勧進帳・安宅関

 

義経伝説 / 伏見常磐鞍馬天狗鬼一法眼義経島渡浄瑠璃姫熊坂長範伝説附山中常磐橋弁慶逆落弓流と八艘飛含状と弁慶状堀河夜討船弁慶狐忠信と碁盤忠信鶴ヶ岡舞楽安宅と笈さがし摂待
船弁慶勧進帳諸話
 
 
安宅関 
兄の源頼朝に謀反を疑われて追われる義経が奥州平泉へと落ちのびる途中の文治3年(1187)、山伏姿で安宅の新関にさしかかる。関を越えようとしたその時に、関守富樫泰家に見とめがられ、詮議の問答が始まる。勧進帳とは寺院建立などの資金集めにその趣意をしたためたもの。弁慶は白紙の勧進帳を読み上げて、強力に身をやつした義経をかばう。しかしなお顔が似ているという関守の前で義経に似た貴様が憎しと主人を打ちすえする。その忠義の心に感じた富樫は義経と知りながらも一行を解放し、関を通してしまう。15世紀初期に作られた義経記の各地での事件を一つにまとめ、15世紀後期に観世小次郎により能「安宅」が作られる。これが三世並木五瓶の脚色により天保11年(1840)江戸河原崎家で七世市川団十郎により初演された。以来、歌舞伎十八番の一つとして今日まで受け継がれ、安宅の関の名を全国にひろめた。
謡曲や歌舞伎でおなじみの安宅関が、「義経記」などには「安宅の渡し」とあり「安宅関」は出てこない。義経を敬愛していたとされる松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で加賀にやってきたが「安宅関」に立ち寄ったことは記載されず、芭蕉の時代に「安宅関」はまだなかったようだ。18〜19世紀の加賀の地誌(富田景周 「三州記」など)にようやく「安宅関」の記載が見られ、天保11年(1840)3月河原崎座で初演された「勧進帳」によって「安宅関」名は全国的に広まったようだ。弁慶が義経を打ち据えた話は「義経記」では越中の如意の渡し(現富山県高岡市)でのことと記載される。
1187年頼朝に追討されている義経は奥州に落ち延びていく際、北陸道を通過。全国各地に義経を捕らえる為関所が設けられ、安宅もその1つであった。安宅の関守は富樫左衛門秦家。山伏に姿を変えた義経主従が安宅の関にさしかかると富樫は厳しく尋問する。すると弁慶はその疑いを晴らすため、機転を利かせ懐の中の白紙の巻物を取り出し、勧進帳を空読みし不動の見得を切る。 
関超えがかなうかと思ったその時、強力姿の義経が富樫の目に留まる。「その姿が義経によく似ている」と富樫の疑念は増すばかり。すると弁慶は「お前が義経に似ているせいで疑われたではないか、この憎らしき奴め」と持っていた錫杖で義経を殴りつけた。富樫は弁慶のあまりの忠誠心に心を動かされ、強力が義経に間違いないと確信しながらも通行を許した。安宅の関を通過後、弁慶はやむを得ずとはいえ主君を叩いたことを涙を流して謝った。義経は弁慶を許し、関を通過できたことをともに喜び合ったという。この物語は歌舞伎十八番勧進帳として広く世に知られ、今なお語り継がれている。
 
如意の渡し(高岡市/小矢部川河口)  

 

義経記によると、1187春、義経が平泉の藤原秀衡を頼って落ち延びる時この地を経たと言う伝説があり、渡し守の平権現守に判官殿かと怪しまれるが、弁慶が加賀白山より連れて来た御坊だと嫌疑を晴らすため義経を扇で打ちのめすと言う転機で切り抜ける。これと良く似た伝説は各地にあるが、勧進帳の安宅関が特に有名である。 
如意の渡しとは、射水川(現小矢部川)河口の左岸の伏木と右岸の六渡寺(中伏木)を結んでいた渡船場。六渡寺渡、籠(鹿子)の渡などと呼ばれ重要な地点であった。義経記に源義経が奥州に落ちのびる際に、渡守の平権守(たいらのごんのかみ)に「判官殿だ」と怪しまれるが、弁慶が嫌疑を晴らすために扇で義経を打ちすえるという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一節がある。 
義経記では、関所役人と問答し通過するのは「越前の三の口関」となっており、弁慶が義経を杖で打つのは「越中伏木の如意の渡し」となっている。富樫は「加賀の国の大名」として登場する。越前、越中、加賀の三つの話をまとめて安宅関の出来事のように作り変えたのが能の「安宅」である。歌舞伎の「勧進帳」は能の安宅をよりどころとして作ったものである。 
室町時代の軍記物語「義経記」(「ぎけいき」で判官(ほうがん)物語、義経(よしつね)物語ともいう)に文治3年(1187)春、源義経主従が北陸道(ほくろくどう)を平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼って奥州へと逃げる途中、伏木にある如意の渡しに来たとの伝承がある。渡守平権守(わたしもりへいごんのかみ)に「判官殿だ」と怪しまれるが、弁慶が「加賀の白山より連れてきた御坊だ」と言って、嫌疑をはらすために扇で義経を打ちのめすという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一節がある。伏木の矢田八幡宮境内に「如意渡趾」の石碑がある。小矢部川河口の現在の渡船場近くには、弁慶が義経を扇子で打ち付けている場面の銅像も立っている。古来、射水川(小矢部川)河口の渡し場をそう呼んできた。 
倶利伽羅山麓の蓮沼(小矢部市)あたりの船着き場が相当し、一行はそこから下って六渡寺(高岡市中伏木)に至ったのではないかといわれる。 
義経記に安宅が出てくるが、富樫介(とがしのすけ)という金持ちのところに弁慶ひとりが押し掛けていって、寄進をしてもらう話になっていて、身分が発覚しそうな話は「如意の渡」の方でしか出てこない。
安宅住吉神社 
古くより陸・海路の要所として栄えた北国の港安宅の地に祀られ、「安宅の住吉さん」として親しまれ、昔は安宅住吉大明神・二宮住吉大明神・住吉宮とも称された。創建は奈良時代天応2年(782)で、琴佩山に御鎮座された。天暦2年(948)鷹降山に天正5年(1577)小倉野に遷座、さらに天保4年(1647)現在の二堂山に遷座した。北陸道往来の人々が必ず詣でた古社で、古来、人生に於ける道先案内の神、開運厄除、交通安全、縁結び、また難関突破の霊神として多くの信仰を受け、「縁ありて社頭に詣づる人、誠を込めて神前に祈りを捧げば、その祈りは必ずや成就されん」と云われている。本殿を中心に末社金比羅社・稲荷社・関ノ宮を祀る。史跡「安宅ノ関跡」をはじめ、与謝野晶子歌碑、塩田紅果句碑、森山啓文学碑等もある。
 
安宅 

 

安宅は「義経記」などに取材した能楽作品。成立は室町時代。作者不詳。一説に小次郎信光作者説があるが、記録に残る最古の上演記録は寛正6年(1465)で、信光の生年が1450年という最近の研究成果によると15歳の作ということになり不自然。義経主従が奥州に落ちる途中、安宅の関で関守にとめられ、弁慶がいつわりの勧進帳(寺院などの建立にあたって寄進を集めるための公認の趣意書)を読んでその場を逃れた逸話を描く。後世、浄瑠璃、歌舞伎などに展開してゆく義経物(判官物とも)の代表的作品。 
安宅までの道行 / 加賀の国安宅の関をあずかっている富樫何某が登場。義経一行が山伏姿で逃亡しているので、もし山伏が通ったら報告せよといいおいて、ワキ座に控える。一方、義経と弁慶、その他義経の家来、強力の総勢十二人が、山伏姿で橋懸(はしがかり)から登場。「旅の衣はすずかけの」という有名な謡を謡う。二月十日に都をでて、逢坂関から近江にぬけ、琵琶湖を船で海津までわたり、有乳山をこえて気比の海(今の福井県敦賀市)にたどりつき、越前をとおって、花の季節に加賀国安宅についたという謡である。 その地で、ここに新しい関所ができ、山伏を詮議しているという情報を聞き、どうして通ろうかという相談になる。打ち破って通ろうという強硬な意見に、弁慶は「この関を打ち破るのは簡単だが、のちの行程を考えて今は事をおこさないのが上策」と進言する。義経は弁慶にまかせたと言う。そこで弁慶は義経に「強力の荷物を背負い、いちばん後ろからくたびれた様子でついてきてください。」と言い、そして本物の強力に対して、様子を探ってこいと命じる。もどってきた強力は「ものものしく関を固めています。」と報告する。一行は荷物を背負って足痛げな義経を最後尾に、安宅の関にむかう。
勧進帳読み上げ / 関にさしかかると富樫が尋問をはじめる。弁慶は「われらは奈良東大寺の再建のために北陸道につかわされた僧である」と答える。そしてこの関で山伏に限って止めるのは、どういう次第かと問う。富樫は「頼朝と不仲になられた義経が奥州の藤原秀衡をたよって山伏の姿で下向している。それを阻むためだ。」と答える。富樫の家来の太刀持ちが「昨日も山伏を三人斬った。」と言う。弁慶は「斬られるならば最期のつとめをしよう。」と、山伏の由来を語りはじめる。供の山伏もそれに唱和する。さいごに「山伏を討てば熊野権現の仏罰があたる。」とおどしをかける。富樫は、「まことの山伏ならば「勧進帳」をもっているであろう。それを読み聞かせてくれ。」と言う。弁慶は「 もとより勧進帳あらばこそ (もともと勧進帳などあるはずもない)」と独白、しかし持っていた巻物を出し勧進帳と称して高らかに読みはじめる。その内容は「聖武天皇最愛の夫人が建立せられた盧遮那仏の霊場(東大寺のこと)が絶えようとしていることを惜しみ、俊乗坊重源が諸国を勧進(寄付をつのること)してまわっている。もし一紙半銭なりと奉れば、この世では無比の楽を得、来世では数千の蓮の上に座すことになる」というものである。その読み上げがいかにも見事であるので、関の人々はおどろきおそれて一行を通そうとした。
義経打擲 / 最後に義経が通ろうとすると、富樫は「そこのもの とまれ。」と命ずる。山伏一行はこの君をあやしまれては一大事と色めき立つが、弁慶は一同をとどめて、「どうしてこの強力をとめるのか。」とたずねる。富樫は「その強力が判官殿に似ているという者がいるのだ。」と答える。それを聞いて弁慶は義経に向かい「今日のうちに能登の国まで行こうとしているのに、お前がよろよろと歩いているばかりに、人に怪しまれてしまうのだ。金剛杖でさんざんに打ち据える。」と言って杖で義経を打つ。 富樫が止めようとすると弁慶は「荷物をもっているものに目をつけるとは、盗人か。」と悪態をつき、供の者たちも「強力に刀を抜くとは臆病者。」と立ち向かう勢いである。その迫力におそれをなし富樫は「誤りであった、どうぞお通りください。」と関を通してしまう。
難を逃れた主従 / 関から離れたところで、弁慶は義経に床几をすすめ「さきほどは難儀のあまり思わぬことをしてしまいました。御運がつきて弁慶の杖にもあたられたこと、まことに情けない思いです。」とわびると、義経は「それは心得ちがいだ。弁慶のとっさの機転は天の加護だ。さきほどの散々の打擲は弁慶ひとりのはかりごとではない。八幡大菩薩の御宣託である。」と答える。弁慶はそれに感激しながらも「いかに末世といえども主君を打つとは。天罰がくだりましょう。」と言う。義経は「今日の難をのがれたのも不思議なこと」と謡いはじめ、家来一同は涙をながす。義経はさらに「弓馬の家に生まれて頼朝の命にしたがい、平家を追って西海に戦い、山野に野営し、敵をほろぼしたのに その忠義もいたずらになってしまった。思うことがかなわないのが憂き世だとは知るものの、まっすぐな人は苦しんで、讒言をするものは勢いを得る。神も仏もないものだろうか」と述べる。(舞台上では地謡と子方が謡う)
富樫との酒宴 / 場面はもどって安宅の関。橋懸で富樫が太刀持ちを呼び、さっきの山伏に酒を贈りたいので、さきにいってそのことを告げてこいと命じる。太刀持ちは急いで追いつき、その場の強力に、「さきほどの失礼のおわびに酒をもってきた。じきに富樫さまがみえるのでそう伝えてくれ。」と言う。強力が弁慶にそのことを告げると「驚いたことだ。しかしお目にかかろう。」と言い、やがてやってきた富樫を迎える。弁慶は「酒をのませて人を油断させようという腹だな。」とさとり、怪しまれないように気をつけよと一同に注意をうながす。そして酒に酔った体で「 面白や山水に盃をうかめては 」と謡いはじめる。弁慶はもともと比叡山では延年舞の芸能僧であったので「 鳴るは滝の水 」という延年の一節を口ずさみ、富樫に酌をする。富樫はこれを受け、その延年の舞をみせてほしいと言う。そこで弁慶の舞になる。「 鳴るは滝の水 日は照るとも絶えずとうたり 」という今様から「 とくとく立てや (中略) 心許すな関守の人々。いとま申してさらばよとて (中略) 虎の尾を踏み毒蛇の口を逃れたる心地して、陸奥の国へぞ下りける (はやく立ちなさい。関守に心ゆるしてはいかん。おいとまします。さようなら。あぶないところをやっとのがれた心地だと、陸奥の国へと向かった)」という謡で、一同、陸奥の国へむけて逃れ行く。
「勧進帳」との違い / この話の内容は、能の「安宅」としてより、歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の「勧進帳」として有名だが、両者の間には大きな違いがある。「勧進帳」の項目にも書かれているとおり、「勧進帳」では富樫が話の一方の主役となるのに対し、「安宅」では基本的に弁慶一人が主人公である。これは時代背景に因っている。江戸時代では関所破りは重罪で関守(この場合富樫)にも重い罪科が科せられたのに対し、「安宅」が成立したと考えられる室町時代や作中の時代である鎌倉時代ではそれほど重い罪ではなく、また幕府による御家人の統制もそれほど厳しくはなかった。江戸時代において能は式楽として改変があまり行われなかったため、「勧進帳」の「弁慶の主人を思う心に打たれ、自らが罪に問われる可能性を省みず義経一行を通した、情の厚い人物」という富樫像は「安宅」に付加されなかったのである。
 
勧進帳

 

勧進帳 1 
「勧進帳」は、能の演目「安宅」をもとにした歌舞伎の演目。歌舞伎十八番の一つで、松羽目物の先駆けとなった作品である。 原形は初代市川團十郎が元禄15年2月(1702)初演の「星合十二段」に取り入れたのが最初。作詞は三代目並木五瓶、作曲は四代目杵屋六三郎。現在の型が完成したのは天保11年3月(1840)に江戸の河原崎座で初演された「勧進帳」。初演時の配役は五代目市川海老蔵の弁慶、八代目市川團十郎の義経、二代目市川九蔵の富樫左衛門。以後「勧進帳」の三役は歴代の看板役者が生涯に一度は演じる歌舞伎の代表作のひとつとなった。特に昭和初期の七代目松本幸四郎の弁慶・六代目尾上菊五郎の義経・十五代目市村羽左衛門の富樫による「勧進帳」は絶品で、映画にも記録された。
あらすじ / 源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関(石川県小松市)での物語。義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。しかし関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いていた。焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると弁慶が言うと、富樫は勧進帳を読んでみるよう命じる。弁慶はたまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問い正すが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。富樫は通行を許すが、部下のひとりが義経に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、疑いを晴らす。危機を脱出した一行に、富樫は失礼なことをした、と酒を進め、弁慶は舞を披露する(延年の舞)。踊りながら義経らを逃がし、弁慶は富樫に目礼し後を急ぎ追いかける(「飛び六方」)。 初期の演出では、富樫は見事に欺かれた凡庸な男として描かれていたという。後にはこれが、弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思い騙された振りをする好漢として演じられるようになった。
みどころ / 「読み上げ」「山伏問答」における雄弁術。義経の正体が見破られそうになる戦慄感。義経と弁慶主従の絆を深さの感動。延年の舞の巧緻さと飛び六方の豪快。見どころが多く観客を飽きさせない。歌舞伎演目の人気投票で常に上位を占める所以である。 弁慶・富樫・義経の天地人の見得、弁慶の不動の見得、石投げの見得など、美しい見得が次々と演じられるのも見どころである。初演時、七代目團十郎は能楽を意識して見得につきものの効果音(ツケ打ち)を廃した。現在でもその演出は受け継がれており、軍を表す「石投げの見得」と幕切れの六方に入る直前の見得以外は無音である。 義経と知りつつ弁慶の胸中を察した富樫は、涙を隠す思い入れで目をつぶり顔をあげていったん退場する。この演出は、八代目市川團十郎が弁慶を演じた際、富樫を共演した名人四代目市川小團次が編み出したとされている。 「勧進帳」に取材した他の脚本では、天明期に初代桜田治助が作った、大らかで古風な味わいのある「御ひいき勧進帳」と、大正期に近代的解釈を施した「安宅の関」が有名。前者は、弁慶が番卒の首を大きな樽に放り込んで芋洗いのように棒でかき回すという幕切れから「芋洗い勧進帳」と言われている。後者は舞踊が苦手であった七代目市川中車のために書き下ろされた。
弁慶  
それ、つらつら、おもんみれば。大恩教主の秋の月は、涅槃の雲にかくれ、 生死長夜の永き夢、驚かすべき人もなし。爰に中頃の帝おわします。御名を聖武皇帝と申し奉り、最愛の夫人に別れ、恋慕やみがたく、涕泣眼に荒く涙玉を貫く。思いを先路にひるがえし、上求菩提の為、盧遮那仏ト建立し給う。然るに去んじ治承の頃、焼亡し畢んぬ。かかる霊場絶えなん事を歎き、俊乗坊重源、勅命ノ蒙って、無常の観門に涙を流し、上下の真俗を勧めて、彼の霊場を再建せんと、諸国に勧進す。一紙半銭、奉財の輩は、現世にては無比の楽に誇り、当来にては数千蓮華の台に坐せん。 帰命稽首、敬って白す。  
富樫   
勧進帳聴聞の上は、疑いはあるべからず。さりながら、事のついでに問い申さん世に、仏徒の姿さまざまあり、中にも山伏はいかめしき姿にて、仏門修業は 訝 しし、これにも 謂 れ、あるやいかに。
 
ほほうその来由いと易し。それ、修験の法といっぱ、胎蔵金剛の両部を旨とし、瞼山悪所を踏み開き、世に害をなす悪獣毒蛇を退治して、現世愛民の慈愍ノ垂れ、或いは難行苦行の功を積み、悪霊亡魂ノ成仏得脱させ、日月清明 、天下泰平の祈祷を修す。かるがゆえに、内には慈悲の徳を納め、表に降魔の相を顕し、悪鬼外道を威服 せり。これ神仏の両部にして、百八の数珠に仏道の利益を顕わす。  
してまた袈裟衣を身にまとい、仏徒の姿にありながら、額に頂く、兜巾ナいかに。  
即ち兜巾篠懸は武士の甲冑に等しく、腰には弥陀の利剣ノ帯し、手には釈迦の金剛杖にて、大地をついて踏み開き、高山絶所を従横せり。  
寺僧は錫杖を携うるに、山伏修験の金剛杖に、五体を固むる謂れはなんと。  
事も愚かや金剛杖は、天竺檀特山の神人、阿羅邏仙人のもち給いし霊杖 にて、胎蔵金剛の功徳を籠めり。釈尊いまだ瞿曇沙弥と申せしころ、阿羅邏仙に給仕して苦行し給いやや功積み、仙人その信力強勢を感じ、瞿曇沙弥を改めて 照普比丘 と名づけたり。  
してまた修験に伝わりしは。  
阿羅邏仙より照普比丘に伝わる金剛杖、かかる霊杖なれば、我が宗祖役の小角 、これをもって山野を 跋渉 し、それより 世々 にこれを伝う。  
仏門にありながら帯せし太刀はただ、物嚇さん料なるや、誠に害せん料なるや。  
これぞ 案山子 の弓矢に似たれど、嚇しに 佩 くの料ならず 仏法 、 王法 に害をなす、悪獣毒蛇は言うに及ばず、たとわば、人間なればとて、世を妨げ仏法、王法に敵する悪徒は、 一殺多生 の理によって、 忽 ち斬って捨つるなり。  
目に遮り、形あるものは斬り給うべきがもし、無形の陰鬼陽魔仏法、王法に障碍をなさば何をもって斬り給うや。  
無形の陰鬼陽魔亡霊は九字真言ノ以てこれを切断せんに、なんの難きことやあらん。  
して山伏の出立は。  
即ちその身を、不動明王の尊容に象るなり。  
頭に頂く兜巾ナいかに。  
これぞ五智の宝冠にして、十二因縁の襞をとってこれを頂く。  
かけたる袈裟は。  
九会曼陀羅の柿の篠懸。  
足にまといしはばきナいかに。  
胎蔵黒色のはばきと称す。  
してまた八つのわらんずは。  
八葉の蓮華を踏むの心なり。  
出で入る息は。  
阿口云の二字。  
そもそも九字の真言とはいかなる義にて候や事のついでに問い申さん、ササ何と、何と。  
九字の大事は深秘にして、語り難き事なれども、疑念ノ晴らさんそのために、説き聞かせ申すべし。それ、九字真言といっぱ、いわゆる 臨 兵 闘 者 皆 陳 列 在 前 の九字なり。まさに切らんとなす時は、正しく立って歯を叩くこと三十六度先ず、右の大指を以て四縦をえがき、のちに五横を書く。そのとき急々如律令と呪する時は、あらゆる 五陰鬼煩悩鬼まった、悪鬼外道死霊生霊 、たちどころに亡ぶこと、霜に煮え湯を注ぐが如く、実 に 元品 の 無明 を切るの大利剣、莫耶が剣もなんぞ如かん。まだこの上にも修験の道、疑いあらば、尋ねに応じて答え申さん。その徳広大、無量なり。肝にえりつけ人ンな語っそ、穴賢穴賢大日本の神祇諸仏菩薩も照覧ナれ、百拝稽首かしこみかしこみ謹 しんで申すと云々、かくの通り。  
勧進帳 2 
歌舞伎十八番の一つ。兄源頼朝との仲が悪くなった源義経は、武蔵坊弁慶らわずかな家来とともに、京都から平泉(岩手県)の藤原氏のもとへと向かう。頼朝は平泉までの道すじに多くの関所を作らせ、義経をとらえようとする。「勧進帳」は、義経たちが加賀国の安宅の関所(石川県)を通過する時の様子を歌舞伎にしたものである。義経一行は山伏に変装して関所を通過しようとする。ところが関所を守る富樫左衛門(とがしさえもん)は、義経たちが山伏に変装しているという情報を知っていたので、一行を怪しんで通さない。そこで弁慶は、何も書いていない巻物を勧進帳と見せかけて読み上げる。勧進帳とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物。いったんは本物の山伏一行だと信じて関を通した富樫だが、中に義経に似た者がいる、と家来が訴えたため、呼び止める。変装がばれないよう、弁慶は持っていたつえで義経を激しく叩いた。それを見た富樫は、その弁慶の痛切な思いに共感して関所を通す。 初代市川團十郎が元禄時代にこの場面を演じた。しかしその時の台本が残っていなかったこともあり、7代目團十郎が新しく作り直した。天保11年のこと。7代目團十郎は、衣裳や舞台装置などを新しくするために能を参考にした。背景は能の舞台をまねて松羽目(まつばめ)にし、衣裳も能に近づけた。その後9代目團十郎が得意とし、現在に受け継がれている。 弁慶の演技には、最後の飛び六方(とびろっぽう)に代表される荒事(あらごと)の豪快さだけでなく、はっきりしたセリフ回しや舞踊(ぶよう)の技術が必要で、座頭(ざがしら)の役として特に大事にされている。また伴奏の長唄は、代表的な三味線音楽の一つとして知られている。
勧進帳 3 
源平壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした源義経は、生来の猜疑心からこれを退けようとする兄頼朝に追われ、奥州」平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとした。頼朝はこれを捕らえようと各地に関所を設けた。安宅の関守は冨樫左右衛門泰家。そして文治3年(1187)3月頃、山伏姿に変装した義経弁慶以下主従が安宅の関にさしかかる。一行の山伏姿を関守冨樫に疑われると、東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧と称し、何もか書かれていない勧進帳(寄付帳)を読み上げ、難を逃れようとした。しかし再び強力姿(荷人夫)の義経が疑いをかけられると、弁慶はすかさず金剛杖を持って主義経を打ち据えた。冨樫は弁慶の忠誠心に心をうたれ、義経一行だと気付きながらも関の通行を許した。 この物語は美談として能「安宅」、歌舞伎「勧進帳」として長く演じられている。 
弁慶の読んだ勧進帳 / それつらうらおもんみれば 大恩教主の秋の月は ねはんの雲に隠れ 生死長夜の永き夢 驚かすべき人もなし ここに近頃の帝おわします 恩名を聖武天皇と申し上げ奉る 最愛の夫人にわかれ 追慕やみがたく 涕泣眼にあらく 涙玉を貫く 思いを善路にひるがえし 上求菩提のため盧遮那仏を建立したもう  しかるに去んじ 治承の頃焼亡しおわんぬ かほどの霊場絶えんなきことをなげき 俊乗坊重源勅命ナこうむって 無情の勧門に涙を流し 上下の真俗を勧めて かの霊場を再建せんと諸国に勧進す 一紙半銭奉財の輩は 現世にては無比の楽を誇り 当来にては数千蓮華の上に座せん 帰命稽首 敬って申す
 
安宅

 

安宅 1 
安宅の名は安宅関の名で知られ、日本海に流れ込む梯川の河口に集落がまとまっている。古代から安宅駅が設置されるなど交通の要地であった。源平合戦の伝説もあり、能楽にも演じられている。江戸期に入り加賀藩領に属し、元禄期(17世紀後半)の安宅村は既に千人余りの人口を擁していた。漁師町でありながら、半農半漁の生活であったが、上流側の小松が三代藩主前田利常の隠居所ともなり城下町を形成していたため、安宅はその外港として賑わいを見せるようになる。また物資の往来も盛んになるにつれ加賀国内では塩屋・橋立(加賀市)、本吉(美川町)、宮腰・粟崎(金沢市)などとともに北前船の寄港する港町として繁栄期を迎える。船問屋が並び、船主の屋敷が建てられた。ここに居を構えた北前船主に米谷半平、松村伊右衛門などがあった。彼らは近江商人の雇われの身からのし上がった船主達である。 
明治初年の記録によれば戸数392の内船乗業228戸(内漁業兼業46)、大工職10戸などであり、他に醤油小売商、肥物商、酒造業、油商などの商業を営む家々も多く、安宅には海運を基幹として一つの都市的な機能があった。明治31年に北陸本線が開通すると海運業は急速に衰退、漁業も沿岸漁業中心であったこともあり漁獲高が減少し賑わいは過去のものとなった。町は梯川河岸から一段上った砂丘上に広がっている。今の町並から往時の姿を想像することは不可能に近い。家々の多くは板張りで、それも歯抜け状に間遠になっている箇所が多い。板の色彩、そしてその空地が寂寥感を感じさせる。それでも所々に袖壁・格子の残る平入りの家や、塀を巡らした屋敷風の旧家が残り、この町の歴史が浅いものではない事がわかる。町の北側は砂浜の先に日本海が広がり、その西は梯川の河口である。
安宅 2 
安宅は梯川(旧安宅川)河口の港町であり、かつての官道(後の木曽街道)の中継点として、遠く平安時代には安宅駅(うまや)に馬5匹が置かれるなど古くから南加賀の海陸の要衝であった。八雲御抄に「あたかのはし」の句があり、寿永2年5月(1183)将軍義仲が倶利伽羅の大勝に乗じて平維盛を安宅城に打ち破り、逃げる平家を追って篠原へ行ったことも古典に窺える。 
歌舞伎18番勧進帳で名高い安宅の関は、安宅住吉神社の境内地、二堂山の西北の日本海を望む松林の中に「石碑」や「弁慶・富樫・義経」の三体の像が潮騒と松の梢を渡る潮風とともに往時を偲ばせている。昭和8年に与謝野晶子が「松たてる安宅の砂丘そのなかに清きは文治3年の関」を詠まれている。
安宅の合戦と根上の松  
寿永二年(1183)平氏政権は総力を挙げて北陸道の制圧に乗り出した。平維盛(重盛の子)・知盛(清盛の子)らに率いられた追討軍は四月に京都を出発し、まず越前南部木ノ芽峠に近い燧(ひうら)城に籠る反乱軍を攻め落とした。 
「平家物語」諸本は、燧城に立籠った加賀の武士として、林・富樫・井上(井家)・津鰭(つばた/津幡)・倉光(くらみつ)を挙げている。敗れた加賀・能登・越中の武士たちは加賀国に退却したが、5月3日には追討軍は怒濤のごとくなだれ込み、加賀国を制圧した。梯川河口に近い安宅湊付近の合戦が一つの山場であった。反乱軍は安宅の橋を落とし、追討軍を阻止しようとしたが、敵に浅瀬を見つけられて渡河されてしまう。 
「長門本平家物語」では、加賀の富樫太郎(宗親)と越中の宮崎太郎が馬に乗ったまま河中に入り、これを防ごうとしたが、両者とも平盛俊の弓に射られて重傷を負い失敗した。 
「源平盛衰記」では、加賀・越中の武士たちは橋板を落として陣地を構え、越中勢の水巻(みずまき)・石黒(いしぐろ)・福光(ふくみつ)氏らが抵抗したものの空しく、追討軍に浅瀬を渡られ、海岸線を北へ退去した。この付近の海岸は梯川から流出する土砂によって砂丘が発達しており、当時もそこには松の木が多く植生していたものであろう。北加賀の武士井家二郎載方(のりかた)の一党17騎は、この海岸砂丘を退却する途中11回もさんざん合戦したものの、範方は根上りの松で多勢の敵に取り囲まれ、ついに壮烈な討ち死を遂げたという。 
平安時代この周辺には南から「潮津駅」「安宅駅」「比楽駅」が存在し、これらを結ぶ官道が通っていた。安宅から退却した反乱軍が通り、またのち平氏軍と木曾軍が通ったという今湊(美川町)、藤塚(同)、小河(松任市小川町)、浜倉部(同市倉部町)、双河(同市相川町)、大野荘(金沢市金石・大野町周辺)というコースは中世における北陸道の海岸ルートを示している。安宅付近は交通の要衝で、戦略的にも重要な拠点であったことがわかる。
 
源義経 

 

京都出身。源義朝の九男で、母は常盤御前。幼名は牛若丸で頼朝は12歳年上の異母兄。義経が生まれた同じ1159年、父義朝は「平治の乱」で清盛に戦いを挑むが敗走、再起を誓って東国へ逃れる途中で部下の裏切りで殺された。清盛は義朝の首を都で晒し、敵対した者をことごとく斬ったが、12歳の頼朝はまだ幼いということで助命され伊豆に流される。翌年、美しい常盤御前に対し、清盛は1歳の義経を助ける事を条件に妾になれと強要。常盤は我が子の為に清盛に従った。義経は6歳に成長すると鞍馬寺に預けられた。10歳の時に自分が源氏の義朝の子であると知り、以後、打倒平家を誓って武芸に励む。※鞍馬山で彼に武芸を教えた天狗は山伏を指すと思われる。 
1174年(15歳)、平家の勢力圏から逃れる為に、遠く奥州平泉(岩手)の藤原秀衡を頼り、当地で6年を過ごす。1180年8月、頼朝が妻・政子の父・北条時政の力添えを受けて伊豆で挙兵。「富士川の戦い」で快勝し、黄瀬川(静岡清水町)で陣を張る頼朝の元に、義経は秀衡配下の佐藤忠信兄弟ら80騎と共に馳せ参じる。頼朝・義経は協力して平家を倒すことを誓いあった。 
頼朝は平家との全面対決を前に、まず東国に強固な権力地盤を築く必要があった。カリスマを演出し、東国武士団の比類なきリーダーであることを内外に見せ付けるためには、家来の前で弟を特別扱いするわけにはいかない。ナンバー2は必要なかった。しかし政治的な駆け引きに縁がなかった義経は「東国武士の団結最優先」という兄の真意を察せなかった。この年、頼朝は弟に馬の引き役を命じるが、彼は他の家来と同格になるのが嫌でこれを断り、最終的には引き受けたものの頼朝を憤慨させた。 
頼朝の挙兵から1ヵ月後に、長野でも従兄弟の木曽(源)義仲が蜂起する。 
1183年(24歳)、義仲は勝ちまくって快進撃を続け、平家を「都落ち」に追い込んだ。しかし、戦いに次ぐ戦いで兵たちは疲れきっており、しかも西国は飢饉で食料も少なく、義仲軍のモラルは完全に崩壊。彼らは都一帯で民衆への略奪や暴行を繰り返し「平家の方がマシだった」と人々の間に失望が広がる。頼朝は義仲軍の狼藉を“源氏の恥”と捉えて討伐を決意、まず状況を把握する為に先遣隊で義経を伊勢に置いた(この時、義経はまさかこれが鎌倉の見納めになるとは夢にも思わなかっただろう)。すると都の後白河法皇から「上洛して義仲を討って欲しい」と院宣(いんぜん)が出た。これを受けて頼朝は弟の範頼(のりより、義経の異母兄)を大将に大軍を派遣する。 
※「院宣」は法皇の公文書。ちなみに「勅書(ちょくしょ)」が天皇の公文書、「令旨(りょうじ)」が皇太子や親王の公文書。 
1184年(25歳)、義経・範頼は伊勢で合流し都を目指す。迎え撃つ義仲は増水した宇治川の橋を落として対峙するが、義経軍は川を果敢に突破し、義仲軍を蹴散らした(宇治川の戦い)。義経は初陣で見事に勝利を飾り、京の人々から喝采された。 
合戦、また合戦 
こうして源氏側が内部抗争をしている間に、平家は再び力をつけて神戸まで迫り、一ノ谷に堅固な陣を張る。後白河法皇は新たに平家追討の院宣を発令。源氏軍は二手に別れ、範頼軍(主力部隊6万)が東から、義経軍(1万)が西から本陣を攻めた(一ノ谷の戦い)。平氏軍は必死に防戦し、源氏軍は突撃しては矢を浴びて撤退するなど、戦局はこう着状態に陥る。この戦況を一変させたのが義経率いる70騎の別働隊。彼らは本陣背後の崖の上から攻め降りてきたのだ!(義経の“ひよどり越え”。彼は鹿が降りるのを見て馬も可能と判断した)。平氏軍は突如として陣内に現れた奇襲部隊によって大混乱になり、我先にと海上を目指し四国・高松の屋島へ逃げていった。源氏軍は平家の主な武将の8割近くを討ち取る大戦果を挙げ、義経は京都に、範頼は鎌倉に凱旋した。そして頼朝は義経の縁談をまとめて「郷(さと)御前」(河越重頼の娘)と結婚させた。 
ここが頼朝・義経の蜜月のピークだった。以後はボタンの掛け違いの連続。頼朝は朝廷から支配を受けない武家政権を目指していたので、頼朝の許可がなければ官位を貰えないシステムを作ろうとしていた(無許可で官位を得ることを家来に禁止していた)。しかし義経は、自分が官位を授かれば源氏全体の名声に繋がると考え、兄の許可を受けずに任官する。しかも役職が検非違使(けびいし、京都の治安機関のトップ。判官とも言う)。検非違使になることは鎌倉の政治に参加しないということ。頼朝の構想を身内の義経がブチ壊しにしたのだ。頼朝は弟の官位習得を売名行為と見なし、朝廷権力を凌駕する武家政権を目指している矢先に、官位を貰って喜んでいる義経の振る舞いに腹を立てた。 
1185年(26歳)、頼朝は義経を平氏討伐軍から外し、範頼に指揮を一任する。だが、追い詰められた平氏の抵抗は凄まじく、遥か関東より遠征してきた源氏軍は食料も乏しく戦線崩壊の一歩手前になった。瀬戸内海の制海権も依然として平氏にあり、頼朝はやむなく義経を再起用する。攻撃目標は屋島の平家本陣。張り切って四国へ出航しようとする義経だが、頼朝の重臣・梶原景時と次の2点で喧嘩になった。「逃げる時に備えて船の前方にもオールを付けるべき」と主張する景時に対し、義経は「臆病者め」と一蹴。暴風雨を理由に「嵐が去ってから海に出ましょう」という景時に、「この天候の中を攻撃して来ると思うまい。その油断をつくのだ」と義経も譲らない。食糧が不足し、兵士たちは自分の鎧(よろい)を売るほど窮しており、これ以上戦を先延ばしにできぬと義経は考えた。 
義経はわずか5隻(150人)だけで、荒波に出航した。徳島・勝浦に到着した彼らは地元の武士を味方にしながら香川・高松に進撃し、屋島の平氏本陣を背後から夜襲した。大軍に見せる為に方々に火を放ちながら突撃する。海側からの攻撃だけを想定していた平氏軍はこの奇襲に動転し、またしても海へ一目散に敗走していった。海上で我に返った平氏は敵が少人数だと分かり引き返してきたが、矢戦の最中に景時の主力部隊が彼方から接近してくるのが見えたので、西の海へ退却していった(2月19日)。義経の兵は景時らを「今ごろ来ても遅いわ」と嘲笑し、景時はメンツが潰れた。 
※当時は現代と違って戦の時間が決まっており、夕刻には「今日の戦はこれまでじゃ!」と双方が休戦タイムに入った。この「屋島の戦い」では夕刻に平氏側が船に竿を立てて扇を差し「これを射てみろ」と挑発、源氏方の那須与一が見事射抜いて両軍から歓声が起きるという一幕もあった。平氏の兵は船の腹を叩いて敵の与一を称賛したという。このように戦の中にも信頼関係があり、馬を射るなど卑怯な手は恥とされた。正面から戦って打ち破ってこそが真の勝利であり、義経十八番の「背後からの攻撃」「寝静まった敵陣への夜襲」は、武士社会ではホントはとても不名誉なことだった。 
壇ノ浦の戦い 
源氏側には元々水軍がなく、海戦は苦手だった。しかし、勝利の気運に乗って一気に平氏を殲滅(せんめつ)すべく、平氏の独壇場とされる海戦にあえて挑んでいく。源氏軍は平家最期の本拠地・下関(彦島)に向かい、屋島合戦から一カ月後の3月24日、最終決戦「壇ノ浦の戦い」の幕が上がる。 
開戦前、またしても義経と景時が衝突した。「先陣は私が引き受けます。義経殿は大将なので後方に控えて下さい」「何をおっしゃる、大将は頼朝公であり、私は貴殿と同じ立場だ。私が先陣を切る」。景時は聞こえよがしに独り言を呟く「ふん。生れつきこの殿は侍を率いる器ではないわ」。頭に血が昇った義経は刀に手をかけた「そなたこそ日本一の愚か者よ!」。景時も刀に手をかけ激しい口論になる。さすがに周囲の者が止めに入った「これ以上大事を前に争えば、平家につけ入る隙を与えますぞ!鎌倉公(頼朝)がこの騒ぎを聞いたら何と嘆きになるか」。頼朝の名を聞いて両者とも我に返った。義経は望み通りに先陣を切ったが、「部下に手柄を与えないリーダー」として東国武士の気持が離れていく。 
戦端が開かれたのは壇ノ浦の複雑な潮流が安定する正午頃。当初の戦力比は平氏軍800隻、源氏軍300隻で圧倒的に平氏が有利。しかし、義経の政治工作が効いて紀伊・熊野水軍、伊予・河野水軍(頭目の孫が一遍上人)、阿波・田口水軍が源氏に寝返り、船数はほぼ互角になった。とはいえ、戦闘が始まると海戦に手馴れた平氏が巧みに潮流を利用して戦いを有利に進めていく。「このままではイカン」義経は劣勢挽回の為に当時はタブー(禁じ手)だった非戦闘員殺し、つまり武器を持たない漕ぎ手に矢を浴びせたのだ。これは馬を狙う事と同じで武士にあるまじき卑劣な行為とされていた(あの〜)。午後に入って潮の流れが逆になり平氏の船は押し流され、源氏軍の掟破りのダーティー・ファイトで漕ぎ手を失った平氏は全軍が身動きできなくなった。九州へ逃げようにも既に範頼の大軍が制圧しており、この状況を受けて平氏軍から裏切り者が続出、夕刻には勝敗が決定的になった。 
平家側は鬼武者と呼ばれた平教経(のりつね)と知盛が最後まで奮戦していた。教経は手持ちの矢が尽きると両手に刀を握りしめて源氏の船に乗り込み、四方八方で斬りまくった。これを見た知盛は使者を教経に送り、「もう勝敗は期したのだから、あまり罪作りな事をなさるな。それとも良い敵でも見つけられたか」と伝えた。教経は“狙うは大将・義経のみ”と悟り、血まなこで義経を探し回った。ついに発見すると鬼神の形相で迫った為に、圧倒された義経はピョンピョンと船の間をジャンプして逃げてしまった(義経の八艘跳び)。教経は武器も兜も全部海へ捨てて吠える「見ての通り武器はない!勇気のある者は俺を生け捕りにしてみろ!」。しばらく誰もビビッて近づかなかったが、力自慢の3人組が刀を振り上げて襲い掛かった。教経は一人目を海へ蹴落とし、あとの2人を両脇に挟んで締め上げ「いざ汝等、死出の旅路の供(とも)をせよ」と海中へ道連れにした(享年25歳)。 
平教盛・経盛の兄弟は互いの手をとり、鎧の上に碇(いかり)を背負って海に沈んだ。資盛、有盛、行盛の3人も手と手を組み碇を背負って海に跳び込んだ。清盛の妻時子は安徳天皇と草薙の剣(三種の神器)を抱いて身を投げ、女御たちも入水していく。至る所で平家一門が沈んでいった。 
知盛は舟の舳先に立ってその一部始終を見届けた後、「もはや、見るべきものは全て見た」と呟き、体が浮かばぬように鎧を二重に着込んで波頭に消えた。(享年33歳) 
ところが、平家一門が自決しているのに、総大将の宗盛は入水する気配はまったくナシ。ただ船から四方を見渡すばかり。家来達はあまりに情けなく思い、宗盛の傍を走り抜ける振りをして背中をドンと押して海へ突き落とした。しかし、宗盛は手ぶらなので沈まず、泳ぎも達者なので結局は生け捕りにされた。義経は「女性は救うべし」と命令を出していたので、安徳の母・建礼門院徳子(清盛の娘)など数人が入水後に引き上げられた。 
義経、茫然自失 
鎌倉に大勝利の報告が入った当初、頼朝は弟に恩賞を与えようとしていた。だが、源範頼と梶原景時から義経に関する抗議の書状が届いた。範頼は「頼朝に報告せず何でも独断で物事を進める」「あまりに家来に厳しく些細なミスで処罰する」「自分に一任された九州の管理に介入してきた」と訴え、景時は「高慢なので誰も心から従っていない」「手柄は自分一人のものと考える」「法皇を頼朝より重んじる」「24名の家来が義経の真似をして勝手に官位を受けた」「私が忠告すれば私まで処罰される雰囲気」と激しい怒り(というか憎しみ)をぶちまけた。頼朝はかつて戦場で景時に命を救われたことがあり、これらの中傷をまともに信じてしまう。 
頼朝は考える。弟をどう処断すべきか。確かによくやってくれたが、新時代に向けて大切なのは東国武士団の絶対の団結だ。結束を乱すスタンドプレーがこのような深い亀裂を残した。将兵たちに規律を守らせる為に、ここは厳しくする必要がある。頼朝は決断を下した。「許可なく官位を受けた24名は鎌倉を追放」「頼朝に忠を尽くす者は、今後、義経に従ってはならぬ」。 
仰天したのは義経。裏切る気持ちは全くないと弁明書を鎌倉に送った。だが、これがマズかった。この時点で会いに行くべきだった。頼朝は「これまで官位の件など何も報告して来ないのに、こんな時だけ送ってくるとは。それもわずか一通!これで済ませるつもりか!」 
義経は宗盛を鎌倉へ護送しつつ気分は凱旋モード。弁明書さえ届けばこんな誤解はすぐ解け、功績を讃えてくれると信じきっていた。ところが、鎌倉の一歩手前で「鎌倉へ入ることまかりならぬ。しばし待て」と警備に足止めされてしまう。腰越で兄の怒りが解けるのを待つが、半月経っても音沙汰なし。義経はもう一度筆をとり「腰越状」を記す。 
※「腰越状」抜粋…「当然恩賞があるべきはずのところ、恐ろしい讒言(ざんげん、悪口)によって、莫大な勲功を黙殺されたばかりか、義経は犯した罪もないのにお咎めを受け、ただ為すことなく血の涙を流しております。事実を調査せず、鎌倉の中へさえ入れられませんので、私の思うところを申し上げることも出来ず、むなしく数日を送りました。このような事態に至った今、兄上の顔を見る事も出来ないのならば、骨肉を分けた兄弟の関係が既に絶え、前世からの運命も極めて儚く、縁は何の役にも立たないのでありましょうか。亡き父以外に、誰が私の悲しい嘆きを申し開いてくれましょう。誰が憐れみをかけてくれましょうか」 
腰越状を読んだ頼朝は胸を動かされ、京都に帰して少し様子を見ることにしたが、義経は真心を込めた「腰越状」が無視されたと思い込み、ついにブチ切れた。腰越を去る時に「この恨みは平氏への恨みより深い」「頼朝に恨みがある者はついてこい」と悪態をついてしまう。これはすぐさま頼朝に伝わり、義経に与えた平氏の旧所領24ヶ所を全部没収した。 
義経は近江(野洲市大篠原)で宗盛を斬首し京都に戻る。義経の配慮で宗盛父子の胴は一つ穴に埋葬された。都に入ると野心あって頼朝と対立していた叔父・源行家が「こうなれば西に独立国を作しましょうぞ」と接近。頼朝は景時の子・景季を都に送り、義経と行家が手を組むのか調べさせる。頼朝が「行家討伐令」を伝えて反応を探ると、「今は病気なので、治り次第に作戦を練る」との返事。頼朝は弟が行家と内通し“時間稼ぎ”をしていると見なし義経追討を決断する。 
4ヶ月後、義経は刺客60騎の襲撃を受けて兄との関係は修復不可能と悟り、行家と結んで挙兵に踏み切った。後白河法皇に頼朝追討の発令を求め、従わないなら皇室全員を引き連れ九州で挙兵すると告げ、法皇は「頼朝追討」の宣旨を下した。しかしその直後、朝敵にされて怒った頼朝が、6万の大軍を都に送ると聞き及び、態度を180度変えて、今度は頼朝に求められるまま6日後に「義経追討」の宣旨を下す。(このあたり、後白河法皇が“日本一の大天狗”と頼朝に言われる由縁) 
義経は焦った。とにかく味方の武士が集まらない(200騎オンリー)。彼に恩賞として用意できる所領がなかったことが何より痛かった。西国で再起を図るべく大阪湾に出た義経だが“平家の呪い”と言われる暴風に吹き戻され、元々少なかった家来とさらに離れ離れになる。義経は女人禁制の吉野山に身を隠す前に、かつて平氏追討の戦勝祝賀会で見そめた愛妾の白拍子(踊り子)・静御前(17歳)と別れる。都に戻ろうとした静は従者に裏切られて荷を奪われ、頼朝勢に捕らえられた。 
1186年3月(27歳)、鎌倉に送られた静御前は義経の逃亡先を尋問されるが、彼女は本当に何も知らない。ならばと、世に名高い舞の名人ゆえ、源氏の繁栄を祈る舞を鶴岡八幡宮に奉納せよと命じられる(政子も“噂の彼女の芸を見たい”と頼朝にねだっていた)。 
静は自分たちを酷い目にあわせた頼朝の為に舞うなど恥辱の限りと、体調の不具合など難癖をつけて固辞していたが、頼朝に厳しく強要されて、とうとう舞うことになった。ただし、彼女は頼朝の為ではなく、堂々と義経を慕う心を歌い舞った。居並ぶ鎌倉武士が身を乗り出して聴き入る。 
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 
(吉野山で白雪を踏み分け、山深く入ってしまったあの人の足跡さえも今は恋しいのです) 
「しづやしづ 賤(しづ)のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」 
(おだまき=麻糸の玉がくるくる回転するように、「静、静」と呼ばれた昔に戻れたらどんなに良いでしょう) 
彼女のプライドを見せ付けた命がけの抵抗だった。一同は感動し袖を濡らしたが、頼朝は立腹する。「わしが聞いていることを知っていながら、反逆者を慕い別れの歌を舞うとはもってのほかじゃ!」。だが政子は違った。「(政子と頼朝も駆け落ちした故)静の気持はよく分かります。愛しい人と離れる不安は耐え難きもの。ここは別れてなお慕う彼女の貞節を誉めるべきです」。政子は自分が着ていた衣を褒美として与えた。 
妻に諭されて頼朝の勘気は収まったが、静はまだ自由の身になれなかった。子を宿していたので鎌倉で産むよう命じられたのだ。頼朝は「女子なら見逃すが男子の場合は諦めよ」と、若い静に覚悟をするよう伝える。果たして生まれてきたのは男子だった。泣き叫ぶ静の腕から赤子は取り上げられ、由比ヶ浜の海に沈められた。静は半狂乱になる。頼朝、非情。 
9月、半年の鎌倉幽閉を経て静は自由の身となり京都へ帰った。静が鎌倉を去る時、政子や大姫(頼朝の長女)たち女性陣は、彼女に同情してたくさん贈り物を送った。※大姫は父・頼朝に、愛する許婚者・源義高(木曽義仲の子)を謀殺されており、自分の運命を重ねたようだ。 
奥州へ 
一方、義経は興福寺や延暦寺など寺社を転々と移っていた。京や奈良を焼いた平氏を倒した義経は、僧侶にとって英雄であり、頼朝に「かくまうなら兵を送る」と脅迫されても、寺社はまず義経を安全圏まで逃がしてから「既に出発しました」と事後報告した。同年、行家が捕縛され斬首。 
1187年、ますます捜査の手は厳しくなり、追っ手が迫った義経は、少年時代に6年間を過ごした奥州平泉の藤原氏を最後の頼みとして、山伏姿に変装し北上する(同行者はたった6人)。 
藤原秀衡はまだ存命しており、義経が朝敵となっているのを知りながら、我が子同然に迎え入れてくれた。義経は数年ぶりに心から穏やかな時間を過ごす。 
※義経と繋がりのある女性といえば静御前ばかりがスポットを浴びるけど、実は正妻の郷(さと)御前も特筆に値する女性だ。奥州で義経は家族3人で幸せに暮らしているが、これは郷が幼い娘を連れて、はるばるやって来てくれたからだ。実は義経が頼朝との戦を決心した時に、郷は一度離縁され、故郷の武蔵国に帰るよう言い渡されていた。これは謀反人の自分と結婚していたら、郷の実家・河越氏に害が及ぶと心配したからだ(事実、親族から戻って来いと言われていた)。しかも乳児がおり、過酷な逃避行の道連れはムリ。もともとこの縁組は頼朝が取り決めたものであり、河越氏に咎めがあるのも変な話だ。しかし、郷の父は領地を没収され、兄は出仕停止の処分を受けている。つまり、郷は離縁されたのに実家に戻らず、「自分は正妻だから」と本人の意思で奥州へ向かったことが問題になったのだろう。初めは政略結婚でも、最後は心から愛し合っていた。 
だがしかし、8ヶ月で藤原秀衡が病没。秀衡は遺言で息子・泰衡に、「義経を将軍に立て鎌倉に対抗し、彼の命を全力で守れ」と残した。奮い立った義経は再起を図って西国の武将に決起を促す使者を送ったが、この使者がソッコーで捕まり、逆に奥州に潜伏していることがバレてしまう。後継者となった泰衡は頼朝と朝廷の双方から義経の身柄を引き渡すよう命じられたが、頑なにこれを拒否して義経を守った。 
1189年、業を煮やした頼朝は、泰衡に対して大軍を送ると脅迫し、奥州藤原氏の滅亡を恐れた泰衡はついに頼朝に屈した。4月末に泰衡は500騎で義経の住む衣川の館を襲撃し、弁慶ら側近が最期の抵抗をしたものの、「もはやこれまで」と義経はお堂に入り法華経を読み、共に死ぬと願う郷御前と4歳の愛娘を斬った後、館に火をかけて自害した。まだ30歳の若さだった。弁慶は無数の矢が刺さり仁王立ちのまま絶命していており、馬にぶつかって倒れた。義経を最後まで支えたのは、乱暴ぶりで寺を追放された弁慶や元山賊の伊勢三郎義盛らわずかに10人。いずれも組織と相容れないアウトローたちだった。 
※藤原泰衡は義経を討ったが、結局頼朝は5ヵ月後に28万という超大軍(関ヶ原合戦で戦った18万よりさらに10万も多い)を派兵して奥州藤原氏を滅ぼした。“どうせ攻められるなら義経を殺すべきでなかった”と泰衡は深く後悔したのではないか。 
1192年、天下を統一した頼朝は鎌倉幕府を開いたが、そのわずか7年後(1199年)に落馬が原因で死んだとされている。ハッキリとした事情が分からないのは、吾妻鏡から頼朝の死の前後の部分がごっそりと欠如しているから。それゆえ北条家による暗殺説も根強い。5年後(1204年)に長男の頼家が、1219年には次男の実朝が暗殺された。平家は清盛が太政大臣に昇りつめて僅か18年で滅亡したが、頼朝もまた幕府を開いてから27年、3代でその血は絶えた。 
義経は悲劇の英雄として多くの伝説が残っている。義経の影武者・杉目小太郎は平泉にて義経の身代わりで自害し、北海道に逃れさせたという(小太郎の供養塔が宮城・金成町津久毛にある)。実際にアイヌの村に「義経神社」があり義経の木像が祀られているなど、「北海道逃亡説」は単純にトンデモ話と言えないものがある。明治に入ると、北海道からさらに大陸へ渡り、チンギス・ハンとなって世界最大の帝国を作ったとする説も生まれた。 
墓 
平泉・高舘で自刃した義経の首は鎌倉へ送られたが頼朝は首実検をせず、代わりに梶原景時、和田義盛にさせた。確認後に捨てられた首を、まだ牛若と名乗っていた鞍馬時代の師・聖弘上人が貰い受け、神奈川・藤沢の白旗神社付近に埋葬したという。今は塚の盛り土は消え、宅地になっていた(首洗い井戸が現存している)。胴体の方は、親交のあった沼倉小次郎の手で、彼の領地・宮城の栗駒町に運ばれた。そして沼倉判官森に五輪塔(胴塚)を築いて丁重に葬ったとされる。判官森の裏手の森は弁慶森と呼ばれている。 
また、淡路島の東海岸「静の里公園」(淡路市)にも義経の墓があり、静御前の墓と仲良く並んでいる(町史跡指定)。静は義経の死を知ると菩提を弔う為に剃髪して尼となり、同地に隠棲したという。この地は頼朝の妹の夫・一条能保の荘園であり、彼女は一条家に預けられて当地に眠ったとも、静の母・磯禅師が淡路島の出身であり縁をつたって移り住んだとも伝えられている。 
静御前の墓 
埼玉・栗橋町の光了寺。過去帳に静の戒名「巌松院殿義静妙源大姉」があり、1189年9月15日に他界したとある。寺宝に後鳥羽院が雨乞いの褒美で静に与えた舞の衣装もあるという。付近に「静ケ谷」という村があり、彼女は奥州へ向かう途中、この地で義経の死を知ったという。 
長野・大町市社地区松崎の牛立山薬師寺。戒名は「勧融院静図妙大師」。付近に母・磯禅尼の供養碑もある。 
香川・大川郡長尾町の長尾寺。「静御前得度乃寺」の石柱あり。町内の静屋敷跡に、かつて母と住んでいたらしい。10月13日を命日としている。 
香川・木田郡三木町。下高岡の願勝寺と井戸鍛冶池西堤防の側にあり、静の死を看取った下女の琴柱も横に眠っている。命日は1192年3月14日。24才没。母の墓は井戸川橋の東側。 
新潟・栃尾市の高徳寺。長旅の疲れと病で、この地で息を引き取ったという。北条政子が静を供養する為に建てた庵が高徳寺になった。1190年4月28日没。 
福島県郡山市には、義経の訃報を聞いた静が1189年3月28日に身投げしたという「美人ヶ池」や供養の為の静御前堂がある。 
前橋にも静の墓。  
京都・竹野郡網野町磯は静の生まれ故郷とされており「静神社」が建立されている。  
 
「朝廷の権威を無価値」にする武家政権を築こうとした頼朝と、「朝廷の権威を後ろ盾」に源氏の力を巨大にしようと考えた義経。2人の目指す方向はあまりに違っていた。また、頼朝のバックボーンである東国武士団は完璧な一枚岩ではなく、何より結束を強化することが最優先課題であり、軍全体が一丸となって行動することに意義があった。「皆で勝ち取った勝利」、これが重要であり、スタンド・プレーは必要ない。どんなに武勲を挙げても、東国武士団との間に深い亀裂を残しては意味がないのだ。まして、身内にさえ羨望される官位の任官は最も慎重を要すること。これらについて義経はあまりに無頓着すぎた。 
頼朝は弟の所領を没収して東国武士たちに分け与えたが、義経には屈辱的でも、「頼朝公はそこまで我ら東国武士団を思って下さっている」と支持基盤はいっそう堅固になった。逆に言えば、弟にそこまで鬼に徹せねばならぬほど、長引く戦乱で団結力が揺らいでいたのだ。しかし、義経には兄の胸中を察することが出来なかった。兄もまた弟が純粋に誉めてもらいたくて奮闘している気持を信じきる余裕がなかった。それがこの兄弟の最大の不幸だろう。 
いずれにせよ、義経本人がどれほど人間的魅力に溢れていたかは、彼をよく知る周囲の人間が証明している。悲惨な境遇でも最期まで裏切らなかった弁慶たち、身の危険を顧みずに義経を愛し抜いた郷御前、静御前の2人の女性。彼ら、彼女達にとって、義経はそこまで愛するに値する人物だったのだ。 
※1193年、範頼も義経同様に謀反の嫌疑をかけられ頼朝に殺された。頼朝、身内を殺しすぎ。 
※梶原景時は義経以外にも他人を失脚させることが度々あり、頼朝の死後は鎌倉から追放された。後に新将軍の擁立を画策して殺された。 
※当時は一夫多妻制。義経は側室が24名もいたが、これは一度でも関係を持った相手は必ず生活の面倒を見るという、彼の情の深さと言われている(好意的解釈)。 
※比叡山の僧兵・武蔵坊弁慶は千本の刀を奪い取る願をかけ、ちょうど千本目が義経だった。勝てば刀をゲット、負ければ相手の家来になるという約束で五条大橋にて戦い、義経のスピードに対応できず完敗。以後、最強の側近となった。 
※「平家物語」は義経を「色白で反っ歯の小男」と記しており、大山祇神社に奉納された甲冑から身長は約150cmと言われている。母親の常盤は絶世の美女と記録されているので、義経美男子説はそこからきているようだ。 
※義経の伝説の半分は、同時代の近江の源氏・山本義経のものという説がある。 
※合戦時は赤旗が平氏カラー、白旗が源氏カラー。この“赤と白”の戦いは大晦日の紅白歌合戦に継がれている(同番組は当初、源平歌合戦とも言われていた)。 
※義経が中国の兵法書「六韜(りくとう)」の「虎巻」を学んだことから、成功の書を「虎の巻」と呼ぶ。 
 
義経伝説

 

1 伏見常磐伝説
【内容】 
人物 常磐御前及び今若・乙若・牛若  
年代 平治二年(『平冶物語』には二月十日)  
場所 山城国伏見 
左馬頭源義朝は平治の乱に敗れて、尾張に走った。多くの子女の中、軍に従った者は、或は討死し、或は捕らえられ、留まっていた者は、平家の捜索の手が急且厳なので、義朝の愛妾九條院の雑仕常磐は、その所生の三子、八歳の今若、六歳の乙若、二歳の牛若(『義経記』(巻一)には当歳児と見える)を伴い、大和国宇多郡龍門の親族の許に身を寄せようと、雪路の伏見の里にさまよう哀れな物語である。  
今若殿を前に立て、乙若殿の手を引き、牛若丸を懐に抱き、二人のおさあひには物もはかせず、氷の上を徒跣にてぞ歩ませける。実にやつめたや母御前とて泣き悲しめば、衣をば幼き人にうち着せ、嵐のどけき方に立て、我が身は烈しき方に立ち、はぐくみけるぞ哀れなる。(『参考平冶物語』巻三) 
とある『平治物語』の異本(京師本・松雪本・鎌倉本・半井本等)の一節がその状を最もよく描き出している。  
【出処】『平治物語』(巻三。頼朝生捕らるる事附常磐落ちらるる事)、舞曲『伏見常磐』。(従って伝説としての成形はこれらの文献に採録せられる以前或は少なくともそれと同時でなくてはならない。以下成立は特に必要ある場合にのみ説述する)  
【型式・成分・性質】特殊の型式を具えたものではない。空想的な気分には包まれているが、史実的成分が寧ろ多く、史譚的説話と言うべきである。  
【本拠】前に引いた腰越状の一節  
被抱母之懐中、赴大和国宇多郡龍門牧  
とあるのが史実の本拠である。『平治物語』の記述も史実とさまで大きな距りは無いであろう。  
【解釈】この伝説は孰れかと言えば、義経には間接に関係のあるものに属するのであるけれども、義経伝説と密着している母常磐を主人公とする意味に於いてと、義経の数奇な一生の第一頁、換言すれば義経伝説の発端をなす説話である意味に於いて、注意せられねばならないものである。自覚こそせざれ、慈母の懐裡に未来を夢みつつある鳳雛は、その意味で又、この光景の中にあって主要な役割に与ってもいると言える。  
なおこの伝説に引続く事件は、常磐が平家に捕らえられた老母(『義経記』(巻一)には名を「関屋」と記してある)を救おうとして自首したのを、太政入道清盛はその容色に優でて之を寵し、老母をも亦三子をも助命した事である(『平治』巻三、常磐六波羅に参る事)。そして『平治物語』(流布本巻三、牛若奥州下りの事)に  
さればその腹の男子三人流罪を遁れて、兄今若は醍醐に上り、出家して禅師公全済とぞ申しける。希代の荒武者にて、悪禅師と云いけり。中乙若は八條の宮に候いて、卿公円済と名のりて、坊官法師にてぞおはしける。弟牛若は鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が弟子に成りて、遮那王とぞ申しける。 
とあって、ここに牛若の鞍馬入りとなるのである。一方常磐は、操を売って愛子を助けたとて、却って永く国民の同情を贏ち得た。  
【成長・影響】この伝説の成長の間、進入して来た一人物として弥平兵衛宗清のあることが特に顕著である。即ち『平治物語』及び『伏見常磐』で、伏見の里の雪の夜に情の宿を常磐に恵んだ田舎人(『平治』では女とし、『伏見常磐』には老夫婦としてある)は、近松の『源氏烏帽子折』――及びそれから出た『恩愛 瞔(ひとめ)関守』――に於いて、懐に入った窮鳥を放つ、情あり義ある平家の士宗清と変わっているのである。『一谷嫩軍記』(三段目)の「熊谷陣屋」でもこの時の救命の事が語られている。これは彼が清盛の継母池の禅尼に頼朝の命乞をした(『平治物語』巻三)人物である所から転移して来たもので、やはり近松の『孕常磐』及び『平家女護島』に於ける宗清対常磐母子の関係も畢竟その変形である。常磐母子を助けたのは上に説く如く後の転化であろうが、頼朝を助けた事と宗清の性格が伝説乃至文学のそれと大差無かったらしい事とは、正史の徴証がある。即ち『吾妻鏡』(巻三、元暦元年六月一日)の頼朝が池大納言頼守(禅尼の息)を招待した條に、その臣従をも召したとあって、  
武衛先召弥兵左衛門尉宗清左衛門尉季宗男。平家一族也。是亜相(頼盛をいう)下著最初、被尋申之処、依病遅留之由、被答申之間、定今者、令下向歟之由、令思案給之故歟。而未参著之旨、亜相被申之。太違亭主御本意云々。此宗清者、池禅尼侍也。平治有事之刻、奉懸至武衛。仍為報謝其事、相具可下向給之由、被迎送之間、亜相城外之日、示此趣於宗清処、宗清云、令向戦場給者、進可候先陣。而倩案関東之招引、為被酬当初奉公歟。平家零落之今、参向之條、尤称恥存之由、直参屋島前内府(宗盛)云々。 
と見えている。情誼に篤くて而も清廉剛直な「熊谷陣屋」の白毫弥陀六実は宗清は並木宗輔の筆を俟たずして既に正史の上でその面影に接し得られるのである(〔補〕長門の油谷湾に臨む向津具半島に宗清の地名を存し、宗清の墓と称するものも同所に在る)。  
又別に、牛若が鞍馬に登ったのは、同姓の誼みから、孤児となったのを憐れんで救った源三位頼政の計らいであったとの伝説(畑維龍著『四方の硯』花の巻)も生じた。即ちこれでは宗清の役割を鵺退治の武将が奪った形で、珍しい説と言うべきである。  
今一つ注意すべき事象は、常磐の苦節に対する国民の同情的解釈が、彼女をして陽に清盛に従いながら、陰に源家再興の計謀を廻らす女丈夫たらしめるに至った事で、『孕常磐』(三段目「露の轡蟲」)にもその傾向が見え初めているが、『平家女護島』(三段目)では色に託けて見方を集め、『三略巻』「大蔵卿館」では楊弓の遊と見せて清盛の影像に呪の矢を放つ絡繰を以て、狂言に現を抜かす大蔵卿の佯阿呆と対せしめている。かくして牛若の生母から両夫に見えた汚濁を拭い去ると同時に、一段深刻な苦慮と貞節とを発見して、義経伝説の主人公をば愈々(いよいよ)非難の余地の無い、却って益々同情歎服に値する烈女の子として確認しようとするのである。  
【文学】舞曲『伏見常磐』(一名『伏見落』)、及びこれから出た『金平本義経記』(初巻、四段目)と合巻『義経一代記内伏見常磐』があり、又巣林子の『源氏烏帽子折』(二段目「常磐御前道行」)、それから出た一中節の『妹が宿』、富本節の『雪解松操繖』等があるが(『外題年鑑』によると、豊竹座にも『伏見常磐昔物語』という作が掛けられている)、最も有名なのはやはりその近松の「常磐御前道行」から出た常磐津の『恩愛瞔関守』即ち俗に言う『宗清』である。梁川星厳の名吟  
雪灑笠檐風捲袂 呱々索乳若為情  
他年鉄枴峯頭険 叱咤三軍是此聲 
もこの伝説を題材としたのである。なお、舞曲『常磐問答』はこの以後の事を取扱った作で、『鞍馬常磐の一名が示す如く、鞍馬寺で別当東光坊と仏法問答をする事をその内容としているが、同じ舞曲中曽我五郎でも頼朝の面前で法華経を説く(『十番切』)時代色で、格別奇とするにも足らない上に、『平治物語』(巻三常磐落ちらるる事)の、この雪路の道行の前夜、清水寺に通夜して観音に安穏の祈誓を籠める件と相応じていて、直接交渉は無いかも知れぬが、常磐が信心者で且法華経に日夕親しんでいたという点で矛盾は無い。清盛の寵を受けてから後の常磐を描いた他の作で知られているものには、既に述べた近松の『孕常磐』『平家女護島』(三段目切)、文耕堂の『鬼一法眼三略巻』(四段目切)がある。 
2 鞍馬天狗伝説

 

【内容】 
人物 牛若丸。鞍馬山の大天狗僧正坊  
年代 (牛若丸十五歳頃(『義経記』巻一)承安年中)  
場所 山城国鞍馬山僧正ヶ谷(舞『未来記』には、僧正ヶ崖) 
牛若丸は鞍馬山に登り、覚日阿闍梨の弟子となって、遮那王と云ったが(『平治物語』による。『平家』(剣巻)には東光坊阿闍梨円忍が弟子、覚円坊阿闍梨円乗に師事したとある)、平家を覆滅して父兄の仇を報い、源氏の世に返そうとの願望を起こし(『平治物語』(巻三)には諸家の系図を閲て発憤したとし、『義経記』(巻一)には父の乳母子鎌田次郎正清の子三郎正近、出家して正門坊と号した人物の勧めによって思立つとしてある)、昼は学問を修め夜は鞍馬の奥僧正ヶ谷で武芸を励んでいたのを、山の大天狗僧正坊がその志を憐れんで師弟の約を結び、自ら兵法を授け、或は小天狗等と立合わせて腕を磨かせ、且その将来の守護を誓った。  
【出処】『平治物語』(巻三、牛若奥州下りの事)、『太平記』(巻二九、将軍上落の事附阿保秋山河原軍の事)、謡曲『鞍馬天狗』、舞曲『未来記』等。  
【型式・成分・性質】未来記式予言モーティフを含む兵法伝授譚の典型――所謂鞍馬天狗型で、超人から兵術を相伝せられる説話型――である。舞『未来記』では、兵法というよりも寧ろ一種の法術、所謂「天狗の法」を允可するので、『鞍馬天狗』よりも一層空想的である。『未来記』の所伝に限らず本伝説全体が即ち神話的傾向を有し、天狗が兵法を教えるのは、なお仏神が護符を授け霊薬を与えるのと同類であり、未来を語ってその前途を守ろうと約するのは、神託を夢想に示すのと相距ること遠からざるものである。そして本伝説に於ける天狗は外道的存在から余程転身向上して来ている一種の神人である。又その法を習得し、霧の法・小鷹の法を行って飛躍自在となった牛若丸も、超人的性格の多い幼童である。この類の説話は一芸一能が神に入り、又は非凡の事業を成就した人物の上に(尸+婁)々伝えられ、その伝授者は神仏又は仙人・異人等超人である場合が多い。その一般的な場合を伝授説話の称呼で総括したいが、その中で特に武勇伝説の場合にあっては、兵法伝授説話の形をとるのが普通である。但し発生当初の本伝説に於ける兵法とは、主として剣術を意味する(後の発達したものでは軍術の意に拡大している)のであるが、上に謂う兵法伝授説話の名称は、広義に用いたいので、剣法をもこれに含ませ得ること勿論である。  
本伝説は即ち史実的成分は少なく、空想的成分が多分で、且神話的成分も混じていて、准神話的の説話である。  
【本拠・成立】史実の根拠は不明である。『義経記』にすらこれを載せてはいない。併し『盛衰記』(巻四六、義経行家出都並義経始終有様事)に、  
三郎は義経ぞかし。稚きより鞍馬寺に師仕へせさせて遮那王殿とぞ云いける。学文なんどせんと云う事なし。唯武勇を好みて、弓箭・太刀・刀・飛越・力業などして谷峯を走り、児共若輩招き集めて、碁・双六隙なかりければ、師匠も持ちあつかいて過しける程に、(下略) 
とあり、更に進んで『義経記』(巻一、牛若貴船詣の事)に、  
鞍馬の奥に僧正が谷という所あり。(中略)世末になれば、仏の方便も神の験徳も劣らせ給いて、人住み荒らし、偏に天狗の住所となって、夕日西に傾けば物怪をめき叫ぶ。されば参り寄る人をも取り悩ます間、参籠する人もなかりけり。 
とあるのはやがてこの伝説の発生を暗示している。『平治物語』(流布本、巻三)に  
昼は終日学文を事とし、夜は終夜武芸を稽古せられたり。僧正が谷にて天狗と夜な夜な兵法を習うと云々。 
とある記述を以て、『義経記』以前の所見と看るべきであろうけれども、この條(「牛若奥州下りの事」)以下は京師・岡崎二本にあるだけで、他の諸本はその前節(頼朝遠流の事附盛安夢合の事)で終わっているし、大体からみて、後の加筆の部分ではないかの疑がある。「兵法を習うと云々」の詞句も、それを旁証するかにも見える。『吾妻鏡』等には常に用いられるが、『平治物語』全篇の中に於いて、斯くの如き語法は他処に見出されないからである。恐らく本伝説の成形後に添加せられた事を示すものではなかろうか。京師本でもなお、  
僧正ヶ谷とて天狗化物の棲所へ、夜な夜な行きて兵法を習う。彼難所をも夜々越えて、貴舟社にぞ詣でける。(『参考平治物語』巻三) 
とあって、『義経記』と同様に、未だ直接天狗に教を受けたとは明記してないのも、上の推測を助ける。が、『太平記』(巻二九、将軍上洛事附阿保秋山河原軍事)の、秋山新蔵人光政の名告りに、  
鞍馬の奥僧正ヶ谷にて、愛宕・高雄の天狗共が、九郎判官義経に授けし所の兵法に於いては、光政是を不残伝へ得たる処なり。 
とあるのを見ると、『太平記』成立の頃までには、本伝説の完成流布を見ていたことが知られるから、『平治』(流布本)の記述は仮に後の添加であるとしても、少なくとも流布本の『義経記』以前既に成形していたことが認められてよいであろうし、そうならば『義経記』作者は、余りに非現実過ぎる為にこの伝説を採らなかったと看るべきであろう。それから、僧正ヶ谷の名称に関しては、井澤長秀が、  
今按するに、鞍馬の僧正ヶ谷は僧正という天狗の棲める故の名にはあらず。真言伝に、鞍馬の僧正ヶ谷、稲荷山の僧正が峰は、壷演僧正慈済の行い給いける跡と記せり。(『広益俗説弁』正編巻一二、士庶) 
と言っているのが正しいであろう。猶御伽草子『ささやき竹』には鞍馬の西光坊の霊が天狗になったのが僧正ヶ谷の由来だと説明せられているが、これは本伝説発生後、この珍しいそして伝説的由緒ある幽谷に対して、地名説明伝説的解釈に依る心理から作り出された所のものであろうと思われる。又直接の関係は無いであろうけれど、本伝説に先行して、鞍馬の奥に三十年も山籠して修行した山伏に、右大臣橘千蔭の子忠こそが師事して、山に入る説話が『宇津保物語』(忠こその巻)にあるのが面白い。  
又牛若丸の生立は、前掲『盛衰記』の所伝では全然乱暴の悪童で、弁慶の鬼若丸時代と相類しているのに、『平治』の方では文武兼学の天才少年である。これは異伝とも進展ともいづれとも考え得られるが、『義経記』は両者を折衷した形で、正門坊の勤説後、性行が一変して学問を放擲したという事になっている。異伝とすれば『盛衰記』はその変化後の牛若を伝え、『平治』はその以前のままを併存した事になる。いづれにせよ、『義経記』所説の形は両異伝のいづれをも採ろうとした結果と観るべきが先ず自然であろうか。  
更に神人からの兵法伝授という点で、本伝説の本拠となったのは、黄石公・張良の支那説話(『史記』留候世家)であることが、この故事を『鞍馬天狗』に引いて、大天狗と牛若との師弟の約を結ぶのに比しているのによっても推知せられる。もとより古今和漢相類の故事を引用並記するのは、近古文学の通有性の一ではあるが、こうして両者が比較せられる以前に於いて、故意に或は自然に、此は曽て彼から出て日本化したもので、本源は実は同一のものである場合が決して尠くないと思われる。特に支那の英雄謀士中最も日本人に親しまれ、軍記物等に於いては、樊 噲と並べて異朝の理想的英雄として必ず引かれるのは張子房で、現存の舞曲四十数番中、唯一の支那伝説を素材とした曲も『張良』である。謡曲にも亦『張良』がある。この人物に関するこの伝説が日本化するのは甚だ容易で、又最も自然である。そうでない方が寧ろ不思議な位である。そして若しこの推測が中っているとすれば、甚だ興味深いのは本伝説が全然日本的となっていて、殆どその本拠の跡を留めていないことである。  
併しながらこの張良が、本伝説の唯一の本拠では無いであろう。兵法伝授はこうした准神話的伝説以外、既に八幡太郎義家が大江匡房に相伝した有名な史話として、人口に膾炙せられてもいる(『古今著聞集』巻九、武勇)。その他一般に中世は伝授熱流行の時代であるから、この種の伝説も自ら生まれて来べきでもある。要するに、牛若丸が平家討滅の志を懐いて、日夜励努を怠らず、天狗も棲むという深山に、胆を練り腕を磨いた事実に始まって、その物凄い山中から、天狗は国民の支援によって具象化せられて姿を現し、我が少主人公の師となり守護者となった一方、支那伝説はその成形に好適な範例を賦与し、更に時代の風尚は愈々(いよいよ)この伝説を完成に導き、流布を容易ならしめたと観るべきであろう。若し又、後に言うように、萬一何人かからの師承の事実でもあり、或は本伝説は鬼一法眼伝説の変容ででもあるとすれば、本拠の論考は又新に問題を提出されることになるのである。勿論独立した伝説としては次項のものとは全然別箇の説話として取扱われねばならない。又それだけの理由と価値が自ら存する。  
【解釈】本伝説発生の動機並びに主眼は、成長後に於ける義経の非凡な大功に対して、その由つて来る所を説明しようとするにある。そしてその希代の戦術と剣法とを愈々(いよいよ)神ならしめる為に、超人間の出現を促して、その手からこれを授けさせたのである。  
更に副次的の意味ではあるが、この説話の中心をなしてもいる所の、天狗が兵法を教えるという一事は一層注意せらるべき事象である。天狗はもと星の名であるといい、或は金剛界・胎蔵界のことであるともいわれ、『地蔵経』の文によれば一種の鬼神らしく(『閑田耕筆』巻三)、又『杜工部文集』(巻一)の「天狗賦」には獣とせられている(支那の冶鳥のこととする俗説もある(『広益俗説弁』遺編巻五、畜獣))。印度から支那を経て来た三国伝来の怪物(『今昔物語』巻二〇、第一話・第二話)であるけれども、今日我々の想像上の天狗は、全く日本的のものである。天狗という語が我が文献に見えるのは『舒明記』に  
九年春二月丙辰朔。戊寅。大星従東流西。便有音似雷。時人曰、流星之音。亦曰地雷。於是、僧旻僧曰。非流星。是天狗也、其吠聲似雷耳。(『日本書紀』巻二三) 
とあるが、最も早いものであろう。併し稍その所謂天狗らしくなったのは、『今昔物語』(巻二〇)に見えるのを初とする。その本体については、仏法を妨げる外道(『今昔』巻二〇)と考えられて居り、又一種の物怪ともせられている(『大鏡』上巻、三條天皇)。更に  
今は何をかつつむべき。我は六條の御息所なるが、我一天の虚空として、美女の誉れ慢心と成り、又、一乗妙経を片時も怠る事なければ、是亦却って慢心となり、二の心の障り故、魔道に堕ちて天狗に奪られ、この愛宕山を棲処とせり。 
と謡曲『樒(しきみ)天狗』にある通り、何事によらず慢心が強くてこれに執すればこの天狗道に堕し(『盛衰記』(巻一八、龍神守三種心事)にも、文覚の事を「天狗の法成就の人にて」或は「元来天狗根性なる上に慢心強く」と記している)、又邪法を修して人に怨を報じようと誓う時、生きながらこれに化することがある(『保元物語』巻三、新院御経沈めの事附崩御の事。『盛衰記』巻八、讃岐院)。その形貌は翼があって鳥に類している。謡曲『鳶(とび)』によれば鵄(とび)の形であるが、それは、既に『今昔物語』(巻二〇、第三話、天狗現仏坐木末語、同第一一話、龍王為天狗被取語)以来のことである。即ち所謂烏天狗或は木葉天狗と称せられるものの形はそれで、『太平記』(巻五)高時天狗舞の條にも「或は嘴匂(くちばしかがまつ)て鵄の如くなるもあり、或は身に翅(つばさ・はね)有って、その形山伏の如くなるもあり」と見えて居り、『天狗草紙』等の絵巻に看ても同様である。例の長高の鼻を有せしめられるようになったのは、稍後の発達のようである。併し『吉野拾遺』(下巻、鼻の高き狂歌の事)に、内大臣実守公が鼻の高い為に、田舎武士共から天狗の類かと怖れられたので、  
天狗ともいわば言わなむ言わずとて鼻低からぬ我が身ならねば 
と詠んだ話を載せてあるから、鎌倉末期頃は既に――少なくとも室町初期までには――所謂鼻高天狗の形貌も完成していたことを知り得るのである。そしてその完成には天孫降臨神話に於ける、  
有神居天八達之衢。其鼻長七咫、背長七尺余(当言七尋)。且口尻明耀。眼如八咫鏡、而赩然似赤酸醤也。(『日本書紀』巻二、神代下) 
という猿田彦大神の異形な特徴が恐らく何時か恰好のモデルとして模写されて来たのではなかろうかと推測せられる。  
天狗が飛行自在で、魔法を行い、深山を棲処とし、人を攫い或は悩ます話は『今昔』『宇治拾遺』『著聞集』『沙石集』『盛衰記』『太平記』及び謡曲(『鞍馬天狗』『花月』『善界』『大会』『車僧』『飛雲』『樒(しきみ)天狗』『野口判官』『鳶(とび)』等)等に甚だ多い。その暴風の如き騒音を立てて人を畏怖させるのをば「天狗倒」と呼ばれている(『鞍馬天狗』『太平記』巻二七)。そして人間に近づく際には屡々(しばしば・たびたび)同じ人身の姿をとって現れる。『今昔』(巻二〇、第七話)、『吉野拾遺』(上巻、伊賀局化物に遇ふ事)のように鬼形のことも時にはあるが、山賤になっているのは『飛雲』、法師になっているのは『今昔』(巻二〇、第二話)、『著聞集』巻一七、変化)等であり、而も最も多く、且、後には常にそれのみの形相で現れるのは、本伝説に看るような山伏姿で(『鞍馬天狗』『野口判官』の他に謡曲にも『車僧』『大会』等。又『著聞集』巻一七、変化、維蓮坊の條、伊勢国の法師の條、『太平記』巻五、相模入道弄田楽事、巻一〇、新田義貞謀叛事附天狗催越後勢事、巻二七、田楽事附長講見物事、同巻、雲景未来記事等)、「天狗山伏」という語すらも生まれた(『太平記』巻一〇、前出の條)程である(『義経記』(巻三)には太刀奪の弁慶を「天狗法師」と洛中で沙汰したとある)。  
そして斯様な伝説的成長を遂げて来た天狗が、兵法を教えるようになったという点が特に面白いのである。即ち仏法障碍を目的とし、悪行邪道を旨とした妖魔が、意外にも武人の本職とする兵術の師範となったのは、一方に於いて田楽法師となって舞い遊ぶ(『太平記』巻五)に至ったことと共に、時代を反映する注目すべき現象であらねばならない。但しかの変幻自在の魔術は敵を折伏打破する神出鬼没の兵術と転化し得る可能性・蓋然性は十分にある。その魔法や(舞『未来記』、伽『御曹司鳥渡り』『十二段草子』)飛行術をも(『義経記』巻二、鬼一法眼の事、巻三、弁慶洛中にて人の太刀を取りし事)これに関連して牛若は授けられてもいるのである。即ち義経伝説としての意義は前に説いた如くであるが、民間信仰としての天狗そのものの観念の成長変化に伴随しつつ、修験道の発達流行の余勢と平安末期以来盛に威力を揮って来た僧兵の面影と、中世の一特色である秘事相伝の風習とを、如実に示す所にも、亦この伝説の特殊の存在価値が認め得られる。又日本武勇伝説としては兵法伝授説話の代表的なものとすべきであろう。  
なお又、義経の兵法習得は、義家に於ける如き実際の師伝があって、これが本伝説の如き形に伝説化したものとの想測が加えられて来るのも自然で、『広益俗説弁』(正編巻一二、士庶)には、本伝説を解釈して「疑うらくは義経世を憚りて密に師を求め、夜々剣術を学びたるか」と言い、『源平太平記評判』『本朝武家高名記』等には、東光坊阿闍梨を六條判官為義の末子で、義経の伯父に当たるとし、これが多田満仲以来の兵議並に大江維時入唐伝来の兵法の秘書を牛若丸に伝えたとしてあり、又『義経勲功記』は『義経記』から暗示を得て、同宿の法師がその夜々の外出を怪しみ、或夜密に追跡して、深更山奥に独り兵法を稽古する牛若を目撃し、銷魂して逃げ帰り、夜目に何を見誤ってか、大天狗の指南するのを見たと東光坊に告げることに作って、これを訛伝して、本伝説が生じたのであると説明している。が、何れも後人の解釈で、本伝説の本拠を闡(せん)明すべき資料としても、見るに足べきほどのものではない。上の第二説は後にも説く如く、院本の『鬼一法眼三略巻』や馬琴の『島物語』等の解釈と軌を一にするもので、伝説的解釈を棄てようとして、却って他の伝説的附会の説明に走り、第一説は本伝説の根拠となった史実を予想した説明としての仮定的提案という意味では採用できるが、確証があるのではなく、そして第二説の一般的な場合を抽象的に臆測したという程度のものである。第三説は最も心理的解釈のようであるけれども、これも却って卑俗的に合理化しようとした実録史家の浅薄な現実主義的史観からの尤もらしい説明に止まる以外何ものでもない。但し、三説共に本伝説を否定し、少なくとも本伝説に何等か史実的、或は人事的解釈を与えようと力めた点は同一である。同時に又その伝説としての価値に着眼しなかった憾のあるという点も共通している。要するに此等の説は、単に本伝説を必存の事実と観ての解釈でしかあり得ない。こうした本拠の史実を仮想するのも全然無用ではないけれども、それよりも、本伝説の如きは准神話的空想裡の所産としての、即ち伝説を伝説としての想察に、意義と興味との一層大きなものがあることを指摘したいのである。  
【成長・影響】本伝説以後のものに、野口判官伝説と牛若地獄廻伝説がある。何れも本伝説と関係があり、而も本伝説の所伝を含む事によって、それより後のものであることが明らかに知られるし、恐らく本伝説から派生したものと推定して誤り無いであろう。浄瑠璃姫伝説にも亦本伝説の影響が認められる。即ち本伝説に於いて師の坊たる大天狗は常に影身に添って将来を護ろうと制約しているがその言を違えずに、果たしてその最後の危機に来会して義経を救っている(『野口判官』)(『源義経将棋経』(五段目)でも漁翁に扮して蝦夷地に義経を助ける)。或は又東下りの時も病死の御曹司を蘇生せしめた浄瑠璃姫主従を義経の依頼によって、片時に矢矧の宿に送り帰し(『十二段草子』)てもいれば、鞍馬時代には牛若丸を導いて、地獄極楽を廻って亡父に再会させ、平家討滅の志を堅めさせ(『天狗の内裏』)てもいるのである。なお野口判官と地獄廻の両伝説も本伝説の派生説話というだけではなく、他の伝説との混合もあるが、それは後の詳説に譲ることにする。又本伝説が島渡伝説にも影響していることも後に述べる通りである。  
他面に於いて本伝説が流布してから、後世これと同型の伝説の続出を観るに至ったが、概してそれらは本伝説の変容に過ぎないと言ってよい。そしてその多くは一流と立てた剣法家の自唱に出ているのは、本伝説に倣って、自流の剣法を神秘化しようとする動機に基づくのである。即ち瀬戸口備前の師は自源坊という天狗であるとし(『武芸小伝』)、根岸某は愛宕山の天狗太郎坊に刀術の教を受けたといい(『北條五代記』)、その他或は上野国白雲山妙義法印と号する天狗から兵法を習ったと称する者や、遠州秋葉山三尺坊と称する天狗に剣術を学んだと誇る者等、この種の伝説は、『武芸小伝』『武術流祖録』等の中に容易に求めることが出来る。  
なおこれと関連して、本伝説は、武術の一流に鞍馬流、一名、小天狗鞍馬流(天正年中大野(或は小野)将監創始、義経の剣法を伝えたと称する(『武芸小伝』))なるものを生ぜしめた。これは次條の伝説とも交渉がある。又『杼樟記』には、河野五郎通経が義経の烏帽子子として経の字と共に義経流の兵書を相伝したと記してある。やはり本伝説乃至次條の伝説からの派生であろう。  
更に本伝説が後代に及ぼした偶然の影響とも見るべきは、未来記式予言説話型、即ち氏族又は個人の将来の運命を超人或は卜者等が予示するという説話型の発展であろう。後代文学のそれがすべて必ずしも本伝説からのみ移承せられて来たとは言い難いであろうが、又、全然それを否定することも出来ないと思う。正成の天王寺未来記(『太平記』巻五・六)は姑く措くとしても、同じ『太平記』の「解脱上人事」(巻一二)、「宮方怨霊会六本杉事」(巻二五)、「雲景未来記事」(巻二七)、「吉野御廟神霊事」(巻三四)等と共にその先をなし、そして寧ろ本伝説などが中心となって、その趣向乃至同説話型の発展を促進したものと見るが至当であろう。『鞍馬天狗』にも大天狗が牛若に対して未来を予言し、前途の庇護を口約することがあるが、更に一層詳しいのは、その題名の示す如く、舞曲『未来記』である。即ち平家の悪逆と、源氏が興起してこれを亡ぼすこととを語り、その使命を果たすべき人物は牛若丸であると教え、最後に「扨(さて)その後に牛若殿、兄に憎まれ給ふなよ。梶原に心許すべからず」と細々と未来を戒めている。『源義経将棋経』もこれらから構想を移承している。そしてこの超人間、就中天狗が未来を語る構想を用いた最も有名な文学は、例の崇徳院の尊霊に西行法師の見え奉ることを作った上田秋成の『雨月物語』(巻一)の「白峰」――その素材は『保元物語』『盛衰記』及び『撰集抄』、謡曲『松山天狗』等から出ている――それに倣った曲亭馬琴の『椿説弓張月』(後編、巻四)の「八郎決死詣霊墳」の條であろう。天狗ではないが、未来記の型式は『天狗の内裏』謡曲『沼捜』中にも採られている。  
なお本伝説自体の成長進展については、次條の鬼一法眼伝説と密接に関連しているから、同條で併せ説くことにしたい。  
【文学】謡曲『鞍馬天狗』、舞曲『未来記』はその最も代表的のものである。『義経興発記』には巻二に、海音の『末広十二段』では初段に見え、近松の『十二段』でもその第一段を成し、且それでは僧正坊は世之介という奴に化して牛若を愛護するのは西鶴『一代男』の影響であろう。『嫩(容+木)葉相生源氏』の「第一、鞍馬山之段」には、本伝説を夢にとりなし、『鬼一法眼三略巻』(三段目切)では大天狗は鬼一法眼の仮装、又『風流誮平家』(二之巻)では、常磐御前の変粧と変わっている。その他院本に『鞍馬山師弟杉』、黄表紙に『鞍馬天狗三略巻』、合巻に『鞍馬山源氏之勲功』等があり、長唄には歌舞伎の『鞍馬山だんまり』(黙阿弥作)に用いられた『鞍馬山』があって行われている。又、一代記風の義経物には大抵この伝説を採っている。傍系的のもので本伝説が相当重要な素材として用いられているのは、謡曲『野口判官』、御伽草子『天狗の内裏』であるが、近松の『源義経将棋経』(五段目)も魚翁姿の大天狗が義経主従を戒め、且討手の来襲を告げて之を破らせ、終に蝦夷人に大王と崇めさせるという構想で、『野口判官』と同じく末路の義経を救援するのであり、又最後に爾後の指針を予示することがあって、これは前にも触れたように未来記式趣向の襲用と言える。  
〔補〕宇治加賀掾正本『冬牡丹女夫獅子』の下の巻の切(即ち『孕常磐』の四段目に当たる部分の次に補足した一節)が本伝説で、且、二人僧正坊――分身伝説の型式――の趣向を用いている。謡曲『善界』の影響をも受けている。 
3 鬼一法眼伝説

 

【内容】  
人物 牛若丸。兵法家鬼一法眼・同息女(皆鶴姫)・鬼一高弟北白河の湛海。  
年代 (牛若丸十七歳(『義経記』『鬼一法眼』には十七歳〜十八歳(治承元年十一月〜同二年))  
場所 京都一條堀河(『鬼一法眼』には今出川) 
京の一條堀河の陰陽師鬼一法眼は、文武二道に達し、且、六韜三略の兵法の秘巻を蔵していた。牛若丸はこれに師事して、その相伝を望んだが、許されない為、美人の聞え高い鬼一の三の姫に契って、兵書を盗み出させ、密に読破して六韜の奥義を得た。これを感知した鬼一の怒は甚だしく、牛若を賺し出して、高弟湛海をして途に殺させようとしたのを、牛若は却って湛海を斬り、その首を携げ帰って、法眼の心胆を寒からしめた。願望を達した牛若丸が、名残の袂を分って立去った後、姫は御曹司を慕うの余、終に恋に病んで果敢なくなった。  
【出処】『義経記』(巻二、鬼一法眼の事)、『鬼一法眼』(一名『判官都話』)、謡曲『湛海』(〔補〕御伽草子『皆鶴』)等。  
【型式・構成・成分・性質】前項の伝説と同じく兵法伝授説話ではあるが、稍類を異にし、即ち鞍馬天狗型ではなく、外観的には史話に近い形を採っているけれども、型式からすれば寧ろ勇者求婚説話型に属すべきものである――即ち本伝説の含んでいる情話は説話構成の素材からは、主要事件の挿話に過ぎないが、全体として一の型式を作り出しているほど、有機的にその主要事件に結合していて、これを分離させようとすると、本伝説の説話としての存在価値が甚だしく稀少となるのである。但し、後半湛海の部分は附帯説話として取扱われ得る。この伝説の恐らく原形かと思われる次條の島渡伝説に於いて一層その明証が得られる。即ち宝を獲ようとして敵人の許に入った英雄が、種々の難題を課せられて困しむのを、敵人の女と契ってその助によって免れ、終に目的を果たす機会をも与えられるという一般型式は、本伝説にも大体認められる。湛海の事件の如きは、その難題の一とも、亦宝を盗んで走った後、これを敵人が追跡する常型の変形とも見ることが出来る。併しながら本伝説は完全な求婚説話でないばかりでなく、余程人事的史実的である。或は実際これに近い史実があって、その形が恰(あたか)もこの説話型に相応ずるのではないかとも思われないこともないが、確証は無く、又縦し、史実らしいものがあったとしても、それに関せず本伝説が次に説こうとする伝説から転移したであろうことも想像が可能であるから、いづれにせよ一の求婚説話型の伝説とも認めて差支ない。そして若しこの推断に誤が無いとすれば、一見実話とさえ思われるほど、よく変容し、よく神話的分子が抽出せられているのを見るのである。が、なお本伝説及び次條の伝説の如き、形態上に於いて神話的であるばかりでなく、本伝説の小主人公牛若丸は、「口一丈の堀、八尺の築土にとび上り」(『義』巻二)、法眼の館人に肝を消さしめる奇童で、史譚的武勇伝説時代の所産ながら、神話的武勇伝説の片影をも看取し得る。次條の島渡伝説に於いてこの傾向は一層著しい。  
即ち本伝説は空想的成分が多きを占め、神話的成分は説話型としての形相と牛若の行動の上に痕跡を留めている。併し純粋史実ではなくても(仮構的の事実であっても)、少なくとも事実らしさを主成分として構成せられてある点は否定し得ないから、准神話的要素は含むとしても、性質上からはやはり史譚的武勇伝説とするが穏当であろう。  
また、本伝説に附帯的に含まれる一挿話――湛海斬りの伝説は競武型で闘戦型でもある競勇型勇者譚である。そしてこれも史譚的武勇伝説である。  
【本拠】後に述べるように、前伝説と共同本源の、或は本伝説だけの本拠をなす隠れた事実があるかも知れないとの仮想は提示出来るが、それに相当する史実の徴証は全然無い。或は恐らくは次條の島渡伝説の変容ではあるまいか。人間的実話的であると、神話的童話的であるとの差はあるが、両伝説を比較する時、全く同種否寧ろ同一のものではないかと想わせるものがあるからである。前項にも既に指摘したが、尚詳論すれば、先ず秘蔵の兵書のある由を聞いて尋ね至り、伝授を乞うことが第一の共通点である。許されないのでその愛娘と契り、これが手を借りて素志を果たし、秘巻を披見会得することが第二である。女の父が之を知って激怒し、牛若を殺そうと計ることが第三である。牛若が愛人の助によってその難を免れ、命を全うすることが第四である。その後父の怒に触れた女の死に結末するのが第五である。女の死は病死と殺害との差はあるが、牛若の為に身を喪うのは同じである。殊に鬼一の名も恐らくは島渡伝説に於いてそれに相当する蝦夷が島の鬼王に関係があるのではなかろうか。徂来が、「鬼一法眼は紀一なるべし」(『南留別志』)と言ったのは、余りに穿ち過ぎた言であろう。現にこの両伝説をそれぞれ題材とする『御曹司島渡り』と『義経記』(巻二)の「鬼一法眼の事」との、形の上での中間者の観をなしている『判官都話』がその原名を『おにいち法眼』と呼ばれているのにも、この間の消息が窺い得られるような気がする。この御伽草子だけに限らず『義経記』の古板本などにすらも(例えば元録十年板の巻二の目録に)、「鬼一法眼(おにいちほうげん)の事」と振仮名までしてあるほどである。「鬼一(きいち)」と読むのは或は比較的後のことかも知れぬが併し『三略巻』の外題ではもう「鬼一(きいち)」と読ませていた筈であり、又徂来の説からみても少なくとも元禄頃は両様に読まれていたのでもあろうか。後世は「きいち」に定まったようである。  
【解釈】鞍馬天狗伝説に関連して注意を払わるべき主な義経伝説の一である。即ち前伝説と略同じ動機によって発生せしめられたもので、唯彼を神的解釈と言うことが出来るならば、此は人的解釈とも言えよう。義経をして機略縦横用兵の妙を尽さしめるのを観る所以の説明としては、人間以上の或力を有するものから、兵法を授けられると解釈するのも一つの考え方であるが、又堂々たる兵略の大家の秘書に就いて自得させることも、国民の同情的驚異心からして、自ら想い到らしめるべきは理由のない事では無い。況や前伝説の牛若の稽古する所、乃至大天狗が伝える兵法は、主として戦術よりは寧ろ一人の敵たる域に徘徊しているからである。なお前伝説と相関的に、本拠に就いての仮想、或は相互の変移交渉等の問題に関して考察解明を要する点が少ないが、便宜次の〔成長・影響〕の項で詳論する。  
次にこの伝説に含まれる二箇の副事件に関してであるが、それは一は主要事件と不可分の関係に立つと観るべき、兵法習得の経に緯をなしている恋愛譚で、今一つは主要事件に従属した湛海一党の戮殺である。そして前者には仮令手段的の意味が多分にあっても、義経の情事方面が語られて居り、後者では橋弁慶伝説と同じく義経の武芸と胆勇とが示されている。  
なお本伝説に於いて鬼一法眼が兵法の秘巻を愛蔵することは、秘事秘伝を尚び、これが相伝を軽々にしなかった中世の一般風潮をよく語るものであるのは勿論、後にはその兵書が江家相伝のもので(『義経勲功記』巻三)、大江匡房卿から八幡太郎義家に伝えたのを、更に鬼一の祖先に預けられて、代々相承した(『鬼一法眼三略巻』)(『勲功記』には鞍馬寺の宝庫に藏められてあったのを、夢想によって奏聞し、勅許を得て之を賜るとしてある)とするに至って、かの『著聞集』の逸話に結びつけられて、終に兵法の門家を作り出した所に、平安朝以来漸次諸道諸芸が専門的世襲的となり、近古から近世へかけて、和歌の二條・冷泉、蹴鞠の飛鳥井、挿花の園、神紙の吉田等の如く、全く家道家芸に固定してしまった現象が、ここにも影を投げているのが認められ、前伝説と同じく、義経伝説としての外、他の意味に於いても時代を語る興味ある資料と言うべきである。  
【成長・影響】本伝説で最も重要な問題の根基は、所謂六韜三略十六巻(『義経記』)(『鬼一法眼』『御曹司島渡り』には四十二巻)である。鬼一との交渉経過も、又それに絡まる挿話的な恋愛譚も、全く唯これを獲ようとの牛若の願望から進展し、湛海が依嘱を受けるのも使命を果たした上はかねて懇請の相伝を允可せられるとの條件の下にで、唯この兵書の秘巻を中心としいて前説話は成立している。而も義経の戦術は、一にこの秘巻から出たとせられているから、後世軍学家が義経を宗として、この兵書を貴ぶのは当然の事で、為にする者が又その兵書を伝説から具現して宝物とし、或は自ら之を伝えたと称し、或はこの兵書そのものであるとして示すようになったものがあるのも不思議ではない。殊に『鬼一法眼』の終に、法眼が泣く泣く愛女を荼毘に附して、その兵書をも火中に投じて焚いたところ、諸巻の中、虎の巻だけは焔の中から飛び上って失せたとあるのは、同書の伝存を唱えるのに都合の良い口実を与え、さなくとも、牛若の書写した物が伝わらない筈はないとの考も、これに手伝っているのであろうから、終に『兵法義経虎巻』(上中下三冊)と称する異様なものを伝えるに至った。同書の序文によれば、明暦丁酉仲春・勢州渡会浮萍(ふへい)という人の家に秘して伝えたのを刊行すると記し、四十二ヶ條の詞書に各絵図を挿んだものである。四十二ヶ條あるのは所謂四十二巻に象ったのであろうか。扨(さて)その四十二ヶ條とは、例えば、  
第一軍場出作法之事/第二敵打行時酒飲作法之事/第十甲冑箭不融秘術之事/第十二  魔縁者切秘術之事/第卅一敵為火中被責入其火難遁秘術之事/第四十二神通箭作秘術之事 
といったように、間々軍礼作法を規定する條項のある外、大抵秘法秘術で、且その各條の内容は、殆ど皆各の場合に於ける真言神呪の詞、唱え方、及び印の結び方であり、図にも武者姿の人物でそれを示している。一例を第一ヶ條に取れば  
第一軍場出作法之事   
敵をうちに行時、随兵共にもしらせず、ひそかに東にむかいて、左の手を拳にして、左の腰に置き、右の手を施無畏にして三度垂れ、くたし膝をして、この真言を七返気のした誦せよ  
■■黒坦宅吠梨耶莎賀(おんまくこくたんたくへいりやそわか)  
此神呪をとなえれば、詩天童来りて、この人の甲冑ひたひたごとに入りて、敵をほろぼし、吾随兵にちからをそえて、ついに勝事を得さしむべき也。(『義経虎巻』上巻) 
概ね上の類で、笑うに堪えたものである。巻首に同書の由来を記し、黄石公から子房に授けたのを、大江維時入唐帰朝の時将来して、江家に伝えたのを、義家の懇望によってこれを「和仮名」て授くるものである由を、大江匡房の筆として記してあるのも可笑しく、而も匡房には匡房(ただふさ)と訓じてある。そして鬼一の秘庫に蔵していたのを、義経が披閲して後世に伝えたものであるとしてある。余りに児戯に類するようなもので又通俗に堕しているものではあるが、偶々以て義経乃至虎の巻が、如何に自称兵法家や武芸者の間に尊重せられていたかを旁証する一資料とはなるであろう。実際義経は史上の名将として、兵家の祖と仰がれるのみならず、斯く伝説上に於いても一層その傾向を増大していて、後世義経の軍法を伝えていると称する輩が少ないのも事実である。虎の巻の名も本伝説の流行と共に愈々普遍化し、あらゆる秘事秘訣の代名詞のようになった極端な一例は、遊女の手管を写した洒落本にまで『当世虎之巻』(田螺錦魚作)という題名を附しているのでも知れる。  
本伝説自体の成長進展は特に複雑を極めている。先ず第一は鬼一に新に姓名が与えられるようになったことである。即ち一は『勲功記』『義経記大全』注、『風流誮車談』の一団で、これらは憲海と号せしめるのである。例えば『勲功記』(巻三)は、「その比都一條堀河の辺に、鬼一法眼憲海と云う法師あり。元来伊予の国吉岡の産なり」とし(『義経知緒記』(上巻)も同説)、且同書に記した系図を表にすると、  
┌実方中将  
|  
└{仗律師(実光)三代孫――吉岡憲清――鬼一法眼憲海(童名鬼一丸) 
となる(『天狗の内裏』(下巻)には、「四国讃岐の国ほうげん」としてある。同書は室町末の作であろうが、刊行すら万治二年で、『勲功記』より約四十年も以前のものである)。これらに対する他の一類は『鬼一法眼三略巻』『鬼一法眼虎の巻』であるが、これには姓のみを記している。この姓を吉岡とするのは両説共通で、唯その由来としては、『勲功記』は上の如く伊予の地名から出たとし、『三略巻』(三段目)は戯曲常套の通俗語源説的説明を用いて、「元来鬼一が家と申すは、君の御先祖八幡太郎義家公に宮仕へし天野某、八幡殿鎮守府の将軍となって、奥州を知り召されし時、本吉・長岡の二郡を領地に賜り、本吉・長岡の下の文字を取って吉岡と改め」としている。併し鬼一が吉岡姓を附与せられるに至った理由は、次に掲げるような染色師で剣法家であった吉岡建法の事に因由するは疑を容れない。  
『常山紀談』五之上巻に、慶長年中禁裏に猿楽の有りし時、貴賤群集しけり。吉岡建法という染物屋、剣術の妙手にて有りしが、無礼の事有りしを、雑色咎めければ、建法外に出で、羽織の下に脇指を隠し、元の所に入り、先の雑色を只一刀に切りて、夫より縦横に駈廻るに、元来飽くまで手利なり、手負数を知らず云々。さて太田忠兵衛というもの、建法を打留めたる由委しく見ゆ。建法小紋は此吉岡建法が染出せりとなん。可尋。(小山田与清『松屋筆記』巻九四) 
上に引用せられた『常山紀談』の文は、同書の「吉岡建法狼藉、太田忠兵衛手柄並太田武政を論ずる事」の條にある。『駿府政事録』『武芸小伝』にもこの事件を載せ、慶長十九年六月二十二日の出来事としてある。又『武芸小伝』(巻之六、刀術)に、  
吉岡拳法  
吉岡者平安城人也。達刀術、為室町家師範。謂兵法所。或曰、祇園藤次者得刀術之妙、吉岡就之相続其技術也。或曰、吉岡者鬼一法眼流而京八流之末也。京八流者、鬼一門人鞍馬僧八人矣。謂之京八流也云々。吉岡与宮本為勝負。共達人而未分其勝負也。 
とあるのは、やがて鬼一と建法とが結び附けられ、吉岡姓を名告らしめられる経路を示すもので、『三略巻』以前、既に建法の事は、近松にも『傾城吉岡染』(正徳二年十一月、竹本座)に作られ、これには兵法家を憲法として憲法染を案出することとし、吉岡は吉原の遊女の名に用いられ、特に奇抜なのは、憲法が石川五右衛門の師匠になっていることである。又野田富松作の『吉岡建法染』という戯曲も出ている。そして建法の名も実話資料の方でも、建法(『駿府政事録』『常山紀談』『松屋筆記』)拳法(『武芸小伝』)、又は憲法(『雍州府志』)と種々に記して一定しない。鬼一に憲海の号を与えた『勲功記』は、正徳二年三月の刊で(近松の『傾城吉岡染』の上場より早い)あるから、貞享三年刊の『雍州府志』に載せた憲の字を利用したとの推断が許されるであろうし、近松は勿論直接そのままを採ったのであろう。  
次に述べねばならないのは、義経の下部御厩の喜三太が、鬼三太清悦となって鬼一法眼と連結せられ、更に鬼次郎幸胤と云う人物が加わって、鬼一・鬼次郎・鬼三太は三人兄弟とせられるに至った事である。この三人が血縁的の関係を結ばせられることになったのは『三略巻』『虎の巻』に始まっているのであるが、後二人の名は文耕堂等の創出ではないようである。『三略巻』は享保十六年の興行であるが、それより十四年前の享保二年に刊行せられた『鎌倉実記』(巻八)に、義経が兄頼朝の軍に奥州から馳せ参ずる條の随兵の名を記して、  
九郎殿の近衆には、伊勢三郎義盛・武蔵坊弁慶・常陸坊海尊・堀弥太郎景光・鬼二郎幸胤・鬼三太清悦五十騎。 
とあり、又同書(巻一六)には  
堀弥太郎景光は、(中略)今度京都にて生捕れ、後命を被助て、子弥次郎経重と父子共に入宋、行衛不知。さて義経の雑色に、鬼次郎幸胤という者あり。景光が甥なり。 
又同巻に  
鬼次郎幸胤・鬼三太清悦は、片庇の雑色なり。 
とも見えている。但し二人を兄弟であるとは明記してないし、もとより鬼一との関係も記してはない。又この喜三太を鬼三太と書き始めたのは、実は『鎌倉実記』が最初ではないので、それより五年前の『義経勲功記』(巻一)に、義経と最初の主従の契約をしたのは、鞍馬の麓の樵夫満間の大太という者で、「後鬼三太と号せし下部」は是であるとしている。そしてその大太を改めて、鬼三太とした理由は、義経が平家追討の大将軍として鎌倉を発するに臨み、大太の従来の功労を賞して、予の今日あるは鬼一法眼の兵書を読むことが出来た為であるが、それは一に汝の功に帰すべきで、即ち汝は、鬼一に勝ることが二つあり、鬼一を説いて予に面謁させたことがその一、嫡子吉岡次郎憲実を賺して、父法眼を諌めさせ、湛海の功を昼餅に帰せしめたことがその二である。よって  
鬼一は軍略に達して其智世に超たり。然るに汝が知を以て、鬼一に勝れること二つなるときは、是鬼三なり。今よりして大太を改め、太の字に鬼三の二字を冠して鬼三太と号すべし。(『勲功記』巻六) 
と命じて改名させることとしてある。鬼一と喜三太との連結はこれが初である。鬼と喜と同音であるのと、一と三との数字を名に用いたのまで似ているので、両人の間に何等かの関係を附して説明しようとしたのである。『鎌倉実記』を経て、『三略巻』が三人を一連としたのも同じ動機に出ている。そして一層相互の関係を親近ならしめたのである。要するに『勲功記』までは鬼一と喜三太と両人だけが、而も外形的に関係づけられたに止まっていたのを、後二書に至っては、『勲功記』の「鬼一が嫡子吉岡次郎憲実」(『風流 誮軍談』には荒次郎としてある)を吉岡鬼次郎幸胤として、終に鬼一・鬼次郎・鬼三太の三兄弟を作り出したのであった。更にその鬼の字に愈々意味を含ませて複雑化し、三兄弟の父を鬼大輔として、その出生に怪婚伝説を附帯させ、即ちこの人物をば、葛城山の役行者に仕えた前鬼という鬼が大和の郷士吉岡某に通って生ませた者としてしまい、これによってこの一家が鬼の字を名に冠する理由の説明としようとしたのは『虎の巻』で、同じく偶然にも鬼若という誂え向の幼名を有する弁慶に又この三兄弟を結びつける為に、その妹(?)椰子の前(後、お京)という女性を鬼次郎の許嫁としたのは、『三略巻』『虎の巻』である。  
〔補〕椰の前を弁慶の妹(?)としたのは、山本角太夫正本『弁慶誕生記』が初である。但し、鬼次郎の許嫁にはなっていない。  
次は鬼一の女皆鶴姫のことである。『義経記』『鬼一法眼』共に唯鬼一の三の姫とだけで、媒の女は前者に於いては幸寿、後者に於いては更科としている。この姫が皆鶴とよばれるようになったのは何に始まるか不明であるが、謡曲の廃曲にも『みなづる』があり、又『天狗の内裏』(下巻)に「法眼がひとりびめ、みなづるをんな」とあるなども、その名の見える早い方であろうか(〔補〕『皆鶴』と題した舞曲もあったらしく、又同名の題号を有する御伽草子の伝存が発表せられ、その中には「みなつるごぜん」とあるから、室町末、江戸初期にはもう皆鶴の名が行われたのであろう。『天狗の内裏』の記載と併せてこれを証している)。  
『勲功記』以後『風流誮軍談』『三略巻』『虎の巻』も之を踏襲している。唯『金平本義経記』だけは、かつらの前とし(馬琴の『島物語』(巻六)には『頭書義経記』にかつら姫とある由が記してあるが、近世になってからの註記であることは勿論であろう。これとの先後は不明。又『義経知緒記』(上巻)にも桂姫とし、鬼一の養女と見えている)、『末広十二段』はこれに倣っている(〔補〕『弁慶京土産』には千鳥の前としている)。そして兵法家の女としての皆鶴は、『勲功記』(巻四)に「皆鶴姫被殺変化者事」があって、「今是れを考うるに、『村井本義経記』に此の事を載せたり」と註し、牛若丸が去って後の姫に関しては、古くは、恋病に死んだとの伝説(『義経記』『鬼一法眼』)があるが、後には牛若丸を慕って奥に下り、終に再会の叶わぬのを悲しんで、会津の難波池に入水したとの伝説(『会津風土記』『勲功記』巻五、皆鶴姫奥州下向の事。同、皆鶴姫入水附九郎義経愁嘆同難波寺の事)を生じた。これは美人遊行説話で、浄瑠璃姫や静の伝説との混淆があろう。又、北白河の湛海(『義経記』)は、『鬼一法眼』(巻二)には「五條の悪とうかい坊」として伝えられているが、「たんかい」「たうかい」の音便で、結局同一であろう。これにも姓を与えて、長谷部としたのは謡曲『湛海』で、笠原と呼び始めたのは『三略巻』である。  
以上の如く、本伝説の主要人物は皆漸次に完全な姓名を附与せられて来たのであるが、同時に説話の内容に於いても、亦人物の性格に於いても、多少の変容・成長を営んで来ている。その最も著しく且興味あるのは、本伝説が鞍馬天狗伝説及び弁慶誕生の伝説と結合せられて来たことと、鬼一の性格の変化とである。弁慶と関係せしめられたのは、『三略巻』に始まり、その動機は前に述べたように、主として人名の偶然の類似に基づく(弁慶の幼名を鬼若と称するのは早く『義経記』に見え、戯曲作者の故意に作り出した名ではない)ので、本伝説との結合も単に機械的に接合せられている程度のものであるが、等閑に附することの出来ないのは鞍馬天狗伝説と本伝説との混融に就いてである。  
発生の主理由が同じく、而も同様の兵法伝授に関する伝説で、大天狗と鬼一とは略々相似た位置に立ち、相似た種類の登場人物であるばかりでなく、被伝授者は同一人なのであるから、両伝説が進展の間に、自ら接近し混融して来たのも偶然ではなく、或は又共同の本源をなす史実をその根柢に有していて、両様の形に展開して来たのではなかろうかとの仮定すら樹て得られる可能さがある。果たしてこの仮設が真であるとすれば、両伝説は一度分離して、再び復た元へ還って合一したものとも観られるのである。或は又史譚的な本伝説が更に神話的に変容して『義経記』等に描写せられてある僧正ヶ谷の背景に融和したのではないかとの想測も不可能ではない。  
さすれば同一本源から両様に発展したのでなく、本伝説は前伝説へ進展する段階的位置に立つとも観られ得ることとなるのである。併し何れも猶推測に止まるだけであり、又本伝説は求婚説話型の恋愛譚を含む点で、これが前伝説に変容するにはその重要部分だけが脱落したことになり、少しく自然さを欠く嫌いがある。兎に角以上のような関係がなかったとしても、少なくとも両伝説は、同一の動機から生まれ、同一の理由によって拡布した意味を、少なからず共通に有しているとは明言し得られるであろう。具体的に両伝説の混融の状態を観ようとならば、『三略巻』及び『虎の巻』を抜けばよい。即ち二書に於いては鞍馬山の大天狗僧正坊は、実は牛若に兵書を譲ろうと思惟する源家の忠臣鬼一法眼が、平家を憚る仮の姿であった――これは一は前に出版せられた浮世草子の『風流 誮平家』の常磐御前が天狗の面を被って牛若を励ます趣向に示唆を得てそれを転用したのでもあると思うが――のを、それと知らずに、鬼一に弟子入りしようと館に入り込んだ御曹司に、法眼は娘皆鶴の手から虎の巻を伝えさせると共に実を明し、且、義に迫って自殺することとなっている。これは一面から言えば、形の上では両伝説を結び付けたものであるが、又一面からすれば、兵法を伝授した天狗というのは、実は韜晦した謀士であったとする、前の『俗説弁』式種明し的解釈で、鞍馬天狗伝説を鬼一法眼伝説で説明しようとしたものであるとも言えるし、若し又史実があったとしたら、天狗に仮託した伝説が、恐らく同一本源から出た別箇の伝説によって本拠を暗示せられたということになるのである。同巧異曲の構想でこれに倣ったのは馬琴の『俊寛僧都島物語』である。  
此に於いては、鬼一法眼を鬼界が島で死せずに、密に京に遁れ帰った法勝寺の執行俊寛であるとして、前の場合の解説に、更に二重に解明を加えたような形をなしてい、鬼一法眼伝説を、更に又俊寛伝を以て説明しようとしたもので、此処に至って、本伝説は戯曲家・小説家によって意外の形貌に進展せしめられてしまった。尤も鞍馬天狗伝説と本伝説との交渉は必ずしもこれら文筆家の想案からのみ出たのではないことは、正徳四年の序のある日夏繁高の『武芸小伝』(巻之六、刀術)に、  
兵術文稿曰、源義経住鞍馬寺之日、従鬼之門人鞍馬寺僧、而習剣術於僧正谷。是所以欲深密而神之也。世人不知而謂牛若君師天狗也。 
とあるによっても知ることが出来る。これこそ鞍馬天狗伝説の本拠に擬するに本伝説或はその派生説話を以てしようとする民衆の心意の一端を代弁しているものと観ることが出来、『俗説弁』(正徳五年の自序が附してある)にも提示せられてあるような見解に、具体的な断案を早くも下しているものと言うべきである。又、所謂鞍馬八流(京八流)――小天狗鞍馬流も亦この系統か――の由緒に関して、やはり同書の先に引用した「吉岡拳法」の條に鞍馬僧八人から出たとしてある説明と共に、それが又鬼一の門人であるとしてあるから、『兵術文稿』の鞍馬僧で鬼一の門人であるという人物―- 一人のようにも解せられ、或は数人即ち恐らくその八人――と先ず同一と看てよいのであろう(然らば鬼一は自ら大天狗に相当することにもなる)。かくして少なくとも武芸家の側では所謂鞍馬天狗を鬼一門と目して怪しまぬようであるが、それは上に言う如く、鞍馬天狗伝説を鬼一法眼伝説によって解こうとしている心意なり態度なりが発生し成長しつつあるという事実を示すだけで、本拠の発見及び考証というには猶未だ頗る遠い。何となれば鞍馬僧と天狗との親近さは譲歩出来るとしても――これもかなり通俗的な合理化という程度の考え方であるが――鞍馬僧が鬼一の門弟であったか如何かという緊要の前提に於いて、何等有力な明証が挙げられてないからである。要するに前伝説と本伝説との混淆融合の一現象として一顧して置けば足りるのであろう。  
又鬼一法眼の人物に就いて検すると、『義経記』『鬼一法眼』『勲功記』等の鬼一は唯陰陽師で、兵法の指南家であり、且平家を懼れ、寧ろ好意を有する外、源氏には無関係である。その性格も、概して単純で、牛若の才を嫉んで、湛海に殺させようとする小人物である。然るに戯曲・浮世草子の鬼一では、元来源氏の臣下ながら今は平家の扶持を受けているとし、牛若に対しても内心はこれを尊敬し、兵法の奥義を伝えたい素志はあるが、名目上の義理に絡まれてそれと顕わに言い得ず、或は僧正坊の姿となって余処ながら兵術を授け(『鬼一法眼三略巻』『鬼一法眼虎の巻』)、或は娘の恋愛を黙認するのみか却って利用してこれに秘書を与え、それを情人に献ぜしめて志を致させ(『風流 誮軍談』『三略巻』『虎の巻』)、斯くして自身は辛うじて不臣不義の責を免れようとする。この情義に挟まれる心中の苦悶、之を解決する実際的方法に就いての工夫、これが江戸時代の文学に於ける鬼一法眼伝説の眼目となって来ているように見える。そして民衆もかくの如き形式的義理に拘泥することを以て満足し、作者もこの点にのみ腐心するのが即ち近世時代色の一面で、本伝説もこの一般傾向の中に動かされて行っているに過ぎない。この態度をなお一段と押進めたのは、『島物語』の馬琴で、鬼一は俊寛僧都の変身となるに及んで、平家に対する恩義乃至遠慮は全然除去せられるようになったばかりでなく、果たし得なかった平家覆滅の企を、牛若によって成就せしめる積極的な後楯となっているのである。概して江戸時代の鬼一は、原伝説に於ける如き剛悪人でなくなって居り、表明は平家に従って、裏面では源氏の忠臣であり、湛海のみが全然の悪人である。この鬼一が表裏二面を有する矛盾は、如何にも弁護しにくい所で、構想の複雑味は添える代わりに、作者は皆この点の取扱に困しんでいるのを観るのである。  
なお古跡として鬼一法眼屋敷跡と称する地(〔補〕現、鞍馬電車貴船口駅前、鞍馬小学校校庭の下)に塚が現存し、『山州名跡志』にも「帰一法眼塚」と出ている。  
【文学】最も古いのはやはり『義経記』(巻二、鬼一法眼の事)であろう。謡曲に『湛海』があって、牛若が五條天神で湛海を斬ることを作ってある。即ち本伝説の後半を素材としたもので、殆ど『義経記』の内容と同じである。恐らく『義経記』から採ったものであろう。唯湛海を法眼の婿とし(『義』は妹婿)且その姓を長谷部としてあるのと、牛若の帰宿先を鞍馬としてあるのとだけが異なっている。婿とする点は御伽草子の『鬼一法眼』と同様である。『いろは名寄』に『みなづる』の名が見えるが、廃曲で伝存しない。『鬼一法眼』(三巻)は前にも述べたように、成立の先後は別として説話の形の上では、『御曹司島渡り』の内容と『義経記』の「鬼一法眼の事」の記述との恰も中介者であるような観がある。が、同書中の牛若と姫との関係を記した部分は、確に『十二段草子』の影響を受けたと推せられる節があり、詞章を比較しても、これが後者より早い作とは思われないから、『義経記』と『十二段草子』とから併せ採って作ったものではなかろうか。もとより『御曹司島渡り』若しくはそれから出たこの書の内容そのままの伝説が既に前に形成せられていて、それが又文学となって現れたのがこの書であろうとも考えられるが、そうならば、その文学化せられるに当たって、前二書の影響があったろうことを認めたいのである。『判官みやこばなし』というのは、『鬼一法眼』の一名と見え、巻末に「寛文十年庚戌正月吉辰林市三郎開板」とある帝国図書館藏の『判官都話』は、「絵入」と冠した五巻本であるが、内容は『鬼一法眼』と全く同じである。又後に同一の書の題簽を改めて、『鬼一三略巻判官都物語義経千本杉』とした五巻本がある由を平出氏の『近古小説解題』に記されてあるが、未だ管見に入らない。又『勲功記』(巻三)には、小早川の慈光院永智尼公が、大阪松の丸殿に献じた『義経虎の巻』と称する上中下三巻の絵草紙があった由を記してある。大体の内容から察すると、この『鬼一法眼』と同一の物ではないかとも思われる。  
〔補〕帝国図書館本の『判官都話』を、高野辰之氏藏三巻本を以て校合したものを、拙著『近古小説新』(初輯)に収めてある。又、昭和八年一月号「国語国文」に「舞の本皆鶴の紹介」と題して清水泰氏の発表があり、その全文が登載された。舞曲と断ずるには猶十分の徴証がほしいが、本伝説を取扱った御伽草子として珍しいものである。  
『義経興廃記』には巻二、『義経勲功記』には巻三に見える。古浄瑠璃では『金平本義経記』(二之巻、三段目・四段目)に作られて、これは大体『義経記』に倣っている(〔補〕『弁慶京土産』も本伝説が中心である)。『末広十二段』(初段・三段目)にも採られているが、最も著名な戯曲は言うまでもなく『鬼一法眼三略巻』である。この作では牛若は鬼一へ普通の弟子入をせず、虎藏と名を改め、又鬼三太は智恵内と称し、相謀って鬼一の下部に住み込むのである。虎蔵の名は牛若からの思いつきで(鬼に連関して丑寅の連想)、且虎の巻に掛け(且、奴の名に虎蔵と用いたのは既に近松の『 栬(もみじ)狩剣本地』(五段目)の戸隠山の鬼の奴踊に「関内・角内・可内よ、取ったか取らんか虎蔵よ」とあるのから来たと思われる)、又智恵内は、かほど分別ある男に何故智恵ないと附けたかと言う鬼一の詞で説明せられている。「内」は勿論下郎の呼名に掛けたのである。  
この曲の三段目「鬼一館の段」は特に謡曲『鞍馬天狗』の詞句を採った所が多い。法眼が二人を試みようとして、智恵内に命じて、牛若の虎蔵を杖を以て打擲させようとするのは、安宅伝説から借りて来たものであろう。歌舞伎でもこの三段目切の「菊畑」及び四段目の「檜垣茶屋」「大蔵卿館」が有名で、「菊畑」は新歌舞伎十八番の一にも数えられている。歌舞伎で本伝説を取扱ったものでは、他に『鬼一法眼指南車』『勝時栄源氏』等がある。『三略巻』から二年後に出た其磧の『鬼一法眼虎の巻』は、同戯曲を浮世草子に綴り代えたもので、部分的に少しづつ変化増減があるのみである。浮世草子にはこれより以前、『三略巻』上場の翌享保十七年の作に、祐佐の『風流 誮軍談』があって、同じく本伝説を題材としている。馬琴の読本『俊寛僧都島物語』は、俊寛に関するものではあるが、又本伝説に取材した作であることは前述の如くである。但し俊寛と牛若とを結びつけた点では、近松の『俊寛牛若平家女護島』(享保四年)を先鞭とすべきであるけれども、それは猶単に二人の事を箇別に同一曲中に収めたというに止まっている。これを一層緊密にし、且本伝説をも応用して一篇を作り成したのが、即ち『島物語』である。その他、一代記風の義経物に本伝説が採られているものの多いのは、これ亦前伝説と同様である。  
〔補〕昭和三年七月、帝劇女優劇に書卸された松居松翁の『六韜三略恋兵法』は、『義経記』と「菊畑」とに取材したものである。 
4 義経島渡伝説及び牛若地獄廻伝説

 

4-1 義経島渡伝説 
この伝説は主人公義経の年歴からすれば、浄瑠璃姫伝説の後に位置するものであるが、前-條及び前條の伝説と密接に関係しているから、便宜それに続いて取り扱おうと思う。そしてその義経も実は牛若丸時代と殆ど間隔の無い少年英雄として語られている。  
【内容】  
人物 御曹司義経。蝦夷が島の鬼かねひら大王・同女あさひ天女  
年代 (奥州滞留時代)  
場所 千島一名蝦夷が島及び航海中の諸島 
御曹司義経がなお奥の秀衡の許に滞留している頃、一日秀衡を召して、都へ上る方策について諮ると、秀衡は平家を討滅して天下を掌握しようという望を果たす為には、これから北の海中にある「千島とも蝦夷が島とも」呼ぶ島に渡って、その都きけんじょう(喜見城)の主、かねひら大王と号する鬼の秘蔵する「大日の法」と名づけた兵法の巻物を獲給へと勧めたので、義経は遂に意を決し、秀衡の許を辞して、四国土佐の港から出帆し、こんろが島・大手島・猫島・犬島・まつ(松)島・うし(牛)人島・おかの島・とと島・かぶと(兜)島・たけ(竹)島・もろが島・ゆみ(弓)島・きかい(鬼界)が島・ひる(蛭)が島等を経た後、高さは十丈許り、腰から上は馬、下は人で、その腰に太鼓を附けた異形の者共の住む馬人島や、男女の隔なく、皆裸体でいる裸島を巡り、女護島では名笛たいとう丸を吹いて危難を免れ、ちいさご島(小人島)一名菩薩島では島人の小躯に驚き、二十五菩薩の影向には随喜し、蝦夷が島の蛮人に害せられようとしては、再びたいとう丸を鳴らして窮地を脱し、終に千島の都に着いて、又もや王城の鐵門を守る牛頭・馬頭・阿 仿羅刹の鬼共の餌食となろうとして、三度音楽の力を借りて命を全うし、漸く大王に面謁すると、大王は義経の穎才に感じて、師弟の約を結び、「りんしゅ(林樹)の法、霞の法、小鷹の法、霧の法、雲居に飛び去る鳥の法」等を伝えたが、なお大日の法の奥義は允可しなかった。  
偶-大王が催した宴席で、名笛を吹奏し、心を籠めた想夫恋の妙音に、大王の愛女「三十二相、八十すいかう(種好)のかたち」を具えた美人あさひ天女の心を惹いた結果、その夜御曹司は遂に天女と契り、その導きによって、大王極秘の大日の法を窃み覧て三日三夜に写し取ると、不思議や後は白紙となった。天女は後難を予言し、且その難を免れる法を教えて、義経を遁れさせた。  
大日の法を盗まれた験は目前に現れて、天地は俄に晦冥となったので、驚愕した大王は、天女の援助で秘巻が読まれたことを悟り、急に鬼共をして義経の後を追わせたが、義経は天女に習った法を行って身を免れた代りに、大王は義経を捕らえ得なかった怒りの余り、姫が予期した通りこれを裂き殺してしまった。義経は再び土佐の港に着き、やがて秀衡の許に帰還したが、天女の霊が夢に現れて、その死を告げたのを哭し、教えられた法を試みると、果たして約の如く水上に一滴の血が浮かんだので、さては疑なき事実と、その代って犠牲になった志を憐れみ、厚く天女を弔った。かくて義経は、この大日の法を用いて、源氏の興隆を将来したのであった。義経は鞍馬の毘沙門天の化身、又、文珠菩薩の再誕で、天女の本地は相州江の島の弁財天であったという。  
【出処】御伽草子『御曹司島渡り』  
【型式・構成・成分・性質】型式は全然英雄神話の一種である勇者求婚型である。唯逃亡に際して、青年英雄である義経だけが遁れ帰り、天女を伴わないのは一般型式の本格ではないが、逃走に当たって、物を投げて障碍物として、敵人を禦(ふせ)ぐことは、日本神話中での求婚説話の代表たる大国主神根の国行神話(『古事記』上巻)には欠けているのに、それが本伝説には具備していて、逃走説話の完型を成している。即ち義経が敵人に追跡せられるに際して、天女の教のままに、えんさん(塩山)の法を行って後へ投げると、「平-たりし海の面に潮の山七つまで」生じて、追手の前を遮ったとあるのがそれである。又本伝説には、大王から種-の難題を課せられて苦しめられることは無いが、代わりに途中の諸島に於いて、屡-(しばしば)将に死に至らしめられようとするほどの危害に遭遇している。そしてその場合の救助者は天女ではなくて笛であり、その観点からは芸術伝説の一種たる音楽説話特に楽徳説話を形成している。  
兎も角本伝説は、完全ではないが明瞭に求婚説話の型式を具えているものである。併しそれだけではなく、本伝説は又、一方、特にその前半に於いて、ガリヴァ-型(Galiver's Travels type)の巡島説話を形成している。即ち種-な珍しい島-を巡って異事奇聞を経験することを骨子とする一般型式に恰当し、蝦夷が島はその巡廻諸島の終極をなしているのである。求婚説話の必須條件としてではないから、全説話の構成上からは分離し得るし、この部分だけ独立した説話としても取扱われ得るが、求婚乃至秘宝獲得の途上に於ける冒険譚として、この求婚説話の一部を成しているとも無論言い得る。いづれにせよ巡島型の説話としては日本では古いものの一として注意すべき伝説である。  
即ち本伝説は遍歴説話の一種型たる巡島型説話を挿話として含む音楽モ-ティフ(吹笛モ-ティフ)の勇者求婚型説話ということになるが、この神話的型式を継承していることに伴う神話味の上に、別に又本伝説は中世宗教伝説の一様式たる本地物分子とも合体している--但しこれは説話型式の上及び構成の上からは殆ど附着的の色彩に過ぎないのではあるが--為に、仏教的性質をも添加せられて、主人公が神仏化せられ、神話的成分及びそれに近い物が著しく賦与せられている。内容に於いても法術や怪異や頗る神話的要素に富んでいる。同時に文学的空想の成分も多く、伝説というよりは寧ろ遊離的な童話と目せらるべきものである。史実的成分は殆ど認め難い程淡い。兎も角、義経伝説中最も神話的且童話的な説話で、武勇伝説としては性質上からは准神話的武勇伝説と看るべきものであり、そして挿話として恋愛譚と遍歴譚と芸術(楽徳)譚とを有し、而も神仏化現説話としての宗教的著色を帯びている複雑な説話として取扱われねばならないものである。  
【本拠】世界的な遊離説話で、特に本拠と認むべきものは無いようである。骨子となっている史実も恐らくは無いであろう。古代の日本神話が時代的著色を施されて変容したものとも見られなくはないが、この時代に外来した遊離説話が、日本化したものと見る方がより自然であろう。島渡の部分に関しては、その遊離説話の原形に含まれていたと否とに関せず、次に述べる為朝の島渡伝説が移って来て、それが他の先行伝説や更に新な空想やを加えられて複雑化したのかと考えられるが、若し原話に欠けてでもいたら、巡島説話の完型を成す為に、更に他の或童話的遊離説話も与っているであろうとの想測もそれと矛盾しないであろう。  
島渡の伝説としては本伝説以前に『今昔物語』(巻三一)の「鎮西人至度羅島値虎語」(第一二話)、「佐渡国人為風被吹寄不知島語」(第一六話)等があるが、巡島説話と名づくべき程でなく、漂流譚、少なくとも島渡説話と呼ぶべきであろう。近古では、同類の文学『一寸法師』にも島渡が語られてあるが、これは童話で且やはり漂流譚である。本説話と交渉はあるかも知れないが、あっても部分的に過ぎないであろう。而もその先後は遽に定められない。それよりも『保元物語』に為朝鬼ヶ島渡伝説(巻三、為朝鬼が島に渡る事)を伝え--『一寸法師』がこの伝説から影響を受けているであろうことは推断に難しくない--、これも巡島説話の完型ではないけれども、又直接説話上の交渉は少なくても、八郎御曹司の島渡が、やがて九郎御曹司の島渡に変わったとしても驚くべきではない。共に源家の武将として、又相似た運命に就いて、国民の追慕を集めている二人者でもある。『一寸法師』に影響しているであろう点と併せ考えて、少なくとも間接に、又英雄島渡という伝説的事実の移行という意味での本伝説の前身とも観られ得るであろうと思われる。  
元来遍歴説話は世界何れの民族にも行われている童話的遊離説話であるが、事実としての旅行癖・行脚趣味も日本には古来発達し、文学形態としても紀行文学の一類を生んでいる程である。遍歴譚も支那のような広大な大陸国では『海内十州記』の如きものが出るのが当然であるに対して、四面環海の島帝国は、陸路遍歴以外に諸国漫遊が島巡りの形となって現れるのも自然でなければならぬ。加之室町時代には南蛮人の渡来があり、支那との交通は公私ともに益-盛となったのであるから、その間珍しい他国の人種・風俗・異聞等の輸入せられたものも多く我が国人が桃太郎童話に於いて空想しているような鬼ヶ島式怪島譚に、好適ともいうべき実例に近いものが偶然に齎らされたこともあったに違いない。況や鬼ヶ島の住民の状貌・生活に関しては、『保元物語』(巻三)のそれと、『盛衰記』(巻七)の鬼界ヶ島の習俗を記した條とを併せ読めば、略-時人の想考と又時人に伝えられた智識の一般とを知り得るのである。『古今著聞集』(巻一七、変化)にも、高倉天皇の承安元年七月八日、伊豆国奥島に、鬼共が漂着した記事が出ている。南洋の食人種ででもあったのであろう。同じ御伽草子の『一寸法師』にも狂言にも鬼ヶ島のことは作られて居り、また、手長・足長の人種の如きは、既に昔から清涼殿の荒海の障子に書かれてあったことを思えば、『山海経』等の影響をも併せて、馬人島・小人島等を義経に巡らせるのも唐突ではない。『今昔』(巻五)の「僧伽多羅五百商人共至羅刹国語」(第一話)は印度説話であるが、これを書き改めた『宇治拾遺』(巻六)「僧伽多羅刹の国に行く事」の如きは最早全く御伽草子になっていて、女護の島と鬼ヶ島の合体したような怪島譚で、直接ではなくとも、或は本伝説の成立にも影響していないとも限らぬ。唯いづれも完型の巡島説話とは看作し難く、それらの諸伝説を経て漸次に成長して来た島渡説話が本伝説に於いて終に巡島説話の典型を作り出すに至っているのを観るのである。  
又本伝説は蝦夷にも行われた(『蝦夷談筆記』『北海随筆』)点から、或は彼地に本拠が見出されはせぬかとの疑も懸け得られぬこともないが、暫く後に掲げる金田一京助氏の説、即ち浄瑠璃(ユカラ)として行われる彼地のそれは、本伝説が却って原で、本土から彼地へ伝わって流布したものであろうとの推論に従おうと思う。更に本伝説と義経の末路に関する蝦夷渡伝説との関係に就いても、或は間接には何れかがその原となったかも知れないが、直接の関係は恐らくは無いであろう。  
〔補〕ジョン・バチェラ-氏著『アイヌ人と其説話』第二四章に、『御曹司島渡り』と同じ内容の口碑がアイヌに現存している由が見えているが、兵法書を「トラ−ノ−マキモノ」と呼んでいる点からなども、彼地固有のものではなく、内地からの逆輸入と見るが自然のように考えられる。  
なお部分的には、娘が愛人の命に代わって親なる鬼に殺されること、及び血に変じた水の色によってその死を覚知せよと女が夫に約すること等は、『貴船の本地』と似ている。何れかが他の原話であろうが、その先後は遽に定め難い。又『島渡り』に鬼王が義経に向かって、「葦原国の大天狗太郎坊も我が弟子なり。四十二巻の巻物を相伝せんと申ししが、ようように廿一巻いの法まで行いて、それより末は習わぬなり。若しそれを習ってあるらん。それを習ってあるならば、我等が目の前にた、悉く語るべし」とあるので、本伝説は鞍馬伝説にも関係があり、且、この御伽草子は同伝説よりも、後のものであることを知るのである。  
【解釈】前條に述べたように、本伝説は前條の原形と目せられ得る。  
そして勇者求婚説話の型式を借りている本伝説の内容上、義経伝説として注意すべき眼目は二つある。一は即ち武勇伝説としてで、これは前-條及び特に前條の伝説に於いて論述したと同一である。情話の含まれる事も前條の伝説と同じである。唯敵手が超人間である点は、却って前-條の伝説に類縁を見出すが、説話としての交渉は直接的には無いと思われる。二は中世思潮の一特色の具現である本地物としてである。即ち武勇伝説の主人公たる義経を、一面に於いて仏菩薩の化身再誕とし、弁財天のあさ日天女の行動をも、平家討滅に助力する為、権に人界に現れ給うた方便と観ようとするので、斯うして義経は愈-神化せられ、崇敬の度を増さしめられるのである。通俗的な説法の具に利せられたのではあるけれども、又それは時代民衆の欲求でもあり、史上の偉人を仏神の再来と説明して、その超凡の業蹟に、信仰的な自足の解釈を与えようとするに他ならない。そしてここに英雄崇拝心に宗教的尊信の意味を加えて、両方面からの渇仰の対象たらしめるのである。  
 
なお本伝説には、次の如き種-の意義が含まれていると観ることが出来る。  
1 前條及び前-條の伝説に認められると同じく、秘事秘伝を尚ぶ時代の反映で、而もその秘巻を益-神秘ならしめようとする為に、北海の端にある耳珍らしい蝦夷が島の、而も鬼の手にあるとしたのである。  
2 その秘法は大日の法と称して、「現世にては祈祷の法、後世にては仏道の法なり。この兵法を行い給ふものならば、日本国は君の御ままなるべし」(『御曹司島渡り』)と秀衡が絶讃する無二の秘法である。即ちこの法は、冶国の法で、又兵法であり、而も同時に仏道の法でもある。そして最後の意味が最も重きをなしている。政治と兵法と仏道とを帰一させようとするもの、換言すれば、仏道を以てすべての道を蔽おうとするこの思想は、実に中世思潮の顕要な一面である。而もこの大日の法は、本伝説に於いては単に魔術程度にしか用いられていず、平家覆滅、天下治平の大功を収めさせたであろう推臆以外、純粋の仏道の法としての力は発揮せられていないのも注意すべく、要するに萬般の事象を仏道に索引しようとする時代色が興味深いのである。  
なお、天女が惜別の詞に、「この兵法の威徳を語り聞かすべし」と言って、談義を始めるのも、中世風潮の一具現で、来由・縁起・功徳の説明は又秘事伝統の尊信と関連している。  
3 島渡りの状景に於いて、これ亦時代現象として著しい倭冦の投影を看取し得ることである。即ち義経出航についての『島渡り』の叙述は、  
御座船と号して尋常に飾り、首には鞍馬の大悲多聞天、艫に氏神正八幡大菩薩、艪櫂には廿五菩薩を書き奉り勤請し、祈誓申させ給い、土佐の港を漕ぎ出し、蒼波萬里へ押出す。  
とあって、八幡大菩薩の旗を押立てて乗出し、八幡船と怖れられた倭冦を連想させるものがあるとは、芳賀先生の述べられた所である(大正二年度東京帝大講義「鎌倉室町時代小説史」)。但しこれは御伽草子作者の筆飾であるかも知れないが、同書成立時の時代粧を映している事には変わりはなく、その意味でやはり本伝説に投影しているとも言える。或は原話に於いて既に語られていたのであろうかとも思う。いづれにせよ国民の進取的海外発展の意気と冒険的勇気とは、又この伝説を育成する間接の力としてはたらいていることだけは認め得られる。  
4 右に関連して我が国人の対外的眼光が漸く広くなり、且単に好奇的探検旅行趣味も増大して来ていることを示している。それは既に述べたように、南蛮人との交通等によって、多少世界的地理的知識を与えられた為である。三好孫七郎が呂宋経略の策を豊太閤に献ずる以前に於いて、『御曹司島渡り』は国民に広く歓迎愛好せられていたであろうことを疑わない。併し無知無学な民衆常識は、唯好奇心に誘われて、新に耳にした珍事異聞を、殆ど無自覚的に、唯驚嘆の情を以て迎え、或は紹介するに急で毫も合理的に考察判断することがない。舞台を蝦夷が島に取って、多少それらしく語っているのは面白いのに、同時に又これを鬼ヶ島としてしまったり(内地から遙に隔たった人外境と思われていたことは、『盛衰記』(巻四五)に宗盛が「千島に俘囚(とらわれ)なりとも、甲斐なき命だにあらば」と涙を流したと見えるのでも知れるが)、或は仄聞した南洋の風俗を応用したらしい裸島が北海の千島に赴く途中に存在するという矛盾を敢えてして怪しまなかったり、更に義経が奥州の秀衡の許から海一つ彼方の蝦夷が島に渡ろうとするのに、津軽海峡を越えないで、その出帆地は「四国土佐の港」である奇観は、特に面白く感ぜられる。土佐を発船の地としたのは、平安朝以来の物語・和歌の上で学んだ都人の地理は、紀行文の祖をなした貫之の『土佐日記』を、海上通航の案内記(ガイドブック)と頼むのを最も便であるとしたによるのか、或は又当時土佐は倭冦の発船地として特に知られていた関係でもあったのであろうか(『義経入夷伝説考』の金田一氏はこの「とさ」は、津軽の要津十三(とき)を四国の土佐に誤って考えたのであろうとの説である)。要するに本伝説は、又、今や漸く井中の蛙が大海に放たれかけて来ながらも、その知識はなお漠-として殆ど空中楼閣の如くであった中世民衆の地理的観念を示すものとしても意味がある。  
5 既に一言したように、本伝説は一面音楽の霊力を説く楽徳説話であるとも観られ得る。本伝説に於ける義経は、僅かに一管の笛を以て屡-危難を免れ、これを吹いて蛮人を懐け、鬼の心をさえ和げるオルフォイス(Orpheus)のような音楽の大天才である。その目的たる大日の兵法を獲得出来たのも、これに託してあさひ天女に思慕の情を仄めかしたこの神韻の賜である。日本の物語文学中、音楽を中心とするものには、早く平安朝に『宇津保物語』があり、『源氏物語』も亦多く音楽を取扱っている。就中音楽の奇蹟を語る所謂楽徳説話としては『宇津保』(俊蔭巻)の俊蔭及びその女、孫仲忠、同書(棲の上巻下)の俊蔭女、『狭衣物語』(巻一上)の狭衣中将等はその代表的のものである。特に狭衣の方は本伝説の場合と同じく笛である。即ち『古今集』序に見える芸術の神秘的な霊力理論を具象的に説話化して、詩徳・歌徳等の伝説群と並立させているので、平安貴族の教養として必須條件をなしている管弦の神技に関する伝説が近古へかけて益-続出して来た(『江談抄』『宇治拾遺』『十訓抄』『著聞集』『古事談』『続古事談』『東斉随筆』『盛衰記』『仁明天皇物語』、舞『烏帽子折』、謡『蝉丸』『経政』『絃上』等)のも当然で、その平安貴族の理想人の半面を賦与せられている義経に、楽徳説話が附随しても奇とすべきではないのである。義経伝説中、義経の吹笛を語るものは甚だ多く、特に『笛之巻』『十二段草子』等はその尤なるものであるが、中でも本伝説はその代表的のものとして推されねばならない。  
6 最後に附言すべきは、本伝説は義経の高館生脱後の蝦夷渡伝説を暗示又は肯定する意味を有するものとは思われないことである。彼は末路に関する多少の史的意義が含まれているもので、此は全く青少年時代に於ける童話的の物語である。桃太郎に牛若丸という史的人物が代ったのに過ぎないようなものである。蝦夷が島は、畢竟鬼ヶ島なのである。世界的な遊離説話である勇者求婚説話が、この時代の日本的な説話として現れるに当り、偶-その敵人の国として択ばれたものが、当時「西は西国博多の津、北はほくさん、佐渡の島」(『義経記』巻五)に対せしめた「東は蝦夷の千島」(同)であったに過ぎず、且その地の人種・風俗等に関して十分な知識はなお与えられてはいないが、少なくとも一般国民にとって実在する奇島として知られたものをもってすることが、神話的の根の国、童話的の鬼ヶ島よりも事実らしさと興味とを多大ならしめると考えられたが為であろう。『島渡り』に「てんくわの棒に附子(ぶす)の矢を持ちて」と記してあるのは、蝦夷人に関する知識が、朧気ながらも輸入されていたことを証するものである。(「てんくわの棒」はアイヌ語の「テンカコンナ」(獲物を振りまわすことであるという)の訛ではないかと言われている。附子は狂言『附子』にも主題とせられていて、植物から製した毒薬である)  
 
が、兎も角も、本伝説から所謂義経蝦夷渡の事実なり伝説なりを読み取ることも、亦本伝説から蝦夷伝説への進化推移をも直ちに認容することも、頗る困難である。もとより義経戦死当時から、蝦夷に逃亡したとの風説なり想像なりが、時人に起こり得ることを許すべき事情がないではなかったとしても(後に詳説する)、それは自ら本伝説とは別箇の問題である。所謂今日伝えられる如き、義経蝦夷渡伝説の形成は、なお遙に後の事であろう。何となれば本伝説を除いては、この時代の伝説・文学に一もその片鱗痕跡を認め得べきものが無いからである。そして唯一の義経蝦夷渡に関係ある本伝説は、実は義経鬼ヶ島渡とも名づくべき荒唐な物語に過ぎないのである。唯本伝説が後の所謂蝦夷渡伝説の形成を間接に助長し、或は一度本伝説が蝦夷に渡って、彼地固有の神話と融合し、更にそれが内地に発生した蝦夷渡伝説の本拠となり、若しくは旁証的資料となって愈-その進展に資したという事は有り得よう。 
【成長・影響】本伝説は兵法書を中心とする点に於いて、鞍馬天狗伝説・鬼一法眼伝説と類を同じうするのみならず、互に何等かの関係があるかの如く思われる。特に前にも論じたように、『鬼一法眼』の素材の直接の本拠となったであろうとの推断は許されるのではあるまいか。文学としての先後は姑く措いて、少なくとも『御曹司島渡り』の内容を形成する本伝説が、『鬼一法眼』に影響を与えたであろうことは、否み難いかと思う。両書の構想並びに叙述を対比すれば、それを肯定せざるを得ぬのである。又本伝説の名笛に想夫恋の曲を奏でて天女の心を動かす事及びその條の文は、『十二段草子』と全く無関係とは思われない。いづれかがその粉本であろう。  
本伝説の影響として特記すべきは巡島説話型の展開である。後世の島渡説話は、多くは本伝説に影響せられたようである。未完型の巡島説話たる『保元物語』の為朝鬼ヶ島渡伝説を素材として綴った、後の曲亭馬琴の『椿説弓張月』(後篇巻一・二)でも、為朝を鬼ヶ島のみならず、女護の島にも渡らせているのは、実際の八丈島の民族的事実が骨子となっているのは勿論であるが、屡-御伽草子に取材して想を構えている馬琴の筆として、本伝説の影響をも受けていると見て差支無い(但し、西鶴の『一代男』や、近松の『平家女護島』の外題もあり、女護の島の空想を助けたものは他にもあろうが)。近松の『源義経将棋経』(五段目)が蝦夷の義経大王が島-を巡った後に女護島司浄瑠璃姫の許へ赴くことに終局しているのは、本伝説と『一代男』との影響であることは疑うべくもない。  
我が文学に現れた巡島説話中、史的英雄を主人公とする著名な伝説は三類ある。為朝と、義経と、朝夷とに関するものである。為朝・義経のものは上に挙げた。なお為朝に関するものには、鬼ヶ島で鬼の姫と腕押しや首引の勝負を争う狂言『首引』がある。朝夷の島渡りとして最も早く文学に現れたのは、金平本の『朝夷島渡り』であるが、これは一種の怪物退治説話で巡島説話ではないけれども、鬼ヶ島の鬼大王を服する点で、為朝島渡り及び桃太郎童話の流れを引くものであろうか。或は『御曹司島渡り』とも間接には関係があるかも知れない。黄表紙の『朝比奈島渡り』は恐らく『御曹司島渡り』の影響下にあると思われる。更に同伝説を読本に作ろうとして未完に終わったものは馬琴の『朝夷巡島記全伝』である。『巡島記』の題号から察しても、馬琴は必ずこの義経の島巡りを粉本にする腹案であったろうと思う。又この朝夷の渡島を義経の蝦夷渡に結びつけた作に為永太郎兵衛の戯曲『鎌倉大系図』、それを承けた福内鬼外の『源氏大草紙』がある。それから黄表紙『近頃島巡り』(市場通笑作)は、又朝夷の巡島説話から出たものである。そして少なくとも成長した後の朝夷巡島説話は伝説味は減退して、著しく童話的寓話的となっている。それは下の仮作説話の一類との混淆がある為でもある。  
右の史的人物の巡島伝説でなく、架空小説で巡島説話の型式を用いた作品には遊谷子の『異国奇談和荘兵衛』(これは『荘子』に示唆を獲たものであることはいうまでもないが)、これから出た馬琴の『夢想兵衛胡蝶物語』(これ亦同じく『荘子』にも学んだことは題名の示す通りである)があり、又、一九には合巻『新製交島(こびとじま)廻』があり、風来山人の『風流志道軒伝』もこの種のものである。いづれも所謂ガリヴァ-型の寓話的仮作物語で、支那文学に影響せられていると共に、本伝説の流れを引いているものである。  
以上のように本伝説は後代文学に多大の影響を与えた外、求婚説話としてのそれ自体は発展しなかったようである。唯、その巡島説話の部分のみが、朝夷の巡島説話及び右に挙げた寓話的仮作小説の内容と混融して成長流布して来たという現象だけを見る。例えば徳川期に出た絵本『義経島巡り』(一名『義経巡島記』)の如きは、本伝説をそのまま継承しているのではなくして、寧ろこれから出た朝夷島巡りの説話が又逆転して来て、而も所謂義経の蝦夷渡伝説に加わったようなものである。『巡島記』の題号も馬琴の作から来たのであろうし、その巡遊の島-はカフリ島・首環島(ゆうかんじま)・小人島・夜国・カマカ・モノモタツハなどいうので、原伝説の片影を微かに留めてはいるが直接系統ではなく、朝夷や夢想兵衛やその他の模倣に、架空の想像上の外国知識を混じ、而も義経は、弁慶始め諸臣を随伴して廻遊するのである。  
【文学】『御曹司島渡り』(御伽草子二十三篇の内)が本伝説唯一の所載原典でもあり、同時に本伝説の作品化せられた唯一のものでもある。巡島説話の部分は特に童話的素材として適切である為、赤本『義経島巡り』、黒本『義経島渡』、絵本『義経島巡り』同『義経巡島記』等となって現れたが、概して原伝説とはかなりに懸隔がある。  
4-2 牛若丸地獄廻伝説

 

これは鞍馬山時代に属するものであるが、同じ遍歴説話の異種異型の伝説であるから、此処で併せて考察してみる。 
【内容】  
人物 牛若丸。鞍馬山の大天狗・同妻(甲斐国こきん長者娘きぬひき姫)。大日如来実は牛若の父源義朝の後生  
年代 (鞍馬山時代)  
場所 鞍馬山。地獄・極楽浄土 
牛若丸は七歳で鞍馬に上り、東光坊の許で勉学し、学問頗る上達した。或時、鞍馬の山奥に、天狗の内裏というものがあると聞き、それを見ようと心を砕いても叶わぬので、毘沙門に祈誓してその所在の指示を希った。老僧と現じた毘沙門天から教えられた方向に牛若が尋ねて行くと、鉄門厳めしい内に、壮麗な内裏があった。主の大天狗は悦び迎え、眷族を招集して歓待を尽くし、種-の奇法を施させたり、自身は五天竺の状を目前に示したりして、珍客の目を娯ませた。大天狗の妻、これは天狗の棲処に在る唯一人の人間で、甲斐国こきん長者の独り娘きぬひき姫という女であるが、懐かしい人間界から来たこの源家の公達を、何をがなもてなそうと、終に牛若に勧めて、大天狗を案内者として、一百三十六地獄を見物させることにした。二人は数-の地獄を巡って歩いた(以上、刊本『天狗の内裏』上巻)。  
大天狗は続いて若君を伴って、九品浄土に到ると、「この九品の浄土に、御曹司の父義朝は大日如来になり」安座して居られた。初めは如来の聲のみで、牛若と種-の仏法問答を試み、その器量をためした後、妄執の雲を霽して親子の対面をなし、我が心を慰める道は、仏法修行ではない。平家を亡ぼして我が仇を報ずるに如くはないと訓へ、更に牛若の未来に就いて、懇-として語り諭す所があった。かくて牛若は父と別れ、大天狗の内裏に引返し、此処で大天狗と師弟の約を結び、やがて辞して東光坊に帰った(同、下巻)。  
【出処】御伽草子『天狗の内裏』。  
【型式・構成・成分・性質】遍歴説話の一型式、勇者地獄巡型(詳しくは勇者地獄極楽巡型)の伝説である。この説話型は又勇者冒険譚の一型式としても取扱い得るのであるが、本伝説では後者の意味は特に附与せられてはいない代わりに、後半に挿話として未来記式予言説話型が附帯せしめられている。未来記の挿話は別として、地獄極楽の歴巡という型式に於いて前の巡島型と類種である。併し本伝説は前者が童話的なのに比して明白に宗教的で、即ち純粋の武勇伝説ではなくて、武勇伝説の主人公たる義経に結びついている宗教伝説(法談物)と観るべきものである。寓話味の含まっている点は従って両者に共通している。説話成分は神話的と空想的(仮構的)のそれが濃厚で、史実的成分は義朝父子の人物と、挿話内容を成している未来記としての義経に関する史的事件以外には殆ど認められない。要するに宗教譚と合体した准神話的武勇伝説である。  
【本拠・成立】地獄極楽巡歴伝説、特に地獄実地見聞談は夙く『日本霊異記』に智光法師堕獄伝説(巻中、第七話)、藤原広足回生伝説(巻下、第九話)等が載せられている。元来この思想なりこの種の伝説なりは日本固有のものではなく、三世因果、転生輪廻の仏説の上に立っているもので、印度から支那を経て日本に輸入せられた三国伝来のものである。日本神話に於いても、伊弉諾神黄泉国行(『記』上巻。『紀』巻一、神代上)、大国主神根の国行(『記』上巻)があるが、本伝説に直接の系統を引くものではない。本伝説に影響を与えた本源の思想なり型式なりはそれら固有の神話ではなくして、却って外来の印度宗教譚に覚めらるべきでなければならぬのである。  
『霊異記』の後を承けた平安時代の『今昔物語』となると、弥-多くの地獄極楽談を収めている。即ち印度及び支那説話としては巻六・九等に、日本説話としては巻一三・一四・一七・二〇等に見える。就中知られているのは西三條大臣良相回生伝説、即ち冥官の化現とせられる小野篁が閻王府に往来して恩人良相の命を救った奇話(巻二〇、第四五話)で、これは余程支那臭がある。又地獄の状が稍詳細で後世の形にかなり近いのは、越中国書生の妻立山地獄巡歴伝説(巻一四、第八話)、膳広国冥府行伝説(第二〇、第一六話)等である。降って同じく近古の小説で、同じく地獄廻説話として最も著名なのは、御伽草子の『富士の人穴草子』である。仁田四郎が人穴を探検し、富士権現の導きによって一百三十六地獄及び極楽浄土を廻る物語を題材としてある。武勇に附会して仏法を説き、勇者を借りて因果説の実証を示そうとするもので、本伝説と同種同型のものである。又『太平記』(巻二〇)の結城入道堕獄伝説も怪山伏の案内で行脚僧が冥府を観る話で、類話の一と言える。本伝説は以上の諸説話と直接間接に関係があり、此等の中の或ものからは特に影響を受けてもいるであろうことが少なくない--『人穴草子』とは最も密接な交渉があろう--のは否定することは出来ない。又、地獄絵の屏風や絵巻も平安時代以来書かれて居り、特にこの時代は通俗説法の弘通した時世で、勤進比丘尼の地獄極楽絵解なども流行している頃であるから、そうした空気の中から生成して来たことは疑無い。併し本伝説の骨子を成す説話の本拠は、実に意外の辺にあるのに驚かざるを得ないのである。  
希臘の勇者譚として最も有名なホ-マ-の二大叙事詩、『イリアド』("Iliad")及び『オディッセイ』("Odyssey")と並び称される羅馬のそれは、ヴァ-ジル(Virgil)(ヴィルギリウス)の『イニ-ド』("AEneid")十二巻で、これは、トロイ戦争に敗れて、父を肩にして囲を逃れ、伊太利に走って終に羅馬建国の基を開いた英雄イニ-アス(AEneas)の物語を叙したものである。その第六巻目はイニ-アスの地獄極楽廻の説話で、之を『天狗の内裏』に比較してみると、決して単なる偶合ではなくして、確に本伝説の本拠たることを主張していると私は推断したいのである。今両者の説話内容を、條項に要約して、対比してみよう。  
 
イニ-アス伝説 
1 イニ-アス伊太利の海岸に到着してアポロ-を祀った聖山に登り、夢に冥府の父の許に行けとの神託を受ける。  
2 この山の巫女の洞を訪ひ、神託に随って冥府に入るに就いての方法を詢ると、巫女は黄金の杖を森林中に求めよとの難題を与えて、之を獲た後、導いて地獄に赴く。  
3 先ず噴火山の火口から入って殺生湖を通過する。  
4 黒河を渡り、嬰児界・寃死界・自殺界・哀傷界・勇士界等の各地獄を巡る。  
5 最後に極楽に到り、亡父アンカイシ-ズ(Anchises)に会う。  
6 父からトロイ人の未来と、イニ-アスの世界征服の予言とを告げられる。  
天狗の内裏  
1 牛若鞍馬の毘沙門堂に祈って天狗の内裏を見ようと願い、夢想により山奥へ入って之を探ねる。  
2 大天狗の内裏に到り、その妻の勧めによって、父に逢う為に、冥府の見物を大天狗に懇願すると、大天狗は法問を以て牛若を試みた後、案内を快諾する。  
3 先ず炎の山の地獄と血の池の地獄とを観る。  
4 餓鬼道・修羅道等一百三十六地獄を廻る。  
5 最後に九品の浄土に赴いて、今は大日如来となっている亡父義朝に会う。  
6 父から牛若自身の未来記、平家を亡ぼして天下の武将と仰がるべきことを予言される。 
 
なおその他細い点は異同があるが、イニ-アスが地獄で亡友パリニュ-ラス(Palinurus)等と語ることがあれば、牛若も餓鬼道で一人の餓鬼と言を交え、極楽(エリジアム)(Elysium)でアンカイシ-ズが人間の火風土水から成っている事を説けば、浄土で牛若は大日の法問に答えて、人死する時は、木火土金水の原質に帰すことを述べる。そして巫女の洞、即ちドライデン(Dryden)の訳語を借りれば、"The Sibyl's palace"(The Harvard Classics 13 AEneid p. 219)はとりも直さず「天狗の内裏」に相当するのである。又鞍馬山から先ず入り込む炎の地獄の状を叙して、  
高さ百余丈ばかりの山なるが、炎の立つと見しよりも、刹那が間に焼け砕け、微塵となりこはいとなり、四方へばつと立ちにけり。(『天狗の内裏』上巻) 
としてあるのは、ヴェスビアスの噴火口を連想せしめられないでもない。既にホ-マ-の『オディッセイ』が、百合若伝説として日本化している事実が真ならば(「早稲田文学」明治三九年一月号、坪内逍遙博士「百合若伝説の本源」)、南蛮人渡来時代にイニ-アス伝説が『天狗の内裏』となったとて、毫も不思議とするに足りない。  
〔補〕『オディッセイ』の日本移植の中介者かと新村出博士に想像せられている葡国詩人カモエンス(Camoens)がヴァ-ジルに私淑して、その名篇『ルシアダス』もこの先輩の詩体に則った(『続南蛮広記』所収「南風」)ことなども、一層如上の推定を円滑ならしめる。 
牛若に関した余りに荒唐な伝説であり、又天狗の棲処を内裏というが如きも、宮廷生活に憧れていた時人の思想が、それを助けたではあろうが、余りに奇抜な感があるのも、これによってその疑問が極めてなだらかに解かれて来るであろう。若し本伝説の本拠がこのロ-マ建国叙事詩にありとすれば、トロイの戦捷者と、戦敗者とに関する泰西伝説が、各-日本化したことは、面白いことと言わねばならぬ(なお地獄廻は『オディッセイ』にもある。これに暗示を得て、ヴァ-ジルはイニ-アス地獄廻を書いたのであろうとドライデンは説いているが、『オディッセイ』の同部分は、後人の讒入であるとも言われている。いづれにせよ、少なくとも本伝説に影響したのはイニ-アスの説話の方である)。  
【解釈】義経伝説としての意義は、父義朝との対面にある。母の懐に呱-の聲を為していた日、面影すら眼に刻む暇をも与えずに、一朝戦乱の不幸が現世に於ける永久の別れを強いたその父義朝に、思いも寄らぬ幽冥の世界で相会う期を得て、親しくその口から我が未来を示され、遺志を託せられ、かくして愈-復讐の決意を固めしめられることは、平氏討伐の大功を樹てた九郎義経の使命の上に、甚だ軽からざる意味を与えるもので、その決意の動機を、祖先の系図を覧て発憤したにあるとし(『平治物語』巻三)、或は旧臣が密に来て勧めたにあるとする(『義経記』巻一)よりも、一層端的に、切実に牛若丸をして自己の使命を自覚せしめる所以で、かかる伝説が生成せしめられ、或は外来伝説が日本化するに当たって、国民の手によって義経に結びつけしめられて斯うした意味を賦与せられている所に、本伝説の主要な意義を認めざるを得ぬのである。  
次に考察に値するのは、末段の未来記である。義経に関する未来記中、最も詳細で、最も完全なのは本伝説のそれで、換言すれば、その未来記中には所謂義経伝説を形づくっている伝説群の大部分を集成し得たかの観がある。即ち五條橋千人斬伝説(橋弁慶伝説)・東下り及び関原与市伝説・山中常磐伝説・熊坂長範伝説・浄瑠璃姫伝説・鬼一法眼伝説・島渡伝説・平家追討・継信身替伝説・梶原讒言の因縁伝説(謡曲『沼捜』にも見える所で、義経は景時坊という聖僧であった景時が笈の中の経巻の文字を喫い破った鼠であったという前生譚)等皆含まれている。そしてこれら諸伝説を集成した本伝説は即ちそれら個-のいづれよりも後に発生したものでなければならないのと、江戸初世頃発生したと思われる蝦夷伝説を含んでいない点で、その成形は室町末期と観るが妥当であり、この点からしても、南蛮人渡来の頃に伝えられたのではないかとの推測に、矛盾する所は無いのみか、却って助成さえもしているのである。  
義経伝説を離れて単独の伝説として観れば、言うまでもなく、武勇に附会した宗教譚で、『人穴草子』に於けると同意味を有している。而も最も国民の崇敬同情を集めている史的且伝説的人物を利用して説法に資したことは、仏者にとっては最も便宜で、賢明で、有効な方便であらねばならなかった。浄土での父義朝との対面を外にしては、本伝説の主要部分は、全く地獄極楽の説明でしかない。その亡父義朝も亦今はその九品浄土の主として尊く有難い大日如来にましますのである。血族関係上の父たるのみならず、得道成仏の御法の父にましますのである。牛若丸自身も亦実に『御曹司島渡り』に於いて信ぜられたと同じく、「もとよりこの君は毘沙門の御再誕の若君にてましませば」(『天狗の内裏』上巻)、罪障の深い汚濁の凡夫とは自ら種を異にしているのである。偶-大天狗が介在して、鞍馬天狗伝説と同様の意味を有しているようであるが、それは唯附加的なだけで、牛若の地獄廻に際して、これが案内者を求めるに、否イニ-アスを導いた巫女に相当する人物を求めるに際して、最も関係の浅くない、そして超人的である大天狗に於いて恰好の役者を得たというに過ぎないのである。又、その妻のきぬひき姫も管弦の上達に慢じた為に攫われて天狗の棲処へ伴われたという『樒天狗』式女人で(或地方口碑であったのかも知れぬ)、巫女の役を夫の天狗と分担しているだけである。畢竟浄土安楽国の仏、大日如来の義朝の口からして、牛若の使命が仏道修行ではなくて、平家討滅にあることを力説せしめた矛盾は、原伝説を忠実に踏襲した結果に外ならないので、本伝説の創り出された第一の動機はやはり『天狗の内裏』巻末の、「斯様の事を聞くからに、この世のうちは仁義体智信を表とし、うちには後生菩提を願うべし(下略)」とあるのに尽きるであろう。  
若し上に論証したように、イニ-アス伝説がその原形であるとすれば、これが日本化せられるに当たって、自ら払われた注意は、寧ろ如何に仏教説法の方便としての物語に利用すべきかの上にあったことが明らかに看取される。要するに本伝説は、宗教譚としても観られ得、而もそれが儒教とも武勇とも結合し、禅と念仏との混体でもあるような所に、室町期の時代色が遺憾なく表されている。そしてこの説話を内容とする『天狗の内裏』は、大日如来の信仰から観て、密教系の、或は地の池地獄の『女人血盆経』の教などのある所から、曹洞派の関係者か何かが執筆したのではあるまいかという推測が許されそうに思う。  
【成長・影響】本伝説の成形が室町季世であるとして、これに影響を与えた筈の『人穴草子』(岩瀬京山の言う通り同書が「東山殿頃の御伽草子」(『歴世女装考』第二)であるとすれば無論、縦し義政時代でないとしても、仁田四郎地獄廻伝説の成形の方が本伝説のそれに先行してはいるであろう)から同じく影響を受けて成形した同じく地獄廻で且鬼神退治の武勇伝説と結合している甲賀三郎地獄廻伝説(御伽草子『諏訪の本地』、古浄瑠璃『甲賀三郎伝説』、出雲・文耕堂合作の『甲賀三郎窟物語』)と本伝説との先後は明らかでない。且、直接の交渉は無いかも知れぬが、勇者地獄巡型説話としての関係は親近で、少なくとも間接には素材上の流通はあるであろう。そして作品の上からは少なくとも本伝説の方が先だっていると言えよう。  
本伝説自体としては成長を見なかった。義経と地獄とを結びつけた作として後に金平本の『義経地獄破』が出たが、これは本伝説とは全く別種のものであり、その内容は既に序篇で紹介した通りのもので、本伝説とは恐らく関係が無く、その直接の粉本となり先駆となったものは、狂言『朝比奈』(それから出た新内に『朝夷地獄廻』があり、『源氏大草紙』(五段目)にも朝夷地獄破伝説は採られている)であろうし、先後は不明だが同じ金平本に『金平地獄破』(道具屋吉左衛門節正本)も作られているし、他方では『魚鳥平家』『鴉鷺合戦物語』『仏鬼軍』等異類合戦物の一類にその様式を学んだものであろう。なおついでにこの金平本は後に『小夜嵐』(元禄一一年刊)、『続小夜嵐』(正徳年間刊)、『新小夜嵐』一名『地獄太平記』(正徳五年刊)等の地獄小説--いづれも同型の異類合戦物--の系統を生む俑を作った。右の『続小夜嵐』は地獄と極楽との戦で『仏鬼軍』と同構想、『新小夜嵐』は地獄に落ちた赤穂義士と閻王との戦であるが、それらの先駆をなした『小夜嵐』は源平の将士と閻王との戦で、その前年の『西鶴冥途物語』(元禄一〇年刊)から誘発せられたところもあろうが、内容は即ち『義経地獄破』を粉本としてそれを敷衍改作した小説であることの疑無いことは、両書を対比すれば直ちに首肯出来る。但しそれでは最早主人公は義経ではなくなって、彼はその討伐軍の一方の飛将軍になっているだけである。  
【文学】御伽草子に『天狗の内裏』(二巻本・三巻本等があり、刊本は萬冶二年板)があり、絵巻としても行われたことは『羇旅漫録』(巻一)、『考古昼譜』等によって知られる。延宝五年刊の古浄瑠璃に同名の曲のある由が『近古小説解題』に記されてあるが、未だ管見に入らない。  
〔補〕『天狗の内裏』本文は拙著『近古小説新纂』(初輯)に収めてある(猶同書「考説」の部及び新潮社編「日本文学講座」第一一巻、拙稿「天狗の内裏とイニ-ド」(牛若丸地獄極楽廻伝説とイニ-アス伝説)は本稿と重複する所が多いが詳説補足する所も少なくない)。古浄瑠璃『天狗の内裏』はその後東京帝国大学国文学研究室に購入せられた平出鏗二郎氏旧蔵本を披閲することが出来た。但し同書は延宝五年刊の五段本で、題号は恐らく本書に借りたと思われるけれども、僅かに第一段の大天狗が奥下りの牛若を祝う部分に本書を承けたと看られる節があるだけで、内容は浄瑠璃姫伝説を主としていて、本書の直接の改作という如きものではない。 
5 浄瑠璃姫伝説

 

事件の順序からすれば、次條[6]の次に来べきであるが、[3]及び[4-1]と説話上の連関があるから、その意味で取扱を先にしたのである。且元服後の事に属するのであるけれども、近松の『十二段』などには、なお「牛若君」と明記しているのは、これ亦本伝説の義経をやはり年少者として看ようとする希望が十分にあることを語っている。事実、元服したというだけで未だ牛若丸時代と殆ど変わることはないのではあるが、それでも『十二段草子』には判然と「御曹司義経」としてあるのに、却って近世に降ってから、これを「牛若」と呼んで怪しまぬのは、故意にそう改めたのではなくて、東下りの御曹司を依然用い馴れた牛若の称呼とその可憐な若少の姿に於いて幻想したい民衆の何人でもの心持が、殆ど無意識的にはたらいているによると考えられる。『義経記』では次條の鏡宿の強盗戮殺は牛若十六歳の初技としているのに、『十二段草子』では元服後なのを却って十五歳としている矛盾もこの意味で寧ろ興味がある。  
【内容】  
人物 御曹司義経(牛若丸)。浄瑠璃姫  
年代 (義経十五歳。奥州下りの途)  
場所 三河国矢矧宿 
海道一の遊君と名も高い三河国矢矧宿の長者を母とし、同国の国司伏見の源中納言かねたかを父とし、薬師如来の申子で、「玉をのべたる如く」(『十二段草子』)美しい顔容なので、名も浄瑠璃御前と呼ばれ、萬づの道に暗からず、二百四十人の美女に伝かれて、栄華の日-を送っている姫の邸に、折から金売吉次に伴われて奥へ下る御曹司義経が通りかかり、管絃の音に足を止めて、これほどの遊びに笛のないのは惜しい限りと、名手の若君は堪えかねて、一管に妙音を籠めると、姫は漫にその神韻に酔い、侍女に命じて笛の主を喚び入れさせ、その夜両人は遂に浅からぬ仲となった。枕問答の試査によって、歌道・仏道・故事・恋愛、萬般の業に才識と熱情とを知り得た結果、姫は漸く心を許したのである。行手を急ぐ都の若人は引留める姫を残して名残惜しくも翌日袂を分った。然るにその御曹司は測らずも駿河国吹上の濱で奇病に罹り、吉次に捨てられて困しむのを、源氏の氏神正八幡は老僧と現じてこれを慰め、更に矢矧の姫にこの難を告げられた。吉次が僕の名も知らぬ賤しい冠者と契った姫は、母の不興を蒙って、乳母れんぜい(冷泉)と唯二人柴の庵に佗しく起臥す折からとて、驚き悶え、遂にれんぜいの勤めに任せ、か弱い足で海道を下り、吹上の濱の砂中から病死したその人を尋ね出し、日本国中の神-に祈誓の誠を籠めて辛うじて蘇生させ、辺の伏庵に住む薬師如来の化身と思しき老尼の親切で全く快癒した恋人から、初めて明かされた本名を聞く嬉しさは、起死本復の喜びに加えて譬えようもなく、かくて互に形見を取り交した後、姫主従は義経の呼び寄せた大天狗小天狗の通力で、瞬時に矢矧宿に送り返され、又義経は東下りの旅を続けた末、奥平泉秀衡の館へと入ったのであった。  
【出処】『浄瑠璃十二段草子』(一名『浄瑠璃姫物語』)  
【型式・構成・成分・性質】純粋の武勇伝説ではなく、又特殊の型式というほどではないが、吹笛モ-ティフ並びに申子モ-ティフの勇者恋愛譚で(勇者恋愛譚という点とその薄運の哀話という事情に於いて、鬼一法眼伝説及び島渡伝説と相類し、吹笛モ-ティフという点で、島渡伝説及び『鬼一法眼』の所伝とは一層共通している)、神仏の利益を説く霊験譚的宗教伝説がこれに合体している。説話の構成の上から観れば、前半は純然たる恋愛説話で、後半はこれに附帯した人買伝説の著色を有する託宣モ-ティフ及び神仏化現モ-ティフの回生伝説で、霊験的意味は全説話の根幹要素である女主人公に関する申子モ-ティフの点にも無論あるが(〔内容〕の項には省略したが、矢矧の長者三十七歳、夫の国司四十三歳になるまで子種の無い理由に関して、両人の前生譚、即ち長者は大蛇、夫は鷹であった因果の理を、薬師仏が老僧と現じて細説せられる託宣モ-ティフが、その中に又含まれている)、具体的な奇蹟の現れとしては、この後半に特に著しい(特に八幡大菩薩は老僧としての他、童子と現じても、姫主従に吹上の濱で病死の義経の居所を教えられる事も、『十二段草子』には語られている)。全般に亘って空想的(仮構的)成分が多きを占め、神話的乃至それに近いものも相当に認められる。二人の歎会を母の長者に見咎められようとして、それを紛らす為、御曹司が鞍馬で習得した山の印・小鷹の印を結んで影を晦しつつ、三重の堀を飛越えて遁れる呪術(マジック)も、近世隠形の術の域を出ないものながら、一方神話に見出されるそれにかなり近接している。が、要するに霊験譚を加味した准史譚的説話である。  
【本拠】不祥。但し漆桶萬里の文明十七年九月の作で「憩矢作宿」と題した  
出刈屋城三里余 宿云矢作記其初  
伝聞長者婿源氏 秋水痩辺閑渡鱸 
の一首がその著『梅花無尽藏』に載っているのが、高野斑山氏の説(『歌舞音曲考説』)の如く、『十二段草子』以後の作とすれば論はないが、若し然らずとすれば、『十二段草子』に作られる以前に、口碑として本伝説の存したことが考えられるのである。『宗長手記』(享禄四年)、『守武千句』の附合(天文九年)等によっても、牛若に関する浄瑠璃乃至は『十二段草子』或はそれに類するものが室町季世までには既に行われていたことが知られるが、本伝説乃至『十二段草子』との関係は知悉することが出来ない。この二つの資料は併し文明十七年よりは更に四十年以上経過した後のものであるから、『十二段草子』の成立を旁証する意味を強く認めようとする立場を覆す程の力も無さそうである。又喜多十太夫の『猿轡』に見える、文安年中、宇田勾当という盲人の作で『十二段草子』の粉本となったと推定せられる『やすだ物語』という曲も、本伝説に関係があったか如何かは、それが今日伝存せぬので、委しく質すべき手懸りが無い(なおこの伝説乃至浄瑠璃に関しては、柳亭種彦の『足薪翁記』『還魂紙料』を始め、大槻如伝の「俗曲の由来」、萩野由之博士輯『新編御伽草子』(下)の「浄瑠璃十二段草子の開題」、星野恒博士の「浄瑠璃」(「史学雑誌」第四編題四四号)、須藤求馬著『校訂浄瑠璃物語評釈』、及び『歌舞音曲考説』の「十二段草子考」(〔補〕高野博士著『日本歌謡史』第五編第五章「浄瑠璃」笹川種郎博士著『近世文芸志』第一章「浄瑠璃」)等に論考がある)。  
要するに少なくとも本伝説は史実の根拠は無くとも、矢矧辺に行われた口碑であったという事は想像し得られる。『宗長手記』(大永七年三月)にも「矢矧の渡して、妙大寺昔の浄瑠璃御前跡、松のみ残りて云-」と見えて萬里の詩に相応じ、『和漢三才図会』には「冷泉寺」の條に本伝説を掲げてある。仮名草子『恨の介』(上巻)にも、「義経の思いしは、静御前や浄瑠璃姫」の詞句が見える。唯、以上の諸記述が『十二段草子』以前の口碑を録したという明証が無い限り(内容としての口碑は勿論記載文献より遙かに旧く溯らせ得ることも屡-許されるのであるけれど)、かの有名な『十二段草子』が語られ読まれて流布した事実に伴って、そうした結果を齎したと観ることも決して不自然ではない。結局、この口碑が『十二段草子』に素材を与えたのか、或は却って『十二段草子』を本源として本伝説が発生して口碑化したのかは、確定的な資料に不足する以上、断定は一寸困難である。  
『十二段草子』以前、口碑の存否如何に拘らず、本伝説或は『十二段草子』が鞍馬天狗伝説より後のものであること、そしてその影響を受けていること、特に恐らく舞曲『未来記』の影響下にあること(小鷹の印を結ぶことなど)、それから類推して舞曲『鳥帽子折』からも影響を受けていること(義経東下りとそれに関連しての吉次の対義経態度、青墓宿の長者の館に於ける義経の吹笛、熊坂戮殺の夜の御曹司の装束の記述--『十二段草子』では「笛の段」の中にそれが含まれていて明確に共通した点が示されている--等)がわかるし、又これは孰れが先後か即断は許されないが、御伽草子『鬼一法眼』との説話上及び詞章上の交渉は否定出来ない。『鬼一法眼』を通してか或は別にも『御曹司島渡り』が又間接に本伝説に連関を有するかも測られない。唯、説話の素材上では『鬼一法眼』の方が本伝説に先行するように思われるが、詞章及び作品としての構想の或部分(例えば管絃の場面や、艶書の文辞など)は寧ろ『十二段草子』から学ばれたという関係に立つのではないかと推測せられ得る。それから謡曲『隅田川』に於いて既に流布している梅若伝説も本伝説に粉本を示しているに違いない。  
【解釈】東下りの道途に於ける一挿話として唯一の彩りをなす伝説で、鬼一法眼伝説及び島渡伝説と共に義経の年少時に於ける情事方面が叙べられ、成長後に於ける判官のこの方面へもの伸長を暗示している。且これは手段としてではない純然たる恋愛譚で、殊に「観音・勢至の化身かや、普賢・文珠の再来かや」(『十二段草子』)という御曹司と、峰の薬師の申子の姫とのロマンスは、美しく哀れなばかりでなく、貴く神秘的な意味まで附加せられている。この点、二人の本地を説く『御曹司島渡り』と類縁をなしていて、時代色を発揮している。又本伝説に於いては島渡伝説同様、笛の妙手としての義経を力説してい、「男女の中をも和ぐる」媒に、和歌の代わりに一管を活用した形になっている。  
〔型式〕の項にも述べた通り、薬師如来の霊験と正八幡の利益とが特に強調せられ--この両仏神がそれぞれ二人の守本尊としいて終始加護を垂れ、二人の契合は即ち又この両者の連結でもある--、その他、和歌及び仏法の問答、故事因縁の講釈、託宣、申子、人買習俗等に室町時代そのままが投影している。  
【成長・影響】近世文芸の精華をなしている浄瑠璃の鼻祖と仰がれる『十二段草子』は浄瑠璃節としての史的展開の将来を示す意義深い法燈を挑げていることは言うまでもない。文学としてもその追随者を後代に続出せしめつつ、説話それ自身の成長改変をも営んでいる。特に成長後の本伝説で注目を惹くのは、浄瑠璃姫の死である。即ち『十二段草子』では、その終が不明であるが、徳川期に入って、姫は「御曹司恋しやとその恋風が積もり来て、無情の風のやまふの床、終に果敢なくなり」(『源氏冷泉節』)とせられているのは、作者近松の有意か否かは別として、そのいづれであっても鬼一の姫(『義経記』『鬼一法眼』)の伝説が移って来たものと思われる。次いで出た『勲功記』の浄瑠璃姫も御曹司を恋い侘びて病死している。『東海道名所円会』には「浄瑠璃姫の塚」を載せ、『三才円会』の「冷泉寺」の條にも、義経出立後、再会の期無きを悲しみ、菅生川に投身したので、侍女冷泉が尼となって、供養の為阿弥陀堂を建てたのがそれであるとし、西村白鳥の『煙霞綺談』(巻一)には、岡崎附近の大平川の辺に在る禅寺成就院が冷泉の開基で、浄瑠璃姫入水の地は此処としてある。近松の『十二段』(四段目)で、姫が従弟矢矧の藤太に殺されることになっているのは、作為であること明らかであるが、それと共に、この愛人を恋い焦れつつ果敢なくなった可憐な若き姫、而も薬師の申子として名も有難い浄瑠璃御前の、その死を尋常に終らしめたのでは、世人の飽き足らずとする所であろう。其処を狙って巣林子は熊と兇刃に斃れさせ、而も奥から攻め上る途にこれを耳にした義経がその墓を弔うと、忽ち光明赫灼たる薬師如来の姿と現じて、恋人にその身の本地を告げることにし(『十二段』五段目)、或は一旦死んでも瑠璃光如来の仏力で女護島の司、長生殿の天女と再生する奇蹟的な幸運に恵ませるのである(『源義経将棋経』四段目・五段目)(但し、これは一面支那説話、『長恨歌』の楊貴妃に暗示を獲たので、しゆくわい仙人の海尊は即ち玄宗の為に蓬莢島に使した臨卯の道士に似た役割を勧めさせられている)。  
同じ『将棋経』(初段)の姫は、義経を恋い、「せめて思いも晴るるやと、牛若君と我が身の上、人知れぬ忍びねを、十二段の物語に作り、自らこれに節博士を附け、(中略)ささやかなる人形に色-の衣裳を着せ」て、操の遊をするのが奇抜だが、この由が鎌倉へ聞え、召されて頼朝の御前で、若君頼家元服の祝儀に操狂言を上覧に供することとなり、姫はその狂言に託して梶原が奸曲を刺り、又人形使に扮した鈴木三郎重家が現れ出でて義経の寃を直訴し、景時父子を懲すのは、本伝説に謡曲『語鈴木』の伝説を結び付け、且静の鶴ヶ岡舞楽伝説にも形を借りたものである。それに出雲のお国の面影も連想せられぬでもなく、十二段の物語を作るのは勿論小野お通の事を思い寄せたものであろう。  
又本伝説を逆にして、矢矧川に舟遊する義経に、廊の主の娘浄瑠璃姫が児姿で侍女十五夜の手引によって近づき、笛を吹いてその心を牽き、遂に契を結ぶこととしたのは、浮世草子の『義経風流鑑』(一之巻)である。  
 
〔補〕明治三十四年三月歌舞伎座の大切に出した『三河島の別荘に一人娘の婿えらみ縁結矢矧戯』は「浄瑠璃姫実は娘おきよ、矢矧の息子長之助」という役名で、本伝説から著想した常磐津の所作事であった。 
御伽草子『鬼一法眼』が本伝説の影響を受けているであろうことは前に説いたが、古浄瑠璃『牛王姫』も亦本伝説の一種の変形である。同じく吹笛モ-ティフを含む恋愛譚で、唯愛人の為に犠牲になるのは『島渡り』のあさひ天女の方に近い(矢矧の長の姫から鎌田が妹牛王に変わったに就いては、謡・舞曲の『烏帽子折』の烏帽子折の妻が故殿の遺孤に寄せた好意から、進んで斯うした転移を誘導して来たものと解せられる)。  
〔補〕宇治嘉太夫(加賀掾)の正本『天狗の内裏』は前條の伝説の終に補述したように、主に本伝説を内容とするもので、  
第一 てんぐのだいり  
第二 うし若殿かかみのしゆくにてがうどうを討給事  
第三 上るり姫くはんけん井うし若殿四きのてう  
第四 うしわか殿上るり姫のねやにしのひ給う事  
第五 うし若殿平家をせめ上り井れいせいに逢給う事  
の五段から成り、『十二段草子』と『天狗の内裏』とを併せたような作で(『源氏十二段天狗の内裏』という不思議な外題を附しても呼んでいたようで、即ち両伝説を殆ど機械的に結び合わせた如き内容を、その題名がよく示してもいる)、『十二段草子』から直接だけでなく、この曲を経て近松の『十二段』の構想は下されていることは上の各段の組織によっても直に想到し得られる。  
又同じ加賀掾の正本『冬牡丹女夫獅子』(下の巻、閏十三段)では本伝説と鞍馬天狗伝説とが結びつけられた。 
 
【文学】本伝説を内容とする作品として先づ挙げられねばならないのは無論『浄瑠璃十二段草子』である。略して単に『十二段草子』とも言われ、又『浄瑠璃御前十二段草紙』とも『浄瑠璃姫物語』『浄瑠璃物語』などとも呼ばれている。写本・絵巻・板本各種(慶長活字本・寛永木活字本・正保三年板・寛文板等)がある。又、十二段本の他に八段本・十五段本・十六段本等もあるが、やはり十二段本が古いのであろう。この草子を以て浄瑠璃の始源とすることの誤であることは既に殆ど定説となっている(種彦『足薪翁記』『還魂紙料』、星野博士「浄瑠璃」の論考、『歌舞音曲考説』等)。併し後世これを院本の祖とし、この流れを酌んでいることも亦事実である。仮令『やすだ物語』その他先行の曲があったとしても、所謂浄瑠璃節の発達に直接の源泉をなした史的意義は没却すべからざるものがある。そしてその時流に迎えられた原因としては、主人公として国民愛好の標的たる御曹司義経を捉え来ったことも、確にその一に数えらるべきであろう。又謡曲・舞曲の一段一曲式の体裁を破って、十二段の続き物の形をなしていることも、『やすだ物語』の継承ではあろうが、それが形式の上にも詞章の上にも、亦音楽の上にも大成して、兎も角も、一つの纏った完全な曲となったのは、恐らくはこの曲が始であろうし、先進の同類の曲が亡びた間に、独り栄えて、長く世人に喜ばれたことを思えば、自ら其処に理由がないではないであろう。十二段に分けたことの意味も、或は薬師の十二神に象るといい、或は平家の巻数に倣ったといい、又作者が小野お通であるということの真否、乃至その改補説(「俗曲の由来」)等も古来屡-論ぜられたが、推測の域に止まり、なお確説がないと見るが至当であろう。なお又この草子は浄瑠璃とはいっても、今は語られず、既に早くから御伽草子の一として、読み物ともなっていたことは、書名の示す通りであり、『嬉遊笑覧』(巻三、書画、絵双紙)にも、明らかに御伽草子の中に数え、又萩野博士刊行の『新編御伽草子』中にも収められている。その制作年代は、「十二段草子考」の説に従えば、文安以後文明以前、足利義政の初世であろうという。  
この草子から出て、本伝説を題材とした江戸時代の戯曲には、『吹上秀衡入』『新十二段』(〔補〕『天狗の内裏』)等の古浄瑠璃を始めとして、近松の『源氏冷泉節』(主に下の巻、且、下の巻の終の部分に、「冷泉節」の一段がある)、『十二段』(後に『源氏十二段長生島台』と改題)、『孕常磐』(四・五段目)、海音の『末広十二段』及び近松の『十二段』を改作した出雲等の『児源氏道中軍記』(四段目)等がある。歌舞伎では元禄十七年市村座春狂言の『星合十二段』が「押合十二段」の地口の出来たほどの盛況であったのと、この狂言中、初代市川団十郎が私怨から鼓打の杉山半六(一説、半之丞)に刺されて舞台で斃れた(一説には宝永三年『八島合戦』の狂言の時、継信に扮しての事ともいう)事とが記憶されねばならぬ出来事であった。その他にも歌舞伎に屡-演ぜられ、黙阿弥にも『西東恋取組』(矢矧の寮)の作がある。『勲功記』には巻二に見え、読本としては『絵本浄瑠璃姫譚(ものがたり)』(表紙の見返しには『矢矧長者浄瑠璃姫物語』とある)がある。その他一代記風の義経物、及び俗曲(一中節の『浄瑠璃供養』など知られている)・俚謡等に本伝説を採ったものが多い。 
6 熊坂長範伝説附山中常磐伝説及び関原与市伝説

 

これも事件の順序からは関原与市伝説から熊坂長範伝説へ、そして浄瑠璃姫伝説へと進んで行っているのであるが関原与市の方はさほど重要でないから熊坂伝説に併せて考察しようとするのである。山中常磐伝説は別種のそして後の発生であるから、これは熊坂伝説に附随して取扱おうと思う。又これらの諸伝説の義経は関原与市の場合は当然牛若時代であり、熊坂の場合も元服後数日で殆ど牛若時代そのままと言ってよいばかりでなく、『義経記』では明らかに元服以前の出来事になっている。山中常磐伝説ですらも、牛若丸としての義経に於いて語ろうとしている。  
6-1 熊坂長範伝説  
【内容】  
人物 牛若丸(源九郎義経)・三條吉次信高。熊坂長範(『義経記』は藤沢入道・由利太郎) 及びその部下  
年代 (奥州下りの途。舞『烏帽子折』は安元元年三月、『義経記』は承安二年二月三日夜、牛若丸十六歳。『曽我物語』は十三歳)  
場所 近江国鏡宿(『義経記』)(謡『烏帽子折』、舞『烏帽子折』には元服の場所を鏡宿としている)或は美濃国青墓宿(舞『烏帽子折』、謡『現在熊坂』)又同国赤坂宿(謡『烏帽子折』『熊坂』)又同国垂井宿(『曽我物語』) 
牛若丸は鞍馬山を脱出し、金商人三條吉次信高に伴われて奥秀衡の許へ下る途、近江国鏡宿で元服して源九郎義経と名を改めた。偶-近郷に聞えた強盗の張本熊坂長範という者、吉次が高荷を奪おうと、部下を率いて吉次一行の旅宿に来襲したのを、御曹司は勇戦して巨魁長範を始め数人を斬り、その他を走らせた。  
【出処】『義経記』(巻二、鏡の宿にて吉次宿に強盗入る事)、『曽我物語』(巻八、太刀刀の由来の事)、謡曲『烏帽子折』『熊坂』『現在熊坂』、舞曲『烏帽子折』等。  
【形式・構成・成分・性質】競勇型勇者譚に属する競武型且闘戦型の説話で(この点橋弁慶伝説と類型をなしている)、又強盗補戮説話である。謡・舞曲の『烏帽子折』には前半に義経元服の事を(又舞『烏帽子折』には別に草刈笛の由来に関する音楽伝説即ち山路伝説をも)、説話瘤として有しているが、主題説話と必然的関係は無い。又舞『烏帽子折』の所伝では義朝父子三人の霊が義経の枕上に賊徒の来襲を告げる夢想説話(託宣説話の一様式)を含んでいる。本伝説は説話成分の上からは空想的傾向に於いて勝り、神話的分子は単身剛敵数十と闘い勝つ牛若の神人的武術及び剛勇の上に認められ、舞『烏帽子折』に於いては特にそれが著しく、且種-秘法を用いる呪術(マジック)が語られている。史実的成分も朧げには残存しているらしく見えるが、かなり空想化せられている。が、要するに史譚的武勇伝説である。  
【本拠・成立】吉次に伴って奥へ下った事は『平治物語』(巻三、牛若奥州下りの事)、『平家』(劔巻)にも見え、名は記さぬが唯金商人に具して行ったとは『盛衰記』(巻四二・四六)にも伝える。  
鏡宿での元服の事はやはり『平治物語』(巻三、牛若奥州下りの事)に  
生年十六と申す承安四年三月三日の暁、鞍馬を出でて、東路遙に思い立つ、心の程こそ悲しけれ。その夜鏡の宿に着き、夜更けて後、手づから髪取り上げて、懐より烏帽子取り出し、ひたと打著て打出で給えば、陵助、早御元服候ひけるや。御名はいかにと問い奉れば、烏帽子親も無ければ、手づから源九郎義経とこそ名告り侍れと答えて、(下略) 
と見えるが(場所は明記してないが『吾妻鏡』(巻一)にも、「手自加首服」とある文(一九五頁参照)と一致する。謡・舞曲の『烏帽子折』の鎌田正清が妹の家で烏帽子を所望するのは、この史実が伝説化した形であろう。そしてそれには『広益俗説弁』(残編巻七、器物)の説のように、『盛衰記』(巻二二)所載の石橋山敗戦に烏帽子商大太郎という者が頼朝に佐折の烏帽子を献じた伝説が転移して来たものと思われる。なお『義経記』(巻二、遮那王殿元服の事)では却って鏡宿の強盗戮殺事件の後、熱田大宮司の元で元服した由になっている)、それに続いて黄瀬河著の次に、  
爰に一年ばかり忍びておはしけるが、武勇人に勝れて、山賊(やまだち)・強盗を縛め給うこと、凡夫の業とも見えざりしかば、(下略) 
とあるのは、後の添加でないとすれば(前にも抄出したように、腰越状にも「令流行諸国、隠身於在-所-、為栖辺土遠国」の一節がある)、本伝説の成形が暗示せられていると観るべき記述である。同書京師本に至っては更に詳しく、更に本伝説に近接している。  
かくて一年許り有りけるに、御曹司野に出でて狩りしけるに、馬盗のあるを、人-搦めんとしけれども、その長六尺許りある男、大木を後に当て、刀を抜き、死狂いに狂いける程に、召捕る者なし。まして近処へ寄る者なし。数十人ありけれども、持あつかいけるを、御曹司彼盗人の脇の下につと寄り、刀持ったる臂を、したたかに足にて蹴上げ給う。刀をからりと落とす。さて袴の腰に取り附き、中に上りてしたたかに打附け搦捕る。又或時深栖が家近所の百姓の家に、盗多く入りたりけるに、彼御曹司太刀ばかりにて出会い、盗六人走せ入りけるを、四人その場に斬り殺し、二人に手負わせて、我は恙もなかりけり。(『参考平治物語』巻三) 
これを舞曲『烏帽子折』の熊坂が、その素性と、盗人になった動機とを部下に語る條の  
いでいで長範が、盗みしはじめし由来を、語って聴かせ申さん。某が親にて候し人は、越後と信濃の境なる、熊坂という所に、唯仏のようなる正直人なり。某は如何なる仏神の計らいぞや、七歳の年、長野郷という所にて、伯父の馬を盗み取って、ならび飯田の市にて売ったるに、ちっとも仔細候はず。それよりも盗は、資本(もとで)も入らぬ、よき事と思い定め、日本国を走り廻って盗をするに、一度も不覚をかかず。 
という文に比較すると、馬盗人の事といい、又前文の六尺許りの大男という点など、何等かの関係を連想させるものがある。そして上の『平治』の記載本伝説成立後それから出た書き振りとも思われず、且、特に京師本にのみ見える所からしても、本伝説の原形と看られ得べき口碑として、即ち上の文中の二つの事件を合一して本伝説の素描が出来上ったのではないかとの推測も許されそうにも思われるのである(なお巨盗長範が倫盗学への入門が馬盗人であったことは、文学としては余り取扱われていないけれども、本伝説成形後と雖も地方口碑としては彼と馬盗みとの関係は消失せず伝えられているようである。『謡曲拾葉抄』所引の『雑-拾遺』にだけは熊坂の通称を太郎とし、且七歳の時、或福僧の土蔵の鍵を盗んだのを発見せられたので、転びながら泥にその鍵型を付けて置き、相鍵を造ってその藏の物を盗み出したのが手初めとしてあるが、少し理に堕ちても居り、多分後世からの附会であろう)。  
そしてその対手方の賊首に熊坂長範の名が与えられるようになったのは、謡曲及び舞曲に見えるのが初で、『義経記』(巻二)ではこれが分身しているような由利太郎・藤沢入道の二人となっている。併しその説話の内容は、全く同じであるばかりでなく、  
褐の直垂に、黒革縅の鎧着て、兜の緒を締め、黒塗の太刀に熊の革の尻鞘入れ、大薙刀を杖につき、 
という越後の住人藤沢入道が、女とまがう遮那王と闘う状は、やはり大長刀を打振う(謡『烏帽子折』だけは大太刀としている)、謡曲・舞曲の加賀国の住人熊坂長範と少しも異っている処がない。而も舞曲『烏帽子折』にはその生国を、越後と信濃の界としてあるのも連絡が無いではない。『諸国里人談』(巻之四)の如きは、越後国関川と小田切との間の熊坂村の産として録している。つまり、由利・藤沢を一人とした者が熊坂であるとも観られ(『牛馬問』(巻三)の新井白蛾もこの意見を述べている)、或は藤沢は熊坂に、由利太郎は熊坂の部下中での首領株の磨針太郎(謡『烏帽子折』『熊坂』)に相当するとも観られ得る。要するに唯人名を異にするというだけで、別箇の事件というよりは、先ず同一伝説の異伝と見るが妥当であろう。舞『烏帽子折』に、義朝の寵を受けて一女萬寿姫を挙げた青墓宿の長が御曹司を見て、義朝・義平・朝長の父子に似通う容姿を訝ることが見えるが、『義経記』でも、その鏡宿の長者が末座の遮那王を見て、「頭の殿の二男朝長殿に少しも違い給わぬものかな」と驚き異しむことのあるのと相応じているのも、上の推断を助けるのである(青墓の長者大炊の女延寿が義朝に愛せられて、夜叉御前という一女を設けたことは『平治物語』(巻二、義朝青墓に落ち着く事)にも見えるが、これも略史実に近い事は、『吾妻鑑』(巻一〇、建久元年十月二十九日)に頼朝上洛の途、青波賀駅に立寄り、長者大炊や息女等を召して禄を与えた事、長者大炊は義朝上下向の度毎に止宿して寵倖した女であった事、その妹は又為義の妾で乙若等四人の母であった事等の記事が出ているのでも知り得る)。兎に角熊坂と藤沢との関係が以上の如くであるから、両者を一にした『藤沢入道熊坂伝記』という黄表紙が出たのも偶然ではない。  
熊坂の姓が加賀国の地名から出たことは明らかで(『吾妻鏡』(巻三、壽永三年四月六日)にも「熊坂庄加賀」、『盛衰記』(巻二八)には「熊坂山」とある)あるが(『里人談』の所伝は前に引いたが、これは遙に後世の書であるから、その伝説の発生をどの程度に溯らせてよいか躊躇を感ずる)、長範の名は博奕の用語を連想させる一方、中世武勇伝説界に名を謳われている支那の二英雄をも想起させる。果然『勲功記』(巻二)には「熊坂入道張樊」とし、「我張良が智にも劣らず、樊(ロ+会)が勇をも欺くべしとて、自ら張樊と号し」たと記している(『謡曲拾葉抄』にも『異本義経記』を引いてこの説を載せている)けれども、恐らく同音に牽強しての通俗語源説的説明に過ぎないであろう。  
なお熊坂長範の事に関しては、小山田与清の『強盗熊坂長範考』(『講史資料古老遺筆』にも収めてある)及び『強盗熊坂長範考追加』(『古老遺筆』及び『松屋叢書』第一二冊所収)に考証があって、『松屋叢書』に自ら記す所によれば、「所答平戸侯隠君松浦静山君之問」であるとしている(そして『甲子夜話』(続編巻一三)にも、下に見える『文章緒論』をはじめ、熊坂に関する諸資料と共に「松屋が考説あり。下に附す」として載せてある)。その要旨は、「考」に於いては『雑-拾遺に見える、長範の藤原氏たる説、並びに『謡曲拾葉抄』所引『異本義経記』の張樊説の妄を弁じ、「追加」に於いては、熊坂の子孫と称する陸奥人熊坂邦(字、子彦。号、台州)著『文章緒論』に、長範はその祖先である由を述べて、信州の名族、義朝の臣であったと説き、剽掠は寧ろ平家の粟を食むのを潔しとしなかったからであるとして賞讃したのを嗤(わら)い、熊坂は地名であること、長範の話は全く伝説であることを論じ、且それは『義経記』の藤沢入道を、舞曲に熊坂長範と改め用いたので、その理由は「当時藤沢氏に憚る人などありてのわざにや」と附言している。概ね肯綮に中っているが、藤沢を故意に熊坂に改めたとするのだけは、少し即断に過ぎはしまいか(謡曲『正尊』で、昌俊の名を時人に憚って正尊としたと言われているのから想到したのであろうが)。やはり異伝として置くべきものであろう。  
又鏡宿の藤沢が青野ヶ原の熊坂に転化したのであってもなくても、換言すれば、最初から熊坂の名で青野ヶ原の賊魁が呼ばれていたのであってもなくても、美濃のこの地方に事実としても盗賊引剥が横行していて、その地勢と事情とからも、かような伝説を発生し易からしめ、或は牛若との関係の有無に関せず、それに近い事実をも起こさせたのであったかも知れないのである。『熊坂』の謡の、  
御覧候如くこのあたりは、垂井・青墓・赤坂とて、その里-は多けれども、間-の道すがら、青野ヶ原の草高く、青墓・子安の森茂れば、昼ともいわず雨の内には、山賊夜討の盗人等、高荷を落し里通いの、下女やはしたの者までも、打ち剥ぎ取られ泣き叫ぶ。 
というのは、強ち謡曲作者の舞文ではないであろう。思うに幾多の吉次・吉六や次に説く常磐御前ならぬ常磐御前が幾度この魔の原の宿駅や森陰で脅され悩まされ続けて来たでもあろうことが考えられる。  
【解釈】義経伝説としての意義は、牛若丸の胆勇武芸を示す所にある。大男の賊魁熊坂の入道首は、蕾の花の小英雄が東下りの首途の贐(はなむけ)、吉次を証人としての秀衡への土産話に相応はしいものであった。蛇は寸にして人を呑む、後来勇武の誉高き名将軍の幼少時代にこれが萌芽、若しくは早成の実証としてのこの種の伝説が伝えられるのは如何にも首肯出来る所である(『義経記』(巻二、義経陵が館を焼き給う事)の陵某が味方せぬ不満さに、火を放ってその館を焼き払い、吉次に舌を巻かせたのも、亦伊勢三郎を信服せしめた(同巻、伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事)のも、同様の意味を有している)。況や我等は牛若丸に就いて、鞍馬の大天狗僧正坊からの兵法授受の事実を知っていて、而も未だこれを十分に実地に試みさせてはいない望洋の歎があるに於いてをやである。本伝説に附して説こうとする関原与市の伝説も、畢竟同意義のものである。特に舞曲『烏帽子折』の牛若は、多くの敵を斬って力漸く弛んで来ている末に、又巨盗長範と渡り合い、稍危く感じたので、僧正ヶ崖で習った霧の法・小鷹の法を使って、終に長範を斃したのは、愈-鞍馬山奥で習得した秘法を実際に応用したものである。而も謡・舞曲の『烏帽子折』に於いては、元服後の事件として伝えているから、源九郎義経と名告ってからの武芸試練の第一聲で、烏帽子を着た祝言の余興の劔の舞といった観すらある。  
又舞『烏帽子折』の吉次の対義経態度は、世間を憚る表面上の警戒という用意というよりは、浄瑠璃姫伝説に於けると相通ずる人買風の意味が認められ、義経は京藤太という従者名で呼ばれて吉次が太刀坦ぎであり、又長者の館で酌せよと命ぜられ、馴れぬ業とて銚子の酒をこぼしては叱責せられるのである(謡『烏帽子折』にも商人と主従となったとあるが、『義経記』にはこの傾向は見えない。併し腰越申状中にも「被服仕土民百姓等」と義経自身も言い、又『盛衰記』(巻四二)に平家方の武蔵有国が義経を嘲罵する詞中に「金商人が従者して、蓑笠背負いつつ、陸奥へ下りし者の事にや」とあるから、必ずしも舞曲作者の捏造とも言えず、こうした伝説の行われていたことも知られる。『義経記』は意識してこの伝説を採らなかったのとも思われる)。同曲では又義経は『十二段草子』と同じく笛の妙手として語られ、且それに連関して、草刈笛の由来伝説まで結びつけられて来ている。そしてそれは説話内容は全然違うが、同じく牛若に連結せられている弘法大師伝来の名笛由来伝説(舞曲『笛之巻』)と同種の音楽説話(名器由来伝説)である点で、又時代風尚の一面を示している(『笛之巻』の名管来由の伝説のことは、小異があるだけで又この『烏帽子折』の曲中にも見えている)。  
更に本伝説には、少なくともその成形当時の群盗横行の社会状勢が投影している。かの『建武年間記』に載せた有名な二條河原の落書の冒頭「この頃都にはやるもの、夜討・強盗・謀綸旨」の文句を具象的に示したようなもので、地方は一層甚だしいものがあったであろうし、その強盗の首領等は大抵志を得ぬ或は生活に窮した武士である。やはり東下りの途に義経に見出されて臣となった伊勢三郎も上野国板鼻在で強盗を働いていた人物で、義経は偶然その宿に泊り合わせたのであった(『義経記』巻二、伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事)。『盛衰記』(巻四二)の所伝では、その以前であろうか、やはり伊勢国鈴鹿関で山賊をしたと伝えている。斯様な状態は平安末以来愈-著しくなって来ているようで、『今昔物語』には巻二九に「本朝付悪行」の一巻を立てて、多くの盗賊譚を収めてあるほどで、多衰丸・調伏丸・袴垂(同書巻二五、第七話にも保昌の跡を踵けた有名な伝説がある)など、その錚-たる巨賊連である。就中袴垂は最も群を抜き、且伝説的でも著名である。その他鬼神・妖怪と合体している鈴鹿山の立烏帽子(御伽草子『立烏帽子』)、大江山の酒顛童子(『酒顛童子』)の類もあるが、普通の盗賊譚として鎌倉室町期に伝えられる主なものでは、藤原保昌の兄(或は弟)保輔(『江談抄』第三、雑事。『続古事談』第五、諸道。『宇治拾遺物語』巻一一)--これが何時か袴垂と合一して巨盗の姓名が完備するに至ったのである--、鬼同丸(『著聞集』巻九、武勇)を初め、交野八郎(同巻一二、偸盗)、大殿・小殿(同上)、大太郎(『宇治拾遺物語』巻三)、金山八郎左衛門(『あきみち物語』)等の大賊に関する伝説がある。『著聞集』も亦「偸盗」の一部門を設けて約二十の説話を載せているのである。交野八郎捕縛の際は後鳥羽上皇御手づから櫂を執って御船の上から北面の武士共を指揮し給うた珍しい御逸話として語られている。その交野八郎を『著聞集』には「強盗の張本」と記し、又『宇治拾遺物語』には袴垂をも(巻二)、大太郎をも(巻三)、「いみじき盗人の大将軍ありけり」と言っている。本伝説の熊坂は即ちこの時世に所謂「いみじき盗人の大将軍」としての立派な有資格者である。橋弁慶伝説の武蔵坊も、『義経記』(巻六、判官南都へ忍び御出ある事)の義経の太刀を奪おうとして却って懲らされた奈良法師の但馬阿闍梨も亦、要するに引剥の悪僧で、熊坂と相距る遠からざるものである。又舞『烏帽子折』では、青野ヶ原に集合した大将株七十余人、小盗人三百人が熊坂を中心にしての討入前の謀議、偵察の為に遺されたやげ下の小六の報告、謡『烏帽子折』では、  
大手がくわっと開けたるは、内の風ばし早いか。さん候。内の風早くして、或は討たれ、又は重手負いたると申し候。 
という隠語や、  
さて松明の占手は如何に。一の松明は切って落し、二の松明は踏み消し、三は取って投げ返して候が、三つが三つながら消えて候。それこそ大事よ。それ松明の占手といつは、一の松明は軍神、二の松明は時の運、三は我等の命なるに、三つが三つながら消ゆるならば、今夜の夜討はさてよな。 
という迷信的慣習やが、夜盗団の映像を一層判然と浮び上らせている。  
【成長・影響】本伝説は熊坂長範の名の方で成長進展もし、同時に後代文学や伝説へも影響を与え、『義経記』の藤沢・由利の名の方では殆ど発達しなかった。そして謡曲はいづれも単独らしく見えるが、舞『烏帽子折』には長範父子六人とし、又金商人も『義経記』は吉次一人であるが、謡『烏帽子折』には吉次・吉六兄弟とし、舞『烏帽子折』では三人兄弟となって、吉次・吉六・吉内とせられている。これは大体に於いては成長であろうが、必ずしも上の順序通り漸次に増加して行ったわけではなく、中には逆に縮約せられたという方が真である場合もあるかも知れない。又場所は鏡宿から美濃の方へ移ったのではないかと想像せられるが、美濃の垂井・青墓・赤坂の三説はいづれが先であるとしても、隣接の宿駅であるから、流移は極めて容易であり、大きく観れば同一としても差支ない程である。それは兎も角もとして、本伝説流布進展の結果、長範は頗る有名となり、前に述べた袴垂保輔及び後世の石川五右衛門と並称せられて、殆ど本邦強盗の代表者たらしめられるようになった。又本伝説成長の間、少なくとも文学の構想及び表現の側から、橋弁慶伝説との流通も行われたと観られる節がある(落語の『熊坂』の二人の闘戦状況の如き、その好い例証である)。それは或意味での類話である関係上自然でもある。又戯曲・演劇の趣向の変化警抜を求める傾向から、伊勢三郎とも(『末広十二段』『殿造源氏十二段』)、或は鬼一法眼伝説及び弁慶生立伝説とも(『勝時栄源氏』)結合せしめられるに至った。  
舞曲『烏帽子折』の説話内容乃至作品としての同曲から『十二段草子』が影響を蒙っていることは前に述べた。併しこれはやはり同舞曲及び謡曲『烏帽子折』から古浄瑠璃『牛王姫』に与えた影響と共に、本伝説の挿話的或は部分的の交渉に止まり、本筋の上での転化というのではない。それよりも本伝説から派生したものとして注目に値するのは山中常磐伝説で、これは特に別項として説くこととするが、その他にも、熊坂長範物見の松或は古跡の松の伝説がある。  
この伝説は説話形態を有する筋立った伝説というのではなく、本伝説に附帯し或はそれから派生した古蹟的口碑である。即ち  
あれ御覧ぜよ向ふなる、高き一木の梢こそ、盗人の首領長範が、物見の松と呼んで、数人のあばれ者、暮るれば其処に集まりて、押入がんだう辻切の、手分を致し候由、(『末広十二段』二段目)  
物見の松とて長範が駈けのぼる大木の下へ集まり、(『義経倭軍談』五之巻)  
美濃国垂井と赤坂の間青野原に、熊坂が物見の松あり。相伝う、昔長範この松の上に潜りて。往来の人を窺いけるといえり。(『諸国里人談』巻四、生植部、物見松)  
美濃国青野ヶ原に小松原あり。東へ下れば道より右の方也。その中に高さ十間ばかりの松あり。これを張樊が物見の松といえり。この松に登りて、東西四五里が程を見すまし、人馬の足の運びを見て、荷物それぞれの様体をさとりて、手下の者にいいつけて、その物を奪い取らしむと云-。(『謡曲拾葉抄』、熊坂) 
とあるのは、熊坂が部下の群盗招集の場所にしたり、或は旅客の通行を遠見したりした来由があると知られるが、  
その行方は白波の、古跡を今に熊坂が、物見の松に行き暮れしが、(『サンシズカタイナイクン(歹+粲=サン、白米のこと)静胎内 捃(クン、拾うこと)』五段目)  
美濃国青墓の宿はづれ、青野が原に長範塚と申して、熊坂が亡き跡の標を、物見の松と言いならわせ、この塚人詣でて萬づの事を祈るに、大方はその奇特を見せける。(『義経風流鑑』一之巻) 
とあるのは、その松下に葬って墓標代わりにもしたと聞え(この松の附近に熊坂の墳の在ることは既に謡『熊坂』にも語られている)、而も祈願を叶える霊験があるとは、流石に非凡人の名残で、如何にも俚民に起りそうな迷信でもあり、思わぬ罪滅しの功徳と見える一方、  
此処はかの青野が原、熊坂が物見の松、この所に休らえば、懐中の物も失うと伝えしが(『サンシズカタイナイクン(歹+粲=サン、白米のこと)静胎内捃』五段目) 
とも信ぜられ、殺生石ならぬ偸盗執心の固着も、亦俚民心理に生じ得べき自然さがある。青本にも『熊坂長範世語古跡松』、黄表紙に『熊坂長範物見松御休所』、歌舞伎の外題にも『熊坂長範物見松』の名が見える。黒本の『伊勢三郎物見松』--伊勢国二見にその名の松もあったと『理斉随筆』(巻一)に見える--も、この熊坂の物見の松からの転移であろう。同じく強盗であった点もそれを容易ならしめる。現に両人は『末広十二段』では血縁関係に置かれ、『殿造十二段』では同一人とすらせられ、それより早く『義経地獄破』(二段目)では、義盛の前名は、長範の一党たるやげ下の小六であったとせられてもいるのである。なおこの松は正徳年中大風で倒れ、植続の松も上田秋成の存生時代に枯れたと見え、馬琴の『覇旅漫録』(巻中、京師の人物)に、京師での今の人物として皆川文藏・上田余斉二人を挙げた條の後に、  
今、上方にて人口に膾炙する歌  
美濃国熊坂物見の松枯れたりければ詠める  
風騒ぐ緑の林根を断ちて戸ざさぬ御代に青墓の宿 秋成 
おなじこころを  
熊坂の物見の松も枯れにけり何いたづらに年をぬすまん 李花園 
と録せられている。元来この物見松は『新撰美濃志』によると、幣懸(しでかけの)松というのが原名のようで、朱雀天皇の朝、南宮の社に将門調伏の祈祷があった時、幣を懸けたにその名が起因する名木で、熊坂伝説が流布するに及んで、それが、転移して来て、終にその名を奪われるに至ったのである。謡曲『熊坂』にも、一木の松とだけで物見の松とは明記せず、又細川幽斉の『老之木曽越』に  
青野が原にいと古りたる松の一木立てるを見て  
経てや来し幾夜嵐の松一木なれぞ我が身の老の友なる 
とあるから、物見の松の称は或は徳川期になってから獲たものであろうか。青野ヶ原には他に長範腰掛岩、熊坂隠し厩の跡など称するものが残っているが、又『塩尻』(巻八六)に、やはり長範が海道の馬を盗んで来ては繋いだという古厩という地名、その地に在る長範が盗んで来た白馬を黒色に変じさせたという毛替の地蔵、又その東平針村の長範が馬場等の古跡が尾張国に在るのを訝しんで、  
美濃国赤坂にこそ熊坂が物見の松及び盗みし馬を藏せしとて洞もありとかや。(中略)如何なる盗人を言い誤り侍る知らず。 
と誌されている。熊坂伝説の遊行と、従って同伝説の拡布を語るものと言える。   
又長範が盗の為に高野に登り、思いの外に菩提心を起して、自ら向歯を打ちかいて骨堂へ投げ入れ、  
高野山峰の嵐は烈しくとこのはは残れ後の形見に 
と詠じた奇抜な伝説も生じた(『新著聞集』第一八、雑事篇)が、これは熊坂ほどの強悪にも菩提心を発せしめる霊地の尊奇を讃えようとする宗教的意味から生まれた伝説である。そして実は足利義教の詠と逸事を訛伝したものであることは、『燕石雑志』(巻之二、古歌の訛)に馬琴が『室町殿物語』と『曽呂利咄』を引証して論断しているに加える所は無い。伝説ではないが、本伝説から出た服飾名に長範頭巾があり、又他人の財布をあてにし、或は成功を見込しての冒険の前祝の意に用いられる「長範があて飲み」という俗諺も、舞『烏帽子折』の  
大幕三重に引かせ、大筒大瓶かき据え、我等が財(たから)を飲まばこそ、吉次が皮籠(かわご)を飲むなるに、飲めや唄えやざめけとて、舞うつ唄うつ酒盛をする。 
とあるのから来ているのであろう。それから義経は睡眠する際はいつも半眼で眠ったと言い伝えているのも、やはり同曲に  
笄(こうがい)抜きて枕と定め、髭切の御佩刀を腹の上にどうど置き、弓手の足をさし延べ、馬手の足をきっと立て、弓手の御目のまどろむ時は、馬手の眼が天井を、はったと睨んで、宿直(とのい)をしてこそ臥されけれ。 
とあるのでその来由がわかる。  
更に本伝説を変形し、又は熊坂の名を借りて趣向を立てた文学も多く出ている。例えば『熊坂今物語』(西沢一風)、『熊坂長兵衛女金商花盛雛献立』(古今亭三馬)、『物見松女熊坂』(東里山人)等の如きそれであるが、何れも直接本伝説を取扱った作品ではなく、影響文学と言うべきものである。  
【文学】『義経記』には巻二に「鏡の宿にて吉次宿に強盗入る事」の一章がある。但し賊の名を由利太郎・藤沢入道とすることは前に述べた通りである。この系統に属するものに、『金平本義経記』(初巻、六段目)、近松の『十二段』(二段目)、『義経興廃記』(巻二)等がある。それから義太夫が若年五郎兵衛と称した頃、宇治嘉太夫(後の加賀掾)のワキを勤めて『西行物語』の二段目に藤沢入道夜盗の修羅を語って好評を博し、後年立身の基を作った由が『今昔操年代記』(上之巻)に見えるのは、やはり本伝説に関するものであったのでもあろうか。  
併し文学としても、熊坂として作られたものの方が有名で、舞曲『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』及び『熊坂』を以てその代表作とする。『熊坂』は『烏帽子折』の後半に相当する部分、即ち純粋の本伝説のみを取扱った作である。謡曲には他に『現在熊坂』があるが、幽霊能の『熊坂』を現在物に脚色し直したといっただけのものである。外記節の『現在熊坂』(『松の落葉』巻二、中興当流浄瑠璃)はこれからでなく、却って『熊坂』の方から来ている。戯曲では『末広十二段』(二段目)、『児源氏道中軍記』(二段目)、歌舞伎狂言では『殿造源氏十二段』『御所鹿子十二段』『勝時栄源氏』『熊坂長範物見松』『熊坂』等の作がある。  
小説では『勲功記』(巻二)に張樊とし、又『謡曲拾葉抄』所引の『異本義経記』にも熊坂張樊とあることは既に説いたが、後者は触目したことが無く、真否は決しかねる。その他浮世草子・草双紙等の一代記風の義経物には殆ど採られていないのはない。独立した篇としては、青本『熊坂長範世語古跡松』、黄表紙『藤沢入道熊坂伝記』『熊坂長範物見松御休所』(一九)、合巻『二人児女二人牛稚寄愛度(よせてめでたき)金売吉事』(陽斉南山)、『義経一代記抜萃熊坂物語』(柳亭種彦)等があり、又読本に『新編熊坂物語』(栗杖亭鬼卵)、草双紙風読本に『熊坂長範物語』(笠亭仙果)、絵本に『松白浪熊坂伝記』がある。『熊坂物語』の口絵には、「熊坂が手下の賊姓名異同考」として、謡曲・舞曲、『義経記』『異本義経記』を比較参照して表を作り、一-熊坂一類の肖像まで掲げてある。それから菓子の名の「今坂」に掛けて落ちにした落語の『熊坂』もこの伝説を題材としている。  
又鬼外の『嫩(容+木)葉相生源氏』(第四、板鼻の段)には伊勢三郎の女房の話として本伝説は採られ、合巻『新編月熊坂話』(時太郎可候)は、熊坂の生立を綴ったものであるが、舞曲『烏帽子折』に見える熊坂自身の物語とは全然関係なく、且前編のみで、なお牛若との交渉に及ばず、巻末に、  
後篇 さんでうのえもんみぶの こざるあそうのまつわか すりはり太郎おのおの  
三冊 ごうどうしてうしわかの てにほろびししまつを ごらんにいれ申候 
とある予告によって、その意志はあったことが知られるけれども、後編は発刊を見なかったようである。  
又熊坂のことは見えないが、謡・舞曲の『烏帽子折』から出て、烏帽子折の件を素材としたものに、近松の『源氏烏帽子折』(三段目「烏帽子折名づくし」)がある。 
6-2 山中常磐伝説(常磐御前殺害伝説)

 

熊坂長範伝説の変容又はそれからの派生、少なくとも関係が密接で、進展の後は明らかに同伝説と合体しているのはこの山中常磐伝説である。  
【内容】  
人物  常磐御前・侍女。御曹司義経(牛若丸)。熊坂長範乃至その一党、或は同類の賊徒(〔補〕『山中常磐双紙』には、てんぴいなづま・はたたがみ・せめぐちの六郎(以上舞曲『山中常磐』と同じ)・ほりの小六よかはの太郎(舞には「余川の十郎」)・いますの七郎(舞には「いまづの与太郎」)の六人としてあるが、舞曲『烏帽子折』の長範が部下中の、さいぐちの七郎・やげ下の小六等の名と流通しているものがあることが認められる)  
年代 (牛若奥州下りの後)  
場所 美濃国不破山中宿  
牛若が鞍馬から脱出したとの報に接した母常磐はいたく驚き愁い、侍女を伴って後を追い、美濃不破山の山中宿に泊まった夜(〔補〕『山中常磐双紙』(『山中絵巻』)及び舞曲『山中常磐』には病を獲て滞留したとある)、熊坂一味の強盗に襲われ、衣服を剥がれた上、無惨にも殺害せられたのを、知らずして此処を通過しようとした牛若がこれを聞いて悲歎痛憤遺る方なく(〔補〕『山中絵巻』及び舞曲には、母の夢をのみ見るので恋しさに奥から再び京へ上る途、一日違いでこの宿の同じ家に泊まり、母の夢想によって、事情を知り且復讐を嘱せられたとある)、その後吉次が財宝を奪おうと乱入した熊坂を斬って、測らずの母の仇を報いたのであった(〔補〕『山中絵巻』及び舞曲では牛若が宿の女房と謀って態と目ぼしい什物を飾らせ、賊共を誘寄せて討取り、母の怨を復したとなっている)。  
【出処】(〔補〕舞曲『山中常磐』、御伽草子『山中常磐双紙』)。  
(歹+粲=サン)静胎内捃』(一段目)。御伽草子『天狗の内裏』(下巻)の未来記中にも  
ここに一つの大事あり。汝が東へ下ると聞かば、母の常磐が追っかけんその為に、跡を慕いて下るとて、美濃と近江の界なる、山中という所にて、熊坂という夜盗の奴原に、害せられんぞあさましき。よしそれとても力なし。これも前世の宿業なり。 
とあり、金平本『義経地獄破』にも、美濃山中で変死した事を、常磐の霊が自ら大天狗に語る事が見える。『広益俗説弁』(正編巻一四、婦女)には場所を青墓としながら、この伝説を「これを山中常磐という」と記している。青墓と同郡ではあるが、山中は別の宿駅である。詳しく調査するに及ばなかったのであろうかと思う。  
【形式・構成・成分・性質】それ自身山中常磐型とでも言うべき説話型を形成している。一種の美人遊行伝説でもあり、それが出家結庵或は入水等の形を取らず、強盗譚と連結して其処から勇者復讐譚を生成し、それが又競勇型勇者譚の闘戦型説話でもある点は、熊坂長範伝説と同じである。空想的(仮構的)成分が最も多く、神話的成分も牛若の神人的手腕に認められ(〔補〕『山中絵巻』では舞『烏帽子折』と同じく霧の印と小鷹の法を用いる呪術(マジック)があり、又亡霊の夢想託宣があって、神話的成分が増している)、史実的成分は牛若母子の史的人名の上に見出される他、極めて稀薄である。准史譚的武勇伝説とすべきであろう。  
【本拠・成立】史実の根拠は皆無であるばかりでなく、常磐は清盛の寵が衰え(一女を生んだ事が『平治』(巻三)に、その女は廊の御方とて、花山院内大臣の北方になった事が『盛衰記』(巻四六)に出ている)て後、一條大蔵卿長成に嫁して(『吾妻鏡』巻一。『平治物語』巻三、牛若奥州下りの事)侍従能成(『吾妻鏡』巻五、『盛衰記』巻四六)外数子(『平治』巻三)を生んで居り(能成は『吾妻鏡』(巻五、文治元年十一月三日)都落の條には「侍従良成義経母弟一條大蔵卿長成男」、『盛衰記』にも「義経が同じ母の弟」と明記してある)、且義経が頼朝に憎まれて没落した当時、鎌倉方に捕らえられたと見え、『吾妻鏡』(巻六、文治二年六月)に、  
十三日己未。当番雑色宗廉、自京都参著。去六日於一條河崎観音堂辺、尋出与州母井妹等生虜。可召進関東由云-。 
と出ているから、その頃まで存命であったことは明白である。妹とあるのは長成の子であろう。能成も判官に縁坐して、その前年十二月十七日に解官せられている(『吾妻鏡』巻五、文治元年十二月二十九日、『盛』巻四六。共に「能成」と出ている)。  
愛し子の跡を追っての東下りは、恐らく梅若伝説(謡曲『隅田川』)の変容であろう。近松が本伝説に取材した『十二段』(二段目)にそれを利用しているのも矛盾無く首肯出来ると同時に、又その前身を暗示している観がある。同じ賊人の行動という点で、自ら熊坂伝説と吸着し合った別箇の発生を有つ伝説かも知れないが、『義経記』にも見えぬこの牛若の強賊戮殺という殆ど同一の事件から観れば、やはり熊坂伝説からの転移と見るが自然のように思われる。復讐的意味の加えられた点でも後のもののような気がする(〔補〕東下りの途に於いて吉次が狙われる方が自然で、『山中絵巻』や舞曲のように一旦奥へ下った牛若が再び京上りする途にこの事変に遭遇するというのも、少し作為或は空想的分子が多きに過ぎて、後の発生であろう推断を愈-助ける。法術を用いるのも舞『烏帽子折』の影響ではなかろうか。尚、同双紙及び舞曲に、常磐が賊の為に身ぐるみ剥ぎ取られたので、余りに情無い仕打、せめて膚を隠す小袖一つは残せよ。それが叶わずば命を取れと喚びかけて、終に刀下の鬼となるのは、室町時代の小説『三人法師』の三僧の懺悔談中、第二人目の三條の荒五郎が発心の動機、強盗渡世の昔、北野参籠帰りの上臘を引剥し、膚小袖まで奪われては命生きて詮なし、殺されたいと言うにまかせて一刀に刺し殺したのが第一人目の僧の在俗当時の愛人であったという構想と全く一致している。先後の徴証は無いけれども、恐らく『参人法師』の方が古くて、それから採ったものではあるまいか)。が、刊行すら萬冶二年の『天狗の内裏』に既に見えているのであるから(〔補〕且舞曲及び絵巻にも作られているし)、一般の義経伝説より(特に熊坂長範伝説よりは)稍成形は遅いとしても、やはり室町末、少なくとも徳川初世頃までには相当流布していたものと想定してよいであろう(〔補〕寛文元年刊、或は初刊は萬冶四年かとも言われている『義経地獄破』(二段目)に熊坂一類の強盗を列挙した中に「かいつかみの鷲四郎・窓を覗くはにらめくら・ともを迷わす狐三郎」とあるは舞『烏帽子折』と、そしてその次に「てんぴいなづま・はたたがみ・せめぐちの六郎」とあるは明らかに『山中絵巻』及び舞曲と一致する。この点でもそれらの双紙乃至はその内容説話が同曲以前にかなり知られていた伝説であったことを示すものである)。  
山中地方の口碑としては勿論行われ、その北嶺石原峠に常磐御前の墓と称する三基の石塔婆を存し、芭蕉の『甲子吟行』(『野曝紀行』)にも  
大和より山城を経て、近江路に入りて美濃に到る。今須・山中を過ぎて、古へ常磐の塚あり。 
と見え、貝原益軒の『木曽路記』(巻下)にもこの墓の事を載せ、又新井白蛾の『牛馬問』(巻三)には  
美濃と近江の国界寝物語の里を越えて、山中の里と云う所に、常磐御前の古墳有り。少し行くに黒血が橋有り。橋より左に当りて本陣屋敷跡有り。是昔義経熊坂を討ちたる所という。土人が曰く、義経盗等を切って庭地に満つ。その池水血に染みて流れ下る故に、黒血川・黒血が橋の名有り。池の所今に存すという。野上・山中は古への本宿なりしに、今見れば僅かに草の扉のまばらなるのみ。 
と見えている。『俗説弁』にも「今に墓あり」と記して、その妄を弁じ、  
常磐が後に長成の妻になれる事を知らざる者、牛若奥州下向の時、かくやありけんと想像して、妄作しけるを伝え来りて実とし、他人の墓などを常磐が墓と誤り言えるなるべし。 
と推断している。果然、上の墓は一説には鎌倉の六波羅探題、北方常磐駿河守範貞の墓とも言われているという(『大日本地名辞書』美濃、不破郡、石原峠)。真否の程は明らかでないが、若しそれが事実とすれば、--或は伝説でも差支ないが、その方が先立ってさえ居れば--同名の「常磐の墓」が男性から女性へ移行しても不思議ではない。但しいづれが口碑として先行したかは無論詳らかでない。如上諸書に記載せられてある点からも、常磐御前としての方が早いかも知れない--少なくとも古くから著名であることだけは確である。又別に常磐を殺したのは山中地方の不成人(かたは)猿の祖先で、その報として子孫代-不具に生まれるという伝えもあるらしい(『織田真記』)(『大日本地名辞書』所引)。これもその発生は本伝説といづれが先か明証は無いが、恐らく後のもので、且原は本伝説とは全然無関係の地方口碑で、猿神式の犠牲伝説の不完形、乃至不具の血統に関する迷信的説明伝説であったのが、常磐御前殺害伝説と混淆して来たのではあるまいか。そしてこれらの口碑は仮に後の発生であったとしても、本伝説の原拠となったのは、やはり何等か美人遊行伝説に融化した別箇の斯の種の地方的口碑であったのではあるまいかと考えられるのである。苔蒸した無縁の塚なども、この伝説の完形を促進するに、無論与ったことであろう。  
なお又、説話上の交渉は無いが、地名が同じ山中である点で、次條の関原与市伝説とも、何か関係がありそうにも思われるけれども、いづれからの転移か確証は無い(次條[6-3]参照)。  
【解釈】本伝説には前條の伝説に於けると略同じ意味が認められる他、義経伝説の主人公の生母の終焉悲劇を示して伏見常磐伝説に相応ぜしめ、これ亦数奇の一生を送った同情すべき一女性として、それに劣らぬ宿命を約束せられた所生の英雄に対せしめられてい、それに関連して、牛若丸は武名に加うるに仇討の孝子の誉をも賦与せられ、平家討滅という父兄の為の会稽を雪ぐ以前に於いて、母の慰霊を営んでこの点までも伝説界の対手たる曾我兄弟に比肩し得る完全な資格を贏ち得た。  
【成長・影響】常磐殺害の盗人を熊坂とするのと、そうでないとするのと、何れが早いか明らかでないが(〔補〕『山中常磐双紙』及び舞曲『山中常磐』の出現により、後者の方が先のように思われるが、『天狗の内裏』に熊坂と既にあるから、これも一概に排し去れない。縦い『天狗の内裏』の製作が舞曲や『山中絵巻』より後であっても、甚だしく年代が隔ってはいないであろうし、既成の異伝をそれぞれに採ったのであるかも知れないからである)、成長の間自ら熊坂の方へ帰一して行ったようである。近松の『十二段』(二段目)には『義経記』に学んで藤沢・由利とし、且梅若伝説の形を応用して渡船の舟長から牛若が事変を聞くことになっている(詞章も謡曲『隅田川』に摸した所がある)。(〔補〕この『十二段』四段目「浄瑠璃御前道行」の姫主従の道行及び姫が無頼漢藤太に殺害せられる事、同五段目、義経が奥から攻上る途に姫の墓を弔う事の構想は恐らく本伝説特に『山中絵巻』の説話の変容と思われる。『山中絵巻』はやはり義経が攻上る途に山中宿で母の墓を弔う事に終わっている。但し後の構想は既に『十二段』の前身たる古浄瑠璃『天狗の内裏』で変容せられているのを通してである)同じ近松の『(歹+粲=サン)静胎内捃』(初段)の方は熊坂で、これは義経の昔語りの中に、熊坂が母常磐を殺した怨讐を、吉次を襲った夜復した模様が述べられ、海音の『末広十二段』(二段目)は同じく熊坂であるが、これは却って源氏の遺臣で、過って常磐主従を捕らえたけれども、部下の手前、侍女で実は己が娘の千草のみを殺し、常磐御前は隠し置いて牛若に渡すことに変わって来ている(但し、『胎内捃』よりはこの方が早い作である。『十二段』よりは後であるが)。且この曲では長範は伊勢三郎義盛の叔父とせられてしまっている。歌舞伎の『熊坂長範物見松』もこの系統を引くもので、青墓宿を襲って熊と牛若に斬られ、隠してある常磐を土蔵の中から出して、自身は源家の義臣たる素性と本心を打明けて死んで行くのである。要するに本伝説の進展と共に、熊坂の性格も鬼一と同様、善化への改変を蒙りつつ、成長して行っている。  
【文学】(〔補〕『いろは名寄』や『能の図式』に見える廃曲名に『山中常磐』があり、古浄瑠璃にも同名の曲があったようであるが、伝存せぬので、古い作に接することが出来なかったのを、昭和三年十二月、第一書房主長谷川巳之吉氏が絵巻物『山中常磐双紙』(伝岩佐又兵衛筆、十二巻)を入手、次いで複製領布を見たので、この罅隙が捕らわれた。この巻子本の絵詞は御伽草子式であると同時に、舞の本及び古浄瑠璃に近いようなもので語り物風の所もある。然るにその後、笹野堅氏蔵の舞曲『山中常磐』--『山中絵巻』と同一素材、唯詞章に異同がある--の発表があって(「国語と国文学」昭和七年九月号「大橋中将と山中常磐」)、愈-本伝説の原典とも称すべき作品が紹介せられた上に、従来『伏見常磐』の一名かと疑われていた『山中常磐』の実存が、幸若舞曲の曲目に又一番を増加する結果となった)  
明らかに徳川期に入ってからのものでは、既に引いた『十二段』(二段目)、『末広十二段』(二段目)、『熊坂長範物見松』等がある。 
6-3 関原与市伝説

 

東下りの初頭に於ける事件で、序に附して説くべきはこの伝説である。 
【内容】  
人物 牛若丸。関原与市(又与一)  
年代 (奥州下りの途。『異本義経記』には安元三年初とあると『塩尻』に引かれている)  
場所 山城国粟田口、松坂(舞『鞍馬出』)或は美濃国不破、山中宿(謡『関原与市』) 
鞍馬を脱出した牛若が東走の途で、平家の士関原与市の一行とすれ違った時、与市の馬が潦水を蹴上げたのが直垂にかかったので、牛若はその無礼を詰り、少年と侮って傲慢な与市主従を散-に打懲した。『鞍馬出』では与市は弱敵と蔑んで討とうとして、却って刀で馬首を打たれて落馬し、泥水には濡れ、牛若には嘲弄せられ、面目無さに馬も下人も打捨てて山科寺の傍に深く身を隠したとし、『関原与市』では手勢を打散らされて、怒って自身闘ったが、斬られて命を殞し、牛若はその馬を奪って奥へ下ったとしている。  
【出処】舞『鞍馬出』、謡『関原与市』。『塩尻』(巻五六)に『異本義経記』を引いてあるが、同書が伝存せぬので質すに由が無い。  
【型式・成分・性質】熊坂長範伝説と同じく競勇型勇者譚に属する競武型且闘戦型説話である。熊坂伝説よりも史実的成分は一層薄い。神話的成分はやはり牛若の神人的闘戦乃至武術の上に認められ、且『鞍馬出』ではこれ亦「僧正が崖にて習わせ給いし天狗の法、出逢う所と思召し」、これを試みることになっている。性質から言えば、准史譚的として取扱っても差支無いほどの史譚的武勇伝説と言うべきであろう。  
【本拠・成立】本拠と目すべき史実は全然無い。『義経記』にもこの伝説を載せていない。唯、同書(巻一、遮那王殿鞍馬出の事)に  
都は敵の辺なり。足柄山を越えんまでこそ大事なれ。坂東というは源氏に志のある国なり。言葉の末を以て、宿宿の馬取りて乗りて下るべし(中略)と宣へば、吉次これを聞きて、かかる恐ろしき事あらじ。毛のなだらかならん馬一匹だにも乗り給はずして、恥ある郎等の一騎をだにも具し給はで、現在の敵の知行する国の馬を取りて下らんと宣ふこそ、恐ろしけれとぞ思いける。されども命に随い、駒を早めて下る程に、松坂をも越えて、四の宮河原を見て過ぎ、逢坂の関を打越えて、(下略)  
とあるのは、謡『関原与市』の所伝を通して観る本伝説の発生が、暗示せられているようにも感ぜられる。又舞『鞍馬出』は粟田口辺で待合せようと約した吉次が見えずして、松坂(日岡の坂の一名、粟田口から山科へ出る路)で与市一行に行逢ったとしてあり、この粟田口で待とうとの約束をした事及び其処で落ち合って同伴した事は『義経記』(同條)にも見え、且『鞍馬出』の前半は吉次が牛若に対面しての奥州物語の件で、やはり『義経記』同巻の前章「吉次が奥州物語の事」に全く相当するのである。少なくとも本伝説は『義経記』以後の発生であろうと想測される(『平治物語』(巻三、牛若奥州下りの事)は、吉次と約束はしながら、京を出る際は陵某と同道した事になっているから、必ずしも吉次と伴って都を出たという伝説ばかりが行われていたのでないことも知れるのであるが、この方は又少し特殊の所伝になっているから--『義経記』では途に陵の家に立寄ったことにしてある--本伝説との交渉は先ず認められない。若し交渉があるとすれば、その吉次と同道しなかったという点だけが或は間接に本伝説の成形を助長したかも知れないが)。  
関原与市を美濃国の住人とするのは謡・舞共に略一致してる。但し『鞍馬出』の方は美濃から大番の為上洛するとし、『関原与市』は反対にこの度美濃中川庄を賜って入部するとしてある。然らば後者では元来の美濃の国人ではないのかも知れないようでもあるが、兎も角美濃に領地を有する人物としてあるのが共通している。この点からして、その姓はやはり美濃の地名から来ていると観られ得る(後者の方の事件の起った地名、山中も即ち関ヶ原村の大字であるから、やはりその地に関係ある姓を有する人物たることは同断である)。そして美濃の住人が上洛するという方が自然さがあり、又場所も松坂の方が自然らしくもあって、舞曲の所伝の方が古いのではあるまいかという気がする。併し地方口碑としては両方各-行われている。又美濃山中宿というのが前にも述べたように前條の山中常磐伝説と偶合していて、何れかが本源でありそうに思われる。少なくとも前伝説はこの地名が必須條件を成し、その点他に異伝が無いようであるが、本伝説ではそれが必須の場所ではなく、移動の可能性があり、現に両様の所伝のあることは注目すべき点であろう。但し、後の流移の方が却って或地名に固着してしまうことも有り得るから、勿論一概には定められないが。  
【解釈】熊坂伝説の條に説いた通り同じく兵法実地の試練と牛若の胆勇を叙する伝説で、且その対手が平家の士であるに於いて、牛若の敵愾心を著しくさせ、同時に東下りの手初に端くれながら敵の一人を圧服して、成長後の平家討滅の素志成就の吉兆を予見した事を、国民は牛若と共に祝福するのである。  
【成長・影響】本伝説は他の諸伝説に比して著しい成長も後代文学・伝説への影響も殆ど見なかったようである。唯、『鞍馬出』では与市の従者は僅かに若党三人、中間六人だけなのが、『関原与市』では入部というのでもあるが手勢七十余騎である。そしてこの大勢が牛若を取込めて討とうとし、却ってその鬼神の如き働きに多く死傷し終に敗走するので、これは恐らく説話としての進展であり、且後者は熊坂伝説の影響を受けてかかる形に成長したものらしく、『関原与市』の描写・詞章がそれを示している。  
又、古跡として山城の方は「蹴拳水」(『雍州府志』(九、古蹟下)、『塩尻』(巻五六)等)(現に蹴上の地名も存して有名である)、美濃の方も「蹴あげの清水」「蹴あげの茶屋」(『新撰美濃志』不破郡、関ヶ原村)の名を遺している。関原の人名からその人名の発生地たる関ヶ原乃至山中へも、この伝説が移って来たのではあるまいか。特に山中は前條の伝説に於いて牛若丸とは因縁づけられている土地でもあるから。  
【文学】番外舞曲『鞍馬出』(一名『東下り』)、謡曲『関原与市』。既に言及したように、前者は牛若が吉次から奥秀衡の事を聞いて、多聞天の託宣と感銘して鞍馬を去る事に始まり、次に本伝説を取扱い、後者はその後半に相当する部分即ち本伝説を主題とした作である。そしてこの『関原与市』に  
これは義朝の末の子、牛若とは我が事也。さてもこの度平家の栄、安芸守清盛が子供、一山の賞翫他山のおぼえ、立交はるも憚りなれば、東とかやに下らんと、忍びて出づる鞍馬寺、  
の語句があるのは『鞍馬天狗』から採ったこと明白であり、その他の文詞から観ても、『鞍馬出』の方が早い作であろうかと考えられる。『異本義経記』にも本伝説を語っている由であるが、同書は疑問の書で、若し存在したとしても、『義経記』よりも遙に後の作で、恐らく謡・舞曲に作られてから、それを探入れたのではなかろうかと推測される。それは本伝説の部分に限らす、他の伝説の場合でも同様の推定が下し得られる可能さを多分に有するからである。 
7 橋弁慶伝説

 

この伝説は普通には鞍馬山時代のように考えられているが、諸伝区-で曖昧であるから、特殊のものとして、此処に置いてみた。  
【内容】  
人物 牛若丸(義経)。武蔵坊弁慶  
年代 牛若丸十四歳(伽『橋弁慶』)或は十九歳『弁慶物語』(なお同書では弁慶は二十六歳))。(謡『橋弁慶』によれば鞍馬入以前らしく、伽『橋弁慶』は鞍馬時代とし、『義経記』では一旦奥下りの後、再び密に上京した時の事としてい、『弁慶物語』もこれに倣っているらしく見える)  
場所 京都五條橋(『義経記』のみは清水観音の附近) 
最も普通に知られている形では、叡山西塔の荒法師武蔵坊弁慶が、千振の太刀が欲しいとの誓願を立てて、夜-京の五條橋に出て、行人の太刀を奪取していたが、満願の最後に出逢った笛を吹きすさみつつ近づく千振目の太刀の持主こそは、薄衣を被いだ女と見せた源家の公達牛若丸で、両人互いに雌雄を争った結果、弁慶は打負けて降参し、長く主従の約を結んだという伝説であるが、異伝もあり、又これに関連して、千人斬、而もそれにも牛若千人斬と弁慶千人斬との両説がある。即ち弁慶千人斬とは、太刀奪でなくて、毎夜五條橋に出て行人を千人斬ろうとの大願を発したとするもの(例えば『武蔵坊弁慶異伝』)、牛若千人斬とは、牛若が亡父の十三年忌の供養に、五條橋で平家の士千人を斬ろうと誓を立てたのを、その千人斬の風聞を耳にした弁慶が、これを懲そうと出向いて、却って牛若に服せしめられて臣となったとするもの(例えば伽『橋弁慶』)である。  
【出処】『義経記』(巻三、弁慶洛中にて人の太刀を取りし事、同、義経弁慶と君臣の契約の事)、『弁慶物語』、御伽草子『橋弁慶』、謡曲『橋弁慶』等。  
【型式・成分・性質】競勇型勇者譚に属する競武型且闘戦型の説話で、一騎打の形に於いて熊坂長範伝説の熊坂・牛若の闘戦と類型をなしている(謡『烏帽子折』が大太刀であるのを除けば、獲物まで長刀と小太刀で同一である)。義経伝説中での最も童話的な説話の一で、巨人対小人の勝負型とも観ることが出来る。又、千振太刀奪或は千人斬には九十九伝説のモ-ティフが認められるから、九十九モ-ティフの競武型伝説とすべきである。それから吹笛という点に音楽説話の要素が含まれているが、楽徳説話ではない。大体本伝説は童話的な空想的(仮構的)成分が大部分を占め、史実的成分は漠然と輪廓をなしているだけである。神話的成分はこれも熊坂伝説や関原与市に於けると同様、誇張せられている牛若の神人的武芸の早技の上に見出される。性質からは准史譚的と言ってもよい程の史譚的武勇伝説と目するが穏当であろう  
【本拠・成立】史実の徴証は無い。『義経知緒記』(上巻)に、  
広田社日次記に、安元の比五條の橋に夜遊の僧有て、往来の人を辛苦(ナヤマス)と有。弁慶が史(フミ:ママ?)か。 
及びこれに拠ったと思われる『勲功記』(巻四)に、  
弁慶義経を窺いしことを考うるに、広田の社日次(ヒナミ)記に、安元の比五條橋に夜遊の僧有りて、往来の人を辛苦(ナヤマス)とあり。是弁慶が史(フミ:ママ?)ならんか。 
とあるのは採るに足らない。本伝説の最も古く見えるのは、やはり『義経記』(巻三)であろう。唯同書には五條橋とはせず、又弁慶との出会は、前後二回とし、一回は六月十七日五條天神に参詣した夜、二回目は翌十八日清水観音の御堂での事としている。弁慶の太刀取の狼藉、御曹司の弄笛の優雅、巨人と幼童との闘戦、君臣の契約等、本伝説の骨子である部分は皆備っている。その上、第一回の出会乃至闘戦が五條天神への途の辺であるのも、五條橋への転移--橋弁慶伝説の完形への進展--を暗示してもいる。『弁慶物語』は三度の出会とし、  
第一回 六月十五日夜 北野社での出会。弁慶秘蔵の棒を切り折られる。  
第二回 七月十四日夜 法性寺の御堂での出会。  
第三回 八月十七日夜 清水での出会。打連れて下って五條橋で勝負を決する。 
という順序で、『義経記』と五條橋の伝説(謡『橋弁慶』、伽『橋弁慶』)とを併せたような形を成している。但し御伽草子『橋弁慶』が『弁慶物語』よりも先進の作であるとは定め難く、或は後の作であるかも知れぬが(『弁慶物語』は『看聞御記』にその名が見えるので、略-永享頃の作かと平出氏の『近古小説解題』に推定せられている)、別に同一系統の伝説を取扱っている謡曲『橋弁慶』もあり(この謡曲は日吉安清作(或は世阿弥とも)と伝えられるが、伽『橋弁慶』はこれを敷衍潤色したものか、或は謡曲の方がそれから出たものか不明ではあるが、他の伝説物に取材した謡曲の一般から推して、伽『橋弁慶』そのものでなくても、その内容を成す伝説から採ったことは明らかで、同曲以前に五條橋の伝説が成形していたことの想像は十分可能である。世子作ならば『弁慶物語』より勿論古いことになるが、さなくとも『弁慶物語』よりは早かろうと思われる)、『弁慶物語』が『義経記』の影響下にあることは確実である(同草子では百振奪で、その百本目は納めの太刀故「音に聞く源九郎御曹司の黄金作の太刀を取らばやとぞ思いける」とあるから、既成の伝説乃至文学の流布を予想している事がわかる)と共に、五條橋の勝負を創作したのではなくて、それ以前に成形していた五條橋伝説をも採入れたものと想定していいのではあるまいか。もっと立入って言えば、『義経記』に倣って--或は『義経記』の所伝から出て、多少形が改変せられていた本伝説を主として--叙べようとするのが作者の意図であるにも拘わらず、既に五條橋の伝説として有名になってしまっている事実を捨て去る事が出来なかった為に、否寧ろそれを利用しようとした為に、態-二人を五條橋まで赴かせて、それをも終局に加えたというのではなかったろうかと考えられる。即ち本伝説は『義経記』の所伝のようなのが原形であったのが、五條橋と結合して所謂橋弁慶伝説の完形を成したものと観られ得ると同時に、その橋弁慶伝説の成形も、余り下った時代ではなく、少なくとも永享以前には、早くもその流布を見ていたと推測せられ得るのである。  
太刀奪も千人斬も本伝説にとって主要な事件ではあるが、併し本伝説特有とも、亦本伝説に始まったとも言えない。太刀奪の如きは『義経記』中にすら類話を語っている。即ち巻六の「判官南都へ忍び御出ある事」の條で、而もその人物が弁慶・湛海と優劣を争うようなそして殆ど類を同じうする悪僧但馬阿闍梨を筆頭として奈良法師の痴者共六人、やはり長刀を振りまわし、而も亦対手は同じ判官義経、その上同じく笛を吹きすまして出会うのである。伝説として本伝説と発生はいずれが先であったか明らかでないが、何等か交渉がありそうに思われる。又、直接の本拠ではなくても、これらの伝説と関連して、市原野の月夜、衣を剥がうと尾行する賊魁袴垂を後目にかけて、悠-一管の朗音に襟懐を遺る平井保昌の風流と豪胆と(『今昔物語』巻二五、第七話、『宇治拾遺物語』巻二)は、五條橋上の明光を浴びつつ、太刀を剥がうと荒れ廻る大法師を、徐に名笛を吹き止めて、子扇に打悩ます御曹司の優美と武勇とに相距る遠からざるものがあることを想はせるのである。  
千人斬の迷信的習俗は、謡曲『千人伐』に、  
ワキ「扨この千人切をば、何の為にさせられ候ぞ。」 シテ「これは親の孝養にて候よ。」 ワキ「扨人を討ちても、志になり候よなう。」 シテ「いや是は願にて候。」 ワキ「何れの仏の誓願に、千人伐を立て給う。」 シテ「天竺に斑足王と申す人は、千人の王の首を切らずや。」 ワキ「それも仁王般若経の八句の文にやはらげて、その千人は切らざりしよ。」  
とあるので、その斑足王と普明王の故事である印度の宗教伝説(『仁王経』護国品)から由来したのであろうと考えられるが、父の孝養というのは、舞曲『小袖曽我』に、これも印度の宗教伝説で、天竺のせんなら(戦捺羅)の子兄弟が斉日に多くの人を殺したのを怒って責めた父の首をも刎ね、母の歎を物ともせず、  
兄弟の者承り、とても父せんなら、我等をよかれと思召さるまじ。いざや父の孝養に、千人斬して遊ばんとて、此処の辻、彼処の門にて斬る程に、九百九十九人切って、今一人足らずして、懺法堂へぞ参りける。 
とあるその兄弟が蓮池の亀を切って人に代えようとして却って奈落へ沈む事が見えているので、その意味が理解出来そうに思われる(そしてこの千人斬の原伝説がもう即ち九十九モ-ティフのものである)。『鬼一法眼』(巻四)にも、とうかい(湛海)坊を、  
二十七の年より三十になるまでに、人を千人斬りて、親の孝養にせんという大悪人なり。 
と言い、『秋の夜の長物語』の山門三井寺合戦にも「千人斬の荒讃岐」の名が見える。これらの中には或は本伝説から転移したのも無きを保し難いが、兎に角こうした伝説なり迷信なり慣習なりがあって本伝説の成立をも成長をも助け(殊に『秋の夜の長物語』などは室町初世頃の早い作であるから)、又以上の諸伝説乃至諸作品と互に流通しつつ、相互に成長して行ったのでもあろう。  
本伝説の成形には以上のような諸要素が与っていると思われるが、その成形に際して、これを固定させるに頗る都合の好い或遊離した説話型が、この伝説の外殻として自己を提供したものはなかったであろうか。即ち史上英雄に就いて--義経伝説の両大立物に就いて語られてはいるけれども、〔型式〕の項にも言及した通り、日本童話の典型の一である和尚と小僧型と類種をなす大動物と小動物の勝負型、乃至、巨人と小人の勝負型の遊離童話型が、こうした史譚的な伝説内容を有つようになったのではなかろうか。そうした童話では普通には小者の智力の勝利を説く形になっているが、本伝説では武芸の勝利--それも併し勇力ではなくて早技であり機才であり、そして純重な巨象が狡智の子鼠に悩まされると同断である--で、且史上の英雄武人である点で、武勇伝説の形相を成しているというだけである。かく考えると、本伝説が童話的である理由が理会し得られるように思う(九十九モ-ティフは原からあっても、別に加わっても支障はないが、太刀奪といい、千人斬という條件から推して、武勇伝説としての説話内容の方に附帯したものであったろうと考えるが自然であろう)。『義経記』の所伝でもこの遊離童話型の傾向は認め得られるが、愈-判然としているのは完形の橋弁慶伝説に於いてである。仮に一歩を譲って、若し本源の姿が童話でなく、やはり伝説であったのであったら、少なくともそれが完形の所謂橋弁慶伝説となる際に、全く間隙無く当嵌まり得るこの遊離童話型が、自然に流入融化してしまったと観ることは容認せられてよいであろうと思う。  
【解釈】本伝説は童話的ではあるけれども、牛若丸時代に属する伝説中、又義経伝説全体としても、重要な意味を有っている。九郎判官の股肱の随一で、特に後半生に於ける義経と、殆ど一心同体の英雄僧である武蔵坊弁慶を獲た機因を語る伝説であるからである。もとより又牛若の武芸の至妙を示すものとしても意義がある。そして大と小、黒鎧と白衣、剛と柔、粗宕と優雅、獰猛頑強の荒入道と紅顔軽捷の貴公子との対照、絵巻にも似た京の山水を背景に、月は天心にあり、夜は深き五條の橋上、大長刀と小太刀とが、空に舞い地に落つる活劇は、全く生きた綿絵そのままで、どんな名優でもその一半をも写し得ぬであろうような舞踊舞台に、我等の幻想を誘って行く。童話としての両雄の勝負はこれ亦勇ましく面白い事この上なく、少英雄達を愉しませる効果は、鏡宿の強盗退治の比ではない。  
地「不思議や御身誰なれば、まだ幼き姿にて、斯程健気にましますぞ。委しく名告りおはしませ。」牛若「今は何をかつつむべき、我は源牛若」地「義朝の御子か。」牛若「さて汝は。」地「西塔の武蔵弁慶なり。」互に名告り合い、互に名告り合い、降参申さん御免あれ。……位も氏も健気さも、よき主なれば頼むなり。……これ亦三世の奇縁の始め、今より後は主従ぞと、契約固く申しつつ、薄衣被かせ奉り、弁慶も長刀打ちかついで、九條の御所へぞ参りける。(『橋弁慶』) 
の結末は--「一人と見えつる」長範も「二つになって」失せた熊坂(謡『烏帽子折』)でもなく、刎ねられた首を法眼が膝の上に投げられた湛海(『義経記』)でもなく、耳鼻を削がれて追放たれた但馬阿闍梨(同)でもない、互にめでたい明るい終局は--又我人共に満悦せしめられる所で、童話としても好適であり、既に上の謡曲の「降参申さん御免あれ」の一句まで、作者の意識しない所かも知れぬが、如何にも童話的なのが愉快である。  
これほどの重要な又有名な伝説なのに、その年代が諸説一致せぬ事が少し甚だし過ぎるのが注意を惹く。これを義経の成人後とすれば、両人の対照の上に、従って童話的な説話の上に、興味を夥しく減殺して来る。そこで牛若丸時代として語られる方の所伝が優勢となって来た傾向が認められるのは甚だ当然といわねばならぬ。然るに若しそうならば、鞍馬入との関係は如何かの問題が起る。即ち鞍馬時代とすれば、服従後の弁慶をどう処置したかの疑問が提出せられて来る。謡『橋弁慶』が  
さても牛若は母の仰せの重ければ、明けなば寺へ上るべし。今宵ばかりの名残なれば、五條の橋に立ち出でて、行人を待つとし、臣属した弁慶を九條の館へ随伴するとしているのは、これを解決した一途であろう。けれどもこれは独立した劇曲であるからそれでも許されようが、此処に何よりも困惑せしめられるのは、鞍馬脱出後、吉次に誘われての奥州下向の一事のある事である。この事実はかなり史実の骨子らしいものまで有していて、既に早くから著名になっている。弁慶との出会が鞍馬入以前であろうと、鞍馬時代であろうと、いづれの場合でも、この牛若東下りに没交渉ではあり得ない筈で、それに関連しての弁慶の拳措、若し京へ留まったとすればその動静--吉次と共に牛若が弁慶を帯同したという伝説は殆ど無い。少なくとも古い主な文献には皆無である。又同道したとなると、熊坂伝説や関原与市伝説などが矛盾動揺を来すことになる--等が伝えられねばならない。こういう理由から、かの有名になり過ぎた東下りの伝説乃至それに附帯した熊坂伝説を始め諸伝説とも撞著させぬ為に、『義経記』は一旦奥へ下ってから再び都上りした際の出来事として、辛うじて苦しい合理化の工作を施している(『義経記』作者がこうした救済的補綴を試みたのか、既に別箇にそうした伝説として行われていたのを併せ採ったのか、明証は無いが。なお鬼一法眼伝説の年代も、稍相似た意味を有って、やはり曖昧であるから、『義経記』ではこれもこの京上りの折としている)。これを襲用したと思われる『弁慶物語』も、『義経記』と共に義経時代とするのであるが、一層その年代は曖昧で、鞍馬時代にも連なる如く、又奥から上って来ている如くでもあり、更に終末は二人で奥へ下って平家討滅を策するという事になっている。要するに本伝説は恐らく別箇に独立して--二人の主従契約の機縁に関する伝説として単独に--発生したもので、これが童話的興趣の上からは年歴の矛盾に拘束せられず牛若時代として成長し、年歴と合理化する心意からは義経時代として進展したものと思われる。此処に年代の上での区-たる諸姿が現れて来たものであろう。而も後世は牛若時代として、そして五條橋としての本伝説の流布展開に帰一して行ってしまった。  
それから千振或は百振太刀奪でも、千人斬でも、〔型式〕の項で説いたように所謂九十九伝説で、九十九或は九百九十九までは形の如く進行するが、最後の一回で頓挫或は変異が生ずるという説話型で(本伝説では最後の一回に於いて満を欠く條件は定式通りである代わりに、意外の好収穫に終わることになるのである)、これ亦童話的な説話型式であるが、太刀奪はよいとして、千人斬に関しては一応の考察を必要とする。即ちこれを弁慶の所為とすれば先ず論はない--但しそれだとその動機が牛若の場合のような尤もらしさを有せぬというだけである。が、牛若の所業とすると、義経ファンにとって甚だ弁護に苦しむ悪行であるわけである。元来、牛若丸の五條橋千人斬は、亡父の供養に平家の士千人を斬る(伽『橋弁慶』『天狗の内裏』)のであるとすれば、その形に結象した当時の迷信的風習を反映したものに過ぎないとはいえ、所詮笑止愚劣な遊戯に止まり、到底、後年三軍を叱咤して平家を潰滅させようという大望のある英雄の行為ではない。又手に立つ者を試みて、家臣にしようという為(『孕常磐』『鬼一法眼三略巻』)ならば、稍有意味であるが、而も余りに軽忽である。或は真剣を以て人を斬って、兵法稽古の手の内を試す為(『鬼一法眼虎の巻』。牛若と知らずしての平家方の推量)と観るのは、全く江戸時代式解釈で、而もこれも義経を愈-小ならしめる。更に謡曲『橋弁慶』の牛若は、曲中説明の詞句の無い(或は略せられている)ままに解すれば、故無くして五條橋上で行人を斬る愚物である。如何しても、これに素材を与えた伝説、例えば伽『橋弁慶』の内容を成すような伝説若しくは文学の先行の予想を要求させられる。兎も角もこれらは何れにしても、不生出の大英雄としての義経の人格に、寧ろ煩をなすもので、それよりも、源氏再興の宿願に、五條の天神へ参詣する笛の主の公達が、千振の太刀を集めに往還を騒がす「たけ一丈許りある天狗法師」(『義経記』巻三)に偶然出逢って、巳むを得ず闘う方が、論にも及ばず遙に勝っている。そして最古の所伝と思われる『義経記』が即ち略この形なのである。結局弁慶は普通の強盗式の悪僧であったのを、牛若に服せしめられてこれに従ってから、漸次に豪邁の傑物となって行くと観る方が無理でなく、こうして初めて本伝説は、真に義経伝説としての意義を有して来るものであり、今日伝えられる所も亦、この形に落着して来ている理由が十分に首肯出来るのである。  
なお又本伝説は熊坂長範伝説と同じく、本伝説結象当時の強盗引剥横行の状勢をも示している。千振りの太刀を取ろうとして、洛中を闊歩した「天狗法師」の類は、時折出現を見たのでもあったろう(〔補〕『弁慶京土産』では天狗の面を着けて出ている)。前にも述べた南都の悪法師輩の場合でも、  
その頃奈良法師の中に、但馬の阿闍梨という者あり。同宿に和泉・美作・弁の君、これら六人与して申しけるは、我等南都にて悪行無道なる名を取りたれども、別にし出したる事も無し。いざや夜-佇みて、人の持ちたる太刀を奪いて、我等が重宝にせんとぞ言いける。尤も然るべしとて、夜-人の太刀を取りありく。 
と『義経記』は語っている。  
又これも既に説いた千人斬の迷信乃至習俗も本伝説の或所伝の形相に投影していることを、重複するが改めて一言して置く。  
【成長・影響】本伝説の成長に関しては、本項以前に既に言及した所も少なくない。大体に於いて『義経記』の所伝の如き形に始まって種-に変転分化して行った末に、漸次冗贅の分子を篩い落として極めて精髄化し、単純化し、童話化して来たと言える。そして骨子に於いては却って『義経記』の原形に復旧して来たと言っても不可は無い。なおその成長進展の間、熊坂や湛海の伝説等と部分的に流通し合ったり、他の義経伝説と接合連繋したりしている現象も認められる。近松の『孕常磐』(初段)に弁慶が縛られて清盛の館に曳かれるのなどは、『弁慶物語』の義経・弁慶の在所を責め問われようとする師の坊慶心の捕われを救う為に、弁慶が自ら縄に掛かって六波羅の入道相国の前に出て清盛を罵る事からの脱化であろう。それは本伝説直接の変容ではないが、本伝説に附帯して居り、而も『孕常磐』では、その場で放たれて五條橋の怪童退治に派遣されるので、即ち本伝説と緊密に結びつけられているのである。  
 
扨本伝説成長の過程に於いて、特に注意を逸してならない現象は、牛若千人斬と弁慶千人斬との両説が、各-別途に発達して行ったことである。そして前者が後の文学に与えた影響の大きいことは意相外のものがある。  
今両説の各-の系統に属するものを試に掲げると、  
(一) 前者(牛若千人斬)の系統に属するもの  
『橋弁慶』(謡曲)(但し特に千人斬とはしていない。唯辻斬的の意味としてある)  
『橋弁慶』(御伽草子)  
『鬮罪人』(狂言)  
『天狗の内裏』(義朝の語る未来記の中にある)  
『牛若千人切』(延宝七年刊古浄瑠璃)  
『孕常磐』(初段)  
『鬼一法眼三略巻』(五段目)  
『御所櫻堀川夜討』(二段目)(これは義経が牛若時代にした千人斬の罪障消滅の為、五條橋上でその供養を為し、遺族を恵むことに作ってある。即ち千人供養である)  
『嫩(容+木)葉相生源氏』(第二、五條橋の段)(これは千人斬は藤九郎盛長の贋牛若の所業としてある。但し、同橋上で弁慶を服するのは真の牛若である)  
『風流誮平家』(二之巻、第三)(これは追剥の仙人の六太を、五條橋上で斬ってから、千人斬と訛伝したとしている)  
『義経倭軍談』(四之巻)  
『鬼一法眼虎の巻』(四之巻・五之巻)  
『鞍馬天狗三略巻』(黄表紙)  
『鸚鵡返文武二道』(同、恋川春町作)  
『鞍馬山源氏之勲功』(合巻)  
『義経一代記』(青本) 
(二) 後者(弁慶千人斬)の系統に属するもの  
『義経記』(巻三)(千人斬ではなくて、太刀千振を取るとしてある)  
『弁慶物語』(同上。但し百振太刀奪)  
『金平本義経記』(二之巻五段目)(同上。千振太刀奪)  
『武蔵坊弁慶異伝』(読本)  
『義経誉軍扇』(合巻) 
両者を併せて一にし、千人斬でもなく、又千振の太刀奪でもなく、而も弁慶は子童を義経と知ってこれに近づき、その器量を試みて主と仰ぐ為に、故意に太刀を賜べと威嚇することになっているのは、『義経勲功記』(巻四)である。  
そしてこの両系統のものを概観すると、初めは、  
(A)牛若千人斬  
(B)弁慶千振太刀奪 
の形で対立し、作品によって之を示せば、  
 (B)弁慶太刀奪   (A)牛若千人斬      備 考  
┏『義経記』     『橋弁慶』(謡)┓ -線は互に交渉のあることを示す。  
┃  |         |       ┃ 先後を意味するのではない。  
┗『弁慶物語』----『橋弁慶』(伽) ┛ 
で、そして後に(B)から弁慶千人斬が出て、(A)に対立して来ている。即ち弁慶千人斬は、牛若千人斬から転移して太刀奪に代わった後の発達であるのを知るのである。同時に牛若千人斬に関しても、或は贋牛若とし(『相生源氏』)、或は仙人六太斬とする(『 誮平家』)など、弁護的説明を加えて来るようになったものがあり、若しくは千人供養をさせるのがある(『御所櫻』)に至ったのは、一方かの迷信的習俗の廃失と共に、無謀残忍で愚昧な千人斬を、好んで牛若になさしめるのに堪えない国民の同情と敬意とがおのづから生ぜしめた傾向であり、その千人斬が弁慶に移ったのも、亦同様の動機からと一面には千振太刀奪の暴行を既に信ぜしめている悪僧の方ならば、幾分相応でもあるとする考からとに因ると解してもいいであろう。又、この転移以前に、本伝説からのみの影響ではあるまいが、金平本の『金平千人切』の如き作も生まれた。  
〔補〕なお福地櫻痴の『女弁慶』は本伝説の変形である。又『近世邦楽年表』(義太夫節之部)には『義経東六法』(中の巻)は謡曲『橋弁慶』のもぢりと見えている。 
【文学】本伝説に取材した文学は、既に提出したものが多いが、改めて主な作品を挙げると、近古のものとしては『義経記』(巻三)(但しなお所謂橋弁慶ではない)『弁慶物語』(一名『弁慶の草子』)『橋弁慶』(二書共前半は弁慶の生立を記し、又互に関係がある。後半は本伝説である。『弁慶物語』は『看聞御記』(永享六年十一月六日)に「武蔵坊弁慶物語二巻」と見える。奈良絵本もあり、刊本は寛永板・慶安四年板等がある)、謡曲『橋弁慶』。江戸時代の物としては、古浄瑠璃に『牛若千人切』『金平本義経記』(二之巻五段目)(〔補〕『弁慶京土産』(初段)『弁慶誕生記』(四段目)。なお後者は『弁慶物語』を粉本として趣向を立ててある)、近松の『孕常磐(初段)、文耕堂の『鬼一法眼三略巻』(五段目)、鬼外の『嫩(容+木)葉相生源氏』(第二、五條橋の段)等、八文字屋本には、『風流 誮平家』(二之巻、第三)、『鬼一法眼虎の巻』(四・五之巻)、青本に『振袖橋弁慶』等がある。長唄にも『橋弁慶』があって、謡曲から出ている。その長唄地の歌舞伎の所作では『渡初橋弁慶』が初で、歌右衛門七変化の中にも『橋弁慶』がある(〔補〕説教節の『五條の橋』、薩摩琵琶(錦心流)の『奇縁』、筑前琵琶の『五條橋』皆『義経記』からも来ているが主として謡曲『橋弁慶』の影響作である)。その他『勲功記』(巻四)を始め、一代記風の義経物及び弁慶の伝記様のもの(『武蔵坊弁慶異伝』の如き)等には大抵その一部分を成していないものはない。  
〔補〕稍変わったものでは、明治以後の作であるが、本伝説の弁慶に代えるに常磐御前を以てした女橋弁慶の趣向、即ち我が子牛若を意見の為、男装して五條橋に現れるという櫻痴居士の脚本『女弁慶』がある。五條橋での常磐の意見は『孕常磐』(初段)から思いついたのであろう。  
川柳に  
小腕でも薙刀ばかり二本占め 
というのは熊坂伝説と本伝説とを意味するので、〔型式〕の項にも述べたように両伝説の或点での相似を捉え得た観察である。  
又、  
牛若は千十四人斬り給う 
というのも本伝説の千人斬と、熊坂伝説の長範及び部下十三人を斬った(謡『熊坂』『現在熊坂』)というのを指したのである。  
観世流の『笛之巻』は本伝説の前段を成す作で、牛若が武芸を好み、五條橋に出て人を斬る乱行を欺く母常磐が、弘法大師伝来の名笛「虫喰」を与えて教訓することを作ってあり、舞曲『笛之巻』と類材をなしている。 
8 逆落伝説

 

詳しく言えば鴨越逆落伝説である。そして逆落は実は「坂落」なのであるが、終に逆落と記されるに至った(近松の『源義経将棋経』には既に「鴨越の逆落し」とある)のは、鴨越を極端な峻坂としてしまったもので、同時に義経に益々神人的性格を発揮させる所以であり、愚に似ているとは云え、伝説としての面白味は却って「坂」より「逆」の字の上にある。  
【内容】  
人物  源義経及び配下の軍勢、武蔵坊弁慶・鷲尾三郎経春(『源平盛衰記』)(『平家物語』は鷲尾三郎義久、幼名熊王丸、『長門本』には加古菅六久利、『盛衰記』所載の「異説」にも多賀菅六久利とし、『義経興廃記』には鷲尾庄司武久の子三郎経久、幼名熊王丸としてある。『義経勲功記』は『平家物語』と同じである。又『広益俗説弁』(後編巻三、士庶)には三郎経春と云う名ではなく、十郎清久と云い、義経から義の一字を賜って義久と称したとしていて、各々一定しない) 
年代 元暦元年二月七日払暁(『盛衰記』『平家物語』)(『吾妻鏡』も同じ)  
場所 摂津国一の谷鴨越 
一の谷の城廓に立籠る平軍を攻める為、範頼は大手生田口に向い、義経は搦手一の谷口に向ったが、敵の不意を襲おうと、義経は密に佐藤兄弟・畠山次郎重忠・佐原十郎義連・伊勢三郎義盛・武蔵坊弁慶等、手勢僅かに数十騎を率いて、一の谷の後の山鉄拐ヶ峯に登り、弁慶が探し出して来た猟人の究極の若人に鷲尾三郎経春と姓名を与えて、召して案内者とし、鴨越とて人馬も通はぬ巖石峨々たる嶮岨の坂を、鹿の越えるに同じ四足の馬の越え得ぬ筈やあると、先ず二頭の馬を追い下して試みた後、義経自ら陣頭に立って馳せ落し、敵陣の後に出でて虚を衝き、城を陥れて大捷を収めた。なお『盛衰記』にはこの伝説の一挿話として、畠山重忠が愛馬を負って峻坂を下った逸話を含んでいる。  
【出処】『平家物語』(巻九、老馬・坂落)、『長門本平家』(巻一六、一谷合戦事)、『源平盛衰記』(巻三六、鷲尾一谷案内者、巻三七、義経落鴨越並畠山荷馬附馬因縁)等。  
【型式・構成・成分・性質】特殊の型式のものではない。戦争説話と云う汎称の下に呼ぶ外はないであろう。そして前半は鷲尾経春に関する英雄立身譚で、これが後半の序を成し、後半が即ち逆落しで、これは一面の意味では、武術説話中の馬術説話とも観る事が出来る。本伝説に於いては史実に空想的成分が加わって、伝説的興趣あらしめ、神話的成分は主人公たる義経の行動にその面影を認め得ると言ってよい。史譚的武勇伝説である。  
【本拠】本伝説には骨子をなす明らかな史実がある。即ち『吾妻鏡』(巻三、寿永三年二月七日)に次の記事がある。  
七日丙寅。雪降。寅刻源九郎主先引分殊勇士七十余騎、著于一谷後山号鴨越。爰武蔵国住人熊谷次郎直実・平山武者所季重等、卯刻倫廻(ヒソカニ)于一谷之前路、自海辺競襲于館際、為源氏先陣之由高声名謁間、(中略)其後蒲冠者井足利・秩父・三浦、鎌倉之輩等競来、源平軍士互混乱、白旗赤旗、交色闘戦、為体(テイタラク)、響山動地、凡雖彼樊(ロ+会)・張良、軋難(タヤスク)敗績之勢也。加之、城廓石厳高聳、而駒蹄難通。(さんずい+?)谷深幽、而人跡巳絶。九郎主相具三浦十郎義連巳下勇士、自鴨越此山猪鹿兎狐之外不通険阻也被攻戦間、失商量敗走。或策馬出一谷之館、或棹船赴四国之地矣。(下略) 
上の文は当日の條に見えるが、後の記述にかかることは『吾妻鏡』の他の部分に於けると同様で、敢えて珍しい事ではない。併しその詞章を読むと、余りに『盛衰記』の文に近く、殆どその簡訳ではないかと疑わせる程である。「鴨越」とある下の分註の如きも、何となく『盛衰記』の既成を予想させるような筆遺いのようにも思われる。殊に『吾妻鏡』の前半は後の追記に属する部分であるからである。が又逆に、『盛衰記』の同條が『吾妻鏡』に拠って書かれたとも考えられる。少なくともこの文が『盛衰記』の文と密接な関係あることは否定し難い。殊に「或策馬出一谷之館、或棹船赴四国之地遺矣」の文は、『平家』(巻七)の「一門都落」の末節  
或は磯辺の波枕、八重の潮路に日を暮し、或は遠きを分け、嶮しきを凌いで、駒に鞭つ人もあり舟に棹す者もあり、思い思い心々にぞ落ち行きける。 
又『盛衰記』(巻三二)の平家都落の條の冒頭  
落行く平家の人々、或は式津の浪枕、八重の塩路に日を経つつ、船に竿さす人もあり。或は遠きを凌ぎ近きを分けつつ、駒に鞭つ人もあり云々。 
に余りに酷似しているではないか。又、「三浦十郎義連巳下勇士」と義連一人の名を特に挙げたのは、『盛衰記』及び『平家』に於いて真先に落した特筆すべき戦功者が、佐原義連であることによって、一層意味が明瞭となるように思われる。  
夫れより底を差覗いて見れば、石厳峙って苔蒸せり。刀のはに草覆えるようなれば、いといぶせき上、十二十丈もや有らんと見え渡る。下へ落すべきようもなし。上へ上るべき便りもなし。互に堅唾を呑みて思い煩える処に、三浦党に佐原十郎義連進み出でて、我等甲斐・信濃へ越えて、狩し鷹仕う時は、兎一つ起いても、鳥一つ立っても、傍輩に見落されじと思うには是に劣る所やある。義連先陣仕らんとて、手綱掻くり鐙踏張り唯一騎、真先蒐けて落す。(『盛衰記』巻三七) 
以上の確に関係があると認められる部分のあることを知って、更に両書の文を比較すれば、  
源平軍士等互混乱、白旗赤旗、交色闘戦、為体、響山動地、凡雖彼樊(ロ+会)・張良、軋難敗績之勢也。(『吾妻鏡』既出)  
追手の軍は半と見えたり。喚き叫ぶ聲、射違う鏑の音、山を穿ち谷を響かし、赤旗赤符立並べて、春風に靡く有様は劫火の地を焼くらんもかくやと覚えたり。(『盛衰記』巻三七)義経兵法その術を得て、軍将その器に足れり。相従う者又孟賁の類樊(ロ+会)の輩なりければ、連いて同じく通りにける。(同巻三六、鴨越を越ゆる條)  
昔項羽が鴻門に向いしが如し。何かは是を攻落さんとぞ見えたりける。(同巻、一の谷の要害を記せる條)  
加之城廓石厳高聳、而駒蹄難通。(さんずい+?)谷深幽、而人跡巳絶。(『吾妻鏡』)(既出)  
彼の山道は長山遙に連きて、人跡殆ど絶えたり。鴨越とて由々しき嶮難の石厳也。(『盛衰記』巻三六) 
の如きも、それぞれ詞章上相互の類似が恐らく偶合ではあるまいと思わせるものを示している。即ち『吾妻鏡』の記事を本として、之を文学的に潤色したものが『平家』『盛衰記』なのか、或は『吾妻鏡』の或部分は却って後者にその材料を仰いだものであるのか、なお研究の余地がある。いづれにせよ、両者が必ず直接の関係があるということも、単に本伝説に関する部分の如上の比較によっても明らかに知り得る所である。それは兎も角、義経が鴨越を越えたことは確実であろうし、それが伝説的誇張を以て語られているのが本伝説である。なお伝説としての鴨越坂落、即ち『平家』『盛衰記』に見えるそれには、支那説話の斉の管仲が老馬を雪に放って道を知った故事(『韓非子』説林篇、『蒙求』巻下)が一部に採入れられ、『義経興廃記』(巻七)の逆落は、同じく支那説話『三国志』の陰平の嶮を冒して蜀の成都を襲った魏将(登+こざとへん)艾(とうがい)の行動がその脚色を助けたのを見るのである。  
【解釈】本伝説は軍将としての義経の超凡独特の容相を紹介する所以のもので、即ち奇襲の戦略は彼の得意とする処、渡辺の渡海と共に之を例証する主な事件であり、かのカルタゴの勇将ハンニバルがアルプスの嶮を越えたのにも比すべき、東西一対の快事である。その上、義経の性格も如実に具現せられていて、冒険的奇捷を好むも無謀の挙に出ることはなく、敵の機先を制する神速を尊びながら、なお微細な点にまで周到な用意を怠らず、或は源平と名付けた二頭の馬を遂い下し、源氏の馬が恙なく、平家の馬が傷くのを見るや、すかさず軍士の気を攬って之を励ますことを忘れず、豪胆敵を呑み、又嶮を呑み、自ら真先に立って手兵に範を示す稀代の名将は、到底好人物にして拉腕の無い大手の大将軍範頼の比ではない。水鳥の羽音に驚き、都の春の昨日を夢みる平軍の敵としては、余りに均衡を失することの甚だしいものがある。なお又本伝説は義経の馬術の精妙を讃え述べるものとしても意義がある。人馬も通わぬ嶮坂を、「 碊(がけ)を落すには手綱あまたあり、馬に乗るには、一つ心、二つ手綱、三に鞭、四に鐙と云って四の義あれども、所詮心を持ちて乗るものぞ。若き殿原は見も習い乗りも習え。義経が馬の立様を本にせよとて、真逆に引向け、続け続けと下知しつつ、馬の尻足引敷かせて、流落ちに下」(『盛衰記』巻三七)つた功者さは、その乗馬太夫黒の名と共に、永く鴨越に誉を留めるものである。「逆落し」の語も、「真逆に引向け」の語から出たことは明らかである。そしてこれは又同時に義経の言を借りた当時の坂東武者の老兵が、若輩に訓える乗馬の心得の一般と、彼等が坂東馬を馳駆する状とを示すものとしても観られ得るであろう。  
元来史実的本拠の明らかな伝説にあっては、その伝説としての意義と興味とは、空想的分子が加えられて、如何ほどまでその史実が伝説化したかという点にある。併し本伝説の如きは特に史実との間に大きな距離を置かしめられるに至らなかったので、僅かに鴨越の嶮岨が極端に誇張された難所となり、従って義経は愈々神人的人物に近づかしめられたところに、その傾向が認められるのみである。  
又、前半の鷲尾の出世物語は、弁慶・義盛等のそれと同じく、譜代の臣の少ない義経が、新に獲た従士に関する伝説で、これが鴨越の案内者であるに於いて、逆落伝説と結付けられているのである。これは一には彼の徒手孤独の幼年時代から、一躍三軍に将として平家討滅の大功を十分に収め得たことが、余りに容易であったのについて、彼の天性の偉大なものがあると同時に、必ずやこれが輔佐腹心の無い筈はないという想定から、必然に発生して来たものであろうし、又実際に於いてもこのような例があったのでもあろう。又一方から言えば、義経の没落以後も主君の為に逆境に甘んじ、常に彼と運命を共にし、終に最後まで志を変えなかった主な人物は、史実は兎も角、少なくとも伝説に於いてはこのような特殊の事情で臣下となった経歴を有している者であるからでもあった。例えばこの鷲尾について見ても、「是より思付き奉りて、一の谷の案内者より始めて、八島文司(もじが)関、判官奥州へ落ち下り給いし時、十二人の(そら)山伏の其一也。老いたる親をも振り捨てて、愛(かな)しき妻をも別れつつ、奥州平泉の館にして最期の伴をしたりしも、情ある事とぞ聞えし」と『盛衰記』(巻三六)は語っている。武勇の名誉は、やがて立身の保証である戦争時代、燃ゆるが如き若い功名心が、草深い山奥にくすぶる狩猟の生業から、馬を躍らせ太刀を横たえる武士の晴の舞台に誘う切なるものがあったとは云え、「七十余なる翁と六十余なる嫗と」(同巻)「愛しき妻」(同)とを振り捨てて、長く戦場の人となった理由の一つは又、義経の恩義に感じ、威容に信服した為でないことがあろうか。伊勢三郎義盛の場合も亦同じである(『盛衰記』『義経記』)。測らず宿し参らせた源家の公達と、主従の約を結んでは、愛妻を空閨に残し留めて淋しさに泣かしめても、猶主君を一人慣れぬ長途に出で立たせ奉るには代え難いとするのも、三郎が主君大切と思う誠意と共に、義経の一見忽ちに百年の想を以て懐しまれる人格の一半を偲ばしめるに足るものがある。要するに本伝説の前半は、義経の臣従の多くは、如何にして獲られたのであるかを説明すると同時に、その偶然の動機から臣下となることを許されたこの新主を、爾後長く「思付奉」らざるを得ない良主将として、咄嗟の間に感じさせる偉大な英雄であることを示すものである。  
【成長・影響】本伝説は後の伝説・文学への影響は特に言うべき程ではない。唯『真書太閤記』(二編巻一五)の木下藤吉郎秀吉が稲葉山の城攻に瑞龍寺の峯を越えようとして、猟人堀尾茂助吉晴を獲て案内者とした説話は、全然の仮作か否か、史実の暗合の有無如何を問わず、本伝説の影響もかなり与っているのではなかろうか。それから八文字屋本の『風流西海硯』(二之巻)に、判官を刺そうと幇間に身を扮し、鴨越権兵衛と変名して近づいた平家の士上総五郎兵衛忠光を、烱眼の義経は看破して、却って「洒落しに問落して」一の谷城内の敵状を察知することとし、「逆落し」を「酒落し」にとりなしたのは、浮世草子作者の常用手法である。又源平の亡者軍と閻王との戦を題材とした『小夜嵐』(巻五、軍勢賦(くばり))に  
九郎判官義経はかすみが嵩・山彦が峰を落さんとて、近習の侍鈴木の三郎重家………河越の三郎宗頼を先として、究竟の強者五十四萬八千余騎、明業寺を越して閻魔城のうしろ、無別法の森へ忍び入るこそあぶなけれ。 
とあるのも、本伝説をもじったのである。  
本伝説の成長過程に於いて最も注意の焦点となるのは、逆落の舞台である鴨越の難所の記述にある。文学・絵書等何れも如何にしてその嶮岨の一半だけでも描き出そうかということに心を用いたようで、従って漸次に誇張されて来た。  
(A)鴨越此山猪鹿兎狐之外不通険阻也(『吾妻鏡』)(既出)  
石厳高聳、而駒蹄難通。(さんずい+?)谷深幽、而人跡巳絶。(同)(既出)  
(B)彼の山道は長山遙に連きて、人跡殆ど絶えたり。鴨越とて由々しき嶮難の石厳也。自ら鹿ばかりこそ通りけるに、(『盛衰記』巻三六)(既出)  
夫れより底を差覗いてみれば、石厳峙って苔蒸せり。刀のはに草覆えるようなれば、いといぶせき上、十二十丈もや有らんと見え渡る。下へ落すべきようもなし、上へ上るべき便りもなし。(同巻三七)(既出)  
(C)峨々たる石は高く聳えて雲に連なり、恰も虎豹の蹲まるが如く、絶谷もとより路無くして、千尋の石壁削り成せるが如し。(中略)数十丈の岩石屏風を立てたる如く、岩角するどにして刀山剣樹の如し。雪は村々に消え残りたるが、瓶下(つるべおろ)しに聳えて、人馬の足可立様も無かりければ、(『義経興廃記』巻七) 
の三類の文を比較してもその一斑は窺い知られるであろう。今も世に書かれる逆落の絵には、鹿兎はおろか神ならでは越えられまいと思われる程の巉厳絶壁に、七つ道具を背負った法師武者を後に随え、翩翻と翻る白旗の下に、悠然として太夫黒を立てて敵城を瞰下する、颯爽たる判官の英姿を見るのである。こうして義経は益々軍神の如き将帥となったのである。  
なお本伝説の発達と共に附随して来たのは、鐘懸松の伝説である。即ち『興廃記』(巻七)に、  
義経を手本にして乗下せ者共と、鐘を扣いて鴨越の峯に鐘懸松あり人馬をすすめ、曳也聲を合わせて真先に進み、千尋の石壁を手綱掻くり乗り出し給えば、 
と見えるのがこれである。これは恐らくは宇治川の戦に際し、義経が川辺に高櫓を造らせ、平等院の御堂から太鼓を取寄せ、櫓の下で之を打って軍勢に下知したこと(『盛衰記』巻三五)から出たのであろう。そしてこの鐘懸松の釣鐘は、弁慶が勇力を以て鴨越の上に曳き上げて来たものとされるに至った(『武勇功亀鑑』)が、これは又弁慶が叡山の谷間から山上へ釣鐘――俵藤太が龍宮から持帰った三井寺の宝物を叡山へ奪われていたというその梵鐘――を引上げたという伝説(『源平武者鑑』等)が転移して来たものである(この龍宮の釣鐘が三井寺炎上の時、山門の手へ渡り、撞いても鳴らないので山法師共が怒って谷間へ落したことは『太平記』(巻一六)の俵藤太百足退治伝説の條に見えるが、それが弁慶の勇力説明伝説となって、曳鐘伝説を生んだのである)。  
【文学】『源平盛衰記』(巻三六・三七)『平家物語』(巻九)及びこれらを受けた江戸時代の『義経興廃記』(巻七)、『義経勲功記』(巻七)、又浄瑠璃には『寿永楓元暦梅源平鴨鳥越』、歌舞伎の脚本には『一谷坂落』がある。その他一代記風の義経物には大抵之を収めている。又謡曲『二度掛』(一名『坂落』)の題名は、梶原父子の事から出たのであるけれども、『箙』『梶原座論』等に関係のある程のものですらなく、別名の示す如く、寧ろ本伝説を主部分としている。即ち鷲尾が案内者に召されての老父との別離を前半とし、梶原が敵中に見失った我が子源太との再会を後半として対照させ、親子の情愛と人生の離合とを見せようとした作である。鬼外の戯曲『弓勢智勇湊』にも本伝説と鷲尾の事が採入れられ(〔補〕鷲尾の伝説に取材したものでは『鷲尾出世』という説教節も作られている)、また鐘懸松に関して戯曲『源頼朝源義経古戦場鐘懸松』及びこれから出た同名の青本がある。 
9 弓流伝説及び八艘飛伝説

 

9-1 弓流伝説 
この時代に属するもので、義経の人格の一半を語る美しく優なる物語は弓流伝説である。  
【内容】  
人物 源義経。平家の軍兵  
年代 元暦二年二月二十日(『盛衰記』)(『平家』には十八日。『吾妻鏡』は十九日)  
場所 讃岐国屋島浦 
屋島合戦に平家は又もや義経に不意を襲われ、内裏を追い落されて海に泛び、陸の源氏と戦う間の出来事である。『源平盛衰記』の原文を左に引こう。  
平家射調れて船共少々漕返す。判官勝に乗って、馬の太腹まで打入れて戦いけり。越中次郎兵衛盛嗣折を得たりと悦んで、大将軍に目を懸けて熊手を下し、判官を懸けん懸けんと打懸けけり。判官(しころ:革+固)を傾けて、懸けられじ懸けられじと太刀を抜き、熊手を打除け打除けする程に、脇に挟みたる弓を海にぞ落しける。判官は弓を取って上らんとす。盛嗣は判官を懸けて引かんとす。如法(もとより)危く見えければ、源氏の軍兵あれは如何に如何に、その弓捨て給え捨て給えと聲々に申しけれども、太刀を以て熊手を会釈(あいしら)い、左の手に鞭を取って、掻寄せてこそ取って上る。軍兵等が縦い金銀をのべたる弓也とも、如何寿(いかがいのち)に替えさせ給うべき。浅猿(あさま)し浅猿しと申しければ、判官は軍将の弓とて、三人張五人張ならば面目なるべし。されども平家に被責付て、弓を落したりとて、あち取りこち取り、強きぞ弱きぞと披露せん事口惜しかるべし。又、兵衛佐の漏れ聞かんも云甲斐なければ、相構えて取りたりと宣えば、実の大将也と兵舌を振いけり。 
『平家物語』には  
源氏勝に乗って、馬の太腹つかる程に打入れ打入れ攻め戦う。船の中より熊手薙鎌を以て、判官の甲の錣にからりからりと打懸け打懸け、二三度しけれども、御方の兵共太刀長刀の鋒にて打払い打払い攻め戦う。されども如何はしたりけん、判官弓を被取落ぬ。うつ伏し鞭を以て掻寄せ、取らん取らんとし給えば、御方の兵共、ただ捨てさせ給え捨てさせ給えと申しけれども、終に取って笑ってぞ被帰ける。おとな共は皆爪弾をして、縦ひ千疋萬疋に代えさせ可給御手馴(たらし)なりと申せども、争(いかで)か御命には代えさせ給うべきかと申しければ、判官弓の惜しさにも取らばこそ、義経が弓と云わば、二人しても張り、若しは三人しても張り、叔父為朝などが弓の様ならば、熊とも落いて取らすべし。弱(わうじゃく)たる弓を敵の取持ちて、是こそ源氏の大将軍九郎義経が弓よなど、嘲哢せられんが口惜しさに、命に代えて取ったるぞかしと宣えば、皆又是をぞ感じける。 
(なお『盛衰記』には上の話に引続いて、大将を救おうと馬を游がせた源氏の武士小林神五宗行が、判官を懸け外して無念がる盛嗣の熊手に兜を懸けられて、互に勇力を出して引き合い、終に(しころ:革+固)を引ちぎった話を載せてあるのは、『平家物語』の景清・三保谷の錣引に相当する)  
【出処】『平家』(巻一一、弓流)、『盛衰記』(巻四二、屋島合戦)。  
【型式・成分・性質】同じく戦争説話に属せしむべきもので、特殊の型式を具えた伝説ではない。  
史実的成分と空想的(仮構的)成分と相半ばしている。寧ろ後者の方が多いであろう。性質から言えば史譚的武勇伝説である。  
【本拠】明確な史実は無い。故に水府に於いて『大日本史』が編纂せられた時、黄門光圀卿は、本伝説の如きを、史実として義経の伝記中に収めることの不可を論じた。併し義経の性格を髣髴させて史実を補う意味に於いては許さるべき点がないでもない。光圀のこの命があったにも関わらず、安積澹泊等がなお本伝説を棄てるに忍びず、附註の形としたのは、一つには本伝説の魅力に原因するとは言え、又一つには上の意味もあったのであろう。もとより屋島の戦も明らかな史実である。又屋島の戦で源平が互いに陸と海とに分れて闘ったことも事実である。『吾妻鏡』にはこの日の平軍の勇士の中に、盛嗣の名さえ数えている。  
(前略)又廷尉義経昨日終夜越阿波国与讃岐之境中山、今日辰剋到于屋島内裏之向浦、焼払牟礼(ムレ)・高松民屋。依之先帝令出内裏御(タマウ)。前内府又相率一族等、浮海上。廷尉著赤地錦直垂・紅下濃鎧、駕黒馬。相具田代冠者信綱・金子十郎家忠・同余一近則・伊勢三郎能盛等、馳向汀。平家又抑船、互発矢石。此間佐藤三郎兵衛尉継信・同四郎兵衛尉忠信・後藤兵衛尉実基・同養子新兵衛尉基清等、焼失内裏井内府休幕以下舎屋。黒煙聳天、白日蔽光。于時越中二郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛尉忠光平氏家人等下自船、而陣宮門前、合戦之間、廷尉家人継信被射取畢。(下略)(巻四、元暦二年二月十九日癸酉の條) 
けれども本伝説の直接の本拠となったと認められ得る記事は、正史に求めることは出来ない。『盛長私記』(巻一九)に本伝説が見えるが、同書は伊勢貞丈の否認説(『安斉随筆』巻一八、『貞丈雑記』巻一六)に不十分な点があっても、兎に角後人の(恐らくは江戸時代の人の)偽作であることは略々考え得られるから、徴証とするだけの価値は無い。  
【解釈】義経の沈勇と用意とを語るものである。軽忽のようではあるが小事を苟くもせず、弓は惜しまぬが名を惜しむ武人の心掛けは、『盛衰記』作者をして「実の大将也と兵舌を振いけり」と、自ら舌を振いつつ記さしめた所以である。而も敵中に馬を乗入れて、片手に敵の熊手を会釈いつつ、悠々として落した弓を鞭で掻き寄せ拾上げて帰る不敵さは、判官が平生の負け嫌いの気象を併せ語って甚だ興味がある。況やその命に懸けて弱弓を拾い取った理由は、猛き武夫の優しい嗜に出ているのである。又常に自ら一陣に進んで、死を懼(おそ)れなかったのは、一つには軍兵を励ます為の手段でもあるが、一つには又兄頼朝に好まれぬ自身の性格を知悉し、心私かに死を決してその機会を索めていたのであったことは、屋島の敵を攻めようと出発するに臨み、大蔵卿泰経が、義経の常に自ら先を駆ける無謀と危険とを諌めて、「泰経雖不知兵法、推量之所覃、為大将軍者、未必競一陣欠。先可被遺次将哉者」と言ったのに答えて、「殊有存念、於一陣欲棄命云々」と決然とした色を示していることが『吾妻鏡』(巻四、元暦二年二月十六日庚午の條)に見えるのでもわかる。世に太田道灌の意見と信ぜられている説として、弓一つの為に、軍将の命を軽んじたのを将器に非ずと難じた論(『我宿草』)は、未だその一を知って二を知らざるもの、この決意を胸に蔵する義経が、敵中に弓を拾うのを何で逡巡するものぞ。ましてや惜しい武夫の名を屋島の浦に流すのは、愛弓を流すよりも辛い思いであらねばならなかったであろうものを。全く本伝説は史実の有無如何に関せず、義経の人物性行の一面を遺憾なく物語るもので、伝説的粉飾を剥ぎ去ったならば、これに近い事実も全く無かったと誰が保証し得よう。この敵前の曲芸的行動が、少しも滑稽的意味を附加せられずに、寧ろ敬意を払われて長く国民の間に大喝采を博し、同じくこの地この日この時の出来事とせられるかの扇の的の華やかに勇ましい物語と相並んで、『平家物語』を飾るのは宜なりと謂うべきである。  
【成長・影響】『興廃記』(巻九)の弓流しに、附帯挿話として、前に述べた宗行・盛嗣の錣引と、三保谷・景清の錣引と両説話を結びつけて、『盛衰記』の小林新五の役を三保谷十郎に勤めさせているのと、浮世草子の『風流西海硯』(五之巻)に、遊女勝浦から貰った小指を入れた服紗包を海に落す「指流し」ともじったことを挙げる外、特に記す程のことは無い。  
【文学】『平家物語』(巻一一)、『源平盛衰記』(巻四二)、謡曲『八島』『熊手判官』、『義経興廃記』(巻九)『義経勲功記』(巻一〇)、及び戯曲『那須与市西海硯』(五段目)、『弓勢智勇湊』(四段目、春霞八島の磯)等が主なものである。読本浄瑠璃に『源氏の弓流平家の矢合船軍凱陣兜』という作もある。その他一代記風の義経物に採っているのもある。 
9-2 八艘飛伝説

 

続いて、八島の弓流と好対照をなす壇の浦の八艘飛伝説を次に考察してみようと思う。「八艘飛」は実は無論「八艘跳」なのであるが、これ亦無造作に書き慣らされて来た「飛躍」の「飛」の字の方が、寧ろ理屈無しに、ぴたりと落ち着くのである。実際又本伝説に於ける義経の捷業は、飛躍の度を越えて飛翔の類に近いものと言ってよい。  
【内容】  
人物 源義経。能登守平教経  
年代 元暦二年三月二十四日(『盛衰記』『平家物語』)(『吾妻鏡』同上)  
場所 長門国壇の浦 
壇の浦の海戦に一門滅亡の時、平軍の勇将能登守教経は、最後の思出に敵の大将義経を手捕りにしてと、頻りに目を懸けて走り廻るうち、礑と出逢ったので、得たりと組み留めようとすると、義経は小長刀を小脇に掻込んだまま、一躍二丈ばかり彼方の兵船に跳び移った。続いて跳び乗った教経が従って追い入れば従って跳び遁れ、次々と船八艘を追い廻ったが終に捕らえることが出来ず、唖然として九郎の後を見送る教経を、数多の源氏の兵が押隔て、遙に遠く逸し去った無念さに、今は斯うと思い切った能登守は、三十人力を誇る安芸太郎兄弟の組みつくのを左右に挟みながら海に沈んで壮烈な最期を遂げた。  
但し『平家』『盛衰記』等に見えるのはなお所謂八艘飛ではない。完全に八艘を飛ぶに至ったのは後の発達で、伝説としての完成した形は無論この所謂八艘飛となってからであるけれども、跳躍の回数を除いては、説話の形貌はその原話に於いて既に全く整っている。  
【出処】未完の原形は『平家物語』(巻一一、能登殿最期)、『長門本平家』(巻一八、大臣殿父子被生虜給事)、『源平盛衰記』(巻四三、二位禅尼入海井平家亡虜人々)等に載せられている。完形所載の最初の文献は未詳。  
【型式・成分・性質】特殊な型式という程ではないが、先ず競勇型勇者譚の闘戦型の説話と見てよい。一種の技競説話とも言えるし、又完形の八回八艘飛は九十九モーティフに類するモーティフを含む追跡説話と観ることも出来る。そして両勇者、特に義経は著しく、神人的性格を帯ばしめられ、且完成した八艘飛伝説にあっては甚だしく童話的な説話となっている。即ち史実的成分を骨子とするが、神話的(童話的)成分と空想的(仮構的)成分とによって潤色せられている史譚的武勇伝説である。  
【本拠】明確な史実は無い。但し、完成した所謂八艘飛は、『平家』『盛衰記』の原話を本としてそれから成長して来ていることは明白である。『盛衰記』の文を下に引いてみる。  
判官の船と能登守の船と、すり合わせて通りけり。能登守可然(しかるべし)とて、判官の船に乗り移り、甲(かぶと)をば脱ぎ棄て、大童になり、鎧の草摺ちぎり捨て、軽々と身を認(したた)めて、いづれ九郎ならんと馳せ廻る。判官かねて存知して兎角違うて組まじ組まじと紛れ行く。さすが大将軍と覚えて、鎧に小長刀突いて武者一人あり。能登守懸目(めをかけ)て、軍将義経と見るは癖事欠。故太政入道の弟、門脇中納言教盛の二男に、能登守教経と名乗り、にこと笑い飛懸る。判官は組んでは不叶(かなわじ)と思いて、尻足踏んでぞやすらひける。大将軍を組ませじとて、郎等共が立隔て立隔てしけれ共、除け奴原人々しきとて、海の中へ蹴入れ取入れつと寄る。既に判官に組まんとしければ、判官早態人に勝れたり、小長刀を脇に挟み、さしくぐりて弓長二つばかりなる、隣の船へつと飛移り、長刀取直して、舷に莞爾(にっこ)と笑って立ちたり。能登守は力こそ勝れたりけれ共、早態は判官に及ばねば、力なくして船に留まり、ああ飛んだり飛んだりと嘆(ほ)む。 
これは唯なお一艘飛だけである。『平家』の流布本も大体同様で「御方の船の二丈許りのきたりけるに、ゆらりと飛乗り給いぬ」とある。それが『長門本』には  
能登殿と判官と寄せ合わする事二度ありけり。(中略)能登守、判官と見てければ、則ち乗移り給いて、艫より舳までぞ追掛け給う。既に討たれぬと見えけるに、判官長刀脇にかいばさみて、そばなる船の八尺余り一丈ばかりのきたるに、ゆらと飛び給う。能登守早わざや劣り給いけん、続いて飛び給わず。かかること二度ありけり。 
とあって、二回とはしてあるが、二艘飛でも亦八艘飛でもない。謡曲の曲舞『先帝』(『蘭曲集』)でも、  
いざや組まんというままに、打物捨てて、飛んで懸れば、しさって払うさそくに、遙なる味方の舟に、つんと飛び乗れば、早業劣りの悲しさは、続いても飛ばればこそ、せん方なくてそのまま舟に教経は、腹立ち叱って、をめき叫んで坐し給う。 
とある一艘飛である。その他、『盛長私記』(巻二一)及び『勲功記』(巻一〇)には、教経の代りに越中次郎兵衛盛嗣としてあるけれども、これも八艘飛ではない。併し「兎角違うて、組まじ組まじ(組まじまじ?)と粉れ行く」とか、「かかる事二度ありけり」とかいう叙述に、所謂完形への進展が暗示せられている。なお〔成長〕の項でも重ねて論述したい。  
【解釈】義経の軽捷と機敏とを示すものである。そして特に説明はないが、鞍馬天狗伝説に於いて大天狗から授けられた兵法を、実際戦場に於いて役立たしめた所以のもので、二丈ばかりの間を、何の苦もなく飛び越える放れ業は、流石に天狗の直弟子たるに恥じないものがある。同時に前伝説と共に、義経が武運めでたき名将であることを、一種の誇――そしてこれは能登守に対しては一種の愚弄侮蔑の念である――を以て力説している。敵手が平軍第一の大勇士であるに於いて、愈々この感を深からしめる。曲芸的の弓流と軽業式の八艘飛とは、観衆をして固唾を嚥み、手に汗を握らせながら、嘆賞と満足との結末に導く点に至っては一である。敵手の教経まで扇の的と同様我を忘れて喝采を吝(おし)まぬのは、益々本伝説の童話味を増している。  
【成長・影響】既に説いた如く、『平家』『盛衰記』の原説話のままで既に殆ど輪廓は出来ていて、それが一層誇張せられて、所謂八艘飛の完形にまで成長した――但し成長したと言っても、それは飛躍した船数の上だけで、説話の筋立には殆ど大きな改変は蒙らない。つまり両書の唯一回の事件を船数に於いて乃至は反復に於いて示し、特に最後の八回目の場合に置き換えたと言うに止まるような形になっているに過ぎない――のであるが、何時頃から所謂八艘飛となったかは明らかでない。もとよりその時期の不明であるだけ、即ち何時とはなしに八艘飛となって行っただけ、愈々伝説的意義は大きいと言えるが、要するに一艘を飛び越えさせるだけでは飽き足らず、更に多くを「飛」ばせようとして、我が国に於いては常に多数の意に用いられる数字を以て、その跳躍の回数とするに至ったものであろう。「八艘飛」の語が出来たのは室町末か(併し室町期の物には未だ所見が無い)或は恐らく江戸時代に入って後のことではあるまいか。慶長以後寛永以前の作とせられている『尤の草子』の「飛ぶ物のしなじな」の中に本伝説を挙げてあるが、飛移った船の間隔が「三丈ばかり」に進展しているだけで、やはり八艘飛では無い。が、少なくとも江戸時代の中期までには既に完成流布していたと見えて、享保十九年八月豊竹座上演の並木宗助作『那須与市西海硯』に  
八島の浦にて義経の、八艘飛とはこれとかや。 
又、延享四年十一月竹本座上演の出雲作『義経千本櫻』に  
八島の戦義経を組み止めんとせし所、船八艘を飛越え、味方の船へ引きたるは、計略の底を探らん為、 
とあり、以後の一代記風の義経物、特に絵本には八艘飛のことを載せぬものは殆ど無いようになった。唯その八艘飛という意味について、解釈がまちまちで、普通には跳躍を重ねた船の数、即ち跳躍を試みた度数を八つとする、つまり義経は九艘目まで飛んだが、教経は八艘目までで終わったという形で語られているのであるが――少年時代に我々の聴いたのはこれであった――、これはじつは更に進展した後の姿らしく、八艘飛伝説となってからでも、その初期には八回八艘飛ではなくて一回八艘飛であったようである。前に引いた『西海硯』は、教経ではなく盛次であるが、  
六艘隔てて味方の船へ飛越して、ついでに盛次此処まで来たれと、にっこと笑い立ったる有様、八島の浦にて義経の…… 
として前文に続いている。『千本櫻』の方は教経で、これも「船八艘を飛越え、味方の船へ引きたるは」という叙述が、明確さを欠くがやはり一回飛と解するが妥当かと思われ、降って天保七年の合巻『源平武者鑑』(下巻)でも  
八しまだんのうらのたたかいに、平けの大せうえつ中の次郎びゃうえもりつぐ、よしつねとくまんとす。よしつねここんのはやわざにて、ふねを八そうとびこえて、みかたのふねへうつりたまう。 
と、盛次と代っているだけで同様の記述である。然らばこの一回八艘飛は「二丈ばかり」という距離を並んだ船の数で表したに過ぎないので、全然原説話と同じであり、斯うして八艘飛の語が出来それからそれに就いて八回八艘飛の新解釈が生じて、その解釈に順応した説話の進展をも見たのであろう(これを暗示助成した分子が原説話に既存することは〔内容〕の項に指摘して置いた)。成長過程としてもそれが最も自然である。  
更に是非此処で考えて置かねばならぬのは、既に屡々試みた多くの引例によって明らかであるように、本伝説の一対手たる教経を、盛嗣に代える系統のものも、少なからざる勢力のあることに関して起る疑問である。そしてこれには又壇の浦で勇戦した教経は、真の教経ではないとする説の一類のあることも関連している。即ち以上の異説が起って来るのには、教経一の谷戦死の真否如何という事にその主因が存するのである。『吾妻鏡』(巻三、寿永三年二月)は  
十三日壬申。平氏首聚于源九郎主六條室町亭。所謂通盛卿・忠度・経正・教経・敦盛・知章・経俊・業盛・盛俊等首也。(下略)  
十五日甲戌。辰刻、蒲冠者範頼・源九郎義経等飛脚、自摂津国、参著鎌倉、献合戦記録。其趣、去七日於一谷合戦、平家多以殞命。前内府宗盛巳下、浮海上赴四国方。本三位中将、生虜之。又通盛卿・忠度朝臣・経俊巳上三人蒲冠者討取之・経正・師盛・教経巳上三人、遠江守義定討取之・敦盛・知章・業盛・盛俊巳上四人義経討取之。此外梟首者一千余人。凡武蔵・相模・下野等軍士、各所竭大功也。追可註記言上云々。 
と明らかに両所に列記した平将の、戦死者中に教経を数えている。そして壇の浦戦死の平将の中にはその名が見えない。然るに一方に於いて『平家』『盛衰記』は、屋島で継信を射、壇の浦で判官を遂うた教経の勇戦を記している。是が疑問を生み、異説を生ぜしめる因由で、『吾妻鏡』を正しとして、両軍記の記事を否定するものは、壇の浦で義経を捕らえようとしたのは、身分こそ能登殿に及ばざれ、同じく平軍中の大勇士である越中次郎兵衛盛嗣であるとなし(『盛長私記』『勲功記』、その他この系統を引いているもの)、両説共に正しとして、その間に何等かの解釈を試みようとするものは、一は一の谷に教経が戦死したと伝えるのは雁首を以て味方を励ます為の義経の計ではないかとし(『義経興廃記』巻七)、他は教経が実は一の谷に陣歿したのを、戦死と披露しては味方の勇気の沮むことを惧れ、他の勇士を教経と名告らせて置いたのが、壇の浦に勇戦した能登守であるとして、之を平家方の謀計に帰している。  
そして後説では、その替玉の人物に就いて又異説がある。『鎌倉実記』(巻一三)『千本櫻』『弓勢智勇湊』等には教経の郎党讃岐六郎経時(但し『智勇湊』には七郎義範)とし、『義経勲功記』(巻九)には教経同腹の弟紀の小次郎景望という者とし(但し『勲功記』では前述の如く義経を遂うたのは盛継であったとしてある)、『須磨内裏(子+子+勇)弓(ふたご)勢』には双生児の弟熊野次郎という名になって居り、更に『那須与市西海硯』では例の弥平兵衛宗清としたのは奇抜である――尤もこれは明白に仮作の構案であるが。又太田道灌の随筆かと言われる『我宿草』にはこの時身替に討死したのが教経の乳夫長沼十郎であったとの説を掲げてある。要するに『吾妻鏡』の記事と『盛衰記』等の記事とが一致しない所から、この替玉の伝説が生じ、その替玉が又数説を生んだものであろう。且この教経の生死に疑がある為――壇の浦では替玉を用いて敵を欺いたと解し――彼を生存せしめて再挙させるに都合が良いので、『千本櫻』には横川禅師覚範と変身し、『智勇湊』は之を襲って海賊玄海灘右衛門と仮称せしめられるに至った。そして又半ばはこの伝説に助を借り、半ばは勇士を生脱させようとする国民の同情と好奇心とからして、『千本櫻』では新中納言知盛までも壇の浦に死せずして、大物の浦の船宿の主渡海屋銀平と呼ばれる人物となって、密に源氏に報復しようと計る平家の残党の意志を具体化せしめられることとなっている。教経の灘右衛門の如きは、近松の『博多小女郎浪枕』の毛剃九右衛門(実名は八右衛門)を摸すると共に、そのモデルを、この銀平にも求めたと看るが至当であろう。  
なお又、教経に代えるに盛嗣を以てする伝説の派生して来た因由は――教経戦歿を肯定する立場からであるは言うまでもないが、何故に特に盛嗣と伝えられて来るようになったかは、『平家』(巻一一、遠矢)の壇の浦海戦直前、新中納言知盛の指揮下に、平家方の諸勇士が競い勇む條に、  
上総悪七兵衛進み出でて、それ坂東武者は、馬の上にてこそ口はきき候とも、船軍をばいつ調練し候べき。譬えば魚の木に上つたるでこそ候はんずらめ。一々に取って海に漬けなんものをとぞ申しける。越中次郎兵衛進み出でて、同じうは大将の源九郎と組合い給え。九郎は背の小さき男の、色の白かんなるが、当門歯(むかば)の少し差出でて、特に著(しる)かんなるぞ。但し鎧直垂を常に著替うなれば、きっと見分け難かりなんとぞ申しける。悪七兵衛重ねて、何條その小冠者め、縦い心こそ猛くとも、何程の事かあるべき。しや片脇に挟んで、海に入れなんものをとぞ申しける。 
とあるによって説明し得られるであろう。景清としても寧ろ進展すべき可能性が約束せられてあるように見えるが、『盛衰記』(巻四三)によると、義経を組み伏せようとの素志から、特に「縁に付いて」その容貌扮装をまで内偵して置くほどの用意ある盛嗣の方に、やはり転移が容易で滑らかであったのであろう。景清の重ねての大言も、『盛衰記』の方では「人々口々に」となっていて、景清への転移力は余程薄くなってもいる。  
次に注意すべきことは、場所の変移、寧ろ混同である。前に引用した『西海硯』には、「八島の浦」、『千本櫻』には「八島の戦」と記し、『武者鑑』には「八しまだんのうらのたたかい」と、屋島と壇の浦との戦を同時同所のようにしてしまっている。これは有名な両所の戦を、俗に屋島・壇の浦と続けて呼び慣わした為、終に混同するに至り、それから八艘飛も壇の浦から屋島に移ったものであろうが、屋島附近にも亦壇の浦という地名があったのであろうと『大日本地名辞書』に考証してある。但し本伝説は長門壇の浦でのことであった(『平家』『盛衰記』)のが、上述のように、屋島に移って来たので、つまり伝説の遊行である。又八島は、屋島の誤であるが、久しく八島とも記されて来ている。  
【文学】完成しない以前のものとしては『平家物語』(巻一一)、『盛衰記』(巻四三)、『義経勲功記』(巻一〇)、『金平本義経記』(三之巻四段目)等があり、又曲舞に『先帝』がある(尤もこれは安徳天皇御入水が主題ではあるが)。八艘飛となってからのものには、これを主題とした文学作品として主なものは無い。僅に『那須与市西海硯』(五段目)、黒本『壇浦二人教経』等に作られているくらいのものである。但し一代記風の義経物及び絵本等には、大抵載せられていて、甚だ人口に(ロ+會)炙している。  
義経は八艘飛んでべかこをし 
という川柳に、童話的な形で本伝説が民衆に親しまれている姿が最も面白く映っている。又「驕る平家久しからず」を「踊る平家久しからず」ともじって落ちにした落語『源平盛衰記』は本伝説を転化させて、義経を捕えようとした教経が浮かれ出したので、平家が滅んだのだと洒落れてある。 
10 逆櫓論伝説及び腰越状伝説附含状伝説と弁慶状

 

一の谷に屋島に、又壇の浦に、連戦連勝忽ちにして平家討滅の大功を遂げ、年来の志望を果たした判官義経の、武勲赫かしい得意時代は僅かに二年にだも如かずして終わった。逆落に奇捷を収めた稀代の戦略家、弓流・八艘飛に武運のめでたかった名将も一朝にして失脚の悲運に遭遇せねばならなかったのは、皮肉にも余りにあっけないことであった。而もそれは、その常勝の栄誉に萬人を羨望せしめた得意の絶頂に立っている時なのであった。そしてその悲運の胚胎は既に平家討伐の陣中に於いてであり、華々しい戦功時代にあったのであった。結果から言えば、義経が平家覆滅の日次を急いだのは、却って己が蹉跌の時を速く所以であるのを知らなかったのである。第二の平家たるべき、憐むべき武家政治の犠牲は、先ず目前の狡兎を斃さしめた後、やがて烹られる走狗であったのを自ら悟らなかったのである。史上の義経もそうであったろうが(尤も、殊に存念が有るとて戦死を望んだのは、この機微を感じ得ていたのでもあるようであるが)、少なくとも伝説の義経は実に斯くの如き憐むべき英雄であったのである。即ちこの失意時代を導き出した主要な動因と目せらるべき、梶原讒訴の来由を説明する逆櫓論伝説に就いて述べねばならぬ順序となった。  
10-1 逆櫓論伝説 
【内容】  
人物 源義経。梶原平三景時。(及びその他)  
年代 元暦二年二月十六日(『平家物語』)(『盛衰記』では十五日らしく読まれる)  
場所 摂津国渡辺(『平家』)(『盛衰記』には摂津国大物浦) 
屋島の平軍を襲う為、四国へ渡ろうと、義経が軍議を開いた席で、梶原景時は逆櫓の計を献じた。即ち船の舳(へさき)にも艫へ向けた櫓を立てて、進む時は艫の櫓を以てし、退く時はこの舳の逆櫓を用い、駈引自在の法であると説明する。判官は聞くより、左様にかねて逃支度して軍に勝つべきかと嘲るのを、  
大将軍の謀のよしと申すは、身を全うして敵を亡ぼす。前後をかえりみず、向う敵ばかりを打取らんとて、鐘を知らぬをば、猪武者とてあぶなき事にて候。君はなお若気にて斯様には仰せらるるにこそ。(『盛衰記』巻四一) 
と憚らず申し放った景時が詞に、  
判官少し色損じて、不知とよ。猪鹿は知らず、義経は只敵に打勝ちたるぞ心地はよき。軍と云うは家を出でし日より敵に組んで死なんとこそ存ずる事なれ。身を全うせん、命を死なじと思わんには、本より軍場に出でぬには不如。敵に組んで死するは武者の本也。命を惜しみて逃ぐるは人ならず。されば和殿が大将軍承りたらん時は、逃儲けして百挺千挺の逆櫓をも立て給え。義経が舟にはいまいましければ、逆櫓と云う事、聞くとも聞かじ。(同) 
と叱責して、衆人環視の中で赤面させ、猶怒りをさまらぬ若大将の  
抑も景時が義経を向う様に、猪に喩うる條こそ奇怪なれ。若党ども景時取って引落せ。(同) 
と下知の下、伊勢・片岡・武蔵坊等一度に立ちかかるのを景時は見て、  
軍の談議に兵共が所存を述ぶるは常の習、よき義には同じ、悪しきをば棄て、如何にも身を全うして平家を亡ぼすべき謀を申す景時に、恥を与えんと宣えば、却って殿は、鎌倉殿の御為には不忠の人や、但し年比は主は一人、今日又主の出で来ける不思議さよ。(同) 
と、矢をさしくはせて判官に向い、子息景季・景高・景茂等も続いて進む。判官も赫となって太刀を取り、あわや事の起ろうと見えたのを、三浦・畠山・土肥の宿将等双方を宥めて漸く鎮めた。併し景時は判官の下に属くことを快しとせず、引分れて範頼の手に赴いた。そしてこの逆櫓の意趣を結んで、梶原は甘言を以て頼朝に讒を構えた。義経の悲境はこうしてここに兆し初めるのである。  
【出処】『平家物語』(巻一一、逆櫓)、同(劔巻)、『盛衰記』(巻四一、梶原逆櫓)等。  
【型式・成分・性質】特殊の型式のものではない。戦争説話の挿話的一談柄である。史実的成分が殆ど全部を占め、空想的成分も幾分加わってはいるが、神話的成分は消失している。史譚的武勇伝説。  
【本拠】『盛衰記』の同條の外明確な史実は無い。『吾妻鏡』(巻四、元暦二年二月十八日の條)には、その前日義経が風波を冒して渡辺から渡海し、阿波に上陸して平将桜庭介良遠を攻めたことを記しているのみである。即ち逆櫓論はこの渡海前の出来事なのである。『平家物語』(巻一一、壇の浦合戦)には別に義経と景時との先陣争の事が見え、逆櫓と先陣争とが異なっているだけで、その條の方が筋も詞章も寧ろ『盛衰記』の逆櫓論の條に殆ど近似している。詳しく言えば『平家』では逆櫓論の際は、あわや同士軍しそうに見えて讒に事無きを得たが、壇の浦の先陣争で終に両者の衝突を見、三浦・土肥等の調停で穏便に済んだとし、そして『盛衰記』には先陣争の事は載せていない。実際に斯様な類似の事件が両度あったのか、又はその両度が一つに混ぜられて『盛衰記』の逆櫓論となったのか、逆に一回の事件が二様に両度の事として伝えられているのか、或は又互にその何れかが本の事実で、他はそれの変容であるのか、若しくは両説共仮構の物語であるのか、遽には定め難い。併し軍陣評議の際、そういうことは有りがちの事であろうし、又史上に於ける義経の人物と梶原の性行とに照して考えても、到底相容れる両人ではない。何等かの事に、或いは事毎にさえ、衝突したであろうとは略々想像し得られる。景時が陣中から頼朝に上った書状の文も、この推測に大きな助けを与える。事実は措いて、伝説上では類似の事件が両度あっても支障は無い。  
先陣争の如きは当時常に有りがちの事である。宇治川先陣(『平家』巻九、『盛衰記』巻三五)や熊谷・平山の一二の懸(『平家』巻九、『盛』巻三七)は余りに有名である。平家方の越中次郎兵衛と海老次郎(『盛』には江見太郎守方)が先陣を争って、戦機を逸した事も『平家』(巻一一)、『盛衰記』(巻四二)に見えるが、明確な史料にも、『吾妻鏡』(巻三)の寿永三年二月一日庚申の條に  
蒲冠者範頼主蒙御気色。是去年冬、為征木曽上洛之時、於尾張国墨俣渡、依相争先陣、与御家人等闘乱之故也。其事今日巳聞食之間、朝敵追討以前、好私合戦、太不穏便之由、被仰云々。 
と、範頼が先陣争によって頼朝から咎を蒙ったことを記録している。逆櫓論乃至先陣争の如き恐らくそれに類する事件があったことは事実に近いであろう。特に頼朝の代官たる俄主将と、戦闘の主体を以て自ら任ずる鎌倉の御家人との間が、動もすれば円滑を欠くことがあったであろうことは、是亦想見し難くはない。右の記事によっても御家人に恩を示して彼等を統轄することに苦心した頼朝には、親の心子知らぬ斯うした争が甚だ苦々しい事に感じられたであろうし、義経・梶原の逆櫓論乃至先陣争は、梶原の和讒が無くても頼朝の好まぬ所たるや明白である。  
結局、逆櫓論と先陣争は二にして一、いづれが本にせよ、逆櫓論を以て代表せしめられて不都合無きものであろう。少なくとも『平家』の記述は『盛衰記』のを二回に分割したかの観がある。若しその逆が真ならば『盛衰記』の縮約の手際が讃えられてもよいであろう。  
【解釈】得意時代の義経の将帥振りを語っているけれども、其処には失意時代の暗影が早くも差している。景時を稠座の中で嘲って、我は顔をする狡獪爺に恥辱を与え、独り自ら快しとする満足は余りに刹那的であり過ぎた。既に言及した如く伝説上の景時は、実にこの遺恨に対して、讒言の武器を以て痛烈に残酷に判官に報復したのであった。史上の義経は素より兄に容れられなかった事は、左衛門少尉に任官した旨を鎌倉に報じた際、その潜越さを頼朝が忿った由を『吾妻鏡』(巻三、元暦元年八月十七日)に「此事頗違武衛御気色」と記し、而も「凡被背御意事不限今度歟」とも書き添えてあるのでも知れる。又、讒言を俟たずして範頼も先陣争の戒飭を受ける程であるから、影時の激発無くとも、平穏には済まなかったに違いないであろうけれども、ましてや御気に入りの平三が侫弁を弄するのであるから、その結果は想察に余りがある。史実もそうであったかと思われるが、少なくとも伝説に於いての判官の以後の運命は、実にこの争論によって不意に一大鉄槌を下され、兄頼朝との親愛の覊は、この瞬間に景時の心中に深く根ざした怨恨の刃によって、永久に断たれてしまったのである(『平家物語』『盛衰記』『義経記』巻四、舞曲『腰越』等)。この意味に於いて、本伝説は義経の失脚不遇の因由を語る絶対唯一の重要な伝説であると言ってよい。  
そしてこの伝説で我等は一層端的に赤裸の義経に接し得る。負け嫌いで人もなげな振舞、性急、短慮、その人物を好まず、その意見を不可と認めれば、兄から附けられた監軍であれ、鎌倉殿の愛顧を恣にする御家人であれ、自らの臣従と択ぶこと無く、又戦術にかけては人に譲らぬ不抜の自信、あらゆるものを己に随わしめねば巳まぬ強い意思、進むを知って退くを欲せぬ猛勇、仮令それは大度謙譲の徳に於いて欠け、敵を知り己を量る萬全の策としては慊(あきた)らない所があって、完全な将器を以ては許し難いとする評者もあろう(『理斉随筆』巻一、『そしり草』)が、而も彼義経は、渾身英気に溢れる青年英雄である。進取は彼の生魂であり、突破が彼の旗幟である。是が為には一身を犠牲に供しても敢えて吝まないのである。鴨越の逆落も、渡辺の渡海も、畢竟逆櫓に反対した彼の意思の具現に外ならぬ。猪武者と喚ばば喚べ。虎穴に入らずんば虎児は獲難い。「進め!」唯「進め!」是が彼の軍法の奥義で、彼の戦捷の秘訣だったのである。そしてこれこそ実は敵を知り己を量る彼の神算の結論だったのである。  
なお本伝説は、前に一言したように、平家追討の頼朝の代官と、これに附けられた鎌倉の御家人との間の事情を語る史的意義をも含むものとしても興味ある説話である。  
【成長・影響】近松の『最明寺殿百人上臘』(初段)の式部冠者時定征伐の評定に、本伝説の趣向が応用され、又「逆櫓松」の角書まで添えられてある『ひらがな盛衰記』(三段目)には、亡君の怨を報いようと計る木曽義仲の遺臣樋口次郎兼光が、船頭権四郎の入婿となり、逆櫓に熟練している由を申立てて義経の乗船を覆そうと企て、看破せられて虜となることに作ってある。所謂「逆櫓の段」で義太夫にも歌舞伎にも著名である。又、浮世草子では、例によって遊廓化している。即ち戯曲『那須与市西海硯』から出た『風流西海硯』(二之巻)には、「逆櫓」は「酒論」と変わって、義経と景時とが遊女勝浦を争い、『花実義経記』(六之巻)には愈々変容して、同様に「静という遊女の買論」となってしまった。  
なお判官が逆櫓の策を用いなかったことについて、余りに計を好む将たる器に似ないとしてか、『盛長私記』(巻一九)の如きは次のような笑止な蛇足的説明すら加えるに至った。  
凡逆櫓の謀は能術也。然るに義経角悪き様に宜しことは、梶原奸曲にして、知盛水島軍の時仕出し玉ふたる逆櫓を、己が工夫と申なす其偽飾りし(女+女+女+干)き心根を悪みて、初の如く会釈し玉ひしかども、義経の乗船に兼て皆逆櫓を用意して舟底に入置れしとなり。 
これでは全く引倒された「判官贔屓」という態である。  
【文学】『平家物語』(巻一一)、『源平盛衰記』(巻四一)、『義経興廃記』(巻八)、『義経勲功記』(巻八)、『金平本義経記』(三之巻二段目)、(〔補〕『新板腰越状』(二段目))、『那須与市西海硯』(初段)等を主なものとする。謡曲の廃曲にも『逆櫓』の名が見え、山陽の『日本楽府』中にも「逆櫓」と題した詠が収めてある。ついでに、渡海後櫻庭を攻めたことを作った謡曲に『桜間』がある。  
10-2 腰越状伝説附含状伝説と弁慶状

 

次に右の伝説が直接に基因となって覿面に誘起せられた悲劇「判官劇」の前奏曲ともいうべき腰越状伝説に移ろう。これは失意時代の第一齣とするが妥当であろうが、前伝説と密接の連繋があり、得意時代の終局をも意味するものであるから、便宜併せてここで取扱ってみようと思うのである。  
【内容】  
人物 源義経(及び武蔵坊弁慶)。源頼朝(及び大江廣元・梶原景時)  
年代 元暦二年六月五日(『平家物語』『義経記』舞曲『腰越』)(『吾妻鏡』には元暦二年五月二十四日)  
場所 相模国腰越(『腰越』には酒勾) 
平家討滅の大功をめでたく畢えた義経が、虜人内大臣平宗盛父子等を護送して鎌倉に凱陣し、舎兄の足下に復命して感賞に与らうと期待したに反し、頼朝は逆櫓の論争に含む梶原の讒を信じて異心あるかと疑い、義経の使者(舞曲『腰越』には伊勢三郎としてある)がその参著の報を齎(もたら)すと斉しく、急に人を遣して(『平家』には梶原父子、『腰越』には土肥次郎実平としてある)、内府父子だけを受取らせ、義経をば腰越(舞曲には酒勾駅としてある)に拒んで鎌倉へ入るを停めたのであった(『平家』には金洗澤に関を据えて、義経を腰越へ遂い返すとしてある)。余りの意外さに義経の驚愁一方ならず、必定影時の讒に因するものと、野心を挟まぬ旨の起請文を幾度も上ったけれども、頼朝の心は解けようともせぬ。よって重ねて一通の款状を認め、大江廣元に頼って寃を訴えた(『腰越』にはその執筆者を武蔵坊弁慶としてある)。世に腰越の申状とも、腰越の款状とも、亦単に腰越状とも称える有名な陳状は即ちこれで、言々悉く熱、句々皆血、義経の心情を披瀝し得て遺憾ない名文字であった。が、かくても頼朝は猶聴かず、義経は遂に血涙を呑み、時運を嘆じて京へ還るの巳む無きに至った。  
【出処】『平家物語』(巻一一、腰越)、同(劔巻)、『義経記』(巻四、腰越の申状の事)、舞曲『腰越』同『劔讃歎』等。  
【型式・成分・性質】特殊の型式のものではない。且多少の伝説化はもとより営まれているが、伝説的と言うよりは、猶史話的領域を出ていないもので、殆ど全部史実的成分から成り、空想的成分はその輪廓をなしているのみである。神話的成分は無い。従って勿論史譚的説話である。  
【本拠】明らかな史実がある。『吾妻鏡』(巻四、元暦二年五月)に  
十五日丁酉。廷尉使者景光参著。相具前内府父子、令参内云。去七日出京、今夜欲著酒勾駅。明日可入鎌倉之由申之。北條殿為御使、令向酒勾宿給。是為迎取前内府也。被相具武者所宗親・工藤小次郎行光等云々。於廷尉者、無左右不可参鎌倉。暫逗留其辺、可随召之由、被仰遣云々。小山七郎朝光為使節云々。  
廿四日戌午。源廷尉義経、如思平朝敵訖。剰相具前内府、参上。其賞兼不疑之処、日来依有不義之聞、忽蒙御気色、不被入鎌倉中。於腰越駅徒渉日之間、愁鬱之余、付因幡前司廣元、奉一通欸状。廣元雖披覧之、敢無分明仰。追可有左右之由。云々。  
彼書云。  
左衛門少尉源義経、乍恐申上候意趣者、被撰御代官其一、為勅宣之御使、傾朝敵、頸累代弓箭之芸、雪会稽恥辱。可被抽賞之処、思外依虎口讒言、彼黙止莫大之勲功。義経無犯而蒙咎。有功雖無誤、蒙御勘気之間、空沈紅涙。倩案事意、良薬苦口、忠言逆耳、先言也。因茲、不被糺讒者実否、不被入鎌倉中之間、不能述素意、徒送数日。当于此時、永不奉拝恩顔、骨肉同胞之儀既似空。宿運之極処歟。将又感先世之業因歟。悲哉、此條、故亡父尊霊不再誕給者、誰人申披愚意之悲歎、何輩垂哀憐哉。事新申状、雖似述懐、義経受身体髪膚於父母、不経幾時節、故頭殿御他界之間、成孤、被抱母之懐中、赴大和国宇多郡龍門牧以来、一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命、京都之経廻難治之間、令流行諸国、隠身於在々所々、為棲辺土遠国、被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而、為平家一族追討、令上洛之手合、誅戮木曽義仲之後、為責傾平氏。或時峨々巖石策駿馬、不顧為敵亡命、或時漫々大海、凌風波之難、不痛沈身於海底、懸骸於鯨鯢之腮。加之為甲冑於枕、為弓箭於業本意、併奉休亡魂憤。欲遂年来宿望之重職、何事如之哉。雖然今愁深歎切。自悲仏神御助之外者、争達愁訴。因茲以諸神諸社牛王宝印之裏、不挿野心之旨、奉請驚日本国中大小神祇冥道、雖書進数通起請文、猶以無御宥免。我国神国也。神不可稟非礼。所憑非于他、偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜、令達高聞、被廻秘計、被優無誤之旨、預芳免者、及積善之余慶於家門、永伝栄花於子孫、仍開年来之愁眉、得一期之安寧。不書尽愚詞、併令省略候畢。欲被垂賢察。義経恐惶謹言。  
  元暦二年五月  日      左衛門少尉源義経  
進上 因幡前司殿 
と見える。伝説に於いては、義経の使者堀弥太郎景光が、伊勢三郎義盛と変わり、内大臣受取の役北條時政が、土肥実平乃至梶原父子と変わっているだけである。腰越状の文詞も、『平家物語』『義経記』『吾妻鏡』等大略同じであるが、『平家』と『義経記』とは特に近似し、それらと『吾妻鏡』とは小異がある(〔補〕『義経物語』所載のは流布本『義経記』よりも『吾妻鏡』に近い)。そして『吾妻鏡』のと『長門本平家』のとは漢文で、他は仮名交り文である。舞曲『腰越』のも大体これらに一致しているが、唯普通の申状の末文に、今度の事を按ずるに、全く梶原の讒に因るものであろうとして、斯様の奸臣は須らく遠島せらるべきであるとの意味の語句が添加せられている。又『盛衰記』だけは腰越状を載せないのみか、本伝説は見えずして、却って頼朝が義経を引見したが打解けなかった(巻四五)と記し、『長門本平家』(巻一八)には一旦対面した後、更に、追返したので申状を上るとしてある。  
なお舞曲『腰越』にこの申状は弁慶の執筆に係るとしてあるのは、そういう伝説が成形していたのでもあろうが、  
それそれ武蔵と仰せければ、弁慶承って、墨磨り流し筆に染め、草案までもなくし、唯一筆にぞ書きたりける。 
という詞句を通しても、恐らく『平家』(巻七、木曽願書)、『盛衰記』(巻二九、新八幡願書)に名高く、同じ舞曲『木曽願書』にも題材とせられている大夫房覚明の逸話が、その伝説の本拠、少なくともその表現の粉本であろうことは想測できる。『盛衰記』の  
覚明馬より下り、木曽が前に跪いて、箙の中より矢立取出し、墨和筆染、畳紙押開いて、古き物を写すが如く、案にも及ばす書之。 
という文が特にそれを証示している。  
『吾妻鏡』には更に同巻、六月の條に  
九日庚申。廷尉、此間逗留酒勾辺。今日相具前内府帰洛。二品(頼朝)差橘馬允・浅羽庄司・宇佐美平次巳下壮士等、被相副囚人矣。廷尉日来所存者、令参向関東者、征平氏間事、具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由、思儲之処、忽以相違、剰不遂拝謁而空帰洛。其恨巳深於古恨云々。  
十三日甲子。所被分宛于廷尉之平家没官領二十四箇所、悉以被改之。因幡前司廣元・筑後守俊兼等奉行之。凡謂廷尉勲功者、非二品御代官、不被差副御家人等者、以何神変、独可退凶徒哉。而偏為一身大功之由、廷尉自称。剰今度及帰洛之期、於関東成怨之輩者、可属義経之旨吐詞。縦雖令違背予、争不憚後聞乎。所存之企、太奇怪之由、忿怒給。仍如此云々。 
と記されている。義経の所期を裏切った頼朝の処置は、前掲腰越状の陳訴と併読してその真相が伝説と余り距っていなかったことを知るのである。義経の独力では討平の業績を挙げ得なかったであろうと信じる頼朝の想念も、全くの誤ではないであろうが、頼朝の威勢の背景無くばとおだて上げ、御家人が差副へられずばと強調せられている所に、梶原等の活躍の介在が十分に看取せられる。舞曲『腰越』に判官抑留の場所を腰越とせず酒勾としてあるのは、前掲五月十五日の條に酒勾に著くとし、又六月九日に酒勾辺に逗留したとある事実に相応ずるので、全然の虚構ではない。而も題名を『腰越』としたのは、余りに有名な本伝説、と言うよりは腰越状という称呼に吸引せられてしまったによるのであろう。  
【解釈】既に述べたように、判官得意の頂点に達した日で、同時に失意に顛落した劃線に立つ日の事件を叙して居り、特に腰越状の詞章を通して、一段義経の同情すべき立場と心情とが語られ、他面景時の成功、頼朝の冷酷を指示している。讒言の舌端から渦巻き出た雲霧は、日月と争う戦功の栄光を蔽うさえあるに、曽ては黄瀬河の陣に八幡殿の昔を語り出て、恩愛の歓びに泣いた(『吾妻鏡』巻一、治承四年十月二十一日、『平治物語』巻三(但し大野場としてある)、『盛衰記』巻二三、『義経記』巻三(共に浮島ヶ原としてある))その暖く浄い心をまで昏くした。一身を矢石の巷に曝した疇昔の辛酸も、市に三虎を走らす奸譎の片言に信じて、誠意兄を念う骨肉の衷情を酌まぬ苛遇の前に、空しき「紅涙」となって影も残さぬ。かくて『吾妻鏡』の筆者すら嘆じた如く、腰越の駅は千古悲愁の恨を留めた。  
併し義経は親兄に対する礼を重んじた。余りと言えば情なの鎌倉殿、憎きは梶原父子、いざ鎌倉殿に参向して讒奸を取拉ぎ、君の寃を雪ごうと逸り猛る弁慶・義盛等を諭し止め(謡曲『語鈴木』『安達静』)、悄然として帰洛する判官の態度は、十分に国民の同情に値し、愈々判官贔屓を深める所以である。  
腰越状の筆者が弁慶であるとすることによって、一には彼が主君判官の心腹を最もよく知了し、最も熱烈な同情者であることを、如実に示したことになり、又一には、その本拠の有無を問わず、草案も無く一筆に染め下す即智能文は、笈の中から往来の巻物一巻取り出して読み上げる勧進帳と同巧異曲である。  
【成長・影響】確実な史料には勿論明記せられていず、『平家』『義経記』に於てすらなお何人の執筆であるかを語っていないのに、舞曲『腰越』になると、右の如く判官股肱の武蔵が仰を承けて認めたと伝え、「かの弁慶が筆勢、賞めぬ人こそ無かりけれ」と称えているのは、即ち本伝説の成長であり、又本伝説からの派生でもある。そしてその弁慶筆と称する腰越状は現に神奈川県鎌倉郡腰越町満福寺の什物とせられている。  
これに関連して――実は或はこれから出たのであるかも知れないが、そして又一には相互に弁慶の達筆であった事実とその遺墨の伝存を助証し合ってもいいのであるが――各所に又弁慶の手跡というものを種種伝える。その中で特に知られているのは、須磨寺の  
此華江南所無也。一枝於折盗之輩、任天永紅葉之例、伐一枝者、可剪一指。  
   寿永三年二月 
という所謂若木の櫻の制札で、一子小次郎を切って、敦盛の身替に立てる『一谷嫩軍記』の構想の基づく所のものである。安永二年刊の西村白鳥の『煙霞綺談』(巻一)には  
摂津国須磨寺に弁慶が手跡ありて、人よく見知りたる花の制札なり。三河国岡崎近き大平川の辺に、成就院といえる禅寺あり。此所は世にいう浄瑠璃姫入水の地にて、冷泉女が開基の寺なり。其代の古き画像などある中に、弁慶が義経へ戦場にての文通あり。彼須磨寺の花の制札同筆に見え侍る。然れども佐々木・梶原宇治川の事、又木曽義仲粟津にて討死の事などあり。文言読めがたき所間々あり。元暦元年正月三日と有るは、木曽討死の前にかくのごとくの文談いぶかし。相州腰越の寺にあるも、皆手跡よく似たり。真偽は見る人の心にあるべきにや。 
とあり、蜀山人の『調布日記』(巻上)には弁慶書写の大般若経並びに自画像のことが見え、その他何故か弁慶筆の借用証文なる物が続出するのが奇抜である。摂津国鵜殿村の庄屋某の家の棟の小箱から現れたのは、義経公平家追討の時秣を借りられた証文(『笈埃随筆』巻一二)、奥州会津池田村百姓惣平の家のこれも棟木の箱から出たのは、これは文が弁慶、筆は亀井と見え、  
此度北狄家に渡り候為糧米粟七斗借用候。若帰国無之時は、時之将軍之預裁断者也。  
   伊予守源義経判  
   武蔵弁慶  
   亀井六郎執筆  
 会津池田村  
   惣 平 殿 
  という珍物(『海録』巻一九に「鍋田三善『静幽堂叢書』第一六所載」として採録)、又『塵塚物語』(巻三)には痩馬一疋とか、沙金少しとか、絹一反とか、糧米一俵とか、種々の物それぞれの借状二十通許が蒐集せられた事を記し、『理斉随筆』(巻一)には弁慶から楠正成へ書き送った兵糧米の借状という稀世の古筆を珍蔵している者の話を載せて、道風筆の『和漢朗詠集』、宋版の『大明律』と同類と興じている。かような弁慶借状は文学にも採入れられ、例えば『ひらがな盛衰記』(四段目口)には浪々の梶原源太が辻法印を俄仕立の贋弁慶にして、在所の者から兵糧米を借りて証文を入れる滑稽があり、『吉野静人目千本』には「土佐坊空誓文・武蔵坊借証文」の割書まで添えられている。なお前述棟木から古文書が発見せられる事は、摂津国能勢郡出野村の百姓辻勘兵衛の家の梁に結付けた竹筒から出たという平家の亡命客左少弁慶房朝臣の遺書に関する伝説(『松屋筆記』巻六二、『玄同放言』巻三、『蒹葭堂雑録』巻四等)と同型で(その遺書が後世の偽作であることは『松屋筆記』の高田与清、『玄同放言』の馬琴が各々詳論している)、民屋の棟梁に大切な物を秘め置くことも民族であったと共に、こうした型式の説話が遊行してもいたことは想像が出来る。  
〔補〕須磨寺の制札の文言は  
折梅逢駅使 乞与隴頭人 江南無所有 聊贈一枝春 
という南宋陸凱寄範嘩詩から来ている。即ち「此花」が正しくは梅でなければならぬ筈であることは岡西惟中(『消閑雑記』)も蜀山人(『革令紀行』)も指摘しているところであるが、これが附会せられた所謂「若木の櫻」は又『源氏物語』須磨巻に  
須磨には年かえりて日長くつれづれなるに、植えし若木の櫻ほのかに咲きそめて、 
とあるのから出て、光源氏の昔語が同じ源氏の源九郎に転移したのであろうとの蜀山人の推定は恐らく謬りないであろう。光源氏と義経との直接交渉の有無は別としても、少なくとも源語から生まれた若木の櫻の古跡が、この制札に結びつき――この制札は元来、梅の為のものであったかも知れず、それがいつか同じ地の名木の方に移って行ったのか、或は梅の詩から著想せられて櫻樹の制札として最初から誰かが認めたのか、いづれかであろう――、そしてこの文言と、若木の櫻の名称から、若木の花の敦盛の哀話並びにその身替の一枝の苦肉策が構え出されて来たことは確であろう。 
又、舞曲の腰越状の末尾に梶原処罰の希望が附せられているのは、これも本伝説の成長現象の一と観られ得る。国民の同情が即ちこの添加を要求して、原文の体を壊るのも意とせずそれを敢えてさせたのである。それから若竹笛躬・中邑阿契合作の『番場忠太紅梅箙』(四段目)に、景季の依嘱で紅梅の箙を背にした忠太が景時を諌めることのあるのは、言うまでもなく箙の梅の伝説から来ているが、その忠太が廓に身を沈めている弥平兵衛宗清の女小雪の首を静の身替として腰越状と共に頼朝に捧げるのは本伝説との合体で、而もいつも憎まれ役の忠太が主役の忠臣なのが珍しい。  
説話としての本伝説が後代文学へ影響したものには、曲亭馬琴の『朝夷巡島記全伝』(五編巻二)の陸奥の賊乱を平定して凱旋した多田光仲が、嫌疑を蒙って小袋坂の関で停められる條、及び松亭金水が稿を継いだ部分(八編巻一)の朝夷が北條の奸策によって程ヶ谷駅に抑留せられる條がある。これよりずっと古く、近松の『日本振袖始』(二段目)に、悪鬼退治の功を畢えて美濃国から御凱陣の素盞鳴尊を天津児屋根臣が抑止して、宝剣奪還の使命の果たされぬ咎を詰問し、尊は漂泊の旅に上られる場面があるが、事情に異なる所はあるけれども、同じく趣向を本伝説に借りたものに違いない。『義経興廃記』(巻八)に、義経が渡辺渡海の時、暴風の烈しいのを鎮めようと、弁慶に筆を執って願文を書かせ、伊勢太神宮と海神とに祈誓することがあるのも、文覚鎮海の伝説(『平家』巻五、文覚被流、『盛衰記』巻一八、文覚流罪、舞曲『文覚』)や船弁慶伝説或は小田原陣の時秀吉が龍王へ書状を遣わしたという伝説(『豊公逸事録』)等から示唆を得たのであろうが、一面、本伝説(舞曲『腰越』に語られている形としての)及びその本拠たる木曽願書の説話からの影響であることも確である。  
又本伝説に附帯して、生成した範頼讒死の伝説がある。『義経記』(巻四)に、判官腰越参著の由を聞いた梶原はさまざまに弁を弄して、鎌倉に召見することの危険を力説したので、頼朝はこれに聴従して義経を腰越に留めるのみか、誅を加えようとしたのを、討手を命ぜられた川越太郎は娘の縁辺に忍びずとして先ず固辞し、次の畠山重忠は却って直言諫止したことを記してある。かくして義経帰京後、終に土佐坊昌俊の上洛、堀河館の夜討となるに至る(『盛衰記』(巻四六)では景時に命ぜられたのを回避して、昌俊が択まれたとしてある)のであるが、『平家物語八坂本』(巻一二、参河守の最後)及び謡曲『範頼』には、京の義経の討手を命じたのを範頼が辞退したので、頼朝は御辺も九郎に同心かと怒り、全く二心に非ざる旨の起請文を以てしてもこれを宥め得ず(ここまでは『盛衰記』(巻四六)にも見える。但しそれには辞退したのでなく、出発の用意までしたのを頼朝が猜疑して中止せしめたとし、『長門本平家』(巻一九)には終に命じて斬らせたとある)、範頼はやがて伊豆修善寺に遂われ、更に頼朝を唆して討手に向った讒奸梶原の為に、終に誅せられることに作ってある。主命とは言え、誰もがこの討ち手を領承することを渋ったのは偽ではなかった(『吾妻鏡』に「此追討事、人々多以有辞退気之処」とある)。範頼が叛逆の疑を蒙って、死を賜わったことはこれ亦事実で(『吾妻鏡』『北條九代記』下、『保暦間記』下、『年代配合抄』)、起請文も明らかに『吾妻鏡』(巻一二、建久四年八月二日)に載せてある。併しそれはなお遙に後の事で、義経の討手を辞したが為ではない。然るに何時か範頼讒死の史実は、川越・畠山乃至は土佐坊が討手の命を蒙った事と結びつけられて、斯様な伝説を生じたものらしく、少なくとも江戸初世までには成形していたものかと思われる。そしてそれはやはり義経に対する民衆の同情の現れでもあること勿論である。又仮にそれから切離して考えても、同じく頼朝の弟であり、同じく相並んで木曽誅伐の代官、又平家追討の大将軍でもある。そして又同じく兄に疑われ、同じく讒者の毒舌に誤られたのである。その人物に大小の差こそあれ、相似た位置と境遇、相等しい運命と末路とは、自ら両者を比せしめるに足りる。況や起請文の哀句と、申状の血語とは、正に絶好の対照ではないか(この範頼讒死の伝説は、次條の堀河夜討伝説以後の事件であるが、便宜此処で述べたのである)。  
更に腰越申状から直接に派生したのは、義経含状(銜状)の伝説と弁慶状とである。前者は即ち本伝説の変容であり、且腰越状そのものの変容でもある。即ち義経が高舘で生害の時、一期の遺恨を書き遺して口に銜んだまま自刃したその一篇述懐の文によって、赤心を親兄の明鑑に訴え、頼朝に悔恨せしめようとしたというので、腰越状からの転化であることは、一読瞭然であろう。  
義経含状  
謹白。抑義経末期、賤出清和之台(うてな)、自継多田満仲家以来、被隔継父清盛、為棲辺土遠国、被服仕士民百姓等。雖然、開当家之御運、被択勅宣之一、或時漫々海上凌風波之難、切敵徒之首、曝鯨鯢之腮、責靡三年三月。非其耳、生捕大臣殿父子、渡京鎌倉、雖雪源氏会稽之恥辱、依梶原讒言、空被黙止莫大之勲功、親兄弟被思召替纔侍一人。唯是不運存。将又似感前世之業因。仰願切梶原父子頸、被手向義経者、不可有今世後世之恨。萬端雖多難尽筆紙。恐惶敬白  
  文治五年閏四月廿八日  
進上 源右兵衛佐殿 
という妙な物で、腰越状に比べると全く虎を描いて猫に類する感があり、「被隔継父清盛」などは噴飯を禁じ得ない。唯、末文梶原父子の処断を乞う詞句は、舞曲の腰越状の末文と流通し合う点のあることを注意せねばならぬ。但し先後は定められない。上に提出したのは『古状揃』に収めてあるのを引用したのであるが、萬一舞曲がこれの影響を受けたのなら、この伝説の形はかなり古いと観ねばならぬが、それでも室町中期以前とは思われない。併し少なくとも江戸初世頃にはこれもすでに流布していたものであることは、『金平本義経記』(七之巻)に載っているので知られる。殆ど同文であるが、所々小異がある。重複するが、比較的古いという点で注目してよいから、参考の為、次に掲げて置こう。  
つつしんで申。そもそもよしつねいやしくもせいわ天王のうてなを出、ただのまん中の家をつぎより此かた、けいぶ清もりにへだてられ、へんどおんごくをすみかとして、いづ(「土」を「出」と誤写したのに拠ったか或は読み誤ったか)みん百せいにぶくしせらる。しかりといえどもさいわいにたうけの御うんをひらき、ちょくせんのひとつをえらひ出され、或時は野にすみ山にふし、又有ときはまんまんたるかいしゃうにふうはのなんをしのぎ、がうてきのくびをいたづらにけいけいのあぎとにさらし、三とせ三月にせめなびけおわんぬ。しかのみならずおほいとの父しをいけ取、京かまくらを引きわたし、たちまちげんじかいけいのちじょくをすすぐといえども、かじわらがざんによって、ばくだいのくんこうをむなしくし、てんり(「默」を「點」と誤読したか。或は天理か)したしき兄弟をわっかの侍一人におぼし召かえらるる事、是ふうんと存、将又ぜんぜのごういんをかんずるににたり。あふきねがはくはかちはらふしがこうべをはね、よしつねにたむけられば、今生後生のうらみ有べからず。ばんたんひっしにつくしがたし。文治五ねんうるう四月廿八日、ひょうえのすけ殿。みなもとのよしつね判。 
これに次いでこの義経の含状を載せてあるのは、近松の『最明寺殿百人上臘』(初段)で、それではその義経の再生たる北條天女丸(時宗)が「さては我が生まれぬ先の筆蹟かと」感激に声を潤ませながら朗読するのである。その前年の作『大磯虎稚物語』(初段)にも含状伝説が使ってある。出雲の『右大将鎌倉実記』(四段目)にはこれを佐藤忠信の忍び妻安督(あがう)の訴訟に応用している。内容は義経の異心の無いことを記したもので、文詞は含状のそれを女の筆めいて少し変えただけである。又、義経に代わって自殺し、所謂義経の含状を衝えた泉三郎忠衡の首をして、梶原に喰いつかせるのは青本『義経一代記』で、その子泉親衡(親衡は実は忠衡の子ではない)をして、含状を以て義勇の士を誘い集めて、義経の弔合戦を企てさせるのは、読本『泉親衡物語』である。又仮称義経物の、大阪陣に取材した戯曲にも、『義経新含状』の名を用いたものさえある。  
含状伝説を夙く取扱っている『金平本義経記』(七之巻六段目)では如何かと観ると、これでは義経の首実検をした後、頼朝が火葬にせよと命じたが、奇しや、焼けども焼けども燃えず、首級の色さえも変わらぬ不思議さに、畠山重忠が仰せによって検べると、果たして口中に書状を含んでいた。これを読ませて聴き入った頼朝はいたく感動して、義経主従を神に祭り、且、「かくてかじわら父子共も、よしつねの御たむけ、ついに御ついばつとぞきこえける」という結末で、含状の目的が貫徹せられている。否国民によって彼等の希望通り貫徹せしめられているのである。景時父子の追放は、必ず義経伝説に結びつけられねばならぬ筈の最も快適の且都合好き史実である。この作のような終局の生まれるのは、希望の具現でもあるが、如何にも当然と言った感がある。『右大将鎌倉実記』(五段目)の重忠以下八十余人が忠信夫婦の首を携えて強訴した結果、梶原の断罪を見るのは、明らかに鶴ヶ岡会盟を採入れたものである。  
要するに、義経腰越の欸状が高舘の銜状と変わって来たのである。或は含状の伝説が別に早くから行われ、その文を後から作るのに、腰越状に体裁・文辞を借りたのかも知れないが、先ず腰越状から出た伝説と見るが穏当であろう。  
〔補〕『義経物語』(巻八)にも含状の事が見え、これが或は文学として最も早いものらしく思われ(金平本のと文詞は同じでないが、内容は略々同じである)、それによって含状伝説が相当古く発生したとも考えられぬではないが、同書の同條は、後の添加ともみる事が出来る部分で、却って『義経物語』の成立が古くない証ともなり得よう。最近伝存が知られた幸若舞曲の『含状』も亦右二書の内容と略々一致する。が、これも金平本よりは古いとしても、詞章から観てやはり比較的後の作らしい。  
次に弁慶状であるが、これは詳しくは「西塔武蔵坊弁慶最期書捨之一通」と呼ばれる物で、  
抑若年の時、寄身于雲州鰐淵山、自童形以来、日夜不怠、粗試阿吽之二字。況至剃除餐髪之頃、向真言不思議窓、転極(ウタタ)頸密之秘法、於入定座禅床、探金胎両部之奥蔵。大日不二之法尤大切也。我自出母胎内以来、不犯禁戒、全護五常之道、欲達現当二世之本懐之処、先世之宿縁難遁而今将(ハタ)果者歟。爰源惣領征夷、大将軍末子牛若御曹子、賢仁異相之若君也。寄都五條橋、為亡夜行悪党、辻斬之風聞承之、貳旦(フタタビ)生弓馬家、起勝負思、既早速致入洛佇橋辺、従夜前及五更天、差合浮船浦浪飛龍伏龍影手、拙者嗜之本手者、虎乱清眼入隠頸籠手(コムテ)薙手開手十文字蟷螂斧(ナル)哉。終被追伏為君臣三世之契約畢。自(シカシテヨリ)示以来奉師伝、仍号副将軍、雖被宛行関西三十三箇国、大将之不運歟、一日片時不遂所知之本意、無播(ノブルコト)萬民鬱憤。動為(ヤヤモスレバ)追討平家、率数萬軍兵、所々城郭発向之刻、非(モノノカズニ)屑某又供奉仕。夏凌炎天、冬戴雪霜、在陸則張魚鱗鶴翼陣、作張良智略、物冷(スサマジキ)矢倉上眺月明夜。赴西海則夜千尋波底懸錨(イカリ)繋船、昼推寄汀、終日為樊(ロ+會)勇。古武王蓬辛野之軍再来者(スル)歟。己至責状凶徒、欲達本意処、依梶原逆櫓之遺恨、讒者勒(オサヘ)意而偽又為実。御兄弟不和之意趣琢不 磷(トゲドモウスロガズ)、結句如雪上加霜。誠作胡越千年之隔。雖日往月来、更無御赦免。弥疎遠而、拙者迄焦心削骨。同氾虫廿余年流浪。因(ヨッテ)茲於都五條油小路、渋谷土佐入道窃(タバカル)之時、八尺二分之手来(ゴロ)棒削八角、落三十三疣訖。其後我君閉籠吉野、鉄塔踏破勢異国本朝無比類者歟。就中関東下向之刻、雖為文武二道之名将、一身難置時窶身、韜(ツツミ)名隠跡、雖天高跼(セグクマリ)、雖地厚不荒踏。漸忍通処、折節被奇(アヤシメ)関守富樫而、叩弁口敵陣、而探当廻(ツレドモ)文笈少不騒、逆棒遂(トゲ)披露、遁鰐口下著当国、天命期于今。然処依秀衡子息三人謀叛、俄君臣共作籠鳥棲。倩案(ツラツラ)事意、四国戦場之雑言者、良薬苦口、金言逆耳者也。須雖有申状、佞人横道更不能上聞。私不運天命也。忽感涙銘肝、言語同断。於高舘麓数日合戦、衣川赫(アケニスルコト)千里、古於鳥江辺、高祖項羽之軍、豈如之哉。雖然貞女不見両夫、賢仁不仕二君、先言保堅固訖。弓箭面目此事歟。今日棄一命揚名萬天、貽誉後代者也。右之一通明日披見旁可預御感者也。  
文治五年閏 
これも高舘での遺書というわけであろうが、同様に腰越状に摸したものであることは、詞章を比較しても直に察知し得られる。なお前に述べた弁慶の手跡に関する諸伝説の流布が又この弁慶状の生成乃至流布に互に関連してもいることは容易に想像出来る。伝説のように腰越状が弁慶の作る所ならば、さりとは自伝のこの状の余りに愚劣滑稽の文なのが笑止である。推うに含状と弁慶状とは共に略々同じ頃に何人かが腰越状に擬して作ったもので、或はその作者は同一人なのかも測られない。  
【文学】『平家物語』(巻一一)、『義経記』(巻四)。又舞曲『腰越』は前半は内大臣父子護送の道行、後半は所謂腰越の哀訴である。その道行は『盛衰記』に倣い、哀訴の條は大体『吾妻鏡』に基づき、その申状は『平家』に採りながら、道行が『盛衰記』の文から出ていることは、平出鏗二郎氏の所論の通りである(『近古小説解題』一六六頁)。但し『腰越』に載せた宗盛の「しほぢより絶えずおもひを駿河なる身は浮島に名をばふじのね」、清宗の「我なれや思ひに燃ゆるふじのねの空しき空のけぶりばかりは」の歌は『盛衰記』に無くて『平家』(八坂本、巻一一)にあり、又宗盛の「都をば今日を限りの関水に又あふ坂の影やうつさん」の歌は、これは平出氏の指摘の如く流布本の『平家』と一致している。場所を腰越とせぬ曲に『腰越』の名の附せられているのは、有名な腰越状を含んでいる為、無造作に附けられたのか、或は後から与えた曲名なのであるかも知れない。近世以降本伝説を題材としたものには『金平本義経記』(三之巻五段目)、『新板腰越状』(〔補〕『校註浄瑠璃稀本集』の解題には作者は近松ではなく、錦文流あたりかとしてある)、『番場忠太紅梅箙』(四段目)、新歌舞伎十八番の『腰越状』(『猿若三鳥名歌閧』三幕目)、『興廃記』(巻一〇)、『勲功記』(巻一一)等がある。『義経腰越状』(『義経新含状』の外題替)は本伝説に名を借りた大阪陣物で、義経物ではない。  
〔補〕「中央公論」大正十四年三月号に小杉天外作戯曲『腰越状』が載った。「所、相模国腰越村の寺院 時、文治元年五月二十四日」として、この事件を取扱ってある。  
含状伝説に取材した文学は前に挙げたから省略する。弁慶状を歌舞伎の狂言名題に使ったものに『高舘弁慶状』があり、『弁慶状武勇封』という合巻もある。 
11 堀河夜討伝説

 

【内容】  
人物 源義経・静御前・武蔵坊弁慶、その他義経の臣下。土佐坊昌俊(謡『正尊』舞『堀河夜討』には正尊(しょうぞん))及びその手勢。  
年代 文治元年十月十七日(『盛衰記』『平家物語』『義経記』)(『吾妻鏡』も同日)  
場所 京都六條堀河義経の館(『吾妻鏡』は六條室町亭) 
伊予守義経の討手を命ぜられた二階堂の土佐坊昌俊は手勢を率いて鎌倉を発足し、熊野参詣(『盛衰記』には七大寺詣)と称して上洛した。義経は之を知り(『義経記』では江田源三、舞曲『堀河夜討』では伊勢三郎が、土佐の下人を賺して、これを聞き知り、急報したので、義経は直に土佐の同伴を命じたが、昌俊に欺かれて帯同しなかった為、主君の怒にあって勘気を蒙り、更に弁慶が土佐の宿所へ向くこととしてある。『盛長私記』(巻二四)にも江田としてある。但し勘気のことは無い)、武蔵坊弁慶に命じて昌俊を引立て来らせた(『盛衰記』には唯、土佐坊を召すとのみ見える)。昌俊は判官の詰問に対して起請文を認め、堅く敵意の無い旨を誓い、漸く許されて油小路の宿所(『義経記』)(『盛』には佐女牛(さめうし)町とある。同じ場所であろう)に帰り、その夜俄に堀河の館を襲った。折から弁慶以下の勇臣は、皆各々帰宿して館の内は人少に、且、義経も宿酒に酔い伏しているのを、愛妾静は白拍子にも似ず雄々しく心きいた女性とて、土佐の来襲を予想して油断せず、密に婢女を遣して動静を窺わせ、案に違わず押寄せたと見るより、急ぎ判官を揺り起こしたが醒めようともせぬので、著長を取り出して投げ懸けると、義経は蹶起し、夜襲の報を聴いても動ぜず、静が捧げる武具を取って、逸早く身を堅め、広庭に走り出て、昌俊の軍に駆け向った(『義経記』には大将の馬前に進んで単身敵を禦(ふせ)いだ御厩の喜三太の勇戦を叙してある)。弁慶・忠信その他の勇士は変を聞いて追々馳せ集まり、敵勢を撃って潰走せしめ、終に昌俊は弁慶に虜にせられて(『義経記』、謡曲『正尊』、舞曲『堀河夜討』)、六條河原に斬られた。なお『正尊』『堀河夜討』に於いては、静も判官と並んで敵を斬る勇婦である。  
【出処】『平家物語』(巻一二、土佐房被斬)、同(剣巻)、『源平盛衰記』(巻四六、土佐房上洛)、『義経記』(巻四、土佐坊義経の討手に上る事)、謡曲『正尊』、舞曲『堀河夜討』等。  
【型式・成分・性質】特殊の型式のものではない。戦争説話で、これも史実的成分が主部分を占め、空想的成分がそれを補足している史譚的武勇伝説である。  
【本拠・成立】骨子をなす史実は『吾妻鏡』(巻四)、『玉葉』(巻四三)、『百錬抄』(第一〇)等に見える。今『吾妻鏡』(巻四、文治元年十月)から引用すると、  
九日戊午。可誅伊予守義経之事、日来被凝群議。而今被遣土佐房昌俊。此追討事、人々多以有辞退気之処、昌俊進而申領状之間、殊蒙御感仰。巳及進発之期、参御前、老母並嬰児等、有下野国、可令可憐愍御之由申之。二品殊被諾仰、仍賜下野国中泉庄云々。昌俊相具八十三騎軍勢、三上弥六家季昌俊弟・錦織三郎・門真太郎・藍沢二郎以下云々。行程可為九箇日之由、被定云々。  
十七日丙寅。土佐房昌俊、先日依含関東厳命、相具水尾谷十郎巳下六十余騎軍士、襲伊予大夫判官義経六條室町亭。于時、予州方壮士等、逍遙西河辺之間、所残留之家人、雖不幾、相具佐藤四郎兵衛尉忠信等、自開門戸、懸出責戦。行家伝聞此事、自後面来加、相共防戦。仍小時、昌俊退散。予州家人等走散求之。予州則馳参 仙洞、奏無為之由云々。  
廿二日辛未。(上略)又風聞説云、去十七日、土佐房合戦、不成其功。行家・義経等、申下二品追討 宣旨云々。二品曽不令動揺給。(下略)  
廿六日乙亥。土佐房昌俊並伴党三人、自鞍馬山奥予州家人等求獲之、今日於六條河原、梟首云々。 
『盛衰記』の記事は、最も上の史実に近く、これに土佐坊起請文及び静の戒心用意の話が加わっている。『平家物語』『義経記』『正尊』『堀河夜討』に至って、土佐召喚の使として弁慶を起たしめ、或は静の沈着にして勇気あり、機転があって敏捷なる振舞を叙し、且後の二曲に於いては、静は自ら長刀を執って奮戦せしめられるに至った。更に『義経記』には江田の勘気及び戦死、喜三太の働きがあり、『堀河夜討』には、江田は伊勢三郎と変わって、且、戦死の代わりに功名することとなっている。弁慶の猛勇殊勳は最も特筆に値し、『盛衰記』の外皆之を掲げ、その上正史では鞍馬の奥に於いて数日の後義経の家人に捕らえられた昌俊を、当夜虜とならしめて、之を弁慶の手柄に帰し(『義経記』『正尊』『堀河夜討』)、或は鞍馬山といえば昔牛若丸時代に学んだ師壇の好しみある地である所から、義経に好意を有する大衆に捕らえさせ(『平家物語』巻一二、及び剣巻。『盛衰記』て、弁慶に引渡させている(『平家』八坂本)。又注意すべきは、『吾妻鏡』を始め、『盛衰記』『盛長私記』等稍正史に近いものに見える十郎行家加勢のことは、完成した本伝説、少なくとも『義経記』以後(『盛長私記』が『義経記』以後のものであるとすればこれは除外例として)のものには全然省かれるに至ったことである。これはこの常敗将軍たる一怯漢は、本伝説に省いても、殆ど何等の痛痒をも感じないのみか、之を本伝説の人物中に加えて土佐撃退の功の半を頒たしめるのは、寧ろ軍神とも称すべき義経の為に、煩と為り、不名誉となる所以で、正史の上では相提携して頼朝に当らうとした叔姪の間柄であるけれども、我が不生出の英雄、武将の典型たる九郎判官をして、謀反の常習犯とも言うべき陰険懦弱の小人十郎蔵人行家輩と行動を倶にさせるのは、国民の堪えられぬ所であるからである。都落の際、相伴って行粧美々しく立出でた両将は(『吾妻鏡』『盛衰記』等)、船弁慶伝説に於いても亦、義経の傍から削除されたのは、故あることと言えよう。  
次に論題となり得るのは、土佐坊昌俊の素性であるが、明確な史料は不足しているけれども、その名は前に引いた條の他にも、『吾妻鏡』(巻三、元暦元年八月八日)の平家追討使として、参河守範頼が鎌倉を進発する條、及び同書(巻四、同二年正月二十六日)の同じく範頼が豊後渡海の條に、挙げてある麾下の連名の末に  
一品房昌寛  土佐房昌俊 
と出て居り、又、「人々多以有辞退気之処」「進而申領状」したのに見ても、討手に向って和泉の山中に行家を捕らえた常陸房昌明(『吾妻鏡』巻六、文治二年五月二十五日、『長門本平家』巻一九)の類の一勇僧であったに相違無いことは想像が出来る。そして「老母井嬰児等在下野国」とあるから、住国は下野であったのであろうか(縁族に預けてあったのかも知れぬが)。伝説としては大和の出で、奈良法師である。西金堂の衆徒に助力して、南都に於いて濫妨した罪を問われる為、京に召して土肥実平に預けられたが、その勇敢な気性を見込んで実平が伴って関東へ下り、頼朝に推挙した人物で、頼朝挙兵の時、二文字に結び雁の旗を賜ったと言われている(『盛衰記』巻四六)(『扶桑見聞私記』(巻四一)にも同様に見える)。然るに『長門本平家』(巻一)には、例の額打論の興福寺の悪僧の一人を、その前身であるとして、  
この観音房と申すは昌俊とぞ名乗りける。後には土佐房と改名して、南都西金堂の衆徒となる。 
と記して、上の伝説に連関せしめている。又、更に特異なのは、昌俊の幼名を金王丸とし、義朝の愛臣となさしめた『平家物語八坂本』及び舞曲『堀河夜討』、狂言『生捕鈴木』の類で、而も意外に、以後の文学は殆ど皆この系統を引いている。謡曲・舞曲に、その名を正尊としたのは、同名の人物に憚っての作者の改変であろうと言われている。  
又静が長刀を振って勇戦したこと、及びその時の長刀に象ったという静形長刀の説の妄を弁じた『広益俗説弁』(正編巻一四、婦女)は下の如く論じている。  
鍛冶の譜に、濃州多芸志津の鍛冶志津三郎兼氏の伝に、来相州為正宗弟子。能作長刀。称之世号志津象とあり。思うに此志津象を誤りて、静形とおぼえ、堀川夜討ちの働までを附会せるものなるべし。  
志津象を静形と誤るのは、発音上の類似から来る極めて普通な心理現象で、所謂通俗語源説的解釈である。併し結論に於いて、之を静の勇戦説の生じた原因と断ずるのは早計に近いであろう。或は反対に勇戦説が先だっている為に、この志津象と静形との連結を容易ならしめたのかも知れないからである。兎も角、巴・板額の勇婦を生んだ時代とはいえ、勇気貞烈有髯男子を後に瞠若たらしめる節婦であったとはいえ、吉野の山中に下部共に棄てられて、雪路に泣いた白拍子は、本能寺の夜襲に長刀を振って勇戦した阿能局(『真書太閤記』六編、巻四)の類の室町戦国式勇婦が好範例を与えることが無かったならば、著長を取って判官に投げ懸けた殊勝な振舞に、一歩を進めることが、或はむづかしかったらうも知れぬ。『堀河夜討』『正尊』の静御前には、寧ろ室町戦国の女性の面影が宿って見えるように感じられる。  
〔補〕舞曲『和泉が城』の和泉三郎忠衡夫妻の勇戦、特に長刀を振って寄手を追い散らす忠衡が妻は、即ちこの堀河夜討の静と殆ど異なる所が無い。殊に同じ舞曲ではあり、いづれかが他の粉本たることは疑無い。 
【解釈】義経の運命が愈々迫り、終に鎌倉を敵とするに至り、夜襲の軍は難なく之を撃退し得たが、その瞬間に永く断ち切られた兄弟骨肉の契は、最早、如何ともすることが出来ぬ。頼朝追討の院宣は、伝説の義経の関知する所ではない。親兄の礼を重んじた判官が、今は京に身を置き難く、西国に向って開いたのは、この夜討の変があったに因る。義経はかくて益々世人に哀憐せられるのである。梶原の和讒、腰越の抑留、堀河の来襲、義経は刻一刻、一回又一回、漸次に関東の辛辣残忍な圧迫の手にじりじりと押詰められて来る。而も微塵もそれに逆らおうとはしないのである。土佐を破って之を斬ったのは巳むを得ざるに出たので、正当防衛に過ぎない。而も大事は既に去った。かくして次の船弁慶伝説に移って行くのである。  
そして本伝説に於いても、義経の沈毅・豪胆・豁達・武勇は十分に示され、その一騎馬を大庭に立てて寄手を睥睨する英姿は、正に大向うの判官贔屓に声を涸して賞揚呼号させる所、  
今日近来、日本国に誰かは義経を思懸くべき。況や昌俊法師をや。あますな者共とて、竪横散々に駆けければ、木葉を嵐の吹く様に、さと左右へぞ散りたりける。(『盛衰記』巻四六) 
有様、僅かに七騎を従えて土佐が六十余騎を駆け破る働きは、「灸治し乱れて労(つか)れ」(『盛』)た人とは到底思われず、鏡の宿で単身熊坂の一類を鏖殺した昔を髣髴させて、神人的性行は成長後の判官にも消失せぬのを認めしめるのである。弁慶も亦単騎、土佐が宿所に行き向って、往かじとすまう昌俊を宙に提げ、裸馬に合乗りして、堀河御所に引立てて来、夜討に際しては、急ぎ馳せつけて力戦目を驚かし、遂に敵将を捕らえて君前にこれを献じた。この期からの弁慶は、最早『盛衰記』の一の谷の案内者探しの端役、観音講の道家方に止まらぬのである。殊に本伝説に於いては、猛勇の権化、仁王阿修羅の怒り、獅象の荒れ狂うが如くである。更に本伝説に於いて著しい活動振を見せて、長く国民の脳裡に、賞賛の情と共に深く印象せしめたものは、判官の愛妾静で、その沈勇と用意、機転と敏活、敵を侮らず、又騒がず、著長の音に判官を驚かし参らせ、「さてはと起き給ふまに」それを「取って奉」り、「上帯締め給うまに太刀取って奉る。帯び給うまに甲取って奉る。緒締め給うまに弓取って奉る。張り給うまに矢取って奉る」(『平家』八坂本巻一二)彼女に「あっぱれ静は弓取のおもいものや」(『堀河夜討』)と嘆賞の声を吝まぬ者は、独り判官殿のみではなかろう。思慮周密な判官が、この時に限って打解けたのは、油断の非難を免れないが、判官の油断は即ち静の手柄となる所以で、判官が枕を高うして鼾声雷の如きは、この沈勇の愛妾のあるに安じているからとも言える。かくして静は益々義経伝説中に於ける重要な人物となるのであり、そして前に述べた如く、自ら進んで敵を斬る勇戦をなさしめられるに至って、日本有数の妙舞手としてのみならず、判官は木曽殿に劣らぬ勇敢な婦妾を得られたことになるのである。  
【成長・影響】弁慶・静等に関する部分の成長に就いては既に〔成立〕の項で自ら触れたから重ねて説かない。  
堀河夜討の際に働いた判官の部下で姓名の明記せられている数は、下に示すように、史実から伝説へ進展するままに漸増し、『義経記』に至って一座総出演の幕を観るのである。  
『吾妻鏡』     佐藤四郎兵衛尉忠信等。  
『盛衰記』     源八兵衛広綱・熊井太郎。  
『平家』(八坂本)江田源三・熊井太郎・武蔵坊。 
『平家』(流布本)伊勢三郎義盛・佐藤四郎兵衛忠信・江田源三・熊井太郎・武蔵坊弁慶  
『義経記』     喜三太・武蔵坊・片岡八郎・伊勢三郎・亀井六郎・備前平四郎・江田源三・鷲尾七郎・佐藤四郎兵衛・駿河次郎。 
そして『盛衰記』の「舎人、馬を待儲けたり」とあるその舎人は、『義経記』には喜三太の名を採って忠戦し、身分こそ卑しけれ、忽ちにして弁慶・忠信等と比肩して功を競う大勇士となった。又、『長門本平家』(巻一九)には源八・熊井・江田は却って頼朝から副えられた土佐が部下のように記されている。  
次に敵手たる土佐坊昌俊に関して二つの妄説があることは既に述べた通りで、即ち一は前名を金王丸と云ったという説、二は謡・舞曲に正尊と名を改めさせられている事実であるが、舞曲『堀河夜討』以後『源氏鳥帽子折』『御所櫻堀川夜討』等皆金王説を襲い、且、渋谷の姓を加え――これは舞曲『鎌田』から来ている――て居り(『広益俗説弁』(正編巻一二、士庶)には渋谷は源氏で、二階堂は藤氏であるから別人であろうと、後に附加せられたこの渋谷姓を取上げて論断しようとしている)、又、『御所櫻』は昌俊・正尊両説があるのを利用して、二人土佐坊があったとし、正尊は梶原景時の郎党で、常に芝居の端敵に廻っている番場忠太(『番場忠太紅梅箙』は除外例)に振り当てられ、  
扠(さて)こそ贋と正真の土佐坊昌俊・土佐坊正尊、二人の土佐が名の紛れ、義経公に敵対しは、この正尊が事なりけり。 
とするに至り、その正尊の名の説明としては、弁慶の滑稽引導の詞の中に、  
今日只今昌俊が名を藉って殺さるるは、汝(おのれ)が損の名に取って、正尊と付けてこます。 
と牽強したのは、例の院本作者一流の戯謔に過ぎないけれども、代わりに昌俊は意外にも善人となり、『吾妻鏡』に自ら進んで追討の使を申受けた土佐坊は、戯曲の世界では、心ならず判官に敵対し、或はそれは討手を梶原に命ぜられんことを恐れ、故意に自ら申受けて、内心義経と頼朝との仲を和げようとする苦衷に出たとせられ(『御所櫻』)、之に反して正史に於いて義経を助けた備前守行家は、却って梶原と心を合せて義経を陥れようとする敵人とされるようになったのは、さもありそうな傾向ではあるが皮肉である(『右大将鎌倉実記』初段、『吉野静人目千本』第三、行家館の段)。又舞曲『堀河夜討』の義盛勘気の一條は、橋弁慶伝説の牛若千人斬に結び付きつつ、本伝説の土佐坊に対して敵討譚を作り出させた。義盛の父俊盛が千人斬の一人として討たれたと思っていたのが実は金王丸時代の昌俊に誤って殺されたのであったというのである(『御所櫻』二段目・四段目)。その他土佐起請文の一件は、祇園の一社である四條京極染殿の冠者殿の社に於ける、毎年陰暦十月二十日の誓文祓の神事――商人・遊女が平生客を欺いた罪を祓う為の――に結び付き(『義経興廃記』巻一〇、『風流東海硯』)、又起請誓紙の華街の風習に誂え向である所から、浮世草子には彼をさして「男傾城とや申さん。手次(てついで)に土佐ぼんに指切らせて、取って置かれなば」(『花実義経記』三之巻)よかったものをと、色町の太鼓共の笑の種に用いられている。  
更に本伝説の進展と共に結び付けられて来たのは、京の君の伝説である。『吾妻鏡』に見える義経の正妻川越重頼の女と、『平家』『盛衰記』に見える平大納言時忠の姫君とを混同したようなもの、これが伝説上の京の君(或は卿の君)で、義経の北方にこの名を与えたのは、『右大将鎌倉実記』あたりが初めらしく(それには卿の字にしてある)、『千本櫻』『御所櫻』もこれを襲用している。そしてこの名の来由に関して、時忠卿の姫君であるから卿の君としたのであろうとは三田村鳶魚氏の説(『芝居と史実』)である。或はそうであろう。但し京の君というのは既に『義経記』には義経の兄の名(巻一「京の君円信」巻二「六郎は京の君」)とせられ(『平治物語』(巻三)では卿公円済は乙若の方で、卿と京との流用は此処でも見られる)、又片岡八郎の山伏名も同じく京の君とせられている。院本作者は恐らくこの既成の人名を借用して、都合好く当て込んだのであろうかと思う。さて『鎌倉実記』及びその後に出た『御所櫻』に於いては彼女は時忠の姫であるが、その又次の『千本櫻』では川越の女で、時忠の養女という事になって居り、『一谷嫩軍記』『古戦場鐘懸松』になると、又時忠の女としてある(『義経記』の義経の正妻は、久我大臣の姫で、北国落に伴われ、高館で自刃した。これも亦正史の川越の女と混じたのである。『盛衰記』の方では奥へ下ったのは川越女となっている)。そしてその京の君が本伝説に関係せしめられるに至ったのは『御所櫻』以来で、頼朝からの訊問数箇條中の一箇條は、義経が頼朝の許可なくして平氏の女を室としたことにある(義経が時忠の婿になったのを、頼朝が忿った事は『盛衰記』(巻四四、頼朝義経中悪)にも見える所である)。堀河夜討は畢竟これらの罪を問う為なのであり、そして頼朝から求められたのは彼女の首である所から、所謂弁慶上使の段となり、武蔵が女信夫は未見の父が手に懸って、主君の身替に立つこととなるのである(その上使に来た弁慶が京の君に産婦の心得を説くことがあるのは、『義経記』(巻七)の北国落の途亀割山での北方の御産に弁慶が介添した事から出ている)。そしてこれは『鎌倉実記』の、卿の君が弁慶の諷諫によって自刃することの変形で同じ趣向は『千本櫻』では、鎌倉からの不審の申開きの為に自殺することともなっている。『嫩軍記』の京の君の自害だけは本伝説に関係無く、その原因は父時忠が義経を亡ぼそうと企む悪心に恥じてのことと変わっているが、『御所櫻』等に於いても時忠は大悪人として取扱われている。  
本伝説で有名となった所謂堀河御所の旧蹟は『和漢三才図会』(巻七二、山城国)に  
源義経之館 楊梅通(ヤマモモノ)油小路西、謂六條堀川館。  
    土佐坊正俊夜討之騒此処。今為荒田。 
と見え、又同書(同巻)に  
武蔵坊弁慶宅  二條河原東南。  
    土佐坊潜責堀川館時、弁慶自此馳向焉。為荒地、稱弁慶芝。 
とある。  
【文学】『平家物語』(巻一二)『盛衰記』(巻四六)に於いて大体の白描が成り、『義経記』(巻四)に完成し、謡曲『正尊』(その「起請文」は「勧進帳」「木曽願書」と共に能では三読物の一とせられている)、舞曲『堀川夜討』に至って、愈々伝説的分子を増している。『正尊』は大略『堀河夜討』と同じで、唯謡曲としての構成の為に省約を施された如き形である。正尊の名まで同一であり(『堀河夜討』の一名を『正尊』と呼ばれている)、共に弁慶と土佐が郎党姉羽平次光景との一騎打があるのでも、確に孰れかが他に倣ったものと思われる。近世のものでは『義経興廃記』(巻一〇)、『義経勲功記』(巻一二・一三)、『金平本義経記』(三之巻五段目・六段目)等いづれも『義経記』と略々同じく、又『(歹+粲)静胎内 捃』(初段)、『清和源氏十五段』(初段)、『義経千本櫻』(序の切)、『吉野静人目千本』(第三、行家館の段)等の院本にも取材せられているが、本伝説を主題としてあるのは外題の示す如く『御所櫻堀川夜討』である。『義経記』、謡・舞曲及び『右大将鎌倉実記』等に材を仰ぎ、義経の千人斬供養、義盛の仇討、弁慶の情話、信夫の身替、静の兄藤弥太の改心、贋土佐の堀河夜討等の新趣向をも加えて構想に変化を求めている。三の切「弁慶上使」、四の切「藤弥太物語」が有名である。青本に『義経堀河夜討』、黄表紙に『二人義経堀河合戦という作もある。浮世草子の『義経風流鑑』『花実義経記』『風流東海硯』にも採られ、その他『勇壮義経録』を始め一代記風の義経物に多く取扱われている。『日本楽府』中にも「大天狗」と題して本伝説を詠じた作を収めてある。明治以後では榎本虎彦作『堀川夜討』(三幕)が歌舞伎座に出た。  
〔補〕松居松葉の『堀河夜討』(大正六年三月号「早稲田文学」)は本伝説を喜劇化した一幕物で、守田勘弥の文芸座で上演した。 
12 船弁慶伝説

 

【内容】  
人物 源義経(及び静御前)・武蔵坊弁慶。平知その他平家の怨霊  
年代 文治元年十一月(『吾妻鏡』には六日)  
場所 摂津国大物の浦(『笈さがし』には北国落の途) 
義経は終に都を後にして西国へ下ろうと、大物の浦から船出すると、暴風忽然と吹き起こり、これに乗じて壇の浦で亡んだ平家一門の怨霊が新中納言知盛を先として続々と現れ、義経に迫った。太刀を抜いて斬り払おうとする判官を、押隔てて弁慶は数珠さらさらと押揉みつつ、祈り懸け祈り懸け、さしもの悪霊を遂に攘いしずめた。但し、『義経記』では法力の代わりに弓を射て魔雲と現じた平家の死霊を散ぜしめたことになっている。なお謡曲『船弁慶』には、出船の前に静との別離がある。  
【出処】『義経記』(巻四、義経都落の事)は未完型。完形が載せられているのは謡曲『船弁慶』、舞曲『四国落』及び『笈さがし』  
【型式・成分・性質】怨念説話。又降魔型法力説話で、安達原伝説と同種のものである。その意味では、宗教伝説であるが、同時に武人而も義経伝説の中枢人物に関するものであり、敵の怨霊も亦武人で、即ち武勇伝説に結合した降魔譚である。従って奇蹟・呪術を含む神話的成分が主要素で、空想的成分と史実的成分とがこれを輔けている。即ち准神話的武勇伝説である。  
【本拠・成立】先ず史実に就いて調査すると、『吾妻鏡』(巻五、文治元年十一月)に  
三日壬午。前備前守行家櫻威甲・伊予守義経赤地錦直垂萌黄威甲等赴西海。先進使者於 仙洞申云、為遁鎌倉譴責、零落鎮西。最期雖可参拝、行粧異体之間、巳以首途云々。前中将時実・侍従良成義経母弟一條大蔵卿長成男・伊豆右衛門尉有綱・堀弥太郎景光・佐藤四郎兵衛尉忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎・弁慶法師巳下、彼此之勢二百騎歟云々。  
五日甲申。関東発遣御家人等入洛。二品忿怒之趣、先申左府云々。今日予州至河尻之処、摂津国源氏多田蔵人大夫行綱・豊島冠者等、庶前途、連発矢石。予州懸敗之間、不能挑戦。然而予州勢、以零落。所残勢不幾云々。 
とある都落及び河尻合戦の次に、  
六日乙酉。行家・義経於大物濱乗船之刻、疾風俄起而逆浪覆船之間、慮外止渡海之儀。伴類分散。相従予州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉・堀弥太郎・武蔵房弁慶井妾女字静一人也。今夜一宿于天王寺辺、自此所遂電云々。今日可尋進件両人之旨、被下 院宣於諸国云々。 
とある日の事件である。十一日庚寅にも  
爰義経・行家巧反逆、赴西海之間、於大物濱漂没之由、雖も有風聞……… 
と見え、同日近畿の国司に賜った院宣にも去六日於大物濱忽逢逆風」の一句がある。  
廿日巳亥。伊予守義経・前備前守行家等、出京都、去六日、於大物濱、乗船解纜之時、遭悪風、漂没之由、及風聞之処、八島冠者時清、同八日帰京畢、両人未死之旨、言上云々。(下略) 
という記事も出ている。そしてこの逆風に対して、  
折節十一月の事なる上、平家の怨霊や強かりけん、度々船を出しけれども、波風荒うして、大物が浦・住吉の濱などに被打上て、今は不及於出船。(『盛衰記』巻四六) 
という時人の解釈に拠る風評の平家の怨霊は、『義経記』には一歩を進めて、  
弁慶申しけるは、この雲の気色を見候に、よも風雲にては候まじ。君はいつの程に思召し忘れ給いて候ぞ。平家を攻めさせ給いし時、平家の公達多く波の底に屍を沈め、苔の下に骨を埋み給いし時、仰せられ候いし事は今のようにこそ候へ。源氏は八幡の守り給えば、事に重ねて日に添え安穏ならんと仰せられし。如何さまにもこれは君の御為悪風とこそ思い候へ。あの雲砕けて御舟にかからば、君も渡らせ給うまじ。我等も二度故郷へ帰らんこと不定なり。 
という怪奇の悪雲となって義経に障碍をなそうとし、『四国落』に及んでは終に具象化して、  
かかるきざみに平家の悪霊達、その数涌出せられ、  
そして『船弁慶』では  
天命に沈みし平氏の一類……一門の月卿雲霞の如く、波に浮みて見え  
ただけでなく、  
夕浪に浮べる長刀執り直し、巴浪の紋あたりを払い  
威容堂々と  
抑もこれは桓武天皇九代の後胤、平知盛幽霊也。 
と平軍の勇将に名告りを挙げさせているのである。  
一方この悪霊を降伏する側からは、素蓋鳴尊大蛇退治神話にまで溯源せずとも、本伝説はその前身乃至原形とも見られ得べきものにまで辿って行くことが出来る。 
『義経記』の弁慶が弓射を以て悪風を攘うという形が介在することによって、この変移の経路の説明が一層自然さを増すのである。又渡海に際して暴風波を起す魔力を有しているものと、これを鎮定する人と手段に於いても、自ら変移する時代がそれぞれに順応した姿で現れる。  
尤も『義経記』や謡曲時代に風波を起すものが龍神ではなくなったという意味ではないが、猛勇僧文覚の行動が勧進帳読みと共に弁慶の伝説的成長に好範を垂れたことの想像は併せて否まるべきではなかろう。  
又これは伝説的変移ではなくて、能の構成上から来た制約に基づく所ではあるが、『船弁慶』の前半を成す静別離の一條は、次條の吉野山伝説からの転入である。  
【解釈】現世の兄に憎まれて西国へ難を避けようとすれば、幽界の亡鬼に逆風を吹き懸けられて前途を塞がれる。幸に斯の道にも勤修を積んで験徳頼もしい武蔵坊の働によって漸く災厄は免れたが、風浪の烈しさに船は破れ梶は砕けた。今は西海へも赴き得ず、まして都へは還り難い。天地の間に身を容るべき尺寸の地を何処に覓むべきか。義経の不遇な命路、漂浪の道程の一歩は愈々始まったのである。そしてこの大物が浦の風波を平家の怨霊の業とする所、及び弁慶の法力によってそれが祈り却けられた所に、無論本伝説の主な意味はある。それに連関して本伝説に顕著な事実は、薄運の主君を庇護して無二の精誠を捧げる弁慶の活動で、ここに至って、曽ての書写の悪童、五條橋の物取天狗法師であった弁慶は、今や判官股肱の大柱石兼後見役たる本色を発揮することになったのである。而も正史では随従の連名の最終に列している人物が、伝説では――特に本伝説からは、一躍して中心の大立物に昇格したことは頗る興味深い現象である。  
もとより又本伝説は、仏法――特に「祈り」の力を説くものである事言うまでもない。武術や宝剣の霊威に依る悪鬼退治(戸隠伝説・鈴鹿御前伝説等)と類縁をなすものであると同時に(『義経記』の所伝は完全に武術に依る降魔である)、妄執にひかれてありし世の姿を現す英雄の精霊が、雲水行脚の一沙門の弔問に逢うて、草木国土まで悉皆成仏する幽玄絶大な功力によって、忽ち解脱得道して、円満の仏果を得る、かの謡曲の本領たる幽霊能と同じ形式、同じ精神である。そして其処には前項に述べた風説から悪霊を具現して来た事実と併せて、時代人の迷信民俗が如実に投影している。  
【成長・影響】完形の成立に関連しての本伝説の成長過程は前に説いた如くで、なお『笈さがし』では北國落の途上の海路へ移動しているが、完成した本伝説に影響せられて生まれた最も著しい文学的所産は、竹田出雲の戯曲『義経千本櫻』で同曲に於いて本伝説の説話容相も更に一段複雑した変転を遂げしめられた。この戯曲は題名の示すように内容は吉野山伝説が中心であるが、一部は維盛亡命の伝説、そして他の一部は即ち本伝説から成っている。二段目の中「渡海屋」から切「船軍」へかけてが本伝説に関する部分で、それは謡曲『碇潜(いかりかづき)』とこの船弁慶伝説とを合せて脚色したもの、その特色は謡曲『船弁慶』にあっては幽霊である知盛を、実は生きた知盛が幽霊姿を装って義経を欺き殺そうとする形にした所にある。  
即ち知盛は世を忍ぶ大物の浦の船頭渡海屋真綱銀平となり、典侍の局はその女房となり、表面その娘らしく見せているのは忝くも安徳天皇におはしますのである。西国へと渡りを求めて立寄った義経の一行をその家に宿させた知盛は、家臣相模五郎に命じて、佯って敵方らしく振舞わせ、これを懲して恩を売った上で、巧に賺して故意に難風の日に船を出させ、自ら幽霊と号して海上で義経を囲み、之を討取ろうと計って却って裏を掻かれ、終に錨をかついで海に身を投ずることに作ってある。これは教経生存率などからも暗示せられて来たのであろうが、『甲子夜話』(巻一〇)には、知盛は壇の浦で入水したと披露し、実は生存して屋島辺の漁戸に混じ隠れて、再挙を計ろうとしたのをば、義経に捜し出され、最後の決戦をして討死したのを、謡曲『船弁慶』には、その亡霊が出たとして面白く作りなしたのであると却って逆に解釈してある。  
この説をそのまま文学としたようなものが即ち『千本櫻』である。つまり謡曲で改変せられた実説を偶然復原の姿に引戻したという形になるわけである。が、この説の出処は屋島辺の古老の談として大関土佐守が齎し帰った土産話に基づくので、著者松浦静山侯は「井沢が『俗説弁』にも未だ見えず。奇聞なり」と珍重しているけれども、これは恐らくその地で『船弁慶』の説話が斯様な姿に於いて解釈せられた形を取って流布していた口碑であろうし、若しかしたら却って『千本櫻』の内容が既に口碑化してその地に結びついていたのであるかも測られない。『甲子夜話』の起稿は『千本櫻』上場の延享四年からは既に七十四年後の文政四年十一月甲子であるから、この條の執筆はなおその以後に属するのである。尤も大関土佐守が聞いたのはもっと旧いことも同書で知られ、又口碑になっているのは無論尚遙に早い時からであろうから、『千本櫻』からの影響とのみは断じ難いが、若しこの口碑の方が『千本櫻』に先だっていたとすれば、出雲等がこの口碑を利用したのかも知れぬが、或は恐らくそうでなくて謡曲から著想したのが――そして通俗史学常識からもそうした考え方が導き出されるのは自然である――同一の帰結を見たものではあるまいか。それはいずれとしてもこうした伝説なり趣向なりが生まれて来るのも、決して不自然でないばかりか、実は当時に於いて既に銀平ならざる銀平が実在した事実を、『吾妻鏡』(巻五)が語っているのが一段の興趣を誘う。即ち文治元年十一月二日辛巳の條に次の記事がある。  
予州巳欲赴西国。仍為令儲乗船。先遣大夫判官友実之処、有庄四郎者元予州家人当時不相従今日於途中、相逢友実。問云、今出行何事哉。友実任実答事由。庄偽示合如元可属予州趣。友実又稱可伝達其旨予州、相具進行。爰庄忽被誅戮廷尉訖。件庄、実者越前国斉藤一族也。垂髪而候仁和寺宮、首服時属平家、其後向背相従木曽。木曽被追討之比、為予州家人、遂以如此云々。 
純然たる敵将ではなく、且、元々義経の臣だった表裏反復の男ではあるが、『千本櫻』作者はこの庄四郎を用いたのではないかも知れぬけれど、その著想もこれによって愈々事実らしさを附与せられることになる。庄が船宿の主であったとまではないけれども、乗船の支度の際といい、諜し合せた相模五郎を取拉ぐ偽忠義の銀平が看破せられて自滅を取る所まで、「渡海屋」の場の為に、モデルが用意せられてあった感がある。執筆の材料を蒐めるに当って、この場受持の作者は『吾妻鏡』をも一瞥したと思われるから、或は暗示を此処に得たとしても有り得ぬことではない。偶合としても亦別様の興味が大きい。  
又別に本伝説の変容したものに、謡曲『沼捜(さぐり)』の内容を成している説話がある。判官御遊の折柄、一天俄に掻曇り、雲間に出現した大怪蛇の影を見た弁慶が、放った神通の鏑矢の行方を尋ねて、櫻が池の辺に到ると、やんごとなき女性一人立現れ、その大蛇こそは昔の山田(八岐)の大蛇の精霊で、宝剣に執心を残して生をこの世に引き(これは『盛衰記』(巻四四、老松若松尋剣)、『平家』(剣巻)、『長門本』(巻一八)、『太平記』(巻二五、自伊勢進宝剣事)、御伽草子『相模川』(〔補〕番外舞曲か)等にも見える伝説である)ながら、その素志を果たし得ぬ西海の深き怨を返そうと、今この沼を棲処として、汝等を苦しめようとするのであると告げ、頼朝・景時・義経等の前生(これは同一の説話が『天狗の内裏』にも見える。)を語って、過去の罪業免れ難く、義経・弁慶等はやがて衣川の立浪の辺で亡ぶべき因由を説き、妾こそ先帝の御供して入水した二位の尼よと名告って、一門の悪霊を喚び出し、風雨を起して弁慶を憑り殺そうとするのを、弁慶は諸神を念じて悪霊と戦い、漸く打却けたというのがその梗概である。即ち宝剣伝説、大蛇退治神話、因果前生譚、未来記式予言説話、神仏霊験譚等の諸素材、諸要素が本伝説に結びつけられたものが湖沼退治の地方口碑と合体したようなものである。  
今一つは、謡曲『橋供養』(一名『相模川』)で、これは御伽草子の『相模川』と同材をなしていて、頼朝が相模川の橋供養に平家の怨霊に悩まされて落馬し、病を獲て薨じたという伝説に取材した作であるが、特に相模川の波の中から、「あら珍らしや如何に頼朝」と呼びかけつつ、長刀を取直して現れる「教経の怨霊は、即ち『船弁慶』の知盛の変身で、これを祈り鎮める弁慶の役は若宮別当になっている。少なくともこの伝説を採って脚色するに、謡曲『船弁慶』に摸したことは疑う余地がない。  
なお『金平本義経記』(四之巻初段)に平家の怨霊が渡海を妨げるのを、弁慶は先ず矢を射て怪雲を払い、更に現れた悪霊を、法力を以て祈り却けるのは、『義経記』と『四国落』及び『笈さがし』とを合せたので、即ち本伝説の原形と完形との重複現象として面白い。又『義経興廃記』(巻一一)では鳴弦を以て怨霊を払い、法力は風向を変えるに用いさせているだけである。  
【文学】『義経記』(巻四)及びこの系統を引く『興廃記』(巻一一)、『勲功記』(巻一四)はなお完成した船弁慶伝説の文学ではない。完形を題材としている作では謡曲『船弁慶』、舞曲『四国落』(前半)、同『笈さがし』(後半)を主なものとする。『金平本義経記』(四之巻初段)は両者を折衷したもの、謡曲『沼捜』は本伝説を変形したものである。又新歌舞伎十八番の一になっている黙阿弥の『船弁慶』は、殆ど謡曲をそのまま歌舞伎へ移したような作で、他に謡曲から来たものには筑前琵琶の『船弁慶』もある。  
その他一代記風の義経物及び絵本に本伝説の採られているのもあるが、何といってもその代表作は謡曲『船弁慶』と戯曲『義経千本櫻』(二段目)である。後者は角書にも「大物船矢倉」として「吉野花矢倉」に対せしめた程で、「渡海屋の段」の如き力作というべく、歌舞伎にも移されて今に及んでもいる。本伝説は川柳にもいろいろ作られているが  
白波になって弁慶汗をふき 
など最も有名で、これは能の『船弁慶』である。  
なお『義経記』(巻四、住吉大物二箇所合戦の事)及び舞曲『四国落』には本伝説に引続く部分として、又謡曲『蘆屋弁慶』は独立曲として、いずれも、この難破の翌朝船が海浜へ吹き寄せられた所を、その地の国人等(『義経記』には豊島冠者・上野判官・小溝太郎、『四国落』『蘆屋弁慶』には、蘆屋三郎光重としてある)が争い集まって、判官を討とうとしたのを、弁慶等が勇戦して撃ち走らせたことが取扱われているが、これは『吾妻鏡』(前掲の如く、敵将は多田行綱・豊島冠者、土地は河尻としてある)、『平家物語』(八坂本巻一二)(これには太田太郎高能・豊島冠者、土地は摂津国小溝)等にも見え、而も大物の浦出船以前の事件であるのを、以後の事としたものである。ついでに『義経記』『四国落』『蘆屋弁慶』等皆、住吉明神が釣翁と原形して、歌を以て地名を訓え給う歌物語が含まれている。 
13 吉野山伝説附狐忠信伝説及び碁盤忠信伝説

 

13-1 吉野山伝説(吉野静並びに忠信身替伝説)附狐忠信伝説 
大物の浦難船の次に来るのは、吉野山別離の悲話である。本伝説は自ら二部分に分かれている。前半静御前との哀別(吉野静伝説)と、後半忠信の身替とである。併し、両者は終に相合して、一の伝説となるに至り、両者相合する所に狐忠信の伝説は生まれて来る。  
【内容】  
人物 源義経・静御前・佐藤忠信。 源九郎狐(狐忠信伝説)  
年代 文冶元年十一月  
場所 大和国吉野山 
〔イ〕吉野静伝説   
大物の浦の難風に遭い、西走の計画が頓挫した判官義経は伴って来た十余人の妻妾を都へ送り返し、唯静のみを召連れて、弁慶・忠信以下の勇臣と、一時大和の吉野山に隠れたが、衆徒の詮議厳しく、又この山をも見捨てねばならなくなった。放ちともない名残の袂を、弁慶等の切諌に心強く振断って、これまで御供した静をば、秘蔵の初音の鼓を形見に、その他の財宝を添え、供人を附けて都へ還す判官の切なさ、増る歎きは静が身で、泣く泣く返す踵も胸も、路を埋める白雪に弥々冷えたゆむばかり、財宝に眼のくれた供人が途で姿を隠してからは、谺の外は応えるものもない深山に唯一人取り残され、漸く辿りついた蔵王権現の御前で、忽ち寺僧に見咎められ、奉納の舞を強いられた後、捕らえられて都へ上せられ、やがて鎌倉へ送られることとなった。  
〔ロ〕忠信身替(吉野忠信)伝説  
一方静に別れた義経主従は、南を指して落ちて行ったが、一山の僧徒の追跡愈々急なので、佐藤四郎兵衛忠信は、一人後に踏み留まって防ぎ矢をも射、且は君の御身替として討死し、敵を欺いて心安く落し参らせたいと進んで請うた。屋島に我に代って討たれた兄継信を失うたさへあるにと、惜しんで許さぬ判官に強いて悃願し、終に御名と著長とを賜り、末代の面目と勇躍して後に残り、程なく押寄せた大衆三百人を引受けて華々しく闘い、就中悪僧横川禅師覚範と渡り合うてこれを討取り、恐れて近づかぬ衆徒を前に、自害すると見せて谷間に跳び下り、逃れて密に京へ上った。  
〔ハ〕狐忠信伝説   
義経は堀河夜討の変後都を去ったが、伏見で初音の鼓を預けて静を京へ返そうとし、折よく主君の後を慕って駆けつけた帰省中の佐藤忠信には、義経の名と著長とを与えて静の身を託し、自身は弁慶等と西国へ開こうと船出した大物の浦で風難に逢ったので、吉野の河連法眼の許に身を忍ばせている所へ、奥州から忠信が馳せ上って来た。静を伴わぬ不念さを詰って判官が気色を損じた折から、山路を分けて辿り着いた静御前に具して又一人の忠信が参上した。怪しむ義経の仰せを受けて、静は思いついたまま、初音の鼓を以て詮議した結果、静を預かって共に道行をして来たのが贋忠信で、実はその鼓の皮に張られた大和国の牝牡の狐の子であり、その音に誘われて勇士の姿に化して現れた由を白状した。畜類にも親子の濃かな恩愛のあるに感じ、静を守護した功をも賞でて、判官は初音の鼓をこれに与えた。もとより源九郎の名も先に許された。感泣した源九郎狐は謝意を表す為、今宵悪僧等夜襲の企ある旨を告げた上に、衆徒の頭目を一人々々誑して誘い寄せ、判官方に生捕らせた。独り残った横川覚範実は能登守教経は義経からその正体を看破せられ、改めて判官の御名を賜った真の忠信と吉野山で勇戦した末、源九郎狐の助もあって忠信の為に遂に覚範は討取られた。  
【出処】  
〔イ〕『義経記』(巻五、判官吉野山に入り給う事、静吉野山に捨てらるる事)、謡曲『二人静』『法事静』(『平家』(剣巻)及び『長門本』(巻一九)には、静のみを具して吉野へ入った事だけ見える。但し『長門本』には吉野と明記はしてない)。  
〔ロ〕『平家物語』(八坂本巻一二、吉野軍)、『義経記』(巻五、義経吉野山を落ち給う事、忠信吉野に留まる事、忠信吉野山の合戦の事)、謡曲『忠信』(一名『空腹』)。  
〔ハ〕『義経千本櫻』(四段目・五段目)。  
【型式・構成・成分・性質】前半を構成する吉野静伝説は特殊の型式のものではない。唯歌舞伎伝説(芸術伝説)が一部に挿入せられ、後の進展した同伝説では舞徳説話の意味が明瞭に賦与せられて来ている。後半を構成する忠信身替伝説は義光型忠臣身替譚の変種――身替には立ったが佯りの討死――で且競勇型勇者譚に属する闘戦型で競武型の説話である。そして吉野山という同一の場所によって両説話は連繋せられている。史実的成分が空想的(仮構的)成分によって潤色せられている史譚的武勇伝説である。狐忠信伝説となると、これに禽獣説話(テイルザーゲ)の要素が加わった、複身モーティフ(擬似分身)と動物報恩モーティフを含む怪異譚で、神話的成分も認められ、准神話的且准史譚的武勇伝説である。  
【本拠・成長・影響】吉野静伝説は殆どそのままの史実を『吾妻鏡』(巻五、文治元年)に求めることが出来る。  
十七日丙申。予州籠大和国吉野山之由、風聞之間、執行相催悪僧等、日来雖索山林、無其実之処、今夜亥刻、予州妾静、自当山藤尾坂降、到于蔵王堂。其体尤奇怪。衆徒等見咎之、相具向執行坊、具問子細。静云、吾是九郎大夫判官今伊予守妾也。自大物浜、予州来此山、五箇日逗留之処、衆徒蜂起之由依風聞、伊予守仮山伏之姿、遂伝訖。于時与数多金銀類於我、付雑色男等、欲送京。而彼男共取財宝、棄置于深峯雪中之間、如此迷来云々。  
十八日丁酉。就静之説、為捜求予州、吉野大衆等又蹈山谷。静者執行頗令憐愍、相労之後、稱可進鎌倉之由云々。(以上十一月)  
八日丁巳。吉野執行送静於北條殿御亭。就之為捜求予州、可被発遣軍士於吉野山之由云々。  
十五日甲子。北條殿飛脚、自京都参著。被注申洛中子細。(中略)次予州妾出来。相尋之処、予州出都、赴西海之暁、被相伴至大物浜。而船漂倒之間、不遂渡海、伴類皆分散。其夜者宿天王寺、予州自此遂電。于時約曰、今一両日於当所可相待。可遣迎者也。但過約日者、速可行避云々。相待之処、送馬之間乗之。雖不知何所、経路次有三箇日、到吉野山。逗留彼山五箇日、遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪、希有而著蔵王堂之時、執行所虜置也者。申状如此。何様可計沙汰乎云々。(下略)(以上十二月) 
但し蔵王堂の法楽舞(『義経記』)は口碑に基づいたか或は次條鶴ヶ岡舞楽伝説からの移入かも知れない。  
後半忠信身替伝説に於ける衆徒の探索追跡の事も上の文によって事実であったことがわかるし、義経が吉野から多武峰方面へ逃れたことは  
廿二日辛丑。予州凌吉野山深雪、潜向多武峰。是為祈請大織冠御影云々。到著之所者、南院内藤室、其坊主号十字坊之悪僧也。賞翫予州云々。  
廿九日戊申。(上略)又、多武峰十字坊、相談予州云、寺院非広、住侶又不幾。遁隠始終不可叶。自是欲奉送遠津河辺。彼所者、人馬不通之深山也者。予州諾之、大欣悦之間、差悪僧八人送之。謂悪僧者、道徳・行徳・拾悟・拾禅・楽達(一本、遠)・楽円・文妙・文実等也云々。 (以上十一月) 
とあるので知ることが出来る。この十字坊は或意味で『千本櫻』の河連法眼に略々恰当する。吉野の奥に義経潜伏の僧坊を構案したのは、静が鎌倉での答申にも「当山僧坊」とあり、又吉水院に隠れていたという伝えもある程であるから、あり得ない想像ではなかろうが、右の史実に示唆を得たとしても不自然ではない。現に二段目に「落ち行く先は多武峰の十字坊云々」と明らかにこの史実を採入れてもある。かく『吾妻鏡』の記事が利用せられている以上、同曲に銀平のモデルの一要素として庄四郎が借りられて来たかも知れないという臆測も、亦無稽さから一層遠ざからしめられて来ることになるであろう。が、河連法眼は寧ろ次に引用する『盛衰記』(巻四六)の金王法橋――これが又吉野の執行と十字坊とを合せたような面影がある――から来たものと看るが穏当であろう。さすれば十字坊とは間接の関係になって来る。  
さる程に義経都を落ちて、金峯に登って、金王法橋が坊にて、具したりし白拍子二人舞わせて、世を世ともせず二三日遊び戯れて、ああさてのみ非可有(あるべきにあらず)とて、白拍子を此より京へ返し送るとて、金王法橋に誂え附けて、年来の妻の局、河越太郎が娘ばかりを相具して下りにけり。  
『千本櫻』(四段目)に毎日琴三味線で遊宴が催されているというのも、舞台効果と近代世相以外に、この記事にも都合よく相当するのである。又、河越の娘を具して下ったとは即ち奥州落である(安宅伝説〔本拠〕の條参照)。前記史実の八人の悪僧等の事は伝説化するに至らなかったらしく、『義経記』にすら載せていない。  
忠信・覚範勇戦の事は『平家』(八坂本)には見えるが、流布本にも『盛衰記』にも無い。惟うにこれは後の附加の部分で、『義経記』に見えるのがやはり最も早いと思われる。そしてその條の本拠は不明であるが、若し『義経記』が『太平記』以後の作ならば、村上義光の大塔宮身替(『太平記』巻七)に、範を仰いだ点が必ずあるであろうと推断していいであろう。これはなお後に詳述したい。それと同時に一面兄継信の身替説話の転移とも看ることが可能であろう。  
狐忠信伝説の本拠並びに成形に関して注意すべき要点が四つある。(一)は静と忠信が結び付けられたこと、(二)は二人忠信の趣向、(三)は源九郎狐、(四)は初音の鼓のことである。先ず(一)に就いて考察してみる。元来静と忠信とは、判官の愛妾と寵臣で、人物の上から言っても好一対をなしている。この二人は之を相対せしめ相並べるだけでも興趣が深いのに、時間の上に多少前後の差こそあれ、判官に対して、同じ時、同じ場所で、同じ別れをしているのみならず、雪の吉野という背景まで用意せられてある美人と勇者とは、互に結び付けられるに頗る恰当な自然の口実を有している。つまり院本作家等の前に、殆ど組み上りの脚色案として投げられた好餌の誘惑でなければならぬ筈である。加之、数ある思い人の中で、唯この一人をのみ見放ち難く、大物の波に揺られた後を、又吉野の奥までも伴って来た判官の愛妾静を、名もない貪慾怯懦の供人に委せるのは、時運の非なるが為とは言いながら、判官も心苦しく、国民も亦飽き足らない所で、?に於いて義経の御名を賜る程の忠臣、一山の大衆を白雪と蹴散す大剛の士に之を託せしめるに至ったのは、故の無いことではないのである。そしてこの両人の結び付けられる傾向は既に謡曲『吉野静』に於いて認められる。大衆の前に法楽の舞を舞って心を奪わせ、その隙に安く君を落し参らせようと計る才あり勇ある白拍子と智を以て敵を欺き、武を以て仇を挫く誠忠無二の勇臣とが、相謀って共に山に留まったことは、  
さても静は忠信が、その契約を違えじと、舞の装束ひきつくろひ、忠信遅しと待ち居たり。(『吉野静』) 
の一節がそれを語っている。『千本櫻』は更にこの傾向を、一層進展させて、完形にまで導いたものと言えよう。  
次に(二)『千本櫻』の二人忠信の趣向は原伝説に於いて忠信が義経の姓名を賜って、二人義経の形となったことにも関係があるであろうし、――源九郎と源九郎狐と、二人源九郎になったのも亦これの変容とも観られる――又別に二人義経として用いられた趣向の端は、既に同じ竹田出雲の作『右大将鎌倉実記』(初段)に発し、それには源九郎義経と、山本九郎義経の二人義経を出している。併し同一人物を二人として出す趣向――説話の側からは分身伝説と似た(或時は一致もするが)複身伝説であるが――即ち所謂「二人何々」の型式なり構想なりは、これらに始まったのではない。謡曲には、それを曲名とするものさえある。例えば『二人祇王』『二人白拍子』『二人猩々』『二人神子』、就中この忠信の相手となった静に関する『二人静』の如きそれである。これら、特に『二人静』の如き、亦二人忠信の構案の上に影響した所が必ずあったろうと考えられ得る。尤も謡曲の「二人何々」は単調を救い、新奇変化を喜ぶ意味が含まれてはいるが、それは舞台上の対偶を求める為に案出せられた(二人を共演させようという演者の側の都合から来ることも有り得よう)舞台の方から来た形と言うべき性質のもので、文学内容としては重要な意味は有していないと看てよいであろう。  
『二人静』から示唆を得たと思われる近松の『(歹+粲)静体内?』の二人静の趣向の方が、戯曲的構想の複雑さという点で却って何等かの範例を垂れたかも知れない。それよりも更に直接的に影響した先行の構想は『千本櫻』より十三年前の同じ作者の『蘆屋道満大内鑑』(四段目)の二人葛の葉で、而も同じ狐の化身である点も確証を提供する。即ちそれの男女の性を変えて狐忠信は登場したこととなる(狐には関係無いが、二人男という点ではその前に『大内鑑』から三年経って『御所櫻』に善悪の二人土佐坊が文耕堂等によって創り出されている。又『大内鑑』より三十三年前、歌舞伎の『高館弁慶状』(元禄十四年中村座)に大当たりを取った二人弁慶の趣向もあった)。なおその『大内鑑』の葛の葉狐の構想の基づく所は、その粉本となった古浄瑠璃『信用妻』(山本土佐掾正本)にまで溯らせられねばならない。但しそれは二人葛の葉ではない。伝説としての複身型式の怪異譚は謡曲時代よりは更に旧く既に『今昔物語』(巻二七、第二九話)「雅通中将家在同形乳母二人語」の二人乳母、同(同巻、第三九話)「狐変人妻形来家語」の二人妻の伝説がある。特に後のものは即ち『大内鑑』の二人女房――同じく狐の化身による――の前身とも観られ得べき全く同型の説話である。  
又二人忠信の変容は黄表紙の『源九郎狐葛の葉狐いかに弁慶御前二人』の二人弁慶で――二人弁慶の趣向は前記の如く前にもあるにはあるが――、その一方は即ち狐弁慶である。そしてそれでは葛の葉伝説とも結合している。  
(三)に狐が人身に化した怪異は数多く伝えられて居り、就中古くは『日本霊異記』(巻上、第二話)の怪婚伝説(『水鏡』上巻、欽明天皇の條にも出ている)があって、前記信田妻伝説即ち葛の葉狐子別れ伝説(『信田妻』三段目、『大内鑑』四段目)の本拠を成しているが、狐忠信の源九郎はその系統を引く葛の葉狐を性の転換によって院本作者が作り上げたというだけでなく、既にその以前に伝説上での出現を見ていたようである。『千本櫻』(四段目)の狐忠信の白に  
その忠信になり代わり、静様の御難儀を、救いました御褒美と有って、勿体なや畜生に、清和天皇の後胤、源九郎義経という、御姓名を賜りしは、空恐ろしき身の冥加、 
とあり、その四の切の結びに、その名を解剖して命名の由来を説明したような形で、  
源九郎義経の義という字を訓(よみ)と音(こえ)、源九郎義経附添いし、大和言葉の物語、その名は高く聞えける。  
とあるのによって考えると、源九郎義経の「義」だけを音読して、源九郎義経即ち源九郎狐とする通俗語源説的解釈の附会からその名と趣向とを思いついたようにも思われるのであるが、或は上の文は既存の源九郎狐に対する通俗語源説的説明を後から附したので、他の場合の例ですれば、  
法師と見せて武をかくす、文字を直に武蔵坊、父弁真の弁の字と、性慶阿闍梨の慶の字を、一つに寄せて弁慶々々弁へよろこぶ法の友。(『鬼一法眼三略巻』) 
といった院法常用の同一筆法であるとも見ることが出来る。果然、下に説くように『千本櫻』に先立って、源九郎狐のことの作られた文学がある以上、後者の見解の自然さに就かねばなるまい。その上、この源九郎狐に関しては、別にその本拠となった伝説がある。『諸国里人談』(巻之五)(菊岡米山著)に  
延宝のころ大和国宇多に源五郎狐というあり。 
と見え、百姓の農事の手助けをしたので、農民共に愛せられたことを記し、その妻狐の名を小女郎といったとの伝説を載せてある。但しこれは義経伝説とは全然関係は無い。米山は即ち江戸の俳人沾涼で、恰も『千本櫻』が上方で上場せられた年(延享四年)の十月二十四日六十余歳で残した人である。『里人談』は、その成った年が詳らかでないのは、随時に書き続けた為であろう。併し文中「亨保十五年の春」と記してあるのが、年号を記した中で最も新しい年時のようで、その他は大抵それ以前の年号を引いてある。上の記事が亨保十五年以後の見聞乃至筆録に係るものとしても、亦「延宝のころ」とある時代(米山の未だ生まれない以前、若しくは生まれた頃に当たる)に誤があるとしても、少なくとも延享四年以前に上の伝説が行われていたことは確である。それが一字違の源五郎と源九郎と誂えたような名称の類似は、極めて容易に、源九郎を主人公とする義経伝説に結びついて来た筈であった。狐忠信の源九郎の出生地がやはり大和であることが、この転移を明証している。  
併しながら、源五郎改め源九郎狐を義経伝説に加えた優先権は出雲には却って許されない理由を提示する事実がある。それは延宝からは約四十年弱後、延享四年からは三十二年前に当たる正徳五年刊行、八文字屋自笑の浮世草子『義経風流鑑』(巻之五)の内容で、奥州落の途中義経が兼房及び妻妾等と共に、弁慶等の一行に引き分かれて微行し、越前荒血山に着いた條に  
若男一人声をかけ、遊屋御前・牛王の姫を同道し、君奥州御下向と考え、御供申したるといえば、列家の小左衛門と聞えしは汝なるか。いしくも来たるものかなと御悦喜浅からざりしに、又同じ年ぱいなる男、浄瑠璃姫・十五夜親子・冷泉をいざない御前に畏まる。こは珍しの源九郎狐、誠にその方へ尋ね度き事有り。去比堀川の館へ、と仰出さるるを、源九郎狐承り、さればその土佐坊が夜討の時、松に懸け給いし具足の動きしは、皆我が脊属の所為なり。扨も今めかしく候えども、某昔君の御厚恩を受け、源九郎といえる名迄下され、先年奥州より打ってのぼり給いし時も御姿にかわり、御舎兄範頼公と御一緒に上洛せしめ、君の御かたちを借り申したる威を以て人人に敬われ、最も野干中間の誉と成りぬ。此度も奥州への御供申し度候えども、我稲荷よりの贈官を以て、大和国中の野狐惣府使に任ぜられ、自今は大和の源九郎と名乗る。扨これなるは某が旧友、江州列家の小左衛門狐、初めて御見えのしるしに牛王の姫・遊屋御前を御供申しぬ。重ねて御用の事も候はば、仰付けられつかわさるべしと申す。 
とある一節がそれである。大和の狐であることも、義経から源九郎の姓名を賜ったことも既に含まれていて、狐忠信でないだけである。そしてこれこそ『里人談』の源五郎伝説から――直接『里人談』からでなくとも――来ていることは確で、『里人談』所載の源五郎・小女郎の伝説は義経に関係無く、且地方口碑として寧ろ自然な内容であるから、この『風流鑑』の内容のような説話から派生したものとは思われない。必ずや大和の宇多地方に早く発生した民間伝説であったに相違ない。兎も角上の『風流鑑』によれば、源九郎狐は余程源九郎判官と親しいようである。この書以前に義経と源五郎乃至源九郎狐とは関係を結ばしめられているらしくも推せられる。義経伝説に関してはいないが、後にも述べようとする近松の『天鼓』の五段目に「大和狐源九郎」とあるのは見逃せない。而も同じ條に「江州月の輪小左衛門狐」の名もあり、諸国に名を獲た狐共が各自通力を以て、諸方に分散していた一家の人々を瞬時に伴って来る場面からも、『風流鑑』に臨本を与えていることを認めさせる。その上、源五郎でなくて、早くも源九郎になっているのは、義経と関係ある曲でもない以上、近松が故意に改めたのではなかろうから、或は伝説としても、義経に結びつく以前に既に源九郎に転じていたのでもあろうという推測を可能にするのである。『天鼓』は著作年代に疑問のある作とせられているが、『風流鑑』の刊行から十四年前の元禄十四年よりは少なくとも降るまいし、井上播磨掾の正本であったとすれば、なお十数年引上げられねばならず、『里人談』に言う「延宝頃」に接近して来るのである。いずれにせよこの源五郎の源九郎は『天鼓』から『風流鑑』を経て狐忠信となったものかと思われる。又『歌舞伎年代記』(寛保二年七月、中村座)に『後の月吾妻扇』の狂言に  
名残狂言中山新九郎。大和国新九郎狐所作大当り也。 
と見える。これは新九郎の芸名に因んで、わざと「源」を「新」に改めたのであろう。そしてこれも延享四年から八年前である。  
そして又今一つ、これは静と忠信との違いはあるが(同時に二人は又密接な関係ある人物でもある点が注意せられる)、亨保二年(延享四年からは三十年前)刊の、『鎌倉実記』(巻一六)の左の文と『千本櫻』との間にも何等かの交渉があるであろうという推測も許されそうに思う。  
或記曰、義経は(中略)吉野多武峯の間隠住給いけるに、(中略)義経が此山に忍び入ることを、大衆の中に聞らん知らずとて、其夜俄に吉野を出で、宇田郡奥郷(むら)法眼が許に入せたまふ。弁慶も跡より御供して、宇田の道筋を行に、備前平四郎さきに立、忠信はあとに来りしが、二人ともに見失い、雪かき曇る空あやしふ、路の違いたる様なれば、そこらを見廻すに、里に出べき路もたしかならず。心も茫然たるほどに、姑(しばら)く心をしずめて居るに、静が俤に似たる女一人山路を行く。不思議に思い近く寄るに、狐と成て谷に下る。弁慶此に心付、己畜類としてかかる清浄の身を犯さんやと、古き礎の有りけるを手比の物と引起しうちつくる。狐は逃げ延てうちはずす。又引起してうちつくるに、初うちたる石にうちつけて、益なき石二つ宛にわれたり。其石の中より煙立て暫消ず。そぞろに気味わるく、何とぞ里へ出でんとすれども出不得。 
そして此処でも亦十字坊乃至金王法橋の伝説化したらしい奥郷法眼が愈々『千本櫻』の河連法眼の直接の前身たることを語っているように感ぜられる。なおついでに『千本櫻』で覚範を教経の後身とする創案は教経生存伝説がその源泉であると同時に、前段の銀平の知盛に対照せしめられたものであろう。そして又忠信に兄継信の仇討をさせるに究竟の趣向であった。  
要するに『千本櫻』は、これら先進の、文学や伝説に直接或は間接に素材・構想を借りたものの多いことは、殆ど否認し難いであろうし(なお全体としては『義経記』以来の諸作品、特に近松の『吉野忠信』などその主な粉本である)、作品の内容としての素材の豊富さ、構想の複雑さは又自ら説話の成長を意味している。更に前記『鎌倉実記』の狐静とは別に、狐忠信から、狐静の趣向が生まれるのも頗る自然で、果たして黙阿弥に『狐静化粧鏡』の作がある。そしてこれは静御前実は千枝狐で、即ち下の女夫狐を介しての、狐忠信伝説からの転成説話と言うべきである。その『女夫狐』も狐忠信から派生した歌舞伎の所作で、富本の『袖振雪吉野拾遺』(天明六年十一月、中村座)、清元の『御摂花(めぐみのはな)吉野拾遺』(文化十一年十一月、市村座)の又五郎狐実は塚本狐と弁内侍実は千枝狐、常磐津の『吉野山雪振事』(天保十一年九月、市村座)の千枝狐と又五郎狐等がそれであり、同じ吉野を舞台として南北朝時代に転移させたのである。衛士又五郎の名は『徒然草』(一〇二段)から、千枝は信田森の楠の名木(『歌林良材集』巻下)から来て、後のものは葛の葉狐に縁由もある。又別に常磐津の『女夫狐』即ち『恋鼓調懸罠(しらべのかけわな)』は鼓を打つのが郷の君で、狐静と狐忠信が女夫になっている。黙阿弥はつまり前者と両方共採合わせたわけである。更に富本及びそれから出た清元の『碁盤忠信』では次條の伝説と結合して、碁盤を枕に眠る忠信の傍へ、小狐丸の名剣の焼刃の血潮に用いられた狐の妻小女郎が懐かしみ近づき、その恩愛に感じた義経から子狐の為に源九郎の名を賜るという形に変容し、鼓は名剣に変わって小鍛冶伝説(謡曲『小鍛冶』)に結びつき、静は忠信と代わった。小女郎の名は前に見える大和の口碑から来ている。又後に挙げる如く、落語では狐から猫の忠信への転化も行われた。  
(四)に狐忠信伝説に於いて中心をなす初音の鼓は、早く『義経記』(巻五)に見え、その製作は  
紫檀の胴の羊の革にて張りたりける啄木の調の鼓 
で、その由来は静に与える際の義経の説明に聴けば、 
この鼓は義経秘蔵して持ちつるなり。白河院の御時、法住寺の長老の入唐の時、二つの重宝を渡されけり。名曲という琵琶、初音という鼓これなり。名曲は内裏にありけるが、保元の合戦の時、新院の御所にて焼けて無し。初音は讃岐守正盛に賜うて秘蔵して持ちたりけるが、正盛死去の後、忠盛これを伝えて持ちたりけるを、清盛の後は誰か持ちたりけん。八島の合戦の時、わざとや海に入れられけん、又取落してやありけん、波に揺られてありけるを、伊勢の三郎熊手に懸けて取上げ  
たものである。『千本櫻』では頼朝追討の院宣と偽る右大将朝方の奸計に利用せられて義経に授けられ(初段)、そして「羊の革」は「狐の皮」に変わり――それは桓武天皇の御宇、内裏での雨乞に大和国に千年の劫を経た牝牡の狐の生皮を取って張り用いられたものであった――、その愛着の音に鼓の子の源九郎狐を引き寄せるのである(四段目)。この親子の恩愛に絡まる鼓の奇特は謡曲『天鼓』の題材となっている支那説話が本拠で、鼓が天から降ったと母が夢みて生まれた天鼓という者が、その後真に天から降って来た希代の鼓を愛惜して帝へ献上しなかった為に殺されたが、それ以来音を停めてしまった鼓を、宣旨によって老父が打つと初めて音が出、又帝の管絃講の御弔に感応して天鼓の霊が現れたというのがその内容である。但しそれは狐でも、従って狐の生皮でも無いが、この謡曲から出た近松の同名の曲――特に五段目は原謡曲の詞章まで採入れている――では天鼓の名宝は即ち丹波の国の千年狐の皮で作られ、之を守護する老狐の子が鼓の持主沢潟姫に化して寄手と戦って殺された(四段目)のを、親狐が敵を討つことがあり(五段目)、『千本櫻』はこの両先進説話を併せて更に創意を加えている。狐の化した沢潟姫と真の沢潟姫との複身も、完型ではないが、二人葛の葉の形を通して二人忠信への転化過程の示唆にはなったかも知れないと思う。以上の他にも面白い事には、義経伝説に直接関係は無いが、同じく吉野の地名によって結びつけられて『千本櫻』(三段目)に挿入せられた維盛弥助の伝説にこの近松の『天鼓』は関係がある。  
三位中将維盛の亡命説は八島の戦場を逃れての高野入(『平家』巻一〇、横笛・高野巻・維盛出家・熊野参詣・維盛入水)に端を発して居り、『千本櫻』の維盛出家の構想も此処から来ている。そして松村操著『実事談』(第二四編・第三〇編)の考証では、所謂維盛弥助の件は『明良洪範』(後編)所載の清水清左衛門・小松弥助の事から出、鮓屋のお里は延享頃「お里が鮓」と謳われた大和国五條の里の鮓屋弥助その妻お里を借り、いがみの権太は「寛保三年三月記畢」とある『南窓漫記』所載の河内生まれの不孝者権太郎召捕一件を利用したのであろうとしてある。維盛が入水と佯って熊野の山奥に潜み、清水清左衛門という者の婿となり、その数代の後の清佐の弟が小松弥助と名告って家名再興に志したという『明良後範』の記事は山崎美成も『提醒紀談』(巻四)に転載して肯定しようとし、又蜀山人の『一話一言』(巻四七)には代々小松弥助を名告る家の「小松弥助由緒書」という物を載せてある。  
併し『千本櫻』との関係先後は遽に決するわけには行かない。現にお里鮓の如き『三十三所図会』には、もと下市の宅田屋某という魚商の家の名物であったのを、『千本櫻』にこの家の事が仕組まれて流布してから、主人の名まで弥助と改めるに至ったと見えるのが、寧ろ真に近いのではなかろうか。唯、清左・弥助の名なり伝説なりは、或は前記のそれが本拠となったかも知れぬが、少なくとも『千本櫻』の弥左衛門・弥助の父子の名は出雲等が創出したのでなく、近松から――或は地方口碑に発生したのを用いた近松から(その原作の古浄瑠璃に既に用いられてでも居れば又別の作者から近松が継承したのである)――移って来たのかと考えられる。それは即ち『天鼓』の沢潟姫に化した狐が「伊賀国に隠れなき、上野の弥左衛門狐という老狐が子弥介という狐」(四段目)と名告り、又その親も「身共は伊賀の上野に隠れもない弥左衛門という古狐……悴弥介という狐……」(五段目)と言っているからである。勿論この狐共は維盛にも義経にも縁故は無く、且伊賀上野の産であるけれども、同じ五段目に見える同類の源九郎狐の活用と共に、それをも源九郎の住地たる大和へ移して、正真の人間の名に転借したのであろう。この点からも愈々『天鼓』が『千本櫻』に影響していることの旁証は獲られる。又権太郎のモデルも実在したかも知れぬが、その名は既に同じ出雲の『右大将鎌倉実記』(三段目)に、忠信を訴人する放埒な極道息子小柴文内を曽て勘当した父として「日南(ひなみ)権太郎」と使っている。父子の性格を転換させてはいるが、「ひなみの権太郎」と「いがみの権太郎」との語呂の類似も偶然ではないかも知れない。この名に加えて、性行の粉本としては『千本櫻』より十年前の『御所櫻』(四の切)の藤弥太が学ばれたであろうことは疑を容れない。  
狐忠信伝説は即ち吉野山伝説の成長且変容現象の最も主要なものであるが、その他にも二三論及して置かねばならぬ変容或は影響現象がある。その中での最も顕著なのは、前にも述べた如く吉野静伝説が船弁慶伝説に附著移入せられて来た(謡曲『船弁慶』)ことで(『船弁慶』で弁慶の苦諌によって静が都へ返されるのは、『義経記』で既に吉野での出来事としてあるのをば採入れたのである)、これは前シテと後シテと柔剛を同一人に兼役させて鮮やかな変り目を見せようとした企からの試みであるが、代わりに説話の側からは大物難破後の事件がその以前に繰上げられ、同時に本伝説にはかなり密着している地名から遊離させられてしまった結果となった。但しこれは仮作の意識が判然している為か、伝説としては発展しなかった。謡曲『二人静』はこれも吉野静伝説の影響文学であるがその中に勝手明神の宝蔵に納めて置いた舞衣を取出させて舞うことがあるのは、前掲『吾妻鏡』の記事などが本であろうと共に、  
義経之鎧及静之舞装束有当社宝蔵。(『和漢三才図会』巻七三、大和、吉野郡、勝手社) 
という所伝にも関係があろう。又同曲に吉野の菜摘女に静の亡魂が憑霊することのあるのは、所謂二人静の合舞の準備ではあるが、類似の地方口碑か何かもあったのかも知れない。多分偶合であろうがそれとは又別に静の憑霊伝説が淡路国洲崎に伝えられている。百井塘雨の『笈埃随筆』(巻一一)には、同所で無名の古塚を掘出した老人が狂い出して静だと名告ったので、人々が舞を所望すると舞って見せ、又和歌をと望まれて  
問う人もなくて静が塚なるをまれに言問う峯の松風 
と詠じたという口碑を録し、新井白蛾の「牛馬問」(巻一)のはその塚の周囲の木を伐った牛飼に静が憑いたとし、舞と歌の事は同じであるが歌の第三句以下が「墓なるに哀れを添ふる松風の音」とあるだけの違いである。要するに美人遊行伝説の一現象で、同時に地方的な民俗信仰に関した口碑でもあるに過ぎないが、「近頃聞く」「これ近代の事にして」と両書にあるから、謡曲とは交渉は無いのであろうけれども、静の憑霊という点とそれが舞を舞ったという点で類縁をなしているのが面白い。若し相互間に交渉があるとすれば、歌の文句まで寧ろ謡曲の方からの影響かも知れぬと思われるほど似た所があるが、先ずそれとは関係なく地方的に発生した心霊科学的事実として置いてもよいであろう。或はその憑霊現象は事実であったとしても、歌詞などはこの謡曲を知っている人の心象が憑移したと観れば却って会得は出来る。それと共に、これに類した口碑が古く行われてもいて、それが謡曲に素材を与えたという事も亦有り得るであろう。  
静及び忠信が判官と別離した季節は前掲『吾妻鏡』によっても明白な如く、所謂玄冬素雪の交であった。『義経記』も忠実にそれに随っている。然るに『千本櫻』(四段目)の「道行初音旅」では時候を延長して  
軒は霞に埋れて、殊勝さまさる蔵王堂、櫻はまだし枝々の、梢淋しき初春の空。 
としている。純粋の色模様の道行ではなくとも、兎に角勇士と美人の艶麗な道行ぶりに、背景が雪では殺風景である。殊更花が連想されぬ程寒風に閉じられていては観客の期待に欠け、三芳野の面目にも関るのであろう。舞台芸術という立場からは理由のある事と言うべきである。そしてこれは実は謡曲の『二人静』でもう改変の筆が著けられてもいる事である。  
さる程に、次第々々に道せばき、御身となりてこの山に、分け入り給う頃は春、所は三吉野の、花に宿借る下伏、というクセの文句がそれである。が、『千本櫻』の原作ではまだ上のように「梢淋しき初春の空」と遠慮がましく史実に相当の敬意を払っている形であるが、現時の歌舞伎の舞台は最早完全に思い切って、目のさめるような一面の淡紅の背景に、一文字まで一杯の満開の櫻の釣枝で彩られ、「入りにし人の跡」さえ蔽った白皚々の全山を、「霞の奥は知らねども見ゆる限り」暖雪の一目千本に変えてしまっている。  
又『千本櫻』で創作せられた狐忠信の出現と同時に、その衣裳に初演の際人形遣吉田文三郎(初世)の考案で附けられた源氏車には面白い因由があり、『竹本豊竹浄瑠璃譜』に  
源九郎故、源氏車の模様を付けしにはあらず。この趣向最初より狐と見せざること故、玉もつけられず、いろいろに工夫をなし、右狐場を勤むる政太夫の紋所源氏車故、源氏のゆかりにて源氏車の模様付けし故、今も歌舞伎などには長上下にてすれども、どこぞのはづみにてはこの姿にならねば源九郎狐めかず、これも三代前吉田文三郎仕始めて、何国にてもこの姿でなければ源九郎狐は出来ぬなり。 
と見えているが、この偶然の著想から尓後これが忠信の定紋のように固定して歌舞伎にも移承せられて今日に及んでいるのは、これも本伝説の成長が史人としての忠信に加えた変粧の特異の片鱗と言うべきであろう。それから例の『五人男』の「判官の御名前騙」の忠信利平も吉野忠信伝説の影響現象の一である。  
なお吉野山中には義経の留まったという吉水院(吉水神社)、暫時隠れたという中院谷、忠信が潜抜けて逃れたという蹴抜の塔等の古蹟を残している。  
【解釈】大物難破後に引続く義経の窘窮、史実では多武峰・十津河・南都等へまで連続している潜行を伝説では吉野に凝集させた形を呈し、と言うよりは吉野の事件が特に力説せられ流布したのである。そしてそれは十分に理由のある事であった。即ち静との別れを点じ、忠信の血戦を含んでいて、事件そのものが既に劇的であるからである。静に対しては愈々国民の憐愍を集め、史実に於ける、多少同情の対象とならしめられる事を些かでも薄めるような点は、伝説としての成長の間に全く脱落させられてしまい、又忠信の行動は伝説的色彩が一層濃く、兄継信に学んで相共に主君に代わる忠烈と栄誉とを競はしめられた。二人に対する情義の主としての判官の面目も本伝説に於いて遺憾無く発揮せられている。又仮名の類似が介縁となって本伝説に偶然加入して来た源九郎の狐忠信によって、怪婚伝説からの浄化的脱化の痕跡を留めつつ、狐妖の怪異が人間を誑し害する単なる悪戯的行動の域から、准人間的心意に基づいて活動する准神仏的加護者――それは稲荷の神使と目せられる民俗信仰からも来ている――の地位にまで高められたのは面白く、同時に禽獣の肉親愛の切実さが、堕落して行く人間の家庭愛への皮肉な諷刺ともなり、他方では、一個の人物から分身して、二個以上の同一個体が生ずるのに似た、他の妖性が変身(化身)の魔術を用いて複身現象を惹起す典型を完成流布させるに、葛の葉伝説とその功を分っている点が注視せられる。  
【文学】本伝説の前半吉野静伝説に取材したものには謡曲『二人静』があり(これも『義経記』とも関係があるとも思われるが)、これと『義経記』とを併せた謡曲に『法事静』がある。但しこの二曲共、蔵王権現の前で歌舞した事実に重点が置かれて、静の霊が法楽の舞を演ずる事が作られている。『船弁慶』の中入前も同伝説が借りられ、これは義経との愛別が中心になって、それに静の舞が附随せしめられている。『義経勲功記』(巻一五)もこの前半の部のものに属する。新しいもので筑前琵琶の『吉野静』は『義経記』から来ている。後半忠信身替伝説を取扱った作には『平家物語』(八坂本、巻一二)、謡曲『忠信』、戯曲『佐藤忠信廿日正月』『吉野忠信錦著長』がある。黙阿弥の『千歳曽我源氏礎』所謂『碁盤忠信』では二幕目である(筑前琵琶の方でも『吉野の忠信』という曲が作られてもいる)。両部共に含むものは『義経記』(巻五)、謡曲『吉野静』、『義経興廃記』(巻一一)、『金平本義経記』(四之巻四・五・六段目、五之巻初段)(但し、忠信・覚範の闘は無い)、『吉野忠信』(四・五段目)、『義経千本櫻』(二段目の一部及び四・五段目)、これから出た『吉野静人目千本』(第一〇、吉野館の段、第一一、吉野塔の段)、それに八文字屋本の『花実義経記』(四・五之巻)等である。そして屡々述べたように『千本櫻』は即ち狐忠信伝説の文学で、これが操に掛った時、その狐忠信で人形の耳の働く仕掛が初めて案出せられたと伝える(『浄瑠璃譜』)。「この新浄瑠璃古今の大当りにて大入なり」と『浄瑠璃譜』に見える通り絶大の好評を博し――その主因は人形の新工夫や名演技によること勿論であったろうが、作意も勝れていた為でもあったろう――歌舞伎に移されても益々有名となった。他の各段も例えば「堀河夜討」「鳥居前」「渡海屋」「木の実」「鮓屋」「河連館」等操に歌舞伎に屡々出ているが、就中「道行」の所作は最も知られて居り、原作では伏見稲荷の鳥居前に静が縛られている所へ出て来る逸見藤太まで、今ではこの場にも加えられて滑稽味を交えることになり、『忠臣蔵』の「おかる勘平道行」に於ける伴内と同型を成していいる。「鳥居前」の場面にも藤太の出るのは旧の通りで、其処へ突如狐忠信が現れて藤太を取拉ぐので、場所を稲荷社にしたのも、その出現に縁由と自然さとを持たせる為である。歌舞伎では、その忠信は花道の引込に所謂狐六法を踏む約束になっている。『吉野山狐忠信』(其水)も『千本櫻』から出た狂言である。又歌舞伎の「吉野山道行」の地方は、常磐津(『雪颪卯花籬』)、富本(『幾菊蝶(いつもきくてふ)初音道行』)、清元(同上)等それぞれ用いられたが、近時は竹本と清元の掛合が普通のようになった。又常磐津の『恋鼓調懸民』(『女夫狐』)は狐忠信伝説の変形を内容とした作、富本及び清元の『碁盤忠信』は所謂碁盤忠信伝説を内容とするものでなく、それを名に借りて碁盤を利用したやはり狐忠信伝説の変形を取扱ったものであることは前に説いた通りである。それから落語の『猫の忠信』も狐忠信伝説の変容で、義経が弁慶橋の吉野屋常吉、静が常磐津の女師匠文字静、初音の鼓が初音の三昧で、その皮に張られた猫の子が、常吉に化けて文字静の愛絃に慕い寄るという二人常吉の怪異譚である。  
兎に角『千本櫻』が如何に歓迎せられたかは、黒本・青本・合巻・絵本等にまで同名の小篇があるのでもわかるが、同曲の構想から出た義経物には上に挙げたものの他に黒本『源九郎狐出世噺』(?未見。仮に義経物と推定して置く)、黄表紙『源九郎狐葛の葉狐いかに弁慶御前二人』、『其句義経真実情文櫻』、読本『西海浪間月』等があり、趣向を借りてはいるが義経物でないものには『狐川源九郎お猿畠与次郎千本櫻祇園守護(ちもとのはなぎおんのまもり)』『女忠信男子静釣狐昔塗笠』『千本櫻後日仇討』等の合巻物がある。  
又歌舞伎には本伝説と次條の伝説とを併せた名の『吉野静碁盤忠信』という外題で、初代団十郎の扮した忠信とその子九蔵の扮した忠信の子忠若の父子が、碁盤で覚範を圧へての荒事が演ぜられた吉野山の場が評判であったという狂言もある(近松の『国性爺合戦』(四段目)に「本朝にても、かかる例は、先例吉野の碁盤忠信」の句があるのは、これを指すのかと考えられる)が、文学としては取上げられるほどのものではなかったであろう。 
13-2 碁盤忠信伝説

 

忠信身替即ち吉野忠信伝説に継続してその後日譚を語るものが碁盤忠信伝説である。  
【内容】  
人物 佐藤忠信・力寿(『義経記』には、かや)(及び愛寿(謡『愛寿忠信』))。討手(北條義時)  
年代 文治二年正月六日(『義経記』)(『吾妻鏡』には九月廿二日)  
場所 京都粟田口(『義経記』は四條室町)(『吾妻鏡』には中御門東洞院) 
吉野山中で空腹を切って大衆の眼を瞞した後、忠信は密に都に上り、年来相馴れた女力寿の許を訪れたが、既に心変わりしていた女は酒を勧めて忠信を酔い伏させ、密夫に告げて六波羅に訴人したので、直に江間小四郎義時が討手に向った。ありあふ碁盤を枕に転寝していた忠信は、俄に轟く人馬の音に蹶起し、討手と見るや、女の不信を怒りつつ碁盤を取って寄手に投げつけ、前に進む者を斃してその太刀を奪い、奮戦力闘の末終に敵前に割腹して、勇士の最期の手本を示した。  
但し『義経記』『愛寿忠信』にはなお碁盤のことはない。そして『義経記』には、女の名を小柴入道の娘かやとし、忠信は一旦討手の囲を斬り抜けて義経の曽て住んだ堀河御所で敵を待って勇戦自殺することとし、『愛寿忠信』は、力寿が俄に姿を隠したので、心変りして密訴したことを覚り、去って今一人の馴染の女愛寿の許に入り、慰められて休息している折柄、力寿の訴によって押寄せた討手を引受けて戦死し、愛寿も長刀を振って敵に向い、遂に自害して同じ枕に伏すこととしてある。  
【出処】『義経記』(巻六、忠信都へ忍び上る事、忠信最期の事、忠信が首鎌倉へ下る事)及び謡曲『愛寿忠信』は未完形。完成したものを載せてあるのは金平本『碁盤忠信』が初らしく、『義経勲功記』(巻一七)にも見える。  
【型式・成分・性質】競遊型勇者譚の闘戦型で、且、立腹型の勇者(英雄)最期譚である。史実的成分が主で、仮構的成分が附加せられている史譚的武勇伝説である。  
【本拠・成立】本拠は明らかに史実に徴し得る。即ち『吾妻鏡』(巻六、文治二年九月)に次の記事がある。  
廿二日乙丑。糟屋藤太有季、於京都生虜与州家人堀弥太郎景光。此間隠住京都又於中御門東洞院、誅同家人忠信云々。有季競到之処、忠信本自依為精兵、相戦軋不被討取。然而以多勢、襲攻之間、忠信井郎従二人自戮訖。是日来相従与州之処、去比自宇治辺別離、帰洛中、尋往日密通青女、遣通書。彼女以件書、令見当時夫。其夫語有季之間、行向獲之云々。是鎮守府将軍秀衡近親者也。予州去治承四年被参向関東之時、撰勇敢、差進継信等云々。廿九日壬申。北條兵衛尉飛脚参著申云、去廿二日糟屋藤太有季虜堀弥太郎、誅佐藤兵衛尉者。景光白状云、予州此間在南京聖仏得業辺。(下略) 
伝説に於いては、上の糟屋有季は江間小四郎義時となり、青女はかや乃至力寿の名をば与えられるに至った(『義経知緒記』(下巻)は女を力寿、討手を糟屋としてある)。なお本伝説の完成には、後の項にも説くように、『長門本平家』の越中次郎兵衛盛嗣の伝説、及び舞曲『景清』の内容説話との交渉が恐らくあろう。碁盤を使用させるに至った理由は明確でない。これは最初の作者の無造作な思いつきなのではなかろうか。それとも口碑でもあったのであろうか。  
【解釈】世を狭められた義経の与党の捕戮、判官股肱の勇臣の最期の史実を伝説化したもの。そして又強剛忠信の油断というよりも、寧ろ優しい半面を語るものである。『義経記』の如きは頼む女の心変りに対照して忠実な婢女の急告を配し、而も利慾の為に先夫を訴えたかやを、密夫に「色をも香をも知らぬ無道の女」と爪弾きさせて、著しく教訓的意味を含ませているのは、判官贔屓の時人の批判が投影しているのである。更に結果から観て、前條の吉野忠信伝説から継続して、未完に終わった身替説話の結末をつけた形になっている。『義経記』で態々堀河御所に走って其処を最期の場所に択んだのは一層この感を深めさせる。  
【成長・影響】忠信が馴染んでいた女に訴えられたことは、前に引用した『吾妻鏡』にも見えるのであるから、恐らく事実であろう。これに酷似した伝説は平家の武士越中次郎兵衛盛嗣が、平家没落の後、但馬国気比権守道広の娘に通じてその家に身を忍ばせていたのが、密に京へ上って昔情を交した女の許に宿った折、女は密夫に告げて、鎌倉殿へ訴えたので、討手が盛嗣を捕えた事件(『長門本平家物語』巻二〇)と、今一つそれはこの盛嗣の伝説から出たかと思われる舞曲『景清』の、同じく平家の武士悪七兵衛景清が、舅熱田太宮司の許に潜んでいたのを、二子まで設けた深い仲ながら、利に迷った清水の遊女あこわうが、その行方を訴え、その上斯くとも知らず上って訪れた景清を酒に酔い伏させ、梶原景時の兵を手引して囲ませたので、景清はあこわうの不信を怒り、二子を殺し討手を切り抜けて、尾張へ走ったという伝説とである(『長門本』には景清は頼朝へ降人に出て(巻一九)、大仏供養の日を期して湯水を断って死んだ(巻二十)としてある)。この両説話共に原は本伝説から出たその変容かも知れないが、同時に又本伝説成長の間その進展完成を助けたことも否定し難い。特に『景清』との関係に於てそれを見るのである。即ち『右大将鎌倉実記』に忠信の忍び妻の名を安督(あごう)としたのは、貞烈の性行は『愛寿忠信』の愛寿に相当するとしても、その名から出たのではなかろう。却って『景清』のあこわうに余りに近似している。要するに、忠信最期の史実が伝説・文学となって行く一方に於いて恐らく同じ本拠から盛嗣・景清の伝説が生じ(或は他の要素も入っているかも知れぬが)たのであろうし、忠信の伝説が説話の輪郭を作り上げるに際しては又却ってそれらの説話に本を借りて来たのではなかったろうかと考えられる。文学としての忠信最期の伝説は、『義経記』が最も早く、次に出たのは、謡曲『愛寿忠信』のようで、その粟田口力寿は、『義経記』の「四條室町に小柴の入道と申す者の娘にかやと申す女」に当り、同じ家の忠実な婢女を、忠信の情を受けた今一人の女と変容させたのが即ち六條愛寿なのではあるまいか。「忠信が伏したる所に走り入りて荒らかに起こして、敵寄せて候と告げ」た、まめやかさ健気さは、長刀おつ取って敵を防ぐ愛寿にまで進展させて、鎧を投げ懸け長刀を振ふ『堀河夜討』の静御前に比肩させるに十分な可能性がある。同時に忠信の死所は、『義経記』に於いては六條堀河の主君の御所の跡なのである。その連想からも、謡曲に於ける愛寿の勇敢な行動の上に、夫の主君判官の愛妾に学ばせられた所が、必ずあったであろうことを疑わぬ。  
以上の所伝では本伝説の名称の由来する碁盤を欠くだけで、説話の形は殆ど成っているのであるが、金平本『碁盤忠信』(延宝四年、八文字屋八左衛門板)に於ては全く完成し、  
碁盤を引寄せ枕として、前後も知らでぞやどられける。(中略)こは何とせんと思いつつ、あたりをきっと見てあれば、枕にしたる碁盤あり。あっぱれこれこそ忠信が、最期の太刀よと喜びて、碁盤おつ取りさしかざし、寄せ来るかたきを待ち懸くる。(二段目) 
とある。その女を粟田口力寿、今一人を四條河原の安寿とし、討手を江馬小四郎とするのは、『義経記』と『愛寿忠信』とが合したことを証するものである。所謂碁盤忠信伝説はこの曲などから起ったのか、或はこの頃までには既に同伝説が行われて居り、それがこの文学となったのか、孰れかであろう。兎も角この曲の刊行された年から二三十年後には、所謂碁盤忠信伝説として甚だ有名になっていたことは、二十五年後の元禄十四年十一月竹本座興行の『曽我五人兄弟』(三段目「つはものぞろへ」))に  
追手の軍兵引受けて、枕の碁盤振上げ振上げ、四鳥にかけて追廻れば、さしもに勇む六波羅勢、先手も後手も打乱れ、命を生きん駄目もなく、鏖殺(みなごろし)にぞなりてげる。さてこそ碁盤忠信と、たぐいなき名を残しける。 
とあり、又その後の作の  
佐藤庄司が二男とは、京わらんべもことわざの、碁盤忠信ごばんより、将棋の陣のほまれ有る(宝永三年正月『源義経将棋経』四段目「軍法将棋経」)  
勇力武略例(ためし)なき、末代碁盤忠信と、幟(のぼり)兜や江馬殿の、手柄の程こそ隠れなき。(亨保九年十一月『右大将鎌倉実記』三段目) 
等の詞句によっても知られる。この『鎌倉実記』に、女の家を四條室町の碁将棋の会所としたのは、碁盤の存在を唐突ならしめざる用意に出たものであろう。その女安督は形の上ではかや乃至力寿の位置で、人物からは愛寿に匹敵してい、訴人は密夫でなくて父の文内であるが、その姓小柴は『義経記』から来ている。又正徳二年刊の『義経勲功記』(巻一七)にも、女の名はやはり力寿で、場所だけは『吾妻鏡』から採って、東の洞院とし、力寿を妾とする今の男の名を、七條の銅細工宗紀太守貞という者として、訴によって糟屋有季が打向ふと、  
折節忠信は板縁の内に碁盤を枕として伏居しが、人馬の音に驚き頭をもたげ見れば、早り雄の若者共我れ先にと競い入る。真先に進んだる者共は、早七八人ばかり縁に飛騰らんとす。忠信礑と白眼んで、己等何者なるぞ、奇怪なりと云うより早く、碁盤を取って抛げつくる。是に当って敵二人縁より下に打落さる。 
とあるのを見ても、史実に近づこうと努めながらも、なお明らかに後の生成である碁盤忠信伝説をそのまま採入れざるを得なかった程、最早それが人口に(ロ+會)炙していたことが推知し得られる。又狐忠信伝説と結合して小女郎狐の怪異伝説が生まれた(富本節『碁盤忠信』)ことは前條で述べた。碁盤を枕にして忠信が眠るというモーティフだけが両者の共有点で、それが転移の契機をもなしている。  
『甲子夜話』(巻九)の静山侯は野州大関土佐守の領内に忠信の墓の在る由を録して、忠信京師討死説を疑い、身替説まで立てようとしているが、この義経から二重の身替という趣向までは文学としても企てられなかったようである。唯、忠信生脱の構想は『右大将鎌倉実記』(三段目の切)に試みられ、一旦捕えられた勇士をば、北條の仁恵で、安督父娘に下げ渡された廻国の厨子の本尊の機関(からくり)に秘めて、  
開く扉の笈の中、木像ならぬ生仏四郎兵衛忠信、親子はハハハハはっとばかり、死に入りし気も生返り、 
と驚喜させる。これは時政の前生譚として伝えられる六十六部法華経六十六国奉納の因縁即ち時政の前生時政(じせい)法師の廻国伝説(『太平記』巻五、時政参籠江島事)――これに義経・景時の前生譚が附加したものが『天狗の内裏』や『沼捜』に見える鼠の業因伝説である――から来ているので、この意外の取計らいは安督の父文内はその時政法師から勘当を受けたままの子、そして北條時政は同法師の再生である関係からで、父への不孝の滅罪に、同法師の廻り残した国々へ、この笈を負って、文内父娘が修行に出るというのが段切れになっている。そして又上の趣向がそのまま後の『一谷嫩軍記』(三の切)の弥陀六が貰う鎧柩の秘密と熊谷の修行の門出に粉本を示しているや論無き所である。但しこの『鎌倉実記』忠信生脱は四段目に至って、鎌倉で妻安督と共に判官と静御前の身替になって忠死を遂げるので、結局、身替から最期への従前の伝説に復帰した形になっている。  
それから勇士の立腹切りは本伝説に限ったわけではないが、村上義光の最期(『太平記』巻七)及び本伝説等によって説話型としての完成と流布とを看たことも事実で、それが後世へ影響したことも確であり、近世末の歌舞伎で有名な五人男の随一、弁天小僧の立腹(『青外稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』)のようなものまで成形させた。  
【文学】早いものでは『義経記』(巻六)次いで謡曲『愛寿忠信』、完成した所謂碁盤忠信伝説になってからのものは、『碁盤忠信』(金平本)、『義経勲功記』(巻一七)を始め、出雲の『右大将鎌倉実記』(三段目)、これから出た八文字屋本の『互先碁盤忠信』(後『頼朝鎌倉実記』と改題)がある。同じく浮世草子の『義経風流鑑』(五之巻)及び『風流東海硯』(四之巻)には碁盤忠信伝説は吉野山伝説に結びつけられて吉野山での出来事に作られている。両伝説の連結の傾向は既に元禄歌舞伎の『吉野静碁盤伝説』に於いて看る所であることは前條吉野山伝説でも述べた。その他本伝説に材を取った歌舞伎の狂言に『碁盤忠信』(亨保十三年の中村座顔見世で、所演俳優は二世団十郎であるが、『歌舞伎年代記』には「評判わるし」と出ている。代りに翌春の『矢の根』は古今の大当りを取り名誉恢復をした上、家の芸となるに至ったのであった)、『碁盤忠信雪黒石』『千歳曽我源氏礎(碁盤忠信)』(三幕目)(〔補〕それを補作した帝劇での幸四郎襲名狂言『碁盤忠信』等がある。『鞍馬山源氏之勲功』『義経誉軍扇』を始め一代記風の義経物に採っているものもある。それから稍変った内容を取扱っているのは富本及び清元の『碁盤忠信』である。 
14 鶴ヶ岡舞楽伝説附胎内?(たいないさぐり)伝説

 

碁盤忠信伝説が吉野忠信の後日譚であるに対して、吉野静のその後の動静を語るのがこの二つの伝説である。 
14-1鶴ヶ岡舞楽伝説  
【内容】  
人物 静御前。源頼朝・畠山・工藤・梶原、その他大小名  
年代 文治二年(『吾妻鏡』には四月八日)  
場所 相模国鎌倉鶴ヶ岡八幡宮 
吉野の衆徒に捕らえられて都に送られ、更に鎌倉に護送せられた静は、義経の行方を訊問せられたが知らぬと答える他はなかった。彼女こそ後白河院から日本一の宣旨を賜ったと聞く舞の妙手、この機会にその一手を観ずばと、頼朝は鶴ヶ岡八幡に参詣の砌、廻廊に召して神前で舞を所望した。固辞しても許されず、強いてとの仰せで、巳むなく静は装束を着けた。畠山次郎忠は笛の役、工藤左衛門尉祐経は鼓を打ち、梶原平三景時は銅拍子を合わせる。舞手は神泉苑の雨乞に雨を呼んだ稀世の名人、満座は唯恍として酔った。静はやがて聲朗らかに  
しづやしづしづのをだまき繰返し昔を今になすよしもがな  
吉野山峯の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき  
と歌い上げた。頼朝は流石に沸然としてその歌意を詰ったが、重忠の執成しで(舞曲『静』)心が解け(『吾妻鏡』には政子が自らの往時に思い比べて頼朝を宥めた由が記してある)、厚く静の神技を賞した。  
なお『義経記』にはこの舞は工藤祐経の妻に賺されての事とし、謡『鶴岡』では静に舞を勧めるのは祐経自身になっている。又『安達静』では鼓を打つのは安達三郎である。  
【出処】『義経記』(巻六、静若宮八幡へ参詣の事)、舞曲『静』、謡曲『二人静』『鶴岡』『安達静』等。但し『鶴岡』『安達静』は共に歌を載せていず、却って『法事静』には二首を採入れてある。又『二人静』と『静』には「しづやしづ」の歌だけが見える。  
【型式・成分・性質】舞楽説話で特殊の型式のものではない。仮構的成分は比較的少なく(神話的成分は無い)、史実的成分が殆ど全部を占めている史譚的伝説である。もとより武勇伝説では無いが、義経伝説圏に属して、義経伝説の体系を形成している伝説であるという意味に於いて、やはり義経伝説と呼ばれて差支無い。  
【本拠】『吾妻鏡』(巻六、文治二年四月)の文を下に引けば、本伝説が殆ど史実そのままで、僅かに、或は政子諌争のことのないのと(それが重忠に代わっている形も生じたが)、或は楽人に多少の異同がある位の部分的差異に止まっていることが知られよう。  
八日乙卯。二品井御台所御参鶴岡宮、以次被召出静女於廻廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之処、申病痾由不参。於身不肖者、雖不能左右、為与州妾、忽出掲焉砌之(けちえんのみぎりに)條、頗恥辱之由、日来内々雖渋申之、彼既天下名仁也。適参向帰洛在近。不見其芸者、無念由、御台所頻以令勧申給之間、被召之、偏可備 大菩薩冥感之旨、被仰云々。近日只有別緒之愁、更無舞曲之業由、臨座猶固辞。然而貴命及再三之間、憖廻(なまじひに)白雪之袖、発黄竹之歌。左衛門尉祐経鼓、是生数代勇士之家、雖継楯戟之基、歴一?上日之職、自携歌吹曲之故、従此役歟。畠山次郎重忠為銅拍子。静、先吟出歌云。  
吉野山峰ノ白雪フミ分テ入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ  
次歌別物曲之後、又吟和歌云、  
シヅヤシヅシヅノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ  
誠是社壇之壮観、梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云、於八幡宮宝前、施芸之時、尤可祝関東萬歳之処、不憚所聞食、慕反逆義経、歌別曲、奇怪云々。御台所被報申云。君為流人、坐豆州給之比、於吾雖有芳契、北條殿怖時宜、潜被引籠之、而猶和順君、迷暗夜、凌深雨、到君之所。亦出石橋戦場給之時、独残留伊豆山、不知君存亡、日夜消魂。論其愁者、如今静之心。忘与州多年之好、不恋慕者、非貞女之姿。寄形外之風情、謝動中之露胆、尤可謂幽玄。抂可賞翫給云々。于時休御憤云々。小時押出御衣卯花重於簾外、被纏頭之云々。 
つまりこの史実の伝説化したものが本伝説なのである。  
なお静女訊問の事は同巻(同年三月)に  
六日甲申。召静女以俊兼・盛時等、被訊問予州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。静申云、非山中、当山僧坊也。而依聞大衆蜂起事、自其所似山伏之姿、称可入大峰之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居辺之処、女人不入峰之由、彼僧相叱之間、趣京方之時、在共雑色等、取財宝逐電之後、迷行于蔵王堂云々。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨、与今口状頗依違、仍任法可召問之旨、被仰出云々。又或入大峰云々、或至多武峰後、逐電由風聞。彼是間定有虚事歟云々。廿二日庚子。静女事、雖被尋問子細、不知予州在所之由申切畢。当時所懐妊彼子息也。産生之後、可被返遺由、有沙汰云々。 
又同巻(同年九月)にも  
十六日己未。静母子給暇帰洛。御台所井姫君依憐愍御、多賜重宝。是為被尋問予州在所、被召下畢。  
而別離以後事者、不知之由申之。則雖可被返遺、産生之程所逗留也。 
と見え、史実に於いても、言を濁して要領を捕捉させず、遂に実を吐かなかった事がわかる。又『義経記』に祐経の妻が静母子を賺して歌舞させようとその宿所を訪ねて遊宴することのあるのは、同書(同巻、同年五月十四日の條)の工藤祐経・梶原景茂等が静を訪うて酒宴遊芸し、且、酒間に景茂が静に戯れて叱せられた事から出たのである。なお同巻(五月廿七日の條)には、静が頼朝の女大姫君の仰せによって、南御堂で芸を施した由も記されている。畠山・梶原等が遊芸の嗜のあったことも、同書(巻三、元暦元年十一月六日の條)に、同じく鶴ヶ岡八幡の神楽に、同じく頼朝参詣の時、梶原平次景高は唱歌し、畠山次郎重忠は今様を歌ったことが見えるのでも知れる。『安達静』に静の相手として安達三郎が鼓の役を勤めているのは、これ亦同書(巻六、文治二年三月一日の條)に  
今日予州妾静依召自京都参著鎌倉。北條殿所被送也。母礒禅師伴之。則為主計允沙汰、就安達新三郎宅招入之云々。 
とあるのから来ているのであろう。静の生んだ男子を由比ヶ浜に捨てる役もやはり安達であった。  
静が歌った二首の詠は当座の思いつきであろうが、各々その本歌がある。即ち「しづやしづ」は『伊勢物語』(三二段)の  
いにしえのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな  
の初五を改めたもので、己が名の静を利かせたのでもあろう。又「吉野山」の方は『古今集』(巻六、冬)壬生忠実の  
みよしのの山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれもせぬ  
の第一・第二・第五句を変えて歌ったものと思われる。  
【解釈】愛の静、貞の静、気節の静、義経の妾としての静、舞妓としての静が同時によく現れている。鎌倉殿の威武にも、権貴にも畏れぬ勇気は、もとより天性と舞台度胸にもよるであろうが、翻袖の間おのずと迸り出た満腔の鬱屈した悲憤敵愾の熱意が覚えず彼女を駆らせたのでもあることは、かの二首の吟詠が雄弁にそれを物語っている(『吾妻鏡』の記述によって察すれば、史実では十分意識して二首を用意したようにすら見える)。さしもの暴君(タイラント)頼朝も、彼の権力の前はに蟻螻にも等しいこのか弱い一女性から、その愛と芸術とに敢然として生き抜いた魂を奪うことが出来なかったのみか、満堂環視の中に却って彼の超特の大頭に忸怩の色を染める意外の機会を、自ら彼女に対して準備した結果となってしまった。其処に義経伝説としての本伝説としての本伝説の意義があり生命があり、其処に世人の喝采賞美の聲は集まる。功有って罪無きを逐うて不遇に泣かしめる冷心酷情の兄の前に起こって、その生贄の弟の愛妾が、叛逆者と呼ばれる夫の為に、愛恋の曲を高唱して気を吐く背後に、三斗の溜飲を下げつつ声援を吝まぬ民衆が居るのである。そして彼女の妙技神に入り、梁上の塵殆ど動かんとした瞬間、識らずして芸術を以て夫の為に美しい報復をなしたのである。本伝説があって特に静の芳名は国民の間に不朽の光を保ち、本伝説があって義経の人格は更に高く浄く、そして一層美しく懐かしい色彩を添える。  
又義経伝説を離れては、本伝説は母の磯禅師が創出した男舞の継承者否その達成者としての舞踏天才静女の名演技を語り伝える芸術伝説で、同じく彼女の神泉苑の祈雨に関する舞徳説話(『義経記』巻五・巻六)及び吉野蔵王堂の歌舞伝説(前條、吉野静伝説参照)等と共に、そしてそれらよりは一層史的背景を有つ華麗な説話として、一層国民に親しまれる。  
【成長・影響】伝説に於いて楽人の中に梶原の加わらしめられたことは、如何にも皮肉である。併しそれが後の戯曲に利用せられる種材となったのは偶然の僥幸とも言うべきであろう。即ち『右大将鎌倉実記』(四段目)には、場所を鶴ヶ岡とせずして鎌倉御所としてあるが、静は舞いながら刀を振って太鼓の役梶原源太景季を斬り殺し、憎さも憎き敵人の片割に、斯うして夫の怨を報いしめられることになっている。そしてそれには水干に太刀を佩く男舞の姿が都合好く使い活かされている。『御所櫻』(四の切)の磯禅師が藤弥太を斬るのも同じ趣向で、恐らく、これの摸倣であろう。謡曲時代までは流石にこれほどの荒療治はさせないが、頼朝の御前に召されて舞うのは、兎に角夫の寃を訴える好機会には違いない。『安達静』で舞いながら「しづやしづ」の歌の代わりに、義経の異心無き旨を諷するのは、謡曲作者の試みそうな所である。かの二首の吟詠が既に無意味のものでない以上、それを一段積極化した形に進展しても奇でないのである。又同曲に、義経の著馴れた直衣、鳥帽子を与えて装束させるのは、この愛の人貞烈の女に対する国民のせめてもの好意で、更に感慨を深からしめる所以である。そしてそれは本伝説が愈々成長して来たことを示している。又、如何に天下の武将の厳命とはいえ、夫を憎んで逐ったその人の為に、夫の前ならではと念ふ舞の袖を翻すことは、もとより心すすまぬ所ではあるが、一つには飽くまで固辞すれば愈々夫の為に不利ともなろう、且は神前の舞ではあり、思い余ったこの小さい胸を、神明仏陀も愍みを垂れ給うべく、夫の前途の幸運を祈るよすがともならうと、辛く決心せしめるのは、『義経記』『静』『安達静』等大抵同じなので(唯、それが、母或は他人の勧めによるのと自身の決心からとの差があるだけである。渋って快くは領承しなかたのは史実でもそうであった)あるけれども、『安達静』では作意に偏するほどに特にこの点にも念慮を費し、この敵人ともいうべき人の為に舞う心苦しさを――否そうした静を観る心苦しさを――釈明する為にも、その衣裳を意味あらしめ、即ちその悲しさ遺瀬なさを転じてこの愛人の旧衣を懐かしむ思慕の上に移させて、纔に安心納得しようと苦心しているのを見るのである。  
『安達静』にも頼朝から直接に義経の行方を追及せられる事があるが、舞曲『静』では頼朝の前で詰問せられた静が、身の佗しさを源氏六十帖を引いて語った詞の中で、壁に生える短命の「いつまで草」に己れを比せられたと頼朝が憤るのは、静訊問の史実が伝説化して頼朝自身の問審の形となり、それに本伝説が変容して合体したものである。『安達静』も結局同じ行き方であり、前に述べた舞いながらの諷詞が即ち変容した本伝説で、尋問の答申と同時でないだけである。又『源義経将棋経』(初段)の浄瑠璃姫が頼朝の御前で操狂言を演ずるのも本伝説の変容であることは浄瑠璃姫伝説の條で既に指摘した。更に静の歌舞の事は『義経追善女舞』(初段)の静御前の妙音尼が大磯小磯の白拍子を集めての故判官追善の勧進舞、『御所櫻堀川夜討』(五段目切)の静が今様「花扇邯鄲枕」等を始め、多くの文学に採り用いられている。それは本来白拍子であるが故にではあるが、祈雨伝説、蔵王堂法楽舞伝説(これも亦本伝説の変容かも知れないがそうであっても亦別個の発生であれば尚、別の伝説として取扱われ得る)等と共に、否それらよりも最も直接に最も有力に、本伝説が実例を与えているに因るのである。  
〔補〕大正十年十一月、東京上野鶯谷の国柱会館で演ぜられた田中智学作『栗橋の静』は、同地の口碑を素材として、静の歌舞を劇化したものであった。勿論本伝説の影響も受けている。 
又舞曲『元服曽我』に五郎元服の席上、鳥帽子親の北條に所望せられて辞みかねた十郎が  
舞はじものをと思われけれども、舞はでは座敷の興も無し。舞はばやと思召し、一聲をこそ揚げにけれ。  
しづやしづしづのをだまき繰りかえし昔を今になすよしもがな  
昔を今になさばやと、やや暫く謡ひしが……… 
祝言に相応はぬと心づき、急に「君をはじめて拝むには千代も経ぬべし姫小松」と歌い直したとあるのは、本伝説からの影響であろう。  
【文学】『義経記』(巻六)、舞曲『静』(『静物語』としても知られ、『考古画譜』には「一巻、飛鳥井栄雅入道女一位局書画一筆」と見えている)、謡曲『鶴岡』『安達静』、『義経勲功記』(巻一五)、戯曲『金平本義経記』(五之巻六段目)、『右大将鎌倉実記』(四段目)、合巻『鎌倉山黄金千代鶴』等。黙阿弥の『千歳曽我源氏礎』(四幕目)にも作られている。上田秋成の『藤簍冊子(つづらぶみ)』(巻之四)に「剣の舞」と題して収めてある一文も、本伝説に取材したもの、題意は「扇を剣と打振りつつ」とある最終(はて)の剣の舞に因由するので、且歌詞も「しづやしづ」ではなく、すべて変えてある。又  
繰糸  
工藤銅拍秩父鼓 幕中挙酒観汝舞  
一尺之布猶可縫 況此繰車百尺縷  
回波不回阿哥心 南山之雪終古深 
と熱血詩人をして『日本楽府』中に詠ぜしめているのもこれである。一代記風の義経物に本伝説の見えるのも少なくない。  
〔補〕笹川臨風の歴史小説『舞殿』もこれを題材としてある。 
14-2 胎内さぐり伝説

 

静の鎌倉召喚に関連して、前伝説[14-1]に附随して伝えられるのはこの伝説である。 
【内容】  
人物 静御前・嬰児・磯禅師。源頼朝・梶原景時  
年代 [14-1]に同じ。  
場所 相模国鎌倉 
訊問の為呼下された静が判官の胤を宿していることが知られ、産児が女ならば助けよ、男ならば棄て殺せとの頼朝の下命を、梶原景時がその誕生を待つまでもないとて、静の胎内を探って母子共に命を断とうと謀ったのを、母磯禅師が政子に愁訴してその難からは救い得たが、誕生の若君は無斬にも由比ヶ浜で海に投ぜられてしまった。  
【出処】舞曲『静』、『金平本義経記』(五之巻四段目)、『右大将鎌倉実記』(四段目)等。  
【型式・成分・性質】特殊の型式のものではない。史実的成分が骨子となり、空想的(仮構的)成分で潤色せられている史譚的伝説である。  
【本拠・成長・影響】[14-1]よりも発生はかなり後であると思われる。その史実の本拠は『吾妻鏡(巻六、文治二年閏七月)に  
廿九日庚戌。静産生男子、是予州息男也。依被待期、于今所被抑留帰洛也。而其父奉背関東、企謀逆逐電。其子若為女子者、早可給母。於為男子、今雖在襁褓内、争不怖畏将来哉。未熟時断命條、可宜之由冶定。仍今日仰安達新三郎、令棄由比浦。先之新三郎御使、欲請取彼赤子。静敢不出之。纏衣抱伏、叫喚及数刻之間、安達頻譴責。磯禅師殊恐申、押取赤子与御使。此事御台所御愁歎、雖被宥申之。不叶云々。 
と見えるそれである。静懐妊の事は他の條にも出ている。但し史実では鶴ヶ岡の歌舞は出産以前であるが、『義経記』では順序が逆になって伝えられている(後のものでも『右大将鎌倉実記』などは歌舞の方が前になっている)。そしてその『義経記』(巻六、静鎌倉へ下る事)に  
鎌倉殿仰せられけるは、九郎が子を妊じたる事、世に隠れなし。只今陳じ申すに及ばず、近きうちに産すべきとこそ聞きつれ。頼朝が為には全く敵の末なれば、静が胎内をあけ、子を取って失え、梶原、とぞ仰せける。静も母もこれを聞きて、兎角の御返事にも及ばず、手に手を執り組み、顔に顔を合わせて、声も惜しまず悲しみけり。二位殿も聞召して、静が心の中をこそ思いやられ給いけん、御幕の内に御落涙の音頻りにこそ聞えけれ。 
とあるのが、やがて舞曲『静』の内容の如き、景時の奸計に転じて実行に移されようとした形に進展したのである。つまり「静が胎内をあけ、子を取って失え、梶原」の一句から本伝説は胎生したと言うことが出来よう。『義経記』では頼朝のこの厳命だけで、却って梶原がそれは余りに惨虐故、程近い出産を待つべき旨を答えて止めたので、人々が末代の珍事と意外に感じたとしてある。誕生の嬰児を由比ヶ浜で棄てるのは史実通り安達新三郎である。胎内?の執行に対して、母禅師の歎願と助命の事は舞曲に見える所であるが、政子が母子に特別の好意を寄せ憐愍を施した事は、前掲及び[14-1]の〔本拠〕の項に出した『吾妻鏡』の随処の記事にも知られるから、そうした史実から出たのであろう。『金平本義経記』は舞曲を継承し、『右大将鎌倉実記』に産婦の静を預けるのが工藤祐経であるのは、『義経記』に、今までの宿所堀藤次親家が許を産所としたい旨を、祐経を以て静が願う事、祐経の妻女が静を見舞う事などがあるのから来ていようし、その工藤の館へ梶原が日参して監視した上に、  
これはまあ何時生む事。胸が焦れて耐らぬ耐らぬ。帯落(ほぞおち)するまで待って居られぬ、腹な餓鬼を引摺り出す分別、これ見られよ薬師堂の早め薬、一服食わせ、手短に将明けん。煎じ様は常の通、薑(しょうが)の代わりに芥子(からし)を入れ、鼻からなりと生ませたいとぞもがきける。 
というのは、進展して称変容した胎内さぐりである。  
併しながら以上のものはなお事実としての胎内?の悲劇とはならずに済んだ。これを進めて真の事実となし、而も静を二人として、その一人とその胎児を以て、真の静母子の身替にしたものは、近松の『(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』(三段目)である。即ち梶原景季が、静の隠れ家を囲んで之を捕らえ、大津松本の船頭、大津二郎の許に宿った夜、静が俄に産気を催したのを、大津二郎はその父磨針太郎が熊坂長範の手下として常磐御前を殺した罪障を滅する為、妻の勧めに従って同じく懐妊していた妻の腹を割き、その胎児を取り出して之を景季に与えて、静母子を救うこととしてある。形に於いては複身型式の二人静の趣向を謡曲『二人静』に学び、内容に於いては胎内?を舞曲『静』に採って、更に身替説話(先ず寺子屋型の異型と観てよいであろう)としたものである。山中常磐伝説の影響をも受けている。兎に角、本伝説の影響文学として最も顕著な作である。  
(附記)この作の外題の「(歹+粲)」は「さんにん」と訓むべきであるという説が饗庭篁村によって提唱せられたが、なるほど「(歹+粲)」は音「サン」であり、又「産人(さんにん)静」を利かせたと観れば、一応首肯出来るが、併し確に『二人静』から暗示を得て構案したものに違いなく、そしてその連想を誘う上でも、「ふたりしずか」と訓ませるのが近松の本意であったと思われる。尤も「産人」の意をも裏に籠めて胎内?に掛けて洒落たつもりで、特に「(歹+粲)」の字を用いたという用意まであったのかとも考えられ、そうならば猶面白いということにはなるが、「さんにん」と改め呼ぶのは妥当であるか如何か、遽に賛し難い。 
その後に出た松貫四の『吉野静人目千本』の前半は上の曲の改作で、唯静に代えるに卿の君を以てし、且脚色に多少の変更を加えてある。  
又馬琴の『椿説弓張月』(続編、巻五)の「撈(さぐりて)腹阿公奪赤子」という條の、琉球の悪老巫女阿公(くまぎみ)が、妊婦新垣が胎を割いて嬰児を奪う残忍は、恐らく本伝説あたりから構想の示唆を得たものであろうと思う。  
【解釈】原史実そのものが既に悲惨で、現状をまざまざと見るような『吾妻鏡』の叙述は惻々として胸に迫るものがある。伝説化した方の胎内?の蛮行こそ不快の度を越えて、危く児戯に類する滑稽に堕せんとしている。唯、頼朝の冷酷と景時の奸譎とが此処に至って愈々極端に具象化せられた形を呈し、静及びその嬰児を対象として、又間接にはその嬰児の父義経に対して、民衆の判官贔屓が倍加して来る結果を来さしめるのである。又この胎内?は実は迷信的な未開習俗の遺風の投影でもあろう。  
【文学】〔出処〕の項に掲げた諸作、及びこれも既に揚げた『(歹+粲)静胎内?』『吉野静人目千本』等。  
〔補〕胎内さぐりでなく、原史実乃至『義経記』の内容程度の所謂、静の鎌倉召喚と幼児由比ヶ浜投棄を題材としたものであるが、明治四十二年十一月「スバル」に発表せられた鴎外の『静』は、現代語で取扱われた史劇の先駆をなしたものである。又静の心境に一新釈を与えてあるのも特色で、後に大正十年三月守田勘弥の文芸座が、勘弥の安達新三郎、初瀬浪子の静で帝劇に上場した。又この他にも平山晋吉作『静と西行』と最近に佐々木信綱博士作『静』がある。共に西行と静とを結びつけようとしたのが狙い所で(前者には鶴ヶ岡歌舞も採られている)、特に後者では両人に対面話談までさせてある。これは歌右衛門の出し物であった。西行は吉右衛門。 
15 安宅伝説附笈さがし伝説

 

吉野を落ちた判官は史実では南都方面に暫く潜伏したようであるが、伝説では山伏姿の北国落となり、その行途の苦難を語ると同時に、義経伝説中でも最も主要で、且有名なのが即ち安宅伝説である。 
15-1 安宅伝説 
【内容】  
人物 源義経・武蔵坊弁慶(四天王その他の従臣。なお一行の人数は謡『安宅』は主従十二人、舞曲は十三人に少人姿の北方都合十四人、『義経記』は十六人に少人姿の北方を加えて十七人)。安宅関守富樫(左衛門)  
年代 文治三年二月下旬(奥州落の途)  
場所 加賀国安宅関 
義経は巳に西国落に蹉跌し、さりとて都にも足を停められず、吉野を遁れて後、奥秀衡を頼もうと、弁慶を先達とし、主従十二人作り山伏となって都を後に北国路を志し、諸所の難を経、辛酸を嘗めて加賀国安宅に着いた。旅人の言に聞けば、鎌倉の厳命によって、当国の守護富樫某(『勧進帳』では左衛門)が新関を据え、特に山伏を固く詮議する由、一行は歩を止めてこれが善後策を講ずるのであった。弁慶は血気に逸る一同を制し、判官を強力姿に窶させて、悠々関所にかかった。果たして富樫に沮止せられたのを、弁慶は東大寺再建勧進の一行と巧に陳じ、勧進帳を聴聞したいと望まれるままに、少しも動ぜず、笈の中から往来の巻物一巻を取出し、勧進帳と称し即智文を行りつつ、高声に読み上げた。甘服した関守に許されて関を越えようとしたその時、強力姿の判官を富樫に見咎められてしまった。弁慶は偽り怒って、そのあらぬ人に似た面憎さと、日頃の怠慢とを責め罵りつつ、金剛杖を執って散々に主君を打擲したので、富樫は漸く疑念を晴らして一行を無事に通過させた。関外人無き所、弁慶は判官の足下に伏して天罰の恐ろしさを懼れ哭するのを、義経は却ってその機転を賞し、救命の恩を謝し、互に悲運を喞ち述懐に時を移し、一行は皆篠懸の袖を絞る。折から後を追って来た富樫は先刻の無礼を詫び、且酒を贈って一行に贐し、弁慶は謝して起って舞い、やがて人々を促して奥へと下った。  
【出処】完成した本伝説を収採している――同時にその作によって本伝説は完成せられたということも出来る――唯一の古文学、謡曲『安宅』の梗概は上の如くである。同材を取扱った舞曲『富樫』(一名『安宅』)には勧進帳読みだけがあり、打擲は『義経記』(巻七)にはあるが、如意渡の難として伝えられ、本伝説としての完形では無い。舞曲『笈さがし』の一本にも、ねずみつきの関での打擲のことがある。『盛長私記』「弁慶状」等を典拠とし難いことは下に論ずる通りである。  
【型式・構成・成分・性質】説話としての本伝説の骨子は(一)義経主従が作り山伏となって奥州へ下る途、加賀国安宅関へかかった事、(二)関守富樫に怪しまれて、弁慶が勧進帳を読んだ事、(三)強力に扮した判官の危急を、先達の弁慶が打擲して救った事に要約し得る。全説話としては特殊の型式のものでは無いが、主君を佯打してその危難を助けるというモーティフを含む打擲型の遊離説話型を認めてもよいであろうことは〔本拠〕の項に掲げるような数種の支那説話の存在事実によって許さるべきであろう。そしてこの打擲も勧進帳読みも、複雑な道徳意識に結びついてはいるが、又、智力の勝利を説く童話的な一面もあると観ることが出来る。又一種の難題説話でもある。本伝説は史実的成分を本として、空想的成分が多きを占め(神話的成分は無い)ている史譚的伝説である。直接の武勇譚ではないけれども、英雄武人に関する意味でも、義経伝説の一単位を成す伝説としての意味でも、無論武勇伝説と目せられて支障は無い。  
【本拠・成立】判官主従が山伏姿となって奥へ下った事に関しては、『吾妻鏡』(巻七、文治三年二月)にも  
十日壬午。前伊予守義顕、日来隠住所々、度々遁追捕使害訖。遂経伊勢・美濃等国、赴奥州。是依恃陸奥守秀衡入道権勢也。相具妻室男女、皆仮姿於山伏井児童等云々。  
と見える。この義顕というのは義経を、後京極摂政良経と同音なので、朝議で一度義行と改め、更に斯く改められた判官の名で、これも『吾妻鏡』(巻六、文治二年)に  
去月朝宗(比企藤内)等打入南都、雖捜求聖仏得業辺、不獲義行本名義経去比改名之間、空以帰洛……(十月十日)大夫属入道(善信)申云、義行者其訓能行也。能隠之儀也。故于今不獲之歟。如此事尤可思字訓。可憚同音云々。依之猶可為義経由、被申摂政家云々。(十一月五日)  
可捜求義行改義顕事、去十八日、於院殿上、有公卿僉議如先度。……(同廿九日) 
と出ている。義行が能行に通じて未だに影を晦しているから、今度はよく顕れるようにと三度義顕に改められるなどは、児戯に類した姓名判断で滑稽の感がある。それは兎も角もとして、吉野の衆徒に答えた静の詞にも「伊予守者仮山伏之姿逐電訖」とあり、鎌倉での口状中にも「自其所似山伏之姿、称可入大峰之由入山」ともあった事も此処で重ねて指摘して置きたい。妻室をも伴った事は『盛衰記』(巻四六)にも  
年来の妻の局、河越太郎が娘ばかりを相具して下りにけり。 
と記し、『義経記』及び舞曲中の奥州落を取扱った『富樫』『笈さがし』『やしま』の三曲共、少人姿の北方を山伏の同勢中に加えていて、史実の通りである(但し『義経記』では久我大臣の姫君としてある。又謡曲『安宅』には義経を子方とした為、故意に省いたものと思われる)。  
又謡曲『安宅』に「時しも頃は二月の、二月の十日の夜、月の都を立ち出でて」と、主従が都を立った日を二月十日としてあるのは、恐らく『吾妻鏡』の判官奥州落の記事の見えている日附が前掲のように文治三年二月十日であるのを採ったのであろう(『義経記』には出立の日を二月二日としてある)。安宅関でこの事件の起こったのをば「憂き年月の二月や、下の十日の今日の難」としてあるのも、臆測を許されるならば、この出立から大体起算してあるのは言うまでもなかろうが、その「下の十日」の詞句は或は同じく右の上の十日から導き出されたのではなかったろうか。それからやはり『吾妻鏡』(巻八、文治四年十月)に  
十七日己卯。叡岳悪僧中、有俊章者。年来与予州成断金契約。仍今度牢籠之間、数日(一本、月 令隠容之。又至赴奥州之時者、相率伴党等、送長途。帰洛之後、企謀叛之由、有其聞。仍内々窺彼左右、可召進其身之旨、被仰在京御家人等云々。 
という記事も見える。正史の俊章は即ち伝説の弁慶の役を勤めた奥州下りの先達であったのであろう。後に引くように『盛長私記』が俊章をして弁慶の位置に代らしめているのも、自然な著想として肯けるところである。  
一方対手方の関守富樫が一行を抑止した事に関しての正史の徴証は無い。富樫氏の系譜は『富樫記』によると、その先藤原利仁に出、末葉は斉藤・林・富樫の三家に分かれて加賀・越前に勢を張ったが、富樫入道家通、法名仏西(『平家』には仏誓)が木曽方として越前燧ヶ城に籠って勇戦した事があり、その子次郎家経頼朝から加賀国を賜り、その子の家直は承久の乱に大忠があったとしてある。本伝説の富樫の名が家直とせられるようになったのは、この人物に当てようとしたのである。入道仏誓が燧ヶ城で敗戦して加賀へ退いたのを追って平軍が富樫・林の二城廓を奪取した事は『平家』(巻七、燧合戦)、『盛衰記』(巻二八、源氏落燧城、北国所々合戦)にも見え、富樫次郎家経が馬を射させたのを、新参の臣新三郎家員という者が己が馬に乗せて落した事も『盛衰記』の同條にあり、家経を「富樫介」とも記してある。又「安宅の渡」に構えた城郭を「安宅の城」と読んでもあるし、後のものでは『太平記』(巻二一、仁遺勅被成綸旨事附義助攻落黒丸城事)に「加賀国富樫が城」とある。舞曲『富樫』に「富樫が城」とあるのがこの安宅の城或は富樫が城で、謡曲ではそれが関になっているだけである。又『義経記』(巻七)に「篠原安宅の渡をせさせ給いて、根上りの松を眺めて」とあり、やはり舞曲の『富樫』には安宅の松とも根上りの松とも古歌に詠まれていると、里童等が語ることのある名松は、これも『盛衰記』の同條に  
根上りの松という所は、東は沼、西は海、道狭くして分内なし。 
と見えている。長唄の『隈取安宅松』の外題の出所、且、法螺貝の弁慶と俗に呼ばれる『安宅関』第一場の背景の大樹が即ちこれである。  
次に有名な勧進帳読みの一條は『平家』(巻五、勧進帳)、『盛衰記』(巻一八、文覚高雄勧進、仙洞管絃)の文覚上人が高雄神護寺建立の勧進帳を読んで、院の御所を騒がせた事件が粉本を与えたものであろう。文覚と弁慶との性行の相似が一層この転移を容易ならしめたに相違無い。なお東大寺造営の為の諸国への勧進及びその大勧進の上人が俊乗坊重源であった事は『吾妻鏡』『東大寺造立供養記』『俊乗坊参詣記』等に見えている明らかな史実である。殊に『吾妻鏡』には周防国から東大寺造立の木材を採って上せた事、それに就いての重源の訴状、長さ十三杖の棟木用の材が同国から獲られた事、佐々木高綱が主として奉行した事等が主に巻七・八・九等に散見し、巻八(文治四年三月)には  
十日丙午。東大寺重源上人書状到着。当寺修造事、不恃諸檀那合力者、曽難成。尤所仰御奉加也。早可令勧進諸国給。衆庶縦雖無結縁志、定奉加順御権威重歟。且此事奏聞先畢者。此事未被仰下。所詮於東国分者、仰地頭等、可令致沙汰由、被仰遺。 
ともある。鶴ヶ岡の社頭で西行法師が頼朝に遇って営中へ招かれ、銀の猫を貰ったという逸話も、亦実はこの勧進に関しているので、  
是請重源上人約諾、東大寺料為勧進沙金、赴奥州。以此便路、巡礼鶴岡云々。陸奥守秀衡入道者、上人一族也。 
と『吾妻鏡』(巻六、文治二年八月十六日の條)に記されてある(西行俗姓佐藤氏で、秀衡と同じ藤原氏である)ような事情であったのである。すると、弁慶が北陸道をば勧進しながら(謡『安宅』)、奥へ――奥秀衡の館へすら――下っても、さまで不似合な姿でも無くなるのである。又今一つ、即席の弁才と朗読という点では『盛衰記』(巻四二)の観音講式の愛嬌も或暗示を与えているかも知れない。  
ところが、茲に弁慶の安宅勧進帳読みに就いて、それは「弁慶状」及び『盛長私記』の記事に基づいて、謡曲『安宅』に作られたものとする見解がある。犬井貞恕の『謡曲拾葉抄』の所説がそれである。が、弁慶状は前にも引用して論じたように、義経含状と同様、腰越状に倣った後人の偽作で、勿論信を措くに足りないものであり、  
折節被奇関守富樫而、叩弁口敵陣、而探当廻文笈、少不騒、逆棒遂披露、遁鰐口下著当国、天命期于今。 
という拙劣な文辞から観ても、却って本伝説、と言うよりは謡曲『安宅』に拠って書かれたものと認定する方が、自然の感がある。又『盛長私記』(巻二七)の文は煩わしいが、次に抄出してみる。(注意すべき箇所に、註記を挿み、又さまで重要でない部分は全文を引く代わりに、簡約な記述にして添註することにする)  
二月十日、前伊予守義顕日来処々に隠れ住て、度々の追討使の害を遁れ、頃日又叡山に隠れ居て、遂に伊勢・美濃等の国を経て奥州へ赴く。是陸奥守秀衡入道が権勢を恃んで也。 
註 前掲『吾妻鏡』の文そのままである。なお本書では、『義経記』の久我大臣の姫君は、正妻河越太郎重頼の女とし、金王法橋を頼んで、潜に京から呼び取ったので、河越から附けられた権頭兼房、及び侍女二人と相具して来たのを、弁慶が計らいで児姿に扮装せしめるとしてある(『盛衰記』と『義経記』とに関係がある)  
義顕以下は悉く山伏の姿を仮たり。相従う郎等には伊勢三郎義盛・亀井六郎重清・江田源三弘元・片岡八郎弘経・熊井太郎忠元・権頭兼房・備前平四郎定清・鷲尾三郎経冶・武蔵坊弁慶・平賀次郎景宗・秋田太郎盛純・信夫太郎季就・福島藤次忠澄以上十三人、義顕を加えて十四人、児童三人井に叡山の悪僧俊章・承意・仲教、先達として上下都合卅余人也。 
註 叡山の悪僧仲教・承意等が予州に加担したことは、『吾妻鏡』(巻六、文治二年八月三日)に  
去月廿日之此、生虜同意予州悪僧仲教及承意母女之由(下略)  
と見える。但し俊章と同じく奥州行に加わったとは明記してないのを、同じ叡山の悪僧というので一に取り合わせたものらしい。なお平賀次郎の名は『太平記』(巻五)大塔宮熊野落の平賀三郎から来たのではあるまいか。片岡八郎も共通している。これは義経の臣の名でもあるが。  
さて一行は加賀国に到ると、当国の住人富樫介は  
鎌倉殿より別て仰は蒙らざれども、義顕を捜し求むべき由、国々へ宣旨を被下 
たからとて(上の一節は『義経記』(巻七、平泉寺御見物の事)の「富樫介と申すは東国の大名なり。鎌倉殿より仰は蒙らねども、内々用心して、判官殿を待ち奉るとぞ聞えける」とあるのから来ているとおもわれる)、  
安宅の辺に新関を構え(中略)、往還の人を改め通す。就中山伏に於ては押留め僉義す。近辺より修験道を心得たる山伏五三人を召寄置、山伏来れば、役行者より五代の立義を尋問、其言の分明ならざるは悉く搦取、獄舎に入置く。無智の山伏此災難に逢て、籠舎する者六七人に及けり。 
関前で旅人からこの由を聞いた一行は、評議の末、運を天に任せて関に差しかかる事となる。  
先立たれば、叡山の悪僧俊章・承意・仲教・弁慶等、先行向て関前を通らんとす。関守抑留して云、此所は山伏禁制の関所也。たやすく通すべからずと云。俊章が云、此は東大寺造立に依て、俊乗坊より諸国へ勧進す。巡行の山伏都合二百余人也。是は北陸道より出羽・奥州へ勧進する山伏也。何が故山伏禁制たるやと問。富樫介件の四人を先関屋の内に呼入れて申けるは、山伏を改申こと別義にあらず。伊予守殿鎌倉殿の命に背き、山伏の姿を仮て奥州へ通り玉う由、風聞あるに付て、山伏を抑留すべき由御下知により、如此関を居え山伏を留置候。面々には定て実の山伏にてぞ候らん。夫山伏の法をも承りて後、兎も角も計ひ候べしと、彼呼寄置たる山伏を召出して、問答させけり。俊章・承意・仲教は叡山の学匠也。武蔵坊も又同西塔に居住して、多年の学者なり。何ぞ田舎山伏の尋ることを答えざるべき。結句此方より彼山伏に却て不審を云けるに、答ること不能。四人の者怒て云、汝は山伏にはあらず。修験道の法をも不知、文盲不智の大俗にて、不動袈裟を掛、富樫殿を誑らかし、往還の山伏に無礼の非義を申掛、多くの人を悩すこと、是に増したる国賊なし。此山伏等を玉はり法に行い、後人の懲しめにせんと、申も敢ず武蔵坊山伏二人を捕え、些も不働。残る一人を仲教捕えて表に引出し、いでいで法に行わん。誰かあると喚りければ、十三人の山伏理不尽に押入て、件の三人を引張て引出さんとひしめきけり。富樫介大に驚き佗て云、客僧の御憤り尤至極仕る。渠は田舎の山伏なれば、争か都の客僧に法問に及ぶべき。混う御免を蒙るべしと、様々云ける程に、彼山伏をば赦しけり。富樫申けるは、各々は山伏に粉なき歟。然れば鎌倉殿の御下知なれば、私にも通しがたし。暫く此所に逗留有て、鎌倉殿より検使を受、御対面の以後、検使の下知に随うべしと申ければ、弁慶進出、此義尤然るべし。此所に逗留し、此程の疲れを休むべしと、富樫が右座に無手と居たり。是を見て十七人の山伏、富樫を中に取籠、伊予守殿の詞を待、悪しと云ば差殺さんと、目を配て詰めよせたり。富樫介弥与州なりとは思いしかども、遁難しと思いければ、何共して通さんと思い、富樫介と座を隔て居たる俊章に向て尋けるは、各には東大寺勧進の為、諸国巡行の由承る。若勧進帳や候。然らば聴聞仕り、富樫が如きも奉加仕るべきと申ける時、俊章則笈の中より天台止観を一巻取出して、勧進帳と称して高声に読み上げ、敬白して笈に入たり。其文章詞華を飾り、其正理詳か也。是頗る凡人の及所にあらず。富樫介は究竟のことと思いたる気色にて、此上は紛れなき山伏達なり。通し可申と下知して、悉く通之、剰へ様々の奉加しけり。卅余人の人々命を助りて、件の関所を遁れけり。富樫介は勧進帳にあらざることも、慥かに是を知けれども、一命危かりければ、是に縡寄て、無異義関所を通しけり。 
即ち上の文は『吾妻鏡』を本とし、『盛衰記』『義経記』等を参酌して書かれた後人の筆であることは容易に推知し得られる。特に『吾妻鏡』に拠ったものであることは、内容のみならず、文章まで殆ど『吾妻鏡』そのままを仮名交りに書き下したところの多いのでも証左とする事が出来る。且、吾人の見によれば、上の文は謡曲『安宅』の拠り処となったのではなくて、これも亦却って『安宅』から出たものであろうと言いたい。俊章の勧進帳読みも『安宅』の弁慶そのままであり、「役の行者より五代の立義を尋問」「夫山伏の法」も、『安宅』からなど思いついたらしい書振りと言った感じがする。又、「いでいで法に云々」に至っては、愈々能がかり。演劇的である。全体を『吾妻鏡』の筆致に贋せたこの書に相応しくない。必ずや謡曲で既に成った本伝説を、この書の方が採ってそれを事実らしく書きなしたものかと考えられる。  
兎に角、この書の内容、少くともその骨子は『吾妻鏡』そのままであることは否定出来ない。そしてそれはこれを藤九郎盛長の私記とする以上、『吾妻鏡』の記事と矛盾、差異を大ならしめることを許さない筈であるからである。即ち『吾妻鏡』に載せてある記事の部分は文章も殆どそのまま採用し、然らざる部分を『盛衰記』『平家』等の軍記物(或は『義経記』からさえ)、又は伝説想像等で補ったようである。そしてその補綴の部分も、なるべく『吾妻鏡』と 撞著せぬように、或は『吾妻鏡』に見える材料によって脚色しようと力めたらしく、その部分の文体も出来る限り『吾妻鏡』の文に似せてあることが認められるのであるが、而もその補綴の部分は即ち他の文学や想像又は伝説からの借物である為、『吾妻鏡』に似せようと努めながら、猶往々脱線して「……しけり」といった体に傾き、知らず識らず叙事的物語風となって、他の『吾妻鏡』から採った部分との調和に破綻を来させている場合が相当あるのが本書の正体を曝露している。要するに、依拠を努めて『吾妻鏡』に求めようとし、伝説もこれに結びつけられ得る限りは採用しようとしたようである。斯様の建前で、奥州下りの條を、『吾妻鏡』のまま採ったとすれば、俊章等をも棄て去ることが出来ないのは当然で、特に彼等は『吾妻鏡』では、一行の護送車でもある。即ち史実の先達は彼等でなくてはならない。かくて弁慶の御株が彼等に奪われるのは、そうしてそれによって事実らしさを与えようと試みられているのは、怪しむに足りないのである。斯く考えて来ると、『盛長私記』の前掲の記述は『吾妻鏡』の記事と謡曲『安宅』とを併せようとした結果と観ることは出来ないであろうか。又、前掲の文の次の條に見える井上左衛門の事(巻二七)など、余りに突然で、その上、これは他の史料には見えず『義経記』だけに出ている事実であるが、又余りによく互に似ているから、他の部分の類似(堀河夜討の條、忠信吉野山軍の條、秀衡卒去の條、高館合戦の條等)と共に、『義経記』にも確にその材料を仰いだことが愈々証せられるように考えられ(前文弁慶が富樫の側に坐り込んで、鎌倉からの使が来るまで待とうと、わざと落ちつき払って言うことも、『義経記』(巻七、三の口の関通り給う事)から採ったのであろう)、こういう点が又他に正史の資料の無い安宅の條も、同様に謡曲の方が先ではないかとの疑を起させる助けともなるのである。その上に舞曲『富樫』にも俊章でなく、やはり弁慶の勧進帳読みがあって、それが謡曲から出たのなら別として、その確証が無い以上、寧ろ謡曲の粉本となったかも知れず、或は双方の共祖たる伝説の存在を予想せしめ得る余地が十分にあるのである。  
伊勢貞丈は、『安斉随筆』『貞丈雑記』等に於いて、屡々この『盛長私記』と『扶桑見聞私記』とを並べて、「私記」という題号まで共通している点をも指摘して、享保年中江戸青山に住んでいた浪人須磨不音、初の名加藤仙安と云う者の偽作であることを論じている。山本北山の『孝経棲漫筆』(巻四)にも、『見聞私記』は原名『廣元日記』といったのを、毛利家から咎められて改めたものとし、享保年中台命によって成島道筑が偽書と断定した事を記し、元水野監物家来、須磨不音と名告っていた青山の浪人、加藤仙安の作で、『盛長私記』も同人が偽作した書だとしている。併し共に本書の方は、『見聞私記』に関してほど確信を以ては論断していない。且、元禄十六年刊の、『義経記評判』の凡例の引用参考書の中に、『盛長日記』という名があり、そして『評判』の註に引用した文について見ると、それが『盛長私記』と同一書であることが明らかである。然らば貞丈の説は少くとも『盛長私記』に関する限り、なお再批判を要する。既に元禄頃この書に『日記』と言っているのを見れば、元はそう云ったのか、或は『日記』とも『私記』とも云ったのであろうか。いずれにせよ、『私記』と云う題号の共通していることによって、『見聞私記』と同一作者の偽作であるとする貞丈の論(『安斉随筆』巻一九)は、さなくとも論旨薄弱であるのに、愈々根拠を失うこととなる(『見聞私記』の原名が『廣元日記』であったとすれば、又その原名にも、改称にも、其処に却って共通した点があることにはなるが)。併し『吾妻鏡』の文体を学んで遠く及ばず、処々に近世の口気が見えるなど、貞丈が『古文後集』の註の事を引いて考証した通り、後光厳帝以後のものである(同)のは勿論で、如何に早くとも室町季世を出でず、恐らくは江戸時代の作であろう。種類と文章とを同じうしている点に於いて、『見聞私記』と同一作者の手に成ったものであろうとの、貞丈の推定は、仙安のことがなくとも、同意したい所である。唯作者の仙安であるとないとを問わず、元禄十六年以前の作であることだけは確である(『盛長日記』というものが、元来在ったか如何かは、自ら別問題であるが、あったとしても、この書とは内容上の交渉は無いであろう。又その書の存在も信憑に値するか疑問である)。若し貞丈の言う如く、仙安の作ならば、本書は『安宅』以後のものであること論にも及ばぬが、仮令仙安の筆でなくとも(仙安が青山に住んだのが享保頃で、作ったのは元禄以前であるとの考を挟む余地はある。が、『評判』の参考書として挙げたのを見れば、今少し早い頃の作かと考えられる)、室町中期以後、江戸初世前後に成った後人の偽作と推定して差支ないと思われるから、やはり『安宅』の方が先行している作と断じても大きな誤ではないであろう。  
更に、謡曲『安宅』は、『異本義経記』から出たとする説がある。これも亦『拾葉抄』及び小中村清矩博士の説(『陽春虜雑考』巻七)である。この『異本義経記』なるものには不幸にして未だ接したことがない。探索に時日と労力とを費したが竟に獲ることが出来なかった。同書の存在したであろう事は、『拾葉抄』の外、柳亭種彦の『熊坂物語』にも引用してあるのでも知り得られるが、その実体に関してはかなり疑問がある。即ち私見を以てすれば、この『異本義経記』も江戸時代の作で、謡曲『安宅』との関係はこれも亦却って逆であると推定せざるを得ないのである。何となれば『拾葉抄』所引(本伝説以外の場合をも含めて)の同書の内容に就いて検すれば、明らかに『義経知緒記』或は『義経勲功記』(正徳二年刊)と一致する部分が多く、その点でも却ってさまで古いものでなく、流布本よりは無論新しく、或は『勲功記』か『知緒記』あたりから取って作られたものではあるまいかとすら言いたい。例えばこの勧進帳読みの件の如き  
『異本義経記』云、加賀国富樫介家直が関所を通り給う。家直が弟斉藤次助家、その場に在りて見咎めたりしを、富樫大きに制して、真の客僧達にて渡り給うものを、不浄の身として近付申さん事、明王の照覧計り難し。笛には定めて熊野権現の移り給うらんとて、縁より降りて蹲踞頭を傾けて皆々を通したりと云々。  
と『拾葉抄』にあるが、『知緒記』(下巻)にも「或曰」として同文が引いてある。『知緒記』の引用した原拠が又その所謂『異本義経記』なのでもあろうが、同書には他の箇所には『義経記』の異本として『吉岡本』『長谷川本』等の書名を挙げて引用を試みているにも拘らず、この『異本義経記』の名は出していない。「或曰」が所謂『異本義経記』なる書からの引用ならば、書名なり、何本とかなり明記していそうにも考えられる。『知緒記』筆者には少なくとも題名不明の書であるらしい。又『勲功記』以前に『異本義経記』が若し行われていたとすれば、『勲功記』の製作の意義と価値とを大半失うこととなる。『勲功記』は海尊の残夢仙人が物語った資料を基礎として綴ったという形式で、義経伝に関する新な発表と言うわけであるから、若し読者の熟知している『異本義経記』と同一記事が積載せられてあるとすれば、殆ど興味は薄められる筈である。『勲功記』作者がそうした愚を学んだとは思われない。或は稀覯の『異本義経記』というものを入手して、その種本の一として、書名を明記せずに屡々引用しているようである。尤も『知緒記』は製作年代が不明であるから、その逆或は両者の共祖の仮想も出来ぬではないが)としても、『拾葉抄』等に引用せられた文章と説話内容とから判ずれば、『勲功記』と余り隔たらぬ時代のものであることを示している。富樫の弟斉藤次助家の伴随する如き、最も有力な証左で、少くとも流布本より遙に後の、恐らく近世の作と断じて誤ないと思われる(「明王の照覧」云々も謡曲から来たのであろう)。これを引用している『拾葉抄』は明和九年の板行、『熊坂物語』は文政四年の作であるから、『異本義経記』が『勲功記』以前の存在であることの確証とはなり得ない。上の如き疑問の書である以上、それに勧進帳読みの事件が含まれているからとて、謡曲『安宅』の本拠と目せられるには多分の危険がある。所詮『盛長私記』「弁慶状」といい、又この『異本義経記』といい、信憑の確実さを欠くこれらの文献に強いて拠るよりは、なお文覚勧進帳の事件を以て、本拠に近いものとするだけで足れりとすべきであると思う。  
次は弁慶の主君打擲の一事である。これは『義経記』(巻七、如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事)から出たのであろう。即ち越後国如意の渡で渡守の平権頭という者が、判官を見咎めて渡船を拒んだので、弁慶は佯り怒って義経を砂上に投げ倒し、腰の扇を抜出して続け打ちに打って、流石の渡守に驚きの上に同情をさえ催させたという記述がそれである(打擲は無いが、六渡寺の渡守が舟賃を求める類似の話が舞曲『笈さがし』に見える)。同書(同巻、直江の津にて笈探されし事)の念種が関(この関名は『吾妻鏡』巻九、文治五年七月十七日の條にも見える)でも、判官を下種山伏(つまり強力と大して変りはない)に作りなし、笈を負わせて弁慶が苔で叩きながら追立てて行くことがある。舞曲『笈さがし』(上田博士校訂本所収。『新群書類従』に載せてある寛永本の同曲には出ていない)には、ねずみつきの関(上の念種関のことであろう)で関守井沢与一に咎められたので、弁慶が鞭であいのう(強力のことらしい)姿の判官を打つとしてある。『異本義経記』は弁慶ではなくして、亀井六郎が義経を縁から蹴落して打擲したとし、且場所を直江の津としてある(この点でも『安宅』の本拠というよりは、安宅伝説を改変して、原拠の事実らしく見せようとした感が深い。但しこれは『知緒記』には見えない)由が『謡曲拾葉抄』によって知られる。又『義経記』の富樫の館の條は弁慶一人、一行と引分れて富樫の許に赴き、東大寺勧進の山伏と称して勇力を示し、富樫を服して却って奉加に附かせることとしてある。舞曲『富樫』及び『笈さがし』(但しその冒頭)も大略同材である。そして『富樫』では勧進帳を読めと望まれて困惑すると、「都にてこの度入れたりとも覚えぬ自然の往来の巻物一巻」笈の中にあったという、冥感的な叙述になっている。孰れにせよ、これらの文学の素材となった伝説が種々あったのであろうが(それは同一伝説の異伝もあろうし、異種伝説の混入もあろう)、所謂安宅伝説の完成には、大略それらが綜合的にはたらいたと観ることが出来、特に如意渡の説話など有力に参与していることは争われないであろう。特に舞曲と謡曲とは必ずいずれかが他へ直接影響したのではないかと考えられる。  
加之、茲に注意すべきは、本伝説、特に佯打のモーティフに於いての支那伝説との関係である。新井白蛾の『牛馬問』(巻三)に、  
義経奥州下りの時、安宅の関にて、弁慶義経を打ちたるという。安宅関という事、謡等の作意にて、実はなき事なり。扨晋の成都王名は頴というもの反く時に、晋帝此害を恐れて、京を潜幸有りて河陽の渡に至る。津吏是を咎めて河を渡さず。時に宗典という臣下、跡より来て此様を見、則ち鞭を揚げて帝を打ちて曰く、津の長吏は非常の奇を止め禁ずるの役なり。汝今とどめられて、急の道を妨げ、貴人に似たる奴かなといえば、津吏もゆるして通しけるとなり。弁慶義経を打ちたるとは、是より作りたるや。如此の類甚だ多し。  
と論じ、星野恒博士の『源義経の話』(『史学叢説』第二集)中にも、同様の意見が述べてある。併し若しそうの支那伝説が安宅伝説の本拠となったものであるとすれば、それは直接の本拠ではなくして、『義経記』の如意渡の難の説話を経過して安宅伝説の形となったと見ることに於いて、一段の自然さを増すのである。渡守に怪しめられたという点まで、そのまま『義経記』同條の説話は『安宅』の方よりは遙に上の支那伝説に酷似しているのみならず、『義経記』は又、確に部分的の挿話の素材に、支那の武勇伝説を借り用いた跡があるのを認めたいと思うからである。勇士の剛勇を語るに、必ず所謂異国の張良・樊(ロ+會)に比した近古の時代に、支那の史書はもとより、通俗の軍書等も盛に読まれたことは明らかで、仮令後の、殆ど『水滸』『西遊』『三国志』の翻案づくめの馬琴には及ばずとも、『義経記』作者も亦、支那小説翻案の功を首唱するに躊躇しないであろうと思う。例えば、巻三「書写山炎上の事」の弁慶の乱暴は、『水滸伝』の五台山を騒がした魯智深から暗示を得たかの感があり、縦しそれは強ひて確認し得る程でないとしても、巻七「亀割山にて御産の事」の條に、誕生の男子を判官が山中に捨てようと言うのを弁慶が諌止して、  
これより平泉へは流石に程遠く候に、道行く人に行き逢うて候はんに、はかなとばしむづかりて、弁慶怨み給ふなとて、篠懸に掻巻きて、笈の中にぞ入れたりける。その間三日に下り著き給いけるに、一度なき給はざりけるこそ不思議なれ。  
とあるのは、『演義三国志』の長阪坡の乱軍に、蜀の勇将趙雲が、主君劉玄徳の幼子阿斗を救い出して来たのを見て、この子一人の為に我が勇将を失はうとしたとて、玄徳が取って之を山中に抛ち殺そうとしたのを、趙雲は争い諌めて止めた事、而も趙雲がその幼君を救って母衣の中に入れて戦場を馳せても、声を立てて泣かなかった不思議と、偶合にしては余りに似過ぎているではないか。江戸の読本全盛時代に、その粉本として重きをなした、特に馬琴の玉手箱であった『演義三国志』が早くもここでも日本文学に影響を及ぼしているらしいのは、面白い事と言わねばならぬ。  
兎も角、少くとも如意渡の伝説の本拠は、恐らく支那伝説であろう。『牛馬問』の外に、『鎌倉実記』(巻一六)にも宋の羅大経著『鶴林玉露』(『稗海』及び『説孚』所収。日本では寛文二年に印行した)の天集「三事相類」の條を掲げて、如意の渡の話に相類する説話として、読者に紹介している(但し『鎌倉実記』では場所は如意の渡であるが、義経に代えるに、その臣杉目行信を以てしてあるのだけが相違している)。  
鶴林玉露曰、楚公子微服過宋。門者難之。其僕探筮而罵曰、隷也、不力也。門者出之。晋王(厂+欽)之敗、沙門曇永匿其幼子華、使堤衣褒、自随。津暹疑之。永訶曰、奴子何不速行。捶之数十。由是得免。宇文泰与候景戦河上、馬逸墜地。李穆見之、以策扶泰背曰、籠東軍士、汝曹主何在而留此。追者不疑其為貴人。与之馬与倶還。三事相類。  
『鶴林玉露の原文も上の通りであるが、伴蒿蹊の『閑田耕筆』(巻二)にも『玉露』所載のこの三話と『義経記』の記事とを四事相類としている。そして前掲『牛馬問』に引いた晋帝の話は右の三事中の第二話に略相当する。近古には既にこの書すらも日本に輸入せられていた筈であるから(『鶴林玉露』の天集は我が宝治二年、地集は建長三、人集は同四年に成った)、『義経記』作者も必ず読んでいたであろう。もとより『鶴林玉露』からでなくとも、その原話から採ったのであっても差支無い。又別に『南史にも沙門が袁昴を杖で佯打して難を救った同型の伝説を伝えている。喜多村信節の『 筠(いん)庭雑録』(巻上)にも『宋書』(王華伝)に見える前記曇永の故事と、『草蘆雑談』に引いてあるこの『南史』の所伝を安宅伝説の類話として挙げてある。或はこれらの支那伝説も同一伝説の種々の変容であるかとも考えられるが、『義経記』の同型説話は、その本源の形は恐らく支那からの移入と観ることが許されねばならぬであろう。そして『牛馬問』所載の説話乃至『鶴林玉露』の三事中の第二話が先ずその本拠として最も自然な容相を示していると言ってよいであろう。が、或は又支那伝説が日本化するに当たって、一方は『義経記』の話となり、他方では原話が伝説としても語られながら、舞曲に採られたような形としても成長しつつあったのかも知れない。『笈さがし』の弁慶が馬上から鞭で義経を打つという如きは、何となく未だ日本化しきっていない形を――日本化の過程にある支那伝説の姿を、見せているようにも思われるのである。  
【解釈】義経の窮状、逼難の頂極、覚えず手に汗を握らせるが、大先達武蔵坊の苦肉の計謀と沈毅豪胆とが、勧進帳の即智能文と共に、終に主君を危地より救い出して、奥下りの行途を遂げさせた。要するに本伝説は、弁慶の忠義と智勇を語る代表的のもので、寧ろ弁慶の伝説たるの観がある。そして弁慶の苦衷は――同時に義経の悲運とその忍従とは、又世人の同情を集める所、少にしては吉次が太刀担ぎとなり(『盛衰記』巻四二)、今又剛力と身を窶す義経は、奥下りには常に他人の従者になって酷遇せられねばならぬのも不思議なめぐり合わせであるが、それと対照して鬼のような武蔵坊の眼から迸り出た血涙には、千金の値があり、この場合だけは毫も滑稽感を誘わないのである。弁慶が国民に愛せられ怖れられる所以は他にある。弁慶が弁慶として讃歎せられ推服せられ、同情せられるのは、主として本伝説あるによる。弁慶が義経伝説に重きをなすのも本伝説あるによるのである。弁慶の人格も亦本伝説に至って完成せられたと言ってよい。即ち本伝説は弁慶の智謀を説く如くにも見え、忠誠を叙する如くにも見え、それに関連して富樫の義心を語るようにも見える。がそれは原の形と成長した後の形とによってその焦点が動いて行っているからで、進展した安宅伝説になる程、そのすべてを融化させているのである。そして又本伝説は義経奥州落の途中に於ける辛苦危険を語る――同時に各所で繰返された同様の困厄を、この一伝説に集中し代表させて語る――ものとして、生まれたものであると解することが出来る。同時に頼朝の義経追跡の急迫厳重を極めた史実をもよく反映している。更に山伏姿で潜行する事には、時代が語られている。実際この頃の武人が世を忍ぶ旅装としては、修験道の兜巾・篠懸・金剛杖姿を最も便利としたのであろう。近古の伝説や文学に、その例証が少ないのによっても知られる。大江山伝説の頼光主従(『大江山絵詞』『伊吹山絵詞』、御伽草子『酒顛童子』)、熊野落の大塔宮一行(『太平記』巻五)はその最も著しい例である。  
又本伝説の本拠が支那伝説であったとしても、完成した安宅伝説、即ち謡曲『安宅』のそれは全然日本的の説話である。それを完成し、それに魂を吹き込んだものは純日本的な所謂判官贔屓の熱情である。若しその本拠が支那伝説であるとすれば、それが安宅関となり、山伏姿となり、鞭は金剛杖と変り、そして勧進帳読みを加えて、殆ど本拠の痕跡を認めることが出来ぬ程に日本化したところに、甚だ興味を覚えさせられるものがある。即ち純日本的に発生した固有伝説で、彼地の伝説とは偶合であるとの感を抱かしめられる程、国民的のものとなってしまっている点、其処にこそ本伝説の有つ大きな意味が又認められねばならない。  
【成長・影響】既に〔本拠・成立〕の項でも一応述べたが、説話としての本伝説の成長過程を改めて観察して見ると『義経記』(巻七)の弁慶単身富樫の館に行き向う形は、舞曲『富樫』に至って勧進帳読みを加え、又『義経記』(巻七)の三の口関の難とも合体して――従って弁慶だけでなく一行すべてが安宅の関へかかる事となり、更に同巻の如意の渡及び念種が関の難、乃至舞曲『笈さがし』のねずみつきの関の難(それに『義経記』及び舞曲に見える次條の笈捜伝説をも含めて)をも併せて、謡曲『安宅』の内容のような完全な安宅伝説となり、且却って『義経記』・舞曲の一行十六七人は、「十二人の作り山状」(『安宅』)と減少固定せしめられたのみならず、『吾妻鏡』を始め、『義経記』・舞曲にまで載せてある北方が、一行中から全然省き去られた為に、強烈な同情哀憐の念は、一点に集中せられ、子方たる判官一人――それは能の役柄としての子方であるだけでなく、義経は実に本伝説では紛れもない事実上の子方の位置に置かれてある――の上に向はしめられるに至った。それから『胎内さぐり』(四段目)で縛られたままの弁慶が判官を足蹴にするのは打擲の変形である。又如何に方便とは言え、判官自身の躯を臣下の杖に当てさせるのは、勿体なく又気の毒で堪え得られないという心持から、後には、この如意の渡で打擲せられたのは、義経ではなく義経に似た一行中の臣下杉目行信という者であったとする説まで現れた。『鎌倉実記』(巻一六)が即ちそれで、『義経勲功図会』(後編巻五)もこれを躊躇しているが、代りに斯くては弁慶の苦肉の策は頗る力の薄いものとなり、却って判官贔屓の引倒しとなってしまっている。  
〔補〕それとは正反対に義経富樫の関を越ゆる時、弁慶したたかに打ちけるは、面部までも打ち腫らして、その人とも見えぬようにしたる也。  
というような滑稽笑止な解釈も生じ(鳥江正路『異説区々(まちまち)』)、これでは弁慶の名策が又余りに行き過ぎて、興さめたものとなってしまった。 
が、本伝説での大立物は何と言っても武蔵坊であるから、これを十分にも十二分にも活躍させようとする意識からと、それに構想と眼先の変化とを与えようとする試みからとで、種々説話の上に改変が施されようとする現象を生じた。演劇方面に於いて特にそうで、例えば読み上げた勧進帳を富樫が奪い取って検べると、往来の巻物であったので、怒って弁慶を縛させる皮肉な滑稽は『(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』の安宅の段、独り後に態と留まった弁慶が、糺明の為に掛けられた縛り縄を、一行が関を越えて遙に隔たった頃を見計らって、大力を籠めて切り放ち、雑兵共の首を引抜いて天水桶の芋洗いに見立てるナンセンスは『御摂(ごひいき)勧進帳』(五建目)の「安宅の関の場」、それとは逆に、察する処方々は俊乗坊に頼まれ、南都東大寺勧進に奥州へ行くのであろうと言い、笈の中に勧進帳らしいものが見える、受取って見るに及ばず、それにて高らかに読み上げられよと、富樫の方から助け船を出す(これは源九郎狐等の守護もあるにも因るが)のは『義経風流鑑』(五之巻)で、更に又『通増安宅関』の富樫が組下塚見占之丞と前以て八百長の協定を遂げておいた弁慶が、勧進帳と称して「道中の小遣帳を高慢に読み上げる」のは如何にも黄表紙らしい解釈、或は「もとより勧進帳のあらざれば、都にはやる踊歌、彼処や此処踊り集め、祭文節」でやってのけた破天荒は流石の関守を浮かれさせて関門を開かせる(踊くどき『富樫の左衛門』)という道化たものにまで変って行ったのも、本伝説の迎え喜ばれた結果である。  
茲に注意すべきは、本伝説に於いてそのワキを勤める関守富樫左衛門の人物である。彼を安宅の関守とするのは既に『義経記』から(但しなお特に関所としてないだけで)であるが、その名は唯「富樫の介」とし、舞曲『富樫』『笈さがし』にも姓のみ見え、謡曲『安宅』にも「加賀の国富樫の何某」とあるだけである。『金平本義経記』『義経興廃記』も、『義経記』を踏襲して富樫介とするに止まっている。然るに『義経勲功記』(巻一七)には、「当国の守護富樫介家直」とし、且この書と関係ありと推せられる『義経知緒記』(下巻)にも、「加賀国富樫介家直が関所」と見える。『異本義経記』も同断であることは『拾葉抄』の引用文でわかる。そしてそれが左衛門とならしめられたのは、近松の『凱陣八島』(二段目)に、「富樫の左衛門」とあるのが初めのようで、同じく『(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』(四段目)にも、「富樫左衛門家直」とし、以後の小説・戯曲・脚本類は、大抵左衛門としているようである。又富樫が関所を据えて判官一行を留めることも、『義経記』にはなお「鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して判官殿を待ち奉るとぞ聞こえる」とあるが、舞曲『富樫』では、頼朝の命に依って城廓を固めて山伏を禁制するとし、『安宅』に於いては、頼朝が諸国に新関を立てさせ、作山伏の義経一行を詮議させるに当り、この地の関守を富樫が承ることとなっている。又『知緒記』『勲功記』以後は、富樫の弟斉藤藤次助家(祐家ども)という者が加えられるに至り(これは富樫と分家関係をなす斉藤の氏名から来ている。助家は富樫介代々の内の家助(『富樫記』)を転倒したか)、後の歌舞伎狂言に屡々用いられるようになった(そして後には富樫とは縁族関係の無い人物としてあるのもある)。  
さてこの富樫の人物に就いて、逸することの出来ない最も大切な点は、本伝説の成長進展に伴って、その富樫の性行も亦成長進展して行ったという一事である。それは一言にして言えば、無情峻厳な敵人から、情義を具備した性格の人となって行ったことである。即ち表面は敵意を示して厳酷を極めるが、内心には好意を有して、判官に同情する人物と漸次に変って行ったのを見るのである。先ず『義経記』の彼はなお善悪が判然せず、否鎌倉殿から仰せは蒙らぬが、判官を搦め取って恩賞に預かろうと待ち設けていると噂せられている。言わば判官の一敵国である。少なくとも好意は有しているとは見えない。舞曲・謡曲に於いてもなおその内心の善悪は作者の説明を以ては明示せられていない。極めて表面的に観れば、弁慶の働きによって旨く欺かれた形である。又『盛長私記』では弁慶等に怖れて通過を許している。然るに、近松の『胎内さぐり』(四段目)になると、義経主従の痛わしさと弁慶の苦衷に感じて、判官と知りながら通過を許すのみか、次々の関所の手形までも与えて情を懸ける富樫の行為は、近松の新趣向とはいえ、又国民一般の意見であり希望である所のものを具体化したものである。若竹笛躬・中邑阿契合作の『番場忠太紅梅箙』(五の口)では富樫の代りに梶原の臣番場忠太――平常は端敵に廻される――が義人になって、上の意見を代表しているが、それは富樫と忠太を入れ代えたと言うだけに過ぎない。かくて『義経風流鑑』『花実義経記』『風流東海硯』等を経て、益々富樫はこの情義の心を養われ、芝居の『御摂(ごひいき)勧進帳』に至って愈々それは顕著になった。その代りに敵役を祐家が引受けることになり、左衛門と斉藤次は阿古屋の琴責(『壇浦兜軍記』)の重忠と岩永、或は『生写朝顔話』「宿屋の段」の駒沢と岩代の対照と同型の組合せを示すようになって来た。それより以前の戯曲『番場忠太紅梅箙』で忠太がこの富樫の位置で、左衛門と善悪の対立をしているのは、忠太を主人公とする作意からで、本伝説の発達の上からは寧ろ自然とは言えない。  
この富樫が好意的に変わって来た原因は、即ち一は前述の如く国民の判官に対する同情から来たのであろうし、一は富樫の性格を一層複雑ならしめ、且第三者のみならず、直接第二人称の地位に在る者を感動させることとするのが、弁慶の忠義の効果を一層著しく且即座に現すこととなる所以であるにもよるのであろうが、直接には『義経記』の如意渡で弁慶の余りな打擲の烈しさに、却って打たれた判官に同情して、船賃として獲た北方の惟子をこれに与えた渡守権頭の変身である意味が恐らく認められるべきであり、それと共に一は又実際当時の人の中にも、判官に好意を有する人物もあったであろうとの想像も手伝っているのであろう。これが為には、例えば『義経記』(巻七)に見える、通行の途上判官一行に遭って、之を免した井上左衛門の如き、直接そのモデルとして自己を提供し、その想像に裏書したものもあるであろうし、近松が富樫に左衛門の名を附与したのも必ずやこれに出ていることは疑を容れない。そしてこの富樫が斯様な人物となろうとする傾向は、既に酒を携え一行の後を追って、その無体を詫びる謡曲『安宅』にその端を発している。併しながら翻って考えると、若し富樫が判官と知って之を免したとなれば、弁慶が絞り出した知嚢の放果はかなり消極的とならざるを得ない。関守を欺いて主君を救った機智と苦計とは、それのみを以てしては成功しなかったこととなる。同時にその代りには又、元来好意を有する、若しくは全然好意を有せぬ――そうならば一層――対手たる富樫の胸奥に、感激の心を揺り動かさせた血涙の忠誠は、一段武士道的光輝を放って、弁慶の資格を単なる智力の勝利者から道義の勝利者へと高めて行ったこととなるのである。  
本伝説は義経伝説中最も主要な又最も有名な伝説であるだけに、そして能として、謡曲としての『安宅』によって一層著名にせられているだけに、影響する所も頗る大きく、後世これに取材した多くの文学を生み、又本伝説の変容や勧進帳の捩り文が続出した。特に近松は好んで安宅式の構想を用いたようである。即ち変容としては『文武五人男』(四段目)――この浄瑠璃も近松作かと言われている――に於ける、芥川新関をば熊野巡礼に装った  
渡辺武綱・坂田公平・碓氷貞治の三勇士が越えようとして、関守河野隼太照廣に止められ、巡礼唄を所望せられて唄い損じ、正体を看破られる段、『吉野忠信』(四段目)に於ける、吉野で静と貞順尼(もと九條の遊女若紫)・花紫の三女性が衆徒に見咎められて詮議を受けるのを、貞順尼が「女郎名よせ」を語って疑を解く場面(花紫は忠信の妻、若紫は忠信が主君の遊興を抑止する方便として態と買った敵娼で、これは力寿・愛寿の二人から思いついたのであろう。三段目に妻の嫉妬に対しての弁疎に、忠信が遊廓の悪口を叩くのを、折から来合わせて物陰に案山子のようにひそまり返っていた貞順尼が聞きかねて、覚えず持った杖で忠信を打つ構想があるのは、狂言『瓜盗人』の趣向を借りたので、やがて三人心解けて、「若紫花紫道行」となり、勝手の宮で測らず静御前と出遇って互に名告り合った所へ、衆徒が集まって来て取り囲むことになっている)、『雪女五枚羽子板』(中の巻)に於ける、斯波左衛門義将の臣藤内二郎の女房が、男装して贋義将となって敵方古川権頭が館に婿入し、系図を責め問われて、出まかせに喋り立てる「もんさく系図」の滑稽、『国性爺合戦』(四段目)「九仙山の段」に於ける、南京の雲門関で国性爺が楊貴妃の廟所、大真殿再興の勧進帳と号して、軍勢の著到一巻を取出して読み上げる光景を、二仙翁が碁盤上に現映させる奇蹟(これは本文にも「我が本国文治の昔、武蔵坊弁慶が、安宅の関守欺きし、例(ためし)を引くや梓弓」と説明の詞句まで入れてある)、或は『曽我扇八景』(中之巻)の十郎が佯っての母打擲、「菊畑」の鬼三太が虎蔵の牛若打擲等がある。八文字屋本の『傾城色三味線』(湊之巻第三、稲荷の化を顕はす手管男)にも下関の女郎歌舞伎に仕組んだ虚無僧姿の義経主従の女郎衆が揚屋の富樫屋左衛門の関で詮議を受け、美女の姿の註文を読めと責められて、弁慶が懐中より書出し一通取出して読み上げる趣向があり、この章の文も謡曲『安宅』をもじってある。又、安宅関へ弁慶を始め、『鏡山』のお初、『伊賀越』の沢井又五郎など、義経伝説に関係ない人物まで通りかかって、思い思い滑稽な芸づくしをして通過する『滑稽俄(おどけにわか)安宅新関』も、先ず本伝説の進展の結果として来た別種の形への変容であり、又本伝説からの派生でもある。  
又勧進帳のもじりには近松の『百日曽我』(二段目)の「傾城請状」、前記『吉野忠信』の「女郎名寄」、『曽我虎が磨』(下之巻)の虎御前が勧進帳(これも本伝説の変容でもある)、『国性爺』「九仙山」の勧進帳(「もんさく系図」も著想は勧進帳のもじりである)、前出『傾城色三味線』の諸国美女探しの「姿の註文」、それから西沢一風の『御前義経記』(巻之五)の「風呂屋勧進帳」、石川雅望の「狂歌勧進帳」(『狂文吾嬬那萬俚(あづまなまり)』)、謡風のもじりの『乱曲扇拍子』の「大尽安宅」、半太夫節の『絵合源氏色安宅』(六段目)の「名寄祭文」、宮園節の「廓進帳」の類がある。  
なお安宅の関址は今は海上一里乃至三里の沖合に位置していると伝えられる(『三州名跡志』)。  
〔補〕近時上の説を否認して、安宅町の南、住吉神社の在る二つ堂山附近を関址とする説が現地では唱えられ、記念の碑石まで建てられている。又、昔は扇投げの松というのがあったとのことで、里の子等に弁慶が間道を問うた時、その礼に与えようとした扇の数が主従は八人、童は九人で一本不足した為、躊躇する間に童等は道を教えずに逃げ去ったので、弁慶が扇を投げて泣いた跡だとの口碑が伝えられている。説教節の『弁慶安宅関』にはこの口碑が採られている。 
【文学】謡曲『安宅』とこれから出た歌舞伎の脚本『勧進帳』がその代表である。前者の「勧進帳」は能の三読物の第一に数えられ、後者は歌舞伎十八番の随一として、歌舞伎劇の典型としても、歌舞伎化せられた松羽目物の典型としても、亦舞踏劇としても、舞台劇として重きをなしている。その他舞曲『富樫』(一名『安宅』)は勧進帳読みはあるが打擲を欠き、『義経興廃記』(巻一二)は打擲はあって勧進帳読みを載せない。『勲功記』には巻一七に出ている。変容としてでなく、安宅伝説を浄瑠璃に作ったものには、近松の『凱陣八島』(二段目「義経道行」)『(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』(四段目「義経道行」)がある。前者は謡曲の『安宅』から出、後者は謡『安宅』と舞『富樫』とを併せたようなものである。並木宗助等の『清和源氏十五段』(四段目)にも安宅の関の件があり、若竹笛躬等の『番場忠太紅梅箙』(五段目「道行越路篠懸」)では勧進帳読み、打擲、延年舞などすべて謡曲から採ってあるが、前に述べたように、富樫は適役になって居り、関所を越えるのが番場忠太の情によってであるという点が妙な新趣向である。歌舞伎方面では『握虎齢泉寛濶武蔵星合十二段』(元禄十五年二月、中村勘三郎座、一説には十七年春、市村座)が嚆矢で、三升屋兵庫の作者名で初代市川団十郎自作自演、勿論弁慶は団十郎、義経(水木富之助)・京の君(沢村小伝次)その他四天王等があり、和泉三郎(市川弁十郎)と弁慶との関所問答の半ばへ朝比奈三郎(市川団十郎)が出て、義経主従を救い、奥州へ落としてやるという筋で、二月二日から六月廿五日まで百五十日間打通し、大入満員の盛況は「押合十二段」の地口まで生じたと伝えられる(『役者江戸櫻』)。そしてそれに追掛けて同じ登場人物を用いた『女高砂勢松女熊坂妬松高館弁慶状』を七月から出したと言われるが、『歌舞伎年代記』は十七年説で、且『弁慶状』の方は十四年七月で、大谷廣右衛門と市川団十郎の二人弁慶が好評であったと記している。その後『隈取安宅松』(所作)、『御摂勧進帳』(芋洗いの弁慶。初代桜田治助作。初演は三世市川海老蔵即ち四代目団十郎)、『筆始勧進帳』『大(だいだんな)勧進帳』(但し『筆始』には富樫も出るは出るが、実はこの二つは団十郎の熊井太郎で『暫』である)等を経て、四世海老蔵即ち七代目団十郎の『勧進帳』(三代目並木五瓶作)が天保十一年三月木挽町河原崎座で出てから、市川家十八番の家芸として極めが附けられると共に、演劇としての本伝説も最高峯にまで到達した。その後には『滑稽俄安宅新関』の安宅劇の喜劇化があり、『胎内さぐり』の安宅の段の前に『安宅松』を採合わせて脚色した榎本虎彦作の『安宅関』(法螺貝の弁慶)、川上音二郎の『義経安宅問答』などいうものも出た。以上の操・歌舞伎の安宅劇には大体能(『安宅』)系統のもの――その代表は『勧進帳』――と、舞曲(『富樫』)系統のもの――その代表は『胎内さぐり』の安宅、従って法螺貝の『安宅関』――と、二つの主な流れがあり、両者に跨ったようなのもある――『御摂勧進帳』はそれである。  
〔補〕明治四十四年七月東京座で女優市川九女八の引退狂言に『安宅関』が出た際は、弁慶の舞を見せる為に、関所の後へ川辺の場を附けた。踊れぬ八百蔵に書卸された脚本を、斯うて活かそうとしたのであった。又、十八番の『勧進帳』は宗家の許可がむずかしいので、それを少し変えたのを、関所を川辺にして背景を附けた『安宅川新関』という外題にして、関三十郎が大正七年六月、四谷大国座で演じたのを観た事がある。「安宅川の弁慶」がこれであるが、背景の写実と調和せぬ妙なものであった(赤い篠懸は『安宅関』の弁慶に倣ったのであろうか)。照葉狂言の泉祐三郎一座の三味線地の能の『安宅』の方がまだ観られると思った事であった。  
『続々歌舞伎年代記』で見ると、明治三十四年二月真砂座に『淑女勧進帳』というものが出ている。その前年七月の春木座の狂言にも『処(むすめ)女勧進帳』があるが、これは内容は櫻山入道の息女八重衣を中心にした太平記物で、義経伝説ではない。  
大正十年十一月、東京上野鶯谷の国柱会館で、国性文芸会によって田中智学作『義経北国落』が演ぜられたが(『栗橋の静』も同時に上場)、これは『義経記』の原話即ち如意の渡の事件を脚色したもので、加藤精一の弁慶、義経は横川唯冶(山田隆弥)であった。 
小説では八文字屋本に『義経風流鑑』(五之巻)、『花実義経記』(七之巻)、『風流東海硯』(五之巻)、黄表紙に『通増安宅関』、合巻に『義経越路松』(これは安宅関に到る前の富樫が関での打擲で、且富樫の臣佐久味兵衛の義心になっている)がある。その他一代記風の義経物には無論大抵載せている。歌曲にも多く採られ、土佐節に『安宅勧進帳』、半太夫節乃至河東節に『安宅道行』『弁慶勤の段』『勧進帳』、一中節にも『安宅道行』『安宅勧進帳』、踊くどきに『富樫左衛門』等があり、『松の落葉』(巻六)の「中興当流所作」の中にも、「竹島幸左衛門・同幸重郎」として『とがし城』というのを収めてある(その歌詞は舞曲『富樫』から出ている)。長唄では『隈取安宅松』即ち『安宅』(明和六年十一月市村座で出した櫻田治助作『雪梅顔見勢(むつのはなうめのかおみせ)』の内『安宅松』の所作の地で、節附富士田吉次、弁慶(羽左衛門)が草刈童等に道を問う事に取材してあり、歌詞は謡『安宅』に、構想は舞『富樫』に借りてある)、及び『勧進帳』(四世杵屋六三郎(後、六翁)一世一代の作曲)が最も有名であるが、この『勧進帳』には台詞が無いので、謡曲『安宅』の詞句を基として一中節の『勧進帳』に近い文詞に作ったものに、大薩摩絃太夫(後、十一世杵屋勘五郎)が慶應三年に作曲した『安宅勧進帳』が出来、単独にも、亦普通の『勧進帳』と掛合にも唄えるようになっている。併し一般にはやはり普通の『勧進帳』の方が行われる。  
〔補〕義三太にも謡曲に基づいて『加賀海文治荒涛』(安宅関所の段)という曲が作られ、説教節に『弁慶安宅関』(山伏問答)『安宅勧進帳』(山伏問答)があり、筑前琵琶に『勧進帳』『安宅関』『荒乳関』、薩摩琵琶(錦心流)に『勧進帳』、浪花節にまで『勧進帳』(義経安宅関)が出来ている。大抵謡曲と長唄とから出ているが、説教節の二曲は稍異色があり、舞曲の系統をも引いている所もある上、他と比べると独特の構想を有している。  
本伝説を詠んだ歌俳も少くないが、有名な作は余り無いようである。寧ろ川柳の  
珍しい忠義主君をぶちのめし  
五條ではぶたれ安宅でぶち返し  
草刈に年玉をやる武蔵坊  
など面白い。最後のは蜀山人の狂歌  
弁慶が里の子どもにくれてやる堀川御所の萬歳扇  
と同巧である。 
15-2 笈さがし伝説

 

安宅伝説に附帯して一言すべきはこの笈さがし伝説である。  
【内容】  
人物 義経・北方・弁慶以下の一行。直江太郎(『笈さがし』)(『義経記』には、らう権頭)その他浦人等  
年代 [15-1]に同じ。  
場所 越後国直江の津  
判官の一行が直江の津に着いた時、土地の者共に怪しめられ、問答の末、所持の笈数挺の中を探され、甲・籠手・臑当等を入れた笈の中までは運強くも検べを免れたが、北方の櫛・唐鏡などが顕れたので、愈々咎められたのを、弁慶巧に陳弁して、却って仏法の威徳を説いて群衆を圧服した。  
【出処】『義経記』(巻七、直江の津にて笈探されし事)、舞曲『笈さがし』。  
【形式・成分・性質】特殊の型式のものではないが、[15-1]よりも単純で、智力の勝利を説く童話的な難題説話であり、空想的成分がかなり多きを占めている史譚的説話である。  
【解釈】要するに安宅伝説と同種のもので、義経主従奥州落の途上に於ける危難を語り、その難題の解決者、危急の救助者としての弁慶の機智と忠義とが語られていることは[15-1]と同断である。  
【本拠・成立・影響】史実の本拠は無い。安宅伝説ほどの大きさと複雑さと深さとが無いから、同伝説のような成長も影響も見られなかった。『(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』(四の切)の安宅関で、弁慶の誠忠に感じた富樫が、主従を助ける為に、汝等はこの頃斬った多くの山伏共の同類で、判官・弁慶に似せて熊と搦めさせ、我に不覚を取らせん謀と看破したと叱責して、関を追い立て、一行を通してやると、  
下部の雑色、笈に当ってからりからりと鳴る音に、ヤアこの笈には鎧あり、留まれとこそ。富樫抑えて、さてたくんだりくんだり、判官殿に似せんとて、鎧まで入れたるな。  
かくては行く先々の関所で、「判官顔しては関守をなぶるは必定、憎さも憎し、ついでに判くれんず」と、誰にも咎めさせぬ関手形を投げ与えるのは、近松が本伝説を利用したので、即ち安宅伝説の中に採込まれたのである。  
〔補〕『義経東六法』(下の巻)に「幸若舞曲『笈さがし』のもじりあり」と『近世邦楽年表』(義太夫節之部)に見える。 
なおこれは本伝説から直接派生したというのではなく、山伏姿の奥州落に関連してであるのは勿論であるが、笈を中心とする伝説を取扱ったついでとして言うべきは、義経主従の使用した笈と称する物が諸処に伝存することである。即ち橘南渓の『東遊記』(巻四、義経の笈)には、各地の難を辛うじて免れて、一行が出羽国三瀬という海浜に着いた時、これから先は安全であるとの理由で、山伏姿を解き改め、氏神三瀬の社に詣でて其処に残し留めたという笈が七箇、同社の宝物とせられているといい(『甲子夜話』(続編巻六二)所載の『墨多筆記』には『東遊記』の同記事を漢訳して録してある。因に『墨多筆記』は蒲生亮秀の撰で、静山侯は「何に拠る知るべからず。蓋居処の採録なり」と記しているが、『東遊記』前半を漢文に簡訳したものであることは、両書を対比すれば明白である)、桂川中良の『桂林漫録』(下巻、義経之笈)にはその改装の時の七箇は山形の領内七箇寺に一つづつ伝来し、義経のは小形で内部を観音経で張り、伊勢三郎のは大形であると紹介し、又常陸国月山教寺にも義経の笈を伝え(栗山潜鋒の『幣帚集』「弁慶が笈の記」に見えると、山崎美成の『提醒紀談』(巻三)に引いてある)、亀井六郎の笈は平泉中尊寺に遺され(『東遊記』前出同條)、弁慶が笈は佐藤庄司館跡に什物とせられ(『奥の細道』所見。医王寺現蔵)、別に又紀州熊野本宮の祠官和田廣高という旧家にも弁慶が笈という物を蔵している(「弁慶が笈の記」。前出同断)ほどで、奥州落の伝説から生まれ出た仮想が各地を遊行して、それぞれの地の古笈に附著せられて行ったものであろう。  
【文学】『義経記』(巻七)、舞曲『笈さがし』『金平本義経記』(六之巻三段目)、『義経勲功記』(巻一七)等。舞曲の『笈さがし』は『富樫』の下の巻で、文詞もそれに連続して居り、且、船弁慶伝説と同型の説話を含み、又一本ではねずみつきの関の難を語って、これは安宅伝説と密接な交渉のあることを示している。 
16 摂待伝説

 

【内容】  
人物 義経以下の一行。佐藤兄弟の母尼公(及び兄弟の後家(舞『八島』)、或は継信の遺子鶴若(謡『摂待』)。)  
年代 奥州落の途(文治三年)  
場所 陸奥国信夫、佐藤庄司館 
途上各所の難を弁慶の計で辛く免れた後、漸々奥近くなったが、恰も佐藤庄司元冶の後家で、継信・忠信の母なる尼公の家で山伏摂待を企てていたのに宿り合せた一行を、老尼は両愛子の未亡人・愛孫等と共に歓待して、継信・忠信の身の上を聴こうとする。初めは裏んでいた判官も漫ろに哀憐の情を催し、終に姓名を明し、そして弁慶に命じて、継信が屋島で敵将能登守教経の矢先にかかって判官の命に代ったその場で、忠信は教経の童菊玉を射て兄の仇を報じたこと、又、忠信が君の御名を賜って吉野に残り、終に都で討死したこと(忠信最期の物語は謡曲『摂待』にはない)等を談らせた。老尼は兄弟の勇ましく誉ある戦死の状と、主君判官の仁心の物語とを聞いて感泣し、判官も亦今昔の想出に哀傷を新にし、並居る人人皆涙と共に夜を明した。  
なお『摂待』には姓名を隠して告げない一行の誰彼を、その声音によって老尼がよく言い当て、又、若しこの中に判官殿とおぼしき人があれば告げよと判官に言われて、継信の遺子鶴若が誤またず義経を指したので、判官は流石に哀れを覚え、堪えかねて膝に抱き上げて愛撫し、泣く泣く名告りをしたが、夜明けて出発しようとすると、鶴若は一行の袂に縋って君の御供をと願って巳まぬのを、弁慶等が賺し慰めて出て行くことにしてあり、『八島』では佐藤の館と知らずして投宿したとし、且、『摂待』の鶴若のいじらしさの代りに、継信兄弟の妻等が、母の考案で、小櫻縅と卯花縅の鎧を著けて、継信・忠信が帰ったとて、病床の老父を慰めた事を、老尼の談話中に含んで居り、そして弁慶は初め屋島の戦場に通り合わせた客僧として、継信戦死の状を物語ったが、後終に義経始め一同名告りをすることになっている。  
【出処】謡曲『摂待』、舞曲『八島』。  
【型式・成分・性質】これも特殊の型式のものではないが、中に含まれる継信の最期は義光型の身替説話、『八島』の二嫁女の件は孝行譚で、且甲冑堂の由来説明説話(縁起伝説)である。そしてこれも空想的成分が大部分を占めている史譚的伝説である。  
【本拠・成立】本伝説全体としての史実の本拠は無いのみか、義経奥州落の頃は元冶はなお存命で、継信・忠信の母は後家となってはいない。『吾妻鏡』(巻九、文治五年八月八日)に、頼朝の泰衡征伐の時、信夫庄司戦死の記事を載せてある。  
八日乙未。(上略)又泰衡郎従信夫佐藤庄司 又号湯庄司。是継信・忠信等父也 相具叔父河辺太郎高経・伊賀良目七郎高重等、陣于石那坂上、堀湟懸入逢隈河水於其中、引柵張石弓、相待討手。爰常陸入道念西子息、常陸冠者為宗・同次郎為重・同三郎資綱・同四郎為家等、潜相具甲冑、於株之中進出伊達郡沢原辺、先登発矢石。佐藤庄司等争死挑戦。為重・資綱・為家等、被疵。然而為宗殊忘命攻戦之間、庄司巳下宗者十八人之首、為宗兄弟獲之、梟于阿津賀志山上経岡也云々。 
これは『廣益俗説弁』の著者も既に指摘している(正編巻一四、婦女)。但し、『吾妻鏡』同巻十月二日の條には「囚人佐藤庄司(中略)帰本処」とあるによれば、庄司のみは生捕られたのかもしれない。この庄司が継信兄弟の父であることは佐藤系図にも見える。尤も継信等は秀衡の叔父忠継という人物の子という異説(奥州御館系図)もないではない。この系譜はかなり怪しいものではあるが、兄弟が秀衡の縁族であったのは確のようである(『吾妻鏡』忠信戦死の條)。母が二子を慕って尼となったという伝説は『北越略風土記』にも伝えられ、更に橘南渓の『東遊記』(巻一、甲冑堂)に見える磐城才川駅高福寺の甲冑堂の由来伝説は、次に引くように、父の代りに母としてある外、小異を除き、大体舞曲『八島』の素材と一致する。恐らくは斯様な口碑がその地方に行われたのが、舞曲等に採られたのであろう。若し然らずとすれば、この舞曲から出た伝説とすべきである(『甲子夜話』(続編巻六二)転載の『墨多筆記』にもやはり『東遊記』から漢訳せられてこの伝説が出ている)。  
奥州白石の城下より一里半南に、才川という駅あり。この才川の町末に、高福寺という寺あり。(中略)この寺中に又一つの小堂あり、俗に甲冑堂という。堂の書附には故将堂とあり。(中略)婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。いかなる人の像にやと尋ねるに、佐藤次信・忠信二人の妻なりとかや。その昔義経、鎌倉殿の義兵を挙げ給うを聞き、秀衡に暇乞して鎌倉へ赴き給う時、佐藤庄司我が子の次信・忠信を御供に出せり。その後(中略)次信は八島にて能登殿の矢先にかかり、忠信は京都にて義の為に命を殞し、兄弟二人とも他国の土となりて、形見のみかえりしを、母なる人悲しみ歎きて、無事に帰り来る人を見るにつけて、せめては一人なりともこの人々の如く帰りなばなど泣き沈みぬるを、兄弟の妻女その心根を推量し、我が夫の甲冑を著し、長刀を脇ばさみ、勇ましげに出立ち、只今兄弟凱陣せしと、その俤を学び老母に見せ、その心を慰めしとぞ。その頃の人も二人の婦人の孝心あわれに思いしにや、その姿を木像に刻みて残し置きしとなり。 
甲冑堂の事は『和漢三才図会』(巻六五、陸奥国)にも載せてある。又舞曲に鎧を小櫻縅・卯花縅としたのは、『義経記』(巻八、嗣信兄弟御弔の事)の條に一致している。即ち判官が奥へ下って後、兄弟の母の尼公及び後家を召して、兄弟の供養を行い、継信の遺子に三郎義信、忠信の遺子に四郎義忠の名を与え、二人の父が義経に代って討たれた剛勇を物語り、小櫻縅と卯花縅との鎧を二人に賜ったというのがそれで、同條でも兄弟の母は既に尼公なのである。本伝説は恐らく『義経記』のこの條を本として、成生したのであろうかと考えられる。内容に於いても『義経記』と舞曲『八島』とが近接し、又舞曲『八島』と謡曲『摂待』とが近接している。その『摂待』の鶴若が判官を名指せと望まれて言い当てるのは、『義経記』(巻七、如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事)で渡守に詰られる條の  
弁慶これを聞きて、そもそもこの中にこそ九郎判官よと、名を指して宜へと申しければ、あの舳に村千鳥の摺の衣召したるこそ、怪しく思い奉れと申しければ、 
とあるのから来ていると思われる。なお兄弟の母に関しては、秀衡に嫁ぐ為に京から下ったのを信夫に奪われて婚したのであるとの伝説が『平治物語』(巻三)に伝えられている。  
次に本伝説中に含まれる継信戦死の事件は史実の本拠がある。弓流伝説の條に引いた『吾妻鏡』(巻四、元暦二年二月十九日)の文がそれである。なお前には略したその下文をも掲げると、  
………于時越中二郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛忠光平氏家人等、下自船、而陣宮門前、合戦之間、廷尉家人継信被射取畢。廷尉大悲歎、(ロ+屈)口衲衣、葬千株松本、以秘蔵名馬、号大夫黒。元院御厩御馬也。行幸供奉時、自仙洞給之。毎向戦場、駕之。賜件僧。是撫戦士之計也。莫不美談云云。 
その能登守に射られて落馬した継信の首を取ろうと馳せ寄った教経の童菊王が、忠信に射斃される説話は『盛衰記』(巻四二)に於いて既に語られている。継信が主君の身替となったように記述したのは、『平家物語』(巻一一)特に『八坂本』(巻一一)である。『義経記』(巻八)から以後は明らかに義経の身替に立ったこととせられ、謡曲『摂待』では、「継信は心まさりし剛の人にて、御馬の前に駆け塞がりて、義経これに在りやとて、にっこと笑って控えたり」と身替を自ら説明している。そして『盛衰記』で、その死に臨んで、唯故郷の老母の事のみが心がかりと奄々の気息裡に遺した継信の言は、『義経記』(巻五)の吉野山での忠信の孝心厚き詞と相応じて――そして恐らく前者が後者の作者に粉本を与えたでもあろう――やがて本伝説の発生を予言している。  
【解釈】判官挙兵当初以来の股肱で、而も一は鴨越の険を越えるに、二つの愛馬の一つに騎せられ、屋島に討死した時、又愛馬太夫黒を供養に手向けられた継信と、一は吉野山の難に姓名と鎧とを与えられて、友輩の羨望の的となった忠信との両寵臣、且は共に、伝説上に於いては判官の身替に立った一対の兄弟の忠勇を偲び、臨終の際に両孝子が共々思いを馳せて行末を案じたその母の老尼に、二人の愛子のみを欠いた山伏姿の同行に対面させて、母子の情の哀切さと、未亡人・遺子の健気な言行とに袂を絞らせる所に、義経伝説としての本伝説の眼目があり、これが判官不遇の日であるに於いて、更に感慨を深からしめるのである。同時に、判官の臣下及びその遺族に対する慈愛を示して、判官が恩威並び行う大将であることを裏書し、又近古の武士の母と妻子の姿も髣髴せしめられている。源平時代と言わず、模範的な中世武人家族気質が躍如としている。山伏摂待の如き、近古の一習俗として、又投影している。  
【成長・影響】浮世草子『風流東海硯』(五之巻)は摂待の当主が母の尼ではなくて、次信・忠信の馴染んだ遊女蚶潟と坂田とに変っている。又謡曲『鶴若』は本伝説から――謡曲『摂待』からと言う方が一層適切であろうが――派生した作である。判官の一行から父の最期の状を聴き得て深く決意し、暁天人々の袖に縋って、「如何に誰かある。馬に鞍置き、靱まいらせよ。君の御供申さうずるに。(中略)君の御供申してこそ親の敵にも逢うべけれ」(『摂待』)と幼な心に勇躍する健気な勇士の忘れ形見は、又一曲の武勇譚の主人公となるに十分である。継信が最期の物語を聞く結果があれば、出陣の愛別も亦自ら題材となり得るは必然である。即ち『鶴若』は継信兄弟の出陣に際して、後から追い到った鶴若が、死を以て戦場への供を乞うのを、病母(これは祖母ではない)を如何にすると情も厚い父に諭されて、心惹かれつつ泣く泣く叔父忠信に馬に掻乗せられて、もと来た路に引返し、父も涙の眼に後影を見送りながら、戦場へ向う親子の訣別を作ったもので、小さい兜巾・條懸を着けて山伏道の御供せんと乞うて巳まぬ『摂待』の鶴若を、「小弓に小矢を取り添えて」父の供せんと追い縋る「弓取の子」としたのは、一面『太平記』(巻一六、正成下向兵庫事)の楠公父子櫻井の訣別にその形を借りたものであろう。又舞曲『八島』に見える老尼が判官に献じた小櫻縅・卯花縅二領の鎧は、舞曲『高館』では、継信の為にと作った小櫻縅は、判官の手から、紀州藤代から馳せ著いた鈴木三郎重家に与えられ、忠信の料にと縅された卯花縅は、弁慶が之を著けて衣川合戦で大勇を顕すこととなっている。  
【文学】謡曲『摂待』、舞曲『八島』、これらから出た古浄瑠璃に『門出八島』及び『凱陣八島』(三段目)がある。『摂待』からは別に謡曲『鶴若』も出ていることは前項に説いた。舞の本『八島』は『継信忠信記』という題号の絵巻としても伝存している。『近古小説解題』には、別に『八島にこう物語』(刊二巻)というものを提出して、「謡曲『摂待』及び幸若舞草子『八島』と同じ事がらを写せるもの」と解説してあるが、「松会開板」本で内題には「やしまにこう物語」とあるけれども、実は舞曲『八島』と全く同じ物である。又題簽を『新板絵入やしま合戦』とし、巻末に「大阪新町橋東詰藤屋伊兵衛開板」とある書もやはり『八島』と同一物である。近松の『門出八島』は全曲殆ど本伝説に関係があると言ってもよい。初段は佐藤兄弟の出陣、二段目は次信戦死、この段に奥州の父から戦場の兄弟へ小櫻縅と伏縄目の鎧を贈り届けることがある。三段目は忠信が浜辺をさまよって深手の兄を尋ね当てること(舞『八島』から来ている)と大将の御前での次信の臨終、四段目は父庄司が松の枝折れに次信の死を予知すること、次信の妻はや姫が鷲尾の庵で夫の亡霊に逢うこと(謡『八島』から来ている)、五段目は新黒谷での次信追善、妻子の参詣等である(この曲に志田三郎勝平という人物を絡ませてあり、それを津戸三郎としてその往生を主題としてある曲が『津戸三郎』である)。但し眼目の摂待は無い代りに、それが『凱陣八島』の三段目を成している。並木宗助・安田蛙文合作の『清和源氏十五段』は五段目が摂待で、この曲は特にその段だけが有名である。八文字屋本には『義経風流鑑』(五之巻)、『風流東海硯』(五之巻)があり、表具又四郎節にも『山伏摂待』がある。黙阿弥の『千歳曽我源氏礎』の大詰(五幕目、羽州佐藤摂待の場)が『山伏摂待』で、これは新歌舞伎十八番の一になっている。又黒本には『門出八島』がある。『奥の細道』にも二嫁女を翁は偲んでいる。  
〔補〕奥浄瑠璃『尼公物語』は本伝説を題材としたもので、その二段目「尼の接待の段」及び三段目「武蔵八島物語の段」を昭和五年四月八日四谷寺町西念寺で聴いた(主催民俗芸術の会、演者鈴木幸龍)。説話の内容は舞曲に近いものであった。筑前琵琶にも本伝説を取扱った『信夫の宿』、又両妻女が甲冑姿をした伝説を記念する櫻樹に関してその古口碑を語る『名残の女櫻』という曲が作られている。明治二十一年一月市村座の中幕に出た『会稽源氏雪白旗』は 
黄金花さく陸奥山佐藤の館に基冶が未然を察する老巧の諌言、主従の契約に車の両輪兄弟の発足、白銀降積む富士嶽浮島が原に頼朝が平家を誅する義兵の上洛、義経の参著に鳥の羽翼兄弟の対面。 
と割書があって、継信兄弟の出陣と頼朝兄弟の対面とを対照して配したものである。近時では佐藤兄弟の門出を題材とした吉田絃二郎氏作『出陣絵巻』が昭和七年十一月歌舞伎座に上場せられた。『吾妻鏡』『義経記』『接待』『八島』等から資料を得て脚色せられている作で、歌右衛門の尼公が主役であった。  
本伝説の主要な挿話をなしている継信忠死の事件は『平家』『盛衰記』等の外、謡曲『八島』『熊手判官』にも採られ、又廃曲『嗣信』はこれを題材としたものであるに違い無い。『金平本義経記』(三之巻初段)、前出『門出八島』、『義経千本櫻』(道行)『花軍寿永春』(二段目)、『弓勢智勇湊』(四段目、春霞八島の磯)、前記の『千歳曽我』(序幕)等にも取材せられている。 
 
船弁慶(ふなべんけい)

 

あらすじ  
平家が滅びた後、兄の源頼朝と不仲になった源義経は、嫌疑を晴らすべく西国落ちを決意する。摂津国尼崎大物浦まで一行が到着したとき、弁慶の薦めを容れて静御前を都へ帰すことになる。弁慶は静の宿を訪ねてこの由を伝えるが、静は弁慶の一存から来たものと誤解し、義経に直訴する。しかし、義経からも重ねて都へ帰る由を伝えられ、静は沈む心を引き立たせ、やむなく別離の[中之舞]を舞う。最後には、烏帽子を脱ぎ捨てて静は帰っていく。<中入>  
義経一行が船出すると俄かに風が荒れ始め、平知盛を始めとする平家の怨霊たちが波間に現れ、義経一行を海に沈めようと[舞働]を舞って襲い掛かってくるが、弁慶が五大明王に祈ると遠ざかり、波間に消えて失せていった。  
ゆげひ的雑感  
前シテの優美な舞。後シテの豪快な長刀さばき。前後の対比が鮮やかで、能鑑賞入門なんかによく使われる能です。  
前場の主題は、もちろん静御前と義経の別れです。しかし、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』によると、実際に義経と静が別れたのは、義経が大物浦から西国に行こうとしたところ、嵐に会い無理だったので(この史実が『船弁慶』後場のモデルですね)、今度は大峯山に逃げようとしたところ、そこが女人禁制だったために仕方なく別れたとあります。ですから吉野山中であって大物浦での別れは能作者のフィクションということになります。本来、吉野であった別れを大物浦に敢えて変えた理由は、前文で書いた通り、静御前と平知盛の対比をさせるためでしょう。  
史実では別れた後、静御前は頼朝の手の者に捕らえられ、母親の磯禅師と共に鎌倉に送られます。母親の磯禅師が付いてきていることから、十代後半ぐらいの若さだったと思われます。そして義経の行方を尋問されますが、この時は「詳らかならず」ということで決着がつきます。答えなかったと考えるとなかなか面白いのですが、単に別れた後の動向は知らなかったと考える方が自然かもしれません。  
その後、鶴岡八幡宮で舞うように、頼朝から命令を受けますが、病気と称して固辞します。しかし再三の命令により舞いますが、その時、  
吉野山 峯の白雪ふみ分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき  
しづやしづ しづのおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな  
と別離した義経のことを恋い慕う歌を詠い、頼朝を激怒させたことは有名です。この時は、頼朝の妻・北条政子のとりなしで事なきを得ています。  
また若い御家人数人と酒宴をなす記事もあります。この辺りから考えて、静御前は罪人扱いではなく参考人扱いだったのでしょう。この時、御家人の1人、梶原景茂が酔った勢いで静御前に「艶言を通ず」とありますが、静御前はきっぱりとはね除けます。  
静御前は義経と別れた際に身ごもっていたようで、鎌倉で子どもを生みます。男の子でした。女の子ならば一緒に京都に帰すことになっていましたが、義経の後継となりえるということで殺されてしまいます。京都へ戻った後のことははっきりしません。  
一方、後シテの平知盛ですが、彼は清盛の三男で平家の副将でした。『平家物語』においては常に運命を正しく見据え、平家の命運が尽きようとしていることを認識しながら、それでも余裕さえ持って精一杯戦う男として登場します。壇ノ浦合戦の際、女房たちに「中納言殿、軍はいかに」と問われたところ、「めづらしき東男をこそ、ご覧ぜられ候はんずらめ」と言って「からからと」笑ったといいます。運命を見届けたものの爽快さがあります。  
また同時に情の深い様も『平家物語』では語られています。平家が木曾義仲の軍に攻められて都落ちをする際、大番役(御所の警備)のために京都へ上洛していた東国武士たちについて、帰しても源氏方となって攻めあがってくるだろうから斬ってしまおうとしたことがありました。  
その時、知盛は「御運だに尽きさせ給ぎなば、これら百人千人が頸を斬らせ給ひたりとも、世を取らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所従等いかに歎き悲しみ候はん」と、彼らを斬っても勢力挽回に何の足しにもならないことを説き、そして残された妻子たちのことを気遣う発言をして、斬るのを留めさせています。命を救われた東国武士たちは感激し、平家が崇める安徳天皇の護衛に加わることを願い出ましたが、知盛はそれをも留め、妻子たちのところに帰したのでした。  
また一ノ谷合戦では、息子・知章が組み合っていたのを見殺しにしてしまったことを歎いて兄・宗盛に語ります。その言葉には一辺の自己弁護も無く、ただただ我が身を恥じています。  
さらにその際、船に馬が乗れなかったので、陸に帰すことになるのですが、部下がどうせ源氏のものになるのならば、と弓で射殺そうとします。しかし、知盛は「誰の物になってもかまわぬ。私の命を助けたものを。射るべきではない」といって止めさせます。その心が馬にも通じたのか、しばらくは船から離れようともせず、陸についてもニ三度船の方を向いては嘶いたといいます。  
知盛は最期、「見るべきほどの事は見つ」といって身を投げます。平家の滅亡を見取ったという宣言です。そこには死に向かう悲壮さはなく、それどころか清々しさまであります。  
その清々しい知盛がなぜ怨霊として能『船弁慶』では登場するのでしょう。  
『船弁慶』の前シテの静御前と、後シテの平知盛の怨霊ってのは、全く異なる人物ですが、最近、やはり後シテはある意味の前シテの変化かな、と思う様になりました。どちらも感情自体には違いがありますが、義経に強い執着心を持っていて、それを舞や謡に表さなければならないこと、そして弁慶に邪魔されるところなどがそっくりです。  
前シテの静御前は、神泉苑で舞って天候神=龍神を感応させたという伝承の持ち主です。その彼女が同行しなかったからこそ海は荒れ、知盛が登場するのです。『船弁慶』の前半には「波風も静かを留め給ふかと」という謡がありますが、静御前がいれば「波風」は「静」まって知盛は登場できないのです。水に関して表裏を為す役なんですね。  
しかし、義経一行は「静」を陸に「留め」ます。それは息子・知章を陸に留めたために死なせてしまった知盛の彷徨う霊と感応しました。海面は荒れ立ち、静の悲しみをも背負った知盛が波間から現れます。…前シテを舞う子と、船弁慶への思いを話しているうちに、こんなイメージが沸き始めました。  
これは私のあまりに勝手な解釈かもしれません。実際『船弁慶』って前後の対比が派手ですけど、前後の繋がりが薄く感じられて、初めは能2つに分割しても行けると思ってたのです。でも、やっぱりそうではないのかもしれない、って思うようになって、今まで以上に面白みが増えた曲です。 
能『船弁慶』詞章  
〔次第〕  
ワキ・ワキツレ「今日思い立つ旅衣。今日思い立つ旅衣帰洛をいつと定めん  
〔名乗リ〕  
ワキ「かように候ものは。西塔の傍らに住居する武蔵坊弁慶にて候。さても我が君判官殿は。頼朝の御代官として平家を滅ぼし給い。御兄弟の御仲日月の如く御座あるべきを。言い甲斐なきものの讒言により。御仲違われ候こと。返す返すも口惜しき次第にて候。然れども我が君親兄の礼を重んじ給い。ひとまず都を御開きあって。西国の方へ御下向あり。御身に誤りなき通りを御嘆きあるべきために。今日夜をこめ淀より御舟に召され。津の国尼崎大物の浦へと急ぎ候  
〔サシ〕  
ワキ・ワキツレ「頃は文治の初めつ方。頼朝義経不会の由。すでに落居し力なく  
子方「判官都を落ちこちの。道狭くならねその前に。西国の方へと志し  
ワキ・ワキツレ「まだ夜深くも雲居の月。出づるも惜しき都の名残り。一年平家追討の。都出でには引きかえて。ただ十余人。すごすごと。さも疎からぬ友舟の  
〔下歌〕  
ワキ・ワキツレ「上り下るや雲水の身は定めなき習いかな  
〔上歌〕  
ワキ・ワキツレ「世の中の。人は何とも石清水。人は何とも石清水。澄み濁るをば。神ぞ知るらんと。高き御影を臥し拝み。行けば程なく旅心。潮も波も共に引く大物の浦に。着きにけり大物の浦に着きにけり  
ワキ「御急ぎ候ほどに。これは早や大物の浦に御着きにて候。それがし存知の者の候あいだ。御宿の事を申しつけようずるにて候  
<ワキとアイの問答>  
(弁慶は船頭に宿と船の用意を頼む)  
ワキ「いかに申し上げ候。恐れ多き申しごとにて候えども。正しく静は御共と見え申して候。今の折節何とやらん似合わぬように御座候えば。あっぱれこれより御返しあれかしと存じ候  
子方「ともかくも弁慶計らい候え  
ワキ「畏まって候。さらば静の御宿りへ参りて申し候べし  
ワキ「いかにこの家の内に静の渡り候か。君よりの御使いに武蔵が参じて候  
シテ「武蔵殿とはあら思いよらずや。何のための御使いにて候ぞ  
ワキ「さん候。ただ今参ること余の儀にあらず。我が君の御諚には。これまでの御参り返す返すも神妙に思し召し候さりながら。ただ今は何とやらん似合わぬように御座候へば。これより都へ御帰りあれとの御事にて候  
シテ「これは思いも寄らぬ仰せかな。何処までも御供とこそ思いしに。頼みても頼みなきは人の心なり。あら何ともなや候  
ワキ「さて御返事をば何と申し候べき  
シテ「自ら御供申し。君の御大事になり候わば留まり候べし  
ワキ「あら事々しや候。ただ御留まりあるが肝要にて候  
シテ「よくよく物を案ずるに。これは武蔵殿の御計らいと思い候ほどに。わらは参り直に御返事を申し候べし  
ワキ「それはともかくもにて候。さらば御参り候へ  
ワキ「いかに申し上げ候。静の御参りにて候  
子方「いかに静。このたび思わずも落人となり落ち下るところに。これまで遥々来たりたる志。返す返すも神妙なりさりながら。遥々の波濤を凌ぎ下らんこと然るべからず。まずこのたびは都に上り時節を待ち候え  
シテ「さてはまことに我が君の御諚にて候ぞや。由なき武蔵殿を怨み申しつる事の恥ずかしさよ。返す返すも面目のうこそ候え  
ワキ「いやいやこれは苦しからず候。ただ人口を思し召すなり。御心変わるとな思し召しそと。涙を流し申しけり  
シテ「いやとにかくに数ならぬ。身には怨みもなけれども。これは船路の門出なるに  
〔上歌〕  
地謡「波風も。静を留め給うかと。静を留め給うかと。涙を流し木綿四手の。神かけて変わらじと。契りし事も定めなや。げにや別れより。勝りて惜しき命かな。君に再び逢わんとぞ思う行く末  
子方「いかに弁慶。静に酒を勧め候え  
ワキ「畏まって候。げにげにこれは御門出の。行く末千代ぞと菊の盃。静にことは勧めけれ  
シテ「わらわは君の御別れ。遣る方なさにかき昏れて。涙に咽ぶばかりなり  
ワキ「いやいやこれは苦しからぬ。旅の船路の門出の和歌。ただ一さしと勧むれば  
シテ「その時静は立ち上がり。時の調子を取りあえず。渡口の遊船は。風静まって出ず  
地謡「波濤の謫所は。日晴れて出ず  
ワキ「これに烏帽子の候召され候え  
<シテ、烏帽子をかぶる>  
シテ「立ち舞うべくもあらぬ身の  
地謡「袖うち振るも。恥ずかしや  
<イロエ>  
〔サシ〕  
シテ「伝え聞く陶朱公は勾践を伴い  
地謡「会稽山に籠もり居て。種々の知略を廻らし。終に呉王を滅ぼして。勾践の本意を。達すとかや  
〔クセ〕  
地謡「然るに勾践は。再び世を取り会稽の恥を雪ぎしも。陶朱功をなすとかや。されば越の臣下にて。まつりごとを身に任せ。功名富み貴く。心の如くなるべきを。功成り名遂げて身退くは天の道と心得て。小船に棹さして五湖の。煙濤を楽しむ  
シテ「かかる例も有明の  
地謡「月の都をふり捨てて。西海の波濤に赴き御身の咎のなき由を。歎き給はば頼朝も。終にはなびく青柳の。枝を連ぬる御契り。などかは朽ちし果つべき  
地謡「ただ頼め  
<中之舞>  
〔ワカ〕  
シテ「ただ頼め。標茅が原のさしも草  
地謡「われ世の中に。あらん限りは  
シテ「かく尊詠の。偽りなくは  
地謡「かく尊詠の。偽りなくは。やがて御代に出で船の。舟子ども。はや艫綱をとくとくと。はや艫綱をとくとくと。勧め申せば判官も。旅の宿りを出で給えば  
シテ「静は泣く泣く  
地謡「烏帽子直垂脱ぎ捨てて。涙に咽ぶ御別れ。見る目も哀れなりけり見る目も哀れなりけり  
<シテ中入り>  
<ワキとアイの問答>  
(弁慶と船頭は静御前の悲しみの様子に思わず涙を流したことを語りあい、船頭は船が用意できたことを報告する)  
ワキ「静の心中察し申して候。やがてお船を出だそうずるにて候  
ワキツレ「いかに申し候  
ワキ「何事にて候ぞ  
ワキツレ「君よりの御諚には。今日は波風荒く候ほどに。御逗留と仰せ出されて候  
ワキ「何と御逗留と候や  
ワキツレ「さん候  
ワキ「これは推量申すに。静に名残を御惜しみあって。御逗留と存じ候。まず御思案あって御覧候え。今この御身にてかようのことは。御運も尽きたると存じ候。その上一年渡辺福島を出でし時は。もってのほかの大風ありしに。君御船を出だし。平家を滅ぼし給いしこと。今もって同じことぞかし。急ぎお船を出すべし  
ワキツレ「げにげにこれは理なり。何処も敵と夕波の  
地謡「えいやえいやと夕汐に。つれて船をぞ。出だしける  
<ワキとアイの問答>  
(船頭は弁慶に命じられて船を出し、義経一行が乗り込む。船を漕ぎながら辺りの景色のことなどを話していると、突然天気が荒れ、波が寄せ来る中を船頭の腕によって耐える)  
ワキ「あら笑止や風が変わって候。あの武庫山颪弓弦羽が嶽より吹き下ろす嵐に。この御船の陸地に着くべきようもなし。皆々心中に御祈念候へ  
ワキツレ「いかに武蔵殿。この御船には妖怪が憑いて候  
ワキ「ああ暫く。さようのことをば船中にては申さぬことにて候  
アイ「ああらここな人は。最前船にお乗りやる時から。何やら一言言いたそうな口元であったが。したたかな事を言い出だいた。船中にてさようなことは申さぬ事にて候  
ワキ「いやいや船中不案内の事にて候あいだ。何事も武蔵に免ぜられ候え  
アイ「いや武蔵殿のさよう仰せらるれば。申そうではござないが。あまりな事をおしゃるによっての事にて候。えいえい。またあれからしたたかな波が打ってくるわ。ありゃありゃありゃありゃ。波よ波よ波よ波よ。叱れ叱れ叱れ叱れ。しいしっしいしっしいしっしいしっ。えいえい  
ワキ「あら不思議や海上を見れば。西国にて滅びし平家の一門。各々浮かみ出でたるぞや。かかる時節を窺いて。怨みをなすも理なり  
子方「いかに弁慶  
ワキ「御前に候  
子方「今さら驚くべからず。たとい悪霊恨みをなすとも。そも何事のあるべきぞ。悪逆無道のその積もり。神明仏陀の冥感に背き。天命に沈みし平氏の一類  
地謡「主上を始め奉り一門の月卿雲霞の如く。波に浮かみて。見えたるぞや  
<後シテの登場>  
後シテ「そもそもこれは。桓武天皇九代の後胤。平の知盛。幽霊なり。あら珍しやいかに義経。思いも寄らぬ浦波の  
地謡「声をしるべに出で船の。声をしるべに出で船の  
シテ「知盛が沈みしその有様に  
地謡「また義経をも海に沈めんと。夕波に浮かめる長刀取り直し。巴波の紋辺りを払い。潮を蹴立て悪風を吹きかけ。眼も眩み。心も乱れて。前後を忘ずるばかりなり  
<舞働>  
子方「その時義経少しも騒がず  
地謡「その時義経少しも騒がず。打ち物抜き持ち現の人に。向こうが如く。言葉を交わし。戦い給えば。弁慶押し隔て打ち物業にて叶うまじと。数珠さらさらと押し揉んで。東方降三世。南方軍茶利夜叉。西方大威徳。北方金剛夜叉明王。中央大日。大聖不動明王の索にかけて。祈り祈られ悪霊次第に遠ざかれば。弁慶舟子に力を合わせ。お船を漕ぎ退け汀に寄すればなお怨霊は。慕い来たるを。追っ払い祈り退けまた引く汐に。揺られ流れ。また引く汐に。揺られ流れて。跡白波とぞ。なりにける 
 
「勧進帳」諸話

 

六代目菊五郎のアドバイス  
いまの羽左衛門(十七代目)がまだ彦三郎を名乗っていた頃のことですが、松緑が急病になり「勧進帳」の弁慶の代役を初役で勤めることになりました。当日朝になって突然言われて本人も周囲も大慌てです。六代目菊五郎も心配なのか花道揚幕までついてきていましたが、いよいよ弁慶の登場というところで「衛、弁慶は踊りを知らないんだよ」と言ったといいます。(衛「まもる」は羽左衛門の本名)  
六代目菊五郎のアドバイスはその内容とタイミングが絶妙です。羽左衛門はおそらく頭のなかで「延年の舞」の振りでもさらっていたのでしょう。なにしろ踊りには定評のある松緑の代役です、プレッシャーもあったでしょう。それを菊五郎は見抜いたのだと思います。「踊りはうまいにこした事はない、しかしうまく踊ろうとしちゃいけない」、そのことを菊五郎は羽左衛門にとっさに伝えたのです。羽左衛門は肩の余分な力がスッととれたのではないでしょうか。  
弁慶はホントに踊りを知らなかったのでしょうか。そんなことは誰にも分かりません。ただ言えることはあの「延年の舞」は弁慶が踊ろうとして踊るものではなく、湧き上がる喜びのなかで思わず身体が動いてしまう、という踊りであるということでしょう。だからうまい踊りであるのにこした事はないが、弁慶がうまい踊りを見せようとするものではないと言うことです。  
ここで話題を変えます。もしこの時、羽左衛門が揚幕前で頭のなかで「山伏問答」をさらっていて、「うまく科白が言えるだろうか」、「声が朗々と出るだろうか」とか考えていたとすれば菊五郎は何とアドバイスしたでしょうか。菊五郎はこう言ったのではないかと 吉之助は想像するのです。「勧進帳は芝居じゃないんだよ」と。  
最近の「勧進帳」、特に前半の「勧進帳読み上げ」から「山伏問答」までは芝居になりすぎであると吉之助は思います。そのために「勧進帳」の持つドラマの流れがブツブツと寸断されているような不満を感じます。弁慶が「延年の舞」をうまく踊る必要がないのと同様に、弁慶は本物の山伏ではないのですから、「山伏問答」においても役者は「観客に問答の意味が分かるように富樫を納得させるようにうまく科白を言おう」などと考えるべきではないと 吉之助は思います。なぜなら「勧進帳」は科白劇(芝居)ではなく、音楽劇(舞踊劇)だからです。 
音楽劇としての「勧進帳」  
能の「安宅」では富樫は弁慶の剣幕に恐れ入って義経一行が関を通るのを許してしまう筋書きで、「読み上げ」の比重はそれほど重いものではありません。また「山伏問答」はそれ自体が歌舞伎の創作で能にはないものです。(七代目団十郎が当時流行っていた講釈「安宅勧進帳」のなかの「山伏問答」を取り入れたものと言われています。)  
しかし歌舞伎においては題名に「安宅」ではなくわざわざ「勧進帳」の名を冠しているのはなぜでしょうか。これは市川家伝来の元禄歌舞伎の荒事的せりふ術を、「読み上げ」とそれに続く「山伏問答」で試そうという七代目団十郎の意志があってのことに違いありません。「松羽目」の舞台で荒事という感じがうすい「勧進帳」が「歌舞伎十八番」である所以はそこにこそあると思います。  
「勧進帳読み上げ」から「山伏問答」までは、歌舞伎にとっては後半の「延年の舞」に勝るとも劣らない比重を持つべきクライマックスなのです。そしてそのドラマは音楽的緊張によって裏打ちされるものでなくてはなりません。なぜなら「勧進帳」は科白劇ではなく音楽劇であるからです。  
「勧進帳」の作詞は三代目並木五瓶、作曲は長唄の四代目杵屋六三郎でした。その長唄は名曲であることでよく知られています。こうした劇的な内容を持つ作品の地(音楽)に義太夫節のような語りの要素の強い音楽を使わず、どちらかと言えば旋律の美しさを聞かせるうたいものの長唄を使っているのは興味深いことだと思います。これにより役者の科白のもつリアルな迫力が際立ってくるからです。そのドラマは地の音楽の作り出す流れによっていっそう迫力を増してきます。「勧進帳」はそのように設計されているのです。  
音楽劇としての「勧進帳」は弁慶と富樫の二役に声楽的対比も要求しています。この対比により「山伏問答」はさらに音楽的興趣が増すことになるのです。世間一般の感覚で言えば、「弁慶は低調子、富樫は高調子」となるのではないでしょうか。実はこれは世間の誤解で逆なのです。本来は「弁慶は高調子、富樫は低調子」でなければなりません。  
近世の「勧進帳」の理想的配役といえば、明治期の九代目団十郎(弁慶)、五代目菊五郎(富樫)の組み合わせということになるでしょう。じつは代々の団十郎は高調子、代々の菊五郎は低調子なのです。団十郎の家の芸である荒事の発声というのは高調子を基調としています。ちなみに「鞘当」(浮世塚比翼稲妻)の不破伴左衛門と名古屋山三郎も同じような音楽的配置がされています。もちろん不破が高調子で、名古屋が低調子なのです。  
それがどうして世間が「弁慶は低調子、富樫は高調子」と思い込むようになってしまったかというと、昭和初期の七代目幸四郎(弁慶)と十五代目羽左衛門(富樫)の名コンビのイメージが強すぎるからのようです。特に十五代目羽左衛門は九代目団十郎崇拝でその調子は団十郎の高調子を継いでいました。このイメージがこれ以降の「勧進帳」の配役に影響を与えているようです。それでも弁慶は高低いろいろな声質の役者が演じていますが、富樫には高調子の役者が配されることが多いようです。戦後の富樫役者と言えば、十一代目団十郎にしても十五代目仁左衛門にしても高調子です。  
低調子の富樫というのは多くはありませんが、十二代目団十郎の襲名披露の時の松緑の富樫はその数少ない低調子の富樫でした。凛とした通る口跡とはいえない松緑でしたが、この富樫は素晴らしかったと思います。十二代目団十郎の荒事味のある高調子の弁慶の科白を「実の芸」でバランス良く受けとめる安定感のある富樫であったと思いました。このおかげで「山伏問答」が引き立ったものになって、やはり富樫は低調子のものだと感心しました。  
さて、「勧進帳」の舞台前半をみていくことにしましょう。まず「読み上げ」から「山伏問答」まで弁慶は常に堂々として自信たっぷりでありたいものです。最近の歌舞伎の弁慶は緊張のせいか神経質でビクビクしているようにも見えます。もっと何事にも動じない弁慶が見たいものです。弁慶役者には余計な心理描写をしようとせず大きなドラマの流れをつかみとってもらいたいのです。  
「勧進帳を遊ばされ候え。」と富樫に言われて」、「なんと、(ここで驚いた表情)勧進帳を読めと仰せ候や」、(しばらく考える間あって、やがて決心したが如くに)「ウン、心得て候」と言う風に、ご丁寧にも「ウン」を入れる役者が多いようです。しかしこれは弁慶の計略通りの段取りなのだから弁慶は泰然としていていいのです。山伏一行が討たれると聞いてそんなことをしたら仏罰が当たるぞと脅されるという件が前にあって、富樫はそれなら手続きを踏んで本物の山伏かどうか確かめようということで「勧進帳を読め」ということになるからです。  
富樫に偽の勧進帳を覗き込まれてハッとして隠す仕草はいつも大げさでおかしいと思います。これなども気合いで富樫の行動を止めるくらいの最小限の仕草でありたいものです。能の小書きでは「勧進帳」を読み終わってからわざと巻物の表が見えるように逆に折り返して持つそうです。能の場合、「関の人々肝を消し、恐れをなして通しけり」というほどですから、「どうせ偽と知れて元々、やれるならやってみろ」くらいの豪胆さが弁慶にあるのでしょう。もちろん能と歌舞伎ではその性根が違うところがあるかも知れませんが、こういうところは市川家伝来の荒事の弁慶のイメージに通じるところではないでしょうか。  
しかし最近の舞台でますます臭くなっていると思うのは、義経を見咎められてやむなく弁慶が義経を打擲する場面でしょう。「致し方なし」という感じでぐっと腕を止めてその心理の逡巡を肚で見せるならともかく、「ああ、どうしよう」という感じで目をつぶり涙を振り払うようにして打ちにかかる弁慶がこのところ多いのです。なかにははっきりと頭を下げて、「もったいなくもご主人を打たせてもらいます」みたいな弁慶さえいます。  
この弁慶が義経を打擲する場面にこそ荒事の弁慶の魂が蘇らなければならないはずです。荒々しく周囲の人を怖れさせるそうな猛々しさがなければなりません。そしてそこに仏にしたがう不動明王のような神性が見えてこなければなりません。だからこそ「勧進帳」は「歌舞伎十八番の内」のはずなのです。  
どうも最近の舞台の弁慶の細かな心理描写にとらわれていて、その結果、弁慶の人物の線がいたずらに細いものになってしまっているようです。これは現代の理屈優先の脚本理解に毒されているのです。なるほどこれなら弁慶は思慮深い人間には見えますが、肝の太い人間にはどうしても見えてきません。それもこれも「勧進帳」が芝居(科白劇)だと思っているせいなのです。 
「山伏問答」でのテンポ設計  
「勧進帳」は科白劇ではなく音楽劇なのです。オペラというよりは、オラトリオ(宗教音楽劇)に近い性質を持っていると思います。そうしたなかでは、細部にこだわった心理描写は表現を写実に近づけるけれども音楽的流れを寸断して、むしろ逆にドラマの本質から遠ざけることになります。もっと大づかみにドラマの流れをとらえなければなりません。  
「読み上げ」から「山伏問答」においては、元禄歌舞伎から伝わる荒事的せりふ術の粋が発揮されねばなりません。それが長唄の作り出す全体の滑らかな流れのなかに立つからこそ、役者の生き生きとした肉声が際立つのです。残念ながら最近の舞台で満足できる「山伏問答」を久しく聞いたことがありません。それもこれも「勧進帳」が科白劇だと思っているからです。  
「この質問に答えてみろ」、ちょっと考えてみて弁慶が意味がわかるように明快に答える、「うむ、なるほどそれは通理だ、それなら次の質問だ、これが答えられるか」、ちょっと考えて弁慶が意味が分かるように明快に答える、最近の舞台の「山伏問答」を聞いているとこんな感じです。なるほどリアルな問答なのかも知れません。観客には難しい仏語もそれなりに聞き取れるように親切に問答してくれます。だが、緊迫感がなくちっとも盛り上がらないのです。  
「山伏問答」は、ゆっくりとしたテンポから始まり、中間部の富樫の「してまた修験に伝わりは」あたりから少しづつテンポを上げていき、「目に遮り形あるものは切り給うべきが」あたりからは快速テンポに入ります。そして富樫の「出で入る息は」で舞台の緊張は最高潮に達します。ここでの「出で入る息は」の「は」の音と、弁慶の次の「阿吽の二字」の「あ」は間を置かず重なるように発せられねばなりません。  
弁慶の「阿吽の二字」の気迫で議論の流れは一旦押し戻されるわけですが、さらに富樫はひるまずこれに間髪入れず「そもそも九字の真言とはいかなる義にや事のついでに問い申さん」と快速テンポで追い詰めて行きます。そして「ささ、なんとなんと」でググッと決めます。ここまでの「山伏問答」の流れは富樫が作り、富樫は弁慶が問答している時は富樫は息を詰めていないと気迫で耐えられません。  
あとの弁慶の科白もテンポの緩急の付け方が大事ですがこれは弁慶自身のテンポでやれるのでまだいいです。「山伏問答」の音楽ドラマは、ここまでの富樫の科白の息の詰め方とテンポの緩急で決まると言って間違いありません。この緩急自在のテンポ設計こそ七代目団十郎が講談からヒントを得たものであり、「勧進帳」が音楽劇であることのなによりの証拠なのです。 
弁慶は死なねばならない  
「勧進帳」の終盤で義経一行が花道から揚幕に入り、弁慶がそれを追って富樫に一礼し、一目散に花道七三に駆けて行くと、観客は必ずわっと歓声を上げます。さわやかな感動が舞台を吹き抜けていくような感じがします。  
花道七三で弁慶は観客席に向かって一礼しますが、あれは「ご見物の皆様の声援のおかげでどうやら勤めを果しました」という気持ちでの礼なのでしょうが、もうひとつは、この「義経をめぐる儀式」の場を観客もまた共有しているのだということを示しているのです。このことを本稿で考えてみたいと思います。  
ところで、この「勧進帳」の結末はハッピー・エンドなのでしょうか。確かに義経一行は困難と思えた安宅の関を弁慶の機転で無事に通過することができたのです。安宅の関を通過できなければ、義経は奥州に落ちる別のルートを探して逃避の旅を続けなければなりません。だから「安宅」の件は義経一行の狙い通りの筋書きです。「皆様のご声援でどうやら勤めを果しました」というからにはハッピー・エンドということなのでしょう。観客も「弁慶よ、よくがんばったなあ」という感じで拍手を送っているようです。それはそれで後味は悪くありません。  
しかしここで気になるのは富樫のことです。この後の富樫はどうなるのでしょうか。富樫は鎌倉殿(源頼朝)の部下として安宅の関を守り、この関を通過するかも知れぬ義経一行を捕らえる使命を負っている人物です。義経は兄頼朝の命に背いた罪人であり、したがっていかなる理由があろうとも義経一行が安宅の関を通過したことを見逃したとあっては富樫はその責任を問われることは必至です。まずは義経を見逃したことが露見した時点で切腹せねばならないのは確実でしょう。(鎌倉時代に切腹というのはなかっただろうが。)  
実は「安宅の関」の話は史実ではありません。義経が奥州に落ち延びたルートについても諸説があり、本当に安宅の関を通過したのかどうかもさえ定かではありません。もちろん富樫左衛門という人物も架空の人物です。したがって気楽にいろいろと想像できます。  
「富樫は後で腹を切る、義経一行は無事に奥州に落ち延びる」では引き合わないと吉之助は思います。これでは義経一行は富樫の死に報いることにならず、富樫が死に損になってしまうのです。こういう考え方は現代人には奇異に感じるかも知れませんが、人が死をもってその誠を問うた以上は相手もまた自分の死をもって応えなければならないのです。それが誠の人の道であるからです。  
弁慶が主人である義経を打擲することは死に値する行為です。危急の場面でありやむなくそうせざるを得なかったにせよ、やはり死に値する行為です。弁慶の「機転」だけでは済まされる行為ではありません。(「機転」だと片づけるのは現代人の感覚です。)その行為をあえてしたからこそ、思わず富樫は「判官殿でもなき人を疑えばこそかく折檻もし給うなれ。」と言って止めるのです。もちろん本物の義経と承知の上でです。  
この時、弁慶は死を覚悟し、富樫もまた死を覚悟したと理解すべきです。そして富樫が死を賭けて義経一行に関を通ることを許した以上は、弁慶は当然それに応えて死なねばならぬと 吉之助は思います。そうでないと「勧進帳」のストーリーは完結しないのです。 
富樫は何に反応したのか  
能の「安宅」に登場する富樫はさほど魅力的な人物には思われません。義経一行に関を通さないと詰め寄るが、「山伏を討つと仏罰が当たるぞ」と脅されると引き下がって「勧進帳を読め」と言います。勧進帳が偽と知れても弁慶の迫力に恐れ入って関を通そうとします。強力が義経と分かっているのに、弁慶が義経を打擲し「笈を奪おうつもりか」と詰め寄る剣幕に恐れ入って通してしまいます。どうも弱々しくて、あとで鎌倉殿から間違いなく罰せられるだろうが自分から腹切る覚悟ある大人物とはとても思えないのです。そのような人物があとで一行をわざわざ追いかけてきて酒を振舞うというのも面妖な感じです。「延年の舞」でも弁慶は富樫に心を許していないのは明らかです。  
これはもう原作の能の「安宅」より歌舞伎の「勧進帳」の方が作品として数段優れていると断言していいと思います。それは富樫という人物像に深さと大きさが加わったからであるのは間違いありません。これは七代目市川団十郎と脚本の 三代目並木五瓶の功績というべきでしょう。  
ところで富樫が「判官殿にもなき人を・・」と弁慶を止めるのは、死を覚悟した弁慶の男心に男富樫が応えたのだと考えていいのでしょうか。確かに強力が義経でないと言い張るために主人である義経をあえて打つという行為は、弁慶が死を賭けているだけに心に涙させる行為ではあります。富樫が止めなければ弁慶は本当に義経を打ち殺していたでしょう。だがそれでも、それだけのことが(あえて「それだけのこと」と言いますが)、富樫に自分の主人である鎌倉殿を裏切らせるほどに重大な意味を持つ行為なのか、このことを真剣に考えたいと思うのです。  
弁慶にとっては死を覚悟しているにせよ、義経を打擲することは主人を守るためにどうしても必要な行為であったと思います。しかし富樫にこれに応える義理はありません。それよりも鎌倉殿が富樫に課した任務の方が重いのは間違いありません。それなのになぜ富樫は自らの死を以って弁慶に応えなくてはならないのでしょう。  
富樫の行為は単に「男ごころに男が感じた」行為であったのでしょうか。現代の歌舞伎の舞台を観ていると多分そういうことなのだろうと思います。富樫が右手へ退出する時にあふれる涙を振り切るような感じで目を閉じ顔を上に向けて身体を返すのを見ると、この富樫は一時的な感傷に溺れる人物であるようです。  
じつは富樫の行動の意味を考える時にわれわれが意識しなければならないのは義経の存在なのです。江戸時代の義経信仰というのは現代のわれわれの想像を越えたものでした。どんな筋であっても必ず舞台のどこかに義経が登場しないと観客が納得しないことがあったというのです。江戸時代の民衆にとって、義経は菩薩のような存在であり、この世のすべての悩み・苦しみをすくい取り、清める存在なのです。江戸時代の人間にとって、義経は「この世にあってこの世のものではないような、絶対に守らなければならない聖なる存在であった」ということです。そしてそのことは観客にとってはもちろん、舞台の登場人物にとっても明白な真理であったということです。  
弁慶は主人であるから義経を守ったのではありません。それは現世的なことで、本当の意味は義経は弁慶にとっての「守らねばならない神」だからこそ弁慶は守ったのです。そしてその「守らねばならない神」を弁慶は覚悟して打ったのです。これは間違いなく宗教的な禁忌に触れる行為です。だからこそ富樫は思わす反応したのです。富樫にとってもまた義経は「守らねばならぬ神」であるからなのです。  
原作の能「安宅」の富樫と、歌舞伎「勧進帳」の富樫の性格の変化はそこから生じています。能「安宅」においては弁慶と富樫の対立構図はありますが、まだ義経の神性が強く意識されていないようです。歌舞伎「勧進帳」においてはじめて義経を頂点とした二等辺三角形の関係が舞台に構成されてくるのです。 
義経をめぐる儀式  
こう考えると、富樫は安宅の関の場において弁慶と対決しているようですが、じつは弁慶を通して義経に対しているのです。このことが義経ものである「勧進帳」の意味なのです。  
ここでは、弁慶にとっての義経が「神」であるのは当然ですが、富樫にとっても義経はまた「神」であるのか、このことが問題になってくるでしょう。歌舞伎という芸能では舞台上での登場人物の駆け引きだけでなく、観客との交歓を通じてストーリーを高揚・発展させていく展開をとることがあります。「勧進帳」の場合も、義経信仰を共通の精神基盤として客席と舞台が一体となり、全体が「義経をめぐる儀式の場」と化しているかのように思われます。富樫は、ここでは義経の神性に感応し、義経の秘蹟を受ける役目を与えられているかのようです。  
さて安宅の関を通過したあと、「判官御手をとり給い」義経は自分を打った弁慶を許すことになっています。しかし義経本人は許しても、ほんとうは「神を打った」罪は消えていないのです。「我を打って助けしは、正に天の加護、弓矢正八幡の神慮と思えば、かたじけなく思うぞ」と言い、義経は目に手を当てて涙するのですが、義経自身にも弁慶の苦しみを清めることはできても、神を打った罪を消し去ることはできないのです。  
やはり神を打った罪で弁慶は死なねばならないのです。もちろん自らの死で応えた富樫に報いなければならないということもあります。弁慶は奥州平泉でやがて死なねばならない運命にあるのです。その時まで弁慶は生かされているに過ぎないのです。しかし義経の涙で清められたことで、弁慶はこころ安らかに死地に赴くことができるのです。  
富樫もまた同様です。富樫も鎌倉殿への申し訳に死なねばならない身ではありますが、義経一行を通してすぐ腹を切ったのでは義経が関を通過したことを知らせるだけで何にもなりません。ここはまずは富樫も生かされるのです。  
しかし結局は弁慶も富樫も死ななければなりません。二人とも義経を守り義経に殉じて死んでいかねばならないのです。だから「勧進帳」は「神」義経に祝福され殉じた二人の男の物語なのです。  
そしてそのことは観客においても同じなのかも知れません。弁慶が花道七三で観客に一礼する時、それは単に「皆様のご声援ありがとうございました」ではないのかも知れません。それは観客もまた義経を守り義経信仰に殉じなければならないからなのではないでしょうか。「勧進帳」はそのような観客をも巻き込んだ「義経をめぐる儀式」の場なのではないでしょうか。 
松羽目の舞台  
天保11年(1840)3月江戸河原崎座で「勧進帳」は「歌舞伎十八番の内」と冠して初演されました。この時、能の観世流宗家・観世清孝がお忍びでこの芝居を見物に来ました。幕が開いてすぐに、清孝は扇子を口に当てて「プッ」と吹き出したといいます。上演が終って清孝が芝居茶屋へ戻ると、そこへ突然、七代目団十郎(当時は海老蔵)が現れました。どうやら団十郎は茶屋衆に「家元が来たら知らせるように」とあらかじめ手配をしていたようです。そして、「時に伺いますが、中幕があいて何かお笑い遊ばしてお顔へ扇をお当て遊ばせましたがあれはどういたしたものでございましょう」と団十郎が聞いたので、清孝は大いにあわてました。それからは団十郎が何を聞いても清孝はただ「結構だ」というばかりであったといいます。団十郎は「かりそめにもあなたさまから結構だというお声がかりを頂戴しますれば、明日からよい心持ちで芸ができます」と言って帰りました。  
この話で「観世清孝が吹き出した」というのは、幕が開いた直後のことでしたから団十郎の弁慶を笑ったわけではありません。松羽目の舞台装置を見て、清孝は吹き出したのです。この時の松羽目は現行の上演のような能舞台を模して大きな松が描いている書割ではなくて、正面には大きな一本松ではなくて小さな松が何本か描かれた襖を描いた幕にしたもので、つまり能舞台ではなくて座敷という設定であったようです。どうも貧相な感じは否めませんが、これは歌舞伎で能舞台を模して上演禁止になった例が過去にあったからでした。  
清孝が「プッ」と吹き出したというのはこれは無理もないという気がします。彼はその松羽目の舞台を見て、そこに「能に近づきたくても近づけない歌舞伎役者が精一杯背伸びしたような気持ち」を見たと思います。  
「勧進帳」初演の評判は決して良いとは言えないものでした。評判記「役者舞台扇」には「おいらたちはやっぱりたて狂言がおもしろい。あまり弁慶にばかりこられたせいか ひと言もいつもほどたましいがないように思われた」と書かれています。団十郎は嘉永5年(1852)に再び「勧進帳」を演じ、この時は「一世一代」を称していますから、この作品に掛ける意気込みは相当なものであっただろうと思います。しかし、どちらかと言えば江戸時代には、「勧進帳」は節付けが名曲であるために長唄の方が芝居より評判が良かったようです。  
どうして初演の観客の評判が良くなかったのか、は考えてみなくてはなりません。まずそれまでの能取物は「道成寺」にしても原作の能の舞台をあまり意識させることはありません。それは完全に歌舞伎作品として消化されているものになっています。「勧進帳」は違います。「勧進帳」は逆に観客に能の舞台を意識させるように作られています。明らかに、武家の式楽である能につきまとう「高尚趣味・高級趣味」をその内に包含し、能役者のようになりたいという「上昇願望」が明確に現れています。このことは初演時の観客にもはっきり分かったでしょう。だからこれが観世清孝を思わず吹き出させ、江戸の庶民には内心反発を感じさせたものと思います。  
もちろん「勧進帳」は能「安宅」そっくりそのままを真似したというわけではありません。むしろ、歌舞伎化するに当たり団十郎は十分に作品構造を研究し、それ以上のものを作ろうとしたと言えると思います。当時、能役者と歌舞伎役者との交流は禁じられていましたから、仕方ないので団十郎は大工に変装して観世流の舞台を見たとの逸話も残っています。しかし観世宗家が団十郎の初演の舞台を見に来ているわけですし、団十郎に能役者との交流がまったくなかったということは考えられません。当時、謡本は盛んに出版されており誰でも読めました。また「芝居囃子日記」によれば、大名のお抱え能楽師は仕事がないときには芝居小屋の囃子部屋に忍び込み、しばしばアルバイトをしていたことも記されています。非公式な交流は結構あったと考えられます。また、ツテがあれば能役者に稽古をつけてもらうことも可能であったと思われます。  
団十郎は当時の講談での呼び物であった「弁慶と富樫の山伏問答」を講談師燕凌(えんりょう)と南窓を招いて実演させ、これを芝居のなかに取り込みました。その他の工夫により、「勧進帳」は原作の「安宅」よりはるかにドラマチックで引き締まった構成に仕上がっています。その結果、団十郎はこれまでとはまったく違う「能でもなく歌舞伎でもない」芝居、いわゆる「松羽目もの」という新しいジャンルを創り上げたのです。そのため当時の観客にはその革新性ゆえに容易には受け入れられなかったのかも知れません。  
しかし、当時の庶民の気持ちも一応心に留めておきたいと思います。江戸の庶民は「これは俺たちの弁慶とは違う」と感じたのです。確かに「勧進帳」の弁慶は江戸庶民のためのものではありませんでした。団十郎は「自分のための新しい弁慶」を創造したのです。 
歌舞伎十八番とは  
団十郎が天保11年(1840)に「勧進帳」を上演した時の口上には  
「私祖先より伝来の歌舞伎十八番の内安宅の関勧進帳は、元祖(初代)団十郎才牛が初めて勤め、二代目団十郎栢莚(はくえん)までは勤めましたが、その後打ち絶えておりました。私はその復活を長年考え古い書物などを調べたりしていましたが、その度その調べがつきましたので、幸い初代の百九十年となりますので、代々相続の寿二百年の賀取越として、勧進帳を勤めることと致します。」  
とあります。確かに、弁慶は荒事の役どころとして市川家代々にとって重要なキャラクターでした。団十郎はこれより前に、弁慶役を三度勤めています。まず文化12年(1815)8月の「安宅松」での弁慶、次に文化8年(1825)の顔見世での鬼若丸後に弁慶、そして天保10年(1839)の「御贔屓勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」での俗に言う「芋洗いの弁慶」です。  
「御贔屓勧進帳」は安永2年(1773)に四代目団十郎の弁慶、五代目団十郎の富樫で初演されたものです。「富樫に見咎められた弁慶は木に縛り付けられますが怪力で縄をぶつ切り、雑兵と大立ち回りを演じてその首を次々に引っこ抜き天水桶に叩き込み、金剛杖で芋洗いをする」という筋書きの「芋洗いの弁慶」などは、じつに荒事らしいおおらかさがあって、もし「歌舞伎十八番」が市川家の荒事の集大成だというならそのままこれを「十八番の内」にしてしまっても本来は良かったはずです。  
しかし周知のように団十郎はそれをしませんでした。というより、従来の団十郎の家の芸とされた「荒事の弁慶像」を否定して、まったく新しいスタイルの「勧進帳」を創り上げようとしたのです。「初代より伝わる勧進帳を調べて復活しました」と口上には述べていますがホントはそうではなかったということなのです。団十郎は新作ではあるが相当な自信作であったこの「勧進帳」に、いわば箔をつけるために「家の芸」(つまり「歌舞伎十八番」というキャッチフレーズ)を標榜したに過ぎないと考えられるのです。  
歌舞伎十八番のうち、団十郎は「助六」・「鳴神」などは「十八番」の名前を冠して上演もしています。しかし、十八番のなかには「不動」のように単独の芝居で成立しないものもありますし、団十郎もその大半は演じていません。また台本さえも残っておらず、絵番付け・錦絵その他で筋を推測するしかないものも多くあります。このことからも、縁起のいい「十八」という数字に狂言の数を無理やりに合わせただけ、というのが真相ではないでしょうか。井原青々園は「歌舞伎十八番のうち十七番までは勧進帳のつきあいで出世したようなものだ」と言っていますが、その通りだと思います。 
「十八番」制定当時の七代目団十郎の状況  
それでは七代目団十郎がどうして「歌舞伎十八番」の制定を思い立ったのかを考えてみたいと思います。  
まず七代目団十郎はじつは歌舞伎の本に書かれているような「うまい役者」ではなかったらしいということがあります。若い頃の団十郎の周囲には名優がゴロゴロといました。たとえば実悪の名人五代目幸四郎(鼻高幸四郎)・世話の名人三代目菊五郎(梅寿菊五郎)・踊りの名手で三代目三津五郎(永木の三津五郎)・大坂から下ったこれも踊りの名手であった三代目歌右衛門(加賀屋歌右衛門)、「目千両」と呼ばれた名女形五代目半四郎(杜若半四郎)などです。このような名優のひしめく中で、必死で自分の位置を守ろうとしてきたのが団十郎であった、と言えると思います。団十郎は何よりもまず「努力の人」であり、努力して歌舞伎史に「名優」の名をなした人でした。団十郎自身が自分を「うまい役者ではない」と感じていたらしいことは、 天保3年、彼が長男に八代目団十郎を譲った時の口上で、団十郎自身が「親に似ぬ子は鬼子と申しまするが、(八代目が)私の下手に似ませぬように鬼子になりまして、ゆくゆくはご贔屓を持ちまして名人のなかに入りまするように、ひとへに願い上げ奉ります」と言っていることでも分かります。  
さらに「勧進帳」初演(天保11年)前の十年間を見ますと、三代目三津五郎(天保2年)・五代目幸四郎(天保9年)・三代目歌右衛門(同じく天保9年)・三代目菊五郎(天保10年)と、これらの大物役者が次々と亡くなっています。ここから見ると、団十郎は自ら望むか望まぬに係らず、自然と劇界の頂点に押し出されていったことと思います。そのことが団十郎に「市川家十八番」でなく、「歌舞伎十八番」を名乗らせたと思います。それは言われるように団十郎の奢りであったかも知れないし、あるいは「俺が歌舞伎を引っ張らねば」という責任感の現れであったかも知れません。  
また、こういうことも考えられます。代々に伝わる市川家の権威は七代目団十郎の時代(天保期)には荒事などという荒唐無稽な芸だけでは時代遅れと取られて、世間にもはや通用しなくなっていました。「荒事は筋が単純でつまらない・時代遅れの芸である」という声はその頃の評判記にはよく出てきます。団十郎はある意味であせっていたと思います。だから団十郎は新作「勧進帳」によってその芸の行詰まりを打開し、新たな芸の可能性を開拓しようと試みたのです。  
そして新作「勧進帳」を家の芸の中核に据えることで、新たな時代へ向けて市川家の権威復活を図ろうとしたとも考えられるのです。だからこそ能掛かりの舞台がその権威付けのためにも必要であったということなのです。この団十郎の遺志は息子の九代目団十郎により明治になって明確な形をとって実現したと言えると思います。 
天覧歌舞伎  
天覧歌舞伎は明治20年(1887)4月26日から4日間にわたり、麻布の井上馨外相邸の茶室開きの余興として行なわれました。天覧歌舞伎は「演劇改良運動」の一環として随分前から劇界からはその挙行が希望されていたものでした。これが興行師守田勘弥らの努力によってようやく実現したのでした。出演した役者は九代目団十郎を始めとして、五代目菊五郎、初代左団次らで、演目は次のようなものでした。  
第1日(主賓:天皇):勧進帳・高時・操三番叟・猟師の月見・元禄踊・曽我十番切・山姥  
第2日(主賓:皇后):寺子屋・伊勢三郎・土蜘蛛・徳政の花見・静忠信・元禄踊  
第3日(主賓:内外高官):寺子屋・伊勢三郎・花見の賑わい・高時・元禄踊  
第4日(主賓:皇太后):勧進帳・靱猿・忠臣蔵三・四段目・吉野落・六歌仙  
「演劇改良運動」とは、歌舞伎を江戸時代の価値観と美意識を引きずった古い演劇(旧劇)であるとして否定し、これを新しい時代にふさわしいものに「改良」しようとする演劇運動でした。明治という時代のキーワードは「文明開化・殖産興業」です。明治とは、江戸の思想・風俗を遅れたものとみなしてこれを否定して、西欧列強にいかに追いついていくかを最大の課題とした時代でした。歌舞伎は「江戸の残渣そのもの」だとみなされていたのです。民衆に影響力のある芝居(歌舞伎)を「改良」して、娯楽を通して民衆に新たな倫理観・価値観を浸透させていこうというのが、「演劇改良」運動の理念でした。これに賛同し、運動の先頭に立ったのが九代目団十郎だったのです。  
団十郎以下芝居関係者は斎戒沐浴してこの上演に臨みました。「勧進帳」上演においては内務省参事官末松謙澄が「お上に恐れ多いことがあってはならぬ」というので散々に手を入れた台本が使われました。たとえば、「判官御手を取り給い」という文句について、弁慶の手を「御手」とはおかしいというので「判官やがて手を取り給い」と書き直したりしました。(これは後に新聞など各方面から糾弾されました。)また、ツケや大太鼓も恐れ多いということで禁止されました。当時の新聞にも「間の抜けたるは、演劇中ツケなしにて、大太鼓を用うるを禁じたれば、市川家の大目玉を何ほどむき出しても白眼に張り合いがなかろう」と書かれています。左団次の富樫は冒頭の名乗り「加賀の国の住人・・」で緊張の余り声が震えてしまったといいます。また、団十郎の弁慶も勇み立って「(花道が短かったため)ヤッとひとつ飛んだら揚幕へ入ってしまった」といいます。  
明治天皇は帰りの車中で「近頃珍しきものを見たり」と仰せであったとの話を聞き、団十郎以下の役者たちは感激したと言います。また、二日目「寺子屋」の終盤では皇后はじめ女官たちが泣き始めたため、この公演を舞台裏で監督していた末松があわてて「コレお泣かせ申し上げては恐れ入る、注意せえ注意せえ」と制したという話も残っています。  
恐らく団十郎は素直に、そして生真面目なほどに「歌舞伎を新しい時代にふさわしいものに作り変えよう」という使命感に奮い立ったものと思います。同時に、団十郎の気持ちの根底に「自分は河原者だ」という身分コンプレックスがなかったわけではないと思います。だからこそこれを払拭して、これを機会に歌舞伎役者の社会的地位を向上させて、役者ではなく俳優として「文化人」になろうという意図があっただろうと思います。事実、井上伯らの援助によって団十郎は河原崎座再興以来抱えていた莫大な借金を返済することができ、その後はかなり裕福な生活ができるようになりました。「天覧歌舞伎」以降の歌舞伎役者の社会的地位は著しく向上したということが言えると思います。 
九代目団十郎の演劇運動  
話はさかのぼりますが、明治11年6月7・8日に、興行師守田勘弥は新富座を改築して盛大な開場式を行ないました。この開場式は日本の演劇史に記すべきものですが、これはまさに文明開化一色で塗りつぶされたものでした。式に出席した歌舞伎役者はすべて燕尾服を着用しました。この時に九代目団十郎が役者代表として述べた式辞は福地源一郎(桜痴)が起草したものですが、内容は団十郎の主張そのままと言えます。その内容の概要を現代語に書き直すと、大体次のようなものです。  
「演劇(歌舞伎)はもともと世情に左右され易いものではあるが、勧懲の機微を写して観客を感動させるものであるから、そこで描き出される喜怒哀楽によって演劇は社会に貢献することができるのである。ところが最近の劇風と言えば、世俗の濁りを取り込み、かの勧懲の妙理を失って、いたずらに狂奇に陥っている。この団十郎は深くこれを憂い、皆と共にこの風潮を一洗することをしたいと思う。ご来場の紳士諸君に、演劇もまた無益の戯れではないと言われるように、演劇を明治の太平を描き出すに足るものとしたい」  
岡本綺堂はこの時期の演劇改良の空気について次のように回想しています。  
『この時代には改作論や修正論がしばしば繰り返されて、新聞紙上を賑わしていた。たとえば、かの「忠臣蔵」の7段目で、おかるの口説きに「勿体ないが父さんは、非業の最期もお年の上」というのは穏やかでない。これを「勿体なや、父さんはお年の上に非業の最期」と修正しろと言うのである。私の父はその新聞記事を読んで、「わからない奴には困るな」と冷笑していた。しかもこういうたぐいの議論がだんだんと勢力を張って来たのは、争うべからざる事実であった。』(岡本綺堂:「ランプの下にて」・演劇改良と改作)  
当時は娯楽の王様といえば「歌舞伎」でありましたから、人々の関心も高く、それだけにこうした議論にも熱が入ったのでしょう。  
「歌舞伎を新しい時代にふさわしいものに作り変えよう」という団十郎の意志は、舞台ではまず二つの形を以って現れました。  
ひとつは、史実を重視し衣装・小道具なども考証し、時代にふさわしい思想を持った歴史心理劇として演じようとする、いわゆる「活歴」です。その最初の試みは明治2年(1869)8月守田座での「桃山譚」(地震加藤)ですが、「活歴」という言葉は仮名垣魯文が、明治11年10月の新富座で演じられた「二張弓千種重藤(にちょうゆみちぐさのしげとう)」での批評のなかで使った「活歴史」という言葉から発したものです。「活歴」とは「生きた歴史」という意味ですが、もともとは団十郎の大真面目な態度を皮肉ったものでした。  
団十郎の活歴の評判は芳しいものではありませんでした。明治14年新富座での「夜討曽我」では団十郎の曽我五郎は演出を一新し、例によって史実そのままを標榜して腹巻に小手脛当、革足袋に武者わらじという、鎌倉武者そっくりの風俗で登場しました。一方で、十郎役の宗十郎は旧来のままの扮装を主張して頑として譲らず、こちらは素足に素襖、袴の股立ちをとり土踏まずを藁で結んだ扮装でした。この舞台に大向こうもあきれて「弟は火事見舞い、兄は水見舞い」という声がかかったと言います。つまり「兄弟の扮装が調和がとれず演出がチグハグだ」というわけです。これでは観客の評判がいいわけはありません。  
もともと団十郎に確固とした演劇理念があったわけでもないので、こうした不評が続くとさすがの団十郎も次第に活歴に対して熱が冷めていくことになります。明治18年に「素豆腐のような活歴をやめてカッポレでも踊れ」と罵倒された時、翌19年1月に団十郎は「カッポレ」を踊っています。しかし団十郎が活歴離れをはっきりを見せ始めたきっかけは壮士芝居の川上音次郎一座が日清戦争を題材にした戦争劇で評判をとって歌舞伎座で興行することになり、歌舞伎座での座頭である団十郎が追われる形で明治座で出演する破目になったことでした。これは前年11月に団十郎が菊五郎と一緒に演じた「海陸連勝日章旗」が大コケして、その責任をとらされたものです。つまり団十郎の活歴は川上音次郎の戦争劇に完敗したわけです。  
結果的にはそのおかげで団十郎は晩年にいたって古典を演じることが増えてきて、「熊谷陣屋」などの名演出が残されることになったと言えます。その解釈に間接的ではあっても、演劇改良運動の影響を見ることができます。団十郎得意の「肚芸」というものも、また明治というこの時代の空気なくしては論じられません。 
松羽目の舞台  
団十郎の「演劇改良」のもうひとつの試みは、能様式・あるいは能題材を採ってこれを模倣した歌舞伎、つまり「松羽目もの」を盛んに演じたことです。これは従来の支配階級の式楽であった能のスタイルを借りて「いかにも高尚で・かつ高級感のある」歌舞伎を作り上げようという意図でした。能取物でさえあればそれだけで高尚に見えて、だれもこれを「低俗」だとか「時代遅れ」だとか言わないだろう、ということなのです。天覧歌舞伎の演目に能取物が多いのもそうした団十郎らの意図が反映されていると考えられます。  
明治になって団十郎により「舟弁慶」(明治18年新富座)、「紅葉狩」(明治20年新富座)、「素襖落」(明治25年10月歌舞伎座)などの作品が作られました。また五代目菊五郎も「土蜘蛛」(明治14年新富座)、「茨木」(明治16年新富座)といった作品を演じています。  
しかし何と言っても、「松羽目もの」の代表的・かつ最高の演目が七代目団十郎の作り上げた「勧進帳」であることは疑いありません。その能掛かりの舞台は格調において比類がなく、「勧進帳」のなかで弁慶が見せる身を捨てての忠義、これが明治という時代の「忠臣愛国」の理念に合致したということを見逃してはなりません。団十郎は「勧進帳」を以って新しい時代の歌舞伎を象徴させようとした、と言えると思います。  
「勧進帳」は七代目団十郎が荒事の弁慶像にあきたらず、「新しい家の芸」を打ちたてようとして創り上げたものでした。さらにその意図には「能に少しでも近づきたいという、歌舞伎役者の願望・憧れ」が秘められていました。しかし、「勧進帳」は七代目による初演の時にはその能掛かりのスタイルが観客に受け入れられず、その評判はあまり芳しいものではありませんでした。七代目は「勧進帳」を初演を含めて三回しか演じていません。しかし長唄の作曲は優れていたので、初演から10年くらいあたりから安政・万延頃から次第に人気が出てきて、大名や裕福な商家のお座敷などで長唄「勧進帳」は盛んに演奏されて人気曲になっていました。  
「勧進帳」は九代目団十郎によって演出が磨き上げられて、明治になってから、やっと人気作になったと言えます。その「勧進帳」を天下に披露する最高の機会こそが天覧歌舞伎だったのです。天覧歌舞伎を機にして歌舞伎役者の社会的地位も向上していきます。そして歌舞伎の代表的演目として「勧進帳」の評価は揺るぎないものになったのです。七代目団十郎が「勧進帳」に込めた遺志ーその「上昇志向」は、息子九代目によってここに実現されることになったと言えます。 
「勧進帳」の読み上げ・問答について  
「勧進帳」について、ある本(名前はあえて伏す)を読んでおりましたら、こういうことが書いてありました。富樫が勧進帳を読めと言うと、たいていの弁慶役者はギクッとした表情を見せるが、ある役者(これも名前を伏す)はここでほのかに笑ったそうで、そ の演技が「いい」というのです。ここで富樫が「勧進帳」を読めというのは、弁慶一行を一応山伏だと認めて話しを聞こうというのだから・これは弁慶の仕掛けた罠に富樫が引っ掛かったのである ・そうなれば持っていない勧進帳をでっちあげることなど弁慶にとってはなんでもない・だから弁慶は笑うのだそうです。  
私が思いますには、この場面は山伏問答に向けて緊張を盛り上げていくところで、作り山伏を装う弁慶一行に対し富樫はまずは「勧進帳」を読めとの難題を吹っ掛け・さらにその内容理解を問い詰める・一難去ってまた一難・はたして弁慶はこの試練を切り抜けられるのであろうかという 緊迫した場面 であろうと思います。「勧進帳」読み上げ・問答というのは、さあ待っていましたと・そんなに簡単にでっちあげられるような余裕の場面なのでありましょうか。それ なら「弁慶の仕掛けに引っ掛かった富樫」がまるで馬鹿になってしまうのではないでしょうか。  
その役者さんがほのかに笑ったこと自体は「オオそのこといと易し」という感じで笑ったのならば別に悪いとも思いませんが、優れた解釈であるとも私には思われません。この場面の弁慶 では富樫の難しい要求に対して冷や汗を流しながらも必死で答えようとする気持ちが観客に伝わらなければならないのです。弁慶に笑う余裕があるなどとは私には思われないのです。  
むしろ、その必死の思いが伝わるならば・弁慶一行が作り山伏であることが顕に見えてしまっても構わないとさえ思います。その必死の思いが伝わるものならば情の人である富樫はきっとそれを許すに違いないのです。この場面において観客に緊張感を持たせるために弁慶がギクッとした表情を見せるならば、それは 笑うよりは多少とも意味がある演技だろうと私は思います。もっとも九代目団十郎ならば表情をキッと引き締めるくらいの演技でそれを伝えたであろうと私は想像をしますが。  
能の「安宅」のドラマでは勧進帳の読み上げは大して重要な場面ではないですし、まして問答の場面はありません。しかし、歌舞伎の「勧進帳」では読み上げ・問答は最初の・かつ最大のクライマックスなのです。だからこそこの狂言の標題は原作の能と同じ「安宅」ではなくて「勧進帳」の名を付しているのだと考えなければなりません。 
かぶき的ではない「勧進帳」  
ちょっと前(昨年11月)のNHKBS2の歌舞伎の番組を見ていたら視聴者の人気投票があって、確か「勧進帳」がトップでありました。(他の作品の順位は失念。)ホウ、「勧進帳」ですか。当然のような結果ではありますが、私はガッカリしたような気がしました。「勧進帳」を歌舞伎の代表作だというのはちょっと・・・という気が私にはするからです。もっともこの番組の投票は「あなたの好きな歌舞伎は?」という質問であって、「歌舞伎を代表する作品は何か?」と聞いているわけではないのですがね。  
郡司先生が次のような発言をされています。『「勧進帳」というのは最も歌舞伎的でないものですよ。それが一番浮上して第一線を占めているという、つまり歌舞伎の歴史始まって以来の事件ですよ、これは。』(郡司正勝・合評「三大歌舞伎」・「歌舞伎・研究と批評」第16号)  
「勧進帳」は最も歌舞伎的でないものだ、という郡司先生のご発言の意味がお分かりでしょうか。七代目団十郎が創始し・九代目団十郎が完成した「勧進帳」は、歌舞伎の高尚化・能に近づくこと・そして体制に取り入れられることを志向したものでした。(「身分問題からみた歌舞伎十八番・その3「勧進帳」/その4「天覧歌舞伎」をご参照ください。)権力に背を向けて・あえて野に下ろうとする精神を「かぶき的精神」とするならば、「勧進帳」の精神はある面においてまさに対極にあるものなのです。  
それじゃあ最も歌舞伎的な作品は何であるか。郡司先生はそれは「曽我対面」とか「暫」とか、そんなまことに頼りないものしかないと言っています。だから、歌舞伎にとって義太夫狂言は本道ではないのだけれど、歌舞伎を維持する力というのは「型を維持する力」なのであるから、「型もの」である義太夫狂言を守っていかねばならない、それだけが現代の衰弱した歌舞伎の最後の砦である、と先生は仰っています。  
前述の人気投票の順位は忘れましたが、いわゆる「型もの」の義太夫狂言の順位は低かったと思いました。これを義太夫狂言への関心が低いという風に読むならば、これは結構大きな問題を含んでいるのじゃないかと思います。「守らねばならない」ものを(役者はもちろんですが)観客も意識しなければならない、そういうことを啓蒙せねばならない時代になったということです。不肖「歌舞伎素人講釈」もそういう役割を意識せねばならないな、と思っております。 
初代白鸚の弁慶  
「勧進帳」についてのふたつの論考:「勧進帳のふたつの意識」・「弁慶の肚の大きさ」を サイトにアップしました。どちらも勧進帳読み上げと山伏問答のドラマの重要性を考えるものです。それではこの点において・理想的な弁慶役者は誰だと吉之助は考えるのか、そういう質問があるかも知れないので・ここに書いておきます。  
私が思うには、読み上げ・問答において初代白鸚(=八代目幸四郎)の弁慶が最も優れていたと感じています。幸い白鸚の弁慶は多くの映像・音声資料が遺っています。そのどれも言葉が明瞭であること・台詞の緩急が自在なこと・全体のアッチェレランドのテンポ設定が見事な点において非常に参考になります。  
手許に昭和36年2月歌舞伎座の「勧進帳」の舞台のビデオがあります。七代目幸四郎追善興行で三兄弟出演で話題の興行でしたが、この月の14日に幸四郎が突然東宝への移籍を発表して・大騒ぎになったといういわくつきの舞台でした。この時の富樫の十一代目団十郎(当時は海老蔵)も戦後の代表的な富樫であります。観客の興奮を誘う見事なテンポ設計の読み上げ・問答です。さすが兄弟だけに息がピッタリです。  
ところで、この舞台ビデオを見ていて「ほほう・・」と思ったのは、意外に白鸚が表情を作ることです。心理主義的というか・説明的に思うくらいに分りやすく表情を変化させるんですね。もう少し抑えたほうが・・という気もしますが、等身大の弁慶像を作ろうとしているように感じられました。戦後の昭和30年代という時代を感じさせて新鮮な感じがしました。なるほどこの演技の延長線上に今の幸四郎の弁慶がいるのだなあということを感じました。 
「勧進帳」における義の絶対性  
メルマガ第140号「武士道における義を考える」では、義の絶対性を論じています。歌舞伎における身替わり物など忠義を描いた作品は、個人の権利意識の強い現代においては、なかなか共感が得られにくいものです。主人だって家来だって・同じ人間じゃないかとか、これじゃ家来は犠牲になっただけで死に損だとか、そういう感じ方になってきます。こういう感覚が普通になるなかで・歌舞伎の新たな今日的な解釈(価値)を見出そうというのは大事なことですが、しかし、本質を見誤ったらどうしようもありません。  
例えば「勧進帳」において・あれが作り山伏の義経一行だと知って関を通した富樫左衛門が「死(切腹)を覚悟している」というのは・これはその通りです。富樫は義経を見逃したことで主人である鎌倉殿(頼朝)を裏切ったのですから・そうなるのが富樫の行く末だろうと思います。しかし、だからと言って「俺の人生はこれで終わりだ」という絶望的な心境に富樫がなることはあり得ないということを申し上げておきたいと思います。あるとすれば「俺は命を捨てて・守るべきものを守った」という確信と喜びでありましょう。そのことが「義経信仰」のバックグラウンドにおいて理解されねばなりません。  
そうでなければ富樫は「一時の気の迷いで・してはならないことをしてしまった愚かな男」だということになるでしょう。「勧進帳」は義経・弁慶一行が安宅の関を通ってうまくやったぜ・後の富樫の事は知らないよ、という物語では ないのです。弁慶の延年の舞は、弁慶は油断のない男ですから・富樫に完全に気を許していないにしても、間違いなく富樫のために舞われています。  
唐突ですが・良い例が思いつかないのですが、ずいぶん昔の米映画に「聖衣」(1953年/ヘンリー・コスター監督/リチャード・バートン主演)というのがあるのをご存知でしょうか。これはイエスが磔(はりつけ)刑になった時に・その傍らにいたローマ の護民官の物語です。彼はもちろんイエスに何の係わりもなかったのですが、イエスの遺体を十字架から降ろす時に・イエスの着衣に 偶然触れてしまうのです。その時に何かが彼に憑依します。やがていろいろ経緯あって、彼はキリスト教徒になって・ローマにおいて磔になるのですが・神に祝福されて彼は喜びに満たされるという筋であります。  
弁慶にとって義経が守らねばならない存在であるのは当然です。しかし、「富樫にとっても義経はやはり守らねばならない存在なのか」と疑問に思われるかも知れませんが、これは間違いなく・そうなのです。なぜならば、観客を含めた劇場全体の人々が義経を守らなければならないと信じているからです。義経の姿を一目見たその瞬間から・富樫は「この男は守らねばならない」と いう思いに打たれたと思います。しかし、富樫自身がそれを確信し切れないのです。どうして自分がそんなことを感じたのかが分からない、もとより義経を探し出し逮捕するのが彼の職務なのです。だから、彼は職務として弁慶に勧進帳を読ませ・問答をします。「なぜ自分はそんなことを感じたのか」、富樫はなおも自問自答を続けています。しかし、まだ確信が得られない。緊迫した山伏問答はそんな富樫の内心のいらだちを示しているとも言えます。さらに富樫は家来に指摘されて・一行を引き止めてしまうのですが、しかし、弁慶が義経を打つのを見て・ついに富樫は確信を得るのです。「この人を守らねばならない」、その思いが富樫のなかで抑えられなくなる。「判官殿にもなき人を・・・・」という台詞は私にはそのような叫びに聞こえるのです。これは弁慶に言わされた台詞ではないのです。(別稿「勧進帳・義経をめぐる儀式」をご参照ください。)  
これが義の絶対性と義経信仰を念頭に入れた「勧進帳」の読み方であります。如何でありましょうか。 
「勧進帳」 Q&A  
最近の「勧進帳」の舞台の問題点はどこでしょうか  
「勧進帳」のドラマ構造を弁慶と富樫の二極対立構図で読もうとする傾向が強いことだと思います。それがなぜ問題かと言えば義経の存在が忘れられているからです。あるいは弁慶と富樫の対立構図の枠外に義経を位置つけているということかな 。しかし、これではいけないと思いますね。確かにドラマは弁慶と富樫の対立で進行します。しかし、舞台の見た目の印象だけではドラマの解析はできないのです。  
義経の存在が大事であるのはなぜですか  
義経の存在が忘れられて・ドラマを弁慶と富樫の対立構図だけで読むと、富樫が弁慶一行の関所通過を認めることの劇的必然が薄弱になると思うからです。  
弁慶が自らが手打ちになるのを覚悟で主人義経を金剛杖で打ったという・その捨て身の行為に富樫は感じ入ったということではないのですか  
なるほど身を捨てて主人義経を守ろうとした弁慶の覚悟に富樫が感じ入ったという解釈ですね。まあ、それも分からないことはない。しかし、富樫にも頼朝という主人がいるわけです。富樫は頼朝の命令で・義経一行を捕捉すべく安宅の関を守っているのです。弁慶の行為に感動したとしても、それが富樫が主人を裏切ることに即つながるものでしょうか。富樫は弁慶の忠義に感じ入って・一行の関所通過を認めたとすれば、富樫は弁慶の忠義の方が自分の忠義より重いと見たので しょうか。そこが問題になると思います。吉之助としては、富樫が弁慶の忠義と ・自分の忠義を秤にかけたとは思いたくないのです。全然別の次元の尺度で富樫は動いていると思います。それでないと筋が通らないと思います。  
富樫は自分の忠義よりはるかに重いものがあると考えたということですか  
それは義経が神であるという事実です。まあ、これは八百万(やおよろず)の神という意味ですが、それでも確かに神なのです。義経は守らなくてはならない存在として在るのです。それ以外の理由は考えられません。  
義経は神なのですか  
義経が神であることを理解するには江戸時代の「義経信仰」を考えなければなりません。その生涯を見れば・義経は幼い時に親兄弟と別れて孤独に育ち、成人しては・まるで彗星のように現われて・奢る平家をアッと言う間に打ち滅ぼし、しかし、その栄光もつかの間、兄頼朝に疎まれて奥州の地に寂しく果てるというように、その人生に栄光と悲惨、まさに諸行無常・もののあはれの流転の人生を体現してきた人物なのです。だから義経はもののあはれを理解 することのできる人物である。まさに義経はこの世の哀しみを涙ですくい取る菩薩なのです。それが「義経信仰」の原点です。能楽においては義経は子方が演じることになっているのも この背景によります。  
そう言えば歌舞伎では「義経物」というジャンルがあるのですね  
歌舞伎の義経物はすべてそのような義経信仰の背景で読む必要があります。歌舞伎の義経は自分から積極的に前に出て・ドラマを動かすようなことはしません。しかし、常にドラマの流れと先行きを感じ取っている人物なのです。何が起き・どうしてこういうことになるのかが見通 すことのできる人物です。だからと言って・どうするわけでもない。義経はただ「是非もなき世のありさまじゃなあ」と言って涙するだけなのです。しかし、その涙が観客を癒すのです。それは義経が神だからなのです。  
「千本桜」や「嫩軍記」で義経が先を読んで・手を打って・ズバリと決める・ 義経は冷徹な政治家・戦略家であると書いてある評論が散見されます。それは義経に神性を見ようとしないから・そういう解釈になるのです。しかし、そういう見方で「勧進帳」を読んだらどうなるのでしょうか。うまく富樫をやりこめて・まんまと関を通ってやったぜ・ざまあ見ろということなの でしょうか。そうなると情に負けて関を通した富樫はまるで馬鹿みたいです。日本人の心を熱くしてきた「勧進帳」のドラマはそんなものじゃないと思うのですよ。  
だから「勧進帳」を弁慶と富樫の対立構図で読んではいけないということなのですね  
ドラマ構図の芯に義経の位置を明確に見出さなければ「勧進帳」は読めないと思います。たとえ義経が舞台で動かなくても、弁慶と富樫の眼前に義経の姿がありありと見えなければならないのです。あえてイメージとして言うなら・「勧進帳」を義経を中央に据えて・左右に弁慶と富樫が向かい合って立つという三極構図で理解したいと思います。  
義経を中央に据えた三極構図で読むと、「勧進帳」の解釈はどう変るのですか  
富樫が弁慶一行の関通過を認めることについて明確な動機が見出されることになります。義経が神である以上・弁慶が義経を杖で打つなどという行為はあってはならぬ行為なのです。だから、それを見て耐えられなくなった富樫が思わず止めるということになります。  
それが「判官殿にもなき人を・・・」という富樫の台詞ですね  
富樫が制止しなければ、弁慶は義経を打ち殺していたでしょう。当然弁慶はそのような気迫で義経に打ちかからねばなりません。しかし、それは周囲にとって身振るいするほど恐ろしい行為 なのです。なぜならば義経は神であり、これを打つのは禁忌(タブー) なのです。富樫が思わずこれを止めるのは当然ではないでしょうか。弁慶が義経を打たねばならなくなったのは富樫が一行を引き止めたからですね。義経が打たれるのは富樫のせい だとも言える。富樫は神が打たれるのをとても正視できないのです。弁慶に神を打つのを止めさせるには、一行の関通過を認めるしかないのです。「判官殿にもなき人を・・・」という台詞は、 吉之助にはそうした富樫の心情の叫びに聞こえます。  
弁慶にとって義経が神であることは分かりますが、富樫にとっても義経は神なのですか  
そのことを疑う余地はありません。義経が神であるということは、富樫だけでなく・観客にとっても劇場という場全体が認識している「前提」としてあるということです。そうでなければ、富樫にとって は主人でもない・義理も所縁もない義経を守る理由はないのです。  
富樫はどの時点で義経を神であると知るのでしょうか  
冒頭の名乗りにおいて富樫が義経に面識がないことは明らかです。しかし、「勧進帳」のドラマを見ると富樫は一行のなかに義経の姿をチラリと認めた時点で、この一行のなかに「守らねばならない存在・義経」がいることを感知したと思います。  
それならどうして富樫は弁慶に勧進帳を読ませたり・問答を仕掛けたりするのでしょうか  
まさに弁慶に勧進帳を読ませ・問答を仕掛けること こそ・富樫が「この一行のなかに守らねばならない存在がいる」ということをうすうす感じていることの証(あかし)なのです。けれども富樫自身がそのことを確信し切れていないのです。もとより富樫の使命は義経を捕らえることなのですから、なぜ自分がそうしたことを感じるか も自分で分からないのです。ただ自分の直感が正しいのかどうかを確かめるために、まず弁慶に勧進帳を読めと言います。しかし、弁慶が見事に偽の勧進帳をデッチあげてしまうので、さらに山伏問答を仕掛けざるを得なくなります。  
この時点で富樫は弁慶一行を通過させる腹だったのでしょうか  
弁慶が勧進帳を読み上げ・問答に見事に答えた以上・通過を認めないわけにいきませんね。富樫としては何かしら釈然としないまま一行の通過を認めたと思います。しかし、番卒の指摘で富樫が一行を引き止めざるを得なくなります。ここで 初めて富樫は「守らねばならない絶対的存在」との対峙を余儀なくされるのです。弁慶はやむなく義経を打つという暴挙に出るわけですが、自分が一行を引きとめたことで神が打たれるのならば ・富樫は弁慶を制止しないわけにはいきませんね。  
「勧進帳」は富樫の心のドラマとして読めるということですね  
ここまでで理解されたかと思いますが、舞台では富樫は弁慶に対していますが、実は内面では義経に対峙しているのです。だから、弁慶対富樫の二極構図では「勧進帳」のドラマは読めないことが分かると思います。  
吉之助は興味深いと思いますが、吉之助もそうですが・現代人は御主人大事滅私奉公などと言われると「封建主義は古臭い・身分は違えど人の命の重さに違いはない」と思うものかと思います 。しかし、弁慶を見ると「やっぱり忠義のドラマはエエなあ」という感じになっちゃうのが面白いと思いますねえ。しかし、本当は観客は弁慶に封建主義の鑑を見て感動しているわけではないのですよ。「勧進帳」は主人を捨て身で守る弁慶の忠義のドラマだなどと解説本に書いてあるから、ドラマの理解が変な方向に行くのです。観客はもっと時代を超えた熱いものを感じているのだと思いますね。  
時代を超えた熱いものとは何でしょうか  
それは結局、「我々には守らなければならないものがある」ということです。言い換えますと「君はそのことのために死ねるか」ということかと思います。  
もう一度聞きたいのですが、富樫にとって「守らねばならないもの」が義経だということになるのでしょうか  
富樫にとって義経が「守らねばならないもの」でないのならば、富樫は弁慶を制止する理由は何もないのです。義経が弁慶に打ち殺されたとしても富樫が責められる理由などないのですから。弁慶を制止したということは富樫にとって義経は守らねばならない存在であったということになるのです。それしか理由がないですね。  
弁慶にとって義経が守らなければならない存在であることは、これは確かに忠義の論理で説明ができます。しかし、その同じ論理で富樫を計るなら富樫が守らねばならないのは主人頼朝 でなければならない。頼朝を裏切って義経を守るというのは・これは富樫にとって不忠の行為なのです。弁慶の忠義に感動して富樫が不忠を働く・それがいいなんてドラマはオカシクはないですか。だから、そういう風に「勧進帳」 のドラマを見ている限り、富樫の真の動機に行き着くことはできないと思います。主人だとか家来だとかいう関係を超えた・それ以上のものがそこになければ、富樫は主人頼朝を裏切ることは決してできないでしょう。それが「義経は神である」という絶対的確信なのです。これを認識した瞬間に富樫はすべてを悟るのです。  
富樫が「判官殿にもなき人を・・・」という瞬間ですね  
その通りです。弁慶が義経を打つのを制止した時点で、富樫も弁慶と同じく義経信仰に帰依したということです。これは舞台上のドラマの目撃者たる観客全員に受け入れられる論理なのです。  
弁慶が「義経が神である」ということを富樫に示す場面はあるのでしょうか  
弁慶はとにかく「義経が大事」ということが性根ですから・どこがということはないですが、一箇所大事なところがああります。それは義経を打つ場面で金剛杖を振り上げる 腕の上げ方です。ここで杖を振り上げる時に肘が肩より高く上げてはいけないという口伝があるのです。これとまったく同じ口伝を持つ義経物の作品がありますよ。  
それは何でしょうか  
「鬼一法眼三略巻・菊畑」の智恵内(実は鬼三太)です。智恵内が虎蔵(実は義経)を打つ時にやはり杖を振り上げる時に肘が肩より高くなってはいけないという口伝があるのです。大事の主人を打つのに畏れ多くて・腕が上がらないという風に言われているようですが、突き詰めて考えれば実はそこに「義経の神性」を見てるということなのです。神を打つということがどれほどの禁忌なのか、ここでしっかりと示されねばなりませんね。  
富樫は弁慶一行を通した後に腹を切るのでしょうか  
弁慶は主人に手打ちになる覚悟で義経を打った・それを制止した富樫は頼朝の叱責を受けて腹を切る覚悟をして・弁慶一行の関通過を認めたということでしょう。大事なことは、これは弁慶に強制されて(あるいは脅迫されて)富樫がやむを得ず取った行動ではないということです。謡曲「安宅」ではそうなっていますが、「勧進帳」ではそうではない。それは義経信仰に帰依した富樫が自発的にとった行為なのです。つまり、富樫の行為は義経信仰への殉教行為なのですね。そこに富樫のカタルシスがあるのです。  
富樫は死ぬ覚悟をしたということは・そこに悲壮感があるのではないでしょうか  
弁慶一行の通行を認めたことで富樫が「俺の人生はこれで終わった」なんて感じるならば・最初から一行を通さねば良いのです。もともと義経に義理などないのですから。死を覚悟すると言うと・何だかそれでもう終わりみたいな絶望 感につなげちゃうと、富樫の心情は全然理解できないです。ここで死ぬことは永遠に生きることなのです。富樫は切腹しても・義経に帰依したことで救われるに違いありません。このことは弁慶が富樫のために延年の舞を舞うことで分かると思います。富樫は祝福されているのですよ。  
富樫は死んで義経に救われるわけですか  
義経物を考える時に大事なことは、義経は最後に奥州の地で寂しく果てる運命だということです。これは江戸時代の民衆が常識として持っていた義経物の大前提です。義経は奥州で死ぬから最後に本当の神になるのであって、逆に言えば義経が最後に奥州で死ぬ運命が意識されていない義経物などあり得ないのです。ということは「勧進帳」のドラマは弁慶一行が安宅の関を通過してハッピーで終わるのではないのですよ。この後も義経・弁慶一行は奥州での死に向かって旅をつづけるということなのです。一行は「神話の完成」に向かうのです。だからこれはめでたい旅立ちだと言えるわけです。そして、一行を送り出す富樫も、また神話のなかに組み入れられるということです。だから富樫の死もまためでたいのです。それが「勧進帳」の幕切れの意味だと思います。 
謡曲「安宅」原作本  
現行の「勧進帳」の舞台を完成したのは・九代目団十郎であるのはご存知の通りです。九代目団十郎はその生涯に二十回(興行)「勧進帳」を演じましたが、演るたびに演出を変えています。その結果、父・七代目郎の舞台とはかなり違ったものになってしまいました。今我々が見るところの「勧進帳」は九代目団十郎が最後に演じた明治32年(1899)4月歌舞伎座の舞台を基本にしたものを・弟子の七代目幸四郎らが継承して完成したものです。  
しかし、九代目団十郎は父七代目の演出を自分の都合で勝手に変えたわけではないのです。現行の「勧進帳」の姿は七代目の初演の演出コンセプトのなかにもその萌芽があり、九代目は父の発想を追いながら・自分自身の創意工夫を加えています。だから七代目の考えていることの延長線上に現行の「勧進帳」の舞台 があるのです。このことをちょっと考えてみたいと思います。  
まず謡曲「安宅」の詞章を見てみます。「安宅」の作者は不明ですが、寛正6年(1465)3月の室町将軍院参の折の観世演能に「あたか」の曲名が見えるそうです。(詞章は小学館・日本古典文学全集・59に収録の観世流「寛永卯月本」を参照しました。)  
引用する場面に先立ち弁慶の「勧進帳読み上げ(ノット=祝詞)」の場面があります。しかし、弁慶が「天も響けと読み上げ」ると富樫たち関の人々は「肝を消し・恐れをなして 」一行を通してしまいます。だから能には歌舞伎のような山伏問答がありません。また歌舞伎では富樫が布施物を寄進しますが・能にはこの場面もありません。弁慶一行 が関を通過しようとすると、そこで義経の姿を認めた 太刀持の注進で富樫が強力を留めます。  
(太刀持)「いかに申し上げ候。判官殿の御通り候。」  
(富樫)「いかにこれなる強力留まれとこそ」  
(すはわが君を怪しむるは、一期の浮沈極まりぬと、皆一同に立ち帰る。)  
(弁慶)「おう、しばらく、あわてて事を為損ずな。やあ何とてあの強力は通らぬぞ。」  
(富樫)「あれはこなたより留めて候。」  
(弁慶)「それは何とて御留め候ふぞ。」  
(富樫)「あの強力がちと人に似たると申す者の候ふほどに、さて留めて候ふよ。」  
(弁慶)「何と人が人に似たるとは珍しからぬ仰せにて候。さて誰に似て候ふぞ。」  
(富樫)「判官殿に似たると申す者の候ふほどに、落居の間留めて候。」  
(弁慶)「や、言語道断、判官殿に似申したる強力めは一期の思ひ出な。腹立ちや日高くは、能登の国まで指さうずると思ひつつぬ、僅かの笈負うて後に下がればこそ人も怪しむれ。総じてこのほど憎し憎しと思ひつつに、いで物見せてくれんとて、金剛杖を押つ取つてさんざんに打擲す。通れとこそ。」  
(富樫)「何と陳じ給うとも、一人も通し申すまじく候。」  
(弁慶)「や、笈に目をかけ給ふは盗人(とうじん)ざうな」  
(立衆)「方々は何故に、方々は何故に、かほど賤しき強力に、太刀刀(たちかたな)を抜き給ふは、目垂れ顔の振舞は、臆病の至りかと、十一人の山伏は、打刀(うちがたな)抜きかけて、勇みかかれる有様は、いかなる天魔鬼神も、恐れつべうぞ見えたる。」  
(富樫)「ちかごろ誤りて候。はやはや御通り候へ。」  
(太刀持)「急いでお通りやれお通りやれ。」  
「目垂れ顔」とは人の弱みにつけこんで・卑怯な行為をする時の顔つきのことを言います。 「方々は何故にかほど賤しき強力に太刀刀(たちかたな)を抜き給ふは目垂れ顔の振舞は臆病の至りかと」とは、あなた方はどういう理由で・そんな賤しい強力に太刀や刀をお抜きなさるのか・そんな弱い者に対してあなどった態度を取るのは・はなはだしく臆病であるからなのかという意味です。これはその前の弁慶の台詞「笈に目をかけ給ふは盗人ざうな」を受けた詞章です。弁慶は富樫たちが強力の笈に目をつけて金品を巻き上げようとしたと言い掛かりをつけて脅 し・山伏たちは怒りの形相で富樫たちに迫ります。吃驚した富樫はあっさりと関の通過を許してしまいます。  
この場面で弁慶は強力(義経)を金剛杖でさんざんに打擲します。ここは弁慶の荒々しさを見せる箇所ですが・関を通り過ぎた後で弁慶が泣いて義経に謝るからそうとは思うものの・「安宅」においては弁慶の義経打擲がドラマの 重要なポイントになっているようには思われないのです。山伏たちが必死の形相で富樫に詰め寄って脅したことの方がよほど効果があったように見えます。だから「安宅」では義経打擲より「笈に目をかけ給ふは盗人ざうな」 の台詞の方が重要に思えます。 
「勧進帳」現行本  
歌舞伎での「勧進帳」は、岩波書店・日本古典文学大系・98に所収の、昭和18年12月歌舞伎座での七代目松本幸四郎が上演した時の台本を定本にしたものを参照しています。これがもっとも厳密に考証された「勧進帳」 脚本とされています。  
(富樫)「如何にそれなる強力、止まれとこそ。」  
(すはや我が君怪しむるは、一期の浮沈ここなり、各々と後へ立帰る。)  
(弁慶)「慌てて事を仕損ずな。こな強力め、何とて通り居らぬぞ。」  
(富樫)「それは此方とり留め申した。」  
(弁慶)「それは何ゆえお留め候ぞ。」  
(富樫)「その強力が、ちと人に似たりと申す者の候ほどに、さてこそ只今留めたり。」  
(弁慶)「何、人が人に似たりとは珍しからぬ仰せにこそ、さて、誰に似て候ぞ。」  
(富樫)「判官どのに、似たりと申す者の候ほどに、落居の間留め申す。」  
(弁慶)「なに、判官どのに似たる強力めは、一期の思ひ出な、腹立ちや、日高くば、能登の国まで、越さうずらうと思ひをるに、僅かの笈一つ背負うて後に下がればこそ、人も怪しむれ、総じてこの程より、ややもすれば、判官どのよと怪しめらるるは、おのれが業の拙きゆえなり、思へば憎し、憎し憎し、いで物見せん」  
(金剛杖をおつ取つて、さんざんに打擲す。)  
(弁慶)「通れ。」  
(通れとこそは罵りぬ。)  
(富樫)「如何やうに陳ずるとも、通すこと」  
(番卒)「まかりならぬ。」  
(弁慶)「やあ、笈に目をかけ給ふは、盗人ざふな。」  
(弁慶)「これ(四天王たちかかるを金剛杖を突きこれを制す)」  
(方々は何ゆえに、かほど賤しき強力に、太刀かたなを抜き給ふは、目だれ顔の振舞、臆病の至りかと、皆山伏は打刀を抜きかけて、勇みかかれる有様は、如何なる天魔鬼神(おにがみ)も、恐れつべうぞ見えにける。)  
(弁慶)「まだこの上にも御疑ひの候はば、あの強力め、荷物の布施物諸共、お預け申す。如何やうにも糾明あれ。正し、これにて打ち殺し見せ申さんや。」  
(富樫)「こは先達の荒けなし。」  
(弁慶)「然らば、只今疑ひありしは如何に。」  
(富樫)「士卒の者が我れへの訴へ。」  
(弁慶)「御疑念晴らし、打ち殺し見せ申さん。」  
(富樫)「早まり給ふな、番卒どものよしなし僻目より、判官どのにもなき人を、疑へばこそ、斯く折檻も仕給ふなれ。今は疑い晴れ申した。とくとく誘い通られよ。」  
(弁慶)「大檀那の仰せなくんば、打ち殺いて捨てんずもの、命冥加に叶ひし奴、以後をきつと、慎み居らう。」  
(富樫)「我はこれより、猶も厳しく警固の役、方々来れ。」  
(番卒)「はあ」  
(士卒を引き連れ関守は、門の内へぞ入りにける。)  
比較してみると「勧進帳」の詞章が謡曲「安宅」から多く採られていることがよく分かります。しかし、歌舞伎の場合はさらに台詞が加わえられてドラマの起伏は「勧進帳」の方がずっと大きなものになってい ると思います。まず気が付くことは弁慶が強力(義経)を金剛杖で打擲する場面がずっと重くなっていることです。もうひとつは「安宅」のように山伏たちが詰め寄って富樫が恐れ入って一行の関を通すのではなく、歌舞伎では弁慶が強力を打ち殺そうとするのを富樫が留め (つまり義経を助けて)一行の関通過を認める段取りになっていることが明らかなことです。つまり弁慶の義経打擲がこの場面の核心であることが「勧進帳」では明確 なのです。このことが後の場面で弁慶が義経の前で泣くことの複線としてグッと効いて来ます。これは「安宅」より「勧進帳」の方がはるかに納得が行く展開に思えます。  
この場面は舞台ではほとんど動かない義経という存在をドラマの核心に位置付ける最重要の場面ですが、しかし、現行歌舞伎の「勧進帳」の舞台を見 ていると、吉之助にはいくつか疑問に思う点があるのです。  
疑問点のひとつは、ここは弁慶の義経打擲だけに焦点を絞って富樫を攻めた方がドラマの流れとしてより効果的ではないかということです。だとすれば弁慶の「やあ笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」の台詞が流れからすると不要に思われるのです。ここはストレートに義経だけで富樫を攻めた方が良いと 吉之助には思えます。富樫を攻めていく時の論点がブレてしまうように思えます。  
この場面を考えてみるに、弁慶はか弱い強力が修行が足りないゆえに小さい笈を背負ってフラフラしているから疑われるのだとイチャモンを付けて・義経を打擲するのです。しかし、これだけでは富樫の疑いを解くにはちょっと 説得力不足のようにも思われる。そこで富樫たちが強力の笈のなかの金品に目を付けていると言い掛かりを付けて脅し・いわば二面から富樫を攻めようとしていると考えることができるかも知れません。「やあ笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」は原典の「安宅」にもある台詞でもあることでもあるし・まあ・仕方ないことであるかなというのが、現行の舞台を見ていて 吉之助がいつも感じるところでした。しかし、「勧進帳」ではその前場面で富樫は布施物を寄進しているのですし・富樫がその布施物をまた取り返そうとしているというのも・言い掛かりとしては苦しいように思います。  
疑問点のふたつ目は「方々は何ゆえに・かほど賤しき強力に・太刀かたなを抜き給ふは、目だれ顔の振舞・臆病の至りかと」の長唄の詞章の「方々」は誰が誰に対して言っている台詞かということです。「安宅」であれば これは四天王の台詞に当たることは明らかですから・「方々」は富樫ら関守の人々を指すのです。  
「勧進帳」であるとこの台詞は弁慶の台詞になりますが、しかし、「勧進帳」の「方々は何ゆえにかほど賤しき強力に・・・」という台詞は弁慶が富樫ら関を守る人々に言 っている台詞のようにも聞こえるけれども、同時に弁慶が必死の形相で詰め寄ろうとする四天王に対し・「どうして貴方たちはこんな賤しい強力を必死になって守ろうとするのだ・放って置けば良いではないか」と言っているようにも読めます。いやそのどちらにも取れるように書かれているのだというのは、この緊迫した場面においてはないこと です。現行の舞台を見ていると・この点も不明瞭に思われます。 
天保11年・「勧進帳」初演本  
以上の疑問を考えるために・季刊雑誌「歌舞伎・6」(昭和44年10月・松竹)に服部幸雄先生の解説付きで掲載された「勧進帳」初演本と再演本の復刻を参照します。まず初演本は天保11年(1840)3月河原崎座で七代目団十郎(当時は海老蔵)が初演した時のもの。再演本は嘉永2年(1849)3月河原崎座で八代目団十郎の弁慶で再演された時のもの。  
まず天保11年(1840)3月河原崎座での初演本を見ます。弁慶は海老蔵(七代目団十郎)・富樫は九蔵(後の六代目団蔵)です。勧進帳読み上げ・問答の後、富樫が一行の布施物を寄進する場面があり、その後が富樫の呼びとめとなります。  
(富樫)「いかにそれなる強力こそとまり申すべし」  
(すわや我きみあやしむるは、一期のふちんここなりと、おのおの跡へたちかえる)  
(弁慶)「夫は何とて御留候そ。」  
(富樫)「あの強力が人に似て候程に留申て候。」  
(弁慶)「なんと人が人に似たるとは、珍しからぬ仰にて候。さては誰に似て候ぞ。」(富樫)「判官どのに似たると申者の候程に、落居の間留て候。」  
(弁慶)「なに此強力が判官どのに似たると候や、言語同断、判官どのに似たる強力め、日高くは能登の国までさそふずると思ひしに、此笈負て跡へさがればこそ人は怪しむね、此程もにくしにくしと思ひつるに、いでもの見せん。」  
(金剛杖をおつ取て、さんざんにてうちやくす。)  
(弁慶)「猶此上にも御疑ひ候ば、仰次第切捨ん、いかが。」  
(士卒三人)「通りおらふ」  
(通れとこそはののしりぬ)  
(弁慶)「こりゃ」  
(かたがたは何ゆえに、加程賤しき強力を、太刀刀を抜給ふや、目たれ貌の振舞、おく病のいたりと、皆山伏は打刀抜かけて、勇みかかれる有さまは、いかなる天魔鬼神も、恐れつべうぞ見えにける。)  
(富樫)「近頃誤つて候。早々御通り候へ、我もしばらく休息なさん、かたがた来れ。」  
(士卒三人)「はっ。」  
これを見ますと「勧進帳」初演本は長唄の歌詞は現行本とほとんど同じなのですが、台詞の方がかなり異なることに驚かされます。現行本と比べると初演本は台詞が少ないのです。すぐ目につく相違点はまず弁慶の「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」がないことです。また富樫の「早まり給ふな番卒どものよしなし僻目より判官どのにもなき人を疑へばこそ斯く折檻も仕給ふなれ」 という有名な台詞がありません。  
もうひとつ気が付くのは、弁慶の「猶此上にも御疑ひ候ば仰次第切捨んいかが」という・現行本では富樫に対する攻めのトドメになっている台詞が「かたがたは何ゆえに加程賤しき強力を・・」の詰め寄りの詞章の前に登場しており、ここで弁慶の剣幕に怯えた番卒たちが すぐに「通りおらふ」と叫んでいることです。したがって、「通れとこそはののしりぬ」という長唄の詞章が番卒たちが弁慶一行に対して叫んでいる描写に使われています。現行本では同じ「通れとこそはののしりぬ」の詞章は弁慶が義経を金剛杖で払いのける時に使われており・弁慶が義経を罵っている描写に変っています。  
さらに「かたがたは何ゆえに、加程賤しき強力を・・・」の詞章が弁慶が詰め寄る四天王を押さえる場面で使われており・これは弁慶が四天王たちに向かって言っている台詞であることが明らかです。「安宅」では同じ詞章が四天王が富樫たちに向かって言う台詞として使われていますが、「勧進帳」初演本では・この詞章の前に番卒たちは「通りおらふ」と叫んでいます。とすれば弁慶が富樫たちに向かって「目たれ貌の振舞、おく病のいたり」と言う理由がもはやないのです。だから「かたがたは何ゆえに、加程賤しき強力を・・・」の詞章は主人義経が打たれる破目になったことでいきり立つ四天王を弁慶が制する台詞として使われていることが明らかです。  
番卒たちが「通りおらふ」と言っているのだから一行はそのまま通ればいいのです。ところが四天王は主人が打たれたことに怒ってしまって富樫たちに詰め寄ろうとします。これを弁慶が抑える形になっています。すなわち「どうして貴方たちはこんな賤しい強力が打たれたことにそんなに怒るのか・放って置けば良いではないか」ということになります。四天王の怒りの形相を見て怖れた富樫が「近頃誤つて候。早々御通り候へ」と 謝って逃げ出すので・弁慶は窮地を脱するのです。「勧進帳」初演本での富樫の人物も「安宅」同様に重いようには思われません。弁慶に通過を許した後の台詞が「我もしばらく休息なさん」とは情けないですね。よほど怖かったのでありましょうか。  
ここで大事なことはまず「勧進帳」初演本においては弁慶の義経打擲がドラマの核心であるということです。富樫への攻めがこの一点に絞られています。原典の「安宅」にある「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」が省かれてることもこれなら ば納得できると思います。  
もうひとつは現行本の「勧進帳」よりも弁慶の打擲という暴力行為・つまり弁慶の荒事味がストレートに現われていることです。元禄の昔から歌舞伎の弁慶は荒事のキャラクターの代表的なものでした。「勧進帳」は荒事の本家である市川宗家の芝居ですから、この義経打擲を荒事の弁慶を生かす場面とするのは当然の発想でしょう。弁慶が義経をさんざんに打擲し・「猶此上にも御疑ひ候ば仰次第切捨んいかが」と叫ぶと、番卒たちは恐れおののいて・すぐに「通りおらふ」と言ってしまいます。それだけ弁慶の荒事のイメージが強い わけです。 
嘉永2年・「勧進帳」再演本  
再演本は嘉永2年(1849)3月河原崎座で八代目団十郎の弁慶で再演された時のものです。この時、七代目は江戸を追放されており・息子の八代目は大坂に滞在中の父親に会いに上京する為・お名残狂言としての「勧進帳」でありました。なお、 江戸に復帰した七代目はこの後に嘉永5年9月河原崎座で一世一代にて「勧進帳」を再び演じています。  
(富樫)「いかに、是なる強力とまり候へ。」  
(弁慶)「コリヤ、あわてて事を仕損るな。」  
(すわや我君怪しむるは、一期のふちんここなりと、各々跡へ立帰る。)  
(弁慶)「コナ強力め、なにとて通りおらぬぞ。」  
(富樫)「あれは、こなたより留め申。」  
(弁慶)「それは、何ゆへ御とめ候。」  
(富樫)「アノ強力がチト人に似と申者の候程に、さてこそ只今留たり。」  
(弁慶)「何と、人が人に似るとは珍らしかなぬ仰せにこそ、さて誰に似て候ぞ。」(富樫)「判官殿に似たると申者の候ゆへ、楽居の間留め申。」  
(弁慶)「言語道断、判官殿に似たる強力めは、一期の思ひ出し、エエはた立ちや、日高くは能登の国まで越ふずると思へるに、わづかの笈ひとつ背負ふて、跡にさがればこそ人も怪しむれ、惣して、此程より、ややもすれば判官殿かと怪めらるるは、己が仕業のはかなきゆへなり。ムム、思へばにくしや。憎し憎し、いでもの見せん。」  
(金剛杖をおつとつて、さんざん二てうちやくす)  
(通れとこそはののしりける。)  
(富樫)「いかよふにちんずるとも通る事。」  
(三人)「罷りならぬ。」  
(弁慶)「コリヤ。」  
(かたがたは、何故に、かほど賤しき強力を、太刀かたなをぬきたもうや。目たれ顔の振舞、おくひやうのいたりかと、皆山伏は打刀ぬきかけて、勇みかかれる有さまは、いかなる天魔も鬼神、恐れつべふぞ見へにける。)(弁慶)「まだ此上にも御疑ひの候ば、此強力め、荷物布施ともろとも御預け申ス、いかよふとも糾明なされい、但し是にて打ころし申さんや。」  
(富樫)「コハ先達のあらけなし。」  
(弁慶)「しからば只今疑ひ有しはいかに。」  
(富樫)「士卒の者が我への訴へ。」  
(弁慶)「御疑ひはらし、打ころし見せ申さんや。」  
(富樫)「早まりたもうな、番卒共のよしなしひが目より、判官殿となき人を疑ひばこそ、かく折檻も仕たもふなり。今は疑ひはれ候、とくとく誘い通られよ。」  
(弁慶)「大旦那の仰あらずば、打殺しても捨申さんもの、命冥加に叶ひしやつ、以後を急度心得おろふ。」  
(富樫)「我はこれより猶も厳敷けいごの役目、みなみな来れ。」  
(三人)「ハアー。」  
初演本からの改訂点で重要なのは、初演では詰め寄りの前に置かれている「猶此上にも御疑ひ候ば、仰次第切捨ん、いかが」の台詞が、詰め寄りの後に移行していることです。そして更に弁慶が「御疑ひはらし、打ころし見せ申さんや」と富樫を責めることで、有名な「早まりたもうな、番卒共のよしなしひが目より、判官殿となき人を疑ひばこそ、かく折檻も仕たもふなり」という富樫の台詞を引き出していることです。なお再演本においても弁慶の「笈に目をかけ給ふは盗人ざうな」は出てきません。  
嘉永2年の再演では弁慶が八代目団十郎、富樫が四代目小団次を勤めました。再演本を見れば一目瞭然ですが、名優小団次を富樫に据えたことにより・富樫の役がずっと重い役に改訂がなされたようです。初演本の富樫は弁慶の剣幕に押されっぱなしですが、再演本の富樫は弁慶にしっかりと対峙した・現行本とほぼ同じ重い役になってい ます。再演本において弁慶が義経を打擲することで・富樫を心理的に揺さぶり・ さらに「打ころし見せ申さんや」と精神的に追い込んで行って・「判官殿となき人を疑ひばこそ・・・」の台詞を吐かせるという・ストレートな構造が出来上がったわけです。  
別稿「勧進帳についての対話」において・富樫は弁慶を通して実は義経に対しているのだということ、ここで初めて富樫は「守らねばならない絶対的存在」との対峙を余儀なくされるということについて触れました。初演本ではまだまだ弁慶のひとり芝居のところがありますが、再演本では富樫の人間像に厚みが出たことで、義経打擲の重みが「勧進帳」の核心にであることが明確です。この流れは歌舞伎の義経物の系譜を踏まえているのです。  
この再演本での富樫への心理追い込みのストレートな過程を見れば、現行本で弁慶が「笈に目をかけ給ふは盗人ざうな」という台詞は論点を乱しているだけで・劇的プロセスにおいて役に立っていないことは明白です。この台詞は謡本にある台詞だからと言う理由で三演以後(恐らくは明治以後の九代目団十郎により)付け加えられたものでしょうが、まあ、改悪ということになるかも知れません。  
筋が前後しますが、初演本では番卒が「通りおろう」と叫んでいるのが・再演本では弁慶が「通れ」と叫んで義経を追い払う形になっているのも大きな改訂です。だから長唄の「通れとこそは罵りぬ」が弁慶の描写になっています。また長唄の「かたがたは、何故に、かほど賤しき強力を」 という文句は四天王が怒って富樫たちに詰め寄るのを弁慶が抑える台詞として使われていることは、初演本からの流れからも言えることかと思います。  
以上のような「勧進帳」初演本・再演本・現行本の流れから見えることは大まかに次のようなことです。初演においてはオリジナルの能をベースにして歌舞伎味・特に荒事味をどう付加するかということに創意があったのです。(あるいはあまり能に近づ き過ぎるといろいろと障りがあったということもあるでしょう。)富樫の人間像は・初演本においてはオリジナルの能に近いものでしたが・再演本において富樫は歌舞伎独自なものに変容しました。そこには歌舞伎の「義経物」の系譜があるのです。そして、明治以後においては歌舞伎は能の様式美を取り入れたことを公の売り物にしつつ・九代目団十郎により「勧進帳」は高尚化の道をたどって行くわけです。 
 

 


   
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。