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耳にしみついた節目の唄 
国歌 日本人
  
 

 

「君が代」 
   君が代は 千代に八千代に さざれ石の
   巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで
日本の国歌。10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている。当初は「祝福を受ける人の寿命」を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌となった。1869年(明治2年)に薩摩藩の砲兵隊長・大山弥助(大山巌)が薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選び、その後1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものが、1893年(明治26年)の文部省告示以降、事実上の国歌として定着した。1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。世界で最も短い国歌である。
歌詞
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としている。これが私撰(紀貫之撰集)の『新撰和歌』や朗詠のために藤原公任が撰した『和漢朗詠集』(11世紀成立)などにも収められ、祝賀の歌とされ、朗詠にも供され、酒宴の際に歌われる歌ともされたものである。9世紀にあって光孝天皇が僧正遍昭の長寿を祝って「君が八千代」としているように、「君」は広く用いる言葉であって天皇を指すとは限らなかった。すなわち、「我が君」とは祝賀を受ける人を指しており、「君が代」は天皇にあっては「天皇の治世」を意味しているが、一般にあってはこの歌を受ける者の長寿を祝う意味であった。この歌が利用された範囲は、歴史的にみれば、物語、御伽草子、謡曲、小唄、浄瑠璃から歌舞伎、浮世草子、狂歌など多岐にわたり、また箏曲、長唄、常磐津、さらには碓挽歌、舟歌、盆踊り唄、祭礼歌、琵琶歌から乞食の門付など、きわめて広範囲に及んでいる。「君が代は千代に八千代に」の歌が、安土桃山時代の隆達にあっては恋の小唄であることは広く知られるところである。
国歌としては、1869年(明治2年)、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしている。1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用された。そのテーマは皇統の永続性とされる。
日本の国歌の歌詞およびその表記は、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)別記第二では以下の通りである。
   君が代は 千代に八千代に さざれ石の
   いわおとなりて 苔のむすまで    
「さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである。同様の表現は『梁塵秘抄』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる。一方では、小石が成長して巨岩になるという古代の民間信仰にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある。
イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレンは、この歌詞を英語に翻訳した。チェンバレンの訳を以下に引用する。
   A thousand years of happy life be thine!
   Live on, my Lord, till what are pebbles now,
   By age united, to great rocks shall grow,
   Whose venerable sides the moss doth line.
   (汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが 時代を経て、あつまりて大いなる岩となり 神さびたその側面に苔が生(は)える日まで)
香港日本占領時期には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。
   皇祚連綿兮久長 萬世不變兮悠長
   小石凝結成巖兮 更巖生国ロ之祥

 

礼式曲「君が代」制定までの歴史
和歌としての君が代
歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない。
我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
文献にみえる完全な一致は、朗詠のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)。
『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている。朗詠は、西洋音楽やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と旋律が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から歌詞を聴きとることは至難である。
なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた。
解釈
万葉集などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、松田武夫によれば光孝天皇、藤原基経、醍醐天皇の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である。その祝いの内容は、ほとんどが算賀であるが出生慶賀もある。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である。
後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、万治元年(1658年)のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、17世紀半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる。
『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている。
諸文芸・諸芸能と「君が代」
「君が代」は朗詠に供されたほか、鎌倉時代以降急速に庶民に広まり、賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などでは言葉をかえて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』(南北朝時代〜室町時代初期成立)では宴会の席で朝比奈三郎義秀が「君が代」を謡い舞う例、『義経記』(室町時代前期成立)でも静御前が源頼朝の前で賀歌「君が代」を舞う例を見ることができる。
 『曽我物語』巻第六「辯才天の御事」
「何とやらん、御座敷しづまりたり。うたゑや、殿ばら、はやせや、まはん」とて、すでに座敷を立ちければ、面々にこそはやしけれ。義秀、拍子をうちたてさせ、「君が代は千代に八千代にさゞれ石の」としおりあげて、「巌となりて苔のむすまで」と、ふみしかくまふてまはりしに…
 『義経記』巻第六「静若宮八幡宮へ参詣の事」
静「君が代の」と上げたりければ、人々これを聞きて「情けなき祐経かな、今一折舞はせよかし」とぞ申しける。詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、 しづやしづ賤のおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな吉野山 嶺の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき
安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては、性をも含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」のかたちで隆達節の巻頭に載っており、同じ歌は米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる。祝いの歌や相手を思う歌として小唄、長唄、地歌、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等に、あるときはそのままの形で、あるときは歌詞をかえて用いられ、この歌詞は庶民層にも広く普及した。
16世紀の薩摩国の戦国武将島津忠良(日新斎)は、家督をめぐる内紛を収めたのち、急増した家臣団を結束させるための精神教育に注力し、琵琶を改造して材料も改め、撥も大型化し、奏法もまったく変えて勇壮果敢な音の鳴る薩摩琵琶とした。そして、武士の倫理を歌った自作の47首に軍略の助言も求めた盲目の僧淵脇了公に曲をつけさせ、琵琶歌「いろは歌」として普及させた。島津日新斎作詞・淵脇了公作曲の琵琶歌「蓬莱山」の歌詞は、以下のようなものである。
 蓬莱山
目出度やな 君が恵(めぐみ)は 久方の 光閑(のど)けき春の日に不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに 峯の小松に舞鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで命ながらえて 雨(あめ)塊(つちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじといへばまた堯舜(ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 斯ほどに治まる御代なれば千草万木 花咲き実り 五穀成熟して 上には金殿楼閣 甍を並べ下には民の竈を 厚うして 仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是かとよ君が代の千歳の松も 常磐色 かわらぬ御代の例には 天長地久と国も豊かに治まりて 弓は袋に 剱は箱に蔵め置く 諫鼓(かんこ)苔深うして鳥もなかなか驚くようぞ なかりける
「君が代」を詠み込んだこの琵琶歌は、薩摩藩家中における慶賀の席ではつきものの曲として歌われ、郷中教育という一種の集団教育も相まって、この曲を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかった。なかでも、大山弥助(のちの大山巌)の歌声は素晴らしかったといわれる。
「君が代」は、江戸城大奥で元旦早朝におこなわれる「おさざれ石」の儀式でも歌われた。これは、御台所(正室)が正七ツ(午前4時)に起床し、時間をかけて洗面・化粧・「おすべらかし」に髪型を結い、装束を身に付けて緋毛氈の敷かれた廊下を渡り、部屋に置かれた盥(たらい)のなかの3つの白い石にろうそくを灯し、中年寄が一礼して「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を吟唱すると、御台所が「いわほとなりて苔のむすまで」と下の句を応え、御台所の右脇にいた中臈が石に水を注ぐという女性だけの「浄めの儀式」であった。盥には、小石3個のほかユズリハと裏白、田作りが丁重に飾られていた。
礼式曲「君が代」の成立
国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の必要性は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」。すなわち、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場においてなのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。当初は "national anthem" の訳語もなかったが、のちに「国歌」と訳された。ただし、従来「国歌」とは「和歌」と同義語で、漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった。海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲の現行「君が代」成立時には「国歌」という訳語ができていたことが知られる。
吹奏楽もまた、元来は西洋のものであって弦楽器による室内楽中心の江戸時代にあってはなじみが薄かった。日本における吹奏楽の歴史は、安政年間(1854年-1859年)に新設された長崎海軍伝習所において蘭式太鼓(オランダ海兵隊太鼓信号)の紹介や蘭式鼓譜の刊行がなされたことを始まりとしている。なお、慶応4年(1868年)よりはじまった戊辰戦争において新政府軍が行進する際に歌われ、演奏された曲が『宮さん宮さん』(品川弥二郎作詞、大村益次郎作曲)であった。この曲は、和笛と太鼓による演奏形態のうえでも、また旋律のうえでもきわめて日本的な性格をもつが、歩行に合わせた規則正しいリズムに西洋音楽の影響がみてとれる。
1869年(明治2年)4月、イギリス公使ハリー・パークスよりエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった。その接待掛に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た。当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、大隊長野津鎮雄と鹿児島少参事大迫喜左衛門とはかり、琵琶歌の「蓬莱山」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、2人ともこれに賛成して、フェントンに示した。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された。同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)が設立され、フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺で猛練習をおこなった。薩摩バンドは1870年(明治3年)8月12日、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮による初めての演奏会をひらいている。
初代礼式曲の「君が代」は明治3年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際、薩摩バンドによって吹奏された。しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあってフェントン作曲の「君が代」は普及せず、1876年(明治9年)に海軍楽長である長倉彦二(のちに中村祐庸と改名)が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を海軍省に提出した。この意見にもとづき、宮中の詠唱する音節を尊重して改訂する方向で宮内省と検討に入り、フェントンの礼式曲は廃止された。
翌1877年に西南戦争が起こり、その間にフェントンが任期を終えて帰国した。1880年(明治13年)7月、楽譜改訂委員として海軍楽長中村祐庸、陸軍楽長四元義豊、宮内省伶人長林廣守、前年来日したドイツ人で海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトの4名が任命された。採用されたのは林廣守が雅楽の壱越調旋律の音階で作曲したものであり、これは、実際には、廣守の長男林広季と宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律をもとに廣守が曲を起こしたものとみとめられる。この曲に改訂委員のひとりフランツ・エッケルトが西洋風和声を付けて吹奏楽用に編曲した。なお、改訂された「君が代」の第2主題は、ヨーゼフ・シュトラウスが1862年(文久2年)に作曲した『日本行進曲』にも「日本の旋律」として登場しており、この部分については古くから伝わる旋律を採り入れたものと考えられる。
改訂版「君が代」は、明治13年10月25日に試演され、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され、礼式曲としての地位が定まった。同年11月3日の天長節には初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露された。調子は、フラット(♭)2つの変ロ調であった。
1881年(明治14年)に最初の唱歌の教科書である『小学唱歌集 初編』が文部省音楽取調掛によって編集され、翌年、刊行された。ここでの「君が代」の歌詞は、現代の「君が代」とは若干異なり、また2番まであった。曲も英国人ウェッブが作曲した別曲で、小学校では当初こちらが教えられた。
    第二十三 君が代
   君が代は ちよにやちよに さゞれいしの巌となりて
   こけのむすまで うごきなく 常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ
      君が代は 千尋(ちひろ)の底の さゞれいしの 鵜のゐる磯と
      あらはるゝまで かぎりなき みよの栄を ほぎたてまつる
また、陸軍省もエッケルト編曲の「君が代」を国歌とは認めず、天皇行幸の際には「喇叭オーシャンヲ奏ス」と定めており、天覧の陸軍大調練には「オーシャン」が演奏されていた。1882年(明治15年)、音楽取調掛が文部省の命を受けて「君が代」の国歌選定に努めたが、実現しなかった。ウェッブの「君が代」はあまり普及しなかった。雅楽調のエッケルト編曲「君が代」は好評で、天皇礼式曲として主として海軍で演奏された。
1888年(明治21年)、海軍省が林廣守作曲、エッケルト編曲「君が代」の吹奏楽譜を印刷して「大日本礼式 Japanische Hymne (von F.Eckert))」として各官庁や各条約国に送付した。1889年(明治22年)の音楽取調掛編纂『中等唱歌』にはエッケルト編曲の礼式曲が掲載され、1889年12月29日「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」では『小学唱歌集 初編』と『中等唱歌』の双方が挙げられた。ただし、当初は国内でそれを認めていた人は必ずしも多くなかった。
礼式曲「君が代」の普及は、1890年(明治23年)の『教育勅語』発布以降、学校教育を通じて強力に進められた。1891年(明治24年)、「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定され、この儀式では祝祭当日にふさわしい歌を歌唱することが定められた。
1893年(明治26年)8月12日、文部省は「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示した。ここには、「君が代」のほか、「一月一日」(年のはじめの)、「紀元節」(雲に聳ゆる)、「天長節」(今日の佳き日は)など8曲を制定発表している。「君が代」については、「国歌・君が代」と記載され、林廣守の名が作曲者、詞については「古歌」と記され、調子は「大日本礼式」より一音高いハ調とされた。
 官報第337号
文部省告示第三號
小學校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞竝樂譜
別册ノ通撰定ス
明治二十六年八月十二日   文部大臣井上毅
1897年(明治30年)11月19日の陸軍省達第153号で「『君が代』ハ陛下及皇族ニ対シ奉ル時に用ユ」としており、ここにおいて「君が代」はようやくエッケルト編曲の現国歌に統一された。「君が代」は、学校儀式において国歌として扱われ、紀元節、天長節、一月一日には児童が学校に参集して斉唱され、また、日清戦争(1894年 - 1895年)・日露戦争(1904年 - 1905年)による国威発揚にともなって国民間に普及していった。1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」では、「君が代」が一等を受賞している。ただし、明治時代にあっては、国歌制定の議は宮内省や文部省によって進められたものの、すべて失敗しており、法的には小学校用の祭日の歌にすぎなかった。
1912年(大正元年)8月9日、「儀制ニ關スル海軍軍樂譜」が制定され、1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。
 第一號 君カ代 天皇及皇族ニ對スル禮式及一月一日、紀元節、天長節、明治節ノ遙拜式竝ニ定時軍艦旗ヲ掲揚降下スルトキ
軍艦旗の掲揚降下とは、朝8時に掲揚し日没時に降下する、古くからの世界共通の慣習であり、海上自衛隊でも引き継がれている。軍楽隊が乗船している艦が外国の港湾に停泊している場合は、自国の国歌で掲揚降下をおこなったのち、訪問国の国歌を演奏する習わしとなっている。

 

国歌「君が代」の成立
第二次世界大戦前
「君が代」は、正式な国歌ではなかったものの、国際的な賓客の送迎やスポーツ関係などで国歌に準じて演奏・歌唱されることが多くなり、とくに昭和10年代に入るとこの傾向はいっそう顕著となった。小学校の国定修身教科書には「私たち臣民が『君が代』を歌ふときには、天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。」(『小学修身書』巻四)と、また、1941年(昭和16年)に設立された国民学校の修身教科書でも「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」(国民学校4年用国定修身教科書『初等科修身二』)と記された。日中戦争から太平洋戦争にかけての時期には、大伴家持の和歌に1937年(昭和12年)に信時潔が曲をつけた「海行かば」も第二国歌のような扱いを受け、様々な場面で演奏・唱和された。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領し、日の丸掲揚禁止とともに、「君が代」斉唱を全面的に禁止した。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め、1946年(昭和21年)11月3日の日本国憲法公布記念式典で昭和天皇・香淳皇后臨席のもと「君が代」が斉唱された。しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇退場の際には「星条旗よ永遠なれ」が演奏された。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した。
また、「君が代」に代わるものとして、1946年、毎日新聞社が文部省の後援と日本放送協会の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌」(土井一郎作詞、福沢真人作曲)がつくられ、1948年(昭和23年)には朝日新聞社と民主政治教育連盟が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「こゝろの青空」(阿部勇作詞、東辰三作曲)がつくられた。前者は日本コロムビアより、後者は日本ビクターより、それぞれレコード化されるなどして普及が図られた。1951年1月、日本教職員組合(日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した国民歌として「緑の山河」(原泰子作詞、小杉誠治作曲)もつくられた。しかし、1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ平和条約以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった。
学校・教育現場では、1946年(昭和21年)に国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されたが、「祝日には学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することが望ましい」とする、文部省の天野貞祐文部大臣「談話」が1950年(昭和25年)10月17日に全国の教育委員会に通達され、1958年(昭和33年)学習指導要領に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから、学校で再び日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合等との対立が始まった。その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい(1978年)」、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(1989年)」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱が義務付けられている。
「君が代」は事実上の国歌として長らく演奏されてきたが、法的に根拠がないことから法制化が進み、1999年(平成11年)8月9日、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が成立し、13日に公布(号外第156号)され、即日施行された。日本国政府の公式見解は、国旗国歌法案が提出された際の平成11年6月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した。
なお、同法案は衆議院で賛成403、反対86(投票総数489)で平成11年7月22日に、参議院では賛成166、反対71(投票総数237)で平成11年8月9日に、それぞれ賛成多数で可決された。
 国旗及び国歌に関する法律
第二条 国歌は、君が代とする。2,君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。
この「別記第二」として掲載されているハ調の「君が代」の楽譜には、テンポの指定や強弱記号がなく、また、本来6カ所あるべきスラーが付されていないなど、不完全なものであった。
現状
「君が代」は、国旗国歌法によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査において、対象者の76.6パーセントが「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5パーセントだった。
なお、日本コロムビアから発売した「君が代」を収録したCDは1999年までの10年間に全種累計で約10万枚を売り上げ、キングレコードから発売した「君が代」を含むCD『世界の国歌』は改訂盤が発売されるごとに毎回1万数千枚を売り上げている(1999年時点)。

 

楽曲としての「君が代」
拍子と調子
拍子は4分の4拍子である。 調子は、雅楽の六調子のうち呂旋に属する壱越調である。現行「君が代」は、1880年(明治13年)の初演の際の楽譜(「大日本礼式」)では変ロ調であったが、1893年(明治26年)の「祝日大祭日歌詞竝樂譜」以降はハ調となっている。
テンポと演奏時間
1888年(明治21年)のエッケルト編曲「大日本礼式」におけるテンポは、四分音符=70(1分間に四分音符70拍)と設定されていた。このテンポで演奏すると、演奏時間はだいたい37秒となる。1912年(大正元年)の「儀制ニ関スル海軍軍楽譜」別冊収載の「海軍儀制曲総譜」の「君が代」にはテンポ表示がなく、Larghetto(ややおそく)の速度標語が記載されている。1893年(明治26年)8月の文部省告示「祝日大祭日歌詞竝楽譜」では、四分音符=69であった。
四分音符=60で演奏した場合、1拍を1秒とすると44秒となる。旧海軍では信号ラッパで軍艦旗を掲揚降下する際、ラッパ譜「君が代」を45秒で吹奏しており、同じ港湾に軍楽隊が乗り込んだ旗艦が停泊していた場合、演奏時間をそろえるために45秒で演奏していた。これは、習慣となったものであり、明文化された資料等は確認されていない。なお、四分音符=50で演奏すると52秒かかり、NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポとなる。
2016年リオデジャネイロオリンピックでは、試合終了後の表彰式での君が代演奏が1分20秒におよび、テンポがゆっくりすぎるという声があがって話題となったが、これは、2012年頃、国際オリンピック委員会(IOC)が、国旗掲揚のときに統一感を出すためにと演奏時間を60〜90秒に収めた国歌音源をIOCに提出するよう指示したことに対し、日本オリンピック委員会(JOC)が応えたことによっているという。
評価
作曲家の團伊玖磨は晩年に、国歌の必要条件として、短い事、エスニックである事、好戦的でない事の3条件を挙げ、イギリス国歌、ドイツ国歌、「君が代」の3つが白眉であると評した。なお、「君が代」については同時に、「音楽として、歌曲としては変な曲だが国歌としては最適な曲である。」と記した。
中田喜直、水谷川忠俊ら多くの作曲家から、歌詞と旋律が一致していないことが指摘されている。
 

 

君が代に関する諸説
作詞者について
『古今和歌集』収載の賀歌「我が君は 千代に八千代に さゞれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は「読人知らず」とされてきたが、その作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師だったとする説がある。それによれば、当時は位が低かったために「読人知らず」として扱われたが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなったというものである。
また、上述の堯智『古今和歌集陰名作者次第』では、この歌の作者は橘清友ではないかとしている。
松永文相報告
1985年(昭和60年)2月26日の閣議で松永光文部大臣は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告している。それによれば、
    君が代
   君が代は 千代に八千代に さゞれ石の
   巌となりて 苔の生すまで
      君が代は 千尋の底の さゞれ石
      鵜のゐる磯と あらはるるまで
   君が代は 限りもあらじ 長浜の
   真砂の数は よみつくすとも
である。このうち二番は源頼政のよんだ歌、三番は光孝天皇の大嘗祭に奉られた歌である。
「九州王朝」起源説による解釈
九州王朝説を唱えた古田武彦は自ら邪馬壹国の領域と推定している糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している。
「君が代」は、金印(漢委奴国王印)が発見された福岡県・志賀島にある志賀海神社において、神功皇后の三韓出兵の際、志賀海神社の社伝によると、その食前において山誉の神事を奉仕したことにより、神功皇后よりこの神事を「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ」と庇護され今に伝承されている4月と11月の祭礼(山誉め祭)にて以下のような神楽歌として古くから伝わっている。(後述する『太平記』にも、この舞が神功皇后の三韓出兵以前より伝わる神事(舞い)と推察される記述が存在する。)
なお、この山誉め祭は、民俗学的に価値のある神事として、福岡県の県指定の有形民俗文化財に指定されている。
 君が代だいは 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
 あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身み骸がいに命いのち 千せん歳ざいという
 花こそ 咲いたる 沖の御おん津づの汐早にはえたらむ釣つる尾おにくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
    志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
    今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
    いるかよ いるか 汐早のいるか 磯いそ良らが崎に 鯛釣るおきな
    — 山誉め祭、神楽歌
糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、伊都国の王墓とされる平原遺跡の近隣に細石神社の「さざれ石」、細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡」や「井原山」など地元住民が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また若宮神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。
細石神社の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」、若宮神社の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。
上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。
『古今和歌集』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集が醍醐天皇の勅命によって編まれた『勅撰和歌集』であり皇室から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため、後に有名な『平家物語』(巻七「忠度都落ち」)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように、紀貫之は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。
糸島・博多湾一帯は参考資料」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「若宮神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと推定している。
なお、『太平記』には、「君が代」が奉納される山誉め祭の神楽とも関係する、阿曇磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記述が存在する。
神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて『磯良が好む舞を奏して誘い出すと』、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(日本神話の海幸山幸神話にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。
海人族安雲氏の本拠である福岡県の志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。 
 
 

 

君が代 諸話
 
●日本人にとっての「君が代」 2016
劣化する「君が代」論争
国立大学の卒業式や入学式に関連して、再び「君が代」の扱いに注目が集まっている。これに呼応する形で、インターネット上でも「君が代」をめぐる議論が活発になりつつある。
だが、その議論の有り様は必ずしも健全なものではない。というのも、昨今ネット上で交わされる「君が代」に関する言説が、あまりにも乱暴だからだ。今日ほど「君が代」に関する議論が劣化した時代はほかにないだろう。
「君が代」を歌うか、歌わないか。問題はあまりに単純に二分化され、歌えば保守・愛国であり、歌わなければ左翼・反日であると即断される。そしてこの単純な白黒図式に基づき、「愛国者」を自任する者たちが、気に入らない相手に食って掛かる――。こうした光景は、SNS上でもはや珍しいものではなくなった。
しかも、驚くべきことに、この「愛国者」を自任する者たちの多くは、「君が代」の歴史や意味をロクに知らないのだ。「君が代」は、敵と味方を判別し、敵を吊るし上げるための単なる「踏み絵」と化しているのである。
「君が代」に関する議論は明治時代から続いてきたが、ここまで酷い状態に陥ったことはなかった。戦時下のほうがまだ「君が代」の意味が正しく理解されていたくらいだ。なぜ「君が代」に関する議論はかくも劣化してしまったのだろうか。
「君が代」問題再燃の経緯
その原因を考える前に、ここへきて「君が代」問題が再燃している理由を確認しておこう。
発端は、去年の4月にさかのぼる。
参議院の予算委員会で、次世代の党(当時)の松沢成文参院議員が、国立大学の入学式と卒業式で国歌斉唱が実施されていないことを問題視。国から大学の運営費が出ていることや、将来の国を担う人材のアイデンティティを育むべきことなどを理由に、国歌斉唱の必要性を訴えた(国旗掲揚も同時に問題になったが、以下では煩雑なため割愛する)。
これに対し、安倍晋三首相は、国立大学でも「教育基本法」の方針に則って入学式や卒業式で「君が代」を斉唱することが望ましいと答弁。下村博文文科相(当時)も、国立大学に対して、「君が代」の取り扱いについて「適切な対応」がとられるように要請していくと答弁した。
そして6月、下村文科相は答弁どおり、国立大学学長らを集めた会議の席上で、「国歌斉唱」が「長年の慣行」により「広く国民の間に定着していること」や、1999年に「国旗国歌法」が施行されたことを踏まえて、各大学が「君が代」の取り扱いについて「適切な判断」を行うように口頭で要請した。回りくどい言い方をしているが、要するに、国立大の入学式と卒業式で「君が代」を斉唱してくれと求めたわけだ。
そして今年の2月。各大学の卒業式が差し迫るなかで、岐阜大学の森脇久隆学長が「君が代」斉唱を入学式や卒業式で行わない方針を発表。この発表に対して、馳浩文科相が、国立大に運営費交付金が出ていることを指摘したうえで「恥ずかしい」などと発言して、物議をかもした。
その後、ほかの大学においても「君が代」斉唱の扱いについて方針が発表された。実際に卒業式や入学式が開催されるなかで、国立大の対応が明らかになるだろう。それとともに、「君が代」に関する議論も一層高まることが予想される。
ちなみに、3月に催された自民党の党大会で、今夏の参議院選挙に同党から立候補する予定の歌手・今井絵理子が「君が代」を歌って注目された。これは個人の判断にすぎないので、一連の問題と直接は関係ない。ただ、人気グループでボーカルを務めた彼女の振る舞いは様々な意味で話題になったため、ここに付け加えておこう。
以上が、ここ1年での「君が代」をめぐる動きの概略である。
ネットにあふれるトンデモ「君が代」解釈
さて、歴史を振り返れば明らかなように、自民党(の特に「タカ派」とされる)政権はこれまで「君が代」斉唱を熱心に推進してきた。その結果、2002年に公立の小中高校の卒業式における「君が代」斉唱の実施率は、ほぼ100%に達した。
それゆえ、国会質疑の発端こそ他党の議員とはいえ、現在の安倍政権が、次なる目標として国立大学に狙いを定めてきたのもそれほどふしぎではない(もちろん、「大学の自治」の原則があるため、小中高校の事例はそのまま大学に当てはめることはできないが)。
ただ、ここで問題にしたいのは、ネット上の乱暴な議論である。こちらは、歴史的に見てかなり異様な様相を呈している。
その最たるものが、「君が代」の「君」をめぐる解釈だ。
ネット上では、プロフィール欄に「保守」「愛国」などと記す者の多くが、実に珍妙な「君が代」解釈を支持している。それは、「君が代」の「君」が単に「あなた」を意味するというものだ。
いわく、「君が代」は「あなた」の平穏無事を祈る平和的な歌であり、いわば「ラブソング」である。それゆえ、軍国主義でもなんでもない。左翼の批判はまったく的はずれだ、と。こうした解釈は、SNSや動画サイトのコメント欄などで無数に確認することができる。
以下は、ネット上で出回っている「君が代」の現代語訳と称するものである。初出は不明だが、参考として引用しておく(なお、細かく見れば、この「現代語訳」にはほかにも問題があるのだが、ここでは「君」に問題をしぼる)。
だが、現在の国歌「君が代」を考えるとき、天皇の存在を無視するのはまったくナンセンスである。「君が代」は1880年ころ作曲され、1893年ころより事実上の国歌として唯一無二の存在となった。この「君が代」が天皇讃歌だったことは論をまたない。
「君が代」は、小学校の祝祭日の儀式において、天皇皇后の写真に向かって歌うものとされた。国定教科書でも、明確に天皇讃歌であると説明された。「君が代」作曲に深く関わったお雇い外国人エッケルトが、ドイツ人向けの雑誌で「君」を「Kaiser」(皇帝)と説明している例もある。
そもそも、「君が代」が作曲された当時、列強の君主国では基本的に君主讃歌を国歌として使っていた。新参者である日本も、これに倣ったと考えるのが自然である。
やや信憑性に欠けるものの、大山巌(当時の薩摩藩砲兵隊長)が英国国歌「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を参考にして、「君が代」の和歌を国歌の歌詞として選んだという証言もある。少なくとも、戦前期に「君が代」が天皇讃歌だったことはまったく疑いえない。
なるほど、戦前期の歴史をまったく無視するという考え方はあるだろう。江戸時代以前に「君が代」という和歌の「君」が、単なる「あなた」として解釈されていた歴史はある。だから、江戸時代以前と戦後日本を直結させれば、「君が代」=ラブソング説を唱えることも不可能ではないかもしれない。
だが、「君が代」が作曲され、国歌として採用された戦前期の歴史をまったく無視することは果たして妥当なのだろうか。そもそも、「君が代」の支持者たちの多くは「愛国」「保守」を自任していたはずである。とかく先人の苦労だの、先人への感謝だのを強調する彼らが、戦前期の歴史を自分勝手に切り貼りするのでは整合性がつかない。
少し調べればわかることだが、従来保守派や右翼などと呼ばれたひとびとの多くは、「君が代」を天皇讃歌として擁護してきた。近代の日本人は、西洋列強の帝国主義に対抗して、立派な国作りを行った。大日本帝国はこうした努力の結果、ついに一等国になり、国際連盟の常任理事国にもなった。戦前期は、先人の苦労と栄光の歴史であった。
だが、大東亜戦争に敗北したために、その歴史は一転して「戦後民主主義」の教育によって汚されてしまった。ゆえに、かつての誇りある日本の歴史や文化を取り戻さなければならない。天皇讃歌である「君が代」斉唱の復活も、またそのひとつである――。彼らのロジックは、簡単にいえばこうだったはずだ。
つまり「保守」を自任するものが、戦前期の歴史を無視するなど本来ありえないことなのだ。ことほどさように、「君が代」=ラブソング説はでたらめである。まして、「誇りある戦前の歴史」を肯定的に評価する者にとってはなおのことである。
「君が代」に関する乱暴な議論はほかにもたくさんある。ドイツで催された国歌コンクールで、「君が代」が優勝したなどという「都市伝説」もそのひとつだ。ただ、再び強調するが、以上の「君」の解釈はそうした珍説の最たるものとして位置づけられるだろう。
歴史を学んで乱暴な議論を乗り越えよ
歴史や伝統を顧みないある種の「左翼」ならばともかく、「保守」を標榜する者が、口では「君が代」を大切にするといいながら、その実、歴史もロクに参照せず、でたらめな根拠で他人に食って掛かる。これこそ議論が劣化した最大の原因である。
この背景には、いわゆる「ネット右翼」(ネトウヨ)の問題がある。ネット上で「君が代」を「踏み絵」として用いる者たちも、「ネット右翼」と呼ばれることが多い。
だが、こと「君が代」に関する限り、彼らは「保守」でも「右翼」でもない。それは「君」の解釈を通じてすでに見たとおりだ。彼らの同類をあえて探すとすれば、それは、中国の「反日デモ」において「愛国無罪」をかかげて日本製品を破壊してまわった暴徒(モブ)であろう。それゆえ、彼らはむしろ「ネットモブ」とでも呼ぶのがふさわしい。
一昔前ならば、「ネットモブ」の主張など、クレーマーの暴論としてただちに排除されたに違いない。ところが、「ネットモブ」が「ネット右翼」と呼ばれたために、その主張も「保守」や「右翼」のものと勘違いされてしまった。
この結果、昨今のナショナリズムの「再評価」とあいまって、歴史的な経緯に詳らかではないネットユーザーのなかで、劣化した議論が急速に肥大化してしまった。白黒図式で敵味方を判別するやり方は確かにわかりやすくもあった。
ただ、こうした負の連鎖はそろそろ断ち切らなければならない。
現在、日本人の「君が代」に対する関心は決して低くない。筆者は昨年「君が代」の歴史をまとめた『ふしぎな君が代』(幻冬舎新書)を上梓し、それ以降、様々な媒体で「君が代」について発信してきたが、毎回実に多種多様な反応が寄せられる。
クレーマー的な言いがかりも多いが(なかには「君が代」と聞いただけで虫酸が走るらしき典型的な「左翼的」反応もある)、歴史を踏まえて国歌問題を考えようという意見も少なくない。これはよい兆候である。国歌が国民のものである以上、幅広い議論が不可欠だからだ。
ただ、最終的にいかなる意見を持つにせよ、国歌という国のシンボルを扱うからには、ある程度歴史を踏まえなければならない。改めて繰り返さないが、「君が代」には(とうてい白黒で二分化できないほどの)実に奥深い歴史がある。「君が代」は「ネットモブ」が弄んでいい玩具ではないし、彼らが敵味方を判別し、敵に食って掛かるための便利な「踏み絵」でもない。
2020年には東京オリンピック・パラリンピックも催される。国歌はそのときにも問題になるだろう。現在こそ、ひとりひとりが歴史を振り返り、「君が代」の問題に向き合う好機ではないだろうか。このときにあたって、「愛国無罪」のクレーマーたちの跳梁跋扈は百害あって一利なしである。 
 
●「君が代」は、なぜいつまでも議論になるのか
「君が代」と「日の丸」の違い
「君が代」は議論の絶えない「面倒くさい歌」である。では、具体的に「君が代」の何がそんなに問題になっているのだろうか。歴史をたどる前に、まずこの点を確認しておきたい。
戦後の日本で「君が代」問題といえば、ほとんど公立学校における扱いに終始するといっていい。すなわち、入学式や卒業式で、教職員や児童生徒は起立して「君が代」を歌うべきか否か、という問題である。
今でこそあまり聞かなくなったが、かつては3、4月にもなると定期的に各地の学校で教職員らが「君が代」斉唱に抵抗したという報道が繰り返された。1999(平成11)年に成立した「国旗国歌法」も、2011、2012(平成23、24)年に相次いで成立した大阪府市の「国旗国歌条例」も、そのきっかけになったのは公立学校の入学式や卒業式に他ならなかった。
法律の名前からもわかるように、「君が代」は「日の丸」と並べて語られることが多い。ただ、よくよく見てみると、両者の間には無視できない違いがあることがわかる。
文部省(当時)の調査によれば、1985(昭和60)年の卒業式では、すでに小学校の92.5%、中学校の91.2%、高校の81.6%で「日の丸」が掲揚されていたという。この数字は、1992(平成4)年には小学校で98.0%、中学校で97.6%、高校で93.4%と、更に伸びた(田中伸尚『日の丸・君が代の戦後史』)。「日の丸」掲揚は、「国旗国歌法」が成立する前から広く浸透していたのである。
これに対して、1985年の卒業式における「君が代」斉唱の実施率は、小学校で72.8%、中学校で68.0%、高校で53.3%にすぎなかった。自治体によっては、北海道、長野県、京都府、大阪府、高知県のように「君が代」斉唱だけ実施率が軒並み30%を下回るところさえあった。1992年になっても、この数字は小学校で85.6%、中学校で81.4%、高校で70.8%にとどまった。
1985年に朝日新聞が行った世論調査でも、同じような結果が出ている。すなわち、「『日の丸』が国旗としてふさわしい」と答えた人の割合は86%に上ったのに対し、「『君が代』が国歌としてふさわしい」と答えた人の割合は68%にすぎなかった。
つまり、「君が代」斉唱は「日の丸」掲揚に比べ、抵抗や反対が根強かったのである。ここ近年の国旗国歌問題は、事実上「君が代」斉唱の是非に争点があったといえるだろう。2013(平成25)年に大阪府教育委員会より全府立学校に対して出された「口元チェック」の通知も、「日の丸」は問題にしていなかった。
このような「君が代」だけに存在する違和感の中に、「君が代」問題の本質も隠されているのではないだろうか。
「君が代」問題の争点
では、実際に「君が代」の何が問題視されていたのだろうか。ここで「君が代」斉唱に対する賛成派と反対派の意見を見てみよう。
両者の対立は、1950年代に文部省が戦後しばらく絶えていた学校における「君が代」斉唱を復活させようとしたことに端を発する。この一方的な施策に対し強く反発したのが、現場の教職員からなる日本教職員組合(日教組)だった。従って、乱暴なことを承知の上で敢えて図式化すれば、賛成派の中心は文部省とそれを支持する保守派、反対派の中心は日教組とそれを支持する革新派(リベラル派)ということになろう。
まず、反対派の意見から主だったものを紹介したい。
1 「君が代」の「君」は「天皇」を意味し、従って「君が代」は天皇とその治世を讃えた歌である。戦前ならばこれでもよかっただろう。しかし、国民主権を原則とする「日本国憲法」の下では、到底公教育の場にふさわしい歌ではない。
2 戦前、学校における「君が代」の斉唱は強制的だった。それは、上意下達・滅私奉公の精神を子供に植えつけ、結果的に軍国主義・全体主義を推進するという結果を招いた。そのため、「君が代」斉唱の強制は、軍国主義や全体主義の復活につながる恐れがある。
3 「君が代」は「国旗国歌法」により国歌と定められたものの、その法案審議は余りに拙速であり、国民的な議論を経たものとは言いがたかった。また、同法は国会審議の中で国民に新たな義務を課すものではないと説明されながら、成立後は「君が代」斉唱を強制する根拠のひとつとして利用された。
これに対して、賛成派の意見はおおよそ次のとおりである。
1 「君が代」の「君」は確かに「天皇」を意味するが、それは「日本国憲法」に定められた「日本国と日本国民統合の象徴としての天皇」にほかならない。従って、これを讃える歌は「日本国憲法」の原則と矛盾しない(なお、古典に照らし合わせれば「君」は単に「あなた」を意味し、従って「君が代」は「あなたの健康長寿を祈る歌」なのだから、そもそも「天皇の歌」という批判自体が当たらないという主張もある)。
2 学校における「君が代」の斉唱は、日本人としての自覚と誇りを子供の心に育む上で欠かせない。今日のように国際交流が盛んな時代には、なおのこと国歌を通じて日本人としてのアイデンティティを確立することは重要である。そもそも国歌に対する儀礼作法は国際的な常識であり、このような常識を教えることは強制に当たらず、当然ながら軍国主義や全体主義の復活につながるわけもない。
3 「君が代」は「国旗国歌法」が成立する前から国民に広く受け入れられており、事実上の国歌として使われてきた。「国旗国歌法」はこの慣習に法的根拠を与えたにすぎない。なお、「君が代」斉唱に限らず、教職員が職務命令に従うべきなのは「国旗国歌法」の有無を待つまでもなく当たり前である。
他にも、歌詞やメロディをめぐって「奇妙な歌だ」「いや、実にすばらしい歌だ」という対立などもあるのだが、これくらいにとどめておこう。
以上の議論が正しいかどうかは、ここでは詳しく触れない。今はただ「君が代」をめぐってこのような激しい対立があったことを思い出してもらえれば十分である。
「歌う」ことこそ「君が代」問題の本質
それにしても、以上の議論から「君が代」が「日の丸」より不人気な理由を読み取れただろうか。軍国主義に利用された点や、性急に法制化されたという点では、「君が代」も「日の丸」も変わらないはずである。
では、歌詞の存在はどうだろうか。なるほど「君が代」を扱う場合、例えば「君」が何を意味するのかという厄介な問題に取り組まなければならなくなる。歌詞も古典に由来するので、その意味を完全に理解するには様々な文献を参考にしなければならない。おそらく「君が代」が支持されない理由のひとつはここにあるといっていいだろう。
だが、「君が代」問題の本質は、それがまさに「歌う」ものであることに求められる。
これは「日の丸」と比較するとわかりやすい。「日の丸」掲揚は「見る」ものなので、「目をつむる」「視界に入れない」「別のものを見る」「別のことを考える」などの行動で比較的簡単にやり過ごすことができる。我々は普段、街中に配置された看板や、インターネット上に表示される広告をほとんど意識すらせずに流してしまっているはずだ。
それに比べ、「君が代」斉唱は「歌う」ことなので、なかなか無視することが難しい。「歌う」とは、その歌詞を頭に入れ、音程を外さないように注意しながら、周囲とも協調しつつ、腹に力を入れて、一言一句、声を出すことにほかならない。「歌う」とは、心身をフル動員した、能動的かつ意識的な行為なのである。そのため、その強制は「見る」よりも全身に行き渡り、やりたくない人にとっては遥かに屈辱的で暴力的なものとなってしまう。
われわれは普段「君が代」のこの特性に気づいていない。なぜなら、いったん学校を卒業すれば「君が代」を歌う機会はまったくといっていいほどなくなるからである。国際的なスポーツの試合で「君が代」が使われることもあるが、観戦者の多くにとってその「君が代」は「歌う」というよりも「聴く」ものであろう。「聴く」は「見る」よりもやり過ごしにくいかもしれないが、「歌う」ことに比べれば拘束力の点で明らかに劣る。
おそらく、入学式や卒業式で「君が代」の歌詞や楽譜を「日の丸」のように壁に貼っておくだけならば、これほどまでに強い反発を生むことはなかったと思われる。問題視されがちな歌詞やメロディも、「歌う」という行為に結びついて初めて大きな違和感を生み出すのではないだろうか。
「歌う」ことで日本は近代化に成功した
みんなで一緒に同じ歌を「歌う」ことは、心身に大きな束縛感をもたらす。と同時に、うまくやれば強い一体感を生み出すこともできる。
明治時代の新政府は近代化を推し進める中で、まさにその点に注目した。困難な時代に日本が一丸となるためには、江戸時代まで「X村の農民」「Y家の家臣」「Z町の職人」だった人々に「日本人」という共通した国民意識を持ってもらわなければならない。そのために「我々は同じ日本人だ」と思わせる音楽が活用されたのである。唱歌や軍歌と呼ばれる歌は、鉄道や通信制度などと同じく、明治政府の関係者が西洋諸国を参考にして導入したものであった。
「 例えば、今日「蛍の光」の名前で知られる唱歌には、かつて次のような歌詞があった。
つくし[筑紫]のきはみ。みちのおく[陸の奥]。うみやまとほく。へだつとも。そのまごゝろは。へだてなく。ひとつにつくせ。くにのため。 」
千島のおくも。おきなは[沖縄]も。やしまのうちの。まもりなり。いたらんくにに。いさをしく。つとめよわがせ。つつがなく。
九州から東北まで、また北海道の千島列島から沖縄まで、場所は隔たっても、日本人は等しく「国のため」に尽くさなければならない。明治政府の切実な願いがここから読み取れる。
そして「君が代」もまた、新政府が作り「上から」国民に与えたものに他ならなかった。つまり、「歌う」ことがもたらす効果を計算した上で「君が代」は敢えて小学校などで導入されたのである。
ただし、単に「上から」強制しただけでは反発を生み、一体感を生み出す効果も弱まってしまう。「君が代」の場合はどうだったのだろうか。ここで比較のため軍歌の例を見てみよう。軍歌こそまさに政府や軍部が民衆に押しつけた音楽だと一般には思われている。
確かに、明治初期の軍歌は、西洋列強に学んだ一部のエリートが作り、民衆に与えたものにすぎなかった。だが、日清戦争が始まると、ナショナリズムに燃え上がる民衆は競って軍歌を買い求め、軍隊を応援し戦勝を祝うため、自発的に軍歌を歌うようになった。同じことは日露戦争や満洲事変の時にもいえる。
こうして軍歌は「上から」と同時に「下から」も生まれ、歌われた。日本の軍歌の総数はおそらく一万曲近くに及ぶが、このような厖大な数は民間の自発性抜きには説明できない。そのため、軍歌は日本の人々を一体化することに大きく貢献したのである。この辺の経緯は、拙著『日本の軍歌』(幻冬舎新書)に詳述したので、ご興味のある方は参照していただければと思う。
これに比べ、「君が代」は一貫して「上から」の要素が強かった。民衆が自発的に「君が代」を歌ったという記録はほとんど見られない。むしろ戦前でも驚くほど「君が代」に対する批判は多かった。国民意識の形成やナショナリズムの高揚という面では、「君が代」より軍歌の方がよっぽど大きな役割を果たしたことだろう。「君が代」斉唱は強制的だったので軍国主義を推進したというよりも、強制的だったために軍国主義を必ずしも推進しなかったとさえいえるかもしれない。
昨今、街頭デモなどで「日の丸」を振り回している「行動する保守」を自称する者たちも、「君が代」はあまり歌っていないように見受けられる。「君が代」はその内容やメロディから、歌い方や歌う場所を選ぶということもあるだろう。その一方で、現在もなお「君が代」が「下から」歌う歌になっていないという一例のようにも思われる。
いずれにせよ、心身を拘束するというある種の暴力を含むからこそ、「君が代」斉唱は敢えて国民化の装置として「上から」導入されたのだった。
我々は「君が代」のオーナーである
とはいえ、現在はもはや「上から」国歌を押しつけるような時代でもあるまい。そもそも民主国家を標榜する日本にあって、国歌とは国民のものである。すなわち、日本人は「君が代」のオーナーにほかならない。「国旗国歌法」もその象徴と理解されるべきだろう。法律であるからには、国民がその気になればいつでも国歌を変更できるのだと。
なるほど教職員は公務員として「君が代」を斉唱する職務命令に従う義務があるかもしれない。児童生徒には教育指導上「君が代」を半ば強制的に斉唱させた方がいいのかもしれない。個人的にはあまりに乱暴な主張なので賛同しかねるが、百歩譲ってそうだとしよう。しかし、それでも圧倒的大多数の日本人にはそんな義務は微塵もない。「君が代」はもはや「上から」注入するような歌ではないのである。
かつて「国旗国歌法」が成立した時、岐阜県の知事が「国旗国歌を尊敬できない人は、日本国籍を返上して頂きたい」などと発言して問題になったが、まったく時代錯誤も甚だしいし、かえって民主国家のシンボルをおとしめたといわざるをえない。
むしろ問題は、いまだに「君が代」を論じる際に公立学校の入学式や卒業式での斉唱くらいしかほとんど話題にならないというところにある。言い換えれば、オーナーである日本人が自分のこととして「君が代」を考えていないことこそ最大の問題なのである。
実際、日本人の多くは「君が代」の意味や歴史についてあまりにも無関心ではないだろうか。あるいは保守派とリベラル派の言い争っている「面倒くさい歌」だと思って、打っ棄(うっちゃ)っているのではないだろうか。その結果、公立学校の児童生徒が入学式や卒業式で無用な緊張を強いられているのだとすれば、国民国家の成員としてこれほど無責任なこともあるまい。
現在「君が代」について日本人に義務があるとすれば、それは「文句をいわずに歌う義務」ではなく「オーナーとして適切に運用する義務」だろう。そのためには、「君が代」の意味や歴史をしっかり知っておかなければならない。 
 
●君が代
『君が代』とは?
『君が代』は、日本の「国歌」です。国歌とは、国を象徴する歌のことで、国民のアイデンティティー(同一性)の証として重要な役割を果たしています。国歌は、主に国民的な祭典やオリンピックのような国際的行事を始め、学校の入学式や会社の式典などで歌われています。
日本の国歌である『君が代』は、世界一歌詞が短い国歌として知られていて、反対に世界一歌詞が長い国歌は、ギリシャの国歌だといわれています。ギリシャの国歌は、158節まであるそうで、フルバージョンで歌うとおよそ55分もかかります。そのため、サッカーの国際試合などの国歌斉唱では、ショートバージョンで歌われるそうです。
『君が代』の歌詞に込められた意味
『君が代』の歌詞は、「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」というものであることはほとんどの方がご存知かと思います。しかし、その意味までをご存じでしょうか?
ここでは、『君が代』に込められた歌詞の意味を紐解きます。
まず「千代に八千代」とは、「千年、そしてそのいく千年先も」という意味があり、「末永く栄えることを願う」という意味があります。「さざれ石」は、漢字で「細石」と書き、小さな石を意味します。このさざれ石は、岐阜県春日村にある「さざれ石公園」に天然記念物として実在します。
そして、「巌となりて」の「巌(いわお)」とは、ゴツゴツとした大きな岩石を意味し、「さざれ石」が長い年月を経て大きな岩=「巌」となることを意味します。最後に登場する「苔のむすまで」は、「さざれ石が巌となり、その巌に苔が生えてくるまで」を意味しています。さざれ石が巌となるまでは幾日もの年月を必要とし、そこに苔が生えるまで……となると、とてつもない年月が経つことが感じられますよね。
これらの「千代に八千代に」も感じられる長い年月は、すべて頭に登場する「君が代」という言葉にかけられています。「君が代」とは、所説ありますが私たちが暮らす「日本」を意味しているとされており、まとめると「日本が末永く栄えることを願う」という意味となります。
『君が代』には2番・3番の歌詞もある?
『君が代』は、上記でご紹介した1番の歌詞のみを歌うことがほとんどですが、実は2番・3番の歌詞も存在することをご存じでしたか?
正確には、現在の『君が代』には、2番・3番は存在しないのですが、明治時代までは存在していたのです。明治時代の文献や教科書には2番・3番の歌詞が掲載されていて、2番は「君が代は 千ひろの底の さざれ石の うの居(ゐ)る磯と 現はるるまで」、3番は「君が代は 千代ともささじ 天(あめ)の戸や いづる月日の 限りなければ」であったそうです。今では幻と化しており、国歌として認められていませんが、このような歌詞も存在していたのですね。
『君が代』の歌詞は和歌から作成されている
『君が代』歌詞は、平安時代の詩集『古今和歌集』に掲載されていた和歌が原案だといわれています。作者は、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王に仕えていた木工職人と言われていますが、身分が低かったため「詠み人知らず」と記されていることが多いです。
『君が代』の原案となった和歌は、「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」というものです。この和歌の意味には、「女性が男性に送った恋の歌」や「身近な人の長寿を願う歌」など諸説があります。
ちなみに、和歌の頭にある「我が君」というのは、和歌が作成された平安時代では、「女性が男性を呼んでいる」ことを意味したそうです。もしかすると「女性が思い人である男性の末永い健康を祈る」というラブレターなのかもしれませんね。
その後、「わが君」という歌詞が国歌に合わせて「君が代」に変更されました。
『君が代』を作曲したのは「イギリス人」だった?
日本の国歌である『君が代』は、これまでに大きく分けると2度にわたって作曲されており、初代『君が代』の作曲を行ったのは、イギリス陸軍の軍楽隊長であるジョン.・ウィリアム・ フェントン氏だといわれています。
日本の国歌なのにイギリス人のフェントン氏が作曲するなんて不思議ですよね。なぜフェントン氏が作曲を行ったのかというと、明治2年にヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アルフレッド氏の来日が決まった際、儀式式典にて国歌を披露しようという案が生まれました。そして、国歌を歌うことを提案したのがこのウィリアム氏だといわれています。その後、国歌を作成するために、イギリス陸軍軍楽隊長であり、薩摩藩の青年に吹奏楽を教えていた経験もあるフェントン氏に作曲を依頼します。
しかし、日本語が分からなかったフェントン氏が作成した初代『君が代』は、日本人の感性には合わずそう広くは伝わらなかったそうです。その後、明治9年に初代海軍軍楽隊長の長倉彦二氏が「天皇陛下ヲ祝スル樂譜改訂ノ儀」と題した上申書を提出したことをきっかけに初代『君が代』の改訂が検討されます。
そして、現在の『君が代』が明治13年に誕生します。現在の『君が代』は、宮内省雅楽課が作曲したものを、ドイツ人の音楽教師であるフランツ・エッケルト氏が編曲しています。
このように「日本の国歌」と言うと「日本人によって作られたもの」を想像してしまいますが、実はこれまでに外国人の方の手も加えられているのです。
『君が代』が歌われていない時代もあった
明治13年に現在の『君が代』として完成して以降、さまざまな場面で『君が代』は歌われてきました。第二次世界大戦までは「国歌平安の歌」として、「天皇陛下が統べる国はいつまでも栄えるように国民が祈っている」と教科書に記載されることもあるほど、親しまれていました。
しかし、第二次世界大戦が始まると、『君が代』は「天皇を称える歌」として「軍国主義」の象徴となっていました。戦後には、そのことをGHQ(連合国総司令部)が指摘し、日の丸の掲揚禁止とともに、『君が代』を歌うことを禁止しました。
『君が代』を歌うことを制限されている期間、日本国憲法の普及活動の一環として、憲法普及会が『われらの日本』を選定し、国歌として歌われることもありました。GHQによる制限は1年ほどで解除されますが、国民のなかでは「天皇を称える歌と解釈できる」として『君が代』に代わる新たな国歌の作成を求める意見も上がっていたそうです。
こうした意見に対して、当時の政府は、「天皇を称える歌」ではなく「我が国=日本の末永い繁栄を祈る歌」であるとの見解を述べています。
『君が代』が正式に国歌と定められたのは1999年?
『君が代』は、明治2年に作成されて以降、さまざまな式典などで国歌として歌われていました。
しかし、『君が代』が正式な国歌として定められたのは1999年になってからです。それまでは「事実上の国歌」として慣習的に斉唱されていましたが、1999年に「国旗及び国歌に関する法律」として法制化されたことで「正式な日本の国歌」として定められたのです。 
 
●君が代
今から千数十年ほど前、延喜五年に出た歌集「古今和歌集」の巻7、賀歌の初めに「題しらず」「読み人知らず」として載っているのが初めです。その後、新撰和歌集にも、和漢朗詠集にも、その他数々の歌集にも載せられました。また、神様のお祭りにも、仏様の供養にも、酒宴の席でも、そして、盲目の乙女の物乞いにも歌われました。
これに曲がつけられたのは、明治2年10月ごろ、当時横浜の英国公使館を護衛するために、日本に来ていたイギリス歩兵隊の軍楽長、ジョン・ウィリアム・フェントンが言い出したからということです。彼は、「儀礼音楽が必要だから、何かふさわしい曲を選んだらどうでしょうか。」と、当時薩摩藩の大山巌に進言し、それに基づいて、大山が数人と相談して、平素自分が、愛唱している琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、その作曲をフェントンに頼んだということとなっています。
しかし、その曲は、日本人の音感にふさわしくないということになりました。1880年(明治13年)、宮内省雅樂課に委嘱し、課員数名の中から奥好義の作品が選ばれ、一等伶人(雅楽を奏する人)の林広守が補作して、発表されたのがこの曲です。これに洋楽の和声をつけたのは、当時教師として日本に滞在していたドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトです。
この曲については、次のようなエピソードがあります。日本の代表的作曲家山田耕作氏は、若い頃ドイツに留学していました。その頃、ドイツの大学の音楽教授たちが、世界の主な国歌について品定めをしました。その結果第一位に選ばれたのが日本の「君が代」でした。
歌詞について
(1)「さざれ石の巌となりて」について
「さざれ石というのは、細かい石のことです。さざれ石が固結した岩石を礫(れき)岩といいます。つまり、さざれ石は巌になるのです。その順序はこうです。
日本列島やアルプスやヒマラヤ山脈などのできかたをみると、大陸の周辺に地向斜という細長い海ができる。そこに大陸から運ばれてきた小さな石(さざれ石)が堆積を続け何千万年という長い間に、圧力で固結して岩石となる。そこが、やがて地殻変動で、隆起して山脈となる。・・・という一連の現象が、地質学の造山論の骨子であります。
地質学発達以前にできた「君が代」が科学的にみて、現代の地質学の理論にピタリと合っているのは不思議なくらいで、歌詞には非科学的なところは少しもないというのが地質学者の見解です。
(2)「君が代は、千代に八千代に」について
これは、「天皇の御代がいついつまでも」と言うような意味です。現代は、民主主義の時代であるのに、天皇を讃える歌を歌うのは矛盾しているという考えもありますが、それは、表面的な解釈と申せましょう。
現憲法の第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」とあります。象徴という言葉を考えてみましょう。「鳩は、平和の象徴である。」というように象徴とは、目に見えないもの表現しにくいものを、目に見えるような形に表したものです。
天皇は、日本国民が一つに統合されるシンボルということになっています。したがって、「君が代は、千代に八千代に・・・」の意味は、現憲法に照らしてみても、「日本及び日本国民が、いついつまでも平和で栄えますように」という意味になります。ですから、民主主義とは、少しも矛盾しないことになります。
イギリスの国歌は、世界で最も古く有名なものですが、労働党内閣ができても、「神よ、守れ、女王を」と歌っています。それで、民主主義と少しも矛盾しないことを、イギリス人は知っているのです。
(3)「歌詞が小さい子供にはわからない」ということについて
小学校の校歌でも、一年生や二年生にも全部意味が分かって歌えるような歌でなければならないということになると、ある意味では、非常に幼稚な歌にならざるを得ません。だから、必ずしも歌というものは、全員が意味を完全に理解してから歌わなくてはならないというものではなく、歌っていくうちに、だんだんその意味が分かってくるというものでよいのでありましょう。国歌は童謡ではないのですから、ただ分かりやすい歌詞というだけでは充分ではありません。
日本を代表する歌の歌詞として、日本文化の中から生まれたもの、古くから人々に親しまれ、しかも、格調の高いものであることが望ましいのでしょう。その意味でも、この歌は、ふさわしいと言えるでしょう。
「君が代」と戦争について
どこの国でも、戦争のときは国歌を歌い、その軍隊は、国旗を掲げて戦争をします。ですから、どこの国の国歌も国旗も、みな戦争につながることになり、特に日本の国だけ戦争の時、国歌を歌ったというわけではありません。戦争というものは、国の総力を尽くしてするものですから、どこの国でも国民の力を結集するために国歌を歌います。
また、当然のことですが、「君が代」を歌えば、日本が再び軍国主義化するとか、戦争につながるという議論は成り立ちません。 日本以外の国でも戦争をしています。それどころか、日本は世界の中でも戦争の少ない国なのです。
竹山道雄氏の「剣と十字架」によれば、1480年(文明12年−室町時代)から、1941年の(昭16年)までの戦争の回数は、次のようになっています。
   イギリス 78回、フランス 71回、ドイツ 23回、日本 9回 
これによっても、日本は平和の続いた国だということが分かると思います。 戦前、日本が軍国主義になり戦争になった原因は、平和を祈っておられる天皇陛下の御心を思うことのできない一部の政治家や軍人、また、自分の利益のみを求める国民の一部に原因があったといえるでしょう。
天皇陛下が、平和を願っておられたことは、陛下の御製を詠むとよく分かります。アメリカとの開戦前、陛下のお気持ち尋ねられた時、日露戦争前に明治天皇が詠まれた御製を繰り返し詠まれました。その御製とは、次のような和歌です。
四方の海、みなはらから(同胞)と思う世に、など波風の立ちさわぐらむ
(海をへだてた我が国のまわりの国々は、皆兄弟だと思っているののに、どうして、互いに敵として,憎み合い、戦争をしょうとさわぐのだろうか。)
国歌としての「君が代」について
フランスの国歌は、初めから国歌として作られたものでも、定められたものでもないのです。だんだん多くの人に用いられていくうちに定まったものです。
これは、一例にすぎませんが、我が国の「君が代」の場合は、一つの法令が発せられているから国歌であるとか、その法令が見当たらないから国歌でないなどと議論してことを決すべき性質のものではないでしょう。
幾百年にわたって、広い地域で多くの先人に歌い継がれてきた「君が代」の和歌が、興るべき時に際会して、稀世のメロディを得、世界に認められる儀礼曲となったものです。一千年を越す歴史の所産なのです。洋楽となってからも90年用いられて、今日に至ったのです。
日本の国歌「君が代」と外国の国歌
外国の国歌と比べてみましょう。外国の国歌は、戦争や血や敵などという戦闘的なイメージが多いのです。それに比べて、日本の国歌は、なんと平和な歌でしょう。
初代の天皇陛下より、代々の天皇陛下は、日本国民を愛し、その幸せと日本国の発展とを祈って来られました。それに対し、国民は、天皇様を尊敬し、お慕い申し上げてきました。だからこそ、2千年以上もの間、この関係は続いてきたのです。 
 
●君が代
1869年(明治2年)、大山巌が、天皇が臨席する儀式用の歌として『君が代』を選んだ。
その後、1880年(明治13年)、宮中の雅楽の楽人がメロディーをつけ、ドイツ人が編曲し、天長節に初めて演奏され、1893年(明治26年)8月12日、文部省が『君が代』等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示。小学校の儀式用唱歌とされた。
君が代
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで
(現代語訳) 君が代は、千年も八千年も、細石が大きな岩になってそれにさらに苔が生えるほどまで、長く長くずっと続きますように / 汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが時代を経て、あつまりて大いなる岩となり 神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
   《きみ》=完璧に成長した男女が
   《代》=時代を超えて
   《千代に八千代に》=永遠に千年も万年も、生まれ変わってもなお
   《さざれ石の巌となりて》=結束し協力しあい、団結して、
   《苔のむすまで》=固い絆と信頼で結びついていこう
君が代の本当の意味 国歌は天皇を崇拝する歌ではなかった
なぜ「君が代」は、そんなに素晴らしい歌とされたのでしょうか。理由の一つに「君(きみ)」があります。お祝いの歌の代表作として紹介されたのが、「君が代」です。「君」は君主をあらわすと­いう人がいますが、それは間違いです。
世界の国歌
オランダ
父なる神よ 奴らの邪悪なたくらみを許すな
私のこの無実の血で 奴らの手が染まることのないように
アメリカ
危険きわまりない戦闘の最中にも 我らが死守する砦の上
星条旗は雄雄しくひるがえっていただろうか?
赤き閃光を引く砲弾の降りそそぐ夜を徹して
おお我らの星条旗は ゆるぐことなく いまだ、そこにはためいていた
中国
奴隷となりたくない人々よ!
我らの血と肉をもって築こう 我らの新しき長城を
中華民族 最大の危機に際し
ひとりひとりが最後の鬨(とき)の声をあげるときだ
起て! 起て! 起て!
我ら万人心を一つにして 敵の砲火をついて前進しよう!
ポルトガル
武器を取れ! 武器を取れ!
大地に大海に! 祖国のために戦わん!
大砲に向かって進め、進め!
フランス
圧制に抗する我らのもとに 血まみれの旗ひるがえり
聞け、戦場にあふれるおびえた敵兵の叫びを
子供たちや妻の喉を掻ききろうとしている
市民たちよ 武器をとれ!
トルコ
この怒りは何なのか?
我らの国旗のために流した血は
自由と独立がなければ無駄になる
ルーマニア
いまわしき圧制の足枷を引きちぎり
今こそ輝かしき地平を目指せ
深きまどろみを振りはらい 凶暴なる敵にみせしめよ
メキシコ
メキシコの民よ、聞け 戦いの鬨の声
剣と鞍の用意は整った
大砲のとどろきで大地の底までふるわせろ
デンマーク
ふたたび敵を追いつめんと進軍した
彼らの屍は 今はこの地に眠る 石柱と塚の下に
アイルランド
いざ今宵、命知らずの俺たちは
悲しみも喜びもアイルランドに捧げ
大砲とどろき 銃声つんざくなか 兵士の歌をくちずさむ
ウクライナ
敵は陽にさらされた朝露のごとく死に絶える
そして兄弟よ、我らは幸福に満たされ 祖国に生きるだろう
自由を勝ち得んと魂も肉体さえも顧みず
兄弟よ我らコサック魂を知らしめよ
セルビア・モンテネグロ
生きよ、生きよ、スラヴの精神よ 永久に生き続けよ
地獄の穴などものともしない 火を噴く砲撃などものともしない
ポーランド
我らここにあるかぎり たとえ敵に蹂躙されようとも 剣もて闘い討ち取らん
ベトナム
遠く轟く銃声も 我らの行軍の歌にかき消され
栄光への道のりを 敵の屍を踏み越えて進む
すべての困難を克服し 抵抗の基盤を築くのだ
民族の切なる願いが有るかぎり 我ら戦場に赴き 闘おう!
ロシア
ロシア、我等が聖なる帝国 ロシア、最愛の祖国
強大な意思の力 偉大なる栄光
常しえに誉れ高くあらん
ドイツ
祖国ドイツに統一、正義そして自由を! 友よ、共に進もう!
兄弟のように、心を重ね、手を取り合って
統一、正義そして自由は幸福の証し
幸せの輝きの中 栄えよ、祖国ドイツよ!
イギリス
神よ我らが慈悲深き 女王陛下を守りたまえ
我等が高貴なる女王陛下の永らえんことを
神よ我らが女王陛下を守りたまえ 勝利・幸福そして栄光を捧げよ
御代の永らえんことを 神よ我らが女王陛下を守りたまえ 
 
 

 

学生時代 卒業式
友との別れ
 
 

 

「蛍の光」
   蛍の光、窓の雪、書読む月日、重ねつゝ、
   何時しか年も、すぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く。
      止まるも行くも、限りとて、互に思ふ、千万の、
      心の端を、一言に、幸くと許り、歌ふなり。
   筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、
   その真心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為。
      千島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり、
      至らん国に、勲しく、努めよ我が兄、恙無く。
日本の唱歌である。原曲はスコットランド民謡 「オールド・ラング・サイン」であり、作詞は稲垣千頴による。
タイトル
作詞時の曲名は『螢』、後に『螢の光』となった。新字体では「蛍の光」となる。
経緯
「オールド・ラング・サイン」は、ヨーロッパ中に、さらには海を越えてアメリカ大陸へも普及していった。明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するとき、稲垣千頴が作詞した今様形式の歌詞が採用され、「蛍の光」となった。
1881年(明治14年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編(小學唱歌集初編)に載せられた。
歌詞
オリジナル
以下の歌詞は、小学唱歌集初編(1881年(明治14年)11月24日付)に掲載された時のものである。
   蛍の光、窓の雪、書読む月日、重ねつゝ、
   何時しか年も、すぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く。
      止まるも行くも、限りとて、互に思ふ、千万の、
      心の端を、一言に、幸くと許り、歌ふなり。
   筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、
   その真心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為。
      千島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり、
      至らん国に、勲しく、努めよ我が兄、恙無く。
蛍雪の功
歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われる、一途に学問に励む事を褒め称える中国の故事が由来である。
「 東晋の時代の車胤は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた。そして、この2人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。 」
文部省による改変
3番は出版前の1881年(明治14年)の段階では
「 つくしのきはみ みちのおく わかるゝみちは かはるとも
かはらぬこころ ゆきかよひ ひとつにつくせ くにのため 」
という歌詞だった。これを文部省でチェックしたところ、普通学務局長の辻新次から「かはらぬこころ ゆきかよひ」という部分が男女の間で交わす言葉だという指摘が出たために、翌年まで刊行が延びた。奥付は1881年(明治14年)11月であるが、実際に刊行されたのは1882年(明治15年)4月のことである。
4番の歌詞は、領土拡張等により文部省の手によって何度か改変されている。
千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり(明治初期の案)
千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり(千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて)
千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり(日清戦争による台湾割譲)
台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり(日露戦争後)
歌われる場面
『NHK紅白歌合戦』の最後に、この曲の大合唱が行われることが恒例(『第4回NHK紅白歌合戦』以降。第14回を除く)。かつては、2番まで歌われたことがあったが、後に1番のみとなった。指揮は歴代順に、藤山一郎(1993年死去)、宮川泰(2006年死去)、平尾昌晃(2017年死去)、都倉俊一が担当している。
東京ディズニーリゾートのカウントダウン・パーティにおいて、カウントダウンセレモニーの一環として3分前から2分から2分半の時間演奏される。
全国高等学校野球選手権大会の閉会式で最後に合唱される。
1988年/1989年の年跨ぎまで放送されていた全民放版「ゆく年くる年」では、一社提供スポンサー・セイコーによる午前0時の新年時報直前まで全国各地を生中継で結んで大合唱されていた。 1967年/1968年の回(日本テレビ制作、司会:坂本九・吉永小百合)では、ダークダックスが東京・銀座の和光(セイコーの関連会社)の屋上で名物の時計台をバックに歌唱した(直後の新年時報は、同時計台のウェストミンスターチャイムによる「生時報」)。なおこの場面はキネコ映像として現存している。ただし1980年/1981年の回(日本テレビ制作、司会:徳光和夫・露木茂・金子勝彦他)では、生合唱どころか演奏も行わず、セイコーのCMを放送した(そのCM自体はこの時1回限りのオンエア。なお新年の時報は中継先のセイコーの時計をバックにそのCM明けに男性ナレーターが「1981年1月1日、正0時の時報をセイコーがお送りします」とアナウンスした)。
阪神タイガースファンが試合中、相手チームの投手が途中降板する際、応援団の指揮でファンが1番のみ、ペンライトの代わりに応援バットを左右に振って厳かに合唱し、すぐさまテンションを上げ六甲おろしを大合唱するのが定番である。しかし2006年(平成18年)7月25日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)から、阪神が優勢の時のみ歌う形に変更になった(同点・劣勢の時は「オペレーションビクトリー」を歌う)。
ネコの5匹組コーラスグループMUSASHI'Sがカバー、2008年(平成20年)3月3日からMusic.jp配信。
1964年に行われた東京オリンピックの閉会式では、この曲の大合唱で式典を締めくくった。
2014年5月13日に行われた国立競技場建て替え前の最後のイベント「SAYONARA国立競技場プロジェクト」では、先述の東京オリンピック閉会式に倣ってこの曲の大合唱で最後を飾った。
大相撲の1984年(昭和59年) 9月場所は蔵前国技館で開催された最後の場所であり、千秋楽では当時の協会役員、全幕内力士が土俵下に集結し、観客と一緒にペンライトを振って、この曲とともにフィナーレを飾った。
NHK総合テレビで2014年12月16日に生放送された音楽番組『わが心の大阪メロディー』のエンディングで、米国人女優・シャーロット・ケイト・フォックス(2014年度後期の連続テレビ小説『マッサン』のヒロイン役)がオールド・ラング・サインを歌唱した後、出演者全員で1番を大合唱した。
学校の卒業式シーズンでは、地方を中心に在校生がよく歌う曲の1つとして知られている。
赤塚不二夫の『天才バカボン』では、バカボンのパパたちが先生と一緒に卒業しようとした際に、先生がバカ田大学に残ることを決めると、パパたちが裏切り者として先生を火あぶりにした時に『蛍の光』を歌う描写があり、先生は処刑される際に三択クイズで「君たちは(1)バカ(2)カップヌードル(3)浅田飴」を出す描写がある。
『マッサン』の第22週終盤に、登場人物の息子が出征する事になり、壮行会では自宅に張り込んでいる特高刑事の耳に入らないよう、ウイスキー庫の戸を厳重に締め切り、主人公一家・工場の工員たちと原曲で合唱していた。
1963年7月公開の映画『日本一の色男』(監督 - 古澤憲吾)のプロローグ、女学校の卒業式で光等(植木等)の弾くピアノによってこの曲が歌われるが、直後、等が曲を「無責任経」に替えて歌い踊った事で校長(清水元)と教頭(佐田豊)を怒らせ、等は首となる。
1950年の黒澤明監督映画『醜聞』の中で、クリスマスパーティで浮かれるバーの酔客が「来年こそは頑張る」と言ってこの歌を歌い始めると、金のため不正を働き葛藤する主人公の弁護士も、来年こそは蛆虫から真人間に変わるのだと決しながら涙し歌い、その場にいた全員がそれぞれの思いを噛みしめながら合唱する。
日本で演奏・使用される場面
大日本帝国海軍では「告別行進曲」もしくは「ロングサイン」という題で、海軍兵学校や海軍機関学校等の卒業式典曲として使われた。士官や特に戦功のある下士官等が、艦艇や航空隊等から離任する際にも、演奏もしくは再生された。地方を中心に、日本全国で「仰げば尊し」とともに、卒業式の定番唱歌であるなど、別れの曲としてよく知られている。
図書館・博物館などの公共施設や、ショッピングセンターなどの商業施設で、閉館・閉店時間直前のBGMとして、アナウンスと伴に館内放送で流し、暗黙に顧客の退出を促している。また一部の公共交通機関で、終着地に到着する時に流れる場合も有る。
東京ディズニーランドと東京ディズニーシーのカウントダウン・パーティにおいて、カウントダウンセレモニーの一環として3分前から2分半演奏される。
阪神タイガースの試合で、投手交代時に使用される。
かつて、青森駅と函館駅を結んだ青函連絡船において、毎回の出港時にメロディが流れた。現在では、東海汽船の貨客船が東京および各島を出港する際にこのメロディが流れる。
北大阪急行千里中央駅では、終電専用の発車メロディとして採用されている。かつては阪急電鉄梅田駅でも、第二次世界大戦後から長期に渡り、終電の発車メロディとして使用されていたが、「(蛍の光は別れの曲というイメージが強いため)暗い」「明日への元気を感じさせる元気な曲にしてほしい」という意見を受けたため「第三の男」のテーマへと変更した。
鉄道路線が廃線になる際、最終列車が出発する前のセレモニーでも流れることが多い。
別れのワルツ
日本では、多くの公共施設や商業施設において、閉館・閉店直前のBGMとして流されるという認識が多い「蛍の光」だが、実際は「蛍の光」の原曲(オールド・ラング・サイン)を三拍子に編曲したものであることが多い。日本では「別れのワルツ」として知られているが、その経緯は以下のとおりである。
この三拍子バージョンの初出は、MGM映画の「哀愁」で主役の二人がクラブで踊るシーンだった。この映画が日本で公開されたのは1949年で、映画とともに音楽も強い印象を与えた。そこでコロムビアレコードはこの曲('Farewell Waltz'と呼ばれている)をレコード化しようとしたが、音源がなかったため、古関裕而に採譜と編曲を依頼。古関はこの仕事を完遂し、「別れのワルツ」のタイトルで日本でレコード化され、大ヒットした。なおこの際、「編曲:ユージン・コスマン(EUGENE COSSMANN) 演奏:ユージン・コスマン管弦楽団」とレコードに表記されていた上、洋楽規格のレコードで発売されたため、人々はこれを外国録音の演奏だと思い込んでいた。実際には「ユージン・コスマン」なる人物は存在せず、「古関裕而」の名前をもじったものである。
ユージン・コスマン管弦楽団の「別れのワルツ」は1953年までに累計29万枚、1953年のクリスマスセールで10万4000枚を販売している。  
 
 

 

蛍の光 諸話
 
●蛍の光
   蛍の光 窓の雪 (ほたるのひかり まどのゆき)
   書読む月日 重ねつつ (ふみよむつきひ かさねつつ)
   いつしか年も すぎの戸を (いつしかとしも すぎのとを)
   開けてぞ今朝は 別れゆく (あけてぞけさは わかれゆく)
      とまるも行くも 限りとて (とまるもゆくも かぎりとて)
      互みに思う 千万の (かたみにおもう ちよろずの)
      心のはしを ひとことに (こころのはしを ひとことに)
      幸くとばかり 歌うなり (さきくとばかり うとうなり)
   筑紫のきわみ 陸の奥 (つくしのきわみ みちのおく)
   海山遠く へだつとも (うみやまとおく へだつとも)
   その真心は へだてなく (そのまごころは へだてなく)
   ひとえに尽くせ 国のため (ひとえにつくせ くにのため)
      千島の奥も 沖縄も (ちしまのおくも おきなわも)
      八洲のうちの まもりなり (やしまのうちの まもりなり)
      いたらん国に いさおしく (いたらんくにに いさおしく)
      つとめよわがせ つつがなく (つとめよわがせ つつがなく)
蛍の光や雪に反射して窓から差し込む月の光を使って、書物を読む日々を重ねていると、 いつの間にか年月が過ぎ去っていき、今朝は杉でできた扉を開けてクラスメートと別れていく
ふるさとに残る者もふるさとから出るものも今日限りでお別れということで、互いに思う何千、何万という、心の端々をたった一言、「無事で」とばかりに歌うのである
九州の果てであろうと東北の奥であろうと、海や山が遠く隔てたとしても、真心だけは場所に関係なく、 ひたすらに力を尽くせお国のために
千島列島の奥も沖縄も、日本の支配下にある、日本の支配が届かない国には勇敢に、「仕事」をしてください男性のみなさん、どうぞご無事で
解説
○蛍の光 窓の雪 / これは、灯油も買えなかった苦学生が蛍を捕まえてその光を利用したり、窓から差し込む雪の照り返しを利用したりして夜も勉強をし、その人は立派な役人になったという中国の有名な故事を元にした歌詞です。「蛍雪の功(けいせつのこう)」という言葉としても残っています。
○書読む月日 重ねつつ / 前の歌詞を受けて、そんな苦労をしながら書物を読む日々を重ねながらという意味です。
○いつしか年も すぎの戸を / これはそのままなのですが、「すぎの戸を」の「すぎ」は「過ぎ」と「杉」の掛け言葉です。ですから、「いつの間にか年月が過ぎ、杉の戸を」と訳すのがいいでしょう。
○開けてぞ今朝は 別れゆく / これはそのままです。「杉の戸を開けて今朝はクラスメートと別れていく」という意味です。
○とまるも行くも 限りとて / 「とまる」はここではその土地にとどまること、「行く」はその土地から別の土地に出て行くことを表します。また、「とまるも行くも」は「者」が省略されていると考えられるので、「ふるさとに残る者も出て行く者も」と訳すのがいいでしょう。
○互みに思う 千万の / 「互み」は「互いに」という意味です。「別れる人々がそれぞれ抱くたくさんの思い」という感じでしょうか。
○心のはしを ひとことに / 前の歌詞と合わせて、「たくさんの思いの端々を一言にまとめて」という感じです。
○幸くとばかり 歌うなり / 「幸く」は「無事で」という意味です。これも前の歌詞と合わせて、「たくさんの思いを無事でという一言にまとめて歌うのである」という感じです。
○筑紫のきわみ 陸の奥 / 「筑紫」は九州の事、「陸の奥」は「みちのく」、つまり東北の事です。どちらも中心から遠く離れた土地の例として挙げられています。
○海山遠く へだつとも / これはそのまま、「海や山が遠く隔てても」という意味です。
○その真心は へだてなく / これもそのままです。前の歌詞を受けて「その真心はどんなに遠く離れた場所であろうとも隔たることなく」という意味です。
○ひとえに尽くせ 国のため / 「ひとえに」は「ただひたすらに」ということ。「国のため」は当然「日本国のために」ということです。戦前に生まれた歌詞なので軍国色がありありと出ています。
○千島の奥も 沖縄も / 「千島」は「千島列島」の略で、「沖縄」と同時に「日本」の範囲を表現しています。
○八洲のうちの まもりなり / 「八洲」は「日本」の別の言い方で、「日本」より上品な言い方です。前の歌詞と合わせて、「千島列島から沖縄までは日本の支配下にある」といった感じでしょうか。
○いたらん国に いさおしく / 「いたらん」は「日本の支配が及ばない」、「いさおしく」は「勇敢に」ということで、全体で「日本の支配が及ばない国には勇敢に」という意味です。
○つとめよわがせ つつがなく / 「わがせ」は女性が夫や恋人、男兄弟を親しみを込めて呼ぶ言葉、「つつがなく」は「無事に」という意味です。夫や彼氏、兄弟には他国を支配できるようがんばって欲しいという感じの意味です。  
 
●「蛍の光」は別れの歌ではなかった
「蛍の光」は、卒業式に歌われるイメージがあります。しかし元々はスコットランドの歌であり、歌詞も別れを意味するものではありません。では、どんなときに歌うのでしょうか。
スコットランドの歌に日本語詞をつけた「蛍の光」
「蛍の光」の元となった歌、「Auld Lang Syne」の歌詞は、スコットランドの詩人であるロバート・バーンズによるものです。作曲については諸説ありますが、今はスコットランド民謡として知られています。明治時代にアメリカから日本に伝わり、日本語の歌詞がつけられました。
「蛍の光」は、本当は4番まであります。でも、最後の方は軍国的な歌詞もあるので、今、主に歌われているのは1、2番でしょう。
「開けてぞ今朝は別れゆく」とあることや、その曲調から、日本では別れの歌というイメージが定着しました。しかし、原曲の歌詞は、旧友と再会し、酒を酌み交わすというものです。
大晦日、輪になって手をつないで歌う
スコットランドの国民的な歌として愛されている「Auld Lang Syne」は、あらゆる場面で歌われます。その一つに大晦日があります。大晦日のことを、スコットランドではHogmanay(ホグマネイ)といいます。
新年を迎えるときに、人々が輪になって手をつなぎ、「Auld Lang Syne」を歌います。フォークダンスのように、中心に集まったり離れたりもしますし、手を交差させてつなぐこともあります。家族や友人とも歌いますが、知らない人とでも手をつなぐと、何だか楽しく、一体感が出て、心が通い合う気がします。
ですから、別れの歌というよりも、節目節目で歌うものといった方がいいかもしれません。
日本とは正反対、大騒ぎの新年
日本では、クリスマスは恋人や友人とパーティをし、新年は家族でゆったり過ごすイメージがあります。もちろん、最近は派手なカウントダウンもありますが、除夜の鐘とともに、静かに新年を迎える人も多いでしょう。
一方で、海外ではクリスマスはお店も閉まり、家族で過ごします。そして、新年は大騒ぎをするのです。スコットランドでは特に、クリスマスはカトリック的だということで、教会があまり盛大に祝うことを奨励しなかったという歴史があるそうです。その代わりに、新年は火を使った派手なイベントが多いようです。大都市では花火があがりますし、火の玉転がしや、船のレプリカを燃やす祭りなどが行われます。
国によって、風習はいろいろ違いますね。 
 
●卒業式で「蛍の光」を歌う理由と歌わない理由
「蛍の光」とは?
「蛍の光」とは、英名で「Auld Lang Syne」(オールド・ラング・サイン)。スコットランドに伝わるメロディーを元に、スコットランドの詩人ロバート・バーンズが作詞したスコットランド民謡です。
アメリカやイギリス、スコットランドなどの英語圏では、大晦日のカウントダウンで年が明けた瞬間に歌われる新年ソングとなっています。
日本でも、『NHK紅白歌合戦』のフィナーレに歌われますし、「東京ディズニーリゾート」のカウントダウンパーティーでも流されます。
デパートなどの商業施設では、閉店を告げるBGMとして流されます。これは、何だか「早く帰れ」と言われてるみたいでイヤですね。
卒業式で「蛍の光」が歌われる理由
1879年、日本で小学校唱歌集を編纂するとき、今様形式の歌詞が採用され、「蛍の光」となりました。
1881年、尋常小学校の唱歌として小学歌集初級に掲載され、全国の小学校に広がりました。
また、旧帝国海軍では「告別行進曲」や「ロングサイン」という名で、海軍兵学校や海軍関係の学校の卒業式で使用されました。士官クラスや戦功のある下士官が艦艇や航空隊から離任する際にも使用されました。
おそらく、海軍を除隊した人が故郷に戻り、卒業式での使用を提唱したのでしょう。明治期は元軍人は地方の名士となりましたので、卒業した学校への発言力は大でした。
こうした経緯から、「別れを惜しむ曲」のイメージが国民の間で定着し、地方から徐々に卒業式の「定番」になっていったようです。
卒業式で「蛍の光」が歌われない理由
年々、卒業式で歌う学校は減ってきているようです。歌われない理由の1つに、歌詞の内容にあるようです。
1 ほたるのひかり、まどのゆき、ふみよむつきひ、かさねつゝ、いつしかとしも、すぎのとを、あけてぞけさは、わかれゆく。
2 とまるもゆくも、かぎりとて、かたみにおもふ、ちよろづの、こゝろのはしを、ひとことに、さきくとばかり、うたふなり。
3 つくしのきはみ、みちのおく、うみやまとほく、へだつとも、そのまごころは、へだてなく、ひとつにつくせ、くにのため。
4 ちしまのおくも、おきなはも、やしまのうちの、まもりなり。いたらんくにに、いさをしく、つとめよわがせ、つゝがなく。
特に問題視されるのは、3番と4番です。現代文に直してみます。
3番 / 九州の果てだろうと東北の奥だろうと 海や山が遠く隔てたとしても 真心だけは場所に関係なく ひたすらに尽くせお国のために
4番 / 千島列島の奥も沖縄も 日本の領土である 日本の支配が届かない国には勇敢に 男たちよ、つつがなく勤勉に努めなさい
確かに愛国心を求める軍歌的中身となっています。さらに、4番の「千島の奥も、沖縄も」の部分は、明治以降の歴史を如実に反映した歌詞へと度々、変更されていました。
• 千島の奥も沖縄も (明治初期)
• 千島の奥も台湾も (日清戦争後の台湾割譲)
• 台湾の果ても樺太も (日露戦争後の南樺太割譲)
3番と4番が実際に歌われることはありませんが、今日とは違う意味の愛国心を育てる目的を持った歌詞と判断されているものと推察されます。
現在の3番の「千島の奥も」についても、戦後の日本政府は千島列島はロシア領だと認めているわけで、間違った認識を与えかねないのも確かです。
別の理由としては、優れた作詞家や作曲家によって、児童・生徒がより感情移入しやすい、ドラマチックな曲が誕生していること、などがあげられています。

確かに、3番4番の歌詞に問題はないとはいえません。ただ、ややこしい議論は避けて、無難に穏便にという風潮が教育現場で大勢となり、すべてが「子どもが好むから」ということが優先され過ぎているのではないかと思います。 
 
●閉店の定番BGM
誰もが知る閉店BGMが誕生して浸透するまで
商業施設の閉店BGMとして広く知られている「別れのワルツ」と、その曲名として勘違いされている「蛍の光」は、実は別の楽曲です。この2曲はともに同じ原曲からアレンジされて生まれた曲であり、別々の歴史をたどった上でどちらも日本に浸透しました。原曲が同じであるため、「別れのワルツ」と「蛍の光」は混同されるようになったのだと考えられています。
原曲は、イギリス北部のスコットランドに伝わる民謡「オールド・ラング・サイン」。離れていた旧友との再会を喜ぶ内容で、別れを惜しみ、次にまた再会できることを願って歌われます。昔から歌われていたこの歌をスコットランドの詩人がアレンジしたものが有名で、このメロディは日本をはじめ世界中に広まっています。
「蛍の光」
「オールド・ラング・サイン」のメロディに日本語の歌詞をつけたのが「蛍の光」です。海軍の学校の卒業式で歌われたのが最初だと言われています。そのことから「別れの曲」のイメージが定着し、小学校などの卒業式でも広く歌われるように。卒業式で歌ったことがある、あるいは歌ってもらったことがあるという方も多いのではないでしょうか。
「別れのワルツ」
一方、「別れのワルツ」は一度アメリカを通って日本にやってきた楽曲で、1949年に日本公開された映画『哀愁』で使われていたのが始まり。主人公と恋人が「オールド・ラング・サイン」に合わせて踊るシーンがあり、映画のヒットに合わせてダンスシーンのBGMも話題になりました。ただしこの映画で流れていた「オールド・ラング・サイン」は、映画のために4分の4拍子から4分の3拍子に編曲されたもので、原曲とはリズムの取り方が異なります。ダンスシーンが閉店間際のシーンだったこともあり、有線放送などで採用されるようになって「閉店のBGM」として定着することとなりました。「別れのワルツ」という曲名は、日本でレコード化する際につけられたものです。
「別れのワルツ」を聞いて帰りたくなるのはなぜか?
店舗で「別れのワルツ」が流れると、「もう閉まるから帰らなければ」と閉店時間を気にするようになります。閉店のアナウンスがなくてもそう感じるのはなぜでしょうか。
ひとつは、「別れのワルツ」が閉店BGMとして根強く浸透していることがあげられます。「別れのワルツ」が流れてから5分〜10分程度で閉店する、「別れのワルツ」と一緒に閉店のアナウンスが流れるというシーンに何度か居合わせると、「別れのワルツ」=閉店という条件反射を体が覚えるのです。
もうひとつ、「別れのワルツ」の拍数が関係していることも考えられます。「別れのワルツ」は3拍子であり、ほとんどが4拍子の日本の音楽ではなかなか出会わないリズム。「別れのワルツ」はゆったりとした曲ですが、3拍子であることで違和感を覚えてじっとしていられなくなるのかもしれません。
もちろん、「蛍の光」だと勘違いされていることも印象づけに一役買っていると言えます。卒業式などで歌われる「蛍の光」は別れのイメージが強く、そう思って「別れのワルツ」を聞くことで自然と別れ(閉店)の空気を感じるのです。
閉店BGMとして「別れのワルツ」を流すメリット
多くの商業施設で閉店BGMとして採用されている「別れのワルツ」ですが、この楽曲を使用することにどのようなメリットがあるでしょうか。
ひとつは、すでに広く浸透しているBGMであるためにスムーズに退店をうながせるというメリットがあります。お客様は「別れのワルツ」が流れることで閉店時間が近いことを知り、特別なアナウンスがなくても自然と急ぎ足になります。
お客様に不快な思いをさせにくい、というメリットもあります。アナウンスのみで閉店を知らされたりまだ商品を見ている最中に片付けを始められたりすると、お客様に不快感を与えてしまうことも。「別れのワルツ」であれば自然と閉店の雰囲気を演出できるので、無用な感情のすれ違いを避けることが可能です。
みんなが知っているBGMを活用しよう
閉店のBGMとして広く知られている「蛍の光」は、実は「別れのワルツ」という原曲を同じにする別の楽曲でした。その歴史をたどってみると、「蛍の光」や「別れのワルツ」がより身近なものに感じられるのではないでしょうか。日本人の耳によく定着している「別れのワルツ」は自然と閉店の雰囲気を作ることができるため、閉店前のBGMとしてぴったりです。
音楽配信サービス「OTORAKU -音・楽-」では、「別れのワルツ」をはじめとした閉店用のBGMを流せるプレイリストを公開しています。閉店用のプレイリストは、カテゴリの「ショップ・ツール」の中から検索可能。「別れのワルツ」以外には、ドヴォルザークの「家路」や日本語・英語の両方で流せるアナウンスなどが収録されています。お客様に不快な思いをさせず、スムーズに閉店作業を行えるよう、ぜひ活用してみてください。 
 
●蛍の光
はじまり
明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するとき、稲垣千頴が作詞した歌詞が採用され、「蛍の光」となった。1881年(明治14年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編(小學唱歌集初編)に載せられた。
歌詞
以下の歌詞は、小学唱歌集初編(明治14年11月24日付)に掲載された時のものである。
   蛍の光、窓の雪 書読む月日、重ねつゝ
   何時しか年も、すぎの戸を 開けてぞ今朝は、別れ行く
      止まるも行くも、限りとて  互に思ふ、千萬の
      心の端を、一言に 幸くと許り、歌うなり
   筑紫の極み、陸の奥 海山遠く、隔つとも
   その眞心は、隔て無く  一つに尽くせ、國の為
      千島の奥も、沖繩も 八洲の内の、護りなり
      至らん國に、勲しく 努めよ我が背、恙無く
1番
歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われる、一途に学問に励む事を褒め称える中国の故事が由来である。“東晋の時代の車胤は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた。そして、この2人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。”
経緯
現在、『蛍の光』は2番までしか歌われないことがほとんどだが、紹介した歌詞のとおり、本来は4番まである。3番と4番は、遠く離れ離れになっても、それがたとえ辺境の地であろうとも、国のために心をひとつにして元気にそれぞれの役割を果たそう、というような内容であった。戦後はこの国家主義的(軍国主義、滅私奉公)とも取れる歌詞が敬遠され、また日本固有の領土である千島や沖縄が他国の占領下に置かれたという事情もあり、教育現場への指導などによって歌われなくなっていったと言われている。なお、「至らん國に」の部分は様々な解釈が可能であり、日本の主権や正義が「至らぬ国(=敵国、蛮国)」、自身が「至らむ国(派遣される場所)」、「(いざ)至らん、国(故郷)に」など幾通りかの見解が存在する。
改変
3番は出版前の1881年(明治14年)の段階では
   つくしのきはみ みちのおく
   わかるゝみちは かはるとも
   かはらぬこころ ゆきかよひ
   ひとつにつくせ くにのため
という歌詞だった。これを文部省でチェックしたところ、普通学務局長の辻新次から「かはらぬこころ ゆきかよひ」という部分が、男女の間で交わす言葉だというクレームがついたために、翌年まで刊行が延びた。奥付は1881年(明治14年)11月であるが、実際に刊行されたのは1882年(明治15年)4月のことである。
4番の歌詞は、領土拡張等により文部省の手によって何度か改変されている。
   千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり(明治初期の案)
   千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり(千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて)
   千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり(日清戦争による台湾割譲)
   台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり(日露戦争後)
願い
このように、明治天皇が掲げた「八紘一宇」の理念を正面から受けた素晴らしい歌が、社会情勢やイデオロギーによって改変されてきたことは悲しい限りである。昨今の近隣諸国との関係を鑑み、多くの人が4番までの歌詞を理解し、先人の思いや、その功績に感謝するようになることを願うばかりである。
先人がいて、私たちがいる。将来の国民にとっては、私たちも先人の一員となる。イギリスの歴史学者・トレンビーは言っている、「自国の歴史を忘れた民族は滅びる」 。
戦後、GHQは日本に対して歴史と修身(道徳)の教育を禁止した。その理由は、トレンビー言葉からも明らかである。今こそ、自国の歴史を取り戻す必要がある。 
 
 

 

学生時代 卒業式
先生に感謝
 
 

 

「仰げば尊し」
   仰げば尊し 我が師の恩
   教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
   思えばいと疾(と)し この年月(としつき)
   今こそ別れめ いざさらば
      互(たがい)に睦し 日ごろの恩
      別るる後(のち)にも やよ忘るな
      身を立て名をあげ やよ励めよ
      今こそ別れめ いざさらば
   朝夕馴(なれ)にし 学びの窓
   蛍の灯火 積む白雪
   忘るる間(ま)ぞなき ゆく年月
   今こそ別れめ いざさらば
1884年(明治17年)に発表された日本の唱歌。卒業生が教師に感謝し学校生活を振り返る内容の歌で、特に明治から昭和にかけては学校の卒業式で広く歌われ親しまれてきた。ニ長調または変ホ長調が多い。8分の6拍子で、編曲されたものが何種類か存在する。 2007年(平成19年)に「日本の歌百選」の1曲に選ばれた。
明治から昭和、及び平成の初頭にかけては、学校の卒業式においてしばしば歌われた定番の曲であり、2010年代後半の現在でも30代以上の世代を中心として多くの日本人の記憶に残る歌である。その知名度ゆえ映画やドラマにおいてもたびたび用いられており、映画『二十四の瞳』(高峰秀子主演、1954年公開)に見られるように作品の中でも重要な役割を果たすこともある。一方、1990年代半ば以降の平成期においては、大都市の公立学校(特に小学校)を中心に卒業式の合唱曲を『仰げば尊し』から『旅立ちの日に』、『贈る言葉』、『さくら (森山直太朗の曲)』といったその時々の流行曲に変更する学校も散見される。『仰げば尊し』の使用が減った理由としては、歌詞が「いと」「やよ」のような古語を多く含む文語調であるため、特に古文の学習前の小学生にとっては分かりにくいということが、背景として言われている。戦後、児童文学者の藤田圭雄はこの歌詞を現代風にアレンジしたが、あまり普及しなかった。また2番の「身を立て名をあげ」の部分が立身出世を呼びかけていて「民主主義」的ではないという見方から、『仰げば尊し』を歌う学校の中には本来の2番を省略して3番を2番として歌うこともある。一方で、近年中国人歌手のジェイド・イン (Jade Yin) による日本語の曲が評判になったことや、桜井雅人による原曲の発見により、再評価も生まれている。
また、台湾では現在も卒業式の「定番曲」として『仰げば尊し』が広く使用されており、映画『冬冬の夏休み』では冒頭からこの曲が使われている。台湾には日本統治時代に伝わり、終戦以降も引き続き中国語の歌詞によって使用されている。歌詞は「中華文化高揚」というような民族的・政治的な色彩を加えているものの、日本語の歌詞の影響下で作られたものであり、その歌詞においても関連性が認められる。
歴史
「仰げば尊し」を巡っては、研究者の間でも長いあいだ作者不詳の謎の曲とされてきた。これまで作曲者については、作者不詳のスコットランド民謡説や伊沢修二説などがあったが、いずれも決定的な証拠がなかった。 しかし2011年1月に一橋大学名誉教授の桜井雅人が、「Song for the Close of School」という楽曲が、1871年に米国で出版された楽譜『The Song Echo: A Collection of Copyright Songs, Duets, Trios, and Sacred Pieces, Suitable for Public Schools, Juvenile Classes, Seminaries, and the Home Circle.』に収録されていることを突き止めた。その旋律やフェルマータの位置は「仰げば尊し」と同一であり、また同書が基本的に初出の歌曲のみを載せていたことから、この楽曲こそが原曲であると推測された(これ以外の収録歌集は現在知られていない)。同書は作曲者を「H. N. D.」、作詞者を「T. H. ブロスナン」と記載している。作詞者のブロスナンはその後保険業界で活躍したことが知られているが、作曲者の「H.N.D.」についてはどのような人物であったかは定かではない。「H.N.D.」を『ソング・エコー』の編者ヘンリー・パーキンズ(Henry Southwick Perkins、1833-1914)とする仮説もあるが、確たる証拠はない。
日本には文部省音楽取調掛の伊沢修二らが移植した。正確な経緯は分かっていないが、この歌集が伊沢修二の手元にあったとの記録(手書きの文書)は発見されている 。 日本語の歌詞は、大槻文彦・里見義・加部厳夫の合議によって作られたと言われている。1884年(明治17年)発行の『小学唱歌集』第3編より収録されたのが、唱歌としての始まりである。
原曲を載せた歌集は日本の図書館等では見つかっていないが、アメリカやイギリスの図書館で少数ながら所在が判明しており、また桜井によって版元の違うものを含めて数冊が収集され、研究が進められている。2014年2月にキング・レコードから発売されたCD『仰げば尊しのすべて』には、桜井を含む研究者による解説が添付され、この曲の過去の経緯や現在の状況が述べられている。翌2015年には、『仰げば尊し――幻の原曲発見と『小学唱歌集』全軌跡』(桜井雅人・ヘルマン=ゴチェフスキ・安田寛共著、東京堂出版)が刊行され、「仰げば尊し」を含む『小学唱歌集』収録曲の全容が判明した。
歌詞
   仰げば尊し 我が師の恩
   教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
   思えばいと疾(と)し この年月(としつき)
   今こそ別れめ いざさらば
      互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩
      別(わか)るる後(のち)にも やよ忘るな
      身を立て名をあげ やよ励めよ
      今こそ別れめ いざさらば
   朝夕馴(な)れにし 学びの窓
   蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
   忘るる間(ま)ぞなき ゆく年月
   今こそ別れめ いざさらば
「別れめ」の「め」の部分でフェルマータ(音を適宜延ばす)が掛かる。
題および歌詞は、歴史的仮名遣いでは「あふげばたふとし」である扇(あふぎ)をおおぎと発音する例に見るように、おおげばとおとしと発音するのが正しい という議論があるが、倒る(たふる)を「たおる」と読み下すのと同様に、仰ぐ(あふぐ)は「あおぐ」と読み下すのが正しい 。 また「今こそ別れめ」は係り結びであり、実際は「今まさに別れよう」というような意味になる。「別れ目」と誤解される場合があるが誤りである。
2番の「身を立て 名を上げ やよ励めよ」にあたる原詞は「「But when in future years we dream Of scenes of love and truth,(だが、幾年も後の未来に、私たちは愛と真実の場を夢見る。)」である。代替として、藤田圭雄による歌詞も存在する。  
 
 

 

仰げば尊し 諸話
 
●明治の心で蘇った「仰げば尊し」 
2月に「仰げば尊しのすべて」と題されたとても興味深いCDが発売になった。これまで出た「すべてシリーズ」の「軍艦マーチのすべて」「君が代のすべて」「海ゆかばのすべて」「蛍の光のすべて」も、これらの名曲を新鮮な視点から再考させる好企画であったが、今回の「仰げば尊しのすべて」も、卒業式の歌として明治以降、日本人の心に沁(し)み込んだ名曲の様々な録音を収録している。中でもやはり木下惠介監督の『二十四の瞳』の劇中歌がいい。
「仰げば尊しのすべて」という企画が生まれたのは、これまで小学唱歌の中で最大の謎とされてきた「仰げば尊し」の原曲が判明したことによってであった。平成23年1月に桜井雅人・一橋大学名誉教授によって、原曲が『ソング・エコー』という1871年にアメリカで出版された歌集に載っていたことが発見されたのである。
「すべてシリーズ」の企画のいいところは、詳細な解説資料が付いていることだが、「仰げば尊し」のCDにも、桜井氏をはじめとする研究者の方々の大変為になる解説が入っている。それによれば、アメリカの原曲も、「ソング・フォア・ザ・クローズ・オブ・スクール」で卒業式のための歌であった。しかしこの原曲は、1871年6月にニューハンプシャー州の学校の卒業式で歌われたとの記録が残っているが、それ以降のことは分らないとのことである。
このCDには、アメリカで歌われた原曲を、テキサス大学エルパソ校大学合唱団によって再現した演奏の録音も入っているが、この合唱団の面々も初めて歌ったのであろう。「本国では超無名曲であったことがはっきりしているようである」と桜井氏は書いているが、このような歴史の中に一瞬出現したような「超無名曲」が、十数年後の明治17年に公刊された『小学唱歌第三編』に日本語の歌詞をつけられた「仰げば尊し」として登場するのである。
そして翌年の上野公園内の文部省館で行われた音楽取調所の第1回卒業演奏会で歌われた。和楽器も使った当時の演奏を再現したものもCDに収録されているが、この卒業演奏会を機に卒業式の定番となっていったわけである。
それにしても、今日では歴史から忘れられたような歌集に載っていた曲を当時見つけたのは明治人の誰であったのか。なぜ、この曲が持つ秘められた音楽性を感受できたのか。桜井氏は、その文章を結んで、この曲を「見出した選曲眼の持ち主は誰であったか、原曲が発見されるとさらにミステリーが広がってくる」と書いている。
この「選曲眼」の鋭さこそ、「明治の精神」の深さの一面であろう。そして明治人の国語力がいかんなく発揮された歌詞が付けられることによって、この原曲は、日本の名曲に変容したのである。
解説書に入っている皇學館高校教諭の田中克己氏の文章も興味深い。氏は戦後になってから「仰げば尊し」がどのように扱われてきたかについて、音楽教科書や卒業式の観点から論じている。卒業式には、現在では全国的にみると小学校で11・1%、中学校で25・4%しか歌われていない。音楽教科書には、掲載率は100%に近いのだが、本来3番まである唱歌なのに「互(たがい)に睦(むつみ)し」から始まる2番の歌詞が削除されている教科書が、昭和50年代から加速度的に増え、最近では100%に近い。
2番の歌詞「互に睦し 日ごろの恩/別るる後にも やよ 忘るな/身を立て 名をあげ やよ 励めよ/今こそ 別れめ いざさらば」が、削除されている理由について、氏は各発行者から「立身出世と解釈できる場合があり時勢にそぐわないとのご意見が教育現場を中心に数多くよせられた」といった回答を得た。戦後の「時勢」とは、こういうものであろう。しかしこういう「ご意見」はもうそろそろ「数多く」はなくなってきているのではあるまいか。
私が「仰げば尊し」の中で、一番心打たれるのは、実はこの削除されている2番なのである。それも「やよ」のところである。この「やよ」という歌声の響きの意味が分らなければ、「仰げば尊し」の真価も分らないであろう。
福田恆存は、日露戦争の戦跡、旅順を訪ねた時の回想を書いている文章の中で、斎藤茂吉の歌「あが母の吾を生ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや」をあげ、それについての芥川龍之介の「菲才(ひさい)なる僕も時々は僕を生んだ母の力を、−−近代の日本の『うらわかきかなしき力』を感じている」という文章を引用している。
「仰げば尊し」の「身を立て 名をあげ やよ 励めよ」は、表面的な「立身出世」の掛け声ではない。「やよ」は、明治の日本の「うらわかきかなしき力」からの声なのである。近代日本の「うらわかきかなしき力」の歴史を思い出すためにも、また改正教育基本法にある我国の文化と伝統の尊重のためにも、この唱歌は歌い継がれなければならないであろう。 
 
●「仰げば尊し」の顛末
卒業式の定番だった「仰げば尊し」が歌われなくなったのは、平成になってからでしょうか。敬遠された理由はいくつかあげられます。第一に、歌詞があまりに古文調であり、到底小学生や中学生には理解されないことでしょう。
確かに一番の「はやいくとせ」は意味が掴みにくく、「早い」のか「行く」のか迷ってしまいます。ここはまず「いくとせ」が「幾年」であることを理解しましょう。そうすると「はや」は「早くも」となります。
続く「思えばいととし」の「いととし」にしても、大学生でも解釈できそうもありません。特に「とし」はお手上げのようです。中には「いとおし」と勝手に勘違いしている人もいるようです。これは漢字をあてれば「疾し」で、意味は「早い」ことです。つまり歳月が早く過ぎさったことを述懐しているのです。また二番に二回出てくる「やよ忘るな」・「やよ励めよ」の「やよ」も難解ですよね。これは呼びかけの言葉で意味はありません。だから「忘れるな!」・「励め!」(「よ」も強調です)でいいんです。
繰り返される「今こそ別れめ」(今まさに別れよう)の「め」も誤解されているようですね。多くは「節目」「境目」の「目」と誤解して「別れ目」と思い込んでいるのではないでしょうか。これは古典文法の係り結びです。係助詞の「こそ」に対応して「別れむ」が已然形の「別れめ」になっているのです(三番の「忘るる間ぞなき」も同様です)。これで歌のだいたいの意味はわかりましたね。
二番の歌詞には別の問題があります。「身を立て名をあげ」というのは、中国の『孝経』を踏まえて立身出世を奨励しているということで、戦後の民主主義にそぐわないと判断され、二番も歌われないことが多かったようです。私などは『二十四の瞳』の映画で歌われているのを聞き、いい歌だなと思ったのが最初の印象でした。幸いこの曲は「日本の歌百選」に選ばれています。
そもそもこの曲は誰が作ったのでしょうか。文部省唱歌の大半は、外国の曲を元にしているようなので、この曲もその可能性が高いのですが、長いこと原曲がわかりませんでした。英米の民謡を研究されている桜井雅人氏が、執念で原曲を探し当てたのは、なんと平成二十三年のことです。
一八七一年(明治四年)にアメリカで出版された『The Song Echo』(ヘンリー・パーキンス編)という本の中にあった「Song for the Close of School」という曲がそれです。曲名も「卒業の歌」ですからピッタリですね。作詞はT・H・ブロスナンで、作曲はH・N・Dとありますがどんな人かは不明です。おそらくこの本を文部省音楽取調掛の伊沢修二が入手し、明治十七年に刊行された『小学唱歌集三編』に収めたのでしょう。日本語の歌詞は、同じく音楽取調掛の大槻文彦・里美義・加部厳大の三人の合議でまとめられたようです。
原曲の歌詞は友達との別れが主題になっています。ところが日本語の歌詞は、原曲を参考にしつつも、当時の社会を反映してか先生(師)と生徒(教え子)の別れに作り替えられています。「教えの庭」(校庭ではなく庭訓(教育)のこと)と「学びの窓」という対もその象徴です。意図的に卒業する生徒が恩師に感謝するというストーリーにされたことで、教師に従属を強いているという反発を招いたのでしょう。もはや先生は尊敬される対象ではなくなっているようです。 
 
●都立高や養護学校で「仰げば尊し」が歌われない理由
内舘牧子『聞かなかった聞かなかった』を読んだ。ずいぶん古い話もある。すべて当時のまま、と後書きにある。たとえば「スピリチュアルな趣味」の占い師の件。占いには興味がないが、ある時ヒマつぶしに何気なく見てもらったところ、あまりの的中に背筋が凍りついたという話である。
「何を見て欲しいの?」「4月に友達と東欧を旅行するんです」「東欧はダメ。やめた方がいい。ダメ」「何でダメなんですか」「どうしてなのか、よくわからないの。私にも。でも東欧はダメ、よくない兆しがでているわ」。理由がわからず困っている占い師。これは恐かった。キャンセル料は私が払うとまで言って、有給休暇を取得済みの同行予定の女友達を、むりやり引き留める。
果たして、東欧への第一歩、ウクライナのキエフに入るはずの4月26日、まさにその日、チェルノブイリ原発事故が起こったのだ。31年前のお話だ。お礼を言おうと、何日か後に池袋のサンシャイン劇場に占い師を訪ねたが、占いのコーナー自体がなかった。あの的中とともに、何だか夢を見たような気がしたという。
牧子さんはずっと前から、日本の若い人たちの声の小ささが気になっていた。加えて、語尾が消え、歯切れが悪く、明確に言い切ることを避ける傾向にある。かつての日本人はもっと大きな声で語り、曖昧な言い方はしなかった。「みたいな」や「とか」の濫用、妙なところで「?」と語尾上げ、断定を避ける。
この頃の「かな」は不気味で、往生際が悪い使い方をされる。国会議員が「ちょっと残念だったかな」とか言う(笑)。なぜ断定しないのか。自分の気持ちになぜ「かな」が必要なのか。「なるのかなと思う」なんてのも、バカか〜。わたしも国会議員の発言の、あまりの愚かさにウンザリする。いちおう有名大学の出身なのにな。
東京都の教育委員になって、毎年都立高や養護学校の卒業式、入学式に参列してきた。驚いたことに「仰げば尊し」が歌われない。関係者の歯切れの悪い説明を、牧子さんが推測するに、その理由は「仰ぐ」「尊し」が「人間みな平等」の考え方に合わないから、らしい。敬語は「差別」になる、らしい。バカか〜。
「同じ人間、一方が一方に恩を感じるのは平等ではないし、もとより、教え導くのは教師の仕事である。恩を感じて仰ぎ見る必要はない!」と日教組がゴリ押ししているのだろう。「身を立て名をあげ」は立身出世・功名願望の「悪」であり、「身を立て名をあげ」たくても、さまざまな事情でそれができない人もいるからこれは「人権問題」だという。いいがかりも甚だしいではないか。
次々と情けない日本人の言動を嘆く牧子さん。あとがきにある、京大チームの興味深い実験結果の話がよかった。生後6か月の乳児が「正義」を好意的に受け止めているのだ。Aバージョンの映像は、強者キャラが弱者キャラを攻撃している。赤い人形がそれを見ているが、助けに行かない。見ているだけだ。
Bバージョンの映像は、強者が弱者を攻撃するのは同じだが、青い人形が見ていて、弱者を助けに入る。この二種類の映像を乳児たちに見せた後で、弱者を助けなかった赤い人形と、助けた青い人形を同時に差し出した。すると、母親らに抱っこされた乳児たちは、赤と青の人形を交互に見て、青い人形に手を伸ばす。
じつに20人中17人が青い人形にタッチした。京大チームは「弱者に対する攻撃を止める行動」に、乳児が共感を覚えた可能性があると、海外の科学誌電子版に発表した。京大チームは「正義への憧れは生まれつき備わった性質なのではないか。いじめの理解や解決につながるかもしれない」としている。内舘牧子はこの説を信じる。わたしも信じたい。どこを読んでも、堂々「寄り切り」の牧子さんである。 
 
●ポスト「君が代」問題か 『仰げば尊し』を問題視する意見も
卒業式の国歌斉唱で、教職員が本当に歌ったかどうかのチェックを行ったと報じられ、行き過ぎた教師監視の象徴として大きな批判を浴びた大阪府立和泉の中原徹校長(41)。その中原校長がインタビューに応じ、実は卒業式についてはもう一つ問題があったと語った。

校内では君が代より『仰げば尊し』のほうが議論があったんです。先生の側から『仰げば尊し』なんてもう歌わなくていいという意見があった。
『仰げば尊し』の歌詞については近年、一部の保護者や教師から、「教師が『我が師の恩』と歌うよう強制するのはおかしい」「『身を立て』は、時代錯誤の立身出世主義だ」といった批判があり、『君が代』と並んで攻撃対象にされているんです。
ベテランの先生に聞いたら、君が代はもう条例化されてしまったから、今後は『仰げば尊し』を問題にしようとする人たちがいるというのです。師に対して無理やりお礼をしろ、尊敬をしろという歌はけしからんと批判するのだと。職員同士で議論もしましたが、3年生の担任団の先生たちが、やはり厳かな日本の伝統として入れたいというので、今年は歌うことになりました。
生徒たちには、国歌を歌うときには国に、校歌を歌うときには学校に、『仰げば尊し』を歌うときにはお世話になった先生に、それぞれ感謝の気持ちを込めてしっかり歌おうといいました。 
 
●「仰げば尊し」「蛍の光」はなぜ卒業ソングの定番になったのか
月日の流れは早いもので、気付けばもう3月。卒業シーズンになりました。
卒業式では、新たなステージへと踏み出す卒業生はもちろん、見送る後輩や先生、成長を見守る家族も、うるっときてしまうもの。特に「仰げば尊し」「蛍の光」などの卒業ソングを歌っているとき、涙があふれてしまった経験がある人は少なくないのでは?
ところで、これらの楽曲が卒業式の定番ソングになったのは、なぜなのでしょうか。
「仰げば尊し」「蛍の光」はもともと海外の曲
「仰げば尊し」の原曲はアメリカの「Song for the Close of School」という曲で、「蛍の光」の原曲はスコットランドの「Auld Lang Syne」。もともとは海外の曲なのです。
実際に原曲を聞くと、演奏内容がそっくりなことが分かるはず。日本語の歌詞を覚えているせいで、むしろ、歌詞が外国語であることに違和感を覚えてしまうかもしれません。
では、海外で歌われていたこれらの曲は、どういった経緯から日本で親しまれるようになったのでしょうか。その始まりは、明治時代までさかのぼります。
文明開化を迎えた明治時代、日本では西洋音楽による音楽教育が始まりました。そのなかで、明治14年から明治16年にかけて「小学唱歌集」という日本で最初の音楽教科書が発行されました。
それに採用された曲の大部分は海外の曲で、日本語の歌詞がつけられました。
「小学唱歌集」」は第1編から第3編まであり、第1編に掲載された曲の中に「蛍の光(当時の曲名は「蛍」)」、第3編に「仰げば尊し」がありました。日本人は、教科書をきっかけにこれらの曲に触れるようになったのです。
「蛍の光」「仰げば尊し」が、卒業ソングとして定着した理由
蛍の光
「Auld Lang Syne」として海外で生まれた「蛍の光」。しかし、そのメロディーは、日本の伝統的な音楽と同じ特徴を持っています。
日本の伝統的な音楽では、よく「四七(よな)抜き音階」が使われている(ドレミを番号に置き換えると、4番目のファ、7番目のシを欠いている)のですが、「Auld Lang Syne」のメロディーも、この四七抜き音階になっているのです。
「蛍の光」がここまで日本で親しまれるようになったのは、そもそも日本人に親しみやすいメロディーだったからかもしれません。
しかし、歌詞内容はけっこう違っており、「蛍の光」は別れの曲ですが、「Auld Lang Syne」は「旧友と再会し、昔をしのびつつ杯をあげよう」という内容になっています。
教科書に載せるうえで、原曲通り「杯をあげる(お酒を飲む)」という歌詞は教育上よろしくないということで、「蛍の光」には全く違う歌詞がつけられることに。その際に、別れというテーマが採用されたのは、かつて大日本帝国海軍の海軍兵学校などでの卒業式や、士官たちが離任する際に演奏されていたためなのではないでしょうか。
仰げば尊し
「仰げば尊し」は、第1編にあった「蛍の光」の他に、もう1つ卒業式歌としてふさわしい歌を、ということで加えられました。実際にそのように歌われてきたため、定番化したのでしょう。
ちなみに、「Song for the Close of School」では学校や級友との別れが歌われており、歌詞内容が「仰げば尊し」とそこそこ似ています。
そして現在へ……
ところで、「仰げば尊し」「蛍の光」は最近、卒業式で歌われることが少なくなってきているようです。筆者自身もこれまでに参加した卒業式で、これらの曲を歌った記憶がありません。
この理由の1つとして、卒業式の曲選びが生徒主体で行われるようになってきたことが挙げられます。生徒側が希望する流行曲を取り入れる学校も多いようです。
現在の小学生には「ありがとう」(いきものがかり)や「365日の紙飛行機」(AKB48)などが人気だそうですが、保護者世代でも「贈る言葉」(海援隊)や「卒業写真」(松任谷由実)などが歌われていたとか。長年愛されてきた定番曲よりも、自分たちがよく知っている新しい曲を好む傾向は、今も昔も変わらないのかもしれません。 
 
●「『仰げば尊し』に異論」 「教師への尊敬を強要」しているのか
卒業式で「仰げば尊し」を歌うことに異論を唱える公立学校教職員らがいる、と改めて注目されている。歌詞の一部が「教師への尊敬を強要するものだ」という趣旨のようだ。
大阪府立高の卒業式で「国歌斉唱の口元チェック」を指示したと報じられた、和泉高校の中原徹校長が、週刊ポスト最新号の記事中で、「仰げば尊し」に校内で異論があったことを指摘したのが、注目を集めたきっかけだ。
「もう別の歌に替えてもいいのでは」
中原校長に話を聞いた。中原校長は弁護士で、橋下徹・大阪市長の友人だ。橋下氏が府知事時代、民間人校長として採用された。
中原校長は、卒業式で「仰げば尊し」を歌うことに対し、「もう別の歌に替えてもいいのでは」と異論を唱える教職員がいることを知り、卒業式の前、教職員間で話し合いをした。これまでも議論を重視し、話し合いを通じて解決してきたという。
「仰げば尊し」へ異論があることを最初に耳にした際は、「異論がある理由・意味が分からなかった」。校長になる前に約10年間、アメリカの弁護士事務所で働いていたこともあり、ピンと来なかったのだ。
ベテラン教員に聞いてみると、君が代問題は府の起立斉唱条例ができたので、「仰げば尊し」の方を問題視する教職員もいるようだ、との解説だった。
約60人の教職員のうち、異論を述べたのは2人程度だ。「教師が自分の方から『ほめろ』と生徒に求めるのはおかしい」といった理由だった。しかし、3年生の担当団の教員らが「『仰げば尊し』を歌うのはこの学校の伝統だし、歌った方がよい」という意見だったことで、異論を述べた教職員も「それなら」と歌うことを受け入れた。
卒業式後、中原校長が約30人のPTAの保護者に「仰げば尊し」の感想を聞いたところ、「小中学校の卒業式では歌わないことが多いので、懐かしかった」といった意見が多く、「仰げば尊し」を歌うことへの反対論はなかった。
歌詞の「師」は、「学校の先生だけではない」
中原校長は、保護者らの反応を教員らへメールで送った。一部には反対論もあるかもしれないが、社会通念上は「仰げば尊し」を歌うことは歓迎されていると考え、来年度からも歌っていく方針を示した。
中原校長自身はどう考えているのか。「まず、学習指導要領や府条例で決まりがある君が代斉唱とは、問題の次元がまったく別です」と指摘した。
国歌斉唱以外では、「仰げば尊し」を含めどんな歌を歌うかは、学校ごとに自由に決めればよい。生徒や保護者の意見を聞きながら、教職員らが話し合い、最後は校長が決済する。
「『仰げば尊し』を守るべきだ、と考えているわけではない」
しかし、教職員らとの話し合いの場では、「歌詞にある『師』とは、学校の先生だけでなく、自分たちを育ててくれた人一般を指し、感謝を示しているのではないか」という意見を述べた。また、
「あくまで問題は、教職員の服務規律の意識の低さ。『仰げば尊し』より、マスコミにはこちらの問題をもっと報じてほしい」
と注文をつけた。
先の「ベテラン教員」の指摘のように、府の国歌起立条例を受け、「仰げば尊し」に反対する教職員が増えている傾向はあるのか、日本教職員組合(日教組)のある大阪府関係者にきいてみた。すると、統計はないが「仰げば尊し」を歌っている学校はかなり少ないとみられ、「話題になっていない」とのことだった。
「仰げば尊し」への異論は以前からあった。朝日新聞の2011年1月26日付のコラム「天声人語」では、歌詞の「わが師の恩」などの句に対し異論があるとして、「だんだん歌われなくなった」と指摘していた。
小中高校の卒業式ソングに関して、「すららネット」(eラーニング教材を展開)が3月7日発表した調査結果によると、総合1位は、埼玉県の中学校長らがつくった「旅立ちの日に」、2位はレミオロメンの「3月9日」だった。4位には「栄光の架橋」(ゆず)、5位には「ありがとう」(いきものがかり)が入った。  
 
●仰げば尊し〜昭和世代の大定番卒業ソングのルーツを辿る
   仰げば 尊し 我が師の恩
   教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
   思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
   今こそ 別れめ いざさらば
      互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩
      別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな
      身を立て 名をあげ やよ 励めよ
      今こそ 別れめ いざさらば
   朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
   蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
   忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
   今こそ 別れめ いざさらば
3月といえば、やはり卒業シーズンである。
卒業生の皆さん、おめでとうございます。
今では世代によって卒業ソングも様々でしょうが…40代以上の人達に「卒業式に唄った曲は?」と問えば、大多数がこの「仰げば尊し」をあげるのではないだろうか?
今日はこの(明治〜昭和世代の)卒業ソングとして大定番として知られる「仰げば尊し」の誕生エピソードをご紹介します。
まず、日本においてこの歌が初めて唄われたのは、今から130年以上も前にさかのぼる1884年(明治17年)。
その年に発刊された『小学唱歌集第三編』での紹介が初出だったという記録が残っている。
当時の日本といえば、まだ音楽教育制度が十分でなかった時代。
欧米諸国から大きく遅れを取っていたこともあり、日本政府はアメリカのボストンから音楽教育者として実績のあったルーサー・ホワイティング・メーソンメーソンを招聘する。
メーソンの指導の下、西洋音楽の中から日本人に親しみやすい曲を選び、そのメロディーに日本語の歌詞を付けて、音楽教育(唱歌)の教材としたのだ。
現在でも唱歌として親しまれている「ちょうちょう」や「ふじの山」と共に、この「仰げば尊し」も明治時代に生まれた歌の一つだった。
この歌はこれまで映画やドラマでも数多く用いられており、特に木下恵介監督の名作『二十四の瞳』(高峰秀子主演/1954年公開)で生徒達が唄うシーンは、日本の映画史に残る名場面と言われている。
研究者の間でも長い間“作者不詳”とされてきたこの「仰げば尊し」。
その起源を辿ると…古いスコットランド民謡説や、前出の『小学唱歌集』を編纂した人物でもある伊沢修二(近代日本の音楽教育の第一人者)が作ったという説などがあったが、いずれも決定的な証拠がなかった。
しかし2011年1月に「仰げば尊し」の原曲が発見されるニュースが流れ、それまでの謎が解明されることとなる。
1871年にアメリカで出版された楽譜(音楽教材)に収録されていた「Song for the Close of School」という楽曲のメロディーと歌詞の内容を聴けば誰もがうなずくことだろう。
   今日別れる私たちは
   やがて神様のお導きによってまた巡り合う
   この教室から旅立ち
   それぞれ自分たちの道をゆく
      記憶の中で生きる
      幼い頃の友だち
      光と愛の国で
      私たちは再会する
   さようなら古き学び舎
   過ぎ去りし楽しき集い
   懐かしき朝の歌声
   午後の賛美歌
      私たちはいつか思い出す
      愛と真実の場を
      この教室こそ最愛の思い出
      私たちが若き日に共に学んだ場所
   さようなら愛しき教室よ
   さようなら親愛なる級友たちよ
   絆は解かれた
   私たちの魂は強く結ばれていた
      かたい握手に心は満ち
      目には涙があふれる
      ああ 惜別の時
      級友たちよ さようなら
歌詞の内容は「仰げば尊し」と共通点も多く、かなり原曲をふまえた訳詞がなされていたと言えるだろう。
これを突き止めたのは、一橋大学で英語学・英米民謡、歌謡論などを専門に教えていた名誉教授・桜井雅人(当時67歳)だった。
この音楽教材(The Song Echo: A Collection of Copyright Songs, Duets, Trios, and Sacred Pieces, Suitable for Public Schools, Juvenile Classes, Seminaries, and the Home Circle)には基本的に初出の歌曲のみが掲載されていたことから、今回の発見・推測が一番真実に近いとされている。(これ以外の収録歌集は現在知られていない)
楽譜には「Song for the Close of School」の作曲者としてH. N. D.、作詞者T. H. ブロスナンと記載されている。
作詞者のブロスナンは、その後保険業界で活躍したことが知られているが、作曲者のH.N.D.についてはどのような人物であったかは定かではない。
──長きに渡って愛唱され続けてきたこの「仰げば尊し」も、現在ではあまり歌われなくなったという。
「教師への恩を強制するけしからん歌だ!」などの反対意見やクレームがまかりとおり、一時期は各学校の卒業式から消えてしまったのだ。
最近は(地域によっては)復活しつつあるらしいが…色んな意味で“窮屈”な世の中になってきているのは確かなようだ。 
 
●「仰げば尊し」
ある年齢の人までは、『蛍の光』と並んで忘れられない卒業式ソングです。小・中・高校の卒業式で歌われたのは、昭和30年代後半あたりまででしょうか。その後は、文語で言葉がむずかしいとか、2番の立身出世主義が民主的でないなどの理由で、ほとんど歌われなくなりました。
「我が師の恩」意識が薄まったせいもあるかもしれません。『旅立ちの日に』とか『贈る言葉』『さくら』など、今、卒業式でよく歌われている歌は、在校時代の思い出や将来への希望を歌ったものがほとんどで、先生はあまり出てきません。
これも時代の流れでしょうか。
さて、『仰げば尊し』ですが、明治15年(1882)から同17年(1884)に出版された我が国最初の児童用音楽教科書『小学唱歌集』に載ったのが最初で、以後卒業式で歌われるようになりました(『スコットランドの釣鐘草』の注参照)。
この時代の唱歌の例で、作詞・作曲者は不明とされていました。作曲者については文部省音楽取調掛(東京芸術大学の前身)の責任者だった伊沢修二とも、スコットランド民謡ともいわれていましたが、正確なことはわかりませんでした。
ほとんどの人はこれを日本オリジナルの歌と信じて歌ってきました。
この問題に決着をつけたのが、一橋大名誉教授の桜井雅人さん。桜井さんは平成23年(2011)1月、この曲が1871年にアメリカ・ニューヨークで出版された曲集 『The Song Echo』のうちの1曲であることを発見しました。
出版者はヘンリー・S・パーキンスで、『A Collection of Copyright Songs, Duets, Trios, and Sacred Pieces, Suitable for Public Schools, Juvenile Classes, Seminaries, and the Home Circle.』という長い副題がついています。
曲名は『Song for the Close of School』で、ずばり卒業の歌です。8分の6拍子で、メロディも『仰げば尊し』そのまま、「別れめ」の「め」にフェルマータがついている点も同じです。
作詞者はティモシー・H・ブロスナン(1838.〜1886)で、この詞を書いたころは校長でしたが、のちに実業界に転じ、生命保険会社の社長になりました。
作曲者については、H.N.D.としかわかりません。
ともかく『仰げば尊し』の身許が明らかになったわけで、唱歌研究史上画期的な発見といえます。
なお、『The Song Echo』は散逸してしまって原本はなかなか見つからないようですが、Google Booksに全ページ無料で公開されているので、関心のある方はそちらをご覧になるといいと思います。
かつて日本の植民地だった台湾では、現在でもこの曲が卒業式ソングとして定着しています。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の名画『冬冬(トントン)の夏休み』では、冒頭にこの歌が流れています。歌詞は台湾オリジナルのものですが、日本語の歌詞の影響が若干感じられます。
歌詞がむずかしいので、少しばかり注釈をつけておきます。まず各聯の最後に出てくる「今こそ別れめ」ですが、多くの小学生はこれを「別れ目」、すなわち別れる瞬間と思って歌っていました。もちろん私もそうでした。
が、これは係り結びという文語独特の表現法です。普通の肯定文では述語は終止形で終わりますが、内容を強調したい場合には、前に係助詞を置き、述語を連体形または已然形にします。係助詞が「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合は、「姿ぞ見ゆる」のように述語は連体形で終わります。
いっぽう、係助詞が「こそ」の場合は述語は已然形になります。「今こそ別れめ」がその端的な例です。そこで「め」の意味ですが、これは意志や決意を示す助動詞「む」が元の形です。したがって、「今こそ別れめ」は「さあ今別れよう」といった意味になります。
これ以外の言葉については、以下の通りです。
いと疾(と)し=非常に早い。
睦(むつみ)し=睦ぶ、または睦むが元の形で、仲良くする、親しく交わるといった意味。
やよ=呼びかけの言葉。やあ、さあ、やいなど。
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪=中国の故事からきた言葉。晋(しん)の時代、車胤(しゃいん)は貧しくて灯す油が買えなかったので、蛍を集めてその光で勉強し、同じく貧しかった孫康(そんこう)は、夜は窓外の雪に反射する月の光で勉強していた。二人とも、学問がなってのちに朝廷の高官に出世したという逸話から。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 



2019/1