八百万の神 [まみむめも] 
                      
 
  うえ かき  
 
招き猫 まねきねこ 
人やお宝を招く 
9月29日は「来る福」で招き猫の日。招き猫は前足を片方あげて座った焼物の猫の人形、左手を上げるのは人を招き、右手を上げるのは金を招くと言われる。白いものは開運、黒いものは厄除ともいう。 
ある時、彦根藩主の井伊直孝が猫に誘われるように、豪徳寺(世田谷)の境内に入ると突然雨が降ってきた。おかげで雨に濡れずにすんだ井伊直孝が猫を大事にしたのが発端と言われ、またこれを縁に井伊家がここを菩提寺と し、豪徳寺がその話を元に猫を描いた御札を出したのが招き猫の原型である。豪徳寺には猫塚もある。 
薄雲という遊女の話。薄雲は信州埴科の百姓清左衛門の娘で、身売りして遊女になり、美人だったため京町1丁目の三浦屋四郎左衛門お抱えの太夫となり吉原で一二を争う までになった。薄雲が大の猫好きでいつも猫を抱いて道中していたが、ある時可愛がっていた猫が化け猫と間違えられ殺されるという事件があった。盛大な葬式をして道哲寺に葬り、その塚が関東大震災の時まで残っていた。気落ちしていた薄雲を慰めようと 、馴染の客で日本橋で唐物屋をしていたものが、長崎から伽羅の名木を取り寄せ、愛猫の姿を彫らせて贈った。薄雲は大層喜び、その猫人形をいつも抱いていたとのこと。これが評判にな り、真似して猫の人形を彫る者が相次ぎ、それが水商売の女たちに人気にな り全国的に売れたと言う。
 
摩利支天 まりしてん 
*宝泉寺(金沢)/徳大寺(上野)/建仁寺塔頭禅居庵(ぜんきょあん・京都)/全国の日の先神社(日先神社)
 
  1  
(Skt:Mariciの音写、訳:陽炎・威光) 仏教の守護神である天部の一柱。日天の眷属である。原語のMariciは、太陽や月の光線を意味する。摩利支天は陽炎(かげろう)を神格化したものである。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。  
護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めた。楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。また、毛利元就は「摩利支天の旗」を旗印として用いた。山本勘助や前田利家といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられている。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されている。  
日本の山岳信仰の対象となった山のうちの一峰が摩利支天と呼ばれている場合があり、その実例として、木曽御嶽山(摩利支天山)、乗鞍岳(摩利支天岳)、甲斐駒ヶ岳があげられる。  
タイ捨流剣術では、現在でもなお、「タイ捨流忍心術」摩利支天経を唱えてから稽古や演武に入る。  
像容は元来二臂の女神像であるが、男神像としても造られるようになった。三面六臂または三面八臂で月と猪に乗る姿などもある。  
2  
摩利支(マリシ)、末利支(マリシ)、末里支(マリシ)と音写します。摩利支天は、末利支天菩薩(マリシテンボサツ)、末利支提婆(マリシダイバ)とも称されています。摩利支は、陽炎(カゲロウ)とか威光と漢訳されています。陽炎を神格化し、あるいは陽炎の捉えがたいことに喩えて、この天を摩利支天と称します。梵天の子あるいは日天の妃とも称され、よく身を隠し、悪事災難を除いて利益を増す神としてインドの民間に信仰されていました。  
『摩利支天経』には、「その時、世尊は比丘に告ぐ。日の前に天あり、摩利支と名づく。大神通自在の法あり、常に日 の前を行き、日は彼を見ざるも彼れよく日を見る。人のよく見るなく、人のよく知るなく、人のよく捉えるなく、人のよく害するなく、人のよくだまする事な く、人のよく縛するなく、人のよくその財物を債するなく、人のよく罰するなく、怨家もよくその便りを得るを畏れず」と、摩利支天の功徳が説かれています。また、摩利支天の名を知る人にもまた、この徳が自ら備わると言います。  
3  
その名を摩利支天(まりしてん)という。我が国では護身や勝利、開運などをつかさどる仏教の護法神として信仰を集めている。しかしどちらかというとなじみの薄い存在なので、はじめてその名を耳にする力も少なくなかろう。また、亥年の守り神でもある。なぜならご覧の通りイノシシの背に乗っているからだ。 今年は亥年。そこでイノシシにゆかりの深いこの摩利支天の謎にせまってみたい。摩利支天とはいったいどんな神なのだろうか。
 
  イノシシに乗って素早く移動し、しかもすがたが小さく実体が見えない。すなわち傷つきにくいことから我が国では戦場の護神として武士や忍者が信仰し、江戸時代には蓄財福徳の神として大黒天や弁才天とともに人気があったという。山岳信仰や剣術などと結びついて地名や石碑などにもその名を残しており、名前を闘いてピンときた方もあるかもしれない。  
その直接的なルーツは威光・陽炎(かげろう)を神格化した古代インドの女神マーリーチーに出来する。マーリーチーとはサンスクリット語で日月の光を意味する。創造神プラフマー(梵天)の子といわれ、その昔インドラ(帝釈天)とアスラ(阿修羅)とが戦ったときにはインドラの支配する月と太陽の光をさえぎりアスラの攻撃から守ったという。  
摩利支天の功徳を述べた仏教経典にはおおよそ次のように説かれている。この天は常に太陽の前にいて、その神通力ゆえに何人たりともその姿を見ることも実体を捉えることもできない。そしてこの天に帰依すればあらゆる厄難からその身を護ってくれる。また像を彫る際にはできるだけ小さく作る方が望ましく、そして用足し以外は肌身離さず持ち歩かねばならないという。  
摩利支天のイメージがこれらの経典によって確立されるまでには長い道のりがある。古代インドの太陽神スーリヤ(日天)などを経てイランの神々にまで遡る可能性があるというのでそのルーツは意外と深い。  
イノシシが意味するもの  
摩利支天はイノシシの背に乗る唯一の護法神である。また三つの顔を持つ摩利支天はそのうちの一面がイノシシの顔になっている。いったい何ゆえに摩利支天とイノシシが結びつくのだろうか。  
摩利支天の素早く疾駆するさまをイノシシに喩えたというのが一見まっとうな理由のように思える。現に各寺院でもイノシシは摩利支天の眷属であり、智慧の迅速さや勇敢さをあらわすものと説明される。しかし経軌の中には「猪車に乗りて立つこと舞踏の如し(『大摩里支菩薩経』)などと説明されることもあるが基本的にあまりイノシシのことは詳しく記されていない。摩利支天が日本にもたらされた後にこのように理解されていったのかもしれない。  
おそらく両者のつきあいは経典の成立よりもはるかに時代を遡らなければその源泉に辿り着くことはできないのではないか。それに多くの日本人が抱くイノシシのイメージが普遍的なものであるとも限らない。そこでもう少しこの問題を掘り下げてみよう。  
摩利支天のふるさとインドや西アジアでもイノシシ(野猪)は古くからなじみの深い動物だったようで、森に住むイノシシは古くから狩猟の獲物とされ、しばしば神話や美術工芸品のモチーフにも登場する。古代インドでは、イノシシ(ヴァラーハ)は根本神ヴィシュヌの化身のひとつでもあった。さまざまな姿に変化したヴィシュヌはイノシシに姿を変え、海に沈んでいた大地を救いあげたという。マーリーチー(摩利支天)は、このヴィシュヌのへそに芽生えた蓮から生まれた創造神ブラフマー(梵天)の子だといわれる。イラン神話の英雄神ウルスラグナ(バフラーム)もまたヴィシュヌのようにイノシシに姿を変えて光明神ミスラを先導したといわれる。こうした偉大な神の化身と摩利支天とを結ぴつけることで暗にその出自の正統性を強調しようとしていたのかもしれない。あるいは摩利支天が光明を司ることから西アジアの光明神との関わりが深く、またヴァラーハという語が水に関わる神を指すことなどから摩利支天とイノシシとは水と光明を通じて結ばれたのではないかとの指摘もある。このように摩利支天とイノシシとのつきあいは古く、古代インドやイラン神話にまで遡っていくのである。  
摩利支天のかたちに込められた意味  
摩利支天の像を造るにあたっては、経軌にもとづくかたちの制約はそれほど受けなかったようで、その姿は多様である。七頭のイノシシの背に坐る場合もあればただ一頭のイノシシにまたがったり三日月の上に立つこともある。三面六臂(さんめんろっぴ)あるいは八将という異形のすがたであらわさたり、我々と同じように二本の腕と一つの顔を持つ摩利支天もいる。さらに女神でなく男神のすがたであらわされることも少なくない。  
宗教に関わるイメージ(偶像)にはそれぞれのかたちに意味があり、イメージの出自や役割などが注意深く細部に到るまで反映されている。それを読み解く方法論をイコノグラフィー(図像学)とよぶ。こうした手法によって摩利支天とイノシシとの関わりを考えてみたわけだが、それ以外にも摩利支天のかたちにはさまざまな意味が込められている。例えば、摩利支天のアトリビュート(持物)である針と糸は、『大摩里支菩薩経』に悪口や讒言を縫い込めるための道具であると説かれており、そこには懲罰者としてのイメージが投影される。  
弓矢は暗黒を引き裂いて光明をもたらす象徴とも解釈されている。古くは太陽神スーリヤのアトリビュートとして知られており、七頭のイノシシに乗ることも含め、摩利支天のイメージ形成の源泉にはこのスーリヤの存在があったことは複数の研究者の指摘するところである。  
イノシシの七頭という数についてもゆえなき数字ではない。これについて言及している研究者たちは太陽神スーリヤや大日如来といった太陽に関わる神仏がいずれも七頭の動物に乗ることに着目している。スーリヤは七頭の馬に乗り、インドの一部のマーリーチー像にはイノシシの代わりに馬に乗る作例がある。マーリーチーとスーリヤとは密接な繋がりがあると指摘されていることは先にも述べた。また我が国の大日如来像の中にも七頭の獅子に乗る作例がある。七という数字は秩序や完全性や全体性を象徴するものとされている。王権の象徴たる太陽とゆかりあるこれらの神々にとってはきわめてふさわしい、聖なる数字なのである。  
日本の摩利支天信仰と清拙正澄  
「日本三大摩利支天」というのがあるのをご存知だろうか。金沢の宝泉寺(ほうせんじ)、上野アメ横の徳大寺(とくだいじ)、そして京都建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)禅居庵(ぜんきょあん)である。真言宗、日蓮宗、臨済宗と宗派はまったくバラバラだが、それそれの摩利支天に独白の由緒があり、また像のかたちも異なっている。おそらく我が国の摩利支天信仰の大部分は、修験道を含む民間信仰の類とともに密教系、日蓮系、臨済系のいずれかに集約されるのではなかろうか。  
なかでも臨済宗の摩利支天はもっとも少数派と思われるが、実は伊那谷とのゆかりが深い。  
禅居庵を闘いた大鑑禅師清拙正澄(せいせつしようちよう・1274-1339)は、有力御家人の招きを受けて鎌倉時代末期に中国から来日した禅僧である。南禅寺や建長寺などの名利の住職を歴任し、臨済宗大鑑派の祖となった。小笠原氏や土岐氏ら地力の有力御家人たちからの信頼も厚く、信州伊那谷の名刹開善寺(かいぜんじ:飯田市上川路)の開山に迎えられた。清拙を祖とする大鑑派の優秀な法嗣(はっす)が伊那谷から数多く巣立っていることは特記に値する。  
『末利支提婆華鬘経』によれば、摩利支天の像を自ら彫ったならば遠方に出掛けるときも袈裟の中に入れて肌身離さぬようにしなければならないと説く。清拙は自刻の摩利支天の像を袈裟に納めて中国から海を渡り、無事に日本にたどり着くことができたと伝える。このような緩から清拙にゆかりのある寺には鎮守として摩利支天像を祀る堂が併設された。禅居庵の摩利支天堂もそのうちのひとつであり、「まるしてんさん」と呼ばれて祇園界隈でも信仰を集め、「日本三大摩利支天」のひとつに数えられるまでになった。  
清拙正澄は中世伊那谷の禅宗文化を考えるうえで欠くことのできない存在だが、我が国の摩利支天信仰の恩人でもあるのだ。  
清拙正澄ゆかりの摩利支天をたずねて / 京都  
平成十七年秋、飯田市美術博物館において特別展「中世信濃の名僧―知られざる禅僧たちの営みと造形―」と題する展覧会が開催されたのをどれだけの人が覚えているだろうか。  
この展覧会を企画した筆者は、展示資料借用のために全国各地の禅宗寺院を訪ねる機会を得た。主な訪問先は展覧会のキーパーソンでもある大鑑禅師清拙正澄の故地であったが、それは同時に摩利支天を訪ねる旅でもあった。  
五山の最高位に君臨した京都東山の巨刹南禅寺(なんぜんじ)の塔頭寺院である聴松院(ちようしよういん)。ここは細川氏の菩提寺で五山文学の大成者希世霊彦(きせいれいげん・1401-1488)が、焼失してしまつた清拙正澄の塔所善住庵(ぜんじゅうあん)を再興してその名を聴松院と改めた塔頭で、南禅寺の塔頭ながら今なお大鑑派の法灯を伝える貴重な寺である。また江戸時代から続く湯豆腐どころでも知られている。  
聴松院の山門と摩利支天堂の門とは別々になっていて、堂の前には狛犬の代わりに阿吽のイノシシが構えている。ここの摩利支天像は秘仏でありその姿を拝することは叶わないが、由緒によってそのすがたが伺える。少し細かくなるが主だった特徴を記すと、三面六臂で正面の顔は三眼で右面を猪面とし、頭上には宝塔を載き、手にはそれぞれ宝剣、無憂樹、弓矢、針と糸を執る。輪宝をあしらう火焔光背を背にし、七頭のイノシシを配した台座に坐している。  
続いて紹介する禅居庵(ぜんきよあん)は、京都最古の禅寺建仁寺の塔頭で清拙正澄が最期を迎えた場所でもある。開善寺の最有力檀徒だった信濃守護小笠原貞宗(おがさわらさだむね)の京都における菩提寺でもあり、同庵に併設される摩利支天堂の裏には二人の墓所がある。  
臨済宗大鑑派の拠点となった同庵の住持は、伊那谷の御家人知久氏の出身者が少なくなかった。開善寺はいまでこそ臨済宗妙心寺派に属しているが古くはこの禅居庵の末寺であり、歴代住持はことごとく禅居庵から輩出され、開善寺即禅居庵のごとき様相を呈した。  
禅居庵のほうは非公開だが摩利支天堂の入り口は建仁寺の境内の外にあり誰でも参詣することができる。門をくぐるとさすがに日本三大摩利支天に数えられるだけあってたくさんのイノシシが迎えてくれる。秘仏の本尊は亥年にあたる今年十二年ぶりにご開帳されるそうである。拝見させていただいた前立本尊は先の聴松院の摩利支天と図像的にはほとんど同じであり両像の関係が密接であることは間違いない。  
禅居庵、聴松院像はさらに詳しい調査が必要だが、禅居庵の摩利支天像は武神のごとく引き締まった精悍(せいかん)な顔つきで、戦いの守護神として篤く信仰されていた時代の気分が漂っておりその制作年代は中世まで遡りそうである。  
南禅寺や建仁寺自体は過去に何度も拝観していても、この二つの塔頭を訪ねることはなかった。そしてここの摩利支天堂を訪ねるまで、正直なところ清拙正澄と摩利支天との関わりがそれほど大きなものだとは思えなかった。しかし本堂をしのぐ存在感を持つた摩利支天堂を目の前にしたとき、その疑念は氷解した。同時に、より大きな疑念に捉われるようになった。  
摩利支天を訪ねる旅は、この時点から始まったといってもいいかもしれない。  
鎌倉の摩利支天を訪ねて / 禅居院  
清拙正澄は、住持を務めた建仁寺、鎌倉建長寺、博多聖福寺(しようふくじ)に「禅居庵」と名付けて自らの退去先となる塔頭を創建した。  
多くの観光客でにぎわう鎌倉の名刹建長寺(けんちょうじ)の向かいにひっそりと伽藍を構える禅居院(ぜんきょいん)。「西禅居」の建仁寺禅居庵に対し鎌倉のこちらは「東禅居」とよばれたが、明治以来「禅居院」と名乗り、寺域も創建地である建長寺境内から移転している。度重なる戦渦によって一時は廃庵となってしまったが、大正時代に復興して現在は建長寺の向かいに寺域を構えている。  
ここの摩利支天像は、三面六臂で正面および右面は菩薩相で三眼、左面を金猪とし、手にはそれぞれ剣、天扇、金剛鈴、金剛杵、弓矢を執る。そして三頭の金猪を配した。二重蓮華歴に坐している。比較的経軌に忠実なすがたであるが、左面を猪面とする点、台座のイノシシの数が三頭という点は他像との図像的な大きな違いであり、実見した像の中では最も大きく、ふくよかな女神像の雰囲気を醸し出している。制作年代は中世まで遡るものではないが、後述する元禄五年という年号からそれほど遠からぬものであろうか。  
興味深いのは、台座の内部にもう一体、10センチにも満たない小さな摩利支天像が納められていたことである。いまは厨子に納められており、三面六臂だが顔はすべて正面を向いており一頭のイノシシの上に半跏している。なお厨子の底には元禄五年(1692)の朱書銘があるが、清拙自刻の摩利支天像とはこのようなものであったかと思わせるような素朴な小像である。  
伊那谷へ / 開善寺  
清拙正澄を開山とする開善寺にも、古くから摩利支天像が鎮守として祀られていたことは史料にも記されている。しかし秘仏でもありお寺でも厨子越しにしかお参りすることが無かったくらいなので、一昨年前の展覧会で出品されるまで実際にその姿を拝した人は皆無に等しかったであろう。ほとんど忘れ去られていたこの像を見つけたときにはさすがに興奮した。この像の存在により、それそれの清拙正澄の故地同士がさらに固く結ばれるとともに、中世の開善寺が大鑑派の地方における拠点として重視され禅宗文化の最前線にあったという事実が、いっそう強力に裏付けられるのである。  
その像容は禅居庵像と同様に小ぶりで、像高約13センチで台座と光背を含んでも26センチ程である。三面六臂で七頭のイノシシの台座上に坐す点、三面のうち右面を猪面とする点は禅居庵や聴松院像に共通し、一見すると図像的には禅居庵像とそっくりなのだが頭に宝塔を載せない点などは異なっている。殆ど人目に触れることなく厨子に人っていたためか保存状態は良好で、小像ではあるが丁寧な彫技で好もしい作である。きらびやかな彩色で。一見近世の作にみえるが清拙の摩利支天信仰などを考慮すれば開善寺が禅居庵の末寺であった14-16世紀頃に制作されたものと思しい。  
清拙正澄にゆかりある摩利支天の像は、細部のかたちはそれぞれ異なっているもののいずれも異国風の衣服を身に着けた三面六臂の坐像で複数の金猪を配する台座上に座すという点で共通している。したがってこれを臨済宗大鑑派の摩利支天像のベーシックなかたちと捉えて差し支えなかろう。  
このようなタイプの摩利支天像を<大鑑派系の摩利支天像>とでも仮に命名できるといいのだが、清拙正澄ゆかりの寺院だけに伝わるかたちとは言いきれない。  
同じかたちの像は意外にも身近なところにあった。風越山麓の白山社里宮に現存する摩利支天像である。  
白山社の別当寺であった白山寺は天台宗に属し、明治期の神仏分離令にともない廃寺となったか仏像の類は白山社に遺されている。清拙正澄とのゆかりは全く見いたせないが、摩利支天像のすかたは持物を失うものの図像的特徴は禅居庵像と同じとみてよさそうである。このことからも、本稿で取り上げてきた像と同型の摩利支天像はほかにも各地に現存しているものと思われる。秘仏が多くなかなか実態を捉えがたい摩利支天だか、同じタイプの佳品がこの伊那谷に。二例も現存するというのは貴重である。  
残された課題  
いったい、〈大鑑派系の摩利支天像〉と仮称するイメージ(偶像)は、とこから発生しているのたろうか。  
このことについて言及するには、像の制作年代、制作した仏師の系譜といった美術史上の問題、あるいは中国風ともいえる着衣形式なと風俗史上の問題などについても目を配らなければならない。しかしこの点について実は本稿ではほとんと言及していない。というのも、清拙正澄の故地を訪ねて調べた摩利支天像は聞善寺像を除いては事前調査の域を出ておらず、それも摩利支天を信仰するおそらくもっとも小さい集団のひとつともいえる臨済宗大鑑派の例を取り上げたに過ぎないからである。  
また、摩利支天のイメージが古代インドから中国や朝鮮半島などを経て日本に定着するまでにどのような変化があったのか、このプロセスもまだよく分かっていない。  
さらに気になるのは、清拙正澄の記録の中にはほとんど摩利支天の名か出てこないことである。摩利支天は人に知られてはならない守護神であり、もしかすると清拙は摩利支天のことをあまり他言しなかったのかもしれない。したがって清拙正澄と摩利支天との結びつきをはっきりかたちにしたのはむしろ彼の弟子や庇護者たちであったとみるべきなのかもしれない。だとすればいったいなぜ彼らかこのようなかたちの摩利支天像を選び、清拙正澄の故地に安置したのだろうか。  
これらすべてが今後に残された課題である。瑣末(さまつ)な問題のように思われるかもしれないが、意外とこうした細部のなかに大きな問題を解決する糸口が隠されていたりするのである。  
以上、今年の主役であるイノシシにゆかりある摩利支天について思いつくまま私見を述べてきた。  
このレポートでは摩利支天のかたちに関する問題を取り上げたため像容のティスクリフション(記述)にある程度頁を割かざるをえなかった。しかし、イメージ(偶像)から発せられるメッセージは、時に言葉よりも雄弁である。したがって言葉として遺されなかった先人のメッセージをすくい取るには、遺されたイメージを丹念に読み解くほかない。  
とはいえ我が国ではその功徳の性格から摩利支天は秘仏であることが多く、その実像に迫ることが困難を極める作業であることには変わりない。摩利支天が何人たりとも知ること能わざる存在であると経軌に説かれるのを見るにつけ、それも宜なるかなと思ったりもするのたが、その一方で解明の糸口もまた少しずつ見えてきたように思う。次の亥年までに、新たに知見を得ることはできるだろうか。  
摩利支天をめぐる旅は当分終わりそうにない。  
4  
来年の干支は亥と云うことで、猪にまつわる話題です。仏像はおおまかに、如来、菩薩、天部、明王、羅漢の五つに分けられますが、摩利支天はその天部に属する仏像です。如来は諸仏の上位にあり、「悟りを開いたもの」と云う意味があります。釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来など、寺院でよく目にする仏像です。  
菩薩は悟りを求め、修行中と云った役割の仏像で十一面観音菩薩、如意輪観音菩薩、千手観音菩薩などの仏像がそれです。明王は大日如来の威徳の元に、災いを排除する役割とも云える仏像で、五大明王、愛染明王、孔雀明王などの仏像です。羅漢は諸尊の弟子とでも云う関係にある仏像で、高僧に準えられる仏像です。本題の摩利支天の属する天部の仏像は仏教に帰依し、仏法を守護する役割の仏像、摩利支天の他に帝釈天、弁財天、吉祥天など何処かで聞いたような名前の仏像が登場します。  
その摩利支天ですが、インドの古語であるサンスクリット語では”Marici”(マリーチ)と言い、”まりしてん”の読みもここから来ています。  
「佛説摩利支天経」によれば、護身、隠身、遠行、得財、諍論、敬愛、調伏、降雨、求子、息災、延寿、除病苦など広大な功徳有りと説かれていたりしますが、摩利支は日月、つまり太陽や月の光を意味し、それは陽炎(かげろう)に準えられています。  
漢名は威光陽焔(いこうようえん)とも云われ、陽炎は光のゆらめきなので、捕まえられることもなく、傷つけられることもないと云うことで、中世には武士の間に摩利支天信仰が広まることになります。  
忠臣蔵で知られる大石内蔵助も摩利支天を護持仏としていたと伝わります。  
摩利支天は三面六臂(さんめんろっぴ)や八面六臂などの形で造られることが多く、その三面は菩薩相、天童女相、亥相などがあります。臂(ひじ)には各々持物があり、仏法を守護すると云うことで、武器を持つことが多いです。例えば悪害や憤怒を消滅させ、迷いを断ち切る意味で剣を持ったり、悪口や讒言(ざんごん)(陰口のこと)を縫い封じると云うことで、針絲(はりいと)を持つ者があったり、知恵を授け五穀を実らせることをもって衆生を救うと云う無憂樹(むゆうじゅ)などを持つのが摩利支天です。  
無憂樹はマメ科の樹木で、お釈迦様がその木の下で生まれたとされます。ちなみに印度菩提樹の木の下では悟りを開き、沙羅双樹の木の下で、お釈迦様が入滅したと云われます。仏教ではこの三つの木を三大聖木と云うそうです。来年の干支は「亥」、イノシシですが、摩利支天はイノシシの背にある三日月に乗った姿で造られます。猪突猛進ではないけれど、猪の一途な姿は仏法を守護する摩利支天に叶っていると思われたのでしょうか。  
京都で摩利支天にゆかりの社寺、まずは建仁寺の塔頭の一つ禅居庵、そして南禅寺の塔頭の聴松院、また西陣の本法寺には摩利支天堂があります。また愛宕神社もかつての神仏習合時代には、勝軍地蔵と共に摩利支天を祀っていたそうです。本殿には猪の彫り物が残り、11月の亥の日に行われる「亥猪祭」に、その名残をみることが出来ます。  
あと摩利支天とは関わりないですが、猪に縁深い神社に護王神社があります。狛猪に始まり境内には猪の置物など猪にまつわる展示もなされています。機会があれば訪ねてみて下さい。  
5 
別名/ 陽炎(かげろう)、威光(いこう)、陽焔(ようえん)、摩利支天菩薩(まりしてんぼさつ)  
梵名/ Marici(マリーチ)  
真言/ オン・マリシエイ・ソワカ  
訳 / オーン。マリーチ天女に帰命したてまつる。スヴァーハー。  
見えない天女  
摩利支天は梵名を「マリーチ」といい、暁(あかつき)の女神とされている。古代インド神話にマリーチという男の神も登場するが、このマリーチは「マルト神群」と呼ばれる一連の暴風神の代表者であり、摩利支天とは直接の関係はない。  
経典ではマリーチを「陽炎」、あるいは「威光」などと訳していることから、摩利支天の原形となった尊格は、おそらく古代インドのヴェーダ神話に登場する暁の女神ウシャスであろう。  
日本では平安時代に伝えられ、武士や相撲の力士などに、必勝祈願の神として崇(あが)められた。  
密教における彼女は、猪(いのしし)の背に三日月を乗せ、天女の衣装でその上に立っており、顔が三つ、手は六本あるいは八本で、それぞれに蝋燭(ろうそく)や武器、華などをもっている。  
密教での太陽神とは大日如来(だいにちにょらい)のことであり、摩利支天は彼の前に立ち、その光を大地へともたらす役割を与えられているといえる。それゆえ、仏に代わり、人々を救う尊格として、彼女は「摩利支天菩薩」と呼ばれることもある。  
仏典では摩利支天は「できるだけ小さく造形するように」と指示されている。これは実際には摩利支天が、人の目には見えない存在だからだ。ウシャスあるいはサラニューがその姿を消すという神話に基づくものと思われる。ウシャスあるいは摩利支天は常に太陽の前に姿を現すので、人々は彼女が太陽に光に飲まれて、見えなくなってしまうのだ。こうして仏教では、摩利支天は姿を見せずに人々の願いをかなえる尊格としてたたえられるようになり、目に見えない守護神として崇拝されるようになったのである。  
暁の女神  
ヴェーダ神話に登場する太陽神スーリヤ (日天(にってん)) には、ウシャスという妻がいた。ウシャスは「輝く」という意味であり、火の神アグニ(火天(かてん)) の妹だった。また彼女の妹には夜の女神ラートリーがいる。この「輝く」という言葉はラテン語の「アウロラ」と同じもので、それゆえウシャスはオーロラにたとえられることもある。  
ウシャスはやさしい顔をした若い女性で、真っ赤な服を身に着け、金色のべールをまとった若い娘で、赤い馬あるいは牛がひく天駆ける七頭立ての馬車に乗っている。その姿は水浴からあがる美女、きらめく宝石に身を包む踊り子、あるいは夫の前に立つ若妻のようだとされている。  
毎朝、太陽神スーリヤが姿を見せる前に、ウシャスは衣服を半ば開きながら姿を現し、その抗いがたい美しい輝きを大地へともたらす。ウシャスの光は朝の訪れを告げ、人間や動物、そして小鳥たちを眠りから目覚めさせる。暗い夜の不安から彼らを解放し、幸せで満ち足りた気分にする。ただし、その幸福の報いとしてウシャスは、彼女の光を浴びるものたちから、一日ずつ若さを奪っていくのだ。そして彼女自身は、吸い取った若さで永遠に美しいままなのである。  
人々はウシャスを愛し、ウシャスもまた人々に恵みをもたらした。彼女の恵みは貧富を問わず、人間にも動物にも、善人にも悪人にも等しく与えられる。太陽神スーリヤもまた彼女を愛し、毎朝ウシャスの後を追って天空に姿をあらわす。熱い想いに身を焦がすスーリヤはついにウシャスを捕らえ、抱きしめる。するとウシャスの身体はスーリヤのまばゆい陽光に包まれ、その姿はかき消えてしまうのだ。だが翌朝、ウシャスは再びあらわれ、人々に朝の光をもたらす。こうして毎日生まれ変わるがゆえに、彼女は永遠に若いままなのである。  
神話からも姿を消す  
ウシャスは神々の国から地上へと、神の力を輝きに変えてもたらす存在である。そのためバラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』に二十篇もの彼女への賛歌が残されるほど、ウシャスへの人々の人気は高かった。  
だが、ヒンドゥー教の時代になると、ウシャスの物語はまったく語られなくなってしまう。彼女はドヴァシュトリの娘サラニューと同一視され、スーリヤ(日天)の夫はサラニューだということになってしまうのだ。サラニューはスーリヤとの間に焔摩天(えんまてん)の原形であるヤマと、その双子の妹ヤミーを生んだとされる。だが彼女は夫の眩しさに耐えられず、代理の女性をおいて、自らは姿を消してしまう。  
結局、数年後に彼女が牝馬に姿を変えているところを太陽神が発見し、太陽神も種馬に変身し、再び交わることがかなうのだが、この伝説はヴェーダにおいて、ウシャスがスーリヤに抱かれて姿を消すという物語と一致する。また、サラニューがヤマの母であるというのも、ヤマが死を定められた最初の人間であることを考えると、これも人々に老いを与えるウシャスと共通するといえるだろう。  
こうしてウシャスはサラニューとして、その物語だけが後世へ伝えられた。そしてさらに仏教に取り込まれた彼女は、今度は摩利支天として三たび、人々の前にその姿を現すことになるのである。  
6 
摩利支天さまをさして「威光さま」ともいわれたり「陽炎神」とも申されています。摩利支菩薩陀羅尼経によりますと、「日(太陽)の前に天神がおわす。摩利支天と申し上げる」天神は不思議な力、大神通をもっていられて、いつも日の前におわすのだが、そのお姿を如何なる方法をもってしても、「拝することも 知ることも とらえることも いつわることも」お持ちになっているものをうばうこともできないほどすばらしい神さまといわれる。  
もし「摩利支天さま」の御名を知る人があれば、その人は必ず、摩利支天さまの功徳をいただいて、他の人から、「見られず とらえられず 害されず だまされず 財をとられることもなく 罰せられることも 怨まれることもないだろう」と、説かれています。  
このお経を要約してみますと、摩利支天さまのお姿が、たとえ人の目には見えなくても、“南無摩利支天さま”と、その御名をお唱えすることによって、わたくしたちが、日常生活の上で経験するいろいろな障害が取り払われて、不思議な御利益を与えてくださる神様だと、説かれているのです。  
この摩利支天さまのお姿は、インド、中国、日本にも祭られ、海運の神さまとして知られています。  
当山のお守護神は、奥秘尊像と開帳尊像絵姿の二通りがあり、平素は絵姿を拝んでいます。奥秘尊像は、亥の年、十月十七日亥の刻に開帳し十八日亥の刻に閉帳します。十二年目のみ一度の開帳の理由は、めったにそのお姿を拝することはできない、という理由と、摩利支天さまがお乗りになっている「猪」の年が理由と思います。写真や絵姿でお解のように猪に乗られたお姿は、すべて物事が早急に成就する、すばらしい智慧を備えていられるという証しです。  
7 
火は人の心に何を感じさせるのだろうか。不安、恐怖、そして恍惚。五感を刺激する不思議な存在。煩悩を焼き尽くすこと、 魂の穢れなき浄化を、古来、人間は火に託してきた。めらめらと燃えさかる火は、まさに 永遠の一瞬を現出している。  
マーリーチー(摩利支天) / 太陽や月の光、とくに暁の曙光がイメージされる、みほとけ。暗黒の中にわずかに現れはじめる明るいきざし。  
ホーマ(護摩) / 護摩の肝心は三平等観。護摩に用いる火がそのままに如来の智火、火を焚く炉の全体が如来の身、炉の口が如来の口。同時に、それらがそのまま我が身口意に異ならず。  
ゴホンマツ(五本松の怪異) / 魔所の名高き五本松、宇宙に朦朧と姿を顕じて梢に叫ぶ天狗風、川の流れと相応じて、音無き夜より物寂しい‥ (『聾の一心』 泉鏡花)  
卍は摩利支天のシンボル / 太陽の無限に発展する生命力の象徴  
摩利支天の成立  
摩利支、末利支、末里支、マリシと音写し、末利支天菩薩、末利支提婆とも称しています。摩利支は、陽炎、威光と漢訳されるように、陽炎を神格化し、あるいは陽炎の捉えがたいことに喩えて、この天を摩利支天と称します。 梵天の子あるいは日天の妃とも称され、よく身を隠し、悪事災難を除いて利益を増す神としてインドの民間に信仰されていました。  
『摩利支天経』には、「その時、世尊は比丘に告ぐ。日の前に天あり、摩利支と名づく。その時、世尊は比丘に告ぐ。日の前に天あり、摩利支と名づく。大神通自在の法あり、常に日の前を行き、日は彼を見ざるも彼れよく日を見る。人のよく見るなく、人のよく知るなく、人のよく捉えるなく、人のよく害するなく、人のよくその財物を債するなく、人のよく罰するなく、怨家もよくその便りを得るを畏れず」かくの如く、摩利支天の功徳を説いています。  
したがって、摩利支天の名を知る人にもまた、この徳が自ら備わると言います。阿修羅が帝釈天と戦って日月を執らんとした時、摩利支天が日月の光を覆って護ったと伝えられるのも、摩利支天のこの隠形によるものでしょう。  
摩利支天のかたち  
摩利支天には、種々の形像がありますが、二臂、六臂、八臂像(臂=手の数をあらわしています)に大別することができます。  
二臂像については『摩利支天経』に、そのお姿が説かれ、持物の天扇は、摩利支天の徳である「隠れる」ということを象徴しています。  
六臂像と八臂像については、宋代の天息災によって全訳をみた『大摩里支菩薩経』にその像容が説かれています。  
一般に、摩利支天の乗り物としてイノシシが知られます。  
多臂像の摩利支天の持物の中でも、とりわけ針と糸が有名です。持物に針と線とを執ることは仏像の持物としては非常に珍しく、これは悪人の口や眼を縫うことを意味しています。  
インドにおける摩利支天像は、ナーランダに十世紀頃の密教像があり、三面六臂の浮彫に造られています。  
また三面六臂でイノシシに乗る形は、チベットにも作例があります。  
中国においては、唐代頃から摩支利天信仰が始まり、『摩利支天経』の漢訳者である不空三蔵が、摩利支天像を刻み、それに大仏頂陀羅尼を書いて、王子のために守護神としたことが『表制集』にみえます。  
遺品としては、五代頃の敦煌出土の紙本画が、大英博物館とギメ美術館とに残っています。いずれも唐代の盛装の天女の姿をとる二臂像で、天扇を手に執っています。太陽を背にして描かれていることは、摩利支天は陽炎にして、常に日前を行くとされていることを表わすものでしょう。  
わが国では、奈良時代に不空訳の『摩利支天経』は請来されていますが、その造像例を確かめることはできません。平安時代には、入唐八家達によって同経典や陀羅尼が盛んにもたらされ、諸図像集中には唐代の服制をした摩利支天図が数多く収載されています。彫像や絹本着色の本尊像の遺品はほとんどありません。近世になると、武人達の信仰を背景に、イノシシの背に立つ摩利支天の画像や版画が多くみられます。  
摩利支天の信仰  
摩利支天は、悪世において危難の中に苦しむ衆生を、大慈悲心をもって擁護し、安楽ならしめるために出現されたのであり、その功徳は隠形を第一とすると言われます。  
摩利支天を念ずれば、その人は他人から見られ知られることなく、捉え害されることなく、だまし罰せられることなく、自らの希求するところをすみやかに成就できると言われています。  
古くからインドの庶民の間で崇拝され、仏教に取入れられてからも護法神として、あるいは大慈悲心をもって衆生を擁護する神として信仰され、やがてその造像をみるに至った摩利支天は、中国に伝えられると唐代頃には経典の漢訳や尊像の造立が始められ、護身の神としての信仰が盛んになっていきます。  
唐の代宗の頃(762-779)、不空三蔵は帝の宝詐延長のために摩利支天像を刻み、玄宗皇帝が初めて灌頂壇に入る時に受けたのも、この摩利支天法であったと言います。 南宋の高宗建炎元年(1127)、隆裕大后孟氏はこの天を念じて身の安全を得ましたし、唐州泌陽尉李珪は北虜の入冠に遭い、この天の名号護持してその難をまぬがれています。  
わが国においては、平安時代に唐へ留学した密教僧の手によって多くの摩利支天に関する経典や図像が請来され、この天を本尊として、護身・隠身・遠行・得財・諍論勝利・必勝開運などを祈る摩利支天法が修されています。 中世以後は特に武士の間で摩利支天が信仰されており、武士が戦場に臨む時や武術の試合などを行う前には、摩利支天に祈り、その加護によって必勝を期したと言われます。前田家や毛利家があまりにも有名です。  
このように摩利支天の加護を得て勝利をおさめた者は、終生摩利支天尊への帰依を誓い、厚く信仰したとされます。  
日本三摩利支天  
天正十一年(1583)、前田利家公が加賀国金沢城入城の際、城内の越後屋敷の地に摩利支天堂を創建し、摩利支天尊を自らの守護神として奉安し信仰崇拝されました。また利家公は末森の戦や関東の戦では、摩利支天尊を兜の中におさめて出陣せられ、加護を受けられたことはつとに有名であります。  
慶長六年(1601)、二代目利長公のとき、金沢城の鬼門(北東)にあたる向山の中腹に一万坪の地を寄進せられ、城内の摩利支天尊を当地に移築奉安のうえ「摩利支天山」と命名され、加賀百万石の「鬼門封じ」とし、別当寶泉坊が勤仕したのが、当寺の起こりであります。  
慶長十一年(1606)、利常公が「名人越後」と呼ばれた剣聖、富田越後守重政に堂宇を建立させてより、摩利支天尊は金沢城を眼下にするこの山頂に鎮座し、加賀百万石の城下町を守護され、巨益霊験を施し給うことは枚挙に遑ありません。  
これすなわち摩利支天山寶泉寺の名、四方に高き所以であります。  
よって、当山の加賀百万石の摩利支天、京都建仁寺の禅居庵の摩利支天、東京上野の広小路の摩利支天が「日本三摩利支天」と称されています。  
太陽神の系統  
摩利支天(マーリーチー)は、陽炎を神格化した女尊。その起源は、ヒンドゥー教の太陽神(スーリヤ)に関係があります。図像的にも類似し、スーリヤが7頭立ての馬車に乗るのに対して、マーリーチーは、7匹の猪が引く車に乗るという特徴を持っています。ほかにも、7頭の獅子に乗るみほとけに大日如来(ヴィローチャナ)がいます。また、火天(アグニ)の乗る車も7枚の舌をもった馬が引くと言われています。これらから、7という数字は太陽をめぐる神々のキーナンバーであることがわかります。7は、すなわち完全性や秩序、さらにはここからの超越を示す存在をあらわしています。  
たとえば『旧約聖書』の「創世記」において、神は世界を7日で創造したとされ、釈尊は誕生の直後に北に向かって7歩進み、「天上天下唯我独尊」と獅子吼されたと伝えられています。7歩の歩みは、超越的な存在への移行を表しています。  
護摩供で摩利支天をもっぱら供養するのも、当然といえば当然。どうりで燃えて燃えて燃えまくるはずです。  
摩利支天の隠形(おんぎょう)  
元弘の乱後、征夷大将軍として活躍した大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)は、やがて足利尊氏と対立し、追われて熊野へ逃げる途中、奈良の般若寺に立ち寄りました。そこへ足利方についた一乗院の好専が、一〇〇余騎の軍勢を率いて寺内の探索にきました。身の危険を感じた大塔宮は、仏殿に入り、フタが開いていた『大般若経』 の唐櫃に潜り込み、摩利支天の印言を結誦し身を隠します。追っ手の兵たちは、フタの閉じてある方の唐櫃を点検し、「大般若の櫃も中をよくよく捜したれば、大塔宮は居らせ給はで、大唐の玄奘三蔵こそおはしけれ」と言って引き上げて行きました。まさに護良親王の命拾いは、摩利支天尊の隠形の加護によると言っていいものです。  
中条流(富田流)剣法と摩利支天  
剣術の三大源流の一つに数えられる中条流は、足利義満に仕えた三河の中条長秀を鼻祖としますが、その奥義はのちの越前の富田(とだ)家に伝えられ、富田流とも呼ばれ大いに隆盛しました。  
そもそも中条流は、中条兵庫頭長秀(ちゅうじょうひょうごのかみながひで)が念流を開いた慈恩(じおん)に兵法を学び一流を興したと伝えられています。  
往昔、日向の国鵜戸岩窟で、慈恩が摩利支天尊をまつり、兵法と武芸の修行に修練されていたところ、昼夜の区別なく常に鬼神が出現し、修練の援助を得て、漸く兵法と武芸の奥義を極められたとされています。  
その後、慈恩の高名を慕って、鵜戸岩屋を訪ねる修行者は非常にたくさんありました。そのうち秘術を伝授された者は、信仰深く、道義正しい数名であったようです。その中でも、中条兵庫頭長秀(ちゅうじょうひょうごのかみながひで)のみ、秘術を免許皆伝せられ、そのあかしに、摩利支天尊の霊像をも受け継いだのです。  
長秀は、摩利支天尊を信仰し、心身の錬磨に一層精を出したので、名声はいよいよ高くなり、国中に響き渡りました。このことが、将軍足利義満公の知るところとなり、長秀に命じて御開扉をなされえたところ、その霊威に打たれてえ伏して拝まれ、霊像を奉安崇敬したく譲渡を乞われたそうでえすが、長秀はこれをお断り申し上げ、一段の尊敬の念を深めたのです。  
それからというもの、中条流は、兵庫頭から甲斐豊前守(かいぶぜんのかみ)伝えられ、さらに大橋勘解由左衛門(おおはしかげゆざえもん)に伝わり、富田九部右衛門長家へと、正式に伝授されていきました。  
中条流(富田流)の正流のあかしとして、摩利支天尊霊像が代々受け継がれてきたのです。  
富田流剣法の元祖として、名声を響かせた名人、富田九部右衛門長家は、天正三年(1573)、富田治部左衛門景政の後を継いで、越前府中で前田利家公に仕えた剣の達人でした。  
中条流免許皆伝のあかしとして受け継いだ摩利支天の尊像を大変も尊崇しておりましたから、利家公もまた、崇拝され、天正十一年(1583)に金沢城に入城したとき、城内越後屋敷に摩利支天堂を創建せられ、守護神として奉安し、末森の戦ほか、いくさのたびに兜の中に納めて出陣し、大いなる加護を受けられました。  
慶長四年(1599)、利家公が薨じたまい、同六年(1601)二代利長公のとき、金沢城の鬼門にあたる卯辰山一万坪の地を寄進せられて、ここに奉安し、「摩利支天山」と命名の上、別当宝泉坊が勤仕したのです。  
次いで慶長十一年(1606)、三代利常公は、富田重政に命じて堂宇を新築造立されたのはよく知られるところです。  
「名人越後」と呼ばれた富田重政は、知行一万三千六百石で、寛永二年(1625)四月十九日、六十二才で没していますが、剣聖と仰がれ、その名は天下に高く、その子重康もまた家芸を継ぎ、晩年は中風症を病み身体の自由を失いましたが、それでも「中風越後」と称され畏敬された名人でした。  
ちなみに、右の画像には「富田越後守重康」の落款がみられます。その他、富田流剣法に関わる摩利支天尊画像が伝来します。  
このように前田家に仕え、藩公を守護してきたのが、富田流剣法の達人たちであり、ことのほか尊崇されてきたのが、中条流伝来、前田利家公守本尊の摩利支天なのです。 この秘仏の摩利支天尊の彫像は、現在、開扉予定はありません。  
秘仏・摩利支天尊を、別当宝泉坊が勤仕してより、金沢城の北東(艮)の正面に当たるこの地に奉安鎮座ましまして、城内の鬼門を封じて、およそ四〇〇年。  
以来、この由緒正しき摩利支天尊は、巨益の霊験を垂れたまい、武術修練の剣士は遠く全国から集まって、崇敬礼拝し、仏前に各々の武芸を奉納して、練武され、今日に至っています。  
現在は、武門には兵法武術を、商家には商法を授け、その他、学問・芸能・スポーツ・選挙など、みなその道に進み、家運を開き、よく心願を成就して、心身堅固の霊験を顕現せられます。選挙の必勝祈願所として、全国各地より信仰を集めています。
甕主日子神 みかぬしひこのかみ 
速甕之多気佐波夜遅奴美神の御子、母は前玉比売。古事記/ハヤミカノタケサバヤヂヌミ神と天之甕主神の媛であるサキタマヒメ神とが婚姻し、ミカヌシヒコ神を生 れたとある。 
大国主神の五世の裔孫にあたる。ミカヌシヒコ神は甕主の男の子ということであり、日子は彦で、比売に対しての彦である。
甕速日神 みかはやびのかみ 
イザナミ神の死後、イザナミ神のみより生まれた神々の一柱。国譲り・国土平定神話に登場する神々の一柱。イザナギ神が火の神・迦具土神の頸を斬ったとき、御刃の鐔際に付いた血から生まれた神々の一柱である。 
甕はイカにも通じるもので、イカは「いかめしい・厳」などのイカで、怒るも同義同恨の語。速は猛く烈しいという意味があり、日・火と同意語。神名は火の威力を表現したもの。また剣の威力を称えた神名であるという説もある。
御倉板挙之神 みくらたなのかみ 
神名は御倉の棚上に奉安せられた神という意味。天照大神をはじめとする三貴子の誕生を喜ぶイザナギが、自分の頸にかざっていた珠飾りの緒を取り外し、天照大神に賜り「汝が命は高天原を知せ(治めよ) 」と申された。この御頸珠の名を御倉板挙之神というと古事記にあるが、森居宣長・古事記伝/この神名を御倉の棚の上に安置する意味としている。
 
御食つ大神 みけ 
*気比神宮(敦賀市角鹿) 
名義は「御食物の大神」。応神天皇と名を交換した礼に神饌の料(魚類の代表として「入鹿」の名を挙げる)を献る。それを賞して命名されたもの。
弥豆麻岐神 みずまきのかみ 
羽山戸神と大気都比売神との間に生まれた八神の一柱。ミズマキは田に水を撒く意味である、灌漑に功徳があった御名。母のオオゲツヒメ神が食物の神であることにも起因している。兄弟は、若山咋神・若年神・若沙那売神・夏高津日神・秋毘売神・久久年神・久久紀若室葛根神で、多くは農耕関係の神である。
美呂浪神 みろなみのかみ 
オオクニヌシ神の後裔で、多比理岐志麻流美神と比比羅木之其花麻豆美神の女である活玉前比売神との間の子。古事記/ヒヒラギノソノハナマヅミ神の女がイクタマサキタマヒメ神で、この神がタヒリキシマルミ神と婚姻して生まれたのがミロナミ神である。ミロナミは美しい浪の意で、この神の御子・布忍富鳴海神とともに、海に関係のある神名 。 
三島溝咋姫 みしまのみぞくいひめのかみ 
<溝咋姫神/三島溝杭姫/溝咋玉櫛媛/活玉依姫/勢夜陀多良比売 
*溝咋神社(大阪)/広瀬神社(伊豆) 
事代主神(ことしろぬしのかみ)の妃神で、神武天皇の皇后である五十鈴媛の母。 
大阪の淀川と並行して流れる安威川の水利を管理していた三島溝咋の娘で、事代主神は奈良盆地から木津川(当時は鴨川と言った)・淀川を通って、ここへ通って来たといわれ、旧事本紀には事代主神が八尋の熊鰐に化して通ったという記事がある。 
この説話は出雲にも残り、事代主神は美保神社(美穂津姫を祭る神社で、美穂津姫は事代主神の妻ともいわれ、義母の可能性もある)から揖屋に住んでいた溝咋姫のところへ諸手船で通って いたとのこと。経路は中海になるが、この時にワニに足をかじられたという話が残っている。旧事本紀のワニに化してという話が変化したものか。
三島明神 みしまみょうじん 
*三島鴨神社(大阪)/大山祇神社(瀬戸内海)/三嶋大社(伊豆) 
三島明神にはふたつあって大山祇神と事代主神。大山祇神は最初大阪の三島鴨神社に降臨し、その後瀬戸内海の大三島の大山祇神社に移った。その娘は神武天皇の曾祖母で、富士山の女神でもある木花咲耶姫。事代主神は葛城の出で、この三島鴨神社にも滞在し、近くの溝咋神社の溝咋姫のところに通っていた。その間にできた子は神武天皇の皇后である五十鈴姫。後に事代主神は出雲 ・美保神社から伊豆・三嶋大社と移った。三島鴨神社には大山祇神と事代主神が祭られている。伊豆・三嶋大社の御祭神は江戸時代までは大山祇神とされていたが、明治の調査で事代主神であ.ることが 判り、現在はその両神が併記されてい る。
 
道臣命 みちおみのみこと 
<
日臣命(ひのおみのみこと) 
大伴氏の祖先神。天忍日命の世の孫にあたる。神武天皇の御代に朝廷の軍事をつかさどり、神武天皇の御東征のさいに武功をあげた。また最初に神事を執り行ったことで知られる。 
古事記/皇軍が宇陀(現在の奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志)の地に至ったとき、その地の兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)は抵抗し、天皇の使いである八咫烏を矢で追い返した。さらに兄宇迦斯は天皇に従うふりをして御殿を造り、踏むと圧死するばねを仕掛け皇軍をだまし討ちにしようとした。しかし弟宇迦斯がその策略を告白し、道臣命と天津久米命(久米氏の祖)とが兄宇迦斯を追い詰め、兄宇迦斯は自らの仕掛けにかかり死ぬ。 
日本書紀/道臣命は日臣命の名で登場。日臣命とは「太陽の臣下」の意とされる。神武天皇即位前紀戊午年6月、日臣命は八咫烏の導きにより、久米氏(大来目)を率いて、兵車で道を開き、皇軍を宇陀まで進 んだ。神武天皇はその武功を称え、道臣命(導く忠臣の意か)の名を与えた。同年8月、反逆を企む兄猾(えうかし)を追い込み自滅させる。 
御東征軍は高倉山に至るが、国見丘の八十梟帥(やそたける)によって男坂、女坂などの要害を抑えられていた。神武天皇は祈誓(うけい)の夢に、天神のお告げを受け、天香山の土で祭具を作り、丹生の川上で天神地祇を祭り戦勝祈願を した。この時、神武天皇は高産皇霊命の神霊の憑人(よりまし)を務め、道臣命が斎主(潔斎して神を祭る役)を務めた。国見丘の八十梟帥を破り、道臣命は忍坂邑に大きな穴ぐらを作って八十梟帥の残党を誘い込み全滅させた。これらの武功により、神武天皇2年築坂邑に居所と宅地を与えられ、神武天皇の寵愛を受けたという。 
彌都波能売神

みつはのめのかみ 
美馬郡は貞観二年(860)に美馬郡の西部が三好郡として分離するまで、吉野川上流域の南・北岸にまたがる広大な区域で、延喜式神明帳によると、美馬郡には十二座の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)があったと記録される。 
美馬郡の中には伊射奈美神社を始め弥都波能売神社(みつはのめじんじゃ)・波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)等がある。これらは全国式内社の中で阿波にしか存在 せず、現在は美馬郡のどこにあるか不明。

 
罔象女神 みづはのめのかみ 
<弥都波能売神 
*丹生川上神社の中社/大井神社(島田市)  
水を司る神、雨乞いの神 
水を司る神・雨乞いの神といえば罔象女神か淤加美神が取り上げられる。伊邪那美命が亡くなる時その尿から生まれた神。基本的には水の神・井戸の神などとして信仰され、福井県今立町の大滝神社の摂社・岡田神社では村人に紙漉を教えた女神と伝わる。
御年神 みとし 
<大歳神/太歳神/御歳神 
*鶴岡浅間神社の大歳御祖神社/下谷神社/大歳御親神社/大和(オオヤマト)神社/飛騨一宮水無神社  
農業神、穀物神 
 
大年神と御年神は、親と子の関係とされ。「大」も「御」も神をたたえる語で、両神とも基本的に年神(歳神)である。年神とは、正月に農家などで祀る神で、遠くの他界から決まった時期に人里にやってくる来訪神である。祖霊信仰と結びついて稲作の神として信仰され た。二神は稲荷神社の祭神で、五穀・食物を司る宇迦之御魂神とともに代表的な穀物の神である。 
「年」は「稔(穣)」に通じ、五穀の豊穣を願う神事の祈年(トシゴイ)祭、また豊年満作のことを祝詞などでは「年よし」「年栄ゆ(トシハユ)」と表現する。年神は、穀物、特に稲作と深く関係した神霊で稲の豊かな実りを司る神 。御年神は父神の名を受けたもので、やはり毎年の穀物の実りを司り、豊年満作をもたらす神である。 
年神は、民間の年中行事として正月に各家で年神棚などを設けて祀る神である。呼び方も大年神、年徳神 、お正月様、恵方神などとさまざまである。新年の伝統的な風景である松飾りや備え餅など、正月の飾りや行事などの大半はもともとが年神祀りからきている。たとえば松飾りは、家を訪れてくるめでたい神が宿る依り代だ。年の変わり目にやってくるから年神である。 
 
年神(としがみ、歳神とも)は神道の神である。毎年正月に各家にやってくる来方神。地方によってはお正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿(としどん)、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。「年」は稲の実りのことで、穀物神である。根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれ、年の始めに豊作が祈念され、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっ た。 
正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのもので、門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。一方で年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視され たため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたためである。柳田國男/一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神である。中世ごろから、都市部で「年神(歳神)」「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった 、徳は得に通じ縁起が良いとされたため。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言い縁起の良い方角とされるようになった。暦には女神の姿をした歳徳神が描かれ るが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。
 
宗像の神 
宗像三神
むなかたのかみ 
<市杵島姫神・湍津姫・田心姫神/いきちしまひめのかみ・たぎつひめのかみ・たごりひめのかみ 
*宗像大社(福岡県)/厳島神社(宮島) 
海上交通の神様、水の神様 
天照大神と須佐之男神の誓約(うけひ)の時に生まれた神。天照大神の珠から生まれた天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の五柱、須佐之男神の剣から生まれた宗像の三神である。宗像の三神 は資料により異る、古事記/たぎつ姫、たぎり姫、おきつしま姫、日本書紀/たぎつ姫、いちきしま姫、おきつしま姫。 
宗像の神を祭る神社の本宮は宗像大社で、三女神が本土の宗像神社・海岸から400mほどの大島の中津宮、大島から更に4kmほどに浮かぶ沖島の沖津宮の三つの神社に分かれてる。宗像の神を祭る神社として有名な厳島神社がある 、推古天皇の時代、三女神が二羽の神烏の先導でこの宮島に現れ佐伯鞍職が社殿を作ったとされる。平清盛が深く帰依して保護し、社殿・回廊を整備して今日の壮麗な姿に仕上げた。ほかに佐賀県呼子に浮かぶ加部島は松浦佐夜姫(まつらさよひめ)伝説の地で、ここの式内社・田島神社があり宗像三女神を祭っている。 
  嚴島神社の三柱の御祭神は皇祖天照大神の御子神で、「嚴島神社記録帳」によると、安芸国島嚴神社の御分霊を平家の守護神として、安徳天皇の御座船にまつられていたが壇ノ浦合戦後磯辺に放棄されていた。里人に神託があり「吾は嚴島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり」と、ふしぎに思いながらそこに行くと、磯辺に御鏡太刀様の物をみつけ、文治元年(1185)里人たちが社殿を建立し、更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請し、今日に至っている。 
嚴島三神 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) 田心姫神(たごりひめのかみ) 湍津姫神(たぎつひめのかみ)。宗像三神ともいい、皇祖天照大神と素盞嗚尊(すさのうのみこと)との誓約(うけい、神聖な占いのこと)によって、素盞嗚尊の剣から天照大神が生みだした、三人の姫神さまである。美人の誉れ高く、日本の代表的な海の神である嚴島三神は、福岡県の宗像大社や広島県の厳島神社の祭神としてよく知られている。日本書紀には、天孫降臨の際に「道の中に下り居して、天孫を助け奉りて、天孫のために祭られよ」とその道中の安全を守護するようにと天照大神から命じられたとあり、そこから海上安全、交通安全の神として信仰されるようになった。  
 
巡金神 めぐりこんじん 
方位神の一つ 
金神の在する方位に対して、あらゆることが凶とされ、特に土を動かしたり、造作・修理・移転・旅行などが忌まれる。この方位を犯すと家族7人に死が及び、家族が7人いない時は隣の家の者まで殺される(これを七殺(ななさつ)という)と恐れられた。 
 
 
  うえ かき  
 


  
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