お正月・初詣

 

門松のはなし年末年始の行事五色獅子シシ踊りと鹿供養日中の正月風俗除夜の鐘年越しの祓の女神・・・ 
 
【正月】1 正月という言い方は中国暦(旧暦)の1月の呼称からきており(今では元の旧暦の1月を旧正月と呼び変えている)、本来は1月の1ケ月間をさしているが、いつか松の内に変わり、現在では1月1日〜3日までの3日間をさしていう。日本では、古くから季節の筋目に祖霊祭(御霊祭、魂祭り)と言って、先祖を奉り家内安全と五穀豊穣を神に祈願する習慣があり、特に正月は神の祭りごとの行事として、盆が仏教の孟蘭盆会(うらぼんえ)と重なって仏教の祭りごとの行事として盛大に行われてきた。
【正月】2 元旦は年の最初の日「元日(1月1日)の朝」のことを言うが、現在は元日そのものを表わす言葉として元旦が用いられている。正月の最初の日(第1日目)のことを言いう、正月3日間のことを「元三日」(がんさんにち/年の初めの3日間との意)といい、「旦」は朝や明け方という意味で「年が明けた3ヵ日の最初の日」ということを表している。年の初め・月の初め・日の初めであることから「三始(さんし)」とも言われる。 
前年に身内に不幸があった場合、喪中と言って年賀状や正月の行事も控え目にする習慣がある。これは江戸幕府が制定した喪に関する法令の服忌令(*1)が根源である。 
(*1)服忌令/故人が両親・兄弟姉妹・子供・祖父母・孫のいずれかによって、それぞれの服喪(*2)期間と忌中期間を定めたもので、明治以降の新政府にも受けつがれ、その内の両親の規定である服喪期間が13ヶ月・忌中期間が49日が現在に定着し、忌明けを49日としている。 
(*2)服喪/喪に服してできるだけ外出などを控え身を慎むことを言うが、服喪期間が13ヵ月間というのは、仏教における風習(故人の逝去の前月を入れて計算する)から向こう1年間ということになる。喪中として年賀状を控えるのは、その期間にかかるお正月のご挨拶。 
初詣  本来は大晦日の夜半(または元日の早朝)に、恵方参りと言って恵方(えほう/その年の歳徳神の方角)に位置する社寺に詣でる習慣があった。現在では大晦日にお寺に参拝して除夜の鐘を聞き、その足で神社に詣でる人が増えつつある。一般的には正月3ヶ日間のいずれかに1年間の厄払いと無病息災を願って、地域の神社に詣でることが多いようだ。
【正月】3 お正月といいますと、新しい年を祝うお祭りのようにも思われますが、本来はお盆と同じように、ご先祖様をお迎えし、ご供養する宗教的な意味合いが含まれているのです。 
「月籠(つごも)りの夜、亡き人の来る夜とて、魂祭(たままつ)るわざは、この頃にはなきを、東(あずま)の方には、なほすることにてありしこそ、あわれなりしか」 
これは徒然草(つれづれぐさ)に見られる大晦日(おおみそか)の様子ですが、このように昔はお正月にもご先祖様を迎えてともに一年の幸せを願ったものとされていました。 
初詣、門松、しめ飾りなど昔から慣れ親しんだお正月の風物詩にもそういった意味が込められているのです。だれもが最も日本人らしさを感じることができるのがお正月だといえます。 
ところでよく「一年の計は元旦にあり」といいますが、ご先祖様をお迎えしているよい機会でもあります、仏様に向って今年一年の目標をたててみてはいかがでしょうか。それも澄みきった清らかな心でたてることが大切です。 
「悪い行いはせず、善い行いをして、自らの心を清く保ちなさい」ということが、いろいろなお経に説かれる仏様の教えのもとなのです。自分のことより他人の幸せを願えるようになることが、仏様のみこころに添うことになるのです。そうすればご先祖様も必ず喜んでくださるでしょう。 
さあ、晴れ晴れとした気持ちで新年を迎えましょう。まずは家族そろって菩提寺にお参りします。仏様やご先祖様はいつも変わらぬ清らかな姿で迎えて下さいます。 
「昨年はありがとうございました。今年もどうぞ見守っていて下さい」 こんなふうに家族そろって感謝し、手をあわせたいものです。
【除夜の鐘】 十二月に入り年の瀬を迎える頃になりますと、行く年を振り返って、名残惜しい気持ちになります。「これで、今年も過ぎて行くのか」と、感慨(かんがい)に耽(ふけ)ってしまう日でもあれば、「明くる年はいい年であるように・・・」と多幸を望む転換区切りの大晦日(おおみそか)の一日でもありましょうか。 
その大晦日・元旦の一日は、今日の一日と過ぎ行く時は同じなのですが、心の面では、大きなけじめの一日なのですね。今年と来年の狭間(はざま)で人生を思う心にあの「除夜(じょや)の鐘(かね)」は響いてきます。大晦日の深夜から元旦にかけて百八の鐘が撞(つ)かれますが、これは、百八の煩悩を除去して清らかな新年を迎えるためです。なぜ百八なのかという理由はいくつかあるようで、俗説では、四苦(四×九=三六)と八苦(八×九=七二)の和(合計)が百八だから、などといいます。人間が持っている煩悩(ぼんのう)ははかりがたく沢山あるということです。煩悩とは、私たちの心身を苦しめ、煩わす心の働きのことですが、その元(もと)になる作用は三毒(さんどく)といって、貪欲(とんよく、むさぼり)、瞋恚(しんに、いかり)、愚癡(ぐち、おろかさ)の三つに集約されます。この三種の毒は、心を病ませ、正しい判断を狂わせてしまいますから、除夜の鐘は、その病んだ心に反省を促しています。「反省のあるところには必ず進歩がある。」そう信じて撞かれる鐘の余韻に耳を傾けたいものです。鐘の音は、なにかを心に響かせてくれる筈。 
今年は殊(こと)のほか悲しい出来事が多い一年でした。明くる新しい年は良い一年でありますように。  
【初】はつ はじめてであること。最初。 
【初詣】正月その年初めて神社や寺に参詣すること。はつまいり。 
【初参】はつまいり=はつもうで(初詣) 
【初日】はつひ 元日の朝日。初日の出。 
【初明】はつあかり 正月元日の曙光。 
【初商】はつあきない 新年になってはじめての商売。はつうり。売りぞめ。 
【初朝】正月元日の朝。 
【初市】年のはじめにひらく市。ふつう正月二日に行う。 
【初売】新年はじめての売り出し。はつあきない。売りぞめ。 
【初買】はつがい 正月二日にその年初めての買物をする。かいぞめ。新年になって初めて遊女を買う。正月買い。 
【初湯】生まれた子どもを初めて入れる湯。産湯(うぶゆ)。新年最初の入湯。正月2日の入湯。初風呂。
【初夢】年の初めに見る夢。節分の夜から立春の明けがたに見る夢。大晦日の夜から元日の朝にかけて見る夢。正月元日の夜の夢、また2日の夜の夢。 
【初夢合】初夢を判じて吉凶を占う。 
【初礼】はつれい 年頭の礼。他家に縁づいている者が正月に実家におもむいて礼を述べる。 
【初若水】元旦にくむ若水。 
【初空】はつそら はじめてその季節らしくなった空。元日の空。正月の空。 
【初雀】元日の朝の雀。元旦の雀のさえずる声や飛び回る姿。 
【初硯】はつすずり 新年になって初めて硯を使って文字を書く。書きぞめ。 
【初手水】はつちょうず 元日の朝初めて若水で手や顔を洗い清める。手水始め。 
【初鶏】はつとり 元日の朝一番に鳴く鶏。明け方の最初に鳴く鶏。一番どり。 
【初凪】はつなぎ 正月元日のなぎ。 
【初風呂】正月二日新年初めてはいる風呂。初湯。
【初姿】新年のよそおいをした姿。新しいよそおいをした姿。初めてのういういしい姿。 
【初荷】正月の商いはじめの日に問屋または商店から車馬に商品を積んで飾りたてて初出荷すること。その季節に初めて出荷すること、その商品。 
【初場所】毎年1月に東京の国技館で興行する本場所の大相撲。一月場所。 
【初狂言】新年に初めて演ずる歌舞伎狂言。初芝居。 
【初暦】はつごよみ 新年になって初めて暦を用いること。 
【初釜】新年に初めて茶の湯の釜をすえること。新年最初の茶事。初茶湯。
【初竈】はつかまど 新年に初めてかまどに火をたきつける。 
【初髪】はつかみ 新年に初めて結いあげた女性の髪。 
【初卯】はつう 正月の最初の卯の日。この日に行う初卯詣(はつもうで)。 
【初卯詣】はつうもうで 初卯の日に東京では江東区亀戸にある亀戸天神社内の妙義社、大阪では住吉区住吉町にある住吉神社などに参詣すること。卯の札という神符を受けるならわしがある。初卯。 
【初仕事】その年に初めてする仕事。初めて一つの仕事をすること。 
【初芝居】新年になって初めて興行する演劇。初狂言。俳優が初めて舞台に立つこと。初舞台。 
【初刷】はつずり 最初に刷ること、その印刷物。初版。新年になって初めての印刷。1月1日付けの新聞をさすこともある。 
【初席】新年初めて寄席を開く、その寄席。 
【初立会】取引市場で新年になってはじめての立会い。
【初懐紙】はつかいし 新年に初めて懐紙に書きしるす連句。 
【初霞】新年になって初めて野や山にたなびく霞。 
【初風】その季節の初めに吹く風。多く、秋の初めに吹く風にいう。初秋風。 
【初袷】はつあわせ その年はじめて袷を着ること。衣がえで陰暦4月1日から冬衣を袷と着がえた。 
【初色】若々しくて美しい女性。年ごろの美しい娘。初めての恋愛。初恋。 
【初霰】はつあられ 冬になってはじめてあられの降ること。 
【初嵐】陰暦7月の末から8月の中ごろまで吹く嵐。立秋後はじめて吹く強い風。 
【初名月】陰暦8月15日の夜の月。後の月(9月13日夜の月)に対していう。芋名月。 
【初元結】はつもとゆい 元服のとき髪を結ぶのに用いた紫色の組みひも。元服すること。 
【初物】その季節になって初めてできた穀物・野菜・果物。あるいは盛りの季節に先がけてとれた走りの魚類など。 処女または童貞。
【初物食】初物を好んで食べる。新しいものを好んで手に入れる。処女ばかりをねらう好色家。 
【初紅葉】秋の時節になって初めて色づいた紅葉。はつもみじば。襲(かさね)の色目の名。表は萌葱(もえぎ)で、裏は薄萌葱のもの。初潮。 
【初役】初めての役。俳優が初めてついた役。初めて演じる役。 
【初山】はつやま 霊山などにその年初めて登ること。 
【初山入】はつやまいり 新年にその年はじめて山に入って儀式的に木を伐り山の神に供物を上げる。初山。 
【初槍】はつやり 敵陣へ槍を振るって一番に突っ込む。一番槍。 
【初雪】その年の冬初めて降る雪。新年になって初めて降る雪。襲(かさね)の色目の名。表は白く裏は白の少し曇ったものか紅梅のもの。 
初雪の見参(げんざん) 中古、初雪の降った日に宮中へ群臣が参内すること。その儀式。
【初夢漬】甘く塩おしした茄子(なす)を辛子(からし)と麹(こうじ)で漬けたもの。 
【初許】はつゆるし 師匠から最初の段階の免許を受ける。諸種の芸道について用いられる。初伝。 
【初若草】初めて芽を出した若草。 
【初若菜】はつわかな 初めてはえ出た若菜。初めて摘みとった若菜。 
【初緒】はつお 棹秤(さおばかり)の第一の緒。目方のもっとも軽い物をはかるのに用いる。 
【初穂・早穂・最花・初尾】はつお・はつほ その年になって初めて実った稲の穂。その年初めて出た草の穂。農作物のその年最初にできたもの。神仏や朝廷などにたてまつるその年最初に収穫した野菜、穀物などの農作物。神仏へ奉納する金銭、米穀。おはつお。赤ん坊が初めて食べる食物。少しばかりのもの。
【初老】はつおい 40歳の異称。しょろう。 
【初尾花】はつおばな 秋になって初めて穂の出た薄(すすき)。初花薄。 
【初会】はつかい・はつがい その年になって初めての会合。 
【初鰹】初夏のころ最初に市場に出た鰹。特に江戸で珍重された。 
【初鉄漿】はつかね 江戸時代、女子が初めて鉄漿(かね)をつけること。 
【初雷】その年初めて鳴る雷。 
【初刈】はつがり 稲などの穀物をその年初めて刈り取る。新年などに初めて髪を刈ること。 
【初雁】秋にその年初めて北方から渡って来る雁。はつかりがね。 
【初狩】はつがり その年の狩猟期にはいって初めて行う狩り。初猟。
【初草】はつくさ 春の初めに萌え出る草。若草。幼い子などをたとえていう語。 
【初下】はつくだり 初めて都から地方へ行くこと。 
【初稽古】芸能・技芸などの最初のけいこ。新年になって初めてのけいこ。 
【初化粧】女性が新年になって初めて化粧すること。初鏡。山などに初めて雪が降り積もる。 
【初子】はつご 最初に生まれた子。初めての子。 
【初恋】はじめて異性への恋の気持を起こすこと。はじめての恋。「初恋の人」 
【初庚申】はつこうしん その年の最初の庚申(かのえさる)の日。この日には帝釈天に詣でる習慣がある。
【初声】はつこえ 新年になって初めて聞く声、音。鳥・虫などのその季節季節になって初めて鳴く声。子どもが母胎から生まれ出て初めて泣く声。うぶ声。 
【初氷】はつごおり 冬になって初めて張る氷。 
【初桜】その年になって最初に咲く桜の花。咲いて間もないころの桜の花。初花。 
【初酒】醸造してから初めて用いる酒。醸造したての酒。 
【初申】はつざる 陰暦2月の最初の申の日。奈良の春日神社では祭礼が行われる。 
【初産】はつざる 初めて子を産むこと。ういざん。 
【初潮】はつしお 製塩のとき初めてくむ海水。潮が満ちてくる頃に最初にさしてくる潮。陰暦8月15日の大潮。葉月潮。初潮(しょちょう)の訓読み。
【初入】はつしお 染物のとき最初に一度染め液の中に入れてひたすこと。ひとしお。草木の葉が色づきはじめること。春になって萠(も)えはじめたり、秋に黄葉しはじめたりすること。涙のため衣服の袖(そで)の色が変わること。嘆き悲しむさま。 
【初入衣】はつしおごろも 初入染めの衣服。 
【初入染】布地などを染料をといた液に最初につけて染め上げる。 
【初時雨】はつしぐれ その年に初めて降る時雨。 
【初霜】その年の秋の末に初めて降りた霜。はやじも。 
【初霜月】はつしもづき 陰暦10月の異称。 
【初瀬・泊瀬】はつせ 香木の名。はなやかで艶があり重々しく匂うという。 
【初聖体拝領】はつせいたいはいりょう カトリック教会で初めて聖体を拝領すること。初聖体ともいう。
【初節供】はつぜっく 生まれて初めての節供。男子は5月5日、女子は3月3日。 
【初蝉】その年に初めて鳴く蝉。 
【初空月】陰暦正月の異称。 
【初田】はつた 新しく切り開いた田。新田。はじめて稲を刈り取る田。 
【初大師】はつだいし その年はじめての弘法大師の縁日。1月21日。 
【初鷹】はつたか 秋になって夏に抜けた羽毛がはえそろい、はじめて鳥屋(とや)から出す鷹。 
【初茸】はつたけ 担子菌類ベニタケ科のきのこ。日本特産で、夏から秋にかけ、アカマツ林内の地上に発生する。全体は淡赤褐色、傷つけると青藍色に変わるため、普通は所々がしみになっていることが多い。傘は径3〜15cmで濃色の環状紋があり、初め扁平、のち縁はやや下に巻くが中央がくぼみ、漏斗状になる。柄は中空で、太いがもろい。広く食用とされる。和名は、秋の早い時期に採れるところからという。あいたけ。
【初棚】はつたけ 新盆のときに作る供養棚。あらだな。 
【初旅】生まれてはじめて旅をすること。新年なってはじめて旅に出ること。 
【初便】はつだより はじめての音信。季節の到来などを告げる最初のたより。その年はじめてのたより。新年最初のたより。「桜の初だより」 
【初垂】はつたり 海水をこして製塩するとき最初に垂れた塩の汁。塩を焼く前にくみ取った濃い塩水。 
【初蝶】春になって初めて見る蝶。 
【初朔日】はつついたち 2月1日の異称。 
【初月】はつついたち 新月のこと。特に陰暦8月初めの月。陰暦正月の異称。
【初出】はつで 初めて出ること。初めて奉公に出ること。 
【初登攀】先人未踏の山頂・山稜へはじめて登る。 
【初寅】はつとら 新年になって最初の寅の日。また、その日に毘沙門天へ参詣すること。 
【初鳥】はつとり その季節になって初めて鳴く鳥。 
【初酉】はつとり 11月最初の酉の日。一の酉。 
【初名草】寒梅の異称。 
【初夏】はつなぎ 夏のはじめ。しょか。 
【初生】はつなり その年に初めてできた果実や野菜。 
【初土】はつに 初めに掘り出す上層にある土。
【初音】はつね 鳥獣・虫類などがその年・その季節に初めて鳴く声。初声。鶯がその年初めて鳴く声。 
【初子】はつね その月の最初の子の日。特に、正月の最初の子の日。古く正月の初子に宮中では饗宴や行幸が行われ、庶民は野外で小松を引き、若菜を摘む習慣があった。11月の最初の子の日。近世、商家では大黒天をまつった。 
【初値】取引所で大発会の最初についた値段。 
【初上】はつのぼり 初めて都にのぼること。初めてその山にのぼること。地方へ奉公に出た者が初めて帰京すること。 
【初幟】はつのぼり 男児の生後初めての五月節供を祝うために立てる幟。
【初萩】はつはぎ 秋になって初めて花を開いた萩。早咲きの萩。 
【初花】春になって、最初に咲く花。その季節になって最初に咲く花。その草木に初めて咲く花。咲きはじめの花。その年になって最初に咲く桜の花。また、咲いて間もないころの桜の花。初桜。18、19歳頃の少女のたとえ。初桜。初潮。 
【初花祝】はつはないわい 女子が初潮を見たとき一人前の女性になったとして祝う。初他火(ういたび)。 
【初花染】はつはなぞめ 紅花の初花で染める。その染めたもの。 
【初春】春の初め。しょしゅん。新春。新年。 
【初春月】陰暦正月の異名。 
【初雛】はつびな 女の子の初節供に飾る雛人形。その祝い。
【初日の出】元旦の日の出。はつひ。 
【初舞台】初めて舞台に出て演ずる。初めて公衆の前で事を行うこと。「初舞台を踏む」 
【初不動】その年の最初の不動尊の縁日。1月28日。 
【初冬】はつふゆ 冬の初め。陰暦10月。初冬(しょとう)。 
【初枕】男女が初めて共寝をすること。新枕(にいまくら)。 
【初孫】初めての孫。ういまご。 
【初繭】はつまゆ その年に初めてとれた繭。
【初巳】はつみ 一月の最初の巳の日。この日、弁才天参詣の習慣がある。 
【初見草】はつみぐさ 松の異名。卯花の異称。萩の異名。冬菊の異称。雪の異称。 
【初見世・初店】遊女などが初めて店に出て客をとる。 
【初見月】はつみづき 陰暦正月の異称。 
【初耳】初めて聞く。初めて耳にする。「そんな話は初耳だ」 
【初昔】はつむかし 上等の煎茶・抹茶の銘の一つ。陰暦3月21日に新芽を摘んで精製した茶。元日になってから前年をさして言う語。旧年(ふるとし)。宵の年。 
【初名月】はつめいげつ 陰暦8月15日の夜の月。後の月(9月13日夜の月)に対していう。芋名月。
 
神社仏閣へのお参りの仕方  
今年も初詣に行かれた方は多いことでしょう。日本人は特定の宗教を持たない人が多いと言われていますが、正月ともなると全国の神社仏閣は大賑わいです。  
もともと日本人は神様や仏様の世界(霊界)に対する畏敬の念を持ち続けている人種なのです。最近ではあまり言われなくなりましたが「罰(ばち)が当たる」とか「お天道様が見ている」という言葉は、私の子供のころは大人たちからよく聞かされたものです。  
さて、正月の風物詩とも言える初詣風景ですが、人々は神仏に何を願っているのでしょうか。当サイトの「祈り編」にも書きましたが、「家内安全」「商売繁盛」「五穀豊穣」「無病息災」といったことや、「病気が治る」「受験に合格する」「愛する人と結ばれる」「試合に勝つ」といった内容、あるいは「スポーツ選手になる」「政治家になる」「歌手になる」などの内容が多いのではないでしょうか。  
それぞれの願いを受け止める神仏の側から見れば、大半はほほえましい願い事でしょう。しかしながら、神社仏閣は異次元との交流の道筋ができあがった、いわばこの世におけるパワースポットとも呼ぶべき場所ですので、他愛もない願い事であっても、その心の波長に応じて異次元から何らかの干渉が起こることは十分考えられます。  
つまり、願い事をするときのその人の心の波長に同調して、異次元の存在が関わりを持ち始めることになるということです。「類は友を呼ぶ」というのが波動の法則ですから、幸せな気持ちで祈ればさらに幸せな状態を実現するための働きかけがあるでしょうし、逆の場合はますます暗い気持ちにさせる出来事を呼び寄せることになるかも知れません。  
ということで、「さわらぬ神にたたりなし」とか「生兵法は大怪我のもと」という諺にもありますように、異次元とのつながりがますます濃くなりつつある今日においては、神頼み的な願い事はしないほうが望ましいと言えるでしょう。  
それでは神社仏閣には行かないほうがよいのか、ということになりますが、そういうわけではありません。ここで、私が長年続けている「神社仏閣への参拝の仕方」をご紹介します。「フツーの人が実践している安全なお参りの仕方」ということで、ご参考にしていただけたらと思います。 
1.お賽銭の額と捧げ方  
お賽銭は1回のお参りごとに千円と決めています。なぜ決めているかと申しますと、その都度「今回は2千円にしようか、それとも5百円でいいかな」というふうに心を動かしていると、その心の動きはそのまま賽銭に刻印されて神仏の世界に届いてしまうからです。  
基本的にお賽銭は、「その人が、失ったら少し痛いと感じる金額」が妥当だと言われています。私の場合はそれが千円だというわけです。  
ところが、一般的に初詣の時には、多くの人が財布の中の小銭を拾い集め、参拝している人たちの頭越しに賽銭箱めがけて投げ入れている姿を見かけます。要するに、失っても痛くない程度の小銭を投げ込んで、神仏に「私の願いを叶えなさい」と命令しているのです。もちろん、神様も仏様も広い心の持ち主のはずですから、そのことでご機嫌を損ねることはないでしょうが、大切なお金を投げ込つけてくる姿はほほえましいとは思われないでしょう。そういう意味では、本体の神様というよりも、その眷属のところで機嫌を悪くされる可能性はあるかも知れません。  
お賽銭の「賽」には「神仏の恵みに報いる」という意味があるそうです。ということは、日頃の神仏のご加護に対するお礼のためのお金ということになります。つまり、「お礼の後払い」だというわけです。そのお礼のお金が財布の中を掃除する程度の少額で、しかもそれを投げて渡すということは、それまでにいただいた神仏の恵みに対してそれほど感謝もしていない証拠です。日々の恵みに感謝するどころか、「これから私にちゃんと幸運をください。その幸運の前払いとして百円玉(あるいは十円玉、1円玉)を投げ込んであげたからね」と神様に催促しているようなものです。まるで「これまでの人生は満足のいく内容でなかったから、これからはよくしてくれよ」といわんばかりの態度です。これでは神様仏様も苦笑いということになるのではないかと思います。  
お賽銭はお礼のためのお金、だとすれば、やはり謹んで捧げるという形が正しいでしょう。その「捧げる」という気持ちがそのまま神仏の世界に通じるのです。 
2.お願いの仕方  
既に申し上げたとおり、神社仏閣にお参りするのは日頃のご加護に対するお礼のためですから、新たに何かを願う必要はないのです。こうして神仏にお参りすることができることに、まず感謝しなければなりません。広い意味でいえば「生かされていることに感謝する」ということです。  
現在の状態に不満のある人は、その不満な状態を満足な状態に変えてくださいという意味で願い事をするわけですから、神霊世界には「私はいまの状態は不満です」という形で伝わります。その心の動きが、それに同調する異次元の存在やそれ相応の出来事を引き寄せてくることになるのです。場合によっては、ますます不満な状態を生み出してくることにもなりかねません。  
「類は友を呼ぶ」という波動の法則によって、不満な気持ちはさらに不満な出来事を引き寄せるからです。その波動の法則を「笑う門には福来たる」あるいは「泣き面に蜂」という諺が教えてくれています。  
何か物が欲しいという願いにしましても、既に手にしている物であれば人は欲しがりません。欲しがるのは自分がまだ十分なだけ手にしていない物です。ですから、願う気持ちは「まだ与えられていない」という心の波動となって異次元に伝わってしまうのです。  
特に、「我善し」の願い、つまり自分の個人的な利益を期待する願い事は要注意です。一時的にその願いが実現することがあっても、その後により大きな不満な気持ちを生み出す出来事が待っているものです。  
ということで、神社仏閣では願い事はせず、心静かにお礼を申し上げることが大切です。もし願い事をする場合でも、自分のことでなく世の平和を願うとか、少なくとも他者の幸運を祈ってあげるという心の姿勢を持つことが好ましいと言えます。  
そうすれば、その神社仏閣に宿っておられる神様は、参拝者がいちいち願い事を申告しなくても、その人がその時点でもっとも必要とするものがなんであるかはちゃんとお見通しのはずです。それが“神様”なのです。逆に、私たちの拝む対象が「何がほしいのかをちゃんと言ってくれないとわからないよ」という頼りない存在だとすれば、いくらお賽銭をはずんでも願い事を実現してもらえる可能性は低いのではないでしょうか。 
3.おみくじの引き方  
神社仏閣におみくじはつきものです。山あり谷ありの人生ですから、神様にこれからの自分の運勢を尋ねる気持ちは不純なものではありません。できれば「大吉」という太鼓判を押してもらって、これからの人生を安心して渡っていきたいと思う気持ちから、多くの人はおみくじを引き、その「卦(け)」の内容に一喜一憂します。  
一般的におみくじには「大吉」「中吉」「吉」「小吉」「末吉」「凶」「大凶」などの卦があります。「吉」のつくおみくじであれば「大吉」でなくてもまだ安心できますが、正月早々から「凶」や「大凶」を宣言されると、多くの人は心が暗くなってしまうことでしょう。「今年はついてない」「何か不幸なことが起こるのではないか」と、「凶」の文字がなかなか心から離れないはずです。  
こういう場合にはどのように対処したらよいのでしょうか。私の体験からヒントを差し上げましょう。  
かつて友人と一緒に奈良県の弥山という山に登ったことがあります。下山して麓にある天河神社でおみくじを引いたところ、友人の分は「凶」だったのです。その友人は「縁起が悪い」と気にしている様子でしたので、私はそのおみくじにしっかり感謝をした上で、焼却することを勧めました。すると彼はその通り実行したのです。その後の彼の運勢がどうであったかということですが、少なくとも特筆するような不幸な出来事に遭遇したわけでなかったことは、その後の彼の言葉で知ることができました。  
彼を含む仲間たちとの忘年会などの席で、彼は少し酔いが回ってくると必ずその時のおみくじのことを話題にして、「あの凶のおみくじを焼いた時から僕の人生は開けてきたんや」と、まるで自慢話のように語るのです。  
このことからも、おみくじは「卦」にこだわるのでなく、そこに書かれた文章の意味を噛みしめることが大切だということです。その文章の意味を正しく受け止め、その後の行動に反映させていくことが求められていると考えるべきであることが、このエピソードからもわかります。  
最近も似たようなケースがありました。昨年の元旦に神戸の長田神社で引いたおみくじが、私も妻もともに「凶」だったのです。私はその2人分のおみくじを家に持ち帰り、書かれた内容をじっくり読み返した後、台所のガスコンロの火で焼却しました。感謝の気持ちを込めて――。  
そうして始まった2009年は、一般的な禍福吉凶とはあまり縁のない、静かな1年でした。むしろ、我が家は明るい話題に包まれ、私自身も妻も、大変充実した1年を送ることができたと思っております。俗な表現をすれば「素晴らしい1年」だったのです。  
このように、おみくじに載っている「卦」の内容は気にしなくてよいことがわかります。逆に「大吉」であるからと慢心し、人生を甘く見ることがあれば、それ相応の冷水を浴びせるという形で予期せぬ出来事に見舞われることになるかも知れません。そのことは「大難に遭うところだったのに、この程度の出来事で目を覚まさせていただいた」という意味では「大吉」ということになるでしょう。  
初詣のときのおみくじは「大吉」だったのに、受験に失敗したり、家族が重大な病気を患うといった出来事が起こることがあるかも知れません。それでも、すべてその人にとって必要な出来事だと考えるべきなのです。神様は、その人(の魂を磨くため)にもっとも都合の良い形で願いを実現してくださるからです。それは本人が神様に“命令”した内容とは逆の場合もあるのです。願い事が必ずしもその通り実現しないことが多いのはそのためです。  
ですから「必要なことが必要な形で現れるのだ」「人生で起こることに不要な出来事はない」と考えれば、おみくじの「卦」に振り回される必要はまったくないことがわかります。  
おみくじは、そこに書かれた文章にもっとも深い意味があるのです。そこには、戒めたり、励ましたりと、その時その人にもっともぴったりとくる表現が盛られていることは間違いありません。その意味するところが理解できなくても、1年が過ぎて改めて読み返してみると、十分理解できるようになっているはずです。でも、できればおみくじを引いた段階でそれを理解し、それからの行動に活かす方が、気づきが早まるということになると思います。
 
門松のはなし

 

門松のはなし 1  
正月に門松を立てる訣(わけ)を記憶してゐる人が、今日でもまだあるでせうか。此意義は、恐らく文献からは発見出来ますまい。文化を誇つたものほど早くに忘れてしまうた様です。僅に、圏外にとり残された極少数の人達の間に、かすかながら伝承されてゐる事があるので、それから探りを入れて、まう一度これを原の姿に還し、訣ればその意義を考へて見たいと思ふのです。 
今日では、門松の形が全国的に略きまつてしまひましたが、以前は、いろいろ違つた形のものがあつたのです。今日の様な形に固定したのは、江戸時代に、諸国の大名が江戸に集つた為に、自然と或一つの形に近づいて行つたのだと思ひます。或は、今日の形は、当時最勢力のあつたものの模倣であつたかも知れません。 
絵で見ますと、江戸時代のものにも、葉のついたまゝの竹が、松よりも高く立てられてゐるのもあり、松だけのものもあり、更に変つた形のものもあつたらしいので、「松枯れで、武田首なきあした哉」の句は、松平と武田とを諷したのでせうが、形が、略今日東京で立てるのと似てゐた様に思はれます。 
今日東京で立てますのは、削いだ竹が中心になつて、それに松があしらはれてゐるのが本式とされてゐます。今では、此形が全国的にまねられてゐるのですが、それでも、古い習慣を守つてゐる地方には、尚、お国風と見られる、松が主になつて、その根元に笹の葉が挿されてゐるもの、松だけが柱に結ひつけられてゐるもの、その他色々違つた形のものがあります。此らを見ますと、一体門松は、竹が中心なのか、松が中心なのか、と考へて見なければなりません。 
しかし、ところによると、松も竹も立てないで、全然別のものを立てゝゐるところもあります。譬えば、箱根権現の氏子は、昔から、竹も松も立てないで、樒を立てます。此には伝説が附随してゐるので、箱根権現が山を歩いてをられるとき、松葉で眼をつかれた、それで氏子は必片目が細いと言ひ、松を忌むのだと言ふのですが、此様な話しは、諸国にある餅なし正月の話しなどゝ同じで、合理的な説明に過ぎません。今日の考へから言ひますと、樒は仏前のものになつてをりますから、それを門松の代りに立てるのは如何にもをかしいと思ひますが、昔は、榊が幾種もあつたので、樒も、榊の一種だつたのです。 
それなら、何故榊を立てるかゞ問題になるのですが、かうした信仰は、時代によつて幾らも変つてをりますから、一概に言ふ事は出来ませんが、正月の神を迎へる招(テ)ぎ代(シロ)であつたかとも見られます。さういふ考へも成り立たなくはないのです。しかしこゝには、まう少し正月に即した考へを立てゝ見ませう。 
日本には、古く、年の暮になると、山から降りて来る、神と人との間のものがあると信じた時代がありました。これが後には、鬼・天狗と考へられる様になつたのですが、正月に迎へる歳神様(歳徳神)も、それから変つてゐるので、更に古くは、祖先神が来ると信じたのです。歳神様は、三日の晩に尉と姥の姿で、お帰りになると言ふ信仰には、此考妣二位の神来訪の印象が伝承されてゐる様です。しかし此話しは、既に度々してをりますので、こゝには省略したいと思ひます。 
とにかく、此信仰には、現実との結びつきがありました。さうした山の神に仕へる神人(ジンニン)があつて、暮・初春には、里へ祝福に降りて来たので、その時には、いろいろな土産ものを持つて来て、里のものと交易して行つたのです。此交易をした場所を、いちと言ひました。後の「市」の古義なのです。山人・山姥が市日に来て、大食をした話し、無限に這入る小袋にものを詰めて行つたと言ふ伝説は、さうした、山人が里のものをたくさんに持ち還つた記憶があつて出来た話しだと思ひます。山人が持つて来た土産には、寄生木(ホヨ)・羊歯の葉、その他いろいろなものがあつたので、今も正月の飾りものになつてゐますが、削りかけ・削り花なども、その一種だつたのです。太宰府その他で行はれる鷽替への神事は、その交易の形を残したのでせう。鷽も、削りかけの一種と見られるからです。里の人達は、これらのものを山人から受けて、これを、山人の祓ひをうけたしるしとして家の内外に飾つたのでした。 
これから考へて見ますと、門松も、やはり山人のもつて来た山づとの一種であつたに相違ないのですが、其木は必しも一種ではなかつたかと思ひます。それには、かう言ふ事が考へられるのです。此山人の祝福には、その年の田の成りものを約束して行くのが大切な行事だつたので、その為には、今も正月の神事として残つてゐる田遊び・お田植ゑの様な所作も見せていつたのですが、また山から下りて来る時に突いて来た杖を立てゝ行つて、それに根がつくのが非常に善い兆だとしたのです。だからそれには、根のつき易い、いろいろな木が立てられて行つた訣です。これが松に固定したのには、訣があつたと思ひます。とにかく、今日の様な門松になつて行つた道筋を考へて見ませう。 
私は、此数年間、毎年正月になると、三河・遠江・信濃の国境に近い奥山家へ、初春の行事を採訪に出かけましたが、こゝの門松は、また形が違つてゐるのです。門神柱、或は男木などゝと言はれる、栗・楢などの柱が二本立てられ、これに注連をはり、その下に松が立てられるので、その松の枝には、やすと言ふ、藁で作つた、つとを半分にした様なものが掛けられ、その中には、餅・粢(シトギ)などが入れられるのです。此形は、盆の聖霊棚に非常に近いと思はれます。 
日本には、魂迎へをする時期が、盆と暮と二度あつた事は、徒然草四季の段を見ても訣る事ですが、此は、元来は初春だけのものだつたのです。それが二度になつて、一方は仏教との習合によつて非常に盛んになり、初春の方は、正月の行事が行はれた為に魂祭りとしての信仰は、却つて忘れてしまうたのです。しかし、此魂祭りなるものが、古い時代のは、今の仏教式のものではなく、暮・初春に、山から――もつと古くは海の彼方から――来訪すると信じた祖先神を祀る事だつたので、さうした神を迎へる祭壇が、即、たな或はくらだつたのです。七夕も、後には支那の乞巧尊信仰がとり入れられて星祭りになつてしまひましたが、此語に印象されてゐる日本本来のものは、さうした遠来の神を迎へるべく、をとめが海岸に棚を作つて、神の斎衣を作る為の機を織りながら待つてゐたので、此がたなばたつめでした。門松が、やはりさうした神を迎へる為の棚であつたといふ記憶を、かすかながらでも残してゐるのが、此三・信・遠国境の山村で見た門神柱です。普通の家では、此門神柱を二本しか立てませんが、家によると十数本も立てるのがあります。その意味は、もう忘れられてしまうてゐるのですが、老人達の話しを綜合して考へますと、それは、本家が、分家の数だけの柱を立てるらしいのです。盆や正月に、子方が親方の家へおめでたうを言ひに行く慣例は最近までありました。柱を分家の数だけ立てるのは、此記憶が底にあつたからでせう。処で、此柱を十数本立てた形は、恰も、とり入れた稲を乾すはざと同じ形なので、事実この門神柱の事も、はざと言うてゐるのです。さうして見ると、此二つは、偶然似てゐるだけではなく、稲を乾すはざも、元は実用の為に作つたものではなく、やはり田の神を迎へる為の棚であつた事が考へられるのであります。 
かやうに、此地方の門松は、柱が主体で、松は客体と見られるのですが、而も、此十数本も立てた柱の下にも、一々松を立てるのは、如何にも意味のある事だと思はれます。即、此松を添へると、山から迎へて来た霊が、その柱に宿ると考へた遠い昔の人の信仰が、如実に想像出来るではありませんか。今でも、此松を山から伐り出す事を、伐るとは言はないでおろすと言うてゐますが、古くは、はやすと言ひました。松ばやしがそれです。はやすは、はなす・はがすなどゝ一類の語で、ふゆ・ふやすと同じく、霊魂の分裂を意味した語なのです。だから、松を迎へる事は、分霊を迎へる事で、松は即、その霊ののりものだつたのです。 
次に、此松の枝にやすをかける訣ですが、昔の人は、かうして迎へて来た霊、或はやつて来た霊には必、不純なものが随伴すると考へたのです。盆にも、正式に迎へる聖霊への供物の外に、無縁仏の供物を作りますが、それと同じ様に、歳神様にも、家へ這入つて貰つては困る神が附隨して来るので、それを防ぐべく、此やすをかけて供物をするのです。 
とにかく、こゝの門松には、古い信仰が残つてゐるのです。此門神様の周囲に、鬼木或はにう木と言うてゐる、薪に十二月或は十三月と書くか、十二本或は十三本の筋をひくかしたもの(元は、閏年だけ十三月としたのですが、後には、今年も此様に月が多いと祝ふ意味で、平年にも十三月と書く様になつたのです)を並べ、又たくさんの薪を積むのですが、これこそ、前に申した、山人の山づとで、鬼木と言うたのは、鬼が持つて来ると考へたからでせう。にう木と言うたのは、丹生と関係のある語で、みそぎを授ける木の意であつたらうと思はれます。処によつては、此丹生木の事をみづきとも言うてゐますが、此語も、やはり水の祓ひを授ける木の意であつたと思はれます。此丹生木は門松に立てる外に、小正月に、家の出入口や、祠・墓などにも立てます。今は、その家のものが立てるのですが、元は、山人が来て立てゝ行つたのです。 
皆さんは、奈良朝頃、宮廷に御竈木の式と言うて、正月十五日に、宮廷に仕へてゐた宮人・役人、又は畿内の国司達から宮廷の御薪を奉る式のあつた事を御承知でせう。宮廷の御儀になつたのは、一種の固定で、これも、元は山人の山づとであつたので、それを群臣がまねて、天子への服従を誓ふ式としたのだと思ひます。江戸時代に、門松の根をしめる木をみかまぎと言ひましたが、奈良朝に行はれた宮廷の御竈木とは全然形の違ふ、かうしたものを、どうして同じ名で呼んだか、それは、かうした民間伝承があつたからだと思ひます。 
かうして段々見て来ますと、今の門松は、此、門神柱の柱が竹に変り、その頭部が削がれたのだと考へてよい様です。竹を二本立てゝ注連をはつた風習は、京の大原にも、武蔵の秩父にもありました。大原のは、その注連縄に農具を吊したと言ひますから、七夕の笹に人形を吊し、聖霊棚に素麺や田畠の成りものを吊すのと似てゐたと言へませう。
門松のはなし 2  
「笑う門(かど)には福きたる」といいます。門(かど)は、家そのものや、そこに住む家族のことですが、もとは、家の玄関口の意味です。そんな家の入り口で歳神さまをお迎えする門松に用いられる松は、冬になっても緑を絶やさないことから不老長寿の神木とされてきました。  
一つ松幾代(いくよ)か経(へ)ぬる吹く風の音の清きは年深みかも(万葉集)  
(一本松はどれほどの時を経てきたのだろう。吹く風の音が清らなのは深い年月を重ねたからだろうか)  
また、竹も常緑でまっすぐ伸びることから聖なる木として祭祀などに用いられました。  
竹玉(たかたま)を繁(しじ)に貫(ぬ)き垂れ(万葉集)  
(神様を祀るときに使う竹玉を多く貫き通して)  
そして、いつまでも豊かな緑をたたえている松や竹と同様に、時を経ても同じ形をとどめている石や岩もまた、永遠の命を持つと考えられていました。『古事記』には、末長い繁栄への願いを込めて「石長比売(いはながひめ)」という名前の姫を嫁がせる場面があります。  
石長比売(いはながひめ)を使はさば(中略)恒(つね)に石(いわ)の如く常磐(ときは)に堅磐(かきは)に)  
(石長比売をお使いになると、(御子の寿命は)永久に石のように変わることなく)  
ところで、永遠の命を持つと考えられている石で作られた楽器に「石笛」があります。地主神社には縄文時代から伝わる石笛があり、三が日に執り行われる「えんむすび初大国祭」では、この石笛を奏でて歳神さまをお呼び申しあげます。  
お祭に参加された方には、無料にて「開運こづち」をお授けしております。地主神社では大国さまをお祀りしていますが、願いを掛けると宝物が出てくる打ちでの小づちは大国さまが携えておられる小づちにも通じるものです。また、1月第2月曜日には「成人祭」が執り行われ、境内は華やかな振袖を身につけた新成人の女性たちでにぎわいます。かつて女性の成人式は「裳着(もぎ)」といい、12〜13歳頃に初めて大人と同じ衣裳を身につけ、髪型も大人と同じように結い上げるものでした。  
「御裳着のこと、世に響きて急ぎ給へるを」(源氏物語)  
(裳着のことは世間でも評判になってお急ぎになっているので)  
『源氏物語』の昔から、華やかな女性の成人式は注目の的となっていたようです。 
 
年末・年始の聖なる夜

 

西欧と日本の年末・年始の行事の比較
世界の多くの家々で大事に祭られるクリスマスという行事における象徴がどのような意味を持つかといえば、それをキリスト教的な説明だけで十分に理解することは不可能だと思います。これらの象徴について考えていくうちに、私は日本のお正月行事との類似性に気がつきました。そこでキリスト教以前の伝統に根をおろすヨーロッパの年末行事と日本のお正月の比較研究をしたいという気持ちが生まれました。そのきっかけとなったのは次のことです。 
何年か前に、本物のクリスマスツリーが日本にないことを寂しく思い、この時期に本物のモミや松の木を何本も売っているヨーロッパのことを思い出したのです。そして、やっとクリスマスが終わり、お正月のものが店にならべられたところ、クリスマスツリーにふさわしい松の枝が花屋さんにいっぱい現われたのです。それは門松飾るための枝でした。門松とクリスマスツリーが似ているのだなと、そのとき初めて感じました。その後、この季節の日本とヨーロッパの様子を比較して、考えていくうちに、その類似性に気付き驚きました。 
西洋のお正月といえば、日本人がまず思い浮かべるのはクリスマスです。その説明のほとんど(学術的なものも含めて)が、そのときにイエス・キリストの誕生を祝うといいます。「クリスマス」という言葉自体は、キリストをたたえるミサを意味します。しかし実は、この日がイエスの誕生祝いに選ばれたのは、ヨーロッパの各地で行われていた、キリスト教の立場からはいわゆる未開(pagan)の、キリスト教以前の祭りを止めさせられないので、そこにキリスト教的な意味を与えるためでした。祭りの様々な要素にキリスト教的な解釈がなされましたが、どうしてツリーなどで家を飾り、七面鳥または豚の丸焼きを食べ、サンタクロースからおくりものをもらうということの意味があいまいになったのでしょうか。他方、日本のお正月といえば、おせち料理、門松や鏡餅、お年玉が思い浮かびます。 
これらの行事は現在、様々な面で変容され、かなり商業化されていることは研究者がよく指摘する通りですが、その伝統はいうまでもなく太古にさかのぼるものです。日本の神々の本質を探って見ている私は、日本とヨーロッパの古代のお正月行事を比較研究することがその参考にならないのかと考えました。 
そこで、今回は、現在私たちが楽しく祝うこれらの行事の古い内容を探って、その意味を考察してみたいのです。その比較の前提になっているものは、日本の側からは、もちろん柳田国男の年中行事の研究と山中裕氏の「平安の年中行事」などであり、ヨーロッパの神話についてはエリス・デービッドソンなどの研究です。
年始の時期をめぐる観念 
年中行事というのは、太陽と月の運行により季節が変わるということを基盤におくものです。カレンダーが用いられる以前には、祭りは太陽、月や他の遊星の動きの観察をもとにして、また農業、漁業や狩猟などに大事なときや季節の変わり目の時期に行われたのでしょう。太陽の動きに従えば、1年のポイントは冬至の最も長い夜であり、月の満ち欠けのサイクルでは、1月15日あたりの新月がこのようなポイントになります。これらのポイントはそれぞれ太陽暦と太陰暦の年末・年始の祭日を決めるものとなりました。これは、山中裕氏のことばを借りれば、いわゆる「民間暦」を築造したのです。これに対して、国家が確立すると同時に、全国に共通するいわゆる「公暦」が定められたのです。 
日本の年中行事に大陸風の年月の数えかたが多少なりとも影響を与えたのはかなり太古にさかのぼるでしょうが、日本に中国から暦が伝えられたのは、推古天皇のときのことであるといわれています。統 一した暦を用い始めると、「天皇を中心とする中央集権国家が確立しはじめ」たし、「年中行事も宮廷行事として完成」しはじめたと山中氏が指摘します。しかし、今回、私の研究対象となるものは、宮廷行事よりもその 一面となった民間行事であり、これに注目したいのです。明治維新の後(明治6年、1873年)から日本では太陽暦が採用されるようになりましたが、柳田国男が指摘したように、「日本の正月行事も盆行事も、あるいは新暦でおこない、あるいは旧暦でおこない、あるいはまた暦法だけは新暦によるが、行事の期日はなるべく旧暦に近づけようとする一月送りでおこなうものもあり、現状はまちまちに乱れてしまつた」のです。 
ヨーロッパでは、ローマ時代の古いカレンダーはやはり太陰暦であり、一つは十カ月の太陰年をもとにして紀元前8世紀から使用されたといわれていました。そのもう一つ、ローマ共和主義(Romanrepublican)カレンダーはローマの5代目の大王タルクイニウス・プリスクス(TarquiniusPriscus)の時代(紀元前616-579)に完成され、1年を12カ月355日としたのです。そして、ユリウス・カエサル(JuliusCaesar)の命令で紀元前1世紀(46BC)に完成されたユリウス暦は、太陰暦のかわりに太陽暦にもとづき16世紀まで採用されたものです。このカレンダーをさらに改正して、1582年に現在まで全ヨーロッパで採用されているいわゆるグレゴリオ暦が作られたのです。このカレンダーは、1月1日を年の始めとして固定した新暦として知られており、それに対してユリウス暦は旧暦となったのです。両者は12日間の違いがあり、例えば後者ではクリスマスは1月6日にあたるのに対して、前者によればそれは冬至のすぐ後の12月25日にあたるのです。ということは、ヨーロッパにも旧暦と新暦というものがあり、行事の日付けがときに乱れる原因となります。 
年中行事の祭儀において、人々の生活に大事な事柄が象徴的に表されることは遠い過去の時代からです。現在私たちは、これらの象徴に新しい意味を込めたり、内容を変容させたりしますが、本来の意味を知ることができれば、行事の意味も、伝統を守るためだけにやり続けるよりも、もっと明らかになり、心に親しいものになるのではないかと考えられます。以下に、年末・年始の行事における象徴を考察したいと思います。 
柳田国男は、日本人が「正月の満月の夜を1年のはじまりとし、その機会に年始めの行事をしていた。それが後に大陸から輸入された暦制の影響によつて、正月元旦を1年のはじまりとする風が、京都を中心として次第に諸地方へ普及していつた」と考え、「そして朔旦正月を大正月、望の正月を小正月、または大年小年と呼び分けることになり、正月は年に二度あるものと考えられるようにさえなつた」と指摘します。しかし、私は、日本人が月の動きを読みながら、同時に太陽の運行も気にしたのではないかと思います。そのため、年末・年始の行事は、冬至辺りから始まり、正月の満月の夜にピークを迎え、2月の始めに終わったのです。年送り・新年迎えの行事は1日の祭りというよりも、何日かにわたる、時には1ヵ月ほどの長い行事として祝ったのです。柳田国男によれば、門松の古い形は、家を松などの常緑樹の枝で飾り、中心に松の一本を飾るということで、そのいわゆる「松迎え」は12月13日に行ったのです。これについては後で詳しく述べますが、ここではとりあえず「こよみ」という語の意味、すなわち「日(カ)読み」を思い起こしてみても、様々な行事は陰暦のみならず日、太陽の動きを読み取ることに由来することを確認しておきたいと思います。 
ヨーロッパでは、月の運行にもとづく暦を採用した古代ローマ人に対して、北西欧の諸民族は太陽の動きを大事にしていました。エリス・デービッドソンによれば、ケルト人にとっては、1年は冬と夏の2期に分けられており、新年が1月1日のSamainという行事で始まり、それは同時に冬の始まりとして考えられたのです。Samain という語自体は「夏の終わり」を意味するといいます。そのときには、冬の寒さにたえられない家畜が殺され、冬中の食料として保存されました。また、季節の変わり目の時期に、死者の世界の戸は開いており、死者が人々の世界をおとずれると考えられたのです。 
他方、日本では、柳田国男が指摘したように、「1日の境も、古くは夜の始まる時刻にあると考えられていた。それだから、今日でいう大晦日の夜の食事が年取りの膳であり、その時に人々はみな、めでたく年を一つ重ねた」のです。興味深いことに、古代ヨーロッパでも日本と同様に、1日は晩から晩まででした。「ガリア戦記Y」においてユリウス・カエサルは、ガリア人にとって夜は朝より先であり、クリスマスがクリスマスイブで始まるのと同じように誕生日や月の始まりなどの祝いを夜に行ったと書いています。 
350年にローマの主教ユリウス一世によって初めて12月25日はイエスの誕生祭として決められますが、それ以前には、この日の前後の時期はヨーロッパの諸民族の間では年末・年始として祝われていたのです。そのため、このような行事の習わしを受け継いだクリスマスは、日本のお正月行事と比較できるもの、むしろ比較すべき対象であると思います。お互いに影響を与えることもない、遠く離れた地域での行事ですが、驚くほど似ている点があり、人々の考え方の類似性を語っています。他方、形は似ていてもその根拠や意味の異なるところもあり、文化や神々崇拝の違いがどこまで考え方に影響を与えているのかを示しています。
神を迎え送る時期、正月とクリスマス 
正月の行事全体の中心が神を迎える宴を行うことにあったという考え方が柳田国男の研究の大きな結論です。「年の神は家の神」において氏は、「正月早々から一家の主人が家を留守にするといふことは有り得ないことである。私たちの家などの慣例は、除夜から元日は公けの勤仕の外は家から出て行かない。さうして夜どほし起きて居るといふ忌籠りはもう無いが、其代りには年越の宵のおせちと、翌朝のいはゆる雑煮を祝ふ時に両度、神棚に燈明を上げ神酒と神饌を供へて、もとは其御前で一同が、はいお目出たうを交換したものであつた。」と述べます。つまり、元日の晩に実家で過ごすことには、「忌み籠り」の意味があります。また、その時に、正月様または年神を迎えることは、この時期の飾りからわかります。神の木(常緑木、榊など)またはある象徴的な物(剣、鏡、玉など)をヨリシロとして降臨すると考えられたのは、日本の神祭の大きな特徴でしょう。そして、お正月の場合にも、松を立てるのはそのためだということが柳田国男の研究からわかります。もともと、お正月祭に用いる様々な木は、年木または新木と総称されます。それが、地方や飾り方や飾る時期によって、松飾り、餅花(小正月に飾る)、祝い棒、占い用の粥杖または粥だめしなどと呼ばれているのです。氏によれば、門松というものは、本来、門の前に進出したものであるよりも、「家の表入口に軒近く立てたものを、特に立派にする場合も有るといふに過ぎない」のです。そのもとの形は、「家によつては一つ一つの小屋の口、井戸にも閑所にも悉く之を飾るが、その中にはおのづから中心があり、殊に念入りな大きな一対を、立てる場所は大よそ定まつて居た」ものです。この松は、本来、年神の降臨する神木の一種でしたが、木の種類は土地によって様々だったのです。例えば、山形県では、楢や、椿や、タラなどが、愛知県三河の山地では、竹や榊、また他の種類の木が用いられています。柳田国男は、次第に松の木が多くなり、それに統一されていったのは、一つの流行にもとづいた現象であったといいます。しかし、私は伝統というものは、時間とともに、統一されたものへ変容されたり、新しい意味を加えられたり、あるいは他の地方の行事の影響によって形がかえられたりしながら続くものだと思います。それはともかく、山から持ってきた松から、「枝振りの好い大松を中心にして、是に白紙の幣を剪り掛け、又はホダレともカイダレともいふ削花を添へる」ものもあり、そこにはよく「意外な物」、ある形の食器がぶら下げられましたが、それらは、「神に供物をさし上げる食器」でした。その風習は、さまざまな名前で呼ばれ、様々な形で関東から中部地方、近畿、四国、九州まで広まっていましたが、「その木に降臨した正月様に、その祭の幾日間かの供え物を献ずる器」だったのです。さらに、「もう少しこの初春の松飾りのことを談るならば、是等の松の木は、農村では今なほ一般に「迎へ申す」と謂つて居る」らしいのですが、この木をいつ立てて、いつ取りおろすのかは、正月様を祭る期間と一致していたというのです。本来はこの「松迎へ」を「正月迎へ」とも呼んでいたが、師走(12月の別名)の13日に行ったということについては先にふれたと思います。 
また、小正月にも木を立てる習わしがあったと、柳田国男は指摘します。一つの興味深い例は、秋田県由利郡笹子村に見られます。「ここでは年の暮ではなくて、正月6日を門松迎えといい、そして門松立てと呼ばれるのは、正月15日の朝の行事である。名だけは門松といつても、朴(ぼく)の木が主で、それにミズキとタラの木とを二・三本ずつ添えて、一軒で時には三・四十本も立てるという」のです。この例からもわかるように、「門松」という名前が不自然であることは氏が指摘する通りです。 
さらに、柳田国男が、雪の多い東北地方や中部山地では、松の木を家の中に立てて飾っていると述べていることは注目に値する興味深い点です。それは拝み松または祝い松と呼ばれるもので、紙の幣などを付けて、家の中の主柱に飾ったのです。これが何よりもクリスマスツリーに似ていることは、氏も指摘されています。また、クリスマスに対しての氏の正確な理解にも注意しておきたいと思います。「クリスマスはキリストの生誕記念日となつているが、本来は冬至の祭であつた。すなわち1年のうちで日が最も短く、夜が最も永くなる極点、そしてそれより1日1日と太陽の恵みがしげくなる転換点、そのいわば一種の重要な境目における祭であつた」という説明はこの学者が、日本の祭の深い意味だけではなく、外国の祭の本質を深く理解しようとしたことを語っていると思います。さらに、氏が正しく推察したように、クリスマスツリーには、家に神を迎える聖なる木という意味があるのです。しかし、これには他方、宇宙樹の深い意味もあると考えられます。クリスマスツリーの伝統は、よくドイツに由来するといわれます。史料に、飾り付けられたクリスマスツリーが初めて現われるのは1509年のルカス・クラーナハ(LucasCranach)(父)の絵においてです。以後、19世紀まで広く飾られることはありませんので、クリスマスツリーを飾るのはそのときからの伝統であるといわれています。しかし、サミュエル・マセーによれば、それは、ドイツのキリスト教化を完成させたセイント・ボニファス(St.Boniface)が8世紀にオディンという神の神木ナラ、カシの木をイエスをたたえる松、モミに変えたことから始まったのです。というのは、聖なる冬至の夜の直前に飾られるこの木は、何もないところから突然に考え出されたものではないのです。この風習は古い伝統にさかのぼるものなのです。ここで、どうしてクリスマスツリーがキリスト教の行事に取り入れられたのかということを考えようとすると、ヨーロッパ諸民族にとっての樹木、とくに常緑樹の意味を説明しなければなりません。 
ヨーロッパの諸民族の神話においては、宇宙樹とも世界樹とも呼ばれているものが有名です。古代文献からわかるように、スカンディナビア人の宇宙は土地を丸で表し、その中心に世界樹を置き、土地の周りは海が広がっているという風に描かれています。この世界樹の根元には命の水の泉がわき、その根の下に数多くの生き物が住み、他の生き物はその枝に住むと考えられたのです。北欧の神話における世界樹は、山や森を祭場としていたことに由来するのだろうとエリス・デービッドソンが指摘しているとおりだと思います。また、中央に置かれた木は、幸運(luck)や神々の保護を得るためであり、ゲルマンやスカンディナビアの民族の間に、家のそばに守り木(guardiantree)を植えるという習慣がみられますが、19世紀のブレーメンのアダム(AdamofBremen)は、犠牲として人間を含めて神々への供え物が選ばれた木の枝からぶら下がっていたと伝えるのです。 
世界樹の下には神々が集い、相談すると信じられていたし、アイルランドではこの中央樹は人間の世界と死者や神々の両他界とを結ぶものと信じていたのです。アイルランドでは、このような聖なる木には毎年りんごやハシバミの実やカシの実がなっているといいます。さらにこの木は常に緑であり、その葉っぱがいつも枝についていると考えられたのです。ここで注目したいのは、北欧の世界樹にもっとも多いのはトネリコ(ash)などの広葉の木ですので、クリスマスに飾るモミまたは松の木とは直接には結びつきません。しかし、8世紀に突然モミや松を考え出したとも思いません。世界樹は常に緑だということが強調されていますし、年末・新年始の大事な冬至の時期に、家々を常緑樹の枝で飾る風習は、このような考えかたと無関係ではないと考えられます。スサン・ドリュリーが指摘するように、真冬(midwinter)の祭りのときに家々を常緑樹の枝で飾ることはかなり古い習わしです。自然の全てが死んでいるように見える時期に栄えるこれらの木々が、生命の力を象徴すると考えられたのです。冬至あたりに行われたサツルナリア(Saturnalia)や1月1日ごろのカレンヅ(Kalends)という古代ローマンの行事、冬至を祭ったスカンディナビアのユール(Yule)祭りや、その時期に行われた他のヨーロッパ民族の行事には、月桂樹(laurel)、マンネンロウ(rosemary)、泰山木(bay)、ツゲ(box)、モミ、松(fir)、イチイ(yew)が用いられましたが、もっとも広く普及しているのは西洋ヒイラギ(holly)や、ツタ(ivy)や、ヤドリギ(mistletoe)です。これらの木々は、真冬にも緑であるだけではなく、実を稔らせるからでしょう。飾りをいつからいつまで飾っておくかは定められていましたが、その時期は地域によって多少異なります。25日が過ぎればすぐに取り下ろすこともあれば、旧暦のクリスマス(1月5日)まで置くこともあります。また、人々を保護する力があると考えられたヤドリギを用いるところでは、2月1日まで飾っておくこともあるのです。ところで、ヤドリギの下でのキスはかなり有名ですが、その由来を説く伝説は、やはりイエス・キリストよりも冬至の太陽と関係があります。ラウラ・マルチネズによれば、北欧の太陽神バルデル(Balder)は、自分が死ぬという夢を見ました。彼のお母さんフレイアー(Freya)は、夢が現実にならないように、全ての生き物に息子に害を与えないという約束をさせたが、ヤドリギと約束をかわすのをわすれてしまいました。ある悪神はヤドリギで矢を作り、バルデルを射ったのです。しかし、お母さんの愛情のおかげで彼は死なないで生きかえることができました。そして、しばらくの間姿を消しかけていた太陽は、冬至の後再び輝いてきたのです。フレイアーの涙がヤドリギの実となりました。彼女は、むすこへの愛情の象徴として、ヤドリギの下を通るみながキスするようにしたのです。他方、ヨーロッパのデュルイド族は、家畜を病気から守るために、家畜室の入口の上にヤドリギの枝をかけたり、その枝で占をしたりしました。このように、長い伝統があるこの木に対しての信仰はキリスト教が入ってもすてられなかったので、新たな意味を与えられて、キリスト教に受け入れられたのです。キリスト教の習わしとしてこの木が「光りの中の光り」("thelightoflights")の象徴となり、イエス誕生の表象とされたのです。 
このような伝統を背景にして、クリスマスツリーは聖なる世界樹を象徴するともいえるし、家々を世界、宇宙と結びつけながら、新年に幸運と神の保護を獲得するものであり、その飾りは神々への供え物を象徴するとも考えられます。日本の年木の意味と大そう類似するこの象徴は、年末・年始に家で神または神々を迎えて、新年への祈りをささげたことを語っています。では、この神はどこから訪れる何者として考えられたのでしょうか。これについては、以下に考察することにしましょう。
お年玉とクリスマスプレゼント 
サミュエル・マセーが指摘するように、クリスマスにプレゼントを持って来るサンタクロースには、良い子供にはプレゼントを持っていっても、悪い行いをした子供にはプレゼントをあげないとか、彼らをたたくために棒を持っており、または後で食べるように悪い子を大きな袋に入れるといった恐い面があります。これはただ子供の教育と関係があるのではなく、もっと深い意味があると思います。その意味の解釈を以下に考えましょう。 
先にいいましたように、冬至の時期の祭りには、木を飾るということは神を招くということを意味します。では、この時期に古代ヨーロッパで祭ったのはいったいどのような神だったのでしょうか。キリスト教以前のヨーロッパでは、様々な自然の神を崇拝していました。これらの精霊は岩や滝、泉や森に宿り、人々の労働を見守ると考えたのです。しかし、日本の神々の認識と違って、これらの神々は目に見えない形のないものではなく、様々な大きさや形のあるものとして考えられたのです。その根跡は、民話に見える小人や妖精や魔法を使える女性などにうかがわれます。ここで、アンデルセンやシャルル・ペローなどの童話における妖精の役割とそれに対してのお返しを思い出してみたいのです。一つの例としてここに「妖精と靴屋さん」という話を挙げたいと思います。昔、あまり成功していない貧しい靴屋さんがいました。ある晩、彼には一足の靴を作れるだけの革しか残っていないので、最後の靴を作るように、ため息をつきながら靴型(pattern)を書いて、翌朝切って縫おうと思いました。しかし、次の朝には、驚くことにていねいに縫われた一足の出来上がった靴が机の上に置いてありました。この靴はすぐに高く売れて、二足分の革を買うことができました。その晩靴屋さんは、前と同じように革に靴型を書いて寝ました。次の朝には、また、驚くことに、二足のすばらしい靴が机の上に置いてありました。このようなことがしばらく続き、靴屋さんがよい靴を作っていると評判がたって、皆が彼に靴を注文しましたので、お金持ちになりました。ところが、ある晩、奥さんと二人でだれが靴をこしらえるのかと覗いてみれば、それは二人の妖精でした。小さな体で、小さな道具を出して速やかに仕事をしていました。ただ、その妖精の体は、なんと裸でした。もうすぐクリスマスだったので、靴屋さんと奥さんが、二人の妖精にお礼のプレゼントを準備することにしました。靴屋さんが小さな長靴を作り、奥さんが小さな洋服を仕立てました。そして、クリスマスイブに二人は、そのプレゼントとお菓子とワインをテーブルの上に置いて、隠れて待っていました。いつものように妖精たちが来て、プレゼントを発見しました。大喜びで服を着て長靴をはき、お菓子を食べてワインを飲みました。こうして一晩中楽しく過ごしました。靴屋さんとその奥さんもこれを見てとても嬉しかったのです。その夜妖精たちは靴を作りませんでした。また、その後も靴を作りに来ませんでした。たぶん、見られたとわかってしまったので、もう来なくなったのでしょう。妖精とはこのようなもので、人間に姿を見られるのが嫌いだからです。しかし、いい評判がたっていたので、靴屋さんはもう困りませんでした。彼が作る靴は妖精が作っていた靴ほどていねいに小さなステッチで縫ってはいなかったことに、だれも気がつきませんでした。彼は、奥さんと一緒に幸せにくらしました。 
なお、これらの神々のうち、母の女神(MotherGoddesses)と呼ばれている、手に赤ちゃんを抱いた女神たちの小立像が数多くみつかっています。「冬の女神」とも呼ばれているこれらの母たちは、木、岩や池と結ばれており、冬に祭られたのです。ケルト人やゲルマン人が重んじ崇拝したこれらの女神は、アングロサクソン人にも奉られ、デ・テンポラ・ラチオネ(Detemporaratione)という史料では、作者ベデ(Bede)が説明するように、クリスマスの前の晩はModranihtつまり「母の夜」と呼ばれたのです。彼女たちのために、クリスマスイブに食べ物が用意しておかれた例が多くあります。 
他方、冬至の行事と関係があったかわかりませんが、サンタクロースのイメージとぴったり重なる守り神(guardianspirits)であったらしいものに、ガリアの頭巾を被った小立像があります。その中には、若者または子供にみえるものもありますが、髭をはやした年よりもあります。背が低く頑丈であるこれらの小立像の多くは、小人またはねこ背の人のように見え、豊穣、富のしるしであるぶどうや卵が入った籠を持っています。頭巾が人には見えない他界に属することを表わすのです。民話においてこれらの小さなものは、ある場所または家族と結び付けられ、怒らせたり迷惑をかけたりしなければ、いたずら好きな陽気なものであり、幸運や富をもたらし人々の労働を助ける者として考えられたのです。籠を持っているこれらの小立像は、秋の豊穰と結ばれる面があるのでしょうが、サンタクロースのイメージにも全く無関係ではないと思います。それは、サンタクロースのプレゼントが富や幸運を象徴するからであると考えられます。古代ヨーロッパで年末・年始の行事が行われた冬至あたりや1月1日のころに、ご馳走を食べてプレゼントをあげる風習には同じ意味があったと考えられます。4世紀のギリシャに住んでいたリバニウス(Libanius)のカレンヅという祭の描き方を見れば、テーブルは食べ物でいっぱいであり、人々はお互いにプレゼントをあげたりしていたのです。古代社会では、プレゼントが大きな意味を持っていたと思います。これは人を喜ばせるだけではなく、病気が直る、または生命力が復活するなどといったおまじないの意味、象徴としておくられたのです。クリスマスプレゼントにこのような意味があったことは、古代では富、生命力の象徴であるりんごやくるみ(特に金色に塗ったもの)などが贈られたこと、つまりプレゼントの内容を見ればよくわかります。 
日本にもこのような意味をこめたお正月のプレゼントがあります。それはお年玉です。現代においては、ほとんどの場合お金であるこのプレゼントは、本来は餅であったのです。これについて「年神から賜るものと考えていたらしい」と柳田国男は考えています。また、「九州のずつと南の方でも、除夜の年越の晩には年どん又は年ぢいさんといふ人が、好い子供には年玉の餅を持つて来てくれる。それを貰はぬと年を一つ重ねることが出来ぬといひ、信じはせぬまでも舶来のサンタクロウスと、全く同じ話をして居る家が多いさうだが、下甑(しもこしき)の島の或る古風な部落などは、人が頼まれてその年ぢいさんになつて、籠を頭から被つて夜更に門の戸を叩き、子供にこの年の餅を持つて来る習はしさへあつた。…即ち多くの先祖たちが一体となつて、子孫後裔を助け護らうとして居るといふ信仰を考へ合せると、子供に親しみを持たせる為には、是より好い名は無いのであつた。…年神を我々の先祖であつたらうといふ私の想像はここに根ざして居る」とも述べています。 
このように、柳田国男によれば、お正月に訪れる神は先祖神だったのです。「春毎に来る我々の年の神を、商家では福の神、農家では又御田の神だと思つて居る人の多いのは、書物の知識からは解釈の出来ぬことだが、たとへ間違ひにしても何か隠れた原因のあることであらう。一つの想像は此神をねんごろに祭れば、家が安泰に富み栄え、殊に家督の田や畠が十分にその生産力を発揮するものと信じられ、且つその感応を各家が実験して居たらしいことで、是ほど数多く又利害の必ずしも一致しない家々の為に、一つ 一つの庇護支援を与へ得る神といへば、先祖の霊を外にしては、さう沢山はあり得なかつたらうと思ふ。」 
柳田国男の祖先崇拝が自然の神々の崇拝に先だつという説に対して、私は日本では逆であったのではないかということについて論じたことがあります。しかし、今は、古代の人々は自然の神々と祖先神をはっきり分けていたのかは疑問であると考えるようになりました。それは、キリスト教以前にヨーロッパで崇拝された神々の性格について、様々なことを考察した結果です。エリス・デービッドソンによれば、場合によって人々に害を与えたり、または助けたりする前述の神々は、死者と全く無関係ではありませんでした。ドイツやスカンディナビアでは、死者がハローインとクリスマスの時期に人々の世界を訪れると信じ、クリスマスに教会へ出かける前には、彼等のために食べ物を残すという風習があったのはこのような痕跡を示すでしょう。アイスランドでは妖精が同様に家々を訪れると信じていたということは、祖先の霊と自然の神々の間に大きな区別はなかったらしいことを語っていると思います。古代北欧諸民族の史料としてはサーガという長歌が有名ですが、サーガ(EyrbyggjaSaga)によれば、アイスランドで最初のスカンディナビア人の聖なる場所は、体を洗っていない人は近づけない穢や暴力から守られた小さな丘であったのです。それは、死者が祖先に加わるように埋められた場所、また死者の世界への入口としても考えられていました。特に、大王の霊が人々の生活に影響を与えると考えられ、スカンディナビアの亡くなった大王たちが豊穰をもたらすと信じられた例の一つは、フレイル(Freyr)という神はもともとウップサラ(Uppsala)に住みスウェーデン人を支配した人物でしたが、その時代に国が栄えたので、亡くなった後には人々がその墓に供え物を持ってきて彼等の労働を見守るように願ったというところにみえます。このように、フレイルと妖精や国守神(land-spirits)との関係から、これらは死者と結ばれることは可能に思われます。スウェーデンやノルウエーでは、古代から大王たちの古墳の場所がわかることが大変重要だったのは、国をうまく治め、豊穣や幸運の年月を迎えた大王は、死後にもめぐみや守護を与えることができると信じられていたからです。このような大王たちはそれぞれスウェーデンの主人(Freyr,Lord)という称号をもった可能性もあるといわれています。 
祖先崇拝はおそらく、サンタクロースの「父」的な要素を加えたのではないでしょうか。そして、フランス語などの言語では彼は「父」と呼ばれているのはこのためでしょう。 
ところで、プレゼントは子供に与えられるようになっていきますが、そこには理由が二つあると思います。一つは、イニシエーションまたは成年式の過ぎていない子供は、人間世界に属しない精霊と同じくまだ社会の一部として考えられておらず、儀礼においてしばしば象徴的な役割を果たすことと関係があります。二つめの理由は、実際には親に準備され子供に授けられたこのプレゼントは、亡くなった祖先の精霊が子孫に富を与えるということを象徴的に表わすと考えられることです。 
他方、お正月のご馳走は、神々の供え物、そして新年の富の象徴、豊穣を願う占いの意味があったのです。前者の意味は、日本では元日に雑煮を食べるということについて、神への供え物を祭に参加する人々が分けて食べることを意味すると、柳田国男が説明するところにみえています。ヨーロッパで、特別な生地で作ったジンジャーブレッドマンという人形型のクッキーがツリーに飾られ、食べられることにも、同様な意味があるのです。年の始めに新年の様子を占う風習は、古代ヨーロッパにも日本にも見られるのです。
むすび 
ここに注意しておきたいのは、クリスマスカードによくシーズンズ・ウイシュズ(Season'swishes)と書いているところです。クリスマスは一晩一日の祭であるよりも、「正月」でいうように「月」、英語でいうようにseason,periodoffeasting、つまり月またはそれよりも長い期間の行事として見なされているのです。日本のお正月も元日だけで終わることなく、長く続きます。クリスマスツリーの本来的な飾りがクッキーだったということも併せて考えれば、冬の最も寒い時期に、森か常緑樹を家に迎え、その木に森の妖精を招くように甘いお菓子を飾り、周りに御馳走を出し、歌を歌い、踊りながら、妖精を楽しませ、新年の豊作を祈ったのではないかと考えられます。そして、豊穣の約束をあらわす、妖精たちの象徴的なプレゼントとして、様々な形で特別な食べ物やお金が「年神」とか「サンタクロース」から出されたのです。 
最後に、私の母国であるブルガリアのクリスマスについて少しだけ述べさせていただきます。まず、クリスマスイブの御馳走ですが、その中心となるのは丸いパンpitaです。このパンは、昔、貧しい人でもそのためにためておいた小麦粉又はお金を使って、できるだけ白い、贅沢なパンにしました。このパンの中には、「お金が入る」ことを意味する金貨や、「健康」を意味するヤマボーシまたはミズキ(cornel-tree,dogwood)という木の小枝などの占い物が入れられます。パンは、家の最も年上の人によって分けられ、最初の分は「神に」、それから「家に」「畑に」「家畜に」などと分け置いてから、年の順に家の人たちに分けるのです。私の家では、「お客さん」の分も、このような人がいるかいないかとは関係なく用意していました。その夜に訪れるお客さんは、神のように扱うべきとの言い伝えが残っていたからです。これはむしろ、この夜に家で神々を祭ることにより、突然に訪れるお客さんがそれらの神を表すことになるからだと思います。食事の途中又は終わりの方に、祖父又は父が部屋を出て、しばらくしてから母は、「そろそろボジックお祖父さん(dyadobojik)を呼んでみよう」と子供たちを誘います。子供たちは鍋やフライパンなどをもって、窓の前に大声で呼びます。そこで窓が開き、だれであるかわからないように変装した祖父か父が窓から果物やお菓子、お金を投げ、子供たちがもっている道具でそれを捕まえようとします。もちろん、キリスト教風の祈りなどもこの夜にはとても大事に行われますが、わたしはこの背景にキリスト教以前のこの季節の行事の影響が十分にうかがわれると思います。そして、次の日には、スルワカリやクケリという行事が行われます。都市では、前者だけの略した形が見られますが、田舎では現在でも両方が古い伝統にもとづいて行われているのです。クケリという行事は、面を冠り、鈴を付けて踊るというものです。クリスマスツリーをブルガリアでいつから飾るようになったのかを今ふれることはできませんが、先に述べた行事には、参加者の帽子や服が常緑樹の枝で飾られるのはかなり古い風習だと思います。スルワカリは、若い人(田舎では若い男、都市では性別なく子供たち)が、スルワチカという飾られたミズキの枝をもって、家々を訪れ、歌を歌って、季節のお菓子(パン、干し果物、くるみ、りんごなど)やお金をもらう行事です。飾られた枝で家の人たちの背中をたたくこともあり、これは健康のためだといいます。興味深いことに、日本にもこのような行事があります。「祝い棒」または「卯杖」というめでたいまじないや予祝の願いを込めた聖なる棒で、若い女性のお尻をたたいて、たたかれた人が子供を生むという小正月の行事です。この行事は古代から貴族や女房社会でも行われたことは、平安時代の文学からわかるのです。「「枕草子」にも、「心地よげなるもの卯杖のことぶき」とあり、正月を祝うもので女房たちは、これにたいへんすがすがしいものを感じたのであろう。「散木奇歌集」にも、 
はつうの日よめる 
あさましやはつ卯の杖のつくづくと思へば年のつもりぬるかなとあり、(中略)、卯杖に長寿の祝の意味のあったことが感ぜられる」。さらに、柳田国男によればこのような棒で、正月15日の粥をかきまわして年占いをしたり、田の水口に立てて豊作を願った例もあります。豊穰、健康をもたらすこのお正月に使われる棒は、ヨーロッパのおとぎ話にでてくる魔法の棒と何らかの関係がないでしょうか。他方、「ほとほと」という日本の行事は、もちやおかしをもらいに家々を巡り歩く若い人や子供たちの姿がブルガリアのスルワカリを思わせますし、秋の行事、ハロウィーンにも似ています。 
それぞれの文化の差異によって、ヨーロッパや日本の人々が冬至から正月の満月ぐらいまでの時期に行う年末・年始の行事に採用される様々な象徴の意味が異なるところがあります。しかし、豊穰や幸運の願いを込めたこれらの行事は、太古を今日と結ぶ人々の新年への期待を表わしているところで、心のつながりをもつと思います。
 
東アジア獅子舞の系譜 / 五色獅子
 

 

「寒さも彼岸まで」と言われますとおり、この寒さもお正月が過ぎれば、多少は緩みが出てくるかもしれません。今お正月と言いましたが、実は、今の季節は、陰暦で言えば、ちょうど正月の初めにあたりますね。今の日本は陽暦を使っておりますけれど、日本でも一昔前までは陰暦を使っていました。 
この陰暦のお正月というのは、東アジアの多くの国々においては、いろいろな行事が行われる季節でもあります。その行事のなかの一つに、獅子舞を思い出す方々も多いに違いありません。そこで、今日は皆さんに、獅子舞の話をしてみようかと存じます。
獅子のいない地域の獅子舞 
さて、今日は「東アジア獅子舞の系譜―五色獅子を中心に」という、やや大げさな題目をつけましたが、実は、私が見てきたいろんな獅子舞のなかに、「五色獅子」とも言うべきものがありました。青黄赤白黒、あるいはそれに近い五つの色でできた獅子のことで、「ごしき」とも、「ごしょく」とも読めるわけですが、読み方はさて置き、この五色獅子というのは、東アジアに広く分布していて、学術的にもとても興味深い獅子舞であります。 
実は、獅子は、アジアの東部のなかでは、インドの一部にしか棲息していない動物で、大陸の中国にも、あるいは半島の韓国にも、そして列島の日本にも、獅子が住んでいた記録は、いまだに発見されておりません。この前、ある考古学の先生にこの話をしましたら、「先史時代のものとしては、それらしき骨が発見されたことがありますよ」とコメントして下さったことがありますが、先史時代というのは、記録に残っていない歴史以前の時代なわけですから、ここでは、その問題は論外にします。 
とにかく、ヨーロッパなどとは違って、このように獅子の棲息していない東アジアにおいて、獅子舞は盛んに行われた。これは非常に不思議な現象であると言わざるを得ません。しかも、先ほども申しましたとおり、たとえば青黄赤白黒の五つの色の五色獅子をはじめ、いろんな色とりどりの獅子が舞を舞っている。そして、その舞、踊りには非常に迫力があって、これがまた面白い。ここまで考えますと、はたして東アジアの人々は、この獅子舞に何を託していたのか、疑問でなりません。 
今日は、その疑問の一端を、東アジアにおける五色獅子の交流の歴史から探ってみることにしましょう。まず獅子の呼び名ですが、獅子のことを、インド・ネパールでは「シンハ」と言います。チベットでは「センゲ」、それからシンガポール・インドネシアでは「シンガ」、中国では「シズウ」、韓国では「サジャ」、日本では「シシ」と言い、沖縄では「シーサー」と言います。 
これを見ますと、発音がお互いに似ているところが面白いというか、興味深いですね。このように言葉、今現在それぞれの国の言葉は全部違うわけですが、それを超える言葉の類似性が見られるというのは、おそらく、今までの歴史のなかで、過去からの獅子、あるいは獅子舞の交流が非常に盛んであった事実を物語っている現象に他ならないと思います。
北青獅子は最も古いもの 
では、その獅子、あるいは獅子舞の交流は、はたしてどんな経路で行われたものなのでしょうか。まず、韓国のほうから話を始めてみたいと思います。 
現在、韓国において、獅子舞は、主に仮面劇の中に登場しています。韓国の仮面劇は、西の海に面した海西地方、それから南の海に面した嶺南地方、ソウルを中心とする中部地方、このように三つに大きく分けられますが、その中の西の方面の鳳山(ボンサン)仮面舞、今日ここにいらっしゃっている方々のなかには、去年の11月に日文研で行われた鳳山仮面舞の実演および解説に参加された方もおられるだろうと思いますが、そのなかでも獅子舞は舞われていました。 
それから、西の方面の仮面劇のなかに獅子舞が登場するものとしては、康■(カンリヨン)仮面舞・殷栗(ウンリュル)仮面舞などがあります。それから南のほうの水営(スヨン)野遊・統営(トンヨン)五広大、河回(ハフェ)別神巫楽仮面戯などにも、それぞれ獅子舞は含まれています。 
しかし、これはあくまで現在まで伝わっているものであって、その他にも韓国の獅子舞は、少なくとも1940年以前までは、京畿道の龍仁(ヨンイン)、平安南道の順川(スンチョン)、黄海道の松禾(ソンファ)・黄州(ファンジュ)、咸鏡北道の慶源(キョンウォン)・種城(チョンソン)・茂山(ムサン)・明川(ミョンチョン)・鏡城(キョンソン)、咸鏡南道の定平(ジョンビョン)・永興(ヨンフン)・洪原(ホンウオン)、江原道の高城(コソン)・蔚珍(ウルチン)・横城(フェンソン)などで行われ、もう全部言い切れないほど、ほぼ全国的な分布を見せていました。 
ということは、獅子、それから獅子舞が、韓国人にとって非常に親しみやすい芸能であったことを物語っていると思います。そのせいか、現在もそれぞれの獅子舞はそれぞれの土地にすっかり定着した様子を見せています。その内容はそれぞれの仮面劇によって違うわけですから、内容は別にして、登場する獅子の色だけ、今日は色の話になっているわけですから色だけを見てみると、まず鳳山と殷栗などでは白い獅子ですね。 
鳳山では、白い獅子が舞を舞う。それから康では、胸の部分に赤を帯びた白い獅子が舞を舞う。それから、水営では茶色の獅子、それから統営では茶色の縞模様の獅子。それから最後に河回では、河回の場合は、日本の東北地方の鹿踊りに似ているもので、獅子舞とは言っても、頭の両端に角みたいなものが二つ付いている。このようにいろんな形の獅子が、それぞれ舞を舞い、各地方の特色を競っているわけです。 
しかし、綜合的に見てみると、これらの獅子舞はあくまでも仮面劇のなかの一部分に過ぎません。要するに、それぞれの仮面劇にはいろんな場面があって、そのなかにポーンと、一つ獅子舞が入っている。そんな感じです。それはおそらく、地方によって経緯は違うでしょうが、獅子舞が全国に広まって各地に根を下ろして行く段階において、以前から活発に行われていたと思われる仮面劇に吸収され、その一部分として定着してしまったからであろうと思われます。 
それに比べて一カ所、東北地方、韓国の東の北の地方にある、北に青いと書く北青という所に伝わる「北青獅子戯」、これは仮面劇とは言わないで、獅子戯と言いますが、これは、題目からもはっきりしているように、獅子舞が中心になっている民俗芸能なわけで、この場合は、事情が違います。名前からも明らかなように、これは獅子舞を中心とする民俗芸能であります。 
もちろん、だからと言って、この北青獅子戯も、獅子舞だけで構成されているわけではありません。舞童・社堂・僧侶・居士・漢方医なども登場はするが、しかし、獅子の役割に比べれば、これはほんとうに脇役に過ぎません。人間が獅子の脇役になっているわけです。しかも、この人間たちは、近代に入ってから付け加えられた役であって、もともとは獅子舞が中心でありました。 
その獅子が、今映像でお見せしますが、「写真1」のようなものです。どうですか、皆さん。これは、まず外見からみて、体一面が青・黄色、それから赤・白・黒の五つの色の毛皮で出来ている、言わば、今日のテーマの五色獅子であります。今まで見てきた白、あるいは茶色などの、簡単で単純な色で出来た他の地方の獅子とは比べものにならないほど、色鮮やかですね。毛皮を色鮮やかに作るのもまた大変だそうで、五つの色の糸を、いちいちバランスよく布地に編んでいく作業には、非常に手間がかかるみたいです。 
ところで、五色と言えば、皆さんもすぐ思い出されるように、陰陽五行説というのがあります。陰陽五行説によって、東アジアでは古くから、一つ一つの色にそれぞれの意味を持たせていました。この思想が「北青獅子」の五色にもそのまま受け継がれているのではないだろうかと、私は思います。 
実際、民俗学者である田(チョン)耕(キョン)旭(ウク)教授が、このことについて、獅子舞を演じている古老たちに聞いたところ、北青の獅子が五つの色で作られるようになったのは、断定はできないものの、ずいぶん古くからであるということでした。またその点が高く評価されて、北青獅子戯は、1967年には、韓国の重要無形文化財第15号として指定されました。要するに、この北青獅子戯に使われる五色獅子というのは、陰陽五行説とも通じる、韓国では非常に歴史の古い伝統的なものである、ということです。
沖縄に伝わる五色獅子 
は、日本の場合はどうでしょうか。日本にも、はたして五色獅子は存在するのでしょうか。存在するなら、その歴史的な流れはどうなっているのでしょうか、といった問題を、韓国に続いて、取り上げてみることにしましょう。 
まず、日本の獅子舞の現状を見てみますと、日本の獅子舞は全国的に分布する大陸系のもの、これは普通二人立ちの獅子舞と言っていますが、中に二人が入って舞を舞う形のものであります。それから主に東日本に分布する一人立ちの獅子舞と、主に東北地方に分布する鹿踊り、そして各地に点在する多数立ちの獅子舞とに大別されます。 
実はこの分類の仕方は、いまこちらにいらっしゃる高橋先生の分類でありますが、そしてそれは昔からの民俗学者などの分類の仕方を受け継いだものでもありますが、それはともかく、1998年9月末現在、日本の獅子舞の数は全国で7878ヶ所に及んでいます。これは、ほんとうにすごい数だと思います。 
韓国人に獅子舞が親しまれているとするなら、日本人にも、同じことが言えるだろうと思います。全国を7878に割ると、ほとんど町ごとぐらいになるんじゃないんでしょうか。このようにたくさんの数、しかも、たくさんの種類の獅子舞が現在も日本全国の津々浦々に伝わる。この数は、民俗芸能を主に調べたものでありますが、実はそれだけではありません。日本の獅子舞は、他の伝統芸能と言われるもの、たとえば太神楽、田楽、舞楽、能楽、歌舞伎などにも、それぞれ含まれています。 
なかでも、能の「石橋」をご覧になった方々も多いだろうと思いますが、「石橋」のなかでは、白いたてがみをした親獅子と赤いたてがみをした子獅子とが、激しい舞を競うんですね。これはたいへん印象的な場面です。 
しかしながら、こんなに全国的に獅子舞が流行っているにもかかわらず、五色獅子となりますと、日本の数多くの獅子舞のなかで、五色獅子と認められるものは、少ないですね。「私の古里には、こういう五色獅子がありますよ」とおっしゃりたい方がいらっしゃれば、後で教えていただきたいんですが、私が調べた範囲では、沖縄県の浦添市の勢理客、それから同じく浦添市の仲西、そして具志川市、宜野湾市の獅子が概ねそれにあたるのではないかと思います。 
「写真2」が勢理客ですが、ジッチャクと読むんだそうですね。沖縄の言葉は読み方が難しくてなかなか読めないんですが、とにかくこれが五色でできた獅子のように見えます。赤もあれば、白もあって、黄色もあれば、混じってはいるものの、黒と青もあります。よく見ますと、まさしく五色の毛皮でできているのが分かります。 
それから「写真3」、これは同じく浦添市の仲西の獅子ですが、わりと色がはっきりしているのが特徴です。これで、浦添市のなかには、二ヶ所も五色獅子が伝わっているのが分かります。それから、次の「写真4」が具志川市の獅子ですが、何か餌食でも狙っているような恰好をしているこの獅子も、体全体に赤みを帯びてはいるものの、詳しく見てみますと、五色ともいうべきいろんな色でできています。 
それから「写真5」、これが宜野湾市のものですが、これは赤系統の毛皮と青系統の毛皮に大きく分けられますけれども、その中間の部分にいろんな色が混じっていて、詳しく見れば五色のようにも見えますね。もちろん全部で五色とは断定できないんですが、とにかく、このように、沖縄には五色獅子が存在していることが言えます。 
となると、全国的に見て8000にも及ぶ獅子舞のなかで、なぜ沖縄にだけ五色獅子が伝わるのか、というのが問題になりますね。勢理客の獅子舞を解説した次の文書を見てみましょう。 
獅子舞が何時頃沖縄に伝来したのかは定かでは無いが、中国より入って来たのは間違い無い事である。例えば古い例としては、1400年代に造築された玉陵(たまうどん)の獅子や、年代ははっきりしないが、浦添ようどれの石棺等にも獅子が描かれている。これ等が沖縄で最も古いものであろう。 
要するに、簡単に言って、私がここで言いたいのは、沖縄の最も古い形の獅子が今まで紹介したいくつかの所の五色獅子であるということで、それがどれだけ古いものなのかは、引用のとおり1400年代、すなわち15世紀に沖縄に上陸したということです。 
引用のとおり、実際中国から伝来したかどうかは別にして、指摘の通り、沖縄の獅子が本土ではなく海外から輸入されたものだとしますと、日本全土のなかで、近代に入って本土に編入された沖縄にだけ五色獅子が伝わるのは、近世までの文化の伝統が異なっていた事情を考え合わせれば、ある意味では、当たり前なことなのかもしれません。
日本の五色獅子をさかのぼる 
では、日本の本土には、五色獅子は存在しなかったのでしょうか。 
だいたい日本の固有というか、日本化された文化現象を調べる時、まず目をつけなければならないのは、平安時代ですね。それは、その前の奈良時代までは積極的に大陸の文化を受け入れた時代で、平安時代になってから、国風文化と言いますか、「かな文字」の発明などに伴って、ほとんどの文化が日本化され、定着したからであります。 
それで、私も、平安時代の文献を調べて見ました。平安末期の貴族、藤原通憲(?-1159)が描いた「信西古楽図」というものがあります。この本は、主に平安時代の舞楽を絵で示したものでありますが、そのなかには、獅子と覚しき絵が三つほど入っています。順序別に言うと、「新羅狛」と名付けられているもの、「写真6」のように二人立ちの獅子を一人の男が綱をつけて引いているもの、それから、前後に子供を伴った角のある二人立ちの獅子が、それであります。 
「写真6」を見て下さい。これは昔のものですから、カラーではなく白黒ですが、その右上には、次のように書かれています。読んで見ますと、師子舞文献通考出唐太平楽亦謂之五方師子舞と書いてありますね。要するに、これは獅子舞の絵であると断言しているんですね。「文献通考」というのは元の時代の馬端臨という人が書いた政治書なわけですが、それによりますと、唐の雅楽の「太平楽」では「五方師子舞」とも言っていた、という意味です。この五方師子舞というのが面白いですね。この言葉は、「旧唐書」の「太平楽」の条にも、「大平楽、亦謂之五方師子舞」とそのまま載っていますが、まず「五方」とは、いったい何を意味するのでしょうか。 
結論から言いますと、五方というのは、陰陽五行説の「五行」からきているものであります。五行は、色に当てはめられるのはもちろん、春夏秋冬の季節、東西南北の方向、それから身体の部位など、実にいろんな事柄に当てはめることのできる中国の思想で、このことから私は、この「五方師子舞」が、それぞれ一つの色で飾られた五匹の獅子の舞であったのか、あるいは五つの色でできた一匹の獅子による舞であったのかは別にして、広い意味での「五色獅子」をさす言葉ではなかったかと推定してみました。それから、「師子」と「師」の字がちょっと違っているんですね。師匠の「師」、先生の意味の「師」になっていますが、それはいわゆる当て字で、「獅子」と同じ意味であろうと思います。 
ところで、「信西古楽図」は、先ほどもご紹介いたしましたとおり、藤原通憲が描いた書物であります。彼がいつ生まれたかは未詳ですが、彼が亡くなった年は、1159年です。今に伝わる伝本は江戸時代に藤原貞幹が模写したものですから、確かなことは言えないにしても、もし江戸の儒者藤原貞幹が原本を正しく模写したとするならば、少なくとも藤原通憲が生きていた平安時代、つまり12世紀の半ばまでに、日本に「五色獅子」が存在していたことが言えると思います。 
では、それ以前はどうでしょうか。平安時代の舞楽の前に、「楽」で言うなら、奈良時代には伎楽というものがありました。伎楽は、解明されている部分が舞楽よりもっと少ないのですが、たとえば「教訓抄」および法隆寺、東大寺、西大寺、観世音寺などの財産目録である「資材流記帳」を見るかぎり、伎楽にも、獅子舞は含まれていました。例を挙げましょう。747年、すなわち8世紀の半ばに作成された「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」というものの伎楽面の欄には、「師子弐頭五色毛在袴四腰」という文字が見えます。これは五色獅子の存在をあらわす記録で、「五色毛」が五色獅子を指しているのは、言うに及びません。そして、「弐頭、袴四腰」は、人間の足が二つであることから、二人立ち獅子の、二匹分をあらわしているように思われます。 
なお、この事実は、1981年から1994年まで奈良国立博物館などが調べた法隆寺の「昭和資材帳」というのがありますが、そのなかに載っている伎楽の獅子の仮面からもうかがい知ることができます。 
「写真7」がそれですが、この獅子は、布貼りのあと、黒漆地、白色下地に彩色を施したものであります。長い歳月にさらされているので殆ど毛が残っていないのが残念ですが、肌は黄土色、瞳は黒、白目の部分に朱彩、その周りに金箔が押されています。青黄赤白黒の五つの色のなかで、青を除く四つの色が、一応揃っていることが分かります。 
では、実際、伎楽の獅子に、青色は含まれていなかったのでしょうか。この問題について、また一つ面白いのは、昭和の大修理を終えたのを記念して、東大寺で、1980年に伎楽を復元しているんですね。この場面をNHKが放映したのが「写真8」なわけですが、伎楽の獅子を獅子児が紐というか、綱をつけて舞台に上らせる場面の写真を見るかぎり、獅子の背中のいちばん上の部分が青になっていることが分かります。 
さっきのは仮面だから顔だけの話でしたが、今度のは毛皮、毛皮そのままの再現は出来なかったにしても、一応布を被せているんですね。五つの色で出来ている布を被せています。「写真9」が舞台にあがった場面です。ご覧になってください。それから、舞楽の舞台って、こんなものですね。舞楽の舞台と言えば、現在は大阪の四天王寺に石舞台が残っているだけですが、復元されたのは木で作った木造舞台で、それはこんな形だったわけです。 
ちなみに舞楽の舞台は日本の舞台の始まりと言われているんですが、それはともかく、「写真9」の舞台の後ろの垂幕を見て下さい。皆さん、神社仏閣に行きますと、建物の表に垂幕を垂らしていますね。この前私は妙心寺で見ましたが、この正月にも、あちらこちらに沢山ありました。その垂幕もだいたい五つの色になっています。獅子の五つの色と垂幕の五つの色が、お互いによく調和していて、とてもきれいに見えるではありませんか。 
このように、日本でいちばん古い歌舞、「楽」とされている伎楽においての獅子舞は、少なくとも復元されたものを見るかぎり、これは五色獅子になっていた。とすると、この伎楽の実体は、果たしてどんなものだったのか、というのが問題になってきます。 
伎楽は、韓半島からの伝来の歌舞でありました。日本書紀612年2月条に、次のように書いてあります。 
又百済人味摩子帰化、曰学于呉得伎楽、則安置桜井而集少年令習伎楽、於是真野首弟子、新漢、斉文二人、習之伝其■ 
これは、百済からの帰化人味摩子が、呉から学んだ伎楽ができると言うので、聖徳太子がこの人を歓待し、奈良の桜井に学校を開かせ、伎楽を後世に伝授させた、という意味であります。 
でも、それより、ここでいう呉国という言葉が、私にはちょっと気になります。呉国が、実際の呉国なのか、あるいは、呉国の都であった南京なのか、それとも、皆さんがたとえば着物屋さんに行くのを呉服屋さんに行くとも言うように、中国全体を指している言葉なのか、という問題がそれです。 
個人的には中国全体を指しているのではないかと思うんですが、それは別にして、とにかく、この東大寺で復元された獅子舞、伎楽のなかの獅子舞と言うのは、五色獅子であった。そしてそれは、中国から韓半島を通して日本に伝わったもので、その五色獅子は、平安時代の末期まで続いた後、どんどん日本化され、今の7878ヶ所の獅子舞のような形になった。その一方で、沖縄には、また別の系統の獅子舞が伝わり、今に至っている。今までの私の話は、取りあえず、このように整理できるだろうと思います。
韓半島の獅子舞の記録 
では、もともとの韓半島の事情はどうだったのでしょうか。 
まず韓国では、高麗時代の文人である李穡(イセク)という人、この人は1328年から1396年まで住んでいた人ですが、李穡の書いた漢詩のなかに「駆儺行」というのがあります。「駆儺」の「儺」というのは、「追儺」の「儺」です。「追儺式」がそうであるように、要するに「厄払い」「魔除け」という意味で、この詩は、前半では鬼やらいの儀式を、後半ではそれに続く歌舞百戯を、それぞれ描写しています。この詩を読んでいきますと、その後半の始めに、「舞五方鬼踊白沢」という部分が出てきます。 
ここで言う「白沢」というのは、獅子の別名です。それから「五方鬼」の「五方」は、東西南北に中央を足した五つの方面を指す言葉でありますから、五つの方面で鬼が舞いを舞っている。そしてその鬼と共に、獅子も五方舞を舞っていたということです。 
それから、その次の行あたりを見てみると、「低回長袖舞太平」と書いてあります。長い袖を低く回しながら「太平」を舞っていたという意味で、「太平」は、先ほどの「信西古楽図」にも「太平楽」というのがありました。左舞と右舞を番舞に舞っている舞楽の中で「太平楽」は左舞に属する舞ですが、この「太平楽」、すなわち別名「五方獅子舞」を韓国でも舞っていたということです。そしてその舞は、言うまでもなく「五色獅子」による舞であったわけですね。 
では、それ以前はどうでしょうか。李穡は14世紀の人ですが、今度は9世紀の後半の話になります。崔致遠(チェチウオン)(857-?)という人の、「郷楽雑詠五首」という漢詩を見てみましょう。「猊」という所です。 
遠渉流沙萬里來 西域より流沙を渡り 遠く万里を来たれり   
毛衣破盡着塵埃 毛は抜け埃(ほこり)にまみれて   
搖頭掉尾馴仁徳 頭揺すり尾を振りつつ仁徳に馴れたる 
雄氣寧同百獣才 百獣の王たる獅子はそなたか 
まず「猊」という題目なんですが、この字は韓国ではサンイェ」といって、「百獣の王たる獅子」と出ているように、獅子をあらわす言葉です。日本でも「サンゲイ」、あるいは「カラシシ」と読んで、同じ意味を持っています。この獅子が、西域から伝来される過程で、人間に馴染まれて頭をゆすり、尾を振りながら舞を舞う姿に転じていた、という内容ですね。 
では、その獅子、そしてその舞は、どんなものだったのでしょうか。ご参考までに、土田杏村の説を見てみましょう。土田杏村は、「新羅楽と散楽伎楽舞楽」という論文のなかで、「この詩を見ると、獅子舞の内容は幾分ユウモアを含み、獅子も徒らに威容を張つたものではないやうだ」と指摘した上で、「〈猊〉と題してあるのは、言ふまでもなく伎楽の獅子舞である」と断定しています。そうなると、「猊」が「伎楽」の獅子であったという指摘から、この舞は、日本の伎楽がそうであったように、「五色獅子」による舞であったということが推定されます。 
それから、崔致遠という人は17年間も唐に留学し、現地の科挙にも及第し、官職にまで就いたことのある秀才でした。もしかしたら、この詩は、歴代の中国のなかでも「五色獅子」が最も流行っていた留学先の唐の獅子舞を、懐かしく思い出しながら書いていたものであるかもしれません。いずれにしても「猊」の舞が五色獅子舞であったとするならば、韓国の「五色獅子」の歴史は、崔致遠が活動していた9世紀後半、新羅時代の末期まで溯ることが出来ます。 
では、それ以前はどうでしょうか。断言はできないものの、それ以前のことについても、いくつかの推測はできます。取り敢えず于勒(ウルク)という人に注目したいと思います。この人は、「伽■琴(カヤクム)」つまり日本の琴に似た楽器を作ったと言われ、韓国では楽聖として知られている人なんですが、この人が、「于勒十二曲」というものを作ったことがあります。その「于勒十二曲」のなかの八番目の曲に、「師子伎」というものが含まれています。 
まず、韓国で最も古い歴史書である「三国史記」、三国というのは高句麗・新羅・百済のことなんですが、その「三国史記」に出ている于勒についての記録をまとめてみましょう。 
嘉実王に命じられ、十二の伽■琴曲を作った楽師于勒は、国が乱れてきたので、伽琴を携え、新羅の真興王(ジンフンワン)のもとへ帰化した。それで真興王は、階古(キエコ)、法知(ボブチ)、万徳(マントク)の三人に、于勒について学ぶように命じた。于勒は、彼らの技能を量って、階古には琴を、法知には歌を、万徳には舞を、それぞれ教えた。 
要するに、伽の楽・歌舞が優れていたので、新羅でも、亡命してきた楽聖于勒を師匠に定め、それを教習させた、ということですね。ここで注目にあたいするのは、琴と歌と舞を別々に分けて教えたということです。ということは、「于勒十二曲」が曲つまり音楽だけではなくて、舞を伴った芸術であったということになるからです。 
では、どんな舞だったのか。金東旭(キムトンウク)の説をご紹介しましょう。 
于勒に習った弟子たちが、真興王の前でそれを披露した時は、それを五曲に縮めていた。後の神文王(シンムンワン)が新村に行幸した時の七つの曲のようなもので、神文王は「(宴)」を開いて楽を演奏(幸新村設奏楽)させたのだから、の形式が問題になる。は、「後漢書」文帝記の「五日」の師古の所に、を賜った者は皆伎楽を作った(賜者蓋取作伎楽)と出ている。したがって、では伎楽が舞われていたことが推測される。そこで、于勒の十二曲も伎楽の一種であり、当然ながら「師子伎」の舞も、伎楽の舞であったことが分かる。 
金東旭の説が真実だとすると、于勒が新羅の真興王に亡命・帰化したのが552年、すなわち6世紀半ばのことですから、少なくとも5・6世紀あたりの韓国に、伎楽の獅子舞、つまり「五色獅子」が存在していたことが分かります。そしてそれからの詳しい経路は分からないものの、その「五色獅子」が綿々と伝わり、先ほどの「北青獅子」にも、何らかの形で影響を及ぼしているのではないでしょうか。
唐の五色獅子と西域 
それではですね、この韓国に伝わる獅子というのが、どこから始まったものなのかを検討してみましょう。言うまでもないことですが、それは、当時のほとんどの文物がそうであったように、獅子および獅子舞も、他ならぬ中国から伝わったものであるように思われます。 
では、中国での獅子および獅子舞の事情は、どうだったのでしょうか。一番最初に申しあげましたとおり、獅子は、インドにしか棲息しない動物であります。したがって、この獅子がいつ頃中国に伝わり、獅子舞になって韓国および日本に伝わったのか、という問題になるわけですが、それはさて置き、まず歴代の中国のなかで、獅子舞が一番多く流行っていたのは、唐の時代でした。 
唐の詩人李白(701-762)の書いた「上雲楽」という漢詩を見てみましょう。「上雲楽」、雲の上で楽を奏でる。いい名前ですね。実は、王様の長寿を祝う詩なんですが、そのなかには、次のような部分があります。 
五色の師子/九苞の鳳皇/是れ老胡の犬/鳴いて舞い帝郷に飛ぶ/淋漓として颯沓たり/進退して行を成す/胡歌を能し/漢酒を献ず/双膝を跪き/両肘を並べ/花を散らし天を指して/素手を挙ぐ/竜顔を拝し/聖酒を献ず 
宴の様子を描写した内容なんですが、「双膝を跪き/両肘を並べ/花を散らし天を指して/素手を挙ぐ」という件から見るに、獅子と鳳皇とが出てきて舞を舞う場面であることは、明らかですね。「鳳皇」は、「山海経」によれば、五色でできている鶴に似た形の鳥のことで、空では、五色の神鳥の鳳皇が鳴きながら飛びまわり、地上では、五色の獅子が膝をつき、肘をはり、手を上げたり下げたりしながら、迫力あふれる舞を舞っていた。まるで天地そのものが五色で彩られたような風景、と言えましょう。 
これがいちおう、唐の時代の宮中での獅子舞、五色獅子舞の場面であります。しかし、唐の時代の獅子舞の流行は、宮中にだけ限るものではありませんでした。一般庶民の間にも、獅子舞はかなり広まっていました。「中国獅子芸術」という本に、「獅子舞は唐代になって普遍的に盛んになった。宮廷はもちろんのこと、軍営でも、民間でも、活動的に行われた。(舞獅到唐代普遍盛行 無論在宮廷 軍営還是民間 舞獅成了人們喜聞楽見的活動)」という指摘があるくらいです。 
それでは、このような中国の獅子舞は、どこから伝わったものなのでしょうか。それは、先ほどの「上雲楽」のなかにも「是れ老胡の犬」と出ているように、西域から伝わったものであります。この西域から伝わったという認識は、中国人の間にだいぶ後まで根強く残っていたようで、たとえば明の時代の「明憲宗行楽図」(写真10)を見てみても、王様の行列の先頭をなす獅子を案内している獅子児の頭の部分が、一般の帽子ではなく、西域の独特なターバンで巻かれています。それから、この人の服装そのものも、西域のもののように見えます。 
とすると、中国に獅子が伝わったのはいつ頃なのか、が疑問になってきます。これについては、宮尾慈良の指摘を見てみましょう。 
元来、中国には獅子は存在しない。そこで中国における獅子について文献資料を渉猟することにしたい。一説には漢の武帝(紀元前140-87)のときに、西域との交通が頻繁になりその交通の道を開く契機をつくった張騫が獅子を西域より伝えたという。後漢・班固「漢書」によると武帝の建章宮の脇にある奇華殿には四海夷狄(いてき)(蛮族)の器服珍宝が展示されていた。そのなかに火浣布(石綿で作った耐火布)、切玉刀(硬い玉を切る刀)、巨象、大雀とともに獅子の語が見られる。ここでは珍獣としてあったようである。また「漢書」西域伝にも「巨象、獅子、猛犬、大雀の群、外にある囲いに飼われている」という記がみられるので、武帝の頃に、その存在は人の知るところとなっている。 
中国と西域の間にシルクロードが開かれたのは、紀元前2世紀あたりの漢の時代だそうですね。この紀元前2世紀の漢の武帝の時に、獅子は、早くも中国に入ってきた。そしてそれは、象などとともにいわゆる珍獣、珍しい動物として扱われていた。なかでも獅子には、「百獣の王」というイメージがあったので、たとえば皆さんが寺院や神社の前で阿吽の形をしている二匹の獅子、あるいは狛犬を見てお分かりいただけるように、辟邪進慶の意味を持たせていた。これは獅子の原産地であるインドおよびネパールなどの国々でも、お寺などの正門の前に獅子の彫刻が飾ってあるのと同じ現象ですが、ともあれ、その辟邪進慶を願う延長戦のうえで、やがて獅子に象った獅子舞もできたのではないでしょうか。 
宮尾慈良の文章を、もう少し見てみましょう。 
北魏(386-534)頃になると、資料には獅子が寺廟の百戯のなかで演じられたのがおおく見られる。これは獅子舞が宗教的色彩をもって演じられて、やがて獅子舞に対する民間信仰が仏教とともに発達することに注目していい。北魏の楊衒之が誌す「洛陽伽藍記」の長秋寺の条に「作六牙白象負釈迦在虚空中……四月四日比象常出、辟邪獅子導引其前……」とある。 
ここで注目したいのは、北魏の頃になって「獅子が寺廟の百戯のなかで演じられた」という件です。百戯のなかに編入されたというのは、動物の獅子が芸能の獅子舞として発達し、定着したことを意味するに他なりません。そしてそれは、「洛陽伽藍記」のなかの「辟邪獅子」という言葉が象徴しているように、そして私も先ほど言及したように、「辟邪進慶」の意味を持つ宗教的色彩の濃いものでありました。 
そしてもう一つ、宗教のなかでも「仏教とともに発達」したという指摘にも、意味があると思います。仏教では、我々衆生を救済するため、文殊菩薩は獅子に、普賢菩薩は象に乗って、それぞれ現われますね。この現象は、仏教とこれらの動物のイメージが密着していたことを意味し、逆に、これらの動物のイメージが仏教とともに勢いを得て普及されたことも、意味していると思います。 
そしてそのイメージの普及、すなわち百獣の王獅子に辟邪進慶を託すイメージの普及が、時の流れとともに獅子舞を作り出し、やがては陰陽五行説の五色の意味と結合して、唐の時代にいたっては、五色獅子舞の全盛期を迎えていた、という発展の過程ではなかったのでしょうか。
ネパールの五色と中国の五色 
では、もともとの獅子の棲息地であるインドにおける獅子のイメージは、どんなものであったのでしょうか。皆さんのなかで、インドを旅行なさったことのある方はお気づきになっただろうと思いますが、インドの紙幣の裏面、つまり日本では鶴などが入る所に、インドでは、獅子が描かれていますね。このように獅子を大事にする習慣は、インドでは、昔から根強いものがありました。 
紀元前3世紀にインドを統一し、最初の統一国家であるマウリヤ(Maurya)王朝を建てたアショーカ(Asoka)王は、三匹の獅子が威容よく立っている姿の「アショーカ王柱」を作ったことがあります。正しく国のシンボルマークとして獅子が定着した時期と言えましょう。そればかりではありません。インドの女神ドゥルガー(Durga)は、常に獅子に乗って現れては、災難から衆生を救済してくれます。 
身近な動物であった獅子は、インドのなかで、まずはこのようにイメージされました。その後、アショーカ王の崇仏政策などに力づけられ、先ほどの宮尾慈良の指摘のように、仏教の伝播とともに西域に渡り、やがて中国にまでたどり着いたものと思われます。 
では、インドおよびその周辺のシルクロードの国々に、中国の唐の時代に流行したような五色獅子舞は、存在しないのでしょうか。インドの場合、過去のことはよく分かりませんが、現在行われている獅子舞のなかで最も有名なものの一つであるトラン村のチョウという獅子舞は、五色獅子ではありません。 
その代わり、ネパールの仮面劇マハーカーリー・ピャクン(Maha-ka-li- Pya-khan)のなかの獅子(シンハ)(写真12)は、これは女神マハラクシュミの乗り物として登場するものですが、この獅子は、背中に黒白赤黄青の布が被されており、五色獅子と認めるに十分であると思います。 
では、マハーカーリー・ピャクンの獅子の五色は、それぞれどんな意味を持っているのでしょうか。タイレット(TAILHET Jehanne H)の説明を読んでみましょう。 
赤、暗青、白は、最も強力な色である。民間レベルでは、ヒンドゥー教タントラの色として受け入れられ、赤は月経の血・犠牲の血・怒りを、暗青はエネルギー・力を、白は精液・純粋・色あせた骨のような死を、それぞれ表す。黄色のような軟らかい色は、神々の寛容を表す。 
マハーカーリー・ピャクンはカトマンドゥ地方だけでも六つのグループが演じていますから、その全部が、このような解釈を下しているかどうかは分かりかねますが、タイレットの説明が的を射ているとするなら、この説明を読むかぎり、五色の意味が、ヒンドゥー教の影響のせいか、我々が日頃考えている五色のイメージ、つまり中国から伝わったそれとはだいぶ違っていることが分かります。 
ここで一応、我々が日頃持っている五色のイメージを確認しておきましょう。五色のイメージは陰陽五行説から派生したもので、なかでも五行は、木・火・土・金・水の五つの元素が相生、あるいは相剋を通じて万物が循環するという、中国人の自然観そのものを代弁するものでありました。 
たとえば皆さん、「左青竜右白虎」という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。これは左すなわち東は青、右すなわち西は白という意味です。同じく南は朱雀すなわち赤になり、北は玄武すなわち黒になります。最後に黄色は、皇帝という言葉が象徴しているように、中央すなわち人間が立っている真中を指します。孔子が誕生した折に現われたと言われている五人の老人も、五元素をあらわす「五蘊」を象徴していると言われていることから、この思想の歴史にはずいぶん古いものがあると言えましょう。 
ところで、実のところ、ネパールにも、中国の五行説に似たような五色の意味は、存在しているのです。ネパールはチベット仏教が盛んな国で、例えば、マハーカーリー・ピャクンが演じられるカトマンドゥには、スワヤンブナート(Swayambhunath)という寺院がありますが、その表には、仏経が書かれた五色の祈祷旗タルチョ(写真13)が掲げられています。 
このタルチョの五色は、それぞれ地・水・火・風・空を意味し、天地自然の運行をあらわす摂理を象徴していると言われ、中国の五色と一脈相通じているのはもちろん、日本の五輪塔にまでつながっています。普通の五重の塔ではなくて、五輪塔というのがあるでしょう。五輪塔は密教的なもので、下から地・水・火・空・風と五つの意味を持っているのだそうです。 
にもかかわらず、マハーカーリー・ピャクンの五色の意味がこれらと全く違うのは、なぜでしょうか。この劇の歴史についてクーマ・プラサード・ダーシャン(Kumar Prasad DARSHAN)は、この劇はネパールの伝説に基づいたもので、13世紀初めのアリ・デバ・マラ王朝(King Ali Deva Malla)に始まり、アナンタ・マラ王朝(King Ananta Malla1274-1310)には、民間に流布した、というふうに報告しています。言い替えると、マハーカーリー・ピャクンの素材となった伝説は、話そのものは古いかもしれませんが、それが劇としてまとまり、五色獅子が登場するようになったのは、13世紀以来である、ということです。 
となりますと、マハーカーリー・ピャクンの「シンハは、その仮面の姿が中国系統のそれと類似している。これは、この舞を舞ってきたネパールのネワール(Newar)族が、チベットを経由して中国と交易を行っていたという事実と深い関係がある」と主張する金蘭姫(キムナンヒ)の論文が注目を浴びてきます。そして、馬場雄司が「五色のたてがみを持つシンハは中国の影響もみられるものである」と指摘しているように、中国からの逆輸入が考えられないわけでもありません。 
最後があまりにも曖昧な言葉で終わってしまいましたが、もうそろそろ時間になってまいりましたので、この辺で、今までの私の話を整理してみたいと思います。 
まずネパールのマハーカーリー・ピャクンのなかの獅子は、五色獅子であるという点において、非常に面白いと思います。しかし、今まで検討してきたように、五色獅子の系譜図を描くにあたっては、現時点では、なんとも言い様がありません。 
それからインドの獅子舞というのは、獅子がインドにその起源を発しているにもかかわらず、過去のことは分かりませんが、現在のところでは、五色獅子の形としては伝わっておりません。 
むしろ五色獅子が流行ったのは、獅子が中国に輸入されてからもだいぶ歳月が流れた唐の時代で、それはいわゆる陰陽五行説との結びつきによるものであったと推定されます。 
そして、中国の五色獅子は韓半島に伝わりました。古い記録が乏しいため断言はできないものの、北青獅子戯のなかの五色獅子として、今にその面影を残していると思われます。また、伎楽とともに韓半島から日本に伝わった五色獅子は、獅子舞の民俗化が進むにつれ、五色をなくした形で土着化してしまいましたが、五色の思想だけは、たとえば神社仏閣の垂幕・能の上幕・相撲の土俵をはじめ、五色揚げ・五色海老・五色花・五色素麺・五色の糸・五色の酒などの形で、今に伝わっています。 
それから、沖縄の勢理客などに伝わる五色獅子については、今現在その系譜を断定することが難しいので、今後、もう少し研究を重ねる余地があります。
 
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養
 

 

一 緒言 
奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、大体において獅子頭を頭につけた青年が、数人立ち交って古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞或いは越後獅子などの類で、獅子奮迅踴躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態な事にはその旧仙台領地方に行わるるものが、その獅子頭に鹿の角を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角が生えているのである。 
楽舞用具の一種として獅子頭の我が国に伝わった事は、すでに奈良朝の頃からであった。降って鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地に行われた事が少からず文献に見えている。そしてかの越後獅子の如きは、その名残りの地方的に発達保存されたものであろう。獅子頭は謂うまでもなくライオンを表わしたもので、本来角があってはならぬ筈である。勿論それが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を附加するという事は考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来龍頭と呼ばれて二本の長い角が斜めに生えているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるという事は、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだしもと鹿供養の意味から起った一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるる事から遂に獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日に及んでいるものであろう。以下その然(しか)る所以を説明してみる。 
二 シシ踊りは鹿踊り 
今日ではシシと云えばただちにライオンを連想する。したがってシシ踊りがただちに獅子踊りであるとして解せられるに無理はないが、古くは猪及び鹿もまた普通にシシと呼ばれたものであった。そしてそれを区別すべく、前者をイノシシ、後者をカノシシと呼んだのであったが、今日ではカノシシの称呼は普通に失われて、イノシシの方のみが各地に保存されている状態である。 
案ずるにシシは宍(シシ)すなわち肉の義である。古代野獣肉が普通に食用に供せられた時代において、猪鹿が最も多く捕獲せられ、したがって食膳に供せられるものは、主として猪(い)の宍(しし)、鹿(か)の宍(しし)であった、かくてその称呼が世人の口に、耳に親しくなった結果として、遂にそれがただちに猪または鹿そのものの名称の如くに用いられる様になったのである。そしてそれがさらに省かれて、単にシシを以て呼ばれる事になったのは、今日裁縫器械(マシーン)を単にミシンと呼んで通ずるが如きものである。しかもそのひとしくシシと呼ばれるものについても、地方によって相違があり、関西地方では後世猪がことに多かったが為に、猪にのみイノシシまたは単にシシという語が普通に行われて、鹿に対してはその語の保存せられる事が少なかったが、それと反対に、奥羽地方においては、古来鹿の蕃殖がことに多かったとみえて、為に今に鹿を呼ぶにカノシシの称が保存せられ、古くは単にこれをシシと呼んで、ただちに鹿を意味したものであったと解せられるのである。しかもこれはひとり奥羽地方ばかりではなく、古代において各地鹿の多かった事は、石器時代の遺蹟に鹿角が多く包含せられて、猪牙の極めて少い事からでも想像せられ、記紀の記するところ、日本武尊の焼津の野火の難における、市辺押磐皇子の来田綿の蚊屋野における、或いは允恭天皇の淡路の御狩における、いずれも鹿のことに多かった事を誇大に述べているのである。別して、関東地方の事については常陸風土記信太郡の条に、 
風俗諺曰、葦原鹿其味若爛、喫異二他宍一矣。常陸下総二国大猟、無レ可二絶尽一也。 
と云い、また多珂郡の条に、 
古老曰、倭武天皇為レ巡二東陲一、頓宿二此野一。有レ人奏曰、野上群鹿、無数甚多。其聳角如芦枯之原、比二其吹気一、似二朝霧之立一。 
などとも見えているのである。勿論当時これらの地方には猪も少からず蕃殖し、同書行方郡の条には、男高里の池の西の山に「猪猿多住」と云い、当麻郷なる香島香取二神子の社のほとりに、「猪猴狼多住」など見えてはいるが、食用肉としてはやはり鹿の宍がその主なるものであったらしい。 
ここにおいて旧仙台領におけるシシ踊りの事を考うるに、現にその獅子頭に鹿角を附してあるのみならず、古くこれを物に記するところ、いずれも「鹿踊」の文字を用い、また今も路傍に建てる供養碑に、往々鹿踊または鹿供養、鹿踊供養などの文字が刻せられていることを以てみれば、それが本来鹿を表象したものであり、現用の鹿角を有する獅子頭は、それがシシと呼ばるる事から本来鹿であることを忘れて、普通の獅子舞に用うる舞子頭に転訛しつつ、しかもなお旧来の伝統を保存して、今に至って依然鹿角を附しているものであると解せられる。そしてそれは次項述ぶるところの伊予宇和島地方の鹿(しか)の子(こ)踊りによって、さらに裏書きさるべきものであらねばならぬ。
三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り 
伊予の宇和島地方には鹿の子踊り或いは八つ鹿踊りと呼ばれる一種の郷土舞踊がある。ここ百年来一時中絶して、古式を失っていたのを、大正十一年今上陛下のまだ皇太子殿下にましました際、この地に行啓あり、当時同地出身のお歴々の斡旋で、古式を尋ねてこれを台覧に供し奉り、爾来また行われる事になったのだという。その踊り子はいずれも鹿の頭をかぶり、事実上鹿踊りというべきものなのである。去る大正十二年、京都の都踊りでその手を取り入れるとの事で、宇和島から踊り子の一団入洛して、祇園の歌舞練場でそれを演じた事があったが、踊り子の数八人、その中七人まで雄鹿で、残りの一人が角の無い雌鹿の頭をかぶり、胸には小さい太鼓をつけて、両手で撥(ばち)を持って緩慢な調子でそれを叩く、その踊りも至って緩やかなもので、大体に妻恋う雄鹿が雌鹿を呼ぼうという様な、優美な感じを与えるものだった。勿論そのほかにもいろいろの所作があるのではあろうが、大体として田楽風のもので、奥羽地方のシシ踊りの勇壮なのとはすこぶるその趣きを異にしている。しかしながら、宇和島のこの鹿の子踊りは、藩祖伊達秀宗がかつて、奥州なる宗家から分れてここに入部した際に、郷土の舞踊を移入したものだと謂われているのみならず、その歌詞にも確かに彼此共通の点があり、ことにその歌詞の中に、 
中立(なかだち)が、腰にさしたるすだれ柳、枝折り揃へて休み中立、/\。 
という句の、垂柳(しだりやなぎ)を奥州音によって今に「すだり柳」と歌うところなどは、どうしてもその奥州に起原を有するものたるを思わしめるものがある。けだし奥羽地方の今のシシ踊りなるものも、もとは文字の示す如くすなわち鹿踊りで、徳川時代以前から行われた地方舞踊として、鹿の頭をかぶって踊るものであったのが、それをシシという事から、いつしか獅子舞と混同して、その舞踊にも獅子舞の勇壮なる態を取り入れ、鹿頭の代りに獅子頭を用いて、余程様子の変ったものになってしまったが、しかもなお旧仙台領にあっては、昔ながらの鹿の角が、獅子の頭上に保存されているのであろう。そして奥羽の他の地方において、獅子頭に二本の短い角を付けたものとなっているのは、それが一層鹿から遠ざかったものであると解せられる。しかるに遠く四国に分れた宇和島の舞踊では、今に至ってなお鹿頭時代の旧態を保存しているのである。
四 アイヌの熊祭と捕獲物供養 
北海道のアイヌは今もしばしば熊祭という事を行っている。熊の幼児を捕獲してこれを飼育し、二歳位に達したならば、適当の時を選んで、所謂熊祭を挙行するのである。その行事としては、その熊を祭場に引き出し、その前にてアイヌの第一の嗜好物たる酒を供して神を祭り、結局ここに盛大なる歌舞宴楽を催すのである。されば、その外観は、熊を生贄として神を祭るに似ているけれども、アイヌの解するところでは、それは熊送りというべきもので、平素彼らの食料となる熊を優遇し、これを神の国に送り返すの意義だという。けだし熊は神がアイヌの食料として下されたものなるが故に、これを優遇して再び神の国に送り返すはこれに酬いる所以であり、神はさらにこれに由って一層多くの熊を下してくださるという期待を有するものであるらしい。つまり平素食料として捕獲する動物に対する一種の供養なのである。 
北海道には実際熊が多い。それは狩猟に活きたアイヌの捕獲物として主要なるものであった。そこで自然食用獣の代表的のものとして、熊が選ばるるに至ったものであろう。内地の漁村にては、しばしば魚供養という事が行われる。海岸に祭壇を設けて供物を捧げ、僧を請じて経を読む。これを仏法の方から観れば、平素漁夫によって、捕獲せらるる魚属の頓生菩提の祈りであり、兼ねて漁夫に対しては殺生罪業消滅の願いであるという事であろうが、本来はやはり捕獲物に対する供養にほかならぬ。奥羽地方には往々路傍に庚申、山神、湯殿山、羽黒山などの文字を刻した石碑が建っているが、それらと並んで、前記の鹿踊、または鹿供養、鹿踊供養などと刻したものの存在するを見る。これけだしもと食用として捕獲した鹿に対する供養の示表で、奥羽における鹿はなお北海道における熊の如く、食用獣としての捕獲物の主要なるものであったが為に、自然供養の対象としてそれが選ばれたものであろうと解せられる。津軽浅瀬石川の上流地方には、岩面に鹿の頭を刻したものの存在することを黒石の佐藤耕次郎君が報告せられた。これは前号所載「北海道発見の石面刻文」の末に附記しておいたところであるが、土地の人はそれを獅子岩と呼び、その所在地に獅子が沢の称があるという。これは鹿の事をかつてシシと呼んだ一証であるとともに、今もなお諸所に建てらるる鹿供養の石碑と同じく、捕獲獣に対する供養の意味において、文字なきマタギ等の刻したものであろう。そして同君の最近の通信によれば、同様の石刻が右の獅子が沢以外、他にも二ヶ所で発見されたという。これ以て右の推測に一層の確実性を添加したものと謂わねばならぬ。 
さらにこれも前号論文の末に附記したところであるが、秋田県由利郡及び雄勝郡において、同じく岩面に数尾の魚を条刻したものが発見されたとの深沢多市君の通信は、この地方における古代民衆の食料として重き地位を占めた筈の鮭供養記念の碑として解すべく、右の津軽の獅子岩などとともに、捕獲物に対する供養の所々に行われた例として見るべきものであろう。 
ここにおいてさらに問題のシシ踊りについて考うるに北海道のアイヌが主要捕獲物たる熊の為に熊祭を行い、酒宴を催して多人数歌舞遊興すると同じ意味において、奥羽地方では鹿供養が行われて民衆が相ともに歌舞宴楽したという事は、何人も容易に想像せられうべきところで、これが当時民間に流行した田楽舞と合流して、遂に所謂鹿踊りを見るに至ったものであろう。獅子頭に鹿角を附けたシシ踊りの意義、かくの如くにして解すべきである。
五 附記 
奥羽地方に行わるる所謂シシ踊りなるものは、地方によって多少その趣きを異にし、踊りの手振りにも、またその歌詞にも、地方的差違を示している。旧仙台領においては前記の如く、獅子頭に鹿角を附したものをかぶる例になっているが、旧南部領の獅子は短き双角を附した獅子頭をかぶり、別に長さ数尺に及ぶ細き割竹に、櫛歯形に切り目を入れた紙を巻き、その数条を放線状に束ねて背に負っている。そしてその負物を、土地ではササラと呼んでいるのである。ササラとは本来櫛歯形に木片を連ねた田楽法師の用具の名で舞踊に際してそれを操り、戛々(かつかつ)たる音響を発せしめるものであるが、南部地方の獅子の負物にこの名称のあるのは、或いはその竹条に巻いた紙の切り形から来たものかとも思われないでもないが、おそらく田楽時代の要具の名の名残りを伝えたと解すべきものであろう。 
なお各地のシシ踊りの団体には、往々その由来を記した一種の伝書を相伝している。その謂うところ例によって荒唐無稽の談に充たされてはいるが、しかもなおその因縁を念仏踊りに附会したものの如く、彼らがもと俗法師の一種なる田楽法師の亜流として、その舞踊がやはり供養の法楽に起因したものたることを暗示しているのである。なおこの事については、他日機会を得てその伝書を紹介し、さらに研究を重ねてみたいと思う。
 
正月の風俗 / 中国と日本
 

 

中国の正月行事のはじまり 
中国の旧暦のお正月は「年」と言います。中華民族の多彩な祭日の中で、もっとも重大な、もっとも民族的特色を持つ祭日がこの「年」です。最初に「年」を記録した書籍は漢の時の辞書「爾雅」で、「夏日歳、商日祀、周日年、唐■日載」と書いてあります。なぜ、周の時に「年」と称するようになったかというと、周の時代はとても農業を大事にした時代で、「年」という時間概念が農作物の生長の周期よって、次第に認識されるようになりました。公元百年にできた「説文解字」でも、「年」について「穀熟也」と説明し、「穀梁伝」では「五穀皆熟為有年、五穀皆大熟為大年」と解釈しています。つまり、「年」は「稔」であり、稲穂が実り熟すことを祈りつつ念ずる意味です。 
西周の初期ごろ、「年」は農業の豊作を祝う行事であったことが伺えます。勿論、祝うと同時に、豊作をもたらしてくれた先祖に感謝し、来年の豊作を祈願しなければならないので、「年」の時には新米を炊いた御飯と新穀で作った酒を先祖にお供えしました。厳格に言えば、周代の「年」の行事は祭日とは言えず、ただ新年と旧年の交代の時にやる行事で、固定された日ではありませんでした。しかし、これが以後の「年」の祭日の初まりでした。中国の祭日と年中行事は、ほとんど漢の時代に定着しました。漢王朝はその初期に「休養生息」の政策を取り、社会安定と経済繁栄を求めることによって、祭日の風習を形成する歴史的条件を整えました。 
また、暦は年中行事形成の重要な素因ですが、古代中国では北斗七星の斗の幹の回転によって暦を決めていました。しかし、年の時間概念は王朝が変わることによっても変わりました。というのは、新しい王朝が出来た時、必ず月の順序を変更したからです。代が変わった第一の月を「正月」と称しましたので、よく混乱が生じました。しかし、漢武帝の時に「太初暦」が作られ、夏暦の正月を1年の始まりとし、二十四節気を暦に編入しました。確かにそれ以後の人も暦を幾回も改訂しましたけれど、基本的にはこの「太初暦」を基としましたので、暦は定着し、年中行事も固定されました。第三の理由は、秦と漢の時代には「陰陽五行」説と同時に方術も流行しましたので、本来の正月風習が鬼遣いの方術と複台する結果になったことなども、正月行事の定着化に大きく影響したと考えられます。
中国と日本の正月行事の類似点 
中国の「年」、つまり旧暦の正月は大晦日と元旦の意味ですが、主な行事は大晦日、すわち除夕に行います。本来、除夕の最も重要な行事は「逐儺」でした。「呂氏春秋」には「前歳一日、撃鼓驅疫癘之鬼、謂之逐除、亦日儺」とありますが、この「儺」は原始社会の巫舞を元した踊りで、西周から春秋戦国にかけて民間で盛んに行われました。それが漢の時代に宮廷でも行われるようになり、さらに盛大な鬼遣いの行事に発展したのです。「後漢書・禮儀志」によりますと、東漢の宮廷で行われた追儺の様子は次のようなものです。10歳から12歳までの小僧を120人選び、頭に赤頭巾を被らせ、黒の衣裳を着させて、太鼓を打ち鳴らして応援の役をさせながら、一人の大男が方相氏(悪疫を払う術者)に扮して、黄金の四つの目の面具をつけ、熊の皮を身につけて盾と矛を持ち、12人の猛獣に扮したお供を連れて踊ります。赤頭巾の百官は宮殿の門の前に立ち、踊りの後、火把で端門から悪鬼を追い出します。そして端門の外の7000人の衛兵が、この火把を引受けて城を出ます。さらに城門の外の千名の騎兵は、その火把を受取って、洛水の川の中にそれを投げ入れます。この一連の行為は、悪鬼を永遠に水の底に沈ませることを意味します。魏晋南北朝から隋唐五代にかけて、漢と同じように追儺を行いましたが、隋の南朝の人数は漢の倍にふえました。北魏の追儺は閲兵の型で行われ、南に歩兵を、北に騎兵を配置し双方を戦わせる形をとりました。勿論、結果はいつも北の騎兵の勝ちになります。それは北魏が南魏を倒すことを意味するからです。宋代以後、追儺の内容が次第に変わり、特に明・清の時代には「かまど踊り一、「鍾馗踊り」と言うようになりました。「かまど踊り」は、人々が顔を真黒にして町中を踊りめぐります。それに対して、観衆はお金やお米を与えました。こうした面白く、また迷信をも織りこんだ追儺の踊りを見ていますと、昔の鬼やらいの追儺風習が、すでに娯楽的な風習に変わって来たことが伺えます。これは祭日風習の進歩だと思います。追儺は単純の迷信ではなく、当時の人々の自然災害を征服しようとする民族心理の表れです。当時はまだ科学技術が遅れていて、人々は疫病の本質を完全に認識できない段階でした。だから、神と方術の力を借りて、疫病と悪鬼をやらったのです。追儺の日本伝来は、文武天皇の頃だそうです。「日本書紀」によりますと、慶雲3(706)年「是年天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」とあり、大舎人の一人が仮面をかぶって方相氏の役をつとめ、内裏の四門をめぐって悪鬼を追いたて、殿上人も桃の弓、葦の矢で鬼を射立てたとあります。これはその後、宮中だけでなく、神社や寺院、また上流階級にひろがりましたが、鎌倉時代以降はすたれました。しかし、追儺の行事は、やがて室町中期に中国から伝釆した「豆まき」の風習と合流し、2月の節分に行われるようになりました。正月と節分は時間的に接近しており、時には重複することもありましたので追儺が節分の行事へと移行したのは、合理的だと思います。漢の人は悪鬼を畏れ、特に大晦日に、悪鬼が侵入するのを心配しましたので、桃の木を削って、それに神奈・鬱壘という二神の絵を書いて門にかけました。これが、中国の門神の起源です。「山海経」と漢の「風俗通義」にはつぎのような故事が書いてあります。 
東海中有度朔山、上有大桃樹、蟠屈三千里、其卑枝門日東北鬼門、萬鬼出入也。上有二神人一日神茶、一日鬱壘、主閲領衆鬼之悪、害人者執以葦索、而用食虎。於是黄帝法而象之。因立桃梗於門戸上、書鬱壘持葦索以御凶鬼、書虎於門、當食鬼也。(「山海経」) 
おそらく二神の絵を書くのが面倒だったからでしょう、魏晋南北朝からは桃の板に二神の名前だけを書くようになりました。これを「桃符」と称します。北宋の桃符は長さ二、三尺、幅四、五寸の薄い木版に、上部に浚貌・白沢などの神獣をえがき、下部には左に鬱壘、右に神茶と書きました。春詞を写し、祝詞を書いたものもあります。宋の王安石の詩に「爆竹声中一歳除、春風送暖入屠蘇、千門萬戸■■日、総把新桃換旧符」というのがあり、ここで「新桃」と「旧符」というのは、疫病と悪鬼をやらう桃符を指します。唐の末から、門神は二神から鍾馗に変りました。「唐逸史」と「補筆談」によりますと、唐の玄宗皇帝がある時激しい熱病にかかって苦しんでいた時、不思議な夢を見ました。それは満面ひげだらけの、容貌魁偉な大男が、小鬼を追いかけている夢でした。その男は小鬼をつかまえると、生きたまま呑み込んでしまったので、玄宗が「お前は何者だ」とたずねたところ、男は「私は武官登用試験に落第して自殺した鍾馗と申す者、死にはしましたが、陛下のおん為に、天下の妖怪を平らげんとの誓いを立て、このように鬼を退治いたしております。」と答えたと言うのです。その後、玄宗の熱病はすっかりなおっていましたので、玄宗は夢の中の男の姿を画家呉道子に描かせて、「鍾馗、鬼を捕えるの図」と題して宮中に掛けました。それ以来、人々は大晦日に鍾馗の絵を家の門に掲げて魔除けにするようになったのです。宋の末になると、門神は鍾馗から唐初の有名な武将である秦叔宝と尉遅敬徳に変りました。「三教捜神大全」には、それについて鍾馗と同じような内容の伝説を載せてあります。戸神、唐秦叔宝胡敬徳二将軍也。按伝、唐太宗不豫、寝門外鬼魅呼号。太宗以問群臣、秦叔宝奏云「一願同胡敬徳戎装立門外以伺。」太宗可其奏、夜果無事、因命画工絵二人之像懸宮門、邪崇以息。後世沿襲、遂永為門神。門神の風習の影響、さらに印刷技術の発展によって、唐末と宋初の時代に年画と春聯の風習が生まれました。春聯は対聯、門対、門貼とも言います。木版刷りで目出度い言葉や祝詞を記すようになるに従って、桃符本来の鬼遣いの意味が薄くなって来ました。文献によりますと、五代の後蜀の太子は、宮殿の桃符に「天垂餘慶、地接長春」の八字を書きました。これが中国の最初の春聯だそうですが、最初の春聯は「新年納餘慶、嘉節号長春」であるという説もあります。どちらにしても、春聯は五代の後蜀の時代から始まることを立証しています。宋以後、大晦日に春聯を貼る風習は盛んになります。「宋史・五行志」には「命翰林内詞題桃符、正點、置寝門左右」とあり、「夢梁録」にも除夕「釘桃符、換春牌」と書いてあります。明の太祖の始皇帝は対聯が大好きな帝王でした。彼は家ごとに春聯をつけるよう命じ、さらに町に春聯を視察に出かけています。ある日、彼が忍んで町の除夕の様子を見に出かけた時、ある家の門に春聯が貼ってないのを見付けました。聞けば、その家の主人は猪の宰丸を取る仕事だというので、彼はその場で「雙手劈開生死路、一刀割断是非根」という春聯を書いて与えたということです。清の乾隆帝もよく春聯を書きました。彼が南方を視察した時、「通州」という町を通った際に、河北省にも「通州」という町があることを思い出して、「南通州、北通州、南北通州通南北」という上聯を書いて、随行の人に下聯を作らせました。はじめ、隨行の人がいくら案を出しても、乾隆帝はなかなか満足しなかったのですが、ある家来が町の東西に質屋があるのに目をつけて、すぐ「東営舗、西営舗、東西営舗営東西」という下聯を作りました。質屋を中国では「富舗」といい、ものを「東西一と祢しますので、乾隆帝は大変喜んで、この人を嘉賞するばかりでなく、出世までさせました。ただいま、申しあげました正月の門飾りで、日本の皆様が親しく感じられるのは鍾馗でしょう。鍾馗を五月人形と一緒に端午の節句に飾るのは、江戸時代以降のことですが、唐にならって正月のしめ飾り、門松の風習を採り入れたのは、平安時代からでした。平安朝の年中行事は、その由来から見て、唐から入った行事が日本の宮廷に採用され、宮廷行事となったものが多いようです。しかしそれとは別に、日本の民間で古くから行われていた風習が宮廷に採用され、年中行事となったものも少なくありません。そして中国から輸入された行事も、日本の民間の風習とうまく結合し、宮廷の年中行事となったものもたくさんあります。正月の行事でもっとも大事とされたのは、「守夜」です。除夕の夜は二年にまたがっており、神様を迎える夜、家族団欒の夜なのです。中国の歴史で、牢屋に入れた罪人を一時釈放して、家族と除夜をすごさせた例もたくさんあります。例えば、晋の県令曹某が大晦日に死刑囚に「お正月は人情の篤い祭日だから、家族に会いたくないか」と聞いたところ、囚人は「会わせて下されば、死んでも侮しくありません」と答えたので、牢屋を出してやりました。囚人たちは自宅に帰って家族とお正月を過ごした後、全員時間どおりに牢屋にもどって来たということです。守夜には、火を燃すのが普通です。隋唐の時、帝王は宮廷での守歳に際して、白檀の木を燃やし、盛大な宴会を催しました。隋煬帝の時、200台の馬車で運んで来た沈香と白檀の木を一晩で焼きはらいました。その香りを5Km以上先でも嗅いだということです。宋代になると、守歳のほかに、「饋歳」「別歳」「辞年」などの言い方も出て来ました。そして、かまど神を迎え、床の神を祭り、お年玉を与えるといった内容が加わりました。「年玉」とは、年神から与えられる魂のことです。すなわち、年の魂であり、今年を精一杯生きる活力を生みだす手形です。清の呉曼雲の詩「圧歳銭」には、「百十銭穿彩線長、分来再枕自収蔵。商量爆竹談簫價、添得嬌児一夜忙」と詠まれています。饋歳とは相互に食物を送ることです。贈物の値段と多少には関係ありません。その気情が重要なのです。日本のお歳暮と変わりはありません。心のこもった贈物は、社会生活の一つの潤滑油とも言えましょう。別歳とは互いにご馳走することですが、饋歳と別歳は除夕に限られたものではありませんが、守歳は必ず除夕の夜に行います。「日本歳時記」にも、次のように書いてあります。 
今夜を除夜といふ、又除夕ともいふ、一年のおはる夜なれば、つつしみて心をしづかにし、礼服を著、酒食を先祖の霊前にそなへ、みづからも酒食を食し、家人奴婢にもあたへ、一とせを事なくてへぬる事を互に歓娯し、坐して以て旦をまち、旧を送り新を迎べし。 
日本でも大晦日には朝早くから歳徳神をまつり、門松、注連縄、鏡餅を飾り、雑煮膳、屠蘇などの用意をして、お正月の準備をします。夜になれば、一家揃って新しい衣服を着、酒や餅などを先祖に供えて歳徳神を拝み、初春を祝いながら食事につきます。除夜は一晩中起きているのが建前とされ、この夜眠ると白髪になるとか、顔にしわができるといった俗信があります。現在でも、一晩中眠らずに元旦を迎える風習を持つ地方があるそうです。「年中行事儀礼事典」によりますと、青森県の一部では、一家が炉端に集まり、眠くなると隣の人の膝で横になるそうです。これは横になるだけで、寝るのではないという言訳から生れた風習だと思います。中国の除夕の夜には、爆竹を鳴らさなければなりません。本来の爆竹は、焚火に竹をくべて爆ぜさせますが、これは漢代からの風習です。漢の東方朔の「神異経」に、「西方深山中有人、長尺餘、犯人則病寒熱、名日山■。人以竹著火中、悍琳有声、而山■驚憚」とありますように、爆竹を鳴らすのは、悪鬼と疫病を駆逐するためなのです。魏晋の時、煉丹師は硝石と硫黄と炭を交ぜると、燃焼と爆発が起こりやすいことを発見しました。これが火薬の発明につながりました。また火薬を竹の筒の中に入れて爆発させると、もっと激しい音がします。これが今の爆竹の起源です。明・清になると、「花火」が出現し、爆竹にも一声のもの、双声のもの、三声のものなどが出てきました。この双声の爆竹は近代のロケットの祖先でしょう。爆竹が悪鬼山■のやらいから、神迎え、さらに娯楽に変わって来たことは、中国人の早期自然を征服する巫術思想が鬼神を祭る迷信思想へ転換したことを意味します。除夕の食事をいいますと、一番大事なことは酒を飲むことです。「荊楚歳時記」に「正月一日、長幼悉正衣冠、以次拝賀、進淑柏酒、飲桃場、進屠蘇酒、惨牙賜、下五辛盤」とあります。淑柏酒は山淑と柏葉をひたした酒です。また漢の「四民月令」には「淑是玉衡星精、服之令人身軽能走、柏是仙薬」とあり、晋の「抱朴子」には次のような伝説もあります。漢の成帝の時、ある猟師が終南山の山の中で、全身に黒い毛が生え、飛ぶように走る人を見ました。捕えて見ると、一人の婦人で、自からいうには、自分は秦の時の宮人で、秦の落城を逃れて、山の中に入り、食べものがなく飢えていると、一人の老人が、松柏の葉実を食べるがよい、と教えてくれた。はじめは苦くて渋かったが、そのうち慣れて食べていると、飢えることもなく、冬の寒さも夏の暑さも感じなくなったと言うのです。その齢を計算して見ると、200歳を越えていることになります。明の李時珍の「本草綱目」でも、「柏は凋落することなく、久しきに耐え、天禀の堅凝の性質をもち、すなわち多寿の木である。ゆえに服餌に入れられる。道家がこれを湯に点じて常飲し、人々が元旦にこれを酒にひたして邪を辞けるのも、みなこの意味を取ったものだ」と言っています。後漢からの淑柏酒を飲む風習は、魏晋から南北朝時代へと受けつがれましたが、隋・唐時代になると、その酒は屠蘇酒へと変わりました。梁の潘約の「俗説」に「屠蘇、草庵之名、昔有人居草庵之中毎歳除夜遺閭里薬一剤、令井中浸之、至元日取水置於酒尊、合家飲之、不病瘟疫。今人有得方者、亦不知其人姓名、但名屠蘇而已。」とあります。また「千金要方」によりますと、屠蘇酒の処方は、大黄、濁淑・桔梗・桂心・防風・白木・虎杖・烏頭などの薬八品を合わせて剤となしたものです。飲み方は、「これを咬咀いて、絳い嚢にいれ、除日の薄暮に井戸の底に吊し、正旦にこれをとり出し、嚢ごと酒の中にしばらくひたしておき、それから杯を棒げて「一人これを飲めば一家族疾なく、一家これを飲めば一里病なし」と呪し、年の若いものから順に、東に向いて進め飲む」と書いてあります。この屠蘇酒の風習は、明代になると衰運に向いました。日本で正月の三ヶ日、雑煮に先立って屠蘇を飲むようになりましたのは、平安時代からで、宮中から始まったそうです。「公事根源」によりますと、「弘仁年中(810-823)に起こるという。一人これを飲めば一家に、一家これを飲めば一村に病いなしというめでたい効能があるため、年の初めにこれを用いるのである」と書いてあります。正月の食事について申しますと、三国の呉から晋にかけての揚子江下流域では、元日の朝、生の鶏卵を呑み、辛味のある五種の菜を食べる習慣がありました。五辛菜とは、大蒜、小蒜、韮菜、雲台、胡菜の五菜です。こうした辛味のある菜は、五臓のはたらきを活発にすると考えられます。唐代には、元日の食品としてワンタンがあらわれました。末代には長寿面というそばを食べるようになりました。これは日本の年越しそばと同じです。明・清時代には、「年■」もしくは「春■」と称する、小麦以外の穀類を原料とし作られた食べ物を食しました。■は中国語では「高」と同じ発音ですので、年の豊かなことと向上に通ずる意味から食されたと言います。明代から、中国の北方地域では「餃子」が用いられました。餃子の美味しさは言うまでもありませんが、あんをいっぱい入れると、財産が多くなり、生活が豊かになるという俗信もあります。日本はどうでしょう。「日本歳時記」には次のように書いてあります。「礼終て春盤をなむ、和国の風俗にて、盤上に松竹、鶴亀などを作つてすゑ、栗、榧、海藻、海蝦、みかん、かうじ、たちばな、米、柿などつみかさねて、これをなむ、歳初に来る賀客にも是をすすむ、是を蓬莱といふ、蓬莱は仙嶋なれば、その名とするならし、もろこしにも春生菜などを盤上に盛り、春盤と名付て、なむる事あるよし、四時宝鏡に見えたり、さればこそ杜子義が詩にも、春盤細生菜とつくれり、また周処が風土記に、正旦楚人五辛盤を上る事を志るせり、かうやうの遺意にや侍らん。」 
一言付加えておきますと、ここでの「蓬莱」とは、本来「史記」に出てくる東海の中にあるとされた三神山の蓬莱、方丈、偏州の一つです。その蓬莱山の形を台の上に作った飾り物は、平安時代には貴族の祝儀や酒宴の装飾甲に甲いられましたが、室町時代から正月の祝儀用となったそうです。除夕の夜半12時に、寺から百八つの除夜の鐘の音が聞こえます。これは中国の宋の時に起こった風習です。百八つの由来についてはいろいろな異説がありますが、普通は百八つの煩悩という仏教思想に基づいたことだと考えられています。日本では鎌倉期以降、まず禅寺で行なうようになりました。当初は中国の寺院と同じく、毎朝毎夕2回、百八つずつ撞いたのですが、室町ごろから、除夜だけのものとなりました。元旦になると、民家では、早朝に天地、祖先、諸神への礼拝をします。この漢代からの祖先祭りの風習は、中華民族の人倫道徳を重じる観念の表われであり、封建宗法思想の民族心理の反映でもあります。祖先・諸神への礼拝をすませ、一家次序をもって家長に挨拶をします。これを「拝年」といいます。後漢の崖是の「四民月令」では、「君、師、故将、宗人、父兄、父友、友親、郷党の耆老に謁賀する」ことを書いてあります。拝年は親族および地域社会との結びつきを確認する重要な行為で、誰も欠かすことはありません。しかし、自分でいちいち回るのは大変なので、「投刺」の風習が出て来ました。刺は名刺です。西漢時代、「名刺」を「謁」と言い、東漢時代に「刺」を祢しました。すなわち自分の名前を刻んだ竹の板です。「投刺」とは、他の人に年賀の名刺を届けさせることです。宋の周輝の「清波雑志」には次のような記載があります。「至正交賀、多不親往。有一士人令人持馬銜、毎至一門憾数声、而留刺字以表到。有知其評者、出視之、僕云「適巳脱篭矣」。」脱篭為京都虐詐閃賺之諺語。」 
さらに、こんな笑い話も出てきます。「沈公子遣僕送刺、至英四丈家、取視之、類皆親故、因酔僕以酒、陰以己帖易之、其僕不知、至各家偏投之、而主人之帖竟不達。」(宋・周密著「発辛雑識」)。
中国と日本の正月行事の相違点 
以上、中国と日本の正月風習の似ているところを紹介いたしましたが、次に相違点について見てみたいと思います。まず、中国の旧正月の行事の大部分が、日本に伝来し、宮廷から民間にまで広がりましたが、なぜか門神は日本へ伝わりませんでした。神茶二神も、秦叔宝の二人もそうでした。さらに、爆竹も伝わりませんでした。もし当時火薬が珍しかったのなら、なぜ明や清の時代にも輸入しませんでした?。また、もし火事のことを心配したとすれば、なぜ花火を輸入しました?。考えて見ると、追儺・桃符・門神・爆竹などの役目は、すべて鬼やらいです。中国には次のような昔話があります。むかしむかし、ある凶暴な「年」という野獣がいました。「年」はよく年末に町に現われ、人や家畜を食います。ある年の瀬、例年のように「年」が現われ、ある村に入ろうとしました。その時、たまたま村の牧童が鞭で、パンパンと音をさせて遊んでいました。その音を聞いた「年」は、驚いて逃げました。また別の村に入ろうとすると、ちょうど千してあった紅い衣裳が、ヒラヒラと風にひるがえっていました。これを見た「年」は、また驚いて逃げました。日暮れになり、さらに別の村に入ろうとすると、人家から燈火の光が漏れていました。「年」はその光にも驚き、とうとう逃げ去りました。そこで人々は、「年」が音響と紅色と光とを畏れることを知り、「年」の害を避けるために、門に紅紙(春聯)を貼り、室内に燈燭をともし、門前で鞭咆を鳴らすようになりました。この昔話のとおり中国の正月は一時は確かに鬼やらいの行事でした。ところで、日本人の鬼・妖怪・神の観念はどうだったでしょうか。当センターの中西進教授は、「「万葉集」では霊魂を意味する「息」という字を「もの」に当てています。今日われわれは「鬼」に「おに」を当てますが、「おに」とは漢字の「隠」を日本語ふうに発言した言葉ですから、これは隠れていてふしぎな働きをするもののことを鬼と考えたのだと思われます。したがって、「鬼」のような隠れた霊魂の働き、こういうものを「もの」と古代人が呼んだということがわかります。」(「古典と日本人」)と言っておられます。また河合隼雄教授も、「鬼は人間を食ったりもする存在であるが、西洋における悪鬼とは異なって、もっと多義的、多面的な存在である。」(「昔話と日本人の心」)と書いておられます。私はまったく同感です。例えば、日本人のなじんだ妖怪山姥は、対立する二つの性格を持っています。一つは人間を捕えて食べてしまうという恐ろしい属性で、もう一つは、時と場合によって、人々に「富」を授与したり、危険を救ったりするという属性です。有名な金太郎も、伝説によれば足柄山の山姥によって育てられたとされています。日本で、最初に文献に幽霊が登場するのは、平安時代の弘仁年間(810-824)に成立した仏教説話集「日本霊異記」でした。そこに登場する幽霊の性格は、本来哀れむべきなもので、場合によって恐ろしい存在ではあっても、人間に危害を加えるものではないようです。日本人の幽霊に対する感情は、中国人のそれと違って、そんなに恐くなく、いやらしくもありません。江戸時代の「牡丹燈篭」は中国の「牡丹燈記」の翻案ですけれど、浅井了意が省略したところは、道士が幽鬼退治に活躍する部分です。道士に責めさいなまれ、地獄へ追放される罪人としての幽鬼は、日本人にはまったく馴みのないものなのです。「牡丹燈篭」を通じて、両国の幽霊観と他界観の相違点がかなりよくわかります。また、中国の妖怪はつねに妖怪であり、決して神となることはなく、神は常に妖怪に対立した存在です。しかし、日本人の神観念では、「神」とされていたものが「妖怪」化したり、「妖怪」であったものが「神」になったりします。大変可変性に富んだ性格を示しています。柳田国男の言った通り、妖怪とは正に「信仰が失なわれ、零落した神々のすがた」なのです。もう一つ例を申し上げますと、中国で記念写真を撮る際、三人の場合、普通は立場の上の方を真中にします。しかし日本では真中に立つことがいやがられます。それは寿命を縮めるからだそうです。おそらく写真を撮られることが、魂を奪われてしまうという考え方によるのでしょう。そしてさらに三人が並ぶと、ちょうど仏像の三尊を連想するからだと思われます。つまり三尊の真中は如来で、如来はホトケであり、死者に通ずると解釈されるからです。ホトケ様でさえ、神と死者の二重の役を果たしていますから、日本の神々の複雑多様な姿も推して知るべしです。以上のように、神妖鬼怪に対する複雑な感情を持つ日本人は、お正月に中国人のように一生懸命鬼を彿う意味がなかったのでしょう。この感覚は、中国の門飾の影響を受けた門松にも反映されていると思います。日本の門飾は中国のように恐ろしい鬼を彿うものがないばかりでなく、めでたく情々しい海産物と果物がたくさん飾ってあります。以上のことから考えて、日本の正月の行事は祖先と神仏礼拝を中心とする行事だといえるのではないでしょうか。次に、正月に祭られる神様について見てみましょう。中国では外から来る神も祭りますけれど、主に竃の神を祭ります。寵神の性質について、おおむね三つの見方があります。一つは、「炎帝は火を於す、死して竃と為る」(「准南子」)、「帝は炎帝、神は祝融、祀は竃」(「呂氏春秋」)などによる「火神」説です。二つ目は、竃は日常生活にもっとも関係の深いところから、「礼記」に「夫れ奥は老婦の祭なり」とある老婦が竃神本来の姿であるとする「家族神」説です。「礼記」の「奥」は、「竃」と解しています。三つ目は両者を折表した説です。12月23、24日には(梁の時には12月8日でした)、竃神は天に昇り、天帝にその一家の過失を報告することになっています。だからこの日には、家族全員で豚酒をもって送り出します。すなわち竃神祭です。食物はいろいろありますが、一番大事なもすが、一番大事なものは、かたみずあめの供薦です。歯にかたく粘りつくあめのことで、「其の(竃神の)口に膠して、言うを得ざらしむ」(「清嘉録」)といい、「竃神の歯を粘らせて、人の間の是非を説わしむる勿れと謂う(「遂寧県志」))とあります。すなわち一家の悪口を言わせないように願う気持が込められているのです。しかし「歯を粘らせて」しまっては、悪口が言えないと同時に、称讃の言葉も言えなくなってしまうでしょう。竃神は大晦日の晩に返って来ますので、除夕の夜に竃神を迎えます。と言うことは、この神は1年にこの1週間だけ家にいないことがわかります。言い換えれば、竃神はそこの家に永住しており、その恩恵によって家族生活が成り立っていると言うことですから、家族の安全と繁栄をもたらす守護神的属性をもっていると言えます。日本の竃神に関する行事は、竃祓と元日の初竃があげられます。しかし、中国のように盛んではなく、また正月に祭られる対象でもありません。ところで、日本の年神はどこから来るのでしょうか。日本の伝承による御年神は、陰陽道の歳徳神と合体し、さらに祖先の霊が加えられて、年神という新たな霊魂に統一されたと考えられます。宝歴3年の「■■輪」には次のように書いてあります。「この神、陰陽家の説は頗利才女なり、すなわち牛頭天王の妃なりと云云、頗利才女の社は高辻通り室町の西にあり、神書にこれ稲田姫を祭る神宮なりといへり、洛東紙園牛頭天王は素盞鳴尊にして、稲田姫はすなわちその妃なり、しかれば陰陽家の説と神書の説、そのいふところは異にして、意は一致なり。」 
注意すべき点は、日本の年神は元旦に「恵方」から来るということです。伝承によりますと、日本の神は常在はしません。もし長期にわたって一ケ所に止まる時には、その神は福神から票神に変わります。滞在は一定の期間だけで、この期間は客神としてできるだけの接待をします。神迎えと神送りはきわめて短い期間内に執り行われますが、その重要な理由は、幸せをもたらす神がたちまち不幸をもたらす神へと変化することを恐れるからです。年がら年中家族と一緒に暮らす中国の竃神と違って、日本の歳徳神は人間の世界に来訪する神だと言えるでしょう。続いて、正月の門飾りについて見てみましょう。両国の共通点としては、共に松や柏の枝、あるいは松竹梅を飾ります。また、蜜柑(桔)や柿を飾る点も一緒です。その理由は、中国語で「柏」と「百」「柿」と「事」,「桔」と「古」の発音がそれぞれ似ており、「百事吉」という意味になるからです。また日本の橙飾りは、「橙」の音が「代代」と、「柿」の音が萬物を掻き取る意味の「嘉来」の音に通じ、縁起の良いものと見なされているからです。相違点と言えば、日本の門飾りには昆布や海老などの海産物を飾ることです。海老、特伊勢海老の姿態はいかにも長寿を保つ翁のようですし、「伊勢」と「威勢」との発音も合致していて喜ばれます。また結昆布も睦月(むつき)の悦(よろこぶ)と通じています。よく見ると、海老や昆布だけでなく、注連縄や幸木にも魚類や海藻がたくさん飾られており、さらに喰積の料理はほとんど海産物です。にしんの腹子である数の子は、多産で子孫繁栄を意味し、熨斗飽は長生不死の意味があるそうですが、これらすべては、「海幸」「山幸」に恵まれている島国日本濁特の自然風土の反映と考えられます。話はまた屠蘇酒に戻りますが、中村喬教授の「中国の年中行事」によりますと、屠蘇酒の渡来した当初は、中国の処方のまま行なわれていたようです。ただ烏頭は除外されました。と言うのも、烏頭が猛毒で、その処方が困難だったからです。「安斎随筆」に、江戸の天明3年正月、少し医薬の心得のあった加藤佐渡守の料理人が、古書に従って屠蘇をつくり、同役と飲んだところ、両人とも悶死したとあります。その処方書を見ると、烏頭の名があります。しかし民間ではしだいに変化し、昨今の屠蘇は山淑・桔梗・防風・白朮までは古来のままですが、これに丁字・陳皮・薗香を加えているそうです。考えて見ると、除外された大黄はお腹をこわしやすいもので、加えられた陳皮や薗香はともに胃腸によい薬草です。こうしたところにも、日本文化はよく外来文化を吸収し、自国の自然、気候、風習などと合わせて、改造や加工をするといわれる特徴が表われていると言えるでしょう。日本の正月に爆竹は受け入れられませんでしたが、1月14日の左義長という行事があります。左義長は本来3本の竹または木を結び、三脚にして立てて焼きます。この行事の行われる日と竹の爆発する音などを考えますと、左義長は日本の爆竹行事だと見ることもできるでしょう。どこの国の文化も土着性を無視できませんし、風土的条件によって大きく規定されざるを得ません。中日両国の正月風習の相違を見る際には、この日本の風土条件を考慮しなければなりません。
 
除夜の鐘
 

除夜の鐘 1
日本仏教にて年末年始に行われる年中行事の一つ。12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に、寺院の梵鐘を撞(つ)くことである。除夜の鐘は多くの寺で108回撞かれる。中国から宋代に渡来した習慣とも言われる。梵鐘自体のことではない(通常の梵鐘が使われる)。  
1 中国の宋に起源があり、鎌倉時代に禅寺に伝わったと云われ、今の様な仏教行事が一般化したのは室町時代 (室町時代に広まり江戸時代に一般寺院でも行う様になったのだろう)。  
2 日本の除夜の鐘は鎌倉時代、中国の宋(960〜1279年)から伝わったといわれています。鎌倉幕府は、それまでの天皇家や藤原一族を中心とした貴族の政権から武家政権へと変わった時で、その後朝廷が政権を持つことはなかったのですから、歴史的にも大きなエポックだったのです。武家政権はその後約700年続き明治維新となるのです。こういった時代背景は仏教にもおおきな変革をもたらせました。除夜の鐘はこうした時に伝わり各地に広まっていったのです。明治になってからの神仏分離と極端な廃仏毀釈の時、戦時中武器製造に大量の梵鐘が拠出され潰された時でも除夜の鐘は廃ることなく、現在に至っても大晦日の大切な行事として存在しています。  
108つの由来  
除夜の鐘は多くの寺で108回撞かれる。この「108」という数の由来については次のような複数の説がある。格別にどれが正しいということはないが一般には煩悩説が有名である。なお、寺により、撞く回数は108回と決まらず、200以上の場合等がある。  
1. 煩悩の数を表す / 眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)があって18類、この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、人間の煩悩の数を表す。  
2. 一年間を表す / 月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となり、1年間を表す。  
3. 四苦八苦を表す / 四苦八苦を取り払うということで、4×9+8×9=108をかけたとも言われている。  
作法  
鐘を撞く前には鐘に向かって合掌する。108回撞く寺院においては、多くが108回のうち107回は旧年(12月31日)のうちに撞き、残りの1回を新年(1月1日)に撞く。ただし、静岡県富士宮市の大石寺では例外的に年明けと同時に1つ目が撞かれる。  
除夜の鐘と放送  
上野・寛永寺にて1927年(昭和2年)、JOAK(NHKの前身である社団法人東京放送局)のラジオによって史上初めて中継放送された。NHK『ゆく年くる年』で、日本各地の寺院にて除夜の鐘が撞かれながら年が明ける様子を全国中継しているが、『ゆく年くる年』の番組開始当初のタイトルこそ『除夜の鐘』であった。  
朝夕の鐘  
108回の鐘は本来、除夜(大晦日の夜)だけでなく、平日の朝夕にも撞かれるべきものである。しかし、普段は略して18回に留められる。  
初夜の鐘(そやのかね)  
午後8時、その日最初に撞かれる鐘。正岡子規が詠んだ「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の「鐘」は、奈良・東大寺の初夜の鐘であった。
除夜の鐘 2   
除夜の鐘とは、大晦日の夜から元旦にかけて寺院で打ち鳴らす鐘。また、108の煩悩を除く意味を込めて108回つく。百八の鐘。  
【除夜の鐘の語源・由来】  
除夜の鐘の「除夜」は、大晦日の夜のこと。  
大晦日は一年の最後の日で、古い年を除き去り、新年を迎える日という意味から「除日(じょじつ)」といい、その夜なので「除夜」や「除夕」という。  
除夜の鐘で鐘が撞かれる回数は、人間の煩悩の数が108あることから、それを取り除くために108回である。  
月の数が12、二十四節気の数が24、七十二候の数が72なので、全てを足すと108になり、除夜の鐘の回数は一年を表しているといった説や、「4×9(四苦)」と「8×9(八苦)」を足すと108になることから、四苦八苦を取り除くという意味などといった説もあるが、これらは後世に考えられた説である。  
除夜の鐘は大晦日に108回撞くと思われがちだが、通常、大晦日の晩に撞かれるのは107回で、残りの1回はその年の煩悩にわずらわされないようにといった意味を込め、新年になってから撞かれる。  
大晦日  
大晦日とは、十二月三十一日。一年の最後の日。おおつごもり。  
大晦日の「みそか」は本来「三十日」と書き、「月の30番目の日」という意味であった。  
転じて、実際の日付に関係なく、「31日」など「月の最終日」を意味するようになった。  
29日で終わる月は、「九日みそか(くにちみそか)」とも呼ばれる。  
大晦日の「大」は、一年の最後の月の最終日であることから付けられたもので、「大きい」という意味ではない。  
大晦日の「晦」の文字は、「月が隠れる」を意味する。  
「三十日」に「晦日」の字が当てられるようになったのは、太陰暦では15日が満月とされ、月はその後欠けていき、最後には月が見えなくなることに由来する。
除夜の鐘 3 
1.除夜の鐘とは(除夜の鐘の由来・意味)  
除夜の鐘とは  
除夜の鐘とは、大晦日(=おおみそか。12月31日)のちょうど日付けが変わり新しい年になる深夜0時をはさんでつく鐘のことを言います。  
除夜の鐘の由来  
除夜の鐘をつく理由は、人の心にある煩悩を祓うためと言われています。仏教では、人には百八つの煩悩(=ぼんのう)があると考えられてきました。その煩悩を祓うためにつく除夜の鐘の回数は108回とされています。煩悩とは、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのことを言います。  
人の心の乱れ・汚れを煩悩とすると、代表的な煩悩には、  
1. 欲望 (肉体的および精神的なもの)、  
2. 怒り、  
3. 執着、  
4. 猜疑  
などがあります。更に煩悩を細かく分類すると、三毒とか、百八煩悩とか、八万四千煩悩など、分類のしかたにもさまざまなものがあります。  
筆者の中学生の時の担任のS先生は四苦八苦(4×9+8×9)という俗説を紹介して下さいましたが、まさに諸説紛々です。事務局でもいろいろと調べてみましたが、煩悩については諸説あり、具体的に108つの煩悩を挙げるよりも、百八という数は、「いわゆる沢山という意味」だと理解すればよいと考えています。  
除夜の鐘の意味  
さて、鐘をつく回数が108回という理由については、煩悩の数が108つあるからだと述べましたが、それでは、なぜ大晦日に鐘をつくのでしょうか。108回鐘をうきさえすれば大晦日でなくても良いのでは…と思いませんか? 大晦日に鐘をつく理由も諸説あります。このページは仏教について説明するのが目的ではないので簡単に紹介しますが、まず前提として、仏教では煩悩を祓うことにより解脱し、悟りを開くことができるとされています。  
本来は、日頃から仏教の修行を積むことによりこれらの煩悩(心の乱れ)を取り除き、解脱することができるのですが(悩みや苦しみや迷いから解放されて人間として究極の理想的な状態になる、あるいは悟りを開くことができるのですが)、除夜の鐘には厳しい修行を積んでいない我々においてもこうした心の乱れや汚れを祓う力があるという信仰が現在まで伝わり、除夜の鐘の儀式となって続いています。だから、普通の日ではなく、除夜、つまり大晦日に鐘を打つのですね。  
そもそも仏教寺院にある鐘は、梵鐘(ぼんしょう)と呼ばれるもので、仏具(仏教の儀式で用いる用具)のうちの重要な一つです。もともと仏教では、お正月には、お盆とならんで年に二回先祖を祀る儀式がありました。これが歴史を重ね時代を経るうちに「お正月は年神様(豊穣・豊作の神様)にその年の豊作を祈る」という神道の信仰へと移っていき、仏教の古い儀式としては夏のお盆のものだけが長く受け継がれています。もともとあった仏教の風習のうち、正月に関しては、除夜に鐘をつく風習だけが今に残っているようです。梵鐘の澄んだ音は、深夜の空気と相まって心にしみわたるような気がします。鐘を叩くことで私たちの魂が共鳴するような気持ちにさえなります。  
お寺の梵鐘はふだんは朝夕の時報として用いられるほか(童謡「夕焼けこやけ」の歌詞に出てくるのは、梵鐘が夕刻の時報として使われている例ですね)、法要の開始を知らせる際などにも用いられます。ただし、こうした用途だけでなく、鐘の音そのものには、苦しみや悩みを断ち切る力が宿っていると考えられており、仏教の大切な道具として除夜の鐘にも用いられます。上の鐘の画像では良くわかりませんが、鐘の銘の部分には梵鐘の力(=功徳)が記載されています。鐘の回りに突起がありますが、これは「乳(ち)」と言われるもので、ほとんどの鐘についています。この乳の数も108つあるということです。  
なお、除夜とは、除日(じょじつ)の夜のことを言います。「除」には、古いものを捨てて新しいものに移るという意味があります。除日とは、一年の一番最後の日という意味を表し、大晦日(おおみそか)のことをさします。  
ちなみに、海外でも多数の国で新年を祝う祝賀が催されますが、欧米の大多数の国では人々が集まって音楽が奏でられ大規模に花火を打ち上げるようです。これらの国では仏教や神道とはかかわりが薄いせいかもしれません。ちなみに中国では旧正月を祝うため、日本のものとは異なるようです。日本の除夜の鐘だけが、静かに静かに静寂の中にしみわたるように響きます。戦時中は各地の寺社から鐘が供出されたため、除夜の鐘をつくことができないお寺もありました。除夜の鐘も平和の象徴の一つなのですね。  
筆者は大晦日には毎年除夜の鐘を聞きながら入浴します。バスタブに漬かり、その年にあったことを思い浮かべ、新しい年が佳い年であるように祈りつつ眼を閉じて祈ります。静かな鐘の音と、浴室での瞑想……欧米のように大規模な花火を聞きながらでは、この精神状態にはなかなかなれません。まさに「鐘を叩けばその音で魂が共鳴する」という感じでしょうか。  
2.除夜の鐘はいつ撞く?  (除夜の鐘は何時頃からつく?)  
除夜の鐘と言えば、大晦日(12月31日)の深夜24時(元旦の零時)の前後に耳にしますが、本来は、鐘をつくタイミングにも決まりがあるのだそうです。  
107回目までは前年のうちに撞いて、最後の一回は新年になってからつく(深夜0時に最後の一回をつく)のが正式なつき方だそうです。百八つの煩悩をすべてきれいに祓って新しい年を迎えるということなのでしょう。きちんと24時に終了するという寺院では、鐘のつき始めを早めに設定し、22:40頃から開始される場合もあります。  
大半の寺院は無料で除夜の鐘をつくことができますが、有名な寺院では、整理券を配布するところや、有料で鐘をつくかわりに、参拝者に破魔矢や甘酒や福豆がふるまわれることもあります。  
希望者が多数の場合には108回以上つく寺院もありますが、先着順に受付をし、きっちり108回になったら終わりという寺院もあります。 時間ギリギリに行かれる方は、全員が鐘をつくことができるかどうか、早めに確認することをおすすめします。  
日本三大鐘楼とされているのは、京都方広寺、京都知恩院、奈良東大寺だそうです。テレビのゆく○くる○などでも紹介されてきました。ちなみに三名鐘というと、また違う三つの寺の鐘の名前があがるそうです(「平等院」「三井寺」「神護寺」だそうです)。鐘の音で選んだり、鐘の姿の美しさで選んだり、鐘の大きさで選んだり…これも諸説あります。  
3.108つの煩悩の話 / なぜ煩悩の数は108と言われるのか?  
除夜の鐘は108回うちならすとされています。この108という数字については諸説あるので、筆者は108という数は『沢山』という意味だと思っています。しかし、サイトをご覧になった方からご要望が沢山寄せられるので、一番わかりやすいと思った説を一つご紹介します。人間が持つ欲望や心の汚れは、すべて6つの感覚器官からもたらされ、それらが感じとる感覚からくる36個の煩悩に、前世、今世、来世の3つの時間軸をかけて108つあるという考え方です。下記の表にわかりやすくまとめましたのでご覧下さい。 まずは表中で使われている仏語のうち、難しい語についてあらかじめ少しだけ説明します。  
六根 (ろっこん) 人間が持つ感覚器官 / 感覚や意識を生じさせ、それによって人に迷いを起こさせる原因となる6つの器官のこと。眼(げん)、耳(に)、舌、鼻、身、意とされる。  
六境 (ろっきょう) 人間が感覚によって識別できる対象 / 上記六根で識別する六識の対象となる6つの境界。六塵(ろくじん)とも言う。色境、声境、味境、香境、触境、法境とされる。  
除夜の鐘はそれをつくことで、これらの108つの煩悩を打ち払うとされています。
「年越の祓」と「除夜の鐘」  
私にとって神社は年が明けてから初詣に行くところと思っていたのだが、大晦日の日に多くの神社で「年越の祓(としこしのはらえ)」という重要な神事が執り行われていることを最近になって知った。  
明治時代になって太陽暦が採用されるまでは、我が国は太陰暦を用いていたのだが、太陰暦は月の満ち欠けの周期を1ヶ月とする暦法なので、満月の日は必ず毎月の15日(十五夜)となり月末には月が目に見えない状態となる。  
月末のことを「晦日(みそか)」とも言うがこの言葉の由来を簡単に述べると、「月が隠れる日」を意味する「月隠(つきごもり)」が訛って「晦(つごもり)」となり、毎月末を「晦日(みそか)」と呼ぶようになったらしい。「晦日」を「みそか」と読ませるのは、月の周期が約30日なので月末の日は「三十日(みそか)」だったからである。そして一年最後の「晦日」となる十二月の月末を「大晦日(おおみそか)」としたのだ。  
もともと神道では、6月と12月の晦日には「大祓(おおはらえ)」と言って、神に祈って心の穢れを取り払う神事が宮中や各地の神社で執り行われ、6月の大祓は「夏越の祓(なごしのはらえ)」、12月の大祓は「年越の祓(としこしのはらえ)」と呼ばれている。  
このような行事がいつから行われているかは定かではないが、大宝元年(701)の大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められているので、それよりもかなり古くから行われていることは間違いがない。「古事記」に、第14代仲哀天皇ご崩御の時に「大祓」を行ったという記述があるそうだが、仲哀天皇ご崩御というのは4世紀中頃の事である。  
この「大祓」の儀式で読みあげられる言葉が、平安時代に完成した「延喜式」のなかに載せられている「大祓詞」で、我が国で最も古い祓詞と言われているそうだ。個人を対象とした祓ということではなく、天下万民、社会全体の罪穢れ、災厄を取り除くための天皇の祈りの言葉である。  
このように「大祓」は長い伝統のあるものだが、応仁の乱のころから宮中では行われなくなり、江戸時代の元禄4年(1691)に再開されたが、宮中や一部の神社で神事として形式的に伝えられたにすぎなかったそうだ。  
この儀式が全国的に広まるのは明治時代で、明治5年(1872)の教部省通達で「毎年官社以下すべての神社の社頭に祓いの座を設け、府県官員はもちろん、一般国民もまた社参して大祓せよ」との発令により、国民行事として広まったようである。  
ところで、よく年末の挨拶で「よいお年をお迎えください」と言うのだが、この言葉の意味は昔から「来年が良い年になりますように」という意味だとばかり思ってきたが、昔は違ったようなのだ。  
かつては「お正月さん」あるいは「歳徳神(としとくじん)」という神様が初日の出とともに現れ、一年の幸せをもたらすために降臨すると信じられていて、それぞれの家庭で大掃除をしたりお餅を搗いたりするのは、この神様をお迎えするための準備をするということなのだそうだ。年末のあいさつで「よいお年をお迎えください」とよく使うのだが、この「お年を」とはこの神様のことを指して、「(良い準備をして)歳徳神をお迎えください」という意味になるのだそうだ。  
邪気を払うために大晦日に、節分の様に豆を撒く地方もあるようだ。旧暦の世界では節分と大晦日はかなり日が近く、年によっては節分の日が大晦日になることもある。(例えば2038年は旧暦の大晦日が節分と一致する。) 豆まきは本来は大晦日の行事であったのが、旧暦では新年が春から始まるので、立春前日の節分の行事に変わっていったという説もあるが、地方によって大晦日に豆を撒く風習が残っていることは面白いことだ。  
ここまで神社の事を中心に書いてきたが、お寺の事も書こう。お寺の行事はもちろん「除夜の鐘」だ。  
「除夜」とは「旧年を除く夜」という意味で大晦日の夜を指し、大晦日に除夜の鐘を撞くのは、中国の宋の時代から始まった仏教行事に由来しているのだそうだ。日本には鎌倉時代に伝来して、江戸時代以降各地で盛んになったようである。  
「除夜の鐘」は深夜に108回撞かれる。人には108の煩悩があると言われているが、何故108なのかは諸説がある。  
鐘を撞くことで、鐘の音を聞く全ての人々がこれらの煩悩を1つずつ取り除いて、清らかな心で正月を迎えようと言う考え方なのだが、なんと素晴しい行事ではないか。  
歳徳神をお迎えするために日本中で大掃除をし、お寺も神社も力を合わせて、国民が清新な気持ちで新しい年が迎えることが出来るために祈る。こうすることで、みんなが気持よく正月を迎えることが出来るというものだ。  
室町時代以降日本を訪れた外国人の多くが素晴らしいと日本を賞賛した記録を残しているのは、一年を通してこのような伝統行事が色々あって、人々に浸透していたことと無関係ではないだろう。  
例えば  
「…何しろこの国民は、その文化、作法と習俗の点で、言うも恥ずかしいほど、さまざまな事にかけてエスパニア人にまさっています。」(ルイス・フロイス[1532-1597]「日本史1キリシタン伝来の頃」)  
「…人々はいずれも色白く、極めて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我らヨーロッパ人よりも優れている。」(アレッサンドロ・ヴァリニャーノ[1539-1606]「日本巡察記」)  
いずれもフランシスコ・ザビエルの後で日本にキリスト教布教のために派遣されたイエズス会の宣教師だが、日本人とその文化を絶賛していることに注目したい。 
 
年越しの祓の女神
 


何ごとの おはしますをば 知らねども かたじけなさの 涙こぼるる(西行法師)
伊勢神宮で、目に見えぬ神に対し、西行が畏れ多さと感動を覚えて涙したという。しかし、皇祖神でもある天照大神は、あからさまな神として存在する。それでは、西行は目に見えぬ何の神に涙を流したのか?その西行の最後の歌がある。
願はくは 花のしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃
桜を愛した西行は、この歌の通り文治六年(1190年)2月16日に没した。その西行は、何故か二度も平泉を訪れている。その影響からか、平泉では「西行桜の森」として、大山桜をはじめ100種3000本余りの桜を植え、その当時の桜森を復活させている。それだけ西行と桜の縁が強いものと万民が認めている事からのものであった。西行がみちのくへの旅を思い立ったのは、歌僧能因の跡を辿る事に加え、同族である奥州藤原氏を慕っての事であったという。初めての平泉は厳冬であり、一冬を過ごして桜の咲く頃まで過ごしていた。西行の歌は、耽美的な歌が全編を占めているのだが、先に紹介した伊勢神宮を目の当たりにしての歌が、異色である。桜を愛でた西行が、伊勢神宮の神に対して何を感じたのか。実は、ある一柱の桜の神が伊勢神宮にはいた。その神は、奥州藤原氏も信仰していた神であった。
平泉を訪れた人はわかるだろうが、有名な国宝でもある金色堂とは別に、入り口に大きな茅の輪が飾られ、そこを潜ると穢祓となるという存在感を示す神社は、白山神社である。穢祓の能力から、白山神社の本地仏は十一面観音となる。平泉では古来から「白山權現ハ中尊寺一山ノ鎮守也」と伝わる。その平泉の白山神社は、福井県に鎮座する平泉寺白山神社からの影響により命名されたようだ。実際に奥州藤原氏は平泉寺白山神社に対して、かなりの寄進をしている。また曹洞宗大本山である永平寺は、白山権現を永平寺の守護神・鎮守神としており、毎年夏には永平寺の僧侶が白山に参詣して奥宮の前で般若心経を読誦するのは、神道における夏越の祓と同じである。
その白山を鎮守神とする曹洞宗の本山で祀られる権現があるのだが、三位一体を成しているのは、白山妙理大権現・早池峯大権現・熊野大権現である。ところで白山に関しては吉田神道が白山比唐ヘ菊理媛神であると神祇官を通じて広められ現在に至っているが、何故に菊理媛神となったのかはわかっていない。その菊理媛神は黄泉平坂において唐突に現れた女神であり、伊弉諾に対して何かを告げた。それに対して伊弉諾は、それは良い考えだと頷いた事から、一つの道を説いたのだろう。似た様な話に、山幸彦に道を説いた塩椎神が居り、また大国主に進言した多邇具久がいる。これら塩椎神や多邇具久も菊理媛神も唐突に登場するという共通点がある。これらをもう少し詳しく展開してみようと思う。 

「古事記」の神話には、唐突に現れて道を示す者がしばしば登場する。それが塩椎神であったり、多邇具久であったり、菊理媛神であったりする。塩椎神は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神であると云われるが、別に「椎」という文字から「手名椎命・足名椎命」など、蛇との関連を伺わせ、海蛇との説もある。また、多邇具久はヒキガエルの事で、知らない事は久延毘古が知っていると教えるのだが、その久延毘古は案山子であり、蛇でもある。山田の中の一本足の案山子とは、田んぼの守り神であり、田や畑を荒す雀や野鼠を捕食する蛇で、一本足だ。諏訪神は蛇神だが、諏訪の地において争った洩矢氏のシンボルが、カエルになっている。カエルにとってのヘビは天敵であるので、多邇具久と久延毘古の関係もまた面白いものだ。
ところで、菊理媛神だが、菅江真澄「月の旅路」において「八十一隣姫(くくりひめ)」と記されてた。九九は小学校で習うのだが、その九九の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国の春秋時代にまで遡る。菊理媛神の「くく」を「九九」→「八十一」で表現しているのは、語呂合わせの好きな日本の文化だろうと簡単に考えていたが、天台宗にも、その九九→八十一の概念が伝わっていた。
天台宗の金剛界曼陀羅は、別に八十一尊曼陀羅ともいう。これは、天台宗の慈覚大師円仁が唐から持ち込んだ、八十一の諸尊で構成する曼荼羅だ。小峰彌彦「曼陀羅の見方」によれば、九尊×九尊で八十一になっているのだが、9という数字は奇数であり陽数と云われるもので、表されるものは「天・太陽・男etc」であるが、別に偶数である陰数は「地上・月・女etc」となる。ところが八十一は8+1であり、陽数+陰数であり、陰陽の和合を意味する。胎蔵界曼陀羅を事象的真理とすれば、この金剛界曼荼羅は精神的真理とされている。
八十一隣(くくり)は八十一理(くくり)とする場合もあり、つまり菊理媛神の「理」とは、金剛界曼荼羅と同じく「真理」を意味するもの。つまり、「古事記」の黄泉平坂において突然現れ、伊弉諾に謎の言葉を告げた菊理媛神とは本来"真理"を告げたのだろう。それ故に伊弉諾は、納得した。その菊理媛神は白山に祀られているのだが、遠野のオシラサマは、その白山信仰の影響があると云われている。オシラサマの俗信に「幸せをお知らせする」から「お知らさま」だと云われるのは、桑の木の蚕を教えたからだというが、それは菊理媛神のお告げの影響があってのものだろう。「くくり」は「八十一理」であり、真理であり陰陽の和合を意味する、新たな生命の誕生をも意味する。オシラサマは新たな養蚕文化の誕生をお知らせした。「日本書紀 継体天皇元年三月庚申の朔」に「女年に當りて績まざること有るときには、天下其の寒を受くること或り。」と、まさに世の真理、養蚕の重要性を説いている。まさに現人神である古代の天皇と同じお告げを、オシラサマはしたわけだ。 

岩戸あけし 天つ命の そのかみに 櫻を誰か うゑはじめけん(西行上人集604)
この歌の詞書には「みもすその川のほとりにて」と記されている。西行の時代は、本地垂迹の具体的な理論化が成されていた時代であった。それ故か「高野の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、大神宮の御山をば神路山と申す、大日如来の御垂迹を思ひて詠み侍りける。」という詞書によって詠われた歌は、下記の通りだ。
榊葉に 心をかけん 木綿垂でて 思へば神も 仏なりけり
大日如来と伊勢神宮に祀られる天照大神は、本地垂迹の関係となる。だから伊勢神宮で御垂迹を思って詠んだ歌は、天照大神に対してのものだ。そして大日如来は太陽であり真理であった。しかし、先に紹介した歌は「みもすもの川の畔」で詠んだ歌だ。「みもすもの川」とは五十鈴川であり、倭姫命が穢祓をした川でもある。その穢祓の川沿いに櫻を植えようとの歌であるが、岩戸神話から天照大神の事を詠っているのか?と思いつつ、陽気の天照大神に陰気を重ね合わせる歌に疑問を覚える。
西行の歌で一番多いのは、桜の歌か?と思いつつ、実は恋の歌が多かった。次に来るのが桜の歌で、次が月の歌である。そしてその西行が、平泉の奥州藤原氏の元へ行った後に詠んだ桜の歌がある。
花見れば そのいわれては なけれども 心のうちぞ 苦しかりける
(花を見ると理由はわからないが、心が切なく苦しくなってしまう。)
恋の歌の次に多いのが桜の歌であるようだが、恋の歌と桜の歌は重複しているのが多いのだが、ある意味西行は恋多き歌人でもあった。その恋多き歌人の西行だが、この歌は桜の面影に誰かを想う歌なのだと誰しもが思うだろうが、それは果たして人間の女性であろうか?桜の下で死んだ西行は、その願いが成就したのだが、桜を女性に見立てての想いを貫いたのか、はたまた桜に重ねるべく神がいて、その身許に委ねる様に死にたいと想ったのかは謎である。ただ、大日如来と天照大神を重ねた歌には、榊を依代として登場させている。
神路山 月さやかなるかひありて 天下をはてらすなりけり(西行上人集601)
太陽神である天照大神の祀られる伊勢神宮において、太陽では無く月が世を照らすという歌とは、どういう意図からのものであろうか。実は、桜と月に重なる神がいる。月は月の変若水信仰から、天の眞名井の清い水と重なり、穢祓の川と繋がる。その月の使いである兎は、その水の路を繋いで伊勢へと流れる。その川は宇治川であり、兎路川でもあり、それは五十鈴川と繋がる。伊勢神宮の前に渡る橋を宇治橋というのは、その流れが繋がっている為だ。その兎路の源流は琵琶湖の桜谷であり、佐久奈谷の桜明神からのものであった。その流れから「大祓祝詞」が誕生し、その桜明神は佐久奈度神社に祀られ、宇治の橋姫神社にも分霊された。
西行が平泉にいた期間は、3か月とも1年とも伝えられるが最低でも冬には到着して、桜の咲く頃まではいた筈であろうから半年は滞在したのだろう。2度目の平泉は、燃え落ちた奈良の大仏の寄進の願いで行ったのだが、そこまでの頼みを聞いて貰える間柄となったものには、奥州藤原氏と何等かの共通した意識があった筈と考えるのは無粋であろうか?京都に生まれ、大和の吉野の桜に魅せられた西行であったが、更に心惹かれたのは束稲山の桜に出逢ってからであった。奥州藤原氏の崇敬した神は元々、京都から渡った神であった。その深い縁を感じた西行は、益々桜に惹かれて行ったのだろうと思えるのだ。その為に、この「花見れば そのいわれては なけれども 心のうちぞ 苦しかりける」という歌は、桜の影に隠れる神に恋してのものであったのだろうと考える。 

桜咲く 四方の山辺を 兼ぬるまに のどかに花を 見ぬ心地す(西行法師)
「桜の咲いている四方の山をあちこち見ていると、のどかに花を見る気分だけではすまなくなるものだ」
桜を愛でた西行であるが、その桜をただただ愛でるのではなく、その桜を通しての信仰を意識している歌であろう。西行が初めて意識した桜は、吉野の桜であろう。その吉野の桜は、役小角が金剛蔵王権現像を桜の木に彫った事は、密教に携わる西行であろうから、じゅうぶん意識していた事だろう。
能に「西行桜」という作品がある。作者は金春禅竹と云われるが、本当はどうも世阿弥ではないかとされている。その世阿弥「風姿花伝」の著作の中に於いて「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と言っているが、西行の歌とは仏師と同じだとされている。仏師が仏像に、理の魂を込めるのだが、西行もまた歌に理の魂を込めている。いや、秘していると云われる。世阿弥は西行の心に触れて「西行桜」を作ったのかもしれないが、その「西行桜」には桜の精が登場する。
花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける
この西行の歌に世阿弥が解釈を付けたのが「西行桜」であろうが、その「桜のとが」について桜の精はこう語る「桜を見るのは人の心次第であって"非情無心"の草木の花には関係のない事。」これはつまり、神と同じに桜には罪や穢れの無い存在である事を意味する。そして明け方近くになった時に「花の影より明け初めて…。」「白むは花の影なり…。」と、花の影を二度強調する。そう世の中は陰と陽の二つがあり、そこに五行が絡むと云う陰陽五行の哲学が入り込んでいる。これは神道と仏教の融合である、本地垂迹と同じでもある。花とは桜であったが、秘すれば桜でもある。桜は人の心を魅了する春を代表する花ではあるが、その桜花にも影がある。その影を秘して知るからこそ西行は、初めに紹介した歌の様に「のどかに花を 見ぬ心地す」と詠い、そこには桜花の咲く山に対する意識があったのだろう。
役小角が、桜の木に金剛蔵王権現象を彫ったようにまた西行も、桜の理を歌に彫り刻んで行った人生であった。西行の歌は、ただ耽美的な歌では無く、信仰に裏打ちされた理が秘せられていた。その理を知っているからこそ、吉野の桜と奥州の桜を間に立って、結びつける事ができたのだろう。"あたら桜のとが"は、人を魅了する美しさではあるが、桜そのものにはその咎は無い。むしろ人の咎を吸い取り浄化するのが桜であった。古代には、子供が生まれれば、庭に桜を植える習慣があった。桜の寿命は人間の寿命に近く、その子供が成長するにあたって、病気や怪我をした場合、代わりにその病気や怪我を吸い取って、水と共に川に流す役割としての桜であった。琵琶湖の桜谷は、黄泉の国と通じているという伝承があるのは、桜が吸い取る罪や穢れ、そして病気や怪我をも吸い取って黄泉の国であり、根の国底の国へと流す役割があるからだ。その入り口が桜でもあった為だろうか、末法思想の蔓延した平安時代に極楽浄土を旅立とうとした人々と同じく、西行が桜の下で死にたいと願ったのは、桜そのものが黄泉の国という浄土の入り口でもあった為だろう。 

「サクラ」は「神の霊」の意の「サ」と、「蔵・倉・磐座」という居場所を意味する「クラ」から成り立っているというのが一般的解釈である。しかし、縄文語で「クラ」とは「陰・影」を意味している。例えば、貴船神社や丹生川上神社上社に祀られる「闇龗神」の「闇」は「クラ」と読み「谷合」を意味するが、それもまた「影」の意でもある。
役小角は、桜の木に金剛蔵王権現を彫り、それから金剛蔵王権現の象徴が桜の木となった。金剛蔵王権現は垂迹であり、本地は弥陀三尊と云われる。しかし密教系では弥陀三尊は日・月・星の三光信仰でもあるが、それは日と月を結びつける事により「明」となり「明けの明星」でもある金星であり、太白でもある。しかし、それとは別に北斗七星という別の摂理にも繋がる。そもそもこれは天台宗の表向きの摂理であるが、何故に金剛蔵王権現を桜の木に彫ったのかは、その桜に潜む影があったからに他ならない。桜の女神として木花開耶姫が祀られる場合があるが、本来は火中出産を果たした木花咲耶姫は「粉の花」であり「火の粉」を意味する女神であった。本来の桜の女神とは、陰の存在であり、死の匂いがするものでもある。
美しい花が咲き誇る桜だが、桜は人の穢れを吸い取る存在でもあった。吸い取った穢れは、地中に張った根を通して川に流され海へと注ぎ、黄泉の国へと流される。「大祓祝詞」の舞台である琵琶湖の桜谷であり、佐久奈谷が何故、黄泉に繋がる伝承があるのかは、その為でもあった。桜は、修験のシンボルでありながら、黄泉の国へと繋がる一里塚でもあったのだ。黄泉の国と現世に繋がる黄泉平坂において、菊理媛神は伊弉諾を導く為に修験の理を告げた。その理とは、曼陀羅の真理であったろう。
天台宗に伝わる尊星王供は、最高の秘法とされている。尊星王とは北極星の神でもある妙見菩薩でもあるが、通常での仏教が太陽を以て万物を摂する大日如来と呼ぶのに対して、ここでは太陽を北極星に置き換えて尊星王と呼ぶ。その姿は陰陽道と重なった時は太白である金星となったりと、千変万化となっている。画像は、その尊星王の曼陀羅となるが、青竜の上に立つ尊星王の姿だが、その青竜は北辰、北斗七星の姿であり、しばしば九頭龍となって降臨し水を守護する存在でもある。またその姿も下記の画像の様に、雨乞い観音としても表される。
尊星王は龍に乗っているが、周囲には虎、象、白狐、豹が尊星王を護る形で廃されている。これは「熊野権現縁起」の「熊野の本地」に繋がるものだ。
「熊野権現絵巻」は近世にかなり制作されたが、その大元は民間宗教者によって唱導されていたものであったようだ。そしてその根幹は、山の神とその使いの介入であり、それが天台宗の秘法と結び付いてのものであるのは疑いの無いものだろう。そしてその「熊野の本地」と共に伝わっているものに「秀衡桜」なるものがある。秀衡とは奥州藤原氏の藤原秀衡であり、その秀衡が桜を命の指針として手にし、山の神の加護を手に入れると言うもの。桜を折って地面に差し、それが成長する話には弘法大師などの伝承もあるが、桜が修験の象徴であり、それに命をの重さが重なるのは、金剛蔵王権現の金剛が北斗七星であり、その北斗七星は人の生き死にに関わるものとの融合からであろう。
以前、台湾旅行をした時に、ある川に「七曲りの橋」というものがあった。道教思想に則ったその橋は、七つの曲がり角で厄を祓うと説明していたが、それはそのまま北斗七星信仰と結び付くものだろう。そして京都に伝わる七瀬の祓所も同じ道教の影響を受けているものであるだろう。台湾の川にかかる七曲りとは、瀬を折ったもので一つの瀧であると聞いた。七つの段差は、七つの瀧であり、その滝が身を清め穢れを祓うのは、道教での北斗踏みの呪術と同じである。恐らく七観音信仰も、この道教の影響を受けて成立したものであるのだろう。遠野の七観音信仰にも、一つ一つ井戸があってその水で翰音を洗い清めた事からも確かであろう。ここで桜と北斗七星が重なって来るのを理解できる。西行の足取りと桜の歌を読み取っても、吉野の桜と奥州の桜が結び付き、それは熊野へと帰結している。西行は「サクラ」という陰に潜んだ神の霊に惚れていたと言っても過言は無いだろう。それは親鸞の夢告から始まった女犯偈の思想を受け継いだ天台宗などの密教世界に通じている西行と考えた場合は、当然の宿命であったろう。
竹田和昭「曼陀羅の研究」によれば、紫微宮に六柱の女神がおり、それは北斗七星の七つ星の中の六星を意味し、残りの一星の女神は地上に降り、人との対話を果たしているという。これらの星の曼陀羅の中に、山王曼陀羅もあるのだが、星の輝く天界は山の頂で表され、その中枢に紫微宮があり、人間との結び付きは、その麓となる。此の形を見て思い出すのは、早池峯の姿と重なる。以前は女人禁制であり、修験の者以外はまず早池峯の山へと登る事は無かった。今でこそ、車である程度行ける又一の滝でさえ、人里離れた山奥の滝であった。その又一の滝は恐らく「太一の瀧」として名付けられたものが、その音だけが残り「またいちのたき」として語られ、後からその所以が作られたのだと考える。その又一の滝が太一の滝であるならば、そこは星曼陀羅の中枢である紫微宮に相当するのだろう。何故ならそこには人里との繋がりを果たす、水の発生源の滝があるからだ。
「熊野権現絵巻」の熊野権現そのものは、抗議的に那智の瀧を意味する。熊野においての瀧が神の御神体であるのは、遥か遠い昔から伝わる揺るぎ無い事実である。「年越しの祓の女神(其の一)」で書き記したように、白山・早池峯・熊野は三位一体の関係である。そこには北斗七星の信仰が水の穢祓と結び付き、桜を媒介として秘せられた神の名がそこにある。一命"瀬織津比"、遠野の北に聳える早池峯の山の神であり瀧神であり、穢祓の女神、その一柱の神である。 

「古事記」の成立は、和銅五年(712年)となるのだが、菊理媛神の登場するくだりは、取って付けた感がある。つまり、菊理媛神のシーンは無くとも話は繋がるのだ。死の穢れの黄泉の国で伊弉諾は、腐乱した伊邪那美を垣間見、穢れた黄泉津醜女に追いかけられ、命からがら逃げ出し、千曳岩で現世と黄泉の国を塞いだ後、中津瀬で穢祓をした。ある説では菊理媛神が穢祓を奨めたのだろうというのがあるが、恐らく既に伊弉諾は状況から、穢祓をしなければとわかっていた筈だ。恐らく菊理媛神の登場する、黄泉の国の黄泉平坂のシーンは、後世に追加されたシーンであったろうと思う。
何故なら白山の祭神が菊理媛神だと、何の脈絡も無く唱えたのは、室町期に成立した吉田神道であるが「古事記」そのものの写本も室町期からのものが伝わっているという。つまり、室町期に「古事記」の新たな編纂が成されたのでは無かろうか?
また「古事記」での穢祓のシーンで右目を洗い月夜見命が誕生し、左目を洗い天照大神が誕生するのだが、星の宗教と云われる天台宗にも、左目は太陽を意味し、右目は月を意味する教義が存在する。道教とも融合している天台宗であるから、この「古事記」にも天台宗であり道教にも通じる記述がいくつかあるのは、室町期に天台宗の教義に合わせて「古事記」が編纂された可能性も否定できないだろう。要は、菊理媛神の「くくり」とは「八十一の理」である天台宗の星の曼陀羅の真理を表す存在として作られた女神であり"真理へ導く者"としての女神であったのだろうと考える。
菊理媛神が真理へ導く者であるならば、その真理とは何か。それは北斗七星と繋がる妙見信仰であったろう。そもそも本来は北辰である北極星が妙見信仰であったが、それがいつしか混同され北斗七星信仰が妙見信仰であるとなったのは、古代中国から伝わる北斗七星が、人の生死を司る存在であったからだろうと考える。
「遠野物語」において、山の神がやはり人の生死に関わる存在であるのは、天に近い山とは、その影響下にあると考えられたのだろう。早池峯信仰の構造そのものが天台宗の星の信仰に重なるのは、現世に星空を体現するのは山でしかなかったからだろう。いや天に聳える山は、そのまま天と思われていたのかもしれない。何故なら里山と違い早池峯などの高山は、まず人が登る事が無かったのは、登る事自体が天を汚すものと考えられていたようであった。その山の神の棲む早池峯に天台宗は、星の思想を散りばめた。実は、早池峯の女神である瀬織津比唐ヘ、羽黒権現であるのだが、その羽黒の地に建立された五重塔の内部も北を重視し、妙見を祀っている。羽黒の信仰の根幹も妙見であるようだ。
天台宗の星曼陀羅に描かれている北斗七星の女神一人は、地上に瀧と共に降りて、人と語らっている。瀧は、水の発生の根源であるとされ、水無くしては人は生きられぬ。その北斗七星の信仰が早池峯と瀧の女神である瀬織津比唐ニ結び付いたのは、必然であったのだろう。
室町時代に成立した「日本書紀纂疏」に、星に関してこう記述されている。
然らば則ち石の星たるは何ぞや。曰く、春秋に曰く、星隕ちて石と為ると「史記(天官書)」に曰く、星は金の散気なり、その本を人と曰うと、孟康曰く、星は石なりと。金石相生ず。人と星と相応ず、春秋説題辞に曰く、星の言たる精なり。陽の栄えなり。陽を日と為す。日分かれて星となる。
故に其の字日生を星と為すなりと。諸説を案ずるに星の石たること明らけし。また十握剣を以てカグツチを斬るは是れ金の散気なり。
金は、古代において金属の総称であった。黄金・白銀・黒金・青金・赤金と、様々な金属に色を付けて分類している。火之迦具土神を産んで、伊邪那美は死に黄泉の国と向かった。そして、伊弉諾は十拳剣で火之迦具土神を切った事により、金の気が散ったのだろう。黄泉の国は根の国・底の国と同じ、陽の当らない暗闇である。「大祓祝詞」においての「根の国・底の国」は、海の底の陽の当らない暗闇のイメージが浮かぶのだが、山には多くの竜宮信仰があるように、その海と山は繋がっていると考えて良いだろう。そして、それはあくまでも山の内部であり、洞窟などもその入り口となる。現実に、山は多くの鉱物を内包する。その鉱物とは金であり、それは「天(海)あま」から降ってきたものなのだ。
海から発生した水蒸気が雲となり、山の上にかかって雨を降らせる。その雨を山は蓄えて、ゆっくりと人里へと流してやる。また天から降ってきた流れ星などもまた山に含まれて鉱物になると考えられたのは「日本書紀纂疏」で記した通り。その鉱物の発掘が修験と結び付き登場したのが、金剛蔵王権現とも云われる。修験の祖と呼ばれる役小角は、金剛蔵王権現象を桜の木に彫った。「サクラ」の「クラ」とは「陰」の意があるのは、地中に隠された存在である鉱物をも意味しているのだろう。それ故なのか、遠野の白望山裏にあるタタラ跡に鎮座する大山桜と、貞任山の入り口に鎮座する大洞大明神とも云われる山桜など、採掘・治金などに関係する場所に山桜が咲くのは、やはり修験の関係からだろう。
そして、罪や穢れを祓う水は、また鉱物の泥を流し、小石と鉱物とを仕分けるものでもある。水と桜の関係は、そういうところにも見え隠れする。それ故に、水神でもある瀬織津比唐ノ黄泉の国の匂い、黄泉津大神となった伊邪那美の匂いがするのは、琵琶湖の桜谷が黄泉の国と繋がっているものと同じだろう。白山に伊邪那美が祀られているのは、白山という山の内部に潜む…つまり黄泉津大神としての存在からだ。その黄泉の国の穢れであり、汚れを祓う水の女神が瀬織津比唐ナあるのは、神仏分離の際に遺棄されそうになった「白山大鏡」から読み取れる。白山に祀られる菊理媛神が真理へ導く者であるなら、それは伊邪那美→菊理媛神→瀬織津比唐ニいうラインが出来上がるのだが、何故か世の中からは瀬織津比唐フ姿がが消えてしまっている。
岩手県に瀬織津比唐ェ運ばれてきたとわかっているのは、養老年間に紀国熊野からである。早池峯の神社は大同元年で、坂上田村麻呂による蝦夷征伐の後の建立である。その後に天台宗の管理下となり、恐らくそこで妙見信仰と結び付けられたのだろう。穢祓の神としての瀬織津比唐ヘ、天智天皇時代に「大祓祝詞」の舞台として琵琶湖周辺が描かれてのものであろう。しかし、京都に広がる七瀬の祓所の信仰は、確かに宇治川の源流である琵琶湖と結び付くのだが、それよりも比叡山延暦寺の存在が大きかったのだと思う。「歓心寺縁起実録帳」によれば比叡山は本来"北斗七星降臨の霊山"として伝わり、それから北斗七星の北斗踏みの呪術と七瀬の祓所が結び付けられたのだろう。
実は、天台宗の星曼陀羅は、仏教的には吉祥天と結び付くものだ。吉祥天は蓮華の精でもあり、だから早池峯の三女神信仰には蓮華の奪い合いの伝説が伝わっている。しかし、その吉祥天の色合いがより強く表されているのは、早池峯では無く姫神山であろう。北方鎮護として坂上田村麻呂と結び付けられた毘沙門天の妻は、蓮華の精である吉祥天である。岩手三山の伝説には、岩手山・姫神山・早池峯山の三つの山が様々に語られているが、男山である岩手山に、坂上田村麻呂と毘沙門天が結び付けられ、その妻として相対する姫神山に瀬織津比唐ェ祀られた。その瀬織津比唐ェ、早池峯と姫神山とは別の流れから各々の山に祀られた為に、岩手三山の伝説は、曖昧模糊と変化して伝わったのだろう。つまり、岩手山と姫神山での瀬織津比唐ヘ、北方鎮護としての存在であったのだろう。平安時代作の、姫神山に祀られた姫神像には、瀬織津比唐フ威光というより、吉祥天の慈愛の心が刻まれているようだ。
しかし、北方鎮護であろうが妙見信仰であろうが、全ては北に鎮座する女神としての瀬織津比唐ナあった。大迫の早池峯神社からは北に位置しない為に、遠野早池峯神社を向け祈る様に建てられたのは、あくまで早池峯が北に鎮座しているという存在として祈る為であった。岩手県の瀬織津比唐祀る殆どの神社が、早池峯より北に位置しないのは、早池峯に向かうという事は、北に輝く北辰であり北斗七星を拝むかのように瀬織津比唐拝む為であった。それは早池峯という山そのものが天界であるという意識の元に開かれた信仰の為であったのだろう。そしてもう一つは、早池峯の位置と構造そのものが、天台宗の教義に適ったのが大きいのであったのだろう。それは岩手県で一番高い山は岩手山でありながら、その岩手山よりも低い早池峯の方が信仰圏が広いのは、天台宗最大の秘儀とされる尊星王に適応したからなのだと考えるのだ。早池峯神社は当初天台宗が支配したが、その後に真言宗と変わった。 
 


  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
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