八百万の神 [くけこ] 
                      
 
  うえ かき  
 
久延毘古

くえびこ 
<崩彦/杖彦/山田の曾富騰(そほど) 
*久氐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)/大神神社(奈良県桜井市)末社・久延彦神社 
田の神、学業の神 
古事記に少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と共に、ひきがえるに登場する神。案山子(かかし)の神と解される。足は歩かないが天下のことを全て知っている。土地の神であり杖の神である岐神(ふなどのかみ)との関連も考えられる。 
案山子はカガシともよみ嗅がしや鹿驚と書き、獣肉を焼 き串に突いて田畑に刺し、その臭いで鳥獣を退散させた物とも言われる。カガシ、カガチは蛇を表す音だ。春になると田に降り、冬が来ると山に戻る、山田の神だと言う。田の神としては道祖神と習合され、その手に鎌や稲、シャモジやスリコギなどを持つ石像の姿もある。   
日本神話に登場する神、大国主の国づくりの説話に登場。大国主の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。そこでヒキガエルが「この世界のことなら何でも知っている久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので久延毘古を呼ぼうとするが、久延毘古は歩くことが出来ないという。大国主らが久延毘古の元へ行くと、それは山田のそほど(かかしの古名)であった。久延毘古に訊くと、「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた。 
 
久延毘古はかかしを神格化したもので、田の神、農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった。 
「クエビコ」は「崩え彦」体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てたかかしを表現したもの。また「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)との関連も考えられる。 
曾富騰(そほど)という言葉についても、雨に濡れそぼつという意味の動詞からきた呼名で、 由来は「身体の朽ち果てた男性」で知恵者の化身として信じられていた。

久久紀若室葛根神 くくきわかむろつなねのかみ 
羽山戸神と大気津比売の御子。久久年神の弟神にあたり、速須佐之男命の曾孫で、大年神には孫にあたる。ハヤマト神とオオゲツヒメ神と婚姻によって生まれた八神の一柱。 
若を冠している神名は、若々しく成育する意味を表す。久久紀若室とは生長した木のことで、住宅を作ることを意味する。葛根は綱良すなわち材木を結び固めるための葛をさしたものと考えられる。
久久年神 くくとしのかみ 
羽山戸神と大気津比売の御子。久久紀若室葛根神の兄神にあたり、速須佐之男命の曾孫で、大年神には孫にあたる。ハヤマト神とオオゲツヒメ神と婚姻によって生まれた神々八神の一柱。ククは草木の立ち長びる状態を表し、茎のことで、トシは稲のことである。ククトシ神は稲穂の成育を司る神であると、本居宣長 ・古事記伝に説いている。
 
久久能智神

くくのち 
<句句廼馳 
*公智神社(兵庫県西宮市)/樽前山神社(北海道苫小牧市) 
日本神話に登場する木の神。神産みにおいて、イザナギ・イザナギの間に産まれた神。古事記/その次に山の神大山津見神(オオヤマツミ)、野の神鹿屋野比売(カヤノヒメ)が産まれている。日本書紀/山・川・海の次に「木の精ククノチ」として産まれており、その次に草の精・野の精の草野姫(カヤノヒメ)が産まれている。 日本書紀第六の一書/「木の神たちを句句廼馳という」と記述され、木の神々の総称となっている。 
「クク」は茎と同根で木が真っ直に立ち伸びる様を形容する言葉とも、木木(キキ・キギ)が転じてクク・クグになったものともいう。「ノ」は助詞の「の」、「チ」はカグツチなどと同じく神霊を意味する接尾詞であるので、「ククノチ」は「茎の神」「木の神」という意味になる。 
伊邪那岐命、伊邪那美命が国生みを終えた後に生んだ神々の一人。久久は茎のことで、智は男性を表す接尾語。折口信夫氏/山川に生えている眺める樹木ではなく、建築用材の木の霊魂表す意図がある。日本書紀 の「次に海を生む、次に川を生む、次に山を生む、次に木の祖(おや)の句句廼馳を生む、次に草の祖の草野姫(かやのひめ)を生む、亦は野槌(のづち)と名付ける」とあり、木の生み親である句句廼馳を生んだと表現していることから説かれたもの 。 
 
天蓋 
「天蓋」(てんがい)は、地方によっては「白海」(びやっかい)、「玉蓋」(たまがい)とも呼ばれるが、大元神楽系では一般に「天蓋」と呼ばれる。天蓋は古代中国の「陰陽五行思想」に基づき、方位、四季、色彩などを明確にし、宇宙の秩序を表現するとともに、天地の安寧、季節の順調な推移を祈願する呪術的儀式である「天蓋引き」のために設置されるものと思われ る。 
天井に取り付けられた雲には、中央に「六角天蓋」が、東、南、西、北の四方(地域によっては、南東、南西、北西、北東を加えた八方)に「小天蓋」が吊され、中央の六角天蓋には、波邇夜須毘古神(土の神)、また、東、南、西、北の四方の小天蓋には、久久能智神(木の神)、火之迦具土神(火の神)、金山毘古神(金の神)、弥都波能売神(水の神)の「古事記」に登場する五方の神が充てられている。 
天井から吊された天蓋枠や舞殿の周囲には、春、夏、秋、冬の文字や松、竹、梅などの慶事物を切り抜いた「切り飾り」が貼られる。 
 
久久能智神/東方に配置される天蓋に充てられ、季節は春、色は青色とされている。 
火之迦具土神/南方に配置される天蓋に充てられ、季節は夏、色は赤色とされている。 
金山毘古神・金山毘売神/西方に配置される天蓋に充てられ、季節は秋、色は白色とされている。 
弥都波能売神/北方に配置される天蓋に充てられ、季節は冬、色は黒色とされている。 
波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神/中央に配置される天蓋に充てられ、季節は四季の終わりに訪れる土用、色は黄色とされている。

菊理媛神 くくりひめのかみ 
<白山比盗_/白山媛命 
*白山神社(石川県・福井県・岐阜県の県境)/全国2700社の白山神社 
日本書紀一度だけ出てくる神。伊邪那岐神と伊邪那美神が泉平坂(よもつひらさき)で仲違いをした時、伊邪那岐神に何かを申し上げてほめられている。この時、伊邪那美神はあの世に 、伊邪那岐神はこの世にいた。一般に菊理媛は、あの世の言葉を聞くことができる霊媒の神様とされている。
 
櫛磐間戸神

くしいわまど 
*
天戸神社(徳島三好郡三好町) 高皇産靈神/豐磐間戸神/櫛磐間戸神/素盞嗚神 
*鍬山神社(京都府亀岡市)の百太夫社(豊磐間戸神、櫛磐間戸神) 
門神 
大きな神社参道の鳥居や神門をくぐった所の左右に、小さな祠がある。両社は正面を向いていたり、向かい合っていたりと様々だが「対」の社だ。通常「門神」「門守」と呼ばれ、悪神や鬼の侵入を防ぐ働き の神社の門番である。 
門神/門を守る神。南北朝時代の宗凛(そうりん)の荊楚歳時記(けいそさいじき)に「正月元旦に二体の神を描いて戸の左右に貼る。左側が神荼(しんと)右側が鬱塁(うつるい)である。俗に門神という」とある 。 
神社の門神は、「矢大臣」「随身」「看督長」などいろいろな呼び方もある。「矢大臣」は冠をかぶり弓矢を持っているためにその名がある。「随身」は上古、警備のための近衛府の武人。「看督長」は検非違使付属の官人で今の警察のような役目。 
 
山城・御香宮の矢大臣 
二神は「忍日・来目」「櫛石窓神・豊石窓神」と言われる。「忍日・来目」は、高皇産霊神の末裔である、大伴連の遠祖、天忍日命と来目連の遠祖、天津久米命のことで、瓊瓊杵尊(ニニギ)の天孫降臨の時、先導した武神である。古事記/邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨の場面では、随伴した神々の中に「次に天の岩戸別の神、またの名を櫛岩窓(くしいはまど)の神といひ、またの名を豊岩窓(とよいはまど)の神といふ。この神は御門の神なり。」と「天岩戸別神・櫛石窓神・豊石窓神」が一柱の神として書かれている。「櫛石窓神・豊石窓神」は、忌部氏伝来の御門祭の祝詞で「櫛磐間戸神・豊磐間戸神」と記され、延喜式神名帳宮中神の条の「御門巫祭神八座」の中にあって、御殿の窓の神で外敵侵入を防塞する 。  
八幡宮と大銀杏 
平安時代後期1063年(康安6)源頼義が前九年の役での戦勝を感謝し、京都石清水八幡宮を鎌倉材木座に勧請したのが始まり。その後1180年(治承4)源頼朝が鎌倉入りするとともに政権整備の中心地として現在地に移した。主祭神は応神天皇、比売神、神功皇后の三体。 
本宮に至る石段の左脇に樹齢1000年以上ともいう大銀杏がある。北条氏の陰謀により頼朝の孫公暁がこの銀杏の陰に潜み、三代将軍源実朝に斬りつけ殺害したという伝説の木。公暁自らも捕縛され自害させられたため源氏の血統は途絶え、以後北条氏の独裁が始まる。 

櫛名田姫神 くしなだひめのかみ 
<櫛名田比売(くしなだひめ)/奇稲田姫(くしいなだひめ)/稲田姫/櫛田姫 
*今宮神社(京都)/氷川神社(関東)/八坂神社(関西)/各地の櫛稲田神社,、素戔嗚神をお祭りする神社 
農耕神、夫婦円満の神、祇園社の妃神 
素戔嗚神(すさのおのかみ)の妃神で、素戔嗚神といっしょに祭られている。櫛名田姫が祭神の場合、櫛田神社、櫛稲田神社などになってい る。 
・櫛田神社(富山県大門町)須佐之男命・櫛名田比売  
・久志伊奈太伎比羊神社(石川県七尾市)奇稲田姫・大鷦鷯命  
・櫛田宮(佐賀県神埼町)素戔嗚命・櫛田姫命・日本武命  
・櫛田神社(福岡県福岡市)大幡主大神・天照大神・素戔嗚大神 
祇園山笠で有名な「祇園」の通り、素戔嗚神を祭っているが素戔嗚神は右殿(須賀宮)の神で、正殿(櫛田宮)には大幡主神(おおはたぬしのかみ)が祭られている。左殿(大神宮)は天照大神。 
社伝/天平宝字元年(757)、伊勢国松坂の櫛田神社を産土神として勧請して宮を建てた。その時、松坂の櫛田神社の祭神・大幡主神は元々天照大神に仕える一族の神であったため、天照大神と離れられないということで天照大神も勧請された。天慶4年、藤原純友の乱を鎮めるため、この地の者が京都の八坂神社に祈願し、素戔嗚神を勧請し奉斎 した。この問題の大幡主神が別名・大若子命といい、天御中主神19世の孫で北陸地方で怪物退治をした英雄神であるとされている(櫛田神社が北部九州の他は北陸に3つあるのも符合している)。大幡主神が伊勢にいた理由は、豊受大神を伊勢に迎えた縁起に絡んでいる。雄略天皇の22年天照大神が倭姫命の夢枕に立ち、安心して食事を取れるように丹波国の真奈井原から止由気大神を呼んで来て欲しいと言った。倭姫命が大幡主命を天皇の許へ派遣し、その旨を伝たところ、山田原の地に社殿を営み、豊受大神宮が祭られた。 
 
日本社寺大観/櫛田神社は肥前の櫛田宮と同様に奇稲田姫を祀るもので、社伝の大若子云々については、伊勢の櫛田に付会してできたものではないかという。 
古事記「櫛名田比売」日本書紀「奇稲田姫」と記される。 
古事記/須佐之男命(すさのおのみこと)が、高天原から出雲国の肥の河上の鳥髪(とりがみ)に天下ったとき、河上から箸が流れて下ってくるのを見て、訪ね上っていくと、童女(おとめ)を中に置いて泣いている老夫婦に出会った。そこで、須佐之男命が、名前と泣いている訳を尋ねると、老夫婦が答えるには、私は国つ神・大山津見神(おおやまつみのかみ)の子で、名前は「足名稚」(あしなづち)、妻の名前は「手名稚」(てなづち)、女(むすめ)の名は櫛名田比売と言い、私の女は本(もと)は八稚女(やをとめ)いたが、高志(こし)の「八俣遠呂智」(やまたのおろち)が、年ごとに来て食らい、今、その遠呂智がやって来る時期となったので泣いていると答える。 
須佐之男命は、遠呂智の形状を問い、計略をこらして退治することを思い立ち、櫛名田比売命を妻にもらうと、たちまち櫛に姿を変えて髪に挿し、足名稚、手名稚に命じて濃い酒を醸造させ、また垣を廻らし、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷を作り、その桟敷ごとに酒桶を置き、桶ごとにその濃い酒を満たして遠呂智を待ち受けた。すると遠呂智が現れ、酒桶ごとに頭を垂れ入れ、酒を飲み酔って寝てしまった。須佐之男命は「十拳剣」(とつかのつるぎ)で遠呂智をずたずたに斬り殺し、尾から出てきた太刀を天照大御神のもとに献上した。八俣遠呂智を退治した須佐之男命は、櫛名田比売とともに新居の宮を造営すべき土地を出雲国に探し、須賀の地において新居の宮を造営した。その後、櫛名田比売は「八島士奴美神」(やしまじぬみのかみ)を生み、この6世孫に「大国主神」(おおくにぬしのかみ)が生まれたとある。 
日本書紀/古事記と同様の内容を記すが、大己貴神(おほあなむちのかみ)は素戔鳴尊の子と記し、また神代上第八段の第一の一書では、八岐大蛇退治の神話を欠き、更に、同第二の一書では、素戔鳴尊は、安芸国(あきのくに)の可愛(え)の川上に下るなど、異伝も多く見られる。 
櫛名田の神名については、「櫛髻説」(くしいなだきせつ)、「串蛇説」(くしなだせつ)、「奇稲田説」(くしいなだせつ)があるが、日本書紀の表現のとおり奇稲田説が主流で、「霊妙不思議な稲田の姫神」の意味とみられている。「稲田」には地名説もあるが、普通名詞とみるのが穏当で、稲田の守護神であると同時に、巫女的性格も指摘されている。
 
国忍富神 くにおしとみのかみ 
鳥鳴海神の御子神。古事記/大国主神の御子・トリナルミ神と日名照額田毘道男伊許知邇神の間に生まれた御子。本居宣長/オシはオホシ(大)の約で、トミは称名である。国土経営に尽力のあった意の神名 。 
国土が威圧的に豊富になること。「富」は豊富。母方の田の豊作を承けている。 
葦那陀迦神を妻として速甕之多気佐波夜遅奴美神を生む。
国之闇戸神 くにのくらとのかみ 
道路の守護神 
大山津見神と鹿屋野比売の二神より生まれた八神の一柱。オオヤマヅミ神・カヤノヒメ神の二神が山野によって持ち分けて生まれた神、天之闇戸神とともに道路の神として崇拝される。 
闇戸は闇い所のことで、陽の射さない谷間を指す。戸は門で谷または谷の入り口を守る神ともいえる。 
国之常立神 くにのとこたちのかみ 
*日枝神社(東京永田町) 
日本書紀で最初に出てくる神 
古事記では天之御中主神以下の別天神(ことあまつかみ)5神が現れたあと、この国之常立神が現れた ある。日本書紀では一番最初にこの神が現れている。吉田神道を開いた吉田兼倶は、神道の中心に据えた大元尊神を天御中主神が国常立神であるとした。
国之水分神 くにのみくまりのかみ 
水穂の神 
水戸神である速秋津日子神・速秋津比売神の二神より生まれた水に縁のある八神の一柱。ハヤアキツヒコ、ハヤアキツヒメの二神は、河と海の分掌を行っていた。水戸(奏)は河口にあるところが多く、一方は河一方は海とに分かれ、また入れ子になっているので示したもの 。本居宣長・古事記伝/「河海に因りて」とあって河を男神、海を女神としている。この二神より生まれた神として、天之水分神とクニノミクマリ神がある。水分は水配りの意味で「万葉集」巻七上に、「神さぶる磐根こごしき三芳野水分山を見れば悲しも」とあるように、だいたい山の分水領をいい、ここを水分山ともいう。 
アメノミクマリ神は神名を対にするために添えた接頭語とされるが、天与の水(雨)と地与の水(川)との関係からいわれた名とも考えられる。アメノミクマリ神とともに田の灌漑を司る神 だ。
 
熊野大神 くまののおおかみ 
*熊野大社(島根県・山形県南陽市)/熊野三山(和歌山県) 
出雲/熊野大社の神と和歌山県/熊野三山で信仰されている神が考えられる。後者は熊野権現として親しまれている。出雲/熊野大社の祭神は神祖熊野大神櫛御気野命(かむろぎくまぬのおおかみくしみけぬのみこと)は熊野大神 と同神とも言われる。熊野大神の出自は、古事記の天照大神と須佐之男神との誓約の時、天照大神から成った神・熊野久須毘命と推察される。次田真幸/「久須毘」は「奇し霊(ひ)」のことであろうと推定。熊野三山は、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社から成り、本宮大社は須佐之男神、速玉大社は伊邪那岐神、那智大社は伊邪那美神 が祭神である。 
 
南陽市・熊野大社/御本殿に熊野夫須美大神様、二宮(若王子)に熊野速魂大神様、三宮に熊野家津御子大神様をおまつり している。御本殿のクマノフスミホオホカミ様は女性原理による生成する生命力を、二宮のクマノハヤタマノオホカミ様は男性原理による生命力の発動を神様としておまつりしたもので、この二方の神様から、食料の神クマノケツミコノオホカミ様がご誕生にな った。クマノフスミノオホカミ様はイザナミノミコトに、クマノハヤタマノオホカミ様はイザナキノミコトに、クマノケツミコノオホカミサマ様はスサノヲノミコトというふうに、それぞれ古事記・日本書紀の神話の神々にあてられてい る。本居宣長によって熊野の大神様たちのご業績もはっきりとした。  
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ=伊弉冉尊) 「夫須美」はムスヒの意味。「ムス」はあらゆる物を生み出す意味、ヒは霊を表す。あらゆる命を生み出す霊妙な力を持った大神様である。 
熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ=伊弉諾尊) 「速」は勢いのある様。「玉」は魂の意味で、生き生きとした魂(生命)の神様である。 
熊野家津御子大神(くまのけつみこのおおかみ=素盞鳴尊) 家」は食べ物の意味。熊野夫須美大神と熊野速玉大神のあいだに生れ、人間生活で最も大事な食料の神様である。  
闇淤加美神 くらおかみのかみ 
*貴船神社(京都)/全国の意加美(おかみ)神社 
水の神、龍神様 
闇淤加美神の名は古事記・日本書紀とも同じで、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した所に出てくる。剣を握った指の間から血が流れ出た時に生まれたとされる。一方の高淤加美神(たかおかみのかみ)は日本書紀で迦具土神を斬って3つの神になったとし、その内の一人が高淤加美神になったとしている。 
基本的に水の神・龍神様とみなされ、闇淤加美神は谷間の深い所に、高淤加美神はその山の上にいるという。淤加美神の神裔として、娘に日河比売、その子に深淵之水夜礼花神がいて、この神の孫が大国主神になることが古事記に ある。貴船神社以外では、奈良県の丹生川上神社に淤加美神とともに罔象女神が祭られている。ほかに同県の室生龍穴神社も古くから雨乞いの神社として崇敬されている。その他全国の意加美神社で雨乞い・止雨・灌漑の神として祭られている。 
闇御津羽神 くらみつは 
イザナミ神の死後、イザナギ神のみより生まれた神々の一柱。古事記/イザナギ神が火の神・迦具土神の首を十拳剣を似て斬った、その剣の束に集まった血が手の指の股から洩れ出て生まれた二神の一柱で、他を闇淤加美神という。 
渓谷の水を司る神。闇は谷あいの意味だが、御津羽は弥都波能売神と同義語で水のことで、この神は谷の水の神ということになる。
闇山津見神 くらやまつみのかみ 
谷を守る神。イザナミ神が火の神・迦具土神を産みそれがもとで死に、怒ったイザナギ神が天之尾羽張(別名・伊都之尾羽張)と呼ばれる剣で、火の神の首を切 ったとき、死体の陰から生まれた神である。陰部より化生したクラヤマツミ神の闇は谷の意味で、陰部から連想した神であろう。火の神の死骸より化生の八神は、すべて山に住む神を表している。日本書紀/五柱の山の神となっているが、八神は羽山神と戸山神のように同義の神が重複しているため だ。また山の神が並べられたのは、剣の鍛造は山の中で行われたことか。
 
気比神 けひのかみ 
<
ミケツ神/イザサワケ 
*気比神宮(福井県敦賀市) 
気比神宮は日本海の敦賀湾に向かって立てられ、いかにも海の神を祀る神社。敦賀湾は古来、日本海の良港として知られ、京都に運ばれる物資などは多くがここに集積された。そうした重要な港湾を守る神でもあるケヒ神は、古くから航海の守り神、漁業の神として信仰されてきた。 
ミケツ神とも呼ばれ食物神であり、農業を守護する神でもあった。イザサワケとも呼ばれ、神功皇后の息子の応神天皇が敦賀を訪れたとき、祀られていたケヒ大神と名前を交換した。それで応神天皇は元のイザサワケという名前からホンダワケに、ケヒ大神はホンダワケからイザサワケ大神になったという。 
土着神であったケヒ神の信仰の歴史の中で画期的な出来事が、神功皇后が三韓遠征の後、息子のホンダワケ命をはじめ群臣を従えて気比神宮に参拝したことである。ケヒ神が航海の神としての神威を発揮して遠征軍の海路をを守護したことに対するお礼の参拝 か。これを期に、その後の遣唐使の航海の無事を懇願するようになった。このようにケヒ神は朝廷からも厚く崇敬され、日本の神々の中でも重要な位置を占めた。 
ケヒ神にはもう一つ風神という顔がある。古くからヤマト(奈良県)の竜田神社や広瀬神社の風神と並び、北陸・敦賀地方(福井県)の有力な風神として知られてきた。風神は海に生きる航海民にとっても重要な神であるが、同時に農耕民にとっては、作物を冷害から守るために大事に祀られなければならない神だった。 風神は古くから太陽、月、雷などの自然現象の神霊とともに、農民の間で強く意識された神霊だった。古事記に「御食津神は気比神なり」とある。ミケツ神とは穀物霊で、ウカノミタマ神やウケモチ神と同じ性格を持った食物神のこと。風神はすなわち農業の神であり、作物を実らせて食物を保証する神でもあった。信濃国(長野県)の諏訪神はじめ、風神を祀る神社は各地にある 。 
気比の大神 (ケヒ) 
食物の神霊の大神。「気」は食物。「比」は「霊・ひ」。神巧前紀に「角鹿の笥飯(けひ)の大神」とある。「笥飯」は敦賀の旧名でその文字の意識において、「笥」は食器「飯」は食物という文字が選ばれているわけで、海産物朝貢地敦賀の性格をよく表している。
 
牛頭天王

ごずてんのう 
*八坂神社/祇園神社/津島神社/天王神社/天王杉神社 
牛頭天王は色々な要素が合体しよく分からない仏様で、元々は牛の神様で、京都では公家たちが牛車を使っていたため、八坂の地に牛頭天王を祀る祠が作られたのではないかとも思われ る。同地に祇園寺と八坂神社があったため、平安時代の御霊会・祇園会などを通じて次第に習合した。八坂神社は元々は高麗系の八坂氏の氏神で農耕神だった、祇園寺は天神・婆利菜女・八王子を祀る寺だった。この習合で、牛頭天王は祇園会で祓う対象としての疫神と考えられ、一方で須佐之男命であると考え られた。櫛名田姫であるとか、牛頭天王は大国主命であるとの説もある。 
祇園牛頭天王縁起では、牛頭天王は須弥半腹の豊饒国王武塔天王の太子で、7歳にして身長7尺5寸、頂に3尺の牛頭があり、また3尺の赤角もある。長じて王位に付き、牛頭天王と称え山鳩のお告げで大海中の婆竭羅竜王宮に入り、第三婆利菜女を娶り、八王子を生んだとされ る。別説では、牛頭天王はインドの九相国・吉祥園の王で祇園精舎の守護神であったとの説もある。 
牛頭天王は、もとはインドの祇園精舎の守護神。単に天王といえば牛頭天王をさすことが多い。備後国風土記には武答天皇の太子として登場し、牛頭天皇と表記される。 日本の神素盞鳴尊と習合し、同時に疫病神の一面を併せ持つ神だ。疫病を撒き散らすと同時に親切に迎え入れた農民に対しては万病に効く術を授けたとも言われる。平安時代に都市部で信仰され、祇園御霊会(祇園祭)において祀られるようにな った。 
 
蘇民将来子孫之門 
昔、牛頭天王が老人に身をやつしお忍びで旅に出た時、とある村に宿を求めた。このとき兄の巨丹将来は裕福なのに冷淡にあしらい、弟の蘇民将来は貧しいのにやさしく迎え入れてもてなした。牛頭天王は正体を明かし「近々この村に死の病が流行るがお前の一族は助ける」とのたまった。果たせるかな死の病が流行ったとき、巨丹の一族は全部死んでしまったのに、蘇民の一族は助かったという。 
現在でも八坂神社などでは赤い地の紙に金色の文字で「蘇民将来子孫之門」という札を配布しているが、この故事による。何故赤い紙に金色の文字かは、陰陽道で「疫病神が嫌う色」とされているからである。 
 
牛頭天王は、稲荷や八幡といった多くの神がそうであるように、極めて複雑な神格を持ち、その来歴にも不明な点が多い。 
祇園八坂の神であり、尾張津島の神であり、蘇民将来伝説の武塔天神と同一視され、それを通じて素盞鳴命と習合した。また仏教的には祇園精舎の守護神とする。その起源は、インド説・朝鮮説・日本説があるがよくわからない。 
文献にはっきり「牛頭天王」の名が出るのは1147年以降だ。祇園社自体は九世紀頃に成立していた、播州広峰社から遷座の伝承もあるが確実ではなく、現八坂神社ではその可能性は薄い。蘇民将来伝説では、武塔天神の一行をもてなさない巨旦長者に対して、八王子と八万四千の眷属を率いて、一族皆殺しの罰を与える 神様だ。また八王子は、本来は八種類の疫病や災厄の象徴であったとも考えられる。 
一般に神様は信仰されるにつれて「格」が上がり、おとなしくなるものだ。怒り、祟りの菅原道真が、今や優しい学問の神様になっているのと同様に、牛頭天王も殺戮神から、殺戮者 ・疫病を抑える神へ、更に疫病を防ぐ神・薬師如来と同体の神へと昇格していく。疫病を恐れ、農作物への病虫害を恐れる農民も信仰の対象にした。 
明治以前では日本人にとって「テンノウ」とは、まず牛頭天王のことだった。天王山・天王町・天王祭などは、すべて牛頭天王社にかかわる名称だ。 
 
牛頭天王 
「天王」と呼ばれる。八坂神社の祭神で、疫病除けの神。もともとインドの祇園精舎の鐘の守護神であり(八坂神社が祇園社と呼ばれるのもこのため)、非常な荒神であったことから、日本へ入ると素戔嗚尊と習合された。  

別天つ神

ことあまつかみ 
天地開闢と別天つ神の出現 
別天津神は、古事記において天地創発の時にあらわれた五柱の神々を云う。天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、いずれも「独神」(対となる夫婦神を持たない神)として成って、そのまま身を隠したという。 
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 
高御産巣日神(たかみむすひのかみ) 
神産巣日神(かみむすひのかみ) 
その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した。 
宇摩志阿斯訶備比古遅神|宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ) 
天之常立神(あめのとこたちのかみ) 
これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼ぶ。別天津神の次に神世七代の神が現れた。

 
事代主神 ことしろぬしのかみ 
<八重事代主命/積羽八重(つみはやえ)/事代主神/恵比寿大神/一言主神/八重言代主神/八重事代主神(やえことしろぬし)  
*美保神社(島根県松江市)/今宮戎(いまみやえびす)神社(大阪市浪速区)/長田神社(神戸市長田区)/一言主神社/久伊豆神社/三嶋大社/大湊神社/その他恵比寿神が祀られる神社  
*鴨都味波八重事代主命神社(奈良県)/美保神社(出雲)/三嶋大社(静岡県)/各地の恵比須神社・三島神社   
海の神、託宣神、商業神  
大国主神と神屋楯比売神(かむやたてひめ)の間の子供。神屋楯比売神の出自は不詳、旧事本紀に「坐辺都宮・高降姫神」と書かれ、兄の味鋤高彦根神(賀茂大神)の母が「坐胸形奥津宮神多紀理比賣命」と書かれているので、同じ宗像の辺都宮の神・田寸津姫の異名か。「高降」は「たぎつ」と読む可能性もある、ただし田寸津姫については別の神との婚姻の記録もある。 
事代主神は賀茂一族信仰の中心をなす神で、また葛城王朝を支えた重要人物として日本書紀に書かれている。また「えびす様」としての信仰もある。 
事代主神の最初の本拠地は葛城(奈良県御所市)の下鴨神社(鴨都味波八重事代主命神社)。事代主神は最初、葛城川の岸辺に季節毎に祭られる田の神で、やがて、同じ葛城に いた叔父に当たる一言主神の神格の一部を引き継いだのか、託宣の神としての性格も持った。 
 
淀川の事代主神 
事代主神は後に奈良盆地北部の交通の要所・岡田から「ワニと化して」木津川・淀川を通って、大阪三島の溝咋姫の所に通ったと伝えられる。この場所は溝咋神社(茨木市)・三島鴨神社(高槻市)が並ぶように建っている。三島鴨神社は大山祇神の降臨の地で、大山祇神はここから瀬戸内海の大三島に移った。三島鴨神社は日本最古の三島神社と伝えられ、ここは事代主神の滞在地でもあり、事代主神もいっしょに祭られてい る。 
淀川が大阪湾に注ぐそばに今宮戎神社が建ち、祭神は事代主神である。淀川河口付近を中心に対象な位置に西宮神社・石津神社という「えびす様」の二大拠点がある。西宮神社のえびす様は蛭子神 だが、石津神社は事代主神で、ここに五色の石をもって降臨したとも伝えられる。 
 
出雲の事代主神 
後に事代主神は出雲に移動した。神話を逆のぼると国譲り神話に父・大国主神の代理として武甕槌神と交渉し、国譲りに同意して美保関に引き籠る神話が出てくる。この美保関の美保神社にも事代主神は義母の美保姫とともに祭られている。 
出雲に事代主神が揖屋の溝杭姫の所に通って「ワニに足を噛まれた」という神話が残っている。この話は淀川の事代主がワニに化して溝咋姫の所に通ったという話が変形したものと思われる。揖屋に溝咋姫(溝咋玉櫛媛/活玉依姫/勢夜陀多良比売)ゆかりの神社はない。 
伊豆の事代主神 
美保で国を譲った責任を取って引き籠った事代主神は伊豆で再生し三島明神となった。伊豆は「出ず」で再生の地で、残された場所は「伊豆・喪」で「いづも」なのだと言う。三島明神はここで八人の妃神と二十七人の御子を得て、富士山の神と共同で七日七夜の間に、十個の島を生成し、新たな国作りをした。その初め三宅島にいたが、後に白浜海岸 から広瀬と移り、現在の三嶋大社の場所に鎮した。事代主神の最終鎮座地は三嶋大社である。 
伊豆で最初の鎮座地である三宅島の富賀神社、第二鎮座地の白浜神社の祭神は伊古奈姫。そして広瀬神社の祭神は溝咋姫。いづれも事代主神の重要な妃神である。伝説では三島明神は奥様たちを置いて単身で三嶋大社に鎮座 されたと伝えられる。 
葛城王朝の事代主神 
葛城王朝は事代主血族の王朝ともいえる、伊邪那岐・伊邪那美の神の下で天照大神・素戔嗚尊の両系統に分かれた天神・地祇の系統がここで統合される。天神は神武天皇の祖先であり、地祇はその后の五十鈴姫の祖先である。事代主神は宮中の御巫(みかんなぎ)八神の一にもなってい る。 
 
事代主神は、記紀神話で託宣神として活躍、一般には、豊漁、海上安全守護の神、またエビス信仰の福神として知られる。七福神のエビスが、大鯛を小脇に抱えた姿とされるのも、事代主神が釣り好き との神話からの連想による。事代主神は海から寄り来る神で、出雲の美保神社(島根県美保関町)の周辺地域の土着の神であった。はじめは地元の漁民や航海関係者から、豊漁をもたらす神、航海の安全を守護する神として信じられ、出雲の有力な神となった 。 
出雲神話では、出雲国の支配者である大国主命の息子として国譲りの話に登場する。このとき、弟の建御名方神は最後まで抵抗し、敗れて信濃国に追われたが、事代主神はあっさりと国譲りを認めてしまう。このときの事代主神の役割は、託宣の神としてのものである。大国主命が息子に意見を求めることにしたことも、神意をうかがわせてその託宣を聞くという形を取ったもので、事代主神の託宣神としての役割が強調されている。この神話の中で重要な意味は、そうした託宣による返事が国譲りのあっさりとした承諾であるということだ 、国譲りは侵略でなく、正義の行いであることの証明か。大国主命の息子二人の行動は、事代主神が高天原の正当性を、建御名方神がその武力を象徴するという意味を持っている 。 
神名は「事を知る」という意味で、もともと固有名詞でなく一種の役職名で、託宣を発する呪術の専門家(神懸かりする神主や巫女といった存在)に対する称号のようなもの。美保神社の祭神の事代主神も、託宣の神として信仰され、祭りの大きな特徴として一年神主(氏子が選ばれて神主をつとめる)が神懸かるという神事が行われる。 
託宣神である事代主神は、神懸かりして神の意志を伝え巫女や神主が果たす機能の神格化といえる。託宣とは神の言葉を伝えることで、神の言葉は世の中の出来事を左右し、行為を 抑える霊力を持つ言霊である。そこから「事代」を「言(言霊)を司る」という意味にとらえ、日本古来の言霊信仰から生まれた神ともいえる。一説に言霊の神格化である一言主神と同一神ともいわれ、実際に同一神として祀る神社もある。
 
金刀比羅権現

ことひらごんげん 
<金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん) 
*金刀比羅宮(香川県琴平町)/金刀比羅宮(東京都港区虎ノ門) 
開運、招福除災、禁酒断酒、商売繁盛、豊作、大漁、航海安全 
金毘羅 
金毘羅(こんぴら)は天竺霊鷲山の鬼神。薬師如来の十二神将の筆頭・宮比羅大将(くびらたいしょう)を指す。ヒンドゥー教の福徳の神クーベラが仏教に取り入れられ宮比羅大将となり、神仏習合によって弥勒菩薩(他に十一面観音菩薩など諸説あり)の垂迹神として金毘羅大権現が成立した。クーベラは梵語ではヴァイシュラヴァナにあたるとされ、音訳された毘沙門天と同体であるともいう。 
クーベラが鰐の神であったことから、日本では海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上に祀られる。香川県琴平町の金刀比羅宮が全国の金比羅神社(こんぴらさん)の総本宮となっており、江戸時代後期には、伊勢参りとともに金毘羅参りが盛んになった。 
神道側の解釈として、金毘羅大権現は、大物主神とも牛頭天王(素盞鳴尊)とも、また崇徳天皇ともされたが、明治になって大物主神に定められた。 
 
香川県仲多度郡琴平町、金刀比羅宮(ことひらぐう)は香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれ、明治前は金毘羅大権現と呼ばれた。全国の金刀比羅神社(金毘羅神社・琴平神社)の総本社である。長く続く参道の石段が有名で、奥社まで登ると1368段にもなる。海の守り神として信仰されており、境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが多く残る。 

木花咲耶姫神 このはなさくやひめのかみ 
<木花之佐久夜毘売//神阿多都比売(かむあたつひめ)/神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、豊吾田津姫(とよあたつひめ) 
*梅宮大社(京都)/全国の浅間神社 
富士山の神様 
木花咲耶姫神は大山祇神の娘で、石長姫神(いわながひめのかみ)・木花知流姫神(このはなちるひめのかみ)・神大市姫神(かむおおいちひめのかみ)の姉妹。 
邇邇芸命の妃で、海幸彦・山幸彦の母、そして神武天皇の曾祖母にあたる。 
梅宮大社では、酒解子神、お酒の神様として祭られている。
木花知流姫神 このはなちるひめのかみ 
木花知流姫神は富士山の神として知られる木花咲耶姫神と対神であり、あるいは同じ神の別の面を表したものとも言われる。大山祇神の娘であり八島士奴美神(須佐之男神と櫛稲田姫の間の子)の妃神で、大国主神の祖父の祖母にあたる。
 
金神

こんじん 
方位神の一つ 
*金神社(こがね/岐阜市金町) 
金神の在する方位に対しては、あらゆることが凶とされ、特に土を動かしたり、造作・修理・移転・旅行などが忌まれる。この方位を犯すと家族7人に死が及び、家族が7人いない時は隣の家の者まで殺される(これを七殺(ななさつ)という)と言われて恐れられた。 
吉神である歳徳神の正反対の方位に、金神が在位する。 
暦によっては、金神が「地金神(じこんじん)、庚金神(かのえこんじん)、辛金神(かのとこんじん)、」あるいは「太金神(だいこんじん)、姫金神(ひめこんじん)、巡金神(めぐりこんじん)」というように、三つの金神に別たりする。いずれも大凶方位である。その年の十二支によって在位する方位が変る。元の「金神」が巡金神だと言われている。 
 
金神社(こがね/岐阜市金町) 
昔から商売繁盛の神様として人々から信仰を集め岐阜市の中心市街地に位置する神社。 
西暦135年成務天皇の時代に、物部臣賀夫良命(もののべかぶらのみこと)が国造りとして建造した。境内の東北の隅に物部臣賀夫良命(もののべかぶらのみこと)を祀る古墳「賀夫良城(かぶらぎ)」があり、近くに「蕪城町(かぶらぎちょう)」という町名がある。祭神は渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)で、景行天皇の第6皇女であり、岐阜市内金華山付近にある伊奈波(いなば)神社の主祭神、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)のお妃である。よって伊奈波(いなば)神社は夫婦と言うことになる。伊奈波神社 ・縁起によれば、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)は、朝廷の命令をうけて奥州(今の東北地方)を平定したが、その時一緒に同行した陸奥守豊益(むつのかみとよます)はその成功をねたみ、一足先に都に帰り五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が帝位を狙っているとの噂を流したため朝廷から攻められこの地で殺された。夫の死を知らされた渟熨斗姫命は、悲しさのあまり都を発ち、朝夕ひたすら夫の死を悼んで、御霊を慰められつつ生涯を終えたと伝えられる。その間、渟熨斗姫命は地域住民を母の如く温かく慈し んだ。後世の人々は、渟熨斗姫命を聖観世音菩薩とも称えた時代もあるほど、慈悲深い神として慕われ、その信仰は財宝をもたらす神とされるようになった。 
 
方位神 
方位神(ほういじん)とは、九星術から生じたもので、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用を齎すと考えられた神である。方位神はそれぞれの神に定められた規則に従って角方位を遊行する。吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位という。平安時代は、自分が行こうとする方角が凶方位である場合に、一旦他の方角へ行ってから目的地へ向かう方違え(かたたがえ)が盛んに行われた。 
鍬入れ式 
これは、金神即ち国常立尊に対して、おうかがいをたてる儀式であったのが本旨。即ち、結界内で鍬入れ儀式を試しに行い支障がないことを確認するのである。今でも、民間信仰において土の障りを避けるため、冬場に金神を奉り土の移動を忌む時期がある。農耕民であれば土地の養生、大工であれば時期選択の意味があるので、地鎮祭の鍬入れ式はこの様な祭礼と関連した儀式である。出雲地方では、家屋新築の際等、大社の奥殿、素盞社の土を一握り持ち帰り、自家の土地に撒く風習がある。大社の神官は意味不明で困った風習と嘆いていたが、より強い神格を以て地主神を鎮める意味を持っているのであろう。 
古来、地鎮祭において、その終了後建築地に鏡を埋納する風習があった。 
 

 
  うえ かき  
 


  
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