天皇陛下 退位のご報告

神宮
天皇陛下 退位のご報告  

平成の終わり
 


伊勢神宮1伊勢神宮2
  天照大神1天照2天照3天照4天照5
  豊受大神1豊受2豊受3豊受4豊受5稚産霊1稚産霊2
三種の神器1神器2八咫鏡八尺瓊勾玉草那藝之大刀
 
 
 
 
 

 

両陛下、三重県ご訪問 伊勢神宮に譲位ご報告へ 4/17
天皇、皇后両陛下は17日、伊勢神宮に天皇陛下の譲位を報告するため、三重県伊勢市を訪問された。2泊3日の日程で、宮内庁によると、両陛下が地方に足を運ばれるのは、在位中最後の機会。立ち寄り先では多くの市民らが出迎え、感謝の言葉を口にした。
東京駅では、国内の地方訪問では異例となる安倍晋三首相の見送りを受けた。両陛下は夕方に伊勢市に着き、宿泊先となる伊勢神宮内の行在所(あんざいしょ)に入られた。両陛下の長女で神宮祭主の黒田清子さんらとあいさつを交わされたという。
陛下の神宮ご参拝は、皇太子時代を含め14回目。18日に衣食住の神とされる豊受大神(とようけのおおみかみ)を祭る「外宮(げくう)」を参拝し、昼食を挟んで皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る「内宮(ないくう)」でも拝礼される。
両陛下が降り立たれた近鉄宇治山田駅前には、午前9時ごろには人だかりができた。両陛下を初めて見る伊勢市の大学4年、細江美月さん(22)は「みんなが両陛下を思う気持ちの表れ。私にとって元号が変わるのは初めてで、歴史的瞬間に立ち会った気がする」と感激していた。
平成26(2014)年の式年遷宮後のご訪問時にも待ち受けた奈良県香芝(かしば)市の主婦、松下貴美子さん(75)は「これで最後かと思うと寂しい。これからは目にする機会も少なくなると思うが、ゆっくりしてください」と感謝の気持ちを込めた。
冷たい雨の降る中、神宮までの約5キロの沿道にも、途切れることなく出迎えの人たちが並び、両陛下は車列の速度を落とし、手を振って応えられていた。
皇位とともに受け継がれる「三種の神器」のうち、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」(剣=けん)と「八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)」(璽=じ)を天皇が携行する「剣璽ご動座(どうざ)」も5年ぶりに実施され、黒いケースに入れられた剣璽を携えた侍従が随行した。残る「八咫鏡(やたのかがみ)」(鏡)は伊勢神宮にまつられている。 
 
 
 

 

両陛下、伊勢神宮に退位報告=外宮、内宮で「親謁の儀」 4/18
三重県を訪問中の天皇、皇后両陛下は18日、伊勢神宮(同県伊勢市)の外宮と内宮で、今月末の天皇陛下の退位を報告する「親謁の儀」に臨まれた。
両陛下の神宮訪問は2014年3月以来で、即位後では5回目。訪問に当たり、天皇陛下は皇位の象徴とされる「三種の神器」のうち剣と璽(じ)=勾玉(まがたま)=を皇居から持参した。
モーニング姿の天皇陛下は午前10時45分ごろ、外宮の「正宮」に車で到着。剣と璽を持つ侍従らと共に真剣な表情で正殿の前へ進み、玉串をささげて拝礼した。
白い参拝服姿の皇后さまも陛下に続いて正宮を訪れ、正殿の前で拝礼した。儀式には、神宮祭主を務める両陛下の長女、黒田清子さんが立ち会った。
午後1時半すぎからは、天照大神を祭る内宮でも、同様に親謁の儀が行われた。両陛下はこの後、近鉄宇治山田駅発の臨時列車で志摩市へ移動。市内のホテルに宿泊し、19日午後に帰京する。
両陛下‥伊勢神宮への退位報告を終えて賢島のホテルへ 4/18
三重県をご訪問中の天皇皇后両陛下は、4月末の退位を報告するため、伊勢神宮の外宮と内宮を参拝されました。
「午前8時過ぎです。伊勢神宮の外宮には、すでに多くの人が集まっています」(佐々木記者)
天皇皇后両陛下を出迎えようと、18日も各地から大勢の人が集まりました。
「愛知県の小牧から朝4時に家を出て来ました」「兵庫県からです。平成のTシャツを作りました。感謝の気持ちでいっぱいです」(沿道の人たち)
在位中最後の地方訪問に、沿道には両陛下の車が通る数時間前から待つ人もいて、そんな人々の思いを大切にしようと、警察官も警備にあたりました。
厳重な警備はもちろんですが、なるべくソフトにという工夫が垣間見えました。
午前10時に、両陛下は別々の車で、宿泊していた伊勢神宮の内宮を出発され、退位報告のため、まずは外宮へ向かわれました。
「拝顔できて幸せです」「感激しました。残り少ない在位だから」「今まで本当にありがとうございました。感謝の念でうかがって本当によかったです」(沿道の人たち)
モーニングにシルクハットをお召しになった天皇陛下の近くには、皇居から携えられた2つの箱が。
5月1日に新天皇に継承される「三種の神器」のうち剣と勾玉が入った箱です。
続いて、袖長のご参拝服をお召しになった皇后さまも参拝されました。
午後には、両陛下は、内宮へ。
皇室の祖先神である「天照大御神」を祀る内宮で、天皇陛下は、歴史上初めて、自ら退位を報告されました。
18日の伊勢市内は青天に恵まれ、まるで集まった人たちの熱気が伝わったかのように日中の気温は、22度を超え、今年一番の暑さに。
車列が移動するたびに、大勢の人が旗を振り、歓迎ムードに包まれました。
両陛下は、18日夜、3年前に、伊勢志摩サミットが行われた三重県志摩市賢島の志摩観光ホテルに宿泊される予定です。
 
 
 
 
 

 

両陛下が伊勢神宮に退位報告 最後の地方訪問 4/18
天皇、皇后両陛下は18日、今月30日の天皇陛下の退位を報告するため、三重県伊勢市にある伊勢神宮の外宮(げくう)と内宮(ないくう)を参拝された。退位に関連した儀式の一環。移動の際には、沿道に詰めかけた4万3000人(三重県県発表)に笑顔で手を振った。両陛下は60年前のこの日、結婚の報告で同神宮を訪れている。在位中、最後となる今回の地方訪問は、60年の時を越えた思い出深い旅となった。
前日の雨がやみ、さわやかに晴れた伊勢神宮周辺。両陛下は、「親謁(しんえつ)の儀」で、午前に豊受大神(とようけのおおみかみ)を祭る外宮、午後に皇室の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る内宮をそれぞれ訪れ、退位を報告した。
モーニング姿の陛下は外宮と内宮で、神職のおはらいを受けた後、正殿に歩いて進み、玉串をささげて拝礼した。歴代天皇が受け継ぐ「三種の神器」の剣と璽(じ)、勾玉(まがたま)を皇居から5年ぶりに携え、2人の侍従が手にして、陛下の前後を歩いた。
皇后さまは白いロングドレス姿で、同様に拝礼。伊勢神宮では、両陛下の長女黒田清子さんが祭主を務めており、外宮と内宮で両陛下の拝礼を見届けた。
両陛下は、皇太子ご夫妻だった60年前の1959年(昭34)4月18日にも、伊勢神宮を訪れた。結婚の儀の直後で、その報告のため、ご夫婦として初めての伊勢参拝だった。またこの日は、長女清子さんの50歳の誕生日。天皇、皇后両陛下として最後の伊勢神宮参拝に、清子さんが祭主として立ち会ったことも含めて、思い出深い旅になった。
伊勢神宮周辺には両陛下を一目見ようと、沿道や駅前を、多くの人が埋め尽くした。両陛下は、車中では窓を開け、車を降りた後は立ち止まり、「ありがとうございました」など寄せられる声に、笑顔で手を振って応じた。その後は同県志摩市の賢島に移動。皇太子時代からゆかりのある志摩観光ホテルに宿泊し、清子さんら伊勢神宮関係者と、夕食をともにした。
三重県によると、伊勢神宮と賢島にはこの日、4万3000人が集まった。
在位中最後の地方公務となった伊勢神宮参拝を終えた両陛下は、19日の帰京後も多忙な日が続く。23日に昭和天皇が埋葬されている武蔵野陵訪問、皇居外で最後の公務となる26日の「みどりの式典」などに臨まれ、退位日の30日を迎える。
 
 
 

 

両陛下 退位前に伊勢神宮参拝の儀式 4/18
三重県を訪問している天皇皇后両陛下は、今月30日の天皇陛下の退位を前に18日、皇室の祖先とされる神をまつる伊勢神宮に参拝する儀式に臨まれました。
17日から三重県を訪問している両陛下は、18日午前、衣食住や産業の守り神がまつられる伊勢神宮の外宮にお一人ずつ参拝されました。
はじめに、モーニング姿の天皇陛下が、外宮の中心の正殿がある正宮の前で、皇位継承の象徴とされる三種の神器の剣と曲玉とともに車を降りられました。
そして、正宮の中に入り、正殿の前で玉串をささげて拝礼されたということです。白の参拝服姿の皇后さまも、玉串をささげて拝礼されたということです。
両陛下は、午後には、皇室の祖先とされる神をまつる伊勢神宮の内宮にそれぞれ参拝されました。
天皇陛下は車に乗って玉砂利が敷き詰められた参道をゆっくりと進み、途中、伊勢神宮の関係者や地元の子どもたちが整列して迎えると、会釈をするなどしてこたえられました。
天皇陛下は、正殿がある正宮に続く階段の前で車を降り、剣と曲玉を持った側近の職員とともに階段をのぼられました。そして正殿の前で、玉串をささげて拝礼されたということです。このあと、皇后さまも玉串をささげて拝礼されたということです。
18日の伊勢市は晴天に恵まれ、内宮と外宮の間の沿道では大勢の人たちが小旗を振るなどして両陛下を歓迎しました。
両陛下の車列はスピードを落として歓迎する人たちの前を進み、天皇陛下と皇后さまは窓をあけて手を振ってこたえられました。
伊勢神宮の参拝を終えた両陛下は、午後4時半前、内宮を出発し、宿泊先のホテルがある志摩市の賢島に向かわれました。
近鉄宇治山田駅の前には、何重にも人垣ができ、大勢の人たちが手や小旗を振って見送ると、両陛下は何度も左右を見渡しながら笑顔で手を振ってこたえられました。
宮内庁によりますと、両陛下は、専用列車に乗り込むと、窓のそばに立ち続けて、沿線で待ち受けていた人たちに手を振られていたということです。
そして午後5時すぎ、近鉄賢島駅に到着されました。駅前では大勢の人たちが出迎え、両陛下はにこやかな表情で手を振られていました。
沿道では、18日一日で延べ4万3000人余りが両陛下を迎えたということです。
両陛下は、このあと、午後6時前、宿泊先のホテルに入られました。
両陛下は、今夜、伊勢神宮の主な祭りをつかさどる「祭主」を務め、18日の儀式にも立ち会った長女の黒田清子さんや、伊勢神宮の関係者と夕食をともにし、ねぎらわれたということです。
両陛下にとってこれが天皇皇后として最後の地方訪問になり、19日、東京に戻られます。
○即位時の儀式との違い
宮内庁は憲政史上初めてとなる天皇陛下の退位に関する一連の儀式について、天皇陛下のお気持ちを踏まえて、全体として粛々と静かに執り行うことにしています。
天皇陛下は、即位にあたって平成2年11月に伊勢神宮に参拝する儀式に臨んだ際には、古くから儀式での天皇の装束とされる「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を身につけ、儀式用の馬車に乗って参道を進まれました。
一方、天皇陛下の退位に伴う今回の儀式の式次第は、即位の時の枠組みを基本に天皇陛下のお気持ちに沿ってまとめられ、天皇陛下はモーニングを着用し、移動には車を使って参拝に臨まれました。
○沿道には多くの人たちが
伊勢神宮内宮近くの沿道には朝早くから両陛下の姿を一目見ようと多くの人が並んでいました。
60年前、ご結婚の報告のため伊勢を訪問された両陛下を見たという67歳の男性は「当時、小学生でしたがとても穏やかな表情で手を振ってくださったのを覚えています。天皇として最後なので一目見たいと思って来ました」と話していました。
また、四日市市から来たという69歳の女性は「平成最後なので30年間の感謝の気持ちを少しでも伝えようと思い、朝4時半に起きて来ました」と話していました。 
 
 

 

両陛下、伊勢神宮の関係者労う 4/19
三重県を訪問中の天皇・皇后両陛下は18日夜、宿泊先のホテルに伊勢神宮の関係者らを招き、労われました。
18日午後5時半すぎ、両陛下は近鉄・賢島駅に到着されました。駅の周辺には多くの人が集まり、「ありがとうございます」と声をかける人もいました。両陛下は出迎えに応え、にこやかに手をふられていました。両陛下は、その後、志摩市内の宿泊先のホテルに入り、参拝を終えた伊勢神宮の関係者らを食事に招いて労われました。
天皇陛下と皇后さまは、18日、伊勢神宮の外宮と内宮をそれぞれ参拝し、今月30日に退位することを報告されました。その際に務めを果たした伊勢神宮の祭主で両陛下の長女の黒田清子さんもホテルを訪れ、食事会に出席したということです。伊勢神宮の参拝で退位に向けた儀式も11のうち、7つが終わりました。
両陛下は、19日、三重県を離れ、帰京されます。
 
 

 

両陛下 退位報告の儀式終えきょう帰京予定 4/19
天皇皇后両陛下は、三重県の伊勢神宮で退位を報告する儀式を終え、19日に帰京される予定。
天皇皇后両陛下は18日、皇室の祖先とされる天照大神をまつる伊勢神宮で、今月30日の退位を報告する儀式にのぞまれた。
両陛下は、人生の節目に伊勢神宮を訪れてきたが、60年前のきのう4月18日は、お二人が結婚を報告するために参拝された日だった。
天皇陛下と皇后さまは、それぞれ玉串をささげて拝礼し、退位を報告された。
陛下の参拝では、長女の黒田清子さんが伊勢神宮の祭主として陛下の玉串を正殿にささげた。黒田さんは、18日が50歳の誕生日で、両陛下は、宿泊先のホテルで、伊勢神宮の関係者とともに夕食を囲まれた。
在位中、最後の地方訪問を終え、両陛下は19日に帰京される予定。  
 
 
 
 
 

 

 
 
 

 

●伊勢神宮 1
「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しく呼ばれる伊勢神宮は、正式には「神宮」といいます。
神宮には、皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神(おおみおやがみ)として崇敬を集める天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする内宮(皇大神宮)と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀りする外宮(豊受大神宮)を始め、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があります。これら125の宮社全てをふくめて神宮といいます。
 
内宮(皇大神宮)
御祭神 | 天照大御神 あまてらすおおみかみ
御鎮座 | 垂仁天皇26年
およそ2000年前、垂仁天皇の御代から五十鈴川のほとりに鎮まります皇大神宮こうたいじんぐうは皇室の御祖先であり、我々国民から総氏神のように崇められる天照大御神あまてらすおおみかみをお祀りしています。内宮の入口である宇治橋をわたり、玉砂利を敷き詰めた長い参道を進むとそこは神域。「心のふるさと」と称される日本の原風景が広がります。
正宮 | 皇大神宮
別宮 | 荒祭宮
別宮 | 月読宮
別宮 | 瀧原宮
別宮 | 伊雑宮
別宮 | 風日祈宮
別宮 | 倭姫宮
内宮神楽殿
宇治橋・五十鈴川
 
外宮(豊受大神宮)
御祭神 | 豊受大御神 とようけのおおみかみ
御鎮座 | 雄略天皇22年
伊勢市の中心部、高倉山を背にして鎮まります豊受大神宮とようけだいじんぐうは、豊受大御神とようけのおおみかみをお祀りしています。豊受大御神は内宮の天照大御神のお食事を司る御饌都神みけつかみであり、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。鳥居をくぐり、玉砂利を踏みしめてやさしい木漏れ日のさす参道を歩くと清々しい気持ちに満ちあふれます。
正宮 | 豊受大神宮
別宮 | 多賀宮
別宮 | 土宮
別宮 | 月夜見宮
別宮 | 風宮
外宮神楽殿
 
御鎮座の歴史
瓊瓊杵尊ににぎのみこと以来、天照大御神は天皇のお側でお祀りされていましたが、第10代崇神すじん天皇の御代、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所にお祀りされることを決意され、皇女豊鍬入姫命とよすきいりびめのみことは大和の笠縫邑かさぬいのむらに神籬ひもろぎを立てて大御神をお祀りしました。
その後、第11代垂仁すいにん天皇の皇女倭姫命やまとひめのみことは豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に神事を続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々を巡り伊勢国に入られました。
『日本書紀』によると、そのとき天照大御神は「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、美しい国である。この国にいようと思う」と言われ、倭姫命は大御神の教えのままに五十鈴川の川上に宮をお建てしました。
このように天照大御神は永遠の御鎮座地を伊勢に得られたのです。これが二千年前にさかのぼる、皇大神宮御鎮座の歴史です。『皇太神宮儀式帳こうたいじんぐうぎしきちょう』には豊鍬入姫命と倭姫命のご巡行地の記載があり、14カ所の比定地があげられています。
倭姫命ご巡行の伝承地
1 三輪みわの御諸みむろの宮
2 宇太うだの阿貴あきの宮
3 佐佐波多ささはたの宮
4 伊賀の穴穂あなほの宮
5 阿閇拓殖あへつみえの宮
6 淡海おうみの坂田の宮
7 美濃の伊久良賀波いくらがわの宮
8 伊勢の桑名の野代のしろの宮
9 鈴鹿の小山おやまの宮
10 壹志いちしの藤方ふじかたの方樋かたひの宮
11 飯野いいのの高宮たかみや
12 多気佐々牟江迤たけささむえの宮
13 玉岐波流磯たまきはるいその宮
14 佐古久志呂さこくしろ宇治の家田やたの田上たがみの宮
 
参宮の歴史
古来、神宮は皇祖神である天照大御神をお祀りするところから、天皇以外が幣帛へいはくお供えすることを禁止した私幣禁断しへいきんだんという制度がありました。しかし、この制度によって参拝までも禁止されたわけではなく、神嘗祭などの奉幣ほうへいに差遣された勅使ちょくしのお供としてやってきた人々が都に戻り、神宮のことを口伝えに伝え、次第に民衆に神宮の存在が広がったと考えられます。
『大神宮諸雑事記だいじんぐうしょぞうじき』の承平4年(934)の条には神嘗祭の参向者が千万人に及んだ記載があり、これは勅使の随行者が大勢いたという記録ですが、鎌倉時代の『勘仲記かんちゅうき』には弘安10年(1287)の外宮遷宮に「参詣人幾千万なるを知らず」とあります。幾千万とは数量が多いという意味で、これをみると少なくとも鎌倉時代中頃には多数の参拝者があり、時代が降るにつれて増えつつあることが伺えます。
全国に伊勢信仰が広がる中で、大きな功績があったのが御師おんしと称される人々です。御師は様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務とし、仏教寺院の師壇しだん関係にならって全国に担当の地区を設け、檀家だんかを持ちました。毎年檀家に赴いてはお神札の頒布と祈祷を行い、檀家がお伊勢参りに来た際には、自らの邸内に宿泊させて両宮の参拝案内をし御神楽を行いました。江戸時代には二千人あまりの御師が活躍し、その館も外宮方面だけでも六百軒あったともいわれています。また、『外宮師職壇方家数改帳げくうししょくだんかたかすうあらためちょう』という檀家数調べには4,218,584もの檀家が記載されており、これは当時の総戸数の89%に上ります。
明治時代になると御師制度は廃絶されましたが、参拝者の神宮崇敬の念は変わりませんでした。今日でも神宮周辺では北は北海道、南は九州まで日本中のナンバープレートを付けた自家用車を見ることができます。そして、国内だけでなく世界中から訪れる人々が、年々増える傾向もあります。
 
神宮の神話
天岩戸神話
天照大御神の弟神である素戔嗚尊すさのおのみことは、高天原たかまのはらの大御神を訪ねました。大御神は荒々しい性格の弟にその忠誠心を問いただしたところ、素戔嗚尊は、高天原にある水田の畔あぜと溝を壊し、春の種まきや秋の収穫を妨げ、また大御神の神聖な御殿を汚し、さらに布を織る機屋に皮をはいだ馬をなげこむなど、乱暴の限りを尽しました。
そのため、大御神は天岩戸あまのいわとの中にこもられると、世界は光を失いさまざまな災いがおこりました。
そこで高天原の神々は相談の末、太玉命ふとだまのみことが八咫鏡やたのかがみと八坂瓊勾玉やさかにのまがたまを榊にかけ、天児屋命あめのこやねのみことが祈りを捧げました。
そして天鈿女命あめのうずめのみことが神楽を舞うと、鶏が鳴き出し、面白い舞を見て神々がどっと笑い声をあげました。そのどよめきを聞かれた大御神は、岩戸を少しお開きになると、そのお姿が八咫鏡に写りました。鏡に写る自分の姿を貴い神だと思った天照大御神は、その姿をもっとよく見ようとした時、隠れていた手力雄命がぐっと岩戸を押し開き、世界は再び光と秩序を取り戻すことができたといいます。
これは万物に光明をもたらす太陽にも称えらえる天照大御神の偉大なご神徳をなぞらえた物語です。
天孫降臨
天照大御神は御孫の瓊瓊杵尊ににぎのみことを降して、この葦原中国を治めさせようとされました。その際に瓊瓊杵尊は大御神から八坂瓊勾玉・八咫鏡・草薙剣くさなぎのつるぎを賜りました。これは三種の神器と称され、皇位継承のシンボルとして代々伝えられることになります。
瓊瓊杵尊は猿田彦神さるたひこのかみを先導として八百万神を従え、高天原から天の八重棚雲やえたなぐもを押し分けて九州日向の高千穂の峰に天降られたといいます。
また瓊瓊杵尊は、大御神から天上の清らかな稲を地上で作るように託されました。
日本は昔から「豊葦原瑞穂国とよあしはらのみずほのくに」といわれます。これは豊かな収穫の続く、みずみずしい稲のできるすばらしい国という意味です。
また、このとき天照大御神は瓊瓊杵尊に「この国は天地と共に永遠である」との祝福のお言葉を仰せ下されました。このお言葉は「天壌無窮の神勅」といわれ、皇室と日本の限りない隆昌をことほぐ言葉として、長く国民の信念を培ってきました。これは神代の昔からつづく皇室をいただく日本国の原点を象徴する名言といえます。 
 
 
 

 

●伊勢神宮 2
三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宫(じんぐう)」。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社の一つ。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。
伊勢神宮には、「太陽」を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。内宮と外宮は離れているため、観光で内宮のみ参拝の人が多いが、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しいとされている。
広義には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた、合計125の社宮を「神宮」と総称する。この場合、所在地は三重県内の4市2郡に分布する。
伊勢神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強く、現代でも内閣総理大臣及び農林水産大臣が年始に参拝することが慣例となっている。また、式年遷宮が20年に一度行われる。
祭主は今上天皇第一皇女黒田清子、大宮司は小松旧侯爵家当主小松揮世久。
 
祭神
主祭神は以下の2柱。
皇大神宮:内宮(ないくう)
天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ) - 一般には天照大御神として知られる
豊受大神宮:外宮(げくう)
豊受大御神(とようけのおおみかみ)
 
神話と創祀
天孫・邇邇芸命が降臨した(天孫降臨)際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれ、天皇自らが観察していた。八咫鏡は第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大御神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、その後、各地を移動した。
垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。
『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されているのが、内宮起源説話である(元伊勢伝承)。この話は崇神天皇6年の条から続き、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。
なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。
 
歴史
概史
古代
皇室の氏神として、天皇以外の奉幣は禁止された(私幣禁断)。天武天皇の時代に斎宮が制度化され、『扶桑略記』によれば天武天皇の皇女である大伯皇女が初代とされる。
中世
朝廷への、そして皇室とその氏神への崇拝から、日本全体の鎮守として全国の武士から崇敬された。神仏習合の教説において神道側の最高神とされる。また、外宮側の度会家行より伊勢神道(度会神道)が唱えられた。戦乱により神宮領が侵略され、経済的基盤を失ったため、式年遷宮(後述)が行えない時代もあった。資金獲得のため、神宮の信者を増やし、各地の講を組織させる御師が台頭した。戦国時代には、尾張国(現在の愛知県西部)の織田信秀のように寄進を行う武将もいた。
近世
江戸時代にはお蔭参り(お伊勢参り)が流行した。庶民には親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』で語られるように、多くの民衆が全国から参拝した。
近現代
明治2年(1869年)、明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝した。天皇による参拝が長期にわたり空白だった理由については諸説が唱えられているが、決定的なものはない。大日本帝国政府の神道国教化政策により、全国神社の頂点の神社として位置付けられた。第二次世界大戦以後は政教分離が図られ、宗教法人神社本庁発足に伴い、全国神社の本宗とされた。内宮前に「神宮司庁」があり、神職約100人、一般職約500人が奉職している。佐藤栄作首相が昭和42年(1967年)に参拝して以来、現職内閣総理大臣と農林水産大臣が、(正月三が日の混雑を防ぐため)主に1月4日の官公庁仕事始めの日に参拝するのが慣例行事である。
式年遷宮
神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)である。原則として20年ごとに、内外両宮の正宮の正殿を始めとする別宮以下の諸神社の正殿を造替して神座を遷し、宝殿、外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎といった全社殿を造替する他、装束・神宝、宇治橋等も造り替える。
記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇4年(690年)に第1回が行われた。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、平成25年(2013年)の第62回式年遷宮まで、およそ1300年間行われている。
年表
天武天皇14年(685年) : 式年遷宮の制を制定。
持統天皇4年(690年) : 第1回内宮式年遷宮。
持統天皇6年(692年) : 第1回外宮式年遷宮。
和銅2年(709年) : 第2回内宮式年遷宮。
和銅4年(711年) : 第2回外宮式年遷宮。
和銅5年(712年)1月28日 : 『古事記』完成。
養老4年(720年) : 『日本書紀』完成。
延長5年(928年)12月26日 : 『延喜式』完成。
康保4年(967年)7月9日 : 延喜式施行。
寛正3年(1463年)12月27日 : 第40回内宮式年遷宮。この後、戦国時代で式年遷宮が中断。
永禄6年(1563年)9月23日 : 第40回外宮式年遷宮。
慶安3年(1650年)1月 : 慶安のお蔭参り。
宝永2年(1705年) : 宝永のお陰参り。
明和8年(1771年)4月 : 明和のお陰参り。
文政13年(1830年) : 文政のお陰参り。
慶応3年(1867年) : ええじゃないか。
明治4年(1871年)5月14日 : 近代社格制度制定。
1945年(昭和20年)12月15日 : 神道指令。
1949年(昭和24年) : 第59回式年遷宮延期。
1953年(昭和28年) 10月 : 第59回式年遷宮。12月 : 崇敬団体の伊勢神宮奉賛会設立。
1959年(昭和34年)9月26日 : 伊勢湾台風により内宮・外宮とも倒木などの被害。
1965年(昭和40年)9月 : 伊勢神宮奉賛会が伊勢神宮崇敬会へ改称。
2016年(平成28年)5月 : 第42回先進国首脳会議伊勢志摩サミットを記念しアメリカ大統領含むG7首脳が内宮参拝。
 
神宮125社
神宮が管理する宮社は125社あり、俗に「神宮125社」と呼ばれる。内訳は内外両正宮に別宮14、摂社43、末社24、所管社42。伊勢市だけでなく、度会郡大紀町、玉城町・度会町、志摩市、松阪市、鳥羽市、多気郡多気町の4市2郡に分布する。
正宮(しょうぐう) - 皇大神宮 (内宮)と豊受大神宮 (外宮)の2宮。
別宮(べつぐう) - 「正宮のわけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次いで尊いとされる。
摂社(せっしゃ) - 『延喜式神名帳』に記載されている神社(正宮、別宮を除く)。定義では摂社は全て式内社となるが、戦国時代にほぼ全てが廃絶となり、江戸時代の寛永年間(1630年代)から明治初頭(1870年代)にかけて復興されたため、式内社の比定地とされる場合がある。
末社(まっしゃ) - 『延暦儀式帳』に記載されている神社(正宮、別宮、摂社を除く)。
所管社(しょかんしゃ) - 正宮・別宮・摂社・末社以外の神社。 
 
 
 

 

●天照大神 
●天照大神 1 
[あまてらすおおかみ]または天照大御神[あまてらすおおみかみ]
日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神にして日本国民の総氏神であるとされる。『記紀』において、アマテラスは太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。 天岩戸の神隠れで有名な神で、神社としては三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮が特に有名。
名称
『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。
『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照大御神の他に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。
なお、「大日孁貴神」の「ムチ」とは「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は大日孁貴神のほかには大己貴命(オオナムチ、大国主)、道主貴(ミチヌシノムチ、宗像大神)などわずかしか見られない。
系譜
父 イザナギ(伊邪那岐神、伊邪那岐命、伊弉諾尊)
母 イザナミ(伊弉冉尊、伊弉弥尊)(日本書紀でのみ、古事記では誕生に関与していない)
三貴子(イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたアマテラスを含む三姉弟の神)
   弟 ツクヨミ(月読命、月夜見尊)(記紀に性別についての記述がなく実際は性別不明)
   弟 スサノオ(建速須佐之男命、須佐之男命、建素戔嗚尊速、素戔男尊、素戔嗚尊)
夫 なし(ただしスサノオとの誓約が両神の結婚を表しているという解釈もある)
五男三女神(アマテラスとスサノオの誓約の際に生じた神:男神がスサノオが口から生んだ子、女神がアマテラスが口から生んだ子とされる)
   男神 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
   男神 天之菩卑能命
   男神 天津日子根命
   男神 活津日子根命
   男神 熊野久須毘命
   女神 多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)
   女神 市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)
   女神 多岐都比売命
『日本書紀』ではスサノヲが姉と呼んでいること、アマテラスとスサノオの誓約において武装する前に髪を解き角髪に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど明確な性別の記載はツクヨミのようにないが女性と読み取れる記述が多いこと、後述の別名に女性を表す言葉があることなどから、古来より女神とされている。また一般に大和絵や宗教、日本人が最初に神代の時代を知る小中学校の社会科などでも女神として表されるのが主流である。言語学的には名の「オホヒルメノムチ(大日孁貴)」の「オホ(大)」は尊称、「ムチ(貴)」は「高貴な者」、「ヒルメ(日孁)」は「日の女神」を表す。但し「孁」は「巫」と同義であり、古来は太陽神に仕える巫女であったとも考えられる。
「ヒコ(彦)・ヒメ(姫・媛)」、「ヲトコ(男)・ヲトメ」、「イラツコ(郎子)・イラツメ(郎女)」など、古い日本語には伝統的に男性を「コ(子)」・女性を「メ(女)」の音で表す例がみられ、天照大神の名「ヒルメ(日る女)」には「メ(女)」がふくまれるので、名前からも女神ととらえることが順当である。後述するように中世には仏と同一視されたり、男神説等も広まった。
天照大神は太陽神としての一面を持ってはいるが、神御衣を織らせ、神田の稲を作り、大嘗祭を行う神であるから、太陽神であるとともに、祭祀を行う古代の巫女を反映した神とする説もある。ただし、「メ(女)」という語を「妻」「巫女」と解釈する例はないともいわれる。
天照大神のモデルは淮南子や山海経などに出てくる東海の海の島(日本)に住んでいる十の太陽神の母である義和が該当するとする説もある。 淮南子の冒頭と日本書紀の冒頭が重なる部分が存在する事から記紀の執筆者が淮南子を読んでいたのは間違いないとされる。
また最高神アマテラスの造形には、女帝の持統天皇(孫の軽皇子がのち文武天皇として即位)や、同じく女帝の元明天皇(孫の首皇子がのち聖武天皇として即位)の姿が反映されているとする説もある。兵庫県西宮市の廣田神社は天照大神の荒御魂を祀る大社で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)という祭神名のまたの名が伝わる。これは天照大神を祀る正殿には伝わらない神名であるが、荒祭宮の荒御魂が女神であることの証左とされる。
神話での記述
『日本書紀』においては、
第五段の本文では、伊弉諾尊・伊弉冉尊が自然の神を産んだ後に大日霎貴を産んでいる。
第五段の一書の1では、伊弉諾尊が、左手で白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときに大日霎貴が生まれている。
第五段の一書の6では、『古事記』のように禊にて伊弉諾尊が左の眼を洗った時天照大神が生まれている。
古事記
『古事記』においては、伊邪那岐命が伊邪那美命の居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際、左目を洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれた月読命、鼻から生まれた建速須佐之男命と共に、三貴子(みはしらのうずのみこ)と呼ばれる。このとき伊邪那岐命は天照大御神に高天原を治めるように指示した(「神産み」を参照)。
海原を委任された須佐之男命は、伊邪那美命のいる根の国に行きたいと言って泣き続けたため伊邪那岐命によって追放された。須佐之男命は根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。
須佐之男命は身の潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、須佐之男命の物実から三柱の女神が生まれ、須佐之男命は勝利を宣言する。
このとき天照大御神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神である。
   正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(天忍穂耳命)
   天之菩卑能命(天穂日命)
   天津日子根命(天津彦根命)
   活津日子根命(活津彦根命)
   熊野久須毘命(熊野櫲樟日命)
これで気を良くした須佐之男命は高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は天岩戸に隠れてしまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。思金神と天児屋命など八百万の神々は天照大御神を岩戸から出す事に成功し、須佐之男命は高天原から追放された(「天岩戸」を参照)。
大国主神の治めていた葦原中国を生んだのは親である岐美二神と考え、葦原中国の領有権を子の天忍穂耳命に渡して降臨させることにし、天津神の使者達を大国主神の元へ次々と派遣した。最終的に武力によって葦原中国が平定され、いよいよ天忍穂耳命が降臨することになったが、その間に邇邇芸命が生まれたので、孫に当たるニニギを降臨させた(「葦原中国平定」「天孫降臨」を参照)。その時八尺鏡を自身の代わりとして祀らせるため、降臨する神々に携えさせた。
神仏習合と天照大神の男神説
中世の神仏混淆で本地垂迹説が広まると、インドの仏が神の姿をとって日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大神には観音菩薩(十一面観音菩薩)が当てられたが、やがて大日如来となり、両部神道が登場すると天照大神は宇宙神である大日如来と同一視されるようになる。
平安末期の武士の台頭や神仏混淆が強まると以前より指摘されていた天照大神の男神説が広まり、中世神話などに姿を残した。
天照大神男神説
神道において、陰陽二元論が日本書紀の国産みにも語られており、伊弉諾尊を陽神(をかみ)、伊弉冉尊を陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったとされる説である。
平安時代、『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。
京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町で伝えられるとおりの姿である。江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。また、藤原不比等が女性が天皇に即位できるように記紀を作り替えたとも言われる。 ただし前述のように女神説が主流であり、伊勢神宮を始め各神社でも女神としている。また、現代語訳本や漫画においても女神として描かれることが主流である。
各仏教宗派の教学
仏教界においては、宗派にもよるがちょうど八幡神(やはた/ハチマン)のように「てんしょうだいじん」と音読みで読まれることが多い。
   真言宗
真言宗では天照大神を大日如来の化身と見ていた。
   日蓮宗・法華宗
日蓮は御書の中で自身の出身地である安房国長狭郡(現在の千葉県鴨川市の大半)を、天照大神の日本第一の御厨(東条御厨)であると記し、特別な思いを持っていた。日蓮は天照大神と八幡大菩薩を日本の善神の筆頭とし自身および日興を始めとする後継者の書いた十界曼荼羅に勧請しており、その本地を釈迦牟尼仏だとしている。現在でも日蓮宗・法華宗の寺院では三十番神の一柱として天照大神が祀られている姿が見られる。昭和になると日蓮宗・法華宗各派は、日蓮が御書にて天照大神を帝釈天や梵天などのインドの神と比べて「小神」と呼んだこと、「天照大神」という文字が十界曼荼羅の中で鬼子母神や八大龍王などよりも下に書かれていることなどが問題視され、法華宗が不敬罪で訴えられる事件となった。
山号
以下の寺院が「天照山」を山号とする。
勝願寺 (鴻巣市本町) / 光明寺 (鎌倉市) / 天照山神宮寺 / 円城寺 (飛騨市神岡町船津) / 円城寺 (飛騨市神岡町殿) / 天照山法泉寺 - 三重県多気郡多気町天啓公園に所在する黄檗宗の寺院。天啓公園、天啓池の附近にある寺院 / 明泉寺 (神戸市) / 来迎寺 (三田市)
近代
1880年(明治13年) - 1881年(明治14年)、東京の日比谷に設けた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった。神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、これに対して「出雲派」は、「幽顕一如」(あの世とこの世との一体性)を掲げ、祭神を「幽界」(あの世)を支配する大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張した。
しかし、神道事務局の中心を担っていた「伊勢派」は、天照大御神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立した。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。やがてこの論争は明治天皇の勅裁により収拾(出雲派が敗北)し、天照大神の神格は最高位に位置づけられることになった。
なお、政府は神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと言われている。
芥川龍之介は自身の小説にて天照御大神を登場させる際、「天照大御神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になるため、太陽神、それも自然神という性格付けで別名の「大日孁貴」(おおひるめむち)を用いた。実際、芥川の小説には検閲によって訂正・加筆・削除を強いられた箇所が多数存在する。
日本全国の神社本庁傘下の神社で皇大神宮(天照皇大神宮)の神札(神宮大麻)を頒布している。
天照大神を祀る神社
○ 天照大神を祀る神社を神明神社といい全国各地にあるが、その総本社は神宮(伊勢神宮)の内宮(皇大神宮)である。皇大神宮は三種の神器のうちの一つ八咫鏡(ヤタノカガミ)を御神体として安置する神社である。
○ 宮崎県高千穂町岩戸には岩戸隠れ神話の中で天照大神が隠れこもったとされる天岩戸と天照大神を祀る天岩戸神社がある。東本宮は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)を祀り、西本宮は大日孁尊(おおひるめのみこと)を祀る。
○ 日前神宮・國懸神宮 - 日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。
○ 伊雑宮(三重県志摩市磯部町) - 皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町の瀧原宮とともに「天照大御神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。
○ 瀧原宮・瀧原竝宮(三重県度会郡大紀町) - ともに天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)を祀る別宮。瀧原宮はその和御魂(にぎみたま)、瀧原竝宮は荒御魂(あらみたま)が祀られるとされる。
○ 日向大神宮(京都市山科区日ノ岡)
○ 廣田神社(兵庫県西宮市) - 天照大神の荒御魂を祀る。旧官幣大社で日本書紀にも記される。
○ 皇大神社 (福知山市)(京都府福知山市大江町)
○ 山口大神宮(山口県山口市)
○ 大日霊貴神社(秋田県鹿角市八幡平)
○ 八倉比売神社(徳島県徳島市国府町矢野) - 社伝に御祭神・大日孁尊(天照大神)の葬儀の様子が記されている。
○ 籠神社 - 天照大神と孫神・彦火明命(饒速日命・ニギハヤヒ)を祀る。元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称される。
○ 愛媛県西条市にある伊曽乃神社は、天照大神 荒御魂と武国凝別命を祀っている。また、伊曽乃神社は西条祭りで大変有名である。この神社よ祭礼では伊勢音頭が歌われ、お伊勢さんへの感謝と憧れを西条の人は抱いており、伊勢神宮ともご縁があり、式年遷宮には西条のだんじりを奉納している。
全国の天照大神伝承
天照大神の伝承は各地に存在する。
○ 木曽山脈の恵那山には天照大神誕生の際に、胞衣(えな)が埋設されたという伝承が残る。
○ 長野県戸隠山の戸隠神社には天岩戸の伝承が残る。
○ 三重県のめずらし峠は、天照大神と天児屋根命が出会ったという伝承が残っている。
○ 奈良県の與喜(よき)山には天照大神が降臨した伝承が伝わっている。また、長谷寺の本尊十一面観世音菩薩立像の左脇侍雨宝童子立像は、天照大神として信仰されており、頭髪を美豆良に結って冠飾を付け、裳を着し袍衣を纏った姿をしている。
○ 島根県隠岐は天照大神が行幸の際、そこに生育していた大木を「おおき」と感動して呼んだことが隠岐の名の起源であるという伝承が残る。
○ 鳥取県因幡の八上郡には、天照大神がこの地にしばらくの間行宮する際、白兎が現れて天照大神の裾を銜(くわ)えて、行宮にふさわしい地として、現在も八頭町と鳥取市河原町の境にある伊勢ヶ平(いせがなる)にまで案内し、そこで姿を消したとされる。八頭町の青龍寺の城光寺縁起と土師百井(はじももい)の慈住寺記録には、天照大神が国見の際、伊勢ヶ平付近にある御冠石(みこいわ)に冠を置いたという伝承が残っている。この伝承と関連して八頭町に3つの白兎神社が存在し、八頭町米岡にある神社は元は伊勢ヶ平にあった社を遷座したものと伝えられるが、の具体的な伝承に基づく全国的に見ても極めて珍しい神社である。
○ 同じく鳥取県八上の氷ノ山(ひょうのせん)の麓、若桜町舂米(つくよね)には天照大神が大群を従えての行幸伝承とともに、天照大神が作ったとされる和歌が伝わっている。2007年(平成19年)、若桜町舂米地区内で天照大神が腰掛けをしたさざれ石が発見された。
○ 氷ノ山の名は、天照大神が樹氷の美しさに感動して日枝(ひえ)の山と呼んだことが起源とされ、氷ノ越えの峠(ここにもかつて白兎を祀る因幡堂があった)を通って因幡をあとにしたとされる。
○ 現在は存在しないが、熊本県の八代市には上古に天照大神の山陵が在ったと伝えられる。
○ 宮崎県高千穂町岩戸にあり天照大神を祭神とする天岩戸神社の周辺には、岩戸隠れ神話の中で天照大神が隠れこもったとされる天岩戸をはじめ、複数の神話史跡や関連の地名が残る。 
天照大神 2

 

【和魂】祝福『徳によって繁栄します』
自分の利益や名声の為ではなく、純粋にあなたがこれまで積み上げてきた徳が豊かさとなり、あなたに戻ってきています。喜んで受け取って下さい。あなたが周りを照らす太陽の様に今を過ごす事で、関わる全ての人にも豊かさを与えているのです。
【荒魂】開拓『未来を切り開く』
行動の成果が具現化します。思うように事が進まない時もありますが、過去に囚われる事なく、勇気を持って突き進みましょう。また昇る太陽のように心を温め笑顔を忘れなければ、必ず未来は開けるでしょう。
【幸魂】慈愛『愛に満ちたお告げ』
誰かの言葉の中に成功へと導くお告げがあるはずです。意識して過ごしましょう。そのお告げを心で受け止める事であなたも周りも幸せになります。苦しみや悲しみも慈愛の心を持って生きる事で楽になります。それをあなたが示すことが出来るでしょう。深い愛情を持ってあなたらしさを表現して下さい。
【奇魂】叡智『見通す力・優れた知恵』
あなたには物事の本質が見えています。今その力を人の為に使って下さい。あなたが現れる事を待っている人がいます。失って初めてあなたの存在の大きさに気付き、救いを求めています。許すことで再び陽を照らす事になるでしょう。
【自然界に与え続ける尊い神】
アマテラスは、八百万の神の中でも最も尊い神である。太陽を司る太陽神、天皇の祖神、そして伊勢神宮の祭神である。八百万の神は、山・海・風・雷といった自然の様々なところに宿っている。風の神は、空気を淀ませないように風を吹かせる一方で、台風を起こす強い一面もある。また、海の神は、私たちにたくさんの食料を与える一方で、津波による大災害ももたらす。このように、神様とは、恵みを与える「和魂(にぎみたま)」と、災いをもたらす「荒魂(あらにたま)」が混在する。しかし、太陽だけは人に災いをもたらさない。これが太陽神であるアマテラスの偉大さなのである。
太陽が自然界すべてを司る存在であるということは、裏を返せば、自然界に様々な災いが起きたとき、アマテラスの荒魂だと捉える。天皇はこのアマテラスを祀り、国民の繁栄と世界平和を祈願している。アマテラスが、高天原(天界)から葦原中国(地上)へ降り立ったニニギノミコトに命じた三大神勅がある。その一つが「宝鏡奉斎の神勅(ほうきょうほうさいのしんちょく)」である。アマテラスは鏡を渡し「この鏡を私だと思って、自分を映し、自省しなさい。もし、私欲により民を苦しめるような『我』が映ったならば、その『我』を取り除きなさい。」そう伝えた。「かがみ(鏡)」から「が」を取れば、「かみ(神)」となる。こうして、鏡を祀り感謝を届け、新たな決意を行い、最後に祈願する。
これが神社と参拝の始まりである。正しい参拝とは、最初に「感謝」し、そして「決意」し、最後に「祈願」する。
天皇は、宮中三殿にて年間20回以上の祭祀を執り行い、国民の繁栄と世界平和を祈る。何事もなく平和に過ごせることへの感謝と、この国の君主である自覚のもとに、民の繁栄を祈願しているのである。またアマテラスは国譲りの際、オオクニヌシに次のように伝えている。「汝ウシハクこの国は、我が御子のシラス国ぞとアマテラスが仰せである」。「ウシハク」とは争うことによって国を治めること。そうすると、民衆は強者の所有物になってしまう。アマテラスは「シラス国」だと言った。これからは民衆が主役となる慈愛で満ちた国を作るのだと。世界の国々を見渡すと、ほとんどの国は争うことによって形成されてきた。しかし、我が国日本は争うことなく慈愛に満ちた国づくりを行い、それが「いつも間にかできた国」日本なのである。私たちは天皇を中心として、慈愛に満ちた民衆が主役の、民衆のための国づくりを行っているのだ。その意志を2675年、125代途絶えることなく天皇は実践されている。すべては祖神アマテラスから始まった。周りを照らす太陽のようにみんなを幸せにできる、そんな人のことを「神様のような人」と、誰もが崇めた。継続することの意味を、今いちど、噛み締めてもらいたいものである。
【神格】
︎太陽神 ︎高天原の主神 ︎皇祖神 ︎日本の総氏神
【御利益】
・国土安泰(こくどあんたい)・福徳・開運・勝運
あらゆる神徳を発揮するとされています。
【別称】
天照大神、天照大御神、天照皇大神、お伊勢様、神明様など
【系譜】
イザナギの子
【祀られている神社】
︎皇大神宮(内宮) (三重県伊勢市宇治館町) ︎芝大神宮 (東京都港区芝大門) ︎四柱(よはら)神社 (長野県松本市大手) ︎神明神社 (岐阜県加茂郡八百津町) ︎高浜神社 (大阪府吹田市高浜町) ︎西宮神社 (兵庫県西宮市社家町) ︎新田神社 (鹿児島県薩摩川内市宮内町) ︎榎原(よわら)神社 (宮崎県日南市南郷町) ︎普天満宮 (沖縄県宜野湾市普天間) ︎その他、各地の皇大神社 ︎神明社と呼ばれる神社 
天照大神 3

 

天照大神(あまてらす・おおみかみ)は日本の神様の中で最高神の地位を占める神様で、太陽の神であり、高天原(たかまがはら)の主宰神です。古来より男性神説と女性神説とがありましたが近年は女性神説が有力です。その根拠の一つは日本書紀の神代(上)の巻で素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天照大神を「姉」と呼んでいるところによります。(古事記には性別を匂わす記述はありません) また弟の乱暴に起こって天岩戸(あまのいわと)に閉じ篭ってしまうというエピソードも女性的です。
男性神説を取る人たちは、これを推古天皇即位をスムーズに行なうために「こんな偉い女性の神様がいるのだから女性が天皇になってもいい」という論理を持ち出すため蘇我一族あたりが捏造したものである、と主張しているようです(ただし推古天皇以前にも清寧天皇崩御の後、顕宗天皇と仁賢天皇が互いに譲り合って天皇が定まらなかったため、飯豊皇女が事実上の天皇として執務なさったことがあります。またそれ以前に神功皇后の例もあります)。まぁ男性中心主義者の「最高神が女だとはけしからん」調の議論は論外ですが。
しかし、もともと日本は農耕民族で女系社会ですので、私は最高神が女性神であるのはむしろ自然なことではないかと考えます。
天照大神はイザナギの神から生まれました。この話はイザナギの神の所にも出ましたが、イザナギ神が亡き妻イザナミ神を慕って黄泉の国に行くも、結局逃げ帰り、その時戻ってから川でみそぎをするのですが、その時に左目を洗ったときに天照大神、右目を洗った時に月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗った時に須左之男命(すさのおのみこと)が生まれたとされます。この三柱の神を三貴子といいます。
そしてイザナギ神の指示で天照大神は高天原を治め、月読尊は夜の世界を治め、須左之男命は海を治めることになります。しかし須左之男命は泣いてばかりいて全く仕事をせず、イザナギ神に自分はイザナミ神のいる根の国に行きたいといいます。イザナギ神が呆れて須左之男命を海から追放すると、須左之男命は姉に別れを告げてから根の国に行くと行って高天原におもむきます。
ところがこの時の須左之男命の勢いが凄まじかったため、天照大神は須左之男命が高天原を乗っ取りに来たのかと武装して待ち受け、須左之男命に対峙して「何をしに来たのだ」と問いただします。
これに対して須左之男命は自分は単に別れを言いに来ただけで他意は無いといいます。そして子供をもうけてその証を立てましょうということになり、細かい話は省略しますが、須左之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)から宗像の三柱の女神、天照大神の八尺勾玉(やさかのまがたま)から天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の五柱の男神が生まれたため、須左之男命はこの誓約(うけい)に勝ったことになり、高天原にしばらく滞在を許されます。
ところが須左之男命は元々荒っぽい神である為、高天原滞在中にたんぼの畦道は壊すわ、神殿に糞はするわ、乱暴な行ないを続けます。最初は天照大神も弟のことだからいろいろとかばっていましたが、やがて天照大神の配下の機織娘が須左之男命の乱暴のために事故死するに至って、とうとう機嫌を損ねて、天岩戸(あまのいわと)に引き篭ってしまいます。
太陽神に隠れられてはたまりません。世の中真っ暗闇になってしまいました。そこで困った神々は一計を案じ、岩戸の前に八尺勾玉をさげ、八咫鏡(やたのかがみ)をぶらさげて、天宇受売神(あめのうずめのかみ)がその前で踊りを踊りました。その踊りが余りおかしかった為、居ならぶ神様はどっと吹き出します。
その笑い声を聞いた天照大神は「いったい何事?」と少し岩戸を開けて様子を見ようとしました。すると天宇受売神が「あなた様よりもっと尊い神様がいらっしゃったのです」といいます。そして天児屋命と布刀玉命が鏡をそばに寄せますと、そこに映った自分の姿が輝いて見えます。どんな神なのかと思い、もう少しよく見ようと岩戸をもう少し開けますと、そこで控えていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がグイと天照大神の手を引いて岩戸から引出し、布刀玉命(ふとだまのみこと)がサッとしめ縄を渡して中に戻れないようにしました。かくして高天原に光が戻ったのです。
天照大神は現在伊勢の神宮に祭られています。その時の八咫鏡も天皇家の三種の神器の一つとして、そこに祭ってあります。八尺勾玉は皇居に祭られています。
天照大神の信仰が日本書紀に最初に登場するのは崇神天皇の巻で、天皇の娘である豊鍬入姫が天照大神を大和の笠縫邑に祀ったという記事があります。そして次の垂仁天皇の代になって、今度は垂仁天皇の娘である倭姫(やまとひめ)が天照大神を祀るのにふさわしい場所を探して各地を尋ね歩く話が出てきます。
倭姫は宇陀の篠幡、近江の国、美濃、とめぐった後で伊勢に入りますが、その時「ここは辺鄙な土地だけど波が打ち寄せる美しい国である。私はここに留まりたい」という神託があります。そこで倭姫はそこに宮を建てて天照大神をお祭りしました。
この天照大神を祀る仕事は次の景行天皇の代になると、またまた景行天皇の娘である五百野皇女に引きつがれています。この天皇家の娘が伊勢で天照大神を祀るという制度は「斎宮(さいぐう)」または「斎王(いつきのみこ)」と呼ばれ、この時代に始まって後醍醐天皇の皇女祥子内親王まで続きました。その後は祭主が代って神宮を主宰しています。
(時々斎宮は五百野皇女のあとはずっと中断していて、実質的には天武・持統朝あたりから始まったのでは、という人もありますが、聖徳太子頃の時代にも酢香手姫皇女が選任されていますし、やはりずっと続いていたと考えた方が妥当だと思います。)
斎王の条件は未婚の皇女または王女で、人選は占いによります。任が解かれるのは天皇の譲位又は崩御の時、両親の喪や病気の時、などですが、過失により退官することもありました。むろん在任している限り結婚はできません。
同様の制度に賀茂斎院というのもありました。選任規準も同様で、嵯峨天皇の皇女有智子(うちこ)内親王が最初、後鳥羽天皇の皇女礼子内親王が最後です。
斎宮は天照大神に仕える訳ですが、祭主であると同時に天照大神の「よりしろ」でもあったと考えられます。少なくとも最初の頃はかなり霊的な力のある皇女が選ばれていたのではないでしょうか。
いわば、物質の世界で天皇(昔は大王と言ったが)が人民を治めるとともに、精神の世界ではその近親者である斎宮が神の世界との交信をするという、二重構造の中で天皇家は日本の中核になって来たのでしょう。
なお、天照大神を祀る神社(正確には天照大神の場合は全て遙拝所である)は神明社、皇太神宮などで全国で18,000社ほどあると言われています。 
天照大神 4

 

太陽の神でありながら皇室の祖神ともなった「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」は、日本最古の歴史書である「古事記」や、伝存する最古の正史「日本書紀」にもその名が記されている。
日本人なら誰もが一度はその名を聞いたことがあるというほど、我々にも馴染み深い。
だが、一方で有名なのは「天岩戸の神隠れ」の伝説ばかりで、天照大御神がどのような神で、なぜ天岩戸に隠れたのかを知る人は少ないだろう。
系譜
父イザナキ、母イザナミの子として生まれた天照大御神は、記録により表記や名前に違いがある。
『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。天照大御神を祀る伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。
これは天照大御神のように古代の神々には珍しいことではないが、ここでは天照大御神(あまてらすおおみかみ)で統一する。
天照大御神の誕生の伝説は、日本列島の創造から始まる。イザナキとイザナミは天の神々の命により海に淡路島を作り出した。やがて、九州、四国、本州と合わせて八つの島々を作り、国造りを終えると多くの「神産み」をする。
しかし、最後に生まれた「火の神カグツチ」の熱で火傷を負ってしまい、絶命してしまった。
イサナギは怒りに任せてカグツチの首を刎ねると、その血や肉体から火や熱にまつわる多くの神々が生み出される。イサナギはイザナミを忘れられずに黄泉の国まで向かうのだが、すでにイザナミの肉体は腐敗しており、それを見られたイザナミは大いに怒り、イサナギを追いかけてきた。逃げるイサナギは、下界と黄泉の国とを結ぶ「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を大岩で塞ぐことにより、イザナミとの関係を絶ち下界に向かう。
下界に戻ったイサナギは、黄泉の国の穢れを祓うために禊を行い、その時に生まれたのが姉「天照大御神」「ツクヨミ(性別不明)」弟「スサノオ」の神々であった。
スサノオと天照大御神
太陽神である天照大御神は、高天原(たかあまはら)を、夜の化身であるツクヨミは夜の世界を、猛将であるスサノオは海原を支配することになる。高天原(たかあまはら)とは、『古事記』などでは、地上の人間が住む世界である葦原中国や、地中にあるとされる根の国・黄泉に対し、天上界にあった、と記述されている。つまり、天上の国ということだ。
しかし、スサノオは海原を治めることを断り、母イザナミに会いたいと言い出した。父イサナギはこれに怒り、スサノオを追放してしまった。仕方なく、イザナミの故郷である根の国(出雲と伯耆(ほうき)の堺近辺)に向かう前にと、姉である天照大御神がいる高天原を目指す。
一方、高天原の天照大御神は、猛将の弟が攻め入ってきたと思い、武装して対応した。スサノオは誤解を解こうとするが、その異様なまでの怪力により姉に信じてもらうことは出来ない。そこでスサノオは、誓約(うけひ)を行い、身の潔白を証明する。誓約(うけひ)とは、あらかじめ口にした言葉と占いの結果を照らし合わせて、真偽を見極める方法であった。
これにより、スサノオは晴れて高天原に滞在することを認められた。しかし、いざ滞在できる場所ができると次々と粗暴を行い姉を困らせる。最初のうちはスサノオを大目に見ていた天照大御神であったが、ある日、スサノオは機織り小屋に皮をはいだ馬を投げ込み、機織りの巫女を殺してしまった。
こうなっては、さすがの天照大御神も罪の意識を感じ、天岩戸に閉じこもることで神々の前から姿を消してしまう。それは、この世界から太陽が消えたときでもあった。
天岩戸隠れ
天照大御神が隠れたことで世の中が闇に包まれただけではなく、様々な禍(まが/災い)が発生した。困り果てた神々は、芸能の女神であり、日本最古の踊り子でもあるアメノウズメを中心にある策に出る。
『古事記』では、天岩戸の前でアメノウズメが妖艶な踊りで八百万の神々を笑わせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、そっと鏡を差し出した。そこに映る姿が自分だとは気付かずに天照大御神が見とれていると、アメノタヂカラオノカミ(天手力男神)が岩戸を開け引っ張り開けた。
このようにして再び世の中に光が戻り、世界には平安が訪れたのである。
その後、スサノオは高天原を追放され、出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降りると、その地を荒らしていた巨大な怪物八岐大蛇(ヤマタノオロチ/八俣遠呂智)への生贄にされそうになっていた美しい少女・櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)と出会うのであった。
天照大御神は、葦原中国(人間界)に、子のアメノオシホミミを降臨させることにしたのだが、孫のニギギが誕生したために、天照大神から授かった三種の神器をたずさえたニギギが高千穂に降り立ったという。このことは『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。
天照大御神
古代の神々の例に漏れず、天照大御神にも不明なところが多い。
まず、性別からして「女性説」と「男性説」がある。一般的には女性説が有力であるが、『日本書紀』ではスサノヲが姉と呼んでいること、スサノオとの誓約(うけひ)において、武装する前に髪を解き角髪角髪(みずら/貴族男性の髪型)に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いことなどから、古来より女神とされている。
一方で、男性説の根拠としては、仏教や神道の影響がある。中世ではインドの仏が神の姿をとって日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大御神には観音菩薩が当てられたが、やがて大日如来となり、神仏習合思想である両部神道が登場すると、天照大御神は宇宙神である大日如来と同一視されるようになる。やがて、平安末期の武士の台頭により、天照大御神を男神ではないかとする説が広まり、中世神話などには男性として姿を残した。
神道においては、イザナギを陽神(をかみ)、イザナミを陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は「陽」で、月は「陰」であり、そのため太陽神である天照大御神は「男神」であったとされる説である。

「古事記」や「日本書紀」の世界は実に面白い。名前やエピソードは知っていても、詳細を知らない神々が多くいるのだ。今回は、知名度の高い天照大御神から始めたが、今後は「古事記」という書物そのものにもスポットを当てて調べてゆきたいと思う。
なお、この記事において天照大御神以外の神々は、現代では使わない漢字を当てていることが多いので、カタカナ表記とした。 
天照大神 5

 

天照大御神の誕生
一番有名なのは『古事記』による伝承でしょう。国生みを終えられた、伊邪那岐命・伊邪那美命が火の神様である、迦具土神(カグツチ)を生んだことにより伊邪那美命が陰部に火傷を負い亡くなり、伊邪那岐命が黄泉国を訪問し、逃げ帰ってくる最中の穢れを清めるべく、禊祓をしたときに様々な神々が出現し、最後に三貴紳と呼ばれる神々が登場します。
「 於是洗左御目時所成~。天照大御~。次洗右御目時所成~。…省略…名月讀命。次洗御鼻時所成神。名建速須佐之男命。<…分註省略…> 『古事記』 左目を洗ったときに出現した神は天照大御神。次に右目を洗ったときに出現した神は月読命、そして次に鼻を洗ったときに出現した神は建速須佐之男命である。 」
所が、『日本書紀』の天照大神の出現は少し違います。『日本書紀』巻第一、神代上第五段(四神出生章)では、天照大神は諾冉二神による出生となっております。その理由として、『日本書紀』には
「 吾已生大八洲國及山川草木。何不生天下之主者歟。 『日本書紀』 我々はすでに、大八洲国(今の日本列島)や山・川・草・木などを生んだ。何故に、天下を治めるべき者を生まないのだろうか。 」
とあり、諾冉二神の国産みの最後に、それを治める神として天照大神を生んだ形になっています。更に、その天照大神の特徴として、
「 此子光華明彩。照撤於六合之内。 『日本書紀』 この子(天照大神)は光華明彩であり、国中を照らした。 」
とあります。万物を照らす、太陽神としての表現が見られます。特に、「六合」の表現が特徴的であり、これは東西南北の四方、そして上下の二方、併せて六つの方角を示しており、今で言う3D表現と言えましょう。そうして、神々の頂点に立った天照大御神、天上世界である高天原を納める事になります。『古事記』の三貴紳がそれぞれ統治する所の指示を伊邪那岐命より伝えられているシーンを見てみますと、天照大御神には御頸珠(みくびたま)の玉をかけて伝えています。文章の表現も天照大御神のみ「事依(ことよ)さして賜(たま)ひき」と丁寧な表現であるのに対して、月読命、須佐之男命には「事依さしき」とあります。それだけ、天照大御神への期待は大きかったと言えましょう。
天照大御神と須佐之男の誓約
須佐之男命が伊邪那美命会いに行こうと、根の国へ発つ前に姉である天照大御神に父 伊邪那岐命のいいつけをそむき、根の国へ行かなくてはならない訳を申し上げるため、高天原へ向かいました。一方高天原では、須佐之男命が来訪したことで天照大御神は「乱暴者の須佐之男のことだから、この高天原を奪いに来た。」とお思い、髪をみずらにし、武装をして弓を構えて須佐之男命をむかえました。天照大御神のもとに向かった須佐之男命は、天照大御神が大いに怒っているとわかると、「私は姉上の領地を奪おうなどと思っておりません。その証拠に、子を産むかたちの誓約を行いましょう」とおっしゃいました。
誓約をすることとなった二柱。天照大御神は、須佐之男命が持っていた長い剣を三つにおり、多紀理毘売命(たきりひめのみこと)、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比売命(たきつひめのみこと)の三柱をお生みになり、須佐之男命は、天照大御神が身につけていた勾玉から、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)、天之菩卑能命(あめのほひのみこと)、天津日子根命(あまつひこねのみこと)、活津日子根命(いくつひこねのみこと)、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)をお生みになりました。須佐之男命は「わたしの心が清いから、姉上のような穢れのない女神を生めたのです」とかちほこり、天照大御神の田の畦や溝を壊し、神殿に糞をまきちらすなど、乱暴を働きました。しかし、天照大御神は須佐之男命をかばい、咎めようとはしませんでした。
スサノオの狼藉と天岩戸隠れ
天照大御神の話として一番有名なのが、天岩戸隠れでしょう。この話は、前節において須佐之男命と天照大御神との間での誓約(うけひ)の後から始まります。高天原に滞在していた須佐之男命は様々な狼藉を働きます。栄田(つくりだ)の阿を離したり、灌漑水路の溝を埋めたり、大嘗祭を執り行う神聖な神殿において屎をまき散らしたりしました。これらの罪は、全国の神社にて特に六月・十二月の晦日に執り行われる「大祓」という儀式にて神職が奏上する祝詞「大祓詞」の当初の形の文章に、「天つ罪」として規程されていました。『延喜式』巻八「祝詞」に所収されている、「六月晦大祓」には、
「 天津罪<止>畔放。溝埋。樋放。頻蒔。串刺。生剝。逆剝。屎戸。 『交替式・弘仁式・延喜式』 」
と記され、天つ罪として「畔放(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・樋放(ひはなち)・頻蒔(しきまき)・串刺(くしさし)・生剝(いきはぎ)・逆剝(さかはぎ)・屎戸(くそと)」が定められていました。主に、農耕妨害が天つ罪として定められていました。我慢していた天照大御神もついに、引きこもってしまう事件が発生します。神御衣(かむみそ)を織っていた服屋(はたや)に須佐之男命は天の斑馬(ふちこま)と呼ばれる馬の皮を剝ぎ、投げ入れたのです。服織女(はたおりめ)は驚いて亡くなり、天照大御神は天の岩屋戸に籠ってしまいます。
天岩戸の祭祀
天照大御神が隠れてしまった高天原は緊急事態になりました。様々な災いが一斉に起こり、神々も困り果てました。そこで神々は、天の安の河原に集結し協議を行いました。その結果、天の岩屋戸の前で大きな祭祀を行うことになったのです。まず「常世の長鳴鳥」を集めて鳴かせ、次に「天の堅石(かたしは)」を材料に鏡を作り、玉祖命は「八尺の勾玉」を作り、天児屋命(アメノコヤネ)と布刀玉命(フトダマ)は鹿の骨を焼いて占いを行い、天の香具山の「五百津真賢木(いほつまさかき)」の上部には八尺の勾玉、下部には「白丹寸手(しらにぎて)・青丹寸手(あをにぎて)」と呼ばれる幣帛を取り付けて、布刀玉命が捧げ持ました。天児屋命は祝詞を奏上し、天手力男神(アメノタジカラオ)は隠れて待機しました。天宇受売命(アメノウズメ)が舞を舞い、その姿に神々が笑った時に、岩屋の中の天照大御神はその様子を不思議に思い、戸を少し開いて何故に神々が笑っているのか訪ねられました。その時、天宇受売命は、
「 u汝命而貴~坐故。歡喜咲樂。 『古事記』 あなた様(天照大御神)よりも貴い神がいます。故に、皆は喜んで笑い、そして宴をしています。 」
と説明しました。差し出された鏡に映った姿を見て、天照大御神は誰だろうかと身を乗り出したとき天手力男神は、天照大御神を引き出し、そして布刀玉命は「尻久米縄」で岩屋戸を封鎖しました。この尻久米縄は、注連縄の由来とも言われています。そして、高天原、中津国に陽が戻りました。
崇神天皇と天照大神
『日本書紀』第九段の一書に所謂「三代神勅」と呼ばれる、天照大神と瓊瓊杵尊との間に交わされた約束があります。その中の一つに、「宝鏡奉斎の神勅」と呼ばれるものがあります。
「 吾兒視此寶鏡當猶視吾。可與同床共殿以爲齋鏡。 『日本書紀』 瓊瓊杵尊よ、この宝鏡を見ることは、私(天照大神)を見る事と同じだと思いなさい。いつも同じ宮殿の同じ部屋に祀り、斎鏡としなさい。 」
この神勅は瓊瓊杵尊以降も脈々と受け継がれ、神武天皇以降の歴代の天皇にも受け継がれていました。所が、第十代崇神天皇(すじんてんのう)の御代、国内は混乱に見舞われます。崇神天皇五年、国内には疫病が流行り死者が多数にのぼりました。更に、翌年の崇神天皇六年には国内での反乱も起こり大変な情勢となりました。恐れおののいた崇神天皇は、天神地祇に詫び、それまで宮中で祭祀を行っていた天照大神と日本大國魂神を宮城外にて祭祀を行う事になりました。天照大神は倭の笠縫邑(かさぬひのむら)にて磯堅城(しかたぎ)の神籬(ひもろぎ)にて祭祀が豊鋤入姫命(とよすきいりびめのみこと)によって行われました。宮城から八咫鏡が外に出た事になります。更に、十一代垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代には、この八咫鏡は各地を旅し、いよいよ神宮が鎮座することになります。
伊勢の神宮の鎮座
皆様は、伊勢神宮の正式名称はご存じでしょうか。「神宮」とのみ表記の場合は、伊勢神宮をさします。分かりやすく言うべく、「伊勢の神宮」と呼ばれることもあります。豊鋤入姫命より八咫鏡が倭姫命(ヤマトヒメ)に託されます。
「 爰倭姫命求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡<…分註省略…>。 『日本書紀』 ここに倭姫命は、天照大神の鎮座する場所を求めて、菟田の筱幡(奈良県)に至った。 」
倭姫命と天照大神の旅は、近江国(滋賀県)、美濃国(岐阜県)などを巡り、伊勢に至ります。伊勢に至ったとき、天照大神は倭姫命に、
「 是~風伊勢國。則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。 『日本書紀』 この(神風の)伊勢の国は、変る事無く海の浪が寄せる国だ。(大和の)端の国で良いところだ。私(天照大神)は、ここに居ようと思う。 」
倭姫命は天照大神の御教の通りに、伊勢の五十鈴川の川上に宮を建てました。この宮は、「磯宮(いそのみや)」と呼ばれ、現在の伊勢の神宮の原型です。神宮が鎮座し、伊勢の地にて天照大神の祭祀が始まりました。天武天皇の御代に、様々な神宮祭祀の制度が確立します。まず、『日本書紀』巻二十九、天武天皇三年条には、
「 冬十月丁丑朔乙酉。大來皇女自泊P齋宮向伊勢~宮。 『日本書紀』 天武天皇三年の十月九日に、大來皇女(おおくのひめみこ)は泊P(はつせ)の齋宮(さいぐう)より、伊勢の~宮に向かった。 」
とあります。「斎王」が「制度」として確立しました。斎王とは~宮に仕える皇族の女性の事です。 そして、~宮の一番の特徴である「式年遷宮」も天武天皇の御代に制度化され、持統天皇四年に第一回の遷宮が執り行われました。しかし、この第一回の遷宮に関する記述は全く無いに等しく、『太神宮諸雑自記』に、
「 持統女帝皇。卽位四年<庚寅>太神宮御遷宮。同六年<壬辰>豐受太神宮遷宮。 『太神宮諸雑自記』 」
とあるのみです。その後、式年遷宮は20年に一度と定まり、例えば『延喜式』巻四「伊勢太神宮」には、
「 凡太神宮。廿年一度。造替正殿寶殿及外幣殿。<…分註省略…> 『交替式・弘仁式・延喜式』 (伊勢)~宮は、二十年に一度、正殿・宝殿・外幣殿を造り替えよ。 」
と記されています。
神宮と仏教の関わり
かつて、神道と仏教は神仏習合の時代がありました。しかし、宮中と神宮においては神仏隔離を行っていました。神宮では、例えば忌詞(いみことば)が使われていました。忌み言葉は、『皇太神宮儀式帳』によれば、
「 人打<乎>奈津<止>云、鳴<乎>塩垂<止>云、血<乎>阿世<止>云、宍<乎>多氣<止>云、佛<乎>中子<止>云、經<乎>志目加彌<止>云、塔<乎>阿良々支<止>云、法師<乎>髪長<止>云、優婆塞<乎>角波須<止>云、寺<乎>瓦葺<止>云、齋食<乎>片食<止>云、死<乎>奈保利物<止>云、墓<乎>土村<止>云、病<乎>慰<止>云。 『皇太神宮儀式帳』 」
とあり、例えば「僧侶」は「髪長」、「寺」は「瓦葺」と呼ばれていたことが示されています。仏教と全くの無縁と思われる神宮ですが、「神道説」の面では仏教との関わりが全く無かった訳ではなさそうです。平安末期の「両部神道」をみてみましょう。「両部神道」は僧侶の間で形成された神道説で、神宮の内宮と外宮をそれぞれ仏教界における「胎蔵界」、「金剛界」に見立てた教説です。神宮が直接関わる教説ではありませんでしたが、『中臣祓訓解』などの書物が作られ、後の伊勢神道の成立にも大きな影響を与えました。両部神道の拠点は吉津の仙宮院であり、神宮の繁栄を祈願して様々な法会を執り行っていました。更に、僧侶自身が神宮に参宮する例もこの頃から始まります。その背景には、神宮にて守られ続けていた仏法禁忌の流れが薄れた事にあります。最も有名なのは、文治二年(1186)の重源ならびに東大寺の僧侶による参宮でしょう。この時、重源は東大寺の再建を祈願する為でした。この様に仏教側からのアプローチによって神宮祠官の心が揺さぶられ、自立意識によって鎌倉期に伊勢神道が成立する事になります。
伊勢神道の樹立と、神道五部書
鎌倉時代、神宮祠官が中心となり樹立したのが「伊勢神道」と呼ばれる神道説です。伊勢神道は、この時代に著作された神道五部書と呼ばれる書物を中核にしていました。
「 『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
  『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
  『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
  『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
  『倭姫命世記』  」
一番古いのが、『造伊勢二所太神宮宝基本記』です。しかし、これらの書物は永仁四年(1296)に外宮側が、内宮側と同じように「皇」の字を用いることに関して、内宮と争いになった事より、六十歳未満の者は読むことが出来なくなりました。さて、伊勢神道は神道がはじめて哲学を持ち、神道における神学「神道神学」として整えられはじめた事が大きな特徴と言えましょう。伊勢神道の特徴的な思想として、例えば神道五部書の『倭姫命世紀』には、
「 天照太~<波>。日月<止>共<志天>。㝢内<仁>照臨給<倍利>。 『倭姫命世紀』 天照大御神は、太陽と月と共に宇内(宇宙)を照らす。 」
とあり、天照大御神の理念が。更に、同書には、
「 大日本國者~國奈利。依~明之加被<弖>。得國家之安全。依國家之尊崇<天>。暾~明之靈威<須>。 『倭姫命世紀』 大日本国は神の国である。神々の御加護によって国家は安全であり、更に尊崇によって神々の霊威は増すのである。 」
とあり、神国論が記されています。これは、後に北畠親房に受け継がれ、親房は自信の著書『神皇正統記』にて、
「 大日本者神國(おほやまとはかみのくに)也。天祖(あまつみおや)ハジメテ基(もとゐ)ヲヒラキ、日~(ひのかみ)ナガク統ヲ傳(つたへ)給フ。我國ノミ此事アリ。異朝(いてう)ニハ其タグヒナシ。此故ニ~國ト云(いふ)也。 『神皇正統記』 大日本国は神の国である。天神の祖先が開き、日の神(天照大御神)が長期間に渡り統治している。日本独自の事である。諸外国にはこの様な事はない。故に、日本は神の国なのである。 」
と示し、神国論を示しています。これらの思想は、鎌倉期末期の南北朝時代において南朝方の皇統意識に受け継がれました。
伊勢神道の思想の一つに「正直」があります。この正直の思想は例えば『倭姫命世紀』では、
「 心~則天地之本基。身躰則五行<之>化生<奈利>。 『倭姫命世紀』 心~は天地の基本である。体は五行の化生によって出来ている。 」
と記され、更には『造伊勢二所太神宮宝基本記』にも、
「 人乃天下之~物<奈利>。須掌靜謐<志>。心乃~明乃主<他利>。莫傷心~<禮>。 『造伊勢二所太神宮宝基本記』 人は~物である。静謐を保つことである。心は神々の主体であり、心神を穢してはならない。 」
とあります。この、「心神」の思想が「正直」であり、後の三社託宣における思想へと繋がりました。更に、正直である事は清浄でなければならないという考え方より「祓」が重視され、この考え方は後の垂加神道の成立にも関わることとなりました。
神宮御師(おし)と御祓大麻
中世の武家政治の時代、神宮の経済はそれまでの神税による運営基盤が大きく損なわれ非常に危機的な状況になった時代がありました。その様な中においても、神宮の崇敬を保つために活躍したのが、神宮の下級の神職たちでした。彼らは、御師と呼ばれ全国各地に派遣される事となります。当初は各地の御園(みその)、御厨(みくりや)と呼ばれた神宮の神領からの神税の徴収に当たっていましたが、南北朝の時代になると時代の趨勢の兼ね合いもあり、それまでの担当範囲を超えて、一般庶民相手にも祈願を行い、その証として「御祓大麻」を授ける様になります。この御師が祈願をした相手の方々を、「檀那」と呼びます。
当時の御師たちの祈願とは一体どのような形だったのでしょうか。現在、全国各地の神社では例えば、初宮詣や七五三、安産祈願や交通安全祈願など様々なお願い事に対する御祈願を執り行っています。御祈願の内容を祝詞で神々に申し上げ、玉串を捧げて祈願をしておりますが、御師たちの祈願とは違う事が窺えます。御師たちの祈願は、もっぱら「祓」でした。何度も何度も祓を行ったのです。そして、その「祓」の象徴として、渡されたのが「御祓大麻」と呼ばれる御札でした。そして、その御札を家庭内に祀ったのが、「大神宮棚」と呼ばれる棚でした。この「大神宮棚」が今日の神棚へと繋がるのです。
明治新政府と神宮大麻
王政復古の大号令のもと、明治維新が行われ時代は近代へと突入しました。明治四年、全国の神社は「国家の宗祀」としての位置づけとなり、国の管理となり神宮も例外では無く、明治四年七月に「神宮御改正」が執り行われました。その中には、今までの神宮御師と檀那との私的関係の改善も含まれ、御師の活動が全廃される事になりました。その結果、神宮の御祓大麻の制度も変ることになります。明治五年四月の事です。明治四年末、新政府の神祇省より「皇大神宮御璽御布告案」が出され、新しい「神宮大麻」の原案が認められます。そして、神宮にて一体づつ丁重に奉製され、人々へと授けられる形態が整えられます。
神宮大麻は奉製の伝統は一切変る事無く、今日でも全国各地の神社を通じて家庭や会社だけでなく、工場、船舶など様々な場所で祀られている神棚に奉斎されている御札です。その御札には、「天照皇大神宮」と記されています。まさに、日本人と天照大御~との繋がりを象徴する形と言えましょう。 
 
 
 

 

●豊受大神 
●豊受大神・トヨウケビメ 1 
日本神話に登場する神である。豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている。『古事記』では豊宇気毘売神と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神、登由宇気神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、大物忌神、とよひるめ、等々。
神話での記述
『古事記』では伊邪那美命(いざなみ)から生まれた和久産巣日神(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。後に、他の食物神の大気都比売神(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった。
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。
『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治山頂にある真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたが、十余年後に家を追い出され、漂泊した末に奈具村に至りそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。
尚、『摂津国風土記』逸文に、 止与宇可乃売神は、一時的に摂津国稲倉山(所在不明)に居たことがあったと記されている。また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という(外宮境内社)。
信仰・祭祀
丹波、但馬の地名の起源として、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、籾種をつけた清水戸(せいすいど)が京丹後市峰山町(比沼麻奈為神社がある)にあることから、その地が田庭と呼ばれ、田場、丹波へと変遷したという説がある。 付近の久次嶽中腹には大神の杜があり、天の真名井の跡とされる穂井の段(ほいのだん)がある。また、神社の縁起は、大饗石(おおみあえいし)と呼ばれる直方体のイワクラであると言われている。
福知山市大江町には元伊勢豊受大神社がある。元伊勢内宮より南方の船岡山に鎮座する社で、藤原氏の流れである河田氏が神職を代々継承している。崇神天皇の御世、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が天照大神の御杖代として各地を回るときに、最初の遷座地が丹後であった。その比定地はいくつか存する。
伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)、奈具社(京都府京丹後市)、籠神社(京都府宮津市)奥宮天真奈井神社、比沼麻奈為神社(京都府京丹後市)で主祭神とされているほか、神明神社の多くや、多くの神社の境内社で天照大神とともに祀られている。また、トヨウケビメを祀っている稲荷神社もある。
外宮の神職である度会家行が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であるとしている。  
豊受大神 2 

 

【和魂】人徳・信頼を得る『大役を任せられる』
あなたの人徳が評価され、大きな役割を任せられるかもしれません。思いもよらぬ好機に巡り合います。人とのご縁で人生を切り開く時です。今までと違う方法を選択してください。引っ越しや転職は吉。旅をする事でその好機を掴む事も出来ます。
【荒魂】健康『食を見直しましょう』
最近の生活に乱れが生じていませんか?このカードはあなたの健康が心配だと教えてくれています。食事が不規則になっていませんか?偏った栄養ではエネルギーが不足してしまいます。やせ過ぎ、太り過ぎも注意です。睡眠は取れていますか?十分な睡眠は心の安定を促し判断力を高めてくれます。
【尊い神に信頼された神】
トヨウケはアマテラスから『ひとりでは安らかに食事が出来ないのでトヨウケを近くに呼び寄せなさい』と丹波国より遷宮させたとされる。トヨウケは穀物の神様であり、伊勢神宮の外宮に祀られている。ある日、丹波国の泉に天女が舞い降り水遊びをしていた。それを見ていた老夫婦が1人の天女の羽衣を隠してしまう。羽衣を隠された1人の天女は天に帰れなくなり、老夫婦の養女となる。この天女がトヨウケである。トヨウケは酒作りが上手く、その酒が高く売れて老夫婦は大金持になる。当時の人にとって米と水は一番大切な食べ物。その水と米を兼ね備え、人を陽気にさせる酒は、とても貴重なものだったはず。この事からも分かるように穀物の神様の所以かもしれない。伊勢神道ではアマテラスが祀られている内宮を北極星、外宮を北斗七星に対応させたという。北斗七星は柄杓の形をしている。柄杓を意味する【斗】がトヨウケの【ト】に当てられたと言われている。北斗七星は富貴や寿命を司る神だとされている。また、江戸時代憧れだった伊勢参拝では柄杓を片手に持って歩くと、その柄杓にお金や米などの施しを頂いたそうだ。アマテラスはなぜ他の神ではなく、トヨウケを身近に置いたのだろう。その事によって他の神社に祀られる神様よりも、崇敬される存在になった。これは、人間社会でも良くある話である。
組織の中にはリーダーもいれば、マネージャーもいる。しかし、所属する組織が大きければ、小さな組織のリーダーやマネージャーよりも立派な存在になる。だからと言って誰にも負けない能力を持っているかというとそうではない。これこそ、誰と巡り合うかによってその人の人生は大きく変わるのである。能力や知識で人生を切り開く人もいる。しかし、人の縁によって人生を切り開く人もいる。その様な人の事を【人徳】があるといった。まさにトヨウケとはその様な存在の神様ではないのだろうか?世の中ではリーダーシップが大切だ。マネージメント力が大切だと言われる。しかし、そのどれでもない生き方もある。リーダーやマネージャーを助ける存在。それがトヨウケである。
【神格】
食物神、穀物神
【ご利益】
農業、漁業、衣食住の諸産業、開運招福、厄除け
【別称】
豊受大神(トヨウケノオオカミ)、豊宇気美売神(トヨウケビメノカミ)、豊由宇気神(トユウケノカミ)、豊受気媛(トヨウケノヒメ)
【系譜】
ワクムスビの子
【祀られている神社】
︎伊勢神宮外宮 (三重県伊勢市豊川町) ︎篭神社 (京都府宮津市大垣) 
豊受大神 3 

 

食物を司る豊受大神
穀物の神様である稚産霊の娘である豊受大神。食物の神様である事が知られており、伊勢神宮の御饌の神様として伊勢神宮外宮に祀られています。
「止由気宮儀式帳(伊勢神宮外宮社伝)」によれば、雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れ、「自分一人では寂しく、食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井にいる御饌の神、等由気大神をそばに呼んできてほしい」と神託を受け、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。元々は丹波の神ということになります。
食物神・稲霊神であることから稲荷神や保食神などの食物神・稲霊神と同神とされることがあります。
丹波国の羽衣伝説と豊受大神
「丹波国風土記逸文」奈具社の縁起として次のような逸話が残っています。
「 「丹波国風土記逸文」奈具社の縁起羽衣伝説
丹波郡比治里の比治真奈井で天女8人が水浴をしていた。うち1人天女が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなってしまいました。その天女の名前は「豊宇賀能売」仕方なく、その老夫婦の元で暮らすことになった天女は万病に聞く霊酒の作り方を教えてたちまち老夫婦は巨万の富を得ます。富を得た老夫婦は、天女が邪魔になり追い出してしまいました。追い出された天女は各地を転々とした後、奈具の村に安住の地を見つけました。天女が死んだ後は、奈具神社に祀られたと言う事です。 」
奈具神社の神様は古くから農耕の神として祀られており、豊宇賀能売は豊受大神と同一神としてみられています。 
豊受大神 4

 

豊受大神(トヨウケノオオカミ)・豊宇気毘売神は、伊勢の外宮に鎮座し、天照大御神の食物をつかさどる神です。豊受大御神、豊宇気毘売神、豊受気媛神、豊宇気美売神、豊由宇気神、豊受気媛、登由宇気神とも呼ばれます。
豊受大神
天照大御神の食物をつかさどる豊受大神
豊受大神(トヨウケノオオカミ)は、古事記に「登由気(とゆけ)の神、こは度相(わたらひ)に坐す(います)神ぞ」と記されており、伊勢神宮の外宮である豊受大神宮(とようけのだいじんぐう)に、天照大御神の食物をつかさどる豊受大御神(とようけのおみかみ)として祀られる女神です。伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)の御子である和久産霊神(ワクムスビ)の、さらに御子として誕生しました。
   豊受大神の神名由来
神名の「ウケ」は、食物という意味です。その属性の類似から、記紀神話における大宜都比売神(オオゲツヒメ)、宇迦之御魂神(ウケノミタマ)、あるいは大年神(おおとしのかみ)や保食神(うけもちのかみ)などと同神だとも考えられます。
たとえば「大殿祭(おおとのほがい)」※延喜式祝詞(えんぎしきのりと) には「屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)は、稲の霊であり、その俗称は宇賀能美多麻(ウカノミタマ)」と記されています。いずれも稲作、五穀、食物全般の豊饒をつかさどる食物の神として知られています。
   伊勢神道における豊受大神
中世になると、その神徳はより一層重視されるようになります。伊勢神道説によると、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、国常立神(くにとこたちのかみ)といった重要な神々と同神ともみなされています。さらには天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)を祀る皇大神宮と同じく、皇の字をつけて、豊受皇大神宮(とゆけこうたいじんぐう)と呼ぶことも見受けられます。
   伊勢神宮外宮へとつながる伝承
豊宇気毘売神が天照大御神の鎮まる伊勢神宮に奉斎(ほうさい)されたときの興味深い伝承があります。
その伝承とは、第二十一代の雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れて、「吾一所のみ坐せば甚だ苦し。しかのみならず大御饌(おおみけ)も安く聞し食さず。故に丹波国(たにはのくに)の比治の真名井(まない)に坐す我が御饌都神(ミケツノカミ)、等由気大神(トユケノオオカミ)を我が許にもが」※止由気宮儀式帳より と、諭したというものです。
これを大まかに現代語に訳すると、天照大御神が「私はひとりなので、毎日の食事にたいへん不自由している。すぐに丹波(京都)にいる御饌の神である等由気大神を自分のそばにつかわしてほしい」となります。
雄略天皇はこれを聞いて、あわてて伊勢の山田原に神殿を建て、丹波の比治の真名井から等由気大神を迎えて祀りました。これが伊勢の豊受大神宮(外宮)の始まりといわれています。これ以降、現在にいたるまで、外宮では毎日、朝夕二度の大御饌祭(おおみけさい)が行われており、天照大御神に食物が供えられています。
神格
•食物の神
•穀物の神
ご利益・神徳
•農業守護
•漁業守護
•諸産業の守護
別称・異称
豊受大御神 / 豊宇気毘売神 / 豊受気媛神 / 豊宇気美売神 / 豊由宇気神 / 豊受気媛 / 登由宇気神 / 大物忌神 / 豊岡姫 / 等由気太神 / 止与宇 / 可乃売神 / とよひるめ / とようけびめ / トヨウケノオオカミ / トヨウケビメノカミ / トユウケノカミ / •トヨウケノヒメ
豊受大神を祀る主な神社・神宮
伊勢神宮外宮(三重県伊勢市) / 籠神社(京都府宮津市) 
豊受大神 5 

 

豊受大神・豊宇気毘売神の神話
古事記において豊宇気毘売神が最初に登場するのは、伊邪那岐命と伊邪那美命の神産みの最終場面。火の神「加具土命」を生んだ段に、少しだけ神名が記述されている。
「 最後に伊邪那美命が生んだのが加具土命。火の神を生んだことで陰部に火傷を負ってしまい、これがもとで病になり、ひどく苦しんだ。伊邪那美命の吐瀉物や屎から神々が生まれた。そして尿から生まれたのが「稚産霊」。その神の子を豊受姫神という。 」
延暦23年(804年)編纂の、神宮外宮の社伝といえる「止由気神宮儀式帳」によると、、、
「 雄略天皇22年。天皇の枕元に天照大御神が立ち「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神を近くに呼び寄せるように」と信託した。そこで同年7月7日に内宮に近い山田の地に、丹波国の比沼真名井原から豊受大御神を迎えて祀った。 」
では丹波ではどのような位置づけの神なのだろうか。
丹後国の籠神社の社伝によると、、、
「 豊受大神は、天火明命の天孫降臨の際に御神鏡(依代)に籠り、天火明命とともに丹後に天降った。天火明命によって丹後の地での最高神として祀られた。 」
天火明命が持った豊受大神が籠った御神鏡。瓊瓊杵尊が持っていたのが天照大御神が籠った御神鏡。
そして天火明命と瓊瓊杵尊は兄弟で、いずれも天照大御神の孫。すなわち、天孫。
丹後における豊受大神は、天照大御神と同等の神位を持った神として確固たる地位を得ているのである。
豊受大神が天照大御神の食事を司る御饌津神(みけつかみ)として呼び寄せられたという説話は、天照大御神を奉斎する大和朝廷によって、豊受大神・天火明命を奉斎する海部氏・尾張氏が支配されたことの象徴であろうと思える。
ワクムスビ
日本神話の神である。『古事記』では和久産巣日神、『日本書紀』では稚産霊と表記される。『古事記』では食物神のトヨウケヒメ(豊受比売神)を生み、『日本書紀』ではその体から蚕と五穀が生じている。
古事記  
『古事記』では神産みの段に登場する。イザナミ(伊邪那美命)が火の神・カグツチ(火之迦具土神)を生んで火傷をし、病に伏せる。その尿(ゆまり)から、水の神・ミズハノメ(弥都波能売神)が生まれ、次にワクムスビが生まれたとしている。食物(ウケ)の神である、トヨウケヒメを娘とする。
日本書紀
『日本書紀』では第二の一書に登場する。イザナミが火の神・カグツチを生んで死ぬ間際に、土の神・ハニヤマヒメ(埴山姫)と水の神・ミズハノメを生む。そこでカグツチがハニヤマヒメを娶り、ワクムスビが生まれたとしている。そして、この神の頭の上に蚕と桑が生じ、臍(へそ)の中に五穀が生じたとしている。
これは、『古事記』のオオゲツヒメ(大気都比売)や、『日本書紀』第十一の一書のウケモチ(保食神)のような、食物起源の神話となっている。しかし、この2柱の神の場合は、殺された死体から穀物が生じているのに対し、ワクムスビの場合は殺される話を伴っていない。このため、かつてはワクムスビの単純な形が古いとされていたが、現在は、「ハイヌウェレ型神話」が簡略化され、結末の部分だけが残されたものといわれている。
信仰
愛宕神社(京都市)、竹駒神社(宮城県)、安積国造神社(福島県)、麻賀多神社 (千葉県)などで祀られている。  

 

●和久産巣日神・稚産霊 
●和久産巣日神・稚産霊 1
和久産巣日神(わくむすび)は、イザナミによる神生みの最後に生まれ、後に豊受大神を生んだ、自然を育てる若々しい生成の力を神格化した存在です。稚産霊、わくむすひなどとも称されます。
和久産巣日神(わくむすび)
和久産巣日神は、古事記では、伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の二柱による国生み・神生みの最後に誕生した神として記されています。伊邪那美命が火神・火之迦具土神(ヒノカグツチ)に陰部を焼かれ、病みふしたときの尿から成った二柱の水神のうち、弥都波能売神(みつはのめのかみ)に続いて出現した神です。
和久産巣日神の神名由来
ワクは「若々しい」、「ムスヒ」は高御産巣日神(たかみむすび)、神産巣日神(かみむすび)の「産巣日」と同じく、生成の霊力を意味します。水が持っている、自然物を育てる旺盛な若々しい生成の力を、神格化した存在であることがわかります。
だからこそ、水神・和久産巣日神は農耕で豊穣をもたらす生産の神・農耕神でもあります。伊邪那美命の尿から和久産巣日神が出現したように、和久産巣日神は農耕に有益な肥料のイメージとも結びついているのです。
このことは、和久産巣日神が、伊勢神宮の外宮の祭神で生産神・食物神として名高い豊宇気毘売神・豊受大御神(トヨウケ)の母神であることにもうまく繋がっています。
日本書紀での稚産霊(わくむすび)
日本書紀、神代下・第五段、第二の一書(異伝)では、稚産霊(わくむすひ)の名前で登場します。古事記とは少し話が違っています。
日本書紀では、まず伊弉冉尊(イザナミ)が火神・軻遇突智(カグツチ)に身を焼かれ、苦しみながらも土神・埴山姫(ハニヤマヒメ)と水神・罔象女(ミツハノメ)を生みます。そして軻遇突智(カグツチ)がこの埴山姫を娶って生まれた子が、稚産霊(ワクムスビ)であると記されています。
   古事記との違い|農耕と生産の神
神名のワカ(稚)はワク(和久)と同じく「若々しい」という意味で、ムスヒ(産霊)は産巣日と同じ意味なので、稚産霊もまた、旺盛な生成力を意味します。
しかし、稚産霊には和久産巣日神のように、尿など水をイメージするものから成ったわけでも、水神であると明記されているわけでもありません。稚産霊の頭から蚕と桑が、その臍からは五穀が生じたという日本書紀の記述を見ると、稚産霊はむしろ、和久産巣日神から水神の性格を取り除き、農耕神・生産神の側面を強調した神格のようにも見えます。
また、火神と土神の婚姻から稚産霊が生まれたという表現に、火と土との結合による生産=焼畑(やきはた)農耕の起源を読みとる説などもあります。
神格
•水神
•農耕神
ご利益・神徳
•農耕守護
•祈雨・止雨
別称・異称
•稚産霊
和久産巣日神を祀る主な神社・神宮
安積国造神社(福島県郡山市) / 王子稲荷神社(東京都北区) / 麻賀多神社(千葉県成田市) 
和久産巣日神・稚産霊 2

 

『古事記』では、伊邪那美神が火の神迦具土神を生んで陰所を焼き病床に伏せていたおり、 尿より化生した弥都波能売神の次に生れた神が和久産巣日神。
和久産巣日神は、伊勢皇太神宮の外宮の主祭神である豊受媛神を生んだ神とされている。 字義からいうと和久は稚・若の意味で、産巣は生成の義であり、総じて穀物の生育を司る神。糞尿の次に生まれたことは、肥料によって生まれたという意味だろう。
『日本書紀』では、伊邪那美神が火の神迦具土神を生んだ後、埴山姫と罔象女の神を生み、 埴山姫が軻遇突智(火神)と結婚して生れた神が稚産霊神。
稚産霊神の頭から蚕と桑、臍から五穀が生じ、五穀起源の神話となっている。火と土から生まれたことは、焼畑農業を意味しているのだろうか。 
 
 
 
 
 
 

 



2019/4
 
 
 

 

●三種の神器 
1
古くから、天皇が皇位の璽 (しるし) として、代々伝えた3種の宝物、すなわち八咫鏡 (やたのかがみ) 、草薙剣 (くさなぎのつるぎ) 、八坂瓊曲玉 (やさかにのまがたま) 。草薙剣は天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ) ともいう。「記紀」の伝承によれば、アマテラスオオミカミがこれら三種の神器を孫のニニギノミコトに与えたという。鏡は垂仁天皇のときに、伊勢の五十鈴川のほとりに (伊勢神宮の起源) 、剣は日本武尊が東征の帰途尾張に祀った (熱田神宮の起源) といわれる。代々伝えられる鏡と剣は模造品である。鏡は宮中の賢所 (かしこどころ) に安置され、剣は壇ノ浦の合戦で海に没したが、玉は初めのままである。南北朝合一も、この神器の授受を第1の条件とした。
2
歴代の天皇が皇位のしるしとして受け継いだという三つの宝物。八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(草薙剣(くさなぎのつるぎ))・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。みくさのたから。みくさのかむたから。そろえていれば理想的であるとされる3種の品物。昭和29年(1954)ごろから言われ、当時は電気洗濯機・真空掃除機・電気冷蔵庫をさした。また、昭和40年(1965)前後にはカラーテレビ・クーラー・自動車を「新三種の神器」ともいった。
3
皇位の象徴とされる八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の総称。弥生(やよい)時代から鏡・剣・玉を権威の象徴とする風習が一般にあったが、大和朝廷では鏡と剣を天皇の身辺に置いて護身の呪物(じゅぶつ)とし、皇位継承の際には伝世の鏡と剣を新天皇にささげる儀式が成立した。平安初期まで神器はこの両者であったとする説があるが、記紀神話には玉を加えて〈三種の神宝〉とする伝承もあったため、9世紀ごろに〈三種の神器〉説が定着したと考えられる。明治以来の国定教科書ではこれが潤色されて、〈三種の神器〉の物語が普及した。《日本紀略》などによれば、鏡は960年(天徳4年)、1005年(寛弘2年)、1040年(長久1年)の火災により原形を失ったといわれ、剣は安徳天皇の壇ノ浦入水(じゅすい)の際に海に沈んだといわれる。
4
皇位継承の標(しるし)とされる皇室の宝物。▽八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)
5
天皇の位のしるしとして相伝された三種の宝物、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の総称。《古事記》《日本書紀》の神代記、神代紀には、天岩屋の物語の中で鏡と玉の、八岐大蛇(やまたのおろち)の物語の中で剣の、それぞれの起源が述べられ、次いで天孫降臨の物語で、これらの宝物を皇祖天照大神が皇孫瓊瓊杵(ににぎ)尊に授け、とくに鏡を大神の御魂代(みたましろ)としてまつるべきことを詔したと記されている。
6
皇位のしるしとして伝えられている三つの宝物。八咫やたの鏡・草薙くさなぎの剣(天叢雲あまのむらくもの剣)・八尺瓊やさかにの勾玉まがたま。みくさのかんだから。みくさのたからもの。三種の代表的な必需品。
7
皇位のしるしとして、代々の天皇が伝承する三つの宝物。八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)をさす。天孫降臨に際して、天照大神から授けられたものとする。三種の神宝。三種の三祇。三種の宝。みくさのたからもの。※高野本平家(13C前)一〇「還幸なからんにおいては、三種(さんジュ)の神器(しんキ)いかでか玉体をはなち奉るべきや」。家庭生活、社会生活などで貴重な、三種類の必需品のたとえ。※新西洋事情(1975)〈深田祐介〉泣いてパリに馬謖を斬る「世間一般の総務部長、管理課長のイメージといえば、過去の前例、他者の取り扱い例、予算の有無、そんな三種の神器めいたルールにしがみついている、公式的、硬直的人物ということになりそうですが」。
8
…いずれも銅瓦葺入母屋造、ヒノキの素木造で、その中央にあるのが賢所。賢所は三種の神器の一つである神鏡を奉安する所で、平安初期から内裏の温明(うんめい)殿に置かれ、女官の内侍が候したので内侍所(ないしどころ)ともよばれた。その後、里内裏の盛行に伴い、鎌倉末期から温明殿に代わって春興殿に賢所が置かれるようになり、これは江戸時代の京都御所においても踏襲された。…
…例えば、八尋殿(やひろどの)、大八洲(おおやしま)、八衢(やちまた)、八咫烏(やたがらす)、八岐大蛇(やまたのおろち)、八百万神(やおよろずのかみ)など数が多いことを表すほかに神聖な数とみられていたらしい。8だけでなく、3や5も三世界(高天原、黄泉(よみ)国、現(うつし)国)や三種の神器、イザナミ・イザナキの三貴子、宗像(むなかた)の三女神、五魂(海、川、山、木、草)、五十猛(いそたける)神、五部(いつとも)神などの例があり、吉数とみられていた。しかし、《日本書紀》あたりからしだいに大陸文化を尊ぶ風が盛んになって、七夕(7月7日)や重陽(9月9日)の節供のように8に代わって7や9が聖数として重視されるようになり、今日では七五三、三三九度、お九日をはじめとして民俗のうえでは欠くことのできない重要な数となっている。…
…天皇の母建礼門院徳子は入水後救助され、宗盛・清宗父子らは生けどられた。京・鎌倉が深い関心を寄せた三種の神器のうち、鏡は無事、神璽も海中より回収されたが、宝剣は二位尼(清盛の妻時子)が抱いて沈んだままになった。勝報に接した鎌倉の頼朝は、範頼には九州にとどまって平氏旧領の処分に当たり、義経には神器、捕虜を伴って上洛するよう命じた。…  
 
 

 

●三種の神器 2 
日本神話において、天孫降臨の際に天照大神が瓊瓊杵尊に授けたとされる三種類の宝物、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣の総称。また、これと同一とされる、あるいはこれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種類の宝物のこと。この内、八尺瓊勾玉・草薙剣は併せて剣璽と称される。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。
天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承される。だが即位の必須条件とはされなかった場合もあり、後鳥羽天皇などは神器継承なしに即位している。
『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。現在では草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。しかし同皇居内に皇族らが住みながらその実見は未だになされていない。
伝承
『古事記』では天照大御神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を神代として授けたと記され、『日本書紀』には三種の神宝(神器)を授けた記事はなく、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」とある。
古代において、「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、「支配者」一般の象徴であったと考えられ、仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を献上して恭順を表している。また景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出した。また福岡市の吉武高木遺跡や壱岐市の原の辻遺跡からは鏡、玉、剣の組み合わせが出土している。
儒学伝来以後、「鏡」は「知」、「勾玉」は「仁」、「剣」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表す解釈も出た。
各神器
八咫鏡(やたのかがみ)
記紀神話で、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細く開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなった。のちに鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
八坂瓊曲玉とも書く。大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。
草那藝之大刀(くさなぎのたち)
草薙剣(くさなぎのつるぎ)の旧名で、古事記では草那藝之大刀と記される。記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ、現島根県安来地方の中国山地側、奥出雲町)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣。後、ヤマトタケルノミコトが譲り受け、移動中、周りを火で囲まれたとき、姫を守るため自らの周りの草を薙ぎ、火打石で草を焼いたとき帯刀していたことから予定調和の剣とされる。静岡県「焼津」の地名はこのとき草を焼いたことによる。
記録
古事記・日本書紀
『古事記』には神宝(神器)またはそれに類するものの伝承はあるものの、格別に天皇践祚に際してとなると、目に付く記事はない。しかし『日本書紀』には以下のように記述される。
○ 允恭天皇元年十二月の条、「是に、群臣、大きに喜びて、即日に、天皇の璽付(みしるし)を捧げて、再拝みてうえる」。
○ 清寧天皇前記十二月の条、「大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽(しるし)を皇太子に奉る」。
○ 顕宗天皇前記十二月野上、「百官、大きに会へり。皇太子億計(おけ)、天子の璽(みしるし)を取りて、天皇の坐に置きたまふ」。
○ 継体天皇元年二月の条、「大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡(みかがみ)剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上りてまつる」。
○ 宣化天皇前記十二月の条、「群臣、奏して、剣(みはかし)鏡(みかがみ)を武小広国押す盾尊に上りて、即天皇之位さしむ」。
○ 推古天皇前記十一月の条、「百寮、表を上りて勧進る。三に至りて乃ち従ひたまふ。因りて天皇の璽印(みしるし)を奉る」。
○ 舒明天皇元年正月の条、「大臣及び郡卿、共に天皇の璽印(みしるし)を以て、田村皇子に奉る」。
○ 孝徳天皇前記六月、「天豊財重日足姫天皇、璽綬(みしるし)を授けたまひて、位を禅りたまふ」。
○ 【参考】天智天皇七年(668年)是歳の条、新羅の僧による草薙剣盗難事件が起こる。
○ 持統天皇四年(690年)正月の条、「物部麿朝臣大盾を樹て、神祇伯(じんぎのかみ)中臣大嶋朝臣天神の寿詞(よごと)を読み、畢(おわ)りて忌部宿禰色夫知神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」。
上記のうち最後の持統天皇四年条によれば、持統天皇即位時に臣下の忌部氏が剣と鏡の二種を献上した。とある。『日本書紀』は歴代の即位記事において奉献の品を璽・璽符・璽印と漠然と表現している。鏡と剣との名をあげたのは、継体紀と宣化紀の2つのみ。これによって「宝物は元は2つであり後に中臣氏が三種説を主張して勾玉が加わった」のではないかという説もあった。
記紀より後の時代
○ 『吾妻鏡』によれば、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し草薙剣も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。この時、後鳥羽天皇は三種の神器が無いまま、後白河法皇の院宣を根拠に即位している。
○ 足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新政(建武の中興)に離反し、1336年(延元元年/建武3年)に光明天皇の北朝を立てて京都に室町幕府を開くが、後醍醐天皇は、北朝に渡した神器は贋物であるとして自己の皇位の正統性を主張し、吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き南北朝時代が始まる。正平一統の後に南朝が一時京都を奪還して北朝の三上皇を拉致する際に神器も接収したため、北朝の天皇のうち後半の後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇の3天皇は後鳥羽天皇の先例にならい神器無しで即位している。南朝の北畠親房は『神皇正統記』で、君主の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調したが、既に述べたように、神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例がある。
○ 南朝保有の神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋による南北朝合一の際に、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。
○ 室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、剣と勾玉が後南朝に持ち去られたが、剣は翌日に早くも発見され、玉はその後1458年(長禄2年)に奪還された。
○ 明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる「南北朝正閏論」と呼ばれる論争が起こるが、最終的には明治天皇が、三種の神器保有を根拠に南朝を正統と決定する。
○ 今上天皇は1989年1月7日に宮殿松の間での「剣璽等承継の儀」にて神器を継承した。このときは相続税法の非課税規定により、相続税の課税対象にならなかった。なお生前退位に伴う贈与税については、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(2017年6月9日成立)付則で非課税とすることと定められた。
現存・消失論議
神器が現存か否かについては異説が多いが、そもそもの実体や起源を論ずる段階で諸説があるため、どのような情況をもって「現存」とよぶのかすら論者によってまちまちな前提での議論が多い。
また三種の神器は、「皇室所有とされること」に意味があるとの主張もある。つまり、「皇室が三種の神器を所有している」というより、「皇室所有のもの」こそが、三種の神器とする。これは皇室の権威を最大限にみなし、三種の神器を単なる権威財とみなしている。しかしそれなら、神器が奪われても天皇が所有権を放棄し新たな神器の所有権を取得すればいいことになるので、過去に天皇を崩御させてまで1つの個体を奪い合ったり、占領に備えて隠そうとしたりしたことが説明できない。
そもそも実際の儀式に使われるのは三種の神器の「形代」(レプリカではなく神器に準ずるもの)であり、実物については祭主たる天皇も実見を許されないため、その現存は確認できない。
伊勢神宮の神体とされる八咫鏡は古来のものが現存するといわれる。御桶代と呼ばれる密閉された箱状の容器に入って祀られており、神宮式年遷宮の際には、夜間、人目に触れぬよう白布で覆った神体を移御するための行列が組まれる。
宮中三殿の賢所に八咫鏡の形代としての神体の鏡が祀られるが、これは天徳4年(960年)9月23日(『日本紀略』『小右記』)、天元5年(982年)11月17日(『愚管抄』 「焼タル金ヲトリアツメテマイラセタリ」)、寛弘2年(1005年)11月15日(『御堂関白記』)、長暦4年(1040年)9月9日(『春記』藤原資房)等に火災の記録があり、それらの記述によると数多の火災によって鏡の形状を残しておらずわずかな灰となって器の中に保管されているようである。これは源平の壇ノ浦の戦いで回収された。
熱田神宮に祀られる草薙剣は古来のものが現存するとされる。
皇居の神剣(草薙剣の形代)と勾玉は、源平の壇ノ浦の戦いで二位の尼が安徳天皇を抱き腰に神器の剣を差し勾玉の箱を奉じて入水し一緒に水没した。草薙剣はそのため現存しない。が、この剣は草薙剣の形代(レプリカ)の一つに神道でいう御魂遷しの儀式を経て神器としていた物であり、後に改めて別の形代の剣が伊勢神宮の神庫から選び出され同様の措置が採られた。これが現在の皇居の剣である。一方、勾玉の方はその際に箱ごと浮かび上がり、源氏に回収された。この勾玉は古代のものが皇居に現存するとされる。
福岡県北九州市小倉南区に鎮座する蒲生八幡神社には、高浜浦の岩松という者が海に没した鏡・勾玉を拾い上げたという記録が残る。鏡も玉も空気が密閉された箱に入っていたため浮かびあがったのであって、剣はついに発見されなかった。
三種の神器関連の教説書
伯家神道説
垂加神道説
国学・有職故実
用法
これになぞらえて、戦後期に豊かさの象徴となった家電製品の電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビ(白黒)を「三種の神器」と呼んだ(三種の神器 (電化製品) を参照)。それに続いて1960年代に、カラー化したテレビ、クーラー、自家用車を「新・三種の神器」というものもある(Color TV, Car, Cooler で「3C」とも)。他にも優れた道具や製品などが3種あると「三種の神器」と呼ぶなど、一般に広く使われる言葉となっている。 
 
 

 

 
 
 

 

●八咫鏡(やたのかがみ)
三種の神器の一つ。年代不詳。『古事記』では、八尺鏡(やたかがみ)と記されている。八咫鏡は神宮にある御神体と、その御神体を象って作ったという皇居にある形代(複製)の2つがある。
『古事記』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されている。
『日本書紀』には、別の名を真経津鏡(まふつの かがみ)ともいうと記されている。単に神鏡(しんきょう)または宝鏡(ほうきょう)とよばれることも多いが「神鏡」や「宝鏡」という言葉は普通名詞であり、八咫鏡だけをさすとは限らないので注意が必要である。
一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する。
後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
「 咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也 」 (咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周尺なり)
とあり、戦国〜後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなるが、周尺とでは齟齬がある。
平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった(考古遺物の節を参照)が、現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから推察される神器の鏡はもっと小さい。
いずれにせよ、その特大の大きさから、後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。
伊勢神宮の八咫鏡
天照大御神の「御神体」としての「八咫鏡」は神宮の内宮に変わらず奉安されている。神道五部書や類聚神祗本源等(神道五部書そのものは「偽書」との指摘もある)によればこの「八咫鏡」は「八葉八頭花崎形」、「八葉中有方円五位象、是天照大神御霊鏡座也」という。この「八咫鏡」は、明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっている。
この「神宮の八咫鏡」の「最初の姿と大きさ」は、考古学者原田大六によれば、福岡県糸島市にある「平原遺跡出土の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)と、同じ形状で同じ大きさのものではなかったか」と考察して、それを著書に記している。これは『延喜式』伊勢大神宮式、『皇太神宮儀式帳』において、鏡を入れる桶代の内径が「一尺六寸三分」(約49センチ)としており、46.5センチの大型内行花文鏡を納めるにはちょうど良い大きさであることから。原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、その時に新たに作り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(御神体の入れ物)の大きさから推定して、直径46.5cmの大きさではなくなっている」という。また、「図象も実際に見て模写するべくもないであろうから、これも変化しているだろう」という。
宮中賢所の八咫鏡
皇居の八咫鏡は、賢所に奉置されていたことから、その鏡を指して賢所(かしこどころ)ともいう。そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」と呼ぶか、またはその通称である「内侍所」といって、これを言い分けたという。しかし後世になると内侍所も神鏡のことを指す言葉となった。
内侍所の神鏡は天徳4年(960年)、天元3年(980年)、寛弘2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損している。天元の際に半ばが焼失し、鏡の形をとどめないものとなった。寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に勘文を提出させた。翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。
平安時代末期、平家の都落ちとともに西遷し、寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇とともに海中に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。
室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)に起こった禁闕の変で、後南朝勢力が宮中を襲撃した際、三種の神器をのうち宝剣と神璽は奪われたが、神鏡のみは難を逃れ、翌日近衛殿に移された。
宗像大社邊津宮の八咫鏡
筑前国風土記は現存しないが、逸文に明確に記述される。古代の記録では八咫鏡を依代とするのは、神社では伊勢神宮と宗像大社邊津宮だけであるとされる。
神話
記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映して、興味を持たせ、外に引き出した。そして再び高天原と葦原中国は明るくなった、という。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された、という。
考古遺物
福岡県糸島市にある遺跡「平原遺跡」において出土した国宝に指定されている直径46.5cmの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)4面(後に5面に修正)は原田大六によると八咫鏡そのものという。この「大型内行花文鏡」は、図象のみの大型の青銅鏡である。つまり、文字や神獣などの図柄は無い。 また、『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。
この鏡のうち4面は伊都国歴史博物館で、また1面は九州国立博物館で常時展示されており、実物を見ることができる。 
 
 

 

 

 

●八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) 
八咫鏡・天叢雲剣と共に三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)の1つ。八坂瓊曲玉とも書く。
形態
大きな勾玉とも、長い緒に繋いだ勾玉ともされる。
「さか」は通常は「しゃく」(尺)の転訛だが、この場合は上代の長さの単位の咫(あた)のことである。8尺は(当時の尺は今より短いため)約180cm、8咫は約140cmである。
この長さは、玉の周とも、尾を含めた長さであるとも、結わえてある緒の長さであるとも言う。また、「八尺」は単に大きい(あるいは長い)という意味であるとも、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もある。
「瓊」は赤色の玉のことであり、これは瑪瑙(メノウ)のことであるともされる。 (現代の瑪瑙細工では深紅の赤瑪瑙が細工物や勾玉などによく使用され、ありふれた色だが、これは江戸時代に原石を加熱して赤く発色させる技法が発明されてよりの事である。)
位置づけ
璽と呼ぶこともあり、やはり三種の神器のひとつである剣とあわせて「剣璽」と称される。
「日(陽)」を表す八咫鏡に対して「月(陰)」を表しているのではないかという説がある。
『養老令』の神祇令に
「 およそ践祚の日、忌部、神璽の鏡剣(かがみたち)を上(たてまつ)れ 」
との記述があり、事実『日本書紀』には、690年(持統天皇4年)の持統天皇即位を初めとして、忌部氏が「神璽の剣鏡」を奉ったとある。ここで玉に関する言及がないことについては以下のような諸説がある。
○ 「三種の神器」として問題ないとする諸説
玉も神器の1つだったが、身に着ける宝であり、献上される品ではなかった
漢文特有の表現上の問題であって実際には鏡剣玉の3つをさしている
   「鏡剣玉」を略して2字で代表させている
   「神璽」が玉のことをさしている(『日本書紀』の原文では「神璽剣鏡」であり「神璽・剣・鏡」と3つに読むことが可能である)
   「神璽」が神器全体の意と、鏡剣に対して玉をさす意を兼ねている
○ 鏡剣と玉との間に落差や経緯の違いを想定する諸説
玉は神器としての重要性が劣り、宝としては鏡剣より軽いと考えられていた
本来もともと3種であり天智朝に定められた即位儀礼までは3種であったがなぜか『飛鳥浄御原令』で鏡剣の2種に改められその後またすぐ3種に戻った
○ 三種の神器と称するのは後世の創作された物語の上でのことにすぎず、神器の真実は鏡剣の「二種の神器」だったとする説
所在
経緯
奈良時代には後宮の蔵司が保管したが、平安時代ころからは、剣と共に櫃に入れて天皇の身辺に置かれた。
冷泉天皇は、精神病あるいは発達障害のため奇行が多かったが、勾玉の箱をあけて実物を確認しようとしたこともあった。しかし箱を封じている紐を解くと白い煙が湧き出てきたため、恐れおののき実物の確認を中断した。
また大江匡房の談話録によれば、夜間、側近が宮中からの急用と聞いて駆けつけ、女房に天皇の居場所を問うと、冷泉天皇は清涼殿の寝所におられて、たった今、安置してある御璽を包む紐を解いて開くよう言われたと答えた。驚いて天皇の部屋に押し入ると、本当に箱の紐を解いているところだったため、それを奪い取って元通りに結び直したという。
平安時代末期の寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いで二位の尼が安徳天皇を抱き入水したとき、玉・剣と共に(『平家物語』によると「神璽を脇に挟み宝剣を腰に差し」)沈んだ。しかし玉は箱に入っていたため、箱ごと浮かび上がり、源氏に回収された。あるいは、一度失われたものの、源頼朝の命を受けた漁師の岩松与三が、網で鏡と玉を引き揚げたとも言う。
室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)に起こった禁闕の変の際に、後南朝勢力によって宝剣とともに宮中から奪われ、宝剣は翌日発見されたが神璽は大和国奥吉野へ持ち去られ、その後約15年間、後南朝勢力が保有した。長禄元年(1457年)12月に赤松氏の遺臣らが奥吉野の後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王の兄弟を討って、神璽を持ち去ろうとしたが失敗、翌長禄2年(1458年)3月末、赤松遺臣らは自天王の母の屋敷を襲い、神璽を奪い去る事に成功した(長禄の変)。その後、神璽は大和国越智氏の在所に移された後、同年8月30日、宮中に戻された。
現状
1989年 (昭和64年) の践祚の後、今上天皇の継承した神器として皇居にある御所の剣璽の間に、剣(形代)とともに保管されている。
神話での記述
日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとする。
古事記には、八尺瓊勾玉(緒に通した勾玉)の後ろに、さらに『五百津之美須麻流之珠』(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)という、数の多さを形容した語が付く。 

 

 

 

●草那藝之大刀(くさなぎのたち) 
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)は、三種の神器の一つ。 草薙剣(くさなぎのつるぎ)、草那藝之大刀(くさなぎのたち)とも言われる。 熱田神宮の神体となっている。
天叢雲剣は草薙剣とも言われ、三種の神器の一つ(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。 日本神話において、スサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、大蛇の体内(尾)から見つかった神剣である。八岐大蛇退治に至る経緯と、神剣の名称については古事記・日本書紀で複数の異伝がある。 スサノオは、八岐大蛇由来の神剣を高天原のアマテラスに献上した。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共にニニギノミコトに託され、地上に降りた。崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたという。景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かうヤマトタケルに神剣(天叢雲剣/草薙剣)を託す。ヤマトタケルの死後、草薙剣は神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けた。これが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られている。
形代の草薙剣は、壇ノ浦の戦い(源平合戦)における安徳天皇(第81代天皇)入水により関門海峡に沈み、失われた。神剣の喪失により、様々な伝説・神話が生まれた(中世神話)。結局、後鳥羽天皇(第82代天皇)は三種の神器がないまま即位。平氏滅亡により神璽と神鏡は確保できたが、神剣を手にすることは出来なかった。その後、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とした。南北朝時代、北朝陣営・南朝陣営とも三種神器(神剣を含む)の所持を主張して正統性を争い、この混乱は後小松天皇(第100代天皇)における南北朝合一まで続いた(明徳の和約)。現在、神剣(形代)は宮中に祭られている。
表記
『日本書紀』では「草薙剣」「倶娑那伎能都留伎」、『古事記』では「草那藝之大刀」(八俣大蛇退治時)「草那藝剣」(天孫降臨、ヤマトタケル時)と表記される。 「天叢雲剣」の名称は、日本書紀の注記で、異伝(一書・一云)として二か所に記される。熱田神宮では、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)としている。
象徴
天台座主慈円は「天皇の持つ武力の象徴」と解釈している。北畠親房は従来解釈に加えて、「劒ハ剛利決断ヲ徳トス。智慧ノ本源ナリ」という儒学的な解釈を行った(北畠の神皇正統記では、鏡=正直の本源、玉=慈悲の本源、剣=知恵の本源)。一条兼良は「鏡=知の用、玉=仁の徳、剣=勇の義」、熊沢蕃山は「鏡=知の象(しるし)、玉=仁の象、剣=勇の象」、田中智學は「鏡=天照大神=知徳、玉=月読尊=仁慈、剣=素戔嗚尊=武勇」と解釈している。またスサノオは出雲国の八岐大蛇を退治した時に、高天原のアマテラスに大蛇由来の神剣(草薙剣/天叢雲剣)を献上したが、この神話について天孫降臨および国譲りの伏線とする説もある。
動向
神代
高天原から出雲国に至ったスサノオ(素戔嗚尊)はクシナダヒメ(櫛名田比売〈古事記〉、奇稻田姫〈日本書紀〉)を助けるため、十拳剣でヤマタノオロチ(八俣大蛇/八俣遠呂智〈記〉、八岐大蛇〈紀〉)を切り刻んだ。このとき、尾を切ると十拳剣の刃が欠け、尾の中から鋭い大刀が出てきた。古事記では、まず都牟刈の大刀(つむがりのたち)と言及する。続いて草薙剣(草なぎの大刀)と表記する。古事記の原文と解釈文は以下の通り。
【原文】
爾速須佐之男命、拔下其所二御佩一之十拳劒上、切-二散其蛇一者、肥河變レ血而流。故、切二其中尾一時、御刀之刄毀。爾思レ怪以二御刀之前一、刺割而見者、在二都牟刈之大刀一。故、取二此大刀一、思二異物一而、白-二上於天照大御神一也。是者草那藝之大刀也。那藝二字以レ音。
【解釈文】
八岐大蛇が酒に酔って眠った隙を見て、速須佐之男命は身に帯びた十と拳つかの剣つるぎを抜きて、八岐大蛇をずだずだに斬り刻んだ。 ゆえに肥ひの河かはの流れは血にかわった。 速須佐之男命が大蛇の中ほどの尾を斬った時、十拳之剣の刃がすこし欠けてしまった。 怪しいと思い、刀の切先で大蛇を刺し割ってみると、一振りの、都つ牟む刈がりの大刀たち(非常に鋭い大刀)があった。 速須佐之男命は大蛇の中から出てきた大刀を取り、不思議なものだと思い、天照大御神に事情を説明し、献上した。 これがすなわち、後世に云う草くさ那な藝ぎの大刀たちである。
日本書紀、神代紀上第八段本文の注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気(くも)が掛かっていたため、かく名づけたか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙劒と曰ふといふ」とある。 スサノオは『是神(あや)しき剣なり。吾何ぞ敢へて私に安(お)けらむや〔これは不思議で霊妙な剣だ。どうして自分の物にできようか〕』(日本書紀、第八段本文)と言って、高天原の天照大神(アマテラス)に献上した。古語拾遺では天神(あまつかみ)と表記している。
一方、ヤマタノオロチを殺して欠けた十拳剣(十握剣)は、大蛇之麁正(をろちのあらまさ)、もしくは天羽々斬之剣/天蠅斫剣(あめのはばきりのつるぎ)として石上神宮(石上布都魂神社)に祭られた。書紀(第三の一書)では、「蛇韓鋤(おろちのからさひ/おとりからさひ)の剣」として吉備の神部に祀られた。
草薙剣(草那藝剣)は天孫降臨の際に、天照大神から三種の神器としてニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡され、再び葦原中国へと降りた。各神話で差異がある。古事記では「八尺の勾玉、鏡、草薙剣」、日本書紀・第一の一書では「曲玉、八咫鏡、草薙剣」、古語拾遺では「八咫鏡、草薙剣(矛、玉)」、日本書紀の中には言及しないものもある。
人代
ニニギが所有して以降、神武天皇東征や欠史八代等で天叢雲剣(草薙剣)がどのように扱われていたかは、古事記・日本書紀とも記載していない。皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に、皇女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)により、八咫鏡とともに皇居の外(倭の笠縫邑)で祀られるようになった。『古語拾遺』には子細が語られている。天目一箇神とイシコリドメの子孫が「神鏡」と「形代の剣」(もう一つの草薙剣)を作り、天皇の護身用として宮中に残された。神威はオリジナルと変わらなかったという。続いて崇神天皇の命令を受けた豊鍬入姫命は、倭の笠縫邑に神鏡と草薙剣を祀った。
垂仁天皇の時代、ヤマトヒメ(倭姫命)に引き継がれ、トヨスキイリヒメから、合わせて約60年をかけて現在の伊勢神宮・内宮に落ち着いた(「60年」以降の部分は『倭姫命世記』に見られる記述である。詳細記事:元伊勢)。この時点で、天叢雲剣は伊勢神宮で祀られることになった。
景行天皇(第12代)の時代、天叢雲剣(草薙剣)は伊勢国(伊勢神宮)のヤマトヒメから、東国の制圧(東征)へ向かうヤマトタケル(日本武尊)に授けられた。神剣を授けるにあたりヤマトヒメはヤマトタケルに言葉をかけるが、複数の異伝がある。古事記では、草薙剣と共に火打石入りの袋を渡して「若(も)し急(にはか)なる事有らば、この嚢(ふくろ)の口と解(と)きたまへ」と詔る。日本書紀や古語拾遺では「慎莫レ怠也(慎んで怠ることなかれ)」と訓戒した。平安時代の熱田神宮に伝わっていた記文(由緒)によれば、アマテラスはヤマトヒメに神懸りして「さきのむまれ、そさのをのみことたりし時、出雲の国にて八またのをろちの尾のなかよりとりいでて、我にあたへしつるぎなり(この剣は、そなた〔ヤマトタケル〕が前世でスサノオであったとき、出雲国で八岐大蛇の尾よりとりだして、私に献上した剣です)」と伝えている。 一説によると、ヤマトタケルは天皇から授かった天之広矛/比比羅木八尋矛(ひひらぎのやひろのほこ)を、神宮に預けたという。
その後、ヤマトタケルは相武国(記および古語拾遺)もしくは駿河国(紀、熱田神宮伝聞)で、敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を刈り払い(記と拾遺のみ)、向い火を点け脱出する。日本書紀の注では「一説には、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたためその剣を草薙剣と名付けた」とある。
東征の後、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメ(宮簀媛)の元に剣を預けたまま、伊吹山の悪神(荒神)を討伐しに行く。『古語拾遺』では「剣を解きて宅(いえ)に置き、徒(たむなで)で行きでまして胆吹山に登り、毒(あしきいき)に中(あた)りて薨(かむさ)りましき。」として、草薙剣をミヤズヒメの元に置いて出陣したことで、ヤマトタケルは神剣の加護を失ったと暗示する。『尾張国風土記』においては、宮酢媛の屋敷に滞在していたヤマトタケルは、夜中に厠へ入る時、脇の桑の木に剣を掛け、そのまま忘れて部屋にもどった。思い出して桑の木に戻ると、剣が神々しく光輝いて手にする事ができなかったという。ミヤズヒメにヤマトタケルは「剣を私の形影(みかげ)として祀るように」と告げて出陣した。『尾張国熱田太神宮縁起』(平安時代初期)では、ヤマトタケルは桑の木から光剣を手にとったものの、ミヤズヒメに「我が床の守りとせよ」と告げて出陣した。
結局、ヤマトタケルは伊吹山の神(白猪〈古事記〉、大蛇〈日本書紀〉、八岐大蛇の化身とも)によって病を得、大和国へ帰る途中で、最期に「剣の太刀、ああその太刀よ」(記)、もしくは「孃女おとめの、床の邊べに、わが置きし、剱つるぎの太刀、その太刀たちはや。」と草薙剣を呼んで亡くなってしまった。その後、ミヤズヒメは夫(ヤマトタケル)と草薙剣を祀り、これが後の熱田神宮となった。
古代〜中世
天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された(詳細後述)。天武天皇の時代(朱鳥元年、686年)、天皇が病に倒れると、占いにより草薙剣の祟りと判明。神剣は再び熱田神宮へ戻された。だが天武天皇は回復せず崩御した。
平安時代末期の寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いの際、二位の尼が安徳天皇とともに宝剣を抱いて入水、宝剣は関門海峡に沈み失われた。朝廷と源氏軍は宝剣の捜索を行い、寺社に加持祈祷を行わせたりもしたが、結局見つからなかったため朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とした。
室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)に起こった禁闕の変の際に、後南朝勢力により勾玉とともに宮中から奪われた。翌日朝、清水寺の僧が境内で発見し、宝剣は宮中に戻された。発見した僧は褒美として美濃国加納郷を賜ったという。
近現代
『尾張霊威記』によれば、1839年(天保10年)1月19日に盗難被害にあったが、犯人はすぐに捕まった。この際に、神殿を改造した。1868年(明治元年)9月27日、東京(江戸)に向かう明治天皇は熱田神宮に宿泊(東京行幸)。この時、神代由来の天叢雲剣と、形代の神剣が同時に存在することになった。明治天皇は1878年(明治11年)10月28日、1880年(明治13年)7月2日にも、熱田神宮に行幸した。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)になると連合国軍による日本本土空襲は激しさを増し、名古屋方面も激しい空爆を受ける。熱田神宮は3月12日と5月17日の空襲で多数の建物を焼失、本殿も一部損傷した。本土決戦(決号作戦/ダウンフォール作戦)も視野に入り、草薙剣の扱いが問題になる。7月31日、昭和天皇は内大臣木戸幸一と宮内大臣石渡荘太郎に対して、三種の神器の避難を検討させる。飛彈一宮水無神社が疎開候補地となり、伊勢神宮関係者以下により視察が行われた(陸軍関係者により、事前に調査済み)。また本土決戦で最悪の事態となった場合、昭和天皇は伊勢神宮の八咫鏡および熱田神宮の天叢雲剣(草薙剣)ともども長野県の松代大本営に移り、運命を共にする決意だったという。
8月15日、ポツダム宣言受諾の表明(玉音放送)。連合軍日本本土進駐に際し、天叢雲剣は8月下旬から9月中旬まで、熱田神宮から水無神社に遷座した。この経緯について『昭和天皇実録』では以下のように記述している。
「 官幣大社熱田神宮において神剣奉遷用の外箱 白木檜造り を新調 皇室経費を以て制作 したことにより、この日勅封に関する祭典を執行につき、勅使として侍従小出英経を差し遣わされる。小出は同神宮神殿内に参入し、従来の外箱の勅封 明治十四年五月二十五日宮少輔山岡鉄太郎を差し遣わされ、施せしめたもの を解き、新調の外箱に神剣を奉納し、御名御親筆の勅封紙と麻にて厳封の上、さらに勅使たる侍従の封を施した後、従来御奉納の外箱中に奉安し、施錠する。なお、予てよりその疎開を計画中の熱田神宮の神剣は、東海軍管区司令部の協力のもと、翌月十九日まで国幣小社水無神社 岐阜県大野郡宮村 に奉遷される。 — 昭和二十年八月二十二日 水曜日、宮内庁編纂『昭和天皇実録』 」
名の由来
諸説あるが、実際は余り判っていない。都牟刈大刀(つむがりのたち)、都牟羽大刀(つむはのたち)、八重垣剣(やえがきのつるぎ)、沓薙剣(くつなぎのけん)ともいう。『海部氏系図』、『先代旧事本紀』の尾張氏系図、津守氏古系図等に載る「天村雲命」との関係も推測され、また外宮祀官家の渡会氏の祖先にも「天牟羅雲命」の名が見える(『豊受大神宮禰宜補任次第』)。
草薙剣
   「草を薙いだ剣」
ヤマトタケルが伊勢神宮でこれを拝受し、東征の途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えた。この説は広く知られているが、日本書紀では異伝とされている。現在の静岡県には、焼津、草薙など、この神話に由来する地名が残る。 豊受大神宮摂社には「草奈伎(くさなぎ)神社」があり、標剣仗(みしるしのつるぎ)を祀るという(度会家行、『類聚神祇本源』)。
   「蛇の剣」
クサは臭、ナギは蛇の意(ウナギ#名称などを参照)で、原義は「蛇の剣」であるという説。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。蛇の形状をした剣として蛇行剣がある。 高崎正秀は『神剣考』「草薙剣考」において、クサ=串=奇、で霊威ある意とし、ナギ=ナダ=蛇であるとして、この剣の名義を「霊妙なる蛇の剣」と説いている。また、その名はヤマタノオロチに生贄にされかけたクシナダヒメ(奇稲田姫)に通じるものであり、本来クシナダヒメは霊蛇姫(くしなだひめ)と表記したのではと考察。ヤマタノオロチに対する祭祀者でありながら同時に出雲を支配する女酋的存在ではなかったかとする。 なお垂仁天皇の神話でも、出雲の女性が蛇神だった事例がある。葦原色許男大神(出雲大社)の祟りが解けた誉津別命(本牟智和気王)は肥長比売と結婚するが、肥長比売の正体は「光る大蛇」だったという。
天叢雲剣
   八俣遠呂智由来説
『日本書紀』の注記より。ヤマタノオロチの頭上にはいつも雲がかかっていたので「天叢雲剣」と名付けられた。実際、山陰地方は曇り日が多く、安来地方の山奥、奥出雲町にある船通山(鳥髪峯)山頂には天叢雲剣出顕之地の碑があり、毎年7月28日に船通山記念碑祭・宣揚祭が開催される。 また、「天叢雲剣」の名の由来である、「大蛇の上に雲気有り」という表現や「生贄の乙女を救い、龍を退治する」という物語展開に関して中国大陸(中国文化圏)の影響を指摘し、『史記』や『漢書』からの引用だと説かれることもある。
所在
熱田神宮
草薙剣は、神話の記述の通りであれば熱田神宮の奥深くに神体として安置されている。
この剣は盗難にあったことがあり、天智天皇7年(668年)に新羅の僧・道行(どうぎょう)が熱田神宮から草薙剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした(日本書紀二十七巻、天智天皇)。『尾張国熱田太神宮縁起』では、一度目は神剣が自ら神宮に戻って失敗。二度目は船が難破して失敗、神剣は日本側に回収された。
その後、草薙剣は宮中で保管されていた。 平家物語では、天武天皇が草薙剣を内裏に移したと伝える。朱鳥元年(688年)6月、天武天皇が病に倒れる。病気の原因は「宮中に神剣を置いたままにし、熱田に戻さない為の神剣の祟り」と判明した。陰陽師により御祓をおこない、あるいは恩赦や仏教への功徳により病の回復を祈るが、それでも神剣の祟りが解けなかったという。草薙剣は熱田神宮に戻されたが、天皇は9月に崩御した。
鎌倉時代に熱田神宮が炎上した際、幅一尺・長さ四尺の漆塗り箱に収められた神剣は、直接被害を受けることはなかった。神宮の神職が確認すると、赤地の錦袋があったため、神剣と判断して八剣殿(やつるぎのみや、708年創建)に収めたという。御記文によれば、ヤマトタケルの前世は素戔嗚尊であったとしている。『熱田太神宮御託宣記』でも、久子内親王(御深草天皇皇女)関連で同様の伝承を伝えている。
戦国時代、熱田神宮も神領を奪われて困窮する。安土桃山時代になると織田信長・豊臣秀吉・徳川家康によって保護されるが、江戸時代になって荒廃。松尾芭蕉が『野ざらし紀行』で1684年(貞享元年)当時の惨状を「かしこに縄を張りて小社の跡をしるし、爰に石を据ゑて其神と名のる。」と記述している。1686年(貞享3年)、徳川綱吉により社殿を造営。再建された熱田神宮を訪れた芭蕉は「磨(とぎ)なをす鏡も清し雪の花」と詠んだ。
江戸時代(五代将軍徳川綱吉時代)に熱田神宮の改修工事があった時(前述)、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4・5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。天野信景(名古屋藩士、国学者)の随筆『塩尻』によれば、神剣を取り出した関係者は数年のうちに咎めを受けたという。梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英(1671-1736年)「玉籤集』の裏書の記載は、明治31年の『神器考証』(栗田寛著)や『三種の神器の考古学的検討』(後藤守一著)で、世に知られるようになった。上述の著作によれば、神剣が祀られた土用殿内部は雲霧がたちこめていた。木製の櫃(長さ五尺)を見つけてを開けると、石の櫃が置かれていて間に赤土が詰めてあり、それを開けると更に赤土が詰まっていて、真ん中にくり抜かれた楠の丸木があり黄金が敷かれていて、その上に布に包まれた剣があった。箱毎に錠があり、大宮司の秘伝の一つの鍵ですべてが開くという。布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から六寸(およそ18センチ)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。この証言(記述)が正しければ、草薙剣は両刃の白銅剣となる。なお神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、幸い一人だけ難を免れた松岡正直という者が相伝したとの逸話も伝わっている。
明治時代初期には、草薙剣を調査するため勅使が派遣された。最後の箱を開こうとしたときに三条実美(当時の太政大臣)から中止命令が届き、調査はおこなわれなかったという。川口陟『定本日本刀剣全史』には、「熱田大宮司尾張連家の秘伝」として、神剣の形状および御樋代(みひしろ)の想像図が記載されている。
昭和天皇の侍従長であった入江相政の著書によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために木曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長・山岡鉄舟の侍従封(1881年5月25日)があり、それを解いたところで明治天皇の勅封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めたという。
皇居
草薙剣の形代は、崇神天皇の時に「神器と同居するのは畏れ多い」という理由で作られた。『古語拾遺』によれば、天目一箇神とイシコリドメの子孫が「神鏡(天照大神)」と「形代の剣」(もう一つの草薙剣)を作り、天皇の護身用として宮中に残した。現在は皇居の「剣璽の間」に勾玉とともに安置されているが、かつて水没(源平合戦)、奪取と偽造(南北朝時代)、消失と様々な遍歴を辿った。源平合戦で一振を喪失しており、また伝説・神話の異説・記録から、草薙剣は複数存在するという考察もある。
平安時代の陽成天皇(第五十七代)は、宮中の天叢雲剣(草薙剣)を抜いたという伝説がある。夜間にもかかわらず御殿の中は「ひらひらとひらめきひかり」、恐怖した天皇が投げ出すと天叢雲剣は自ら鞘に戻ったという。天徳4年(960年)9月、内裏で火災であり神鏡は破損したが、神剣と神璽は無事だった。
同時代末期の源平合戦の折、平家は源氏軍(源義経、源範頼等)に追い詰められ、壇ノ浦の戦いにて滅亡する。二位の尼は、当時8歳の安徳天皇および宝剣(草薙剣/天叢雲剣)・八尺瓊勾玉(神璽)を抱いて入水した。この時、勾玉と鏡は源氏軍に回収されたが、天叢雲剣は安徳天皇と共に失われたという。『吾妻鏡』では文治一年三月二十四日条で「二品禅尼(二位ノ尼)は宝剣(草薙剣)を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する」とある。戦いの後の同年4月11日の条に、戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八坂瓊曲玉)は御座すが、宝剣(草薙剣)は紛失」と記されている。また、安徳天皇の都落ち後に即位した後鳥羽天皇は、三種の神器が無いまま即位した。平家滅亡後、朝廷(後白河法皇、後鳥羽天皇)と源氏軍(源頼朝〈母親は熱田神宮大宮司娘〉、範頼、義経)は必死で宝剣の捜索をおこない、焦った源義経は宇佐神宮に願文を奉じている。朝廷側も寺社への寄進や加持祈祷による神仏の力で神剣で探し出そうとしたが、結局見つからなかった。約20年間は清涼殿の剣(昼の御座の剣)で代用する。『百錬抄』等によれば、寿永二年(1183年)に伊勢神宮(当時祭主、御中臣親俊)から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣としていた。承元4年、土御門天皇から順徳天皇にかわるときに伊勢神宮から神剣を送られ、これが草薙剣となった(順徳天皇『禁秘抄』)。また一説には、従来から使用していた昼の御座の剣(後鳥羽天皇践祚時に伊勢神宮から献上したもの)を、順徳天皇時に正式に神器として扱うようになったともいう。
南北朝時代、足利尊氏(足利幕府)以下北朝陣営と対立した後醍醐天皇は、三種神器の偽造品を作らせたことがあった。光明天皇(北朝2代)と後醍醐天皇(南朝)は、互いに「自分達が本当の三種の神器を持っていて、相手のものは偽物だ」と主張した。神器を巡る混乱は後亀山天皇(南朝、第99代)が後小松天皇(第100代)に神器を譲渡して、一応決着した。また室町時代には南朝の遺臣らによって勾玉とともに強奪されたこと(禁闕の変)があったが、なぜか剣だけが翌日に清水寺で発見され回収された。これが現在の皇居の御所の「剣璽の間」に安置されている剣である。
現在、皇位の継承が発生の際には、ただちに『剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀』が行われる。大正天皇から昭和天皇の場合は1926年(昭和元年)12月25日に行われた。同日午前1時25分、葉山御用邸附属邸で大正天皇は崩御(宝算48歳)。同日午前3時すぎ、同御用邸附属邸内謁見所にて剣璽渡御の儀がおこなれ、高松宮宣仁親王や伏見宮博恭王など皇族一同、東郷平八郎元帥など重鎮多数、若槻礼次郎総理大臣など内閣閣僚一同が立ち会った。 昭和天皇から今上天皇(平成)の場合は1989年(平成元年)1月7日午前10時01分に宮中正殿の間で行われた。2019年(令和元年)5月1日に予定されている今上天皇から皇太子徳仁親王への皇位の継承では国事行為として執り行われる予定である。
伝承
熱田神宮やその摂末社に伝わる伝承では、ヤマトタケルの妻のミヤズヒメ(宮簀媛)の館は、火上山の館(現在の氷上姉子神社の場所)であるとする。そしてヤマトタケルの死後、ミヤズヒメは尾張の一族と共に住んでいた火上山の館で剣をしばらく奉斎守護していたが、後に剣を祀るために剣を熱田に移し、熱田神宮を建てたという。また新羅の道行が剣を盗んだ際、通ったとされる清雪門は「不開門(あかずの門)」「紫藤門(しとう門)」と呼ばれる。これは道行が神剣を盗む時に通った不吉な門とされ、何百年も開かれていないという(本来は北門だったが、現在は徹社の側に移築され、東向き)。二度と皇居に移されない様にするためともいわれる。さらに持統天皇の時代(698年)には、神剣の妖気を鎮めて日本武尊と宮簀媛の魂を鎮めるため、天皇が神剣を熱田神宮から氷上姉子神社に移そうと計画していたが、4年後に亡くなった為に叶わなかったという。 また、現在の愛知県名古屋市昭和区村雲町の名の由来になったという説がある。そのほか、静岡市清水区草薙は、神話上の同じエピソードに関連するといわれる。
新羅の道行に剣を盗まれた後、剣は戻り皇居に移される事となったが、熱田神宮に返還される以前に、奈良県天理市にある出雲建雄神社に移され、剣が奉斎されていたとされる。出雲建雄神社は、ご神体が草薙劔の荒魂(あらみたま)とされており、天武天皇により677年に創設された。
源平合戦の壇ノ浦の戦いにおける神剣(草薙剣/天叢雲剣)の喪失は、人々に大きな衝撃を与えた。安徳天皇と共に失われた神剣は、崇神天皇時代につくられた宮中の形代であるが、素戔嗚尊が八岐大蛇から取り出した「天叢雲剣そのもの」と見做す者も多かった。天台座主慈円は『愚管抄』において「安徳天皇は平清盛の請願により厳島明神(厳島神社)が化生(けしょう)した存在だから竜王の娘であり、宝剣と共に海の底へ帰っていったのだろう」と推測。また「武士が表に立って天皇を守るようになったため、天皇の武力の象徴たる宝剣が天皇から失われた(宝剣も役目を終えたので、失われることを天照大御神も八幡大菩薩も許したのだ)」と考察している。
徳島県の剣山には、安徳天皇が天叢雲剣を修めたという伝説がある。神剣の奉納により太郎山から現称の「剣山」に変わり、山頂の剣神社本宮で素戔男尊と安徳天皇を祀ったという。
『平家物語』では、陰陽寮博士の言葉として「昔出雲國肥の河上にて素戔烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首(かしら)八の尾を表事(へうじ)として人王八十代の後、八歳の帝(みかど)と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。」(八頭八尾の八岐大蛇はスサノオに奪われた霊剣〈草薙剣〉を惜しむ気持ちが深く、人王八十代の安徳天皇となり、八歳の時に天叢雲剣を取り返して海底に帰っていった)と記述している。太平記でも「安徳天皇は八岐大蛇の化身で、宝剣と共に竜宮城に帰った」という伝承を採用している。なお源平合戦時代の安徳天皇(第81代天皇)は、神功皇后を第15代天皇に、大友皇子/弘文天皇を第39代天皇(明治3年認定)に数えなかった場合、第80代天皇となる。
『源平盛衰記』では、法華経をまとった海女が神剣を探すため竜宮城に行き、宝剣(天叢雲剣/草薙剣)を口にくわえた大蛇と、安徳帝に出会ったと述べている。大蛇が語ったところによれば、宝剣はもともと竜宮の宝であり、スサノオに倒されたヤマタノオロチは大蛇の次男であったという。ヤマタノオロチは伊吹山の大蛇になってヤマトタケルを倒したが、宝剣は取り戻せなかった。何度も人間に転生して奪還を試みたが失敗し、安徳天皇に転生してようやく宝剣を取り戻せたとする。
『太平記(第25巻)』では伊勢国より「天照大神が竜宮に対し神剣を返上するよう命令し、それによって海岸に打ち上げられた」という「光る剣」が献上される。日野資明や足利直義達は「本物の神剣」と主張する。だが勧修寺経顕が反対し、剣は平野神社に預けられたという。
天叢雲剣の本来の持ち主は天照大神であり、天の岩戸隠れの際に落したという伝承がある。林道春の本朝神社考の「熱田」の欄にスサノオが天照大神に奉納する際、「我れ天の巌にかくれし時、此の剣を近州伊布貴山に落とす。是れ我が神剣なり。」との記述があり、また源平盛衰記の巻四十四にも「太神大に悦ましまして、吾天岩戸に閉籠し時、近江国胆吹嶺に落たりし剣なりとぞ仰ける。」とある。