Gustav Klimt

1862-1918 
オーストリアの象徴主義の画家。 女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる。また、「ファム・ファタル」(宿命の女)というのも多用されたテーマである。「接吻」に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。
 
 
1862年ウィーン郊外に生まれる。弟エルンストと共にウィーンの工芸学校に学ぶ。卒業後、すぐにプロの芸術家としての活動をはじめる。エルンスト、フランツ・マッチェと共に「芸術家協会」を結成し、主に劇場装飾の仕事を請負っていた。
 
 
「ユディトI」1901年1894年、すでに装飾家として名声を得ていたクリムトはウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼される。「学部の絵」と名づけられたこの天井画は「哲学」「医学」「法学」の3部からなる。人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3枚の絵は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。
 
 
この事件をきっかけに、1897年ウィーン分離派を結成する。分離派は古典的伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループで、クリムトは初代会長を務めた。分離派からは後にエゴン・シーレ(Egon Leo Adolf Schiele - 1890-1918)、オスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka, 1886-1980)などを輩出している。クリムトは内部の対立から1905年分離派を脱退。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 
   
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
グスタフ・クリムト 
(Gustav Klimt, 1862-1918) 世紀末ウィーンを代表する帝政オーストリアの画家。
 
生涯  1
グスタフ・クリムトは1862年にウィーン郊外のバウムガルテン(ペンツィング)に生まれた。父エルンストはボヘミア出身の彫版師、母アンナは地元ウィーン出身であり、クリムトは7人兄弟の第2子であった。1876年に博物館付属工芸学校に入学した。後に弟のエルンスト・クリムト(ドイツ語版)とゲオルク・クリムト(ドイツ語版)もこの学校に学び、それぞれ彫刻師、彫金師となってクリムトの作品を飾る額の設計をおこなっている。工芸学校でクリムトは石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けた。
1879年にクリムトは弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチュ(ドイツ語版)と共に共同で美術やデザインの請負を始めた。ハンス・マカルトの影響を受け、1884年にマカルトが死去すると、クリムトは彼の継承者と見なされた。
卒業後に3人は芸術家商会 (Künstlercompagnie) を設立した。劇場装飾を中心とした仕事はすぐに軌道に乗り、フィウメ、ブカレストなどへも派遣されるようになった。1886年から1888年まではウィーンのリングシュトラーセ(リンク大通り)沿いに建てられたブルク劇場の装飾を引き受けており、この功によって後に金功労十字賞を授与されている。ウィーン市からの依頼を受け1888年に製作した『旧ブルク劇場の観客席』は観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描き第一回皇帝賞をうけるなど高く評価された。同じくリングシュトラーセ沿いの美術史美術館でも装飾の仕事を行っている。ウィーン美術界における名声を確立したクリムトは、1891年にクンストラーハウス(ウィーン美術家組合)に加入した。1893年に早くもウィーン美術アカデミー教授への推薦をうけたが、結局任命されることはなかった。1892年には父と弟のエルンストが死去している。
装飾家として名声を得ていたクリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、『哲学』、『医学』、『法学』の『学部の絵』3点を担当することになった。人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3作は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。1896年に提出された構成下絵を見た大学関係者により行われた抗議は一旦は沈静化したものの、1900年と1901年に『哲学』および『医学』がそれぞれ公開されたことで論争が再燃し帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展した。あまりの論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。美術館および個人に売却された3枚の絵は後にナチスによって没収され、1945年にインメンドルフ城において、親衛隊が撤退する際の放火により、没収された他の作品と共に焼失している(白黒写真および『医学』の習作が現存)。
この間、1897年に保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌った芸術家達によってウィーン分離派が結成された。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めている。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。
クリムトは1902年の第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品したが反感を買う。この作品は長年行方不明となっていたが、1970年にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在ではセセッション館(分離派会館)に展示されている。
翌1903年の第18回分離派展ではクリムトの回顧展示が行われた。この展覧会ではじめて出品されたのが、当時のクリムトが置かれた状況を映し出す『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903、愛知県美術館蔵)である。
1903年にヨーゼフ・ホフマンらによって設立されたウィーン工房にクリムトは強い関心を示していたが、この団体に対しては美術の商業化であるとの批判が分離派内部からもなされていた。写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は1905年に分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。
後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作などを行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。1910年代には作品も少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風から脱却していった。1918年、ウィーンで脳梗塞と肺炎(スペインかぜの症状悪化により発病)により死去した。ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されている。
クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったという。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。著名な愛人はエミーリエ・フレーゲ(ドイツ語版)であり、最期の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」であった。エミーリエはクリムトの死後にクリムトと交わした手紙をほとんど処分し生涯独身を貫いている。
生誕から150年がたった2012年9月30日、晩年に創作活動を行ったアトリエが再現された。
 
生涯 2
若き日々
グスタフ・クリムトは今から150年前の1862年7月14日、中流の貧しい家庭の7人兄弟の第二子としてウィーン郊外のバウムガルテンで生まれました。子供時代から青年時代は、ちょうど19世紀のドイツ・オーストリアにおける経済繁栄と大型建築物建造の全盛期であるグリュンダーツァイト(Gründerzeit)の時代と合致しています。それはちょうど、リンク通りプロジェクトの巨大建築物の建設が、最終段階に入ったばかりの頃です。経済的苦難をよそに、クリムトは円満な家族の中での生活を謳歌し、兄弟たちは生涯仲の良い緊密な関係を保っていました。家族との楽しい時間は割かれる事になりましたが、才能あるクリムトは応用美術大学の前身であるウィーンの美術工芸学校(Kunstgewerbeshule)に入学させられました。間もなく彼は、新しいリンク大通りの建築物の外装デザインの仕事をする芸術家たちの仲間入りをすることになります。
1880年代初頭には、弟のエルンストとフランツ・マッチェの3人で芸術家商会「キュンストラーカンパニー」を設立し、以後10年間彼らはウィーンおよびオーストリア・ハンガリー帝国全土に渡る数多くの建物の壁画と天井画の制作を委託されます。1892年、芸術家商会は弟エルンスト・クリムトの死によって崩壊しますが、グスタフ・クリムトは芸術的にはすでに古いインテリア装飾のスタイルからは脱却していました。ジグムント・フロイトが画期的な精神医学の論文を出版していた世紀末前後のウィーンでは、芸術もまた新たなる方向を模索していました。象徴主義の影響の下、クリムトは感情の暗部と希望に満ちた幻想的なイメージによって明確化される、魂の心象を表現するための新しい形式言語を探し求めていました。
ウィーン分離派
1897年、クリムトは伝統的な美術から分離し、新しい造形表現を主張する芸術家集団、ウィーン分離派の創始者の一人となりました。クリムトは分離派の初代会長に就任し、突然世間の脚光を浴びることとなります。市街のカールスプラッツにあるセセッシオン(分離派会館)は、新しい芸術運動の展示会場となりました。この時期は、クリムトの一連の事件の中でも1900年に物議の頂点を迎えた、いわゆる「学部の絵」と呼ばれるウィーン大学の大講堂に描いた天井画三部作によって、オーストリアの芸術界が最もスキャンダラスな出来事を目の当たりにした時代でした。1902年に第14回分離派展覧会(ベートーヴェン展)のためにクリムトが描いた大作「ベートーヴェン・フリース」は、装飾性を優先することを特色とした、新しい創造性の時代の幕開けを示しています。また、技巧的には、金箔の使用量が増え始めた頃の作品で、クリムトの代表作「接吻」(1907年〜1908年)でその特徴は頂点を迎える、いわゆる「黄金の時代」の始まりを告げるものでした。
モダンアートのパイオニア
クリムトは一生独身を通し、何人かの女性との間に子供をもうけていますが、ウィーンでモデルの衣裳をデザインするモードサロンのオーナー、エミーリエ・フレ−ゲこそがクリムトの生涯の伴侶でした。また、クリムトの最も有名ないくつかの風景画のモチーフともなり、ほとんど毎年夏に訪れていたアッターゼー湖のことを、彼に教えたのもフレーゲでした。
30年に及ぶ集中的な創作活動と、数多くの栄光、そして、評論家たちとの激しい対立の後に、グスタフ・クリムトは脳梗塞に倒れ、肺炎のため1918年2月6日享年55歳でこの世を去りました。彼の亡骸はウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されています。
グスタフ・クリムトは自分の作品のこと以外、自身についてはあまり語りたがりませんでした。輝かしい仕事の成功にも関わらず、クリムトは社会生活の中では自信が持てませんでした。彼はいつも青いスモック(仕事着)を身にまとい、頭髪は乱れ、出身地訛りのある身分の低い人の言葉遣いで話しました。オーストリアの皇帝からは勲章を授与されていましたが、クリムトは上流階級から無視されていました。彼は富裕な上流市民を顧客とした画家であり、その特徴は女性の肖像画に最も顕著に表現されています。
クリムトには、新しいアートトレンドに対して開放的なユダヤ人のパトロンが何人もいました。クリムトの人生は、オーストリアの作家ヘルマン・ブロッホが「陽気な黙示録」と呼んだ時代と合致しています。クリムトはこの両面性と激動の時代を、芸術的な探査と解釈のための題材として捉えていました。彼の没年である1918年は、重要な転換期を象徴する年です。この同じ年に数多くの気の合う仲間たち、例えばオットー・ワグナー、コロマン・モーザー、エゴン・シーレらが他界しただけではなく、この年はオーストリア・ハンガリー帝国が滅亡した年でもありました。その後、経済的苦難の時代を迎え、世紀末の記憶は色あせていきました。さらなる転換期がナチスによる恐怖の時代によって訪れ、クリムトのパトロンであった多くのユダヤ人の家族たちが、この恐怖の時代の犠牲となり、あるいは、国外亡命を余儀なくされました。
 
作風
女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる(若い娘の遺体を描いた作品もある)。また、「ファム・ファタル」(宿命の女)というのも多用されたテーマである。『接吻』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。
クリムトは、同時代の多くの芸術家同様、日本や東アジアの文化の影響を強く受けている。日本文化への深い傾倒は、甲冑や能面などの美術工芸品を含むプライベートコレクションからも明らかで、1900年分離派会館で開かれたジャポニズム展は、分離派とジャポニズムの接近を象徴するイベントであった。特に浮世絵や琳派の影響は、クリムトの諸作品の基調あるいは細部の随所に顕著に見て取れる。
クリムトはかなりの数の風景画も残している。殊にアッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスを愛用し、平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらすものである。
 
ユーゲントシュティール
アールヌーボー、モダン・スタイル、自由なスタイル、モダニスモ、セセッシオンなど、ユーゲントシュティールと関連したトレンドは国際的な現象でした。それらは、伝統的な19世紀の"創始者の時代"Grüderzeitのフォルムを拒絶する運動と理解されていました。それは新しく、新鮮で官能的な芸術が出現する時代でした。自然をお手本として厳密にそれを順守すると同時に、深く、隠された情緒的な状態を視覚的に表現できるようにすることを追求しました。生活のすべての側面を網羅するような芸術を目指し、建築とビジュアル・アートの芸術統合(Gesamtkunstwerk)を創造するために懸命に努力することでした。ヨーロッパの中で最も大きなメトロポリスであるウィーンが、ユーゲントシュティールを代表する重要な中心地でした。
近代的アプローチ
美術史おける世紀末最大の統一された様式運動による影響を、ウィーンのように現在も色濃く残している都市は、ほんの一握りしかありません。オットー・ワーグナー、ヨーゼフ・ホフマン、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、アドルフ・ロースらが設計した建物を、街のそこここで見ることがでます。シュタインホーフにある教会、郵便貯金会館、セセッシオン会館(分離派会館)などの建物はすべて、様式運動が目指した芸術統合の影響が見られます。
ユーゲントシュティールは、工業施設や高架鉄道システム、別荘、教会から、バーやコーヒーハウスのインテリア・デザインに至るまで、ありとあらゆる建築と芸術の形式を網羅しています。総合的な「生活スタイルの変革運動」として、日常生活のすべての側面に浸透し、高級芸術と低級芸術の境界、および、フリーアートと美術工芸の垣根を打ち破りました。このようにして、ユーゲントシュティールは新生モダニズムのための重要な推進力となったのです。
ウィーン分離派
分離派として知られていた芸術家組合の会長グスタフ・クリムトは、ユーゲントシュティール運動の正に中心を担っていました。普段は寡黙でしたが、彼はこの組織の演説者であり、精力的な主催者であり、将来を嘱望された才能を持った若き芸術家たちの後援者でした。
また、クリムトは誰もが認めるこの運動全体の象徴である、1907年から1908年にかけて制作された世界的に有名な「接吻」を含むユーゲントシュティール運動の重要な作品の創作者でした。際立って質の高い特徴をもったウィーンのユーゲントシュティールは、芸術的な伝統に深く根差していると同時に、他のヨーロッパの関連した運動のように、自身の制作にヨーロッパ以外の芸術の要素を果敢に取り入れていきました。クリムトにおいては、アジアの芸術に多大な影響を受け、また、ラヴェンナのモザイクの発見によって得た新たな刺激を、自分たちの芸術運動に取り入れていきました。彼の絵画では、色とフォルムと線の要素のそれぞれを、具象描写の物語から解き放ち、それ自体を象徴と抽象に発展させました。すなわち、グスタフ・クリムトの制作作品は、モダニズム抽象画の重要な先駆を代表するものです。  

   
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。