八百万の神 [かき] 
                      
 
  うえ かき  
 
迦具土神

かぐつちのかみ 
<火之迦倶槌神(ホノカグツチノカミ)/火夜芸速男神(ホノヤギハヤオノカミ)/軻遇突智命(カグツチノミコト)/火産霊神(ホムスビノカミ)/火牟須比命(ホムスビノミコト)  
*秋葉山本営秋葉神社/愛宕神社/伊豆山神社/火産霊神社/豊麻神社/陶器神社  
火の神、鍛冶の神 
伊邪那岐命と伊邪那美命の子。神話の火の神誕生の話に登場、激しい誕生のしかたをした。誕生のときに自ら身にまとう炎によって母伊邪那美命の陰部を焼き焦がし死亡させてしまうのである。妻の死を嘆き悲しむ伊邪那岐命によって十握剣で首を切られて殺されてしまう。このとき斬られた迦具土神の血が岩にほとばしり、その血から岩石の神、火の神、雷神、雨の神、水の神、多くの山の神が生まれた 。 
 
火防せ(ヒブセ)の神として愛宕神社の祭神である。その総本社が、京都の西北に鎮座する愛宕神社だ。愛宕の神は、境の神(塞(サエ)の神)であり、東の比叡山に対して西に位置する都城鎮護の神として崇められ た。特に都を火災から守ることを願って神社の若宮に火の神迦具土神がまつられたことから、愛宕の神は鎮火、防火の神として信仰されるようになった。愛宕の名は、迦具土神が生まれる際に伊邪那美命を焼死させた「仇子」にちなむものだ と古事記にある。 
各地の愛宕神社のある山は「天狗の山と呼ばれているところ が多い。愛宕大権現の名でも知られる京都の愛宕神社は、中性には修験者が篭もる聖地として栄えた所で、ここに君臨していたのが、日本一の大天狗として名を轟かせた太郎坊である。ここの修験道場で修行した山伏たちは、諸国を巡り歩いて愛宕信仰を各地に広めた。愛宕の神をその町や村の小高い山や丘に勧請したことによって、迦具土神は火防せの神として広く庶民の信仰を集めるようになった 。 
愛宕と並び防火の神として全国的な信仰を集めるものに秋葉信仰がある。その総本社は、静岡県周知群に鎮座する秋葉山本営秋葉神社で、この祭神も迦具土神である。秋葉の神というのは古く山岳信仰から発し、それが仏教と習合して秋葉山大権現(正式には秋葉山三尺坊大権現)として信仰されるようになった。特に江戸時代には、間断なく火災に見舞われ続けた江戸の庶民の間で、火難除けの秋葉信仰は大いに広まった。 
迦具土神は鍛冶の神や焼き物の神としても信仰される。日本の焼き物の名産地には、だいたい陶磁器業者の守護神を祀る陶器神社があ り、その祭神の多くは迦具土神である。焼き物を作るときに、その生命が火加減である。陶芸家は火の神と気まぐれというか、絶対に火を自由にはできないことを身にしみて感じている。だから陶器を窯で焼き上げるとき、自らの計算と経験を尽くしたあとの段階は、火の神の手にすべてを委ねる 、火の神の援助がなくてはいい陶器が生まれないと言ってもいい。 
迦具土神は、台所の火を司る神として民間信仰の竈神とも関係が深い。 

香用比売 かぐよひめ 
須佐之男命の子の大年神の妻になり、大香山戸臣神と御年神とを生む。 
微光を発する物に依り憑く巫女。「香」は「かぐ」の音を表す。「かぐよ」は「かがよふ」(光りがうすぼんやりちらちらする)の語幹。神異の光を揺曳させる物とは、農耕祭祀のための稲魂を形象化した玉や農耕機具の光沢ある鉄をさすと考える。その物に憑依する のが巫女である。  
大香山戸臣の神(おほかぐやまとみ) 
 須佐之男命の子の大年神 と香用比売との間に生れた二神中の第一子。 
偉大な微光を発する山の、立派な神霊。微光を発する玉や鉄の原石を含む山が「香山」である。「戸」は呪物や呪的行為につける接尾語。「臣」は元来「おほみ」で「大霊」の意であった。それが「おみ」と短呼され、敬称ないしは人臣の意に用いられた 、ここは敬称。「戸臣」の約が「とみ」。農耕祭祀や機具の原料を採る山の神格化。 
御年神 (みとし) 
年穀(稲)の神。須佐之男命の子の大年神と香用比売との間に生れた二神中の第二子。
 
春日神

かすが 
日本の神である。春日氏の氏神。春日明神または春日権現とも称され神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで春日大神などと書かれる。 
春日神杜(奈良市春日野町)1 
旧官幣大社、1946年(昭和21)春日大社と改称。祭神は鹿島神宮の武甕槌命(たけみかずちのみこと)・香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)・枚岡神社の天児屋根命(あめのこやねのみこと)・同比売神(ひめがみ)の4座。古く四所明神と称せられ、春日権現・春日大明神ともいう。鹿島・香取は藤原氏と因縁深く、枚岡はその祖神を祭る社。768年(神護景雲2)藤原氏の氏社として、春日御蓋(みかさ)山麓、もと春日の地主神を祭る社のあったところに創建され、同時に官祭にあずかった。平城廃都後、長岡京に大原野社(京春日という)、平安京に吉田神社が分社として建てられたが、春日社は奈良にとどまり、藤原氏の勢威があがるにしたがって隆盛に赴いた。9世紀の中ごろ拡充がはかられ、859年(貞観1)春日祭を2月と11月の両季に行うことになった。春日の神威を借りて勢力をひろげようとした興福寺は、春日社へ支配の手をひろげ1135年(保廷1)に春日若宮社をおこして翌年からその祭札を主宰、春日社との一体化を実現した。末社や社領も興福寺の支配となったが、藤原氏・興福寺とも春日明神の神威を仰いでその繁栄をはかったので1178年(治承2)の式年造替にあたり、社容を一新、翌年に楼門形式の南門が建てられ、両側の瑞籬(みずがき)が回廊に改められた。12、13世紀に興福寺の大衆(僧兵)は春日大神の御正躰(みしょうたい、神鏡)を榊に移した神木を掲げて上洛、しばしば強訴を行った。鎌倉時代摂関家は皇室の伊勢、武家の八幡に対して春日明神の宣揚につとめ、室町時代には、足利義満が1382年(永徳2)に全焼した春日社の再興を援助するなど摂関家に代わって足利将軍家が外護した。江戸幕府も、秀吉から与えられた興福寺兼春日社領2万1,000石の朱印領を認めるなど、数々の保護を与えた。明治維新の神仏分離で興福寺の支配を離れ1871年(明治4)官幣大社に列せられた。例祭(春日祭)は2月と11月の上申の日に行われて申(さる)祭と呼ばれ、賀茂・石清水と並ぶ3勅祭の一つ。現在12月17日に行われる摂社若宮神社の祭儀が、世に御祭(おんまつり)と呼ばれて春日社最大の祭礼になっている。社殿は春日造(切妻造 、妻入の母屋=もやの正面に向拝=ごはいを付加した形成)の典型で4棟が併立。現在の社殿は1863年(文久3)造営のもの。1200基の釣灯籠と1700基の石灯籠が著名。元旦と節分および大文字山焼きの夜に灯が入る(万灯籠)。 
 
春日神杜(奈良市春日野町)2 
全国の春日神社の総本社。和銅二年藤原不比等によって、常陸国鹿島から藤原氏氏神・武甕槌命を勧請し、春日神として祀ったのが創祀。神護景雲二年に社殿の造営となり、香取神(經津主命)・枚岡神(天兒屋根命)を合祀し、少し遅れて比売神を合祀し四柱を祀る官社となった。もともと春日の地に祀られていた地主神は、廻廊隅にある榎本社として祀られる。地主神は春日地方の旧勢力であった、和邇氏一族の小野氏が奉祭したと考えられるが、この経緯に関して以下の伝承がある。 
常陸から遷って来た春日明神が、春日山の神に山を三尺借りたいと申し入れた。耳の不自由な春日山の神は詳細を聞かずに承知したが、春日明神は山全体の地下三尺であるとの理由を付け、結局、山全体を領するようになった。春日明神は鹿に乗って影向したとされることから、鹿は神鹿として保護され、境内一帯に鹿が多く生息している。 
 
春日信仰 
藤原氏の氏神・氏社としての信仰に始まる。氏長者である摂関家の春日詣(かすがもうで)をはじめ藤原氏一族の参詣が相次いだほか、一条天皇以来行幸・御幸は30余度に及んだ。後一条天皇の行幸にあたって大和添上郡の2郷が寄進され、関白頼通が同郡楊生の神戸4郷を寄せるなど皇室や藤原氏一門などからの寄進によって社領が増大、荘園は全国に散在した。春日社兼興福寺領ないし摂関家兼春日社領として包括されていたが、荘園の鎮守として春日社が勧請され、全国にひろまった。初め鹿島神が主神とされていたが平安末ごろから四所明神を一体化した春日明神の崇敬に代わった。伊勢・石清水とともに三社と呼ばれて殊遇を受け、室町中期には、神儒仏三教一致の思想に支えられ、正直(伊勢)・清浄(八幡)・慈悲(春日)の神徳を説く三社託宣が成立した。鎌倉時代以降、春日曼荼羅が盛んに描かれ、鎌倉時代末には、春日明神の霊験を物語った絵巻物 「春日権現験記」もつくられた。室町時代には足利将軍の社参があり、郷村では春日講が盛んになった。室町後期には、源平藤橘の種姓を誇示する風がおこり、藤原姓の武将によって各地に春日杜が勧請され、上杉謙信が居城を春日山城と名づけたような例もある。徳川将軍家も三社信仰に篤く、三社託宣を授けるところがあった。なお現在1000頭をこえる神鹿は、鹿島の神が春日へ遷座の折、乗ってきた白鹿が繁殖したものと伝え、平安後期から春日明神の使いとして神鹿の崇拝が強まり 、春日曼荼羅に描かれるとともに鹿曼荼羅図も残されている。 
 
三社託宣(さんしゃたくせん) 
天照大神・八幡大菩薩・春日大明神の託宣文を三尊形式に一幅にまとめたもの。託宣の文はほぼ次のようである。 
八幡大菩薩鉄丸を食と為すと雖も心汚(けがら)はしき人の物を受けず、銅の焔(ほむら)を座と為すと雖も心穢(けが)れし人の処に到らず、天照大神宮 謀計は眼前の利潤為(た)りと雖も必ず神明の罰を当て、正直は一旦の依怙に非ずと雖も終には日月の憐みを蒙らん、春日大明神 千日の注連を曳くと雖も邪見の家に到らず、重服深厚為りと雖も慈悲の室に趣くべし。 
要するに八幡神は清浄、天照大神は正直、春日神は慈悲を最も尊ぶ主旨を現したもの。元来 、別々に唱えられたものを三尊形式にまとめたおこりは、1288-92年(応永年中)奈良東大寺東南院においてであったろうと推定される。 

家宅六神

かたくろくしん 
神道における家宅を表す(または守る)六柱の神の総称。古事記/国産みを終えた後、神産みの最初に大事忍男神が産まれた後にイザナギとイザナミの子として産まれている。 
1 石土毘古神(いわつちびこのかみ)/家の材料である石と土(壁土)を表す。 
2 石巣比売神(いわすひめのかみ)/石巣は石砂のことで、その前が「毘古」のつく男神であるため対神として女神とされた。古史伝/この二神は上筒男神の別名であるとしている。神名考/石土毘古神は土を、石巣比売神は砂を司る神であるとしている。 
3 大戸日別神(おおとひわけのかみ)/大戸は家の出入口のこと、性別不明。古事記伝/大直毘神と混同された神 とある。神名考/門の神の一つ。 
4 天之吹男神(あめのふきおのかみ)/吹は屋根を葺く動作。古事記伝/名前から大祓詞に登場する気吹戸主(いぶきどぬし)と同神。神名考/屋上の神 。 
5 大屋毘古神(おおやびこのかみ)/葺き終わった屋根。神名「大禍」の意の「大綾」から「あ」が取れたもので、災厄を司る大禍津日神と同神。大国主の神話に登場し、五十猛神の別名ともされる「大屋毘古神」とは別神 。 
6 風木津別之忍男神(かざもつわけのおしおのかみ)/風に関する神、暴風から家を守る神として、家宅六神の最後に入れられた。風の神はその後志那都比古神(しなつひこ)が産まれており、風木津別之忍男神の「風」は単なる宛字で風の神ではないと の説もある。読みも、原文の註記に「木は音を用いる」とあるので「も」と読むことになるが異例である。古事記伝/この註は後で誤って挿入されたもので「かざけつわけおしを」と読むとしている。 また底筒男神、または大祓詞の速佐須良比売と同神としている。

 
河童 かっぱ 
農作業を手伝ったりもするイタヅラ好きな者 
小松和彦「憑霊信仰論」の中で神と妖怪の差は、きちんと祀られているかどうかであると言う。人間に色々な害をなす霊もきちとん祀れば神になり、放置されると妖怪とな り人々にいたづらをする。「お化け」の代表ともいうべき器物の霊は付喪神(つくもがみ)と呼ばれる。そういった妖怪の中でも最も人間に馴染深く、様々な伝説を残しているのが河童と天狗である。  
河童は水の精と考えられ、亀のような甲羅があり、頭の上のお皿の水がなくなると死んでしまうとされる。河童は悪戯者で子供が川で泳いでいるのを襲って尻子玉を抜いてしまうと言われ、また馬を水中に引き込んで溺れさせたりすると言われる。各地に河童と人間が相撲をとったという話があり、また水の中に引き込まれそうになって、河童の手を切り落としたという話もあり実際に「河童の手」と称するものがあちこちに保管されている。 
 
河童は悪戯の一方で人間の手伝いもし、河童が田植を手伝った話、柴刈をしてくれた話などが各地に見られる。河童は秋になると山に登って山童になるという説もある。 柳田国男「河童駒引」で河童は猿と同質ではないかと述べている。河童の異名に「かわたろう」「がたろう」などとあるが、一部の地域では「えんこう」と言う。柳田は「えんこう」とは「猿猴」ではないかと考えた。中野美代子「孫悟空との対話」で、猿が馬の保護者であるという考え方が日本をはじめとして東南アジア、インドにまで分布し、馬の保護者である猿と馬に害をなす河童と対を形成している。河童の手は左右つなが り、引っ張ると抜け落ちるという俗説があるが、中国ではテナガザルについて同じ俗説があり、やはり猿と河童には密接な関係がありそうだ。 
吉野裕子「陰陽五行と日本の民俗」で河童の体形は猿ではないか、顔は鼠に似て、さらに亀(龍)の甲羅とそろい、これは子・申・辰の三合水局になっていると指摘している。吉野によれば河童が馬を水の中に引きずり込むことができるのは、河童が水で馬が火なので水剋火の理であり、また夏の土用の時期に河童祭りを行なう所があるのは、これも土剋水だからではないかとしてい る。全くの偶然だが芥川龍之介の命日「河童忌」も7月24日でまさに土用の最中。 
 
  河童の話 
金山彦神 
 -金山毘売神

かなやまひこ 
<金山毘古神 
*黄金山神社(宮城県石巻市金華山)/南宮神社(岐阜県垂井町)/敢国(アエクニ)神社/川口神社/金屋子神社/その他金山神社  
鉱山の神、金属の神、鋳物の神  
神話の神。金山毘売神(金山姫神)とともに鉱山の神として信仰される。 
神産みにおいてイザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しむときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。 
「金山」(かなやま、鉱山)を司る神で、嘔吐物から産まれたとしたのは嘔吐物の外観からの連想によるもの。鉱山を司どり、また荒金を採る神とされ、鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神とされる。 
製鉄の守護神を祀る金屋子神社の祭神は、金山彦神と金山姫神、金屋子神の三神。金屋子神は、金山彦神、金山姫神夫婦神の子で、三神を合わせて金山大明神と称している。神話には二神の名前だけが登場し、金屋子神の名は ない。 
金山彦神を祭神とする南宮大社の社伝に、この神が神武東征のときに金鵄を飛来させて戦勝をもたらす霊威を発揮したとある。戦いを有利にした金鵄とは、戦闘に用いる武器のことにほかならない。金山彦神の子孫を名乗る人々が作った兵器を提供し、神武天皇の大和平定に貢献したことを物語 。 
「金屋」は鍛冶を専業とする人々のこと。金屋子神が祀られる本拠地である中国地方の山間部は、古来からタタラ(古代の製鉄所)が行われ、日本の製鉄の中心地であった。それを支えた人々がタタラ師で、鉱山から掘り出した鉄鉱石をタタラによって精錬して、和鋼や和鉄を生産した。そのタタラ師が製鉄の祖神として祀ったのが金屋子神である。この神が、各地の鉱山や製鉄所などに祀られているのは、 こうした信仰から発祥した。 
金屋子神社(島根県能義郡広瀬町)伝説/金屋子神は、はじめ播磨国志相郡岩鍋(兵庫県宍粟郡千草町岩野辺)に鉄器の鋳造を伝えたが、西方に我が住むべきよき地があるといって、白鷲に乗って空を飛び、出雲国の比田(広瀬町)に降り立ち、そこで住人の阿部氏(金屋子神社の神職の祖先)に、神託によって砂鉄採取法、木炭製造法、製鉄法(タタラ)、鋳物法を伝授したという。  
火を扱い製鉄・鍛冶・鋳物などを生業とする人びとが、守護神として祀る「金屋子神」は、高天原から播磨国志相郡岩鍋(兵庫県宍粟郡千種町岩野辺)の地に天降って、鍋、釜など鉄器鋳造の技術を教え、さらに「吾は西方を主る神なれば西方に赴かば良き宮居あらん」と白鷺に乗って出雲国能義郡比田村黒田の奥にあった桂の樹の枝に飛来した(備中・中山あるいは伯耆の印賀を経由したなどの伝承もあ る)。 ここで、安部氏(現宮司の祖先)に出会い、「吾は金屋子神なり、今より此処に宮居し、蹈鞴を立て、鉄吹術を始むべし」と宣言して製鉄法を伝授したのち、その地に祀られたとされ る。 

金山姫神 
 -金山彦神
かなやまひめ
 
竃神 かまどがみ 
各家庭の台所を守る神 
ある所に東長者と西長者がいた。二人は大変仲がよく一緒に釣りに出たりしていたが、ある時潮待ちして休んでいた時、東長者は寄木を枕に眠ってしまったが、西長者が眠れないでい ると海の中から竜宮の神様が出てきた。「寄木の者、寄木の者、東長者と西長者の所に子供が生まれましたから位を付けに行きましょう」と声を掛けた。すると寄木が「私は今人間の枕にされていて行けません。私の代わりに行って来てもらえませんか」と答た。竜宮の神様はしばらくして戻り「東長者の子供は女の子で塩一升の位、西長者の子供は男の子で竹一本の位を付けて来ました」と言った。寄木が「塩一升は付けすぎではありませんか?」と言うと、竜宮の神様は「いえ。あの子はそれほどの生まれをしています」と言った。西長者は神様たちの会話を聞き、自分の子供は竹一本にされたが、これは今の内に何とかしておかねばと思い、東長者を揺り起こした。「東の旦那。私は今夢を見ました。あなたの家でも私の家でも子供が生まれたようです。帰りましょう」そして帰る道々「ねえ、東の旦那。あなたの家に生まれた子供が女の子で私の家に生まれた子供が男の子だったら、あなたの子供をうちに嫁に下さいませんか。そしてあなたの家に生まれた子供が男の子で私の家に生まれた子供が女の子だったら私の子供をお嫁にもらって下さいよ」と相談した。東の長者も「いいですね」と二人は約束して家に帰った。家に帰 ると神様たちの言った通り、東長者の所には女の子が、西長者の所には男の子が生まれていた。 
子供は大事に育てられ、18になった時約束通り結婚した。幸せに暮らしていたが五月の麦の収穫祭「あらまち」の日、妻が麦の飯を炊いて神様にも供え、夫にも「一俵の麦を一斗になるまでつき、一斗の麦は一升になるまでついた麦です。今日はあらまちの祝いですから、これを食べてくださいね」と出すと、夫は「俺は米の飯しか食ったことない。麦飯など食えるか」と言ってお膳をひっくり返した。妻は「私はここで暮らしをすることはできません。この家はあなたのお父さんが下さった家ですから、あなたの自由にして下さい。私は出て行きます」と言い、ひっくり返した茶碗を拾い、こぼれた麦飯を一粒残らず集め、家を出て行った。 
 
家を出た所で二人の神様が話をしていた「麦の奴さえも蹴飛ばされるとはな。我々もこの家に残っていると何されるかわからん。大北の炭焼五郎は心も美しく働き者だというからそこへ行こう」と語っていたので、女はよい話を聞いたと思い、炭焼五郎を訪ねた。女が炭焼五郎の家で一晩の宿を乞うと、五郎は「ここはきたない家だから、向こうの大きな家に行った方がいいよ」と言ったが、女が「こんなに暗くなってしまってはとても歩けません。雨だれの下でもいいですから泊めてください」と言うと、五郎も女を中に入れてくれた。 
家に入ると五郎は炒米のお茶を出してくれた。女は持ってきた麦飯の御飯を半分五郎にあげた。五郎も有難がって一緒に食べました、女は「どうか私を嫁にしてください」と言った。五郎はたまげ「貴女のような立派な方を嫁にしたらバチが当りますよ」と言ったが「そんなことはありません。私のかつての望みですからお願いします」と言うと五郎も承知して二人は夫婦になっ た。それから五郎が炭を焼くと、しばしば炭の中に黄金が入っていて、あっという間に長者になった。 
女房に出て行かれた竹一本の男のは、貧乏になり竹細工を売り歩く身分になっていた。ある時男が炭焼長者の家を訪ねて来ると、男はもう女の顔を忘れていたが、女は覚えていて、竹細工を値段の倍で買ってやった。男は「物の値段の分からない馬鹿な女がいるな。大儲けしてやれ」と大きな竹の篭を作って持っていったが、女に別れた時の茶碗を見せられると、恥じ入り、そのまま死んでしまった。 女は哀れみ家の竃の下に埋めてやった。「お前には何もしてやれませんが麦の御飯だけはこの竃で炊いて供えてあげますから、好き嫌い言わずに食べてくださいよ」と言った。男は心を改め竃を守る神様になったという。 
 
竈神は一般には男神とされる地方が多く、ひょっとこ(火男)もその一種の変形とされるが、子沢山の女神なので家庭を守ってくれるのだとする地方もある。田の神とは別神とみなされることが多いが、同じ神様だという説も一部の地方にはある。 
竈神と雪隠(せっちん=便所)の神は兄弟であるとも言われる。竈神は三宝荒神(さんぽうこうじん)と同神で、三宝荒神は竈神の別名との説あり。三宝荒神は正体不明の神で、 国語辞典で「三宝荒神の三宝とは仏法僧のことである」とあるが竈神に至言はない。「三宝」は本来「三方」で、三人の神様をまとめて指している説自然である。この三神について、日蓮・御義口伝は「飢渇の神・貪欲の神・障礙の神で、三毒即ち三徳となる」としている。この口伝で三宝荒神は十羅刹女であるとしている。一方民間伝承 は、古事記の大国主神の話の記述から、三宝荒神は大年神・奥津彦神・奥津媛神の三神であるという説がある。弘法大師「三昧の風に無相法身の用を磨く」として、心いらだつ時は荒神、心静かなる時は如来 で「三」は仏教の「三昧」から来たもので、三宝荒神の本体は文殊菩薩であり大空となるとしている。三宝荒神の本地仏について、文殊菩薩説以外に不動明王説、火聖歓喜天説がある。
 
神活須毘神 かみいくすびのかみ 
大年神の妃神である伊怒比売神の父神。「古事記」には、カミイクスビ神の娘・イヌヒメ神はオオトシ神と婚姻したとある。カミイクスビ神の活須毘は産霊と同じ意味なので、神産巣日神と同神とも考えられる。娘の神名の伊怒は、「出雲風土記」に出雲群伊怒郷とあるので、地名ではないかと思われる。須沼毘神ともいう。本居宣長は「古事記伝」で、須沼毘の沼はあとで誤り入れられたのであろうと推論している。ちなみに、イヌヒメ神とオオトシ神との間にできた御子神は、大国御魂神・韓神・曾富理神・日向神・聖神である、と「古事記」に記されている。
神大市姫神 かみおおいちひめのかみ 
<
大市比売神 
*市比売神社/大内神社  
市場の神、五穀神 
 
大山祗神の娘。素盞鳴尊と結婚し大年神、宇迦之御魂神を生む。 
古来、道と道とが交差する場所をマチタ(衢、巷、街)といった。チマタに人が集まり、ものが集散し市が形成された。全国に大市の名が付く地名が残っているが、古く に市があったことと関係する。そうした場所に当然、市の繁栄を支配する心霊が発生した、それがカミオオイチヒメ神である。「神大市」の意は、「神々しい、立派な市」ということである。父に山の神の総元締オオヤマヅミ神、子に穀物神の代表格をカノミタマ神(稲荷神)持つことから 、カミオオイチヒメ神の源像は、山の神や穀物を斉き祀る巫女的な存在と考えられる、また市の神は本来食物神(穀物神)であった。市という商業の発展により商業の神としての機能を強め、市場の繁栄を守る神へと変化した。もともと市は、山の神の恵みを里のものと交換する場であった 、市で交換される食物や物資は、いずれも神の恵みであり、巫女はその神を祀り、市が繁栄することを神に祈った。古くは、巫女が神の神託によって交換する諸物価なども決めていたともいわれる。 
土地によって市神の名前は違っていることもある。古くから市神として祀られていたのが厳島神社の祭神のイチキシマヒメ神である。京都市下京区にある市比売神神社は、カミオオイチヒメ神とともにイチキシマヒメ神を祀っている。この神社は元は平安京の市場の守護神を祀った物である。ほかに大国主神や大黒天、あるいは恵比寿であったり、ときにはウカノミタマ神であったりすることもある。このように神名は異なっても、その機能は基本的に同じである。ただし、ほかの神様は、その本性として直接的に市に関わる神ではない。その点、山の神や穀物神と深く関係するカミオオイチヒメ神は、 名の通り「市」の繁栄を司る神として発生し、古くから市の神として祀られてきた神霊である。市の守り神としては、今宮戒神社(祭神はコトシロヌシ神)も有名である。 
神直毘神

かみなおび 
<神直日神 
神直毘神は、大直毘神と共に禍をなおす神 
直毘神(なおびのかみ、なほびのかみ) 
神道の神。神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに、その穢れから禍津日神が生まれた。この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。古事記では八十禍津日神・大禍津日神が成った後に神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おほなほびのかみ) 、伊豆能売の三柱が成ったとしている。日本書紀では八十枉津日神が成った後に神直日神(かみなほひのかみ)、大直日神(おほなほひのかみ)の二柱の神が成ったとしている。同段の一書では少し異り、イザナギが禊の際に大直日神を生み、その後に大綾津日神(大禍津日神と同一神格)を生んだとしている。 
ナホは禍を直すという意味で、ビは神霊を意味するクシビのビとも、「直ぶ」の名詞形「直び」であるともいう。直毘神は凶事を吉事に直す神ということである。ナホ(直)はマガ(禍、曲)と対になる言葉で、折口信夫はナホビの神はマガツヒの神との対句として発生した表裏一体の神であるとしている。直毘神は穢れを祓う神事を行う際の祭主であり、伊豆能売は巫女であるとも考えられる。

 
神産巣日神 かみむすびのかみ 
<神皇産霊神 
*安達太良神社(福島県) 
出雲系の根本神 
古事記で天御中主神の次に、対になる高御神産巣日神とともに出てくる神様。一般に神様の系統は高天原系(天神系)と出雲系(地祇系)に分かれ、高御産巣日神は高天原系の祖神、神産巣日神は出雲系の祖神と考えられる。神産巣日神は後に、大穴牟遅神(大国主神)が兄神たちに迫害された時、それを助ける役割を果たした。 
神大市比売神 かむおおいちひめのかみ 
大山祇神(おおやまずみのかみ)の娘で、素戔嗚神(すさのおのかみ)の妃神のひとりで、稲荷の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)や年末に家庭を訪問する大年神(おおとしがみ)の母にあたる。富士山の神である木花咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ)とは姉妹になる。
神倭伊波礼毘古の命 かむやまといはれびこ 
神聖な大和国の磐余の男性。「伊波礼」は奈良県桜井市西部から橿原市東南部にかけての地域。「石寸・いはれ」は「石村」の古字で「村」の古語を「ふれ」という。神武前紀に「邑(むら)に君有り、村(ふれ)に長(ひとごのかみ)有りて」、神功前紀に「荷持田村・のとりたのふれ」に例がある。 したがって「石村」は「いはれ」と訓む。 
「磐余」は「いはあれ」の約で「いはれ」と訓む、この地名は「堅固な村」の意。
 
賀茂建角身神 かもたけつぬみのかみ 
*下鴨神社 
五穀豊穣、殖産興業、身体病難解除 
神産巣日神の子、上賀茂神社の賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)は孫。「賀茂大神」と混同するが賀茂大神(味鋤高彦根神)とは無関係。 
賀茂始祖伝/元々一族は宮崎の高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武天皇の東征の際、日向の山中で日の神からの天啓を受け、長髄彦との戦いで苦戦していた神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を頂 いた。これは後の錦冠位のようなものである。神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居したが、神武天皇の子の綏靖天皇が再びお召しになりそれを助けた。奥様は神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)で、氷上町の神野社に祭られてい る。その間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社に、玉依姫の子の賀茂別雷神は京都上賀茂神社に祀られた。 
 
山城国風土記逸文(釈日本紀)/賀茂建角身命は大倭の葛木山の峰に宿り、そこから次第に移動し、山代の国の岡田の賀茂に至り、山代河にしたがって下り、葛野河と賀茂河とが合流する所に 行き、賀茂の川を見渡し「この川は狭く小さくはあるけども石川の清川ではあるよ」と言った。そこから石川の瀬見の小川という。その川から上り、久我の国の北の山の麓に住居を定めた。 
賀茂氏は実際に雄略天皇の頃に葛城山の勢力を倒し、代わりに入ったものとされる。後に大和朝廷が奈良盆地の北の方へ勢力を広げ始めると、交通の要所である岡田に展開したよう だ。葛城の下鴨神社に事代主神が祭られ、岡田の鴨神社には賀茂建角身命が祭られている。事代主神は木津川・淀川を通って、三島の溝咋姫のところ(現・三島鴨神社と溝咋神社)へ通ったといわれ、上記山城国風土記の建角身命と同様に木津川・淀川を使用してい る。 
事代主神が木津川と桂川の合流点から南下して淀川方面に行った(淀川河口の近くには事代主神を祭る今宮戎神社や事代主の降臨の場所とされる石津神社がある)のに対して、建角身命は北上して京都方面に展開し、鴨川上流の賀茂神社に落着かれた 。 
 
賀茂神社・縁起譚/神武天皇の東威遠征の際に大烏(八咫烏)となって道案内したとされる。上賀茂神社に祭られる賀茂別雷神は孫に当たる。京都は鴨川を中心に町づくりがなされ、鴨川の下流に 祭られるお社から「下鴨(しもがも)さん」「下鴨神社(しもがも)」と親しくよばれる。正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)、賀茂建角身命/西殿、玉依媛命/東殿。 
古代の京都をひらいた神さま。山城の国一宮として京都の守護神として祭られている。平安京が造営される 際、当神社に成功のご祈願が行われた。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められた。山城国・風土記/玉依媛命が鴨川で禊をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床におかれたところ、矢は美しい男神になられ結婚された 、お子をお生みになったとの神話が伝えられ、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されてきた。 
古事記、日本書紀に、賀茂建角身命を金鵄八咫烏(きんしやたからす)として表わす功績が伝えられ、導びきの神として方除、厄除け、入学、就職の試験などの合格、交通、旅行、操業の安全等多方面に神徳を顕わして いる。 
三輪山伝説(みわやまでんせつ) 
苧環(おだまき)型説話ともいう、神婚説話であり、記紀をはじめ中世を経て近代に至るまで、形を変えながらも伝えられて来た説話の形式。 
その要素は女の許に名前もわからない男が通い、子をみごもり、男の素姓を知ろうとした女は衣に糸をつけ、糸を辿ると男は神であったことを知る説話である。最も古い古事記の説話は、活玉依毘売(いくたまよりびめ)の許へ大物主神が毎夜通い、みごもったのにも関わらず名もわからないので、親の教えにしたがい、男の衣の裾に糸を刺しておしたところ、糸は三勾(みわ/三輪の地名のいわれ)しか残らず、糸の通り尋ねて行くと三輪山に至り、神の社まで続いていたというもの。これに対し、逆に女性が神で、男性が人である説話を羽衣(はごろも)伝説という。 
 
赤幣(あかへい) 
三輪明神は古来から「方除(ほうよけ)」「厄除(やくよけ)」の神として信仰が篤い。三輪が舞台となる神話に関わる色は赤である。古事記/大物主神が化けたのは丹塗(にぬり)の矢(赤く塗った矢、雷神の象徴ともいう)であり、三輪山伝説/活玉依毘売(いくたまよりびめ)が名もわからぬ男の裾に糸をさす前に、播き散らしたのは赤土(はに)であった。丹塗の「丹」は水銀のことで、古代ではよく古墳の埋葬部に邪鬼(じゃき)除けとして真赤に塗られ た。 
三輪山伝説の赤土もやはり悪霊をはらい、その場を清める意味で使われた。「赤」は陽/火/血などの連想から神聖な色とされ、古来魔除けのみならず、神話とも深く結びついている。大神神社では開運厄除・方除の御幣として「赤御幣」(赤幣)を授与している 、玄関の外にまつり、家に邪悪な霊が入って来るのを防ぐ。 
丹塗矢(にぬりや) 
神武天皇の皇后となった比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)の話。 
大物主神は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)があまりに美しいので見添めた。そこで丹塗矢に化けて溝より流れ下り、その美人が川を跨いだとたん下腹部を突いた。比売は走り出し、あわてふためき、その矢を持って来て床の辺に置いたところ、姿麗しい実男が現れた。それが大物主神であった、その間に生まれたのが比売多多良伊須気余理比売 だ。 
山城国風土記逸文/賀茂建角身命は丹波の伊賀古屋日売(いがこやひめ)を娶って玉依日子(たまよりひこ)、玉依日売(ひめ)を産んだ。玉依日売が川遊びしている時、丹塗矢が川上より流れ下って来たので持ち帰り、床の辺に挿し置くと孕んで賀茂別雷命を産んだ。
 
賀茂玉依姫 かものたまよりひめ 
*下鴨神社(京都)  
賀茂建角身神の娘で、川遊びをしていた時に拾った丹塗りの矢(火雷神)に感じて賀茂別雷神を生んだ。賀茂別雷神の父を求め、黄色い船に乗り川を遡ったという説話もあり、このことから貴船の名前が生まれた 。 
玉依姫という名前はあちこちにあるが、基本的には神の依代となる巫女に付けられた名前。  
賀茂別雷神 かもわけいかづちのかみ 
*上賀茂神社(京都)  
山城国風土記逸文(釈日本紀)/賀茂建角身命の娘の玉依日売(たまよりひめ)が石川の瀬見の小川で川遊びをしていたとき、丹塗りの矢が川上から流れて来た。それを持ち帰 り寝床の近くに挿しておいたところ、身籠もって男の子が生まれたいう。この子が賀茂別雷神である。成人する時に祖父がお祝いに八尋の家を造り、八戸を堅く固めて、八腹に酒を醸造し、人々を集め七日七晩の宴会をしてから、その子に「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、その子はお酒を持って屋根を突き抜け、天まで昇っていった。そこで、この子の父は神様であることが分かった。お祖父の賀茂建角身命と母の玉依姫は京都下鴨神社に祭られ、お祖母の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)は氷上町の神野社に祭られている。別雷神の父の火雷命(ほいかづちのみこと)は長岡町の乙訓神社に祭られている。また別雷神/玉依姫/賀茂建角身命は三井の社(現下鴨神社内三所神社)にも祭られている。
 
鹿屋野比売神 
 -大山津見神

かやのひめ 
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草祖草野姫(くさのおやかやのひめ) /野椎神(のづちのかみ)/草野姫(かやのひめ)/野槌(のづち)/萱野姫神 
*樽前山神社(北海道苫小牧市)/萱津神社(愛知県海部市) 
日本神話に登場する草の神。神産みにおいてイザナギ・イザナミの間に生まれた。古事記/山の神であるオオヤマツミとの間に、4対8柱の神を生んだ。樽前山神社では山の神/大山津見神、木の神/ククノチ|久々能智神と共に祀られている。 
萱津神社では日本唯一の漬物の神として祀っている、タバコ葉の生産地ではタバコの神として信仰している。 
「カヤ」は萱のことで、萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、草の代表として草の神の名前となった。別名の「ノヅチ」は「野の精霊(野つ霊)」の意味 、しかし「ノヅチ」は後にマムシの別名とされ、さらには蛇の化け物とされた。ノヅチは、頭と尻は同じ大きさで柄のない槌の形をしているとされ、人の足に食いつくとされた。ツチノコも蛇の化け物としてのノヅチから派生したもの 。 
伊邪那岐命、伊邪那美命が国生みを終えた後に生んだ神々の一人。古事記では山の神の大山津見神と夫婦神として山や野に関する八柱の神を生んでいる。野椎の椎は茎を表しており、草を意味するものと思われる。また鹿屋はカヤで屋根を葺く材料の萱、茅、薄、苫、葦などの総称である。また延喜式祝詞(のりと)に登場する屋船豊宇気姫と同神との説もある。 
 
大山津見神と鹿屋野比売神 
古事記/イザナギの命とイザナミの命が国生みの後、「山の神、名は大山津見神(おおやまつみのかみ)を生み、次に野の神、名は鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)を生みき。またの名は野椎神(のづちのかみ)という」と ある。 
鹿屋野比売神は山の神の大山津見神(おおやまつみのかみ)に対して、野の神として山と野の夫婦神である。日本書紀では草祖草野媛命(くさのおやかやのひめのみこと)と書かれ 、阿波では鹿江比売(かえひめ)神のことである。 
延喜式神明帳/阿波国には、板野郡・阿波郡・美馬郡・麻植郡・名方郡・勝浦郡・那賀郡に計50座の格式ある神社として記録され、板野郡に式内社の鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)があったと ある。鹿江比売神社は意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)・伊邪那美神社(いざなみじんじゃ)と共に式内社の中では、阿波に一社だけ存在する。鹿江比売神社は徳島県板野郡上板町神宅にあり 、神社の北に大山がある。大山の八合目に力餅運びで有名な大山寺があり、この山が大山津見神(おおやまつみのかみ)のいる山として崇められてきた。この神社は現在、葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)と合祀し祭られている。葦稲葉神社 は続日本紀/承和9年(842)に従五位下を授けられ、三代実録/貞観九年(867)に従五位上を授けられた古社。 
 
大宜都比売神(おおげつひめのかみ)と豊宇気毘売神(とようけびめのかみ) 
古事記/大山津見神(おおやまつみのかみ)と鹿屋野比売神の生まれた後に大宜都比売神が生まれ、伊邪那美命(いざなみのみこと)が亡くなった後に豊宇気毘売神が生まれたと ある。 
大宜都比売神は、阿波国の祖神であり、穀霊でもある。現在は伊勢神宮の外宮に、豊受大神として祀られている神である。この神名の宜(け)は御膳(みけ)の「け」で 、「け」は「うけ」ともいい、食物の総称であるから豊受大神も豊宇気毘売神も大宜都比売神と同神である。

香山戸臣神 かやまとおみのかみ 
大年神と天知迦流美豆比売神との間に10人の子が産まれ、七番目の子。 
天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)との間の子 
奥津日子神(おきつひこ) 
奥津比売命(おきつひめ) - 別名 奥津比売命神(おほへひめ)。竈(かまど)の女神 
大山咋神(おほやまくひ) - 別名 山末之大主神(やますゑのおほぬし)。比叡山の山の神で日吉神社の祭神 
庭津日神(にはつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神 
阿須波神(あすは) - 屋敷の神 
波比岐神(はひき) 
香山戸臣神(かぐやまとみ) 
羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神 
庭高津日神(にはたかつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神 
大土神(おほつち) - 別名 土之御祖神(つちのみおやのかみ)。土の神
 
木俣神

きのまた 
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御井神(みいのかみ) 
大国主の最初の妻の八上比売(やがみひめ)との間に木俣神、宗像三神のタギリヒメとの間にアジスキタカヒコネ(賀茂大神)・タカヒメ(シタテルヒメ)の二神、カムヤタテヒメとの間に事代主、ヤシマムジの娘のトトリヒメとの間にトリナルミを子を生した。 
古事記/大穴牟遅神は根の国でも試練を受けることになる。根の国は、木の神の祖(おや)の須佐之男命が住む世界で 、大穴牟遅神が入ったのは「蛇の室」や「蜈蚣と蜂の室」。野火に遭遇し鼠の不思議な呪文「内はほらほら、外はすぶすぶ」によって、火の沈静を待ちながら隠った洞。須佐之男命の室も同様で、たりき(垂木)が垂れ、大穴牟遅神が出るときは「五百引(いほびき)の石」をその室の戸に取り塞いだとい う。 
「根の国」は死者の国とされる黄泉国とは全く異なるもので、生と死の区別があいまいで、その先は常に再生へと向かってこの世に口を開いている世界である。「いほ引の石」は伊邪那岐神が黄泉国との境にずっしりと据 えて命からがら逃げてきた千引石(ちびきのいは)とも異なるもので、「ほ」の意味は穂のように生命力をもって突出する標のようにも見える。 
大穴牟遅神は八上姫と結婚して子も生まれたが、根の国での妻の須勢理姫(すせりびめ)の嫉妬を恐れて、その子は木の俣に刺し挟んで置いて八上姫は国へ帰った。その子の名が木俣神である 。 
木俣神は、文字通りの根の国の霊の落し子である。出入り口に鎮まる「いほびきの石」そのものかもしれない。 
 
五十猛命を祀る伊太祈曽神社(和歌山市)境内社に「御井社」(祭神・弥都波能売神)があるが、御井神社(奈良県宇陀郡榛原町桧牧)に「水分神」の祭神名がある。地名の桧牧は、桧の大樹が何かを巻き込んでゐること(桧巻)に由来する。吉野水分神社(主神・天之水分神/吉野郡吉野町)が「子守明神」の別名 をもつ。 
吉野水分神社は、本居宣長の父母が参拝して子の宣長を授かったことでも知られる。子守明神の名は配祀の神に起源があるということだ。右方の御殿に母神や乳母の神を主に祭り、左殿には子神を主に祭って いる。 
木俣神と御井神については不明なところが多い。風土記に肥前国で樫の木の穴から水が出たといふ話があり、播磨国明石の巨木のそばにも御井があったという。奈良県宇陀郡榛原町の「桧牧」の御井もある。 
子安木と呼ばれる木があり、九州などでは神功皇后が大樹の枝に取りすがって八幡様を産まれたとか、木の枝を杖にして安産されたといふ伝説がある。木の枝は、枝の先へ向かって無数に分かれて行き子孫の繁栄を象徴するものに見える。枝が伸びてゆく最初のしるしは根元に近い二俣の部分である。二俣の木は、夫婦松、相生の松などとも呼ばれ、めでたいものとされてきた。関東周辺では村の若い嫁たちによる犬供養と呼ばれる行事があった。その行事では、犬卒塔婆と呼ばれる二俣の枝を杖に作り、その杖を村はづれの辻に立てて、安産を祈ったとい う。木の二俣の部分が、樹木の霊が最も籠る場所なのだと見ることができる。 
古代の葬地であった奈良県の二上山は、その名の通り男峰と女峰の二つの頂があり、その中間の窪地に死者を葬ったという。それは木俣が根の国の入口であったように、峰の俣の場所が生命の再生が可能となる場所との認識によるもの で、そのような形状の地に亡骸を葬り霊の再生を祈ったのである。 
大穴牟遅神が出逢った木俣は、死の場所であるとともに復活の場所でもあった。地方の習俗では早死した幼児の供養は、葬式の日までしか行はないいことが昔は多かった。供養を行はないのは不幸な幼児に対して、早く生まれ変はって欲しいとの願ひがあったからなの だ。「七歳までは神のうち」と言い、幼児は30年の供養を待たずすぐに神に成り、すぐにも生れ変れることもできた。「先祖と氏神さまを大切にしなければならない」とい う先祖たちの教へは、このような数千年来の日本人の生と死の考へ方をもとに受け継がれてきたものなのだ。

 
吉備津彦

きびつひこ 
<彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)/大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと) 
*吉備津神社/吉備津彦神社/田村神社  
第7代孝霊天皇の子。古事記、日本書紀の第7代孝霊天皇から第10代崇神天皇の時代に登場するため、西暦200〜350年頃に実在した吉備地方の支配者か。その弟は、若建吉備津日子命(わかたけるきびつひこのみこと)または、稚武彦命(わかたけひこのみこと)で、後世に一族を残している。孝霊天皇以降の時代に、当時吉備を支配していた温羅(うら)を討ち、吉備の支配者となったとの伝説がある。吉備は広島県東部から兵庫県中央部にかけての古い地名。 
日本書紀/崇神天皇が北陸(くがのみち)、東海(うみつみち)、西道(にしのみち)、丹波(たにわ)へ、四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の軍をそれぞれの地方に派遣したとあり、その内の西道の将軍が吉備津彦命だったとされる。その任で、大阪の反乱鎮圧にあたった後、出雲へ遠征したとある。 
 
桃太郎(ももたろう)  
鬼退治で有名な、忠孝勇武、勧善懲悪などをうたう昔話の主人公。植物から産まれる小さ子として、竹姫、瓜子姫などと関連を持ち、また水辺から発見された子供が富をもたらす、水神小童に通じる。原話の形成は室町以前と考えられ、滝沢馬琴は燕石雑志の中で、鎌倉時代初期に書かれた保元物語の為朝の鬼が島渡りを擬して桃太郎の鬼ヶ島征伐の物語が成立したと考察している。志田義秀は 「日本の伝説と童話」の中でそれを受けて、為朝が鬼が島に渡ったときに昔鬼だった島人が今では島に宝がないと言っていることから考え、おそらく鬼ヶ島宝取伝説は 「保元物語」の成立した頃にすでに存在したのだろうと書いている。桃太郎話が一般に広く流布したのは江戸時代中期になってからで、庶民的な絵入りの物語本だった草双紙の中でも特に赤本と呼ばれた通俗本によるところが大きい。また、お供の部分において同時期流布した猿蟹合戦との混合が見られる場合もある。 
吉備津彦命が鬼退治の英雄としての原型だともいわれている。 
 
温羅伝説 
その昔、異国からやってきた鬼が吉備国に住み着いた。温羅(ウラ)と呼ばれるその鬼は、もとは百済の王子だったという。巨躯、赤髪の異様な姿で性格はきわめて凶暴。いまの吉備津神社から西北へ10kmほどのところの片岡山に作った「鬼の城」を拠点に、暴虐の限りを尽くして人々を恐怖に陥れていた。そのため朝廷から派遣されたのが吉備津彦命である 、現在の吉備津神社付近の「吉備の中山」に陣を張り、激しい戦いの末についに鬼を退治した。 
岡山は桃太郎の鬼退治の物語発祥の地といわれるが、その元になっているのがこの伝説である。さらにそれに黍団子=吉備団子という発音の共通性、そして岡山特産の桃といった要素が加わり、吉備津彦命は桃太郎伝説の主人公と考えられるようになった。 
吉備津彦神社で有名な釜鳴神事(カマナリシンジ)。この釜を鳴らすのが吉備津彦命が退治した鬼の温羅であるという。吉備津彦命は降伏してきた温羅の首をはねたが、それでも不気味なうなり声を発し続け、地中深く埋めても咆哮はやまなかった。そこでその上に御釜殿を設けて祀るとようやく静まり、釜を鳴らして吉凶を占う霊となったという。 
 

 
  うえ かき  
 


  
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