八百万の神 [あ] 
                      
 
  うえ かき  
 
青沼馬沼押比売神 あおぬまぬおしひめ 
美呂波神の妻神。古事記/ 敷山主神の女でミロナミ神と婚姻し布忍富鳥鳴海神を産む。 
青沼馬沼は地名で押比売は大姫という意味がある。
阿加流比売

あかるひめ 
色美しくつやのある女性、「阿加流」は「明る」で「比売」の美称。 
新羅の賤女が日光に感じて「赤玉」を生み、その玉が新羅国の王子の手に入り、乙女に化け王子(天之日矛)の妻となる。しかし、王子が妻を罵ったので、日本に逃げ難波に到り、そこの比売碁曾の社の祭神となる。 
延喜式神名帳に比売許曾神社(摂津国東生郡)、赤留比売命神社(摂津国住吉郡)がある。

飽咋之宇斯能 あきぐいのうしの 
<開囓神 
黄泉から帰った伊邪那岐神が禊祓をし生れた。火の神を生んだのが原因で死んだイザナミ神を黄泉国へ追っていったイザナギ神は、その死体をみて驚き恐れをなして逃げ帰った。「穢い国(死の国)に行って来たので、身を清めるため禊ぎをしよう」と言い、筑紫日向(筑紫は九州の総称)の橘小門の阿波岐原で禊祓をした。禊ぎのために身につけているものを脱いで投げ出すと、それから十二の神々が生れた。その中の一柱で六番目に冠より生れた神である。 
冠はカガフル(被ふる)の名詞形で、冠の口が開いていることからアキグイの名が現れた。
 
秋葉権現

あきば 
秋葉信仰 
山岳信仰の一種。起源は不詳、中世に再興され、中部、関東地方を中心に広まった伝統的なもの。秋葉神社本宮は、静岡県周智郡春野町の秋葉山(あきはさん)山頂(866m)にある。  
火防(ひぶせ)信仰の一つで、火防は一種の呪力、通力などの言葉を表すもので、火災を押さえ、防ぐ力をもつものとされた 。 
天台宗の修験者による山岳信仰で民間信仰とも結びついた神仏混合のもの。神道系の祭神は火之迦具土神という火の神様。本山の遠州秋葉山には、室町時代に、廃れていた秋葉信仰を再興した三尺坊威徳大権現が祀られていた。彼は観音の化身で火防の法に通じた天狗だと言われ、信濃出身の人で越後国から飛来して秋葉山の鎮守となり、三尺坊威徳大権現と称して秋葉寺に祀られた。秋葉信仰は、再興されたずっと 後の1685年に三尺坊大権現を火防鎮護の神として祀ることが流行り、各地に広がり祀られた。 
平安末期以降の秋葉山は、台頭する武家の帰依を得、足利・新田の源氏二氏、上杉謙信、武田信玄、松平広忠などが秋葉信仰と関わりを持った。徳川家康は松平広忠が秋葉権現に祈念して設けた一子であるという。徳川中期以来この信仰が全国に広がり信仰圏を築いた 、その背景に秋葉講・秋葉代参講中などの活躍があった。 
 
講とは神仏を祀り、また参詣する同行者で組織する団体で、講中はそのメンバー。講中は先達によって率いられ、年間を通じて白衣の道者姿で参詣するほか、地域に三尺坊大権現を分祀したり、参詣道を整備して信徒を集めた。各地に秋葉役寮が置かれ、彼らによってお札配りや講の結成、本山詣での便宜がはかられた。封建治下には信仰を理由とする遊山の旅がはやったが、秋葉詣りもお伊勢詣りなどと同様に気軽に参詣できるのが特徴だった。庶民の生活と深く結びつき、東海道筋から関東地方、中部地方に秋葉講が結成され広く普及した。俗に「一に大神宮様二に秋葉、三に春日」と言われ、町内の小祠にも祀られた。徳川末期には、その総数は二万七千余社を数え、明治の神仏分離、修験道廃止措置によって全国各地の多くの秋葉山は神道へと転進し、あるいは秋葉の名を廃するか廃絶した。一方、本山の寺も廃寺となったが、三尺坊の像などは可睡斎(かすいさい ・静岡県袋井市の寺)に移された。現在も全国にわたって民間信仰として残った。 
秋葉信仰には火祭りを中心とした大祭もあり、中には護摩壇に登って四方から火を放ち、燃え上がるのを待って、九尺四方の凧を持って飛びおりるなど、大護摩供養という荒っぽいものもある 。 
他の火防信仰の神社/特に有名なのは愛宕神社。他は関口神社、山神社、火産(ほむすび)霊神社などがある。火防信仰として、秋葉信仰よりも全国に一般的に広がっているのが愛宕信仰である。この信仰の本山は京都の右京区にあり、西の愛宕山といわれ、東京都港区が東の愛宕山といわれる 。愛宕山が開山したのは、1603年江戸開府と同じ年、愛宕山の多くは鬼門の位置にあたり、鬼門を鎮めるために愛宕山を祀った。信州では、秋葉信仰と共に愛宕信仰が行われ、諏訪にも二葉高校下の愛宕山地蔵寺の丘陵に、規模は昔より小さ いが神社が祀られている。 
 
大登山秋葉寺/明治維新後は秋葉山本宮秋葉神社 
赤石山脈の最南端秋葉山(866m)の山頂に鎮座。創祀は社伝によると和銅2年(709)創建、山頂に行基作聖観音・十一面観音・将軍地蔵を安置した。その後修験者三尺坊(飛行自由の術を得たという)が飛来して守護神三尺坊権現となった。近世は曹洞宗大登山霊雲院秋葉寺が別当となり一山を支配した。江戸期初頭白山系修験二諦坊(浜松)と可睡斎とが秋葉寺支配を廻り争うが、幕府裁可で可睡斎支配となる。秋葉権現と観音堂(本尊:聖観音)・仁王門・本坊・多宝塔・大日堂・山婆宮・白山社などの伽藍を有す。江戸初期から、秋葉祭と称し村送りの形で秋葉の神輿を巡航させることが流行し、この頃より火防ぎの神として愛宕神社と並び庶民の信仰を集め、各地に秋葉講が組織され、秋葉詣でが盛んになる。以降各地に秋葉社が勧請される。 
秋葉は行基の草創の地で本尊は聖観音、宗旨は真言、寺名を霊雲院と言った。嵯峨天皇から和歌を賜り「秋葉の山に色つくて見え」から秋葉寺と名け、山を大洞と号した。(大洞山秋葉寺)その頃将軍地蔵の木像があり、之が後に変じて秋葉三尺坊となった、即ち秋葉権現である。 
 
秋葉原  
秋葉神社は初め今のJR秋葉原駅付近にあり、確かに秋葉原という地名や駅名は同神社に由来する。しかし秋葉原は神社名の転用ではなく、早とちりの東京市民が命名した地名 だ。 
明治2年12月現在の秋葉原駅東の神田花岡町一帯で大火事があり、焼け跡は火除け地に指定され12000坪余りが空き地になった。翌年、空き地の中央東寄りに防火祈願の神社が創建された。祭神は皇居紅葉山から勧請された三体の鎮火の神さまで、神社名も「鎮火社」といった。ところが江戸・東京で防火の神さまといえば、遠州秋葉山(静岡県春野町)の秋葉権現が有名だった。「世人、当社を鎮火の社と号せらるゝをもて、子細を弁ぜずして遠州秋葉山の神を勧請ありしと心得て、参詣のもの秋葉山権現と称へて拝する人まゝあり」 (武江年表)明治3年の記述で、当時の東京市民の多くは鎮火社の祭神は秋葉権現と別なのに「火伏せの神さまなら秋葉権現に違いない」と勝手に思い込んでしまった。さらに神社周辺の空き地を「秋葉ヶ原」とか「秋葉の原」と呼ぶようにもなった。 
明治21年、鎮火社の敷地は当時の日本鉄道会社の貨物停車場用地として払い下げとなり、神社は現在地に移転した。もちろん鎮火社の名で移ったが、昭和5年秋葉神社と改称し 、俗称を本名とした。 
秋葉神社 
楡原岩野の地に蔵王権現があった。大同年間に奈良から勧諦されたもので、越後一の修験道場であった。その後、三島郡の矢田、長岡の蔵王(現在の金峰神社)に移された。その末社が秋葉権現で、天文20年(1551)謙信公が開基のしるしとして常安寺に寄進した。常安寺住職門察和尚に対し、「先年不慮の戦争の折には大変忠信をつくされた。それで開基のしるしとして般若院並びに法用寺分を寄進する」と寺院宛行状を与え た。

 
秋比売神

あきびめ 
*狭岡神社(さおかじんじゃ) 
狭岡神社 
霊亀2年(715)藤原不比等(ふじわらふひと)が勅許をえて、自分の家である佐保殿(さほでん)の丘に天神8座を祀ったことに始る。佐保丘天神と呼ばれ、狭穂岡天神>狭岡天神>狭岡神社になった 。祭神は、若山盗_/若年神/若沙那比売神/弥豆麻岐神/夏高津日神/秋比売神/冬年神/冬紀若室葛根神の8座の天津神(あまつかみ)が祀られている。 
天津神は神さまが住む高天原の神々。狭穂(さほ)という地名は稲の意味、穂は文字どおり稲の穂のこと。 
8人の神は羽山戸神(はやまと)と大気都比売神(おおげつひめ)との間に生また。 
若山盗_または若山咋神(わかやまくいのかみ、わかやまながらのかみ)・若年神(わかとしのかみ)・若沙那売神または若沙那比売神(わかさなめのかみ)・弥豆麻岐神(みずまきのかみ) ・夏高津日神または夏之売神(なつたかつひのかみ、なつのめのかみ)・秋比売神または秋毘売神(あきびめのかみ)・久久年神または冬年神(くくとしのかみ)・久久紀若室葛根神または冬紀若室葛根神(くくきわかむろつなねのかみ くくきわかむろくずねのかみ)

秋山之下氷壮夫 
 -春山之霞壮夫

あきやまのしたびおとこ 
兄弟神 
古事記・応神天皇の章/日本における神様どうしの賭け事が記述される。秋山之下氷壮夫が、伊豆志袁登売神(いづしをとめのかみ)という女の神様をどうしても口説き落とせない。そこで弟、春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)は、自分が彼女を落とせるか、という賭を行なう。弟は母親の知恵を借り一計を案じ、トイレに飾った藤の花に我が身を変えさせる。夜中にトイレに起きた伊豆志袁登売神が「あら、きれいなお花」と言って自分の寝所に持ち帰るなり、強引に関係 をもつ。二人のあいだに生まれた子供を証拠に、兄に賭の清算を迫るが兄はふみたおしてしまう。 
日本は四季のはっきりした国である。夏と冬、春と秋の対立では夏と冬の方が激しい。気温的に 差のない春と秋の対立が夏と冬よりもしばしば際立たせて扱われる、この兄弟によい例を見る。源氏物語では紫の上は春の庭を好み、秋好中宮は名の通り秋の庭を愛 した。  
秋山の木葉の色づいた立派な男。「下氷」は「したふ」(赤く色づく意)の連用形。「秋山のしたへる妹」(万葉、巻二、217)に例がある。「壮夫」は「美人」の対語で、「立派な男」の意、秋山の擬人化。 

阿久斗比売

あくとびめ 
古事記/師木県主波延(はえ)の娘、阿久斗比売を、日本書紀/事代主神の孫鴨王(かもおう)の娘、淳名底仲津媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)を安寧天皇は皇后とし、大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)あるいは大倭日子鋤鋤友命(おおやまとひこすきとものみこと)という皇子をなした。38年在位し、古事記では49歳、日本書紀では57歳で崩御した。畝傍山西南の御陰井上陵(みほとのいのうえのみささぎ)に葬られた。 
安寧天皇の伝承 
安寧天皇の名は磯城津彦玉手看尊であったという、この天皇は実在しないとも言われる。日本書紀で母は五十鈴依姫命とあり、古事記では師木県主祖河俣毘売であるとしている、要するに大和の豪族の娘であったか。天皇は片塩の浮孔宮にいたと言われ、所在に諸説がある。書記によれば、皇后は渟名底仲媛命であり、息石耳命と大日本彦耜友尊を生んだとある。古事記では、皇后は磯城県主波延の女、阿久斗比売で、常根津日子伊呂泥命と大傍日子金且友命、師木津日子命であったと伝える。 
阿久刀神社(あくとじんじゃ) 
平延喜式/律令時代の式内社。発掘調査では縄文時代から奈良・平安時代、そして中近世へと続く人々の生活跡が発見された。奈良時代の郡役所・嶋上郡衙(ぐんが)跡などがみつかり、一帯が古代三島の政治・経済の中心地だったことが明らかになった。祭神にいくつもの伝承があり、9世紀の系図集「新撰姓氏録」/養蚕機織にたずさわった調連(つきのむらじ)一族の「阿久太」という人物や、古事記が安寧天皇の妃とする阿久斗比売 、物部氏に連なる豪族「阿刀連」、諏訪明神や久度神(くなどしん)など様々。氏神だったものが地域の守り神へと変化したようだ。  
芥川の由来/。川が阿久刀神社のそばを流れ、阿久刀川と呼ばれていた。音が変化して芥川(あくたがわ)といわれるようになった。

 
阿邪美能伊理比売命

あざみのいりびめ 
垂仁天皇との間に阿邪美都比売命を生む。 
漢の時に金印「漢委奴国王」を授与された委奴国は倭国の乱で滅亡したが、その王族が大和に亡命して天照大神の神武天皇系が建国する、崇神天皇の大和国である、古代大和王権が成立する。北部九州から崇神と共に大和に来た子の垂仁は、神武系統とさらに姻戚関係を結んで強固に一体化を進める。春日・佐保を領する沙本毘古を滅ぼし大和を固めると、畿外10国と連合して大王(おおぎみ)となる。天照大神が孫の邇邇芸命を天下らせて北部九州に作った国が「天つ国」であり、委奴国は代々続いたこの天つ国のことである。日子国とは、神武天皇直系の孝元・開化天皇と穂積臣・丸邇臣らで構成する始源の大和の国を指す。 
垂仁が最初に娶った后妃沙本毘賣は沙本毘古王の妹で、開化記によると日子坐王と春日の建国勝戸賣の娘の沙本の大闇見戸賣の兄妹である、沙本は奈良市の佐保である。沙本毘古王の反乱は古事記でも屈指の悲劇物語である。沙本毘古王は垂仁に嫁いだ沙本毘賣に天皇の隙を狙って殺すよう小刀を渡す。それに気づいた垂仁は沙本毘古王を攻め、沙本毘賣は共に死ぬ。沙本毘古の立場だが、開化天皇と崇神天皇の間で天皇であった日子坐王の子である。日子坐王には多くの子がいたが、沙本毘古も皇位を継承できる資格を有してい た。しかし丹波日子ら日子国系の母ではなく、在地勢力の建国勝戸賣の娘を母としていた。沙本毘古が沙本毘賣をそそのかすセリフ「汝、寔(=真)に我を愛しと思はば、吾と汝と天の下治らさむ」は真実味を帯びる。

 
阿邪美都比売命

あざみひつめ 
垂仁天皇と阿邪美能伊理毘売命の子、稲瀬毘古王(いなせひものみこ・伝不詳)の妻。

足鏡別王

あしかがみわけのみこ 
<蘆髪蒲見別王(あしかみがまみ) 
足利の名前の由来/倭建命(やまとたけるのみこと)と山代(ヤマシロ)の玖々麻毛理比売(ククマモリヒメ)の子、足鏡別王がこの土地を治めたという、「足鏡」という言葉が転じて「足利」となったとされる。 
足利学校/創建は奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁(おののたかむら)説、鎌倉時代の足利義兼説などがあり、明らか なことは上杉憲実(室町時代)によって現在国宝に指定されている書籍が寄進され、庠主(学長)制度を設けるなどして学校を中興したことによ る。天文年間(1550)には学徒三千といわれるほどになり、フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介された。江戸時代の末期には 「坂東の大学」の役割は終了し藩校へと移行し、明治5年廃校になった。 

足柄之坂本神

あしがらのさかもと 
倭建命が大和に帰る途中、足柄の坂本で殺した坂の神。 
倭建命と弟橘比売命 
相模を平定し走水海を渡ったとき、その海峡の神が波を起こし、船をぐるぐると廻されたので渡ることができなかった。その時、后の弟橘比売命が「私が御子の代わりになって、海の中に入りましょう。御子は遣わされた任務を果たして復命申してください」と言った。后が海に入ろうとするとき敷物を何枚も敷いてその上にお下りた。すると荒波は静かになって船は先に進むことができた。その時の后の歌 
さねさし 相模の小野に 燃える火の 火中(ほなか)にたちて 問ひし君はも (相模の小野の燃える火の燃え広がる炎の中に立って、私のことを思って呼びかけてくださった君よ、ああ) 
それから七日後に后の御櫛が海辺に流れ着いた、倭建命はその櫛を拾い御陵を作り収めた。 
*書記では日本武尊が言霊の力を借り「これは小さな海だ。飛び越えてでも渡ることができよう」と言い、海神の怒りを買った。 
*弟橘比売命入水後は、水路で上総から葦浦・玉浦を経由して竹水門(たかのみなと、多賀城付近)に上陸したという 
*入水した弟橘比売命は海神の妻となった巫女であるといえる。 
さらに進み、ことごとく荒れすさぶ蝦夷たちを平定し、山河の荒れすさぶ神たちを平定し、大和に帰る途中、足柄の坂本で食事をとっていた。その坂の神(足柄之坂本神)が白い鹿に姿を変えて傍らに立った。倭建命は食べかけの野蒜(のびる)の片端で打ちつけ、その目に命中させその場で打ち殺した。その坂の上に立って、三度ため息をついて「あづまはや(私の妻よ、ああ)」と言った。それで此の国を「阿豆麻(あずま)」という。その後、甲斐に越えて酒折宮(現甲府、酒折神社)、信濃国を越えて、科野之坂神(しなののさかのかみ)を平定し、尾張国の先に結婚の約束をした美夜受比売のもとに帰ってきた。 
*書記では北上川の下流から常陸を経由し(足柄は経由していない)甲斐から信濃を経由し、碓井の坂で(碓氷峠)で三度ため息をついて「吾嬬(あづま)はや」といわれたという。書記では東山道を吾妻としているが、古事記では東海で吾妻としている。現に上野国に吾妻という地名があるがこれは書記に基づいた地名。

 
味鋤高彦根神 あじすきたかひこねのかみ 
<賀茂大神/阿遅鋤高日子根神/阿遅志貴高日子根神/阿治志貴高日子根神 
*高鴨阿知須岐託彦根命神社(葛城)/土佐神社(高知市)/都々古別神社(福島県) 
農業神、武神 
大国主神と宗像の三女神の中の多紀理姫との間の子で、下照姫の同母兄になる。 古事記/はじめ葛城の高鴨阿知須岐託彦根命神社にあり賀茂大神と呼ばれた。  
土佐神社では土佐大神と呼ばれたが、土佐大神は味鋤高彦根神であり、また一言主神で、雄略天皇が葛城山で狩りをした時に、天皇の怒りにふれ土佐に流された(続日本紀記述/日本書紀と古事記では天皇と一言主神は至って互いに尊敬し合ったことになっている)。朱鳥元年(686)秦石勝が天皇の病気平癒を祈願のため、土佐大神に祈り、天平宝字8年(764)高賀茂田守が御祭神を元通り高鴨阿知須岐託彦根命神社に復した上で、改めてその和魂(にぎみたま)を土佐神社におさめた。土佐神社は味鋤高彦根神にとって第二の拠点であり、この縁起によれば一言主神は実は味鋤高彦根神の別魂である可能性がある 。  
 
高天原では葦原中国を平定するため、最初天菩比神を派遣したが、天菩比神は3年たっても戻ってこなかった。次に天若日子が派遣されるが、天若日子は味鋤高彦根神の妹の下照姫と結婚し8年たっても戻 らなかった。高天原の神々は天若日子の所へ使いとして雉鳴女を遣わした。雉鳴女が「あなたの使命はどうしたのですか」と天若日子を問いただすと、天若日子は弓矢で雉鳴女を殺した。この時雉鳴女を射抜いた矢が高天原にまで達し、その矢を高産巣日神が拾った、それは自分が天若日子に渡した矢だった。そこで高産巣日神は「天若日子が使命を忘れておらずこの矢は誰か悪者が放ったものであれば天若日子には当るな。もし天若日子の邪心があればこの矢に当れ」と言って矢を下に落すとと、見事に天若日子の胸を射抜いた(これを還し矢と言う)。天若日子の死を嘆く下照姫の鳴き声が天上まで響くと、天若日子の父は哀れみ地上に降り、葬儀の手配をした。そこに味鋤高日子根神も当然弔いに訪れたが、高日子根神が天若日子とよく似た風貌であったため、まだ地上にいた天若日子の父が「私の息子が生きていた」と言って抱きついて来た。すると味鋤高日子根神は「間違えるな」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り倒したという 。  
味鋤高日子根神がその名から農業神と考えられ、これは植物が一度枯れても翌年また新しい種から再生することを象徴していると解釈する人がいる。  
福島県の都々古別神社(上宮/棚倉町馬場、中宮/棚倉町八槻、下宮/大子町下野宮)は、ヤマトタケル尊がこの地の東夷の将を倒した時、都々古別山に平国の鉾を立て、そこに味鋤高彦根神をお祀りしたのが起源。その縁起から中世に武神としても崇敬された。  
葦那陀迦神

あしなだか 
<
八河江比売 
*
天川神社(滋賀県高島郡) 
国忍富神の妻で速甕之多気佐波夜遅奴美神を生む。  
葦は邪気を払う植物で、それが高だかと茂ることに生命力・国力の繁栄を表す。大国主神の孫、国忍富神の妻に葦那陀迦神がいるが、蛇神を思い浮かべる名だ。この神は、琵琶湖の南岸の安曇(あど)川のある、滋賀県高島郡の天川神社の祭神である。

足名稚命 あしなづち 
<脚摩乳命/稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)/稲田宮主神 
*氷川神社 
稲田姫の親。足名稚命、手名椎命二神はオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいた。8人の娘がいたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前だった。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行った。スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオは 足名稚命呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(日本書紀では稲田宮主神)の名を与えた。 
稲田神社(いなたじんじゃ) 
足名稚命、手名椎命の夫婦は長者原の長者屋敷と云う所に住み、横田郷に五反田、八反田を開墾した。この開墾した地で稲田姫を生んだと伝えられ、その地に神社が祀られた。稲田姫の誕生の地と伝えらる神社の傍らに「産湯の池」と呼ばれる小さな池がある。  
「ナヅ」は「撫づ(撫でる)」、「チ」は精霊の意で、父母が娘の手足を撫でて慈しむ様子を表わす。「アシナ」は浅稲(あさいね)で晩成の稲の意、「テナ」は速稲(といな)で早稲の意とする説や、「畔(あ)の椎」「田(た)の椎」の対であるとする説、脚無・手無と解釈して蛇神であるとする説もある。 
スサノオの宮殿があったとされる地には須佐神社(島根県出雲市)がある。
 
葦原色許男神

あしはらのしこお 
大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名のひとつ 
大国主神の別名 
大穴牟遅神(おおなむぢのかみ)/葦原色許男神(葦原醜男、あしはらしこおのかみ)/八千矛神(八千戈神、やちほこのかみ)/宇都志国玉神(顕国玉神、うつしくにたまのかみ)/国作大己貴神(くにつくりおおあなむちのかみ)/大国玉神(おおくにたまのかみ)/大物主命(おおものぬしのみこと)/顕国玉神/大己貴神 
大国主とは大国を治める帝王の意味で、大穴牟遅は大名持で、功績が多く著名なという意味であり、また大地持(おおなもち)でもあり、日本書紀では大己貴(おおなむち)、大汝(おおなもち)と書いていたりする。 
葦原色許男の葦原は葦原中国のことで、色許は醜で威力を称えた言葉で、日本本土を治める強い偉い人の意。八千矛は多くの矛を持つ神、つまり武威の神名。宇都志国玉は現国御魂の意で、現在の国の守護神という意味。 
古事記/大国主神の名を、日本書紀/大己貴神の名を多用している。大物主の名は大国主が荒魂とすると、その和魂または幸魂、奇魂の名であるといわれている。 
出雲大社の主祭神で、天穂日命の後裔である出雲国造が心奉した神で、因幡の白兎神話、根の国神話、八千矛神の神話、国作り神話、国譲り神話など多くの神話が古事記、日本書紀に記される。 
 
風習/大国主命の祭日を申子の日とする民間信仰があり、この日の夕食に茶飯を炊く旧家を現在でもみかける。また炒豆や二股大根を供える風習もあり、仏教の天部の神、大黒天にも擬せられる。日本書紀に「その子すべて181の神ます」とあり、艶福の神で もあった。

阿須波神 あすは 
旅の神 
大年神と天知迦流美豆比売神の子。古事記/大年神と天知迦流美豆比売神が結婚し、10柱の御子神が生まれた一神で、阿須波神は足下の神とされる。万葉集 ・巻二十・防人の歌に「庭中の阿須波の神に木柴さし、吾は斎はむ帰り来までに」と詠まれている。 
旅立ちのことを「鹿島立ち」というのが、茨城・鹿島神宮のことで、その末社に阿須波明神(千葉県船橋市海神町)がある。実際には阿須波神をさして鹿島立ちと言ったのであ る。阿須波明神は旅の神ともされている。
 
阿曇大浜

あずみのおおはま 
大岳神社、古墳時代(4〜7世紀)に祀られていたそうだ。祭神は志那津彦神(しなつひこのかみ)志那津姫(しなつひめ)保食神(うけもちのかみ)の三柱に阿曇大浜宿禰(あずみおおはますくね)を志賀宮の末社として合祀 している。大岳神社と対をなし、小岳神社もあり祭神は阿曇小浜宿禰。

愛宕権現

あたご 
愛宕神社(京都市右京区嵯峨愛宕町) 
本宮/稚産日命、埴山姫命、伊弉冉尊、天熊人命、豐受姫命 
若宮/雷神、迦倶槌命、破無神 
愛宕山頂に鎮座、別名白雲寺または愛宕権現と呼ばれた神仏習合の社。本地佛は勝軍地蔵で主祭神は火神の迦倶槌命ともされ、全国に分布する愛宕神社の総本社。愛宕山信仰は、祖霊が留まる山岳信仰と火への信仰に仏教諸信仰が加わり、陰陽道的な方位の思想も入ったようだ。都から見て、北西、乾、妖怪鬼神の棲む所であり、神門として恐れられた。 
延喜式神名帳に丹波国桑田郡に阿多古神社が載っている。貞観六年(864)三代実録には「従丹波国正六位上愛当護神従五位下」との神階授与の記事があり、元慶四年(880)「授丹波国阿当護山無位雷神。破無神、並従五位下」とある。この間に「山」に遷座したのだろうか。丹後国の愛宕神社であるが、亀岡市千歳町国分南山に元愛宕と呼ばれる愛宕神社が鎮座、ここから山頂へ遷座したとの伝承がある。一方、愛宕山頂はかっては丹後国であったが平安時代に変更になったと云う。 
 
愛宕神社は全国に御分社800余社を有し、防火・火伏の神として崇敬されている「愛宕さん」の総本宮として海抜924m愛宕山、山上に鎮座する。大宝年間(701-704)役小角が泰澄を伴って愛宕山に登り禁裏に奏上して山嶺を開き、朝日峰に神廟を造立。(「山城名勝志」の白雲寺縁起) 
光仁帝の勅により天応元年(781)和気清麿公が慶俊僧都と力を合せ、王城鎮護の神として鎮座された。中国の五台山に模した、朝日岳(峰)の白雲寺(愛宕大権現)/大鷲峰の月輪寺/高雄山の神願寺(神護寺)/竜上山の日輪寺/賀魔蔵山の伝法寺という五寺が山中の五山にあった(「扶桑京華志」) 。  
「和歌初学抄」・「八雲御抄」・「和歌色葉」の和歌に詠まれ「本朝神仙伝」・「今昔物語集」・「源平盛衰記」・「太平記」等の物語に登場し、古くより修験者の修業場ともされ、祭神も天狗の姿をした愛宕権現太郎坊とも考えられ、火神ともされた。愛宕山中で宗教生活を送る修験者を「愛宕聖」(「源氏物語」)とか「清滝川聖」(「宇治拾遺物語」)と呼ばれて、愛宕信仰を全国に流布させ、これが慶応4年(1868)の神仏分離令までの愛宕山・白雲寺内大善院・教学院・威徳院・長床坊・福寿院の五坊の修験者支配と続き、神仏分離令後は、祭神の一つ勝軍地蔵は金蔵寺(現・西京区)に移座され仏寺を廃して愛宕神社となった。 
 
明智光秀 
天正10年(1582)3月、徳川家康と穴山梅雪の接待役に任じられ、接待の不足を信長に罵倒され役を解かれたと言われ、怨恨を抱いたとされる根拠に加えられている。5月17日備中高松城を攻略中の羽柴秀吉から、信長への援軍要請により光秀も出陣を命じられる。 
26日光秀は坂本城から亀山城に入り、愛宕権現に参篭。信長討伐を決意したのはこの時と言われ。愛宕権現において里村紹巴と連歌会を主催。有名な光秀発句は、光秀「ときは今あめが下知る五月哉」紹巴「花落つる流れの末を関とめて」。 
29日愛宕山から亀山城へ帰城。6月1日信長に軍装披露のためと称して、自軍に出陣の命を飛ばす。老の坂において明智光春(秀満)、明智治右衛門(光忠)、藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛の5人に信長追討の決意を打ち明ける。 
桂川を渡ったとき有名な「敵は本能寺にあり」である。

 
吾田媛

あたひめ 
崇神天皇10年(BC88)大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波へ将軍として送り、従わないものを討たせた。しかし大彦命は異変を感じて途中で引き返した。そのとき孝元天皇の皇子、武埴安彦(たけにわやすひこ)がその妻吾田媛(あたひめ)と謀反を起こしている事を知り、武埴安彦は山背(山城)から吾田媛は大坂から都を襲おうとした。崇神天皇は、五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を大坂に送り、これを迎え撃って迎撃する。一方山背には大彦命と彦国茸(ひこくにふく、和珥(わに)氏の祖)を向かわせこれを打ち破った。 
住吉大社「埴使い」神事縁起 
大阪の住吉大社には「埴使い」と呼ばれる不思議な神事が伝えられる。吾田媛の鎮魂のために、彼女の事績をなぞらえるものである。住吉の神である筒男の神は日向国橘の小戸の水底にいます隼人の神である。 
三輪山の神をまつり、笠縫邑(かさぬいむら)に天照大神をまつり、国税の制度をととのえ、四道将軍を派遣し、外交面では任那との交渉を持ったという崇神天皇の事蹟は、あきらかに国家体制がととのったことを意味し、神武東征のものがたりよりも現実味が感じられる。古事記 ・日本書紀をつくった人びとは、崇神天皇を神武天皇と同じくハツクニシラススメラミコトとたたえることによって、この天皇こそ真の初代天皇であることを後の世に伝えようとしたのではないか。神武天皇が国見をした葛城から日本の別称でもある秋津島の名が起こった。崇神天皇が都を置いた磯城(しき)からも、日本の別称である磯城島(敷島)の名が起こっているのである。実在した崇神天皇が都とした磯城の里こそ事実上の建国の「ふるさと」

 
熱田大神

あつたのおおかみ 
<熱田大明神  
*熱田神宮/桜山八幡宮 
三種の神器の1つ草薙剣の神霊、剣神、戦神 
三種の神器のひとつである草薙剣を祀る熱田神宮の祭神。本来三種の神器の宝剣と熱田の御神体とは別々のもので、あとから日本武尊の伝承が付け加えられて混同されるようになった。草薙剣が熱田大神として祀られるようになった経緯 
古事記/日本武尊は父、景行天皇の命を受けて東国討伐に出かけることになり、その前に伊勢神宮に参拝した。そこで斎王となっていた叔母の倭姫(ヤマトヒメ)から授かったのが草薙剣だった。やがて無事東国を平定して尾張国まで戻ってきた日本武尊は、そこで尾張国造の娘、宮簀姫(ミヤズヒメ)と結婚した。その後、姫に大事な護身の剣を預けて伊吹山の邪神を退治に出かけるが、逆に邪神の毒気に当たって病気になり、無念の死を迎えた。それを悲しんだ宮簀姫は、尾張一族の祭場だった熱田の地に社を建て神剣を祀った 。 
尾張国風土記/日本武尊が宮簀姫と結婚し、その館に泊まった夜、草薙剣が不思議な輝きを放っているのを見る。それで剣の神気を感じた尊は、姫に対して「この剣を大切に祀って私の御影としなさい」と言った。その言葉に従って、姫は尊の亡き後社を建ててこの剣を祀った 。 
祭神の熱田大神とは、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)として憑(よ)らせた天照大神のこと。草薙神剣は三種の神器の一つで、素盞嗚尊が出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)から獲られた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大神に献じ、天孫降臨の際、大神が皇位継承の御璽(みしるし)として八咫鏡(やたのかがみ)・八坂二瓊曲玉(やさかにのまがたま)と共に親しく授けた。 
明治元年には神宮号を宣下(せんげ)、同4年には官幣大社に加列、同26年従来の尾張造の建築様式を改めて、伊勢の神宮と同様の神明造に改造、大正6年には勅祭社に治定せられた。昭和10年遷座が行われ、建造物・諸施設ともにととのったが、昭和20年にその大半が罹災した。その後復興につとめ、同30年に遷座が行われ、引き続いて神楽殿以下の諸施設も完成し、名実ともに、神器奉斎の社にふさわしい偉容がととのえられた。 

穴戸神 あなと 
海峡の神 
倭建命の西征に登場する神々の一柱。 
穴戸神は海峡の神とされ、穴戸(穴門)は関門海峡の古称である。 
小碓命は父・景行天皇の命を受け、一人で熊襲征伐に向かった。叔母の倭比売命から賜った女性の着物を着て、熊襲兄弟に近づき、兄の建を殺し、ついで逃げる弟の建を追って殺したが、死ぬ寸前に弟の建は「西の国には我ら兄弟に勝る強者はいない。しかし、それに勝る建き男はあなたである 」以後、倭建命・日本武尊と称えるようになった。続いて小碓命は、荒ぶる神を言向け和したが、その荒ぶる神の一柱が穴戸神である。穴戸神は海峡の神であり、穴戸(穴門)は関門海峡の古称である。倭建命は帰途、出雲国に入り、豪族である出雲建と相対した。小碓命は一計を案じ、木刀を 作り、戦いの前にこっそり出雲建の剣と取り替えた。これで小碓命の西征は終わり天皇に凱旋の報告をしたとある。 
書紀/吉備と難波の悪神を討伐と書く、古事記/穴戸神と出雲建を討って帰還したとしている。 
阿比良比売命 あひらひめ 
<吾平津媛(あひらつひめ)/阿比良姫(あひらつひめ) 
神武天皇は15歳で太子となり、阿比良比売命と結婚して2人の子供、多芸志美美命と岐須美美命をもうけた。神武天皇は父鵜葺草葺不合神の四男であるが、3人の兄を押しのけて太子となった理由は不明。兄たちは、東征の間、神武天皇配下の武将として命を懸けてはたらき、遠征の間に次々とその命を落と す。神武天皇45歳の時、長兄の五瀬命(イツセノミコト)と大八島の政を行うのに適した場所を相談し、塩土老翁神から聞いたことのある「青山をめぐらす東方の地」を目指す決心をした。この時をもって、三代続いた日向(ヒムカ 、宮崎県)の地をあとに、長い東征の戦いの旅が始まった。 
神武天皇が造営した奈良県橿原市の橿原神宮の祭神は、神武天皇とその皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)である。
天津国玉神 あまつくにたまのかみ 
天若日子(天稚彦)の父神。国土平定・国譲りの神話の中で、二番目に大国主神のもとへ遣わされたのが天若日子であるが、その父神にあたる。本居宣長/天神であり、住時、芦原中津国に降り、国土経営に功があった神としている。
天手力雄命 あまたのちからおのみこと 
<天之手力雄命 
*戸隠神社 
天の岩戸隠れ
 
天津日子根命 あまつひこね 
*王子神社(徳島市)/多度大社(三重県多度町) 
雨乞いの神、風の神(台風の神) 
天照大神とスサノオ尊が承約をしたとき、スサノオ尊が天照大神から受け取った玉を噛み砕き、吹き出した息から生まれた5神のうちの3番目の神。多くの氏族の祖神としても祀られ、天皇家に忠誠を誓う各地の有力者と考えられ、分布は近畿から関東まで広がる。大地の守り神、農業や漁業の守り神、産業開発の神と、各地の土着の神が持つ様々な霊力を備えた神霊で有力な地方神であったから、神話の中で天照大神の子という重い地位を与えられた 。 
多度大社の別宮(神社に深く関係する古い神を祀る社)に天津彦根神の子のアメノマヒトツ神を祀る立派な一目連神社がある。この神は山の神で、とくに鍛冶の神として知られる。北伊勢大神はこの親子の神を祀り、金属工業の神としても厚く信仰される。 
多度大社背後の多度山には、昔、一つ目の龍が住んでいたとの伝承がある。龍は海神でもあるが、また水の神でもあることから、一般に雨の神としても信仰された。その龍を祀ったのが多度大社の始まりという、一目連神でもあった。記紀神話/後から主祭神となった天津彦根神は、古くから信仰された一目連神の霊力を包含した神霊として祀られた。
天津日高日子穂穂手見命 あまつひこひこほほでみのみこと 
<穂穂手見命/彦火々出見尊 
山幸彦、木花咲耶姫命の子、日向三代
天津彦火瓊々杵尊 あまつひこほににぎのみこと 
<天津日高日子番能通々芸命/天津彦々瓊々杵命/邇々杵尊 
*北口本宮冨士浅間神社/全国の浅間神社 
海幸彦・山幸彦の父/日向三代。 
天津麻羅

あまつまら 
日本神話に登場する鍛冶の神。古事記にのみ登場し、日本書紀には登場しない。「神」「命」などの神号はつけられていない。 
岩戸隠れの段に登場。「鍛人(かぬち)天津麻羅を求(ま)きて」とあるだけで、何をしたのかは書かれていない。その前に「天の金山の鉄(はがね)を取りて」とあることから、伊斯許理度売命(いしこりどめ)が鏡を作るための製鉄を行ったとも考えられる。日本書記の本文に天鈿女命(あめのうずめ)が茅纏の矛を手にしたという記述があり、それを作った者の記述がないことから、天津麻羅は矛を作ったとも考えられる(第一の一書では石凝姥命(いしこりどめ)が日矛を作ったとある)。 
先代旧事本紀の天孫降臨の段で「倭(やまと)の鍛師(かなち)等の祖、天津真浦(あまつまうら)」「物部造等の祖、天津麻良(あまつまら)、阿刀造等の祖、天麻良(あめのまら)」とあり、これらは天津麻羅と同神と考えられる。神号がついていないことから、天津麻羅は一神の名ではなく鍛冶集団(またはその祖神)の総称ではないかとする説もある。 
「アマツ」は天津神を示すもので、「マラ」については諸説ある。「マラ」は「目占(めうら)」すなわち片目の意で、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから(または鍛冶の職業病である)とする説/「マラ」は蒙古語の鉄の意であるとする説/鍛冶に必要な槌を男根にみたて男根の別称「マラ」を神名としたとする説(摩羅(まら)という言葉は仏教と共に日本に入ってきたもので、男根の別称とされたのは時代が下るので後世の附会である) 。

 
天津甕星

あまつみかぼし 
<天香香背男(あめのかがせお)/香香背男(かがせお)/天津神 
日本神話に登場する星の神。古事記には登場せず、日本書紀の葦原中国平定にのみ登場。経津主神・武甕槌命は国津神をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは征服できなかった。二神は倭文神建葉槌命(しとりがみたけはづちのみこと)を遣わし、ようやく服従した。第二の一書では天津神となっており、経津主神・武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。しかし天香香背男を誅することはできず、この神は東国の香取に鎮座していると書かれている。 
平田篤胤は、「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したもの。星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされている。日本神話では星神は服従させるべき神「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。 
大甕神社(茨城県日立市)は天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。社伝では甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していた。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男の荒魂を封じ込めた石であると伝える。一説には、建葉槌命によって封じられた後も天津甕星が祟りをなしたため、それを鎮めるために建葉槌命を祭神とする大甕神社が創建されたという。 
葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方と同一神とされることもあり、また、北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。

 
天照大御神 あまてらすおおみかみ 
<天照大神/天照皇大御神/天照坐皇大御神/天照大日霎貴尊/大日霎貴尊/大日女命/天照大日霎尊(おおひるめむちのみこと)/天照御魂神(みたまのかみ)/天照坐大神(いますおおかみ)  
*伊勢神宮/全国の皇大神宮、神明神社 
黄泉の国から戻った伊邪那岐命が禊祓をして生まれた三貴神の一柱/太陽神、高天原の主神、皇祖神、日本の総氏神  
八百万の神々の中でもトップに位置する女神。伊邪那岐命が御祓をしたときに、光を表す左目から生まれたとされる。  
天照大神は最高神の地位を占め、太陽の神であり、高天原の主宰神である。古来より男性神説と女性神説とがあったが女性神説が有力。根拠の一つは日本書紀の神代(上)の巻で素戔嗚尊が天照大神を「姉」と呼んでいるこ とにより(古事記には性別記述は ない)。また弟の乱暴に怒って天岩戸に閉じ篭ってしまうというエピソードも女性的。男性神説は、推古天皇即位をスムーズに行なうために「こんな偉い女性の神様がいるのだから女性が天皇になってもいい」という論理を持ち出すため、蘇我一族が捏造したものであると主張している(ただし推古天皇以前にも清寧天皇崩御の後、顕宗天皇と仁賢天皇が互いに譲り合って天皇が定まらず、飯豊皇女が事実上の天皇として執務 したことがある、それ以前に神功皇后の例もある)。  
天照大神はイザナギの神から生まれた。イザナギ神が亡き妻イザナミ神を慕って黄泉の国に行くも結局逃げ帰り、その時戻ってから川でみそぎをし、その時に左目を洗ったときに天照大神、右目を洗った時に月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗った時に須左之男命が生まれたとされ.る。この三柱の神を三貴子と言う。 
 
イザナギ神の指示で天照大神は高天原を治め、月読尊は夜の世界を治め、須左之男命は海を治めることになった。しかし須左之男命は泣いてばかりいて全く仕事をせず、イザナギ神に自分はイザナミ神のいる根の国に行きたいと言った。イザナギ神が呆れて須左之男命を海から追放すると、須左之男命は姉に別れを告げ根の国に行くと言い高天原に向かった。ところがこの時の須左之男命の勢いが凄まじかったため、天照大神は須左之男命が高天原を乗っ取りに来たのかと武装して待ち受け、須左之男命に対峙して「何をしに来たのだ」と問いただした。須左之男命は自分は単に別れを言いに来ただけで他意は無いと言った。須左之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)から宗像の三柱の女神、天照大神の八尺勾玉(やさかのまがたま)から天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の五柱の男神が生まれたため、須左之男命はこの誓約(うけい)に勝ったことになり、高天原にしばらく滞在を許された。  
須左之男命は元々荒っぽい神であり、滞在中にたんぼの畦道は壊す、神殿を汚す、乱暴な行ないを続けた。最初は天照大神も弟でありかばったが、やがて天照大神の配下の機織娘が須左之男命の乱暴で死に、機嫌を損ねて天岩戸(あまのいわと)に引き篭ってしまった。太陽神に隠れられ、世の中真っ暗闇になった。そこで困った神々は一計を案じ、岩戸の前に八尺勾玉をさげ、八咫鏡(やたのかがみ)をぶらさげ、天宇受売神(あめのうずめのかみ)がその前で踊りを踊った。その踊りが余りおかしく居ならぶ神様はどっと笑った。その笑い声を聞いた天照大神は「いったい何事?」と少し岩戸を開けて様子を見ようとしました。すると天宇受売神が「あなた様よりもっと尊い神様がいらっしゃったのです」といった。そして天児屋命と布刀玉命が鏡をそばに寄せ、そこに映った自分の姿が輝いて見えた。どんな神なのかと思い、もう少しよく見ようと岩戸をもう少し開けると、そこで控えていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がグイと天照大神の手を引いて岩戸から引出し、布刀玉命(ふとだまのみこと)がサッとしめ縄を渡して中に戻れないようにした。高天原に光が戻った。天照大神は現在伊勢神宮に祭られている。その時の八咫鏡も天皇家の三種の神器の一つとして祭ってある。八尺勾玉は皇居に祭られている。  
 
天照大神の信仰が日本書紀に最初に登場するのは崇神天皇の巻で、天皇の娘である豊鍬入姫が天照大神を大和の笠縫邑に祀ったという記事がある。次の垂仁天皇の代になって、今度は垂仁天皇の娘である倭姫(やまとひめ)が天照大神を祀るのにふさわしい場所を探して各地を尋ね歩く話が出てくる。倭姫は宇陀の篠幡、近江の国、美濃、とめぐった後で伊勢に入り、その時「ここは辺鄙な土地だけど波が打ち寄せる美しい国である。私はここに留まりたい」という神託がある。そこで倭姫はそこに宮を建てて天照大神をお祭りした。天照大神を祀る仕事は次の景行天皇の代になると、またまた景行天皇の娘である五百野皇女に引きついだ。この天皇家の娘が伊勢で天照大神を祀るという制度は「斎宮(さいぐう)」または「斎王(いつきのみこ)」と呼ばれ、この時代に始まって後醍醐天皇の皇女祥子内親王まで続いた。その後は祭主が代って神宮を主宰している(時々斎宮は五百野皇女のあとはずっと中断していて、実質的には天武・持統朝あたりから始まったのではという人もあるが、聖徳太子頃の時代にも酢香手姫皇女が選任されていて、やはりずっと続いていたと考えた方が妥当か) 。 
斎王の条件は未婚の皇女または王女で人選は占いによった。任が解かれるのは天皇の譲位又は崩御の時、両親の喪や病気の時などで、在任している限り結婚はできない。同様の制度に賀茂斎院があり選任規準も同様で、嵯峨天皇の皇女有智子(うちこ)内親王が最初、後鳥羽天皇の皇女礼子内親王が最後。斎宮は天照大神に仕える訳で、祭主であると同時に天照大神の「よりしろ」でもあったと考えられる。 
 
古事記「天照大御神」日本書紀「天照大神」と記される。 
古事記/天照大御神は、「伊邪那岐命」(いざなぎのみこと)が黄泉国から逃げ帰り、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)において禊をし、左目を洗ったときに成り出でたとある。 
伊邪那岐命から高天原の統治を委任された天照大御神は、「須佐之男命」の天上訪問をいぶかり誓約(うけい)を行い、3女神と5男神を生み合うが、勝者燃とした須佐之男命の乱行に怒って天岩屋に籠もると、高天原と葦原中国(あしはらのなかつくに)は暗闇となり、あらゆる禍が発生し混乱に陥った。八百万の神々は協力し合って祭祀を行い、天照大御神を天岩屋から引き出すと、高天原も葦原中国も明るくなり、秩序は回復した。 
天照大御神は、御子の「天之忍穂耳命」(あめのおしほみみのみこと)を降臨させるべく豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきながいほあき)の水穂国(みずほのくに)の平定を命じ、平定後は改めて天之忍穂耳命の子「日子番能邇邇芸命」(ひこほのににぎのみこと)に統治を委任し、自身の御魂代(みたましろ)として八咫鏡(やたのかがみ)を祀るように命じて降臨させた。 
その後、「神倭伊波礼毘古命」(かんやまといわれひこのみこと)の東征にあたっては、熊野村において一振りの横刀(たち)を下して危機を救い、白檮原宮(かしはらのみや)での即位にいたらしめた。天照大御神の導きのもとに「倭建命」は西国と東国の平定に向かい、更に「神功皇后」(じんぐうこうごう)の新羅親征のときには、天照大御神と筒之男(つつのお)三神が男子の出産を予言して守護し勝利に導いた。 
 
日本書紀/神代上第五段の第六の一書(あるふみ)では古事記と同様に左目を洗ったときに生まれたとされるが、本文では「伊弉諾尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)が協議して、天下(あめのした)の主者(きみたるもの)として「日の神」を生んだ。「大日霎貴」(おおひるめむち)と言い、一書に天照大神、また別の一書には「天照大日霎尊」(あまてらすおおひるめのみこと)、この子は光麗しく国中に輝きわたったとある。第一の一書では、伊弉諾尊が天下を治める尊い御子を生もうと思うと言って、左の手に白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときに成り出づる神があった。これを大日霎尊と言うとある。そのほか、天照大神が稲や粟などを人々の食物と教え定め、養蚕を始めたとされている。 
天照大御神は、古事記では秩序の根幹神であり、皇祖神として、天皇による天下の統治の正当性と、その版図の拡大を保証する神として、日本書紀では人間の衣食の根幹神として描かれている。 
古代人にとって、日神崇拝は何よりも農耕と結びつき、太陽の推移により、彼らは季節や一年の循環を知り、農事の節目を測ったと思われる。太陽は、光と熱により万物を育む無限の力を有しており、必ず崇拝されなければならない重要な自然神だったのである。 
古事記、日本書紀に登場する天照大御神、又は、天照大神は、一般的には「女神」とされ、「日神」そのものと考えられているが、女神なのか男神なのか、日神そのものなのか、日神に仕える巫女なのか解釈が分かれている。日本書紀本文では「大日霎貴」と記されており、この大日霎貴の「霎」の字は「霊的能力を持った女=巫女」の意味であり、「ヒルメ」については「日の妻=太陽(男神)に仕える巫女」とする説や「日女=太陽の女神(太陽を女性とみた命名で、巫女たる太陽の意)」とする説がある。
 
天照御魂神 あまてるみたまのかみ 
=天照大神(あまてらすおおみかみ) 
新屋坐天照御魂神社[福井神社](茨木市福井) 
福井の新屋坐天照御魂神社は三座ある天照御魂神社の中心社。社伝、崇神天皇7年、神の降臨があり伊香色雄命によって祀られ、景行天皇の皇女五百野媛をして天照御魂皇大神を祀り、また後に神功皇后出立にさいし、この社で禊の祓いを行い、後日帰国後、東西の川上に社を造り、天照御魂皇大神の幸御魂と荒御魂を祀ったとされ る。祭神の天照御魂神は三島県主の祖神の天神玉命か饒速日命だとされる。 
彦火明神 
天照御魂神といえば、天照大神が連想されるが、天照国照彦天火明神のことである。天照御魂は神社の名前で新屋坐天照御魂神社(大阪府茨木市)粒坐天照御魂神社(兵庫県龍野市)という名前である。この神社はどこでも「天照国照彦天火明神」を主祭神にしている。 
天照国照彦天火明神(略して彦火明神)は丹後の海部氏と尾張氏、津守氏の祖神で、海人の太陽神でもある。彼は天照大神の子である天忍穂耳神と萬幡豊秋津師姫の子で瓊瓊杵尊の兄といわれている。また、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子で火折尊や火酢芹命の兄という異伝もある。 
阿麻氏留神社(長崎県対馬)や伊勢天照御祖神社(福岡県久留米市大石)もあり、天照大神以前に信仰されていた太陽神の代表格かもしれない。鏡作坐天照御魂神社(奈良県田原本)もある。 
彦火明神は物部氏の祖神・饒速日尊と同一神とされている。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と古史古伝である先代旧事本紀に書かれている。 
海部氏・尾張氏は、彦火明神(饒速日)が天上にいたときに対馬の天日神の娘(海部氏の系図では大国主と神屋楯姫の娘)天道日女(またの名・屋乎止女)と契って、天香語山命(またの名高倉下命・手栗彦命)を生している。 
天明玉命 あめのあかるたまのみこと 
<玉祖命(たまのおやのみこと) 
*宮比々多神社 社伝記(天保5年・1834年)/御鎮座は初代神武天皇6年(紀元前655年)人々が古くから祭祀の行われていた当地を最上の地と選定、神を祀る社を建立し、相模國の霊峰大山を神体山とし、豊國主尊を日本國霊として祀ったことに始まる。   
*玉祖神社[高安大明神](八尾市神立) 天明玉命(櫛明玉命・くしあかるたま) 
岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作った。天孫降臨の際ニニギに附き従って天降るよう命じられ、天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、天宇受売命(あめのうずめ)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人として随伴した。 
日本書紀の岩戸隠れの段で、八尺瓊勾玉を作ったのは玉造部の遠祖・豊玉神(とよたまのかみ)(第二の一書)、玉作の遠祖、伊弉諾尊の児・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)(第三の一書)としている。どちらも玉造部の祖としていることから玉祖命と同神と考えられる。
 
天活玉命 あめのいくたまのみこと 
<伊佐布魂命(いさふたま) 
倭久連等の祖、姓氏録摂津国神別/五十狭経魂命が角凝魂命の子であり天神系と分かる。  
越中一宮高瀬神社 
御祭神は大己貴命(大国主命)を主神に天活玉命、五十猛命を祀り、末社三社と砺波地区の村々里々に鎮座されます氏子の神々と越中国延喜式内社三十三座の神々を奉る。 
*大己貴命(おおなむちのみこと)縁結び・国土開拓・農耕の神様 
*天活玉命(あめのいくたまのみこと)無病息災・延命長寿の神様 
*五十猛命(いそたけるのみこと)産業の神様 
景行天皇の御代であるとも言われ、天武天皇の御代に当神社へ勅使を遣わされ、その後、光仁天皇宝亀十一年に従五位に、更に清和天皇貞観元年に正三位、治承四年に正一位に列されると共に多くの社領荘園があり、皇室の御領となった 。 
戦国時代に社頭は荒廃し人心も乱れた。江戸時代になると崇敬心の厚い加賀藩主の保護により神威は昂揚し、明治6年に県社となり大正12国幣小社に列せられ、翌年13年に摂政宮(昭和天皇)の御使が参拝になり、終戦と共に国民の幸を祈るよう勅使の参拝があった。 
天五田根命 あめのいたねのみこと 
<天村雲命(あめのむらくものみこと) 
*田村神社 
天隠山命の子。 
田村神社祭神/倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、猿田彦大神(さるたひこのおほかみ)、天隠山命(あめのかぐやまのみこと)五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと) 、吉備津彦命(きびつひこのみこと))、天五田根命(あめのいたねのみこと) 。 
倭迹迹日百襲姫命は人皇第七代孝靈天皇の御皇女、祟神天皇の御代国内疫病に苦しめるを救治し給ひ又武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を予知して建言し給ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功あり、百襲(襲は勲功の約)の名を給ふ。後吉備津彦命(きびつひこのみこと)と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひ、鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となった。御陵は大和国城上郡大市村にありこの御陵を作るのに昼は人が作り夜は神が是を作られたと云はれ広大な御陵で箸(はし)の陵(みささぎ)と言はれる。 
五十狭芹彦命は姫命の弟で、別名を吉備津彦命。四道将軍の御一方にして西海を鎮定し給ひ吉備国の祖神となった。 
猿田彦大神は皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)御降臨の時天(あめ)の八衢(やちまた)に出迎へて御嚮導をなし道途の安全を守護した神。此の神の向ふ所は如何なる禍神も恐れて避け奉ったと云はれ方除の神として神威まことに偉大である 。 
天隠山命、別名・高倉下命(たかくらじのみこと)は神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立てた後、御子天五田根命、別名・天村雲命(あめのむらくものみこと)と共に紀伊国より当国に渡り山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定めた。 
 
おやひこさま/彌彦神社 
日本海を背にした霊峰弥彦山の麓で、越後平野の扇の要。越後一之宮・彌彦神社の祭神天香山命(アメノカゴヤマノミコト)、別名・高倉下命(タカクラジノミコト)の鎮座地である。天香山命は、天照大神の皇曾孫(弥曾孫)。祖父は天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)。祖母は萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)。父は天火明命(アメノホアカリノミコト)、別名・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)。母は天道日媛命(アメノミチヒメノミコト)。妃は熟穂屋姫命(ウマシホヤヒメノミコト)饒速日命と御炊屋姫命(ミカシヤヒメノミコト)の子。 
武呉神社/天五田根命(アメノイツタネノミコト)、船山神社/天忍人命(アメノオシヒトノミコト)、草薙神社/天戸国命(アメトノクニノミコト)、今山神社/建筒草命(タケツツクサノミコト)、勝神社/建田背命(タケタセノミコト)、乙子神社/建諸隅命(タケモロズミノミコト)。 
天香山命は上陸地の野積浜から弥彦山脈中の峠を越え、桜井郷、現在の弥彦村麓に留まり、稲作を始めあらゆる農耕の道と数々の産業の基礎を教え授けたが、人皇第6代孝安天皇の御代元年2月2日に亡くなった。御祭神と6代の御子孫も代々その偉業を継承され、越後地方全域の開拓を進め、人々も力を合わせ、現在の新潟県産業文化の基礎を造りあげた 。 
 
天宇受売神 あめのうずめのかみ/天宇受売命(あめのうずめのみこと) 
<天鈿女神/大宮能売大神/大宮女命 
*京都の大田神社/各地の塞神社・猿田彦神社/鵠沼伏見稲荷神社 
巫女の元祖/神楽舞の名手/神と人の間を取り持つ芸能の神様 
天宇受売神は巫女の元祖のような神様。天岩戸に天照大神が籠もってしまった時、その前で舞を舞って大神を外に出すのに重要な役割を果たされる。天孫降臨の際は、邇邇芸命に付き従って地上に降り、その途中、不審な人物を見つけ諸神が恐れる中、その神に「お前は何物か」と聞きにいった。これは実は天孫の道案内をしようと待っていた猿田彦大神で、これが縁で、のちに天宇受売神と猿田彦大神は結婚することになる。民間伝承では二人は道祖神になったと伝えられ、各地の道祖神をお祭りするところで天宇受売神と猿田彦大神をお祭りしている。  
天宇受売神の子孫は、猿田彦の「猿」を取って「猿女の君(さるめのきみ)」と呼ばれ、宮中で楽を奏し舞を舞う仕事をしていた。それ故、天宇受売神は芸能の守護神とされ、例えば京都の映画撮影所近くの芸能神社などにもお祭りされている。  
古事記では天宇受売神は天孫降臨の後、海の魚介類を召集して、天の御子の御膳として仕えるよう命じた。その時、ほかの魚介類がみなそれを承知したのに、ナマコだけが何も言わなかった。天宇受売神は「この口はきけぬのか」と言って、ナマコの口を裂いてしまった。そのため、今でもナマコは口が裂けているとのこと 。  
天宇受売神と猿田彦大神は、本来は太陽神なのではないかとも言われ、天宇受売神は天照大神が隠れている岩戸の前で舞い、猿田彦大神はまぶしくても近寄ることができたという論議がある。 
 
古事記「天宇受売命」日本書紀・古語拾遺「天鈿女命」と記される。 
古事記/天照大御神が天岩屋戸に籠もったとき、天宇受売命は、天香具山の日陰蔓(ひかげのかずら)を襷(たすき)にかけ、真拆葛(まさきのかずら)を髪に纏い、天香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天岩屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神懸かりして、胸乳をかき出し裳の紐を陰部まで押し下げ歌舞をし、神々の笑いを誘った。天孫降臨に際しては、天照大御神、高木神から、あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して気おくれせず圧倒できる神であるからと言われて、天八衢(あめのやちまた)にいる神(猿田比古神)に名を問う役を命ぜられ、更に、天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとだまのみこと)らとともに、合わせて5つの部族の首長を加えて天下りし、天鈿女命は「猿女君」(さるめのきみ)らの祖神であるとある。 
日本書紀/天照大神の天岩窟隠れに際しては、古事記に記される「胸乳をかき出し裳の紐を陰部まで押し下げ」の部分は見られず、歌舞をしたとある。神代下第九段の第一の一書では、猿女の上祖(とつおや)として天鈿女命が五部(いつとも)の神として登場し、天孫降臨の場面では、天鈿女命は目人(めひと)に勝ちたる者(かみ)との理由から猿田彦大神に対峙して、胸乳を露(あら)わにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほぞ)の下(しも)に抑(おした)れてあざ笑いて向き立ったとあり、古事記の天岩屋戸の段の所作に似ている。 
古語拾遺/天鈿女命は強(こわ)く悍(あら)く固(かた)しとあり、天孫降臨の場面は、ほぼ日本書紀と同様の内容で、加えて猿女君が遠祖(とおつおや)とされている。また、神武天皇の条(くだり)では猿女君氏、神楽の事を供(つか)へまつるとある。 
古事記の天岩屋戸神話や日本書紀の天岩窟隠れ神話における天宇受売命、又は、天鈿女命の姿は、天照大御神を太陽と見立てて、太陽の活力の復活を願い、冬至の日における太陽再生儀式に携わる猿女君の姿の投影ともいわれ、この神話は、祭祀の儀礼の起源を語るものされている。また古事記、日本書紀に見られる「笑う」は、単純な笑いではなく、悪魔を退散させるなどの呪術的所作であるとされる。天鈿女命は、日本書紀では「気後れしない神」、また古語拾遺では「睨み勝つ神」として描かれており、特異、特別な顔面を持つ神と思われるが、一般的には、宮中に奉仕し、主として「神楽」のことに携わった女性で、神楽や芸能の神とされている。なお、天宇受売命の「宇受売」は、「かんざし」の意味で、髪飾りをして神祀りを行う女神、更には神懸った女性の神格化とする説がある。 
天石門別神 あめのいわとわけのかみ 
神話「この神は御門を守る神さまなり」とある。石門(戸)は石(岩)でできた門(戸)の意味で、「天」がついた場合は、天上界の入り口にある堅固な門(扉)というふうに解釈される。 
天孫ニニギ神が地上に君臨するときに、天照大神は、まず随伴する主だった神々を指名したあと、知恵の神であるオモイカネ神、天岩屋戸の扉を怪力で開けたアメノタジカラオ神とともにアメノイワトワケ神を加えた。役割は天孫が地上で政治を行うとき、その宮殿の入り口(門)に在って天孫に奉仕し、悪霊の侵入を防ぐというもの。 
この神は古来、天皇の宮殿の四方の門に祀られていた。天皇が住む宮殿、宮中、内裏の中には、天皇家の始祖に関する神をはじめ、午前の神や神託の神といった様々な神が祀られていた。そうした主だった神とは別に、宮殿に付属する井戸の神や、竈の神なども祀られていたが、その中で御門の神として祀られていたのが、アメノイワトワケ神と同一神とされる櫛石窓神・豊石窓神である。 
日本人は古来、石には神霊が宿ると考えてきた。各地にある石神信仰や巨石信仰といったものは今も生き続けている。神社にも巨石、巨岩を御神体としてその神霊を祀っているところが多い。岩座(磐座)ともいわれる、神秘を感じさせる巨石や神聖な御神体山の上にある石などは、神の依り憑くところと考えられた。山の上にいる石の神、普段は気配しか感じられない山の神が、人間に見えるような形を取った依り代でもある。万葉集/「豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし」と歌がり、「河内王を豊前国の鏡山に葬る時」という題がつけられている。河内王が鏡山を墓として埋葬されたことであり、岩戸は死者が他界に行く入り口ということになる。古来、日本では他界(山)に去った死者の霊は、山の神となって生者の守り神となると考えられた。「岩戸」は生(現世)と死(他界)の境を意味していた。門の神であるアメノイワトワケ神は、境界(家の門、村境と行った場所)を司る神でもある。他界(死者の国)から侵入するあらゆる厄災を防ぎ、人間の平穏な生活を守護する霊力を発揮すると考えられるようになった 。
 
天表春命 あめのうわはるのみこと 
<天上春命 
*戸隠神社宝光社 
八意思兼命の子 
旧事記/饒速日命(にぎはやひのみこと)が天磐船に乗って天降り遊ばされた時に率いた32神の一神で、弟の天下春命と共に防衛の神として供奉せられた。阿智の川上を長への鎮まり処とせられ、信濃阿智祝部の祖先である。延喜式神名帳/信濃国伊那郡に阿智神社ある。 
阿智神社(長野県下伊那郡阿智村智里)(昼神)、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)/天表春命(あめのうわはるのみこと)/誉田別命(八幡神社/ほむだわけのみこと)/健御名方命(お諏訪様/たけみなかたのみこと)/大山咋命(日吉大神(山王権現)/おおやまくいのみこと) 。 
 
戸隠神社(長野県長野市北西部の戸隠山周辺に五社を配する神社) 
創建時期は紀元前とも言われるが、縁起によれば学問なる僧が現在の奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされる。その後平安時代後期以降は、天台密教と、九頭龍神を祭神とする神道が習合した神仏混淆の戸隠山顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。戦国時代は武田信玄と上杉謙信の争乱に巻き込まれ、両軍の戦略によって絶えず危機に晒されたたため、衆徒らが約30年間にわたり水内郡小川の筏が峰(現在の長野県上水内郡小川村)に移り住むなど苦境の時期であった。しかし、江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて東比叡寛永寺の末寺となると、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していった。明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、宗僧は還俗して神官となった。 
各社の主祭神は、地主神である九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)以外は天照大神(あまてらすおおみかみ)が弟である素戔嗚尊(すさのおのみこと)の度重なる非行を嘆いて天岩戸(あまのいわと)に隠れたため、この世に暗黒と悪神がはびこったとされる神話にまつわる神である。 
宝光社(ほうこうしゃ)/祭神は天表春命(あめのうわはるのみこと)で、中社の祭神である天八意思兼命の子。学問や技芸、裁縫、安産や婦女子の神とされる。 
火之御子社(ひのみこしゃ)/祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。天照大神が隠れた天岩戸の前で面白おかしく踊って天照大神を誘い出すきっかけをつくったとされる女神。舞楽や芸能、また火防の神。 
中社(ちゅうしゃ)/祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)で、天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったとされる神。知恵の神ともされる。 
九頭龍社(くずりゅうしゃ)/祭神は九頭龍大神。創建は奥社より古く、地主神として崇められている。 
奥社(おくしゃ)/祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神。神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。 
天忍日命

あめのおしひ 
*降幡神社(大阪府南河内郡河南町)/油日神社(滋賀県甲賀市) 
日本神話の神。大伴氏の祖神。 
古事記の天孫降臨の場面にのみ登場、日本書紀にはない。天久米命と共に武装して瓊瓊杵尊の先導をした。古事記には出自がないが、大伴氏の系図などでは高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子としている。大伴氏の祖で、神武東征の際に随伴した日臣命(道臣命)は曾孫である。 
道臣命(みちおみのみこと) 
道臣命は大伴氏の祖先神で、天忍日命の世の孫にあたる。神武天皇の御代に朝廷の軍事をつかさどり、神武天皇の御東征のさいに武功をあげた。また最初に神事を執り行ったことでも知られる。

 
天之忍穂耳神 あめのおしほみみのかみ 
<正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと) 
*福岡県の英彦山など 
家門の繁栄/試験/結婚 
天照大神と素戔嗚神の誓約の時、天照大神みずらに巻いた珠から成った神、天穂日神の兄に当たる。葦原中国平定後、最初はこの神が降臨する予定だった、そのころ栲幡千々姫(高産霊神の娘)との間に邇邇芸命が生まれ、その子が降臨 した。英彦山はこの天忍穂耳神が降臨したと伝説があり、農業や鉱業などの守り神として信仰される。
天之尾羽張神

あめのおはばり 
<伊都之尾羽張(いつのおはばり)/稜威雄走神(いつのおはしりのかみ) 
日本神話に登場する刀で、また神の名前である。古事記の神産みの段で、伊邪那岐命が迦具土神を斬ったときに使った十拳剣の名前として登場。その別名が天尾羽張 とある。天尾羽張についたカグツチの血から、建御雷之男神などの火・雷・刀に関する神が化生している。 
葦原中国平定の段で、アメノホヒ、アメノワカヒコに次ぐ三番目に葦原中国に派遣する神を選定する際、オモイカネが、伊都之尾羽張神かその子の建御雷之男神を推薦。天尾羽張神は天安河の水を逆にせき上げて道を塞いでおり、他の神はそこへ行くことができないので、天迦久神が使者として遣わされた。伊都之尾羽張神が、建御雷之男神の方が適任であると答えたため、建御雷之男神が葦原中国に派遣された。 
「尾羽張」は「尾刃張」で、鋒の両方の刃が張り出した剣の意味。「天」は高天原に関係のあるものであることを示す。「伊都」「稜威」は威力のこと。「雄走」は「鞘走る」(さおはしる)の意で、鋭利な刃であることを示す。 
天鳥船神は別名鳥之石楠船神(とりのいわくすぶねのかみ)で、伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みに続いて生んだ神。雷は天から地に突き刺すように落ち、雷神は船に乗って天と地を往来すると考えられていた。その乗り物が天鳥船であり、それを司る神が天鳥船神である。

 
天香山命 あめのかごやまのみこと 
<天隠山命(たかくらじのみこと)/高倉下命(かくらじのみこと) 
*弥彦神社/田村神社 
天照皇大神のひ孫、天五田根命の父親。父は天火明命(あめのほあかりのみこと)別名は饒速日命(にぎはやひのみこと)、母 は天道日女命(あめのみちひめのみこと)または御炊屋姫(みかしやひめ)。 
非常に武勇に優れた神。神武天皇の東征中、長髄彦に阻まれ紀伊国(和歌山県)の南部熊野に逃れた。天香山命の夢の中で、建御雷之男神は宝剣を託すので神武天皇に渡す様に言った。夢から覚め自分の倉を探すと一振りの剣があった、剣は佐士布都神(さじふつのかみ)または布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)と言い、佐士布都神を神武天皇に届けた。神武天皇は熊野にはびこる悪神達を切り平らげた。神武天皇が即位した後、越後(新潟県)の開拓経営を任され、弥彦の地に棲んだ。弥彦の地でとれる「燃える水(石油)」を管理した。弥彦神社の石油開発の守護神。豪族、尾張氏の祖神とされる。  
 
越後一之宮・彌彦神社/おやひこさま 
霊峰弥彦山の麓、越後平野の扇の要にあり、祭神は天香山命。 
高倉下命(天香山命)は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)後の神武天皇の御東征に先立ち、紀州(現在の和歌山県)熊野にいた。磐余彦尊が賊軍に苦戦されているとき、高倉下命はお告げにより、布都御魂剣を奉り大功を立てた。 
磐余彦尊が大和の橿原の宮で神武天皇として即位し4年後、越後地方開拓経営の勅命を奉じて、米水浦(ヨネミズガウラ)現在の三島郡寺泊町野積浜に上陸、そこで漁民たちに海水を炊いて塩を作ること、網や釣針を使用して魚介類を取る方法を初めて教えた。漁民たちから手繰彦命ともよばれ、現代の漁法によばれる手繰網の発祥の由来でもある。 
上陸の野積浜から弥彦山脈中の峠を越え、桜井郷、現在の弥彦村麓に留まり、やがて弥彦に居を定め稲作を始めあらゆる農耕の道と数々の産業の基礎を教え、人皇第6代孝安天皇の御代元年2月2日に逝った。 
弥彦山と弥彦神は、万葉集にも歌われている。 
弥彦神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ裘着て角付きながら 
(弥彦の神山の麓に、今日も鹿が伏しているだろうか、皮の衣を着て、角を付けたままで) 
天児屋根神 あめのこやねのかみ 
<天津児屋根神(あめつこやねのかみ)/天児屋神(あめのこやのかみ) 
*枚岡神社(大阪)/全国の春日神社 
藤原氏の祖先神。天岩戸に天照大神が籠った時、その前で祝詞を読み、天孫降臨の際に邇邇芸命に付き従って日向の高千穂の峰に降臨した。 
藤原氏が奈良・春日大社を作った時、守護神武甕槌神および経津主神とともに祭り、その後全国の春日神社で祭られた。
天之狭霧神 あめのさぎりのかみ 
境とか峠を守る神 
大山津見神(山の神)・鹿屋野比売神(野の神)の2神より生まれた8神の一柱。狭霧は霧ではなく坂を上り詰めたところ境の意で、境は坂会い、つまり二つの坂の出会った場所を意味する。次に生まれる国之狭霧神とともに境とか峠を守る神 。
天之狭土神 あめのさづちのかみ 
大山津見神(山の神)・鹿屋野比売神(野の神)の二神より生まれた八神の一柱。オオヤマヅミ・カヤヌヒメの夫婦神から生まれた神の初めが、アメノサヅチ神と国之狭土神である。 
狭土の狭は坂のことで、坂は境・逆と同語根の言葉で、土は野の神である母神・野稚神の稚と同じ。天と国とは対語で、男女・陰陽と同じ考え方から出たもの。この二神は坂路を司る神である。
 
天乃下春命 あめのしたはるのみこと 
<天下春命/下春命 
*小野神社 
からす伝説  
7月20日府中市/武蔵国大国魂神社で「すもも祭」というのがあり、境内で近郷の農家からスモモやスイカの市が開かれる。神社では「からすうちわ」といわれる、烏の絵のついたウチワが配られる。この烏、紀州熊野神社の熊野誓紙に押される烏文字と同じ八咫烏といわれる。熊野誓紙は俗に「オカラスさん」ともよばれる熊野神社の神符で、熊野詣での土産に最高のものとされ、烏をデザインした中央に炎の形をした牛王宝印押してある。重大な決意や誓約をするとき、この神符の裏に書くと、それが正真正銘であることを保証する証拠として使われた 。 
 
武蔵大国魂神社 
大国魂神社と呼ばれるようになったのは明治4年で、以前は武蔵国総社六所明神といわれた。府中の地名で明らかなように、この地に律令制時代の国府が置かれ、大和朝廷から国司が下向して、武蔵国全体を支配していた。国司の大事な役目の一つにその国の有力な神社へ参拝することがある。広い国内の各地の神社を廻るのはたいへんということで、国府の近くに各地から勧請してまとめて祭ったのが総社六所明神となった。 
武蔵国内の各地にあって府中に勧請された六社とは、小野神社(府中市・多摩市) 小河神社(都下あきるの市) 氷川神社(埼玉県大宮市)秩父神社(埼玉県秩父市) 金佐奈神社(埼玉県児玉)杉山神社(神奈川県横浜市)。地元の小野神社を一宮として北は埼玉県秩父市、西は神奈川県横浜市まで武蔵国に入っていたことが分かる。東は古利根川を境に毛野国と分れていたと思われる。 
小野神社は延喜式神名帳に載せられた式内社で、多摩郡の式内社に大麻止乃天神社があり、これもまた大国魂神社に祭られており、後に式内小野神社を合せ祭ったいわれ、元来の大国魂神社の祭神は実はこちらであったようだ。 
小野神社を一宮とする総社六所明神が祭られるようになった時期は、祭神は天下春命・瀬織津比[口羊]という近江国に本拠があって、小野妹子や篁を出した小野氏の氏神の小野神社と同じであることから、小野氏が武蔵国司として下向以来と考えられる。  
 
くらやみ祭り 
府中の大国魂神社といえば鳥居前の五百米にわたる古木の欅並木が有名ですが、これは源頼義・義家の奥州征伐の戦勝祈願に寄進したと伝えらる。この神社の大祭は5月5日の「くらやみ祭り」で、従来は文字通り燈火を消した暗闇のなか神輿がわたる夜祭りと伝えられる。しかし昭和35年以降は不祥事のため、昼間の「くらやみ祭り」になった。 
神社を挟んで東西それぞれ数キロの位地に、幕末京都に新撰組を組織した近藤勇と土方歳三の生家があります。司馬遼太郎の初期の「燃えよ剣」の冒頭、「くらやみ祭り」に日野の在からふらりとやって来た歳三は、事もあろうか神官の娘を夜這いし、京都まで追いかけられるとい話がある。因みに六所明神の一つとして勧請された秩父神社では、京都の祇園・飛騨高山の山車とならぶ日本三大曳山車に数えられ、現在も12月の厳寒のなかの秩父夜祭として知られている。 
くらやみ祭りは、4月30日正午、東京湾の品川沖海上の禊祓式に始まる。品川の荏原神社わきの目黒川から注連縄をはった聖なる船を漕ぎ出し、お台場をすぎたあたりで海水で禊し、長柄の柄杓で潮水を汲み上げ、これを「聖なる水」として大祭当日、大国魂神社に通ずる道筋に神官が笹の葉につけて振りまき、御清めとする 。聖水で清められた道を六所明神、つまり西は横浜の杉山神社、北は埼玉県の秩父神社からの御輿が通る。一名「国府祭」ともいう。 
 
熊野詣 
蟻の熊野詣といわれるほど行列つくって熊野詣が流行ったのは、白川院政のときから。何故、熊野だったのか、天皇の伊勢詣でに対して、上皇は熊野を選んだに過ぎないが、伊勢も熊野も常世に近い、あの世に近いという終末観に支えられていた。熊野があの世の世界として受取られたこと、あの世へ行って還ってくれば生き返ることが出来るという発想だったことは、熊野を考える場合、重要なことだ。八咫烏も一度は仮死した神武一行を導く役目として登場した。熊野詣でに院に仕えた平清盛も仕方なく付き合っていた。その御利益あってか、源氏の反乱をいち早く知り、京都から源氏勢力を一掃することが出来た。源義朝が敗死、頼朝が囚われて伊豆に流されたのである。 
以仁王の蜂起と敗死によって、令旨を受けた源氏は皆追討すべきという情報が京からもたらされ、頼朝が先手を打って挙兵したのは二ヶ月後だった。京にあって以仁王に与力し、敗れて関東に下り、潜伏したのが後の武蔵国総社六所明神の神主、猿渡氏であるとい う。  
熊野信仰を庶民のものにした藤沢の上人 
藤沢山無量寿院清浄光寺、俗に時宗総本山遊行寺。熊野本宮で開眼した踊り念仏の一遍の弟子が開いた道場。関東管領上杉禅秀の乱に戦死した敵味方の人畜の供養塔を建てたのがはじめ 。 
 
烏は仏が嫌い 
熊野三山の新宮には摂社として八咫烏神社がある。各地の修験霊山が熊野山を中心とした本山派の勢力下にはいったことによって、熊野の八咫烏に因んだ烏神事も移植された。例えば九州の英彦山の縁起はほとんど熊野と同じで、熊野勢力下にはいって縁起まで代ってしまった。 ここの八咫烏神事はそなえる餅、粢シトギを烏に与え、これを食べるか蹴散らすかで吉凶を占う。 
出羽三山にも熊野山の影響がみられ、羽黒修験の開祖は祟峻天皇の第三皇子で、皇統譜には載らない蜂子皇子弘海と伝説され、三足の烏に導かれて羽黒山に入ったと伝えられる。各地の修験山で「火渡り」神事があるが、羽黒山の験競べの一つに「烏飛び」がある。腰を落した摺り足で歩きながら突然、格子縞の大袖を左右いっぱいにひろげ、思いきりジャンプして舞い上がる、その姿は烏が大空を飛ぶ姿だという。武蔵国大国魂神社に伝えらる「からす団扇」も熊野修験の影響の変種とみらる。 
熊野山に限らず、修験道はその始めから神道と仏教と道教の習合した第三の宗教であった。平安末期から鎌倉時代にかけて神仏習合したものより遥か以前に、役小角によって始まっていた。
 
天手力男命 あめのたぢからお 
スポーツ 
天岩戸の扉を開けて天照大神を引き出す役目で活躍した神。 
手の力(腕力)の象徴、人間の筋力に宿る霊を神格化した神。の守護神としても信仰を集めている。 
高千穂町(宮崎県)の夜神楽に天手力男命が主役で舞われる「戸取舞」がある。怪力で岩戸を投げ飛ばした伝承にもとづき力感的で雄壮な舞だ。里神楽の中の「岩戸神楽」と呼ばれるものも「岩戸開」の場面に重きをおいて演じられる 。
 
天之常立神 あめのとこたちのかみ 
<天之底立神 
*駒形神社(岩手県水沢市) 
別天神 
古事記/最初に天之御中主神、その後高御産巣日神と神産巣日神が現れ、次に宇摩志阿斯訶備比古遅神、この天之常立神が現れた。この五神は別格で、別天神(ことあまつかみ)と呼ばれる。 
日本書紀の一書(異説)/最初に現れたのがこの神で、次が可美葦牙彦舅尊(宇摩志阿斯訶備比古遅神)、そして国常立尊であったとされる。
 
天富命 あめのとみのみこと 
天太玉命の孫。 
阿波の国に麻や木綿の種をまいた。 
安房神社(千葉県館山市) 祭神/天太玉命(あめのふとだまのみこと) 
斎部広成(いんべのひろなり)が大同年間にあらわし朝廷に奉った古語拾遺(こごしゅうい)では、神武元年の創建。 
初代天皇・神武天皇の配下に、天太玉命の孫の天富命がいた。天富命は神武天皇が大和に都を建てたとき、忌部(いんべ)の一族を率いて宮殿やさまざまな神宝を造った。神武天皇が国土を開拓するよう配下に命令になると、天富命は木綿や麻の製作を得意とする天日鷲命(あめのひわしのみこと)の子孫たちを引き連れ、船で阿波国(あわのくに・現在の徳島県)に渡り、そこで穀(かじ・紙の原料)や麻を栽培した。 
天富命は開拓の手を休めることなく、黒潮に乗りはるか東国の方へ旅立った。房総南端にたどり着いた一行は、肥沃な土地を探し出し再び麻や穀を育てると、格別にいい麻が収穫できたので、その地を麻を意味する古語である「総(ふさ)」を用いて「総の国」と名付けた(上総〈かずさ〉、下総〈しもうさ〉という地名 由来)。 
現在の南房総は、阿波から渡ってきた忌部の一族が住む場所ということで、読みはそのままに字だけを変えて、「安房郡(あわのこおり)」と名付けられた。天富命は無事に開拓を成し遂げたのも祖先の加護によるもと思い、祖父にあたる天太玉命をまつり、感謝の祈りを捧げた 。 
天太玉命は古事記の「天の岩屋戸ごもり」に登場するほか、日本書紀には「忌部の遠祖」「忌部神」として登場する。天日鷲命は「麻植(おえ)の神」と呼ばれるが、栗矢のように水利に恵まれない畑作の村は他にもあるのに栗矢以外に祀られていない。 
 
手置帆負命 
讃岐忌部氏の祖。忌部氏の遠祖は天岩戸隠れの段で活躍する天太玉命である。天太玉命の後裔に天日鷲命(阿波忌部氏の祖)、手置帆負命(讃岐忌部氏の祖)、彦狭知命(紀伊忌部氏の祖)、天富命(安房忌部氏の祖)となった。 
忌部氏の由緒(和歌山/鳴神社由緒より) 
紀伊忌部の祖先たちを率いて山の材を採り、神武天皇の宮殿を造営した天富命の子孫が紀の名草郡に住むとあり、工人の部曲が忌部氏の配下としてこの地に居住していた。紀伊忌部氏の祖として彦狭知命の名が伝わる。和歌山市下三毛の上小倉神社には手置帆負命、彦狹知命が祀られている。紀伊忌部の居住した忌部郷は鳴神や井辺、御木郷は三毛である。忌部氏は造殿港湾工事などの技術集団でもあり、初期大和政権発展に貢献したと伝えられる。 
 
房総の忌部  
古語拾遺/天富命(あめのとみのみこと)が四国・阿波の忌部(いんべ=朝廷の祭祀を司る古代氏族)を率い、黒潮に乗って半島突端の布良(めら)に上陸して開拓し麻の栽培を始めて以来、「あわ」と呼ばれるようになったと言い伝えられる。 
磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)/料理と包丁の神様 
千倉/高家神社は景行天皇が安房の地を訪れた際、家臣が白はまぐりを料理して褒められた「料理の始祖」磐鹿六雁命を祭ってあり、全国唯一の料理の神様として全国の料理人が参拝する。11月23日に大きな台の上で鯛をさばく「包丁式」が行われる。  
天苗加命 あめのなえますのみこと 
<天苗益命/朝彦命 
*又見神社 
国譲り神話(葦原中国平定)で有名な経津主神の兄とも子とも伝えられ、香取神宮の神職首座(大宮司、大禰宜)を代々つとめる香取連の祖で、香取神宮の摂社の一つ、又見神社(若御児神社ともいう)に祭られている。  
天羽槌雄神 あめのはづちおのかみ 
<
倭文(しず、しどり)神 
機織りの祖神、「羽」は布帛(木綿や絹織物)を表す 
天照大神が天岩戸に籠ったとき、岩戸の前に集まった神々の一柱として登場。天照大神を外に誘い出すため活躍した神々は、それぞれ知恵、芸能、祝詞、あるいは鍛冶や金工、玉造、鏡作り、など諸業の祖神とされるようになった。 
天羽槌雄神もその一柱で、木綿と麻の布を生み出した。アメノフトダマ神が天香久山の榊の大木を用意し、上の枝には500個の勾玉飾り、中の枝には八咫鏡、そして下の枝には、天羽槌雄神の生み出した青や白の布を垂れ下げ、天照大神に捧げる太玉串として、皆で祈ったとある。 
このことから天羽槌雄神は、織物の祖神として崇敬されるようになった。このとき天羽槌雄神が織り出したのは、倭文の綾織りというものだった。古代の織物の一種の倭文織りのことで、楮 ・麻を材料として布を織るときに、横糸を赤や青い色に染めて乱れ織りにしたもの。古代において美しい織物は、神を祀るときの最高のお供え物の一つだった。 
鳥取県東伯群東郷町に機織り業の祖神を祭る倭文神社がある、昔この地方に機織りを生業とする倭文人が住 み、彼らが信仰する神を祀ったのが始まりとされる。その他、倭文織りの産地を示すものとして「続日本記」に「諸国の神への供え物のうち、倭文は常陸(茨城県)から奉献される」と記され、常陸あたりが倭文機織りの特産物として有名だったことが伺える。
天日腹大科度美神 あめのひばらおおしなどみのかみ 
オオクニヌシ神の裔神。布忍富鳥鳴海神の子で母は芸昼女神。 
古事記/ワカヒルメ神はヌノシトミトリナルミ神と結婚し、アメノヒバラオオシナドミ神を産んだ。神名の由来は不詳、出雲神話の中に「天」という字を冠する神は異例 。
 
天日槍命 あめのひぼこ 
<天之日矛 
日本神話に登場する神。元は新羅の王子だった。 
古事記/昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って日本の難波の津に逃げてきた。その娘は、比売碁曾神社(大阪市東成区)に鎮まる阿加流比売神(アカルヒメ)である。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したとしている。 
 
日本書紀/アカルヒメが日本に渡るまでは意富加羅国王の子のツヌガアラシトの説話となっている。その後、新羅王の子・アメノヒボコが七点の神宝を携えて日本に渡来し、播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地の娘・麻多烏(またお)と結婚したとしている。ここで登場する国は渡来系の人々の影響の強い土地である。定住した但馬国では国土開発の祖神とされ、現在でも厚く信仰されている。これらのことから、アメノヒボコは出石に住んでいた新羅系の渡来人が信仰していた神と考えられる。 
日本書紀/ヒボコは新羅から神宝を持って来た、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の七種。古事記/珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社に祀られている。いづれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とアメノヒボコの信仰が結びついたものか。 
播磨国風土記/韓国から来た天日槍命が宇頭の川底(揖保川河口)に来て、国主の葦原志挙乎命に土地を求めたが、海上しか許されなかった。天日槍命は剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘に上がった 。 
葦原志挙乎命と天日槍命が志爾蒿(しにだけ)に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。その時葦原志挙乎命の黒葛は但馬の気多郡、夜夫郡、もう一条は御方里に落ちたので三条と云う。天日槍命の黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。  
日本書紀/天日槍命、播磨国穴栗村にいたが、天皇が大友主と長尾市を但馬に派遣。天日槍命は「新羅の主の王子である。」と名乗った。天日槍は葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子、出石の槍、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の太刀の八物である。天皇は「播磨国穴栗村か淡路島の出浅邑に気の向くままにおっても良い」とされた。諸国を気ままにと願い、天皇はこれを許した。天日槍は宇治川を遡り、近江国の吾名邑、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。 
天比理刀賣命 あめのひりのめのみこと 
*品川神社/安房神社/洲崎神社(館山市洲崎) 
祈願の神 
天太玉命の妻。
天日鷲神 あめのひわしのかみ 
<
作木綿者/麻植神 
国譲り・国土平定に登場する神の一柱。日本書紀/国譲りの神話で作木綿者とある、昔の織物は楮で作るのが普通だった。阿波の忌部のほか、多米連・天語連・弓削連などの祖神で、神魂命の裔神である。 
天照大神が天岩戸に隠れたとき、その御子・津咋見命とともに祈りに用いる穀木綿を植えて和幣を作り、大いに神功を現した。このことから麻植神ともいう。 
神武天皇の御代、天富命がこの神の末裔を率い阿波国に入り穀麻を種殖した、後にその子孫が大嘗祭に木綿・麻布を貢したという。
 
天之吹男神 あめのふきおのかみ 
家宅を表す六神の一柱、イザナギ、イザナミ二尊の子。古事記伝/気吹戸主神と同神であると解し、神名考/屋上を領し給う神であるとしている。建物の主たる基礎材料 ・主要部分を表す六神を、イザナギ・イザナミ二尊が産んだことになっている。 
まず岩土毘古神が生まれる、基礎材料の石と壁土を表す神で、毘古(彦)がつけられ男性を表す。石巣比売神が続き、石巣は石砂であり、比売(姫)がつけられたのは前神が比古で合ったために女性神を持ってきた?。次に大戸日別神が生まれ(性別 不明)、大戸すなわち門戸・出入り口の神。そして天之吹男神が生まれる(男性)、吹は葺に等しく屋根を葺く神。次が大屋毘古神(男性)で、神名の由来は前神・天之吹男神が葺いた屋根を表す。最後に風木津別忍男神(男性)で風害を防ぐ神と思われる。 
諏訪信仰においては、風祝や風切鎌の民俗信仰が現存し、暴風より家を守る家宅の守護を司る六神のうち、最後のしめくくりの神。
天太玉命 あめのふとだまのみこと 
<天布刀玉命/太玉命/大麻比子大神/高御産巣日神(たかみむすひのかみ/日本書紀) 
*安房神社/大麻比古神社 
農業や織物業、建築業と色々な産業の祖神 
天照大御神の岩戸隠れの際、天児屋命(あめのこやねのみこと)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡を作り長鳴鳥を集めて鳴かせた時に占いをした。天照大御神が引きずり出された直後岩戸の出入り口に注連縄を引き渡し戻れなくした。五伴尾(いつとものお)として天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)の天孫降臨に同行し た。蘆原の中国に降臨した天布刀玉命の一族は後に各所に分かれて農産に励んだ。特に阿波国(徳島県)、讃岐国(香川県)、紀伊国(和歌山県)等に住みついた一族は朝廷の祭祀の場合に使用する木綿、麻布等を作った。 
 
古事記/「天照大御神(あまてらすおおみかみ)の天の岩戸(あめのいわと)ごもり」の段に登場 。スサノオの命の乱行に呆れ果てた天照大御神が天の岩戸にこもったとき、困った他の神々は相談をし、岩戸の前でにぎやかにお祭りを行なって、天照大御神にふたたび出ていただくことにした。その祭場をととのえる段に、天太玉命は中臣氏(なかとみし)の祖神である天児屋命(あめのこやねのみこと)と力を合わせ、鹿の肩の骨を焼きそこにできたひび割れの具合で吉凶を占う「太占(ふとまに)」を執り行い、掘り起こし祭場まで運んできた榊(さかき)を勾玉(まがたま)や鏡や白と青の布で飾り立て、お祭りの準備をした。 
古語拾遺(こごしゅうい)/天太玉命が一族の神々に命じて、鏡、衣服、勾玉、大小の器、真新しい館、矛、盾、刀、斧といったお祭りで使うすべての道具を作らせて、神事にのぞんだ様子が詳しく 書かれる。 
古語拾遺/天日鷲は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。太玉命の孫天富命が、天日鷲の孫(阿波忌部氏系図では由布津主命)を率いて、阿波の国(徳島県)、更に総の国(千葉県)を開拓したとある。阿波忌部氏の系図によると、天日鷲命は太玉命の義理の兄弟で、天富命と由布津主命の娘は夫婦である。 
四柱の神とは、天日鷲命(アメノヒワシノミコト/阿波国忌部の祖)、手置帆負命(テオキホオイノミコト/讃岐国忌部の祖)、彦狭知命(ヒコサシリノミコト/紀伊国忌部の祖)、櫛明玉命(クシアカルタマノミコト/出雲国忌部の玉作りの祖) 。 
天比理刀賣命を妻とした。
 
天之冬衣神 あめのふゆぎぬのかみ 
オオクニヌシ神の父神。淤美豆奴神の子で、母神は布帝耳神。 
アメノフユキヌ神と、その妃神の刺国若比売命、またその親神の刺国大神の、三神の神名の起源は不明。アメノフユキヌ神とサシクニワカヒメ命の夫婦神より生まれた神が、出雲神話の中心となるオオクニヌシ神であるので、これらの親神の存在が重要視され、神話に記されたのかもしれない。本居宣長 ・古事記伝/アメノフユキヌ神のフユはフと詰まり、ヌはネに通じる音であり、この神は草薙剣を持って天上に昇り、天照大神に奉り給うた天之葺根神と同神と解いている。
天火明命 あめのほあかり 
農業の守護 
太陽信仰は元始古代から各地にあった、天照大神が高天原の最高神に祀られる以前は、各地の有力氏族がそれぞれ独自の太陽神を崇拝していた。そのころの神々は、特別な名前もなく氏族の祖神、氏神として素朴に祀られていた。アメノホアカリ神もそうした太陽神の一つであったが、その中でも有力な存在だったことか記紀神話に独自の神として登場したと考えられる。 
そこから、天照大神の原型だったのではとの推測も生まれた。アメノホアカリ神を祖神として信奉していたのが、古代の中部地方に勢力を張っていた尾張氏である。尾張一族の人々はそうした日の神の霊威を崇め、開拓の神、農業の守護神として信仰していた。 
兵庫県地方の古代伝承・播磨国風土記/神は異常に気性が激しく暴力的だった。昔、オオナムチ神(父神)が、息子のアメノホアカリ神と一緒に旅をしていたとき、息子の気性の剛直さに心を痛め、仕方なくだまして置き去りにしようとした。息子を水くみにやり、その間に船を出した。やがて戻ってきた息子は、去っていく船を見てだまされたことを知り、大いに激怒。すぐさまものすごい風と波を起こして船を追いかけ、父親の乗る船を破壊し沈没させてた。 
記紀神話/天祖という系譜が知れるだけで、海幸彦、山幸彦と兄弟とされたり、ニギハヤヒ神と同一と見られたり、不明が多い神である。 
天穂日神 あめのほひのかみ 
<天之菩卑能命 
*天穂日命神社(鳥取市)/亀戸天神(東京) 
出雲族・武蔵族などの祖神 
天穂日神は天照大神と素戔嗚神の誓約の時、天照大神のみずらに巻いた珠から成った神で、天忍穂耳神の弟にあたる。高天原から葦原中国平定のために最初に遣わされた神で、大国主神に惚れ込んでしまい、3年たっても復命しなかったとされる。仕方なく高天原は次に天若日子を派遣するが失敗。最後に建御雷之男神と経津主神が派遣され、葦原中国も高天原に従うようになる。 
天目一箇神 あめのまひとつ 
<アメノマヒトツネ命/アメノクシマヒトツ命 
金工鍛冶の祖神 
国譲り・国土平定に登場する神の一柱。日の神である天照大神が天岩戸に隠られたとき刀斧・鉄鐸を造り、さらに天孫の大物主神を祀ったとき作金者として材物を造った。第十代崇神天皇のとき、模造した神器はこの神裔の制作と伝えられる。後世、隻眼者をカンチというのは、このカヌナ(金打)の神名(目一)に基づくといわれる。 
日本書紀にある国譲りの神話に、アメノマヒトツ神は「作金者と為し」とあるので、鍛冶をする人といえ る。この神は天津日子根神の御子とされ、「古語拾遺」によると築紫・伊勢両国の忌部の祖神とされる。また天岩戸の神話では、祭具としての刀剣や斧、鉄鐸を作る役をしている。伊勢国(三重県)桑名群多度町にある多度大社の併社に一目連神社というのがある 、ここは暴風雨の神を祀るとされる(鍛冶の神は世界共通して一つ目の神である)。
 
天之御影神 あめのみかげのかみ 
*御上神社(滋賀県野洲郡野洲町三上) 
天上界の神霊 
「御影」は「和名抄」に「霊」を「美太万・みたま」また「美加介・みかげ」というとある。神霊の意。 
近江の御上神社の祭神で、延喜式神名帳に御上神社(近江国野洲郡)とある。 
アメノミカゲ神は、我が国の鍛冶の祖神とされる神である。 
古事記/近江国の三上山を御神体とする御上神社(滋賀県野洲町)に祀られる神である。三上山は「近江富士」と呼ばれ、俵藤太こと藤原秀郷のムカデ退治の伝説が残る山である。この神も古くは三上山に宿る山の神であり、近江の人々の生活を守護する地主神であった。古来、近江は帰化人の定着が多くみられ、外来文化とも密接な関係があった。帰化人のもたらした文化の中に当然、先進的な鍛冶の技術もあったはずである。実際に野洲周辺の古墳の出土品に、大量の銅鐸や刀剣などが含まれて ことから、この地に鍛冶の技術が根付いていたことは確かである。その技術が中世以降は刀鍛冶として発展し、戦国の世に革命をもたらした鉄砲の生産地・近江国友(滋賀県長浜市郊外)の鉄砲鍛冶の技術としてつながった。そうした鍛冶を専業とする古代の人々の信仰が三上山の地主神と結びつくことで、アメノミカゲ神は鍛冶の神の霊力を備えたのである。中世以降、アメノミカゲ神は武人として崇敬を集めた。たとえば、アメノミカゲ神を祭る御上神社の寄進者に、木曽義仲、源頼朝、足利尊氏、近江守護の佐々木氏、豊臣秀吉などの名がみられる。武将たちの崇敬を集めた理由は、この神が刀鍛冶(刀工)の神としての性格を強く待っていたことに由来する。武将たちは鍛冶の神に優れた刀を生み出すことを祈り、刀に宿る神霊が戦いを勝利へ導くことを願ったのである。アメノミカゲ神の息子にオオイガツ神がいる、この神は額田部湯座連天津彦根命の孫ともいわれ、やはり刀鍛冶の守護神として崇敬されている。祖父のアメツヒコネ神は、もともと火に関係が深く、祖父の系統を引くこの神もまた火と強く結びついていると考えられる。焼き入れ(火)によって強靱で優美な刀剣を生み出す霊力を発揮するのがこの神である。刀剣は邪悪なを払う霊力を持つ、この神も人間に災いをもたらす悪霊から守護してくれる神としても信仰された。
天之甕主神 あめのみかぬしのかみ 
前玉比売神の父神。古事記/速甕之多気佐波夜遅奴美神とアメノミカヌシ神の媛であるマエタマヒメ神と結婚し、甕主日神を産むとある。 
本居宣長・古事記伝/「アメノミカヌシ神、こは何と無き称え名なり」とあるが、「出雲風土記」から天甕津日女命と関係のある神と思われる。 
甕主日子は甕主の男子の意で、日子は彦で比売に対するもの。前玉比売の前は幸、玉は魂で幸魂という意味。
 
天之御中主神 あめのみなかぬしのかみ 
<国常立尊/国底立神/天御中主神 
*各地の水天宮/秩父神社 
古事記で最初に出てくる神 
天之御中主神は古事記に最初に出てくる神様。「天地初めてひらけし時、高天原に成りし神の名は天之御中主神」特にこれ以上の記述はない(この神は次に出てくる高御産巣日神・神産巣日神の間に立ち、全体のバランスを取るため 作られた神との説あり)。 
水天宮は平家ゆかりの、安徳天皇・建礼門院・二位の尼を祀っているが、ともに天御中主神を祀っている。秩父神社では秩父彦(知知夫彦)様の祖神様として天御中主神(妙見菩薩)が祀られている。秩父神社は天之御中主神を仏教の妙見菩薩と結びつけているが、全国的に同様の形態が見られる(妙見菩薩は天台宗の中心的な仏で、全ての星の中心である北極星をその象徴としている)。
 
天若日子神 
 
あめのわかひこのかみ 
<天稚彦 
*安孫子神社(滋賀県愛知郡秦荘町)  
天若日子神は天津国玉神(日本書紀では天国玉神火と書かれ出自不明)の子で、葦原中国平定の際、3年たっても復命しない天穂日神に代えて2番目に派遣された神。この神は下照姫と結婚して8年たっても復命しなかった。 
高天原の神々は天若日子の所へ使いとして雉鳴女(きぎしのなきめ)を遣わした。雉鳴女が「あなたの使命はどうしたのです か」と天若日子の家の前で問うと、天探女(あめのさぐめ)が「あの鳥は不吉な鳴き声をしているから射殺してしまいなさい」と言った。そこで天若日子は天からもらっていた弓矢で雉鳴女を射殺した。この時雉鳴女を射抜いた矢が高天原にまで達し、その矢を高産巣日神が拾った。見るとそれは自分が天若日子に渡した矢であり、「天若日子が使命を忘れておらずこの矢は誰か悪者が放ったものであれば天若日子には当るな。もし天若日子の邪心があればこの矢に当れ」と言って矢を下に落すと、見事に天若日子の胸を射抜いた(これを還し矢と言う)。天若日子の死を嘆く下照姫の鳴き声が天上まで響くと、天若日子の父、天津国玉神は哀れんで地上におり、わが子の為に葬儀の手配をした。その時、そこに当然下照姫の兄の味鋤高日子根神も弔いに訪れたが、高日子根神が天若日子とよく似た風貌であったため、まだ地上にいた天若日子の父が「私の息子が生きていた」と言って抱きついた。すると味鋤高日子根神は「間違えるな」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り倒した。 
後世、上記の天探女の「あめのさぐめ」が訛って「あまのじゃく」になったとよく言われる。しかし、天若という文字が「あまのじゃく」と読めることから、天若日子が「あまのじゃく」だという説もある。 
荒脛神

あらはばき 
アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)信仰 
東北地方一帯に見られる民俗信仰。起源は不明で「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権・朝廷により東北地方へと追いやられ守り続けた伝承とする説が ある。縄文神の一種という説もある。 
アラハバキを祀る神社は東北地方に多く見られる。関東以南にもある、ただしそれは主祭神としてではなく、門客神(もんきゃくじん)として祀られている場合が多い。門客神とは神社の門に置かれた「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられる。アラハバキが「客人神」として祀られる例は、氷川神社(埼玉県大宮)に見られ、この摂社は門客人神社と呼ばれるが、元々は荒脛巾(あらはばき)神社と呼ばれていたとのこと。 
 
蛇神説 
「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語。「ハハキ」は「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。伊勢神宮に「波波木(ははき)神」が祀られるが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6/9/12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われる。「辰=竜」、「巳=蛇 」から蛇と深い関わりがある。「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付き、顕波波木神になった。 
塞の神説 
宮城県・多賀城跡の東北にアラハバキ神社がある。多賀城は、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一/朝廷が外敵から多賀城を守るためにアラハバキを祀ったとしている。塞の神としての性格があった 。 
製鉄の神説 
アラハバキ神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もある。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地である。近江雅和/アラハバキから変容したとされる門客人神の像は、片目で祀られることが多い 、片目は製鉄神の特徴とされる。「アラ」は鉄の古語であり、山砂鉄による製鉄や、鉱物採取を実態としていた修験道はアラハバキ信仰を取り入れ、「ハバキ」は山伏が神聖視する「脛巾」に通じ、アラハバキはやがて「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容していった 。

 
淡島明神 あわしまみょうじん 
*加太神社(和歌山) 
婦人病に霊験あらたか 
淡島様(淡島明神)は、女性特有の病気に霊験があらたかで民間で篤く信仰される。その中心は加太神社で、江戸時代に淡島願人とよばれる半僧半民の人たちが全国を回って、祠を背負い鈴を振りながら淡島明神の由来を語り、お祓いなどをして回ったことから信仰が広まった。現在この淡島様をお祭りしている神社は全国に多数あり、淡島神社・粟島神社・淡路神社などになっている 、お寺系では淡路堂である。加太神社以外では、小さな鳥居のある熊本の粟島神社も有名。 
淡島様の本体に三説がある。ひとつは少彦名神(すくなひこなのかみ)であるという説、少彦名神が薬の知識に豊富で病の人に薬を調合して与えていたという伝承、それから国造りを終えてから粟島というところから常世の国に渡っていったという話(古事記・伯耆国風土記)から来ている。現在、加太神社をはじめ多くの淡島神社がこの説を採っている。もうひとつの有力な説は、住吉神の妃神であるという説。吉田東伍の「大日本地名辞書」に掲載されている説で「淡島は賀太の潜女の氏神で住吉の妃神である。この神が住吉から流れて来たのがおひなさまの始まりとされる」という。実際、民間では淡島様は女神様故に女性を守ってくれるという信仰は根強いようだ。最後の説は、伊邪那岐神・伊邪那美神の2番目の子であるという説、古事記によれば二神の最初の子が蛭子(えびす様)で2番目が淡島と書かれており、この淡島が淡島明神のことなのではないかという説 。 
 
 
  うえ かき  
 


  
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