八百万の神 [なにぬねの] 
                      
 
  うえ かき  
 
泣澤女神 なきさわめのかみ 
降雨の神、慈雨の神 
伊弉冉命は大火傷が元でお亡くなり、伊弉諾命は大層お嘆きになった時、その涙の滴から泣澤女神がお生まれた。海神の大綿津見神の妹神。 
泣澤女神はどこから来た 
伊邪那岐命は、迦具土神と愛する伊邪那美命を交換したようなものと言って嘆く。枕辺に腹這い、足の方に腹這って泣いた。 
偲び泣くことを一種の儀式にし、哀悼の意を表す。葬式にあたって泣く役割の女は、日本にもあるようで、日本書紀に天稚彦(あめわかひこ)が死んだとき、鷦鷯(さざき)を以て哭者(なきめ)としたとあ る。ほかにも、欽明天皇32年に、欽明天皇の死にあたって、新羅が弔の使いを遣わして殯に「奉哀る(みねたてまつる)」としている。天武天皇元年には、天智天皇の死を知った唐の官人郭務宗(かくむそう)は、筑紫にいて3回「挙哀(みねたてまつる)」とあ る。泣くことを儀式とした人は新羅や中国の人だったようだ。 
天武天皇朱鳥元年に、天武天皇の死にあたって家臣が「発哭(みねたてまつる)」ことが記されている。このころ日本にも哭き女の風習が広まっていたのか。ただ、新羅の王子金霜林(こむそうりむ)は、筑紫においてやはり3回「発哭」し た(持統天皇元年)。 
哭女(なきめ)の風習は、中国や新羅からやって来た。泣澤女神は新羅からやって来た神では。
 
邇芸速日命 にぎはやひ 
<神饒速日命/饒速日命/速日命/櫛玉饒速日命 
饒速の太陽の意と考えられることから天つ神。 
天忍穂耳尊の子、神武天皇と同族。物部氏の祖神であり、この邇芸速日命の帰順によって伊波礼毘古命の東征は成就し、畝傍の橿原宮で即位し神武天皇となる。帰順の際、天つ神の子であることを証する天つ瑞(神宝)を献上したとされ、これは国譲り神話の再現と考えられる。 
この神宝は、旧事日本紀よると天璽端宝(アマツシルシノミズタカラ)ともいわれ、澳都鏡(オキツカガミ)、辺都鏡(ヘツカガミ)、八握剣(ヤツカノツルギ)、生玉(イクタマ)、死反玉(マガガエシノタマ)、足玉(タルタマ)、道返玉(チガエシノタマ)、蛇比礼(ヘビノヒレ)、蜂比礼(ハチノヒレ)、品物比礼(クサグサノヒレ)という十種である。 
登美毘古(奈良県生駒郡富雄村の土豪、先住民族)の妹・登美夜毘売を妻にし、宇摩志麻遅命(物部連、穂積臣、采女臣の祖)を生む。物部連は大伴氏と並んで朝廷の軍事を掌った伴造氏族。呪術・軍事に長じ、刑の執行者でもあった。「紀」では 長髄彦の妹・三炊屋姫を娶って、可美真手を生んだという。
 
饒速日命 にぎはやひのみこと 
呪術をつかさどる神 
神武東征に先立ち、ニギハヤヒ神は天磐船に乗って天降る。大和地方を支配していた豪族長髄彦のもとに身を寄せ、その妹登美夜須毘売と結婚して宇摩志麻遅神をもうけ、一族の君主として光臨した。神武天皇が東征してきたとき、頑強に反抗するナガスネヒコを殺して大和の支配地を献上。これによ り大和国は天皇の統治するところとなった。このように、天の命を受けて神武天皇の大和平定を援助したが、最初に天下りしたとき、天照大神から授かったのが十種の神宝だったと「旧事本紀」に ある。神宝とは、澳都鏡、辺都鏡、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道返玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼という10種。大別すれば、鏡、剣、玉という三種の神器の構成に比礼がプラスされている形になる。古来、鏡、剣、玉は、大いなる呪力を持つ祭器とされてきたものである。鏡は物事の本当の姿を映しだし繁栄させる力、剣は邪悪なものを退ける力、玉は生命力をもたらし、肉体を充足させ、あるいは死者を蘇らせて魂を呼び出す、といった力を発揮するものだったよう だ。比礼とは古来、女性が正装するときに肩に掛ける薄くて細長い布(領巾)のことで、中国の民族舞踊などに見かけるもの。昔から比礼を振ると災いを祓う呪力が生まれると信じられていた。神宝は物部氏の祖神とされるニギハヤヒ神の息子のウマシマジ神が、神武天皇に献上。神宝の呪力によって天皇の健康を祈ったといい、宮廷での呪術祭祀が、宮廷で行われるようになった鎮魂祭の起源とされる。ニギハヤヒ神を遠祖とする物部氏は、古代の有力氏族で、宮廷の鎮魂祭・大嘗祀を管理する立場にあ り、神宝を所有する神のイメージへとつながったのだろう。十種の神宝という呪術祭祀の道具を支配するニギハヤヒ神、受け継いだ息子のウマシマジ神は、死者を生き返らせたり、去っていこうとする魂を呼び戻したりする力を持ってい たようだ。 
邇邇芸命 ににぎのみこと 
<瓊瓊杵尊 
*霧島神宮(鹿児島県)/真山神社(男鹿市) 
天孫降臨の主役 
天照大神の孫で、神武天皇の曾祖父にあたる。古事記/邇邇芸命(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命/あめにきし・くににきし・あまつひこ・ひこほの・ににぎのみこと)、日本書紀/瓊瓊杵尊(天饒石国石饒天津彦火瓊瓊杵尊/あめにぎし・くににぎし・あまつひこ・ほの・ににぎのみこと)と書かれてい る。母は高産霊神の娘の栲幡千々姫(萬幡豊秋津師比売命)で、葛城の高天彦神社や伊勢の椿大神社などに祭られている。兄弟の火明命は尾張連の祖。天孫降臨によって日向の高千穂の峰に降臨した 、現在その高千穂の峰に天逆鉾が刺さっている。大山祇神の娘・木花咲耶姫と結婚して、火照命・火須勢理命・火遠理命の3兄弟をなした。迩迩芸命の降臨時期は、日本書紀 で神武天皇の東征が始まる179万2470余年と書いてい る。
 
丹生都比売大神 にぶつひめ/にうつひめのおおかみ 
*丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野) 
丹生都比売神社 
祭神/丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)〔丹生明神〕/高野御子大神(たかのみこのおおかみ)〔狩場明神〕/大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)〔気比明神〕/市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)〔厳島明神〕 
日本最古の祝詞のひとつ「丹生大明神告門」/丹生都比売大神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹神で、紀ノ川流域の(かつらぎ町)三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を伝えられ、この天野の地に鎮座された。播磨の国風土記/神功皇后の朝鮮出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船をすべて朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な神領を寄進されたとある。 
丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに「丹生」の名前がある。朱砂を精錬すると水銀となる。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を採掘する古代の一族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は88社の総本社である。 
御子の高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師空海の前に、白と黒の犬を連れた狩人に化身して現れ、神社へ案内しさらに空海を高野山へ導いたと今昔物語にある。 
空海は1200年前、唐の国から新しい仏教を伝え、広く一般に布教するために、丹生都比売大神のご守護を受けて、神々の住む山を借受け、真言密教の総本山高野山を開いた。古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、当社と高野山において、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されていった。これが神仏融合のはじまりである。 
 
丹生というのは、白粉や染料の原料となる水銀または鉛のことで、また、水銀を含む赤土のことを言う。水銀の産地に丹生の地名が多い 。 
丹生都比売神社は、もともとは丹生の発掘に関わった氏族の氏神であったと推察される。この神社は元々丹生川の水源地の筒香にあったが、吉野の丹生川上水分峯、大和の十市・巨勢・宇智、紀伊の伊都郡・那賀郡の各地を経て、現社地の天野原に鎮まったと伝えられる。天野原は貴志川の水源地の一つである。このことから、水分(みくまり)の神とも言われ、水を与え、水の配分を司った神社であった 。 
日本書紀にみる神武東遷の際、部隊は紀伊の名草戸畔を討ってから紀伊水道を南下したが、地元では紀ノ川をさかのぼり、吉野川の下流に出たのではないかと伝えられる。丹敷戸畔を討つとあるが、これを「にしき」と読むのか「にふ」と見るかで、 丹敷戸畔を奉ずる人々の生産物が錦か水銀かとなる。水銀で磨いた銅鏡の輝きは美しく、日の神の後裔を新たに名乗るにはうってつけの材料であった。赤土からは鉄もとれる。神武が入手すべき戦略物質は「水銀」「鉄」であっただろう 、丹生都比売命の所有する金属がねらわれたのである。 
神武に討たれた丹敷戸畔は丹生戸畔のことであり、祭神の丹生都比売神をこの丹敷戸畔を祀ったとする説がある。この伊都郡には丹生神社が53社ある。水銀の採掘にかかわった丹生氏の勢力、丹敷戸畔の存在が大きいものであった事を示 す。 
祭神の丹生都比売神は、天照大神の妹または子という稚日女神とされ、天野明神と称された。また四殿舎(四宮)に分かれていたので、丹生四所大明神とも称された。稚日女命が天照大神の妹とされたのは、大和王権とのつながりができた際に生じた伝承であろう 。  
社伝/応神天皇が親から丹生大神を祭った。はじめ記ノ川の支流丹生川の水源地富貴郷に鎮座し、真言宗の祖である空海が高野山を開くにあたって、丹生都比売神社を地主神とし、現社地に遷したと伝える。高野山では丹生都比売神社を丹生(たんじょう)神という。 
 
西暦270年、応神天皇によって丹生郡比売神が、天野の里に祀られ、その後弘仁7年(816)空海が天野の社のそばに曼陀羅院を建て、そこを起点として高野山を開いた。弘仁10年、丹生・高野のニつの神が大師によって高野山に勧請され、天野の祀は高野山の地主神として祀られた。 
真言密教の高野山にも栄枯盛衰があった。争い、大火等によりニ度の荒廃があった。延喜16年(916)より5年間、長保3年(1001)より15年間の高野山は人の住める状態でなく、その間僧は天野社の神宮寺、山王院に住居し、夏だけ高野山に通い大師を供養した。この荒廃期、高野山の復興に努めたのが天野検校と言われた雅真僧都と祈親上人で あった。その後、源頼朝の子、行勝上人により、気比明神と厳島明神が勧請され、天野社も四社となった。 
丹生の「丹」とは丹砂あるいは水銀のこと。水銀は自然に採取される場合と、丹砂を蒸留して精製する場合がある。丹砂は朱砂・辰砂ともいい、そのまま朱の原料となる。古代において、魔除・仏像などの金メッキ・染料・顔料に使用され、重要な資源であった。本来、丹生都比売は、その鉱物資源採取を生業とする丹生氏の奉じる神であった。 
道教の思想の中心は「道」、技術の中心は「丹」である。丹には、内丹と外丹があり、内丹は呼吸法や瞑想で自己の中に「丹」を精製し不老長寿を目指す。外丹は服薬で仙人(不老長寿)になるもので、主に水銀を用いる。中国の歴代皇帝の中には水銀中毒で死んだものも数多くいる。それほど水銀は重要なものだった。
 
贄持之子 にへもつのこ 
神武天皇東征の際、吉野川で簗を伏せて魚を取っていた国つ神。阿陀の鵜養の祖。贄の内容は鮎で、神饌の魚。贄を持ち貢上する者。 
神武前紀に「苞苴担・ほうしょたん」を「珥倍毛莵・にへもつ」と訓注している。「苞苴」の「苞」は「つと」(包んだものの意から、その土地の産物などをみやげものにする場合にいう)、「苴」は「下に敷く草」で、物を包む藁などをいう。「担」は「持つ」意。「贄」は土地の産物を言う。 
稲などの五穀を始め、野山河海の産物(鳥獣・魚貝・塩藻など)をさして言ったのが、のちに、五穀以外の産物を朝廷に貢上する場合に言うようになった。その贄を貢上する者を「子」と称した 。 
庭高津日神 にわたかつひのかみ 
<
庭津日神 
大年神の御子。母は天知迦流美豆比売。兄の庭津日神と同じように、神徳ありということからつけられた神名で、高は特に優れていることにより付けられたもの 。家屋の庭園の守護神とされる。古事記/オオトシ神とアメシルカルミヅヒメ神は結婚して10人の御子が生まれた。庭津日神と庭高津日神の二神は同義の神で「古史伝」では奥津日子比売の二竈神と同名同神としている。古事記伝/庭は屋庭で、日は産巣日(産霊)のビと同じで屋敷の守護神としている。
布忍富鳥鳴海神 ぬのしとみとりなるみのかみ 
美呂波神の御子。母は敷山主神の娘である青沼馬沼押比売。大国主神の裔孫。 
古事記によるとシキヤマヌシ神の女・アオヌマヌオシヒメ神とミロナミ神が婚姻して産まれた神。この一族の三神も、神名の由来はよくわからないが、山→沼→海と自然界の上から下へ流れを描いていることはわか る。鳥鳴海はトリナルミ神とあり、諏訪大社の祭神である建御名方命に擬せらている。
 
根柝神  ねさくのかみ 
イザナミの死後、イザナギの身より生まれた神々の一柱。イザナギが十拳の剣を抜いて、愛妻・イザナミの死因となった迦具土神の頸を斬ったときにその剣の先についた血がたくさんの磐石に付いてできた三神の一柱。 
石柝神・根柝神の二神名は「石根」を分けて二神としたと考えられる。ネは石根のネであり、サクは岩に凸凹のあることであるという。柝は祝詞のなかに「岩根木根履みさくてみ」とあるサクミと同義語で、磐に凸凹のあることをいったもの 。すなわち岩の神の意味である。 
日本書紀には磐筒男神即是経津主神之祖也とある。 
 
 
  うえ かき  
 


  
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