のまん中じゃあないの。
——好いからさ。
——墓地へ行って見せる。
かの女は袖そでのなかで、がさがさしてる息子の手紙を帯の間へ移す。くどく無い逸作は、或あるものに食欲を出しかけたような唇を、一つ強く引き締めることによって、其その欲望を制した。かの女のいたずら心が跳ね返って嬉よろこぶ。
散歩に伴う生理調節作用として斯こんないたずらが、かの女には快適なのだった。
逸作が、他に向むかっての欲望の表現はくどくないのだ。然しかし、逸作の心に根を保っている逸作の特種とくしゅの欲望がある。逸作はそれを自分の内心に追求するに倦うまない男だ。逸作の特種な欲望とは極々ごくごく限られた二三のものに過ぎないと言える。その一つが、今かの女に刺戟しげきされた。——息子に対する逸作の愛情は親の本能愛を裏付けにして実に濃こまやかな素晴らしい友情だとかの女は視みる。不精ぶしょうな逸作は、煩わずらわしい他人の生活との交渉に依よらなければ保たれない普通の友人を持たないのである。他の肉親には、逸作もかの女も若い間に、ひどいめに会って懲こりて居いる。その悲哀や鬱憤うっぷんも交まじる濃厚な切実な愛情で、逸作とかの女はたった一人の息子を愛して愛して、愛し抜く。これが二人の共同作業となってしまった。
逸作とかの女の愛の足ぶみを正直に跡付ける息子の性格、そしてかの女の愛も一緒に其処そこを歩めるのが、息子が逸作にとって一層いっそううってつけの愛の領土であるわけなのだ。かの女と逸作が、愛して愛して、愛し抜くことに依よって息子の性格にも吹き抜けるところが出来でき、其処から正直な芽や、怜悧れいりな芽生めばえがすいすいと芽立って来て、逸作やかの女を嬉よろこばした。逸作やかの女は近頃では息子の鋭敏な芸術的感覚や批判力に服するようにさえなった。だが、息子のそれらの良質や、それに附随ふずいする欠点が、世間へ成算せいさん的に役立つかと危あやぶまれるとき、また不憫ふびんさの愛が殖ふえる。
——おい、小学校の方でなく、こっちから行こうよ。
——何故なぜ。
——だって、子供達が道に一いっぱいだ。
——早く、墓地へ行って手紙見度みたいから近道行こうってんでしょう。
——………………。
——え、そうでしょう。
——俺は子供きらいだ。
そうだった。かの女はそれを忘れて居たのだ。逸作が近道を行って早く息子の手紙を見度いのも本当だろうが、逸作はたしかに、ぞろぞろ子供に逢あうのは嫌いだった。子供は世の人々が言い尊とうとぶように無邪気なものと逸作もかの女も思っては居なかった。子供は無邪気に見えて、実は無遠慮な我利我利がりがりなのだ。子供は嘘うそを言わないのではない。嘘さえ言えぬ未完成な生命なのだ。教養の不足して居いる小さな粗暴漢そぼうかんだ。そして恥や遠慮を知る大人を無視した横暴おうぼうな存在主張者だ。(逸作もかの女も、自分の息子が子供時代を離れ、一つの人格として認め得た時から息子への愛が確立したのだ。)本能で各々おのおのその親達が愛するのは宜よい。然しかし、逸作達が批判的に見る世の子供達は一見可愛かわいらしい形態をした嫌味いやみな悪あくどい、無教養な粗暴な、而しかもやり切れない存在だ。
——でもパパは、童女どうじょ型だの、小児性しょうにせい夫人だのってカチ(逸作はかの女を斯こう呼ぶ)を贔屓ひいきにするではないか。
——大人で童心どうしんを持ってるのと、子供が子供のまんまなのとは違うよ。大人で童心を持ってるその童心を寧むしろ普通の子供はちっとも持ってないんだ。だから子供のうちから本当の童心を持ってる子はやっぱり大人で童心を持ってる人と同じく尠すくないんだよ。
斯こうした筋の通らぬような、通ったような結論を或時あるとき二人がかりでこしらえてしまった。
道の両側は文化住宅地だった。かの女達が伯林ベルリンの新住宅地で見て来たような大小の文化住宅が立ち並んでいる。だが、かの女等らは、此この日本の小技工のたくみな建築が、寧ろ伯林のよりも効果的だと考えられるのである。日本で想像して居たより独逸ドイツ人の技巧は大まかだ。影か、骨か、何かが一ひとけた足りなくて、あの徒いたずらに高い北欧の青空の下に何処どこか間の抜けた調子で立ち並んでいるのであった。日本の建築が独逸のそれを模倣もほうしているのは一見明白であるが、実物で無い、独逸建築の写真で見た感覚から、多く此この抜け目の無い効果を学びとったのであろう。かの女達が伯林で、現在眼の前の実物を観乍ながら、その建築物の写真の載った写真帖しゃしんちょうなど見並べると、驚く程ほど、其その写真の方が、線の影や深味ふかみが、精巧な怜悧れいりな写術しゃじゅつによって附加されている。その写真帖を、そのまま、日本へ持って帰り、日本の人に見せるのは、少し、そらぞらしい嘘をつくようなうしろめたさを覚えた。が、それかと言って、その写真が計画的に修正でもしてあるわけでもなし、それは何処どこまでも、その独逸建築をありの儘ままに写した写真なのだから仕方がない。人間の顔を写してもそうなのだ、平たい陰影の少ない東洋人の顔より、筋骨きんこつ的な線のはっきりした西洋人の顔が多く効果的に写る——ともかく日本の様式建築が、独逸の効果的写真帖の影や深味迄までを東洋人の感覚で了解し、原型伯林の建築より効果を出している。それが、日本の樹木の優雅なたたずまいや、葉の濃こまやかさの裏表に似つかわしく添って建っているのだ。
——何処の国の都会の住宅地でもそうだけど、五万円や八万円かかった住宅はどっさり建ってるでしょう。それでいて門標もんぴょうを見れば、何処の誰だか分らない人の名ばかりじゃないの。世の中にお金が無いなんて嘘のような気がするのね。
——………………。
——何故なぜだまって笑ってらっしゃるの。
——だって、君にしちゃあ、よくそんな処ところへ気が付いたもんだ。
四辺しへんの空気が、冷え冷えとして来て墓地に近づいた。が、寺は無かった。独立した広い墓地だけに遠慮が無く這入はいれた。或ある墓標の傍そばには、大株の木蓮もくれんが白い律義りちぎな花を盛り上げていた。青苔あおごけが、青粉あおこを敷いたように広い墓地内の地面を落ち付かせていた。さび静まった其その地上にぱっと目立つかんなやしおらしい夏草を供そなえた新古の墓石や墓標が入り交って人々の生前と死後との境に、幾ばくかの主張を見せているようだ。尠すくなくともかの女にはそう感じられ、ささやかな竹垣や、厳いかめしい石垣、格子こうしのカナメ垣の墓囲いも、人間の小さい、いじらしい生前と死後との境を何か意味するように見える。
——生きて居いるものに取っては、茲ここが、死人の行った道の入口のような気がして、お墓はやっぱりあった方が宜よいのね。
——そうかな、僕ぁ斯こんなもの面倒くさいな。死んだら灰にして海の上へでも飛行機でばら撒まいてもらった方が気持が好いいな。
いつか墓地の奥へ二人は来て居た。
——どれ見せな。
——息子の手紙? 執念深く見度みたがるのね。
——お墓の問題よりその方が僕にゃ先きだ。
其処そこに転ころがっている自然石の端はしと端へ二人は腰を下ろした。夏の朝の太陽が、意地悪に底冷そこびえのする石の肌をほんのりと温あたため和なごめていた。二人は安気あんきにゆっくり腰を下ろして居いられた。うむ、うむ、と逸作は、旨うまいものでも喰たべる時のような味覚のうなずきを声に立てながら息子の手紙を読んで居る。
——ねえパパ。
——うるさいよ。
——何処どこまで読んだ?
——待て。
——其処そこに、ママの抒情じょじょう的世界を描けってところあるでしょう。
——待ち給たまえ。
逸作は一寸ちょっと腕を扼やくしてかの女を払い退のけるようにして読み続けた。
——ねえ、ママの抒情的世界を描きなさいって書いて来てあるでしょう。ねえ、私の抒情的世界って、何なの一いったい。
——考えて見なさい自分で。
——だってよく判わからない。
——息子はあたまが良いよ。
——じゃ、巴里パリへ訊きいてやろうか。
——馬鹿ばか言いなさんな、またたしなめられるぞ。
——だって判んないもの。
——つまりさ、君が、日常嬉よろこんだり、怒ったり、考えたり、悲しんだりすることがあるだろう。その最も君に即そくしたことを書けって言うんだ。
——私のそんなこと、それ私の抒情的世界って言うの。
——そうさ、何も、具体的に男と女が惚ほれたりはれたりすることばかりが抒情的じゃないくらい君判んないのかい。息子は頭が良いよ。君の日常の心身のムードに特殊性を認めてそれを抒情的と言ったんだよ、新らしい言い方だよ。
——うむ、そうか。
かの女のぱっちりした眼が生きて、巴里の空を望むような瞳ひとみの作用をした。
——判ってよ、ようく判ってよ。
かの女は腰かけたまま足をぱたぱたさせた。
かの女の小児型の足が二つ毬まりのように弾はずんだ。よく見ればそれに大人おとなの筋肉の隆起りゅうきがいくらかあった。それを地上に落ち付けると赭茶あかちゃの駒下駄こまげたの緒おの廻まわりだけが括くびれて血色を寄せている。その柔やわらかい筋肉とは無関係に、角化質かくかしつの堅い爪つめが短かく尖さきの丸い稚おさない指を屈伏くっぷくさせるように確乎かっこと並んでいる。此奴こいつの強情ごうじょう!と、逸作はその爪を眼で圧おさえながら言った。
——それからね。君の強情も。
——あたしの強情も抒情じょじょう的のなかに這入はいるの。
——そうさ。
——そんな事言えば、いくらだってあるわ。私が他所よそから独ひとりで帰って来る——すると時々パパがうちから出迎えてだまって肩を抑おさえて眼をつぶって、そして開あけた時の眼が泣いている。こんなことも?
——うん。
逸作は一寸ちょっと面倒らしい顔をした。
——そう、そう、その事ね。私たった一度山路さんとこで話しちゃった。そしたら山路さんも奥さんも不思議そうな顔して、「何故なぜでしょう」って言うの。「大方おおかた、独りで出つけない私が、よく車にも轢ひかれず犬にも噛かまれず帰って来たって不憫ふびんがるのでしょう」って言ったら、物判ものわかりの好よい夫婦でしょう。すっかり判ったような顔してらしったわ。「私のこと、対世間的なことになると逸作は何でも危あぶながります」って私言ったの。こんな事も抒情的なの。
——だろうな。
逸作は自分に関することを、じかに言われるとじきにてれる男だ。
——序ついでに私、山路さんとこでみんな言っちまった。世間で、私のことを「まあ御気丈おきじょうな、お独り子を修行しゅぎょうの為ためとは言え、よくあんな遠方えんぽうへ置いてらしった。流石さすがにあなた方はお違いですね。判ってらっしゃる」って、世間は単純にそんな褒ほめ方ばかりしてます。雑誌などでも私を如何いかにも物の判った模範的な母親として有名にしちまいましたが、だが一応はそういうことも本当ですが、その奥にまだまだそれとはまるで違った本当のところがあるのですよ。そんな立ち勝まさった量見りょうけんからばかりで、あの子を巴里パリへ置いときませんって、——巴里は私達親子三人の恋人です。三人が三人、巴里パリに居いるわけに行きませんから、せめて息子だけ、巴里って恋人に添わせて置くのを心遣こころやりに、私達は日本って母国へ帰って来ましたの。何も息子を偉えらくしようとか、世間へ出そうとか、そんな欲でやっとくんでもありません。言わば息子をあすこに置いとくことは、息子に離れてる辛つらい気持ちとやりとりの私達の命がけの贅沢ぜいたくなんですよ。…………てね。
かの女は自分がそう言って居るうちに、それを自分に言ってきかせて居るような気持きもちになってしまった。
——ねえパパ、こんな処ところへ朝っから来て、こんなこと言ったりしてることも私の抒情じょじょう的世界ってことになるんでしょうね。
——ああ、当分、君の抒情的世界の探索たんさくで賑にぎやかなことだろうよ。
逸作は、息子の手紙を畳たたんだりほぐしたりしながら比較的実際的な眼付きを足下あしもとの一処ひとところへ寄せて居た。逸作は息子に次に送る可かなりの費用の胸算用むなざんようをして居るのであろう。逸作の手の端はしではじけている息子の手紙のドームという仏蘭西フランス文字の刷すってあるレターペーパーをかの女はちらと眼にすると、それがモンパルナッスの大きなキャフェで、其処そこに息子と仲好なかよしの女達も沢山たくさん居て、かの女もその女達が可愛かわいくて暇ひまさえあれば出掛でかけて行って紙つぶてを投げ合って遊んだことを懐しく想い出した。
逸作が暫しばらく取り合わないので、かの女も自然自分自身の思考に這入はいって行った。
暫くしてかの女が、空に浮く白雲しらくもの一群に眼をあげた時に、かの女は涙ぐんで居いた。かの女は逸作と息子との領土を持ち乍ながらやっぱりまだ不平があった。世の中にもかの女自身にも。かの女はかの女の強情ごうじょうをも、傲慢ごうまんをも、潔癖けっぺきをも持て剰あまして居た。そのくせ、かの女は、かの女の強情やそれらを助長じょちょうさすのは、世の中なのだとさえ思って居る。
人懐ひとなつかしがりのかの女を無条件に嬉よろこばせ、その尊厳そんげんか、怜悧れいりか、豪華か、素朴か、誠実か、何でも宜よい素晴らしくそしてしみじみと本質的なものに屈伏くっぷくさせられるような領土をかの女は世の中の方にもまだ欲しい。かの女はそういうものが稀まれにはかの女の遠方えんぽうに在あるのを感じる。然しかし遠いものは遠いものとして遥はるかに尊敬の念を送って居たい。わざわざ出かけて行って其処そこにふみ入ったり、附つきまつわったりするのは悪あくどくて嫌だ。かの女はそんな空想や逡巡しゅんじゅんの中に閉じこもって居る為ために、かの女に近い外界からだんだんだん遠ざかってしまった。かの女は閑寂かんじゃくな山中のような生活を都会のなかに送って居るのだ。それが、今のところかの女に適していると承知しょうちして居る。だが、かの女はそれがまた寂しいのだ。自分の意地や好みを立てて、その上、寂しがるのは贅沢ぜいたくと知りつつ時々涙が出るのだった。
まだその日の疲れの染にじまない朝の鳥が、二つ三つ眼界を横切った。翼つばさをきりりと立てた新鮮な飛鳥ひちょうの姿に、今までのかの女の思念しねんは断たたれた。かの女は飛び去る鳥に眼を移した。鳥はまたたく間に、かの女の視線を蹴けって近くの小森に隠れて行った。残されたかの女の視線は、墓地に隣接するS病院の焼跡やけあとに落ちた。十年も前の焼跡だ。焼木杭やけぼっくいや焼灰等は塵ちり程も残っていない。赤土あかつちの乾きが眼にも止まらぬ無数の小さな球となって放心ほうしんしたような広い地盤じばん上の層をなしている。一隅いちぐうに夏草の葉が光って逞たくましく生えている。その叢くさむらを根にして洞窟どうくつの残片ざんぺんのように遺のこっている焼け落ちた建物の一角がある。それは空中を鍵形かぎがたに区切り、刃やいば型に刺し、その区切りの中間から見透みとおす空の色を一種の魔性ましょうに見せながら、その性全体に於おいては茫漠ぼうばくとした虚無を示して十年の変遷へんせんのうちに根気こんきよく立っている。かの女は伊太利イタリアの旅で見た羅馬ローマの丘上のネロ皇帝宮殿の廃墟はいきょを思い出した。恐らく日本の廃園はいえんに斯こうまで彼処あそこに似た処ところは他には無かろう。
廃墟は廃墟としての命もちつゝ羅馬市の空に聳そびえてとこしへなるべし。
かの女は自分が彼処あそこをうたった歌を思い出して居いた。
と、何処どこか見当の付かぬ処で、大きなおならの音がした。かの女の引締ひきしまって居た気持を、急に飄々ひょうひょうとさせるような空漠くうばくとした音であった。
——パパ、聞こえた?
逸作とかの女は不意に笑った顔を見合わせて居たのだ。
——墓地のなかね。
——うん。
逸作はあたりまえだと言う顔に戻って居る。
——墓地のなかでおならする人、どう思うの。
かの女は逸作を覗のぞくようにして言った。
——どうって、…………君はどう思う。
——私?
かの女は眼を瞑つむって渋しかめ面つらして笑い直した。そして眼を開いて真面目に返ると言った。
——余よっぽど現実世界でいじめられてる人じゃないかしら。普通ならお墓へ来れば気が引締まるのに。お墓へ来て気がゆるんでおならをする人なんて。
かの女達が腰を上げて墓地を出ようとすると、其処そこへ突然のようにプロレタリア作家甲野氏が現われた。
朝は不思議にどんなみすぼらしい人の姿をも汚きたなくは見せない。その上、今日の甲野氏はいつもよりずっと身なりもさっぱりして居る。
——やあ。
——やあ。
男同志の挨拶あいさつ——。
かの女は咄嗟とっさの間に、おならの嫌疑けんぎを甲野氏にかけてしまった。そしてその為ために突き上げて来た笑いが、甲野氏への法外ほうがいな愛嬌あいきょうになった。そのせいか一寸ちょっと僻ひがみ易やすい甲野氏が、寧むしろ彼から愛想よく出て来た。
——奥さんには久し振りですな。
——散歩?
——昨夜晩くまでかかって××社の仕事が済んだので、今朝けさ早く持ってって来ました。
——奥さんがお亡なくなりになってからお食事なんか如何どうなさいますの。
——外で安飯やすめしを喰たべてますよ。
——大変ね。
——独ひとり者の気楽さって処ところもありますよ。
墓地を出て両側の窪くぼみに菌きのこの生はえていそうな日蔭ひかげの坂道にかかると、坂下から一幅いっぷくの冷たい風が吹き上げて来た。
——どうです、僕の汚い部屋へ一寸ちょっとお寄りになりませんか。
——有難ありがとう。
逸作もかの女も甲野氏の部屋へ寄るとも寄らぬとも極きめないでぶらぶら歩いた。道が、表街近くなった明るい三つ角に来た時、甲野氏は、自分の部屋に寄りそうもない二人と別れて自分の家の方へ行こうとしたが、また一寸引きかえして来て、殊ことにかの女に向いて言った。
——僕、昨日の朝、散歩の序ついでに戸崎夫人の処ところへ寄って見ましたよ。
——そう、此頃このごろあの方どうしてらっしゃる?
——相変あいかわらず真赤な洋服かなんか着てね、「甲野さんのようなプロレタリア文学家と私のような小説家と、どっちが世の中の為ためになるかってこと考えて御覧ごらんなさい。世の中には食えない人より食える人の方がずっと多いのだから、私の小説は、その食える人の方の読者の為めに書いてるんだ。」と、斯こうですよ。は、は、は、は。
かの女は、華美でも洗練されて居いるし、我儘わがままでも卒直そっちょくな戸崎夫人の噂うわさは不愉快ふゆかいでなかった。そういう甲野氏も僻ひがみ易やすいに似ず、ずかずか言われる戸崎夫人をちょいちょい尋たずねるらしかった。
——あなたの噂うわさも出ましたよ。あなたをたんと褒ほめて居たが、おしまいが好いいや、——だけどあの方あんなに息子の事ばかり思ってんのが気が知れないって。
かの女はぷっと吹き出してしまった。かの女は子を持たない戸崎夫人が、猫、犬、小鳥、豆猿と、おおよそ小面倒な飼い者を体の周りにまつわり付けて暮らして居る姿を思い出したからである。  
 

 

●藍色の蟇 / 大手拓次  
藍色の蟇
森の宝庫の寝間ねまに
藍色の蟇は黄色い息をはいて
陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。
太陽の隠し子のやうにひよわの少年は
美しい葡萄のやうな眼をもつて、
行くよ、行くよ、いさましげに、
空想の猟人かりうどはやはらかいカンガルウの編靴あみぐつに。
陶器の鴉
陶器製のあをい鴉からす、
なめらかな母韻をつつんでおそひくるあをがらす、
うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。
嘴くちばしの大きい、眼のおほきい、わるだくみのありさうな青鴉あをがらす、
この日和のしづかさを食べろ。
しなびた船
海がある、
お前の手のひらの海がある。
苺いちごの実の汁を吸ひながら、
わたしはよろける。
わたしはお前の手のなかへ捲きこまれる。
逼塞ひつそくした息はお腹なかの上へ墓標はかじるしをたてようとする。
灰色の謀叛よ、お前の魂を火皿ほざらの心しんにささげて、
清浄に、安らかに伝道のために死なうではないか。
黄金の闇
南がふいて
鳩の胸が光りにふるへ、
わたしの頭は醸された酒のやうに黴の花をはねのける。
赤い護謨ごむのやうにおびえる唇が
力ちからなげに、けれど親しげに内輪な歩みぶりをほのめかす。
わたしは今、反省と悔悟の闇に
あまくこぼれおちる情趣を抱きしめる。
白い羽根蒲団の上に、
産み月の黄金わうごんの闇は
悩みをふくんでゐる。
槍の野辺
うす紅い昼の衣裳をきて、お前といふ異国の夢がしとやかにわたしの胸をめぐる。
執拗な陰気な顔をしてる愚かな乳母うばは
うつとりと見惚れて、くやしいけれど言葉も出ない。
古い香木のもえる煙のやうにたちのぼる
この紛乱ふんらんした人間の隠遁性と何物をも恐れない暴逆な復讐心とが、
温和な春の日の箱車はこぐるまのなかに狎なれ親しんで
ちやうど麝香猫と褐色の栗鼠りすとのやうにいがみあふ。
をりをりは麗しくきらめく白い歯の争闘に倦怠の世は旋風の壁模様に眺め入る。
鳥の毛の鞭
尼僧のおとづれてくるやうに思はれて、なんとも言ひやうのない寂しさ いらだたしさに張りもなくだらける。
嫉妬よ、嫉妬よ、
やはらかい濡葉ぬればのしたをこごみがちに迷つて、
鳥の毛の古甕色こがめいろの悲しい鞭にうたれる。
お前はやさしい悩みを生む花嫁、
わたしはお前のつつましやかな姿にほれる。
花嫁よ、けむりのやうにふくらむ花嫁よ、
わたしはお前の手にもたれてゆかう。
撒水車の小僧たち
お前は撒水車をひく小僧たち、
川ぞひのひろい市街を悠長にかけめぐる。
紅や緑や光のある色はみんなおほひかくされ、
Silenceシイランス と廃滅はいめつの水色の色の行者のみがうろつく。
これがわたしの隠しやうもない生活の姿だ。
ああわたしの果てもない寂寥を
街のかなたこなたに撒きちらせ、撒きちらせ。
撒水車の小僧たち、
あはい予言の日和が生れるより先に、
つきせないわたしの寂寥をまきちらせまきちらせ。
海のやうにわきでるわたしの寂寥をまきちらせ。
羊皮をきた召使
お前は羊皮やうひをきた召使だ。
くさつた思想をもちはこぶおとなしい召使だ。
お前は紅い羊皮をきたつつましい召使だ。
あの ふるい手なれた鎔炉のそばに
お前はいつも生生いきいきした眼で待つてゐる。
ほんたうにお前は気の毒なほど新らしい無智を食べてゐる。
やはらかい羊の皮のきものをきて
すずしい眼で御用をきいてゐる。
すこしはなまけてもいいよ、
すこしはあそんでもいいよ、
夜になつたらお前自身の考をゆるしてやる。
ぬけ羽のことさへわすれた老鳥おいどりが
お前のあたまのうへにびつこをひいてゐる。
のびてゆく不具
わたしはなんにもしらない。
ただぼんやりとすわつてゐる。
さうして、わたしのあたまが香のけむりのくゆるやうにわらわらとみだれてゐる。
あたまはじぶんから
あはうのやうにすべての物音に負かされてゐる。
かびのはえたやうなしめつぽい木霊こだまが
はりあひもなくはねかへつてゐる。
のぞみのない不具かたはめが
もうおれひとりといはぬばかりに
あたらしい生活のあとを食ひあらしてゆく。
わたしはかうしてまいにちまいにち、
ふるい灰塚のなかへうもれてゐる。
神さまもみえない、
ふるへながら、のろのろしてゐる死をぬつたり消しぬつたり消ししてゐる。
やけた鍵
だまつてゐてくれ、
おまへにこんなことをお願ひするのは面目ないんだ。
この焼けてさびた鍵をそつともつてゆき、
うぐひす色のしなやかな紙鑢かみやすりにかけて、
それからおまへの使ひなれた青砥あをとのうへにきずのつかないやうにおいてくれ。
べつに多分のねがひはない。
ね、さうやつてやけあとがきれいになほつたら、
またわたしの手へかへしてくれ、
それのもどるのを専念に待つてゐるのだから。
季節のすすむのがはやいので、
ついそのままにわすれてゐた。
としつきに焦こげたこのちひさな鍵かぎも
またつかひみちがわかるだらう。
美の遊行者
そのむかし、わたしの心にさわいだ野獣の嵐が、
初夏の日にひややかによみがへつてきた。
すべての空想のあたらしい核たねをもとめようとして
南洋のながい髪をたれた女鳥をんなどりのやうに、
いたましいほどに狂ひみだれたそのときの一途いちづの心が
いまもまた、このおだやかな遊惰の日に法服をきた昔の知り人のやうにやつてきた。
なんといふあてもない寂しさだらう。
白磁の皿にもられたこのみのやうに人を魅する冷たい哀愁がながれでる。
わたしはまことに美の遊行者であつた。
苗床のなかにめぐむ憂ひの芽め望みの芽、
わたしのゆくみちには常にかなしい雨がふる。

ものはものを呼んでよろこび、
さみしい秋の黄色い葉はひろい大様おほやうな胸にねむる。
風もあるし、旅人もあるし、
しづんでゆく若い心はほのかな化粧づかれに遠い国をおもふ。
ちひさな傷のあるわたしの手は
よろけながらに白い狼をおひかける。
ああ 秋よ、
秋はつめたい霧の火をまきちらす。
つんぼの犬
だまつて聴いてゐる、
あけはなした恐ろしい話を。
むくむくと太古を夢見てる犬よ、
顔をあげて流れさる潮の
はなやかな色にみとれてるのか。
お前の後足のほとりには、いつも
ミモザの花のにほひが漂うてゐる。
野の羊へ
野をひそひそとあゆんでゆく羊の群よ、
やさしげに湖上の夕月を眺めて
嘆息をもらすのは、
なんといふ瞑合をわたしの心にもつてくるだらう。
紫の角を持つた羊のむれ、
跳ねよ、跳ねよ、
夕月はめぐみをこぼす……
わたし達すてられた魂のうへに。
威嚇者
わたしの威嚇者がおどろいてゐる梢の上から見おろして、
いまにもその妙に曲つた固い黒い爪で
冥府から来た響の声援によりながら
必勝を期してわたしの魂へついてゐるだらう。
わたしはもう、それを恐れたり、おびえたりする余裕がない。
わたしは朦朧として無限とつらなつてゐるばかりで、
苦痛も慟哭も、哀れな世の不運も、拠りどころない風の苦痛にすぎなくなつた。
わたしは、もう永遠の存在の端はしへむすびつけられたのだ。
わたしの生活の盛りは、空気をこえ、
万象をこえ、水色の奥秘へひびく時である。
憂はわたしを護る
憂はわたしをまもる。
のびやかに此心がをどつてゆくときでも、
また限りない瞑想の朽廃へおちいるときでも、
きつと わたしの憂はわたしの弱い身体からだを中庸の微韻のうちに保つ。
ああ お前よ、鳩の毛並のやうにやさしくふるへる憂よ、
さあ お前の好きな五月がきた。
たんぽぽの実のしろくはじけてとぶ五月がきた。
お前は この光のなかに悲しげに浴ゆあみして
世界のすべてを包む恋を探せ。
河原の沙のなかから
河原の沙のなかから
夕映の花のなかへ むつくりとした円いものがうかびあがる。
それは貝でもない、また魚でもない、
胴からはなれて生きるわたしの首の幻だ。
わたしの首はたいへん年をとつて
ぶらぶらとらちもない独りあるきがしたいのだらう。
やさしくそれを看みとりしてやるものもない。
わたしの首は たうとう風に追はれて、月見草のくさむらへまぎれこんだ。
仮面の上の草
そこをどいてゆけ。
あかい肉色の仮面のうへに生えた雑草は
びよびよとしてあちらのはうへなびいてゐる。
毒鳥の嘴くちばしにほじられ、
髪をながくのばした怪異の托僧は こつねんとして姿をあらはした。
ぐるぐると身をうねらせる忍辱は
黒いながい舌をだして身ぶるひをする。
季節よ、人間よ、
おまへたちは横にたふれろ、
あやしい火はばうばうともえて、わたしの進路にたちふさがる。
そこをどいてゆけ、
わたしは神のしろい手をもとめるのだ。
香炉の秋
むらがる鳥よ、
むらがる木この葉よ、
ふかく、こんとんと冥護めいごの谷底へおちる。
あたまをあげよ、
さやさやとかける秋は いましも伸びてきて、
おとろへた人人のために
音ねをうつやうな香炉をたく。
ああ 凋滅てうめつのまへにさきだつこゑは
無窮の美をおびて境界をこえ、
白い木馬にまたがつてこともなくゆきすぎる。
創造の草笛
あなたはしづかにわたしのまはりをとりまいてゐる。
わたしが くらい底のない闇につきおとされて、
くるしさにもがくとき、
あなたのひかりがきらきらとかがやく。
わたしの手をひきだしてくれるものは、
あなたの心のながれよりほかにはない。
朝露のやうにすずしい言葉をうむものは、
あなたの身ぶりよりほかにはない。
あなたは、いつもいつもあたらしい創造の草笛である。
水のおもてをかける草笛よ、
また とほくのはうへにげてゆく草笛よ、
しづかにかなしくうたつてくれ。
球形の鬼
あつまるものをよせあつめ、
ぐわうぐわうと鳴るひとつの箱のなかに、
やうやく眼をあきかけた此世の鬼は
うすいあま皮かはに包まれたままでわづかに息いきをふいてゐる。
香具をもたらしてゆく虚妄の妖艶、
さんさんと鳴る銀と白蝋の燈架のうへのいのちは、
ひとしく手をたたいて消えんことをのぞんでゐる。
みよ、みよ、
世界をおしかくす赤あかいふくらんだ大足おほあしは
夕焼のごとく影をあらはさうとする。
ああ、力ちからと闇やみとに満ちた球形きうけいの鬼おによ、
その鳴りひびく胎期の長くあれ、長くあれ。
ふくろふの笛
とびちがふ とびちがふ暗闇くらやみのぬけ羽ばの手、
その手は丘をひきよせてみだれる。
そしてまた 死の輪飾りを
薔薇のつぼみのやうなお前のやはらかい肩へおくるだらう。
おききなさい、
今も今とて ふくろふの笛は足ずりをして
あをいけむりのなかにうなだれるお前のからだを
とほくへ とほくへと追ひのける。
くちなし色の車
つらなつてくる車のあとに また車がある。
あをい背旗せばたをたてならべ、
どこへゆくのやら若い人たちがくるではないか、
しやりしやりと鳴るあらつちのうへを
うれひにのべられた小砂利こじやりのうへを
笑顔しながら羽ぶるひをする人たちがゆく。
さうして、くちなし色の車のかずが
河豚ふぐのやうな闇のなかにのまれた。
春のかなしみ
かなしみよ、
なんともいへない 深いふかい春のかなしみよ、
やせほそつた幹みきに春はたうとうふうはりした生きもののかなしみをつけた。
のたりのたりした海原のはてしないとほくの方へゆくやうに
ああ このとめどもない悔恨のかなしみよ、
温室のなかに長いもすそをひく草のやうに
かなしみはよわよわしい頼たより気をなびかしてゐる。
空想の階段にうかぶ鳩の足どりに
かなしみはだんだんに虚無の宮殿にちかよつてゆく。
輝く城のなかへ
みなとを出る船は黄色い帆をあげて去つた。
嘴くちばしは木の葉の群をささやいて
海の鳥はけむりを焚いてゐる。
磯辺の草は亡霊の影をそだてて、
わきかへるうしほのなかへわたしは身をなげる。
わたしの身にからまる魚のうろこをぬいで、
泥土に輝く城のなかへ。
銀の足鐶 ――死人の家をよみて――
囚徒らの足にはまばゆい銀のくさりがついてゐる。
そのくさりの鐶くわんは しづかにけむる如く
呼吸をよび 嘆息をうながし、
力をはらむ鳥の翅つばさのやうにささやきを起して、
これら 憂愁にとざされた囚徒らのうへに光をなげる。
くらく いんうつに見える囚徒らの日常のくさむらをうごかすものは、
その、感触のなつかしく 強靱なる銀の足鐶あしわである。
死滅のほそい途みちに心を向ける これらバラツクのなかの人人は
おそろしい空想家である。
彼等は精彩ある巣をつくり、雛ひなをつくり、
海をわたつてとびゆく候鳥である。
ひろがる肉体
わたしのこゑはほら貝のやうにとほくひろがる。
わたしはじぶんの腹をおさへてどしどしとあるくと、
日光は緋のきれのやうにとびちり、
空気はあをい胎壁たいへきの息のやうに泡をわきたたせる。
山や河や丘や野や、すべてひとつのけものとなつてわたしにつきしたがふ。
わたしの足は土となつてひろがり
わたしのからだは香にほひとなつてひろがる。
いろいろの法規は屑肉くづにくのやうにわたしのゑさとなる。
かくして、わたしはだんまりのほら貝のうちにかくれる。
つんぼの月、めくらの月、
わたしはまだ滅しつくさなかつた。
躁忙
ひややかな火のほとりをとぶ虫のやうに
くるくるといらだち、をののき、おびえつつ、さわがしい私よ
野をかける仔牛のおどろき、
あかくもえあがる雲の真下に慟哭をつつんでかける毛なみのうつくしい仔牛のむれ。
鉤はりを産む風は輝く宝石のごとく私をおさへてうごかさない。
底のない、幽谷の闇の曙あけぼのにめざめて偉大なる茫漠の胞衣えなをむかへる。
つよい海風のやうに烈しい身づくろひした接吻をのぞんでも、
すべて手だてなきものは欺騙者の香餌である。
わたしの躁忙は海の底に
さわがしい太鼓をならしてゐる。
老人
わたしのそばへきて腰をかけた、
ほそい杖にたよつてそうつと腰をかけた。
老人はわたしの眼をみてゐた。
たつたひとつの光がわたしの背にふるへてゐた。
奇蹟のおそはれのやうに
わらひはじめると、
その口がばかにおほきい。
おだやかな日和ひよりはながれ、
わたしの身がけむりになつてしまふかとおもふと、
老人は白いひげをはやした蟹のやうにみえた。
白い髯をはやした蟹
おまへはね、しろいひげをはやした蟹だよ、
なりが大きくつて、のさのさとよこばひをする。
幻影をしまつておくうねりまがつた迷宮のきざはしのまへに、
何年といふことなくねころんでゐる。
さまざまな行列や旗じるしがお前のまへをとほつていつたけれど、
そんなものには眼もくれないで、
おまへは自分ひとりの夢をむさぼりくつてゐる。
ふかい哄笑がおまへの全身をひたして、
それがだんだんしづんでゆき、
地軸のひとつの端はしにふれたとき、
むらさきの光をはなつ太陽が世界いちめんにひろがつた。
けれどもおまへはおなじやうにふくろふの羽ばたく昼にかくれて、
なまけくさつた手で風琴をひいてゐる。
みどりの狂人
そらをおしながせ、
みどりの狂人よ。
とどろきわたる※(「女+冒」、第4水準2-5-68)嫉ばうしつのいけすのなかにはねまはる羽はねのある魚は、
さかさまにつつたちあがつて、
歯をむきだしていがむ。
いけすはばさばさとゆれる、
魚は眼をたたいてとびださうとする。
風と雨との自由をもつ、ながいからだのみどりの狂人よ、
おまへのからだが、むやみとほそくながくのびるのは、
どうしたせゐなのだ。
いや……魚がはねるのがきこえる。
おまへは、ありたけのちからをだして空をおしながしてしまへ。
よれからむ帆
ひとつは黄色い帆、
ひとつは赤い帆、
もうひとつはあをい帆だ。
その三つの帆はならんで、よれあひながら沖あひさしてすすむ。
それはとほく海のうへをゆくやうであるが、
じつはだんだん空のなかへまきあがつてゆくのだ。
うみ鳥のけたたましいさけびがそのあひだをとぶ。
これらの帆ぬのは、
人間の皮をはいでこしらへたものだから、
どうしても、内側へまきこんできて、
おひての風を布ぬのいつぱいにはらまないのだ。
よれからむ生皮いきがはの帆布は翕然きふぜんとしてひとつの怪像となる。
死の行列
こころよく すきとほる死の透明なよそほひをしたものものが
さらりさらり なんのさはるおともなく、
地をひきずるおともなく、
けむりのうへを匍はふ青いぬれ色のたましひのやうに
しめつた唇をのがれのがれゆく。
名も知らない女へ
名も知らない女よ、
おまへの眼にはやさしい媚がとがつてゐる、
そして その瞳は小魚のやうにはねてゐる、
おまへのやはらかな頬は
ふつくりとして色とにほひの住処すみか、
おまへのからだはすんなりとして
手はいきもののやうにうごめく。
名もしらない女よ、
おまへのわけた髪の毛は
うすぐらく、なやましく、
ゆふべの鐘のねのやうにわたしの心にまつはる。
「ねえおつかさん、
あたし足がかつたるくつてしやうがないわ」
わたしはまだそのこゑをおぼえてゐる。
うつくしい うつくしい名もしらない女よ
黄色い馬
そこからはかげがさし、
ゆふひは帯をといてねころぶ。
かるい羽のやうな耳は風にふるへて、
黄色い毛並けなみの馬は馬銜はみをかんで繋つながれてゐる。
そして、パンヤのやうにふはふはと舞ひたつ懶惰らんだは
その馬の繋木つなぎとなつてうづくまり、
しき藁わらのうへによこになれば、
しみでる汗は祈祷の糧かてとなる。
朱の揺椅子
岡をのぼる人よ、
野をたどる人よ、
さてはまた、とびらをとぼとぼとたたく人よ
春のひかりがゆれてくるではないか。
わたしたちふたりは
朱と金との揺椅子ゆりいすのうへに身をのせて、
このベエルのやうな氛気ふんきとともに、かろくかろくゆれてみよう、
あの温室にさくふうりん草さうのくびのやうに。
法性のみち
わたしはきものをぬぎ、
じゆばんをぬいで、
りんごの実のやうなはだかになつて、
ひたすらに法性ほふしやうのみちをもとめる。
わたしをわらふあざけりのこゑ、
わたしをわらふそしりのこゑ、
それはみなてる日にむされたうじむしのこゑである。
わたしのからだはほがらかにあけぼのへはしる。
わたしのあるいてゆく路のくさは
ひとつひとつをとめとなり、
手をのべてはわたしの足をだき、
唇をだしてはわたしの膝をなめる。
すずしくさびしい野辺のくさは、
うつくしいをとめとなつて豊麗なからだをわたしのまへにさしのべる。
わたしの青春はけものとなつてもえる。
金属の耳
わたしの耳は
金糸きんしのぬひはくにいろづいて、
鳩のにこ毛のやうな痛みをおぼえる。
わたしの耳は
うすぐろい妖鬼の足にふみにじられて、
石綿いしわたのやうにかけおちる。
わたしの耳は
祭壇のなかへおひいれられて、
そこに印呪をむすぶ金物かなものの像となつた。
わたしの耳は
水仙の風のなかにたつて、
物の招きにさからつてゐる。
妬心の花嫁
このこころ、
つばさのはえた、角つのの生えたわたしの心は、
かぎりなくも温熱をんねつの胸牆きようしやうをもとめて、
ひたはしりにまよなかの闇をかける。
をんなたちの放埓はうらつはこの右の手のかがみにうつり、
また疾走する吐息のかをりはこの左の手のつるぎをふるはせる。
妖気の美僧はもすそをひいてことばをなげき、
うらうらとして銀鈴の魔をそよがせる。
ことなれる二つの性は大地のみごもりとなつて、
谷間に老樹らうじゆをうみ、
野や丘にはひあるく二尾ふたをの蛇をうむ。
蛙にのつた死の老爺
灰色の蛙の背中にのつた死が、
まづしいひげをそよがせながら、
そしてわらひながら、
手をさしまねいてやつてくる。
その手は夕暮をとぶ蝙蝠のやうだ。
年をとつた死は
蛙のあゆみののろいのを気にもしないで、
ふはふはとのつかつてゐる。
その蛙は横からみると金色きんいろにかがやいてゐる、
まへからみると二つの眼がとびでて黒くひかつてゐる。
死の顔はしろく、そして水色にすきとほつてゐる。
死の老爺おやぢはこんな風にして、ぐるりぐるりと世界のなかをめぐつてゐる。
日輪草
そらへのぼつてゆけ、
心のひまはり草さうよ、
きんきんと鈴をふりならす階段をのぼつて、
おほぞらの、あをいあをいなかへはひつてゆけ、
わたしの命いのちは、そこに芽をふくだらう。
いまのわたしは、くるしいさびしい悪魔の羂わなにつつまれてゐる。
ひまはり草よ、
正直なひまはり草よ、
鈴のねをたよりにのぼつてゆけ、のぼつてゆけ、
空をまふ魚うをのうろこの鏡は、
やがておまへの姿をうつすだらう。
ふくらんだ宝玉
ある夕方、一疋のおほきな蝙蝠が、
するどい叫びをだしてかけまはつた。
茶と青磁との空は
大口をあいてののしり、
おもい憎悪をしたたらし、
ふるい樹のうつろのやうに蝙蝠の叫びを抱きかかへた。
わたしは眺めると、
あなたこなたに、ふさふさとした神のしろい髪がたれてゐた。
幻影のやうにふくらんだ宝玉は、
水蛭みづびるのやうにうごめいて、
おたがひの身をすりつけた。
ふくらんだ宝玉はおひおひにわたしの脳をかたちづくつた。
足をみがく男
わたしは足をみがく男である。
誰のともしれない、しろいやはらかな足をみがいてゐる。
そのなめらかな甲の手ざはりは、
牡丹の花のやうにふつくりとしてゐる。
わたしのみがく桃色のうつくしい足のゆびは、
息のあるやうにうごいて、
わたしのふるへる手は涙をながしてゐる。
もう二度とかへらないわたしの思ひは、
ひばりのごとく、自由に自由にうたつてゐる。
わたしの生の祈りのともしびとなつてもえる見知らぬ足、
さわやかな風のなかに、いつまでもそのままにうごいてをれ。
むらがる手
空はかたちもなくくもり、
ことわりもないわたしのあたまのうへに、
錨いかりをおろすやうにあまたの手がむらがりおりる。
街のなかを花とふりそそぐ亡霊のやうに、
ひとしづくの胚珠はいしゆをやしなひそだてて、
ほのかなる小径の香かをさがし、
もつれもつれる手の愛にわたしのあたまは野火のやうにもえたつ。
しなやかに、しろくすずしく身ぶるひをする手のむれは、
今わたしのあたまのなかの王座をしめて相姦さうかんする。
怪物
からだは翁草おきなぐさの髪のやうに亜麻色の毛におほはれ、
顔は三月の女鴉をんなからすのやうに憂欝にしづみ、
四つの足ではひながらも
ときどきうすい爪でものをかきむしる。
そのけものは ひくくうめいて寝ころんだ。
曇天の日没は銀のやうにつめたく火花をちらし、
けもののかたちは 黒くおそろしくなつて、
微風とともにかなたへあゆみさつた。
花をひらく立像
手をあはせていのります。
もののまねきはしづかにおとづれます。
かほもわかりません、
髪のけもわかりません、
いたいたしく、ひとむれのにほひを背おうて、
くらいゆふぐれの胸のまへに花びらをちらします。
めくらの蛙
闇のなかに叫びを追ふものがあります。
それはめくらの蛙です。
ほのぼのとたましひのほころびを縫ふこゑがします。
   あたまをあげるものは夜よるのさかづきです。
   くちなし色の肉を盛もる夜のさかづきです。
   それはなめらかにうたふ白磁のさかづきです。
蛙の足はびつこです。
蛙のおなかはやせてゐます。
蛙の眼はなみだにきずついてゐます。
つめたい春の憂欝
にほひ袋をかくしてゐるやうな春の憂欝よ、
なぜそんなに わたしのせなかをたたくのか、
うすむらさきのヒヤシンスのなかにひそむ憂欝よ、
なぜそんなに わたしの胸をかきむしるのか、
ああ、あの好きなともだちはわたしにそむかうとしてゐるではないか、
たんぽぽの穂のやうにみだれてくる春の憂欝よ、
象牙のやうな手でしなをつくるやはらかな春の憂欝よ、
わたしはくびをかしげて、おまへのするままにまかせてゐる。
つめたい春の憂欝よ、
なめらかに芽生えのうへをそよいでは消えてゆく
かなしいかなしいおとづれ。
ヒヤシンスの唄
ヒヤシンス、ヒヤシンス、
四月になつて、わたしの眠りをさましてくれる石竹色のヒヤシンス、
気高い貴公子のやうなおもざしの青白色のヒヤシンスよ、
さては、なつかしい姉のやうにわたしの心を看みまもつてくれる紫のおほきいヒヤシンスよ、
とほくよりクレーム色に塗つた小馬車をひきよせる魔術師のヒヤシンスよ、
そこには、白い魚のはねるやうな鈴が鳴る。
たましひをあたためる銀の鈴が鳴る。
わたしを追ひかけるヒヤシンスよ、
わたしはいつまでも、おまへの眼のまへに逃げてゆかう。
波のやうにとびはねるヒヤシンスよ、
しづかに物思ひにふけるヒヤシンスよ。
母韻の秋
ながれるものはさり、
ひびくものはうつり、
ささやきとねむりとの大きな花たばのほとりに
しろ毛のうさぎのやうにおどおどとうづくまり、
宝石のやうにきらめく眼をみはつて
わたしはかぎりなく大空のとびらをたたく。
湿気の小馬
かなしいではありませんか。
わたしはなんとしてもなみだがながれます。
あの うすいうすい水色をした角をもつ、
小馬のやさしい背にのつて、
わたしは山しぎのやうにやせたからだをまかせてゐます。
わたしがいつも愛してゐるこの小馬は、
ちやうどわたしの心が、はてしないささめ雪のやうにながれてゆくとき、
どこからともなく、わたしのそばへやつてきます。
かなしみにそだてられた小馬の耳は、
うゐきやう色のつゆにぬれ、
かなしみにつつまれた小馬の足は
やはらかな土壌の肌にねむつてゐる。
さうして、かなしみにさそはれる小馬のたてがみは、
おきなぐさの髪のやうにうかんでゐる。
かるいかるい、枯草のそよぎにも似る小馬のすすみは、
あの、ぱらぱらとうつ Timbaleタンバアル のふしのねにそぞろなみだぐむ。
森のうへの坊さん
坊さんがきたな、
くさいろのちひさなかごをさげて。
鳥のやうにとんできた。
ほんとに、まるで鴉からすのやうな坊さんだ、
なんかの前じらせをもつてくるやうな、ぞつとする坊さんだ。
わらつてゐるよ。
あのうすいくちびるのさきが、
わたしの心臓へささるやうな気がする。
坊さんはとんでいつた。
をんなのはだかをならべたやうな
ばかにしろくみえる森のうへに、
ひらひらと紙のやうに坊さんはとんでいつた。
草の葉を追ひかける眼
ふはふはうかんでゐる
くさのはを、
おひかけてゆくわたしのめ。
いつてみれば、そこにはなんにもない。
ひよりのなかにたつてゐるかげろふ。
おてらのかねのまねをする
のろいのろい風かざあし。
ああ くらい秋だねえ、
わたしのまぶたに霧がしみてくる。
きれをくびにまいた死人
ふとつてゐて、
ぢつとつかれたやうにものをみつめてゐる顔、
そのかほもくびのまきものも、
すてられた果実くだもののやうにものうくしづまり、
くさかげろふのやうなうすあをい息にぬれてゐる。
ながれる風はとしをとり、
そのまぼろしは大きな淵にむかへられて、
いつとなくしづんでいつた。
さうして あとには骨だつた黒いりんかくがのこつてゐる。
手のきずからこぼれる花
手のきずからは
みどりの花がこぼれおちる。
わたしのやはらかな手のすがたは物語をはじめる。
なまけものの風よ、
ものぐさなしのび雨よ、
しばらくのあひだ、
このまつしろなテエブルのまはりにすわつてゐてくれ、
わたしの手のきずからこぼれるみどりの花が、
みんなのひたひに心持よくあたるから。
年寄の馬
わたしは手でまねいた、
岡のうへにさびしくたつてゐる馬を、
岡のうへにないてゐる年寄の馬を。
けむりのやうにはびこる憂欝、
はりねずみのやうに舞ふ苦悶、
まつかに焼けただれたたましひ、
わたしはむかうの岡のうへから、
やみつかれた年寄の馬をつれてこようとしてゐる。
やさしい老馬よ、
おまへの眼のなかにはあをい水草すゐさうのかげがある。
そこに、まつしろなすきとほる手をさしのべて、
水草のかげをぬすまうとするものがゐる。
鼻を吹く化粧の魔女
水仙色のそら、
あたらしい智謀と霊魂とをそだてる暮方くれがたの空のなかに、
こころよく水色にもえる眼鏡、
その眼鏡にうつる向うのはうに
豊麗な肉体を持つ化粧の女、
しなやかに ぴよぴよとなくやうな女のからだ、
ほそい にほはしい線のゆらめくたびに、
ぴよぴよとなまめくこゑの鳴くやうなからだ、
ねばねばしたまぼろしと
つめたくひかる放埓とが、
くつきりとからみついて、
あをくしなしなと透明にみえる女のからだ、
ものごしの媚びるにつれて、
ものかげの夜の鳥のやうに、
ぴよぴよと鳴くやうな女のからだ、
やさしいささやきを売る女の眼、
雨のやうに情念をけむらせる女の指、
闇のなかに高い香料をなげちらす女の足の爪、
濃化粧の魔女のはく息は、
ゆるやかに輪をつくつて、
わたしのつかれた眼をなぐさめる。
あをざめた僧形の薔薇の花
もえあがるやうにあでやかなほこりをつつみ、
うつうつとしてあゆみ、
うつうつとしてわらつてゐた
僧形そうぎやうのばらの花、
女の肌にながれる乳色のかげのやうに
うづくまり たたずみ うろうろとして、
とかげの尾のなるひびきにもにて、
おそろしいなまめきをひらめかしてうかがひよる。
すべてしろいもののなかに
かくれふしてゆく僧形そうぎやうのばらの花、
ただれる憂欝、
くされ とけてながれる悩乱の花束、
美貌の情欲、
くろぐろとけむる叡智えいちの犬、
わたしの両手はくさりにつながれ、
ほそいうめきをたててゐる。
わたしのまへをとほるのは、
うつくしくあをざめた僧形そうぎやうのばらの花、
ひかりもなく つやもなく もくもくとして、
とほりすぎるあをざめたばらの花。
わたしのふたつの手は
くさりとともにさらさらと鳴つてゐる。
僧衣の犬
くちぶえのとほざかる森のなかから、
はなすぢのとほつた
ひたひにしわのある犬が
のつそりとあるいてきた。
犬は人間の年寄のやうに眼をしめらせて、
ながい舌をぬるぬるとして物語つた。
この犬は、
その身にゆつくりとしたねずみいろの僧衣そういをつけてゐた。
犬がながい舌をだして話しかけるとき、
ゆるやかな僧衣のすそは閑子鳥かんこどりのはねのやうにぱたぱたした。
あかい あかい 火のやうな空のわらひ顔、
僧衣の犬はひとこゑもほえないで黙つてゐた。
手の色の相
手の相は暴風雨あらしのきざはしのまへに、
しづかに物語りをはじめる。
赤はうひごと、
黄はよろこびごと、
紫は知らぬ運動の転回、
青は希望のはなれるかたち、
さうして銀と黒との手の色は、
いつはりのない狂気の道すぢを語る。
空にかけのぼるのは銀とひわ色のまざつた色、
あぢさゐ色のぼやけた手は扉にたつ黄金の王者、
ふかくくぼんだ手のひらに、
星かげのやうなまだらを持つのは死の予言、
栗色の馬の毛のやうな艶つやつぽい手は、
あたらしい偽善ぎぜんに耽る人である。
ああ、
どこからともなくわたしをおびやかす
ふるへをののく青銅の鐘のこゑ。
鈴蘭の香料
みどりのくものなかにすむ魚うをのあしおと、
過去のとびらに名残の接吻ベエゼをするみだれ髪、
うきあがる紫紺しこんのつばさ、
思ひにふける女鳥をんなどりはよろめいた。
まつさをな鉤かぎをひらめかし、
とほくたましひの宿をさそふ女鳥をんなどり、
もやもやとしたなやましいおまへの言葉の好ましさ、
しろい月のやうにわたしのからだをとりまくおまへのことば、
霧のこい夏の夜よのけむりのやうに、
つよくつよくからみつく香にほひのことばは、
わたしのからだにしなしなとふるへついてゐる。
香料の墓場
けむりのなかに、
霧のなかに、
うれひをなげすてる香料の墓場、
幻想をはらむ香料の墓場、
その墓場には鳥の生いき羽ばねのやうに亡骸なきがらの言葉がにほつてゐる。
香料の肌のぬくみ、
香料の骨のきしめき、
香料の息のときめき、
香料のうぶ毛のなまめき、
香料の物言ひぶりのあだつぽさ、
香料の身振りのながしめ、
香料の髪のふくらみ、
香料の眼にたまる有情うじやうの涙、
雨のやうにとつぷりと濡れた香料の墓場から、
いろめくさまざまの姿はあらはれ、
すたれゆく生物いきもののほのほはもえたち、
出家した女の移り香をただよはせ、
過去へとびさる小鳥の羽はねをつらぬく。
香料の顔寄せ
とびたつヒヤシンスの香料、
おもくしづみゆく白ばらの香料、
うづをまくシネラリヤのくさつた香料、
夜よるのやみのなかにたちはだかる月下香テユペルウズの香料、
身にしみじみと思ひにふける伊太利の黒百合の香料、
はなやかな著物をぬぎすてるリラの香料、
泉のやうに涙をふりおとしてひざまづくチユウリツプの香料、
年の若さに遍路へんろの旅にたちまよふアマリリスの香料、
友もなくひとりびとりに恋にやせるアカシヤの香料、
記憶をおしのけて白いまぼろしの家をつくる糸杉シプレの香料、
やさしい肌をほのめかして人の心をときめかす鈴蘭の香料。
舞ひあがる犬
その鼻をそろへ、
その肩をそろへ、
おうおうとひくいうなりごゑに身をしづませる二疋ひきの犬。
そのせはしい息をそろへ、
その眼は赤くいちごのやうにふくらみ、
さびしさにおうおうとふるへる二ひきの犬。
沼のぬくみのうちにほころびる水草すゐさうの肌のやうに、
なんといふなめらかさを持つてゐることだらう、
つやつやと月夜のやうにあかるい毛なみよ、
さびしさにくひしばる犬は
おうおうとをののきなきさけんで、
ほの黄色い夕闇ゆふやみのなかをまひあがるのだ。
しろい爪をそろへて、
ふたつの犬はよぢのぼる蔓草つるくさのやうに
ほのきいろい夕闇の無言のなかへまひあがるのだ。
そのくるしみをかはしながら、
さだめない大空のなかへゆくふたつの犬よ、
やせた肩をごらん、
ほそいしつぽをごらん、
おまへたちもやつぱりたえまなく消えてゆくものの仲間だ。
ほのきいろい夕空のなかへ、
ふたつのものはくるしみをかはしながらのぼつてゆく。
林檎料理
手にとつてみれば
ゆめのやうにきえうせる淡雪あはゆきりんご、
ネルのきものにつつまれた女のはだのやうに
ふうはりともりあがる淡雪りんご、
舌のとけるやうにあまくねばねばとして
嫉妬のたのしい心持にも似た淡雪りんご、
まつしろい皿のうへに
うつくしくもられて泡をふき、
香水のしみこんだ銀のフオークのささるのを待つてゐる。
とびらをたたく風のおとのしめやかな晩、
さみしい秋の
林檎料理のなつかしさよ。
まるい鳥
をんなはまるい線をゑがいて
みどりのふえをならし、
をんなはまるい線をひいて
とりのはねをとばせる。
をんなはまるい線をふるはせて
あまいにがさをふりこぼす。
をんなは鳥だ、
をんなはまるい鳥だ。
だまつてゐながらも、
しじゆうなきごゑをにほはせる。
白い狼
白い狼が
わたしの背中でほえてゐる。
白い狼が
わたしの胸で、わたしの腹で、
うをう うをうとほえてゐる。
こえふとつた白い狼が
わたしの腕で、わたしの股ももで、
ぼう ぼうとほえてゐる。
犬のやうにふとつた白い狼が
真赤な口をあいて、
なやましくほえさけびながら、
わたしのからだぢゆうをうろうろとあるいてゐる。
盲目の鴉
うすももいろの瑪瑙の香炉から
あやしくみなぎるけむりはたちのぼり、
かすかに迷ふ茶色の蛾は
そこに白い腹をみせてたふれ死ぬ。
秋はかうしてわたしたちの胸のなかへ
おともないとむらひのやうにやつてきた。
しろくわらふ秋のつめたいくもり日びに、
めくら鴉がらすは枝から枝へ啼いてあるいていつた。
裂かれたやうな眼がしらの鴉よ、
あぢさゐの花のやうにさまざまの雲をうつす鴉の眼よ、
くびられたやうに啼きだすお前のこゑは秋の木この葉をさへちぢれさせる。
お前のこゑのなかからは、
まつかなけしの花がとびだしてくる。
うすにごる青磁の皿のうへにもられた兎の肉をきれぎれに噛む心地にて、
お前のこゑはまぼろしの地面に生える雑草である。
羽根をひろげ、爪をかき、くちばしをさぐつて、
枝から枝へあるいてゆくめくら鴉は、
げえを げえを とおほごゑにしぼりないてゐる。
無限につながる闇の宮殿のなかに、
あをじろくほとばしるいなづまのやうに
めくら鴉のなきごゑは げえを げえを げえをとひびいてくる。
蜘蛛のをどり
あらあらしく野のをかに歩みをはこぶ
ゆふぐれのさびれたたましひのおともないはばたき、
うすぐらいともしびのゆらめくたのしさにも似て、
さそはれる微笑の釣針のうつくしさ。
うちつける壁も扉も窓もなく、
むなしくあを空のふかみの底に身をなげ、
世紀のあをあをとながれるうれひ顔のうへに、
こともなげに、ひそかにも、
うつりゆく香料のたいまつをもやしつづけた。
いつぴきの黄色い大蜘蛛は
手品のやうにするすると糸をたれて、
そのふしぎな心の運命さだめを織る。
ああ、
ゆふぐれの野のはてにひとりつぶやく太陽の
かなしくゆがんだわらひ顔、
黄色い蜘蛛はた・た・たと織りつづける。
女のやうにべつたりとしたおほきな蜘蛛は、
くたびれるのもしらないで、
足も 手も ぐるぐるする眼も
葉ずれの蘆のやうに、するどくするどくうごいてゐる。
指頭の妖怪
あをじろむ指のさきから、
小鳥がまひたつてゆく。
ぎらぎらにくもる地面の床とこのうへに、
片足でおとろへはてながら、
うづまきながらのしかかつてくる。
まつくろな蛇の腹のやうな太鼓のおとが
ぼろんぼろんとなげくのだ。
わたしのあをじろむ指のさきからにげてゆく月夜の雨、
毛ばだつた秋の果物くだもののやうな
ふといぬめぬめとした頸くびをねぢらせ、
なまめく頸をねぢらせ、
秋のこゑをつぶやき、
秋のつめたさをおさへつける。
ぼろんぼろんとやぶれた魂の糸をかきならし、
熱く、ものうく、身をかきむしつて、
さびしい秋のつめたさをおさへつける。
まがりくねつた この秋のさびしさを、
あやしくふりむけるお前のなまなましい頸のうめきに、
たよりなくもとほざけるのだ。
しろくひかる粘液をひいて、
うねりをうつお前の頸に
なげつけられた言葉の世にも稀なにほひ。
ぼろんぼろんと
わたしの遠耳にきこえてくるあやしい太鼓のおと。
わかれることの寂しさ
あの人はわたしたちとわかれてゆきました。
わたしはあの人を別に好いても嫌つてもゐませんでした。
それだのに、
あの人がわたしたちからはなれてゆくのをみると、
あの人がなじみのやせた顔をもつて去つてゆくのをおもふと、
わけもないものさびしさが
あはくわたしの胸のそこにながれてゆきます。
人の世の 生きてわかれてゆくながれのさびしさ。
あの人のほのじろい顔も、
なじみの調度てうどのなかにもう見えなくなるのかと思ふと、
さだめなくあひ、さだめなくはなれ、
わづかのことばのうちにゆふぐれのささやきをにごした
そのふしぎの時間は、
とほくきえてゆくわたしの足あとを、
鳥のはねのやうにはたはたと羽ばたきをさせるのです。
わらひのひらめき
あのしめやかなうれひにとざされた顔のなかから、
をりふしにこぼれでる
あはあはしいわらひのひらめき。
しろくうるほひのあるひらめき、
それは誰にこたへたわらひでせう。
きぬずれのおとのやうなひらめき、
それはだれをむかへるわらひでせう。
うれひにとざされた顔のなかに咲きいでる
みづいろのともしびの花、
ふしめしたをとめよ、
あなたの肌のそよかぜは誰へふいてゆくのでせう。
夏の夜の薔薇
手に笑とささやきとの吹雪する夏の夜よる、
黒髪のみだれ心地の眼がよろよろとして、
うつさうとしげる森の身ごもりのやうにたふれる。
あたらしいされかうべのうへに、
ほそぼそとむらがりかかるむらさきのばらの花びら、
夏の夜の銀色の淫縦いんじゆうをつらぬいて、
よろめきながれる薔薇の怪物。
みたまへ、
雪のやうにしろい腕こそは女王のばら、
まるく息づく胴トルスは黒い大輪のばら、
ふつくりとして指のたにまに媚をかくす足は欝金うこんのばら、
ゆきずりに秘密をふきだすやはらかい肩は真赤まつかなばら、
帯のしたにむつくりともりあがる腹はあをい臨終のばら、
こつそりとひそかに匂ふすべすべしたつぼみのばら、
ひびきをうちだすただれた老女のばら、
舌と舌とをつなぎあはせる絹のばらの花。
あたらしいふらふらするされかうべのうへに
むらむらとおそひかかるねずみいろの病気のばら、
香料の吐息をもらすばらの肉体よ、
芳香の淵にざわざわとおよぐばらの肉体よ、
いそげよ、いそげよ、
沈黙にいきづまる歓楽の祈祷にいそげよ。
木製の人魚
こゑはとほくをまねき、
しづかにべにの鳩をうなづかせ、
よれよれてのぼる火繩ひなはの秋をうつろにする。
   こゑはさびしくぬけて、
   うつろを見はり、
   ながれる身のうへににほひをうつす。
くちびるはあをくもえて、
うみのまくらにねむり、
むらがりしづむ藻草もぐさのかげに眼をよせる。
洋装した十六の娘
そのやはらかなまるい肩は、
まだあをい水蜜桃のやうに媚こびの芽をふかないけれど、
すこしあせばんだうぶ毛がしろい肌にぴちやつとくつついてゐるやうすは、
なんだか、かんで食べたいやうな不思議なあまい食欲をそそる。
十四のをとめ
そのすがたからは空色のみづがながれ、
きよらかな、ものを吸ふやうな眼、
けだかい鼻、
つゆをやどしてゐるやうなときいろの頬、
あまい唾をためてゐるちひさい唇。
黄金きんのランプのやうに、
あなたのひかりはやはらかにもえてゐる。
椅子に眠る憂欝
はればれとその深い影をもつた横顔を
花鉢はなばちのやうにしづかにとどめ、
揺椅子ゆりいすのなかにうづくまる移り気をそそのかして、
死のすがたをおぼろにする。
みどりいろの、ゆふべの揺椅子のなやましさに、
みじかい生せいの花粉のさかづきをのみほすのか。
ああ、わたしのほとりに匍はひよるみどりの椅子のささやきの小唄、
憂欝はながれる魚うをのかなしみにも似て、ゆれながら、ゆれながら、
かなしみのさざなみをくりかへす。
まぼろしの薔薇
はるはきたけれど、
わたしはさびしい。
ひとつのかげのうへにまたおもいかげがかさなり、
わたしのまぼろしのばらをさへぎる。
ふえのやうなほそい声でうたをうたふばらよ、
うつくしい悩みのたねをまくみどりのおびのしろばらよ、
うすぐもりした春のこみちに、
ばらよ、ばらよ、まぼろしのしろばらよ、
わたしはむなしくおまへのかげをもとめては、
こころもなくさまよひあるくのです。
   *
かすかな白鳥はくてうのはねのやうに
まよなかにさきつづく白ばらの花、
わたしのあはせた手のなかに咲きいでるまぼろしの花、
さきつづくにほひの白ばらよ、
こころをこめたいのりのなかに咲きいでるほのかなばらよ、
ああ、なやみのなかにさきつづく
にほひのばらよ、にほひのばらよ、
おまへのながいまつげが
わたしをさしまねく。
   *
まつしろいほのほのなかに、
おまへはうつくしい眼をとぢてわたしをさそふ。
ゆふぐれのこみちにうかみでるしろばらよ、
うすやみにうかみでるみどりのおびのしろばらよ、
おまへはにほやかな眼をとぢて、
わたしのさびしいむねに花をひらく。
   *
なやましくふりつもるこころのおくの薔薇ばらの花よ、
わたしはかくすけれども、
よるのふけるにつれてまざまざとうかみでるかなしいしろばらの花よ、
さまざまのおもひをこめたおまへの秘密のかほが、
みづのなかの月のやうに
はてしのないながれのなかにうかんでくる。
   *
ひとひら、またひとひら、ふくらみかけるつぼみのばらのはな、
そのままに、ゆふべのこゑをにほはせるばらのかなしみ、
ただ、まぼろしのなかへながれてゆくわたしのしろばらの花よ、
おまへのまつしろいほほに、
わたしはさびしいこほろぎのなくのをききます。
   *
ゆふぐれのかげのなかをあるいてゆくしめやかなこひびとよ、
こゑのないことばをわたしのむねにのこしていつた白薔薇の花よ、
うすあをいまぼろしのぬれてゐるなかに
ふたりのくちびるがふれあふたふとさ。
ひごとにあたらしくうまれでるあの日のばらのはな、
つめたいけれど、
ひとすぢのゆくへをたづねるこころは、
おもひでの籠かごをさげてゆきます。
薔薇のもののけ
あさとなく ひるとなく よるとなく
わたしのまはりにうごいてゐる薔薇のもののけ、
おまへはみどりのおびをしゆうしゆうとならしてわたしの心をしばり、
うつりゆくわたしのからだに、
たえまない火のあめをふらすのです。
手をのばす薔薇
ばらよ おまへはわたしのあたまのなかで鴉のやうにゆれてゐる。
ふしぎなあまいこゑをたててのどをからす野鳩のやうに
おまへはわたしの思ひのなかでたはむれてゐる。
はねをなくした駒鳥のやうに
おまへは影かげをよみながらあるいてゐる。
このやうにさびしく ゆふぐれとよるとのくるたびに
わたしの白薔薇の花はいきいきとおとづれてくるのです。
みどりのおびをしめて まぼろしによみがへつてくる白薔薇の花、
おまへのすがたは生きた宝石の蛇、
かつ かつ かつととほいひづめのおとをつたへるおまへのゆめ、
薔薇はまよなかの手をわたしへのばさうとして、
ぽたりぽたりちつていつた。
薔薇の誘惑
ただひとつのにほひとなつて
わたり鳥のやうにうまれてくる影のばらの花、
糸をつないで墓上ぼじやうの霧をひきよせる影のばらの花、
むねせまく ふしぎなふるい甕かめのすがたをのこしてゆくばらのはな、
ものをいはないばらのはな、
ああ
まぼろしに人間のたましひをたべて生きてゆくばらのはな、
おまへのねばる手は雑草の笛にかくれて
あたらしいみちにくづれてゆきます。
ばらよ ばらよ
あやしい白薔薇のかぎりないこひしさよ。
悲しみの枝に咲く夢
こひびとよ、こひびとよ、
あなたの呼吸いきは
わたしの耳に青玉サフイイルの耳かざりをつけました。
わたしは耳がかゆくなりました。
   こひびとよ、こひびとよ、
   あなたの眼が星のやうにきれいだつたので、
   わたしはいくつもいくつもひろつてゆきました。
   さうして、わたしはあなたの眼をいつぱい胸にためてしまひました。
こひびとよ、こひびとよ、
あなたのびろうどのやうな小指がむづむづとうごいて、
わたしの鼻にさはりました。
わたしはそのまま死んでもいいやうなやすらかな心持になりました。
風のなかに巣をくふ小鳥 ――十月の恋人に捧ぐ――
あなたをはじめてみたときに、
わたしはそよ風にふかれたやうになりました。
ふたたび みたび あなたをみたときに、
わたしは花のつぶてをなげられたやうに
たのしさにほほゑまずにはゐられませんでした。
あなたにあひ、あなたにわかれ、
おなじ日のいくにちもつづくとき、
わたしはかなしみにしづむやうになりました。
まことにはかなきものはゆくへさだめぬものおもひ、
風のなかに巣をくふ小鳥、
はてしなく鳴きつづけ、鳴きつづけ、
いづこともなくながれゆくこひごころ。

うすいこさめのふる日です、
わたしのまへにふたりのむすめがゆきました。
そのひとりのむすめのしろい足のうつくしさをわたしはわすれない。
せいじいろの爪つまかはからこぼれてゐるまるいなめらかなかかとは、
ほんのりとあからんで、
はるのひのさくらの花びらのやうになまめいてゐました。
こいえびちやのはなをがそのはなびらをつつんでつやつやとしてゐました。
ああ うすいこさめのふる日です。
あはい春のこころのやうなうつくしい足のゆらめきが、
ぬれたしろい水鳥みづどりのやうに
おもひのなかにかろくうかんでゐます。
恋人を抱く空想
ちひさな風がゆく、
ちひさな風がゆく、
おまへの眼をすべり、
おまへのゆびのあひだをすべり、
しろいカナリヤのやうに
おまへの乳房のうへをすべりすべり、
ちひさな風がゆく。
ひな菊と さくらさうと あをいばらの花とがもつれもつれ、
おまへのまるい肩があらしのやうにこまかにこまかにふるへる。
西蔵のちひさな鐘
むらさきのつばきの花をぬりこめて、
かの宗門のよはひのみぞにはなやかなともしびをかかげ、
憂愁のやせさらぼへた馬の背にうたたねする鐘よ、
そのほのぐらい銀色のつめたさは
さやさやとうすじろく、うすあをく、
嵐気らんきにかくされた その風貌の刺とげのなまなましさ。
鐘は僧形のあしのうらに疑問のいぼをうゑ、
くまどりをおしせまり、
笹の葉のとぐろをまいて、
わかれてもわかれてもつきせぬきづなの魚うをを生かす。
さびしいかげ
この ひたすらにうらさびしいかげはどこからくるのか、
きいろい木この実のみのるとほい未来の木立のなかからか、
ちやうど 胸のさやさやとしたながれのなかに、
すずしげにおよぐしろい魚のやうである。
あなたのこゑ
わたしの耳はあなたのこゑのうらもおもてもしつてゐる。
みづ苔ごけのうへをすべる朝のそよかぜのやうなあなたのこゑも、
グロキシニヤのうぶげのなかにからまる夢のやうなあなたのこゑも、
つめたい真珠のたまをふれあはせて靄もやのなかにきくやうなあなたのこゑも、
銀ぎんと黄金こがねの太刀たちをひらひらとひらめかす幻想の太陽のやうなあなたのこゑも、
月をかくれ、
沼の水をかくれ、
水中のいきものをかくれ、
ひとりけざやかに雪のみねをのぼるやうな澄んだあなたのこゑも、
つばきの花やひなげしの花がぽとぽととおちるやうなひかりあるあなたのこゑも、
うすもののレースでわたしのたましひをやはらかくとりまくあなたのこゑも、
まひあがり、さてしづかにおりたつて、
あたりに気をかねながらささやく河原のなかの雲雀ひばりのやうなあなたのこゑも、
わたしはよくよく知つてゐる。
とほくのはうからにほふやうにながれてくるあなたのこゑのうつりかを、
わたしは夜のさびしさに、さびしさに、
いま、あなたのこゑをいくつもいくつもおもひだしてゐる。
盲目の宝石商人
わたしは十二月のきりのこいばんがたに、
街のなかをとぼろとぼろとあるいてゆくめくらの商人あきんどです。
わたしの手もやはり霧のやうにあをくばうばうとのびてゆくのです。
ゆめのおもみのやうなきざはしがとびかひ、
わたしは手提の革箱かはばこのなかに、
ぬめいろのトルコ玉をもち、
蛇の眼のやうなトルマリン、
おほきなひびきを人形師の糸でころがすザクロ石、
はなよめのやはらかい指にふさはしいうすむらさきのうすダイヤ、
わたしは空からおりてきた鉤かぎのやうに、
つつまれた柳のほそい枝のかげにわれながら
まだらにうかぶ月の輪をめあてに、
さても とぼろとぼろとあるいてゆきます。
十六歳の少年の顔 ――思ひ出の自画像――
うすあをいかげにつつまれたおまへのかほには
五月のほととぎすがないてゐます。
うすあをいびろうどのやうなおまへのかほには
月のにほひがひたひたとしてゐます。
ああ みればみるほど薄月うすづきのやうな少年よ、
しろい野芥子のげしのやうにはにかんでばかりゐる少年よ、
そつと指でさはられても真赤になるおまへのかほ、
ほそい眉、
きれのながい眼のあかるさ、
ふつくらとしてしろい頬の花、
水草みづくさのやうなやはらかいくちびる、
はづかしさと夢とひかりとでしなしなとふるへてゐるおまへのかほ。
雪のある国へ帰るお前は
風のやうにおまへはわたしをとほりすぎた。
枝にからまる風のやうに、
葉のなかに真夜中をねむる風のやうに、
みしらぬおまへがわたしの心のなかを風のやうにとほりすぎた。
四月だといふのにまだ雪の深い北国ほつこくへかへるおまへは、
どんなにさむざむとしたよそほひをしてゆくだらう。
みしらぬお前がいつとはなしにわたしの心のうへにちらした花びらは、
きえるかもしれない、きえるかもしれない。
けれども、おまへのいたいけな心づくしは、
とほい鐘のねのやうにいつまでもわたしをなぐさめてくれるだらう。
焦心のながしめ
むらがりはあをいひかりをよび、
きえがてにゆれるほのほをうづめ、
しろく しろく あゆみゆくこのさびしさ。
みづのおもての花でもなく、
また こずゑのゆふぐれにかかる鳥のあしおとでもなく、
うつろから うつろへとはこばれる焦心せうしんのながしめ、
欝金香うつこんかうの花ちりちりと、
こころは 雪をいただき、
こころは みぞれになやみ、
こころは あけがたの細雨ほそあめにまよふ。
四月の顔
ひかりはそのいろどりをのがれて、
あしおともかろく
かぎろひをうみつつ、
河のほとりにはねをのばす。
四月の顔はやはらかく、
またはぢらひのうちに溶とけながら
あらあらしくみだれて、
つぼみの花の裂さけるおとをつらねてゆく。
こゑよ、
四月のあらあらしいこゑよ、
みだれても みだれても
やはらかいおまへの顔は
うすい絹のおもてにうつる青い蝶蝶の群れ咲ざき
季節の色
たふれようとしてたふれない
ゆるやかに
葉と葉とのあひだをながれるもの、
もののみわけもつかないほど
のどかにしなしなとして
おもてをなでるもの、
手のなかをすべりでる
かよわいもの、
いそいそとして水にたはむれる風の舌、
みづいろであり、
みどりであり、
そらいろであり、
さうして 絶えることのない遥かな銀の色である。
わたしの身はうごく、
うつりゆくいろあひのなかに。
四月の日
日は照る、
日は照る、
四月の日はほのほのむれのやうに
はてしなく大空のむなしさのなかに
みなぎりあふれてゐます。
花は熱気にのぼせて、
うはごとを言ひます。
傘のやうに日のゆれる軟風なんぷうはたちはだかり、
とびあがる光の槍をむかへます。
日は照る、
日は照る、
あらあらしく紺青こんじやうの布をさいて、
らんまんと日は照りつづけます。
月に照らされる年齢
あめいろにいろどられた月光のふもとに
ことばをさしのべて空想の馬にさやぐものは、
わきたつ無数のともしびをてらして ひそみにかくれ、
闇のゆらめく舟をおさへて
ふくらむ心の花をゆたかにこぼさせる。
かはりゆき、うつりゆき、
つらなりゆき、
まことに ひそやかに 月のながれに生きる年頃。
月をあさる花
そのこゑはなめらかな砂のうへをはしる水貝みづがひのささやき、
したたるものはまだらのかげをつくつてけぶりたち、
はなびらをはがしてなげうち、
身をそしり、
ほのじろくあへぐ指環ゆびわのなかに
かすみゆく月をとらへようとする。
ひらいてゆけよ、
ひとり ものかげにくちびるをぬらす花よ。
しろいものにあこがれる
このひごろの心のすずしさに
わたしは あまたのしろいものにあこがれる。
あをぞらにすみわたつて
おほどかにかかる太陽のしろいひかり、
蘆のはかげにきらめくつゆ、
すがたとなく かげともなく うかびでる思ひのなかのしろい花ざかり、
熱情のさりはてたこずゑのうらのしろい花、
また あつたかいしろい雪のかほ、
すみしきる十三のをとめのこころ、
くづれても なほたはむれおきあがる青春のみどりのしろさ、
四月の夜の月のほほゑみ、
ほのあかい紅べにをふくんだ初恋のむねのときめき、
おしろいのうつくしい鼻のほのじろさ ほのあをさ、
くらがりにはひでる美妙びめうな指のなまめかしい息のほめき、
たわわなふくらみをもち ともしびにあへぐあかしや色の乳房の花、
たふれてはながれみじろぐねやの秘密のあけぼののあをいいろ、
さみだれに ちらちらするをんなのしろくにほふ足。
それよりも 寺院のなかにあふれる木蓮もくれんの花の肉、
それよりも 色のない こゑのない かたちのない こころのむなしさ、
やすみをもとめないで けむりのやうにたえることなくうまれでる肌のうつりぎ、
月はしどろにわれて生物いきものをつつみそだてる。
夢をうむ五月
粉こをふいたやうな みづみづとしたみどりの葉つぱ、
あをぎりであり、かへでであり、さくらであり、
やなぎであり、すぎであり、いてふである。
うこんいろにそめられたくさむらであり、
まぼろしの花花を咲かせる昼のにほひであり、
感情の糸にゆたゆたとする夢の餌ゑをつける五月、
ただよふものは ときめきであり ためいきであり かげのさしひきであり、
ほころびとけてゆく香料の波である。
思ひと思ひとはひしめき、
はなれた手と手とは眼をかはし、
もすそになびいてきえる花粉の蝶、
人人も花であり、樹樹も花であり、草草も花であり、
うかび ながれ とどまつて息づく花と花とのながしめ、
もつれあひ からみあひ くるしみに上気する むらさきのみだれ花、
こゑはあまく 羽ばたきはとけるやうに耳をうち、
肌のひかりはぬれてふるへる朝のぼたんのやうにあやふく、
こころはほどのよい湿りにおそはれてよろめき、
みちもなく ただ そよいでくるあまいこゑにいだかれ、
みどりの泡をもつ このすがすがしいはかない幸福、
ななめにかたむいて散らうともしない迷ひのそぞろあるき、
恐れとなやみとの網にかけられて身をほそらせる微風の卵。
莟から莟へあるいてゆく人
まだ こころをあかさない
とほいむかうにある恋人のこゑをきいてゐると、
ゆらゆらする うすあかいつぼみの花を
ひとつひとつ あやぶみながらあるいてゆくやうです。
その花の
ひとの手にひらかれるのをおそれながら、
かすかな ゆくすゑのにほひをおもひながら、
やはらかにみがかれたしろい足で
そのあたりをあるいてゆくのです。
ゆふやみの花と花とのあひだに
こなをまきちらす花蜂はなばちのやうに
あなたのみづみづしいこゑにぬれまみれて、
ねむり心地ごこちにあるいてゆくのです。
六月の雨
六月はこもるあめ、くさいろのあめ、
なめくぢいろのあめ、
ひかりをおほひかくして窓まどのなかに息をはくねずみいろのあめ、
しろい顔をぬらして みちにたたずむひとのあり、
たぎりたつ思ひをふさぐぬかのあめ、みみずのあめ、たれぬののあめ、
たえまないをやみのあめのいと、
もののくされであり、やまひであり、うまれである この霖雨ながあめのあし、
わたしはからだの眼といふ眼をふさいでひきこもり、
うぶ毛の月のほとりにふらふらとまよひでる。
卵の月
そよかぜよ そよかぜよ、
わたしはあをいはねの鳥、
みづはながれ、
そよかぜはむねをあたためる。
この しつとりとした六月の日は
ものをふくらめ こころよくたたき、
まつしろい卵をうむ。
そよかぜのしめつたかほも
なつかしく心をおかし、
まつしろい卵のはだのなめらかなかがやき、
卵よ 卵よ
あをいはねをふるはして卵をながめる鳥、
まつしろ 卵よ ふくらめ ふくらめ、
はれた日に その肌をひらひらとふくらませよ。
春の日の女のゆび
この ぬるぬるとした空気のゆめのなかに、
かずかずのをんなの指といふ指は
よろこびにふるへながら かすかにしめりつつ、
ほのかにあせばんでしづまり、
しろい丁字草ちやうじさうのにほひをかくして のがれゆき、
ときめく波のやうに おびえる死人の薔薇をあらはにする。
それは みづからでた魚うをのやうにぬれて なまめかしくひかり、
ところどころに眼をあけて ほのめきをむさぼる。
ゆびよ ゆびよ 春のひのゆびよ、
おまへは ふたたびみづにいらうとする魚うをである。
黄色い接吻
もう わすれてしまつた
葉かげのしげりにひそんでゐる
なめらかなかげをのぞかう。
なんといふことなしに
あたりのものが うねうねとした宵でした。
をんなは しろいいきもののやうにむづむづしてゐました。
わたしのくちびるが
魚うをのやうに
はを はを はを はを はを
それは それは
あかるく きいろい接吻でありました。
頸をくくられる者の歓び
指をおもうてゐるわたしは
ふるへる わたしの髪の毛をたかくよぢのぼらせて、
げらげらする怪鳥くわいてうの寝声ねごゑをまねきよせる。
ふくふくと なほしめやかに香気をふくんで霧のやうにいきりたつ
あなたの ゆびのなぐさみのために、
この 月の沼によどむやうな わたしのほのじろい頸をしめくくつてください。
わたしは 吐息といきに吐息をかさねて、
あなたのまぼろしのまへに さまざまの死のすがたをゆめみる。
あつたかい ゆらゆらする蛇のやうに なめらかに やさしく
あなたの美しい指で わたしの頸をめぐらしてください。
わたしの頸は 幽霊船いうれいぶねのやうにのたりのたりとして とほざかり、
あなたの きよらかなたましひのなかにかくれる。
日毎に そのはれやかに陰気な指をわたしにたはむれる
さかりの花のやうにまぶしく あたらしい恋人よ、
わたしの頸に あなたの うれはしいおぼろの指をまいてください。
死は羽団扇のやうに
この夜よるの もうろうとした
みえざる さつさつとした雨のあしのゆくへに、
わたしは おとろへくづれる肉身の
あまい怖ろしさをおぼえる。
この のぞみのない恋の毒草の火に
心のほのほは 日に日にもえつくされ、
よろこばしい死は
にほひのやうに その透明なすがたをほのめかす。
ああ ゆたかな 波のやうにそよめいてゐる やすらかな死よ、
なにごともなく しづかに わたしのそばへ やつてきてくれ。
いまは もう なつかしい死のおとづれは
羽団扇はうちはのやうにあたたかく わたしのうしろに ゆらめいてゐる。
雪が待つてゐる
そこには雪がまつてゐる、
そこには青い透明な雪が待つてゐる、
みえない刃をならべて
ほのほのやうに輝いてゐる。
船だねえ、
雪のびらびらした顔の船だねえ、
さういふものが、
いつたりきたりしてうごいてゐるのだ。
だれかの顔がだんだんのびてきたらしい。

おまへのやはらかい髪の毛は
ひるの月である。
ものにおくれる はぢらひをつつみ、
ちひさな さざめきをふくみ、
あかるいことばに 霧をまとうてゐる。
おまへのやはらかい髪の毛は、
そらにきえようとする ひるの月である。
夕暮の会話
おまへは とほくから わたしにはなしかける、
この うすあかりに、
この そよともしない風のながれの淵に。
こひびとよ、
おまへは ゆめのやうに わたしにはなしかける、
しなだれた花のつぼみのやうに
にほひのふかい ほのかなことばを、
ながれぼしのやうに きらめくことばを。
こひびとよ、
おまへは いつも ゆれながら、
ゆふぐれのうすあかりに
わたしとともに ささめきかはす。
道化服を着た骸骨
この 槍衾やりぶすまのやうな寂しさを のめのめとはびこらせて
地面のなかに ふしころび、
野獣のやうにもがき つきやぶり わめき をののいて
颯爽としてぎらぎらと化粧する わたしの艶麗な死のながしめよ、
ゆたかな あをめく しかも純白の
さてはだんだら縞の道化服を着た わたしの骸骨よ、
この人間の花に満ちあふれた夕暮に
いつぴきの孕はらんだ蝙蝠のやうに
ばさばさと あるいてゆかうか。
あをい馬
なにかしら とほくにあるもののすがたを
ひるもゆめみながら わたしはのぞんでゐる。
それは
ひとひらの芙蓉の花のやうでもあり、
ながれゆく空の 雲のやうでもあり、
わたしの身を うしろからつきうごかす
よわよわしい しのびがたいちからのやうでもある。
さうして 不安から不安へと、
砂原のなかをたどつてゆく
わたしは いつぴきのあをい馬ではないだらうか。
青い吹雪がふかうとも
おまへのそばに あをい吹雪がふかうとも
おまへの足は ひかりのやうにきらめく。
わたしの眼にしみいるかげは
二月のかぜのなかに実みをむすび、
生涯のをかのうへに いきながらのこゑをうつす。
そのこゑのさりゆくかたは
そのこゑのさりゆくかたは、
ただしろく いのりのなかにしづむ。
朝の波 ――伊豆山にて――
なにかしら ぬれてゐるこころで
わたしは とほい波と波とのなかにさまよひ、
もりあがる ひかりのはてなさにおぼれてゐる。
まぶしいさざなみの草、
おもひの縁ふちに くづれてくる ひかりのどよもし、
おほうなばらは おほどかに
わたしのむねに ひかりのはねをたたいてゐる。
白い階段
かげは わたしの身をさらず、
くさむらにうつらふ足長蜂あしながばちの羽鳴はなりのやうに、
火をつくり ほのほをつくり、
また うたたねのとほいしとねをつくり、
やすみなくながれながれて、
わたしのこころのうへに、
しろいきざはしをつくる。
しろい火の姿
わたしは 日のはなのなかにゐる。
わたしは おもひもなく こともなく 時のながれにしたがつて、
とほい あなたのことに おぼれてゐる。
あるときは ややうすらぐやうにおもふけれど、
それは とほりゆく 昨日きのふのけはひで、
まことは いつの世に消えるともない
たましひから たましひへ つながつてゆく
しろい しろい 火のすがたである。
みづいろの風よ
かぜよ、
松林しやうりんをぬけてくる 五月の風よ、
うすみどりの風よ、
そよかぜよ、そよかぜよ、ねむりの風よ、
わたしの髪を なよなよとする風よ、
わたしの手を わたしの足を
そして夢におぼれるわたしの心を
みづいろの ひかりのなかに 覚さまさせる風よ、
かなしみとさびしさを
ひとつひとつに消してゆく風よ、
やはらかい うまれたばかりの銀色の風よ、
かぜよ、かぜよ、
かろくうづまく さやさやとした海辺の風よ、
風はおまへの手のやうに しろく つめたく
薔薇の花びらのかげのやうに ふくよかに
ゆれてゐる ゆれてゐる、
わたしの あはいまどろみのうへに。
睫毛のなかの微風
そよかぜよ、
こゑをしのんでくる そよかぜよ、
ひそかのささやきにも似た にほひをうつす そよかぜよ、
とほく 旅路のおもひをかよはせる そよかぜよ、
しろい 子鳩の羽はねのなかにひそむ そよかぜよ、
まつ毛のなかに 思ひでの日をかたる そよかぜよ、
そよかぜよ、そよかぜよ、ひかりの風よ、そよかぜは
胸のなかにひらく 今日けふの花 昨日きのふの花 明日あしたの花。
そよぐ幻影
あなたは ひかりのなかに さうらうとしてよろめく花、
あなたは はてしなくくもりゆく こゑのなかのひとつの魚うを、
こころを したたらし、
ことばを おぼろに けはひして、
あをく かろがろと ゆめをかさねる。
あなたは みづのうへに うかび ながれつつ
ゆふぐれの とほいしづけさをよぶ。
   あなたは すがたのない うみのともしび、
   あなたは たえまなく うまれでる 生涯の花しべ、
   あなたは みえ、
   あなたは かくれ、
   あなたは よろよろとして わたしの心のなかに 咲きにほふ。
みづいろの あをいまぼろしの あゆみくるとき、
わたしは そこともなく ただよひ、
ふかぶかとして ゆめにおぼれる。
   ふりしきる ささめゆきのやうに
   わたしのこころは ながれ ながれて、
   ほのぼのと 死のくちびるのうへに たはむれる。
あなたは みちもなくゆきかふ むらむらとしたかげ、
かげは にほやかに もつれ、
かげは やさしく ふきみだれる。
薔薇の散策
1 地上のかげをふかめて、昏昏とねむる薔薇の唇。
2 白熱の俎上にをどる薔薇、薔薇、薔薇。
3 しろくなよなよとひらく、あけがた色の勤行ごんぎやうの薔薇の花。
4 刺とげをかさね、刺とげをかさね、いよいよに にほひをそだてる薔薇の花。
5 翅つばさのおとを聴かんとして 水鏡みづかがみする 喪心さうしんの あゆみゆく薔薇
6 ひひらぎの葉はのねむるやうに ゆめをおひかける 霧色きりいろの薔薇の花。
7 いらくさの影かげにかこまれ 茫茫とした色をぬけでる 真珠色の薔薇の花。
8 黙祷の禁忌のなかにさきいでる 形かたちなき蒼白の 法体ほつたいの薔薇の花。
9 欝金色の月に釣られる 盲目の ただよへる薔薇。
10 ひそまりしづむ木立こだちに 鐘をこもらせるうすゆきいろの薔薇の花。
11 すぎさりし月光にみなぎる 雨の薔薇の花。
12 吐息をひらかせる ゆふぐれの 喘あへぎの薔薇の花。
13 ひねもすを嗟嘆する 南の色の薔薇の花。
14 火のなかにたはむれる 真昼の靴をはいた黒耀石の薔薇の花。
15 くもり日びの顔に映る 大空の窗まどの薔薇の花。
16 掌てはみづにかくれ 微風そよかぜの夢をゆめみる 未生みしやうの薔薇の花。
17 鵞毛がもうのやうにゆききする 風にさそはれて朝化粧あさげしやうする薔薇の花。
18 みどりのなかに 生おひいでた 手も足も風にあふれる薔薇の花。
19 眼にみえぬ ゆふぐれのなみだをためて ひとつひとつにつづりあはせた 紅玉色こうぎよくいろの薔薇の花。
20 現うつつなるにほひのなかに 現うつつならぬ思ひをやどす 一輪のしづまりかへる薔薇の花。
21 眼と眼のなかに 空色の時をはこぶ ゆれてゐる 紅あかと黄金こがねの薔薇の花。
22 朝な朝な ふしぎなねむりをつくる わすられた耳朶色みみたぶいろのばらのはな。
23 かなしみをつみかさねて みうごきもできない 影と影とのむらがる 瞳色ひとみいろのばらのはな。
24 ゆたゆたに にほひをたたへ 青春を羽ばたく 風のうへのばらのはな。
25 陽ひの色のふかまるなかに 突風のもえたつなかに なほあはあはと手をひらく薄月色うすづきいろの薔薇の花。
26 またたきのうちに 香かをこめて みちにちらばふ むなしい大輪のばらのはな。
27 はだらの雪のやうに 傷心の夢に刻きざまれた 類のない美貌のばらのはな。
28 悔恨の虹におびえて ゆふべの星をのがれようとする 時をわすれた 内気な 内気なばらのはな。
29 魚うをのやうにねむりつづける 瀲※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)れんえんとしたみづのなかの かげろふ色のばらの花。
30 白鳥はくてうをよんでたはむれ 夜の霧にながされる 盲目めしひのばらのはな。
31 あをうみの 底にひそめる薔薇ばらの花、とげとげとしてやはらかく 香気にほひの鐘かねをうちならす薔薇の花。
32 けはひにさへも 心ときめき しぐれする ゆふぐれの 風にもまれるばらのはな。
33 あをぞらのなかに 黄金色こがねいろの布ぬのもてめかくしをされた薔薇の花。
34 微笑の砦とりでもて 心を奥へ奥へと包んだ 薄倖のばらのはな。
35 欝積する笛のねに 去さりがての思慕をつのらせる 青磁色のばらのはな。
36 さかしらに みづからをほこりしはかなさに くづほれ 無明の涙に さめざめとよみがへる薔薇の花。
 

 

●ひまわりの俳句と和歌
ひまわりの俳句
ひまわり(向日葵)の花が夏の盛りの強い日射しの中でしっかりと咲いているのを見ると、力強さといったものを感じずにはいられません。まさに夏を代表する花であり、太陽とひまわりの組み合わせは切っても切れない関係といえるかもしれません。しかし、ひまわりが詠まれた俳句をみると、星、月、夕焼けといったものと合わせて詠まれたものが意外と多いことに気がつきます。ひまわりについて詠まれた句を集めてみました。ひまわりの花のある夏の日の光景が目に浮かぶようなものばかりなので、是非ともこれらを鑑賞してみて下さい。
夏の季語である「ひまわり(向日葵)」が詠み込まれた句を集めて、先頭の文字の五十音順に並べました。なお「向日葵」は、「こうじつき」「ひゅうがあおい」と読まれることもあります。また、「日輪草(にちりんそう)」はひまわりの別名の一つです。他にも「日車草(ひぐるまそう)、日車(ひぐるま)」「日回り草(ひまわりそう)」などと呼ばれることもあります。
関連季語 / 日車(ひぐるま) / 日輪草(にちりんそう) / 天竺葵(てんじくあおい) / 日向葵(ひゅうがあおい) / 天蓋花(てんがいばな) / ロシアひまわり

がつくりと 祈る向日葵 星曇る  西東三鬼
高原の 向日葵の影 われらの影  西東三鬼
きのふわが 夢のかけらの 小向日葵  加藤楸邨
雲焼けて 向日葵のみを 昏くせる  山口誓子
俗名や 月の向日葵 陽の向日葵  三橋鷹女
日天や くらくらすなる 大向日葵  臼田亞浪
日まはりの 花心がちに 大いなり  正岡子規
日まはりを 植ゑ塞げたる 裏家哉  正岡子規
向日葵が すきで狂ひて 死にし画家  高浜虚子
葉をかむり つつ向日葵の 廻りをり  高浜虚子
向日葵咲け われまなむすめ ひとり持つ  大野林火
向日葵に 雨雲それて しまひけり  阿部みどり女
向日葵に 声を放ちて 泣きにけり  阿部みどり女
日車に 下駄へらし来る 猿廻し  阿部みどり女
もくもくと 湧く雲厚し 日輪草  阿部みどり女
向日葵に 天よりあつき 光来る  橋本多佳子
倒るるも 傾くも向日葵 ばかりの群  橋本多佳子
向日葵に 天よりも地の 夕焼くる  山口誓子
向日葵に 昼餉の煙 ながれけり  西島麦南
向日葵や 月に潮くむ 海女の群  西島麦南
向日葵の 金の雨だれ 終りしよ  秋元不死男
向日葵の 大輪切つて きのふなし  三橋鷹女
向日葵の 月に遊ぶや 漁師達  前田普羅
向日葵の 一茎がくと 陽に離る  三橋鷹女
向日葵を 斬つて捨つるに 刃物磨ぐ  三橋鷹女
向日葵の ひらきしままの 雨期にあり  中村汀女
たまたまの 日も向日葵の 失へる  中村汀女
向日葵の 瓣の乱れや 蕊にまで  原石鼎
向日葵活けて 妻は仏の 心かな 原石鼎
向日葵や 腹減れば炊く ひとり者  原石鼎
向日葵の まなこ瞠れる 園生かな  山口誓子
向日葵の 眼は洞然と 西方に  川端茅舎
向日葵の ゆさりともせぬ 重たさよ  北原白秋
向日葵も なべて影もつ 月夜かな  渡辺水巴
向日葵や 脂ぎりたる 鼻のさき  北原白秋
向日葵や 一本の径 陰山へ  加藤楸邨
向日葵や 海に疲れて ねむる子ら  大野林火
向日葵や 炎夏死おもふ いさぎよし  飯田蛇笏
星出でて より向日葵は 天の皿  三橋鷹女
日まはり こちら向く夕べの 机となれり 放哉 
ひまわりの和歌
齋藤茂吉
向日葵は諸伏しゐたりひた吹きに疾風ふき過ぎし方にむかひて
さ庭べに竝びて高き向日葵の花雷とどろきてふるひけるかも
若山牧水
向日葵のおほいなる花のそちこちの弁ぞ朽ちゆく魂のごとくに
花園の 花のしげみを 抜き出でて ゆたかに咲ける 向日葵の花
與謝野晶子
水無月の青き空よりこぼれたる日の種に咲く日まはりの花
よそめには盛んなること太陽をしのぐと知らぬ向日葵の花
おりたちて水を灌げる少年のすでに膝まで及ぶ向日葵
手にとればかくやくと射る夏の日の王者の花のこがねひぐるま
(髪に挿せばかくやくと射る夏の日や王者の花のこがねひぐるま)
中村憲吉
おほほしく曇りて暑し眼のまへの大き向日葵花は搖すれず
くもりたる四邊を聞けば向日葵の花心にうなる山蜂のおと
なやましく漸く嵐の吹きたれば重くすすれし向日葵の花
木下利玄
心がちに大輪向日葵かたむけりてりきらめける西日へまともに
恐ろしき黒雲を背に黄に光る向日葵の花見ればなつかし
古泉千樫
あからひく日にむき立てる向日葵の悲しかりとも立ちてを行かな
まひるの潮満ちこころぐし川口の橋のたもとのひまわりの花
大きなる蕊くろぐろと立てりけりま日にそむける日まはりの花
大き花ならび立てども日まはりや疲れにぶりてみな日に向かず
疲れやすき心はもとな日まはりの大きくろ蕊眼に仰ぎ見る
寺山修司
一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき
平成天皇
贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に 
平成最後の歌会始 「光」詠む 2019/1/16
平成最後となる新春恒例の「歌会始の儀」が十六日、皇居・宮殿「松の間」で執り行われた。宮内庁によると、四月末に退位される天皇陛下と、皇后さまの出席も最後で、今後この儀式に歌を寄せる機会はない見通し。両陛下や皇族、一般の入選者らの歌が、独特の節回しで披露された。今回の題は「光」だった。
陛下は、阪神大震災から十年となった2005年1月の追悼式典に出席した際、遺族代表の少女から贈られたヒマワリの種の成長について詠んだ。「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」。このヒマワリは震災で犠牲になった少女の名にちなみ、復興の象徴とされる「はるかのひまわり」。両陛下は住まいの皇居・御所の庭に種をまき、毎年大切に育てている。
「今しばし生きなむと思ふ寂光に園(その)の薔薇(さうび)のみな美しく」。皇后さまは御所の庭で、淡い光に照らされ美しく咲くバラを見て感じた喜びを歌につづった。年を重ねる中で感じるある種の「不安」が、庭に咲くバラを見て和らいだ心境を切り取った。
皇太子さまは高校時代に登った金峰山(山梨、長野両県境)での思い出を表現。山頂付近で雲間から差し込む太陽の光を歌にした。皇太子妃雅子さまは、住まいの東宮御所の庭にあるシラカバの木々が、朝の光に照らされ白く輝く様子を詠んだ。シラカバは両陛下が皇太子夫妻時代に植え大切に育ててきたものだ。雅子さまは風邪の症状が続いているため、この日の歌会始への出席は控えた。
秋篠宮さまは、家族旅行で足を運んだ長野県の石尊山で、陛下が教えてくれたヒカリゴケを見た時の驚きをしたため、紀子さまは長男悠仁さまと訪れた東京・小笠原村で見た、沈む夕日が緑色に輝く現象「グリーンフラッシュ」の思い出を描いた。
一般応募の選考対象は二万一千九百七十一首。一般の入選者十人も招かれた。天皇陛下が特別に招いて歌を披露する召人(めしうど)には、俳人鷹羽狩行氏が選ばれた。
天皇陛下
贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に
皇后さま
今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇のみな美しく
皇太子さま
雲間よりさしたる光に導かれわれ登りゆく金峰の峰に
皇太子妃雅子さま
大君と母宮の愛でし御園生(みそのふ)の白樺冴ゆる朝の光に
秋篠宮さま
山腹の洞穴(どうけつ)深く父宮が指したる先に光苔見つ
秋篠宮妃紀子さま
日の入(い)らむ水平線の輝きを緑閃光(グリーンフラツシユ)と知る父島の浜に
常陸宮妃華子さま
つかの間に光る稲妻さ庭辺の樹木の緑を照らしいだし来(く)
寛仁親王妃信子さま
被災者の苦労話を聴きにける七歳(ななさい)が光れる一語を放つ
高円宮妃久子さま
窓べより光のバトンの射し込みて受くるわれらのひと日始まる
召人 鷹羽狩行さん
ひと雨の降りたるのちに風出でて一色(いつしよく)に光る並木通りは 
 

 

●獄中への手紙 / 宮本百合子
・・・お早う。けさはいかがな御機嫌でしょう。いい気持?机の上の桜草が、たっぷり水をもらって、こまかい葉末に露をためながら輝いて居ります。私はしんからよく眠り大変充実した気分よさです。ゆうべはすこしかげになった同じようなあかりのなかで、おくりものへ頬っぺたを当てているような心持で、お風呂から出てすぐ寝てしまいました。きのうはいい日だったことね。いろいろと心をくばって下さり、本当にありがとう。
あれからね金星堂へまわり、高山へまわり、銀座へ出ました。咲枝が三十三になったのよ女の厄年と云われていて、きっと咲枝心の中では気にしているのでしょうからいろいろ考えていて、ふと栄さんから帯を祝ってやるものだときいたので、銀座の裏のちょいとしゃれた店へ奇麗な帯を注文してあったの。それは十八日に出来ていたのにとりにゆけなかったのです。それをもって、ひどい混む電車にのって、余りひどく圧されるときフーと云いながら林町へまわりました。咲枝大よろこびの大よろこび。私はその様子を見てうれしかったわ、自分の心のたのしい日に、ひとのよろこびを与えてやるのもうれしいというものです。食堂がもとの西洋間に移ったことお話しいたしましたね。あの大きいサイドボールドがやっぱり引越して来ているので、咲枝その鏡に帯をうつしてみてしんからよろこんで居りました。
太郎にとってもきのうは特別な夕方でした。それはね、区役所から、千駄木学校(あすこよ、動坂の家のすぐ裏の)へ入るようにと云って来たから。僕千駄木学校へ行きたいと思ってたから丁度いいやとよろこんで居りました。
その太郎のために私は近所で木綿の靴下を見つけてやって、一年生の間と二年生との間はもつだけ、ああちゃんに買ってやったのよ。あっこおばちゃんもなかなかでしょう?
寿江子に云わすと、太郎は何でもこれこれはこういうものという型通りが好きすぎるそうです、でもそれは父さんが全くそれ趣味だから今のところ真似でしょう。今にすこしは変るでしょう、利口は悧口よ。なかなか可愛い息子です。四月十日からですって。近いから心配なくて何よりです。何を祝ってやりましょう、あっこおばちゃんのおじちゃんというお方は何がいいとお思いになること?いずれ御考え下さい。二人でやりましょうよ、ね。太郎はぼんやり覚えて居るのよ、あっこおばちゃんのおじちゃんを。眠くなって九時すぎかえり、そしてたのしい晩を眠った次第です。
ときどき思いがけないボンボンを見つけたりして話しますが、きのう銀座の方で、私は何とも云えない見事な花の蕾を見たの。飾窓の中におかれていて花やでなかったから手にさわることの出来なかったのは残念ですが。蘭の一種かしら。大柄な弾力のこもったいかにも咲いた花の匂いが思いやられる姿でした。ほんのりと美しくあかみさしていて。自然の優雅さとゆきとどいた巧緻さというものは、おどろくようなときがあります。この頃温室の花は滅多にないのよ、石炭不足ですから。本当に珍しく。花の美しさって不思議ね。決して重複した印象になって来ないのね。描かれた絵だと、何か前にもその美しさは見たというところがあると思うのですが。花はその一目一目が新鮮なのは、実に興味ふかいと思います、それだけ生きているのね、溢れる命があるのね。そういう生命の横溢には、きっと人間の視覚が一目のなかに見きってしまえないほど豊富なものがひそんでいるのね。こんな小さい桜草でさえ、やっぱりそういうところはあるのですもの。蕾がふくらみふくらんで花開く刹那、茎が顫えるのは、思えばいかにもさもあることです。蓮の花のひらく音をききに夏の朝霧の中にじっとしていた昔の日本人の趣味には、あながち消極な風流ばかりがあったのでもなかったかもしれません。花の叫びと思えば何と可憐でしょう、ねえ。花はいろいろに声をあげるのでしょうね。そのような花の叫びをきいたのは誰でしょう。
満開の白梅はよく匂っているでしょうか。今は寒中よ。花の匂いにつめたい匂いのないことも面白いこと。さむい花の香というものはどうもないようね。でもそれはそうなわけね、花はいのちの熱気でにおうのですもの。花のそよぎには確に心を恍惚とさせるものがあります。
ひろい庭が欲しいと思うのは、いく人も子供たちが遊びに来たときと、花々のことを思ったときです。自分が子供だったとき樹の間でかくれんぼしたり裏の藪へわけ入ったりしたあのときめきの心、勇気のあふれた心を思い出すと、子供たちのためにひろいいろんな隅々のある庭がほしいと思います。花を、花圃(かほ)にはしないであっちこっちへ乱れ咲くように植えたら奇麗でしょうねえ。自然な起伏だのところどころの灌木の茂みだの、そういう味の深い公園は市中には一つもありませんね。庭園化されていて。いろんな国のいろんな公園。菩提樹の大木の並木の間に雪がすっかり凍っていて、そこにアーク燈の輝いているところで、小さい橇をひっぱりまわしてすべって遊んでいる小さい子供たち。仕事からかえる人々の重い外套の波。昼間は雪を太陽がキラキラてらして、向日葵(ひまわり)の種売りの女が頭からかぶっている花模様のショールの赤や黄の北方風の色。その並木公園に五月が来ると、プラカートをはりめぐらして、書籍市がひらかれ、菩提樹の若いとんがった青緑の粒だった芽立ちと夜は樹液の匂いが柔かく濃い闇にあふれます。アコーディオンの音や歌がきこえ出します。そして、白夜がはじまって、十二時になっても反射光線の消された明るさが街にあって、そういう光の中で家々の壁の色、樹木の姿、実に異様に印象的です。
三月はまだ雪だらけね。日中は雪どけがはじまります。それはそれは滑って歩きにくいの。ミモザの黄色い花が出ます、一番初めの花は、雪の下(ポド・スネージュヌイ)という白い小さい花です。小さい菫(すみれ)の花束のようにして売ります。
私は北がすきです、冬の長さ、春のあの愉しさ、初夏の湧くような生活力、真夏のあつさのたのしみかた、旺(さかん)ですきよ。東京は雪の少いのだけでも物足りませんね。特に今年は一月六日に一寸ふったきりで。
あなたは雪の面白さ、お好き?雪だるまをつくるくらい島田に雪が降ります?初めて島田へ行って駅に下りたとき、それは一月六日ごろで、かるい粉雪が私の紫のコートにふりかかったのを覚えて居ります。つもりはしなかったわ。それでも炬燵(こたつ)は本式ね。今年は炭がないので、どこでも急に炬燵を切ったりして稲ちゃんのところは信州から一式買って来たそうです。うちはこしらえません。では、又のちほど。・・・  
・・・一月二十四日
きのうは暖い日でした。きっと、ホホウ暖いねとお思いになったでしょう、前日は夕方一寸みぞれが降って、雪かと思ったのでしたが。特別暖い日になりましたね。
そして、又きのうは、何となし可笑しかった日よ。先ず朝九時半から防空演習でした。私が家中の総大将という憫然なことになってしまって、其でもどうやら無事終了。わたしは隣組の救護班です。国と。まだ働けないから。うちにはタンカもありますから。
午前中床に入るのが普通なのでへたへた。其でも暖かいし折角の二十三日がモンペで終るのも興ないし、そこでハガキに云っていた「ドン・キホーテ」「プルターク」のある叢書を買おう、こっちにある売るのとさしひきしたら、ええいいわ、たまに自分を優待したって、ねえと、珍しくコートなしという風でフラリと出かけました。いそいそしてよ。私たちで買いましょう、そう思って。神田の巖松堂の二三軒先なの。金曜日にはお話していた通り帰りによって、『外交時報』かったのよ、一月十五日発行というのを。そして家へかえって、「ヨクヨク見たらば」とまるで手毬唄のようですが、よくよく見たら其は十一月十五日なの。どっさりあるのですもの、一月と思ったわ、よく見えなかったのね。大笑いして其用もかねてです。一月号はギリギリの月末か二月に入る由。よく月おくれに女の雑誌が出て、気をもんだこと思い出し、感想多くありました。それから二三軒先へ辿りついて店へ入ったら在る、ある、ある、金曜日に見たところに積んであります。札が下っているのを、今度は何しろ買おうというのだから、念を入れて見たら、三十冊揃いで五十六円ばかりと見えたのに、どうでしょう、ここでも一がぬけていたのよ、一は百なのよ、つまり百五十六円だったという次第です。びっくり敗亡。内心苦笑してしまいました。この訳本はいいのだけれども今はそれだけ出しにくいわ。売っても惜しくない本をパチパチと弾いたがやはり一が邪魔です。バルザックがこれ丈分るようになったと思うと、「ドン・キホーテ」がよみたいのですもの。暫く佇んで首をかしげていたけれど、思いあきらめて店を出て、其でも二十三日だからと、江戸時代の文化を書物から見た研究や、女流文学の古典のありふれた資料ですが二三冊買ってかえりました。ああ、こうかいているうち又未練が出て来たこと。欲しいことね。でもと考え直すと、あの三十冊の中でオースティンの「誇と偏見」二冊、「デビッドの生立」三冊、モンテスキュー「随想」(?)、「テス」(一冊)、メレディスの「エゴイスト」二冊その他、是非これで読まなくてはというものもないわけです。そう思って帰って来て、重い袋かかえて門入ろうとしたら、往来で遊んでいた太郎が「おかえんなさい」とよって来て、「写真メン買っていい?向日葵の種買うのに五十銭もらったのをやめたから」というの。「写真メンて何なの」「メンコノ写真の。ね、いい?」「誰にお金もらったの」「台所にあずけてあるの貰ったの」「一ついくら」「一つ三銭」「五つ買っていい?」「いい」と云おうとしているところへ、「こんにちは」ひょいと帽子ぬぐ男みたら戸塚の御主人です。マア、何てきょうはおかしい日だろう、さすが防空演習でさわいだ丈あると、何となしこれも苦笑に近い気持がしました。総てのことについて私が全く局外におかれていたということは何とよかったでしょう、五時間(八時まで)縷々綿々として、些末な描写にうむことない話をききました。きいたけれども私に何一つ出来ることはない。「それはそうでしょう?何も分らないように暮したのだから、この二三年……」其は合点合点しないわけには行かなかったわけです、こういう生活の根本的破壊は、奥さんが、えらくなったから、思い上っているからだそうです。何度も何度もそういう意見でした。私は全く反対に考えていますから何とも云えない次第です。そういう考えかたからここまで崩れたと思い、私は作家の道のおそろしさを切実に感じました。不器用な足どりに満腔の感謝を覚え、謹でわれらの日を祝しました。ブランカのよたよたした四つ肢だけであったなら、果してどこ迄雪の凍った道が歩けたでしょう、その雪の下にだけかたい地面がある道を。郭沫若という作家の紀行に、夜営して第一の日、柔かい草をよろこんで眠ったら翌日体がきかないほど湿気をうけ、石の堅いところに臥た老兵は体がしゃんとしていた、とありました。ハハアと思ったことを思いおこしました。あの当時ぼっとしてあなたに叱られた位でしたが、この頃は自分の心もしゃんと自分の中にあり、自分の勉強についての確信、生活についての確信がいくらかあって、五時間きき疲れたけれども、気分は乱れませんでした。そして、やはり或る距離はちぢめられません。 ・・・  
獄中への手紙 [後半] 宮本百合子