八百万の神 [い] 
                      
 
  うえ かき  
 
飯綱権現

いいづな 
高尾山/薬王院(高尾山薬王院有喜寺) 
真言宗智山派の大本山で成田山新勝寺、川崎大師平間寺とともに、関東の三大本山。山頂の薬王院は、本尊の薬師如来・飯縄権現・不動明王の三尊が一体となる霊場。 
奈良時代・天平16年(744)に聖武天皇の勅命を受け、東大寺大仏の建立の悲願のため諸国に国分寺造営を命じた天皇の願いを達成すべく薬師の像を刻んだ行基菩薩が東国鎮護の祈願寺として、道を開いた 。行基は奈良時代の僧で和泉の人。俗姓、高志氏。道昭・義淵らに法相数学を学び、のちに諸国をめぐり、架橋・築堤などの社会事業を行い、民衆を教化し行基菩薩と敬われた。最古の日本総図を作ったとも伝えられる。薬王院の名は創建当初、御本尊薬師如来を安置したことに由来 。  
 
飯綱権現の信仰 
飯綱権現は不動明王の化身と高尾山縁起にある、不動明王は大日如来を本地とする化身である。高尾山の本尊は大日如来で不動は従者であり、そして飯綱はその変身だ。大日如来が憤怒の形相に変化したもので、主尊とする加持祈祷こそ修験道では最も重要な修法とされるから、飯縄権現と同時に祭られた 。 
飯縄大権現は不動明王の化身で本誓は、向背に火焔を負い左右の御手に剣と索とを持ち不動明王の御本誓を現し、悪魔を退治し、慈悲の智慧を以て種々の煩悩病苦を焼き尽くす/歓喜天の心を抱きて求る所の利益を施す/鴟啄と羽翼ある鳥の姿は迦楼羅天の飛行自在の徳を表す/白狐に乗って茶枳尼天の福を授く/白蛇を頂くは宇賀神の宝珠を、弁財天の愛嬌を与え る、の五相合体である。 
飯縄信仰は、伊藤忠綱やその子盛綱が飯縄の法を確立し自ら千日太夫と称し全国に広めたといわれ、全盛期は室町戦国時代。金閣寺を建立するなど足利幕府の黄金期を築いた三代将軍義満が紫金仏の地蔵菩薩像を飯縄山の本地仏として寄進したほか、上杉謙信は兜の前立てに飯縄明神像を使い、武田信玄も甲州に勧請、持仏として身に付けていたと言われる。このように不動信仰は特に室町、戦国時代の武将達に歓迎され、小田原北条氏の勢力が武蔵国に侵攻する頃には高尾山は武家信仰の山として有名になった。 
 
座間という地名の起こりを伊参(イサマ)からとするのが一般だが、伊参の存在位置や範囲に明確なものはなく、むしろイガシリ=座間説の方がはっきりしている。イガシリのスズカ、井の後の篠処、座間の鈴鹿で、鈴鹿明神社はむしろ座間神社でよかったわけだが、座間神社は上宿にある。この社はもと飯綱権現社といわれて鈴鹿明神社の末社であった。 
社伝/むかしこの地方に疫病が流行して住民が苦しんでいたとき、飯綱権現の化身といわれる白衣の老人が現れて山裾から湧き出る水を使うがよいと教え、疫病が治まったので飯綱権現を祭ったという 。 
「飯綱」は「飯縄」と書くことが多い。信州の戸隠山に連なる飯縄山山頂に飯縄神社がある。もとは飯縄権現といい、修験道の霊山とされた。さまざまな信仰が習合して一種の妖術的性格が生まれた。名前の起こりは山頂の「天狗の麦飯」という砂(飯砂)によるという説、「イズナの法」という妖術の修行の場であったという説、稲荷社(金の狐)で飯縄というのを張ったという説があってはっきりしない。イズナの法は武術・武芸の魔法、忍法で戦国武将の尊崇するところであった。関東では近くに高尾山がある。

伊奢沙和気神 いざさわけのかみ 
=気比神(けひのかみ) 
*気比神宮(敦賀市角鹿) 
誘い合う神稲の男子の大神。「伊奢」は「誘う」の「いざ」。もと感動詞で「さあさあ」と促しさそう意。「沙」は神稲(さ)。応神天皇と名を交換した名、名の交換は服従帰属儀礼の一つ。この神の別名は食物に関するものばかりである。
 
伊邪那岐神 
 -伊邪那美神
いざなぎのかみ 
<伊弉諾神  
*多賀大社(滋賀県) 
日本の祖父神 
イザナギ神・イザナミ神は日本の国を作った神。 
古事記が伝える日本創成の物語 
イザナギ神・イザナミ神は天の神様たちの命を受けて国作りを始めた。まずは天の浮橋に立ち、まだ混沌としていた地球の表面に棒を入れてかき回すと、そのしずくが落ちて重なり淤能碁呂島(おのごろしま)という島になる。そこで二人はその島に降りて結婚した。この時イザナギ神がイザナミ神に「そなたの体はどうなっているか?」と聞くと「私の体には成り成りて成り合わぬ所があります」と言った。そしてイザナギは「私の体には成り成りて成り余る所がある。私の成り余る所をそなたの成り合わぬ所にさし塞いで国を生みましょう」と言った。そこで、島に柱を一本立て、その回りを回って出会ったところでまずイザナミ神が「まぁなんて素敵な男性でしょう」と言い、次にイザナギ神が「ああ、なんて素敵な娘だろう」と言った。そして交わって産まれた子がまず蛭子、そして淡島である。これはいずれも不具の子で、蛭子は葦の船に乗せて流した。二人の神は何かおかしいと思い、いったん天にもどって神々に相談した。神々は太占(ふとまに)をして占った結果、柱を回って女が先にプロポーズしたのがいけなかったのではなかろうか。今度は男が先にプロポーズしてみなさいとアドバイス。そこで二人は再び島に降り、結婚式をやり直して今度はイザナギ神が先に「ああなんて素晴らしい娘だろう」と言い、イザナミ神が「まぁなんて素敵な男性でしょう」と言った。そして生れたのが順に、淡路島、伊予之二名島(四国)、隠岐の三つ子島、筑紫の島(九州)、壱岐の島、対馬、佐渡の島、大倭豊秋津島(本州)で、これを大八島国と 言う。更に生み続けたのが吉備の児島(児島半島)、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島。 
 
国を生み終ると次に神様を生み、大事忍男神、石土毘古神、石巣比売神、大戸日別神、天之吹男神、大家毘古神、風木津別之忍男神、海の神である大綿津見神、水戸の神である速秋津日子神・速秋津比売神(ここで10神)、風の神である志那都比古神、木の神である久久能智神、山の神である大山津見神、野の神である鹿屋野比売神(ここで4神)、鳥野石楠船神(天鳥船)、大宜都比売神、火の神である火之迦具土神(ここで3神)です。この最後の火之迦具土神を産んだ時、イザナミ神は陰部を火傷し亡くなってしま う。この時、イザナミ神が苦しみながら成した神様が、金山毘古神・金山毘売神、波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神、弥都波能売神、和久産巣日神である。和久産巣日神の娘が伊勢神宮外宮に御座なさる豊宇気毘売神である。イザナギ神は妻の死を泣き悲しみ、出雲と伯耆の国境の比婆山に妻の遺骸を葬った(日本書紀の一書では熊野の有馬村)。そして剣を取り妻の死因となった火之迦具土神を殺した。 
この火之迦具土神の血や死骸からはまた多くの神様が成った。石拆神、根拆神、石筒之男神、甕速日神、樋速日神、建御雷之男神、闇淤加美神、闇御津羽神、正鹿山津見神、淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神、志芸山津見神、羽山津見神、原山津見神、戸山津見神などである。 
 
黄泉の国の物語 
亡き妻が忘れられないイザナギ神は、黄泉の国までイザナミ神を訪ねる。まっ暗な中で「愛しいわが妻よ、国作りはまだ終っていない。どうか私の所へ戻って来てくれ」と言った。イザナミ神は「こんな所まで追いかけて来てくれたのね。私も帰りたいわ。黄泉の国の神に相談してみます。ちょっと待ってて」と言う。イザナギ神はずっと待っているが、なかなかイザナミ神は出てこない。待ちくたびれて、ふと火を灯して様子を見ようとすると、そこに居たイザナミ神はすっかり姿が変わり果て、体にはうじがたかり体のあちこちには雷神が生じていた。その姿にびっくりしたイザナギ神は慌てて逃げ出してた。恥ずかしい所を見られたことに気付いたイザナミ神は怒り、黄泉の国の醜女に後を追わせた。イザナギ神は黒御縵を投げ捨てると、そこに蒲子が生じ、醜女がそれを食べている間に逃げた。そのうちまた醜女が追付いて来たので、今度はゆつつま櫛を投げ捨てるとタケノコが生えで、醜女が食べている間に逃げた。そこへ今度はイザナミ神の体にわいていた雷神が追いかけて来た。その時黄泉比良坂の坂本という所に来ていたが、そこに桃の木があったので桃の実を取って投げ付けると雷神は退いた。そうこうする内にイザナミ神本人も追い付いて来たが、イザナギ神は黄泉比良坂に大きな石を置き、こちらへ来れないようにしてしまった。イザナミ神は「愛しているあなたがこんなことをするなんて。ひどいわ。私は貴方の国の人を毎日千人殺してあげる」と言った。イザナギ神は答えて「私はお前を愛してる。でもお前がそうするのなら、この国に毎日千五百人の人が生まれるようにしよう」と言った。この後イザナミ神は黄泉の国の大神となったと言う。 
(イザナギ神とイザナミ神が黄泉比良坂で話をする時、日本書紀の一書では菊理媛神が両神の仲介のようなことをしている、菊理媛の名前はここだけに出てくる。) 
 
黄泉の国から戻ったイザナギ神は「汚らわしい国に行って来たなぁ」と言って、日向の国の橘の小門の阿波岐原でみそぎをした。その時、投げ捨てた衣等からたくさんの神様が成った。衝立船戸神、道之長乳歯神、時量師神、和豆良比能宇斯能神、道俣神、飽咋之宇斯神、奥疎神、奥津那芸佐毘古神、奥津甲斐弁羅神、辺疎神、辺津那芸佐毘古神、辺津甲斐弁羅神(12神)、八十禍津日神、大禍津日神(2神)、神直毘神、大直毘神、伊豆能売(3神)。水の中でみそぎをしている最中に次の神々が生まれた。安曇一族の神である底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神、住吉三神の底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命。最後に左目を洗った時に天照大御神、右目を洗った時に月読命、そして鼻を洗った時に須佐之男命が生まれた、これを三貴子と言う。イザナギ神は「これは最後にとてもいい子が生まれた」と言って喜び、天照には高天原を、月読には夜を、須佐之男には海を統治するように指示し、「淡海」の多賀に引き篭 った。物語は次にこの子供たちの世代へと移っていく。 
 
「イザナギ神・イザナミ神」のイザナギ神は古事記/伊邪那岐神、日本書紀/伊弉諾神、イザナミ神は古事記/伊邪那美神、日本書紀/伊弉冉神と書かれる。古事記によれば最初に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が現れ、その次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神御産巣日神(かみむすびのかみ)が現れ、この三柱が全ての神をたばねる存在であるとされている。この後、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神、国之常立神、豊雲野神、男女対の神が五代現れる。その五代目がイザナギ神・イザナミ神である。日本書紀では異り、最初は国常立尊であるという説が多い。しかし民俗学研究者の中にはこれらの神で最も古くからあったのはイザナギ神・イザナミ神で、他の神はその祖先として関連づけられて行ったのではと言う説もある。 
平安の頃以降の色々な人の考えから、神様の系統には2系統あるという。それは出雲系・高天原系と分ける考え方で、出雲系は神御産巣日〜須佐之男〜大国主〜迩芸速日命〜石上神宮〜物部一族といった系統で、高天原系は高御産巣日〜天照〜迩迩芸命〜神武天皇〜伊勢神宮〜天皇家といった系統をいう。 
迩芸速日命も迩迩芸命も天孫ということで、元々の出身地方は同じなのかも知れないが(北方のモンゴル族が中国大陸を南下して中国南部〜インドシナ付近から逆に北上し、九州南部日向付近に定着して農耕文化を興し、やがて畿内に進出したという説が最近注目)、畿内に進出した時期のずれと、統合した他氏族の違いで別の神話系統を持ったのかも 。 
イザナギ神・イザナミ神が結婚して最初に作った子は蛭子で、これは不具の子であったので海に流している。「海に流すと助かる」という説があった為とされるが、この子は西宮付近に流れ着き育って成人し、恵比寿の神となる。つまりエビスは 天照やスサノオの兄になり、昔の日本は末子相続の習慣があったようで、この二人がその後の神話の主人公となり、エビスはその後の正史には登場しない。 
 
イザナギ神・イザナミ神が生んだ島で大八島国を生んだ後に、更に生んだ島について日本書紀には記載がなく、古事記のみにある。その中で吉備の児島・小豆島、までは明確だがその後はっきりしない。瀬戸内海の大きな島を見ていけば、大島が柳井の近くの周防大島、女島が国東半島の先の姫島と推定できそうだ。知訶島と両児島は分からない。因島には古代遺跡があり、その隣は西日光の耕三寺のある生口島。その隣には大山祇神社のある大三島がある。もう少し西には宮島こと厳島もある。この界隈にイザナミ神の生んだ島があっても悪くない 。 
イザナギ神が引き篭った「淡海」に関して近江と淡路島という二説がある。近江であるとしたら今の滋賀県多賀町の多賀大社、淡路島なら一の宮町多賀の伊奘諾神社である。江戸時代の多賀大社は伊勢信仰とセットで篤く信仰された。「お伊勢参らば多賀にも参れ。お伊勢お多賀の子でござる」という歌があ った。
 
伊邪那美神 
 -伊邪那岐神
いざなみのかみ 
<伊弉冉神 
*神魂大社(島根県) 
日本の祖母神 
伊邪那美命が葬られた比婆山(ひばやま) 
 「伊邪那美命は、出雲国(いずものくに)と伯伎国(ははぎのくに)の堺(さかい)の比婆山(ひばやま)に葬(ほうむ)った」と古事記にある。黄泉の国というと地底と連想するが、葬った所は山である。比婆山の「比」は、比べるというよりも「親しむ」・「近寄る」という意味より始まる。「婆」は、舞うて楽しむ意から老婦の意。比婆山とは、尊い女性を祀る山を意味している 。 
他説/比婆山とはヒハイ山で、「ヒハイ山とは被拝山のこと、周囲から拝まれる山という意味。高越山の西麓に「拝村」あり、北方には吉野川のむこうに「拝師」(林)「拝原」(榛原)がある。この3か所とも古来高越山を遙拝したので地名になった 。 
阿府志/式内社伊射奈美神社は「美馬郡拝村山之絶頂アリ俗ニ高越大権現」祭神一座 伊射奈美尊と記され、高越山の絶頂にあると記録される。そこに暮らした人々が、大河、吉野川中流域に秀麗に聳えたつ高越山に崇高の念を持ったことは自然の成り行きで、式内社の伊射奈美神社が阿波の麻植郡に全国で一社しかない事からも 、伊邪那美命(いざなみのみこと)を葬(ほうむ)った比婆山(ひばやま)とは高越山のことである。
 
石神

いしがみ 
石神神社/石神さま 
青森市から12Kmほど南の入内(にゅうない)という集落から山道を6Kmほど入る山中。神体は直径3m近い自然石。「天石大神」「石神さま」と呼ばれ、江戸時代から土地の人々の信仰の対象とされた。石の黒い目は強力な磁力をもち、右目が「太陽の神=天照大神」、左目は「月の神=月読之命」とされている。 
伝説/100年ほど前、長内弥十郎というきこりが住んでいた。弥十郎はまじめなよく働く男だったが、目の病を患ってしまう。医者にも見放され、あとは失明を待つばかりだった。ある日、弥十郎は不思議な夢を見た。駒田山の清水で目を注いだところ病が治ったという夢であった。翌日、さっそく杖にすがり駒田山に分け入ってみると、夢に見たところと少しも違わない場所に、太陽と月の二神をかたどった高さ3mほどの自然石を発見。その石の裂け目から、きれいな水がわき出ていたのである。それはちょうど「目」の部分に当たる。果たして、弥十郎がその水で目を洗うと、夢のお告げの通り、目の曇りが消え、たちどころに目は治ったのである。 
 
大町市の石神・石仏 
33番観音石仏群 
観音信仰が盛んになり、観音霊場めぐりが普及してくるにしたがって、各地に33観音または百体観音像を石に刻んで建立することが盛んになった。6または7観音といわれる33札所の本尊である。一般庶民は札所めぐりをしなくとも、近くの寺や堂、街道筋で巡拝することができるようにされていた 。これらの観音像は33観音または百体観音として、まとまった形で配列されているものもあれば、独尊として建てられたものもある。 
市における33番石仏群は、仏崎観音堂(寺)の参道とその境内、六角堂の参道や木舟の浄福寺跡、松崎の薬師寺、借馬の海岳院などにある。千国街道の要衝佐野坂には、白馬村佐野から平地区青木湖畔に至る道筋に西国33番観音石仏が安置されている。 
六観音・7観音石仏 
33番観音は聖観音・11面観音・不空羂索観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音として造像されている。 
 
道祖神 
道祖神は道ろく神ともいい、集落の入口など木戸毎に建てられる石神である。大町付近でも道祖神は江戸時代の中ごろから、道中安全、さまざまな病気や悪疫流行、災難の侵入から守ってくれる神として、 又は縁結び、子孫繁栄、五穀豊穰をもたらす神として一般に深く信仰されてきた。形態には「道祖神」と書かれた文字碑と、男神女神の双体像を彫刻した碑の2つがある。男女2神の併立している形には、手を握り合っている握手像、酒器を持っている祝言像、2神が寄りそって立っている添立像などさまざま 。大町の道祖神は化政年間以降のものが多く、もっとも古いのは清水の中村にある亨和2年(1802)の抱肩像。 
大黒天 
北安曇郡の各村では大黒天の石像が多く目につく、造立は文化元年(1804)元治元年(1864)大正13年(1924)が甲子の年にあたり、この年の前後に建てられたものが多い。 
2つ並べた米俵の上に乗っている立像または座像が多く、米を中心とする農作物の豊穰を司る福神として厨房の神または家内安全、部落や村の安全を守る福神とされている。 
庚申塔 
60年に一度めぐる庚申の日に、その夜を眠らず過ごす庚申待は、古くから行われている信仰。これは人の身中にあって人を短命にする三尸の虫を除いて、長生きと健康を願う道教の信仰が源流になっているといわれ。庚申塔は庚申の年に建てられた。 
庚申塔などの文字碑や青面童子像を刻んだ像塔が各所に残されている。庚申待は「かのえさる」の日に行われるので「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を三尸になぞらえて刻んでいるものもある。建碑は江戸中期以降のものが多く、元文5年(1740)寛政12年(1800)万延元年(1860)大正9年(1920)昭和55年(1980)、寺や堂、神社の境内や路傍に多く残されている 。大町大黒町の糸魚川街道と長野街道の分岐点「追分」に建てられた庚申塔は、延亨元年(1744)文字碑で「右善光寺道 左越後道」と道標を兼ねている。 
 
名号碑 
阿弥陀如来の名をたたえる「南無阿弥陀仏」を名号と呼び、これを称念する者は必ず極楽に往生するといわれ、大町では江戸時代中期ごろから浄土宗を中心にこの信仰が盛んになった。念仏講の人々が数千日間念仏修行を続け、その延べが一万日以上になると、石碑に刻んで供養した。弾誓寺境内には回向塔が建てられている。 
弾誓寺には独特の書体を刻んだ徳本上人の念仏碑がある。徳本上人は宝暦8年(1758)紀州日高に生まれ、30歳ごろ半年野山中で修業し各地を巡錫して念仏をすすめた高僧。文化13年(1816)大町に入り弾誓寺で念仏講をひろめた。講に与えた名号を講中の人々が石に刻んで残したものが徳本の名号碑で 、花押は「鬼殺す心は丸く田の内に南無阿弥陀仏と浮ぶ月影」と詠んだ心のあらわれである。 
月待碑 
月待塔というのは特定の月齢の夜に集まり、月待の行事を行った講中が、供養のしるしに造立した13夜塔、15夜塔、16夜塔、23夜塔、26夜塔等の総称。特に多いのは23夜塔 。 
23日の夜、講中の人が集まり、勤行や飲食を供にして、月の出を待つ行事を23夜の月待という。石碑の大部分は文字塔で江戸時代中ごろ以降のもの。 
 
佐賀県大和町下田 
下田部落の東北北部山中に巨石群(高さ10m以上の石が15個)があり、地元では石神群と呼ばれ、与止日女神社の御神体と考えられる。肥前風土記の佐嘉郡の地名起源/「此の川上に石神(いしがみ)あり名を世田姫(よたひめ)といふ」とあり、この世田姫が延喜式神名帳の与止日女神社の祭神であり、同一人物と考えられ、古代から巨石を神様として信仰し、神体は大きな岩であったと考えられる。 
肥前風土記/毎年この与止日女を目指して海神である鰐魚(がくぎょ=えらの張った魚)が多数の海魚を従えて川をのぼるという伝承を記している。鰐魚は与止日女神社の眷族(けんぞく)となり、さらに鰐魚をナマズと考えるようになり「鯰は与止日女さんのお使い」であるとし、佐賀平野の住民にナマズを捕食しない習慣が生まれた。 
古代の岩座という、神の依る岩、岩境のような霊域信仰の遺跡は各地に残り、奈良時代の国々の風土記にも神や仏などの形に似た石の信仰が載っている。さざれ石が巌となるといった成長する石の信仰、魂籠る石としての九石神、石を手むける信仰が仏教と習合した賽の河原の積石信仰や岩船地蔵など、神仏の信仰と石との関わりはきわめて多彩 。

 
石敢当

いしかんとう 
<石敢當 (「せきかんとう」とも呼ばれる) 
邪悪防護、魔除け、災厄除け 
悪鬼、邪鬼の侵入を防ぐための石。多くはT字路の突き当たりに立てられ、正面の家を保護した。石には石敢当や泰山石敢当と刻むが、地方によってその上部に北斗七星 、八卦を刻んだりして、後に石敢当之神などと刻まれ、次第に神性視された。 
敢当は無敵を意味する言葉。石は何事にも動じず霊力を宿すもの。石敢當は道に設置される魔よけで全国に分布。特に沖縄を中心とした南西諸島に多い。 
悪鬼は直進する性質があり、道を直進してきた悪鬼がT字路にぶつかると、その家の中に進入することになる。そこでT字路などの突き当たりにこの「石敢當」を置き魔よけとする。石敢當は中国から伝来したもので、最古の石敢當は福建省にあるという。アジア諸国に広く分布し、台湾・香港・シンガポール・マレーシアにも存在する。 
石敢当碑 
「石敢当」の三文字を記した石碑・石札は中国南部から沖縄・九州によく見られる。魔除けのまじないで「せきかんとう」または「いしかんとう」と読む。その語源に、五代石敢当(石が姓)という武者がいて、これにちなんだ名称という説があり 、辞書にはよく引かれるが、小玉正任はこれが誤伝であることを明らかにした。 
 
石敢当(滋賀県高島郡安曇川町) 
石敢当は中国伝来の風習。発祥の中国では少なくとも8世紀頃に最古の石敢当があったといい、日本で盛行したのは中近世以降と考えられる。 
高島町の他例にない石敢当/表面「石敢当」に加え、両側面に「すぐ北国街道」「すぐ京大津道」の道標の文字、裏面に製作年月(天保13年/1842年)と製作者 ・安原氏が刻まれている。中江彰/製作者「安原氏」は代官・安原権兵衛で、彼は九州・琉球で盛行する石敢当を珍しがり、それを模倣して道標の役割も見立てて道路に建てたのではないか。道標の実用的側面だけでなく「道往く人々の無事安全を願った」としている。 
沖縄では、市中を徘徊する魔物「マジムン」はまっすぐ直進する性質を持つため、T字路や三叉路にぶつかると向かいの家に入ってきてしまうと信じられている。それを避けるために、あらかじめ魔物が入ってきそうなところに、表面に「石敢當」と漢字で書かれた石碑を建てたり、石版を壁面に貼り付けることで魔よけとする。中国伝来の風習で、似たような魔よけは中国の一部の地域にも見ることができ「石敢當」の名前そのものの由来は古代の武将の名前とも名力士の名前ともされ、諸説あ る。沖縄では未だに根強く続く風習で、現在でも沖縄の各地で新しく作られた大小様々の石敢當を見ることができる。

 
石凝姥命 いしこりどめ 
鍛冶の神、金属加工の神 
女性神、三種の神器の一つ八咫鏡を作った神。この鏡は、神社の御神体とされる鏡の親玉みたいなもので、天岩戸の話では 天照大神を洞窟から誘い出すため、イシコリドメ神が八咫鏡を作ったとある。この神は天香久山でとれた金を用いて火矛(立派な矛)を作ったとも記される。この矛は、武器というより祭具。 
「石凝」は、石を利用した鋳型に容鉄を流し込んで凝固させ、鏡を作るという作業から廉そうされたもの。銅鏡や銅矛の製造を職業とした金工の祖先神と考えれる。神聖な祭具の銅鏡を銅矛を製造する金工の技能には霊力が生じる 、その職能的な霊力をつかさどる巫女がいたのか。そうした巫女は、本来、太陽神に使える巫女で、 天照大神のために鏡を作るという神話での役割からも判る。 
鏡は日の神の依り代であり、古くから宗教祭祀の重要な道具だった。後には三種の神器にも加えられ、皇室の祭祀とも密接に関係している。中国では古くから銅鏡は悪霊を退ける霊力を持つと考えられ 、日本でも古墳時代にはそうした信仰が重んじられた。大型古墳から出土した銅鏡は、ほとんどが祭祀で使われたものである。 
銅鏡や銅矛というのは青銅器時代のもので、青銅器はやがて大陸から製鉄技術が伝わると鉄器に取って代わられる。イシコリドメ神はもともと青銅器の神様とも言える、鉄の普及とともに登場した他の鍛冶や金属加工の神々よりも、古い神と考えられる。もちろん鉄器時代になっても役割は変わることなく信奉され、今も鍛冶の神、金属加工の神として霊力を発揮している。 
五十鈴姫神 いすずひめのかみ 
<媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこ)/比売多多良伊須気余理比売 
*溝咋神社/橿原神宮 
事代主神の娘、神武天皇の后。 
率川神社(いざがわじんじゃ) 
祭神/媛蹈鞴五十鈴姫命・玉櫛姫命(たまぐしひめのみこと)・狭井大神(さいのおおかみ) 
推古天皇元年(593)大三輪君白堤(しらつつみ)が勅命によってお祀られた古社で、延喜式神名帳に率川坐大神御子神社(三座)と記される。中殿の姫神をはさみ、左右の御殿に御父神・御母神が鎮座 し子守明神(こもりみょうじん)と呼ばれる、地名の本子守町(ほんこもりちょう)もこのことによる。安産・育児・息災延命の神として広く信仰される。 
五十鈴媛の生誕地である溝咋神社の近くに三島鴨神社があり、近くに鴨村・鴨林などの地名が残り、この付近が賀茂一族の勢力範囲であったことを伺わせる。五十鈴媛は賀茂一族 の重要神である事代主神の娘である可能性が高い。 
五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと・生没年不詳) 
日本書紀/綏靖天皇の皇后で、事代主神の娘、安寧天皇の母。姉の姫踏鞴五十鈴媛命は神武天皇の皇后となる。綏靖天皇とともに実在しないとの説がある。日本書記では姉姫踏鞴五十鈴媛命の母は三島溝橛耳神の娘・玉櫛媛、旧事本紀では三嶋溝杭の娘・玉依姫と なっているが、五十鈴依媛命の母は不明。古事記/五十鈴依媛命は登場しない。 
大神神社(おおみわ・奈良県桜井市三輪) 
祭神/大物主神・大己貴神・少彦名神。三輪山全体を神体山として本殿を持たない、神代の信仰を今に伝える我国最古の神社。拝殿は寛文四年(1664)徳川四大将軍家綱の造営、西向きに建ち、正面には唐破風造の大向拝がつき江戸時代を代表する建物。拝殿の奥正面三輪山との間には「三ツ鳥居」があり、明神型鳥居三つを一体に組み合わせた形式で「三輪鳥居」という。
 
五十猛神

いそたける 
<大屋毘古神(おおやひこのかみ)/射楯神(いたてのかみ)  
*来宮(きのみや)神社/度津神社/高瀬神社/広峯神社/猛島神社  
木種の神、木材の祖神  
日本神話に登場する神。日本書紀のみに登場、古事記に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神とされる。スサノオの子である。 
緑豊かな日本では木の神や森の神が数多く存在する。名高いのが五十猛神で「五十」は豊かさを表す意味をもつ。ふつう木の神というと、たとえば鎮守の森の高い樹木に宿る神霊をイメージするが、五十猛神はそ の意味の木の神でな く、大地に生える樹木のすべてを司る神である。 
五十猛神は、高天原を追放された父の素盞鳴尊と共に朝鮮半島の新羅国へ天降り、層尸茂梨(ソシモリ=現在の韓国江原道春川群の午頭山とされる)の地に住んだ。天から天降るとき、五十猛神は多くの樹木の種を携えてきた。新羅国で暮らすことを嫌った素盞鳴尊は、土の船を作って日本に渡った。このとき、五十猛神は多くの木種を新羅国で植えることなくそのまま日本に持ってきた。そして国土全体にその種を植えたので、日本には青々とした樹木が茂る山々が連なるようになったという。神話から、古くから各地で祀られていた名もない樹木の精霊が五十猛神として信仰されるようになった。また全国をめぐって植林事業を終えた五十猛神は、その後は紀伊国(和歌山県)に移ったとされる。紀伊国といえば山が連なり樹木生い茂る、日本でも有数の木材の生産地である。 
 
民俗信仰の山の神にはさまざまな性格を持った神霊がいるが、その中でも特に林業の関係者に信奉されている山の神がいる。そうした土地には山の神の日があって、人々は山仕事を休んで山に入らない。これは山の神が木を数える日だから、邪魔をして怒りに触れないようにするためだともいわれる。このように木を管理する山の神もまた五十猛神なの だ。 
古事記/伊邪那岐命、伊邪那美命が万物の神を生んだとき、風の神の次に木の神・久々能智神(クグノチノカミ)を生んだ。この神は別神だが、性格はほとんど一緒で、植林・木材の神としてともに祭神とされる神社も多い。 
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ・和歌山県和歌山市伊太祁曽) 
祭神/五十猛命、大屋津姫命(おおやつひめ)、津麻津姫命(つまつひめ)  

韋駄天

いだてん 
韋駄天は仏(天部)の一人。もとはバラモン教の神「スカンダ」(シヴァ神の子、ガネーシャ神の弟)とされる。仏教に入って仏法の守護神となり、伽藍を守る神とされている。また小児の病魔を除く神ともいわれる。捷疾鬼が仏舎利を奪って逃げ去った時、これを追って取り戻したという俗伝から、よく走る神として知られ転じて足の速い人の 例えにされた。中国の古い伝奇小説「封神演義」では闡教の道士・韋護(いご)として登場する。梵名スカンダまたはカルッティーケーヤ、跳ぶ者という意味。中国で塞建駄・私建陀・建陀と音写されたが「建」を「韋」と誤写したものか。 
はじめは仏教を妨害する邪神だったが、釈迦に帰依してから仏法の守護神となり、増長天(ぞうじょうてん)の八大将軍の一つとされ、四天王三十二将軍神では筆頭に置かれ た。釈迦が涅槃の後、足の速い捷疾鬼(しょうしつき)が仏舎利から仏牙(ぶつが)(歯)を奪って逃げ去った時、これを追って取り戻したという説話から、より速い神として知られている。とくに伽藍(がらん)を守る神とされ、寺院の厨房などにその像がまつられている。修行僧が悪魔に悩まされるとき、走り来て救ってくれます。足腰の病を平癒してくれる神として、また小児の病魔を除く神として信仰されている。

 
市杵嶋姫神 
(宗像三神)
いちきしまひめのかみ 
<市寸島比売命/狭依毘売命(さよりびめのみこと)/弁財天 
*宗像大社/厳島神社/江島神社/松尾大社/石神神社 
水の神様/弁天様と習合 
日本神話に登場する神。アマテラスとスサノオの誓約(アマテラスとスサノオの誓約)の際に、スサノオの剣から生まれた宗像三女神の一柱。古事記/2番目に生まれた神で、宗像大社(福岡県宗像市)の中津宮に祀られ る。日本書紀/3番目に、第二の一書では最初、第三の一書では最初に生まれた瀛津嶋姫(おきつしまびめ)の別名が市杵嶋姫である。 
「イチキシマ」は「斎き島」で、神に斎く島の女性という意味。辺津宮は陸上にある宮であり、中津宮・沖津宮の祭神とする記紀の記述の方が神名の由来に近い。厳島神社(広島県廿日市市)の祭神ともなり、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされる。後に仏教の弁才天と習合し、本地垂迹において同神とされた。 
 
宗像三女神(むなかたさんじょしん) <宗像三神/宗像の神 
天照大神と素盞鳴尊の誓約(ウケヒ)によって生まれた神 
海の神、航海の神  
日本書紀/天孫降臨の際にその道中の安全を守護するようにと天照大神から命じられたとあり、そこから海上安全、交通安全の神として信仰されるようになった。 
*奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)=多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)/田心姫命(たごりひめのみこと)。「多紀理」は「田岐津」と同じ意味で潮流が早く激しい様子。奥津島比売命は、後に大国主命と結婚し阿遅鋤高日子根神を生んでいる。  
*市寸島比売命=狭依毘売命/弁財天。市寸島比売命は「神霊を斎き(イツキ)祀る島の女性」という意味、厳島神社の呼称の由来といわれる。 
*多岐津比売命(たぎつひめのみこと)=滝津姫命(たきつひめのみこと)/田寸津比売命。  
市寸島比売命が弁財天と習合した結果、神仏混合の時代に宗像大社や厳島神社から全国各地に分祀されていた宗像三女神は、その多くが弁財天を本尊とするものに変わった。江戸時代に七福神がもてはやされるようになると、宗像三女神はすっかり影がうすくなった。弁財天としての市寸島比売命は、知恵、財福、戦勝、子孫繁栄の他、音楽、技芸、弁舌など芸能に関する神威を発揮する 。
伊豆志袁登売の神 いづしをとめ 
出石の巫女の神。伊豆志は兵庫県出石郡出石町。伊豆志の八前の大神の娘で、秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)と春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)との兄弟二神から求婚される。春山之霞壮夫の神の一夜妻(祭儀ののち、神人が巫女と一夜共寝すること)となり一子を生む。
 
伊豆能売

いづのめ 
古事記/神話中では伊豆能売とだけ書かれ「神」「命」の神号はない。日本書紀には登場しない。「イヅ」は「厳」で斎み清めることを意味する。神名に「メ」とついていることから女神とされることもあるが、神話には性別を決定するような記述はなく、男神と考えられることもある。 
伊邪那美命に追われ、黄泉国から現世へ逃げ帰った伊邪那岐命は、死の国の穢を祓うために橘小門の阿波岐原で禊ぎをした。その禍(穢れ)を直そうとして化生したのが、神直毘神、大直毘神とこの伊豆能売神である。伊豆能売神の伊豆は厳瓮などの厳で、斉み清める事を意味し、汚穢を濯いで清められたことをあらわした神である。 
黄泉の国に出掛けるために伊耶那岐神は旅支度をした。この旅支度が自身の身を助けるために役立つとは伊耶那岐神ですら気づいていなかった。髪の毛は葡萄の蔓で固く結び、髪に竹の櫛をさし、杖も用意した。黄泉の国に到着し伊耶那美神と出逢うことは出来たが、黄泉の国の食べ物を口にしてしまった以上帰ること出来ない旨を伝え、伊耶那岐神の凄まじい愛情の言葉に伊耶那美神は黄泉の国の神に相談してくると告げ、奥の御殿へと姿を消した。ここで「絶対中を見てはいけない」事を約束したが、待てど暮らせど戻ってこない伊耶那美神が気になり痺れを切らし、約束を反故にして御殿への中へと進んでしまった。そこで見たものは、伊耶那美神の変わり果てた姿 だった。体全体に蛆が集り、体には 雷が宿っていた。

神の名称/読み 備考/体の部分
大雷 おおいかづち 八雷神の初めの雷神/頭
火雷 ほのいかづち 落雷での火を表現/胸
黒雷 くろいかづち 落雷での黒い空を表現/腹
柝雷 さくいかづち     落雷での裂く力を表現/陰部
若雷 わきいかづち 落雷での若々い力を表現/左手
土雷 つちいかづち 落雷が土に戻ることを表現/右手
鳴雷 なるいかづち 落雷での雷鳴を表現/左足
伏雷 ふしいかづち 雷雲に潜む雷の存在を表現/右足
約束を破った伊耶那岐神を怒り、鬼女、八雷神が黄泉の国の死神を引き連れて追いかけてきた。ここで旅支度の用意が自身を助ける道具になった。 
古事記/「人草、一日に千頭絞り殺さむ」「一日に千五百産屋を立てむ」伊耶那美神が「この様な酷い仕打ちをするのであれば、私は1日に1000人貴方の国から黄泉の国へ呼びましょう」と、その言葉を聴いた伊耶那岐神は「それならば、毎日1日に1500の産屋を建て国に誕生させよう」。人の生と死を創り出したとされる言葉 である。 
 
黄泉の国から帰って伊耶那岐神は禊を行う。禊の最後に生まれたのが三貴子といわれ、伊耶那岐神は三貴子に世界の分治を命ずる。 
三貴子とは、天照大御神、月読命、建速須佐之男命のこと 。 
1 衝立船戸神 つきたつふなどのかみ 投げ捨て突き立てた杖から生まれた神  
2 道之長乳歯神 みちのながちはのかみ 投げ捨てた帯から生まれた神  
3 時置師神 ときおかしのかみ 投げ捨てた着物から生まれた神  
4 和豆良比能宇斯能神 わづらひのうしのかみ 投げ捨てた上衣から生まれた神  
5 道俣神 ちまたのかみ 投げ捨てた褌から生まれた神  
6 飽咋之宇斯神 あきぐいのうしのかみ 投げ捨てた冠から生まれた神  
7 奥疎神 おきざかるのかみ 投げ捨てた左手の手纏から生まれた神  
8 奥津那芸佐毘古神 おきつなぎさびこのかみ  
9 奥津甲斐弁羅神 おきつかいべらのかみ  
10 辺疎神 へざかるのかみ 投げ捨てた右手の手纏から生まれた神  
11 辺津那芸佐毘古神 へつなぎさびこのかみ  
12 辺津甲斐弁羅神 へつかいべらのかみ  
伊耶那岐神自身の体の禊によって生まれた神々  
13 八十禍津日神 やそまがつひのかみ 中間の浅瀬に於初めて身を濯いだ時に生まれた神  
14 大禍津日神 おおまがつひのかみ  
15 神直毘神 かむなおびのかみ 流れ出た穢れを清めるために生まれた神  
16 大直毘神 おおなおびのかみ  
17 伊豆能売 いづのめ  
18 底津綿津見神 そこつわたつみのかみ 水底で身を濯いだ時に生まれた神  
19 底箇之男命 そこつつのおのみこと  
20 中津綿津見神 なかつわたつみのかみ 水中で身を濯いだ時に生まれた神  
21 中箇之男命 なかつつのおのみこと  
22 上津綿津見神 うわつわたつみのかみ 水面で身を濯いだ時に生まれた神  
23 上箇之男命 うわつつおのみこと  
全て浄化され太陽が昇ると最後に伊耶那岐神自身の体の禊によって生まれた神々  
24 天照大御神 あまてらすおおみかみ 左目を洗った時に生まれた神  
25 月読命 つくよみのみこと 右目を洗った時に生まれた神  
26 建速須佐之男命 すさのおのみこと 鼻を洗った時に生まれた神  
鹿島玉川神社(青梅市長渕) 
建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)/大名牟遅神(おおなむちのかみ)/伊豆能売神(いずのめのかみ)/豊玉毘売神(とよたまひめのかみ)が祭神。境内に巨大な神石あり、このためここを清地として承平のころ源経基が常陸の鹿島神社を勧請したといわれ、もと鹿島社とか鹿島大明神と称した。玉川明神は明暦のころ玉川上水の清浄を祈願したのがはじめと される。

 
稲荷神 いなりのかみ 
<稲荷大明神(いなりだいみょうじん)/お稲荷様/お稲荷さん 
穀神・商売繁盛の神 
日本の神。稲荷神は、宇迦之御魂神(うかのみたま/倉稲魂命とも書く)などの穀物の神の尊称であり、他 に豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)など。稲荷神は本来は穀物・農業の神であるが、広く産業全般の神として信仰される。稲荷神を祀る神社を稲荷神社という。 
稲荷神社は3〜4万社とも言われる。江戸時代には、江戸に多い物として「火事喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞」というはやり言葉があったほど。 
伏見稲荷大社(京都市伏見区・稲荷山) 
全国稲荷神社の総本社。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神。 
山城国風土記/伊奈利社(稲荷社)縁起、秦氏の祖先である伊呂具の秦公(いろぐのはたのきみ)は富裕に驕って餅を的にした。その餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)神名となった。伊呂具の秦公はその稲の元へ行き、過去の誤ちを悔いて、その木を根ごと抜いて屋敷に植え祀ったという。 
狐 
伏見稲荷の狐宇迦之御魂神は別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言う。狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐が稲荷神の使い、あるいは眷属であるとされた。狐を稲荷神の使いとする民間信仰は、中世より始まったもの。後に狐が稲荷神そのものであると誤解されるようにもなった。御饌津神とは神饌の神様でもある。神社など御饌殿(みけでん)の神様でもある。また、摂津国、志摩国、伊勢国は御饌津国(みけつくに)と呼ばれている。この地方の神社には御饌殿または稲荷神社が併設されていることが多い。稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に狐の好物とされる油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷と称するようになった。稲荷の名が付く代表的な料理の一つである稲荷寿司は豊川稲荷の門前で発祥した。 
 
信仰 
稲荷神社では、2月の最初の午の日に「初午祭」が行われる。これは、伏見稲荷神社の祭神が降りたのが和銅4年(711年)2月の初午であった からと言われる。稲荷神には大別して2系統あり、片方は伏見稲荷大社などに祀られる稲荷神(豊川稲荷、篠村八幡宮、祐徳稲荷神社等)。もう一つは狐神として祀られ庶民の間から派生した稲荷神である。大日本史等の歴史書や稲荷信仰事典によるとイナ-ナリの神を祀る三神社(総本山の伏見稲荷大社、豊川稲荷、祐徳稲荷神社)を日本三大稲荷としている。諸説として祐徳稲荷神社や豊川稲荷が欠けている場合や伏見稲荷大社さえも含まない場合が稀にある。また笠間稲荷神社、最上稲荷が三大稲荷と言われだしたのは明治初期以降である。 
 
稲荷神   
稲荷信仰はもともと稲荷山あるいは伊奈利山と呼ばれた山に対する信仰を始まりとする。「伏見稲荷神社」の成立起源に諸説ある。 
大和国風土記・稲荷大明神縁起/伊奈利山」と呼んでいた秦氏の「伊奈利」信仰は、和銅四年(711)を始まりとしている。真言密教東寺・稲荷明神流記/「稲荷山」と呼んでいた荷田氏の「稲荷」信仰は、弘仁十四年(823)を始まりとし ている。これは空海が東寺と関係した最初の年で、最終的にふたつの信仰が空海によって強引にまとめられたと考えれば、「伊奈利と稲荷」の語の違いや創始の年の問題が簡単に 理解できる。六国史の天長四年(827)に「稲荷神、稲荷神社」の名が現れたときは合体した後である。 
空海が東寺と稲荷山と関わったのは、高野山開山のすぐ後のことで、初期の弘法大師の伝記には稲荷神のことがまったく書かれていない。鎌倉中期以降になってようやく空海と稲荷神遭遇の伝承が作られた程で、種々の伝承をつくったのは空海ではなく空海以後の真言密教で ある。その伝承で「稲荷神」は、高野開山伝承の狩場明神の姿によく似た「赤顔の老翁」で、稲を担ぎ二人の女と二人の子を連れている。稲荷山も熊野や白山などと同じ三山形式で、一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰があり、まとめて「稲荷大明神」「稲荷神社三座」とか呼ばれていたが、のちに麓に三神を祀る下社が造られ、その後、上社と中社も加えられ「稲荷三箇所大明神」となった。さらに、ふもとに「田中大神」と「四大神」の二社が加えられ「稲荷五社明神」となり、現在と同じ形になっ た。田中大神と四大神は山上になく、上・中・下の社に当てられる祭神は諸説がある。いわゆる「稲荷神」と言われるのは稲荷明神と、倉稲魂命、岩倉稲姫魂命、保食神、宇迦之御魂大神で ある。地方の神社では他に「稚産霊」「豊宇気都比売神」「大気都比売神」「御膳神」「御食持命」「三狐神」、蛇の「宇賀神」などの穀物神、五穀豊穣の神々が稲荷神とされることがあ る。現在の伏見稲荷の五社形式の祭神に、本地仏を当て嵌めれば、宇迦之御魂大神が十一面観音、大宮賈大神が如意輪観音、佐田彦大神が千手観音、そして田中大神が不動明王、四大神が毘沙門天となる 。  
 
キツネに関係する「命婦社」(みょうぶ)は、今は摂社とされ、五社には含まれない。命婦の本地は文殊菩薩とされてい る。「命婦社」の名は1200年代に頻出してくるが、その命婦社が最初からキツネに関係していたかどうかまではわからない。「命婦」は宮廷の五位の女官のことで、いつかキツネのことを指すようになり「専女(とうめ)」「白専女」などとも言 われた。「命婦社」は牡キツネ(小芋・オススキ)と牝キツネ(阿小町)を使者とするとか、あるいは「黒鳥」と「小薄」という中社の摂社がキツネを祀るとも、稲荷神(宇迦之御魂大神)の神体がキツネ(白晨狐王菩薩)だという見方もあ る。近世に稲荷神の使者としてのキツネの役割が確定する。現在の「命婦社」は「命婦専女神」を祀り、その神の実体がキツネなのか、稲荷神に神使としてキツネを提供するのか 不明。 
 
熊野詣と稲荷 
熊野詣には、参詣終了後に道中の守護神である「護法」を送り返す儀式が古くから定められている。「護法送り」次第/先づ、諸天勧請の印咒を満たす。合掌して、二大指を竪てて招くなり。 
オン ロキヤロキヤ ラヤエイケイキ ソハカ。 
伏見稲荷において「護法送り」が行われるが、理由は「熊野権現(慈悲大顕王)」の家臣が「雅顕長者」、その弟の「長寛長者」の垂迹したものが伏見の稲荷大明神で、この兄弟が熊野詣の人々を守護する 意とされる。「雅顕長者」が垂迹したものは熊野十二所権現のひとつ「勧請十五所」である。この儀式に有名な「キツネ」はいない。伏見稲荷での護法送りは、諸天勧請の印呪、施餓鬼の印呪、移散、五如来の名号、般若心経、大日如来の真言、縁生起偈、十二因縁、六波羅蜜、三昧耶印明、廻向をし、一度清衣を着たうえで常衣を着するという内容の次第である。 
稲荷神社に関わる護法といっても未だ「長者」とよばれるだけの護法で、キツネが伏見稲荷の護法と呼ばれるのはもう少し遅れる。熊野と天台宗寺門派(本山派修験)との確実な関わりは、増誉が初代熊野三山検校になった1090年からで、以来、熊野詣の先達は天台宗寺門派(聖護院)が請け負い、真言密教と関わり深い伏見稲荷がここに登場するのはわかりにくい。ただし六代と七代の熊野三山検校を努めた長厳と定豪は、真言宗(東寺)と関わりの深い僧で ある。天台宗の円珍(智証大師、815-891)の伝承として次のようなものがある(ただし同じような伝承は真言宗の空海伝承にもある)。熊野参詣の帰り道、稲羽の里で稲束を持つ翁と二人の女に出会うが、それらは伏見稲荷の上、中・下社の神であった。ここに「熊野参詣の帰り道」とあることが、熊野詣の「護法送り」との関連を示唆 する。この話は、円珍の後の時代に作られたもので、天台宗寺門派には創作をしなければならない事情があったのかも。その証拠に熊野には稲荷と関わる社がいくつかあり、先の円珍伝承による稲羽の里、熊野九十九王子のひとつ「稲葉根王子」はとうぜん稲荷で、熊野川の河口にある飛鳥宮が祀るのも稲荷(三狐神)、熊野の奥院と言われる玉置神社がまつるのも稲荷(三狐神)で ある。玉置神社は伏見稲荷よりも先に存在したとも言われ、三狐神という文字を使っていて、キツネに関してだけは熊野のほうが早かったのかもしれない。熊野のキツネが伏見に移ったとも考えられ る。伊勢神宮もキツネとは早くから関係し、伏見のキツネは伊勢神宮のキツネかもしれない。  
稲荷神はとにかく強力で、各地の穀物神をすべて稲荷神に習合させたので、熊野でも同じように熊野詣を契機とし、熊野にあった穀物神(三狐神)の信仰が伏見の稲荷神に習合させられたと考えるのが妥当かもしれ ない。 
 
豊川稲荷 
真言密教は、荼枳尼天(ダキニテン)を「白晨狐王菩薩」と同じ「稲荷神」であるとし、白い狐にまたがる剣と宝珠を持つ天女として表現している。キツネと一体となった荼枳尼天は、主として東寺を中心とする真言宗によって世間に広められたので、真言密教、荼枳尼天、狐、稲荷社は不可分の関係で ある。キツネ神社(寺)を、神社、寺ごとに分けることがあるが、明治以前の神仏分離の無理解からおきた誤り。 
豊川稲荷(妙厳寺)の荼枳尼天(稲荷)の由来は、寒厳禅師(義尹)が伝えた荼枳尼天像である。義尹は天台僧で、宋からの帰りの海上で荼枳尼天を感得し、その像を手彫りしたと言われ る。豊川稲荷(妙厳寺)の開祖である東海義易(1412-1497)は、この義尹の法系で、荼枳尼天像が伝えられ、豊川稲荷(妙厳寺)に祀られたという。 
秋葉山秋葉寺の三尺坊大権現の姿は、狐に乗っている天女(荼枳尼)でなく、狐に乗った烏天狗(カラステング)である。これは密教のダキニの姿から、更に発展させられた形なのかもしれ ない。「狐にのった烏天狗」は呪法色が強く「天狗修験道」とも呼ばれる戸隠山系の飯綱大権現と同じ姿で、この飯綱修験道の流れを汲むのが秋葉山のキツネのようで ある。しかし、秋葉山の三尺坊は新潟県・栃尾の楡原からやってきたという話もある。 
栃尾の楡原は蔵王(御嶽)信仰の土地で、蔵王信仰は天台宗と真言宗の両派に関わり、単純に真言密教だけとの関わりとは言えない。真言宗と言ってもその法流はいくつにも分かれ る。
 
井氷鹿 いひか 
神異の光りをもつ井戸。「井」は今日のような深い掘抜き井戸ではなく、地上に湧出する清泉を、木や石で井桁を組んで溜めておく所をいう。「氷鹿」は「光る」の語幹。 
神武東征の際、光のある井戸から出てきた尾を生やした国つ神の名。尾があるとは、鉱夫や樵夫が獣皮の尻当てをしている姿を言い、光のある井戸とは水銀の坑口をさす。吉野川上流の丹生川の「丹生」は水銀の朱砂(辰砂)を産出することに基づく名。「井氷鹿」はそれを採掘する鉱夫の名となる。奈良県吉野郡井光の地名として残る。 
神武前紀には「井光・いひか」とある。「姓氏録」(大和国、神別)の吉野連の項に「加禰比加尼之後也」とあるが、「加禰比加尼・かねひかね」(「金光ね」で、「ね」は親称)で水銀の光の神格化であ る、祭神の「水光姫・みひかひめ」も水銀の光に基づく名であろう。
 
葦夜神

いやのかみ 
葦夜権現祭(いやごんげんさい)/三重県志摩市の祭 
わらじ祭りともいう。元禄時代に再興されたと伝えられ300年以上の歴史がある。 
昔、熊野の山中から追い出されたダンダラボッチと呼ばれる片眼片腕の大男が大王島と呼ばれる島に住んでおり、村にて人をさらう、大風を起こして船を難破させるなどの悪さを繰り返していた。それを見かねた葦夜神が村人に化け、漁具などを大男の持ち物に見せかけ、ダンダラボッチより大きい千人力の大男が里に住んでいるぞとダンダラボッチに脅しをかけた。それに驚いたダンダラボッチが里から逃げ出すと言う故事に基づいている。大わらじは大男がいるぞと言う脅しをかねて作られ、海に流される様になった。逃げていった先は桑名だと言われている(桑名市では踏鞴坊師として祭られている) 。 
熱田神宮に祀られている天叢雲剣はダンダラボッチ(天目一箇命)の作とも言われる。ヤマトタケルが伊勢神宮を訪れた際に、天叢雲剣を受け取り、東国に遠征するが、この地から大伴部氏が同行している。 
 
波切神社(三重県志摩市) 
志摩市大王町波切字崎山、元宮内庁御用地内にある。伊勢神宮内宮系の神社で、神紋は花菱紋である。神事の「わらじ祭」は2m以上の巨大わらじを浜から流す祭りである。沖に浮かぶ大王島にいたダイダラボッチ(ダンダラボッチ)の悪行に困り、葦夜神が知恵を絞り「村にも大男がいるぞ」と大きなわらじを作って流したことに由来する神事、三重県の無形文化財指定。

石押分之子 いわおしわくのこ 
巌石を押し分けて出てきた者。神武前紀/磐排別之子とあり、排別に飫時和句(おしわく)の訓注がある。神武東征の際、吉野の山中で巌を押し分けて出てきて、天皇を歓迎した尾を生やした国つ神の名。これは獣皮の尻当てをした穴居住民をさす。吉野は国巣の祖である。 
応神紀19年10月条/その性淳朴で山菓(くだもの)を取って食し、また毛瀰・もみ(かえるを煮たもの)を美味とし、土毛(くにつもの/粟・菌・年魚など)を貢上することが記され、古代的生活と天 皇へ従順さがわかる。姓氏録・国栖の項(大和国、神別)/石穂押別神の子孫とし「入レ穴」と記され、穴居生活者であった。  
岩土毘古神 いわづちびこのかみ 
*
石槌神社(愛媛県西条市) 
イワヅチビコ神は家宅の守り神とされる。家屋は伝統的に木造で、土台には石が用いられ、壁には土が用いられてきた。その石と土をつかさどる神霊とういう性格から、家を守り、進入してくる災厄を防除すると考えられるようになった。 
イザナミ神とイザナギ神の神生み物語で、建物の土台、柱、壁といった主要な部分をつかさどる6神の誕生のことが記される。その一柱でイワヅチビコ神は、家を建てるときの基礎材料となる石と壁土の神とされる。その次に生まれたのがイワスヒメ(石巣比売)神という女性神で、こちらは石と砂を表している。イワヅチビコ神とイワスヒメ神は兄妹で、その性格からして家屋建築に深く関係する神 だ。 
石槌神社は石槌山を御神体とし、石槌山に宿る地主神が祭神であった。地主神は古くから石槌山の周辺地域に暮らす人々の守護神だ、イワヅチビコ神の原像は、こうしたところにみることが出来る。
 
磐長媛命

いわながひめ 
<石長比売[古事記]/磐長姫[日本書紀・先代旧事本紀] 
*雲見浅間神社(静岡県賀茂郡)/浅間神社(静岡県伊東市・大室山) 
日本神話に登場する女神。オオヤマツミの娘で、コノハナノサクヤビメの姉。 
コノハナノサクヤビメとともに天孫ニニギの元に嫁ぐが、イワナガヒメは醜かったことから父の元に送り返された。オオヤマツミはそれを恥じ、イワナガヒメを差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、コノハナノサクヤビメを差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからであることを教え、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。日本書紀/妊娠したコノハナノサクヤビメをイワナガヒメが呪ったとも記され、それが人の短命の起源であると いう。 
説話から不老長生の神として信仰される。イワナガヒメだけを祀る神社は少なく、全国の浅間神社ではコノハナノサクヤビメとともに祀られる。雲見浅間神社や大室山(静岡県伊東市)の浅間神社にイワナガヒメが祀られているが、コノハナノサクヤビメと対峙して祀られている 。 
貴船神社の結社(ゆいのやしろ)では縁結びの神として祀られている。筑波山の月水石神社でイワナガヒメを祀っている、社伝/イワナガヒメはイザナギとイザナミの第四子で、筑波山麓で病歿したとされ 、イワナガヒメが歿したとされる磐座が祀られている。 
 

 
  うえ かき  
 


  
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