七夕

天の川
短冊に願いを書く
笹竹に結ぶ
何時頃からだろえか 思い出せない

夏の風物詩
渡良瀬川 花火大会 二尺玉
 


 

七夕伝説 / 七夕1七夕2七夕3七夕4仙台七夕七夕6織姫彦星物語天の川・・・
棚機津女 / 棚機津女伝説古事記日本書紀先代旧事本紀水の女・・・縄文人の世界観祭りの再魔術化・・・
乞巧奠 / 乞巧奠乞巧奠2平安時代源氏物語江戸の祭礼・・・
中国の七夕伝説 / 伝説1伝説2七夕節七夕伝説の精神史七夕の起源・・・
 
●七夕伝説 諸話
 
七夕 1
中国、日本、韓国、台湾、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。旧暦では7月7日の夜のことで、日本ではお盆(旧暦7月15日前後)との関連がある年中行事であったが、明治改暦以降、お盆が新暦月遅れの8月15日前後を主に行われるようになったため関連性が薄れた。日本の七夕祭りは、新暦7月7日や月遅れの8月7日、あるいはそれらの前後の時期に開催されている。
歴史
中国
織女と牽牛の伝説は「文選」の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。
一方、「西京雑記」には、前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠の風習が記されているが、織女については記されていない。
その後、南北朝時代の「荊楚歳時記」には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん)と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した「小説」には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」「月令廣義」七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。
日本
日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた。
「たなばた」の語源は「古事記」でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は「日本書紀」葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、「萬葉集」卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。
そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある。
日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。その後、平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。
乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは「荊楚歳時記」に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また「平家物語」によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
風習
日本
ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。
全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。
サトイモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。
このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。
富山県黒部市尾山地区では、2004年(平成16年)7月16日に富山県の無形民俗文化財に指定、2018年(平成30年)3月8日国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択された七夕流しが、毎年8月7日に行われる。子供達が満艦舟や行燈を作り、和紙で人型人形である「姉さま人形」を折る。夕刻から姉さま人形を板にくくり付け地区内を引き回し、午後9時になると両岸に七夕飾りを立てた幅約1mの泉川に入り、満艦舟や行燈、姉さま人形を流すものであり、江戸時代より続けられている。
地域によっては半夏生の様に農作業で疲労した体を休めるため休日とする風習が伝承していたり、雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。
沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。
他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。
台湾
台湾では、7月7日はの七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神の床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また台南や鹿港では做十六歲という成人式をこの日に行う。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。
大韓民国
大韓民国では七夕をチルォルチルソッ(7月七夕)といい、この日に牽牛と織女が1年ぶりに会ってうれし涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられている。その日の晩に雨が降れば、それは牽牛と織女が流すうれし涙、2日間、夜に雨が続けば別れを惜しむ涙だと言われている。 その日は伝統的に各家庭でミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)とヘッグヮイル(季節の果物)を供え、女性らはチャントッテ(醤油がめやみそがめを置く高台)の上に水(井戸水)を供え、家族の長寿と家庭の平安を祈願する。また、少女らは牽牛星と織女星を見上げながら、針仕事が上手くなるよう願う。チャントッテの上に水(井戸水)を供えたあと、灰を平らに盆にのせて、翌日そこに何か通り過ぎた跡があれば、霊感があって針仕事が上手くなると信じられている。また少年らは学問に秀でるため夜空に星を描いて祈る。 また、梅雨が過ぎたあとの湿気で、衣類や書籍類に虫がついたり変質することを防ぐため、七夕の日の強い夏の日差しにあて、家ごとに井戸水を汲み取ってきれいにした後、蒸し餅を作り井戸の上に置いたりして七夕の日を過ごした。七夕の日の料理にはミルクッス(小麦粉で作った麺、うどん)とミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)がある。この日をさかいに冷たい風が吹き始めると小麦粉料理の季節は終わりとなり、最後の小麦粉料理となる。また、鯉を材料としたインオフェ(鯉のさしみ)、インオグイ(鯉の焼き魚)、そしてオイキムチ(きゅうりのキムチ)などを食べ、桃やスイカで作ったクァイルファチェ(いろんな果物を入れて混ぜた飲み物)を飲む 。
中華圏
以前の女性の運命は結婚して、夫に従い子を教えるしかなかったので、少なからぬ女性が牽牛と織女の伝説を信じ、織女を手本にしたいと思っていた。よって毎年七姐誕(織女の誕生日)が来るたび、彼女たちは七姐(織女)を祭り、細やかなこころと器用な手先を得て、良縁が得られるように祈った。これが「乞巧」(器用になることを願う)という名称の由来である。女性はまた彩楼(飾り付けのある小屋)をつくり、黄銅で出来た細針(七孔針)を準備し、五色の糸で月に対し風を迎え針を通した。しばらくして、七夕も「女の子の日」となった。しかし古人が乞巧するのは七夕に限らず、正月や八九月も乞巧をし、宋以後になってから七夕だけに乞巧をするようになった。宋元時期、七夕乞巧節は盛んになり、乞巧の飾り物だけを売る市場ができ、乞巧市と称した。
「荊楚歳時記」によれば古代の女性は七夕の夜に“閨中秘戲”つまり「七月七日は牽牛と織女が会う日である。この夜、婦女は飾り付けのある小屋を作り、七孔針に糸を通し、またむしろをしいて酒や干し肉や瓜や果物を庭に並べて乞巧を行った。もし蜘蛛が瓜に網を張っていれば、印があったとする。」(七月七日,為牽牛織女聚會之夜。是夕,人家婦女結采縷,穿七孔針,或陳幾筵酒脯瓜果於庭中以乞巧。有喜子網於瓜上。則以為符應)を行った。喜子とは一種の小型のクモである。「東京夢華録」では「婦人は月に向かって糸を通し、また小さな蜘蛛を箱に入れて、次の日に見て、もし網が丸く張っていれば、器用になるという」(婦女望月穿針,或以小蜘蛛安合子内,次日看之,若網圓正,謂之得巧。)とある。杜甫「牽牛織女」もこの風習に言及している“蛛絲小人態,曲綴瓜果中。”劉言史「七夕歌」:“碧空露重新盤濕,花上乞得蜘蛛絲。”
現在の七夕は「愛情節」と呼ばれている。多くの商店や人々は「中国のバレンタインデー(情人節つまり恋人の日)」と呼んでいる。しかし七夕の伝統的な習俗にはカップルのデートという内容は無いため、民俗専門家は「情人節」は不適当で、「愛情節」と呼ぶべきだとする。中国大陸では、七夕は商店にとっての販売促進の一大商機となっており、伝統習俗は廃れており、人々の七夕に対する情熱は西洋の舶来品の「情人節」とは比べ物にならない。台湾や香港でも西洋文化の影響を受け、七夕の状況は憂うべきものである。
○ 江南 / 江南の刺繍する少女は夜に月光の下で、一本の刺繍針を椀の水面にそっと置き、表面張力で針を浮かべる。月光が照らすなか、一番複雑な波紋が周りに出現した針が、一番良い刺繍が出来るとする。また針に赤い糸を透して、七仙女に「乞巧」(器用になることを願うこと)をする。唐代詩人の林杰の詩の「乞巧」では「七夕今宵看碧宵,牛郎織女渡河橋,家家乞巧望秋月,穿尽紅糸幾万条。」と述べている。
○ 西南 / 爪を染めることは西南一帯の七夕の習俗である。若い娘はこの日に樹液で髪を洗って若く美しくあることを願い、また未婚女性は想い人と巡りあう事を願う。
○ 膠東 / 膠東地区では七夕に七神姐を拝んだ。女性たちは新しい服を着て、1つの堂に集まり、七姉妹となった。少女たちは牡丹や蓮や梅や蘭や菊などの花の形をした「巧餅」という小麦のお菓子をつくり、織女を祭った。
○ 広東 / 広東では少女たちによって「拜七姐」が行われた。(男性や老女は参加できなかった)6月から準備を開始し、稲や麦や緑豆の粒を椀で浸して発芽させる。七夕が近づくとハリボテの鵲橋をつくり、また様々な手の込んだ手芸品を作る。七夕の夜には八仙桌を廟堂に置き、その上に果物や花や発芽させた穀物の芽や、人形や紙細工などの女性が作った手芸品、彫刻した果物、化粧品やお菓子などを置く。女性たちは髪を洗って着飾り、ホウセンカで爪を染める。八仙卓や鵲橋のそばで様々な遊戯を行う。また針に糸を通して乞巧(器用になることを願う)をしたり、北斗七星(織女の姉妹であるとされていた)や2つの星を拝む。また家々では乞巧卓を設け、人々をもてなした。深夜の12時は織女が下界に降りてくる時とされており、全ての灯りに火をともし、針に糸を通して、織女を出迎え、歓声があがる。そしてひと通り楽しんだ後、解散となった。
○ 閩南 / 閩南では、織姫を「七娘媽」と呼び、子供の守り神とする。閩南の習俗では七夕の日にザクロとシクンシで煮た卵と肉と黒砂糖の入ったもち米を食べて、虫除けと病気よけとする。
○ 香港 / 現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う
時期
中国
元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日である。中国暦において7月は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。
日本
日本では、旧暦(天保暦、和暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に行われ、お盆(旧暦7月15日)に入る前の前盆行事として行う意味合いが強かった。明治6年(1873年)の改暦後は、従来通り旧暦7月7日に行う地域、グレゴリオ暦(新暦)の7月7日に行う地域、月遅れの8月7日に行う地域に分かれ、特に新暦開催ではお盆との関連が薄れた。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない。
グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は秋の季語である。
○ 天候など / 多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。統計では、旧暦7月7日が晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではない。しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。一方新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年もある。したがって、天の川が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。
ブラジル
ブラジルでは、日本の年中行事に親しむイベントや「商店街七夕」の形式で、日にちに拘らず行われる。仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として1979年から始まった「サンパウロ仙台七夕祭り」は、仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、7月の週末に同市のリベルダージにて開催されている。南半球であるため冬の風物詩として定着している。
アメリカ
仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として2009年から始まった「ロサンゼルス七夕祭り」は、仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、8月中旬頃に同市のリトルトーキョーにて二世週日本祭(二世ウイーク)に合わせて開催されている。
日本の七夕祭り
1687年(貞享4年)刊行の藤田理兵衛の「江戸鹿子」(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の「守貞謾稿」にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の「喜遊笑覧」には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、「諸事留」には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の「東都歳時記」には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の「古今要覧稿」には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。
現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿や山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。
また、青森の「ねぶた」や「ねぷた」、秋田の「竿燈」などの「眠り流し行事」も七夕祭りが原型である。  
 
七夕 2

 

七夕の「起源」
夏の風物詩として、今や日本の定番となった年間行事の一つに「七夕」がありますね。このサイトを見ている方の中には、子供の頃に学校や地域で行われる行事として、友達や親と一緒に集まって色鮮やかな飾りを折り紙で作ったり、先生達が用意してくれた短冊に好きな願い事を書いて、それを大きさの竹に飾りつけた経験がある人は多いと思います。
しかし、そうした一連の行事が行われる様になったきっかけや、歴史などを詳しく教えてもらった方は少ないと思います。なので、ここでは「七夕」の元になった行事や、昔から今までの「七夕」の歴史について御紹介します。
「毎年やっているから」と、何気なく行っている行事でも、裏に隠れた歴史を知れば面白いと感じたり、意外な事実に驚いたりします。特に現在の「七夕」は子供に限らず、誰でも参加できる「イベント」になっているので、本来の「七夕」を知れば時代と共に変わっていく伝統行事を身近に感じる事が出来るはずです。
七夕と季節
そもそも日本の季節の節目は、中国から伝わった「二十四節気」という言葉が元になっています。この「二十四節気」とは、簡単にいうと太陽の動きを目安にして作られた季節の分類です。名前の由来は、季節の目印となる「節(せつ)」と、月毎の名前を決めるための作られた「中(ちゅう)」という基準の合計が「二十四」になるので「二十四節季」と呼ばれています。
その中でも、特に重要だったのが「立春」・「春分」・「立夏」・「夏至」・「立秋」・「秋分」・「立冬」・「冬至」の「八節(はっせつ」)」という節目です。この「八節」に因んだ風習(冬至に「かぼちゃ」を食べる等)は今でも行われており、中には「国民の祝日」になっている日もあります。しかし、風習は残っても「二十四節季」が新しい「暦」の誕生によって「旧暦」の物になったのは事実です。
そのため、今も行われている祭りや行事の中には「旧暦」を基準にした日付で開催している所もあります。更に「七夕」も今の暦では「夏」の行事になっていますが、「旧暦」では「秋」に行われる行事だったので、本によっては「七夕」を「秋の行事」として紹介したり、和歌や俳句等では「七夕」を「秋」の季語として使う事があります。
七夕の誕生
「七夕」が日本の行事として定着したのは、中国から農耕が伝わり、更に天文学を元に作られた「暦」という「自然」を細かく分類して生活を送る考え方が浸透した後の事です。しかし、中国から日本に「暦」が伝わったからといって、直ぐに「七夕」が生まれた訳ではありません。私達が知っている「七夕」は、中国と日本で行われていた伝統的な風習の数々が重なり、それが一つになって江戸時代の頃に、やっと今の形になったのです。
その元となった風習に関しては、中国も日本も歴史が長いので色々な説があります。その中でも、特に有力な候補に挙がって三つの説があります。一つ目は、発祥は不明ですが中国で技巧や芸能の上達を願って行われた「乞巧奠(きこうでん、きっこうでん)」という風習、二つ目も中国で農作の時期を知るため行われていた天体観測で生まれた有名な「星伝説」です。三つ目は、最初の二つに古くから日本で神様に布を捧げる女性を信仰していた「棚機(たなばた)」と呼ばれる風習が重なって、「七夕」の原型が誕生したと考えられています。
今は竹に飾りや願い事を書いた短冊を吊るすだけになっていますが、「七夕」という行事が生まれるまでには、実に様々な交流や変化があったことが分かりますね。
現代の七夕
昔の「七夕」は様々な風習が重なって、神様に豊作や健康を願う儀式と同じ様な感覚で行われていました。しかし、それが一般大衆に広がった江戸時代以降では、やり方も簡単になって人々に親しみにやすくなりました。
現代では更にやり方が簡単になって竹を飾って、そこに願い事を書いた短冊を吊るすだけになりましたし、竹を飾れないマンションやアパートに住む人が増えたので家で「七夕」を行っている所も少なくなりました。ですが、逆に大きなテーマパークや商店街などは少しでも人に来てもらおうと「七夕」の日に様々なイベントを開催する所が増えているのも事実です。また、「七夕」は恋人同士である「織姫」と「彦星」が年に一度だけ会えるというロマンチックな話が今も語り継がれているので、最近では「恋人達の日」という認識もあります。
ですが、今も地域によっては伝統的な「七夕」が行われている所も残っています。目新しいイベントに行って「今の七夕」を楽しむも良いですが、のんびりと夜空を見上げながら昔ながらの「七夕」を思い浮かべて、星に願い事をしてみてはいかがでしょう。もしかすると、星が願いを叶えてくれるかもしれませんよ。
七夕の「由来」
今でこそ年間を通して、様々な行事がテレビ画面を通して伝えられていますが、日本には「七夕」を含め、季節の節目を意味する「五節句」という五つの節句がありました。もちろん、この五節句は「七夕」と同じく今も残っています。例えば、1月7日に七草粥を食べる習慣。これも「五節句」の一つで正式には「七草粥の節句」といいます。他には3月3日の「桃の節句」、5月5日の「菖蒲の節句」、最後は菊が咲く時期に作られた9月9日の「菊の節句」があります。これに7月7日の「七夕」が入って、五節句になります。
ちなみに、「七夕」は「たなばた」の他に「しちせき」とも読みます。もちろん、「七夕」に限らず他の節句にもちゃんとした由来があるのですが、今回は「七夕の秘密」に合わせて、7月7日が「七夕(たなばた/しちせき)」と呼ばれるようになった由来や、意外な中国との繋がりを御紹介します。
ここを読めば日本だけでなく、古代中国の風習や考え方も一緒に知る事が出来ますよ。
七夕と「棚機女(たなばたつめ)」
中国から伝わった「七夕」に関する行事が、今も途絶えることなく続いている背景には、日本が稲作を行っていた他に「古事記」に登場する「棚機女(たなばたつめ)」を信仰していた事が関係していると考えられています。
この「棚機女」とは織物を作る手動の機械を扱う女性を指し、「古事記」にちなんで天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を穢れを知らない女性が「棚造りの小屋」にこもって俗世から離れて織る、という習慣がありました。
この女性が過ごす「棚造りの小屋」とは、日本語の「棚」に含まれる「借家」の意味をこめて「布を織る間だけ借りる家」という意味があります。そして、この「棚」は俗世から女性を離すために高い柱で支えられていました。現代の私達には、この「棚造りの小屋」は馴染みのない物の様に感じますが、家の高い所に置いて神様を祭っている「神棚」と同じような物です。
この様な習慣と「星伝説」に登場する「織女(織姫)」が似ていたので、日本では中国から伝わった行事が広く受け入れられたといわれています。また、「七夕」を「たなばた」と読むのは、この行事の際に特別な「棚」を作る他に「棚機女(たなばたつめ)」の習慣があったからだと考えられています。
七夕と「文月(ふみづき)」
今の暦の殆どは数字で呼ばれていますが、和風のカレンダーの中には一月から十二月を和名で書いている物もあります。その和名の中で、七月は「文月(ふみづき)」と呼ばれています。この「文月」は主に「旧暦の七月」に対して使われますが、この名称で呼ばれるようになったのは「七夕」が関係していると言われています。
その理由としては、一般大衆に「七夕」の行事が広まった際に短冊に願い事の「文(ふみ)」を書くからだと言われています。しかし、この「文月」に関する由来は他にもあります。その一つが秋になって収穫間近の稲穂が大きくなっている事から、稲穂に米が含まれている月で七月を「含月(ふくみづき)」と呼び、それが変化して「ふみづき」になって、後から「文月」という漢字を当てはめたという説です。
何気なく使っている呼び方には、こんな風に色々な風習や自然の営みが隠れていると分かると、何だか親しみを感じますね。
祭りの意味
そもそも、七夕に限らず「祭り」と名前の付くものには様々な意味があります。今は「祭り」と聞けば、多くの人が屋台が並ぶ様子を思い浮かべるでしょう。そして、店先の貼り紙やテレビで「○○の時期ですね」と見聞きして、改めて季節の行事を思い出す。そんな事も少なくないと思います。そうして、やっと思い出した行事を「昔からやっているから」という一言で片付け、一通り終えれば忘れてしまう。
今はインターネットやテレビに携帯電話の普及で、北半球に季節が逆の南半球の情報まで、欲しいと思えば直ぐに手に入れる事が出来ます。しかし、その便利さが「当たり前」になり過ぎて、私達は日本だけが持つ独特の「四季の移ろい」を肌で感じる機会が少なくなっているのも事実です。その「四季」を感じる機会とは、このサイトとして紹介している、イベント感覚で行われている「七夕」を代表とする様々な「祭り」です。
日本は都道府県によって温度差はあれど、春夏秋冬が巡ってくる珍しい国です。そんな日本をもっと身近に感じてもらおうと、ここで私達が何気なく行っている年間行事や、季節ごとに行われる「祭り」の意味について、ほんの少し御紹介いたします。
秋と収穫祭
日本の「秋」は、旧暦では七月上旬頃から十月上旬頃、新暦では八月七日頃から十一月上旬頃の期間を指します。この期間は、日本全国で秋の収穫を神様や自然に感謝したり、農作物に被害が出ないように祈る様々な祭が開催されます。
この頃に訪れる「立秋」には「秋立つ」という意味があります。カレンダーでよく見る「立夏」や「立春」に「立冬」も同じ様に「季節が立つ」という意味があります。今は温暖化の影響などで残暑が厳しく、七月や八月は「秋」といった雰囲気ではありませんが、昔ながらの祭は変わらずに「秋」を意識して行われています。
そんな祭の中でも、秋の時期に一番多いのは「稲作」に関する行事です。ちょうど、稲を収穫する時期が「秋」になるので、それまでに稲が育った事や、無事に収穫できた事を祝うのです。そんな収穫を祝う祭の代表的といえるのが「お九日」という行事です。これは、地域によって大きな出し物を神様に奉納する所もありますが、一般的には赤飯を炊いたり、米粉で作った餅を飾って無事に農作物(主に稲)が収穫できた事を祝います。
祇園祭と無病息災
日本三大祭りの一つとして国内だけでなく、今では海外でも有名になった「祇園祭」は京都にある「八坂神社」の祭礼で七月一日から始まり、約一ヶ月間も続けられます。この「祇園祭」の始まりは古く、平安時代まで遡ります。
その昔、京の都をはじめ日本全国で疫病が大流行したとき、その疫病が退散することを願って、当時の朝廷が国の数だった「六十六」にちなんで六十六本の鉾(ほこ)を建てて、市中を歩いて疫病や怨霊を鎮める「御霊会(ごりょうえ)」を行ったのが始めとされています。
この事から、「祇園祭」は最初は「祇園御霊会」と呼ばれていました。しかし、明治時代になって神様と仏を切り離す「神仏分離」が行われて、呼び名が今の「祇園祭」になったのです。そして、この祭は朝廷だけでなく民衆も一日でも早く疫病が去る事を願って「御霊会」を行っていました。その中でも、一番の賑わいを見せたのが疫病を退治する牛頭天王(ごずてんのう)という神様を祭っていた「八坂神社」だったと言われています。
今は大きな出し物である「山鉾(やまぼこ)」の巡行が見せ場になっていますが、本来の「祇園祭」は人々の無病息災を願って行われているのです。
大晦日と新年
一年の終わりの日を「大晦日(おおみそか)」といい、その夜から日付が変わるまで「年越し」と言います。この「年越し」には、旧年を越して新年を迎えるという意味の他に、新年を迎えるために行う年越し行事という意味もあります。そもそも、「晦日(みそか)」とは月の三十番目の日を指す言葉で、これが転じて各月の「晦日」に対して一年の最後の日を「大晦日」と呼ぶようになりました。更に「大晦日」は「おおつごもり」という読み方があります。
この読み方は、大晦日が「お正月」の前日である事に関係しています。その昔、日本では御祭の前夜は、神社で夜を明かして神様を迎えるという風習がありました。そして、新年は年神(米や麦など災害から守ってくれる神様)が来る大事な日でもあります。そのため、昔は新年の前夜祭となる「大晦日」に一家の主人や家の若い神社や寺にこもり、夜を明かす「年籠り(としごもり)」をしたり、家族全員で起きていたりしました。
これが「年越し」の「年越し行事を行う」という意味を与えて、「大晦日」を「おおつごもり」と呼ぶ様になったのです。ちなみに、私達が「お正月」に神社へ行く「初詣」は、「年籠り」が省略されて伝わった習慣でもあります。
「七夕飾り」
今でこそ、七夕という名前のついたイベントで配られる七夕飾りの代表である「短冊」は、実に様々な材料が使われています。例えば環境を考えた再生紙や、笹の緑を強調するために色鮮やかな和紙を使ったり、時には紙ではなく地元の名産品やキャラクターをプリントした特別なプラスチック製に面白いデザインを強調した物もあります。しかし、伝来した直後の七夕で飾られた短冊は神社の御札の様に細長く、色も「青・赤・黄・白・黒」の五つとされていました。
この「五」という数字で気付いた人も居るかも知れませんが、七夕の季節になると耳にする「五色(ごしき)の短冊」とは、先ほど書いた五つの色に分けられた短冊を指します。この「五色(ごしき)の短冊」ですが、これも七夕が日本の代表的な年間行事になったのと同じく、それぞれの色には理由があります。ここでは、もっと七夕を楽しんでいただこうと私が調べた「短冊」と「色」の関係性や、その短冊に書く「願いごと」の始まり、それから「七夕飾り」について御紹介します。
七夕と「乞巧奠(きっこうでん)」
この耳慣れない「乞巧奠(きっこうでん)」という言葉は、中国から星伝説と一緒に伝わった習慣で、初めて日本で行われたのは奈良時代の事です。「乞巧(きっこう)」は巧みを乞う、「奠(でん)」には祀る(神をあがめる)という意味があります。そんな意味から、奈良時代の孝謙天皇という女性の天皇が技巧や芸能の上達を願って、「乞巧奠」を行ったと言われています。
そうして、この習慣は宮中に広まって糸や針の仕事を司るとされていた「織女星(織姫星)」が輝く「七夕」の夜に、宮中の女性達が御供え物をして、機織やお裁縫が上手くなる事を祈る女性の祭りとなりました。しかし、それから暫くして「星伝説」の主役になった二人に因んで、男女の良縁を祈る意味も加わりました。そうして「乞巧奠」が「祭り」に変化して定着すると、平安時代には宴や相撲大会が開かれたり、室町時代になると「織女祭り」という名で宮中行事の一つになりました。
江戸時代頃になると、本来の「乞巧奠」の作法は省略されて原型を留めなくなりましたが、御供え物や願い事の習慣は庶民の間にも広く浸透して現在まで残っているのです。
五色の短冊
「七夕飾り」の代表ともいえる短冊は、現在では様々な形や色の物が広まっています。しかし、まだ日本に「七夕」という行事が出来たばかりの頃は、竹には紙で作った短冊ではなく、五色(ごしき)の糸を飾っていました。これが今も歌に残っている「五色(ごしき)の短冊」の始まりです。
この「五色(ごしき)」とは、中国の陰陽道から生まれた自然を表す「五行説」に因んだもので、「青」・「赤」・「黄」・「白」・「黒」が使われていました。それぞれ、青が緑の「木行」、赤は炎の「火行」、黄は大地の「土行」、白は土に埋まっている金属の材料となる鉱物の「金行」、黒は命を育む水の「水行」を表しています。また、この五つの色は人が持っているべき五徳(ごとく)という教えも表しているとも言われています。ですが、この五色に後から全てをまとめる「色」として、古くから「最上の色」と言われていた「紫」が加わり、その代わりに黒が使われなくなっていきました。
それから、最初は糸だった飾りが「絹の布」になり、次は「詩」や「歌」に変わり、演奏や書画も加わる様になりました。しかし、「七夕」の風習が民衆に広がる頃には、そんな高価な物などは用意できないので、紙の短冊が使われるようになったのです。
短冊と願い事
「七夕飾り」の代表ともいえる「紙の短冊」が使われ始めたのは、江戸時代の頃です。
中国から「七夕」の原型が伝わった頃は、糸や針の仕事を司っていた「織女(織姫)星」に女性が裁縫などの上達を願うだけでした。しかし、時代が「江戸」まで進む頃には、願い事の風習は男女ともに行われるようになりました。
特に、江戸時代からは基本的な読み書きやそろばんを教えてくれる「寺子屋」という場所が数多くあったので、子供達は「七夕」になると自分の読み書きが今より上手くなる様に願うのが一般的でした。
その名残として、今でもサトイモの葉にたまった朝露を集めて硯に移し、それで作った墨で短冊に詩歌を書くと字が上達する、という言い伝えがあります。しかし、短冊に書く願いが全て叶うわけではありません。特に勉強などの身近な事に関する願い事は、自分の頑張り次第で叶う事もあります。基本的に短冊に書くのは「七夕」の御供え物でもかまいませんが、叶えたい「願い事」を書くなら「叶うと良いな」と思うより、「頑張って叶えよう」と思って書くと、自分の意欲や向上心が高まって自力で叶えられるかもしれませんよ。
七夕と「星」
七夕を行う上で欠かせないのは竹、短冊、七夕飾り、それから夜の星です。なぜなら、七夕には「織姫」と「彦星」が欠かせないからです。この「織姫」と「彦星」について、ご存知の方も多いと思いますが、念のために簡単な説明をさせて頂きます。
その昔、織姫と呼ばれる機織の上手な姫と、彦星と呼ばれる牛飼いの若者が居ました。二人は出会って直ぐに恋に落ち、結婚して幸せに暮らしていました。しかし、二人で一緒に居る事ばかりに気を取られ、仕事をしなくなってしまいました。それに怒った空の神様が、二人の間に大きな川を作りました。離れ離れになった二人は一生懸命に働いて、一年に一度だけ会うことを許される様になりました。
これが、多くの人が知っている「七夕のお話」です。しかし、この物語は分かり易く改編された物で、登場人物の名前や物語の細部も元となった伝説とは異なっています。「織姫」と「彦星」は今も星の名前となり、もう一つの星と繋げると大きな三角形を作る事から「夏の第三角形」と呼ばれています。ここでは、なぜ「七夕」は夜の星と共に行われる行事になったのか、星座の御話も交えて御紹介します。
織姫と彦星
「七夕」といえば、天の川を挟んで夜空に輝く「織姫」と「彦星」が年に一度だけ会う事を許された話が有名です。これも元は中国から伝わった話で、西暦三十年から二百二十年に栄えた「後漢」という国から「星伝説」として語られ始めたと言われています。話の殆どは同じですが、やはり中国と日本では少し違う所があります。まず、登場人物の名前です。私達が知っている「織姫」と「彦星」という名前は、夏の星座としても有名な「こと座のベガ」と「わし座のアルタイル」の和名で、中国では「織女(しょくじょ)」と「牽牛(けんぎゅう)」と言います。また、中国では織姫は「天帝」という創造主の娘であり、二人は身分違いの恋をしていた事になっています。
しかし、この二つの星から「星伝説」が生まれて「七夕」の象徴になったのには、天文学的な理由があります。それは、この話が生まれた中国では、古くから「彦星」は農業に適した時期になると明るくなるので、そこから「農事」の基準とする星をして、同じ時期に天の川を挟んで明るくなる「織姫」を養蚕(ようさん)や糸・針の仕事を司る星と考えるようなりました。この事から、日本でも農業が本格的になる時期と、星が良く見える夜に「七夕」を行う様になったのです。
夏の大三角形
「七夕」が行われる夜空では星が集まって輝く「天の川」と、その川を挟んで輝く「織姫」と「彦星」が主役になります。しかし、夏の夜空には夏しか見られない天体が数多くあります。その一つが「夏の大三角形」です。夏の大三角形(または夏の大三角)は、こと座の「ベガ」・わし座の「アルタイル」・はくちょう座の「デネブ」と呼ばれる三つの星を線で結ぶと出来る、細長い大きな三角形の事です。この三つの星の中で、「ベガ」が「織姫」・「アルタイル」が「彦星」になります。
この三つの星を結んだ「大三角形(三角形)」は日本のある位置では夏、特に今の暦では八月の上旬頃が一番のよく見えるので、「旧暦」では今の時期に「七夕」の習慣が行われていた様です。しかし、今でこそ普通に使われている「大三角形(三角形)」という言葉ですが、実は日本で誰が最初に言い出しのかはハッキリ分かっていないそうです。歴史的に「星」の研究や発見は古くから行われており、「織姫」や「彦星」などの由来はハッキリしているのに、この様な大々的な「季節の風物詩」の由来がハッキリしてないというのは意外な事実です。調べてみなければ分からない、また知らない事は身近な所にもあるとも言えますね。
七夕と「歌」
初夏を感じる季節になると、どこからか聞こえてくる歌詞とメロディーがあります。それは、7月7日の行事と同じ名前が入っている「たなばたさま」という歌です。もし、名前を見ても分からないという方の為に、一番の歌詞を紹介します。
 「たなばたさま」
  笹の葉 さらさら のきばにゆれる
  お星さま きらきら 金銀砂子(きんぎんすなご)
どうでしょう、この歌詞を幼稚園や小学校で見た事はありませんか?
これは1941(昭和16)年に発表された歌で、今では「たなばた」の名前で親しまれています。発表から既に50年以上も経っているので学校や地域によって教えられえる歌詞が違っている場合もありますが、リズムや大体の歌詞は変わっていないはずです。この歌詞に書かれている情景は、昭和の頃に自宅で笹を飾る様子を連想させます。また、最後に「金銀砂子」と、一見しただけでは分からない言葉も使われています。
ここでは、こんな七夕に関する「歌」について色々と御紹介していきます。
「たなばたさま」の歌詞
「七夕」の時期になると幼稚園や小学校で習う「たなばたさま」ですが、この歌詞を不思議に思った事はないでしょうか。歌っている最中はテンポの良いリズムと、子供でも覚えやすい短い歌詞で楽しい気分になります。しかし、一番の歌詞をよく読んでみると見慣れない言葉が出てきます。
まず、最初に出てくるのは「のきば」という単語です。これは漢字で書くと「軒端」になります。「軒」とは、屋根の下の部分で建物の外にはみ出した所を指す言葉です。つまり、この「軒端」とは屋根の端から出ている所を指しています。昔の日本は平屋の一戸建てが多く、「七夕」の夜には庭先やもらってきた竹の葉が屋根の先で風に揺られている様子を眺めて楽しんでいたのでしょうね。
次に、一番の歌詞の最後に出てくる「金銀砂子(きんぎんすなご)」という単語ですが、金銀は夜空で星が輝く様子が「金」や「銀」に見えるからでしょうが、後ろの「砂子」とは何を表しているのか。実は、これは「砂」を表す言葉なのです。つまり、これは天の川を本当の「川」に見立てて、周囲の星を「砂」に見立てて書かれたのです。
どの言葉も今では一般的に使われていませんが、良い歌は言葉の新旧に関わらず残っていくものなんですね。
七夕と万葉集
日本独自の「七夕」が年間行事として定着する前は、日本の文化は中国の影響を強く受けていました。特に「星伝説」が伝わってからは、日本最古の歌集である「万葉集」に百三十首を越える七夕(たなばた)の歌が残っていますが、そのほとんどが男女の恋の物語として詠まれています。特に飛鳥時代に「歌聖」として有名だった「柿本人麻呂(かきもとのひとまろ)」という歌人は、恋歌(れんか)という恋を題材した歌を多く残しており、その中には七夕を題材にした歌も含まれています。その一つが、万葉集第十巻に残っている下記の歌です。
原文:天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜
読み:天の川、楫(かぢ)の音聞こゆ、彦星(ひこほし)と織女(たなばたつめ)と、今夜(こよひ)逢ふらしも
意味:天の川にかじの音が聞こえます。彦星(ひこほし)と織女(たなばたつめ)は、今夜逢うようです。
これを話し言葉にすると、この様になります。
「今夜は七夕の夜なんですね。楫(かじ)を漕いでいるのは彦星(ひこぼし)です。彦星が天の川を舟で渡って織姫星(おりひめぼし)に逢いにゆくのですね。」
これは彦星が自分で小舟に乗って織姫に会いに言っている場面を、五・五・七・七のリズムに乗せて、歌っています。これを読むと、彦星が織姫の為に空に横たわる星の川を渡って行く姿が浮かんでくる様ですね。
大阪の「七夕歌」
まだ大阪に村が多かった頃、人々は「七夕」の前日にやってくる竹売りから竹を買って、それを家々に飾っていました。特に北摂津の能勢町から河内・泉南地方にかけての農村地帯では、子供が「七夕」に歌って村を歩いて回る習慣がありました。その時に歌われたのが、次の様な歌です。
七夕さん、ほおずきとっても、だんないか、あんまりとったら、もったいない
これを自分達の願い事を書いた短冊や、色紙などで飾った竹を持ちながら歌い歩いたのです。この歌は、よく「問いかけ」と「返事」を繰り返す遊び歌に似ていますね。肝心の歌の内容ですが、歌詞に出てくる「だんない」とは近畿の方言で「構いませんか?」と尋ねる時に使います。つまり、この歌は「ほおずきを取っても構いませんか?」と七夕さんに尋ねて、それに七夕さんが「あんまり取るともったいないよ」という物です。
「七夕」といえば幼稚園や小学校で習う歌しかないように思われがちですが、この様に地方によっては方言が使われた独自の「七夕歌」があったんですね。
日本の「七夕行事」
日本は奈良時代に中国から様々な影響を受け、それに昔からあった習慣を加え様々な行事を生み出しました。それは江戸時代による鎖国で、更に独自の文化が進みました。しかし、江戸から明治になると日本は近代化を進めるために今まで以上に海外の文化を取り入れていきました。
そして、様々な時代が過ぎ去り、現代の日本になりました。インターネットの発達により物事の価値を世界基準で見る姿勢は、良い意味で今後の日本には必要なことです。しかし、伝統的な文化を知る事も大事な事です。日本が「どんな国か」を知る事は、日本を海外にはない魅力ある国だと再認識する事が出来ます。
ここでは、今も大々的に行われている「七夕」の他に、七夕の時期に行われていた行事を御紹介します。そして、出来れば日本が本当に魅力的な国だともっと感じて欲しいです。
七日盆(なぬかぼん)
この「七日盆(なぬかぼん)」は正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」・「精霊会(しょうりょうえ)」といい、「旧暦」の七月十五日に行われていた「祖霊祭」の準備を始める日を言います。「祖霊祭」は、今でいう「お盆」の事です。
「旧暦」では、神様や先祖は一月十五日の「小正月」と七月十五日の「祖霊祭」に故郷に帰ってくると考えられて居ました。そのため、一月十五日は正月の次に来る「小正月(こしょうがつ)」と呼ばれ、その一週間前に当たる七日は「七日正月(なぬかしょうがつ)」と呼ばれていました。
今は「七日正月」とは言いませんが、一月七日は「七草を食べる日」として私達の年間行事の一つとして残っています。それに対して、「七日盆」は新暦の登場によって時期が八月に移ってしまいました。
しかし、行われている事は大して差はありません。当時の「七日盆」は、十五日の「祖霊祭」に備えて様々な準備を行いました。例えば、先祖を迎え入れる棚やお供えを乗せる祭壇を作り、神様が宿るための旗や幟(のぼり)を立て、十五日の「祖霊祭」には帰ってきた先祖や旗や幟(のぼり)に宿った神様に農作業が無事に終わる様に、また生活の安泰を祈ったとされています。
水で清める
周囲を海で囲まれながら、国内に多くの山や森を持つ日本には沢山の清流があります。そのため、日本には水に関する儀式や修行が数多く残っています。例えば、仏教徒の人が真冬に荒々しく流れる滝の中で御経を唱える修行風景などは、よくテレビなどで取り上げられますね。
これは寒さの中で精神を鍛えるという意味のほかに、水で体を清めるという意味もあります。仏教に限らず、日本には古くから「禊(みそぎ)」という言葉があり、これは川や海で体を洗って大事な神事の前に身を清める事から生まれました。
神事とは神様を祭る儀式の事で、日本では様々な年間行事の中に「禊」と似た様な習慣がありました。「七夕」の場合は、井戸が使われていた頃は生活に不可欠な飲み水に困らない様に井戸の掃除をして水の神様を祭ったり、子供が水難に合わない様に水浴びをさせるといった習慣が「七夕行事」として行われていました。
この水に関する行事は、人だけでなく農耕で畑で耕すために働いてもらう牛や馬を川で泳がせ、身を清めさせるといった習慣がありました。水道が普及した今では、井戸の掃除を行う風景は見られなくなりましたが、「七夕」に川や海で水浴びをする習慣が今も残っている地域があるそうです。
七夕馬
この「七夕馬」とは、七夕の日にワラや秋になると穂を出すイネ科の大形多年草の「マコモ」や、日本の伝統建築でもある茅葺(かや)屋根に使われる「茅(かや)」を使って作られる馬の人形の事です。
正式名称は「七夕」に作るので「七夕馬」ですが、「茅(かや)」と使う事から今でも農業が盛んな地域(特に東北)では「カヤカヤ馬」という愛称で親しまれています。
この馬は、ちょうど「七夕」が「旧暦」では先祖の帰ってくる「お盆」の時期であったので、帰ってくる祖先や恵みを与えてくれる天の神様を迎える乗り物として作られ、その習慣が「七夕行事」の一つとして取り入れられたのです。ですが、今は屋根にワラや「茅(かや)」を使う家は無くなり、この習慣を知っている人は殆ど居なくなりました。
それでも、日本の中には現在も農業が盛んな地域もあるので、お年寄りが子供達に馬の作り方を教えて、子供は自分で作った馬を家に持ち帰り、願い事を書いた短冊を飾った竹の側に置いて御供え物をする所も残っています。
ちなみに、この馬は「七夕」の翌日に川へ流すのが一般的でした。この様に行事で作った物(特に人形など)を川に流す習慣は、他の伝統行事でも見かける光景ですね。
七夕と「習慣」
日本には47の都道府県があり、都道府県は地図上では一つにまとめられ「日本」となっています。しかし、土地によって育まれた言葉である「方言」がある様に、自分達が普通だと思っている何気ない「習慣」も県境を越えれば変わってきます。何かの都合で引っ越した先で、今まで「普通」だと思っていた事が実は「普通」じゃなかった、と驚いた経験をした方もいらっしゃるかもしれません。
ここでは、そんな「習慣」の中から七夕に関する話と、昔は季節に因んで行われていた「習わし」に関する話をいくつか御紹介します。
ローソクもらい
この「ローソクもらい」という習慣は、主に北海道内(特に函館や札幌など)で今も行われており、その内容は子供達が「七夕」の夜に集まって近所の家を回り、蝋燭(ろうそく)を一本ずつ貰ってくるという物です。
これは提灯や灯篭に火を灯して川に流す「精霊送り」や、仏壇を照らすのに蝋燭が必要な「お盆」などの年間行事に子供を参加させる、または行事の意味を教える為に材料となる蝋燭を子供達だけで集めさせたのが始まりと言われています。
時期的に「旧暦」の「七夕」と「お盆」が近かったので、いつのまにか「七夕行事」の一つになった様です。これが北海道内でしか残っていない理由はハッキリ分かりませんが、蝋燭をもらう際に歌う「ローソク貰い唄」は民俗学の本に載っていたりします。リズムや内容は地域によって異なりますが、必ず「ローソク一本ちょうだいな」か、「ローソク出せ」という様に子供が蝋燭を貰いやすい歌詞になっているのが特徴です。
この集めた蝋燭ですが、昔は家の明かりに使ったり、仏壇や神棚用に保存していました。しかし、最近は電気の普及によって蝋燭は非常時にしか使われなくなったので、子供達は回った家々から御菓子をもらう様になっています。
七夕竹(たなばただけ)
「七夕竹」は字や歌などを書いた五色の短冊をつるして彩った竹の事で、近世になって生まれた風習です。そんな風習が特に盛んに行われているのが「仙台七夕(せんだいたなばた)」です。
この「仙台七夕」は、旧仙台藩内各地で行われていた「七夕」に因んで毎年行われている「年中行事」です。地元の人達は、親しみを込めて「たなばたさん」と読んでいます。特に名前にある宮城県仙台市では、「仙台七夕まつり」と題して盛大な祭が開催されています。
「仙台七夕まつり」では、商店街などに巨大な「七夕竹」を飾るのが特徴です。また、その「七夕竹」に飾られる七種類の「七夕飾り」には今でも一つ、一つ意味があります。まず、学問や書の上達を願う「短冊」、それから病気の身代わりや裁縫の上達を願う「紙衣」、ついて長寿を願う「折鶴」に商売繁盛と貯蓄を願う「巾着」、漁の豊作を願う「投網」に清潔と倹約を願う「くずかご」、最後に織姫の織り糸を象徴する「吹流し」がつきます。
「仙台七夕まつり」は、特に最後の「吹流し」を長く鮮やかにして、それを中心に飾りつけが行われます。この「七夕竹」が商店街にズラリと並ぶ様子は、祭の時期になるとテレビなどで取り上げられる事が多いです。
新年と若水(わかみず)
この「若水(わかみず)」というのは、元旦の最も水が澄んでいるとされる午前四時頃に汲む水の事です。この「習わし」が始まったのは平安時代の頃で、正月の神様がやってくる方角の「恵方(えほう)」にある井戸から水を汲んで、天皇の朝食に出すのが最初でした。しかし、それが後になって「恵方」から水を汲む事から元旦の朝、最初に汲む水を指す様になりました。
一説には、この「若水」を飲むと生気がみなぎって、厄除けになると考えられています。そのため、正月にやってくる神様への供え物や、家族の口に入る食べ物や飲み物を作る際に使われる事もあります。
また、この「若水」には「初穂水」・「福水」・「宝水」・「黄金水」など様々な呼び名があります。更に、元旦に「若水」を汲みに行く作業は「若水迎え」と呼ばれ、元旦行事の一つになっています。
これは、その年の「年男」か一家の主や長男といった「男性」の役目でしたが、県や地域によっては女性がする所もあります。また、水を汲み上げる時も場所によって様々な事が行われます。
例えば、円餅(まるもち)を若水桶に入れたり、桶に汲んだ若水を汲む時は新しい手桶や柄杓(ひしゃく)を使ったり、その手桶などに縁起物の絵や文字を書いたりします。更に汲んできた若水は最初に神仏に捧げ、ロをすすいで身を清め、それから食事用に使うのが一般的だったそうです。
豆知識
「豆知識」とは、豆の様に小さい知識という意味の造語で、英語に「ささいな」という意味がある「トリビアル」という単語があるので、それを用いて「トリビア」と訳される事もあります。しかし、最初に書いたように「豆知識」は造語なので、国語辞書でも載っていない場合があります。
この様に、本やテレビで使われている言葉でも、意外に知られていない事実は世の中に数多くあります。このページでは、七夕に関する小さいけれど意外な事、そんな豆知識を御紹介します。
七夕と「初物食い」
日本では、その季節に初めに出来た(豆や大豆などの)穀類・野菜・果実などを「初物」と呼び、春夏秋冬の最初の時期に「初物」を供えて食べると「七十五日長生きする」との言い伝えがあります。
「七夕」が行われる七月は、今でこそ「夏」になりますが、それは明治五年に地球が太陽の周りを一周する時間を一年とする「太陽暦」が採用されてからです。それ以前は、月の満ち欠けを基準にした「太陰暦」等、中国から伝来した物や日本で独自に定められた暦が広く使用されていました。しかし、明治五年を境に今まで使用されていた暦は「旧暦」として扱われる様になりました。
しかし、今でも残っている暦の名称や伝統行事には「旧暦」の名残があるため、書籍などでは「七夕」を「秋の行事」として紹介する事もあります。更に「旧暦」の「七夕」は、秋に行われる最初の行事なので、言い伝えに習って「初物」を御供えする事があります。
この風習は知らない人の方が多いと思いますが、今の暦で「夏」に取れる野菜や果物は栄養豊富で健康にも良いので、御供えはしなくとも是非とも食べて暑い時期を乗り越えましょう。
「七夕人形」
日本では古くから、人形や紙を人の形に切り取り、自分に降りかかる災いや病気を肩代わりしてもらう風習があり、今も根強く残っている言葉や物があります。例えば、一年を無事に過ごせる様に厄除けの人形を買ったり、身代わりになる人形を「形代(かたしろ)」や「人形(ひとがた)」と呼んだりします。そして、そんな人形を集めて行われる「人形供養」は、日本の伝統行事の一つでもあります。
そんな人形を使った厄払いの中に、「七夕人形」と呼ばれる風習があります。「七夕」は一般的に笹の葉をキレイに飾り、短冊に願い事を書いて吊るしますが、この風習は旧暦の「七夕」に当たる八月六日(または八月七日)に、軒下や小さい二本の竹の間に通した大きな竹に人形を飾ります。
この時に用意される人形は、紙で作った着物や雛人形だったり、木材で乗馬姿や屋根の付いた祠の形など実に様々な形があります。これは「子供が健やかな成長」や「衣服に困らない様に」等の願いを込め、風通し良い場所に飾り、その風で厄を払ってもらうそうです。また、地域よっては飾らすに子供が小川に流して厄を払う、という方法もあるそうです。
七夕の「行事食」
そうめんは、夏になるとスーパーや店先に並ぶ定番食ですが、実は「七夕」の時期に食べる「行事食」の一つなんです。その起源は古く、元は平安時代に七夕の節句で小麦粉と米の粉を練って縄の形にした菓子を食べる風習から来ています。
菓子は和名を「むぎなわ」と言い、中国から伝来した食べ物です。中国では、これを「索餅(さくべい)」と呼びます。なぜ、この菓子を七夕に食べるのか、菓子が「そうめん」になったのか。それは、ある中国の故事から生まれた風習なのです。
その昔、古代中国の帝の子供が七月七日に亡くなり、その後に一本足の鬼となって熱病を流行らせ、これに困った人々は子供の好物だった「索餅」を供えて祟りを鎮めました。それから、この故事に因んで中国では七夕に「索餅」を食べる風習が生まれ、平安時代に日本へ伝わりました。伝来した当初は、日本でも中国と同じ材料で作った「むぎなわ」を七月七日に食べる習慣がありました。しかし、この「むぎなわ」の元になった「索餅」は「索麺(さくめん)」とも呼ばれ、それが時代を経て「そうめん」に変化したのです。
食べる物が変化したからと言って、日本人は完全に習慣を忘れてしまったわけではありません。「そうめん」は米の粉は入っていませんが、小麦粉と食塩水で作られます。そして、今でも七月七日に食べる「そうめん」を、鬼の故事に因んで「鬼の腸(はらわた)」と呼ぶのです。
七夕と「ねぶた」
「七夕」がまた「旧暦」の頃、日本各地では秋の農作業が本格的に行われていました。しかし、作業が重労働になると疲れがたまってきて、作業中に睡魔が襲ってくる事があります。秋の農作業は寒い冬に備えて食料を少しでも多く備蓄するために中断できない上に、鋭利な刃物の農具を扱っているので、作業中の睡魔は様々な意味で天敵でした。
その睡魔を払うために、眠りを紙で作った人形に肩代わりしてもらい、川などに流して祓い清める習慣がありました。この習慣は火が灯った蝋燭(ろうそく)を紙の灯篭(とうろう)に入れて川に流す「灯篭流し」の一種で、「眠り流し」と呼ばれる七夕行事の一つでした。この習慣自体は農作業が機械で行われる様になった近代では行われていませんが、形を変えて東北地方で盛大な祭りとして受け継がれています。
その中でも、特に有名になったのが青森の名物行事でもある「ねぶた」です。今でこそ、大きな出し物と人々の盛大な賑わいで熱気が溢れる祭りになっていますが、この祭りの元になったのが旧暦の七夕(八月七日)に行われていた「眠り流し」だと言われています。他にも、秋田県の「竿燈(かんとう)祭り」も同じ様な意味で発展した祭りだと考えられています。
海外の「七夕」
日本の「七夕」は竹に短冊を飾るのがメインイベントとされています。しかし、日本以外にも七夕(たなばた、しちせき)に祭りを行う国はあります。日本国内の様に「七夕」から派生した祭りが広まり、元となった「七夕」が消えた国もあるかもしれませんが、今も日本と同じ様な形式で祭りを行っている主な国に中国・韓国・ベトナム等があります。いずれもアジア圏なので、やはり「七夕」は「東洋の御祭り」という認識が多いです。しかし、同じアジアでも言葉や日常的な習慣が違う様に、祭りの方法も様々です。
ここでは、最初に御紹介した中国・韓国・ベトナムの「七夕」について少しだけ御紹介いたします。もし、このサイトを見て「もっと知りたい」と思った方は、現地に行かれるか図書館などで民俗学の本を読む事をオススメします。きっと、ここで読んだ以上に国ごとの風習の違いや、どうしてそうなったのかを知る事が出来る筈です。
中国
「七夕」の本家ともいえる中国は、古くからの伝統を色濃く残している所があるので、他の年間行事のやり方も日本と大きな差があります。テレビなどでも取り上げられる有名な祭では、新年を迎える「お正月」があります。
中国は「新暦」より「旧暦」を重んじる事が多いので、新年も旧暦に習って祝う場合もあります。そして、祝う時は町や村を鮮やかに飾り立て、日本の獅子舞の代わりに作り物の大きな龍を人の手で操って見事な舞を披露します。
そんな中国の「七夕」ですが、これも「旧暦」の七月七日の夜に祝います。地域によって違いはありますが、まだ農耕や自給自足で生活している様な農村部では、お香をたいて花や果物を御供えし、機織や刺繍の上で上達するよう「織女(織姫)星」に祈る風習があります。都心部では、海外の観光客向けに大きなイベントを行う所もあるそうです。
また、星伝説にも日本とは少し違いあります。日本の話では「七夕の夜に会える」というだけですが、中国の伝説では二人を会わせるために「七夕」の夜にカササギが二人の為に羽を連ねて橋を作るという言い伝えがあります。
この様に、元になった中国でも日本とは祝い方が違うのが良く分かりますね。
韓国
日本でドラマやアーティストが活躍するため、人によっては馴染みのある韓国ですが、その文字や文化は独特ともいえます。「七夕(たなばた)」も、韓国では「チルソク」と発音します。しかし、それでも中国や日本と同じ様に年間行事は行われています。地理的に中国が近くにあり、派手な祝い方をするので海外に注目される事は少ないです。
その理由の一つとして考えられるのが、中国や日本にもある「星伝説」です。話の内容自体は他の国と変わらないのですが、韓国では「星伝説」の恋愛の部分に重きを置いて、「七夕」は昔から「恋人達の日」となっています。
年に一度しか会えなくとも変わらぬ愛を交わす主人公達を、韓国の人々は「永遠の愛の象徴」としたのでしょう。そのため、韓国では「七夕」になると昔は恋人同士が変わらぬ愛を約束するためにイチョウの木の種を贈り合う習慣があったそうです。現代では恋人に限らず、家族同士でも「七夕」に花やプレンゼントを贈り合う様になっています。
更に、日本では「七夕」の日に雨が降ると「星が隠れて二人が会えない」と考えられていますが、韓国で「七夕」の日に雨が降ると「二人が再会を喜んで流した涙」と考えるそうです。もし、その翌日に雨が降ったら今度は「別れを惜しむ涙」と解釈するそうです。
ベトナム
日本や中国では星が集まって川に見えるので「天の川」、西洋ではミルクが道の様に流れているので「ミルキーウェイ」と呼ぶのをよく耳にします。
しかし、ベトナムと聞いて星の話、ましてや「七夕」を連想できる人は少ないでしょう。
そもそも、ベトナムに「七夕」の元となった「星伝説」が伝わっている事を知っている人が少ないと思います。
しかし、ベトナムはアジアの中で「七夕」を祝う国として、最も西にある国なのです。ベトナムで今も伝わっている「星伝説」では、中国と同じ様に「七夕の夜になると二人のために鳥が橋を作る」とされていますが、鳥は国よって違います。ベトナムでは二人の為に橋を作る鳥は、カラスになっています。
日本でカラスは、あまり良いイメージの無い鳥だけに、これだけでも驚きですね。更にベトナムでは七月の満月を「カップルの月」と呼びます。これも、中国から伝わった「星伝説」から生まれた考え方だそうです。
そんなベトナムの「七夕」ですが、特に派手な祭などは行われませんが、離れ離れなった恋人達にちなんで一部の地域では昔の恋人と語り合う、といったイベントが行われているそうです。 
 
七夕 3

 

別名「笹の節供」「星祭り」といわれる七夕は、江戸時代に五節供の一つに定められ、今でも広く親しまれています。七夕といえば、どことなくロマンチックに感じますが、その由来を紐解いてみると、色々な文化が結びついていることがわかります。
「笹の節供」の由来
七夕の由来は、皆さんもご存知の織姫・彦星の星物語から始まります。新暦の7月7日はまだ梅雨のさなかで星空もよく見えないかもしれませんが、旧暦の七夕は現在の8月なので夜空もきれい。月遅れで東の空を見上げてみてはいかがでしょう。
天の川に輝く琴座のベガが織姫(織女星)で、鷲座のアルタイルが彦星(牽牛星)。この2つの星と白鳥座のデネブを結んだものが「夏の大三角形」と呼ばれ、夏の星座を探す目印になっています。白鳥座は、二人の橋渡し役となるカササギです。
さて二人の星物語は・・・
ロマンチックな織姫と彦星の星物語
天の川の西岸に織姫という姫君が住んでいました。織姫は機織りの名手で、美しい布を織り上げては父親である天帝を大変喜ばせておりました。そんな娘の結婚相手を探していた天帝は、東岸に住む働き者の牛使い彦星を引き合わせ、二人はめでたく夫婦になりました。
ところが、結婚してからというもの、二人は仕事もせずに仲睦まじくするばかり。これに怒った天帝が、天の川を隔てて二人を離れ離れにしてしまいました。 しかし、悲しみに明け暮れる二人を不憫に思った天帝は、七夕の夜に限って二人が再会することを許しました。こうして二人は、天帝の命を受けたカササギの翼にのって天の川を渡り、年に一度の逢瀬をするようになったのです。
七夕のルーツ「乞巧奠」
この二人の逢瀬を祝い、中国で「乞巧奠」(きっこうでん)という行事が催されるようになりました。「乞」は願う、「巧」は巧みに上達する、「奠」はまつるという意味で、織姫にあやかり機織りの技が上手くなるように、ひいては様々な手習いごとの上達を願いました。
そして、「乞巧奠」が奈良時代の遣唐使によって日本に伝わると、宮中行事として取り入れられるようになりました。詩歌や裁縫の上達を願って星に祈りをささげ、梶(かじ)の葉に和歌をしたためて、お祀りしていたそうですが、梶の葉の裏側は細くて滑らかな毛がたくさん生えているため墨の乗りがよく、紙の原料としても使われていたからです。宮中行事を伝承する京都の冷泉家では、いまでも古式ゆかしい七夕の歌会や乞巧奠がとり行われており、梶の葉が重要な役割を果たしています。
どうして七夕(たなばた)と呼ぶの?
日本では機で織った布を祖霊や神にささげたり、税として収めたりしていました。旧暦の7月はお盆や稲の開花期、麦などの収穫期にあたります。そこで、お盆に先立ち祖霊を迎えるために乙女たちが水辺の機屋にこもって穢れを祓い、機を織る行事が行われていました。水の上に棚を作って機を織ることから、これを「棚機」(たなばた)といい、機を織る乙女を「棚機つ女」(たなばたつめ)と呼びました。笹竹には、神迎えや依りついた災厄を水に流す役目がありました。
やがてこの行事と乞巧奠が交じり合い、現在のような形に変化していきました。そして、7月7日の夕方を表して七夕(しちせき)と呼ばれていたものが、棚機(たなばた)にちなんで七夕(たなばた)という読み方に変わっていったのです。
短冊に願い事は江戸時代
笹竹に短冊をつるして願い事をするようになったのは、江戸時代から。手習いごとをする人や、寺子屋で学ぶ子が増えたことから、星に上達を願うようになったのです。本来はサトイモの葉に溜まった夜露を集めて墨をすり、その墨で文字を綴って手習い事の上達を願います。サトイモの葉は神からさずかった天の水を受ける傘の役目をしていたと考えられているため、その水で墨をすると文字も上達するといわれているからです。こうした本意を踏まえると、短冊には「○○が欲しい」というような物質的な願いごとではなく、上達や夢を綴ったほうがよいとされています。
五色の短冊の意味
短冊には、願いごとや「天の川」など七夕にちなんだことばや絵を書いて下げます。五色(ごしき)というのは、中国の陰陽五行説にちなんだ「青、赤、黄、白、黒」の五色。陰陽五行説とは、古代中国の「木、火、土、金、水」の五つの要素が、この世のものすべての根源である」という説で、「木=青・火=赤・土=黄・金=白・水=黒」を表しています。
短冊以外の七夕飾りの意味
笹には短冊の他にもさまざまな飾りをつけますが、そのひとつひとつに意味があります。由来を知って飾ってみるとまた楽しくなりますね!
吹き流し:織姫の織り糸を表しており、五色を用いて魔除けの意味もあります。紙風船かくす玉に五色の紙テープを適当な長さに切って貼りつけます。
網飾り / 魚を捕る網を表しています。豊年豊作大漁の願いを込めて飾ります。
折鶴(千羽鶴) / 長寿を願い、長寿のシンボルである鶴を折り紙で折ります。
神衣(かみこ) / 紙の人形(着物)を飾ると、裁縫が上達し、着るものに困らなくなるといわれています。災いを人形に移すという意味もあります。
財布(巾着) / 金運上昇を願い、折り紙で折ったり、本物の財布を下げたりします。
くずかご / ものを粗末にしないという意味で、七夕飾りを作る時に出た紙くずを、折り紙のかごに入れてつるします。
七夕飾りや笹は、七夕の夜のためのものなので翌日には取外します。本来は川に流して清めるものですが、川には流さないで小さく切ってごみの日に出しましょう。ただし、願い事を書いた短冊は、近所の社寺に持ち込めばお焚き上げしてもらえます。
全国の有名な七夕祭り
「月遅れの七夕」として、8月7日前後に七夕を行う地域が全国にあります。旧暦では7・8・9月が秋にあたるため、7月といえば初秋の行事。そのころの季節感でお祭りができるよう、ひと月遅れの8月に七夕を行うところが多いのです。
ねぶた祭り(青森県青森市) / 七夕の夜にケガレを人形に移して川や海に流したのが始まりで、京都の文化が日本海を渡って伝来したという説もあります。「ねぶた」は「眠気をはらう」からきているそうです。
仙台 七夕祭り(宮城県仙台市) / 商店街が主催する大規模な七夕祭り。豪華絢爛な七夕飾りが有名で、全国から観光客が訪れます。
七夕人形(長野県松本市) / 家々の軒先に七夕人形をつるし、子どもの着物を着せて厄祓いをするという全国でも珍しい七夕習俗です。
精大明神例祭(京都府京都市) / 蹴鞠(けまり)の神様に蹴鞠を奉納後、地元の少女たちが、元禄時代の姿で七夕小町踊りを披露します。精大明神例祭の行われる白峯神宮は、蹴鞠の神様「精大明神」を祀る事からサッカーの神様として有名です。
七夕そうめん
七夕の行事食はそうめん。意外に知られていませんが、千年も前から七夕の行事食となっていました。節供に旬のものを食べ、邪気を祓ったり無病息災を願ったりする風習がたくさんありますが、夏においしいそうめんもそのひとつ。暑さで食欲が減退するこの時期にぴったりで、天の川や織姫の織り糸に見立てることもできます。  
 
七夕 4

 

七夕(たなばた)の由来と意味
七夕の由来
七夕は五節句のひとつで、縁起の良い「陽数」とされる奇数が連なる7月7日の夕べに行われるため「七夕の節句」といいます。また、笹を用いて行事をすることから、別名「笹の節句」と呼ばれています。七夕は、中国伝来の【七夕伝説】と【乞巧奠】に、日本古来の【棚機つ女】の伝説や、【お盆前の清めの風習】などが結びついて、現在のようなかたちになりました。
七夕伝説(星伝説)が七夕のルーツ
七夕のルーツは、中国伝来の七夕伝説(星伝説)にあります。幾つかのバージョンがありますが、一般的な伝説のあらすじを紹介します。
「天の川の西岸に住む機織りの名手・織姫と、東岸に住む働き者の牛使い・彦星が、織姫の父親である天帝のすすめで結婚したところ、仲睦まじくするばかりで二人とも全く仕事をしなくなってしまいました。これに怒った天帝が、天の川を隔ててふたりを離れ離れにしましたが、今度は悲しみに明け暮れるばかりで働かなくなってしまいました。そこで、仕事に励むことを条件に七夕の夜に限って再会することが許され、七夕になると天帝の命を受けたカササギの翼にのって天の川を渡り、年に一度、再会するようになった」……というお話しです。年に一度の逢瀬から、七夕のメインテーマは恋愛だと思われがちですが、ふたりが引き裂かれ再会に至る経緯に、七夕の本意があらわれています。
○ 天の川と夏の大三角形 / 天の川をみてみると、なるほどなぁと思うはず。天の川に輝く「夏の大三角形」が、七夕伝説を表しています。夏の大三角形を形成している琴座のベガが織姫(織女星)、鷲座のアルタイルが彦星(牽牛星)、白鳥座のデネブが二人をとりもつカササギです。
中国伝来の儀式・乞巧奠(きっこうでん)が、今の七夕行事につながる
七夕伝説の織姫と彦星の逢瀬を祝い、織姫にあやかり機織りなどの技芸の上達を願い、巧みになるように乞う祭り(奠)と言う意味の「乞巧奠」が中国で催されるようになりました。奈良時代に乞巧奠が伝わると、貴族は庭に祭壇を設けて供物を供え、梶の葉に和歌を綴ったり、7本の針に五色の糸を通して裁縫の上達を祈ったり、角盥にはった水に星を映して眺める「星映し」などを行うようになりました。また、里芋の葉を天帝の水を授かる傘ととらえ、里芋の葉に溜まった夜露で墨をすって文字を書くと、願いが叶うとされています。
棚機つ女(たなばたつめ)……七夕を「たなばた」と読むのはここから
「乞巧奠」が七夕の節供に変化していきましたが、もともとは七夕と書いて「しちせき」と読んでいました。七夕を「たなばた」と読むようになったのは、日本古来の「棚機つ女」の伝説に由来します。「棚機つ女」とは、神様を迎えるために水辺に設けた機屋に入り、棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣(かみこ)を織りあげる女性の話です。そして、中国の織姫と日本の棚機つ女が結びつき、七夕と書いて「たなばた」と読むようになったのです。
お盆前の風習
七夕の行事には、水が関係しています。これは、天の川との結びつきだけではなく、お盆前の清めの風習にも関係しているからです。旧暦のお盆は7月15日なので、7月7日はお盆の準備をする頃にあたり、お盆前に身を清めたり、井戸をさらって梅雨どきにたまった不浄を清めるなどの習わしがありました。今でも「七日盆」(なぬかぼん)といい、墓掃除をしたり、仏具を洗ったり、墓参りの道を掃除したりする習わしが残っています。やがてこれらが結びつき、江戸時代に七夕の節句が五節句のひとつに定められると、人々に親しまれるようになっていきました。七夕の後、七夕飾りを川や海に流す風習を「七夕流し」といい、七夕飾りが天の川まで流れ着くと、願い事が叶うといわれています。
七夕飾り(笹飾り)の由来と意味
七夕飾りの疑問を解いて、もっと楽しく!
七夕には七夕飾り(笹飾り)が欠かせませんが、そもそもなぜ笹竹に飾りものをつるすのでしょう? なぜ短冊に願い事を書くのか? 短冊以外の飾りものにも意味はあるのか? あらためて考えるとわからないことが多いはず。七夕飾りの疑問を解いて、七夕をもっと楽しみましょう!
七夕は、どうして笹竹に飾りものをつるすの?
七夕は、遊んでばかりで働かなくなった織姫と彦星を戒め、働くことを条件に年に一度だけ再会することが許された「七夕伝説」をもとに、技芸の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん)」が生まれ、日本古来の「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説や、「お盆前の清めの風習」などが結びついて現在のようなかたちになりました。いずれも祈りや願いがテーマとなっており、それを具現化したものが七夕飾り(笹飾り)です。笹竹は天の神様が依りつくところ(依り代)とされているので、願いを込めた飾りものを笹竹につるし、天に向かって掲げるわけです。
七夕は、なぜ短冊に願い事を書くの?
短冊に願い事を書くのは、「乞巧奠」に由来します。「乞巧奠」では、貴族が手芸、詩歌、管弦楽、文字などの上達を願い、梶の葉に文字を綴っていました。現在のような七夕飾り(笹飾り)になったのは江戸時代だといわれています。とりわけ江戸時代は寺子屋が増えたため、習字や習い事の上達を願う行事として親しまれ、短冊に願い事を書くことが広がっていきました。なお、童謡でもおなじみの「五色の短冊」の「五色」とは、中国伝来の陰陽五行説に基づく「青・赤・黄・白・黒」の五色のことです。
七夕の短冊には何を書いてもいいの?
七夕の由来を踏まえると、何が欲しい、どこへ行きたいといった欲望ではなく、習い事や勉強など物事の上達を願うのが筋です。そのほかには、「無病息災」や「家内安全」、「織姫」や「天の川」といった七夕にちなんだこと、和歌などが相応しいとされています。なお、本来はサトイモの葉に溜まった夜露を集めて墨をすり、その墨で文字を綴ります。サトイモの葉は神から授かった天の水を受ける傘の役目をしていたと考えられているため、その水で墨をすると文字も上達し、願いが叶うといわれているからです。
短冊以外の飾りものにも意味はあるの?
七夕飾り(笹飾り)の飾りものにはそれぞれ意味があります。また、すべて折り紙で作ります。
○ 五色の短冊 / 願い事を書き、願いが叶うよう祈願します。
○ 吹流し / 昔は五色の糸を垂らしていました。織姫の織り糸を表しているともいわれ、吹流しにしたり、薬玉に下げると魔除けになります。
○ 千羽鶴 / 鶴は長寿の象徴なので、長寿祈願になります。
○ 紙衣(かみこ) / 色紙を着物の形に折ったり、切ったりしたもの。棚機つ女の織る「神御衣(かみこ)」に通じ、手芸上達、厄払い、着るものに困らなくなるなどの意味があります。
○ 巾着 / 金運上昇を祈願。折り紙で折るほか、本物の財布をさげることもあります。
○ 綱飾り / 豊年豊作大漁を祈願。幸せをすくいあげる意味もあります。
○ くずかご / 物を粗末にしないよう、七夕飾りの紙くずを入れます。
日本文化と五色
五色は何色?
五色は、青・赤・黄・白・黒(玄)の5色。ただし、染料や色彩認識の関係で、昔も今も青は緑、黒は紫で表されることが多いので、実際には緑・赤・黄・白・紫になっていることもあります。
五色の由来は
五色は、古代中国の陰陽五行説に由来します。陰陽五行説とは、万物は「陰・陽」の二気、「木・火・土・金・水」の五行で成り立ち、これら陰陽五行の要素で世の中は回っているという思想で、日本の文化に深く関わっています。この五行を「青・赤・黄・白・黒」の5色で表したものが五色で、「木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒」を表しています。五色のほかにも、方角を表す五方、季節を表す五時、人の徳目を表す五常(五徳)、人の感覚器官を表す五官など、あらゆるものが五行に配されています。
   [五行]= 五色・五方・五時・五常・五官・五獣
    木 = 青・・東・・春・・礼・・目・・青竜
    火 = 赤・・南・・夏・・仁・・舌・・朱雀
    土 = 黄・・中・・土用・義・・口・・黄麟
    金 = 白・・西・・秋・・智・・鼻・・白虎
    水 = 黒・・北・・冬・・信・・耳・・玄武

五色はどう使われているの?
おなじみの例としては、鯉のぼりの吹き流しは五色で魔除けの意味がありますし、七夕飾りの吹き流しや短冊も同様です。また、本来は端午の節供のちまきに五色の糸が結ばれており、私たちが祝いのシーンで使っているくす玉も、菖蒲やヨモギで編んだ薬玉に五色の糸をたらし、端午に魔除けをするためのものでした。ほかにも、寺社に行けば五色のものがたくさんありますし、相撲の土俵の上には、東に青、西に白、南に赤、北に黒の房がさがっています。また、ものに限らず春夏秋冬を青春・朱夏、白秋、玄冬と表現するなど、さまざまなところに五色が使われているのです。
五色の楽しみ方って?
このように、日本の文化には五色のものがたくさんあるので、五色の知識を得ることで、見る目が変わってくるでしょう。今までは単にカラフルだな〜と感じていただけなのに、意味を知るとその価値がわかるようになります。さらに、見つけるだけでなく、五色の意味を活かしてみてはいかがでしょう。たとえば、端午の節供に折り紙で兜を作る場合、五常の意味を踏まえて色紙を選んでみます。「礼=青、仁=赤、義=黄、智=白、信=黒」なので、礼儀正しい子に育って欲しいなら青、思いやりのある子に育って欲しいなら赤を選ぶと、思いを託すことができるわけです。とくに五節供は家族の幸せを願うものなので、色に思いを込めると深みが増してくるでしょう。また、お守りや占いは陰陽五行説がベースになっているものが多いので、五色の知識が役立つはず。色で運を引き寄せることもできるのです。  
 
仙台の七夕 5

 

1.七夕の伝説と由来
七夕伝説
七夕の星祭りの、天界に繰り広げられる物語は、中国に古くから伝わっている伝説です。
むかし、天の帝に織女(しょくじょ)という一人の美しい娘がおりました。技芸にすぐれ、毎日、機(はた)を織って暮らしていました。
そのうち、農耕に一生懸命な牽牛(けんぎゅう)と結婚し、二人は夫婦になりました。ところが、それからというもの織女は、あれほど熱心だった機織りをやめてしまったのです。父の天帝は怒って牽牛を織女から引き離し、銀河のかなたに追放してしまいました。しかし、悲しみにくれる織女を見かねた帝は、年に一度、七月七日だけ逢うことをゆるしたのです。
以来、牽牛は七月七日が来ると、銀河を渡って織女に逢いに来ました。その日が雨のため、水が増して銀河を渡れないと、鵲(かささぎ)が群れ集まって翼を広げ、橋となって渡してくれました。織女は琴座の「ベガ」、牽牛は鷲座の「アルタイル」という星で、この二つの星が、年に一度、七月七日の夜に近づくところから、この伝説が生まれました。
七夕祭りの由来
織女星(しょくじょせい)と牽牛星(けんぎゅうせい)−この二つの星を祭って、乞う(願う)巧(技芸)奠(まつり)を意味する乞巧奠(きっこうてん)は、日本でも早くから取り入れられたようです。白鳳時代の持統(じとう)天皇五年(西暦691年)七月七日に、公卿たちと宴を開き、衣服を贈られたと日本書記にあり、また、公事根源(くじこんげん)には、孝謙(こうけん)天皇の天平勝宝七年(西暦755年)に、初めて乞巧奠を行ったとあります。
七夕祭りはその後もながく行われてきましたが、宮廷と武家に限られたもので、これが民間に伝えられるようになったのは、近世に入ってからのことです。江戸時代の寺子屋教育の影響によって、織女星と牽牛星の星が一年でもっとも近づく七月七日にはこれを祭って、女の子は手芸の上達を願い、男の子は手習いの上達を願いました。また、幕府が七夕をふくむ五節句を制定したこともあり、七夕祭りは全国に広がっていったのです。七夕飾りの最初は、笹竹に五色の糸を垂らすだけでした。「和歌」で宮中に仕えた公家の冷泉家(京都)は、様々な文化と共に七夕の行事を昔ながらに今に伝えています。
その後色々と移り変わり、五色の糸も吹き流しとなり現在の七夕となったのです。冷泉家では、旧暦七月七日に乞巧奠を行っていますが、二星へのお供え物をのせる祭壇を星の座と呼んでいます。
七夕の語源
日本では古来、正月と七月の、月が満月になる十五日は、祖先の霊を迎える祀(まつり)の日で、正月の七草の日とともに七月七日(ナヌカビ)は、十五日の祀りの準備に入る斎日(いわいび)でした。
七月七日頃はちょうど稲の開花期。水害や病害虫が心配される時期でもあったことから、稲の収穫の無事を祈ろうと七夕をもって田ノ神の祭りとし、水辺に設けられた棚の上の機家(はたや)の「棚機」(たなばた)で、選ばれた乙女たちが先祖に捧げる御衣(みころも)を織り上げました。この乙女たちを「棚機女」、「織女」と書き、″タナバタツメ″と読みました。
この行事が、中国の星祭りと結びついて、「たなばた」を「七夕」と書くようになったと言われています。
2.仙台の七夕
仙台の七夕と奈良の天の川と織姫神社のつながり
奈良時代以前に、朝鮮半島の戦に破れた百済(くだら)王家が日本をたよって逃れてきた際、時の天皇により多賀城の守りを命ぜられました。
聖武天皇が造営した、奈良の東大寺の大仏は、当時、金箔にする金が不足し完成が危ぶまれていました。この時、多賀城の百済王敬福(きょうふく)は、遠田郡涌谷の黄金山神社一帯で大量の金を発見し、天皇に献上しました。その砂金のおかげで大仏を完成できた聖武天皇は大変お喜びになり、この功績により、百済王家は奈良近く(現在の大阪府枚方市付近)の交野が原(あたがはら)一帯を賜ったのです。そして、川の名を天の川(淀川上流)とし逢合橋をはさんで、織姫が祭神の機物(はたもの)神社と牽牛石(けんぎゅうせき)(枚方(ひらかた)市に現存)を祀りました。
百済王家は、その後も数代にわたり、陸奥守に任ぜられたのです。
このように中国で生まれた風習が、朝鮮半島の百済、奈良を経て、奥州、仙台へと伝わってきたと思われます。
藩政時代の仙台七夕祭り・・・
藩祖政宗(はんそまさむね)公が、寛永六年(1629年)七月七日に、母・保春院の七回忌の折に、「七夕の逢瀬(おうせ)ながらも暁(あかつきの)の別れはいかに初秋の空」と歌を詠んでいることから、この時すでに七夕の行事を取り入れていることがわかります。政宗公は、婦女子文化のためにと七夕の行事を奨励したとも言われています。
また、四代藩主綱村(つなむら)公が八才、幼名亀千代君(かめちよぎみ)のときに書いた「七夕」の書が残っています。さらに、伊達家の大藩士だったという「浜田氏年中行事」には、「六日 五色(ごしき)の紙、色紙、短冊に詩歌を書いて竹へ付、牽牛織女の星を祭る。七日朝なれ共旧例によって今夜より七日夜まで立置也(たておくなり)」とあり、武家の七夕の一端が見られます。
仙台の七夕祭りは、昔は陰暦七月六日の宵(よい)に行われましたが、明治になって陽暦八月六日の宵にと変わり、近年は八月六日から八日までの三日間行われるようになりました。二代目十辺舎一九(じっぺんしゃいっく)の「仙台年中行事」には次のように書かれています。
「七月七日棚機祭、六日夜より篠竹(しのだけ)に、色紙(しきし)短冊(たんざく)、草々(くさぐさ)の形を切って歌をかき 又は堤灯をともし 七日の朝評定川または支倉川、澱川(よどみがわ)へながす」
また、伊達十三代藩主楽山(らくざん)公慶邦(よしくに)の随筆「やくたい草」にも、
「七月七日を七夕といひて、六日の夕より七夕の古歌を、五色の色紙短冊に書き、又うちわ扇の類おもひおもいに女子どものつくり物、笹竹にむすびつけて軒端にたて、二星をまつりて、其笹を七日の朝には、かならず川に流す事は、いづこも同じならはしなり。仙台にては六日の晩にこのまつりをして、七日の暁には評定橋等より笹を流す風習なり。(下略)」
と、七夕の様子が記されています。
六日の宵に竹を立てて飾ることは、従来から全国で一般的だったようです。
現在の七夕祭りに至るまで
このように、仙台七夕祭りは、武家屋敷、商人町を問わず、町のすべてをあげて軒並みに七夕飾りを立てていたようです。しかし、明治維新の改革後、七夕祭りは衰退し、大正時代から昭和にかけての不況は、さらに衰退に拍車をかけていきました。
復活したのは、昭和三年に開催された東北産業博覧会がきっかけでした。
仙台商工会議所と七夕祭協賛会が市内の町内会に呼びかけて、博覧会終了後に七夕祭りを実施、初めて飾り付けのコンクールが行われました。仕掛物も披露され、大盛況のうちに三日間の祭りは幕を閉じました。こうして仙台の七夕祭りは少しずつ豪華となり、今では日本一と呼ばれるようになったのです。
七夕祭りは一時期中断があったものの戦後の昭和21年、まだ世の中が混乱の状態にあったにもかかわらず、その傷跡がそちこちに残る街中に復興したのでした。翌22年8月5日には、天皇陛下が東北地方ご視察の時に、仙台を訪れました。一日繰りあげての七夕祭りの、五彩の笹飾りがゆれる中をお召自動車は通られ、陛下も「実にきれいであった」と大変お喜ばれたそうです。
その後、七夕飾りも年々、豪華さを増し、神奈川県平塚市や愛知県一の宮市をしのぐ全国一と名を馳せ、三日間の祭りには二百万人を超す人々で賑わうまでになりました。この七夕祭りが行われるようになってから、歴史の中で衰退もありましたが、その火を消さなかったのは、遠来の人々に満足していただけるよう、創意工夫し、美しいものを作ろうという仙台の人々の強い思いがあったからといえます。その熱意が、現在のような繁栄につながったのでしょう。
ところで七夕にはよく雨が降るといわれています。三日間晴れという日はあまりありません。特に夏の日は夕立が多く、紙で作った七夕はひとたまりもありません。そこで、滑車を使うことで、素早く飾りを下げたり、上げたり、また、ビニール袋を用意するなど、いろいろと工夫がなされています。七夕の三日間は、いつ見物に来られても満足して帰られるよう、みんなで努力しているのです。
仙台七夕、七つの飾りの意味
かつては、七夕の前日、町なかには近郷近在(きんごうきんざい)からやってきた竹売りの姿が見られました。笹竹は唐竹(からたけ)と孟宗竹(もうそうだけ)の両方が用いられましたが、最近は、若竹の葉が細かく枝が張っている孟宗竹が多く使われています。
仙台七夕祭りの特徴である七つの飾りの一つ一つには、作った人の願いや祈りがこめられています。そして、仙台七夕飾りには、七つ飾りを下げるよう、仙台七夕まつり協賛会や商店街では申し合わせているのです。
伝統の七夕飾りには、次のような深い意味があります。
○ 短冊(たんざく)
六日の朝早く、カラトリ(サトイモ)の葉にたまった夜露をころがし、小川で洗い清めた硯にうつし取ってそれで墨をすり、詩歌や「七夕」「天の川」などと書いて、歌や書の上達を願いました。昔は、梶の葉に歌をしたためました。現在は願いごとを書くようになりました。
○ 吹き流し(ふきながし)
昔の織り糸を垂らした形をあらわしていて、機織や技芸の上達を願いました。現在の吹き流しは、この五色の織り糸の形が原点です。
○ 折鶴(おりづる)
延命長寿の願いがこめられています。かつては一家の最年長者の年の数だけ折り、吊るしました。
○ 投網(とあみ)
魚介の豊漁を祈ると同時に、食べ物に不自由しないよう豊作を祈りました。今年の幸運を寄せ集めるという意味も含まれています。
○ 層籠(くずかご)
和紙飾りの裁ち屑を中に入れて下げますが、清潔と節約の大切さを養います。
○ 巾着(きんちゃく)
富貴を願いながら、節約、貯蓄の心を養うことを願って飾ります。
○ 紙衣(かみごろも)
紙で作った着物で、裁縫や技芸の上達の願いをかけました。七夕竹の一番先端に吊るすという習わしがあり、子どもが丈夫に育つよう病や災いを身代わりに流す形代の意味もあります。
以上が仙台七夕の七つの飾りです。
仙台七夕の昔からの飾り・・・
○ 七夕線香(たなばたせんこう)
普通は、水色の細い吹き流しの端に、一本ずつ線香をのりではりつけたものです。もっとていねいになると、くま笹の葉で帆掛舟をつくって、その下に線香を下げます。線香は、六日の夜更けに火をともすという習わしがあり、七夕祭りが盆の祖霊を迎える準備ということから吊るしたといいます。
現在は火災のおそれがあるので飾ることもなくなりました。
○ 仕掛物(しかけもの
七夕の日、明治の頃から仙台の商店街の一部では、店頭に仕掛物を出して観衆を喜ばせていました。昭和に入って動く人形の仕掛物となり、特に人気のある漫画のキャラクターなどは子供達を楽しませています。  
 
七夕 6  

 

1.七夕の日
七夕は、7月7日に行なう星祭りです。七夕の日は、一年に一度だけ「おりひめ(織女)」と「ひこぼし(牽牛)」が天の川の上でデートをする日といわれ、この日にちなんで、願い事を書いた短冊を笹の葉につるし、おりひめ星に技芸の上達を願います。
(1)七夕ことはじめ
「なぜ七夕が7月7日なのか」、「いつから7月7日になったのか」という問題については、実はよくわかっていません。七夕の本家・中国では、漢代(〜3世紀はじめ)の文献をみても、7月7日に七夕行事を行なったという記述は見られません(当時は、7月7日には曝書や曝衣をしたり、薬丸を合わせたりしたそうです)。3世紀頃(晋朝時代)になると、「二人が7月7日に会う」と 具体的な日が書かれている文献が登場しますので、この頃から一般的になってきたのかもしれません。
(2)旧暦の七夕
以下では、近年の旧暦7月7日(旧七夕)の日付を示しておきます。これをみると、現在の暦では7月7日は梅雨の時季に当たっていて星の見えない日が多いですが、旧暦7月7日は天候の良い時季になることがわかります。旧暦で7月は秋の季節であり、七夕は秋の行事として位置付けられています。
       旧七夕(旧7月7日)
  2018年    8月17日  
  2019年    8月 7日  
  2020年    8月25日  
  2021年    8月14日  
  2022年    8月 4日  
  2023年    8月22日  
(3)七夕祭りは一年に3回
各地で七夕祭りが行なわれる日付を見ていると、3種類あることに気づきます。一つは現在の暦の7月7日で、二つめが旧暦の7月7日。そして三つめが8月7日に行なわれるというもので、有名な仙台の七夕祭りなどはこれが当たります。
仙台の七夕祭りのように、現行太陽暦の日付の一ヶ月遅れでおこなう行事を「月遅れの行事」といいます。これは明治期に太陽暦への改暦が行われた時、新暦でお祭りをすると余りにも行事本来の季節とズレてしまうことに対処するため、1ヶ月遅れでお祭りをすることにしたのが始まりです。旧暦の日付が新暦に対して平均で約1ヶ月遅れとなることに着目したアイデアです。これだと、旧暦の日付と大きくズレないため、それぞれの行事が持つ本来の季節感との違和感が緩和されるのが利点といえましょう。
七夕祭りの日付に3種類あるというのは格好の話のタネで、「万一7月7日に雨が降ったとしても、織姫とひこ星は、あと2回デートのチャンスがあるので大丈夫です。」などと話ができますね。
2.七夕伝説
ここで紹介するのは、私たちが日ごろ耳にする七夕伝説です。
天帝の娘である織女は、機を織るのが仕事です。しかし仕事ばかりする織女を心配した天帝は、娘を天の川の向かい岸にいる牽牛と引き合わせました。すると二人は恋に夢中になって仕事を全くしなくなってしまいました。それをみた天帝は怒り、二人を天の川の両岸に引き離してしまいました。
二人の様子を哀れに思った天帝は、一年に一度、7月7日の夜にだけ会うことを許しました。しかし、7月7日に雨が降ると天の川の水が増水してわたることができないので、カササギが二人の橋渡しをします。
3.七夕伝説の成立とその発達
上記のような七夕伝説はすぐに成立したのではなく、長い時間をかけて完成されました。ここでは、洪淑苓著、「牛郎織女研究」(1989、学生書局)の内容に従って、伝説の形成されていく過程を紹介します(ただし本は中国語で書かれているため、少々解釈に誤りがあるかもしれませんので、ご了承下さい)。
(1)胚胎期
七夕のお話はもともと中国のものです。織女と牽牛という名前が初めて登場するのは春秋戦国時代ころまでの詩を集めた「詩経」国風編(孔子の編集といわれる)です。しかし、そこには星の名称として「織女」、「牽牛」とあるだけで、二人の恋愛の話は全く見られません。
(2)雛形期
また漢代の「史記」天官書には「牽牛為犠牲」、「職女、天女孫也」という文がみられ、伝説の片鱗がうかがわれます。また、同じ漢代に編纂された「文選」中の「古詩十九首(古詩十九編とも)」には、「二人が天の川の両岸に別離し、話をすることができない」という文が見られる。
(3)形成期
魏晋南北朝時代になると、七夕伝説が次第に形成されていく。「文選」曹植洛神賦の中にある李善の注によると、「曹植九詠注」に牽牛は夫で織女は妻であること、織女と牽牛の星はそれぞれ銀河の傍らにあること、1年に一度7月7日に会う事などが書かれている。また「荊楚歳時記」会引には、「伝玄(217〜278)の「擬天問」には、7月7日に牽牛と織女が天河で会う」と書かれている。従って、3世紀の初頭には二人が7月7日に会うという話が次第に形成されてきた。そして南北朝の梁時代(6世紀)に書かれた「荊楚歳時記」には、これらの話がまとまって紹介されている。
(4)唐代以降
唐代頃になると、カササギが橋の役割をして、二人が会うのを手助けするという話が生まれ、宋代に盛んになった。
以上のような過程をふんで、徐々に成立していったようです。ほかにも、民間故事の要素なども入り、現在のような形になったようで、単純には語れないようです。また細かい議論がありますが、とりあえず概略の紹介にとどめておきます。
4.乞巧奠(きこうでん)
乞巧奠は、古代中国での宮廷行事で、7月7日の夜に織女星をながめ祭壇に針などを供えて技芸の上達を願うというものです。
その歴史について上記「牛郎織女研究」では、晋王朝の頃は星をながめてお願いをするものの、願い事の内容は富や幸福、子孫繁栄など多様であった。そののち、南北朝の宋時代頃に針を穿つ風習が始まり、星をながめて技芸の上達を乞う(乞巧)ような形が定まったのは梁王朝の頃であると述べています。
日本でも乞巧奠は宮廷行事として奈良時代に伝えられました。江戸時代の1835(天保6)年に刊行された、池田東籬著「銀河草紙」には、「公事根元」という宮廷行事に関する室町期の書物の記述に基づいて、「御殿の庭に机を四脚立てて、灯台九本、おのおの灯あり。机の上に色々の物据えたり。筝の琴、琴柱を立ててこれを置く。…夜もすがら焚物あり。たらいに水を入れて大空の星をうつす…」と書かれています。
5.日本の七夕祭りの由来
日本の七夕の起源は、乞巧奠だけではありません。
日本では、毎年7月7日に「棚機女(タナバタツメ)」という巫女が水辺で神の降臨を待つという民間信仰とむすびついた行事があります。
日本の七夕は、この「タナバタツメ」と、中国の乞巧奠とが合体したものだという説が有力です。ちなみに乞巧奠は、平安時代の貴族たちが中国の風習を真似て導入していたようで、その後乞巧奠が民間に流れていき、次第に「タナバタツメ」と合わさっていったのでしょう。
民俗調査などでは、七夕がお盆(旧7月15日)を迎えるための準備としての意味をもつ(七夕盆)場合や、農業の豊作を願う意味で行う場合など、様々な意味合いを持っている場合があります。これは後世になって民間のいろんな行事と混ざり合っていて、出来上がったものだと思われます。
6.江戸時代の七夕風習
江戸時代になると、七夕はすっかりと庶民の行事として定着しました。
技芸の上達を願う気持ちはそのままですが、お祭りとしてかなり盛り上がりを見せていたようです。前述の「銀河草紙」には、さまざまな風習が紹介されています。その一部をご紹介します。
(1)笹飾りと笹流し
七夕の笹飾りは、江戸後期には既に盛んになっていたようで、「今の世のならいに、七月五日または六日に五色の染紙を色紙短冊の形に切りて、詩歌を書き、長き竹に結い付け、幼童ら市中をささげ歩きて遊戯をなし…」とあります。江戸時代は子どもたちが笹を持って、街中を練り歩いたことがわかります。
(2)七夕踊り
七夕の夜には「七夕踊り」という踊りの会が催されました。これは諸芸を教える師匠の家が主催して行なうもので、「銀河草紙」には「手習いをしゆる家々には、この日門人を迎え、手向けの詩歌を書かしめ、夕べには提灯をともし連ねて、踊りを催ふす」とあります。
(3)芋の葉の露で書道
七夕の朝は早起きして、芋の葉に付いた露を集めて墨をすって書道をして達筆を願いました。この日は硯もよく洗い清め、筆も新しいものを使ったといいます。芋の葉の露を使う理由は、「銀河草紙」によると「芋の葉における露は、みるみる白金のようにて、いとも清くみゆる」からだそうで、故事などのいわれは無いとしています。
(4)梶の葉や短冊に和歌を書く
七夕には、星に捧げる和歌を詠んだり、詩を作ったりする風習もありました。「銀河草紙」には、「短冊色紙書法」として短冊や色紙に詩歌を書く「書き方」の例が絵で示されています。また短冊だけでなく、梶の葉に書く風習もあったと紹介しています。
(5)星に小袖を貸す
江戸時代には、七夕の日に着物を星にお供えする風習があり、人々は「星に小袖を貸す」と言っていました。この風習は「貸し小袖」といい、着物をお供えするとよい着物に恵まれる、などと言い伝えられています。
その他、「銀河草紙」には、裁縫いを教える先生が弟子の女性を招いて、模様を描いた紙で小さな男女の衣服を縫って手向ける風習を紹介するほか、貴族たちが和歌の上達を願って歌会を開き、蹴鞠をし、生け花などを行ったことなどを紹介していて、さまざまな風習が繰り広げられていた様子が伺えます。
なお、「銀河草紙」の著者である池田東籬(1788〜1857)は京都の人で、朝廷の役人として勤めながら、一般向けの本を多く著した作家です。ですので、この本に書かれた風習は、当時の京都で行われていたものではないかと思われます。
7.七夕人形
地方によっては、七夕飾りとして人形を吊るす風習があります。これは、かつては各地方で行なわれていたようですが、現在は長野県松本市周辺と、兵庫県姫路市東部などわずかに残っているだけです。
姫路市東部の七夕は、月遅れの8月6日の夜に行なわれ、各家では6日の夜に七夕飾りを軒下に出し、翌7日の朝に終えます。お祭りの準備は、まず2本の笹を立て、その間を細い竹でつなぎ、そこに七夕人形や他のさまざまな飾りを吊るします。その下には縁台を出し、お神酒や季節の果物などをお供えします。また、子どもが生まれた家では、子どもの名前と「天の川」とか「星まつり」という文字を書いた提灯も出されます。さらに面白い事に、きゅうりで作った馬や、盆灯篭(ただし書かれている絵はお盆の時のものとは違うとのこと)も飾りますから、七夕盆のタイプに分類できるようです。そして7日の朝になると、飾りをつぶして川に流し、七夕祭りは終わります。
さて、注目の七夕人形は紙製で、和紙や千代紙などを切って着物の形に作ったもので、素朴な形をしています(写真参照)。この人形は七夕祭りが終わっても捨てずに保存し、次の年にまた使うそうです。人形を吊るす理由については、聞いた限りではわかりませんでしたが、人形を飾る風習自体はずいぶん古くからあるという事なので、もしかしたら理由は忘れられたのかもしれません。
このように、この地域の七夕祭りはユニークなものですが、最近は学校などは新暦でお祭りをする事や、少子化という理由などから、昔ほどは盛んに行なわれる事は無くなったそうです。また、8月7日に近い土曜日や日曜日の昼間に、自治会の行事として一括して行なっている地区もあるようです。また、七夕飾りの処理についても、昔は川に流していたが最近はゴミ問題の理由から普通のゴミとして処理しているという事でした。
ちなみに、この地域の七夕風習が広く紹介されたのは、1970年代の頃です。なんせ七夕飾りは6日の夜に出し、翌7日の朝には流してしまうという短時間の行事のため、全く知られていなかったそうです。
 
七夕伝説 / 織姫と彦星の物語

 

一般的な七夕伝説(織姫と彦星の話)
まず、七夕伝説として最も一般的な織姫と彦星の物語についてお話していきます。これは、牛郎織女(ぎゅろうしゅくじょ)という、中国発祥の物語です。
天帝により離れ離れにされた夫婦、織姫と彦星が、1年のうちで7月7日だけ会うことが許されたという物語。
・ お互い勤勉であった織姫(織女)と彦星(牽牛)は、夫婦になったことで怠惰になる
・ それに見かねた天帝は天の川を隔てて東西に引き離す
・ 二人が悲しみに暮れていたため、天帝は1年で7月7日だけ二人が会うのを許可した

天の神様の娘「織姫」はそれはそれは美しいはたを織っていました。神様はそんな娘が自慢でしたが、毎日化粧もせず、身なりに気を遣わずに働き続ける様子を不憫に思い、娘に見合う婿を探すことにしました。
すると、ひたすら牛の世話に励む勤勉な若者「彦星」に出会います。この真面目な若者こそ、娘を幸せにしてくれると思い、その若者を娘の結婚相手に決めました。
そんな二人は毎日仲睦まじく暮らしましたが、これまでとは一転して遊んで暮らすようになり、仕事を全くしなかったため、天の服は不足し、牛達はやせ細っていきました。神様が働くように言うも、返事だけでちっとも働こうとしません。
ついに怒った天の神様は、織姫を西に、彦星を東に、天の川で隔てて引き離し、二人はお互いの姿を見ることも出来ないようになりました。
それから二人は悲しみにくれ、働こうともしなかったため、余計に牛は病気になったり、天の服はボロボロになっていくばかりです。
これに困った天の神様は、毎日真面目に働くなら7月7日だけは会わせてやると約束をすると、二人はまじめに働くようになりました。
こうして毎年7月7日の夜は織姫と彦星はデートをするようになりました。
○催涙雨(さいるいう)について
7月7日に降る雨のことを「催涙雨」と言い、これには様々な捉え方があります。
その中でも最も一般的なのが、「年に一回の機会に会うことが出来ずに悲しむ織姫と彦星が流す涙」というものです。
この悲しいエピソードとは別に、「雨の氾濫で天の川を渡ることが出来ないが、“かささぎ”の群れが橋となり、二人は会うことが出来た」という話も有名です。
その他世界各地の七夕伝説
日本(天稚彦物語)
平安時代に作られたもので、御伽草子に収録さている物語です。
・ 3人の娘を持つ男のもとに大蛇がやってきて、命と引き換えに娘を嫁に差し出すよう要求をされる
・ 末娘のみが、父親のために進んで自分が嫁ぐ意志を見せる
・ 娘が大蛇のもとに行くと、大蛇から美しい男が出てきて、“天稚彦”と名乗り、二人は幸せに暮らすようになる
・ ある日天稚彦は「天に用事がある」の言い天に帰るがしばらくたっても帰ってこない
・ 娘は自ら天に向かうが、天稚彦の父親は実は鬼であり、娘と天稚彦の関係をよく思わなかった
・ 父親は娘に無理難題をけしかけるが、それを次々とこなしたため、二人の仲を認め、年に一回合うことを許可する
・ 娘と天稚彦の間に爪を打ち付けると、大水が表れて、それが天の川になり、二人を隔てるが、7月7の夜だけ会うことができるのである
中国
中国で最も一般的な伝説です。
・ 地上に天女が水浴びに来る
・ ある若者は、長年連れ添っている年老いた牛の助言に従い、その天女の天衣を盗むことで、天に帰れなくして自分の嫁にすることになる
・ やがて二人に子宝に恵まれ、幸せに暮らす
・ ある日、上帝が天女がいつまでも帰らないことに怒り、神兵を遣わせて天女を連れ帰る
・ 若者が天に昇るために、牛は自らの命を断って自分の皮を使わせる
・ 若者は牛の皮をまとい、子どもと一緒に天女の後を追うが、追いつこうとするところで二人の間に川ができ、どんどん距離が離されていく
・ 若者とこどもはその川の水を柄杓ですくい始める
・ この健気な姿に感動した上帝は、1年の間、7月7日だけ合うことを許可した
・ ちなみに、天の川に隔てられた牽牛星と織女星がそれぞれ若者と天女で、牽牛星の隣に並ぶ小さな星が、二人のこどもだと言われている
ギリシャ
織姫の星「こと座のベガ」にちなんだ話ですが、他とは毛並みの違う悲しい物語です。
・ 美しい琴を奏でる青年「オルフェウス」と、妖精「エウリディケ」は恋に落ちて結婚する
・ 幸せに暮らしていた二人だが、エウリディケは誤って毒蛇を踏み、噛まれて死んでしまう
・ 悲しみに暮れていたオルフェウスだが、あの世の大王プルトーンの元に行き、生き返らせることを決意
・ 道中、様々な番人がそれを阻むが、オルフェウスの琴を聞くとみな黙って通してくれて、遂に大王プルトーンの元へ着く
・ 琴を弾きながらプルトーンに懇願することで、最初は拒んでいたプルトーンも、「地上に戻るまでに妻のほうを振り返ってはいけない」という条件の元、一度だけエウリディケを地上に生き返らせるチャンスを与える
・ しかし、オルフェウスはうっかり振り返ってしまったため、エウリディケはあの世に戻され、生き返らせるチャンスを失ってしまう
・ 悲しみにくれるオルフェウスは酒に酔った女に、琴を弾く命令されるも、それに逆らい殺されてしまう
・ 大神ゼウスは、オルフェウスの琴を星空に掲げて、それを「こと座」とした
フィンランド
「天の川」にちなんだ、ロマンチックな物語です。
・ 仲睦まじい夫婦「ズラミス」と「サラミ」は、死後、天に昇り星になるが、距離がとても離れていたため、会うことはできなかった
・ お互いに会いたい一心で、空を浮かぶ星屑をすくっては集めてを1000年繰り返し、やがて光の橋を完成させた
・ 二人はお互い光の橋を渡り、シリウスの星のところで再開することが出来た
・ この光の橋が天の川である  
七夕物語 2

 

五節句の一つである七夕は、彦星(牽牛星・アルタイル)と織姫(織女星・ベガ)が年に一度だけ天の川で逢瀬を楽しむ、というロマンチックな話として広く知られている。日本で広く知られるこの伝説は奈良時代、中国から伝わった。
奈良時代、中国から、「乞巧奠(きこうでん、「巧」は裁縫の上達の意)」と呼ばれる星祭りが日本に伝わった。これは、女子が裁縫の上達を願って、養蚕や針仕事を司る星とされる織女星に針や絹糸を供えたお祭りで、宮中の儀式として定着した。
そして、このお祭りが、日本古来の、神様へ捧げる衣を織る「棚機女(たなばため)」に対する信仰と結びついて、現在の七夕になったといわれる。「七夕」を「シチセキ」と読まず、「タナバタ」と読むのはこのため。
日本の七夕は、先祖が帰ってくる盆を迎えるにあたっての「禊ぎ(みそぎ)」の意味の伝統行事とされる。人里離れた水辺の機屋(はたや)で、神の妻となる処女が神を祭って一夜を過ごし、翌日七夕送りをして、穢れを神に託し持ち去ってもらう祓(はらえ)の行事であった。今でも七夕の夜に水浴びをしたり、井戸の底の泥を取り除く風習のある地方のもある。昔は笹飾りに現世の悪い事を移して流していたという。
彦星と織姫の逢瀬にかささぎが一役
彦星(牽牛星・アルタイル)と織姫(織女星・ベガ)に、天の川に輝く白鳥座のデネブを加えた1等星のトライアングルが、有名な「夏の大三角」だが、7月7日は、日本の大部分はまだ梅雨の最中だ。
これは、旧暦(太陰暦)から、国際的に使用されている新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)に改暦され、七夕行事も新暦の7月7日に行なわれるようになったためである。旧暦の7月7日に行われていた七夕は、本来秋の行事であり、空には綺麗に天の川が見えていた。
ところで、雨の七夕に関し、次のような話が伝えられている。「7月7日に雨が降ると、天の川の水かさが増し、織女は向こう岸に渡ることができなくなる。川下に上弦の月がかかっていても、つれない月の舟人は織女を渡らせてはくれない。牽牛と織女は天の川の東と西の岸辺にたたずみ、お互いに切ない思いを交しながら、川面を眺めて涙を流す。すると、そんな2人を見かねて、何処からともなくかささぎの群れが飛んできて、翼と翼を広げて天の川に橋をかけ、織女を牽牛のもとへ渡す手助けをしてくれる」。
上弦の月とは半月のことで、太陰暦では7月7日は必ず上弦の月となるため、その形から織女と牽牛が乗る舟に見立てたようだ。
夜空を見上げれば、昔の人々のイマジネーションの豊かさに感嘆することだろう。はたして今年は、彦星と織姫は天の川で無事に会う事ができるだろうか?
笹飾りには意味がある 願いを込めて…
現在、七夕の笹飾りには、願い事を書いた短冊や吹流し、投網(とあみ)などの切り紙細工を飾るが、それらにはそれぞれに意味がある。
笹竹:七夕の原型が中国から伝わる前から、日本では、笹(竹)は神聖なものとして大切に扱われてきた。タケノコから親竹になるまでの期間の速さに生命力を感じ、強力な殺菌力を持つその葉に魔除けの力があると考えられていた。そのため、人々は笹竹で身を清めたり、魔をはらう儀式をしたり、神に祈りをささげたりした。今でも地鎮祭では、笹竹を立てて土地を清め、神社で宮司さんや巫女さんが笹でお清めをすることがある。
笹飾り:七夕の神である織姫・彦星に捧げ物をするときの目印として、神聖な植物である笹竹を立てたのが始まりで、後に、捧げ物が今のような飾り物に変化し、さらにはそれを笹竹に取り付けるようになったのではないかといわれている。笹飾り自体が文献に初めて記されたのは、鎌倉〜室町時代のあたりで、ポピュラーになったのは、江戸時代になってからのようである。
短冊:七夕の歌にもある「五色の短冊」は、もとは五色の布が使われていたようで、裁縫や機織りが上達することを願って、織り姫に捧げたとされている。その他、針に五色の糸を通したものを飾ることもあった。後に、高価な布の代わりに紙の短冊となり、裁縫や機織りの上達といったこと以外の願い事も書くようになった。また、平安時代、貴族たちが、七夕まつりで詠んだ歌を「梶の葉」に書いたのが変化したという説もある。
吹き流し:昔の織り糸を垂らした形を表わしており、機織や技芸の上達を願う。現在の吹き流しは、この五色の織り糸の形が原点といわれる。
投網:折り紙にはさみを入れ、網目状にしたものを飾る。魚介の豊漁を祈ると同時に、食べ物に不自由しないよう豊作を祈る。今年の幸運を寄せ集めるという意味も含まれている。
その他にも、最近は少なくなったが、野菜や果物などを描いた札もある。七夕と結びついた農耕のおまつりで、この時期に取れる野菜をお供えしたことからきている。
古くにはそうめんのお供え物も
七夕には、冷たい素麺(そうめん)を頂いたり供物とする習慣があったようである。これもまた中国から伝わったものとされる。平安時代の醍醐天皇の頃、宮中の儀式や作法を集大成した法典「延喜式」が制定(927年)されたとき、旧暦七月七日の七夕の節句に、そうめんの原型といわれる「索餅(さくへい)」をお供え物(おそなえもの)とするよう、定められていたそう。
なぜ七夕の節句の供物がそうめんなのか。七夕伝説から、そうめんを天の川に見立てたという説、機織の糸だという説、夏に栄養価の高いそうめんを食べて健康増進をはかったという説、小麦の収穫を神に報告するためだとする説などがある。ともあれ、そうめんはすでに千年も前に、宮中行事には欠かせない食物であった。  
織姫と彦星の物語 3

 

「七夕伝説」織姫と彦星の物語
天の川の東に天帝である天の神様には織姫という一人娘がおりました。機を織るのが上手な織姫は、毎日神様たちのために機を織って暮らしていました。そんな織姫も年頃になり、そろそろ婿を探そうということになります。
そこで登場したのが天の川の西側に住む彦星でした。牛飼いの彦星はとても働き者で、評判が良い若者でした。天帝は真面目な彦星ならばきっと良い婿になるだろうと織姫と結婚するよう頼みます。彦星はありがたく引き受け、2人は結婚しました。
織姫と彦星はとても仲の良い夫婦になりましたが、結婚してから働かなくなってしまいます。織姫は機を織らなくなってしまい、彦星も牛飼いの仕事をサボってばかり、二人は川のほとりで話ばかりしています。二人の様子を見て怒った天帝は二人を引き離してしまったのです。
会うことができなくなった二人は、寂しさと悲しさのあまり、今度は全く仕事をしなくなってしまいました。これでは意味がないと思った天帝はこう告げます。「これまでのようにしっかり働くのなら、年に1度だけ、7月7日の夜だけ会ってもよい。」それ以来、二人は年に1度だけ会えるようになったのです。
織姫と彦星は恋人同士だと思っている方も多いですが、二人は夫婦だったんですね。別れて暮らしていると聞くと無理やり別れさせられた恋人同士のように感じてしまいますが、結婚した結果、仕事をしなくなってしまったので別居させられてしまった夫婦と言うのが正解となります。ただかわいそうだというのではなく、織姫と彦星、二人に問題があったというわけです。
織姫と彦星の物語は京劇などでも演じられる中国の「天河配」が元になっています。「天河配」の内容は少し七夕のお話とは異なります。「天河配」では、牛飼いが水浴びをしていた天女の一人である織姫の衣を盗んで夫婦となりますが、織姫は天界に帰ります。追いかけて天界まで行った牛飼いは、織姫の母の西王母によって天の川の西と東に引き裂かれる、というお話です。こちらは本当に悲しいお話です。
七夕伝説の元となった中国では、日本のように笹にお願いごとを書いた短冊をつけることはしません。中国では七夕の日を「恋人の日」としていて、バレンタインデーのように恋人にプレゼントを贈るようですよ。
織姫と彦星は雨が降ると会えないの?
7月7日に降る雨は「催涙雨・酒涙雨(さいるいう)」と呼ばれています。「催涙雨・酒涙雨(さいるいう)」には2つの考え方があります。1つは雨のために二人が再会することができなかったために流した涙という考え方、そしてもう1つは再会はできたのだけれど別れの時が来てその悲しさに流した惜別の涙という考え方です。会うことができなくて悲しみで流した涙なのか、会うことはできたけれど別れたくなくて悲しみで流した涙なのか、どちらも悲しくて流した涙なのですが、会えるのか会えないのか、両方の考え方があるようです。
それにしても、天の川の東と西に別れているのに、織姫と彦星は7月7日にどうして会うことができるのでしょうか。二人を結びつけてくれるのはカササギです。7月7日になるとカササギが飛んできて天の川に橋をかけます。カササギが作った橋を渡って二人は会えていたんですね。けれど、雨の日は天の川の水かさが増えてしまいますから、カササギが橋をかけることができません。そのため、雨の日は二人が会えないという説が生まれのでしょう。
織姫の星と彦星の星は、夜空を見上げると実際に存在しています。どちらも夏の星座で、織姫星は「こと座のベガ」そして彦星は「わし座のアルタイル」です。二つの星は天の川を挟んで離れています。そこまでは七夕伝説と同じですが、残念ながらこの2つの星は1年に1度出会えるというわけではありません。二つの星は空を見上げて見た感じではそれほど離れていませんが、実は16光年も離れています。お話では一年に1回会える二つの星ですが、本当は会えないのです。
七夕の日は織姫と彦星を思いながら空を見上げよう
小さいころから聞いていた織姫と彦星の話。こうやって見てみると「思っていたのと違っていた」と言う方も多いのではないでしょうか。
七夕伝説を読み返してみますとなんだかかわいそうですね。織姫と彦星を応援したくなります。夏の星の中でも、織姫の星と彦星の星はどちらも大きくて見つけやすい星です。七夕の時期の日本は梅雨の時期ですから、残念ながら雨が多いです。でも七夕の日だけは二人が無事に会えて楽しい時間を過ごせるよう願いながら、星を見上げてみませんか?ときにはロマンチックな気分に浸るのも良いものですよ。  
 
天の川

 

夜空を横切るように存在する雲状の光の帯のこと。
東アジアの神話では夜空の光の帯を、川(河)と見ている。一方、ギリシャ神話では、これを乳と見ている。それが継承され英語圏でもMilky Way(ミルキーウェイ)と言うようになった。
この光の帯は天球を一周しており、恒星とともに日周運動を行っている。
日本では、夏と冬に天の川が南北に頭の上を越える位置に来る。これをまたいで夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見える。他の星も天の川の周辺に多いので、夏と冬の夜空はにぎやかになる。
現在では「天の川」や「Milky Way」という言葉で、天球上の(視覚的な)帯だけでなく、地球を含む星の集団、つまり天の川銀河を指すこともある。
東アジアの神話
中国・日本など東アジア地域に伝わる七夕伝説では、織女星と牽牛星を隔てて会えなくしている川が天の川である。二人は互いに恋しあっていたが、天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになった。
ギリシャ神話
ギリシャ語では夜空の光の帯を「galaxias」もしくは「kyklos galaktikos」と言う。kyklos galaktikos は「乳の環」という意味。
それにまつわるギリシャ神話
「ゼウスは、自分とアルクメネの子のヘラクレスを不死身にするために、女神ヘラの母乳をヘラクレスに飲ませようとしていた。しかし、嫉妬深いヘラはヘラクレスを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしなかった。一計を案じたゼウスはヘラに眠り薬を飲ませ、ヘラが眠っているあいだにヘラクレスに母乳を飲ませた。この時、ヘラが目覚め、ヘラクレスが自分の乳を飲んでいることに驚き、払いのけた際にヘラの母乳が流れ出した。これが天のミルクの環になった。」
英語での名称「Milky Way」もこの神話にちなむ。
天文学における天の川
天文学の進展とともに、「天の川」ないし「Milky Way」の実体は膨大な数の恒星の集団であると次第に理解されるようになった。
現在では、我々の地球を含む太陽系は、数ある銀河のひとつ(「天の川銀河」)の中に位置しており、我々はこの銀河を内側から見ているために天の川が天球上の帯として見える、と解説される。
天の川銀河の中心はいて座の方向にある。なお、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、暗黒星雲があって、その向こうの星を隠しているためである。この黒い中州をインカの人々はカエルやヘビなどの動物に見立てていた。
○天の川が通過する主な星座 / いて座、さそり座、みなみのかんむり座、さいだん座、じょうぎ座、みなみのさんかく座、おおかみ座、コンパス座、ケンタウルス座、はえ座、みなみじゅうじ座、りゅうこつ座、ほ座、とも座、らしんばん座、こいぬ座、おおいぬ座、いっかくじゅう座、オリオン座、ふたご座、おうし座、ぎょしゃ座、ペルセウス座、カシオペヤ座、ケフェウス座、とかげ座、はくちょう座、こぎつね座、や座、わし座、いるか座、へびつかい座、へび座(尾部)、たて座、とびうお座、ふうちょう座、カメレオン座
○名称の指し示す対象の変化 / 星の巨大集団の学術的な呼称としては、ギリシャ語系の表現「galaxy」があてられた。この地球を含む星の集団は「the Galaxy」と、大文字で区別して(つまり固有名詞として)表現されることになった。
日本語では「銀河」という言葉がそれにあてられた。「銀河」という言葉も、「天の川」同様に、本来視覚的にとらえた天球上の光の帯を(メタファーで)指す言葉であったが、現在では、学術用語的に用いられ、星の巨大集団全般を表す言葉として使われるようになった。それとともに「銀河」は天球の光の帯の意味で用いられることは少なくなった。 地球を含む星の巨大集団は特に区別して、「銀河系」と呼ぶ。
現在、英語の「Milky Way」も日本語の「天の川」も、文脈によって天球上の光の帯を指すこともあれば、天体としての「天の川銀河」を指すこともある。
天の川を見る方法
天の川の光は淡いため、月明かりや、人工光による光害の影響がある場合は確認が難しい。日本では、1970年代以降(高度成長期の終了以降)、天の川を見ることができる場所は少なくなってしまった。日本人の70%が光害のせいで天の川を見る事ができない。天の川を見るには、月明かりの無い晴れた夜に、都市から離れたなるべく標高の高い場所に行くと良い。
天の川は一年中見ることができるが、天の川銀河の中心方向がいて座にあるため、いて座の方向の天の川は比較的光が強く確認し易い。反対方向の天の川は淡く確認が難しい。北半球では、いて座は夏の星座であり、夏の天の川が濃く、冬の天の川が薄く見える。
○天の川による影 / 光害がなく透明度の高い夜空が見えるオーストラリアの砂漠では、天の川の光で地面に自分の影ができる。なお、地球上の物体に影を生じさせる天体は、太陽、月、金星、天の川の4つのみである。
天の川を見る
夏は天の川がよく見える季節
天の川は夏の星空でも冬の星空でも見ることができます。しかし、夏の天の川は冬の天の川よりもずっと明るいため、夏は天の川がよく見える季節なのです。
しかも、この時期は多くの方が夏休み中ですので、星があまり見えない都会を抜け出して、山や海など、星のよく見える場所に出かけるのにも都合がよいのではないでしょうか。
また、明るい月が出ていると、月の光に邪魔されて天の川は見づらくなってしまいます。しかし、今年は8月5日が新月のため、月はほとんど姿を見せず、月の影響はまったく気にしなくてよい好条件です。
人工の明かりから逃れよう
天の川は、惑星や、星座を形作っている星に比べると、ずっと暗いものです。ですから、ネオンサインや街灯などの人工の光があると、その明るさに邪魔されてしまって見ることができなかったり、見るのがたいへん難しかったりします。
ですから、天の川を見るためには、まず、大きな都市からできるだけ離れるようにしましょう。東京のような大きな都市からは、100km程度離れなければならないかもしれません。それから、天の川を見ようとしている場所のすぐ近くには、街灯や家の明かりなどができるだけないところを選びましょう。近くの光を木や丘などで隠し、直接目に入らないようにするだけで、星の見え方がずいぶん変わることもあります。
人工の光の影響ができるだけ少ない場所を選んだら、今度は目を暗さに慣らしましょう。明るい部屋の中から暗い屋外に出て、すぐに天の川を見ることができるわけではありません。人間の目が星空の暗さになれるまでには、暗い場所で5分から15分程度、目を慣らすことが必要です。屋外に出てすぐは星が数えるほどしか見えないと思いますが、目が慣れるにしたがって、たくさんの星が見え始めるでしょう。
天の川はこんなふうに見える
19時前後に太陽が沈みます。(場所によって時刻は違います。)日の入から1時間半ぐらいで空は真っ暗になりますので、そのころに空を眺めてみましょう。南の空の低いところから、頭の真上よりやや東側を通って、北東の地平線まで延びていく、光の帯が見えるはずです。それが天の川です。見慣れていないと雲だと思ってしまうかもしれません。
普通の星はひとつひとつが光の点として見えますが、天の川はぼーっと淡く光る、幅を持った光の帯のように見えます。よく見ると、明るさも幅も一定でないのがわかるはずです。南の空の低いところにいちばん明るくて太い部分があり、北にたどるにしたがって暗くなっていきます。
天の川の正体
ギリシャ神話では、星座にもなっている英雄ヘルクレスが赤ん坊のときに、ゼウスの妻ヘラの乳房を強く吸ったために、飛び散った乳が天の川になったといわれています。(英語では天の川のことをミルキー・ウェイと呼びます。)また、中国・日本の七夕伝説では、織姫と彦星を隔てる川に見立てています。
実際、天の川を肉眼で見ると、ぼーっとしていて川や乳、あるいは雲のように見えます。しかし、双眼鏡や望遠鏡を使って見てみると、天の川は、実はたくさんの暗い星の集まりであることがわかります。
私達の太陽系は、「銀河系」という二千億個ぐらいの恒星の大集団の中にあり、私達の太陽もその恒星のひとつです。銀河系全体は、直径約10万光年の薄い円盤のような形をしていて、私達の太陽系は、銀河系の中心から約3万光年の、円盤のほぼ中心面上に位置します。
地球から銀河系の円盤にそった方向を見ると銀河系の中の星が密集して見えます。星が密集した部分は銀河系の円盤に沿って私達のまわりを一周していて、これが、地球上からは天の川として見えるのです。ただし、天の川の一部はずっと南のほうにあるため、日本からは見ることができません。一方、円盤からそれた方向を見ると、星はあまりたくさんは見えません。
天の川の明るさが季節によって違う理由も説明できます。天の川がいちばん明るく見えるのは、夏の夜空で南の空の低い位置にある、いて座のあたりです。実は、星が最も厚く密集している銀河系の中心が、ちょうどこのいて座の方向にあるために、天の川が明るく太く見えているのです。反対に、冬の天の川は、銀河系の外に向かう方向を見ていることになるため、それほど多くの星が見えません。そのために天の川もそれほど明るくは見えないのです。
いて座の方向を中心に天の川を撮影した写真を見ると、いびつながらも、銀河系を円盤に沿った方向から見たときの姿によく似ているのがわかるのではないでしょうか。  
 

 

●棚機津女(たなばたつめ) 
 
七夕の語源とされる棚機津女(たなばたつめ)伝説 

 

「古事記」 天の岩戸
――祓はらえによつて暴風の神を放逐することを語る。はじめのスサノヲの命の暴行は、暴風の災害である。――
そこでスサノヲの命は、天照らす大神に申されるには「わたくしの心が清らかだつたので、わたくしの生うんだ子が女だつたのです。これに依よつて言えば當然わたくしが勝つたのです」といつて、勝つた勢いに任せて亂暴を働きました。天照らす大神が田を作つておられたその田の畔あぜを毀こわしたり溝みぞを埋うめたりし、また食事をなさる御殿に屎くそをし散らしました。このようなことをなさいましたけれども天照らす大神はお咎とがめにならないで、仰せになるには、「屎くそのようなのは酒に醉つて吐はき散ちらすとてこんなになつたのでしよう。それから田の畔を毀し溝を埋めたのは地面を惜しまれてこのようになされたのです」と善いようにと仰せられましたけれども、その亂暴なしわざは止やみませんでした。天照らす大神が清らかな機織場はたおりばにおいでになつて神樣の御衣服おめしものを織らせておいでになる時に、その機織場の屋根に穴をあけて斑駒まだらごまの皮をむいて墮おとし入れたので、機織女はたおりめが驚いて機織りに使う板で陰ほとをついて死んでしまいました。そこで天照らす大神もこれを嫌つて、天あめの岩屋戸いわやとをあけて中にお隱れになりました。それですから天がまつくらになり、下の世界もことごとく闇くらくなりました。永久に夜が續いて行つたのです。そこで多くの神々の騷ぐ聲は夏の蠅のようにいつぱいになり、あらゆる妖わざわいがすべて起りました。
こういう次第で多くの神樣たちが天の世界の天あめのヤスの河の河原にお集まりになつてタカミムスビの神の子のオモヒガネの神という神に考えさせてまず海外の國から渡つて來た長鳴鳥ながなきどりを集めて鳴かせました。次に天のヤスの河の河上にある堅い巖いわおを取つて來、また天の金山かなやまの鐵を取つて鍛冶屋かじやのアマツマラという人を尋ね求め、イシコリドメの命に命じて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に命じて大きな勾玉まがたまが澤山ついている玉の緒の珠を作らしめ、アメノコヤネの命とフトダマの命とを呼んで天のカグ山の男鹿おじかの肩骨をそつくり拔いて來て、天のカグ山のハハカの木を取つてその鹿しかの肩骨を燒やいて占うらなわしめました。次に天のカグ山の茂しげつた賢木さかきを根掘ねこぎにこいで、上うえの枝に大きな勾玉まがたまの澤山の玉の緒を懸け、中の枝には大きな鏡を懸け、下の枝には麻だの楮こうぞの皮の晒さらしたのなどをさげて、フトダマの命がこれをささげ持ち、アメノコヤネの命が莊重そうちような祝詞のりとを唱となえ、アメノタヂカラヲの神が岩戸いわとの陰かげに隱れて立つており、アメノウズメの命が天のカグ山の日影蔓ひかげかずらを手襁たすきに懸かけ、眞拆まさきの蔓かずらを鬘かずらとして、天のカグ山の小竹ささの葉を束たばねて手に持ち、天照らす大神のお隱れになつた岩戸の前に桶おけを覆ふせて踏み鳴らし神懸かみがかりして裳の紐を陰ほとに垂らしましたので、天の世界が鳴りひびいて、たくさんの神が、いつしよに笑いました。そこで天照らす大神は怪しいとお思いになつて、天の岩戸を細目にあけて内から仰せになるには、「わたしが隱れているので天の世界は自然に闇く、下の世界も皆みな闇くらいでしようと思うのに、どうしてアメノウズメは舞い遊び、また多くの神は笑つているのですか」と仰せられました。そこでアメノウズメの命が、「あなた樣に勝まさつて尊い神樣がおいでになりますので樂しく遊んでおります」と申しました。かように申す間にアメノコヤネの命とフトダマの命とが、かの鏡をさし出して天照らす大神にお見せ申し上げる時に天照らす大神はいよいよ不思議にお思いになつて、少し戸からお出かけになる所を、隱れて立つておられたタヂカラヲの神がその御手を取つて引き出し申し上げました。そこでフトダマの命がそのうしろに標繩しめなわを引き渡して、「これから内にはお還り入り遊ばしますな」と申しました。かくて天照らす大神がお出ましになつた時に、天も下の世界も自然と照り明るくなりました。ここで神樣たちが相談をしてスサノヲの命に澤山の品物を出して罪を償つぐなわしめ、また鬚ひげと手足てあしの爪とを切つて逐いはらいました。 
古事記 [原文] / 【 神代の物語 】須佐之男命の暴状
爾、芫須佐之男命、白二于天照大御突、我心厳明故、我館レ生子、得二手洒女。因レ此言隅、自我勝云而、於二勝佐備一【此二字以音】離二天照大御突之營田之阿、【此阿字以音】埋二其溝、亦其於下聞二看大嘗一之殿上屎揺理【此二字以音】散。故、雖二然爲、天照大御突隅、登賀米受而告、如レ屎、醉而吐散登許曾。【此三字以音】我那勢之命爲レ如レ此。樸、離二田之阿、埋レ溝隅、地矣阿多良斯登許曾【自阿以下七字以音】我那勢之命爲レ如レ此登【此一字以音】詔雖レ直、憑其惡態不レ止而轉。天照大御突、坐二忌服屋一而、令レ織二突御衣一之時、穿二其服屋之頂、膸二搭天斑馬一搭而、館二墮入一時、天衣織女見驚而、於レ梭衝二陰上一而死。【訓陰上云富登】
爾に、速須佐之男命、天照大御神に白したまひしく、「我が心清く明きが故に、我が生める子、手弱女を得つ。此に因りて言さば、自ら我勝ちぬ。」と云して、勝佐備に【この二字、音を以ふ。】天照大御神の営田の阿を離ち、【この阿の字、音を以ふ。】其の溝を埋め、亦大嘗聞し看す殿に屎麻理【この二字、音を以ふ。】散しき。故、然為れども、天照大御神は、登賀米ずて告りたまひしく、「屎如すは、酔ひて吐き放らす登許曽。【この三字、音を以ふ。】我が那勢の命、かく為つらめ。又、田の阿離ち、溝を埋むるは、地を阿多良斯登許曽。【阿より以下の七字、音を以ふ。】我が那勢の命、かく為つらめ。」登【この一字、音を以ふ。】詔り直したまへども、猶其の悪しき態止まずて転ありき。天照大御神、忌服屋に坐しまして、神御衣を織らしめたまひし時に、其の服屋の頂を穿ちて、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて、堕し入るる時に、天の衣織女、見驚きて、梭に陰上を衡きて死せにき。【陰上を訓みてホトと云ふ。】  
「日本書紀」 第九段 石川片淵

 

時、味耜高彥根、~光儀華艶、映于二丘二谷之間、故喪會者歌之曰、或云、味耜高彥根~之妹下照媛、欲令衆人知映丘谷者是味耜高彥根~、故歌之曰、
阿妹奈屢夜乙登多奈婆多廼汚奈餓勢屢多磨廼彌素磨屢廼阿奈陀磨波夜彌多爾輔柁和柁邏須阿泥素企多伽避顧禰
又歌之曰、
阿磨佐箇屢避奈菟謎廼以和多邏素西渡以嗣箇播箇柁輔智箇多輔智爾阿彌播利和柁嗣妹慮豫嗣爾豫嗣豫利據禰以嗣箇播箇柁輔智
此兩首歌辭、今號夷曲。 
(喪屋を斬った)味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)はとても輝いていて麗しいほどで、二つの丘と二つの谷に渡って輝いていました。なので、葬式に参加したものが歌いました。
もしくは味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)の妹の下照媛(シタテルヒメ)は集まった人達に「丘谷(オタニ)で輝くモノは味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)ですよ」と教えようと思って、歌ったとも
あまなるや(天なるや)おとたなばたの(弟織女の)うながせる(頸がせる)たまのみすまるの(玉の御統の)あなたまはや(穴玉はや)みたに(み谷)ふたわたらす(二渡らす)あぢすきたかひこね(味耜高彦根)
訳 / 天の布を織る少女の首に掛けた勾玉の首飾りの玉が輝くように、谷を二つ越えるのは味耜高彦根です!また、歌いました。
あまさかる(天離る)ひなつひめの(鄙つ女の)いわたらすせと(い渡らす瀬戸)いしかわかたふち(石川片淵)かたふちに(片淵に)あみはりわたくし(網張り渡し)めろよしに(目ろ寄しに)よしよりこね(寄し寄り来ね)いしかわかたふち(石川片淵)
訳 / とても空気の澄んだ、天が高い片田舎の少女が川に行く。その川の淵(川の深いところ)。川の淵に網を張って、さかなを取る。網を引き寄せるよ。どんどん引くよ。川の淵で。
この二つの歌は夷曲(ヒナウタ)といいます。   
「先代旧事本紀」 巻第二 神祇本紀 

 

素戔烏尊(すさのおのみこと)が申しあげて仰せになった。「私は今、ご命令にしたがって、根の国に参ろうとします。そこで高天原に参って、姉のみことにお目にかかった後にお別れしたいと思います」伊奘諾尊(いざなきのみこと)は仰せになった。「許す」そこで、天に昇られた。
素戔烏尊が天に昇ろうとする時、一柱の神がいた。名を羽明玉(はあかるたま)という。この神がお迎えして、瑞の八坂瓊(やさかに)の勾玉を献上した。素戔烏尊がその玉を持って天に昇られる時、大海はとどろき渡り、山岳も鳴りひびいた。これはその性格が猛々しいからである。
天に昇られる時に、天鈿売命(あまのうずめのみこと)がこれを見て、日の神に告げ申しあげた。
天照太神(あまてらすおおみかみ)は、もとからその神の荒くよからぬことをご存知で、やってくる様子をご覧になると、たいへん驚いて仰せられた。「我が弟がやってくるのは、きっと善い心ではないだろう。きっと我が高天原(たかまがはら)を奪おうとする心があるのだろう。父母はすでにそれぞれの子供たちに命じて、それぞれの境を設けられた。どうして自分の行くべき国を棄ておいて、あえてこんなところに来るのか」そうして、御髪を解いて御髻(みずら)にまとめ、御髪を結いあげて御鬘(みかつら)とし、裳の裾をからげて袴(はかま)とし、左右の御鬘、左右の御手および腕にもそれぞれ大きな玉をたくさん緒に貫いた御統(みすまる)を巻きつけた。また、背には千箭(ちのり)の靱(ゆき)を負い、腕には立派な高鞆(たかとも)をつけ、弓弭(やはず)を振り立て、剣の柄を握りしめ、堅い地面を股まで踏みぬいて、土を沫雪のように踏み散らし、勇猛な振る舞いと厳しい言葉で詰問して仰せになった。「どういうわけで上って来たのか」
素戔烏尊は答えて仰せられた。「私にははじめから汚い心はありません。ただすでに父のみことの厳命があって、永く根の国に去ろうとするのに、もし姉のみことにお目にかかれなければ、私はどうしてよくおいとまできましょう。また、珍しい宝である八坂瓊の勾玉を献上したいと思うだけです。あえて別の心はありません。そのため雲霧を踏み渡って、遠くからやって来たのです。思いがけないことです、姉のみことの厳しいお顔に会おうとは」
すると天照太神がまた尋ねて仰せられた。「もしそうなら、何をもってお前の清く明るい心を証明するのか。お前のいうことが嘘か本当か、何をもって証拠とするのか」
素戔烏尊が答えて仰せられた。「どうか私と姉のみこととで、ともに誓約(うけい)しましょう。誓約の中に必ず子を生むことを入れましょう。もし私の生んだ子が女だったら、汚い心があると思ってください。もし男だったら、清い心であるとしてください」
そして天の真名井(まない)の三ヶ所を掘って、天照太神と素戔烏尊は天の安河をへだてて向かい合い、誓約して仰せになった。「お前にもし悪い心があるのならば、お前の生む子はきっと女だろう。もし男を生んだならば、私の子として、高天原を治めさせよう」
天照太神は、素戔烏尊と誓約して仰せられた。「私が身につけている玉をお前に授けよう。お前が帯びている剣を私に授けなさい」このように約束してお互いに取り替えられた。
天照太神が、素戔烏尊の帯びていた三ふりの剣を[また十握剣(とつかのつるぎ)を三つにして、生じた三神]、天の真名井[または去来の真名井という]で振りすすいで、噛み砕いて吹きだされると、息吹の霧の中から三柱の女神が生まれた。
十握剣から生まれた神の名を、瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)という。[また田心姫(たごりひめ)、または田霧姫(たぎりひめ)という] 九握剣(ここのつかのつるぎ)から生まれた神の名を、瑞津嶋姫命(たぎつしまひめのみこと)という。八握剣(やつかのつるぎ)から生まれた神の名を、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)という。
素戔烏尊が、天照太神の御手と髻鬘(みずら)に巻いておられた八咫瓊の五百筒の玉の御統を、天の真名井[または去来の真名井という]にすすぎ浮かべて、噛み砕いて吹きだされると、息吹の霧の中から、六柱の男神が生まれた。
すなわち、左の御鬘(みかつら)の玉を含んで左の手のひらの中に生まれた神の名を、正哉吾勝々速天穂別尊(まさかあかつかちはやあまのほわけのみこと)という。また、右の御鬘の玉を含んで右の手のひらの中に生まれた神の名を、天穂日命(あまのほひのみこと)という。また、左の御髻(みもとどり)の玉を含んで左の肘につけて生まれた神の名を、天津彦根命(あまつひこねのみこと)という。また、右の御髻の玉を含んで右の肘につけて生まれた神の名を、活津彦命(いくつひこのみこと)という。また、左の御手の玉を含んで左足の中に生まれた神の名を、熯速日命(ひはやひのみこと)という。また、右の御手の玉を含んで右足の中に生まれた神の名を、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)という。
天照太神が仰せられた。「その元を尋ねれば、玉は私の物である。だから、この成り出た六柱の男神は全部私の子である。よって引き取って、子として養い、高天原を治めさせよう。その剣はお前の物である。だから、私が生んだ三柱の女神はお前の子である」素戔烏尊に三柱の女神たちを授けて、葦原(あしはら)の中国(なかつくに)に降らせられた。まさに筑紫国の宇佐嶋(うさのしま)に降らせられた。北の海路の中においでになり、名を道主貴(みちぬしのむち)という。そして教えて仰せられた。「天孫を助け申しあげ、天孫のために祀られなさい」これがすなわち、宗像君(むなかたのきみ)が祀る神である。一説には、水沼君(みぬまのきみ)らが祀る神がこれである。瀛津嶋姫命は、遠沖にいらっしゃる田心姫命のことである。辺津嶋姫命(へつしまひめのみこと)は、海浜にいらっしゃる瑞津嶋姫命のことである。中津嶋姫命(なかつしまひめのみこと)は、中嶋にいらっしゃる神で、市杵嶋姫命のことである。
伊奘諾(いざなき)・伊弉冉(いざなみ)の二神は、火の神の迦具突智(かぐつち)と、土の神の埴安姫(はにやすひめ)をお生みになった。この火土の二神は、稚皇産霊命(わかみむすひのみこと)をお生みになった。稚皇産霊命の頭には桑と蚕が生じ、臍の中には五種類の穀物が生じた。この神が、保食神(うけもちのかみ)か。
天照太神(あまてらすおおみかみ)が天上で仰せになった。「葦原の中国(なかつくに)に保食神がいると聞く。月読尊(つくよみのみこと)よ、お前が行って見てきなさい」月読尊は、詔を受けて保食神のもとへお降りになった。
保食神が、首を回して陸に向かわれると、口から飯が出てきた。また海に向かわれると、大小の魚が口から出てきた。また山に向かわれると、毛皮の動物たちが口から出てきた。そのいろいろな物をすべて揃えて、沢山の机にのせておもてなしした。
このとき、月読尊は憤然として色をなして仰せられた。「けがらわしいことだ。いやらしいことだ。口から吐き出した物を、私に食べさせようとするのか」そして剣を抜いて、保食神を撃ち殺された。その後に復命して、詳しくそのことを申しあげられた。天照太神は、非常にお怒りになって仰せられた。「お前は悪い神だ。もうお前とは会いたくない」そこで、月読尊とは、昼と夜とに分かれて、離れてお住まいになった。
この後、天照太神はまた、天熊人命(あまのくまひとのみこと)を遣わして様子を見させられた。保食神の頭には桑と蚕が生じ、目には馬と牛が生じ、胸には黍(きび)と粟が生じ、腹には稲種が生じ、臍・尻には麦と豆が生じ、陰部には小豆が生じていた。そこで天熊人は、それをすべて取って持ち帰り献上した。
このとき、天照太神は喜んで仰せられた。「この物は人民が生きていくのに必要な食べ物だ」そこで粟・稗・麦・豆を畑の種とし、稲を水田の種とした。天の邑君(むらきみ)を定めて、その稲種をはじめて天の狭田(さだ)と長田(ながた)に植えた。その秋の垂穂は、八握りもあるほどしなって、とても気持ちよく実った。また、口の中に蚕の繭を含んで糸をひく方法を得た。これによって養蚕が出来るようになり、絹織の業が起こった。
天照太神は、天の垣田(かきた)を御田とされた。また、御田は三ヶ所あり、名づけて天の安田・天の平田・天の邑并田(むらあわせだ)という。これらはみな良田だった。長雨や旱魃にあっても、損なわれることはなかった。
素戔烏尊にも三ヶ所の田があった。名づけて天の樴田・天の川依田・天の口鋭田(くとだ)という。これらはみなやせ地だった。雨が降れば流れ、日照りになると旱魃になった。
素戔烏尊の行いは、とてもいいようがないほどで、妬んで姉神の田に害を与えた。春には種を重ね蒔きしたり、畔を壊したり、串をさしたり、樋を放ったり、用水路を壊したり、溝を埋めたりした。秋には天の斑馬を放って、田の中を荒した。何度も絡縄(さなわ)を使って串をさして自分の田にしようとしたり、馬で荒した。
また、天照太神が神嘗・大嘗、または新嘗の祭りをされるときに現れて、新宮のお席の下に放尿脱糞された。日の神はそれを知らずに席に着かれた。
これらいろいろの仕業は、一日も止むことはなく、いいようのないほどであった。しかし日の神は、親身な気持ちでとがめられず恨まれず、すべてお赦しになった。
天照太神が神衣を織るために斎服殿(神聖な機殿)へおいでになった。そこへ素戔烏尊は、天の斑馬を生きたまま皮を逆に剥いで、御殿の屋根に穴をあけてその皮を投げ入れた。このときに天照太神はたいへん驚いて、機織の梭で身体をそこなわれた。 一説には、織女の稚日姫尊(わかひひめのみこと)が驚かれて機から落ち、持っていた梭で身体を傷つけられて亡くなったという。その稚日姫尊は、天照太神の妹である。
天照太神は素戔烏尊に仰せになった。「お前はやはり悪い心がある。もうお前と会いたいとは思わない」そうして、天の岩屋に入り、磐戸を閉じ隠れられた。そのため、高天原はすっかり暗くなり、また葦原の中国も真っ暗になって、昼夜の区別も分からなくなった。そのため、あらゆる邪神の騒ぐ声は、夏の蠅のように世に満ち、あらゆる禍いがいっせいに起こることは、常世の国に居るようだった。諸神は憂い迷って、手も足もうち広げて、諸々のことを灯りをともしておこなった。
八百万(やおよろず)の神々は、天の八湍河(やすかわ)の河原に集まって、どのようなお祈りを奉るべきかを相談した。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)は思慮深く智にすぐれていた。深謀遠慮をめぐらせていった。「常世の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて、互いに長鳴きさせましょう」そして集めて鳴き合わせた。
また、日の神のかたちを作って、招き出す祈りをすることにした。また、鏡作の祖、石凝姥命(いしこりとめのみこと)を工として、天の八湍河の河上の天の堅石を採らせた。また、真名鹿(まなしか)の皮を丸剥ぎにして、天の羽鞴(はたたら)を作り、天の金山の銅を採って、日の矛を作らせた。このとき作った鏡は多少不出来だった。紀伊国にいらっしゃる、日前神(ひのくまのかみ)がこれである。
また、鏡作の祖の天糠戸神(あまのぬかとのかみ)[石凝姥命の子である]に、天の香山の銅を採らせて日の形の鏡を作らせた。そうして出来上がった鏡の姿は美麗だったが、岩戸に触れて小さな傷がついた。その傷は今なおある。この鏡が伊勢にお祀りする大神である。いわゆる八咫鏡(やたのかがみ)、またの名を真経津鏡(まふつのかがみ)がこれである。また、玉作の祖の櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)に、八坂瓊の五百筒の(大きな玉をたくさん貫いた)御統(みすまる)のための玉を作らせた。櫛明玉神は、伊奘諾尊の子である。
また、天太玉神(あまのふとたまのかみ)に、諸々の部の神を率いて幣帛を作らせた。また、麻積の祖の長白羽(ながしらは)の神に麻を植えさせて、これを青和幣(あおにぎて)とした。いま、衣を白羽と言うのはこれがその由来である。また、津咋見神(つくいみのかみ)に穀木綿を植えさせ、これで白和幣(しろにぎて)を作らせた。どちらも一晩で生い茂った。
また、阿波の忌部の祖の天日鷲神(あまのひわしのかみ)に、木綿を作らせた。また、倭文造(しどりのみやつこ)の祖の天羽槌雄神(あまのはづちおのかみ)に、文布を織らせた。また、天棚機姫神(あまのたなはたひめのかみ)に、神衣を織らせた。いわゆる和衣である[またニギタエという]。また、紀伊の忌部の遠祖の手置帆負神(たおきほおいのかみ)を、作笠(かさぬい)とした。[ともに職業とした] また、彦狭知神(ひこさしりのかみ)に、楯を作らせた。また、玉作部の遠祖の豊球玉屋神(とよたまのたまやのかみ)に、玉を作らせた。また、天目一箇神(あまのまひとつのかみ)に、諸々の刀・斧・また鉄鐸を作らせました[鉄鐸はいわゆるサナギという]。また、野槌(のつち)の神に、たくさんの野薦(のすず)・玉をつけた木を集めさせた。また、手置帆負と彦狭知の二神に、天の御量(みはかり)で大小の様々な器類を量り、名をつけさせた。また、大小の谷の材木を伐って、瑞殿を造らせた[古語にミヅノミアラカという]。また、山雷の神に、天の香山の枝葉のよく茂った賢木を堀りとらせた[掘り取ることを古語にサネコジノネコジという]。賢木の上の枝には八咫鏡を掛けた[またの名を真経津の鏡という]。中ほどの枝には八坂瓊の五百箇の御統の玉を掛けた。下の枝には青和幣・白和幣を掛けた。およそ、その様々な諸物を設け備えることは、打ち合わせどおりにいった。
また、中臣の祖の天児屋命(あまのこやねのみこと)と忌部の祖の天太玉命に、天の香山の牝鹿の肩の骨を抜きとり、天の香山の朱桜を取って占わせた。また、手力雄神(たぢからおのかみ)に、岩戸のわきに隠れ侍らせた。また、天太玉命にささげ持たせて、天照太神の徳をたたえる詞を申しあげさせた。また、天児屋命と共に祈らせた。天太玉命が広く厚く徳をたたえる詞を申しあげていった。「私が持っている宝鏡の明るく麗しいことは、あたかもあなた様のようです。戸をあけてご覧ください」 そこで、天太玉命と天児屋命は、共にその祈祷をした。
このとき、天鈿売命(あまのうずめのみこと)は、天の香山の真坂樹(まさかき)を髪に纏い、天の香山の天の日蘿懸(ひかげ)を襷とした。また、天鈿売命は天の香山の天蘿(かげ)を襷として掛け、天の香山の真坂樹を髪に纏い、天の香山の笹の葉を手草とし、手に鐸をつけた矛を持って、天の岩戸の前に立ち、庭火を焚いて巧みに踊りをした。火を焚いて、桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりになったように喋り、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部まで押し下げると、高天原が鳴りとどろくばかりに八百万の神々がいっせいに笑った。
天照太神はふしぎに思われ仰せられた。「私がここに籠っているから、天下は全て暗闇になり、葦原の中国はきっと長い夜だろう。それなのに、どうして天鈿売命はこんなに喜び笑い、八百万の神々もみな笑っているのだろう」そしてあやしまれて、岩戸をわずかに開いて、このようにしているわけを問われた。
天鈿売命が答えて申しあげた。「あなた様よりも、素晴らしく尊い神がおいでになっているので、喜び笑っているのです」天太玉命と天児屋命がその鏡をそっと差し出して、天照太神にお見せすると、天照太神はいよいよふしぎに思われ、少し細めに岩戸をあけて、これをご覧になった。そのとき手力雄神に、天照太神の御手をとって引き出させ、その扉を引きあけ、新殿にお移し申しあげた。そこで、天児屋命と天太玉命は、日の御綱縄(みつな)を、その後ろの境界にめぐらし掛けて、注連縄とした。
また、大宮売神(おおみやのめのかみ)に、天照太神の御前へ侍らせた。天太玉命が奇跡的に生んだ神である。現代の宮中の女官内侍が優美な言葉や端麗な言葉を用いて、君主と臣との間をやわらげて、天皇の御心を喜ばせ申しあげるようなものである。
また、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)と櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)の二神に、御殿の門を守らせた。この二神はともに天太玉命の子である。
天照太神が天の岩屋から出られたために、高天原と葦原の中国は、自然と日が照り明るくなることができた。そのときになって、天ははじめて晴れた。「あはれ」といったその意味は、天が晴れるということである。「あなおもしろ」は、古語に事態が最高潮に達したことを、すべて「あな」といい、神々の顔が明るく白くなったため「おもしろ」というのである。「あなたのし」は、手を伸ばして舞うことである。今、楽しいことを指して、「たのし」というのはこの意味である。「あなさやけ」は、笹の葉の「ささ」と鳴る音がその由来である。「おけ」は、木の名前か。その葉を揺り動かすときの言葉である。
そうしてすぐさま、天太玉命と天児屋命の二神は申しあげていった。「もう、天の岩屋にはお戻りになりませんように」
八百万の神々は、一同相談して素戔烏尊の罪を追求し、その罪を負わせるために、千座の置戸にたくさんの捧げ物で賠償させた。そして、髭を抜き、爪を抜いてその罪のあがないをさせた。また、手の先の爪、足の先の爪を出させ、唾を白和帛(しらにぎて)とし、よだれを青和帛(あおにぎて)とした。そうして天児屋命(あまのこやねのみこと)に、その罪の祓いの祝詞(のりと)をあげさせた。今の世の人が、自分の切った爪を他人に渡らないようにするのは、これがその由来である。
諸神は、素戔烏尊を責めていった。「あなたの行いは、たいへん無頼です。だから、天上に留まって住むべきではありません。また、葦原の中国にも居てはいけません。すみやかに根の国へ行ってください」 そうして、皆で追いやった。
追いやられて去るとき、食べ物を御食都姫神(みけつひめのかみ)に乞うた。大御食都姫神が鼻や口、尻から様々な美味しい食べ物を取り出して、いろいろに調理して差し上げるときに、素戔烏尊はそのしわざを立ち伺って、汚らわしいものを差し出すのだと思った。そのため、大御食都姫神を殺してしまった。
その殺された神の体から生まれ出た物は、頭には蚕が生じ、二つの目には稲種が生じ、二つの耳には粟が生じ、鼻には小豆が生じ、陰部には麦が生じ、尻には大豆が生じた。そこで、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)は、これらを取らせて種となさった。
素戔烏尊は、青草を編んで笠蓑として身につけ、神々に宿を借りたいと乞うた。神々はいった。「あなたは自分の行いが悪くて追われ責められているのです。どうして宿を我々に乞うことが許されましょう」皆で宿を断った。それで風雨がはなはだしいものの、留まり休むことができず、苦労して降っていかれた。これ以後、世に笠蓑を着たままで、他人の家の中に入るのを忌むようになった。また、束ねた草を背負って、他人の家の中に入るのを忌むようになった。もしこれを犯す者があると、必ず罪のつぐないを負わされる。これは大昔からの遺法である。
素戔烏尊が日の神に申しあげて仰せになった。「私がまたやって来ましたのは、諸神が私の根の国行きを決めたので、今から行こうとするのです。もし姉のみことにお目にかからなかったら、こらえ別れることもできないでしょう。本当に清い心をもってまた参上したのです。もうお目にかかる最後です。神々の意のままに、今から永く根の国に参ります。どうか姉のみことよ、天上を治められて、平安であられますように。また私が清い心で生んだ子供たちを、姉のみことに奉ります」 また帰り降っていかれた。
大日孁貴(おおひるめむち)。またの名を天照太神(あまてらすおおみかみ)、またの名を天照大日孁尊、またの名を大日孁尊という。高天原(たかまがはら)を治められる。また高天の原を治められる。治められているのは高天原である。
月夜見尊(つくよみのみこと)。またの名を月読尊、またの名を月弓尊(つくゆみのみこと)という。
日の神に副えて天上の世界を治められている。また、青海原の潮の八百重を治められている。また、夜の世界を治められている。
素戔烏尊(すさのおのみこと)。[またの名を神素戔烏尊。または建素戔烏尊という。またの名を建速素戔烏尊] 青海の原を治められている。また青海の原を治められ、天下を治められている。
「水の女」 折口信夫 

 

一 古代詞章の上の用語例の問題
口頭伝承の古代詞章の上の、語句や、表現の癖が、特殊な――ある詞章限りの――ものほど、早く固定するはずである。だから、文字記録以前にすでにすでに、時代時代の言語情調や、合理観がはいってくることを考えないで、古代の文章および、それから事実を導こうなどとする人の多いのは、――そうした人ばかりなのは――根本から、まちごうた態度である。
神聖観に護られて、固定のままあるいは拗曲ようきょくしたままに、伝った語句もある。だがたいていは、呪詞諷唱ふうしょう者・叙事詩伝誦でんしょう者らの常識が、そうした語句の周囲や文法を変化させて辻褄つじつまを合せている。口頭詞章を改作したり、模倣したような文章・歌謡は、ことに時代と個性との理会りかい程度に、古代の表現法を妥協させてくる。記・紀・祝詞のりとなどの記録せられる以前に、容易に原形に戻すことのできぬまでの変化があった。古詞および、古詞応用の新詞章の上に、十分こうしたことが行われた後に、やっと、記録に適当な――あるものは、まだ許されぬ――旧信仰退転の時が来た。奈良朝の記録は、そうした原形・原義と、ある距離を持った表現なることを、忘れてはならぬ。たとえば天の御蔭・日の御蔭・すめらみこと・すめみまなどいう語ことばも、奈良朝あるいは、この近代の理会によって用いられている。なかには、一語句でいて、用語例の四つ五つ以上も持っているのがある。
言語の自然な定義変化のほかに、死語・古語の合理解を元とした擬古文の上の用語例、こういう二方面から考えてみねば、古い詞章や、事実の真の姿は、わかるはずはない。
二 みぬまという語
これから言う話なども、この議論を前提としてかかるのが便利でもあり、その有力な一つの証拠にも役立つわけなのである。
出雲国造くにのみやつこの神賀詞カムヨゴトに見えた、「をち方のふる川岸、こち方のふる川ぎしに生立(おひたてるヵ)若水沼間ワカミヌマの、いやわかえに、み若えまし、すゝぎふるをとみの水のいや復元ヲチに、み変若ヲチまし、……」とある中の「若水沼間」は、全体何のことだか、国学者の古代研究始まって以来の難義の一つとなっている。「生立」とあるところから、生物と見られがちであった。ことに植物らしいという予断が、結論を曇らしてきたようである。宣長以上の組織力を示したただ一人の国学者鈴木重胤は、結局「くるす」の誤りという仮定を断案のように提出している。だが、何よりも先に、神賀詞の内容や、発想の上に含まれている、幾時代の変改を経てきた、多様な姿を見ることを忘れていた。
早くとも、平安に入って数十年後に、書き物の形をとり、正確には、百数十年たってはじめて公式に記録せられたはずの寿詞ヨゴトであったことが、注意せられていなかった。口頭伝承の久しい時間を勘定にいれないでかかっているのは、他の宮廷伝承の祝詞の古い物に対したとおなじ態度である。
「ふる川の向う岸・こちら岸に、大きくなって立っているみぬまの若いの」と言うてくると、灌木や禾本かほん類、ないしは水藻などの聯想が起らずにはいない。ときどきは「生立」に疑いを向けて、「水沼間」の字面の語感にたよって、水たまり・淵などと感じるくらいにとどまったのは、無理もないことである。実は、詞章自身が、口伝えの長い間に、そういう類型式な理会を加えてきていたのである。
一番これに近い例としては、神功紀・住吉すみのえ神出現の段「日向ひむかの国の橘たちばなの小門おどのみな底に居て、水葉稚之出居ミツハモワカ(?)ニイデヰル神。名は表筒男うわつつのお・中筒男・底筒男の神あり」というのがある。これも表現の上から見れば、水中の草葉・瑞々みずみずしい葉などを修飾句に据えたものと考えていたのらしい。変った考えでは、みつはは水走で、禊みそぎの水の迸ほとばしる様だとするのもある。
みぬま・みつは、おなじ語に相違ない。それに若さの形容がつき纏まとうている。だが神賀詞に比べると「出居」という語が「水葉」の用法を自由にしている。動物・人間ともとれる言い方である。ただそうすれば、みつは云々の句に、呪詞なり叙事詩なりの知識が、予約せられていると見ねばならぬ。それにしても、この表記法では、すでに固定して、記録時代の理会が加っているものと言えよう。
この二つの詞章の間に通じている、一つの事実だけは、やっと知れる。それはこの語が禊ぎに関聯したものなることである。みぬま・みつはと言い、その若いように、若くなるといった考え方を持っていたらしいとも言える。古代の禊ぎの方式には、重大な条件であったことで、夙はやく行われなくなった部分があったのだ。詞章は変改を重ねながら、固定を合理化してゆく。みつは・みぬまと若やぐ霊力とを、いろいろな形にくみ合せて解釈してくる。それが、詞章の形を歪ゆがませてしまう。
宮廷の大祓おおはらえ式は、あまりにも水との縁が離れ過ぎていた。祝詞の効果を拡張し過ぎて、空文を唱えた傾きが多い。一方また、神祇官の卜部うらべを媒なかだちにして、陰陽おんみょう道は、知らず悟らぬうちに、古式を飜案して行っていた。出雲国造の奏寿のために上京する際の禊ぎは、出雲風土記の記述によると、わりに古い型を守っていたものと見てよい。そうしてすくなくとも、これにはあって、宮廷の行事および呪詞にない一つは、みぬまに絡んだ部分である。大祓詞および節折ヨヲりの呪詞の秘密な部分として、発表せられないでいたのかも知れない。だが、大祓詞は放つ方ばかりを扱うたことを示している。禊ぎに関して発生した神々を説く段があって、その後新しい生活を祝福する詞を述べたに違いない。そして大直日おおなおびの祭りとその祝詞とが神楽かぐら化し、祭文化し、祭文化する以前には、みぬまという名も出てきたかも知れない。
三 出雲びとのみぬは
神賀詞を唱えた国造の国の出雲では、みぬまの神名であることを知ってもいた。みぬはとしてである。風土記には、二社を登録している。二つながら、現に国造のいる杵築きづきにあったのである。でも、みぬまとなると、わからなくなった呪詞・叙事詩の上の名辞としか感ぜられなかったのであろう。
水沼の字は、おなじ風土記仁多郡にたのこおりの一章に二とこまで出ている。
三津郷……大穴持命おおなもちのみことの御子阿遅須枳高日子アヂスキタカヒコ命……大神夢ユメに願ネぎ給はく「御子の哭なく由を告ノれ」と夢に願ぎましゝかば、夢に、御子の辞コト通カヨふと見ましき。かれ寤さめて問ひ給ひしかば、爾時ソノトキに「御津ミアサキ」と申まおしき。その時何処いずくを然しか言ふと問ひ給ひしかば、即、御祖ミオヤの前を立去於坐タチサリニイデマして、石川渡り、阪の上に至り留り、此処ここと申しき。その時、其津の水沼於而ミヌマイデ(?)テ、御身沐浴ソヽぎ坐マしき。故かれ、国造の神吉事カムヨゴト奏まおして朝廷みかどに参向まいむかふ時、其水沼出而イデヽ用ゐ初むるなり。
出雲風土記考証の著者後藤さんは、やはり汲出説である。この条は、この本のあちこちに散らばったあぢすき神の事蹟と、一続きの呪詞的叙事詩であったようだ。おそらく、国造代替りまたは、毎年の禊ぎを行う時に唱えたものであろうと思う。禊ぎの習慣の由来として、みぬまの出現を言う条くだりがあり、実際にも、みぬまがはたらいたものと見られる。だが、その詞は、神賀詞とは別の物で、あぢすき神と禊ぎとの関係を説く呪詞だったのである。その詞章が、断篇式に神賀詞にもはいっていって、みぬまおよび関係深い白鳥の生き御調みつきがわり込んできたものであるらしい。
水沼間・水沼・弥努波(または、婆)と三様に、出雲文献に出ているから、「水汲」と訂ただすのは考えものである。後世の考えから直されねばならぬほど、風土記の「水沼」は、不思議な感じを持っているのだ。人間に似たもののように伝えられていたのだ。この風土記の上たてまつられた天平五年には、その信仰伝承が衰微していたのであろう。だから儀式の現状を説く古いにしえの口述が、あるいは禊ぎのための水たまりを聯想するまでになっていたのかも知れぬ。もちろんみぬまなる者の現れる事実などは、伝説化してしもうていたであろう。三津郷の名の由来でも、「三津」にみつまの「みつ」を含み、あるいは三沢(後藤さん説)にみぬ(沢をぬ・ぬまと訓じたと見て)の義があったものと見る方がよいかも知れない。でないと、あぢすき神を学んでする国造の禊ぎに、みぬまの出現する本縁の説かれていないことになる。「つ」と「ぬ」との地名関係も「つ」から「さは」に変化するのよりは自然である。
四 筑紫の水沼氏
筑後三瀦みぬま郡は、古い水沼氏の根拠地であった。この名を称えた氏は、幾流もあったようである。宗像むなかた三女神を祀った家は、その君姓の者と伝えているが、後々は混乱しているであろう。宗像神に事つかえるがゆえに、水沼氏を称したのもあるようである。この三女神は、分布の広い神であるが、性格の類似から異神の習合せられたのも多いのである。宇佐から宗像、それから三瀦というふうに、この神の信仰はひろがったと見るのが、今のところ、正しいであろう。だが、三瀦の地で始めて、この家名ができたと見ることはできない。
それよりも早く神の名のみぬまがあったのである。宗像三女神が名高くなったのは鐘が岬を中心にした航路(私は海の中道なかみちに対して、海北の道中が、これだと考えている)にいて、敬拝する者を護ったからのことと思う。水沼神主の信仰が似た形を持ったがために、宗像神に習合しなかったとは言えぬ。そういうことの考えられるほど、みぬま神は、古くから広く行きわたっていたのである。三瀦の地名は、みぬま・みむま(倭名鈔)・みつまなど、時代によって、発音が変っている。だが全体としては、古代の記録無力の時代には、もっと音位が自由に動いていたのである。
結論の導きになることを先に述べると、みぬま・みぬは・みつは・みつめ・みぬめ・みるめ・ひぬま・ひぬめなどと変化して、同じ内容が考えられていたようである。地名になったのは、さらに略したみぬ・みつ・ひぬなどがあり、またつ・ぬを領格の助辞と見てのきり棄てたみま・みめ・ひめなどの郡郷の称号ができている。
五 丹生と壬生部
数多かった壬生部にうべの氏々・村々も、だんだん村の旧事を忘れていって、御封ミブという字音に結びついてしもうた。だが早くから、職業は変化して、湯坐ユヱ・湯母・乳母チオモ・飯嚼イヒガミのほかのものと考えられていた。でも、乳部と宛てたのを見ても、乳母関係の名なることは察しられる。また入部と書いてみぶと訓よましているのを見れば、丹生(にふ)の女神との交渉が窺うかがわれる。あるいは「水に入る」特殊の為事しごとと、み・にの音韻知識から、宛てたものともとれる。
後にも言うが、丹生神とみぬま神との類似は、著しいことなのである。それに大和宮廷の伝承では、丹生神を、後入のみぬま神と習合して、みつはのめとしたらしいのを見ると、ますます湯坐・湯母の水に関した為事を持ったことも考えられる。
事実、壬生と産湯との関係は、反正天皇と丹比タヂヒノ壬生部との旧事によってわかる。出産時の奉仕者の分業から出た名目は、おそらくにふ・みふの用語例を、分割したものであったろう。万葉まんにょうには、赭土ハニすなわち、丹ニをとる広場すなわち、原フと解している歌もあるから、丹生の字面もそうした合理見から出ていると見られる。にふべからみふべ・みぶと音の転じたことも考えてよい。
産湯から育はぐくみのことに与あずかる壬生部は、貴種の子の出現の始めに禊ぎの水を灌そそぐ役を奉仕していたらしい。これが、御名代部みなしろべの一成因であった。壬生部の中心が、氏の長おさの近親の女であったことも確かである。こうして出現した貴種の若子わくごは、後にその女と婚することになったのが、古い形らしい。水辺または水神に関係ある家々の旧事に、玉依媛たまよりひめの名を伝えるのは、皆この類である。祖オヤ(母)神に対して、乳母神オモカミをば(小母)と言ったところから、母方の叔母すなわち、父から見た妻メの弟トという語ができた。これがまた、神を育む姥(をば・うば)神の信仰の元にもなる。
大嘗の中臣天神寿詞なかとみのあまつかみのよごとは、飲食の料としてばかり、天つ水の由来を説いているが、日のみ子甦生そせいの呪詞の中に、産湯を灌ぐ儀式を述べる段があったのであろう。「夕日より朝日照るまで天つ祝詞ノリトの太のりと詞ゴトをもて宣ノれ。かくのらば、……」――朝日の照るまで天つ祝詞の……と続くのでない。祝詞の発想の癖から言うと、ここで中止して、秘密の天つのりとに移るのである。この天つ祝詞にそうした産湯のことが含まれていたらしいことは、反正天皇の産湯の旧事に、丹比タヂヒノ色鳴シコメノ宿禰が天神寿詞を奏したと伝えている。貴種の出現は、出産も、登極とうきょくも一つであった。産湯を語り、飲食を語る天神寿詞が、代々の壬生部の選民から、中臣神主の手に委ねられていって、そうした部分が脱落していったものらしい。
けれども中臣が奏する寿詞にも、そうしたみふ類似の者の顕れたことは、天子の祓えなる節折よおりに、由来不明の中臣女ナカトミメの奉仕したことからも察しられる。中臣天神寿詞と、天子祓えの聖水すなわち産湯とが、古くはさらに緊密に繋つながっていて、それに仕えるにふ神役をした巫女であったと考えることは、見当違いではないらしい。丹比タヂヒ氏の伝えや、それから出たらしい日本紀の反正天皇御産の記事は、一つの有力な種子である。履中天皇紀は、ある旧事を混同して書いているらしい。二股船ふたまたぶねを池に浮べた話・宗像三女神の示現などは[#「などは」は底本では「なとは」]、出雲風土記のあぢすきたかひこの神・垂仁のほむちわけなどに通じている。だから、みつはわけ天皇にも、生れて後の物語が、丹比壬生部に伝っていたことが推定できる。
六 比沼山がひぬま山であること
みぬま・みつはは一語であるが、みつはのめの、みつはも、一つものと見てよい。「罔象女」という支那風の字面は、この丹比神に一種の妖怪性を見ていたのである。またこの女性の神名は、男性の神名おかみに対照して用いられている。「おかみ」は「水」を司る蛇体だから、みつはのめは、女性の蛇または、水中のある動物と考えていたことは確からしい。大和を中心とした神の考え方からは、おかみ・みつはのめ皆山谷の精霊らしく見える。が、もっと広く海川について考えてよいはずである。
竜に対するおかみ、罔象に当るみつはのめの呪水の神と考えられた証拠は、神武紀に「水神を厳イツノ罔象女ミツハノメとなす」とあるのでもわかる。だが大体に記・紀に見えるみつはのめは、禊ぎに関係なく、女神の尿または涙に成ったとしている。逆に男神の排泄に化生したものとする説もあったかも知れぬと思われるのは、穢けがれから出ていることである。
阿波の国美馬郡の「美都波迺売みつはのめ神社」は、注意すべき神である。大和のみつはのめと、みつは・みぬまの一つものなることを示している。美馬の郡名は、みぬまあるいはみつま・みるめと音価の動揺していたらしい地名である。地名も神の名から出たに違いない。「のめ」という接尾語が気になるが、とようかのめ・おほみやのめなど……のめというのは、女性の精霊らしい感じを持った語である。神と言うよりも、一段低く見ているようである。みつはのめの社も、阿波出の卜部などから、宮廷の神名の呼び方に馴れて、のめを添えたしかつめらしい称えをとったのであろう。摂津の西境一帯の海岸は、数里にわたって、みぬめの浦(または、みるめ)と称えられていた。ここには※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)売ミヌメ神社があって、みぬめは神の名であった。前に述べた筑後の水沼君の祀った宗像三女神は、天真名井あまのまないのうけひに現れたのである。だから、禊ぎの神という方面もあったと思う。が、おそらくは、みぬま・宗像は早く習合せられた別神であったらしい。
丹後風土記逸文の「比沼山」のこと。ひちの郷に近いから、山の名も比治山ヒヂヤマと定められてしもうている。丹波の道主ノ貴ムチが言うのに、ひぬま(氷沼)の……というふうの修飾を置くからと見ると、ひぬまの地名は、古くあったのである。このひぬまも、みぬまの一統なのであった。
第一章に言うたようなことが、この語についても、遠い後代まで行われたらしい。「烏羽玉うばたまのわが黒髪は白川の、みつはくむまで老いにけるかな」(大和物語)という檜垣ひがきノ嫗おうなの歌物語も、瑞歯含ミヅハクむだけはわかっても、水は汲むの方が「老いにけるかな」にしっくりせぬ。これはみつはの女神の蘇生の水に関聯した修辞が、平安に持ち越してわからなくなったのを、習慣的に使うたまでだろうと説きたい。この歌などの類型の古いものは、もっとみつはの水を汲む為事が、はっきり詠まれていたであろう。とにかく、老年変若を希ねがう歌には「みつは……」と言い、瑞歯に聯想し、水にかけて言う習慣もあったことも考えねばならぬと思う。
丹比のみづはわけという名は、瑞歯の聯想を正面にしているが、初めは、みつは神の名をとったことはすでに述べた。詞章の語句または、示現の象徴が、無限に譬喩化せられるのが、古代日本の論理であった。みつはが同時に瑞歯の祝言にもなったのである。だがこれは後についてきた意義である。本義はやはり、別に考えなくてはならぬ。
みぬま・みつは・みつま・みぬめ・みるめ・ひぬま。これだけの語に通ずるところは、水神に関した地名で、これに対して、にふ(丹生)と、むなかたの三女神が、あったらしいことだ。
丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめで、外宮げくうの神であった。すなわちその水および酒の神としての場合の、神名である。この神初めひぬまのまなゐの水に浴していた。阿波のみつはのめの社も、那賀なか郡のわなさおほその神社の存在を考えに入れてみると、ひぬま真名井式の物語があったろう。出雲にもわなさおきなの社があり、あはきへ・わなさひこという神もあった。阿波のわなさ・おほそとの関係が思われる。丹波の宇奈韋ウナヰ神が、外宮の神であることを思えば、酒の水すなわち食料としての水の神は、処女の姿と考えられてもいたのだ。これがみつはの一面である。
七 禊ぎを助ける神女
出雲の古文献に出たみぬまは早く忘れられた神名であった。みつはは、まず水中から出て、用い試みた水を、あぢすきたかひこの命に浴あびせ申した。その縁で、国造神賀詞かむよごと奏上に上京の際、先例通りそのみつはが出て後、この水を用い始めるという習慣のあったことを物語るのである。風土記のすでに非常に曖昧なところがあるのは、古詞をある点まで、直訳し、また異訳して、理会できぬところはその俤おもかげを出そうとしたからであろう。それが神賀詞となると、口拍子にのり過ぎて、一層わからなくなっているのである。おちこちの二か処の古川というのが、川岸というようになり、植物化して考えられていった。もっとも、神功紀のすら、植物と考えていたらしい書きぶりである。その詞章の表現は、やや宙ぶらりである。何としても「みつは……」は、序歌風に使われてい、みつはの神の若いと同様、若やかに生い出いずる神とでも説くべきであろう。
思うに、みつはの中にも、稚みつはと呼ばれるものが、禊ぎの際に現れて、その世話をする。この神の発生を説いて、禊ぎ人の穢れから化生したという古い説明が伝わらなくなったのかも知れぬ。とにかく、この女神が出て、禊ぎの場処を上・下の瀬と選び迷うしぐさをした後、中つ瀬の適ヨロしい処に水浴をする。このふるまいを見習うて禊ぎの処を定めたらしい。これが久しく意義不明のまま繰返され、みぬまとしての女が出て、禊ぎの儀式の手引きをした。それがしだいに合理化して、水辺祓除のかいぞえに中臣女のような為事をするようになり、そのことに関した呪詞の文句がいよいよ無意義になり、他の知識や、行事・習慣から解釈して、発想法を拗ねじれさせてきた。そこに、だいたいはきまって、一部分おぼろな気分表現が、出てきたのだろう。
大湯坐オホユヱ・若湯坐ワカユヱの発生も知れる。みぬまに、候補者または「控え」の義のわかみぬまがあったのであろう。大和宮廷の呪詞・物語には、みつはをただの雨雪の神として、おかみに対する女性の精霊と見た傾きがあり、丹生女神とすら、いくぶん、別のものらしく考えた痕あとがあるのは、後入の習合だからであろう。
いざなぎの禊ぎに先だって、よもつひら坂に現れて「白もうす言こと」あった菊理クヽリ媛(日本紀一書)は、みぬま類の神ではないか。物語を書きつめ、あるいはもともと原話が、錯倒していたため、すぐ後の檍原アハギハラの禊ミソぎの条くだりに出るのを、平坂の黄泉道守ヨモツチモリの白言と並べたのかも知れぬ。その言うことをよろしとして散去したとあるのは、禊ぎを教えたものと見るべきであろう。くゝりは水を潜クヾることである。泳の字を宛てているところから見れば、神名の意義も知れる。くゝり出た女神ゆえの名であろう。いざなぎの尊ばかりの行動として伝えたため、この神は陰の者になったのであろう。例の神功紀の文は、このくゝり媛からみつはへ続く禊ぎの叙事詩の断篇化した形である。住吉神の名は、底と中と表ウヘとに居て、神の身を新しく活いかした力の三つの分化である。「つゝ」という語は、蛇(=雷)を意味する古語である。「を」は男性の義に考えられてきたようであるが、それに並べて考えられた※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)売ミヌメ・宗像・水沼の神は実は神ではなかった。神に近い女、神として生きている神女なる巫女であったのである。海北ノ道ノ主ノ貴ムチは、宗像三女神の総称となっているが、同じ神と考えられてきた丹波の比沼ノ神に仕える丹波ノ道ノ主ノ貴は、東山陰地方最高の巫女なる神人の家のかばねであった。
八 とりあげの神女
国々の神部カムベの乞食こつじき流離の生活が、神を諸方へ持ち搬はこんだ。これをてっとりばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこなる社の名である。阿波から来経キヘ――移り来て住みつい――たことを言うのだから。前に述べかけた阿波のわなさおほそは、出雲に来経たわなさひこであり、丹波のわなさ翁・媼も、同様みぬまの信仰と、物語とを撒まいて廻った神部の総名であったに違いない。養い神を携えあるいたわなさの神部は、みぬま・わなさ関係の物語の語りてでもあった。わなさ物語の老夫婦の名の、わなさ翁・媼ときまるのは、もっともである。論理の単純を欲すれば、比沼・奈具の神も、阿波から持ち越されたおほげつひめであり、とようかのめであり、外宮の神だとも言えよう。だが、わなさ神部の本貫については、まだまだ問題がありそうである。
私は実のところ、比沼のうなゐ神は禊ぎのための神女であり、その仕える神の姿をも、兼ね示すようになったものと信じている。丹波ノ道主ノ貴の家から出る「八処女ヲトメ」の古い姿なのである。この神女は、伊勢に召されるだけではなかった。宮廷へも、聖職奉仕に上っている。この初めを説く物語が、さほひめ皇后の推奨によるものとしていたのである。知られ過ぎた段だが、後々の便宜のために、引いておく。
亦、天皇、其后へ、命詔ミコトモタしめして言はく、「凡およそ、子の名は必かならず、母名づけぬ。此子の御名をば、何とか称へむ。」かれ、答へ白もうさく、……。又詔命ミコトモタしむるは、「いかにして、日足ヒタしまつらむ。」答へ白さく、「御母ミオモを取り、大湯坐ユヱ・若湯坐ユヱ定め(御母を取り……湯坐に定めてと訓よむ方が正しいであろう。また、取御母を養護御母トリミオモのように訓んで、……に――としての義――大湯坐……を定めてとも訓める)て、ひたし奉らば宜ヨけむ。」かれ、其后の白しに随以シタガヒモチて日足し奉るなり。又、其后に問ひて曰はく、「汝所堅之美豆能小佩ナガカタメコシミヅノヲヒモ(こおびか)は、誰かも解かむ。」答へ申さく、「旦波比古多々須美智能宇斯王タニハノヒコタヽスミチノウシノミコの女むすめ、名は兄比売えひめ・弟おと比売、此二女王フタミコぞ、浄き公民オホミタカラ(?)なる。かれ、使はさば宜よけむ。……」
又、其后の白もうしのまゝに、みちのうしの王の女等、比婆須ひばす比売命、次に弟比売命(次に弟比売命……命……命とあるべきところだ)次に、歌凝うたごり比売命、次に円野まとの比売命、併せて四柱を喚上メサげき。(垂仁記)
唯、妾死すとも、天皇の恩を忘れ敢へじ。願はくは、妾の掌つかさどれる后宮の事、宜しく好仇ヨキツマに授け給ふべし。丹波国に五婦人あり。志並トモに貞潔なり。是、丹波道主王の女なり。(〔道主王は、稚日本根子大日々天皇の子(孫)彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なり。〕)当まさに掖廷に納いれて、后宮の数に盈アつべしと。天皇聴ゆるす。……丹波の五女を喚メして、掖廷に納る。第一を日葉酢ヒハス姫と曰いひ、第二を渟葉田瓊入ヌハタヌイリ媛と曰ひ、第三を真砥野マトヌ媛と曰ひ、第四を※瓊入アザミヌイリ[#「筋」の「月」に代えて「角」、U+4225、98-8]媛と曰ひ、第五を竹野たかの媛と曰ふ。(垂仁紀)
この後が、古事記では、弟王二柱、日本紀では、竹野媛が、国に戻される道で、一人は恥じて峻淵ふかきふちに(紀では自堕輿とある)堕おち入って死ぬ。それから、堕オツ国と言うた地名を、今では弟オト国と言うとあるいはながひめ式の伝えになっている。
思うに、悪女の呪いのこの伝えにもあったのが、落ちたものであろう。ほむちわけのみこのもの言わぬ因縁を説いたのが、古事記では、すでに、出雲大神の祟りと変っている。出雲と唖王子とを結びつけた理由は、ほかにある。紀の自堕輿而死の文面は「自ら堕オチイり、興コトアゲして死す」と見るべきで、輿は興の誤りと見た方がよさそうだ。「おつ」・「おちいる」という語の一つの用語例に、水に落ちこんで溺れる義があったのだろう。自殺の方法のうち、身投げの本縁を言う物語を含んだものである。水の中で死ぬることのはじめをひらいた丹波道主貴の神女は、水の女であったからと考えたのである。
九 兄媛弟媛
やをとめを説かぬ記・紀にも、二人以上の多人数を承認している。神女の人数を、七ナヽ処女・八ヤ処女・九コヽノの処女などと勘定している。これは、多数を凡おおよそ示す数詞が変化していったためである。それとともに実数の上に固定を来きたした場合もあった。まず七処女が古く、八処女がそれに替って勢力を得た。これは、神あそびの舞人の数が、支那式の「※(「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1-14-20)イツ」を単位とする風に、もっとも叶うものと考えられだしたからだ。ただの神女群遊には、七処女を言い、遊舞アソビには八処女を多く用いる。現に、八処女の出処でどころ比沼山にすら、真名井の水を浴びたのは、七処女としている。だから、七ナヽ――古くは八処女の八も――が、正確に七の数詞と定まるまでには、不定多数を言い、次には、多数詞と序数詞との二用語例を生じ、ついに、常の数詞と定まった。この間に、伝承の上の矛盾ができたのである。
神女群の全体あるいは一部を意味するものとして、七処女の語が用いられ、四人でも五人でも、言うことができたのだ。その論法から、八処女も古くは、実数は自由であった。その神女群のうち、もっとも高位にいる一人がえ(兄)で、その余はひっくるめておと(弟)と言うた。古事記はすでに「弟」の時代用語例に囚とらわれて、矛盾を重ねている。兄に対して大オホあるごとく、弟に対して稚ワカを用いて、次位の高級神女を示す風から見れば、弟にも多数と次位の一人とを使いわけたのだ。すなわち神女の、とりわけ神に近づく者を二人と定め、その中で副位のをおとと言うようになったのである。
こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。この七処女は、何のために召されたか。言うまでもなくみづのをひもを解き奉るためである。だが、紐と言えば、すぐ聯想せられるのは、性的生活である。先達諸家の解説にも、この先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されてしもうた。事は、一続きの事実であった。「ひも」の神秘をとり扱う神女は、条件的に「神の嫁」の資格を持たねばならなかったのである。みづのをひもを解くことがただちに、紐主にまかれることではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備そなわるのは、最高の神女である。しかも尊体の深い秘密に触れる役目である。みづのをひもを解き、また結ぶ神事があったのである。
七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊アヅマアソビ天人も、飛行ヒギヤウの力は、天の羽衣に繋かかっていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があった。その神の威力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神をやや忘れるようになる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣のごときは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則のっとる大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は「衣」という名に拘かかわって、上体をも掩おおうものとなったらしいが、古くはもっと小さきものではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐ゆあみの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、その布を結び固め、神となる御躬の霊結びを奉仕する巫女があった。この聖職、漸く本義を忘れられて、大嘗の時のほかは、低い女官の平凡な務めになっていった。「御湯殿の上ウヘの日記」は、その書き続つがれた年代の長さだけでも、為事の大事であったことがわかる。元は、御湯殿における神事を日録したものらしい。宮廷の主上の日常御起居において、もっとも神聖な時間は、湯を奉る際である。この時の神ながらの言行は記し留めねばならない。こうしてはじまった日記が、聖躬せいきゅうの健康などに関しても書くようになり、はては雑事までも留めるに到ったものらしい。由緒知らぬが棄てられぬ行事として長い時代を経たのである。御湯殿の神秘は、古い昔に過ぎ去った。髪やかづらを重く見る時代が来て、御櫛笥殿みくしげどのの方に移り、そこに奉仕する貴女の待遇が重くなっていった。
一〇 ふぢはらを名とする聖職
この沐浴の聖職に与あずかるのは、平安前には「中臣女」の為事となった期間があったらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、その氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなったからである。
わが岡の※(「靈」の「巫」に代えて「龍」、第3水準1-94-88)オカミに言ひて降らせたる、雪のくだけし、そこに散りけむ(万葉巻二)
天武の夫人、藤原ノ大刀自オホトジは、飛鳥の岡の上の大原に居て、天皇に酬むくいている。この歌のごときは「降らまくは後ノチ」とのからかいに対する答えと軽く見られている。が、藤原氏の女の、水の神に縁のあったことを見せているのである。「雨雪のことは、こちらが専門なのです」こういった水の神女としての誇りが、おもしろく昔の人には感じられたのであろう。藤井が原を改めて藤原としたのも、井の水を中心としたからである。中臣女や、その保護者の、水に対する呪力から、飛鳥の岡の上の藤原とのりなおして、一つに奇瑞を示したからであろうと考える。中臣寿詞を見ても、水・湯に絡んだ聖職の正流のような形を見せている。中臣女の役が、他氏の女よりも、恩寵を得る機会を多からしめた。光明皇后に、薬湯施行に絡んで、廃疾人として現れた仏身を洗うた説話の伝っているのも、中臣女としての宮廷神女から、宮廷の伝承を排して、后位に備るにさえ到った史実の背景を物語るのである。藤原の地名も、家名も、水を扱う土地・家筋としての称えである。衣通そとおり媛の藤原郎女いらつめであり、禊ぎに関聯した海岸に居おり、物忌みの海藻の歌物語を持ち、また因縁もなさそうな和歌ノ浦の女神となった理由も、やや明るくなる。
私は古代皇妃の出自が水界に在って、水神の女であることならびに、その聖職が、天子即位甦生そせいを意味する禊ぎの奉仕にあったことを中心として、この長論を完了しようとしているのである。学校の私の講義のそれに触れた部分から、おし拡げた案が、向山武男君によって提出せられた。それによると、衣通媛の兄媛なる允恭いんぎょうの妃の、水盤の冷さを堪たえて、夫王を動うごかして天位に即つかしめたという伝えも、水の女としての意義を示しているとするのだ。名案であると思う。穢れも、荒行に似た苦しい禊ぎを経れば、除き去ることができ、また天の羽衣を奉仕する水の女の、水に潜カヅいて、冷さに堪えたことを印象しているのである。水盤をかかえたというのは、斎河水ユカハミヅの中に、神なる人とともに、水の中に居て久しきにも堪えたことをいうのらしい。やはりこの皇后の妹で、衣通媛のことらしい田井中比売タヰノナカツヒメの名代ナシロを河部と言うたことなどもおほゝどのみこの家に出た水の女の兄媛・弟媛だったことを示すのだ。
だが、衣通媛の名代は、紀には藤原部としている。藤原の名が、水神に縁深い地名であり、家の名・団体の名にもなって、かならずしも飛鳥の岡の地に限らなかったことを見せる。ふぢはふちと一つで「淵フチ」と固定して残った古語である。かむはたとべの親は、山背ノ大国ノ不遅(記には、大国之淵)であった。水神を意味するのが古い用語例ではないか。ふかぶちのみづやればなの神・しこぶちなどから貴ムチ・尊ムチなども、水神に絡んだ名前らしく思われる。神聖な泉があれば、そこには、ふちのいる淵があるものと見て、川谷に縁のない場処なら、ふちはらと言うたのであろう。
みづのをひものみづは瑞ミヅと考えられそうである。だが、それよりもまだ原義がある。このみづは「水」という語の語原を示している。聖水に限った名から、日常の飲料をすら「みづ」と言うようになった。聖水を言う以前は、禊ぎの料として、遠い浄土から、時を限ってより来る水を言うたらしい。満潮に言うみつも、その動詞化したものであろう。だから、常世波トコヨナミとして岸により、川を溯さかのぼり、山野の井泉の底にも通じて春の初めの若水となるものである。みつ/\しは、このみづをあびたものの顔から姿に言う語で、勇ましく、猛々しく、若々しく、生き生きしているなどと分化する。初春の若水ならぬ常の日の水をも、祝福して言うたところから拡がったものであろう。満潮時をば、人の生れる時と考えるのも、常世から魂のより来ると考えたためであるらしい。みつぬかしは(三角柏・御綱柏)や、みづきと通称せられるいろいろの木も、禊ぎに用いた植物で、海のあなたから流れよって、根をおろしたと信じられていたものらしい。
みつはまた地名にもなった。そうした常世波のみち来る海浜として、禊ぎの行われたところである。御津とするのは後の理会で「つ」そのものからして「み」を敬語と逆推してとり放したのであった。常世波を広く考えて、遠くよりより来る船の、その波に送られて来着く場処としてのみつを考え、さらに「つ」とも言うようになったのである。だから、国造の禊ぎする出雲の「三津」、八十島やそしま祓えや御禊ゴケイの行われた難波なにわの「御津ミツ」などがあるのだ。津ツと言うに適した地形であっても、かならずしもどこもかしこも、津とは称えないわけなのである。後にはみつの第一音ばかりで、水を表して熟語を作るようになった。
一一 天の羽衣
みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。瑞ミヅという称え言ではなかった。このひもは「あわ緒」など言うに近い結び方をしたものではないか。
天の羽衣や、みづのをひもは、湯・河に入るためにつけ易かえるものではなかった。湯水の中でも、纏まとうたままはいる風が固定して、湯に入る時につけ易えることになった。近代民間の湯具も、これである。そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。すなわちこれと同時に神としての自在な資格を得ることになる。後には、健康のための呪術となった。が、もっとも古くは、神の資格を得るための禁欲生活の間に、外からも侵されぬよう、自らも犯さぬために生命の元と考えた部分を結んでおいたのである。この物忌みの後、水に入り、変若ヲチ返って、神となりきるのである。だから、天の羽衣は、神其物カムナガラの生活の間には、不要なので、これをとり匿かくされて地上の人となったというのは、物忌み衣の後の考え方から見たのである。さて神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。みづのをひもを解いた女は、神秘に触れたのだから、神の嫁となる。おそらく湯棚・湯桁は、この神事のために、設けはじめたのだろう。
御湯殿を中心とした説明も、もはやせばくるしく感じだされた。もっと古い水辺の禊ぎを言わねばならなくなった。湯と言えば、温湯を思うようになったのは、「出イづるゆ」からである。神聖なことを示す温い常世の水の、しかも不慮の湧出を讃えて、ゆかはと言い、いづるゆと言うた。「いづ」の古義は、思いがけない現出を言うようである。おなじ変若水ヲチミヅ信仰は、沖縄諸島にも伝承せられている。源河節の「源河走河ヂンガハリカアや。水か、湯か、潮ウシユか。源河みやらびの御甦生ウスヂどころ」などは、時を定めて来る常世浪とこよなみに浴する村の巫女ミヤラビの生活を伝えたのだ。
常世から来るみづは、常の水より温いと信じられていたのであるが、ゆとなるとさらに温度を考えるようになった。ゆはもと、斎ユである。しかしこのままでは、語をなすに到らぬ。斎用水ユカハあるいはゆかはみづの形がだんだん縮ちぢまって、ゆ一音で、斎用水を表すことができるようになった。だから、ゆは最初、禊ぎの地域を示した。斎戒沐浴をゆかはあみ(紀には、沐浴を訓よむ)と言うこともある。だんだんゆかはを家の中に作って、ゆかはあみを行うようになった。「いづるゆかは」がいでゆであるから推せば、ゆかはも早くぬる水になっていたであろう。ゆかはが家の中の物として、似あわしくなく感じられだしてくると、ゆかはを意味するゆがしだいにぬる水の名となってゆくのは、自然である。
一二 たなばたつめ
ゆかはの前の姿は、多くは海浜または海に通じる川の淵などにあった。村が山野に深く入ってからは、大河の枝川や、池・湖の入り込んだところなどを択んだようである。そこにゆかはだな(湯河板挙)を作って、神の嫁となる処女を、村の神女(そこに生れた者は、成女戒せいじょかいを受けた後は、皆この資格を得た)の中から選り出された兄処女エヲトメが、このたな作りの建て物に住んで、神のおとずれを待っている。これが物見やぐら造りのをさずき(また、さじき)、懸崖カケ造りなのをたなと言うたらしい。こうした処女の生活は、後世には伝説化して、水神の生け贄にえといった型に入る。来るべき神のために機はたを構えて、布を織っていた。神御服カムミソはすなわち、神の身とも考えられていたからだ。この悠遠な古代の印象が、今に残った。崖の下の海の深淵や、大河・谿谷の澱よどみのあたり、また多くは滝壺の辺などに、筬おさの音が聞える。水の底に機を織っている女がいる。若い女とも言うし、処によっては婆さんだとも言う。何しろ、村から隔離せられて、年久しくいて、姥となってしもうたのもあり、若いあわれな姿を、村人の目に印したままゆかはだなに送られて行ったりしたのだから、年ぱいはいろいろに考えられてきたのである。村人の近よらぬ畏おそろしい処だから、遠くから機の音を聞いてばかりいたものであろう。おぼろげな記憶ばかり残って、事実は夢のように消えた後では、深淵の中の機織る女になってしまう。
七夕たなばたの乞巧奠きこうでんは漢土の伝承をまる写しにしたように思うている人が多い。ところが存外、今なお古代の姿で残っている地方地方が多い。
たなばたつめとは、たな(湯河板挙)の機中にいる女ということである。銀河の織女星は、さながら、たなばたつめである。年に稀におとなう者を待つ点もそっくりである。こうした暗合は、深く藤原・奈良時代の漢文学かぶれのした詩人、それから出た歌人を喜ばしたに違いない。彼らは、自分の現実生活をすら、唐代以前の小説の型に入れて表して、得意になっていたくらいだから、文学的には早く支那化せられてしもうた。それから見ると、陰陽道の方式などは、徹底せぬものであった。だから、どこの七夕祭りを見ても、固有の姿が指摘せられる。
でも、たなばたが天の川に居るもの、星合ひの夜に奠オキマツるものと信じるようになったのには、都合のよい事情があった。驚くばかり多い万葉の七夕歌を見ても、天上のことを述べながら、地上の風物からうける感じのままを出しているものが多い。これは、想像力が乏しかったから、とばかりは言えないのである。古代日本人の信仰生活には、時間空間を超越する原理が備っていた。呪詞の、太初ハジメに還す威力の信念である。このことは藤原の条にも触れておいた。天香具山あめのかぐやまは、すくなくとも、地上に二か所は考えられていた。比沼の真名井は、天上のものと同視したらしく、天アメノ狭田サダ・長田は、地上にも移されていた。大和の高市は天の高市、近江の野洲やす川は天の安河と関係あるに違いない。天の二上ふたかみは、地上到る処に、二上山を分布(これは逆に天に上のぼしたものと見てもよい)した。こうした因明いんみょう以前の感情の論理は、後世までも時代・地理錯誤の痕を残した。
湯河板挙ユカハダナの精霊の人格化らしい人名に、天ノ湯河板挙があって、鵠くぐいを逐おいながら、御禊ぎの水門ミナトを多く発見したと言うている。地上の斎河ユカハを神聖視して、天上の所在と考えることもできたからである。こうした習慣から、神聖観を表すために「天アメ」を冠らせるようにもなった。
一三 筬もつ女
地上の斎河ユカハに、天上の幻を浮べることができるのだから、天漢に当る天の安河・天の河も、地上のものと混同して、さしつかえは感じなかったのである。たなばたつめは、天上の聖職を奉仕するものとも考えられた。「あめなるや、弟おとたなばたの……」と言うようになったわけである。天の棚機津女たなばたつめを考えることができれば、それにあたかも当る織女星に習合もせられ、また錯誤からくる調和もできやすい。
おと・たなばたを言うからは、水の神女に二人以上を進めたこともあるのだ。天上の忌服殿イムハタドノに奉仕するわかひるめに対するおほひるめのあったことは、最高の巫女でも、手ずから神の御服を織ったことを示すのだ。
古代には、機に関した讃え名らしい貴女の名が多かった。二三をとり出すと、おしほみゝの尊の后は、たくはた・ちはた媛(また、たくはた・ちゝ媛)と申した。前にも述べた大国不遅フヂの女垂仁天皇に召された水の女らしい貴女も、かりはたとべ(いま一人かむはたとべをあげたのは錯誤だ)、おと・かりはたとべと言う。くさか・はたひ媛は、雄略天皇の皇后として現れた方である。
神功皇后のみ名おきなが・たらし媛の「たらし」も、記に、帯の字を宛てているのが、当っているのかも知れぬ。
ひさかたの天アメかな機。「女鳥メトリのわがおほきみの織オロす機。誰タが料タネろかも。」
記・紀の伝えを併せ書くと、こういう形になる。皇女・女王は古くは、皆神女の聖職を持っておられた。この仁徳の御製と伝える歌なども、神女として手ずから機織る殿に、おとずれるまれびとの姿が伝えられている。機を神殿の物として、天を言うのである。言いかえれば、処女の機屋に居てはたらくのは、夫なるまれびとを待っていることを、示すことにもなっていたのであろう。
天孫又問ひて曰はく、「其カノ秀起ホダたる浪の穂の上に、八尋殿やひろどの起タてゝ、手玉タダマもゆらに織ハタ※(「糸+壬」、第3水準1-89-92)オる少女ヲトメは、是これ誰たが子女ムスメぞ。」答へて曰はく、「大山祇おおやまつみノ神の女等、大エは磐長いわなが姫と号ナノり、少オトは、木華開耶このはなさくや姫と号ナノる。」……(日本紀一書)
これは、海岸の斎用水ユカハに棚かけわたして、神服カムハタ織る兄エたなばたつめ・弟オトたなばたつめの生活を、ややこまやかに物語っている。丹波道主貴の八処女のことを述べたところで、いはなが媛の呪咀は「水の女」としての職能を、、見せていることを言うておいた。このはなさくや媛も、古事記すさのをのよつぎを見ると、それを証明するものがある。すさのをの命の子やしまじぬみの神、大山祇神の女「名は、木花知流コノハナチル比売」に婚アうたとある。この系統は皆水に関係ある神ばかりである。だから、このはなちるひめも、さくやひめとほとんどおなじ性格の神女で、禊ぎに深い因縁のあることを示しているのだと思う。
一四 たなという語
漢風習合以前のたなばたつめの輪廓は、これでほぼ書けたと思う。だが、七月七日という日どりは、星祭りの支配を受けているのである。実は「夏と秋とゆきあひの早稲のほの/″\と」と言うている、季節の交叉点に行おこのうたゆきあい祭りであったらしい。
初春の祭りに、ただ一度おとずれたぎりの遠つ神が、しばしば来臨するようになった。これは、先住漢民族の茫漠たる道教風の伝承が、相混じていたためもある。ゆきあい祭りを重く見るのも、それである。春と夏とのゆきあいに行うた鎮花祭と同じ意義のもので、奈良朝よりも古くから、邪気送りの神事が現れたことは考えられる。鎮花祭については、別に言うおりもあろう。ただ、木の花の散ることの遅速によって、稲の花および稔りの前兆と考え、できるだけ躊躇ヤスラわせようとしたのが、意義を変じて、田には稲虫のつかぬようにとするものと考えられた。それと同時に、農作は、村人の健康・幸福と一つ方向に進むものと考えた。だから、田の稲虫とともに村人に来る疫病は、逐おわるべきものとなった。春祭りの「春田打ち」の繰り返しのような行事が、だんだん疫神送りのような形になった。
一五 夏の祭り
七夕祭りの内容を小別こわけしてみると、鎮花祭の後すぐに続く卯月うづき八日の花祭り、五月に入っての端午の節供せっくや田植えから、御霊ごりょう・祇園の両祭会・夏神楽までも籠めて、最後に大祓え・盂蘭盆うらぼんまでに跨っている。夏の行事の総勘定のような祭りである。
柳田先生の言われたように、卯月八日前後の花祭りは、実は村の女の山入り日であった。おそらくは古代は、山ごもりして、聖なる資格を得るための成女戒をうけたらしい日である。田の作物を中心とする時代になって、村の神女の一番大切な職分は、五月の田植えにあるとするに到った。それで、田植えのための山入りのような形をとった。これで今年の早処女さおとめとなる神女が定まる。男もおおかた同じころから物忌み生活に入る。成年戒を今年授かろうとする者どもはもとより、受戒者もおなじく禁欲生活を長く経なければならぬ。霖雨ながあめの候の謹身ツヽミであるから「ながめ忌み」とも「雨アマづゝみ」とも言うた。後には、いつでもふり続く雨天の籠居を言うようになった。
このながめいみに入った標シルシは、宮廷貴族の家長の行おこのうたみづのをひもや、天の羽衣ようの物をつけることであった。後代には、常もとりかくようになったが、これは田植えのはじまるまでのことで、いよいよ早苗をとり出すようになると、この物忌みのひもは解き去られて、完全に、神としてのふるまいが許される。それまでの長雨忌ナガメイみの間を「馬にこそ、ふもだしかくれ」と歌われた繋カイ・絆ホダシ(すべて、ふもだし)の役目をするのが、ひもであった。こういう若い神たちには、中心となる神があった。これら眷属を引き連れて来て、田植えのすむまで居て、さなぶりを饗ウけて還る。この群行の神は皆簔を着て、笠に顔を隠していた。いわば昔考えたおにの姿なのである。
 
棚機津女(たなばたつめ)伝説の源流 / 縄文人の世界観
 

 

七夕祭りについて考えてみたい。七夕伝説は、みなさんもよくご承知のように、以下のような内容である。
「 昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを邀えてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命は機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。」
しかし、このような伝説の裏には、闇の中にあって見えなくなっている真実がある。その隠された真実とは何か? それが問題だ!それを「野生の感覚」で明らかにして慎重の上にも慎重に新たな神話を語らなければならぬ。それが「祭りの再魔術化」である。
七夕祭りの場合、舞台装置として、私は「八本の柱」をひとつの思いつきとして提案したが、ほかにもいろいろな舞台装置が考えられるであろう。しかし、舞台装置とは別に、もっと大事なのは、実は、七夕祭りに関するいろいろな物語を創作することである。物語の創作そのものは作家の仕事であろうが、それにはしっかりした歴史的な裏付けというものがなければならない。物語の創作にあたってはさまざまな文献的な研究が多角的になされなければならないが、例えば七夕祭りの場合、少なくとも奈良時代に語られていた棚機津女(たなばたつめ)伝説を研究することが不可欠であろう。さらには、そういう観念がどこまで遡れるのか、これは主として考古学的な研究になろう。考古学的にその源流を探りながら、縄文人の生活と棚機津女(たなばたつめ)伝説とがどのように繋がるのか?さらに、歴史は繋がっており、多くの祭りも縄文時代に端を発していると考えられるので、縄文時代の世界観や感性というものを知らねばならない。今のところ判っていない部分が多すぎると言わざるをないが、小林達雄が非常に重要なことを言っている。そこで、ここではまず棚機津女(たなばたつめ)伝説というものがどういうものかその要点を述べ、次いで小林達雄が指摘する縄文人のすばらしい感性を紹介しておきたい。
七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句の一つにも数えられる。古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方牽牛と織女の二神であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。したがって、七夕祭りの源流を探るには、少なくとも棚機津女(たなばたつめ)の伝説について充分な知識を得ておく必要がある。
棚機津女(たなばたつめ)は、日本古来の「水場で客神(まろうど)を迎える女性」のことである。棚機津女(たなばたつめ)は盆に入る前、祖霊や客神(まれびと)を迎えるため水場で機を織りつつ待つ女性が神格化したもので、我が国では古くから存在していたらしい。水場なのは穢れを払う意味が有り、「聖なる場所」という意味であろう。機織りをするのは織り上がった布を祖霊や神に捧げる儀礼があったからだと言われているが、ここでは機織りについてはあえて触れない。「聖なる場所で客神(まろうど)を迎える」という一点に焦点を絞ってとりあえず私の想いを述べてみるが、こういったことについても学問的な研究が大いに進むことを期待する次第である。
神という明確な概念がなかった縄文時代においては、客神(まろうど)は他の地域から大変な苦労を重ねながらやってきた客人(まろうと。きゃくじん)であり、いろんな文物や文化や情報を運んできたまことにありがたい人であったに違いない。
そういう意味では、感覚的に、客人(まろうと)は客神(まろうど)であったに違いない。そして、きっとそこでは威信財(「縄文のマツリと暮らし」、小杉康、二〇〇三年二月,岩波書店)などの交換、すなわち贈与の交換が行われたに違いない。当然、一族としては大歓迎で一族挙げての祭りを行ったのではないか。その場合の音楽や踊りはどんなものであったのであろうか。一族を代表して然るべき女性がその客人をもてなすと同時に子孫繁栄のため、その客人(まろうと)の種を貰い受けたのではないか。その種から立派な子供が誕生するには、神の恵みがなければならない。したがって、客人の種を貰い受ける「場所」というものは、聖なる場所でなければならない。
私はかねがね「七夕祭りの再魔術化」ということを言っていて、これについては次のホームページを書いている。それを、是非、ご覧戴いて、縄文文化の再認識が必要であり、それによって私たちの「野生の感性」が磨かれることの意味を考えてほしい。
七夕祭りの再魔術化に当たってどうしても欠かすことのできない点は、「縄文人のエロス性」である。一族を代表しての女性と客人(まろうと)との聖なる交わり、これを「縄文人のエロス性」と呼びたい。折口信夫はその女性は処女でもよかったし、既婚者でもよかったと考えているようだが、どういう女性を登場させるかは物語のストーリー次第だ。
生きているということはどういうことか?私は、「生きているとは、波動により自然と生命体とが共和しているということである。」と・・・「いのち」の定義をしたい。私は量子脳力学の観点からそう言っているのだが、その詳しい説明はいずれ機会を見て説明するとして、ここでは次に小林達雄の語る縄文人のすばらしい感性を紹介しておきたい。
有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)というのがある。縄文土器は、丁寧な精製品であればなおのこと、必ず口縁が大きく波打ったり、大仰な突起がつけられたりする。ところが精製品の典型でもある 有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)は、口縁が水平で、しかも頸部に小穴が一定間隔で並んで一周する。 その孔は、紐を通して皮などを張るのに好都合であり、山内静夫は太鼓ではないかと推定した。世界各地の民族例に、土器太鼓のあることに目をつけたのである。たしかに形を見ると納得いく節がある。しかし、異論も唱えられた。種壷であるという説、醸造器であるという説などである。
しかし、最近、世界的なパーカッショニストである土取利行のお蔭で太鼓説でほぼ固まったようだ。土取利行は実際に縄文太鼓(もちろんレプリカだが)を作り、信州八ヶ岳で縄文のリズムを呼び戻した。初めての偉業である。
小林達雄は言う。
「その縄文のリズムが今でも耳のそこにしみついている。永年目に見ることのできなかった縄文文化の一つがやっと姿を現した。そもそもリズムを持たない民族など、世界中どこを探してもいるはずがない。」
「縄文人が人工的につくりだす音はいかにも低調であった。いわば縄文人は、自ら発する音を自然の音の中に控えめに忍び込ませはするが、あえて個性を強く主張したり際立たせようとはしなかったかのごとくである。」
「縄文人の周りには、拾いだしたらきりがないほどの音があった。いわば縄文人がすみかとする森の中の音すべてが、縄文人の発する声や音とともに一体となっていたのである。」
「楽器が自らの音の調べとリズムを主張するとき、人の身体、人の身振りや身のこなし方にも干渉し、注文をつける。わが国の芸能においては、スリ足で舞い舞いして、なかなか大地からはね跳ぼうとしないのは、楽器の発達が縄文以来、控えめに終始してきたことに遠い由来があるのかもしれない。」 
 
祭りの再魔術化
 

 

はじめに
「言葉では真実は語れない。」と言ったのはラカンだが、この世の中の出来事には理性では捉えることのできないものがあり、ラカンはそのことを言ったのだ。私たちが通常目で見ているものや頭の中で理解しているもののその向こうに隠れて見えなくなっているものがあるということである。この世の中には理性ではなかなか捉えることのむつかしい摩訶不思議な現象が起っている。その摩訶不思議な現象というものは「野生の感性」があれば、そのまますんなり受け止めることができる。したがって、私たちはそういう「野生の感性」というものを身につけなければならない。縄文人の感性はまちがいなく「野生の感性」と考えて良いので、私たちは縄文人の感性を学ばなければならないのである。
自然との「共和」(響きあい)。それが「いのち」の本質である。そのことは最新の量子脳力学を勉強して私の得ている確信であるが、縄文人は自然との響きあいの中でひとつの世界観を持っていたので、私たちはその縄文人の世界観を勉強し身につけなければならない。縄文時代に起源を持つさまざまな伝説や昔話或いは神話があるが、それらはすべて後世の人たちの理性が言葉にしたものであって、いわば合理的な物語である。そういう後世の人たちが創作した合理的な物語については、「縄文人の感性」(野生の感性)にもとづいて創り変えなければならない。残された歴史的遺産の断片をひろい集めて新たな神話を創作しなければならない。それが私の言う「祭りの魔術化」である。
祭りというものは神々とのインターフェースである。七夕伝説などの祭りにまつわる伝説というものはたいがい神々に繋がる何かがある。それを「野生の感覚」で感じ取って新たな祭りを創っていかなければならない。そのためにはその祭りにまつわる新たな物語が必要である。新たな物語ができれば、多くの人がそれを読んだり見たり聞いたりすることができる。私はまず作家によって物語が創作されれば、それが劇にもなろうし、映画にもなろう。日本が誇るアニメやマンガもどんどん創られるようになる。祭りにまつわるそれらはすべて神々と繋がっている。歌舞音曲というのはもともと神に捧げるものであるので、新たな音楽や踊りも生まれてくるであろう。私はそういうことを期待しているのであって、そのために「祭りの再魔術化」の必要性を訴えたいのだ。「祭りの再魔術化」とは何か。それがこの補筆のねらいだ。
そのほかにもう一つのねらいがある。縄文人の世界観の神髄は何かという問題に切り込むことである。この補筆では七夕祭りのことも書いているが、この論考の中で七夕祭りの再魔術化を図ろうというのではない。そうではなくて、祭りの再魔術化にあたってどうしても欠かすことのできない点は何か、それを明らかにしたいということだ。七夕祭りを勉強しながらそれを私なりに探ったものである。七夕祭りは日本各地で行われているもっとも一般的な祭りである。その再魔術化を図ることの意義は大きいので、是非、多くの人に七夕祭りの再魔術化と取り組んでもらいたいが、その際、どうしても欠かすことのできない点は何か?それを明らかにしたい。それがこの補筆を欠く私のもう一つのねらいだ。
「七夕祭り」を思う
全国の七夕祭りは、旧暦・月遅れに行う地域として、
秋田県湯沢市(七夕絵どうろうまつり)、宮城県仙台市(仙台七夕)、福島県いわき市(平七夕まつり)、埼玉県狭山市(入間川七夕祭)、埼玉県小川町(小川町七夕まつり)、埼玉県ふじみ野市(上福岡七夕まつり)、千葉県茂原市、東京都杉並区(阿佐谷七夕まつり)、東京都福生市(福生七夕まつり)、富山県高岡市(高岡七夕まつり)、岐阜県大垣市(七夕まつり)、愛知県安城市(安城七夕まつり)、愛知県一宮市(一宮七夕まつり)、愛知県名古屋市(円頓寺七夕まつり)、三重県松阪市(松阪七夕まつり)、香川県木田郡三木町(三木町いけのべ七夕まつり)、大分県大分市(大分七夕まつり)、神奈川県藤沢市慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(七夕祭)などがあり、
新暦に行う地域として、
神奈川県平塚市(湘南ひらつか七夕まつり)、静岡県静岡市(清水七夕まつり)、富山県高岡市(戸出七夕まつり)、富山県入善町(舟見七夕まつり)、大阪府交野市(七夕祭)などがあり枚挙にいとまがないぐらいだ。
また、全国七夕サミットなどもおこなわれていて、 七夕祭りはまことに盛んではあるが、残念ながら、ほとんどの場合、祭りが神とのインターフェースであるということが忘れられているのではないか。商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、 商業主義に走りすぎているのである。 本来あった夜間の風習や神事などをもっと重視しなければならないのではないか。
私の地域でも、今年、ささやかな「七夕祭り」が始まった。上野毛、等々力、尾山台、九品仏の各駅周辺の商店組合の協力を得て行なわれた東急電鉄の行事らしい。少し見て回ったが、「私の地域でも七夕祭りが始まりましたよ!」と誇らしげに話すことができないほどまことに未熟なものであるが、私はうれしい。「クラスに仲の良い友達ができますように!」という子供の願いも飾られていた。来年、再来年と続いていって、少しずつほんまものの七夕祭りに発展していって欲しいと願わずにはおられない。神とのインターフェースとしての七夕祭りに育っていってほしい。そういう願いを込めて、ここでは、七夕祭りについて私の思いをしたためておこう。
「望星」という雑誌(東海大学教育研究所発行)がある。その2009年の7月号に、NP0「子ども・宇宙・未来の会」会長の的川泰宣(まとがわやすの り)さんがちょっとピンぼけなことを書いておられたので、まずその点から考察を始めよう。彼は、「いちばん重要なのは、子どもたちの心の中にさまざまな関心や好奇心が湧き出し、またそうしたものを自分自身で継続的に考えていこうとするモチベーションを育てていくことではないのか・・・云々」と言っているが まったくそのとおりである。その認識は間違っていないし、「宇宙教育」の必要性も「宇宙からの視座」の重要性も私は否定はしない。しかし、そういう考えは近代的というか合理的なものであって、 それはそれで結構である。
しかし、私がピンぼけだというのは、「再魔術化」ということが今日的な課題として今将に問われているのに、彼の文章を見渡して、その辺の認識が欠けているので はないかと思われるからである。近代の合理的な考えだけでは21世紀の展望は開けない。「野生の感性」を身につけないといけない。
「再魔術化」とは、「自我」を「自然」から引き離し「自然」と「人間」を対立させてきたデカルト的な思考から解放されなければならないとするものである。すなわち、科学的合理性・批判的理性の帰結点として人間と自然を二分する発想がむしろ非合理になっており、自然と人間が一体化した認識論こそが現在では合理的となっているのである。大事なのは、自然との一体化、地球との一体化、宇宙との一体化である。何をどう考えることはもちろん大事だが、何をどう感じるかということの方がもっと大事である。子どもの教育に当たって、「豊かな感性をどう養うか」を真剣に考えねばならない。そのために、「再魔術化」ということが今日的な課題として今将に問われているのである。
1989年9月、カナダのバンクーバーでユネスコ主催の国際シンポジュームが開催され「21世紀への生き残りのためのバンクーバー宣言」がなされ た。その「宣言」は、<サバイバルに直面する人類><問題の起源><ヴィジョンの選択肢>の三部からなっているのだが、ここでは第三部を紹介しておきた い。第三部では、緊急の具体的な課題に応えるための方策の手掛かりとして、ここに(1)有機的な大宇宙の概念に基づく生命リズムの回復、(2)人類の自己 イメージの変革による人間中心主義からの脱却、(3)本来的には<体ー心ー霊>から成るトータルな人間が、在来の体中心的な断片化から逃れて、コスモスの 緊密な一部として自己を再発見すること、という三つのヴィジョンが採択された。これについては中村雄二郎の<汎リズム論>が背景になっているらしいのだが、それを理解するには、理屈もさることながら、直観に訴えるのが良いようだ。電波望遠鏡で捉えた太陽の惑星群(水星、金星、火星、木星など)の発する<天球 の音楽>と、胎児に聞こえる母親の胎内音については、音声化したものを聞くことができる。私も、20年ほど前に広島で行なわれた中村雄二郎の特別講演でそれらを聞いたことがあることがある。私はそれを聞いて、直観的に中村雄二郎の<汎リズム論>を理解することができた。まことに有り難いことであった。中村雄二郎の<汎リズム論>については、彼には、「共振する世界」(1993年10月、青土社)など多くの著作があるので、それをご覧頂くとして、ここでは、財団法人塩事業センターの「Webマガジン」に掲載されていた中村雄二郎へのインタビューから、是非皆さん方にご承知願いたいと思う点を紹介すること としたい。中村雄二郎は、次のように言っている。すなわち
「 リズム振動単体では共振は生まれません。リズム同士の「引き込み(entrainment)」が必要です。たとえば、二つの振り子時計を同じ台の上に固定し ますと、振り子の振動はやがてシンクロナイズします。これが「引き込み」で、引き込みによる共振、すなわち「リズム振動」は、この宇宙や自然の中の至る所に見出せる、きわめて遍在的な現象です。普通、私たちがリズムと言いますと、音楽的なものを思い浮かべますね。けれども、絵画や彫刻にもリズムがあるんです。共振によって、人に感動を与えたり、 コミュニケーションを可能にしたりするわけです。共振がうまくいくかいかないかで、その領域での活動の成果が問われる。リズムの共振の正否がコミュニケーションできたかできなかったかの分かれ道になる、そのくらいリズム、振動、共振は重要です。 」
「 話し合わなくてもわかりあえる、 それは、リズムの共振があるからです。リズムの共振があれば、相互理解ができると思います。たとえば、世界各地で起こっている民族紛争は、文化の相互理解が固有のリズムの理解にまで及ばないために生じているといえないでしょうか。最近は、凶悪な少年犯罪の増加や学校内でのいじめの問題など、教育の場でさまざまな問題が発生しています。世代間のディスコミュニケーションなども問題視 されています。それも、私に言わせれば、リズムという概念に対する配慮のなさからきているものだと思います。現実に対してどう切り込み、アプローチしてい くかという考え方が欠けているからではないでしょうか。現代社会の問題点は、急激な変動によって生活のリズムが混乱していることです。人々は、自然の中で培ってきた生命的なリズム感覚を失い、根源的な意味での 本来のコミュニケーションを失っているように思えます。教育の問題を始めとする多くの社会問題は、ここから発生していると言っていいでしょう。人と人との相互理解は、じつは想像しているほど簡単にはいかなくなっている。そう考えていくと、これまで考慮に入れてこなかった「リズム振動」の共振性が 重要になってくるんです。「リズム振動」の重要性をあらためて捉え直し、生命のリズム感覚をとり戻すことが、必要になってくると思います。さまざまな領域でこのリズムというものの重要性に気が付き始めていると思います。21世紀の課題は、まさにリズムだと思っています。 」・・・と。
けだし、私たちは、おおいにJ・E・ベーレンの<天球の音楽>を聞かなければならないのである。そのことに焦点を当てた・・・・「七夕祭り」「星祭り」を普及させたいものだ!
祭りの再魔術化
再魔術化を図る場合、おり入りやすい罠がある。これにはよほど注意しないととんでもないことになる。世の中の出来事には、科学的に考えて絶対に起こりえないと断言できるものがある。しかし、実は、科学的に説明できないけれど、ひょっとしたら起こりうるかもしれないというものもけっこう多い。その灰色の領域がくせ者で、科学的に起こりえない領域と灰色の領域の境目をどう認識するか、そこが大問題で、よほど注意しないととんでもないことにな る。
科学的に起こりえないに もかかわらず起こりうるとするのはオカルトの世界であり、これは非科学的な世界である。灰色の領域はオカルト的であるかもしれないが非科学的な世界ではない。科学的に起こりえない領域と灰色の領域の境目は、オカルトの世界、すなわち非科学的な世界と必ずしも非科学的とは断言できない世界との境目である。非科学的とは断言できない世界は、オカルト的かもしれないし科学的に説明できないけれど、ひょっとしたら起こりうるかもしれない世界であり、科学的な世界に含めて良い。すなわち、科学的に考えて起こりうると断言できる世界だけを科学的な世界だと硬直的に考えるのは間違いである。科学的という言葉の意味を硬直的に考えるのではなく、より弾力的に考えるべきなのである。魔術の世界は、そのような認識に立った上での科学的な世界の事である。オカルト的な色彩を含んではいるが、非科学的な世界ではなく、科学的な世界なのである。再魔術化とは、非科学的な 世界を認めようとするものではない。そうではなくて、科学的な世界をもっと広げようとするものである。
しかし、冒頭に述べたように、 再魔術化を図る場合、おり入りやすい罠がある。これにはよほど注意しないととんでもないことになる。世の中、あまりにも非科学的なことをいう人が多く、 かってカール・セーガンが「科学と悪霊を語る」という本を書いて世の中の非科学的な風潮に対し警鐘を鳴らした。共鳴しうる点が多かったので、かって私の ホームページ(掲示板)に紹介した。10年ほど前の事である。七夕祭りとは直接関係ないが、彼の見解はまさに科学的だと思うのであらためてここに再掲しておきたい。
以上のようなことを十分認識した上で、七夕祭りの魔術化をどう図るか。そこが大問題で、私は、哲学者、人類学者、宗教学者、天文学者、地質学者、生物学者、生命形態学者、考古学者、歴史学者、文学者、詩人、音楽家など多くの学者や芸術家の活躍が必要であると思う。とりわけ、私は、中沢新一の「野生の科学研究所」の研究に大きな期待を寄せている。
したがって、私などの浅学未熟な者が 七夕祭りの再魔術化について思いを言うなど、誠におこがましい限りであるが、未熟ながらもそれなりに勉強してきて、近頃、私の考えをどうしても皆さんに聞いてもらいたいという思いが募って来た。そこで勉強の成果を逐次申し述べる事としたい。
まず私の基本的な認識を言えば、次のとおりである。
「 私たちは、「地球の子ども」である。すなわち、私たちを生み出してくれたものは、この地球であり、母である。地球は母である。母は地球である。この事をどう考えるかが七夕祭りの再魔術化 を図る場合のキーポイントとなるが、それにはプラトンの「コーラ」とか風土というものに対する理解が必要であろう。」
「 西王母と七夕の伝承との関係が、物語的な伝承の段階になって初めて結合したものではなく、両者の関係の基礎はより古い季節の祭礼の中にまで遡り得るものであったであろう。古層の神に対する信仰の構造に思いを馳せながら、さまざまな信仰というものの構造を考えた上で、七夕祭りの再魔術化を構想すべきである。」
「 中村雄二郎の<汎リズム論>はもちろんの事、三木成夫やJ・E・ベーレンの思想を踏まえながら、七夕祭りの再魔術化を進めていくべきだろう。彼らの哲学や思想をどう子どもたちに語っていくのか・・・。難しい事をやさしく語るほど難しい事はない。しかし、七夕祭りの再魔術化にあたっては、今後、そういう語り部を地域につくっていくべきではないか。」
母は美しいか
「祈り」というものは極めて大事だ。 これからの時代、より価値ある生き方を生きるためには、私たちは祈らなければならない。しかし、これからの時代、その世界性とか地球性、宇宙性というものを考えると、従来のナショナリズムに囚われていたのではいけないし、既存の宗教に囚われていてもいけない。国というものがなかったとき、宗教というものが なかったときに立ち返って「祈り」のあるべき姿を考えねばならない。国というものがなかった「古代」、宗教というものがなかった「古代」に立ち返って「祈り」のあるべき姿を考えなければならないのである。これからの文明は、すべての地域の文化を包含しなければならないのであって、「祈り」についても、すべての地域の文化やすべての宗教の儀式を包含しなければならない。そのためには時空を超えた原理が必要である。宇宙の「摩訶不思議な力」と「祈り」と価値の 「創造」とが三位一体になって「ボロメオの輪」で結ばれていなければならない。私のいう時空を超えた原理とはそういう原理なのだが、その点については後日 詳しく述べるとして、今ここでは、これからの文明としての「祈り」のあり方を考える事の重要性だけを言っておきたい。これからの文明としての「祈り」、すなわち時空を超えた「祈り」のあり方を考え、そのための「場」をつくることが、私のいう再魔術化である。そのためには古代に立ち返ると同時に最新の学問の 総動員を図らなければならない。
関裕二がその著書「呪い と祟りの日本古代史」(2003年、東京書籍)のなかで、大変重要な事をいろいろと言っている。彼の言っている事には今後大いに考えねばならない点が多いのだが、今ここでの脈絡でいえば、大事なのは、「人間が生きるうえでもっとも大切なものは何かといえば、それは「食べ物」である。古代においてちょっとした気候変動が起きれば、食糧はすぐに不足し、飢饉に見舞われたであろう。だからこそ、「豊穣の神」のご機嫌を損ねまいと、土偶をつくり、「ウケ(食物)の 神」と讃え、必死に祈ったに違いないのだ。」という下りだ。そして、土偶については、西宮紘(にしのみや・こう)の考察「縄文のシンボリズム と女たち」(女と男の時空・・日本女性史再考1、ヒメとヒコの時代,原始・古代<上>、2000年3月、藤原書店)が重要である。
私は先に、「 私たちは、「地球の子ども」である。すなわち、私たちを生み出してくれたものは、この地球であり、母である。地球は母である。母は地球である。この事をどう考えるかが七夕祭りの再魔術化を図る場合のキーポイントとなるが、それにはプラトンの「コーラ」とか風土というものに対する理解が必要であろう。」と申し上げたが、 「古層の神」を考える場合、天と地の区別もなく、女と男の区別もないいわゆる混沌の時代まで遡るのではなく、一応現在と同じような秩序の構造ができあがった時代を問題にするのが良い。私は、考古学的資料の多い少ないを考え、秩序構造の現在との繋がりを考え、また芸術性というか美的感覚などを考えて「地球は母である」とか「母は地球である」と言っているのだが、そういう現実的認識が生じて来た経緯については、 西宮紘(にしのみや・こう)の考察「縄文のシンボリズムと女たち」をご覧頂きたいが、女性の「両性具有」の問題に関する白州正子の著書「両性具有の美」(平成15年3月、新潮社)から、両性具有の神から女性神と男性神が分かれたギリシャの事情を紹介しておきたい。もちろん、プラトンの「コーラ」は、 女性神と男性神が分かれたあとの哲学である。白州正子曰く、
「 両性具有とは、人間が男女に分かれる以前のかたちであって、力強い男性神のヘルメトスと、女性美の極地であるアフロディテが合体してできた言葉を「ヘルマフロディトス」と呼んだという。エ ジプトやギリシャの彫刻にいくつか見ることができるが、乳房とペニスを持った神々は、具体的にすぎて少しも美しくはない。日本では「ふたなり」と称し、鎌 倉時代の病草紙(やまいそうし)に描かれているが、こちらの方は神さまでなく、人間であるのが醜悪さを通り越して哀れに見える。してみると両性具有というのは、あく までも精神的な理想像であって、プラトンのいう「アンドロギュノス」と呼ぶのが適しているのだろう。アンドロギュノスは、あまり完全無欠であったために、 神に逆らうものとして男女の二つの性に引き裂かれてしまった。その原初の姿に還ろうとして、男女は互いに求め合う。」・・・・と。
女性美の極致が女性神である。両性具有はやっぱり格好が悪い。 地球は母である。母は地球である。その母は美しくあらねばならない。
父なる天の神・母なる地の神
縄文時代の住居には、炉とその隅に石 棒が立てかけられている事例が少なくない。そういうところでは、家のなかで毎日のように、天の神や地の神への「祈り」が捧げられたのである。私たちの多くの家で、仏壇や神棚でお祈りがなされるのとまあ同じようなことだ。ロウソクやお灯明は聖なる火である。その聖なる火については、小林達雄がその著「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中で次のように言っている。すなわち、
「 縄文住居の炉は、灯かりとりでも、暖房用で、調理用でもなかったのだ。それでも、執拗に炉の火を消さずに守りつづけたのは、そうした現実的日常的効果とは別の役割があったと見なくてはならない。火に物理的効果や利便性を期待したのではなく、実は火を焚くこと、火を燃やしつづけること、火を消さずに守り抜くこと、とにかく炉の火それ自体にこそ目的があったのではなかったか。」・・・と言っており、火に対する象徴的観念の重要性について述べている。そして、火の象徴的聖性は、今日の私たちの生活においてもいろいろな場面に認められることを述べ、その原点は、結局、縄文住居の炉にあるのではないかと言っている。私もまったくそう思う。そして、縄文住居の炉は、女性の「ホト」でもあり、女性の象徴的聖性を表わしていると考えている。地球の母の象徴的聖性、地の神の象徴的聖性と言っても良い。
小林達雄は「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中でもうひとつ重要なことを言っている。すなわち、
「 縄文中期の中部山岳地帯においては、奥壁に石で囲った特殊な区画が設けられ、しばしばその中央に長い石を立てる。立石は、河原にあるような表面の滑らかなものではなく、稜をもつ、いわゆる山どりの石である。細長い石であれば何でも良いというものではない。そこには縄文人なりのこだわりが覗く。もとよりこの立石を伴う施設の具体的な目的意 味などは不明である。」と述べ、この施設は祭壇らしいと言っている。彼は断定を避けているが、私は、立石は石棒であり、男性のシンボルだと思っている。また、高橋信雄は、Webサイトで、「御所野遺跡のムラは、墓域を中心に営まれ、様々な祭祀が行われたと考えられます。その核となるのが前述のストーンサークルです。ストーンサークルを取り囲むように掘立柱建物がいくつも建てられ、その隣では、モノ送りの儀式が行なわれたらしき盛土遺構が広範囲にみられます。この御所野のムラでは、竪穴住居の中でも祭祀が行われていたようです。西のムラの中心的な建物では、奥の方に「石棒」という縄文時代の祭祀の道具が立てられ、その周辺からトックリ形土器や彩色土器、あるいはミニチュア土器など、実用的ではない土器が8点、完全な形でまとまって出土したのです。つまり、奥の間が祭壇となっており、近くに石棒が祀られ、小型の土器類が神にささげられた可能性が極めて高いのです。入口中央にあった炉も、神聖な場所であったと考えられます。」・・・と言い,石棒の聖性を指摘している。
私は,補筆1「野生の神々」で、その石棒の持つ意味について、次のように述べた。すなわち、
「 さて、今ここで私のいちばん言いたいことは、柳田国男と胞衣(えな)信仰に出てくる「富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏」において、ミシャクジは、古くから信仰されてきた土着の神であり、石棒や丸石などが御神体とされる・・・ということである。このご神体は、土地精霊と見られている原姿の神で、諏訪大社によって祀られてきた神としてもよく知られている。次に、諏訪大社といえば、御柱(おんばしら)が有名であるが、 御柱(おんばしら)は神が降臨する依代(よりしろ)といわれている。神が降臨する依代(よりしろ)としての 御柱(おんばしら) ・・・・、これが二番目に言いたいことだ。伊勢神宮にも心御柱というのがある。心御柱を伐り出す「木本祭」は、神宮の域内で、夜間に行われ、それを建てる「心御柱奉建祭」も秘事として夜間に行われる。すべて、非公開で、しかも、夜間にのみ行われるというのは異常だ。もし心御柱が精霊(神)だとすれば、異常な神、すなわち異神であり、山本ひろ子の言う異神・摩多羅神と同じではないか。しかも、猿田彦神社の宇治土公宮司に聞いた話によると、伊勢神宮でもっとも重要な行事であり、猿田彦神社の宇治土公宮 司がそれを司祭するのだそうだ。隠れているということで摩多羅神とイメージがだぶり、猿田彦ということでシャクジンとイメージがだぶっている。誠に不思議 な心御柱ではある。
私は、祭祀として立てる柱は、環状木柱列遺跡の柱なども含め、神が降臨する依代(よりしろ)であり、縄文人の観念としては、天の神と地の神をつなぐ通路であったと思う。その通路によって、天の神と地の神は合体し威力はさらに強大なものとなる。私は、縄文人はそんな観念を持って柱を立てたのだと思う。
上述のように、金春禅竹は、「星が地上に降下して、人間に対してあらゆる業を行なう」と考えていたが、その通路が柱であったり、先に述べた堀田総八郎のいう「天文祭祀線」であったりしたのであろう。 いずれにしろ、星というか天の神が地上に降下して、母なる地の神と一体になって人間に対するあらゆる業を行なったのである。その導きの神が、土地精霊と見られている原姿の神としての石棒がある。すなわち、神が降臨する依代(よりしろ)としての 御柱(おんばしら)の源流に精霊(神)としての石棒がある。猿田彦大神はその変形である。」・・・と。
ここで大事なことは、地の神というか地母神というか聖なるホトに天の神が降臨するということであり、ただ単に精霊(神)の働きがあれば良いというものではない。精霊(神)の働きは不可欠だが、何かが新しく生まれてくるためには、人々の敬虔な「祈り」が必要である。天の神と地の神との合体による「摩訶不思議 な力」と 人々の敬虔な「祈り」と何か価値あるものの「誕生」、この三つはボメロオの環でがっちりと繋がっている。
以上述べたように、天の神と地の神をつなぐ機能を持つものとしては、 諏訪大社の御柱(おんばしら)や伊勢神宮の心 御柱のほか、聖地に存在する磐座(いわくら)やモンゴルのオボー、そして道祖神などがあるが、私は、それらの源流にあるのは石棒だと考えている。そして、 群馬県月夜野町は利根川河畔の矢瀬遺跡に訪れてその実感を強めたのだ。
森岡正博の三元論(トリニティ論)
森岡正博の「無痛文明論」(2003 年10月、トランスビュー)というのがある。人間の文明は、身体的な快を求め苦しみを避けるという方向で進んできた。その流れのなかにわれわれはどうしようもなく飲み込まれ、その身体的な快と引き替えに「生きる意味」というものを見失ってしまった。今後、意味のある生き方を生きるためにはどうすれば 良いのか。この問題を哲学的に論じたのが上記の本であるが、彼はその中で三元論について次のように述べている。すなわち、
「 私は、無痛文明論において、互いに還元不可能な三つの根本的な概念を用いている。「身体」「生命」「知」の三つである。これは三元論であるといってよい。」
「 この三元論が示唆するのは、第一に 「身体」と「生命」の戦いが基本であり、「知」は両者に利用される道具にすぎないということだ。第二に、しかしながら、無痛文明との戦いにとっては、このどっちに転ぶか判らない「知」こそが、決定的な役割を果たすのである。したがって、それを「生命の知」として育成し、活用するかどうかが問われるのだ。第 三に、「生命」は、実は「身体」の一部であるから、実態として存在するのは「身体」と「知」の二つであるとも言える。生命とは、身体を超えようとする身体だ。「身体が生命をはらんでいる」という緊張関係のなかにこそ、希望がある。この三元論の哲学は、従来の二元論、例えば「精神と物質」「心と身体」「理と気」「生命と物質」などの考え方とは異なる。あるいは「秩序と破壊」「アポロンとデュオニッソス」などの二元論とも異なる。それらの思考の枠組みでは、無痛文明の構造は解けない。」
「 この三元論は、ある方向から見れば、「身体」と「知」の二元論のように見え、他の方向から見れば、「身体」と「生命」の二元論のようにも見える。興味深い構造である。」・・・・・と。
また、中沢新一は、著書「狩猟と編み籠」(2008年5月、講談社)の中で次のように言っている。すなわち、
「 人類の論理的に思考する能力は、 <過剰性や放射性や増殖性をはらんだもの>を理解しようとするときには、必ずと言っていいほどに、「トリニティ=三位一体」的なモデルを利用しようとしま す。木を木と言い、山を山と言い、水を水と言い、この世界のあらゆるものを記号的な意味情報として伝えようとするときには、二元論のモデルで十分です。 じっさい一切のものごとを情報化して記憶・計算・伝達するコンピューターは、0と1との二元論ですべての情報処理をすませています。ところが、木がただの木ではなくなっ て、なにか詩的な意味を含蓄するようになるときには、それではすまなくなります。「意味」の平面から過剰しあふれ出してくる「価値」の問題が、発生するか らです。意味平面を垂直的に横断していく第三の力を考えにいれなければ、価値の問題は思考不可能です。そのために、詩学は、言語学と違って、増殖を本質と する価値なるものを理解に組み込むためには、三元論のモデルを採用することになります。」・・・・と。
上記において、<過剰性や放射性や増殖性をはらんだもの>というのは、流動的知性に関わるもの言い替えて良いと思う。すなわち、流動的知性に関わるものについては、三元論でないとその構造を明らかにすることはできないのである。
三元論は、ただ単に第三の道を模索し ようとするものでもないし、私がよく口にする「両頭截断」というものでもない。三元論は、相異なる三つの概念の密接不可分な関係を明らかにして、それらの 構造が内蔵する「価値ある働き」というものを生み出す、・・・・そのための原理である。上述の「トリニティ=三 位一体」はキリスト教における聖霊と父なる神と子なる神(イエス・キリスト)との関係を言っているが、この構造を理解しないと三元論はなかなか理解できな いかもしれない。キリスト教における三位一体の構造(トリニティ構造)を判りやすく図示したものとしては・・・かの「ボロメオの輪」ある。
中沢新一は、「ボロメオの輪」を示しながら三位一体について次のように説明している。すなわち、
「 「子」はいうまでもなくイエス・キ リストのことをあらわしていますが、人間の母親の身体から生まれた人間でありながら、「父」である超越の神とまったく同一の本質を備えていると、トリニティ論は主張します。物体的・肉体的な存在の中で活動していても、イエスにあっては超越的な神としての本質は、まったく変化をおこしていない、と考えれた わけです。こうしてイエスは物体的なものと非物体的なものをつなぐインターフェースの働きをするようになります。しかし、このようなインターフェースが出現してくる必然性は、流動的知性に内在する放射性からもたらされます。「父=子」という結合体の中に、放射力が流れ込んでくるとき、人の子イエスは聖なる霊に充たされて、地上の活動に歩み出て行くのです。」・・・・と。
中沢新一は、以上のように、キリスト 教における三位一体、すなわち聖霊と父なる神と子なる神(イエス・キリスト)との関係を判りやすく説明しているが、これをさらに私流に説明すると、流動的知性と結びついた精霊(スピリット)の世界があって、非物体的なもの「天の神」の世界と物体的なもの「地の神」の世界がある。ここで大事なのは、非物体的 なもの「天の神」の世界と物体的なもの「地の神」の世界とが強く結びついているということで、そのためには、それらをつなぐ何か良いインターフェースが必要である。精霊(スピリット)の力は、そのインターフェースを通じて、「天の神」から「地の神」に発出される。
「祭り」の哲学
古代信仰に関して、吉野裕子という人の素晴らしい研究がある。彼女には、「性」と古代信仰の 関係を追求した・・・「扇」(昭和45年1月、学生社)という名著があるが、ここでは、その中から私のもっとも注目している部分を紹介するとしよう。すな わち、
「 蒲葵(びろう)は熊野那智の扇祭りをはじめ多くの神事の謎を解く鍵、さら に一歩をすすめれば、古代日本の信仰の謎をとく鍵となるものではなかろうか。そうして蒲葵がもし男性のそれを象徴するものとすれば、その次にくる問題はそれがなぜ尊ばれなければならなかったのか、ということになる。」
「 人間の生誕は女だけでは起こりえない。もし御嶽(うたき)の形が女陰を象どるものならばそこにはかならず男性を象どるものがなければならないだろう。御嶽における男性の象徴がほかならぬ蒲葵だと思われる。御嶽の女性のそれを象どった空地「イビ」のスケールに見合った男性の象徴が蒲葵であった。」
「 神霊はニライの火の神に導かれて海を渡り御嶽(うたき)に迎えられる。そこには男性を象徴する蒲葵と女性を象どるイビがある。神霊は男性の種として蒲葵に憑依し、巫女の力をかりてイビと交歓する。神霊を迎えた巫女は食を断ち、苦行にひとしい厳重な忌みこもりをする。母のなかに芽生えた生命が永い期間、狭く 暗いところにじっと時がくるまで耐えしのんでいるように。そうしてその時がくれば神は自らを、巫女そのもののなかに顕(あらわ)される。新生児が裸であると同様に「みあれ」の神もおそらく裸形であろう。あるいは神は小児の姿をとられることもある。「みあれ」の神には木の葉をあんだ笠と白の神衣が奉(たてま)つられる。新生児は産声をあげて誕生を知らせる。神のみあれは鉦(かね)の音のひびきによって、かすかに遠く里人にも伝えられる。巨岩や森かげから出土する銅鐸は神の「みあれ」を告げるものではなかったか。岩や森かげ、また丘の傾斜地は神の「みあれ」に関係の深いところである。そこには御嶽(うたき)があったのだ。遠い森蔭から白く小さく神の姿は拝まれるが、神をこの目で見てはならないことになっている。里に降りられる神を人々はひれ伏して迎える。あるいは家にこもって・・・。これが古代の祭りだった。沖縄の島々に伝えられる祭りは多種多様であるが大筋はこうだと思う。」・・・と。
京都大学大学院教授の山田孝子は、「アイヌ文化において、カムイ・モシリとアイヌ・モシリという神の世界と人間の世界との対比に基盤をおく二元的宇宙観が一貫した底流となっている。」と言っているが(季刊・考古学第107号、2009年5月、有山閣、<アイヌ文化の世界観>」、果たしてそうであろうか。私には、古代人が二元論的宇宙観しか持たなかったとは到底思えない。上に紹介した吉野裕子の説明も、一見、三元論(トリニティ論)にもとづいたものではないように見える。しかし、吉野裕子の研究の焦点は「扇」であり、蒲葵(びろう)に鋭い目というか鋭い感覚を働かせている。「扇」も蒲葵(びろう)も祭りに関わるものであり、神の世界と人間の世界とのインターフェースとしての祭りに着目するならば、吉野裕子の研究は、古代信仰の三元論的研究と言えないこともない。アイヌの宇宙観もそうだ。山田孝子は「祭り」の哲学を考えていないので、古代人の宇宙観は二元論的宇宙観だというが、古代人は神の世界と人間の世界とのインターフェースとしての祭りにさまざまな工夫をし、これを執り行っているので、私は、古代人の宇宙観は三元論的な宇宙観であったと考える。
弘前学院大学地域総合研究所の鈴木克彦は、上記雑誌考古学第107号(縄文信仰祭祀の体系)で「祭祀ー祭りは、デュルケムのコンミュニオン(交霊=神人交流)の集団統合装置と考えざるを得ない」と言っているが、私もそう思う。祭りとか祈りの哲学的意味をしっかり考えねばなるまい。
私は、先に、 キリスト教における三位一体の構造に関して、「 流動的知性と結びついた精霊(スピリット)の世界があって、非物体的なもの「天の神」の世界と物体的なもの「地の神」の世界がある。ここで大事なのは、非物体的なもの「天の神」の世界と物体的なもの「地の神」の世界とが強く結びついているということで、そのためには、それらをつなぐ何か良いインターフェースが必要である。精霊(スピリット)の力は、そのインターフェースを通じて、「天の神」から「地の神」に発出される。」・・・と申し上げた。ここでの脈絡でいえば、非物体的なもの「天の神」の世界は神の世界と言い替えて良いし、物体的なもの「地の神」の世界は人間の世界と言い替えて良い。そしてインター フェースは祭りと言い替えて良い。
すなわち、「 精霊(スピリット)の力は、祭りを通じて、神の世界から人間の世界に発出される。」・・・・のである。実は、精霊(スピリット)の力とは、流動的知性のことであり、必ずしも信仰だけに関係するものではない。しかし、古代においては、神の存在と信仰が、人々の世界観や宇宙観と関連し、日々の生活はもとより諸活動の基本にあったので、祭りの意義は極めて大きかったに違いない。古代の人々は、祭りなくして生きていけなかったのではないか。現在でも、自然の不思議や宇宙の不思議を感じ、何か摩訶不思議な力というものを感じることがあり、依然として祭りの意義は大きいと思う。祭りの哲学をもっと深く考えていきたいものだ。
西王母と七夕伝承
中国では古くから、七夕伝承が語られて来た。それについては、「西王母と七夕伝承」(小南一郎、1991年6月、平凡社)に詳しいが、そのなかから、今ここでの脈絡に関係する大事な部分を紹介することとしたい。すなわち、
「 立春の日に春の耕作を始めるに際し、土でもって人像を作る。男女おのおの二人ずつで 、それぞれ犂や鍬を手に持っている。土で作った牛を立てることもある。ここでは男女おのおの二体の人像が作られるとされている。男と女とが陰陽を代表しており 、彼らがその手に農具を持っていることから見ても 、男女の結合が農作物の豊穣をもたらすとする農耕儀礼を 基礎にした行事であったろうことを窺わせる (しかも、男女二体の像に加えて土牛が配されているのは、牛が単に鍬耕を象徴するだけにとどまらず、男女の間を取り結び 、橋わたしをするのが 、そのより根本的な機能 であったことを示唆しょう )。こうした内容の人日の行事と対をなしていることからいっても 、七夕における牽牛と織女との会合もまた、元来は宇宙的な規模での陰陽の結合という点で重要な意味を持ったのであり、二神の恋物語りは、そうした元来の意味が風化したあとに展開した 、第二次的な様相であったことが知られるのである。牽牛星と織女星とは 、天の河の両端に位置を占めているだけでなく、年に 一度、七月七日に 、宇宙的な規模での聖婚を行うため 、天の河を渡って会合をした。」
「 西王母と東王公とが会い 、また牽牛と織女とが会うのは 、七夕の日に織女が牽牛に嫁するとされているように、これらの男女二神が聖始を行うためであった。その聖婚の根本の目的は宇宙に再生の活力を与えるためであったが 、農耕社会的な環境の中では、より具体的に 、これら二神の性的な結合を通じて農作物の豊穣が
約束されると考えられていたであろう。農作物の豊かな実りを願って男女が農地で性行為を行うといった風習が全世界的に広がっていることについては、たとえばフレイザ が「金枝篇」のなかで多くの例を集めているところである。」
「 織女は天の存在であり、牽牛は地の存在であって、牽牛自身は犠牲(いけにえ)となった牛の働きを得て、はじめて天と接触し得るという基本構造が、現在の牛郎織女の民話にまで引き継がれていることは、すでにい-つかの例を挙げてみてきたところである。天の河は、天と地との間を隔てるものであって、地上的な存在にとって、宗教儀礼の力などを借りないかぎり越えることができぬものであった。」
「 おそらくその多くが農耕の開始の時期にまで遡るであろう起源を持った季節的な宗教儀礼が、それを支えて来た共同体的な信仰から切り離されて、魏晋南北朝時期になると行楽のための年中行事として再編成された。この時期が、太古以来連綿と続いて来た農村共同体を基盤とする土着的な信仰の決定的な零落のときであったのである。古来の信仰を支えてきた人々が、後漢末期以来の打ち続く戦乱の中で、祖先代々暮らして来た土地から切り離されて、古い共同体的な生活が決定的に破壊されたことが、その信仰零落の最大の原因であったにちがいない。そうして為政者のほうでも、民衆的な季節の宗教行事を季節の行楽の行事に転換させることに積極的に力を貸したのだと推定される。こうした状況の中で、古くから人々の信仰を集めて来た神々も、たとえそれら神々の存在が根本的には人間生活の反映であるにしても、現象的には彼らが絶対的な支配者として宇宙の秩序を体現し、人々の生活のほうがそれを模倣するのであったものが、ここで大きくその性格を変えねばならなかった。すなわち神々は 、信仰の外衣を失うとともに、人間としてのドラマを積極的に演じなければならなかったのである。新しい人間的なドラマを通じて、神々は、人々の生活の中の 新しい領域に根を下ろそうとした。そうしたドラマをうまく演じられない神々は、人々に忘れられ、没落せざるを得なかったのである。神話の人間化もまた、この時期に決定的になったといえるであろう。牽牛・織女も、その起源をたどれば、それぞれに宇宙的な機能を担った神格であったのであるが、そうした元来の機能が巧みに人間化されて新しい意味づけを与えられ、彼らをめぐる人間的な物語が形成された。これ以後 、牽牛織女は 、もっぱら悲恋の主人公たちとして人々に受け入れられることになるのであり、元来の神話的意味を多分にとどめた七夕の儀礼とは大きく乗離してしまうのである。」
「 時代の流れの中で、原西王母は、対をなすさまざまな二神に分裂したが、そうした中にあって、牽牛と織女との組み合わせは最も成功を収めたカップルだといえる であろう。それ以外の、黄神・西王母や東王公・西王母の対が時代の流れの中でやがて忘れられていったのに対し、 牽牛・織女は今も人々に親しい。それは、この二神が人々の労働や日常生活に深い関わりを持ち、それゆえに、信仰が風化する中にあっても、七夕の年中行事の中にその身の落ち着きどころを捜し得たこと、それになによりも、年に一度の陰陽の交会という宇宙論的なシナリオを、男女の悲恋の物語りとして巧みに<人間化>し、人々のシンパシイを獲得できたことと にその大きな理由があったのである。そうした人間化が可能であったのもまた偶然のことではなく、牽牛・織女の伝承の基礎にあった歌垣という行事が、一方では宇宙構造論的な意味を備えながらも、また他方、農村共同体の成員の全てが参加する季節の行事として、早くより非宗教的な要素をその中に育んできたことに由来すると考えてよいであろう。 」・・・・と。
以上「祭りの再魔術化」の必要性を縷々述べてきたが「祭りの再魔術化」を図る場合の要諦をここで整理しておこう。
1、現在の七夕祭りなどで忘れられている・・・本来あった夜間の風習や神事などをもっと重視しなければならないのではないか。
2、祭りで大事なのは、自然との一体化、地球との一体化、宇宙との一体化である。
3、私たちは、おおいに<天球の音楽>を聞かなければならないのである。そのことに焦点を当てた・・・・「七夕祭り」「星祭り」などを普及させたいものだ!
4、祭りの再魔術化をどう図るか。私は哲学者、人類学者、宗教学者、天文学者、地質学者、生物学者、生命形態学者、考古学者、歴史学者、文学者、詩人、音楽家など多くの学者や芸術家の活躍が必要であると思う。
5、私たちは、「地球の子ども」であ る。すなわち、私たちを生み出してくれたものは、この地球であり、母である。地球は母である。母は地球である。この事をどう考えるかが祭りの再魔術化 を図る場合のキーポイントとなる。
6、これからの文明としての「祈り」、すなわち時空を超えた「祈り」のあり方を考え、そのための「場」をつくることが、私のいう再魔術化である。そのためには古代に立ち返ると同時に最新の学問の 総動員を図らなければならない。
7、神に逆らうものとして男女の二つの性に引き裂かれてしまった。その原初の姿に還ろうとして、男女は互いに求め合う。
8、地球は母である。母は地球である。その母は美しくあらねばならない。
9、縄文住居の炉は、女性の「ホト」でもあり、女性の象徴的聖性を表わしていると考えている。地球の母の象徴的聖性、地の神の象徴的聖性と言っても良い。
10、御柱(おんばしら)は神が降臨する依代(よりしろ)といわれている。
11、縄文人の観念としては、天の神と地の神をつなぐ通路であったと思う。その通路によって、天の神と地の神は合体し威力はさらに強大なものとなる。私は、縄文人はそんな観念を持って柱を立てたのだと思う。
12、星というか天の神が地上に降下して、母なる地の神と一体になって人間に対するあらゆる業を行なったのである。
13、ここで大事なことは、地の神というか地母神というか聖なるホトに天の神が降臨するということであり、ただ単に精霊(神)の働きがあれば良いというものでは ない。精霊(神)の働きは不可欠だが、何かが新しく生まれてくるためには、人々の敬虔な「祈り」が必要である。天の神と地の神との合体による「摩訶不思議な力」と人々の敬虔な「祈り」と何か価値あるものの「誕生」、この三つはボメロオの環でがっちりと繋がっている。
14、流動的知性と結びついた精霊(スピリット)の世界があって、非物体的なもの「天の神」の世界と物体的なもの「地の神」の世界がある。ここで大事なのは、非物体的なもの「天の神」の世界と物体的なもの「地の神」の世界とが強く結びついているということで、そのためには、それらをつなぐ何か良いインターフェースが必要である。
15、沖縄の御嶽(うたき)の場合、神霊は男性の種として蒲葵に憑依し、巫女の力をかりてイビと交歓する。神霊を迎えた巫女は食を断ち、苦行にひとしい厳重な忌みこもりをする。母のなかに芽生えた生命が永い期間、狭く 暗いところにじっと時がくるまで耐えしのんでいるように。
16、古代人は神の世界と人間の世界と のインターフェースとしての祭りにさまざまな工夫をし、これを執り行っている
17、古代の人々は、祭りなくして生きていけなかったのではないか。現在でも、自然の不思議や宇宙の不思議を感じ、何か摩訶不思議な力というものを感じることがあり、依然として祭りの意義は大きいと思う。祭りの哲学をもっと深く考えていきたいものだ。
18、七夕祭りの場合、西王母と東王公とが会い、また牽牛と織女とが会うのは、七夕の日に織女が牽牛に嫁するとされているように、これらの男女二神が聖始を行うためであった。その聖婚の根本の目的は宇宙に再生の活力を与えるためであったが 、農耕社会的な環境の中では、より具体的に、これら二神の性的な結合を通じて農作物の豊穣が約束されると考えられていたであろう。農作物の豊かな実りを願って男女が農地で性行為を行うといった風習が全世界的に広がっていることについては、たとえばフレイザ が「金枝篇」のなかで多くの例を集めているところである
19、七夕祭りの場合、牽牛・織女の伝承の基礎にあった歌垣という行事が、一方では宇宙構造論的な意味を備えながらも、また他方、農村共同体の成員の全てが参加する季節の行事として、早くより非宗教的な要素をその中に育んできたことに由来すると考えてよいであろう。
祭りの再魔術化を図る場合の要諦は以上の通りであるが、それら肝心要(かなめ)の点を外さないで、現代の若者の気持ちを引きつける物語が、七夕祭りについてもいろいろと誕生するかどうか。やはりここは数多くの作家なり演出家の出番だ。私などは魔術化され真に活性化した七夕祭りが誕生し、自然の贈与に恵まれて、その七夕祭りで賑わう商店街がおおいに発展することを・・・心から願うのみである。ただ、七夕祭りに関連する物語については、国土形成計画でいうところの二地域居住なり、都市と農山漁村との交流を前提として構想されなければ、現実的でかつ夢のある物語にはならない・・・ということだけは申し上げておきたい。七夕祭りの主役・織女が牽牛二神はどこにいるのか。天の川の畔(ほとり)に決まっている。その天の川は、夜も煌煌とした都市でこれを観察することは難しい。満点星の夜空というのは農山漁村でしか観察できないのだから、国土形成計画でいうところの二地域居住なり、都市と農山漁村との交流を前提としない限り、七夕祭りの場合、新しい物語は書けないのではないか。
七夕祭りの舞台装置 ・・・八本の柱
ここでは、七夕祭りをひとつの例として、祭りの魔術化を考えてみよう。牽牛と織女という二星は、現在、天の川の両岸に棲んでおり、毎年七月七日の夜に一度しか会えないことになっている。しかし、「西王母と七夕伝承」(小南一郎、1991年6月、平凡社)によれば、次のように記述されており、もともとそうであったらしい。すなわち、
「 牽牛と織女との二星は、彼らが互いに愛しあってその職分をおろそかにするのではないかと心配する王帝のために、天の河の東西両岸に住まわされて、毎年七月七日の夜に一度しか会えなかった。牽牛・織女の二星が思うには、こんなふうに天上でさびしく暮らすより、人間世界の夫婦のように、毎日毎夜いっしょに居られるほうがずっとましだと。東華帝君が幡桃の大安を開いたとき、牽牛・織女の二星は,酒に酔って、その場の首席 に坐っていた西王母の機嫌を損ねた。西王母は、次の日、二星のことを玉帝に告げ口した。玉帝は二星が下界に憧れたことと西王母の機嫌を損ねたこととをとがめて、人間世界に謫居させることとした。地上にくだった二星は王宮に生まれて、明の崇禎帝とその皇后とになり、明末の混乱の中でさまざまな辛苦を嘗めたあと、再び天宮に帰った。」・・・・と。
しかも、すでに紹介したように、「西王母と七夕伝承」(小南一郎、1991年6月、 平凡社)には、次のように書かれている。すなわち、
「 織女は天の存在であり、牽牛は地の存在であって、牽牛自身は犠牲(いけにえ)となった牛の働きを得て、はじめて天と接触し得るという基本構造が、現在の牛郎織女の民話にまで引き継がれていることは、すでにい-つかの例を挙げてみてきたところである。天の河は、天と地との間を隔てるものであって、地上的な存在にとって、宗教儀礼の力などを借りないかぎり越えることができぬものであった。」・・・と。
はじめのフレーズで判るように、天の川およびその両岸に住む牽牛と織女の二星は、夜空にはっきり確認できるけれど、そもそも夜空というのは「天」なのか「地」なのか?この点について、「西王母と七夕伝承」(小南一郎、1991年6月、平凡社)には、次のように書かれている。すなわち、
「 世界の中心は、山岳 (宇宙山 )や植物 (世界樹 )や柱 (あるいは梯子段、塔)などで表象される。これら垂直にそびえるものは、天上と地上と地下との三つ の世界を貫いて、これらの世界を結合させ 、その中心軸においてのみ、これら三つの世界の間の交通が可能になる。地上世界に属するものも、世界の中心に位置する山や樹木を登ることによって天の門を くぐって天上に達し、そこにある不死の能力を我が物とすることができるのである。万物が誕生したのはこの中心においてであり、この世界の生命力、調和、秩 序などは、すべてここに源泉する。人間の様々な営為は、原初の時、この中心において行われた宇宙論的なモデルを模倣して為されることが多い。崑崙山が大地 の中心に位置すると考えられたことは、たとえば「水経」河水注に、黄河が発する山としての崑崙山について、次のようにいっていることからも知られる。崑崙 山の墟は、西北の方向にある。〔中岳〕嵩高山からは五万里の距離にある。ここが大地の中央である。その高さは一万一千里。黄河はこの山の東北の隅から
流れだす。ここに見えるように、崑崙山は、中国からは遠く、西北の地にあるのであるが、実は大地の中央に位置する山なのである。中央に位置すればこそ、そこに地軸があるとされた。緯書の「河図括地象」に次のようにいう。崑崙山は、大地の首 (かしら)である。[その山は]上に上っては握契 (北極星のことか)となり、満ち溢れては四涜(四つの大河)となり、横たわって地軸となり、上は天鎮 (天の鎮め)となり、直立して八本の柱となる。 」・・・・と。
すなわち、崑崙山は「地」である。しかし、北極星はその上に繋がっており、天の鎮めの領域である。そして、私の理解としては、崑崙山は、「天」といえば「天」、「地」といえば「地」、「天」と「地」のインターフェースである。そして、大事なことは、どうも・・・「崑崙山は八本の柱で象徴される」・・・・ ということらしい。現実に崑崙山を作ることはできないから、八本の柱をつくれば良い。それならできる。直立した八本の柱を通って、牽牛と織女の二神は 「地」に降りてくる。七夕祭りの再魔術化に当たってどうしても欠かすことのできない点の一つ目は、柱の存在である。中西進はその著「古代日本人・心の宇宙」(2001年4月、日本放送出版協会)の中で「ハシラとは、ハシと同一のもの。ハシは階、梯、橋などと書き、はざま(間)などのハサと同根。物と物との中間、二点間を繋ぐものの意。もっぱら縦のものをハシラといいならわした。」と説明しているが、私はそれに加え、縄文人の観念として「神々の通う道」という意味があったと考えている。七夕祭りの再魔術化には「神々の通う道」としての「柱」が欠かせないと思う。
七夕祭りの会場は都市の商店街だが、厳粛な祀りは満天星の農山漁村で行なう。都市と農山漁村、この二つの地域をどう繋ぐのか。上述のように、崑崙山は横たわって地軸となるのであるから、「地」に横たわった二組の・・「八本の柱」が牽牛と織女の二神の通う道として重要で、農山漁村における「祀りの会場」に横たわった 「八本の柱」、商店街における「祭りの会場」に横たわった「八本の柱」・・・・こういうものを考えないと「七夕祭りの魔術化」はできないのではないか。
棚機津女(たなばたつめ)伝説の源流・・・縄文人の世界観
ここでも七夕祭りについて考えてみたい。七夕伝説は、みなさんもよくご承知のように、以下のような内容である。
「 昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを邀えてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命は機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。」
しかし、このような伝説の裏には、闇の中にあって見えなくなっている真実がある。その隠された真実とは何か? それが問題だ!それを「野生の感覚」で明らかにして慎重の上にも慎重に新たな神話を語らなければならぬ。それが「祭りの再魔術化」である。
七夕祭りの場合、舞台装置として、私は「八本の柱」をひとつの思いつきとして提案したが、ほかにもいろいろな舞台装置が考えられるであろう。しかし、舞台装置とは別に、もっと大事なのは、実は、七夕祭りに関するいろいろな物語を創作することである。物語の創作そのものは作家の仕事であろうが、それにはしっかりした歴史的な裏付けというものがなければならない。物語の創作にあたってはさまざまな文献的な研究が多角的になされなければならないが、例えば七夕祭りの場合、少なくとも奈良時代に語られていた棚機津女(たなばたつめ)伝説を研究することが不可欠であろう。さらには、そういう観念がどこまで遡れるのか、これは主として考古学的な研究になろう。考古学的にその源流を探りながら、縄文人の生活と棚機津女(たなばたつめ)伝説とがどのように繋がるのか?さらに、歴史は繋がっており、多くの祭りも縄文時代に端を発していると考えられるので、縄文時代の世界観や感性というものを知らねばならない。今のところ判っていない部分が多すぎると言わざるをないが、小林達雄が非常に重要なことを言っている。そこで、ここではまず棚機津女(たなばたつめ)伝説というものがどういうものかその要点を述べ、次いで小林達雄が指摘する縄文人のすばらしい感性を紹介しておきたい。
七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句の一つにも数えられる。
古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方牽牛と織女の二神であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。したがって、七夕祭りの源流を探るには、少なくとも棚機津女(たなばたつめ)の伝説について充分な知識を得ておく必要がある。
棚機津女(たなばたつめ)は、日本古来の「水場で客神(まろうど)を迎える女性」のことである。棚機津女(たなばたつめ)は盆に入る前、祖霊や客神(まれびと)を迎えるため水場で機を織りつつ待つ女性が神格化したもので、我が国では古くから存在していたらしい。水場なのは穢れを払う意味が有り、「聖なる場所」という意味であろう。機織りをするのは織り上がった布を祖霊や神に捧げる儀礼があったからだと言われているが、ここでは機織りについてはあえて触れない。「聖なる場所で客神(まろうど)を迎える」という一点に焦点を絞ってとりあえず私の想いを述べてみるが、こういったことについても学問的な研究が大いに進むことを期待する次第である。
神という明確な概念がなかった縄文時代においては、客神(まろうど)は他の地域から大変な苦労を重ねながらやってきた客人(まろうと。きゃくじん)であり、いろんな文物や文化や情報を運んできたまことにありがたい人であったに違いない。
そういう意味では、感覚的に、客人(まろうと)は客神(まろうど)であったに違いない。そして、きっとそこでは威信財(「縄文のマツリと暮らし」、小杉康、二〇〇三年二月,岩波書店)などの交換、すなわち贈与の交換が行われたに違いない。当然、一族としては大歓迎で一族挙げての祭りを行ったのではないか。その場合の音楽や踊りはどんなものであったのであろうか。一族を代表して然るべき女性がその客人をもてなすと同時に子孫繁栄のため、その客人(まろうと)の種を貰い受けたのではないか。その種から立派な子供が誕生するには、神の恵みがなければならない。したがって、客人の種を貰い受ける「場所」というものは、聖なる場所でなければならない。
七夕祭りの再魔術化に当たってどうしても欠かすことのできない点の二つ目は、「縄文人のエロス性」である。一族を代表しての女性と客人(まろうと)との聖なる交わり、これを「縄文人のエロス性」と呼びたい。折口信夫はその女性は処女でもよかったし、既婚者でもよかったと考えているようだが、どういう女性を登場させるかは物語のストーリー次第だ。
生きているということはどういうことか?私は、「生きているとは、波動により自然と生命体とが共和しているということである。」と・・・「いのち」の定義をしたい。私は量子脳力学の観点からそう言っているのだが、その詳しい説明はいずれ機会を見て説明するとして、ここでは次に小林達雄の語る縄文人のすばらしい感性を紹介しておきたい。
有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)というのがある。縄文土器は、丁寧な精製品であればなおのこと、必ず口縁が大きく波打ったり、大仰な突起がつけられたりする。ところが精製品の典型でもある 有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)は、口縁が水平で、しかも頸部に小穴が一定間隔で並んで一周する。 その孔は、紐を通して皮などを張るのに好都合であり、山内静夫は太鼓ではないかと推定した。世界各地の民族例に、土器太鼓のあることに目をつけたのである。たしかに形を見ると納得いく節がある。しかし、異論も唱えられた。種壷であるという説、醸造器であるという説などである。
しかし、最近、世界的なパーカッショニストである土取利行のお蔭で太鼓説でほぼ固まったようだ。土取利行は実際に縄文太鼓(もちろんレプリカだが)を作り、信州八ヶ岳で縄文のリズムを呼び戻した。初めての偉業である。
小林達雄は言う。
「 その縄文のリズムが今でも耳のそこにしみついている。永年目に見ることのできなかった縄文文化の一つがやっと姿を現した。そもそもリズムを持たない民族など、世界中どこを探してもいるはずがない。」
「 縄文人が人工的につくりだす音はいかにも低調であった。いわば縄文人は、自ら発する音を自然の音の中に控えめに忍び込ませはするが、あえて個性を強く主張したり際立たせようとはしなかったかのごとくである。」
「 縄文人の周りには、拾いだしたらきりがないほどの音があった。いわば縄文人がすみかとする森の中の音すべてが、縄文人の発する声や音とともに一体となっていたのである。」
「 楽器が自らの音の調べとリズムを主張するとき、人の身体、人の身振りや身のこなし方にも干渉し、注文をつける。わが国の芸能においては、スリ足で舞い舞いして、なかなか大地からはね跳ぼうとしないのは、楽器の発達が縄文以来、控えめに終始してきたことに遠い由来があるのかもしれない。」
七夕祭りの再魔術化に当たってどうしても欠かすことのできない点の三つ目は、土取利行がやっとたどり着いた以上のような「縄文人のリズム性」である。
おわりに
七夕祭りの再魔術化に当たってどうしても欠かすことのできない点は、一つには「柱の存在」、二つ目は「縄文人のエロス性」、三つ目は「縄文人のリズム性」である。特にこの本「女性礼賛」との関連でいえば、「縄文人のエロス性」に注目してほしいと思う。世界にあまねく聖婚神話が見られるが、その意味するところは何か?
エスキモーは客人へのもてなしとして自分の妻を提供する習慣があった。提供された男が次に客をもてなす側になったときには、互酬性(贈与)の原則によって自分の妻を相手方に提供することを求められた。この習慣は新田次郎の名作「アラスカ物語」にも出てくる。 石巻生まれのフランク安田は「エスキモーのモーゼ」と呼ばれるほど見事な人生を送るのだが、彼はこの習慣を徹底的に嫌った。彼は「日本からやってきたエスキモー人」としてエスキモー人になりきるのだが、この習慣だけは嫌ったのである。現在彼らの多くはキリスト教徒であり、福音の教えに反するこのような習慣はなくなった。しかし、私にいわせれば、キリスト教の福音の教えは近代的、合理的だとしても、それを普遍の倫理とするには問題がある。時空を超えて考えたとき、時代によって、また地域の生活環境によって、そういう習慣が悪いとは言い切れないように思う。聖婚という観念が世界的に存在するが、聖婚というものは何を意味しているのか?そのことをよくよく考えたほうがいい。セックスに関連する問題は、エロスに関係していて、大変難しい問題だ。いずれエロスについては私の考えを書きたいと思っているが、ここではセックスに関連する問題は一筋縄ではいかないということだけを申し上げておきたい。
人間は何のために生きているのか? 私にいわせれば、「人間は生きるために生きている。その目的は、立派な子供を育てるためと立派な文化を育てることである」。縄文人の感性としては、自然と一体になること、それは豊穣の神、贈与の神、恵みの神をわが身に引き入れることであり、男女が一体になること、聖なる合体こそ生きることではなかったのか。 
 
 
 
 
 

 

●乞巧奠(きこうでん) 
 
乞巧奠 
今日は七夕の日。乞巧奠とは、この七夕の日に行われる七夕行事の一つです。
乞巧奠とは
乞巧奠は「きこうでん」あるいは「きっこうでん」と読みます。奠は「てん」と読む文字で、神仏に物を供えて祭るという意味を持ちます。私たちに比較的なじみのある言葉としては「香奠(こうでん)」などがあります。ただし、現在はこの「奠」に替えて「香典」と書かれることが多いので、結局はほとんど目にすることのない文字ですね。この「奠」がついた乞巧奠はどんな行事かというと、文字通り意味を考えれば、巧を乞うて神仏を祭る行事ということになります。巧を乞うとは?
七夕の夜には月明かりの下で針に糸を通す
乞巧奠行事は中国から伝わった行事で、女性が手芸の上達を願うものでした。古い時代の中国では七夕の夜には女性たちが外へ出て、月の光の下で針に糸を通したそうです。
月の光は明るく思えますが、実際に試してみると案外月明かりは頼りない明かりですから、きっとなかなか針に糸は通らなかったと思います。何度も何度も挑戦することになると思いますが、その挑戦の結果見事に針に糸が通ると巧みを得たといって喜んだといいます。これは七夕の主役、織女と牽牛の織女が手芸の神と考えられていたからです。織女は牽牛と逢える七夕の日以外は、せっせと機織りしているわけですから、手芸の神と考えられるのは当然といえば当然でしょう。
七夕はその手芸の神様、織女が牽牛と逢えるめでたい日ですから、この日に祈ればきっと願いを叶えてくれると考えられたのでしょう。この「手芸」はやがて機織りや裁縫といったものだけでなく、文字や和歌といった手習い全般の意味に拡大されて、乞巧奠はそうした手習事全般の上達を願う行事となりました。
あの笹に飾る短冊も、文字や和歌の上達を願って自ら書いたものを供えたものであったわけです。
七夕は月夜?
乞巧奠行事として、古くは七夕の夜には月明かりの下で針に糸を通すという行為がなされたと書きました。
ここで一つ問題。七夕の夜はいつも月が出てくれていたのか?
答えは、「いつも月夜でした」ですね(もちろん晴れていればですけど)。これはなぜかといえば、それは皆さんも既にお気付きの通り、暦の仕組みから自明のことなのです。
七夕の行事が生まれ、広がった時代の暦といえば月の満ち欠けに基礎をおいた太陰太陽暦でしたから、七月七日の七夕の夜は、新月から数えて 7日目の日。新月から数えて 7日目というと、上弦の半月の日かその前日となります。ですから七夕の行事が行われるこの日には、日暮れの時間には上弦の月が南の空の高いところに輝いていたことになります。
現在の七夕の行事は現在使われている暦(いわゆる新暦、太陽暦)の 7/7に行われることが一般的になりつつありますから、残念ながら七夕の夜には常に月があるという関係は崩れてしまっています。
今年(2011年)に限れば、偶然ですが 7/1が新月でしたから 7/7は新月から数えて七日目。古式ゆかしい七夕の夜と条件は同じになり、空には上弦の月がかかっていることになります(天文学的な意味の上弦の半月は翌日の 7/8です)。
さあ今夜、七夕。そして昔のように上弦の月が空にかかる夜。ものは試しです。今夜見事に晴れたなら、月の光の下での針への糸通しに挑戦して見るというのはいかがでしょうか? そして見事に巧みを得ましたという方がいらっしゃいましたら、是非その旨をお知らせください。何はともあれ、今夜は晴れるといいですね。 
 
七夕と乞巧奠
 

 

七夕
「七夕」は、天の川をはさんで別れ別れになっている牽牛星と織女星が、一年に一度だけ会うことのできる日とされています。また、この日に、五色の短冊に願い事を書いて笹竹につるすと、願いがかなうとも、字が上手になるとも言われます。現在では、東京などでは七月七日に、関西やその他の地方では八月七日に行われます。もとは、中国の古い伝説にもとづいた行事と日本古来の清めの行事が結びついたものです。
牽牛星は彦星とも呼ばれ、わし座の主星アルタイルのことです。織女星は琴座の主星ベガのことで、ちょうど天の川をはさんで牽牛星と向かい合っています。
中国では昔から、牽牛星は農業の時季を知らせる星、織女星は養蚕や針仕事をつかさどる星とされていました。そして、一世紀ごろに「牽牛織女」のお話が成立したようです。
日本には 「棚機つ女」「乙棚機」の伝説がありました。昔から神を祭るときには、日常の食生活を示す神饌(しんせん)と衣生活を示す神衣を神にささげるのがならわしでした。そのため、七月七日に、けがれを知らない少女が身を清めて、不浄な地面からずっと離れた高い柱の上のこもり屋にこもって、機(棚機)を織りながら神を迎え、ともに一夜を過ごして神を慰めるのです。そして翌日、帰りがけに神にけがれを持ち去ってもらえるよう、村人たちは禊を行います。つまり、七夕は、棚機からきた言葉で、日本ではけがれや災厄をはらう禊の行事としての性格をもってたのです。
乞巧奠(きっこうでん)
牽牛・織女の二つの星の願いがかない、年に一度この日に会えるという伝説から発展して、女性の願いである裁縫が上達するように祈る祭り「乞巧奠」が中国で生まれ、日本でも奈良時代以降、主として宮中で年中行事として行われてきました。乞巧奠は、平安時代には宮中の庭に蓮を敷き、その上に山海の産物とともにとヒサギ(赤芽柏)の葉に五色の糸を通した七本の針を刺して供え、琴や香炉を飾ったなかで、天皇が牽牛・織女の二つの星をながめたり、詩歌管弦の遊びをする祭りでした。
室町時代になると、カジノキ(梶の木)に天皇をはじめ臣下の歌を結びつけ、硯・墨・筆を飾り、歌・鞠・碁・花・貝覆(かいおおい)・楊弓(ようきゅう)・香の七遊の遊びが行われたと言われます。また、江戸時代には、天皇が芋の葉の露でカジノキの葉に和歌を七首書き、カジノキの皮とそうめんでくくって屋根に投げ上げるのがならわしでした。さらに、江戸幕府は、七夕を五節供の一つに定め、正式な行事としました。江戸域の大奥では、四隅に葉竹を立て注連縄を張った台を縁側に置き、中にスイカ、ウリ、菓子などを供えました。奥女中が歌を色紙に書いて葉竹に結びつけ、翌朝供物とともに品川の海に流すのが七月七日の行事となりました。
このように、初めは宮中の行事だった乞巧奠は、歌の上達を願うものになり、さらに江戸時代になると民間行事から取り入れられた要素が加わり、一般の手習いの普及とともに、習字の上達を願うことが中心になったのです。
江戸や大坂では、前日の六日から笹竹売りが「竹や、竹や」と売り歩き、各家では五色の短冊に願い事を喜いて笹竹に結びつけ、軒や縁側に立てました。この竹飾りは、翌日には海や川に流されるのがならわしでした。このことは、古来のけがれをはらう清めの行事として最も重要な部分で、「七夕送り」と言われます。
また、新潟県では、「七夕流し」と言って、稲ワラや麦ワラで大きな七夕舟を作り、笹竹を積んで流します。舟に「七夕丸」「豊年丸」「万作丸」などと善いた帆をあげたものを町中引き回したあと、海に流す地方もあります。長野県では、木片や板で作った七夕人形を舟にのせて川に流す風習があります。
三月三日の祓いと同じような行事も、残っているのです。 
 
七夕 / 平安時代
 

 

初秋の風が軒に通い、空気が澄んで夜空の星が美しく輝くころ、七夕の行事が行われる。「七夕」は「七月七日の夕べ」の意味で、牽牛(けんぎゅう)星と織女(しょくじょ)星が年に一度、天の川を渡って会うという中国の伝説に由来する。織女星はその名の通り、機(はた)織りの女性を象徴する星。日本では「織姫」とか、機織機具の「棚機(たなばた)」の語から、「棚機(たなばた)つ女(め)」とも呼ばれた。「七夕」を「たなばた」と読むゆえんである。 
中国ではこの夜、織女星に機織りや手芸の上達を願い、庭に祭壇を設け、糸や針、布をはじめ、様々な品を供えた。これを「乞巧奠(きっこうてん)」といい、行事の名称となる。日本に入ったのは奈良朝の頃で、この行事に使われたらしい大きな針が正倉院宝物に残されている。
平安時代、宮廷では清涼殿(せいりょうでん)の前にこの祭壇が設けられ、二星会合を祝って管絃や詩歌の宴が催された。ロマンチックな伝説から生まれた行事だけに、儀式というより遊びの要素が強く、貴族の私邸においてもさかんに行われ、文学作品にも多く登場する。。
相撲(すまい)
相撲は古代の日本から農業に関る神事の一環として行われていた。宮中に取り入れられ、毎年七月には諸国から相撲人が集められて、天皇が相撲を観覧した。これが相撲の節会(せちえ)である。当初は七月七日に行われていたが、淳和天皇の時に平城天皇の忌日(国忌(こき))と重なるために、十六日に改められ、のち再び二十五日に定められた。
内取りといって、節会の二日前に、清涼殿(せいりょうでん)や仁じ寿殿(じゅうでん)で天皇が御覧になった。節会の当日は、当初は朝堂院、のちには紫宸殿(ししんでん)や武徳殿(ぶとくでん)で行われた。相撲人を左右に分けて、十七番から二十番の勝負を行うが、これを召し合せという。当時の相撲には土俵がなかった。また最後の番を勝負するものは最手(ほて)とよばれ名誉を得た。
一条天皇の時には越智常世という伝説的な強力の持ち主の相撲人が登場した。いっぽうで、「障り申し」といって、病気や体調を理由に取り組みを忌避するものも多く現れた。左方が勝った場合は蘭陵王(らんりょうおう)など、右方が勝った場合は納蘇利(なそり)などの舞楽を舞うことになっていた。
冷泉(れいぜい)家の乞巧奠(きっこうてん)
藤原俊成、定家の末裔で、和歌の家として続く京都の冷泉家では、今なお王朝の名残をとどめる七夕行事、乞巧奠が催されている。
旧暦七月七日の夜、庭に、祭壇「星の座」が設けられる。四つの机が並べられ、海の幸、山の幸がそれぞれ皿に盛られて並ぶ。品目は、「うり(瓜)なすび(茄子)もも(桃)なし(梨)からのさかづき(空の盃)に ささげ(大角豆)らんかず(蘭花豆)むしあわび(蒸蚫)たい(鯛)」と、冷泉家らしく一首の和歌になっている。いずれも二組で、それぞれ、彦星(ひこぼし)と織姫への供え物という。
また、二星に「貸す」ための琴や琵琶(びわ)が並び、さらに五色の布や糸、花瓶に活けられた秋の七草が華やかな色を添える。水を張った角盥(つのだらい)は、星を映して眺めるためのものという。和歌の門人達が七夕にちなんで詠んだ和歌の短冊が供えられ、七夕に縁の深い梶(かじ)の葉が、諸所に吊される。
祭壇の周りの九つの燈台(とうだい)が灯される頃、座敷では管絃の遊びが始まる。本来はその前に蹴鞠(けまり)があったという。そして二星に手向けられる和歌を朗々と読み上げる「披講(ひこう)」があり、つづいて参会者の男女が、間に敷かれた白布を天の川に見立てて向かい合わせになり、彦星と織姫になって恋の和歌を贈答する。こうして、冷泉家の七夕の夜は更けてゆく。
索餅(さくべい)
七夕にはその春に収穫された麦で作った索餅を食べる習慣があった。索餅は和名を「麦縄(むぎなわ」といい、小麦粉を練ってひも状に細長くしたものを、縄のようにねじり合わせたものである。中国渡りの唐菓子のひとつとして、油で揚げたお菓子という説もあるが、記録には醤(ひしお)などの調味料と一緒にその名が見えるので、蒸したり茹でたりし、汁につけて食べたらしい。
「今昔物語集」などには夏の食べ物として登場し、ある程度の太さがあったことがわかる。鎌倉時代から室町時代になると、七夕の食べ物としてあったこの索餅の位置に「素麺(そうめん)」が取って代わるようになる。油などを利用して小麦粉が伸びる性質を利用して素麺が作られていることを考えると、索餅は素麺の原型であったようだ。うどんやそばのような切麺が登場するのは、室町時代も後期になってからのことである。 
 
乞巧奠(きこうでん) / 源氏物語の時代
 

 

七夕(たなばた)は、平安時代には「乞巧奠(きこうでん)」とも呼び、宮中や貴族の家庭で広く行われた年中行事です。牽牛・織女の伝説を基にふたつの星の逢瀬を眺め、女性達は織女にあやかって裁縫の上達を祈願しました。グレゴリウス暦(新暦)の現代ですと7月7日は沖縄と北海道を除いて梅雨真っ只中ですが、平安時代の七夕は太陰太陽暦(旧暦)の七月七日、立秋も過ぎた後の初秋の行事でした。(今年の旧暦七月七日は、新暦の8月19日です)
乞巧奠自体は、牽牛・織女の伝説と共に中国から伝わった行事ですが、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)信仰や祖霊を迎えるお盆の準備なども絡み合っており、成立の背景は非常に複雑です。また“平安時代”と一口に言っても、400年の間で行事の内容はかなり変遷しています。ここでは、「源氏物語」が書かれた平安中期〜後期の行事を中心にご紹介します。
乞巧奠は中国で古くから行われていた行事で、「荊楚歳時記」(宗懍著。南朝・梁代〔6世紀〕荊楚地方〔現在の湖北省・湖南省一帯〕の年中行事記)には、七月七日を牽牛・織女聚会の夜とし、女性達が針に五色の糸を通し庭に酒肴や瓜の実などを供えて裁縫の上達を願ったことが記されています。日本への伝来も古く、「万葉集」には牽牛・織女の二星会合を詠んだ歌が数多く収められていますし、正倉院にはこの行事に用いたと推測される針と色糸が現存するそうです。(「七夕」の漢字表記は「七月七日の夕べ」を意味し、二星会合の伝説に由来します)
一方の棚機津女信仰は、乙女が水辺の棚に設けた機屋に一夜籠って神の降臨を迎え、翌朝帰り去る神に穢れを持ち去ってもらうという信仰で、ごく最近まで「七夕送り」と称して笹飾りを川や海に流す風習が各地で見られたのは、この穢れを祓う儀式としての七夕の名残とされています。(「たなばた」という読みは、こちらの棚機津女に由来しています)
また、八世紀前半から七月七日に宮廷行事として相撲が行われていたことが確認でき、天長三[826]年に平城天皇国忌を避けて十六日に移されるまで、この日は相撲節会の日でした。現代でもあちこちの神社で奉納相撲があるとおり、相撲は元々神事であり、特に水の神との関係が深いことから、この日の相撲には日本固有の収穫祭や祓の意味があったと推測されています。更に、この日からお盆に入るとされ(ここでの詳述は避けますが、お盆の行事は仏教と日本固有の祖霊信仰とが結び付いて成立しました)、乞巧奠と盂蘭盆会とで供え物が共通しているとか、長竿に提灯のようなものを付けて立てる祖霊迎えの風習が七夕の笹飾りのルーツであるとか、さまざまな関連性が指摘されています。「西宮記」や「江家次第」にはこの日に宮中の調度の虫干しをすることが記されていますが、あるいはこれも、中国から輸入された行事であると同時に祖霊を迎えるために家中を清める意味もあったのかもしれません。
このように多様な起源を持つ七月七日の行事ですが、平安中期以降の行事の中心は二星会合と乞巧奠でした。宮中の乞巧奠の儀式次第や室礼は、「江家次第」「雲図抄」に記されています。以下、二書の内容を簡単にまとめます。
「 予め行事蔵人が用意を整え、当日に掃部寮が清涼殿東庭の南第三間(階の間)の位置に葉薦と長筵を重ねて敷き、その上に朱漆の高机四脚を立てます(雨天の際は仁寿殿西砌の内側)。机に載せる供え物は内蔵寮が調えて雑色が伝え取り、東南と西南の机に梨・棗・桃・大角豆(ささげ)・大豆・熟瓜・茄子・薄鮑(一説には干鯛も。「雲図抄」は棗の代わりに干鯛を挙げています)と酒を各机に一坏ずつ、西北の机に香炉、神泉苑の蓮の花十房または五房を盛った朱彩の華盤、縒り合わせた五色の糸を金銀の針各七本に通して楸(ひさぎ)の葉一枚に挿したもの、東北の机にも針を除く西北と同じものを供えます。また北側東西の机には、秋の調子に調弦した筝(和琴の場合もあり)一張を置きます。机の周りには黒漆の灯台九本を立て、内侍所の白粉を机や筵の上に撒きます。次に、天皇が二星会合を見るために殿上間の御倚子を庭に立てます。蔵人は天皇の挿鞋(そうかい。殿上での履物)を取って控え、竹河台の東に座を敷いて雑色以下が伺候します。その後、御遊と作文、給禄がなされ、暁に再度白粉を撒いて机などを撤去し、清涼殿の格子を下ろします。 」
貴族の家庭での乞巧奠の様子は、「御堂関白記」や「枕草子」、種々の和歌などが伝えてくれます。
「御堂関白記」長和四[1015]年七月七日条には「庭中祭如常」とあって恒例行事として行われていたことが確認され、翌八日条にも藤原教通が「夜部二星会合見侍りし」と語ったことが記されています。
また「枕草子」にも
「 七月七日は、曇り暮して、夕方は晴れたる空に、月いと明く、星の数も見えたる。 」(第七段「正月一日、三月三日は」)
とあり、やはり二星の逢瀬を見ることが行事の中心だったことが窺えます。曇り空にやきもきし、夜の晴天を待ち望む気持ちが伝わってくる一文です。
「星を見る」というと、現代人は夜空を仰ぎ見るものと思いますが、この時代は盥に水を張ってそこに映る星影を見ていました。例えば「伊勢集」には「七月七日、盥に水いれて、影みるところ」という詞書の屏風歌が収められていますし、「新古今和歌集」にも
「 花山院御時、七夕の歌つかうまつりけるに   藤原長能
袖ひちてわが手にむすぶ水の面にあまつ星あひの空をみるかな 」(巻第四「秋歌上」)
という歌が採られています。
また「荊楚歳時記」に、供え物の瓜に蜘蛛が巣を張れば裁縫が上達するとの俗信があったことが記されていますが、この言い伝えも日本に齎されていたらしく、「兼盛集」には「七月七日女とも庭に出て尾花にいとかけたり」という詞書の屏風歌があります。この他、梶の葉に和歌を書く風習もあり、
「 七月七日、梶の葉に書き付け侍りける   上総乳母
天の川とわたる舟のかぢの葉に思ふことをも書き付くるかな 」(「後拾遺和歌集」巻第四「秋上」)
「 秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつつ、天のとわたる梶の葉に、思ふ事書く比なれや。」(「平家物語」巻第一「祇王」)
といった例が見られます。
(写真はいずれも風俗博物館2006年下半期展示「七夕」より。左は梶の葉を用意する女房と星影を映す盥、右は梶の葉に和歌を書く光源氏)
珍しい記述としては、七月七日に女性達が賀茂川で洗髪をする「うつほ物語」藤原の君巻の場面が挙げられます。このような風習は平安時代の他の文献からは見つからないようですが、祓としての七夕の性質を伝えるものとして注目されます。
「源氏物語」で乞巧奠に関係した記述は2ケ所あります。1ヶ所目は帚木巻の雨夜の品定めで、左馬頭が指喰いの女の染色裁縫の技量を評して
「龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」と語り、頭中将が「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし」と応じています。
織女に裁縫の上達を願う乞巧奠の趣旨と、逢瀬は年に一度とはいえ永遠に結ばれた二星の伝説とを踏まえた会話です。もう1ヶ所は幻巻で、例年のように管絃の遊びもなく星合を見る人もない六条院で、独り夜明け前に起き出した源氏が
「七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭に露ぞおきそふ」と二星の逢瀬と別れに寄せて紫の上との永訣を嘆く場面があります。
川の両岸に引き裂かれ、年に一度しか逢うことを許されない恋人達の切ない悲恋の伝説を、より悲観的な文脈で利用するところが「源氏物語」らしいと言えるかもしれません。 
 
乞巧奠(きっこうでん) / 江戸の祭礼と歳事
 

 

今日は七夕です。七夕の飾り物というと、現在は、笹竹飾りが中心です。しかし、七夕は、中国の習俗「乞巧奠」に由来しています。この「乞巧奠」は、主に平安時代に宮中で行われた行事です。江戸時でも、守貞謾稿には、後記のように書かれていて、「乞巧奠」については、詳しく書かれていませんので、あまり行われていなかったものと思われます。その「乞巧奠」のかざりが、杉並の大宮八幡宮に飾られているので、昨日、行ってみてきました。
大宮八幡宮は、京王・井の頭線「西永福駅」下車して徒歩で7分ほどの距離にあります。大宮八幡宮は、平安時代に、後三年の役で勝利した源頼義により創建され、御鎮座950年余りとなる大変由緒ある神社です。東京都の天然記念物に指定されているうっそうとした森にかこまれた荘厳な神社です。
「乞巧奠」は、南参道脇の「清涼殿」の玄関飾られています。「乞巧奠」は、京都の冷泉家では、現在まで、連綿としてお飾りされているようですが、関東では、大宮八幡宮だけだと思われます。今日は7月7日で「七夕」ですが、7月15日まで飾られていますので、お近くの方は、ご覧になるとよろしいかと思います。特に江戸検を受検される方は、一度見られることをお勧めします。
大宮八幡宮の「乞巧奠」は、平成10年に天皇在位10年をお祝いして飾られたそうで、ことしで17回目になります。「乞巧奠」は、女性が、技芸の向上をお祈りするお祭りですので、和琴・琵琶・笙(しょう)・ひちり・竜笛など楽器類が飾られています。楽器の腕前が向上するようにという願いが込められているわけですね。そして、奥には五色(赤・青・黄・白・黒)の糸や紙そして筆・硯などがお飾りされています。その手前には、小豆・大豆・茄子・桃などの農産物もお飾りされています。
そして、周囲には、笹竹が立てられていて、そこには、人形(ひとかた)や梶の葉などが飾られています。ところで、梶の葉という葉を御存知ですか?江戸検1級を受けられる方は、最重要単語ですので、絶対覚えましょう。「梶の葉」は、クワ科の植物です。織姫が「梶の葉姫」と呼ばれたことから、梶の葉に願い事を書いて笹竹につるすという風習が起こりました。その梶の葉が、現在は短冊にかわっているのです。「乞巧奠」の笹竹には、「梶の葉」が吊るされていました。しかも願い事が書かれています。「梶の葉」は15センチもある大きな葉っぱですので、筆でも十分に文字を書くことができます。「梶の葉」の現物が見られただけでも十分満足です。
最後に、守貞謾稿の七夕の項を参考に書いておきます。
七月七日
今夜を七夕と云ふ(たなばたと訓ず。五節の一なり)孝謙天皇天平勝宝七年七月七日、始めて乞巧奠を設くる。今世、大坂にては、(以下、大坂での様子が書かれているが、中略)
江戸にては、児ある家もなき屋も、貧富大小の差別なく、毎戸必ず青竹に短冊・色紙を付して、高く屋上に建つること、大坂の四月八日の花のごとし。
しかも種々の造りものを付するもあり。もつとも色紙・短尺は、ともに半紙のの染紙なり。
かくのごとく、江戸にてこのことの盛んなる、および雛祭の昌なるは、市中の婦女、多く大名に奉公せし者どもにて、とかくに大名奥の真似をなし、女に係る式は盛んなるなり。女式は昌なり。
作り物、昔は家々自造して興とす。今は、ほゝづき形、帳面の形、西瓜を切りたる形、筆形等、また机の引き出しより灸の出たる形など売る。しかれども、稀に自作して種々の形を付するもの、往々これあり。作り物、多くは竹骨を用ひ、紙を張る。梶葉、くゝり猿、瓢等は、紙にて切りたるのみ。
作り物は全形を模す。 

 



2018/7
 

 

●中国の七夕伝説 諸話
 
七夕伝説
七夕伝説のおこりは中国です。もともとは、中国の織女(しょくじょ)牽牛(けんぎゅう)の伝説と、裁縫の上達を願う乞巧奠(きこうでん)の行事とが混ざりあって伝わったものといわれています。
織女と牽牛は夫婦なのですが、仕事をせずに遊んでばかりいたので、1年に1日のデート以外は仕事、仕事の毎日を強制されるという儒教的思想の色濃いお話。昔の農民が「仕事、仕事」の毎日を哀れむために作ったのが七夕伝説の最初なのではないかといわれていますが、中国の後漢のころ(1〜3世紀)には作られていたようです。
日本へは遣唐使などによってもたらされ、日本に従来からあった棚機津女(たなばたつめ)の信仰とが混ざってできたとされています。もっとも、その他にも琉球地方には羽衣伝説などと混ざった形で七夕伝説が伝承されており、正確にいつ日本に伝わったかは定かでありません。
江戸時代には、書道学問の上達を願う行事となり、また、おり姫星とひこ星を引き合わせるため、たらいに水を張り、そこに2つの星を反射させてわざとたらいをゆらし、2つの星があたかもくっついたようにすることも行われていたようです。
織女牽牛伝説(しょくじょけんぎゅうでんせつ)
むかしむかし、天帝という神様が星空を支配していたころ、天の川の西の岸に、織女という天帝の娘が住んでおりました。織女は機織り(はたおり)がたいへん上手で、彼女の織った布は雲錦と呼ばれ、色も柄も美しく、丈夫で着心地も軽い、素晴らしいものでした。
一方、天の川の東の岸には、牛飼いの青年、牽牛が住んでおりました。牽牛は、毎日、天の川で牛を洗い、おいしい草を食べさせたりと、よく牛のめんどうをみる、働き者でした。
天帝は、くる日もくる日も、働いてばかりいる娘を心配して、娘の結婚相手をさがすことにしました。そして、天の川の向こう岸に住む牽牛をみつけると、2人を引き合わせ…
「おまえたち2人は、まじめによく働く。牽牛よ、わしの娘、織女と夫婦(めおと)にならぬか?」
牽牛は恐縮したようすで
「天帝様、私のような者には、夢のようなお話しでございます。ありがたくお受けさせていただきます」
織女も、働き者の牽牛をたいへん気に入り、2人はめでたく夫婦となりました。
ところが、一緒に暮らすようになると、2人は朝から晩まで天の川のほとりでおしゃべりばかりをしています。
これを見た天帝は
「おまえたち、そろそろ仕事をはじめたらどうだ?」
といましめますが、牽牛と織姫は
「はい、明日からやります」
と答えるばかりで、いつになっても仕事をはじめるようすがありません。
織女が布を織らなくなってしまったため、機織り機にはホコリがつもり、天界にはいつになっても新しい布が届きません。また、牽牛が世話をしていた牛たちも、やせ細って、次々に倒れてしまいました。
業を煮やした天帝はとうとう、2人を引き離し、1年に1度、7月7日の夜だけ、天の川を渡って、会うことを許しました。
今でも2人は、7月7日に会えるのを楽しみにして、天の川の両岸でまたたいているとのことです。 
中国の七夕伝説 2

 

七夕は中国語も同じく七夕と言い、「qī xī」と発音します。(チーシーに近い)
七夕は中国発祥の伝統祝日であり、旧暦の7月7日のため、今年は8月28日になります。日本では明治維新から、現在の太陽暦の7月7日に変えられましたので、中国と違う日になりました。
七夕伝説は日本にもありますが、内容は中国と異なります。では、中国の七夕伝説を見てみましょう。

昔々、「牛郎」(日本で言う彦星)という若い男性がいました。牛郎は両親が早くなくなった上に、兄夫婦に虐待をされていました。可哀そうな牛郎には一頭の年寄の牛しかいませんでした。ある日、牛が牛郎にどうやって織姫を妻にできるかの計画を教えました。
牛が言った日にちになると、織姫を含めた仙女たちは本当に銀河でお風呂に入って、楽しく遊んでいました。その時、草の中に隠れていた牛郎は突然現れて織姫の服を奪いました。驚いた仙女たちは慌てて服を着て空に飛んでいきました。織姫だけ残されました。牛郎は織姫に妻になるようにお願いしました。
結婚後、牛郎は畑仕事を従事し、織姫は織物を作り、幸せな夫婦円満な生活を送っていました。そして、二人に息子と娘が恵まれました。牛郎が飼っていた牛がなくなる寸前に、牛郎に自分が死んだあと、牛郎に自分の皮を剥いて、いざという時に使うように伝えました。牛がなくなった後、牛郎夫婦は牛の遺言の通り、心を痛めながら牛の皮を剥いて、牛を山に埋めました。
織姫が牛郎と結婚したことが天帝と天後に知られ、天帝天後は激怒し、織姫を捕まえるように天神に命令を下りました。牛郎が留守した日に、天神が織姫を捕まえ、天界に連れ戻しました。牛郎が帰宅後に織姫がいなくなったと気づき、牛の皮を羽織、子供たちを担って天界に追っていきました。
牛郎がもうすぐ追いつくということを見て、天後は焦って簪を使って銀河に線を引きました。普段静かな銀河は一瞬にして氾濫しはじめ、牛郎はそれ以上前に進めることはできなくなりました。それ以降、牛郎と織姫は涙を流しながら、銀河を両岸でお互いを眺めることしかできませんでした。
年月が経ち、天帝と天後は二人の真の愛に感動され、年に一度だけ、7月7日に会うことを許しました。

噂では、毎年の7月7日に、人間界の鵲は天界に飛び、銀河の上で、牛郎と織姫を合わせるために、鵲の橋を作ります。また、七夕の夜に、人々は葡萄やほかの果物の棚の下で、牛郎と織姫の愛の話を聞けるとの言い伝えがあります。  
中国の七夕伝説 3

 

一等星「べガ」は、日本ではその名前より七夕伝説の「おりひめ星」の名前の方が良く知られているでしょう。この七夕伝説は、古代中国の伝説に出てくる織女と牽牛の物語です。
夏の夜空では、天の川が空を西と東に分けています。西側は天人の世界と呼ばれていて、天帝の娘だった織女(おりひめ)は、子どもの頃から外には出ずに機織りばかりしている仕事熱心な娘でした。おりひめの織った布はそれはそれはとても美しく、皆が欲しがるのを見たおりひめはそれがうれしくて、またせっせと機を織り続けるのでした。
しかし、化粧もしないで一日中機織りばかりしているので、このまま嫁にも行けぬのではないかと心配した天帝は、天の川の対岸で牛の世話を一生懸命にしていた働き者の男・牽牛(けんぎゅう)と結婚させることにしました。
2人は結婚してからとても幸せな生活を送っていました。ところがおりひめは、女性としての自分に気づいたのか、牽牛との生活が楽しくてしかたなくなって、それまであれだけ熱心にしていた機織りをまったくしなくなってしまったのでした。天帝のもとには、おりひめの紡いだ布を求めて遠くからもお客様がやってきます。しかし、おりひめの織った布はもうなくなってしまいました。
それを見かねた天帝は、たとえ2人が幸せな暮らしを続けていても、仕事ができないようではいけないと、2人を再び離すことにしてしまったのです。しかし、一度引き合わせた2人を引き離すのはあまりにもかわいそうだと考えた天帝は、年に一度だけ、会う機会を与えることにしました。
その日は、7月7日と決められました。その日には、普段はわたることができない天の川に、かささぎが群れを成して橋をかけてくれて、その橋の上で2人はひととき会うことを許されたのです。
この七夕伝説は、日本に伝えられたあと、お話しがとても似ていた奄美地方に伝わる「天の羽衣」の伝説と一緒になって、現在まで多くの人々に語り継がれています。
この伝説に出てくる「牽牛」は、ベガと天の川をはさんで対岸にあるわし座のアルタイルです。天の羽衣伝説では「ひこぼし」と呼ばれています。  
中国の七夕伝説 4

 

広い中国ではいく種類もの七夕まつわる話しが語り継がれているそうです。その中で一般的に語り継がれている、“織女牽牛伝説(しょくじょけんぎゅうでんせつ)”をご紹介します。

むかしむかし、天帝という神様が星空を支配していたころ、天の川の西の岸に、織女という天帝の娘がすんでいました。
織女は機織りがたいへん上手で、彼女の織った布は雲綿と呼ばれていて、色も柄も美しく、丈夫で着心地も軽く、素晴らしいものでした。
一方、天の川の東の岸には、牛飼いの青年、牽牛がすんでいました。
牽牛は、毎日、天の川で牛を洗い、美味しい草を食べさせたりと、よく牛の面倒をみる働き者でした。
天帝は、働いてばかりいる娘を心配して、娘の結婚相手をさがすことにしました。
そして、天の川の向こう岸に住む牽牛を見つけ、彼に娘を彼のお嫁さんにして欲しいと頼みました。
その後、お互い気に入った2人はめでたく夫婦になりました。
働き者だった2人は夫婦になった途端、朝から晩まで天の川のほとりでおしゃべりばかりしていました。
いつまで経っても、仕事をしません。
業を煮やした天帝は、とうとう2人を引き離し、一年に一度、7月7日の夜だけ、天の川を渡って会うことを許しました。

今でも二人は、年に一度、最愛の人に会える7月7日を切望している事でしょう。
○日本とのちがいとは?
中国の七夕は日本の様に、“恋人同士のロマンチック”な日や“お願い事”をする節句ではなさそうです。
中国では「旧暦」の七月七日の夜に祝います。
広い中国では地域によって違いはあるのですが、まだ農耕や自給自足で生活をしている農村部では、お香をたいて花屋果物をお供えし、機織や刺繍の上で上達するよう「織女(織姫)星」に祈る風習があるそうです。
最近では、日本のバレンタインデーの様に、男女がプレゼントなどを交換したりもするそうですよ、こういうのはやっぱり、若者の間で始まったのでしょうね^^
中国では七夕はどんなイベントなの?
先ほども書きましたが、近年の中国では七夕を「バレンタインデー」としてカップルが、4月14日の様に好きな相手に贈り物をするそうです。
ちなみに、今年の中国の七夕の日は、8月20日(木)だそうです。
○カササギについて
日本の話しでは「七夕の夜に会える」と言うだけですが、中国の伝説では二人を会わせるために「七夕」の夜にカササギが二人のために羽を重ねて、橋を作るという言い伝えがあります。
「7月7日に雨が降れば、天の川の水かさが増し、織女は牽牛のいる向こう岸にわたる事ができなくなります。そんな二人を見かね何処からともなくカササギの群れが飛んできて、天の川で翼と翼を広げて橋となり、織女を牽牛のもとへ渡す手助けをしてくれるのです。」
すてきなお話ですね。カササギは二人を結ぶ“橋”だったんですね。
日本と中国の星伝説にも少し違う所があります。七夕は、中国、日本、その他の国などにおける節供、節分の一つ。古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記していたそう。元来、中国の行事であったものが奈良時代に日本へ伝わり、元からあった日本の「棚機津女(たなばたつめ)」の伝説と合わさったのだそうです。  
「七夕乞巧」中国の七夕伝説  

 

[ 中国の七夕伝説をひとつ紹介する。「中国風俗伝説故事」(1992年・陝西人民出版社)に載っていた「七夕乞巧」である。乞巧(キッコウ)というのは「巧みを乞う」という意味で、技術が巧みになるよう願うこと。七夕乞巧とは、7月7日にはた織りや裁縫の技術が上達するようにねがうこと。すなわち、織姫と彦星に願い事をする七夕の行事をいう。この本の内容は日本では紹介されていないタイプの話である。]

むかし昔のおはなしです。ある貧しい家に二人の兄弟がいました。兄はすでに結婚してお嫁さんがいました。弟は聡明でよく働く正直でおとなしい子どもでした。この弟は伏牛山に一頭の黄牛が寝ていると聞き、その牛を連れ帰って田畑を耕すのに使おうと思い、ある日、伏牛山に入って行きました。九十九の峠を越えて山道を登り、九十九の谷川を渡って行くと、大きな平らな岩の上に牛が臥せていました。牛は痩せこけて骨が浮き出ています。彼は牛の前に跪き両手を地について大きなお辞儀をし、「牛おじさん」と呼びかけ、自分と一緒に行くように牛を誘いました。老いた黄牛は力なく目を開けましたが、何も言わずにまた眼を閉じました。彼は老牛が元気なく精彩を欠いているのを見て、この牛はお腹がすいているのだと感じました。そしてすぐに草を摘んで牛に与えました。このようにずっと3日間、牛に草を食べさせると、牛はお腹がいっぱいになり、ようやくゆっくりと頭を上げて、彼に話しました。
「子どもさん、わしはもともと天に住んでいたんじゃ。盤古(中国神話で天地開闢の祖と言われる人)が天地を開いたとき、この地上には五穀がなかったので、わしはこっそり天の倉から五穀の種を盗み、地上に撒いたのじゃ。天帝に怒られ、天の庭から蹴り落とされたので、わしは天から落ちて足を打ち、動くことができない。わしの傷は百花の露で百日間洗ってもらってはじめて治るんだが…… 」
子どもはそれを聞くと、すぐに老牛と一緒にいることにし、毎日朝早く起きて百花を摘みに行き、花の露を老牛に付けて傷を洗ってあげました。まるまる百日間、老牛は彼の心からの世話により奇跡的に回復しました。そして彼に連れられて一緒にその家へ帰りました。
子どもは老牛をたいへん大事にしました。昼間は牛をつれて放し飼いに行き、夜は牛のそばで寝ました。人々は彼を牛郎と呼びました。老牛もまた牛郎を大変親切に扱いました。牛郎の兄嫁が家でこっそり食事をするたびに、老牛はいつも牛郎を呼んで、家に戻って食事をするよう言いました。
時間の経つのは早いものです。牛郎はだんだんと大きくなりました。兄嫁はすぐに牛郎を分家させようとしました。牛郎の兄は、血を分けた弟に対する愛情も深かったのですが、狡賢く意地悪な兄嫁は理不尽にも何も牛郎に分け与えようとしませんでした。牛郎もまた彼らと相争うことはせず、ただ壊れかけた車と、ぼろの皮箱をもらい、老牛をひいて村のはずれに行き、草葺きの小屋を作って住みました。
ある日、老牛は口の中から茶豆を吐き出して、牛郎にうなずきました。牛郎はその動作で牛の気持ちを理解し、茶豆を家の前に播くと、二日目には土から芽が出てきて、三日目には芽がのびてきたので、牛郎は棚を作りました。幾日もしないうちに棚は茶豆のつるでいっぱいになりました。老牛は言いました。「夜になったら茶豆の棚の下にそっと忍びこんでいると、天上の娘たちが見えるよ。天の娘たちも君を見ることができる。もしも誰か七日の間、いつも君をぬすみ見るものがいれば、それは君の妻になりたがるものだ。わしは車に君を乗せて引いて天に昇り、彼女をこの人間界に連れ帰り、君と結婚させよう」
夜になり、牛郎は茶豆の棚の下にもぐり込んで天を見上げました。すると一群の天女たちがちょうど天の池で入浴しているのが目に入りました。牛郎が棚を出ようとしたとき、一人の天女が下を見て彼をちょっと盗み見しました。
二日目の夜、その天女が一人で池のほとりに来たのが見えました。彼女は大胆に彼を見ました。
 三日目の夜、牛郎を見て微笑みました。
 四日目の夜、牛郎に向かってうなずきました。
 五日目の夜、一籃(かご)の蚕を持ってきました。
 六日目の夜、そっと一台のはたおり機を持ってきました。
 七日目の夜、機織りの杼を持ち、牛郎に向かって手まねきしました。
牛郎と織女は、一人は地上で一人は天で、七日間の夜、目と目を交わしたのです。牛郎は織女が下りてくることを望みました。織女は牛郎が早く嫁取りにきてほしいと思いました。
7月7日のその日、天から一羽のカササギが飛んで来て老牛の頭の上にとまり、チッチッチと鳴いて「織女が私を遣わしました。あなたに早く嫁取りに来てほしいと言っています。早く嫁取りに、早く嫁取りに」。老牛は牛郎に向ってうなずきました。牛郎は車を牛につなぐと乗りこみました。老牛は四本の蹄を動かして空へ勢いよく昇って行きました。まもなく天の池に着きました。牛郎は車をおり、織女と二人で力を合わせはたおり機を車の上に載せました。織女は蚕の入った籃(かご)を腕に下げると車に乗りました。牛郎もまた車に飛び乗り織女と一緒に座りました。老牛は雲や霧のなかを四つの蹄を動かして舞い飛び、走り降り、あっという間に家に着きました。村人や隣人親戚たちは牛郎が所帯を持ったことを知り、皆お祝いに来ました。織女は持ってきた天の蚕を姉妹たちに分け与え、皆に養蚕を教え、マユから糸を繰ることを教え、絹織物の織り方を教えました。
三年目の7月7日、織女は一度に一男一女を生みました。まるまるとして可愛い赤ちゃんで、大変人を楽しませました。牛郎は田畑を耕し、織女は布を織り、この小さな家族は健やかで楽しい睦ましい日々を過ごしていました。娘たちや少年たちは大変羨ましがって、二人がどのように知り合ったのか聞きました。牛郎は茶豆棚を指差してそのいきさつを子細に話しました。
茶豆が熟する時期になると、娘たちや少年たちは争ってそれを摘み、自分の家の庭に播きました。そして彼らもまた茶豆の棚の下にそっと忍びこんで、天を見上げました。少年たちは彼らをそっとぬすみ見する天女が出てくるのを望み、娘たちは彼女たちをそっとぬすみ見る天童が出てくることを望みました。若者たちは茶豆の棚の下に潜り込んでみな胸をときめかして甘美な夢に浸っているのでした。
また数年が過ぎました。ある日、牛郎がちょうど犂を曳いていると、晴れた空から一陣の雷鳴がとどろきました。老牛は立ち止ると、牛郎を見て涙を流しながら言いました。「わしは織女を天からさらってきて、天の規律を犯した。(裁判の結果を知らせる)天の太鼓(雷)が鳴った。わしは生きておれん。わしが死んだら、西王母はきっとあなた方夫婦を離ればなれにするだろう。よく覚えておきなさい。わしの皮を剥いで肉をたべなさい。そうすれば人間から仙人になれる。剥いだ皮で靴を作りなさい。それを履くと雲の上に飛ぶことができ天へ登れる」。そう言うと老牛は倒れて死にました。牛郎はひとしきり泣きましたが、老牛の話を思い出しその通りにしました。
7月7日のことです。牛郎が鋤で草取りをしているところへ、二人の子供たちが泣きながら走ってきました。彼らが言うには、知らないばばあ一人がやってきて、機織りをしていたお母さんを連れ去ったというのです。牛郎はすぐに鋤を投げ出し、子どもたちの手をとって空高く昇り追いかけました。見る間に追いつこうとした時、西王母は頭に挿していた金のかんざしを抜いて足元をさっと擦って区切りました。すると渦を巻いて滔々と流れる一本の大きな河が現れました。牛郎は子供たちの手を引きながら川辺に立って泣きました。泣き声は天帝を驚かせました。天帝は二人の子供を見ると、なんとも可哀そうだと思って彼らの家族を毎年7月7日に一度だけ会えるようにさせてやりました。その時はカササギが橋を架けるようにしました。
牛郎一家が見えないので、人々はおかしいと思い、晩になって茶豆の棚にもぐり込んで天を仰ぎ見ました。すると一条の大河が滔々と流れており、織女が河のあちらで泣いており、牛郎が河のこちら側で子供の手を引きながら泣いているのが見えました。人々は事の次第を知り、涙を拭きながら茶豆の棚から出て天空を見上げました。そして幾多の星がきらめく天空に一条の広くて長い銀の帯が出現しているのを見つけ、これを天の川と呼びました。天の川の一辺には一つの星が増えており、もう一辺には三つの星が増えていました。すなわち織女星と牛郎星です。
のちに7月7日が来るたびに人々は牛郎と織女を思い起こし、一部の好奇心のある男女は、茶豆の棚の下にひそんで天を望み、牛郎と織女をぬすみ見ます。多くの婦女たちはまたこの日の晩、瓜と果物をお供えして織女星にむかって祈るのです。彼女たちの機織りや刺繍の腕前が上達するようにと。これが乞巧なのです。   ※茶豆は扁豆の異名。 
 
 
中国の七夕伝説

 

はるか昔、天上の東方に美しい天女の七人姉妹が住んでいました。彼女たちの織る布は幾重にも重なる美しい雲のようで、その布からできた衣は“天衣(てんい)”とよばれ、羽織れば天地の間を思うままに行き来できるというものでした。ある日、天女のひとりが言いました。
「この天衣を羽織って地上に行き、水浴びをしましょうよ」
いっぽう地上では、一人の若者が年老いた牛とともに貧しい暮らしをしていました。若者は両親を早くに亡くし兄夫婦と一緒に暮らしていましたが、兄夫婦に毎日のようにいじめられ、とうとうある日「お前にこの老いぼれ牛をやるから、さっさと出て行け!」と家を追い出されてしまったのです。
若者と牛は寄り添いあって細々と暮らしていましたが、ある日突然その年老いた牛が言葉を話しこう言いました。
「今日は天上の美しい天女たちが、地上に降りてきて川で水浴びをするはずです。その間にそっと天衣を盗んでしまえば、天女は天に戻れずあなたの妻になるでしょう」
それを聞いた若者は、川のほとりで天女たちが降りてくるのを木陰に隠れてじっと待っていました。すると、牛が言ったとおり7人の天女たちが次々と地上に降り立ち、楽しそうに水浴びを始めました。天衣は若者がいる場所から少し離れていて、取ろうとすると姿を見られます。
「そうだ、すばやく飛び出して一気に天衣を奪うとしよう。それしかない」
若者は隠れていた木陰から飛び出し、すばやく天衣を一枚を奪い取りました。突然男が現れたことに驚いた天女たちは、次々と天衣を手に取り逃げていきましたが、若者に天衣を奪われた末の妹だけは天へ戻ることができません。天に帰ることをあきらめた天女は、若者の妻となりました。そうして若者は田畑を耕し、天女ははたを織って暮らしました。やがて息子と娘の二人の子供が生まれ、4人は幸せな生活を送っていました。ところがある日若者が家に帰ってみると、家の中はがらんとして二人の子供が泣きじゃくっています。いつまで経っても戻ってこない天女に天の上帝が怒り、神兵を送って天女を連れ帰ってしまったのです。若者がぼうぜんとしていると、年老いた牛が言いました。
「天女を追いかけるのです。人間は天に昇ることはできませんが、一つだけ方法があります。私を殺して皮をはぎ、その皮をまとうのです。年老いて働くことができない私を、あなたは大切にしてくれました。私のできるご恩返しはそれしかないのです。さぁ、早く殺しなさい」
若者はずっと自分のために働いてくれて、天女と結婚できたのもこの牛のおかげだと思うと、とうてい殺すことなんてできません。若者が迷っていると、牛は自ら柱に頭を打ちつけて死んでしまいました。若者は泣きながら牛の皮をはいでまとい、二人の子供をかごに入れて担ぐと、天に昇って行きました。
上へ上へ昇っていくと、神兵に連れられて行く天女の姿が見えてきました。やっとのことで追いつき子供たちが手を伸ばして母親のたもとをひっぱろうとした時、天の一角から巨大な手が伸びてきて天女と若者たちの間にさっと一本の筋をひきました。それは上帝の妹である西王母の手で、頭につけていた金のかんざしを抜いて、それで天に筋をひいたのでした。するとたちまちそこから水が溢れ出して大河となり、若者と天女の間はとても大きく広がってしまいました。それを見た小さな娘が言いました。
「そうだ、ひしゃくで川の水をすくい取ろうよ」
すぐに父と二人の子供は流れる銀河の水を一杯一杯すくい始めました。これを見た上帝は、妻に対する若者の愛情と母を慕う子供たちのけなげさに心打たれ、毎年七月七日の夜だけ夫婦親子が川を渡って会う事を許したのでした。
今も空には金のかんざしのようにキラキラと光る天の川を挟んで、若者(牽牛星)と天女(織女星)の星がきらめいています。そして牽牛星の隣に並ぶ二つの小さな星が二人の子供、牽牛星の少し離れたところに見えるひし形に並んだ四つの小さい星が追いかけてくる若者に天女が投げた杼(ひ)※というはた織りの道具、織女星の近くにある三つの小さい星が若者が天女に投げた牛のくるぶしの骨だと言われています。   
[※杼(ひ)/ はた織りのさい、糸を通す道具の一つ。] 
 
 
中国の七夕・七夕節

 

七夕節
七夕節とは旧暦七月七日(新暦では八月)に行う節句です。非常に古くからある節句でしたが近年は廃れてしまっていました。ここ数年、西洋から入ってきたバレンタインデーに触発される形で、中国版バレンタインデーとして復活しています。
七夕の由来
七夕節は後漢(25~220年)の後期には特定の意味を持った祝祭日として定着していたようです。「四民月令しみんげつれい」(後漢の年中行事記)によると、この日人々は曲を作ったり害虫除去の薬を作ったり、本や衣類の虫干しをしていたそうです。この節句と織姫・彦星の七夕伝説が重なり、神と人の愛の物語を想う日となりました。
中国の七夕節は女性が裁縫や刺しゅうがうまくなるよう祈る日でもありました。というのは七夕のヒロイン・織姫は裁縫を司った神でもあるからです。ですから七夕節は中国では“乞巧节”(裁縫や刺しゅうがうまくなるよう祈る日)とも言います。
織姫・彦星の物語
七夕節を特別なものにしている物語、織姫・彦星の物語を紹介しましょう。
昔あるところに一人の貧しい若者がいました。両親はすでになく、彼は一頭の老牛とともに働き暮らしていました。とても牛を大切にするので、周りの人は彼を「牛郎」と呼んでいました。
ある日この老牛が突然人のことばを使ってこう言ったのです。
「今七人の仙女が近くに水浴びに来ています。仙女の衣を一枚どこかに隠してしまいなさい。それを探しに来た仙女があなたの妻になるでしょう」
牛郎は老牛の言うとおりにします。そしてその仙女と結婚することになるのですが、この仙女こそ織姫でした。二人は仲睦まじく幸せな日を暮らし、やがて子供にも恵まれます。
老牛は自分が死ぬ前に、自分の皮をとっておくよう言い残します。
「困った時にその皮を使うのだよ」と。
ある日のこと、天の王母娘娘(西王母)が天の将兵を送り込んで織姫を連れ去ってしまいます。牛郎は我が子を抱きかかえ、牛の皮にまたがってこれを追いかけます。もう少しで追いつくという時、王母娘娘はかんざしを抜くや天空を引っ掻いて天の川を作り出します。
こうして織姫と彦星は分かれ分かれになってしまいました。この様子を憐れんだ玉皇大帝は年に一度七月七日にだけ、二人が会うことを許したということです。またこの話には二人に同情したカササギが何千何万と飛んできて、カササギの橋を作って二人を会わせたという物語もあります。
七夕にちなんだ漢詩
織姫・彦星の物語には「迢迢牵牛星」と題された詩も残っています。後漢末の文人によって書かれた詩ですが、誰の詩なのかその名前はわかっていません。
「迢迢牵牛星」
迢迢牵牛星 皎皎河汉女
纤纤擢素手 札札弄机杼
终日不成章 泣涕零如雨
河汉清且浅 相去复几许
盈盈一水间 脉脉不得语
 現代語訳
遥かにみる彦星 美しく輝く織姫星
細く白い手を伸ばし カシャンカシャンと機を織る
終日織っても一枚の布さえできず 雨のように涙がつたう
天の川は清らかで浅く 両岸はそれほど離れているわけでもないが
川の流れを間にして 言葉もなく想いをこめて見つめ合う
織姫・彦星ってどんな星?
織姫星や彦星(牽牛星)の名前は七夕節とともに、日本では幼稚園の園児でも知っています。でもこの星ってどんな星なのでしょう。夏空を見上げても都会ではポツンポツンとわずかな星が見えるだけ。夏山に行って空を見上げれば無数の星が輝いていますが、どれがどの星なのかさっぱりわかりません。
夏の星を探す時「夏の大三角形」という名前だけは聞いたことがあるのでは?夏空にひときわ目立つ星を三つ結ぶと大きな三角形になる、この三角形を言うことばです。
この三角形の頂点にある星がそれぞれベガ(織姫星…ことざ)・アルタイル(彦星…わしざ)・デネブ(はくちょうざ)です。ベガ(織姫星)は天の川の西に、アルタイル(彦星)は天の川の東にあって美しい光を放っています。
星は昔、位置を確認する地図代わりだったのでしょうが、それにしても無数の星に名前をつけ物語を編み出すというのはすごい…それだけ生活に不可欠の存在だったのでしょうね。
乞巧節とは
七夕節はロマンチックな祭りと思われていますが、かつてはむしろ女の子たちが裁縫や刺しゅうの腕の上達を願う、女の子のためのお祭りだったようです。昔は裁縫や刺しゅうの腕、つまり家事などにたけた女性が人気の的、というより不器用な女の子はお嫁の貰い手がなかった、あるいは良いところにお嫁に行けなかったそうですから大変です。
嫁入り前の娘たちは七夕の夜、庭に果物などを供え、織姫星に裁縫上達の祈りを捧げたのです。
現代の七夕節
娘たちが星に祈りを捧げた七夕節・乞巧節はやがて廃れていきます。最近盛んになった中国の七夕節は恋人たちがプレゼントを交換し合ったり、一緒に特別なディナーを食べる、つまり中国のバレンタインデーとなっています。
日本では中国の七夕節が姿を変え、笹の葉に祈りを書いた短冊をさげ、自分の祈りを星に届ける星まつりになっていきました。日本では七夕だけではなく古来の伝統が今も生きています。
こうした情報が近年中国に伝わり、またバレンタインデーやクリスマスのような西洋の祭りもまた中国でもてはやされるようになるにしたがって、中国人は中国古来の伝統に意識を向けるようになりました。
近年の中国政府もまた、中国人を一体化させるために伝統を復活させることに力を入れ始めています。
また日本でも見られることですが、伝統の商業化、つまり儲けるためなら何でも利用しようという商人たちの魂胆もあるでしょう。
こうした機運に乗っての新しい七夕まつりの復活ですが、生活にゆとりができ、こうしたことを楽しめる時代になったということが、中国での七夕復活の最大の理由なのだと思います。
 
 
中国における七夕伝説の精神史  

 

 
はじめに
天の川の両岸に分たれた二人が七月七日の夜にだけ再会する、というあの物語は、東アジアに暮らす人なら誰でも知っている。物語は、記録にある限りでも中国漢代の「古詩十九首」にまで遡ることができるので、二千年程度、あるいはそれ以上にわたって営々と語り継がれてきたことになる。
このいわゆる七夕伝説は、モンゴルやベトナム、フィリピンにも伝わっており、日本にも、朝鮮経由でもたらされたとされる。百済の王族を始祖とする百済王氏が本拠地とした交野とその周辺には、天野川や機物神社・星田神社など七夕伝説ゆかりの地名・神社が今日も残っている。天武期以降には宮廷で七夕をモチーフとした歌が詠まれるようになり、「万葉集」には、柿本人麻呂や山上憶良をはじめ牽牛と織女の物語にちなむ詩が百三十首余り載せられ、そのころから貴族の女たちは七夕の夕刻には針物の腕が上がることを祈って乞巧奠の祭事を続けてきた。この貴族の祭事が、在来の棚機女の信仰と結びつきながら、いつのころからか各地の庶民の生活のなかにも七夕の習俗として様々なかたちで広がり、江戸期には願い事を記した五色の短冊を笹の葉に吊すことが行われ、これはむしろ今日全国的に盛んである。物語としてどのように変遷してきたのかはっきりしないが、今日の日本人であれば誰もが知っている例の七夕の物語は、中国では最も古いタイプとほぼ同じもので、日本では古いものが保存されてきたといえるだろう。
今日中国でよく知られるものは、日本のものとは異なり、長い変遷を経たすえに形成された、「牛郎型」のもので、例えば、上海で採取された次の民間伝承はその典型的な例である。全訳を示す。

昔、一軒の家があって、兄弟二人だけで住んでいた。父も母も早くに亡くなったので、兄弟はずっと一緒に暮らしてきたのだった。家で飼っているのは数頭の牛だけで、いつも弟が放牧していた。それで、村の人々はこの弟のことを牛郎と呼ぶようになった。兄は結婚をすると、妻のいいなりになってしまい、牛郎に一頭の黄牛と牛小屋を与えて、独立させた。この分配はむろん道理にかなったものではないが、牛郎は誠実な人柄であったので、兄夫婦と言い争うことなく、涙をためて、老いた牛を牽いて牛小屋に住むことになった。牛郎は牛の頭を撫でながら、「おまえはぼくの友だちでぼくを支えてくれるんだね」とつぶやいた。牛は牛郎の言葉がわかったかのように、顔を牛郎の耳の辺りにまで伸ばして、鼻で牛郎の手を匂って、とても親しげにした。牛はもうかなり老いていたが、それでも力を尽くして犂を引いて荒れ地を耕した。ある日、懸命に働いて草地で休んでいる時、牛は草も食まずに、突然縄を振りきって草地を離れ、西に向けて猛然と走りだした。それに気づいた牛郎は急いで牛を追いかけた。牛はずっと走り続けて、荷花湾の岸辺の大樹の後ろまでいってようやく止まった。牛郎も樹の後ろまでやってきて、縄を引っぱって牛を𠮟ろうとしたとき、突然清らかな笑い声が聞こえてきた。牛郎が樹の後ろから荷花湾を見渡すと、水のなかに花のように美しい七人の女たちが水浴びをして遊んでいるのが見えた。彼女たちの衣は岸辺に並べられていた。牛はこっそりと首を伸ばして、桃色の上着を口で引き寄せて、口を大きく開いて、草を食べるようにして、吞み込んでしまった。
この七人の美女は皇母に仕える仙女たちなのであった。天宮に帰る時間になると、みな急いで自分の衣を着たが、一番小さな仙女だけは自分の衣を見つけられなかった。姉たちはどうしようもなくて、辛いのをこらえて末の妹と別れて、天宮に飛んで帰ってしまった。織女が岸に上がれなくなっているのをみて、牛郎は自分の服を脱いで、牛を介して仙女に与えた。帰れなくなった織女は、仕方なく牛郎の服をきて、牛の背に乗って牛郎の家に一緒に帰ることになった。牛郎が落ち着いていて誠実な人であることを織女は気に入って、牛郎と夫婦になった。結婚して一年たって、息子と娘が生まれ、一家仲良く、二人とも真面目に働き、男は耕し女は織り、家は次第に裕福になり生活は楽になった。
瞬く間に五年の歳月が過ぎ去った。ある日、黄牛が口を開いて牛郎に語りかけた。「織女の衣は吐き出して、牛小屋の後ろに埋めました。このことは絶対に織女に言っては駄目ですよ。もし知ったら、織女は仙衣を着てたちまち天宮に帰ってしまうでしょう。」さらにこう言った。「私はもうすぐ死にますが、悲しまないでください。私が死んだら、私の皮を剝いでちゃんと保存しておいてください。急難が起こったとき、その牛の皮を着れば、役に立つことでしょう。」牛が死んで一年たって、織女はまた衣のことを聞いてきた。牛郎は、「子どもたち二人ももう六才になって、元気一杯で可愛らしい。妻に衣のことを教えてももう大丈夫だろう」と思った。ところが、織女は衣の在処を知るやいなや、すぐに牛小屋に走っていき、衣を掘り出して、それを着て、空に向かって飛んで行ってしまった。牛郎は慌てて息子と娘を肩に乗せて、牛の皮をきて、懸命に後を追った。ところが、牛の皮は虫に食われて穴があいていたので、早く飛べない。織女が振り返ると、牛郎は今にも追いつきそうだったが、織女がその頭から金のかんざしを抜いて下にむかってぐっと線をひいたところ、ただちに天の川ができた。牛郎は川を渡ることができず、川を隔てて岸のうえから望むことしかできない。息子と娘は雨の如く涙を流す。向こう岸の織女は、息子と娘が泣き叫ぶのをきき、夫の熱い涙をみて、心が弛み、対岸で大いに泣き始めた。これは、ちょうど七月七日の晩のことだった。鵲たちは、二人が離ればなれになったことに同情して、集まって橋をかけてやった。こうして、二人は鵲の橋のうえで束の間だけ逢うことになったのだった。しかし、牛郎は地上の人なので、天に昇ることができず、牛の皮の助けがあるとはいえ、天の川までは辿り着けても、それ以上は昇れなかった。天帝はこのことをお知りになり、牛郎を天の川の対岸に留め置いて、毎年七月七日を彼ら夫婦が再会する日とお決めになった。これが、牛郎と織女が鵲の橋で逢う物語なのである。

よく知られているように、中国には「四大民間伝説」とされるものがあって、いずれもが一組の若い男女の物語である。そのなかにあって〈七夕伝説〉(以下、様々に変異していく一連の物語の総体を〈〉で括って表記する)は、〈孟姜女〉に並んで古い起源をもち、他の三つ(〈孟姜女〉〈白蛇伝〉〈梁山伯と祝英台〉)よりもはるかに広い地域に伝播した。かく長く広い生命力をもつのは、この物語に特別な魅力があるからであり、また、にもかかわらずその物語の内容が時代ととともに、〈董永説話〉や〈羽衣伝説〉などと結びつき融合しながら、かなり大きく変貌をとげてきたことには、相応の文化的・精神史的な意義があるはずである。
そこで、本稿では、できるだけ多くの資料を吟味しながら、〈七夕伝説〉の魅力と変化の意義を探ることで、長い中国文明の発展における人々の精神的変容の一端異性愛的な愛の素朴な理想化・永遠化、文明化にともなう父権的な規範意識の強化、母性的なものへの憧憬などを垣間みるとともに、最後に若干の歴史社会学的考察をつけ加えたい。  
 
一 永遠性のシンボリズムと儚さの感覚
〈七夕伝説〉の主人公の元々の名前は織女と牽牛であるが、これは本来星の名であり、それぞれ今日でいう琴座のベガ、鷲座のアルタイルにあたり、日本では織女星と彦星といった。古代中国でこの二つの星をめぐる伝説がいつどのように生まれたのかよくわからないが、「詩経」には、織女と牽牛の名前を織り込んだ詩があって、漢代には「古詩十九首」に二人を歌ったものがある。少なくとも漢代までには、織女と牽牛の二人をめぐる説話が何らかのかたちで形成されていたことがわかる。
今日日本などでも知られる七夕伝説の全貌は、六朝梁(五〇二-五七)の宗懍の「荊楚歳時記」に簡潔に記述されたものが最初の記録だと一般にはされている。以下はその全訳。

天の河の東に織女がいた。天帝の子である。いつも熱心に機織りをして、雲の錦の天衣を織り出していた。天帝は織女が独りでいるのを哀れんで、天の河の西の牽牛郎と結婚させた。嫁にいってからは、機織りの仕事をやめてしまった。天帝は怒って𠮟り、天の河の東側に帰らせた。ただ毎年七月七日の夜に、天の河を渡って逢うことができた。

以降、〈七夕伝説〉は多くの文献にその姿を留めており、細かい部分では多少のバリエーションが生まれ、全体に次第に話がふくらんで長くなっていき、中国の内外の広い範囲に伝播していく。この段階のものを〈七夕伝説〉の「古形」、あるいは「天上双星型」と名づけておこう。さらに、後で論じるように、本来は異なる系統の物語である〈董永説話〉や〈羽衣伝説〉などと結びつくことで、〈七夕伝説〉の内容も大きく変わっていき、男の主人公の名さえも、牽牛から董永へ、さらに牛郎へと変わっていく。
しかしながら、それでも、これらすべての〈七夕伝説〉において、ほぼ変わることなく共通するモチーフが存在する(ただし、後述する「董永型」には見られない場合が多い)。それは、日本人にもよく知られている、次の結末の部分である。
   (A) 二人が天の川の両岸に引き裂かれること
   (B) 年に一度、鵲が天の川に橋を架けること
   (C) その橋を渡って、二人が再会すること
東アジアのほぼ全域にわたって、かつ二千年程度以上にわたって、この結末部分がほとんど変わることなく語り継がれてきたということは、多くの人にとってそこにかなり強い魅力があることを示唆している。それはどのような魅力であろうか。
まず、このモチーフが男女の性愛的な結びつきを美しく象徴している、ということはいえるだろう。人類の物語の多くにおいては、性愛的な結びつきが、様々に工夫され変奏されながら、常に中心的テーマであり続けているのはいうまでもないことで、中国の「四大民間伝説」のいずれもがそうである。〈七夕伝説〉も、この不変のモチーフの部分においても、また物語の全体においてもそうなのは明らかである。
しかしもちろん、この当然の解釈は〈七夕伝説〉の独自の魅力を説明するものではない。この物語の独自性は、織女と牽牛の二人が、年に一度とはいえ、あたかも老いることも死ぬこともなく永久に再会し続けることができるかのような心的な効果が生み出されている、ということにあると思われる。現実には、どんなに深く結びついた人同士であってもいつかは互いに老いて死に別れる、という運命が待ち受けていることを誰でも知っているはずだ。ところが、〈七夕伝説〉にあっては、通常は明言されているわけではないのだが、二人が別れることも老いることも死ぬこともすべて想定されることなく、今年もまた、そして永遠に年に一度だけは逢えるかのようなイメージが生み出されている。
この永遠性は明言されている場合もあって、例えば、杜甫は七夕を詠んで「万古永相望」と端的に表現しているし、清代の代表的な演劇の一つである「長生殿」では、楊貴妃が玄宗への思いを語って「妾が思いますのに、彦星と織姫は、ただ一年に一度の逢瀬でございますけれども、それは天地とともに尽きることがございません。しかし、陛下の妾へのご恩情はそのように長いものではあり得ませぬ」としている。現代の私たちも、七夕伝説とは、はるか昔の逢瀬の話であるというよりは、今年の七夕にも織姫と彦星とが再会するのだと感じているものと思われる。
〈七夕伝説〉のこのモチーフには、なぜこうした永遠性をもたらすような、心的な効果があるのだろうか。ミルチャ・エリアーデは、新年を祝う祭祀をはじめとする年中行事において、古い時間が破棄されて時間が全体的に再生され、そのことで「世界の創造は年ごとに更新され」、「永遠回帰」がもたらされる、としている。祭事を集合的かつ定期的に繰り返し執り行うことで、我々の社会・集団が再び活性化されて、流れゆき消え去っていく時間も循環的に蘇って、あたかも永久に社会・集団が続くかのように感じることができる、というわけである。エリアーデはとくに月に対する信仰に着目しているのだが、それは月が満ち欠けを繰り返しながらも毎夜輝き続けるので永遠回帰のシンボリズムに最もふさわしいからである。〈七夕伝説〉の二人の主人公もまた、輝き続ける二つの星であり、それゆえに彼らの年に一度の再会は、いっそう確かに永遠に回帰するものとして自ずと想像されることになる。しかも、この二人は若々しい男女二神であるので、そこには生殖による生命の誕生という豊饒なイメージすらも多少なりともともなうものと思われる。かくして、七夕の夜は、いつまでも初々しく幸せにみちた再会である、と想像されるわけである。
もっとも、唐詩に「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」(劉希夷)と歌われるように、定期的に同じことが行われるからこそかえって、個々の人生の儚さが際立つ、という効果も生まれる。とくに、詩や詞などの韻文のように、知識人が〈七夕伝説〉を詠うさいには、二人の逢瀬はむしろ儚さの象徴となることの方が多い。それは、漢代の「古詩十九首」から魏の曹丕・曹植の、あるいは唐代の李商隠の「辛未七夕」などの代表的な七夕の詩から、宋の秦観や范成大の「鵲橋仙」といった七夕伝説にまつわる代表的な詞にいたるまでそうなのであって、鵲の橋での再会は、「佳期如夢」(秦観)であり「草草」(范成大)と過ぎ行くことを嘆く。
他方、庶民の生活のより近くで展開した芸能にあっては、〈七夕伝説〉の結末は、そうした儚さよりはやはり永遠性を想像させる効果をもっているのであって、そのことは、永遠性をはっきりと言明している場合があることからも傍証されよう。例えば、安徽省来安県の歌謡では、「七月になって秋風が立つと、天上の織女は劉郎に会う。織女と牛郎は毎年会うけれど、あなたは死んであの世にいるので一緒になれない」と歌い、山西省臨汾市の歌謡では、「毎年七月七日がやってくる。牛郎と織女は一緒になるが、かわいいあなたと私は永遠に別れたままで、あの牛郎と織女のようにはならない」と嘆く。あるいは〈七夕伝説〉のなかには、梁山伯と祝英台のように、現世で結ばれなかった恋人たちがその死後、天に昇って牽牛・織女の星になったとする伝説もある。いずれもが、世の男女と異なって、牽牛・織女の二人の永遠性を前提としていることがわかる。
このようにみてくると、七夕の夜にだけ再会できるというこのモチーフは、異性愛的な愛の儚さを感じさせつつ、同時にだからこそ、この若い二人の幸せが永遠に続いてほしいという願いをこめることができる物語なのであり、それこそが〈七夕伝説〉の魅力の核心である、と考えることができるだろう。
ちなみに、中国に残る〈七夕伝説〉の民間伝承のなかには、毎年再会しているうちに、二人が老いてしまって、云々と語るものがある。一般的にいって、中国の民間伝承には著名な物語に「尾ひれ」をつける傾向があって、ここでも意外な後日譚として語られている、ということがいえるだろう。逆にいえば、人々の本来の想像力のなかでは、牽牛も織女も少しも老いることなく、毎年七夕の日には若々しいまま再会を果たすことになっている、といえるだろう。 
 
二 〈董永説話〉のルサンチマン
董永という貧しくも親孝行な男を主人公とする〈董永説話〉とよばれるものがある。これは漢代にまで遡ることができる物語であるが、その時にはすでに〈七夕伝説〉と結びついており、魏晋南北朝期(一八四-五八九)には物語の大筋はできていたようである。代表的な孝子譚の一つともされるこの物語は、後の〈七夕伝説〉の発展を促した点でも注目されるが、同時に、父系の祖先を祭り親を敬うことを絶対的な価値とする中国文明の価値観と深く、しかし屈曲したかたちで結びついている点でも重要である。
東晋(三一七-四二〇)の干宝の著した「捜神記」には、次のような話が記されている。

漢の董永は千乗の人である。子供のころ母を亡くしたため、父親と町に住んで畑仕事に精を出し、父を小さい車にのせて、自分はそのあとからついて歩いた。そのうちに父親も亡くなったが、葬式をする金がない。そこで自分の身を奴隷に売り、その金を葬式の費用にあてた。すると彼を買った主人が孝行息子だと知ったので、一万貫の銭を与えたうえ、家へ帰してくれた。董永は家に帰り、三年の喪をすませると、主人の家へ引き返して奴隷のつとめを果たそうと出かけた。するとその途中で出会った一人の女が、「どうぞあなたの妻にしてください」と言うので、連れだって主人の屋敷へ行った。主人は、「あの銭はあなたにあげたのですが」と言ったが、永は、「旦那のお恵みを受けて、父の葬儀をすませました。わたくしは卑しい身分の者ではありますが、ぜひとも働いてあなたのお役に立ち、ご恩返しをしたいと思います。」そこで主人が、「奥さんはなにができるのです逢」とたずねると、永は、「機織りができます」「では、どうしても働いてくださるのなら、奥さんに百疋の絹を織らせていただければけっこうです。」そこで永の妻は、主人のために機を織り始めたが、十日で百疋を織りあげてしまった。さて主人の家を出てから、妻は永に向かって言った。「わたくしは天上の織女です。あなたのこの上ない孝行をめでて、天帝さまがあなたのお手伝いをし、借金を返してあげるようにと、わたくしへお命じになったのです。」言い終ると空へ舞いあがって行き、姿は見えなくなってしまった。

この主人公董永は、元来の「天上双星型」の牽牛と比べると、共感しやすい素朴さが失われて、不自然なほど道徳的になっている。勤勉に働くこと、恩を返すことなどは文明化された社会一般にふさわしい道徳的な行為であるが、物語において中心的なのは、孝行のために、しかも死んだ父親のために自分を不必要なほど過剰に犠牲にする主人公の、異様でさえある姿である。家族のための善行はどこの文化圏でも推奨されようが、前近代の中国文明にあっては、周知の如く、周代以来、父系の祖先を祭り親孝行を尽くすことが道徳的義務の核心とされてきた。この義務は、祖先を宗教的・精神的なかなめとする宗族集団の中核的イデオロギーであるとともに、「罪は不孝より重きはなし」(「呂氏春秋」)というように、社会的・法的な義務でもあって、その義務を果たさなければ、厳重な法的処罰がなされるような強制力をもっていた。つまり、親孝行とは、「社会」(前近代の中国にあって「社会」とは何であるかはまた別の議論が必要であるが)が人々に課す道徳的な当為かつ権力的な強制なのであり、したがって、孝子譚とはこの著しく道徳的・権力的な磁場のなかで展開する物語なのである。
とはいえ、「孝子伝」などに数多く記録されてきた孝子譚は、その一つでもある董永伝説と同様に、こうした権力的な強制を肯定し正当化しているのだ、などとみなすのは単純すぎる。孝子譚においてはいつも、奇怪なほど自己犠牲的・自己処罰的な物語が展開されており、例えば、孟宗はわがままな母のために真冬の竹林で筍を虚しく探して泣き出すし、韓伯瑜は母に子どものころから􄽃打たれ続けながらその力が衰えたことを嘆き、貧しい郭巨は母に食べさせるために自分の三歳の子を穴に埋めようとするとし、まだ十四歳の楊香は父を助けるために虎に喜んで食べられようとする。強制されたものを自ら進んで行うことは、一般的には、弱者による主体性の奪還を可能ならしめるが、その裏側では、とくに大きな犠牲を伴う場合には、ニーチェがキリスト教を奴隷道徳だと批判したのと同じように、必ずマゾヒズム的なルサンチマンがわだかまることになる。それゆえ、「孝子伝」の類の孝子譚とは、父母に孝養を尽くすことを強制されている人々の情動のルサンチマン的な表現なのだと考えられる。父の仇である王を討つために自らの首を刎ねた眉間尺さえも孝子の一人に教えられることがある。
〈董永説話〉もまたこうした自己憐憫的でルサンチマン的な孝子譚の一つではあるのだが、〈七夕伝説〉と結びつくことによって、他の孝子譚よりも上位者による救済というテーマが強調されることになる。先にみた〈七夕伝説〉の古形にあっても、天帝が二人を結婚させる婚姻であるから、その意味でモチーフは継承されているのであるが、古形にあっては天帝が結婚をさせたのはもっぱら織女の孤独に同情した結果であったのが、〈董永説話〉では、そうした人間的な同情心ではなく、道徳的な行為にたいする上位者による報酬という意味合いが強い。婚姻の結果も、七夕伝説の古形にあっては、性愛的な喜びを知った織女が機織りをしなくなるといういたって人間的な話になっていたのが、〈董永説話〉では織女はあくまでも上位者による下位者への報酬なのであって、そこには性愛的な喜びもどんな感情も示されることはない。〈董永説話〉のなかでもかなり古いものを反映していると推測される、曹植の霊芝篇なる詩では、端的に「天霊感至徳、神女為秉機」(天帝は董永の徳に感動して、神女が董永のために機織りをした)としていて、ここではもはや董永と織女とが夫婦になった様子すらなく、孝行の報酬として神女による織物が与えられたというだけの話になっている。このように、董永は、父母のために自己を犠牲にし、父母の代替であり権力の象徴でもある天帝によって報われるのであるから、〈董永説話〉は、その古形よりもはるかに、強力な国家的・社会的な権力関係の磁場のなかに生まれた願望成就的な物語、つまりはイデオロギー的な物語なのだとみなすことができるだろう。
かくルサンチマン的であるとともにイデオロギー的でもある〈董永説話〉は、数多くの孝子譚のなかでもとくに好まれたようである。魏晋南北朝期には北方に広く伝播していたようで、隋唐にいたるといっそう盛行する。さらに、宋代の話本を伝えるとされる十六世紀半ばに刊行された「清平山堂話本」のうちの「雨窓欹枕集」に「董永遇仙伝」なるものがあって、それを一つの原型としつつ、以後の民間芸能において、「槐陰記」や「天河配」といった名前の演劇をはじめとして、多くの演劇・語り物・歌謡となり、中国南部では「七星型」の七夕伝説(後述)の発展にもつながっていく。 
 
三 〈羽衣伝説〉にみる暴力性
〈七夕伝説〉は、さらに、いわゆる〈羽衣伝説〉と結びつくことになる。
この両者が結びついた最も早い例とされるのは、変文「孝子董永伝」(変文とは、仏教伝道のために絵を示しながら唱ったものの台本で、この唱導芸能は唐代中期から盛行)で、その集結部分に、天に帰った織女が下界の泉に下ったさい、母を探しにきた息子の董仲舒に衣をとられ再会する、というごく簡潔な記述がある。
董永の息子仲舒と母親である織女との再会のテーマはその後好まれ、「董永型」にも「七星型」にも受け継がれ発展していくが、〈七夕伝説〉において〈羽衣伝説〉との接合がもっとも進むのは、次節で述べる「牛郎型」においてである。「牛郎型」では、主人公である牛郎が下界の泉に下った織女の衣を盗むというモチーフをその核心部分にもっており、この段階では、中国においては〈七夕伝説〉が〈羽衣伝説〉をすっかり取り込んだといえる。
この〈羽衣伝説〉は、「天人女房説話」ともいわれ、東アジア一帯に伝承された〈七夕伝説〉よりもさらに広い地域に広がっており、日本でもいわゆる「羽衣伝説」が、欧州でも類話が「白鳥乙女伝説」Swan maiden taleとして各地に伝わっている。したがって、この世界に広く散在する〈羽衣伝説〉=「白鳥乙女伝説」は本
来別に論じるべき大きな伝説群なのであるが、〈七夕伝説〉を理解するうえで必要な範囲で、この〈羽衣伝説〉の意義を簡単におさえておこう。
七夕伝説に結びついたものも含めて、世界に散らばる〈羽衣伝説〉=「白鳥乙女伝説」におおよそ共通する核心的なモチーフは次のようなものである。
   (A) 天からやってきた若い女たち(白鳥)が地上の泉で水浴びをしている。
   (B) それを覗き見た男が、女の衣を盗む。
   (C) 天に帰れなくなった女はやむをえず男と結婚する。
   (D) 女は子どもを生む。
   (E) 衣を取り返した女は天に帰る。
この伝説群の内容は、端的に言って、生殖と出産のメタファー的な物語として解釈されうる。(A)の無限に水の湧き出る美しい泉は豊饒な生命のメタファーであり、そこで裸体で水浴びをする若い女たちは、男たちが性交を望む対象であるとともに、新たな生命を生み出す母なる存在でもある。ちなみにいえば、元来の、織女と牽牛が再会する舞台である天の川も、天上にあるとはいえ、美しく豊かな水のイメージがともなっていると思われる。
同時に、(B)と(C)においてなされる、男女の結婚は、衣を盗んで隠し続けるという男の側の詐取と強制によってなされていることが注目される。〈七夕伝説〉の古形における結婚が相互的な歓びをもたらすものであったのとは対照的に、この結婚は男の主導によって行われ、女はやむをえず男の言うことに従うのであり、古代の結婚の形態として認められる、暴力的な略奪婚の名残を感じることさえできる。そして、この結婚によって利益をえるのは男であって、男は伴侶を得たうえに子どもまで得ることになる(D)。一方、女は天に帰れず不本意な結婚と出産を強制されることになる。それがいかに不本意なものであったかは、最後に女が去る(E)ことによって端的に示される。
世界的にみても最も古い〈羽衣伝説〉ともされる、晋代の「玄中記」ならびに「捜神記」に記された羽衣伝説をみると、そうした男の暴力性がより露骨に現れていることがわかる。両者はほぼ同内容で、ここでは後者の全文を示す。

豫章群新喩県に住む男が、田の中で六、七人の娘を見かけた。みな毛の衣を着ていて、鳥か人間かわからない。そばまではって行き、一人の娘のぬいでおいた毛の衣をかくしてから、さっと近寄ってつかまえようとした。鳥たちはみな飛び去ったが、一羽だけは逃げることができない。男はそれを家に連れ帰って女房にし、三人の娘を生ませた。その後、女房は娘たちに言いつけて父親にたずねさせ、毛の衣が稲束を積んだ下にかくしてあることを知ると、それを見つけ出し、身につけて飛び去った。それからまた時がたって、母親は三人の娘を迎えに帰って来た。すると娘たちも飛べるようになり、みな飛び去ってしまった。

この古い羽衣伝説は、娘が「鳥か人間かわからない」こと、あるいは、出会いが泉や川ではなく田の中とされていることなど、あきらかにまだ洗練されていないが、それだけに羽衣伝説が内包する男の女への暴力性があからさまである。最初の出会いが暴力的である(覗き見て、盗んで、捕まえる)のみならず、その後の関係においても鳥=女の遺志は尊重された様子もなく、一方的で暴力的な関係が続いているようにみえる(連れ帰って、女房にして、娘を生ませる)。唐宋間のものとされる句道興撰の「捜神記」にはもう少し洗練され典型的な羽衣伝説である「田崑崙」があるが、それでもやはり、男が強引に天女と結婚して子どもが生まれ、衣を取り戻すと天女はたちまち去って行くというプロットであって、同様の暴力性が感じられる。
このように、全体としてこの〈羽衣伝説〉=「白鳥乙女型」の伝説は、豊饒な生命の源である女から男が暴力的に利益を得る、という男の一方的な願望の物語なのだ、と考えることができる。 
 
四 「牛郎型」と母のテーマ
〈七夕伝説〉は、以上のように、元来の儚い永遠性のヴィジョンをともなう「天上双星型」から出発して、〈董永説話〉における世俗性や〈羽衣伝説〉における性愛の豊饒性と暴力性のテーマなどを取り込み変異をとげたうえで、一つの完成型に至る。それが冒頭に紹介した「牛郎型」であり、広く民間に伝承され「揚子江以北一帯から内蒙東北にかけて分布」し、演劇における〈七夕伝説〉においても、清の嘉慶年間(一七九六-一八二〇)には秦腔に「牛郎型」が登場し、各地で同様のものが広く上演されるようになり、清末には「牛郎型」が演劇における〈七夕伝説〉の主流となった。「牛郎型」は今日では中国全体でもっともよく知られた〈七夕伝説〉だといってよいだろう。なお、日本にはこの「牛郎型」の七夕伝説が伝わった痕跡はほとんど見当たらないが、喜界島には、牛飼いと「天降子」の話があって、その内容は「牛郎型」とかなり重なる。
様々なバリエーションのある、この「牛郎型」はおおよそ次のようなモチーフを共有している。
   (A) 牛を飼っているために牛郎とよばれる貧しい若者が、兄夫婦とともに暮らしている。
   (B) 嫂にいじめられ、殺害されそうになる。
   (C) 牛に助言されて、兄夫婦と分家して、牛だけをもらって、暮らす。
   (D) 牛に導かれて、泉(河)に仙女たちが水浴びに来たのを覗き見る。
   (E) その中の一人の羽衣を隠す。
   (F) 天に帰れなくなった仙女=織女はやむをえず男の妻となることを受け入れる。
   (G) 男の子と女の子が生まれ成長する。
   (H) 織女は、衣を見つけてそれをはおって飛び去る。
   (I) 牛郎は、牛の皮を剝いでそれを着て、子どもたちとともに織女を追いかける。
   (J) 牛郎は織女と再会するが、西王母によって引き裂かれ、年に一度だけ七月七日に逢うことになる。
従来の〈七夕伝説〉と比べたときに、最も大きな特徴としてあげられるのは、「牛」(しばしば黄牛とされる)が登場し大きな役割を果たしていることである。
心理学者のブルーノ・ベッテルハイムは、欧州を中心に数多くの昔話を網羅的に論じた著書のなかで、「子ども時代の理想化された母親の記憶が、我々の内的な経験の重要な一部分として生き続けていれば、最悪の事態に立ち至った時でも、我々の支えになりうる」としたうえで、「ヨーロッパやアジアの類話の中には、死んだ母親が、仔牛や雌牛、山羊その他の動物に姿を変えて、魔法で主人公を助けてくれることになっているものがたくさんある」ことを指摘し、「もともとの母親が、雌牛とか、地中海周辺の国では山羊とかの、乳をくれる動物に、象徴的に置き換えられる場合がある」と解釈している。ユングもまた、「母元型」の典型的な形態の一つとして「牝牛」をあげ、「母の象徴である天の雌牛」に繰り返し言及している。
「牛郎織女」にでてくる牛は、当然乳をくれる動物であり(とくに黄牛は乳用としても優れているらしい)、しかもいつも牛郎によりそい、まるですべてをお見通しであるかのように牛郎を教え導き、その窮地を救うのであるから、ベッテルハイムのいうような理想化された母親の象徴的置き換えなのだといってよいと思われる。とりわけ、自分の命と引き換えに、牛郎とその子どもたちを天に昇らせるという牛の姿には、子どものために自己を犠牲にするほどの深い愛情をもった、著しく理想化された母親像が投影されていると考えることができる。
他方、牛郎をいじめて殺そうとする嫂は、民間伝承でしばしば登場する継母的な存在であり、ユング派の民話研究などにおいて語られてきた「悪い母親」の典型的な姿であるのは明らかであろう。つまり、「牛郎型」においては、物語の深層心理的なレベルで、良い母=牛と悪い母=嫂とに分裂している、と考えることができる。いかなる「牛郎型」の物語においても、牛郎の実母が登場しないことは、この母の分裂という解釈を傍証しているであろう。また、物語世界にあって「よい母親」とは、子どもにたっぷりと美味しいものをあたえてくれるものだが、「悪い母親」は、子どもに食べ物をくれないのであって、牛郎の嫂もしばしば、牛郎が牛とともに外に出ているあいだに、家でご馳走をつくって夫婦だけで食べようとする。だが、何でもお見通しの牛が教えてくれたので、牛郎は帰宅してご馳走にありつくのである。つまり、牛は豊饒をもたらすよき母であり、嫂はやせ衰えさせる恐ろしい母なのである。
そして、物語では、この良い母に導かれて牛郎は、悪い母親の暴虐から脱出して、織女という若い美しい女と出会い結ばれるのである。この「良い母親」から「若い美しい女」へという物語の展開は、まったく直裁な願望充足であり、多くの民間伝承で見られるパターンでもある。例えば、日本で最も知られた民話である「浦島太郎」もこのパターンであり、老母と暮らしていた太郎が、老母を残して亀に導かれるままに竜宮に赴き、乙姫と結ばれるわけである。
このようにみてくると、この「牛郎型」は、七月七日の夜にいつまでも再会し続けるという元来のモチーフや、水辺での織女との出会い(ないし再会)、主人公の勤勉で誠実な性格類型など、「董永型」を引き継いでいる部分もあるのだが、同時に大きく異なってもいることがわかる。「董永型」が、国家的・父権的な権力構造のなかで展開していたのとは対照的に、「牛郎型」では、「母」のテーマが全面的に展開されていて、願望充足的に理想化された母に抱かれ導かれる物語となっている。主人公の造形も、毅然と身を売り過剰なまでに道徳的な董永に比べて牛郎はより若く、大人というよりは少年のように感じられる。
「牛郎型」のもう一つの特徴である、牛郎とその子どもたちが織女を追いかけるモチーフも、この幼さを表している。最初に引用したように、慌てて追いかけて追いつけないとわかると泣き崩れるという態度は、夫のものというよりむしろ母を恋い慕う子どもの姿にふさわしい。夫婦の仲を最終的に裂くのが、「天上双星型」では、天帝であったのが、いつのころからか次第に西王母が担うようになり、織女を追いかける牛郎とその子どもたちにたいしてかんざしを抜いて天の川をつくることによって阻止するのは、時に織女自身であるが、民間伝承ではほとんどの場合西王母である。西王母という偉大な母にわけもなく敗れ去った牛郎は、しかしその西王母の情けで、年に一度だけ織女に再会できるのである。
このように、〈七夕伝説〉の長い変遷のなかには、父権的な権力のテーマから母のテーマへの転換がみられるのだが、一般に「難題型」と分類される〈七夕伝説〉の状況をみても、この転換がみてとれる。
この「難題型」は、しばしば前半は「牛郎型」に似るのであるが、後半は、織女を追って天に昇った牛郎にたいして織女の父である天帝が娘と再び一緒になりたいなら何々をなせ、といった難題を課して、それにたいして牛郎が挑戦をする、といったプロットである。この後半のパターンは、〈七夕伝説〉に固有のものではなく、古今東西の「英雄物語」と分類される物語等によくみられる、父権的なものとの対決のテーマを示していると考えられる。この「難題型」と比べると「父」をめぐる古典的なテーマが典型的な「牛郎型」にはまったく欠けていることが明らかになるわけだが、この「難題型」がもっぱら中国のなかでも周辺的な少数民族に多くみられ漢民族にはあまり見られないということからも、またそもそもの「天上双星型」には天帝という父権的な人物による二人の別れというモチーフがあったのが「牛郎型」ではそのモチーフが消えてしまったということからも、父のテーマの消滅は〈七夕伝説〉の発展の一つの方向性を示していることがわかる。 
 
五 「七星型」と女神信仰の流れ
〈七夕伝説〉は長い変遷を経るなかで、若い男女の素朴な性愛的な物語から、父権的なものへのルサンチマンを表現した物語へ、そして性愛の暴力性と豊かさを暗示するテーマを馴化しながら、ようやく母からの愛情への依存の夢をメタファー的に表現する、幼い、しかしそれだけにいっそう根源的な精神を語る物語へと変容を重ねていったのである。そして、この最後の母のテーマは、近世以降の中国にあって母をめぐる物語が、〈目連救母〉や〈白蛇伝〉などにみられるように、次第に増え発展していったことと平行する現象なのだと思われる。
〈七夕伝説〉は、この「牛郎型」をもって現在の中国(とくに北方)ではもっとも典型的な形態となるのだが、華南では「七星型」(あるいは七星始祖型)とよばれるものへと発展していった。この型の物語は、華南を中心に各地の演劇と民間伝承に多く見られるのであるが、基本的には「董永型」に後日譚的なプロットをつけ加えたものとなっている。この後日譚的な部分は、典型的には、次のようなモチーフからなる。
   (A) 董永と織女の子ども董仲舒は、母親がいないことを学塾の友人にからかわれる。
   (B) 天上の秘密を知る、仲舒の学塾の先生(あるいは占い師)が、母親は仙女であること、そして再会できることを仲舒に教える。
   (C) 仲舒は、言われた通りに、泉(あるいは海辺)に行き、そこに現れた七人の仙女のうちの一人の衣を隠す。
   (D) 仲舒は、母と再会し、一緒に家に帰ることを懇願する。
   (E) 母は、仲舒に二つの贈りものを与え、天に帰る。
   (F) 仲舒が、その贈りものの一つを先生にわたすと、書物が焼けてもはや天上界のことを知ることができなくなってしまう。
   (G) もう一つの贈りもののおかげで、董仲舒は出世する。
このタイプの物語が「七星型」とよばれるのは、ここに登場する七人の仙女たちが、「七星」となって夜空に輝いている、と語られるからである。この「七星型」でとくに注目されるのは、物語が、董永と織女の話であるというよりは、むしろ織女とその息子の話へと、さらには織女を中心とした話へと重心を大きく移していることである。最初期の〈董永説話〉では、織女は、天帝から与えられる褒美にすぎず彼女自身の感情も意思も少しも描かれなかった。しかし、この「七星型」では、いろいろなバリエーションはあるものの、多かれ少なかれ織女の言動は彼女自身の決断と意志によるものとされ、物語は彼女の立場から展開する場合が多い。例えば、黄梅戯の「天仙配」では、天上の織女は姉たちとともに下界の董永の様子をみて好ましく思い、自らの意志で「下凡」(天上の人が地上に降りて人間となる)し、真面目な董永を巧みに説得して夫婦となる。このように、物語を展開させる力は、董永の孝行や天帝の力ではなく、織女自身の意志になっているわけである。ちなみに、この演劇は黄梅戯の代表的演目となり、一九五五年に映画化され(元の演劇にかなり忠実なものと思われる)、普及期にあったテレビで繰り返し上映されて、かなりの人気となったそうである。
織女の感情や意思が明確になり、事実上主人公が織女へと代わっていく傾向は、「七星型」だけではなく、「牛郎型」にも実はみられる。例えば、刊行の時期ははっきりしないものの、宝巻「鵲橋宝巻」では、まず最初に下界の美しい風景に織女が惹かれ下凡することが描かれ、しかるのちに牛郎に衣を奪われるのだが、そのさいもやむをえず牛郎と結婚したのではなく、牛郎の「相貌堂々、人品端正」なことに惹かれ、これは宿縁なのだと姉妹を説得して、結婚する。その後も、大筋は「牛郎型」でありながら、活躍するのはもっぱら織女なのである。
この「七星型」を「牛郎型」と比較してみると、「牛郎型」において、母と息子のテーマは牛と牛郎の物語としてメタファー的に表現されていたのだが、「七星型」では、母と息子のドラマそのものとして正面からそのまま表現されていることがわかる。「牛郎型」において、女の豊かな生産性を象徴する中心的なモチーフの一つであった泉での仙女との出会いも、今度は母と息子の再会の場面にすり替わっている。また、「七星型」では、しばしば、牛郎が子どもたちとともに天に昇って織女を探すさい、同じ容貌の七仙女のなかから織女を探し出すのは夫である牛郎ではなく子どもたちだ、などとなっており、織女と牛郎(董永)との絆よりも、織女と子どもたちの絆の方が深いとされていること示している。
さらに、華南の沿岸部や台湾では、この織女を含めた七人の仙女たちが、子どもを授け子どもを守る神として信仰を集めるようになっていく。例えば、台南では二百年ほどまえから、子どもが十六才になったさいに無事に成人したことを「七星娘娘」に感謝する「做十六歳」という祭礼が開隆宮という廟で行われてきたのだが、この「七星娘娘」とは、織女とその姉たちなのである。開隆宮には、織女に同情した姉たちが織女の二人の子どもの成長を助けた、といった話も伝わっているようだ。
むろん、こうなるともはや、本来の牽牛(牛郎)と織女との物語であるはずの〈七夕伝説〉の発展の文脈よりは、近世以降に華南・台湾において広がった女神信仰というより大きな流れのなかに組み込まれたものとして理解されるべきものになっているように思われる。しかしながら、このように一部地域で〈七夕伝説〉が女神信仰の発展のなかに取り込まれていくことの前提には、「牛郎型」以降の〈七夕伝説〉に内包されて「七星型」でいっそう豊かに表現されるにいたった、母なるものへの憧憬の思いがあったのだと思われる。 
 
おわりに
〈七夕伝説〉が最後に辿り着いた、織女の意思と感情とを中心とするドラマや華南・台湾における母親的な女神としての織女への信仰は、かつての〈羽衣伝説〉に垣間みられた、男が女を強奪する暴力的な世界とははるかに遠く隔たっている。
最後に少しだけ歴史社会学的考察をつけ加えると、それは、おそらくは、物語世界のなかだけの変化なのではなく、中国の長い歴史のなかで静かにすすんだ「文明化」のダイナミズムと深く関わっているものと思われる。文明化とは、社会学者のノルベルト・エリアスによれば、集権的な社会的・国家的秩序の拡大・深化とともに個々の人間の行動や精神のあり方さえも変わっていく大きな運動のことである。〈七夕伝説〉の変容からみえてくるのは、ごく雑􄽀にいうならば、文明化が、男たちの暴力性を矯めつつ、人々を「董永型」にみられるように超自我的な主体へと駆り立てながら、その裏では「牛郎型」にみられるように喪われたはずの母にいつまでも頼ろうとするような、より繊細で幼児的でもある願望の発現をも促していった、ということである。
むろん、こうした文明化にともなう〈七夕伝説〉の変容は、どちらかといえば女たちではなく、文明化の力により強く深く巻き込まれていった男たちの願望を満たすものと理解できるが、比較的最近発展したのであろう、「七星型」にあっては、もはやそのような男性中心性はかなり弱くなって、女たちがより共感しやすい女性主体のドラマへと変貌をとげ、さらには母なるものへの希求が信仰という社会的なかたちに結びつくまでに高まっていったことがみてとれる。このような〈七夕伝説〉の変容は、男女の性愛的関係だけでなく親子の自然な情愛も重んじる女性的な感受性に次第に傾いていく近世の中国文明全体の展開とつながっていると思われるが、そのように私的で精神的な領域が豊饒になっていくこともまた、文明化という大きな運動の一つの帰結であるととらえられるだろう。
このようにみてくると、〈七夕伝説〉が二千年程度以上に渡って守ってきた、牽牛と織女がいつまでも年に一度七夕の日だけに再会し続けるという、どこか儚くも美しい永遠性のヴィジョンとは、そもそもの最初から大人の異性間というよりは、母と子との理想化された関係の象徴であり永遠化であったと思いを巡らせることもできようが、それはむしろあまりに現代的な想像であるのかもしれない。 
 
 

 

 
七夕の起源

 

 
はじめに
「七夕」には短冊に願い事を書きまして、笹の葉につるし、七夕の晩にだけ逢う事が許された「織姫(こと座・ベガ星)」と「彦星(わし座・アルタイル星)」に、短冊に書いた願い事をかなえて貰うようお祈りします。このような星のお祭りは世界でも珍しいそうであります。この七夕行事の起源につきましては様々な説があるようであります。ここでは、その七夕の起源の諸説を追って見ようと思っております。
しかし何せ私が調べることが出来た範囲内でありますので、調査断片そのもので脈絡が無いですし、はたまた何処まで本当か・・・は、見てのお楽しみという事に致しましょう。
構成と概要
構成
まずは「原始七夕伝承」「異郷訪問説話」「中国での起源」の項目で、七夕伝承が生まれるまで、その伝承の伝わり方などについて触れることに致します。
次いで、日本にいつお話が伝わったのか、伝わってから行事になるまでを追って見ようと思います。
概要
太古におきまして、世界樹又は宇宙樹と呼ばれる信仰がありました。それは地上と天の中心の北極星とを結ぶ、宇宙の軸としての特別な「樹」でありましたが、地球の歳差運動により、北極星は「こと座のベガ星」から「こぐま座α星又はβへ」と徐々に移動してしまいました。
ここに世界樹は東西と言う方向に分裂致します。東と西それぞれに言わば神が出来ました。それが「西王母(せいおうぼ)」と「東王父(とうおうふ)」であります。この信仰がやがて「織姫」と「彦星」に変化して行った様であります。そして七夕説話に基づいた乞巧奠(きこうでん)を、宮中行事のとして初めて行なったのが楊貴妃と玄宗皇帝でありました。
日本へは神戸市博物館所蔵の桜ヶ丘銅鐸に刻まれている「水辺の西王母」からしますと、まだ銅鐸を造っていた時代に説話はすでに伝わっていたようであります。そして神話の時代には機織りの神・倭文神となったようで、朝廷の織部省にいた「葛城」という機織集団が説話と何らかの関係を持ったようであります・・・。
最初に七夕の行事をしたのは持統天皇であると言われておりますが、それは七夕の行事であったのでしょうか、それとも亡き夫「天武天皇」の供養であったのでしょうか・・・
 
原始七夕伝承

 

世界樹・宇宙樹信仰
北極星
時は今から1万3200千年遡ります。この頃は氷河期又は氷河期があけた頃で、歳差運動によりまして北極星は現在の子熊座のポーラスターではありませんで、後に織姫星となること座のベガ星でありました。
仏教やキリスト教が普及する遥か遥か昔では、世界的な広がりを持つ「世界樹信仰」があったようであります。
この世界樹又は宇宙樹と呼ばれる信仰は、「天地創造のときに、まず1本の巨木が生じて、この巨木から世界は体系的に作られたとする神話」です。この天と地を結ぶ一本の巨木から、全てが生まれ、又全ての秩序が作られていったとする信仰でした。
後に述べますがこの宇宙樹は「地上と天の中心である北極星を結ぶ」言わば「宇宙の中心」としての役割がありました。
現在伝わっている宇宙樹信仰では北欧神話の「宇宙樹ユグドラシル(注2)」・中国では後に「扶桑(注1)」と呼ばれるものになって行きます。また日本では鹿児島県の「若木迎え(注1)」や諏訪大社の「御柱祭」などがありますね。
鳥トーテム
鳥トーテム
宇宙樹信仰は、その象徴として「頭の部分に日月・中央部に有蹄類・下部にベビ」などから構成される柱が、神体として扱われていたようでありまして、この柱の神体をトーテムと言います。トーテムと呼びましてもピンと来ない方もいらっしゃると思いますが、トーテムの1種類であるトーテム・ポールと言う言葉であればご存じかと思います。
稲作起源は紀元前八五〇〇年頃の中国であるとされておりますが、この頃の遺跡から稲作に必要な「太陽」「水」「鳥」が描かれた土器が出土されます。この中の「鳥」は朝に鳥がさえずり始めることにより太陽を呼び出すとする考えであるそうです。時計の無い時代でしたので、鳥の声はとても重要でありました。江戸時代でも鶏の声を基準にしてりましたし、埴輪にも鳥や鶏が多くありますね。
中国の四川省・成都の北部で「三星推」と呼ばれる遺跡が1987年に発見されました。その遺跡には「青銅製の仮面」など多数の像が発掘されました。そのなかに宇宙樹信仰を表す「神樹」や「崑崙山模型」がありました。
「崑崙山」は言わば「霊山」で、そこには「西王母」が住んでいると言われておりまして、現在残っている道教において西王母は「最高位の仙女」でありとされております。
先に述べましたトーテムの色々な種類のなかで「鳥トーテム」が、現在でも中国少数民族で西王母信仰の残っているイ族にみられます。この鳥トーテムは一般にシャーマニズムとセットで信仰されることが多いようです。鳥トーテムの神体は「鳥竿(ソッテ)」と呼ばれまして、竿(テ)には柱・竹・竿・棒などが使われました。
ト−テムと言う言葉は、アメリカインディアンの言葉で「親族」の意味しまして、母権制氏族社会の発生期に生まれます。女性が子供を生むのはト−テムが女性の腹に潜り込むからと考えのですね。またアミニズムとは万物に霊魂があるとする信仰をさします。この霊魂との接触をもつ巫女の総称がシャーマニズムであるわけであります。
このような意味でト−テムから派生するものの多くは「母権制氏族社会」、つまり女性が巫女になったり、最高位の神になったりするわけでありまして、七夕のお話しの場合には後にしつこく出て来ます。「西王母」が中心的な役割を負っているようなのであります。
卵生神話
中国の古代王朝の夏王朝の資料は余り残っていないようですが、殷王朝の資料は沢山あるようです。殷の始祖伝説(注3)では、ある日水浴にでかけた簡狄(かんてき・女性の名)は、ツバメが落とした卵を飲んで懐妊して殷の始祖である契(せつ)を生みました。
中国ではこのような伝説は感生(かんせい)伝説と呼ばれておりまして、天の神の孫が地上に降り立ち王朝の始祖となる天孫民族的な信仰(日本ではニニギニミコト)が多いのです。
このような神話は鳥トーテム信仰のあった東北アジアの部族の間に色々伝わっています。例えば高句麗の祖先の朱蒙(しゅもう)は大きな卵から生まれていて、清の祖先である満州族のプクリヨンソンは神鵲(かささぎ)が落として行った赤い実を飲んだ天女フクリンから生まれたと伝えられております。
このように鳥は卵を産むことから「鳥トーテム信仰」と「卵生神話」は重なるらしいのですね。鳥トーテムは中国に隣接するロシアやカムチャッカにも分布しているようですので、そちらにも七夕の痕跡があるのでしょうか。
宇宙樹の分裂
宇宙樹は「地上と天上を支える軸」とされておりまして、星々の中心に見える「北極星」と「地上」とを結びます。鳥トーテムの柱(ポール)は当時の北極星であるベガ星に向かって伸びていたことになります。時代は上記のお話の通り夏や殷の頃までと思われます。宇宙樹は絶対神で、天地を疎通させる宇宙軸上で、地上と北とを結ぶ南北軸であり、天地を結ぶ上下軸であったそうです。
さて北極星はベガ星でありましたが、歳差運動により天の北極は次第にベガ星より離れて行きました。歳差運動は地球の自転の向きと反対に地球がコマ振り運動をすることで、約24000年をかけて一回転し、北極星はもとの星に戻ってきます。
この絶対神である宇宙樹が南北軸に対して左右に、つまり東西に分裂をおこしたしたようあります。
東母と西母
殷の王朝は、王が自ら祭礼等を行う神聖王朝でありました。天地自然の現象は帝の支配に属する事柄で、農耕に関する雨風も帝が祈ることにより秩序が与えられました。その風は鳳の形で表されて神の使いで、その使者の往来は風のそよぎとして感知したそうであります。殷の始祖である舜は太陽神であったようです。しかし後に太陽神は分離して「朝の日を迎える朝日(ちょうせき)の礼」「夕の日を送る夕日(せきひ)の礼」の2つの行事を行いました。
「朝と夕」を象徴する神は東母と西母の二人の女神でした。この東母と西母が後に東王父と西王母という対偶神となりるようなのです。
さて王朝の権威の象徴である暦の策定では、殷王朝においては太陽が10個あったとする十日神話から10日を区切りとした旬日を基本にして、月相が1巡(約29.5日)する三十日を併用しました。
時代が進み周の時代になりますと新月から満月までの約十五日を単位とする朔望(さくぼう:朔とは新月、望とは満月です)の観念が中心となります。つまり太陽神から月神への変化があっても不思議ではないのですね。すると上記でお話しました「東母」が「東王父」に変化するのは「周の時代」とも考えられますね。
あと秦の始皇帝が西王母と逢う話があるのですが、殷も秦も始祖伝説を遡ると鳥トーテムに行き着くのですね。その他は例えば夏の竜トーテム。したがって神話は洪水伝説なのですね。高句麗も鳥トーテム。だから壁画に西王母と織姫の混在したものがあるのですね。
西王母と東王父
月と太陽の属性
さて、地球の歳差運動により、北極星の位置が「こと座のベガ星」から「子熊座のポーラスター」へと変わってしまったことから宇宙樹は東西に分裂を起こしたようであります。恐らくは朔望の観念が出てきた周の時代のことであると思います。
鳥トーテムの本体であります「軸(ポール)」は、東に太陽の象徴である東王父・中央には左右分裂を示す水の象徴である天の川・そして西にはシャーマニズムの要素もある宇宙樹本体はベガ星の位置を保ったまま西王母へと変化します。
「鳥」は東王父には太陽黒点を表す三羽の烏(又は三足烏)に、西王母には両者を橋渡しする希有鳥へと分裂します。
希有鳥は古代中国の宇宙観である天蓋説(地の上に天が傘のように被っていて、傘の柄のような軸があり、その軸が回転する事により星が回って見える)の軸の下にいて、両わきに東王父と西王母を抱えています。西王母は1月1日と7月7日の年に2度、この希有鳥に乗って東王父に逢いに行きます。現在では正月と七夕は別の行事でありますが、このお話しのように、この頃までは正月と七夕はセットの行事であったようです。
東王父は、シャーマン的な要素が強く残った影響から次第にその信仰が薄れ行きます。西王母は不老長寿の象徴(道教に見られる桃源郷のように桃で表されるもの)でもあります。そこで月は欠けても必ず元に戻る事から、場所をベガ星から月へと移動し「不死」の神格化傾向を強めたのではないかと思います。
東王父も太陽から二十八宿(注4)の1つ「牛宿」へ移り、さらに二十八宿の「河鼓」へと変化し、最後に現在のアルタイル星へと変化したのではないかと推測します。
西王母は月にも居りますし、ベガにもおりますし、天地軸である崑崙山にもおります。どこにでもいるのですが探すのが容易ではないのです。何故なら不死性は簡単に手に入るものではないからであると推測します。
陰と陽
分裂して日の沈む西に分かれたのが「西王母」、太陽の昇る東に分かれたのが「東王父(又は東王公とも云われます)」であるそうです。「西王母」は月と女性の属性を持ち、兎や蟾蜍を伴い陰の精を表します。駐推前漢墓に描かれております。「東王父」は太陽と男性の属性を持ち三足烏を伴います。空心磚墓にも描かれ「太陽の中に三足烏がいる、それが陽の精である」と云う説明があります。
西王母
次は西王母と七夕伝承から引用です
「西王母は頭に「玉勝」を戴いています。西王母は、元来、ただ一人、大地の中心である宇宙山(世界樹)の頂点にあって、絶対的な権力で持って宇宙全体を秩序づけていた。その秩序づけが、彼女の機を織るという行動に象徴されていた。西王母は、いわば世界の秩序を織り出していたのである。さればこそ織機の部分品である゛勝゛がその頭上に載っているのであった。織機の部品の中でも、特に゛勝゛が選ばれたのは、一人で再生を繰り返す神のありかた(すなわち、円環的な時間の中にある存在)と織機の軸の回転とを重ね合わせて、その軸の回転を制御する゛勝゛を象徴的に使用したものと推測される。」
東王父
西王母が陰の要素を濃くしてから、その対照として陽としての東王父ができたようです。東王父のかぶりものは「三維冠」(他のものをかぶっている画像鏡もあります)で゛維゛と呼ばれているのは天地を結ぶ大綱を指すと考えられています。それが「三」であるのは、3と云う数字が太陽神と係わりが深いためであると云われています。三足烏や3羽の鳥に引かれた太陽を運ぶ雲車なども「3」の数字です。
○淮南子のゲイのお話から〜
昔中国で一度に10個の太陽が出現しました。時の皇帝は「ゲイ」という弓の名人を呼んで、このうちの9個の太陽を射落としました。その射落とした太陽を調べてみると、9羽の真っ黒なカラスであったそうです。
○広益俗説弁から〜
上記の話と同じですが、時は垂仁天皇の御代で、太陽は9つ出現します。武蔵野国入間郡で打ち落としたそうです。
○八た烏から〜
淮南子に「日中に(シュン鳥(ウ))あり」という記述があり、このシュンウが3本足の烏であると解釈されています。天照大御神と高木神によって神武天皇のもとに派遣されたヤタガラスは、天照大御神を祀る神社のノボリに三本足の烏として書かれています。
夫婦げんか
月に住むと言われるガマガエルの正体は「太陽を射落としたゲイ」に西王母が不死の桃をあげようとしたところ、サット盗んでいった東方朔が月まで逃げていってガマガエルになった話しもあります。(異説あり)
ゲイが「三足烏を打ち落としたご褒美」とは、つまり「陰であり月である西王母」と「陽であり太陽である東王父」とが夫婦げんかをしている話なのですね。
七夕伝承の1つに、夫婦喧嘩をして牽牛と織女が物を投げ合う話があります。牛郎は牛の鼻輪を投げたのが織女三星(注5)。織女は機織りの道具の梭(ヒ)を投げます。それが河鼓・鷲座三星(注6)なのです。
注記
扶桑・若木
古代中国:殷の時代の宇宙観では、太陽は全部で10個ありまして、毎日交代で空を廻ります。それぞれの太陽に甲乙丙丁など十干の名があまして、それを司る10人の神巫がおりました。太陽は東方の扶桑(ふそう)の木の枝からから昇って、西方の若木を経て、地下の虞淵(ぐえん)にほとぼりをさまします。
ユグドラシル
北欧神話に出てまいります宇宙樹ユグドラシルは、全世界を貫いて生えております。ユグドラシルには三本の根がありまして、それぞれ「神々の国」「霜の巨人の国」「霧の死の国」の3つの世界へと伸びております。「神々の国」の根の下にはウルドの泉があり、そこには3人の運命の女神がおりまして、ユグドラシルが枯れないように世話をしています。「霜の巨人の国」の根の下にはミーミルと云う智恵の泉があり、最高神となるオーディンはこの水を飲むため片目を失います。「霧の死の国」の根の下にはフヴェルゲルミルの泉があり、ニドヘグと云う毒竜がユグドラシルが枯らそうと根を噛っています。主神オーディンと悪神ロキとの戦いの時にユグドラシルは燃え、大地は海中に沈んでしまいます。これがたまに耳にする事があると思いますラグナレク(神々の黄昏)でなのであります。
卵生・感生伝説
○殷の契の怪誕説話
帝の高辛氏の妃の簡狄が春分の日に春を迎える行事が終わった後に、妹と川辺を歩いていたところ1羽の燕が空に飛んでいました。その燕は口にくわえていてた五色の卵を二人の間に落としました。姉妹はその綺麗な卵を取り合いましたが、簡狄が「これは私のよ」と言うと口の中に押し込み飲んでしまいました。やがて彼女は身篭り、月日が立ち胸が剖けて男の子が生まれました。これが契で後にギョウに仕えました。(史記,拾遺記)(竹書紀年)
○周の武王の怪誕説話
帝の高辛氏の妃に,姜源(きょうげん)という女性がおりました。帝と一緒に神を祭っておりますと大地に巨大な足跡がついておりました。彼女はその足跡を踏んで見たらやがて身篭ってしまいました。(史記)
二十八宿
二十八宿は中国の星座区分で、インドの二十七宿から来ているようです。月が1つの宿に一泊ずつ止まり28日で一巡します。その中の星座で七夕に関係するものを抜き出してみました。「須女」が「織女三星」に、「牽牛」が「河鼓」へ変化したのであろうと言う説は見ることはあるのですが、天の川に相対する2星であるからとする理由なのですね。そうであると仮定すれば、二十八宿と西王母信仰とどちらが先なのでしょうね。
○牽牛
この6星は、天の関所・橋のことで、祭りのときに供える犠牲を司ります。上の星は道路を管轄。次の星は関所・橋・梁を管轄。その次の星は南越地方を管轄するそうです。その他「牛は日の神に捧げるもの」「羊は月の神に捧げるもの」であるそうです。
○須女(しゆじょ)
この四星は天の衣食を司ります。「須」とは布を織ったり、裁縫をしたり、嫁入りの世話をする意味があるそうです。
○天津
この九星は「天の川」の中にあり別名「天漢」「天江」とも云います。長江・黄河・淮水・済水の四大河の渡場・橋を司るそうです。この天津はカササギと関係があるのでしょうか。また同じ「橋」を司る牽牛がどのようにかかわるのでしょうか。また天の川は東方に始まって、尾と箕の間をとおり、2つの道に分かれ南の道は傳説(ふえつ)・魚・天やく・天弁・河鼓をとおり、北の道は亀・箕の下・南斗の頭と左旗とをつなぎ、天津の下で南の道と合流するとあります。
○農丈人
農丈人とよばれる一つの星は、南斗の西南に位置している。老農であって、穀物の収穫を管轄する。狗と呼ばれる二つの星は、南斗の東部のまえに位置している。吠えついて家を守のが仕事である。天田とよばれる九つの星は、牛の南に位置している。羅堰(らえん)とよばれる九つの星は、牽牛の東に位置している。大きな馬である。それで雨水をせきとめて蓄えておき、溝(変換不能文字A)にそそぐのである。九カンとよばれる九つの星は、牽牛の南に位置している。カンとは溝Aのことである。源泉から水を導いて満々たる水を流し、溢れる水を注ぎ、田畑の溝に通すゆえんである。九カンのあいだにある十の星を天池という。別に三池ともいい、また天海ともいう。田畑の灌漑にかんすることがらを管轄する。
○農業
ショクの五つの星は七星の南に位置して、農業を司ります。百穀の長たる「きび」の官職の名をとったそうです。
二十八宿星図はおよそ283官、1464星あるそうです。史記などは星座に役所名がついていました。これでは神話の記録があまりないわけです。神話の生まれる時代と諸子百家の時代とが同居している、又は中国の方は実利的で神話は真面目に扱われなかったのでしょうしょうね。兎に角神話・伝説・伝承の記述が少ないですね。故に中国での研究も少なく、日本での研究はと云いますと更に少ないようです。
 
異郷訪問説話

 

七夕の伝承ルート
異郷訪問神話
タイの神話の中に、インドが起源ではないかとも思われる「異郷訪問神話」があります。「天人女房」と「浦島太郎」が1つの話になっている神話です。この中の「天人女房」の説話が「天人女房」と「竜女説話」に分離するそうであります。
分かれた後の「天人女房」説話は、色々な難題を課せられる「難題型」・ニつの星に別れ別れになる「七夕型」・北斗或いは昴の7つの星のうち一つが帰らず地上の王家の祖先となる「七星始祖型」の3つに分類されるそうです。
これらが【雲南省から北上して中国へ】その【中国南部から更に南下してベトナム・フィリピン・ルソン島へ】と伝わっているようです。
以下のお話しの上で説明が必要な項目と致しましては、「浦島太郎」は民話の分類としては「豊穣、或は、富をもたらす民話」と言う事であります。
異郷訪問神話の名称・伝説の比較
異郷訪問神話比較表
異郷訪問神話の主役と地名を比較しますと以下のようになります。(表:「日本民間伝承の源流」から)
比較 / インド・パーリ語 / 南部タイ語 / 西双版納タイ族 / 雲南省のタイ族
ストン王子 / Sudhana / Phra Suthon / Zhao Shutun / 召・樹屯
マノーラー姫 / Manohara /Nang Manora /Nan Muluna / 喃・(女若)娜
北パンチャン国 / Uttra-pancala / Uttarapanchan / Banjia / 板加
   ( [女若]は一つの漢字 )
伝播
インドの「スダナ・クマーラ・アヴァッダーナ」の説話が、タイの「ストン・チャードク」としてほぼ忠実に説話が伝わり、説話が伝承された地域で、もともとあった説話と融合分裂を繰り返した形跡があるそうです。
現在タイ南部舞劇に「Noraノーラ−」と云う劇があるそうで、これとほぼおなじ説話である中国の西双版納の舞踏は「孔雀の舞い」と云うそうです。このように異郷訪問神話はインドから稲作の発祥の地「雲南省」へと伝わったと思われます。ただし説話が全く逆のルートで中国からタイへ、そしてインドへと伝わった可能性も否定できませんね。
異郷訪問神話と羽衣伝説
羽衣伝説比較表(表:「日本民間伝承の源流」より)
比較   タイ国 / 中国
始まり  竜王が猟師に命を助けられる / 男が動物を助ける
水浴   竜王の手助けで / 動物に教えられ
飛来   池に飛んできたキンナリーを捕らえる / 沐浴中の天女の羽衣を隠す
天女   キンナリーの一人マノーラーを妻とする / 天女を妻とする
子供   なし / 子供が生まれる
帰る   誹謗にあい殺されそうになり翼と尻尾を帰して貰いカイラートに帰る / 羽衣を手に入れ
追跡   マノーラーの教えた方法で後を追う / 天まで追いかける
結末  父の難題を解決して再び夫婦となる / 難題型・七夕型・七星型
伝播
まずタイの「竜王」ですが、生産的な農耕の方法を見つけて国が豊かになり、隣国の王に妬まれて殺されそうになります。この「生産的な農耕の方法」とは何の事であるかは分かりませんが、豊穣を意味する話になっています。
中国ではこのタイの「竜王」が竜女伝説や竜王伝説へと独立するようです。浦島太郎では竜宮城へ行きますが、お土産の玉手箱は、財宝又は豊穣を意味します。
次に「夫が天まで追いかける」方法ですが、中国では「天女に抱えられ一緒に行く」「助けた動物の皮を使って飛ぶ」などに変化しています。
最後に重要な「難題型」「七夕型」「七星型」への変化です。
変化
1. 難題型は天女の親から無理難題を課せられて、助けた動物から知恵を授かり難題を解決してゆく等の話で、解決できないで地上に帰れなくなる話もあります。
2. 七夕型は難題が解決できないで、二人が7月7日に一度しかあえないもの。3月に一度を3年に1度に聞き違えてしまうものなどがあります。
3. 七星型は天女が7人降りてくるのですが、「北斗七星の七」と「昴の七」の話があるようで、昴の七は、天女の一人が王族(七夕始祖型)となり星の数が六になったものがあります。
異郷訪問伝説と星型羽衣説話
三体機能と二極対立
この変化の中でインド・タイに於いては「知」「力」「豊穣」のインド・ヨーロッパ語族の特徴である三体機能がありますが、中国に渡ってからは天上と地上の二極対立へと変化します。ここに訪問説話が「竜女」「浦島」「七夕」などへと分離していく理由があるようにも思えるのです。
異郷訪問伝説と星型羽衣説話
異郷訪問伝説はインドからタイに渡った時点から「星」を加味した話へと変化して行ったようです。(表:「日本民間伝承の源流」より)
比較   インド / タイ
国王   大いなる財 / 太陽
王妃   不明 / 月の女神
人数   5百人 / 七人の姉妹と侍女千人
飛翔力  宝玉のかんざし / 翼と尾
夫が後を追う時間  不明 / 七年七月七日
王妃との再会    不明 / 七日間
伝承がタイに入りますと全体に聖数の7が多くみられます、また国王と王妃は太陽と月、7人の姉妹は「太陽」「月」「火星」「水星」「木星」「金星」「土星」を象徴しています。またインドでは飛翔力は「かんざし」で国王の「大いなる財」に掛かっていますが、タイでは国王は「竜王」であるので「翼と尾」に変化しています。
夫が後を追う時間では、夫の地上時間は7年7月7日ですが、天女の天上時間では7日であって、浦島太郎現象が起きています。
こうした伝承は一度に伝わるものではなく、間隔を置いて波状的に何度も伝わるのが通例であるそうで、その伝わった時代の状況で話が変化して行くのだそうです。
中国における分布
星型羽衣説話の中国における分布
1. 七夕型は七夕説話と羽衣説話が融合したもので揚子江より北方に分布
2. 七星始祖型は七星と始祖伝説が融合したもので揚子江南の主として沿海地方に分布(始祖型のみのものは北にも伝承しています)
3. 難題型は天女を追って男が天に行き、天女の父から何か難題を課せられるもので、西南少数民族の大部分・広東・福建・山東・東北蒙古など広く分布
このなかの難題型の難題の種類ですが、漢族では虫や蛇の害、少数民族では力試しや知恵試し、山地民族は焼き畑の全過程があります。農耕や虫害と云った項目が多いのが目につきます。「捜神記」や壮族の話には「田」「稲」等も出てきていて、焼畑・稲作の両文化が共存しているようにも見えます。始祖型のみの分布からみてやはり伝承は北上していった気配があります
タイから中国に伝承が入った地域が少数民族の多かったことから伝承が様々な形に変化していったようにも思えます。
伝承経路
七夕の3つの説
七夕の伝承は大きく分けて3つの説があるようです。
1. 農業生活を上代漢民族で、2星が接近する7月の男女相思の説話であるとする説
2. 五穀豊穣の神事祈祷の生命力を象徴する穀神(神牛)と豊穣の女神との会合が牽牛織女の伝説になったとする説
3. 西王母と東王公が分裂し、二星の会合は宇宙の再生を意味するもので、その信仰が薄れ牽牛と織女になったとする説。
民話の伝承経路
七夕に関係すると思われる民話の経路を「民族学」の本で探して見ますと
インド−−モンゴル−−アルタイ−−ブリヤート・ヤクート
モンゴル−−中国−−−−−ブリヤート・ヤクート
インド−−タイ−−中国−−ブリヤート・ヤクート
以上のような経路が浮かび上がってきました。通常の伝承経路の説(1920-1930年代)は、上記の図と逆さまの経路で、アルタイ語族が印欧語族へ牧畜文化とともに影響を与えたとされています。しかし最近の説(S60ぐらいから)では秩序だった農耕文化が牧畜文化へ影響を与えたとする考えが多く出てきているようです。伝承は西から東の方向へと言う事ですね。
民話の伝承経路
民話などの伝承はブリヤートやヤクートに集まる傾向があるようで、民話はこの地において一番原形をとどめた形で存在することが多いようです。
またこの地の神話は日本神話に非常に良く類似していることも一つの特徴なようです。
三神一体
インド・ヨーロッパ語族には共通の神界の構造や特徴(フランスのジョルジュ・デュメジルの説)があります。この印欧語族のうちにイラン系譜の遊牧民がおりまして、彼らの遊牧文化を継承したのがアルタイ系の遊牧民であるそうなのです。
「三神一体」の神話(例えばギリシア神話のモイライ運命の三人の女神などのようなもの)は、このような経路で西から東へと伝わって行ったようなのです。日本は原始アルタイ語族に属しますので、日本神話とギリシア神話が似ていても不思議ではないようですね。七夕の「牽牛」「織女」「天漢」の構造は、この「三神一体」から来ているようにも思えます。
 
中国での起源

 

牽牛と織女
信仰の変化
世界樹から分裂した西王母と東王父は、春秋戦国時代に至りその信仰が次第に薄れてゆきます。宇宙軸は機織りの部品にデフォルメされて伝えられ、七夕や月中の織女(注1:月に織女がいるとする話は世界中に分布しております)の話などが混ざり合ったのではと言う気が致します。もともと西王母には機織りの神としての役割があったのかは未だ分かりませんが、この時代の壁画などには機織りの道具を持っているものもあります。この時代に、牽牛はアルタイル・織女はベガに割り当てられたと考えます。
秦の時代になり鉄器文化となり、又、灌漑事業が進み、男性は牛を引いて田を耕す、女性は機を織る図式が出来るとともに現在に残る七夕の話が完成したのではないかと考えます。
七夕説話の完成
さて七夕の起源は早くとも春秋戦国時代の中期、完成は後漢の末期であろうと思われます。農耕の発達・書物・天体観測の3点でお話しますけれども、欠点が多いのです。
農耕の発達
中国での農耕の始まりは非常に古いのですが、鉄器の農具は春秋戦国時代に普及します。また灌漑農業は漢の時代になります。この頃にほぼ農耕の手順などが確定したそうで、男性は牛を引き農作業、女性は桑を育て蚕を育て機を織る図式が出来たそうです。宗の時代になると農作業の手順が「絵」によって表されて来ます。
七夕の土台となる「牛引き」「機織り」は、灌漑農業が出来た漢の時代前後から更に遡りますと、農作業の定形として一般化していないように思われます。一般化していなければ、七夕伝説の普及は難しいと思いました。
詩経の小雅大東の詩
漢(かわ)は、以前の説明の通りに、漢水を指す説が最有力なようです。
牽牛は、史記天官書に「牽牛は犠牲を為す。その北に河鼓あり。河鼓の大星は上将にして、左右は左右将なり」とありますので、牽牛は二十八宿の牛宿を指していて、その北の河鼓が現在の牽牛(アルタイル)のようです。「将」とありますので七夕とは関係ないようですね。この書物は漢代です。
織女星は、同じ書に「織女は天の女孫なり」、春秋緯元命包には「織女の言いたる神女なり・・・」と詩経の話に準じているようです。この中で「織女は瓜果を主どる」とありますので、供物を供える元かと思われます。晋書天文志(後漢末期の三国時代の後の晋)では「織女3星は天妃の東端にある天女である。果瓜糸綿珍賽を司る・・」と「糸・綿」が出てきます。
具体的な七夕の説話が本に登場するのは、梁(502-556)の荊楚歳時記に(#372)、七夕の説話は完成しています。春秋戦国時代に既に説話はあった事になります。その後カササギの話などがつけ加わり後漢末期に、ほぼ現在の形に成ったようですね。但し荊楚歳時記には、七夕の話の骨格のみで、付随的な話が省略されていたとすると、この考えは覆ってしまいます。また荊楚歳時記は当時の風俗を述べた書で、作者の創作を語っている可能性も多分にあるとの事でした。
天体観測(7月7日)
牽牛星・織女星が7月7日に接近するのは目では観測不可能です。長焦点の望遠鏡とカメラが必要です。それと太陰太陽暦での7月7日なので現在の暦に直しますと6月から9月まで幅があります。初めて視差の値が観測されたのは1838年の事です。
但し、全く不可能であったかとしますと・・・四分儀でも無理ですね。それを水晶などで拡大して見たとしても・・・不可能でしょうね。
天文よりは陰陽五行説から7月7日の「ぞろめの奇数の日」が当てられたと考えるのがまともな考えであるように推測します。
漢代の話
客星であった張騫(チョウケン)
天の川の源流を探し出せ。との漢の武帝の命を受け武将張騫は、舟に乗り天の川を遡っていった。数カ月後に何ことも知れぬ地に辿り着き、ふと川岸を見ると、一人の女性が機を織っている。その傍らには一人の翁が牛を連れ立っている。此処は何処かと尋ねると「ここは天の川で、我々は織女星と牽牛星です。貴方は誰ですか?」と問い返されました。張騫は「私は武帝の命令で天の川の源を探りに来たの者です」と答えました。
すると二人は「此処が源です。そろそろ引き返された方がよいでしょう」張騫はその言に従って引き返し、武帝にこのことを報告した。
このとき天文官が「7月7日に、天の川に大きな客星が出現してします」と上奏しました。・・・と話が続きます。
張騫は牽牛織女の逢う7月7日に、天の川の源流まで辿り着いたわけですね。それを下界から見た天文官には張騫は客星に見えたわけです。
漢の武帝の頃はBC140年頃です。ローマのプリニウスの本に、BC134年7月、さそり座で新星が現れた記述があるそうです。
乞巧奠
乞巧奠
唐の玄宗の時代になり、織物の上達を願う乞巧奠と言う祭りが7月7日に行われ、七夕は「星祭り」として確定していったと思われます。
祭りの日が7月7日に決まったのは、陰陽五行説に基づいておりまして、陽の数が重なった日である7月7日に、互いに強く慕い合う牽牛・織姫の2つの星がその日だけ会えるという説と、七夕と乞巧奠(女子が裁縫や手芸の上達を願う上代に行われていた風習)とが結びつき、願いが叶えられるという意味で両星を祀り、裁縫や手芸の上達を祈るという1本の行事となったと言う説もあるようです。
七夕は7日で七日月(上弦の月)で星見に月明かりが邪魔にならないで、しかも夜半には夏の大三角であるベガ・アルタイルの位置も見やすく、農作業もひまなときなので好都合だったのでしょう。
因みに七夕とは中国語であり、日本では棚機(たなばた)をそのまま七夕の訓としたものです
唐の玄宗皇帝といえば傾国の美女楊貴妃。楊貴妃は華清池に湯を賜り、天宝十載(751)7月7日、麗山の離宮にある長生殿において比翼連理の誓いを結びました。「比翼連理」とは白楽天の「長恨歌」によって一躍有名になった言葉で、天上では翼のついた二羽の鳥、地上では枝がくっついた二本の幹のように、夫婦の深い契りを言います。
乞巧奠の行事
7月7日の牽牛と織女が相会する夜に、夫人たちは7本の針に5色の糸を通し庭にむしろをしいて机を出し、酒、肴、果物、菓子を並べて織物が上手になることを祈りました。
織女、牽牛伝説に関連し乞巧奠の行事が生じ、日常の針仕事、歌舞音楽の芸事、そして詩歌文字などの上達を願う行事へと発展してきたようです。
このように中国では七夕の行事は唐の時代より盛んになり、玄宗が長生殿に遊興に出かけたときに女官たちが乞巧奠を行ったのがはしりといわれています。日本では孝謙天皇の天平勝宝7(755)年に宮中で行ったのがはじめとされております。 
 
七夕の起源・弥生時代

 

何処からきたのか?
弥生時代の銅鐸に西王母が描かれていることから、前漢後期以降に西王母と七夕の説話が徐々に伝わったものと思われます。伝わった経路は、日本に残る七夕・羽衣・竜女説話の伝承経路からみて、「日本人は何処からきたのか?」と言う命題と同じような経路であろうと推測しますが、遣唐使などにより伝えられた可能性もあります。
銅鐸に描かれた西王母又は織女
国宝:桜ヶ丘銅鐸
今まで日本は古来から「七夕」に似た風習があったとする記述の本が多かったのですが、前漢後期から後漢前期の中国から、弥生時代の日本へ「七夕」の話が伝わったのではないか、と思わせる弥生銅鐸を見つけました。
桜ヶ丘銅鐸の人物が持つ物は「カセ」と呼ばれる糸を巻き取る道具であるそうです。そして、この銅鐸に描かれている人物こそ西王母なのですね。また一番右の図の5号銅鐸の下の部分は「魚」が描かれています。
この絵は当時日本にもたらされた「神獣鏡」に見られるそうです。また銅鐸の中には「カセ」のみが描かている例もあり西王母を象徴的に表しているそうです。また五号銅鐸には臼が描かれており、その右下には臼を搗く二人が描かれています。裏面左横には「ガマ」も描かれています。
この銅鐸を作った工人は恐らく神獣鏡等を見て、「西王母」や「西王母と兎やガマ」の事を理解して、西王母をデフォルメして銅鐸に彫ったのでしょう。また西王母が糸巻きを持っていることから「七夕伝承」も理解していたと思われます。
5号銅鐸の「魚」につきましても、七夕の織女が天の川の側で機織りをすることのデフォルメ(魚は水辺を表している)であろうと思われます。
日本にはもともと七夕の話があったとされている説が多いのですが、この銅鐸を見ると七夕伝承はやはり伝来したと思いたくなります。西王母又は織姫が刻まれている銅鐸はこの他「伝香川県銅鐸」などがあります。伝香川県銅鐸は東京国立博物館所蔵で、同館のネット上でも画像を見ることが出来ます。桜ヶ丘銅鐸は神戸市立博物館所蔵であったと思いました。
 
七夕の起源・ 神話の時代

 

棚機女
七夕の字
日本で使われた七夕の文字は「たな」は棚、「はた」は機です。7月7日の夜に水上に棚作りをして乙女が機を織る行事があった(何と云うかわかりません)ようです。その乙女を棚機女(タナバタツメ)または乙棚機と云ったそうで、7月7日の夕べの行事であったために「たなばた」に「七夕」の字をあてたといわれております。
古い時代の七夕
古い時代の七夕は、祖先の霊を祀る盆に先立つ物忌みのための禊(みそぎ)の行事であったようです。それは水辺の機屋に神の嫁となる処女が神を祭って一夜を過ごして、翌日七夕送りをして穢れを神に託して持ちさってもらう祓(はら)えの行事であったといいます。
古事記によりますと、天孫ニニギノミコトが笠沙の浜を歩いていたとき、海辺に八尋殿を建てて中で機を織る美しい機織女を見つけました。衣は魂を包むものとして神聖なもので、霊魂のシンボルとされていました。
また、畑作の収穫祭としてとして七夕を迎えること古来の信仰でもありました。それは麦を中心として粟・稗・芋・豆を主食としていた時代で、米中心の稲作より古く、日本固有の信仰として存在していました。麦の実りを祝い、キュウリやナスなどの成熟を神に感謝したのです。
この祭りのとき、人々は神野乗り物としてキュウリの馬、ナスの牛を七夕に供えました。それがまた盆行事として習合して盆飾りとなり、祖先の乗るキュウリの馬とナスの牛に引き継がれています。
日本固有の畑作の収穫祭と盆迎えの祓えの信仰が中国の星の伝説や乞巧奠の風俗とまじり合って、現在のような七夕が成立したものと考えられております
「ねぶた祭り」も七夕の変形であると云われているようです。
中国と日本との説話の差
乞巧奠では瓜の供えもするようですが、天の川の起源は、中国では織姫がかんざしで引っ掻いた跡で作られるのですけれども、日本では牛飼いが瓜を切ったときに出た水で天の川ができてしまう話が多いようです。また中国では織姫が牽牛に会いにゆきますが、日本では万葉集の歌から推測しますと、夜ばいの習慣から牽牛が会いにゆく話に変わっているようです。
こと座の和名   
琴座の和名は
   
熊本地方ではタナバタのオコゲ
   
瀬戸内海ではウリバタケ
   
香川地方ではウリマナイタ
と呼ばれているそうです。
「縦に切れ」の名残でしょうか?。七夕には畑に入ってはいけないと言う話も各地にあるのですが、星座の名称と説話地域が同一であるかの確認がなかなかとれません。
タナバタと有りますのが琴座のベガ、織女星です。その下の5等星の2つの星を合わせて、「織女3星」と言います。この下の2つの星が「タナバタノコドモ」と呼ばれています。更にこの3星にくっついて作れる菱形が「ウリバタケ」と呼ばれるものだそうです。
御伽草子の話の中で、「彦星が川向こうの女性から話を聞きなさい」と言う場面があります。その女性は2人の子供を連れています。
弟棚機
今までの説
今までの説は大体上記のようなものでありましたが、もう少し調べを先に進めようと思います。
夷振り(ひなぶり)の曲
古事記では次のような「曲」が書かれております。
「 天(あま)なるや 弟棚機(おとたなばた)の頸(うな)がせる 玉の御統(みすまる)、御統に 孔玉(あなだま)はや。
み谷(たに) 二(ふた)わたらす 阿遅志貴高日子根(あぢしきたかひこね)の神そ。」
天上のおわします。若い織り姫様が、首にかけておられる玉を連ねた首飾り、その連ねた孔玉の輝くこと!、深い谷を二つも渡って、輝き照らす、阿遅志貴高日子根神でいらしゃる。
織り姫様が
ここで「弟棚機」が出てまいります。何の前触れもなく突然「弟棚機」が出てきます。「弟」は「兄」に対するもので「若い」と訳すのだそうであります。
ここまでのお話はアマテラス・ツクヨミ・スサノヲが登場し、スサノヲがヤマタノオロチを退治し、大国主命(オオクヌシノミコト)が登場し、葦原の中原に神を遣わし、平定しようとする時に読まれたものです。
その後アマテラスの孫であるニニギノミコトでも棚機が出てまいりますが、そちらは「星の悪神」の方にしまして、棚機の考察をしようと思います。

兄に対する弟と考えますと、織り姫は2人以上の姉妹のようにも見えます。しかし「詩」である以上「短く端的に」を考えていたとすれば「弟」は「若い」と考えても良さそうに思われます。(本居宣長・古事記伝十三より)
また牽牛に比して若いと言う考えもあるのかも知れません。
それから織り姫が姉妹であるのはおかしいという説を見つけましたが、中国の天帝の孫娘「北斗あるいは昴」の1人が織り姫である説話がありますので、一概に否定できないと思われます。
前段・後段
この「曲」のおかしな所は、前段・後段が必ずしも一致していないことがあります。
まず後段は、それまでも文脈からいっても妥当でしょう。日本書紀ですと、その前の文章に似ております。
その後段の「輝き」を強調するためか、突然説明もなく「弟棚機」が出てきますが、もし別々の「曲」を融合させたのなら、何故そのような必要が有ったのでしょうか?
棚機(今までの説)
今までの説では「棚機」とは「川に桟敷を渡し、その先に小屋を建てて、そのなかで機を織る又は神を待つ風習」があったとされておりまして、折口氏や野尻氏はこの説を取っておられるようです。そしてそれまで日本に七夕と同じような話があった。とされています。
私は、これは時点の問題である気が致します。つまりこの詩が読まれたときには、もうすでに説話として知られていた。と考えた方が良い様に思います。何故なら古事記・日本書紀が書かれた時代より前の弥生時代ないし古墳時代の「桜ヶ丘5号銅鐸」に描かれております「水辺の西王母」があるからですね。
棚機?
棚のある機(はた)であるわけですから、りっぱな高級機ということでありましょう。奈良時代においても機台に組み立てられたものは「織部司」の独占であったわけですから、地べたに座るような代物ではなく、相当な高級機であることが伺えます。
これを着る人は当然ごく小数であったでしょうから、貴族が着る、又は神事で使うなど、貴重品であったことは確かでしょう。とすれば、・・・とすればなんですが、織り姫の説話を利用しない手はないと思うのです。こう考えると「機の製造者」或いは「織物の技術者」などの、個人ではなく、なにかしらの集団が関与している可能性が有りますね。
日本書記の記述
らちがあかないので、同じ所の「日本書記の記述」を見てみます。
古事記と同じく「死者と生ける者」を間違えてはいけないと言うお話に続いて、同じ歌が詠まれておりますが、織女星(ベガ)が首にかけた「スバル」と解説に有ります。
「玉を連ねた」が「昴」とする解釈のようですね。でも夏の「こと座のベガ」と冬の「おうし座の昴」は位置が離れ過ぎていませんか?
確かに「玉を連ねた」が「昴」は見た目では納得しますが、位置が良くないですね。スバルはそんなに光り輝くって言うんでモナイし・・・
「光輝く」に引っかけたのでしょうか、「金星」という説もあるようです。
謎が広がるばかり、確かなのはこの部分が「出雲神話」に属するって事ですね。
なにゆえ「織姫」は神話に、突如として強引に割ってはいるんでしょうね?
続く歌
日本書紀には、古事記にはない、これに続く歌があり、2つで対の歌になっています。
「 天離(さか)る 夷(ひな)つ女(め)の い渡らす迫門(せと) 石川片淵(かたふち) 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来(こ)ね 石川片淵 」
田舎女が瀬戸を渡り魚を捕るため、石川の片岸に網を張り渡したが、その田舎女が網目を引き寄せるようにこちらへ渡って来なさい。石川の片淵よ
「天離る夷つ女」を田舎女と訳しておりますが、天を隔て遠い所にいる女と直訳すればこれは「織り姫」と解釈する余地はあると思われます。
行動するのは男?
ちょっとはずれますが、諸説には「よばいの風俗」から「男が動くものである」と考えている説も見受けますが、大抵の七夕説話は「織り姫サイド」のお話である事が重要です。若しくは羽衣型や難題型の七夕説話の天女のように、位が高い方は「織り姫」の方です。
天の安の川
天の安の川って他にも出てきますね。「アマテラスとスサノヲが神生みする場面」「天の岩戸事件をどうしようか協議した場所」ですね。
「アマテラスとスサノヲが神生みする場面」は「天の安の川」を挟んであっちとこっちで、話をしますね。これで一時和解しますが、後にアマテラスの機織りの侍女を驚かして殺してしまいますね。牛飼いが犠牲と考えると、スサノヲがどうやって驚かしたのは馬の皮をはいでだし・・・ 機織りは出て来るし・・・なんか七夕ぽいですよね。
星の悪神
五月蝿
さて弟棚機が出てくる「死者と生者を間違えてはいけない」お話の続きで、いわゆる「天国(アマクニ)」が「大国(オオクニ[葦原中原])」を征服するお話となります。
葦原中原には蛍のように光る神。五月蝿のようにうるさい神などの邪神がおり、草や木まで話をするというので誰を遣わしたらよいものかと協議し、神を遣わしますがどうも上手く行きません。
そこで「返矢畏るべし」「雉子の頓使い」の故事の由来が説明されます。それでは次に誰を遣わすか・・・のあとのお話です。
アマノカカセヲ
新たに選ばれた2人の神が交渉の後葦原中原を平定しますが、どうしても服従しない「悪い星の神:香香背男(カカセヲ)」が最後に残りました。
そこで倭文神(シトリガミ)と建葉槌命(タケハツチのミコト)を派遣したらようやく「星の神:香香背男(カカセヲ)」も服従し、この二柱の神は天に昇ったといいます。これを倭文神、斯(シ)図(ト)利(リ)俄(ガ)未(ミ)と言うそうです。
中原を平定するのは現在の香取神宮と鹿嶋神宮の二神です。この二神は伴に軍神であるわけですから、平定するのに疑問はないですね。
星の神が誰の言う事を聞かないと考えると、日神アマテラスの言う事を聞かないとすれば、それは昼でない世界、つまり夜で、その前の文に蛍のように光る神などと書いてあるので、単純に星の事を指すと考えて良さそうですね。
そこで二軍神は倭文神・建葉槌命を派遣するわけです。
倭文神
星をやっつけられるやつ(^^;・・・数が沢山あるものとも類推できそうですが、それらを一網打尽にするには「雲・雨など悪天候」か、それこそ「網」って言う事になりますね。
倭文とは「倭・つまり日本の事」と「文・つまり文様、転じて織物」となるようなので、次頁に譲る事に致します。
葦原中原の平定その後
葦原中原を平定した後アマテラスの孫であるニニギノミコトが地上に降り立ち、下界の平定を完全なものにしていくのですが・・・
ニニギ命は天下りしてじゃなくて天降りし、波打ち際に「八尋殿」を建てて、その中に機を織っている2人の姉妹を見つけました。姉が磐長姫、妹が木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)と言いました。ニニギ命は姉を帰し、妹を迎えたので、姉と父は怒り、ニニギ命の寿命が短くなったと言います。
さて折口氏は「川などに棚を作り、その中で機を織り、神のような尊い方が来るのを待つ、当時の結婚の習慣があった」とされております。これが丁度七夕のお話と似ているので、このお話同士が結びついたと他の例を挙げ書かれております。
水中の織り姫
万葉集などを見ると、当時では「天」と「地」の区別はそれほどなされていないので、天の織り姫と地の棚機は、ほぼ同じと考えられていたと言います。そして川辺で機を織り神を迎えるという考えが次第に廃れ、中国渡来の七夕の話に取って代わられたと言うのが、今までの民俗学の主流であったようです。
また「水中の織り姫」の話も、「天」と「地」の区別と同じように、棚の場所が違っただけの話であるとされていたようです。
簡単にもうしますと「いい加減に覚えていた幾つかの話が、ある部分は消え、ある部分は妙にくっ付いてしまた」と言う事でしょう。
寿命
水は言わば禊(みそぎ)になくてはならないもので、その場所の象徴として「水辺」があると想像できます。ニニギ命は木花開耶姫を怒らせてしまった事により、言わば「水神」の怒りを買い、寿命が短くなったことになります。
これは変だと考えれば変ですね〜。ニニギ命はアマテラスの孫で「三種の神器」を賜って天より降りてきたのですから、「水神」などよりも位は遥かに上であると考えるからです。
う〜んこの項目は「祟り神」を言いたいのでしょうか、それとも「寿命」の事を言いたいのでしょうか。
織り姫が不死の象徴であったとすれば、この話はしっくりきそうな気が致します。ギリシア神話で言えばゼウスと言えどもモイライ(運命の女神)には逆らえないことと同じ理屈です。
民俗学
私が民俗学の本を読む上で注意している事があります。民俗学は明治になり、諸事情によりそれまでの伝承などが急速に失われて行くのを危惧して、それらを書き留めておくことを目的として、発展してきました。しかしそれらは、あくまでも民間に限られてしまいました。それでそれ以外の例えば「XXの神」などの言わば正規の伝承などは殆ど取り扱われない欠点を残してしまいました。
伝言ゲームなどで伝聞は正確に伝わるものではないことは皆さん良くご存知かと思います。それが例えば何百年というサイクルで行われたり、例えば社会的上層から下層へ話が移行した場合を考えれば、民間伝承だけでもとの思想を手繰り出すのは容易な事ではないであろうと言う事です。
古語拾遺
倭文神(しとりがみ)
ここでは「星の悪神」を従わせた倭文神について調べてみたいと思います。
倭文神と言いますのは「倭つまり日本又は日本古来の」の「文は布」の事であるそうです。「倭」「文」が合わさり「シツ」とも読みまして「麻などの繊維で織った布を指し、その模様を(文)」という文字で表したそうであります。
倭文神は「倭文」の祖先神にあたると言います。その「倭文」はその「シツ」を織る職業種族をも意味したといいます。 
古語拾遺より(布作りの部分)
古語拾遺のアマテラスが天の岩窟に隠れ、八十万(やそよろづ)の神が相談し、奉げ物を造るところのお話です。
「 長白羽神(ながしらはねのかみ)が麻の種を植え、 青和幣(あをにきて)と言う、 ささげ物の「少し青みがかった白い麻」を作り 」
長白羽神は伊勢国の麻続(をみ)氏の祖先神とありまして、延喜式の伊勢神宮の神衣祭の項目にも記されている「麻を紡いで伊勢神宮に神衣を奉る氏族」で、現在三重県松坂市井口中町に「皇太神宮所官社・神麻続機殿(かんおみはたどの)神社」があるそうです。
「 天日鷲神(あめのひわしのかみ)と津咋見神(つくひみのかみ)が穀(かじ)の木を植え、 白和幣(しらにきて)と言う、白い繊維(木綿[ゆふ]と言う)を作りました。」
この二神の系譜は不明であるそうです。また、穀(かじ)は・・・ゴタゴタあるのですが、楮(こうぞ)を蒸して皮をはぎ、水にさらした真っ白い繊維を言います。木綿[ゆふ]は「ゆう」を指しまして白いと言う意味があります。
これは榊(さかき)に垂らしたりして使う神具などに使用されます。
古語拾遺より(機織りの部分)
「 天羽槌雄神(あめのはづちをのかみ)は文布(しつ)を織り、」
天羽槌雄神の「羽」は衣服のこと。神代紀の「倭文神建葉槌命(しとりがみたけはつちのみこと)」と書いてあるものに基づいているそうで、神名「建」が「天」となり、「命」が「雄神」となっているのであるそうです。
「 天棚機姫神(あまたなばたつひめのかみ)に神衣(かみむそ)を織らせた。」
天棚機姫神は天界の棚(横板)を付けた機械で機を織る姫の意味。
倭文神
倭文の記述は他にもありまして
天武紀十三年十二月戌寅朔己卯 / 倭文連(シツオリ)に「宿彌」の賜姓があり
万葉集17-4011  / 之都(シツ)
万葉集5-804  / シツ鞍(くら)
万葉集13-3286  / シツ幣(ぬさ)
天棚機姫神
延喜式の伊勢大神宮の四月九日の項に
「 右和妙の衣は服部氏、荒妙の衣は麻績(をみ)氏。各自清斎して、祭月一日より始めて織り造り、 十四日にい至りて祭に供ふ 」
神社
倭文神社
  倭文神社 鳥取県東伯郡東郷町宮内754
  日本の国宝30号
  倭文(しずり)神社蛇祭 奈良市西九条町
  倭文神社秋季例大祭 舞鶴市今田
伊勢神宮
  伊勢神宮
  神社本庁 風土と信仰、伊勢神宮の紹介、神社や祭りについて
葛城神社
  葛城神社 鳴門市北灘町粟田字池谷2
  葛城神社 鳴門市大麻町姫田字大森1
なぜ「倭文」
星の悪神は二軍神から派遣された「倭文神」が説得にあたりますが、それほど強かったのでしょうか? 二軍神がかなわない相手というと「めちゃくちゃ頭が良いか」「むちゃくちゃ数が多いか」ですね。ま〜星の神ならアマテラス(太陽)に逆らっても不思議じゃないですね。
ツクヨミも「月」そのものじゃないんでしょうね。月読命ですから「月を算へる神」で恐らく太陰暦を指すような気もいたしますが・・・
投網
倭文という織物は「帯」「敷物」「鞍」などに使われた丈夫な織物であったようです。
倭文は万葉集などにも「死んだ妻を引き止める」「逃げた鷹をつかまえる」意味で使われており、肥前国風土紀にもヘビ男を捕らえるために、恐らくは倭文と同じであろう、麻の糸が使われております。
つまり強い相手をからめとる網としての役割があるのではないかといいます。
とすれば「星の悪神」は「網で絡めとられた」とも考えられますね。
古事拾遺に天の岩戸の時に、倭文の遠祖アメノハツチヲが文布を織ったのも、闇となり乱れた秩序を織り戻す1つの手段であるとも言えましょう。

葦原中原の神々を征服し最後まで服従しなかったのは「香々背男」で、倭文神は建葉槌命に遣わされ星の悪神を服従しました。
つまり最後まで服従しなかったのは「星々」で、夜空を巨大な布で覆いつくしてしまったということでしょうか。空を覆い尽くすのは「雨雲」で、「雨雲」を司るのが「雷神」で古事記には「建御雷之男神(たけみかつちのをのかみ)」と書かれているので、雷神の命で、倭文神は雲のように広く丈夫な網で、星の悪神を絡めとってしまったというお話に読めますね。

葛城倭文って言いますが、当時の葛城は確か帰化人の集団とも言えなくもないですよね。蘇我馬子が死ぬ前に推古天皇に葛城の地をくれってせがみますよね。推古天皇は先祖からの土地だからあそこは渡すわけにはいかないと言います。
 
七夕の起源・ 七夕の歌

 

七夕の歌
万葉集
宮中で七夕の行事がはじめられたよりも、少し前から七夕の歌が歌われておりまして、万葉集では(2029)で初めて、七夕(なぬかのよ)の歌が読まれているようです。
「 天漢(あまのがわ)梶音聞(かじおときこゆ)孫星(ひこぼしと) 与織女(たなばたつめと)今夕相霜(こよいあふらしも) 」
万葉集でたなばたは他に「織女」と書かれておりますが、新古今和歌集では「七夕」となっています。このことから「七夕」の字は平安時代に当てられたものであることがわかります。(万葉集は「天の川の使い方」で初期と後期の作に分けることができるようです。)
万葉集の倭文と恋の歌
万葉集/巻11-2628
「 古(いにしえ)の 倭文機帯(しつはたおび)を 結(むす)び垂れたれ  誰(たれ)といふ人も 君には益(ま)さじ 」
訳 / 古い昔から倭文機織の帯を結んで垂れ、誰という人も貴方には及びません。
この歌が読まれたときにはすでに「いにしえ」として伝えられていたと言う事なのでしょう。「倭文機織の帯を結んで垂れ」をする人は複数いて、そのなかで誰も貴方に及ばないといっているのですが、「倭文機織の帯を結んで垂れ」が意味不明なので、何が言いたいか良くわかりませんね。
武烈紀
「 大君の 御帯の倭文機 結び垂れたれ  誰やし人も 相思わなくに 」
やっぱり複数の人が同じ考えを持っていたと言うことですね。ま〜帯に使っていたんですから丈夫だってことはわかりますね。
万葉集・巻3-431
「 古(いにしえ)に 在(あ)りけむ人の 倭文幡(しつはた)の  帯解きかへて 伏屋(ふせや)立て  妻問いしけむ 葛飾(かつしか)の 真間の手児名(てこな)が 奥(おく)つ城(き)を こことは聞けど  真木(まきば)の葉や 茂(しげ)りたるらむ
松の根や 遠く久しき 言のみも 名のみもわれは 忘れえなくに 」
訳 / 昔ある男が、倭文機の帯を解き合い、小さな妻屋を立てて、愛を交わしたと言う葛飾の真間にある手児名の墓のことは聞くのだけれど、真木の青葉が茂ってしまっているか、松の根のように遠く久しいことになってしまったのでしょうか。私は言い伝えだけでも、名前だけでも忘れられない。
葛飾の真間は今の千葉県市川市のことで、あっしが生息している船橋市のとなりだがや。手児名のお話は、昔、美しい娘がいたんなな〜も。そんでもって村の若きゃ〜衆が、みんなほれちまって、それはもう大喧嘩。手児名は村の行く末を案じて入水して死んでしまう、おはなしで〜ゴンス。
倭文幡は中国渡来の唐機に対する日本古来の織物ですが、単に「帯を解く」だけのことなのか?それとも倭文幡そのものに意味があるのか? 第一手児名は昔話の通り未婚であるはずだけどな?
解説では「真間」に「国府」が置かれていて織女が集められていたかとあります。