足利銘仙

 

 

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■銘仙
 
銘仙 1 
銘仙とは、先染めの平織りの絹織物。銘仙の源流は、屑繭や玉繭からとった太い糸を緯(よこ)糸に用いた丈夫な縞織物(太織)で、秩父周辺の養蚕地帯の人々の自家用の着物だった。 
明治時代の縞柄の流行に乗って関東で着られるようになり(「縞銘仙」)、大正期には絣模様を織り出した「絣銘仙」が流行し、伊勢崎、桐生、秩父、足利、八王子等北西関東を中心に生産されるようになった。 
大正の中頃に「解し織/ほぐしおり」の技法発明され銘仙の生産が一新された。経糸を並べてずれないように仮織りした上で、模様を捺染し、仮織の緯糸を抜いて解しながら、再び緯糸を通して本織するこの技法により、たくさんの色を用いた複雑な柄の着尺を効率よく生産できるようになった。この頃から伝統的な天然染料に代わって染色効率が抜群によく色の彩度が高い人工染料が用いられるようになった。 
技術革新を背景に、大正末期-昭和初期のモダン文化の流行に乗り欧米の洋服地デザインの影響を受け大胆でハイカラ、色鮮やかな「模様銘仙」が大流行した。模様銘仙のデザインは、着物でありながら、ヨーロッパアートの潮流の影響を受け、大正期の模様銘仙には曲線的なアールヌーボー、昭和には直線的で幾何学的なアールデコ調が出現した。 
昭和初期、銘仙全盛期の秩父では、デザインを東京の美術学校で洋画を専攻している学生に委嘱したり、来日したフランスのデザイナーと交流したり、ドイツから輸入した染料を使ったりしていた。地元の職人も、そうした最新のモダンデザインを着尺に乗せることに職人的プライドを感じて、さまざまな技術的チャレンジを繰り返した。現在アンティーク着物として残る銘仙の色柄の中に、まるで油絵を思わせるものやヨーロッパの同時代のデザインに比べても遜色のないものがあるのは、こうした新しい発想と努力の結果である。 
また、工場で大量生産される安価な銘仙の出現によって、それまでは木綿しか着られなかった庶民の女性までが絹の着物に袖を通すことができるようになった。 
大正後期-昭和期初期に銘仙は、東京を中心に中産階級の普段着、庶民のおしゃれ着、カフェの女給の仕事着として地位を確立した。 
銘仙は、戦後の繊維製品の統制が解除された昭和20年代後半-30年代前半(1950-1960)、伊勢崎を中心に生産され、アメリカの洋服地を模倣した大柄で華やかなデザインが流行したが、その繁栄は短く昭和32年にウール着尺が発明されブームになると、その地位を取って替わられ、着物が普段着ではなくなった昭和40年代以降はほとんど姿を消した。 
今、アンティーク着物として手に取る銘仙は、ほとんど「模様銘仙」か「絣銘仙」で、昭和初期の着物は70年前後、戦後の着物も約40年昔の着物である。初期のものほど緯糸の節が目立ち「ぶつぶつした感じ(ネップと言う)」、時代経過とともに次第に糸の節が目立たず滑らかなものが多い。昭和の大量生産品は滑らかで光沢のあるものがほとんどだが、緯糸に人絹を用い水に弱く強度不足(張力に弱い)の粗悪品も数多く出回った 。
銘仙 2 
銘仙(めいせん)は、目専、目千、綿繊、銘撰などと書かれるが、れっきとした絹織物。古くから埼玉県秩父や群馬県伊勢崎などで産出され「太織」ともいわれ、茶地紺縞、鼠地縞などが主だった。糸は、繭出荷後の玉糸や熨斗糸、いわゆる屑糸が用いられていた。明治に入り絹紡糸が、大正に入り本絹糸が用いられるようになったが、その間、動力織機の導入が大量生産の道を開き、カラフルな色使いは輸入された化学染料が可能にした。海外からの新しい文化芸術とあいまって従来の無地縞から斬新な柄が豊富になり、大衆衣料の花形となっていく。背景に、日清、日露戦争の暗い明治の時代から、大正デモクラシーという開放された時代に移り、自由さから生まれた女性の感性に合致したものとして銘仙が受け入れられたのか。字義、最も綿密に繊維を組織したもの「綿繊」が正しく、実用的で丈夫な織物を意味したものだが、後に必ずしもこの意義に適合しなくなり、銘酒の銘と仙境の仙をとって造語したといわれ、一般的には「平織」の大衆着尺地を総称する呼び名となった。
銘仙 3 
銘仙とは、先染の平織り絹織物。銘仙が全国的に有名になったのは明治42年伊勢崎において「解し絣」(ほぐしかすり)の技法が開発されてからである。「解し絣」とは、仮織りした経糸に小紋と同じように型紙で捺染をし、仮織りの緯糸を解してから、本織りをする所からほぐし絣と呼ばれた。それまでの「しばり絣」「板締絣」と比べ、柄、色も自由に複雑なデザインが可能となり、生産も飛躍的に伸びた。大正-昭和期に、庶民のおしゃれ着として大流行となった銘仙の特徴は、大胆な柄と色使いである(矢絣、壷垂れ、麻の葉や幾何学模様など)。長らく全盛を誇った銘仙も戦時下に、きものどころではなくなり生産が途絶え、戦後いち早く復活しヤミ取引の好材料となった。戦後も伊勢崎が中心産地だったが、昭和30年台に入り、ウールきものが銘仙の技法をそのまま取って代わり、昭和40年台にはウールきものが全盛となった。
 
■大正時代・織物情報 (大阪毎日新聞 1926.12.15)
 
八王子
 流行の魁として服飾界に輝く八王子織物 
地風柄行共に天下の寵児  
織物の特色  
八王子織物は今や全国にその名を謳われ、至る所に大好評を博しているのは、機業界の趨勢を知るものの等しく認めるところである。八王子織物は柄行が常に清新で、流行の先駆をなしていることはすでに定評があるが、地質もこの上なく強靭で染料が精選されているので洗濯がきき、如何に洗い張りしても色合や縞柄が褪せる様な事は絶対にない。殊に染色は一ツの製品毎にあらゆる化学試験をしてそれに合格したもののみを市場へ出すのであるから、その堅牢度は殆ど絶対的なものである。  
織物の種類  
紳士向、婦人向とも凡ての品種が製織され、どの方面にも向くので各家庭を通じ、実用と新流行とを兼ねた最適品として愛用されている。由来八王子は内地向男子用の絹着尺の本場として知られているだけに、男子向には真の他の企及する事の出来ない妙味を発揮しているが、近年組合の指導奨励と機業家の研究とに依って婦人物が創製され、斬新な意匠柄行と堅緻な地質とで大に歓迎され、僅々数年ならずして長足の進歩を遂げ、流行界の寵児として推称されている今重に製織される品種を挙げると綾糸織、節糸織、糸織平袴、綾袴、絽袴、無双袴、文化御召、御召、銘仙、八端、帯地、コート地、座布団地、夜具地、黒八丈  
産額と販路  
八王子織物の期限は天正年間にすでに織物市場が開設されているのを見ても、余程古い時代に胚胎していることは考察出来るが、江戸に幕府が開かれて以来長足の進歩をし、明治三十二年五月現在の八王子織物同業組合が創設された当時の生産額は五十八万点、五百万円であった。以来技術の進歩と品種の増加とによって逐年産額を増加し、昨年十四年度の生産額は二百六万千八百九十一点、二千三百八十三万六千百五十六円に達し、その増加率は真に驚異に価する。販路は東京、大阪が最たるもので九州各地、名古屋、京都、横浜がこれにつぎ、全国至る処に歓迎され、遠く朝鮮、満州方面にも盛んに需用されている。  
製織標準の制限  
八王子織物は組合の定款によって製織標準の制限があり、厳重な製品検査によって粗製と認められるものは不合格とされるので、市場には優秀品のみが現れ安心して買求める事が出来る。その他合の組施設には製造及び染色の指導は素より、新規織物の保護、流行の研究調査、そのほか時代の進運に順応してあらゆる方面に八王子織物の振興に努力している。殊に競技品評会の如きは明治四十一年に開催して以来四十余回に及び、回を重ぬる毎に益々多大の効果を収め又図案の調製も大正五年全国の組合に率先して開始し、以来織物の意匠柄行の発達に資しているのは実に誇りとするに足ると思う  
東亜博への大掛かりの出品と関西における飛躍  
八王子織物の真価を直接需用者に知らしむべく、各地に開催される共進会、博覧会等には必ず出品して紹介に努めている。絶えず各地に大宣伝会を催し既に東京、大阪京都、札幌等に開いて大成功を収めたが、明春桜花爛漫の候、九州文化の中枢たる福岡市に開催される東亜勧業博覧会に大々的出品すべく目下準備中につき東亜博開会の暁には両毛の五機業地並びに秩父、埼玉、所沢、米沢、甲斐絹等の華麗なる出品と共に会中の花として九州の天地に大なる人気を呼ぶ事であろう。  
次いで明春は大阪を中心に京都、神戸等の関西一円にわたり大々的宣伝売出しの計画あり実に日本服装界の進歩発達のために慶賀すべき事である、と共に八王子織物の将来は益々多幸多事である。 
所沢
 時代に適応せる所沢織物  
所沢織物は幾多の試練を経て進歩発達し社会の趨勢に順応して実質堅牢組織の技巧図案の精彩とを兼ねて以て今日の声価を発揚したのであるなかんずく夏物としては綿縮類冬物としては絹綿交織にて新銘仙(湖月)の名高く中産階級に異常の勢力を以て愛用せられ逐年需要の範囲を拡大しつつあり殊に同組合は玉糸を使用する点においては他の模倣し難き技術を有し且同地区は染色製織の工業に適し入間川の河水は鉱物性を有し染色上天恵的地位に存するも此栄ある名声を博するし宜なるゆえんである 左に組織の変遷及び主要織物についてその概略を記す  
所沢織物同業組合は先きに武蔵織物同業組合と称し明治三十六年十二月入間郡織物業組合を中心に武蔵青縞改良組合、武蔵白魚子織本場組合、武蔵絹布改良組合所沢織物商組合を合併して創立せられたるものにして大正十年十一月現在の所沢織物同業組合と改称せり  
その創業は遠く鎌倉時代よりはじまりその当初は多く農家の副業として手織を以てせられたるものなるも爾来製品の声価上ると共に日一日と発展を見現在においては力織機二千三百余台その他の織機一千三百台の多きを数えて生産に従事するに至り以て今日の隆盛を見たり然して其製品は青梅縞を以て最古のものといい爾後野田双子京桟留或は博多結城等の幾多変遷によりて現在における多種多様の製品を得るに至り就中絹綿交織において新銘仙(湖月)糸入縮、糸入縞(新湖月)綿織物においては縞双子(無糸新湖)縞縮、風呂敷、夜具地等需要界に其の名高く殊に縞縮の如きは絶対に他の追随を容さぬ優秀品なるを誇りとせり尚又同組合においては之等製品は毎反厳密なる検査をなし需要者は常に安心して購入せらるるに至れり  
仏子模範工場  
製品を益々向上すべく元加治村仏子に同組合模範工場を設置し整理の研究に、且組合員相互の利便を測り尚最近においては染色工場を増設して商工省より借受けたる全国無比の綛糸染色機を主としシルケット機を設備し染色の統一、大量的染色によりて価格の低廉を計る等常に製品の改良発達に努めより以上所沢織物の声価を上げつつあり  
現代人の生活の必需品化した甲斐絹の声価 同業組合の不断の努力年産額三千万円に達す  
諸君のさしたる洋傘の地を初め洋服の袖裏から羽織、外套、吾妻コートの裏その他各種の衣服夜具類に肌ざわりよき優美なる甲斐絹の裏を使用してあるが、これは何れも山梨県南北都留の両郡から産出するものである。しかして今や、甲斐絹は現代人の生活必需品化してしまったその遠い昔に胚胎しているが著しく発達してきたのは文化文政の頃だと伝えられている。両郡の地勢たるや、山□相量なり耕作の地狭少にして、禾穀乏しく、以て民命をつなぐに足らず、故に養蚕機織の業起こり、男耕女職の自然的現象を呈してきたのである。甲斐絹はこれを大別して無地、絵、縞絣の三種とするが通常本場物と称するもんは谷村市場で取引し、また原物と称するものは上野原市場で取引せらるるもので前者は品質の優良後者は価格低廉をもって各特徴とし、この外なお吉田、明見において産する吉田物も前二者と相並んで特別なる位置をしめている。明治三十五六年までは甲斐絹もその模様は絵画風の極めて単純なるものに過ぎなかったが、明治三十七八年頃から図案材料の選択及び配色に一大改良を加え、著しく友禅模様の応用をこころむるにいたり且縞絣を配すること漸く多く、旧来の名目を一新した、しかして縞甲斐絹は、近年配色柄とも著るしく進歩し絣の応用も巧妙となり良く時流に投じ無地甲斐絹に次ぐの多量産額あり近年外国向きの製品が夥しく増加した、南北の同業組合は聯合会と連絡を取って、左の如き事業をやっている。  
製品及び原糸検査 / 染色取締及び染料検査 / 当業者及び職工表彰 / 意匠保護 / 図案懸賞募集 / 工業学校生徒学資補給 / 標本陳列場 / 品評会及び共進会 / 部会及び研究会  
かくの如くにして厳密に粗製濫造を取締ると共に一面には不断の研究をもって製品の改良進歩及び販路の拡張に努力し、内には協同一致を以て事に当たっているので甲斐絹の声価が年と共に高まり行くは当然の結果である  
秩父
 各階級に益々歓迎されて来た「秩父の特色」 
洗えば洗うほど色沢と地質が良くなる  
かしこきことながら、秩父宮殿下が埼玉県秩父町の町名にお因になってその宮号となされたことは、町民一同のこの上ない光栄としているところであるが、しかも同町にはその光栄を担うだけのいわれがある。同町の開けたのは可なり古く、崇神天皇の御代知々夫彦命が国造に任ぜられて同地に赴任したことによって知々夫国と称されたが、大化新政後支那式の二字となって秩父に改めたと伝えられ、また一説には千々布という布を織っていたことに因むという説もあり、兎も角古い、いわれ深き町であることは争われぬ事実で、随所に石器や古剣なぞを発掘することから見てもそれを裏書きするものである。かくの如く町の歴史は産業に富み、人情風俗きわめて良好、宮号に取らせ給うたのもまた故なきにあらずである。かく秩父織は古い昔から順次に発達して来て今日の隆盛を呈したのであるが、その発達の過程においていろいろの種類が案出され、現代は左の如き多数の種類を産出するに至った、  
縞物 / 締切絣 / 工風絣 / 模様絣 / 大正絣 / 夜具地 / 色無織 / 白太織 / 糸好絹 / 本糸織 / 玉絹雑絣 / 綾織 / 壁織 / 袴地 / 風呂敷  
秩父絹織物同業組合では、折角これまで築きあげてきた「秩父」の名声を落さないと共に更に一層の飛躍を試むる為めに生産品を厳重に検査し優良品を生機一疋目方百匁以上丈尺六丈一尺以上、織巾九寸六分以上とし、織端に本場縞秩父の証印を押「本場秩父」の生産品なることを確実ならしめている。しかして染色は確実、地質堅牢、洗濯すれば一層色沢がよくなり、また地質が細密になること、到底他の織物の比でなく各階級の広い需要者から歓迎を受けている  
二百年前から川和縞の産地として知られ八王子に市場を有し製品また八王子と同じく大正五年まで八王子織物同業組合と聯合していたが同年分離して北相織物同業組合を組織し八王子の大機業家久保田惣右衛門氏を組合長に推し今日に至る就中座布団夜具布団地等の綾物の生産は全国屈指と称ばれ古来上物産地として名をなしている  
米沢
 わが文化及び経済に偉大の貢献をなす米沢の織物業 
「米沢織と人造絹糸」の由来記  
米沢織の名は、小学児童もなおよくこれを承知するほど有名なもので、わが国織物の地位に嶄然として抜くべからざる勢力を有している。その起源を尋ぬれば旧藩主上杉鷹山公封襲の初め封内疲弊していたので、殖産興業の道によってこれを救わんと、安永五年越後小千谷から縮師を招雇して絹織物製造を伝手せしめた。これが即ち米沢織の濫觴で爾来従業者は奨励保護のもとに、各自制して粗製濫造をいましめたので、その声価益々あがり、販路愈々拡大して年産額一千五百万円より二千万円の間を往来し、数量は約百万点より百七十万点、製造戸数約八百戸、機台五千を下らず、優に桐生、足利、伊勢崎、八王子等と対抗するの盛況となった。また日本において米沢を発祥の地として製造せられた人造絹糸も、最近着々発展して今日においては完全に外国品を凌駕するの好成績をあげるに至った、帝国人造絹糸株式会社の製品がわが国の経済及び文化に貢献しつつある功績は実に偉大なるものである殊に米沢の帝国人造絹糸株式会社の工場は職工、並に工女の順良と精勤とに相俟って優秀の成績を挙げているは喜ぶべき事である 
埼玉
 近時めきめき発展した埼玉の織物南洋支那印度等に新局面を打開す  
近時、埼玉織物同業組合の活躍は目ざましきものがある。外に向っては優良なる製品を出し、内においては組合員の結束益々鞏固となり現在の組合員総数千七十四名で、其内絹織物製造業者八百四十八名、織物買継業者七十三名染色業者九十六名、撚糸業者五十七名の割合になっている。しかして織機台数一万二百三十五台、是に従事する職工は、合計一万二百四十六名、本年上期における同県下織物の産額総計は、五百二十四万四千七百七点で、その価格二千三十四万二千七百七十四円となるがその大部分は実に埼玉織物同業組合の生産にかかるものである。しかして組合各区の主なる製品を示せば左の通りである。  
蕨区 縞双子、縞縮、黒八丈、コール天、タオル、紗及び絽シャツ地  
芝区 絣、双子、敷布、縞縮  
鳩ケ谷区 霜降紺縞、小倉その他服地、風呂敷、帯  
浦和区 絣、双子、絵海気、唐天、絣縞麻織物  
宗岡区 絹綿交織物、縞双子、白木綿  
川越区 京橋縞、縞双子、唐天、コール天、朱子、縞縮  
大宮区 縞絵海気、縞双子、縞縮  
右は主として内地向きであるが輸出向きとしては綿着尺、縞綿布、綾綿布、綿服地、シャツ地、ガーゼ、綾木綿などが製造され最近支那、インド、南洋方面に大量輸出の得意先が出来て同組合の前途は甚だ祝福されている  
伊勢崎
 銘仙界の覇王伊勢崎銘仙天下を風靡す  
大伊勢崎市の建設  
天下着尺界の花形流行児たる銘仙を産出―年額三千五百万円、百五十万疋を生産して銘仙生産界の第一位を首むる南上州伊勢崎は人口一万八千七百人戸数三千八百戸であるが最近の発展は実に旭日昇天の勢いで銘仙の声価の高くなると共に市勢益々振い本年八月から本町通りの道路を広げ軒並を改築したので洋館建の最新建築物が櫛比し忽然として面目を一新したここ三四月伊勢崎の地を踏まぬ人はそのあまりの相違に驚きの声を放つであろう、なお町当局としては近き将来において近村六ケ村十一区を併合して機業地として大伊勢崎建設の計画中であるから伊勢崎市となる機運も今や目睫の間に迫り建築総経費十八万余円を投じ鉄筋コンクリート建の大庁舎が今秋漸く竣工した町舎としてその宏大美麗は正に全国的偉観である。  
実に伊勢崎は生気躍動の町、輝きに満ちた町である北方には赤城山西南方には榛名、妙義のいわゆる上州三山遠けく見えて南方は阪東太郎即ち大利根の流れを超えて武州秩父山がラインを蔓の如く浮かせている東方は関東平野が展開して果しなき地平線が区劃している広濶にして水明の地加うるに妙なる機音は林立せる煙筒と相俟って機業地情緒を一入に浮き立てている―それが伊勢崎銘仙の産地である  
優美と丈夫な品質  
伊勢崎銘仙は純絹を原料として地風は強靭であり又染色は耐久力と光沢を有し且柄意匠に至っては何時も清新奇抜である。即ち伊勢崎銘仙のモットーである時代新味、実質本位、価格低廉の三拍子揃ったものである  
伊勢崎銘仙の見分け方  
近時銘仙の産地も殖に従って銘仙の種類も種々と名称が附せられて居る例えば絹糸と綿糸とで交織した新銘仙、綿糸のみを原料とした綿銘仙さては絹糸の細いものに澱粉タンニン其の他の薬品で増量を施したものがる  
伊勢崎銘仙は絹糸のみを原料に用いて製織した純絹物であるしかして品種別にすれば大要は左の如し  
伊勢崎銘仙の種類  
伊勢崎の銘仙には次ぎの如き製品がある  
珍がすり、大がすり、締切がすり小中がすり、大島がすり段織、模様銘仙(ホグシ、抜染)文化銘仙がすり、同縞物格子縞、杢立縞、新立縞横縞綾織玉紬、色無地、白無地、乱立縞、夜具地、座布団地袴地、文化御召等であるが就中「大がすり」と、「珍がすり」とは柄意匠の斬新なる点において伊勢崎銘仙の特徴を発揮したもので何時も流行界の魁なりと賞讃され、また文化銘仙と縞物とは実用品として一般的に好評を博している男子向としては大島絣が多大の愛用を受けていたが最近では段織の需要も軍人教員等のサラリーマンには非常な歓迎を受けつつある、令嬢向として美しいホグシと称する模様絣が今なお流行しているがこれは絣で種々の模様を織出したものであるなお最新流行として「最も喜ばれ」伊勢崎の市日毎に各地問屋仲間に争奪戦の行われているのは大がすり風の模様銘仙で非常に雅味のある風致の極を示した一品であるその他子供向きとして四つ身がすり、締切がすり等皆それぞれに需要されている  
伊勢崎銘仙の見分け方  
織端(織初め又は織終い―一疋の場合は両端一反の場合は一端に)伊勢崎の文字と製造人氏名とを押捺して生産者の責任を明かにし且織物組合の団体章なる「馬首」の印を押て正品なることを証明している且組合の検査に至っては厳重に励行し絶対に尺不足品や不正品は市場に出さぬ事になっている、其染色はドイツその他の優良染料を使用し、紫外線その他の科学試験において決して褪色しない堅牢の品を以て染糸し且検査の上製織してある、購求の方は伊勢崎品と指定あれば確実なる銘仙が買えると伊勢崎組合の多賀谷理事はいう  
其産額十年間に十倍  
現今の織物界は実にその思想界においてプロ的思想が勝利を得ている如く銘仙が天下を風靡している然もその銘仙を代表しているのは実にわが伊勢崎銘仙である。大正四年には一ケ年生産額が三百八十余万円であったが同十三年には四千万円の巨額となっているから十年間に十倍となったのでいい換うれば十年間に需要が十倍も増加した訳なのである而して銘仙といえば伊勢崎イセサキといえば直に銘仙を連想するといわれて一種類の純絹織物でかかる生産高と需要者とを有する織物は伊勢崎を措いて他にその比類を見ないのである  
流行は伊勢崎から伊勢崎織物組合 多賀谷理事談  
世の中は相変らず不景気であるが伊勢崎銘仙は相変らずよい売行きを示している何処の呉服店でも伊勢崎銘仙を取扱わなければ繁昌しないという有様で従って伊勢崎品の専門取扱店が全国に続々増えつつあるがこれは一般需要者が民衆的織物として理想的な伊勢崎銘仙をよく理解して伊勢崎品を名指してお求め下さる所以であって又呉服店も仮令利益は大きくなくともどうしても取扱わねばならないというわけからである  
泉俊秀先生(販売術研究者として関西切っての第一人者)の談に「某県立高等女学校裁縫教諭の実験に依ると伊勢崎品とその類似品とでは生徒に裁縫させてみると成績に非常な相違がある伊勢崎品は一度で正しく裁縫が出来るのに他品は再三繰返しても正しく縫えないそれは他品には糊やその他のお化粧が施してあるのでこれがゆるむで織物が変質する為であるが伊勢崎品には幾年経ってもその心配が絶対にないのですこぶる評判が良くこれが為全校の生徒が挙って伊勢崎品を需要することになった」とこれは伊勢崎銘仙の実質を証する一例に過ぎないが全国の需要者各位も同じ経験があろうから伊勢崎の評判がますますよく需要者が日毎に増加するのも宜なるかなである  
かかる状態で実際わが伊勢崎銘仙は実質がよく柄行は常に清新であり染色また堅牢で一頭地を抜き銘仙といえば伊勢崎という様になり伊勢崎が銘仙の代表者となる次第となった加うるに全国の大新聞や大雑誌が好んで記事を書くようになったので益々伊勢崎の声価が上りわが伊勢崎銘仙は本邦服飾界を代表する流行児となって―流行は伊勢崎から・・・・・・こんな叫びが現代の婦人社会から起るようになって来た  
さればわが伊勢崎機業家は常に組合のモットーたる時代新味と実質本位と価格低廉との三拍子揃った旗印を高く掲げて満腔の誠意と溌剌たる元気とで正しく新しい伊勢崎銘仙の生産に努力して居るのである  
率先して織物の民衆化を断行した邑楽織絣は特に名声高し年産約八百万円  
すべての事物が民衆化しつつある今日、単に織物ひとりが、これに超然たるべき筈はない。織物の民衆化!それを可なり古い時代から実行しているのは、関東の邑楽織である。だが、いわゆる民衆化といえば、極めて俗悪平凡なもののように思われるが、わが邑楽織においては然からず、品質よく、柄もその時代に応じて案出して行き時代とかけはなれた通俗ものとはチト趣きを異にする。邑楽織の起源は鎌倉幕府時代で、享和の頃には清呉織という袴地を産出して江戸市場におくり、汎く士民の間に愛用せられた。その後漸次発達して、安静年間には新たに木綿竪散らし絣の案出をなした。これが有名な中野織である。明治の初年に至っては主として木綿紺緑を製織し、これを足利市場に移出して販売し、大いに世の好評を博するに至ると同時に、斯業は年一年に発展をかさね、ついで絹綿交織の茶絣および綿太織を産出し、販路は全国的に広がってきた。夫から足利結城と称する結城木綿や、コノテ織、大柄夜具地、木綿縮、八千代縮、東セル、京機、双子等多数の新種類を産出したが明治四十年木綿白絣を製織するや、実用向き夏物として、大いに世間から歓迎された。この他になお特記すべき品種としては、大島絣と称する絹綿交織黒茶緑、木綿着尺縮、絹綿交織古渡紬、同結城、同高貴織などを産出するが、その特色は何れも品質堅牢にして価格低廉なるにあり共進会又は博覧会で優等賞を受けたことも屡々である。なお邑楽織の発展につき、ここに特筆すべきは邑楽同業組合が従来の足利市場における販売を不便として、明治四十三年新たに市場を館林町に開設したことで、これによって組合の商権を専有するの根拠を樹立したことである。而して粗製乱売を防止するため不断に薬品検査をして石鹸、熱湯、膠などに対する堅牢度を検査しているなお最近における重なる製品は左の通り  
絹節糸絣 / 交銘仙絣 / 紡績絣 / 結城縮絣 / 節糸絣 / 復興絣 / 絽絣 / 白絣 / 米琉絣 / 絣上布など  
足利
 民衆的文化趣味の足利織物品よく柄よく格安き  
卓越せる新意匠と其品種  
足利織物は独創的な意匠で常に織物界流行の先駆をなし各階級の家庭を通じて全国津々浦々まで白熱的に歓迎されるだけ多種多様に亘り内地織物では節糸織、解織、箴台絣、文化銘仙、御召、白絣、縮上布をはじめ兵児帯の類に至るまでどんな僻陬な土地でも呉服屋の店頭に足利織物王国を誇っているこの年産額三千余万円、この外に輸出織物では紋朱子、タフタ、縮緬、富士絹、スパンクレープ等で年産額六百万円、輸出綿織物ではわが国で最も古い歴史を有する綿縮で年産額五百万円、依然としてわが国機業界の権威をなしているこの年産額総計四千万円を超える  
品質の改善  
足利織物の品質改善、向上発達を期するためには機業家二千四百名が足利織物同業組合を組織して製織上の弊害防止のため、内地向織物は市内東西二ケ所の検査場で輸出絹織物は栃木県輸出絹検査所で輸出綿織物は日本輸出綿足利支部で一反毎に厳密な検査をして尺や巾の足りないもの染色や織方に不正のあるものは仮借なく処分して非難のうちどころのない立派な織物だけ組合規定の検査証を貼って搬出させ顧客本位の織物をつくっている。だから足利織物と名指して呉服店へゆけば信用のある安心して買うことの出来る織物が山積ししかもこの織物をつくるためには足利機業家の全部がこの秩序生前とした組合の下に「品よく柄よく格安き」の標語で今日の旺盛をきたすに至ったものである。  
足利織のはじめ  
足利織物今日の旺盛をきたしたのも過去帳をひもとけば人皇十六代仁徳天皇の御代にさかのぼる。物の本に―毛野国の民、農蚕機織を恒業とするものあり。是足利織物の起源にして、次いで支那三韓の職法伝来し、人皇二十九代欽明天皇の朝、百済国より氈の献納あり。茲において毛を緯とせる織物足利地方にて造らるるに至り、これを「計牟志呂」又は「之母都家野加毛志加」織と称したり―と書いてある。その後天明天皇の時綿布絹布太絹等が出来、ぢらい星霜を重ねて発達し安政の開国で輸出織物の製造も開始され明治から大正にかけて染色研究所、弘業会工業学校、織物同業組合、工業試験場が出来て染織の改善進歩と生産価格の増大とを招来して遂に世界有数の繊維工業地としての発達ととげた訳である。  
足利の位置と風光  
織物王国の足利市は東京市を標準にすると西北に陸路二十一里浅草駅から東武鉄道を利用すれば直行約二時間半、上野駅から東北本線を利用すれば小山駅で両毛線を経て三時間、わが国中興文化に貢献した日本最初の足利学校遺跡や渡良瀬川の清流がある。京都の文芸美術と工芸美術が加茂川によって生まれたものとすれば足利の工芸美術の機業もまた渡良瀬川の清流が生んだものでなければならぬ、自負すれば京都と相俟って足利も又自然に恵まれた芸術の揺籃であろう。 
桐生
 見よ権威ある蜻蛉印の商標桐生織物  
商標に御注意  
安心して買える織物中の織物桐生織を買う時「四桐に蜻蛉」の商標を検分して買えばかならず安心、品がよくて、安くして、丈夫であるとは桐生織物同業組合員の「ジマン」話しの一つである、左様如何にも同組合の検査方法は厳密なる検査規定により正確なるものが「パス」して市場に送り出されて居るためである、「四ツ桐にトンボ」印の商標のある品で粗悪な品があった場合は同組合が全責任を負うとその責に感じ取換もあえて辞せないのである、その安心して買える桐生織物の起源と現状を左に記せん  
官女の恋にはじまる  
人皇第四十七代淳仁天皇の御宇桐生の人山田某朝廷に仕え官女白滝姫を恋うて思いのあまり  
水無月の、いなばの 露も、こがるるに 雲井をおちぬ 白滝の姫  
と詠じて姫におくった姫はその返歌として  
雲井より、ついには おちる白滝を さのみは恋ぞ 山田おの子よ  
と詠じた、この事が叡聞に達し白滝姫を山田に下げ給うたので山田は姫を伴うて郷里桐生に帰り楽くも新しい生活を立てることとなった、白滝姫は養蚕繰糸機織の業に明るく里人にそれを伝授して遂に桐生界隈の産業的基礎を作った。後人姫の徳を頒して機神と崇めるに至り即ち白滝神社のある所以である。白滝神社は桐生市外河内村仁田山にあり往古桐生天満宮祠畔にありしを中世に至り現在の処に移せしものという、自来幾変遷今日我織物界の重鎮として自他共に許すに至ったのである、現在織機一万七千余台従業員二万五千余人を数え最近の年産額約五百万点価格五千万円を生産して居る尚現産出の品種は別記の部別にある通り多岐多様の製品がある、殊に桐生織が内地向七割、輸出物三割の割合になって居るが輸出品中の羽二重は「本邦輸出羽二重」の創始である  
組合の沿革と部制  
桐生織物同業組合は明治十一年桐生会社の創設に端を発し爾来幾変転して明治三十年桐生織物同業組合設立せられ今日に及び品種並に種類多岐多様に亘り利害の共通せぬ場合もあるので各業別に団体を組成し、その発展を図ることとし左の如き部制を施く  
一部お召業二部銘仙業三部帯地業四部生織物業五部洋反物業六部輸出織物業七部内地織買次業八部輸出織同九部整理業十部染色業十一部原料業十二部加工業  
特筆すべきは  
「大量生産の特色は統一された優秀品を廉価に供給するにあり」との主張から織物規格統一規定を作って生産の根本基準を定めたことである、これによるとその代表織物は桐生織の名称を附しその特色ある大量生産品は桐生銘柄織、独創的新品は組合登録によって桐生登録織。銘柄織登録織類似の織物で、それ等の範囲を侵さぬ織物は桐生制限織と、それぞれの名称によって統一し同時に染色機織に関する一般検査規定を補足して積極的に粗製濫造を防止す、更に輸出織物の方面を見るに近来印度朝鮮方面はいうまでもなく富士絹の如きは欧米各国にまで及び殊に印度向色絹の如きは両毛地方においても桐生が特産地であり、又印度としてなくて済まぬ特殊品として益々その販路を拡張されて居る、大正十四年度の如きは二十九万七千四百三十一点価格一千三百二十九万三千八百三十二円という大正八年の好況を次ぐ大量を示した、内地向織物は「お召。銘仙。帯地類」が主として桐生大体の盛衰消長を支配するのである、  
組合幹部の顔触れ堂々たるその陣容  
政界に斯業にその人ありと知られたる彦部駒雄氏が組合長の栄職につき副組長斎藤武二氏会計役塩谷亀次郎氏評議員(組長諮問機関)中村弥市、堀祐平、岩沢善助、福田森太郎、岩崎誠蔵、石原良作、新井真太郎、丹羽平助、田村宗吉、大川義雄、周東藤太郎(以上十一名一名欠員)最高議決機関としては組合会代議員三十四名あり一般事務関係には職員として高野事務長あり  
第一部桐生お召・・・民衆的高級織物として、一般家庭に愛用される桐生御召は品質の優良、意匠の斬新、価格の低廉をその三大特色とし、今や小紋錦紗の衰退に乗じ全国各地の賞讃を博し産額の著増を告げつつある。桐生御召は天保年間に創り当初柳条縮緬を製織し後脱疽御召と称する絹綿交織品の製産に移ったが明治二十七八年頃再び純絹製品に復し爾来幾多の曲折波瀾を経て今日に及んだものでその種類は縞御召、絣御召、紋御召、その他の変り御召に大別されて品種数十にわたり男女羽織用、着尺洋及び被布地、コート地、夜具、座布団地等、用途極めて広く特に意匠応用の巧妙なると価格の低廉なるとは西陣御召の遠く追随し能わざる所として桐生御召は産業の焦点となって居る、部長青木藤太郎氏副部長岩沢富士吉氏  
第二部桐生銘仙・・・男物本位の優良品桐生における銘仙階級品は節糸織を以て最も歴史の古いものとするのであるが、その盛衰消長定めなく明治の晩年に至って桐生銘仙の名称により優秀なる男物本位の実用品を作ることとなり爾来製品の改良、販路の拡張相並んで行われ、漸次産額を増大して、今や男物銘仙階級品中最も信用ある織物として全国各地産品中群を抜いて居る、その品質は純絹本練を標榜し染色の堅牢を期するは勿論原料を精選し各種の変り地風を創製して新機軸を開き変化ある実用絹布として歓迎されて居るのである。部長荒井鷲五郎氏副部長和田安蔵氏  
第三部桐生帯地斯界の寵児・・・桐生帯地の権威は世間周知の事実である同帯地は琥珀、朱子、御召九寸等に創って漸次生産種類を拡大したもので明治維新前後においては緞子、倭錦、厚板、繻珍等の高等帯地が産出せられ京都と並び称せられる優秀な技術があった爾来機業施設の改善により大量産出を主眼とするに至って各種の交織品が現れ所謂大衆的流行格安帯地の産出を以て名声を揚たのである。殊に最近人造絹糸が最も新しき織物用原料として迎えられると共に桐生は率先してこれを帯地に応用し刹那々々の嗜好的満足を遂う現代嗜好界の核心を捉えて劃策を誤らなかった結果、今日においては人絹応用帯地は天下独歩の実用向きを主眼とし意匠美の優れた廉価な帯地として独特の境地を占め実に他産地の追随を許さぬものである部長大川信助氏、副部長岩下耕一郎氏  
佐野
 名高い「佐野織」  
鉢の木に、ここは名高き佐野の里、機も名に負う白縮み、印は松に竹と梅、土地の花なり富の源やすらわで、寝なまじおるや糸の技、月も機場にさす格子、かたぶくまでも明日は市、人のためにと織る縮  
この歌は、東洋のマンチェスタまたは関東の京都と呼ばれている栃木県佐野町の機織場の光景を歌ったサノサ節である。同町に旅行した人は、至るところに滝の音のような機の音が忙しく鳴り響いていることに気づくであろう。そしてその雑音の中に混って機おり乙女の可憐にして美わしきこの歌を聞くのである。佐野が今日機業地として、わが国に有数の地位を占めていることは世人のよく知る通りであるが、同地の織物の特色は極めて一般的であって、また外国向きであることである即ち大正一四年の上半期には外国に対して一千五百十八万八百六十九ヤード(価格四百二十二万余円)濠洲をはじめ全世界に輸出し、前年の上半期に比べると八十万円の増額になっている。外国向きも内地向きもこの勢いを以て年々発展しつつあるが、外国向きの織物は広幅木綿縮(並太白、縞格子、艾、染、友禅、細白、縞格子、瓦斯白等)で、内地向きは広幅木綿縮(並太白、縞格子、艾、染、友禅、細白、縞格子、瓦斯クレップ、風織白及染、格子、クレップ白及染縞、クレップ友禅、吉野格子、鶉織染及び友禅)その他、広幅織物、綾綿布、シャツ生地、子供服地類、霜降小倉地、蚊帳、蚕育布、苗育布、夏暖簾、綿セル、リング糸応用品また絹織物類には本縮緬、結城縮、銘仙絣及び柄物、などその他数十種ある。今日佐野織物の販路を世界的に拡大したのは、元より地の利、人の和を得た結果とはいいながらこれ全く佐野織物同業組合当事者の熱心なる改良進歩に関する努力と製品に対する精密なる調査が行き届いた結果に他ならぬ 
佳江
 国家奉仕の佳江織物が逆輸出の状勢となる一朝有事の際もこれあれば安心  
治に居て乱を忘れざるは、、大国民の常に念頭におくべきことである。而して将来の戦争は陸軍にあらず、海軍にあらず、実に空軍の優劣いかんによって、その勝敗が決せらるるとは一般兵術家の言うところ今日わが国においては、完全に飛行機および軽気球を製作する能力があるが、これに要する機翼布及び球布に至っては、最も遅れている。従来これらは総て舶来品を使用していたものであるが、大阪市住吉区殿辻町の住江織物合資会社が、国家奉仕の誠意から、利益を度外視して、之が向上発達に努力した結果、現在に於ては遂に外国品に勝る優良品を織り出すに至り反対に海外へ輸出するの盛況となった同社の努力は国家として十分に表彰すべきもので、一朝事ある日においても、同社の健在する限り断じて空軍の機翼布及び球布の欠乏を来すおそれはないのである。更にこれを平和の時においてみると、将来航空運搬はますます盛大となって、一般的航空輸送の開始せらるることも目睫の間にせまった問題で同社の活躍と努力に待つこと多大である。同社の製品はこの外に  
各種カーペット(絨氈)  
パイル織窓掛、椅子張地  
汽車、電車、自動車、並びに汽船用腰掛張ブラシュ及びテレンプ類  
その他各種室内装飾織物類  
等であるが、最近わが国民生活がその必要にかられて、いちじるしく洋風化しつつあることに徴し右の如き製品は、益々需要多くなるのである。従来の如くこれを海外より一々輸入することになったら国家経済上莫大なる損失を招くのであるが、幸い近年住江織物の発達により逆輸出の状勢となったことは最も慶賀すべきことである、それと同時に吾人は前途洋々たる「住江織物」のために祝福してやまぬ 
銘仙の見わけ方 
まがひ物が多いから買ふ時に注意 / 読売新聞 大正15年12月4日(1926) 
東京では木綿物の時代が去って銘仙とモスリン全盛の時代になりました。それにつれて安い銘仙、安いモスリンがたくさん製造されます。年末が近づくと銘仙やモスリンはかなり贈答品として用いられるが、品物を見分けして贈らないと飛んだ恥をかく事があります。 
銘仙を見分けるには---まづ悪い銘仙といふのは拵(こしら)え方が違うのです。普通の銘仙は質は悪くとも一本糸を織るのですが、悪いのは織糸を用いないのです。つまり名前だけの銘仙です。そして素人見には普通の銘仙と見分けがつかない程、巧に出来ています。だからそれをも普通の一本糸の銘仙と信じ込んでいる向がたくさんあります。値からいっても一本糸のものと余り違はず、安い物は五、六円、高い物で十二、三円まであります。 
これを見わけるにはどんな物をどんな風に用いたものかよく調べるのです。元来この銘仙は絹糸の屑や絹地のきれ地を寄せ集め真白に漂白した上、原形をすっかり崩し綿のようにして紡績機械で糸のように仕上げたものなのです。だから一本糸を用いたものと全く拵え方が違ひ、非常に早く擦り切れたり裂け目を生じたりします。 
で、買う時には先づその反物の端から糸を二、三本引き抜いて見ることです。一本糸を用いたものは糸に細い、太いがなく、おまけに両方の指で引張るとピンと勢いよくちぎれますが、屑糸物は細さと太さが不揃いで、引張ると細い部分がスーツと綿をいじるような具合に切れてしまいます。これはだれでも出来る方法で昔の年寄なぞも絹糸とまがひ物を見わけるによく用い、呉服屋などではやはり其の方法でやっているそうです。手触りや縞や絣で見わける事のできない場合にはこの方法でやるのが一番です。 
まず、大正末期(1920年代前半)という時代が、一般女性の衣服が木綿物から銘仙・モスリン(梳毛糸を用いた平織の織物)全盛に移行した時期だったことがわかります。ただし「東京では」とあるように、絹織物の普及にかなりの地域差があったこともわかります。 
また、この記事から、銘仙が流行すると、ほぼ同時に粗悪品が表れ、良品と粗悪品の区別が大きな関心事になったこと、粗悪品とされる銘仙が「一本糸(=生糸)」ではなく「紡績絹糸」(屑糸から工業的に作った絹糸)を素材にしていたことがわかります。 
昭和8年(1933)の秩父銘仙の値段 
昭和初期に銀座・日本橋に成立するデパート(三越、松坂屋、松屋、白木屋etc)は、伊勢崎や秩父などの銘仙産地と提携して、大規模な展示即売会を年に何度も催し、春物、夏物、秋冬物それぞれに、今年の「流行」を競いました。今ならさしずめ「〇〇〇(ブランド名)春物コレクション」といった感じでしょう。 
新興の商業施設であるデパートが、ターゲット(顧客)にしたのは、当時、ようやく台頭しはじめた都市中産階層でした。安価で大衆的な絹織物である銘仙は、中産階層の女性たちの足をデパートに向けさせる絶好の客寄せ商品だったのです。 
ところで、この広告には、「模様銘仙5円80銭〜6円50銭」とあります。昭和8年当時の物価は、天丼40銭、封書3銭、山手線5銭、公務員(高等官)初任給75円、小学校教諭初任給50円だったので、現在との比較は約3500〜4000倍程度だと推定されます。それで換算すると、当時の6円は、現代の21000〜24000円ほどになります。 
現在、絹の反物は、とてもじゃないですけど、この値段では買えません。正規のルートなら、どんなに安くても、この5倍程度はします。このことからも、当時の銘仙が絹織物としていかに安価であったことがわかります。 
数年前、某銘仙産地で、復刻銘仙に10数万円の値段をつけて発売しようとしました。現代の絹織物の価格常識に沿った値段付けです。その話を聞いて、私は「それは違いますよ。銘仙って、そもそもそういう値段のものではないですから、その値段では銘仙ファンは買いませんよ」とアドバイスしたことがありました。案の定、その値段では売れませんでした。 
「あやしい着物」 
「あやしい着物」とは、わかりやすく言えば、「これ本物?なんか怪しいわね」という類の着物のことです。 具体的に言うと、「黄八丈ってオークションに出てたから買ったんけど、なんか変?」とか、「お店の人は大島って言うんだけど、微妙に違うのよね」とか、「結城ってことで買ったのだけど、う〜む・・・」とかいうものです。 アンティークもの、リサイクルものを愛用されてる皆さんは、それぞれ似たようなご経験があるのではないでしょうか。 
私の場合、そんな「あやしい着物」に関心をもったのは、物からではなく、文献資料からでした。銘仙のことを調べていた時に、昭和30年代の秩父や伊勢崎の生産表の中に、「銘仙」と並んで「大島」という項目があったのです。「なんで、秩父や伊勢崎で「大島」を作ってるのだろう?」と思って調べてみると、秩父の場合、なんと「みやま(深山)大島」というブランドまであったことがわかりました。 
「みやま大島」、もちろん、現在、奄美大島と鹿児島市で、手くくりして植物染料で染めた糸で織っている「大島紬」(本場奄美大島紬と本場大島紬)ではなく、人工染料で染めて機械織りした「大島風」の織物なのですが。「みやま大島」として売ってるのですから「偽物」ではないのでしょうけど、コピー商品であることには間違いありません。 
しかも、その実物と思われる反物を「ちちぶ銘仙館」の展示室の片隅で見つけてしまったのです。「白大島」風で、絣の感じといい色味といい手触りといい、本場の大島紬にとてもよく似てました。反物の状態だったので、両耳(サイド)の部分に白い染め残しがあるのが確認できました。型染めの場合、型枠の部分が白く染め残ってしまうので、この「白大島」風の反物は、たぶん経糸を整えたところで仮織して型染する「解し銘仙」の技法の応用で作られたのではないかなぁ、と想像しました。もし反物でなく着物になっていたら、染め残し部分は隠れてしまうので、本場の大島紬とはっきり見分けが付けられるか、私には自信がありません。 
染織効率の高い人工染料で、手間がかかる糸くくりではなく仮織型染、そして手機ではなく自動機械織機ですから、生産効率もコストも、本物とは比較になりません。その分、大量に安く市場に供給できたはずです。 
昭和初期、あるいは昭和30年代には、何度か大島紬ブームがありました。よく考えてみれば、気が付くことなのですけど、大島紬の生産量、しかも増産がきかない状態で、こうしたブーム需要をまかなえるはずがないのです。逆に言えば、ブーム需要のかなりの部分を満たしていたのは、伊勢崎や秩父などで作られた「大島紬風」のコピー商品だったのではないでしょうか。 
当時の庶民は、皆、だまされて買っていたのではなく(だまされた人もいたでしょうけど)、安い「大島紬風」の反物、安い「黄八丈風」の反物という感じで、お手軽に買って愛用してたのだと思います。本物の大島紬や黄八丈は、当時も今と同じように高価で、庶民が容易に手の届く値段じゃありませんでしたから。 
現在でも生産されている「村山大島」などは、ある意味では、そうした「大島風」のコピー商品の生き残りなのです。こうしたコピー商品は、紬に限らず、「(西陣)お召」がブームになれば、それと良く似た「多摩結城」(八王子)が出現するとか、いろいろあったようです。 
そして、40年以上の時が経ち・・・。そうしたコピー商品は、現在、アンティーク市場やリサイクル市場、あるいはネット・オークションなどに、まだまだたくさん出回っているはずなのです。 
よほど目利きの古着屋さんじゃないとわからないような上出来のコピーもあります。まして、そうしたコピー商品の存在が頭に入ってない業者さんだったら、見分けはつかないでしょう。 
誤解のないように言っておきますが、私は、こうした「あやしい着物」に「だまされないよう気を付けましょう」と言っているのではなく、逆になんとなく親しみというか、面白味を感じてしまうのです。たぶん、私自身が「本物」の女ではなく「Fake(贋物)」だからでしょう。
ウール着物 
ウールは羊の毛を精練、紡績して糸を作り織り上げた毛織物。ウール(ラシャ)が日本に輸入されるようになったのは、室町時代末期のころ。ポルトガルの商人が日本に持ち込んだのが始まり。当時は南蛮渡来の輸入品で高級品だった。当然、長い間庶民がおいそれと身にまとうことはできなかった。ウールの着物を庶民が一般的に着るようになったのは、昭和に入ってから。戦前はセルやメリンス、モスと呼ばれ、ウールと呼ばれるようになったのは、戦後衣料不足の時に洋服地を転用したことから。ウールのきものは戦後に安価な普段着として銘仙、お召にかわって広く普及した。昭和30年台には銘仙が姿を消した。絣調、大島調、小紋調など織り方や色・柄が多彩で、大人気を博したウールもその盛時は短く、昭和40年代後半からの高度成長のなかで、総中流時代を迎え、きものが高級志向になり衰退し、昭和50年代以降ではほとんど市場で見かけなくなった。
 
足利銘仙

 

足利銘仙 1 
産地は栃木県足利市、その特徴は先染織物の一種で、綿銘仙、絹綿交織の文化銘仙で有名。用途は着尺地、羽尺地、座布団地、丹前地などである。足利地方では平安時代にすでに足利絹が生産され、室町時代には旗地として用いられていた。明治から大正にかけては伊勢崎、秩父、八王子と並ぶ銘仙産地として繁栄した。とくに文化銘仙は人気があった。現在足利では、銘仙に代わりトリコットの生産がさかんである。
徒然草・第二百十六段 
最明寺入道、鶴岡の社參の序(ついで)に、足利左馬入道の許へ、まづ使を遣して、立ちいられたりけるに、あるじまうけられたりける様、一獻に打鮑(うちあわび)、二獻にえび、三獻にかい餅(もちひ)にて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、あるじ方の人にて坐せられけり。さて、「年ごとに賜はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、いろいろの染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。 
その時見たる人の、ちかくまで侍りしが、語り侍りしなり。 
現代語訳 
最明寺入道が、鶴岡八幡宮に参詣したついでに、足利左馬入道の屋敷に、あらかじめ使者を遣わしたうえで、立ち寄られたことがある。そのとき、左馬入道が接待なさったが、その献立は最初のお膳には干した鮑(あわび)、二番のお膳には海老、三番にはかいもちいを出して、それで終った。その座には、その屋敷の主人夫婦と、隆弁僧正とが主人側の人として座っておられた。 
一段落して、最明寺入道が、「毎年いただいている足利の染物が待ち遠しいことです」とおっしゃると、「用意してございます」と言って、さまざまの色に染めた反物(たんもの)三十疋(ぴき)を、その御前で女房どもに小袖に仕立てさせて、後でお届けなさったのであった。 
そのときに一部始終を見ていたひとりで、最近まで存命だったある人が、私にその由を語ったのである。 
(最明寺入道は鎌倉幕府第5代執権北条時頼(1227-1263)、足利左馬入道は足利義氏(1189-1254)のこと。) 
  足利義氏  
  「徒然草」に見る鎌倉 
足利銘仙 2 
足利は昔から織物の産地として有名だが、一時は品質のよくない製品を作り、各地でひんしゅくをかったということもあった。その汚名を晴らすべく足利の有力な旦那衆が立ち上がり、日本一の足利本銘仙を仕立て上げ、生産高日本一で足利銘仙の一大ブームを巻き起こした。その結果、日本橋の一流百貨店などでも取り扱われるようになった。本町(もとまち)界隈に整経屋、賃機(ちんばた)屋や買継商などがたくさんあった。商店は繁盛し、大通りや北仲通り、南銀座通りなど大変な賑わいを呈していた。足利銘仙の黄金時代といえる。
足利銘仙 3 
昭和のはじめ、足利が「両毛のマンチェスター」と称され、世界を視野に入れた当時の足利織物業界にあって、足利銘仙は花形商品だった。伊勢崎、桐生、秩父、八王子、そして足利、関東五大産地といわれた銘仙黄金期に「一頭地を抜く名声」を獲得し隆盛を極めた。
足利銘仙 4 
昭和初期まで大衆向けに出回った銘仙は、紬よりは柔らかいシャリっとした風合いと、大胆な絵柄や色が今ではとりわけ新鮮だ。伊勢崎、桐生、八王子などの産地と競い、昭和14年には日本一の生産量を誇った足利には織物で栄えたまちの面影がうかがえる。東武伊勢崎線足利市駅を降りて北に向かうと、ゆったり流れる渡良瀬川があらわれる。釣り人の姿がみえる静かな川辺には、かつて紺屋が建ちならび、広々とした川原は水洗いや絞(しぼ)づくりで賑わった。足利織物の歴史は奈良時代にはじまるが、産地として知られるのは江戸時代の後期から。明治時代にいちはやく始められた工場生産制により、東北から多くの女工を集めるほどの隆盛期を迎えている。当時は輸出向けが中心で、羽二重など絹ものは欧米、インド、縮のような木綿織物は香港、上海、シンガポールと世界各地に広まった。国内向けには縮緬、お召はもちろん経(たて)緯(ぬき)異色の糸で玉虫色に織りあげる「海気」(かいき)、表裏べつの糸で袋状に織る「通風」(つうふう)、タフタに似た畝のある「琥珀」などで全国に名を馳せた。明治のころの活況を今に伝える工場が、かろうじて遺されている。足利有数の元機(もとはた)であった白壁に瓦屋根の木村輸出織物工場は、文化財に指定されている。足利市駅を西へむかうと、1903年に建てられた足利模範工場遺構がスポーツクラブになっている、大谷石の壁にフランス窓、木骨瓦で織物工場特有のノコギリ屋根という和洋折衷がおもしろい。 
日本最古の学び舎である足利学校で名高い当地は、元機の子弟教育にも力を注いだ。明治中期の織物技術第一人者、近藤徳太郎を京から招いて創立された足利工業高校の貴重な資料が「足利まちなか遊学館」に展示されている。巨大な八丁撚糸機 を見るたびに頭のよじれるような複雑な構造は、糸撚りや染め、織りなどいくつもの工程に細かく分かれた織物産業における専門技術の高さを示す。こうした土壌から、日本の意匠登録第一号である雲井織などあたらしい織りも生まれた。展示品/八千草薫がにっこり微笑む銘仙のポスターと、その現物の着物、白地に赤黒はっきりした色と柄が若々しい。足利銘仙の特徴は、経糸に緯糸を粗く仮織りし、捺染ののち水洗乾燥して緯糸をすこしずつ解(ほぐ)しながら織る解し織りという技法。やわらかく複雑な絣もようが織りあがる。大正期には、緯糸に絣糸をもちいた半併用という立体感のある織りもうまれて足利銘仙の名を高め、昭和14年には生産高全国一のピークを迎えるが、戦後は後追いの店が交織など品質を下げ、着尺用からどてら、半纏へと降格し、昭和40年以降には業界全体が下火になった。背景には、暮らしのなかの着物離れだけでなく、業界を支えていた民謡の人気が衰えたことも大きい。団体で衣装をあつらえる全国の民謡教室では、流行の演歌が好みを左右し、梅沢登美男ブームではお引きずり風といった具合にまとまって売れたとか。数は減ったが、いまでも市内の織り元のおおくは踊りの衣装を手がけているし、時代劇に使われるのも、足利産が主だという。足利銘仙が全国を制覇したおおきな理由は、デザインと宣伝力にあるそうだ。図案や染めの職人を京から呼び寄せる一方、一流画家や大女優を起用したポスターを刷り、三越や高島屋と提携して陳列会を催すかたわら、地方にもダイレクトメールを送った。市内を見晴らす織姫神社は、銘仙全盛期の織物組合により再建された。浅草からのびる東武伊勢崎線もまた、絹をはこぶシルクロードとして敷設された歴史をもつ。
足利銘仙 5 
足利の織物産業の沿革
   奈良時代-平安時代-鎌倉時代
足利の織物は歴史が古く、奈良時代(710-784年)の初めに足利地方から「ふとぎぬ」を献進したというのに始まり、奈良の大仏開眼の時には東大寺の御領地として織物が送られています。それは平安時代(794-1185頃/1192年)に入ってもなお続き(正倉院の文書中に明記されている)、また鎌倉時代(1185頃/1192-1333年)の『徒然草』に「さて年毎に給はる足利の染物(足利の織物)」とあるのはあまりにも有名です。
   江戸時代
江戸時代(1603-1868年)に入って貨幣経済が発達すると足利織物は、綿の糸で織られるものが多く、「木綿縮」や「足利小倉」、「足利結城」などは大変な人気で、足利とまわりの村々で作られる織物は「足利織」とか「足利織物」と呼ばれ、今までの貴族愛用の手から離れて、一般大衆に愛用され全国に知られていました。
   明治時代-大正時代
明治時代(1868-1912年)になっても足利ではこのような綿の織物の生産は続けられましたが、明治20年前後のひどい不景気の時代に絹織物に力を入れていきました。それまで細々とあった絹織物の生産方法の改良、力織機の導入等をし、それによってアメリカやヨーロッパの国々の市場開拓に努め、直接輸出体制を確立し、輸出を拡大していきました。その背景には、織物の近代化として明治18年の織物講習所(後に栃木県工業学校、現足利工業高校)の設置、物流の近代化では同21年の両毛鉄道の敷設、そして経済基盤の確立として同28年の足利銀行の創設があります。
   昭和-平成
昭和(1926年-)にはいり、足利織物は伝統的傾向として主力は常に内地物に注がれ、手頃な価格の絹織物「解し織」等でした。また、その中でも素晴らしいデザインの「足利銘仙」の生産額は逐年増加し、昭和6・7年以後斬新な模様銘仙が飛躍的な発展を遂げ、ついに昭和8・9年頃には銘仙の中では人気を独占したといわれます。
戦後(1945年-)、物不足の時代に銘仙の人気が一時戻りますが、本格的な洋装の時代となり次第に衰退していきます。昭和30年代から新興繊維産業として経メリヤスの発展もみて足利市の基幹産業としてトリコットの隆盛がありました。今、足利の人々は、「解し織」(栃木県指定伝統工芸品)やおどり用の着物に使う織物づくりによって、また、編メリヤス・横メリヤス・ニット製品等の生産や染色等総合産地として、その伝統と技術を引き継ぎ、新たな機業地として発展しております。
足利銘仙の歴史
   足利銘仙とは・・・
足利銘仙は、栃木県の足利で生産される絹を素材とした先染めの平織物です。江戸時代の中期頃からあったと言われています。もともとは太織り(ふとり)と呼ばれており、正常に糸をとることができない廃棄処分となることが多い「玉繭」や「屑繭」から採れる太い糸を緯糸(よこいと)に用いた丈夫な平織物でした。この厚地で丈夫な織物は、自家用の織物だったようです。
江戸時代後半となりますとこの太織り(ふとり)が庶民の間に広まり、武士が普段着や略式の晴れ着として着用していたようです。この頃から太織り(ふとり)を「太」が「肥える」を連想させるため女性の衣料には適当でないことから「銘仙」という名が用いられ始めたといわれています。
経糸の本数が多くて緻密な織物だったことに由来するように、目が細かいので「目千」、縞専門で「目専」と言われたのが転訛して“めいせん”となった説、銘茶や銘酒の「銘」と仙境で織られる事を想像させるような「仙」をとり、「銘仙」としたという説もあり、消費意欲をかきたて、高級感を与えるような当て字にしたのではないかということが考えられます。
この江戸時代後半から明治時代には、縞柄がほとんどでしたが、明治から大正時代になると経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の糸を故意的にずらすことで、色の境界がぼけるような柔らかい見栄えの銘仙が当時の流行となりました。足利銘仙は「解し絣」が多かったようです。大正2年(1913年)には「解し織り」が足利の根岸藤平、関川粂蔵によって特許出願24612号となり、現在では、栃木県伝統工芸品となっています。
   解し織とは・・・
解し織は、経糸(たていと)(1,600〜1,700本)を織機にずれないように並べて、粗く仮の緯糸(よこいと)を仮織りし、一度1反分を巻取り織機よりはずす。1反分の仮織りの糸が入った経糸を板場(いたば)に貼り付け、1色ごとに模様の彫られた型紙を使い、糊を混ぜた染料をヘラで柄をつけながら、濃い色から薄い色へと型染めしていく。その後、反物を巻き取り、蒸し上げ、色を定着させる。再度、織機にかけ、染めておいた緯糸(よこいと)を仮織りした緯糸(よこいと)を抜きほぐしながら本織りの緯糸(よこいと)を入れ込み本織りする。
この解し織技法ができたことで柄の種類が豊富になり、縞柄や矢絣が多かった銘仙に曲線的なデザインのアール・ヌーヴォーや直線的かつ幾何学模様のアール・デコができ、抽象画のような模様や大胆な花模様などの柄ができたといわれています。こうした技術革新によって、大正末期〜昭和初期のモダン文化の流行に乗って、欧米の洋服地のデザインの影響を受けた色鮮やかな「模様銘仙」が大流行します。
   女学生の制服に・・・
明治中期の学習院は、華族女学校開業に対し、女学生の通学の服装が華美なことことから、この贅沢な服装を改めたいと当時の院長であった乃木将軍が通学着を銘仙程度に定め、これが流行に敏感な女学生の間で瞬く間に広まったようです。当時、紫の矢絣模様の銘仙に袴姿という女学生の姿をみた呉服店が種々考案し、銘仙に模様を施した模様銘仙を伊勢崎で初めて作ったといわれています。
   銘仙の産地と特徴
銘仙の5大産地として、伊勢崎、秩父、足利、八王子、桐生とあります。
【足利銘仙】
足利産地(栃木県足利市及び周辺地域は、合理的な生産法を確立して大量生産を行い、それによって安価かつ洗練されたデザインの銘仙の大量供給を可能にしました。また、足利銘仙を纏った美人画を山川秀峰や伊東深水など、当時の一流日本画家に依頼し、ポスターや絵葉書として全国で展開するなど、優れたマーケティングで足利銘仙の名を世に知らしめたのです。
【伊勢崎銘仙】 
伊勢崎産地(群馬県伊勢崎市及び周辺地域)は、色彩豊かな手の込んだ絣を生産することが得意で、銘仙の発展に大きな役割を果たしました。戦後(1950-1960年頃)には、実に24色も使ったものに見られます。経糸と緯糸の複雑な模様を合わせながら織るため、時間が掛かるとともに熟練した織子の技能が必要で、銘仙の中では高価なものとなりました。こうした銘仙の織り子は、伊勢崎やその周辺地域の多くの女性たちによって担われたのです。
【秩父銘仙】
今日でも生産が続けられている秩父銘仙は、2013年に国の伝統的工芸品に指定されました。市の中心部にあるちちぶ銘仙館では、生糸をたぐるところから織り上げるまで、秩父銘仙の全制作工程を見ることができます。豪華絢爛な出車や花火で全国的に有名な「秩父夜祭」は、別名「お蚕祭り」と言われてますが、それは江戸時代に祭りと共に大きな絹の市が立ったことに因んでいます。このことからも、秩父が古くから養蚕業と織物業の盛んな地域であったことが窺えます。
【桐生銘仙】  絣柄と小柄が特徴
【八王子銘仙】  変わり織りが得意
   銘仙の技法
【模様銘仙】
銘仙の最も基本的な染織り手法で、自由な模様を捺染した経糸に一色の緯糸を打ち込むもの。経糸に打ち込んだ仮緯糸を解しながら本緯糸を打ち込むことから「解し」「解し織」ともいう。曲線模様を自在に表現できる先染め平織りで画期的な技法。
【併用】
経糸(たていと)の模様を捺染し、柄模様を合わせながら織り込むもの。柄模様をより鮮明に表現できる反面、模様銘仙より緯糸(よこいと)に手間がかかるため、コストがかかる。
【半併用】
「併用」の半分という名のとおり、緯糸を同一模様に捺染するのでなく、絣に捺染して立体的な柄模様表現を可能とする。併用ほど手間がかからないため、コストがかからないのが特徴。この「半併用」が足利の発明といわれ足利銘仙の立役者ともなった。 
 
足利の機業 (時事新報 1918.4.17-1918.4.23)  
 
染織機械共進会 
栃木県足利町に於ては去る十五日より染織工業に関する内地製機械器具の共進会を開催しつつあり。欧州開戦に依り我国凡百の工業が機械輸入の途を失い自今原料、機械共に能う限り之を内地に求むるの必要を切実に感ずるに至れると、輓近染織工業に関する邦人の研究大に進み幾多斬新なる発明を見るに至れる点より見れば最も機宜に適したる共進会にして機械製造家並に機業家を裨益する所少からざるべきを疑わず、仮りに見るべき出品尚多からざる憾みありとするも使用者並に製造家の研究を促し将来第二、第三の此種共進会の階梯を為すものとして多大の意義を有するものなるを以て一ヶ月の会期が成功を以て了らんとを祈らざるを得ず。  
織物の産□ 
此機会に於て足利機業の状態を記さんに足利織物の大部分は賃機に成り賃機業者の□□せる区域は即ち共産□なる□□其区域極めて広く足利町を中心として遠近諸村に亘り隣接の□武両州に迄及べり最近産額は内地向き八割四分、輸出向一割五分、両者合計二千□百万円に達せり。最近十年間の統計を見るに大正二年及び三年に於て数量、金額共に減退を示せるも四年よりは漸増の歩調に復し五年及び六年は数量、金額共に記録的数字を挙げ得たり、次表は最近六年間に於ける足利織物同業組合取引高にして四五両年に於ける金額の増加が数量の其れに比し特に大なるは価格の騰貴に因るや明らかなり。  
多種多様の産品 取引織物の内容如何を見るに内地向絹綿布織物最も多く六年度に於ては千百五十四万七千円を算し取引総高の四割八分を占め以下綿織物、純絹物、輸出向綿織物、輸出向純絹及交織物内地向綿毛及絹毛交織物、綿麻交織物の順序にて之に続けり、六年度の産額を表示すれば次の如くにして種類の下、括弧内に数字は組合の類別に依る品目数なり。  
足利機業の特色 
桐生伊勢崎等隣接の機業地が或は輸出向絹物、内地向絹物等を主たる製品と為せると異り足利は上は高貴なる絹織物より下は安価なる綿織物に至る迄多種多様の織物を産すること前掲の品目数に依りても之を窺い得べし又絹綿各種の交織物の著しく□きことも他に其類を見ず此□点は足利の機業を説くものの看過すべからざる特色なるべきか、殊に内地向絹綿交織物は足利をして全国機業地の間に特殊の地位を得せしむるものにして佐野の綿縮と共に其名広く伝えらる。  
各種織物の消長  
低廉なる交織 
内地向絹綿交織物は節糸織最も多く御召織之れに次ぎ銘仙、黒茶絣、兵児帯、大嶋等を主たるものとして大正六年度に於ては品目二十六種、数量三百三十五万余点、千百五十四万七千円を算す、其主たるものは前記節糸織以下の六品にて六品の合計は点数に於ても、亦金額に於ても絹綿交織総体の九割三分を占む此等六品の産額並に其平均単価を算出するに次の如し。  
平均単価の極めて低廉なるは特に注目を惹く所なるべく三円四五十銭の節糸類、五円に満たざる御召等は体裁と代金との按配に苦心する現代人の嗜好に投じ需要の多かるべきこと想像に難からず。  
絹綿輸出比較 
絹綿交織物に次で産額大なるは内地向綿織物にして縮類其大部分を占む、産額の大なるは縞縮の百二万円、白絣の四十三万円、綿節織の卅万円、綿古渡の廿七万円、綿銘仙の二十三万円等あり、単価低き為金額としては大なるもの多からざるも品目数五十に達し点数に於ても絹綿交織物に亜ぐ多数なり。絹織物は節糸織其九割を占め大嶋、御召、壁織之れに次ぎ価格の比較的低廉なるに拘わらず精巧なるもの多く総額は前年より稍や減じたるも尚三百九十万円を算す、転じて輸出向に在りては絹織物に繻子、甲斐絹、富士絹、タフタ等あるが特に足利織物として挙ぐべき特色なきも夙に交織物の輸出に努むるの風あるは推唱に値すべきが、之れに反して縮を主とする輸出綿織物は夙に其名顕はれ最近十年間を通じて欧州開戦の当年たる大正三年を除きては常に漸増の歩調を辿り極めて堅実なる発達を遂げつつあり絹織物との比較を示せば次の如し。  
各品生産消長 
此等各種織物の内、主要なる地位を占むる絹綿交織、綿織、絹織、輸出向綿織の四種を選び総生産高に対する割合を算するに次の如き結果を得たり。  
足利織物の主要なる地位を占むる絹綿交織物及び綿織物の総申額に対する百分率は前表の如く漸減の傾きあり、元より是れ此両種製品の減退を意味するものには非ず現に両種共大体に於て累年増加の跡を示しつつあるも然も足利機業家が其生申力を増加するに従い其力を右の両種製品以外に向けつつあるを窺知し得べし尚お前表には略したるも輸出絹織物及び綿毛又は綿麻の交織物は最近三年間に於て次の如き総申額百分率を示しつつあり。  
特長と欠点  
山保の毛織 
此地に山保毛織工場あり、産額尚お多きに非ずと雖も規模の稍々見るべきものある点に於て此方面に於ては他に類を見ず、資本金百万円、払込三十五万円の株式組織にして綿毛コート地、綿毛セル、絹毛交織地を産し東京、大阪へ搬出せり、労銀稍高き為愛知地方の製品に比し価格稍高きも絹毛交織品は特に好評を受けつつあるに似たり、ドイツ製六十インチ織機四十余台内外製二十インチ織機四十余台を有し進歩せる工場の態を備えたるは悦ぶべし、足利機業の沿革を見るに人皇二十九代、欽明天皇の朝、百済国王より□氈と称する織物の献納あり、邦人之に倣うて初めて織物に獣毛を用うるに至り足利付近に於ても亦緯毛経糸の織物を製し之を『計牟志呂』又は『之母都家野加毛志加』織と称し其名顕はれたりしが如し、大正の『之母都家加毛志加』亦関東の機業地に其名を顕はさんことを祈る。  
進取の気風 
足利の機業は前記の如く内地向絹綿交織並に同綿織物を主要製品と為せる関係上、其搬出先は大阪、東京の両地に出ずるもの産額の半を占め京都、名古屋之に亜ぎ輸出向に限り殆んど全部横浜へ送らる。以上は数字に依る足利機業の概観を述べたるものなるが生産状態並に趨勢に関する専門家の説を聞くに足利機業家が進取の気風に富み常に新機軸を出すに努むるの風あるは万人の認むる所にして是れ一には桐生、伊勢崎等の機業地と相隣接し自然の競争に惰眠を許されざりしに因るならんも夙に絹綿交織物の製造に力を致し又佐野縮が主としてインド、南洋方面に輸出せらるるを見て更に一段と精巧なる縮を以て米国方面に販路を開拓したるが如き此地の機業家が時代の要求に応じて販路の拡張を怠らざるの証として推唱すべし過去に遡りて考うるも明治の初年早くも輸入染料を使用し一時各産業地を圧倒せり、不幸にして化学染料の利用には尚お充分の知識経験なく外観の美、工程の簡易、価格の低廉にのみ腐心して他を顧みるの余地なかりし為久しからずして粗製濫造の評多く一頓挫を来したるも此機会に於て現在県立工業学校の前身たる染織研究所起り斯道の研究に意を致したる効空しからずして後年に於ては桐生と共に新染料利用の先駆を以て目せられ新に輸入せられたる染料は先ず此両地に於て試み、他の産地之に倣うの風を成せしが如き此地機業家の誇と為せる所なるべし。  
研究すべき問題 
機業の組織に至りては輸出向製品を除きては尚お多く賃織制度に依るものにして工場法の支配を受くるもの僅かに約五十に過ぎざるを見ても大体の状態を推し得べし、十年前に在りては僅々四五十円の資金を積みたる職工は直に機屋を開き市日毎に製品を出市する時は兎に角資金を回収し得るを以て斯る小規模の機屋の数極めて多く資金の運用の便多きを利用して極度まで信用を濫用し甚しきは資金の二十倍、三十倍までの取引を営みたるものあり、一度不況に陥れる時の打撃の惨状は想像に余りあり、現在にあっては漸次此種小規模の機屋其数を減せるも尚お全然面目を一新するに至らず、機屋中、需要地織物商の注文に依りて製造に従うものなきに非ざるも多くは自己の図案意匠を以て市場に出し幸に好評を博すとするも次の市日には類似の製品、諸方より簇出し需給の均衡を破るが如き常に見る現象なりと云う。賃機制度は地方特殊の由来あり之を破ること難き事情あるべきも製品の統一需給の調節上斯る欠点あるは機業状態の万全を期する上に於て一考に値すべき問題なるべし。(了)  
 
昭和初期の足利銘仙について 
 
はじめに  
本稿は、銘仙の魅力を発見するため足利の歴史、産地を調査し、銘仙を通して着物の存在について執筆者なりの考えをまとめた研究論文である。研究の対象は、昭和初期の栃木県足利市と、そこで製織されていた足利銘仙である。  
はじめに銘仙とは大正時代から昭和初期にかけて一般大衆の間で大流行した着物ファッションの一つである。栃木県足利市は、かつて日本一を誇る銘仙の生産地として、その名を馳せた一時期があった。ところが、服飾スタイルの洋装化により銘仙の生産は、しだいに衰退してしまった。  
現在、足利では銘仙生地を製織していない。銘仙の加工を知る技術者も稀少である。このままだと足利銘仙は忘れ去られてしまうだろう。かつて足利市の中心産業として栄えた銘仙を美術的な価値あるものとして捉えて、これを栃木県の文化の一つとして位置付けられたらと願っている。 
研究の動機  
近年着物(1)を普段着としてカジュアルに着こなす流行があり、そのような関連書も発行されている(2)。この流行で身に付けられている主な着物というのは現在作られているものではなく、古着であり特に注目されているのが大正時代から昭和初期のもので、銘仙が流行していた時代のものである。私はこの流行をきっかけに銘仙の存在を知った。  
銘仙とは大正時代から昭和初期にかけて一般大衆の間で大流行した織物の一つである。銘仙の特長は鮮やかな色彩と、大胆な模様である。銘仙の模様は、日本独特のものからアール・デコまで幅広く自由な感覚を持っている。このような意匠の独特さが銘仙の魅力として多くの研究者によって研究されてきた。  
銘仙は私の住む栃木県内でも製織されており地元の歴史産業の一つとして興味を持った。しかし現在銘仙の製織はわずかでいくつかの歴史研究は行われているもののその存在価値は決して高いものとはいえない。かつて足利市の中心産業として発達していた銘仙を本稿で取り上げることによって美術的な価値のあるものとして捉え栃木県の文化の一つとして位置づけられたらと考える。  
本稿では自分なりの銘仙の魅力を発見するため歴史、産地を調査し、また銘仙を通して着物の存在についても考えまとめたもので、研究の対象となるのは昭和初期の栃木県足利市とそこで製織されていた足利銘仙についてである。 
銘仙の名前の由来  
“銘仙”という名前そのものにも興味を持った。この名前は産地でも由来は定かでないらしい。銘仙は江戸時代の中ごろに現れ、そのころの銘仙は糸を紡績するときに出る屑などを使って織られた厚地で丈夫な自家用織物であった。天保の改革以後は特に庶民の間に広い需要があった。男女とも身に付けており、武士でも中級武士が普段着、略式の晴れ着としていたようである。また柄は専ら縞で、色は茶・紺・鼠であった。  
目が細かいので「目千」、縞専門で「目専」、名物裂を撰び模したので「名撰」。またくずわた、繭の意味を持つ「蠒(けん)」という字を用いて「蠒繊(めいせん)」とも呼ばれた。やがて明治時代に入ると都市への販売が盛んになり、越後屋三井呉服店などでも扱われるようになる。銘仙・紬などの如く太い練絹糸で織った織物の総称をふと織りと呼んでいたが「太」が「肥る」を連想させるため女性の衣料には適当でないということから銘仙という名が用いられ始めたといわれる。その「銘仙」という字は銘茶、銘酒の「銘」と仙境で織られるということから仙境の「仙」をとって銘仙と改めるに至ったという。 銘仙という名前は消費意欲をかきたてるための商品名で、「めいせん」に高級感を与える当て字をしたように考えられる。 
足利銘仙会の歴史  
足利市で銘仙が製織され始めたのは明治20年頃であるが銘仙の五大産地(伊勢崎、桐生、秩父、八王子、足利)の一つとして有名になるのは昭和7年ごろからである。それまでには多くの試行錯誤がなされた。  
足利銘仙会の活躍  
足利産地には1300年の染織の歴史があり器用な産地であるにも関わらず様々な染織品に手を出し、足利の特産品というものがなく、生産体制も中途半端なものであった。第一次世界大戦の好景気で賃機(5)による織物の生産数を延ばしていた足利だったが、戦後の不況に入ると傷物や色落ちのするものが増え市場の信頼を失い返品が増え、呉服店などは足利の製品を取り扱わないことによって消費者に安心感を与えるようにまでなってしまった。この状態を打破するため昭和2年足利織物同業組合の若手機業家茂木富二を中心に「足利銘仙会」を立ち上がった。茂木富二はこれまでの生産体制を見直し当時花形織物であった銘仙を足利の特産品にすることにした(6)。  
足利銘仙会は様々な工夫と研究を重ねて「足利本銘仙」を完成させる。また、製織から販売に至るまでの全ての工程に規定を設け、粗製乱造を厳しく取り締まった。完成した織物を京都・大阪の問屋、百貨店、呉服店へ諮問しても断られるばかりであったが、熱心な銘仙会に対し、京都の織物問屋「盛奨会」が要請を受ける。だが名称については「足利」が付かない名称に変えるべきと薦めた。これに対し銘仙会は品質の向上、革新性(8)を説き、親切な織物を作ることを約束し、これが本当の足利銘仙であるという意味を込め「足利本銘仙」が誕生したのであった。  
そして昭和2年秋に京都で陳列会・披露会が開かれ、さらに東京の三越百貨店が同じく昭和2年に「足利本銘仙」第一回陳列会を開いた。販売当初はかつての足利織物が影響し軌道に乗るまで苦労を重ねた。まず足利産地は全国の織物産地に先がけて、宣伝ポスターを最大限に利用した。当代一流の日本画家・美人画家・洋画家・図案家(9)に依頼し、モダンですぐれたポスターを作成した。モデルは、一流の女優に依頼した。また絵葉書も大量につくられ、大いに利用された(10)。そして全国の問屋・百貨店の関係者を現地視察に招待し、生産工程を見せることにより品質の確かさを認識させ、その帰りに日光・鬼怒川から東京の歌舞伎座や明治座、伊豆の温泉、時には東京湾周遊の舟遊びにも招待した。  
一般大衆に対して足利織物同業組合は女性向け雑誌「生活と趣味」の編集長太田菊子と共に足利銘仙の座談会を催しその様子を記録した冊子を販売した。参加者は、俳優、作家、画家、美容師、服飾関係者などで当時の流行の先端に位置する人々が集まった。当時の有名人を起用したこの企画は大きな宣伝力があったことであろう(11)。こうして昭和2年に発足した足利銘仙会は、足利産地の中心的存在となり銘仙という一つの製品に力を注いだ。その結果は見事に花開いた。また、世間では銘仙が大流行し、益々足利銘仙は力を付けた。その後も人絹糸を使用したもの、金糸、銀糸を織り込んだものや仕上げに縮み加工などを施したセーミ加工銘仙なども生み出した。その中でも特に力を入れたものとして「特選銘仙(12)」があった。それらは大衆の人気を得た。生産が軌道に乗り、人気も出て、一般大衆の普段着の地位に着いた銘仙であった。その理由として銘仙が安価であったことが挙げられる。しかし価格の低下は品質の低下をも招き、機業家、問屋、百貨店三者の間に返品問題を中心としてしばしば紛争を引き起こした。このことは足利産地だけでなく銘仙産地の全てに言えたことだった。様々な問題が起きる度に新たな解決策を建て、そのたびに努力をしてきた足利は全国の銘仙11産地のうちトップになり、数量・品質・意匠のいずれにおいても大きな人気を博するに至った。そして足利銘仙会発足の昭和2年から5年ほどで急成長し、比較的短期間で進展をみたのであった。  
これらの活動にとって欠かせなかった存在は次の3つである。  
求評会  
銘仙会が強力に実施したものに、各集散地の持ち廻り求評会があった。東京・大阪・京都・名古屋など全国各地の集散地で、一日単位の求評会を度々開催した。日程はつねに忙しく、持参した見本の織物は会員の各機屋の主人自らが風呂敷包みで担いで、列車で次々と移動していった。この熱心な求評活動は、各集散地の意向・動向を毎年的確に把握することを可能にし、足利における銘仙の発達に大きな力となった。  
買継商  
買継商というのは機業家と問屋の中間に立ち、製品の売買をするものである。ただし、機業家との取引関係は継続を必要とし、一時的な取引関係は買継とは言わない。機業家から製品を買い集め、集散地へ売却する。また、集散地小売商・デパートから注文を受けて製品を買い取ると共に、時節にふさわしい色、柄、流行を考慮し、製品の指導をすることも重要な業務である。買継商の存在によって、機業家は各集散地に出向き流行調査をする手間が省け、製織に専念することができた。  
銘仙の図案家たち  
銘仙の意匠に関する記事は毎週のように『足利織物週報』に掲載されている。執筆者は京都・大阪・東京・名古屋の集散地の人々と足利の人々であった。彼らはお互いの土地を行き来して、毎年、毎週同じサイクルで作業をしているにも関わらず、一つとして同じ意匠は存在しない。今回調査した図案の数は1300種を越えたがやはり一つとして同じ物がなかった。実はこの他にも未調査の図案集が3、4冊栃木県繊維技術支援センターにあったので総数は計り知れない。また、今回は足利産地だけの調査なので、他産地も含めたらどれほどの意匠が出てくるのか予想がつかない。銘仙の意匠のアイデアは底を知らないようだ。銘仙の図案家は、もちろん足利にもいたが(14)、東京や京都から買い取る機屋もいた。また、大正時代の末頃から、昭和初期にかけて、京都から図案家が足利へ移住してくることがあったそうだ。京都、東京、足利のものが混ざり合って足利銘仙の多彩な柄が生れていったと思えば底が見えないのも理解できる。 
戦中の銘仙  
戦時中は贅沢ができなくなったり、資源が制限されたりと、銘仙製織は困難で全く行われていなかっただろうと予想していた。しかし、当時の新聞などを調査した結果むしろこの時期に製織された銘仙のほうが独特な雰囲気を持っていることが分かった。  
日中戦争が起こり日本は次第に戦争の色を濃くしていった。そして、経済統制が本格化し、足利織物業は徐々に経営難となっていった。それは銘仙の原料糸が品不足になったからである。輸入の制限、製糸、製織機械新・増設の禁止、割当数以上の糸使用の禁止、またその糸を他人に譲渡することも禁じられた。そのため小さな機屋は無くなっていった(15) 。だがすぐには経営困難になったわけではない。というのは、銘仙のライバルであったセル、モス、綿織物などがそれぞれ原料である綿花・羊毛が輸入制限を受けて自由に生産出来なくなったからである。  
この頃の日本は綿花と羊毛を輸入品に頼っていたのである。銘仙の原料は国産の絹であったためしばらくは他の染織品を尻目に服飾の流行を独占できた(16)。しかし、問題となったのが昭和15年に発令された「七・七禁令」こと「奢侈品等製造販売制限規則」であった。この奢侈品等製造販売制限規則には、染絵羽模様、織絵羽模様、刺繍したもの、綴れ織の製品が製造販売を禁止された。銘仙は販売を禁止されることはなかったが、一反30円以上のもの、金糸や銀糸を入れたものは販売ができなかった。国より指示を受け機業家は平和産業として銘仙製織を続けるものと、軍需品を製作するものとにわかれた。銘仙の柄や色は国から指定され、銘仙には製品番号が設けられた。  
七・七禁令の規定を受けた銘仙機業地は萎縮し、暗く地味な銘仙を多く製織した。その結果集散地からは「矢張り娘は娘らしく、年頃は年頃らしく、もう少し明朗化して」と、苦情めいた注文がきた。このような依頼を受けた機業地は「七・七禁令で畏縮した秋の服飾界に明朗で力強い新体制に託する新しい美を注入しよう」、「花模様でも単純な柄、矢絣、亀甲、市松を代用。また絣に新味を与えたものも良いのでは」「明るいテキパキとしたものが良い」など“簡素の美”に重点をおいて色も柄も堅実明朗なものの製織に努めた(17)。  
この文章に適合している図案を調査することができた。昭和9年のものと比較すると昭和15年の図案は細かな描線はなくなり大胆にデフォルメされていることがわかる。制限されるからこそ工夫を凝らして良い品物を作ろうとしていたようだ。  
販売禁止となっていた金糸・銀糸入りの銘仙が七・七禁令の例外になった。それは銘仙が家庭婦人と関係の深い実用織物であり、七・七禁令による繊維製品のストックが一億五千万円もあり、影響を受けた業者への自力更生の救済法として例外された。また、金・銀糸入りでも女中さんが着るような5円、10円のようなものなら贅沢品とは言わないであろう。ということからであった。銘仙は戦時中のような非常時にでも製織されるほど大衆にとっては欠くことができない衣料品だったようである。  
さて、この頃の足利銘仙会は昭和15年7月18日から月末まで製造停止に追い込まれ、昭和16年商工大臣に「解散認可申請書」を提出し、およそ40年続いた足利織物同業組合の活動を停止した。その後織物工場だった施設は軍需衣料製品や飛行機の部品を製造することになり、足利ではパラシュートを製織していたそうである。また、織機等は鉄資源として失われた。 
銘仙製織方法  
両毛地区ではまず伊勢崎地方が他の産地よりも二週間早く製織を始める。それは伊勢崎の品質が良いためで、消費者はまず良質のものから購入するのでその年の流行傾向を知ることが出来るのだ。まずは新商品の研究が売り出す季節の半年前から始まる。新しい図案と地風の基礎的研究と準備を進め、試織品の発表をして具体化する。そして取引、宣伝。季節織物品評会へと続き一般に販売される(19)。  
銘仙は複雑な分業制で製織されている。織物というのはその道のプロが集まらないとできない。それらのプロをたばねていくのが機屋だ。銘仙は様々な下準備を経て初めて織り始めることができるのだ。  
銘仙の特徴はかすれた柄である。これは「解し織(ほぐしおり)」という方法によってできる。解し織というのは整経した糸を仮織し型紙で柄を染めていき、仮織した糸を解しながら織るので、解し織という。この技術の開発のおかげで銘仙は細かで様々な柄を織り出すことができるようになった。経糸も緯糸も絣を使ったものを併用、経、緯どちらかだけが絣糸のものを半併用という。半併用絣は足利銘仙の特長であるという。平織りという単純な織り方でも糸を型紙捺染することで複雑な模様を織り出すことに成功した。  
それでは簡単に解し織の工程をみてみよう。まず機屋が図案の希望を図案屋に依頼。その図案を元に型屋が型紙(20)を作成。つぎに仮織を力織機で行う。整経して仮織した経糸に型紙捺染する。この工程を加工と呼ぶ。糸が伸びないように霧吹きで糸を湿らせる。色を染める順は濃い色から薄い色である。色数が多いほど型紙の枚数も増える。この時の染料は化学染料と蒟蒻粉を混ぜた糊状のものを用いる。型染めをしたものを一日寝かせて蒸す。このときに蒟蒻糊が蒸気で溶けて糸が一本一本に分かれ、糸には染料が付く。  
そうして製織工程へ進む。力織機と手機では力織機のほうが織り目の差が少なく段ができにくく薄く仕上げるのに向いている。銘仙の生地は薄い。厚手にすると肌触りがザラザラとしてごわつき重たくなってしまう(21)。手機での製織は多品種少量生産の反物対象であり、賃機であることが多い。  
その後整理、検査等を経て各産地へと出荷されていく。 
おわりに  
銘仙を知ったとき、存在する銘仙は古着ばかりであった。かつて産地であった場所では銘仙は記念館や資料館に納められていた。銘仙は着物のブームが起こるまで捨てられ、古着屋やたんすの中で眠っており、あまり注目されていなかったものである。それは本絹と偽って人絹物を売ったという事、戦後花柳界でよく着られていた事、すぐ破ける、色あせるという悪いイメージがある事、布団や半天、普段着として特に珍しいものではないという事。洗い張りをして表と裏をくりかえし何度も着られ、ぼろぼろになるまで布として使われていたからだ。  
今注目されている理由は一体なんなのか。そこが重要である。銘仙は現在七、八十歳の人たちが若い頃に流行した織物であるが、現在の女性たちにも何か魅力を与えている。足利銘仙の若向きは流行を敏感にとらえ毎年季節ごとに新しい意匠が考案されていた。流行遅れのものは元値よりも安く扱われ、新しいものは原価で高く扱われた。つまり、多品種少量生産性だった。その柄は目立つため毎度その柄を身につけるわけにはいかない。極端な言い方かもしれないが一度着たらそれきりの使い捨てに近いような着物なのかもしれない。ある意味贅沢である。このことは現在のファッションと似たところがあり、若い人のファッションに対する考えにも近いように思う。  
銘仙の魅力というのは多彩な意匠である。これは確信できる。今回調査を行った結果銘仙の製造者が一番力を入れていたのは意匠であったように感じる。また、多くの銘仙研究者達も大胆で色彩が鮮やかであることが銘仙の魅力であろうと語っている。しかし、私は他の研究者とは違い染織の研究をすることは今回が初めての事である、また普段、着物を着て生活をしているわけではない。そんな私が銘仙に魅力を感じている。これは銘仙の意匠の素晴らしさだけではないように思う。また、銘仙の魅力というものも意匠だけではないはずだ。森田たまの著書の中に 銘仙の性格が記されている。それは、“初々しい”とか“艶めく”とかいった言葉である。  
2005年足利市立美術館にて「足利銘仙の黄金時代」展が行われた。この展覧会で展示ボランティアに参加した。その際銘仙に実際に触れ着ることが出来た。また、銘仙を身に付けた女性を多く見ることができた。当たり前のことなのだが、やはり着物は着るために作られたものなのだ。展示をしている時に暗い色彩のものや毒々しい感じのものがいくつかありこれを本当に着ていた人がいたのだろうかと疑ってしまったが、いざ、実際に人が身に纏うと、とても雰囲気が良いものになった。今回の展覧会では女子高生が身に付けていたが、彼女達にとっても似合っていた。可愛らしくて華やかで銘仙を着るまで学生服を着ていた彼女達の雰囲気がガラッと変ったようなきがした。しっとりとしたような雰囲気で美しいものであった。銘仙の魅力は女性の魅力をさらに上げる力を持っているところなのかもしれない。  
銘仙を着た感じはピタッと身体に貼りつく感じである、また薄い生地なので軽い。銘仙を身につけると身体の形に沿って立体的になり、絹が持つ独特の光沢が現れ、光の加減で明るくなったり暗くなったりして一つの色でも様々な色が現れる。屋内で着るより屋外へ出たほうが何倍も美しくなった。友禅のような染物は発色がくっきりしていて、細かい柄を繊細に着物の上に表すことができる。銘仙は型紙で並べられた糸に柄を染めて織っていく。柄はどうしてもずれてしまう。しかし、そうすることで立体的に見える。ボサボサとした感じがあるがそれが逆に柔らかく感じる。  
銘仙には高い垣根がなく親しみやすい。それは一般大衆向きとして作られていたためであろう。現在の私たちの多くが所謂一般大衆にあたる。だから銘仙が現在も魅力的に思えるのは当たり前のことなのかもしれない。安価で手に入れやすいということは庶民にとって一番大切なところであろう。しかもなにより銘仙は華やかなのだ。普段着で気楽に着られることから、自然に銘仙の意匠も自由なものになったのだろう。また、銘仙のような華のある普段着が現れた理由は女の子にはかわいい格好をさせたいという親心と、女性自身の常に綺麗でいたいという気持ちだ。女性が自由におしゃれをするために出来た着物であると思う。  
関東大震災が起き、大正デモクラシーが起こり世間の感覚が新しくなっていき、女性が自主的に活動をはじめるようになった。自由にできるようになった女性の解放感、そんなものが銘仙に反映されているのではないだろうか。銘仙の柄には少々常識破りのような雰囲気がある。現在渋谷を歩く女性たちのような。  
着物自体が現在の我々の生活にそぐわなくなってきている。毎日多くの人が着物を着ていた時代に生れた銘仙だから現在のような世の中で銘仙は生きられない。かつて銘仙が盛んだった頃には戻れそうにない。時代の流れには逆らえないし、現実に考えると技術者育成など様々な問題が挙げられる。  
足利市、栃木県にとっての銘仙とは一体どういう存在なのであろうか。銘仙は昨今のブームにのって町おこしの材料となるものなのであろうか。このブームはいつまで続くのであろうか。一時のもので終わってしまうのではないのだろうか。銘仙は栃木県にとってなおざりになっているように思う。このブームを皮切りにますます着物を身に付ける人が増えればいいと思う。現在のようなファッションの多様化の時代に目の覚めるような銘仙は似合うように思うのだ。ブームで終わらせることなく栃木県の文化の一つとして扱うべきだ。  
栃木県で銘仙が栄えていた時代があった事実。そして、銘仙は美しいということをとりあげていけば文化になりうるはずだと考える。消費者を騙していた事実もあるが、当時のまじめな機屋たちの存在を知ったからには彼らの努力をないがしろにすることはできない。現在の我々の使命は彼らを称え地元の文化を大切に扱い守り伝えていくことである。この論文がその使命の一部になれたら幸いである。 
脚注  
1 本稿での着物とは、洋服に対する和服のこと。  
2 祥伝社で発行されている「KIMONO姫」など、若い女性を対象としたかわいらしいものが多い。  
3 この論文は平成19年1月に執筆した修士論文「足利銘仙の歴史と意匠」の要約文である。  
4 「類聚近世風俗志上巻」室松岩雄 編 名著刊行社1979年 / 「日本の織物」北村哲郎 源流社1988年 / 「岡信孝コレクション須坂クラシック美術館所蔵品展華やかな美大正の着物モード」監修須坂クラシック美術館・須坂市文化振興事業団 編芸艸社1996年より  
5 賃機とは、個人が機屋から織機と一匹分の織賃を契約して機を織るシステムで、本業としているものもあるが農家の副業であることが多かった。  
6 『近代足利市史第二巻通史編近代・三〜現代』足利市史編纂委員会 編足利市1978年  
7 『足利織物宣伝集「延びてゆく足織界」』より  
8 その革新性とは、上級物で経糸に上等絹紡糸を用いたこと、経糸への型染めに紗張りを用い、より複雑な意匠を可能にしたこと、などが指摘されている。  
9 日本画家は北野恒富・伊藤深水・鏑木清方・中村大三郎・山川秀峰・小早川清、少し下って梶原緋佐子ら洋画家は長谷川昇・川島理一郎様々なポスターのデザインを手がけた多田北烏のものもある。  
10 ポスター原画の多くは足利市立美術館が所蔵している  
11 『足利織物を語る』足利織物同業組合発行 生活と趣味之會 太田菊子編 昭和10年発行  
12 昭和九年に茂木富二を中心に開発された銘仙で従来の十八算ではなく二十二算以上で製織した高級なものであった。  
13 東京朝日新聞昭和七年三月十三日  
14 「銘仙統制 まず品質改良 あす協議会」より  
ここで、足利産地の図案家であった寺岡順峯について少し触れておく。  
「両毛織物図案の変遷 足利市図案家 寺岡順峯」について要点は、こうである。  
一、 両毛地方の図案の古く、百数十年の歴史があるが、明確な記録としては残っていない。  
一、 唐模様だけでなく大和絵を染織図案に応用した桐生の図案家の独創的な研究が意匠図案界に革新をもたらし、桐生織物が覇権を握った。  
一、 明治初期からは新進の機械を応用した自由な図案の進歩と欧州からのアールヌボオー式をはじめとする新図案の流入、一方で光琳式などの復古調の登場など趣味豊かな図案が登場した。  
一、 明治末に京都図案協会の理事長高坂三之助氏の尽力により着尺図案の振興が図られた。  
一、 両毛地域の図案振興に足利にあたる県立図案調整所が大きく貢献した。  
一、 両毛の機業地が全国屈指の大産地となったのも意匠図案家の功績が大である。  
一、 現在(昭和四年時点)、両毛地方で意匠図案家として専門に従事している者は九十余名である。  
(昭和四年『染織図案変遷史』から抜粋)  
寺岡順峯略歴  
本名白石順三郎。足利の米穀商與三郎の三男として明治二十年(1887)年四月一日に生れる。同三十八年県立工業学校卒業後。図案家を志す。四十一年小俣村の織工場において約四年間図案の研究を続け、東京の図案家島田多薫等と交流する。一時京都に居を移し、京都図案協会の主幹高坂三之助の指導を受け、着尺図案の研究を進める。帰郷後は高坂三之助氏が両毛地区への図案普及への取り組みに協力し、足利及び両毛地区の着尺図案振興に大いに貢献する。関東第一流の図案家として図案界の発展向上と後進の指導に尽くし、足利図案家の団体である同士会の顧問となる。相田松峰、渡辺歌仙、北沢米峰、吉沢義明、宇多川守、本田薫丈、奥中暁紅等を指導。 没年不明  
以上「両毛織物図案家の変遷 足利史図案家 寺岡順峯」(昭和四年『染織図案変遷史』から参考)和田みどり氏資料提供  
15 註6と同書より  
16 東京朝日新聞昭和十三年一月十日 / 「家庭 時代の人気を負うて銘仙の進軍ラッパ 堅実を尊ぶ正絹物を要望 をさの音冴ゆる両毛の地(上)」より  
17 東京朝日新聞昭和十五年九月三日 / 「明るく・強く昔ながらの縞と絣の復活が提唱された、銘仙の新体制版」より  
18 東京朝日新聞昭和十五年九月二十六日 / 「家庭/七・七禁令に例外 実用織物なら“特免”、金銀糸入も実用銘仙程度は…」より  
19 『産地の春夏秋冬』伊藤博編 足利織物同業組合 昭和十二年発行より  
20 この型紙は三重県や富山県のもので和紙を重ねて柿渋で染められたもの。型紙を彫って開いた部分には漆で紗が貼り付けてある。  
21 川岸光春氏談 「絹の随筆」森田たま著 講談社1961年  
22 「きもの随筆」森田たま著 文芸春秋新社1954年 
 
織姫神社 
足利織姫神社のご由緒
1200年余の機場としての歴史をもつ足利。この足利に機織の神社がないことに気づき、宝永2年(1705年)足利藩主であった戸田忠利が、伊勢神宮の直轄であり天照大神(あまてらすおおみかみ)の絹の衣を織っていたという神服織機神社(かんはとりはたどのじんじゃ)の織師、天御鉾命(あめのみほこのみこと)と織女、天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の二柱を現在の足利市通4丁目にある八雲神社へ合祀。その後、明治12年(1879年)機神山(はたがみやま)(現在の織姫山)の中腹に織姫神社を遷宮した。
翌年の明治13年、火災に遭い仮宮のままとなっていたが、昭和8年皇太子殿下御降誕(現在の上皇陛下)を期し、当時の足利織物同業組合組長の殿岡利助氏の先導により市民ぐるみで新社殿の建造にかかり、昭和12年5月に現在の織姫山に完成、遷宮した。
平成16年6月、社殿、神楽殿、社務所、手水舎が国の登録有形文化財となる。
足利織姫神社が縁結びの神社と云われる由縁
ご祭神は、機織(はたおり)をつかさどる『天御鉾命』と織女である『天八千々姫命』の二柱の神様です。この二柱の神様は共同して織物(生地)を織って、天照大御神に献上したといわれています。
織物は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りあって織物(生地)となることから、男女二人の神様をご祭神とする縁結びの神社といわれるようになりました。
また、織物をつくる織機(しょっき)や機械は、鉄でできているものも多いことから全産業の神様といわれ7つのご縁を結ぶ産業振興と縁結びの神社といわれております。 
 
 
伊勢崎銘仙

 

伊勢崎銘仙 1 
絹を素材とした先染の平織物の総称であるが、同じ絹織物でも丹前地、黄八丈とは区別して呼称された。語源は天明時代(1781-1788)経糸の数が多く、その織地の目の細かさ、緻密さから、「目千」「目専」といわれたのが転訛して「めいせん」になったという説がある。そのふるさとは関東地方の伊勢崎、秩父、桐生、足利、飯能などで、これらは古くからの養蚕と織物の産地であった。 
伊勢崎では、約二千年前から農家の人々が農閑期を利用して自家用として織物が始まったと伝えられ、伊勢崎織物の名が広まったのは、約250年前の亨保・文政年間といわれる。もともとは太織り(ふとり)と呼ばれており、人々は手製の熨斗糸(屑絹糸)、玉糸(節のある太い生糸)を作り、それを草根木皮で染め製織した。この頃には太織りの市が立ち、利根川の舟便で江戸へ出荷されていた。 
太織りは、手織りのざっくりとした風合いと渋味のある縞柄の配色が洒落ていて、その上地質が丈夫であったため、当時着尺物として庶民の間で流行した。人気が高まったことで商品用として盛んに生産されるようになり、江戸をはじめ大阪や京都にまで広まった。そんな中で糸屋・染屋・機屋などさまざまな専門業者もあらわれ、明治以降は伊勢崎銘仙(あるいは銘撰)となって、地質や織り方に様々な工夫が加わり、太織りとは風合いも外観も異なる絹織物を織り出した 。 
これが庶民の好評を博し、桐生、足利、八王子でも銘仙を織るようになったが、最盛期の伊勢崎銘仙は年産130万反(約70億円)を記録し、日本一の銘仙生産量を誇った。明治時代に太織りから銘仙に移り変わっていったのと同じように、それまでは縞柄が主流であったが、染色や織の技術がさらに進歩するにつれて、大正以降は締切絣・緯総絣・捺染絣・珍絣・解し絣など、現在の伊勢崎絣へ継承されているさまざまな絣の技法が産み出され、それらが複雑化し、模様物が考案されるようになった。 
織機がいざり機から高機に移っていったのもこの時期で、明治末期には力織機も導入されるが、まだ高機での手織りが圧倒的に多かった。また、絣技法の発達と呼応するように、使われる糸も手紡ぎ糸から撚糸(紡績絹糸・人絹糸・綿糸・ナイロン糸など)に変わってゆくと、非常に繊細で、染め物と間違われる程精緻なものも生まれ、洗練された絣模様が銘仙の持つ魅力となり、明治から昭和にかけて一世を風靡した。 
第二次世界大戦頃まで、主に女性の普段着に多く用いられたほか、裏地・夜具地・丹前地・座ぶとん地などの需要が多かったが、昭和30年代からウール・化学繊維の普及により急速に市場から姿を消していった。 
また戦後の衣服革命は、織物業界に大きな衝撃を与え、足利、秩父など、他の銘仙産地がいち早く衰退し、他の製品に転換していった。その中で、伊勢崎は銘仙にとっての最後の牙城を守ってきた。それだけに根の深い技術を持っていた産地である。昭和40年代前半には手機も二万台ほどあったが、現在では力織機が増え、ウール着尺、シルクウール着尺に王座を譲ってしまった。 
現在では、動力機を用いるウール着物の全盛期をすぎ、伝統の絣技法を生かした伊勢崎絣として、生糸、玉糸、真綿紬、絹紡糸(併用絣のみに用いる)を原料とする織物が見直されている。(昭和50年には伝統工芸品として国の指定を受ける) 
伊勢崎銘仙 2 
戦前は庶民の普段着として広く愛好され、銘仙と言えば伊勢崎と言われるほど知名度は高かった。この地方では、昔から「太織」(ふとおり)と呼ばれる絹織物が、農民の自家用織物として織られ、江戸時代後期に盛んになり、太織縞の市が立つ程になり、船を利用して江戸にも出荷された。 
銘仙の由来は、織り目が緻密であった為「目専・目千」(めせん)と呼んでいたので、その語呂合わせからきた言葉とされている。 
明治時代になると絣が織られるようになり、特に「伊勢崎珍絣」(いせざきちんがすり)は、全国に有名になると共に、伊勢崎銘仙も全盛期となった。絣の技法も考案され、種類として併用絣(へいようかすり)・緯総絣(よこそうかすり)・解絣(ほぐしかすり)・珍絣などがあげられます。戦後は桐生御召と同様にウール着物・化織物に押され、大きく後退した。 
銘仙の技法 
併用絣/整経(せいけい)した経糸を、何枚もの型紙を用いて捺染(なつせん)し、緯糸も特殊な板に巻き付けて型紙捺染し、これを手織で織り上げ完成させる。特徴は大柄で色使いが多彩な点 。 
緯総絣/緯糸のみ絣糸を使用し、併用絣ほど多彩ではなく、3-4種類の色で模様の濃淡を表わしている。 
珍絣/縛り技法と板締め技法の2種類があり、縛り技法は糸を図によって捺染し、次にその部分を紙で覆い糸で縛って釜に入れて染色する。板締め技法は、板に彫った溝に糸を巻き付けてその上に同じ溝の板を重ね、締め付けて染色する。板で圧迫されているので、凸面部分の糸は染まらず白く残り、その糸で織り上げ絣となる。 
太織/玉糸や熨斗糸などの屑糸で織られた平織物の総称。
伊勢崎銘仙 3 
伊勢崎絣には、「括り絣」(くくりかすり)「板締め絣」「併用絣」(へいようかすり)「緯総絣」(よこそうかすり)の4つの技法があった。織り方はいずれも同じだが、絣糸の染め方や用い方に違いがあり、そこから伊勢崎絣の多彩な表現が産み出された。 
「括り絣」は最も古くから伝えられる技法で、十字絣、井桁絣、水玉絣などの簡単なものから、総絣のような緻密なものまで、幅広い表現力を持ち、現在も技法の主流を占めている。 
「板締絣」は模様の刻まれた板に糸を挟んで染色を施す技法で、精緻な文様を表現する時に用いられる。 
「併用絣」は型紙を用いて経・緯それぞれの糸を染める技法で、経緯糸の絣を合わせて模様を織り出し、彩色の豊かさが魅力である。 
「緯総絣」は緯糸のみに絣糸を用いる技法で、落ち着いた風合いに特徴がある。 
絣の模様は、まだらに染め分けられた糸が並ぶことで形作られる。まだらに染めた糸を絣糸という。経糸(たていと)に絣糸を使う場合であれば、糸が機にかけられた段階でほぼ仕上がり状態の模様を見ることが出来る。一方、緯糸(よこいと)に絣糸が用いられる場合は、糸が杼(ひ)の中に巻かれているため、実際に織るまでその模様の具合を見ることはできない。杼を左右に動かす繰り返しにより、模様が現われる。この絣糸の模様がぴったりと合うことが、美しい絣の条件で、絣という織物の不思議でもある。 
精緻な絣模様を織り出すには、糸を正確に染め分けなければならない。板締絣であれば、模様を刻んだ凹凸のある板に、糸を織り上がりの布地のようにびっしり並べて巻きつけ、染料に浸して染める。糸を巻きつけた板を何枚も重ねてきつく締めてから液に浸すため、板の凸部分に締めつけられた所は染まらず、それが絣の模様となる。 
緯総絣(よこそうかすり)では、図案の上に台を組み、織り上がりの布地のように緯糸を張り、糸に印を付けて下に置いた図案の模様を写す。印付けの済んだ糸を台からはずし、印に合わせて染料を擦り込んだり、括って防染を施して糸を染め分けたりして絣糸をつくる。糸を張るだけでも数時間もかかる、手のこんだ技法である。こうして染められた絣糸は、板締の絣糸とはまた違う風合いを持つ。
伊勢崎銘仙 4 
伊勢崎銘仙は長い間「太織」の名で呼ばれていたが、1780年代(江戸天明の頃)経糸(たていと)の数が多い、筬目(おさめ)が千もありそうな緻密な織物を「目專」「目千」とよび、一説ではこれが「めいせん」になったと言われている。さらに「銘仙」の文字が使われるようになったのは明治以降のこと。 
明治末期、伊勢崎では生産の大半は農家の賃機によるもので、力織機が導入され一部は工場化された。銘仙の種類も古くは縞物がほとんどだが、括り絣、板締絣による珍絣銘仙に、併用絣、緯総絣銘仙などの工芸織物も加わり、伊勢崎銘仙の名は全国に広まった。 
昭和初期には銘仙が大衆着尺の中心となり、流行の最先端でもあった。各地の織物産地は競って銘仙を製造するようになり、需給のバランスが崩れ、人絹糸を銘仙に使用して地風を変えたりすることが行われるようになった。伊勢崎でも昭和7年に人絹糸を導入、昭和8年千代田御召が開発された。しかし千代田御召以外の人絹交織銘仙は、不評もあって昭和12年には生産されなくなった。 
戦時下の統制時代(昭和15-24年)を経て、徐々に復興はしたが、洋装化による着物離れで、昭和30年頃には急速に衰退した。秩父では現在もいくつかの工場で解し銘仙など秩父銘仙がつくられている、伊勢崎では伝統工芸品「伊勢崎絣」として伝統的技法は受け継がれている。
伊勢崎銘仙 5 
1.伊勢崎織物の起源 
伊勢崎地方の最古の織物は淵名の6世紀の古墳から出土した楮(麻)を紡いで織った布です。日本書紀(720年)には朝廷にあしぎぬ(粗雑な絹織物)を献上したり、延喜式(927年)の調として帛(うすぎぬ)が納められた記述があり、この頃すでに伊勢崎で織物が作られていたと推察できます。 
また、伊勢崎市には、古くから機織りが行われていたことが伺える名跡があります。 
(1)上之宮町には、倭文神社(しどりじんじゃ)という延喜式神明帳(延長5年:927年)にも載っている古いお社があります。倭文とは、楮や麻などの繊維で織り、その布を赤や青の縞目をつけた布です。古くから織物の神としてまつられたことが伺えます。 
(2)宮前町の赤城神社には、貞治5年(1366年)銘の多宝塔があります。これには秦(はた)の名があり、秦氏は、養蚕・機織りの技術者の祖先で古くから伊勢崎の地で織物がつくられていたと想像されます。 
元弘3年(1333年)、新田義貞の旗揚げの際に地元の農民たちが喜んで旗地用の絹を献上したという伝えも残っております。 
2.絹市と織物業 
18世紀初頭(江戸時代)には、市がたち、伊勢崎の絹織物は伊勢崎縞(しま)や伊勢崎太織(ふとり・ふとおり)として商品化されて行きました。この時代の太織の原料は、手製の玉糸や熨斗糸などで、これをいざり機(地機)にかけ、縞物・格子柄・無地物が織りだされました。地質が丈夫で渋みがあるところから、庶民性が高く、特産品として全国に広まりました。 
3.元機屋の出現 
絹の需要増大に伴い、この頃から、養蚕が盛んになりました。市には絹商人が集まり、売買を世話する絹宿や織物を製造する元機屋(もとはたや)が現われました。元機屋は、自己資金で糸を買い付け、それを自ら染色するか紺屋に糸染めを依頼し、指定の縞柄をつけ、農家に機織りを依頼しました。織り上がった製品は、元機屋で仕上げられ、市の絹宿を経て江戸や京都の呉服問屋に送られました.初期の太織は、縞柄がほとんどでしたが、弘化4年(1847)には、馬見塚村の鈴木マチ女により初めて十文字や井の字の図案を織り込む技術が確立され、これが伊勢崎大絣のはじめであるといわれます。この技法は改良されながら受け継がれ、明治2年(1869)頃から・経糸に絹の撚糸が取り入れられ、本格的に絣が商品化されました。こうして元機屋の出現により絣は、作業工程が分業化され、量産化が可能になりました。元機屋の仲間は、領主に冥加金を納め、太織業者の育成・保護を願い出ており、この時(弘化4年)に加入している元機屋は67名で、後には102名(嘉永元年:1848)に発展しています。 
4.明治維新と伊勢崎太織会社 
明治に入り、絹の撚糸が経糸に取り入れられたことにより、密度も増し、布の表面も滑らかさを増して外見はひときわ美しくなり、伊勢崎絣は珍重されるようになる一方、明治維新の世相を反映してか仲間の協同体意識も薄れだし、人造染料導入による色あせや粗悪品の流通が問題になり、明治13年(1880)、下城弥一郎らによって伊勢崎太織会社が設立され、品質保持による伊勢崎太織縞の信用の回復を図りました。 
明治18年(1885)、伊勢崎太織会社は伊勢崎織物業組合に改組されましたが、織物講習所を開設しています。織物講習所は明治29年(1896)に森村熊蔵の尽力によって伊勢崎染織学校(伊勢崎工業高校の前身)になりました。そして、明治31年(1898)に伊勢崎織物同業組合として改組しています。 
また、この頃から織物の生産者と販売業者、大口購入者(呉服店・デパート)との間を仲介する仲買商(買継商)が現れました。買継商は、江戸中期に伊勢崎の地で仲買人的な役割を果たした絹宿が前身であり、明治後期以降の伊勢崎銘仙の発展におおいに寄与しました。 
5.伊勢崎銘仙の由来 
伊勢崎太織が、「銘仙」の名で呼ばれるようになったのは定かではありませんが、明治20年頃であるといわれます。銘仙とは、絹を素材にして造られた平織物の総称として用いられ、特に伊勢崎はもとより足利、秩父、八王子など関東地方の製品に対して使用されていました。 
銘仙の起源は、天明年間(1781〜1788)に、経糸の数が多い、筬目(おさめ)が千もありそうな緻密な織物を「目専」、「目千」と呼び、これが転訛されて「めいせん」となった説があります。 
また、明治20年(1887)頃、伊勢崎太織の販売店が、東京日本橋南伝馬町に開かれたときに、赤地に白抜きで「めいせんや」の文字を染め抜いた旗をたてて販売したのが、後に「銘仙」の文字を使用するもとになったという説もあります。 
6.技術革新と工程の分業化 
江戸末期に染色を専門にする紺屋、糸屋が現れ、機業工程から分離しましたが、明治中期には、機巻き・糊付け・撚糸などの工程が分業になりました。織機も明治20年以後は、いざり機から高機に移行されました。 
7.第1次黄金時代 
明治末期には、力織機も導入され、一部は工場化されましたが、生産の大半は農家の賃機によるものでした。伊勢崎銘仙の種類も、括り絣、板締絣による珍絣銘仙をはじめ、併用絣・緯総絣銘仙などの工芸織物が加わり、伊勢崎銘仙の名は全国に広まり、大正初期まで第1次黄金時代を迎えました。 
8.第2次黄金時代 
昭和の初期になると平織銘仙万能から立体感のある新規織物の需要が高まり、加工方法を工夫したり人絹糸を導入したりして千代田お召が開発され、第2次黄金時代を迎えました。 
9.統制時代 
昭和12年(1937)に日華事変が起き、第2次世界大戦に突入する中で伊勢崎織物は不振に陥り、昭和18年(1943)に入ると伊勢崎銘仙は統制品となり、経緯に金糸を入れて織った高級品は贅沢品であるとして販売禁止になってしまいました。 
10.戦後の復興と高度成長期 
終戦前夜の昭和20年(1945)8月14日、伊勢崎市街地が空襲で壊滅状態になりましたが、郊外に点在する手織業は、いち早く復興しました。そして、年を追うごとに生産量は上昇し、昭和31年(1956)には292万反・50億円に達し、第3次黄金期を迎えました。しかし、戦後の急激な流行の変化と生活様式の変遷によって、この年を境に下降線をたどりました。この打開策としてウール絣やアンサソブルを開発し、昭和40年には190万点64億円の生産額をあげ、総合織物産地としての底力をみせましたが、買い替え需要がなく、衰退して行きました。 
11.伝統工芸品「伊勢崎絣」 
昭和50年(1975)5月、伊勢崎絣が「伝統的工芸品」として国の指定を受け、新しい一歩を踏み出しました。同時に、「伝統工芸士」12人が、国から認定されました。この制度は、伝統的工芸品を製造する産地で、優秀な伝統的技法を保持する人に、技術の維持向上を図り後継者の確保を目的としたもので、先人から受け継いだ伝統的技法を次代に伝承し、後継者を育成することが課題となっております。  
 
桐生御召

 

桐生御召 1 
桐生市は京都の西陣と並ぶ程、歴史が古い織物の町である。江戸中期(元文時代)に京都・西陣の織工が高機を持ち込んで、縮緬・絽などの技法を伝えた事により始まった。これにより、西陣が独占していた高機による高級織物を、桐生で織り始め、天保年間本格的になったとされている。 
御召は「御召縮緬」の略で先練・先染の縮緬である。普通の縮緬より、地風はやや硬めで、重く感じられるが、従来の織物・染物とは違った独特の雰囲気がある。御召は、明治時代以後、大正・昭和の第二次世界大戦まで代表的な着物として人々に愛された。しかし、戦後に始まったウール着物に押され、今は織着尺の地位を紬に譲った感がある。 
技法は経糸・緯糸共に練絹糸を用い、諸撚(もろより)された経糸と右撚り・左撚りとの下撚りされた緯糸は、精練される。次に合成繊維を用いて染色をし、緯糸は生麩粉・うどん粉・わらび粉を混ぜて作った「御召糊」で糊付けし、八丁撚糸機で強撚(こわより)が掛けられ、ジャガード機で織り上げられる。織り上がったら湯に浸して、強く揉み「しぼ寄せ」を行い、乾燥後に湯のし・幅出しをして完成する。
桐生織(お召織) 2 
桐生織には7つの技法(お召織、緯錦織、経錦織、風通織、浮経織、経絣紋織、および戻り織)があり、その中で代表的なのが独特の細かいシボをもつお召織である。シボを出すための緯糸は、製糸工程で行われる下撚りで1mにつき300-400回の撚りを入れ、糊付け工程で繊維の重量の倍の量の糊をもみこむ。これは後の撚糸の際に撚りが戻るのを防ぐためである。そして1mにつき2500-3000回の強い撚りをかける。撚糸にはすべて八丁撚糸機を使用する。 
デザイン工程では、紋様を意匠紙(方眼紙)に写しとり、それにしたがって紋切り(紋紙に経糸の上げ下げの情報を指示する穴をあける)を行う。現在では、コンピュータで作成した画像データを直接織機に送る方法もある。 
製織はジャカード機で行う。経糸の密度は1cmあたり100本以上である。織り上がった生地をぬるま湯に浸し、緯糸に付いている糊を落とすことによって表面にシボが現れ、生地は縮んで約7割程度の幅になる。縮んだ生地を湯のしして幅を広げ、石の台の上で木槌で叩き、風合いを出して完成となる。
西の西陣 東の桐生  
桐生は、かつては関東産地の雄として君臨していたが、最近では和装需要の減退とともに生産量は減少している。桐生産地の起こりは古く、7世紀頃天皇家に仕えていた官女白滝姫が帰郷し、養蚕と機織を村人に伝えたことに始まったとされ、その祀神が白滝神社をして1200年以上も経た現在も、織物の神様として地元業者の信仰を集めている。桐生市の広沢町に400年以上続く旧家の彦部家には幕府将軍・足利義輝の侍女から同家にあてた「仁田山紬注文書」所蔵されており、桐生産地か有数の織物産地であったことを推測できる。一方、新田義貞が上野の国(現群馬県)生品神社で兵を上げた時、出陣の旗として桐生絹を用いたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦にも桐生絹が大量に使用されたと古文書に残されている。元和元(1615)幕府への年貢として桐生領54ヶ村から4800反の絹が納税されている。これらを見ても同地での機織がいかに盛んであったかことを物語っている。 
桐生に元分3年(1738)に高機技術が導入された。西陣の織物師源兵衛を招いた7人の仲間がその技法を習得し、秘密裏に生産を始めた。絹商人の新居浜冶兵衛が西陣の機工吉兵衛を招き、西陣の機織道具を入手、3年後には40台を整備し縮緬、絽、紗綾、紋絽などの高級品を手がけ、特にお召しのハシリとなった縞縮緬で名をあげた。染色整理の技術が京都から伝わると、総合産地としての基礎を固めていく。文明3年(1783)には吉兵衛が水車にによる水力八丁車を考案、このことが動力革命となり生産を飛躍的に増大させた。18世紀初期の文化、文政の時代に、徳川文化の塾欄期とあいまって、近世織物史上の黄金時代を迎え、金襴、糸錦、緞子などの高級美術織物も手がけるようになった。18世紀後半に桐生地区に600軒の機屋が輩出し、1軒当たり平均10台の機を所有していたと言われ、既に江戸時代には量産体制の産地に成長していた。産地に革命をもたらしたのが明治5年頃導入された西洋式の染織法で、同10年のジャガード機の採用による紋織の製織だ。この技術革新が桐生産地をして長い間その王座を揺るぎのないものにした。
桐生 
796年官社山田郡賀茂神、美和神の建立から始まる。その後桐生氏は足利家に仕えて隆盛を誇るが1573年桐生氏は滅びる。館林領に組み入れられたり、旗本に分給されたりした後1722年三井呉服店の絹買継店を桐生新町に設置され、1738年西陣織物師弥兵衛・吉兵衛が桐生新町へ高機を伝えるなど、絹織物のメッカとしての地位を築いていく。1739年には新居藤左衛門が7人組合を作り紗綾織を始めている。1841年の桐生新町商人の年間織物取引高は約70万両といわれ内35万両は江戸を相手にしていた。
 
八王子織物

 

八王子織物 
江戸時代まで「桑都」(そうと)とは八王子を指す美称だった。古くから養蚕や織物が盛んであったことを表している。八王子は関東山地と武蔵野台地の境に位置し、山がちで耕作地が少なかったため、養蚕や機(はた)織りは、古くから農家の大切な仕事だった。八王子織物の起源は、滝山城下の市で取引きされたころだといわれている。 
17世紀はじめに成立した「毛吹草」(けふきぐさ)に、武蔵の特産として「瀧山横山紬嶋」(たきやまよこやまのつむぎじま)の名がみえる。江戸時代に八王子十五宿が開設され、毎月4と8の日に市が開かれて、周辺の村々から繭や生糸、織物などが集まるようになった。 
八王子織物とは、もとは周辺の村で織られ、八王子の市に集められた織物のこと。八王子は、桐生や足利などの織物技術の先進地や、江戸という大消費地に近く、織物業が発展するにために、地理的にも有利な条件がそろっていた。 
この地方では、真綿から紡(つむ)いだ糸を染めて、縞(しま)模様に織ったものが多く、そのため当地の織物は縞物、織物市は縞市などと呼ばれた。絹織物は染色方法によって先染(さきぞめ)織物と後染(あとぞめ)織物に分けられるが、八王子は前者を中心とし、特に男物や実用的な着物の産地だった。
「八王子織物史」によれば、江戸時代末ごろまでには、養蚕・製糸・織物が、地域的に分業化される傾向が現れた。それを取りまとめる縞買(しまかい)と呼ばれる仲買商らが成長してきたことを表わしている。縞買たちは仲間を結成し、織物生産者に対して優位性を保ちながら、中心となって市の発展に尽力し、明治以降も織物業の近代化を支えていくことになった。 
明治新政府は、富国強兵を基本方針とし、殖産興業政策を強力に進めた。繭や生糸・織物などは輸出品として特に重要視された。政策の一環として、全国で官設の博覧会や共進会が開催され、産業・技術の近代化、品質の向上に大きな効果と影響を与えた。 
しかし、明治10年代の八王子では、輸入された粗悪な化学染料をむやみに用いたため、品質が低下し、「八王子織物一切取扱不申(もうさず)」と市場から締め出され、明治18年の五品(ごしな)共進会でも成績は全く不振であった。 
これに奮起した仲買商や機業家(製造業者)らが中心となり、染色をはじめとする八王子織物全体の技術向上と品質改善に取り組んだ。明治19年に仲買商らが八王子織物組合を結成、翌年八王子織物染色講習所を開設し、ここに山岡次郎や中村喜一郎といった、当時の日本の染色の第一人者を招へいした。明治32年製造業者を含めた八王子織物同業組合が設立され、同年、八王子を会場として一府九県連合共進会が開催された。八王子染色講習所は、明治36年には東京府立織染学校(現在・八王子工業高等学校)となった。こうして八王子では産地全体で近代化に取り組み、徐々に成果を上げていった。 
織物組合を中心に近代化を進めた明治時代後期でも、八王子地方ではまだ手織り機が使われていた。江戸時代までは地機(じばた)が主に使われ、江戸時代も終わりころになると高機(たかはた)が徐々に普及した。高機は織り手が腰板(こしいた)に腰掛けて織るため、地機よりも格段に作業能率がよく、より複雑な織物を織ることも出来た。明治時代半ばには、引き抒(ひきび)やドビー、ジャガードなどの外国技術が入り、新しい形の手織り機も出現したが、大正時代以降、力織機(りきしょっき)が普及した。
大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発、沈滞していた経済界は戦時好景気にわきかえった。すでに力織機は明治30年代末頃八王子にも入っていたが、好景気に後押しされ、また国産力織機の出現も手伝って、急速に電力への転換が進んだ。明治30年代半ばまで、家内工業的経営が主流で、まだ農業の副業的な織物生産の延長上にあり、市街地よりもむしろ周辺の山沿いの村で盛んに生産されていた。力織機は、この産業構造を大きく変化させた。機業家(機屋、織物製造者のこと)は動力を求め市街地へ移住み、労働力は町の大きな機屋へと流れた。また、撚糸業・整理業・染色業のように、織物工程の分業化が進み、昭和期にかけてさらに細分化された。ここにおいて八王子の織物業は、工場制工業の段階へ至り、八王子の町は単なる集荷地ではなく織物生産の中心地となり、名実ともに八王子織物として、その爛熟期を迎えた。このころ江戸時代以来の織物市が、大正5年(1916)には市場取引から店舗取引に変わり、市日(いちび)も4・8のつく日から火曜日・金曜日になるなど、織物取引にも大きな変化があった。 
大正時代になると、男性の服装は着物から洋服となり、女性の着物は縞物から模様物へと変わってきた。八王子は大衆向けの着尺(着物用の織物)の、特に男物中心の産地でで、このことは大きな問題であった。八王子の機業家たちは新分野開拓の必要に迫られ、まず婦人物着尺に活路を見出した。大正13年(1924)八王子織物柄の会が設立され、新製品の開発や販売圏拡張に努めた。大正末には初めてネクタイが作られ、現在も八王子は国内有数のネクタイ産地となっている。大正末から昭和初め頃、多摩結城と名付けられた紋織(もんおり)の織物が完成した。大衆向け織物の産地のため、流行などの影響を受けやすかった八王子において、もっとも長く織り続けられたのがこの多摩結城である。八王子の技術の集大成と評価も高く、現在も伝統工芸品として織られている。昭和の初めには海外市場を開拓すべく、輸出織物の生産が奨励された。急激な変化の中で従来以上の研究開発が必要とされ、専門機関の設立が急務とされ、昭和3年(1928)明神町に東京府立染織試験場(現・東京都立産業技術研究所八王子庁舎)が設立された。
昭和12年日中戦争が始まり、国内は徐々に統制経済体制に切り替えられ、これまで順調に成長していた八王子織物業も長い苦難の時代を迎えた。昭和15年生糸の配給統制規制が交付され、原料糸の割当が始まった。同年7月7日俗に七・七禁令と呼ばれる「奢侈品等製造販売制限規則」が施行され、当時流行していた金銀糸などを使う銘仙などの織物は取締りの対象となり、八王子にも大きな影響があった。同年織物同業組合が解体し、織物製造業者の企業合同が始まった。昭和16年太平洋戦争勃発により輸出も途絶し、統制はさらに強化され指定生産が中心になった。昭和18年最小限度の工場に織機を残し、残りをくず鉄にして供出することになった。多くの工場は軍需工場に転換するか、廃棄せざるをえなかった。昭和20年8月2日八王子空襲によって最後に残った工場も壊滅的打撃を受けた。終戦時残った工場は、昭和16年のわずか約20%にすぎなかったという 。 
事実上操業停止となっていた八王子織物業は、復興金融公庫による融資を得てようやく立ち直った。やがて繊維関係の統制もすべて撤廃され、加えて戦後の衣料不足から織物の需要が高まり、昭和20年代半ばには、ガチャンと機(はた)を織れば万という金がもうかるという意味で「ガチャ万」と評されるほどの好況期を迎えた。従来からの銘仙類や御召などのほか、多くの新製品が生まれ、夏物上布や男物着尺、そしてネクタイを中心に傘地・マフラーなど雑貨織物の生産も盛んになった。昭和30年頃生まれた紋ウールは、素材にウールを用いつつ先染の伝統を生かした紋織りの織物で、40年代にかけて売れ続け、戦後八王子織物の最大のヒットとなった。 
昭和55年八王子の「多摩織」が通産省から伝統工芸品として指定を受けた。多摩織とは、多摩結城・紬織(つむぎおり)・風通織(ふうつうおり)・変わり綴(つづれ)・捩(もじ)り織の5種類の織物の総称で、八王子織物の歴史と技術の結晶と言える。
 
川越唐桟

 

川越唐桟(とうざん) 
幕末の開港当時、横浜に出て絹織物商を営んでいた中島久平は、欧米から輸入される唐桟に対抗して外国産の絹を川越に送り、唐桟を生産させた。川越唐桟として名をはせ、川越は幕末から昭和初期まで手機(てばた)による唐桟の産地として有名になった。中島久平は、文政八年(1825)に志義町(現在の仲町)の絹平(きぬひら)「正田屋」の当主・中島久兵衛(二代目)の長子として生まれた。川越では、江戸時代の中ごろから絹織物が盛んになった。当時ぜいたく品だった絹織物は、川越商人によって江戸に送られ大きな利益をもたらし、後々まで呉服店として名を成した豪商を何件も輩出した。 
久平は、早くから江戸に目を向け、日本橋に店を出した。安政六年(1859)に横浜が開港し、貿易が始まると外国商人との取り引きを考え、地元や秩父方面の正絹を染色し、外国商人に送った。その代わりに金巾(かなきん・固く細かく織った薄い綿布)や唐桟などを入手し、外国の商法や海外の動向を探り、外国産の唐桟が国産のものよりはるかに良質で低価格であることを知り、欧米産綿織物の恐ろしさを痛感。わが国の綿織物はたちまち滅んでしまうと予想し、安くて良質の綿糸だけを輸入し、それで唐桟を織ってはどうかと考えた。 
唐桟は室町時代ごろから日本に入り始めた、紺地に赤や浅黄、茶、灰などを縦じまに織った綿織物。「唐」は外国から来たものの意味で「桟」は「桟留」(さんとめ)の略で織物の輸出港だったインド西海岸のセント・トーマスから来ているといわれる。 
織り上げた唐桟を砧(きぬた)で打って仕上げたため、絹のように美しくしなやかで、日本人の好みに合ったすばらしい織物だったが、入ってくる量が少なく庶民には手の届かないものだった。 
久平は横浜で洋糸を買い、川越地方の機屋に試織してもらった。結果は上々で値段も輸入唐桟よりはるかに安く出来ることがわかった。「これだ」と決めた久平は、大量に洋糸を買い込み川越地方の機業家に唐桟を織らせた。もともと絹機(きぬばた)のすぐれた伝統があった川越地方、工場や農家の副業的な賃機が主力だったとはいえ、すばらしい品質のものが大量に織られた。久平は、この唐桟を売りまくり「川越唐桟」の名が世に知れ渡り「川唐」としてもてはやされた。 
しかし、川越ではいつまでも手機に頼り、機械を入れなかったため、「川唐」は明治26年の川越大火があったころから急速に衰退した。
 
秩父銘仙

 

秩父銘仙 1 
10代崇神天皇の御代に知々夫彦命が国造として秩父に来任、住民に養蚕と機織りの技術を教えたのが始まりとされる。初期の糸染加工に加え、ほぐし加工の技術を取り入れている。 
秩父ほぐし捺染(着尺・夜具地・座布団地) 
秩父の染色は、文政から明治にかけて天然染料を用い、素朴な色彩で家庭着として発達し、今日の秩父織物の基礎となった。ほぐし捺染は、伝統ある秩父織物の技術を基礎として創案された。特徴は、縦糸にほぐし模様をつける捺染加工で、たて糸の上に型紙を置き、染料のついたハケで刷り、色を重ねて染色していく方法で、仮織のよこ糸をほぐしながら織ることから「ほぐし捺染」と呼ばれている。ほぐし捺染の技法は、しごき捺染法に始まり、たて糸捺染法・整経捺染法と改良を加えるにつれ急速に発展した。たて糸の絣模様が、よこ糸の色と重なりあって深みのある色調となっている。
秩父銘仙 2 ・ 銘仙の町の思い出  
「秩父銘仙」の名で知られる町は、平地に乏しく田圃が少ないこと、大消費地である江戸に近いことから、江戸時代から蚕を飼い、生糸をつむぎ、機(はた)を織ることを主な産業としてきました。「秋蚕(あきご)しもうて、麦蒔き終えて、秩父夜祭り待つばかり」と民謡(秩父音頭)に唄われているように、一年間の苛酷な養蚕労働を終え、収穫を神に感謝しつつ、生糸と絹の大市が立つ「霜月祭」(12月3日の秩父夜祭)の豪壮華麗さは、蚕と絹に支えられたこの町の繁栄を今に伝えるものです。 
小学校に通う道の途中に、機屋さんの工場がいくつもありました。採光のための鋸(のこぎり)型屋根の大きな建物の中から聞こえてくるジャッカジャッカという自動織機の音は、あまりにもリズミカルで、建物の特異な形と相まって、幼な心には何か不気味な感じがありました。 
小学校の周囲は桑畑と麦畑ばかりでした。理科の時間に先生に連れられて、近くの養蚕農家にお邪魔し、お蚕や繭を見せてもらったことがありました。数えきれないくらいたくさんの白いお蚕が緑の桑の葉を食むザワザワとした音が今でも耳に残っています。もらってきた繭を一つ、小箱に入れて机の引き出しに仕舞い、そのまま忘れて、しばらく経って開けたら、白い小さな蛾の死骸が穴の開いた繭とが出て来て、蚕が蛾の幼虫であることを実感したのもこの頃でした。
学校からの帰り道、いつもの通学路からちょっと寄り道すると、物干し台をすごく高くしたような所に、赤や黄色、緑や青、それに紫などに染めた糸が干してあり、色とりどりの糸束が美しく風に揺れていたのを覚えてます。青い空と緑の山を背景にした五彩の滝のような情景は、はっきり心に残っています。その側の桑畑では甘酸っぱい桑の木の実(ドドメ)が黒紫に熟れていて、つまみ食いしたら唇や舌が紫に染まってしまい、母親に叱られたこともありました。 
私の小学校時代は、昭和30年代の後半から40年代の初めです。昭和39年(1964)の東京オリンピックの前後、日本が戦後の復興期を完全に脱して高度経済成長に向かう転換期でした。着尺(着物地)としての銘仙はすでに全盛期を過ぎ、織物産業は徐々に斜陽に向かい、座布団皮や布団カバーなどの生活用品に活路を見い出していた頃だと思います。機屋さんから銘仙の布団カバーがお中元やお歳暮として届けられたのを覚えてます。それでもまだ4階建ての織物組合のビルは、田舎町では市役所に次ぐ高層建築だったし、町の有力者も機屋さんや買継商など織物関係の人達が中心で「織物の町」という感覚は、はっきりと有りました。 
ところが、いつの頃からか、桑畑が宅地や織物以外の工場などに変わり、機屋さんの工場からも、あの自動織機の音が次第に消えていきました。記憶をたどると、私が中学校を卒業して、電車通学で1時間半もかかる遠い町の高校に進学した頃、昭和45年(1970)前後だったような気がします。この頃から、地場産業としての機織は急速に衰退していったのではないでしょうか。 
これによると、昭和30年には戦前のレベルを回復し、私が小学生だった昭和30年代の終わり頃が生産量のピークだったようです。ところが、私が中学校に入る頃の昭和40年代には急速に衰えて最盛期の2/3に減少、そして故郷を離れた昭和50年頃には1/3にまで激減していることがわかります。
秩父銘仙 3 
奈良時代 713 武蔵國高麗川地方に、大陸帰化人により、養蚕と機織が伝えられた 
鎌倉時代 ・ 関東武士の本流をなす秩父武士旗指物に秩父絹を採用したと伝えられる 
北条時代 ・ 北条氏邦、秩父郡横瀬村根古屋城を築城す。 陣代浅見伊賀守慶延により絹織物の生産が奨励されたと伝えられる 
江戸初期 ・ 農閑稼ぎとして、平という経に絹、緯に麻を使用したかみしも地が織られる 
江戸中期 ・ のし糸・玉糸による白太織を用いて藍または草木皮で染めた縞ものが織られる 
江戸後期 ・ くくり染、摺込染、板締かすり等が工夫され行なわれた。また、この頃経糸に模様を描く経糸捺染がはじまる 
明治初期 1868 明治維新、この頃より次第に多様の絣染や模様染が捺染、製織される 
明治41年 1908 秩父郡横瀬村 坂本宗太郎のシゴキ捺染方(特許14632号)の発明により現在のほぐし捺染の技法が生まれる 
明治後期 1911 両毛の先進地より染色、捺染等の技術者が移住してきた 
大正初期 1913 伊勢より型紙職人が移住してきた 
大正 5年 1916 ほぐし捺染による大島紬がつくられる 
大正 8年 1919 後染加工による大正かすりがつくられる 
大正末期1924 この頃ポカ抜け、またはポカ抜染の技法が生まれる 
昭和初期 1930 後加工によるあけぼの染が発達した。この頃、半あけぼの、マンガン加エ、なき刷り、ピースぼかし等の技法が銘仙に応用され、ほぐし銘仙や夜具地の捺染が行なわれた この頃ポカ抜け、またはポカ抜染の技法が生まれる 
昭和 8年 1933 かすり夜具地、模様夜具地、座布団地のほぐし捺染が盛んになる  
昭和10年 1935 銅ロール捺染、づらし捺染が行なわれ、この頃より紗型が生まれた 
昭和15年 1940 次第に戦時統制が強化され転廃業者が続出した 
昭和20年 1945 第2次世界大戦終る
昭和22年 1947 農林省委託の養蚕家還元織物や農賃織物でほぐし着尺銘仙、夜具地がつくられる 
昭和23年 1948 水車または風車といわれる回転式絞染機で捺染が行なわれた、この頃ほぐしの折り付けが流行した 
昭和24年 1949 人絹糸、化繊糸、綿糸等の夜具地、座布団地のほぐし捺染が盛んになり、次第に生活の変化により着尺が激減し、寝具類がつくられる 
昭和27年 1952 合織糸(ビニロン混紡)の夜具地、座布団地の捺染はじまる 
昭和31年 1956 秩父捺染協同組合設立、市内本町で事業開始(5月23日)夏物夜具地、夏物座布団地の捺染はじまる 
昭和35年 1960 日本糸捺染工業組合設立、秩父支部発足、ザブカバー、マクラカバー、ノレン、ハンカチ等顔料プリントはじまる 
昭和36年 1961 秩父捺染青年部会発足 
昭和40年 1965 フロッキー捺染によりノレン、ペナント等のプリントがはじまる 
昭和41年 1966 フクレ生地の掛夜具ピース加エはじまる 
昭和42年 1967 友禅の夜具地、座布団地の捺染とオートプリントはじまる 
昭和43年 1968 ネクタイのプリント加エはじまる 
昭和49年 1974 アクリルのコタツ掛、座布団地のプリント加工はじまる 
昭和50年以降 1975 あらゆる素材にプリント加工が可能となり、品質、デザイン、堅牢等好評を博し、ここに教父は寝装品を主流とする綜合産地として現在に至る
 
銘仙のイメージ

 

銘仙のイメージ 「きもの随筆」森田たま 
少女時代、明治42年(1909)頃の思い出。木綿の筒袖の着物を着ていた田舎(北海道札幌市)の女学生にとって紫のかすり銘仙は「匂うように美しく、上品ではっきりしてゐて、鮮かに東京の女学生を代表してゐると思はれた」。「みどりいろのぶつぶつした生地の絹の着物」を着て通学し校風に反するとして注意された東京の女学校からの転校生との間で「これ、銘仙でせう?」「ええさうよ。東京の女学生のふだん着なのよ」という会話を交わしている。田舎の女学生にとっては、銘仙=東京の女学生というイメージだった。 
数え歳17歳で、初めてあこがれの紫の銘仙を作ってもらい「銘仙の着物は糸織よりも八丈よりも軽くてぶつぶつした手ざわりが、何か人なつこい感じ」で「あたたかく人をつつむと思われた」と体感を語っている。「紫のかすりの銘仙は、忽然として自分の身辺に、娘らしい艶めいた空気をつくり出すやうに思はれた」。「昨日までの自分とは、全然ちがふ自分がそこにあった」と紫の絣の銘仙が、少女から娘への開花のイメージを伴っていたことを述べている。 
別の箇所でも「銘仙には何か初ひ初ひしい感じがあって、若い娘や新婚のひとを想い出させる。ほかの反ものにはない感覚で、これが銘仙の強味ではないかと思ふ」と語り、「無垢」「清潔」「新鮮」というイメージがあることを述べている。この初々しさや清潔さは、大人の女に成長していく直前の娘のそれであって、近い将来の性の開花をほのかに予想させる「艶めいた空気」を伴うものだったようだ。 
こうした銘仙のイメージから、銘仙の似合うのは娘らしいしなやかな感じの人で、自分のように「朝から晩まで本にばかりかじりつき、裁縫の大きらいな」タイプは、銘仙が似合わないとしている。「銘仙という生地は庶民的な、親しみやすいものに思われてゐるけれど、その性格の中に何処か一点山ノ手風の、つまりお上品なところ」があるからと述べている。そして、銘仙の似合わない人は「結城が似合ひ、大しまが似合はない」「銘仙の性格は大しまとも共通している」とも語っている。 
このように銘仙に対するイメージは、かなり複雑なものがあったようで、庶民的でありながら都会的な華と艶をもった娘らしさを感じさせる着尺というイメージに収斂されている。
もうひとつ指摘しているのは、銘仙のイメージの地域差である。「どういふものか関西ではあまり銘仙は歓迎されない。西陣にお召のあるせゐであらうか。肌があはぬといふのであらうか。銘仙の持つ清潔と、何となく知的な感じが、商人の町であった大阪や堺の女に素直に受け取れなかったのであらうか。それともくっきりと明るい空、白い土に、ほのかに憂ひをたたへた銘仙の色あひが調和しないのであらうか」と理由を挙げているが、銘仙の需要には関東と関西では明らかな地域差があった 。 
大阪のいとはんは、銘仙を日常着に着るけども、それは彼女にとって着物の初歩に過ぎず、まもなく村山大島や多摩結城などに移り、さらに本物の大島や結城を着るようになっていく、それに対して東京のお嬢さんは、長い間、銘仙を着る、お嬢さんだけでなく老後の婦人も、縞銘仙の綿入れなどを着ているというのが、銘仙の着方だったようだ。 
「銘仙は関東の女の一生を支配すると言っても過言ではない」という一文でこの随筆を結んでいるが、銘仙は関東の風土が生んだ織物で、それがある意味で田舎者の集合体である東京で愛され、モダンという都会のイメージを帯びたものの、平安時代以来の雅やかな服飾の伝統を持つ京・難波の女たちには田舎臭く感じられたのではないだろうか。
銘仙にはもう一つのイメージの系譜がある、それは接客業にたずさわる女性の着物としてのイメージである。大正期の牛鍋屋の仲居の赤銘仙、昭和前期のカフェの女給の白いエプロンの下の銘仙の着物、戦後の赤線地帯の女給(実態は娼婦)の華やかな模様銘仙など、男性にサービスすることを仕事にした彼女たちが好んで着たのが、安価で派手な色柄の銘仙であった。男性側には、華やかな銘仙を着た女性には、色気と媚び、つまりセクシュアルなイメージがあったようだ。戦後は「赤線の女」に代表される性的なイメージと銘仙の結合が強まったような気がする。 
70代の男性(生れは1932年頃)に話を聞く機会があった「僕が知ってるのは、新宿の赤線だけど、まだ学生でウブだったから、派手な銘仙の着物きてる女の人が立ってるのを見ただけで、ドキドキしたもんだよ」と語ってくれた。華やかな銘仙を着た女性=色っぽいプロの女性というイメージがあったそうだ。
着物マイノリティ論 
第2土曜日ではない銀座の街を観察してみてください。着物姿の人は100人に1人もいないでしょう。ビジネス関係の人が多い平日の昼間だったらなおさら。何100人に1人も出会わないかもしれません。最近は、銀座のホステスさんもめっきり着物を着なくなりましたから、夜になってもそれほど着物着用率が上がることはないでしょう。 
着物率は多めにみても1%、たぶん0.数%、つまり1000人に何人というレベルです。現代の日本では、着物を着ている人は、明らかにファッション・マイノリティ(少数派)なのです。 
私が着物マイノリティ論を言うと、着物業界の関係者や熱心な着物愛好家の方に「そんなことはない!着物は日本の伝統文化、民族衣装だ」と叱られると思います。でも、現実は現実、目をつぶるのはもう止めましょう。 
セクシュアル・マイノリティ(性的少数者)と言われるゲイ/レズビアン、それに私のようなトランスジェンダー(性別越境者)を合わせると、全人口の3%くらいはいるはずです。それと比較しても、1%いるかいないかの着物人はまちがいなく立派なマイノリティと言えます。 
だから、自分が着物を着る意識を持たないマジョリティ(多数派)の目からしたら、「着物なんか着て、なにか特別なこと?」と思うのは、当たりまえ。まして、日常的に着物を着ている人が近所にいたら、「変な人(変わり者)」と思われても仕方ないのです。現代の日本では、ほとんどの人にとって、着物は日常のファッション選択の対象から外れています。つまり、今日は洋装にしようか、和装にしようかと考える人は、もうほんの少数派ということです。 
現実的な見通しとして、もう着物がファッション・マジョリティの地位を回復することはありえないでしょう。染織芸術としては命脈を保っても、衣服としての落日は避けられないところまで来ています。日本の着物文化のたそがれ期を生きる私たちは、ファッション・マイノリティとしての自覚をもち、開き直って、一種のコスチューム・プレイとして、着物を着ることを楽しむべきだと思います。 
私は、21世紀になってからの着物ブームは、着物が完全にファッション・マイノリティ化し、日常性を喪失した特殊な衣服になってしまったことがベースになって成立したものと考えています。一般社会のファッションの枠組みから外れて、ある種の「異装」になってしまったからこそ、それを逆手に取って、自己主張、自己表現の手段とすることが可能になったのです。 
たとえば、色鮮やかで人目を引く模様銘仙は、戦後の昭和20年代、自らを広告塔にする必要があった「赤線(公認買売春地区)」のお姐さんたちが好んで身につけた着物でした。その時代を知っている現在70歳代後半以上の男性の中には、鮮やかな模様銘仙に強烈な性的イメージを覚える人もいます。そうしたセクシュアルなイメージが現実のものとして在った時代には、素人のお嬢さんや奥さんが模様銘仙を着て出歩くことは困難でした。そのイメージが忘れ去られたからこそ、派手派手ファッションで目立ちたい現代女性が模様銘仙を着て気楽にお出掛けできるようになったのです。ただし、昔を知っているお爺さんにナンパされるかもしれませんが。 
では男性は。21世紀の現代、着物姿のヤクザなんて現実にはほとんど絶滅しています。それはもう任侠映画のイメージの残像でしかありません。だからこそ、堅気の男性が昇り龍の図柄を背に透かした着物姿で街を歩けるのです。現実のヤクザがそういう姿だったら、いくらなんでも怖くてできないでしょう。もっとも、古典的な着物姿の親分に憧れているヤクザの幹部連に声をかけられる可能性はありますが。 
つまり、着物はファッション・マイノリティになったことで、社会の服飾規範を超越する、ある種の自由を獲得できたのです。21世紀の着物人は「変わり者」「外れ者」だからこその自由を満喫しながら、着物を自己主張、自己表現の手段として、大いに活用すべきでしょう。 
社会の服飾規格から外れた着物は、普段の自分とは違う自分になる、つまり変身のアイテムとしては絶好です。コーディネートに工夫をすれば、立派な会社勤めの男性が「あぶなそうな兄さん」に、まともな会社のOLさんや良家の奥様が「あやしい姐さん」に変身できるなんて、すごく素敵なことではないでしょうか。背景や小道具に気を使えば、あっという間に昭和初期や昭和30年代にタイムワープすることも可能です。社会的立場を変え、年齢を化けて、時空すら超える、今、着物は新しい力を持ったのです。 
 
型紙捺染

 

型紙捺染 1 
昭和8年(1933)羽根巻きによる「型紙捺染」の技法が考案され「麻(あさ)縮(ちぢみ)絣(がすり)」が商品化された。「型紙捺染」は大柄や中柄、多色遣いの模様に向いている。まず緯糸は強燃糸を使い、羽根巻きといって、着尺幅の金枠に緯糸を巻きつけ、柄彫りした型紙の置き捺染していく染色法である。 
型紙捺染 2 
模様を彫った型紙を使って捺染する染色法。柿渋を塗り乾燥させた型紙に捺染糊を印捺して染着させる。現在も小幅織物などに利用されているが、型紙を彫ることと、布に色糊を印捺する型付けに熟練した技術が必要なため、工業的には小規模になっている。 
型紙捺染 3 
古くからわが国で発達した技法で、後年ヨーロッパで開発されたスクリーン捺染も、わが国の型紙捺染にならったものといわれている。型紙捺染の歴史は、型紙を通して防染のりを布に印捺し、天然染料の引き染めや浸染によって地染めをした小紋や中形の技術が古い。型紙を通して色のりを印捺し、蒸熱などにより着色模様を染めだす直接捺染(写し友禅・型紙友禅)がおこなわれるようになったのは、合成染料が開発されてからのことだ。 
かつて、捺染技術の中心的存在であった型紙捺染も、今は工業的地位をスクリーン捺染にゆずったが、少量多品種の加工の多い印染業界では、筒描きとともに今も多用されている。
型染め 1 (かたぞめ) 
型紙を使った染物の技法。模様を彫った型紙を置き、染料を含ませた刷毛で模様を摺りこむ方法と、防染糊を型紙の上から置いて糊のついていない生地の部分を染める方法、色糊に混ぜた染料で生地を染める方法がある。型染めは小紋・紅型・型友禅・型更紗・写し染め・手拭い染めなど、さまざまな染物に用いられている。模様によって型紙を何枚も組み合わせて用い、色や模様によっては百枚以上にも及ぶ場合もある。 
型染 2 
文様を彫った型紙によって布などに防染糊を置いて色染する方法を型染という。この型紙を用いる型染は、桃山時代に技法が完成している。なお、正倉院の遺品に見られる蝋を防染剤として用いたろう纈(ろうけち)、文様を彫った2枚の板に布を挟んで染めるきょう纈(きょうけち)、あるいは鹿の韋(かわ)を用いた方法で平安時代後期から鎌倉時代に盛行がうかがえる絵韋(えがわ)なども型染と呼ぶ。また、木版・金属版等によるものや捺染など、型によるものを総称していう場合もある。 
型染 3 
型紙を用いて染める方法。また染めたものをいう。型染の種類には小紋、中杉、紅型、摺更紗、型友禅などがある。技法にはいろいろあるが、白生地の上に型紙を置き、その上から防染糊をへらでつけ、乾いてから染色する方法がある。糊の部分が白く残るもので、主に小紋や紅型に用いられる。また型紙を置いた上から、染料を含ませた刷毛で摺り込む摺り更紗などがある。
型友禅 1 
型紙を使って、合成染料と糊を混ぜた写し糊で染め上げる友禅のことをいう。布の上に置いた型紙に写し糊を置いて、糊に混ぜた染料を生地に染着させる。手描き友禅に比べて量産が可能で、安価なことから急速に発展し、現在の捺染の基礎となした。この技法は友禅以外にも広く用いられている。 
型友禅 2 
捺染法の違いによって型紙友禅と機械捺染(スクリーン式、ローラー式)がある。 
型紙友禅について解説する。型紙友禅は写し友禅とも呼ばれ、型紙を用いて染料糊(友禅糊に染料と助剤を混合したもの)で直接捺染するか、または防染する方法である。同じ型紙を用いる捺染法には、防染を主とした小紋染め、さらに、染料液ににじみ止めのための足糊(例えばトラガントゴムなど)を加えて摺込用の刷毛で摺り込んで染める、摺込友禅がある。摺込友禅は、染料をつけた丸刷毛の使い方に高度の技術を必要とする半面、非常に繊細な模様を染め上げることができる。型染め友禅全体としてみた場合、ほかに長板中形(樅材で作られた長板の表裏に中形用木綿生地を貼り伸ばし、その上から型紙を用いて防染糊を置く方法)や、注染(中形生地の巻いたものを左右に交互に伸ばしては折り畳みながら、その都度、型紙を当て防染糊の型つけをする方法)などの染色法があり、これらは浴衣を染める場合に用いられる。
京染め 
京都で生産されれる染物の総称で「京友禅」「京鹿の子」などをいう。京都は古くから文化の中心地であり、宮廷の服飾を調達する必要から外来の高度な技術をいち早く取り入れてきたことから、染めの技術が発展してきた。また、染め物に必要な水の質がよいことから、鮮やかに染め上がるといわれ、京染めは上等な染め物を意味してきた。 
京友禅 
京都で染められる友禅染。元禄時代の京都の扇絵師、宮崎友禅斎によって始った。糸目糊で模様の線を引く防染法で、色が混じりあわず多彩な絵模様が可能となった。大きく華やかな草花文様が中心で、ひとつの模様を中側を濃く外に向って淡くぼかす方法と、同じ色でむらなく染める方法で配置されている。 
青花で模様の下絵を描き、その線の上に糸目糊を置き、筆・刷毛で彩色した模様の上に伏せ糊を置いて地色を染め、蒸気を当てて発色と色どめを行い、水洗いをする。これらの製作工程をすべて分業で行い、それぞれの専門の技術により一枚の手描き友禅ができ上がる。 
加賀友禅 
加賀の金沢で発達した友禅染。江戸時代初期に発達し、古くは「能登上布」に梅の皮や柿渋で染めた加賀染めがある。後に絹に染色をしたものがあらわれ、これに宮崎友禅斎の糸目糊の手法が加えられて、加賀友禅となった。色彩をぼかしによって陰影をつけ、ぼかしの技法は京友禅が内側が濃く外に向かって淡くなるのに対し、加賀友禅は外側が濃く、内へ向って淡くなっていく「先ぼかし」である。色調は、臙脂・藍・緑・黄土・紫が中心で「加賀五彩」と呼ばれている。刺繍や箔置きなどを施さず、描かれる草花も小さめで、華やかな京友禅に対して独特の落ち着きがあるのが特徴。
草木染め 
草や木から作られる色素で染めるもので「そうもく染め」ともいう。草根・木皮・花果などを煮出した液汁に浸して染色するものには、梔子(くちなし)・鬱金(うこん)などがあり、液汁に酸やアルカリを用い、また還元作用をする染色方法のものには、藍・紅花・茜・刈安・紫根などがある。金属塩類の媒染剤を使って発色固定する方法もあり、これには蘇芳(すおう)・栗皮・ログウッドの樹皮果殻などが用いられる。この金属媒染の草木染は人造染料が発明されるまで重要な染色法で、深く落ち着いた色調が親しまれ高級染織物に用いられてきた。
銘仙 
江戸時代末期に玉糸やくず糸などを利用して織られた太織りから転じた絹織物で、関東の伊勢崎・秩父・桐生・足利などが主な産地。丈夫で安価なことから広く親しまれ、「絞り銘仙」「通風銘仙」「絽銘仙」などさまざまな種類があり、着尺や夜具などに用いられた。
型地紙(かたじがみ) 
型紙を彫刻するための紙を型地紙または地紙という。型地紙は、上質の楮の手漉紙を用いる。手漉の際、楮の繊維は縦に並ぶため、柿渋で2枚あるいは3枚貼り合わせることによって紙の繊維を縦横重なるようにする。小紋のように図柄の細かいものは薄紙2枚合せ、中形などは3枚合せが用いられることが多い。型紙の「型」の字は、江戸時代はすべて「形」を用いていたが、昭和に入った頃には「型」と「形」が併用され、以後徐々に「型」を用いることが多くなった。 
型付(かたつけ) 
生地の上に型紙を置き、箆(へら)によって防染糊を置いていく作業をいう。「糊置き」ともいわれる。 
型紙 
小紋、中杉、型友禅などの捺染に用いる、模様を彫った型紙のこと。型紙は、柿渋を塗り耐水性をもたせた、生漉和紙を数枚張り合わせ、十分に乾燥させてから模様を彫る。型紙の製作は、江戸時代から紀州の白子と寺家(三重県鈴鹿市)が主産地として知られ、伊勢型とよばれて現在に至っている。これは、紀州藩の特別保護奨励策によるものである。 
型小紋 
型紙捺染により染められた小紋。本来小紋は型染のものであるが、小紋の名称が現在では手描き小紋、蝋染小紋まで拡大して用いられるのに対して、特に型染の小紋を明示した着尺のことをいう。
型紙絵付け 
型紙絵付けの技法は単に摺絵(すりえ)とも呼ばれるし、型紙摺りあるいは型紙捺染(なっせん)法とも呼ばれる。肥前地方では合羽(かっぱ)摺りの方が一般的だ。名称は様々だが、いずれも文様を切りぬいた型紙を器面にあて、その上から筆や刷毛で絵具をすりこむ技法をさしている。 
型紙が陶磁器の絵付けに応用された例は、美濃地方では17世紀後半頃の御深井(おふけ)様式の製品が最も早いとされる。この場合絵具は鉄であり、褐色の草花文や小紋が絵付けされている。古唐津においても鉄絵具の型紙絵付け陶片が発見されており、量的には少ないが江戸前期には肥前地区でも陶器に型紙が使用された例を見ることができる。また絵具ではないが、白い化粧土を用いた型紙刷毛目※1の古唐津製品もあり、技術的系譜を研究する資料として注目されている。 
型紙が、磁器製品に染付というかたちで使われたのは18世紀以降と思われ、宝永7年(1710)の箱書きがある古伊万里ものこされている。美濃や肥前で一時的に流行したこの手法は、江戸後期には姿を消した。しかし明治前期に復活し、全国の磁器窯で盛んに用いられた。九州では肥前地区はもとより、天草の高浜窯や薩摩の平佐窯でも用いられている。 
型紙絵付けは、複雑な文様でも型紙を一旦彫れば、耐水性のある紙は丈夫なため何回でも使え、その絵付けは簡単で早い。製品は大量生産の日用品がほとんどである。明治時代に大流行した型紙絵付けも、銅板転写の登場によって大正時代には衰退した。 
写真の火鉢は口径21.7cm、高さ20cmの染付磁器である。絵付けは頸部のベタ塗りをのぞくとすべて型紙摺りで、青海波(せいがいは)・牡丹に扇文・雷文・蓮弁文※2の4種の型紙が使われている。これをくりかえして絵付けされるが、雷文と蓮弁文には型の重なりがみられ、これから一つの型紙の大きさがわかる。拡大写真では、型紙絵付けの特色である破線と刷毛のタッチ(花弁の横縞。縦縞は素地の仕上げによるもの)がみられる。
捺染 1 
糸や布全体を一色に染めるのに対して、部分染色することで模様を表す染色法の総称。染料を糊に混ぜて、直接布地に摺りつけたり型を用いて染める。模様を表すという広い意味では「手描き友禅」「絞り染め」「ろうけつ染め」なども捺染の一種で、主に型を使ったものに対していう場合が多く「型友禅」「小紋」「更紗」などがある。 
捺染 2 
布地や製品等に染料や顔料を印捺して模様を現す染色方法で、一般にはプリントと呼ばれている。繊維に染料が染着する原理は浸染と同様に考えられるが、染料の扱い方や操作方法は全く異なり、浸染が水を媒体とするのに対して、捺染は糊を媒体として染色が行なわれる。模様を彫った型版を用いて色糊を布地に写した後、染料を固着するための蒸熱処理を施す。その後、余分な色糊等を除去するために水や洗剤を用いて洗浄が行なわれる。顔料を用いる捺染は、型版で色糊をプリントすることまでは同じだが、乾燥した後に乾熱処理を施してプリント加工が終わる点が異なる。 
版の型式 
被染物に捺染糊を写す版の型式には、凸版・凹版・平版・孔版があり、これらはフラットのものとロール形状のものに分かれる。近年コンピュータ技術の発達とともに製版技術も変化し、トレースフィルムを使わず、コンピュータ上で色分けした絵柄を版上に直接打ち出す方式(ダイレクト製版)がとられるようになってきた。 
捺染方式 
捺染は手捺染法と機械捺染法に大別され、技法からは直接捺染法、防染法、抜染法、防抜染法、型付浸染法などに分けられる。近年コンピュータ技術を駆使した新たな捺染技法として無版プリント(インクジェットプリント)が注目され、技術開発がすすめられている。 
その他特殊捺染として、フロック捺染、スプレー捺染、マルチカラープリント、オパール捺染(抜食加工)、写真捺染、静電捺染などがあり、多彩な絵柄表現を可能にしている。
染色 
染料や顔料を用いて繊維その他の被染物に化学的あるいは物理的に色素を染色固定すること。その素材は繊維と染料に二大別されるが、繊維には植物性繊維、動物性繊維、化学繊維があり、染料には天然染料と合成染料がある。染料は繊維の種類によって適否があり、染料と繊維の性質によって染色法も異なる。 
染色法は大きく分けると、直接染法、媒染染法、還元染法、発色染法、分散楽法の5種になるが、その基本は水に溶けた染料の分子が繊維のなかにしみこんで繊維分子に固定されることであり、その過程に含まれる化学的・物理的作用の相違によって分類される。
直接染法 
水溶性の染料を溶かした溶液中に繊維を浸して染める方法。木綿、人絹、麻には直接染料、羊毛、絹には酸性染料、絹には塩基性染料を用いて直接染法で染めることができる。たとえば直接染料で木綿を染めるときは、染料溶液を80-90度に加熱すると電解質の効果が高くなり染着量が増加する。染め方としては最も簡単な方法だが、洗濯や日光に弱く、変色・褪色をきたしやすい。このため銅やクロムなど金属イオン溶液やホルマリン溶液で日光堅牢度・洗濯堅牢度を高める後処理を行い、色止めを施す。 
媒染染法 
染料そのものに繊維に対する染着力がない場合に、媒染剤を用いて繊維と染料を間接的に結合させて染める方法。木綿、人絹用の塩基性染料、羊毛用の酸性媒染染料、天然染料のほとんどは媒染剤を必要とする。媒染剤としては酢酸アルミニウム、酢酸鉄などの鉄塩、クロム塩、スズ化合物などの弱塩基・弱酸塩を用いる。繊維を媒染剤溶液に浸して加熱すると媒染剤は加水分解をおこして金属酸化物となり、これを染料溶液中に浸すと染料と金属酸化物が結合して、繊維に高度の染着を与えることができる。 
還元染法 
不溶性の染料を用いる場合に、染料を還元して水溶性の化合物に変えて繊維に染着させ、これを酸化して繊維上で色素を再生して染める方法。木綿や麻に建染染料や硫化染料を用いる場合、アルカリ性のハイドロサルファイトや硫化ナトリウムで還元すると、染料は水溶性のロイコ化合物となり繊維に染まる。染まった繊維を空気中にさらすと、染着した染料は酸化され、繊維上で元の不溶性染料に戻り色素を再生する。建染染料を還元する操作を「建てる」といい、硫化染料を還元する操作を「加硫」または「チオネーション」というが、近年ではあらかじめ水溶性のロイコ化合物の形にした可溶性建染染料もあり、羊毛用などに使用されている。この染色法は日光堅牢度・洗濯堅牢度ともにすぐれ実用的価値が高い。 
発色染法 
不溶性の染料で、還元すると染料が分解して色素の再生ができない場合に、色素の原料となる物質(染料中間物)を繊維に順次しみこませ、繊維上で色素を合成して染める方法。木綿や人絹に用いるナフトール染料による染色はこの染色法の代表例である。まず繊維にカップリング成分となるナフトールを下漬剤としてしみこませ、これをジアゾ成分を含む顕色剤につけると繊維上で不溶性の色素が合成され発色する。この合成化学反応に使う中間物をナフトール染料といい、冷染染料・顕色染料ともいわれる。現在約30種の下漬剤と約50種の顕色剤が使用され、この組み合わせによって1,500の色相が得られる。日光堅牢度・洗濯堅牢度は強いが、摩擦に対しては弱いという欠点もある。 
分散染法 
可溶性ではあるが溶解度の小さい分散染料を界両活性剤を用いて水中に細かく分散させて染める方法。合成繊維など疎水性の繊維を染める場合は、水溶性の染料では繊維に染料がなじまないため、水に溶けにくい染料溶液中で分散浴を行い、繊維中に染料分子をしみこませる方法がとられる。この染色法では、空気中の酸化窒素類の作用で「ガス=フェーディンク現象」がおこり雑色をきたすのが欠点である。 
染色抜法 
染色抜法は無地染と模様染に分けられる。 
無地染の歴史は非常に古く、おそらく紡織技術の発生についで行われはじめたものと思われる。世界最古の無地染の遺品としては、エジプト第12王朝(前1991-前1786)の墓から出土したミイラ2体の黄褐色の巻布があり、これには紅花染と鉄媒染染が用いられている。無地染は繊維によって必要に応じて精練、漂白を行い、手染あるいは機械染で浸染・引染・吹染・パッディング染その他の方法によって染めるが、全体が均一に染まることが重要である。木綿や麻は染色の前に漂白を行うが、18世紀半ばから末にかけて漂白工科が改善され、19世紀の紡織の機械化、合成染料の発明に伴い完全に手工的方法から脱皮した。無地染用の染色機械としては、糸用浸染機、布用浸染機の2種があり、布用浸染機には、毛織物用・絹織物用・縮織物用の枠染機、淡色染用のパッディング染機、人絹など繊維の伸長度の高い布用のジッガー染機などがある。
模様染 
模様染は種類・方法とも多く、技法によって[a]模様を直接印花する方法、[b]模様の部分を防染処理して地を浸染する方法、[c]模様の部分を抜染して無地染にする方法、[d]その他の特殊な模様染に大別できる。[a]には筆、刷毛、筒などを用いて直接模様を描いていく描絵、描更紗、描友禅、蝋染などの技法と、型を用いて直接模様を印花していく擢絵、刷染などの捺染技法があり、描絵、描更紗の類はかなり古くからエジプト、インド、ペルシア、中国で行われていた。また直接印化法の型としては、型紙(彫抜型)・スクリーン型(彫抜型)・木型(凸版)・銅版(凹版)・陶版(凸版)・銅ロール型(凹版)その他があり、木綿の原産地であるインドに始まった捺染技術がエジプトやインカまで伝わったものとみられている。インドには約2000年前の陶版(テラコッタ型)が残っており、わが国では木型印花の擢文布帛が正倉院に多数残っている。近世ヨーロッパではフランスを中心に木版捺染技術が発達しジュイ更紗として知られ、17世紀半ばには綿更紗の銅版捺染が各国に普及した。また捺染技術には綿織物工業の発達とともに進展し、産業革命を迎えると1797年イギリスで輪転式捺染機が発明されたのをはじめ、1834年、フランスでペロチン捺染機が完成され、近年では一時に16色くらいまで染色可能な多色捺染機の出現をみた。[b]の防染模様染にはロウケツ・纐纈・コウケツの3纈と絞染などの技法があり、ロウケツには筆・筒などを用いて防染剤の蝋を直接手描するものと、木型や金属型を用いるものの2種がある。手描、型使用ともに模様の部分に蝋を置き地染したあと脱蝋するものだが、いずれも古くから広く分布し、6-7世紀エジプトで使用された木型が残っている。わが国では唐代中国から伝えられた木型ロウケツ法が平安時代ころまで行われ、纐纈は糸で織物の一部をくくって防染する絞染の一種で、目結や結機・コウケツとともに奈良時代から行われ、正倉院裂のなかに多くの遺品を残している。コウケツは物理的な力を加えて防染するもので、折りたたんだ布地を板に挾んで締めて染める単純な板締染と、模様を陽刻した木、金属の型板に挾んで染液を陰刻部に注入して染めるものがあり、唐代中国から伝わったものと考えられている。絞染の発生はインド起源とみられているが、エジプト、ペルシア、中国、インドネシア諸島などきわめて広く分布し、わが国でも奈良時代ころから発達した。絞染の種類は鹿の子絞、匹田絞、三浦絞、養老絞、白影絞、羅仙絞などがあり、室町から安土桃山時代にかけて盛行した辻が花染は精巧な絞染で絵模様を表し、手彩色を加えたものや擢箔・縫箔を施したものも現れた。[c]の抜染法は化学的に抜染できる染料が合成されてのちに行われはじめたもので、地染した上に抜染剤を混ぜたのりを置き、模様の部分を白抜きにするものと、抜染のりに抜染できない染料を混ぜた色のりを用いて着色抜染を行うものがある。この技法は輪転捺染機などに用いられ、現在広く応用されている。[d]の特殊な模様染としては、平安時代の淡央、末濃、村濃などの墨染があり、降っては量友禅や墨流し染、色のり流し染などがある。
 
江戸小紋

 

江戸小紋 
極めて細かい模様を切り抜いた型紙(小紋型)を用いる型染めの一種。捺染板という長板に、前もって糊を塗って置き、湿らせた刷毛を使って、小紋を付けようとする白生地を貼り付ける。その上に極細の模様を切り抜いた型紙を載せ、へらで糊を均等にのばす(型付捺染)。白生地は一反で12m以上の長さがあり、型紙をずらして白生地すべてに同じ作業を繰り返す。型紙の切り抜かれたところだけの生地に糊が型付けされる。型紙の大きさによっては50-100回型紙をずらしながら作業を繰り返す。柄がずれないよう、1mmにも満たない点や毛筋ほどの線でできている模様がつぶれないように、息の抜けない慎重な作業の連続である。後工程で白地全体に染料をまんべんなく塗り(地色染め)、蒸し箱で高温定着させた(蒸し)後、水洗すると、最初の工程の糊が落ち、その部分が白く柄(模様)として残る。これが型染めである。一つの反物に対して数多く型紙をずらして型付捺染するので、その接続部で極細の文様が違和感なくつながっているか、極細の文様一つ一つが歪んだり、つぶれたりせずにきちんと捺染されているか、極細の文様が地色の滲みもなく、くっきりと浮かび上がっているかなど制作には染色家としての深い経験と熟達した技術、気の遠くなるような手間と集中力、デザイン・彩色・配色等のセンスが必要になる。 
江戸小紋はもともと江戸時代に武士の裃に使われ、将軍家を始め、各藩は特定の柄を定め、その藩のシンボルとすることもあった。江戸中期には庶民のあいだでも盛んに用いられ、粋なセンスを愛する町人文化の発展とともに、柄の種類も色使いも飛躍的に増加した。遠くから見ると一見無地に見える小紋は、近くで見ると繊細な柄が無数にちりばめられ、高度に駆使された技術はまさに江戸の「粋」を象徴する工芸品である。 
小紋の命といわれるのが型紙である。江戸時代以来、三重県は伊勢の白子(現・鈴鹿市)付近で作られる伊勢型紙が使われる。この地は紀州徳川家の飛び地で、紀州家の保護政策により技術の継承、向上がなされてきた。型紙は丈夫な和紙を柿渋で数枚重ねて貼り合わせた地紙に手作業で模様を刻んだものである。 
小紋の柄としては 
「鮫」 江戸小紋の最も代表的な柄で、一面に細かい点を鮫の皮状に染め抜いた文様。 
「角通し」 細かい正方形が縦横につながった碁盤状文様。 
「行儀通し」 けし粒状の小さな文様が、縦横に並んでいるもの。 
「いわれ小紋」 縁起の良いもの、目出度いものを文様にしたもの。宝尽くし(縁起物を集めた文様)、竹に雀などさまざまの文様がある。 
「毛万微塵筋」 江戸時代愛された縞文様。1寸に36本の筋をほどこしたものもある。
 
横浜スカーフ

 

横浜スカーフ 1 
横浜の開港当時から生糸は日本の輸出の主要品目で、加工品である絹は最初はあまり輸出されていなかった。明治6年(1873)のウィーン万国博覧会で日本の袱紗、団扇などの絹織物を出品した。このとき国費でウィーンに行ったのが椎野正兵衛である。椎野は絹織物を外国に紹介するだけでなく、ヨーロッパの技術を習得してきた。それから2年後にアメリカにハンカチを輸出したのが、日本からの絹ハンカチの輸出の第一号である。このころは、まだ白地か無地の染物だった。最初の柄ものは椎野正兵衛商店が明治18年アメリカに輸出したものだが詳細はわかっていない。明治23年フランス人のメニールが木版をつかって染めたハンカチを作らせ、これが評判になり、一躍染色織物の輸出が増えた。 
横浜のスカーフは複雑な分業で行われている、これは輸出が始まったころからの歴史によるものだ。絹物輸出の中心は製造業者の「ハンカチ屋」と呼ばれる人たちで、最初のころのハンカチ屋は製造業者というより売込商で、外国商館からハンカチの受注を受けた。商館にいる日本人番頭と親しくなり仕事を貰った。仕事がきたらまず、スケッチ屋と呼ばれるデザイナーにスケッチを書かせた。そのために日ごろその国の嗜好の情報を仕入れておかなければならなかった。スケッチを外国に送り向こうでそれを検討して、戻ってきてはじめて正式発注になった。受注したらハンカチ屋は原反を仕入れ、それを捺染業者に渡して染色してもらった。スケッチから実際の型を作るのは型彫屋と呼ばれる職人で、ハンカチ屋から発注された。染色し終わった織物は裁断、縫製を行い、縫製業者からは縁かがりの仕事が家庭内職に行った。このようにハンカチ屋を中心にさまざまな業種の人の分業によってスカーフが完成した。この流れは明治から現在も大きくは変わっていない。地域としては外国商館は山下町のあたり、ハンカチ屋は今の関内駅の北側、捺染業者は大岡川や帷子川沿いにあり、その周囲に加工の内職者がいた。 
横浜で行われていたのは、生糸そのものやそれを織物にするではなく、製織されたものを製品に加工する産業で、その中でもはさまざまなデザインに染める捺染が中心だった。
染め方の歴史 
捺染は、布に染料で図柄や模様を印刷することで、紙の印刷と同じようにいろいろな方法が使われてき。捺染は木版、紙型を経て現在はスクリーン捺染になっている。 
最初は木版捺染で、紙に印刷する木版を応用したものである。開港当時は茶の輸出も盛んで、茶箱のラベルは木版を使って刷られており、その刷師がハンカチも刷ったようである。「版木屋」が桜の木を使い木版を彫り、生地はあらかじめ正方形に切っておき、これを厚手の洋紙にロウを塗った台紙に貼りつけ、木版に染料液をハケで塗り、この上に生地を貼った台紙を載せ、バレンという道具でこすり方法である。刷る人は「木版屋」と呼ばれていた。この後、生地をセイロで蒸して完成した。本来はこの後に水洗すると色落ちがしないのですが、既にハンカチの大きさに切ってあるため、川で水洗することができず、色落ちしやすいのが欠点であった。半面、表現能力が高く、精密な図柄を作ることが出来た。木版は昭和20年代まで行われていた。 
木版がいわゆる凸版印刷なのに対して、紙型を使い、穴をあけた部分だけ印刷する、孔版印刷も行われた。孔版では数字の0のような柄を彫ると、中の部分が抜け落ちてしまうので、防ぐために図柄を2枚の型紙で作るという方法がとられた。これは追っかけ彫りと呼ばれていた。型紙に使われたのは和紙に柿渋を塗って貼り合わせてから燻した渋紙で、これを小刀で切りぬいて型を作り、その後でうるしを塗って補強したものである。木版と違い長尺の物が出来、水洗いにより色落ちを防ぐことが出来た。 
昭和初期から、木版や紙型に代わって、スクリーン印刷の技術が導入された。型紙にはパラフィン紙にラックスニスを塗ったラックペーパーと言うものが使われた。紙型同様ラックペーパーを直接彫り、その後、スクリーンの上にロウで固定し、アイロンで熱を加えることで、ラックペーパーをスクリーンに貼りつけ型にした。戦後になると彫る代わりに、感光製版が行われるようになった。最初のうちは輪郭の細かいところのみ感光製版を使い、それ以外のところは直接彫っていたが、やがてすべて感光製版を行うようになった。これにより彫師の作業は文字通り「彫る」ことから、トレースの作業に移り変わった。現在でも基本的な方法は同じだが、機械の自動化が進んでいる。
山下公園の水塔 
山下公園の入り口にインドの水塔がある。これは関東大震災の時の暖かい扱いに感謝して横浜インド商組合から横浜市に昭和12年に寄贈されたものだ。そのころ横浜でインドの人が何をやっていたのか以前から不思議に思っていたが、実はスカーフと関係があったのだ。関東大震災で壊滅的な被害を被った横浜から、絹織物や染色の業者のみならず外国の商館も神戸に避難した。当時横浜港の絹織物の輸出の3割はインドの商館が扱っており、これを横浜に復帰してもらうことが横浜の絹織物にとって必要なことだった。そのため、住宅や店舗を建設して神戸からの復帰を誘致し、翌年には16社が横浜に帰ってきたが、この時の扱いに感謝してインドの商組合から横浜に贈られたのがこの水塔なのだ。
横浜スカーフ 2  
安政6年(1859)横浜が開港されて、生糸の輸出が盛んとなり、生糸から絹織物の輸出の流れの中で絹のハンカチーフが生まれた。ウィーン万国博覧会を契機に外国に輸出された。明治10年代から、無地染めからプリントものが輸出され、木版捺染(浮世絵版画と同じ)から輸出増大と共に、型紙の型で刷毛で染める「刷毛染」となり、昭和初期にスクリーン捺染が開発された。戦後、更に隆盛となり、輸出は世界シェアの80%を占めた時代もあり、平成10年頃までは国内も90%を占めていた。近年は、外国ブランド品が自国生産となったことやファッションの変化などにより生産は急激に減少してきている。 
横浜スカーフの特色 
生産構造の生い立ちから、素材、製版、捺染、染色整理、縫製、デザイナーがうまく協調して産地形態を温存してきた。特に手捺染の技術は120年の伝統職人芸で、その技術水準はフランス、イタリーの水準と同列で、絹のウス地プリント技術は世界一である。
 
京都の和装染色業

 

小幅友禅加工業 
京友禅は我国における染呉服の代表的な品種であり、昭和51年に伝統的工芸品指定を受けている。生産量は全国の染呉服生産量の9割近くを占め、文字どおり染呉服の全国最大の産地を形成している。その染技法は絢爛豪華なきらびやかさを特徴とし、しばしば、東京染小紋の粋な繰り返し紋様と対照される。京染の起源は、古くは平安時代(9世紀)の官営工場までさかのぼることができ、以来染色に適した気候風土に恵まれて「京染」は多様な染色技法の展開をみた。 
京友禅は、京染の発展を基礎として多様な染技法を集大成するなかで宮崎友禅斉が江戸中期(17世紀後半)に完成したものである。その技法は、中世以来の型染め技法に外来染色の更紗の染法などを加え、糊置き技法と多彩な部分染が総合されたもので、基本的には絵画性の強い模様染である。加工技法の変遷は、当初は手描染で、明治初期になって型染が開発され、さらに機械捺染技術が開発されて現在に至っている。 
型友禅加工業 
型友禅業界は、複雑に編成されている京友禅加工業界の中で最大の生産量を擁する業界で、各業界の要に位置している。型友禅は、模様を切り抜いた型紙を布の上に置いて、その上から染料を混ぜた糊(色糊)を捺染し、同一の模様を大量に染めるもので、型紙捺染技法と呼ばれるこの技術は明治に入って、合成染料の普及とともに広瀬治助により開発された。手描友禅として出発した友禅生産に大量生産を可能とした技術として、現在も京友禅生産技法の主流をなし、機械捺染と異なり、生産形態は手工業の域を出るものではない。 
手描友禅加工業 
手描友禅技法は、友禅加工の最も古い技法であるが、その加工業界は今日まで連綿と続いた伝統産業の代表的業種としての位置を確保している。手描染は、明治以降、型染の開発に伴って独立業種化の方向を歩み、その生産工程を次第に細分化し、分業生産組織を形成してきた。その生産組織は独立・分散した10数工程からなり、その頂点に染匠が位置する構造となっている。染匠は室町問屋からの注文を受けて加工工程全体を総括し、手描友禅生産を遂行する製造元請業者として位置づけられる。各工程の加工業者はほとんどが手工業で、家族労働主体の独立した分業形態をとっている。最近はオリジナル性、品質で差別化した一部逸品ものの動きはあるが、全体としては受注は減少しており、厳しい状況である。 
誂友禅加工業 
誂友禅加工業は、型友禅業、手描友禅業という加工技法別による区分けとは異なり、流通形態の差異により別個に組織された業界で、仕入友禅加工業と対比されるものである。加工技法的には大部分は型友禅加工である。 
誂友禅の最盛期は戦前の昭和12-14年で事業所数も最も多かったが、戦後は仕入友禅が次第に主流を占め、業界は漸次縮小してきている。そのうち仕入友禅加工との兼業が大半を占め、誂専業は減少傾向にある。 
誂友禅加工業の特徴は、染工場自身が商品企画を行って染見本を作成し、この染見本を京染卸商を通じて地方京染店に配布し、染見本によって消費者から受けた注文に基づき染色加工を行うといった受注形態にある。加工の中心となる型友禅についての生産工程は、仕入型友禅加工と基本的に同じである。
黒染・色染業  
京都染色業界の中で染色の最も基本的な工程である黒染・色染を担当する業界で、和装品、裏地、服地などの染色を行っているが、このうち黒染については、主として喪服の染色を行っており、昭和54年に「京黒紋付染」として伝統的工芸品に指定され、独自の分野を確立している。 
黒染・色染は技法的には浸染及び引染によって行われるが、浸染・引染は捺染とならんで染色の最も基本的な技法であり、その加工法は次のとおりである。 
浸染/染料又は染料と薬品とを溶液中に溶解して、その中に可染物を浸し、冷浴、温浴、煮沸浴で処理し、染上げるもので無地染の最も一般的な技法である。 
引染/はけ引きで地色を染める技法であり、生地を張り、伸子(しんし)で張り上げ、「地入れ」と称して豆汁(ごじる)や糊液を塗布乾燥してから蒸熱、水洗して仕上げる。絹布の引染には主として直接染料、酸性染料、塩基性染料、ノアールなどが用いられ、綿布引染にはナフトール染料が多用される。引染は主として防染糊を施した紋付、模様付、小紋染など友禅等の一工程を担当するほか、旗やのれん、のぼりなど印染めにも応用されることがある。 
黒染/黒染業者は京都黒染工業協同組合に組織され、このうち浸染加工業者が主として「京黒紋付染」としての黒染加工を担っている。浸染の多くは機械化されており、全国の需要のほとんどを京都で賄っている。一方、黒引染業者は黒絵羽織、黒留袖等の加工に携わっているが、手作業が中心で機械化が遅れており、引染加工の半分近くは他県で行われている。 
昭和54年に伝統的工芸品に指定された京黒紋付染は、紋章糊置き、紋章上絵描きなどの手作業による付帯加工を伴い、染加工では染め上がりに重厚さや色つやをよく出すために黒染に入る前に下染めをする。下染めの方法には、紅下染(赤味のある黒)と藍下染(青味のある黒)がある。最近は画期的な深色加工が開発されて、さらに発色がよくなっており、深色加工を施した製品が大幅に増加している。 
色染/色染も技法的には浸染と引染に分かれるが、いずれも友禅やプリント加工の一工程として呉服、裏地、服地などの色・無地染を担当している。
絞り染業 
絞り染業界は「京鹿の子絞」として昭和51年に伝統的工芸品指定を受け、京都和装産地の中にあって、絞染技法により呉服、和装小物類、兵児帯など和装商品のほか、寝装品や洋装商品も生産している。 
絞り加工の原理は原始的なもので、機械は用いず、簡単な道具と工夫によって精巧なものから簡略素朴なものまで染められる。従って、絞染技術は世界各地で見られ、その発祥はインドとも中国ともいわれている。 
我が国においても絞染技術は古くから見られ、7世紀中葉の日本書紀の中に絞染に関すると見られる記述があり、この時代から既に存在していたものと考えられる。室町・桃山期-江戸前期にかけて一世を風びした「辻が花染」は絞染を駆使した作品の代表的なものである。江戸中期には、鹿の子や疋田などの総絞りや絞染に刺繍を施した繍絞、友禅加工を施した絞友禅などが生産され、17世紀末の元禄期を頂点として全盛期を迎えた。 
明治以降は兵児帯の開発など順調な発展を遂げ、大正末期には朝鮮半島に絞括加工基地を持つまでに発展した。戦後は、昭和30年代半ばの高度成長期に入ってからの絞染需要の回復に伴う技術者不足から、韓国での絞括委託加工を昭和38年に再開した。韓国への委託加工は絞製品の低廉化と大量供給を可能にし、昭和43年頃からの絞ブームに途を拓いた。 
江戸時代から名前を知られた絞産地の多くは姿を消し、現在は京都と名古屋(有松・鳴海絞)が2大産地となっている他、十日町でも生産されている。 
絞り染の加工工程は、下張り、下絵、絞括取次、染め分け、染色、湯のし整理など10余りに分かれ、家族労働を中心とした小規模企業により支えられている。
友禅染 
友禅染とは江戸時代に発達した、日本を代表する文様染です。江戸中期に宮崎友禅(みやざきゆうぜん)によって完成されたためこう呼ばれますが、その手法自体は江戸初期から存在していました。色の混合を防ぐために糊を用いるのが特徴で、そのため多彩で華麗な絵文様を描き出すことができます。 
友禅染誕生以前 
寛永から正保(1624-1647)頃に刊行された「毛吹草」(けふきぐさ)に見られる京都の染物は、鹿の子(かのこ)のような絞り染めを除くと、そのほとんどが模様のない一色の染物でした。ところがその後、茶屋染などの模様染が流行し、次第に華美なものが好まれるようになります。 
それに対して江戸幕府は、天和年間(1681-84)に禁令を出し、金紗(きんしゃ)や刺繍、総絞りなど贅沢な衣裳は、着ることはおろか作ることさえ禁止してしまいます。 
そのため、刺繍や絞りなどを使わずに、色彩の鮮やかさで華麗さを演出する、新しい染物の創造が求められました。これが友禅染創造の遠因となります。 
宮崎友禅の登場 
宮崎友禅は天和から元禄(1681-1704)にかけて活躍した絵師です。生没年はわかっていません。元文元(1736)年に、83才で金沢で没したという説がありますが、定かではありません。彼は、現在でいうデザイナーのような存在で、そのデザインブック(見本帳)である雛形本を何冊か出版しました。 
元禄5(1692)年、友禅自らが出版した雛形本「余勢(よせい)ひいなかた」の序には「洛東智恩院門前 扶桑扇工友禅」とあることから、友禅は知恩院門前に住んでいたと思われます。 
また、天和2(1682)年刊行の井原西鶴(いはらさいかく)「好色一代男」に「扇も十二本 祐善(ゆうぜん)が浮世絵」とあります。さらに、貞享3(1686)年刊行の「好色三代男」には「柳屋が下緒、ゆうぜん扇、音羽かるやき、今の世のはやり物」とあります。この頃友禅は、扇に絵を描く扇絵師をしており、その扇が大変な評判を得ていたことがわかります。 
扇工から染工へ 
扇絵の意匠で注目された友禅は、小袖のデザインに進出します。貞享4(1687)年刊行の「女用訓蒙図彙」(おんなようきんもうずい)に 
爰(ここ)に友禅と称する画法師ありけらし、一流を扇に書出しゝかば、貴賤の男女喜悦の眉うるはしく丹花の唇をほころばせり、これに依りて人の好める心をくみて、女郎小袖の模様をつくりて、ある呉服屋に与へぬ、それを亦もて興ずるよしを聞いて(後略) 
とあります。同年刊行の衣裳雛形本「源氏ひながた」にも「扇のみか小袖にもはやる友禅染」と書かれていることから、友禅はこの頃染織界へ進出したといえるでしょう 
デザイナー友禅 
貞享5(1688)年刊行の「都今様友禅ひいながた」は、衣裳の文様にとどまらず、風呂敷・扇・団扇・文箱(ふばこ)・書物の表紙など様々な物に対する友禅のデザインを集めたものです。このような総合的デザインブックは江戸時代を通じても他に例がなく、友禅のデザインに対して関心が高かったことがうかがえます。 
またその中で、友禅流行の原因を「古風の賤しからぬをふくみて、今様の香車なる物、数奇(すき)にかなひ」としています。古典的な和様美を残しながらも、当時の斬新で華やかなデザインを取り入れた点が、人々の心をつかんだというのです。 
代表的な文様としては、円の中に花をあしらった「花の丸」があげられます。これは友禅の創造したものではなく、中世からの有職文様(ゆうそくもんよう)の中に似たようなものが見られます。小袖という定型の中に、伝統の持つ上品さを取り入れた、マッチングのおもしろさが流行に結びついたものと思われます。このように、彼の才能は従来からあるものをアレンジし、構成し直すところで十分に発揮されたようです。 
円以外にも菱形や亀甲、扇などの幾何学模様の中に草花を散らす文様も多く見られます。こういった小さな区画の中に趣向を凝らすデザインは、もともと扇に絵を描いていた友禅にとっては力を発揮しやすい場であったことでしょう。 
友禅染の推移 
一方で、元禄5(1692)年刊行の「女重宝記」(おんなちょうほうき)には「友禅染の丸尽くし、(中略)今みれば古めかしく初心なり」とあります。このことから、当時よりデザインの流行サイクルが早かったことがうかがえます。 
同時にこれは、小袖のデザインが友禅一辺倒だったわけではないことを示しますが、その後も新しい文様や技術を得て友禅染は生き残っていきます。 
18世紀半ば以降は、江戸風の「粋」が上方にも流行し、小袖のデザインも複雑なものから単純なものへ、色調も華やかなものから単色系へと変化していきました。 
写し友禅の考案 
明治に入り化学染料(合成染料)が輸入され、友禅染の世界も大きく変化していきます。化学染料は湯に溶かせば直ちに染められ、糊に混ぜることも可能でした。その特性を利用して、明治10(1877)年頃に広瀬治助(ひろせじすけ、1822-90)が染料を混ぜた写し糊を用いる写し友禅の技法を考案しました。これは、型紙を用いて写し糊を生地に置いていき、蒸して染料を定着させ、その後水洗いをして糊を落とすという技法です。 
治助は京都の生まれで、少年の頃より友禅業の備後屋に奉公し、のちにこれを継いだため、備治(ぶんじ)とも呼ばれました。もともとは手描友禅の名手として知られていましたが、明治初期に京都府が開設した舎密局(せいみきょく)に出入りし、化学染料の使用法を学びました。その後、堀川新三郎(ほりかわしんざぶろう、1851-1914)のモスリン(薄地の毛織物)友禅の影響を受け、それを絹物に応用した写し友禅の技法を開発しました。 
この技法の開発により、今までの手描友禅に比べ工程が簡略化され、生産効率が大幅に上がりました。その結果、友禅染の大量生産が可能になり、大衆化への道が開けました。 
その後も、江戸時代から現代まで続く老舗「千總」(ちそう)の西村總左衛門(にしむらそうざえもん)によるビロード友禅(白ビロード地に友禅染を施したもの)の開発や、広岡伊兵衛(ひろおかいへえ)による無線友禅(糸目糊を置かない友禅)の発明などにより技術的にも大きな発展を遂げていきました。 
日本画家の活躍 
写し友禅の考案は技術的に大きな意味を持っていますが、同時に意匠の面でも新たな展開が見られました。 
明治に入ると、それまでの類型的なものを脱した、新しい意匠が求められるようになりました。そこに登場したのが、明治維新で後援者を失った日本画壇の絵師たちです。幸野楳嶺(こうのばいれい)や今尾景年(いまおけいねん)、岸竹堂(きしちくどう)、竹内栖鳳(たけうちせいほう)らが、友禅染や西陣織の下絵を描いていました。草花や風景が写実的・絵画的に表されたデザインは、自由な発想に満ちた織物を生み出しました。 
友禅流し 
川の流水で糊を落とす友禅流しが始まったのは、明治10年代に入ってからです。写し友禅の技法が確立されたからであり、それ以降京都の風物詩の一つとなりました。友禅流しは鴨川だけでなく、桂川、堀川、白川、紙屋川などでも行われていました。 
戦後も桂川・堀川などで友禅流しは行われており、桂川では昭和40年頃まで行われていました。しかし昭和46年の水質汚濁防止法の施行により川では行えなくなり、友禅流しは、各工房が室内で人工水路を用いて行うものに変化していきました。
西陣の由来 
西陣織とは京都西陣の地で生産される織物の総称です。西陣という地名は、応仁・文明の乱(1467-77)の西軍、山名宗全(やまなそうぜん、持豊、1404-73)の陣所に由来し、彼の邸宅があった山名町(堀川通今出川上る西入)とともに、乱の名残をとどめている数少ない地名です。 
地名としての初見は「蔭凉軒日録」(いんりょうけんにちろく)文明19(1487)年正月24日条で、乱後10年で西陣が地名化していたことがわかります。江戸時代には、北は今宮神社御旅所、南は一条通あるいは中立売通、東は堀川通、西は七本松通にわたる一帯を西陣と呼んでいました。 
ただ現在、西陣警察署や西陣郵便局、西陣中央小学校など「西陣」の名を冠する施設はいくつかありますが、西陣という行政地名はありません。また、今では西陣織関連の業者は、北は鷹峯(たかがみね)、南は丸太町通、東は烏丸通、西は御室附近にまで広がっています。 
西陣織のはじまり 
平安初期の律令制のもとでは、大蔵省に属した織部司(おりべのつかさ)が最高級の織物を生産していました。しかし、律令体制の崩壊にともなって、平安末期あたりから朝廷は工房を維持することが難しくなっていきました。 
そこで織工達は大舎人町(おおとねりちょう、現在の猪熊通下長者町附近)に移り住み、宋の綾織技法を模倣した唐綾を、貴族の装飾用に製作しました。これが、民業による製織のはじまりです。南北朝期に成立した「庭訓往来」(ていきんおうらい)からは、「大舎人綾」や「大宮絹」が京の名産として有名であったことがわかります。 
応仁・文明の乱の間、大舎人町の織工達は、堺などに逃れていました。乱が終結すると京都に戻り、東軍本陣跡の白雲村(現在の新町通今出川上る附近)では練貫座(ねりぬきざ)が、西軍本陣跡の大宮あたりでは大舎人座が組織されました。そしてそれぞれが対立しながらも、京の機業をリードしていきました。 
16世紀になると、大舎人座が将軍家直属の織物所に指定され、また元亀2(1571)年には、大舎人座31家のうち6家が、宮廷装束を製織する御寮織物司(ごりょうおりものつかさ)に任じられました。これ以降、この6家を中心として西陣の機業は発展していきました。 
西陣織の黄金時代 
安土・桃山時代には、堺を経て明の技術が輸入されたことから新しい織物が発案され、高級精妙な西陣織の基礎が築かれました。 
江戸時代に入ってからは、幕府の保護のもと西陣の黄金時代を迎えました。特に西陣の中心だった大宮通今出川交叉点附近は、千両ヶ辻と呼ばれていました。毎晩のように下京の糸商人がやってきて、千両を超える糸取引が行われていたことから、この名が付けられたといいます。 
またいわゆる「京の着倒れ」(きだおれ)という言葉も江戸時代に登場します。十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく、1765-1831)の「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)に 
商人のよき衣きたるは他国と異にして、京の着だをれの名は益々西陣の織元より出 
とあり、京の人々の衣服への関心の高さとともに、西陣を中心にした京織物の名声がうかがえます。 
西陣織の危機 
享保15(1730)年6月20日、上立売通室町西入の呉服所(ごふくどころ)大文字屋五兵衛方から火の手が上がり、またたく間に西陣地区の大部分を焼き尽くしました。この火事は「西陣焼け」と呼ばれ、民家約3800軒、織機約7000台のうち3000台以上が焼失したといわれています。 
これをきっかけに、徐々に西陣の機業は衰退していきます。この頃、丹後・長浜・桐生(きりゅう)・足利など京都以外の地域で絹織物が盛んになり、火事の後には西陣の技術が織工とともに地方へ伝わっていきました。さらにその後の天明8(1788)年の大火や、天保の改革による株仲間の解散・絹織物禁止令で、西陣は大きな打撃を受けました。 
西陣織の近代化 
明治2(1869)年の東京遷都によって、西陣は高級織物の需要者層を大幅に失いました。また生糸の輸出増加にともない国内生糸の価格も高騰し、西陣は以前にもました危機を迎えました。 
そこで、京都府による保護育成が計られることになり、府は明治2(1869)年に西陣物産会社を設立しました。同5年には佐倉常七(さくらつねしち)・井上伊兵衛(いのうえいへえ)・吉田忠七(よしだちゅうしち)をフランスのリヨンに留学させ、フランス式のジャカード(紋紙を使う紋織装置)やバッタン(飛杼<とびひ>装置)など数十種の織機装置を輸入しました。また、明治6(1873)年、ウイーン万国博覧会に随行した織物業者の四世伊達弥助(だてやすけ、1813-76)は、オーストリア式のジャカードを持ち帰りました。 
明治20年代にはこうした洋式技術も定着し、西陣は最新にして最大の絹織物産地となっていきます。その後も川島甚兵衛(かわしまじんべえ)や佐々木清七(ささきせいしち)らが各地の博覧会に出品受賞し、西陣織の名を高めました。 
明治末には織機約2万台を有し、生産額は2000万円あまりで、全国織物総生産額の約7パーセントを占めるようになりました。こうして西陣は新しい技術を取り入れることにより、幕末から維新にかけての危機を脱出しました。 
現代の西陣 
西陣は第2次大戦後、機械化がさらに進み、新しい技術が次々に導入されました。現在では、技術の高度化とともに作業工程は細かく分業化され、そのほとんどの工程を中小企業がになっています。 
一方で、労働力を求めていわゆる「出機」(でばた、下請け工場)の地区外化が進み、例えば西陣帯の約6割が京都市外で織られています。また最近では高級な着物や帯だけではなく、ネクタイやバッグ、カーテンやお守りの袋など多様な織物も製造されるようになりました。社会の変容に対応した変化が、西陣織にも求められています。 
昭和51年には綴織(つづれおり)・錦織(にしきおり)・緞子(どんす)・朱珍(しゅちん)・紹巴(しょうは)・風通(ふうつう)・綟り織(もじりおり)・本しぼ織・天鵞絨(ビロード)・絣(かすり)・紬(つむぎ)の11種が、国から伝統的工芸品に指定されました。
 
紅型

 

紅型(ビンガタ) 1 
染めの技法、柄の名。型付けという手法によって染められた着物。王族や上流階級の女性にのみゆるされた衣装。ビンガタと呼ぶようになったのは大正時代あたりからで、戦前はカタチキー katacikii (型付け)といった。小刀で切り抜いた型紙を布の上に置き、その上から染料を塗って花鳥山水などの模様を染め付ける。これを作る家や店のことには、カタチキーヤー katacikiijaa(型付け屋)といった。
紅型 2 
亜熱帯の自然から生み出された沖縄の染物。鮮やかな発色の紅型が代表的。亜熱帯気候である沖縄は、染料の原料になる亜熱帯特有の植物が豊富なことや、水質によって発色が豊かになることで、強い陽光の下で特色を発揮する染物が発達したといわれる。沖縄では古くから植物を染料の原料とし、例えば黄色系染料にフクギやウコン、褐色系にヤマモモ、青系に琉球藍などさまざまな植物を組み合わせて、多彩な色を作り出した。沖縄の染物のなかで、全国的に知られるものに紅型がある。紅型は沖縄独自の模様染めで、朱・紫・藍・黄・緑の5色を基調とし、その発色の豊かさと美しく大胆な模様を特徴としている。もともと首里(しゅり)の職人たちが使っていた「紅」という色を指す言葉に、模様を意味する「カタ」という言葉を組み合わせて「ビンガタ」と呼んでいたもので、これに「紅型」という漢字を当てはめたのは、大正時代に入ってからといわれる。紅型は14世紀末に琉球王国が行った交易により、近隣諸外国の技術を取り入れ、首里王府の下で確立された。王族や士族の衣装および宮廷芸能の衣装として愛用され、琉球文化を象徴するもののひとつである。紅型の技法には、型紙を使用する型染めと、糊を絞り出して生地に模様を描いていく筒描きというふたつの技法がある。王朝時代の図柄には沖縄をモチーフとしたものはほとんどなく、日本的な図柄が多いが、最近は沖縄らしい大胆な図柄の紅型もつくられるようになった。沖縄を代表する染料として琉球藍がある。ほかの藍に比べて色が濃く、美しい発色が特徴。琉球藍はキツネマゴ科の多年草で、南西諸島や小笠原諸島で自生する植物。かつては沖縄本島北部で盛んに栽培が行われていたが、現在では本部町(もとぶちょう)でわずかに栽培されているだけとなった。
紅型 3 
14世紀から15世紀頃にはその原型が作り出されたという、沖縄を代表する染め物のこと。「びん」は紅(赤)だけではなく、全ての色を指し、「型」は模様を意味する。模様は松竹梅、菊、牡丹、桐などの植物文様、鶴、亀、蝶などの動物文様、山水、流水など自然文様が主。他の伝統的な染色物との違いは、色に顔料を使用することや、型彫りに突き彫りを採用していることが上げられる。紅型とは上流階級のものであり、衣装の縫い方も決して庶民のものではなく、衿が広くて長いなど日常生活とは無縁な能装束と同じ手法が使われている。色彩も黄色が中心で、この色は王族や貴族でなければ使用できない禁色(きんじき)とされた。
紅型 4 
沖縄の代表的な染物の一つで、女踊りには欠くことのできない衣裳。「びんがた」または「かたちき」ともよばれ、500年以上の歴史をもって今に継承されている。1719年尚敬王冊封の記録「中山伝信録」をみると、当時からすでに紅型は踊り衣裳として用いられていたことがわかる。
紅型 5 
琉球独特の意匠を表す五彩の美しい染色法で、南方の更紗や友禅との関係も深いといわれる。染料には植物性の福木・紅花・藍、動物性の醒臙脂・鉱物性の石黄・朱・黄土・墨などが用いられた。紅型染の方法は、布を煮て水で洒し、それに型紙を当て、ヘラに糊をつけてすり込み干したあと、豆汁をひいて糊に囲まれたところに色をさしていく。色は筆で刷り込む。こうした色さしを何回も繰り返し、終わると明礬をひいて外に干し、水洗いのあと再び干して仕上げる。模様は花鳥風月様々でその豪華さは人目を奪う。紅型は沖縄で唯一の染物である。京や加賀の友禅、そして中国の型付けの技法を受けついだ部分も多いが、沖縄特有の原色を使った染付けと図柄は女踊りの衣裳として冊封使の目を楽しませたことだろう。琉球絣は交易時代にもたらされた。紺地の絣は庶民の生活を写しとった、雑踊りにはなくてはならない衣裳である。ウシンチーに着付けた時、沖縄女性の美しさが引き立つ。芭蕉布はいちばん古い沖縄オリジナルの素材である。素朴で涼しげな風合いは、農村娘の心意気を表現しているようで清楚で品がある。
紅型 6 
起源 
約15世紀頃から存在していたと考えられ、中国、朝鮮、日本、ジャワ・スマトラ・パレンバン(インドネシア)、シャム(タイ)などの東南アジアとの交易の中で様々な技法を取り入れ、発展したと考えられる。書物で紅型を指したのではないかとみられるものとして「李朝実録」では「紀白」(1456)「彩絵」(1479)と記され、天順7年(1463)に朝鮮に派遣された琉球の使節が「琉球の男は斑爛之衣(彩りの美しい模様の衣)を着る」と述べており、「使琉球録」(1534)には「彩服・彩段」とある。紅型(または紅型を制作すること)を表す「型附」の文字が初めて登場するのは「尚氏家譜」の崇禎12年(1639)、「琉球国志略」(1756)には「白絹に文様を染める者がいる。また5色を用いて生地を染める者もいて、皆自ら着用している。そして贈物や商売にはおおむね染色しない地色のままの生地を用いる」とある。他にも「おもろさうし」(1532)、「馬姓家譜」乾隆16年(1751)、「球陽」巻15尚穆王16年(乾隆32年/1767)、巻16尚穆王31年(乾隆47/1782)、「使琉球記」(1802)などに記述がみられる。 
名称 
沖縄学研究の創始者である伊波普猷(1876-1947)は「琉球更紗の発生=古琉球紅型解題」(1928)で染料の原産地であるベンガルから弁柄(ビンガラー)のようであるとし、東恩納寛惇「歴代宝案」の「上水花布(更紗)」がインドのベンガルから渡来したことから紅型の語源はベンガルに由来するとしている。沖縄戦による焦土の中、紅型の復興に尽力した城間栄喜は「父(栄松)は中国福建省に(びん)という地名があったので型が語源ではないか」と話していたようで、また職人たちの間では元来、型染のことを「型附(カタチキ)」と呼び、色を差すことを紅(ビン)を入れると言っていた。また「古琉球紅型」「沖縄文化の遺宝」の著者で型絵染作家の鎌倉芳太郎(1898-1983)が沖縄で紅型調査を行った大正末年の頃、首里の紺屋(染屋)では「ビンガタ」と呼んでいたので「色彩のことを称して紅、文様を指して型という」が語源であると考え、現在では色彩を称し紅、文様を型とする意味で紅型という名称が使われている。
用途 
王族の礼装・日常着、中国皇帝の冊封使節を歓待する際少年達が着た「御冠船踊」(うかんしんおどり)などの踊衣裳、特別な場合のみ許された庶民の晴れ着、神衣裳の他、資源の少ない琉球では外貨獲得のため中国への貴重な貢品として作られていた(「使琉球記」嘉慶7年(1802)に「東洋花布」の名で記されている)。 
職人 
紅型を作る職人は紺屋と呼ばれ、首里、那覇に多数いたと考えられる。その中でも首里に住居をかまえ王府の絵図奉行の絵師(中国で4-5年絵の修行をした)の下、紅型を制作したのが紅型三宗家といわれる3家である。最も歴史があり王家の龍譚の水を使用できた沢岻家、中国から唐紙の技法や印金紙・緞子紙を学んだ知念家、城間家であり、王族、按司、親方、親雲上(ぺーちん)、に次ぐ階級の筑登之(ちくどぅん)の位を与えられ士族以上の階級が着用する紅型が作られた。首里で作られた紅型の他に浦添型(印金手法を用いた摺込みによる型付け法で色料の固着剤に蒟蒻粉を使うことから蒟蒻型ともいわれ、朧型とともに後に首里に住居を移す沢岻家に代々伝えられてきた紅型の起源と考えられる手法)、那覇型(17世紀商都那覇で作られた庶民階級の着ることが出来る紅型。泊型ともいい、首里型と違い文様・色が制限されていた。交易品としての紅型も含む)がある。 
型紙 
型紙は柿渋を引いた紙に、豆腐を乾燥させたルクジュウを下敷きにして型紙を彫るが、模様の部分を彫り残し、周りを糊で防染する白地型と、模様の輪郭線のみを線彫りし糊で防染する(1回の型置きで地染めが可能な)染地型があり、型紙の大きさによって大模様型(奉書紙の全紙1枚)、鎖大模様型(奉書紙を3枚1組に連続させた絵羽状の模様)、三分二中手型(奉書紙の2/3)、中手模様型(奉書紙の1/2)、中模様型(奉書紙の1/4)、細模様型(奉書紙の全紙1/4の大きさで細かい模様)と分類される。また、用途による名称もあり庶民が還暦以上の祝いに着用が許された祝型、庶民の死装束に用いられた後生(グソー)型、航海の安全を祈願する大船型、ガンジ型、タンナ型、旅ふい型、ビルイ型、御冠船型と、階級による名称では御殿型、殿内型、若衆型がある。 
紅型には型紙を用いる型染の他に舞台幕や「うちゅくい」と呼ばれる風呂敷など大きな布を染める技法として、糊を入れた口金つき絞り袋(布)で糊防染する筒引き(筒描き)がある。染色にも藍(少量の墨)のみを使用した藍型(えーがた)、藍型を主に複数の色彩を染め入れた紅入藍型(びんいりえーがた)、沢岻家に伝わる複数の型紙で模様を染め重ねる朧型(うぶるがた)があり、朧型にも藍朧型、紅朧型など多様な制作方法がある。
工程 
白地型の型紙を使った方法/模様を染めた後、糊で模様の部分を伏せて地染めする返し 
型彫り(紗張り)→地張り→型置(型付)→地入れ(豆引き)→色差し(下塗り・1度摺り)→色差し(上塗り・2度摺り)→隈取り→(蒸し)水元→糊伏せ→地染め→(蒸し)水元→完成 
筒描き・染地型の型紙を使った方法 
型彫り(染地型の場合)→地張り→筒描きまたは型置→地入れ(豆引き)→色差し(下塗り・1度摺り)→色差し(上塗り・2度摺り)→隈取り→(蒸し)→糊伏せ→地染め→(蒸し)水元→完成  
素材・色・模様について布地は木綿、苧麻、芭蕉、絹、桐板(トンビャン)などが身分、用途によって染められていたようだ。地色は約20色あったとされ白地、黄色地、水色地、花色地、緑色地、葡萄色地、藍(深)地、青藍地、段染地(染め分け地)などである。主に王族・士族婦人などの女性、または元服前の王族・士族の少年、王府に仕える小姓などが着用し、黄色は王族婦人の礼装、水色・浅地は日常着、花色・白と季節や年齢に応じて着用された。 
藍型、朧型は第6階級の庶民(地方の町方、農村や諸島の支配階級に属する婦人たち)にも着用が許されていたとされ階級によって着用できる地色が決まっていた。 
模様の彩色には主に顔料を用い、顔料の上から染料を重ねたり、染料に顔料を重ねたりしながら彩色をし、その後朱色以外の模様に隈取りを施し模様に立体感を与えた。紅型では季節に関係なく春を現す桜に冬の梅、秋の楓の紅葉、雪輪など春夏秋冬の模様が同時に存在することも大きな特徴で、うっそうと樹木の茂った緑濃い首里では楽園を思わせたことだろう。模様も中国、日本の柄がほとんどで龍、鳳凰などは王子・王妃にしか許されず、身分の高いものほど大きな模様で老人は小さい模様を着用した。材料は自国でとれた福木、琉球藍などの他、主に中国から取り寄せた顔料・染料が使われ、ほとんどの色料を中国に頼っていることから、当時の琉球と中国との密接な関係がうかがえる。 
紅型の衣裳に植物染料だけでなく絵画に使われる顔料を用いたのは、沖縄の強い日射しの中、褪色せず遠くからでもわかる大きな模様を身分の高い人物が着るという(日本の鮫小紋などの手が込んだ細かな細工が高級とされた文化と違う)衣服でありながら「着る」というより「見せる」絵画として、観賞されるべきものとしての表現を持つ、独自のおおらかな自然美を表したかたちになっていったと考えられ。
琉球と沖縄 
「琉球」の呼称は、中国・明の時代、明との交易が始まった14世紀以降、中国側が名付けて自国の国号とし「琉球」を用いたとされる。この名称は琉球王国が滅亡するまでとし、正式には「琉球国」と言い、一時期、台湾をも含めた広域的名称であったらしい。 
「沖縄」の呼称は、琉球処分によって琉球王国が滅亡し、代わりに沖縄県が置かれたときに「沖縄」が正式に採用された。「沖縄」の「おきなわ」という名称は既に奈良時代には文献に記載されていたらしく、「鑑真和上」が琉球へ漂着した際の様子を伝記で、琉球が「阿児奈波」(おこなわ)という大和言葉で記されたのが初めであるといわれる。「沖縄」という文字自体は、江戸期の学者・新井白石が「平家物語」から引用し、「おきなは」に「沖縄」の字を当てて文作したと言われている。琉球処分によって琉球王国が滅亡し、代わりに沖縄県が置かれたときに「沖縄」が正式に採用された。
琉装 
沖縄では16世紀頃の琉球王府時代に身分制度が確立され、その服装も身分や階級によって色、柄模様、布地の種別をもって区別していた。身分は王家、一般士族、庶民に大別され、王族、士族の男性用の礼服は、黄色地を最上とし、紫、桔梗、水色、藍色等、階級別に冠や帯で示した。紅型衣装は、王族婦女子の礼服であったとされ、黄色地、水色、うす紅色の順で、その柄の大小にも規制があったようだ。士族婦女は絣や上布を、庶民は男女共に植物繊維の芭蕉布を着用していた。衣装同様、髪型やかんざしにも違いがあり、それらの王府時代の民族衣を総称して琉装といい、沖縄の言葉では「ウチナースガイ」と呼んでいた。 
王府時代の服制も明治12年(1879)の廃藩置県をもって廃止され、現代の継承では琉球芸能が重要な役割を果たしている。
沖縄の染織 
沖縄は明治政権確立以前は漢名で琉球と呼ばれ、日本本土の文化から隔絶していたばかりでなく、南方と中国との交流が盛んで、その影響を強く受け、住民は大和民族と同一系統に属するにもかかわらず、文化的には大きな相違がある。 
いわゆる為朝伝説に従えば、源為朝の子孫が琉球王朝を開いたのは13世紀半ばの事で、沖縄の言語が現代の日本語と少し違った発音を温存していることから、古代日本文化の影響が深いことは知られるが、多年日本と絶縁して明(ミン)に朝貢したので、中国文化の影響を受け、14-15世紀にかけては盛んに東南アジア各地と通商して南方文化を摂取した。15世紀半ばに尚王朝が起って首里に都したが、1606年島津藩の討伐を受け日本に従属、明治5年(1872)琉球藩が置かれ、尚王家は華族に列せられ、1879年沖縄県制に変更された。 
沖縄の服飾は最初に南方系のイカット絣(結び防染法による絣の技術)を学び、次いで中国系の紋織りを、中国の官制による琉球ファチマチや官服と共に、首里の王朝を中心に上流階級に取り入れた。17世紀に入ってから、大和系(沖縄では古来、日本を「ヤマト」と呼んだ)の色染めの技術や紬織が伝えられ、同時に日本固有の図案、特に絣の図案も入って沖縄の染色界を豊富にしたと言うよりは、むしろ沖縄はこれら三つの系統を融合して独特な味わい深いものを創り出し、世界に稀な高度の染織文化権を築いたと言える。
沖縄の織り 
素材 
沖縄には他県では類をみないほど多様な織物が存在する。素材には、苧麻、芭蕉、絹、木綿、桐板など多くの種類を使用し、用途に応じた織物を織っていた。岡村吉右衛門「南国沖縄・光と技」によると、苧麻は日本経由で栽培され、芭蕉はインドネシア語のバナナを指すピサング(沖縄方言でヒイシャグ)に似ることから、南方経由で持ち込まれたとされる。絹は日本、紬用の長繭は南中国系を起源と考えられ、木綿は儀間真常が1611年に薩摩から種を持ち込んだという記録がある。 
幻の織物とされる桐板(トンビャンまたはトゥンビャン・トンバン)がある。桐板は琉球王府時代から戦前まで用いられていた織物素材で中国から輸入されていた。中・上流階級の間で使用され、繊維は非常に透明でハリがあり、ケバがほとんどなく撚りをかけずに織られるのが特徴で、独特のひんやりとした触感があり夏用素材として珍重された。糸が撚りつぎで作られていることにも特徴がある。 
染料には藍、ハチマチバナ(紅花)クール(紅露)、鬱金(ウコン)、テカチ(車輪梅)、グールー(サルトリイバラ)、楊梅、福木、ユウナ(オオハマボウ)、梔子、日本・海外との交易による蘇木、臙脂など主に植物染料を用いていた。 
技法 
織の技法では、中国から浮織、両段織、絽、南方から絣、花織、日本から紬を取り入れ、読谷山花織(ユンタンザハナウイ)、絣織物、首里の織物[花倉織、花織(ハナウイ)、ロートン織(道屯織)、手縞(ティジマ)、ムルドゥッチリ(諸取切)、花織手巾(ハナウイティサージ)、煮綛芭蕉(ニーガシバサー)]、宮古上布、八重山上布、久米島紬、与那国花織、ミンサー、手巾(ティサージ)など地域によって個性豊かな美しい布を現在も織っている。
衣冠定(衣服定) 
織物は紅型と同様、柄の大きなものほど身分の高い人物が着ることができた。着物の幅に絣が1つある1玉(絣の単位)は王家、身分が下がるにつれ玉数は増え、庶民は主に無地や細縞、8玉以上の小さな絣などを着用した。 
貢納布 
1609年の薩摩侵攻後は王府と薩摩の二重の支配の中で貢納布制度が発展していった。琉球王国は薩摩への貢納品として上布、下布が宮古、八重山へ課せられた。1637年には宮古・八重山に人頭税が課せられ15-50歳の女性は税として布を納めた。村々に機織屋が設置され真っ暗な小屋の中、織女に指名された女性達は役人の厳しい監視の下、1903年まで過酷な労働を課せられた。(笹森儀助の「南島探検」に織屋の記述がみられる。)この貢納布制度により織られた上布は薩摩に渡った上布は薩摩上布の名で流通した。 
御絵図 
宮古、八重と久米島の女性たちはきびしい生活の下、皆機織りをして家計を支えていた。貢納布に加え王府の絵師が描く「御絵図(みえず)」といわれる絣を中心とした織手本が各産地に渡され、原図通りに糸をつくり、染め、機に向かい布を織ることを強いられた。貢納布と御絵図によって島々の女性たちはおおいに苦しめられたが、反面各地に特徴あるすばらしい織物文化が育ち、その結果として現代に伝えられていることも否定できない。
沖縄の織物 
芭蕉布 
糸芭蕉を原料とした織物で、芭蕉布と思われるものでは「歴代宝案」に16世紀後半には貢物・貿易品として芭蕉「細嫩蕉布(サイドンクンプ)」の記述がみられる。「李朝実録」には久米島に漂着した朝鮮人(1456年)、与那国に漂着した朝鮮人(1477年)が芭蕉を苧と表現していたようである。万暦26年(1598年)尚寧王が朝鮮に「土物夏布、芭蕉二〇匹」を贈ったと記される。16世紀には中国への貢物や貿易品として使用され、1609年の薩摩の侵攻以後、薩摩は琉球に対し貢納品として芭蕉布3000反を義務づけた。また、芭蕉布を「上夏布」として南方諸国へ輸出することによって絣や花織の技法を持ち帰ることができたと思われる。染色は植物染料で、藍、赤茶色のテカチ(車輪梅)、琉球王国では公の場で着る朝服(官服)、婚礼衣裳、喪服、神衣裳などにも芭蕉が利用されていた。身分によって使用する繊維の太さが違い、王族は幹の中心部に近い上質で細く柔らかな繊維で織られた芭蕉布を着用していた。糸芭蕉は沖縄の気候に適していたためよく育ち、沖縄各地で栽培され、織物用の糸として利用された。戦前は喜如嘉(山原)、今帰仁、首里(煮綛芭蕉)、竹富島、小浜島、与那国島などの芭蕉に特徴がある。芭蕉は着ごこちがよく王族から庶民まで幅広く着用されていた。
読谷山花織(ユンタンザハナウイ) 
15世紀インドなどの南方系から伝わったと考えられ、「歴代宝案」成化6年(1470年)に琉球が「棋子花異色手幅 二条、彩色糸手幅二条、綿布染手幅 二条」を朝鮮に贈ったことや、成化16年(1480年)シャム国から琉球国に「手幅織花糸黄布一条」が贈られたと記されているが、直接読谷山花織に結びつく記述は少なく詳細は不明である。読谷山花織は綿を素材にした浮織の一種で、綿衣(ワタジン・袷の着物)、胴服(筒袖の短衣)に使用された。紋綜絖(花綜絖)による緯浮の「ヒャイバナ(浮織)」技法で、模様は藍地に白・赤・黄色・緑の緯浮糸で織られ、模様を花に喩え花織といわれる。現在では着尺と帯として約30種類の花模様があり、基本柄としてジンバナー(銭花)、カジマヤー(風車)、オージバナ(扇花)が知られる。読谷山手巾(ユンタンザティサージ)も織られており、紋綜絖(花綜絖)による経または緯の浮織による「ヒャイバナ」と、経糸を竹ベラですくい色糸を縫い取り模様を作る「ティバナ(手花織または縫取織)」の二つの技法を使っている。手巾とは本来女性が肩や髪にかける手ぬぐいであるが、女性が愛する男性のため思いを込めて織ったウムイティサージ(想い手巾)と、兄弟が旅に出るとき旅の安全を願い姉妹(沖縄では古くから女性は家族の守り神と考えられていた)が織ったウミナイティサージ(姉妹手巾・祈り手巾)がある。
那覇の絣織物 
15世紀前半タイ・マラッカ両国王から絣を贈られたことが「歴代宝案」に記されていることから南方伝来とする考えと、図柄の展開が中国のものに似ているということから中国説があり、起源ははっきりしない。絣の図柄はトゥイグヮー(鳥)、ブシ(星)、バンジョウ(番匠)、トーニー(田舟・養豚のカイバ桶)、ウシヌヤーマ(牛馬耕の鋤の手)など生活に関わる身近なものを題材に構成されていた。絣は染色しない部分をあらかじめ別の糸でくくって防染し、染色する。その後、くくった部分をほどく。この糸を使って織ると絣模様を織り出すことができる。くくる方法以外に絵にそって種糸を掛け、墨で印をつけ、その部分を手くくりする技法の絵図絣という技法もある。絣には経絣、緯絣、経緯絣があり幾何学的な柄を組み合わせて織られることに沖縄の絣の特徴がある。琉球絣とは本来沖縄各地(戦前の那覇の産地は泊、小禄、崇元寺など)で織られる絣の総称だが、戦後、南風原で絣織物を復興させ主要な産地となったことから、南風原で織られた絣を琉球絣というようになる。現在は主に絹を素材に織られている。 
首里の織物 
王都首里に生まれた織物で紋織などを使った美しい織物。花織に関連する資料として、「球陽」6巻、尚質王12(1659年)首里の国吉が進貢使とともに中国に渡り浮織を学んだことが記されている。変化に富んだ多様な織が特徴で、花倉織、花織(ハナウイ)、ロートン織(道屯織)、手縞(ティジマ)、綾の中(アヤヌナーカー)、ムルドゥッチリ(諸取切)、花織手巾(ハナウイティサージ)、煮綛芭蕉(ニーガシバサー)などがあり、首里で身分の高い人々に着用される織物であった。王府内では織の技術の高い地方の平民の女性を選び「布織女」として御用布の製作にあたらせた。また、士族階級の女性が家族のために織ったともいわれ、王妃や王女なども糸を紡ぎ機に向かっていたようだ。 
【絽】 2本の経糸を交差させて織る技法。交差させた部分の緯糸に隙間があき紋様となる。 
【花織】(ハナウイ)緯糸が表に浮き経糸が裏に浮く両面浮花織のことで、両面使用できるる。 
【花倉織】 絹を使い絽織と花織が市松模様に織られ、王妃・王女や祝女(ノロ)の最高位である聞得大君が着用していたとされる特別な織物。 
【ロートン織(道屯織)】 中国から伝わった紋織布の両面とも経糸が浮く両段織で、主に上流階級の男性の着物として織られた。 
【手縞】(ティジマ) 絹や綿の織物で2色の撚糸を施した複雑な格子の中に絣をつくる織物。 
【ムルドゥッチリ(諸取切)】 すべて(ムル)絣(トゥッチリ)の意味。ほとんどの経糸、緯糸が絣糸で構成され、御絵図にみられる経緯の色絣が特徴。崩れ格子(クジリゴーシ)とも言われる。 
【煮綛芭蕉】(ニーガシバサー) 芭蕉の柔らかい芯部分を使い灰汁で漂白、様々な色に染色し官服、絽織などにされた。糸は撚り継ぎで作られていた。 
【花織手巾】(ハナウイティサージ) 縫取織の技法で絣、縞を組合わせた手巾。他の地域の手巾と同様、夫や兄弟のお守りの他、外国への贈答にも使われた。ほかに縞と縞との間に絣を入れた綾の中(アヤヌナーカー)などの織物もみられる。
宮古上布1 
宮古島で栽培した苧麻を手績して糸を作り、手括(てくぐ)りや絣糸とし、琉球藍と蓼藍を混ぜた液で染め、高機で織りあげたもので、重要無形文化財指定を受けている。宮古上布には白絣もあるが、南国の自然をモチーフとした織り柄と黒に近い濃藍とが大きな特徴で、その艶のある深い藍の色合いは、織り上がった布地を水洗いして澱粉をまぶし、木槌で1万回も叩き続ける「きぬた打ち」や染めては乾かし染めては乾かす作業を1週間も繰り返す丹念な布染めによって生まれるものである。宮古上布の生産は、16世紀後半から続けられているが、現在着尺の生産は大幅に減少している。
 
宮古上布2 
苧麻(方言でブー)を原料とした織物で、宮古上布の起源は稲石という女性が、進貢船を難破から救った夫の昇進に感謝し、尚永王に「綾錆上布」といわれる布を織り、献上したことにはじまる。苧麻などの繊維から糸をつくることを績む(うむ)という。染料には藍を使用した紺地の上布が特徴である。絣模様を1本1本指先で揃える緻密な柄が織られた。明治期に奄美より締機を用いた絣技法が導入され、細かな十字絣の「蚊絣」による宮古上布が織られるようになった。 
八重山上布1 
17世紀初め、薩摩への献上布として知られていた八重山上布は、石垣島が産地である。経苧麻糸、緯苧績糸(おうみし・手績糸)を使い、同島産の紅露芋の色素で絣を焦茶に染めたもので、わが国唯一の茶絣上布となっている。平成元年4月に伝統工芸品指定を受け、その技法は苧績糸または苧麻糸を使い、絣染色は手括りか、手擢りこみによる先染とし、緯糸の打ち込みは手投抒(ひ)を使って平織とすると定められている。
 
八重山上布2 
起源は定かでないが、薩摩の貢納布のため織られたことがはじまりと考えられる。宮古上布同様厳しい人頭税の下、八重山の女性達も過酷な労働を課せられた。貢納布として宮古島は藍地・八重山は白地を織るよう指定された。原料は苧麻で絣は手括りのものと、染料にクール(紅露)を使い刷毛で直接糸に摺り込む(捺染)摺込絣がある。仕上げに海水に晒す海晒しによって白地はより白く、絣の色はより濃く仕上げられる。 
久米島紬 
絹を原料とした織物で、15世紀頃堂之比屋が中国から養蚕技術を学び伝え、「上江洲家家譜」、「琉球国旧記」(1731年)によると万暦47年(1619年)越後の宗味入道(琉球名:坂本普基)が沖縄に渡り、尚寧王の茶道職を勤める傍ら養蚕技術を得ていたため王の命により久米島に養蚕技術を伝えたとされる。他に「仲里旧記」(1706年)、「琉球国由来記」(1713年)、「琉球国旧記」(1731年)、「具志川旧記」(1743年)に久米島紬に関連する記述がある。久米島紬の染料はテカチ(車輪梅)、グールー(サトリイバラ)を泥媒染したもので仕上げに砧打ちで風合いを出す。焦茶色の地色が一般的だが、上江洲家の御用布裂地帳によると王府時代の久米島紬(御用布)には、ユウナを使ったグーズミ染めによる灰色絣や地色に紅・黄色・藍など多くの色も存在していた。
ミンサー 
ミンサーとは綿(中国語でミン)、狭(サー)で、綿狭帯の細帯を指す。沖縄では古来から衣服の着用に帯は用いず、腰紐に着物を押し込むウシンチーという着用法が一般的であるが、厳しい労働に従事する庶民は着物が解けないよう藁帯などの帯をきつく締めていた。田舎は自由恋愛による婚姻制度であったため、女性が想いを寄せる男性に帯を贈り、モーアシビ(毛遊び・若い男女が月夜の下、農作業後に野原に集い三味線に興じ唄い踊る出会いの場)で男性が女性から贈られた帯を締め、互いの愛情を確認しあう証として織られていた。男性は結び目を後ろにし、女性は前で結んでいた。竹富島の竹富ミンサーや小浜島の小浜ミンサーは絣が5つ玉と4つ玉が1対で、配偶者となる男性に「いつの世までも末永く.....」という願いを込めて贈られた。帯の両端の縞はムカデ文様で「足繁く通う」という意味であるが、いつ頃からこのような柄が織られていたか不明である。柱に糸を結びつけ織った花柄が特徴的な読谷山ミンサー、藍染の無地のミンサー、那覇ミンサー、綾中に鳥くずし絣文様の与那国ミンサーなど沖縄各地で細帯が織られていた。奄美大島では、女児の織り遊びとして、細帯が織られていたという記録がある。 
与那国織 
「李朝実録」(1477年)に与那国島に漂着した朝鮮人が、与那国や黒島では苧麻で布を織り染料には藍を用いていると記されており、15世紀後半には織物が存在していたようである。原料は苧麻、芭蕉、木綿、絹などで絣はほとんど見られない。苧麻に木綿などの経縞格子など庶民の仕事着となる与那国ドゥタティ、10種類もの花柄を幾何学に織る与那国花織、経縞の中に夫婦を白絣で現すミンサー織の与那国カガンブー、緯糸を織り柄を浮き出させる手巾の与那国シダディがある。
 
スクリーン捺染

 

スクリーン捺染 
日本の女性たちが好んで着用するテキスタイル捺染品は大体において、スクリーン捺染によるものが多い。スクリーン捺染の染型は日本の友禅加工に使われる型紙がモデルになっている。スクリーン捺染の元祖は日本だと主張する説もある。京都近代染織技術発達史(京都市染織試験場発行)の中にも書かれている。 
それによると「明治40年(1907)に英国マンチェスターのサミュエル・シモンが、スクリーン捺染に関する特許を得ているが、その後、欧州を中心にスクリーン捺染について研究が進められ、大正14-15年頃に大量生産を可能にしたリヨン式がフランスで花開いた。この方式はドイツにも波及した」と伝えている。 
日本の型紙利用による友禅模様(色柄)を巧みに表現する技術が、欧州のスクリーン型枠利用の捺染方式に、どのように結びついたのか具体的な資料がない。しかし19世紀から20世紀の初めにかけ、フランスやその周辺の欧州諸国で、日本の浮世絵の美しく繊細な表現に注目した画家や美術関係者が多かった。浮世絵は各色別に、型紙にヒントを得た製版を用い、紙に対して色を刷り重ねることで、人物、風景を見事なまでに精密に表現した。その刷り込み技術をテキスタイルプリントに、なんとか応用したいと、当時の欧州人なら考えそうなことである。
フランスでリヨン式と称するスクリーン捺染作業方式が実現したことと、後にドイツでスクリーン捺染用の製版技術が結びついたことで、スクリーン捺染生産はローラ捺染の存在を脅かすようになった。スクリーン捺染が、幅の広い生地を楽々と捺染できるようにしたからである。 
型紙使いの友禅方式では、作業がしやすいように小幅の布を台上に貼りつけ、その上へ型紙を置いて、駒ベラを用いて色剤を型紙を通し刷り込んでいく必要がある。これでは能率的な捺染生産が出来ない。 
その解決策として、サイズの大きいスクリーン染型(シルク紗使用)を平台上に置いて、色糊を染型上に流し入れ、その色糊を長い棒の先端に横状箆(ヘラ)になった方式で往復1回スキージング(掻く)で捺染できるようにした。印捺が終われば、印捺した個所の隣接部分へ染型を順々に移してスキージングを繰り返した。この方法だと能率が上る、これがリヨン式である。この方法を後に鐘紡が採用した。 
第一次世界大戦後、リヨン式のスクリーン捺染方式はイタリアのコモへ継承された。コモでは長い平テーブルの上に布を張り合わせ、テーブルの左右に一人づつ作業者を配置して、テーブル片側の1人が平テーブル上のスクリーン染型上に色糊を入れ、それを作業者が両手でスキージを押すようにしてスキージング、そのスキージを平テーブルをはさんで、真向いに位置する作業者が受け取りスキージング、スキージングが終われば、染型を順々に隣接部へ移しスキージング作業を繰り返した。これがコモ式である。 
このような作業を向上させるためには、染型の改革を必要とした。それがドイツで研究された写真型技術である。ドイツから写真製版技術が日本に入り込んで、日本の手捺染方式(スクリーン染型使用)が発達した。 
日本、リヨン、コモにおける手捺染方式のテーブル形状は、それぞれ異なった形で進歩発展した。リヨン、コモの手捺染テーブルは平テーブルでソフトベッド、日本は傾斜テーブルでハードベッドという形で作業内容が分極化した。
版画の役割 
版画は現在において芸術、デザイン、出版など様々な分野で活用され生産する一つの行為として大きな役割を果たし発展している。版画は複数制作されることで少々低く見られる面はあるが、逆に作家の一瞬のインスピレーションにより生まれた作品をより多くの人々に伝えることが出来る方法である。版画がここまで発展してきた理由として、技法の多彩さと複数生産が可能であったからだと考えられる。 
ヨーロッパでの版画の歴史的流れと技法について触れる。版画の始まりは信仰の普及と聖なるしるしの量産、多量写しの行為からとされている通り、もともとは聖書等の書物生産からの発展からだと考えられている。ヨーロッパでの書物生産は十五世紀あたりまでは、「写本」という形で手書きによって行われてきた。この行為がいつから始まったかというのは定かではないが、十二世紀以前の写本生産は修道院が中心となり聖書、詩篇などを装飾写本として制作をした。十二世紀以降には各地に高位聖職者の養成を主目的とする大学が生まれ教育に必要な教科書等を制作する書籍業者が多く店を出すまでに広がった。しかし、1400年直前に木版を生地に転写する「捺染」の技術が生まれるなど印刷術の興隆によって写本生産は消滅した。 
捺染の技術が生まれページを一枚の版木に彫り、紙に転写して一度に多数の同一コピーを生むことが可能となった。これは部屋の飾りや、魔よけの役を果たし巡礼地、教会のミサや定期市に集まる信徒たちに売る目的で摺られた。木版は写本に比べ多く生産することが出来たが、木という柔らかい素材を使用しているため、版木がすぐ摩滅してしまい、摺り、貼り合わせる仕事に時間がかかり経費などもかかるということで別の手法が模作されるようになった。
銅版の始り。現在までに様々な事例があげられているが、ドイツ、オランダ、イタリアにおいてほぼ同時期に発明されたというのが穏当だ。しかし一説に全く別のスイスで発明されたともいわれている。現在知られている最古の銅版画が1430年代に出来たものらしく、技術的にも芸術的にも非常に優れていることから起源はそれ以前と考えられ、大体1420-30年代とみられている。ドイツの銅版画は1430年代頃ラインの谷に生まれたものらしく、ほぼ同時代にイタリアなどでも同等の完全さを具えた初期銅版画が生まれている。銅版画の初期の歴史において、上部ライン地方が優れているとされ、この地方でおよそ50年間に3人の優れた彫刻銅版画家を生んでいる。それは「カルタ絵の作家」といわれる金銀細工師とマスターE.S. 、マルティン・ションガウウェル(1445-1491)で、3人とも金銀細工師であると同時に銅版画家でもあった。前述のようにドイツの銅版画は1430年頃生まれたとされ、それを最初に実用化したのは金銀細工師だった。この時代の金銀細工師は儀式の器物や教会のメダル、聖杯、聖体顕示台の装飾など非常に美しいものを創りだした。金属に彫られた図案にインクをつめ紙を上に乗せプレスしてその図案を写し取り、その彫金からとられた版画は最初に細工師の長や、それら工芸品の讃美者たちに図案の見本として与えられた。工芸家たちによって一種の版画が誕生し、細工師を兼ねていた彫刻銅版画家達は新しい技術を画家の心で芸術として自分のものにしていった。 
石版画は1796年にミュンヘンの劇作家アロイス・ゼネフェルダー(1771-1834)が、偶然の機会に大理石面に水と油の反撥作用で平らなままに油性インクの付くところと付かないところをつくる、平版の原理を発見した。石版が世界的に広がるのは発見から半世紀を越えていた19世紀の前半だった。それでも世界に広がってからは、新しい刷りもの技術は石版といわれるまでの全盛期を通過してきた 。 
シルクスクリーンは古くから使われてきたステンシル(型紙)による印刷を、洗練し発展させたものである。この技法は1910年代にアメリカで多色刷りが成功したこと、また一つの型から数千部も印刷できることから、多くの作家や職人達が様々な実験を試みるようになった。
明治印判の世界 (印判概史) 
骨董的にはあまり注目されていない明治以降の印判製品であるが、日本の陶磁史においては一時代を画す重要な位置づけの製品群である。極端に言えば現代のやきもの産業に直結する窯業技術革新の曙である。 
古伊万里をはじめとする骨董磁器に興味を持つ人間なら誰も、明治期以降の印判製品のことは知っている。しかし、もう緒から興味の対象外として注目することは稀である。私もそんな一人であったのだが、フッと染付の印判というのはどんな風に作られたのかなと考えた時、漠然と「型で印刷してるんだろうな」としか思い浮かばなかった。染付を専らとして磁器を眺めてきた私にとってまことに遺憾な状況だった。改めて注目し概要を得るところまで調べたのでここに纏めてみた。 
印判技法の必然性 
明治時代になると従来のやきもの生産の制約が廃止され、自由に生産が可能になった。窯の数は急激に増え、その生産量は飛躍的に増加した。日常用器として国内の需要の裾野も益々広がり、これに対応するため大量生産への技術革新の要求が高まった。ここで最大のネックとなったが生産量増加に伴う絵描きの絶対数不足と手間のかかる絵付け工程の改善だった。多くの地域で絵付け技法の模索が積極的に行われ、こうした背景のなかから、同一の文様を簡単に繰り返し描くことのできる印判技法が開発されてきた。
印判の種類 
印判と呼ばれる作品群は、大きくは「摺絵」と「転写」の2つの技法がある。その他「吹墨」「ゴム印」も印判に総称されが、技法的にイメージできるでここでは省略する。 
摺絵転写/「摺絵」と呼ばれる技法が肥前ではじめられた。これは型紙摺りとか型絵、型画染付ともいわれ、文様を彫った型紙を器面にあてて、その上から刷毛などで絵具を刷り込んで絵付けしたもの。特徴は、型紙に文様を彫りあけることから、連続した線で模様を書くことが出来ない。型紙がばらばらにならないように不連続の穴にしなければならない。したがって文様を形作っている一つ一つの染付部分には必ず切れ目があり、繊細な表現が難しい。 
続いて「転写」と呼ばれる銅版印刷法が用いられるようになったが、これは絵柄をエッチング技法で刻み凹版をつくり、この版を用い顔料を特殊な紙に印刷、これを生地に転写することで絵付けを行う方法だ。文様が鉄筆の細い線で構成されるため、細密な表現が可能で、全体としてシャープな感じをあたえた。 
「印刷」という技術の根幹は多様な変遷発達をとげながら、現代窯業において汎用製品のほとんどの絵付けを行うものとなっている。 
「摺絵」は明治の初期に肥前大樽の牟田久次が作り始めたという説と、明治7年に肥前の松尾喜三郎が発明(再興)したという説がある。型紙摺り自体は、布の染色の技法から転用されたものといわれ、古くは江戸中期にも行われていた。この時期のものは江戸中期末には行われなくなり、技術的には途絶したと解釈されている。いずれにしても「摺絵」は肥前において明治10年頃から生産が本格化し、量産食器の絵付け法として盛んに用いられるようになった。この摺絵の技法は、明治15年頃までに砥部や美濃など各地の磁器生産地にも伝わり、以降全国の磁器を生産するさまざまな産地で用いられた。手書きで表現できない伊勢小紋など染色の図柄が陶磁器に応用されて大いに流行した。しかし、その後現れた銅版転写の技法に漸次移行し、肥前や美濃でも大正期には廃れたようだ。
「銅版転写」の萌芽は18世紀中葉、イギリスにおいてやきものへの印刷技術の応用が成功したことにはじまる。その後イギリス、オランダで完成され、いった銅版製品は長崎の出島を通じて江戸時代後期のわが国にもたらされた。この時代、製品に接した窯元のいくつかは銅版印刷を試行したようだ。1850年前後(弘化、嘉永)名古屋の川名窯、京都の五条坂窯、美濃の里泉窯などが試みている。ただし当時の呉須が銅版印刷に適さなかったようで淡い発色しか出せず、そのせいか間もなく衰退した。その後我が国では明治21年美濃で銅版印刷が本格的に試みられ、苦心の末1889年(明治22年)加藤米次郎・元次郎(多治見)が銅版下絵を完成させ特許取得した(しかし開発に携わった者の中に勝手に美濃、瀬戸の窯に伝承する者がいて特許の効果はなかったようだ)。こうして銅版転写の技法が確立、美濃、瀬戸地方で普及、本格的生産が始まった。肥前へは、明治24年頃、愛知・瀬戸から原某という者が染め付けの銅版転写法を普及しに赴いたらしい。だが肥前窯業地では当地開発の「摺絵」、紙型捺染法が盛ん行われており、さらに元来手書きの伝統を誇ってきたプライドもあったことから、銅版転写を軽視し普及に至らなかった。したがってこの時期の銅版転写製品は圧倒的に美濃瀬戸の品が多い。肥前でも時代の流れには抗しきれず、明治20年代後半にはドイツから銅版印刷の機械を輸入、明治30年にはそれを摸して国産銅版印刷機を開発している。こうして肥前の各窯場も銅版転写の製品に移行、大正時代には印判製品は完全に「転写」にとって変ったようだ。 
銅版転写のほうがより鮮明な図柄を描き出すことが可能であることと、大量生産では型の寿命もコスト経済性において重要な要素であることから、型紙に比べ圧倒的耐久性をもつ銅版の優位性に席巻されたということか。その後肥前窯業は、大正10年頃から昭和戦前に至ってのイゲ皿全盛期、日常用器としての印判(銅版転写)製品の大生産地となった。
銅版転写技法の確立 
銅版転写技法は江戸後期にも試行されたが確立するまでには至らかなかった。銅版印刷は、防蝕剤を塗った銅版に鉄筆で絵柄を彫ったあと、硫酸銅や塩化第二鉄を塗って鉄筆跡を腐食させ凹版をつくる。次に、木製のコキ板と呼ばれる道具で、銅版に顔料を刷り込み、印刷機で和紙にプレスして写し取り、この転写紙を器面に水刷毛で貼り付け、図柄を付着させた後、和紙だけをはがすことによって絵付けをするというもの 。 
一見手間はかかるようだが、一旦原盤を作れば鮮明な画像の下絵転写紙が容易に大量に作れること、これを使用することによって絵師でなくとも安定した絵付けができること、型紙に比べ圧倒的な原版耐久性があることから印判製品の主力技法となったようだ。 
この銅版転写の技法は現代窯業においても絵付法の一つとして、そのまま採用している製品群もあり、この時期すでに絵付技法として完成確立されたということで、特筆すべき点である。 
銅版転写で興味深かった技術的事項を列挙する。 
「顔料」明治になってゴットフリート・ワグネルの指導により一般的に使用されるようになった酸化コバルト(ベロ藍)によって、明るく鮮明な発色が得られるようになった。 
「印刷インク」顔料を糊と混ぜてペースト状にして使用した。この糊は白笈という紫蘭の球根で作られたもので、転写紙の和紙に乗りやすく、水刷毛で器面に付着させたあと紙だけが剥がれやすいという性質をもっていた。白笈は現在の転写でも使用され、その性質は代替品のない優れたものだ。現在は中国からの輸入によっている。 
「転写紙」当時苦労したのが転写紙であった、ドイツ、フランスの転写紙に匹敵する紙が得られず試行錯誤を繰り返したようだ。大正後半に名古屋の日本陶器がそれらに劣らない転写紙を造ることに成功、一段と転写技法が普及した。 
「下絵印刷」(下絵付け=釉下彩)皿、鉢も立体で器面は曲面である、これに平面の一枚の紙で模様をつけることは不可能なことで、模様は複数に分割されて印刷された。この部分模様を大量に印刷しておけば、貼り付け転写の工程は絵師でなくとも出来、分業で効率的に絵付けがでるようになった。印判製品で模様がずれたり、隙間が開いてたりするのはこのためだ。
リトグラフ 1 
リトグラフは現在のオフセット印刷のルーツで、リトグラフが発明されなければ、印刷の現状は大変違っていたと思われる。およそ文字以外のイラストレーション、つまり視覚的なイメージ、絵とか、図版、写真といったものの印刷には、絶対といってよいほどオフセット印刷が利用されている。リトグラフは1798年ミュンヘンにおいてアロイス・ゼネフェルダー(ALoys Senefelder 1778ー1834)によって発明されたが、現在であればノーベル賞級の発明に値するほど画期的なことであった。当時、文字以外の絵、図版、楽譜などの印刷は、木版、銅板によるしかなく、版種の性質上、大変な時間と費用を必要としていた。そのため、安価に、そしてより速くイメージを印刷する技術がおのずと要請されていたのである。ゼネフェルダーはこの時代の要請を自己のものとして、工夫、探究の結果、リトグラフを発明。偶然が彼にヒントを与え、必要性と自然とが一体となって、このリトグラフ、つまり石版画は実現された。ゼネフェルダーは俳優であった父の死後、一家の生計を立てなければならなかった。そこで、日ごろから関心のある戯曲や楽譜の印刷に目を向けた。そしてゾールンフォーフン産の石灰石((ほとんど、成分は炭酸カルシウム)を用い、石凸版印刷を試み、数々の実験と失敗とを繰り返したのである。1796年のある日、実験に用いていた石の上に、ワックス、せっけん、ランプブラックで作ったインクで書き留めておいた。しばらくして消すべく硝酸でふいたところ、インクは石面に固着して取れない。そこで試みにプリントインクをつけてインクの上にのせ、紙を伏せると、文字が写ったのである。これにヒントを得て具体的な技術を研究し、ほぼすべてのリトグラフ技法を1798年に確立したのだ。
リトグラフ 2  
アロイス・ゼネフェルダー(Alois Senefelder、プラハ生まれ1771/11/6-1834/2/26ミュンヘン没)オーストリア帝国(現在のチェコ)の俳優・劇作家であった。1796年偶然からリトグラフ(石版画)を発明し、印刷技術の進歩に貢献した。俳優であった父親がプラハの舞台に出演していた際に生まれた。彼はミュンヘンで育ち教育を受け、インゴルシュタットで法学を学ぶ奨学金を受けた。1791年に父が没すると、彼は母と8人の兄弟姉妹を養うために学業を半ばであきらめ俳優となった。彼の書いた戯曲「娘達の鑑定家」(Connoisseur of Girls)は大いに成功した。自分の戯曲「マティルデ・フォン・アルテンシュタイン」(Mathilde von Altenstein)の印刷をめぐる問題により彼は多額の借金を背負い、新しく書いた戯曲を出版する余裕がなくなった。彼は自らエッチングで印刷用の原版を作ろうとし、インク製造台としてゾルンホーフェンで産出されるきめの細かい石灰岩の板を買った。ある日彼は油性クレヨンで石灰岩の上にメモを書き、後で硝酸で洗い落とそうとしたがクレヨンの跡が残ってしまった。この跡の部分にはよく油が乗ることに気付いた彼は、油性インクで石灰岩上のクレヨン跡に書き、紙を押し付けたところ紙にインクの形を転写することに成功した。彼はこうして、板を彫ったりして凹凸を作らずに済む、平面のままの印刷用原版を作る方法(平版印刷術)を発見した。彼は実験を進め、石灰石の上に耐酸性の脂肪クレヨンで直接字を書き、上からアラビアゴムと硝酸を混合した弱酸性溶液を塗ることで石灰岩に化学変化を起こさせる方法を編み出した。クレヨンで書いた部分には脂肪と硝酸が反応して脂肪酸ができ、脂肪酸は石灰岩の中のカルシウムと反応して油性インクの乗りやすい脂肪酸カルシウムができる。一方クレヨンで書かなかった部分には水を保つアラビアゴムの皮膜ができる。この石板の上に水をたっぷり乗せ、ローラーで油性インクを押し付けると、クレヨンで書いた部分にはインクが乗り、書かなかった部分は親水性の皮膜によって水が油性インクをはじいて、結果クレヨンで書いた部分だけにインクが残る。この上から紙を押し付ければインクが紙に移り、文書の完成である。彼は音楽出版社を営んでいたアンドレ家と共同で次第にこの原理を実用化できる技術へと変えていった。彼は石灰岩やクレヨンを化学変化させる方法と、インクを石板から紙に転写するプレス機の仕組みを研究し、これを完全なものとした。
2年後の1798年に完成した印刷術を彼は「ストーン・プリンティング」「ケミカル・プリンティング」と呼んだが、フランス語による「リトグラフィー」(lithography)がより広まった。ゼネフェルダーはヨーロッパ中でこの特許を取得し、その発見のすべてに関する書物を1818年に出版した(Vollstandiges Lehrbuch der Steindruckerei、「石版術全書」)。1819年には英語とフランス語にも翻訳された(A Complete Course of Lithography)。この本は彼が石版印刷術を発見した経緯と石版印刷術を行うにあたっての実践的な解説とを合わせた内容で、20世紀初頭まで広く読まれた。彼はリトグラフの可能性を芸術の分野にも広げた。エングレービングなど熟練した技術を必要とする従来の版画とは違い、リトグラフは画家本人が慣れ親しんだペンで直接石の上に描くことが可能だった。1803年には早くも、アンドレ社はロンドンで芸術家達の作ったリトグラフを収めた画集「ポリオートグラフィの見本集」(Specimens of Polyautography)を出版している。 
1810年代にはリトグラフは美術の新しい技法として、また大量印刷する商業出版物のための簡単で早い図版制作技法として急速に普及した。彼の死後の1837年、リトグラフはさらなる改良により、複数の版を使うことによるフルカラー印刷ができるようになった。このクロモリトグラフィー(chromolithography)は最初の多色印刷術であり、CMYKの四色印刷によるプロセスカラーが導入されるまでは最も重要なカラー印刷技法だった。ゼネフェルダーはバイエルン王国の国王マクシミリアン・ヨーゼフから勲章を贈られ、リトグラフ用の石材が産出されるゾルンホーフェンの町には彼の銅像が建てられた。 
アロイス・ゼネフェルダーの印刷における功績は、18世紀の「ステレオタイプ」の発明者ウィリアム・ジェド(William Ged)、蒸気で動く高速印刷機を発明したフリードリヒ・ケーニッヒ(Friedrich Koenig)、自動的に活字を鋳造するライノタイプを発明したオットマール・マーゲンターラー(Ottmar Mergenthaler)らの功績に匹敵する。リトグラフは印刷物を人々の手に入りやすいものにし、美術と新聞の分野に重要な影響を与えた。
リトグラフ 3  
アロイス・ゼネフェルダー(Aloys Senefelder・1778-1834)リトグラフの発明者、ハヴャリア王石版印刷所設立、石版印刷術、技法書を出版。リトグラフは水と油の反撥作用を利用した科学的印刷である。石灰石を研磨し、脂肪性のクレヨンか解き墨を使って描画する。その上にアラビアゴムの水溶液に2%の硝酸を加えたものを塗布。24時間をおくと化学変化により、絵を描いたところにはインクがのり、描かないところは水を保つようになるのでインクがのらない。これを印刷機にかけ印刷するのだ。ゼネフェルダーは画家ではなかったので、初めから芸術作品としてのリトグラフ印刷を考えていたわけではなかったが、後この技法が広まるにつれ、芸術表現に応用しようとする人々も現われた。ゼネフェルダーによって発明されたリトグラフは、彼の手を離れ独り歩きを始めた。石を使ったこの技法は、オリジナル版画、芸術作品の複製手段として、またポスター、ラベルなど、さまざまな商業印刷として発展した。 
リトグラフの最大の特徴は、石面にリト用クレヨンまたは解き墨で描いたものが、そのまま版画になるという点だ。描き方は自由自在で、版画の中では一番多様性と可能性があると思う。クレヨンやペン描きによる単純な線描き風のデッサンから明暗のしっかりしたもの、筆や布を用いたもの、ぼかしたり霧を吹いたり、布や葉に解き墨をつけて石面に押し付けたりしたものなどなど。重厚なマチエールをすることもできる。また転写紙を使えば、左右逆版になるのを気にせず、紙にデッサンするのと全く同様に、描いたものがリトグラフとなる。印刷は墨インクばかりでなく、カラーインクで多色刷りをすれば、色鮮やかな魅力的なものにもなる。現在、芸術作品としてのリトグラフは、アーティスト自身が版に絵を描いたものをオリジナルとしている。印刷の方法も、アーティストが自画自刷りしたもの、専門のプリンターがインクを手盛りして手引き印刷機で刷ったもの、モーター自動印刷機を使ったものなどさまざまである。
1800年代初め、ナポレオンはリトグラフに関しんを示し、部下をミュンヘンに派遣して技法を習得させた。そして軍事上のさまざまな印刷物を印刷したり、自己の戦いの状況を描かせて大いに宣伝した。情報を幅広く伝達する手段としての写真の出現以前に、報道写真的役割をしていたのである。 
当時フランスでは、英雄ナポレオンの出現により、芸術分野にも高揚がもたらされた。新古典派、ロマン派のそうそうたる画家たち、ダヴィッド、グロ、アングル、ジェリコー、ドラクロア、ヴェルネ、シャルレなどを輩出し、彼らはリトグラフ技法により質の高い作品を製作した。夭折の天才ジェリコーはロンドンの貧民や馬をリトにし、友人であったドラクロアも「ファウスト」「ハムレット」の挿絵を描いた。その後ブレダン、ラトゥールや印象派の画家たち、マネ、ピサロ、ルノワール、セザンヌ、ドガもリトを製作している。ラトゥールにリトの製作を勧められたルドンは、やがてリトグラフに熱中、「夢の中」「聖アントワーヌの誘惑」「ゴヤに捧ぐ」などリトグラフ集を製作、静寂な精神世界を深い黒の中に表現している。
 
更紗

 

更紗 
イランの伝統ある手染め布、ペルシャ更紗。美しい、独特の模様と色合いが見る人の目をひきつけて離しません。この「更紗」とは、いったい何なのでしょう。 
「更紗」とは?そもそも「更紗」とはなんなのでしょうか。 
世界各地でさまざまな発展を遂げ、日本の染織りにも深く影響を及ぼしたこの「更紗」、その多様さも手伝ってはっきりした定義が難しくなっているのですが、「花や人物などの模様を染めつけた木綿の布」というのが、おおよそ共通した認識になると思われます。 
日本で「更紗」というと、美しく高価な絹の着物地を思い浮かべる方も多いかと思います。それは、シルクロードにのって運ばれてきたこの「更紗」がその異国情緒で人々を魅了し、「和更紗」と呼ばれる日本独自の更紗を発展させ、現代に伝わるからなのです。もともとはインドで作られ始めたというこの更紗、シルクロードに乗って西へ東へ運ばれて、それぞれの国で独自の発展を遂げ、その多くはペルシャ更紗のように今なお染められ続けています。 
「更紗」の語源 
日本語の「更紗」は実は「サラサ」に漢字を当てたものであり、その語源にはさまざまな説があります。未だ定説はないのですが、インド語で「美しい織物」を意味する「サラサー」を語源とする説、ポルトガル語の「美しい布」「サラシャ」だという説、またはインド西海岸の古い港町「スラット」がなまったものだという説などそれぞれ更紗の歴史を反映しながら、なるほどと思わせる所が面白いところですね。更紗の原産地は、インドであると言われています。
木綿という布は絹や他の繊維に比べて染色が容易で発色もよい為、美しい模様を描くのに非常に適した素材といわれるのですが、インドはこの木綿の原産地のひとつといわれています。紀元前3千年ごろにはすでに綿織物が作られ、手書き更紗が染められ始めたということです。古代エジプト、ローマの貴族たちもインド更紗を愛用していたという話ですから、その歴史の深さがおもんばかられますね。 
初期の更紗は「カラムカリ(ペルシャ語の「ガラムカール」ですね。)と呼ばれ、ペンのように先の細いもので部分的にろうけつ染めが使われていました。現在も手書き技法、木版ブロックプリントを併用した技法、ろうけつ染めなどがあり、特に近年では木版染めが盛んになっています。 
この、インドで発祥した更紗は西へ東へ、世界中に運ばれてそれぞれの地域で独自の更紗を生むことになりました。西方へはまずお隣のペルシャ、そして大航海時代を経て何とヨーロッパにも広がります。「チンツ」の名で知られるイギリス更紗、ペルシャで技術を学んだと言われるフランスのジューイ更紗、華やかでかわいらしいドイツ更紗、そしてアジア各国の更紗をその船で持ち帰って世界に伝授した国、オランダの更紗など、現代の欧風花模様プリントのきっかけともなっていったのです。 
そして東方では、仏教色強いタイのシャム更紗、「バティック」の名前で日本でもよく知られるジャワ更紗、洗練された中国更紗、そして日本の和更紗などが生まれました。 
文様も手法もそれぞれの国でさらに独自の発展を続けた更紗はそれぞれ一見まったく別の布のように見えるのですが、どことなくかもし出される「異国情緒」、そしていちめんに染め上げられる密度濃い文様という特徴は、更紗の更紗たるゆえんをなお残しているといえるでしょう。
更紗の模様 
ここで説明する更紗の模様は、主にインド更紗のものですが多くはペルシャ更紗の模様とも重なるものになります。 
樹木模様(糸杉模様) 
古代、東方では樹木は生命や不死の象徴として尊ばれていました。もっとも古い樹木模様は、樹木の左右に有翼の守護神を描いたものといわれています。この樹木模様はイスラムの聖樹として神聖視されている、糸杉の模様へとその伝統が受け継がれていきます。「永遠の生命」を表し、イスラムの聖樹となっているこの糸杉模様はまた、ペルシャにイスラムがもたらされたときから、ゾロアスター教徒(拝火教徒)が炎の形をなぞらえて絨毯に織り込むようになったとも言われ、興味深いものです。 
ペイズリー模様 
ペイズリーの発祥については定説はないのですが、糸杉が風に揺れている様子を表したものという一般的な説があります。糸杉が曲がったような形をし、輪郭中に草花が描かれたり、母子のように大きいペイズリーと小さいペイズリーが重ねて描かれたり、さまざまなバリエーションがあります。このペイズリー模様は特に、ペルシャ更紗に多く見られます。
唐草模様 
唐草模様は古代エジプトのナイル川岸のロータスを描いたものが原型であるといわれています。ギリシャのパルテノン神殿の装飾にも見られるこの唐草模様はローマ、中近東を経てさまざまに変化・発展し、インドでは華やかな花唐草となりました。ペルシャ更紗で非常に多く見られる唐草模様は、ペルシャ絨毯においてもさまざまなバリエーションで美しく織り込まれています。時にブドウの蔓を思わせ、時に花や葉を付けながら美しく巻きつけるこの唐草模様は、東西各国でそれぞれの特性を取り入れながら表現されています。 
花束模様 
唐草模様に比べ、より自然な形で表現される花束模様は、切花の花束の形や地面から生えた形で表現されます。ペルシャ更紗では洗練された雰囲気の小ぶりな花束模様がしばしば染められ、ヨーロッパの影響の濃いものも良く見られます。 
人物模様 
インド更紗の人物模様は、ヒンズー教の神話を素材にしたものや、異国の人々を題材にしたものが多く見られます。ペルシャ更紗では、王とライオンの図柄などペルセポリス遺跡のレリーフ模様に見られる模様や、、またレイリーとマジュヌーンの物語など、物語を主題にしたものも多く見られます。 
動物模様 
動物模様では、トラや鹿、、鳥などさまざまな動物が花や唐草、ペイズリーなどと組み合わされて幻想的な美しさを出しています。
世界の更紗 
ジャワ更紗(バティック) 
日本でも「バティック」の名でよく知られるジャワ更紗は11-12世紀ごろインドから伝わったといわれています。バティックとは蝋染めのことで、ジャワ更紗独特の「チャンチン」というという銅製のツボの様な道具を使って蝋を細くたらして染めるのが特色となっています。現在では民芸産業として全島をあげて作られ、化学染料の型染めがほとんどだといわれています。 
模様は植物、動物、人像など、世界最高の多様さを誇っています。主体はらせん状に連続文様を配置したもので、植物の葉や蛇、刀、自然風物などを幾何学文様に染め上げています。 
シャム更紗(タイ) 
シャム(=現在のタイ)の更紗は、実際にはシャムで作られたものは少なく、ほとんどがシャムで考案した図案をインドへ注文して染めたものだとされています。仏教思想にかかわる柄が多く、宝珠形の花文や霊獣、菩薩文、霊鳥などが主題にとられ、日本へ伝えられた際にも同じ仏教文化の親近感から喜ばれたそうです。 
中国更紗 
日本で「花布」、「印花布」などと呼ばれる中国更紗は、技法はインド更紗と同じながら、精緻な文様は中国独特の雰囲気を持ち、非常に洗練された流れるような手書きのタッチの文様はその伝統の深さを感じさせます。日本にはオランダ船によって運ばれました。 
和更紗(日本) 
室町・江戸時代に「海のシルクロード」によって運ばれた更紗ははじめ「南蛮渡来の舶来品」として珍重されましたが、しだいに日本独自の「和更紗」が作られるようになりました。その文様も日本的に変化し、独自の構成も生まれましたが、更紗特有の「異国情緒」は今なお残されています。
ペルシャ更紗 
紀元6,7世紀に美術工芸の非常に栄えたペルシャでは、紀元前2千年ごろから更紗も染められ始めていました。世界的に優れた絨毯、刺繍の技術をもつペルシャの更紗は美しく、優れたものが多いとされています。技法はインド更紗とまったく同じで、文様も似通ったものが多いのですが、ペルシャ風の文様も多く見られ、ヨーロッパの影響を受けてバラ、チューリップ、ヒヤシンスなどの洋花も多用されています。 
オランダ更紗 
アジア各国の更紗を船で持ち帰ったオランダは、それぞれの特徴を混ぜ合わせ、軽快で華やかな絵画風の更紗を生み出しました。色調も淡い中間色を使って明るく染め、小花模様が多いのが特徴となっています。 
ロシア更紗 
ロシアでは、機械捺染がいち早く取り入れられました。花鳥文が多く、淡い色調で寒色系を多用したり、点描表現が文様に見られるのが特徴となっています。 
イギリス更紗(「チンツ」) 
イギリスでは更紗は「チンツ」と呼ばれ、バラ、ゆり、なでしこなどの草花を配した美しい花柄模様は、ヨーロッパで大流行しました。現在でも「オールド・イングリッシュ・チンツ」として伝統的な更紗が染められ続けています。 
ジューイ更紗(フランス) 
フランスではパリ郊外のジューイ村に住むオペール・カンプがペルシャ更紗から技法を学び、ジューイ更紗を大成しました。牧歌的な図案で室内装飾に歓迎されたというこのジューイ更紗は、フランスの産業としてナポレオンも期待を寄せたのですが、ナポレオンの敗退と共に消滅してしまいました。 
ドイツ更紗 
近代科学染料を発明し、高度な捺染技術を持っていたドイツでは、プリント文様の用にかわいらしく、色も華やかな更紗が作られました。
日本へ渡った更紗 
室町時代から「海のシルクロード」を渡って日本に運ばれ始めた更紗は、そのめずらしさと強烈な個性で人々の心を魅了しました。とはいえはじめは一般の人々の手の届くものではなく、南蛮渡来の舶来品として一部の上流階級が愛用したり、茶人の間で「名物裂」として珍重されたとのことです。 
日本国内で更紗が作られ始めたのは、木綿の栽培、普及が始まった江戸時代のことでした。はじめはインド更紗やジャワ更紗が模倣されましたが、しだいに日本独自の模様や構成が取り入れられ、日本風の変化を遂げていきました。その過程で友禅の技術を触発したとも言われています。 
面白いことに、いかに和風に変化しても、更紗の「更紗らしさ」は引き継がれ、どことない「異国情緒」を感じさせるものになっています。空間や間を重んじる日本の美的感覚に対して、更紗は「過剰の美」とも言えるほど色彩豊かに模様を埋め尽くします。またそれが所以に着物地としてはなかなかおさまらず、しばらくは男性の下着や小物として用いられるのみで、戦後になってようやく絹地の女性用の高級着尺として流行するようになりました。 
以下に、現在も残る日本各地の更紗をいくつかご紹介します。 
天草更紗/九州の天草(長崎)で江戸時代の文政年間に生まれた更紗。伊勢型紙を使用した捺染が特徴。 
鍋島更紗/鍋島藩の保護を受けながら発達した更紗。木版と型紙を併用した捺染が特徴。明治時代に一時途絶えたが、現在復興され更紗特有の「異国情緒」は今なお残されている。 
京更紗/京友禅のような華やかな更紗。型紙を使って捺染される。 
江戸更紗/30枚以上の多数の型紙を使って染められる東京の更紗。本来の更紗の雰囲気を強く残している。
 
染め物屋

 

染め物屋さんと染色工業 
染め物屋さんは立派な職種です。伝統工芸分野の染色として世界に誇る技術を有し、数多い分野の人々から高く評価されています。それに対して染色工業の先祖は中世で確立した染め物屋さんの技術から進歩、発展しました。 
この歴史的経過について、紹介すると次の通りです。ヨーロッパにおいては、18世紀に英国で発生した産業革命で家内工業的染色と、近代的染色工業へ分化しました。正確に言えば、1856年に英国のパーキンという人が合成染料のモーブ(赤紫色・塩基性染料)という色を発明したのが、ヨーロッパの近代染色工業の始まりです。日本は明治維新で英国型の産業革命が起りました。その革命で家内工業的染色は手工業方式とヨーロッパ方式の近代的染色工業へ分化、発展しました。 
十字路科学の染色振興で近代産業、工業教育を振興した 
明治維新の成功は近代染色技術の発展によって、実現したと言ってよいでしょう。 
近代染色を可能にした合成染料は天然染料と同じ使い方をすると、染色は失敗します。明治初期に合成染料の輸入が増加しましたが、当時の日本の染め屋さんは、使い方がわからず途方に暮れました。  
日本人に合成染料の正しい使用方法を教えたのはドイツから招かれたワグネル(英名ワグナー)という人です。彼は1868年(明治元年)に京都舎密局に招かれ、多数の日本人に幅広い化学を教えました。彼は日本人に系統的に化学を理解してもらうため、京都舎密局に染色実験場を作りました。 
日本人に化学を教えたのは、ワグネルだけではありません。幕末の慶応元年に陸軍奉行所の教官として、オランダ人のハラタマが理科、化学を日本人に教えました。彼は明治2年に大阪の開成学校の教官になっています。明治7年に英国人のダイバース博士とアトチンソンが日本の化学教育で大きく貢献しました。 
日本からも松井直吉(後に博士)が明治13年、5年の米国留学を終え、日本の化学教育に力を入れました。特に合成染料による染色は日本の近代化学発展の柱になるとして、日本政府は染色の技術振興に力を入れました。 
一方、織物業も明治時代に入って、手織り生産から、動力利用の機械化によって、大量生産を可能にしました。 
家内工業型の織物生産が機械生産型へ発展するのを促進したのは染色です。なぜなら染色は数多い物理知識と化学知識とを融合させる大実験場になったからです。 
それが原動力になって、日本経済は近代化へ快走しました。2000年代に入って本格化したIT革命に匹敵するぐらいの産業革命を引き起こしたといってよいでしょう。 
つまり明治時代において、染色は数多い学問分野を結び合わす広い意味の十字路科学の場となったといってよでしょう。明治時代に、染色から、数多い産業と各種工学教育機関の増加を誘発させたことを見落と してはいけません。 
数十年前より、染色工業が繊維産業のキー・インダストリー(産業のカナメ)だといわれていますが、この言葉は、これまでの歴史的経過で染色が極めて重要な役割を果たしてきたからこそ、名づけられたといってよいでしょう。 
染め物屋と染色加工業の違い 
明治から大正、昭和に至るまで、染色に関係した人々の中から博士号取得者や、工学関係の大学教授を数多く輩出された。近代的染色は日本の工業社会を形成していくための十字路科学(多くの学問分野が交差すること)の位置に立ち、日本経済発展の一翼を荷ったといえる。 
染め物屋と近代染色(又は近代捺染)が、どの辺りから分化したのか、視点を換えて、物理的な応用変化の一例として、現在の捺染装置の進歩に至る過程を、ふり返ると染め物屋と近代工場への分岐した経過がよく分かる。 
14世紀頃のインドにおける捺染作業は、木版にデザインを彫り、木板表面に天然染料液を塗り、布上に木板をスタンプのように押して捺染した。これをスタンパ方式と称した。現在もインドネシアのジャワ更紗はこの方式に近い方法で行われている。 
次いで型紙に相当するようなその柄を彫り、染料液を刷り込むように木製ロールで捺染した(孔版方式)。この方式では染料に粘性を付与する技術が発達した。 
スタンパや木製ロール捺染は19世紀に入って、現代の金属ローラに彫刻したものを使用するローラー捺染機に発展した一方、孔版方式と木製ロール方式による捺染法は20世紀に入って、シルク紗、後にポリエステル紗使いの(20世紀後半)のフラットスクリーン捺染法やロータリースクリーン捺染機へ進化した。
広町捺染所 
戦前、父は横浜に修行に行ったとのこと。足利に戻り工場をもち、5-6人の職人をかかえていたらしい。戦時中は統制で大変だったようだ、工場も北側を1間ほど防災のための道作りで供出させられた。ただ、戦時中在庫していた反物、羽二重は、工場再開の資金になったようだ。作れば売れた時期、銘仙は粗悪品の代名詞のように見られたこともあった。昭和の30年前後がピークだったか、工場を兄に継がせ、あっという間に父は逝った。 
父は無口で良い親ではなかった、口より先に仕事を教えるため兄を殴った、仕事命の良い職人ではあった。母はいつも家族と職人たちの取りまとめ役だった。 
兄もがんばり、ウール、京染め、藍染と挑戦したが、時節は昭和の40年代で終わった。 
型付けするとき、経糸の下に敷く布を「あんだ」と呼んでいた、今思えばたぶん「Under」のなまったものか。 
型付けの後、染料を定着させるため蒸気で蒸した。蒸気室は2坪ほどで、冬は注意しないと暖かさで紛れ込んだ猫も蒸した(新聞紙に包み渡良瀬川へ何度も行かされた)。 
残った蒸気で、毎日暖かい風呂に入ることが出来た。 
我が家に遊びに来た友達に、後で必ず漆にかぶれたと怒られた。型紙に漆が使われており、新しい型紙の確認、保存型紙の補修・手入れに、作業のため部屋中に型紙が広げられ、畳に漆がしみこんでいたのか。 
台風で渡良瀬川が氾濫し、工場の中を染料の糊甕が何十もぷかりぷかり、浮かんだことを覚えている。このとき、飼っていた犬「エス」が見当たらず皆が心配した、なんと二階の隅に真っ先に避難していたことが判り、被害で辛い中だったが皆が笑った。 
良い織物をと産直の走りでデパートで安く売ったことがある、売れなかった。同じものをデパートが倍近い値札で売った、売れた。昭和の30年代、もう、織物の良し悪しを自分の目で見れる人がいなくなりつつあった。 
高価な輸入染料で色合い、退色性が大巾に改善した、商社は長瀬産業だった。社会人になり印刷フィルムの関係で長瀬産業に機器を納めることになった、兄との昔話でめぐりあわせかと懐かしんだことがある。
赤レンガ捺染工場 
国・登録有形文化財(1999.11.18)/竣工1913-1919年(大正8年)/所在地 栃木県足利市福居町/構造 煉瓦造平屋建て瓦葺。  
旧足利織物梶A後に明治紡績鰍フ工場となり、太平洋戦争中には軍需工場に転用され、戦後は潟gチセンの所有となった。レンガ造りの外壁と木造の内部軸組みからなる広大な工場棟。6連ののこぎり屋根が連続してかけられ、大規模な工場内部をつくりだしている。てっぺんまで立ちのぼる柱型と軒蛇腹とで縁取った壁のデザインや、出入口・窓の大きな開口部を一石のまぐさ石で支える手法に特色がある。サラン工場同様、大正時代初期に設立された足利織物の輸出綿織物の生産を目的とした足利で最初の近代工場で、大規模な赤レンガ工場建築群として唯一現在まで残っている建物 。
渡良瀬川と台風 
カスリーン台風 1947/9/15栃木県足利市渡良瀬川・袋川の堤防が決壊し、濁流は市街を湖沼と化した。渡良瀬川の主な災害/死者・行方不明者709人、被災家屋約33,800棟。 
キティ台風 1949/8/31関東地方に上陸し大きな影響を与えた。8/31夜、神奈川県小田原市の西に上陸、北進し熊谷、柏崎を通過し、日本海上へ出て温帯低気圧となった。八丈島で最大風速33.2m/s(最大瞬間風速47.2m/s)、横浜で35.2m/s(同44.3m/s)を観測した。関東北部や新潟県の山岳部で大雨となり、渡瀬川の上流部では堤防が決壊した。渡良瀬川の主な災害/死者・行方不明者10人、被災家屋約700棟。


  
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染色工業

 

合成染料の使用でタール化学の重要性認識
  明治で界面活性剤工業も進歩させた 
なぜ染色が明治時代の前半で繊維産業全体のキィ・インダストリーにとどまらず、日本の工業化のキィ・インダストリーになったのか、具体的に説明しましょう。 
合成染料使用の増加で、タール化学工業発展の基礎づくりに貢献したからです。タール化学工業は、合成染料の生産増加以外に製薬原料の増加、ゴム用の薬剤など数多い業種分野を対象とする化学製品の国産化の基礎になったからです。 
染色業が合成染料を使うことでタール化学の柱にしたからです。 
合成染料を使用する染色業が明治時代で増えたことで、界面化学(合成洗剤の仲間で初期には天然物を原料としていた)を誕生させる基礎を作ったことも見落とせません。 
界面化学は後に、非常に広い分野に使用されるようになりました。界面化学によって作り出す界面活性剤は染色業に必要な精練洗浄剤の生産増加を促し、その他、各用途向けの新製品を次々と開花させたからです。 
染色は数多い産業の発展に一波(染色)が万波を発生させたといってよいでしょう。 
明治維新の成功は染色の近代化に政府が誘導することで、近代工業化のウェブを巧みに張りめぐらし、明治維新を成功させたといってよいでしょう。 
又、合成染料の使用は、応用化学研究の発展を促しました。下瀬博士、河喜多博士ら日本の化学史に残る多数の化学者が育ったことで、日本の近代工業化に大きな貢献をしました。ダイヴァース博士、アトキンソン博士の門下の人材たちによって数千の化学技師が指導を受けたことは、日本の近代化の解明で見落としてはいけないでしょう。 
明治は日本の近代化にとって重要な年代になったわけですが、特に染色技法の発展を振り返ると、染色がキイ・インダストリーになった経過を知ることが出来ます。 
明治の中頃まで続いた単純な染法のままでは合成染料を利用したときに効果が出ない、そのことを、当時の染工場は認識するようになったからです。
近代染色の過程で失敗も多い
 化学知識の必要性を感じた 
それまで染色といえば、染料を水に溶かし、それを釜の中へ糸か布を入れる、煮きこめば染まるという単純な発想でした。そのため、各繊維産地の染色業者で大量の不上り事件を起こし、社会的に非難された史実があります。 
明治16年〜17年にかけて八王子では輸入合成染料が使われるようになりましたが、合成染料を使う知識と経験がなかったことで、一度、洗濯するとたちまち変色した。このため八王子織物の信用は著しく低下しました。 
当時、染色の本場といわれた京都でも同じ事件が発生しています。明治の初め、京都の染色業はすでに社会的分業形態が確立していました。茶染業を中心にして紫染め、紅染め、藍染めといった無地染めの技術集団、紺染め、友禅染めの技術が日本で最高の染色技術を確立していました。その技術を打ち砕く第一歩になったのが1862年です。 
京都の紫染め業者の井筒屋忠助が欧州製の化学染料、すなわち合成染料を手に入れ、染色を試みたからです。 
明治維新を契機に合成染料の鮮明さに注目した京都の染色業者は次々と合成染料を輸入し使用するようになりました。 
しかし、八王子の染色業者と同じように京都の染色業者も従来の植物染料の知識しか持ち合わせていなかったことで、色落ち、日光堅牢度低下の欠点が出て、西陣織物や京染めの名声に傷がつきました。 
この打開策として京都府は明治6年(1873年)に京都舎密局の局員、京都の染色工を大阪に駐在していた外人キンドレのもとへ派遣し、英国の黒染法を研修させました。 
ドイツ人ワグネルの染色技術教育場になっていた京都舎密局でも明治8年(1875年)にオーストリア万国博覧会を視察するため、担当者を派遣、新しい欧州技術の進歩を肌で感じさせ、更に欧州各地で染色技術を実習させました。 
近代染色と伝統的な染色の分離はその頃から本格的に始まったといえるでしょう。 
平成時代の一般の消費者の方々の中で、染色を天然染料で染めるがごとく、単純に感じている人があります。しかしそれは全く誤りであることを、以上の歴史的経過で、理解していただけるでしょう。
伝統的工芸染色は個人技
  近代染色は組織力で 
伝統的染色工芸は個人技によるもの、それに対して近代染色は多くの学問分野を結集した組織力による染色と定義づけてよいだろう。 
欧州では1856年に英国人パーキンが合成染料(モーブを)発明するまで、染色は個人技による染色時代であった。日本では幕末に欧州から合成染料が入り込むまで個人技の染色時代だったといえるだろう。 
個人技の染色時代は、各種の天然の植物、特殊な貝などを染料として染色していた。欧州でも同様であった。 
そのような天然色剤を使って被染物に色を定着させるためには特別な技術が必要であった。そのため欧州や日本では特殊な染め方は秘伝扱いになっていた事例が多い。それについては中国でも同様である。 
19世紀の欧州では、個人技による染色処方は特定の人にのみ伝承するルールを固く守っていた。それについて平成10年1月1日付の染織経済新聞17面でパウル・リヒター博士(BASF応用技術研究所幹部として活躍した人)が当時のドイツの染色職人について書かれているので、その一部を紹介しよう。 
「ドイツの染色職人はマイスター制度の典型的な職種だった。マイスターは自分が保有する染色処方を秘密にし、自分の子息やマイスター資格を得た特定の人物にだけ、秘法を与えた。」特定の人しか技術を伝承させなかったと書いている。 
新しく染色マイスターを志す人も、相当の努力を必要とした。それについて、リヒター博士は次のように紹介している。「全徒弟期間中、給料は支給されなかった。逆に保証人が職場の親方に多額の金を支払う必要があった。染色徒弟人になるためには、立派な保証人を必要としていた。徒弟期間は厳しかった。先輩から叱られるだけにとどまらず、殴られたり、苦しい仕事を押し付けられたりした。年上の徒弟者によるいじめも多かった。休息は日曜日の午前中、教会に行く時間だけであった。徒弟期間が終わると2−3年間、他の同業の職場(自分の故郷から50km、又は100km以上、離れた職場)に従事することを原則にした。他の同業者で仕事することを旅職人と称された。その仕事期間を修了すると、マイスター試験を受験する資格を得た。 
日本でも、これに少し似た制度が幕末までの天然染料使いの染色徒弟制度で実施されていた。 
19世紀時代まで欧州や、幕末までの日本の染色徒弟制度は個人技術の能力が高く評価されていた。天然染料を使う染色技術でも、経験によって得られる化学知識がなければ素晴らしい染色が出来なかったからである。だからこそ、その技法は社会の人々から高く評価されていたのである。 
その技法の一例としてリヒター博士は19世紀のマイスターの一人であったヤコブ・ベッヒトルドの染色処方例を次のように紹介している。 
「絹の鮮明赤染めとして、絹衣料は20Lの水に16gの硝酸第二錫を加えた媒染液中に室温で24時間放置する。最後に錫メッキした染槽中のコチニール70gと酸性酒石酸カリ32gを加えた新しい浴で、温度を段階的に上昇し、95℃まで加熱する。冷却後、ゆすいでマルセル石鹸で絹鳴り仕上げする」(染織経済新聞、平成10年1月1日付、7面)。 
(注)=コチニールはサボテンに寄生するカイガラ虫を採取し、乾燥したもの。産出はカナリア諸島、メキシコ。
明治で和晒と洋晒に分化した
  輸出産業の基礎になったクロールカルキ使用 
明治時代は近代化日本の出発点になった。その原動力になったのは綿布の輸出拡大である。 
この拡大は後の大正、昭和時代で大きく花が開くわけだが、その基礎がつくられたのは明治16年〜17年(1883年〜1884年)頃である。 
それまでの木綿、麻の漂白は和晒法と称される、単純に日光で晒すだけの天日晒という方法で行われた。その内容は灰汁で木綿を煮て、それを引き出して河原に広げ太陽の光で晒し、布が乾燥すると、それに打ち水をして更に太陽で晒すという方法だった。雪の上で晒す方法も行われていた。 
河原に晒すと強い太陽の光で晒し上がりが強くなった。それに対して、芝生の上で晒すとゆるやかなソフトな晒し上がりになったと記録されている。 
以上のような和晒法だと晒し上がり量が限定される欠点があった。量産を可能にするために、欧州ではクロールカルキの使用が一般的になっていた。クロールカルキとは晒し粉(次亜塩素酸カルシウム)のことである。明治16年頃から晒し粉が欧州から輸入されるに及んで、その漂白法は舎密晒、又は洋晒しと称された。 
晒し粉の使用で木綿を漂白する大工場が建設され、綿ネルを中心に大量漂白されるようになった。そして機械捺染工場の発展を促した。 
晒し粉利用の漂白法について、大和木綿商仲間の<木綿糸の晒し方>で次のように紹介されている。 
その内容原文はわかりにくい個所があるので、それを具体的に紹介した京都近代染織技術発達史から引用すると下記の通りである。 
「木綿糸の4分〜5分−1貫目に付、40〜50目(匁)の洗いソーダを釜の湯の中にて溶かし、又はボウメ1度〜2度の木灰汁にて3時〜4時間、煮た後に、充分に水にて洗い干すべし。 
1.ボウメ1度半から2度のクロールカルキ(晒し粉)水に、前のごとく煮たる木綿糸を漬ければ、次第に白色となる。絞り出して第2の手順を為すべし。クロールカルキすなわち晒し水の製し方は、クロールカルキを磁壺に入れ、水少量を注ぎ入れ、粒なきように砕き、尚、水を多分に注ぎ入れ、かきまぜて、壺を密封して放置すべし。石灰分は壺の底に沈み、上水清く澄む。尚、之を濾して他の壺に入れ、密封して貯うべし。是れ晒し水なり。 
2.中和、脱塩素処理をして水に硫酸を交ぜて、大概ボウメの半度〜1度となりたるものに、晒し水より絞り出せる木綿糸を漬け入れ、およそ30分〜1時間して絞り出して、充分に水にて洗うこと。 
以上の史実で、注目して欲しいことは和晒しと洋晒しの仕事の能率性の違いである。 
和晒しは太陽任せだった。 
和晒法では雨や曇りの日には晒し作業が出来ない。それに対して洋晒しは天候に左右されず作業が出来たことである。 
伝統工芸と近代染色の違いは後者の場合、天候に左右されずに労働を継続出来るメリットがあった。 
しかし労働生産性を高めるためには、(1)人力による生産性では限度(生産量)があるので、これを打破する必要性があった。 
もう一つは、(2)特定の人物しか伝承されない染色技法を、多くの作業者たちが容易に使えるようにするため、技術を公開することであった。 
以上(1)と(2)を具体的に説明すると、(1)の人力依存を打破し労働生産性の向上のために機械化した。この使用効果は大きかった。絹の精練作業を向上させるため、石鹸精練への転換が明治末から本格化した。その結果、日本で石鹸の製造が本格的になった。明治中期にボイラの導入で絹の精練釜として蒸気加熱による加熱方式を実施、間接蒸気加熱の二重釜や、循環式精練槽の発展につながった。ボイラ利用は明治末から日本の染色工場で増え、ボイラによる熱源利用で工場の生産体制は高能率化した。洋式の近代工場と従来の工場を区別するため、前者をボイラ組、後者をかまど組と称された。 
次回で明治時代において、(2)の技術移動をどのように円滑に促進したか、その背景について述べてみたい。
国内技術移動を促し、7項目の重要性を説いた西田博太郎博士 
明治から大正、昭和にかけて、日本の染色、化学教育に貢献した西田博太郎工学博士は明治以後の近代化の柱になった7項目について、注目すべきことを述べている。 
「化学工芸」(大正6年)に西田博士が寄稿した内容で次のように素晴らしいことを書いている。 
「産業発展には7条件がある。産業といえば漠然とした表現になるので、水産、林業、農業、鉱山業も製造工業に入る。それら産業を一括して論ずるわけにはいかないが、しかし、共通した原則的な要件がある。7つの原則を実行してこそ、産業は発達する。 
1.経済的な頭脳を有する技術者を養成しなければならない。 
2.産業思想の普及を図ること。 
3.小規模の産業に対する金融制度の完備が必要。 
4.ある程度までの保護対策が必要。 
5.交通運搬の発達が必要。 
6.機械工業の発達を促す。 
7.原料製造的な化学工業の独立が必要。 
以上の7条件が備わって堅実な産業が発展し、それぞれ独立できるようになる。 
以上の7条件のどれが一番大切か選ぶことは出来ない。強いていえば技術者の養成こそ、産業独立の根本となる。 
ロシア(当時の帝政ロシア)のようになってはいけない。ロシアは自国の技術者の養成に遅れがあり、ドイツ、フランスから技術者を招き、彼らから学び取る気構えに欠けていた。大戦乱がなくても、一旦、ドイツ、フランスとの国交が断たれると、ロシアはたちまちドイツ、フランスの技術者は母国へ帰ってしまう。そうなると技術者不足となり、作業は停止しなければならない。又は作業能率は低下する。ロシアが各種の工業分野の技術者を遠く米国にまで求める現状を目撃すると国家のため、何が重要か認識させられる」と述べている。 
西田博太郎博士は付け焼き刃の技術水準では、産業は絶対に発展しないと指摘すると共に、理工系の教育の場合、学校教育の充実を土台にして、技術者間の技術移動(テクノロジートランスファー)の必要性を説き、それを実行している。偉大な人だった。 
多くの日本人技術留学生たちは、欧州で学んだ新知識を個人だけの知識にとどめず、多くの人々に技術移動した史実が多い。染色技術者もその例外でなかった。
帝政ロシア時代にモスクワで巨大な染色工場が存在した 
若い技術者にとって染色は魅力的な職場だった。 明治時代の中頃から日本の染色業は完全に家内工業的な染色と工業的染色業に分極化した。 
後者の工業的染色業となった日本の染色工場にとって、明治、大正、昭和20年代は、欧州、そして米国から技術を学ぶ時代だった。日本の染色業技術者たちは、西田博太郎博士が提示した技術革新を実行することこそ、国の成長に通ずると強調したが、西田博太郎博士が掲げた技術革新のための7条件に共鳴する人は多く、それぞれ着実に実行に移した。 
それがパッと花開いたのは昭和20年代以降である。旧帝大卒、国立大学卒の技術者らが続々と染色工場に入社し、日本の染色技術の発展に貢献した。それら技術者たちの中には、後に大学に戻り、教授になった人も多い。 
昭和20年代当時、若い技術者にとって、染色工場は魅力的な職場だった。染色工場に入社することで欧米の新しい情報に接する機会が多かったからだ。 
当時、化学の最先端を代表するものであった合成染料を取り扱うことで、欧米の化学知識を幅広く学び取ることが出来た。又、新しい化学分野の一角を占めた界面化学や機械工学の新知識や、その新情報に接することが出来たからである。 
日本の歴代の染色技術者たちは、明治から昭和20年代に至るまで半世紀近くかかって、欧米から数多い新技術を学び取った。それに対してロシアは、帝政時代に工業的染色への脱皮のために必要な技術とその利用のため、先進国技術者を招きながら、新しい染色技術を自らのものに出来なかった。これは帝政から共産主義革命へ移り、国内の社会的混乱が長引いた特殊事情があったのかもしれない。 
染色技術に限らず、ロシア人の間で、先進国技術の国内移転が円滑にいかなかったのも、国内政治の混乱が最大の原因だったといえる。 
それに対して、日本の染色技術は、第二次世界大戦で、社会経済の進歩面の過程で大きく混乱したが、それは外国と戦争した結果によるもので、国内の政治的、社会的大混乱によるものでなかった。 
そのため第二次世界大戦後、日本の国民は一致して、焼土から立ち上がり、日本経済・社会の復興に勢力を傾けることが出来た。そういうベクトルに沿って、日本の染色工場は昭和20年代まで、ひたすら欧米先進国から進んだ染色技術の習得に力を入れられたのは幸いだった。 
モスクワに巨大な染色工場があった。 
日本の染色技術は昭和40年代に至って、世界A級と評価されるほどになったが、もしも帝政ロシアが西欧と同じような民主的資本主義で発展したならば、ロシアの染色技術は日本の強力なライバルになっていたかもしれない。 
すべての国において正常な工業国として発展するためには、当初は軽工業の近代化を図り、その発展を土台にして、重工業を開花させていく、これが常道である。ロシアは違った。 
スターリンによって、一挙に重工業重視に走った。民間の力によって、国の経済を発展させず、国の計画、ノルマ制度でソビエト連邦を形成した。その結果は、あらためていうまでもない。 
もしもロシアが常道の経済発展を促進していたならば、ロシアの染色業はどうなったか、一つの事例を紹介しよう。日露戦争が始まる前のモスクワで巨大な染色工場が建設されていた。その模様について、次の項目で紹介したい。
英国と肩を並べたロシア更紗工場
  世界的に注目された工場があった 
1889年巨大な繊維工場がロシアのモスクワに完成していた。この工場を後に日本の染色に大きく貢献した西田博太郎氏が実際に工場視察している(帝政ロシア末期に)。 
同氏のリポートによると、「モスクワ河の左岸に聳え立つような大工場があった。社名はトレフゴルノイ・マヌファクツール社である。社歴は1799年、かなり長い歴史を重ねている。 
同社は浸染、更紗生産から始め、以後、紡織部門を加え完成した巨大な工場だった。その内容を分類すると、紡織と精練漂白、捺染、及び浸染、起毛加工を行うようにしていた。工場の全面積は57,600坪、石造り建築という豪華なものであった。この工場設備は6階建の建物になっていた。生産内容は40番手〜70番手の綿糸を引き総スピンドル43,632本。機械工場は4階建の工場では、ジャガード、ドビー機にて総数1,528台を稼働していた。漂白工場も別に設け、1907年製マザープラット缶10台を入れていた。 
捺染、浸染、仕上工場は1日当り生産は長さ60アルシンの布12,200本を算し、捺染、浸染機械37台、起毛機14台を動かしていた。 
染備工場はローラー彫刻室で意匠師、彫刻工150人を雇用していた。 
別に需要地から意匠図案を購入していた。修繕工場には動力室があり、スイスのゾルツェル社の蒸気タービン3台、発電機3台、5,000馬力、工場内のモーター総台数は380台、別にガス発生所が二ヶ所あった。 
なお、自動防火装置を備え、グリンネル式、リンザー式のスプリンクラーを用い、消防隊士官2人、消防夫60名を雇用していた。 
汽缶の総数は巨大で無煙炭を燃料として使用している。ドン地方の付属炭坑には坑夫700人を雇用、産炭額1ヶ年800万布度(約13万トン)、更に職工数4人、書記雇人500人、それらの人々は寄宿させていた。家族には別の宿舎を与えていた。付帯事業として私立の工業学校、宗教学校、幼稚園、託児所、病院、保養所、図書館、音楽室、購買組合販売所など設けていて、それらに関係従事する人々は数百人に及んでいた。 
毎年60アルシン「長」物260万本を生産し、その品種は捺染更紗を主にして、キャンブリック、綿繻子、トリコット、綿ネル、モスリン、肩掛、前掛らの生産していた。他に帝ロシアでエミル・チュンデル社、ダニロウスキー社、コエヒリン社などが、捺染機だけで各35台を羅列していた。日本では最大の更紗工場級で大型捺染機は12−13台程度なのに、ロシア更紗工場の規模の大きさは誰でもが想像がつく。 
このような巨大な更紗工場の経営者はドイツ系、フランス系の人々で占めていたが、帝政ロシアが崩壊して、彼等は行方不明になった」と、西田博太郎氏は書いている。 
注目すべきことは、西田博太郎氏は次のように書いていることだ。「眞に知りたきは、その後のロシアの更紗業の状態である、この回復と絶滅とは延いて我邦(日本)更紗業の前途に極めて深き関係を持つからである」。 
西田氏が文章を書いた頃のロシアのその後について、誰もが知っているようにスターリンによる上意下達の計画経済へ移行した。その結果、ロシアは更紗の生産で世界的にリードした地位を失った。一国の政治変化で民間産業の盛衰が大きく左右されることを西田博太郎氏は間接的な表現で示唆したといってよい。
近代色染学者ハムメル / クネヒトの存在も大きかった 
誰が近代色染学を形成したのか、染色の道に進む人は、是非とも知っておく必要がある。「西田博太郎伝」によると、近代色染学の形成で貢献した偉大な人物はハムメルと、その親友であり高弟でもあったエドモンド・クネヒトだったと評している。 
日本では今は亡き捺染技術のエキスパートだった野々村良太郎氏(元和歌山染工(株)技術部長)もクネヒトの色染学を愛好した一人であった。 
色染の技は遠く有史以前に見つけ出されていたが、化学の発達に恵まれなかったため、学術の探求に進まず、技工の範囲にとどまっていた。 
化学が発達し始めたから18世紀の中頃から、色染の技を技工の範囲から、ぼつぼつ学問的に結びつける動きが欧州で芽生え始めた。 
19世紀後半に至って、ハムメルが色染術とその学理を系統的に組立て始めた。ハムメルは色染学専攻の学者を多く育てた。ハムメル門下生として有名な人は、ハムメルの友人で高弟でもあったのがエドモンド・クネヒト、そして英国のパーキン、ガードナーがあげられる。日本では高松豊吉、吉武栄之進などがハムメルの学問的影響を受け大成した学者たちであった。これら学者の増加で色染学が大成するに至った。 
それを体系化したのがクネヒトである。西田博太郎伝は「特にハムメルの友人で高弟でもあったのがエドモンド・クネヒトの功績は大きい」と伝えている。 
クネヒトは色染学の発表論文を好んでドイツ語で行なったので、ドイツ人かオーストリア人ではないかと間違えられたりしたが、クネヒトは生粋の英国リバプール生まれの英国人で、理学博士のグスタブ・クネヒトの息子として生まれている。 
エドモンド・クネヒトは父に伴われ、スイスに移り住んだ。チューリッヒ大学に学び、卒業後、新設の英国マンチェスター高等工業学校色染科長に就任している。この学校は後にマンチェスター工業大学になった。クネヒトは英国へ帰国後、生涯にわたって色染学の教育と色染化学の学会で活動し、学会の発展に奉げた。多くの著書を残した。 
彼がまとめた色染全書は色染を学ぶ人たちにとっては、貴重なバイブルになった。
ミュールハウゼンの影響受けた和歌山  
和歌山で捺染が発展した理由の一つとして、西田博太郎博士を通じて理論的なものが注入されたことが挙げられる。この学問的注入のすべてが西田博太郎博士によるものとはいえないが、同博士が和歌山捺染加工業に大きく貢献したことは否定できない。 
西田博太郎博士は文部省から染色・染料の研究調査のため欧州へ派遣され、欧州の各学校へ留学、染色技術を学んだことは有名である。 
西田博士はドイツのミュールハウゼン市立化学専門学校でも学んでいる(1905年)。その前年にはドイツ・フランクフルトのカセラ染料製造(株)で染料製造法を学び、その前には英国マンチェスター高等工業学校で学んだ。この英国マンチェスター高等工業学校で、西田博士はクネヒトから親しく学ぶ機会を得た。西田博士は同校で色染・漂白を学んでいる。 
カセラ社滞在時、西田博士は優秀な人材と見られて、東洋担当の主任技師になってほしいと頼まれたりしている。 
西田博太郎博士の伝記によると、「ミュールハウゼン市立化学専門学校でネルチング博士、シュミットらから学ぶものが多かった。特に捺染学でアンリ・シュミット講師から学ぶべきものが多く、マンチェスターのクネヒトの教えと系統的に結びつくものを数多く学び取った」という。 
後に、西田博士が和歌山の捺染技術に何度か貢献出来たのは、シュミットの助手をつとめた結果によるものと伝記で伝えている。
日本でスクリーン捺染技術は1930年代で実用化された  
近代的なテキスタイル捺染は明治時代の後半に動力を用いたローラ捺染機の導入で綿布やモスリンの捺染が盛んになった。 
当時、18世紀産業革命以来、英国で代表的事業となっていた綿布のローラ捺染(動力利用)に注目した日本の繊維生産者は、高利益を上げられるということで、日本も明治に入って追随する基礎を作った。明治の後半で、モスリンも手作業による友禅加工を脱して、ローラ捺染方式へ転換したことで大量のモスリン捺染加工量を可能にした。 
動力式ローラ捺染は金属ロール(回転する)上に模様を手彫りで彫刻し、その表面に、たっぷりと染料糊を付着させ、そのローラ彫刻表面上を布を通過(ローラで布を印捺)させることで布に美しく正確に捺染する方法である(凹版機)。 
高速でローラを回転させることから機械捺染と称された。 
ローラ本数を数多く設けることで、布を順々に多色刷りすることが出来たからである。 
日露戦争以前のモスリン捺染は板揚げ友禅法という方法で、加工量が少なかったのが欠点だったが、日露戦争後は関西の稲畑染色工場、日本製布会社がローラ捺染で多色刷りを可能にしたことで欧州関係業者を注目させた。 
日本の捺染が世界的に差別化技術としての地位を確立したのは昭和初期に入って、スクリーン捺染の研究が芽生えた頃が始まりとされている。 
スクリーン捺染に関する研究は当時、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授の田中隆吉がドイツ留学で得た知識が基礎になった。 
田中隆吉は帰国後、京都の小野木二郎にスクリーン捺染法を指導し、実用化研究を進めた。それ以外に京都市立工業研究所の田中秀人も独自にスクリーン捺染型の研究を行っていたことは染色の史実で有名である。
スクリーン捺染の原点は日本説
  作業向上化はリヨン、染型技術はドイツで発展 
日本の女性たちが好んで着用するテキスタイル捺染品は大体において、スクリーン捺染によるものが多い。 
スクリーン捺染の染型は日本の友禅加工に使われる型紙がモデルになっている。スクリーン捺染の元祖は日本だと主張する説もある。京都近代染織技術発達史(京都市染織試験場発行)の中にも、そう書かれている。 
それによると「明治40年(1907年)に英国マンチェスターのサミュエル・シモンが、スクリーン捺染に関する特許を得ているが、その後、欧州を中心にスクリーン捺染について研究が進められ、大正14−15年頃に大量生産を可能にしたリヨン式がフランスで花開いた。この方式はドイツにも波及した」と伝えている。 
日本の型紙利用による友禅模様(色柄)を巧みに表現する技術が欧州のスクリーン型枠利用の捺染方式に、どのように結びついたのか、具体的な資料がない。 
しかし19世紀から20世紀の初めにかけて、フランスやその周辺の欧州諸国で、日本の浮世絵の美しく繊細な表現に注目した画家や美術関係者が多かった。浮世絵は各色別に、型紙にヒントを得た製版を用い、紙に対して色を刷り重ねることで、人物、風景を見事なまでに精密に表現した。 
その刷り込み技術をテキスタイルプリントに、なんとか応用したいと、当時の欧州人なら考えそうなことである。 
フランスでリヨン式と称するスクリーン捺染作業方式が実現したことと、後にドイツでスクリーン捺染用の製版技術が結びついたことで、スクリーン捺染生産はローラ捺染の存在を脅かすようになった。スクリーン捺染が、幅の広い生地を楽々と捺染できるようにしたからである。 
型紙使いの友禅方式では、作業がしやすいように小幅の布を台上に貼りつけ、その上へ型紙を置いて、駒ベラを用いて色剤を型紙を通し刷り込んでいく必要がある。これでは能率的な捺染生産が出来ない。 
その解決策として、サイズの大きいスクリーン染型(シルク紗使用)を平台上に置いて、色糊を染型上に流し入れ、その色糊を長い棒の先端に横状箆(ヘラ)になった方式で往復1回スキージング(掻く)で捺染できるようにした。印捺が終われば、印捺した個所の隣接部分へ染型を順々に移して、スキージングを繰り返した。 
この方法だと、作業の能率が上る。これがリヨン式である。この方法を後に鐘紡が採用した。 
第一次世界大戦後、リヨン式のスクリーン捺染方式はイタリアのコモへ継承された。コモでは長い平テーブルの上に布を張り合わせ、テーブルの左右に一人づつ作業者を配置して、テーブル片側の1人が平テーブル上のスクリーン染型上に色糊を入れ、それを作業者が両手でスキージを押すようにしてスキージング、そのスキージを平テーブルをはさんで、真向いに位置する作業者が受け取りスキージング、スキージングが終われば、染型を順々に隣接部へ移しスキージング作業を繰り返した。これがコモ式である。 
このような作業を向上させるためには、染型の改革を必要とした。それがドイツで研究された写真型技術である。 
ドイツから写真製版技術が日本に入り込んで、日本の手捺染方式(スクリーン染型使用)が発達した。 
日本、リヨン、コモにおける手捺染方式のテーブル形状は、それぞれ異なった形で進歩発展していった。リヨン、コモの手捺染テーブルは平テーブルでソフトベッド、日本は傾斜テーブルでハードベッドという形で作業内容が分極化していったからである。
スクリーンメッシュとスキージ
  イタリア・コモでは相互関係をデータ化 
イタリア・コモ地区の捺染工場各社はフラットスクリーン・メッシュとスキージの相互関係を系統的にデータ化し、そのデータはコモ全体の捺染製版、捺染工場に公開されている。コモでは、スクリーンメッシュとスキージの相互関係よりも、デザインをいかに巧みに製版するか、その技術の良さに重点を置き、それをスクリーンメッシュ、スキージ、色糊との相互関係で支援していく。そういう姿勢を強く感じ取れる。だから捺染処方も日本と比べ、添加される化学物質の種類は少なく、色糊の成分は日本と比べ素直である。 
コモの捺染関係者の姿勢を重ねて言えば、世界一流のデザイナーと結びつくことに力を入れているといってよい。 
ラッティ社の検反出荷場を見ると壮観だ。世界一流のブランド名別に検反、出荷している。紗張りしたスクリーン捺染型を見せてもらったが、有名デザイナーのサイン入りが多かった。コモではなにをおいてもデザインが、すべてに優先する姿勢を感じ取れる。コモでは、「それで各工場は勝負しているのだ」と、堂々という人が多い。それを裏付けるようにラッティ社、マンテロ社ら一流クラス以外の捺染工場でも一流デザイナーや新進のデザイナーとの結びつきが多い。そのため捺染製版業者とパイプをつなぐ行為が多い。そういう背景があって、コモの捺染製版業者たちは日本の製版業者と異なり、権威を示す服装をしているのが印象的だ。 
コモの大手捺染製版会社の場合、有名デザイナーから渡されたペーパーデザインを製版する人、オリジナルデザインを描く人を擁し、日本の捺染工場のように下請けの雰囲気が全くない。白い上衣を着用して仕事をしている人が目立つ。そういう光景を見ると、まるで大病院の治療室や薬局ルームに居るような錯覚を覚える。 
それら業者たちの話によると「パリやイタリアのデザイナーがコモへ来て、先ず訪問する先は我々捺染型屋ですよ」と胸を張って話す。 
コモ市内の各製版会社を訪問して、誰しもが感じることは彼等の芸術肌だ。ペーパーデザインからトレース、製版した作品結果を、ペーパー上に美しく絵刷したものを、うやうやしく取り出し、「どうだ」といわんばかりの彼等の姿勢には愛嬌さえ感じる。 
さて、製版方法だが、日本とコモではフラットスクリーン(紗)の型づくりの方法が異なる。日本ではアルミ型枠1枚に、バイアス状態で紗張りするが、コモでは6枚以上の鉄型枠をズラリとタテ状に並べて、その上へ長いサイズの紗を覆って、紗を張る。 
コモで、試みに、作業者に紗張りした型を立てかけてもらって、その姿を反対側から見ると、型を持つ人物は全然見えない。日本の紗張り型だと人物は透けて見える。それだけコモの紗一本一本の糸が分厚いことを表わしている。 
コモではスカーフ、服地プリント用の紗張り型にはポリエステル・モノフィラメントの紗を主に用いているが、タオルのプリントにはマルチ/マルチの紗を使用している。多色使いの線柄を駆使した帆船模様など巧みに捺染表現する捺染工場がある。その作業者は「私はコモのミケランジェロ」と目でウインクするなど、コモには茶目っ気な人が多い。 
コモの紗が日本製よりも厚いということは、当然、捺染で使用する色糊は、コモと日本では異なる。コモではメッシュ間の通りがよい色糊が好まれる。 
前述したスクリーンメッシュとスキージとの相互関係を表したデータは、スクリーンメッシュとスキージとの相互関係中からどのデータで指定されたデザインを捺染で巧みに表現出来るか、その基礎になるデータだというのがコモの考え方のようだ。 
それについては反論する人もあろう。しかし次のような評価も無視は出来ない。 
「コモの捺染は物理的な捺染を感じる。日本はケミカル捺染の特長がある」(訪伊染色工業視察団(団長 中山久英氏)のリポートより、1989年)。
日本の防抜染技術は世界的に独特の技術
  コモの捺染は抜染に特長がある 
世界各国のオートフラット捺染技術と手捺染は、ハードウェアも捺染技術も違いがあることを前回で説明した。そのことをテキスタイルを取扱うアパレル、商社、小売店の商品企画者に知ってほしい。 
各国捺染で利用技術の違いを説明すると、世界的に直接捺染方法が多い。そのことはロータリースクリーン捺染機を使用の場合でも同じことを指摘できる。 
防抜染方法、着色抜染法を実施する国の捺染工場は世界的に少数である。 
イタリアの捺染は抜染技術が多い、日本は友禅技術にヒントを得て、防染技術を基礎にした捺染技法が多い。 
イタリア・コモの抜染技術はシルク捺染を主流に発展したので、シルクを糸染め後に織物にして、捺染する過程で抜染する技法を発展させた。 
つまり布に染料固着した状態から染料を抜染する方法がコモの特長となった。 
日本の防染加工は防染した布地上に挿し色する防抜染加工をオートフラット、ロータリースクリーン捺染で進歩させた。すなわちAの色柄中にBの色を挿し色するときに抜染せずに、防染技術を援用して挿し色する独特の技法を確立した。これが日本の捺染の特長である。 
アジアではインドネシア、中国等ではオートフラット、ロータリースクリーン捺染機を用いて、直接捺染方法を実施する捺染工場が多い。 
最近、インドネシアの捺染工場でポリエステル繊維布の捺染加工で、直接捺染方法で一見すると着色抜染をしたかのごとき捺染技術を確立しようと努力中の工場がある。 
これをプロがじっと見ると直接捺染方法だと見破れるという。 
これからは技術の高度化が日本の捺染工場の生きる道だという声が多い。それら工場にオーダーする業者の方々も日本は優れた捺染技術を持っていることを見直してほしいものである。 
※以上、説明した捺染技法の違いについて、更に具体的にお知りになりたい方もあろうと思うので、現在の各国捺染での技法にはその歴史的な技法の蓄積が今日にも色濃く表れていることについて、以下、説明したい。 
いずれの国においても捺染法の基本はオーバープリントであるが、ジャワ更紗の如く表裏を一体として使用する場合においては臈纈(ロウケチ)染め、いわゆるローケツ染めの場合は捺染と言うより無地染めに近い感覚である。絞り染めもその部類であろう。 
白地に絵柄をプリントするのは一般的オーバープリントであるが。白地でなく色地にプリントする場合に、淡い色の地色では上から染め付ける色(差し色と言う)は地色の影響を受けないが、濃い地色では差し色と地色が混合されて目的の色が得られなくなる。紙の印刷の場合は、インクが紙に吸着され固定するが、布地では毛管現象で染料液が移動する。これを防ぐために、隣接する差し色がひっつかないように、微細な空間を設ける。しかしこの空間があると地色が濃色の場合は地色と差し色の間に白地が見えて良い捺染品が出来ない。空間を取らずに地色と差し色が対峙させるには、オーバープリントでは至難の業となる。オーバープリント方式でない2つの方法が用いられる、一つは差し色の中に地の色を破壊させる薬剤を混入し、蒸熱等で地色を破壊させ、差し色を染め付ける(抜染法)。もう一方の方法は、差し色を先にプリントし、差し色に後から着色させる地色が混ざらないように、物理的又は化学的な方法を用いる方法(防染法)。物理的方法は、差し色に地色を吸着させる物質や逆にはじく物質をいれる。 
化学的な方法は抜染法と同様に差し色に後から染める染料を破壊する物質を入れる方法が採られる。なお地染めだけでなく、差し色と差し色で互いに色がにじみ込まないように部分的に防染方式が用いられる事もある。日本での地染めは友禅方式では基本的に差し色を絵付けした後に、引き染めという方式で全面に色糊を掛ける方式で行う防染法が主体となっている。 
一方ヨーロッパ方式は、布地を均一に染色する方法は難しく、糸の状態で染色し、無地染織物を作成したのちに抜染法で差し色をプリントする方法が主に採られている。
なぜ強い存在になったのか
  イタリア繊維工業の歴史的経過を探る 
日本の消費者の間でイタリアブームだ。イタメシ、イタリアのテキスタイルファッション、その他、工芸品に対するイタリア信奉者は1990年代の後半になって、どっと増えた。特にイタリアのテキスタイルに注目されるようになった背景を知っておく必要がある。 
今日のイタリア繊維産業を形成するのに、イタリアは色々な興亡を経験している。楽々と今日の世界的地位を築いたわけではないのである。 
1800年代後期の欧州における染色、捺染は染料の、中心的舞台はドイツ、英国、スイス、フランス等であった。イタリアはどうであったか。幸いにも華やかな近代染色、同捺染技術研究の舞台(地域)に近いことで、情報入手は日本とくらべ有利な立場にあった。 
そのイタリアは、16世紀にベネチア等で栄えた毛織物業が17世紀以降、オランダ、さらには英国の毛織物に押された。 
シルクも1878年のパリ博覧会にコモのシルク製品を出展するまで、他の欧州諸国に押さえられていた。 
そのイタリアが20世紀の後半から力をつけ、さらに21世紀近くになって、欧州繊維工業のリーダーになったことに日本の関係者は注目すべきである。 
1990年代に入って日本の繊維業界はイタリア繊維業界の活力ある抬頭に注目するようになった。日本の主要アパレル企業各社は、競ってイタリアのテキスタイルデザイナー、およびイタリアのアパレル、繊維工業と提携、又は交流を密にする動きが目立つようになる。 
なぜイタリア繊維産業が力をつけたのか、1930年代までのイタリアはフランス繊維産業の下請企業的存在であった。それがあれよあれよという間に、1980年代後半からイタリアの繊維工業はめきめきと頭角を現わし、西欧で無視できない存在になった。 
1987年時点の世界繊維工業売上高順位200社によると、ベネトン社らイタリア各社の売上げは前年対比でめざましい躍進をしている。 
1989年時点のベネトン社ら各イタリアの繊維工業の展開によると、明らかにEC経済市場が統合されるのを見据えて、EC繊維工業リーダーになる努力を重ねたといえる。 
1980年代末時点で東の繊維工業のリーダーが日本だとすれば、西のリーダーとしてイタリアの存在を抜きにして物事を論じられようになったのである。 
イタリア繊維工業が現在に至った歴史的経過を、もう少し具体的に知りたい人々のために、以下解説すると以下の通りである。 
1987年10月、染織経済新聞社企画によるITMA87(パリ)−イタリア染色業界視察団一行29名(団長・根本嘉郎氏)が、コモ訪問の際、コモ・テキスタイル業界のリーダーであるロンツォーニ博士から資料紹介されたイタリアの繊維史の概要を、あらためて紹介すると、シルク・テキスタイル産業はコモで発展した。 
イタリアのシルク産業の始まりはシシリーのパレルモである。それは1130年にさかのぼる。 
ルージロU世がビザンチンから何人かのテキスタイル職人を連れて来たのが始まりとされている。 
蚕の養殖とシルク産業は皇帝ギィウスティアノによって促進されたギリシャからもたらされたのである。 
シシリーでの新しいシルク・テキスタイル産業が急速にイタリア各地に波及していく。 
特に1200年にはルカで、1250年にジェノバ、ベネチアで、1300年にフィレンツェで、1400年にミラノ、1500年にチュリンでそれぞれシルク産業が発展し、共に繁栄した。 
最初の水力(圧)式スピニングマシーンはルカから、サーボルフェサニによって1272年にボログナで設置された。しかし300年間、人目につかないままだった。秘密にされていたのである。 
後にウゴリノラポンという人が町の人達にその秘密を洩らした理由で、彼は裁判を受け、長い禁固刑に処された。 
シルク織物づくりの秘密が公開されて、シルク産業は南から北へ波及していく途中で、ウミリアテド修道士達によって1400年の中ごろ、シルク産業はコモに波及した。 
コモの最初のシルクスピニングマシーンは1570年にコモ湖の岸辺のベラノで設置されたが、シルク・テキスタイル産業が幅広く発展することは遅かった。その理由はコモの町で非常に成功していたウールウィーヴィング工場によって妨げられたからである。ウール織物がシルク織物に圧迫を受けるというのが理由であった。 
現在でもコモにやって来る訪問客は過ぎ去った活動的な時代の証明である"ウールクローズストリート"ウール衣類の通りを意味する"ヴィアパンニラニ"を見ることが出来る。
伊コモの絹織物生産の台頭は1740年頃だった 
イタリア・コモのテキスタイル産地の台頭はいつ頃か、日本のアパレル業者たちが最も知りたいことである。日本のプリント加工業界にとってもコモが台頭した歴史に興味があるだろう。 
それについて平成元年5月17日付、染織経済新聞に連載されていた「染色史」に同社の佐々木一彦主幹(当時)が以下のように書いている。…イタリアのコモといえばシルク織物の産地として有名である。ところが平成元年時点のコモでは絹糸や原料布を中国等から輸入しているのが現状である。コモの養蚕業は潰減状態になっているからだ。昔のコモは絹織物の産地として欧州では有名な存在だった。 
コモの絹織物の進歩は1740年頃からスケールアップした。それまでの絹織物の生産は細々と家伝の秘法のような作り方にとどまっていたのである。 
1740年に絹織物の織機が60台あることが、コモの公文書で記録されている。1770年に275台、1790年に1035台に増えたと記されている。それら織機は手織機である。 
絹織物の生産が増えれば、当然、商人が群がってくる。商人たちはコモから絹を買い、スイス、中央ヨーロッパ諸国、ドイツのドレスデンや、フランクフルト、ライプチヒ、オーストリアのウィーンなどで開催される展示会で、慎重に大事に、コモの絹織物を売り、又、絹糸を各地の顧客に供給したりした。 
その当時のイタリア・ミラノの行政政体のリポートによると、当時のコモの住民14,000人の内で2,500人が絹に関係する仕事に従事していた。コモ地区での養蚕や桑の木の栽培もスケールの大きい形で推進されていた。 
それまで養蚕、桑の栽培規模が大きかったのは南イタリアであったが、北イタリアのコモで養蚕、桑の栽培が増えるにともない、当時のガリッゾーマ・フォルザ・ミラノ公爵が絹織物の生産を上げるために特別プレミア付きで252uに付き5−50の桑の木を植えるように布告している。 
この他、コモの業者筋から聞いた話だがコモは第一次世界大戦前まで、オーストリアの勢力下に入っていたので、マリー・アントワネットの母君であるオーストリアの女帝マリア・テレジアの奨励でコモ地区の養蚕育成に、かなり力を入れたことも史実から洩らしてはいけないと聞かされた。
コモの歴史を語ってくれたロンツォーニ博士 
イタリアのコモの繊維産業の指導者ロンツォーニ博士の話(1983年取材)によると、1815年の公文書によると政府に示されたレポートがある。これはイタリアのコモで生まれた偉大な物理学者であるアレッサンドロ・ヴォルタ(1745〜1827)が書かれたものである。彼は電気エネルギーの発見者でもあり、木を燃やす代わりに蒸気ボイラーを使ってシルクを紡ぐための機械をコモ近郊のカッシナリッザーディの工場に導入したとのレポートがある。 
1800年代にコモでは2300台の織物機械が稼動し、6,000人以上の人々が働いていた。年間30,000ピースのシルク布を生産していたという(1ピース約25m)。 
1850年に一連の事件がコモのテキスタイル産業に最初の危機として襲った。それは蚕の伝染病である。何万という蚕が死んだのである。 
コットンの新しい製造の技術による競争、アジアからのシルク輸入でヨーロッパをひっくり返す政治的出来事がコモのシルク生産活動に大きな打撃になった。 
19世紀のほぼ終わり頃には、より幸運な年が巡ってきた。1878年のパリ博覧会でコモのシルクが再び、品質の優秀さが欧州の繊維取引関係者に認められ、ヨーロッパで最高位の地位を取得したからだ。 
1872年に電気を使った機械的な織機の導入でコモで新しいテキスタイル産業が始った。そして1900年代の始めにはイタリアで操業している全織機の50%がコモ地方に集中した。同時代にコモでは、織りと共に染色、捺染、仕上げ工業も始まった。 
その時までコモはフランスのリオン、スイス、ドイツからの輸入に依存していた。 
1866年にコモの市役所や商業会議所の尽力により、デザイン、織物、化学の三つの専門分野の技術者や労働者の教育のためにシルクスクールが設立された。 
この学校は現在、外国の生徒から高く評価されるようになっている。 
第一次大戦、第二次大戦という二つの戦争を経て、合成繊維の導入、社会、経済の大きな変化が起こった。コモのシルク産業にとっても新しくもあり又、重大な局面に立たされた。 
第二次世界大戦後、多くの国で蚕や桑の木が消えたとき、コモで、シルク産業の新しい幕開けとなった。 
そのためにコモでは織物の研究企画衣類や服飾品のために、その用途を気にとめること、商業的なものとしてだけでなく特に芸術的技術として織物を創造すること、ファッションとの一定したつながり、製造工程の基本的構成、これからの技術に十分注意するようになった。 
専門技術者や労働者を正確に把握したり、常に高級な品質を保つための研究に力が入れられ、1980年代のコモのシルク産業を特徴づける重要なポイントとなった。これからのことは"Setadi Como"(コモのシルク)というトレードマークをもつ織物は単に仕事の結果というだけでなく、トレードマークである"メイド・イン・イタリア"を有名にするために、多くのファッション会社と共に貢献した。コモの人々の芸術的な持味を世界にもたらすことが出来るようになった。 
このことをイタリアン・シルクを好む国際的ファッションのスタイリスト達は充分知っている。構造危機の時代の中で、まだ、イタリア・シルクはイタリアの商業予算の中では重要なものになったという。
日本の近代化と同時期に紡織の近代化へ
  中国・南通紡織博物館で事実を証明 
中国・長江の北側に面して南通という街がある。上海から船で数時間、上海から高速道路で一旦、長江沿いに西へ走り、フェリーで長江を渡り、南通へも行ける。南通といえば、最近、綿タオルの大産地として有名になったが、綿花栽培地域としても知られ、一世紀前に近代紡績工業と織物工業が芽生えたところである。 
最近、南通には日本の東レ、帝人などの合成繊維工場が建設され、日本にも南通の所在が広く知られるようになった。南通市内に紡織博物館がある。この博物館を見学して近代紡績工業が日本と大体同じ時期に成長を始めていたことを知ることが出来る。 
日本で近代紡績工場の原型が出来たのは幕末だが南通も大体、同じ頃に英国のランカシャーの紡績技術を導入していたことを南通の紡織博物館を見学して知ることが出来る。 
館内には幕末から日本の明治時代の頃にかけて英国から輸入した紡機、織機類を年代順に保存陳列し、南通の事業家が日本に劣らぬ精力的な事業活動を展開していた様子を知ることが出来る。館内を見て回って注目させられるのは日本の豊田織機が開発した織機が丁寧に手入れされ、保存されていることだ。 
日本は明治維新以後、近代化の原動力として紡績、織布、染色仕上げ工業に力を入れ、それを起爆剤にして、数多い産業を誘発させた。染色の近代化で合成染料の消費が増え、染料工業を成長させ、数多い化学品の原料となる染料中間体工業を成長させた。又、繊維工場で多量に使用された精練用の石鹸を基礎にして界面活性剤工業を成長させた。紡織機の使用増加で金属、更に又、機械工業を発展させ、繊維品輸出の増加で船舶の発展を促がした。 
それらの発展過程は第一次産業革命を促進した英国の姿と似ている。中国も19世紀末から20世紀の初め頃までは自助努力による英国型の産業革命を辿りつつあったのである。 
不幸にも中国は清国政権が倒れ、以来、長びいた国内の混乱、日中戦争、毛沢東革命などで英国型産業革命化の機会を逃がしてしまった。そのことを南通の紡織博物館を見て痛感させられる。 
その片鱗を偲ばれるのが博物館内の広場の時計台だ。 
20世紀初め頃の南通繊維技術高等教育をした学校(後の大学)にあった時計台である。美しくが保存されている。当時、日本も繊維技術の高等教育に力を入れ始めていたが、そのころの南通でも素晴らしい繊維技術大学に相当する高等教育機関が設けられていたのである。以後の中国は混乱と閉鎖社会状態となり、南通での繊維技術の高等教育は他の地域に移され、毛沢東以後に至るまで、中国全体が眠れる獅子状態になった。 
中国が海外と積極的に技術交流を再開するまで、世界の歴史家たちは清国以後の中国を「眠れる獅子」と評したが、往事の同地域における人々の活動ぶりを知れば、日本に劣らぬ下地(近代事業と技術力)を備えていたことを、南通紡織博物館内を散策してうかがうことができる。
 
桐生お召し・諸説

 

水車について 
水車の沿革 
日本の水車についての最初の記録は、「日本書紀」(720)である。推古天皇18年(610)のころ、水力を利用した臼があったことが記録されている。 
時代は下り、建久6年(1195)の「東大寺建立供養記」には、水車で大量の米を搗き、人力を省いたという記録がある。 
一般には、灌漑のための揚水用に利用されることが多かったようである。 
元禄時代以降(江戸時代中期)から一般の米搗きに利用されるようになった言われている。このことは、米の生産高が増えたこととも関係している。水車による米搗きは享保のころには各地にあり、1700年代の中ごろ以後に全国に普及している。 
水車は、明治以降も増え続けて、大正末期から昭和初期にかけて全盛期を迎える。それが激減するのは戦後、昭和30年代の高度成長期以後のことである。 
現存する水車は、玉川大学の調査によれば200〜300台となっている。 
水車と撚糸機 
水車といえば、一般には「精米製粉用の水車」と考えられる。しかし、水利に恵まれた地方では、精米製粉用の水車の他に、各種の小工場の原動機として活躍した。 
水車を利用して初めて撚糸機を動かしたのは、桐生新町の大工、峯岸勝右衛門方に寄宿していた下総国結城の住人岩瀬吉兵衛で、彼は、西陣撚車に改良を加え、天明3年(1783)に水車動力の八丁撚糸機を発明したと伝えられている。 
その後、桐生では文政7年(1825)に水車動力の積屋(賃撚り屋)が誕生、各地に撚糸機が伝わり神奈川の半原、前橋などでもこの頃より水車を利用した撚糸が行なわれている。 
 
「水車は精米製粉のために利用される」というイメージが強い。そして、精米製粉用の水車に比べ、工業用に利用されていた水車を目にする機会が少ないように思われる。そのため、工場での利用に関してはあまり知られていないのではないかと思う。 
精米製粉のためだけに水車が利用されていたのではないということを広く知ってもらい、伝えていくためにも、撚糸機を動かすために水車が利用されていた記録を残す必要があると強く感じた。 
撚糸について 
撚糸(ねんし) 
撚糸とは、糸に撚り(より)をかけること、または撚りをかけた糸のこと。「撚る」とは、ねじりあわせること。糸に撚りをかけることは、糸にとっても、糸を使って作られる繊維製品にとっても重要な役割を持っている。 
糸を撚る理由 
丈夫な1本の糸にするため。 
蚕からとれる生糸、繭からほぐし出た糸はとても細く、そのままでは糸としては使えない。何本かの糸を束にする必要があるが、ばらばらになって扱いにくくなる。そこで、生糸の束に軽く撚りをかけ、丈夫な1本の糸として使えるようにする。 
糸で作られる生地の風合いや肌触り、丈夫さなどの違う効果をだすため。 
撚りをかける回数を変えたり、太さの異なる2本の糸を撚りあわせたり、一度撚りをかけた糸を何本かそろえて逆方向に回転させて1本の糸にしたり、工夫を重ねることで様々な効果をだすことができる。 
撚りの種類 
撚りの方向による分類 
撚りの方向は、織物の表面の光沢や摩擦係数などに影響を与える。右燃(S燃),左燃(Z燃)に分類される。 
撚り数による分類 
撚り数の単位は、T/m。糸1mあたり何回転したかで表す。 
甘撚(500T/m),中撚(500〜1000T/m) 
強撚(1000〜2500T/m),極強撚(2500T/m以上) 
撚り姿による分類 
基本的には、4種類ある。 
a)片撚り/糸を何本か引き揃え、一度だけ撚りをかけた撚糸。光沢が強いが摩擦に弱い。 
b)双撚り(諸撚り)/先に何本か引き揃え、左に撚り、その撚れた糸をまた引き揃え、その合糸された糸をまた右に撚りをかけた撚糸。片撚りと駒撚りの中間で、最もよく使われている。 
c)駒撚り/双撚りと撚り方は同じでも、撚度(撚りの回数)がきつい撚糸。摩擦には強いが光沢が少ない。 
d)タスキ撚り/芯にある糸を包むように右撚りと左撚りをかけてある撚糸。 
八丁撚糸機 
桐生お召しの「お召し」とは、「お召し縮緬」の略語。お召しの特徴である縮緬のシボを出すためには、糸に強い撚りをかけなければならない。そのため、八丁撚糸機といわれる機械が用いられる。 
 
撚り方によって、糸にも様々な効果が出てくることを知った。各地で特徴のある織物ができるのも、撚糸自体に様々な特徴を持っているからだろう。 
お召しを作るためには、八丁撚糸が必要である。今では全国に広まった八丁撚糸が、桐生から広まったことを多くの人に知ってもらいたいと思う。 
郷土の産業に貢献した八丁撚り機の創生者 / 岩瀬吉兵衛・笠原吉郎 
桐生のお召は、高級織物として日本一の定評があります。これは業界一丸となり多年の研究努力の成果であります。しかし、織物とは決して技術(わざ)だけでなく、更にその上、真心のこもったものでなければなりません。郷土の産業に貢献した両氏の業績には教えられるものが多々あります。岩瀬吉兵衛翁の墓は東久方町一丁目大蔵院に、笠原吉郎氏の頌徳碑は新宿三丁目の定善寺(呑竜さま)に、それぞれ静かに眠られております。 
八丁撚りの由来 / 多数の鍾で大量に 
桐生織物の仲で特筆すべきものは「お召」でしょう。天保九年(1838)、桐生の吉田清助(尾州家御用機屋)が縞縮緬(しまちりめん)を献上し、将軍家斉公がお召しになって以来、この種の織物を「お召」と呼ぶようになった。 
縮緬やお召は、在来の平織をさらに工夫、緯糸(よこいと)に強撚(きょうねん)を施して織りあげた後、適当な絞取(しぼりとり)、湯のし整理を加え、特有の絹味をもたせたもので、高級織物として珍重された。 
このお召に使われる原料糸の撚(よ)り機に「八丁車」がある。織物には独特の強度や光沢や風味がなければ良い製品とはいえない。桐生では寛保三年ごろから縮緬織を生産したが、撚糸の技術は、はなはだ幼稚だった。当時は宮東(東久方町)車大工峯岸勝右衛門という人が京都西陣式に模造した紡車をつくり、かろうじて糸の撚り合わせをしていた。この機械は一本掛けで人力で車を回転するという不便があった。 
そこに着目したのは岩瀬吉兵衛(下総結城郡中村)であった。吉兵衛は安永七年(1778)三十三才のとき桐生に来て、勝右衛門宅に身を寄せた。元来、手工に巧みな彼は、紡車の欠点改良を志し、自ら山城国淀に行って苦心研究のうえ桐生に帰り、天明三年(1783)水力を利用した完全な撚糸機を発明した。これを「八丁車」という。 
この機械は多くの錘(つむ)を備え、一時に大量の糸かけができる。その上、水力を利用するので能率も従来のものとは比較にならず、以来、八丁車は桐生はもちろん近在にまで広まった。 
吉兵衛は文政五年三月二十六日、七十七才で桐生の地に没した。その孫、笠原吉郎は祖父の遺志をついで、上枠(あげわく)の付属機械を発明するため、私財をなげうって努力を重ねた。三年目に、ついに糸の長さを決める回転時計を考察し、今日まで伝えられる八丁撚り機を完全なものとした。以来百九十数年間、二人の業績は郷土産業のため大きく貢献した。 
水車・撚屋物語 
精米製粉等に水車利用していた業者を桐生地方では一般に車屋と呼んだ。又、撚屋とは織物原料となる絹綿の単糸に織物に応じた撚りを加え、単糸撚、双子撚等を織物業者の注文に応じて製作する業者のことである。 
以下は私独自、個人の聞書で水車を利用していた車屋、撚屋等の関係者が主である。従って誤りがあれば、私の聞き違い、書き違いであるのでご了承願いたい。 
 
明治時代には桐生川、わたらせ川の川筋にはその用水を利用して水車をかけこの動力を精米、製粉域は撚糸の用いたものが数軒あり、中でも桐生川筋では上車(中里橋の近く)、中車(現広見橋の近く)、下車は(清水町・サイカチ原)現在東5丁目の共立会社社長柘植氏住宅あたりの処で、下車は私の誕生した家であるが、たびたび水害を受けたため、三軒の車屋の中で最初にやめました。 
思えば70年も前の話で前の話で私の10歳のころです。大正5年頃になると大半の車屋が水車利用をやめました。町に電力利用の精米所が急激に増え始めたからです。 
私の家では住居の続いた精米工場があって20本の杵が夜昼となく米をついていました。径1米もある粉挽臼も、挽割臼(大麦を挽き割る)も竹のタガをかけた羽グリ装置を使って回転させた、その動力源が水車だったのです。  
 
相生下新田の清水門左衛門家は通称車紋でとおり伊勢崎藩の米を預かっていたので、近隣にまれな大きな車屋で幕末には既に精米業のほかに倉庫業も営んでいた。大きな水車が二基、倉庫3棟、其の外屋敷蔵もあった。 
渡良瀬川沿岸(現両毛線鉄橋から下半丁程のところ)赤いし渡し桐生村側舟着場をでて少し登ったところに、倉庫があり、桐生では金子吉右衛門、吉田清助家などが多く利用していた由である。  
明治中頃には車屋を廃業したので三棟の倉庫は改体し、境野村(現市内境野町殿林)の倉林倉庫(関口三四郎氏の実家で現在土田整染工場と変わっている)に譲った。 
 
私は昭和30年相生町天皇宿の江原織物が廃業し、鉄工業に転業の為、工場や住居を改築したが、その際同家主人江原善佐久氏から廃棄される唐紙の下張りになっていた古証文をもらってきた。 
ほとんどが車屋紋左衛門の取引証文であった。私は直ぐ清水家を訪れて其の在りし日の盛況のさまを話していただいた。  
現在、清水家は改築され、昔の姿は只一基の常明燈が庭にあるのみである。  
これは往時、渡良瀬川船着場へ同家で寄進したもので正面に「奉納金毘羅大権現」、裏面には「文政8年清水紋左衛門」と刻まれている。 
郷土史研究家前原寛臣氏が嘗て車紋の事蹟に興味をもって種々研究したが、立証すべき証文等まったくなく実体把握ができぬ儘になっていると聞いたので、前原氏に車紋関係証文2枚、清水家へ2枚おくり大変喜ばれた。  
 
私は新宿上原の眼鏡橋近くに住んでいた水車大工遠藤藤三郎の養子となって、以後は水車造りを本業とした。 
精米所の水車は10本、20本の臼杵を動かすので、4馬力〜5馬力の出力が必要で、従い用水の水量と落差を確実につかんだ上設計します。  
精米用水車は直径18尺位で、巾は5寸8寸位が普通で、私は大物水車専門に取り組んできました。精米用に較べると撚屋、糸繰屋の水車は1,2馬力程度で小型でした。大型の水車は水力を最大限に活用出来るよう設計され、流れ込んだ水を逃さぬよう作ります。  
輪の心棒に8本の阿弥陀棒、それに輪板をつけ、棚板を張って出来あがるのですが、水に強い松材を用います。  
水車動力は種種その回転誘導する関係で設置場所、距離等は製作者の感に頼ったものです。私が桐生へ来た明治38年頃、その後暫くの間は、まだ現在のようなベルトは使われず、麻縄や木綿、ボロ布を太くない合わせたロープをベルト替わりに使用していました。  
軸受けもケヤキや樫の木を組み合わせたものが多く、誘導距離の短いところではこれで十分間に合いました。  
又、中には石を磨き凹ませて、使用したところもあったが、後には次第に鉄製の軸受けに替えてきました。  
昭和10年頃までは水車からの回転誘導は黒皮シャフトが多く、後には鉄製の針金・鎖も取り入れられて連結が大変楽になってきました。  
 
大正3年頃より境野三堀に長竹政治という人が、境野精工社とよぶ鉄工処を持ち、手回し旋盤を入れて鉄器具製作を初め、三堀の川に水車を架けて、おもに鞘錘を作っていた。  
(注)ツムは撚糸器には無くてはならぬもので、サヤツムは当時改良された優良品だった。  
サヤツムとは刀の鞘のごときものに納められた硬い鉄線太い針状のものを管に差して糸をまくのに用いる。  
主はツム作りでいつも多忙だったので「俺は野鍛冶じゃないぞ」と威張っていた。月末に集金に出かけるにも人力車で乗りつける程で大層な威勢だったが、長竹氏株に凝り田舎にいてはかぶ相場はやれぬと、やがて東京へ転出してしまった。  
(軒致装置のこと) 
明治年代以前より、河川から遠く離れた処では、水車利用の糸繰りは出来ず、軒致装置を用いた。 
これは作業所の屋外に(主に撚場の外壁に添い、庇屋根の下に設けられていた。)石油缶ほどのものに石を詰めて重しとし、座車(木製歯車)を利用して手で巻き上げておき、自然とユルク降りてくるという巻上げと下降の力を糸繰機の動力源に応用したもので従って1たん巻き上げられたものが、降下し尽くすまでの時間に糸繰り作業が出来るように計算されていた。 
これも前近代的な機屋町の風物詩の1つであった。この装置を軒致とも軒鈍とも呼んでいた。(桐生堂主人) 
私の実家は境野郵便局長裏の旧道に添う古い撚屋で、元は精米に使用したという水車を持ち、直径1丈以上あり、桛5,60まわすには楽でした。厳冬の頃氷を割り水車に付いた氷を落として水流の落差を調節したりします。寒い夜中に水車のきしむ音に子供はおびえて泣き出したりしたのも、今は昔の物語です。 
実家の前で用水川が二手に分かれるので、大正年代頃洪水のあとでゴミとともにたびたび水死人が流れて来て水車に曵きかかり母は近所の水車を持つ人たちと共同で、お坊さんを頼んで近くの空き地で塔婆を建て、水死人の供養を行っていました。 
 
私は桐生高等女学校への往復に大正8年でした。友人と新宿水車の数を数えてみた処、大小合わせて152台あった。これは学校へも報告した事で、正確であると思います。 
 
私どもは以前、撚糸業で桐生川に近いので、ここへ堰を作り水車を回したが、大小のたびによく堰は流されるし、水車は急ぎ近所の人手を頼んで引き上げねば流されるので大騒ぎでした。 
大正10年頃、上菱だけでも水車60台といわれていました。 
 
わたしの家は横山町で古く、田下吉之助とよびわたしで6代目といわれ、お召し物の横糸を撚るアゲより屋の元祖と言われてます。お召し横糸撚りがあたったのは、横丁では水車が使えずはやくから八丁撚機を用いたのがよく、左右両端がつむとなっていて1台が20本、右撚り20本、左撚り20本と同時に動いてよりあがる装置です。 
この八丁機が八台あり、常時10人以上雇人が働いていましたが、私の父を最後に転業しました。 
(余禄)田下のお婆さの話では幕末当時、横丁上にあった桐生陣屋に、最も近い家は田下で陣屋役人にも懇意となり、罪人が処刑されるときには、其の身寄りのものが、田下家の2階から別れを惜しみ見送って無き悲しんでいたと伝えている。 
田下家は陣屋(牢屋)前道路より低いところにあるので、2階からよく牢が見えたといいます。 
 
桐生天満宮境内を横切り、道路沿いに流れる本町用水にも、柳・須田・秋田・栗原の4台の水車が回っていた。幾れも天神境内横であるが、天神裏にも池田金藤撚屋が水車を持っていたが、桐生高等染色学校が出来る時退いた。 
其の先の古い撚屋篠田は居抜きのまま可能撚屋に一切を譲った。大きい水車では下山家跡に白石という精米屋の架けた一丈5尺くらいある水車が、米搗き杵10数本を動かしていた。 
記録によると山同家は四国阿波出身で彦太郎が紡錘造りの職人で、江戸へ出てきたが、折角の技術も江戸ではあまり用なく、明治7年足利に移り先代藤次郎の代に桐生町天満宮前へ移ったのは私が15歳の時でした。 
 
其の頃は久方、菱村天満宮付近はネ撚屋と機屋が多く毎日ツム造り仕事に追われ続けでした。 
戦後ツムの打出仕上げは一本3円くらいで1日平均30本仕上げは難しく、今日では30本で2900円だが、生活は成り立たず仕事も全盛期の3分の1も無く、因る年波で80歳のとき廃業しました。 
桐生に近い葉鹿町は関東で最初に水車を架けた処と伝わります。然し古い河川用水は現在の水路ではなく当時足利郡葉鹿村諏訪寺南裏を流れる諏訪瀬用水に架けたもので、今は埋め立てられて水路も判然としません。 
葉鹿町旧道に添うて流れる葉鹿用水の出て来たのは明治30年頃です。大正初期から昭和10年頃までが、水車の活躍期で軒並に水車の回る光景は実に見物でしたが昭和12,3年頃には全て電動力利用に変わり、水車は次々と姿を消しました。 
昭和初期の水車は当町の大工浜野整造の作が多く、終戦後まで水車を利用していたのは桑山精米屋で、葉鹿最後の賃車屋と呼んでいました。 
桐生界隈の水車と水路  
まえがき 
昭和39年の春、石北政男さん、阿佐見誠一郎さんを通して、前原準一郎さんを通して、前原準一郎さんから、水車に関する資料集めを依頼された。幸い、桐生地方の水車の数種を一応手掛けた経験もあったので、簡単に引き受けはしたものの、さて具体的に報告するとなると、実地調査が必要となり、前原さん他界後も、つい深入りして現在に至った。もともと、文才も無し、暇もない悲しさ、水路の調査は捗らず、我乍ら不満な一文だが、指導と協力をいただいた周東隆一さん始め諸先生や先輩への口約も果たしたく、拙文を草した。  
さて動力源をしての、水車の原形に、バツタン車というものがある。平凡社版の「世界大百科事典」によると、一方に 杵を取り付け、一方に水を受ける器を取り付けて中心をささえ、器に水が溜まるとその重みで杵が上がり同時に水は流れ落ちて、うすをつく様な仕掛けである。とあり更に別名を「そうづ」「さこのたろう」と呼ばれている、とある。当地方でも、桐生川、山田川の上流の、せせらぎに見られた米搗用の具であった。構造は前述の如く簡単なものだが、動力源としての条件は一応具えて居りしかも九五%と効率の高い点では、なかなか興味深いものがある。  
また、八百屋専門の「芋車」というものがあった。これは主に里芋の皮をむき洗いする為のもので、ユーモラスな具である。芋を入れる部分は、割り竹を内側に向けて周囲にはり付けて六枚の水受板を取り付け、一ヶ所の出し入れ口から芋を入れて水流でまわす、水車であると同時に、芋を洗う器具でもある。  
時には回転中、口が開いて芋が全部流失したなど、思わず噴き出すような失敗もあったという。  
水車という名称から云えば、「タービン」」を第一に挙げることはいうまでもないが、私は横軸型木製水車に就いてのみ述べることにする。後に度々出てくる「当時」とは大正中期と御承知ありたい。  
また水路については、初め旧市内のみを書く予定だったので、新市内の水路の勉強を等閑にした上、最近の水路状況は都市計画の為に調査困難となり、至らぬ箇所が多いが、大方の寛怒を願いたい。 
水車の種類  
当地方では、地勢上河川の流水状態が様ようで、従って、使われた水車の型式は、四種類ほどにのぼった。 
ブツ越し車、上掛式で、落差の大きい桐生川、山田川の上流で使用され、少ない水量でよく高馬力を得られ、効率は、85%を越えると云う。  
写真は相生町一丁目の高草木茂吉さんが庭園の情趣を添える為の手造りの模型上掛水車である。第一図に見る如く、容量をより多くする為に、受板、羽根板、の配置を工夫されて居り裏板は全張りにし、箱樋(導水樋)から逬出する水の力と、柄杓内の水の重力とが合わせて働く。落差と水輪直径との比は10対7が適当である。梅田村馬立(現梅田町五丁目)の星野富吉さん宅では祖父の代から、桐生紙(別名はしきらず)の製造を営み、以前には相当量を生産したが、漸次需要が減るにつれて、規模を縮小し現在では自家用と、乞われるままに市役所を近隣への需要に応じる程度であった。氏の使用している、「ブツ越し車」」は、桐生川に注ぐ谷川の水を、掘り回りから更に箱樋に受けてまわしていた。水輪直径は、一丈(3m)巾五寸(四五センチ)回転数は25回で出力は一馬力半乃至二馬力と推定される。用途は精米と楮皮の叩砕だったと云う。  
上げ下げ水車(下掛式)別名押し車とも云い、水車の下部に流水を受けて回転を得る。効率は他種に及ばないが、多い水量を巧みに利用するところに、この水車の特徴がある。小さい落差(桐生の水車利用者は之を「ド」と呼ぶ。現今では廃語となっているが、蓋し当地方だけの方言であったろう。)に利用される型式で、赤岩用水、大堰用水の上流に多く見られた。水の増減や、回転の遅速の調節に、省力の為の挺子応用の巻き上げ装置で、水輪を上げ下げするので、この弥がある。  
主要部分は、台框、吊框、巻き上げ装置、水輪等で、車軸を受軸間の距離は、当然上げ下げ毎に変化するので、歯車とハシゴチエンに依って回転伝達がなされた。水輪は受板だけの簡単なものだが図に見るごとく、放射線に対して、5〜8度の後退角(私の仮称)を与え、斜の落流を直角に受けるよう設計されている。水輪直径3mに対して、巾は1mと、他種に比して著しく広いのは、水量の多いところに利用するからである。  
水輪を 上げ下げするには前述の如く挺子棒(鉄棒)を巻き上げ装置のコロの孔に差込、鉄棒の他端を、力まかせに押し上げて操作する。往々差込が不十分で、抜けた鉄棒と共に川に転落することがある。幸い川下ででもあれば濡れるだけですまされるが、川上の場合は水輪にはさまれる危険が多分にある。この様な時の危急措置として、予備の鉄棒を用意して置く必要があった。  
ど箱車下掛式当時一般には箱車と呼んだが、これは水輪の櫛型が箱状になっているためと勘違いし易いので私は特に「ど箱車」と呼んでいる。ど箱とは水輪を定位置に安定させ、ど箱の底板を落差を生じる様に張り且つ両側からの水の散逸を防ぐよう「水寄せ」を備えた部分の名称である。水量、落差共に少ない兎掘用水等で使用され(ロ)の型と同じく、水輪の下部に水流を作用させて回転を得る。堰板の脱着に依って水量を加減し回転を調節する。  
この車種の泣き所は第三図に見る如く、水輪の外径と、ど箱の底部との間隔が、二センチと、せまい為に塵芥が閊えて、回転を止める事である。「ごみ除け」と称する格子を、ど箱の入り口に装備するが、薪の燃えさしなどは、その間を潜って羽根板を損傷することがある。損じた板を自ら手早く取り替える要領も心得て置くべきことである。  
大水車、下掛式これは、ど箱車のジャンボ型で、構造は(ハ)と同じだが、大きさは優に三倍はある。したがって、出力も大きく、五馬力六馬力のものはざらにあった。水圧の高い為に、堰板も脱着なぞと手軽にはゆかないで、閘門式にねじ応用で上下させて水量の調節をする。用途は精米、製材、織物仕上げ等であった。  
総べて下掛式では、車尻の水捌けの悪いのは禁物で、淀んだ水は回転の障害になる。原因は車尻で、石または塵芥が邪魔をし、或いは、下燐の水車が、水位を上げ過ぎて水捌けを悪くするために生じるもの、当時一般に「つばえる」と称した。之も当地方の方言らしく「ど」と共に現今では廃語となっている。  
木製水車の共通の悩みに「回転むら」がある。水車大工は、水輪組み立ての際に、この欠点を生じないように慎重に重さのバランスを取るが、それでも、材料の水の吸収差のために、この現象を生じる。このような時には、木片鉄片等で加減するが、モーターのような等速は容易に得られない。当時力織機、整径機に水車利用を試みた人もあったが、これが失敗に終わったのは回転むらの故であったと云う。  
また、晴天の休日に管理を怠ると、翌日は著しい回転むらの為に、一時始業不能となる。これを避けるためには、必ず休日の午後二時に、正確に水輪の上下を顚倒して置くことを、忘れてはならない。  
 
以上の車種のほかに、胸掛水車(胴掛水車)がある。これは、落差と効率が、上掛けと下掛けの中間位のものだが、当地方ではあまり見なかったゆえ省略する。  
水車使上伝動装置は、欠くべからざる要素である。精米水車の多くに見られる直軸伝導に始まって、歯車を直接噛み合わせたもの、はてはツルベ、ベルト、ハシゴチエンを使ったものや、水車からの回転をクランク軸に受け、それを連結杵の往復運動に変え、さらに再び別のクランク軸に回転を受ける所謂「いなづま」という伝導方式まである。いずれも状況に応じ、目的にしたがって、各々の特長を活用した。例えば、ベルトは回転の早い場合に、上げ下げ水車のごとく車軸と受軸間の距離が気ままに変化する場合にはハシゴチエンを用いる。いなづまは遠隔の地点への伝達に適し川内町の高草木波吉さんの話によれば、400m、500mの伝達も可能であったという。  
さて、当地方の水車数は私の得た資料では、450基を越えている。これら数多く作った「水車大工」は現今では皆物故されているので、当時の状況を調べるよすがもない。私の記憶に、常祇稲荷の東に在住し多くの従弟を仕立てた小林雷太郎さんと云う人があった。従弟たちに、横室収、山添伝太郎、羽鳥安祐の諸氏が居た。また菱村の和田米吉氏は、通称「米大工さん」を親しまれ、菱村一帯と、兎堀用水の水車を作り、時には依頼者の経済援助にまで引き受けた。
水路暫見  
水車の動力源として農業用水を利用したのは新しく水路を開くよりもずっと安上がりであったからだと、砂糖武雄氏は「水の経済学」で説いている。桐生地方で水車使用者の多くが、農業用水を利用したのも、同じ理由によるものである。試みに下表によって比率をみると、水車456基中、菱村の「営業用水」と称した水車専用水路の利用が九基で2%、河川利用が24基で5%、農業用水利用が423基で93%と圧倒的に多い。さてこれらの水路を一つ一つ拾って見よう。  
岩用水渡良瀬川赤岩鉄橋より400m下流の左岸、上の原(現清瀬町)から取水、各所で分流し、七条となり、一条は渡らせ川に、二条は桐生川に注ぐ。水量の多いこと他川に凌ぎ、丹羽源一さんによると120町歩の水田を潤したをいう。その上水車数も当時の過半数を占めていた。併し渡良瀬川には、水田8000町歩を擁する待堰、矢場川堰を控えていることとして、赤岩用水の管理関係者の利水の苦労は容易なものではなかったお、当時水路委員だった佐々木元吉さんは述懐されていた。  
昭和34年厚生病院新設の為の敷地造成を契期に上の原の取水口をその上流500m元富士紡発電用水の取水口に変更、めがね小橋の地点で接続名実共に赤岩用水となり現在に至った。  
大堰用水梅田村(現梅田一丁目)地先桐生川より取水、町屋(天神三丁目)押出し(天神二丁目)宮原8天神一丁目)を経て本町通りを南下して新川に落ちる。押し出しで、右岸より分かれた水路は西安楽土を経て新川に注ぎ、町屋左岸より分かれた水路は下久方、東安楽土を経て桐生川に落ちる。この主流水路は押し出しよりきたは感慨水路として、宮原より南本町通りは防水用水として役立った。  
堀用水桐生側系で芳毛村(現東二丁目)北端の兎堰から取水、芳毛村、東安楽土一帯の水田を潤し「山の腰」で桐生川に注ぐ。水量は豊富をはいえない上に長さも1.5kmと短いがよく23基の水車を抱容した。  
広沢用水、渡良瀬川右岸、富士山麓から取水、相生村、広沢村を縦走南下すること五キロ、福祉まで渡良瀬川に落ちる。如来堂賀茂神社近傍から分流した水路は斜面を流下して坂下(通称)から桜木通りを横断水田を潤しつつ南下用水主流に合する。この水の坂下は短距離ながら数多くの水車が続いていた。思うに急流の為に各車の楽さが充分に得られたことに因するものであろう。  
菱村諸用水桐生の東にある菱村は観音山を、カーブした桐生川の間にある村である。ここの用水は四条で、金葛堰、吉兵衛堰、原堰で桐生川から取り水した。別に通称営業用水といわれた水車専用に堀さくされた当地方でも珍しい水路があったが桐生川敷の拡張の為、惜しくも取り払われた。これらの諸川は旧二州橋の袂で桐生川に注ぐが、金葛堰から取り水した一条は白滝神社の道路下をトンネルで潜り久保田用水となる。  
山田川源流は鳴神社に始まり、各所で支流を集めて、10kmを南下し、落合橋下を流れて渡良瀬川に注ぐ河川で、感慨に水車の動力源に住民に密着し、清涼な河川であるが、水源が浅いために、ひでり時は水穂の植付けを、しばしば後らせざるを得なかったという。  
桐生川上流源流を根本山に発し、高沢川、忍山川等の支流を合わせつつ、群馬、栃木両県を南下する河川で、風光の明眉と、清流の故に、山葵。高沢苔の生産地として名高い。山峡の故に林業が盛んで、ここは製材用水車が二基あった。また蒟蒻の製粉水車もあったと青木忠作さんが語られた。  
岡登用水系天王宿水路赤岩橋より西、富士山下を右にカーブした道路沿いにこの水路がある。大間々街道、岡登用水から分流、街道に沿って東方に流れ、赤岩橋の上流500mの地点で渡良瀬川に注ぐ。  
以上の各水路は、皆水車に関係あるもののみを拾った。 
水車の消滅と現況  
水車使用の最盛期は大正年間の半ばと考えられるが、この時期の様に、使用者が多いときは、落差不足のない限り水車は使いやすかった。というのは、数が多ければ人も多く、しぜん利水や、水路の管理も行き届き、水量の人為的な増減等を是正させる声も強くなるからである。大正も晩期には入ると、使用者殊に燃系業者の中には、設備拡充の為の動力不足や、回転むらを忌むために電力に切り替える工場が漸増し、次第に水車使用者は減少し昭和時代に移ってその傾向は、著しくなり、先ず兎堀用水に姿を消し始めた。昭和も15年以降になると、第二次世界大戦の様相が濃くなり、益々減少の一途をたどりつつも、なお水利の便のよいところでは、かろうじて残っていたが、企業設備の国策のもとに遂に影を消すに至った。  
終戦後の混乱も幾分静まりかけた昭和23年頃僅かな後日談がある。それは終戦後の電力使用の激減の反動は、逆に電力不足が深刻をなり、苦し紛れに重油エンジンを使用した頃、織姫町付近には、水車を新設使用したものであったが、水量は少なく、増減が甚だしくて使用のやむなきに至り遂に最後の止めを刺された形になった。  
その後織姫町に消防署が設置され、この南隅に作られた庭園の池に灌漑するため、消防長佐々木元吉さんの指揮のもとに水車を建造次第に整備され、今では自家発電をして点灯や充電をするまでになり、桐生の名物になりつつある事は、まことに喜ばしい限りである。  
さらにその後流水の条件はますます悪くなり田植時の5ヶ月間は、水量は幾分回復するものの、水路荒廃は益々甚だしく、一方政府の食料増産推奨に、農家の努力に漸次生産需要の均衡は取れたが、昭和40年代に入るや、産米過剰となり、減産、減反の結果、水田変じて宅地あるいは道路となり、水路は汚濁、枯渇し下水となり、兎堰取水口は取り潰され、市街地を流れた用水もほとんど下水をなった。近き将来には、下水道工事推捗のため、せせらぎはおろか、流水も見られなくなる事必至であろう。希うところは、桐生川上流と山田川が永く、清冽な渓流の姿を失わざる事を切望して止まない。  
ともあれ水路と水車が、桐生産業の裏方として役割を果たしたことは、永く桐生史の一ページを飾ることであろう。 
あとがき  
ことしの春この一文を、計画した説きは、前原準一郎さんから依頼された、8年前から得た市内の水車だけにする予定だったが、水車には水路がつきものとの見地からこれを加えた上、栗田豊三郎さんのすすめで新市内に迄間口を拡げたので、和田秀治さん、青木忠作さん(川内町)根岸六郎さんの助力をいただき、実地調査をし乍ら書いたが、なに分にも水路は下水化し、取り潰されて跡形もなくなったりして、幾度か壁に突き当りその都度、亀田光三さんに力づけられて、辛うじて脱稿した。不徹底な箇所の数々は、大方の御寛怒を願い、お力添え下さった皆様に謹んで深甚な謝意を表して擱筆する。(昭和47年11月) 
なぜ水車なのか 
桐生 
織物のまちである。  
江戸時代に作られた「御召」が 代表織物である。  
八丁撚糸機の発明で強撚糸を使用した「御召」の製造が可能になった。  
桐生のまちの原風景は水車の廻るまちだったようである。  
1200年の歴史の中、桐生織物の興隆の1つに「御召」がありますが、縮緬織物の質の向上と増産が、水車を動力とした八丁撚糸機が大きな要因となっており、代表する織物になりました。  
桐生のまちの姿を語るときに、一般には本町の街並みを語ることが多いのですが、それはきらびやかに織上がった振り袖の外観だけに目を向けて、織物工程に携わった多数の職人の技を見ようとしないことに似ているように思います。  
外から来た人は桐生の風景をどう見ていたか。例えばそれは、高山彦九郎の「忍山湯旅の記」 (1778)に見らるのです...  
「新宿村は、左右の人家皆糸織をもって業とす、家の前小溝流れる、水車をもって綱を引き延えて糸を繰る、奇異なる業なり、人の身なりもむさむさしからず、これよりほどなく桐生新町なり、新町は南北への通りなり、6丁ばかり人家多し、町のなか溝流れる、これも水車をもって糸を繰る、富家多し、この所紗綾・縮緬・綸子・龍紋など、多く出るをもって、繁華にして人驕者の風あり」 
桐生の街並みの原風景は、このように「水車のあるまち」だったのでしょう。  
 
桐生老人会連合会編集の「明日への遺産」によると、掲載されている織物関連の話の内、35%に水車についての記述がみられます。桐生市内いたるところに水路が引かれ、昭和初期まで水車が廻っていたようです。ある調査によれば、大正の頃には市内に600台以上の水車が廻ったいたと記録されています。  
郷土桐生の先人たちの生活の知恵や、心意気を、そして生活感あふれる素朴な営みの中に、「確かに生きる力」を感じ とっていただき、益々の発展の基としていただければ幸いです。  
時の流れは私達の先輩や仲間が営々と築き上げた貴重な人間の歴史・足跡を無情にも埋没し、忘却の彼方へ追いやっていくように感じられます。私はこの文集が、次の世代を担う人達に広く読まれ、過ぎ し時代を知るよすがにしていただき、人の歴史の尊さと歴史をつくる大切さを知るためにも、参考にして下さるように念願するものです。  
この文集を読んだ人達が、この中から「語り草の種」を一つ一つ蒔いて下さるならば、この伝承はより広く、より深く、そしてより永く伝えられて行くことを信じて疑わない。  
以上のように、江戸時代後期から大正まで桐生の町は水車で溢れていたに違いありません。今回、水車とそれに関わる八丁撚糸に焦点をあて、桐生隆盛の歴史を辿り、21世紀の町「きりゅう」の将来を考えたいと思います。 
八丁撚糸機 (はっちょうねんしき) 
藤井義雄氏は琴平町において、先代より水車と八丁撚糸機を使い、古くから撚糸業を営んでこられました。幼い頃の思い出から、戦後のガチャマン景気、更に八丁撚糸をしまい込むまでの職人としての誇りと、思い出を、書き綴って頂きました。
まえがき 
明治44年父藤井定治は当時の山田郡桐生町大字安楽土、現在の東五丁目で兎掘用水路を利用して、家内工業的に小さいながらも揚撚屋[よりや]を立ち上げたと聞いてます。 
その後、縁あって永らく仕事を請けていた桐生町大字新宿(下宿)で縮緬お召しの製造元、岩沢喜助氏より、赤岩用水路を利用した現在の場所に移転をすすめられました。 
大正8年、田園を埋め立てた桐生町大字新宿263番地(現琴平町)に引っ越し、横を流れる用水路には「上げ下げ式水車」が豊富な水を動力源として力強く廻り始めました。 
川上の両毛整織株式会社(現小梅町地区)までの川辺には家が数軒ありましたが、川下には1軒もなく、草の茂る間を境野村へと流れておりました。道はあぜ道(馬入れ)を利用するしかなく、田んぼ中の一軒家までには電気も通じず、暫くの間はランプ生活だったそうです。清水義男先生の「ふるさとの民話」のなかで語られる「人喰川」はこの地区の赤岩用水路を指すものと思われます。 
その後、大正10年に桐生では市制が施行され、翌年の大正11年11月13日、私は藤井定治の三男として生まれましたが、その頃より川沿いには水車を利用する家が建つようになったそうです。 
大正13年の市役所発行の地図によれば小梅町地区で7〜8軒、琴平町地区では12〜13軒の家屋があり、大部分が水車と八丁撚糸機を使った撚糸業で、連なった水車からこぼれる飛沫は太陽に反射し、実に美しかった光景を今でも思い出されます。 
昭和4年、小学校入学頃の新宿通り東側の水路は川幅も広く水量も豊富で、上げ下げ式水車が連なり、反対の南側水路は川幅も狭く、ど箱式の水車が所々見える程度で、その殆どが八丁撚糸屋か糸繰り屋でした。 
父は大正15年当時、牛塚虎太郎群馬県知事の許可を得て、水車を電動機モーターに変えましたが、後で聞いた話では夕立等による水量の変化や、数台の機械の一部停止時の負荷力の変化で起こる回転斑を嫌がった為だそうです。 
家から見えた雄大な赤城山、広々と広がる田園風景、その先に小さく見える石造りの、のこぎり屋根が十数棟連なり、すげ笠をかぶり白くお化粧をした様な巨大な水槽、右側に二階建ての寄宿舎を塀で囲んだ工場が、明治41年創立の両毛整織株式会社でした。その工場より掃き出すように流れてくる赤岩用水が、数多くの水車を廻して、渡良瀬川に戻っていくあの昭和5〜6年頃の田園風景は私の脳裏にしっかり焼き付いています。 
会社は戦中精工舎へ、そして戦後は解体し、後に南幼稚園や住宅が建ち並び、今は中通り線の道路建設工事で又様変わりし、近い将来渡良瀬川に橋をかけ50号線と結ばれるようです。現在は水路の水もわずかで、昔を知る人も少ないのだろうと思います。
沿革  
桐生では寛保3年頃から縮緬織を生産していましたが、撚糸の技術はきわめて幼稚で一本掛けでの機械を人力で廻すという不便なものであったそうです。 
天明3年(1783)、岩瀬吉兵衛という元来手工に巧みで研究熱心な彼が、苦心の末、水力を利用した完全な撚糸機を発明しました。 
この撚糸機は多くの錘を備え、それぞれに糸を付け、水車の動力で回転させる為、従来のものとは比較にならないほど能率が良く、均一で良質な糸を生産することができました。これがいわゆる八丁撚糸機で、水車を連動させた画期的な発明でした。吉兵衛は文政5年3月26日77歳で没し、東久方町一丁目の大藏院に墓があります。 
その孫にあたる笠原吉郎は祖父の意思をついで撚糸機の付属機械の研究努力を重ね、3年目にして、撚り上がった糸の長さを決める回転時計を考案し八丁撚糸機を完全なものとしました。吉郎は明治11年9月25日69歳にて没し、新宿3丁目の定善寺に静かに眠っております。 
この水力八丁撚糸機が一般に普及するのは明治10年以降といわれ、最盛期の大正中頃は、上げ下げ水車が連なり壮観だったようです。 
水車の時代は早い回転を得るために八丁撚糸機の錘を廻す大車の直径は普通1m16cm位として効率を稼ぎましたが、電動モーターの時代に入り大車は80cm位に小さくなりました。 
注)大正末期、藤井撚糸使用の大車が相生町五丁目県繊維工業試験所内八丁撚糸機及び付属機械類の動態展示試験室にあります。ただし心棒は戦時金属供出してしまい、ありません。
概要 
八丁撚糸機は「八丁撚車」或いは略して只の「八丁」と呼ばれていますが、その語源は「口も八丁、手も八丁」という言葉を引用したものと伝えられています。辞書によれば「しゃべることも、することも達者なこと」となります。 そして、八丁撚糸は大別して二種類に分類できます。 
(1)下撚り八丁(片撚八丁、片錘八丁) 
生糸を織物に適合する太さに合糸し、右又は左に撚りをかけて(200回/m〜300回/m)綛状にする。八丁撚糸機は利用範囲が広く、近年までお召し以外の撚糸にも利用されています。 
1. 繭一個からとれる生糸の太さは約2デニール位。普通お召しの緯糸の太さは84デニールから150デニール位のものを使用する事が多く、右撚り左撚りのものを同数作る。  
2. 下撚り八丁は通常1台に付き24錘で1回で24綛できる。  
3. 生糸の撚りはあらかじめ油(ロード油等)に浸し、加撚中も乾かない様に時々湿気を加える。  
(2)揚撚り八丁(両錘八丁) 
この撚糸機は主としてお召しや縮緬などシボを作るための緯糸を作る撚糸機で、左右の撚りが同時に撚れ、しかも強撚糸(2500回/m〜3000回/m)ができるように作られている撚糸機です。 
一本の錘の両頭に管をはめ、引き出すので同時に左右の撚りができ、錘先よりはなれて行く糸には「シズ」の重りにより適当な張力が得られ、巻き取りまでの距離も比較的長く、それは近代化した撚糸機械も遠く及ばない性能と特徴のある機械といわれています。 
桐生の織物の代表であるお召しは、下撚り八丁で右撚り左撚りに合糸された絹糸を練り上げ染色し、糊付けと糸張の工程を経て、最後に揚撚り八丁撚糸機で強撚を加え、緯糸ができあがります。 
最も良いお召しとは、色、シボ、絹味、そして、独特の風合いにあるといわれていて、昔はこの工程を総て自己の工場内に設けていました。釜場、撚場で一貫作業を行い、工場入口には縦覧謝絶の札をかけ、機屋[はたや]さん各々の技法と研究を続け、特色を出していました。 
揚撚り八丁の錘にも京式と桐生式とがありまして、時には「皿シボ」といって撚り上がった糸を一定の長さ(10cm位)に少し束ねて、お皿に水を入れ、糸を浸し、その縮み具合を見て研究したようです。父は常々「俺は錘先で飯を食べているんだ」といっていました。撚度は撚出し用のツバ(車)に布又はボール紙を巻き、表面はすべり止めのサメ皮で覆い微調整もできるようになってました。 
絹の緯糸は水枠に糸繰りをしてから水に浸し、以後の工程は、総て湿気をおびた状態で管理し、揚撚り八丁にかけ、撚り上がった糸を乾燥させた後、ボビンに上げて次の製織の工程に移ることになります。 
緯糸には右撚り左撚りがあり、しかも同色のために間違いやすく、枠、管ガラ、ボビン等には印が付けてあり、織り上がるまでは細心の注意が必要です。 
八丁撚糸機用の管巻機もそれぞれ下撚り、揚撚りに適合した自動ストップ式が完成されていました。 
八丁撚糸機の工場は絹糸の場合、湿気の状態が望ましいので、床は土間か或いは少し掘り下げて窓は高目の位置に作られていました。 
昭和の時代に入り、緯糸に人絹糸を用いた交織お召しも製織される様になりましたが、人絹糸は普通120〜150デニール又は200デニールをそのまま染色して使う為に、下撚り合糸の必要はなく乾燥の状態で揚撚り八丁で強撚をかける事となり、撚った糸は糊付けをして枠に巻き取り乾燥後、ボビン巻きして織場へと送られました。 
織り上ったお召は「シボ取り」「湯のし仕上」の工程を経てできあがるわけです。
戦前の八丁撚糸 
時代は大正から昭和へと、織物関係も順調に発展、水力より電力へ、織機も順次自動化が進み、昭和8年には境野村も合併され、遂に桐生織物の需要が西陣を凌駕したとも報じられ、昭和9年には後継者育成のため、県立の桐生工業学校が色染科、機織科の2科合計50人で開校されました。 
昭和10年頃より満韓支(満州・韓国・シナ)向けの人絹縮緬の輸出が盛んになり、我が家でも八丁撚糸機(揚撚り)の枠取部分をコロ取り式に改良し、計8台を5人で稼動させていた記録があります。 
しかし、昭和12年(1937)日中戦争が勃発し、翌13年には国家総動員法も公布されて物資の供給も次第に窮屈となり、遂に3月1日、商工省令により八丁撚糸機に必要不可欠な消耗品の釣瓶が、綿糸の統制品で配給制に指定され、割当票交付事務上、組合の創立が必要となり、同年8月21日、桐生撚糸賃業組合創立総会が南小学校講堂に於いて開催された旨が、昭和13年8月23日付両毛織物新聞に報道されています。 
注)後述の両毛織物新聞抜粋を参照 
昭和14年、遂に国民徴用令も公布して第二次世界大戦が勃発。ノモンハン事変も発生し戦争への足音も感じられるようになりました。 
桐工五年生となり、学校には機械工業界からの求人も増し、二学期より希望者は桐生高等工業学校(現群大工学部)機械科実習室を借用し勉強、三学期を迎え内定した大部分の生徒は仮卒業し就職先へと散って行きました。 
私も遂に繊維関係を一時離れ、中島飛行機太田製作所に就職し、希望した設計部門に配属され、後に課長のよきアドバイスを受けながら油圧関係の部品3種を考案、昭和18年2月、所長より特別表彰を受けましたが、同9月入営後直ちに満州へ。翌19年5月、仙台陸軍飛行学校に入学し、航空気象学を勉強し9月に卒業、直ちに三重県鈴鹿市の陸軍第一気象聯隊に教官として転属、昭和20年7月第二気象聯隊として兵庫県三木市の国民学校を基地に展開するも間もなく終戦、残務整理も終り8月下旬召集解除となり帰郷しました。
戦後の八丁撚糸 
満二年ぶりに見る赤城山に迎えられ我が家に帰り家族に合った時は、言葉もなく母がそっと目頭に手を当てていた姿は忘れられません。妹の話によれば毎日写真に向かって武運長久を祈っていたそうです。 
昭和21年の春、知人の紹介により市内に疎開してきた元自転車会社の設計関係の仕事で入社。父は倉庫に貸していた工場を整理して、各種部品を集めて八丁撚糸機を組み立てました。大部分が木製の撚糸機は供出部分の金属が少なかったので、何とか完成したようでした。 
農家から娘さんの嫁入りに使う縮緬織の緯糸を頼まれたので、機屋さんを通して農協から繭を仕入れて、我家で緯糸を撚ることになりました。 
管巻機は新製しなくてはならないので、父が手動の機械で間に合わせ、会社も半年後、昭和23年春に私の退社が決まり、その間妹が手伝うことになりました。 
昭和23年後半よりは仕事に集中しましたが、子供の時から見ているので覚えるのも早いとの事でした。縮緬も下火になりかけた頃に、交織お召し用緯糸の話も始まり、2台目、そして、妻も手伝う様になり3台目と増やして行きました。 
昭和30年代に入り縫取お召しも最盛期を迎え、帯のメーカー迄もお召しを織るような状況でしたから、八丁撚糸機を初めての人までが動かす有様でした。 
その頃に八丁撚糸業者のみ30人位で組合を組織し、桐生撚糸同業組合と称しておりました。  
組合は相互の親睦、情報交換、技術の向上、釣瓶等の共同購入を行いお、年2回位家族、従業員を交えてのバス旅行は好評でした。それから、年1回の総会及び年4回位幹事会も催しておりました。 
しかし、ブームは長く続きません、縫取お召しより桐彩お召し(マジョロカ)、風通お召しへと先細り傾向は変わらず、遂に兵児帯やネクタイ用緯糸まで手掛けてみたが思う程ではなく、一部八丁撚糸機を減らし物置に眠っていたバント式撚糸機(昭和3年頃製)を設置し、帯の緯糸用に引揃を始めました。 
昭和39年9月3日明治大正昭和と八丁撚糸一筋の父は遂に73歳の生涯を閉じました。時代はまさに近代化へ突入し東海道新幹線の開業、東京オリンピック開催の年でもありました。昭和40年半ばには八丁撚糸機と付属機械と部品等一式をまとめ、又必要な時が来るのを信じて物置にしまい込んだ次第です。その後は、引揃一筋に帯、金襴、カーテン他美術織物用各種の緯糸を引揃へ撚っていましたが平成8年7月、築78年の工場家屋も老朽化が進み、後継者難と高齢化で廃業しました。
結び 
平成9年8月の教育行政方針「桐生を好きな子供に育てる」を目標に、南公民館の企画で南地区の子供達と大正13年制作の桐生南地区の地図上に、地元年寄りたちの指導で織物関係19業種と水車の位置を印す教室が開かれ、撚糸と水車関係者が主に参加しました。 
子供達は「はたやさんだけでもこんなにたくさんあったんだ」とか水車の多さにびっくりしていました。
注)平成9年8月7日桐生タイムスが写真入りで報道。 
平成12年1月、桐生織伝統工芸士会会長新井実氏より、県繊維工業試験場で、長い伝統と歴史のある桐生お召しの生命ともいわれる緯糸のシボを作る揚撚り八丁撚糸機、及び付属の機械を一式整備し動態展示し、お召しを始め各種織物の撚糸の研究に供したいとの主旨で、試験場長町田旭様、繊維技術部主任研究員兼機織課長玉村日出隆様よりの依頼をうけ、場内にある八丁撚糸機及管巻機を調査し、程度も良いので部品交換や一部修理しました。そして動力として直結モーターを取り付け、糸繰機、ボビン揚機又各種部品一揃え全部を持参し、平成12年4月上旬試験運転し完成いたしました。 
思えば八丁撚糸機をかたづけて35年、公的機関で自ら使用していた機械が整備され動き始めた時は、嬉しさと感動で涙がこぼれました。水枠、管ガラ、シズなど各種、お召し枠、ボビン等、錘も各種揃っているので研究試験にも末永くお役にたてればと念じております。 
最後に執筆に当り特記しなければならないのは、戦後金属の供出で壊滅状態の八丁撚糸機および管巻機など製作修理に当たってくださった山添製作所(浜松町二)です。謹んでここに感謝の意を表します。 
森秀織物と桐生お召し 
織物の街桐生の歴史 
我が街桐生が、かなり古い時代から絹織物の産地であったことは、伝記や伝承によって知られていることであります。絹織物は宮廷および幕府の保護を受けて発達してきたいきさつがあり、特に京都の西陣は代表的な産地です。桐生においても、関ヶ原の合戦のおり、徳川家に御旗絹[はたぎぬ]を献上して以来、幕府に保護されることとなりました。天明の京都の火災(1788年)を機に多くの職人が桐生にはいって以来は、金襴、厚板、緞子等の高級技術織物が織れるようになり、一大発展をしたものです。そして岩瀬吉兵衛によって、高級絹織物のお召しの緯糸を作る八丁撚糸機が発明されたのもこの頃でした。 
明治に入り、西洋から種々の織物の技術と道具・機械が導入されました。 
ドビー機は明治6年、佐倉、井上の両人により京都に輸入され、桐生には明治19年、高力直寛によって伝えられ、高級紋織物の発展に貢献しました。力織機の使用は、明治21年に桐生に設立された日本織物会社が、米国から購入して始めましたが、明治40年頃まではまだ手織機が大いに幅をきかせ、力織機による製造はわずかなものでした。桐生の織物業者がもつ手巧的技術の優秀さが、かえって力織機の発展を妨げていたためでしたが、その後次第に増加しはじめ、ドビー機からジャカード機へと、さらに発展していったのです。 
手織機の数は大正10年には50,159台ありましたが、大正10年から大正11年にかけておきた大不況により、手織業者は激減しました。そして、力織機の時代に移り、昭和12年には力織機22,046台を誇る、一大産地へと変貌したのです。しかし昭和18年、力織機を戦争のため献納し、その数5500台まで統制され、多くの力織機が破砕されてしまいました。
伊勢崎銘仙とお召し 
ここで、伊勢崎銘仙とお召しの違いについて述べてみましょう。お召しは糊がついた強撚糸で幅広く織り、それを縮めた織物で、経糸も3000本以上、8000本位まであったといわれています。銘仙というのは織ったままの巾ででき上がり、経糸の量が1200本位と少ない織物です。つまりそれだけ糸が太いというわけで、「かすり」をつける都合上やりやすいということもあります。それだけ糸に違いがありますから、過去には約3〜4倍も、値段に差がありました。
桐生で織物が起こった理由  
織物の町になったところは、古くからお米など主食が取れないところ、関東では、山際の八王子ですとか、桐生、足利、伊勢崎、佐野などです。織物を作り、売ってお米など主食を買ったのです。 
幸いなことに、大間々や桐生には「市」がありました。自分で作った反物を「市」でお米に代えられました。特に桐生は水車動力を各工程に利用し、多くの反物ができ「市」が賑わい、桐生の織物がたくさん売れ、全国に普及していった結果、天命年間には日本のお金の三分の一が桐生にあったといわれる位、多くの織物屋にお金が集まりました。
森秀織物の歴史 
森秀織物は、明治10年、半工半農の形式で始まりました。当時は今のような力織機ではなく、手機足踏み等でありました。その後、先代の森島秀により力織機によるお召しの製織を研究、成功をみました。以来、各工程を逐次機械化し、現在のような設備と方法になりました。また、昭和9年の天皇陛下群馬県下行幸の際、当社謹製の紋お召しを、お買上げの栄に浴しております。 
戦時中は織物、特にお召しなど高級織物の製造は極度に制限されましたが、当社はお召し製造技術保存工場に指定され、その技術を維持、戦後の復興に寄与致しました。 
昭和26年には株式会社に組織改革し、ますます合理化して昭和32年、35年には中小企業合理化モデル工場の指定を受けました。昭和36年には、近代化のため6丁織機と染色機を、昭和44年には、両6丁広幅織機を設置致しまして、お召しの製造にあたりました。
お召し 
お召しは徳川十一代将軍家斎の頃から作られ、初めは縞縮緬といわれておりましたが、将軍が平常お召しになったのでこの名が起こりました。強撚糸を使用してある緯糸に、糊をつけて固まらせて織りますので、その糊を落とすと表面に凸凹(シボ)ができるようになっております。縮緬も同じことですが、縮緬は後染め、お召は先染[さきぞめ]であります。ゆえに非常に丈夫で、また縮緬よりも色の深さがあります。ですから着尺織物で、最も優雅豪華なる点が大きな特徴といわれています。  
糸の段階で精練し、先染したのち織り上げた、先練り織物の代表的なものです。縮緬は生地に織り上げたのち精練しますが、お召しでは、織る前に精練が行われるので、しぼの状態と風合いが異なってきます。製織には、とくに緯糸にお召し緯という特殊な強撚糸を使います。これは緯糸の1m間に約300回位の下撚りをかけて、精練と染色をしたのち糊をかたくつけ、さらに1m間に約1500回位の上撚りをかけたものです。各地で生産されるお召しには撚りに特徴があり、用途、種類ともに多く、またお召し、お召し風の名をつかった織物の範囲も広くあります。代表的なものに、無地お召し、縞絣お召し、風通お召しなどがあります。
八丁撚糸機 
八丁撚糸機のはじまりは、桐生の岩瀬吉兵衛という方が、天命3年に水車を利用して糸を撚ることを考案したことからです。それまでは一人の人が一本の糸しか撚りを入れられなかったので、能率が悪かったのですが、八丁撚糸機によって、右撚り10錘、左撚り10錘あるいは、20錘・30錘など、左右で一度に大量の糸が撚れるようになりました。この発明により強撚糸の織物がこの地に供給され、桐生で織物が質・量ともに満たされて商品として確立しました。八丁撚糸機の発明は「桐生式産業革命」の基を築いたといっても過言ではないでしょう。イギリスの産業革命においても、ジョン・ケイが大量に早く織物を作るものを考案したことが始まりです。産業革命の起こりは、糸を大量に供給することができるようになるということが発端になっております。織物が早く織れるようになって糸を供給するシステムができ、織物を高速・大量に生産する流れが確立してきたわけです。機織機だけが改良されても、糸が供給できなければ、大量生産にはつながりません。この八丁撚糸機は水車動力を使うことで、一定の回転が生まれ、非常に撚りの安定したものが供給されるようになったわけです。 
織物を織るのもそうですが、撚糸も同様に、最初から最後まで同じ力を与えることが重要になっていたわけです。明治時代の織物屋さんは、夫婦喧嘩をしなかったといわれています。夫婦喧嘩をすると、次の日は均等な織物ができないからだそうです。その位同じ力を供給することが大切なので、やがて電力が供給され、他の道具も動力化されてきました。電力によりさらに一定な動力を得ることで、桐生の町もより活性化されてきた、というわけです。「ガチャマン」という言葉がありまして、「ガチャ」といえば「1万円儲かる」という時代がありました。昭和の初期頃から「ガチャマン」と言われるようになったそうです。画期的な道具ができても、それでできた織物が売れなくては、良いものとは言わないわけで、この桐生において、お召しが良い織物と言われるようになったのは、八丁撚糸機があったお陰というわけです。  
新たなるお召し織と未来への展望 
当工場で、新たなお召しを作るにあたり、「世紀21」と呼ばれる絹糸を使用することにいたしました。「世紀21」は群馬県が誇るブランド生糸で、14デニールに引いた糸です。戦後は、糸のデニールというものが段々太くなっていく傾向がありまして、21、28デニールが主流でした。14デニールというのは無かったので、28デニールが流通するようになっていたわけです。この度、松井田町の「碓氷製糸」さんで、特別に14デニールの糸を作っていただきました。日本で製糸屋さんは二軒か三軒しかないのですが、そちらに頼みましたら、今は、撚る糸が少ないので、「どんな糸でも撚りますよ」といっていただき、お願いすることができたのです。糸も復元する、織物も復元する、ということで頑張らせていただいております。  
更に、復元したお召しは八丁撚糸機を電力で動かしているわけですが、作ったお召しが売れたならば、水車動力で動かすようにしてみようと思っております。しかし、水車で動かすにはお金がたくさんかかるようです。各地の先生方からは、日々毎日動くものですから、相当なメンテナンスが必要になり、作った以上はそれなりの覚悟でやらないとだめだと聞いております。「当工場の八丁撚糸機で作った糸で織ったお召しを買っていただいて、水車を設置できればよいのにな〜」と思っています。  
こんな風に森秀織物では、新しいお召しを作ろうと考えていますが、ご存知の通り着物の需要が非常にすくなくなってきております。ここ数年、お茶お花など日本古来の習い事以外に着る機会がなく、特に普段着の需要が減りました。今は着物ですと、着る人があまりいないわけですから、インテリアとか小物にお召しの良さがでるような物を考え、お召しの新たな需要を増やしていきたいと思っています。
  
尾州毛織物のあゆみ

 

麻〜絹〜綿  
尾州産地の中心である一宮市内の遺跡からは、麻織物の模様を焼き付けた弥生式土器類が多数発見されています。  
また、正倉院に現存する尾張国正税帳の記録で、奈良時代(734年)には既に綾や錦などの絹織物が盛んに織られていたことがわかっています。その後江戸・元禄期頃には、羽島市から尾西市起町・木曽川町付近一帯に桑が栽培され、起絹(おこしきぬ:尾西市)、割田絹(わりでんきぬ:木曽川町)などの織物が盛んに作られました。  
室町時代(1334〜1573)には、細い麻糸を使ったきれいな尾張細身(おわりさいみ)という平織麻布が作られ、それは、贈答品にも使われる高級品としてはやり、尾張織物を有名にしています。  
綿については平安時代、既に綿花の種がインド方面よりもたらされ一時的に栽培されましたが、作付けの不慣れや絹重視の政策で根絶していました。しかし、室町時代に再度、綿花の種が琉球から薩摩を経て内地へもたらされ生産が浸透しだし、安土桃山の戦国以来、尾張では木綿の製品は実用向きということで絹布を凌ぐようになりました。綿織物は江戸時代に入り更に盛んになり尾張平野は、麦作の後にうえた生綿(きわた)で秋に綿の白一色となったと言われています。  
この頃になると農家は自家消費分を超える綿花や綿糸、綿織物の転売を望むようになりました。一宮市の織物に古代からゆかりのある真清田神社(ますみだじんじゃ)の門前で毎月3と8の日に「三八市(さんぱちいち)」(1727年〜)が開かれるようになり、転売できるようになりました。農家へは綿商品を買い集めに来る子買い商人も多くいて、商品を繊維問屋へ持ち込んだり、三八市で売ったりしていました。商品の物流も一宮を中心とする街道や起川(おこしがわ=木曽川の別称)を利用して、各地へ運ばれました。「三八市」は明治時代へと続きますが、尾張の織物業を決定的に栄えさせることになったのです。  
また、江戸時代の寛永15年(1638)頃からオランダ人の手によってインド東岸のサントメより平戸に輸入された縦縞(たてじま)の綿織物は当時の日本では出来なかった80〜120番手のかなり細くて長い糸を使って縦縞が織られていました。それは、出産地名を当て字して「桟留(さんとめ)」と呼ばれるようになり、オランダより当初は献上品として幕府要人へ配られたが、従来の着物柄にはなくて「粋(いき)」な柄ということで、大奥や上級武士に好まれるようになり、それが18世紀以降一般庶民に流行するようになりました。  
人気のあるこの織物は、日本各地で模倣する試みが始まりました。高機(たかばた)という織機の導入で織ることは可能なのですが、再現するのに苦労したようです。尾州産地では明和(1764年〜)年間に模倣した織物が出来るようになり、「桟留縞(さんとめじま)」という名でブランド化し、「尾張の国産品」として江戸など大都市へ販売しました。並行して、輸入も続けられていましたが、こちらは舶来品ということで「唐桟留(とうさんとめ)」とか、「唐桟(とうざん)」という名で販売されました。また、尾州産地では、葉栗郡及び中島郡の結城縞(綿と絹の混紡)・寛大寺縞、海部郡佐織村の佐織縞、経糸に輸入糸を使った和唐縞といった様々な縞織物が各地域で織られ明治維新以降も隆盛を極めました。  
明治24年(1891)10月の濃尾地震による土壌変化と輸入綿糸の圧迫で尾州産地の綿花生産がなくなるということもありましたが、明治27年(1894)には愛知県の織物生産額は44万7,167円で全国1位となりました。これには、輸送手段の進化がありました。  
明治19年(1886)6月の国鉄・東海道線の尾張一宮駅開業、7月の木曽川駅開業、木曽川、長良川(ながらがわ)、揖斐川(いびがわ)の鉄橋の完成、明治20年(1887)1月の岐阜駅の開業、これらが大量輸送時代をもたらし、尾張の織物の商圏を飛躍的に拡大したからです。それまでは、起湊(おこしみなと)からの船や陸上の馬や大八車での輸送に頼っていました。  
また、生産手段の革新があったからです。これも産業革命の日本への伝播により、既に他の産地では導入されていた高速の新しい織機、通称バッタン織機が濃尾地震の震災復興救援隊の大工の紹介により、尾州産地にも普及し、生産効率が上がったからです。こうして、後に毛織物のメッカ尾州と言われるようになる尾州産地は、明治時代、大正時代までは、絹・綿交織織物が、主な生産物となったのでした。 
毛(ウール)の起源  
毛織物とは、羊などの毛で織られた織物のことで一般には羊の毛である「ウール」が有名です。アンゴラヤギの「モヘヤ」、カシミアヤギの「カシミア」、アルパカの「アルパカ」等もありますが、ここでは、世界で圧倒的に多く馴染みの深いウールを、毛製品の代表として書いていきます。また、ウールは人類の衣・食・住にとって、「食」のパンと米のように特別なものなので、日本の毛織物について書く前に、少しその世界史に触れようと思います。  
ウールの歴史は、メソポタミアの頃から現代に至る1万年程の人類文明の歴史とともにあったことが遺跡や書物で分かっています。紀元前3000年にはヨーロッパ全体に、牧羊は広まっていました。始めの頃、羊の肉は食用に、毛皮や皮は衣類・寝具等に使われていたのですが、羊の毛は刈り取っても一年で伸び、紡ぎ易いことも分かったのです。  
紀元前1世紀に地中海の覇権を果たしたローマ帝国では、男はウールの「トーガ」という布を身体に巻きつけ、女は四角いウールの布を纏っていました。ローマの貴婦人達にとって、羊毛を自ら紡ぐことは優雅な特権であったようです。  
当時の織機は、経糸に重りをつけた垂直型の道具から、既に水平型も考案され使われていました。ウールの染料には、植物や地中海のまき貝などが使われ、布を蒸すことやアザミで起毛することも行われていました。  
また、ヨーロッパの各地では、白い毛が取れるように交配による羊の品種改良が試みられていました。紀元前50年頃、ローマより移住したルチアス・コロネアによってスペインのカディスで、細くてしなやかな白い毛の取れるメリノ羊の原型が産み出されました。  
その後、スペインでは、5世紀のローマ支配の滅亡、ムーア人による再建、15世紀のスペイン王国の成立と長い間の変遷の中で、羊に牧草を食べさせる移動牧羊が盛んになり品種も向上して、当時のスペイン王室の文書の中にメリノ羊という言葉が初めて公式に登場しています。コロンブスの新大陸発見の遠洋航海費用は、同王室のイサベラ女王がメリノウールの売上金から拠出したと言われています。  
メリノ羊は、スペイン王室がしばらく独占していましたが、他国の王室へは融通され、18世紀後半にはサクソンメリノ(ドイツ)、ランブイエメリノ(フランス)等、いくつかの国で自国の風土にあったメリノの改良品種が出来ています。  
また、18世紀末にオーストラリアへ初めて持ち込まれたスペインのメリノ羊13頭の内8頭をジョン・マッカーサーが買い取りカムデン牧場で大量生産し、オーストラリア国内に広めて行きました。近年では、1億4千万頭を数え、同国の生産量は世界の30%、販売では50%となり、ウール産出大国となっています。  
一方、ウールがここまで世界的になるには、イギリスの存在が欠かせません。11世紀頃からイギリスの羊毛工業とその消費は盛んになりました。14世紀には、羊の品種でもイギリスのコォツウォルズ産のコォツウォルド・ウールが、細くて長く、カールして光沢があるということで人気を呼び、同国へ大きな富をもたらしました。その富のシンボルとして議会の上院議長席はウールサックと呼ばれ、座席の中には今でもこのウールが詰められているそうです。その後、イギリスの産業革命が更に拍車をかけたのです。1764年にジェニー紡績機、1768年に水力紡績機が発明され、機械化が進み、また他国に伝播してウールの工業生産力を飛躍的に伸ばす影響力を及ぼしたのです。 
毛(ウール)  
さてわが国、農耕とサムライ文化を原点に持つ日本にとって、毛織物は海外からもたらされたものでした。それは、鎖国制度をとった徳川幕府と封建制が明治維新により終焉し、一気に西洋文明が流れ込む文明開化の明治時代後半まで輸入という形で続きました。  
日本の古代では、中国の正史「三国志」の中の通称「魏志倭人伝」によると、景初3年(239)に朝鮮半島の魏王(ぎおう)から倭(わ)の女王・卑弥呼(ひみこ)に贈られた品に毛織物があったということがわかるそうです。日本書紀には、554年に百済(くだら)よりわが国へ対「新羅(しらぎ)」攻略の援軍依頼とともに献上品があり、その中に「ありかも」という品があり、これは獣毛を使った太古の縮絨毛織物でフェルトの毛布のようなものであったようです。  
わが国でも500年代、下野国(しもつけのくに:栃木県)では羚羊(れいよう:カモシカ)の毛を絹糸と交織した織物を「計牟志呂:けむしろ」という呼び方で朝廷に献上しています。当地は毛(カモシカ)を原料とした生産によって「毛野国(けのくに)」と呼称が変わるほどでしたから、盛んに計牟志呂は生産されたのでしょう。  
ところで、日本には、古代よりヨーロッパで発展してきた羊は生息していませんでした。わが国でも、羊を海外から連れてきて飼育に挑戦した経験は、何回かあります。しかし、長続きはしませんでした。湿度を嫌う羊は、多湿の日本では飼育が困難であったことも事実です。明治になり、毛織物の需要が高まったとき、後述する官営下総牧羊場で本格的に挑戦するのですがこれも長続きせずに終わりました。  
わが国にヨーロッパから毛織物が本格的に渡来したのは室町時代末期からで、弘治元年(1555)にポルトガルの貿易船が、堺、平戸、長崎などの港に、「羅紗(らしゃ:ポルトガル語の当て字)」を持ち込みました。羊毛には太くて短い毛を紡いだ紡毛(ぼうもう)と、細くて長い毛を紡いだ梳毛(そもう)とありますが、この羅紗という毛織物は、紡毛で平織し起毛した厚地の紡毛織物の一種でした。  
当時、日本は世界に広く門戸を開いていたので、いろいろな毛織物も文化とともに、スペイン、オランダ、イギリスなどからも入って来ました。しかし、これらの毛織物は高価な貴重品でしたので、大名の趣味範囲の武具に使われていました。織田信長の緋羅紗(ひらしゃ:紅色の羅紗)で作ったカブトの前立、豊臣秀吉の猩々緋(しょうじょうひ:深紅色の毛織物で作った陣羽織)は、特に有名です。  
江戸時代(1603〜1867)になると、渡来の毛織物は多種多様になり、家康が内外の貿易船に朱印状を下付した朱印船の数は、鎖国令を出す寛永12年(1635)まで300隻以上に及ぶのですが、この朱印船がこれらの毛織物を運んだのです。鎖国令以降も長崎の出島における貿易で毛織物は取引されました。  
江戸末期になると、舶来の毛織物は一部の武士階級だけでなく裕福な町人にも広がり、中でも呉絽服綸(ごろふくりん:モスリンのこと)は日本人の好みに合わせてオランダ人が持ち込み、羅紗に比べて安価なものだったので庶民にも愛好され脛当(すねあて)、羽織、合羽、帯などに用いられました。  
明治維新になって服装の洋装化が進み、特に明治3年(1870)の兵制度統一で、軍隊の制服が陸軍はフランス式、海軍はイギリス式に改められ、羅紗という毛織物の需要は一気に高まりました。  
毛織物の輸入が多くなりつつある日本は、このままでは大事な部分を外国に頼らざるを得なくなることを危惧した内務卿大久保利通は、「毛織物は国産で興す」ことを決断しました。そこで、大久保利通は、官が率先して模範を示そうと、明治8年(1875)の官営下総牧羊場設置と、そこで刈り取られた羊毛を使う官営千住製絨所の明治12年設立開業を太政官に具申し、実現しました。大久保卿は、後に同製絨所の初代所長となった井上省三をドイツに派遣し機械設備を購入させて、同製絨所を紡毛機6台、整紡機6台、織機42台でスタートさせたのです。その後、後藤恕作(ひろさく)など民間の手で毛織物工業に乗り出すものが現れ、明治29年(1896)に日本毛織が設立されるなど日本の毛織物業界は黎明期を迎えました。  
官営製絨所開設のニュースは尾張にも入っていて、綿織物主体だった尾張でも毛織物への関心は高まっていました。3年後の明治15年(1882)には起村出身の渡辺弥七が綿・毛混の布地を製造し、これは尾張で「毛」と名の付く織物の最初でした。明治25年には、酒井理八郎と加藤平八郎は、毛糸(輸入糸)を横浜より取り寄せてセルジス(セルともいう:和服用織物)の試作を繰り返し、和服用の毛織物にしました。また、濃尾地震後の「綿織物から毛織物へ」という尾張の動きで、先駆者として活躍した3人がいます。片岡春吉、墨清太郎、柴田才一郎です。  
津島の片岡春吉は、明治34年(1901)頃よりドイツのセルジス(毛織物のサージのこと)を模倣した和服用のセルジスの生産等に挑戦し一応成功したのですが、まだ仕上げの技術は中途半端で、確立していませんでした。このため、片岡は明治39年(1906)、ドイツに染色・整理機一式と織幅が1.5メートルある四幅織機(よはばおりき)を注文しました。同42年(1909)に機械の据付を完了し、縞セルジスの大量生産を開始しました。それは、舶来品を凌駕するもので、尾張の機業家の眼を一層毛織物に向けさせました。  
明治34年(1901)に創立された愛知県立工業学校の初代校長・柴田才一郎は、ヨーロッパへの最新染色整理技術留学の経験から帰国着任後、同地より最新染色整理機を購入して学校に据え付け、生徒の実習に使用する他、整理の手段を持たない尾張の毛織物業者の依頼に対応していました。後に艶金などの整理業者が出現するまで、この機械が尾張では唯一の毛織物整理機であったと言われています。先述の片岡も柴田から指導を受けていました。  
綿の整理業を営んでいた艶金の墨清太郎は、毛織物の整理を決意して準備を進め、ドイツ、イギリスから整理機一式の導入を決め、明治41年(1908)に開業しました。これが、艶金興業を「毛織物整理の雄」とした最初の投資となったのです。  
以上の3人に代表される先駆者が作った環境、いわばインフラにより、明治40年台から尾張の各地でドイツ等から四幅織機を導入する企業が現れ始め、綿・絹織物との兼業から毛織物専業で生きる織物業者が増大しました。尾張地区の毛織物生産額は、明治40年(1907)にはまだ28万だったものが、艶金の最新工場が完成した同41年61万円、同44年には138万円と倍増の伸びを続けたのです。  
日本の毛織物は明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争の軍需に応えるように発展してきましたが、尾張の毛織物は和服用のセルジス着尺の創業が多かった為、先駆者の一部には陸軍より注文が入ったが、産地全体の本格化は大正時代に入ってからになるのです。  
大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発し、戦争の影響で世界各地からの毛織物輸入が途絶えました。わが国の毛織物産業は、日清、日露戦争からこの大戦まで軍需向けが中心で、軍需の一部と民間向けは輸入品に頼る状況でした。この戦争が始まるやいなや、国産の羅紗やセルジスなど毛織物の増産需要が高まったのです。尾張地方のセルジスは名声を高めていましたので、それに応える為、木製織機から力織機への転換や整理機械と技術の向上を図りました。  
大正13年(1924)、尾張の織物生産は、綿織物と毛織物の生産量が逆転し、尾張は「綿どころ」から「毛織どころ」に変わったのです。また、前年の大正12年には、主だった産地企業が集い「四幅織物(よはばおりもの)研究会」が設立され、量産化と品質向上が進められるに至って、今日まで続く繊維産業の基礎が固まったといわれています。  
その後、現代までは、「広報一宮 特集 尾州その挑戦 」2007年5月より引用要約して紹介します。  
『軍隊の洋装化、輸入製品の高関税化もあり、昭和5年(1930)頃には、「毛織物王国」「毛織物のメッカ」と呼ばれるまでに発展しました。  
しかし、その後、日本が第二次世界大戦へと向かう中で、労働者は兵隊へ、織物工場は軍需工場へ、織機は武器へと変わり、尾州から機音(はたおと)が途絶えます。空襲もあり、終戦を迎えた時には、尾州は大きな打撃を受けていました。  
戦後、「食料」と並んで必要とされたのが衣服です。かつての繊維産地はどこも活況を呈し、盛んに機音を打ち鳴らしました。尾州産地にも機音が戻り、目覚しい復興を果たしました。昭和22年(1946)には、その復興振りをご覧に昭和天皇が訪問されています。さらに、昭和23年、羊毛の輸入が解禁されると、ガッチャンと織れば万ともうかると誇張して言われた「ガチャ万時代」が到来しました。この時代、町には外車が走り回り、稼いだお金を運用するために繊維関係者が銀行を設立する「銀行ラッシュ」という現象まで起こりました。鉄鋼業などに比べると、大きな設備を必要としない労働集約型の繊維産業は、戦後復興の旗手として、日本を牽引したのです。  
ところが、1950年代後半には、「他産業に比べ繊維産業の成長率が鈍った」という理由で早くも斜陽産業と言われだしました。以来、繊維産業は「斜陽、斜陽」と呼ばれ続きましたが、既製服化、量販店の出現による需要の増大、好調な景気に支えられ、景気の波には左右されながらも、順調に成長してきました。尾州産地でも、繊維製品の出荷額のピークは昭和63年(1988)にありました。10年ほど続いたウールブームは多くの富をもたらした反面、作れば売れる時代だったため、産地企業から企画力を奪うといった負の面を持っていました。  
これが今の苦境を長引かせる一因になったともいわれています。苦境へ向かう転機となったのはバブル経済の崩壊です。国内需要が冷え込むと、安価な輸入品が市場に浸透、製造コストの高い日本の繊維事業者は、その多くが廃業に追い込まれることになりました。尾州産地でも、事業所数・出荷額とも、最盛期のほぼ4分の1にまで落ち込んでおり、統計に表れない部分を含めると、その縮小は更に深刻だといわれます。  
しかし、国と業界が一緒になってまとめた「繊維ビジョン」には、繊維産業の将来像が描かれています。そこでは、長い製造工程で生じる無駄を減らし、高い技術を生かした高付加価値商品を作り、海外に輸出することで、復活できるとしています。かつて今の日本と同じように、繊維産地の危機に追い込まれたイタリアには、今でも毛織物産地が残っています。世界的なブランドを育て上げたイタリアは、ファッション産業(=価値を売る)への転換に成功した好例といえます。』 
  
計牟志呂(けむしろ)・諸説

 

緬羊政策縦横談 (中外商業新報 1937.1.31-1937.2.4)  
文字通り「緬羊報国」の気慨で東奔西走、日・鮮・満朝野の人々に緬羊増殖の急務を説いて廻ること十数年、漸くその労が報いられたか緬羊に対する一般の認識も昂まり増殖の実績も上って来た今日も尚朝鮮京城の一角に私設緬羊研究所を建て朝な夕な緬羊の飼育に、牧草の研究に余念のない日を送って居る隠れたる研究家鎌田沢一郎氏を紹介しよう今回の政変で宇垣大将に大命降下の報が伝わるや急遽緬羊一頭を土産に組閣本部を訪れ、組閣の成功を祈って居たが、遂に流産の憂目に遭い、ガッカリした身体を赤坂山王ホテルの一室に休めた氏を二十九日夜訪れてみた。  
お手の物のホームスパンづくめのゆったりした服装に包まれた鎌田氏は、今年四十四歳とは見えず青年のように若々しい血色で「私は一介の羊飼いに過ぎません」と冒頭しながら次のように語ったものだ。  
云うまでもなく我国の現状は非常時だ、しかもこの国際的国内的の非常時はまだまだ続くと思う、この非常時の真因はどこにあるか?私は人口問題に帰着すると思う。  
土地は狭い、人口は逐年殖える新資源は見当らない、年次人口統計によれば毎年内地では百万朝鮮では三十万の人口の自然増加がある、この中でも十九歳から五十九歳に亘る生産人口、いいかえれば求職人口の増加は著しく内地五十五万、朝鮮十六万、即ち七十万の生産人口が年々増加している、これがこの時代の一特徴だ、日露戦争直後人口増加の問題が起ったがこれは専ら幼年人口の増加だった、その後の続く平和と保健衛生を重要な真因として最近の人口増加問題は国家の重大な問題となって来た。  
更に現代は機械力の応用によって人口労力をさまで必要としない状態にあるので、逐年余剰人口の増加は昂まりつつある、陸軍の大陸政策、海軍の南進論或は対ソ、対支等凡ゆる国際関係の重要政策はすべて此の人口増加の解決を求めることに起因するのではないか、同時に国内の思想的動向もナントとげとげしく反映していることであろう、数年における我国の非常時的様相はすべてかかる共通的な真因を持つものではないだろうか併し、だからといって人口の増加そのものを阻止するいわれはない、健全なる人口の増加は国力の発展を約束するからだ、蘇連邦が恐れられるのはコンミユニズムの関係もあるが更に人口の増加とその将来における包容力及び大きな資源が恐ろしいのだ、こうした時代にどんな方策が必要か、力の解決を除いて平和的産業的解決として、私は左の三つに尽きはしないかと思っている。  
(一)移民  
(二)国際貸借尻の改善  
(三)新資源の発見と、新職業の創造  
一の移民の問題は目下八方塞りの形で僅かに残された南米からも移民制限を受け、唯一つ満洲以外にはなくなった形だ、第二の問題は今日は世界を挙げてブロック経済の実践期であり曾ての自由通商時代とは根本的に違って来ている、故に安物を大量につくってどしどし出すのもいいが、それよりも国内の不足物資を補って国民大衆一般に霑いを与えるものを中心にして考える必要があると思う、更に第三の問題も一部資本家を益するものであってはならない…そこで私はここに緬羊増殖の必然性を叫び、且つこの政策の適正なる運行が非常時解決の鍵を掴むものだと確信しているのだ。  
満洲移民の如きも今でこそ満洲拓植株式会社を初め幾多の国策代行機関の努力と国民の興奮によって順調にやっているが、先住満人の農業経営に於ける驚くほどの巧妙さと生活程度及び労銀の低いこと等で彼等との競争は非常に難しくなって来よう、だからもっと冷静に、合理的経済的に移民生活を発展させなければ駄目だそれには有畜農業による経営の多角化即ち緬羊を移民の生活の中に織りこむことでなければならない。  
それには生きな好事例さえあるのだ  
現在蒙古三河地方には五百戸ばかりの白系ロシヤ移民が集団している、彼等は家畜を生活の中に実に巧くとり入れて立派に成功をしている、第一にその組織が全く合理的だ、まず中央に集団部落がある、それを放牧地帯がとりまき、更にその外を乾草地帯がとりまき、そのぐるりを農耕地帯とし、最後に植林地帯という形態をつくっているこうした方法でなければ満洲の開拓は望まれない、足りないものは内地から補充を受けようとばかりするのでは、とても満洲移民の将来は望めない。  
それについては面白い挿話がある曾て同地方へ東支鉄道が延びて新駅が出来上った時、いくら募集しても従業員になりてがない、待遇も悪い筈はないのに可笑しなことだと色々調べてみると、駅の官舎に牛小舎と羊小舎の設備がないというのが理由だった、つまりそれほど彼等は牛や羊を有効に経済的に飼育し得るし、またそうした生活でなければ耐えられないのだ、満洲は御承知の通り日照時間が短いので労働時間が実に少い、この暇の多い満洲の生活に家畜を織こみ、朝夕家畜との生活によって霑いを得、同時に余剰労力を消化し更に毛、肉の処分によって経済的な利益を獲得したいものではないか内地における農村振興も余剰労力の解決にあるのではないか、それにはどうしても農家一戸に二、三頭の羊を飼うようにならなければいけない…。  
国際貸借尻の問題はどうだ  
現在羊毛及羊毛加工品の輸入貿易尻は二億円という莫大な数字に上っている、これを自給によって改善することは国防上からも産業上からも急務中の急務である、現在我国一人当りの羊毛消費額を見ると一キロになっている、これではつんつるてんのチョッキとヅボンだけしかできない、試みに主要各国一人当りの消費額を見ると次の如くで日本は第六位にある。  
然しこれでも結果からみると大変な増加ぶりで、明治三十四年には僅に百万円の消費しかなかったものが三十六年後の今日二億円に達したのだ、しかも今後この消費量は更に増加の一途を辿るであろうから、今後の需要増加に対する対策は一日も早く樹立せねばならない、仮りに四億円に増加した場合、これを羊の頭数に直すと四千万頭を要することになる、農民大衆を基礎とした大多数の国民が協力しなければならないのは、この事実によるのだ、内鮮合して千三百万農家が一戸に三頭ずつ羊を飼えばこの消費量をピッタリ自給できるのだ。  
消費量は前述の通り世界第六位を占めているが現在国内における羊の現存数は、たかだか内鮮合して四万頭前後に過ぎず、羊毛の生産量からいえばナント世界で六十二番目で全く無に近い状態だこれを四千万頭に殖やすことは却々容易な業ではないが、然しこれを実現出来れば農村と都市を問わず数億の金が流通し合う事が出来る、この事は決して夢ではなく、既にその道はついて居ると思う。  
根本的に誤っていた従来の認識  
それでは国家にとってこんな大切な仕事が、何故今日まで多くの経費と努力を費し乍ら発達を遂げなかったのであろうか、それについて私は次のように解釈している。  
即ち我国社会一般の認識が緬羊飼育の点で根本的に誤っているものを持って居たからだ、その一つは日本の他の文化がそうであったように緬羊の飼育も先進地を学んだだめに、濠洲やアメリカが広漠たる大放牧地に伸々と緬羊を遊ばせて居るのを見てああやらなければ緬羊は育たぬのだと早呑み込みに諦めてしまう、中には輸入して飼育して見たが皆死んでしまった、もう駄目だという気になる者もある、こうした手合が実に多い、ところがこれも冷静に考えてみれば判ることで広々とした牧野、快適な気候に恵まれた濠洲はいわば緬羊にとってこの世乍らの天国であるそれをいきなり何の訓練もなしに日本へ持って来たのでは育たぬといっても仕方がない、濠洲に比べたら日本はまるで天国と地獄なのだ、だからそれにはそれ相当の管理と飼育方法に研究の余地があることは当り前の話、日本式飼育の方法を緬羊にあてはめて行かねばならないのだ。  
この重大な事実を従来は忘れていた、更にもう一つは飼料だ、緬羊は贅沢な動物で非常に良い草でなければ食べないもの、育たないものという考えを持っている人が専門家の中にもいることは今日では寧ろ滑稽な話だ、緬羊ぐらい何でもよく食う家畜はない体長に比べて腸の長さが長いほどその動物は粗食に耐えるということは動物学上の常識だが次の表を見ても判るように羊の腸は随分長い。  
長いことの形容に「羊腸たる」の字を作った支那人は立派な動物学者だ、アメリカには約六百種に達する雑草があるが、実験の結果牛、馬はこの中の五〇%しか食べないが羊は九十五%まで食べ毒草でも平気で食う紙を食うというのもこの粗食性を立証するもので、羊は紙が大嗜好物であるなどと思われているのは却て羊のためには迷惑千万な話だろうと思う。  
日本式飼育法で特殊事情に順応  
東北地方などで最近は蚕糞蚕渣を緬羊の飼料とし、そのまた糞を桑園の肥料とすると肥効が倍加するということが実験され、現に養蚕地方ではこれが実施されつつある私の経験だけでも二三はある。  
朝鮮にはアカザという非常に強い雑草がある朝鮮の人はよくこれを吸い物にして食べるので、これを緬羊の飼料にしたらどうだろうかと研究所内の野草地にこのアカザと青刈大豆と、濠洲のルーサンを植え、ここに緬羊を放牧して見た、すると緬羊は御馳走である筈のルーサンを後廻しにしてアカザを喜んで食べるじゃないか、思わず占めた!と叫んだものだ、また朝鮮にはアカシヤが多いが此の葉と軸を微温湯に漬けてやるとこれまた喜んで食べる、アカシヤは三番刈まで出来るほど生長の早い樹なので、これを緬羊飼料に取入れることが出来たら飼料問題もさして至難なことではない。  
ただ今の今まで美食の限りを尽して来た緬羊に直ぐ粗飼料を与えることは間違いだ、そこにある程度の訓練即ち日本式飼育の必要がある、要するに今日までの失敗は経験と研究に乏しかった為めに管理も当を得て居らず、指導者が日本の気候風土、農業組織の特異性を考えず唯先進地の真似事をしていたに因るといっても過言ではあるまい、又過去において莫大な国費を費したといっても、大抵は緬羊飼育奨励の真髄に触れず、時の勢いが緬羊事業を無視していた為めに多く尻切れとんぼに終ったものと見て間違いはない、その間の事情について簡単に触れて見よう。  
維新以来の失敗史  
維新以後我国に緬羊が輸入されたのは明治二年細川小議官が北米合衆国で西班牙メリノ牝六頭、牡二頭を購入したのがそもそもの始めで、その後大蔵省の某氏、北海道開拓使等の手で少しずつ輸入、希望者に仔羊を分けたりして増殖を図っていた、明治七年米人デー・W・A・ジョンス氏が日本に牧羊の必要を説いた、その相手が時の内務卿だった大久保利通で、流石に先見の明があった彼は本格的に緬羊奨励に乗り出した、漸く軌道に乗ったと思う頃の明治十一年大久保卿は兇刃に斃れ、緬羊事業までもそれなりけりに縮小した形になっていたが大正三年欧洲大戦勃発で英国が濠洲羊毛の管理を断行して輸出を禁じたので俄然羊毛飢饉を現出、これに鑑みて大正七年百万頭増殖を樹立したが余り突飛な計画のため社会的認識も薄く再び竜頭蛇尾に終り、昭和九年澎湃たる農村経済更正運動の掛声によって羊毛自給、緬羊増殖計画が樹立されるまで微な余命を続けて来たわけである。  
脱獄囚が謂わば濠洲緬羊の恩人  
これらの跡を見るにつけ悲観論者連は緬羊増殖の成功を危ぶみ絶望視してしまうが、これは国家百年の大計だ、小さな事故のために挫折することなく粘って欲しい、それには歴史的な好事例が二つばかりある。  
今こそ緬羊王国を誇る濠洲も今から百九十三年前には八頭しかいなかった、これはアーサーというエユーサウスウエールス駐在の陸軍中尉がアフリカから二十九頭の緬羊を連れて来その中二十一頭は死んでしまい、八頭残ったという訳である、アーサーはこれを大切に育てている中、当時英国から送られて来ていた囚人が脱獄し、この羊を掻払って山の中に逃げこんだ、囚人にとってはこの羊が生命の糧だからもう全身全霊で育て上げた、これが僅か一世紀半の今日一億二千万頭たらしめる最初の楔となったものだ。  
日本の歴史でも欽明天皇の御字以来羊は時々輸入され、計牟志呂という羊毛加工品(ホームスパンならん)を朝廷に献上したとか、徳川幕府の頃渋江長白なる御典医が小石川の薬草園で十二頭の緬羊を三百頭まで増殖させたという文献が残っている、これらの事実からも、我国における緬羊の詞育が必ずしく夢物語でない事がはっきり判るであろう、各階級の人々が深い関心と愛を持ってくれさえすれば今後の緬羊増殖は水の流れにつくようなものだと思うのだが如何…。  
深い理解と愛を以て飼育せよ  
深い理解と愛、これが緬羊飼育の根本だ、私の例で恐れ入るが研究所で飼っている羊が腰麻痺という病気に罹った、これは一種の脳溢血で、腰も抜けるというほどで却却厄介な病気だ、そこで私は家の者に「羊が病気になったと思うな家族が病気になったと思って看病しろ」といいつけ、私も羊小舎に不寝番に立ち宿直をつけて看病した手当としては普通綱で上からぶら下げるのだが麻袋で柔く包んでつり下げ、頭は氷枕で冷し患部には辛子泥を貼り付けた、薬は腎工カルルス線塩を人の十倍服用させた、不治とされていた腰麻痺が医者でもない素人の私がとったこの手当によって全治した、結局これは愛だと悟った、こんな例は私に限らず動物を飼育した人の中には少しとはしないだろう…。  
鶏を飼う様な安易な気持で  
さて我が国で緬羊を飼育する場合どうした方法をとるのがいいか、私はどうしても組織は副業的に、且つ全部の農家が飼わねばならぬと思う、種類としては満洲、蒙古地方ではメリノ種が良く、内鮮には湿地に耐え且毛と肉の利用もできるユリデール種を中心に飼育すること、輸入は積極的に入れられるだけ入れることだ、と同時に一万人の問題がある、緬羊は入ったがさてこれを飼育する人に理解がなくてはまるっきり台なしだ、そこで人間の訓練、教育が必要になて来る、正しい指導者の必要も叫ばれる教育といっても別に専門的な知識をいうのではない、常識的に理解さえすればいい、恰度鶏を飼うような積りで極く安易な気持で飼えばいい、鶏を十羽、二十羽飼うのに大した技術もいらないように、緬羊も鶏のように飼って、これに親しみ国民の各層へ浸潤して行くことが望ましい、更に緬羊らは各種の加工品が生産されるか。  
ホームスパンの特徴と羊毛加工  
生産物の第一は羊毛だ、この一部分は現在軍部で買い上げているが□りの部分は自家で手織りにし、自家用にするとか美術的に仕上げて販売に供する、所謂ホームスパンの特徴は機械では真似ようとしても真似られぬところにある。  
即ち羊毛には一呎について二千五百の毛鱗と三十前後の巻縮、独特の脂肪があって、これらが弾力性、保温性、防湿性、強靭性を具えている訳だが、機械にかけたらこれらの特徴を完全に保持することはできない、ホームスパンの優位性はここにある、これなればこそ英国の皇室がスコットランド農村救済の思召から農閑期の副業として婦女子の手織になるホームスパンをお買上げになり、これをヨーロッパへの贈り物にして以来非常な勢で各地に流行するに至ったのだ。  
現在内地産のホームスパンは三十五円前後といったところが普通で、消費者にとっても安い洋服だ、これには社会政策的な内容も大きいのだから国策と社会政策へ更に消費経済の三面から社会の理解と協力が望ましい、仮りに月収百円以上の洋服階級が全部ホームスパンを着るようになったら裕に延人員千万人の失業者に職を与え一億八千万円の労銀を分散させることになる、こうした時勢、こうした苦衷を忍んで緬羊増殖の達成に努力しているのを外に、中には単なる金儲けを目的とし、再生毛を仕込み、これを織こんで悪質のホームスパンを製作、法外の安値で販売している輩を時に見出すことがある、これがためにホームスパンの真価を疑われることは悲しいことだ、生産者も消費者もこうしたことの蔓延せぬよう折角努力されたい。  
なお羊肉の消費もこれからだ、従来羊肉といえばくさくて嫌な味がすると一概に毛嫌いされていたが、毛用種のメリー種こそ食用には適せぬがコリデール種の肉を食べたものは真のホームスパンを着た人がホームスパン以外の服が着られないと同様に一度羊肉の味を占めた人にとっては忘れられぬほどの美味があることは言葉の限りではない。  
最後に朝鮮における緬羊について一言…朝鮮には両班(ヤンバン)という富豪の階級があるが、これらが満洲事変以降国内情勢の急変により内鮮一如の思想に目覚め、緬羊事業に対しても異常な関心を持ち数万円の赤字を犠牲にしても各所に緬羊研究所を設立、鮮内緬羊の増殖に犠牲的な努力を払っていることは注目すべき傾向であると思う。(完)  
綿羊飼育指導員  
綿羊飼育指導員とは、綿羊の飼育や病気に対して指導する職業で、戦前、防寒具の原料を自給するためにと輸入されたのが、日本での本格的なヒツジの飼育のはじめとされています。  
日本に初めて綿羊(毛を採るための羊)が輸入されてその飼育を、開始した記録が(近世農史)に依りますと1872年の、明治5年5月17日となっています。木綿、麻や絹布などの、功業はわが国でも早くから発展していましたが独り毛織物だけ、一向に奮っていませんでした。もっともずっと欽明天皇の御代に、下野国で羚羊(カモシカ)の毛を織物としてこれを計牟志呂、(けむしろ)と称したという古い記録があります。慶長年間には、京都で兜羅(とろ)錦という棉と毛の交織物を織出していますが、これも一向に奮いませんでした。明治初年には西洋式の風俗が、流行り出し、羅紗(ラシャ)服の需要に迫られて明治新政府が、積極的に乗出してアメリカから綿羊数頭を輸入してきて、東京雉子橋外の官邸で飼育を始めたのが先に述べました、明治5年の事でした。しかし、土地の関係もあり飼育場の、知識なり設備も甚だ不備であった為にその経過はほとんど、失敗でありました。しかし一方羅紗の需要は益々増加し、年々輸入される量も大した額に上るので政府は1877年の、(明治10年)に東京府下南千住に製絨所を設立して、京都の白川にはモスリンの加工場を設けて毛織物の製造は、どうやらその端緒に入る事ができたようです。しかしその、原料たる綿羊の飼育が漸く奨励され出したのは昭和年内に、入ってからで今以て産業的水準は極めて微々たるもので、ありました。また、ジンギスカン鍋は毛を刈った後で潰した、ヒツジの大量の肉を消費する方法として近年に新しく、考案されたようです。綿羊飼育指導員になるには、学歴や、資格、免許等は問われません。牧場、農場、畜産試験場などや、畜産改良センターに勤務して実際に飼育しながら学ぶようです。綿羊飼育指導員の業態として現在までの従業者数は不明ですが、安い綿羊が輸入されているので飼育頭数が減り年々減少傾向に、あるようです。北海道が飼育頭数の37%を占めているようです。
綿羊  
日本に初めて綿羊(毛を採るための羊)が輸入され、その飼育を開始した記録が「近世農史」に依りますと、1872年(明治5年)5月17日となっています。  
木綿や麻、絹布などの功業は我国でも早くから発展していましたが、独り毛織物だけ一向に奮っていませんでした。もっともずっと欽明天皇の御代に下野国で羚羊(カモシカ)の毛を織物とし、これを計牟志呂(けむしろ)と称したという古い記録があります。  
慶長年間には京都で兜羅(とろ)錦という棉と毛の交織物を織出していますが、これも一向に奮いませんでした。  
明治初年には西洋式の風俗が流行り出し、羅紗(ラシャ)服の需要に迫られ、明治新政府が積極的に乗出して、アメリカから綿羊数頭を輸入して、東京雉子橋外の官邸で飼育を始めたのが、先に述べました明治5年の事でした。  
しかし、土地の関係もあり、飼育場の知識なり設備も甚だ不備であった為、その経過はほとんど失敗でありました。しかし一方羅紗の需要は益々増加し、年々輸入される量も大した額に上るので、政府は1877年(明治10年)に東京府下南千住に製絨所を設立し、京都の白川にはモスリンの加工場を設けて、毛織物の製造はどうやらその端緒に入る事ができました。  
しかしその原料たる綿羊の飼育が漸く奨励され出したのは、昭和年内に入ってからで、今以て産業的水準は極めて微々たるものでありました。  
すなわち農林省畜産課の統計に依ると、綿羊数の数は、  
・大正6年       3,192頭  
・昭和6年      17,901頭  
・昭和11年5月末  68,064頭  
と、逐次増殖計画が進められています。
 
わが国ボタン産業史 

 

はじめに
雑貨産業とは、かなり便宜的な言葉であり、文字どおり雑多な業種がそこに包摂される。一般に地域経済の発展に寄与し、特定の地域を形成している地場産業ないし産地産業とよばれるものの中には、雑貨産業が多いのが実情であろう。いまそれらの一般論を展開する余裕はないが、管見の限りでは、雑貨産業の多くは日本資本主義の生成・発展の流れの中で形成されてきたものであり、他の産業部門と比較すれば、全体として小規模・小資本の業種が多く、機械化が遅れ、手工技術に依存する度合が高いことがその特徴の一つであるといわなければならない。もっとも第2次大戦後そうした事情は次第に変化してきており、相当の技術進歩がみられ、また問屋制支配の弱体化が目立ってきたといえようが、以下においては、具体的な個別産業としてボタンをとりあげ、さしあたりその変遷過程をたどることにしたい。
ところで、ボタンは主として洋服・肌着などの衣料品の付属品として使用されるものであるから、元来、繊維産業の発達に付随してその歴史が形成される面があったといえそうである。さて、わが国にボタンが最初に伝わったのは、幕末から明治維新のころと思われる。しばらくは輸入に仰いだが、需要の盛りあがりとともに、国産化されるようになった。とくに、明治初期の陸海軍制度確立などによる制服の採用からその需要が始まったとみられている。これは金属ボタンであったが、その時期と前後して水牛ボタンや馬蹄ボタンがつくられ、やがて貝ボタンの生産も開始された。主として輸出産業として定着するにいたったのであるが、第2次大戦前段階の輸出入統計を示せば、第1表のとおりである。同統計は、輸出は種類別に、輸入はボタンとして一括されているが、大まかな趨勢をみるのには便利であろう。これによれば、明治29年(1896)にはじめて、17万4425円のボタン輸出がみえ、以後輸出は増大し、ここに輸入を防〓し、逆に輸出産業に転じたことが察せられる。とくに明治末期から輸出は激増し、第1次大戦でピークに達したことが判明しよう。このボタンをはじめ、わが国資本主義の展開過程において輸入防〓をめざして国産化を試みた産業部門のうち、比較的短期間で逆に輸出産業に転じたものがいくつかみられるが、これは輸出雑貨産業に共通するパターンであろう。
上述の統計からもボタンの種類は察せられるが、現段階におけるその種類を素材別に分けてみると、1天然素材(貝ボタン、皮革ボタン、ナットボタン、木ボタン、竹ボタン、骨・角・蹄ボタンなど)、2金属ボタン(黄銅ボタン、アルミニュームボタン、ダイキャストボタン、樹脂メッキボタンなど)、3合成樹脂ボタン(ラクトボタン、ナイロンボタン、アクリルボタン、アチレボタン、ABSボタン、ポリボタン、ユリアボタン、エポキシボタンなど)、4その他(ガラスボタン、陶磁ボタン、くるみボタン、編みボタンなど)に大別される。そして大まかにいえば、第2次大戦前のボタン産業は、貝ボタンを中心とする天然素材を主力に展開し、第2次大戦後のそれは合成樹脂素材とその加工技術によって多彩な展開がはかられたといえそうである。なお明治期におけるボタン業界の発展過程に関連し、業界の長老堤長七氏は、「関西方は元材料の関係から主に下衣[ママ]用の貝釦を中心として、輸出と内需に第一次製品として販路を求めたのに対し、関東方は政府のお膝元として軍官需被服への第二次製品として縫製業者への納入を主としたる経営の相違から今日に至っている1)」と回想しているが、いみじくもその後の産地形成につながる問題点が指摘されたといえよう。要するに、わが国ボタン産業の展開をかえりみた場合、第2次大戦を境にして大きな変化が認められるわけであるが、小稿では、大阪からの技術伝播を背景に発展をとげた和歌山・奈良両県下のボタン産業をとりあげ、その変遷過程をうかがうことにしたい。調査不十分という面も否めないであろうが、ボタン産業に関する資料はきわめて乏しく、とくに奈良県の場合は、主として既存の文献に依拠した素描にすぎないことを断っておかなければならない。ただ、これらの拙い作業を通じて、多少とも将来への展望が開かれたらと思う。 
1 和歌山県のボタン産業 
(1) 貝ボタンの生成と発展
和歌山県田辺地方のボタン産業は、明治34年(1901)ごろに始まる。西牟婁郡朝来村出身の一ボタン職工が大阪で技術を学び、帰村後農家の副業として着手したのが、その嚆矢であるといわれる。すなわち大阪貝釦工場の職工であった植田徳吉が同村の橋本保次郎にはかり、橋本が大阪の同業者を視察して帰り、自らその製造を試みたのが創始であったという2)。
   第1表 ボタンの輸出入額
「始めは極めて小規模にして橋本氏が資本主となり植田氏は職工長として其製造方法を一般賃職業者に指導したるものなりき」3)と伝えられる。こうして純農村で現金収入の少なかった農家に普及していったが、貝ボタンの製造は富田川筋が盛んであり、田辺は実にその中心地となった。当地方は農林水産業を除いて、これといった産業がなく、余剰労働力が豊富であったこと、ならびにその製法が比較的簡単で資本を要しなかったことなどが好条件となり、副業として定着するにいたったのである。「日露戦役前後経済界不振ノ影響ヲ被リ一時殆中止ノ状態ニ陥」4)ったが、その後景気の回復とともに需要が増加し、再び盛況をとりもどした。ここで明治39年(1906)から大正7年(1918)にいたる貝ボタンの生産状況をみれば、第2表のようであるが、とくに第1次大戦による輸出増大が注目されよう。なお表には出ていないが、西牟婁郡がその中心地であり、明治43年(1910)を例にとれば製造戸数の80.0%、職工数の75.9%、生産額の88.8%は同郡に集中していた5)。この間貝ボタン製造業者の興亡が目立ったが、当時県の斯業奨励方針として、つぎの諸点が指摘されている6)。
   第2表 明治大正期の貝ボタン生産額
本業ハ作業ハ簡易ニシテ老幼者ニモ相当補助作業アリ農閑ノ副業トシテ普及セシムルトキハ細民授産ノ一助トモナリ傍ラ地方ノ特産物タルニ至ルヲ得ヘシ然レトモ原料ノ購入ニハ今尚多少ノ困難ヲ感シヌ製造場増加ニ伴ヒ職工ノ払底争奪トナリ又資金逼迫ノ為製品売急キノ傾アリ殊ニ本業ハ製品ノ価格ニ時々非常ノ消長アルヲ以テ之等救済ノ方法トシテハ同業組合ノ設立金融機関ノ設備ヲ為シ以テ順調ニ発達セシムルノ方法ヲ講セサルヘカラス
貝ボタン生産の発展につれて、一方で原料供給の不足、製品販売の競争、職工払底などの諸問題が顕在化し、業界の組織化による解決が指摘されているが、もう少し詳しくいえば、こうである。すなわち貝ボタンの原料たるアワビ・サザエは、主として対馬・済州島などから購入していたが、原料高騰に悩まされたり、また製品販売にあたっても市況の暴落による打撃が少なくなかったのである。とくに原料および半製品入手の競争は激しく、これによる不利益は相当なものがあったといわれる。そこでこうした弊害に対処し、また新たな発展を期して、大正5年(1916)9月には紀州貝釦同業組合が設立された。しかし、大正9年(1920)に始まる戦後の反動恐慌の中で、この組合は解散してしまった。
つぎに貝ボタンの生産工程を瞥見しておこう。原料の種類ならびに貝ボタンの種類によって相違があることはいうまでもないが、大正6年(1917)の調査によれば、一般に丸サザエの貝ボタン3分8厘の場合、工場内勤務は、主として「繰場」「裏摺」「挽場」「穴アケ」「釦寄リ」の作業工程に分かれており、また自家従業は「繰場」「裏摺」「挽場足踏」「穴アケ」「釦寄リ」「釦紙付ケ」に分かれていた。それぞれの作業工程に応じた賃金は、第3表に示すとおりである。なお明治末から大正初期にかけて、従来の足踏機と並んで動力式が登場するが、これによって生産能率は大いに上昇したようである。工場主は職工に対し、能率増進という名の奨励策を講じていたが、「賃銀の受渡しは月末に於て精算するものにして総て賃銀は千個に付工賃を附するものなれば其の日の製産高を通帳に記入し置くものとす7)」とされたのである。
第4表に、大正5、6年(1916、17)における貝ボタン職工1ヵ月の賃金表を掲げておく。大正5年に比較して、6年の低落が目につくが、貝ボタン職工は、主として出来高給であったため、その賃金幅は相当なものがあり、また貝ボタン自身の市価に左右され、低賃金にすえおかれる傾向があった。
   第3表 貝ボタン生産工程別賃金表
他方、貝ボタン職工の農閑期と農繁期の賃金差に注意を要しよう。前者の年度についてみれば、「穴アケ」は別として、「繰場」「裏摺」「挽場」の農閑期平均賃金は、農繁期のそれの1.6〜1.8倍となっているのである。この点は、貝ボタン製造が農家副業として存立していたことを示す一指標となろう。
ところで、さきに紀州貝釦同業組合の設立についてふれたが、同じころ西牟婁郡内の製造業者を網羅した一会社を設立しようとの構想がおこった。諸般の情勢から、これは実を結ばなかったが、一部の人々により二つの会社が誕生したことが注目される。一つは新庄村の紀州貝釦株式会社であり、もう一つは東洋貝釦株式会社の田辺町への進出である。前者は、大正7年(1918)2月資本金50万円で、橋本六之助を代表取締役とし、「貝釦ノ製造及売買」「貝釦原料ノ売買」「前各項ニ附帯スル総テノ事業」8)を目的として産ぶ声をあげたものであった。
   第4表 貝ボタン職工1ヵ月の賃金表
   第5表 紀州貝釦株主の地域分布
創業当初の資料は残されていないが、昭和2年(1927)段階の同社株主の地域分布は、総株主97名のうち82名までが地元西牟婁郡在住者であった。第5表に示すように、とくに新庄村、東富田村、田辺町在住者が多い。同表により上位株主への株式の集中度をみれば、100株以上の株主数は21.6%、その持株数は84.4%であり、少数大株主の優位が目立っていたことが判明しよう。反面、上述の3町村を中心に、25株未満の零細株主が多数存在しており、地方的産業会社としての性格をあますところなく示している。いずれにせよ同社は地元資本から成立っていたのである。後者は、橋本貝釦工場が業務拡張の目的をもって神戸市に本社を置く東洋貝釦株式会社へ事業一切を継承し、同社田辺支店となったことが、それである。時期は、紀州貝釦株式会社の設立と同様、大正7年(1918)2月のことであった。当時貝ボタン職工不足が問題となっていたが、これに関連し、同社幹部の1人は職工賃金について、「貝釦の不況に伴い工賃低くけれど、当工場の熟練せる男工は、月三十円の工賃を得、その他普通の者にても、少きも二十円を得つゝあり、女工は仕事にもよれど、多きは二十円となり、少きも七八円あり、此七八円の者は一ヶ月に十日以上休業するが為めにて、毎日通勤すれば月十六七円なるを……」9)と語っている。その他工場法の施行にともない、職工の優遇方法などが講じられつつあったが、ボタン工場の場合は、紀州・東洋をはじめ、2〜3のところで、せいぜい年1回の運動会が開かれる程度であった。その後東洋貝釦株式会社は、田辺町から湊村に移転したが、この会社の所在地一帯は工員の宿舎や会社関係の人が多く住んでいたため、現在でも俗称ではあるが、「釦屋町」とよぶ町名があるほどである10)。
これまで田辺地方の貝ボタンの生成過程をみてきたが、つぎに主として戦前昭和期の動向を瞥見しておこう。まず業界の動きとしては、さきの紀州貝釦同業組合が第1次大戦後の輸出不振の中で解散のやむなきにいたり、昭和5年(1930)7月和歌山県輸出貝釦工業組合が組織された。和歌山県内の産業は繊維を除けば、概して中小工業が多く、とくに数年来の一般経済界の不況により輸出向き産業は大打撃をうけていたが、当時県の貝釦の振興改良策として、つぎの諸点が指摘されている11)。
 貝釦ノ振興改良図ラムカ為左ノ施設ヲ必要トス
 1.既設工業組合ニ加入ナキ当業者ヲ速ニ加入セシメ以テ事業統制ノ実績ヲ挙クルコト
 2.原料、材料品ノ共同購入ヲ為スコト
 3.製品ハ統一セル組織ノ下ニ販売シ濫売ヲ防ギ需給ノ調節ヲ図リ益販路ノ拡張ニ努ムルコト
 4.適当ノ作業ニハ共同施設ヲ為シ以テ製品ノ統一原価ノ低下ヲ図ルコト
上述の振興策実現のためには、和歌山県輸出貝釦工業組合が中心となるべき点が多かったが、必ずしも業界の組織化は強固なものとはいえず、業界の諸矛盾はなかなか是正されなかったようである。加えて一般経済界の不況は貝ボタンにも大きな影響を与えた。たとえば紀州貝釦株式会社は、昭和4年度(1929)の営業状況を、「前期末ニ於ケル我貝釦界ノ市場漸落ノ傾向ハ依然トシテ止マズ加フルニ金解禁問題ノ影響ハ益々製品ノ安値ヲ称フルニ至リタル」12)と報じている。さらに第6表に示すように、昭和5年(1930)以来県下の貝ボタン生産額は減少しているのである。「之は価格安の為で数量は寧ろ年々増加を示している。最も価格の下落した時には半値以下にまで惨落した」13)という。田辺町の生産額が県下の大部分を占めているが、「田辺に於ては大体専業で村部の方は副業によって経営してい」14)たようである。ただ貝ボタン製造の一分業たる家庭内職の「縫付け」が田辺町付近一円でみられ、「此れに従事する人員は約三千人で、一ヶ年三〜四万円の工賃を挙げて居る」15)という状態であった。製品は、主として南米、欧州諸国、カナダなどに輸出された。
   第6表 戦前昭和期の貝ボタン生産額
その後昭和9年(1934)ごろには、金清釦工業株式会社が貝ボタンのほかに、大阪で製法が開発されたナットボタンの技術を導入している。南米のエクアドルから原料を輸入して大量に生産をはじめたが、第2次大戦が激化する過程で原料入手が困難となり、これに代わるものとして木ボタンを開発して終戦時まで続けたという16)。一方、昭和16年(1941)和歌山県の知事命令によってボタン工場の統合問題がおこった。いうまでもなく戦時経済体制を反映した動きであり、当時軍服用ボタン製造業者として陸軍被服廠の指定工場となっていた上述の金清釦工業株式会社を除き、その他の業者は統合され、和歌山県貝釦工業株式会社を設立したのである。統合にいたる過程はかなりの曲析があったが、会社設立後は終戦まで統合会社として貝ボタンの生産を続けた。 
(2) 田辺貝ボタン争議一班
さきに田辺地方の貝ボタンの展開過程をみてきたが、昭和初期には、紀南地方における労働運動に一つのエポックを打ちたてた「田辺貝釦大争議」がおこった。それは、「日置木材大争議」「富田砥石大争議」と並ぶ3大争議の一つである。以下、先学に導かれながら、その概要をうかがいたいと思うが、まず貝ボタン争議関係の年表を示そう(第7表)。大正7年(1918)8月以降いくつかの貝ボタン争議がおこったことが判明するが、大きな盛りあがりをみせたのは、昭和5年(1930)5月および翌6年5月の争議である17)。
   第7表 田辺貝ボタン争議関係年表
前者を田辺貝ボタン第1回争議、後者を田辺貝ボタン第2回争議とよんだりしているが、第1回争議とは、当時18工場からなる業者側の集まりである田辺貝釦相互会(相互会)が貿易不振などを理由として、下請の穴明同業組合に2割賃下げを通告し、さらに同年5月29日本工場の従業員にも同様の意向を示したことに端を発する18)。貝ボタン工場の女子労働者の多くは被差別部落出身であったから、この発表が出された夜、ただちに南紀州無産青年連盟(無青連)、田辺浜仲仕組合青年部(浜青)の努力で工場代表者会議がもたれ、賃下げ反対の要求書を作成している。そして30日正午までに回答を求めた要求書を、堀熊楠田辺貝釦相互会会長に手わたしたが、業者側は彼らの要求を無視したため、5月31日6工場の従業員がストに突入したのである。穴明工場の従業員もこれに同調した。田辺で最初のストライキであった。スト参加数は6工場の従業員と穴明工場を含め、約200名、全貝ボタン工の70%に達したといわれるが、6月1日午後1時には、扇ヵ浜海岸に争議団の「慰安会」と称して人々を集め、バイオリンを奏し、蓄音機を持ち出して楽しんだあと、相当の人数が集まったところでデモ行進で業者宅へ向かったりしている。6月2日正午、工場主側は、「9月末までに2割賃下げし、採算をみたのち10月から賃金を協議する」と回答したが、争議団はこれを拒否した。さらに交渉を続けたがまとまらず、同夜7時から田辺警察署長が仲に入り、工場主側6名、争議団代表8名が会見し、午後10時半になって、「1割賃下げとし、犠牲者を出さず、歩引き統一、仕事をふやす」との条件で解決した。翌6月3日解団式を行ない、4日から就業した。労働者たちは賃金を1割減じたが、この過程で団結の力を痛切に感じて、同年7月1日田辺貝釦工組合を結成し、全熊野労働組合協議会(全熊)加盟をも決議した。宣言は、「今まで長いものに巻かれろ式に、どんな不当なことでも涙をのんで耐えて来たが、時勢の力はいつまでも我々を眠らしておくものではない。今回の争議は我々をして団結の力がいかに強いかを知らしめた。今後は各地の労農団体との固き握手の下に、無産階級の生活の向上を計る」といい、綱領には、1直接、間接の賃金値下げ絶対反対、2休業、閉鎖と産業合理化による失業反対、3健保全額工場主負担、4請負制廃止、日給制の確立、などがあった。組合長には撫養弥七が選ばれた。同日の田辺貝釦工組合結成大会には、森岡嘉彦ら太地労組や古座川木労の代表者も参加した。こうして東、西両牟婁郡の組織が結合し、全熊の戦闘性が強化された。なお朝来村にも貝ボタン工場があったが、組合結成後田辺地方の貝ボタン工場の賃金がよくなったため、朝来村三工場の従業員約30名は田辺と均等の賃金を要求して交渉を重ね、賃上げに成功後、ただちに田辺貝釦工組合朝来支部を結成した。昭和5年(1930)12月のことである。
昭和6年5月1日田辺地方における最初のメーデーが行なわれたが、そのデモ行進の直後に始まる田辺貝ボタン第2回争議は、官憲の弾圧をうけて多数の犠牲者を出し、ついに敗北したとはいえ、この地方の労働運動に一つのエポックを打ちたてた大争議であった。第1回争議後結成された田辺貝釦工組合は、糸川寿一(当時田辺郵便局員、戦旗支局責任者)を非公然の組合書記とし、末広町を中心として浜青との交流の中で、しだいに階級的な労働者意識をもち始めていたのである。他方業者側の集まりである相互会は、不況を理由に賃下げを企てようとしていた。こうした情勢の中で田辺貝釦工組合は、1首切り、賃下げ、休業絶対反対、2万止むを得ず休業するときは休業手当を支給せよ、3組合員以外のものは使用絶対反対、4団体交渉権を認めよ、との4項目にわたる要求書を相互会に提出した。業者側は、困惑のうちに5月3日正午4項目の要求をすべて拒否したため、堀工場をはじめ15工場約100名の組合員がストに入った。最初の団交の席上、業者側は1の要求を認めたが、残りの3項目は認めず、とくに3の組合員以外の使用反対に難色を示した。組合側がこの要求に重点を置き、「組合員以外のものを使用する工場の賃金が低いため、組合員を使用する業者は販売競争で不利な立場にある。従業員を全部組合員として工賃を統一することは、業者間の乱売を防ぐためにも必要」と主張したのに対し、業者側は「その問題は田辺と朝来だけではできない、未加入の紀州貝釦をどうするか」と逆襲してうけつけず19)、交渉はもの別れとなったのである。これを不満とした組合側は、5月7日夜から8日未明にかけて各工場主を個別に訪問、ときには暴力的な脅迫も加えて穴明工場主から第3項承認をとりっけた。そしてはじめの要求4項目のほかに、1争議費用全額工場主負担、2争議中の日給支給、3争議による解雇反対、の3項目を追加要求し、8日午後再び業者側代表と交渉を開始した。ところが組合側有利のうちに進められている団交席上へ争議団がデモを行ない、警官と小ぜりあいとなって3名が検束されるという事態が発生した。局面は一転し、団交中断、検束者奪還闘争が始まった。夕刻から降りはじめた五月雨の中で、デモ隊は検束者の釈放を要求して田辺署付近に集合し、メーデー歌を合唱、アジ演説を行ない、深夜の街に凄惨な雰囲気をみなぎらせた。夜半すぎ3名が釈放され、一同は凱歌をあげたが、争議そのものは持久戦となった。警察の介入は、業者側を力づけた。争議団側は森岡嘉彦が来援、最高指導部を組織したのをはじめ、各自の任務分担を明らかにし、街宣と資金獲得の一石二鳥をねらって生魚や石けんなど日用品を売ってまわる行商隊を組織し、持久戦に備えた。また争議団の家族は家族委員会を編成し、場合によっては児童の盟休を行なうことを申し合わせた。
こう着状態となったまま、両者は声明合戦を演じたが、5月13日午後7時から争議団は有利な決着をつけるため、湊青年会館において工場主糾弾演説会を開いた。争議団、応援団員ら約200名、ほかに市民層の聴衆も多く、窓という窓は鈴なりの人だかりとなり、場外にあふれる盛況だったという。争議団員や来援の人々が演壇に立って発言すると、臨監の警官が「注意」「中止」を命じても、弁士に手を触れさすなと浜青組合員が仕事着姿で腰に手カギをさして演壇を固め、会場内は緊迫した空気であった。最後に登壇した山上為男が激しいアジ演説の終わりに、「工場主にデモをかけろ」とアジり、テーブルの上に飛び上って、「立て!」と叫んで上衣を脱ぎ会場へ投げすてたとたん、聴衆は総立ちとなって会場からなだれ出た。そして約2時間、デモ隊は街頭をかけまわった。このデモ隊は強硬分子と目される工場主の門灯や窓ガラスを破壊するなど暴動化した。一方デモ暴動化を知った田辺署では、管内非常召集をして御坊、南部署に応援を求め、深夜トラックで20余名の警官が来援した。翌14日午前2時には約50名の警官隊が争議団本部をはじめ、町内各署を急襲して「峻烈凄惨を極めた」検挙が行なわれた。女子を含めて約40名近くの検挙者を出した。多くの活動家を奪われて争議団の組織は壊滅した。全熊委員長もやってきたが、検挙の厳しさに呆然として戦意をなくした人々を前にして、手のつけようもなかったといわれる。完全な敗北であった。組合側は指導部を失ったまま最後の力をふりしぼって、5月18日「1首切り、賃下げ、休業は当分これを行なわざること、2取調べ事件関係者にはできる限り仕事を与えること、3その他の要求項目については、追ってこれを考慮すること」という警察と町内会役員の調停案をうけ入れ、争議は終結した。翌19日から就業した。相互会側では100円程度の争議費用を出したが、それも裁判費用にあてられた。起訴者は11名にのぼり、1名が3ヵ月の懲役と他は執行猶予ながら2ヵ月の判決をうけた。この弾圧ののちも田辺貝釦工組合は存続したが、その戦闘性は失われていくばかりであった。 
(3) 貝ボタンから合成樹脂ボタンへ
第2次大戦後、さきの和歌山県貝釦工業株式会社は解散して、それぞれ独立し、従前どおり貝ボタンの製造を開始した。この間田辺市貝釦協同組合が発足し、田辺地方釦労働組合も結成され、人員整理や工賃値上げなどが問題としてとりあげられた。
ところで昭和24年(1949)金清釦工業株式会社が貝ボタンの原料不足から、合成樹脂による化学ボタンの将来性に着目し、社内に専門技術者を招聘して研究を重ね、自社の生産品を切りかえ、増産体制をととのえるとともに、当地方の業者にも公開指導するようになって、この技術がやがて田辺市およびその周辺に普及していった20)。このため貝ボタン専業業者は徐々に転廃業のやむなきにいたり、昭和32年(1957)ごろからその生産は急速に減少した。合成樹脂ボタンにとって代わられたのである。
昭和30年ごろの田辺地方のボタン工場は80有余、従業員4千名、内職などの関連部門を含めると非常な人数にのぼったが、その後企業規模の大型化で出荷額は伸びた反面、過当競争も加わり、自主廃業者や倒産者も相つぎ、企業数は減少していった21)。昭和44年(1969)当地方有力企業の金清釦工業株式会社は、社屋と工場を新築・移転したが、その竣工パンフレットには、「金清釦の過去五十年を顧みるとき、戦前の天然の資源を材料にした家内的手工業の時代から戦争中の代用品時代、そして戦後台頭したプラスチック時代へと転換、オートメ化された大量生産、開放経済をして貿易の自由化とあらゆる面にわたり、今や過去のどの時代にもくらべ最も多難な時代になった」22)、と回顧している。そして昭和40年代後半には、田辺工業団地建設が議論される中で業者の団体は、田辺地方釦工業協同組合と南紀釦工業団地協同組合に分裂し、今日にいたっている。
以下、昭和49年(1974)に実施された『田辺地方釦産地診断報告書』を手がかりに、当地方ボタン業界の概況および当面する問題点をうかがっておこう。
まずわが国および和歌山県のボタン産業の推移を示すと、第8表のとおりである。昭和30年(1955)以降の事業所数、従業員数の全国推移をみると、大きな変化は認められないが、出荷額は昭和30年を基準とすれば15年間で約5.1倍の伸びを示している。輸出額は昭和35年(1960)を基準とすれば10年間で約1.7倍の伸びである。この間の県下の伸びはそれぞれ6.9倍、1.8倍であり、全国平均をかなり上まわっている。そして出荷額の全国シェアは昭和35年(1960)の13.9%をピークに、その前後5年間は若干の振幅がみられるものの、出荷額のうち平均43.9%が輸出に向けられ、わが国ボタン輸出の10数%を占めていることが指摘される。なお、表には出ていないが、その後の状況をみると、昭和51年(1976)には出荷額約48億円、その輸出額約17億円、輸出比率は35.0%である23)。最近の経済変動から輸出向けは減退し、内需のウェイトが高くなってきているといえよう。
   第8表 わが国および和歌山県内ボタン産業の推移
つぎに、主として昭和45年(1970)段階における規模別の事業所数、出荷額などをみると、第9表のようである。これによると、ボタン産業は従業員300名以下からなる産業部門といえるが、とくに従業員50名未満のところが全国の事業所数で96.9%、従業員数で69.3%、県下の事業所数で88.5%、従業員数で46.2%と圧倒的に多くなっており、同規模のところで全国出荷額の60.0%、県下出荷額の33.4%を産出していることが判明しよう。和歌山県の場合は多少大型化の方向がうかがえるが、反面全国的動向以上に企業間格差が目立っているのである。比較的規模の大きいところは、新技術の開発、経営合理化にも前向きであり、小規模のところとの格差はますます大きくなっている。
   第9表 規模別の生産状況
合成樹脂ボタンは他のボタンに比較すれば量産化が可能と思われ、ある程度大型化の方向がうかがえるが、基本的には下請を頂点とする中小零細規模という点にボタン産業の特徴がある。たとえばユリアボタンの製造は、「原料」「粉砕着色混合」「圧縮成型」「バリ取り」「艶出し」「撰別」「包装」「箱詰出荷」の諸工程を経て行なわれるが、一般に圧縮成型から撰別工程までの作業は下請である。さきの『田辺地方釦産地診断報告書』によれば、昭和49年(1974)ごろの業者総数26のうち会社組織は5、企業組合1、その他は個人企業であった。そして10社は自社生産(うち一部下請4)であり、他の16業者は下請生産と報告されている24)。なおアメリカ向け輸出については包装、箱詰の段階で工場周辺の内職が広汎にみられる。すなわち製造業者から完成ボタン、台紙、糸、箱などが元請内職にまわされ、さらにこれが各末端に提供され、台紙付および裏穴ボタンの糸通しなどの家庭内職が行なわれているのである。末端の内職人員は多いところで1社150名にものぼっており、産地全体からみればボタンに携わる人員は非常に多いといわれる25)。
さらに流通状況についてふれておきたい。田辺地方のボタン流通経路は第1図のようである。まず原料入手は原料製造メーカー、原料問屋、原料商社などを通じて行なわれるが、とくに原料製造メーカーとボタン製造業者の関係が密接である。前者は後者に比較して大企業であり、原料入手にあたってはほとんど問題がなく、ボタン製造業者は技術上の指導、取引上の便宜を与えられることが多かった。しかし石油ショック以降は、原料不足に伴ない状況は大きく変わってきている。つぎに製品の販売であるが、内需の場合は、主として大手第1問屋、地方第2問屋を経て行なわれる。一部には小売または既製衣料製造メーカーへ直接販売を行なっているものもある。仕向け地は大阪が一番多く、ついで東京である。輸出の場合は、大手第1問屋、貿易商社を通じての間接輸出である。さらに取引関係であるが、全工程を一貫して生産しているところは10企業で、このうち比較的大きい元請企業は5ないし6である。これらの企業の下に16の下請工場がピラミッド型に系列化されている。原料の入手系列、製造に対する元請・下請、製品の販売系列は存在するが、元請相互、下請相互など横の関係はほとんどみられない。
   第1図 田辺地方ボタン(合成樹脂ボタン)の流通経路
最後に、田辺地方のボタン産業の当面する課題に言及しておきたい。第1に当産地の現況把握そのものが困難を伴うが、実はここにいくつかの問題点が内
包していると考えられる。そこで業界全体の発展のためには、県・市および商工会議所・商工会などの協力体制も必要であることを指摘しておきたい。もとよりこの点は業界自らの努力が要求されることはいうまでもなく、たとえば組合の一本化をはかることもその1つであろう。
第2に、ボタン工場の多くは市街地にあるため、騒音・埃・廃棄物の処理など、いわゆる公害問題をかかえている。一部の工場は移転し、また産業廃棄物の処理については前向きの体制がとられているが、このほか職場環境の改善にも取り組むべきである。なお廃棄物の再利用も研究する必要があろう。
第3に、新製品の開発があげられる。これまでの需要動向から商品の多様化、高級化は今後いっそう進むものと思われるから、消費者の嗜好、需要動向の調査ならびにデザイン、加工方法など、さらに研究する必要がある。またボタンは繊維製品の付属品であり、がんらい不安定な立場に置かれている性格上、ボタンの技術を生かした付加価値の高い商品もあわせて研究する余地があろう。
第4に、中級品以下のボタンについては発展途上国の追い上げが急で、コスト面では完全にリードされていることが問題であろう。輸出の減退は一時的な不況が原因というより国際市場での競争力が弱くなったことを物語るものであり、根本的な対策が必要な時期にきていると思われる。ただ韓国・台湾にしても製造技術においては、わが国と比較して10年の遅れがあるといわれ、製品管理もまだ拙劣であるという。 
2 奈良県のボタン産業 
(1) 貝ボタンの生成と発展
奈良県に目を転ずると、やはり輸出向生産として外貨獲得に少なからぬ役割を果したものに貝ボタンがあげられる。主として南方産の高瀬貝や蝶貝などの貝殻を繰り抜き貝ボタンはつくり出されるが、奈良県に伝わったのは明治38年(1905)ごろのことである。貝ボタンは明治20年(1887)ごろ神戸でドイツ人技師の指導でつくりはじめられてから、30年ごろには大阪へ、さらに河内地方へ広まって奈良県にも及んだわけであった。その際、耳成村、上市町、川西村唐院・結崎で各1戸ずつ開始したといわれるが、その背景には木綿織の衰退、灯芯の斜陽化、農家の耕作面積の狭小さ、などがあった26)。すなわち大和木綿の賃織は農家の副業として農家経済を支えてきたが、これが不振をきわめたため貝ボタンが新たにうけ入れられたのである。やがて川西村に定着するが、荒木幹雄氏は、この点に関連し、「賃機の衰退にかわったものは貝釦の製造であった。すなわち貝釦製造は明治38年に大字唐院において開発されたが、明治44年には川西村の七戸が製造に従事しておりその後急速に発達した。大正4年頃には『川西村ニ於テ貝釦製造業尤モ盛ナリ業者約五十戸アリ其半数ハ同村大字唐院ナリ、産額五〇.四〇〇円数量二〇一.六〇〇ゴロスニ達ス』とある。原料は南洋産印度産琉球産などのものを輸入し、また製品は神戸の外国商館と地方商人を通して販売していた。釦製造に従事したものは下層農家のもので『大字唐院ニアリテハ下流農家ノ副業トシテ生活難ヲ救済スルニ足ル』とある」27)と述べている。
農村家内工業としての貝ボタンは原料の前貸制度などがあって、かなりの速度で奈良盆地へ普及していった28)。大正10年(1921)ごろの調査は、奈良県への移行過程を、つぎのように述べている。やや長文であるが、仲買商の位置がよくわかろう29)。
貝釦ハ専業職工以外多数ノ農業者其ノ他都邑附近ノ雑業者ノ内職又ハ副業トシテ盛ニ製作セラレツヽアルモ其始メニ於テ商人ハ是レカ製造ヲ教示開始スルニ当リ利益ヲ誇大ニ吹聴シ甘言ヲ弄シテ其ノ原料及器具ヲ貸与シ専ラ其ノ生産力ノ増加ニ努メシヲ以テ開始当時ニアリテハ其ノ製品ヲ有利ニ取引セラレシカ猥ルヽニ従ヒ漸次悪辣ノ手段ヲ弄シ製品多量トナルニ従ヒ些細ナル点ヲ指摘シテ所謂見倒シ買倒シノ手段ニ出テ更ニ当然買取ルヘキモノヲ委託ノ形式トセシメ原料ト交換スルトキハ原料ノ高価ニ見積リ製品ヲ廉価ニ計算スル等ノ悪手段ヲメクラスカ如キ風潮次第ニ盛トナレリ最近是レカ為大阪府下ノ生産力著シク減退シツヽアルヲ以テ商人ハ和歌山県及奈良県方面ニ漸次生産地ヲ求メ殊ニ奈良県下ハ最モ彼等ノ注目スル処トナリ盛ニ是レカ製作ヲ奨励シツヽアリ如斯シテ不正商人等ハ常ニ新ラシキ方面ノ開拓ニ努力シテ以テ不正ノ利ヲ見ルニ腐心シツヽアルモノヽ如シ
つぎに明治40年(1907)から昭和11年(1936)にいたる貝ボタンの生産状況をみれば、第10表のようである。大正9年(1920)まではボタンとして
一括されているが、その多くは貝ボタンであろう。貝ボタンは内需より輸出に重点が置かれたが、とくに第1次大戦による好況で大いに伸び、大正8年(1919)には総製造戸数541戸、総産額412万3619円に達した。動力の導入で生産能率も向上し、その時期に奈良県は兵庫県をしのいで大阪に次ぐ全国第2位の生産県にのしあがった。しかし戦後の反動恐慌で製品価格が3分の1に暴落するという痛手をうけ、大正10年(1921)には総製造戸数179戸、昭和元年(1926)には86戸に激減し、生産額もそれぞれ最盛期の約8分の1、約5分の1に低落した。なお、表には出ていないが、後者の年度についてその地域分布をみれば、生産額は磯城郡が53万8815円と圧倒的に多いものの、製造戸数では北葛城郡が56戸と断然多く、磯城郡は15戸となっている30)。
この間業界組織化の機運が数回起っている。とくに大正7年(1918)の好況期には、日本貝釦同業組合および兵庫県貝釦同業組合から奈良県の業者に組合設置の働きかけがなされたが、実現にいたらなかった。その理由は、奈良県の場合、完成品業者が少なく、副業として半製品を転売する状態で副業の強味を生かそうとの姿勢が支配的であったためといわれる31)。しかるに第1次大戦後の不況を経験して、昭和5年(1930)7月川西村唐院の福山幾三らの輸出貝ボタン製造業者によって奈良県貝釦工業組合が結成された。重要輸出品工業組合法による組織化であったが、当時奈良県の貝ボタン製造業者は、「概ねその規模小にして、資金に乏しく、且無統制なるために徒らに原料商、又は是等ブローカーに其の利益を壟断せられる状態」32)であったから、何よりもそうした弊害を是正しようとしたのである。組合では、唐院に総合加工工場を建設したり、三井物産との間に原料貝の輸入や製品の輸出に関し、特約をむすぶなど業界の発展に寄与するところがあったが、輸出価格の低下を理由にまもなく取り引きが停止されたりして苦難の道を歩まなければならなかった。そして昭和12年(1937)以降は、軍用貝ボタンの需要に応ずる方向に進み、さらに統制下に入ったのである33)。
ところで貝ボタンの原料は20余種に及んだが、和歌山県のアワビ、サザエとやや事情を異にし、奈良県は高瀬貝が中心である。そこでいま少し、昭和初期の高瀬貝ボタンの生産状況などを瞥見しておこう。まず生産工程は、「原料」「繰場」「塩取」「ロール掛」「摺場」「挽場」「穿孔」「化車磨」「晒」
   第10表 奈良県貝ボタンの生産額
「艶出し」「染色」「乾燥」「蝋艶」「撰別」「台紙付」の順序であるが、製造業者の同一工場で全工程を行なうものはきわめて少なく、各工程によって分業化されている。最初に分離したのは、繰生地(繰場)工程であった。大正初期にはじまったとみられるが、「この分離の直接的な契機となったものは貝ボタン生産費の半ば以上を占める原料貝の価格が、輸入業者の投機の結果大きな変動をくりかえし、それがマニュ的企業の経営を大きく脅やかしていたことによる」34)といわれる。ここに製造業者は相場変動の危険性を回避し、また原料ストックの資本的重荷からも解放されたわけである。繰生地業者は河内地方から、やがて奈良県磯城郡に移っていき、この地方の農家副業として主要な産地を形成した。
繰生地業者の購入する原料貝は海外ものと内地ものに分かれるが、繰生地業者と輸入商間の取引方法をみると、先物を購入する場合と現物を購入する場合の二通りがあった。前者は「先ヅ註文金額ノ二割ヲ手附金トシテ輸入商ニ納メ現物引取リノ時残額ヲ決済シ」、後者は「現物受取リト同時ニ代金ヲ決済シ」ていた。運送料は繰生地業者の負担であった。繰生地業者と輸入商間の代金決済は、大正9年(1920)までは手形決済であったが、同年の恐慌に際して支払不能になるものが続出し、輸入商のうち破産のうき目にあうものが出たため、以後は現金決済となった。また繰生地業者から製造業者への経路は直接販売される場合といくつかの仲買商の手を経る場合に分かれるが、原則として現金取引主義であった35)。
さて繰生地とほとんど時を同じくして穿孔と台紙付が分離し、さらに塩取屋、賃摺屋、賃挽屋などの基幹的工程の一部をうけもつ賃加工専門の小企業があらわれはじめた。そして昭和初期には、つぎのように大別されるにいたった。36)
 1台紙付を除く全工程を同一の経営で行うもの
 2繰生地を購入して摺、挽、穿孔、仕上げ、撰別を同一の経営で行うもの(穿孔のみ下請に出すものもある)
 3自己の職場では仕上げ、撰別のみを行うもの
これは、主として大阪府の状況を類型化したものであるが、当時1の形態はわずか2、3戸にすぎず、2の形態もしだいに減少し、3の形態が支配的な形になっていた。いうまでもなく、3の形態は、貝ボタン生産工程のうちで最も主要だと思われる全部を欠いている。奈良県についていえば、2の形態に関連する「黒屋」の存在が目立った。すなわち繰生地を購入してロール掛、摺場、挽場の3工程を行なうもので、5、6戸を数えた。その大きなものは自己の工場に3、4名の職工と工場外に5、6戸の下請をもつものがあったという。
いずれにせよ貝ボタン製造は、まさに諸工程が分散独立し、農家の副業としての賃加工を基礎としながら展開したわけである。しかも「本業者ハ小資本経営ノモノ多キ関係上、其ノ資力ハ繰生地業者、製造業者ヲ問ハズ薄ク殊ニ繰生地業者ニ於テ甚シク該業中ニハ繰生地仲買商ヨリ原料購入資金ノ融通ヲ受ケテヰルモノモアル状態」37)で商業資本の従属下に展開されたというべきであろう。説明は不十分であったが、参考までに高瀬貝ボタンの原料取引経路ならびに製造関係を図示しておくと、下の第2図、第3図のようになる。
   第2図 高瀬貝ボタンの原料取引経路
   第3図 高瀬貝ボタンの製造関係
なお当時、「高瀬貝百斤から普通の貝釦抜取数は一万二千個、之を形付に廻すと一万一千五百個となり、都合よく穴穿にかかるものは一万一千個、更に漂白して磨きに掛け、売品となる数は一万五百個」38)ということであった。
最後に第2次大戦後の状況にふれておくと、統制撤廃で活気を取りもどし、昭和30年(1955)には4億4千万円にのぼる出荷実績をあげ、アメリカをはじめ西ヨーロッパ諸国へ販路を伸ばしたが、その後は合成樹脂ボタンの進出によって圧迫されはじめた。加えて原料高の製品安、受注の無計画性もあって、生産額は減少し、貝ボタン業者の転廃業が目立ってきた。製造は戦前同様、同一業者による一貫作業ではなく、各工程によって分業化されており、その実数はつかみ難い面もあるが、総事業数は昭和27年(1952)314であったのが39)、昭和47年(1972)には170に減少している40)。また繰生地業者数は昭和30年(1955)ごろ200であったのが、昭和42年(1967)には50に減少している41)。ただ繰生地は、従来堅型のボール盤を使っていたが、最近は1分間1万回転という高速運転の横式繰抜機で能率をあげている。業界組織としでは、現在三宅町伴堂に奈良県貝釦繰生地協同組合、川西町唐院に奈良貝釦工業組合があるが、いわば親睦団体化したものといえよう。 
(2) 合成樹脂ボタンと皮ボタンの動向
奈良県のボタン産業は磯城郡を中心とする貝ボタンが有名であるが、大和高田市のアクリル、ラクト、尿素ボタンといった合成樹脂ボタンも比較的よく知られている。現在では、この部門の方が生産額も多い。昭和初期森岡弥吉が水牛角の角質ボタン(オーバー、洋服用)を松塚で開始したのが元祖で、この技術が伝播し、ボタン産地を形成することになった42)。戦前の骨ボタン、ナットボタンから、いち早く合成樹脂ボタンに切りかえたため、比較的順調な歩みをみせたといえそうである。デザインの良否が販売を大きく左右するとのことである。
なお橿原市の成興釦工業株式会社にもふれておきたい。同社は昭和14年(1939)の創業で、当初は南米エクアドル産のアイボリーナットを原料として輸出向きの男子洋服ボタンを製造し、戦時中は南洋産のヤシ殻を原料として陸軍軍服用ボタンを、内地産のツバキ材を原料として海軍外套用の木製錨ボタンをつくっていたが、戦後はアクリル酸樹脂を原料とする婦人用ボタンの製造を行ない、製品の60%を輸出しているのである。仕向け地はカナダ、北米、南米、中近東など世界各国にわたっている43)。
さらに奈良県のボタン産業としては、もう一つ皮ボタンがある。わが国の皮ボタンは大正8年(1919)ごろ神戸市の戸田富蔵が陸軍被服廠から払い下げをうけた屑皮を原料として製造したのが嚆矢とされているが44)、橿原市飛弾へは戦後の昭和23年(1948)大阪から技術を学んで定着することになった。現在同地方は皮ボタンの唯一の生産地であり、全国生産額の100%をほこっている。出荷額の約70%は輸出向けであり、主としてアメリカに輸出されている。
皮ボタンの製造工程はきわめて簡単で、つぎのようである45)。1屑皮を切断機で羽織の紐状に切断し、2スキ機で皮の厚味を整え、3手で紐皮をボタン状に編む、4圧縮機で完全なボタン状に圧縮し、5ボタン型からはみ出した部分をはさみでつむ、6吹き付け染色を行ない、7乾燥機で乾燥する。このうち、1から5までの工程は下請業者であり、本業者の場合は、67の工程が付加されるだけである。3および5の工程は内職労働によっている。皮ボタンの完成品をつくり得る本業者は7、下請業者は11、内職に従事する農家の主婦は2千余名にのぼるという。昭和40年代前半で、ボタン100個編んで平均40円、10時間熱中すれば1日1千個400円、相当苦しい仕事とのことである。
最近の業者の悩みは、第1に原料屑皮の入手難と価格騰貴である。原料は皮革カバン、バンド生産で有名な和歌山市岡町から仕入れているが、昭和38年(1963)当時10キロ当り200円であったものが、ベトナム戦争による皮需要の増大で昭和41年(1966)にはその2倍に急騰したという。第2は問屋への納品をめぐって業者間に過当競争が起こることである。先般日本皮釦輸出組合を結成し、問屋に乗ぜられないよう納品価格の協定を行ない、各問屋にその旨通知するとともに業者自らも協定違反をしないよう自粛している。
最後に、昭和37年(1962)から昭和49年(1974)にいたる県下のボタン輸出実績を示そう(第11表)。これによると、何よりも貝ボタンの減退に代わって合成樹脂ボタン、皮ボタンの台頭が注目されるが、後二者も海外市況には敏感であり、とくに昭和42年(1967)以降の合成樹脂ボタン、46年(1971)以降の皮ボタンの落ちこみは相当厳しく、楽観は許されないであろう。いずれもアメリカ向け輸出の停滞が主たる原因であったのである。
   第11表 奈良県のボタン輸出額 
おわりに 
以上、和歌山、奈良両県下のボタン産業の展開過程について粗雑な考察をしてきた。資料的制約もあって、かなり精粗のあるものとなったが、つぎに昭和11年(1936)以降の生産額および全国シェアの推移を示し、小稿を終えることにしたい(第12表)。
戦前昭和10−11年(1935−36)平均の貝ボタン生産額をみると、奈良県は兵庫県、大阪府についで第3位で47万6千円を産し、全国シェア19.1%である。和歌山県は4位で34万7千円を産し、全国シェア13.9%である。戦後は合成樹脂ボタンの進出が目立ってくるが、昭和35−36年(1943−44)平均をみると、和歌山県は大阪府についで2位で8億2400万円を出荷し、全国シェア16.4%に上昇している。奈良県は第5位で4億900万円を出荷し、全国シェア8.1%となっている。その後は両県とも全国シェア10数%を占め、それぞれ2位、3位にランクされており、戦前戦後を通じてわが国有数のボタン産地を形成していることが指摘される。
   第12表 わが国のボタン生産額推移
現在和歌山県は貝ボタンの生産がほとんどなく、奈良県も減退してきており、合成樹脂ボタンへ進出をはかったり、また合成樹脂ボタンを兼営したりしているが、この傾向は輸出にも反映されている。すなわち全国的比率を示すと、かつてボタン輸出の60%以上を占めていた貝ボタンが、昭和35年(1960)には13%と約5分の1に減少し、これに代わって合成樹脂ボタンが8%前後から73%と約10倍に増加してきたのである。この原因は、主として、1戦時・戦後を通じてドイツ、フランス、イタリア、香港などが優秀なクリボール盤を使って貝ボタンの大量生産に乗り出したため、わが国の貝ボタンの輸出市場が狭められたこと 2貝ボタンに比較して合成樹脂ボタンの価格が非常に安いこと 3貝ボタンは原料が天然物であるため、その産地、品質などの関係で製品として全く同一のものができないが、合成樹脂ボタンは品質が一定しており、弱点である耐熱性の問題も改善されるなど品質の向上が著しいこと、にあるといわれる46)。
いずれにせよ合成樹脂ボタンは、技術の高度化やデザイン面での研究が進んでおり、また大量生産によるコスト・ダウンも期待できる部門であるから、ボタン需要の増加とともに内需、輸出ともある程度の伸びが見込まれるだろう。他方貝ボタンは変色しない、光沢がよいという特質を生かし、高級装飾ボタンとして根強い地盤をもつものと思われるが、一般的退潮は否めないのではなかろうか46)。 
■ 
 1) 堤長七『釦業界の源流』東京釦裁縫用品卸協同組合刊、昭和47年、136p。
 2) 和歌山県西牟婁郡田辺町編『和歌山県田辺町誌』昭和5年、544p。
 3)「西牟婁郡朝来村貝釦賃職業調査」和歌山県農会『和歌山県勧業月報』91号、大正7年、16p。
 4) 和歌山県『和歌山県産業奨励方針調査書』大正2年、374p。
 5) 同上、375p。
 6) 同上、376p。
 7) 「西牟婁郡朝来村貝釦賃職業調査(前号つづき)」前掲『和歌山県勧業月報』92号、大正7年、14p。
 8) 「紀州貝釦株式会社定款」。同社は、その後昭和12年に原料供給地たる済州島進出を決意し、済州島貝釦工業株式会社を設立し、2年後の14年から操業を開始した。
 9) 「牟婁新報」大正7年4月28日付。
10) 津越静之「後進国の追いあげをかわす田辺ボタン」(日本地域社会研究所編 『日本の郷土産業』4=近畿所収、新人物往来社、昭和50年)256p。
11) 和歌山県『和歌山県産業調査書』昭和6年、89p。この貝ボタン振興策に関連する動きとしては、さきに大正15年8月原料の共同購入などを目的に大阪、和歌山の同業者14名が日本玉貝産業組合を組織し、原料商は組合以外のものには原料を販売しないこと、また組合員も原料を組合以外から購入しないことを規約にうたい、相当な成果をあげたという。しかしやがてその結束はゆるみ、昭和2年解散のやむなきにいたった(大阪市役所産業部『大阪の鉦釦工業』昭和5年、45−46p)。
12) 「紀州貝釦株式会社第12回営業報告書」昭和4年度。
13) 和歌山県知事官房統計課『和歌山県特殊産業展望』昭和9年、126p。
14) 同上、127p。
15) 日本産業協会編『近畿の副業』同会刊、昭和5年、148p。
16) 津越静之、前掲論文 256−57p。
17) 以下、和歌山県教育研究所編『和歌山県社会運動史資料(戦前の部)』(昭和41年)13−18p。小川龍一『紀南地方社会運動史(戦前第2分冊)』(昭和43年)12−15、28−29、33−38p、池田孝雄「紀南の労働運動」(安藤精一編『和歌山の研究』第4巻近代編所収、清文堂、昭和53年)294−300p、などによる。なお池田氏には、このほか「田辺貝釦工組合ボタン争議てん末 ― 紀南初期労働運動の一断面 ―」(紀南労働運動史研究グループ刊、昭和37年)がある。
18) 田辺地方の貝ボタン工のうち、紀州貝釦株式会社の100名余は、すでに2割の賃下げを認めていたという。
19) 紀州貝釦株式会社の状況を「同社第14回営業報告書」(昭和6年度)によってみると、「此ノ如キ情勢ニ対シ吾社ハ専ラ受註売方針ヲ以テ臨ミ工賃給料ヲ引下ケ鋭意経費節減ニ勉メ隠忍持久ノ方策ヲ講シタリト錐モ尚大ナル経費節約ノ果断ヲ痛感シ富田工場ヲ閉鎖シ面削工及穴明工ノミヲ下請制トシテ残存シ止ムヲ得ズ社員十二名ノ解雇ヲ決行シ以テ重大ナル難局ニ対応セリ」とある。
20) 津越静之、前掲論文257p。
21) 和歌山県中小企業総合指導所『田辺地方釦産地診断報告書』昭和49年、2p。
22) 田辺市役所編『田辺市誌(2)』昭和46年、289p。
23) 紀陽銀行調査部「円高の地場産業への影響」同行調査部『経済月報』No.130、昭和52年、3p。
24) 前掲『田辺地方釦産地診断報告書』22p。
25) 同上、17p。なお以下の記述は、同診断報告書および帝国興信所和歌山支店の調査メモ(県議会用資料)に負うところが大きい。
26) 川西村史編集委員会『川西村史』(昭和45年)495−96p。三宅町教育委員会『三宅町史』昭和50年、571−74p。
27)荒木幹雄「明治期奈良盆地における農民層分解 ― 奈良県磯城郡川西村の場合 ―」、日本史研究会『日本史研究』第55号、昭和36年、60p。
28)千田正美『奈良盆地の景観と変遷』柳原書店、昭和53年、231p。
29)農商務省農務局編『大阪市及神戸市ニ於ケル貝釦取引状況調査』大正11年、24−25p。
30)奈良県『奈良県統計書』昭和元年、210p。
31)石井六治郎編『日本貝釦同業組合沿革史』同会刊、昭和4年、449p。
32)奈良県経済部『奈良県の商工業』昭和10年、139p。
33)前掲『川西村史』322−23p、大和タイムス社編『大和百年の歩み』政経編、昭和45年、320p。
34)三宅順一郎「河内地方における農家経営の変貌 ― ぶどうとボタン ―」農業発達史調査会編『日本農業発達史』別巻上所収、中央公論社、昭和33年、365p。
35)大阪府内務部『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』昭和5年、22−26p。
36)前掲『大阪の鈕釦工業』88−89p。
37)前掲『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』29−30p。
なお同書には、海外輸入業者よりみたわが国ボタン産業の欠点および注意事項が、つぎのように記されている(56−57p)。
 輸出業者ニ対スル注意事項
 1.見本品ト現実品トノ相異(略)
 2.積出期限ノ厳守(略)
 製造業者ニ対スル注意事項
 1.貝釦穴ノ大小アルコト……最近機械ヲ用フルコトヽナッタカラコノ苦情ハナクナッタ
 2.裏穴釦ノ穴ガ細スギルコト、或ハ一度穴ヲアケテ駄目ニナルト他ノ場所ニ再ビ穴ヲアケルヤウナ事ヲシナイコト
 3.釦コトニ裏穴ニ於テ〓ケタルモノヲ混シナイコト、穴ガ細イト糸ガ通ラズ又針ノ先ガ折レル〓ケテル場合ニハ釦ガ真直ニ立タナイ〓点ガアル
 4.厚サノ不揃、目方ノ不正
 5.選択粗末ニシテ品質ノ悪イモノヲ混入スル事
 6.磨キノ不充分
 7.高瀬貝ノ裏面ニアル所謂緑青色ノ残留除去ノ不充分
38)前掲『近畿の副業』117p。
39)日本商工会議所『輸出中小工業の実態』同会議所刊、昭和28年、377p。
なお、当段階における奈良県貝ボタン産業の問題点として、1設備とくに使用機械の更新、2納期の厳守による信用度の高揚が指摘されている(同書、380p)。
40)奈良県商工労働部商工課『奈良県中小企業の現況』昭和47年、16p。
41)大阪府立商工経済研究所「新原料、新製品の開発にともなう中小工業再編の実態 ― その1プラスチック製品 ―」同研究所『経研資料』No.456、昭和43年、128p。
42)大和高田市史編集委員会『大和高田市史』昭和33年、377−78p。
43)橿原市史編集委員会『橿原市史』昭和37年、1005p。
44)前掲『大阪の鈕釦工業』23p。
45)以下、前掲『大和百年の歩み』322−23p。
46)大和銀行調査部「ボタン業界の概況 ― 貝・合成樹脂ボタンを中心にして ―」同行調査部『経済調査』No.164、昭和36年、66−67p。