無駄死に

 

キーワード 「無駄死に」特攻隊員の遺書 
特攻による死の強要無駄死にするな日の丸商船隊の運命無駄死にだった戦死者国のために命を落とした特攻の真実「無駄死に」関連言葉 
 
【無駄・徒】 行っただけの効果がない。役にたたない。無益。「無駄な努力」 
【徒】と 益のないこと。無駄。むなしいこと。徒労。 
【徒労】とろう 無駄なことに力を費やす。骨を折ってしたことが報われない。「徒労に帰す(属す)」 
【無駄死に】無駄に死ぬこと。無益な死に方をすること。 
いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい無駄死をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。(夏目漱石「吾輩は猫である」) 
汝(なんじ)ら前(すす)んで無駄死にをするな (南方熊楠「十二支考 鶏に関する伝説」)  
犬死に / 徒死に(いたずらじに) / 死一等を減ずる / 死は或は泰山より重く、或は鴻毛より軽し / 死を軽くす / 死を決する / 死を鴻毛の軽きに比す / 死を賜る / 死を賭す / 死を視ること帰するが如し 
【無駄事・徒事】 何の役にも立たない、意味のないことをする。 
【無駄字】 用のないのに書いた文字。無用の文字。贅字(ぜいじ)。 
【無駄書・徒書】 何の役にも立たない、意味のないものを書くこと。いたずら書き。 
【無駄食・徒食】 むだぐい 必要以上に食べる。働きもせずただ食べるだけである。 
【無駄足・徒足】 むだあし 足を運んだかいがない。歩いたことが無益に終わる。「無駄足をふむ」
【無駄働】 せっかく働いたのに、そのかいがない。むだぼね。 
【無駄飯・徒飯】 働きもしないで食うめし。徒食。「無駄飯を食う」 
【無駄腹・徒腹】 なんの益も意味もない切腹。役に立たない切腹。 
【無駄物・徒物】 むだもの 無用のもの。あっても役に立たないもの。 
【無駄毛】 化粧の妨げとなる、顔やえり首・腕・足などの毛。 
【無駄矢・徒矢】 むだや 当たらなかった矢。あだや。 
【無駄話・徒話】 何の役にも立たないおしゃべり。とりとめもない話。雑談。雑話。 
【無駄骨・徒骨】 「むだぼねおり(無駄骨折)」の略。
【死】 死ぬこと。生命がなくなること。ものごとの死んだようなさま。「死の街(山)」 
死を賜わる 主君から死ぬことを命ぜられる。切腹を許される。 
死を賭す ある目的を遂げるために自己の生命を投げだす。命がけで事にあたる。 
死を視ること帰するが如し 死に臨んでゆったりと落ち着いているさま。 
【死人】 死んだ人。死者。 
死人に口なし 死人を証人に立てようとしても不可能。死者に無実の罪を着せること。 
死人に文言 うそを言い立てて死人に無実の罪を着せること。 
【死人】しびと 死んだ人。死者。しにん。 
【死人花】しびとばな 彼岸花の異名。 
仏造って魂を入れず 物事をほとんどなし遂げながら最も肝要な一事が抜け落ちていること。
【引導】いんどう 迷っている人々や霊を教えて仏道にはいらせること。死人を葬る前に僧が棺の前で迷わずに悟りが開けるように、経文や法語をとなえること。 
引導を渡す 相手に教えさとすように言うこと、また、最終的な宣告をすることなどにいう。 
【安仏】やすぼとけ やすっぽい仏。尊くみえない死人。 
【六道】ろくどう すべての衆生が生前の業因によって生死を繰り返す六つの迷いの世界。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう。六観音・六地蔵・六道銭・六道の辻などは、これに由来する。六趣。 
【六道銭】 死人を葬る時に三途の川の渡船料として棺の中に納める六文の銭。 
【枕石】まくらいし 川原や浜から持ち帰って死人の枕辺に置く石。
【行掛】いきがかり 物事の進み具合。はずみ。なりゆき。「いきがかり上、買うことになった」 
物の序(ついで) 何かほかのことをするのといっしょの機会。何かをするおり。ことのついで。 
物のはずみ ちょっとした動機や成り行き。 
【出来心】 あらかじめ計画していたのではなく、その場でふと起こした考え。もののはずみでふらふらと起こった考え。その結果が悪い場合、他に迷惑をかける場合にいう。「ふとした出来心で盗む」 
【出合頭】であいがしら 両方から行きあうはずみ。出合ったとたん。「出合頭にぶつかる」 
【競・勢・気負】いきおい はげしい勢い。意気込み。それによって調子づくさま。はずみ。 
【勢】いきおい はずみ。なりゆき。余勢。「勢いに乗ずる」「酔った勢いで言う」 
【張合】張り合うこと。意地を出し合うこと。その時のはずみ。 
【弾・勢】はずみ 調子づく。勢いづく。その時その場の成り行き。行きがかり。「時のはずみでどうなるかわからない」 
弾みを食う 他の余勢を受ける。
【調子】 物事の進む勢い。勢いに乗ること。はずみ。調子に乗る。「調子が出る」 
調子に乗る おだてられたりした結果、得意になって物事をする。いい気になってうわついた言動をする。 
【途端】 ちょうどその瞬間。はずみ。ひょうし。おり。ある事柄があって直ちに続いて別の事柄が起こるさま。 
【気張る】 気前よく金を出す。思いきって金銭を多く出す。はずむ。おごる。奮発する。 
【力む】 からだに力を入れる。「力んで狙いをはずす」 
すてん 物がはずみをつけて倒れたり、人がころんだりすべったりなどするさまを表す語。 
すとん 物がはずみをつけて、落ちたり、打ち当たったり、倒れたりする音。
【人質】 服従・同盟などの誓約の保証として自分の妻子・親族などを相手方に渡しとどめておくこと。喧嘩、争論、恐喝などで交渉を有利にするために相手方の者を自分の方に監禁すること。 
【質】 契約を履行する担保として物を預けること。借金のかた。質屋から金を借りるための担保。人質。 
質に入れる 財物を質として預ける。人質として預ける。 
質に取る 質として財物を受け取る。人質を預かる。人質にする。 
【証人】 事実を証明する人。請人(うけにん)。保証人。人質として相手に引き渡される者。 
【参勤交代・参覲交替】 江戸時代、幕府が中央集権制確立のために一定期間、諸大名を江戸に参勤させた制度。大名の妻子は人質として江戸居住を義務づけられた。 
入り鉄砲に出女 江戸時代、関所を通り抜けて江戸に持ち込まれる鉄砲と、江戸から地方に出る江戸在住の婦女子のこと。鉄砲は謀反などに利用されるのを防ぐため、婦女子は人質として江戸に居住させられている大名の妻が江戸を脱出するのを防ぐために、関八州の関所、ことに上方に通じる箱根できびしく詮議した。 
烏の頭(かしら)が白くなる (中国の戦国時代、秦に人質となっていた燕の太子、丹が帰国を望んだところ、秦王が「烏の頭が白くなり、馬に角(つの)が生えたら許可しよう」と答えたという「史記‐刺客伝賛注」「燕丹子」などにみえる故事から)容易に起こり得ないこと、あり得ないことをたとえ。烏頭白。
【捨石】 今すぐには効果はなく無駄なように見えるが、将来役に立つことを予想してする投資や予備的行為など。「国の捨石となる」 
捨てたものではない まだまだ有望である。まだ役に立ちそうだ。良い所もかなりありそうだ。 
捨てる神あれば拾う神あり 世間は広いから一方で見捨てられ相手にされなくなっても、他方では助けてくれる人も出てくるものだ。世の中はさまざまだから非難・排斥されてもくよくよすることはない。 
命を捨てる 自分の命が危険になるのも顧みないで努力する。 
【人柱】 あることのために犠牲となって死んだ人。 
【一生懸命】 命がけで事にあたる。一心に骨折る。
【天】 自然に定まった運命。生まれつき。めぐりあわせ。 
【天命】 天の命令。天が人間に与えた使命。天のめぐりあわせ。天道。 
天命を知る (「論語‐為政」の「五十而知二天命一」から)50歳になる。 
【天運】 天から授かった運命。自然のめぐりあわせ。「天運にまかせる」 
【天賦】 てんぷ めぐりあわせがよいこと。幸運。 
【厄会】 やっかい わざわいのめぐりあわせ。 
【巡合・回合】 めぐりあわせ 自然にめぐりくる運命。まわりあわせ。「めぐり合わせが悪い」 
【命運】 めぐりあわせ。運命。いのち。 
【回合】 まわりあわせ 自然に回ってきた運命。めぐりあわせ。「回り合わせが悪い」 
【間】ま めぐりあわせ。運。
【星】 九星のうち、その人の生まれ年に当たっているもの。そのめぐり合わせにより、人の吉凶が支配されるという。また、その年々の吉凶。運勢。めぐりあわせ。「よい星の下に生まれる」 
【星回】ほしまわり 各人の運命をつかさどるという星のめぐりあわせ。星の回り。 
【不運】 よくないめぐりあわせ。不幸な運命。また、運の悪いこと。非運。 
【時世時節】 ときよじせつ その時代その時代の風潮。その時その時のめぐりあわせやうつりかわり。 
【付・附】つけ その人についてまわる運。めぐりあわせ。 
【数奇】すうき (「数」は運命「奇」は不遇の意)運命のめぐりあわせが悪いこと。不運、不幸をくりかえす。ふしあわせ。不運。 
【幸運・好運】 よいめぐりあわせ。幸福な運命。しあわせ。高運。 
【境遇】 その人が置かれた家庭環境、経済状態、友人関係などの状況。めぐりあわせ。身の上。境涯。 
【奇縁】 不思議な因縁。思いがけないめぐりあわせ。「相縁奇縁」 
【機運】 時のめぐりあわせ。おり。時機。世の中の動向、趨勢。「機運が熟する」 
【悪日】 あくにち 陰陽家で事を行なうのに悪い日。運勢の悪い日。凶日。不運、不幸にめぐりあわせた日。 
【悪月】 あくげつ 陰陽道でいう凶の月。運の悪い月。めぐりあわせのよくない月。
【無体・無代・無台】むたい 無理なこと。無法なこと。「無体な要求」【無体攻】むたいぜめ むりやり攻め討つ。 
【無知・無智】 知らないこと。知識・学問のないこと。知恵のないこと。おろかなこと。不知。無学。【無知文盲】むちもんもう 才知や学問のないこと。文字を読む能力のないこと。 
【無知蒙昧・無知曚昧】むちもうまい 知識がなく物事の道理を知らない。 
【無恥】 恥を恥と思わないこと。恥を知らないこと。「厚顔無恥」 
【無茶】 筋道がたたない。道理に合わない。めちゃくちゃ。 
【無茶苦茶】 まったく筋道のたたないこと。めちゃくちゃ。台無しにする。
【不調法・無調法】 手ぎわが悪く下手なこと。酒などをたしなまないことや、芸事や遊び事にうといことをへりくだっていう語。 
【無定見】むていけん 一定の見識がない。確固たる意見や考えをもっていない。 
【無頓着】 物事に頓着しない。物事をあまり気にかけないこと。 
【無難】 特にすぐれてもいないがとりたてていうほどの欠点もない。 
【無二】 ふたごころのない。ならびなく忠義である。 
【不念・無念】ぶねん 気づかないで残念なこと。考えが足りないこと。不注意。落度。過失。 
【無念】むねん くやしいこと。口惜しいこと。残念。 
【無能】むのう 能力のない。才能のない。 
【無表情】 表情の変化にとぼしい。
【無風】 他からの影響を受けず波乱が全くない。平穏である。「無風選挙区」 
【無分別】 あと先を考えない。思慮のない。「無分別な振る舞い」 
【無法】 道理にはずれている。乱暴。無茶。非道。【無法者】 道理にはずれた行いをする者。乱暴なふるまいをする者。非道者。 
【無謀】 深い考えのない。成功する見込みもないのに行動すること。むてっぽう。無茶。「無謀な計画」 
【無味】 おもしろみがない。趣に乏しい。あじわいのない。 
【無味乾燥】 内容に少しもおもしろみやあじわいがない。「無味乾燥な講演」 
【無名】 世間に名が知られていない。有名でない。むみょう。正しい理由のない。名目のつけようのないこと。名義、名分のたたない。
【無明】 存在の根底にある根本的な無知をいう。真理にくらい無知のことで最も根本的な煩悩。生老病死などの一切の苦をもたらす根源として十二因縁では第一に数える。 
無明の酒 人間の本心をくらます無明を、飲むと正常な心を失うことのある酒にたとえていう。 
無明の眠 無明の境地を迷う状態を、眠りにたとえていう。 
無明の闇 無知迷妄の心を闇にたとえていう。むなしき闇。 
【無面目】 面目をつぶされても平気でいること。はじしらず。物事の知識がない。ものを知らない。 
【無用】 役に立たない。取るに足りないこと。無益。してはならないこと必要でないことの意で、ある行為を禁止することを示す語。「問答無用」「天地無用」 
無用の長物 あっても益のないもの。あっても役に立たないどころか、かえってじゃまになるもの。 
無用の用 役に立たないとされているものが、かえって非常に大切な役をすること。 
【無欲】 欲のないこと。「無欲恬淡」
【無理】 道理に反する。理由のたたない。非道。強引に事をなす。「無理を通す」 
無理が通れば道理引っ込む 道理に反することが世の中に行われるようなことになれば、道理にかなった事が行われなくなる。 
無理もない 道理である。当然のことである。 
【無理押】 無理に事を押し進める。強引に事を行う。 
【無理強】むりじい 無理におしつける。強引に従わせる。 
【無理遣り・無理矢理】むりやり 筋道が通らないと知りながら、だめだと知りながら行うさまを表す語。しいて。 
【無理心中】 相手の同意なしに無理やりにする心中。 
【無理難題】 道理に外れたいいがかり。解決の不可能なことがわかりきっている問題。「無理難題をふっかける」 
【無理無体】 相手の意向にかまわず強いて物事を行う。 
【無慮】むりょ おもんぱかることがない。無考えである。 
【無力】 能力、勢力、資力、働きなどのないこと。ある物事をしとげるのに必要なだけの能力資力がない。力がおよばない。 
【無力感】 ある物事に対して無力であることがわかったときの、虚脱したような感じ。
【無類】 たぐいのない。比べるもののない。最もすぐれている。「無類のお人好し」 
【無礼】なめ 無礼であること。 
【無礼】ぶれい 礼儀にはずれる。ぶしつけ。失礼。むらい。ぶらい。「無礼者」 
【無礼講】 身分の上下の別なく礼儀を捨てて行う宴。むらいこう。 
【無論】 論ずるまでもない。いうまでもない。勿論(もちろん)。 
【埒】らち 物事の区切り。物事に結末をつけること。 
埒が明ける 物事がはかどる。てきぱきと事をはこぶ。きまりがつく。かたづく。「こんな事をしていても埒があかない」 
埒もない 秩序がなく筋道や理由がたたない。めちゃくちゃでばかばかしい。しまりがない。とりとめがなくつまらない。たわいもない。「埒もないお世辞」 
埒を明ける[付ける] 物事をうまく説明する。弁明する。物事にきまりをつける。はかどるようにする。 
埒を越える[破る] 法や掟を破る。道理に反する。
  
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犬死に / 徒死に(いたずらじに) / 死一等を減ずる / 死は或は泰山より重く、或は鴻毛より軽し / 死を軽くす / 死を決する / 死を鴻毛の軽きに比す / 死を賜る / 死を賭す / 死を視ること帰するが如し 
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十八史略 梟雄の系譜 はじめての人にもわかる 十八史略の人間学 モンゴル帝国から大清帝国へ イ・サン―正祖大王 アレグザンダー・ハミルトン伝―アメリカを近代国家につくり上げた天才政治家 「封建」・「郡県」再考―東アジア社会体制論の深層 謀略家たちの中国 正史三国志 英雄奇談 それからの三国志 三国志武将百傑 いっきに読める三国志 朝鮮科学史における近世 
小沢治三郎  
君、死んじゃいけないよ。宇垣中将は沖縄に飛び込んだ。大西中将はハラを切った。みんな死んでいく。これでは誰が戦争の後始末をするんだ?君、死んじゃいけないよ。小沢治三郎中将は太平洋戦争終戦後、自害し無駄死にしないよう部下の将兵を諭して回った。  
小沢治三郎、太平洋戦争期の大日本帝国海軍軍人。日本帝国海軍最後の連合艦隊司令長官。最終階級は海軍中将。私心のない人物と名高く、敗戦時の司令長官を任される。戦術家としても有名で、アウトレンジ戦法などの艦隊戦戦術を考案している。戦後は清貧生活をし、軍時代の部下たちの世話を甲斐甲斐しく行った。 
特攻隊  
負けるとわかっていた戦争で特攻隊として死んでいった人はやはり無駄死にだと思いますか?  
確かに特攻作戦を組織的に行うに至った時点では敗色濃厚でした、みな口には出しませんが理解していたはずです。  
然しだからこそ特攻をしてでも日本の戦意と意地を示す事で、外に向かっては講和の条件が少しでも有利になればと、内に向かっては民族の誇りを示したのです。  
事実日本には無条件降伏しか認めないと公言していたアメリカもポツダム宣言という有条件降伏案を示してくるに至りましたし、天皇を廃す事による日本人の抵抗の凄まじさを想像させるに至ったのです。  
そして我々日本人は初めての敗戦を経験する時に、どうせ負けるなら死にたくないと皆が保身に走る歴史と、自らの命を以て敵を相殺するという、非常手段をとってでも日本人とは如何なる者かを示した英霊達が居た歴史を比較した場合、後者による無形の恩恵の意義を痛感せざるを得ません。  
無駄死にだったかどうかではなく、無駄死ににしないようにする事を考えて下さい。  
戦死された方々に「無駄死に」という言い方はないと思います。  
結果はそうであっても…。  
「特攻の記録」という本を今、ちょうど読んでいるところです。胸がつかえますよ。  
はい、無駄死にでした。しかし特攻隊員は無駄死に「した」のではなく、無駄死に「させられた」のです。特攻のほとんどは命令・強制でした。戦争末期には軍の方針で総特攻、つまり全員が特攻、と。  
使うものが死なないと目的を達成しない兵器や戦術を考えた時点で戦争には負けているのです。そして戦争に勝つ事はもちろん、米軍の侵攻の速度を落とす事すら出来なかった特攻を惰性の様に続け、最後は「戦果などどうでもいい。とにかく死んでこい!」と言った指揮官もいました。  
特攻攻撃で死んだ若者は5000人ほどと言われます。みんな愛国心・郷土愛に燃えた兵士でした。負ける事が分かっていた戦争で、オレが死んで故郷の親兄弟姉妹、妻、恋人、親友たちが少しでも救われたら、と、自分に言い聞かせ、絶ち難い現世への想いを断ち切って出撃していった若者たちの心情は悲壮です。  
「諸君は生きながら既に神である。我々も必ず最後の一機であとを追う」と次々と特攻隊を送り出し、エンジン不良や天候のせいで帰還した搭乗員を「卑怯者!死ぬのが怖いのか!」と殴り倒した司令官、指揮官たちは「最後の一機で」どころか敗戦後も生き延びて戦後の平和で豊かな生活を楽しみ、ウソで固めた本を書いて自分たちの無能・無責任を隠しました。陸軍航空特攻の大御所だった菅原道大中将は96歳で大往生。17歳で特攻戦死した朝鮮出身の少年飛行兵はあの世でどう思っているでしょうね。  
特攻は長くて立派な日本の歴史に泥を塗りました。また、特攻隊員のお陰で今の日本の繁栄があるのではありません。あの優秀で明るい気持ちのいい若者たちが生き残っていたら、戦後の日本の復興はもっと早くもっと華やかだったでしょうね。  
「信念のためには、たとえ敗れるとわかっていてもおのれを貫く。そういう精神の高貴さがなくて、何が人間ぞとぼくはいいたいんだ」岡本太郎  
≪はやはり無駄死にだと思いますか? ≫  
っつうことは、我々が思うかどうか、なんだな。  
ということは、我々生きているものが≪彼らの死を有意義≫にすれば、無駄死に・犬死ではないということになる。  
腐れ反日サヨクは、何とかして≪彼らの死を貶めようとしている≫のだ。  
だからこそ、われわれが≪彼らの死を有意義≫にしなければならない。  
無駄死にだとは思ってません。  
勝ち目が薄いけど、国を想って自分を犠牲にした心というものは後々の人々に受け継がれていると思うからです。  
そういう先人たちがいたからこそ今の日本がある、と思えるからです。  
あまりにも大きな戦力差だったから、それしか選択肢がなかったし、戦って亡くなっただけ、まだましです。特攻で勝てるなんて、誰も思ってなかったと思うよ。  
私の伯父は、通称「マニラの捨て子部隊」。小隊に38式1丁、自決用手榴弾は2人に1発。輸送船のドカ沈組で、一切の装備なし。軍部はそんな敗残兵と、何の訓練も受けていない現地の日本人男性に片っ端から召集令状を送り、米軍の弾に当たって死ね、その分、米軍は消耗する、という作戦を立てたのです。その結果、マニラ市内の残虐行為が起きたことはよく知られています。  
でもね、上陸してきた米軍に、石を投げ、棒で殴りかかり、最後は噛み付いて抵抗した、そしてみんな屠殺場のウシやブタのように殺されたらしい・・・。私はこんなの、名誉の戦死だとは思いません。靖国になんか祀られたくもないです。伯父はきっと、自分のふるさとを思って死んだと思います。  
・・・田舎の軍人墓地には、遺骨も何もありません。だから、慰霊団がマニラに行くというので、お願いして石ころを拾って持って帰っていただきました。 
3万人を無駄死にさせた森鴎外 / 脚気と悪者森鴎外  
そんな中で、海軍医務局長の高木兼寛(後の海軍軍医総監)は、西欧と日本の軍隊の違いは食事にあるとして、白米ではなくパンを中心とした食事(後に同じ麦ということで麦飯に変えている。当時の日本人の中には「パンを食うぐらいなら死んだ方がまし」というくらい洋食が苦手だったらしい)をとれば、脚気にかからないことを証明し、脚気の解決法を明らかにしました。その結果、海軍では脚気患者はほとんど見られなくなりました。  
しかし、ドイツの細菌学を中心とした陸軍軍医の上層部には納得できませんでした。病気の原因もはっきりしないまま、食事の改善などということで、病気が治るはずがないと考えたのです。彼らにはコッホ以前の迷信的な治療法のように感じられたのです。また、脚気の病原菌が発見されたという誤報もあり、高木兼寛に対して、露骨に反対をしました。  
ここで登場するのが、悪役の森鴎外です。ドイツに留学中の森は、高木兼寛に反対する論文を送ってきました。これは、高木批判の大きな力となりました。さらに、帰国して一等軍医となった森は、脚気の原因は細菌であるという信念のもとに、徹底的に高木を攻撃しました。(略)  
その結果、海軍では脚気による死亡患者はほとんどなかったのに対して、陸軍では、日清戦争では 3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた))という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となったのです。 
森鴎外らが高木の成果に対して柔軟な姿勢をとっていれば、死なずにすんだ多くの人間の命を奪ったのです。しかし、森鴎外は生涯、誤りを認めませんでした。 
  
特攻隊員の遺書から考える
 

 

1 「特攻隊」を授業化するに当たって「戦争論」(小林よしのり著)から考える  
東条英機が作った戦陣訓の中に「生きて虜囚の辱めを受けず死して罪禍の汚名を残すなかれ」という一節があり、日本軍は捕虜になることを最大の不名誉とした。特攻隊に限らず、日本軍には「死ぬまで戦い玉とくだけて散る」所謂「玉砕」の考えがある。  
「玉砕なんて勇ましいもんじゃない」、「上の者の投げやりな決定で部下の命を粗末に扱っただけ」、「バンザイ突撃なんてわざわざ蜂の巣にされただけで全く無駄死にだった」という意見がある。合理的に考えれば全くそのとおりである。  
戦争は末端で、殆んど無意味に見える兵隊の無数の死の上に成り立つものである。しかし、作戦効果のほとんどない死に兵隊を追いやるのは戦争指導者の犯罪でしかない。  
しかし、まっとうな作戦によって死んだ無数の兵士も、無謀な作戦によって殺されたに等しい死に方をした兵や民衆にも、感謝し哀悼の意を表するために「名誉」」を捧げたい。無駄死にではない。少なくとも私がその死を忘れない。次の世代にも伝えていく。東条英機の戦陣訓は否定するが、命よりも尊いもの、死をかけて守るべきものはある。  
ひたすら、「無駄死に」という考え方は、結局、「他人のために死ぬなんて無駄」と言う自己犠牲の尊さをぶち壊すところに行き着く。溺れている子どものために川に飛び込む勇気には敬意を表したい。自己犠牲を否定する人は、絶対他人のためには命を賭けたくない者だ。自分の命が大切。自分さえ生きていればいい。自分のことだけがかわいいと思っている人間は誰も守れやしない。目の前で恋人が乱暴されているのを見て、逃げる男はやはり最低ではないでしょうか。単なるマッチョイズムを言っているのではなく、女でも自分の子どもためには死ねると思う時があるでしょう。  
特攻も含め、先の大戦で死んだ兵や民は、祖国の歴史と風土に命を捧げ、家族と日本の未来を守るために死んだと言える。愛する者のために死ぬ。愛する者のためにと言った時、その愛する者は彼女(あるいは彼)の地域や家族が育んできたはずで、さらに彼女の用いる言語や彼女を取り巻く自然や慣習が育んできたはずだ。つまり、彼女を取り巻く公がかくも素晴らしい彼女を育てたと言えるだろう。「自分のために」を超えたとき、「公=国」が現れる。「愛する者のために」は、「愛する者を育んだ国のために」とかなり近い。国ためにと言っても、国家システムのためにではない。  
林憲正という25歳の特攻隊員の遺書を紹介する  
私は郷土を守るために死ぬことができるであろう。  
私にとって郷土は、愛すべき土地、愛すべき人であるからである  
私は故郷を後にして、故郷を今や大きく眺めることができる  
私は日本を近い将来大きく眺める立場となるであろう  
私は日本を離れるのであるから、その時こそ私は日本を本当の祖国として郷土として意識し、その清らかさ気高さ尊さ美しさを護るために死ぬることができるであろう。  
まだ人を愛した事がない者は、「愛する者のために死ねる」という感覚が分からないだろうし、「自分のため以外に死んでたまるか」と「エゴだけの個」にとどまっていているもの無理はない。しかし、自分のためにを超えた時、愛する者のためにの向こうに国のためにが立ち上がってくる。特攻隊は、天皇を本気で神と思って信仰していたわけではない。民間人を殺すなんてできるわけがない。テロではないのだ。特攻隊は、宗教で死ぬ陶酔感もない彼らには、情の論理しかない。「愛する者たちが住むクニを守るために自死するだけだ。これは死ぬのに覚悟がいる自分を克服する段階がいる。死を前にした特攻隊の川柳である。  
慌て者 小便したいままで行き  
諸共と、思えばいとしのこの虱  
彼らは自分を客観視して、笑うほどの精神のバランスを保っている。見事なユーモアであるが悲しすぎる笑いだ。  
政治家が、官僚が、マスコミが、日本の大人が、何の覚悟もせずに平和に実は無難に今をやりすごそうとばかりしている。無難と金儲けためならばとプライドなんかいらねえと開き直っている。  
かつては、死を賭けて日本の誇りを守った若者があんなにいたのに。学鷲の特攻隊員である西田中尉は「そう簡単に勝てるとは思っていません。しかし、負けたとしてもその後はどうなるでしょう。お分かりでしょう。われわれの生命は講和条件にもその後の日本の運命にもつながっていますよ。そう民族の誇りに。」と言っている。  
彼らが死を賭けて伝えたかったものを今の日本はちゃんと受け止めているだろうか。命に対する考え方は、「命そのものが宝」、「生きることそれ自体が目的」という人々は多い。長生きしたくてしたくて・・・。だらだら生きていてもいいからとにかくいっぱい生きたい。いろんなものを食って、面白おかしそうなことを味わい続けたい。今の日本をそう思う人だらけのような気がする。それはそれで否定はしない。しかし、生き長らえることだけが人生の目的ではないと思っている人は必ずいる。命は手段に過ぎない。この命を使って何をなすかだ。その時代の状況があるにせよ、後者の生き方をした人間に敬意を表したい。 
2 特攻隊を主題とした映画から考える  
まず、特攻に関わった映画を三本見た。  
「きけわだつみの声」 出演:織田裕二 他/スポンサー:朝日新聞 他  
「君を忘れない」 出演:木村拓哉 他/スポンサー:フジテレビ  
「ホタル」 出演:高倉健 他/スポンサー:朝日新聞 他  
この基本的な情報を見て、内容をある程度予想できる。もちろん、どの作品もフィクションを名乗っている。が、当時の現実のフィルムが流れたり、ヒントになった人物がいるため、完全にフィクションにはなりきれないようだ。同じ時期に同じような配役で同じような映画を作った。違いは、考え方である。  
あることに対する考え方の違いによって二種類に分けられる。「君を忘れない」と「きけわだつみの声」・「ホタル」に分けることができる。 あることとは、国に対する考え方である。  
三つの作品は、どれも感動を呼ぶすばらしい映画だと思う。共通している点は、特攻機に乗る若い戦士は、愛する人を守るため、また美しいふるさと(自然)を守るために命を捨てるということである。   
違いは、愛する人や美しいふるさと=国と考えるか違うと考えるかである。「君を忘れない」は、「愛する人や美しいふるさと=国」という考え方に近いように感じたが、「きけわだつみの声」・「ホタル」は「愛する人や美しいふるさと=国」という考えではないように感じた。  
自分は、「愛する人や美しいふるさと=国」と考えるが、もしそうでないならば、国の実態とは何なのでしょう。 どっかに観念的に国が存在するのではないのです。映画の中には、そのような国の実態があるようなニュアンスを漂わせていますが、それがはっきり何なのかは描いていません。というより、漠然と軍部が国であるという感じです。軍部や政府が国ではないように感じるのですが。  
「愛する人や美しいふるさとを守るために命を惜しまなかった」ことと「日本を守るために命を惜しまなかった」ことは、ほぼ、同義だと思います。   
○気になったセリフ場面(「きけわだつみの声」と「ホタル」から)   
「こんな戦争を誰が始めた」というセリフが二回。一つの映画で、同じセリフが二回以上使われることは珍しいことのように思われる。暗に軍部のせいを漂わせているが、単純すぎると思う。  
日本軍を侵略者として捉えている場面が多い。上官はあまりにも乱暴で、日本軍と一緒に行軍した衛生兵(女)を、日本軍の兵士が強姦しようとする場面もあり無茶苦茶な感じがした。戦場での犯罪が皆無ではないのはわかるが、それが一般的な日本兵のような描き方をしてはいけないと思う。  
「遺書は、検閲があり本当のことはかけない」というセリフが三回。いかにもである。遺書は、果たして、本心と言えないだろうか。言える。死にたくないのは当然だが、国を守るというのも信念としてあった。強制ではなく、自分からそう信じたからこそ自分の命を捨てることができたように感じる。ある程度は覚悟している自分であるが、自分が同じような立場になったら、特攻隊員と同じような行動を取れるか自信がない。悲しい事実であることはたしかであるし、だからこそ忘れてはならない事実だと思う。  
特攻した朝鮮人が、「自分は日本という国のために死ぬのではなく、朝鮮民族を守るため、誇りをまもるために死ぬ」と言った。これを評価的に描いていた。しかし、日本人が日本民族を守るため、誇りを守るために死んだことは評価しない。矛盾である。朝鮮にひどいことをした事を描こうとしてつじつまがあわない。 
3 授業化するにあたっての疑問・迷いについて  
事実をどのように捉えるか。  
「事実」と言う言葉を考える必要がある。的を絞れば、事実とは、「何年に何が起こった」という年表的な意味にしかならない。社会科は年表の暗記ではない。なので、「事実をどのように捉えるか」で大事なことは、「自分がどのような考えのものとで、事実を捉えるのか」が大事で、「どのような考えをもつのか」を吟味するべきである。  
また、そのように考えても、事実は、それこそ人によって捉え方が違うので、無数にある。アメリカにとっての事実があり、中国にとっての事実があり、韓国にとっての事実があり、日本にとっての事実があり、A氏の事実があり、B氏の事実があり、C氏の事実があるのです。そこで大事なことは、公教育は、日本の公教育だというこです。だから。A氏の事実では困るのです。日本と言うカテゴリーで、その事実が何であったのか考えなければなりません。  
「教師は事実を教え、理解は子ども自身がすればよい」のか。  
無責任である。教師が教えていることは、事実だけでなく理解させたいことも教えているという自覚が必要である。子どもに任せる、もしくは任せるほかないことは、大人の考えを含めた事実をどう受け止めるかで、単純な事実を教え、理解は任せることとは違う。  
時代背景・社会背景について特攻隊だけピックアップするのか。歴史の流れの中で扱うのか。特攻隊は、それのみの起きた出来事ではなく、戦争の中で起きたことなので後者だと思う。  
特攻隊をあえて取り上げることは偏った教材選択とならないか? 誤解を恐れずに書くと、自分が何かの主張をすることは、別の人から見れば何かの考えに偏ると言える。自分の主張が世の中に簡単に認められればこんな楽なことはない。開き直った傲慢な態度と言う意味ではない。常に、自分の主張の正しさ真摯に確かめる必要があるのだが、主張することを恐れてはいけない。特攻隊を取り上げるべき理由は、ここでは省略するが、今のところ自分は正しいと思っている。  
テロと特攻隊の違いは? 特攻隊は、敵の艦隊(敵の軍隊)特攻したのである。テロのように民間人を狙ったのではない。その意味では、原爆のほうがテロに近い。  
イスラム教のテロのような宗教的な陶酔感はない。特攻隊は、天皇を本気で神と信じていたわけではない。たが、「クニを守る」という精神があっただけである。  
愛する人のために戦う」ことと戦争を起こしてはいけない」は矛盾するか。  
すべての人が、すべてを愛することができれば、戦争はなくなるかもしれないが、それが無理であれば、「愛する人のために戦う」ことの延長に戦争はあると思う。これだけ歴史を積み上げても、争わずにいられない人間の性を超えられない。  
○特攻隊は道徳として扱えるか  
扱うなら「愛国心」という徳目になるだろうが、「生命尊重」の徳目と矛盾するので、無理であるという考えがある。  
自分は違うと思う。結局、愛国心より生命尊重を上位の価値としているからできないという結論になるのである。他人の命を守るために、自分の命を捨てることもあると考えるなら、生命尊重と愛国心は矛盾しない。しかし、全く矛盾しないかと言えば矛盾するときもあると思う。  
大事なことは、矛盾するかしないかではなく、どちらも大事な価値であるとして考えることである。徳目は、それ自体すばらしいが、他の徳目と比較して考えると矛盾するものが結構ある。極端な言い方になるが「好き嫌いをしないで何でも食べる」と「動物愛護」は矛盾する。「草取りをして学校をきれいにしよう」と「植物を大切にしよう」は矛盾する。  
生きたいと思っても死ぬ定めの人間の存在自体、矛盾なのだから、徳目が矛盾するのはある意味当然である。人間の心の闇を見れば、それぞれの場面で、それぞれの徳目を使いわけ上手に妥協しながら生きているのが人間とも言える。また、その矛盾に悩み続けて生きているのも人間と言える  
生命尊重も愛国心もどちらも大事である。どちらも大事な価値として授業をしていいと考える。  
○特攻隊を過ちとして教えるべきか。  
特攻隊を過ちとして教えるべきか。仮に、英雄的な行為として授業をしたとしても、特攻隊が作戦的に正しいと結論にはならない。特攻隊という作戦は、追い詰められてやむにやまれずの作戦であり、過ちでもやらざるをえなかった状況を取り上げるべきである。作戦的に過ちととして取り上げる可能性はあるが、行為を過ちとして取り上げてはならない。 
4 当時の映像記録を通しての授業づくり  
教師の発言・指示・説明/○児童の発表  
今から記録に残っている昭和の戦争についてのビデオを流します。どんなことでもいいです。気がついたこと、思ったここと、考えたことを3つ見つけて下さい。見やすいように移動して下さい。 ( ビデオ視聴 ) 
順番に発表してもらいます。同じ時は、「同じです」と言って下さい。(指示)     
○自分から敵の船に飛行機でつっこんでいった。  
○自分から落ちている。  
○飛行機で自爆していた。  
○自爆隊がある。  
○飛行機が海に落ちた。  
○敵に向かって自滅していた。  
○なぜ、特別自爆隊のような物をつくり、 船につっこんだのか。  
○なぜ、飛行機だけの攻撃か。  
○どのようにして自爆隊の人が決まったのか。  
○なぜ、自分から敵の船に飛行機でつっこんでいったのか。  
○なぜ神風と呼んだのか。  
自分から敵の船に飛行機でつっこんでいったことに気がついた人が多かったのですが、そのようなことを特攻といいます。船で敵につっこむ場合もあるのですが、今回は飛行機なので特に航空特攻と言います。その人たちのことを特攻隊員と呼んでいました。(説明)  
このような特攻隊員と普通の戦闘員との違いはなんだと思いますか。        
○特攻隊員は、自分たちから自滅しにいく。普通の戦闘員は、敵を攻撃しながら死ぬ。  
もう少し詳しく言うと、特攻隊の人は生きて帰ってこれる?これない。  
普通の戦闘員の人も戦争だからある程度覚悟していくと思うのですが、帰ってくる、死なないで戻ってくる可能性もあります。でも、特攻隊員は帰ってこれない。死ぬことが分かって旅立っていくのです。  
さっき、なぜ、特別自爆隊のような物をつくり、敵の船につっこんだのか?とういう疑問が出ましたが、それを考えるためのヒントになるので見てください。  
日本は、一九三一年から一五年間戦争をしていました。  
一九四一年から始って一九四五年に終わった戦争はなんとう名前だったのでしょうか。ノートに書いてみましょう。                  
○太平洋戦争です。  
(資料配付)              
別名は何ですか            
○大東亜戦争です。  
だいたい四年間くらい行われた戦争ですが、特攻が行われた時期はいつ頃だと思いますか?だいたい三つの時期に分けます。ア、イ、ウのどの時期でしょうか?        
予想をノートに書きましょう。時間は五分で理由も書きましょう。(発問・指示)   
(資料配付)  
理由書いた人、起立。           
○ウ 最終兵器で使おうとしていたから負けそうになったから(多数)  
皆さんの予想通りです。この時期は日本がどんどん追い詰められていました。その時起死回生の策として、特攻を行いました。沖縄戦の劣勢を挽回するために特攻を強化していきます。この間わずか数ヶ月です。  
その特攻隊員が残した遺書を紹介します。遺書とは、自分の気持ちを自分が死んだあとに伝える手紙のことです。(遺書一を読む。)享年19歳。若いですね。この頃は、二〇代三〇代のパイロットは死んでいなかったんです。茂樹さんが自分が死んだあと一番気にしていることは何だと思いますか。  
○お母さんが泣くことのこと。  
○自分がいなくなって母が形見を見たときに立ち直れないのではないかと心配している。  
○この遺書を見るとお母さんが悲しむんじゃないか。  
お母さんのことを心配している遺書です。  
次に松士さんという方の遺書です。この方も二〇才。  
(遺書二を読む。)難しい漢字もあるのでよく聞いてください。(説明を加えながら読む。)お母さん、お父さんのことを心配していますが、それだけでではないですね。他にどんなことを考えているのですか?死んだあと、何を心配しているのですか?ノートに書いてみましょう。  
○これからの人が幸せに暮らせるかどうか心配していた。  
「皆様」とはだれのことだと思いますか?  
○近所の人  
「皇国維持のため」とは、皆さんはどんなことを考えましたか。  
国のみんなのために  
近所の人も入っていたでしょうね。でも、自分の知らない人でも、日本の国のために自分は死んでいくんだよと書いていますね。    
渋谷さんという方です。どんなことを書いていのでしょうか。この人は、遺書で、どんなことを伝えたかったのでしょうか。  
○若い人たちに国のためにがんばってくれ。  
○日本のみんなを信じる。  
○後の事はたのんだぞ(信じて何かやってももらいたいことはある。)  
まとめる家族のこと、日本のことと言えるように思います。             
では、最後の問題です  
特攻隊が行われてから約六〇年が過ぎましたが、今の日本は死んでいた特攻隊の人たちが考えていた理想の国になっていますか。「なっている」、「なっていない」どちらかを選んで理由も書きましょう。  
○なっている。   
○平和な国だから。(多数)  
○なっていない。  
○戦争は今でも続いている。  
○遺書を書いた人は平和な国を願っていた。  
○今は便利な道具がたくさんあるけど、人殺しとかもある。  
○犯罪が起きている。  
○今の人は自分ためだけにやっている。  
○イラクのことが残っているから。  
最後に、特攻隊員が聞いたら喜んでくれると思うこと、逆に悲しむと思うことを紹介します。大東亜戦争が終わってから、日本では戦争がなくり、平和な国になりました。 そのことは、喜んでいると思います。逆に、悲しんでいることは、これから大人の仲間入りをする二十歳の人たちの成人式での様子です。ビデオを見て下さい。  
これで今日の授業を終わります。  
5 児童の感想 
特攻隊について     
ア 特攻隊の勇気について  
特攻隊の人たちは、国を守るために自分の命を捨てるなんてすごいと思った。  
戦争のビデオを見て戦争はすごく怖いと思った。戦った人たちは、勇気を出して立ち向かって立派に死んでいってかっこよかったです。  
二十歳の人が自分から突撃することはすごく勇気がいることだと思います。  
特攻隊の人は、自分が死ぬことが分かって飛び立っているからすごいと思う。  
戦争で死ぬと思って特攻隊に入って日本のために活躍したのはすごいことだと思う。   
イ 特攻隊の悲しみについて  
太平洋戦争(大東亜戦争)のビデオを見て、自分から突撃していくのが悲しかったです。  
特攻隊はすごく悲しい運命です。でも、日本のためによくやってくれました。今の二十歳の人は乱暴です。これでは、特攻隊がつっこんだ意味がありません。  
一九歳や二〇歳の人まで特攻隊で死ななきゃいけないなんてかわいそうだと思いました。  
やっぱり戦争は怖いなあと思いました。あと、かわいそうだと思いました。もし私が、男で二〇〜三〇歳ぐらいなら怖くてできないと思いました。  
理想の日本のために命を落としたのは悲しいです。  
特攻で命を落とした人たちは、つらいけど特攻をしたのだと思います。  
戦争は、絶対にやっちゃだめだ。  
自分たちの時代は戦争がないからいいけど、あったら大変だと思った。  
特攻隊なんかつくらなければいいのにと思った。自分から死んでいくなんて考えられないと思う。  
一九歳は二〇歳の人たちがまだ若いのに死んでしまったなんてありありえないと思った。  
ウ 特攻隊員と現在のつながりについて  
特攻隊員は、死ぬのが分かっていてやった。渋谷さんの遺書をみて、この人たちがいなかったら、僕たちもいないんだと思った。  
特攻隊の映像や遺書を見て、昔の人は国ために一生懸命やってくれてありがとうと思った。                  
特攻隊の人たちは、まだ若いのに国のために死んでいったおかげで、今は平和に暮らしているのに、現代の人々は特攻隊の人々を悲しませるようなことをしている。  
特攻隊の人が日本を守るために若いのに自分から死んでいくなんてかわいそうだけど、だから私たちが平和に暮らせるんだと分かりました。  
成人式について  
ア 成人式の感想  
成人式のビデオはひどすぎてびっくりしました。何年の昔の人が平和にしてくれたのに、あの人たちは多分特攻隊のことは知らないんだと思いました。私は、ああいう大人にはなりたくないと思いました。でも、あんな人たちもいるんだなあとビデオを見ながら思いました。  
成人式の人は自分のことしか考えていない。  
戦争で死んでいる人がいたのに、成人式では勝手な行動をしてめちゃくちゃにして戦争で死んでいった人がかわいそうだ。  
昔、同じくらいの年の人が戦ってくれたおかげで今、平和な日本があるのに今の人はダメだと思った。  
戦争のビデオを見てから成人式のビデオみると、はあ〜(怒)って感じでした。今の日本は絶対理想の国にはなっていないと思った。  
成人式でばかげたことをやっている人は何をやっているんだ!と思った。でも僕は、ほどほどに酒を飲んで成人をこしたいです。  
特攻隊員の人たちは今の日本のために命を落として理想の国になってもらいたかったのに、なぜ成人式で暴れたりするのだろうか。これじゃ、特攻隊が命落とした意味がありません。  
成人式であんなことをする人がいることを今日初めて知った。  
成人式にあんなに騒ぐのが不思議に思いました。  
イ 自分の行動について  
一〇年もないけど自分たちが成人式の時はあんなことにならないようにしたい。  
成人式のビデオを見てふざけているのはあまりにも変だと思った。僕が二十歳になってもあんなことはないようにします。  
僕たちはこのようなことはしたくありません。  
あんな人たちは二十歳とは思えない。小学生でもあんなことはやらない。  
ウ 特攻隊の人の気持ちになって  
特攻隊の人たちが、成人式をみたらすごく悲しむと思う。  
特攻隊の人たちが、あの成人式を見たら怒ると思うし、無念だと思う。あの人たちが特攻隊に行けばよいと思った。  
日本のために自分の命を落とした人がいるのに、成人式でプライバシーとか言って叫んでいるのは特攻隊の人たちがかわいそうだと思いました。僕は、あの人たちが特攻隊になればいいと思いました。  
疑問  
日本の人たちはどんな犠牲を払っても戦争に勝ちたかったのだろうか。  
特攻隊が死んで国のためになったのだろうか。意味もなく死ぬなんてもったいないと思った。  
今の人たちは、戦争で死んだ人たちのことはどうでもいいと思っているのだろうか。  
戦争で死んでいった人が今の日本を救ったのに、今の人たちはかわいそうだと思わないのだろうか。   
戦争で、死ぬと分かっているのに、何で飛んでいくことができるのだろうか。  
その他  
今の若い人は国なんかどうでもいいみたいに思っているし自分のことしか考えていないから自分は絶対そうならないようにしたい。国がはやく理想の国になってほしいです。  
平成の人はあまりにもふざけているので、もうちょっと昭和の人のことも考えてほしいと思います。  
6 考察  
自分の気持ちをノートに書かせる作業を多くしたこともあって、二時間の授業時間となった。  
感想では、直接授業で扱っていない点まであり、子どもたちが自分の言葉で書くことができた。また、いろんな意見があり、特攻隊についていろいろ考えた様子がうかがえた。   
修正した箇所は、特攻隊員の人が現在の日本を見たら喜ぶと思うことと逆に悲しむと思うことを紹介した点です。悲しむと思うことでは、荒れた成人式の様子を紹介した。同じ二十歳なのにこんなにも違うのかと、そのギャップの大きさによって、特攻隊の勇気や悲しみについてさらに深く感じることができた。また、特攻隊の出来事を現在とのつながりで考えることができた。  
荒れた成人式の様子に対する怒りはかなりあり、ちょっと過激な感想もあった。  
特に展開の後半は、道徳の授業としても扱えるのかもしれないと感じた。  

 


  
出典「マルチメディア統合辞典」マイクロソフト社
 / 引用を最小限にするための割愛等による文責はすべて当HPにあります。

 
 
■特攻による死の強要は「無駄死に」
 

 

特攻による死が無駄だったのかどうか、この結論は出ています。無駄死に、犬死にであり、彼ら特攻隊員を無駄に命を落とさせられたのです。
「特攻は死を強要した単なる殺人 美化するなんてとんでもない」
ところが性懲りもなく、無駄死にとは何だと騒いでいる人がいます。岩田温氏です。「特攻隊は無駄死にだったのか?もう一度冷静に振り返りたい特攻隊の真実。」
岩田氏は、戦争法案に反対していた学生たちが特攻隊をバカだ恥だと言っていたと勘違いして、罵倒するコメントをフェイスブックに上げていました。
それがどうにも勘違いだったようで、学生たちは特攻の死を無駄死にと言っていたということなのですが、岩田氏はそれにも怒り心頭のようです。しかし、どう考えても特攻で死んでいった若者は犬死にです。無駄に殺されたのです。岩田氏は「仮に、それで右翼と言われるなら、右翼でいいよ。」と言っていますが、誰がどう見ても立派な「右翼」ですが、それとも「極右」と言って欲しいのでしょうか。
岩田氏の上記ブログには、ノン・フィクション作家の神立尚紀氏から同氏に送られた寄稿文が貼り付けられていますが、その寄稿文はひどい内容です。
箇条書きにしてみると次のようになります。
1陸軍の特攻と海軍の特攻は違う
2海軍の最初の特攻はやむにやまれず行ったもの、兵器が足りないから仕方ない
3他の作戦も同じような戦死率のものだってあるじゃないか
4戦果はあった
1はどうでもいいです。陸軍はアホだとかいう議論もありますが、陸軍も海軍も同罪です。そこに差はありません。
2も弁解がましく、そのような状態で戦争を継続しようということ自体が間違いです。
3も同様です。ガダルカナルでもインパールでも沖縄でも大変な戦死者を出していますが、それと比較する意味がわかりません。
むしろ、どの戦闘(作戦)でも、兵士や住民に無駄な死を強要したというだけではありませんか。このアジア・太平洋戦争自体が侵略と略奪だけを目的とした戦争であり、そこに大義などありません。「岩田温氏「本当にあの戦争に「大義」はなかったのか?」 はい、ありません。」
アジア・太平洋戦争を始め、明らかな劣勢になったてもまだ国体護持という目的だけで終戦まで遅らせて多大な犠牲を強いてきたのが当時の支配層です。「日本帝国軍隊の末路とその犠牲」 そういう意味では、沖縄で戦死した兵士も、米軍や日本兵に殺された沖縄住民もみな犬死にです。特攻で戦死していった人たちと同じです。沖縄戦などでは住民も駆り出し、爆弾を抱かせて米軍戦車に飛び込ませるなど特攻のやり方と全く同じです。最初から死を強要する作戦なのですから、これが無駄死に、犬死にと言わずに何というのでしょうか。しかもさっさと日本軍部は降伏すればよかっただけです。その選択をせずに国民に死を強要したのです。
4は最低・最悪の発想です。
死を強要しておいて「戦果」だなんていうのは、それこそ特攻で死んでいった人たちをまるでゲームのコマのようにしか見ていないということです。それを現代の視線で語るのが重要だなんて言っておきながらこのように言うのですから、最低だと思います。このような「戦果」に胸躍っているのでしょうが、これではあの戦争で死んでいった人たち(日本支配層に殺されていった人たち)は、全く浮かばれません。侮辱そのものです。
特攻は犬死にです。同じようにガダルカナルやインパール、沖縄で死んでいった人たち、東京大空襲で死んでいった人たち、原爆で命を落とした人たち、中国で戦死した人たち、みんな犬死にです。  
 
■無駄死にするな!  

 

9回出撃して9回生還した男
太平洋戦争末期に編成された『特別攻撃隊』、通称『特攻隊』。 自らの命と引き換えに、敵艦への体当たりで戦果をあげる特攻隊において、なんと9回出撃し9回とも生還した奇跡の男がいる。 当時21歳の若き下士官操縦士、佐々木友次伍長。 絶対命令にことごとく背き、「生き残る可能性はほぼゼロ」といわれる特攻で、戦果を挙げてなお、生きることにこだわった。 一体なぜ、9度も生還できたのか? そこには父の教えと、尊敬してやまない隊長との約束があった。
今から96年前、北海道当別町の農家に、佐々木友次は、12人兄弟の6男として生まれた。 多感な少年時代、心をときめかせたのは、毎日一便だけ上空を通る、新聞社の飛行機だった。 17歳の時、「操縦生募集」の張り紙を見て、民間機のパイロットを育成する仙台の養成所に応募し、合格。 「飛行機乗り」の第一歩を踏み出した。
たが、この養成所には、別の目的があった。 それは陸軍の予備役、いわば軍のパイロットのバックアップ要員を育てること。
入所した翌年の1941年、日本がアメリカへ宣戦布告。 太平洋戦争が始まると、養成所を卒業した佐々木は、民間企業ではなく茨城県の鉾田陸軍飛行学校に配属された。 それでも…所属先はどうあれ「空を飛ぶ」ことこそが喜びだった。
そんな佐々木の大胆な操縦技術を認め、可愛がってくれた人がいた。 岩本益臣(ますみ)大尉、28歳。 陸軍士官学校出のエリートだったが、飛行技術は肩を並べるものがいない程の実力を持っており、また爆撃の名手でもあった。
時は流れ、開戦から3年が経った頃、アメリカは日本軍が占領していたフィリピンを足がかりに、日本本土へ上陸をはかろうとしていた。 そんな中 佐々木は、フィリピンを拠点とする第四飛行士団で新たに結成された、岩本が隊長となる部隊『万朶隊』(ばんだたい)の一員に任命された。
万朶隊は、岐阜県の飛行場で自分たちが乗る飛行機と対面した。 それは、訓練で乗っている「九九式双発軽爆撃機」だったが、先頭から3本の槍が突き出ていた。 槍の先には起爆管が付いており、根元からは太い電線が伸び、爆弾倉の方に伸びている。 それは起爆装置…先の起爆管のスイッチが何かに当たったら、爆弾が爆発するようになっていた。
さらに、本来あるはずの機関銃が外されていたばかりか、爆弾を落とすときに必要な、投下器すらなかった。 これでは、爆撃機なのに爆弾は落とせない。 そう、この飛行機は『体当たり専用』に改造されたものだったのだ! 隊員達は『自分達の命と引き替えの任務』であることを悟った。
だがこの時、佐々木は、不意に父・藤吉のことを思い出した。 父は、日露戦争の時、ロシア軍にほぼ全滅させられた決死隊『白襷隊』の一員だった。この激戦で、奇跡的に生き残った父には1つの信念が生まれていた。 父は、「人間は容易なことで死ぬもんじゃない」と、いつも子供達に言って聞かせていたのだ。 そんな父の言葉を思い出した佐々木は、簡単に死ぬわけにはいかないと思い直した。
また同時に、操縦者としてある疑問が浮かんだ。 改造された爆撃機は、体当たりしない限り爆弾が外せない仕組みになっていたが、事故や故障が起きたときに爆弾を抱えたまま不時着するしかない。 そうなれば、無駄死にでしかない。 それに、本来の目的は敵を沈めること、体当たりなら、1回突っ込んだら命共々それで終わり。 しかし爆弾を落とし、敵艦を沈めて帰って来ることができれば、何度でもお国のために戦えると思った。 そこで配線盤をいじるなど、色々試したのだが…ダメだった。
実は、この前代未聞の作戦、彼らがフィリピンへ向かう前日に、海軍の飛行部隊がすでに実行し、成果を上げていた。 それが、あの『神風特攻隊』だ。 太平洋戦争末期、戦局が圧倒的に不利となった日本海軍は敵艦に体当たりを仕掛ける自爆攻撃部隊「神風特攻隊」を編成、それに続くため陸軍が編成したのが『万朶隊』だった。
フィリピン到着後、『万朶隊』の任務は、アメリカ艦隊を撃沈することだと告げられた。飛行機のツノは、3本から1本に変更されていた。 さらに、爆弾投下ができるようになっていたのだ! 爆弾は操縦席から投下できないよう改造されていたが、隊長の岩本は整備担当者に相談し手動のワイヤーロープを設置。 それを引けば、爆弾を落とせるようにしたというのだ。
岩本は、隊員たちにこう言った。 「最大の目的は、爆弾を命中させて敵軍を沈めること! 体当たりで死ぬことじゃない! 出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい! 何度でも手柄を挙げ、何度でも帰ってこい!」 しかし、この考え方は「お国のために死んでこい」という日本軍の指導とは真逆のもの。 実は…この飛行機の改造は、岩本の独断で行われたものだった。 それは当時の軍では死罪に相当するほどの行為だった。 それでも行動を起こした、万朶隊・隊長の岩本益臣大尉とは一体どんな人物だっただろうか?
岩本益臣、28歳。陸軍士官学校を出た、エリートパイロットだった。 岩本には、5歳年下の妻、和子がいた。結婚したのは、1943年の12月20日。 それから1年にも満たない新婚だった。 和子は飛行機乗りの軍人を夫に決めた時から、2人の生活が長くはないかもしれないと思っていたが…皮肉にもそれは、現実になろうとしていた。
この日、岩本は同じ志を持つ軍人、竹下少佐から「体当たり専用」に改造された特攻機を極秘に見せられた。 爆弾の破壊力は、落下速度に比例する。 だが飛行機の体当たりでは、どんなに急降下しても翼があるため揚力が生じ、爆弾が落下する速度の半分ほどに低下してしまうのだ。 さらにこの頃には、飛行機の数も減っていて、1回の攻撃で1機失うのは極めて非効率的だった。
岩本は体当たり攻撃がいかに無意味で、効果が無いか、反論の公文書をまとめ陸軍の航空本部に提出した。 だが、上層部は岩本の忠告に聞く耳をもたず…1944年10月、ついに 海軍の『神風特攻隊』と陸軍の『万朶隊』という、日本最初の特攻隊が誕生したのだ。 そして、岩本自身がその体当たり部隊の隊長に指名された。
出撃の前日、和子は帰宅した夫の様子を見て、通常の出撃ではないと悟った。 岩本は、軍服につける襟章を2組取り出すと…和子に渡した。 それは『中佐』の襟章…いきなりの2階級特進だった。 結婚、10ヶ月め…忘れえぬ、最後の夜だった。 鉾田飛行場を旅立つとき岩本は規則違反をして自宅上空を旋回し、空から和子に別れを告げていた。
だが、その後到着した岐阜の飛行場で、東京の竹下少佐が信じられない情報を持ってきた。 そう、操縦席から爆弾を落とすあの方法は、改装次第でそれが可能であることは、特攻機の秘密を知る竹下少佐が命令違反と知りながら、岩本に教えたものだった。 少佐だけではない、整備担当者に改装を相談すると…整備兵もすぐに協力してくれた。 こうして、一度は体当たり攻撃を覚悟した岩本も、命令違反を犯してまで 特攻機を改装することにしたのだ。
11月4日、万朶隊に出撃命令が出ようかという日。 岩本隊長以下、5名のエリート隊員が突然上層部からマニラに呼び出された。 儀式好きで有名な富永恭次司令官が『激励の宴会をしたい』と彼らをマニラにある『第四飛行師団』の本部へ呼んだのだ。 こうして岩本ら5人の隊員は、翌11月5日午前8時、特攻機に乗って、リパ飛行場からマニラに向かった。
マニラまでは20分足らずで到着するはずだったが…いっこうにマニラの本部から到着の報せが届かないまま 夜9時を過ぎた頃、万朶隊に連絡が入った。 岩本隊長らは、2機の戦闘機から攻撃を受けたという。乗っていた機体は特攻専用に改造され、銃機を取り外されていたため、丸腰状態。 マニラ近くの湖畔に墜落し、1人は重傷で救助されたが、岩本隊長を含む4人の遺体が発見された。
そのすぐ後に、陸軍最初の特攻隊・万朶隊に出陣の命令が下った。貴重な写真がある。 出撃前夜に行われた、壮行会で佐々木を含む5人の隊員が、乾杯している様子を捉えた1枚。 各々が胸に吊した白い小箱、ここには数日前に亡くなった岩本隊長ら4人の名が記された紙片が、分骨の意味で入っていた。 共に訓練を続けてきた隊長ら、亡きメンバーの想いを胸に戦うためだ。 この時点で万朶隊の乗組員は、負傷中の者を除けば、佐々木ら5名の下士官のみとなっていた。
1944年 11月12日早朝。 いよいよ万朶隊が出撃した。800キロの爆弾を積んでいるため、速度も遅くなり、動きも鈍くなった。 おまけに「死のツノ」は操縦に邪魔で、飛行は安定しづらかった。
やがて敵艦隊がいるレイテ湾が見えた。 それは、危険空域に突入したことを意味していた。 爆弾の安全装置を外すべく、2本のケーブルの1本を引いた。 これで、もう1本のケーブルを引けば、いつでも爆弾が投下できる。 岩本隊長が改装させたものだ。
少し小さいが、軍艦と輸送船を発見した。 佐々木は、高度5000mから急降下! 輸送船にねらいを定め、爆弾を投下!海面に白い波紋が沸き立っていた。 はっきりは分からないが「外したかも知れない」、そう思った。 あとは必死で雲の中へと飛び込んだ。
佐々木は、アメリカ軍の飛行場から遠く離れたミンダナオ島の飛行場に不時着した。 この島が安全だと教えてくれたのは、岩本隊長だった。 こうして、佐々木は初の特攻で、生きて帰ってきた。だが翌日、軍部からは意外な戦果が発表された。 それを元に書かれた新聞記事にこうある。 『佐々木伍長操縦の、四晩機は、戦艦に向かって矢のごとく体当たりを遂げ、見事に撃沈させた』
出撃の2日後、新聞で「名誉の戦死を遂げた」と発表された佐々木だが、もちろん 彼は生きていた。 しかし、それは上層部にとって都合の悪い事だった。そして、参謀長からこう言われた。 「佐々木! 君は次の攻撃では本当に、戦艦を沈めてもらいたい」 それは「今度こそ本当に体当たりして死んでもらいたい」という意味だった。
実は、佐々木が体当たりで戦艦を撃沈したという発表は、天皇陛下にも報告されていた。 このままでは陛下に、嘘をついたことになる。故郷では、なんと、佐々木の葬儀まで行われた。 『名誉の戦死』を遂げた特攻隊員は、軍神として祀り上げられるのだ。 こうして佐々木は『死んだ』ことにされた。
帰還した2日後、2回目の出撃。 死の覚悟はいつでも出来ていた。 しかし、空に舞い上がれば、感動を覚えた。 子供の頃から憧れた、パイロット。 日本の上空からは決してお目にかかれない、南方の絶景を独り占めしていた。
しかし、ペアを組む護衛機の隼が見当たらない。 佐々木の機体は、体当たり用に改造されているため、もし空中戦になったら、岩本の時と同様、一切攻撃できず、打ち落とされてしまう。 ゆえに、やむなく帰還した。結果的に佐々木は生還したが、この日出撃した4機中2機のパイロットが撃墜され帰らぬ人となった。 これで万朶隊の特攻パイロットは、佐々木と奥原、2名のみとなった。
10日後となった3回目は、特攻機は2機で出撃することになった。 だが出撃直前、米軍の爆弾投下を受けた。 佐々木は必死に走って逃げたが、わずか3m離れた場所にいた、同僚の奥原伍長が被弾し、戦死。 ついに、万朶隊の特攻パイロットは、佐々木1人となった。 この頃になると、軍も佐々木の生存を認めないわけにはいかなくなり、新聞には彼が生きている事が発表されている。
だが、その3日後には、4回目の出撃を命ぜられた。 参謀長には、「今度は必ず体当たりするように!」と言われたが、佐々木はこう反論した。 「私は、死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも出撃して、何度でも爆弾を命中させます。」 これほど地位の違う上官に反論するなど、軍隊ではありえないことだった。 それでも、はっきりと言えた理由は、岩本なら きっとこう言うだろうと思ったからだった。
4回目の出撃では、佐々木を援護していた護衛隊の隊長が、天候の悪化を理由に全ての戦闘機を途中で引き返させた。5回目の出撃では、途中でアメリカ戦闘機の編隊と遭遇。 機関銃のない丸腰状態の中で、なんとか逃げ切った。
参謀長から「腰抜けめ!お国のためにナゼ死ねん?」と詰め寄られても、佐々木は信念を貫いた。 もちろん、命が惜しいわけではなかった。 逃亡せずに隊に戻れば、次の出撃命令がすぐに下ることもわかっている中で、彼は毎回、部隊に戻ってきていたのだから。
6回目の出撃では、敵艦からの高射砲をかいくぐって爆弾を投下。 ついに大型船を沈め、帰還した。 この戦果は大々的に報じられたが、またも佐々木は「体当たりによる名誉の戦死」と発表された。7回目の出撃は初めて離陸に失敗した。 整備のミスが原因だった。
8回目の出撃になると、援護の戦闘機が全く付かず、たった1機での出撃となった。 やがて、敵の大船団を発見したが、援護がなければ敵を敵をかいくぐって爆弾を落とすのはほぼ不可能…考えた末、佐々木は帰還することにした。9回目は、上空で機体が不調をきたし、飛行不可能と判断、やむなく基地へ戻った。そして…いよいよ 病魔に襲われ、マラリアを発症。 治療を受けている間に、フィリピンでのアメリカとの戦いに日本は敗れ、佐々木の特攻隊としての役割も終わった。
1945年 8月15日、終戦。 日本は戦争に敗れた。佐々木は、フィリピンの捕虜収容所を経て、翌年の1月6日、帰国の途に着いた。 その間、収容所で知り合った日本の記者から、衝撃の事実を聞いていた。 「第四飛行師団が、佐々木の銃殺命令を出していた」というのだ。 理由は…大本営発表で死んだ者が生きていては困るから。 銃殺命令は、あの参謀長が実行するはずだったという。
帰国した佐々木は、すべてを忘れ、戦後を生きていこうと決め、故郷の北海道に戻った。 だが、1つだけやらなければならない事があった。 尊敬する岩本隊長の墓参りだ。 折を見て、未亡人となっていた和子に会いにいった。 佐々木は、和子が知らない、出征してからの岩本の様子を伝えた。 どんなに忙しくとも手紙を書いていたこと、いかに和子を愛していたかということを。
終戦から74年。 当時、死の覚悟を強いられる日々を送る中、勇気を持って自分の命を有効に活かすことを考えた人々がいた。 彼らのことを、我々は忘れてはならない。
戦争で夫を失った和子…孤独に押しつぶされそうな思いをどうすることもできずにいた。 そんな頃…たまたま、岩本の姉が1歳の息子を連れて訪ねてきた。 その子は、笑うと岩本そっくりだった。 そして、義姉から「この子を益臣(岩本)の子として育てたらどうかしら?」と提案された。 和子は、生きていく理由を見つけた気がした。 養子に迎え、夫の名前から1文字取り「博臣」と名付けた。
一方、佐々木は、戦後、実家の農家を継ぎ、終戦5年目に結婚。 妻の名は偶然にも…尊敬する岩本隊長の妻と同じ「和子」だった。 それだけではない、その年に生まれた長男に岩本隊長の養子と同じ「博臣」と名付けた。 だが戦後は、特攻隊時代の思い出を他人に語ることはなくなったという。
時は流れ、戦後70年が経った2015年、1人の男性が佐々木に注目した。 作家、演出家の鴻上尚史さん。 佐々木さんの入院先の病院へ会いに行き、数々の実体験を聞き、本にまとめた。
鴻上さんが佐々木さんと面会した翌年、2016年2月、佐々木さんは92歳でこの世を去った。激戦地のフィリピンで、敵艦に体当たりする特攻の命を受け、9回出撃しながら、9回生還した、不死身の特攻兵・佐々木友次さん。 彼は、病床で家族に、こう呟いたという…「こんな風に、死んでいくんだなぁ」 
 
■日の丸商船隊の運命 「無駄死にでは…」 

 

小山田氏は空襲、魚雷2度沈み生還 友の慰霊続ける
先の大戦中、九州・門司を拠点に原油や食料を求めて外洋に出た商船が、連合軍に次々と沈められ、日本は困窮した。大戦終結から74年。中東のホルムズ海峡で今年6月、日本の海運会社が運航するタンカーが何者かに攻撃され、その後もタンカーの拿捕(だほ)が相次ぐ。島国・日本の生命線をにぎる海上交通を守るため、過去から学ぶべきことは多い。
東京都目黒区の小山田博氏(96)は、戦時中、5隻の商船を乗り継いだ。そのうち2隻は米軍の攻撃で沈められた。小山田氏も海に投げ出され、九死に一生を得た。
「でも、2回3回と沈められるのは、当時は普通でした」
戦時中、日本の船員の死亡率は44%に達した。陸・海軍人の戦死率19%をはるかに上回る。小山田氏が商船学校で机を並べた同期生は、半数が犠牲になった。
「今でも悔しい。何かをやり遂げたという感覚もなく、皆死んでいった。言葉は悪いけれど、無駄死にだったと思います」
小山田氏は言った。
死んだと思えば
小山田氏は、東京・隅田川の近くで育った。川でカッターを漕ぐ商船学校の生徒を見ているうち、船員を志すようになった。
昭和16年10月、神戸にあった高等商船学校に入った。専門知識を持った船員を養成する学校だった。
天文・地文学、羅針盤の操作方法、モールス信号や手旗信号など、航海に必要な基礎をたたき込まれた。教育期間は本来3年だが、戦局の悪化により短縮され、18年10月に卒業した。
卒業前から「乗船実習」の名目でタンカーに乗り込んでいた。そのまま、三井船舶(現・商船三井)に入社した。
19年3月、太平洋のパラオで、3等航海士として貨物船「那岐山(なぎさん)丸」に乗り込んでいた。ボルネオ島で航空機の燃料用ガソリンを積み込み、海軍の拠点ラバウルまで輸送する途中だった。
国家総動員法に基づき、全ての商船の運航管理は政府が担っていた。民間会社とはいえ、実質は政府の命令で動くことになる。
太平洋は、米軍の潜水艦が跋扈(ばっこ)していた。いつどこで沈められても、おかしくなかった。
「死んだものと思えば、何も怖くない」。誇張ではなく、本気でそう思った。
頼みの海軍は…
パラオには海軍の主力が停泊していた。戦艦「武蔵」を目にした。タンカーから給油を受けているところだった。
「大きなタンカーも、武蔵の横では母親にすがりつく赤ちゃんのようでした。これなら日本は大丈夫だ、と思ったものです」
安心はつかの間だった。海軍が慌ただしく出港した直後、米軍による空襲が始まった。
「あの周辺は、海面からにょきっとキノコが生えたような形の島が点在していた。船長の命令で、ぎりぎりまで島に寄せました」
島影に入り、急降下爆撃から隠れようとした。だが、米軍機は機銃掃射をしながら、次々と降下してきた。海面は爆弾と機銃弾で絶え間なくしぶきが飛ぶ。
航海士は、ブリッジを離れるわけにはいかない。突っ込んでくる米軍機を見て、思わずメモ用紙で顔を覆った。
空襲開始から数時間後、積み荷が燃え始めた。航空ガソリンのドラム缶だ。次々と誘爆し、手がつけられない。船長の判断で、全員救命ボートに乗り移った。
米軍はボートにも機銃掃射を浴びせてきた。何とか島の洞窟に避難した。
やがて爆発音やドラム缶のはじける音が聞こえた。断末魔のようだった。攻撃が終わった後、那岐山丸は海面になかった。
それから60年後の平成16年。小山田氏はパラオを訪れた。80歳を超えていたが、ガイドに頼み込んでダイビングをし、海底に眠る那岐山丸と再会した。
「貝殻だらけになっていた。何だろうなあ…。何とも言い難かった」
押せばへこむ
戦時中、日本は膨大な商船と船員を失った。
日本は、短い工期で量産できる戦時標準船(戦標船)の建造に着手した。
用途別に複数のパターンがあるが、材料や工程数を徹底して節約・削減した。
「甲板の水漏れや喫水線下の船体舷側からの水漏れは日常茶飯で、引き渡し後に個々に乗組員の手で最低限の補修や修繕が行われるという物凄(ものすご)い船が出来上がっていた」(大内建二著「商船戦記」)
小山田氏が那岐山丸の次に乗り込んだのが、戦標船「第七蓬莱丸」だった。
880トンと当時としても小さなタンカーで、乗組員は23人。小山田氏は、船長に次ぐ立場の1等航海士を任された。
「手で押したら、ぺこんとへこみそう。一発でも食らえば人生終わりだと覚悟しましたし、もうこの程度の船しかできないんだなぁと、しみじみ思いましたよ」
昭和19年11月、門司を出港しボルネオ島で原油を積んだ後、フィリピン・マニラに向かった。小型船ばかり7隻で船団を組み、護衛艦とともに航行中、突然、船団中央の船が爆発した。
「潜水艦の攻撃でした。いつ、この船もやられるか分からない。ボイスチューブ(伝声管)で船底にあるエンジンルームに『上がれ』と指示を出し、双眼鏡で必死に見張りました」
ブリッジの方が安心と思ったのだろうか。服を着ながら駆け上がってくる年老いた船員もいた。その姿に不快感を覚えた瞬間、すさまじい音が響いた。顔に海水がかかり、海中に引き込まれた。
懸命にもがいて浮上した。積み荷の原油が水面を覆い、腕でかいても海面は見えなかった。
2時間以上漂流し、船団の別の船に救助された。大きなけがはなかった。
後で、第七蓬莱丸の最期を聞かされた。魚雷命中と同時に、バラバラになった鉄板と黒い原油が空中に噴き上がった。それが収まったときには、船影は消えていた。
小山田氏は、さらに貨物船1隻を乗り継ぎ、終戦を迎えた。
戦後、復員輸送に従事した後、昭和24年に陸に上がった。三井倉庫に勤め、船の運航や積み荷の管理に携わった。平成2年まで、仕事を続けた。

今は、趣味の絵画を楽しみながら、静かに過ごす。描くのはもっぱら商船だ。海底で再会した那岐山丸も先日、描き終えた。
「商船学校の同室で、休日になると京都で寺めぐりをした三輪佑吾君、同じ船に乗り、寄港したマニラで一緒に買い物した森田明君、皆戦死した。私の少年時代、『四方を海なる帝国を』なんて言いましたが、その支えとなって死んだんです」
戦後74年、戦争を生き残った同期生も、ほとんどが旅立った。小山田氏は今も、全国各地にある船員慰霊碑を巡り続けている。 
 
■無駄死にだった大多数の戦死者
 

 

太平洋戦争で、200万人を超える兵隊が死んだ。その大半は無駄死にであった。犠牲者をできるだけ出さないよう戦う、という方針は、当時の軍隊になかった。兵力の差から、到底勝てっこない、無謀で無策な戦闘を、敢闘精神だけを頼りに、やみくもに推し進め、戦死者だけを増やした。最後の一兵まで死守せよ、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」、むしろ自決せよ、が、命令だった。
ビルマ戦争に従軍し、からくも生き残ったO元少尉は、現在83、4歳。「生き残り症候群」になやまされ続けてきた。元気でいるうちに、自分の経験したビルマ戦争の真実を語り伝えたいと、私と会うたびに断片的にあれこれ話してくれる。今日は終戦記念日である。Oさんから聞いたことから、ひとこま書いてみよう。
バーモを脱出せよ 
O少尉が、ビルマに派遣され、北部の戦略拠点バーモに着任したのは、日本軍がインパールで敗退し、北部ビルマでも優勢に転じた英印と中国の連合軍が、ビルマ派遣日本軍に、強力な圧力をかけつつあった時期だ。バーモはまもなく連合軍に包囲される。軍本部から来た指令は、○○部隊は、バーモを死守せよ、ただし、情報員は脱出して、軍司令部に合流すべし、だった。O少尉は、中野学校卒の情報将校であった。
中野学校出のOさん 
職業軍人が中野で教育を受けて、本格的な諜報員となる以外に、民間人を教育して使う場合があったのだそうだ。軍人っぽすぎては、できない諜報活動をさせるためらしい。現にOさんは、ビルマ現地では、軍服を着ず、普通の人、あるいは現地人に化けて、さまざまな諜報活動をしたらしい。学卒後、就職したその日に召集令状が来て、中野学校に入れられたそうだ。
バンザイ突撃をしなかった 
バーモ脱出を命じられ、もう一人上席の情報将校Aとともに、従卒2,3人を伴っての潜伏行は難儀を極めたらしい。何度も敵軍に発見され、撃たれ、次々に兵を失った。最後には、AとO、二人になっていた。二人で敵中を突破しつつあるなかで、ついに発見されてしまった。トウモロコシ畑に逃げ込んだ。まわりを中国兵に囲まれた。包囲網は、徐々に狭まってくる。上官Aは、もはやここまで、抜刀して、一人でも多くの敵兵を斬り、討ち死にしようと、Oにささやいた。必死の形相だったという。「いくぞ!」とAが、軍刀に手をかけ、Oを促した。そのとき、Oは顔を伏せて、聞こえぬふりをした。怖かった。斬り込むより、撃たれるとしたら、ここで撃たれた方がいいと、とっさに思ったという。「臆病者、何を考えているんだ。いくぞ」と、もう一度、Aが立ち上がりかけた。それでもOは、伏せたままでいた。ちょうどそのとき、ごく近くを包囲していた敵兵たちが、通り過ぎた。気づかれなかった。
死に場所を与えてやると、辻参謀 
Aとともに軍司令部に帰還したOは、まもなく辻政信参謀に呼び出された。あの有名な辻参謀は、当時中国派遣軍からビルマへと派遣替えされたばかりであった。鬼才の誉れ高かったが、Oが見た辻は、精神力に頼るのみで無策の参謀であったという。ビルマの戦況は、辻をもってしても、いかんともしがたい状況であったのだろう。Oを呼び出した辻は、「お前の臆病ぶりはAから聞いた。いい死に場所をお前にやろう。天皇陛下のために死んでこい」と言って、命令を下した。当時、日本と断絶し連合軍協力へと転じたビルマ独立義勇軍のアウンサン将軍(アウン・サン・スーチー女史の父親)の司令部に潜入し、将軍を暗殺してこい、という。命に従い行動はしてみたものの、全く無謀な作戦で、到底果たせず帰着する。そのOに向かって、再度「死に場所を与えてやる」と、次のまたもや無謀の命令が下される。そんなことの繰り返しのなかで、もう軍は、その体をなさず、敗退を重ねていった。辻参謀は別の任地にさっさと転じていった。その後も戦い続け、戦友たちの大半を失い、終戦を迎えたのは、ラングーン(現ヤンゴン)だった。
兵の無駄な死を悼む 
このOさんと、昨年ビルマロードを北から南へたどる旅をした。時折道ばたにたたずみ、Oさんは、この道の両側に日本兵の死屍が累々と横たわっていたと、往時を語るのだった。兵隊たちは、「天皇陛下ばんざい!」を叫びながら、死んでいったという。しかし、無謀な作戦など強行しなければ、あるいは、最後の一兵まで死守せよ、などという命を下さずに、兵を退いていれば、あれほどまでに多くの犠牲を出さずにすんだ。そのことを思うたびに、軍の上層部、特に参謀たちの拙劣な作戦指導が悔やまれるという。30万余の兵がビルマに派遣された。14万人が戦死した。そのほとんどは、無駄死にだった。
靖国に参りたくない 
Oさんは、決して靖国神社に行こうとしない。靖国は、「無駄な死」を、本人とその遺族にとって、「納得できる死」に、すりかえさせるシンボルだったと、分かったからだ。戦友や部下を多く失っている。その人たちの無念さを思うにつけて、とても靖国に行く気はしないという。 
 
■「国のために命を落とした」  

 

靖国参拝に関わって近頃頻繁に聞く表現なのだけど、その意味を考えると何と言って良いやら、絶句してしまう。表面的には「戦争で命を落とした方々のおかげで日本が助かった」という意味なんだけど、そう言う意味だすると事実と合わなくなってしまう。あの時の戦争は日本から仕掛けたのであって、「他国に攻め込まれて国を守るために戦った」とか言う話ではない。それでは戦死者は日本にどういう貢献をしたのだろうか?
日本はあの戦争によって国土も減ったし、それ以上に国際的信用を失った。逆に得たものは? … 思いつかない。早めに降伏して戦わない方が、つまり生き残った方が、国の損害も小さく抑えられた筈で、それが事実なのだ。それなら「戦死者のおかげで日本は酷い目にあった」と捉えれば良いのか? それも違う。彼らが戦争を始めたわけではなく、その決定権は当時の政治家達にあり、その決定に従っただけだ。むしろ戦争を望まない人達までも、国の決定に従って戦争に従事させられたのではなかったか? 戦争に赴かないことは、それが良心によるものであっても当時の状況としては許されることではなかったようだ。戦争に赴いたのはの国の命令だった。
そうだ! 確かに彼らは「国のために命を落とした」のだ。
国の愚かな決定のために彼らは命を落とす結果になったのだ。「国のために」は「国のせいで」と言い換えても良い。「英霊」という言葉も使われるが、その言葉にそぐわない内実、「国家の犠牲者の魂」ということになる。ひょっとして戦前の日本の政治体制が駄目だから、それを今の民主国家に変えるために彼らの死が必要だった? そうとも言えるけど、結局同じことだよね。国が駄目で犠牲として人柱が必要だった、と言う意味だから。そう考えた上で「国のために命を落とした」という言葉を反芻すると、「ために」が「せいで」の意味に聞こえてくる。これで言葉と事実の間の齟齬が解消した。
けれども、なんともやりきれない気持ちが残る。「国のせいで無駄死にした」方々だという意味なのだから。事実に合わせてこの言葉を解釈すれば、「国のせいで無駄死にした」の意味に受け取る以外に余地がないけれど、本当にそう言う意味でテレビに映る政治家達は発言しているのだろうか? そんな意味だとするならば、敢えて発言するのが良いことなのか疑問だ。仮に私達が反省を込めて過去の過ちを噛みしめるためだとしても、もっと別の言い方があるだろう。
アメリカを初め海外から批判を受けてのことではあるが、近頃では参拝の趣旨は「不戦の誓い」だと説明している。そうだとするなら、やはり「国のせいで無駄死にした」と言う意味で理解した方が合っている。無駄も無駄で、むしろマイナスな死、これほど悲しく取り返しの付かない結果を見れば、確かに「不戦の誓い」を強くするのは当然だ。そして「国のせいで無駄死にした」と言う現実とも符合する。逆に「国のために命を落とした」が「国に良い結果をもたらした」と言う意味なら、「不戦の誓い」には繋がらない。だから黙祷するのだ。「不名誉な無駄死にをさせて申し訳ない。これからは決して同じ過ちを犯しません。」と。それなら確かに「不戦の誓い」だ。
深く考えなければそう言う意味には聞こえないけれど、政治家達の言葉を丹念に繋ぎ合わせていくとそこに収束する。「国のために命を落とした」 この言葉が持つもうひとつの意味 …「国のせいで無駄死にした」。
この言葉が別の意味にも取れることを、そして別の意味でないと事実に合致しないことを、もしや知っていたのか? 知っていて「ために」と言う言葉を選んで発していたのなら、それはそれで凄い計画性だが、背筋が凍る思いがする。多分本人もそこまで深くは考えていなかっただろう。多分、事実との齟齬にすら気づかずに言った言葉に違いない。ひょっとして日露戦争の戦死者しか念頭になかった? なんて寝ぼけたことはあり得ないから忘れよう。そして行動した後に批判されて、批判をかわすような理由を付けて見たら、言葉のもうひとつの意味が立ち現れた。けれども余りに深すぎる言葉の意味と、その意味することの重さに私は考え込んでしまった。
「尊い命」を捧げてしまった
無駄死にと言うと、「尊い命を捧げられた方々に向かって、無駄死にとは何事か」との非難が聞こえてきそうだ。もちろん死者に向かって言っているのではなく、今を生きる私達に向かって述べている。あんたに向かって言っているんだから、逃げずに事実と向き合え! ってことだ。それを分かっての論点すり替えなのだから、こう言う非難は相手にする必要のない種類のものなのかも知れない。ひとまず単純に答えれば、「尊い命を捧げて貰って得た果実は、日本にとっての“不名誉”と言うマイナスだった。認めたくなくてもそれが事実でしょう」と答えることになる。
ところが「尊い命」の観点を引き入れたことが、もっと恐ろしい現実を私達日本人に突きつけることに繋がっていく。戦争で命を落としたのは日本兵だけではない。周辺諸国の多くの兵士と民間人も亡くなっている。その方々もまた、「日本国のせいで亡くなった」方々だ。道義的にはむしろそちらを先にを思い起こさねばならない。恐ろしいことに日本兵は、その「尊い命」を奪った直接の張本人でもあるのだ。周辺国の人々にしてみれば、攻め込んできて反撃されて死んだ輩の“死”など、無駄死にでも勿体ないと思うだろう。「当然地獄に落ちた筈だ」と考えているかも知れない。
他人の「尊い命」を奪うことに自分の「尊い命」を捧げてしまった人々、それが「英霊」の本当の姿、現実なのである。他人の「尊い命」を奪うことに自分の「尊い命」を捧げてしまうことは、今の世界にもありふれている。自爆テロに共感を覚える人は稀だと思うが、戦時中を生きた年代の方が「あっぱれ」と言うのを聞いて気がついた。彼はイスラム教徒でも何でもない、普通の日本人だ。それにも関わらず自爆テロに共感したのは何故か? 敵の艦船に航空機で体当たりする「神風特攻隊」、同じく水中から体当たりする人間魚雷「回天」。まさに自爆テロだ。信ずる目的のために自ら命を投げ出して敵の命を奪い、敵に大打撃を与えようとする。その精神が共通しているからこそ、彼は「あっぱれ」と自爆テロに共感したのである。そうなのだ。当時の日本では「お国のために命を捧げる勇気ある行動」として、称揚されて崇められていたのである。けれど世界は、今の我々が自爆テロを見る目で、当時の日本兵を見ていたわけだ。
「神風特攻隊」や「回天」は民間人を標的にしなかった。それが救いではあるが、靖国問題は別のフェーズにある。と言うのも、民間人ではなく兵士の死者が対象になっているからだ。では「戦時下である」ことの条件の違いから正当化できないだろうか? ある程度まではそうかも知れない。だが「特攻隊」ではない日本兵が、残念ながら現地の民間人も殺している。そのことで帳消しになりはしないか? また「戦時下であるか否か」を決めるのは誰なのか? 日本軍は宣戦布告せずに奇襲攻撃で太平洋戦争に突入した。自分からは「戦時下」と言えない立場かも知れない。
そして何より、「神風特攻隊」や「回天」は日本自身のことだから、我々日本人にとって公平に見るのが難しい。その点ではむしろ昨今の自爆テロの方が、自分たちが関わっていないだけ冷静に見られる。私達は、テロリストの死とその犠牲者の死について、どちらに目を向けて、どちらの遺族の気持ちに同情するのか? 答えは自ずと知れたものだろう。犠牲者の死こそが同情に値する。我々が冥福を祈る対象は、テロリストではなく、テロの犠牲者であるのが普通の感覚だ。テロリストは非難の対象だ。普通の感覚で公平に見たら、日本兵の死はただの無駄死にどころか、不名誉な無駄死にとなってしまうのである。自爆テロリストと比肩されるような死。
情け容赦ない現実の厳しさ、過酷さ、それを前にすると、もはや精神が持ちこたえられなくなりそうな状態に陥る。命を捧げた方々は最悪の「自爆テロリスト」と同列に烙印される。何と、それが公平に見た時の結論なのだ。悲しむ遺族の気持ちを思えば、この残酷な真実から、目を背けたくなるのが普通の感情だ。人間は弱いものだから事実を受け入れられないことがある。大切な人の死が客観的に見て無駄死にだとしても、大切な人の死は、無駄死にではなく“意味ある死”であって欲しい。そこで思い出すのは、「死には元々何の価値もない」と言う稲葉の哲学(拙著を参照)だ。そう捉えることは「現実の死には価値がない」という厳しさを我々に突きつける。それと同時に、死に向かう心を引き留める力にもなる。死ぬことで何かを成し遂げようと考え、死ぬことに価値を見出す状態を、稲葉は「死に魅入られた」状態だと言う。あの戦争で日本人は集団で死に魅入られてしまっていたけれど、必要なのは、「死に魅入られないこと」なのである。
思い切った提案
他人の「尊い命」を奪うことに自分の「尊い命」を捧げた人に対して、周辺国の人々がどのような視線を送るのか、その気持ちに添って行動したならば、弔いが全く許されないことになりはしないだろうか? 遺族が個人として弔うことは、どうにか許して貰えると期待したい。だが国家を代表する総理大臣が弔うのはどうか? 日本兵の遺族が許されるかも知れないと思うのは、対岸の遺族も日本の遺族の悲しみには共感できるだろうから。国家には感情がないのだから、当然この共感は生まれない。けれども日本国には逆に弔いの義務があるかも知れない。まさに「国のせいで無駄死にした」方々なのだから。日本兵の遺族が国家の弔いを望むのもある意味当然で、実際「国のせいで無駄死にした」のなら権利とも言える。そこで、やっぱり参拝は正当化できるんだ、などと喜んではいけない。参拝を非難する周辺国の遺族達も、やはり日本国によって死に追いやられた人の遺族で、同じ権利を有するのだ。しかも日本兵より優先的な権利を持つ。
そこでこれは私からの提案なのだが、「優先順位を決めて両方とも日本国として弔う」というのは如何だろうか? 亡くなった日本兵を弔う以上に、もっと多くの弔いを周辺諸国の犠牲者に捧げるのである。例えば、まず終戦記念日には周辺国で亡くなった方々を弔い、その翌日に日本兵の戦死者を弔うのはどうだろう? それなら対岸の遺族達も納得してくれないだろうか?
いや、簡単にそれだけで納得されるとは思わない方が良い。まずは自分たち日本人の気持ちを内省してみよう。周辺国の死者を弔うことに私達はやはり抵抗感を持つのではないだろうか? その死者の中には日本兵を殺した人達も含まれる。憎き敵兵の死者を弔うことが出来るのか? 簡単ではないと思う。まして戦地で亡くなった日本兵の遺族にとっては、ひときわ難しいことに違いない。けれども実はその感情こそが、靖国参拝に寄せられる周辺国からの抗議の心なのだ。逆の立場で考えよう。我々日本人が感じる抵抗感と同じものが、鏡のようにして相手にも成り立つ。周辺国の遺族にとって、大切な人を殺した日本兵がその後死んだからと言って、その日本兵を弔うのは大変難しい。それは日本兵の遺族が、周辺国の兵士を弔うことに抵抗を感じるのと同じ感情なのである。更に加えて、彼らには「戦争を引き起こしたのが日本からだった」と言う、“感情を抑えないこと”への免罪符もある。だから簡単には日本兵への弔いを許してはくれないだろう。
それでもなお、「日本がかつて殺した相手を弔う」ことで「日本人の真実の反省」を伝える力にはならないだろうか? つまり彼らの犠牲者への弔いを、“日本が行う”と言うところに意味がある。それは上に述べたように、日本人の感情として難しいことだから。そしてその難しさは、日本兵を許せないと思う感情に苦しむ周辺国の遺族が、一番良く理解していることだから。だからこそ、そうすることで「過去への反省」と「不戦の誓い」が、疑念の余地無く表現されると考えるからである。「不戦の誓い」の具体的表現方法として、完璧なように思われる。
成否は「共感する力」にかかっている。彼らには日本人の抱く抵抗感をどこまで想像できて、理解できるのか? それはそのまま、この問題に対する我々の感じ方に投影できるはずだ。この文章を読む人はほとんどが日本人だと思うが、対岸の遺族が反発する心をどこまで理解できるだろうか? 日本国として日本の戦死者を弔うことに、周辺国の人々が反発を感じる気持ちを想像してほしい。想像して貰うように書いてきたつもりだが、それで彼らの気持ちが想像できた人が多ければ期待が持てる。なぜならこれらは同じ性質の“共感力”なのだから。その時「相手を弔うことへの我々にとっての切実な難しさ」も、対岸の遺族に語りかけることで伝わるはずだ、と考える根拠になるだろう。
逆に想像できない人が多いのだとすると、このような提案をしたことに対する批判を私は受けることになる筈だ。論理的に正しい分析に基づいて提案しているつもりだが、感情的にはどうなのか、正直よく分からない。「ついて行けない」人もいるだろうし、初めから感情を優先して考える習慣の人は、どのように受け取るのだろうか? そういう訳でこれは勇気のいる提案でもあるのだが、思い切って提案したい。「我が国の戦死者への弔いに先立って、周辺国の犠牲者を弔う」ことを。
(註) 下記の問題の二つ目、つまり無宗教施設への移管が実現しないと、国が弔うことは政教分離に反してしまう。それがセットになっているのがまた頭痛い。
二つの問題
上記提案にもまだまだ問題がある。靖国神社には問題が多すぎて、向き合い続けることに心が折れそうになる。
ひとつ目は、靖国神社には「国のせいで無駄死にした」と言えないような人も祀られている、と言う問題。いわゆる「A級戦犯」だ。当時の政治家や軍幹部で東京裁判で有罪になった人達だ。個々人を見れば消極的な戦犯も含まれるけれど、大雑把には戦争に進むことを決定した張本人達がA級戦犯だ。国民を戦争に駆り立てた張本人を、その結果戦死させられた国民と同列に扱うことはできない。そう言う問題意識で、それが言われ続けていると言う事は、「国のせいで無駄死にした」と言う見方が背後にある。「国のせいで無駄死にした」と見ることは、何ら新しいことではないのだ。ただそれは明言し難い、厳しすぎる現実。だから言わない習慣だったが、それを言った。しかも「ために」の二重の意味に隠れながら。
参拝が「不戦の誓い」であるためには、戦争を始めた張本人が祀られているのは、論理矛盾していて甚だ具合悪い。そのため靖国参拝への周辺国からの反発にも、A級戦犯合祀の影響が少なくない。確かにA級戦犯と戦死者とでは全く違う。「一方が加害者でもう一方が被害者」と言う捉え方が成り立つほどに違う。その違いを周辺国も理解してくれると言う事でもある。
けれども全てそれで片付けるのも間違っている。更に追い打ちを掛けるような事実も指摘しておかねばならない。当時の為政者を選挙によって選んだのは当時の国民だ。そして以前も述べたように当時の日本人は為政者の政策、国際連盟脱退などの“孤立路線”を積極的に支持した。従って周辺国に戦争を仕掛けた意志決定の責任は、国民全体が負わなければならない筈のものだ。戦地で亡くなった日本兵について、「心ならずも戦地に赴いた」ように書いたが、実際のところそうとも言い切れない。それでもA級戦犯とただの日本兵の責任は違うだろう。
昭和天皇が「A級戦犯までも祀られたから気持ちとして靖国神社には行けなくなった」と言っていたと伝えられる。これには議論のあるところだが、確かにA級戦犯合祀が行われてからは昭和天皇は靖国神社を参拝しなくなった。この場合A級戦犯と言う括りは不十分で、その中で開戦や戦争継続の判断の時に誰がどういう役回りを演じたか、天皇はつぶさに見ていて、一部の人間の責任が特別に重いことを知っていた。そこで特定の人物を「分けてくれないと手を合わせられない」と言うのも理解できる気がする。A級戦犯分祀の問題は昔から議論されてきているが、初めて私がその問題を耳にした当時から全く進展していない。もう少し努力できないのだろうか?
次に、故人(あるいは遺族)の意志も時々問題になる。靖国神社に祀られた人達は、望んでそこに祀られたのか? もちろんそうではない。そもそも普通の日本人は神社でなくお寺に墓があって、死んだら仏になる習慣を持っている。戦時中の状況としては確かに国家神道の時代で、全ての国民は神道を信じるように強制された。あるいはあらゆる宗教を統合するものとして国家神道が位置づけられること、それが強制されたと言うのが正確か? だからそれに従う限り、戦死者は全て国家神道の信者だと言えなくもない。けれどもそのこと自体が、国家から強制された信仰だったのだから、自由意志で信じたとは言い難い状況がある。本当に自由意志で決めたときに、何割の人が靖国神社を選ぶのか、非常に心許ない。
戦死者を弔うのは無宗教の施設が望ましい、と言う意見もある。それに対する政府の見解は「政治介入できない」だ。一つの側面から見たら至極真っ当な見解だが、元々が個人の自由意志と無関係に国家が祀ってしまったのだから、その時点で政治が介入してしまったのである。そこで「過去に犯した介入の過ちを正すのも国家でなければならない」との論理も成り立つだろう。政府見解はダブルスタンダードになってしまっているように感じるのだが、これは何か私に見落としがあるのだろうか? 少し不安を感じつつ日頃の疑問をここに吐き出してみた。
国民と国家の関係 
そもそも「国家のために国民が命を投げ出す」ことには、深刻な矛盾が潜んでいる。国の存在価値は国民の存在にある。国民のいない国家には意味がないが、逆に国家を持たない人がいても良い。戦前の日本は天皇の存在に価値の源を置いていたから、「国のために国民が命を投げ出す」ことも可能ではあった。だが今の日本の価値観の中で、自衛官のような職業を持つ国民をどのように位置づけたら良いのか? 国家に先だって国民に存在価値がある。国家の存在理由は国民に支えられなければならない。国民の一人たる自衛官が国家のために命を投げ出した瞬間に、国家の存在意義が崩壊してしまわないだろうか? この問題は充分に高度な思想上の難問で、以前サンデル教授も扱っていた。彼の話では兵士の存在を正当化する論理も構成できる、と言うことだった。国民の多数が兵士でない条件の下で。また、通常の哲学的論理構成の場合と同じで、「特定の哲学的立場を取れば正当化できる」という意味であって、何か客観的真理とかいう類のものではない。
終わりに。大変重い話題で人の心の微妙な部分にも触れる。何度読み直しても修正点が出てきてくたびれ果てた。と言う事はおそらく、読む人にとっても苦労するはずなのだ。だからこれを読んで「分からない」と感じている人も、抽象的で難しい点を割り引いて良いはずだ。  
 
■日本人なら知っておくべき特攻の真実 

 

攻撃の成功がそのまま死につながる「十死零生」という、世界の戦争史の中でも稀な作戦ゆえ、戦後70年を超えても未だ評価の定まらない「特攻」。ある者は、「究極の愚策」と罵り、ある者は、国に殉じた若者たちの美談を讃える。そうなってしまった背景には、生き残った負い目から口を閉ざした元隊員たちの一方で、自己正当化をはかった一部の指揮官たちの存在が影響しているのは間違いない。実際に、この作戦はいかに採用され、いかに実行されたのか。神立氏が集めた数百人の元搭乗員、関係者の証言とデータから、その実像に迫る。
元隊員の間でさえ、特攻への評価に温度差がある
太平洋戦争末期の、日本陸海軍の飛行機、舟艇、戦車などによる体当たり攻撃、いわゆる「特攻」は、「あの戦争」の一つの象徴として、いまなお論考が重ねられ、関連書籍が出版され続けている。
かくいう私も、「特攻生みの親」とされる大西瀧治郎海軍中将の親族、副官、特攻を命じた側の参謀、命じられた搭乗員、見送った整備員、そして家族を喪った遺族……数百名の関係者に直接取材を重ね、『特攻の真意――大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』を上梓(2014年。単行本版は2011年)した。
10数年かけて当事者を訪ね歩き、資料を漁り、本を著す作業のなかで気になったのは、任務の遂行すなわち「死」を意味する戦法の異常性ゆえか、特攻関連の情報がいくつかの傾向に偏っていて、中正な立場から書かれたものが皆無に近いことだった。
――特攻がいかに愚策だったかを強調し、「上層部」を罵倒するために史料や数字を恣意的に引用しているもの。それとは逆に、命じる側の自己正当化のため、あるいは「右寄り」の論調を補強するための美化。さらに、「特攻の母」鳥濱トメさんのエピソードのように、情緒に訴え、「泣かせる」読み物。そして、「国のためではなく愛する者のため」と、戦後世代に耳あたりのいい価値観で、隊員たちの精神性を一括りにする物語。
特攻当事者が編纂した戦没学徒の遺稿集も、たとえば『きけ わだつみのこえ』(1949年)と『雲ながるる果てに』(1952年)では、それぞれ「左」と「右」に分けられるほどにニュアンスが違う。当の特攻隊員の間でさえ、「特攻」への評価や意識にはかなりの温度差があったのだ。
二度出撃して、敵艦に遭わず生還したある元特攻隊員は、私のインタビューに、
「特攻が嫌だと思ったことは一度もない。俺たちがやらないで誰が敵をやっつけるんだ。私の仲間には渋々征ったようなやつはいない。それだけは、覚えておいてくださいよ」
と言い、また、四度の出撃から、これも敵艦と遭わずに還ってきた別の元特攻隊員は、
「死ぬのがわかってて自分から行きたいと思うやつはいないでしょう。みんな志願なんかしたくなかった。私も志願しなかったけど、否応なしに行かされたんです」
と言った。また、直掩機(特攻機の護衛、戦果確認機)として、爆弾を積んだ特攻機(爆装機)の突入を見届けた元特攻隊員のなかには、
「離陸してから突入するまでずっと、爆装機の搭乗員の顔は涙でくしゃくしゃで、かわいそうでした……」
と回想する人もいる。その直掩機も、もし途中で敵戦闘機に遭遇したら、爆装機の盾となって、命に代えても突入の掩護を全うすることを求められていたのだ。
人それぞれ、置かれた状況も違えば、感じ方、捉え方も全然違う。「生存本能」と「使命感」のはざま、言葉を替えれば「個体保存の本能」と「種の保存の本能」がせめぎ合う、人の生死の極限状態であり、当事者の数だけ異なった捉え方があるのは当然である。一人の心の内にも、そのとき、そのときでさまざまな感情が去来することを思えば、元隊員たちのどの言葉にもウソはないと思うし、逆にそれが全てではないとも思う。
現在の視点で歴史上の事実を分析することは大切だが、それには常に、当時の価値観を俎上に乗せこれと比較するのでなければ、事実が真実から遊離してしまうし、批判も的外れなものになってしまう。紙を読み、頭で考えるだけでなく、当事者への直接取材が欠かせないゆえんである。
特攻作戦にいたるまでの道のりについてはここでは省き、私の取材範囲は主に海軍なので、海軍を例にとって、特攻についての的外れな批判、ないしは間違った通説をいくつか挙げてみる。――「海軍を例にとって」と、わざわざ断りを入れるのは、陸軍の特攻隊と海軍の特攻隊は、手段は同じでも成り立ちが違い、それを一緒にしてしまうと間違いが生じるからだ。
離陸後、指揮所に機銃をぶっ放してから出撃した者も
まず、特攻隊員が選ばれたのは「志願」か「命令」か。これをどちらかに決めてしまおうとする議論が目立つが、無駄なことである。実際にはケースバイケースで、特攻隊が出撃する以前の昭和19(1944)年8月、日本内地の航空隊で、「必死必中の体当り兵器」(のちの人間爆弾「桜花」や人間魚雷「回天」などを指す)の搭乗員が募集されたときには、はっきりと志願の形がとられているし、志願しても長男や妻帯者は外すような配慮もなされた。
だが、同年10月17日、フィリピン・レイテ島の湾口に位置するスルアン島に米軍が上陸、日本の主力艦隊のレイテ湾突入を掩護するため、敵空母の飛行甲板を一時的に破壊する目的で神風(しんぷう)特別攻撃隊が編成される段になると、なにしろ敵はもうそこまで攻めてきているわけだから、編成には急を要する。
第二〇一海軍航空隊(二〇一空)で、最初の特攻隊指揮官に選ばれたのは、満23歳、母一人子一人で新婚の関行男大尉である。特攻隊編成を命じた大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉は、筆者のインタビューに、
「大西中将としても、死を命じるのが『命令』の域を超えているのはわかっている。だからこそ、最初の特攻隊は志願によるものでなければならず、『指揮官先頭』という海軍のモットーからいっても、指揮官は海軍兵学校出身の正規将校でなければならない。大西中将は、真珠湾攻撃以来歴戦の飛行隊長・指宿正信大尉に手を上げてもらいたかったんです。
ところが二〇一空の飛行長・玉井浅一中佐が、指宿大尉を志願させなかった。指宿大尉が出ないとなると、当時二〇一空に海兵出の指揮官クラスは関大尉と、もう一人の大尉しかいなかった。もう一人の大尉は、戦闘に消極的で部下からやや軽んじられていたこともあり、関大尉しか選びようがなかったんでしょう」
と、語っている。関大尉は玉井中佐からの、限りなく強制に近い説得に応じて、特攻隊の指揮官を引き受けた。残る下士官兵搭乗員も、体当り攻撃の話に一瞬、静まり返ったが、玉井が「行くのか、行かんのか!」と一喝すると、全員が反射的に手を上げた。
支那事変(日中戦争)、ソロモン、硫黄島と激戦を潜ってきた角田和男少尉は、昭和19(1944)年11月6日、部下の零戦3機とともに飛行中、エンジン故障で不時着した基地で、
「当基地の特攻隊員に一人欠員が出たから、このなかから一人を指名せよ」
と命じられ、
「このなかから一人と言われれば、自分が残るしかない」
と覚悟して特攻隊を志願した。角田さんは、
「昭和15(1940)年、第十二航空隊に属し、漢口基地から重慶、成都空襲に出撃していた10ヵ月の間、搭乗員の戦死者は一人も出なかった。それが、昭和17(1942)年8月から18(1943)年にかけ、ソロモンで戦った第二航空隊(途中、五八二空と改称)は、補充を繰り返しながら一年で壊滅、しかし一年はもちました。
昭和19(1944)年6月に硫黄島に進出した二五二空は、たった三日の空戦で全滅し、10月、再編成して臨んだ台湾沖航空戦では、戦らしい戦もできなかった。そんな流れで戦ってきた立場からすると、特攻は、もうこうなったらやむを得ない、と納得する部分もありました」
と言う。それまでの苦戦の軌跡を十分に知る角田さんは、特攻を否定することができなかったのだ。
志願書に「熱望」と書いて提出した搭乗員のなかには、周囲の目から見ても、本心から志願したに違いない、と伝えられる例もあれば、出撃直前、零戦の操縦席から立ち上がり、
「お母さん! 海軍が! 俺を殺す!」
と叫んで離陸していったという例もある。さらに、離陸後、超低空に舞い降りて、指揮所上空で機銃弾をぶっ放して飛び去って行ったという例もある。角田氏は、出撃前夜の搭乗員が、目を瞑るのが怖くて眠くなるまでじっと起きている姿と、笑顔で機上の人となる姿をまのあたりにして、
「そのどちらもが本心であったのかもしれない」
と回想している。
特攻が常態化してからは、隊員の選抜方法も、「志願する者は司令室に紙を置け」というものから、「志願しない者は一歩前に出ろ」などという方法がまかり通るようになり、そしてついには、志願の手順もなく特攻専門の航空隊が編成された。
特攻隊は志願か否か、突き詰めることに意味はない。仮に志願だとしても、積極的志願か、消極的志願か、環境による事実上の強制による志願か、やぶれかぶれの志願か、志願して後悔したのか……その本心は、当事者自身にしかわからないし、現に「命令」で選ばれたことが確実な例もあるからだ。
特攻部隊より通常部隊のほうが戦死率が高かった
また、よく言われる俗説に、
「身内の、海軍兵学校卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」
というのがあるが、これも全くナンセンスである。特攻で戦死した海軍の飛行機搭乗員のうち、少尉候補生以上の士官クラスは769名(資料によって差がある)、うち予備士官、少尉候補生は648名で全体の85パーセントを占める。確かに、数字からは俗説にも理があるように見える。だが、この数字には母数がない。
海軍兵学校出身者のうち、一部の例外をのぞき特攻隊員となったのは、昭和13(1938)年に入校、昭和18(1943)年に飛行学生を卒業した69期生から、昭和16(1941)年に入校、昭和20(1945)年に飛行学生を卒業した73期生までで、その間に養成された飛行機搭乗員は1406名。うち795名が戦死している。
戦死率は56.5パーセント。いっぽう、特攻作戦の主力になった予備学生13期、14期、予備生徒1期の搭乗員は合わせて8673名にのぼり、うち戦没者は2192名。戦死率25.2パーセント。
つまり、海兵69〜73期と、予備学生13期、14期、予備生徒1期の搭乗員を比べると、総人数比で86パーセントを占める予備士官、少尉候補生が、特攻戦没士官の85パーセントを占めるのは、単に人数比によるものと見た方が妥当である。
総戦没者数に対する特攻戦死者数の割合は、海兵が15.2パーセント、予備士官、少尉候補生は29.6パーセントだが、これも、特攻作戦開始以前に戦没した海兵出身士官の人数287名を除くと、海兵の数字は23.8パーセントとなり、「特攻に出さず温存されていた」と言われるほどの差は出てこない。沖縄作戦に投入された海軍機はのべ7878機、うち特攻機はのべ1868機で、出撃機数に対する特攻機の割合は23.7パーセントだから、それとほぼ同じ数字である。
士官と下士官兵搭乗員の、特攻戦没者の人数比も同様に説明がつく。「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するには都合がよいのはわかるけれど、母数を無視するのはフェアな態度ではない。
「十死零生」の特攻隊と、生きて何度でも戦うほかの部隊とで、隊員の精神状態を比較することはむずかしい。だが、単純に部隊の戦死率を比較すると、意外な数字が出てくる。
たとえば、昭和17(1942)年から18(1943)年にかけ、ラバウルで戦った第二〇四海軍航空隊の、18年6月までに配属された零戦搭乗員101名の消息を追ってみると、76名がそこから出ることなく戦死し、残る25名のうち、13名がその後の戦いで戦死。生きて終戦を迎えたのは12名のみである。ラバウルでの戦死率はじつに75パーセント、終戦までの戦死率は88パーセントにのぼる。
それに対して、昭和20(1945)年2月5日、沖縄戦に備え、特攻専門部隊として台湾で編成された第二〇五海軍航空隊は、103名の搭乗員全員が、志願ではなく「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員となったが、終戦までの戦死者は35名で、戦死率は34パーセントである。
さらに、二〇五空と同じ時期、昭和20年4月から終戦まで九州、沖縄上空で戦った戦闘三〇三飛行隊は、特攻隊ではないが、89名の搭乗員のうち38名が敵機との空戦で戦死、戦死率は43パーセントにのぼっている。戦闘三〇三飛行隊長は、「特攻反対」を貫いた岡嶋清熊少佐である。
――数字だけで語れるものではないことは承知している。だが、沖縄へ特攻出撃を繰り返した特攻専門部隊より、通常の部隊の方が戦死率が高かったという、一面の事実がここにはある。
特攻出撃で、一度の出撃で戦死した隊員も多いが、たいていは数時間前の索敵機の情報をもとにしたり、自ら敵艦隊を探しながらの出撃となるので、4回や5回、出撃して生還した隊員はいくらでもいる。そもそも、特攻作戦最初の、関大尉率いる「敷島隊」からして、4度めの出撃で敵艦隊に突入したものだ。
いっぽう、特攻隊以外の航空隊について、零戦搭乗員の戦友会であった「零戦搭乗員会」が調査したところ、「搭乗員が第一線に出てから戦死するまでの平均出撃回数8回、平均生存期間は3ヵ月」だったという。初陣で戦死した搭乗員も多かった。開戦劈頭の真珠湾攻撃に参加した搭乗員も、終戦までに80パーセント以上が戦没している。何度も出撃し、戦果を挙げて生きて還ることのできる搭乗員は、実際には稀だったと言っていい。
ここまで冷徹な数字が並んでは、どちらが人道的だとか酷いとか、議論しても始まらないように思える。歴戦の搭乗員である角田和男さんが、特攻に直面し、「もうこうなったらやむを得ない」と納得してしまうのも、こんな素地があったからこそなのだ。
特攻は味方より敵の戦死者が多い稀な戦果を挙げた
では、特攻隊が挙げた「戦果」をどう評するべきだろうか。この点、日本側の記録にも不備があり、戦後長い間、連合軍側の情報も限られていたことから、ややもすれば過少に見積もられていた。
連合軍側の死傷者数にも諸説あるが、米軍の公式記録などから、航空特攻によるとおぼしき戦果を拾い上げると、撃沈55隻、撃破(廃艦になった23隻をふくむ)198隻、死者8064名、負傷者10708名にのぼる。日本側の特攻戦死者は、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍2531名、陸軍1417名、計3948名である。
これをどのように捉えるか。
「敵艦一隻を沈めるのに70名以上が犠牲になった」「巡洋艦以上の大型艦が一隻も沈んでいない」「隻数ではなく総トン数で表すべき」との識者の声もあるが、これらの意見についても、「海兵出を温存していた」説と同様の偏りがみられる。
特攻隊編成以前、日本の航空部隊が、巡洋艦以上の大型艦を撃沈したのは、昭和18(1943)年1月30日、ソロモン諸島レンネル島沖で、陸攻隊が米重巡「シカゴ」を撃沈したのが最後である。特攻隊編成後(ただし最初の突入前日)の昭和19(1944)年10月24日、艦上爆撃機「彗星」が、米空母「プリンストン」に急降下爆撃で命中弾を与え、撃沈しているが、昭和18年、ソロモン諸島をめぐる戦い以降の、日本のどの航空作戦よりも大きな戦果を挙げたのが、ほかならぬ特攻だった。
日本海軍機動部隊が米海軍機動部隊と互角以上にわたりあった最後の戦い、昭和17(1942)年10月26日の「南太平洋海戦」では、米空母「ホーネット」、駆逐艦一隻を撃沈、ほか四隻に損傷を与えた。日本側の沈没艦はなく、損傷四隻、搭乗員の戦死者148名、艦船乗組員の戦死者約300名。
「敵艦を〇隻沈めるのに〇人が犠牲になった」という論法にたてば、このときも、敵艦一隻を沈めるために特攻と同様、70数名の搭乗員が戦死している。米軍戦死者は航空機、艦船あわせて266名だから、沈没艦こそ出なかったものの、人的損失は日本側の方が多かった。
それが、特攻作戦では、結果論とはいえ、死者数だけをとっても、敵に特攻戦死者の二倍以上の損失を与えている。特攻だけに気をとられていると気づきにくいことだが、味方が失った人命より敵の死者の方が多いという例は、太平洋戦争においては稀である。
現代の日本人が感情的に受け入れがたいのは承知であえて言うと、戦闘の目的は、より多くの敵の将兵を殺傷し、敵の戦闘力を弱体化すること。そう捉えれば、特攻隊の挙げた戦果はけっして小さなものではなかった。
また、最初の特攻隊の目的が「敵空母の飛行甲板を破壊」することだったように、そもそも大型艦を250キロや500キロ爆弾を積んだ飛行機の体当たりだけで撃沈できるとは、特攻作戦の渦中にいた者でさえ思っていない。沈まないまでも戦列を離れさせればよかったわけで、「撃沈した艦船の総トン数」で戦果を評価するのは、当時の実情とは大きくズレた見方と言える。
特攻隊員を、「特攻兵」や「兵士」と呼ぶのも正しくない。陸海軍の階級は、下から兵、下士官、准士官、士官(尉官、佐官、将官)となり、下士官以上は「兵士」ではないからだ。元軍人の多くが存命だった20年前なら、うっかりこのような表記をすれば当事者から注意を受けたものだが、いまやチェックする人もほとんどいなくなってしまった。
ではどう呼ぶか。「特攻隊員」、「将兵」である。「士官」であれば、たとえ任官したばかりの若い少尉でも「将」であって「兵」ではない。これらを「兵士」と一括りにするのは、警察官に例えると、巡査部長も警部補も警部も警視もみな「巡査」と呼ぶのに等しい、かなり乱暴なことである。
昨今の「兵士」という言葉の使われ方からは、「搾取する側(上層部)」と「搾取される側」をことさらに分けようとする、プロレタリアートな階級史観の匂いが感じられる。だが、「上層部」はつねに愚かで無能、「兵士」はその被害者、と雑に分けてしまうと、責任の所在がかえって曖昧になってしまうのではないか。
「俺は死ぬ係じゃないから」
「上層部」や「司令部」を批判し、糾弾するのは簡単だし、俗耳にも入りやすい。陸海軍は73年前に消滅しているから、いくら悪口を言っても身に危険が及ぶ心配もない。しかし、「上層部」や「司令部」の「誰が」「どのように」命令をくだしたかまで掘り下げなければ、いつまでも批判の矛先が曖昧模糊としたままで終わってしまう。
海軍の特攻でいえば、その方針を最初に決めた軍令部第一部長(作戦担当)・中澤佑少将(のち中将)、第二部長(軍備担当)・黒島亀人大佐(のち少将)の存在は、もっと注目されてよい。昭和19(1944)年4月4日、黒島大佐は中澤少将に、人間魚雷(のちの「回天」)をふくむ各種特攻兵器の開発を提案、軍令部はこの案を基に、特攻兵器を開発するよう海軍省に要請した。
8月には人間爆弾(のちの「桜花」)の開発もはじまり、9月、海軍省は軍令部からの要望を受けて「海軍特攻部」を新設している。「回天」も「桜花」も、もとは現場の隊員の発案によるものだが、中澤、黒島の二人が同意しなければ、形になることはおそらくなかった。
中澤は、「策士」「切れ者」と評されるが、自ら主導したマリアナ沖海戦の大敗に見るように、作戦家としての能力には疑問符がつく。大西瀧治郎中将が日本を発つ前、東京・霞が関の軍令部を訪ね、「必要とあらば航空機による体当たり攻撃をかける」ことを軍令部総長・及川古志郎大将に上申し、認められたという、よく知られた話がある。
及川は、「ただし、けっして命令ではやらないように」と条件をつけたと伝えられる。だが、このことを、その場にいたかのように書き残した中澤は、実際にはその日、台湾に出張していて不在だったことがのちに判明している。
黒島は、昭和16(1941)年、聯合艦隊司令長官・山本五十六大将の腹心として、真珠湾攻撃作戦を事実上立案したことで知られるが、昭和17(1943)年、ミッドウェー海戦敗戦の責任の一端は彼にもある。この黒島が、特攻兵器の開発を中澤に提案した。
では、戦場の「上層部」はどうだったか。フィリピンで、大西中将の第一航空艦隊に続いて、福留繁中将率いる第二航空艦隊からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を送り出したことがある。このときの特攻隊の生還者のなかには、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞと。それに対して福留中将は、握手もおざなりで、隊員と目を合わさないんですから」
という声がある(このシーンは現在、NHKのWebサイト、「戦争証言アーカイブス」の「日本ニュース」第241号―昭和20(1945)年1月―で見ることができる)。当事者ならではの実感のこもった感想だろう。昭和20年5月、軍令部次長に転じた大西中将は、最後まで徹底抗戦を呼号し、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
大西の最期については、多くの若者に「死」を命じたのだからという醒めた見方もあるだろう。しかし、特攻を命じ、生きながらえた将官に、大西のような責任の取り方をした者は一人もいなかった。
中澤佑少将は、台湾の高雄警備府参謀長に転出し、台湾から沖縄へ出撃する特攻作戦を指揮した。その中澤(終戦後、中将に進級)が、大西の自刃を聞き、
「俺は死ぬ係じゃないから」
と言い放ったのを、大西中将が軍令部に転じたのちも台湾に残った副官・門司親徳さんが耳にしている。門司さんは、
「大西中将は、『俺もあとから行くぞ』とか『お前たちだけを死なせはしない』といった、うわべだけの言葉を口にすることはけっしてなかった。しかし、特攻隊員の一人一人をじっと見つめて手を握る姿は、その人と一緒に自分も死ぬのだ、と決意しているかのようでした。
長官は一回一回自分も死にながら、特攻隊を送り出してたんだろうと思います。自刃したのは、特攻を命じた指揮官として当たり前の身の処し方だったのかもしれない。でも、その当たり前のことがなかなかできないものなんですね」
と回想する。
戦後、昭和21(1946)年から平成17(2005)年まで、特攻隊が最初に突入した10月25日に合わせ、東京・芝の寺にかつての軍令部総長や司令長官、司令部職員や元特攻隊員が集まり、「神風忌」と称する慰霊法要が営まれていた。
参列者の芳名帳には、及川古志郎、福留繁、寺岡謹平をはじめ、特攻に関わった「上層部」の指揮官たちの名前が、それぞれ生を終える直前まで残され、良心の呵責を垣間見ることができる。だが、中澤佑、黒島亀人という、最初に「特攻」を採用したはずの軍令部第一部長、第二部長の名はそこにはない。
無駄死にではなかったことの根拠
特攻作戦を実行するとき、大西瀧治郎中将が、腹心の参謀長・小田原俊彦大佐に語った「特攻の真意」が、前出の元特攻隊員・角田和男さんを通じて残っている。大西中将は昭和9年、角田さんが予科練に入隊したときの教頭、小田原大佐は昭和16年、角田氏に計器飛行を一から教えた飛行長で、いずれも浅からぬ縁のある上官だった。
小田原大佐はその後、戦死したが、特攻出撃を控えた角田さんに、
「教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようというのに、黙って見ていることはできない」
と、大西中将から「他言無用」と言われていたというその真意を話してくれたのだ。それは、要約すれば、特攻は「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」というものだった。
しかもこのことは、海軍砲術学校教頭で、昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王、米内光政海軍大臣の内諾を得ていたという。つまりこれは、表に出さざる「海軍の総意」だったとみて差し支えない。
角田さんは戦後、戦没者の慰霊行脚を続けながら、慰霊祭で再会した門司親徳さんとともに、大西中将の真意の検証を続け、ついに最初の特攻隊編成に立ち会った第一航空艦隊麾下の第二十六航空戦隊参謀・吉岡忠一元中佐と、大西中将夫人・淑惠さんから、間違いないとの証言を得た。
特攻隊員たちの死を「無駄死に」であったとする論評もあるが、それは戦争の大きな流れを無視した近視眼的な見方によるものだ。
「フィリピンを最後の戦場に」という大西の(つまり海軍の)思いは叶わなかったが、和平を促す「ポツダム宣言」が連合国側から出されたこと、日本が、それを多数決でなく「天皇の聖断」という形で受諾したことは、日本本土を敵の上陸から救い、「和平派」と「抗戦派」との間で起こりかねなかった内乱も防ぎ、多くの国民に復興と平和をもたらした。若者たちが、命を捨てて戦ったからこそ、瀬戸際で講和のチャンスが訪れ、日本は滅亡の淵から甦ることができた。
――ただし、それは、あの無謀な戦争を防ぐことができたなら、払う必要のなかった大きすぎる犠牲であったことは確かである。
戦没者に「無名戦士」などいない。一人一人に名前があり人生があり、家族があり、もしかしたら恋人もいたかもしれない。そんな一人一人がもし命永らえていたら、どれほどのことを成し遂げたかを思えばなおのこと、戦争の惨禍は想像を絶する。
日本を、あの無謀な戦争に導いた為政者や陸海軍上層部、それを煽り続けたマスメディアの責任、そして戦争に一時は熱狂して後押しした国民の姿は、「政府が」とか「世間が」という漠然とした議論ではなく、「どこの誰が、どうした」というところまで、これからも掘り下げていかねばならないだろう。
過ちを繰り返さないために、反省することは大切だ。しかしその反省は、あくまで「事実」に基づいたものではならない。現代の高みから感情的に特攻隊員を無駄死に呼ばわりしたり、逆に美化したりするところからは、教訓など生まれてこない。
「われわれは英雄でも、かわいそうな犠牲者でもない。ただ自分の生きた時代を懸命に生きただけ。どうか特攻隊員を憐憫の目で見ないでほしい」
――数年前に亡くなった、学徒出身のある元特攻隊員が遺した言葉である。 
 
■「無駄死に」 類語・関連語・連想される言葉 

 

徒死に ・ 無駄死に ・ 竹やり戦法による死 ・ 玉砕戦法 ・ 消耗品 ・ 犠牲にされる ・ 血気にはやって ・ 自殺行為 ・ 捨て石 ・ 浮かばれない ・ 早まったことはする ・ せっかくだが ・ 残念 ・ 身もふたもない ・ お生憎さま ・ 報われない ・ 寂しすぎる ・ 立つ瀬がない ・ 無茶な ・ 向こう見ずな ・ 破れかぶれ ・ 奔放な ・ 無謀 ・ 非現実的な ・ 不本意な死 ・ 体当たり ・ わきまえがない ・ 恐れを知らない ・ 無駄 ・ 見境なく ・ 命を粗末にする ・ 向こう見ず ・ しゃにむに ・ 大それた ・ 捨て身 ・ 壁になる ・ 殉教者精神による ・ 使い捨てにされる ・ 人柱になる ・ 犠牲 ・ 犬死に ・ やけっぱちの勇気 ・ 飛んで火に入る夏の虫 ・ やみくもに ・ 無益な ・ 無駄に死ぬ ・ 徒死 ・ 浪死 ・ 朽ち果てる ・ 無意味な死 ・ 将棋の駒 ・ 玉砕 ・ 猪突猛進 ・ 報われない死 ・ 心ならずも ・ 割り切れなさ ・ 心外 ・ 匹夫の勇 ・ 冒険行為 ・ 大胆 ・ 短気 ・ 蛮勇 ・ 無鉄砲 ・ ひたぶるな ・ むちゃくちゃに ・ 突撃 ・ 矢面に立つ ・ 防波堤になる ・ 捨て去る ・ 自己犠牲 ・ 捨て石になる ・ 蜥蜴の尻尾にされる ・ 生かすことができない ・ 命を粗末にする無駄 ・ 死ぬことではない ・ むだじに ・ むだ死に ・ ムダ死に ・ イヌ死に ・ 終焉 ・ 往生 ・ 命数が尽きる ・ 最期を遂げる ・ 個体死 ・ 身罷る ・ 臨終 ・ 死亡 ・ 失命 ・ むなしくなる ・ 非命 ・ 空しくなる ・ 脳死 ・ 死滅 ・ 没する ・ 終えん ・ 死を賜る ・ 歿する ・ 成仏 ・ 死去 ・ くたばる ・ 物故 ・ 心臓死 ・ 人死に ・ 世を去る ・ みまかる ・ 殉ずる ・ 犬じに ・ 死ぬ ・ 永逝 ・ 逝く ・ 亡くなる ・ 落命 ・ 命を落とす ・ 死没 ・ 先立つ ・ 去世 ・ 病院死 ・ 万死 ・ 煙になる ・ 絶命 ・ 生涯を閉じる ・ 眠りに就く ・ 亡き ・ 目を閉じる ・ こときれる ・ 故 ・ 跡を追う ・ 巨星落つ ・ 永眠 ・ 辞世 ・ 命を絶つ ・ 帰らぬ旅に赴く ・ 絶息 ・ お陀仏になる ・ 息が絶える ・ 帰らぬ人となる ・ 昇天 ・ 死 ・ 冥界に旅立つ ・ 死出の旅に赴く ・ 帰らぬ人になる ・ おだぶつ ・ 死出の旅 ・ 一死 ・ 巨星墜つ ・ 不帰の客となる ・ 息絶える ・ 絶え果てる ・ 骨になる ・ 他界 ・ 極楽往生 ・ ダイ ・ 魚腹に葬られる ・ お迎えが来る ・ 在宅死 ・ デス ・ 生死 ・ 死歿 ・ 滅す ・ 霜枯れ ・ 絶える ・ 亡びる ・ 滅びる ・ ほろびる ・ 枯死 ・ 滅する ・ 滅亡 ・ 途絶える ・ 永せい ・ 死ぬ