■フィレンツェ絵画からの影響
ローマに落ち着くまでのラファエロは「放浪の」人生を送った。北イタリアの様々な主要都市で絵画を手がけ、フィレンツェでは1504年ごろからかなりの長期間にわたって滞在している。しかしながら、1504年から1508年のフィレンツェの公式記録によれば、ラファエロは常時フィレンツェに居住していたわけではない。また、ウルビーノ公子からフィレンツ行政長官へ宛てた、1504年10月の日付が入った書簡が残っており、「この書簡の持参者はウルビーノの画家ラファエロです。芸術的才能に溢れるこの青年は、フィレンツェでさらなる修行を行うことを決めました。彼の父親は極めて立派な人物であり、私も非常に尊敬しています。その息子は、とても聡明で礼儀正しいことに定評がある青年で、私も彼に大きな愛情を抱いています……」と記されている。
ラファエロはペルジーノのもとで修行していたころから、最先端のフィレンツェ美術を取り入れつつ自身の作風を確立していった。1505年ごろに制作されたペルージャのフレスコ画には、ヴァザーリがラファエロの友人と書いているフィレンツェの画家フラ・バルトロメオの影響を受けたと思われる、新しい作風の人物像が描かれている。しかしながらこの時期にラファエロが描いた作品にもっとも直接的な影響を与えたのは、1500年から1506年にかけてフィレンツェに戻っていたレオナルド・ダ・ヴィンチだった。レオナルドの作品の影響のもとラファエロが描く人物像は、より生き生きとした複雑な姿勢をとったものへと変化していった。ラファエロが描く絵画は未だ平穏なものが多かったが、裸身で争う男性のデッサンなどはフィレンツェで修行を重ねたこの時期に熱中したものの一つである。
ほかにもレオナルドのモナリザを真似たと思われる、斜め前を向いた三角の構成で若い女性を描いたドローイングがあるが、作風は完全にラファエロ独自のものといえる。また、レオナルドが創始した「聖家族」「聖母子」を三角の構成で描く手法もラファエロは取り入れており、この構成で描かれた聖家族や聖母子はラファエロの絵画の中でも非常に有名な作品が多い。イギリス王室のロイヤル・コレクションが所蔵する、ラファエロが模写したレオナルドの『レダと白鳥』(模写が数点残っているが、レオナルドのオリジナルは現存せず)のドローイングがあり、ラファエロの『アレクサンドリアの聖カタリナ』のカタリナのポーズ(コントラポスト)は、レオナルドの『レダと白鳥』に描かれているレダのポーズを真似ている。また、レオナルドが完成したといわれる絵画技法のスフマートもラファエロは自身の技法として昇華しており、微妙な人体表現や人物相互の感情表現として、レオナルドのスフマートよりも自然なかたちで作品に取り入れた。このような最先端の絵画技法を取り入れながらも、ラファエロの作品からペルジーノ由来の柔らかで清澄な光が消えることはなかった。
レオナルドはラファエロよりも30歳年長で、当時ローマで活動していたミケランジェロはラファエロよりも7歳年長だった。ミケランジェロはレオナルドを嫌っており、後年ローマで活動したラファエロのことも自分に対して陰謀をめぐらす若造として更に嫌っていた。ラファエロはすでに多くの作品をフィレンツェで描いていたが、その後数年で全く異なる方向性の作風に移行しつつあった。古代ローマのサルコファガスの装飾彫刻にヒントを得たともいわれる、ボルゲーゼ美術館が所蔵する祭壇画中央パネル『十字架降下』(1507年、(en:Deposition (Raphael)))の画面最前部には、様々なポーズをした人物が多数描かれている。美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンは、ミケランジェロの『聖家族』(1507年頃、ウフィツィ美術館)に描かれている聖母マリアの影響が、『十字架降下』の画面右端でひざまずいている女性に見られるとしているが、その他の人物構成はミケランジェロ、あるいはレオナルドの作風とは全く別物である。完成当初から注目され、後年になってボルゲーゼ家 (en:House of Borghese) によってペルージャへと持ち去られた『十字架降下』はラファエロ独自の作品として評価されている。そして、ラファエロはルネサンス美術の特徴とも言える古典主義への興味を徐々に失っていったのである。
■ローマ時代
1508年の終わりごろにラファエロはローマへと居を移し、結果として残りの生涯をローマですごすこととなった。ラファエロがローマを訪れたのは、ローマ教皇ユリウス2世からの招きによるものであり、おそらくは当時サン・ピエトロ大聖堂の建築を任されていた建築家で、ウルビーノ近郊のラファエロの遠縁ではないかと考えられているドナト・ブラマンテからの推挙によるものだった。ローマ教皇の招致を受けてからも数ヶ月間ローマで逡巡していたミケランジェロとは違って、ラファエロはすぐさまヴァチカンへと向かい、ヴァチカン宮殿のローマ教皇となる専用図書室のフレスコ壁画制作依頼を受けた。このローマ教皇からの絵画制作依頼は、ラファエロにとってそれまでにない程の極めて重要なものだった。専用図書室には複数の部屋があり、すでにほかの画家が弟子たちとともに内部装飾を手がけている部屋もあった。これらの部屋には、枢機卿時代のユリウス2世と激しく対立していた先々代のローマ教皇アレクサンデル6世の出資による壁画や紋章などがすでに描かれていた。ユリウス2世による図書室の装飾は、これらアレクサンデル6世の痕跡をヴァチカン宮殿からすべて消し去ることを目的としていた。
■ヴァチカン宮殿ラファエロの間
4部屋で構成されるヴァチカン宮殿の通称ラファエロの間のうち、最初に手がけられたのは「署名の間」と呼ばれる部屋である。ラファエロが「署名の間」に描いたフレスコ壁画は『アテナイの学堂』、『パルナッスス山』、『聖体の論議』などで、当時のローマ画壇に衝撃をもって迎えられ、現在においてもラファエロの最高傑作とみなされている。残りの3部屋にはすでにペルジーノやシニョレッリらによるフレスコ壁画が描かれていたが、ラファエロはこれらの壁画を上描きすることを命じられた。これら3部屋のすべての壁面、なかには天井にもフレスコ画が描かれているが、制作の進行とともにラファエロ自身がフレスコ画に携わる割合は徐々に減っており、ラファエロが率いていた工房の熟練画家たちが手がけた部分が多くなっている。1520年のラファエロの死去後に完成した最後の「ボルゴの火災の間」では、デザインにもラファエロはほとんど関係しておらず、大部分が工房の画家たちによって描かれた。ラファエロの間の依頼主であるユリウス2世は1513年に死去したが、ラファエロはメディチ家出身の次代ローマ教皇レオ10世ともさらに良好な関係を築き上げ、ラファエロの間の壁画制作も引き続きレオ10世のもとで続けられた。
ラファエロがラファエロの間のフレスコ壁画製作過程において、当時ミケランジェロが手がけていた『システィーナ礼拝堂天井画』に影響を受けていることは明らかである。ヴァザーリの著述によると、1511年にブラマンテがこっそりとラファエロをシスティーナ礼拝堂へと連れていき、ミケランジェロが用いていた足場を解体して天井画で最初に完成していた箇所をラファエロに見せたとなっている。ミケランジェロが描きあげた『システィーナ礼拝堂天井画』は、その後数百年にわたってほかの画家たちを怖気づかせるに十分足る圧倒的な作品だったが、ラファエロは誰よりも早くその影響を自身の絵画に取り入れただけではなく、おそらくは他の誰よりもミケランジェロの作風を昇華できた芸術家だった。『アテナイの学堂』にはミケランジェロの肖像が哲学者ヘラクレイトスとして描かれており、ラファエロの間に描かれているそのほかの人物像にも『システィーナ礼拝堂天井画』に描かれた巫女(シビュラ)や裸体の青年(イニューディ)からの影響が見られる。しかしながら単なるミケランジェロの模倣にはとどまらず、ラファエロ自身の作風とミケランジェロからの影響が渾然一体となった作品として仕上がっている。ただし、ミケランジェロはラファエロが自分の絵画を盗作したと非難しており、ラファエロが死去した後にも「彼(ラファエロ)の芸術に関する知見は、すべて私(ミケランジェロ)から得たものだ」という不満に満ちた書簡を残しているが、当時の第三者からの評価はおしなべてラファエロに好意的なものとなっている。
非常に大規模で、複雑な構成を持つラファエロの間のフレスコ壁画は、古典・古代様式を発展させた盛期ルネサンスの絵画中でも屈指の作品群とされている。イギリス人美術史家マイケル・レヴィー (Michael Levey) はその著書で「ラファエロは自身の作品の人物像に、ユークリッド幾何学のような超人的清明さと優雅さを与えた」としている。ラファエロの間のうち、最初に手がけられた2部屋のフレスコ壁画の質はほぼ完璧といっていいほどに高いが、工房の画家が中心となって完成した残り2部屋のフレスコ壁画については、とくに観る者への訴求力において完全に成功しているとは言えない。
■ローマ時代のそのほかの作品
ローマ時代のラファエロはヴァチカン宮殿ラファエロの間のフレスコ壁画制作に多くの時間をとられていたが、ほかの作品も残している。肖像画では、ラファエロの主要なパトロンだった二人のローマ教皇、ユリウス2世とレオ10世の肖像画が重要で、とくにユリウス2世を描いた作品はラファエロの最高傑作のひとつとみなされている。また、友人であるバルダッサーレ・カスティリオーネの肖像画や、ローマ教皇庁の関係者を描いた肖像画もある。外交手段として他国の君主へと贈呈されたラファエロの作品もあり、フランス王フランソワ1世はナポリ王妃ジョヴァンナ・ダラゴナの肖像画など、ローマ教皇から2点の絵画を贈られた。ただしこの肖像画は下絵となるドローイングはナポリへと遣わされた弟子によるもので、実際の絵画制作もほとんどの部分がラファエロ自身ではなく工房の作品と考えられている。そのほかラファエロは、富裕な銀行家でローマ教皇の財務担当だったアゴスティーノ・キージ(英語版)のために、キージの別宅(現ヴィッラ・ファルネジーナ)の内装フレスコ画のデザインを手がけ『ガラテアの勝利』(1513年、(en:Galatea (Raphael)))などを描いている。また、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会 (en:Santa Maria della Pace) とサンタ・マリア・デル・ポポロ教会 (en:Santa Maria del Popolo) の2つの教会の礼拝堂にフレスコ壁画を描いた。
ローマ時代のラファエロがラファエロの間のフレスコ壁画のほかにローマ教皇の依頼で手がけた、『ラファエロのカルトン』(1515年 - 1516年)と呼ばれる重要な油彩画がある。これはシスティーナ礼拝堂の装飾に使用するタペストリのデザイン画として、聖パウロと聖ペテロの生涯をモチーフにラファエロが描いた連作である。当時10点描かれた作品のうち現存する7点をイギリス王室のロイヤル・コレクションが所蔵しており、現在はロイヤル・コレクションからの貸与絵画としてロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に展示されている。完成した『ラファエロのカルトン』はオランダの芸術家ピーテル・ファン・アールストの工房でタペストリとして織り上げるためにブリュッセルに送られた。おそらくタペストリは1520年にラファエロが死去する直前に完成し、完成したタペストリをラファエロも目にした可能性がある。
ラファエロはヴァチカン宮殿の中庭に通じる長い回廊(ロッジア)のデザインと壁画も手がけており、このロッジアはローマ風のグロテスク様式で装飾されている。また、ボローニャ美術館所蔵の『聖セシリアの法悦』 (1516年 - 1517年、(en:The Ecstasy of St. Cecilia (Raphael)))やアルテ・マイスター絵画館所蔵の『システィーナの聖母』といった重要な祭壇画も残している。ローマで死去したラファエロの遺作であるとともに未完の絵画作品となったのはヴァチカン美術館所蔵の『キリストの変容』(en:Transfiguration (Raphael))) で、1514年から1516年ごろに描かれたプラド美術館所蔵の『シチリアの苦悶』 (en:Christ Falling on the Way to Calvary (Raphael))) とともに、晩年のラファエロの作風が盛期ルネサンスの次の芸術様式であるマニエリスム様式よりも、さらに後期のバロック様式に近いとされている作品である。ただし、マニエリスム様式の定義自体が流動的ともいわれ、ラファエロの作風とマニエリスム様式の関連性については議論の的となっている。
■工房
ヴァザーリの著作によれば、ラファエロは50名に及ぶ弟子や助手を擁する工房を率いており、工房出身者の多くが後に著名な画家となったとされている。これは、バロック期以前のいわゆるオールド・マスターが単独で経営する工房としては最大規模であり、さらにその技術水準も群を抜いていた。ラファエロの工房にはローマ以外のイタリアの都市ですでに名声を得ていた画家もおり、このような画家たちは自身の弟子とともに、一種の下請け工房的な役割を果たしていたと考えられている。絵画作品それ自体を除いて、ラファエロの工房内でどのような役割分担がなされていたかに関する記録はごくわずかで、工房で描かれた作品がどの画家の手によるものなのかを判断することは難しい。
ラファエロの工房出身者でもっとも重要な画家は、ラファエロ死去時に21歳だったローマ出身のジュリオ・ロマーノと、フィレンツェですでに一人前の画家と認められていたジャンフランチェスコ・ペンニである。この二人はドローイングなど多くのラファエロの遺品を譲られており、短かったとはいえラファエロ死去後の工房継続に大きな役割を果たした画家だった。ただし、ロマーノと違ってペンニの画家としての評価は、その後のキャリアのほとんどでロマーノの同等以下の共同制作者しか務めていないこともあってそれほど高いものではない。すでに一定の評価を得ていたペリーノ・デル・ヴァーガ (en:Perino del Vaga) や、ヴァザーリの著作によるとヴァチカン宮殿回廊の建築資材運搬人から画家に転職したとされるポリドーロ・ダ・カラヴァッジオ (en:Polidoro da Caravaggio) も後に著名な画家となった。ダ・カラヴァッジオが画家になるきっかけを与えたマツリーノ・ダ・フィレンツェ (en:Maturino da Firenze) は、その後ダ・カラヴァッジオと共同で絵画制作にあたったが、ペンニと同様に共同制作者の名声の陰に隠れてしまった画家である。ジョヴァンニ・ダ・ウディーネ (en:Giovanni da Udine) はラファエロの工房時代にも独立した仕事を任されていた画家で、化粧漆喰装飾とフレスコ壁画の周りのグロテスク装飾の責任者でもあった。ラファエロの死後、その工房に集っていた画家の多くは四散し、なかには1527年のローマ略奪時に命を落とした画家もいる。しかしながら、四散したラファエロ工房出身者たちによって、イタリア全土のみならず諸外国にまでラファエロの絵画様式が伝播したことは間違いない。
ヴァザーリはその著作で、ラファエロが非常に協調的かつ効率的な工房を経営していたことと、パトロンや助手たちの問題点、議論をまとめる驚くべき技量を有していたことをあげ、ミケランジェロが常にパトロンや助手と仲違いしていたこととは好対照だとしている。ペンニやロマーノといった弟子たちは十分な絵画技術を持っており、絵画作品において優れた弟子が手がけた箇所とラファエロ自身が手がけた箇所とを見分けることは難しいこともある。しかしながら、ラファエロのキャリア後期における多くのフレスコ壁画や油彩画は、そのデザイン構成に特筆する点があるのであって、誰が作品に仕上げたかは重要な要素ではない。ラファエロが描いた肖像画は、保管状態が適切であれば細部にわたるまでそのきらめくような色彩をラファエロの存命中に失うことはなかった。
そのほか、ラファエロの工房出身者で名前が知られている芸術家として、画家ではラファエリーノ・デル・コッレ (en:Raffaellino del Colle)、アンドレア・サッバティーニ (en:Andrea Sabbatini)、バルトロメオ・ダ・バニャカヴァッロ (en:Bartolommeo Ramenghi)、ペレグリノ・アレトゥージ (en:Pellegrino Aretusi)、ヴィンチェンツォ・タマーニ (en:Vincenzo Tamagni)、バッティスタ・ドッシ (en:Battista Dossi)、トンマーゾ・ヴィンチドール (en:Tommaso Vincidor)、ティモテオ・ヴィティ (en:Timoteo Viti)、彫刻家、建築家ではロマーノの義兄弟ロレンツェット (en:Lorenzetto) らが挙げられる。また、フランドル人画家ベルナールト・ファン・オルレイがラファエロの弟子だったとする説もあり、ジャンフランチェスコ・ペンニの弟ルカ・ペンニもラファエロ工房出身だったともいわれている。
■私生活と最晩年
ラフェエロはボルゴ (en:Borgo (rione of Rome)) の、ブラマンテが設計した宮殿のように豪奢なカプリーニ邸 (en:Palazzo Caprini) を住居としていた。ラファエロは生涯結婚していないが、1514年に枢機卿メディチ・ビッビエーナの姪にあたるマリア・ビッビエーナと婚約はしている。この婚約は個人的にも友人だったメディチ・ビッビエーナに押し切られた結果と考えられており、ラファエロ自身はあまり気乗りがしないものだった。その後マリア・ビッビエーナは1520年に死去し、婚礼は行われないままとなっている。一方でラファエロは多くの女性と関係を持っていたといわれており、中でもローマ時代のラファエロにつねに寄り添っていたのが、シエーナ出身のパン職人フランチェスコ・ルティの娘「パン屋の娘 (La Fornarina)」マルガリータ・ルティである。
ラファエロはローマ教皇の近侍 (en:Valet de chambre) の地位についており、これは教皇庁内での高い地位と俸給を伴うものだった。さらにローマ教皇黄金拍車勲章 (en:Order of the Golden Spur) を授与されナイト爵位も所有していた。ヴァザーリはラファエロが枢機卿になるという野望を抱いていたのではないかと推測しており、おそらくローマ教皇レオ10世からそのような仄めかしがあったことも、ラファエロが結婚をためらっていた理由の一つではないかといわれている。
ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』によれば、ラファエロが夭折したのは「聖金曜日」(1520年4月6日)のことで、この日はおそらくラファエロ37歳の誕生日である。マルガリータ・ルティとの過度な情事が原因で熱病に罹患したが、体調を崩した理由を主治医に説明しなかったために誤った治療を受けたことが死因だとしているが異論も多い。直接的な死因はどうであれラファエロの病状は急速に悪化し、15日間の闘病の末に一時的に小康状態を取り戻して臨終の秘跡を受け、最後の告解を行った。口述した遺言には、残される愛人のために基金を設置してバヴィエラ出身の忠実な下僕にその基金運用を委託することや、工房の所蔵物の多くをジュリオ・ロマーノとジャンフランチェスコ・ペンニに遺贈することなどが含まれていた。そして死去したラファエロの遺体は、遺言通りにローマのパンテオンに埋葬された。
ラファエロの葬儀は多くの弔問客が押し寄せる非常に壮大なものだった。ラファエロの遺体が納められた大理石の石棺にはピエトロ・ベンボによる哀悼詩が二行連で刻まれている。
「著名なラファエロここに眠る。生前には万物が凌駕されることを畏れ、死ぬ間際には万物がその死を恐れた。」