八百万の神 [たちつてと] 
                      
 
  うえ かき  
 
だいこく様 だいこくさま 
<大黒天(だいこくてん) 
*出雲大社 
福の神 
農業の神様としてえびす様とともに庶民に人気がある。しばしば家庭で、通常の仏壇とは別に、えびす・だいこくの場所が祭られている。 
だいこく様はふたつの神格が合体してできた、大国主神と大黒天で、どちらも「だいこく」と読めるため、いつしか混同したもの。七福神でも温厚な神である大黒天は、インドの破壊神シヴァの夜の姿。シヴァ神は仏教に帰依して仏法のために戦う不老不死の戦闘神となった。この不老不死とダイコクと言う音読みが「大国」と読めることから、出雲大社に祀られている大国主命と同じ神になった。大国主命は日本の国土を開拓した神であり、縁結びの神でもある。
 
大金神 だいこんじん 
方位神 
大金神 
金神の在する方位は、あらゆることが凶とされ、特に土を動かしたり、造作・修理・移転・旅行などが忌まれる。この方位を犯すと家族7人に死が及び、家族が7人いない時は隣の家の者まで殺される(これを七殺(ななさつ)という)と言われて恐れられた。 
鬼門大金神(きもん・だいこんじん)  
九鬼家に百済河成(くだら・かわなり)筆とされる鬼門大金神(きもんだいこんじん)の御神像が伝えられている。面貌は大威厳あり、右手には劔を按じ、左手には宝鏡を捧げて、人心の清濁を写し、濁れるものは之れを膺懲し、清きものは神徳を与えるという意を表わす。 
征韓の役で九鬼嘉隆(1542-1600)が指揮する熊野水軍の旗艦「日本丸」には、この御神像が祀られていた、現在は高御位神社(兵庫県加古川市)に祀られている。九鬼氏は天児屋根命(あめの・こやねのみこと)の末裔で、古来、神祇伯を務めた大中臣氏を祖とする。中臣神道を伝え、そのなかで鬼門大金神はひとつの重要な位置を占めている。中臣神道の伝承では、「鬼」の字の上に有る“ノ”を取り除いた特殊な字を用いてカミ」と訓み、「カミ」の通り道を「カミド」(=鬼門)という。「カミド」は八つに分岐し、これは更に八柱の神、すなわち「鬼門八神(かみど・やはしらのおおかみ)」として表象される 、即ち「金神」のことである。 
 
鬼門八神とは、埴安姫神(はにやすひめのかみ)・根裂神(ねさくのかみ)・天照大神・豊受姫神・素盞鳴大神・岩裂神(いわさくのかみ)・月夜見神(つきよみのかみ)・大国主神(おおくにぬしのかみ)。これは表の神で、鎮魂帰神法(ちんこん・きしんほう/たましずめ・かむかえらしのほう)という行法の際に奉祀する。中臣神道では、鎮魂帰神法を授けた後、十種神宝秘法(とくさのかんだからのひほう)という十段階で構成された修行階梯を伝授するが、このうち、第三段階にあたる八握劔(やつかのつるぎ)を修し終えて次へ進む前に、天津金木法(あまつ・かなぎのほう)と称する神寄せの法を伝授することになって いて、この際は十種神宝を表象する裏の神を奉祀する。「カミ」は「カミド」と言われる八つの通り道を通って中央に集まりここに留まる、ここを「カムト」(=鬼止)という。逆に「カムト」のカミは、「カミド」を通って八つに分かれ、更に八百万の神々となる。「カムト」は中心的基幹であり、天御中主大神(あめの・みなかぬしの・おおかみ)として表される。これに相当する裏の神は国常立大神(くにとこたちの・おおかみ)である。これに対して「カミド」はその根元であるから、これを司る八柱の神々は「ネノカミ」(=根の神)と総称され、「根神(こんしん)」という漢字で表わされる。 
 
各々の神を鬼門・東・天門・南・人門・西・地門・北の各方位に配当するのは、後代に係る思想との習合の結果である。古くから四隅を重視し、艮金神(うしとらのこんじん)のほか、坤金神(ひつじさるのこんじん)などの存在が言われ、方位に配当され得る素材は準備されていたと言える。  
「根神」を金神という漢字で示すようになったのは、平安期以降の陰陽道との習合の結果である。鬼門の原意も、現在言われる東北の方角のみを指すものでなく、元来は八つの鬼門(カミド)を総じて言うものであ った。鬼門八神と鬼止の「カミ」とを足せば九柱の「カミ」となる、これが九鬼姓の由来となった。九鬼は江戸時代頃より「クキ」と通称されたが、本来は「クカミ」と称す 。  
「鬼門大金神像」説明・若宮神社(綾部市)  
鬼門大金神に対する信仰は長い歴史もつ。その間に様々な信仰形態が現れ、この神に付された意味も変った。現在は「鬼門」とは艮(うしとら)であり丑寅、つまり東北の方角を指し、「鬼門大金神」とはこの方位を司る神であるとされる。一切の存在は木・火・土・金・水によって構成されると考える五行思想に基づき、この方位が金性に配当されることから「金神」という名が付いた 。  
金神に対する信仰は、中国の六朝時代に認められ、太白の精として、また白獣の神として信仰されていた。日本に平安末期頃に移入され、巨旦大鬼王(こたん・だいきおう)という兵戈・疫病・喪乱などを司る邪神として認識されるようになった 。  
このような信仰を作り出したのは、陰陽師(おんみょうじ)たちである。陰陽師は京都を中心として全国的に台頭し、宮中への出入りを許される者もいた。彼らは卜占や祈祷を行い、方術を用いて様々な変異を示し、陰陽道を形成した。その思想は中国の民間に生まれた五行思想を中心とするもので、中国に伝わる神仙道などの影響下にある。陰陽道は、当時の神道を始として修験道や仏教などに浸透し、多くの影響を与えた。金神の遊行する方位を金神七殺の方位といい、これを犯して土木・建築・移転・旅行・嫁取りなどを行うと、その祟りが七人に及ぶという信仰を生み出し、主に全国を遊行する陰陽師や修験者、祈祷師たちによって民間に 広められた。 
金神鎮護や鬼門封じの祈祷は、西日本を中心に現在も行われている。  
一般に流布したこのような信仰は、それ以前の神道に元来有ったものではない。九鬼家の伝承でも、陰陽道などを通して中国思想と一部習合し、金神を各方位に配当するようになったが、一般に は艮の方位のみを殊更に重視し、この方位を司る艮金神のみが取り分けて信仰されるようになった。  
 
九鬼家には、金神について鬼門霊石(きもん・れいせき)もしくは九鬼霊石(くき・みたまいし)と呼ばれる霊石を本体とし、これが尊格化されて金神となったとする伝承がある。九鬼霊石とは、九鬼家に伝わる神宝で、金星からの隕石であると謂われている。太古の昔、金星からの隕石が天空で三つに分かれ、一つは紀州熊野に、一つは播州高御位山頂に、いま一つは京都洛北の鞍馬山に落下したという伝承に基づく。  
吉凶神の方位意味 
歳徳神(とくとくじん)あき方(恵方)でこの方に向って行えば何事も成就する。 
太歳神(たいさいじん)縁組・新築・開店など祝いごとには大吉。森林の伐採などは凶。  
歳破神(さいはしん)この方向に普請・移転・旅行・縁組を求めるのは凶。  
大将軍(だいしょうぐん)三年間同じ方位に留まり、その方位への、普請、婚姻は慎重に。  
歳刑神(さいぎょうしん)造作、種蒔き等、土を動かすことには注意。武道習得等には吉。  
歳殺神(さいせつしん)婚姻・養子縁組・建築など注意。ただし仏事には吉とされている。  
大陰神(だいおんじん)婚姻、出産などは忌むが逆説もある。学問、研究などには吉方位。  
大金神(だいこんじん)諸事よろしくない。特に、普請、修繕、動土、移転はこの方を忌む。  
姫金神(ひめこんじん)大金神と同じ性質でこの方位を用いるのは凶といわれている。  
黄幡神(おうばんしん)普請、動土は凶、植樹など注意。武術はじめには大吉とされている。  
豹尾神(びょうびしん)万事不浄の事を忌み、また家畜を求める事、結婚、人事は凶。  
白虎神(びゃっこしん)普請、動土をつつしむこと。  
 
巨旦将来 
金の気満ちる殺伐冷酷神。南天竺の傍夜叉国の鬼王であったが、古く素戔嗚尊が南海を旅した時、この邪神に旅の妨げをされ、後に素戔嗚尊の神力とその御子神八王子たちによって城と一族をも攻め落と した。暦 ではその年の十干による方位に在し、金の精が重なり、物心すべて冷酷無残となる極めてよくない方角とされる。昔は鬼門以上に忌み恐れられ、安政年間に起こった金光教は、その崇りの迷信から解放することに始まった。この凶神が、いつの頃からか、従来の金神を巡金神とし、大金神・姫金神の二神がつけ加えられた。
 
手置帆負神 たおきほおいのかみ 
工匠守護の祖神 
国譲り・国土平定神話に登場する神の一柱。日本書紀にある国譲りの神話に、「紀伊ノ国の忌部の遠祖、タオキホオイ神と定めて作笠者とし」とある。このカサヌイとは、笠を縫い作る人のことである。太玉神に隷属して天照大神が天岩屋戸に隠れたとき、彦狭知命とともに瑞殿を造営し、また、御笠・御盾などを作った。のちに、天津神が太玉命に命じ、オオクニヌシ神を祀らせると、タオキホオイ神を笠作者となし、盾作者をヒコサシリ命、金作者を天目一箇命、木綿作者を天日鷲命、作玉者を櫛明玉命とし、ともに祭具を供えさせた。
高淤加美神 
 -闇淤加美神
たかおかみのかみ 
*貴船神社(京都)/丹生川上神社(奈良県吉野郡)/全国「意加美神社」など 
水の神・龍神様、祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されている 
闇淤加美神(くらおかみのかみ)は、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した所に出てくる。この時に剣を握った指の間から血が流れ出た時に生まれたとされる。一方の高淤加美神は迦具土神を斬って3つの神になったとし、その一人が高淤加美神になった。この2神は同じ神という説もあり、対の神という説もあ る。基本的に水の神・龍神様とみなされ、「闇」は谷間を「高」は山の上を指す言葉である。 
古事記/淤加美神の娘の日河比売(ヒカハヒメ)と、スサノオの孫の布波能母遅久奴須奴神(フハノモヂクヌスヌ)との間に深淵之水夜礼花神(フカフチノミヅヤレハナ)が生まれ、この神の孫が大国主神である 。 
高淤加美神/闇淤加美神は水を司る姉妹神 
高(峰)淤加美神は山の峰に雨をもたらせる神であり、闇(谷)淤加美神は峰から下る清流に宿る神である。  
高照姫神 たかてるひめのかみ 
*葛城中鴨神社(御歳神社) 
事代主神の同母妹。姉妹に下照姫がいる。 
大国主神の子供で下記4人兄弟が関連神になる。  
母=奥都嶋の田心姫/味鋤高彦根神・高鴨神社(葛城)/下照姫・長柄神社(葛城)  
母=邊都宮の高降姫/八重事代主神・下鴨神社(葛城)/高照姫・中鴨神社(葛城)
 
高御産巣日神 たかみむすびのかみ 
<高木神/高皇産霊尊 
*福島県の安達太良神社 
高天原の根本神 
古事記で天御中主神の次に、対になる神産巣日神とともに出てくる神。 
高御産巣日神は葦原中国平定の時、天照大神とともに諸神にいろいろな指示を出している。 
古神道的な解釈で「むすび」は「結び」で、結びつける或いは産み出すという意味を持つ。
多岐津姫命 
(宗像三神)
たきつひめのみこと 
<多岐津比売命/田寸津比売命/瑞津姫/瑞津姫命 
*宗像神社(福岡県宗像郡)/田島神社(佐賀県東松浦郡)/石上神社(宮城県桃生郡)  
天照大御神と須佐之男命が天の安河原で誓約をした時に、天照大御神が須佐之男命の持ち物である十拳剣を三段に折り、天真名井の聖水をふりすすぎ、噛んで吹き棄てた。その息から生まれたのが、奥津島比売命、市寸島比売命、多岐津比売命の宗像三神である。 
宗像三女神(むなかたさんじょじん) 
宗像大社(福岡県宗像市)に祀られる三柱の女神の総称。朝鮮への海上交通の平安を守護する神として、大和朝廷によって古くから重視された神々。降臨の地は、福岡県の宗像地方東端の鞍手郡鞍手町の六ヶ岳という山である。 
日本書紀/天照大神が国つくりの前に、宗像三神に「宗像地方から朝鮮半島や支那大陸へつながる海の道は降って、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と示した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀されるようになった。 
日本書紀/天照大神が「汝三神(いましみはしらのかみ)、道の中に降りて居(ま)して天孫(あめみま)を助け奉(まつ)りて、天孫の為に祭られよ」との神勅を授けたと ある。 
 
古事記/三神の生まれ順 
沖津宮 - 多紀理毘売(たぎりびめ) 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)  
中津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりびめ)  
辺津宮 - 多岐都比売命(たぎつひめ)  
日本書紀/三神の生まれ順 
沖津宮 - 田心姫(たごりひめ)  
中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)  
辺津宮 - 市杵嶋姫(いちきしまひめ)  
宗像大社(福岡県宗像市) 
全国六千余ある宗像神社の総本社。沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、玄海区の辺津宮の三社の総称として宗像大社であるが、現在では辺津宮単体を指す場合も多い。 
玄界灘に浮かぶ沖ノ島に沖津宮があり田心姫を祭っている。この島に古代の祭祀跡がある。宗像大社の社伝では以下のようになっている。 
沖津宮 - 田心姫神(たごりひめ)  
中津宮 - 湍津姫神(たぎつひめ)  
辺津宮 - 市杵島姫神(いちきしまひめ)
 
栲幡千々姫神 たくはたちぢひめのかみ 
織物の神 
神話では詳しく記されていない。名前から織物が連想され、栲とは白膠木のことで、秋の紅葉が美しいことで知られるうるし科の低潅木である。幡は機織りの機のことで、千々とひゃ縮む状態を意味する。神名 から、織り地の縮んだ色鮮やかで美しい織物となる。今日、幡利の職能神として信仰されるタクハタチヂヒメ神は、神話の中で重要な位置にある。日本書紀/天照大神の子のアメノオシホミミ神とタカムスビ神の子のタクハタチヂヒメ神が結婚し、ニニギ神が生まれたとされる。ニニギ神は天から地上に降りる穀霊であり、その穀霊を生み出す婚姻は、若々しい稲妻を生み出し、大地を豊かにする神婚である。その意味で、タクハタチヂヒメ神は、機織りという職能と同時に、多くの女性神同様に生命力の象徴、生む力の人々の崇拝を姿に 反映していると考えられる。 
古来、機織りという仕事は女性によって行われてきた。歴史的な事実の中に、機織りの神タクハタチヂヒメの発生の背景も隠されていると言える。民間伝承で、しばしば、機織りの美しい乙女が異界と人間世界を媒介する存在として登場する。また、古代 の村の祭りで汚れのない乙女が神の衣をおる儀式も行われたりした。この機織りを得意とした女性は、非常に神に近い存在である。ここから容易に巫女=神聖な存在というイメージが連想される。貴重な織物は、同時に神への最高の贈り物で、神の衣を織る機を操る女性もまた選ばれた、けがれなき存在でなければならな かった。 
建磐龍神 たけいわたつのかみ 
*阿蘇神社(熊本県阿蘇郡) 
阿蘇の国作り神 
熊本地方の伝説/タケイワタツ神は、祖父の神武天皇の命を受け、日向(宮崎県)の高千穂から五ヶ瀬川をさかのぼって阿蘇にきて、外輪山の上から目の前に広がる湖水を眺め、その広大さに感心した。「この水を排水すれば、そのあとに広大な耕作地が生まれ、多くの人が暮らせるだろう」と考えた。外輪山の上を歩いて排水できる場所を探し、最初に一番低いところを蹴って壊そうと試みたが、そこは岩が二重になっていてびくともせずに失敗(現在の阿蘇町の二重峠といわれている)。そこから南に寄ったところ(現在の阿蘇郡長陽村立野あたり)を選び、岩を蹴り破ると湖水は一気に西の方へと流れだし、水が引いたあとに肥沃な農地が出現した。こうして阿蘇の地に耕作の道を開き、立派に国を治めた後、その神霊がこの地に鎮座した。 
この神の本源は、阿蘇山に宿る神霊で、時に恐ろしいエネルギーを吹き出す火口神である。 
日本書紀/景行天皇の九州平定の話もタケイワタツ神が登場する。火の国(肥前・肥後)に至った朝廷軍が、夜に主のわからない火の明かりに助けられて行軍し、反抗する土蜘蛛を討伐する。やがて広大な阿蘇の国に至ると、一行の前に阿蘇都彦と阿蘇都媛の 二神が人の姿になって現れ、そこでこの地を阿蘇と名付けたという。二神は、阿蘇の国土に宿る夫婦神であり、おそらく火の明かりをかざして道案内をした主であろう。火というのは火を吹き続ける阿蘇山のイメージから来ている。 今日では阿蘇神が夫婦神であることから、火を恋の炎を燃やす情熱と結びつけ、縁結びの神として信仰されている。
 
建葉槌命 たけはづちのみこと 
<
倭文神建葉槌命(しどりがみはけはつちのみこと) 
*大甕神社(茨城県日立市) 
倭文神とは倭文織(古代の織物の一種)を司る神  
経津主神・武甕槌命は国津神をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男(天津甕星/あまつみかぼし 、神話に登場する星の神)だけは征服できなかった。倭文神建葉槌命(しとりがみたけはづちのみこと)が遣わされ、これを服従させた。日本神話で星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれる。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。 
大甕神社は天津甕星を服従させた建葉槌命が祭神。社伝/甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していた。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男の荒魂を封じ込めた石であると伝える。一説に建葉槌命によって封じられた後も天津甕星が祟りをなし、それを鎮めるために建葉槌命を祭神とする大甕神社が創建されたという。 
常陸二ノ宮静神社(延喜式常陸国久慈郡明神大社) 
常陸国の一の宮鹿島神宮に次いで二の宮といわれ、鹿島神宮、香取神宮とともに、古くは東国の三鎮護神と称された。祭神の建葉槌命は日本で初めて織物を織り出された神、天羽槌雄と同神といわれ、この地で初めて織物(綾織)を織ったと伝えられる。その昔、綾織は常陸国の特産品とされた。そのため、この地方は昔「静織(しどり)の里」とよばれた 。 
建布都神 たけふつのかみ 
<建御雷之神(たけみかづちのかみ) 
*建布都神神社(徳島県) 
イザナミノ神が亡くなった後、イザナギノ命の十拳剣(とつかつるぎ)から飛び散った血から生まれた。この神は後に天照大御神の命をうけて葦原中国(あしはらなかつくに)平定の遣わされ た。神功皇后が三韓征伐の前途を占った時に 、先ず現れたのは伊勢皇太神であり、次に阿波郡の建布都神と事代主命であった。 
建布都神神社は、阿讃山脈から流れ出る九頭宇谷川(くづだにがわ)が作った扇状地の扇端部に位置する。土成町一帯は県下有数の旧石器散布地として知られ、多くの古墳も存在し、県下最大級の円墳、丸山古墳などがあり古い時代から開けていた 。
建御雷之男神 たけみかづちおのかみ 
<武甕槌命 
*鹿島神宮(茨城県)/真山神社(男鹿市)/各地の春日神社  
相撲のルーツ 
建御雷之男神は日本書紀で経津主神(ふつぬしのかみ)とともに、葦原中国平定を成し遂げた神(古事記・旧事本紀では経津主神と同じ神様であるとしている)。 
千葉県と茨城県の県境付近に対をなすように香取神宮と鹿島神宮が あり、経津主神が香取神宮に祭られ、建御雷之男神が鹿島神宮に祭られている。両神は後に奈良の春日大社に勧請され、その後全国の春日神社で祭られるようになった。春日大社に祭 られているのは、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四柱。 
建御雷之男神は葦原中国平定の際、出雲側の健御名方神(たけみなかたのかみ)と力比べをして勝これを従わせたとされ、この 二神の力比べは相撲のルーツであるとされる。 
常陸国風土記・香島の郡に書かれる鹿島神宮の御祭祀/清と濁とが集まることができ、天と地とがひらけはじめるより前に、諸祖天神が八百万の神たちを高天の原に集められた。その時、諸祖神が告げていうには 「いま、わが御孫命が豊葦原水穂之国を治めにお降りになる」。このとき高天の原から降りた大神を香島の天の大神と言い、天では日の香島の宮、地では豊香島の宮と言った。
 
建御名方神 たけみなかたのかみ 
*諏訪大社(長野県諏訪湖)/全国の諏訪神社 
大国主神と越国の沼河姫の間の子。高天原による葦原中国平定の際、出雲側ではこの神だけが高天原の使者である建御雷之男神と戦った。その勝負に破れ、諏訪湖の地に引き籠もった。諏訪湖には以前、国津洩矢神(くにつもれやのかみ)という神がいたが、建御名方神がやってきて天竜川で勝負し、建御名方神が勝ったため、諏訪湖近くの御射山(霧ヶ峰)に引き籠もった。
田心姫 
(宗像三神)
たごりひめ、 たごころひめ 
<胸鋤比売(むなすきひめ)、十羅刹女(じゅうらせつじょ、じゅうらせつにょ)、多紀理毘売命(たきりびめ) 
神代の昔、今の波子(はし)海岸に箱舟に乗った幼い女の子が流れ着いた。身なりから高貴な家柄の子らしい。翁(おきな)と媼(おうな)が拾い育てることとなった。姫はすくすくと成長したが、何を訊かれても答えない。どこから来たか問われると東の方向を指すのみ。翁たちの手伝いはせず弓矢の稽古に明け暮れる。ある日、東の空に狼煙があがったのを見てようやく姫は自分の素性を明かした。幼い頃心が荒々しかったので父の怒りに触れ流された田心姫であった。出雲は十羅という国に攻められて苦戦している。田心姫が戻れば勝つであろうと夢のお告げがあった。姫は出雲を襲う敵と戦うために石見を離れ、出雲に戻る。それを悲しんだ翁と媼は姫の後を追うが、力尽き、はかなくなってしまった。出雲に戻った田心姫はたちまちのうちに十羅を撃退。十羅刹女の名を賜った。 
石見海浜公園東端の磯に立地する津門(つと)神社、もしくは境内社の薗妙見早脚(そののみょうけんはやあし)神社に縁の伝承である。元々は津門首(つとのおびと)の祖霊・米餅搗大使主命(たがねつきおおみのみこと)を祀った社であるが、9世紀に宗像より田心姫を勧請したと神社縁起にある。姫の名を胸鋤比売とした文献もある。田心姫命は高天原に上ろうとしたスサノオ命が天安河で天照大神と対峙、誓約(ウケヒ)した際誕生した女神。古事記では多紀理毘売命。日本書紀では宗像に下りたとされる。湍津姫神命(たぎつひめ)、市杵島姫命(いちきしまひめ)と並び宗像三女神と称されている。その意味で、この伝承は異伝的な内容である。「那賀郡誌」(編纂 那賀郡共進会展覽会協賛會大正5年発行)収録されたものでは、姫の名が胸鋤比売であること、また姫は自分を指し「あ」(吾か)と言ったことや、食事の度に箸を取り替えたことなどが相違している。 
  神楽の演目  出雲神楽で「日御碕」石見では「十羅」という演目がある。天竺から攻めてきた彦張(彦羽根の臣)を日御碕大明神(「十羅」では十羅刹女)が退散させる筋立て。この演目は出雲では最後の演目として舞われることが多く、「夜明けの彦張」とも呼ばれている。「保存版 島根県の神楽」によると、神楽の「日御碕」「十羅」は謡曲「御碕」が元であるとされる。「出雲市民文庫17出雲神楽」 の「彦張」によると日御碕神社に残る応永27(1420)の耕雲明魏(こううんめいぎ)筆「勧進簿」に記されているとあり、中世には確立していたことになる。「歴史の落穂拾い出雲・石見」で日御碕神社の家伝が紹介されている。第七代 孝霊天皇(前290−前215)の代とされている。襲来したのは月氏国(げっしこく)の彦波瓊(ひこはる)王。モンゴル高原西の月氏国から今の中国東北部、朝鮮半島を経て船団で攻め寄せた。スサノオ命の十二世孫の明速祈命(あけはやきのみこと)が迎え撃つ。苦戦するが、神に祈ると激しい風がおこって敵船団は全滅したという内容。孝霊天皇はいわゆる欠史八代の天皇で実在しないという説が一般的。紀元前という時代も架空で、おそらく元寇の内容を置き換えたものではないか。演目は主に出雲地方で舞われ、石見地方では東部地域の他は舞う社中は少ないとのこと。内容的に塵輪(じんりん)と被る側面があるからだろうか。「石見神楽」によると益田市の久城社中では副題が「出雲国日之御碕鰐淵寺神話」とあるそうだ。  
  十羅刹女社 仏教で羅刹女は「羅刹の女性のもの。鬼女。大力で人を魅惑し、あるいは人を食うという」とある。仏教に帰依した十柱の羅刹女(らせつにょ)が本来の意味。「續々群書類從第九」所収の「懐橘談下」日御碕の条によると 、合わせて十柱の神(男神含む)を祀ったのが転じて十羅刹女となったようだ。 
神仏判然令によって神仏習合が改められたが、それ以前、十羅刹女社とされる神社は各地にあった。津門神社も十羅刹女社だったとのこと。現在でも隠岐島で十羅刹女命を祀る神社が残されている。また、十羅刹女をスサノオ命の乙子(末子)とするものもあり、それなら田心姫ではないということになる。 
  須佐神社/落葉の槙 須佐神社に、稲田姫命の後産を柏の葉に包んで流した「落葉之槇」という伝承がある。須佐神社と津門神社の関係は明らかでないが「落葉の槙」伝承が取り込まれているようだ。「懐橘談下」須佐の条にスサノオ命の一の女が川に流され橋の浦へ漂着したくだりが記載されている。 
「保存版島根県の神楽」に、神楽の「日御碕」「十羅」は謡曲「御碕」が元。登場する鬼は彦張(牟久利 むくり)という。牟久利は蒙古の襲来を元にしたのではないかとのこと。十五世紀まで日御碕社の祭神には十羅刹女が習合していたためその名残をとどめるとある。「集来(しゅうら)」と表記する地区もあるとのこと。 
「神道大系 神社編36出雲・石見・隠岐国」に日御碕神社や須佐神社の文献が収録され、「むくり」「こくり」の名が見受けられ、元寇の影響が伺える。他に童女胸鋤命、三女神の別称との記述もあり、出雲風土記と同じく「むなすき」と読むようだ。石見八重葎では「ムネカタ」とある。 
津門神社に田心姫が勧請された9世紀は新羅の入寇など緊張関係にあったようだ。日本海では渤海との交流で、良好な関係が挙げられる。11世紀には刀伊(とい)の入寇があり、北九州を襲っている。元寇の他、これらも「日御碕」「十羅」の背景にあると思われる。 
津門神社は中世以降、日御碕神社社領地であり、尼子氏の石見攻略の拠点としての性格を帯びた。そこから上記・胸鋤比売の伝承は生まれたのではないかと思われる。 
「出雲を救った田心比売」では、追ってきた翁と媼をやり過ごすため、田心比売が身を隠した辺りを「嘉久志(かくし)」というと地名の由来を説明している。「那賀郡誌」では胸鋤比売は食事の度に箸をとり替えたとあるが、波子(はし/箸浦、橋浦)の地名と関連づけたものであ る、土師(はじ)が移住したとの言い伝えもある。懐橘談では日御碕周辺に日御碕大明神が矢の稽古をしたという地名?説話が記されているが、上記津門神社の伝承と矛盾する。  
蹈鞴五十鈴姫神 たたらいすずひめのかみ 
<比売多多良伊須気余理比売 
*溝咋神社/橿原神宮 
事代主神の娘、神武天皇の后。三島の溝咋姫の娘だが、父親に関しては説が分かれる。 
事代主神説/事代主神の葛城政権との関わりから妥当で、溝咋神社(大阪)に事代主神が祭られている ことからもこれを示唆している。 
大物主神説/古事記に大物主神の娘である出ている。三輪の大物主神が溝咋姫を好きになり、丹塗りの矢に変じて、トイレ(昔は「かわや」といって川の上にある)から溝咋姫の陰部にささったというもの。この話は賀茂神社の玉依姫と火雷命の話と同じ形式の説話で ある。賀茂神社の説話では生まれたのは上賀茂神社の御祭神である賀茂別雷神で、こちらでは五十鈴媛になっている。 
日本書紀は神武天皇の巻では明確に五十鈴媛を事代主神の娘と書いているが、神代上の巻では大物主神説と事代主神説を併記してい る。 
大物主神は大国主神の幸魂奇魂であるとされ、事代主神とは親子関係になるわけで、美保神社の美穂津姫に関する伝承でも同様の混乱が見られる。美保神社では一般に美穂津姫は事代主神の妃神と考えられ、日本書紀には美穂津媛を大物主神の妃とする記述が出て くる。大物主神がいた三輪山は橿原宮の北東にあり、南西には葛城の賀茂神社があって、事代主神が祭られている。つまり橿原宮の鬼門を大物主神が、裏鬼門を事代主神が守って いた。この葛城には古くから一言主神もいた。事代主神・一言主神・大物主神はいづれも似た性格を持つ神で、そのため互いに神格の一部交換が起き、その際この婚姻譚まで転移してしまった可能性があ る。 
五十鈴媛生誕の溝咋神社の近くには三島鴨神社があり、近くに鴨村・鴨林などの地名が残り、この付近が賀茂一族の勢力範囲であったことを伺わせる。それ故、五十鈴媛は賀茂一族がかかげる最も重要神である事代主神の娘である可能性が高いと思われ る。
 
手力男命  たぢからおのみこと 
<天手力雄神(あめのたぢからを) 
*戸隠神社(長野県長野市)/佐那神社(三重県多気郡)/白井神社(兵庫県尼崎市)/雄山神社(富山県上新川郡立山町)/手力雄神社(岐阜県岐阜市) 
手の力の強い男神、腕力・筋力の象徴 
日本神話「天の岩屋戸」で知られる大力の神様。 
天照大神が素戔鳴命の暴状を怒り天の岩屋戸にこもったため、常闇となってしまった天地。何とか大神に外へ出してもらおうと群神が相談し、天児屋根根命が祝詞を奏し、天鈿女命が舞を舞い、これに心ひかれた天照大神が岩屋戸からわずかに顔をのぞかせたところ、岩屋戸を開いて大神を引き出した。天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石別神を副えたとあり、その後伊勢の佐那県に鎮座したとしている。 
戸隠神社/タヂカラオが放り投げた岩戸の扉が信濃国戸隠山に落ちたという伝説がある。 
雄山神社に祀られるタヂカラオは立山信仰の神である。立山山頂にある峰本社の本尊は阿弥陀如来と不動明王であるとされ、本地垂迹によってそれぞれイザナミとタヂカラオであるとされた。 
元々雄山神社・戸隠神社とも、山岳信仰を起源とする神社であり、この神が山岳信仰と関係のある神であることを示している。日本には、祖霊は山に帰り、田の神は山から降りてくるなど、山は異界であるという観念があった。これが仏教の地獄の思想と結びついて平安時代以降の山岳信仰となる。 
 
戸隠神社 
戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建二千年余に及ぶ神社。その起こりは遠い神世の昔「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々を祀 っている。平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場だった。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われ栄えた。江戸時代は徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東比叡寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まった。明治になって戸隠は廃仏毀釈の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変え現在に至 る。  
天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)/天照大神が天の岩屋に隠れた時、無双の神力をもって、天の岩戸をお開きになった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎した事に始ま る。 
天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)/素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開 くきっかけを作った 神。学業成就・商売 繁盛・開運・家内安全。 
天表春命(あめのうわはるのみこと)/中社祭神の御子神様で、開拓学問技芸裁縫の神・安産の神・婦女子の神・子供の神 。 
九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)/天手力雄命以前に地主神として奉斎され、心願成就の御神徳高く特別なる信仰を集め、また古来より水の神、雨乞いの神、虫歯の神 。  
天鈿女命(あめのうずめのみこと)/承徳二年(1098)頃の創建で、岩戸の前で舞われた天鈿女命が主祭神で他に三柱の神様を祀 っている。戸隠神社太々御神楽は、この神社に仕えていた社人によって古来より伝えられ現在に至る。舞楽芸能の神、火防の神。
 
田道間守 たぢまもり 
*中嶋神社(兵庫県豊岡市) 
木津の名の由来  
垂仁天皇は大和国纏向宮で国を治めが、ある時「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)をさがしに行ってくれる者はいないか」と尋ねた。この大役を田道間守が命を受け、その後十年後に無事大命を果たし帰国したが、すでに垂仁天皇はその前年なくなり、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」と言って陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓い自ら殉じてしま った。田道間守の持ち帰った非時香菓は、田道間花といわれ省略され「たちばな」となり、橘と書くようになった。その後、橘が伝来した土地として橘を「キツ」と読み 、現在の「木津」に至った。 
みかんのルーツ  
柑橘類の原生地はインド、ビルマ、インドシナ半島、中国、日本まで広域にわたるが、中国では紀元前1000年前後、周の国の「詩経」に「柚(ユズ)」の記述があり、また紀元前1世紀の「史記」の中に「棗(ナツメ)」が産業として栽培されていたとある。日本古来の原生果樹は「橘」と沖縄に原生する「シイクワシヤー」であると確認されている。このことは西暦297年、中国晋の陳寿が書いた「魏志倭人伝」に日本では「はじかみ(ショウガ)、橘、胡麻、茗荷が自生しているのにその滋味を知らず」つまり、食に用いることを知らないと記されている。田道間守の「橘」伝説は景行天皇(西暦71年即位)の時代であるが、それ以前の神代に「橘」の存する記述がある(古事記神代記上巻、又日本書記巻之一)。 
 
橘本神社(田道間守伝説) 
日本書紀に11代垂仁天皇の御代(西暦61年頃)に新羅国(朝鮮シラギ)から帰化した子孫で外国通の但馬の国出石の住人、田道間守は病気静養の天皇の勅命により、遥か南方の常世国(中国大陸南岸地帯?)に旅立った。その国に「非時香菓(トキジクノカグノコノミ)」という果物が年中実っており、それを食べると延命長寿の効果があるということで、その果物を採りに行くこととなった 。苦節10年、田道間守は南方の海上に常世国を探し求め、ついに香菓「橘」を得て帰国する。しかし、都に着いた時は、出発後10年を経過していたので帝は崩御していた。田道間守は帝の存命中に使命を果たせなかったことを残念に思い、御陵に「橘入手」の報告のあと「香菓」を手に入れた「常世の国」の気候風土に似ている土地を探し求め、熊野街道沿いの下津町橘本(旧海草郡加茂村)に橘を植えた。田道間守は死後、ここに祀られて「橘本神社」となる。田道間守の植えた「橘」が紀州蜜柑の始まりであるとして、「蜜柑の始祖」として今も崇拝されている。 
熊本県八代市のみかん伝来 
経緯は同じで田道間守は垂仁天皇の崩御を聞き、その皇子、景行天皇(西暦71年即位)に苦労して手に入れた橘を献上しようと、当時都から御征西中の天皇をはるばる肥後の国まで訪ね、高田(八代市)付近でようやく巡り会って「橘」を献上後自決した。景行天皇はこれを哀れに思い、高田の地に田道間守が苦労の末に手に入れた「橘」を植えた。この橘が後年、有田市糸我の伊藤孫右衛門が手にする「八代高田みかん(小ミカン)」であるとされる 。 
 
橘本神社に植えられた「橘」 
日本の原生であるとされている橘 
紀州蜜柑といわれる中国原産の小ミカン 
漢方薬にも使うダイダイ「橙」 
「橘」は日本の数少ない古来の原生橘であり、九州から四国、紀伊半島に自生している。橘であれば、田道間守が10年の歳月をかけてまで探す必要がなかった。有田の蜜柑が食に供せられるための土産ものとなった記録は享禄2年(1529) にある。田道間守が景行天皇に橘を献上したのは西暦71年であり、紀州蜜柑といわれる小ミカンであれば、1400年余りも世に出なかったのは不思議である。今定説になりつつあるのが「橙」説である 。 
日本と朝鮮・中国との交流は秦国(紀元前3世紀〜)、漢国の時代からあった。朝鮮半島を通じて中国のいろいろな情報が日本に入ってきており、中国では不老長寿の珍しい香菓があると天皇の耳にも入っていた。中国では古くから漢方薬の技術が進んでおり、香気の高い橙は漢方薬の原料であり、発汗・強壮・消化・食欲増進剤の一種であり不老長寿として使われていた。 
八代の橘 
八代高田(こうだ)の柑橘。遣隋使・遣唐使(7-9世紀末)による交流が盛んに行われるようになり、種々の柑橘が持ち込まれた。その時代に「接ぎ木」の技術があったか、柑橘はタネによる増殖は無理で「挿し木」「株分け」「取り木」が考えられる。みかん栽培について、大方の意見は、柑橘導入、育成失敗を繰り返しながら栽培されだしたのは、肥後の国八代郡高田村(現八代市)であったと考えられる。その品種は中国の浙江省から伝来した「小ミカン」である。昭和12年樹齢800年のコミカンの古木が大分県津久見市青江にて現認された。推測すると、小ミカンは12-13世紀には肥後八代を中心に鹿児島・大分等で栽培が広まったと思われる。 
神功(じんぐう)皇后が三韓(朝鮮三韓の国)征伐の帰途、朝鮮より橘を持ち帰り、これを肥後八代に植えたのが高田みかんの始めである。その後繁茂し、三韓よりきたので「みかん」と名付け、肥後国司より年々朝廷に献上した 。
 
竜田姫 
 -竜田彦
たつたひめ 
*竜田本宮 
秋の神 
五行説では西は秋に通じるため、平城京の西に位置する竜田山には秋の女神が住むと信じられてきた。竜が裁つに音が似ているため裁縫の神としてもされる。また紅葉の美しさから染色が得意ともされた。 
竜田姫 たむくる神の あればこそ 秋の木の葉の ぬさと散るらめ [古今和歌集] 
たむくる/旅をする時に道中の安全を祈願する(手向く)  
ぬさ/道中の安全を祈願する時に使う、布や紙などと小さく切ったもの(幣)  
秋の女神が旅立とうとしている時(=秋の終わり)に木の葉がこのように散るのは、彼女がそれを幣として(別の)神様に手向けているのだろうねという趣向。 
竜田路 
わが行きは 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめ此の花を 風にな散らし [高橋虫麻呂] 
人皆の うらぶれ居るに 竜田山 御馬近づかば 忘らしなむか [山上憶良] 
竜田路は大和と河内・摂津とを結ぶ重要道路、しかし今は静寂そのもの。竜田路の古道は、竜田本宮の前を通り、峠・雁多尾畑の山道を経て高井田方面に出たようだ。 
高橋虫麻呂はこの竜田路を歩き何度も何度も振り返る。ときには春三月、山は満開の桜の香で満ちている。「私の難波の旅は七日とはかかりません。竜田の風の神よ、この花を決して散らさないで下さい」。単に貴族的な発想で美の保存を祈ったに過ぎないが、風の神、即ち竜田彦は当時その近辺で農耕をしていた人々には、切実な祈りの対象だった。竜田彦は近くの広瀬川合の神と共に農耕の神であった。竜田彦は妻の竜田姫と共に竜田本宮に祀られている。 
 
曾呂利物語 
何某の娘が成人する折に侍女を沢山付けた。そんなところに何処からともなく、とても高貴な女が一人佇んでいて、宮仕えを希望する理由を言ったので、「幸い当家ではあなたのような人を探していたのです。さあいらして下さい。奥様にあなたのことを申し上げましょう」と言って、そのまま宮仕えさせることとなった。 
その女の宮仕えに対する気持ちの入り様はさることながら、絵解、花結びが上手で、縫い物などは織姫にも負けないほどの腕前であり、染めものは竜田姫(秋の女神)も恥じるであろうほどに素晴らしかった。 
しかしそんなある時、北の方が女の部屋を覗くと、夜が更けてともし火が微かな部屋の中、なんと女が自分の首を取りはずして前の鏡台に掛け置き、その首にお歯黒、化粧を施してから再び自分の胴体にくっつけ、そのまま何事もないような顔でそこにいたのである。 
北の方が主人にそれを報告し、「こんなことがありましたがいかがなさいますか」と尋ねると、「まずはそれとなく暇を出しておけ」といったので、北の方は女を呼んで、「今まで言えませんでしたが、人が多く居るので『一人か二人に暇を出せ』と主人がおっしゃいました。しかしあなたのように役に立つ方は他にいらっしゃらないので、あなたにはいつまでも居て欲しいと思っていたのですが、どの人も代々当家に仕えている者だけに暇を出すことが出来ません。そこで先ずあなたに何処かへ出て行って頂きたいと思います。主人の命令を聞いてくれるのであれば、娘が嫁入りの時にでもまたこの家に迎えましょう」と言った。 
その時、女の顔色が変わり、「何を御覧になって左様なことを仰るのですか」と北の方の近くへ拠ってきたので、北の方は、「あなたは何を言うのです。やがてはここに呼んで差し上げると言ったではありませんか」とさらっと仰ったが、「いやいや、情けのないことだ」と言って女は飛び掛ってきた。 
そこで後ろに居た、この女の事情を知っている男が刀を抜き女を切った。切られて女が弱ったところを引き直し、思うままに再び切りつければ、女の正体は角を生え、口が耳まで裂けた老猫であった。その名を竜田姫と呼んだという。 
田の神 たのかみ 
基本的に山の神は山村で、田の神は農村で祭られているが、いつの頃か、山の神が春になると里に降り田の神になり、秋にはまた山に登って山の神になる、という伝承が広く信じられるようになっ た。
多比理岐志麻流美神 たひりきしまるみのかみ 
比那良志毘売神と甕主比古神の子。大国主神六世の末裔。 
古事記/母のヒナラシビメ神は(闇)淤迦美神の媛とされ、ミカヌシヒコ神と婚姻し、タヒリキシマルミ神を生まれたとある。この二神の神名由来は不明。この神は活玉前比売神を娶って美呂波神を産んだとある。
 
玉祖命 たまのおや 
<玉屋命(たまのやのみこと) 
*玉祖神社(山口県防府市)/石作玉作神社(滋賀県伊香郡) 
日本神話に登場する神。玉造部(たまつくりべ)の祖神。古事記にのみ登場。 
岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作った。天孫降臨の際ニニギに附き従って天降るよう命じられ、天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、天宇受売命(あめのうずめ)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人として随伴した。日本書紀の岩戸隠れの段では、八尺瓊勾玉を作ったのは「玉造部の遠祖・豊玉神(とよたまのかみ)」(第二の一書)、「玉作の遠祖、伊弉諾尊の児・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)」(第三の一書)としている。どちらも玉造部の祖としていることから玉祖命と同神と考えられる。 
玉祖神社(周防国一ノ宮) 
天照大神の天岩戸隠の神事で玉祖命は八坂瓊曲玉を造り、その後天孫杵尊が日向国に降臨の時供奉した五伴緒神の一柱として国土統治の創業を補佐したと記紀にある。社伝には、後にこの大前(大崎)の地に座し中国地方を平定し、この地で神避りした。御祖(江良)の地(玉の岩屋)に葬り、その威霊を祀たのが当社の起源 で創建は不詳であるが、玉造連玉祖氏が司ったと思われる。史料/天平十年(738)周防国正税帳に祢奇(祢宜)玉作部五百背の名が、更に長徳四年(998)今昔物語巻十七に宮司玉祖惟高の名が ある。社記に景行天皇十二年(82)筑紫行幸の際、周防娑婆に行在所を設けたのが玉祖神社北方の宮城の森であり、その節剣を奉納され、今に宝剣として奉安されている。また、仲哀天皇・神功皇后西征の折も寄江(神社の西南)という浜に着船、高田の土を以て沢田長(佐野焼工の始祖)に三足の土鼎(なべ)とひらか(はち)を作らせ、神供えて軍の吉凶をトされた。これが今も伝わる占手神事の起源である。 
玉依姫神 たまよりひめのかみ 
*霧島神宮 
神武天皇の母 
玉依姫神は豊玉姫神の妹で、豊玉姫神がお産を見られたのを恥ずかしがり、海の宮に帰ったのち、豊玉姫神と天津日高日子穂穂手見命の子の鵜葺屋葺不合命を育てるために地上にやってきた。後にその鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのかみ)と結婚、神武天皇の母になる。 
玉依姫という名は、たま(神霊)の依代(よりしろ)になる姫という一般名詞にも取れるため、この玉依姫以外にも、神話には玉依姫という名が多く出てくる。
道返之大神 ちがえしのおおかみ 
日本神話の中で、黄泉の国とこの世との境において、二つの世界の従来を禁止しているとされる神。伊耶那岐命が黄泉の国から帰還するときに追っ手をさえぎるために黄泉比良坂に置いた千引岩が神となったものといわれる。
月読神 つくよみのかみ 
<月読尊/月弓尊/月夜見尊 
*出羽三山の月山神社/伊勢神宮内宮別宮の月読宮 
月の神 
月読神は伊邪那岐神の三貴子の一人、天照大神、須佐之男神と兄弟になる。月読神の神話は少なく、日本書紀にただひとつあるだけ。 
保食神が口から米や魚・獣などを出してもてなそうとしたのを見て「きたないことをする」と言って殺してしまったと言う。それを聞いた天照大神は「なんて乱暴な」と月読神の所行に怒り「もうお前には会いたくない」と 言った。そのため月は太陽の出ていない夜にしか輝くことができなくなった、昼夜起源の話になる。この話が古事記では須佐之男神の話になっている。日本書紀の顕宗紀(3年2月)で月神が高御産巣日神に土地を献じるよう託宣したという記がある。 
 
月読神を祭る神社は基本的に2系統に分かれる。 
ひとつは天照大神の御弟神を祭る立場で作られた神社で、伊勢神宮内宮の月読神社。ここは内宮の十所別宮のひとつで、伊勢神宮を創建 した倭姫が建てられた神社のひとつ、同じ神域に月読荒魂神社もある。外宮の四所別宮の一つ、月夜見宮も、月夜見尊・月夜見荒魂尊を祭っている。延喜式神名帳「度会郡月読宮二座・月夜見神社」とあるものか。延喜式神名帳には、山城・丹波・壱岐などにも月読神を祭る神社が見受けられる。山城国葛野郡/葛野坐/月読神社、*山城国綴喜郡/樺井/月神社・月読神社、丹波国桑田郡/小川/月神社 、壹岐国壹岐郡/月読神社、出羽国飽海郡/月山神社。 
もうひとつの系統は、一般に月の神を祭るところから出発し、後に祭神が月の神なら月読神であろうということになったと思われるもの、同様の現象は天神、白山などにも見ら れる。代表は山形県・出羽三山の月山神社で、出羽神社で宇迦之御魂神、月山神社で月読神、湯殿山で大山祇神を祭っている。月山神社社伝/崇峻天皇の皇子・蜂子皇子(大伴小手子の子)が、崇峻天皇暗殺後、飛鳥の地を出て出羽三山に流れ着き、羽黒山で出羽大神の御顕現を感得。この三つの山にそれぞれ神社を創建 したと言う。ここへ来るよう勧めたのは聖徳太子であったとも言う。出羽国風土記/天平年間に吉備公が銀鏡を鋳造させて、これを月山神社の御神体としたという記事がある 。
 
都麻津比賣神 つまつひめ 
*都麻津姫神社(和歌山県和歌山市)/伊太祁曽神社 
木の神 
木の神様を祭る神社 
木の神と称えられる五十猛命(いたけるのみこと)を祀る神社は、全国に300社余りある。五十猛命の妹神である大屋都比賣命(おおやつひめのみこと)、都麻津比賣命(つまつひめのみこと)も木の神である。 
伊太祁曽神社(紀伊国一の宮) 
和歌山は木の神様(五十猛命)の国というので「木の国」と呼ばれたが、奈良時代に国の名前は二文字にして雅字を充てるという勅令が出され「紀伊国」になった。伊太祁曽神社が紀伊国(紀州)の祖神といわれる所以で ある。  
日本書紀/素盞鳴尊は「韓郷之嶋(からくにのしま=中国大陸)には金銀の財宝があるが、吾児所御国(あがみこのしらすくに=日本)に浮宝(うきたから=船)がなければ運ぶことができないので良くない」と言われ、鬚髯(ひげ)を抜くと杉になり、胸毛を抜くと檜となり、尻毛は(まきのき)となり、眉毛は樟(くす)となりました。そして「杉と樟は浮宝の材に、檜は社殿を造る材に、艪ヘ蒼生の奥津棄戸(あおひぐさのおきつすたべ=棺桶)に利用しなさい」と言われました。素盞鳴尊の御子神の五十猛命とその妹神の大屋都比売命・都麻津比売命の三柱の神様は、全国に木の種を播きほどこして紀伊国に鎮ま った。 
頬那芸神 つらなぎのかみ 
水戸神である速秋津日子神・速秋津比売の二神より生まれた水に縁のある神の一柱。ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの二柱の神は、河と海との文掌を行っていた。水戸(湊)は河口にあるところが多く、一方は海とに分かれ、また入れ子になっているので示したものであ る。本居宣長の「古事記伝」に「河海に因りて」とあって、河を男神、海を女神としている。この二神より生まれた神として、まず沫那芸神、沫那美、二神を示すが、イザナギ・イザナミ の二神の如く、芸・岐は男性、美は女性を表し、沫は水の泡を意味する神である。その次にツラナギ神、ツラナミ神の男女二神が続く。頬はつぶら(円・粒)の約語でツブツブと泡立つ音や様もいう語で、やはり水沫のことであるが、前出の沫神の泡よりもやや大きな泡という意味である。ナギは水の上の和という意、ナミは水の上の騒ぐのを表している。すなわち、海水の泡立ち静かに、凪いだときの水戸を司るのがツラナギ神、海水の泡立ち騒ぎ湧くときのみとを司るのがツラナミ神ということになる。
手名稚命 
 -足名椎命
てなづち 
<手摩乳命 
*須佐神社(島根県簸川郡佐田町)/川越氷川神社(埼玉県川越市) 
アシナヅチ・テナヅチ 
日本神話のヤマタノオロチ退治の説話に登場する夫婦神。古事記では足名椎命・手名椎命、日本書紀は脚摩乳・手摩乳と記す。  
二神はオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいた。8人の娘がいたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前だった。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行った。スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(日本書紀では稲田宮主神)の名を与えた。  
「ナヅ」は「撫づ(撫でる)」、「チ」は精霊の意で、父母が娘の手足を撫でて慈しむ様子を表わすとされる。「アシナ」は浅稲(あさいね)で晩成の稲の意、「テナ」は速稲(といな)で早稲の意とする説や、「畔(あ)の椎」「田(た)の椎」の対であるとする説、脚無・手無と解釈して蛇神であるとする説もある。
 
天狗 てんぐ 
人々に知識を与えてくれる山の者 
河童は川に出るもの、山に出るものは天狗(てんぐ)と相場が決っている。河童が動物的であるのに対し、天狗はかなり人間的であり彦一頓知話などで天狗は彦一と対等にわたりあっている。牛若丸に剣術を教えたのも天狗であるとされ、この天狗には鞍馬山僧正坊という名前がついている。この僧正坊の他、全国に八天狗と呼ばれる大天狗がいたとされる。 
 
愛宕山太郎坊/京都の愛宕山に住み、いざなぎの神を祀る愛宕神社を守護する。3000年前仏の命によりこの任についた。 
鞍馬山僧正坊/牛若丸と鞍馬天狗で有名な天狗で、和気清麻呂の子孫で真如上人の弟壱演僧正ではないかとされる。但しこの僧正坊は鞍馬山の主ではなく、主は鞍馬山魔王尊と呼ばれる天狗でその本地は毘沙門天であると言う。 
比良山次郎坊/本来は比叡山の天狗であったが比叡山が法力の強い僧たちに占領されてしまったため、比良山に移ったもの。しかし元々は愛宕山太郎坊と並び称される大天狗。 
飯綱三郎/長野県飯綱山に住む天狗。いわゆる「飯綱の法」の行者たちがこの天狗の本拠地で修行を積んだ。 
大山伯耆坊/元々は伯耆大山(ほうきだいせん)の天狗 だったが、相模大山の相模坊が四国の白峯に行ってしまった為、その後任として移って来た。富士講の人たちに信仰された。 
彦山豊前坊/九州の英彦山(ひこさん)に住む天狗。天津日子忍骨命が天下ったもので役行者がこの山で修行した時それを祝福して出現したとされる。 
大峯前鬼坊/役行者に従って夫婦の後鬼とともに山を歩き回り、その身の回りの警護その他を務めた。 
白峯相模坊/崇徳上皇が讃岐の国で憤死した時、その怨みをなぐさめる為に相模大山から白峯に移って来た天狗。 
 
平田篤胤は天狗とは現世で知識だけを追い求め、精神的な修行を怠った者が変化したものであると論じた。鎌倉時代・源平盛衰記にも同趣旨のことが書かれ、通常の六道(地獄道・餓鬼道・阿修羅道・畜生道・人間道・天道)には属さない天狗道に堕ちたものであるとしてい る。天狗は知者であり仏法にすぐれ地獄/餓鬼/阿修羅/畜生道には落ちない。しかし無道心だから天道にも上れない。結果行き場がなくなって天狗道に落ちて輪廻から見放されたとある。 
天狗が山伏の姿をした話もあれば、山伏が死後天狗になったという話もある。山中で厳しい行を行ない、火渡り・刃渡りなどをする山伏たちの姿は民衆から畏敬の念をこめて見られていた。彼らは里に病の者があれば祈祷をしたり薬を作ったりしてくれる存在であり、神に近い存在であった。結果、山中に出没する天狗というものに、山伏たちの姿がだぶったのは自然なようだ。 
天狗は元々は字の通り「天のキツネ」で、狐の霊「地狐」と対応する者。日本書紀/舒明天皇9年に大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がしたのを僧旻が「あれは流星ではなく天狗だ」と言ったという記録が残り、これが天狗の初見であるとされる。この時期は大化の改新前夜で、旱魃があり日食がありと、色々な異変が起きた時で、そういった怪異のひとつとして天狗が登場した。天狗は須佐之男神の猛気が飛び出して生まれた姫神が元祖で、この姫神の息子の天魔雄命が全国の天狗の長であるという説もある。天狗は猿田彦大神であるという説も根強く、しばしば山や丘の上に猿田彦大神が祭られているところに、天狗の面がかかってい る。  
天白神 てんぱく 
*伊勢神宮 
海を鎮める神、川を鎮める神、養蚕の神、織物の神 
天白とは太一(北極星)、太白(金星)の総称。太一を天照大神又は大日如来、太白を素戔嗚尊又は虚空蔵菩薩と言われる。この ため海の守り神である市杵島姫を天白神と同一神としている神社もある。太一、太白と分ける場合は前者を皇族、士族系、後者を庶民系が信仰としている事が多い。伊勢神宮の御饌地では太一、天白の何れもが祀られている。太一は伊勢神宮の一宮、伊雑宮の御田植え祭の大団扇にも見ることが出来る。また天白は同市内にもあり、北極星が祀られており、その隣の地区には虚空蔵菩薩が祀られている。伊雑宮に祀られている倭姫命の別名は機織姫でもある。また、市杵島姫も同市内に祀られている。 
伊勢神宮の鬼門に金剛證寺があり、虚空蔵菩薩が祀られている。天白は、天白羽鳥命という斎部氏の祖先の名にも見ることができ、忌部氏の祖先である。 
この他、天白神は川を鎮めるとも言われ、名古屋市天白区の天白川を初め、各地の河川のある地域に多い地名である。また川の神から龍神として祀られている場合もある。 
天白川の名称は下流の緑区鳴海町に「字天白」(旧東海道の天白橋のすぐ東隣の土地)というところにその昔「天白神」が祀られていたことによる。天白神の祀られているところは河川の下流や海岸地方に多いという。すなわち河川の暴流を防いで田畑を守る神であり、また海道を旅する人を怒涛から守る神ではな いかと言われる。 
天白神(明神)に未だ定説はない。山田宗睦/天白神の起源を伊勢の土着の麻績氏(おみし=織機をした人々)の祖神「天ノ白羽神」に求めた。昔鳴海の「字天白」に祀られていた天白社は現在、鳴海町の成海神社にその摂社として「熊野日白社」として祀られている。 
 
尾張・守山の鋳物師 
守山区を含む中世山田庄、隣接する安食(あじき)庄辺りには産鉄民(鉄を操る人々)の存在を示す地名が多く、延暦年間(782〜806)創建という古い寺歴を持つ守山区龍泉寺の多羅々(たらら)池は本来多々羅「たたら」と云い、製鉄のフイゴに由来する名 。 
守山区と千種区・名東区の境を流れる香流川は小牧・長久手の戦いのおり流された血で流れが赤く染まり「血流れ川」の転化と云われるが、一帯で行われていた「鉄穴流し(かんながし)」という水を利用した選鉱のため、赤く染まっていた事に由来すると思われ る。天白区の地名の起こり天白社に祀られる「天白神」も一般には農業神と考えられているが、一説に金属神であるとも云われ、天白川最上流部猿投山々麓に祀られている猿投神社は今でも鍛冶・金属業者の参拝が多く、境内の絵馬は鉄鎌を模してい る。 
天白川上流の東山古窯群、猿投山一帯の猿投古窯群、峰を一つ越えた瀬戸の陶磁器、守山区、春日井市の古窯群等、製鉄・陶器造り・炭焼の三つを関連付「陶鉄同源」と云う考えがあり、古い時期よりここら一帯には鉄の技術者が居たと思われ る。 
瀬織津姫は天白神として祭られる神で、「オシラ祭文」の文字は天・白・虫の三字で構成されている。
 
道祖神 どうそしん 
<塞の神(さいのかみ) 
*各地の塞神社、また村の出入り口 村の境界の守り神 
天孫降臨の際に出会った天宇受売神と猿田彦神はこれが縁で結婚し、二人は一緒に道祖神になったと言われる。道祖神は塞の神(さいのかみ)とも言れ、一般に村の外れにあって外部から村に悪い霊が侵入するのを防いでいる。この神は天宇受売神・猿田彦神と結び付けられていない場合でも、しばしば男女神であるようで(伊邪那岐神・伊邪那美神という説もある)、そのいわれは、男女の仲の良い神様が守っていてくれると、そこを通り抜けようとした霊は「邪魔するな」とばかりに突き飛ばされるからとされる。男女神であるが故に、安産と子供の守り神ともされた。ここから道祖神と地蔵との混合も生れた。また道祖神は男女神であることから、しばしば神社には立派な陰陽石が祀られている。道祖神へのお供え物には、紙或は野菜で作った男女の性器の形のものが好まれ、安産祈願・子宝祈願に関わる 。 
天宇受売神・猿田彦神が道祖神であるとされた理由は、猿田彦神が天孫降臨のときに、天と地の境で一行を待っていたためだ。この二人については、猿田彦神は天狗に、天宇受売神はお多福になったという説もある。 
 
道祖神は庚申待ち・庚申講とも結び付けられた。庚申待ちは道教由来の風習で、庚申の日の晩に人間の体の中に住む上尸の虫・中尸の虫・下尸の虫という三尸の虫が天に登って、その人の行状を神様に報告し、悪いことをした分寿命を減らすという言い伝えに基づ く。この虫たちは人が寝ている間に天に登るため、庚申待ちではみんなで猿田彦神社に集まって酒を飲んで徹夜をし、眠らないようにする。庚申の日の次は辛酉の日で、庚・辛・申・酉というのが全て五行の金にあたる。そこで金気が強すぎることを嫌ったものであるとされる。猿田彦神が出てくるのは、申−猿の連想によるものか。地域によっては猿田彦神の代わりに青面金剛を祀る場合もある。青面金剛咒法という秘法があり、これが伝尸病を取り除く効果があるとされ、伝尸と三尸が結びついてなったもの。青面金剛像の下には、しばしば「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が彫られている。これは三尸の虫に悪いところを見られても「見ざる・言わざる・聞かざる」になって、神様には報告しないでくださいとの願いが込められたもの。 
三尸の虫の普段の住処は、上尸の虫は頭に住み目を悪くし皺を増やし髪を白くし、中尸の虫は腸に住み内臓を悪くして悪夢を見させ、下尸の虫は足に住み命を奪い精を悩ますという。三尸の虫が天の登る日が申の日になった背景は、天の神が帝釈天とみなされ、帝釈天のお使いが猿であるためか。 
道祖神の変形で、おんば様・うば様・しょうづか婆さん・味噌嘗め婆さんなどと呼ばれる神様があり、一般に村と山との境に居る。 
道祖神
路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。
道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であると考えられており、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれる。全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、中世まで遡り本小松石の産業が盛んな神奈川県真鶴町や、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野市では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い(真鶴町と安曇野市は友好親善提携が結ばれている)。
各地で様々な呼び名が存在する。道陸神(どうろくじん)、賽の神、障の神、幸の神(さいのかみ、さえのかみ)、タムケノカミなど。秋田県湯沢市付近では仁王さん(におうさん)の名で呼ばれる。
道祖神の起源は不明であるが、『平安遺文』に収録される8世紀半ばの文書には地名・姓としての「道祖」が見られ、『続日本紀』天平勝宝8年(756年)条には人名としての「道祖王」が見られる。
神名としての初見史料は10世紀半ばに編纂された『和名類聚抄』で、11世紀に編纂された『本朝法華験記』には「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されていおり、『今昔物語集』にも同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている。平安時代の『和名抄』にも「道祖」という言葉が出てきており、そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている。13世紀の『宇治拾遺物語』に至り「道祖神」を「だうそじん」と訓じている。後に松尾芭蕉の『奥の細道』の序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない。
道祖神が数多く作られるようになったのは18世紀から19世紀で、新田開発や水路整備が活発に行われていた時期である。 神奈川県真鶴町では特産の本小松石を江戸に運ぶために村の男性たちが海にくり出しており、皆が祈りをこめて道祖神が作られている。
初期は百太夫信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐の神と習合した。ほか、岐の神と同神とされる猿田彦神と習合したり、猿田彦神および彼の妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。集落から村外へ出ていく人の安全を願ったり、悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神として信仰されてきたが、五穀豊穣のほか、夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど「性の神」としても信仰を集めた。また、ときに風邪の神、足の神などとして子供を守る役割をしてきたことから、道祖神のお祭りは、どの地域でも子供が中心となってきた。
道祖神はまた、集落と神域(常世や黄泉の国)を分かち、過って迷い込まない、禍を招き入れないための結界とされている。
種類・形状
道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はない。材質は石で作られたものが多いが、石で作られたものであっても自然石や加工されたもの、玉石など形状は様々である。像の種類も、男神と女神の祝事像や、握手・抱擁・接吻などが描写された像などの双体像、酒気の像、男根石、文字碑など個性的でバラエティに富む。
   単体道祖神
   単体二神道祖神
   球状道祖神
   文字型道祖神
   男根型道祖神
   自然石道祖神
   題目道祖神
   双体道祖神
双体道祖神は一組の人像を並列させた道祖神。「双立道祖神」の呼称も用いられたが、座像や臥像の像も見られることから、「双体道祖神」の呼称が用いられる。双体道祖神は中部・関東地方の長野県・山梨県・群馬県・静岡県・神奈川県に多く分布し、東北地方においても見られる。山間部において濃密に分布する一方で平野・海浜地域では希薄になり、地域的な流行も存在することが指摘される。伊藤堅吉は1961年時点で全国に約3000基を報告しており、紀年銘が確認される中で最古の像は江戸時代初期のものとしている。
   餅つき道祖神
   丸石道祖神
   多重塔道祖神
これらは、石、金属、木、藁、紙などで造られている。
道祖神信仰
道祖神は日本各地に残されており、なかでも長野県や群馬県で多く見られ、特に長野県の安曇野は道祖神が多い土地でよく知られている。 長野県安曇野市には約400体の石像道祖神があり、市町村単位での数が日本一である。同じく長野県松本市でも旧農村部に約370体の石像道祖神があるが、対して旧城下は木像道祖神が中心であった。ほか、長野県辰野町沢底地区には日本最古のものとされる道祖神がある(異説あり)。奈良県明日香村にある飛鳥の石造物(石人像)は飛鳥時代の石造物であるが、道祖神とも呼ばれており、国の重要文化財となっている。
道祖神を祭神としている神社としては、愛知県名古屋市にある洲崎神社が挙げられる。小正月の道祖神祭礼には、かつて甲斐国(現在の山梨県に相当)で行われていた甲府道祖神祭礼や、現在も行われている神奈川県真鶴町(道祖神 (真鶴町))、長野県野沢温泉村の道祖神祭り(国の重要無形民俗文化財に指定されている日本三大火祭りのひとつ)などがある。  
遠津待根神 とおつまちねのかみ 
天之狭霧神の娘。天日原大科度美神と婚姻し、遠津山岬多良斯神を産む。 
神名の由来は不詳。この一族は、霧・津(港湾)・岬と海にちなむ名が三代続いている。
 
年神 とし 
<歳神/大年神/大歳神/正月様/恵方様/歳徳神/年殿(としどん) 
*大歳御祖神社(鶴岡浅間神社)/下谷神社/大歳御親神社/大和(オオヤマト)神社/飛騨一宮水無神社 
農業神、穀物神、五穀を司る神 
年神(としがみ、歳神とも)は神道の神。毎年正月に各家にやってくる来方神。 
大年神と御年神は、神話の系譜では親子の関係とされる。「大」も「御」も神をたたえる語で意味に違いはなく、両神とも基本的に「年神(歳神)」である。年神とは正月に農家などで祀る神で、遠くの他界から決まった時期に人里にやってくる来訪神である。祖霊信仰と結びついて稲作の神として信仰されている。また、この二神は稲荷神社の祭神で、五穀・食物を司る宇迦之御魂神とともに、八百万の神々の中でも代表的な穀物の神である。 
大年神の「年」の字義は「稔(穣)に通じるもので、たとえば五穀の豊穣を願う神事の祈年(トシゴイ)祭、あるいはまた豊年満作のことを祝詞などでは「年よし」「年栄ゆ(トシハユ)」と表現する。このように「年神」は、穀物、特に稲作と深く関係した神霊であり、すなわち稲の豊かな実りを司る神だ。 その御子神とされる御年神は、父神の名を受けたもので、やはり毎年の穀物の実りを司り、豊年満作をもたらす神である。 
大年神(おおとしのかみ)は古事記で大年神、日本書紀に登場しない。須佐之男命と大山津見神の娘の神大市比売命との間に生まれた神 。 
「年」は稲の実りのことで穀物神である。根底にあるのは穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となった。正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのもの。門松は年神が来訪するための依代、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。 
 
年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたためである。柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。 
中世から、都市部で「年神(歳神)」は「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった。徳は得に通じ縁起が良いとされたためである。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言って縁起の良い方角とされるようになった。暦には女神の姿をした歳徳神が描かれているが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。 
 
古事記/須佐之男神(すさのおのかみ)の孫に御年神があり稲の守り神を務める。陰陽家/娑謁羅(しゃから)竜王の娘、女神・頗梨采女(はりさいじょ)をいい元旦に慈悲の姿となって人間界に来訪する神霊。 後に二つに先祖霊が加えられて、年神は、その瑞々(みずみず)しい活力により人間に再生産の力を与え、復活させるとされた。 
門松は年神を家に迎える目印。松は常緑樹で厳寒にも緑を失わず「神待つ木」として、神の降臨する神聖な木となった。樹齢も長く 「松は千歳(せんざい)を契る」といわれる。 
多くは普段からの神棚に新しい注連縄(しめなわ)を張って、ここに年神に留まってもらう。注連縄に囲まれた部分は清浄な神域となる。 
年神の御神体は鏡餅。古代、祭祀に用いられた鏡は現在も神社の御神体である。丸く平らに古式の鏡のように丸められた鏡餅には稲の霊が宿り、鏡開きした餅を食べる者は新しい生命を体内に取り込めるとされた。 
雑煮は年神に供えた餅を下げ色々の具と煮たもの。具は地方によってまちまちで郷土色が現れる。神に捧げたものを人も共に頂くことによって神の霊を頂き神と一体化する 。 
年神に供えものをして年神から新しい魂をもらう。年神への供えものが「お節(せち)」であり、年神から与えられる魂が「お年玉」である。年玉は年魂であり、新しい魂は鏡餅としてかたどられた。 
お節に欠かせない三つの祝い肴が、黒豆と数の子とごまめである。「三つ肴」と呼ぶ。京都では黒豆と数の子とたたきゴボウをいう。黒豆 の黒色が道教では魔除けの色とされる、また、まめに暮らせるように。数の子は子だくさんの、孫繁栄の縁起を祝う。ごまめは「田作り」ともいい田んぼの肥料にイワシを用いたところ、米が五万俵もとれ 、「五万米」(ごまめ)と当てる。一年の豊作を祈るためだ。ゴボウは豊作の年に現れるという黒い瑞鳥を意味し、黒は魔除けの色でもあるから。 
お節も雑煮も、柳の白木でつくった柳箸で頂く。柳は枝が水に浸かって、水の霊気に清められた聖木とするところからだ。また「家内喜」(やなぎ)の字を当ててあやか る意。
 
歳徳神 としとく 
<年徳/歳神/正月さま 
歳徳神は方位神の一つで、その年の福徳を司る吉神。 
牛頭天王の后で八将神の母の頗梨采女(はりさいじょ)であるとか、牛頭天王が須佐之男尊と習合したことから、その妃の櫛稲田姫であるとも言われる。 
恵方 
歳徳神の在する方位を恵方(えほう)、明の方(あきのかた)と言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされる。本命星と恵方が同一になった場合は特に大吉となる。しかし、金神などの凶神が一緒にいる場合は凶方位になる。 
初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣があった(恵方詣り)。関西では、立春の前日の節分の日に恵方を向いて太巻き(恵方巻)を丸かじりする習慣がある。 
歳徳神の在する方位(すなわち恵方)は年の十干によって決まる。 
甲・己の年/寅と卯の間(甲の方、東微北)  
乙・庚の年/申と酉の間(庚の方、西微南)  
丙・辛・戊・癸の年/巳と午の間(丙の方、南微東)  
丁・壬の年/亥と子の間(壬の方、北微西)  
櫛稲田姫命(歳徳神)  
神話では素戔嗚尊の后神であり、魔訶陀国(印度)から南海の沙竭羅と呼ばれる竜宮に住む竜王の三女で、頗梨釆女と呼ばれ、「容貌は美麗で、忍辱と慈悲を体現している」とあり、暦と方位の神で、亦の名を歳徳神ともいう。八柱御子神(八将神)の母神で、何ごとに対しても神秘的な作用を及ぼし、この神のいる方位はいかなる場合に用いても障りがなく、福が集まる「恵方」とされる。歳神や年徳とも呼ばれ、選んで行えばすべて大吉運となる。  
豊雲野神 ともぐもぬのかみ 
<豊国主尊/豊組野尊/豊国野尊/葉木国野尊/国見野尊 
神世七代の神々の一柱。神名は、大地創成の初めのころ、浮脂の如く漂っていたものが、しだいに固まる状態を表したもの。豊の大の意で、雲は籠る・組むに置き換えられる字で、群がり固まるという意である。本居宣長 ・古事記伝/トヨグモヌ神は一名を豊国主尊といわれ、豊かに富み足りた国の意味を表す神としている。つまり、豊は物の饒にして充ち足りた意の称後、勘渟のクムは「古事記」に雲野とあるので、クム・クモ・クミ・クヒ・コリなどと用いて、物の集まり凝る意と、初めて芽す意とをかねた語である。また勘渟のヌは日本書紀より、主の意であろうと論じている。このほかに豊は美称で、クム・クモ・クミなど「木間」すなわち木の生いたる地区という意があり、樹木の生えている地区を表す神名でとする説もある。
戸山津見神 とやまつみのかみ 
イザナギ神が御子・カグツチ神を斬ったとき、その右足に化生した神。 
母神・イザナミ神が火の神カグツチ神を生み、それがもとで亡くなったのに怒った父神・イザナギ神が、天之尾羽張(別名、伊都之尾羽張)と呼ばれる剣で、火の神の首を斬 ったとき、カグツチ神の死体から生まれた神々の一柱である。右の足より化生した神がトヤマツミ神で、戸山は門山でもあり外山でもあり奥山に対しての神名という。
 
豊受比売 
(豊受大神)
とようけひめ(とよけのおおかみ) 
<豊宇気毘売神/豊受媛神/豊由宇気神/大物忌神/豊岡姫 
*伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)/奈具社(京都府竹野郡)/篭神社(京都府宮津市)/全国の稲荷神社 
神話に登場する神。 
古事記1/イザナミの子のワクムスビの子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座した。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神。後に他の食物神のオオゲツヒメ・ウケモチなどと同様に、稲荷神(ウカノミタマ)と習合し同一視されるようになった。 
古事記2/伊邪那美神が死んだ時に産まれた和久産巣日神の娘。天孫降臨の段で、邇邇芸命に付き従って地上に降りた 。豊受大神は伊勢神宮の外宮の神。豊受大神は「うけ・うか」という音の共通性から、食物神であり稲荷神社の御祭神、宇迦之御魂神としばしば同一視される。 
伊勢神宮外宮社伝/雄略天皇の夢枕にアマテラスが現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われ、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。 
丹後国風土記逸文・奈具社の縁起/丹波郡比治里の比沼真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人の羽衣を老夫婦が隠してしまったので天に帰れなくなった。そのためその老夫婦の家に住んでいたが、10年後に家を追い出されてしまい、あちこち漂泊した末に未奈具村に至ってそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売神であるという。 
止由気宮儀式帳/雄略天皇の22年、天照大神が天皇の夢枕に立たれ「私は高天原にいた時に、求めていた宮処に鎮まることができた。しかし一所に居るのはまことに苦しい。大御食を安らかに召し上がることができない。丹波国比治の真奈井原から止由気大神を迎えて欲しい 」と。天皇はたたぢに山田原の地に立派な社殿を営み、豊受大神宮を迎え祭祀した。 
丹後国風土記/比治山の頂上に真奈井という井戸があり、ここに天女が8人てきて水浴びをした。その時、和奈佐老夫、和奈佐老婦という老夫婦が、ひとりの天女の衣を隠してしまった。天女は天に帰ることができなくなり、やむなく夫婦の娘になった。娘は酒を造るのが上手で、高く売れ、老夫婦は金持ちになった。すると老夫婦は娘が邪魔になり、追い出してしまった。 娘は悲しんでその村を去り、奈具の村に至りそこで暮らすようになった。この娘が豊宇賀能売命である。  
五行の舞 
五穀豊穣を祈願、また五体健全を祈願する舞で執物である。幣に五色の色分がある如く、それぞれ五種の配置がある。五人の若者(あるいは乙女)が五色の幣を持って五ケ所に別れ、舞ながら互に位置を変え、前後に、また元の位置に帰り終わりであるが、最初と最後の位置は神座に向かって、右前が青、手前が赤、中央が黄、向かって左前方が白、手前が黒(紫)の配置である。何故か神楽の最後に舞う。
   
星辰信仰 
伊勢神宮は内宮と外宮がある。なんなんだろう?という話はずっとあって、神主家も内宮派と外宮派の対立があって、 渡会氏による外宮優位の伊勢神道なんてものも生まれます。 
普通は皇祖神の天照大神を祀る内宮が上位であるはずですが、同列と思えるくらいに外宮が重視されているのです。 
「外宮先祭」という言葉があり、重要な祭りは全てまず外宮からという伝統があるそうです。 
この外宮に祀られる豊受大神とは何なの?という話ですが、陰陽道や星辰信仰から読み解こうという説を知っておもしろく思った。 
民俗学者の吉野裕子氏の著書「神々の誕生」「隠された神々」で、伊勢信仰には陰陽五行説、特に太一信仰が大きく関わってると指摘する。そして内宮は太一(=北極星を神格化した天帝)、外宮は北斗七星を祀っているという。 
一見神社内に太一の影は無いが、伊勢神宮以外の伊勢周辺には田植え祭でも神社の祭礼でも太一の幟が舞う。伊勢神宮に関しても、遷宮の際の木を運ぶ際には太一の木札が貼られ、無関係ではない。 
さらにこれを受けて、青ヶ島の民間信仰研究などで知られる菅田正昭氏が、このあたりを日本神話から更に突っ込んだ解釈を述べている。 
外宮のトヨウケあるいはトユケの神を、北斗七星の第六星のわきにある「輔星」とする説である。(和名でソヘボシという) 
トユケの神は「古事記」では高天原から天降った神ということしか分からないが、「丹後国風土記」にはこの神の出自が詳しく載っているそうである。それによると 
「丹後国丹波郡の比治山の山頂に真奈井と呼ばれる泉があった。ある日そこへ8人の天女が水浴をするため舞い降りた。 
そこに和奈佐という名の老夫婦があらわれて、一人の天女の羽衣を隠し、天に帰れなくなった天女を養女にして10年以上一緒に生活した。 
その間、天女は自分の口で穀物を噛み砕いて唾液を混ぜて醸した、万病に効く薬を作って老夫婦を富ませた。 
しかし、のちに家を追われ、竹野郡の船木の里の奈具の村に留まった。これが竹野郡の奈具社の豊宇賀能売命である」 
ここではトウケの神は、元々天女で一人地上に残った者であるという。 
さらに「止由気儀式帳」(804)によれば、このトユケの神が、丹波国から伊勢に迎えられたのであるという。 
この8人天女、7人の帰った天女はいかにも北斗七星っぽい感じではある。 
では8番目の天女であるトユケは一体?となると、それは輔星であろうという。 
「北斗七星はこの星を入れると八個で、陰陽道ではこの星を重視し、金輪星といって信仰の対象としている」 
この金輪星=ソヘボシが8人の天女の一番下の妹トユケであるというのだ。 
これではトユケは北斗七星の下の存在になってしまうが、地球の回転軸が逆の方向に触れるとちょうどこの輔星が未来の北極星になるらしい。つまり未来の天帝=太一の座にトユケが座るのである。 
つまり、太一信仰が隠れた伊勢の信仰において、トユケの神は、仏教で言う弥勒菩薩のような存在として位置付けられているのではないかと。 
なんという新しい視点だ!おもしろい。 
「止由気儀式帳」の書かれた時代は陰陽道盛んな時期であり、この時期に北極星信仰を取り入れた陰陽道理論で伊勢の信仰が整えられたということは十分ありうるように思う。 
その中で、7人の天女と未来の天帝となるソヘボシ=トユケの伝説を踏まえれば、現太一と未来の太一という理論はおおいに在りうるだろう。 
伊勢の遷宮という特異な神事も、そういう星の循環理論の意味だとすれば非常にすっきりするかもしれない。 
吉野裕子氏は内宮=太一、外宮=北斗七星説をとなえ、菅田正昭氏はトユケの話から外宮=太一説をとなえる。 
私の考えだと、両者の折衷(というか菅田説か)で、もっとシンプルに内宮=太一、外宮=未来の太一ってのはどうだろう。 
もっといえば両者が互いに太一の地位を譲り合うような循環理論が遷宮にはそもそもあったのかもしれない。なぜ20年ごとに立て替える必要があるのか? 
持統天皇の時代に第一回が行われた遷宮。これも呪術的意味があると考えたほうがいいと思うが、伊勢の内宮外宮に太一の交代という理論があったとすると、関係ある可能性もあるのではないか。 
あれは太一の地位が、内宮と外宮の間で交代することを示す儀式なのかもしれない。 
古代盛んだった陰陽道や星辰信仰というエッセンス、当然伊勢の信仰や儀式の成り立ちに関与していないとは考えにくいが、ほとんどそのあたりはスルーされてきているように思う。 
吉野氏の着眼点は意外と鋭いのではないでしょうか。
 
豊雲野神 とよぐもぬのかみ 
<豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)/豊国主尊(とよくにぬしのみこと)/豊組野尊(とよくむののみこと)/豊香節野尊(とよかぶののみこと)/浮経野豊買尊(うかぶののとよかうのみこと)/豊国野尊(とよくにののみこと)/豊齧野尊(とよかぶののみこと)/葉木国野尊(はこくにののみこと)/見野尊(みののみこと) 
*熊野速玉大社(第九殿/和歌山県新宮市)  
日本神話、神代七代の一人。性のない独り神。「とよ」は美称。名前から「空」や「雲」を守護する神である。 
神世七代(かみよななよ) 
国之常立神(くにのとこたち)、次に豊雲野神(とよくもの)。此の二柱の神も亦、独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して隠身(かくりみ)なりき。次に成れる神の名は、宇比地邇神(うひぢに)、次に妹須比智邇神(いもすひぢに)。次に角杙神(つのぐい)、次に妹活杙神(いもいくぐい)。次に意富斗能地神(おほとのぢ)、次に妹大斗乃弁神(いもおほとのべ)。次に於母陀流神(おもだる)、次に妹阿夜訶志古泥神(いもあやかしこね)。次に伊邪那岐神(いざなぎ)、次に妹伊邪那美神(いもいざなみ)。上(かみ)の件(くだり)の国之常立神以下(よりしも)、伊邪那美神以前(よりさき)を、并(あは)せて神世七代と称(い)ふ。 
国之常立神は天之常立神と対の神で、国土が永久に成立したことを現す神。 
豊雲野神は雲のような状態を現す、国の栄えを現すものか。 
宇比地邇神は書記には泥土煮とあり、泥の意味。 
妹須比智邇神は宇比地邇神と対をなす神で、書記には沙土煮とあり、砂、土を現したもの。 
角杙神、妹活杙神は対をなす神で、杭の意味か。「クム」とは芽ぐむ、涙ぐむの「くむ」の意味で、「角ぐむ」とは物が発生する兆しの意味か。 
意富斗能地神、妹大斗乃弁神は対をなす神で「ヂ」は男「ベ」は女を現す。地所が成立した意味。 
於母陀流神は書記に面足尊とあり、面(大地)完成した意味。 
妹阿夜訶志古泥神は於母陀流神と対をなす神である。 
伊邪那岐神、伊邪那美神は対になる神で「イザ」は「誘う」の意味か、「聖」か「キ」「ミ」は男と女を現している。 
神世七代の十二神。初めの二柱の独神をそれぞれ一代、残りの十神は対になり、二神で一代となるる。 
 
神名の意味/トヨは大きい、クモは籠る、組むに置き換えられる字で、よせ集まり固まるの意。大地創世の時に、浮脂の如く漂っていたものが、次第に固まる状態を表した神ということ と考えられる。古事記/「造化三神」といわれる天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神が最初に出現したとなっているが、日本書紀/国常立尊、国狭槌尊に続いて生まれた三番目の神として記されており、この三柱の神は陽気だけをうけて、ひとりでに生じた。だから純粋な男性神であったとある。 
豊玉姫神 とよたまひめのかみ 
*豊玉姫神社(鹿児島県知覧町)/高忍日売神社(愛媛県松前町)/海津神社(対馬峰町)/鹿児島神宮などの彦穂々手耳神を祭る神社 
海の宮のお姫様 
豊玉姫神は山幸彦とともに知られ、天津日高日子穂穂手見命の妃で、海の神様の娘。鵜葺屋葺不合命の母、神武天皇の祖母に当たる。 
彦穂穂手見命(山幸彦)が兄の火照命(海幸彦)の釣り針を無くしたため、それを探しに海に出たときに知り合い結婚した。豊玉姫神はしばしば龍宮の乙姫と同一視され、また海の神の娘ということで、雨乞い・止雨の神として信仰もあり、また孫が神武天皇になったということで、子孫繁栄の神としても崇敬されてい る。安産や縁結びの神としての信仰も篤い。一般には、彦穂穂手見命といっしょに祭られている。
 
鳥耳神 とりみみのかみ 
八島牟遅能神の娘で、大国主神のお妃。 
古事記/トリミミ神はヤシマムヂノ神の娘で、オオクニヌシ神とトリミミ神が婚姻をして生まれた御子が鳥鳴海神であるとしている。本居宣長・古事記伝/トリナルミ神のあとに建御名方神を産む、とあったのが欠落したもの説いている。これは国譲りの神話の中で事代主神とともにタケミナカタ神が中心となっていることから宣長が類推したの もの。旧事記では、タケミナカタ神は沼河比売神との間にでてきた御子としている。 
 
 
  うえ かき  
 


  
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